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---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
9,292 | タスク | タスクは主に英単語taskの外来語カタカナ表記として用いられることが多い。その他の用例も以下に示す。
taskは、「任務、課題」、「仕事、職務」、「役割、目的」などの意味を持つ英単語。
tuskは、「牙」などの意味を持つ英単語。 | [
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] | タスクは主に英単語taskの外来語カタカナ表記として用いられることが多い。その他の用例も以下に示す。 taskは、「任務、課題」、「仕事、職務」、「役割、目的」などの意味を持つ英単語。 タスク (コンピュータ) - コンピュータ処理における仕事の単位。システムソフトウェア(オペレーティングシステム)や応用範囲により意味が異なる。
プロセスと同義。
スレッド (コンピュータ)と同義。タスク並列性などの用語では両者を区別しない場合もある。
Microsoft Windowsでは、アプリケーションプロセスのことをタスクと呼ぶことがある。タスクには1つ以上のプロセスが含まれる。また、Windowsにはプログラム(タスク)の定期的な自動実行を登録・制御する仕組みとして、タスクスケジューラが搭載されている。
Future パターンにおける並行処理の実行単位として「タスク」という抽象化された概念が用いられることが多い。例えば.NETのタスク並列ライブラリ、Microsoft Visual C++の並列パターンライブラリ、Swiftの標準ライブラリなどには、スレッドにより非同期実行される処理をカプセル化するためのタスククラスやタスク構造体が定義されている。
タスク (プロジェクト管理) - 定義された短期的な期間内に、または作業関連の目標に向けて作業するための期限までに達成する必要がある活動のこと。
アイドル「Task have Fun」の略称。 tuskは、「牙」などの意味を持つ英単語。 牙 (タスク) - 原題が「Tusk」であるフリートウッド・マックのアルバム。
牙/タスク - 2002年の甲斐よしひろの楽曲。
タスク (潜水艦) - アメリカ海軍の潜水艦。バラオ級潜水艦の一隻。
タスク(牙) - 荒木飛呂彦の漫画「ジョジョの奇妙な冒険 Part7スティール・ボール・ラン」に登場するジョニィ・ジョースターのスタンド。 タスク (俳優) - 日本の俳優、ミュージシャン。旧芸名:永瀬匡。
tasuku(タスク) - 日本の作曲・編曲家。 | '''タスク'''は主に英単語{{lang|en|task}}の[[外来語]]カタカナ表記として用いられることが多い。その他の用例も以下に示す。
; task
{{lang|en|task}}は、「任務、課題」、「仕事、職務」、「役割、目的」などの意味を持つ英単語<ref>[https://eow.alc.co.jp/search?q=task taskの意味・使い方・読み方|英辞郎 on the WEB]</ref>。
* {{仮リンク|タスク (コンピュータ)|en|Task (computing)}} - [[コンピュータ]]処理における仕事の単位。[[システムソフトウェア]]([[オペレーティングシステム]])や応用範囲により意味が異なる。
** [[プロセス]]と同義。
** [[スレッド (コンピュータ)]]と同義。[[タスク並列性]]などの用語では両者を区別しない場合もある。
** [[Microsoft Windows]]では、[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]プロセスのことをタスクと呼ぶことがある([[Windows タスク マネージャー]]も参照)。タスクには1つ以上のプロセスが含まれる。また、Windowsにはプログラム(タスク)の定期的な自動実行を登録・制御する仕組みとして、[[タスクスケジューラ]]が搭載されている。
** [[Future パターン]]における並行処理の実行単位として「タスク」という抽象化された概念が用いられることが多い<ref>[https://docs.oracle.com/javase/jp/8/docs/api/java/util/concurrent/package-summary.html java.util.concurrent (Java Platform SE 8 )]</ref>。例えば[[.NET]]の{{仮リンク|タスク並列ライブラリ|en|Task Parallel Library}}<ref>[https://learn.microsoft.com/en-us/dotnet/api/system.threading.tasks.task Task Class (System.Threading.Tasks) | Microsoft Learn]</ref>、[[Microsoft Visual C++]]の{{仮リンク|並列パターンライブラリ|en|Parallel Patterns Library}}<ref>[https://learn.microsoft.com/en-us/cpp/parallel/concrt/reference/task-class task Class (Concurrency Runtime) | Microsoft Learn]</ref>、[[Swift (プログラミング言語)|Swift]]の標準ライブラリ<ref>[https://developer.apple.com/documentation/swift/task Task | Apple Developer Documentation]</ref>などには、スレッドにより非同期実行される処理をカプセル化するためのタスククラスやタスク構造体が定義されている。
* [[タスク (プロジェクト管理)]] - 定義された短期的な期間内に、または作業関連の目標に向けて作業するための期限までに達成する必要がある活動のこと。
* アイドル「[[Task have Fun]]」の略称。
; tusk
{{lang|en|tusk}}は、「牙」などの意味を持つ英単語<ref>[https://eow.alc.co.jp/search?q=tusk tuskの意味・使い方・読み方|英辞郎 on the WEB]</ref>。
* [[牙 (タスク)]] - 原題が「Tusk」である[[フリートウッド・マック]]のアルバム。
* [[牙/タスク]] - 2002年の[[甲斐よしひろ]]の楽曲。
* [[タスク (潜水艦)]] - アメリカ海軍の潜水艦。バラオ級潜水艦の一隻。
* タスク(牙) - [[荒木飛呂彦]]の[[漫画]]「[[ジョジョの奇妙な冒険]] Part7[[スティール・ボール・ラン]]」に登場する[[ジョナサン・ジョースター#ジョニィ・ジョースター|ジョニィ・ジョースター]]の[[スタンド (ジョジョの奇妙な冒険)|スタンド]]。
;その他
* [[タスク (俳優)]] - 日本の[[俳優]]、[[ミュージシャン]]。旧芸名:永瀬匡。
* [[tasuku]](タスク) - 日本の作曲・編曲家。
== 関連項目 ==
{{Wiktionary|task}}
* [[マルチタスク]]
* [[ジョブ]]
* [[タスクフォース]]
* [[TASC]] (曖昧さ回避項目)
== 脚注 ==
{{reflist}}
{{Aimai}}
{{デフォルトソート:たすく}}
[[Category:英語の語句]] | null | 2023-05-05T10:00:38Z | true | false | false | [
"Template:Lang",
"Template:仮リンク",
"Template:Wiktionary",
"Template:Reflist",
"Template:Aimai"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%B9%E3%82%AF |
9,293 | バブルソート | バブルソート(英: bubble sort)は、隣り合う要素の大小を比較しながら整列させるソートアルゴリズム。
アルゴリズムが単純で実装も容易である一方、最悪時間計算量は O(n) と遅いため、一般にはマージソートやヒープソートなど、より最悪時間計算量の小さな(従って高速な)方法が利用される。
また、安定な内部ソートであり、並列計算との親和性が高いという利点もある。
基本交換法、隣接交換法あるいは単に交換法とも呼ばれる。「バブルソート」という呼称自体はケネス・アイバーソンの1962年の著書 “A Programming Language” に由来すると考えられる。
全ての要素に関して、隣接する要素と比較し順序が逆であれば入れ替える。これを要素数-1回繰り返すことでソートを行う。なおこの繰り返しは、入れ替えが起こらなくなった時点で(それ以降は何度繰り返しても変化が起こらなくなるので)中断することができる。
この「全ての要素に関して」において、全ての要素に関して比較交換が行なわれるならば順序を問わない特徴を持つ(安定ソート)。この特徴により、比較交換順序を調整することで効率化されたアルゴリズムが多数派生している。そのため他の様々なソートアルゴリズムの基礎として一度は学ばされるアルゴリズムとなっている。
例えば前記の特徴によりバブルソートは並列処理と親和性が高く、比較交換器を潤沢に用いることで比較交換順序を調整したハードウェア実装では時間計算量はO(n)になる。この並列処理向けに比較交換順序を調整したアルゴリズムとして奇偶転置ソートがある。
また特にソフトウェアで実装される場合には一般に先頭から順に順次処理されるものなので、逆に先頭から順に順次処理されることを利用して不要なことが自明な比較交換をしないように効率化することは有効かつ直感的であり、この効率化されたアルゴリズムをもってバブルソートと呼ぶ場合もある。さらに、比較交換順序を逆順にすることで自明な比較交換を検出し易くしたアルゴリズムに挿入ソートがあり、効率化されたバブルソートは簡単な変更で容易に挿入ソートにできることから、ソートのソフトウェア実装としてバブルソートを選択する根拠はなく、学習専用の非効率的なアルゴリズムと考えられているのが現状である。
なお、係る派生したアルゴリズムが隣接する要素と比較交換以外の比較や交換を行なうことで効率化を図っている場合、安定という特徴を失う。
以下では、前記の自明な比較交換をしないように効率化されたバブルソートに関して解説する。
要素の1番目と2番目を比較し、順番が逆であれば入れ換える。次に2番目と3番目を比較して入れ換える。これを最後まで行うと、最後の数だけが最小または最大の数として確定するので、確定していない部分について1つずつ減らしながら繰り返す。
初期データ: 8 4 3 7 6 5 2 1 結果が確定した部を太字でしめすと、
交換回数の合計:7+5+3+2+2+2+1=22
「比較回数」は、高々n(n-1)/2回。交換回数は、元のデータ列によって異なるが、一回のスキャンで平均n/2回なので、全体では平均n(n-1)/4回。(O(n))
バブルソートでは、大きな数が列の始めに位置していても問題ないが、右図のように列の後のほうに位置している小さな数は列の始めのほうに移動してくるのに時間がかかる。(上述の動作例中の"1"がまさにそのパターン)これを改良するために、シェーカーソートやコムソートが提案された。 | [
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] | バブルソートは、隣り合う要素の大小を比較しながら整列させるソートアルゴリズム。 アルゴリズムが単純で実装も容易である一方、最悪時間計算量は O(n2) と遅いため、一般にはマージソートやヒープソートなど、より最悪時間計算量の小さな(従って高速な)方法が利用される。 また、安定な内部ソートであり、並列計算との親和性が高いという利点もある。 基本交換法、隣接交換法あるいは単に交換法とも呼ばれる。「バブルソート」という呼称自体はケネス・アイバーソンの1962年の著書 “A Programming Language” に由来すると考えられる。 | {{Infobox algorithm
|class=[[ソート]]
|image=[[ファイル:Sorting bubblesort anim.gif|視覚化したバブルソート]]
|caption=バブルソートがどのように動作するかの視覚的な説明
|data=[[配列]]
|best-time= <math>O(n)</math>
|average-time= <math>O(n^2)</math>
|time=<math>O(n^2)</math>
|space=<math>O(1)</math> auxiliary
|optimal=No
}}
'''バブルソート'''({{lang-en-short|bubble sort}})は、隣り合う要素の大小を比較しながら整列させる[[ソート]]アルゴリズム。
[[アルゴリズム]]が単純で実装も容易である一方、[[計算複雑性|最悪時間計算量]]は {{math|[[ランダウの記号|O]](''n''<sup>2</sup>)}} と遅いため、一般には[[マージソート]]や[[ヒープソート]]など、より最悪時間計算量の小さな(従って高速な)方法が利用される。
また、[[安定ソート|安定]]な[[ソート#内部ソートと外部ソート|内部ソート]]であり、[[並列計算]]との親和性が高いという利点もある。
'''基本交換法'''、'''隣接交換法'''<ref>[https://dictionary.goo.ne.jp/word/バブルソート/ バブルソートの意味](出典:デジタル大辞泉)</ref>あるいは単に'''交換法'''とも呼ばれる。「バブルソート」という呼称自体は[[ケネス・アイバーソン]]の1962年の著書 ''“A Programming Language”'' に由来すると考えられる<ref>
{{cite journal
|first=Owen
|last=Astrachan
|title=Bubble Sort -- An Archaelogical Algorithmic Analysis
|journal=ACM SIGCSE Bulletin
|volume=35
|issue=1
|pages=1–5
|issn=0097-8418
|doi=10.1145/792548.611918
|date=2003-01-11
|ref=harv
}}
</ref>。
==アルゴリズム==
[[ファイル:Bubblesort-edited-color.svg|thumb|250px|バブルソートにおける要素の移動例を示した図]]
全ての要素に関して、隣接する要素と比較し順序が逆であれば入れ替える。これを要素数-1回繰り返すことでソートを行う。なおこの繰り返しは、入れ替えが起こらなくなった時点で(それ以降は何度繰り返しても変化が起こらなくなるので)中断することができる。
この「全ての要素に関して」において、全ての要素に関して比較交換が行なわれるならば順序を問わない特徴を持つ(安定ソート)。この特徴により、比較交換順序を調整することで効率化されたアルゴリズムが多数派生している。そのため他の様々なソートアルゴリズムの基礎として一度は学ばされるアルゴリズムとなっている。
例えば前記の特徴によりバブルソートは並列処理と親和性が高く、比較交換器を潤沢に用いることで比較交換順序を調整したハードウェア実装では時間計算量はO(n)になる。この並列処理向けに比較交換順序を調整したアルゴリズムとして[[奇偶転置ソート]]がある。
また特にソフトウェアで実装される場合には一般に先頭から順に順次処理されるものなので、逆に先頭から順に順次処理されることを利用して不要なことが自明な比較交換をしないように効率化することは有効かつ直感的であり、この効率化されたアルゴリズムをもってバブルソートと呼ぶ場合もある。さらに、比較交換順序を逆順にすることで自明な比較交換を検出し易くしたアルゴリズムに[[挿入ソート]]があり、効率化されたバブルソートは簡単な変更で容易に挿入ソートにできることから、ソートのソフトウェア実装としてバブルソートを選択する根拠はなく、学習専用の非効率的なアルゴリズムと考えられているのが現状である。
なお、係る派生したアルゴリズムが''隣接する要素と比較交換''以外の比較や交換を行なうことで効率化を図っている場合、安定という特徴を失う。
以下では、前記の自明な比較交換をしないように効率化されたバブルソートに関して解説する。
要素の1番目と2番目を比較し、順番が逆であれば入れ換える。次に2番目と3番目を比較して入れ換える。これを最後まで行うと、最後の数だけが最小または最大の数として確定するので、確定していない部分について1つずつ減らしながら繰り返す。
'''procedure''' bubbleSort( A ''':''' list of sortable items ) '''defined as:'''
'''for each''' i '''in''' 1 '''to''' length(A) - 1 '''do:'''
'''for each''' j '''in''' 2 '''to''' length(A) - i + 1 '''do:'''
'''if''' A[ j ] < A[ j - 1 ] '''then'''
swap( A[ j ], A[ j - 1 ] )
'''end if'''
'''end for'''
'''end for'''
'''end procedure'''
<!--=== PHP で実装 ===
<syntaxhighlight lang="php">
function bubbleSort( &$arr, $asc = true ) {
$iterations = 0;
$len = count( $arr );
$i = 0;
$ordered = false;
$newLen = $len;
while ( !$ordered ) :
$ordered = true;
for ( $i = 1; $i < $len; $i++ ) :
$iterations++;
$a = $arr[ $i - 1 ];
$b = $arr[ $i ];
$comp = (float)( (float)$a - (float)$b );
if ( ( $asc && $comp > 0 ) || ( !$asc && $comp < 0 ) ) :
$arr[ $i - 1 ] = $b;
$arr[ $i ] = $a;
$ordered = false;
$newLen = $i;
endif;
endfor;
$len = $newLen;
endwhile;
return( $iterations );
}
$arr = array( 4, 4, 3, 2, 4, 5, 88, 3, 8448, 43, 2, 0, 480, 334, 1, 0 );
$iterations = bubbleSort( $arr );
echo( "\nIt took " . $iterations . " iterations to sort the array.\n\n" );
print_r( $arr );
</syntaxhighlight-->
===動作例===
[[ファイル:Bubble-sort-example-300px.gif|thumb|要素の入替え例<br />初期データ: 6 5 3 1 8 7 2 4]]
初期データ: 8 4 3 7 6 5 2 1<br />
結果が確定した部を太字でしめすと、
{|
|-
| 4 || 3 || 7 || 6 || 5 || 2 || 1 || '''8''' ||(1回目の外側ループ終了時 交換回数:7)
|-
| 3 || 4 || 6 || 5 || 2 || 1 || '''7''' || '''8''' ||(2回目の外側ループ終了時 交換回数:5)
|-
| 3 || 4 || 5 || 2 || 1 || '''6''' || '''7''' || '''8''' ||(3回目の外側ループ終了時 交換回数:3)
|-
| 3 || 4 || 2 || 1 || '''5''' || '''6''' || '''7''' || '''8''' ||(4回目の外側ループ終了時 交換回数:2)
|-
| 3 || 2 || 1 || '''4''' || '''5''' ||'''6''' || '''7''' || '''8''' ||(5回目の外側ループ終了時 交換回数:2)
|-
| 2 || 1 || '''3''' || '''4''' || '''5''' ||'''6''' || '''7''' || '''8''' ||(6回目の外側ループ終了時 交換回数:2)
|-
| '''1''' || '''2''' || '''3''' || '''4''' || '''5''' || '''6''' || '''7''' || '''8''' ||(7回目の外側ループ終了時 交換回数:1)
|}
交換回数の合計:7+5+3+2+2+2+1=22
==解析==
[[Image:Bubble sort animation.gif|250px|thumb|ランダム配列数のバブルソートの例]]
「比較回数」は、高々n(n-1)/2回。交換回数は、元のデータ列によって異なるが、一回のスキャンで平均n/2回なので、全体では平均n(n-1)/4回。(''O''(n<sup>2</sup>))
バブルソートでは、大きな数が列の始めに位置していても問題ないが、右図のように列の後のほうに位置している小さな数は列の始めのほうに移動してくるのに時間がかかる。(上述の動作例中の"1"がまさにそのパターン)これを改良するために、[[シェーカーソート]]や[[コムソート]]が提案された。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Bubble sort}}
{{ソート}}
[[Category:ソート|はふるそおと]]
[[no:Sorteringsalgoritme#Boblesortering]] | 2003-05-24T18:08:43Z | 2023-10-07T16:31:10Z | false | false | false | [
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:Cite journal",
"Template:Commonscat",
"Template:ソート",
"Template:Infobox algorithm",
"Template:Lang-en-short",
"Template:Math"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%83%88 |
9,295 | 国際電話番号の一覧 | 国際電話番号の一覧(こくさいでんわばんごうのいちらん)は、国をまたいで電話を使用する(国際電話)時に必要となる電話番号の一覧である。国家あるいは地域ごとに決められていることから、単に国番号とも言う。
国際電気通信連合 (ITU) がE.164で割り当てたもの。
ゼロ (0) は割り当てなし。 | [
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},
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"text": "ゼロ (0) は割り当てなし。",
"title": "一覧"
}
] | 国際電話番号の一覧(こくさいでんわばんごうのいちらん)は、国をまたいで電話を使用する(国際電話)時に必要となる電話番号の一覧である。国家あるいは地域ごとに決められていることから、単に国番号とも言う。 国際電気通信連合 (ITU) がE.164で割り当てたもの。 | [[File:Country calling codes map.svg|thumb|350px|各ゾーン]]
'''国際電話番号の一覧'''(こくさいでんわばんごうのいちらん)は、国をまたいで[[電話]]を使用する([[国際電話]])時に必要となる[[電話番号]]の一覧である。[[国家]]あるいは地域ごとに決められていることから、単に'''国番号'''とも言う。
[[国際電気通信連合]] (ITU) が[[E.164]]で割り当てたもの。
== 一覧 ==
{| class="wikitable"
! 番号
! 割当国
! 備考
|-
!colspan="3" style="text-align:left;"| ゾーン1 -- 北米・カリブ海およびマリアナ諸島の国 <ref>このエリアの番号は[[北米電話番号計画]] (NANP) によって管理されている。詳しくは[https://nationalnanpa.com NANPA : North American Numbering Plan Administrator]。</ref>
|-
!colspan="3" style="text-align:left;font-weight:normal;font-style:italic;"| [[北アメリカ大陸]]
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">1</code>
| [[アメリカ合衆国]]、[[カナダ]] <ref>アメリカ合衆国およびカナダについては、国番号1に続いて3桁の地域番号によって州別に区分されている。州によっては複数の地域番号が設定されている。例えばアメリカ合衆国の[[フロリダ州]]には1-239、1-305の他、15個の地域番号がある。</ref>
|
|-
!colspan="3" style="text-align:left;font-weight:normal;font-style:italic;"| [[カリブ海]]の多くの国や島
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">1-242</code>
| [[バハマ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">1-246</code>
| [[バルバドス]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">1-264</code>
| [[アングィラ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">1-268</code>
| [[アンティグア・バーブーダ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">1-284</code>
| [[英領ヴァージン諸島]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">1-340</code>
| [[米領ヴァージン諸島]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">1-345</code>
| [[ケイマン諸島|英領ケイマン諸島]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">1-441</code>
| [[バミューダ諸島]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">1-473</code>
| [[グレナダ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">1-649</code>
| [[タークス及びカイコス諸島]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">1-664</code>
| [[モントセラト]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">1-721</code>
| [[シント・マールテン|オランダ領セント・マーチン]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">1-758</code>
| [[セントルシア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">1-767</code>
| [[ドミニカ国]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">1-784</code>
| [[セントビンセントおよびグレナディーン諸島]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">1-787</code>
| [[プエルトリコ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">1-809</code>
| [[ドミニカ共和国]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">1-829</code>
| ドミニカ共和国
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">1-849</code>
| ドミニカ共和国
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">1-868</code>
| [[トリニダード・トバゴ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">1-869</code>
| [[セントキッツ・ネイビス]](セントクリストファー・ネイビス)
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">1-876</code>
| [[ジャマイカ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">1-939</code>
| [[プエルトリコ]]
|
|-
!colspan="3" style="text-align:left;font-weight:normal;font-style:italic;"| いくつかの太平洋の島々
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">1-670</code>
| [[北マリアナ諸島]]
| サイパン島
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">1-671</code>
| [[グアム]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">1-684</code>
| [[アメリカ領サモア]]
| 2004年10月2日変更
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">1-808</code>
| [[ハワイ諸島]]、[[ミッドウェー諸島]]
|
|-
!colspan="3" style="text-align:left;"| ゾーン2 -- [[アフリカ]]大陸の国およびいくつかの大西洋の島々
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">20</code>
| [[エジプト]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">210</code>
|
| モロッコによる予約
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">211</code>
| [[南スーダン]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">212</code>
| [[モロッコ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">213</code>
| [[アルジェリア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">214</code>
|
| アルジェリアによる予約
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">215</code>
|
| アルジェリアによる予約
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">216</code>
| [[チュニジア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">217</code>
|
| チュニジアによる予約
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">218</code>
| [[リビア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">219</code>
|
| リビアによる予約
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">220</code>
| [[ガンビア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">221</code>
| [[セネガル]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">222</code>
| [[モーリタニア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">223</code>
| [[マリ共和国|マリ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">224</code>
| [[ギニア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">225</code>
| [[コートジボワール]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">226</code>
| [[ブルキナファソ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">227</code>
| [[ニジェール]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">228</code>
| [[トーゴ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">229</code>
| [[ベナン]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">230</code>
| [[モーリシャス]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">231</code>
| [[リベリア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">232</code>
| [[シエラレオネ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">233</code>
| [[ガーナ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">234</code>
| [[ナイジェリア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">235</code>
| [[チャド]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">236</code>
| [[中央アフリカ共和国]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">237</code>
| [[カメルーン]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">238</code>
| [[カーボベルデ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">239</code>
| [[サントメ・プリンシペ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">240</code>
| [[赤道ギニア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">241</code>
| [[ガボン]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">242</code>
| [[コンゴ共和国]]
| [[ブラザヴィル]]
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">243</code>
| [[コンゴ民主共和国]]
| [[キンシャサ]]、旧ザイール
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">244</code>
| [[アンゴラ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">245</code>
| [[ギニアビサウ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">246</code>
| [[ディエゴガルシア島]]
| [[イギリス領インド洋地域]]内の最大の島
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">247</code>
| [[アセンション島]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">248</code>
| [[セーシェル]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">249</code>
| [[スーダン]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">250</code>
| [[ルワンダ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">251</code>
| [[エチオピア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">252</code>
| [[ソマリア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">253</code>
| [[ジブチ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">254</code>
| [[ケニア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">255</code>
| [[タンザニア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">256</code>
| [[ウガンダ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">257</code>
| [[ブルンジ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">258</code>
| [[モザンビーク]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">259</code>
|
| 未使用(かつて[[ザンジバル]]に割り当てられていた。現在はタンザニアに統合され255)
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">260</code>
| [[ザンビア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">261</code>
| [[マダガスカル]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">262</code>
| [[レユニオン]]、[[マヨット]]
| 共にフランス領
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">263</code>
| [[ジンバブエ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">264</code>
| [[ナミビア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">265</code>
| [[マラウイ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">266</code>
| [[レソト]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">267</code>
| [[ボツワナ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">268</code>
| [[エスワティニ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">269</code>
| [[コモロ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">27</code>
| [[南アフリカ共和国]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">280</code>
|
|style="color:gray;"| ''未割り当て''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">281</code>
|
|style="color:gray;"| ''未割り当て''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">282</code>
| [[西サハラ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">283</code>
|
|style="color:gray;"| ''未割り当て''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">284</code>
|
|style="color:gray;"| ''未割り当て''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">285</code>
|
|style="color:gray;"| ''未割り当て''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">286</code>
|
|style="color:gray;"| ''未割り当て''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">287</code>
|
|style="color:gray;"| ''未割り当て''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">288</code>
|
|style="color:gray;"| ''未割り当て''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">2890</code>
|
|style="color:gray;"| ''未割り当て''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">2891</code>
|
|style="color:gray;"| ''未割り当て''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">2892</code>
|
|style="color:gray;"| ''未割り当て''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">2893</code>
|
|style="color:gray;"| ''未割り当て''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">2894</code>
|
|style="color:gray;"| ''未割り当て''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">2895</code>
|
|style="color:gray;"| ''未割り当て''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">2896</code>
|
|style="color:gray;"| ''未割り当て''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">2897</code>
|[[トリスタンダクーニャ]]
|現状は290-8が使用されている
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">2898</code>
|
|style="color:gray;"| ''未割り当て''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">2899</code>
|
|style="color:gray;"| ''未割り当て''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">290</code>
| [[セントヘレナ島]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">291</code>
| [[エリトリア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">292</code>
|
|style="color:gray;"| ''未割り当て''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">293</code>
|
|style="color:gray;"| ''未割り当て''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">294</code>
|
|style="color:gray;"| ''未割り当て''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">295</code>
|
|style="color:gray;"| ''未割り当て''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">296</code>
|
|style="color:gray;"| ''未割り当て''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">297</code>
| [[アルバ]]
| 南米・オランダ領アンティル諸島
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">298</code>
| [[フェロー諸島]]
| ヨーロッパ・デンマーク領
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">299</code>
| [[グリーンランド]]
| ヨーロッパ・デンマーク自治領
|-
!colspan="3" style="text-align:left;"| ゾーン3 -- [[ヨーロッパ]]
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">30</code>
| [[ギリシャ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">31</code>
| [[オランダ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">32</code>
| [[ベルギー]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">33</code>
| [[フランス]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">34</code>
| [[スペイン]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">350</code>
| [[ジブラルタル]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">351</code>
| [[ポルトガル]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">352</code>
| [[ルクセンブルク]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">353</code>
| [[アイルランド]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">354</code>
| [[アイスランド]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">355</code>
| [[アルバニア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">356</code>
| [[マルタ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">357</code>
| [[キプロス]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">358</code>
| [[フィンランド]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">359</code>
| [[ブルガリア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">36</code>
| [[ハンガリー]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">370</code>
| [[リトアニア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">371</code>
| [[ラトビア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">372</code>
| [[エストニア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">373</code>
| [[モルドバ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">374</code>
| [[アルメニア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">375</code>
| [[ベラルーシ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">376</code>
| [[アンドラ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">377</code>
| [[モナコ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">378</code>
| [[サンマリノ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">379</code>
| [[バチカン]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">380</code>
| [[ウクライナ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">381</code>
| [[セルビア]]
| 旧[[ユーゴスラビア]]
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">382</code>
| [[モンテネグロ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">383</code>
| [[コソボ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">384</code>
|
|style="color:gray;"| ''未使用''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">385</code>
| [[クロアチア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">386</code>
| [[スロベニア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">387</code>
| [[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">388</code>
|
| ETNS(共用国番号) [http://www.etns.org/]
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">389</code>
| [[マケドニア共和国|マケドニア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">39</code>
| [[イタリア]]
|
|-
!colspan="3" style="text-align:left;"| ゾーン4 -- [[ヨーロッパ]]
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">40</code>
| [[ルーマニア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">41</code>
| [[スイス]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">420</code>
| [[チェコ]]
|1997年までスロバキアとともに"42"
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">421</code>
| [[スロバキア]]
|1997年までチェコとともに"42"
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">422</code>
|
|style="color:gray;"| ''未使用''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">423</code>
| [[リヒテンシュタイン]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">424</code>
|
|style="color:gray;"| ''未使用''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">425</code>
|
|style="color:gray;"| ''未使用''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">426</code>
|
|style="color:gray;"| ''未使用''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">427</code>
|
|style="color:gray;"| ''未使用''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">428</code>
|
|style="color:gray;"| ''未使用''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">429</code>
|
|style="color:gray;"| ''未使用''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">43</code>
| [[オーストリア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">44</code>
| [[イギリス]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">45</code>
| [[デンマーク]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">46</code>
| [[スウェーデン]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">47</code>
| [[ノルウェー]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">48</code>
| [[ポーランド]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">49</code>
| [[ドイツ]]
|
|-
!colspan="3" style="text-align:left;"| ゾーン5 -- [[メキシコ]]、[[中南米]]、[[西インド諸島]]
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">500</code>
| [[フォークランド諸島]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">501</code>
| [[ベリーズ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">502</code>
| [[グアテマラ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">503</code>
| [[エルサルバドル]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">504</code>
| [[ホンジュラス]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">505</code>
| [[ニカラグア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">506</code>
| [[コスタリカ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">507</code>
| [[パナマ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">508</code>
| [[サンピエール島・ミクロン島|フランス領サンピエール・ミクロン]]
| サンピエール島とミクロン島
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">509</code>
| [[ハイチ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">51</code>
| [[ペルー]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">52</code>
| [[メキシコ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">53</code>
| [[キューバ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">54</code>
| [[アルゼンチン]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">55</code>
| [[ブラジル]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">56</code>
| [[チリ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">57</code>
| [[コロンビア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">58</code>
| [[ベネズエラ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">590</code>
| [[グアドループ|フランス領セントマーチン]]
| グアドループ島
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">591</code>
| [[ボリビア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">592</code>
| [[ガイアナ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">593</code>
| [[エクアドル]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">594</code>
| [[フランス領ギアナ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">595</code>
| [[パラグアイ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">596</code>
| [[マルティニーク|フランス領マルチニーク島]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">597</code>
| [[スリナム]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">598</code>
| [[ウルグアイ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">599</code>
| [[オランダ領アンティル]]諸島
|
|-
!colspan="3" style="text-align:left;"| ゾーン6 -- [[東南アジア]]、[[南太平洋]]、[[オセアニア]]
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">60</code>
| [[マレーシア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">61</code>
| [[オーストラリア]]、 [[クリスマス島 (オーストラリア)|クリスマス島]]、[[ココス諸島]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">62</code>
| [[インドネシア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">63</code>
| [[フィリピン]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">64</code>
| [[ニュージーランド]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">65</code>
| [[シンガポール]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">66</code>
| [[タイ王国|タイ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">670</code>
|[[東ティモール]]
| 2000年6月1日より新規割り当て。<BR> かつて、サイパン島(現・北マリアナ共和国)で使用されていた番号(現在は「1-670」に変更)。
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">671</code>
|
| 未使用(かつて[[グアム|グアム島]]で使っていた番号。現在は「1-671」に変更)
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">672</code>
| [[ノーフォーク島]]、[[南極大陸]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">673</code>
| [[ブルネイ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">674</code>
| [[ナウル]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">675</code>
| [[パプアニューギニア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">676</code>
| [[トンガ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">677</code>
| [[ソロモン諸島]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">678</code>
| [[バヌアツ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">679</code>
| [[フィジー]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">680</code>
| [[パラオ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">681</code>
| [[ウォリス・フツナ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">682</code>
| [[クック諸島]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">683</code>
| [[ニウエ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">684</code>
|
| 未使用(かつて[[アメリカ領サモア]]が使っていた番号。現在は「1-684」に変更)
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">685</code>
| [[サモア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">686</code>
| [[キリバス]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">687</code>
| [[ニューカレドニア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">688</code>
| [[ツバル]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">689</code>
| [[フランス領ポリネシア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">690</code>
| [[トケラウ諸島]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">691</code>
| [[ミクロネシア連邦]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">692</code>
| [[マーシャル諸島]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">693</code>
|
|style="color:gray;"| ''未使用''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">694</code>
|
|style="color:gray;"| ''未使用''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">695</code>
|
|style="color:gray;"| ''未使用''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">696</code>
|
|style="color:gray;"| ''未使用''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">697</code>
|
|style="color:gray;"| ''未使用''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">698</code>
|
|style="color:gray;"| ''未使用''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">699</code>
|
|style="color:gray;"| ''未使用''
|-
!colspan="3" style="text-align:left;"| ゾーン7 -- [[ロシア]](旧ソビエト連邦)
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">7</code>
| [[ロシア]]、[[カザフスタン]]
|-
!colspan="3" style="text-align:left;"| ゾーン8 -- [[東アジア]]および[[通信衛星]]を利用した国際移動通信
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">800</code>
|
| 国際フリーフォン([[着信課金電話番号]]。国境を越えるフリーダイヤル相当)
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">801</code>
|
|style="color:gray;"| ''未使用''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">802</code>
|
|style="color:gray;"| ''未使用''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">803</code>
|
|style="color:gray;"| ''未使用''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">804</code>
|
|style="color:gray;"| ''未使用''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">805</code>
|
|style="color:gray;"| ''未使用''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">806</code>
|
|style="color:gray;"| ''未使用''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">807</code>
|
|style="color:gray;"| ''未使用''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">808</code>
|
| 国際分担課金(シェアド・コスト)
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">809</code>
|
|style="color:gray;"| ''未使用''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">81</code>
| [[日本]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">82</code>
| [[大韓民国]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">83</code>
|
|style="color:gray;"| ''未使用''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">84</code>
| [[ベトナム]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">850</code>
| [[朝鮮民主主義人民共和国]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">851</code>
|
|style="color:gray;"| ''未使用''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">852</code>
| [[香港]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">853</code>
| [[マカオ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">854</code>
|
|style="color:gray;"| ''未使用''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">855</code>
| [[カンボジア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">856</code>
| [[ラオス]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">857</code>
|
|style="color:gray;"| ''未使用''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">858</code>
|
|style="color:gray;"| ''未使用''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">859</code>
|
|style="color:gray;"| ''未使用''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">86</code>
| [[中華人民共和国]]
| 中国本土
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">870</code>
| [[インマルサット]]
| 自動海域選択サービス
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">871</code>
|
| インマルサット - 大西洋東 → 「870」に統合
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">872</code>
|
| インマルサット - 太平洋 → 「870」に統合
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">873</code>
|
| インマルサット - インド洋 → 「870」に統合
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">874</code>
|
| インマルサット - 大西洋西 → 「870」に統合
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">875</code>
|
| Maritime Mobile serviceによる予約
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">876</code>
|
| Maritime Mobile serviceによる予約
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">877</code>
|
| Maritime Mobile serviceによる予約
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">878</code>
|
| 国際[[パーソナル通信]]サービス (UPT - Universal Personal Telecommunications services)
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">879</code>
|
| national <nowiki>mobile/maritime</nowiki> 使用による予約
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">880</code>
| [[バングラデシュ]]
|
|-
!colspan="2" style="text-align:left;"|<code style="background:transparent;">881x</code>
| GMSS - グローバルな衛星移動通信システム
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">8810</code>
|
| ICOグローバルによる予約
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">8811</code>
|
| ICOグローバルによる予約
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">8812</code>
|
| ellipso
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">8813</code>
|
| ellipso
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">8814</code>
|
|style="color:gray;"| ''未使用''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">8815</code>
|
|style="color:gray;"| ''未使用''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">8816</code>
|
| [[衛星電話#イリジウム|イリジウム]]
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">8817</code>
|
| [[衛星電話#イリジウム|イリジウム]]
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">8818</code>
|
| グローバルスター
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">8819</code>
|
| グローバルスター
|-
!colspan="2" style="text-align:left;"|<code style="background:transparent;">882xx</code>
|国際ネットワーク
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">88210</code>
|
| [[BTグループ|BT]]
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">88211</code>
|
| [[シンガポール・テレコム]]
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">88212</code>
|
| [[ベライゾン・コミュニケーションズ]]
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">88213</code>
|
| テレスパツィオ ([[イタリア]]の衛星通信事業者)
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">88214</code>
|
| 旧GTE (ベライゾン・コミュニケーションズの子会社)
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">88215</code>
|
| [[テルストラ]] ([[オーストラリア]]の衛星通信事業者)
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">88216</code>
|
| [[スラーヤ]]([[アラブ首長国連邦]]が提供している衛星電話サービス)
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">88217</code>
|
| 旧[[AT&T]]国際ATMネットワーク
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">88218</code>
|
| 旧[[テレデシック]]
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">88219</code>
|
| 旧[[テレコム・イタリア]]
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">88220</code>
|
| ACeS(東南アジアを中心とした地域向けの衛星電話サービス。端末は無線局免許の関係で日本国内では使用できない)
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">88221</code>
|
| 旧[[アメリテック]](AT&Tの子会社)
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">88222</code>
|
| [[ケーブル・アンド・ワイヤレス]]
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">88223</code>
|
| [[SITA]]とイクアント([[Orange (通信会社)|Orange]]の子会社)の協業
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">88224</code>
|
| [[テリア (企業)|テリア]]
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">88225</code>
|
| 旧Constallation Communications(アメリカ合衆国の通信事業者)
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">88226</code>
|
| 旧SBCコミュニケーションズ(現・AT&T)
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">88227</code>
|
| 旧ウィリアムズコミュニケーションズ
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">88228</code>
|
| [[ドイツテレコム]]
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">88229</code>
|
| 旧Q-TEL([[ニュージーランド]]の通信事業者)
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">88230</code>
|
| Optus([[オーストラリア]]の通信事業者)
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">88231</code>
|
| [[テレコム・マレーシア]]
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">88232</code>
|
| Maritime Communications Partner([[ノルウェー]]の海上衛星通信事業者)
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">88233</code>
|
| Oration Technologies([[イギリス]]の通信事業者)
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">88234</code>
|
| Global Networks Inc.([[スイス]]の通信事業者)
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">88235</code>
|
| ジャスパーワイヤレス(アメリカ合衆国の海上衛星通信事業者)
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">88236</code>
|
| ジャージーテレコム([[イギリス]]の通信事業者)
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">88237</code>
|
| [[AT&T]]モビリティ
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">88238</code>
|
| ellipso
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">88239</code>
|
| Vodafone Malta([[ボーダフォン]]の[[マルタ]]国内の現地法人)
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">88240</code>
|
| Cubio([[フィンランド]]の通信事業者)
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">88241</code>
|
| Intermatica([[イタリア]]の通信事業者)
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">88242</code>
|
| Seanet Maritime Communications AB([[スウェーデン]]の海上通信事業者)
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">88243</code>
|
| Ukrainian Radiosystems for Beeline([[ウクライナ]]の通信事業者)
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">88245</code>
|
| [[テレコム・イタリア]]
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">88246</code>
|
| tyntec(ドイツ法人)
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">88297</code>
|
| Smart Communications([[フィリピン]]の長距離電話会社PLDTの子会社)
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">88298</code>
|
| ONAIR N.V.(SITAによる航空機内における[[GSM]]サービス)
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">88299</code>
|
| [[Telenor]]
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">883</code>
|
| 国際ネットワーク
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">884</code>
|
|style="color:gray;"| ''未使用''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">885</code>
|
|style="color:gray;"| ''未使用''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">886</code>
| [[台湾]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">887</code>
|
|style="color:gray;"| ''未使用''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">888</code>
|
| 災害・救済のための情報通信のために割り当て
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">889</code>
|
|style="color:gray;"| ''未使用''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">89</code>
|
|style="color:gray;"| ''未使用''
|-
!colspan="3" style="text-align:left;"| ゾーン9 -- [[西南アジア]]、[[中東]]
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">90</code>
| [[トルコ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">91</code>
| [[インド]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">92</code>
| [[パキスタン]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">93</code>
| [[アフガニスタン]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">94</code>
| [[スリランカ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">95</code>
| [[ミャンマー]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">960</code>
| [[モルジブ]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">961</code>
| [[レバノン]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">962</code>
| [[ヨルダン]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">963</code>
| [[シリア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">964</code>
| [[イラク]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">965</code>
| [[クウェート]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">966</code>
| [[サウジアラビア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">967</code>
| [[イエメン]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">968</code>
| [[オマーン]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">969</code>
|
| 未使用(かつて、南イエメンが使用していた。現在は967)
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">970</code>
|
| [[パレスチナ自治政府]]の予約。
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">971</code>
| [[アラブ首長国連邦]]
| UAE
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">972</code>
| [[イスラエル]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">973</code>
| [[バーレーン]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">974</code>
| [[カタール]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">975</code>
| [[ブータン]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">976</code>
| [[モンゴル国|モンゴル]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">977</code>
| [[ネパール]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">978</code>
|
| 未使用(かつて、ドバイに割り当てられていた。現在は971)
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">979</code>
|
| 国際プレミアムレート(かつて、アブダビに割り当てられていた。現在は971)
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">98</code>
| [[イラン]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">990</code>
|
|style="color:gray;"| ''未使用''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">991</code>
|
| 国際電話公衆通信サービス (ITPCS)
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">992</code>
| [[タジキスタン]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">993</code>
| [[トルクメニスタン]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">994</code>
| [[アゼルバイジャン]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">995</code>
| [[ジョージア (国)|ジョージア]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">996</code>
| [[キルギスタン]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">997</code>
|
|style="color:gray;"| ''未使用''
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">998</code>
| [[ウズベキスタン]]
|
|-
!style="text-align:left;"| <code style="background:transparent;">999</code>
|
| 災害救助サービスのための予約
|}
ゼロ (0) は割り当てなし。
== 脚注 ==
<references />
== 関連項目 ==
* [[国名コード]]
* [[MS-DOS]] - [[CONFIG.SYS]]のCOUNTRY命令で国の指定に国際電話番号を用いる。
* [[郵便番号]]
== 外部リンク ==
* [https://www.kuni-bango.info/tenwabango-sanshutsu-ki.php 国際通話のための電話番号算出機]
{{DEFAULTSORT:こくさいてんわはんこうのいちらん}}
[[Category:識別子の一覧]]
[[Category:技術関連の一覧]]
[[Category:各国の一覧]]
[[Category:電話番号]]
[[Category:国名コード]] | 2003-05-24T18:49:09Z | 2023-11-10T06:25:17Z | false | false | false | [] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%9B%BB%E8%A9%B1%E7%95%AA%E5%8F%B7%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7 |
9,296 | 小アイアース | 小アイアース(古希: Αἴας, Aiās, ラテン語: Ajax)は、ギリシア神話に登場する英雄である。長母音を省略してアイアスとも表記する。
ロクリスの民(ロクロイ/Lokroi)の王。ロクリス王オイレウスとエリオーピスの子。異母兄弟にメドーンがいる。トロイア戦争にはロクリス人を率いて40隻の船と共に参加した。テラモーンの子アイアース(大アイアース)と区別するために小アイアースと呼ばれる。小柄だがアキレウスに次ぐ駿足であり、大アイアースと組にして両アイアースなどと呼ばれる。
彼は神を敬わない不遜な人物として描かれる。『ビブリオテーケー』によればトロイア陥落に際して、アテーナーの像に抱きついていたカッサンドラーを強姦した。アテーナー像が上を向くようになったのは、この時の場面を見るのを嫌ったからであるという。またパウサニアス『ギリシア案内記』やエウリーピデース『トロイアの女』ではアテーナー像ごと押し倒したとしており、さらにアテーナーを激怒させている。ギリシア軍が帰還しようとすると、予言者であるカルカースがアテーナーが怒っていることを告げた。初めてアイアースの蛮行を知ったギリシア人たちはアイアースを殺そうとしたが、彼が祭壇に逃れたため果たせなかった。
アイアースの末路については『オデュッセイア』が伝える。アテーナーの怒りを買ったアイアースは女神アテーナーが送った嵐で帰途の航海中に難破するが、一時は海神ポセイドーンに救われて岩礁に乗り上げる。しかしそこで、神の怒りも自分には及ばないと勝ち誇ったため、ポセイドーンが三叉の矛を投げつけて岩礁を打ち砕き、彼は溺死した。
その後も女神の怒りは解けず、ロクリスの人々は毎年、名門百家から若い未婚の女性を2人ずつトロイアのアテーナー神殿に送らねばならなかった。女性2人は船で海を渡り、殺そうとするトロイア人の手から同行した護衛により神殿へ逃れることが出来れば命だけは助かるが、辱めを受けながら一生を独身で過ごさねばならなかった。この習慣は紀元前800年頃から紀元100年頃までと1000年近く続いた。 | [
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[[ファイル:Aiace-paint.jpg|thumb|200px|岩礁上で神をなみする小アイアース]]
'''小アイアース'''({{lang-grc-short|'''Αἴας''', ''Aiās''}}, {{lang-la|Ajax}})は、[[ギリシア神話]]に登場する英雄である。[[長母音]]を省略して'''アイアス'''とも表記する。
ロクリスの民(ロクロイ/Lokroi)の王。[[ロクリス]]王[[オイレウス]]とエリオーピスの子。異母兄弟に[[メドーン]]がいる。[[トロイア戦争]]にはロクリス人を率いて40隻の船と共に参加した。[[テラモーン]]の子アイアース([[大アイアース]])と区別するために小アイアースと呼ばれる。小柄だがアキレウスに次ぐ駿足であり、大アイアースと組にして両アイアースなどと呼ばれる。
彼は神を敬わない不遜な人物として描かれる。『[[ビブリオテーケー]]』によれば[[イリオス|トロイア]]陥落に際して、[[アテーナー]]の像に抱きついていた[[カッサンドラー]]を[[強姦]]した。アテーナー像が上を向くようになったのは、この時の場面を見るのを嫌ったからであるという。また[[パウサニアス (地理学者)|パウサニアス]]『ギリシア案内記』や[[エウリーピデース]]『[[トロイアの女]]』ではアテーナー像ごと押し倒したとしており、さらにアテーナーを激怒させている。ギリシア軍が帰還しようとすると、予言者である[[カルカース]]がアテーナーが怒っていることを告げた。初めてアイアースの蛮行を知ったギリシア人たちはアイアースを殺そうとしたが、彼が祭壇に逃れたため果たせなかった。
アイアースの末路については『[[オデュッセイア]]』が伝える。アテーナーの怒りを買ったアイアースは女神[[アテーナー]]が送った嵐で帰途の航海中に難破するが、一時は海神[[ポセイドーン]]に救われて岩礁に乗り上げる。しかしそこで、神の怒りも自分には及ばないと勝ち誇ったため、ポセイドーンが三叉の矛を投げつけて岩礁を打ち砕き、彼は溺死した。
その後も女神の怒りは解けず、[[ロクリス]]の人々は毎年、名門百家から若い未婚の女性を2人ずつトロイアのアテーナー神殿に送らねばならなかった。女性2人は船で海を渡り、殺そうとするトロイア人の手から同行した護衛により神殿へ逃れることが出来れば命だけは助かるが、辱めを受けながら一生を独身で過ごさねばならなかった。この習慣は紀元前800年頃から紀元100年頃までと1000年近く続いた。
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9,297 | 岸和田市 |
岸和田市(きしわだし)は、大阪府の泉南地域に位置する市。施行時特例市に指定されている。
岸和田藩の城下町を基礎に発展した工業都市。大阪府泉南府民センターが置かれ、泉南地域における行政の中心である。行政の特徴として、永住外国人と国内在住期間が3年を越え満18歳以上で3ヵ月以上市内に住む「定住外国人」に住民投票の投票権(参政権ではない)を認めている。市のキャッチフレーズは「世界にいちばん近い城下町」。泉州地域で唯一施行時特例市に指定されている。
岸和田だんじり祭の都市である。
岸和田市の総面積は72.24km2である。和泉(泉州)と称される府南西部に位置し、大阪湾から和泉山脈に至る細長い市域(東西7.6km、南北17.3km)を形成している。
大阪湾に臨む市の中心部は寛永時代(17世紀初め)以降、岸和田藩主岡部氏の城下町として栄え、明治時代中期以後は泉州綿織物を主とする紡織工業都市として発展した。1966年(昭和41年)には、臨海部の埋立により大阪鉄工金属団地と大阪木材コンビナートが造られた。
和泉山脈北麓と台地では溜池灌漑による米のほかタマネギ、みかん、桃、花卉の栽培が盛んである。また、関西国際空港から4号湾岸線で約15分という距離にあるほか、同空港および大阪市の中心部からは南海電気鉄道(南海本線)、JR西日本(阪和線)が通じており、また中心部ではないが自動車専用道路(阪和自動車道、阪神高速道路4号湾岸線)も通じている。これらのことから基幹的な交通網が充実している(大阪都心部から約30〜45分)。海抜0.0m〜865.7m。
気象庁による気象警報・注意報の発表区分(二次細分区域)は市の全域をもって区分されており、大阪府のうち「泉州」に区分する地域の一つとなっている。なお、同庁による天気予報の発表区分(一次細分区域)は、市の全域を含む大阪府全域となっている。
2015年(平成27年)国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、2.2%減の194,911人であり、増減率は府下43市町村中24位、72行政区域中46位。
1920年(大正9年)に岸和田町の紋章として公募したもので、岸和田城の別称「千亀利城」から「千」の文字を図案化したもの、岸和田の「岸」または「キ」の図案化あるいは、欄干橋の「干」からとったものといわれている。1922年(大正11年)の市制施行の際に正式に市章として制定された。
岸和田市では戦前に制定された2曲と戦後に制定された1曲の計3曲を制定し、並立させている。現在は主に「岸和田市讃歌」が演奏されるが、戦前の2曲と異なり例規集には掲載されていない。
※歴代市長
江戸時代より当市域一帯では綿花の栽培が盛んで、綿布・綿糸の紡績も行われていた。近代以降も産業の中心は繊維産業だったが、海外製品に押される形で多くの工場が姿を消した。
1966年(昭和41年)、市では独自に沿岸部を埋立てて現在の大阪鉄工金属団地(臨海町)を建設し、企業誘致に努めた。さらに同年、北隣の忠岡町に跨って大阪木材コンビナート(新港町・木材町)が建設され、産業構造の転換が図られた。1968年(昭和43年)の阪南港統合後も阪南1区(地蔵浜町)の埋立造成と続き、当市沿岸部はほぼ全て埋め立てられた。
これらのほかにガラス・レンズ産業が有名であり、特に乱視用のガラスレンズ生産が盛んであった。ピーク時の1980年頃には、市内に大小あわせて70件ほどのレンズ工場が操業していた。また、顕微鏡用スライドガラス、カバーガラスの生産も盛んであり、カバーガラスは一時期日本国内シェアの90%以上を独占していた。
浜地区にある岸和田漁港では、シラス漁が盛んに行われており、全国有数のシラスの産地として知られている。
そのほか、毎年春先にはイカナゴ漁が解禁されており、大阪湾に春の訪れを告げている。
農業が盛んな山手地区では稲作のほか、タマネギ、水なす、春菊、タケノコ、みかんなどの栽培が盛んで、包近町は府下最大の桃の産地である。また、春菊は府内において堺市に次いで2番目の生産量であり全国の自治体では7番目の生産量を誇る。なお、近年まではタマネギの大産地としても有名であり、畑のあちこちに立つタマネギ小屋が象徴的なランドスケープであったが、様々な事情で廃業した農家もあり、また、住宅地開発が急速に進んだため、最近では見かけることはまれである。
岸和田市内のこうした厳しい経済・雇用情勢もあってか、近年、仕事を求めて隣接する貝塚市の二色の浜産業団地や和泉市のテクノステージ和泉を訪れる市民も多く見られる。市では産業を再び活性化させるため、埋立造成の進む阪南2区(岸之浦町。愛称:ちきりアイランド)や開発が進む丘陵地区(岸の丘町。愛称:ゆめみヶ丘岸和田)などへの企業誘致を積極的に進めているという。
経営サポート
岸和田ビジネスサポートセンター
中心となる駅 - 岸和田駅・東岸和田駅
※東ケ丘町など一部の地域では、大阪方面への通勤・通学の足として、主に、隣接する和泉市いぶき野にある泉北高速鉄道「和泉中央駅」を利用している。
※ 注意:「岸和田和泉インターチェンジ」の所在地は、和泉市唐国町である。 このほか、大阪南部高速道路の建設が構想されている。
1703年(元禄16年)、時の岸和田藩主岡部長泰が、京都伏見稲荷大社を岸和田城内三の丸に勧請し、五穀豊穣を祈願し、行った稲荷祭がその始まりと伝えられ、約300年の歴史と伝統を誇る。曳き手が走り、速度に乗っただんじり(地車)を方向転換させる「やりまわし」を見所として、多くの観光客を集める。幾つかの神社の祭りの総称で、基本的には地元の神社でその年の五穀豊穣を祝う祭り。全国的にも知名度が高く、日本を代表する祭りの一つである。毎年二日間で約60万人もの観光客が訪れる。岸和田市民(特に岸和田旧市地区)はだんじりのために生きている、といわれるほど祭り好きである。
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] | 岸和田市(きしわだし)は、大阪府の泉南地域に位置する市。施行時特例市に指定されている。 岸和田藩の城下町を基礎に発展した工業都市。大阪府泉南府民センターが置かれ、泉南地域における行政の中心である。行政の特徴として、永住外国人と国内在住期間が3年を越え満18歳以上で3ヵ月以上市内に住む「定住外国人」に住民投票の投票権(参政権ではない)を認めている。市のキャッチフレーズは「世界にいちばん近い城下町」。泉州地域で唯一施行時特例市に指定されている。 岸和田だんじり祭の都市である。 | {{pp-vandalism|small=yes}}
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| 自治体名 = 岸和田市
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| 隣接自治体 = [[和泉市]]、[[貝塚市]]、[[泉北郡]][[忠岡町]]<br />[[和歌山県]]:[[紀の川市]]、[[伊都郡]][[かつらぎ町]]
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'''岸和田市'''(きしわだし)は、[[大阪府]]の[[泉南]]地域に位置する[[市]]。[[特例市|施行時特例市]]に指定されている。
[[岸和田藩]]の[[城下町]]を基礎に発展した工業都市。[[大阪府泉南府民センター]]が置かれ、[[泉南]]地域における行政の中心である。行政の特徴として、[[永住外国人]]と国内在住期間が3年を越え満18歳以上で3ヵ月以上市内に住む「定住[[外国人]]」に[[住民投票]]の投票権([[参政権]]ではない)を認めている。市の[[キャッチコピー|キャッチフレーズ]]は「世界にいちばん近い城下町」。泉州地域で唯一施行時特例市に指定されている。
[[岸和田だんじり祭]]の都市である。
== 地理 ==
[[ファイル:Kishiwada city center area Aerial photograph.1985.jpg|thumb|300px|岸和田市中心部周辺の空中写真。1985年撮影の6枚を合成作成。{{国土航空写真}}。]]
岸和田市の総[[面積]]は72.24km²である。[[和泉]](泉州)と称される府南西部に位置し、[[大阪湾]]から[[和泉山脈]]に至る細長い市域(東西7.6km、南北17.3km)を形成している。
大阪湾に臨む市の中心部は[[寛永]]時代([[17世紀]]初め)以降、[[岸和田藩]]主[[岡部氏 (藤原南家)|岡部氏]]の城下町として栄え、[[明治]]時代中期以後は泉州綿[[織物]]を主とする紡織工業都市として発展した。[[1966年]](昭和41年)には、臨海部の[[埋立地|埋立]]により大阪鉄工金属団地と大阪木材コンビナートが造られた。
[[和泉山脈]]北麓と台地では溜池[[灌漑]]による[[米]]のほか[[タマネギ]]、[[ウンシュウミカン|みかん]]、[[モモ|桃]]、[[草花|花卉]]の栽培が盛んである。また、[[関西国際空港]]から[[阪神高速4号湾岸線|4号湾岸線]]で約15分という距離にあるほか、同空港および[[大阪市]]の中心部からは[[南海電気鉄道]]([[南海本線]])、[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]([[阪和線]])が通じており、また中心部ではないが[[自動車専用道路]]([[阪和自動車道]]、[[阪神高速道路]][[阪神高速4号湾岸線|4号湾岸線]])も通じている。これらのことから基幹的な交通網が充実している(大阪都心部から約30〜45分)。海抜0.0m〜865.7m。
* 山:[[和泉葛城山]]、[[牛滝山]]、[[神於山]]
* 河川:[[牛滝川]]、[[春木川 (大阪府)|春木川]]、[[津田川 (大阪府)|津田川]]
* 池:[[久米田池]]
[[気象庁]]による[[防災気象情報|気象警報・注意報]]の発表区分(二次細分区域)は市の全域をもって区分されており、大阪府のうち「泉州」に区分する地域の一つとなっている。なお、同庁による[[天気予報]]の発表区分(一次細分区域)は、市の全域を含む大阪府全域となっている<ref>{{PDFlink|[https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/saibun/osaka.pdf 大阪府]}}(府県予報区) - 気象庁(2007年4月1日現在、2012年12月15日閲覧)</ref>。
=== 人口 ===
[[2015年]](平成27年)[[国勢調査 (日本)|国勢調査]]より前回調査からの人口増減をみると、2.2%減の194,911人であり、増減率は府下43市町村中24位、72行政区域中46位。
{{人口統計|code=27202|name=岸和田市}}
=== 市章 ===
[[1920年]](大正9年)に岸和田町の紋章として公募したもので、岸和田城の別称「千亀利城」から「千」の文字を図案化したもの、岸和田の「岸」または「キ」の図案化あるいは、欄干橋の「干」からとったものといわれている。[[1922年]](大正11年)の市制施行の際に正式に市章として制定された。
=== 市歌 ===
岸和田市では戦前に制定された2曲と戦後に制定された1曲の計3曲を制定し、並立させている。現在は主に「岸和田市讃歌」が演奏されるが、戦前の2曲と異なり例規集には掲載されていない。
:; 岸和田市歌
:: 1924年(大正13年)7月15日制定。作詞・佐沢健平、作曲・阿保寛。(旧)岸和田市の時代に制定されたが、新設合併後も引き継がれている<ref>[https://www.city.kishiwada.osaka.jp/reiki/213909600715A00000NH/213909600715A00000NH/213909600715A00000NH.html 岸和田市歌]</ref>。
:; 岸和田市民歌
:: 1942年(昭和17年)8月10日に新設合併を記念して制定。歌詞は岸和田市選定で、作曲は内田元<ref>[https://www.city.kishiwada.osaka.jp/reiki/317909600810A00000NH/317909600810A00000NH/317909600810A00000NH.html 岸和田市民歌]</ref>。
:; 岸和田市讃歌
:: 1972年(昭和47年)に、市制施行50周年を記念して制定。作詞・寺岡光義(一般公募入選者)、補作・[[星野哲郎]]、作曲・[[新井利昌]]<ref>[https://www.city.kishiwada.osaka.jp/uploaded/attachment/2337.pdf 岸和田市讃歌]</ref>。
=== 市内の地名 ===
{{see|岸和田市の地名}}
== 歴史 ==
=== 中近世 ===
* [[1337年]]([[延元]]2年/[[建武 (日本)|建武]]4年) - 「岸和田」という単語の初出。[[湊川の戦い]]で[[楠木正成]]の配下として戦った[[南朝 (日本)|南朝]]武将[[岸和田治氏]]が記した軍忠状が現存する(『和田文書』所収『岸和田弥五郎治氏軍忠状』延元二年三月日)。
* [[1400年]]([[応永]]7年) - 「岸和田」という地名の初出。[[足利義満]]が岸和田荘半分を[[石清水八幡宮]]へ寄進(応永7年9月28日『足利義満御判御教書』(『石清水文書』))。
* [[1585年]]([[天正]]13年) - [[小出秀政]]が岸和田城主となり、[[岸和田藩]]が立藩。城郭整備と城下建設に取り掛かる。
* [[1619年]]([[元和 (日本)|元和]]5年) - [[松平康重]]が入封。総構えと城下の整備が進む。
* [[1640年]]([[寛永]]17年) - [[岡部宣勝]]が入封。以降[[岡部氏 (藤原南家)|岡部氏]]の城下町として栄える。
* [[1668年]]([[寛文]]8年) - 南町と沼村に新屋敷が完成する(沼村の新屋敷は後の並松町)。
* [[1703年]]([[元禄]]16年) - [[岡部長泰]]が岸和田城三の丸に[[伏見稲荷]]を勧請し、岸和田だんじり祭の起源と言われる稲荷祭を行う。
* [[1871年]]([[明治]]4年) - [[廃藩置県]]により岸和田県が設置され、同年[[堺県]]に編入される。
* [[1878年]](明治11年) - [[岡部長職]]の依頼で[[新島襄]]が[[キリスト教]]布教に訪れる。
* [[1881年]](明治14年) - [[大阪府]]に編入される。
=== 沿革 ===
* [[1889年]](明治22年)[[4月1日]] - [[町村制]]施行により、[[南郡]]岸和田南町、岸和田本町、岸和田堺町、岸和田魚屋町、岸和田北町、岸和田並松町が合併して、南郡'''岸和田町'''が発足。[[大字]]岸和田北に町役場を設置。のち大字岸和田本に移転。
* [[1896年]](明治29年)4月1日 - [[郡]]の統廃合により、所属郡が[[泉南郡]]となる。
* [[1912年]](明治45年)[[1月1日]] - 泉南郡[[岸和田浜町]]、[[岸和田村]]、[[沼野村]]と新設合併し、改めて'''岸和田町'''となる。
* [[1913年]](大正2年)1月1日 - 大字を改編。発足時の6町は岸和田の冠称を廃し、岸和田浜に7町、岸和田に6町、沼に2町、野に2町、藤井に1町、別所に1町を起立。25町となる。
* [[1922年]](大正11年)[[11月1日]] - 大阪府下で3番目に[[市制]]を施行。'''岸和田市'''となる。
* [[1924年]](大正13年)[[7月15日]] - 岸和田市歌を制定。
* [[1938年]](昭和13年)[[3月3日]] - 泉南郡[[土生郷村]]を編入。
* [[1940年]](昭和15年)[[6月1日]] - 泉南郡[[有真香村]]、[[東葛城村]]を編入。
* [[1941年]](昭和16年) - 市役所を岸城町の泉南郡役所跡(現在地)に移転。
* [[1942年]](昭和17年)4月1日 - 泉南郡[[春木町]]、[[山直町]]、[[南掃守村]]と新設合併し、改めて'''岸和田市'''となる。
** ただし、市制施行年数は旧・岸和田市の市制施行時([[1922年]](大正11年))より数えられている。
** だんじり祭などにおいて呼ばれる「旧市」(岸和田旧市地区)は、この時に廃した市域ではなく、旧・岸和田市の市制施行時([[1922年]](大正11年))の市域を指す。
* 1942年(昭和17年)[[8月10日]] - 合併を記念して「岸和田市民歌」を制定(1924年制定の市歌も存続)。
* [[1947年]](昭和22年)6月8日 - 市内にあった演芸場の屋根が落下する事故が発生。死者70人<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=67 |isbn=9784816922749}}</ref>。
* [[1948年]](昭和23年)4月1日 - [[泉北郡]][[山滝村]]を編入。
* [[1972年]](昭和47年) - 市制50周年を記念して「岸和田市讃歌」を制定。
* [[2002年]](平成14年)4月1日 - [[特例市]]に昇格。
* [[2003年]](平成15年)7月15日 - 岸和田市・[[忠岡町]]合併協議会を設立。
* [[2004年]](平成16年) - 忠岡町で行われた合併に関する[[住民投票]]の結果、反対多数となったため、忠岡町の申し入れにより、岸和田市・忠岡町合併協議会を解散。
* [[2007年]](平成19年)1月1日 - 市内に[[飛地]]として存在していた[[貝塚市]]清児新町地区を編入。現在の市域となる。
=== 歴代市長 ===
{| class="wikitable"
|-
!代!!氏名!!就任年月日!!退任年月日!!備考
|-
|style="text-align:right;"|初||rowspan=2|舟木二三二||1923年4月30日||1927年4月29日||
|-
|style="text-align:right;"|2||1927年5月2日||1930年4月1日||
|-
|style="text-align:right;"|3||rowspan=2|[[井阪豊光]]||1930年5月12日||1932年1月25日||
|-
|style="text-align:right;"|4||1932年2月23日||1933年5月30日||
|-
|style="text-align:right;"|5||rowspan=1|[[川崎正一]]||1933年7月15日||1936年9月5日||
|-
|style="text-align:right;"|6||rowspan=1|[[竹崎米吉]]||1937年10月5日||1940年4月11日||
|-
|style="text-align:right;"|7||rowspan=1|[[寺田利吉 (1884年生の実業家)|寺田利吉]]||1940年4月26日||1942年3月31日||
|-
|style="text-align:right;"|8||rowspan=1|[[寺田甚吉]]||1942年6月23日||1943年9月4日||
|-
|style="text-align:right;"|9||rowspan=1|福本太郎||1943年9月5日||1946年3月25日||
|-
|style="text-align:right;"|10||rowspan=1|小島朝一||1946年5月28日||1946年12月16日||
|-
|style="text-align:right;"|11||rowspan=2|毛利一郎||1947年4月15日||1951年4月14日||以後、公選
|-
|style="text-align:right;"|12||1951年4月23日||1952年3月20日||
|-
|style="text-align:right;"|13-15||rowspan=1|福本太郎||1952年5月2日||1961年11月10日||
|-
|style="text-align:right;"|16-18||rowspan=1|[[中澤米太郎]]||1961年12月15日||1973年12月14日||
|-
|style="text-align:right;"|19-26||rowspan=1|[[原曻]]||1973年12月15日||2005年12月14日||
|-
|style="text-align:right;"|27-28||rowspan=1|[[野口聖]]||2005年12月15日||2013年12月14日||
|-
|style="text-align:right;"|29-30||rowspan=1|[[信貴芳則]]||2013年12月15日||2017年12月26日||辞職<ref>[http://www.sankei.com/module/edit/pdf/2017/12/20171221kishiwada.pdf 産経新聞号外(2017年12月21日)]</ref><ref>[https://www.sankei.com/article/20171226-VQZSVVATFVP3RN4LYQBPFMD4KU/ 産経WEST(2017年12月26日)]</ref>
|-
|style="text-align:right;"| ||rowspan=1|職務代理者<ref>[https://www.city.kishiwada.osaka.jp/site/sicho-heya/ 岸和田市ホームページ(2017年12月27日)]{{リンク切れ|date=2018年10月}}</ref>
||2017年12月27日||2018年2月4日||
|-
|style="text-align:right;"|31||rowspan=1|[[永野耕平]]<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/election/local/20180204-OYT1T50149.html 読売新聞(2018年2月4日)]{{リンク切れ|date=2018年10月}}</ref><ref>[https://mainichi.jp/senkyo/articles/20180205/k00/00m/010/083000c 毎日新聞(2018年2月4日)2018年10月11日閲覧]</ref>
||2018年2月4日||||
|-
|}
※歴代市長<ref>[https://www.city.kishiwada.osaka.jp/site/sicho-heya/rekidaisityou2.html 岸和田市ホームページ]</ref>
== 行政 ==
=== 市長 ===
* [[永野耕平]](2期目)
* 任期:2022年2月4日 - 2026年2月3日
== 議会 ==
=== 市議会 ===
{{main|岸和田市議会}}
== 友好交流都市、姉妹都市 ==
=== 日本国内 ===
* [[神奈川県]][[小田原市]]([[1968年]](昭和43年)[[6月26日]]に交流都市締結)
=== 海外 ===
* {{Flagicon|CHN}} [[中華人民共和国|中国]]
** [[汕頭市]]([[1990年]](平成2年)[[6月2日]]に友好都市締結)
** [[上海市]][[楊浦区]]([[2002年]](平成14年)[[10月31日]]に友好交流都市締結)
* {{Flagicon|USA}} [[アメリカ合衆国]]
** [[サウスサンフランシスコ (カリフォルニア州)|サウスサンフランシスコ市]]([[1992年]](平成4年)[[10月30日]]に姉妹都市締結)
* {{Flagicon|KOR}} [[大韓民国|韓国]]
** [[ソウル特別市]][[永登浦区]]([[2002年]](平成14年)[[10月31日]]に姉妹都市締結)
== 公共施設 ==
=== 国関連 ===
[[ファイル:Zeimusho-Kishiwada001.JPG|right|thumb|200px|大阪国税局 岸和田税務署<br />岸和田市土生町]]
===法務省===
;[[裁判所]]
*[[大阪地方裁判所]]
**[[岸和田支部]]
* [[大阪家庭裁判所]]
**[[岸和田支部]]
* [[岸和田簡易裁判所]]
;[[検察庁]]
* [[大阪地方検察庁]]
**[[岸和田支部]]
*[[岸和田区検察庁]]
*[[佐野区検察庁]]
;[[法務局]]
* [[大阪法務局]]
**[[岸和田支局]]
===財務省===
;[[国税庁]]
*[[大阪国税局]]
**[[岸和田税務署]]
;[[税関]]
*[[大阪税関]]
**[[堺税関支署]]
***[[岸和田出張所]]
===国土交通省===
;[[海上保安庁]]
*[[第五管区海上保安本部]]
**[[大阪海上保安監部]]
***[[岸和田海上保安署]]
===厚生労働省===
;[[労働基準局]]
*[[大阪労働局]]
**[[岸和田労働基準監督署]]
;[[職業安定局]]
*[[大阪労働局]]
**[[職業安定部]]
***[[岸和田公共職業安定所(ハローワーク)]]
===日本郵便===
*[[日本郵便株式会社]]
**[[岸和田郵便局]]
** 岸和田市及び隣接する[[貝塚市]]を管轄する。
=== 大阪府関連 ===
[[ファイル:Kishiwada Police Station.jpg|right|thumb|200px|大阪府岸和田警察署<br />岸和田市作才町]]
* [[岸和田警察署|大阪府岸和田警察署]] - 作才町
* [[大阪府泉南府民センター]] - 野田町
** 大阪府泉南府税事務所(府民センター内)
** 大阪府[[岸和田土木事務所]](府民センター内)
** 大阪府泉州農と緑の総合事務所(府民センター内)
* 大阪府岸和田子ども家庭センター - 宮前町
* 大阪府岸和田保健所 - 野田町
=== 岸和田市関連 ===
==== 行政 ====
* 岸和田市役所 - 岸城町7-1
** 山滝支所 - 内畑町1033
** 東岸和田サービスセンター - 土生町4-3-1 リハーブ3階(東岸和田市民センター内)
** 春木サービスセンター - 春木若松町21-1(春木市民センター内)
** 八木サービスセンター - 池尻町339-2(八木市民センター内)
** 山直サービスセンター - 三田町715-1(山直市民センター内)
** 桜台サービスセンター - 下松町4-17-1(桜台市民センター内)
==== 文化・観光施設・ホール等 ====
* [[岸和田市立浪切ホール]] - 港緑町1-1
* 岸和田市立公民館・中央地区公民館 - 堺町1-1
* 岸和田市文化会館(マドカホール) - 荒木町1-17-1
* 岸和田市立図書館
** [[岸和田市立図書館|本館]] - 岸城町1-18
** 旭図書館 - 土生町4-3-1 リハーブ3階(東岸和田市民センター内)
** 春木図書館 - 春木若松町21-1(春木市民センター内)
** 八木図書館 - 池尻町339-2(八木市民センター内)
** 山直図書館 - 三田町715-1(山直市民センター内)
** 桜台図書館 - 下松町4-17-1(桜台市民センター内)
* 岸和田市立福祉総合センター - 野田町1-5-5
* 岸和田市立男女共同参画センター・大宮地区公民館 - 加守町4-6-18
* [[岸和田市中央公園]] - 西之内町42-35
* [[岸和田市総合体育館]] - 西之内町45-1:[[ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ|Bリーグ]]「[[大阪エヴェッサ]]」が年間数試合の主催試合を行なっている。
* 岸和田市立中央体育館 - 作才町1-7-15
* 岸和田だんじり会館 - 本町11-23
* [[岸和田城]] - 岸城町9-1
* [[きしわだ自然資料館]] - 堺町6-5:キシワダワニの化石を展示している。また、[[チリメンモンスター]]を企画・実施している。
* [[五風荘]] - 岸城町18-1
* まちづくりの館 - 本町8-8
* 蜻蛉池公園 - 三ヶ山町大池尻701
* [[牛滝温泉]] 四季まつり - 大沢町1158
<gallery>
Kishiwada-Namikiri001.JPG|岸和田市立浪切ホール<br />岸和田市港緑町1-1
Kishiwada-Koumin001.JPG|岸和田市立公民館・中央地区公民館<br />岸和田市堺町1-1
Kishiwada-Library001.JPG|[[岸和田市立図書館]] 本館<br />岸和田市岸城町1-18
</gallery>
[[ファイル:Kishiwada-Hosp001.JPG|right|thumb|200px|市立岸和田市民病院<br />岸和田市額原町1001]]
==== 防災 ====
* [[岸和田市消防本部|岸和田市消防署]] - 上松町3-7-21
==== 医療 ====
* [[市立岸和田市民病院]] - 額原町1001
* 岸和田市立保健センター - 別所町3-12-1
* 泉州北部小児初期救急広域センター - 荒木町1-1-51:旧・岸和田市立小児科休日診療所。
== 教育 ==
=== 大学サテライトキャンパス ===
* [[和歌山大学]][http://www.wakayama-u.ac.jp/kii-plus/kishiwada/ 岸和田サテライト]([[岸和田市立浪切ホール]]内)
=== 特別支援学校 ===
* [[大阪府立岸和田支援学校]]
=== 高等学校 ===
* [[大阪府立岸和田高等学校]]
* [[大阪府立和泉高等学校]]
* [[大阪府立久米田高等学校]]
* [[岸和田市立産業高等学校]](全日制・定時制)
* [[近畿大学泉州高等学校]]([[2009年]](平成21年)4月、飛翔館高等学校より校名変更)
=== 高等専修学校 ===
* [[大阪技能専門学校]]
=== 中学校 ===
<div style="float:left; width:50%">
* [[岸和田市立岸城中学校]]
* 岸和田市立岸城中学校(夜間学級)
* [[岸和田市立光陽中学校]]
* [[岸和田市立野村中学校]]
* [[岸和田市立土生中学校]]
* [[岸和田市立葛城中学校]]
</div><div style="float:left; width:50%">
* [[岸和田市立春木中学校]]
* [[岸和田市立北中学校]]
* [[岸和田市立久米田中学校]]
* [[岸和田市立山直中学校]]
* [[岸和田市立桜台中学校]]
* [[岸和田市立山滝中学校]]
</div>
{{clear}}
=== 小学校 ===
<div style="float:left; width:50%">
* [[岸和田市立中央小学校]]
* [[岸和田市立浜小学校]]
* [[岸和田市立城内小学校]]
* [[岸和田市立朝陽小学校]]
* [[岸和田市立東光小学校]]
* [[岸和田市立旭小学校]]
* [[岸和田市立太田小学校]]
* [[岸和田市立天神山小学校]]
* [[岸和田市立修斉小学校]]
* [[岸和田市立東葛城小学校]]
* [[岸和田市立春木小学校]]
* [[岸和田市立大芝小学校]]
</div><div style="float:left; width:50%">
* [[岸和田市立城北小学校]]
* [[岸和田市立新条小学校]]
* [[岸和田市立八木北小学校]]
* [[岸和田市立八木小学校]]
* [[岸和田市立八木南小学校]]
* [[岸和田市立山直北小学校]]
* [[岸和田市立城東小学校]]
* [[岸和田市立山直南小学校]]
* [[岸和田市立大宮小学校]]
* [[岸和田市立常盤小学校]]
* [[岸和田市立光明小学校]]
* [[岸和田市立山滝小学校]]
</div>
{{clear}}
=== 学校教育以外の施設 ===
* [[近畿職業能力開発大学校]]([[職業能力開発促進法]]に基づく[[職業能力開発大学校]])
== 経済 ==
=== 産業 ===
[[ファイル:Industrial-Town-of-Kishiwada001.JPG|right|thumb|大阪鉄工金属団地<br />岸和田市臨海町]]
江戸時代より当市域一帯では[[綿花]]の栽培が盛んで、綿布・綿糸の紡績も行われていた。近代以降も産業の中心は[[繊維]]産業だったが、海外製品に押される形で多くの工場が姿を消した。
[[1966年]](昭和41年)、市では独自に沿岸部を埋立てて現在の大阪鉄工金属団地(臨海町)を建設し、企業誘致に努めた。さらに同年、北隣の忠岡町に跨って大阪木材コンビナート(新港町・木材町)が建設され、産業構造の転換が図られた。[[1968年]](昭和43年)の[[阪南港]]統合後も阪南1区(地蔵浜町)の埋立造成と続き、当市沿岸部はほぼ全て埋め立てられた。
これらのほかに[[ガラス]]・[[レンズ]]産業が有名であり、特に乱視用のガラスレンズ生産が盛んであった。ピーク時の1980年頃には、市内に大小あわせて70件ほどのレンズ工場が操業していた<ref>{{Cite book|和書|author=岸和田市中小企業振興会|title=地場産業の振興にむけて〜岸和田市におけるレンズ工業調査報告書|year=1983|publisher=岸和田市中小企業振興会|isbn=|page=}}</ref>。また、[[顕微鏡]]用[[カバーガラス|スライドガラス、カバーガラス]]の生産も盛んであり、カバーガラスは一時期日本国内シェアの90%以上を独占していた。
浜地区にある[[岸和田漁港]]では、シラス漁が盛んに行われており、全国有数のシラスの産地として知られている。<ref>{{Cite web|和書|title=【都道府県】シラスの産地・漁獲量ランキング |url=https://urahyoji.com/catch-shirasu-d/ |website=urahyoji.com |access-date=2022-07-29}}</ref>
そのほか、毎年春先には[[イカナゴ]]漁が解禁されており、大阪湾に春の訪れを告げている。
農業が盛んな山手地区では稲作のほか、[[タマネギ]]、[[水なす]]、[[シュンギク|春菊]]、[[タケノコ]]、[[ウンシュウミカン|みかん]]などの栽培が盛んで、包近町は府下最大の桃の産地である。また、春菊は府内において堺市に次いで2番目の生産量であり全国の自治体では7番目の生産量を誇る。<ref>{{Cite web|和書|title=[春菊] 市町村 産地 {{!}} 生産量 収穫 作付面積 {{!}} 全国/都道府県内順位 ランキング {{!}} ジャパンクロップス |url=https://japancrops.com/crops/crowndaisy/municipalities/ |website=japancrops.com |access-date=2022-07-29 |language=ja |last=アプレス合同会社}}</ref>なお、近年まではタマネギの大産地としても有名であり、畑のあちこちに立つタマネギ小屋が象徴的な[[ランドスケープ]]であったが、様々な事情で廃業した[[農家]]もあり、また、住宅地開発が急速に進んだため、最近では見かけることはまれである。
岸和田市内のこうした厳しい[[経済]]・[[雇用]]情勢もあってか、近年、仕事を求めて隣接する[[貝塚市]]の二色の浜産業団地や[[和泉市]]の[[テクノステージ和泉]]を訪れる市民も多く見られる。市では産業を再び活性化させるため、埋立造成の進む阪南2区(岸之浦町。愛称:ちきりアイランド)や開発が進む丘陵地区(岸の丘町。愛称:ゆめみヶ丘岸和田)などへの[[企業]]誘致を積極的に進めているという。
'''経営サポート'''
[https://www.kishi-biz.jp/ 岸和田ビジネスサポートセンター]
=== 岸和田市で事業を営む主な企業 ===
==== 岸和田市に本社を置く主な企業 ====
* 株式会社[[テレビ岸和田]] - 〒596-0826 大阪府岸和田市作才町一丁目5番3号
*: 岸和田市と[[泉北郡]][[忠岡町]]をサービスエリアとする[[ケーブルテレビ]]局。[[1987年]](昭和62年)[[7月3日]]の設立以来、「[[岸和田だんじり祭]]」の模様を[[生放送]]するなど、地域に根ざした[[テレビ番組|番組]]を制作している。
* [[いずみの農業協同組合]] - 本店:岸和田市別所町
* 岸和田製鋼株式会社 - 岸和田市臨海町
* 株式会社北海鉄工所 - 岸和田市臨海町
*: [[ボイラー]]などの[[圧力容器]]の蓋([[鏡板 (圧力容器)|鏡板]])では、国内シェアの60%以上を占める。[[神戸市]][[長田区]]の[[KOBE鉄人PROJECT]]のシンボルである[[鉄人28号]]のモニュメントは、同社の子会社である[[北海製作所]]が担当した。
* [[松浪硝子工業]]株式会社 - 岸和田市八阪町
* [[リバー産業]]株式会社 - 岸和田市沼町
* [[フジ住宅]]株式会社 - 岸和田市土生町
* JFE継手株式会社 - 岸和田市田治米町
* [[三井ホーム|三井ホームコンポーネント関西]]株式会社 - 岸和田市木材町
* [[岸和田観光バス]] - 岸和田市磯上町
* 株式会社米麦館タマヤ -岸和田市下松町
* [[マルフク (貸金業)|マルフク]] - 岸和田市荒木町
* 岩出建設株式会社 本社 - 岸和田市並松町
* 昭和機械商事株式会社 管理本部 - 岸和田市臨海町
* 株式会社マルセイ 本社 - 岸和田市西之内町
==== 岸和田市に拠点・事業所を置く主な企業 ====
* [[別寅かまぼこ]]株式会社 岸和田工場 - 岸和田市大北町
* 株式会社[[北海]]近畿営業所 -岸和田市臨海町
* [[関西電力]]株式会社岸和田営業所 - 岸和田市藤井町
* [[池田泉州銀行]]泉州営業部({{Color|#f00|■}}旧[[泉州銀行]]本店営業部) - 岸和田市宮本町
*: [[池田泉州ホールディングス]]に属する地方銀行。
* 株式会社[[伊藤園]] 岸和田支店 - 岸和田市沼町
* [[日本たばこ産業]]株式会社 岸和田支店 - 岸和田市土生町
* [[ブリヂストン|ブリヂストンタイヤジャパン]]株式会社 岸和田営業所 - 岸和田市中井町
* [[出光興産]]株式会社 岸和田油槽所 - 岸和田市臨海町
* 株式会社[[大阪チタニウムテクノロジーズ]] 岸和田製造所 - 岸和田市岸之浦町
* 株式会社Dear Laura 大阪ベイラボ - 岸和田市岸之浦町
==== かつて岸和田市に本社を置いていた企業 ====
* [[南海辰村建設]] -西田工務店時代に本社があった。
* [[タケモトピアノ]] -竹本商店時代に本社があり、[[2002年]](平成14年)から[[2009年]](平成21年)まで倉庫も保有していた。現在も創業者は岸和田市が住まい。
== 交通 ==
=== 鉄道 ===
中心となる駅 - [[岸和田駅]]・[[東岸和田駅]]
* [[西日本旅客鉄道|JR西日本]]
** [[阪和線]]:[[久米田駅]] - [[下松駅 (大阪府)|下松駅]] - 東岸和田駅
* [[南海電気鉄道]]
** [[南海本線]]:[[春木駅]] - [[和泉大宮駅]] - 岸和田駅 - [[蛸地蔵駅]]
※東ケ丘町など一部の地域では、大阪方面への通勤・通学の足として、主に、隣接する[[和泉市]]いぶき野にある[[泉北高速鉄道]]「[[和泉中央駅]]」を利用している。
<gallery>
Kishiwada-Sta001.JPG|[[南海本線]] [[岸和田駅]]
JR Higashi-Kishiwada Station.jpg|[[西日本旅客鉄道|JR]][[阪和線]] [[東岸和田駅]]
NANKAI HARUKI STN 2019.jpg|南海本線 [[春木駅]]
</gallery>
{{右|
[[ファイル:Nankai-Bus012.JPG|right|thumb|[[南海ウイングバス]]<br />写真のバスは、岸和田駅と隣接する[[和泉市]]にある[[和泉中央駅]]([[泉北高速鉄道線|泉北高速鉄道]])を結ぶバスである。]]
[[ファイル:W-NEXCO-Kishiwada-Izumi-IC-of-Izumi-City001.JPG|right|thumb|[[阪和自動車道]]<br />[[岸和田和泉インターチェンジ]]]]
}}
=== バス ===
==== 路線バス ====
* [[南海ウイングバス]]
==== 地域巡回バス ====
* [[ローズバス]]
==== 高速バス ====
* [[平成エンタープライズ]](VIPライナー)
* [[岸和田観光バス]](SPA LINE北陸、SPA LINE鳴門・四国)
==== 中心となるバスターミナル ====
* [[岸和田駅]]
=== 道路 ===
==== 高速道路 ====
* [[阪和自動車道]]:[[岸和田和泉インターチェンジ]]
※ 注意:「[[岸和田和泉インターチェンジ]]」の所在地は、[[和泉市]]唐国町である。
このほか、[[大阪南部高速道路]]の建設が構想されている。
==== 都市高速 ====
* [[阪神高速4号湾岸線]]:[[岸和田北出入口]] - [[岸和田南出入口]]
==== SA・PA ====
* [[阪和自動車道]] :[[岸和田SA]](上下線)
==== 一般国道 ====
* [[国道26号]]([[第二阪和国道]])
** [[大阪市|大阪]]・[[神戸市|神戸]]方面 ←→ [[阪南市|阪南]]・[[和歌山市|和歌山]]方面
* [[国道170号]]([[大阪外環状線]])
** [[藤井寺市|藤井寺]]・[[八尾市|八尾]]・[[高槻市|高槻]]方面 ←→ [[熊取町|熊取]]・[[泉佐野市|泉佐野]]方面
==== 一般府道 ====
* [[大阪府道29号大阪臨海線]]
* [[大阪府道30号大阪和泉泉南線]]
* [[大阪府道39号岸和田港塔原線]]
* [[大阪府道40号岸和田牛滝山貝塚線]]
* [[大阪府道204号堺阪南線]]
* [[大阪府道230号春木岸和田線]]
==== 岸和田市道 ====
* [[牛滝林道線]]
* [[本谷林道線]]
=== 港湾 ===
* [[阪南港]]
** [[1968年]](昭和43年)に忠岡港・岸和田港・貝塚港が統合されて阪南港となった。当市沿岸部には阪南港の木材港地区(一部忠岡町)・大阪鉄工団地地区・岸和田旧港地区・地蔵浜地区(阪南1区。一部貝塚市)・ちきりアイランド(阪南2区)が展開する。
* [[岸和田漁港]]
** [[春木川 (大阪府)|春木川]]河口左岸に位置する。なお、阪南港地蔵浜地区の北東部も漁業基地として利用されている。
== 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事 ==
=== 岸和田だんじり祭 ===
[[ファイル:Kishiwada danjiri.jpg|thumb|[[岸和田だんじり祭]]<br />[[1703年]]([[元禄]]16年)から毎年行われている伝統行事。]]
1703年(元禄16年)、時の岸和田藩主岡部長泰が、京都伏見稲荷大社を岸和田城内三の丸に勧請し、五穀豊穣を祈願し、行った稲荷祭がその始まりと伝えられ、約300年の歴史と伝統を誇る。曳き手が走り、速度に乗っただんじり([[地車]])を方向転換させる「やりまわし」を見所として、多くの観光客を集める。幾つかの神社の祭りの総称で、基本的には地元の神社でその年の五穀豊穣を祝う祭り。全国的にも知名度が高く、日本を代表する祭りの一つである。毎年二日間で約60万人もの観光客が訪れる。岸和田市民(特に岸和田旧市地区)はだんじりのために生きている、といわれるほど祭り好きである。
なお、祭典の模様については、市内の[[ケーブルテレビ]]局であるテレビ岸和田(上記参照)が制作する[[テレビ番組|番組]]として、毎年放映されている。
{{see|岸和田だんじり祭}}
=== その他の名所・旧跡・観光スポット ===
[[ファイル:Gofuso Kishiwada Osaka pref Japan17bs5.jpg|thumb|[[五風荘]]庭園]]
* [[岸和田城]] – 大阪府史跡
* [[五風荘]]庭園
* [[岸和田市立自泉会館]] – [[渡辺節]]が設計
* [[摩湯山古墳]]
* [[牛滝温泉]]
* [[岸和田競輪場]]
* [[蜻蛉池公園]]
* [[岸和田市中央公園]] – もと[[地方競馬]][[春木競馬場]]跡地
* [[和泉葛城山]] – 山頂付近は、[[和歌山県]][[紀の川市]]に属する
* [[熊野街道]] – [[熊野古道]][[紀伊路]]) - [[九十九王子 (岸和田市・貝塚市)|九十九王子の旧蹟]]
* [[春陽館 (岸和田市)]]
* [[こなから坂]]
==== 神社 ====
* [[矢代寸神社]] – 和泉国岸和田藩一の宮
* [[三の丸神社]] – [[岸和田だんじり祭]]発祥の神社、[[今川義元]]の兜を所蔵
* [[積川神社]] – 本殿は1914年([[大正]]3年)に[[特別保護建造物]](国宝)に指定
* [[九十九王子 (岸和田市・貝塚市)#池田王子|池田王子]](積川王子)(廃絶)
* [[夜疑神社]]
* [[意賀美神社 (岸和田市)]]
* [[真上八大龍王神社]]([[真上町]]) – 旧[[弥栄神社 (岸和田市)|弥栄神社]]の跡地に土取りをしていた人が埋もれてなくなる事故が起きたことから、戦後[[八大龍王]]と[[産土神]]をお祀りされている。
* [[土生神社]]<ref>[http://www.habujinja.net/ 土生神社]、[http://blogs.yahoo.co.jp/kkpjt566 土生神社]</ref>
* [[弥栄神社 (岸和田市)]]
==== 寺院 ====
* [[大威徳寺]](牛滝山) – 多宝塔は国の[[重要文化財]]
* [[本徳寺 (岸和田市)|本徳寺]] – [[明智光秀]]の子として伝えられる[[南国梵桂|南国和尚]]が開基、教科書等に掲載されている[[明智光秀]]の肖像画を所蔵
* [[浄行寺 (岸和田市)|碁石山浄行寺]]<ref>[http://kitamido.or.jp/kyomusho/jiinsearch/database.cgi?cmd=dp&num=2788&dp= 浄土真宗本願寺派・大阪教区寺院検索] 2018年4月4日閲覧</ref> – [[白河天皇|白河上皇]]が碁を打ったとされる石がある、山号にもなった「碁石山」は古墳でもある
* [[久米田寺]] – [[行基]]が開山、周囲には数箇所の古墳がある
** [[久米田池]] – [[行基]]が掘削指導、周辺地域の多くの旧村が久米田池の水を利用していた
* [[天性寺 (岸和田市)|天性寺]]([[蛸地蔵]]) – 蛸の大群と法師が[[根来衆]]の襲来から岸和田城を守った伝承がある。地蔵堂としては日本一の規模を誇る
* [[泉光寺]] – 岸和田藩主岡部家菩提所
* [[行遇堂]](神須屋町) – 旧[[阿間河荘]]の神事が行われる時、下字(極楽寺・畑・流木)と上字(八田・神須屋・真上)が、このお堂で行き合って矢代寸神社にお参りしていた
* [[上品寺]]
====ショッピングモール====
* [[岸和田カンカンベイサイドモール]]
* [[ラパーク岸和田]]
* イオン東岸和田
==== 催事 ====
* [[春木だんじり祭]]
* [[岸和田十月祭礼]]
* 岸和田みなとまつり(花火大会)
* 市民フェスティバル
* [[お城まつり]]
<gallery>
Kishiwada Castle Kishiwada Osaka pref Japan04s3.jpg|[[岸和田城]]<br />岸和田市岸城町9-1
Jisen-kaikan Kishiwada Osaka pref Japan05s3.jpg|[[岸和田市立自泉会館]]
takojizou.jpg|[[天性寺 (岸和田市)|天性寺]]([[蛸地蔵]])<br />岸和田市南町43-12
Kurumeji3.jpg|[[久米田寺]](多宝塔)<br />岸和田市池尻町934
</gallery>
== 岸和田市出身の有名人 ==
* [[akane (振付師)|akane]]([[振付師]])
* [[アキ (お笑い芸人)|アキ]]([[お笑いタレント|お笑い芸人]]、[[水玉れっぷう隊]])
* [[朝日松清治郎]](元[[力士]])
* [[阿部慶二]](元[[プロ野球選手]]、[[広島東洋カープ]])
* [[稲船敬二]]([[ゲームクリエイター]])
* [[井上悟 (陸上選手)|井上悟]]([[陸上競技]]選手)
* [[岩出和也]]([[演歌歌手]])
* [[植松光夫]]([[東京大学]]名誉教授、[[埼玉県環境科学国際センター]]総長)
* MY([[MC (ヒップホップ)|ラッパー]]、[[YouTuber|Youtuber]])
* [[お〜い!久馬]]([[お笑いタレント|お笑い芸人]]、[[ザ・プラン9]])
* [[逢香]]([[書家]])
* [[大江裕]]([[演歌歌手]])
* [[大野愛果]]([[作曲家]])
* [[岡根直哉]]([[プロサッカー選手]]、[[FC岐阜]])
* [[岡部長職]]([[岸和田藩]]最後の藩主、[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員、[[法務大臣|司法大臣]])
* [[がーどまん]]([[MC (ヒップホップ)|ラッパー]]、[[YouTuber|Youtuber]])
* [[桂茶がま]]([[落語家]])
* [[川崎亜沙美]]([[俳優|女優]]、元[[プロレスラー]])
* [[川崎修平]]([[プロサッカー選手]]、[[ヴィッセル神戸]])
* [[河内洋]]([[日本中央競馬会|JRA]]所属調教師・元騎手)※出生は[[大阪市]]
* [[河村元美]]([[フィールドホッケー]]選手、[[2016年リオデジャネイロオリンピック|リオデジャネイロオリンピック]]女子ホッケー[[日本代表]]選手)
* [[岸田里佳]](女優)
* [[清原和博]](元[[日本プロ野球|プロ野球]]選手)
* [[霧矢大夢]](元[[宝塚歌劇団]][[月組 (宝塚歌劇)|月組]]トップスター)
* [[江弘毅]](編集者、[[京阪神エルマガジン社]]『Meets Regional』前編集長)
* [[小篠綾子]]([[ファッションデザイナー]]。コシノ三姉妹の母親)
* コシノ三姉妹(いずれもファッションデザイナー)
** [[コシノヒロコ]]、[[コシノジュンコ]]、[[コシノミチコ]]
*[[五代真紀子]]([[実業家]]・[[興行#事業分類|芸能プロモーター]]・[[プロデューサー]])
* [[小村美貴]](演歌歌手)
* [[猿橋望]](実業家、株式会社[[NOVA]]の創業社長)
* [[塩田千春]]([[現代美術]]作家)
* [[式守伊之助 (40代)|40代 式守伊之助]](元[[立行司]])
* [[信貴芳則]]([[政治家]])
* [[〆野潤子]]([[声優]])
* [[下出民義]](貴族院議員、[[大同特殊鋼]]初代社長)
* [[辛坊治郎]]([[ニュースキャスター]])
* [[杉原望来]](プロ野球選手、[[広島東洋カープ]])
* [[高橋悦史]]([[俳優]])
* 武井紗良([[アイドル]]歌手、[[NMB48]])
* [[高宮和也]](プロ野球選手、[[阪神タイガース]])
* [[田中知]]([[工学者]]、[[東京大学]]教授、元[[日本原子力学会]]会長)
* タンク(お笑い芸人、[[シンクタンク (お笑い)|シンクタンク]])
* [[辻イト子]](女優、漫才師、講談師、[[辻イト子・まがる]])
* [[達淳一]](俳優、[[気象予報士]])
* [[殿本恭平]]([[プロボクサー]])
*[[775 (レゲエ)|775]] (レゲエ歌手)
* [[永井みゆき]](演歌歌手)
* [[中田はじめ]](お笑い芸人、[[吉本新喜劇]])
* [[永野耕平]](岸和田市長)
* [[中場利一]](作家、『[[岸和田少年愚連隊]]』原作者)
* [[西角友宏]](ゲーム開発者、[[スペースインベーダー]]の生みの親)
* [[根来新之助]](プロ[[バスケットボール]]選手、[[兵庫ストークス]])
* [[初瀬亮]](プロサッカー選手、[[ヴィッセル神戸]])
* [[濱田耕作]]([[考古学]][[博士]]、号濱田青陵、旧[[京都大学|京都帝大]]に日本初の[[考古学]]講座開講)
* [[原田海]](フリークライマー)
* [[林英世]] ([[俳優#性別での分類|女優]])
* [[ビスケットブラザーズ|原田泰雅]](お笑い芸人、「[[ビスケットブラザーズ]]」)
* [[原良也]](元[[大和証券グループ本社]]取締役会長)
* [[福田聡志]](元プロ野球選手、[[読売ジャイアンツ]])
* [[藤本安之]](プロサッカー選手)
* [[古田敬郷]](TBSアナウンサー)
* [[前田けゑ]](資産家、カスタネット芸人、映画プロデューサー、俳優、投資家)
* [[マグニチュード岸和田]]([[プロレスラー]])
* [[松田愛里]](アナウンサー、[[西日本放送|RNC西日本放送]])
* [[松原みき]](歌手、作曲家)
* [[緑川聖司]](ミステリー作家)
* [[南勝久]]([[漫画家]])
* [[南芳一]]([[棋士 (将棋)|将棋棋士]])
* [[宮内和也]](古生態学研究家)
* [[宮本岳志]](政治家、[[日本共産党]][[衆議院]]議員)
* [[あいはら雅一]](お笑い芸人)
* [[守屋龍一]]([[アーチェリー]]選手、[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]日本代表選手)
* [[薮田安彦]](元プロ野球選手、[[千葉ロッテマリーンズ]])
* [[山中利夫]]([[地方競馬]][[騎手]])
* [[山本草太]]([[フィギュアスケーター]])
* [[湯田葉月]](フィールドホッケー選手、リオデジャネイロオリンピック女子ホッケー日本代表選手)
* [[渡瀬悠宇]](漫画家)
== 岸和田市に所縁のある人物 ==
* [[黒田朔]]([[マキキ聖城教会]]牧師)
* [[金井克子]]([[歌手]]・元[[バレエダンサー]])
== 岸和田市を舞台とした作品 ==
* [[水曜ドラマ (NHK)|水曜ドラマの花束]] ただいま(2000年、[[日本放送協会|NHK]])
* [[連続テレビ小説]] [[カーネーション (テレビドラマ)|カーネーション]](2011年 - 2012年、[[NHK大阪放送局]]。上記「コシノ三姉妹」の母・[[小篠綾子]]をモデルにした作品)
* [[岸和田少年愚連隊]](小説・映画)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
<!-- 関連項目:本文記事を理解する上での補足として役立つ、関連性のある項目へのウィキ間リンク(姉妹プロジェクトリンク、言語間リンク)、ウィキリンク(ウィキペディア内部リンク)。可能なら本文内に埋め込んで下さい。 -->
{{Sisterlinks|wikt=no|b=no|q=no|s=|commons=岸和田市|commonscat=Kishiwada, Osaka|n=|v=no|voy=no|species=no|d=Q740456}}
* [[大阪府]]
* [[和泉国]]([[和泉|泉州地域]])
** [[泉南]]
* [[岸和田だんじり祭]]
* [[岸和田城]]
* [[岸和田藩]]
* [[岡部氏 (藤原南家)]]
* [[岡部長泰]]
* [[住民投票条例]]
== 外部リンク ==
; 行政
* {{Official website}}
; 観光
* [https://kishibura.jp/ 岸和田市観光振興協会]
* {{ウィキトラベル インライン|岸和田市|岸和田市}}
; その他
* {{Osmrelation|359195}}
{{大阪府の自治体}}
{{日本の特例市}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:きしわたし}}
[[Category:城下町]]
[[Category:南郡]]<!--岸和田町のカテゴリ-->
[[Category:泉南郡]]<!--岸和田町のカテゴリ-->
[[Category:大阪府の市町村]]
[[Category:岸和田市|*]]
[[Category:特例市]]
[[Category:1912年設置の日本の市町村]]
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"Template:PDFlink"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E5%92%8C%E7%94%B0%E5%B8%82 |
9,298 | 大アイアース | 大アイアース(古希: Αἴας, Aiās, ラテン語: Ajax)は、ギリシア神話に登場する英雄である。長母音を省略してアイアスとも表記する。
アイアースはサラミース島の王テラモーンの子で、トロイア戦争にはサラミース人を率いて12隻の船と共に参加した。オイレウスの子アイアース(小アイアース)と区別するために大アイアースと呼ばれる。また、『イーリアス』などの叙事詩では、小アイアースと組にして両アイアースなどと呼ばれる。
同じくトロイア戦争に参加したテウクロスとは異母兄弟。トロイア戦争でギリシア勢に参加した英雄では、アキレウスに次ぐ強さを誇った。テラモーンはアキレウスの父ペーレウスの兄弟であり、アイアースとアキレウスとはいとこ同士である。
アイアースは、アキレウスの戦死後、遺骸がイーリオス勢に奪われないよう、オデュッセウスなどとともに奮戦した。戦いが一段落した後、アキレウスの母テティスが、アキレウスの霊を慰めるための競技会を開催した。その際、アキレウスの鎧を賭けた争いにオデュッセウスとともに参加した。争いの判定はネストール、アガメムノーン、イードメネウスに託された。どちらに軍配を上げても、後々どちらかの怒りを買うことになるため、彼らはイーリオスの捕虜に判定を託すことにした。どのような判定が下るにしても、怨みがイーリオスに向かうので都合が良いと考えたのである。アイアースとオデュッセウスは接戦を繰り広げ、イーリオスの捕虜は、オデュッセウスに軍配を上げた。
アイアースは逆上し、怒りのあまりオデュッセウスなどの味方の諸将を殺そうとした。しかし、アテーナーはオデュッセウスを救うために大アイアースを狂わせ、羊を諸将と思わせるようにした。アイアースは羊を殺戮したが、ふと自分が殺したのが羊であったことに気がついた。神にあざむかれたアイアースは、神に嫌われギリシアの諸将も自分を評価しないことを嘆き、彼らのために戦うことの虚しさから自刃して果てた。この顛末はスミュルナのクイントゥスの『トロイア戦記』やソポクレースの悲劇『アイアース』に描かれている。なお、ソポクレースはアテーナーがアイアースを狂わせた原因を、戦場でアテーナーの庇護をアイアースが拒んだ高慢への罰であるとしている。 | [
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] | 大アイアースは、ギリシア神話に登場する英雄である。長母音を省略してアイアスとも表記する。 アイアースはサラミース島の王テラモーンの子で、トロイア戦争にはサラミース人を率いて12隻の船と共に参加した。オイレウスの子アイアース(小アイアース)と区別するために大アイアースと呼ばれる。また、『イーリアス』などの叙事詩では、小アイアースと組にして両アイアースなどと呼ばれる。 同じくトロイア戦争に参加したテウクロスとは異母兄弟。トロイア戦争でギリシア勢に参加した英雄では、アキレウスに次ぐ強さを誇った。テラモーンはアキレウスの父ペーレウスの兄弟であり、アイアースとアキレウスとはいとこ同士である。 | [[File:バチカン美術館 像.JPG|thumb|自害を思案する大アイアースの像。ベルヴェデーレのトルソとして有名。([[バチカン美術館]]蔵)]]
{{Greek mythology}}
'''大アイアース'''({{lang-grc-short|'''Αἴας''', ''Aiās''}}, {{lang-la|Ajax}})は、[[ギリシア神話]]に登場する英雄である。[[長母音]]を省略して'''アイアス'''とも表記する。
アイアースは[[サラミース島]]の王[[テラモーン]]の子で、[[トロイア戦争]]にはサラミース人を率いて12隻の船と共に参加した。オイレウスの子アイアース([[小アイアース]])と区別するために大アイアースと呼ばれる。また、『[[イーリアス]]』などの[[叙事詩]]では、小アイアースと組にして両アイアースなどと呼ばれる。
同じくトロイア戦争に参加した[[テウクロス]]とは異母兄弟。トロイア戦争でギリシア勢に参加した英雄では、[[アキレウス]]に次ぐ強さを誇った。テラモーンはアキレウスの父[[ペーレウス]]の兄弟であり、アイアースとアキレウスとはいとこ同士である。
== 神話 ==
アイアースは、アキレウスの戦死後、遺骸が[[イーリオス]]勢に奪われないよう、[[オデュッセウス]]などとともに奮戦した。戦いが一段落した後、アキレウスの母[[テティス]]が、アキレウスの霊を慰めるための競技会を開催した。その際、アキレウスの鎧を賭けた争いにオデュッセウスとともに参加した。争いの判定は[[ネストール]]、[[アガメムノーン]]、[[イードメネウス]]に託された。どちらに軍配を上げても、後々どちらかの怒りを買うことになるため、彼らはイーリオスの捕虜に判定を託すことにした。どのような判定が下るにしても、怨みがイーリオスに向かうので都合が良いと考えたのである。アイアースとオデュッセウスは接戦を繰り広げ、イーリオスの捕虜は、オデュッセウスに軍配を上げた。
[[ファイル:Ajax suicide 3.jpg|left|thumb|200px|大アイアースの自害]]
アイアースは逆上し、怒りのあまりオデュッセウスなどの味方の諸将を殺そうとした。しかし、[[アテーナー]]はオデュッセウスを救うために大アイアースを狂わせ、羊を諸将と思わせるようにした。アイアースは羊を殺戮したが、ふと自分が殺したのが羊であったことに気がついた。神にあざむかれたアイアースは、神に嫌われギリシアの諸将も自分を評価しないことを嘆き、彼らのために戦うことの虚しさから自刃して果てた。この顛末は[[スミュルナのクイントゥス]]の『トロイア戦記』や[[ソポクレース]]の悲劇『[[アイアース (ソポクレス)|アイアース]]』に描かれている。なお、ソポクレースはアテーナーがアイアースを狂わせた原因を、戦場でアテーナーの庇護をアイアースが拒んだ高慢への罰であるとしている。
== 系図 ==
{{アキレウスの系図}}
== 参考文献 ==
* 木曽明子訳『アイアース』:ギリシア悲劇全集『第4巻 ソポクレース2』所収 岩波書店(2007年)ISBN 4000916041
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9,299 | ラテンアメリカ | ラテンアメリカ(西: Latinoamérica, América Latina, 葡: América Latina, 英: Latin America, 仏: Amérique latine)は、アングロアメリカに対する概念で、アメリカ大陸の北半球中緯度から南半球にかけて存在する独立国及び非独立地域を指す総称である。
ここでの「ラテン」という接頭語は「イベリア(系)の」という意味であり、これらの地を支配していた旧宗主国が、ほぼスペインとポルトガルであったことに由来している。 多くの地域がスペイン語、ポルトガル語、フランス語などのラテン系言語を公用語として用いており、社会文化もそれに沿ったものであったことから名付けられた。
図にあるようにラテンアメリカは北アメリカ大陸のメキシコをふくみ、南アメリカ大陸のガイアナ・スリナムをふくまない。また中南米と呼称される場合もあるが、これは図に合う正確な表現ではない。
ラテンアメリカの名称は1856年、ヌエバ・グラナダ共和国(現在のコロンビア)の首都ボゴタで生まれた文人ホセ・マリア・トーレス=カイセードによって初めて用いられた。
1836年、メキシコからテキサスが独立し、さらに1848年、米墨戦争によってアメリカ合衆国に敗れ、メキシコは国土の半分を失った。1856年にはニカラグアの国内政治の混乱に乗じてアメリカ人侵略者ウィリアム・ウォーカーがニカラグアの大統領となるなど、アメリカ合衆国の膨張の前に、アメリカ大陸スペイン語圏の諸国は、存続の危機にさらされていた。パリに在住していたイスパノアメリカ人たちはこうした事態に祖国がアメリカ合衆国に吸収されるという危惧を抱き始め、アングロサクソン列強の脅威に抵抗すべく運動を始めた。
当時、彼らは自分たちの国家群の呼称としてアメリカ・エスパニョーラを用いることが多かったが、文明の中心であったフランスと一体であることを示す名称としてラサ・ラティノアメリカーナ、アメリカ・ラティーナ・サホーナ・エ・インディヘナといった呼称が論説などで用いられるようになり、カイセードが1856年9月26日、旅行先のヴェネツィアで書いた詩『二つのアメリカ』においてアメリカ・ラティーナという言葉が初めて用いられた。この言葉は次第に新聞や雑誌、公文書へと浸透していき、フランス語においても1861年ごろよりラメリク・ラティーヌ(L'Amérique latine)の呼称が確認出来るようになる。英語のラテンアメリカの名称がスペイン語、フランス語のどちらから移入されたのかは定かではないが、この新しい名称の浸透はナポレオン3世によって積極的に行われ、次第にラテンアメリカという名称が世界に広がっていった。
しかし、フランス主導によるこうした帝国主義的拡大にスペインの知識人たちは大いに憤慨し、イスパノアメリカの名称を主張し続け、今日に至ってもスペインは公式の文書ではラテンアメリカの名称を拒否している。
今日、単にラテンアメリカと称した場合は「メキシコ以南の北米大陸、カリブ海地域全域、南アメリカ大陸全域の3地域とその周辺の島々」を指す(広義のラテンアメリカ)。
1960年頃まではラテン文化の伝統を引き継ぐ20の国に限ってラテンアメリカと呼称されてきた。1962年以降、旧イギリス領から12、旧オランダ領から1の新しい独立国が興り、国際連合などでラテンアメリカ地域に含んだ形で言及されるようになり、ラテンアメリカの定義は曖昧さを孕むことになった。近年ではこうした新興独立国の立場を考慮し、カリブ海地域と呼称し、「ラテンアメリカとカリブ海」などと表現する傾向が強まっている。この場合のラテンアメリカという呼称は「ラテン的文化を保有する国と地域」を指すことになる(狭義のラテンアメリカ)。
ラテンアメリカの定義においては「広義のラテンアメリカ」と「狭義のラテンアメリカ」とを、文脈で判断し理解することが必要となっている。
日本においては「広義のラテンアメリカ」を総称して中南米と表すことが一般化している。この言葉はラテン性を巡る諸問題を回避できる点で便利な言葉ではあるが、忠実に外国語に訳した場合に「セントラル・アンド・サウスアメリカ」となってしまい、メキシコやカリブ海地域が含まれないという別の問題を持っていると中川文雄は指摘している。稀に喇(ラ)と表記されることもある。
カナダのケベック州はラテン系言語であるフランス語が第一言語であるが、他のラテンアメリカ諸国と地理的・経済的に大きく離れていることもあって、同地をラテンアメリカに含めることは少ない。
ラテンアメリカは33の独立国およびいくつかの非独立地域で構成される。本一覧の国名表記は『ラテン・アメリカを知る事典』の各国便覧に倣う。
ラテンアメリカ史においての一般的な時代区分は先コロンブス時代、植民地時代、独立国家の時代の3つに大別される。
1492年にイタリアの探検家クリストファー・コロンブスがカリブ海地域に到達した時点を起点として、それ以前を総称したのが先コロンブス時代で、数千年に渡る長い期間を通じて北アメリカ大陸のメソアメリカ地域と、南アメリカ大陸のアンデス地域を中心として様々な文化が開花していた。これらはまとめて古代文明と称されるが、3世紀から9世紀に至る最も華麗な文化が開花した時代を古典期としてその前後を先古典期、後古典期と、あるいはそれ以上に細分化することもある。
1492年以降の植民地時代は、スペインとポルトガルの両国による絶対王権によって統治された約300年間を指す。ラテンアメリカ地域の領有権の正当性は教皇によって与えられたものであったが、これを無視したオランダ、イギリス、フランス、デンマーク、スウェーデンなどのヨーロッパ諸国はカリブ海域の多くの島々や大陸の一部を占領・支配した。
19世紀初頭から現在に至る期間は独立国家の時代とされる。ナポレオン戦争でナポレオンが敗北して以降の1814年9月1日から1815年6月9日まで開催されたウィーン会議では1792年より以前の状態に戻すことと勢力均衡が原則とされた。ウィーン会議以降の国際秩序をウィーン体制と呼び、1848年革命に崩壊するまでの時代を指す。
ナポレオン戦争に勝利したオーストリア、ロシア、プロイセンの復古勢力は革命の再発を防ぐために、1815年にキリスト教的友愛による平和を提唱する神聖同盟を締結、さらに1818年にイギリスと敗戦国フランスを加えた五国同盟を締結してウィーン体制を確立した。
スペインではナポレオン軍の敗北によりジョゼフ・ボナパルトは追放され、スペイン・ブルボン復古王政のフェルナンド7世が復位した。これに対して自由主義者リエゴが1820年にスペイン立憲革命を起こし、イタリアでもカルボナリ党がスペインを模倣してナポリ・ピエモンテで蜂起したが、革命の波及を恐れた五国同盟によって両者は鎮圧された。他方で、1810年代から1820年代を通じてラテンアメリカ諸国が相次いでスペイン帝国からの独立を果たし、スペインは中南米植民地を失っていった。
1823年12月アメリカ合衆国モンロー大統領は、独立したラテンアメリカ諸国に対して神聖同盟諸国が干渉すること、および西半球におけるヨーロッパの植民地拡大へ反対すると表明した。さらに、1824年にペルー、1825年ボリビア(アルト・ペルー)が独立した。
また、1821年にはオスマン帝国からの独立を目指してギリシャ独立戦争が始まっている。露土戦争で連合軍に敗北したオスマン帝国は1832年ギリシャ独立を認め、列強はバイエルン王子オットーをギリシャ王オソン1世とするギリシャ王国を樹立した。
1830年のフランス7月革命に対抗してロシア、オーストリア、プロイセンが1832年10月に旧秩序維持を再確認したが、革命干渉を忌避したイギリスとフランスは真摯協商を結んだことでウィーン体制は分裂し、さらに各国での1848年革命によってウィーン体制は崩壊した。
1929年の世界恐慌によって寡頭支配勢力の弱体化が起こり、ラテンアメリカ諸国は新しい政治・経済秩序を模索し始めた。民主化の波に飲み込まれ、それまで無視されてきた大衆と呼ばれる人々が政治に大きな影響を与え始めるようになっていった。
2011年11月24日、中南米各国で学生による「教育のための行進」が行われた。この行進はチリ大学生連合とコロンビアの全国学生拡大会議が呼びかけたもので、ウルグアイ、アルゼンチン、ブラジル、エルサルバドル、パラグアイなどでもデモや集会が行われた。直後の12月2日、植民地を除く全33ヶ国により、従前のラ米・カリブ首脳会議を発展させた「ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体」が結成された。
日本の海外直接投資総額の比率は1995年時点で12.6%となっている。また、日本の総貿易額におけるラテンアメリカの比重は1997年時点で4.7%となっている。内容は主としてラテンアメリカ諸国の天然資源を輸入し、日本から製造業製品を輸出するというものが多い。
人的視点からは、第二次世界大戦以前の1893年のグアテマラへの移民をはじめとして、榎本武揚の提唱により1897年にメキシコへ渡り、アカコヤグアに入植した「榎本移民」をきっかけにラテンアメリカへの組織的移住が始まり、その後、ブラジル、ペルー、アルゼンチン、ボリビア、パラグアイ、ウルグアイ、チリへの移民も盛んに行われた。第二次世界大戦後には、1956年にボリビアと移住協定を締結し、1959年にパラグアイと移住協定を締結し、1963年にアルゼンチンと移住協定を締結し、1963年にブラジルと移住・植民協定を締結するなどラテンアメリカに移民を送り出した。その為、世界に散らばる日系人のうち、3分の2はラテンアメリカに集中している。1959年にパラグアイと締結された日本の国策による移住協定は、1989年に効力が無期限延長に改定され、85,000人の日本人が受け入れ可能となっている。
文化的視点からは、アジア以外で初めて平等条約を締結したメキシコ修好通商条約100周年であった1988年を皮切りに、1997年のチリ修好通商条約100周年、メキシコ移民100周年、1998年のアルゼンチン修好通商条約100周年、1999年のペルー移民100周年など各国の記念行事が相次ぎ、それを契機に要人や文化人の相互訪問が活発となった。
ラテンアメリカに対する政府開発援助(ODA)は全体の10%程度で推移し、特に国民所得の低い中米諸国や、日系移民の多いブラジル、ペルー、ボリビア、パラグアイなどへの資金協力や技術協力が目立つ。また、エルサルバドル、ハイチ、ペルーなどへの政治目的を持った援助や、環境問題改善や麻薬対策といった地球的問題への取り組みも近年では増えてきている。
国連『世界人口年鑑』(1996)によるラテンアメリカの人口推移。
人類学者ミッシェル・D・オリアンは、ラテンアメリカの社会を文化的生活面での共通項に着目し、インディオ社会、メスティーソ社会、アフロ・アメリカ社会、ヨーロッパ的アメリカ社会、移民社会の5つの社会に分類している。
これらは国あるいは地域によって独自性が認められつつもいくつかの点で共通した社会を形成しており、お互いに干渉しあいながら今日の複雑なラテンアメリカ社会を構成している。
植民地時代以来、ラテンアメリカは、ほとんどのヨーロッパ諸国だけでなく、日本を含む多くのアフリカ人やアジア人からも、世界中からの移民の中心であり、民族的に日本はラテンアメリカとより関連しています. ヨーロッパやアメリカよりも。 人種の混合は、ラテンアメリカ地域の建設において非常に重要であったため、この地域には大きな民族グループはなく、多くのラテンアメリカ人は主にヨーロッパ人または先住民 (ラテンアメリカインディアン) に由来します。 世界最大の日系人口を抱えるペルーとブラジルは、事実上の「日本の兄弟」と言えます。
ラテンアメリカの宗教構成
ラテンアメリカにおけるキリスト教諸派構成
(出典:Franz Damen,Bolivia/Belgica、2006「世界とラテンアメリカの宗教概観」(原稔. "ラテンアメリカの宗教変遷グロバリゼーションによる 40 年間の宗教勢力変化." 東洋哲学研究所紀要 22 (2006): 59-80.)) | [
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] | ラテンアメリカは、アングロアメリカに対する概念で、アメリカ大陸の北半球中緯度から南半球にかけて存在する独立国及び非独立地域を指す総称である。 ここでの「ラテン」という接頭語は「イベリア(系)の」という意味であり、これらの地を支配していた旧宗主国が、ほぼスペインとポルトガルであったことに由来している。
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|density = 31/km<sup>2</sup>
}}
'''ラテンアメリカ'''({{lang-es-short|Latinoamérica, América Latina}}, {{lang-pt-short|América Latina}}, {{lang-en-short|Latin America}}, {{lang-fr-short|Amérique latine}})は、[[アングロアメリカ]]に対する概念で、[[アメリカ大陸]]の[[北半球]]中緯度から[[南半球]]にかけて存在する[[独立国]]及び非独立地域を指す総称である<ref>[[#田中1997|田中1997]]、p.1</ref>。
ここでの「[[ラテン民族|ラテン]]」という接頭語は「[[イベリア半島|イベリア]](系)の」という意味であり、これらの地を支配していた旧[[宗主国]]が、ほぼ[[スペイン]]と[[ポルトガル]]であったことに由来している。<!--ラテンアメリカは、イギリスの旧領だったアングロアメリカ([[アメリカ合衆国]]と[[カナダ]])との対義語で使われる。-->
多くの地域が[[スペイン語]]、[[ポルトガル語]]、[[フランス語]]などの[[ロマンス諸語|ラテン系言語]]を公用語として用いており、社会文化もそれに沿ったものであったことから名付けられた。<!--しかし、アメリカ合衆国やカナダにもフランス語やスペイン語を使用する住民(特に近年は[[ヒスパニック]]系アメリカ人が増加)が多数存在しており、逆にラテンアメリカにも[[英語]]や[[オランダ語]]を使用する地域があることから、厳密な区別とはなっていない<ref name="onk_473"/>。-->
図にあるようにラテンアメリカは[[北アメリカ大陸]]の[[メキシコ]]をふくみ、[[南アメリカ大陸]]の[[ガイアナ]]・[[スリナム]]をふくまない。また'''中南米'''と呼称される場合もあるが、これは図に合う正確な表現ではない<ref name="onk_473">[[#大貫1987|大貫1987]]、p.473</ref>。
== 語源 ==
'''ラテンアメリカ'''の名称は[[1856年]]、[[ヌエバ・グラナダ共和国]](現在の[[コロンビア]])の首都[[ボゴタ]]で生まれた文人[[:es:José María Torres Caicedo|ホセ・マリア・トーレス=カイセード]]によって初めて用いられた<ref name="tnk_021">[[#田中1997|田中1997]]、p.21</ref><ref name="tnk_025">[[#田中1997|田中1997]]、p.25</ref>。
[[1836年]]、[[メキシコ]]から[[テキサス共和国|テキサス]]が独立し、さらに[[1848年]]、[[米墨戦争]]によって[[アメリカ合衆国]]に敗れ、メキシコは国土の半分を失った。[[1856年]]には[[ニカラグア]]の国内政治の混乱に乗じてアメリカ人侵略者[[ウィリアム・ウォーカー]]がニカラグアの大統領となるなど、アメリカ合衆国の膨張の前に、アメリカ大陸スペイン語圏の諸国は、存続の危機にさらされていた<ref name="tnk_025"/>。[[パリ]]に在住していたイスパノアメリカ人たちはこうした事態に祖国がアメリカ合衆国に吸収されるという危惧を抱き始め、[[アングロサクソン]][[列強]]の脅威に抵抗すべく運動を始めた。
当時、彼らは自分たちの国家群の呼称として'''アメリカ・エスパニョーラ'''を用いることが多かったが<ref name="tnk_025"/>、文明の中心であった[[フランス]]と一体であることを示す名称として'''ラサ・ラティノアメリカーナ'''、'''アメリカ・ラティーナ・サホーナ・エ・インディヘナ'''といった呼称が論説などで用いられるようになり、カイセードが1856年[[9月26日]]、旅行先の[[ヴェネツィア]]で書いた詩『二つのアメリカ』において'''アメリカ・ラティーナ'''という言葉が初めて用いられた<ref name="tnk_026">[[#田中1997|田中1997]]、p.26</ref>。この言葉は次第に新聞や雑誌、公文書へと浸透していき、[[フランス語]]においても1861年ごろより'''ラメリク・ラティーヌ'''(L'Amérique latine)の呼称が確認出来るようになる。英語の'''ラテンアメリカ'''の名称がスペイン語、フランス語のどちらから移入されたのかは定かではないが、この新しい名称の浸透は[[ナポレオン3世]]によって積極的に行われ、次第にラテンアメリカという名称が世界に広がっていった。
しかし、フランス主導によるこうした[[帝国主義]]的拡大にスペインの知識人たちは大いに憤慨し、[[イスパノアメリカ]]の名称を主張し続け、今日に至ってもスペインは公式の文書ではラテンアメリカの名称を拒否している<ref name="tnk_027">[[#田中1997|田中1997]]、p.27</ref>。
== 定義 ==
今日、単にラテンアメリカと称した場合は「メキシコ以南の[[北米大陸]]、[[カリブ海地域]]全域、[[南アメリカ大陸]]全域の3地域とその周辺の島々」を指す<ref name="tnk_028">[[#田中1997|田中1997]]、p.28</ref>(広義のラテンアメリカ)。
1960年頃まではラテン文化の伝統を引き継ぐ20の国<ref group="注釈">[[ブラジル]]、[[ハイチ]]及びスペイン語圏の18の国を指す。ただし、[[プエルトリコ]]はその文化的背景からラテンアメリカに準ずるものとして扱う場合があった。</ref>に限ってラテンアメリカと呼称されてきた。[[1962年]]以降、旧イギリス領から12、旧オランダ領から1の新しい独立国が興り、[[国際連合]]などでラテンアメリカ地域に含んだ形で言及されるようになり、ラテンアメリカの定義は曖昧さを孕むことになった<ref name="tnk_027">[[#田中1997|田中1997]]、p.27</ref>。近年ではこうした新興独立国の立場を考慮し、'''カリブ海地域'''と呼称し、「ラテンアメリカとカリブ海」などと表現する傾向が強まっている<ref name="tnk_028"/>。この場合のラテンアメリカという呼称は「ラテン的文化を保有する国と地域」を指すことになる(狭義のラテンアメリカ)。
ラテンアメリカの定義においては「広義のラテンアメリカ」と「狭義のラテンアメリカ」とを、文脈で判断し理解することが必要となっている。
日本においては「広義のラテンアメリカ」を総称して'''中南米'''と表すことが一般化している<ref name="tnk_028"/>。この言葉はラテン性を巡る諸問題を回避できる点で便利な言葉ではあるが、忠実に外国語に訳した場合に「セントラル・アンド・サウスアメリカ」となってしまい、メキシコやカリブ海地域が含まれないという別の問題を持っていると[[中川文雄]]は指摘している<ref name="tnk_028"/>。稀に'''喇'''(ラ)と表記されることもある。
[[カナダ]]の[[ケベック州]]は[[ロマンス諸語|ラテン系言語]]である[[フランス語]]が第一言語であるが、他のラテンアメリカ諸国と地理的・経済的に大きく離れていることもあって、同地をラテンアメリカに含めることは少ない。
== 構成 ==
ラテンアメリカは33の独立国およびいくつかの非独立地域で構成される。本一覧の国名表記は『[[#大貫1987|ラテン・アメリカを知る事典]]』の各国便覧に倣う<ref>[[#大貫1987|大貫1987]]、pp.550-555</ref>。
=== 独立国 ===
{| class="sortable wikitable" style="margin-right:0px; font-size:small"
|-
! 国・地域名 !! 首都 !! 体制
! style="white-space:nowrap;" | 独立年
! style="white-space:nowrap;" | 旧宗主国・領有国
! 公用語
|-
| {{CRI}} || [[サンホセ (コスタリカ)|サンホセ]] || 共和制
| [[1821年]]
| {{ESP}}
| [[スペイン語]]
|-
| {{MEX}} || [[メキシコシティ]] || [[共和制]]
| [[1821年]]
| {{ESP}}
| [[スペイン語]]
|-
| {{BLZ}} || [[ベルモパン]] || style="white-space:nowrap;" | [[立憲君主制]]
| [[1981年]]
| {{GBR}}
| [[英語]]
|-
| {{GTM}} || [[グアテマラシティ]] || 共和制
| [[1821年]]
| {{ESP}}
| [[スペイン語]]
|-
| {{HON}} || [[テグシガルパ]] || 共和制
| [[1821年]]
| {{ESP}}
| [[スペイン語]]
|-
| {{SLV}} || [[サンサルバドル]] || 共和制
| [[1821年]]
| {{ESP}}
| [[スペイン語]]
|-
| {{NIC}} || [[マナグア]] || 共和制
| [[1821年]]
| {{ESP}}
| [[スペイン語]]
|-
| {{PAN}} || [[パナマシティ]] || 共和制
| [[1903年]]
| {{ESP}}
| [[スペイン語]]
|-
| {{BHS}} || [[ナッソー]] || 立憲君主制
| [[1973年]]
| {{GBR}}
| [[英語]]
|-
| {{CUB}} || [[ハバナ]] || 共和制
| [[1902年]]
| {{ESP}}
| [[スペイン語]]
|-
| {{HTI}} || [[ポルトープランス]] || 共和制
| [[1804年]]
| {{Display none|/}}{{FRA}}
| {{Display none|/}}[[フランス語]]、[[ハイチ語]]
|-
| {{DOM}} || [[サントドミンゴ]] || 共和制
| [[1844年]]
| {{ESP}}
| [[スペイン語]]
|-
| {{JAM}} || [[キングストン (ジャマイカ)|キングストン]] || 立憲君主制
| [[1962年]]
| {{GBR}}
| [[英語]]
|-
| {{KNA}} || [[バセテール]] || 立憲君主制
| [[1983年]]
| {{GBR}}
| [[英語]]
|-
| {{ATG}} || [[セントジョンズ]] || 立憲君主制
| [[1981年]]
| {{GBR}}
| [[英語]]
|-
| {{DMA}} || [[ロゾー]] || 共和制
| [[1978年]]
| {{GBR}}
| [[英語]]
|-
| {{LCA}} || [[カストリーズ]] || 立憲君主制
| [[1979年]]
| {{GBR}}
| [[英語]]
|-
| {{VCT}} || [[キングスタウン]] || 立憲君主制
| [[1979年]]
| {{GBR}}
| [[英語]]
|-
| {{BRB}} || [[ブリッジタウン]] || 共和制
| [[1966年]]
| {{GBR}}
| [[英語]]
|-
| {{GRD}} || [[セントジョージズ]] || 立憲君主制
| [[1974年]]
| {{GBR}}
| [[英語]]
|-
| {{TTO}} || [[ポートオブスペイン]] || 共和制
| [[1962年]]
| {{GBR}}
| [[英語]]
|-
| {{VEN}} || [[カラカス]] || 共和制
| [[1811年]]
| {{ESP}}
| [[スペイン語]]
|-
| {{GUY}} || [[ジョージタウン (ガイアナ)|ジョージタウン]] || 共和制
| [[1966年]]
| {{GBR}}
| [[英語]]
|-
| {{SUR}} || [[パラマリボ]] || 共和制
| [[1975年]]
| {{Display none|/}}{{NLD}}
| {{Display none|/}}[[オランダ語]]
|-
| {{COL}} || [[ボゴタ]] || 共和制
| [[1810年]]
| {{ESP}}
| [[スペイン語]]
|-
| {{ECU}} || [[キト]] || 共和制
| [[1822年]]
| {{ESP}}
| [[スペイン語]]
|-
| {{PER}} || [[リマ]] || 共和制
| [[1821年]]
| {{ESP}}
| [[スペイン語]]、[[ケチュア語]]、[[アイマラ語]]
|-
| {{BOL}} || [[スクレ (ボリビア)|スクレ]] / [[ラパス]] || 共和制
| [[1825年]]
| {{ESP}}
| [[スペイン語]]、[[ケチュア語]]、[[アイマラ語]]、[[グアラニー語]]など多数
|-
| {{BRA}} || [[ブラジリア]] || 共和制
| [[1822年]]
| {{Display none|/}}{{PRT}}
| {{Display none|/}}[[ポルトガル語]]
|-
| {{PRY}} || [[アスンシオン]] || 共和制
| [[1811年]]
| {{ESP}}
| [[スペイン語]]、[[グアラニー語]]
|-
| {{CHL}} || style="white-space:nowrap;" | [[サンティアゴ・デ・チレ]] || 共和制
| [[1810年]]
| {{ESP}}
| [[スペイン語]]
|-
| {{URY}} || [[モンテビデオ]] || 共和制
| [[1825年]]
| {{ESP}}
| [[スペイン語]]
|-
| {{ARG}} || [[ブエノスアイレス]] || 共和制
| [[1816年]]
| {{ESP}}
| [[スペイン語]]
|}
=== 非独立地域 ===
{| class="wikitable sortable" style="font-size:small"
|-
! 国・地域名
! 首都
! width="150" | 宗主国・領有国
! 公用語
! 人口
! 面積(km<sup>2</sup>)
|-
| {{Flagicon|アンギラ}} [[アンギラ]]
| [[バレー (アンギラ)|バレー]]
| {{Flagicon|GBR}} [[イギリスの海外領土]]
| [[英語]]
| style="text-align:right" | {{Nts|15423}}
| style="text-align:right" | {{Nts|91}}
|-
| {{Flagicon|CAY}} [[ケイマン諸島]]
| [[ジョージタウン (ケイマン諸島)|ジョージタウン]]
| {{Flagicon|GBR}} [[イギリスの海外領土]]
| [[英語]]
| style="text-align:right" | {{Nts|52560}}
| style="text-align:right" | {{Nts|264}}
|-
| {{Flagicon|タークス・カイコス諸島}} [[タークス・カイコス諸島]]
| [[コックバーンタウン]]
| {{Flagicon|GBR}} [[イギリスの海外領土]]
| [[英語]]
| style="text-align:right" | {{Nts|46335}}
| style="text-align:right" | {{Nts|948}}
|-
| {{Flagicon|イギリス領ヴァージン諸島}} [[イギリス領ヴァージン諸島]]
| [[ロードタウン]]
| {{Flagicon|GBR}} [[イギリスの海外領土]]
| [[英語]]
| style="text-align:right" | {{Nts|31148}}
| style="text-align:right" | {{Nts|151}}
|-
| {{Flagicon|バミューダ諸島}} [[バミューダ諸島]]
| [[ハミルトン (バミューダ)|ハミルトン]]
| {{Flagicon|GBR}} [[イギリスの海外領土]]
| [[英語]]、[[ポルトガル語]]
| style="text-align:right" | {{Nts|69080}}
| style="text-align:right" | {{Nts|54}}
|-
| {{Flagicon|フォークランド諸島}} [[フォークランド諸島]]
| [[スタンリー (フォークランド諸島)|スタンリー]]
| {{Flagicon|GBR}} [[イギリスの海外領土]]
| [[英語]]
| style="text-align:right" | {{Nts|3140}}
| style="text-align:right" | {{Nts|12173}}
|-
| {{Flagicon|モントセラト}} [[モントセラト]]
| [[プリマス (モントセラト)|プリマス]](臨時首都[[ブレイズ (モントセラト)|ブレイズ]])
| {{Flagicon|GBR}} [[イギリスの海外領土]]
| [[英語]]
| style="text-align:right" | {{Nts|5164}}
| style="text-align:right" | {{Nts|102}}
|-
| {{Flagicon|サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島}} [[サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島]]
| [[グリトビケン]]
| {{Flagicon|GBR}} [[イギリスの海外領土]]
| [[英語]]
| style="text-align:right" | {{Nts|30}}
| style="text-align:right" | {{Nts|3903}}
|-
| {{Flagicon|フランス領ギアナ}} [[フランス領ギアナ]]
| [[カイエンヌ]]
| {{Flagicon|FRA}} [[フランス]]の[[海外県]]
| [[フランス語]]
| style="text-align:right" | {{Nts|236250}}
| style="text-align:right" | {{Nts|83534}}
|-
| {{Flagicon|グアドループ}} [[グアドループ]]
| [[バステール (グアドループ)|バステール]]
| {{Flagicon|FRA}} [[フランス]]の[[海外県]]
| [[フランス語]]
| style="text-align:right" | {{Nts|405500}}
| style="text-align:right" | {{Nts|1628}}
|-
| {{Flagicon|マルティニーク}} [[マルティニク]]
| [[フォール・ド・フランス]]
| {{Flagicon|FRA}} [[フランス]]の[[海外県]]
| [[フランス語]]
| style="text-align:right" | {{Nts|403795}}
| style="text-align:right" | {{Nts|1128}}
|-
| {{Flagicon|サン・マルタン島}} [[サン・マルタン (西インド諸島)|サン・マルタン島]]
| [[マリゴ]]
| {{Flagicon|FRA}} [[フランス]]の[[海外準県]]
| [[フランス語]]
| style="text-align:right" | {{Nts|30959}}
| style="text-align:right" | {{Nts|54.4}}
|-
| {{Flagicon|サン・バルテルミー島}} [[サン・バルテルミー島]]
| [[グスタビア]]
| {{Flagicon|FRA}} [[フランス]]の[[海外準県]]
| [[フランス語]]
| style="text-align:right" | {{Nts|7332}}
| style="text-align:right" | {{Nts|21}}
|-
| {{Flagicon|アルバ}} [[アルバ]]
| [[オラニエスタッド]]
| {{Flagicon|NLD}} [[オランダ王国]]の[[構成国]]
| [[オランダ語]]、[[パピアメント語]]
| style="text-align:right" | {{Nts|107635}}
| style="text-align:right" | {{Nts|180}}
|-
| {{Flagicon|キュラソー島}} [[キュラソー島]]
| [[ウィレムスタッド]]
| {{Flagicon|NLD}} [[オランダ王国]]の[[構成国]]
| [[オランダ語]]、[[パピアメント語]]
| style="text-align:right" | {{Nts|142180}}
| style="text-align:right" | {{Nts|444}}
|-
| {{Flagicon|シント・マールテン島}} [[シント・マールテン|シント・マールテン島]]
| [[フィリップスブルフ]]
| {{Flagicon|NLD}} [[オランダ王国]]の[[構成国]]
| [[オランダ語]]
| style="text-align:right" | {{Nts|37429}}
| style="text-align:right" | {{Nts|34}}
|-
| {{Flagicon|ボネール島}} [[ボネール島]]
| [[クラレンダイク]]
| {{Flagicon|NLD}} [[オランダ]]の[[ヘメーンテ (オランダ)|特別自治体]]
| [[オランダ語]]、[[パピアメント語]]
| style="text-align:right" | {{Nts|16541}}
| style="text-align:right" | {{Nts|294}}
|-
| {{Flagicon|シント・ユースタティウス島}} [[シント・ユースタティウス島]]
| [[オラニエスタッド (シント・ユースタティウス島)|オラニエスタッド]]
| {{Flagicon|NLD}} [[オランダ]]の[[ヘメーンテ (オランダ)|特別自治体]]
| [[オランダ語]]、[[英語]]
| style="text-align:right" | {{Nts|3791}}
| style="text-align:right" | {{Nts|21}}
|-
| {{Flagicon|サバ島}} [[サバ島]]
| [[ボトム (サバ島)|ボトム]]
| {{Flagicon|NLD}} [[オランダ]]の[[ヘメーンテ (オランダ)|特別自治体]]
| [[オランダ語]]、[[英語]]
| style="text-align:right" | {{Nts|1971}}
| style="text-align:right" | {{Nts|13}}
|-
| {{Flagicon|プエルトリコ}} [[プエルトリコ]]
| [[サンフアン (プエルトリコ)|サンフアン]]
| {{Flagicon|USA}} [[アメリカ合衆国]]の[[コモンウェルス (米国自治連邦区)|自治連邦区]]
| [[スペイン語]]、[[英語]]
| style="text-align:right" | {{Nts|3998905}}
| style="text-align:right" | {{Nts|13790}}
|-
| {{Flagicon|アメリカ領ヴァージン諸島}} [[アメリカ領ヴァージン諸島]]
| [[シャーロット・アマリー]]
| {{Flagicon|USA}} [[アメリカ合衆国]]の[[保護領]]
| [[英語]]
| style="text-align:right" | {{Nts|109574}}
| style="text-align:right" | {{Nts|1910}}
|-
| {{Flagicon|ナヴァッサ島}} [[ナヴァッサ島]]
| [[ルル・タウン]]
| {{Flagicon|USA}} [[アメリカ合衆国]]の[[合衆国領有小離島|領有小離島]]
| [[無人島|無人]]
| style="text-align:right" | {{Nts|0}}
| style="text-align:right" | {{Nts|5.2}}
|}
== 歴史 ==
ラテンアメリカ史においての一般的な時代区分は'''先コロンブス時代'''、'''植民地時代'''、'''独立国家の時代'''の3つに大別される<ref name="tnk_048">[[#田中1997|田中1997]]、p.48</ref>。
=== 先コロンブス時代 ===
[[1492年]]に[[イタリア]]の探検家[[クリストファー・コロンブス]]がカリブ海地域に到達した時点を起点として、それ以前を総称したのが先コロンブス時代で、数千年に渡る長い期間を通じて[[北アメリカ大陸]]の[[メソアメリカ地域]]と、[[南アメリカ大陸]]の[[アンデス地域]]を中心として様々な文化が開花していた。これらはまとめて古代文明と称されるが、[[3世紀]]から[[9世紀]]に至る最も華麗な文化が開花した時代を[[古典期]]としてその前後を[[先古典期]]、[[後古典期]]と、あるいはそれ以上に細分化することもある<ref name="tnk_049">[[#田中1997|田中1997]]、p.49</ref>。
=== 植民地時代 ===
1492年以降の植民地時代は、[[スペイン]]と[[ポルトガル]]の両国による[[絶対王権]]によって統治された約300年間を指す。ラテンアメリカ地域の領有権の正当性は[[教皇]]によって与えられたものであったが、これを無視した[[オランダ]]、[[イギリス]]、[[フランス]]、[[デンマーク]]、[[スウェーデン]]などのヨーロッパ諸国はカリブ海域の多くの島々や大陸の一部を占領・支配した。
=== 独立国家の時代 ===
{{See|イスパノアメリカ独立戦争}}
[[19世紀]]初頭から現在に至る期間は独立国家の時代とされる。[[ナポレオン戦争]]でナポレオンが敗北して以降の[[1814年]][[9月1日]]から[[1815年]][[6月9日]]まで開催された[[ウィーン会議]]では1792年より以前の状態に戻すことと勢力均衡が原則とされた<ref>[[#ドイツ史 2|ドイツ史 2]],p.221.</ref>。ウィーン会議以降の国際秩序を[[ウィーン体制]]と呼び、[[1848年革命]]に崩壊するまでの時代を指す<ref name="wien"/>。
[[ナポレオン戦争]]に勝利したオーストリア、ロシア、プロイセンの復古勢力は革命の再発を防ぐために、1815年にキリスト教的友愛による平和を提唱する[[神聖同盟]]を締結、さらに[[1818年]]にイギリスと敗戦国フランスを加えた[[四国同盟 (1815年)|五国同盟]]を締結して[[ウィーン体制]]を確立した<ref name="wien">百瀬宏「ウィーン体制」「五国同盟」,石井摩耶子「アンタント・コルディアル」(真摯協商)、岡崎勝世「神聖同盟」、日本大百科全書(ニッポニカ)小学館。</ref>。
スペインではナポレオン軍の敗北により[[ジョゼフ・ボナパルト]]は追放され、[[スペイン・ブルボン朝|スペイン・ブルボン復古王政]]の[[フェルナンド7世 (スペイン王)|フェルナンド7世]]が復位した。これに対して自由主義者[[ラファエル・デル・リエゴ|リエゴ]]が1820年に[[スペイン立憲革命]]を起こし、イタリアでも[[カルボナリ|カルボナリ党]]がスペインを模倣してナポリ・ピエモンテで蜂起したが、革命の波及を恐れた五国同盟によって両者は鎮圧された<ref name="wien"/>。他方で、1810年代から1820年代を通じてラテンアメリカ諸国が相次いで[[スペイン帝国]]からの独立を果たし、スペインは中南米植民地を失っていった。
* [[1810年]]5月に[[ブエノスアイレス]]が[[五月革命 (アルゼンチン)|五月革命]]で自治宣言(1816年独立、1825年に[[アルゼンチン]]へ改名)。
* 1810年9月に[[メキシコ独立革命]]が始まった(1821年[[メキシコ]]独立)。
* [[1811年]]には[[パラグアイ#独立とカウディージョの専制統治|パラグアイ共和国]]、[[ベネズエラの歴史#解放戦争とシモン・ボリーバル|ベネズエラ・アメリカ合衆国]]がスペインから独立した([[ベネズエラ#独立戦争|ベネズエラ]]1821年6月独立)。
* 1816年7月にはラプラタ連合(現在のアルゼンチン)が独立した。
* 1818年に[[チリ]]が独立した。
* 1819年に[[コロンビア共和国|コロンビア共和国(大コロンビア)]]が独立。
* 1822年9月には[[ポルトガル]]から[[ブラジル独立|ブラジルが独立した]]。
[[1823年]]12月アメリカ合衆国[[ジェームズ・モンロー|モンロー]]大統領は、独立したラテンアメリカ諸国に対して神聖同盟諸国が干渉すること、および[[西半球]]におけるヨーロッパの植民地拡大へ反対すると表明した<ref>「[[モンロー主義]]」世界大百科事典</ref>。さらに、[[1824年]]に[[ペルー独立戦争|ペルー]]、1825年[[ボリビア]]([[アルト・ペルー]])が独立した。
また、[[1821年]]には[[オスマン帝国]]からの独立を目指して[[ギリシャ独立戦争]]が始まっている。[[露土戦争 (1828年-1829年)|露土戦争]]で連合軍に敗北したオスマン帝国は1832年[[コンスタンティノープル条約 (1832年)|ギリシャ独立]]を認め、列強はバイエルン王子オットーをギリシャ王[[オソン1世]]とする[[ギリシャ王国]]を樹立した。
[[1830年]]の[[フランス7月革命]]に対抗してロシア、オーストリア、プロイセンが[[1832年]]10月に旧秩序維持を再確認したが、革命干渉を忌避したイギリスとフランスは真摯協商を結んだことでウィーン体制は分裂し、さらに各国での[[1848年革命]]によってウィーン体制は崩壊した<ref name="wien"/>。
=== 20世紀 ===
[[1929年]]の[[世界恐慌]]によって寡頭支配勢力の弱体化が起こり、ラテンアメリカ諸国は新しい政治・経済秩序を模索し始めた。民主化の波に飲み込まれ、それまで無視されてきた大衆と呼ばれる人々が政治に大きな影響を与え始めるようになっていった。
=== ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体 ===
[[2011年]][[11月24日]]、中南米各国で学生による「教育のための行進」が行われた。この行進はチリ大学生連合とコロンビアの全国学生拡大会議が呼びかけたもので、ウルグアイ、アルゼンチン、ブラジル、エルサルバドル、パラグアイなどでもデモや集会が行われた<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-11-26/2011112601_02_1.html 公教育守れ 中南米一斉デモ チリ、コロンビアの学生呼びかけ 数万人規模] [[しんぶん赤旗]]2011年11月26日</ref>。直後の[[12月2日]]、植民地を除く全33ヶ国により、従前の[[ラ米・カリブ首脳会議]]を発展させた「[[ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体]]」が結成された。
== 他地域との関係 ==
=== 日本との関係 ===
日本の海外直接投資総額の比率は[[1995年]]時点で12.6%となっている<ref name="onk_504">[[#大貫1987|大貫1987]]、p.504</ref>。また、日本の総貿易額におけるラテンアメリカの比重は[[1997年]]時点で4.7%となっている<ref name="onk_504"/>。内容は主としてラテンアメリカ諸国の天然資源を輸入し、日本から製造業製品を輸出するというものが多い。
人的視点からは、[[第二次世界大戦|第二次世界大戦以前]]の[[1893年]]の[[グアテマラ]]への[[移民]]をはじめとして、[[榎本武揚]]の提唱により[[1897年]]に[[メキシコ]]へ渡り、[[アカコヤグア]]に入植した「榎本移民」<ref>{{Cite news |author= |url=https://www.asahi.com/articles/DA3S13356994.html?iref=pc_photo_gallery_bottom |title=(世界発2018)メキシコの村、息づく日本 榎本武揚が提唱、121年前に入植 |newspaper=[[朝日新聞]] |publisher= |date=2018-02-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210823021050/https://www.asahi.com/articles/DA3S13356994.html?iref=pc_photo_gallery_bottom |archivedate=2021-08-23 }}</ref>をきっかけにラテンアメリカへの組織的移住が始まり<ref>{{Cite news|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/kiroku/s_hashi/arc_96/nanbei/episode.html |title=日本と中南米(エピソード集)~遠くて近いアミーゴの国々~ |author=|publisher=[[外務省]]|date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210224182949/https://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/kiroku/s_hashi/arc_96/nanbei/episode.html |archivedate=2021-02-24 }}</ref>、その後、[[ブラジル]]、[[ペルー]]、[[アルゼンチン]]、[[ボリビア]]、[[パラグアイ]]<ref name="MBS">{{Cite news|url=https://www.mbs.jp/news/zenkokunews/20181203/3539503.shtml|title=安倍首相、ウルグアイとパラグアイを訪問|author=|publisher=[[毎日放送|MBS]]|date=2018-12-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181203163916/https://www.mbs.jp/news/zenkokunews/20181203/3539503.shtml|archivedate=2018-12-04}}</ref><ref name="BSN">{{Cite news|url=https://www.ohbsn.com/news/detail/jnnzenkoku20181203_3539503.php|title=安倍首相、ウルグアイとパラグアイを訪問|author=|publisher=[[新潟放送|BSN]]|date=2018-12-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181203164041/https://www.ohbsn.com/news/detail/jnnzenkoku20181203_3539503.php|archivedate=2018-12-04}}</ref><ref name="TBS">{{Cite news|url=https://news.myjcom.jp/video/story/3539503.html|title=安倍首相、ウルグアイとパラグアイを訪問|author=|publisher=[[TBSテレビ|TBS]]|date=2018-12-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181203164350/https://news.myjcom.jp/video/story/3539503.html|archivedate=2018-12-04}}</ref>、[[ウルグアイ]]<ref name="MBS"/><ref name="BSN"/><ref name="TBS"/>、[[チリ]]への移民も盛んに行われた。[[第二次世界大戦|第二次世界大戦後]]には、[[1956年]]に[[ボリビア]]と移住協定を締結し、[[1959年]]に[[パラグアイ]]と移住協定を締結し、[[1963年]]にアルゼンチンと移住協定を締結し、[[1963年]]にブラジルと移住・植民協定を締結するなどラテンアメリカに移民を送り出した。その為、世界に散らばる[[日系人]]のうち、3分の2はラテンアメリカに集中している<ref>{{Cite news |author= |url=https://www.elpais.com.uy/que-pasa/uruguay-entra-radar-japon.html |title=Uruguay entra al radar de Japón |newspaper={{仮リンク|エル・パイス (ウルグアイ)|en|El País (Uruguay)|label=エル・パイス}} |publisher=| date= 2018-02-25 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180225094255/https://www.elpais.com.uy/que-pasa/uruguay-entra-radar-japon.html|archivedate=2018-02-25 }}</ref>。1959年にパラグアイと締結された日本の国策による移住協定は、[[1989年]]に効力が無期限延長に改定され、85,000人の日本人が受け入れ可能となっている<ref>{{Cite news|author=|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/paraguay/data.html |title=パラグアイ共和国(Republic of Paraguay) 基礎データ |newspaper=|publisher=[[外務省]]|year=|month=|date=2020-11-25 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210607054604/https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/paraguay/data.html |archivedate=2021-06-07 }}</ref>。
文化的視点からは、アジア以外で初めて平等条約を締結した[[メキシコ]]修好通商条約100周年であった[[1988年]]を皮切りに、[[1997年]]の[[チリ]]修好通商条約100周年、メキシコ移民100周年、[[1998年]]の[[アルゼンチン]]修好通商条約100周年、[[1999年]]の[[ペルー]]移民100周年など各国の記念行事が相次ぎ、それを契機に要人や文化人の相互訪問が活発となった<ref name="onk_504"/>。
ラテンアメリカに対する[[政府開発援助|政府開発援助(ODA)]]は全体の10%程度で推移し、特に国民所得の低い中米諸国や、日系移民の多い[[ブラジル]]、[[ペルー]]、[[ボリビア]]、[[パラグアイ]]などへの資金協力や技術協力が目立つ。また、[[エルサルバドル]]、[[ハイチ]]、[[ペルー]]などへの政治目的を持った援助や、環境問題改善や麻薬対策といった地球的問題への取り組みも近年では増えてきている<ref name="onk_504"/>。
== 統計 ==
国連『世界人口年鑑』(1996)によるラテンアメリカの人口推移。
{| class="wikitable" style="text-align:right; white-space:nowrap; font-size:small"
|-
! 地域
! [[1950年]]
! [[1960年]]
! [[1970年]]
! [[1980年]]
! [[1985年]]
! [[1990年]]
! [[1995年]]
! [[1996年]]
|-
| style="text-align:left;" | 南アメリカ
| 11,200万人
| 14,700万人
| 19,100万人
| 24,000万人
| 26,700万人
| 29,300万人
| 31,700万人
| 32,200万人
|-
| style="text-align:left;" | 中央アメリカ
| 3,700万人
| 4,900万人
| 6,700万人
| 9,000万人
| 10,000万人
| 11,200万人
| 12,300万人
| 12,600万人
|-
| style="text-align:left;" | カリブ海地域
| 1,700万人
| 2,000万人
| 2,500万人
| 2,900万人
| 3,100万人
| 3,400万人
| 3,600万人
| 3,600万人
|- style="background-color:#e6e6e6;"
| style="text-align:center;" | 合計
| 16,600万人
| 21,700万人
| 28,400万人
| 35,900万人
| 39,800万人
| 43,800万人
| 47,700万人
| 48,400万人
|}
== 社会 ==
{{main|ラテンアメリカの社会}}
人類学者[[ミッシェル・D・オリアン]]は、ラテンアメリカの社会を文化的生活面での共通項に着目し、[[インディオ|インディオ社会]]、[[メスティーソ|メスティーソ社会]]、[[アフリカ系アメリカ人|アフロ・アメリカ社会]]、[[移民|ヨーロッパ的アメリカ社会]]、[[移民|移民社会]]の5つの社会に分類している<ref name="onk_482">[[#大貫1987|大貫1987]]、p.482</ref>。
これらは国あるいは地域によって独自性が認められつつもいくつかの点で共通した社会を形成しており、お互いに干渉しあいながら今日の複雑なラテンアメリカ社会を構成している。
植民地時代以来、ラテンアメリカは、ほとんどのヨーロッパ諸国だけでなく、日本を含む多くのアフリカ人やアジア人からも、世界中からの移民の中心であり、民族的に日本はラテンアメリカとより関連しています. ヨーロッパやアメリカよりも。 人種の混合は、ラテンアメリカ地域の建設において非常に重要であったため、この地域には大きな民族グループはなく、多くのラテンアメリカ人は主にヨーロッパ人または先住民 (ラテンアメリカインディアン) に由来します。 世界最大の日系人口を抱えるペルーとブラジルは、事実上の「日本の兄弟」と言えます。
== 人種 ==
{{Main|ラテンアメリカ人}}
== 宗教 ==
'''ラテンアメリカの宗教構成'''
{| class="wikitable" style="text-align:right; white-space:nowrap; font-size:small"
|-
! 宗教
! 全人口
! [[キリスト教]]
! [[イスラム教]]
! [[先住民宗教]]
! [[ユダヤ教]]
! [[ヒンドゥー教]]
! [[仏教]]
! [[新宗教]]
! [[聖霊崇拝]]
! [[無神論]]
|-
| style="text-align:left;" | 1900年
| 6,500万人
| 6,200万人
| 5万人
| 220万人
| 2万人
| 10万人
| 0.5万人
| 0
| 20万人
| 40万人
|-
| style="text-align:left;" | 2000年
| 51,900万人
| 48,100万人
| 150万人
| 120万人
| 100万人
| 70万人
| 60万人
| 50万人
| 1,200万人
| 1,870万人
|-
|- style="background-color:#e6e6e6;"
| style="text-align:center;" | 増減率(%)
| +698.5
| +675.8
| +2,900
| -45.5
| +5400
| +600
| +11,900
| --
| +5,900
| +4,575
|-
|}
'''ラテンアメリカにおけるキリスト教諸派構成'''
{| class="wikitable" style="text-align:right; white-space:nowrap; font-size:small"
|-
! 宗教
! [[カトリック]]
! [[プロテスタント]]
! [[英国国教会]]
! [[東方正教会]]
! [[独立教会]]
! [[少数派]]
! [[福音派]]
! [[ペンテコステ]]
! [[二重信仰者]]
|-
| style="text-align:left;" | 1900年
| 5,900万人
| 90万人
| 70万人
| 70万人
| 3万人
| 0.3万人
| 70万人
| 1万人
| 30万人
|-
| style="text-align:left;" | 2000年
| 46,100万人
| 4,600万人
| 100万人
| 50万人
| 3,900万人
| 600万人
| 4,030万人
| 1,100万人
| 8,000万人
|-
|- style="background-color:#e6e6e6;"
| style="text-align:center;" | 増減率(%)
| +681.4
| +5011.1
| -42.9
| -28.6
| +129,900
| +199,900
| +5,657.1
| +109,900
| +2,6566.7
|-
|}
(出典:Franz Damen,Bolivia/Belgica、2006「世界とラテンアメリカの宗教概観」(原稔. "ラテンアメリカの宗教変遷グロバリゼーションによる 40 年間の宗教勢力変化." 東洋哲学研究所紀要 22 (2006): 59-80.))
== 文化 ==
{{main|{{仮リンク|ラテンアメリカの文化|en|Latin American culture}}}}
{{節スタブ}}
=== 文学 ===
{{main|ラテンアメリカ文学}}
{{節スタブ}}
=== 音楽 ===
{{main|ラテン音楽}}
{{節スタブ}}
=== 美術 ===
{{main|{{仮リンク|ラテンアメリカの美術|en|Latin American art}}}}
{{節スタブ}}
=== 映画 ===
{{main|{{仮リンク|ラテンアメリカの映画|en|Latin American cinema}}}}
{{節スタブ}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* Hikaru Kato、「[https://globalnewsview.org/archives/15901 ラテンアメリカ:脅かされる環境保護者]」、Global News View(GNV)、2021年9月30日
*{{Cite book|和書|author=大貫良夫、落合一泰、国本伊代、恒川恵市、福嶋正徳、松下洋|year=1987|title=ラテン・アメリカを知る事典|publisher=[[平凡社]]|isbn=4-582-12625-1|ref=大貫1987}}
* {{Cite book|和書|author=国本伊代、田中高編著|year=1997|title=ラテンアメリカ研究への招待|publisher=[[新評論]]|isbn=4-7948-0354-0|ref=田中1997}}
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Latin_America|Latin_America}}
{{Wikivoyage|Latin_America|ラテンアメリカ{{en icon}}}}
* [[イスパノアメリカ]]
* [[イベロアメリカ]]
* [[アングロアメリカ]]
* [[アメリカ大陸諸国の独立年表]]
* [[スペインによるアメリカ大陸の植民地化]]
* [[ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化]]
* [[アメリカ大陸史]]
* [[ラテンアメリカ及びカリブ核兵器禁止条約]]
* [[バナナ共和国]]([[バル・ベルデ]])
* [[南アメリカ]]
* [[南アメリカ大陸]]
* [[中央アメリカ]]
* [[北アメリカ]]
* [[メソアメリカ]]
* [[カリブ海]]
* {{仮リンク|ラテンアメリカにおけるエチケット|en|Etiquette in Latin America}}
* {{仮リンク|ラテンアメリカ料理|en|Latin American cuisine}}
== 外部リンク ==
* {{Cite web|和書
| url = http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/latinamerica/gaiyo/mede/
| title = 外務省:一目で分かる中南米
| accessdate = 2009-10-20
| deadlinkdate = 2018年2月5日
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20140718223017/http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/latinamerica/gaiyo/mede/
| archivedate = 2014-7-18 }}
{{アメリカ}}
{{Authority control}}
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[[Category:ラテンアメリカ|*]]
[[Category:アメリカ]]
[[Category:アメリカの地域]] | 2003-05-24T20:08:52Z | 2023-11-01T05:21:26Z | false | false | false | [
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9,300 | ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ | ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ(仏: Joseph-Louis Lagrange、1736年1月25日 - 1813年4月10日)は数学者、物理学者、天文学者である。サルデーニャ王国のトリノで生まれ、オイラーに師事し、プロイセンやフランスで活動した。彼の初期の業績は微分積分学の物理学への適用であり、特に力学の発展に貢献した。後に、力学をさらに一般化して、最小作用の原理を導き、解析力学(ラグランジュ力学)を創出した。ラグランジュによる『解析力学』は、ラプラスの『天体力学』と共に18世紀末の古典的名著とされる。
1736年、サルデーニャ王国のトリノで生まれた。出生名はジュゼッペ・ルイージ・ラグランジャ(伊: Giuseppe Luigi Lagrangia)である。プロイセン王国のベルリン・アカデミーのレオンハルト・オイラーから教えを受けた。当時ブルボン朝を頂くフランス王国に移り住み、フランス科学アカデミーで活動した。53歳でむかえたフランス革命の後は、ラプラス、アントワーヌ・ラヴォアジエらと共にメートル法の制定に取り組んだ。また、エコール・ポリテクニークの教授や元老院の議員も務めた。
フランス革命に伴うラヴォアジエの処刑については「彼の頭を切り落とすのは一瞬だが、彼と同じ頭脳を持つものが現れるには100年かかるだろう」と語ったとされる。また、生前のマリー・アントワネット(同じく、同革命に関連して刑死)の数学教師でもあり、「なぜ私が残されたのかわからない」と彼らの処刑を嘆き、生涯苦しんだとされる。同じく数学者で同時代の同国を生きたピエール=シモン・ラプラスは、その時々の政治権力に従順にしたたかに世を渡り抜いたが、ラグランジュのこのような気質はそれとは対照的であった。
数学を用いて力学を体系化し、双方の分野に業績を残した。ラグランジュの名を冠する用語も多く残っている(⇒#関連項目)。
力学の研究においてラグランジュは、それまでの幾何学的なアプローチを排除し、ダランベールの原理や仮想速度の原理の立場から最小作用の原理を基幹とし、純粋に解析学的な力学すなわち解析力学を構築して、ニュートン力学の発展・成熟に貢献した。たとえば、他の原理を持ち出さずに、解析学的手法のみによってより普遍的なエネルギー等の各種の保存則を導出した。1788年には、これらの成果を著作『解析力学』(原題: "Mécanique analytique")として出版した。
天文学においては、オイラーと共にラグランジュ点(L1からL5の5つの解)の発見に貢献した。これは地球と月のような二つの天体の系において、第三の小さな天体がこれら二つの天体との相対位置を変えずに安定に運動し続けられる可能性のある5つの位置座標点である。
数論に関する業績として、全ての自然数が高々四つの平方数の和によって表されるという定理は、ラグランジュの四平方定理として知られる(1770年)。また、ウィルソンの定理の証明のうちの一つを発見した(1773年)。五次以上の方程式の代数的な解き方についても研究し、根(解)の置換など群論の先駆けとなる研究も行い、これらの方程式について解ける為の条件を示したとされる。さらに、オイラーによる弱完全数に関する予想については、その後に25年をかけて、証明に成功している。これによれば、P=2の弱メルセンヌ数において、p=11では確かにNpは完全数ではないが、p=101においてNpは完全数になるとされる。
度量衡の標準化に尽力したことでも有名とされる。1791年5月に王立協会のフェローに選出され、亡くなる直前1週間前にレジオンドヌール勲章グランクロワ章を受賞し、パリのパンテオンに埋葬されている。 | [
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] | ジョゼフ=ルイ・ラグランジュは数学者、物理学者、天文学者である。サルデーニャ王国のトリノで生まれ、オイラーに師事し、プロイセンやフランスで活動した。彼の初期の業績は微分積分学の物理学への適用であり、特に力学の発展に貢献した。後に、力学をさらに一般化して、最小作用の原理を導き、解析力学(ラグランジュ力学)を創出した。ラグランジュによる『解析力学』は、ラプラスの『天体力学』と共に18世紀末の古典的名著とされる。 | {{Infobox scientist
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'''ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ'''({{lang-fr-short|Joseph-Louis Lagrange}}、[[1736年]][[1月25日]] - [[1813年]][[4月10日]])は[[数学者の一覧#18世紀生まれの有名な数学者|数学者]]、[[物理学者]]、[[天文学者]]である。[[サルデーニャ王国]]の[[トリノ]]で生まれ、[[レオンハルト・オイラー|オイラー]]に師事し、[[プロイセン王国|プロイセン]]や[[フランス王国|フランス]]で活動した。<!-- オイラーと並んで18世紀最大の数学者といわれている。 -->彼の初期の業績は[[微分積分学]]の物理学への適用であり、特に[[古典力学|力学]]の発展に貢献した。後に、力学をさらに一般化して、[[最小作用の原理]]を導き、[[解析力学]]([[ラグランジュ力学]])を創出した。ラグランジュによる『解析力学』は、[[ピエール=シモン・ラプラス|ラプラス]]の『天体力学』と共に18世紀末の古典的名著とされる。
== 生涯 ==
{{節スタブ}}
[[1736年]]、[[サルデーニャ王国]]の[[トリノ]]で生まれた。出生名は'''ジュゼッペ・ルイージ・ラグランジャ'''({{Lang-it-short|Giuseppe Luigi Lagrangia}})である<ref>{{Cite web |title=Joseph-Louis Lagrange, comte de l’Empire {{!}} French mathematician {{!}} Britannica |url=https://www.britannica.com/biography/Joseph-Louis-Lagrange-comte-de-lEmpire |website=[[Britannica]] |access-date=2023-01-07 |language=en}}</ref>。[[プロイセン王国]]の[[プロイセン科学アカデミー|ベルリン・アカデミー]]の[[レオンハルト・オイラー]]から教えを受けた。当時[[ブルボン朝]]を頂く[[フランス王国]]に移り住み、[[科学アカデミー (フランス)|フランス科学アカデミー]]で活動した。53歳でむかえた[[フランス革命]]の後は、ラプラス、[[アントワーヌ・ラヴォアジエ]]らと共に[[メートル法]]の制定に取り組んだ。また、[[エコール・ポリテクニーク]]の教授や[[護憲元老院|元老院]]の議員も務めた。
[[フランス革命]]に伴うラヴォアジエの[[死刑|処刑]]については「彼の頭を切り落とすのは一瞬だが、彼と同じ頭脳を持つものが現れるには100年かかるだろう」と語ったとされる。また、生前の[[マリー・アントワネット]](同じく、同革命に関連して刑死)の数学教師でもあり、「なぜ私が残されたのかわからない」と彼らの処刑を嘆き、生涯苦しんだとされる。同じく数学者で同時代の同国を生きた[[ピエール=シモン・ラプラス]]は、その時々の政治権力に従順にしたたかに世を渡り抜いたが、ラグランジュのこのような気質はそれとは対照的であった<ref>{{Cite book|和書 |title=重力と力学的世界 |date=1981-01 |year=1981 |publisher=[[現代数学社]] |author=[[山本義隆]]}}</ref>。
== 業績 ==
数学を用いて力学を体系化し、双方の分野に業績を残した。ラグランジュの名を冠する用語も多く残っている(⇒[[#関連項目]])。
=== 力学 ===
力学の研究においてラグランジュは、それまでの[[幾何学]]的なアプローチを排除し、[[ダランベールの原理]]や[[仮想仕事の原理|仮想速度の原理]]の立場から[[最小作用の原理]]を基幹とし、純粋に[[解析学]]的な力学すなわち'''[[解析力学]]'''を構築して、[[ニュートン力学]]の発展・成熟に貢献した。たとえば、他の原理<ref>たとえば、力学の原理以外による従来の「保存則」の根拠として、[[形而上学]]を含む思想・信条や経験則があげられる(⇒[[エネルギー保存の法則#歴史]]等)。ラグランジュの保存則はこれらには拠っていない。</ref>を持ち出さずに、解析学的手法のみによってより普遍的なエネルギー等の各種の保存則を導出した。1788年には、これらの成果を著作『解析力学』(原題: "Mécanique analytique")として出版した。
天文学においては、[[レオンハルト・オイラー|オイラー]]と共に[[ラグランジュ点]](L<sub>1</sub>からL<sub>5</sub>の5つの解)の発見に貢献した。これは地球と月のような二つの天体の系において、第三の小さな天体がこれら二つの天体との相対位置を変えずに安定に運動し続けられる可能性のある5つの位置座標点である。
=== 数学 ===
[[数論]]に関する業績として、全ての自然数が高々四つの平方数の和によって表されるという定理は、'''ラグランジュの[[四平方定理]]'''として知られる([[1770年]])。また、[[ウィルソンの定理]]の証明のうちの一つを発見した(1773年)。[[五次方程式|五次以上の方程式]]の代数的な解き方についても研究し、根(解)の置換など[[群 (数学)|群論]]の先駆けとなる研究も行い、これらの方程式について解ける為の条件を示したとされる<ref>なお後年、一般の五次以上の方程式が代数的解を持たないことは[[ニールス・アーベル|アーベル]]によって証明された。</ref>。さらに、オイラーによる[[完全数|弱完全数]]に関する予想については、その後に25年をかけて、証明に成功している。これによれば、P=2の[[メルセンヌ数|弱メルセンヌ数]]において、p=11では確かにNpは完全数ではないが、p=101においてNpは完全数になる<ref>このとき、Np=2535301200456458802993406410751である。</ref>とされる。
=== その他・顕彰等 ===
[[度量衡]]の標準化に尽力したことでも有名とされる。1791年5月に[[王立協会]]のフェローに選出され<ref>{{cite web | url= https://collections.royalsociety.org/DServe.exe?dsqIni=Dserve.ini&dsqApp=Archive&dsqCmd=Show.tcl&dsqDb=Persons&dsqPos=0&dsqSearch=%28%28text%29%3D%27Lagrange%27%29 | title= Library and Archive catalogue | publisher= The Royal Society | accessdate=2019-06-06}}</ref>、亡くなる直前1週間前に[[レジオンドヌール勲章|レジオンドヌール勲章グランクロワ章]]を受賞し、パリの[[パンテオン (パリ)|パンテオン]]に埋葬されている。
== 関連項目 ==
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* {{前方一致ページ一覧|ラグランジュ}}
** [[ラグランジュの未定乗数法]]
** [[ラグランジュの定理 (群論)|ラグランジュの定理]]
* {{前方一致ページ一覧|ラグランジ}}(上記を含めた活用形<ref>ただし、表記ゆれも含む。</ref>の例)
** [[ラグランジア (小惑星)]]
* [[エッフェル塔に名前を刻まれた72人のフランスの科学者の一覧]]
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* E.T.ベル著、田中勇・銀林浩訳『数学をつくった人びと上』、東京図書、ISBN 4-489-00528-8
== 外部リンク ==
* {{MacTutor Biography|id=Lagrange}}
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9,301 | マスメディア | マスメディア(mass media)あるいは大衆媒体(たいしゅうばいたい)とは、マスコミュニケーションを可能とする媒体のことである。
マスメディアとはマスコミュニケーションを行うメディア(=媒体)のことであり、例えば新聞・出版・放送などを指す。ブリタニカ国際百科事典によると、新聞、テレビ、ラジオ、映画、雑誌などに代表される、受け手である大衆に対して公的・間接的・一方的に意味内容を伝達するような技術的道具や装置のことを言う。また「マスメディア」は、マスメディアを用いてマスコミュニケーションを行っている組織も含めて指すこともある。例えば新聞社、出版社、放送局(テレビ局、ラジオ局)などである。
なおマスコミュニケーションとは、大衆への大量の情報伝達を指す。が、日本では「マスコミュニケーション」の略語の「マスコミ」をマスメディアという意味でも用いることがある。なお、マスメディアのうち「新聞」や「放送」ならびに「雑誌」は、「報道」や「ジャーナリズム」と言い換えられたり、マスニュースメディア (mass news media) と呼ばれることがある。「マス(mass)」という語は多義的で、もともと、大量(のモノ、コト)や大勢の人々を意味し、群衆などの意味もあるが、辞書などのマスメディアに関する説明では、「大衆」や「大量」の意味だとされることが多い。
現代のマスメディアがどのような状態かというと、資本主義社会においてはマスメディアの大多数が営利企業としていとなまれており、その結果、利潤の獲得や経営の安定が優先される傾向があり、伝達される内容が低俗化・画一化する傾向がある。一方、社会主義社会においては政府や支配政党の方針によって伝達される内容が編集される状態になる。
大量の受け手への、情報の同時発信を最初に可能にしたのは15世紀半ばのヨハネス・グーテンベルクによる活版印刷の発明である。グーテンベルクは活版印刷術を使い、世界初の近代的な出版物であるグーテンベルク聖書を完成させた。この活版印刷術は急速にヨーロッパに広まり、1480年ごろにはすでにヨーロッパの各地に印刷所が設立されていた。これにより出版が盛んになり、それまでに比べ非常に大量の書籍が発行されるようになった。またこの印刷の隆盛はパンフレット類の大量発行をも可能にし、この流れの中で15世紀末以降、不定期刊行の新聞が各地で発行されるようになった。こうした新聞は初期には何か大事件があった際にのみ発行される、いわゆる瓦版のようなものであったが、17世紀初頭には週刊化する新聞が出現し始めた。
こうして新聞が一般化した18世紀に入ると、アメリカ独立戦争やフランス革命などの市民革命が起きるようになるが、この過程で新聞は世論の形成に大きな役割を果たし、樹立された新政府においては自由権の一部として法的に言論の自由が認められるようになった。この言論の自由はのちにマスメディアの拠って立つ根幹となった。
欧米では、19世紀の産業革命による都市人口の増加や社会変化に伴い、新聞の大衆化が進んだ。同時期、印刷技術が長足の進歩を遂げたことで書籍の大量生産も可能になり、出版業もまた大衆化が進んでいった。
1876年に電話が発明されると、これを利用して不特定多数の利用者に情報や娯楽を提供するアイデアが生まれ、1879年にはすでに電話線を利用した放送が試みられていた。1893年にはオーストリア・ハンガリーのブダペストにおいて有線放送局が成立したものの、これはほとんど追随者を生まなかった。一方、1895年には、マルコーニが電波による無線通信の実験に成功し、1920年に世界最初の商業ラジオ局であるKDKAがアメリカ合衆国・ペンシルベニア州で開局した。1922年にはアメリカでラジオブームが起き、以後ラジオは急速に普及した。
ラジオは音声だけの放送であるため、これに加えて画像の送信をも可能とするテレビの開発が1920年代には世界各国で開始され、やがて1930年代には試験放送がはじまった。1950年代に入るとテレビはアメリカで急速に普及し、欧州諸国や日本などもすぐにこれに続いた。テレビはメディアの中でもっとも巨大なものとなり、20世紀後半の社会の在り方を大きく変えた。一方ラジオは1950年代中盤のトランジスタラジオの開発によって小型化が進み、電池の改良と相まってどこにでも携帯することが可能になったことで一定の地位を確保した。新聞・雑誌は放送メディアにくらべて速報性に劣り、広告の出稿などで徐々にテレビ優勢の状況が作られていったものの、テレビに次ぐ重要なマスメディアとしての地位を確保していた。
こうした状況は、1990年代後半あたりからのインターネット利用の普及で大幅に変化した。世界的なインターネット利用の急増に伴って、旧来のマスメディア各媒体の相対的位置付けの低下が徐々に進行している。日本を例にとれば、1995年から2010年にかけてインターネットの利用が激増する一方で、テレビ視聴時間は微減、新聞・ラジオ・雑誌は減少傾向にある。アメリカやヨーロッパにおいては特に従来の紙による新聞の販売が漸減しており、2009年ごろから新聞社の規模縮小や廃刊が続いている。
マスメディアの機能に関しては、多くの学者が分類を行っている。
ハロルド・ラスウェルはマスメディアの機能を、社会環境の現状や変化に対し情報を伝え警告を発する「環境の監視」、社会環境に関して構成員間の意見を整理し世論を形成させる「構成員の相互作用」、そして価値観や社会的規範、知識などを次の世代へと繋いでいく「社会的遺産の世代的伝達」の3つに分類した。
ウィルバー・シュラムは同様に、マスメディアの機能を「見張りの機能」、「討論の機能」、「教師の機能」の3つとした。
ロバート・キング・マートンとポール・フェリックス・ラザースフェルドは、マスメディアの機能を、人物や事象を社会的に認知させる「地位付与の機能」、道徳や法を人々に認知させ従わせる「社会規範の強制機能」、そして大量の情報によって人々の感覚を麻痺させ社会への関心をなくさせる「麻酔的悪作用」の3つであるとした。
マスメディアには様々な社会的意義が存在する。
特に政治において、マスメディアは大きな役割を持っている。政治におけるマスメディアの役割としては、自らの意思によって政治的な事実を報道・解説することによって、一般市民に政治的判断の基準を提供することがあげられる。この機能によって、18世紀末ごろには世論が明確に形成されるようになり、19世紀のヨーロッパにおける新聞をはじめとするマスメディアの発達は、ナショナリズムの成長や大衆の国民化へとつながり、国民の政治意識の向上と民主主義の発達をもたらした。こうした政治的機能の巨大さから、マスメディアは立法・司法・行政と並ぶ「第四の権力」と評されることも多い。
また、マスメディアの政治に対する影響は、それが政府や権力側を利するものであるという批判と、逆に少数派の意見をくみ取ることができるとする擁護論の双方が存在する。権力を監視し批判することこそマスメディアの使命であるとする考え(ウォッチドッグ機能)も存在するが、権力批判を至上命題とした場合ともすれば権力に従わない犯罪者をも擁護することになりかねず、善悪の転倒が起きる場合がある。政治家がマスメディアに向けて単純だがわかりやすいパフォーマンスを行い、選挙民がそれに強く影響される、いわゆるポピュリズムの問題も指摘されている。
民主国家のみならず独裁制においてもマスメディアは大きな役割を持ち、こうした独裁国家では政府に指導・統制されたマスメディアは情報操作により世論を政府寄りに保ち続ける社会統制のあからさまな道具となっている。なかでもファシズムにおいてはマスメディアは非常に重要な役割を持ち、ナチス・ドイツなどではマスメディア、特にラジオでのプロパガンダを通じて世論を操作した。ただし常にマスメディアが独裁国家に有利な役割を果たすとは限らず、逆に1970年代以降、発達したマスメディアから他国の政治情勢を入手することで国民の自国の政治体制に対する不満が高まり、連鎖的に民主化が起こることにもなった。
政治面に限らず、人々への情報提供そのものが社会的に非常に重要なものである。マスメディアによって供給される情報は一般の人々にとっても、また専門職の従事者にとってもこれからどのような行動をとるかの参考となる。
そのほか、マスメディアが供給するさまざまな娯楽も重要な意義のひとつである。映画やドラマ、スポーツの鑑賞などの直接的な娯楽のみならず、余暇やレジャーなどを楽しむための娯楽情報もマスメディアからは大量に発信されている。また、趣味や嗜好を満たすための文化や教養面の情報も発信され、教育的な機能も持っている。企業が自らの商品を売り込むための広告や、各団体が行う広報も、マスメディアでは大量に流される。こうしたマスメディアによる画一的で一方的な大量の情報の提供は、市民の受け取る情報を一様なものとすることで広汎な共通文化市場を生み出し、人々が広く愉しむ大衆文化を成立させた。人々が受け取る同一の情報はお互いの間に共通の話題を成立させ、またある対象に対する人気や、広告やCMと結びつくことで流行を生み出すこととなった。
マスメディアの収入源には大きく分けて、情報の発信側から受け取る広告料と、受け手に課金する料金(受信料、購読料など)、そして事業収入などのその他収入がある。この収入の割合はメディアによって異なり、たとえば日本においては新聞社は平均で販売収入が52.7%、広告収入が30.8%(2006年)となっており、どちらからも収入があるが販売収入の方がやや主となっている。これに対し、ヨーロッパやアメリカの新聞社の収入の8割は広告からのものとなっており、広告に依存する収入体系となっている。
新聞と異なり、放送は課金手段が様々ある。民間放送にも広告料での運営と受信料での運営の2形態があり、公共放送はBBCやNHKのように受信料のみで運営する局のほか、広告料と受信料の両方受け取る局、政府交付金を受ける局など、国によって収入源が異なる(公共放送の項参照)。衛星放送や有線放送の場合、ペイ・パー・ビュー方式などで視聴者に課金する局もある。
ネットの発達と利用者の増加で、既存メディアは広告や情報の受信手段としての役割をネットと競合するようになり、全体的なメディアの傾向として、収入は頭打ちか減少傾向にある。アメリカの新聞社では減少傾向が顕著で、ニューヨーク・タイムズは巨額の赤字を出し、本社社屋の売却などのリストラを進めているほか、2009年には、クリスチャン・サイエンス・モニター、シアトル・ポスト・インテリジェンサー、ロッキーマウンテン・ニュースが経営難で日刊紙の発行を取りやめた。
メディア産業は、出版がやや小規模の資本でも行えることを除けばいずれも巨大な資本を必要とするため、企業の大規模化が進んでいる。さらに大規模化した企業は同業他社の買収や系列化、他メディアへの進出、さらにはコンテンツ産業であるプロ野球(球団)やサッカー、所有不動産の賃貸、まったくの別分野である旅行会社やホテルなどへの多角化を行い、巨大なメディア・コングロマリットを形成しているところも多い。こうしたメディア・コングロマリットは経営の安定をもたらす一方で、メディアの寡占化が進み健全な言論空間の構築に悪影響をもたらす恐れがあるため、独占禁止法以外にもさまざまな規制が導入されている。一例として、日本の放送法93条においてはマスメディア集中排除原則が定められ、過度の系列化を禁じている。
以下、現代におけるマスメディアを媒体別に区分する。
もともと、マスメディアは「印刷媒体」と「非印刷媒体」に分けられる、とされている。広義のマスメディアには映画や音楽(レコード)、出版(書籍)全体を含むこともある。このなかでも影響力が強いテレビ・ラジオ・新聞・雑誌はマスコミ四媒体と呼ばれ、狭義においてマスメディアとはこの4つのメディアのことを指していた。
1990年代後半から普及したインターネットは既存のマスメディアの構造を大きく揺るがした。取材には資金と組織力が必要なこと、検証可能性の高さなどから、インターネット時代においても新聞社などマスコミ企業の優位性は変わらないという意見がある。一方、マスコミ企業は取材中心の通信社的な役割に縮小し、評論や世論形成はブログなど個人のウェブサイトやSNSなどが中心になるという見方もある(ソーシャルメディアという語も生まれている)。インターネット上の市民ジャーナリズムに期待する向きもあり、実際にいくつかのメディアが創刊されたものの利用が伸びず、2010年ごろには日本ではほとんどの市民メディアが閉鎖に追い込まれた。
マスメディアに対する外部からの干渉は古くから問題となっている。特に政府からの干渉は検閲や発行禁止など様々な形で行使されており、その干渉を禁じる形で制定されたものが表現の自由である。また、表現の自由や言論の自由に含まれる形で、報道の自由も保障されている。報道の自由には取材の自由や媒体の流通・頒布の自由が含まれている。しかし表現の自由が確立されたのちも、政府とマスメディアの間ではその自由の範囲をめぐってしばしば対立が起きている。軍事的・外交的なものを中心に重要事項がしばしば国家機密に指定される一方、情報公開法が制定され政府の公文書等が一般に公開されるよう定められている国家も多くなってきている。また、マスメディアの重要な職業倫理のひとつに取材源の秘匿が挙げられるが、刑事裁判においてはある程度の尊重はされるものの、どこまで認められるかについては議論がある。
一方で、世界に流れる情報の大部分を独占しているマスメディアはそれ自体が巨大な権力を握っていると言えるため、その情報伝達行為自体に問題が生じることも多い。
人権の侵害としては、名誉棄損やプライバシーの侵害、記者たちの取材マナーやモラルの欠けた過剰な取材、事件が起きた際に報道各社が関係者の元に殺到して人々の日常生活を脅かすメディアスクラムなどが挙げられる。犯罪の被害者や加害者に関しては、日本では20歳以下の少年に関しては少年法によって匿名での報道が法的に定められているものの、それ以外の場合は基本的に実名での報道が行われているが、こうした実名報道も重大な人権侵害につながるとされ、匿名での報道を求める声も上がっている。このほかにも、誤報や虚偽報道などのような正確性の問題、偏向報道や扇動のような公平性の問題など、報道倫理に反する事件がしばしば発生している。
また、マスメディアは送り手から一方的に受け手に情報を送るものであるため、受け手側に異論があってもそれをメディアへと反映させることは難しく、一方的な見方がそのまま押し付けられる場合が多い。この状況の是正のため、マスメディアの見解・批判に対して反論の機会提供を請求することの出来る反論権や、メディアに個人の意見を反映させる、いわゆるアクセス権といった、ともすれば一般市民から遊離しがちなマスメディアに民衆からの声を反映させる権利も提唱されている。
マスメディアは世界のほぼすべての国に存在するが、普及率は地域的に大きく差があり、アメリカやヨーロッパ諸国、日本といった先進諸国では普及率が高く、発展途上国ではあまり普及が進んでいなかった。しかし、発展途上国の経済成長によってその差は縮小しつつある。一例として、2000年ごろから経済成長の続くアジア、なかでもインドや中国で新聞販売数が増加し、2007年には新聞の発行部数の1位が中国、2位がインドとなった。
マスメディアの量的不均衡こそ縮小しつつあるものの、より大きな問題としては情報の流れの不均衡がある。世界のニュースの流れはアメリカのAP通信やイギリスのロイター、フランスのAFP通信といった巨大な国際通信社が握っており、アメリカやヨーロッパからの一方的な情報発信は発展途上国側から非難されてきた。セネガル出身のユネスコ事務総長だったアマドゥ・マハタール・ムボウは1970年代後半に「新世界情報秩序」を提唱してこの状況の是正を訴え、途上国から強い支持を得たものの、この議論の中で東側諸国がジャーナリストの認可制の導入を提唱したこともあって、先進国からは報道の自由を制限するものだとして強い反対の声が上がった。そしてこれを一番の原因として1984年にはアメリカが、次いで1985年にはイギリスおよびシンガポールがユネスコから脱退し、新世界情報秩序はほとんど実績を上げることができないまま立ち消えとなって、南北の情報格差は温存されたままとなった。
ボルチモア・サン紙の元記者、デイビッド・サイモンは、所詮インターネットに出ている情報は、既存メディアが流している情報をコピー&ペーストして、それに対し独自の意見を付け加えたものでしかなく、ネットのブロガーや市民記者は寄生虫のようなものだと指摘している。宿主となる既存メディアは、その寄生虫のため、自らの経営を蝕まれ、次第に一次的な情報を提供する既存メディアが弱体化し、社会に正確な情報が行き渡らなくなるという。サイモンは、そのためにも、既存メディアはネットでの情報発信を有料化するか、NPO化して市民の寄付などで経営を健全化していくべきだと主張している。
藤代裕之は、いくら個人メディアが増加しても、まとめサイトやネット上の事件を知らせるミドルメディアの登場が示しているように、人々が何を考えているのか情報を共有するマスメディアのようなメディアはなくならないと主張している。また藤代は、マスメディアが凋落してきても、社会の問題を掘り下げ、人々に伝えるという役割の重要性が低下するわけではなく、むしろ誰もが情報を発信でき、膨大なコンテンツが流通する時代になったからこそ、その人にしか表現できないコンテンツを作れる「プロ」と、重要な情報を選び出す「編集」の重要性が増すとも主張している。
『空気』を作って、社会的・政治的に相手を潰せるため『メディア自体が権力』との批判の声がある。 | [
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"text": "こうした状況は、1990年代後半あたりからのインターネット利用の普及で大幅に変化した。世界的なインターネット利用の急増に伴って、旧来のマスメディア各媒体の相対的位置付けの低下が徐々に進行している。日本を例にとれば、1995年から2010年にかけてインターネットの利用が激増する一方で、テレビ視聴時間は微減、新聞・ラジオ・雑誌は減少傾向にある。アメリカやヨーロッパにおいては特に従来の紙による新聞の販売が漸減しており、2009年ごろから新聞社の規模縮小や廃刊が続いている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 10,
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"text": "マスメディアの機能に関しては、多くの学者が分類を行っている。",
"title": "機能"
},
{
"paragraph_id": 11,
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"text": "ハロルド・ラスウェルはマスメディアの機能を、社会環境の現状や変化に対し情報を伝え警告を発する「環境の監視」、社会環境に関して構成員間の意見を整理し世論を形成させる「構成員の相互作用」、そして価値観や社会的規範、知識などを次の世代へと繋いでいく「社会的遺産の世代的伝達」の3つに分類した。",
"title": "機能"
},
{
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"text": "ウィルバー・シュラムは同様に、マスメディアの機能を「見張りの機能」、「討論の機能」、「教師の機能」の3つとした。",
"title": "機能"
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{
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"text": "ロバート・キング・マートンとポール・フェリックス・ラザースフェルドは、マスメディアの機能を、人物や事象を社会的に認知させる「地位付与の機能」、道徳や法を人々に認知させ従わせる「社会規範の強制機能」、そして大量の情報によって人々の感覚を麻痺させ社会への関心をなくさせる「麻酔的悪作用」の3つであるとした。",
"title": "機能"
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"text": "マスメディアには様々な社会的意義が存在する。",
"title": "意義"
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"text": "特に政治において、マスメディアは大きな役割を持っている。政治におけるマスメディアの役割としては、自らの意思によって政治的な事実を報道・解説することによって、一般市民に政治的判断の基準を提供することがあげられる。この機能によって、18世紀末ごろには世論が明確に形成されるようになり、19世紀のヨーロッパにおける新聞をはじめとするマスメディアの発達は、ナショナリズムの成長や大衆の国民化へとつながり、国民の政治意識の向上と民主主義の発達をもたらした。こうした政治的機能の巨大さから、マスメディアは立法・司法・行政と並ぶ「第四の権力」と評されることも多い。",
"title": "意義"
},
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"paragraph_id": 16,
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"text": "また、マスメディアの政治に対する影響は、それが政府や権力側を利するものであるという批判と、逆に少数派の意見をくみ取ることができるとする擁護論の双方が存在する。権力を監視し批判することこそマスメディアの使命であるとする考え(ウォッチドッグ機能)も存在するが、権力批判を至上命題とした場合ともすれば権力に従わない犯罪者をも擁護することになりかねず、善悪の転倒が起きる場合がある。政治家がマスメディアに向けて単純だがわかりやすいパフォーマンスを行い、選挙民がそれに強く影響される、いわゆるポピュリズムの問題も指摘されている。",
"title": "意義"
},
{
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"text": "民主国家のみならず独裁制においてもマスメディアは大きな役割を持ち、こうした独裁国家では政府に指導・統制されたマスメディアは情報操作により世論を政府寄りに保ち続ける社会統制のあからさまな道具となっている。なかでもファシズムにおいてはマスメディアは非常に重要な役割を持ち、ナチス・ドイツなどではマスメディア、特にラジオでのプロパガンダを通じて世論を操作した。ただし常にマスメディアが独裁国家に有利な役割を果たすとは限らず、逆に1970年代以降、発達したマスメディアから他国の政治情勢を入手することで国民の自国の政治体制に対する不満が高まり、連鎖的に民主化が起こることにもなった。",
"title": "意義"
},
{
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"text": "政治面に限らず、人々への情報提供そのものが社会的に非常に重要なものである。マスメディアによって供給される情報は一般の人々にとっても、また専門職の従事者にとってもこれからどのような行動をとるかの参考となる。",
"title": "意義"
},
{
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"tag": "p",
"text": "そのほか、マスメディアが供給するさまざまな娯楽も重要な意義のひとつである。映画やドラマ、スポーツの鑑賞などの直接的な娯楽のみならず、余暇やレジャーなどを楽しむための娯楽情報もマスメディアからは大量に発信されている。また、趣味や嗜好を満たすための文化や教養面の情報も発信され、教育的な機能も持っている。企業が自らの商品を売り込むための広告や、各団体が行う広報も、マスメディアでは大量に流される。こうしたマスメディアによる画一的で一方的な大量の情報の提供は、市民の受け取る情報を一様なものとすることで広汎な共通文化市場を生み出し、人々が広く愉しむ大衆文化を成立させた。人々が受け取る同一の情報はお互いの間に共通の話題を成立させ、またある対象に対する人気や、広告やCMと結びつくことで流行を生み出すこととなった。",
"title": "意義"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "マスメディアの収入源には大きく分けて、情報の発信側から受け取る広告料と、受け手に課金する料金(受信料、購読料など)、そして事業収入などのその他収入がある。この収入の割合はメディアによって異なり、たとえば日本においては新聞社は平均で販売収入が52.7%、広告収入が30.8%(2006年)となっており、どちらからも収入があるが販売収入の方がやや主となっている。これに対し、ヨーロッパやアメリカの新聞社の収入の8割は広告からのものとなっており、広告に依存する収入体系となっている。",
"title": "経営"
},
{
"paragraph_id": 21,
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"text": "新聞と異なり、放送は課金手段が様々ある。民間放送にも広告料での運営と受信料での運営の2形態があり、公共放送はBBCやNHKのように受信料のみで運営する局のほか、広告料と受信料の両方受け取る局、政府交付金を受ける局など、国によって収入源が異なる(公共放送の項参照)。衛星放送や有線放送の場合、ペイ・パー・ビュー方式などで視聴者に課金する局もある。",
"title": "経営"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "ネットの発達と利用者の増加で、既存メディアは広告や情報の受信手段としての役割をネットと競合するようになり、全体的なメディアの傾向として、収入は頭打ちか減少傾向にある。アメリカの新聞社では減少傾向が顕著で、ニューヨーク・タイムズは巨額の赤字を出し、本社社屋の売却などのリストラを進めているほか、2009年には、クリスチャン・サイエンス・モニター、シアトル・ポスト・インテリジェンサー、ロッキーマウンテン・ニュースが経営難で日刊紙の発行を取りやめた。",
"title": "経営"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "メディア産業は、出版がやや小規模の資本でも行えることを除けばいずれも巨大な資本を必要とするため、企業の大規模化が進んでいる。さらに大規模化した企業は同業他社の買収や系列化、他メディアへの進出、さらにはコンテンツ産業であるプロ野球(球団)やサッカー、所有不動産の賃貸、まったくの別分野である旅行会社やホテルなどへの多角化を行い、巨大なメディア・コングロマリットを形成しているところも多い。こうしたメディア・コングロマリットは経営の安定をもたらす一方で、メディアの寡占化が進み健全な言論空間の構築に悪影響をもたらす恐れがあるため、独占禁止法以外にもさまざまな規制が導入されている。一例として、日本の放送法93条においてはマスメディア集中排除原則が定められ、過度の系列化を禁じている。",
"title": "経営"
},
{
"paragraph_id": 24,
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"text": "以下、現代におけるマスメディアを媒体別に区分する。",
"title": "主なマスメディア"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "もともと、マスメディアは「印刷媒体」と「非印刷媒体」に分けられる、とされている。広義のマスメディアには映画や音楽(レコード)、出版(書籍)全体を含むこともある。このなかでも影響力が強いテレビ・ラジオ・新聞・雑誌はマスコミ四媒体と呼ばれ、狭義においてマスメディアとはこの4つのメディアのことを指していた。",
"title": "主なマスメディア"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "1990年代後半から普及したインターネットは既存のマスメディアの構造を大きく揺るがした。取材には資金と組織力が必要なこと、検証可能性の高さなどから、インターネット時代においても新聞社などマスコミ企業の優位性は変わらないという意見がある。一方、マスコミ企業は取材中心の通信社的な役割に縮小し、評論や世論形成はブログなど個人のウェブサイトやSNSなどが中心になるという見方もある(ソーシャルメディアという語も生まれている)。インターネット上の市民ジャーナリズムに期待する向きもあり、実際にいくつかのメディアが創刊されたものの利用が伸びず、2010年ごろには日本ではほとんどの市民メディアが閉鎖に追い込まれた。",
"title": "新しいマスメディア"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "マスメディアに対する外部からの干渉は古くから問題となっている。特に政府からの干渉は検閲や発行禁止など様々な形で行使されており、その干渉を禁じる形で制定されたものが表現の自由である。また、表現の自由や言論の自由に含まれる形で、報道の自由も保障されている。報道の自由には取材の自由や媒体の流通・頒布の自由が含まれている。しかし表現の自由が確立されたのちも、政府とマスメディアの間ではその自由の範囲をめぐってしばしば対立が起きている。軍事的・外交的なものを中心に重要事項がしばしば国家機密に指定される一方、情報公開法が制定され政府の公文書等が一般に公開されるよう定められている国家も多くなってきている。また、マスメディアの重要な職業倫理のひとつに取材源の秘匿が挙げられるが、刑事裁判においてはある程度の尊重はされるものの、どこまで認められるかについては議論がある。",
"title": "問題"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "一方で、世界に流れる情報の大部分を独占しているマスメディアはそれ自体が巨大な権力を握っていると言えるため、その情報伝達行為自体に問題が生じることも多い。",
"title": "問題"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "人権の侵害としては、名誉棄損やプライバシーの侵害、記者たちの取材マナーやモラルの欠けた過剰な取材、事件が起きた際に報道各社が関係者の元に殺到して人々の日常生活を脅かすメディアスクラムなどが挙げられる。犯罪の被害者や加害者に関しては、日本では20歳以下の少年に関しては少年法によって匿名での報道が法的に定められているものの、それ以外の場合は基本的に実名での報道が行われているが、こうした実名報道も重大な人権侵害につながるとされ、匿名での報道を求める声も上がっている。このほかにも、誤報や虚偽報道などのような正確性の問題、偏向報道や扇動のような公平性の問題など、報道倫理に反する事件がしばしば発生している。",
"title": "問題"
},
{
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"tag": "p",
"text": "また、マスメディアは送り手から一方的に受け手に情報を送るものであるため、受け手側に異論があってもそれをメディアへと反映させることは難しく、一方的な見方がそのまま押し付けられる場合が多い。この状況の是正のため、マスメディアの見解・批判に対して反論の機会提供を請求することの出来る反論権や、メディアに個人の意見を反映させる、いわゆるアクセス権といった、ともすれば一般市民から遊離しがちなマスメディアに民衆からの声を反映させる権利も提唱されている。",
"title": "問題"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "マスメディアは世界のほぼすべての国に存在するが、普及率は地域的に大きく差があり、アメリカやヨーロッパ諸国、日本といった先進諸国では普及率が高く、発展途上国ではあまり普及が進んでいなかった。しかし、発展途上国の経済成長によってその差は縮小しつつある。一例として、2000年ごろから経済成長の続くアジア、なかでもインドや中国で新聞販売数が増加し、2007年には新聞の発行部数の1位が中国、2位がインドとなった。",
"title": "問題"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "マスメディアの量的不均衡こそ縮小しつつあるものの、より大きな問題としては情報の流れの不均衡がある。世界のニュースの流れはアメリカのAP通信やイギリスのロイター、フランスのAFP通信といった巨大な国際通信社が握っており、アメリカやヨーロッパからの一方的な情報発信は発展途上国側から非難されてきた。セネガル出身のユネスコ事務総長だったアマドゥ・マハタール・ムボウは1970年代後半に「新世界情報秩序」を提唱してこの状況の是正を訴え、途上国から強い支持を得たものの、この議論の中で東側諸国がジャーナリストの認可制の導入を提唱したこともあって、先進国からは報道の自由を制限するものだとして強い反対の声が上がった。そしてこれを一番の原因として1984年にはアメリカが、次いで1985年にはイギリスおよびシンガポールがユネスコから脱退し、新世界情報秩序はほとんど実績を上げることができないまま立ち消えとなって、南北の情報格差は温存されたままとなった。",
"title": "問題"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "ボルチモア・サン紙の元記者、デイビッド・サイモンは、所詮インターネットに出ている情報は、既存メディアが流している情報をコピー&ペーストして、それに対し独自の意見を付け加えたものでしかなく、ネットのブロガーや市民記者は寄生虫のようなものだと指摘している。宿主となる既存メディアは、その寄生虫のため、自らの経営を蝕まれ、次第に一次的な情報を提供する既存メディアが弱体化し、社会に正確な情報が行き渡らなくなるという。サイモンは、そのためにも、既存メディアはネットでの情報発信を有料化するか、NPO化して市民の寄付などで経営を健全化していくべきだと主張している。",
"title": "マスメディアの将来"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "藤代裕之は、いくら個人メディアが増加しても、まとめサイトやネット上の事件を知らせるミドルメディアの登場が示しているように、人々が何を考えているのか情報を共有するマスメディアのようなメディアはなくならないと主張している。また藤代は、マスメディアが凋落してきても、社会の問題を掘り下げ、人々に伝えるという役割の重要性が低下するわけではなく、むしろ誰もが情報を発信でき、膨大なコンテンツが流通する時代になったからこそ、その人にしか表現できないコンテンツを作れる「プロ」と、重要な情報を選び出す「編集」の重要性が増すとも主張している。",
"title": "マスメディアの将来"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "『空気』を作って、社会的・政治的に相手を潰せるため『メディア自体が権力』との批判の声がある。",
"title": "マスメディアの将来"
}
] | マスメディアあるいは大衆媒体(たいしゅうばいたい)とは、マスコミュニケーションを可能とする媒体のことである。 | [[File:Shinkansen and Himeji Station M9 56.jpg|thumb|right|240 px|[[姫路駅]]の[[キヨスク]]。新聞は代表的なマスメディアのひとつである。]]
'''マスメディア'''(mass media)あるいは'''大衆媒体'''(たいしゅうばいたい)とは、[[マスコミュニケーション]]を可能とする[[メディア (媒体)|媒体]]のことである<ref name="kojien">広辞苑第七版「マス・メディア」</ref>。
== 概説 ==
[[File:Vintage Craig Multi-Band (AM-FM-SW) Portable Radio, Model 1306, Solid State, Made By Sanyo Electric Co. In Japan (15526624777).jpg|thumb|right|240px|古いラジオ受信機。ラジオは古い放送メディアである]]
[[File:Mirai LCD TV.JPG|thumb|right|240px|テレビ]]
マスメディアとは[[マスコミュニケーション]]を行うメディア(=媒体)のことであり、例えば[[新聞]]・[[出版]]・[[放送]]などを指す<ref name="kojien" />。[[ブリタニカ国際百科事典]]によると、新聞、[[テレビ]]、[[ラジオ]]、映画、[[雑誌]]などに代表される、受け手である大衆に対して公的・間接的・一方的に意味内容を伝達するような技術的道具や装置のことを言う<ref name="kb-brit">{{kotobank|マス・メディア|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}}</ref>。また「マスメディア」は、マスメディアを用いてマスコミュニケーションを行っている[[組織 (社会科学)|組織]]も含めて指すこともある。例えば[[新聞社]]、[[出版社]]、[[放送局]]([[テレビ局]]、[[ラジオ局]])などである。
なおマスコミュニケーションとは、大衆への大量の情報伝達を指す<ref>広辞苑第七版「マス・コミュニケーション」</ref>。が、日本では「マスコミュニケーション」の略語の「マスコミ」をマスメディアという意味でも用いることがある<ref>広辞苑第七版「マス・コミ」</ref>。なお、マスメディアのうち「新聞」や「放送」ならびに「雑誌」は、「[[報道]]」や「[[ジャーナリズム]]」と言い換えられたり、'''マスニュースメディア''' (mass news media) と呼ばれることがある。「マス(mass)」という語は多義的で、もともと、大量(のモノ、コト)や大勢の人々を意味し、群衆などの意味もあるが、辞書などのマスメディアに関する説明では、「[[大衆]]」や「大量」の意味だとされることが多い。
現代のマスメディアがどのような状態かというと、[[資本主義]]社会においてはマスメディアの大多数が[[営利企業]]としていとなまれており、その結果、[[利潤]]の獲得や経営の安定が優先される傾向があり、伝達される内容が低俗化・画一化する傾向がある。一方、[[社会主義]]社会においては政府や[[一党独裁|支配政党]]の方針によって[[検閲|伝達される内容が編集される]]状態になる<ref name="kb-brit" />{{efn|マスメディアは正確な内容を伝えているとは限らない。内容は正しいこともあれば誤っていることもある。「マスメディア」は定義のとおり、あくまで、大衆に対して大量に伝えている、というだけである。}}。
== 歴史 ==
[[File:Press1520.png|thumb|right|240px|1520年ごろの活版印刷]]
大量の受け手への、情報の同時発信を最初に可能にしたのは15世紀半ばの[[ヨハネス・グーテンベルク]]による[[活版印刷]]の発明である。グーテンベルクは活版印刷術を使い、世界初の近代的な出版物である[[グーテンベルク聖書]]を完成させた。この活版印刷術は急速にヨーロッパに広まり、[[1480年]]ごろにはすでにヨーロッパの各地に印刷所が設立されていた<ref>「図説 本の歴史」p46 樺山紘一編 河出書房新社 2011年7月30日初版発行</ref>。これにより出版が盛んになり、それまでに比べ非常に大量の書籍が発行されるようになった。またこの印刷の隆盛はパンフレット類の大量発行をも可能にし、この流れの中で15世紀末以降、不定期刊行の新聞が各地で発行されるようになった。こうした新聞は初期には何か大事件があった際にのみ発行される、いわゆる瓦版のようなものであったが、17世紀初頭には週刊化する新聞が出現し始めた。
こうして新聞が一般化した18世紀に入ると、[[アメリカ独立戦争]]や[[フランス革命]]などの[[市民革命]]が起きるようになるが、この過程で新聞は世論の形成に大きな役割を果たし、樹立された新政府においては[[自由権]]の一部として法的に[[言論の自由]]が認められるようになった<ref>「歴史の中の新聞 世界と日本」門奈直樹 p14(「新聞学」所収)日本評論社 2009年5月20日新訂第4版第1刷</ref>。この言論の自由はのちにマスメディアの拠って立つ根幹となった。
欧米では、19世紀の[[産業革命]]による都市人口の増加や社会変化に伴い、新聞の大衆化が進んだ<ref>「ジャーナリズムの社会的意義と新しいメディア」鈴木謙介 p131(「新聞学」所収)日本評論社 2009年5月20日新訂第4版第1刷</ref>。同時期、印刷技術が長足の進歩を遂げたことで書籍の大量生産も可能になり、出版業もまた大衆化が進んでいった<ref>「出版メディアの変遷」p147 長谷川一(「新 現代マスコミ論のポイント」所収)天野勝文・松岡新兒・植田康夫編著 学文社 2004年4月10日第一版第一刷</ref>。
[[1876年]]に[[電話]]が発明されると、これを利用して不特定多数の利用者に情報や娯楽を提供するアイデアが生まれ、[[1879年]]にはすでに電話線を利用した[[放送]]が試みられていた<ref>「無線通信の世界」スティーヴン・カーン(「歴史の中のコミュニケーション メディア革命の社会文化史」所収)p253 デイヴィッド・クロウリー、ポール・ヘイヤー編 林進・大久保公雄訳 新曜社 1995年4月20日初版第1刷</ref>。[[1893年]]には[[オーストリア・ハンガリー]]の[[ブダペスト]]において有線放送局が成立したものの、これはほとんど追随者を生まなかった<ref>「初期の電話利用」キャロライン・マーヴィン(「歴史の中のコミュニケーション メディア革命の社会文化史」所収)p191-198 デイヴィッド・クロウリー、ポール・ヘイヤー編 林進・大久保公雄訳 新曜社 1995年4月20日初版第1刷</ref>。一方、[[1895年]]には、[[グリエルモ・マルコーニ|マルコーニ]]が電波による[[無線通信]]の実験に成功し、[[1920年]]に世界最初の商業ラジオ局であるKDKAがアメリカ合衆国・ペンシルベニア州で開局した<ref>「メディアと日本人」p14 橋元良明 岩波新書 2011年3月18日第1刷</ref>。[[1922年]]には[[アメリカ]]でラジオブームが起き、以後ラジオは急速に普及した<ref>「放送の始まり」スーザン・J・ダグラス(「歴史の中のコミュニケーション メディア革命の社会文化史」所収)p256-257 デイヴィッド・クロウリー、ポール・ヘイヤー編 林進・大久保公雄訳 新曜社 1995年4月20日初版第1刷</ref>。
ラジオは音声だけの放送であるため、これに加えて画像の送信をも可能とする[[テレビ]]の開発が1920年代には世界各国で開始され、やがて1930年代には試験放送がはじまった。1950年代に入るとテレビはアメリカで急速に普及し<ref>「テレビと社会」レイモンド・ウィリアムズ(「歴史の中のコミュニケーション メディア革命の社会文化史」所収)p290 デイヴィッド・クロウリー、ポール・ヘイヤー編 林進・大久保公雄訳 新曜社 1995年4月20日初版第1刷</ref>、欧州諸国や日本などもすぐにこれに続いた。テレビはメディアの中でもっとも巨大なものとなり、20世紀後半の社会の在り方を大きく変えた<ref>「メディア学の現在 新版」p17 山口功二・渡辺武達・岡満男編 世界思想社 2001年4月20日第1刷</ref>。一方ラジオは1950年代中盤の[[トランジスタラジオ]]の開発によって小型化が進み、[[電池]]の改良と相まってどこにでも携帯することが可能になった<ref>「日用品の文化誌」p149 柏木博 岩波書店 1999年6月21日第1刷</ref>ことで一定の地位を確保した。新聞・雑誌は放送メディアにくらべて速報性に劣り<ref>「メディア激震 グローバル化とIT革命の中で」p18 古賀純一郎 NTT出版 2009年7月2日初版第1刷</ref>、広告の出稿などで徐々にテレビ優勢の状況が作られていった<ref>「メディア学の現在 新版」p45 山口功二・渡辺武達・岡満男編 世界思想社 2001年4月20日第1刷</ref>ものの、テレビに次ぐ重要なマスメディアとしての地位を確保していた。
こうした状況は、[[1990年代]]後半あたりからの[[インターネット]]利用の普及で大幅に変化した。世界的なインターネット利用の急増に伴って、旧来のマスメディア各媒体の相対的位置付けの低下が徐々に進行している。日本を例にとれば、1995年から2010年にかけてインターネットの利用が激増する<ref>「メディアと日本人」p70-71 橋元良明 岩波新書 2011年3月18日第1刷</ref>一方で、テレビ視聴時間は微減<ref>「メディアと日本人」p54 橋元良明 岩波新書 2011年3月18日第1刷</ref>、新聞<ref>「メディアと日本人」p64 橋元良明 岩波新書 2011年3月18日第1刷</ref>・ラジオ<ref>「メディアと日本人」p79 橋元良明 岩波新書 2011年3月18日第1刷</ref>・雑誌<ref>「メディアと日本人」p87 橋元良明 岩波新書 2011年3月18日第1刷</ref>は減少傾向にある。アメリカやヨーロッパにおいては特に従来の紙による新聞の販売が漸減しており、2009年ごろから新聞社の規模縮小や廃刊が続いている<ref name="名前なし-1">「メディアとジャーナリズムの理論 基礎理論から実践的なジャーナリズム論へ」p210 仲川秀樹・塚越孝著 同友館 2011年8月22日</ref>。
== 機能 ==
マスメディアの機能に関しては、多くの学者が分類を行っている。
[[ハロルド・ラスウェル]]はマスメディアの機能を、社会環境の現状や変化に対し情報を伝え警告を発する「環境の監視」、社会環境に関して構成員間の意見を整理し世論を形成させる「構成員の相互作用」、そして価値観や社会的規範、知識などを次の世代へと繋いでいく「社会的遺産の世代的伝達」の3つに分類した<ref>「メディアとジャーナリズムの理論 基礎理論から実践的なジャーナリズム論へ」p69-71 仲川秀樹・塚越孝著 同友館 2011年8月22日</ref><ref>「新版 マス・コミュニケーション概論」p28-29 清水英夫・林伸郎・武市英雄・山田健太著 学陽書房 2009年5月15日新版初版発行</ref>。
[[ウィルバー・シュラム]]は同様に、マスメディアの機能を「見張りの機能」、「討論の機能」、「教師の機能」の3つとした<ref>「メディアとジャーナリズムの理論 基礎理論から実践的なジャーナリズム論へ」p71-72 仲川秀樹・塚越孝著 同友館 2011年8月22日</ref>。
[[ロバート・キング・マートン]]と[[ポール・ラザースフェルド|ポール・フェリックス・ラザースフェルド]]は、マスメディアの機能を、人物や事象を社会的に認知させる「地位付与の機能」、道徳や法を人々に認知させ従わせる「社会規範の強制機能」、そして大量の情報によって人々の感覚を麻痺させ社会への関心をなくさせる「麻酔的悪作用」の3つであるとした<ref>「メディアとジャーナリズムの理論 基礎理論から実践的なジャーナリズム論へ」p76-78 仲川秀樹・塚越孝著 同友館 2011年8月22日</ref><ref>「新版 マス・コミュニケーション概論」p29-31 清水英夫・林伸郎・武市英雄・山田健太著 学陽書房 2009年5月15日新版初版発行</ref>。
== 意義 ==
マスメディアには様々な社会的意義が存在する。
=== 政治面 ===
特に政治において、マスメディアは大きな役割を持っている。政治におけるマスメディアの役割としては、自らの意思によって政治的な事実を報道・解説することによって、一般市民に政治的判断の基準を提供することがあげられる<ref name="名前なし-2">「現代政治学 第3版」p106 加茂利男・大西仁・石田徹・伊東恭彦著 有斐閣 2007年9月30日第3版第1刷</ref><ref>「ポリティカル・サイエンス事始め 第3版」p46 伊藤光利編 有斐閣 2011年7月20日第3版第4刷発行</ref>。この機能によって、18世紀末ごろには[[世論]]が明確に形成されるようになり<ref>「メディアの歴史 ビッグバンからインターネットまで」p193-194 ヨッヘン・ヘーリッシュ 川島建太郎・津﨑正行・林志津江訳 法政大学出版局 2017年2月6日初版第1刷</ref>、19世紀のヨーロッパにおける新聞をはじめとするマスメディアの発達は、[[ナショナリズム]]の成長や大衆の[[国民]]化へとつながり、国民の政治意識の向上と[[民主主義]]の発達をもたらした<ref>「ナショナリズム 1890-1940」 p60 オリヴァー・ジマー 福井憲彦訳 岩波書店 2009年8月27日第1刷</ref>。こうした政治的機能の巨大さから、マスメディアは[[立法]]・[[司法]]・[[行政]]と並ぶ「第四の権力」と評されることも多い<ref name="名前なし-2"/>。
また、マスメディアの政治に対する影響は、それが政府や権力側を利するものであるという批判と、逆に少数派の意見をくみ取ることができるとする擁護論の双方が存在する<ref>「現代政治学 第3版」p106-107 加茂利男・大西仁・石田徹・伊東恭彦著 有斐閣 2007年9月30日第3版第1刷</ref>。権力を監視し批判することこそマスメディアの使命であるとする考え(ウォッチドッグ機能)も存在するが、権力批判を至上命題とした場合ともすれば権力に従わない犯罪者をも擁護することになりかねず、善悪の転倒が起きる場合がある<ref>「メディア学の現在 新版」p270-271 山口功二・渡辺武達・岡満男編 世界思想社 2001年4月20日第1刷</ref>。政治家がマスメディアに向けて単純だがわかりやすいパフォーマンスを行い、選挙民がそれに強く影響される、いわゆる[[ポピュリズム]]の問題も指摘されている<ref>「現代政治学 第3版」p143 加茂利男・大西仁・石田徹・伊東恭彦著 有斐閣 2007年9月30日第3版第1刷</ref>。
民主国家のみならず[[独裁制]]においてもマスメディアは大きな役割を持ち、こうした[[独裁国家]]では政府に指導・統制されたマスメディアは[[情報操作]]により世論を政府寄りに保ち続ける社会統制のあからさまな道具となっている。なかでも[[ファシズム]]においてはマスメディアは非常に重要な役割を持ち、[[ナチス・ドイツ]]などではマスメディア、特にラジオでの[[プロパガンダ]]を通じて世論を操作した<ref>「メディアと日本人」p101-102 橋元良明 岩波新書 2011年3月18日第1刷</ref>。ただし常にマスメディアが独裁国家に有利な役割を果たすとは限らず、逆に1970年代以降、発達したマスメディアから他国の政治情勢を入手することで国民の自国の政治体制に対する不満が高まり、連鎖的に[[民主化]]が起こることにもなった<ref>「現代政治学 第3版」p52-54 加茂利男・大西仁・石田徹・伊東恭彦著 有斐閣 2007年9月30日第3版第1刷</ref>。
=== その他 ===
政治面に限らず、人々への情報提供そのものが社会的に非常に重要なものである。マスメディアによって供給される情報は一般の人々にとっても、また専門職の従事者にとってもこれからどのような行動をとるかの参考となる<ref name="名前なし-3">「新版 マス・コミュニケーション概論」p31 清水英夫・林伸郎・武市英雄・山田健太著 学陽書房 2009年5月15日新版初版発行</ref>。
そのほか、マスメディアが供給するさまざまな[[娯楽]]も重要な意義のひとつである。[[映画]]や[[ドラマ]]、[[スポーツ]]の鑑賞などの直接的な娯楽のみならず、余暇やレジャーなどを楽しむための娯楽情報もマスメディアからは大量に発信されている。また、趣味や嗜好を満たすための文化や教養面の情報も発信され、教育的な機能も持っている。[[企業]]が自らの商品を売り込むための[[広告]]や、各団体が行う[[広報]]も、マスメディアでは大量に流される<ref>「メディアとジャーナリズムの理論 基礎理論から実践的なジャーナリズム論へ」p79 仲川秀樹・塚越孝著 同友館 2011年8月22日</ref>。こうしたマスメディアによる画一的で一方的な大量の情報の提供は、市民の受け取る情報を一様なものとすることで広汎な共通文化市場を生み出し、人々が広く愉しむ[[大衆文化]]を成立させた<ref>「環境になったメディア マスメディアは社会をどう変えているか」p98 藤竹暁 北樹出版 2004年3月25日初版第1刷</ref>。人々が受け取る同一の情報はお互いの間に共通の話題を成立させ<ref name="名前なし-3"/>、またある対象に対する[[人気]]や、広告や[[CM]]と結びつくことで[[流行]]を生み出すこととなった<ref>「環境になったメディア マスメディアは社会をどう変えているか」p135-141 藤竹暁 北樹出版 2004年3月25日初版第1刷</ref>。
== 経営 ==
[[File:NHK Broadcasting Center 2016.jpg|thumb|right|240px|[[NHK放送センター]]。NHKは受信料で運営される]]
マスメディアの収入源には大きく分けて、情報の発信側から受け取る広告料と、受け手に課金する料金([[受信料]]、購読料など)、そして事業収入などのその他収入がある。この収入の割合はメディアによって異なり、たとえば日本においては新聞社は平均で販売収入が52.7%、広告収入が30.8%(2006年)となっており、どちらからも収入があるが販売収入の方がやや主となっている<ref>「新版 マス・コミュニケーション概論」p107-109 清水英夫・林伸郎・武市英雄・山田健太著 学陽書房 2009年5月15日新版初版発行</ref>。これに対し、ヨーロッパやアメリカの新聞社の収入の8割は広告からのものとなっており、広告に依存する収入体系となっている<ref>「メディア激震 グローバル化とIT革命の中で」p273 古賀純一郎 NTT出版 2009年7月2日初版第1刷</ref>。
新聞と異なり、放送は課金手段が様々ある。[[民間放送]]にも広告料での運営と受信料での運営の2形態があり、[[公共放送]]はBBCやNHKのように受信料のみで運営する局のほか、広告料と受信料の両方受け取る局、政府交付金を受ける局など、国によって収入源が異なる<ref>「放送産業の構造と特質」p105 伊豫田康弘(「新 現代マスコミ論のポイント」所収)天野勝文・松岡新兒・植田康夫編著 学文社 2004年4月10日第一版第一刷</ref>(公共放送の項参照)。[[衛星放送]]や[[有線テレビジョン放送|有線放送]]の場合、[[ペイ・パー・ビュー]]方式などで視聴者に課金する局もある<ref>https://www.kddi.com/yogo/%E9%80%9A%E4%BF%A1%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%93%E3%82%B9/PPV.html 「PPVの概要」KDDI株式会社 2017年05月11日 2019年3月17日閲覧</ref>。
ネットの発達と利用者の増加で、既存メディアは広告や情報の受信手段としての役割をネットと競合するようになり<ref>{{Cite web|和書
|date=2008-07-08
|url=http://japan.internet.com/wmnews/20080708/8.html
|title=1日のメディア接触総時間は、約5時間20分…博報堂 DY が発表
|work=japan.internet.com
|publisher=インターネットコム
|accessdate=2009-09-23
}}</ref>、全体的なメディアの傾向として、収入は頭打ちか減少傾向にある<ref>{{Cite web|和書
|url=http://www.dentsu.co.jp/marketing/adex/adex2008/_outline.html
|title=2008年日本の広告費
|work=出版・研究データ
|publisher=電通
|accessdate=2009-09-23
}}</ref><ref>『新聞学』 291頁。(主要放送局については各社決算報告を参照)。</ref>。アメリカの新聞社では減少傾向が顕著で、[[ニューヨーク・タイムズ]]は巨額の赤字を出し、本社社屋の売却などのリストラを進めている<ref name="名前なし-1"/>ほか、[[2009年]]には、[[クリスチャン・サイエンス・モニター]]<ref name="名前なし-1"/>、シアトル・ポスト・インテリジェンサー、ロッキーマウンテン・ニュースが経営難で日刊紙の発行を取りやめた。
メディア産業は、出版がやや小規模の資本でも行えることを除けばいずれも巨大な資本を必要とするため、企業の大規模化が進んでいる<ref>「新版 マス・コミュニケーション概論」p101-103 清水英夫・林伸郎・武市英雄・山田健太著 学陽書房 2009年5月15日新版初版発行</ref>。さらに大規模化した企業は同業他社の買収や系列化、他メディアへの進出、さらにはコンテンツ産業である[[プロ野球]]([[球団]])や[[サッカー]]、所有[[不動産]]の賃貸、まったくの別分野である[[旅行会社]]や[[ホテル]]などへの[[多角化]]を行い、巨大な[[メディア・コングロマリット]]を形成しているところも多い<ref>「新版 マス・コミュニケーション概論」p104-106 清水英夫・林伸郎・武市英雄・山田健太著 学陽書房 2009年5月15日新版初版発行</ref>。こうしたメディア・コングロマリットは経営の安定をもたらす一方で、メディアの[[寡占]]化が進み健全な言論空間の構築に悪影響をもたらす恐れがあるため、[[独占禁止法]]以外にもさまざまな規制が導入されている。一例として、日本の[[放送法]]93条においては[[マスメディア集中排除原則]]が定められ、過度の系列化を禁じている<ref>「よくわかるメディア法 第2版」p228-229 鈴木秀美・山田健太編著 ミネルヴァ書房 2019年5月30日第2版第1刷発行</ref>。
== 主なマスメディア ==
以下、現代におけるマスメディアを媒体別に区分する。
=== 電波を媒体とするマスメディア ===
*[[テレビ]]
*[[ラジオ]]
*[[携帯電話]]
=== 紙を媒体とするマスメディア ===
*[[新聞]]
*[[雑誌]](特に[[週刊誌]])
*[[フリーペーパー]]
=== その他のマスメディア ===
*[[インターネット]]
**[[インターネット放送]]
**[[ニュースサイト]]
**[[動画共有サービス]]
**[[電子掲示板]]
**[[ブログ]]
もともと、マスメディアは「[[印刷]]媒体」と「非印刷媒体」に分けられる、とされている<ref name="kb-brit" />。広義のマスメディアには[[映画]]や[[音楽]]([[レコード]])、[[出版]]([[書籍]])全体を含むこともある。このなかでも影響力が強いテレビ・ラジオ・新聞・雑誌は[[マスコミ四媒体]]と呼ばれ、狭義においてマスメディアとはこの4つのメディアのことを指していた<ref>「メディアとジャーナリズムの理論 基礎理論から実践的なジャーナリズム論へ」p14 仲川秀樹・塚越孝著 同友館 2011年8月22日</ref>。
== 新しいマスメディア ==
1990年代後半から普及したインターネットは既存のマスメディアの構造を大きく揺るがした。取材には資金と組織力が必要なこと、[[Wikipedia:検証可能性|検証可能性]]の高さなどから、インターネット時代においても新聞社などマスコミ企業の優位性は変わらないという意見がある。一方、マスコミ企業は取材中心の[[通信社]]的な役割に縮小し、評論や世論形成は[[ブログ]]など個人のウェブサイトや[[ソーシャル・ネットワーク・サービス|SNS]]などが中心になるという見方もある([[ソーシャルメディア]]という語も生まれている){{efn|雑誌への投稿は編集部の選別を通る必要があるため一定水準以上の文章を書かなけければいけないという規範が読者に植えつけられるが、SNSは自由気ままに書けるため質が低くなりがちでそれが世論形成にマイナスの影響を与えるという指摘もある{{sfn|福間|2017|pp=315-317}}。}}。インターネット上の[[市民ジャーナリズム]]に期待する向きもあり、実際にいくつかのメディアが創刊されたものの利用が伸びず、[[2010年]]ごろには日本ではほとんどの市民メディアが閉鎖に追い込まれた<ref>https://www.nikkei.com/article/DGXBZO04115930V10C10A3000001/ 「「市民メディア」の失敗をマスメディアは教訓にできるか」藤代裕之 日本経済新聞 2010/3/12 2019年3月21日閲覧</ref>。
== 問題 ==
=== 外部からの干渉 ===
マスメディアに対する外部からの干渉は古くから問題となっている。特に政府からの干渉は[[検閲]]や発行禁止など様々な形で行使されており、その干渉を禁じる形で制定されたものが[[表現の自由]]である<ref>「新版 マス・コミュニケーション概論」p171-174 清水英夫・林伸郎・武市英雄・山田健太著 学陽書房 2009年5月15日新版初版発行</ref>。また、表現の自由や言論の自由に含まれる形で、[[報道の自由]]も保障されている。報道の自由には取材の自由や媒体の流通・頒布の自由が含まれている<ref>「新版 マス・コミュニケーション概論」p187 清水英夫・林伸郎・武市英雄・山田健太著 学陽書房 2009年5月15日新版初版発行</ref>。しかし表現の自由が確立されたのちも、政府とマスメディアの間ではその自由の範囲をめぐってしばしば対立が起きている<ref>「新版 マス・コミュニケーション概論」p183-184 清水英夫・林伸郎・武市英雄・山田健太著 学陽書房 2009年5月15日新版初版発行</ref>。軍事的・外交的なものを中心に重要事項がしばしば[[国家機密]]に指定される<ref>「新版 マス・コミュニケーション概論」p184 清水英夫・林伸郎・武市英雄・山田健太著 学陽書房 2009年5月15日新版初版発行</ref>一方、[[情報公開]]法が制定され政府の[[公文書]]等が一般に公開されるよう定められている国家も多くなってきている<ref>「新版 マス・コミュニケーション概論」p189-190 清水英夫・林伸郎・武市英雄・山田健太著 学陽書房 2009年5月15日新版初版発行</ref>。また、マスメディアの重要な職業倫理のひとつに取材源の秘匿が挙げられるが、刑事裁判においてはある程度の尊重はされるものの、どこまで認められるかについては議論がある<ref>「新版 マス・コミュニケーション概論」p187-188 清水英夫・林伸郎・武市英雄・山田健太著 学陽書房 2009年5月15日新版初版発行</ref>。
=== 報道倫理 ===
一方で、世界に流れる情報の大部分を独占しているマスメディアはそれ自体が巨大な権力を握っていると言える<ref>「新版 マス・コミュニケーション概論」p191 清水英夫・林伸郎・武市英雄・山田健太著 学陽書房 2009年5月15日新版初版発行</ref>ため、その情報伝達行為自体に問題が生じることも多い。
[[人権]]の侵害としては、[[名誉棄損]]や[[プライバシー]]の侵害、記者たちの取材マナーやモラルの欠けた過剰な取材、事件が起きた際に報道各社が関係者の元に殺到して人々の日常生活を脅かす[[メディアスクラム]]などが挙げられる<ref>『新訂 新聞学』 p185-186 桂敬一・田島泰彦・浜田純一編著 日本評論社 2009年5月20日新訂第1刷</ref>。犯罪の被害者や加害者に関しては、日本では20歳以下の少年に関しては[[少年法]]によって匿名での報道が法的に定められているものの、それ以外の場合は基本的に実名での報道が行われているが、こうした[[実名報道]]も重大な人権侵害につながるとされ、匿名での報道を求める声も上がっている<ref>「メディア学の現在 新版」p177-178 山口功二・渡辺武達・岡満男編 世界思想社 2001年4月20日第1刷</ref>。このほかにも、[[誤報]]や[[虚偽報道]]などのような正確性の問題、[[偏向報道]]や[[扇動]]のような公平性の問題など、[[報道倫理]]に反する事件がしばしば発生している<ref>「新版 マス・コミュニケーション概論」p191-198 清水英夫・林伸郎・武市英雄・山田健太著 学陽書房 2009年5月15日新版初版発行</ref>。
また、マスメディアは送り手から一方的に受け手に情報を送るものであるため、受け手側に異論があってもそれをメディアへと反映させることは難しく、一方的な見方がそのまま押し付けられる場合が多い。この状況の是正のため、マスメディアの見解・批判に対して反論の機会提供を請求することの出来る[[反論権]]や、メディアに個人の意見を反映させる、いわゆる[[アクセス権 (知る権利)|アクセス権]]といった、ともすれば一般市民から遊離しがちなマスメディアに民衆からの声を反映させる権利も提唱されている<ref>「メディア学の現在 新版」p280 山口功二・渡辺武達・岡満男編 世界思想社 2001年4月20日第1刷</ref>。
=== 地域的不均衡 ===
マスメディアは世界のほぼすべての国に存在するが、普及率は地域的に大きく差があり、アメリカやヨーロッパ諸国、日本といった先進諸国では普及率が高く、発展途上国ではあまり普及が進んでいなかった<ref>「新版 マス・コミュニケーション概論」p204-206 清水英夫・林伸郎・武市英雄・山田健太著 学陽書房 2009年5月15日新版初版発行</ref>。しかし、発展途上国の経済成長によってその差は縮小しつつある。一例として、2000年ごろから経済成長の続くアジア、なかでも[[インド]]や[[中国]]で新聞販売数が増加し、[[2007年]]には新聞の発行部数の1位が中国、2位がインドとなった<ref>「メディア激震 グローバル化とIT革命の中で」p44 古賀純一郎 NTT出版 2009年7月2日初版第1刷</ref>。
マスメディアの量的不均衡こそ縮小しつつあるものの、より大きな問題としては情報の流れの不均衡がある。世界のニュースの流れはアメリカの[[AP通信]]やイギリスの[[ロイター]]、フランスの[[AFP通信]]といった巨大な国際[[通信社]]が握っており、アメリカやヨーロッパからの一方的な情報発信は発展途上国側から非難されてきた<ref>「新版 マス・コミュニケーション概論」p207 清水英夫・林伸郎・武市英雄・山田健太著 学陽書房 2009年5月15日新版初版発行</ref>。[[セネガル]]出身の[[ユネスコ]]事務総長だった[[アマドゥ・マハタール・ムボウ]]は1970年代後半に「新世界情報秩序」を提唱してこの状況の是正を訴え、途上国から強い支持を得たものの、この議論の中で東側諸国がジャーナリストの認可制の導入を提唱したこともあって、先進国からは報道の自由を制限するものだとして強い反対の声が上がった<ref>「世界地理大百科事典1 国際連合」p318 2000年2月1日初版第1刷 朝倉書店</ref>。そしてこれを一番の原因として[[1984年]]にはアメリカが、次いで[[1985年]]にはイギリスおよび[[シンガポール]]がユネスコから脱退し<ref>「世界地理大百科事典1 国際連合」p310 2000年2月1日初版第1刷 朝倉書店</ref>、新世界情報秩序はほとんど実績を上げることができないまま立ち消えとなって、南北の情報格差は温存されたままとなった<ref>「新版 マス・コミュニケーション概論」p208 清水英夫・林伸郎・武市英雄・山田健太著 学陽書房 2009年5月15日新版初版発行</ref>。
== マスメディアの将来 ==
ボルチモア・サン紙の元記者、デイビッド・サイモンは、所詮インターネットに出ている情報は、既存メディアが流している情報をコピー&ペーストして、それに対し独自の意見を付け加えたものでしかなく、ネットのブロガーや市民記者は寄生虫のようなものだと指摘している。宿主となる既存メディアは、その寄生虫のため、自らの経営を蝕まれ、次第に一次的な情報を提供する既存メディアが弱体化し、社会に正確な情報が行き渡らなくなるという。サイモンは、そのためにも、既存メディアはネットでの情報発信を有料化するか、NPO化して市民の寄付などで経営を健全化していくべきだと主張している<ref>{{cite news
|author = 海形マサシ
|url = http://www.news.janjan.jp/media/0909/0909210573/1.php
|title = ネットメディアはどうやったら生き残れるか
|work = JanJanオムニバス
|publisher = [[JANJAN]]
|date = 2009-09-23
|accessdate = 2009-09-23
}}</ref>。
[[藤代裕之]]は、いくら個人メディアが増加しても、まとめサイトやネット上の事件を知らせる[[ミドルメディア]]の登場が示しているように、人々が何を考えているのか情報を共有するマスメディアのようなメディアはなくならないと主張している<ref>{{cite news
|author = 藤代裕之
|url = http://it.nikkei.co.jp/internet/column/gatoh.aspx?n=MMIT11000011072008
|title = 大量販売モデルにこだわるニュースメディアの落とし穴
|work = ガ島流ネット社会学
|publisher = [[日本経済新聞]]
|date = 2008-07-11
|accessdate = 2008-12-30
}}</ref>{{efn|しかし既存メディアは双方向ではなく一方的な報道のため、大衆の意見はこうであろうというマスコミの独断にもとづく視点であり、かならずしも人々が何を考えているのか情報を共有するものではない。}}。また藤代は、マスメディアが凋落してきても、社会の問題を掘り下げ、人々に伝えるという役割の重要性が低下するわけではなく、むしろ誰もが情報を発信でき、膨大なコンテンツが流通する時代になったからこそ、その人にしか表現できないコンテンツを作れる「プロ」と、重要な情報を選び出す「編集」の重要性が増すとも主張している<ref>{{cite news
|author = 藤代裕之
|url = http://it.nikkei.co.jp/internet/column/gatoh.aspx?n=MMIT11000025122008
|title = 異例の引き抜き人事にみる大新聞の危機感
|work = ガ島流ネット社会学
|publisher = 日本経済新聞
|date = 2008-12-26
|accessdate = 2008-12-30
|language =
}}</ref>。
『空気』を作って、社会的・政治的に相手を潰せるため『メディア自体が権力』との批判の声がある<ref>[https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180106-00054068-gendaibiz-bus_all&p=2 小泉進次郎が今年から新聞を読むのをやめた理由(現代ビジネス) - Yahoo!ニッポン]</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
{{No footnotes|date=2017年3月|section=1}}
* [[伊藤武夫]] ら 編著 『メディア社会の歩き方』 [[世界思想社]] 2004年
* [[桂敬一]]・[[田島泰彦]]・[[浜田純一]] 編著 『新聞学』 [[日本評論社]] 2009年
* [[早川善治郎]] 編著 『概説マス・コミュニケーション』 [[学文社]] 2004年
* {{Cite book ja-jp|author=福間良明|year=2017|title=「働く青年」と教養の戦後史 -「人生雑誌」と読者のゆくえ
|url=http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480016485/|edition=初版第1刷|publisher=筑摩書房|series=筑摩選書|isbn=978-4-480-01648-5|ref={{sfnref|福間|2017}}}}
* [[土屋礼子]] 編 『日本メディア史年表』 [[吉川弘文館]] 2018年
== 関連項目 ==
{{Colbegin|2}}
* [[マスコミュニケーション]]
* [[メディア・コングロマリット]]
* [[ソーシャルメディア]]
* [[デジタルメディア]]
* {{仮リンク|インディペンデント・メディア|en|Independent media}}
* [[報道機関]]
* [[第三者効果]]
* [[クロスオーナーシップ (メディア)|クロスオーナーシップ]]
* [[企業コンプライアンス]]
* [[広告]]
* [[広告代理店]]
* {{仮リンク|メディア開発|en|Media development}}
* [[メディアリテラシー]]
* [[:en:Media of Japan]]
{{colend}}
== 外部リンク ==
{{commonscat|Mass media}}
* {{Kotobank}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ますめていあ}}
[[Category:マスメディア|*]]
[[Category:情報技術史]] | 2003-05-24T21:46:47Z | 2023-10-31T01:51:01Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2 |
9,302 | 円 (数学) | 数学において、円(えん、英: circle)とは、平面(2次元ユークリッド空間)上の、定点O(オー) からの距離が等しい点の集合でできる曲線のことをいう。
その「定点 O(オー)」を円の中心という。円の中心と円周上の 1 点を結ぶ線分や、その線分の長さは半径という
円は定幅図形の一つ。
なお円が囲む部分すなわち「円の内部」を含めて「円」ということもある。この場合、厳密さを必要とする時は、境界となる曲線のほうは「円周 (circumference)」 という。これに対して、内部を含めていることを強調するときには「円板 (disk)」 という。また、三角形、四角形などと呼称を統一して「円形」ということもある。
習慣的に、とりあえず円をひとつ挙げその中心に名称をつける時は「O (オー)」と呼ぶことが多い。これは原点を英語で「オリジン(英: Origin)」というのでその頭文字をとったものである。中心が点Oである円は「円O(えんオー)」と呼ぶ。なお中心は英語では「センター(英: Center)」というので、円の中心が「C(シー)」になっている文献もある。
なお、数学以外の分野ではこの曲線のことを(あるいはそれに近い卵形の総称として)「丸(まる)」という俗称で呼称することがある。
円周と2 点で交わる直線を割線という。このときの交点を 2 点 A, B とするとき、円周によって、割線から切り取られる線分 AB のことを弦といい、弦 AB と呼ぶ。特に円の中心を通る割線を中心線という。中心線は円の対称軸であり、円の面積を 2 等分する。円周が中心線から切り取る弦やその長さを、円の直径という。直径は半径の 2 倍に等しい。円周の長さは、円の大きさによってさまざまであるが、円周の長さの直径に対する比の値は、円に依らず一定であり、これを円周率という。特に断りのない限り、普通、円周率は π で表す。円の半径を r(半径の英語 radiusの頭文字が由来) とすると、円周の長さは 2πr で表される。また、円の面積は、πr で表すことができる。同じ長さの周を持つ閉曲線の中で、面積が最大のものである。(等周問題)
一方、円周は割線によって 2 つの部分に分けられる。このそれぞれの部分を 円弧 (arc) または単に弧という。
円周上の2点 A, B を両端とする弧を弧 AB と呼ぶ。記号では、A͡B と表記する(記号 ⌒ は AB の上にかぶせて書くのが正しい)。これでは優弧・劣弧のどちらであるかを指定できていないデメリットがあり、一方を特定したい場合は、その弧上の点 P を用いて 弧APB のように表記する。
円 O の周上に2点 A, B があるとき、半径 OA, OB と弧 AB とで囲まれた図形を扇形 (sector) O-A͡B という。また、扇形に含まれる側の ∠BOA を弧 AB を見込む中心角という。一つの円で考えるとき、中心角とその角が見込む弧の長さは比例する。同様に、中心角とその角が切り取る扇形の面積も比例する。
弦 AB と弧 AB で囲まれた図形を弓形 (segment) という。
弧 AB に対して、弧 AB 上にない円 O の周上の点 P を取るとき、∠APB を弧 AB に対する円周角という。弧 AB に対する円周角は点 P の位置に依らず一定であり、中心角 AOB の半分に等しい(円周角の定理)。特に弧 AB が半円周のときは、弧 AB に対する円周角は直角である(直径を見込む円周角:ターレスの定理)。
円 O の周上に 4 点 A, B, C, D があるとき、四角形 ABCD は円 O に内接するという(内接四角形)。このとき、円 O を四角形 ABCD の外接円という。四角形が円に内接するならば、四角形の対角の和は平角に等しい(内接四角形の定理)。円に内接する四角形の外角の大きさは、その内対角の大きさに等しい。また、これらの逆も成立する(四点共円定理、内接四角形の定理)。
円周と直線が1つの共有点を持つとき、その直線を円の接線 (tangent) といい、共有点を接点という。円の中心と接点を結ぶ半径(接点半径)は、接線と接点で直交する。
円の外部の点 A から円 O に2つの接線が描ける。この接点を S, T とすると、線分 AS, AT の長さを接線の長さという。接線の長さは等しい。円の接線とその接点を通る弦が作る角は、その角の中にある弧に対する円周角に等しい(接弦定理)。すなわち、下図で AT が接線ならば、∠BAT = ∠APB である。接弦定理は逆も成立する。
円の接吻数は6である。これは当たり前のことだが、完全な証明は1910年までできなかった。
2つの円(円 A, 円 B とする)の位置関係は次の場合に分けられる。
2つの円に共通する接線を共通接線という。
特に、2円が共通接線に関して、同じ側にあるとき共通外接線、異なる側にあるとき共通内接線という。
上記の場合分けにおいて、描ける共通接線の個数は、
のいずれか。
解析幾何学において、(a, b) を中心とする半径 r の円は
を満たす点 (x, y) 全体の軌跡である。この方程式を、円の方程式と言う。これは、中心 (a, b) と円上の任意の点 (x, y) との二点間の距離が r であるということを述べたものに他ならず、半径を斜辺とする直角三角形にピタゴラスの定理を適用しすることで導出できる(直角を挟む二辺は、各座標の絶対差 |x − a|, |y − b| を長さとする)。
α, β, γ, δ は実数で α ≠ 0 なるものとし、
と書けば、上記の方程式は
の形になる。この形(x, y の係数が等しく、xy の項を持たない)の方程式が与えられたとき、以下の何れか一つのみが成り立つ:
α = 0 のとき f(x, y) = 0 は直線の方程式であり、a, b, ρ は(射影平面上で、あるいは見かけ上)無限大になる。実は、直線を「無限遠点を中心とする半径無限大の円」と考えることができる(一般化された円(英語版) の項を参照)。
射影平面上の円の方程式は、円上の任意の点の斉次座標(英語版)を(埋め込み (x, y) ↦ [x : y : 1] のもとで) [x : y : z] と書くとき、その一般形を
と書くことができる。
平面の座標系として、直交座標系の代わりに極座標系を用いれば、円の方程式の極座標表示が作れる。円上の任意の点の極座標を (r, θ) とし、中心の極座標を (r0, φ)(つまり、中心の原点からの距離が r0 で、φ は原点から中心へ結んだ半直線が、x-軸の正の部分から反時計回りになす角)とするとき、半径 ρ の円の極方程式は
と書ける。
複素数平面を用いれば、平面上の円は複素数を用いても記述できる。中心が c で半径が r の円の方程式は、複素数の絶対値を用いて
と書ける。これは本質的に円のベクトル方程式と同じものである(複素数平面における複素数の加法および実数倍は、成分表示された平面ベクトルの加法および実数倍と同一であり、複素数の絶対値はユークリッドノルムと同一視できる)。極形式を考えれば、|z − c| = r という条件は、z − c = r⋅exp(iθ) (θ は任意) と同値であることがわかる(これは上記の媒介変数表示に対応する)。 複素数の積に関して |z| = z⋅z が成り立つことに注意すれば、この方程式は実数 p, q および複素数 g を用いて
の形に書ける( p := 1 , g := − c ̄ , q := r 2 − | c | 2 {\displaystyle p:=1,\,g:=-{\overline {c}},\,q:=r^{2}-|c|^{2}} )。この形の方程式は、円だけでなく一般には一般化された円(英語版)を表すものである(一般化された円とは、通常の円となるか、さもなくば直線である)。
極方程式も極形式を用いれば複素数で記述できる。
円上の点 P における接線は、P を通る直径に垂直である。したがって、円の中心を (a, b), 半径を r とし、P ≔ (x1, y1) とすれば、垂直条件により接線の方程式は (x1 − a)x + (y1 – b)y = c の形をしていなければならない。これが (x1, y1) を通るから c は決定できて、接線の方程式は
または
の形に書ける。y1 ≠ b ならばこの接線の傾きは
であるが、これを陰函数微分法を用いて求めることもできる。
中心が原点にあるときは、接線の方程式は x 1 x + y 1 y = r 2 {\textstyle x_{1}x+y_{1}y=r^{2}} となり、傾きは d y d x = − x 1 y 1 {\textstyle {\frac {dy}{dx}}=-{\frac {x_{1}}{y_{1}}}} である。原点を中心とする円では、各点の位置ベクトル (x, y) と接ベクトル (dx, dy) が常に直交する(つまり、内積が零になる)から、 x d x + y d y = 0 x{\mathit {dx}}+y{\mathit {dy}}=0 は微分形の円の方程式である。
三角形や円に関する事柄を扱う幾何学(相似や面積を用いない)は円論と呼ばれ、古来非常に深く研究されてきた。最も平面幾何学らしい幾何学とも呼ばれる。
三角形の
は全て同一円上にある。この円のことを九点円と呼ぶ。
三角形のそれぞれの頂点から下ろした垂線の足から他の二辺に下ろした、合計 6 個の垂線の足は、同一円周上にある、という定理。中学で習う円の性質だけで証明することができるが、かなり難解。
円に内接する六角形の対辺の延長線の交点は一直線上にある。さらに拡張して、二次曲線上に異なる6つの点 P1~P6 を取ると、直線 P1P2 と P4P5 の交点 Q1、P2P3 と P5P6 の交点 Q2、P3P4 と P6P1 の交点 Q3 は同一直線上にある。また、Pi における接線と Pj における接線の交点を Rij とすると、3 直線 R12R45, R23R56, R34R61 は1点で交わる。一番初めの、円に内接する六角形の証明は、うまく補助円を書くことで、円の性質と三角形の相似だけですることができる。
三角形の内接円は、九点円に内接する。
3 次元ユークリッド空間においてある点からの距離が一定であるような点の集合を球面という。内部を含めた球面を球という。一般に、n を自然数とするとき、n + 1 次元ユークリッド空間においてある点からの距離が一定であるような点の集合のことを、n 次元球面といい、S と書く。円は 1 次元球面である。
2つの点(焦点と呼ばれる)からの距離の和が一定であるような点の軌跡を楕円という。楕円は一般に円を潰したような形をしており、楕円のうち特別な場合――2つの焦点が一点で一致する場合――が円である(このとき、焦点は「円の中心」と呼ばれる)。一般の楕円でなく円であることを特に明示したいときには、円のことを正円(せいえん)または真円(しんえん)と呼ぶことがある。
「定点からの距離が一定である点全体の成す集合」として円を定義するならば、定義に用いる「距離」の定義を変えれば異なる形状の「円」を考えることができるということになる。p-ノルム(英語版)の誘導する距離は
で与えられる。ユークリッド幾何学における通常のユークリッド距離:
は p = 2 の場合である。
タクシー幾何学で用いるマンハッタン距離(L-距離)は p = 1 の場合であり、この距離に関する円(タクシー円)は各辺が座標軸から45°ずれた正方形となる。半径 r のタクシー円の各辺の長さは、ユークリッド距離で測れば √2r だが、タクシー距離で測れば 2r である。よって、この幾何学で円周率(半径に対する周長の比)に相当するものは 4 ということになる。タクシー幾何学における単位円(半径が 1 の円)の方程式は、直交座標系では | x | + | y | = 1 {\textstyle |x|+|y|=1} , 極座標系では r = 1 | sin θ | + | cos θ | {\textstyle r={\frac {1}{|\sin \theta |+|\cos \theta |}}} と書ける。これは、その中心のフォンノイマン近傍(英語版)である。
平面上のチェビシェフ距離(L∞-距離)に対する半径 r の円もまた各辺の長さが 2r の正方形(ただし、各辺は座標軸に平行)であるから、平面チェビシェフ距離は平面マンハッタン距離を回転およびスケール変換したものと看做せる。しかし L と L の間に成り立つこの同値性は他の次元に一般化することはできない。
円は他の様々な図形の極限の場合と見ることができる:
半径 R の円弧上の始点で幅 w1、終点で幅 w2 の拡幅円弧の長さの計算
とすると、
ゆえに、拡幅円の長さは、平均半径に中心角をかけたものとなる。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "数学において、円(えん、英: circle)とは、平面(2次元ユークリッド空間)上の、定点O(オー) からの距離が等しい点の集合でできる曲線のことをいう。",
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},
{
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"tag": "p",
"text": "その「定点 O(オー)」を円の中心という。円の中心と円周上の 1 点を結ぶ線分や、その線分の長さは半径という",
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},
{
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"text": "円は定幅図形の一つ。",
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},
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"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "なお円が囲む部分すなわち「円の内部」を含めて「円」ということもある。この場合、厳密さを必要とする時は、境界となる曲線のほうは「円周 (circumference)」 という。これに対して、内部を含めていることを強調するときには「円板 (disk)」 という。また、三角形、四角形などと呼称を統一して「円形」ということもある。",
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},
{
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"tag": "p",
"text": "習慣的に、とりあえず円をひとつ挙げその中心に名称をつける時は「O (オー)」と呼ぶことが多い。これは原点を英語で「オリジン(英: Origin)」というのでその頭文字をとったものである。中心が点Oである円は「円O(えんオー)」と呼ぶ。なお中心は英語では「センター(英: Center)」というので、円の中心が「C(シー)」になっている文献もある。",
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},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "なお、数学以外の分野ではこの曲線のことを(あるいはそれに近い卵形の総称として)「丸(まる)」という俗称で呼称することがある。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "円周と2 点で交わる直線を割線という。このときの交点を 2 点 A, B とするとき、円周によって、割線から切り取られる線分 AB のことを弦といい、弦 AB と呼ぶ。特に円の中心を通る割線を中心線という。中心線は円の対称軸であり、円の面積を 2 等分する。円周が中心線から切り取る弦やその長さを、円の直径という。直径は半径の 2 倍に等しい。円周の長さは、円の大きさによってさまざまであるが、円周の長さの直径に対する比の値は、円に依らず一定であり、これを円周率という。特に断りのない限り、普通、円周率は π で表す。円の半径を r(半径の英語 radiusの頭文字が由来) とすると、円周の長さは 2πr で表される。また、円の面積は、πr で表すことができる。同じ長さの周を持つ閉曲線の中で、面積が最大のものである。(等周問題)",
"title": "円の性質"
},
{
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"tag": "p",
"text": "一方、円周は割線によって 2 つの部分に分けられる。このそれぞれの部分を 円弧 (arc) または単に弧という。",
"title": "円の性質"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "円周上の2点 A, B を両端とする弧を弧 AB と呼ぶ。記号では、A͡B と表記する(記号 ⌒ は AB の上にかぶせて書くのが正しい)。これでは優弧・劣弧のどちらであるかを指定できていないデメリットがあり、一方を特定したい場合は、その弧上の点 P を用いて 弧APB のように表記する。",
"title": "円の性質"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "円 O の周上に2点 A, B があるとき、半径 OA, OB と弧 AB とで囲まれた図形を扇形 (sector) O-A͡B という。また、扇形に含まれる側の ∠BOA を弧 AB を見込む中心角という。一つの円で考えるとき、中心角とその角が見込む弧の長さは比例する。同様に、中心角とその角が切り取る扇形の面積も比例する。",
"title": "円の性質"
},
{
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"text": "弦 AB と弧 AB で囲まれた図形を弓形 (segment) という。",
"title": "円の性質"
},
{
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"tag": "p",
"text": "弧 AB に対して、弧 AB 上にない円 O の周上の点 P を取るとき、∠APB を弧 AB に対する円周角という。弧 AB に対する円周角は点 P の位置に依らず一定であり、中心角 AOB の半分に等しい(円周角の定理)。特に弧 AB が半円周のときは、弧 AB に対する円周角は直角である(直径を見込む円周角:ターレスの定理)。",
"title": "円の性質"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "円 O の周上に 4 点 A, B, C, D があるとき、四角形 ABCD は円 O に内接するという(内接四角形)。このとき、円 O を四角形 ABCD の外接円という。四角形が円に内接するならば、四角形の対角の和は平角に等しい(内接四角形の定理)。円に内接する四角形の外角の大きさは、その内対角の大きさに等しい。また、これらの逆も成立する(四点共円定理、内接四角形の定理)。",
"title": "円の性質"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "円周と直線が1つの共有点を持つとき、その直線を円の接線 (tangent) といい、共有点を接点という。円の中心と接点を結ぶ半径(接点半径)は、接線と接点で直交する。",
"title": "円の性質"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "円の外部の点 A から円 O に2つの接線が描ける。この接点を S, T とすると、線分 AS, AT の長さを接線の長さという。接線の長さは等しい。円の接線とその接点を通る弦が作る角は、その角の中にある弧に対する円周角に等しい(接弦定理)。すなわち、下図で AT が接線ならば、∠BAT = ∠APB である。接弦定理は逆も成立する。",
"title": "円の性質"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "円の接吻数は6である。これは当たり前のことだが、完全な証明は1910年までできなかった。",
"title": "円の性質"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "2つの円(円 A, 円 B とする)の位置関係は次の場合に分けられる。",
"title": "2円の位置関係"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "2つの円に共通する接線を共通接線という。",
"title": "2円の位置関係"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "特に、2円が共通接線に関して、同じ側にあるとき共通外接線、異なる側にあるとき共通内接線という。",
"title": "2円の位置関係"
},
{
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"tag": "p",
"text": "上記の場合分けにおいて、描ける共通接線の個数は、",
"title": "2円の位置関係"
},
{
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"text": "のいずれか。",
"title": "2円の位置関係"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "解析幾何学において、(a, b) を中心とする半径 r の円は",
"title": "円の方程式"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "を満たす点 (x, y) 全体の軌跡である。この方程式を、円の方程式と言う。これは、中心 (a, b) と円上の任意の点 (x, y) との二点間の距離が r であるということを述べたものに他ならず、半径を斜辺とする直角三角形にピタゴラスの定理を適用しすることで導出できる(直角を挟む二辺は、各座標の絶対差 |x − a|, |y − b| を長さとする)。",
"title": "円の方程式"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "α, β, γ, δ は実数で α ≠ 0 なるものとし、",
"title": "円の方程式"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "と書けば、上記の方程式は",
"title": "円の方程式"
},
{
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"tag": "p",
"text": "の形になる。この形(x, y の係数が等しく、xy の項を持たない)の方程式が与えられたとき、以下の何れか一つのみが成り立つ:",
"title": "円の方程式"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "α = 0 のとき f(x, y) = 0 は直線の方程式であり、a, b, ρ は(射影平面上で、あるいは見かけ上)無限大になる。実は、直線を「無限遠点を中心とする半径無限大の円」と考えることができる(一般化された円(英語版) の項を参照)。",
"title": "円の方程式"
},
{
"paragraph_id": 27,
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"text": "射影平面上の円の方程式は、円上の任意の点の斉次座標(英語版)を(埋め込み (x, y) ↦ [x : y : 1] のもとで) [x : y : z] と書くとき、その一般形を",
"title": "円の方程式"
},
{
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"text": "と書くことができる。",
"title": "円の方程式"
},
{
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"tag": "p",
"text": "平面の座標系として、直交座標系の代わりに極座標系を用いれば、円の方程式の極座標表示が作れる。円上の任意の点の極座標を (r, θ) とし、中心の極座標を (r0, φ)(つまり、中心の原点からの距離が r0 で、φ は原点から中心へ結んだ半直線が、x-軸の正の部分から反時計回りになす角)とするとき、半径 ρ の円の極方程式は",
"title": "円の方程式"
},
{
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"text": "と書ける。",
"title": "円の方程式"
},
{
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"tag": "p",
"text": "複素数平面を用いれば、平面上の円は複素数を用いても記述できる。中心が c で半径が r の円の方程式は、複素数の絶対値を用いて",
"title": "円の方程式"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "と書ける。これは本質的に円のベクトル方程式と同じものである(複素数平面における複素数の加法および実数倍は、成分表示された平面ベクトルの加法および実数倍と同一であり、複素数の絶対値はユークリッドノルムと同一視できる)。極形式を考えれば、|z − c| = r という条件は、z − c = r⋅exp(iθ) (θ は任意) と同値であることがわかる(これは上記の媒介変数表示に対応する)。 複素数の積に関して |z| = z⋅z が成り立つことに注意すれば、この方程式は実数 p, q および複素数 g を用いて",
"title": "円の方程式"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "の形に書ける( p := 1 , g := − c ̄ , q := r 2 − | c | 2 {\\displaystyle p:=1,\\,g:=-{\\overline {c}},\\,q:=r^{2}-|c|^{2}} )。この形の方程式は、円だけでなく一般には一般化された円(英語版)を表すものである(一般化された円とは、通常の円となるか、さもなくば直線である)。",
"title": "円の方程式"
},
{
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"tag": "p",
"text": "極方程式も極形式を用いれば複素数で記述できる。",
"title": "円の方程式"
},
{
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"tag": "p",
"text": "円上の点 P における接線は、P を通る直径に垂直である。したがって、円の中心を (a, b), 半径を r とし、P ≔ (x1, y1) とすれば、垂直条件により接線の方程式は (x1 − a)x + (y1 – b)y = c の形をしていなければならない。これが (x1, y1) を通るから c は決定できて、接線の方程式は",
"title": "円の方程式"
},
{
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"text": "または",
"title": "円の方程式"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "の形に書ける。y1 ≠ b ならばこの接線の傾きは",
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"text": "であるが、これを陰函数微分法を用いて求めることもできる。",
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"text": "中心が原点にあるときは、接線の方程式は x 1 x + y 1 y = r 2 {\\textstyle x_{1}x+y_{1}y=r^{2}} となり、傾きは d y d x = − x 1 y 1 {\\textstyle {\\frac {dy}{dx}}=-{\\frac {x_{1}}{y_{1}}}} である。原点を中心とする円では、各点の位置ベクトル (x, y) と接ベクトル (dx, dy) が常に直交する(つまり、内積が零になる)から、 x d x + y d y = 0 x{\\mathit {dx}}+y{\\mathit {dy}}=0 は微分形の円の方程式である。",
"title": "円の方程式"
},
{
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"text": "三角形や円に関する事柄を扱う幾何学(相似や面積を用いない)は円論と呼ばれ、古来非常に深く研究されてきた。最も平面幾何学らしい幾何学とも呼ばれる。",
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{
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"text": "三角形の",
"title": "円の幾何学"
},
{
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"text": "は全て同一円上にある。この円のことを九点円と呼ぶ。",
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"text": "三角形のそれぞれの頂点から下ろした垂線の足から他の二辺に下ろした、合計 6 個の垂線の足は、同一円周上にある、という定理。中学で習う円の性質だけで証明することができるが、かなり難解。",
"title": "円の幾何学"
},
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"text": "円に内接する六角形の対辺の延長線の交点は一直線上にある。さらに拡張して、二次曲線上に異なる6つの点 P1~P6 を取ると、直線 P1P2 と P4P5 の交点 Q1、P2P3 と P5P6 の交点 Q2、P3P4 と P6P1 の交点 Q3 は同一直線上にある。また、Pi における接線と Pj における接線の交点を Rij とすると、3 直線 R12R45, R23R56, R34R61 は1点で交わる。一番初めの、円に内接する六角形の証明は、うまく補助円を書くことで、円の性質と三角形の相似だけですることができる。",
"title": "円の幾何学"
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{
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"text": "三角形の内接円は、九点円に内接する。",
"title": "円の幾何学"
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"text": "3 次元ユークリッド空間においてある点からの距離が一定であるような点の集合を球面という。内部を含めた球面を球という。一般に、n を自然数とするとき、n + 1 次元ユークリッド空間においてある点からの距離が一定であるような点の集合のことを、n 次元球面といい、S と書く。円は 1 次元球面である。",
"title": "一般化"
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"text": "2つの点(焦点と呼ばれる)からの距離の和が一定であるような点の軌跡を楕円という。楕円は一般に円を潰したような形をしており、楕円のうち特別な場合――2つの焦点が一点で一致する場合――が円である(このとき、焦点は「円の中心」と呼ばれる)。一般の楕円でなく円であることを特に明示したいときには、円のことを正円(せいえん)または真円(しんえん)と呼ぶことがある。",
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"text": "「定点からの距離が一定である点全体の成す集合」として円を定義するならば、定義に用いる「距離」の定義を変えれば異なる形状の「円」を考えることができるということになる。p-ノルム(英語版)の誘導する距離は",
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"text": "タクシー幾何学で用いるマンハッタン距離(L-距離)は p = 1 の場合であり、この距離に関する円(タクシー円)は各辺が座標軸から45°ずれた正方形となる。半径 r のタクシー円の各辺の長さは、ユークリッド距離で測れば √2r だが、タクシー距離で測れば 2r である。よって、この幾何学で円周率(半径に対する周長の比)に相当するものは 4 ということになる。タクシー幾何学における単位円(半径が 1 の円)の方程式は、直交座標系では | x | + | y | = 1 {\\textstyle |x|+|y|=1} , 極座標系では r = 1 | sin θ | + | cos θ | {\\textstyle r={\\frac {1}{|\\sin \\theta |+|\\cos \\theta |}}} と書ける。これは、その中心のフォンノイマン近傍(英語版)である。",
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"text": "平面上のチェビシェフ距離(L∞-距離)に対する半径 r の円もまた各辺の長さが 2r の正方形(ただし、各辺は座標軸に平行)であるから、平面チェビシェフ距離は平面マンハッタン距離を回転およびスケール変換したものと看做せる。しかし L と L の間に成り立つこの同値性は他の次元に一般化することはできない。",
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"text": "ゆえに、拡幅円の長さは、平均半径に中心角をかけたものとなる。",
"title": "拡幅円弧の長さ"
}
] | 数学において、円とは、平面(2次元ユークリッド空間)上の、定点O(オー) からの距離が等しい点の集合でできる曲線のことをいう。 その「定点 O(オー)」を円の中心という。円の中心と円周上の 1 点を結ぶ線分や、その線分の長さは半径という 円は定幅図形の一つ。 なお円が囲む部分すなわち「円の内部」を含めて「円」ということもある。この場合、厳密さを必要とする時は、境界となる曲線のほうは「円周 (circumference)」 という。これに対して、内部を含めていることを強調するときには「円板 (disk)」 という。また、三角形、四角形などと呼称を統一して「円形」ということもある。 習慣的に、とりあえず円をひとつ挙げその中心に名称をつける時は「O (オー)」と呼ぶことが多い。これは原点を英語で「オリジン」というのでその頭文字をとったものである。中心が点Oである円は「円O(えんオー)」と呼ぶ。なお中心は英語では「センター」というので、円の中心が「C(シー)」になっている文献もある。 なお、数学以外の分野ではこの曲線のことを(あるいはそれに近い卵形の総称として)「丸(まる)」という俗称で呼称することがある。 | {{出典の明記|date= 2020年9月}}
{{Otheruseslist|'''[[数学]]における[[図形]]の「円」'''|[[日本]]の現行[[通貨]]|円 (通貨)|その他の用法|円}}{{Infobox polygon|name=円|image=Circle-withsegments.svg|caption=円 {{legend-line|black solid 3px|円周 ''C''}}
{{legend-line|blue solid 2px|直径 ''D''}}
{{legend-line|red solid 2px|半径 ''R''}}
{{legend-line|green solid 2px|中心または原点 ''O''}}|symmetry=[[直交群|{{math|O(2)}}]]|area={{math|πR<sup>2</sup>}}|perimeter={{math|1=C = 2πR}}|type=[[円錐曲線]]}}[[数学]]において、'''円'''(えん、{{lang-en-short|circle}})とは、[[平面]](2次元[[ユークリッド空間]])上の、定点O(オー) からの距離が等しい[[点 (数学)|点]]の集合でできる[[曲線]]のことをいう。
その「定点 O(オー)」を円の'''中心'''という。円の中心と円周上の 1 点を結ぶ[[線分]]や、その線分の長さは'''半径'''という<ref>デジタル大辞泉【半径】[https://kotobank.jp/word/%E5%8D%8A%E5%BE%84-606289]</ref><ref>精選版 日本国語大辞典【半径】[https://kotobank.jp/word/%E5%8D%8A%E5%BE%84-606289]</ref>
円は[[定幅図形]]の一つ。
なお円が囲む部分すなわち「円の内部」を含めて「円」ということもある。この場合、厳密さを必要とする時は、境界となる曲線のほうは「[[円周]] (circumference)」 という。これに対して、内部を含めていることを強調するときには「[[円板]] (disk)」 という。また、三角形、四角形などと呼称を統一して「円形」ということもある。
習慣的に、とりあえず円をひとつ挙げその中心に名称をつける時は「O (オー)」と呼ぶことが多い。これは[[原点 (数学)|原点]]を英語で「オリジン({{Lang-en-short|Origin}})」というのでその[[頭文字]]をとったものである。中心が点Oである円は「円O(えんオー)」と呼ぶ。なお中心は英語では「センター({{Lang-en-short|Center}})」というので、円の中心が「C(シー)」になっている文献もある<ref>[https://www.kyo-kai.co.jp/img/support/motto/motto24.pdf もっと数学の世界、「原点はオー!」]</ref>。
なお、数学以外の分野ではこの曲線のことを(あるいはそれに近い[[オーバル|卵形]]の総称として)「'''丸'''(まる)」という俗称で呼称することがある。
[[画像:円.png|thumb|right|円: 中心、半径・直径、円周]]
== 円の性質 ==
=== 弦と弧 ===
円周と2 点で交わる直線を'''[[割線]]'''という。このときの交点を 2 点 A, B とするとき、円周によって、割線から切り取られる線分 AB のことを'''弦'''といい、弦 AB と呼ぶ。特に円の中心を通る割線を'''中心線'''という。中心線は円の対称軸であり、[[円の面積]]を 2 等分する。円周が中心線から切り取る弦やその長さを、円の'''直径'''という。直径は半径の 2 倍に等しい。円周の長さは、円の大きさによってさまざまであるが、円周の長さの直径に対する比の値は、円に依らず一定であり、これを'''[[円周率]]'''という。特に断りのない限り、普通、円周率は [[π|{{π}}]] で表す。円の半径を ''r''(半径の英語 radiusの頭文字が由来) とすると、円周の長さは 2{{π}}''r'' で表される。また、[[円の面積]]は、{{π}}''r'' {{sup|2}} で表すことができる。同じ長さの周を持つ閉曲線の中で、面積が最大のものである。('''等周問題''')
[[画像:中心角と円周角.png|thumb|right|中心角と円周角]]
一方、円周は割線によって 2 つの部分に分けられる。このそれぞれの部分を '''円弧''' (arc) または単に'''弧'''という。
:2つの弧の長さが等しくないとき、長い方の弧を '''優弧''' (major arc)、短い方の弧を'''劣弧''' (minor arc) という。
:2つの弧の長さが等しいとき、これらの弧を '''半円周''' という。このとき、割線は円の中心を通る中心線である。
円周上の2点 A, B を両端とする弧を弧 AB と呼ぶ。記号では、A͡B と表記する(記号 ⌒ は AB の上にかぶせて書くのが正しい)。これでは優弧・劣弧のどちらであるかを指定できていないデメリットがあり、一方を特定したい場合は、その弧上の点 P を用いて 弧APB のように表記する。
円 O の周上に2点 A, B があるとき、半径 OA, OB と弧 AB とで囲まれた図形を'''扇形''' (sector) O-A͡B という。また、扇形に含まれる側の ∠BOA を弧 AB を見込む'''中心角'''という。一つの円で考えるとき、中心角とその角が見込む弧の長さは[[比例]]する。同様に、中心角とその角が切り取る扇形の面積も比例する。
弦 AB と弧 AB で囲まれた図形を'''弓形''' (segment) という。
=== 中心角と円周角 ===
弧 AB に対して、弧 AB 上にない円 O の周上の点 P を取るとき、∠APB を弧 AB に対する'''[[円周角]]'''という。弧 AB に対する円周角は点 P の位置に依らず一定であり、中心角 AOB の半分に等しい('''円周角の定理''')。特に弧 AB が半円周のときは、弧 AB に対する円周角は[[直角]]である('''直径を見込む円周角''':[[ターレスの定理]])。
[[画像:円に内接する四角形.png|thumb|left|円と内接四角形]]
円 O の周上に 4 点 A, B, C, D があるとき、[[四角形]] ABCD は円 O に'''内接する'''という('''内接四角形''')。このとき、円 O を四角形 ABCD の'''外接円'''という。四角形が円に内接するならば、四角形の対角の和は平角に等しい('''内接四角形の定理''')。円に内接する四角形の外角の大きさは、その'''内対角'''の大きさに等しい。また、これらの逆も成立する([[四点共円定理]]、内接四角形の定理)。
{{-}}
[[画像:接弦定理.png|thumb|right|接弦定理]]
円周と直線が1つの共有点を持つとき、その直線を円の'''[[接線]]''' (tangent) といい、共有点を'''接点'''という。円の中心と[[接点]]を結ぶ半径('''接点半径''')は、接線と接点で[[直交]]する。
円の外部の点 A から円 O に2つの接線が描ける。この接点を S, T とすると、線分 AS, AT の長さを'''接線の長さ'''という。接線の長さは等しい。円の接線とその接点を通る弦が作る角は、その角の中にある弧に対する円周角に等しい('''[[接弦定理]]''')。すなわち、下図で AT が接線ならば、∠BAT = ∠APB である。接弦定理は逆も成立する。
円の[[接吻数]]は6である。これは当たり前のことだが、{{要出典範囲|完全な証明は[[1910年]]までできなかった。|date=2016年9月}}
{{-}}
== 2円の位置関係 ==
[[画像:円の位置関係.png|thumb|半径が異なる2円の位置関係]]
=== 位置関係 ===
2つの円(円 A, 円 B とする)の位置関係は次の場合に分けられる。
# 円 A が円 B の内部にある場合 : 円 B は円 A を'''内包する'''という。特に、中心の位置が一致するとき、この2円を'''同心円'''と呼ぶ。
# 円 A が円 B の周または内部にあり、1点のみを共有する場合 : 円 A は円 B に'''内接する'''という。
# 2円が異なる2点を共有する場合 : 2円は2点で'''交わる'''という。この2点を結ぶ弦を'''共通弦'''という。
# 2円が互いの周または外部にあり、1点のみを共有する場合 : 円 A は円 B に'''外接する'''という。
# 2円が互いの外部にあり、共有点がない場合 : 2円は'''離れている'''という。
=== 共通弦の性質 ===
[[File:共通弦を持つ二円とその共通弦の一端を含む別の円との共通弦の交点の性質.gif|thumb|直線XYを共通弦とする正円をA・B、Xを包みYを外にする正円をC、Yを包みXを外にする正円をD、ACの共通弦とBCの共通弦の交点をE、ADの共通弦とBDの共通弦の交点をF、とした時、EとFはXYの線上にある。]]
[[File:三角形の各辺を直径とする正円同士の共通弦が頂垂線となる図.gif|right|thumb|三角形の三辺の位置と長さそのものを[[直径]]とする三つの円によって生じる3本の共通弦は、その三角形の3本の[[頂垂線 (三角形)|頂垂線]]となる。]]
# 既定の共通弦を持つ2円(A・B)と、その共通弦の一端のみを包む任意の別の円Cとの間にできる2本の共通弦(ACとBCの共通弦)の交点は、ABの共通弦上に存在する。
# 三角形の三辺の位置と長さそのものを[[直径]]とする三つの円によって生じる3本の共通弦は、その三角形の3本の[[頂垂線 (三角形)|頂垂線]]となる。
=== 共通接線 ===
2つの円に共通する[[接線]]を'''共通接線'''という。
特に、2円が共通接線に関して、同じ側にあるとき'''共通外接線'''、異なる側にあるとき'''共通内接線'''という。
上記の場合分けにおいて、描ける共通接線の個数は、
# なし
# 共通外接線1本
# 共通外接線2本
# 共通内接線1本、共通外接線2本の計3本
# 共通内接線2本、共通外接線2本の計4本
のいずれか。
== 円の方程式 ==
[[Image:Circle center a b radius r.svg|thumb|right|半径 {{math|''r'' {{coloneqq}} 1}}, 中心 {{math|(''a'', ''b'') {{coloneqq}} (1.2, −0.5)}} の円]]
[[解析幾何学]]において、{{math|(''a'', ''b'')}} を中心とする半径 {{mvar|r}} の円は <math display="block"> (x - a)^2 + (y - b)^2 = r^2</math> を満たす点 {{math|(''x'', ''y'')}} 全体の[[軌跡 (数学)|軌跡]]である。この方程式を、'''円の方程式'''と言う。これは、中心 {{math|(''a'', ''b'')}} と円上の任意の点 {{math|(''x'', ''y'')}} との二点間の距離が {{mvar|r}} であるということを述べたものに他ならず、半径を斜辺とする直角三角形に[[ピタゴラスの定理]]を適用しすることで導出できる(直角を挟む二辺は、各座標の[[絶対差]] {{math|{{abs|''x − a''}}, {{abs|''y − b''}}}} を長さとする)。
* 中心を原点に取れば、方程式は <math display="inline">x^2 + y^2 = r^2</math> と簡単になる。
{{mvar|α, β, γ, δ}} は実数で {{math|''α'' ≠ 0}} なるものとし、<math display="block">a := \frac{-\beta}{\alpha}, \quad b := \frac{-\gamma}{\alpha}, \quad \rho := \frac{\beta^2 +\gamma^2 - \alpha\delta}{\alpha^2}</math> と書けば、上記の方程式は <math display="block">f(x,y) := \alpha(x^2 + y^2) + 2(\beta x + \gamma y) + \delta = 0</math> の形になる。この形({{math|''x''{{exp|2}}, ''y''{{exp|2}}}} の係数が等しく、{{mvar|xy}} の項を持たない)の方程式が与えられたとき、以下の何れか一つのみが成り立つ:
* {{mvar|''ρ'' < 0}} のときは、この方程式に解となる実点は存在しない。この場合を'''虚円'''<ref>{{kotobank|虚円|精選版 日本国語大辞典}}</ref> (''imaginary circle'') の方程式と呼ぶ。
* {{math|1=''ρ'' = 0}} のとき、方程式 {{math|1=''f''(''x'', ''y'') = 0}} は中心となる一点 {{math|''O'' {{coloneqq}} (''a'', ''b'')}} のみを解とし、'''点円'''<ref>{{kotobank|点円|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}}</ref> (''point circle'') の方程式と言う。
* {{math|''ρ'' > 0}} のときには、{{math|1=''f''(''x'', ''y'') = 0}} は {{mvar|O}} を中心とする半径 {{math|''r'' {{coloneqq}} {{sqrt|''ρ''}}}} の円(あるいは'''実円''' (''real circle''))の方程式になる。
{{math|1=''α'' = 0}} のとき {{math|1=''f''(''x'', ''y'') = 0}} は直線の方程式であり、{{mvar|a, b, ρ}} は(射影平面上で、あるいは見かけ上)無限大になる。実は、直線を「[[無限遠点]]を中心とする半径無限大の円」と考えることができる({{ill2|一般化された円|en|generalized circle}} の項を参照)。
=== 別の表示法 ===
; {{vanc|ベクトル表示}}: 中心の位置ベクトルを {{mathbf|c}} とし、円上の任意の点の位置ベクトルを {{mathbf|x}} とすると、これら二点間の距離は、ベクトルの[[ユークリッドノルム]] {{math|{{norm|•}} {{coloneqq}} {{norm|•}}{{sub|2}}}}: (''x'', ''y'') {{mapsto}} {{sqrt|''x''{{exp|2}} + ''y''{{exp|2}}}} を用いて、{{math|{{norm|'''x''' − '''c'''}}}} と書けるから、半径 {{mvar|r}} の円の方程式は <math display="block">\|\mathbf{x}-\mathbf{c}\| = r</math> となる。各点の成分表示が {{math|'''c''' {{coloneqq}} (''a'', ''b''), '''x''' {{coloneqq}} (''x'', ''y'')}} と与えられれば、<math display="inline">r^2 = \|\mathbf{x}-\mathbf{c}\|^2 = (x-a)^2+(y-b)^2</math> は上記の円の方程式である。
; {{vanc|媒介変数表示}}
: {{math|(''a'', ''b'')}} を中心とする半径 {{mvar|r}} の円の方程式を[[正弦函数]]および[[余弦函数]]を用いて <math display="block">\begin{cases}
x = a + r\cos(\theta)\\
y = b + r\sin(\theta)
\end{cases}\qquad (0 \leq \theta < 2\pi )</math> と媒介表示できる。幾何学的には、媒介変数 {{mvar|θ}} を {{math|(''a'', ''b'')}} から出る {{math|(''x'', ''y'')}} を通る[[半直線]]が、始線({{mvar|x}}-軸の正の部分)に対してなす角の[[角度]]と解釈できる。
: 円の別の媒介表示が[[半角正接置換]]により、<math display="block">\begin{cases} x = a + r \frac{1-t^2}{1+t^2}\\ y = b + r \frac{2t}{1+t^2}\end{cases}</math> と与えられる。幾何学的には、この媒介変数 {{mvar|t}} の {{mvar|r}} に対する比を、中心を通り {{mvar|x}}-軸に平行な直線に関する[[立体射影]]として解釈できる。この媒介表示は、{{mvar|t}} が任意の実数のみならず無限遠点においても意味を持つが、その一方で円の最も下にある一点は表せないので除かなければならない。
=== その他の標準形 ===
; 三点標準形: [[共線|同一直線上]]にない三点を {{math|(''x{{sub|i}}'', ''y{{sub|i}}'')}} ({{math|1=''i'' = 1, 2, 3}}) とすると、その三点を通るという条件を満たす円は一つに決まり、その方程式を <math display="block">
\frac{({\color{green}x}-x_1)({\color{green}x}-x_2)+({\color{red}y}-y_1)({\color{red}y}-y_2)}
{({\color{red}y}-y_1)({\color{green}x}-x_2)-({\color{red}y}-y_2)({\color{green}x}-x_1)}
=\frac{(x_3-x_1)(x_3-x_2)+(y_3-y_1)(y_3-y_2)}
{(y_3-y_1)(x_3-x_2)-(y_3-y_2)(x_3-x_1)}
</math> という形に表すことができる。これは[[行列式]]を用いて <math display="block">\begin{vmatrix}
x^2 +y^2 &x &y &1\\
x_1^2+y_1^2 &x_1 &y_1 &1\\
x_2^2+y_2^2 &x_2 &y_2 &1\\
x_3^2+y_3^2 &x_3 &y_3 &1
\end{vmatrix} =0</math> と表すこともできる。
=== {{vanc|射影平面|斉次形の方程式}} ===
[[射影平面]]上の円の方程式は、円上の任意の点の{{ill2|斉次座標系|label=斉次座標|en|Homogeneous coordinates}}を([[埋め込み (数学)|埋め込み]] {{math|(''x'', ''y'') {{mapsto}} {{bracket|''x'' : ''y'' : 1}}}} のもとで) {{math|{{bracket|''x'' : ''y'' : ''z''}}}} と書くとき、その一般形を <math display="block">x^2+y^2-2axz-2byz+cz^2 = 0</math> と書くことができる。
=== 極座標系 ===
平面の座標系として、[[直交座標系]]の代わりに[[極座標系]]を用いれば、円の方程式の極座標表示が作れる。円上の任意の点の極座標を {{math|(''r'', ''θ'')}} とし、中心の極座標を {{math|(''r''{{sub|0}}, ''φ'')}}(つまり、中心の原点からの距離が {{math|''r''{{sub|0}}}} で、{{mvar|φ}} は原点から中心へ結んだ半直線が、{{mvar|x}}-軸の正の部分から反時計回りになす角)とするとき、半径 {{mvar|ρ}} の'''{{vanc|円の極方程式}}'''は <math display="block">r^2 - 2 r r_0 \cos(\theta - \varphi) + r_0^2 = \rho^2</math> と書ける。
* 中心が原点にあるときには、方程式は {{math|1=''r'' = ''ρ''}} ({{mvar|θ}} は任意) という単純な形をしている(極座標系において原点は、動径成分が {{math|1=''r'' = 0}} かつ偏角成分 {{mvar|θ}} は任意と表されるのであった)。
* 原点が円上にあるとき、方程式は <math display="inline">r = 2 \rho\cos(\theta - \varphi)</math> と簡約される。例えば、半径 {{mvar|ρ}} が中心の動径成分 {{math|''r''{{sub|0}}}} に等しいときはそうである。
* 一般の場合の方程式を {{mvar|r}} について解くことができて、<math display="block">r = r_0 \cos(\theta - \phi) \pm \sqrt{\rho^2 - r_0^2 \sin^2(\theta - \varphi)}</math> となる。ここで {{math|±}} の符号を両方取らないと、半円しか記述できない場合があるので注意。
=== 複素数平面 ===
[[複素数平面]]を用いれば、平面上の円は複素数を用いても記述できる。中心が {{mvar|c}} で半径が {{mvar|r}} の円の方程式は、[[複素数の絶対値]]を用いて <math display="block">|z-c| = r</math> と書ける。これは本質的に[[#ベクトル表示|円のベクトル方程式]]と同じものである(複素数平面における複素数の加法および実数倍は、成分表示された平面ベクトルの加法および実数倍と同一であり、複素数の絶対値はユークリッドノルムと同一視できる)。[[極形式]]を考えれば、{{math|1={{abs|''z − c''}} = ''r''}} という条件は、{{math|1=''z − c'' = ''r''⋅[[指数函数|exp]](''iθ'')}} ({{math|θ}} は任意) と同値であることがわかる(これは上記の[[#媒介変数表示|媒介変数表示]]に対応する)。
複素数の積に関して {{math|1={{abs|''z''}}{{exp|2}} = ''z''⋅{{overline|''z''}}}} が成り立つことに注意すれば、この方程式は実数 {{mvar|p, q}} および複素数 {{mvar|g}} を用いて <math display="block">pz\overline{z} + gz + \overline{gz} = q</math> の形に書ける(<math>p := 1,\, g:=-\overline{c},\, q:=r^2-|c|^2</math>)。この形の方程式は、円だけでなく一般には{{ill2|一般化された円|en|generalised circle}}を表すものである(一般化された円とは、通常の円となるか、さもなくば[[直線]]である)。
[[#円の極方程式|極方程式]]も[[極形式]]を用いれば複素数で記述できる。
=== 接線の方程式 ===
円上の点 {{mvar|P}} における[[接線]]は、{{mvar|P}} を通る直径に垂直である。したがって、円の中心を {{math|(''a'', ''b'')}}, 半径を {{mvar|r}} とし、{{math|''P'' {{coloneqq}} (''x''{{sub|1}}, ''y''{{sub|1}})}} とすれば、垂直条件により接線の方程式は {{math|(''x''{{sub|1}} − ''a'')''x'' + (''y''{{sub|1}} – ''b'')''y'' {{=}} ''c''}} の形をしていなければならない。これが {{math|(''x''{{sub|1}}, ''y''{{sub|1}})}} を通るから {{mvar|c}} は決定できて、接線の方程式は <math display="block">(x_1-a)x+(y_1-b)y = (x_1-a)x_1+(y_1-b)y_1</math> または <math display="block">(x_1-a)(x-a)+(y_1-b)(y-b) = r^2</math> の形に書ける。{{math|''y''{{sub|1}} ≠ ''b''}} ならばこの接線の傾きは <math display="block">\frac{dy}{dx} = -\frac{x_1-a}{y_1-b}</math> であるが、これを[[陰函数微分法]]を用いて求めることもできる。
中心が原点にあるときは、接線の方程式は <math display="inline">x_1x+y_1y = r^2</math> となり、傾きは<math display="inline">\frac{dy}{dx} = -\frac{x_1}{y_1}</math> である。原点を中心とする円では、各点の位置ベクトル {{math|(''x'', ''y'')}} と接ベクトル {{math|(''dx'', ''dy'')}} が常に[[直交]]する(つまり、内積が零になる)から、<math display="bock"> x\mathit{dx} + y\mathit{dy} = 0</math> は微分形の円の方程式である。
== 円の幾何学 ==
[[三角形]]や円に関する事柄を扱う[[幾何学]](相似や面積を用いない)は'''円論'''と呼ばれ、古来非常に深く研究されてきた。最も[[平面幾何学]]らしい幾何学とも呼ばれる。
=== 九点円の定理 ===
{{seealso|九点円}}
三角形の
: それぞれの頂点から対辺に下ろした垂線の足(3つ)
: 辺の中点(3つ)
: 頂点と垂心を結んだ線分の中点(3つ)
は全て同一円上にある。この円のことを九点円と呼ぶ。
=== 六点円の定理 ===
{{seealso|六点円}}
三角形のそれぞれの頂点から下ろした垂線の足から他の二辺に下ろした、合計 6 個の垂線の足は、同一円周上にある、という定理。中学で習う円の性質だけで証明することができるが、かなり難解。
=== パスカルの定理 ===
{{See also|ブレーズ・パスカル}}
円に内接する六角形の対辺の延長線の交点は一直線上にある。さらに拡張して、二次曲線上に異なる6つの点 P{{sub|1}}~P{{sub|6}} を取ると、直線 P{{sub|1}}P{{sub|2}} と P{{sub|4}}P{{sub|5}} の交点 Q{{sub|1}}、P{{sub|2}}P{{sub|3}} と P{{sub|5}}P{{sub|6}} の交点 Q{{sub|2}}、P{{sub|3}}P{{sub|4}} と P{{sub|6}}P{{sub|1}} の交点 Q{{sub|3}} は同一直線上にある。また、P{{sub|''i''}} における接線と P{{sub|''j''}} における接線の交点を R{{sub|''ij''}} とすると、3 直線 R{{sub|12}}R{{sub|45}}, R{{sub|23}}R{{sub|56}}, R{{sub|34}}R{{sub|61}} は1点で交わる。一番初めの、円に内接する六角形の証明は、うまく補助円を書くことで、円の性質と三角形の相似だけですることができる。
=== フォイエルバッハの定理 ===
三角形の'''内接円'''は、九点円に内接する。
<!-- 証明は後になるほど難しい。最後のものは非常に難しい。-->
== 一般化 ==
=== 球面・超球面 ===
{{main|球面|超球面}}
3 次元ユークリッド空間においてある点からの距離が一定であるような点の集合を球面という。内部を含めた球面を[[球体|球]]という。一般に、''n'' を自然数とするとき、''n'' + 1 次元ユークリッド空間においてある点からの距離が一定であるような点の集合のことを、''n'' 次元球面といい、''S{{sup|n}}'' と書く。円は 1 次元球面である。
=== 円錐曲線 ===
{{main|円錐曲線|楕円|放物線|双曲線}}
2つの点(焦点と呼ばれる)からの距離の和が一定であるような点の軌跡を[[楕円]]という。楕円は一般に円を潰したような形をしており、楕円のうち特別な場合――2つの焦点が一点で一致する場合――が円である(このとき、焦点は「円の中心」と呼ばれる)。一般の楕円でなく円であることを特に明示したいときには、円のことを'''正円'''(せいえん)または'''真円'''(しんえん)と呼ぶことがある。
=== 距離円、ノルム円 ===
[[Image:Vector-p-Norms qtl1.svg|thumb|right|異なる {{mvar|p}} に対する {{mvar|p}}-ノルム[[単位円]]を図示したもの。]]
「定点からの距離が一定である点全体の成す集合」として円を定義するならば、定義に用いる「距離」の定義を変えれば異なる形状の「円」を考えることができるということになる。{{ill2|pノルム|en|p-norm|label={{mvar|p}}-ノルム}}の誘導する距離は <math display="block"> \| x \|_p := (|x_1|^p + |x_2|^p + \dotsb + |x_n|^p)^{1/p}</math> で与えられる。ユークリッド幾何学における通常の[[ユークリッド距離]]: <math display="block">\| x\|_2 = \sqrt{ |x_1|^2 + |x_2|^2 + \dotsb + |x_n|^2 } </math> は {{math|1=''p'' = 2}} の場合である。
タクシー幾何学で用いる[[マンハッタン距離]]({{math|''L''{{sup|1}}}}-距離)は {{math|1=''p'' = 1}} の場合であり、この距離に関する円(タクシー円)は各辺が座標軸から{{math|45°}}ずれた[[正方形]]となる。半径 {{mvar|r}} のタクシー円の各辺の長さは、ユークリッド距離で測れば {{math|{{sqrt|2}}''r''}} だが、タクシー距離で測れば {{math|2''r''}} である。よって、この幾何学で[[円周率]](半径に対する周長の比)に相当するものは {{math|4}} ということになる。タクシー幾何学における単位円(半径が 1 の円)の方程式は、[[直交座標系]]では <math display="inline">|x| + |y| = 1</math>, [[極座標系]]では <math display="inline">r = \frac{1}{| \sin \theta| + |\cos\theta|}</math> と書ける。これは、その中心の{{ill2|フォンノイマン近傍|en|von Neumann neighborhood}}である。
平面上の[[チェビシェフ距離]]([[ルベーグ空間|''L''{{sub|∞}}]]-距離)に対する半径 {{mvar|r}} の円もまた各辺の長さが {{math|2''r''}} の正方形(ただし、各辺は座標軸に平行)であるから、平面チェビシェフ距離は平面マンハッタン距離を回転およびスケール変換したものと看做せる。しかし {{math|''L''{{sup|1}}}} と {{mvar|''L''{{sup|∞}}}} の間に成り立つこの同値性は他の次元に一般化することはできない。
=== その他の円を特別の場合として含む曲線族 ===
円は他の様々な図形の極限の場合と見ることができる:
* デカルトの卵形線は[[焦点 (幾何学)|焦点]]と呼ばれるふたつの定点からの距離の重み付き和が一定となるような点全体の成す軌跡である。各距離に付ける重みが全て等しいとき[[楕円]]となり、[[離心率]]が {{math|0}} であるような楕円として円が得られる(これは二つの焦点が互いに重なる極限の場合であり、一致した焦点は得られる円の中心となる)。ふたつの重みのうちの一方を {{math|0}} として得られるデカルトの卵形線としても、円が得られる。
* [[スーパー楕円|超楕円]]は、適当な正数 {{mvar|a, b > 0}} と自然数 {{mvar|n}} に対する <math display="inline">\left|\frac{x}{a}\right|^n + \left|\frac{y}{b}\right|^n = 1</math> の形の方程式を持つ。{{math|''b'' {{=}} ''a''}} のとき超円と言う。円は {{math|''n'' {{=}} 2}} となる特別な超円である。
* [[カッシーニの卵形線]]は二つの定点からの距離の積が一定となるような点全体の軌跡を言う。ふたつの定点が一致するとき、円が得られる。
* [[定幅曲線]]は、その幅—図形の幅は、それを挟む二つの平行線が、各々その図形の境界と一点のみを共有するときの、それら平行線間の距離として定める—が平行線の方向のとり方に依らず一定であるような図形を言う。円はもっとも単純な定幅曲線形の例である。
== 拡幅円弧の長さ ==
半径 ''R'' の円弧上の始点で幅 ''w''{{sub|1}}、終点で幅 ''w''{{sub|2}} の拡幅円弧の長さの計算
* <math>L=R\theta</math>
* <math>k=\frac{w_2 -w_1}{L}</math>
とすると、
:<math>dL=(R+w_1 +kR\theta )d\theta</math>
:<math>\begin{array}{rcl}
Lw &= &\displaystyle (R+w_1 )\theta +\frac{1}{2} kR\theta^2 \\
&= &\displaystyle L\left\{1+\frac{w_1}{R} +\frac{kL}{2R} \right\} \\
&= &\displaystyle L\left\{1+\frac{1}{R} ( w_1 +\frac{1}{2}kL)\right\} \\
&= &\displaystyle L\left\{1+\frac{1}{R} \left( w_1 +\frac{1}{2} (w_2 -w_1 )\right) \right\} \\
&= &\displaystyle L\left\{1+\frac{1}{R} \frac{w_1 + w_2}{2} \right\} \\
&= &\displaystyle \left( R+\frac{w_1 +w_2}{2} \right) \theta
\end{array}</math>
ゆえに、拡幅円の長さは、平均半径に中心角をかけたものとなる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--
=== 注釈 ===
{{notelist}}-->
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
== 関連項目 ==
{{commons&cat|Circle geometry|Circle geometry}}
* {{ill2|アフィン球面|en|Affine sphere}}
* [[アニュラス]]: 円帯、二つの同心円に囲まれた領域
* {{ill2|無限辺形|en|Apeirogon}}
* {{ill2|円あてはめ|en|Circle fitting}}: 円に対する[[曲線あてはめ]]
* {{ill2|円に関する話題の一覧|en|List of circle topics}}
* [[球面]]
* {{ill2|三点で円が決まること|en|Three points determine a circle}}
* {{ill2|軸の平行移動|en|Translation of axes}}
=== 特別な名称のある円 ===
{{div col}}
* [[単位円]]
* [[アポロニウスの円]]
* {{ill2|クロマティック・サークル|en|Chromatic circle}}(半音円): 12[[平均律]]の[[ピッチクラス]]を円形に並べたもの
* [[フォードの円]]
* {{ill2|反相似円|en|Circle of antisimilitude}}
* [[カーライル円]]
* {{ill2|バンコフの円|en|Bankoff circle}}
* {{ill2|アルキメデスの双子の円|en|Archimedes' twin circles}}
* {{ill2|アルキメデスの円|en|Archimedean circle}}
* {{ill2|ショックの円|en|Schoch circles}}
* {{ill2|ウーの円|en|Woo circles}}
==== 三角形に関する円 ====
* {{ill2|マンダルト円|en|Mandart circle}}
* {{ill2|シュピーカー円|en|Spieker circle}}: [[中点三角形]]の内接円
* [[九点円]]
* [[ルモワーヌ円]]
* [[外接円]]
* [[内接円]]
* [[三角形の内接円と傍接円|傍接円]]
* {{ill2|傍接円に関するアポロニウスの円|en|Incircle and excircles of a triangle#Other excircle properties}}
* [[レスターの定理|レスター円]]
* [[マルファッティの円]]
* [[ブロカール円]]
* {{ill2|垂重円|en|Orthocentroidal circle}}: 非正三角形の垂心と重心を直径の両端点とする円
* {{ill2|ヴァン・ラモン円|en|Van Lamoen circle}}
* {{ill2|パリー円|en|Parry circle}}
* {{ill2|極円 (幾何学)|en|Polar circle (geometry)}}: 垂心を中心とする特定の半径を持つ円
* {{ill2|ジョンソン円|en|Johnson circles}}
==== 四辺形に関する円 ====
* [[直交対角線四角形]]に関する{{ill2|八点円|en|Eight-point circle}}
* {{ill2|円外接四辺形|en|Tangential quadrilateral}}の内接円
* [[共円四辺形]]の外接円
==== 多角形に関する円 ====
* [[共円多角形]]の外接円
* [[円外接多角形]]の内接円
==== 円錐曲線に関する円 ====
* {{ill2|準円|en|Director circle}}
* {{ill2|準線円|en|Directrix circle}}
==== 球面に関する円 ====
* [[大円]]
* {{ill2|リーマン円|en|Riemannian circle}}
==== トーラスに関する円 ====
* {{ill2|ヴィラルソー円|en|Villarceau circles}}
{{div col end}}
== 外部リンク ==
* {{MathWorld|urlname=Circle|title=Circle}}
* {{nlab|urlname=circle|title=circle}}
* {{PlanetMath|urlname=circle|title=circle}}
* {{ProofWiki|urlname=Definition:Circle|title=Definition:Circle}}
* {{SpringerEOM|urlname=Circle|title=Circle|first=A.B.|last=Ivanov}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:えん}}
[[Category:円 (数学)|*]]
[[Category:円錐曲線]]
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[[Category:角度]]
[[Category:数学に関する記事]] | 2003-05-24T22:23:22Z | 2023-07-28T15:59:14Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86_(%E6%95%B0%E5%AD%A6) |
9,307 | タチウオ | タチウオ(太刀魚、立魚、帯魚、魛、学名:Trichiurus lepturus、英名:Largehead hairtail)は、スズキ目サバ亜目タチウオ科に属する魚類。回遊魚。
世界中の、熱帯・温帯域の沿岸から大陸棚にかけて棲息する。日本では北海道から九州南岸の沿岸部のほか、瀬戸内海で漁獲量が多い。
体長は150cmから最大で234cm約50cmに成長するのに5年程度必要。名前の由来は、金属光沢で平たく細長い体型から『太刀魚』、あるいは、水面の獲物を狙い垂直に立って泳ぐ習性から『立ち魚』とされる。
銀色に輝くのはグアニン色素層で覆われているためで、体表に鱗を持たない。胸ビレは発達せず、尾ビレや腹ビレは退化している一方で背ビレが大きく発達し(背中全体に伸びて130軟条以上)、運動は主に背ビレを波打たせて行う。
頭はとがっており、一見獰猛そうな鋭く発達した歯が目立つ。体は全体に左右に平たく、幅は指4本などと表現される。生きている間はやや青味がかった金属光沢を持つが、死後ほどなくすると灰色がかった銀色となる。
体表のグアニン層は人が指で触れただけですぐ落ちるほど落ちやすいが、生時は常に新しい層が生成し体を保護している。かつては銀粉を採取し、セルロイド製の文房具(筆箱や下敷きなど)や、模造真珠、マニキュアのラメに用いた。
産卵期は海域により異なるが概ね5月から10月主産卵期は5月から6月。稚魚や幼魚のうちは、甲殻類の浮遊幼生や小さな魚などを食べている。成魚はカミソリのような歯で小魚を食べるが、時にはイカや甲殻類を食べることもある。ただし貝やエビなど硬い殻を持つものは一切口にしないことから、漁師たちは「タチウオは歯を大事にする」と言い習わしてきた。この鋭い歯は、人の皮膚も容易に切り裂くため、生きているタチウオを扱うときには手袋などをして身を守る事が推奨される。泳ぐ力は弱く、エサの魚に追い付かないためエサが近付いてくるのを待っている。
成魚と幼魚とは逆の行動パターンを持ち、成魚は夜間は深所にいて日中は上方に移動し、特に朝夕は水面近くまで群れて採餌をするが、幼魚は日中は泥底の上の100メートルほどの場所で群れていて、夜になると上方へ移動する。
潮流が穏やかな場所では頭を海面に向けて立ち泳ぎすることがある。場所によってはこの立ち泳ぎが群れになる事がある。これは、潮流によってタチウオが一箇所に流されて来たという説と、敵から逃げる際に体に当たる光を目晦ましにするためという説がある。潮流が早い場所では立ち泳ぎが出来ないため、この光景は見られない。
その外観が銀色で太刀に似ていることより、「太刀魚」(タチウオ)と名づけられた(「刀」の字を取って「魛」と表記することもある)。別名にタチノウオ、タチ、ハクナギ、ハクウオ、サワベル(福島県での呼び名でサーベルが由来)、シラガ、カトラスなどがある。英名の由来は、和名の由来と同じようにその外観が「カットラス(舶刀)」と呼ばれる湾曲した刃を持つ剣に似ていることから、「カットラスフィッシュ」 (Cutlassfish) と呼ばれる。また、「サーベルフィッシュ」と呼ばれることもある。
日本近海に分布するタチウオは、かつて他の地域のものと別種か別亜種とされ、Trichiurus japonicus、あるいは T. lepturus japonicusの学名が当てられていた。これを太平洋東岸に分布する T. nitens などとともに、世界の他の水域に生息する T. lepturus と東アジアのタチウオを含めてすべて同種として扱われていることが多かった。その後、それらを引用し、国際的なFAOの出版物により、タチウオは全世界に1種 Trichiurus leptutus とされた(Nakamura & Parin 1993; FAO species Catalogue, Vol. 15)。しかし、以前から異論も多く、現在分類学的にはかなり混乱している状態である。宮崎大学農学部の岩槻らの一連の研究で、世界には多くの同胞種が含まれていることが最近判明しつつあり、タチウオの未成魚と考えられてきたものが、全く別の種類の小型タチウオ類似種群の存在や、形態学的に類似するグループ毎にシノニム関係が現在明らかにされつつあるが、歴史上の命名規約の難しい問題があり、今後の早急な正しい学名の解決が望まれる。
漁期は4月から10月で延縄漁(底曳縄)や底引き網漁により他の魚種と共に漁獲される。時に、タチウオに特化した底引き延縄漁が用いられる。
釣りの対象として人気が高い。特に大阪湾では秋から初冬の接岸時期に人気を集める対象魚で、陸釣り・船釣りともに釣り人でにぎわう。陸釣りでは、夜にキビナゴやイワシを餌にしたウキ釣りが人気がある。また、ルアーフィッシングも陸・船とも盛んである。東京湾では主に船釣りで釣られているが、船釣りは地域によって昼の釣りと夜釣りに分かれ、釣り方や使う道具も変化する。
大物はドラゴンと称される。
関東地方の東京湾、相模湾でのタチウオの遊漁での船釣りは、日中の釣りになる。テンビンと呼ばれる、仕掛けの投入時に糸が絡むのを防ぐ為の道具にオモリと全長1.5 - 3メートルの1本針か2本針、たまに3本針の仕掛けを使う。餌は通常、サバやコノシロの切り身が用意される。魚群探知機でタチウオの遊泳層を探り、そこに仕掛けを投入し、上下の層を釣っていく。その日の条件によって、魚の餌への喰い方が違うので機嫌の悪い時はしっかりと餌を飲み込まないため針掛かりさせるのが難しく、又そこがこの釣りの面白さである。
関西地方の船釣りでは、昼、夜ともに釣りが行われる。テンヤと呼ばれる針に直にオモリが付いたものにイワシやサンマなどの餌を取り付けるタイプの仕掛けが使われる。釣り方は関東と同じく、魚の泳層を探してその上下の層を釣っていく。また、ルアーを使ってのジギングも近年盛んに行なわれている。
陸からの釣りは夜、外灯の有る港内や堤防などが釣り場となる。各地とも秋が最盛期で、電気ウキと歯の鋭いタチウオ用に、糸の代わりにワイヤを取り付けた針に餌を付けて釣る。もしくは、船で使うテンヤを小型にした様な仕掛けも使われる。船と同様、タチウオはなかなか餌を一気に喰わないので、ウキが沈んでも針に掛けるタイミングを取るのが難しく、面白い釣りである。また、船釣りと同じく、ルアーフィッシングも人気がある。
種々の調理法で食用にする。肉は柔らかく、塩焼き(バター焼き)やムニエル、煮付け、唐揚げなどで美味。紀州・播州・天草では新鮮なものは皮ごとの刺身や寿司、酢の物などにも用いられる。また、和歌山県有田市周辺では、タチウオを骨ごと擂りつぶして揚げた「ほねく」(または「ほね天」)と呼ばれる揚げかまぼこが市販されている。
体表の銀箔のグアニンは、模造真珠の原料として使われていた(ここから、「ハクウオ」の名で呼ぶ地方もある)。
タチウオは、煮魚や焼き魚として朝鮮料理では一般的な魚種となっている。しかしながら長年の乱獲がたたり資源が枯渇。韓国EEZ内の漁獲量は減少し続けており、韓国漁船が日韓漁業協定の枠内で日本側のEEZ内で操業を行うことで供給量の確保がなされる一方、日本国内で漁獲されるタチウオも韓国での需要に応じて輸出されるケースも見られるようになった。いわばタチウオは、日韓漁業協定では重要な魚種となっている。ところが2016年度においては、漁獲量や入漁ルールなどをめぐり両国間の交渉が決裂。日本側のEEZ内で韓国漁船の操業が不可能になったことから、韓国内でタチウオの品薄感が高まり、2016年秋口には価格が高騰する現象も見られた。 | [
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"title": "シノニム"
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"text": "釣りの対象として人気が高い。特に大阪湾では秋から初冬の接岸時期に人気を集める対象魚で、陸釣り・船釣りともに釣り人でにぎわう。陸釣りでは、夜にキビナゴやイワシを餌にしたウキ釣りが人気がある。また、ルアーフィッシングも陸・船とも盛んである。東京湾では主に船釣りで釣られているが、船釣りは地域によって昼の釣りと夜釣りに分かれ、釣り方や使う道具も変化する。",
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"title": "タチウオと日韓漁業協定"
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] | タチウオは、スズキ目サバ亜目タチウオ科に属する魚類。回遊魚。 | {{特殊文字|説明=[[補助漢字|JIS X 0212]]}}
{{生物分類表
|名称=タチウオ
|画像=[[Image:Trichiurus lepturus by OpenCage.jpg|250px]]
|画像キャプション='''タチウオ'''<br/>''{{lang|en|Trichiurus lepturus}}''
|省略=条鰭綱
|目=[[スズキ目]] {{Sname||Perciformes}}
|亜目=[[サバ亜目]] {{Sname||Scombroidei}}
|科=[[タチウオ科]] {{Sname||Trichiuridae}}
|属=[[タチウオ属]] {{Snamei||Trichiurus}}
|種='''タチウオ''' {{Snamei|T. lepturus}}
|学名={{Snamei|Trichiurus lepturus}}<br/>{{AUY|Linnaeus|1758}}
|英名=[[:en:Largehead hairtail|{{lang|en|Largehead hairtail}}]]<br/>[[w:Atlantic cutlassfish|Atlantic cutlassfish]]<br/>[[w:Pacific cutlassfish|Pacific cutlassfish]]
|和名=タチノウオ<br/>タチ<br/>ハクナギ<br/>ハクウオ<br/>サワベル<br/>シラガ
|}}
[[File:Trichiurus lepturus.jpg|250px|thumb|G. Brown Goode & Tarleton H. Bean, ''{{lang|en|Oceanic Ichthyology}}'' (1896)]]
[[File:Largehead hairtail.jpg|250px|thumb|鋭い歯]]
'''タチウオ'''(太刀魚、立魚、帯魚、魛、学名:{{Snamei|Trichiurus lepturus}}、英名:[[:en:Largehead hairtail|{{lang|en|Largehead hairtail}}]])は、[[スズキ目]][[サバ亜目]][[タチウオ科]]に属する[[魚類]]。[[回遊魚]]。
== 生態 ==
世界中の、[[熱帯]]・[[温帯]]域の[[沿岸]]から[[大陸棚]]にかけて棲息する。日本では北海道から九州南岸の沿岸部のほか、[[瀬戸内海]]で漁獲量が多い。
体長は150cmから最大で234cm<ref name=fishbase>[http://www.fishbase.org/summary/SpeciesSummary.php?id=1288 ''{{lang|en|Trichiurus lepturus}}''] FishBase. 2010年9月28日。</ref>約50cmに成長するのに5年程度必要<ref name=阪本.1976 />。名前の由来は、金属光沢で平たく細長い体型から『太刀魚』、あるいは、水面の獲物を狙い垂直に立って泳ぐ習性から『立ち魚』とされる。
銀色に輝くのは[[グアニン]]色素層<ref>{{Cite journal|和書|author=太田冬雄 |title=タチウオ魚鱗箔に関する研究-I:生箔の一般成分について |journal=日本水産学会誌 |ISSN=0021-5392 |publisher=日本水産学会 |year=1954 |volume=19 |issue=11 |pages=1061-1064 |naid=130000914862 |doi=10.2331/suisan.19.1061 |url=https://doi.org/10.2331/suisan.19.1061}}</ref>で覆われているためで、体表に[[鱗]]を持たない。胸ビレは発達せず、尾ビレや腹ビレは退化している一方で背ビレが大きく発達し(背中全体に伸びて130軟条以上)、運動は主に背ビレを波打たせて行う。
頭はとがっており、一見獰猛そうな鋭く発達した歯が目立つ。体は全体に左右に平たく、幅は指4本などと表現される。生きている間はやや青味がかった金属光沢を持つが、死後ほどなくすると灰色がかった銀色となる。
体表のグアニン層は人が指で触れただけですぐ落ちるほど落ちやすいが、生時は常に新しい層が生成し体を保護している。かつては銀粉を採取し、[[セルロイド]]製の文房具(筆箱や下敷きなど)や、模造[[真珠]]、[[マニキュア]]のラメに用いた。
産卵期は海域により異なるが概ね5月から10月<ref>{{Cite journal|和書|author=塚原博, 塩川司 |title=有明海におけるタチウオの生態について(心理学・生態学) |journal=動物学雑誌 |publisher=東京動物學會 |year=1956 |volume=65 |issue=3-4 |pages=114 |naid=110003361810 |id={{NDLJP|10838528}} |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10398301}}</ref>主産卵期は5月から6月<ref name=阪本.1976>{{Cite journal|和書|author=阪本俊雄 |title=紀伊水道産タチウオの年齢と生長 |journal=日本水産学会誌 |ISSN=0021-5392 |publisher=日本水産學會 |year=1976 |volume=42 |issue=1 |pages=1-11 |naid=130000920034 |doi=10.2331/suisan.42.1 |url=https://doi.org/10.2331/suisan.42.1}}</ref>。稚魚や幼魚のうちは、[[甲殻類]]の[[プランクトン|浮遊]][[幼生]]や小さな魚などを食べている。成魚はカミソリのような歯で小魚を食べるが、時には[[イカ]]や甲殻類を食べることもある。ただし貝やエビなど硬い殻を持つものは一切口にしないことから、漁師たちは「タチウオは歯を大事にする」と言い習わしてきた。この鋭い歯は、人の皮膚も容易に切り裂くため、生きているタチウオを扱うときには手袋などをして身を守る事が推奨される。泳ぐ力は弱く、エサの魚に追い付かないためエサが近付いてくるのを待っている<ref name="trivia">{{Cite book |和書 |author=フジテレビトリビア普及委員会 |year=2003 |title=トリビアの泉〜へぇの本〜 1 |publisher=講談社 }}</ref>。
成魚と幼魚とは逆の行動パターンを持ち、成魚は夜間は深所にいて日中は上方に移動し、特に朝夕は水面近くまで群れて採餌をするが、幼魚は日中は泥底の上の100メートルほどの場所で群れていて、夜になると上方へ移動する。
潮流が穏やかな場所では頭を海面に向けて立ち泳ぎすることがある。場所によってはこの立ち泳ぎが群れになる事がある。これは、潮流によってタチウオが一箇所に流されて来たという説と、敵から逃げる際に体に当たる光を目晦ましにするためという説がある。潮流が早い場所では立ち泳ぎが出来ないため、この光景は見られない<ref>[https://datazoo.jp/tv/%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%81%8C%E6%9D%A5%E3%81%9F%EF%BC%81%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%82%E3%81%AE%E6%96%B0%E4%BC%9D%E8%AA%AC/825096 ダーウィンが来た!生き物新伝説2015/01/25(日)の放送内容]</ref>。
== 名前の由来 ==
その外観が銀色で[[太刀]]に似ていることより、「太刀魚」(タチウオ)と名づけられた<ref name="trivia" />(「刀」の字を取って「{{補助漢字フォント|魛}}」と表記することもある)。別名にタチノウオ、タチ、ハクナギ、ハクウオ、サワベル(福島県での呼び名で[[サーベル]]が由来<ref name="trivia" />)、シラガ、カトラスなどがある。英名の由来は、和名の由来と同じようにその外観が「[[カットラス]](舶刀)」と呼ばれる湾曲した刃を持つ[[剣]]に似ていることから、「カットラスフィッシュ」{{enlink|Cutlassfish}}と呼ばれる。また、「サーベルフィッシュ」と呼ばれることもある<ref>[http://all.daiwa21.com/fishing/item/rod/salt_rd/saltist_sf/ DAIWA : ソルティスト SF - Web site]</ref>。
== シノニム ==
日本近海に分布するタチウオは、かつて他の地域のものと別種か別[[亜種]]とされ、''Trichiurus japonicus''、あるいは ''T. lepturus japonicus''の学名が当てられていた。これを太平洋東岸に分布する ''T. nitens'' などとともに、世界の他の水域に生息する ''T. lepturus'' と東アジアのタチウオを含めてすべて同種として扱われていることが多かった。その後、それらを引用し、国際的なFAOの出版物により、タチウオは全世界に1種 ''Trichiurus leptutus'' とされた(Nakamura & Parin 1993; FAO species Catalogue, Vol. 15)。しかし、以前から異論も多く、現在分類学的にはかなり混乱している状態である。宮崎大学農学部の岩槻らの一連の研究で、世界には多くの同胞種が含まれていることが最近判明しつつあり、タチウオの未成魚と考えられてきたものが、全く別の種類の小型タチウオ類似種群の存在や、形態学的に類似するグループ毎にシノニム関係が現在明らかにされつつあるが、歴史上の命名規約の難しい問題があり、今後の早急な正しい学名の解決が望まれる。
== 人間との関わり ==
[[Image:Trichiurus lepturus FishMarketInTokyo.JPG|thumb|220px|売られているタチウオ<br/>(東京都内の店、2006年3月)]]
[[File:Trichiurus lepturus Sushi.JPG|thumb|220px|タチウオの[[押し寿司]]]]
[[File:Galchi-hoe.jpg|thumb|220px|タチウオの[[フェ]](刺身)]]
[[File:Galchi-jorim.jpg|thumb|220px|タチウオの[[チョリム]]]]
===漁業===
漁期は4月から10月で[[延縄漁]](底曳縄)や[[底引き網]]漁により他の魚種と共に漁獲される<ref name=山田.1970>{{Cite journal|和書|author=山田鉄雄 |title=タチウオ底曳縄漁法について |journal=長崎大学水産学部研究報告 |ISSN=05471427 |publisher=長崎大学水産学部 |year=1970 |month=dec |issue=30 |pages=35-37 |naid=120006971850 |url=https://hdl.handle.net/10069/31193}}</ref>。時に、タチウオに特化した底引き延縄漁が用いられる<ref name=山田.1970 />。
===釣り===
[[釣り]]の対象として人気が高い。特に[[大阪湾]]では秋から初冬の接岸時期に人気を集める対象魚で、陸釣り・船釣りともに釣り人でにぎわう。陸釣りでは、夜に[[キビナゴ]]や[[イワシ]]を餌にしたウキ釣りが人気がある。また、[[ルアーフィッシング]]も陸・船とも盛んである。東京湾では主に船釣りで釣られているが、船釣りは地域によって昼の釣りと夜釣りに分かれ、釣り方や使う道具も変化する。
大物は'''ドラゴン'''と称される<ref>[https://www.fishing-v.jp/premium/140_3.html 吉野屋・千葉県浦安「東京湾のタチウオ、釣れ続くドラゴン級を狙いに!」 オフショアマガジン] - 釣りビジョン</ref>。
=== 船釣り ===
関東地方の[[東京湾]]、[[相模湾]]でのタチウオの[[遊漁]]での[[船釣り]]は、日中の釣りになる。テンビンと呼ばれる、仕掛けの投入時に糸が絡むのを防ぐ為の道具にオモリと全長1.5 - 3メートルの1本針か2本針、たまに3本針の仕掛けを使う。餌は通常、[[サバ]]やコノシロの切り身が用意される。[[魚群探知機]]でタチウオの遊泳層を探り、そこに仕掛けを投入し、上下の層を釣っていく。その日の条件によって、魚の餌への喰い方が違うので機嫌の悪い時はしっかりと餌を飲み込まないため針掛かりさせるのが難しく、又そこがこの釣りの面白さである。
関西地方の船釣りでは、昼、夜ともに釣りが行われる。テンヤと呼ばれる針に直にオモリが付いたものに[[イワシ]]や[[サンマ]]などの餌を取り付けるタイプの仕掛けが使われる。釣り方は関東と同じく、魚の泳層を探してその上下の層を釣っていく。また、[[ルアー]]を使っての[[ジギング]]も近年盛んに行なわれている。
=== 陸釣り ===
陸からの釣りは夜、外灯の有る港内や堤防などが釣り場となる。各地とも秋が最盛期で、電気ウキと歯の鋭いタチウオ用に、糸の代わりにワイヤを取り付けた針に餌を付けて釣る。もしくは、船で使うテンヤを小型にした様な仕掛けも使われる。船と同様、タチウオはなかなか餌を一気に喰わないので、ウキが沈んでも針に掛けるタイミングを取るのが難しく、面白い釣りである。また、船釣りと同じく、ルアーフィッシングも人気がある。
=== 食材 ===
種々の調理法で食用にする。肉は柔らかく、[[塩焼き]](バター焼き)や[[ムニエル]]、[[煮付け]]、[[唐揚げ]]などで美味。紀州・播州・天草では新鮮なものは皮ごとの[[刺身]]や[[寿司]]、[[酢の物]]などにも用いられる。また、[[和歌山県]][[有田市]]周辺では、タチウオを骨ごと擂りつぶして揚げた「ほねく」(または「ほね天」)と呼ばれる[[揚げかまぼこ]]が市販されている。
=== 食材以外での利用 ===
体表の銀箔の[[グアニン]]は、模造真珠の原料として使われていた(ここから、「ハクウオ」の名で呼ぶ地方もある)。
==タチウオと日韓漁業協定==
タチウオは、煮魚や焼き魚として[[朝鮮料理]]では一般的な魚種となっている。しかしながら長年の乱獲がたたり資源が枯渇。韓国[[EEZ]]内の漁獲量は減少し続けており、韓国漁船が日韓漁業協定の枠内で日本側のEEZ内で操業を行うことで供給量の確保がなされる一方、日本国内で漁獲されるタチウオも韓国での需要に応じて輸出されるケースも見られるようになった。いわばタチウオは、日韓漁業協定では重要な魚種となっている。ところが2016年度においては、漁獲量や入漁ルールなどをめぐり両国間の交渉が決裂。日本側のEEZ内で韓国漁船の操業が不可能になったことから、韓国内でタチウオの品薄感が高まり、2016年秋口には価格が高騰する現象も見られた<ref>[https://www.j-cast.com/2016/11/20283517.html タチウオ、韓国で高級魚になっていた-乱獲で「枯渇」の現実味] j-castニュース(2016/11/20)2016年12月8日閲覧</ref>。
==参考文献==
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== 関連項目 ==
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*[[骨なし魚]]
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[[Category:スズキ目]]
[[Category:白身魚]]
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[[Category:プライドフィッシュ]] | 2003-05-25T01:29:20Z | 2023-12-20T21:55:41Z | false | false | false | [
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9,308 | 大阪電気軌道 | 大阪電気軌道(おおさかでんききどう)は、近畿日本鉄道(近鉄)の直系の前身にあたる、大正から昭和戦前期の関西系私鉄会社。略称は「大軌」(だいき)。
本稿では大軌本体のほか、その子会社である参宮急行電鉄(さんぐうきゅうこうでんてつ、略称:「参急」)、関西急行電鉄(かんさいきゅうこうでんてつ、略称:「関急電」・「関急」)、およびそれらの会社が合併して成立し、現在の近鉄路線網の原形を作った関西急行鉄道(かんさいきゅうこうてつどう、略称:「関急」)についても本項で併せて記述する。
系列の参宮急行電鉄・関西急行電鉄、後身の関西急行鉄道時代も含む。
大阪 - 奈良間の短絡を目的に、1910年(明治43年)9月16日に設立された奈良軌道がその起源である。当初は奈良電気鉄道(後述の奈良電気鉄道とは無関係)の社名を予定していたが、鉄道省から改名要請が出されたために変更された。初代社長は広岡恵三であった。
同年10月15日、社名を大阪電気軌道(大軌)に改称した。
この頃は1905年(明治38年)開業の阪神電気鉄道に始まった、路面電車を発展させた郊外電車であるインターアーバン(都市間連絡電車)の建設が日本各地で流行している時期でもあり、大軌もその流れの中で設立された。なお、現在の関西における大手私鉄直系祖先会社の中では、最も遅い発祥でもあった。
元々大阪 - 奈良間の私鉄建設には、単線かつ狭軌の鉄道として3つの出願がなされていた。いずれもバックに政治家や資本家がいて、裁定もしかねる状態であった。そのため3つの出願を1つに統合する事が提案され、その結果として奈良軌道の設立に至ったのである。
大阪府・奈良県境の生駒山地を直線的に越えるため、当初は鋼索鉄道(ケーブルカー)や索道(ロープウェイ)の利用さえも検討されたが、これでは高速都市間電車としての機能が失われることから、箕面有馬電気軌道(現:阪急阪神ホールディングス)の設立にもかかわった同社の筆頭取締役の岩下清周(後に大軌社長)の発案などにより、結局生駒山を複線規格の生駒トンネル(3,388m、当時日本第2位の長さ)で開削し、急勾配区間を大出力モーター搭載の300馬力電車で克服する、という大規模かつ先進的な策で攻略することにした。また計画も、全線が複線電化の標準軌(この当時の関西私鉄は、南海鉄道を除いて全てこの規格であった)路線に変更された。
1914年(大正3年)4月、大阪の上本町駅 - 奈良駅間30.8km(現・近鉄奈良線)を開業。この時点では奈良駅は仮駅で、同年7月に現在の近鉄奈良駅付近へ移転している。なお軌道法に基づいて路線の特許を取得したため、全区開業時の大軌線による大阪 - 奈良間の所要時間は55分で、官営鉄道関西本線列車に比べて15分も短縮した。
しかし、生駒トンネル掘削の難工事による多額の出費が原因で経営難となり、沿線の生駒聖天から賽銭を借りて当座の経費を賄うほどに窮迫した。主要利用客である生駒山参詣者の人出がお天気次第なので運賃収入もお天気次第、という意味で「『大阪電気軌道』でなく“大阪天気軌道”」、空気のように頼りない経営状態から「『大軌』でなく“大気”」、と揶揄されたことさえあった。
更に岩下など、設立に関わった取締役も次々に手を引くようにして辞めてしまい、大軌に残ったのは金森又一郎(後に社長、「大軌の実質創業者」とも呼ばれる)など数名のみとなり、毎日会社に債権者が押しかけるという事態にも陥った。このため実業家の片岡直輝が、大軌の依頼で生駒トンネルを建設したものの、代金未払いの状態が続いたことが原因で、倒産寸前に陥っていた大林組とセットで大軌の再建に乗り出した。
その後、経費削減などの経営努力と利用客の増加により辛うじて大軌は再建し、1916年(大正5年)3月には一応の債務整理を完了した。
経営が軌道に乗ると、大軌は奈良盆地内に路線網を拡張し始める。
1921年 - 1924年(大正10 - 13年)に畝傍線(現・近鉄橿原線)、1923年(大正12年) - 1930年(昭和5年)には桜井線(旧・八木線、現・近鉄大阪線の桜井駅以西)・信貴線(現・近鉄信貴線)を敷設する。
一方、天理軽便鉄道(現・近鉄天理線)・吉野鉄道(現・近鉄吉野線)の買収、子会社・信貴山電鉄(のち信貴山急行電鉄、現・近鉄西信貴鋼索線ほか)の設立・開業、京阪電気鉄道(京阪)との共同出資で奈良電気鉄道(奈良電)を設立(京都駅 - 西大寺駅(現・大和西大寺駅)間、現・近鉄京都線)し同社との相互乗り入れ運転を行う、などの旺盛な積極策を採った。また、後に近鉄難波線として実現する、上本町から難波への延伸事業はこの時代に初めて大阪府へ出願された。
鉄道沿線の行楽事業にも力を入れ、あやめ池遊園地(1926年)、生駒山上遊園地(1929年)、花園ラグビー場(同年)の開業はこの時期であった。
大阪・奈良南部には、同時期に大阪鉄道(通称大鉄。現・近鉄南大阪線系統の1067mm軌間各路線の前身。明治期に関西鉄道に合併され現JR関西本線の一部となった大阪鉄道とは別会社)が路線網を伸張し、吉野鉄道(現・近鉄吉野線)へ直通を目論んだ(1929年(昭和4年)に実現)。
大鉄線と大軌桜井・橿原線は並行路線でもあり、吉野鉄道との連絡輸送も絡んで熾烈な戦いが展開されたが、線路幅の関係で吉野に直通できないハンデをおして、大軌が吉野鉄道買収に成功した(大軌の既存路線は線路幅1435mmの標準軌、大鉄と吉野鉄道は1067mmの狭軌)。のちに大軌は、上ノ太子駅での重大衝突事故もあって経営が悪化していた大鉄をも傘下に収めるに至る。
なお吉野鉄道線と大鉄線との直通運転は、吉野鉄道が買収によって大軌吉野線となった後も、利用者の便宜を考慮して継続された。この運行は、近鉄成立後も継続されている。
大軌は更に伊勢進出を目論む。当初は高見峠経由のルートが検討されたが、のちに沿線人口が多い初瀬・名張経由での計画に変更された。しかし桜井 - 名張間の敷設免許は、地元小私鉄の大和鉄道(のち、信貴生駒電鉄を経て現・近鉄田原本線)が所有しており、大軌にとって計画の障害となっていた。そこで株式を買い占めて大和鉄道を傘下に収め、同社がもともと取得していた桜井 - 名張間の敷設免許に加えて、名張 - 宇治山田間の免許も取得させた。そして1927年(昭和2年)9月28日に子会社の参宮急行電鉄(参急)を設立、大和鉄道から敷設免許を譲渡させ、路線建設に着手した。
1930年 - 1932年(昭和5 - 7年)に桜井駅 - 名張駅 - 参急中川駅(現・伊勢中川駅) - 宇治山田駅間(本線、現・近鉄大阪線・近鉄山田線)および中川駅 - 津駅間(津支線、現・近鉄名古屋線の一部)を開業した。なお津支線は、同地区における伊勢川口駅 - 久居駅 - 阿漕駅 - 岩田橋駅間の軽便鉄道線を運営していた中勢鉄道を傘下において、同社により中川駅 - 久居駅間の免許を申請し、その免許を参急に譲渡させる形でまず同区間を建設・開業させ、後にそれを津まで延長するという形態で開通した。
大軌と参急は1930年(昭和5年)に上本町 - 宇治山田間を2時半で走破する直通急行電車の運転を開始。さらに1932年(昭和7年)以降は、同区間を2時間1分で走破する直通特急電車の運転を開始した。この所要時間短縮は、鈍足な蒸気機関車運転の国鉄関西本線・参宮線(3 - 5時間程度)を圧倒して、大阪からの日帰りお伊勢詣りを実現した。この列車が、のちの近鉄特急網の基礎となったという見方もある。
なお、当時の参急線伊勢特急の速度は、70年以上を経た現代の近鉄大阪線快速急行とほとんど互角である。
戦後も近年に至るまで、畿内の小学校の修学旅行先に伊勢神宮が定番であったのは、この利便性を生かした大軌(と後身の近鉄)の巧みな営業活動に起因する面が大きいと言われている。
参急が開業時に製造した長距離用電車2200系は、当時日本最大級の21m電車であり、その技術面で画期的な存在であった。
電動車1両あたりの出力約600kW (800HP)、平坦地での最高速度110km/h以上、山岳区間の急勾配(過酷な33‰勾配。青山峠・長谷寺付近)を65km/hで登坂・降坂可能で、その性能は現代の電車とさほど遜色ない水準にあった。設備面でも、国鉄客車よりも格段に広く座り心地の良い座席や、トイレ、特別個室の設置、電気暖房採用など充実したサービスを備え、長く大阪 - 伊勢間の直通急行に用いられた(1974年(昭和49年)までに全車廃車)。
相前後して参急線途中の名張 - 伊賀神戸間で路線が並行していた伊賀電気鉄道(現・伊賀鉄道伊賀線)を合併した(1929年(昭和4年)に大軌合併後、1931年(昭和6年)に参急へ移管)。また、桜井 - 初瀬間の短い路線を有していた長谷軌道(1909年(明治42年)開業)も、並行線のため1928年(昭和3年)に買収して大軌長谷線としたが、こちらは1938年(昭和13年)に廃止している。
1936年(昭和11年)9月、参急は、三重県の有力私鉄ながら過剰投資で経営破綻に陥っていた伊勢電気鉄道(通称伊勢電。桑名駅 - 大神宮前駅(伊勢神宮の外宮前)間ほかを運営。津 - 伊勢間で参急と競合)を合併する。
伊勢電は、参急とほぼ同時期に伊勢への進出を果たし、将来名古屋へ延伸するための免許を既に有していた。また参急は、伊勢へ進出する以前に、中川 - 桑名間の免許を収得するなど、参急自身も既に名古屋進出を計画していた。参急本線全通の翌年に津への支線が開通したことも、その意欲の表れといえた。
しかし、当時国鉄線の運営と私鉄の監督を行っていた鉄道省は、「このままでは省の運営する関西本線・参宮線を合わせて3つ巴の競争になる恐れがあり、人口がさほど多くない名古屋 - 四日市 - 伊勢間では共倒れになる恐れがある」と警告していた。参急もそれは理解していて、伊勢進出の前に「参急は伊勢へ、伊勢電は名古屋への進出を優先し、提携輸送を行う方が双方のためである」という内容の交渉を伊勢電に行った事があった。これには、既に京阪傘下の新京阪鉄道と名古屋急行電鉄によって大阪 - 名古屋間の鉄道敷設計画が進んでいたため、先に大阪 - 名古屋間運転の実績をつくっておいて対抗したい大軌・参急の意向もあった。
しかし、大阪系資本の参急の進出に、地元企業の伊勢電は対抗意識があり、交渉には応じず、逆に参急と並行路線となる伊勢への路線建設を優先した。名古屋という大都市へ直結するのを後回しにしたために集客力を得られなかったことと、参急への対抗心で伊勢進出を強行したことが、結果として伊勢電自身の破綻を招くことになった。
大軌グループは伊勢電が計画して果たせなかった名古屋進出に乗り出し、そのために子会社の関西急行電鉄(関急電)を1936年(昭和11年)1月に設立した。
桑名 - 名古屋間路線建設の最大の難所は、技術・資金の両面で困難な木曽三川(濃尾三川、木曽川・長良川・揖斐川)への架橋であったが、経営破綻前の伊勢電は並行する国鉄関西本線の橋梁架け替えに伴う「廃鉄橋譲受」という奇策で、この難題を超える予定であった。
関西線旧橋梁は当時まだ寿命を残していたが、蒸気機関車の重量化・大型化に対応できないため、新鉄橋が並行して架橋されていた。だが電車は蒸気機関車より格段に軽量であり、旧鉄橋でも運行可能だったのである。関急電はこの計画を踏襲し、廃鉄橋利用で路線を建設した(その後の老朽化に伴い、戦後の改軌・複線化の際に新たに架け替えられた)。
関急電は1938年(昭和13年)6月、名古屋駅地下に新設された関急名古屋駅(現・近鉄名古屋駅)に乗り入れ、桑名 - 名古屋間を全通させた(現・近鉄名古屋線の全通)。これにより江戸橋駅での乗り換えを要したものの、大軌・参急・関急電3社接続による名阪間連絡が実現された(上本町 - 名古屋間、189.5kmがこれにより全通)。同年12月には江戸橋 - 参急中川間を狭軌に改軌し、乗換駅を中川駅に改めている。この時、上本町 - 名古屋間の所要時間は3時間15分となり、当時の国鉄東海道本線の急行列車より速い所要時間で結ばれることとなった。
旧伊勢電本線は参急名古屋伊勢本線(のち関急名古屋線および伊勢線)となるも、1942年(昭和17年)に新松阪駅以南を戦時の不要不急線として廃止、江戸橋 - 新松阪間も1961年(昭和36年)全廃となった。関急電と系列の養老電鉄(現・養老鉄道養老線)は、1940年(昭和15年)参急に吸収合併された。
戦時体制下にあっても国家神道的な政策が幸いして、伊勢神宮・橿原神宮・吉野神宮・熱田神宮などへの参拝旅行は「戦時の不急不要旅行の制限」の例外扱いとなり、これらを版図とする大軌グループの業績は大きく伸張した。大軌創業30年目に当たる1940年(昭和15年)の「皇紀2600年奉祝式典」では、年間参拝者数が1千万人に達した橿原神宮をはじめ、他の神宮への参拝客も捌くべく、大軌・参急とも臨時列車を多数設定するなどして輸送に努めた。
この頃、大軌グループは積極的に多くの電鉄会社を組み入れ、事業規模を拡大させていった。参急は1940年(昭和15年)1月に関西急行電鉄を、同8月には養老電鉄をそれぞれ合併。続いて1941年(昭和16年)3月には大軌と参急の合併により、関西急行鉄道(関急)に改組。更に1943年(昭和18年)に関急が大鉄を合併し、1944年(昭和19年)には南和電気鉄道(現・近鉄御所線)と信貴山急行電鉄をも合併して、路線網は500kmを超えた。
1944年(昭和19年)6月、関急は戦時統合により南海鉄道と合併、全線630km余りを擁する巨大鉄道会社・近畿日本鉄道(近鉄)が成立する。
だが、旧大軌・関急と旧南海との間には資本上も沿革上も人脈上も元々接点がなく、国策による強制的な合併ということもあり、初めから無理が生じていた。そこで戦後の1947年(昭和22年)6月、旧南海の傍系会社で近鉄と合併しなかった高野山電気鉄道が南海電気鉄道(南海電鉄)と改称の上、近鉄より旧南海鉄道路線を譲受し、旧南海との合同を解消。この結果、旧関急系の路線のみが近鉄として存続し、現在に至っている。
大軌は、阪神電気鉄道が先鞭を付けたインターアーバンの手法で創業したが、アメリカ的に大胆なM&Aで局地的なローカル鉄道を巧みに糾合し、鉄道省の強固な許認可体制をかわして広域に渡る高速電車網構築に成功した希有な鉄道会社であり、小林一三が率いて日本型の「郊外電車」哲学を確立した阪神急行電鉄(後の阪急電鉄)とは好対照の存在である。
積極策を伴った極端な拡張の一方、古くからの名所・旧跡の地である伊勢・奈良を近代的観光地に脱皮させたことで、1920年代以降の奈良・三重両県の産業・交通発展に多大な業績を残した。
近鉄が、戦後の大手私鉄としては例外的に1963年(昭和38年) - 1965年(昭和40年)、信貴生駒電鉄(現、近鉄生駒線・田原本線)、奈良電気鉄道、三重電気鉄道(現、近鉄湯の山線・志摩線・三岐鉄道北勢線・四日市あすなろう鉄道内部・八王子線)と中小私鉄の吸収合併を推進したことは、大軌以来の大拡張主義が戦後に至るまで受け継がれたことの現れである。
また、高速性能と登坂力を両立できるよう、大出力モーター付で重装備の大型電車を使用する大軌・参急の車両ポリシーは、現在の近鉄電車に至るまで確たる伝統となっている。
大軌グループの積極性を象徴する現存施設としては、久野節が設計した、内外共に壮麗な高架駅ビルの宇治山田駅(1931年・昭和6年)や、先進的な地下駅の近鉄名古屋駅(1938年・昭和13年、後に拡張)、村野藤吾設計による橿原神宮前駅舎(1940年)などが挙げられる。
関西急行鉄道発足前の路線
大軌・参急・関急電・関急自製の車両で、記事があるもののみ記す。 | [
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"text": "大阪電気軌道(おおさかでんききどう)は、近畿日本鉄道(近鉄)の直系の前身にあたる、大正から昭和戦前期の関西系私鉄会社。略称は「大軌」(だいき)。",
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"text": "本稿では大軌本体のほか、その子会社である参宮急行電鉄(さんぐうきゅうこうでんてつ、略称:「参急」)、関西急行電鉄(かんさいきゅうこうでんてつ、略称:「関急電」・「関急」)、およびそれらの会社が合併して成立し、現在の近鉄路線網の原形を作った関西急行鉄道(かんさいきゅうこうてつどう、略称:「関急」)についても本項で併せて記述する。",
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"text": "系列の参宮急行電鉄・関西急行電鉄、後身の関西急行鉄道時代も含む。",
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"text": "大阪 - 奈良間の短絡を目的に、1910年(明治43年)9月16日に設立された奈良軌道がその起源である。当初は奈良電気鉄道(後述の奈良電気鉄道とは無関係)の社名を予定していたが、鉄道省から改名要請が出されたために変更された。初代社長は広岡恵三であった。",
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"text": "同年10月15日、社名を大阪電気軌道(大軌)に改称した。",
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"text": "この頃は1905年(明治38年)開業の阪神電気鉄道に始まった、路面電車を発展させた郊外電車であるインターアーバン(都市間連絡電車)の建設が日本各地で流行している時期でもあり、大軌もその流れの中で設立された。なお、現在の関西における大手私鉄直系祖先会社の中では、最も遅い発祥でもあった。",
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"text": "元々大阪 - 奈良間の私鉄建設には、単線かつ狭軌の鉄道として3つの出願がなされていた。いずれもバックに政治家や資本家がいて、裁定もしかねる状態であった。そのため3つの出願を1つに統合する事が提案され、その結果として奈良軌道の設立に至ったのである。",
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"text": "大阪府・奈良県境の生駒山地を直線的に越えるため、当初は鋼索鉄道(ケーブルカー)や索道(ロープウェイ)の利用さえも検討されたが、これでは高速都市間電車としての機能が失われることから、箕面有馬電気軌道(現:阪急阪神ホールディングス)の設立にもかかわった同社の筆頭取締役の岩下清周(後に大軌社長)の発案などにより、結局生駒山を複線規格の生駒トンネル(3,388m、当時日本第2位の長さ)で開削し、急勾配区間を大出力モーター搭載の300馬力電車で克服する、という大規模かつ先進的な策で攻略することにした。また計画も、全線が複線電化の標準軌(この当時の関西私鉄は、南海鉄道を除いて全てこの規格であった)路線に変更された。",
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"text": "1914年(大正3年)4月、大阪の上本町駅 - 奈良駅間30.8km(現・近鉄奈良線)を開業。この時点では奈良駅は仮駅で、同年7月に現在の近鉄奈良駅付近へ移転している。なお軌道法に基づいて路線の特許を取得したため、全区開業時の大軌線による大阪 - 奈良間の所要時間は55分で、官営鉄道関西本線列車に比べて15分も短縮した。",
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"text": "しかし、生駒トンネル掘削の難工事による多額の出費が原因で経営難となり、沿線の生駒聖天から賽銭を借りて当座の経費を賄うほどに窮迫した。主要利用客である生駒山参詣者の人出がお天気次第なので運賃収入もお天気次第、という意味で「『大阪電気軌道』でなく“大阪天気軌道”」、空気のように頼りない経営状態から「『大軌』でなく“大気”」、と揶揄されたことさえあった。",
"title": "歴史"
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"text": "更に岩下など、設立に関わった取締役も次々に手を引くようにして辞めてしまい、大軌に残ったのは金森又一郎(後に社長、「大軌の実質創業者」とも呼ばれる)など数名のみとなり、毎日会社に債権者が押しかけるという事態にも陥った。このため実業家の片岡直輝が、大軌の依頼で生駒トンネルを建設したものの、代金未払いの状態が続いたことが原因で、倒産寸前に陥っていた大林組とセットで大軌の再建に乗り出した。",
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"text": "その後、経費削減などの経営努力と利用客の増加により辛うじて大軌は再建し、1916年(大正5年)3月には一応の債務整理を完了した。",
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"text": "経営が軌道に乗ると、大軌は奈良盆地内に路線網を拡張し始める。",
"title": "歴史"
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"text": "1921年 - 1924年(大正10 - 13年)に畝傍線(現・近鉄橿原線)、1923年(大正12年) - 1930年(昭和5年)には桜井線(旧・八木線、現・近鉄大阪線の桜井駅以西)・信貴線(現・近鉄信貴線)を敷設する。",
"title": "歴史"
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"text": "一方、天理軽便鉄道(現・近鉄天理線)・吉野鉄道(現・近鉄吉野線)の買収、子会社・信貴山電鉄(のち信貴山急行電鉄、現・近鉄西信貴鋼索線ほか)の設立・開業、京阪電気鉄道(京阪)との共同出資で奈良電気鉄道(奈良電)を設立(京都駅 - 西大寺駅(現・大和西大寺駅)間、現・近鉄京都線)し同社との相互乗り入れ運転を行う、などの旺盛な積極策を採った。また、後に近鉄難波線として実現する、上本町から難波への延伸事業はこの時代に初めて大阪府へ出願された。",
"title": "歴史"
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"text": "鉄道沿線の行楽事業にも力を入れ、あやめ池遊園地(1926年)、生駒山上遊園地(1929年)、花園ラグビー場(同年)の開業はこの時期であった。",
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"text": "大阪・奈良南部には、同時期に大阪鉄道(通称大鉄。現・近鉄南大阪線系統の1067mm軌間各路線の前身。明治期に関西鉄道に合併され現JR関西本線の一部となった大阪鉄道とは別会社)が路線網を伸張し、吉野鉄道(現・近鉄吉野線)へ直通を目論んだ(1929年(昭和4年)に実現)。",
"title": "歴史"
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"text": "大鉄線と大軌桜井・橿原線は並行路線でもあり、吉野鉄道との連絡輸送も絡んで熾烈な戦いが展開されたが、線路幅の関係で吉野に直通できないハンデをおして、大軌が吉野鉄道買収に成功した(大軌の既存路線は線路幅1435mmの標準軌、大鉄と吉野鉄道は1067mmの狭軌)。のちに大軌は、上ノ太子駅での重大衝突事故もあって経営が悪化していた大鉄をも傘下に収めるに至る。",
"title": "歴史"
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"text": "なお吉野鉄道線と大鉄線との直通運転は、吉野鉄道が買収によって大軌吉野線となった後も、利用者の便宜を考慮して継続された。この運行は、近鉄成立後も継続されている。",
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"text": "大軌は更に伊勢進出を目論む。当初は高見峠経由のルートが検討されたが、のちに沿線人口が多い初瀬・名張経由での計画に変更された。しかし桜井 - 名張間の敷設免許は、地元小私鉄の大和鉄道(のち、信貴生駒電鉄を経て現・近鉄田原本線)が所有しており、大軌にとって計画の障害となっていた。そこで株式を買い占めて大和鉄道を傘下に収め、同社がもともと取得していた桜井 - 名張間の敷設免許に加えて、名張 - 宇治山田間の免許も取得させた。そして1927年(昭和2年)9月28日に子会社の参宮急行電鉄(参急)を設立、大和鉄道から敷設免許を譲渡させ、路線建設に着手した。",
"title": "歴史"
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"text": "1930年 - 1932年(昭和5 - 7年)に桜井駅 - 名張駅 - 参急中川駅(現・伊勢中川駅) - 宇治山田駅間(本線、現・近鉄大阪線・近鉄山田線)および中川駅 - 津駅間(津支線、現・近鉄名古屋線の一部)を開業した。なお津支線は、同地区における伊勢川口駅 - 久居駅 - 阿漕駅 - 岩田橋駅間の軽便鉄道線を運営していた中勢鉄道を傘下において、同社により中川駅 - 久居駅間の免許を申請し、その免許を参急に譲渡させる形でまず同区間を建設・開業させ、後にそれを津まで延長するという形態で開通した。",
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"text": "大軌と参急は1930年(昭和5年)に上本町 - 宇治山田間を2時半で走破する直通急行電車の運転を開始。さらに1932年(昭和7年)以降は、同区間を2時間1分で走破する直通特急電車の運転を開始した。この所要時間短縮は、鈍足な蒸気機関車運転の国鉄関西本線・参宮線(3 - 5時間程度)を圧倒して、大阪からの日帰りお伊勢詣りを実現した。この列車が、のちの近鉄特急網の基礎となったという見方もある。",
"title": "歴史"
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"text": "なお、当時の参急線伊勢特急の速度は、70年以上を経た現代の近鉄大阪線快速急行とほとんど互角である。",
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"text": "戦後も近年に至るまで、畿内の小学校の修学旅行先に伊勢神宮が定番であったのは、この利便性を生かした大軌(と後身の近鉄)の巧みな営業活動に起因する面が大きいと言われている。",
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"text": "参急が開業時に製造した長距離用電車2200系は、当時日本最大級の21m電車であり、その技術面で画期的な存在であった。",
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"paragraph_id": 25,
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"text": "電動車1両あたりの出力約600kW (800HP)、平坦地での最高速度110km/h以上、山岳区間の急勾配(過酷な33‰勾配。青山峠・長谷寺付近)を65km/hで登坂・降坂可能で、その性能は現代の電車とさほど遜色ない水準にあった。設備面でも、国鉄客車よりも格段に広く座り心地の良い座席や、トイレ、特別個室の設置、電気暖房採用など充実したサービスを備え、長く大阪 - 伊勢間の直通急行に用いられた(1974年(昭和49年)までに全車廃車)。",
"title": "歴史"
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"text": "相前後して参急線途中の名張 - 伊賀神戸間で路線が並行していた伊賀電気鉄道(現・伊賀鉄道伊賀線)を合併した(1929年(昭和4年)に大軌合併後、1931年(昭和6年)に参急へ移管)。また、桜井 - 初瀬間の短い路線を有していた長谷軌道(1909年(明治42年)開業)も、並行線のため1928年(昭和3年)に買収して大軌長谷線としたが、こちらは1938年(昭和13年)に廃止している。",
"title": "歴史"
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"text": "1936年(昭和11年)9月、参急は、三重県の有力私鉄ながら過剰投資で経営破綻に陥っていた伊勢電気鉄道(通称伊勢電。桑名駅 - 大神宮前駅(伊勢神宮の外宮前)間ほかを運営。津 - 伊勢間で参急と競合)を合併する。",
"title": "歴史"
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"text": "伊勢電は、参急とほぼ同時期に伊勢への進出を果たし、将来名古屋へ延伸するための免許を既に有していた。また参急は、伊勢へ進出する以前に、中川 - 桑名間の免許を収得するなど、参急自身も既に名古屋進出を計画していた。参急本線全通の翌年に津への支線が開通したことも、その意欲の表れといえた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 29,
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"text": "しかし、当時国鉄線の運営と私鉄の監督を行っていた鉄道省は、「このままでは省の運営する関西本線・参宮線を合わせて3つ巴の競争になる恐れがあり、人口がさほど多くない名古屋 - 四日市 - 伊勢間では共倒れになる恐れがある」と警告していた。参急もそれは理解していて、伊勢進出の前に「参急は伊勢へ、伊勢電は名古屋への進出を優先し、提携輸送を行う方が双方のためである」という内容の交渉を伊勢電に行った事があった。これには、既に京阪傘下の新京阪鉄道と名古屋急行電鉄によって大阪 - 名古屋間の鉄道敷設計画が進んでいたため、先に大阪 - 名古屋間運転の実績をつくっておいて対抗したい大軌・参急の意向もあった。",
"title": "歴史"
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"text": "しかし、大阪系資本の参急の進出に、地元企業の伊勢電は対抗意識があり、交渉には応じず、逆に参急と並行路線となる伊勢への路線建設を優先した。名古屋という大都市へ直結するのを後回しにしたために集客力を得られなかったことと、参急への対抗心で伊勢進出を強行したことが、結果として伊勢電自身の破綻を招くことになった。",
"title": "歴史"
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"text": "大軌グループは伊勢電が計画して果たせなかった名古屋進出に乗り出し、そのために子会社の関西急行電鉄(関急電)を1936年(昭和11年)1月に設立した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 32,
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"text": "桑名 - 名古屋間路線建設の最大の難所は、技術・資金の両面で困難な木曽三川(濃尾三川、木曽川・長良川・揖斐川)への架橋であったが、経営破綻前の伊勢電は並行する国鉄関西本線の橋梁架け替えに伴う「廃鉄橋譲受」という奇策で、この難題を超える予定であった。",
"title": "歴史"
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"text": "関西線旧橋梁は当時まだ寿命を残していたが、蒸気機関車の重量化・大型化に対応できないため、新鉄橋が並行して架橋されていた。だが電車は蒸気機関車より格段に軽量であり、旧鉄橋でも運行可能だったのである。関急電はこの計画を踏襲し、廃鉄橋利用で路線を建設した(その後の老朽化に伴い、戦後の改軌・複線化の際に新たに架け替えられた)。",
"title": "歴史"
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"text": "関急電は1938年(昭和13年)6月、名古屋駅地下に新設された関急名古屋駅(現・近鉄名古屋駅)に乗り入れ、桑名 - 名古屋間を全通させた(現・近鉄名古屋線の全通)。これにより江戸橋駅での乗り換えを要したものの、大軌・参急・関急電3社接続による名阪間連絡が実現された(上本町 - 名古屋間、189.5kmがこれにより全通)。同年12月には江戸橋 - 参急中川間を狭軌に改軌し、乗換駅を中川駅に改めている。この時、上本町 - 名古屋間の所要時間は3時間15分となり、当時の国鉄東海道本線の急行列車より速い所要時間で結ばれることとなった。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "旧伊勢電本線は参急名古屋伊勢本線(のち関急名古屋線および伊勢線)となるも、1942年(昭和17年)に新松阪駅以南を戦時の不要不急線として廃止、江戸橋 - 新松阪間も1961年(昭和36年)全廃となった。関急電と系列の養老電鉄(現・養老鉄道養老線)は、1940年(昭和15年)参急に吸収合併された。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "戦時体制下にあっても国家神道的な政策が幸いして、伊勢神宮・橿原神宮・吉野神宮・熱田神宮などへの参拝旅行は「戦時の不急不要旅行の制限」の例外扱いとなり、これらを版図とする大軌グループの業績は大きく伸張した。大軌創業30年目に当たる1940年(昭和15年)の「皇紀2600年奉祝式典」では、年間参拝者数が1千万人に達した橿原神宮をはじめ、他の神宮への参拝客も捌くべく、大軌・参急とも臨時列車を多数設定するなどして輸送に努めた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 37,
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"text": "この頃、大軌グループは積極的に多くの電鉄会社を組み入れ、事業規模を拡大させていった。参急は1940年(昭和15年)1月に関西急行電鉄を、同8月には養老電鉄をそれぞれ合併。続いて1941年(昭和16年)3月には大軌と参急の合併により、関西急行鉄道(関急)に改組。更に1943年(昭和18年)に関急が大鉄を合併し、1944年(昭和19年)には南和電気鉄道(現・近鉄御所線)と信貴山急行電鉄をも合併して、路線網は500kmを超えた。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "1944年(昭和19年)6月、関急は戦時統合により南海鉄道と合併、全線630km余りを擁する巨大鉄道会社・近畿日本鉄道(近鉄)が成立する。",
"title": "歴史"
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{
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"tag": "p",
"text": "だが、旧大軌・関急と旧南海との間には資本上も沿革上も人脈上も元々接点がなく、国策による強制的な合併ということもあり、初めから無理が生じていた。そこで戦後の1947年(昭和22年)6月、旧南海の傍系会社で近鉄と合併しなかった高野山電気鉄道が南海電気鉄道(南海電鉄)と改称の上、近鉄より旧南海鉄道路線を譲受し、旧南海との合同を解消。この結果、旧関急系の路線のみが近鉄として存続し、現在に至っている。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "大軌は、阪神電気鉄道が先鞭を付けたインターアーバンの手法で創業したが、アメリカ的に大胆なM&Aで局地的なローカル鉄道を巧みに糾合し、鉄道省の強固な許認可体制をかわして広域に渡る高速電車網構築に成功した希有な鉄道会社であり、小林一三が率いて日本型の「郊外電車」哲学を確立した阪神急行電鉄(後の阪急電鉄)とは好対照の存在である。",
"title": "評価"
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"text": "積極策を伴った極端な拡張の一方、古くからの名所・旧跡の地である伊勢・奈良を近代的観光地に脱皮させたことで、1920年代以降の奈良・三重両県の産業・交通発展に多大な業績を残した。",
"title": "評価"
},
{
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"text": "近鉄が、戦後の大手私鉄としては例外的に1963年(昭和38年) - 1965年(昭和40年)、信貴生駒電鉄(現、近鉄生駒線・田原本線)、奈良電気鉄道、三重電気鉄道(現、近鉄湯の山線・志摩線・三岐鉄道北勢線・四日市あすなろう鉄道内部・八王子線)と中小私鉄の吸収合併を推進したことは、大軌以来の大拡張主義が戦後に至るまで受け継がれたことの現れである。",
"title": "評価"
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"text": "また、高速性能と登坂力を両立できるよう、大出力モーター付で重装備の大型電車を使用する大軌・参急の車両ポリシーは、現在の近鉄電車に至るまで確たる伝統となっている。",
"title": "評価"
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"text": "大軌グループの積極性を象徴する現存施設としては、久野節が設計した、内外共に壮麗な高架駅ビルの宇治山田駅(1931年・昭和6年)や、先進的な地下駅の近鉄名古屋駅(1938年・昭和13年、後に拡張)、村野藤吾設計による橿原神宮前駅舎(1940年)などが挙げられる。",
"title": "評価"
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"text": "関西急行鉄道発足前の路線",
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"text": "大軌・参急・関急電・関急自製の車両で、記事があるもののみ記す。",
"title": "車両"
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] | 大阪電気軌道(おおさかでんききどう)は、近畿日本鉄道(近鉄)の直系の前身にあたる、大正から昭和戦前期の関西系私鉄会社。略称は「大軌」(だいき)。 本稿では大軌本体のほか、その子会社である参宮急行電鉄、関西急行電鉄、およびそれらの会社が合併して成立し、現在の近鉄路線網の原形を作った関西急行鉄道についても本項で併せて記述する。 | {{混同|大阪市高速電気軌道}}
{{ページ番号|date=2020年1月}}
{{基礎情報 会社
|社名 = 大阪電気軌道
|ロゴ = [[File:Daiki logomark.svg|150px]]
|種類 = [[株式会社]]
|略称 = 大軌、大阪電軌
|国籍 = {{JPN}}
|本社所在地 = [[大阪府]][[布施市]]大字下小阪639<ref name="NDLDC1139203-175"/><ref name="NDLDC1072584"/>
|設立 = [[1910年]](明治43年)9月16日<ref name="NDLDC1139203-175"/>
|業種 = [[:Category:かつて存在した日本の鉄道事業者|鉄軌道業]]<ref name="NDLDC1139203-175"/>
|事業内容 = 旅客鉄道事業、自動車事業、電気事業、不動産業、百貨店業 他<ref name="NDLDC1139203-175"/>
|代表者 = 社長 [[種田虎雄]]<ref name="NDLDC1139203-175"/><ref name="NDLDC1072584"/>
|資本金 = 60,000,000円<ref name="NDLDC1139203-175"/><br />(払込額:49,290,000円)<ref name="NDLDC1139203-175"/><ref name="NDLDC1072584"/>
|発行済株式総数 = 1,200,000株(内第四新株285,600)<ref name="NDLDC1072584"/>
|主要株主=
*[[泉吉次郎]] 52,820株<ref name="NDLDC1072584"/>
*大軌参急弥栄会 46,865株<ref name="NDLDC1072584"/>
*[[摂津汽船]] 22,650株<ref name="NDLDC1072584"/>
*[[南都銀行]] 14,913株<ref name="NDLDC1072584"/>
*[[天野合名]] 14,312株<ref name="NDLDC1072584"/>
*[[鴻池信託]] 13,589株<ref name="NDLDC1072584"/>
*[[大同生命保険]] 12,591株<ref name="NDLDC1072584"/>
*[[日本生命保険]] 10,932株<ref name="NDLDC1072584"/>
*[[帝国生命|帝国生命保険]] 10,000株<ref name="NDLDC1072584"/>
|特記事項 = 1940年(昭和15年)現在<ref name="NDLDC1072584">[{{NDLDC|1072584/369}} 『株式年鑑 昭和15年度』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref name="NDLDC1139203-175">[{{NDLDC|1139203/175}} 『株式会社年鑑. 昭和16年版』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。}}
'''大阪電気軌道'''(おおさかでんききどう)は、[[近畿日本鉄道]](近鉄)の直系の前身にあたる、[[大正]]から[[昭和]]戦前期の関西系[[鉄道事業者|私鉄会社]]。略称は「'''大軌'''」(だいき)。
本稿では大軌本体のほか、その子会社である'''参宮急行電鉄'''(さんぐうきゅうこうでんてつ、略称:「'''参急'''」)、'''関西急行電鉄'''(かんさいきゅうこうでんてつ、略称:「'''関急電'''」・「'''関急'''」)、およびそれらの会社が合併して成立し、現在の近鉄路線網の原形を作った'''[[関西急行鉄道]]'''(かんさいきゅうこうてつどう、略称:「'''関急'''」)についても本項で併せて記述する。
== 歴史 ==
'''系列の[[#伊勢進出(参宮急行電鉄設立)|参宮急行電鉄]]・[[#関西急行電鉄|関西急行電鉄]]、後身の[[#関西急行鉄道・近畿日本鉄道への改組|関西急行鉄道]]時代も含む。'''
=== 創業期 ===
大阪 - 奈良間の短絡を目的に、[[1910年]](明治43年)[[9月16日]]に設立された'''奈良軌道'''がその起源である。当初は'''奈良電気鉄道'''(後述の[[奈良電気鉄道]]とは無関係)の社名を予定していたが、[[鉄道省]]から改名要請が出されたために変更された。初代社長は[[広岡恵三]]であった。
同年[[10月15日]]、社名を'''大阪電気軌道(大軌)'''に改称した。
この頃は[[1905年]](明治38年)開業の[[阪神電気鉄道]]に始まった、[[路面電車]]を発展させた郊外電車である[[インターアーバン]](都市間連絡電車)の建設が日本各地で流行している時期でもあり、大軌もその流れの中で設立された。なお、現在の関西における[[大手私鉄]]直系祖先会社の中では、最も遅い発祥でもあった。
元々大阪 - 奈良間の私鉄建設には、[[単線]]かつ[[狭軌]]の鉄道として3つの出願がなされていた。いずれもバックに[[政治家]]や[[資本家]]がいて、裁定もしかねる状態であった。そのため3つの出願を1つに統合する事が提案され、その結果として奈良軌道の設立に至ったのである。
==== 生駒トンネルルート ====
大阪府・奈良県境の[[生駒山地]]を直線的に越えるため、当初は[[ケーブルカー|鋼索鉄道]](ケーブルカー)や[[索道]](ロープウェイ)の利用さえも検討されたが、これでは高速都市間電車としての機能が失われることから、[[箕面有馬電気軌道]](現:[[阪急阪神ホールディングス]])の設立にもかかわった同社の筆頭[[取締役]]の[[岩下清周]](後に大軌社長)の発案などにより、結局[[生駒山]]を[[複線]]規格の[[生駒トンネル]](3,388m、当時日本第2位の長さ)で開削し、急勾配区間を大出力モーター搭載の300馬力電車で克服する、という大規模かつ先進的な策で攻略することにした。また計画も、全線が複線電化の[[標準軌]](この当時の関西私鉄は、[[南海電気鉄道|南海鉄道]]を除いて全てこの規格であった)路線に変更された。
[[1914年]](大正3年)4月、大阪の[[大阪上本町駅|上本町駅]] - 奈良駅間30.8km(現・[[近鉄奈良線]])を開業。この時点では奈良駅は仮駅で、同年7月に現在の[[近鉄奈良駅]]付近へ移転している。なお[[軌道法]]に基づいて路線の特許を取得したため、全区開業時の大軌線による大阪 - 奈良間の所要時間は55分で、[[日本国有鉄道|官営鉄道]][[関西本線]]列車に比べて15分も短縮した。
==== 経営難 ====
しかし、生駒トンネル掘削の難工事による多額の出費が原因で経営難となり、沿線の[[宝山寺|生駒聖天]]から賽銭を借りて当座の経費を賄うほどに窮迫した。主要利用客である生駒山参詣者の人出がお天気次第なので運賃収入もお天気次第、という意味で「『大阪電気軌道』でなく“大阪天気軌道”」、空気のように頼りない経営状態から「『大軌』でなく“大気”」、と揶揄されたことさえあった。
更に岩下など、設立に関わった取締役も次々に手を引くようにして辞めてしまい、大軌に残ったのは[[金森又一郎]](後に社長、「大軌の実質創業者」とも呼ばれる)など数名のみとなり、毎日会社に債権者が押しかけるという事態にも陥った。このため実業家の[[片岡直輝]]が、大軌の依頼で生駒トンネルを建設したものの、代金未払いの状態が続いたことが原因で、倒産寸前に陥っていた[[大林組]]とセットで大軌の再建に乗り出した。
その後、経費削減などの経営努力と利用客の増加により辛うじて大軌は再建し、[[1916年]](大正5年)3月には一応の債務整理を完了した。
=== 発展・拡張期 ===
経営が軌道に乗ると、大軌は[[奈良盆地]]内に路線網を拡張し始める。
[[1921年]] - [[1924年]](大正10 - 13年)に畝傍線(現・[[近鉄橿原線]])、1923年(大正12年) - [[1930年]]([[昭和]]5年)には桜井線(旧・八木線、現・[[近鉄大阪線]]の[[桜井駅 (奈良県)|桜井駅]]以西)・信貴線(現・[[近鉄信貴線]])を敷設する。
一方、[[天理軽便鉄道]](現・[[近鉄天理線]])・[[吉野鉄道]](現・[[近鉄吉野線]])の買収、子会社・信貴山電鉄(のち[[信貴山急行電鉄]]、現・[[近鉄西信貴鋼索線]]ほか)の設立・開業、[[京阪電気鉄道]](京阪)との共同出資で[[奈良電気鉄道]](奈良電)を設立([[京都駅]] - 西大寺駅(現・[[大和西大寺駅]])間、現・[[近鉄京都線]])し同社との相互乗り入れ運転を行う、などの旺盛な積極策を採った。また、後に[[近鉄難波線]]として実現する、上本町から難波への延伸事業はこの時代に初めて大阪府へ出願された。
鉄道沿線の行楽事業にも力を入れ、[[近鉄あやめ池遊園地|あやめ池遊園地]](1926年)、[[生駒山上遊園地]](1929年)、[[東大阪市花園ラグビー場|花園ラグビー場]](同年)の開業はこの時期であった。
==== 大阪鉄道との競合 ====
大阪・奈良南部には、同時期に'''[[大阪鉄道 (2代目)|大阪鉄道]]'''(通称'''大鉄'''。現・[[近鉄南大阪線]]系統の1067mm軌間各路線の前身。明治期に[[関西鉄道]]に合併され現JR[[関西本線]]の一部となった[[大阪鉄道 (初代)|大阪鉄道]]とは別会社)が路線網を伸張し、吉野鉄道(現・[[近鉄吉野線]])へ直通を目論んだ([[1929年]](昭和4年)に実現)。
大鉄線と大軌桜井・橿原線は並行路線でもあり、吉野鉄道との連絡輸送も絡んで熾烈な戦いが展開されたが、線路幅の関係で吉野に直通できないハンデをおして、大軌が吉野鉄道買収に成功した(大軌の既存路線は線路幅1435mmの[[標準軌]]、大鉄と吉野鉄道は1067mmの[[狭軌]])。のちに大軌は、[[上ノ太子駅]]での重大衝突事故もあって経営が悪化していた大鉄をも傘下に収めるに至る。
なお吉野鉄道線と大鉄線との直通運転は、吉野鉄道が買収によって大軌吉野線となった後も、利用者の便宜を考慮して継続された。この運行は、近鉄成立後も継続されている。
=== 伊勢進出(参宮急行電鉄設立) ===
{{基礎情報 会社
|社名 = 参宮急行電鉄
|ロゴ = [[File:Sankyu logomark.svg|150px]]
|種類 = [[株式会社]]
|略称 = 参急、参宮急行
|本社所在地 = [[大阪府]][[天王寺区]]上本町6丁目1番地<ref name="NDLDC1139203-196"/>
|設立 = [[1927年]](昭和2年)9月<ref name="NDLDC1139203-196"/>
|業種 = [[:Category:かつて存在した日本の鉄道事業者|鉄軌道業]]<ref name="NDLDC1139203-196"/>
|事業内容 = 旅客鉄道事業、自動車事業、不動産業 他<ref name="NDLDC1139203-196"/>
|代表者 = 社長 [[種田虎雄]]<ref name="NDLDC1139203-196"/>
|資本金 = 58,970,000円<ref name="NDLDC1139203-196"/><br />(払込額:39,720,000円)<ref name="NDLDC1139203-196"/>
|発行済株式総数 = 1,179,400株<ref name="NDLDC1139203-196"/><br />(内合併株85,400)<ref name="NDLDC1139203-196"/><br />(〃合併新株294,000)<ref name="NDLDC1139203-196"/><br />(〃合併第二新株100,000)<ref name="NDLDC1139203-196"/><br />(〃養老合併株100,000)<ref name="NDLDC1139203-196"/>
|主要株主=
*大軌証券 112,115株<ref name="NDLDC1139203-196"/>
*[[泉吉次郎]] 29,440株<ref name="NDLDC1139203-196"/>
*[[岐阜県]] 15,000株<ref name="NDLDC1139203-196"/>
*[[奈良信託]] 11,650株<ref name="NDLDC1139203-196"/>
*[[宝山寺]] 11,547株<ref name="NDLDC1139203-196"/>
*[[三菱電機]] 10,000株<ref name="NDLDC1139203-196"/>
|特記事項 = 1940年(昭和15年)9月現在<ref name="NDLDC1139203-196">[{{NDLDC|1139203/196}} 『株式会社年鑑. 昭和16年版』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。}}
大軌は更に伊勢進出を目論む。当初は[[高見峠]]経由のルートが検討されたが、のちに沿線人口が多い初瀬・名張経由での計画に変更された。しかし桜井 - 名張間の敷設免許は、地元小私鉄の'''[[大和鉄道]]'''(のち、[[信貴生駒電鉄]]を経て現・[[近鉄田原本線]])が所有しており、大軌にとって計画の障害となっていた。そこで株式を買い占めて大和鉄道を傘下に収め、同社がもともと取得していた桜井 - 名張間の敷設免許に加えて、名張 - 宇治山田間の免許も取得させた。そして[[1927年]](昭和2年)9月28日に子会社の'''参宮急行電鉄(参急)'''を設立、大和鉄道から敷設免許を譲渡させ、路線建設に着手した。
[[1930年]] - [[1932年]](昭和5 - 7年)に桜井駅 - [[名張駅]] - 参急中川駅(現・[[伊勢中川駅]]) - [[宇治山田駅]]間(本線、現・近鉄大阪線・[[近鉄山田線]])および中川駅 - [[津駅]]間(津支線、現・[[近鉄名古屋線]]の一部)を開業した。なお津支線は、同地区における[[伊勢川口駅]] - [[久居駅]] - [[阿漕駅]] - 岩田橋駅間の[[軽便鉄道]]線を運営していた[[中勢鉄道]]を傘下において、同社により中川駅 - 久居駅間の免許を申請し、その免許を参急に譲渡させる形でまず同区間を建設・開業させ、後にそれを津まで延長するという形態で開通した。
大軌と参急は[[1930年]](昭和5年)に上本町 - 宇治山田間を2時間半で走破する直通急行電車の運転を開始<ref>大阪-伊勢間の参宮急行が開通『大阪毎日新聞』昭和5年12月21日夕刊(『昭和ニュース事典第2巻 昭和4年-昭和5年』本編p444-445 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。さらに[[1932年]](昭和7年)以降は、同区間を2時間1分で走破する直通特急電車の運転を開始した。この所要時間短縮は、鈍足な[[蒸気機関車]]運転の国鉄[[関西本線]]・[[参宮線]](3 - 5時間程度)を圧倒して、大阪からの日帰りお伊勢詣りを実現した。この列車が、のちの[[近鉄特急]]網の基礎となったという見方もある。
なお、当時の参急線[[近鉄特急|伊勢特急]]の速度は、70年以上を経た現代の近鉄大阪線[[快速急行]]とほとんど互角である。
戦後も近年に至るまで、畿内の[[小学校]]の[[修学旅行]]先に[[伊勢神宮]]が定番であったのは、この利便性を生かした大軌(と後身の近鉄)の巧みな営業活動に起因する面が大きいと言われている。
==== 大型電車の導入 ====
参急が開業時に製造した長距離用電車[[参宮急行電鉄2200系電車|2200系]]は、当時日本最大級の21m電車であり、その技術面で画期的な存在であった。
電動車1両あたりの出力約600kW (800[[馬力|HP]])、平坦地での最高速度110km/h以上、山岳区間の急勾配(過酷な33[[パーミル|‰]]勾配。青山峠・[[長谷寺駅|長谷寺]]付近)を65km/hで登坂・降坂可能で、その性能は現代の電車とさほど遜色ない水準にあった。設備面でも、国鉄客車よりも格段に広く座り心地の良い座席や、トイレ、特別個室の設置、電気暖房採用など充実したサービスを備え、長く大阪 - 伊勢間の直通急行に用いられた([[1974年]](昭和49年)までに全車廃車)。
==== 買収線区 ====
相前後して参急線途中の名張 - [[伊賀神戸駅|伊賀神戸]]間で路線が並行していた伊賀電気鉄道(現・[[伊賀鉄道伊賀線]])を合併した([[1929年]](昭和4年)に大軌合併後、[[1931年]](昭和6年)に参急へ移管)。また、桜井 - 初瀬間の短い路線を有していた長谷軌道([[1909年]](明治42年)開業)も、並行線のため[[1928年]](昭和3年)に買収して[[大阪電気軌道長谷線|大軌長谷線]]としたが、こちらは[[1938年]](昭和13年)に廃止している。
=== 名古屋進出(伊勢電気鉄道合併・関西急行電鉄設立) ===
[[1936年]](昭和11年)9月、参急は、三重県の有力私鉄ながら過剰投資で経営破綻に陥っていた'''[[伊勢電気鉄道]]'''(通称'''伊勢電'''。[[桑名駅]] - [[大神宮前駅]](伊勢神宮の外宮前)間ほかを運営。津 - 伊勢間で参急と競合)を合併する。
伊勢電は、参急とほぼ同時期に伊勢への進出を果たし、将来[[名古屋市|名古屋]]へ延伸するための免許を既に有していた。また参急は、伊勢へ進出する以前に、中川 - 桑名間の免許を収得するなど、参急自身も既に名古屋進出を計画していた。参急本線全通の翌年に津への支線が開通したことも、その意欲の表れといえた。
しかし、当時国鉄線の運営と私鉄の監督を行っていた[[鉄道省]]は、「このままでは省の運営する関西本線・参宮線を合わせて3つ巴の競争になる恐れがあり、人口がさほど多くない名古屋 - [[四日市市|四日市]] - 伊勢間では共倒れになる恐れがある」と警告していた。参急もそれは理解していて、伊勢進出の前に「参急は伊勢へ、伊勢電は名古屋への進出を優先し、提携輸送を行う方が双方のためである」という内容の交渉を伊勢電に行った事があった。これには、既に京阪傘下の[[新京阪鉄道]]と[[名古屋急行電鉄]]によって大阪 - 名古屋間の鉄道敷設計画が進んでいたため、先に大阪 - 名古屋間運転の実績をつくっておいて対抗したい大軌・参急の意向もあった。
しかし、大阪系資本の参急の進出に、地元企業の伊勢電は対抗意識があり、交渉には応じず、逆に参急と並行路線となる伊勢への路線建設を優先した。名古屋という大都市へ直結するのを後回しにしたために集客力を得られなかったことと、参急への対抗心で伊勢進出を強行したことが、結果として伊勢電自身の破綻を招くことになった。
==== 関西急行電鉄 ====
{{基礎情報 会社
|社名 = 関西急行電鉄
|ロゴ = [[File:Kankyuden logomark.svg|150px]]
|種類 = [[株式会社]]
|略称 = 関急、関急電
|本社所在地 = [[大阪府]][[天王寺区]]上本町6丁目1番地<ref name="NDLDC1186026"/>
|設立 = [[1936年]](昭和11年)1月24日<ref name="NDLDC1186026"/>
|業種 = [[:Category:かつて存在した日本の鉄道事業者|鉄軌道業]]
|事業内容 = 鉄軌道事業、電気事業、不動産業、物品販売 他<ref name="NDLDC1186026"/>
|代表者 = 社長 [[種田虎雄]]<ref name="NDLDC1186026"/>
|資本金 = 8,200,000円<ref name="NDLDC1186026"/><br />(払込額:3,700,000円)<ref name="NDLDC1186026"/>
|特記事項 = 1937年(昭和12年)4月現在<ref name="NDLDC1186026">[{{NDLDC|1186026/58}} 『地方鉄道及軌道一覧. 昭和12年4月1日現在』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
}}
大軌グループは伊勢電が計画して果たせなかった名古屋進出に乗り出し、そのために子会社の'''関西急行電鉄(関急電)'''を[[1936年]](昭和11年)1月に設立した。
桑名 - 名古屋間路線建設の最大の難所は、技術・資金の両面で困難な[[木曽三川]](濃尾三川、[[木曽川]]・[[長良川]]・[[揖斐川]])への架橋であったが、経営破綻前の伊勢電は並行する国鉄関西本線の橋梁架け替えに伴う「廃鉄橋譲受」という奇策で、この難題を超える予定であった。
関西線旧橋梁は当時まだ寿命を残していたが、[[蒸気機関車]]の重量化・大型化に対応できないため、新鉄橋が並行して架橋されていた。だが電車は蒸気機関車より格段に軽量であり、旧鉄橋でも運行可能だったのである。関急電はこの計画を踏襲し、廃鉄橋利用で路線を建設した(その後の老朽化に伴い、戦後の改軌・複線化の際に新たに架け替えられた)。
関急電は[[1938年]](昭和13年)6月、[[名古屋駅]]地下に新設された関急名古屋駅(現・[[近鉄名古屋駅]])に乗り入れ、桑名 - 名古屋間を全通させた(現・近鉄名古屋線の全通)。これにより江戸橋駅での乗り換えを要したものの、大軌・参急・関急電3社接続による名阪間連絡が実現された(上本町 - 名古屋間、189.5kmがこれにより全通)<ref>[{{新聞記事文庫|url|0100198436|title=電車で三時間の旅! : 日本一長距離・関西急行電鉄 : 来月十日晴れの開通 : 大阪・名古屋結ぶ新鉄路|oldmeta=00097711}} 1938年5月11日付大阪朝日新聞](神戸大学附属図書館新聞記事文庫)</ref>。同年12月には江戸橋 - 参急中川間を狭軌に改軌し、乗換駅を中川駅に改めている。この時、上本町 - 名古屋間の所要時間は3時間15分となり、当時の国鉄東海道本線の[[急行列車]]より速い所要時間で結ばれることとなった。
旧伊勢電本線は参急名古屋伊勢本線(のち関急名古屋線および[[近鉄伊勢線|伊勢線]])となるも<ref name="100ayumi_p156" />、[[1942年]](昭和17年)に新松阪駅以南を戦時の[[不要不急線]]として廃止、江戸橋 - 新松阪間も[[1961年]](昭和36年)全廃となった。関急電と系列の養老電鉄(現・[[養老鉄道養老線]])は、[[1940年]](昭和15年)参急に吸収合併された。
{{-}}
=== 関西急行鉄道・近畿日本鉄道への改組 ===
{{基礎情報 会社
| 社名 = 関西急行鉄道
| ロゴ = [[File:Kankyu logomark.svg|150px]]
| 種類 = [[株式会社]]
| 略称 = 関急、関西急行
| 本社所在地 = [[大阪府]][[布施市]]大字下小阪639<ref name="NDLDC1139336"/>
| 設立 = [[1941年]](昭和16年)9月16日<ref name="NDLDC1139336"/>
| 業種 = [[:Category:かつて存在した日本の鉄道事業者|鉄軌道業]]<ref name="NDLDC1139336"/>
| 事業内容 = 旅客鉄道事業、自動車事業、電気事業、不動産業、百貨店業 他<ref name="NDLDC1139336"/>
| 代表者 = 社長 [[種田虎雄]]<ref name="NDLDC1139336"/>
| 資本金 = 118,970,000円<ref name="NDLDC1139336"/><br />(払込額:98,410,000円)<ref name="NDLDC1139336"/>
| 発行済株式総数 = 2,379,400株(内後配株1,179,400)<ref name="NDLDC1139336"/>
| 主要株主 = *大軌証券 119,459株<ref name="NDLDC1139336"/>
*[[泉吉次郎]] 81,800株<ref name="NDLDC1139336"/>
*[[三和信託]] 29,652株<ref name="NDLDC1139336"/>
*[[摂津貯蓄銀行]] 27,850株<ref name="NDLDC1139336"/>
*[[大同生命保険]] 27,327株<ref name="NDLDC1139336"/>
*[[宝山寺]] 19,775株<ref name="NDLDC1139336"/>
*[[南都銀行]] 18,355株<ref name="NDLDC1139336"/>
*[[東邦電力]] 17,598株<ref name="NDLDC1139336"/>
*[[天野合名]] 17,002株<ref name="NDLDC1139336"/>
*[[岐阜県]] 15,000株<ref name="NDLDC1139336"/>
| 特記事項 = 1943年(昭和18年)9月現在<ref name="NDLDC1139336">[{{NDLDC|1139336/52}} 『株式会社年鑑. 昭和19年版』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
}}
戦時体制下にあっても国家神道的な政策が幸いして、[[伊勢神宮]]・[[橿原神宮]]・[[吉野神宮]]・[[熱田神宮]]などへの参拝旅行は「戦時の不急不要旅行の制限」の例外扱いとなり、これらを版図とする大軌グループの業績は大きく伸張した。大軌創業30年目に当たる[[1940年]](昭和15年)の「[[紀元二千六百年記念行事|皇紀2600年奉祝式典]]」では、年間参拝者数が1千万人に達した橿原神宮をはじめ、他の神宮への参拝客も捌くべく、大軌・参急とも[[臨時列車]]を多数設定するなどして輸送に努めた。
この頃、大軌グループは積極的に多くの電鉄会社を組み入れ、事業規模を拡大させていった。参急は1940年(昭和15年)1月に関西急行電鉄を、同8月には[[養老電鉄]]をそれぞれ合併。続いて[[1941年]](昭和16年)3月には大軌と参急の合併により、'''関西急行鉄道(関急)'''に改組。更に[[1943年]](昭和18年)に関急が大鉄を合併し、[[1944年]](昭和19年)には南和電気鉄道(現・[[近鉄御所線]])と信貴山急行電鉄をも合併して、路線網は500kmを超えた。
1944年(昭和19年)6月、関急は戦時統合により南海鉄道と合併、全線630km余りを擁する巨大鉄道会社・'''[[近畿日本鉄道]](近鉄)'''が成立する。
だが、旧大軌・関急と旧南海との間には資本上も沿革上も人脈上も元々接点がなく、国策による強制的な合併ということもあり、初めから無理が生じていた。そこで戦後の[[1947年]](昭和22年)6月、旧南海の傍系会社で近鉄と合併しなかった[[高野山電気鉄道]]が[[南海電気鉄道]](南海電鉄)と改称の上、近鉄より旧南海鉄道路線を譲受し、旧南海との合同を解消。この結果、旧関急系の路線のみが近鉄として存続し、現在に至っている。
== 評価 ==
大軌は、阪神電気鉄道が先鞭を付けたインターアーバンの手法で創業したが、アメリカ的に大胆な[[M&A]]で局地的なローカル鉄道を巧みに糾合し、鉄道省の強固な許認可体制をかわして広域に渡る高速電車網構築に成功した希有な鉄道会社であり、[[小林一三]]が率いて日本型の「郊外電車」哲学を確立した[[阪神急行電鉄]](後の[[阪急電鉄]])とは好対照の存在である。
積極策を伴った極端な拡張の一方、古くからの名所・旧跡の地である伊勢・奈良を近代的観光地に脱皮させたことで、1920年代以降の奈良・三重両県の産業・交通発展に多大な業績を残した。
近鉄が、戦後の大手私鉄としては例外的に[[1963年]](昭和38年) - [[1965年]](昭和40年)、信貴生駒電鉄(現、[[近鉄生駒線]]・田原本線)、奈良電気鉄道、三重電気鉄道(現、[[近鉄湯の山線]]・[[近鉄志摩線|志摩線]]・[[三岐鉄道北勢線]]・[[四日市あすなろう鉄道内部・八王子線]])と中小私鉄の吸収合併を推進したことは、大軌以来の大拡張主義が戦後に至るまで受け継がれたことの現れである。
また、高速性能と登坂力を両立できるよう、大出力モーター付で重装備の大型電車を使用する大軌・参急の車両ポリシーは、現在の近鉄電車に至るまで確たる伝統となっている。
大軌グループの積極性を象徴する現存施設としては、[[久野節]]が設計した、内外共に壮麗な高架駅ビルの宇治山田駅(1931年・昭和6年)や、先進的な地下駅の近鉄名古屋駅(1938年・昭和13年、後に拡張)、[[村野藤吾]]設計による橿原神宮前駅舎(1940年)などが挙げられる。
{{-}}
== 所有路線 ==
[[File:Sangu Kyuko Electric Railway Map in 1930s.jpg|thumb|450px|当時(1930年代)の鉄道網]]
関西急行鉄道発足前の路線
=== 大阪電気軌道 ===
; 営業路線<ref name="100ayumi_p156">近畿日本鉄道『近畿日本鉄道100年のあゆみ』2010年、p.156</ref>
* [[近鉄奈良線|奈良線]](上本町駅 - 大軌奈良駅)
* [[近鉄大阪線|桜井線]](布施駅 - 桜井駅)
* [[近鉄橿原線|畝傍線]](大軌西大寺駅 - 橿原神宮駅駅<!--「駅駅」で正-->)
* [[近鉄天理線|天理線]](平端駅 - 天理駅)
* [[近鉄信貴線|信貴線]](山本駅 - 信貴山口駅)
* [[近鉄吉野線|吉野線]](畝傍駅 - 橿原神宮駅駅 - 吉野駅)
* [[近鉄天理線|法隆寺線]](平端駅 - 大軌法隆寺駅)
* [[近鉄生駒鋼索線|生駒鋼索線]](鳥居前駅 - 生駒山上駅)
; 廃線
* [[大阪電気軌道長谷線|長谷線]](桜井駅 - 初瀬駅) - 1938年2月1日廃止
; 未成線<!--当時免許有効のもの-->
* [[大阪電気軌道四条畷線|四条畷線]](額田 - 蒲生 - 天満橋筋四丁目間)
* 枚岡線(信貴線)(服部川 - 枚岡間) - 1928年(昭和3年)1月24日大軌の計画として「南北連絡鉄道」免許交付。バス事業にて対処したため1937年(昭和12年)8月27日起業廃止
* 玉造線(石切 - 玉造間)
* 城東線(布施 - 玉造間)
* 石切 - 辻越間
* 大和線 国分 - 王寺 - 郡山間
* 下市線 橿原神宮前 - 大淀 - 下市間
* 大淀 - 吉野間
* 大字陀線 榛原 - 松山(大宇陀)間 - 後に大宇陀鉄道へ免許譲渡(これも未成で立ち消え)
* 寺田町 - 久宝寺口間
* 桜奈線 大和桜井‐高の原
* 大東線 河内花園−桜ノ宮
* 天王寺線 天下茶屋−久宝寺口
* 京都線 宇治小倉-?
* 小倉線 玉造-宇治小倉
* 八幡線 新田辺-八幡市
* 南天理線 田原本-天理
* 川上線 大和上市-大和川上
* 下市線 下市口-下市栄町
=== 参宮急行電鉄 ===
[[File:SANKYU.JPG|thumb|250px|参宮急行の社名が消えてから3/4世紀が過ぎた今も沿線には当時の境界標が残る]]
; 営業路線<ref name="100ayumi_p156" />
* [[近鉄山田線|参急本線]](桜井駅 - 参急中川駅 - 宇治山田駅)
* 津線(参急中川駅 - 江戸橋駅)
* [[近鉄名古屋線|名古屋伊勢本線]](参急名古屋駅 - 江戸橋駅 - 大神宮前駅)
* [[伊賀鉄道伊賀線|伊賀線]](西名張駅 - 伊賀神戸駅 - 伊賀上野駅)
* [[近鉄鈴鹿線|神戸線]](伊勢若松駅 - 伊勢神戸駅)
* [[養老鉄道養老線|養老線]](揖斐駅 - 桑名駅)
; 未成線
* 岐阜線 大垣‐岐阜
* 西大垣線 西大垣−?
* 今尾線 ?−今尾
* 羽島線 ?−羽島
* 池の浦線 池の浦口-伊勢二見
=== 系列鉄道会社線 ===
* [[信貴山急行電鉄]](信貴山口 - 高安山 - 信貴山門)
* [[信貴生駒電鉄]](生駒 - 王寺、他)
* [[奈良電気鉄道]](京都 - 西大寺)
* [[大和鉄道]](新王寺 - 田原本 - 桜井)
* [[大阪鉄道 (2代目)|大阪鉄道]](大阪阿部野橋 - 橿原神宮駅、他)
* [[近鉄御所線|南和電気鉄道]](尺土 - 南和御所町)
* [[三岐鉄道北勢線|北勢電気鉄道]](桑名町 - 阿下喜)
* [[三重交通|三重鉄道]](諏訪 - 湯ノ山、他)
* [[中勢鉄道]](岩田口 - 久居 - 伊勢川口)
* [[三重電気鉄道松阪線|松阪電気鉄道]](松阪 - 大石)
* [[三重交通神都線|神都交通]](山田駅前 - 内宮、他)
* [[近鉄志摩線|志摩電気鉄道]](鳥羽 - 賢島 - [[真珠港駅|真珠港]])
== 車両 ==
大軌・参急・関急電・関急自製の車両で、記事があるもののみ記す。
=== 一般車両 ===
* [[大阪電気軌道デボ1形電車|大軌デボ1形・19形]]
* [[大阪電気軌道デボ51形電車|大軌デボ51形]]
* [[大阪電気軌道デボ61形電車|大軌デボ61形]]
* [[大阪電気軌道デボ201形電車|大軌デボ201形]]
* [[大阪電気軌道デボ301形電車#デボ211形|大軌デボ211形]]
* [[大阪電気軌道デボ301形電車|大軌デボ301形]]
* [[大阪電気軌道デボ61形電車#デボ150形|大軌デボ150形]]
* [[大阪電気軌道デボ301形電車#デボ103形|大軌デボ103形]]
* [[大阪電気軌道デボ301形電車#デボ208形|大軌デボ208形]]
* [[大阪電気軌道デボ600形電車|大軌デボ600形]]
* [[大阪電気軌道デボ61形電車#デボ400形|大軌デボ400形]]
* [[関西急行鉄道モ651形電車|関急モ651形]]
* [[大阪電気軌道デボ1000形電車|大軌デボ1000形・1100形・1200形・1300形]]
* [[大阪電気軌道デボ1400形電車|大軌デボ1400形]]
* [[参宮急行電鉄デニ2000形電車|参急デニ2000形]]
* [[参宮急行電鉄2200系電車|参急2200系・2227系]]
* [[関西急行電鉄1型電車|関急電1型]]
* [[関西急行鉄道モ6311形電車|関急モ6311形]]
=== 事業用車両 ===
* [[大阪電気軌道デトボ151形電車|大軌デトボ151形]]
* [[大阪電気軌道デワボ151形電車|大軌デワボ151形]]
* [[大阪電気軌道デワボ811形電車|大軌デワボ811形]]
* [[大阪電気軌道デトボ1600形電車|大軌デトボ1600形]]
* [[大阪電気軌道デワボ1800形電車|大軌デワボ1800形]]
* [[参宮急行電鉄デト2100形電車|参急デト2100形]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
== 参考文献 ==
* {{Cite book | 和書 | editor = 寺本光照 | title = こんなに面白い!近鉄電車100年 | publisher = 交通新聞社 | date = 2019年10月}}
== 関連項目 ==
* [[京阪梅田線]](大軌の計画と関与)
* [[東大阪電気鉄道]](大軌の競合線計画)
* [[名古屋急行電鉄]](大軌・参急へ影響を与えた名阪間新線敷設計画)
* [[近江鉄道宇治山田延伸構想]](参急への直通を想定)
* [[関西鉄道]](大軌とテリトリーがほぼ同じ)
* [[参宮鉄道]](同上)
{{Normdaten}}
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[[Category:かつて存在した日本の鉄道事業者]]
[[Category:かつて存在した大阪府の企業]]
[[Category:大阪電気軌道|*]]
[[Category:近鉄グループの歴史]]
[[Category:1910年設立の企業]]
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9,309 | アマチュア衛星 | アマチュア衛星(アマチュアえいせい)は、政府機関や商業衛星サービス企業による一般的な通信衛星に対し、個人的な趣味の団体や、大学の研究室などが自ら製作する通信衛星で、アマチュア無線の周波数帯を用いて通信を行うものをいう。
1961年という宇宙開発の黎明期に打ち上げられたオスカー1号以来、約70機もの実績がある。
衛星の企画や製作は様々な独立の団体が行っており、これらを統括管理する組織があるわけではないが、互いに技術協力を行って製作したり、打上げ後の追跡管制で協力体制を敷くことが多い。
これらの団体の多くは『AMSAT』の名前を冠しており、1969年に創設されたアメリカ合衆国の団体 AMSAT(アムサット: Radio Amateur Satellite Corporation, AMSAT)と協力関係を持って自国アマチュアの衛星計画を推進している。例えば、ドイツではAMSAT-DL、イギリスではAMSAT-UK、日本ではJAMSATがそれにあたる。合衆国のAMSATを他国のAMSAT系団体との区別のためAMSAT-NAということがある(NA=North America)。
また、製作は必ずしも「アマチュアの手作り」に限らない。UoSATシリーズは、英国のサレー大学が技術をスピンアウトして商業化した例である。また、東大阪宇宙開発協同組合が開発した「まいど1号」など、地場産業として小型衛星の開発を根付かせるために、基礎開発をJAXAとの連携のもとに行っている例もある。しかし、多くのアマチュア衛星の企画・製作は、非営利の団体やグループが寄付とボランティア作業で行っている。
米国では衛星を打ち上げ、さまざまな実験を行ったり、目標への到達を競ったりするARLISSと言うイベントが行われている。
「アマチュア無線搭載人工衛星」を意味する Orbiting Satellite Carrying Amateur Radio にちなみ、以後の衛星の名称の一部に「OSCAR(オスカー)」を入れ、一連番号をつけることが慣例化しており、その意味で「オスカー」は国際協力のもとでつくられたアマチュア衛星としてのアイデンティティでもある。ソビエト連邦時代に打ち上げられたアマチュア衛星は「RS-xx号」という独自の名称が用いられた(RSはRadio Sputnikの略)が、1991年のRS-14号はAMSAT-OSCAR-21の名称も用いている。 国際アマチュア無線連合(IARU:International Amateur Radio Union)とAMSAT-NAが定めたルールでは「オスカー」の名称と連番は各アマチュア衛星の保有団体の依頼を受けてAMSAT-NAが発行しており、軌道に投入されて動作したものに対してのみ与えられることになっている。
用途はアマチュア無線用の通信衛星が多いが、地球観測・天体観測などの科学衛星もある。
ほとんどのアマチュア衛星が該当する低軌道衛星を用いて無線通信を行う方法の概略は次の通りである。 | [
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] | アマチュア衛星(アマチュアえいせい)は、政府機関や商業衛星サービス企業による一般的な通信衛星に対し、個人的な趣味の団体や、大学の研究室などが自ら製作する通信衛星で、アマチュア無線の周波数帯を用いて通信を行うものをいう。 1961年という宇宙開発の黎明期に打ち上げられたオスカー1号以来、約70機もの実績がある。 | {{Pathnav|[[アマチュア無線]]|frame=1}}
{{出典の明記|date=2023年2月26日 (日) 09:19 (UTC)}}
'''アマチュア衛星'''('''アマチュアえいせい''')は、政府機関や商業衛星サービス企業による一般的な[[通信衛星]]に対し、個人的な趣味の団体や、大学の研究室などが自ら製作する通信衛星で、[[アマチュア無線の周波数帯]]を用いて通信を行うものをいう。
1961年という[[宇宙開発]]の黎明期に打ち上げられたオスカー1号以来、約70機もの<!--軌道投入の-->実績がある。<!--その多くの、軌道への投入はアマチュアの手によるものではない。もし何か代わりに入れるなら「軌道運用の」か?-->
==製作団体==
衛星の企画や製作は様々な独立の団体が行っており、これらを統括管理する組織があるわけではないが、互いに技術協力を行って製作したり、打上げ後の追跡管制で協力体制を敷くことが多い。
これらの団体の多くは『AMSAT』の名前を冠しており、1969年に創設された[[アメリカ合衆国]]の団体 {{en|AMSAT}}(アムサット: {{en|Radio Amateur Satellite Corporation, [[:en:AMSAT|AMSAT]]}})と協力関係を持って自国アマチュアの衛星計画を推進している。例えば、[[ドイツ]]ではAMSAT-DL、[[イギリス]]ではAMSAT-UK、日本ではJAMSATがそれにあたる。合衆国のAMSATを他国のAMSAT系団体との区別のためAMSAT-NAということがある(NA=[[北アメリカ|North America]])。
また、製作は必ずしも「[[アマチュア]]の手作り」に限らない。UoSATシリーズは、英国のサレー大学が技術をスピンアウトして商業化した例である。また、[[宇宙開発協同組合SOHLA|東大阪宇宙開発協同組合]]が開発した「まいど1号」など、[[地場産業]]として[[小型衛星]]の開発を根付かせるために、基礎開発を[[宇宙航空研究開発機構|JAXA]]との連携のもとに行っている例もある。しかし、多くのアマチュア衛星の企画・製作は、非営利の団体やグループが寄付とボランティア作業で行っている。
米国では衛星を打ち上げ、さまざまな実験を行ったり、目標への到達を競ったりする[[ARLISS]]と言うイベントが行われている。
== 名称 ==
「アマチュア無線搭載人工衛星」を意味する {{en|'''O'''rbiting '''S'''atellite '''C'''arrying '''A'''mateur '''R'''adio}} にちなみ、以後の衛星の名称の一部に「'''OSCAR'''(オスカー)」を入れ、一連番号をつけることが慣例化しており、その意味で「オスカー」は国際協力のもとでつくられたアマチュア衛星としてのアイデンティティでもある。[[ソビエト連邦]]時代に打ち上げられたアマチュア衛星は「RS-xx号」という独自の名称が用いられた(RSはRadio Sputnikの略)が、1991年のRS-14号はAMSAT-OSCAR-21の名称も用いている。
[[国際アマチュア無線連合]](IARU:International Amateur Radio Union)とAMSAT-NAが定めたルールでは「オスカー」の名称と連番は各アマチュア衛星の保有団体の依頼を受けてAMSAT-NAが発行しており、軌道に投入されて動作したものに対してのみ与えられることになっている。
用途は[[アマチュア無線]]用の[[通信衛星]]が多いが、地球観測・天体観測などの[[科学衛星]]もある。
==主なアマチュア衛星==
=== オスカー ===
* OSCAR-1 →[[オスカー1号]]
* OSCAR-2
* OSCAR-3
* OSCAR-4
* Austraris-OSCAR-5(AO-A)
* AMSAT-OSCAR-6 (AO-C) →[[オスカー6号]]
* AO-7(AMSAT-OSCAR-7)(AO-B) →[[オスカー7号]]
* AO-8(AMSAT-OSCAR-8)(AO-D) →[[オスカー8号]]
* AO-9(AMSAT-OSCAR-9) AMSAT-Phase III-A →[[PHASE-III衛星]] 打上げ失敗
* UO-9(UoSAT-OSCAR-9)(UoSAT-1) →[[UoSAT衛星]]
* AO-10(AMSAT-OSCAR-10)(Phase III-B) →[[PHASE-III衛星]]
* UO-11(UoSAT-OSCAR-11)(UoSAT-2) →[[UoSAT衛星]]
* FO-12 [[ふじ1号|Fuji-OSCAR-12(JAS-1/ふじ1号)]]
* AO-13(AMSAT-OSCAR-13)(Phase III-C) →[[PHASE-III衛星]]
* UO-14(UoSAT-OSCAR-14)(UoSAT-3) →[[UoSAT衛星]]
* UO-15(UoSAT-OSCAR-15)(UoSAT-4) →[[UoSAT衛星]]
* AO-16(AMSAT-OSCAR-16)(PACSAT-1)
* DO-17(DOVE-OSCAR-17)
* WO-18(WEBERSAT-OSCAR-18)
* LO-19(LUSAT-OSCAR-19) →[[ルーサット]]
* FO-20 [[ふじ2号|Fuji-OSCAR-20(JAS-1b/ふじ2号)]]
* AMSAT-OSCAR-21 (RS-14)
* UO-22(UoSAT-OSCAR-22)(UoSAT-5) →[[UoSAT衛星]]
* KO-23 [[KITSAT-A|KITSAT-OSCAR-23]] →[[UoSAT衛星]]
* Arsene-OSCAR-24
* KO-25 [[KITSAT-2|KITSAT-OSCAR-25]] →[[UoSAT衛星]]
* IO-26(Italy-OSCAR-26) (ITAMSAT)
* AO-27(AMRAD-OSCAR-27) (EYESAT-1)
* PO-28(PoSAT-OSCAR-28) →[[UoSAT衛星]]
* FO-29 [[ふじ3号|Fuji-OSCAR-29(JAS-2/ふじ3号)]]
* Mexico-OSCAR-30(UNAMSAT-B)
* TO-31 [[タイパット (人工衛星)|Thai-Microsatellite-OSCAR-31(TMSAT-1)]]
* GO-32(Gerswin-OSCAR-32)(TechSat-1b)
* SO-33(SEDSat-OSCAR-33) (SEDSAT-1)
* PO-34(PANSAT-OSCAR-34)(PANSAT)
* SO-35(SUNSAT-OSCAR-35)(SUNSAT)
* UO-36(UoSAT-OSCAR-36)(UoSAT-12) →[[UoSAT衛星]]
* Arizona State-OSCAR-37(ASUSat1)
* OO-38(OPAL-OSCAR-38) (OPAL)
* WO-39(Weber-OSCAR-39)(JAWSAT)
* AO-40(AMSAT-OSCAR-40)(Phase-IIID) →[[PHASE-III衛星]]
* SO-41(SausiSat-OSCAR-41)(SaudiSat-1a)
* SO-42(SaudiSat-OSCAR-42)(SaudiSat-1a)
* SO-43(Starshine-OSCAR-43)(Starshine-3)
* NO-44(Navy-OSCAR 44)(PCSat)
* NO-45(Navy-OSCAR 45)(Sapphire)
* Malaysian-OSCAR-46 (TiungSAT-1)
* BreizhSAT-OSCAR 47 (IDEFIX CU1)
* BreizhSAT-OSCAR 48 (IDEFIX CU2)
* AATiS OSCAR-49 (SAFIR-M)
* SO-50(SaudiSat-OSCAR-50) (SAUDISAT-1C)
* VO-52(VUSat OSCAR-52) (HAMSAT)
* AO-54 ([[宇宙服衛星|SuitSat-1]])
* CO-55(CubeSat-OSCAR 55) [[CubeSat]] [[CUTE (人工衛星)|Cute-1]]
* CO-57(CubeSat-OSCAR 57) [[CubeSat]] [[XI (人工衛星)|XI-IV]]
* CO-58(CubeSat-OSCAR 58) [[CubeSat]] [[XI (人工衛星)|XI-V]]
* HO-59(HIT-SAT-Oscar-59) ([[HIT-SAT]])
* NO-62(FCAL)
* DO-64(Delfi OSCAR-64) [[CubeSat]] Delfi-C3
* CO-65(Cubesat Oscar-65) [[CubeSat]] [[CUTE (人工衛星)|Cute-1.7 + APD II]]
* CO-66(Cubesat Oscar-66) [[CubeSat]] [[SEEDS (人工衛星)|SEEDS-II]]
* HO-68(Hope Oscar-68) (XW-1)
* FO-69(Fastrac Oscar-69) (FASTRAC 1(Sara Lily))
* FO-70(Fastrac Oscar-70) (FASTRAC 2(Emma))
* MO-72(MagyarSat-OSCAR 72) [[CubeSat]] Masat-1
* AO-73 [[CubeSat]] FUNcube-1
* LO-75(University of Louisiana OSCAR 75) [[CubeSat]] CAPE-II
* MO-76(Morehead-OSCAR-76) $50SAT
* CO-77(CubeSat OSCAR-77) [[多摩美術大学]]の[[CubeSat]] ARTSAT1:INVADER
* LO-78(LituanicaSAT OSCAR-78) リトアニアの[[CubeSat]]
* EO-79(European OSCAR 79) [[CubeSat]] QB50p1
* EO-80(European OSCAR 80) [[CubeSat]] QB50p2
* FO-81(Fuji-OSCAR 81) [[多摩美術大学]]のARTSAT2 DESPATCH
* FO-82(Fuji-OSCAR 82) [[鹿児島大学]]のしんえん2
=== Radio Sputnik ===
*RS-1
*RS-2
*RS-3
*RS-4
*RS-5
*RS-6
*RS-7
*RS-8
*RS-10
*RS-11
*RS-12
*RS-13
*RS-14(AO-21)
*RS-15
*RS-16
*[[RS-17]](Sputnik-40)
*RS-18(Sputnik-41)
*ISKRA-2,ISKRA-3
=== 最近の日本のアマチュア衛星 ===
*[[XI (人工衛星)|XI-IV]] : 2003年(平成15年)6月30日打ち上げ、[[東京大学]][[CubeSat]]プロジェクトによる
*[[CUTE (人工衛星)#CUTE-I|CUTE-I]] : 2003年6月30日打ち上げ、[[東京工業大学]]CubeSatプロジェクトによる
*[[XI (人工衛星)|XI-V]] : 2005年(平成17年)10月27日打ち上げ、東京大学CubeSatプロジェクトによる(2機目の成功)
*[[CUTE (人工衛星)#Cute-1.7 + APD|Cute-1.7+APD]] : 2006年(平成18年)2月22日打ち上げ、東京工業大学CubeSatプロジェクトによる
*[[HIT-SAT]]:2006年9月23日北海道衛星プロジェクト(北海道キューブサット開発チーム)による
=== その他 ===
* UNAMSAT-1/TechSat-1a
* StenSAT
== 通信方法 ==
ほとんどのアマチュア衛星が該当する[[低軌道]]衛星を用いて無線通信を行う方法の概略は次の通りである。
*アップリンク(自局から衛星へ信号を伝送する)周波数において電波の発射が可能な[[送信機]]、およびアマチュア局の免許([[無線従事者#無線従事者免許証|無線従事者免許証]]、[[無線局免許状]])を準備する。事前の予約などは特に必要なく、免許を受けているアマチュア局であればいつでも誰でも利用できる。
*[[郵政省]]令(現[[総務省]]令)[[無線局免許手続規則]]に関しては、
**1975年(昭和50年)までは宇宙無線通信に関する規定は無かった。
**1976年(昭和51年)からは「アマチュア業務と同一の目的で行われる宇宙無線通信の業務」を行う許可を受け、無線局免許状の「無線局の目的」欄に「宇宙無線通信を含む」の但書きを要した(アマチュア衛星通信の業務とアマチュア業務は別の存在とされた)。
<!--昭和50年郵政省令第20号による無線局免許手続規則改正-->
**1986年(昭和61年)にアマチュア衛星に関する規定が整備され、6月から施行された。
***「アマチュア業務と同一の目的で行われる宇宙無線通信の業務」の規定が無くなり、無線局免許状の「無線局の目的」欄の「宇宙無線通信を含む」の但書きを要しないものとなった(アマチュア衛星通信の業務はアマチュア業務の一部とされた)。
***「人工衛星に開設するアマチュア局」と「人工衛星に開設するアマチュア局を遠隔操作するアマチュア局」が規定された(利用する「アマチュア衛星地球局」、衛星に載っている「アマチュア衛星宇宙局」、管理する衛星管制局に関する免許手続きは異なるものとなった)。
<!--昭和61年郵政省令第25号による無線局免許手続規則改正-->
*アップリンクとダウンリンク(衛星から自局へ信号を伝送する)では異なる周波数帯を用いている(例えばアップリンク430MHz帯/ダウンリンク144MHz帯)。自局の信号が正常に中継されていることを確認するため、アップリンクと同時にダウンリンクの周波数を受信できる設備が望ましい。受信時には[[ハウリング]]を防ぐため[[ヘッドフォン|ヘッドホン]]を使用する。衛星によってはハンディ[[トランシーバー (無線機)|トランシーバー]]附属のホイップアンテナなど簡便な[[アンテナ|空中線]]で受信できる。
*ウェブサイトや軌道計算ソフトによって、衛星が可視できる時刻、方角を確認する。1回のパスにつき可視できる(通信できる)時間は数分から10数分である。多くのアマチュア局が利用できるよう、この間に簡潔な通信(RSTレポートの交換のみで終わることが多い)を行わなければならない。
*交信できる範囲は、自局・相手局とも同時に衛星を可視できる範囲であるため、日本であれば距離1000〜2000kmの近隣諸国までである。衛星を可視できる[[仰角]]が低いほど遠距離との通信が可能である。
*空中線を衛星の方向に向け、衛星からダウンリンクされた他局の[[CQ]]呼び出しに応答、あるいは自局からCQ呼び出し(アップリンク)を行い、交信を行う。
*[[ドップラー効果]]を補正するため、衛星が近づく時にはアップリンク周波数をわずかに低く、衛星が遠ざかる時にはアップリンク周波数をわずかに高くする場合がある。
*[[国際宇宙ステーション]](ISS)に設置されたアマチュア局との交信も、アマチュア衛星とほぼ同じ方法で可能である。但し、飛行士が余暇に行なう運用をうまく捉えられた場合に限る(「スクールコンタクト」は予約を要する)。
*アップリンク・ダウンリンクの周波数で近くに[[不法無線局]]がいる場合、衛星通信に重大な障害をもたらす。不法無線局のほとんどは垂直偏波のアンテナを用いているため、水平偏波のアンテナを用いることにより混信を軽減できる場合があるが、不法無線局の信号があまりに強力な場合は完全に防止する手段が無い。
== 関連項目 ==
*[[アマチュア無線]]
*[[CubeSat]](キューブサット)
*[[ピギーバック衛星]]
== 外部リンク ==
*[http://www.jamsat.or.jp/ JAMSAT]
*[http://www.amsat.org/ AMSAT-NA]
*[http://www.amsat-dl.org/ AMSAT-DL]
*[http://amsat-uk.org/ AMSAT-UK]
*[http://cubesat.calpoly.edu/ CubeSat -Official Site-]
*[http://www.ee.surrey.ac.uk/SSC/ SSTL] UoSAT
*[http://www.amsat.org/amsat/amsat-na/oscar.html OSCAR Numbers Policy] オスカー名の付け方
{{アマチュア無線}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:あまちゆあえいせい}}
[[Category:アマチュア無線]]
[[Category:アマチュア衛星|*]]
[[Category:人工衛星]]
[[Category:民間宇宙開発]] | null | 2023-02-26T09:19:23Z | false | false | false | [
"Template:En",
"Template:アマチュア無線",
"Template:Normdaten",
"Template:Pathnav",
"Template:出典の明記"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%A2%E8%A1%9B%E6%98%9F |
9,311 | 宮藤官九郎 |
宮藤 官九郎(くどう かんくろう、1970年7月19日- )は、日本の脚本家、ラジオパーソナリティ、俳優、映画監督、演出家、作詞家、作曲家、放送作家、ミュージシャン、濡れ場評論家。ロックバンド・グループ魂のギタリストとしての名義は暴動(ぼうどう)。パンクバンド画鋲のギタリスト。本名:宮藤 俊一郎(くどう しゅんいちろう)。愛称は「クドカン」「クン」。及川光博からは「カンクちゃん」と呼ばれたことがある。劇団大人計画所属。
妻は振付師の八反田リコ。血液型はO型。身長176.5cm(宮藤官九郎の小部屋にて、「.5がミソです。つーかたぶん177です」と語っている)。宮城県栗原市(旧栗原郡若柳町)出身。
実家は文具店を経営。父は教師・校長を務めた。年の離れた姉が2人いる。
幼少時から文才を発揮し朝日新聞主催の作文コンクールで2年連続の県予選入賞歴がある。
『ビートたけしのオールナイトニッポン』のヘビーリスナーであった。同番組で放送作家兼たけしのトークの相方役を務めた高田文夫に憧れ、高田が司会を務めた宮城ローカルのTV番組『マル金ギャハハ倶楽部』の素人参加コーナーにも出演している。
女ばかりの家庭に育ったため(父は単身赴任で不在)、バンカラな校風で知られた宮城県築館高等学校へ進学。高校へは詰襟に下駄という格好で通った。
高校卒業後は、高田の母校でもある日本大学芸術学部放送学科に進学するが一身上の都合で中退している。大学を中退した理由の一つに、友人がほとんどおらず、通学してもつまらなかったからだと語っている。しかし、決して裕福ではない実家に学費を出してもらいながら自己都合で大学中退したことを現在に至るまで悔やんでいる。
1990年に松尾スズキが主宰する劇団「大人計画」に演出助手として所属。その後、バラエティ番組の構成作家としての活動も行う。大人計画の部分公演の作・演出を務めるようになり、1996年から自身の公演を「ウーマンリブ」と名づけている。
24歳の時に結婚。
1995年に宮藤、阿部サダヲ、村杉蝉之介の3名でグループ魂を結成。2005年には、「君にジュースを買ってあげる♥」で第56回NHK紅白歌合戦出場。
2000年に放送された『池袋ウエストゲートパーク』で脚本を担当。高視聴率を記録し出世作となった。続く、『木更津キャッツアイ』『タイガー&ドラゴン』の脚本を担当し、人気脚本家の一人となる。
2003年度第41回ゴールデン・アロー賞特別賞を受賞する。
2005年、しりあがり寿の漫画の映画化『真夜中の弥次さん喜多さん』で映画監督デビューを果たす。同年、第1子(長女)が誕生。
中学時代は河合その子と斉藤由貴のファンだった。2006年には、斉藤由貴を主演に起用した『吾輩は主婦である』で、はじめて昼ドラの脚本を手がけている。
2006年、アニメ映画『鉄コン筋クリート』に、声優として参加。舞台挨拶では「自分の声が嫌いである」と語った。
2006年11月に出版された枡野浩一の『ショートソング』に短歌を寄稿。
2013年上期の連続テレビ小説『あまちゃん』の脚本を担当し、第78回ザテレビジョンドラマアカデミー賞作品賞・脚本賞や2013年新語・流行語大賞のほか、複数の賞を受賞した。
2017年、テレビドラマ『ゆとりですがなにか』の脚本による成果が認められ、第67回芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。スピンオフドラマにおいては、インターネットドラマの脚本をはじめて手がけた。
2019年、NHK大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』の脚本を担当。
2020年3月31日、新型コロナウイルスに感染したことを明らかにした。腎盂炎の治療を受けていたところ、同日に感染が判明したもので、症状について、発熱はしているものの、肺炎や風邪症状はないことを宮藤自身がコメントしていた。4月7日に退院。5月11日、パーソナリティーを務める『ACTION』(TBSラジオ)にリモート出演で復帰。6月1日、スタジオ復帰。
「暴動」名義でのグループ魂のギタリスト、2018年ごろよりパンクバンド「画鋲」のギタリスト、ザ・たこさんの準ギタリスト(DH制)等、バンドの一員としての活動のほか、2016年の『ステキロックオペラ サンバイザー兄弟』や2021年の『愛が世界を救います(ただし屁が出ます)』等の舞台での演奏活動もある。
またPsychederhythmからは宮藤によるプロデュースのギター、Psychomasterが制作された。このギターは宮藤が出演した「シーバスリーガル」のCMでも使用された。
ミステリー執筆中、犯人を簡単に見破られてしまって公園の噴水で頭を冷やしているのを妻に目撃されたり、街で見かけた変わった人を尾行して作品に生かすなどのエピソードを数多く持っている。
ナンバーガールやそのソングライターである向井秀徳の大ファンを公言しており、自身の作品の音楽を向井に依頼することもある。
執筆する作品には大人計画所属の劇団員(阿部サダヲ、池津祥子、猫背椿、荒川良々、平岩紙や皆川猿時など)を頻繁に起用。マネジメント契約のみの星野源、小松和重、少路勇介なども常連である。
『池袋ウエストゲートパーク』で長瀬智也と山下智久を起用して以降、ジャニーズ事務所所属のアイドルはクドカンドラマの常連となっており、岡田准一、櫻井翔、松岡昌宏、二宮和也、錦戸亮、重岡大毅、生田斗真らが出演している。
また、塚本高史、尾美としのり、小泉今日子、坂井真紀、酒井若菜、斉藤由貴、森下愛子、薬師丸ひろ子、古田新太、きたろう、生瀬勝久、西田敏行などの役者を頻繁に起用している。
ドラマ作品のシナリオそのものは宮藤名義で販売を行なっているものの、一方で、自らのシナリオを宮藤名義のみ(代筆してくれる小説家がいてその人の名義があるならば可)でノベライズ化、小説化することは拒んでいる。理由は、自分のプロとしての責任はシナリオに関することのみであり、完成した作品に表われたキャストやスタッフによる表現に対しての評価が良くも悪くも宮藤のみの責任として受け止められるのは困るという宮藤の考えからである。
笑福亭鶴瓶は2023年9月の宮藤をゲストに迎えた配信において
「心豊かですよね。あんだけのものを書けて、これだけしゃべれるんですもん」
と述べている。 大石静は宮藤と共同脚本を担当することになったNetflixのドラマ『離婚しようよ』のオファーが来たとき、
「宮藤さんが大好きで作品もよく観てて、すごい才能だと思ってたから、比べられるのは怖いと思った」
と、当初思ったが、自身の成長のために受けることにした。共同作業の中で
「宮藤さんがノッている時はスゴい。天才とは、こういうもんなんだな、と」
思ったという。 池松壮亮はDisney+のドラマ『季節のない街』の製作中、宮藤について
「監督としても俳優としても素晴らしいのは僕が言うまでもありませんが、現場力、演出力も素晴らしかった」
と述べている。
『ごめんね青春!』では日曜劇場において平均視聴率、最高視聴率共に歴代最低を記録し、『いだてん』ではNHK大河ドラマにおいて平均視聴率の歴代最低を記録するなど、その他の脚本作品においても視聴率で大きく低迷することがある。しかし、そういった作品においても宮藤の熱狂的なファンから寄せられる感想は概ね肯定的なものが多く、2014年に行われた、脚本ドラマの人気ランキングでは、『いだてん』は6位、『ごめんね青春!』は『あまちゃん』を抑えて1位となっている。
業界の評価においても『ごめんね青春!』はギャラクシー賞テレビ部門の2014年12月度月間賞を受賞しているほか、「ソーシャルテレビ・アワード 2015」では日経エンタテインメント!賞、脚本賞として「第83回ザテレビジョンドラマアカデミー賞」を受賞している。また『いだてん』は脚本が評価され伊丹十三賞を受賞しているほか、作品としては第44回エランドール賞のプロデューサー賞、2019年12月度ギャラクシー賞月間賞、「東京ドラマアウォード2020」のグランプリを受賞している。
バンドグループ魂に、ギタリスト「暴動」として参加し、全作詞、一部作曲、コント構成などを手がけている。
その他、以下のような外部アーティストに詞を提供している。 | [
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"text": "宮藤 官九郎(くどう かんくろう、1970年7月19日- )は、日本の脚本家、ラジオパーソナリティ、俳優、映画監督、演出家、作詞家、作曲家、放送作家、ミュージシャン、濡れ場評論家。ロックバンド・グループ魂のギタリストとしての名義は暴動(ぼうどう)。パンクバンド画鋲のギタリスト。本名:宮藤 俊一郎(くどう しゅんいちろう)。愛称は「クドカン」「クン」。及川光博からは「カンクちゃん」と呼ばれたことがある。劇団大人計画所属。",
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"text": "妻は振付師の八反田リコ。血液型はO型。身長176.5cm(宮藤官九郎の小部屋にて、「.5がミソです。つーかたぶん177です」と語っている)。宮城県栗原市(旧栗原郡若柳町)出身。",
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"text": "幼少時から文才を発揮し朝日新聞主催の作文コンクールで2年連続の県予選入賞歴がある。",
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"text": "『ビートたけしのオールナイトニッポン』のヘビーリスナーであった。同番組で放送作家兼たけしのトークの相方役を務めた高田文夫に憧れ、高田が司会を務めた宮城ローカルのTV番組『マル金ギャハハ倶楽部』の素人参加コーナーにも出演している。",
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"text": "女ばかりの家庭に育ったため(父は単身赴任で不在)、バンカラな校風で知られた宮城県築館高等学校へ進学。高校へは詰襟に下駄という格好で通った。",
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"text": "高校卒業後は、高田の母校でもある日本大学芸術学部放送学科に進学するが一身上の都合で中退している。大学を中退した理由の一つに、友人がほとんどおらず、通学してもつまらなかったからだと語っている。しかし、決して裕福ではない実家に学費を出してもらいながら自己都合で大学中退したことを現在に至るまで悔やんでいる。",
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"text": "1990年に松尾スズキが主宰する劇団「大人計画」に演出助手として所属。その後、バラエティ番組の構成作家としての活動も行う。大人計画の部分公演の作・演出を務めるようになり、1996年から自身の公演を「ウーマンリブ」と名づけている。",
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"text": "2000年に放送された『池袋ウエストゲートパーク』で脚本を担当。高視聴率を記録し出世作となった。続く、『木更津キャッツアイ』『タイガー&ドラゴン』の脚本を担当し、人気脚本家の一人となる。",
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"text": "業界の評価においても『ごめんね青春!』はギャラクシー賞テレビ部門の2014年12月度月間賞を受賞しているほか、「ソーシャルテレビ・アワード 2015」では日経エンタテインメント!賞、脚本賞として「第83回ザテレビジョンドラマアカデミー賞」を受賞している。また『いだてん』は脚本が評価され伊丹十三賞を受賞しているほか、作品としては第44回エランドール賞のプロデューサー賞、2019年12月度ギャラクシー賞月間賞、「東京ドラマアウォード2020」のグランプリを受賞している。",
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] | 宮藤 官九郎は、日本の脚本家、ラジオパーソナリティ、俳優、映画監督、演出家、作詞家、作曲家、放送作家、ミュージシャン、濡れ場評論家。ロックバンド・グループ魂のギタリストとしての名義は暴動(ぼうどう)。パンクバンド画鋲のギタリスト。本名:宮藤 俊一郎。愛称は「クドカン」「クン」。及川光博からは「カンクちゃん」と呼ばれたことがある。劇団大人計画所属。 妻は振付師の八反田リコ。血液型はO型。身長176.5cm(宮藤官九郎の小部屋にて、「.5がミソです。つーかたぶん177です」と語っている)。宮城県栗原市(旧栗原郡若柳町)出身。 | {{pp-vandalism|small=yes}}
{{日本の脚本家
| 名前 = 宮藤 官九郎
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| 本名 = 宮藤 俊一郎
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| 特撮 =
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| その他 = 俳優活動(映画、テレビドラマ)<br />劇団[[大人計画]]所属<br />ロックバンド[[グループ魂]]メンバー
}}
'''宮藤 官九郎'''(くどう かんくろう、[[1970年]][[7月19日]]<ref>{{Cite book|和書 |title=宮藤官九郎脚本 池袋ウエストゲートパーク |date=2004-4-5 |publisher=角川書店 |page=488 |author=宮藤官九郎 |isbn=9784048734370}}</ref>- )は、[[日本]]の[[脚本家]]、[[ラジオパーソナリティ]]<ref>{{Cite web|和書|title=宮藤官九郎の人気ラジオ番組がAudibleポッドキャストに登場。未公開シーンを含む限定版とオリジナルコンテンツも独占配信 |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000067.000036126.html |website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES |date=2021-07-19 |access-date=2023-09-08}}</ref>、[[俳優]]、[[映画監督]]、[[演出家]]、[[作詞家]]、[[作曲家]]、[[放送作家]]、[[ミュージシャン]]、濡れ場評論家<ref>{{Cite web|和書|title=サワコの朝:マルチな才能で活躍する国民的脚本家・宮藤官九郎 あの大ヒットドラマ制作秘話が今明かされる! |url=https://mainichi.jp/articles/20160615/org/00m/200/012000c |website=毎日新聞 |access-date=2023-09-08 |language=ja}}</ref>。[[ロックバンド]]・[[グループ魂]]の[[ギタリスト]]としての名義は'''暴動'''(ぼうどう)。パンクバンド'''[[画鋲 (バンド)|画鋲]]'''のギタリスト。本名:'''宮藤 俊一郎'''(くどう しゅんいちろう)。愛称は「'''クドカン'''」「'''クン'''<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=笑福亭鶴瓶の「無学 鶴の間」|鶴瓶がシークレットゲストと共に送る生配信番組を徹底レポート。第16回ゲストは宮藤官九郎。 - お笑いナタリー 特集・インタビュー |url=https://natalie.mu/owarai/pp/mugaku_tsurunoma |website=お笑いナタリー |access-date=2023-10-05 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>」。[[及川光博]]からは「'''カンクちゃん'''」と呼ばれたことがある。劇団[[大人計画]]所属。
妻は[[振付師]]の八反田リコ<ref>{{Cite web|和書|title=宮藤官九郎、妻から結婚指輪を付けることは禁止されている |url=https://news.1242.com/article/155193 |website=ニッポン放送 NEWS ONLINE |access-date=2023-09-02}}</ref>。血液型は[[ABO式血液型|O型]]。[[身長]]176.5[[センチメートル|cm]]<ref>{{Cite web|和書|title=宮藤官九郎 |url=https://otonakeikaku.net/artist/153/ |website=大人計画 OFFICIAL WEBSITE |access-date=2023-09-02 |language=ja}}</ref>(宮藤官九郎の小部屋にて、「.5がミソです。つーかたぶん177です」と語っている)。[[宮城県]][[栗原市]](旧[[栗原郡]][[若柳町]])出身<ref name=":0">{{Cite web |url=https://roots-hd.jp/assets/doc/mag01.pdf |title=ROOTS MAGAZINE #1 |format=PDF |publisher=株式会社 ROOTS |date=2022-04 |accessdate=2023-09-03}}</ref>。
== 略歴 ==
実家は[[文具]]店を経営<ref>{{Cite web|和書|title=栗原 “にぎわいの拠点を”人気の新施設 運営会社社長の思い|NHK 宮城県のニュース |url=https://www3.nhk.or.jp/lnews/sendai/20220831/6000020768.html |website=NHK NEWS WEB |access-date=2023-10-05 |last=日本放送協会}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=只見工業所がオススメするくりはらであそぼうマップ |url=https://www.tadami.co.jp/tourist_map/index.html |website=www.tadami.co.jp |access-date=2023-10-05}}</ref>。父は教師・校長を務めた。年の離れた姉が2人いる。
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女ばかりの家庭に育ったため(父は単身赴任で不在)、[[バンカラ]]な校風で知られた<ref name=":02">{{Cite web |url=https://roots-hd.jp/assets/doc/mag01.pdf |title=ROOTS MAGAZINE #1 |format=PDF |publisher=株式会社 ROOTS |date=2022-04 |accessdate=2023-09-03}}</ref>[[宮城県築館高等学校]]へ進学。高校へは[[詰襟]]に[[下駄]]という格好で通った。
高校卒業後は、高田の母校でもある[[日本大学芸術学部・大学院芸術学研究科|日本大学芸術学部]]放送学科に進学するが一身上の都合で中退している<ref>『きみは白鳥の死体を踏んだことがあるか(下駄で)』</ref>。大学を中退した理由の一つに、友人がほとんどおらず、通学してもつまらなかったからだと語っている。しかし、決して裕福ではない実家に学費を出してもらいながら自己都合で大学中退したことを現在に至るまで悔やんでいる。
1990年に[[松尾スズキ]]が主宰する劇団「[[大人計画]]」に演出助手として所属<ref>{{Cite book|和書 |title=ゼブラーマン |date=2004-2-14 |publisher=角川書店 |page=167 |author=宮藤官九郎 |isbn=9784048735216}}</ref>。その後、[[バラエティ番組]]の[[放送作家|構成作家]]としての活動も行う。大人計画の部分公演の作・演出を務めるようになり、1996年から自身の公演を「ウーマンリブ」と名づけている。
24歳の時に結婚。
[[1995年]]に宮藤、[[阿部サダヲ]]、[[村杉蝉之介]]の3名で[[グループ魂]]を結成。[[2005年]]には、「[[君にジュースを買ってあげる♥]]」で[[第56回NHK紅白歌合戦]]出場。
2000年に放送された『[[池袋ウエストゲートパーク (テレビドラマ)|池袋ウエストゲートパーク]]』で脚本を担当。高視聴率を記録し出世作となった。続く、『[[木更津キャッツアイ]]』『[[タイガー&ドラゴン (テレビドラマ)|タイガー&ドラゴン]]』の脚本を担当し、人気脚本家の一人となる。
[[2003年]]度第41回[[ゴールデン・アロー賞]]特別賞を受賞する。
[[2005年]]、[[しりあがり寿]]の漫画の映画化『[[真夜中の弥次さん喜多さん]]』で[[映画監督]]デビューを果たす。同年、第1子(長女)が誕生。
中学時代は[[河合その子]]と[[斉藤由貴]]のファンだった。[[2006年]]には、斉藤由貴を主演に起用した『[[吾輩は主婦である]]』で、はじめて[[昼ドラ]]の脚本を手がけている。
2006年、アニメ映画『[[鉄コン筋クリート]]』に、[[声優]]として参加。舞台挨拶では「自分の声が嫌いである」と語った。
2006年11月に出版された[[枡野浩一]]の『[[ショートソング]]』に[[短歌]]を寄稿。
2013年上期の[[連続テレビ小説]]『[[あまちゃん]]』の脚本を担当し<ref>[http://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/1000/122102.html 平成25年度前期 朝ドラ「あまちゃん」制作のお知らせ]、2012年6月4日、NHKドラマトピックスブログ、2012年11月5日閲覧。</ref>、第78回[[ザテレビジョンドラマアカデミー賞]]作品賞・脚本賞や2013年[[新語・流行語大賞]]のほか、複数の賞を受賞した<ref>{{Cite journal|和書|month=|journal=[[ザテレビジョン|週刊ザテレビジョン]]2013 No.47|pages=3-10|publisher=[[角川マガジンズ]]|accessdate=2013-11-20}}</ref>。
2017年、テレビドラマ『[[ゆとりですがなにか]]』の脚本による成果が認められ、第67回[[芸術選奨]][[文部科学大臣賞]]を受賞。スピンオフドラマにおいては、インターネットドラマの脚本をはじめて手がけた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0092376|title=「ゆとりですがなにか」山岸スピンオフ!その名も「山岸ですがなにか」|publisher=[[シネマトゥデイ]]|date=2017-06-22|accessdate=2017-06-22}}</ref>。
2019年、NHK[[大河ドラマ]]『[[いだてん〜東京オリムピック噺〜]]』の脚本を担当<ref>[http://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/2000/266692.html 2019年 大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺〜」主演は中村勘九郎さん、阿部サダヲさん!] NHKドラマトピックス 2017年4月3日配信 2018年1月30日閲覧</ref>。
2020年3月31日、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルスに感染]]したことを明らかにした。[[腎盂腎炎|腎盂炎]]の治療を受けていたところ、同日に感染が判明したもので、症状について、発熱はしているものの、肺炎や風邪症状はないことを宮藤自身がコメントしていた<ref>{{Cite news|url= https://www.sanspo.com/article/20200331-SFLEDZEAVJKW5MTB4PCN2EQDSU/ |title= 宮藤官九郎、コロナウイルス感染「まさか自分が、と過信してしまいました」 |newspaper= SANSPO.COM |publisher= 産経デジタル |date= 2020-03-31 |accessdate= 2020-03-31 }}</ref>。4月7日に退院<ref>{{Cite news|url= https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/04/13/kiji/20200413s00041000265000c.html |title= 新型コロナ感染の宮藤官九郎、今月7日に退院「自宅療養中ですがいたって元気です」ラジオ番組にメッセージ |newspaper= Sponichi Annex |publisher= スポーツニッポン新聞社 |date= 2020-04-13 |accessdate= 2020-04-13 }}</ref>。5月11日、パーソナリティーを務める『[[ACTION (TBSラジオ)|ACTION]]』(TBSラジオ)にリモート出演で復帰<ref>{{Cite news|url= https://www.sanspo.com/article/20200511-4OCI4326PFPQTISNTGR6NIG4AY/ |title= 宮藤官九郎「少しでも希望になれば」 ラジオにリモート出演で復帰 |newspaper= SANSPO.COM |publisher= 産経デジタル |date= 2020-05-11 |accessdate= 2020-06-01 }}</ref>。6月1日、スタジオ復帰<ref>{{Cite news|url= https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202006010000684.html |title= 宮藤官九郎が2カ月ぶりスタジオ復帰「異様な緊張」 |newspaper= 日刊スポーツ |publisher= 日刊スポーツ新聞社 |date= 2020-06-01 |accessdate= 2020-06-01 }}</ref>。
== ギタリストとして ==
「暴動」名義でのグループ魂のギタリスト<ref>{{Cite web|和書|title=Bio {{!}} グループ魂 |url=https://www.g-tamashii.com/bio/ |website=www.g-tamashii.com |access-date=2023-09-15}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=どうして人はキスをしたくなるんだろう? |url=https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784087806830 |website=紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア |access-date=2023-09-15 |language=ja}}</ref>、2018年ごろよりパンクバンド「画鋲」のギタリスト<ref>{{Cite web|和書|title=http://otona.sakura.ne.jp/gabyo/ |url=http://otona.sakura.ne.jp/gabyo/ |access-date=2023-09-15 |language=ja}}</ref>、[[ザ・たこさん]]の準ギタリスト(DH制)<ref>{{Cite web|和書|title=https://twitter.com/guchi954905/status/1702580306975641809 |url=https://twitter.com/guchi954905/status/1702580306975641809 |website=X (formerly Twitter) |access-date=2023-09-15 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ザ・たこさん30周年ライブ、宮藤官九郎がギタリストとしてゲスト参加 |url=https://natalie.mu/music/news/535271 |website=音楽ナタリー |access-date=2023-09-15 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>等、バンドの一員としての活動のほか、2016年の『ステキロックオペラ サンバイザー兄弟』<ref>{{Cite web|和書|title=サンバイザー兄弟 |url=https://stage.parco.jp/web/play/sanba/ |website=PARCO STAGE |access-date=2023-09-15}}</ref>や2021年の『愛が世界を救います(ただし屁が出ます)』<ref>{{Cite web|和書|title=愛が世界を救います(ただし屁が出ます) |url=https://stage.parco.jp/program/majirock/ |website=PARCO STAGE -パルコステージ- |access-date=2023-09-15 |language=ja}}</ref>等の舞台での演奏活動もある。
またPsychederhythmからは宮藤によるプロデュースのギター、Psychomasterが制作された<ref>{{Cite web|和書|title=https://twitter.com/psychede1999/status/1347384755067658242 |url=https://twitter.com/psychede1999/status/1347384755067658242 |website=X (formerly Twitter) |access-date=2023-09-15 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=Psychederhythm Psychomaster 3S |url=https://www.dolphin-gt.co.jp/stockdetail/25651/ |website=ドルフィンギターズ |access-date=2023-09-15 |language=jp}}</ref>。このギターは宮藤が出演した「シーバスリーガル」のCMでも使用された<ref>{{Cite web|和書|title=https://twitter.com/psychede1999/status/1347384839079530496 |url=https://twitter.com/psychede1999/status/1347384839079530496 |website=X (formerly Twitter) |access-date=2023-09-15 |language=ja}}</ref>。
== エピソード ==
[[ミステリー]]執筆中、犯人を簡単に見破られてしまって公園の噴水で頭を冷やしているのを妻に目撃されたり、街で見かけた変わった人を尾行して作品に生かすなどのエピソードを数多く持っている<ref>[http://www.inlifeweb.com/reports/report_3974.html INLIFE 男の履歴書 宮藤官九郎]</ref>。
[[ナンバーガール]]やそのソングライターである[[向井秀徳]]の大ファンを公言しており、自身の作品の音楽を向井に依頼することもある<ref>{{Cite web|和書|url=https://qetic.jp/music/number-girl-140522/113655/|title=ナンバーガール15周年に椎名林檎、クドカンがコメント。海外ライブなど貴重映像も公開!|accessdate= 2023-02-27|publisher=qetic}}</ref><ref>{{Cite web|和書|publisher=[[ぴあ]]|work=ぴあエンタメ情報|url=https://lp.p.pia.jp/article/news/253046/index.html?detail=true|title=宮藤官九郎「再演だけど初演です」『ウーマンリブ vol.15「もうがまんできない」』来年上演決定|date=2022-11-21|accessdate=2022-11-21}}</ref>。
執筆する作品には[[大人計画]]所属の劇団員([[阿部サダヲ]]、[[池津祥子]]、[[猫背椿]]、[[荒川良々]]、[[平岩紙]]や[[皆川猿時]]など)を頻繁に起用。マネジメント契約のみの[[星野源]]、[[小松和重]]、[[少路勇介]]なども常連である。
『[[池袋ウエストゲートパーク (テレビドラマ)|池袋ウエストゲートパーク]]』で[[長瀬智也]]と[[山下智久]]を起用して以降、[[ジャニーズ事務所]]所属のアイドルはクドカンドラマの常連となっており、[[岡田准一]]、[[櫻井翔]]、[[松岡昌宏]]、[[二宮和也]]、[[錦戸亮]]、[[重岡大毅]]、[[生田斗真]]らが出演している<ref>{{Cite web|和書| author = 成馬零一| url = https://realsound.jp/movie/2020/11/post-659646_2.html| title = 宮藤官九郎×長瀬智也、再タッグに寄せる期待 クドカン×ジャニーズという組み合わせの妙| date = 2020-11-22| website = Real Sound| publisher = blueprint| accessdate = 2023-10-06}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://toyokeizai.net/articles/-/463514?page=4 |title=群雄割拠!「俳優系ジャニーズ」成功の法則3つ|newspaper=東洋経済online|accessdate= 2023-03-20}}</ref>。
また、[[塚本高史]]、[[尾美としのり]]、[[小泉今日子]]、[[坂井真紀]]、[[酒井若菜]]、[[斉藤由貴]]、[[森下愛子]]、[[薬師丸ひろ子]]、[[古田新太]]、[[きたろう]]、[[生瀬勝久]]、[[西田敏行]]などの役者を頻繁に起用している。
ドラマ作品の[[シナリオ]]そのものは宮藤名義で販売を行なっているものの、一方で、自らのシナリオを宮藤名義のみ(代筆してくれる小説家がいてその人の名義があるならば可)で[[小説化|ノベライズ]]化、小説化することは拒んでいる<ref name="ノベライズ">{{Cite book |和書 |last=宮藤 |first=官九郎 |year=2018 |title=火曜ドラマ 監獄のお姫さま |publisher=[[KADOKAWA]] |pages=2-3 |isbn=978-4048961820 }}</ref>。理由は、自分のプロとしての責任はシナリオに関することのみであり、完成した作品に表われたキャストやスタッフによる表現に対しての評価が良くも悪くも宮藤のみの責任として受け止められるのは困るという宮藤の考えからである<ref name="ノベライズ"/>。
== 評価 ==
[[笑福亭鶴瓶]]は2023年9月の宮藤をゲストに迎えた配信において<blockquote>「心豊かですよね。あんだけのものを書けて、これだけしゃべれるんですもん」</blockquote>と述べている<ref name=":1" />。
[[大石静]]は宮藤と共同脚本を担当することになった[[Netflix]]のドラマ『[[離婚しようよ]]』のオファーが来たとき、<blockquote>「宮藤さんが大好きで作品もよく観てて、すごい才能だと思ってたから、比べられるのは怖いと思った」</blockquote>と、当初思ったが、自身の成長のために受けることにした<ref>{{Cite web|和書|title=「離婚しようよ」宮藤官九郎×大石静インタビュー 共同脚本で挑む“ときめきあり”の離婚ホームコメディ - 映画ナタリー 特集・インタビュー |url=https://natalie.mu/eiga/pp/letsgetdivorced02 |website=映画ナタリー |access-date=2023-10-05 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。共同作業の中で<blockquote>「宮藤さんがノッている時はスゴい。天才とは、こういうもんなんだな、と」</blockquote>思ったという<ref>{{Cite web|和書|title=大石静氏、脚本家・宮藤官九郎氏の才能に驚き まさかの脚本に「天才とは、こういうもんなんだな、と」 |url=https://www.oricon.co.jp/news/2284626/full/ |website=ORICON NEWS |date=2023-06-26 |access-date=2023-10-05}}</ref>。
[[池松壮亮]]は[[Disney+]]のドラマ『[[季節のない街]]』の製作中、宮藤について<blockquote>「監督としても俳優としても素晴らしいのは僕が言うまでもありませんが、現場力、演出力も素晴らしかった」</blockquote>と述べている<ref>{{Cite web|和書|title=池松壮亮インタビュー forget me not ーー忘れられていくことへのささやかな抵抗 ドラマ「季節のない街」 |url=https://otocoto.jp/interview/kisetsu_0812/ |website=otocoto {{!}} こだわりの映画エンタメサイト |access-date=2023-10-05 |language=ja}}</ref>。
=== 視聴率と評価 ===
『[[ごめんね青春!]]』では[[日曜劇場]]において平均視聴率、最高視聴率共に歴代最低を記録し、『[[いだてん〜東京オリムピック噺〜|いだてん]]』では[[NHK大河ドラマ]]において平均視聴率の歴代最低を記録するなど、その他の脚本作品においても視聴率で大きく低迷することがある<ref name="視聴率">{{Cite news|url=https://toyokeizai.net/articles/-/53179?display=b |title= ごめんね青春!視聴率にモノ申す!|newspaper= 東洋経済online|date= 2014-11-14}}</ref>。しかし、そういった作品においても宮藤の熱狂的なファンから寄せられる感想は概ね肯定的なものが多く<ref>{{Cite web|和書|title=「いだてん」数字は低迷も決して低くはなかった評価 - ドラマ : 日刊スポーツ |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201912170000050.html |website=nikkansports.com |access-date=2023-10-05 |language=ja}}</ref><ref name="視聴率" />、2014年に行われた、脚本ドラマの人気ランキングでは、『いだてん』は6位、『ごめんね青春!』は『あまちゃん』を抑えて1位となっている<ref>{{Cite web|和書|title=【宮藤官九郎】「クドカン脚本ドラマ」人気ランキングTOP21! 第1位は「ごめんね青春」に決定!【2021年最新調査結果】(1/5) {{!}} ドラマ ねとらぼ調査隊 |url=https://nlab.itmedia.co.jp/research/articles/164497/ |website=ねとらぼ調査隊 |date=2021-05-11 |access-date=2023-10-05 |language=ja}}</ref>。
業界の評価においても『ごめんね青春!』はギャラクシー賞テレビ部門の2014年12月度月間賞を受賞しているほか<ref>{{Cite web|和書|title=$BF{{!}}MK7`>l!X$4$a$s$M@D=U!*!Y(B |url=http://www.tbs.co.jp/gomenne_tbs/ |website=TBS$B%F%l%S(B |access-date=2023-10-05 |language=ja |last=TBS}}</ref>、「ソーシャルテレビ・アワード 2015」では日経エンタテインメント!賞<ref>{{Cite web|和書|title=「ソーシャルテレビ・アワード 2015」 大賞は『バーチャル高校野球』 (朝日放送)に決定! |url=https://www.nikkeibp.co.jp/atcl/newsrelease/corp/20150721/ |website=www.nikkeibp.co.jp |access-date=2023-10-05 |language=ja}}</ref>、脚本賞として「第83回ザテレビジョンドラマアカデミー賞」を受賞している<ref>{{Cite web|和書|title=受賞結果総評 {{!}} 第83回ドラマアカデミー賞 |url=https://thetv.jp/feature/drama-academy/83/awards/ |website=WEBザテレビジョン |access-date=2023-10-05 |language=ja}}</ref>。また『いだてん』は脚本が評価され伊丹十三賞を受賞している<ref>{{Cite web|和書|title=宮藤官九郎、「いだてん」脚本が評価され伊丹十三賞に輝く(コメントあり) |url=https://natalie.mu/eiga/news/373306 |website=映画ナタリー |access-date=2023-10-05 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>ほか、作品としては第44回[[エランドール賞]]のプロデューサー賞<ref>{{Cite web|和書|title=阿部サダヲ、『いだてん』業界人からの高評価に喜び「誇りに思う」 |url=https://news.mynavi.jp/article/20200206-968824/ |website=マイナビニュース |date=2020-02-06 |access-date=2023-10-05 |language=ja}}</ref>、2019年12月度ギャラクシー賞月間賞<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.houkon.jp/wp-content/uploads/2020/01/gekkan201912.pdf |title=発表!2019 年 12 月度ギャラクシー賞月間賞 |format=PDF |publisher=放送批評懇談会 |date=2023-10-05 |accessdate=2023-10-05}}</ref>、「東京ドラマアウォード2020」のグランプリを受賞している<ref>{{Cite web|和書|title=佐藤健、生田斗真、大泉洋ら「東京ドラマアウォード2020」に出席〜授賞式レポート|Screens|映像メディアの価値を映す |url=https://www.screens-lab.jp/article/26126 |website=www.screens-lab.jp |date=2020-11-05 |access-date=2023-10-05 |language=ja}}</ref>。
== 受賞歴 ==
* [[ザテレビジョンドラマアカデミー賞]] 脚本賞
** 第25回(2000年、『[[池袋ウエストゲートパーク (テレビドラマ)|池袋ウエストゲートパーク]]』)
** 第32回 (2002年、『木更津キャッツアイ』)
** 第37回(2003年、『[[ぼくの魔法使い]]』)
** 第39回(2003年、『[[マンハッタンラブストーリー]]』)
** 第45回(2005年、『[[タイガー&ドラゴン (テレビドラマ)|タイガー&ドラゴン]]』)
** 第59回(2008年、『[[流星の絆]]』)
** 第66回(2010年、『[[うぬぼれ刑事]]』)
** 第78回(2013年、『[[あまちゃん]]』)
** 第83回(2014年、『[[ごめんね青春!]]』)<ref>[https://thetv.jp/feature/drama-academy/83/awards/best-scenario/ 【特集】第83回ドラマアカデミー賞 結果発表 | ザテレビジョン]、KADOKAWA、2018年1月30日閲覧。</ref>
** 第89回(2016年、『[[ゆとりですがなにか]]』)<ref>[https://thetv.jp/feature/drama-academy/89/awards/best-scenario/ 【特集】第89回ドラマアカデミー賞 結果発表 | ザテレビジョン]、KADOKAWA、2018年1月30日閲覧。</ref>
** 第95回(2017年、『[[監獄のお姫さま]]』)<ref>{{Cite journal |和書 |title =発表! 第95回ザテレビジョンドラマアカデミー賞 |date =2018-02-23 |publisher =[[KADOKAWA]] |journal =[[ザテレビジョン]] |volume =24 |issue =8号(2018年2月23日号) |pages =26-30 }}</ref>
** 第107回(2021年、『[[俺の家の話]]』)<ref>{{Cite web|和書|url=https://thetv.jp/feature/drama-academy/107/awards/|title=第107回ザテレビジョンドラマアカデミー賞|publisher=ザテレビジョンドラマアカデミー賞|accessdate=2021-05-24}}</ref>
* 2001年度
** 第53回[[読売文学賞]] '''戯曲・シナリオ賞'''(『[[GO (小説)|GO]]』)<ref>[https://info.yomiuri.co.jp/contest/clspgl/detail/717.html 読売文学賞 第51回(1999年度)〜第60回(2008年度):表彰・コンクール(文化・スポーツ・国際)のお知らせ]、読売新聞へようこそ、[[読売新聞社]]、2018年1月30日閲覧。</ref>
** 第75回[[キネマ旬報ベスト・テン]] '''脚本賞'''(『GO』)<ref>[http://www.kinenote.com/main/award/kinejun/y2001.aspx キネマ旬報 ベスト・テン]、[[KINENOTE]]、2018年1月30日閲覧。</ref>
** 第23回[[ヨコハマ映画祭]]
*** '''日本映画個人賞'''
*** '''脚本賞'''(『GO』)<ref>[http://yokohama-eigasai.o.oo7.jp/23-2001/23-2001_shou.html 第23回ヨコハマ映画祭 日本映画個人賞]、ヨコハマ映画祭公式サイト、2018年1月30日閲覧。</ref>
** 第32回ザテレビジョンドラマアカデミー賞(『[[木更津キャッツアイ]]』)
*** '''脚本賞'''
*** '''監督賞'''([[金子文紀]]、[[片山修]]と共に)
** [[第25回日本アカデミー賞]] '''最優秀脚本賞'''(『GO』)<ref>[https://www.japan-academy-prize.jp/prizes/?t=25 第25回日本アカデミー賞優秀作品]、日本アカデミー賞公式サイト、2018年1月30日閲覧。</ref>
* 2002年度
** [[第26回日本アカデミー賞]] '''優秀脚本賞'''(『[[ピンポン (漫画)#映画|ピンポン]]』)<ref>[https://www.japan-academy-prize.jp/prizes/?t=26 第26回日本アカデミー賞優秀作品]、日本アカデミー賞公式サイト、2018年1月30日閲覧。</ref>
** 第53回([[平成14年|平成14年度]])[[芸術選奨新人賞]] 放送部門(『木更津キャッツアイ』)<ref>{{Cite web|和書|date= |url=https://www.bunka.go.jp/seisaku/geijutsubunka/jutenshien/geijutsuka/sensho/pdf/rekidai_jushosha.pdf |title=芸術選奨歴代受賞者一覧(昭和25年度〜) |format=PDF |publisher=[[文化庁]] |accessdate=2018-01-30}}</ref>
* 2003年度
** 第41回[[ゴールデン・アロー賞]] '''特別賞'''
* 2005年度
** [[新藤兼人賞]] '''金賞'''(『[[真夜中の弥次さん喜多さん]]』)
** 第49回[[岸田國士戯曲賞]](『[[鈍獣]]』)<ref>[http://www.hakusuisha.co.jp/news/n12267.html 第49回岸田國士戯曲賞選評(2005年)]、[[白水社]]、2018年1月30日閲覧。</ref>
* 2007年度
** [[第31回日本アカデミー賞]] '''優秀脚本賞'''(『[[舞妓Haaaan!!!]]』)<ref>[https://www.japan-academy-prize.jp/prizes/?t=31 第31回日本アカデミー賞優秀作品]、日本アカデミー賞公式サイト、2018年1月30日閲覧。</ref>
* 2010年度
** 第29回[[向田邦子賞]](『[[うぬぼれ刑事]]』)<ref>[https://tokyonews.co.jp/mukouda/prize29/ 歴代受賞者 第29回:宮藤官九郎]、[[東京ニュース通信社]]、2018年1月30日閲覧。</ref>
* 2013年度
** [[国際ドラマフェスティバル in TOKYO|東京ドラマアウォード2013]] '''脚本賞'''(『[[あまちゃん]]』)<ref>[http://www.j-ba.or.jp/drafes/archive/index3.html 2013年実績:国内作品]、国際ドラマフェスティバル in TOKYO、2018年1月30日閲覧。</ref><ref>{{Cite web|和書|author= |date=2013-10-22 |url=https://www.oricon.co.jp/news/2029966/full/ |title=『あまちゃん』7冠! 東京ドラマアウォード2013授賞式 |work=オリコンスタイル |publisher=オリコン |page= |accessdate=2013-10-22}}</ref>
** [[ユーキャン新語・流行語大賞]](「じぇじぇじぇ」)<ref>[http://singo.jiyu.co.jp/old/nendo/2013.html 第30回〔2013(平成25)年〕]、新語・流行語大賞、[[自由国民社]]、2018年1月30日閲覧。</ref>
** 第16回[[みうらじゅん#みうらじゅん賞|みうらじゅん賞]]
* 2016年度
** 第4回[[コンフィデンスアワード・ドラマ賞]] '''脚本賞'''(『[[ゆとりですがなにか]]』)<ref>{{Cite web|和書|url=http://confidence-award.jp/vol04.html|title=第4回「コンフィデンスアワード・ドラマ賞」| ORIGINAL CONFIDENCE|publisher=Oricon|accessdate=2018-08-15}}</ref>
** 平成28年度(第67回)[[芸術選奨文部科学大臣賞]](『ゆとりですがなにか』)<ref>{{Cite web|和書|date=2017-03-08 |url=https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/pdf/2017030801_besshi.pdf |title=平成28年度(第67回)芸術選奨受賞者一覧 |format=PDF |publisher=[[文化庁]] |accessdate=2017-03-08}}</ref>
* 2020年度
** 第12回[[伊丹十三賞]](『[[いだてん〜東京オリムピック噺〜]]』)<ref>{{Cite news|url= https://natalie.mu/eiga/news/373306 |title= 宮藤官九郎、「いだてん」脚本が評価され伊丹十三賞に輝く |newspaper= 映画ナタリー |publisher= ナターシャ |date= 2020-03-30 |accessdate= 2020-03-30 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2020 |url=http://itami-kinenkan.jp/award/award12.html |title=伊丹十三賞 ―→ 第12回受賞者(2020年) |publisher=伊丹十三記念館 |accessdate=2020-11-13}}</ref>
== 脚本作品 ==
=== 映画 ===
{| class="wikitable sortable"
|+
!タイトル
!製作年
!原作
!備考
|-
|[[GO (小説)|GO]]
|2001
|[[金城一紀]]
|
|-
|[[ピンポン (漫画)|ピンポン]]
|2002
|[[松本大洋]]
|
|-
|[[木更津キャッツアイ 日本シリーズ]]
|2003
|
|[[木更津キャッツアイ|木更津キャッツアイシリーズ]] 1
|-
|[[アイデン&ティティ]]
|2003
|[[みうらじゅん]]
|
|-
|[[ドラッグストア・ガール]]
|2004
|
|
|-
|[[ゼブラーマン]]
|2004
|
|ゼブラーマンシリーズ 1
|-
|[[69 sixty nine]]
|2004
|[[村上龍]]
|
|-
|[[真夜中の弥次さん喜多さん]]
|2005
|[[しりあがり寿]]
|監督
|-
|[[木更津キャッツアイ ワールドシリーズ]]
|2006
|
|[[木更津キャッツアイ|木更津キャッツアイシリーズ]] 2
|-
|[[舞妓Haaaan!!!]]
|2007
|
|
|-
|[[少年メリケンサック]]
|2009
|
|
|-
|[[カムイ外伝#実写映画|カムイ外伝]]
|2009
|[[白土三平]]
|
|-
|[[鈍獣]]
|2009
|
|自身の舞台作品が原作
|-
|[[なくもんか]]
|2009
|
|
|-
|[[ゼブラーマン -ゼブラシティの逆襲-]]
|2010
|
|ゼブラーマンシリーズ 2
|-
|[[中学生円山]]
|2013
|
|監督
|-
|[[謝罪の王様]]
|2013
|
|
|-
|[[土竜の唄#実写映画|土竜の唄 潜入捜査官REIJI]]
|2014
|[[高橋のぼる]]
|土竜の唄 シリーズ 1
|-
|[[TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ]]
|2016
|
|監督
|-
|[[土竜の唄#実写映画|土竜の唄 香港狂騒曲]]
|2016
|高橋のぼる
|土竜の唄 シリーズ 2
|-
|[[パンク侍、斬られて候]]
|2018
|[[町田康]]
|
|-
|[[土竜の唄#実写映画|土竜の唄 FINAL]]
|2021
|
|土竜の唄 シリーズ 3
|-
|[[1秒先の彼女#日本版|1秒先の彼]]
|2023
|
|
|-
|[[ゆとりですがなにか#映画|ゆとりですがなにか インターナショナル]]
|2023
|
|
|}
=== テレビドラマ/Web・配信ドラマ/映像作品 ===
{| class="wikitable sortable"
|+
!タイトル
!放送年
!局
!備考
|-
|[[演歌なアイツは夜ごと不条理な夢を見る]]
|1992
|[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]
|第3・4話[[松尾スズキ]]と共同脚本、最終話脚本助手
|-
|[[コワイ童話]]「親ゆび姫」
|1999
|[[TBSテレビ|TBS]]
|
|-
|[[悪いオンナ「占っちゃうぞ」]]
|2000
|TBS
|
|-
|[[池袋ウエストゲートパーク (テレビドラマ)|池袋ウエストゲートパーク]]
|2000
|TBS
|[[石田衣良]]原作
|-
|[[ロケット・ボーイ]]
|2001
|[[フジテレビジョン|フジテレビ]]
|
|-
|[[木更津キャッツアイ]]
|2002
|TBS
|
|-
|池袋ウエストゲートパーク スープの回
|2003
|TBS
|
|-
|[[ぼくの魔法使い]]
|2003
|日本テレビ
|
|-
|[[マンハッタンラブストーリー]]
|2003
|TBS
|
|-
|[[タイガー&ドラゴン (テレビドラマ)|タイガー&ドラゴン]]
|2005
|TBS
|第43回[[ギャラクシー賞]]大賞 受賞作品
|-
|[[吾輩は主婦である]]
|2006
|TBS
|
|-
|[[ガンジス河でバタフライ]]
|2007
|[[名古屋テレビ放送|メ〜テレ]]
|[[たかのてるこ]]原作
|-
|[[未来講師めぐる]]
|2008
|[[テレビ朝日]]
|
|-
|[[流星の絆]]
|2008
|TBS
|[[東野圭吾]]原作
|-
|[[うぬぼれ刑事]]
|2010
|TBS
|
|-
|[[11人もいる!]]
|2011
|テレビ朝日
|
|-
|[[あまちゃん]]
|2013
|[[日本放送協会|NHK]]
|[[連続テレビ小説]]
|-
|[[ごめんね青春!]]
|2014
|TBS
|
|-
|[[ゆとりですがなにか]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2066531/full/ |title=宮藤官九郎、岡田将生でゆとり世代描く「45才にして初めて挑む社会派ドラマ」 |publisher=ORICON STYLE |date=2016-02-10 |accessdate=2016-02-10}}</ref>
|2016
|日本テレビ
|
|-
|[[監獄のお姫さま]]<ref>{{cite news |url=http://www.hochi.co.jp/entertainment/20170725-OHT1T50219.html |title=小泉今日子×クドカン「あまちゃん」以来のタッグ! 今度は女囚復讐劇「面白いこと間違いなし」 |newspaper=スポーツ報知 |date=2017-07-26 |accessdate=2017-07-26}}</ref>
|2017
|TBS
|
|-
|[[ゆとりですがなにか#スピンオフドラマ|山岸ですがなにか]]<ref>{{Cite news |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2017/06/22/kiji/20170621s00041000274000c.html |title=「ゆとりですが」初スピンオフ!太賀主演「山岸ですが」でクドカン初のネットドラマ脚本 |newspaper=Sponichi Annex |publisher=[[スポーツニッポン]] |date=2017-06-22 |accessdate=2017-06-22}}</ref>
|2017
|[[Hulu]]
|
|-
|[[遠藤憲一と宮藤官九郎の勉強させていただきます]]
|2018
|[[WOWOW]]
|
|-
|[[いだてん〜東京オリムピック噺〜]]
|2019
|NHK
|[[大河ドラマ]]
|-
|[[JOKE〜2022パニック配信!]]
|2020
|NHK
|
|-
|ワタシたちはガイジンじゃない!日系ブラジル人 笑いと涙の30年
|2020
|[[NHK BS1]]
|[[BS1スペシャル]] イッセー尾形による一人芝居
|-
|[[俺の家の話]]
|2021
|TBS
|
|-
|[[いちげき#テレビドラマ|いちげき]]<ref>{{Cite news |url=https://realsound.jp/movie/2022/09/post-1121637.html |title=染谷将太×町田啓太×松田龍平が宮藤官九郎脚本作で共演 正月時代劇 『いちげき』制作開始 |newspaper=Real Sound映画部 |publisher=blueprint |date=2022-09-05 |accessdate=2022-09-05}}</ref>
|2023
|NHK
|
|-
|[[離婚しようよ]]
|2023
|[[Netflix]]
|[[大石静]]と共同脚本
|-
|[[季節のない街]]
|2023
|[[スター (Disney+)|Disney+]]
|企画・監督 [[山本周五郎]]原作
|-
|[[不適切にもほどがある!]]
|2024(予定)
|TBS
|
|}
=== 舞台 ===
* '''ウーマンリブシリーズ'''(作・演出)
** vol.1 ナオミの夢(1996年)
** vol.2 ずぶぬれの女(1997年)
** vol.3 ニッキー・イズ・セックスハンター(1998年)
** vol.4 ウーマンリブ発射!(1999年)
** vol.5 グレープフルーツちょうだい(2000年)
** vol.6 キラークイーン666(2001年)
** vol.7 熊沢パンキース03(2003年)
** vol.8 轟天VS港カヲル〜ドラゴンロック!女たちよ、俺を愛してきれいになあれ(2004年)
** vol.9 七人の恋人(2005年)
** vol.10 ウーマンリブ先生(2006年)
** vol.11 七人は僕の恋人(2008年)
** vol.12 SAD SONG FOR UGLY DAUGHTER(2011年)
** vol.13 七年ぶりの恋人(2015年)
** vol.14 もうがまんできない(2020年)
** vol.15 もうがまんできない(2023年)<ref>{{Cite web|和書|publisher=[[ぴあ]]|work=ぴあエンタメ情報|url=https://lp.p.pia.jp/article/news/253046/index.html?detail=true|title=宮藤官九郎「再演だけど初演です」『ウーマンリブ vol.15「もうがまんできない」』来年上演決定|date=2022-11-21|accessdate=2022-11-21}}</ref>
* '''大人計画本公演'''(作・演出)
** 春子ブックセンター(2002年)
** ドブの輝き(2007年)より『涙事件』 ※三作品のうちの一つを担当
* '''外部公演'''(戯曲のみ)
** 鈍獣(2004年) - 第49回[[岸田國士戯曲賞]] 受賞作品
** メタルマクベス(2006年) - 劇団新感線へ提供 原作は[[ウィリアム・シェイクスピア]]
** 蜉蝣峠(2009年) - 劇団新感線へ提供
** 大パルコ人「メカロックオペラ『R2C2』〜サイボーグなのでバンド辞めます!〜」(2009年) - パルコプロデュース公演 演出も担当
** 歌謡バラエティーショー『あべ一座』(2009年) - NHK 構成・演出を担当
** 印獣(2009年) - パルコプロデュース・「ねずみの三銃士」第二回公演
** 大パルコ人(2) バカロックオペラバカ 『高校中パニック! 小激突!!』(2013年) - 作・演出も担当
** 万獣こわい(2014年) - パルコプロデュース・「ねずみの三銃士」第三回公演
** Vamp Bamboo Burn~ヴァン!バン!バーン!~(2016年) - 劇団新感線へ提供
** 大パルコ人(3)『ステキロックオペラ サンバイザー兄弟』(2016年) - 演出も担当<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/stage/news/174577|title=宮藤官九郎の大パルコ人最新作は、怒髪天が参加の「ステキロックオペラ」|publisher=ステージナタリー|date=2016-02-02|accessdate=2016-02-02}}</ref>
** 『メタルマクベス』disc1・disc2・disc3(2018年/再演) - 劇団新感線へ提供
** ロミオとジュリエット(2018年) - 脚色・演出を担当、原作はウィリアム・シェイクスピア
** 大パルコ人(4)マジロックオペラ『愛が世界を救います(ただし屁が出ます)』(2021年) - 作・演出<ref>{{Cite news|url= https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202106130000939.html |title= 宮藤官九郎「いつか一緒に…念願かなった」のんと「あまちゃん」以来タッグ |newspaper= 日刊スポーツ |publisher= 日刊スポーツ新聞社 |date= 2021-06-13 |accessdate= 2021-06-13 }}</ref>
=== 歌舞伎 ===
* 大江戸りびんぐでっど(2009年) - 作・演出も担当。2010年に[[シネマ歌舞伎]]上映
* 天日坊(2012年、[[河竹黙阿弥]]原作「五十三次天日坊」)
* 地球投五郎宇宙荒事(ちきゅうなげごろううちゅうのあらごと)(2015年)
* 唐茄子屋~不思議国之若旦那~(2022年)<ref>{{Cite web|和書| url = https://natalie.mu/stage/news/482586 | title = 「平成中村座公演」で宮藤官九郎の新作歌舞伎上演決定!中村勘九郎「今から古典になる予感が」| date = 2022-06-22| website = ステージナタリー| publisher = ナターシャ| accessdate = 2022-06-23}}</ref>
== 監督作品 ==
=== 映画 ===
* ティンポン(2002年) - 『ピンポン』DVD映像特典として制作された短編映画
* [[木更津キャッツアイ 日本シリーズ]](2003年) - 部分<ref group="注釈">木更津キャッツアイと[[氣志團]]が「木更津キャッツアイのテーマ」を歌うシーン。</ref>演出
* [[真夜中の弥次さん喜多さん]](2005年) - 長編劇場映画デビュー作。
* [[少年メリケンサック]](2009年)
* [[中学生円山]](2013年)
* [[TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ]](2016年)
=== テレビドラマ ===
* [[木更津キャッツアイ]] 第7話(2002年) - 映像作品監督デビュー作
* [[うぬぼれ刑事]] 第1話・第2話・最終話(2010年) - チーフ演出
=== Web・配信ドラマ ===
* [[季節のない街]] 第1話・第2話・第4話・第5話・最終話(2023年)
== 出演作品 ==
=== オリジナルビデオ ===
* [[痴漢白書|痴漢白書2]](1995年11月10日)
=== 映画(出演) ===
* [[愛の新世界]](1994年)- ひでお(男性劇団員たち)役
* [[キッズ・リターン]](1996年7月)- マサルにかつあげされる高校生たち 役
* CROSS(2001年12月)
* 日雇い刑事(2002年4月)
* ロックンロールミシン(2002年)
* [[13階段]](2003年2月)- 樹原亮 役
* [[福耳 (映画)|福耳]](2003年9月) - 主演・里中高志 役※映画初主演作品
* [[世界の中心で、愛をさけぶ]](2004年5月)- 大木龍之介 役
* [[この胸いっぱいの愛を]](2005年)- 臼井光男 役
* [[嫌われ松子の一生 (映画)|嫌われ松子の一生]](2006年)- 八女川徹也 役
* [[鉄コン筋クリート]](2006年)- 沢田 役(声優)
* [[大帝の剣]](2007年)- 佐助 役
* [[クワイエットルームにようこそ]](2007年)- 焼畑鉄雄 役
* [[魍魎の匣]](2007年)
* [[インスタント沼]](2009年)- 刑事・椹木 役
* [[色即ぜねれいしょん]](2009年)- 恭子の父 役
* [[ゲゲゲの女房 (映画)|ゲゲゲの女房]](2010年)- 主演・武良茂 役([[吹石一恵]]とのダブル主演)
* [[忌野清志郎 ナニワ・サリバン・ショー〜感度サイコー!!!〜]](2011年)
* [[大奥〜永遠〜[右衛門佐・綱吉篇]]](2012年) - [[鷹司信子|鷹司信平]] 役
* [[バクマン。#実写映画|バクマン。]](2015年) - 川口たろう役<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fashion-press.net/news/16472 |title=漫画「バクマン。」が実写映画化 - 主人公コンビは佐藤健&神木隆之介、『モテキ』の大根仁が監督 |publisher=Fashion press |accessdate=2015-09-06 }}</ref>
*[[ガメラ]]生誕50周年記念映像『GAMERA』(2015年)<ref name="gigazine2015109">{{Cite web|和書|date=2015-10-09 |url=http://gigazine.net/news/20151009-gamera50th/ |title=東京が大炎上して大爆発する中でガメラがプラズマ火球を発射する超ド迫力の50周年記念映像「GAMERA」SHORT VER. |work= |publisher=[[GIGAZINE]] |accessdate=2015-10-09}}</ref>
* [[ぼくのおじさん#映画|ぼくのおじさん]](2016年) - 春山定男 役
* [[幼な子われらに生まれ]](2017年) - 沢田 役
* [[いちごの唄 (小説)#映画|いちごの唄]](2019年) - カメオ出演<ref>{{Cite news|url= https://eiga.com/news/20190621/3/|title=麻生久美子×みうらじゅん×田口トモロヲ×宮藤官九郎 峯田和伸「いちごの唄」にカメオ出演|publisher=映画.com|date= 2019-06-21 |accessdate= 2019-06-21}}</ref>
* [[おらおらでひとりいぐも]](2020年)- 寂しさ3 役
* [[イチケイのカラス#劇場版|映画 イチケイのカラス]](2023年) - 小早川輝夫 役<ref>{{Cite news|url=https://www.oricon.co.jp/news/2256155/full/|title=映画『イチケイのカラス』吉田羊・宮藤官九郎・津田健次郎・田中みな実ら出演|newspaper=ORICON NEWS|publisher=oricon ME|date=2022-11-08|accessdate=2022-11-08}}</ref>
* 渇水(2023年) - 伏見 役<ref>{{Cite news|url=https://realsound.jp/movie/2023/02/post-1267484.html|title=門脇麦、磯村勇斗、尾野真千子ら生田斗真主演『渇水』出演 特報&ティザービジュアルも|newspaper=リアルサウンド映画部|publisher=blueprint|date=2023-02-26|accessdate=2023-02-27}}</ref>
* [[こんにちは、母さん]](2023年)- 木部富幸 役
=== テレビ ===
<!-- 単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「Wikipedia:ウィキプロジェクト 芸能人」参照 -->
* [[デカメロン (テレビ番組)|デカメロン]](1997年、TBS) - 構成
* [[さるしばい]](1998年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]) - 構成
* [[ロクタロー]](1998年 - 1999年、フジテレビ) - 構成
* [[笑う子犬の生活]](フジテレビ) - 構成
* [[笑う犬|笑う犬の冒険・発見・情熱・太陽]](フジテレビ) - 構成・出演(出演は、太陽から)
* [[TV's HIGH]](フジテレビ) - 構成・出演
* [[ワンナイR&R]](フジテレビ) - ワンナイTHURSDAY時代から2003年7月まで構成を担当。2006年1月には、出演者として番組に登場した。
* [[感じるジャッカル]](2001年 - 2002年、フジテレビ) - 構成
* [[いま何待ち?]](フジテレビ) - 脚本
* [[氣志團]](2003年、フジテレビ) - 脚本
* [[ロバートホール水]](フジテレビ) - 構成(代表作「四MEN楚歌」等)
* [[リチャードホール]](フジテレビ) - 構成
* [[探偵!ナイトスクープ]]([[朝日放送テレビ|朝日放送]]) - 顧問として出演
* [[ホレゆけ!スタア☆大作戦|ホレゆけ!スタア☆大作戦 〜まりもみ危機一髪!〜]](2007年、[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]ほか)
* 「[[ガンジス河でバタフライ]]」ができるまで〜宮藤官九郎 史上最悪のインド・シナハン旅〜(2007年、メ〜テレ)
* [[少年メリケンサック#テレビ版|少年メリケンサックを探せ!]](テレビ東京) - 構成・出演
* [[シロウト名鑑]](2011年1月14日 - 9月23日、テレビ東京) - 構成・出演
* [[おやすみ日本 眠いいね!]](2012年 - 、[[日本放送協会|NHK]]) - 進行役
=== テレビドラマ(出演) ===
* [[ヘルプ! (テレビドラマ)|ヘルプ!]](1995年、フジテレビ)
* 噂の探偵QAZ(1995年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]])
* [[おいしい関係]](1996年、フジテレビ)
* [[ギフト (テレビドラマ)|ギフト]] 最終話(1997年、フジテレビ)- 舎弟 役
* [[踊る大捜査線 秋の犯罪撲滅スペシャル]](1998年、フジテレビ) - 柏田郁夫 役
* [[走れ公務員!]] 第7話(1998年、フジテレビ)
* [[芸術劇場#主要放送作品|金翅雀の群れ リストラが人の心をむしばんでいく]](1999年、[[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]])
* [[シネマカクテル]](1999年、[[関西テレビ放送|関西テレビ]])
* [[世にも奇妙な物語]]
** 秋の特別編「モザイク」(1999年)- 高橋浩二 役
** 秋の特別編「ママ新発売!」(2001年)- テル 役
* [[ABC…XYZ]](1999年、フジテレビ)
* [[悪いオンナ「占っちゃうぞ」]](2000年、TBSテレビ)
* [[二千年の恋]] 第1話・第2話・最終話(フジテレビ)
* 池袋ウエストゲートパーク 最終話(士<サムライ>の回) タイトルバック(2000年、TBSテレビ) - サムライ 役
* マッチポイント! 〜女が勝負をかける時〜(2000年、[[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]])
* 恋は余計なお世話(2001年、フジテレビ) - [[松尾スズキ]]脚本
* コウノトリなぜ紅い(2001年、NHKハイビジョン)
* [[夢のカリフォルニア (テレビドラマ)|夢のカリフォルニア]](2002年、TBSテレビ) - 山崎始 役
* [[蟬しぐれ#テレビドラマ|蝉しぐれ]](2003年、NHK総合テレビ) - 島崎与之助 役
* [[ドラマW]] [[ご近所探偵TOMOE#テレビドラマ|ご近所探偵TOMOE]](2003年3月29日、[[WOWOW]]) - 石丸勝雄 役
* [[こちら葛飾区亀有公園前派出所 (テレビドラマ)|こちら葛飾区亀有公園前派出所]] 第3話(2009年8月15日、TBS) - [[日暮熟睡男]] 役
* [[Wの悲劇#テレビドラマ(2010年版)|Wの悲劇]](2010年、TBSテレビ) - 平野健治 役
* [[極悪がんぼ#テレビドラマ|極悪がんぼ]](2014年、フジテレビ) - 豊臣嫌太郎 役
* [[BORDER (金城一紀)#テレビドラマ|BORDER 警視庁捜査一課殺人犯捜査第4係]] 第5話(2014年、テレビ朝日) - 岡部義剛 役
* [[カルテット (2017年のテレビドラマ)|カルテット]](2017年、TBSテレビ) - 巻幹生 役
* [[コートダジュールN°10]] 第8話「スナック蟻ヶ崎」(2017年12月12日、WOWOW×Hulu 共同製作) - イナゲちゃん 役<ref>{{Cite news|url=https://www.oricon.co.jp/news/2097671/full/|title=小林聡美&大島優子主演『コートダジュールN゜10』全話ゲスト発表|date=2017-09-22|newspaper=ORICON NEWS|publisher=ORICON ME|accessdate=2022-01-22}}</ref>
* [[コールドケース 〜真実の扉〜|コールドケース2 〜真実の扉〜]] 第2話(2018年、WOWOW) - 藤原寛治 役
* [[シリーズ・江戸川乱歩短編集|満島ひかり×江戸川乱歩]](2018年、NHK BSプレミアム) - 「[[お勢登場]]」格太郎 役
* いだてん〜東京オリムピック噺〜 最終回(2019年12月15日、NHK大河ドラマ) - 新タクシー運転手 役
* [[コタキ兄弟と四苦八苦]](2020年、テレビ東京)- ムラタ 役
* [[ゆりあ先生の赤い糸#テレビドラマ|ゆりあ先生の赤い糸]] 第6話(2023年11月23日、テレビ朝日) - 伴博 役<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/news/549442|title=宮藤官九郎が「ゆりあ先生の赤い糸」出演、菅野美穂の“男前な仏頂面”を間近で見て喜ぶ|website=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-11-16|accessdate=2023-11-17}}</ref>
=== Web・配信ドラマ ===
* [[すべて忘れてしまうから]](2022年9月14日 - 11月16日、[[Disney+]]) - フクオ 役<ref>{{Cite news|url=https://realsound.jp/movie/2023/08/post-1396725.html|title=阿部寛主演『すべて忘れてしまうから』地上波放送決定 10月13日よりテレ東ドラマ25枠で|newspaper=リアルサウンド映画部|publisher=blueprint|date=2022-08-07|accessdate=2023-08-08}}</ref>{{efn|2023年10月14日から、テレビ東京で地上波放送予定。}}
=== ラジオ ===
* [[キック・ザ・カンクロー]](2003年10月 - 2007年3月、[[TBSラジオ]])
* [[カンクロード☆ヴァンダム]](2007年4月 - 2008年9月、[[エフエム東京|TOKYO FM]]<!--[[JAPAN FM NETWORK|JFN]]系-->)
* 宮藤官九郎の[[サウンドコレクション|ナイタースペシャル]](2013年5月21日、[[ニッポン放送]]<!--<ref>[[STVラジオ]]、[[東海ラジオ放送|東海ラジオ]]にも同時ネット</ref>-->)
* [[宮藤官九郎の"俺のmyミュージック"]](2013年7月21日 - 2013年9月20日、[[NHK-FM放送|NHK-FM]] - 病気療養のため『[[星野源のラディカルアワー|ラディカルアワー]]』を降板した[[星野源]]の後任)
* [[宮藤官九郎のオールナイトニッポンGOLD]](2013年10月10日 - 2019年3月、ニッポン放送)
* [[ACTION (TBSラジオ)|ACTION]](2019年4月1日 - 2020年9月21日、TBSラジオ)月曜パーソナリティ
* [[宮藤さんに言ってもしょうがないんですけど]](2020年10月2日 - 、TBSラジオ)
=== CM ===
* [[シノブフーズ]]「おにぎりQ」
* [[石川銀行]]
* [[リコー]]「イプシオ」
* [[ぴあ]]
* [[任天堂]]「[[ゲームボーイミクロ]]」
* [[大塚製薬]]「ネイチャーメイド」
* [[サッポロビール]]「サッポロ雫〈生〉」
* [[麒麟麦酒|キリンビール]]「キリン 杏露酒 ひんやりあんず」(2016年)<ref>{{cite news|url=https://mantan-web.jp/article/20160411dog00m200009000c.html|title=宮崎あおい:宮藤官九郎に“ひんやりです”と言われ苦笑い|newspaper=MANTANWEB|date=2016-04-11|accessdate=2016-04-12}}</ref>
* [[明治安田生命保険|明治安田生命]](2017年 - )<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.meijiyasuda.co.jp/profile/news/release/2017/pdf/20170426_01.pdf |title=明治安田生命 新作CM アフターフォロー「歳の差兄弟」篇を放映開始! |publisher=明治安田生命保険相互会社 |date=2017-04-26 |accessdate=2022-10-23}}</ref>
* [[ペルノ・リカール|ペルノ・リカール・ジャパン]]「[[シーバスリーガル]]」(2019年)<ref>{{Cite web|和書|title=ブレンデッドスコッチウイスキー『シーバスリーガル』が宮藤官九郎氏を日本の顔として広告に起用! |url=https://www.nikkan.co.jp/releases/view/84296 |website=日刊工業新聞電子版 |access-date=2023-09-15}}</ref>
* [[アサヒ飲料]]「[[WONDA]]」(2019年)
== 音楽活動 ==
{{Main|グループ魂}}
バンドグループ魂に、ギタリスト「暴動」として参加し、全作詞、一部作曲、コント構成などを手がけている。
その他、以下のような外部アーティストに詞を提供している。
* [[TOKIO]]「[[ラブラブ マンハッタン/ALIVE-LIFE|ラブラブ♥マンハッタン]]」(グループ魂として、セルフカバーも)
* [[SMAP]]「[[BANG! BANG! バカンス!]]」
* [[関ジャニ∞]]「[[言ったじゃないか]]」
* [[高見沢俊彦]]「騒音おばさんVS高音おじさん」
* [[仲里依紗|ゼブラクイーン]]「[[NAMIDA〜ココロアバイテ〜|ゼブラクイーンのテーマ]]」
* 『[[みいつけた!]]』の[[リトミック]]コーナー内楽曲「なんかいっすー」「すわるぞう」「おっす!イスのおうえんだん」など。
== 著書 ==
=== 小説 ===
* きみは白鳥の死体を踏んだことがあるか(下駄で)(2009年10月 [[太田出版]]/2013年11月 [[文春文庫]])
=== エッセイ ===
* 私のワインは体から出て来るの(2003年8月 [[学研プラス]])
* 妄想中学ただいま放課後(2003年8月 太田出版)
* 宮藤官九郎のビガーパンツはもう穿かない!(2003年12月 [[集英社]])
* おぬしの体からワインが出て来るのが良かろう(2004年3月 学研プラス)
* くど監日記 真夜中の弥次さん喜多さん(2005年4月 [[角川書店]])
* ボクはワインが飲めない(2008年3月 [[角川文庫]])- 『私のワインは体から出て来るの』『おぬしの体からワインが出て来るのが良かろう』を合本し改題
* 俺だって子供だ!(2008年10月 [[文藝春秋]]/2011年3月 文春文庫)
* いまなんつった?(2010年11月 文藝春秋/2013年5月 文春文庫)
* え、なんでまた?(2013年3月 文藝春秋/2015年9月 文春文庫)
* 宮藤官九郎最強説 オールナイトニッポン始めました(2016年3月 [[宝島社]])
* ん!?(2018年12月 文藝春秋)
=== シナリオ ===
* 木更津キャッツアイ(2002年4月 角川書店/2003年9月 角川文庫)
* ピンポン・シナリオブック(2002年9月 [[小学館]])
* 宮藤官九郎脚本 池袋ウエストゲートパーク(2003年1月 角川書店/2005年3月 角川文庫)
* 親ゆび姫×占っちゃうぞ 宮藤官九郎シナリオ集(2003年2月 角川書店)
* GO 宮藤官九郎脚本(2003年5月 角川書店)
* ぼくの魔法使い(2003年7月 角川書店)
* 木更津キャッツアイ 日本シリーズ(2003年11月 角川書店/2006年9月 角川文庫)
* マンハッタンラブストーリー(2003年12月 角川書店)
* ゼブラーマン(2004年2月 角川書店)
* ドラッグストア・ガール シナリオブック(2004年2月 角川書店)
* タイガー&ドラゴン(2005年3月 - 6月 角川書店 全2巻/2007年12月 角川文庫 全2巻)
* 鈍獣(2005年6月 [[パルコ出版|パルコエンタテインメント事務局]])
* 春子ブックセンター(2005年10月 [[白水社]])
* 七人の恋人(2006年4月 角川書店)
* ロケット★ボーイ(2006年5月 角川文庫)
* 我輩は主婦である(2006年6月 - 7月 角川書店 全2巻)
* 木更津キャッツアイ ワールドシリーズ(2006年10月 角川書店/2009年1月 角川文庫)
* 舞妓Haaaan!!!!(2007年6月 角川書店)
* 未来講師めぐる(2008年3月 角川書店)
* 少年メリケンサック アンソロジー(2009年2月 角川書店)
* うぬぼれ刑事(2010年9月 角川書店)
* NHK連続テレビ小説 あまちゃん 完全シナリオブック(2013年12月 [[KADOKAWA]] 全2巻)
* 日曜劇場 ごめんね青春!(2014年12月 KADOKAWA)
* ゆとりですがなにか(2016年8月 KADOKAWA)
* 火曜ドラマ 監獄のお姫さま(2017年12月 KADOKAWA)
* NHK大河ドラマ いだてん 完全シナリオ集(2019年9月 - 12月 文藝春秋 全2巻)
=== 共著・対談・鼎談 ===
* 河原官九郎(2001年7月 [[演劇ぶっく社]]/2005年1月 角川文庫) - 共著:[[河原雅彦]]
* やぁ工藤くん、工藤くんじゃないか!(2006年1月 [[主婦と生活社]]) - 共著:[[港カヲル]]
* 宮藤官九郎の小部屋(2007年5月 角川書店)- 筆名:宮藤官九郎と母
* 自由になる技術 80歳詩人のことばを聞く(2012年3月 [[扶桑社]]) - 共著:[[谷川俊太郎]]、[[箭内道彦]]
* どうして人はキスをしたくなるんだろう?(2013年9月 集英社/2016年7月 [[集英社文庫]]) - 共著:[[みうらじゅん]]
* 宮藤官九郎×葉加瀬太郎 SWITCHインタビュー 達人達(2014年4月 [[ぴあ]]) - 共著:[[葉加瀬太郎]]
* みうらじゅんと宮藤官九郎の世界全体会議(2016年7月 集英社) - 共著:みうらじゅん
=== 絵本 ===
* [[WASIMO]](2013年1月 - 2015年3月 小学館 全2巻)- 絵:[[安斎肇]]
=== 漫画原作 ===
* ゼブラーマン(2004年 - 2005年 [[ビッグコミックス]] 全5巻) - 作画:[[山田玲司]]
* ゼブラーマン2 ゼブラシティの逆襲(2010年 ビッグコミックス 全1巻) - 作画:山田玲司
== 連載 ==
* [[週刊文春]] - 「いまなんつった?」※2020年現在も連載中。
* [[TV LIFE]]([[学研プラス]])
* [[週刊プレイボーイ]] - 「ビガーパンツはもう穿かない 〜スッポン官太くんの14歳で美女対談〜」(2005年6月で終了)
== 関連項目 ==
* [[磯山晶]]([[TBSテレビ]]のプロデューサー・演出家)
* [[矢作兼]]([[おぎやはぎ]])
* [[金子文紀]]([[TBSテレビ]]の演出家・映画監督)
* [[水田伸生]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 外部リンク ==
* [https://otonakeikaku.net/artist/153/ 宮藤官九郎 - 大人計画 OFFICIAL WEBSITE]
* [http://otonakeikaku.jp/special/special_kudo.html 宮藤官九郎の小部屋] - 大人計画
* [https://www.1101.com/yajikita/index.html 映画『真夜中の弥次さん喜多さん』しりあがり寿×宮藤官九郎×糸井重里] - ほぼ日刊イトイ新聞
* {{Tvdrama-db name|宮藤官九郎|type=stuff|linktext=宮藤官九郎(脚本・原作)}}
* {{Tvdrama-db name|宮藤官九郎|type=cast|linktext=宮藤官九郎(出演)}}
* {{NHK人物録|D0009071130_00000}}
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{{岸田國士戯曲賞|第49回}}
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[[Category:宮藤官九郎|*]]
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9,313 | ケンタウロス | ケンタウロス(古希: Κένταυρος、ラテン語: Centaurus)とは、ギリシア神話に登場する半人半獣の種族の名前である。馬の首から上が人間の上半身に置き換わったような姿をしている。
イクシーオーンとヘーラーの姿をした雲ネペレーとの間に産まれたとも、その間の息子であるケンタウロス(人名)が牝馬と交わり産まれた種族ともいわれる。テッサリアー地方のペーリオン山やアルカディア地方、エーリス地方などに住んでいたが、テッサリアー地方のケンタウロスはペイリトオスとの戦争で住処を追われて、ペロポネーソス半島南部のマレア岬に移動したともいわれる。
好色で酒好きの暴れ者だが、中には出自の異なるものがおり、彼らは野蛮ではない。クロノスとピリュラーの息子ケイローンは医学の祖とされ、医術の神アスクレーピオスをはじめ、アキレウスなど数々の英雄を教育した賢者として知られ、また不死であった。シーレーノスとトネリコの精であるニュンペーの息子ポロスも人格者である。
ケンタウロス族は戦いにおいてしばしば弓矢や槍、棍棒を使うとされる。星座のいて座は弓矢を持った姿から来ている。ケンタウロスではなくサテュロスともいわれる。
ダンテの『神曲』「地獄篇」第十二曲では、生前、人を虐げた暴君たちを血の川において懲らしめる獄卒の役目を果たしている。ダンテとウェルギリウスはケイローンと言葉を交わし、ネッソスに道を案内してもらった。
カッシート時代、中アッシリア時代の印章やクドゥル、ヘレニズム時代のバビロニアのスタンプ印章にはケンタウロスの模様が刻まれていることがある。バビロニアにおけるケンタウロスの模様には、サソリの尻尾が付属しているものもある。
ケンタウロスの女性形であるケンタウリスは、紀元前5世紀の画家・ゼウクシスが考案したとされるが、神話文学における裏付けは存在せず、芸術作品としても若干数である。
ケンタウロス像の起源は東方の騎馬民族であるスキタイ人と戦ったギリシア人が、彼らを怪物視したものだという説がある。すなわち、ケンタウロスは乗馬文化を持たない者が騎馬民族を見て怪物と見間違い、生まれたのではないかという訳である。スキタイ人は馬上から弓を射る「騎射」に優れていた。
ただし、この説は疑問視する意見も多い。また、ケンタウロスという名前の語源は「牛殺し」だという説がある(「刺し貫く牡牛」だとする意見もある)。また、ケンタウロスは「牡牛を駆け集める者」の意であり、テッサリアに住んでいた原始の牧夫の集団がモデルではないかという説がある。 | [
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] | ケンタウロスとは、ギリシア神話に登場する半人半獣の種族の名前である。馬の首から上が人間の上半身に置き換わったような姿をしている。 | {{Otheruses||その他|ケンタウルス}}
[[ファイル:Centaure Malmaison crop.jpg|thumb|200px|ケンタウロス]]
'''ケンタウロス'''({{lang-grc-short|Κένταυρος}}<ref>{{lang-*-Latn|grc|Kentauros}}</ref>、{{lang-la|Centaurus}})<ref group="注">'''ケンタウル'''や'''センタウル'''、'''セントール'''と表記されることもあり、[[英語]]では'''セントー/セントーア''' ({{lang|en|Centaur}})、[[フランス語]]では'''サントール''' ({{lang|fr|Centaure}})、[[ドイツ語]]では'''ケンタオア/ツェンタオア''' ({{lang|de|Kentaur/Zentaur}}) となる。</ref>とは、[[ギリシア神話]]に登場する[[獣人|半人半獣]]の種族の名前である。[[ウマ|馬]]の首から上が人間の上半身に置き換わったような姿をしている。
== 神話・民俗 ==
[[イクシーオーン]]と[[ヘーラー]]の姿をした雲[[ネペレー]]との間に産まれたとも、その間の息子であるケンタウロス(人名)が牝馬と[[性交|交]]わり産まれた種族ともいわれる<ref name="G">マイケル・グラント、ジョン・ヘイゼル 『ギリシア・ローマ神話事典』 [[大修館書店]]</ref>。[[テッサリアー]]地方の[[ペーリオン山]]や[[アルカディア]]地方、[[エーリス]]地方などに住んでいたが、テッサリアー地方のケンタウロスは[[ペイリトオス]]との戦争で住処を追われて、[[ペロポネーソス半島]]南部の[[マレア岬]]に移動したともいわれる<ref name="G" />。
好色で酒好きの暴れ者だが、中には出自の異なるものがおり、彼らは野蛮ではない<ref name="G" />。[[クロノス]]と[[ピリュラー]]の息子[[ケイローン]]は[[医学]]の祖とされ、医術の神[[アスクレーピオス]]をはじめ、[[アキレウス]]など数々の英雄を教育した賢者として知られ、また不死であった<ref name="G" />。[[シーレーノス]]と[[トネリコ]]の精である[[ニュンペー]]の息子[[ポロス]]も人格者である<ref>[[山北篤]] 『幻想生物 西洋編』 [[新紀元社]]</ref><ref name="F">フェリックス・ギラン 『ギリシア神話』 [[青土社]]</ref>。
ケンタウロス族は戦いにおいてしばしば弓矢や槍、棍棒を使うとされる<ref name="T">健部伸明と怪兵隊 『幻想世界の住人たち』 新紀元社</ref>。[[星座]]の[[いて座]]は弓矢を持った姿から来ている。ケンタウロスではなく[[サテュロス]]ともいわれる。
[[File:Parc de la Tête d'Or de Lyon - La Centauresse et le faune d'Augustin Courtet.jpg|thumb|200px|フランス・リヨンの[[テトドール公園]]内にある『{{仮リンク|Centauresse et Faune|fr|Centauresse et Faune}}』[[オギュスタン・クルテ]]作。珍しい女性のケンタウロス像である]]
[[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]の『[[神曲]]』「地獄篇」第十二曲では、生前、人を虐げた暴君たちを血の川において懲らしめる獄卒の役目を果たしている。ダンテと[[ウェルギリウス]]はケイローンと言葉を交わし、[[ネッソス]]に道を案内してもらった。
[[カッシート]]時代、中[[アッシリア]]時代の[[印章]]やクドゥル、[[ヘレニズム]]時代の[[バビロニア]]のスタンプ印章にはケンタウロスの模様が刻まれていることがある。バビロニアにおけるケンタウロスの模様には、[[サソリ]]の尻尾が付属しているものもある<ref>『メソポタミアの神々と空想動物』86頁</ref>。
ケンタウロスの女性形である[[ケンタウリス]]は、[[紀元前5世紀]]の画家・[[ゼウクシス]]が考案したとされるが、神話文学における裏付けは存在せず<ref group="注">[[オウィディウス]]の『[[変身物語]]』には[[ヒュロノメー]]という女性のケンタウルスが登場する([[ピエロ・ディ・コジモ]]『[[ケンタウロスとラピテース族の戦い]]』の中央下段にも描かれている)。</ref>、芸術作品としても若干数である<ref>ルネ・マルタン 編/松村一男 訳『図説ギリシア・ローマ神話文化事典』(原書房、1998年)・P100「ケンタウロスたち」項目</ref>。
== 起源・語源 ==
ケンタウロス像の起源は東方の騎馬民族である[[スキタイ|スキタイ人]]と戦ったギリシア人が、彼らを怪物視したものだという説がある<ref name="T" />。すなわち、ケンタウロスは乗馬文化を持たない者が[[遊牧民|騎馬民族]]を見て怪物と見間違い、生まれたのではないかという訳である<ref name="T" />。スキタイ人は馬上から弓を射る「[[騎射]]」に優れていた。
ただし、この説は疑問視する意見も多い<ref name="T" />。また、ケンタウロスという名前の語源は「牛殺し」だという説がある(「刺し貫く牡牛」だとする意見もある)。また、ケンタウロスは「牡牛を駆け集める者」の意であり、テッサリアに住んでいた原始の牧夫の集団がモデルではないかという説がある<ref name="F" />。
[[画像:Piero di Cosimo 015.jpg|thumb|center|800px|『[[ケンタウロスとラピテース族の戦い]]』 [[ピエロ・ディ・コジモ]]画、1500年-1515年ごろ]]
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== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*[[MIHO MUSEUM]]編、アンソニー・グリーン監修{{Citation|和書|title=メソポタミアの神々と空想動物|publisher=[[山川出版社]]|series=MUSAEA JAPONICA ; 12|isbn=978-4-634-64828-9}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Centaurs}}
* [[ラピテース族]]
* [[ケンタウルス座]]([[いて座]])
* [[ケンタウルス族 (小惑星)]]
* [[セントール (ロケット)]] - ケンタウロスから名前をとった米国のロケット
* [[サントール (ロケット)]] - 同じく、フランスのロケット
* [[G.55 (航空機)|フィアットG.55チェンタウロ]] - 同じく、イタリアの戦闘機
* [[チェンタウロ戦闘偵察車]] - 同じく、イタリアの[[偵察戦闘車|戦闘偵察車]]
* [[ケンタウル]]
* [[セントーレア]](ヤグルマギク)- ケンタウロスが語源
== 外部リンク ==
* [https://bimikyushin.com/chapter_6/ref_06/Ichthyocentaurs.html 美味求真.com「イクテュオケンタウロス」]
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[[Category:ケンタウロス|*]] | 2003-05-25T05:36:11Z | 2023-10-27T14:13:41Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%AD%E3%82%B9 |
9,314 | ネッソス | ネッソス(古希: Νέσσος, Nessos, ラテン語: Nessus)は、ギリシア神話に登場するケンタウロスである。ネッススとも表記される。ヘーラクレースの妻デーイアネイラにちょっかいを出そうとしたところを、ヘーラクレースに弓で射られて殺された。
ネッソスは死ぬ間際にデーイアネイラを呼び、「自分の血は媚薬の効果がある。ヘーラクレースが心変わりしたときには、自分の血を使え。」と言った。後に、ヘーラクレースが戦利品として絶世の美女イオレーを得たとき、心変わりを恐れたデーイアネイラはネッソスの血を下着に塗った。だがネッソスの血にはヘーラクレースの矢に付いていたヒュドラーの猛毒が含まれ、これを着たヘーラクレースは毒によって体が腐り、瀕死の重傷を負った。彼は命が助からないことを知ると、自分で火葬の準備をしてその上に横になり、火をつけるように命じたが、皆しり込みして実行したがらない。が、ついにポイアースが進み出て火をつけた。ヘーラクレースは感謝し、彼に自身の弓を与えた。この弓が、ポイアースの子ピロクテーテースがトロイア戦争に持参した弓である。なお、一説によると火をつけたのはピロクテーテース自身だったとも言う。デーイアネイラはこれを知って自殺した。
ネッソスはダンテの『神曲』地獄篇第十二曲に、地獄の獄卒として登場する。彼はケイローンに命じられてダンテとウェルギリウスの道案内をした。
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'''ネッソス'''({{lang-grc-short|Νέσσος}}, {{ラテン翻字|el|Nessos}}, {{lang-la|Nessus}})は、[[ギリシア神話]]に登場する[[ケンタウロス]]である。'''ネッスス'''とも表記される。[[ヘーラクレース]]の妻[[デーイアネイラ]]にちょっかいを出そうとしたところを、ヘーラクレースに弓で射られて殺された。
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== 関連 ==
{{Commonscat|Nessus}}
* [[ネッスス (小惑星)]]
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[[Category:ギリシア神話の生物]]
[[Category:ケンタウロス]] | null | 2022-05-31T05:52:52Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%83%E3%82%BD%E3%82%B9 |
9,315 | ピロクテーテース | ピロクテーテース(古希: Φιλοκτήτης, Philoktētēs, ラテン語: Philoctetes)は、ギリシア神話に登場する英雄である。長母音を省略してピロクテテスとも表記される。ポイアースの子。トロイア戦争にはオリゾーン人を率いて7隻の船とともに参加した。トロイア戦争の前にはイアーソーンとアルゴー船探検隊(アルゴナウタイ)の冒険にも参加している。
ピロクテーテースは、トロイア戦争にヘーラクレースの弓を持参したが、これは自身もしくは父ポイアースがヘーラクレースから貰ったものという。この弓を入手したいきさつについてはネッソスの項を参照。
ピロクテーテースはヘレネーの元求婚者だったためにトロイア戦争に参加したが、トロイアに着く前に、テネドス島において毒蛇に噛まれた(一説によると、別の同名の島にて箙(えびら)から落ちた矢で傷ついた。その矢は彼がヘーラクレースから譲り受けたもので、ヒュドラーの毒が塗布してあった)。その傷はなかなか治らず、ひどい悪臭をはなった。このためオデュッセウスがピロクテーテースをレームノス島に捨て、オリゾーン勢は小アイアースの異母兄弟メドーンが率いることになった。
十年後、トロイアはまだ落ちていなかった。ピロクテーテースの持つヘーラクレースの弓なくしては、トロイアを陥落させることができないという運命だったのである。ギリシア勢の預言者カルカースはこのことを予言し、ディオメーデースとオデュッセウスがピロクテーテースを迎えに来た。別の説では、トロイアから捕らえられたヘレノスという預言者が、パリスの死後にヘレネーを貰えなかった腹いせにこのことを予言したという。ピロクテーテースは洞窟に住み、弓で獲物を捕らえて生きながらえていた。ピロクテーテースの傷は癒えておらず、かなりやつれていた。
ピロクテーテースは、自身をレームノス島に捨てたオデュッセウスを見たときに、かっとなって彼を殺そうとしたが、やっとのことで思いとどまった。そして、彼らの説得に応じてトロイア戦争に復帰した。三大悲劇詩人は、この場面を主題としたギリシア悲劇を書いたが、現在まで残っているのはソポクレースの『ピロクテーテース』だけである。なお、この悲劇では、説得に来たのがオデュッセウスとネオプトレモスだったことになっている。
ギリシア勢の陣地につれてこられたピロクテーテースは、アスクレーピオスの子ポダレイリオスの治療を受け、戦闘ができるところまで復活した。クイントゥスの 『トロイア戦記』 によれば、ピロクテーテースはヘーラクレースの鎧を身にまとって出陣したという。戦闘に復帰したピロクテーテースは、弓の名手といわれ、アキレウスを弓で殺したパリスを、逆に弓で射殺すなどして活躍した。パリスもピロクテーテースに向けて矢を放ったが、ピロクテーテースにかわされてしまった。瀕死の重傷を負ったパリスは、退いて傷を治す能力をもったオイノーネーの元に向かうが、拒絶されて死んだ。詳しくはパリスの項を参照。その後、ピロクテーテースはトロイアの木馬に乗り込むなどして活躍した。
トロイアの陥落後、帰途に着いたギリシア勢は神々の怒りに触れて放浪するなどしたが、ピロクテーテースも例外ではなく、イタリアのカンパーニャ人の国(現在のカンパニア州)に流れ着いたとのことである。イタリア南部の諸都市はピロクテーテースによって建立されたとの伝説があり、彼は崇拝されていた。
なお、このピロクテーテースは、ヘーラクレースの数多い男色相手のひとりである。
ソポクレースの悲劇においては、前述の通り、オデュッセウスとネオプトレモスがピロクテーテースを戦線復帰させるべくレームノス島に来訪した。オデュッセウスは、ネオプトレモスに何も知らない風を装い、ピロクテーテースと親友になることを命じた。ネオプトレモスは故郷へ帰る途中だと嘘を吐き、また、ギリシア軍の頼みでトロイア戦争に参戦したのに、父アキレウスの鎧具を貰えず、オデュッセウスを恨んでいるという話もでっち上げた。ピロクテーテースは自分を島に置き去りにしたオデュッセウスを心底憎んでいたため、それに共感し、ついに打ち解け親友になることができた。
ピロクテーテースはヘーラクレースの弓矢を触りたいというネオプトレモスの希望に応え、その弓矢を彼に手渡した。そこでオデュッセウスが現れ、「トロイア戦争に参戦せよ、さもなくばヘーラクレースの弓矢はいただく」と脅した。ピロクテーテースはそれでも首を縦に振らず、断固拒否した。仕方がないとし、わずかな船員たちだけをピロクテーテースの元に残し、彼らは船へと去った。
船員たちはピロクテーテースの心変わりを望んだが、ただ嘆き怒り狂うのみで一向に心変わりしなかった。船員たちも船に戻ろうとしたその矢先、ネオプトレモスが帰ってきた。彼は、計略とは言え、一時は親友だったピロクテーテースを裏切るのに、罪悪感を覚えていた。そこで、オデュッセウスの反対を押し切り、ヘーラクレースの弓矢をピロクテーテースに返した。
ピロクテーテースはその行為に感動するも、それでもトロイア戦争に参戦することだけは断固拒否し、逆に故郷へ帰ろうとネオプトレモスを説得した。ネオプトレモスはそれを受け、我が故郷をギリシア軍の怒りから守ってくれるのならと、それに応じた。
その時、ピロクテーテースの住んでいた洞窟の影から神と化したヘーラクレースが現れ、ピロクテーテースに「トロイア戦争に参戦し、陥落させて、栄誉を受け取れ」と伝えた。ピロクテーテースとネオプトレモスはヘーラクレースの言葉に従い、前言撤回し、トロイア戦争に参戦することにした。 | [
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] | ピロクテーテースは、ギリシア神話に登場する英雄である。長母音を省略してピロクテテスとも表記される。ポイアースの子。トロイア戦争にはオリゾーン人を率いて7隻の船とともに参加した。トロイア戦争の前にはイアーソーンとアルゴー船探検隊(アルゴナウタイ)の冒険にも参加している。 | [[ファイル:Philoctetes.jpg|thumb|240px|[[ジャン=ジェルマン・ドルーエ]]が傷ついたピロクテーテースを描いた1788年の『レムノス島のピロクテテス』。{{仮リンク|シャルトル美術館所蔵|fr|Musée des Beaux-Arts de Chartres}}。]]
'''ピロクテーテース'''({{lang-grc-short|'''Φιλοκτήτης'''}}, {{ラテン翻字|el|Philoktētēs}}, {{lang-la|Philoctetes}})は、[[ギリシア神話]]に登場する[[英雄]]である。[[長母音]]を省略して'''ピロクテテス'''とも表記される。[[ポイアース]]の子。[[トロイア戦争]]にはオリゾーン人を率いて7隻の船とともに参加した。トロイア戦争の前には[[イアーソーン]]と[[アルゴー船]]探検隊([[アルゴナウタイ]])の冒険にも参加している。
== 神話 ==
=== トロイア戦争 ===
ピロクテーテースは、トロイア戦争に[[ヘーラクレース]]の弓を持参したが、これは自身もしくは父ポイアースがヘーラクレースから貰ったものという。この弓を入手したいきさつについては[[ネッソス]]の項を参照。
ピロクテーテースは[[ヘレネー]]の元求婚者だったためにトロイア戦争に参加したが、[[イリオス|トロイア]]に着く前に、[[テネドス島]]において毒蛇に噛まれた(一説によると、別の同名の島にて箙(えびら)から落ちた矢で傷ついた。その矢は彼がヘーラクレースから譲り受けたもので、[[ヒュドラー]]の毒が塗布してあった)。その傷はなかなか治らず、ひどい悪臭をはなった。このため[[オデュッセウス]]がピロクテーテースを[[レームノス島]]に捨て、オリゾーン勢は[[小アイアース]]の異母兄弟[[メドーン]]が率いることになった。
十年後、トロイアはまだ落ちていなかった。ピロクテーテースの持つヘーラクレースの弓なくしては、トロイアを陥落させることができないという運命だったのである。ギリシア勢の預言者[[カルカース]]はこのことを予言し、[[ディオメーデース]]とオデュッセウスがピロクテーテースを迎えに来た。別の説では、トロイアから捕らえられた[[ヘレノス]]という預言者が、[[パリス]]の死後に[[ヘレネー]]を貰えなかった腹いせにこのことを予言したという。ピロクテーテースは洞窟に住み、弓で獲物を捕らえて生きながらえていた。ピロクテーテースの傷は癒えておらず、かなりやつれていた。
ピロクテーテースは、自身をレームノス島に捨てたオデュッセウスを見たときに、かっとなって彼を殺そうとしたが、やっとのことで思いとどまった。そして、彼らの説得に応じてトロイア戦争に復帰した。[[三大悲劇詩人]]は、この場面を主題とした[[ギリシア悲劇]]を書いたが、現在まで残っているのは[[ソポクレース]]の『ピロクテーテース』だけである。なお、この悲劇では、説得に来たのがオデュッセウスと[[ネオプトレモス]]だったことになっている。
=== 傷の治癒と活躍 ===
ギリシア勢の陣地につれてこられたピロクテーテースは、[[アスクレーピオス]]の子[[ポダレイリオス]]の治療を受け、戦闘ができるところまで復活した。[[スミュルナのコイントス|クイントゥス]]の 『トロイア戦記』 によれば、ピロクテーテースはヘーラクレースの[[鎧]]を身にまとって出陣したという。戦闘に復帰したピロクテーテースは、弓の名手といわれ、[[アキレウス]]を弓で殺した[[パリス]]を、逆に弓で射殺すなどして活躍した。パリスもピロクテーテースに向けて矢を放ったが、ピロクテーテースにかわされてしまった。瀕死の重傷を負ったパリスは、退いて傷を治す能力をもった[[オイノーネー]]の元に向かうが、拒絶されて死んだ。詳しくは[[パリス|パリスの項]]を参照。その後、ピロクテーテースは[[トロイアの木馬]]に乗り込むなどして活躍した。
=== 戦後 ===
トロイアの陥落後、帰途に着いたギリシア勢は神々の怒りに触れて放浪するなどしたが、ピロクテーテースも例外ではなく、[[イタリア]]の[[カンパーニャ]]人の国(現在の[[カンパニア州]])に流れ着いたとのことである。イタリア南部の諸都市はピロクテーテースによって建立されたとの伝説があり、彼は崇拝されていた。
なお、このピロクテーテースは、ヘーラクレースの数多い男色相手のひとりである<ref>[[ヒュギーヌス]]、257話。</ref>。
== ソポクレースの悲劇 ==
{{Main|ピロクテテス (ソポクレス)}}
ソポクレースの悲劇においては、前述の通り、オデュッセウスとネオプトレモスがピロクテーテースを戦線復帰させるべくレームノス島に来訪した。オデュッセウスは、ネオプトレモスに何も知らない風を装い、ピロクテーテースと親友になることを命じた。ネオプトレモスは故郷へ帰る途中だと嘘を吐き、また、ギリシア軍の頼みでトロイア戦争に参戦したのに、父アキレウスの鎧具を貰えず、オデュッセウスを恨んでいるという話もでっち上げた。ピロクテーテースは自分を島に置き去りにしたオデュッセウスを心底憎んでいたため、それに共感し、ついに打ち解け親友になることができた。
ピロクテーテースはヘーラクレースの弓矢を触りたいというネオプトレモスの希望に応え、その弓矢を彼に手渡した。そこでオデュッセウスが現れ、「トロイア戦争に参戦せよ、さもなくばヘーラクレースの弓矢はいただく」と脅した。ピロクテーテースはそれでも首を縦に振らず、断固拒否した。仕方がないとし、わずかな船員たちだけをピロクテーテースの元に残し、彼らは船へと去った。
船員たちはピロクテーテースの心変わりを望んだが、ただ嘆き怒り狂うのみで一向に心変わりしなかった。船員たちも船に戻ろうとしたその矢先、ネオプトレモスが帰ってきた。彼は、計略とは言え、一時は親友だったピロクテーテースを裏切るのに、罪悪感を覚えていた。そこで、オデュッセウスの反対を押し切り、ヘーラクレースの弓矢をピロクテーテースに返した。
ピロクテーテースはその行為に感動するも、それでもトロイア戦争に参戦することだけは断固拒否し、逆に故郷へ帰ろうとネオプトレモスを説得した。ネオプトレモスはそれを受け、我が故郷をギリシア軍の怒りから守ってくれるのならと、それに応じた。
その時、ピロクテーテースの住んでいた洞窟の影から神と化したヘーラクレースが現れ、ピロクテーテースに「トロイア戦争に参戦し、陥落させて、栄誉を受け取れ」と伝えた。ピロクテーテースとネオプトレモスはヘーラクレースの言葉に従い、前言撤回し、トロイア戦争に参戦することにした。
== 脚注 ==
<div class="references-small"><references /></div>
== 参考文献 ==
{{Commonscat|Philoctetes}}
* [[高津春繁]]『ギリシア・ローマ神話辞典』 [[岩波書店]](1960)
* [[ソポクレス]]『ピロクテテス』
{{イーリアスの登場人物}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ひろくててす}}
[[Category:ギリシア神話の人物]]
[[Category:アルゴナウタイ]]
[[Category:トロイア戦争の人物]]
[[Category:リムノス島]]
[[Category:神話・伝説の弓術家]] | 2003-05-25T07:08:35Z | 2023-11-24T21:56:23Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%AD%E3%82%AF%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%B9 |
9,316 | Just In Time | Just In Time (JIT)ジャストインタイム方式
英語で、必要になった時に行うという意味。 | [
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] | Just In Time (JIT)ジャストインタイム方式 英語で、必要になった時に行うという意味。 ジャストインタイム生産システム (方式)
「必要なものを必要な時に必要な量だけ生産する」システム・方式のこと。カンバン方式とも言う。トヨタ生産方式のコンポーネントの一つとしても有名である。
Just-In-Timeコンパイラ
Java・C#などで用いられる実行時コンパイル機能の名称。 | '''Just In Time''' ('''JIT''')
{{wiktionary|en:just-in-time}}
英語で、必要になった時に行うという意味。
* [[ジャストインタイム生産システム]] (方式)
*:「必要なものを必要な時に必要な量だけ生産する」システム・方式のこと。カンバン方式とも言う。[[トヨタ生産方式]]のコンポーネントの一つとしても有名である。
*[[実行時コンパイラ|Just-In-Timeコンパイラ]]
*:[[Java]]・[[C Sharp|C#]]などで用いられる実行時コンパイル機能の名称。
== 関連項目 ==
* [[オンデマンド]]
{{aimai}} | 2003-05-25T07:38:19Z | 2023-10-15T22:22:39Z | true | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Just_In_Time |
9,317 | 実行時コンパイラ | 実行時コンパイラ(じっこうじコンパイラ、Just-In-Time Compiler、JITコンパイラ)とは、ソフトウェアの実行時にソースコードをコンパイルするコンパイラのこと。通常のコンパイラはコンパイルを実行前に事前に行い、これをJITと対比して事前コンパイラ (Ahead-Of-Timeコンパイラ、AOTコンパイラ)と呼ぶ。
ソフトウェアを構成するモジュール、クラス、関数などのある単位のコードがまさに実行されるその時に、コンパイルすることから「Just In Time」と名付けられた。動的コンパイルという用語は、実行時に機械語を生成するというより広い意味であり、JITコンパイルは動的コンパイルの一種である。
JIT方式の主な利点は、オペレーティングシステムやCPUに依存しないソースコードや中間コードでソフトウェアを配布できる事である。これはその都度コードを解釈しながら実行する解釈実行方式でも可能であるが、JITではコンパイルを行いメモリ上に生成した機械語が実行されるため、実行速度を向上させることができる。
事前コンパイルと比べ、JITではコンパイル時間がプログラム実行時間のオーバーヘッドとなる。また、事前コンパイルで可能な高度で時間のかかる最適化を行えないといった欠点がある。
上記以外にもJITコンパイルは実行環境を知った上でそれに応じた生成コードの選択や最適化が可能という利点もある。
一例として、インテルのx86 CPUの場合、IA-32アーキテクチャの範囲内でCPU世代毎に命令が拡張されてきたが、アプリケーションの後方互換性を保持しようとすると、80386と互換の命令しか使うことができない。例えば、MMX PentiumのMMX命令は80386やPentiumでは実行できない。JIT方式ではCPUがMMXをサポートしているならMMX命令を使ったコードを生成し、そうでなければ多少効率の悪いPentiumの命令範囲内で実行する、ということができる。
また、実行環境のキャッシュやメモリのサイズ、速度特性などは実行時にならないとわからないが、JITコンパイルでは実行中のCPUやメモリの情報を知ることができる。このためそれに応じたコードを生成し、事前コンパイルよりも優れたコードを生成できる可能性がある。
さらに、オブジェクト指向言語では仮想メソッドの呼び出しは仮想関数表を経由した間接呼び出しになるが、動的コンパイルでは、そのメソッドをオーバーライド定義したサブクラスが存在しない限り、間接呼び出しを静的束縛として呼び出したり、インライン展開することができる(そのメソッドをオーバーライドするサブクラスが動的にロードされる可能性があるが、その場合はこのコンパイルされたメソッドは最適化戻し (deoptimize) される必要がある)。
上記のJITコンパイラの短所を補う一方式として適応的コンパイルがある。これは、起動当初はインタプリタとして実行し、繰り返し実行されるコードを検出(プロファイリング)、その部分のみをコンパイルするというものである。コードが使われた時にすぐにコンパイルするのではなく、何回か呼ばれた後に遅らせてコンパイルすることを遅延コンパイル (Lazy Compilation)と呼ぶ。
プログラム実行時間の大半はごく一部のコードに費やされるという経験則がある - 典型的に実行時間の80%は20%のコードに費やされる、80-20の法則。適応的コンパイルはこのようなコードのみをコンパイルすることで、起動時のオーバーヘッドや利用メモリ増大を抑えつつ、実行速度を向上することができる。この適応的最適化 (Adaptive Optimization) は、静的コンパイルでは得られない情報を元に最適化するため、むしろパフォーマンスが上がる場合もある。
数百件以内といった少量レコードを処理するバッチジョブが、一日に何百本、何千本も走る場合は注意が必要である。JITコンパイルを用いた場合、適応的コンパイルをしてさえも、ジョブの初めに共通的なクラスのコンパイル処理が何百回と行われる。処理件数が少ないので、クラス群の多くはコンパイル効果が出る前に、あるいはコンパイルさえされないうちにジョブが終わってしまう。その結果、ユーザロジックよりこうしたオーバヘッドにCPUなどの資源が消費されてしまう。処理件数によってJIT/AOTの有利不利が変わるが、使い分けるのは難しい。
また、(Javaについていえば)AOTコンパイラを通常適用しにくい。これらの理由で、性能面ではマイナスな場面でも一般的なJITコンパイラを使用していることがある。長時間のバッチジョブおよびオンラインでは、JITコンパイラ、特に適応的コンパイルが概してフィットしている。適応的コンパイルの最適化のために、何回実行されたらコンパイルするといったパラメタが用意されているものもある。パラメタチューニングは万能ではないとしても重要である。
JITはJavaの普及に伴い広範囲に使われるようになったが、JavaのHotSpot技術はSelf言語の動的コンパイル技術研究に基づいている。それに先立つ商用SmalltalkでもJITコンパイル技術は確立されていた。
Crusoeでx86コードからCrusoe VLIW命令への変換にも用いられる。適応的コンパイルはDEC社によるFX!32でも用いられていた。
.NETプラットフォームも当初からJITを前提に設計されている。
Symantec社のsymjitおよびBorland社のJITコンパイラは初期の主要なJITコンパイラであった。
Sun MicrosystemsのHotSpotコンパイラは本格的に適応的コンパイル方式を採用した。Hotspot以降はJITコンパイラ部分のインタフェースが規定されており、JITコンパイルエンジン部分を差し替えることが可能になった。
IBMのIBM JDK、BEAのJRockitはいずれも独自の適応的コンパイルを行う。後者は特にx86に特化して実行効率を高めている。
学術的分野では、首藤によるShuJITや、富士通研究所と東京工業大学によるリフレクション機能を扱うOpenJITなどがある。
近年の主要なウェブブラウザはJavaScriptのエンジンにJITコンパイラを搭載し、高速処理できるようになっている。
Internet Explorer 9、Mozilla Firefox 3.5、Google Chrome 1、Safari 4、Opera 10.50、Opera Mobile 10.1以降のウェブブラウザに搭載されている。NetFront Browser 4.1 には搭載されていない。
実行時に変数に代入された値の統計データから変数に型を割り振ることでJITコンパイルし、高速にJavaScriptを処理できるようになった。Google ChromeのV8などでは、インタプリタを使わずに最初からJITコンパイルし、変数の型は実行時に随時割り振る。Firefox 3.5では事前に一度インタプリタで実行して、その情報から型を割り振りながらJITコンパイルするタイプがある。どちらのタイプであっても型が安定している場合は高速に実行できる。 | [
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"text": "JIT方式の主な利点は、オペレーティングシステムやCPUに依存しないソースコードや中間コードでソフトウェアを配布できる事である。これはその都度コードを解釈しながら実行する解釈実行方式でも可能であるが、JITではコンパイルを行いメモリ上に生成した機械語が実行されるため、実行速度を向上させることができる。",
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"text": "また、実行環境のキャッシュやメモリのサイズ、速度特性などは実行時にならないとわからないが、JITコンパイルでは実行中のCPUやメモリの情報を知ることができる。このためそれに応じたコードを生成し、事前コンパイルよりも優れたコードを生成できる可能性がある。",
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"text": "上記のJITコンパイラの短所を補う一方式として適応的コンパイルがある。これは、起動当初はインタプリタとして実行し、繰り返し実行されるコードを検出(プロファイリング)、その部分のみをコンパイルするというものである。コードが使われた時にすぐにコンパイルするのではなく、何回か呼ばれた後に遅らせてコンパイルすることを遅延コンパイル (Lazy Compilation)と呼ぶ。",
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"text": "プログラム実行時間の大半はごく一部のコードに費やされるという経験則がある - 典型的に実行時間の80%は20%のコードに費やされる、80-20の法則。適応的コンパイルはこのようなコードのみをコンパイルすることで、起動時のオーバーヘッドや利用メモリ増大を抑えつつ、実行速度を向上することができる。この適応的最適化 (Adaptive Optimization) は、静的コンパイルでは得られない情報を元に最適化するため、むしろパフォーマンスが上がる場合もある。",
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"text": "数百件以内といった少量レコードを処理するバッチジョブが、一日に何百本、何千本も走る場合は注意が必要である。JITコンパイルを用いた場合、適応的コンパイルをしてさえも、ジョブの初めに共通的なクラスのコンパイル処理が何百回と行われる。処理件数が少ないので、クラス群の多くはコンパイル効果が出る前に、あるいはコンパイルさえされないうちにジョブが終わってしまう。その結果、ユーザロジックよりこうしたオーバヘッドにCPUなどの資源が消費されてしまう。処理件数によってJIT/AOTの有利不利が変わるが、使い分けるのは難しい。",
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"text": "また、(Javaについていえば)AOTコンパイラを通常適用しにくい。これらの理由で、性能面ではマイナスな場面でも一般的なJITコンパイラを使用していることがある。長時間のバッチジョブおよびオンラインでは、JITコンパイラ、特に適応的コンパイルが概してフィットしている。適応的コンパイルの最適化のために、何回実行されたらコンパイルするといったパラメタが用意されているものもある。パラメタチューニングは万能ではないとしても重要である。",
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"text": "JITはJavaの普及に伴い広範囲に使われるようになったが、JavaのHotSpot技術はSelf言語の動的コンパイル技術研究に基づいている。それに先立つ商用SmalltalkでもJITコンパイル技術は確立されていた。",
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"text": "Crusoeでx86コードからCrusoe VLIW命令への変換にも用いられる。適応的コンパイルはDEC社によるFX!32でも用いられていた。",
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"text": "学術的分野では、首藤によるShuJITや、富士通研究所と東京工業大学によるリフレクション機能を扱うOpenJITなどがある。",
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"text": "近年の主要なウェブブラウザはJavaScriptのエンジンにJITコンパイラを搭載し、高速処理できるようになっている。",
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"text": "Internet Explorer 9、Mozilla Firefox 3.5、Google Chrome 1、Safari 4、Opera 10.50、Opera Mobile 10.1以降のウェブブラウザに搭載されている。NetFront Browser 4.1 には搭載されていない。",
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"text": "実行時に変数に代入された値の統計データから変数に型を割り振ることでJITコンパイルし、高速にJavaScriptを処理できるようになった。Google ChromeのV8などでは、インタプリタを使わずに最初からJITコンパイルし、変数の型は実行時に随時割り振る。Firefox 3.5では事前に一度インタプリタで実行して、その情報から型を割り振りながらJITコンパイルするタイプがある。どちらのタイプであっても型が安定している場合は高速に実行できる。",
"title": "JavaScriptのJITコンパイラ"
}
] | 実行時コンパイラとは、ソフトウェアの実行時にソースコードをコンパイルするコンパイラのこと。通常のコンパイラはコンパイルを実行前に事前に行い、これをJITと対比して事前コンパイラ (Ahead-Of-Timeコンパイラ、AOTコンパイラ)と呼ぶ。 | {{出典の明記| date = 2022年10月}}
{{プログラムの実行}}
'''実行時コンパイラ'''(じっこうじコンパイラ、{{En|'''Just-In-Time Compiler'''}}、'''JITコンパイラ''')とは、[[ソフトウェア]]の実行時に[[ソースコード]]をコンパイルする[[コンパイラ]]のこと。通常の[[コンパイル|コンパイラ]]はコンパイルを実行前に事前に行い、これをJITと対比して[[事前コンパイラ]] (Ahead-Of-Timeコンパイラ、AOTコンパイラ)と呼ぶ。
==概要==
ソフトウェアを構成するモジュール、クラス、関数などのある単位のコードがまさに実行されるその時に、コンパイルすることから「Just In Time」と名付けられた。[[動的コンパイル]]という用語は、実行時に機械語を生成するというより広い意味であり、JITコンパイルは動的コンパイルの一種である。
JIT方式の主な利点は、[[オペレーティングシステム]]や[[CPU]]に依存しないソースコードや中間コードでソフトウェアを配布できる事である。これはその都度コードを解釈しながら実行する解釈実行方式でも可能であるが、JITではコンパイルを行いメモリ上に生成した[[機械語]]が実行されるため、実行速度を向上させることができる。
事前コンパイルと比べ、JITではコンパイル時間がプログラム実行時間の[[オーバーヘッド]]となる。また、事前コンパイルで可能な高度で時間のかかる最適化を行えないといった欠点がある。
<!--
「インタプリタ方式がその都度コードを解釈しながら実行する」というのが、この文のこの場所で勝手に定義しただけであり、そのような共通理解はどこにもありません。
例えばYARV以前のcrubyは、まずソースコードを全部読んで、Node型(struct RNode)という内部構造に変換する、という方式ですが(そして、cruby開発者のジャーゴンでは、それを「コンパイル」と呼んでいましたが)、「Rubyはインタプリタだから遅い」という悪口をずっと言われ続けていた、という事実が示すように、ここで書かれているような、「インタプリタ方式がその都度コードを解釈しながら実行する」などという共通理解はどこにもありません。
反論:上記の異論は理解しますが、Googleでインタプリタ方式と検索すると、その都度コードを解釈して実行するというサイトがいくつも出てきます。共通理解はどこにもないというのは言い過ぎのように考えます。
--><!--
==インタプリタ方式との比較==
インタプリタ方式との違いは、インタプリタ方式がその都度コードを解釈しながら実行するのに対して、JIT方式は機械語に変換したものを実行することである。とはいえ、インタプリタ方式であっても究極的にはCPUが実行しているのは機械語である。そのためインタプリタ方式とJIT方式の本質的な違いは機械語に変換する単位の大きさであると言える。JIT方式ではモジュールやクラスといった比較的大きい単位で機械語に変換しているのに対し、インタプリタ方式では行ごと、ステートメントごとなどのごく小さい単位となる。
また、インタプリタ方式と同様に実行時に[[Java仮想マシン]]や[[共通言語ランタイム]]のようなランタイム環境を必要とする。
インタプリタ方式と比較すると性能面では以下のような差が出てくる
* 機械語に変換されるため、コンパイル後の実行速度はインタプリタ方式の数倍の性能となる
* モジュールやクラス、関数のロード時にコンパイルが行われるため、プログラムの起動には時間がかかる
* 一度コンパイルしたコードを保持するために、より多くのメモリ容量を必要とする
-->
==利点==
上記以外にもJITコンパイルは実行環境を知った上でそれに応じた生成コードの選択や最適化が可能という利点もある。
一例として、[[インテル]]の[[x86]] CPUの場合、[[IA-32]]アーキテクチャの範囲内でCPU世代毎に命令が拡張されてきたが、アプリケーションの後方互換性を保持しようとすると、[[Intel 80386|80386]]と互換の命令しか使うことができない。例えば、[[MMX Pentium]]の[[MMX]]命令は80386や[[Pentium]]では実行できない。JIT方式ではCPUがMMXをサポートしているならMMX命令を使ったコードを生成し、そうでなければ多少効率の悪いPentiumの命令範囲内で実行する、ということができる。
また、実行環境の[[キャッシュ (コンピュータシステム)|キャッシュ]]や[[主記憶装置|メモリ]]のサイズ、速度特性などは実行時にならないとわからないが、JITコンパイルでは実行中のCPUやメモリの情報を知ることができる。このためそれに応じたコードを生成し、事前コンパイルよりも優れたコードを生成できる可能性がある。
さらに、[[オブジェクト指向プログラミング|オブジェクト指向言語]]では仮想メソッドの呼び出しは仮想関数表を経由した間接呼び出しになるが、動的コンパイルでは、その[[メソッド (計算機科学)|メソッド]]をオーバーライド定義したサブクラスが存在しない限り、間接呼び出しを[[名前束縛|静的束縛]]として呼び出したり、インライン展開することができる(そのメソッドをオーバーライドするサブクラスが動的にロードされる可能性があるが、その場合はこのコンパイルされたメソッドは最適化戻し (deoptimize) される必要がある)。
==適応的コンパイル (Adaptive Compilation)==
上記のJITコンパイラの短所を補う一方式として適応的コンパイルがある。これは、起動当初はインタプリタとして実行し、繰り返し実行されるコードを検出([[性能解析|プロファイリング]])、その部分のみをコンパイルするというものである。コードが使われた時にすぐにコンパイルするのではなく、何回か呼ばれた後に遅らせてコンパイルすることを[[遅延コンパイル]] (Lazy Compilation)と呼ぶ。
プログラム実行時間の大半はごく一部のコードに費やされるという経験則がある - 典型的に実行時間の80%は20%のコードに費やされる、[[パレートの法則|80-20の法則]]。適応的コンパイルはこのようなコードのみをコンパイルすることで、起動時のオーバーヘッドや利用メモリ増大を抑えつつ、実行速度を向上することができる。この適応的最適化 (Adaptive Optimization) は、静的コンパイルでは得られない情報を元に最適化するため、むしろパフォーマンスが上がる場合もある。
数百件以内といった少量レコードを処理するバッチジョブが、一日に何百本、何千本も走る場合は注意が必要である。JITコンパイルを用いた場合、適応的コンパイルをしてさえも、ジョブの初めに共通的なクラスのコンパイル処理が何百回と行われる。処理件数が少ないので、クラス群の多くはコンパイル効果が出る前に、あるいはコンパイルさえされないうちにジョブが終わってしまう。その結果、ユーザロジックよりこうした[[オーバヘッド]]にCPUなどの資源が消費されてしまう。処理件数によってJIT/AOTの有利不利が変わるが、使い分けるのは難しい。
また、{{独自研究範囲|(Javaについていえば)AOTコンパイラを通常適用しにくい|date=2018年9月1日 (土) 13:04 (UTC)}}。これらの理由で、{{独自研究範囲|性能面ではマイナスな場面でも一般的な|date=2018年9月1日 (土) 13:04 (UTC)}}JITコンパイラを使用していることがある。長時間のバッチジョブおよびオンラインでは、JITコンパイラ、{{独自研究範囲|特に適応的コンパイルが概してフィットしている|date=2018年9月1日 (土) 13:04 (UTC)}}。適応的コンパイルの最適化のために、何回実行されたらコンパイルするといったパラメタが用意されているものもある{{要出典|date=2018年9月1日 (土) 13:04 (UTC)}}。{{独自研究範囲|パラメタチューニングは万能ではないとしても重要である|date=2018年9月1日 (土) 13:04 (UTC)}}。
==応用==
JITはJavaの普及に伴い広範囲に使われるようになったが、Javaの[[HotSpot]]技術は[[Self]]言語の[[動的コンパイル]]技術研究に基づいている。それに先立つ商用[[Smalltalk]]でもJITコンパイル技術は確立されていた。
[[Crusoe]]でx86コードからCrusoe [[VLIW]]命令への変換にも用いられる。適応的コンパイルは[[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション|DEC社]]による[[FX!32]]でも用いられていた。
[[.NET Framework|.NETプラットフォーム]]も当初からJITを前提に設計されている。
==JavaのJITコンパイラ==
[[シマンテック|Symantec社]]の[[symjit]]および[[ボーランド|Borland社]]のJITコンパイラは初期の主要なJITコンパイラであった。
[[サン・マイクロシステムズ|Sun Microsystems]]の[[HotSpot]]コンパイラは本格的に適応的コンパイル方式を採用した。Hotspot以降はJITコンパイラ部分のインタフェースが規定されており、JITコンパイルエンジン部分を差し替えることが可能になった。
[[IBM]]のIBM JDK、[[BEAシステムズ|BEA]]のJRockitはいずれも独自の適応的コンパイルを行う。後者は特にx86に特化して実行効率を高めている。
学術的分野では、首藤によるShuJITや、[[富士通研究所]]と[[東京工業大学]]によるリフレクション機能を扱うOpenJITなどがある。
==JavaScriptのJITコンパイラ==
近年の主要な[[ウェブブラウザ]]は[[JavaScript]]のエンジンにJITコンパイラを搭載し、高速処理できるようになっている。
[[Internet Explorer]] 9、[[Mozilla Firefox]] 3.5、[[Google Chrome]] 1、[[Safari]] 4、[[Opera]] 10.50、[[Opera Mobile]] 10.1以降のウェブブラウザに搭載されている。[[NetFront Browser]] 4.1 には搭載されていない。
実行時に変数に代入された値の統計データから変数に型を割り振ることでJITコンパイルし、高速にJavaScriptを処理できるようになった<ref>[http://hacks.mozilla.org/2009/07/tracemonkey-overview/ an overview of TraceMonkey ✩ hacks.mozilla.org]</ref>。Google Chromeの[[V8 (JavaScriptエンジン)|V8]]などでは、[[インタプリタ]]を使わずに最初からJITコンパイルし、変数の型は実行時に随時割り振る。Firefox 3.5では事前に一度インタプリタで実行して、その情報から型を割り振りながらJITコンパイルするタイプがある。どちらのタイプであっても型が安定している場合は高速に実行できる。
==関連項目==
*[[動的コンパイル]]
*[[トレーシング実行時コンパイル]]
*[[PyPy]] – プログラミング言語 [[Python]] の実装の1つ
*[[JAX]] – [[Google]] の開発する[[ディープラーニング]]向けライブラリ
==参照==
<references />
== 外部リンク ==
* John Aycock, [http://pharos.cpsc.ucalgary.ca/Dienst/UI/2.0/Describe/ncstrl.ucalgary_cs/2001-689-12 A brief history of just-in-time]
[[Category:コンパイラ|しやすといんたいむこんはいるほうしき]] | null | 2023-01-08T11:48:42Z | false | false | false | [
"Template:独自研究範囲",
"Template:要出典",
"Template:出典の明記",
"Template:プログラムの実行",
"Template:En"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E8%A1%8C%E6%99%82%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%A4%E3%83%A9 |
9,319 | チューリッヒ大学 | チューリッヒ大学(ちゅーりっひだいがく、英語: University of Zurich、公用語表記: Universität Zürich)は、スイスチューリヒに本部を置くスイスの総合大学。1525年創立、1833年大学設置。 教会・王室の後援なしに民主主義国家により設置された(1833年)ヨーロッパ最初の大学。隣にチューリッヒ工科大学がある。現在まで、12人の同大学の学者がノーベル賞を受賞。
1525年、フルドリッヒ・ツヴィングリによって設立された神学校を基にしている。
2021年のQS世界大学ランキングにおいて、世界第69位、スイスでは第3位だった。2021年のTHE世界大学ランキングにおいて、世界第73位、スイスでは第3位だった。2021年の世界大学学術ランキングにおいて、世界第54位、スイスでは第2位だった。経済学部はドイツ語圏の大学の中では最高の評価を受けている。今までに、24人の連邦大統領 (スイス)を輩出している。 | [
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"title": "評価"
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] | チューリッヒ大学は、スイスチューリヒに本部を置くスイスの総合大学。1525年創立、1833年大学設置。
教会・王室の後援なしに民主主義国家により設置された(1833年)ヨーロッパ最初の大学。隣にチューリッヒ工科大学がある。現在まで、12人の同大学の学者がノーベル賞を受賞。 | {{大学
| 国 = スイス
| 大学名 = チューリッヒ大学
| ふりがな =ちゅーりっひだいがく
| 英称 = University of Zurich
| 公用語表記 = Universität Zürich
| 大学の略称 =
| 画像 =Zürich - Universität Zürich IMG 1204.JPG
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| 画像説明 =
| 大学設置年 = 1833年
| 創立年 = 1525年
| 学校種別 = 総合
| 設置者 = [[フルドリッヒ・ツヴィングリ]]
| 本部所在地 = [[スイス]][[チューリヒ]]
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| ウェブサイト = http://www.uzh.ch/
| logo = [[File:Universität Zürich logo.svg|250px]]
}}
教会・王室の後援なしに民主主義国家により設置された(1833年)ヨーロッパ最初の大学<ref name=uzh>[https://www.uzh.ch/cmsssl/en/about/portrait.html Profile History/University of Zurich]</ref>。隣に[[チューリッヒ工科大学]]がある。現在まで、12人の同大学の学者が[[ノーベル賞]]を受賞<ref>[https://www.uzh.ch/cmsssl/en/about/portrait.html Nobel Prizes/University of Zurich]</ref>。
==沿革==
1525年、[[フルドリッヒ・ツヴィングリ]]によって設立された[[神学校]]を基にしている。
== 学部 ==
* 理学部(数学・自然科学部、Mathematisch-naturwissenschaftliche Fakultät)
* 医学部(Medizinische Fakultät)
* 哲学部(Philosophische Fakultät)
* 法学部(Rechtswissenschaftliche Fakultä)
* 神学部(Theologische Fakultät)
* 獣医学部(Vetsuisse-Fakultät)
* 商学・経済学部(Wirtschaftswissenschaftliche Fakultät)
== 人物 ==
=== ノーベル賞受賞者 ===
* [[ロルフ・ツィンカーナーゲル]]、1996年ノーベル医学賞受賞(オーストラリア国立大学)
* [[カール・アレクサンダー・ミュラー]]、1987年ノーベル物理学賞受賞(IBM)
* [[ウォルター・ルドルフ・ヘス]]、1949年ノーベル医学賞受賞
* [[レオポルト・ルジチカ]]、1939年ノーベル化学賞受賞
* [[ポール・カーラー]]、1937年ノーベル化学賞受賞
* [[ピーター・デバイ]]、1936年ノーベル化学賞受賞
* [[エルヴィン・シュレーディンガー]]、1933年ノーベル物理学賞受賞
* [[アルベルト・アインシュタイン]]、1921年ノーベル物理学賞受賞
* [[マックス・フォン・ラウエ]]、1914年ノーベル物理学賞受賞
* [[アルフレート・ヴェルナー]]、1913年ノーベル化学賞受賞
* [[テオドール・モムゼン]]、1902年ノーベル文学賞受賞者
* [[ヴィルヘルム・コンラート・レントゲン]]、1901年第1回ノーベル物理学賞受賞者
== 評価 ==
2021年の[[QS世界大学ランキング]]において、世界第69位、スイスでは第3位だった<ref>{{Cite web|title=QS World University Rankings 2021|url=https://www.topuniversities.com/university-rankings/world-university-rankings/2021|website=Top Universities|accessdate=2021-08-17|language=en}}</ref>。2021年の[[THE世界大学ランキング]]において、世界第73位、スイスでは第3位だった<ref>{{Cite web|title=World University Rankings|url=https://www.timeshighereducation.com/world-university-rankings/2021/world-ranking|website=Times Higher Education (THE)|date=2020-08-25|accessdate=2021-08-17|language=en}}</ref>。2021年の[[世界大学学術ランキング]]において、世界第54位、スイスでは第2位だった<ref>{{Cite web|title=ShanghaiRanking's Academic Ranking of World Universities|url=https://www.shanghairanking.com/rankings/arwu/2021|website=www.shanghairanking.com|accessdate=2021-08-17}}</ref>。経済学部はドイツ語圏の大学の中では最高の評価を受けている<ref>{{Cite web|title=Handelsblatt Ranking|url=https://www.econ.uzh.ch/en/department/rankings/handelsblatt.html|website=www.econ.uzh.ch|accessdate=2021-08-17|language=en}}</ref>。今までに、24人の[[連邦大統領 (スイス)]]を輩出している。
== 脚注 ==
<references />
== 外部リンク ==
*[http://www.uzh.ch/ Universität Zürich]{{de icon}}
*[http://www.uzh.ch/index_en.html University of Zurich]{{en icon}}
{{univ-stub}}
{{ヨーロッパ研究大学連盟}}
{{authority control}}
{{DEFAULTSORT:ちゆりつひたいかく}}
[[Category:チューリッヒの大学]]
[[Category:1833年設立]] | null | 2022-06-29T19:45:15Z | false | false | false | [
"Template:大学",
"Template:Cite web",
"Template:De icon",
"Template:En icon",
"Template:Univ-stub",
"Template:ヨーロッパ研究大学連盟",
"Template:Authority control"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%92%E5%A4%A7%E5%AD%A6 |
9,320 | ダービーステークス | ダービーステークス(Derby Stakes)は、イギリスのエプソム競馬場(芝、1マイル4ハロン6ヤード、約2420メートル)で行われる競馬の競走である。
他国のダービーと区別するために、欧米では会場の競馬場にちなみ、特にエプソムダービー(Epsom Derby)という呼称も多く見られる。日本のメディア、特にテレビなどではイギリスダービーと呼ばれることもある。
1776年にイギリス最古のクラシック競走・セントレジャーステークスの盛大さを見たダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリーとイギリスジョッキークラブ会長のチャールズ・バンベリー準男爵、そしてスタンリーの義叔父であるジョン・バーゴイン将軍の3人によって、1779年に創設されていたオークスステークスの牡馬版として創設された。
この競馬競走名の由来については、1780年に創始者のダービー伯爵とバンベリー準男爵の間でいずれの名を冠するかをコイントスによって決定したとの逸話がある。ダービー伯爵は創始者のバンベリー準男爵を記念して付けたかったがバンベリー準男爵は片田舎のレースに自分の名を冠されることをよしとせず、双方譲り合ったために最後はくじで決めることになったという。
出走条件は3歳限定で、繁殖馬の選定のために行われるので騸馬の出走はできない(かつては出走できた時期があったが、優勝したことはない)。1歳時に出走登録を済ませていない馬は、追加登録料を支払わないと出走できない。ダービートライアルステークスなど本競走の試走的な位置付けの競走も存在するが、日本の中央競馬のトライアル競走のようなそれらの競走での上位入線による優先出走権はない。
距離は創設から3年間は1マイルの直線コースで行われ2代目・3代目・現在のコースになると1マイル4ハロン(約2400メートル)に延長されたが1991年に計測された結果、10ヤード程度ほど長いことが判明した。尚、現在の伝統のあるダービーコースは1872年から施行される様になった4代目のコースにあたる。
なおウィンストン・チャーチル(第61・63代イギリス首相)が「ダービー馬のオーナーになることは一国の宰相になることより難しい」と述べたというエピソードがあるが、これは後世の創作であることが確認されている。しかし、それは巷間では今なお広く信じられており、ダービーに勝つことの難しさとその名誉を物語っている。なおイギリスでは第5代ローズベリー伯爵アーチボルド・プリムローズが実際に首相在任期間中に2頭のダービー馬のオーナーになったことがあるが、そのことを自慢するスピーチを行ったところ首相の地位と競馬の一競走の優勝馬の所有者の地位を同列に扱ったことを不見識と非難された。
現在、世界各国で本競走を模範としてダービーの名を冠した競走が開催されている。詳しくはダービー (競馬)を参照。 | [
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"text": "他国のダービーと区別するために、欧米では会場の競馬場にちなみ、特にエプソムダービー(Epsom Derby)という呼称も多く見られる。日本のメディア、特にテレビなどではイギリスダービーと呼ばれることもある。",
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] | ダービーステークスは、イギリスのエプソム競馬場(芝、1マイル4ハロン6ヤード、約2420メートル)で行われる競馬の競走である。 他国のダービーと区別するために、欧米では会場の競馬場にちなみ、特にエプソムダービーという呼称も多く見られる。日本のメディア、特にテレビなどではイギリスダービーと呼ばれることもある。 1776年にイギリス最古のクラシック競走・セントレジャーステークスの盛大さを見たダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリーとイギリスジョッキークラブ会長のチャールズ・バンベリー準男爵、そしてスタンリーの義叔父であるジョン・バーゴイン将軍の3人によって、1779年に創設されていたオークスステークスの牡馬版として創設された。 | {{出典の明記|date=2015年8月}}
{{競馬の競走
|馬場 = 芝
|競走名 = ダービーステークス<br />''{{Lang|en|Derby Stakes}}''
|画像 = [[File:Camelot at 2012 Epsom Derby.jpg|200px]]
|画像説明 = 2012年のダービーステークス
|主催者 =
|開催国 = {{Flagicon|UK}}[[イギリスの競馬|イギリス]]
|年次 = 2017
|開催地 = [[エプソム競馬場]]
|施行時期 = 6月第1土曜
|格付け = G1
|距離 = 12[[ハロン (単位)|f]]6[[ヤード|y]](約2420[[メートル|m]])
|条件 = [[サラブレッド]]3歳[[牡馬]]・[[牝馬]]
|1着賞金 =
|賞金総額 = 1,625,000[[スターリング・ポンド|英ポンド]]<ref name="IFHA_2014">[http://www.horseracingintfed.com/default.asp?section=Racing&area=8&racepid=56952 IFHA Investec Derby] 2014年12月4日閲覧。</ref>
|負担重量 = 牡馬126[[ポンド (質量)|ポンド]](約57.2[[キログラム|kg]])<br />牝馬123ポンド(約55.8kg)
|創設 = [[1780年]]5月4日
}}
'''ダービーステークス'''({{Lang|en|Derby Stakes}})は、[[イギリス]]の[[エプソム競馬場]]([[芝]]、1[[マイル]]4[[ハロン (単位)|ハロン]]6[[ヤード]]、約2420[[メートル]])で行われる[[競馬]]の競走である。
他国のダービーと区別するために、欧米では会場の競馬場にちなみ、特に'''エプソムダービー'''({{Lang|en|Epsom Derby}})という呼称も多く見られる。日本のメディア、特にテレビなどでは'''イギリスダービー、英ダービー'''と呼ばれることもある。
[[1776年]]にイギリス最古の[[クラシック (競馬)|クラシック]]競走・[[セントレジャーステークス]]の盛大さを見た[[ダービー伯爵]][[エドワード・スミス=スタンリー (第12代ダービー伯爵)|エドワード・スミス=スタンリー]]とイギリスジョッキークラブ会長の[[チャールズ・バンベリー (第6代準男爵)|チャールズ・バンベリー]][[準男爵]]、そしてスタンリーの義叔父である[[ジョン・バーゴイン]]将軍の3人によって、1779年に創設されていた[[オークスステークス]]の牡馬版として創設された。
== 概要 ==
この競馬競走名の由来については、1780年に創始者のダービー伯爵とバンベリー準男爵の間でいずれの名を冠するかを[[コイントス]]によって決定したとの逸話がある<ref>[http://sankei.jp.msn.com/life/news/120524/art12052408150004-n1.htm 【世界史の遺風】(8)ダービー卿-馬で名を残した英国貴族](MSN産経ニュース 2012年5月24日)</ref>。ダービー伯爵は創始者のバンベリー準男爵を記念して付けたかったがバンベリー準男爵は片田舎のレースに自分の名を冠されることをよしとせず、双方譲り合ったために最後は[[くじ]]で決めることになったという<ref group="注">現在、バンベリー準男爵の名を冠した[[バンベリーカップ]][[:en:Bunbury Cup|en]]と言う競走もあり、ニューマーケット競馬場で行われている。</ref>。
出走条件は3歳限定で、繁殖馬の選定のために行われるので[[せん馬|騸馬]]の出走はできない(かつては出走できた時期があったが、優勝したことはない)。1歳時に出走登録を済ませていない馬は、追加登録料を支払わないと出走できない。[[ダービートライアルステークス]]など本競走の試走的な位置付けの競走も存在するが、日本の[[中央競馬]]の[[トライアル競走]]のようなそれらの競走での上位入線による優先出走権はない。
距離は創設から3年間は1マイルの直線コースで行われ2代目・3代目・現在のコースになると1マイル4ハロン(約2400メートル)に延長されたが1991年に計測された結果、10ヤード程度ほど長いことが判明した。尚、現在の伝統のあるダービーコースは1872年から施行される様になった4代目のコースにあたる。
なお[[ウィンストン・チャーチル]](第61・63代[[イギリスの首相|イギリス首相]])が'''「ダービー馬のオーナーになることは一国の宰相になることより難しい」'''と述べたというエピソードがあるが、これは'''後世の創作'''であることが確認されている。しかし、それは巷間では今なお広く信じられており、ダービーに勝つことの難しさとその名誉を物語っている。なおイギリスでは[[アーチボルド・プリムローズ (第5代ローズベリー伯)|第5代ローズベリー伯爵アーチボルド・プリムローズ]]が実際に首相在任期間中に2頭のダービー馬のオーナーになったことがあるが、そのことを自慢するスピーチを行ったところ首相の地位と競馬の一競走の優勝馬の所有者の地位を同列に扱ったことを不見識と非難された<ref>原田俊治『世界の名馬』(サラブレッド血統センター)、209頁。</ref>。
現在、世界各国で本競走を模範としてダービーの名を冠した競走が開催されている。詳しくは[[ダービー (競馬)]]を参照。
== 歴史 ==
[[ファイル:Jean Louis Théodore Géricault 001.jpg|thumb|225px|1821年のダービーステークス]]
* 1780年 創設、優勝馬はバンベリー卿の所有馬・ダイオメド(Diomed)で1065ポンド15シリングの賞金を獲得
* 1787年 サーピーターティーズル(Sir Peter Teazle)がダービー卿の所有馬として初めて優勝
* 1797年 [[コルトバイフィジェット|馬名未登録馬]]が優勝
* 1784年 施行距離を1マイルから1マイル4ハロンに延長(2代目ダービーコース)
* 1828年 キャドランド(Cadland)とザカーネル(The Colonel)が1着同着、後日に決勝レースを施行しキャドランドが勝利
* 1844年 [[第65回ダービーステークス|ランニングレイン事件]]。1着入線のランニングレイン(Running Rein)が、実は別の4歳馬が替え玉として出走していたことが発覚し失格、2着馬の[[オーランド (競走馬)|オーランド]](Orlando)が繰上げ優勝。このほかこの競走ではもう1件出走馬の替え玉があったこと、1番人気・2番人気が2頭とも八百長により故意に敗れていたことが露見した<ref name="バーネット27-35"/>。
* 1846年 競走タイムの計測を施行
* 1848年 施行コースを変更する(3代目ダービーコース)
* 1872年 施行距離を1マイル4ハロン29ヤードに延長(現在のコース)
* 1884年 ハーヴェスター(Harvester)とセントガティエン(St Gatien)がダービー史上初の同着優勝
* 1901年 競走タイムの計測を1秒表示から1/5秒表示に変更
* 1909年 イギリス国王・[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]の所有馬・ミノル(Minoru)が優勝
* 1913年
** 「確定(all right)」サインが出た後に異議が申し立てられ、審議の結果、1番人気で1位で入線した馬が失格となり、単勝101倍の馬が繰り上がり優勝となった{{refnest|group="注"|4頭がもつれあってゴール、決勝審判は1番人気のクラガノール(Craganour)が1着、アタマ差の2着に単勝101倍の大穴アボイヤール(Aboyeur)、クビ差の3着に2000ギニー優勝馬のルーヴォイス(Louvois)と判定した。一度は確定(all right)を知らせる旗があがったが、主席裁決委員が異議を申し出て審議が行われた。審議の結果、ゴール直前にクラガノールがアボイヤールの妨害を行ったとして、判定が覆ってクラガノールは失格、アボイヤールが優勝と裁定された。一度確定サインが出たので、既にクラガノール優勝の馬券の払い戻しを始めていたブックメーカーもいた。これ以降、イギリスの競馬界は「確定」の用語を使わなくなった。なおこの主席裁決委員はクラガノールの生産者であった。当時の観客は、裁定とは逆に、ゴール前の混戦ではアボイヤールが加害馬でクラガノールが被害馬であると考えていたという。この年の2000ギニーでは、クラガノールとルーヴォイスが内外大きく離れてゴールに入り、決勝審判によってルーヴォイス1着と判定された。しかし実際には反対側にいたクラガノールのほうが1馬身前にいたのではないかとの疑いがある(当時はまだ写真判定導入前だった)。クラガノールの馬主は、前年に沈没して1500名あまりの死者を出した[[タイタニック (客船)|タイタニック号]]の社主の一族で、同社の[[ジョセフ・ブルース・イズメイ|ブルース・イズメイ]]会長はタイタニック号に乗り合わせていたが自分は助かっていた。クラガノールの馬主はその実弟バウアー・イズメイであり、当時この一族はイギリス中から白眼視されていた。2000ギニーとダービーの主席裁決委員は同一人物であり、馬主であるバウアーはこの主席裁決委員の義理の妹と不倫をしており、主席裁決委員も個人的にバウアーを嫌悪していたという。また、この時の裁決委員は、規定上の定数3名に足りず、2名しかいなかったことがわかっている<ref name="バーネット83-88"/><ref name="ジョーンズ146-151"/><ref name="Mortimer2"/>。}}。既に当初の発表に基づく優勝の馬券の払い戻しを始めていたブックメーカーもいた。これ以降、イギリスの競馬界は「確定」の用語を使わなくなった<ref name="バーネット83-88"/><ref name="ジョーンズ146-151"/><ref name="Mortimer2"/>。
** 競走中、婦人参政権活動家の女性[[エミリー・デイヴィソン]]{{refnest|group="注"|[[エミリー・デイヴィソン]]は、[[オックスフォード大学]]を卒業したあと、婦人参政権の活動家となって示威行為を繰り返し、7年間に9回投獄されている。罪状のなかには、ロンドンの路上の電信柱への放火、議会への侵入などがある。監獄ではハンガーストライキを行って3回出獄している<ref name="バーネット83-88"/><ref name="ジョーンズ146-151"/>。}}が最終コーナー付近に侵入し、たまたま通りかかったイギリス国王・[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]の所有馬・アンマー(Anmer)の頭絡を掴もうとしてアンマーを転倒させた。騎手のハーバート・ジョーンズは落馬して肋骨骨折の重傷、アンマーは空馬のままゴールに入線した。蹴られ転倒に巻き込まれたデイヴィソンは意識不明で病院に運ばれ、4日後に頭蓋骨骨折で死亡した<ref name="バーネット83-88"/><ref name="英国競馬事典55"/>{{refnest|group="注"|[[エミリー・デイヴィソン]]が加害した馬が国王の所有馬であったために、当時、彼女は王室を狙って注目を集めようとしたのだろうとみなされた。しかし、もとから彼女と行動をともにしていた一部の活動家を除いて、当時の世間の多くはその行為を賞賛しなかった。エミリーは実際には先頭を走っていたアボイヤールに近づこうとしたがうまくいかず、最後尾から3頭目を進んできたアンマーに接触している。今では、彼女には馬の見分けはつかず、衝突した馬がたまたま王室の馬だったのだろうと考えられている。また、彼女は帰りの切符などを所持していたことから、自身の命を賭すつもりはなく、意図せず誤って馬に衝突したものと今では考えられている<ref name="バーネット83-88"/>。ただし彼女は遺書などを携えていなかったので、真意がどうであったかはわかっていない<ref name="ジョーンズ146-151"/><ref name="バーネット83-88"/>。}}。
** 3位入線のデイコメットが審判に見逃され着外となった{{要出典|date=2017年6月}}。
** 上記により、4位ルヴォア、5位グレートスポーツもそれぞれ2着、3着とされた{{要出典|date=2017年6月}}。
* 1915年 - 1918年 [[第一次世界大戦]]により[[ニューマーケット競馬場]]で'''ニューダービー'''(New Derby Stakes)の名称で施行距離1マイル4ハロンにて代替開催
* 1921年 施行距離を1マイル4ハロンに短縮
* 1927年 この年よりラジオ中継始まる。この時が世界初の競馬のラジオ中継となる
* 1934年 施行距離を1マイル4ハロン5ヤードに延長
* 1938年 施行距離を1マイル4ハロンに短縮
* 1940年 - 1945年 [[第二次世界大戦]]によりニューマーケット競馬場で代替開催
* 1961年 競走タイムの計測を1/5秒表示から1/10秒表示に変更
* 1964年 競走タイムの計測を1/10秒表示から1/100秒表示に変更
* 1991年 施行距離を実計測、1マイル4ハロン10ヤードと判明し表記を変更
* 2017年 コース計測方法の改正により再計測を行い、1マイル4ハロン6ヤードに変更<ref>[http://www.britishhorseracing.com/resource-centre/racecourse/ CHANGES TO FLAT RACE DISTANCE MEASUREMENTS] - British Horseracing Authority、2017年6月25日閲覧</ref>
*2020年 新型コロナウイルス感染拡大の影響で7月に順延開催
*2021年 イギリスのオンライン中古車販売プラットフォーム「Cazoo」がスポンサーとなる<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=英ダービー、新スポンサーが決定|url=https://world.jra-van.jp/news/N0008735/|website=JRA-VAN ver.World|accessdate=2021-04-02|language=ja}}</ref>。
*2023年 [[動物愛護団体]]の関係者が馬場に進入。計画的な犯罪行為に関与したとして31人が逮捕される<ref>{{Cite web|和書|title=オーギュストロダン制覇の英ダービーに乱入者、逮捕者31人に {{!}} JRA-VAN World - 海外競馬情報サイト |url=https://world.jra-van.jp/news/N0012999/ |website=JRA-VAN Ver.World - 海外競馬 |access-date=2023-07-03 |language=ja}}</ref>。
=== 歴代スポンサー ===
*1984年 - 1994年 [[エナジャイザー|エバレディ]](Ever Ready)<ref name=":0" />
*1995年 - 2008年 [[ボーダフォン]](Vodafone)<ref name=":0" />
*2009年 - 2020年 インベステック(Investec)<ref>{{Cite web|和書|title=英国ダービー、インベステック社との長期契約で最高額レースに返り咲く(イギリス)[開催・運営] - 海外競馬ニュース - 公益財団法人 ジャパン・スタッドブック・インターナショナル (JAIRS)|url=http://jairs-cs2.coresoft-net.co.jp/sp/contents/newsprot/2012/23/1.html|website=jairs-cs2.coresoft-net.co.jp|accessdate=2021-04-02}}</ref>
*2021年・2022年 カズー(Cazoo)<ref name=":0" />
*2023年 - ベットフレッド(Betfred)<ref>{{Cite news|url=https://world.jra-van.jp/news_amp/N0012695/|title= ダービーと英オークス、ブックメーカーのベットフレッドが新スポンサーに|accessdate=2023-06-07}}</ref>
=== 歴代優勝馬 ===
{| class="wikitable" style="font-size:95%"
!回数!!施行日!!調教国・優勝馬!!style="white-space:nowrap"|性齢!!タイム!!優勝騎手!!管理調教師!!馬主
|-
|style="text-align:center"|第1回||1780年5月4日||[[ダイオメド|Diomed]]||牡3||||S.Arnull||||サー・[[チャールズ・バンベリー (第6代準男爵)|チャールズ・バンベリー]] [[:en:Sir Charles Bunbury, 6th Baronet|en]]
|-
|style="text-align:center"|第2回||style="white-space:nowrap"|1781年5月24日||[[ヤングエクリプス|Young Eclipse]]||牡3||||C.Hindley||||[[デニス・オケリー]]
|-
|style="text-align:center"|第3回||1782年5月9日||[[アサシン (競走馬)|Assassin]]||牡3||||S.Arnull||F.Neale||[[ジョージ・ウィンダム (第3代エグレモント伯爵)|第3代エグレモント伯爵]] [[:en:George Wyndham, 3rd Earl of Egremont|en]]
|-
|style="text-align:center"|第4回||1783年5月29日||[[サルトラム|Saltram]]||牡3||||C.Hindley||F.Neale||J.Parker
|-
|style="text-align:center"|第5回||1784年5月20日||[[サージェント (競走馬)|Serjeant]]||牡3||||J.Arnull||||C.Khan<!--英語版ではデニス・オケリー-->
|-
|style="text-align:center"|第6回||1785年5月5日||[[エイムウェル|Aimwell]]||牡3||||C.Hindley||J.Pratt||T.Panton<!--英語版では[[ウィリアム・フォーテスキュー (初代クラモント伯爵)|初代クラモント伯爵]] [[:en:William Fortescue, 1st Earl of Clermont|en]]-->
|-
|style="text-align:center"|第7回||1786年5月31日||[[ノーブル (競走馬)|Noble]]||牡3||||J.White||F.Neale||Lord Clemont<!--英語版では[[トミー・パントン]]-->
|-
|style="text-align:center"|第8回||1787年5月24日||[[サーピーターティーズル|Sir Peter Teazle]]||牡3||||S.Arnull||||[[エドワード・スミス=スタンリー (第12代ダービー伯爵)|第12代ダービー伯爵]]
|-
|style="text-align:center"|第9回||1788年5月8日||[[サートーマス|Sir Thomas]]||牡3||||W.South||F.Neale||[[ジョージ4世 (イギリス王)|ウェールズ公ジョージ王子]]
|-
|style="text-align:center"|第10回||1789年5月28日||[[スカイスクレーパー (競走馬)|Skyscraper]]||牡3||||S.Chifney||M.Stephenson||[[フランシス・ラッセル (第5代ベッドフォード公)|第5代ベドフォード公爵]] [[:en:Francis Russell, 5th Duke of Bedford|en]]
|-
|style="text-align:center"|第11回||1790年5月20日||[[ラダマントゥス|Rhadamanthus]]||牡3||||J.Arnull||J.Pratt||[[リチャード・グロヴナー (初代グロヴナー伯爵)|初代グロヴナー伯爵]] [[:en:Richard Grosvenor, 1st Earl Grosvenor|en]]
|-
|style="text-align:center"|第12回||1791年6月9日||[[イーガー|Eager]]||牡3||||style="white-space:nowrap"|M.Stephenson||style="white-space:nowrap"|M.Stephenson||第5代ベドフォード公爵
|-
|style="text-align:center"|第13回||1792年5月24日||[[ジョンブル|John Bull]]||牡3||||F.Buckle||J.Pratt||初代グロヴナー伯爵
|-
|style="text-align:center"|第14回||1793年5月16日||[[ワクシー|Waxy]]||牡3||||B.Clift||R.Robson||サー・[[ファーディナンド・プール]]
|-
|style="text-align:center"|第15回||1794年6月5日||[[ディーダラス|Daedalus]]||牡3||||F.Buckle||J.Pratt||初代グロヴナー伯爵
|-
|style="text-align:center"|第16回||1795年5月21日||[[スプレッドイーグル (競走馬)|Spread Eagle]]||牡3||||A.Wheatley||R.Prince||サー・[[フランク・スタンディッシュ]]
|-
|style="text-align:center"|第17回||1796年5月12日||[[ディデロット|Didelot]]||牡3||||J.Arnull||R.Prince||サー・フランク・スタンディッシュ
|-
|style="text-align:center"|第18回||1797年6月1日||[[コルトバイフィジェット|(Unnamed)]]||牡3||||J.Singleton||M.Stephenson||第5代ベドフォード公爵
|-
|style="text-align:center"|第19回||1798年5月24日||[[サーハリー|Sir Harry]]||牡3||||S.Arnull||F.Neale||[[ジョゼフ・クックソン]]
|-
|style="text-align:center"|第20回||1799年5月9日||[[アークデューク (競走馬)|Archduke]]||牡3||||J.Arnull||R.Prince||サー・フランク・スタンディッシュ
|-
|style="text-align:center"|第21回||1800年5月29日||[[チャンピオン (競走馬)|Champion]]||牡3||||B.Clift||T.Perren||クリストファー・ウィルソン
|-
|style="text-align:center"|第22回||1801年5月21日||[[エレノア (競走馬)|Eleanor]]||牝3||||J.Saunders||||サー・チャールズ・バンベリー
|-
|style="text-align:center"|第23回||1802年6月3日||[[タイラント (競走馬)|Tyrant]]||牡3||||F.Buckle||R.Robson||[[オーガスタス・フィッツロイ (第3代グラフトン公)|第3代グラフトン公爵]]
|-
|style="text-align:center"|第24回||1803年5月26日||[[ディット|Ditto]]||牡3||||B.Clift||J.Lonsdale||サー・[[ヘドワース・ウィリアムソン]]
|-
|style="text-align:center"|第25回||1804年5月17日||[[ハンニバル (競走馬)|Hannibal]]||牡3||||B.Arnull||F.Neale||第3代エグレモント伯爵
|-
|style="text-align:center"|第26回||1805年5月30日||[[カーディナルビューフォート|Cardinal Beaufort]]||牡3||||D.Fitzpatrick||D.Boyce||第3代エグレモント伯爵
|-
|style="text-align:center"|第27回||1806年5月22日||[[パリ (競走馬)|Paris]]||牡3||||J.Shepherd||R.Prince||[[トーマス・フォーレー (第3代フォーレー男爵)|第3代フォーレー男爵]] [[:en:Thomas Foley, 3rd Baron Foley|en]]
|-
|style="text-align:center"|第28回||1807年5月14日||[[エレクション (競走馬)|Election]]||牡3||||J.Arnull||D.Boyce||第3代エグレモント伯爵
|-
|style="text-align:center"|第29回||1808年6月2日||[[パン (競走馬)|Pan]]||牡3||||F.Collinson||J.Lonsdale||サー・ヘドワース・ウィリアムソン
|-
|style="text-align:center"|第30回||1809年5月18日||[[ポープ (競走馬)|Pope]]||牡3||||T.Goodison||R.Robson||第3代グラフトン公爵
|-
|style="text-align:center"|第31回||1810年6月7日||[[ホエールボーン|Whalebone]]||牡3||||B.Clift||R.Robson||第3代グラフトン公爵
|-
|style="text-align:center"|第32回||1811年5月30日||[[ファントム (競走馬)|Phantom]]||牡3||||F.Buckle||J.Edwards||サー・[[ジョン・シェリー]]
|-
|style="text-align:center"|第33回||1812年5月14日||[[オクタヴィアス|Octavius]]||牡3||||B.Arnull||D.Boyce||[[ロバート・ラドブローク]]
|-
|style="text-align:center"|第34回||1813年6月3日||[[スモーレンスコ|Smolensko]]||牡3||||T.Goodisson||Crouch||サー・チャールズ・バンベリー
|-
|style="text-align:center"|第35回||1814年5月26日||[[ブラッチャー|Blucher]]||牡3||||B.Arnull||D.Boyce||[[ヘンリー・ビルソン=レッグ (第2代ストール男爵)|第2代ストール男爵]]
|-
|style="text-align:center"|第36回||1815年5月25日||[[ウィスカー (競走馬)|Whisker]]||牡3||||T.Goodison||R.Robson||[[ジョージ・フィッツロイ (第4代グラフトン公)|第4代グラフトン公爵]] [[:en:George FitzRoy, 4th Duke of Grafton|en]]
|-
|style="text-align:center"|第37回||1816年5月30日||[[プリンスレオパルド|Prince Leopold]]||牡3||||W.Wheatley||W.Butler||[[フレデリック (ヨーク・オールバニ公)|ヨーク公爵フレデリック王子]]
|-
|style="text-align:center"|第38回||1817年5月22日||[[アゾール (競走馬)|Azor]]||牡3||||J.Robinson||R.Robson||J P.Young<!--英語版ではJ.Payne-->
|-
|style="text-align:center"|第39回||1818年5月28日||[[サム (競走馬)|Sam]]||牡3||||S.Chifney jr.||W.Chifney||[[トーマス・ソーンヒル]]
|-
|style="text-align:center"|第40回||1819年5月27日||[[ティレシアス|Tiresias]]||牡3||||B.Clift||R.Prince||[[ウィリアム・ベンティンク (第4代ポートランド公)|第4代ポートランド公爵]] [[:en:William Bentinck, 4th Duke of Portland|en]]
|-
|style="text-align:center"|第41回||1820年5月18日||[[セイラー|Sailor]]||牡3||||S.Chifney jr.||W.Chifney||トーマス・ソーンヒル
|-
|style="text-align:center"|第42回||1821年6月7日||[[グスタヴス|Gustavus]]||牡3||||S.Day||Crouch||[[ジョン・ハンター (馬主)|ジョン・ハンター]]
|-
|style="text-align:center"|第43回||1822年5月23日||[[モーゼズ (競走馬)|Moses]]||牡3||||T.Goodison||W.Butler||ヨーク公爵フレデリック王子
|-
|style="text-align:center"|第44回||1823年5月29日||[[エミリウス|Emilius]]||牡3||||F.Buckle||R.Robson||[[ジョン・アドニー]]
|-
|style="text-align:center"|第45回||1824年6月3日||[[セドリック (競走馬)|Cedric]]||牡3||||J.Robinson||J.Edwards||サー・ジョン・シェリー
|-
|style="text-align:center"|第46回||1825年5月19日||[[ミドルトン|Middleton]]||牡3||||J.Robinson||J.Edwards||[[ジョージ・チャイルド・ヴィリエ (第5代ジャージー伯爵)|第5代ジャージー伯爵]] [[:en:George Child Villiers, 5th Earl of Jersey|en]]
|-
|style="text-align:center"|第47回||1826年5月25日||[[:en:Lap-dog (horse)|Lap-Dog]]||牡3||||G.Dockeary||Bird||第3代エグレモント伯爵
|-
|style="text-align:center"|第48回||1827年5月31日||[[マムルーク (競走馬)|Mameluke]]||牡3||||J.Robinson||J.Edwards||第5代ジャージー伯爵
|-
|style="text-align:center"|第49回||1828年5月22日||[[キャドランド|Cadland]]||牡3||||J.Robinson||D.Boyce||[[ジョン・マナース (第5代ラトランド公爵)|第5代ラトランド公爵]] [[:en:John Manners, 5th Duke of Rutland|en]]
|-
|style="text-align:center"|第50回||1829年6月4日||[[フレデリック (競走馬)|Frederick]]||牡3||||J.Forth||J.Forth||[[ウィリアム・グラトウィック]]
|-
|style="text-align:center"|第51回||1830年5月27日||[[プライアム|Priam]]||牡3||||S.Day||W.Chifney||[[ウィリアム・チフニー]]
|-
|style="text-align:center"|第52回||1831年5月19日||[[スパニエル (競走馬)|Spaniel]]||牡3||||W.Wheatley||||[[ウィリアム・ローサー (第2代ロンズデール伯爵)|ローサー子爵]] [[:en:William Lowther, 2nd Earl of Lonsdale|en]]
|-
|style="text-align:center"|第53回||1832年6月7日||[[セントジーレス|St Giles]]||牡3||||B.Scott||||[[ロバート・リズデイル]]
|-
|style="text-align:center"|第54回||1833年5月23日||[[デンジャラス (競走馬)|Dangerous]]||牡3||||J.Chapple||||[[アイザック・サドラー]]
|-
|style="text-align:center"|第55回||1834年5月29日||[[プレニポテンシャリー|Plenipotentiary]]||牡3||||P.Conolly||||[[スタンレイク・バトソン]]
|-
|style="text-align:center"|第56回||1835年6月4日||[[マンディグ|Mundig]]||牡3||||B.Scott||J.Scott||[[ジョン・ボウズ]] [[:en:John Bowes|en]]
|-
|style="text-align:center"|第57回||1836年5月19日||[[ベイミドルトン|Bay Middleton]]||牡3||||J.Robinson||J.Edwards||第5代ジャージー伯爵
|-
|style="text-align:center"|第58回||1837年5月25日||[[フォスファラス|Phosphorus]]||牡3||||G.Edwards||||[[ロバート・ウィルソン (第9代バーナーズ男爵)|第9代バーナーズ男爵]]<!--英語版もLord Bernersとのみ表記。[[:en:Baron Berners|Baron Berners]]からの推測-->
|-
|style="text-align:center"|第59回||1838年5月30日||[[アマート (競走馬)|Amato]]||牡3||||J.Chapple||R.Sherwood||サー・[[ギルバート・ヒースコート]]
|-
|style="text-align:center"|第60回||1839年5月15日||[[ブルームズベリー|Bloomsbury]]||牡3||||S.Templeman||W.Ridsdale||[[ウィリアム・リズデイル]]
|-
|style="text-align:center"|第61回||1840年6月3日||[[リトルワンダー|Little Wonder]]||牡3||||W.Macdonald||J.Forth||[[デイヴィッド・ロバートソン (馬主)|デイヴィッド・ロバートソン]]
|-
|style="text-align:center"|第62回||1841年5月26日||[[コロネーション_(1838年生の競走馬)|Coronation]]||牡3||||P.Conolly||||[[エイブラハム・ローリンソン]]
|-
|style="text-align:center"|第63回||1842年5月25日||[[アッティラ (競走馬)|Attila]]||牡3||||B.Scott||J.Scott||J.Peel<!--英語版では[[ジョージ・アンソン]] G.Anson-->
|-
|style="text-align:center"|第64回||1843年5月31日||[[コーザーストーン|Cotherstone]]||牡3||||B.Scott||J.Scott||ジョン・ボウズ
|-
|style="text-align:center"|[[第65回ダービーステークス|第65回]]||1844年5月22日||[[オーランド (競走馬)|Orlando]]||牡3||||N.Flatman||Cooper||[[ジョナサン・ピール]] [[:en:Jonathan Peel|en]]
|-
|style="text-align:center"|第66回||1845年5月28日||[[ザメリーモナーク|The Merry Monarch]]||牡3||||F.Bell||J.Scott||G.Gratwicke<!--英語版では[[ウィリアム・グラトウィック]] W.Gratwicke-->
|-
|style="text-align:center"|第67回||1846年5月27日||[[ピュロスザファースト|Pyrrhus the First]]||牡3||2:55||S.Day||J.Day||[[ジョン・ガリー]] [[:en:John Gully|en]]
|-
|style="text-align:center"|第68回||1847年5月19日||[[コサック (競走馬)|Cossack]]||牡3||2:52||S.Templeman||J.Day jr.||T・H・ペドレイ<!--英語版も略記-->
|-
|style="text-align:center"|第69回||1848年5月24日||[[サープリス|Surplice]]||牡3||2:48||S.Templeman||J.Kent||[[ヘンリー・アガー=エリス (第3代クリフトゥン子爵)|第3代クリフトゥン子爵]] [[:en:Henry Agar-Ellis, 3rd Viscount Clifden|en]]
|-
|style="text-align:center"|第70回||1849年5月23日||[[ザフライングダッチマン|The Flying Dutchman]]||牡3||3:00||C.Marlow||J.Fobert||[[アーチボルド・モンゴメリー (第13代エグリントン伯爵)|第13代エグリントン伯爵]] [[:en:Archibald Montgomerie, 13th Earl of Eglinton|en]]
|-
|style="text-align:center"|第71回||1850年5月29日||[[ヴォルティジュール|Voltigeur]]||牡3||2:50||J.Marson||R.Hill||[[トマス・ダンダス (第2代ゼットランド伯爵)|第2代ゼットランド伯爵]]
|-
|style="text-align:center"|第72回||1851年5月21日||[[テディントン|Teddington]]||牡3||2:51||J.Marson||||サー・[[ジョゼフ・ハーレイ]]
|-
|style="text-align:center"|第73回||1852年5月26日||[[ダニエルオルーク|Daniel O'Rourke]]||牡3||3:20||F.Butler||J.Scott||ジョン・ボウズ
|-
|style="text-align:center"|第74回||1853年5月25日||[[ウェストオーストラリアン (競走馬)|West Australian]]||牡3||2:55||F.Butler||J.Scott||ジョン・ボウズ
|-
|style="text-align:center"|第75回||1854年5月31日||[[アンドーヴァー (競走馬)|Andover]]||牡3||2:52||A.Day||J.Day jr.||ジョン・ガリー
|-
|style="text-align:center"|第76回||1855年5月23日||[[ワイルドディレル|Wild Dayrell]]||牡3||2:54||R.Sherwood||Rickaby||[[フランシス・ポップハム]]
|-
|style="text-align:center"|第77回||1856年5月28日||[[エリントン|Ellington]]||牡3||3:04||T.Aldcroft||T.Dawson||[[オクタヴィウス・ヴァーノン・ハーコート]] [[:en:Octavius Vernon Harcourt|en]]
|-
|style="text-align:center"|第78回||1857年5月27日||[[ブリンクボニー|Blink Bonny]]||牝3||2:45||J.Charlton||W.I'Anson||[[ウィリアム・イアンソン]]
|-
|style="text-align:center"|第79回||1858年5月19日||[[ビーズマン|Beadsman]]||牡3||2:54||J.Wells||G.Manning||サー・ジョゼフ・ハーレイ
|-
|style="text-align:center"|第80回||1859年6月1日||[[ムズィード|Musjid]]||牡3||2:59||J.Wells||G.Manning||サー・ジョゼフ・ハーレイ
|-
|style="text-align:center"|第81回||1860年5月23日||[[ソーマンビー|Thormanby]]||牡3||2:55||H.Custance||[[マシュー・ドーソン|M.Dawson]]||[[ジェイムズ・メリー]]
|-
|style="text-align:center"|第82回||1861年5月29日||[[ケトルドラム (競走馬)|Kettledrum]]||牡3||2:45||R.Bullcok||Oates||[[チャールズ・タウンリー]]
|-
|style="text-align:center"|第83回||1862年6月4日||[[キャラクタクス|Caractacus]]||牡3||2:45||J.Parsons||R.Smith||[[チャールズ・スニューイング]]
|-
|style="text-align:center"|第84回||1863年5月20日||[[マカロニ (競走馬)|Macaroni]]||牡3||2:50||T.Chaloner||Gooding||[[リチャード・ネイラー]]
|-
|style="text-align:center"|第85回||1864年5月25日||[[ブレアアソール|Blair Athol]]||牡3||2:43||J.Snowden||W.I'Anson||ウィリアム・イアンソン
|-
|style="text-align:center"|第86回||1865年5月31日||[[グラディアトゥール|Gladiateur]]||牡3||2:46||H.Grimshaw||T.Jennings||[[フレデリック・ド・ラグランジュ]]伯爵
|-
|style="text-align:center"|第87回||1866年5月16日||[[ロードリオン|Lord Lyon]]||牡3||2:50||H.Custance||J.Dover||[[リチャード・サットン]]
|-
|style="text-align:center"|第88回||1867年5月22日||[[ハーミット|Hermit]]||牡3||2:46||J.Daley||Bloss||[[ヘンリー・チャップリン]]
|-
|style="text-align:center"|第89回||1868年5月27日||[[ブルーガウン|Blue Gown]]||牡3||2:50||J.Wells||J.Porter||サー・ジョゼフ・ハーレイ
|-
|style="text-align:center"|第90回||1869年5月26日||[[プリテンダー (競走馬)|Pretender]]||牡3||2:52||J.Osborne||T.Dawson||ジョン・ジョンストン
|-
|style="text-align:center"|第91回||1870年6月1日||[[キングクラフト|Kingcraft]]||牡3||2:45||T.French||M.Dawson||[[イヴリン・ボスコーエン (第6代ファルマス子爵)|第6代ファルマス子爵]]
|-
|style="text-align:center"|第92回||1871年5月24日||[[フェイボニアス|Favonius]]||牡3||2:50||T.French||J.Hayhoe||[[メイヤー・アムシェル・ド・ロスチャイルド]]男爵
|-
|style="text-align:center"|第93回||1872年5月29日||[[クレモーン|Cremorne]]||牡3||2:45||C.Maiment||W.Gilbert||[[ヘンリー・サヴィル]]
|-
|style="text-align:center"|第94回||1873年5月28日||[[ドンカスター (競走馬)|Doncaster]]||牡3||2:50||F.Webb||R.Peck||ジェイムズ・メリー
|-
|style="text-align:center"|第95回||1874年6月3日||[[ジョージフレデリック|George Frederick]]||牡3||2:46||H.Custance||T.Leader||W・S・カートライト<!--英語版も略記-->
|-
|style="text-align:center"|第96回||1875年5月26日||[[ガロピン|Galopin]]||牡3||2:48||J.Morris||J.Dawson||[[バッチャーニ・グスターフ]]伯爵<!--英語版の一覧ではPrince表記-->
|-
|style="text-align:center"|第97回||1876年5月31日||[[キシュベル|Kisber]]||牡3||2:44||C.Maidment||J.Hayhoe||A.Baltazzi<!--読み方が想像できない--> [[:hu:Alexander Baltazzi|hu]]
|-
|style="text-align:center"|第98回||1877年5月30日||[[シルヴィオ|Silvio]]||牡3||2:50||[[フレッド・アーチャー|F.Archer]]||M.Dawson||第6代ファルマス子爵
|-
|style="text-align:center"|第99回||1878年6月5日||[[セフトン|Sefton]]||牡3||2:56||H.Constable||A.Taylor||[[ウィリアム・スターリング・クロフォード]]
|-
|style="text-align:center; white-space:nowrap"|第100回||1879年5月28日||[[サーベヴィーズ|Sir Bevys]]||牡3||3:02||G.Fordham||J.Hayhoe||アクトン氏<ref>[http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?res=F50C12FB385A137B93CBAB178ED85F4D8784F9 ニューヨーク・タイムズ氏 1879年5月29日付] 2013年11月29日閲覧</ref>{{refnest|group="注"|アクトン氏(Mr.Acton)とは、当時の[[ロスチャイルド家]]当主の[[ライオネル・ド・ロスチャイルド]]が使っていた[[馬主#仮定名称|仮定名称]]である<ref name="バーネット67-69"/>。ただし、実際にはその息子の[[レオポルド・ド・ロスチャイルド]]が実務を担っていたと広く考えられている<ref name="バーネット67-69"/>。レオポルドは1904年に[[:en:St. Amant (horse)|St. Amant]]で自分自身の名義でダービーを勝った<ref name="バーネット67-69"/>。なお、ライオネルはこの競走の6日後の1879年6月3日に死去している。}}
|-
|style="text-align:center"|第101回||1880年5月26日||[[ベンドア|Bend Or]]||牡3||2:46||F.Archer||R.Peck||[[ヒュー・グローヴナー (初代ウェストミンスター公爵)|初代ウェストミンスター公爵]]
|-
|style="text-align:center"|第102回||1881年6月1日||[[イロクォイ|Iroquois]]||牡3||2:50||F.Archer||J.Pincus||[[ピエール・ロリラード4世]] [[:en:Pierre Lorillard IV|en]]
|-
|style="text-align:center"|第103回||1882年5月24日||[[ショットオーヴァー|Shotover]]||牝3||2:45||T.Cannon||J.Porter||初代ウェストミンスター公爵
|-
|style="text-align:center"|第104回||1883年5月23日||[[セントブレーズ|St Blaise]]||牡3||2:48||T.Cannon||J.Porter||サー・[[フレデリック・ジョンストン]]
|-
| rowspan="2" style="text-align:center" |第105回|| rowspan="2" |1884年5月28日||[[ハーヴェスター|Harvester]]||牡3|| rowspan="2" |2:46||C.Wood||R.Sherwoood||Sir L.Willoughby<!--英語版ではサー・J・ウィロビーSir J. Willoughby-->
|-
|[[セントガティエン|St Gatien]]
|牡3
|S.Loates
|J.Jewitt
|[[ジャック・ハモンド]]
|-
|style="text-align:center"|第106回||1885年6月3日||[[メルトン|Melton]]||牡3||2:44||F.Archer||M.Dawson||[[ジョージ・マナース・アストリー (第20代ヘイスティングス男爵)|第20代ヘイスティングス男爵]]
|-
|style="text-align:center"|第107回||1886年5月26日||[[オーモンド|Ormonde]]||牡3||2:45||F.Archer||J.Porter||初代ウェストミンスター公爵
|-
|style="text-align:center"|第108回||1887年5月25日||[[メリーハンプトン|Merry Hampton]]||牡3||2:43||J.Watts||M.Gurry||Lord Abington<!--英語版ではGeorge Baird("Mr Abington")-->
|-
|style="text-align:center"|第109回||1888年5月30日||[[エアシャー|Ayrshire]]||牡3||2:43||F.Barrett||G.Dawson||[[ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク (第6代ポートランド公爵)|第6代ポートランド公爵]]
|-
|style="text-align:center"|第110回||1889年6月5日||[[ドノヴァン (競走馬)|Donovan]]||牡3||2:43||T.Loates||G.Dawson||第6代ポートランド公爵
|-
|style="text-align:center"|第111回||1890年6月4日||[[セインフォイン|Sainfoin]]||牡3||2:49||J.Watts||J.Porter||サー・[[ジェイムズ・ミラー]]
|-
|style="text-align:center"|第112回||1891年5月27日||[[コモン (競走馬)|Common]]||牡3||2:56||G.Barrett||J.Porter||サー・フレデリック・ジョンストン
|-
|style="text-align:center"|第113回||1892年6月1日||[[サーヒューゴ|Sir Hugo]]||牡3||2:44||F.Allsopp||T.Wadlow||[[オーランド・ブリッジマン (第3代ブラッドフォード伯爵)|第3代ブラッドフォード伯爵]]
|-
|style="text-align:center"|第114回||1893年5月31日||[[アイシングラス (競走馬)|Isinglass]]||牡3||2:43||T.Loates||J.Jewitt||[[ハリー・マッカルモント]] [[:en:Harry McCalmont|en]]
|-
|style="text-align:center"|第115回||1894年6月6日||[[ラダス|Ladas]]||牡3||2:45||J.Watts||M.Dawson||[[アーチボルド・プリムローズ (第5代ローズベリー伯)|第5代ローズベリー伯爵]]
|-
|style="text-align:center"|第116回||1895年5月29日||[[サーヴィスト|Sir Visto]]||牡3||2:43||S.Loates||M.Dawson||第5代ローズベリー伯爵
|-
|style="text-align:center"|第117回||1896年6月3日||[[パーシモン (競走馬)|Persimmon]]||牡3||2:42||J.Watts||R.Marsh||[[エドワード7世 (イギリス王)|ウェールズ公エドワード王子]]
|-
|style="text-align:center"|第118回||1897年6月2日||[[ギャルティーモア|Galtee More]]||牡3||2:44||C.Wood||S.Darling||[[ジョン・ガビンズ]]
|-
|style="text-align:center"|第119回||1898年5月25日||[[ジェダー|Jeddah]]||牡3||2:47||O.Madden||R.Marsh||[[ジェイムズ・ラーナック]]
|-
|style="text-align:center"|第120回||1899年5月31日||[[フライングフォックス|Flying Fox]]||牡3||2:42||M.Cannon||J.Porter||初代ウェストミンスター公爵
|-
|style="text-align:center"|第121回||1900年5月30日||[[ダイヤモンドジュビリー (競走馬)|Diamond Jubilee]]||牡3||2:42||H.Jones||R.Marsh||ウェールズ公エドワード王子
|-
|style="text-align:center"|第122回||1901年6月5日||[[ヴォロデョフフスキー|Volodyovski]]||牡3||style="white-space:nowrap"|2:40 4/5||L.Reiff||J.Huggins||[[ウィリアム・コリンズ・ホイットニー]]
|-
|style="text-align:center"|第123回||1902年6月4日||{{Flagicon|GBR}}[[アードパトリック|Ard Patrick]]||牡3||2:42 1/5||S.Martin||S.Darling||ジョン・ガビンズ
|-
|style="text-align:center"|第124回||1903年5月27日||{{Flagicon|GBR}}[[ロックサンド|Rock Sand]]||牡3||2:42 4/5||D.Maher||G.Blackwell||サー・ジェイムズ・ミラー
|-
|style="text-align:center"|第125回||1904年6月1日||{{Flagicon|GBR}}[[セントアマント|St Amant]]||牡3||2:45 2/5||K.Cannon||A.Hayhoe||[[レオポルド・ド・ロスチャイルド]]
|-
|style="text-align:center"|第126回||1905年5月31日||[[キケロ (競走馬)|Cicero]]||牡3||2:39 3/5||D.Maher||P.Peck||第5代ローズベリー伯爵
|-
|style="text-align:center"|第127回||1906年5月30日||[[スペアミント (競走馬)|Spearmint]]||牡3||2:36 4/5||D.Maher||P.Gilpin||[[ユーステス・ローダー]]
|-
|style="text-align:center"|第128回||1907年6月5日||{{Flagicon|IRL}}[[オービー|Orby]]||牡3||2:44 0/5||J.Reiff||F.McCabe||[[リチャード・クローカー]] [[:en:Richard Croker|en]]
|-
|style="text-align:center"|第129回||1908年6月3日||[[シニョリネッタ|Signorinetta]]||牝3||2:39 4/5||B.Bullock||C.Ginistrelli||[[エドアルド・ジニストレーリ]]
|-
|style="text-align:center"|第130回||1909年5月26日||{{Flagicon|GBR}}[[ミノル (イギリスの競走馬)|Minoru]]||牡3||2:42 2/5||H.Jones||R.Marsh||[[エドワード7世 (イギリス王)|イギリス王エドワード7世]]
|-
|style="text-align:center"|第131回||1910年6月1日||{{Flagicon|GBR}}[[レンバーグ|Lemberg]]||牡3||2:35 1/5||B.Dillon||A.Taylor||[[アルフレッド・コックス]]
|-
|style="text-align:center"|第132回||1911年5月31日||{{Flagicon|GBR}}[[サンスター (競走馬)|Sunstar]]||牡3||2:36 4/5||G.Stern||C.Morton||[[ジャック・B・ジョエル]]
|-
|style="text-align:center"|第133回||1912年6月5日||[[タガリー|Tagalie]]||牝3||2:38 4/5||J.Reiff||D.Waugh||[[ウォルター・ラファエル]]
|-
|style="text-align:center"|第134回||1913年6月4日||[[アボイェール|Aboyeur]]||牡3||2:37 3/5||E.Piper||T.Lewis||[[アラン・カンリフ]]
|-
|style="text-align:center"|第135回||1914年5月27日||{{Flagicon|FRA}}[[ダーバー|Durbar II]]||牡3||2:36 2/5||M.McGee||T.Murphy||[[ハーマン・デュリエ]] [[:en:Herman B. Duryea|en]]
|-
|style="text-align:center"|第136回||1915年6月15日||{{Flagicon|GBR}}[[ポマーン|Pommern]]||牡3||2:32 3/5||S.Donoghue||C.Peck||[[ソロモン・ジョエル]] [[:en:Solomon Joel|en]]
|-
|style="text-align:center"|第137回||1916年5月30日||{{Flagicon|GBR}}[[フィフィネラ|Fifinella]]||牝3||2:36 3/5||J.Childs||D.Dawson||サー・[[エドワード・ハルトン]] [[:en:Edward Hulton|en]]
|-
|style="text-align:center"|第138回||1917年7月31日||{{Flagicon|GBR}}[[ゲイクルセイダー|Gay Crusader]]||牡3||2:40 3/5||S.Donoghue||A.Taylor||アルフレッド・コックス
|-
|style="text-align:center"|第139回||1918年6月4日||{{Flagicon|GBR}}[[ゲインズバラ (競走馬)|Gainsborough]]||牡3||2:33 1/5||J.Childs||A.Taylor||Lady J.Douglas<!--英語版でもLady J.Douglas表記。James(男性名)にもかかわらずLady(女性用称号)となっている理由は不明-->
|-
|style="text-align:center"|第140回||1919年6月4日||[[グランドパレード|Grand Parade]]||牡3||2:35 4/5||F.Templeman||F.Barling||[[ウィリアム・ターテム (初代グランリー男爵)|初代グランリー男爵]] [[:en:William Tatem, 1st Baron Glanely|en]]
|-
|style="text-align:center"|第141回||1920年6月2日||{{Flagicon|GBR}}[[スピオンコップ|Spion Kop]]||牡3||2:34 4/5||F.O'Neil||P.Gilpin||[[ジャイルズ・ローダー]]
|-
|style="text-align:center"|第142回||1921年6月1日||[[ユーモリスト|Humorist]]||牡3||2:36 1/5||S.Donoghue||C.Morton||[[ジャック・B・ジョエル]]
|-
|style="text-align:center"|第143回||1922年5月31日||{{Flagicon|GBR}}[[ハリーオン系#キャプテンカトル|Captain Cuttle]]||牡3||2:34 3/5||S.Donoghue||F.Darling||[[ジェイムズ・ブキャナン (初代ウーラヴィントン男爵)|初代ウーラヴィントン男爵]] [[:en:James Buchanan, 1st Baron Woolavington|en]]
|-
|style="text-align:center"|第144回||1923年6月6日||{{Flagicon|GBR}}[[パパイラス|Papyrus]]||牡3||2:38 0/5||S.Donoghue||B.Jarvis||[[ベン・アイリッシュ]]
|-
|style="text-align:center"|第145回||1924年6月4日||{{Flagicon|GBR}}[[サンソヴィーノ|Sansovino]]||牡3||2:46 3/5||T.Weston||G.Lambton||[[エドワード・スタンリー (第17代ダービー伯爵)|第17代ダービー伯爵]]
|-
|style="text-align:center"|第146回||1925年5月27日||{{Flagicon|GBR}}[[マンナ (競走馬)|Manna]]||牡3||2:40 3/5||S.Donoghue||F.Darling||[[ヘンリー・E・モリス]]
|-
|style="text-align:center"|第147回||1926年6月2日||{{Flagicon|GBR}}[[ハリーオン系#コロナック|Coronach]]||牡3||2:47 4/5||J.Childs||F.Darling||初代ウーラヴィントン男爵
|-
|style="text-align:center"|第148回||1927年6月1日||{{Flagicon|GBR}}[[コールボーイ|Call Boy]]||牡3||2:34 2/5||C.Elliot||J.Watts||[[フランク・カーゾン]] [[:en:Frank Curzon|en]]
|-
|style="text-align:center"|第149回||1928年6月6日||{{Flagicon|GBR}}[[フェルステッド|Felstead]]||牡3||2:34 4/5||H.Wragg||O.Bell||サー・[[ヒューゴー・カンリフ=オーエン|ヒューゴー・カンリフ=オーエン]] [[:en:Hugo Cunliffe-Owen|en]]
|-
|style="text-align:center"|第150回||1929年6月5日||{{Flagicon|GBR}}[[トリゴー|Trigo]]||牡3||2:36 2/5||J.Marshall||D.Dawson||[[ウィリアム・バーネット]]
|-
|style="text-align:center"|第151回||1930年6月4日||{{Flagicon|GBR}}[[ブレニム (競走馬)|Blenheim]]||牡3||2:38 1/5||H.Wragg||D.Dawson||[[アーガー・ハーン3世]]
|-
|style="text-align:center"|第152回||1931年6月3日||{{Flagicon|GBR}}[[キャメロニアン|Cameronian]]||牡3||2:36 3/5||F.Fox||F.Darling||[[アーサー・デュワー]]
|-
|style="text-align:center"|第153回||1932年6月1日||{{Flagicon|GBR}}[[エイプリルザフィフス|April the Fifth]]||牡3||2:43 1/5||F.Lane||T.Walls||[[トム・ウォールズ]] [[:en:Tom Walls|en]]
|-
|style="text-align:center"|第154回||1933年5月31日||{{Flagicon|GBR}}[[ハイペリオン (競走馬)|Hyperion]]||牡3||2:34 0/5||T.Weston||G.Lambton||第17代ダービー伯爵
|-
|style="text-align:center"|第155回||1934年6月6日||{{Flagicon|GBR}}[[ウインザーラッド|Windsor Lad]]||牡3||2:34 0/5||C.Smirke||M.Marsh||ラージピープラ藩王[[マハラナ・チャートラスィングジ]]
|-
|style="text-align:center"|第156回||1935年6月5日||{{Flagicon|GBR}}[[バーラム (競走馬)|Bahram]]||牡3||2:36 0/5||F.Fox||F.Butters||アーガー・ハーン3世
|-
|style="text-align:center"|第157回||1936年5月27日||{{Flagicon|GBR}}[[マームード|Mahmoud]]||牡3||2:33 4/5||C.Smirke||F.Butters||アーガー・ハーン3世
|-
|style="text-align:center"|第158回||1937年6月2日||{{Flagicon|GBR}}[[ミッデイサン|Mid-Day Sun]]||牡3||2:37 3/5||M.Beary||F.Butters||[[レティス・メアリ・ミラー]]
|-
|style="text-align:center"|第159回||1938年6月1日||{{Flagicon|GBR}}[[ボワルセル|Bois Roussel]]||牡3||2:39 1/5||C.Elliot||F.Darling||[[ピーター・ベイティ]]
|-
|style="text-align:center"|第160回||1939年5月24日||{{Flagicon|GBR}}[[ブルーピーター|Blue Peter]]||牡3||2:36 4/5||E.Smith||J.Jarvis||[[ハリー・プリムローズ (第6代ローズベリー伯)|第6代ローズベリー伯爵]] [[:en:Harry Primrose, 6th Earl of Rosebery|en]]
|-
|style="text-align:center"|第161回||1940年6月12日||{{Flagicon|GBR}}[[ポンレヴェック|Pont L'Eveque]]||牡3||2:30 4/5||S.Wragg||F.Darling||[[フレッド・ダーリング]]
|-
|style="text-align:center"|第162回||1941年6月18日||{{Flagicon|GBR}}[[オーエンテューダー|Owen Tudor]]||牡3||2:32 0/5||W.Nevett||F.Darling||[[キャサリン・マクドナルド=ブキャナン|キャサリン・マクドナルド=ブキャナン]]
|-
|style="text-align:center"|第163回||1942年6月13日||[[ワトリングストリート|Watling Street]]||牡3||2:29 3/5||H.Wragg||W.Earl||第17代ダービー伯爵
|-
|style="text-align:center"|第164回||1943年6月19日||{{Flagicon|GBR}}[[ストレートディール|Straight Deal]]||牡3||2:30 2/5||T.Carey||W.Nightingall||[[ドロシー・パジェット]] [[:en:Dorothy Paget|en]]
|-
|style="text-align:center"|第165回||1944年6月17日||{{Flagicon|GBR}}[[オーシャンスウェル|Ocean Swell]]||牡3||2:31 0/5||W.Nevett||J.Jarvis||第6代ローズベリー伯爵
|-
|style="text-align:center"|第166回||1945年6月9日||{{Flagicon|GBR}}[[ダンテ (競走馬)|Dante]]||牡3||2:26 3/5||W.Nevett||M.Peacock||サー・[[エリック・オールソン]]
|-
|style="text-align:center"|第167回||1946年6月5日||{{Flagicon|GBR}}[[エアボーン (競走馬)|Airborne]]||牡3||2:44 3/5||T.Lowrey||D.Perryman||[[ジョン・E・ファーガソン]]
|-
|style="text-align:center"|第168回||1947年6月7日||{{Flagicon|FRA}}[[パールダイヴァー|Pearl Diver]]||牡3||2:38 2/5||G.Bridgland||P.Carter||[[ジョフロワ・ド・ワルドナー]]男爵
|-
|style="text-align:center"|第169回||1948年6月5日||{{Flagicon|FRA}}[[マイラヴ|My Love]]||牡3||2:40 0/5||R.Johnstone||R.Carver||Aga Khan III<!--英語版ではアーガー・ハーン3世<br />[[レオン・ヴォルテッラ]]となっている-->
|-
|style="text-align:center"|第170回||1949年6月4日||{{Flagicon|GBR}}[[ニンバス (1946年生の競走馬)|Nimbus]]||牡3||2:42 0/5||C.Elliot||G.Colling||[[マリオン・グレニスター]]
|-
|style="text-align:center"|第171回||1950年5月27日||{{Flagicon|FRA}}[[ガルカドール|Galcador]]||牡3||2:36 3/5||R.Johnstone||C.Semblat||[[マルセル・ブサック]]
|-
|style="text-align:center"|第172回||1951年5月30日||{{Flagicon|GBR}}[[アークティックプリンス|Arctic Prince]]||牡3||2:39 2/5||C.Spares||W.Stephenson||[[ジョゼフ・マクグレース]] [[:en:Joseph McGrath (politician)|en]]
|-
|style="text-align:center"|第173回||1952年5月28日||{{Flagicon|GBR}}[[タルヤー|Tulyar]]||牡3||2:36 2/5||C.Smirke||M.Marsh||アーガー・ハーン3世
|-
|style="text-align:center"|第174回||1953年6月6日||{{Flagicon|GBR}}[[ピンザ|Pinza]]||牡3||2:35 3/5||[[ゴードン・リチャーズ|G.Richards]]||N.Bertie||サー・[[ヴィクター・サスーン]] [[:en:Victor Sassoon|en]]
|-
|style="text-align:center"|第175回||1954年6月2日||{{Flagicon|GBR}}[[ネヴァーセイダイ|Never Say Die]]||牡3||2:35 4/5||[[レスター・ピゴット|L.Piggott]]||J.Lawson||[[ロバート・スターリング・クラーク]]
|-
|style="text-align:center"|第176回||1955年5月25日||{{Flagicon|FRA}}[[フィルドレーク|Phil Drake]]||牡3||2:39 4/5||F.Palmer||F.Mathet||[[スージー・ヴォルテッラ]]
|-
|style="text-align:center"|第177回||1956年6月6日||{{Flagicon|FRA}}[[ラヴァンダン|Lavandin]]||牡3||2:36 2/5||R.Johnstone||A.Head||[[ピエール・ヴェルテメール]] [[:en:Pierre Wertheimer|en]]
|-
|style="text-align:center"|第178回||1957年6月5日||{{Flagicon|GBR}}[[クレペロ|Crepello]]||牡3||2:35 2/5||L.Piggott||N.Murless||サー・ヴィクター・サスーン
|-
|style="text-align:center"|第179回||1958年6月4日||{{Flagicon|IRL}}[[ハードリドン|Hard Ridden]]||牡3||2:41 1/5||C.Smirke||N.Rogers||サー・ヴィクター・サスーン
|-
|style="text-align:center"|第180回||1959年6月3日||{{Flagicon|GBR}}[[パーシア|Parthia]]||牡3||2:36 0/5||W.H.Carr||C.B-Rochfort||サー・[[ハンフリー・ドゥ・トラフォード (第4代準男爵)|ハンフリー・ドゥ・トラフォード]] [[:en:Sir Humphrey de Trafford, 4th Baronet|en]]
|-
|style="text-align:center"|第181回||1960年6月1日||{{Flagicon|GBR}}[[セントパディー|St Paddy]]||牡3||2:35 3/5||L.Piggott||N.Murless||サー・ヴィクター・サスーン
|-
|style="text-align:center"|第182回||1961年5月31日||{{Flagicon|GBR}}[[シディアム|Psidium]]||牡3||2:36.5||R.Poincelet||H.Wragg||[[エッティ・プレシュ]] [[:en:Etti Plesch|en]]
|-
|style="text-align:center"|第183回||1962年6月6日||{{Flagicon|IRL}}[[ラークスパー|Larkspur]]||牡3||2:37.3||N.Sellwood||[[ヴィンセント・オブライエン|M.V.O'Brien]]||Powhatan Stable<!--英語版では[[レイモンド・R・ゲスト]] [[:en:Raymond R. Guest]]-->
|-
|style="text-align:center"|第184回||1963年5月29日||{{Flagicon|FRA}}[[レルコ|Relko]]||牡3||2:39.4||Y.Saint-Martin||F.Mathet||F.Dupre<!--英語版では[[フランソワ・デュプレ]] [[:en:Francois Dupre|F.Dupre]]-->
|-
|style="text-align:center"|第185回||1964年6月3日||{{Flagicon|IRL}}[[サンタクロース (競走馬)|Santa Claus]]||牡3||2:41.98||S.Breasley||M.Rogers||[[ジョン・イズメイ]]
|-
|style="text-align:center"|第186回||1965年6月2日||{{Flagicon|FRA}}[[シーバード|Sea Bird]]||牡3||2:38.41||T.P.Glennon||E.Pollet||[[ジャン・テルニンク]]
|-
|style="text-align:center"|第187回||1966年5月25日||{{Flagicon|GBR}}[[シャーロットタウン (競走馬)|Charlottown]]||牡3||2:37.63||S.Breasley||G.Smyth||[[アナスタシア・ド・トービー|ジア・ワーナー]] [[:en:Anastasia de Torby|en]]
|-
|style="text-align:center"|第188回||1967年6月7日||{{Flagicon|GBR}}[[ロイヤルパレス|Royal Palace]]||牡3||2:38.30||G.Moore||N.Murless||[[ジム・ジョエル]]
|-
|style="text-align:center"|第189回||1968年5月29日||{{Flagicon|IRL}}[[サーアイヴァー|Sir Ivor]]||牡3||2:38.73||L.Piggott||M.V.O'Brien||Powhatan Stable<!--英語版ではレイモンド・R・ゲスト-->
|-
|style="text-align:center"|第190回||1969年6月4日||{{Flagicon|GBR}}[[ブレイクニー|Blakeney]]||牡3||2:40.30||G.Moore||I.Balding||[[アーサー・M・バジェット]]
|-
|style="text-align:center"|第191回||1970年6月3日||{{Flagicon|IRL}}[[ニジンスキー (競走馬)|Nijinsky]]||牡3||2:34.68||L.Piggott||M.V.O'Brien||[[チャールズ・W・エンゲルハード・ジュニア]]
|-
|style="text-align:center"|第192回||1971年6月2日||{{Flagicon|GBR}}[[ミルリーフ|Mill Reef]]||牡3||2:37.14||G.Lewis||I.Balding||Rokeby Stable<!--英語版では[[ポール・メロン]] [[:en:Paul Mellon]]-->
|-
|style="text-align:center"|第193回||1972年6月7日||{{Flagicon|IRL}}[[ロベルト (競走馬)|Roberto]]||牡3||2:36.09||L.Piggott||M.V.O'Brien||Darby Dan Farm<!--英語版では[[ジョン・W・ガルブレス]] [[:en:John W. Galbreath]]-->
|-
|style="text-align:center"|第194回||1973年6月6日||{{Flagicon|GBR}}[[モーストン|Morston]]||牡3||2:35.92||E.Hide||A.Budgett||アーサー・M・バジェット
|-
|style="text-align:center"|第195回||1974年6月5日||{{Flagicon|GBR}}[[スノーナイト|Snow Knight]]||牡3||2:35.04||B.Taylor||P.Nelson||N.Phillips & Windfields Farm<!--英語版では[[シャロン・フィリップス]] S.Phillips-->
|-
|style="text-align:center"|第196回||1975年6月4日||{{Flagicon|GBR}}[[グランディ|Grundy]]||牡3||2:35.35||P.Eddery||P.Walwyn||Scuderia Vittadini Sociedad Regular Colectiva<!--英語版では[[カルロ・ヴィタディーニ (馬主)|カルロ・ヴィタディーニ]] [[Carlo Vittadini (horse racing)|C.Vittadini]]-->
|-
|style="text-align:center"|第197回||1976年6月2日||{{Flagicon|FRA}}[[エンペリー|Empery]]||牡3||2:35.69||L.Piggott||M.Zilber||[[ネルソン・バンカー・ハント]] [[:en:Nelson Bunker Hunt|en]]
|-
|style="text-align:center"|第198回||1977年6月1日||{{Flagicon|IRL}}[[ザミンストレル|The Minstrel]]||牡3||2:36.44||L.Piggott||M.V.O'Brien||[[ロバート・サングスター]] [[:en:Robert Sangster|en]]
|-
|style="text-align:center"|第199回||1978年6月7日||{{Flagicon|GBR}}[[シャーリーハイツ|Shirley Heights]]||牡3||2:35.30||G.Starkey||[[ジョン・ダンロップ (競馬)|J.Dunlop]]||[[チャールズ・ウッド (第2代ハリファックス伯爵)|第2代ハリファックス伯爵]] [[:en:Charles Wood, 2nd Earl of Halifax|en]]
|-
|style="text-align:center"|第200回||1979年6月6日||{{Flagicon|GBR}}[[トロイ (競走馬)|Troy]]||牡3||2:36.59||W.Carson||W.Hern||[[マイケル・ソベル]] [[:en:Michael Sobell|en]]<!--サーになったようだが、英語版でもSirなし表記なのでこれより後に序されたと判断--><br />[[アーノルド・ウェインストック]] [[:en:Arnold Weinstock|en]]
|-
|style="text-align:center"|第201回||1980年6月4日||{{Flagicon|GBR}}[[ヘンビット|Henbit]]||牡3||2:34.77||W.Carson||W.Hern||Mr A.Plesch<!--英語版ではエッティ・プレシュ(女性)-->
|-
|style="text-align:center"|第202回||1981年6月3日||{{Flagicon|GBR}}[[シャーガー|Shergar]]||牡3||2:44.21||W.Swinburn||[[マイケル・スタウト|M.Stoute]]||[[アーガー・ハーン4世]]
|-
|style="text-align:center"|第203回||1982年6月2日||{{Flagicon|IRL}}[[ゴールデンフリース_(競走馬)|Golden Fleece]]||牡3||2:34.27||P.J.Eddery||M.V.O'Brien||ロバート・サングスター
|-
|style="text-align:center"|第204回||1983年6月1日||{{Flagicon|GBR}}[[ティーノーソ|Teenoso]]||牡3||2:49.07||L.Piggott||G.Wragg||[[エリック・モラー]]
|-
|style="text-align:center"|第205回||1984年6月6日||{{Flagicon|IRL}}[[セクレト|Secreto]]||牡3||2:39.12||C.Roche||D.O'Brien||[[ルイージ・ミリティ]]
|-
|style="text-align:center"|第206回||1985年6月5日||{{Flagicon|GBR}}[[スリップアンカー|Slip Anchor]]||牡3||2:36.23||S.Cauthen||[[ヘンリー・セシル|H.Cecil]]||[[ジョン・スコット=エリス (第9代ハワード・ドゥ・ウォールデン男爵)|第9代ハワード・ドゥ・ウォールデン男爵]]
|-
|style="text-align:center"|第207回||1986年6月4日||{{Flagicon|GBR}}[[シャーラスタニ|Shahrastani]]||牡3||2:37.13||W.Swinburn||M.Stoute||アーガー・ハーン4世
|-
|style="text-align:center"|第208回||1987年6月3日||{{Flagicon|GBR}}[[レファランスポイント|Reference Point]]||牡3||2:33.90||S.Cauthen||H.Cecil||[[ルイス・フリードマン]]
|-
|style="text-align:center"|第209回||1988年6月1日||{{Flagicon|GBR}}[[カヤージ|Kahyasi]]||牡3||2:33.84||[[レイ・コクレーン|R.Cochrane]]||L.Cumani||アーガー・ハーン4世
|-
|style="text-align:center"|第210回||1989年6月7日||{{Flagicon|GBR}}[[ナシュワン|Nashwan]]||牡3||2:34.90||W.Carson||W.Hern||[[ハムダン・ビン=ラーシド・アール=マクトゥーム|ハムダン・ビン=ラーシド・アール=マクトゥーム]] [[:en:Hamdan bin Rashid Al Maktoum|en]]
|-
|style="text-align:center"|第211回||1990年6月6日||{{Flagicon|GBR}}[[クエストフォーフェイム|Quest for Fame]]||牡3||2:37.26||P.Eddery||R.Charlton||[[ハーリド・ビン・アブドゥッラー]]王子
|-
|style="text-align:center"|第212回||1991年6月5日||{{Flagicon|GBR}}[[ジェネラス|Generous]]||牡3||2:34.00||[[アラン・ムンロ|A.Munro]]||P.Cole||[[ファハド・ビン=サルマーン・アブドゥル=アズィーズ・アール=サウード|ファハド・ビン=サルマーン・アブドゥル=アズィーズ・アール=サウード]] [[:en:Fahd bin Salman bin Abdulaziz Al Saud|en]]
|-
|style="text-align:center"|第213回||1992年6月3日||{{Flagicon|GBR}}[[ドクターデヴィアス|Dr Devious]]||牡3||2:36.19||J.Reid||[[ピーター・チャップルハイアム|P.C-Hyam]]||[[シドニー・クレイグ]] [[:en:Sidney Craig|en]]
|-
|style="text-align:center"|第214回||1993年6月2日||style="white-space:nowrap"|{{Flagicon|GBR}}[[コマンダーインチーフ|Commander in Chief]]||牡3||2:34.51||[[マイケル・キネーン|M.Kinane]]||H.Cecil||ハーリド・ビン・アブドゥッラー王子
|-
|style="text-align:center"|第215回||1994年6月1日||{{Flagicon|GBR}}[[エルハーブ|Erhaab]]||牡3||2:34.16||W.Carson||J.Dunlop||ハムダン・ビン=ラーシド・アール=マクトゥーム
|-
|style="text-align:center"|第216回||1995年6月10日||{{Flagicon|UAE}}[[ラムタラ|Lammtarra]]||牡3||2:32.31||W.Swinburn||[[サイード・ビン・スルール|S.bin Suroor]]||サイード・ビン=マクトゥーム・アール=マクトゥーム [[:en:Saeed bin Maktoum al Maktoum|en]]
|-
|style="text-align:center"|第217回||1996年6月8日||{{Flagicon|GBR}}[[シャーミット|Shaamit]]||牡3||2:35.05||M.Hills||W.Haggas||[[ハリーファ・ダスマル]]
|-
|style="text-align:center"|第218回||1997年6月7日||{{Flagicon|GBR}}[[ベニーザディップ|Benny the Dip]]||牡3||2:35.77||W.Ryan||J.Gosden||L.Knight & Claiborne Farm<!--英語版では[[ランドン・ナイト]] L.Knight-->
|-
|style="text-align:center"|第219回||1998年6月6日||{{Flagicon|UAE}}[[ハイライズ|High-Rise]]||牡3||2:33.88||[[オリビエ・ペリエ|O.Peslier]]||L.Cumani||[[ムハンマド・オベイド・アール=マクトゥーム|ムハンマド・オベイド・アール=マクトゥーム]]
|-
|style="text-align:center"|第220回||1999年6月5日||{{Flagicon|GBR}}[[オース|Oath]]||牡3||2:37.43||[[キーレン・ファロン|K.Fallon]]||H.Cecil||[[サラブレッド・コーポレーション]] [[:en:The Thoroughbred Corp.|en]]
|-
|style="text-align:center"|第221回||2000年6月10日||{{Flagicon|IRL}}[[シンダー|Sinndar]]||牡3||2:36.75||J.Murtagh||J.Oxx||アーガー・ハーン4世
|-
|style="text-align:center"|第222回||2001年6月9日||{{Flagicon|IRL}}[[ガリレオ (競走馬)|Galileo]]||牡3||2:33.27||M.Kinane||[[エイダン・オブライエン|A.O'Brien]]||[[ジョン・マグナー|スーザン・マグナー]]<!--英語版では[[ジョン・マグナー]]と[[マイケル・テイバー]]-->
|-
|style="text-align:center"|第223回||2002年6月8日||{{Flagicon|IRL}}[[ハイシャパラル|High Chaparral]]||牡3||2:39.45||J.Murtagh||A.O'Brien||[[マイケル・テイバー]]<!--英語版ではジョン・マグナーとマイケル・テイバー-->
|-
|style="text-align:center"|第224回||2003年6月7日||{{Flagicon|GBR}}[[クリスキン|Kris Kin]]||牡3||2:33.35||K.Fallon||M.Stoute||[[サイード・スハイル]]
|-
|style="text-align:center"|第225回||2004年6月5日||{{Flagicon|GBR}}[[ノースライト (競走馬)|North Light]]||牡3||2:33.72||K.Fallon||M.Stoute||[[バリーマコール・スタッド]]
|-
|style="text-align:center"|第226回||2005年6月4日||{{Flagicon|GBR}}[[モティヴェーター|Motivator]]||牡3||2:35.69||J.Murtagh||M.Bell||[[ロイヤル・アスコット・レーシング・クラブ]]
|-
|style="text-align:center"|第227回||2006年6月3日||{{Flagicon|GBR}}[[サーパーシー|Sir Percy]]||牡3||2:35.23||M.Dwyer||M.Tregoning||[[アンソニー・パケナム]]
|-
|style="text-align:center"|第228回||2007年6月2日||{{Flagicon|GBR}}[[オーソライズド|Authorized]]||牡3||2:34.77||[[ランフランコ・デットーリ|L.Dettori]]||P.C-Hyam||[[サレハ・アル=ホマイジ|サレハ・アル=ホマイジ]]<br />[[イマード・アル=サガール|イマード・アル=サガール]]
|-
|style="text-align:center"|第229回||2008年6月7日||{{Flagicon|IRL}}[[ニューアプローチ|New Approach]]||牡3||2:36.50||[[ケヴィン・マニング|K.Manning]]||J.Bolger||Mrs. J.Bolger<!--英語版では[[ハヤー・ビント・アル=フセイン|ハヤー・ビント・アル=フセイン]]王女 [[:en:Princess Haya Bint Al Hussein|Princess H.B.Al Hussein]]-->
|-
|style="text-align:center"|第230回||2009年6月6日||{{Flagicon|IRL}}[[シーザスターズ|Sea the Stars]]||牡3||2:36.74||M.Kinane||J.Oxx||[[クリストファー・ツイ]]
|-
|style="text-align:center"|第231回||2010年6月5日||{{Flagicon|GBR}}[[ワークフォース|Workforce]]||牡3||2:31.33||[[ライアン・ムーア|R.Moore]]||M.Stoute||ハーリド・ビン・アブドゥッラー王子
|-
|style="text-align:center"|第232回||2011年6月4日||{{Flagicon|FRA}}[[プールモア|Pour Moi]]||牡3||2:34.54||M.Barzalona||[[アンドレ・ファーブル|A.Fabre]]||[[ジョン・マグナー|ジョン・マグナー夫人]]、マイケル・テイバー、[[デレック・スミス]]
|-
|style="text-align:center"|第233回||2012年6月2日||{{Flagicon|IRL}}[[キャメロット (競走馬)|Camelot]]||牡3||2:33.90||[[ジョセフ・オブライエン|J.O'Brien]]||A.O'Brien||デレック・スミス、ジョン・マグナー夫人、マイケル・テイバー
|-
|style="text-align:center"|第234回||2013年6月1日||{{Flagicon|IRL}}[[ルーラーオブザワールド|Ruler of the World]]||牡3||2:39.06||R.Moore||A.O'Brien||ジョン・マグナー夫人、マイケル・テイバー、デレック・スミス
|-
|style="text-align:center"|第235回||2014年6月7日||{{Flagicon|IRL}}[[オーストラリア (競走馬)|Australia]]||牡3||2:33:63||J.O'Brien||A.O'Brien||D.Smith, Mrs J.Magnier, M.Tabor, T.Ah Khing
|-
|style="text-align:center"|第236回||2015年6月6日||{{Flagicon|GBR}}[[ゴールデンホーン|Golden Horn]]||牡3||2:32:32||L.Dettori||[[ジョン・ゴスデン|J.Gosden]]||A.Oppenheimer
|-
|style="text-align:center"|第237回||2016年6月4日||{{Flagicon|IRL}}[[ハーザンド|Harzand]]||牡3||2:40.09||P.Smullen||[[ダーモット・ウェルド|D.Weld]]||HH Aga Khan IV
|-
|style="text-align:center"|第238回||2017年6月3日||{{Flagicon|IRL}}[[ウイングスオブイーグルス|Wings of Eagles]]||牡3||2:33.02||P.Beggy||A.O'Brien||D.Smith, Mrs J.Magnier, M.Tabor
|-
|style="text-align:center"|第239回||2018年6月2日||{{Flagicon|GBR}}[[マサー|Masar]]||牡3||2:34.93||[[ウィリアム・ビュイック|W.Buick]]||[[チャーリー・アップルビー|C.Appleby]]||[[ゴドルフィン|Godolphin]]
|-
|style="text-align:center"|第240回||2019年6月1日||{{Flagicon|IRL}}[[アンソニーヴァンダイク|Anthony Van Dyck]]||牡3||2:33.38||S.Heffernan||A.O'Brien||D.Smith, Mrs J.Magnier, M.Tabor
|-
|style="text-align:center"|第241回||2020年7月4日||{{Flagicon|IRL}}[[サーペンタイン|Serpentine]]||牡3||2:34.43||E.McNamara||A.O'Brien||M.Tabor,D.Smith, Mrs J.Magnier
|-
|style="text-align:center"|第242回||2021年6月5日||{{Flagicon|GBR}}[[アダイヤー|Adayar]]||牡3||2:36.85||A.Kirby||C.Appleby||Godolphin
|-
|style="text-align:center"|第243回||2022年6月4日||{{Flagicon|GBR}}[[デザートクラウン|Desert Crown]]||牡3||2:36.38||R.Kingscote||M.Stoute||Saeed Suhail
|-
|style="text-align:center"|第244回||2023年6月3日||{{Flagicon|IRL}}[[オーギュストロダン (競走馬)|Auguste Rodin]]||牡3||2:33.88||R.Moore||A.O'Brien||Tabor / Smith / Maniger / Westernberg
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== 各国の「ダービー」 ==
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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*<ref name="バーネット27-35">『ダービー その世界最高の競馬を語る』p27-35「ランニングレイン事件」</ref>
*<ref name="バーネット67-69">『ダービー その世界最高の競馬を語る』p67-69「ロスチャイルド家の幸運」</ref>
*<ref name="バーネット83-88">『ダービー その世界最高の競馬を語る』p83-88「もっとも不運な牡駒」</ref>
*<ref name="ジョーンズ146-151">『The Derby : A celebration of the world's most famous horse race』p146-151「Tragedy at Tattenham Corner」</ref>
*<ref name="英国競馬事典55">『英国競馬事典』p55「エプソム競馬場」</ref>
*<ref name="Mortimer2">『Biographical Encyclopaedia of British Flat Racing』p2「Aboyeur」</ref>
}}
=== 各回競走結果の出典 ===
*1780年から1889年までの優勝馬、優勝騎手、馬主の出典:{{Cite book2|language=en|last=Muir|first=J. B.|title=Raciana, Or, Raiders' Colours of the Royal, Foreign, and Principal Patrons of the British Turf from 1762 to 1883|publisher=J. B. Muir|location=London|date=1890|pages=174–178|url=https://archive.org/details/racianaorridersc00muir/page/174}}
* [[レーシング・ポスト]]より(最終閲覧日:2017年8月16日)
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===書誌情報===
*『ダービー その世界最高の競馬を語る』アラステア・バーネット、ティム・ネリガン著、千葉隆章・訳、(財)競馬国際交流協会刊、1998
*『The Derby : A celebration of the world's most famous horse race』,Michael Wynn Jones,Croom Helm,London,1979
*『英国競馬事典』,レイ・ヴァンプルー、ジョイス・ケイ共著,山本雅男・訳,財団法人競馬国際交流協会・刊,2008
*『Biographical Encyclopaedia of British Flat Racing』Roger Mortimer and Richard Onslow and Peter Willet,Macdonald and jane's,1978,ISBN 0354085360
== 関連項目 ==
* [[ダービー (競馬)]]
* [[ダービー伯爵]]
* [[ハーラーダービー]]
* [[ダービー (イギリス)]]
* [[ダービーマッチ]] - 競馬のダービーとは無関係
* [[イギリスクラシック三冠]]
== 外部リンク ==
* [http://www.epsomderby.co.uk/ Epsom Downs Race Course] - エプソム競馬場
* [http://www.pedigreequery.com/index.php?search_bar=stakes&query_type=stakes&field=view&id=18 Epsom Derby - Pedigree-query]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B9 |
9,322 | 琵琶湖 | 琵琶湖(びわこ)は、滋賀県にある日本最大の面積と貯水量を持つ湖。一級水系「淀川水系」に属する一級河川である。国土交通大臣から委託を受けて滋賀県知事が管理を担う。湖沼水質保全特別措置法指定湖沼で、ラムサール条約登録湿地でもある。
古くは淡海・淡海の海・水海・近江の海・細波・鳰の海などとも呼ばれ、「びわ湖」「びわこ」と表記されることもあるほか、「Mother Lake」の愛称や「近畿の水瓶」の別称で呼ばれることもある。
約440万年前に形成された古代湖であり、40-100万年ほど前に現在の位置に移動してきた。内湖を含む多様な地形や多数の固有種を含む豊かな生態系をもっているが、近現代の開発により失われたり減少したりした地形や種もある。古くから近畿地方の水運・水利・漁撈における役割を担い、近江八景などをとおして景勝地としても知られ、作品の題材となることも多いほか、環境保全活動も盛んにおこなわれている。
琵琶湖は鈴鹿山地・伊吹山地・野坂山地・比良山地・甲賀山地といった山々に囲まれた滋賀県の近江盆地に位置する。面積は669.26平方キロメートルで、滋賀県の面積の6分の1を占め、日本最大である。貯水量は275億トンで、こちらも日本一である。湖底が最も深い水域は竹生島と安曇川河口の間にあり、2005年には104.1メートルの最大水深が計測された。南北の延長は長浜市西浅井町塩津 – 大津市玉野浦間で63.49キロメートル、最広部は長浜市下坂浜 – 高島市新旭町饗庭間の22.8キロメートル、最狭部は守山市水保町 – 大津市今堅田間の1.35キロメートルである。流域面積は後述するように3848平方キロメートルで、淀川流域の47パーセントに当たる。
最狭部に架かる琵琶湖大橋を挟んだ北側の主湖盆を北湖(太湖)、南側の副湖盆を南湖と呼ぶ。面積58平方キロメートル・平均水深4メートルの南湖に対し、北湖は面積623平方キロメートル・平均水深41メートルであり、湖水の99パーセントは北湖に蓄えられている。
東京湾平均海面(T.P.)基準でプラス84.371メートル、大阪湾最低潮位(O.P.)基準でプラス85.614メートルの高さが琵琶湖基準水位(Biwako Surface Level、B.S.L.)と定められている。B.S.L.は、1874年に鳥居川観測点において「これ以上水位が下がることはない」と判断して定められたものと推測されているが、その後、後述するように瀬田川が改修されたため、さらに水位を下げることが可能となり、2000年ごろまでには満水位を意味するようになった。1992年制定の瀬田川洗堰操作規則では、大津市三保ヶ崎および堅田漁港・高島市大溝漁港・長浜市高月町片山漁港・彦根港における計測水位の平均値が琵琶湖の水位とされている。
琵琶湖の湖底地形は、北湖の北湖盆・中湖盆と南湖(南湖盆)に分けられる。若い地形であり水深70メートルを超す北湖に対し、南湖は湖沼の発達ステージの終末状態に近く、水深5メートル以下である。逆くの字型の平面形態を示す北湖の湖底地形は、北西 - 南東方向の北湖盆(深度80 - 90メートル)と北東 - 南西方向の中湖盆(深度75メートル前後)に分かれており、沖島(後述)北側付近には両者を分ける靴状の湖底地形がある。北湖盆と中湖盆のいずれも、東側は傾斜が緩く、西側は傾斜が急である。北湖岸においては、若いリアス状の地形が湖底へと続く。また、後述の湖中島のほか水没島も存在する。
琵琶湖中央の湖底には、900メートルの土砂が堆積しており、その下には500メートルほどの岩盤がある。南湖の烏丸半島付近にも900メートルの土砂が堆積しているが、琵琶湖全体でみると岩盤や土砂の厚さは一定ではない。
琵琶湖湖岸の構造は多様であり、そのため後述するように生物も多様である。傾斜は西岸は急で東岸は緩やかな傾向にあり、下記の山地系湖岸を除く77パーセントは、流入河川の造営力を受けた平野系湖岸である。また、底質と植生から次の3つに分類することができる。
湖岸域には陸上生物圏と水中生物圏をなだらかに繋ぐ推移帯(英語版)が広がり、生物多様性への寄与や水質浄化機能といった様々な役割を果たしてきた。しかし第二次世界大戦後、大規模な護岸工事などにより人工湖岸が増え、推移帯としての面積は大幅に減少した。
琵琶湖周囲の約50キロメートルには湖岸堤・管理用道路が建設されており、県道としても利用されている。またそのほぼ全区間には前浜()と呼ばれる消波帯が設けられており、堤防の高さを低く抑える効果に加え、親水空間としての役割も果たしている。湖岸堤により分断された生物環境については、「マザーレイク21計画」や「琵琶湖・淀川流域圏の再生計画」において堤脚水路の再自然化が掲げられており、連続性の再生を目指した試験的なビオトープの造成が2003年以降実施されている。
琵琶湖の周囲には、琵琶湖の一部が土砂の堆積などにより切り離されてできた内湖と呼ばれる潟湖がある。内湖は、琵琶湖とは水路で結ばれているため水位変動の影響を受ける。以下で述べるように20世紀に多くの内湖が消失し、2013年現在残されているのは、近江八幡市の西の湖をはじめとする総面積4.25平方キロメートルの23内湖のみである。
昭和初期ごろまで、琵琶湖の周囲には大小40あまり、総面積29平方キロメートル(1940年時点)の内湖があった。これらの内湖は、繁茂するヨシなどにより河川より流入する水を浄化する機能や、魚類の産卵・生育の場、あるいは堆積した泥による肥料の提供といった役割を担ってきた。また後述するように、今津や堅田といった津の発展において船溜まりとしての役割を果たしたほか、安土城や大溝城の立地にも影響を与えた。
近代に入ると、後述する1905年の南郷洗堰の築造や1943年から治水・利水を目的として開始された淀川第1期河水統制事業の影響で琵琶湖の平均水位が10センチメートルほど下がったため、内湖の水深も浅くなり、内湖漁業は衰退した。さらに第二次世界大戦後には、人口増加・食糧不足に対応するための農地開発として16箇所、総面積25平方キロメートルあまりの内湖が干拓され消失した。なお、1985年 - 1990年にかけては、琵琶湖総合開発事業による湖周道路の敷設により琵琶湖の一部が切り離され、内湖化した例もある。また、長浜市において2001年より干拓農地の一部を湛水しての早崎内湖ビオトープ実験がおこなわれるなど、内湖再生の試みも行われている。
琵琶湖には沖島・竹生島・多景島の3島がある。沖島は近江八幡市の沖合い1.5キロメートルに位置する周囲約6.8キロメートル・面積約1.53平方キロメートルの島で、淡水湖沼の有人島としては日本唯一である。竹生島は長浜市の沖合6キロメートルに位置する周囲約2キロメートル・面積約0.14平方キロメートルの島、多景島は彦根市の沖合い5キロメートルに位置する周囲約600メートル・面積約0.012平方キロメートルの島である。竹生島と多景島には寺院があり、竹生島は西国三十三所や琵琶湖八景に含まれている。このほか、多景島から西に4キロメートルの地点には沖の白石が、草津市には1978年ごろに着工された人工島の矢橋帰帆島がある。またかつては、奥島(近江八幡市)も独立した島であった。
なお、湖北町延勝寺地先には「奥の洲」と呼ばれる浅水域があり、その水面上にある小島も「奥の洲」と称されている(奥の洲は湖面の水位が低下すると地続きとなる)。
琵琶湖には117本の一級河川を含む約450本の流入河川があり、周囲の山地からの流れを源流とする。主な流入河川としては、湖南・湖東では野洲川・日野川・愛知川などが、湖北では姉川・高時川・余呉川などが挙げられる。湖西には大きな河川は安曇川しかなく、ほかは比良山地からの小河川である。この内、野洲川と安曇川以外は50キロメートル未満で、急勾配・出水のしやすさ・渇水の多さを特徴とする。中世後期以降、一部の河川は天井川化しており、それにともない湖岸の土砂堆積状況が変化し、河口域では三角州の発達した例や逆に陸地が後退した例がある。
流出河川は、堅い岩盤でできた山の間を細く抜けていく瀬田川のみであり、宇治川、淀川と名前を変えて、大阪湾(瀬戸内海)へ至る。瀬田川には、琵琶湖の水位調整と下流域の治水・利水のために瀬田川洗堰が設けられている。琵琶湖からの流出経路は、これに琵琶湖疏水(第一、第二)および宇治発電所水路を加えた計4か所である。瀬田川の周りの山に水が堰き止められていることは、琵琶湖が湖として成立している要因の一つである。琵琶湖の治水・利水・交通などにおける淀川や琵琶湖疏水との関係については、後述する。
琵琶湖の河川法上の扱いは、淀川水系の一級河川である。琵琶湖は国土交通大臣が管理する大臣管理区間ではなく、全体が指定区間に指定され滋賀県知事に管理が委託されている。
琵琶湖と瀬田川の境界は、東海道本線の瀬田川橋梁から250メートルほど上流側の地点である。これは、かつては瀬田の唐橋の位置とされていたものが、1894年の「淀川改良工事計画」において約1キロメートル上流に移されたのち、1896年の旧河川法において滋賀郡石山村と栗太郡瀬田村の間に定められ、さらに1965年の河川法改正に伴い指定され直したものである。
琵琶湖が所属する市は次のとおりである(北から時計回り)。各市名の右に、市ごとの琵琶湖の面積(単位:平方キロメートル)を示す。
琵琶湖の市町境界については、かつて、どの市町にも組み入れられていなかった。2007年5月8日、沿岸の各自治体による共同会議において境界の設定に合意し、各自治体の議会の同意を得た上で総務省に届け出を行い、9月28日付で『官報』に確定が公示された。境界確定の目的は主に地方交付税交付金の増額である。また、増額された交付金の半分は琵琶湖の保全に使われることが発表されている。
琵琶湖は世界有数の古代湖であり、その成立はおよそ440万年前まで遡る。以降現在に至るまでの琵琶湖の各時代の環境は、古琵琶湖層群と呼ばれる三重県から滋賀県にかけて分布する地層における各累層の泥・砂・礫の構成比率の違いにより示されている。
440万年ほど前に琵琶湖が生まれたのは、後の三重県伊賀市である。まず、地盤の断層運動によりできた浅い窪地に水が溜まり、40 - 50万年ほどかけて浅くて狭い湖となった(断層湖)。この湖は、旧大山田村付近にあったことから、大山田湖と呼ばれる。300万年ほど前になると、この湖は阿山地方にまで北上した。この時代の前期に湖は広がり、後期には甲賀地方(滋賀)に位置する北部の沈下により狭くて深い湖となった(阿山・甲賀湖、佐山湖)。260万年ほど前にはさらに北上し、水口地域・日野地域・多賀地域にまで広がっていった。この時期には蒲生湖沼群と呼ばれる小さな三日月湖などが多数集まった沼沢地群になり、その後さらに河川とその周囲の湿地といった環境になるなど、不安定な水域であった。この時代に水の流出方向は伊勢湾方面から京都・大阪方面に変わったと考えられている。
現在滋賀と三重・岐阜両県の水系を分断している鈴鹿山脈は、180万年ほど前に隆起し始めた。100万年ほど前になると、現在の南湖の位置に堅田湖と呼ばれる小さな湖が形成された。同じころ、現在の北湖中央付近にも湖があったがその後陸地化したことが、地層の調査に基づき推定されている。また90万年ほど前には、現在の北湖中央を南北に横切る山地があった。その後琵琶湖の周辺に大きな地殻変動が生じ山地が隆起した43万年ほど前に、北湖の地域にまで琵琶湖は広がり、以降北進することなく現在にまで至っている。40万年ほど前の琵琶湖は現在よりも細長く、その後東へ向けて広がったと考えられている。
本節では、環境史(英語版)を中心に石器時代以降の琵琶湖の歴史について概説する。交通・治水・利水・漁撈・環境保全といった各分野における詳細については後述する。
琵琶湖には90を超える湖底遺跡があり、縄文時代後期から近代初期にかけてを存続の終期とするそれらからは、琵琶湖周辺の生活や文化の歩みを窺い知ることができる。一方、近世以前の琵琶湖についての史料は限定的であり、湖岸域の土地利用は変化しやすく支配関係の把握が難しいといった問題もあるため、琵琶湖の環境史研究は発展途上である。後述するように琵琶湖では古くから湖上交通や漁撈がおこなわれおり、その拠点として多くの集落が発達しており、津・浦・浜などの文字を含む地名からは、その成立における琵琶湖との密接な結び付きをうかがえる。
琵琶湖が現在の位置に定まったのは、旧石器時代末期ごろであり、琵琶湖周辺ではこのころの石器が発見されているが、詳細は不明である。縄文早期後半の石山貝塚などの遺跡からは淡水産の魚介類の貝殻や骨が発見されており、一部山間部にも居住の痕跡はあるが、湖畔での居住を好んだ傾向が窺える。また後述するように、縄文後期には丸木舟が使用されていたことも判明している。弥生前期から中期にかけての湖底遺跡からは、土器・木器・石器・炭化米や環濠などが発見されており、灌漑・排水が比較的容易であり漁撈の便もよい琵琶湖畔において、初期の稲作が多く営まれていたと推測できる。
後述するように、大津京遷都がおこなわれた飛鳥時代以降、多くの歌人が琵琶湖を歌に詠み込んでおり、湖上の往来が盛んになされていたこともうかがえる。また、奈良時代から近代にかけて、琵琶湖治水のために瀬田川の浚渫・改修が繰り返し計画・実施されることになる。なお、湖底遺跡は平安時代末期を存続の終期とするものが多い。
中世の文書や絵図に記された耕地の一部は、後に琵琶湖や内湖に水没している。後述する津の立地の変化の例として、この時期に琵琶湖水位の上昇により内湖が失われた木津(こづ、新旭町)に代わって、今津が発展するようになったことが挙げられる。また横江遺跡(守山市)などにおいては、鎌倉時代ごろの堀で囲まれた集落が確認されている。これらの堀はその深さや幅から、防衛機能よりも灌漑・排水や舟運としての性格が強かったと推測されており、水野 (2011, p. 10) は、琵琶湖の水位上昇に対応しての洪水対策という役割の可能性についても言及している。
織田・豊臣政権においては、安土城を拠点に湖上を一括管理し、経済・社会的に利用することが試みられた。安土城が築かれた大中湖一帯は、このころまで政治的中心地であったが、以降琵琶湖との間に砂州が形成されるなどしたため、豊臣・徳川政権と時代が進むにつれ、膳所や彦根にその地位を譲ることとなった。江戸時代の琵琶湖周辺域には、200あまりの集落があり、後述するように周囲の集落や田畑にはホリと呼ばれる水路が張り巡らされていた。
近代以降琵琶湖の面積は、1890年代の推定688平方キロメートルから、1990年代には669平方キロメートルまで減少している。この要因としては、南郷洗堰の築造に関連する水位の低下のほか、干拓・埋め立てや湖岸整備といった人為的なものが大きいと考えられる。
前述のとおり、琵琶湖の貯水量は275億トンであり、平均水位は84.371メートルがB.L.P.として定められている。
琵琶湖の集水域(流域)は3843平方キロメートルで、その98パーセントは滋賀県であり、また滋賀県の90パーセントが琵琶湖の集水域である。2015年を対象とした推定によると、流入河川より39.3億トン・地下水より7.4億トン・湖面への直接降水より12.2億トンの計58.9億トンが琵琶湖に流入、湖面での蒸発により4.0億トン・瀬田川より48.4億トン・琵琶湖疏水より4.9億トンが琵琶湖から流出しており、滞留時間は4.7年である。
琵琶湖の湖水は、その貯水量の約2倍の地下貯留水と繋がっており、湖水の保全と地下水の保全は密接に関わっている。また、琵琶湖周辺では年間平均10億トンの降雪があり、水温4度ほどで密度が大きい雪解け水は、北湖深部に酸素を供給する役割を果たす。
琵琶湖の水流は、流出部がいずれも南にあるため、基本的に北から南に向かうが、下記の環流や静振・密度流などにより、北向きの流れも頻繁に発生する。
透明度は、2018年の調査によると北湖で5.5メートル、南湖で2.2メートルであり、気象条件によっては16メートルを超える透明度を観測することもある。
琵琶湖では、66種の固有種を含む1700種以上の水性動植物が報告されるなど、豊かな生物相をもつ。オオクチバスやブルーギルをはじめとする外来種の侵入や1992年の琵琶湖水位操作規則の改訂、内湖の消失、水田とのネットワークの分断等によって固有の生物相が大きく攪乱を受け、漁獲高が激減した種も多い。それらへの対抗策も講じられ、外来種駆除や生態系に配慮した水位操作、内湖の再生など様々な取り組みが行われているが、まだ十分な効果をあげられていない。オオクチバスもブルーギルもおおむね漸減傾向にあり平成19年と令和3年の生息量を比較するとオオクチバスは444t→178t、ブルーギルは1,689t→223tとなっている。
琵琶湖周辺のアシ原にはクマネズミとドブネズミのクマネズミ属、カヤネズミなどが生息している。木造船に住むクマネズミ属は「ふなねずみ」と呼ばれ、その背中の毛は伝統工芸品である蒔絵筆(まきえふで)に用いられて、とくに根朱筆(ねじふで)と呼ばれた。2010年ごろからヌートリアが湖岸や淀川水系の河川で見られるといい、琵琶湖博物館が調査を行っている。
1980年代以降、日本各地でニホンイノシシやリュウキュウイノシシが海や湖を泳いで島に分布を拡大していることが報告されているが、海を渡る例が多く、確認された湖の例は琵琶湖の竹生島と沖島のみだという。沖島では伊崎半島から渡ってきたと思われるニホンイノシシが2009年に初めて目撃され、竹生島には2011年に葛籠尾崎から渡っている様子が目撃された。必ずしも島に留まらず、行き来する様子が確認されている。竹生島に渡っている個体群は、かつて奥島であった奥島山や長命寺山の山塊に生息しているものだが、視認されるのは1991年ごろからで古くからの生息域ではない。東南方向の山地部から来たと考えられている。高橋 (2017, pp. 26–41)では、調査を行っている時点で沖島の住民にイノシシの知見がなく、効果的な対策を行えておらず農作物に被害が生じていることを報告している。高橋はさらに、いずれの島もカワウの大きなコロニーがあり、これが発生する生ぐさい臭いがイノシシを誘引している可能性を指摘している。
琵琶湖(内湖を含む)とその湖岸、流入河川の河口に生息する鳥類は、渡り鳥なども含めると140種類ほどになる。カモ科が31種と最も多く、シギ科・サギ科・カモメ科がそれに続く。
ビワマスやアユなどは川を、コイ・フナ・ドジョウなどは水田を産卵場所として利用することが多いなど、琵琶湖に生息する魚類は周辺の水域との間を移動し、環境の違いをうまく利用している。
陸封型である琵琶湖産アユは、両側回遊型の海産系アユと同種であるが、10センチメートルほど(海産系アユは30センチメートルほど)にしか成長せず、コアユとも呼ばれる。
養殖や放流に用いられて日本の湖沼や河川にも一般的に生息している体高の高いコイ(飼育型コイ)はユーラシア大陸から導入された系統で、日本在来のコイとは異なることが遺伝学的な研究から明らかにされた。器官の形態や生息場所など生態学的な違いがあるが交雑が起こり、日本の自然水域では交雑個体が高頻度で検出されている。在来型コイが残存している水域は限られており、琵琶湖では北部に個体群が知られている。環境省のレッドリストでは「絶滅のおそれのある地域個体群(LP)」に指定されている。
複数の琵琶湖に由来する種や遺伝的グループが淀川水系の外に導入されている。
アユは河川漁業・遊漁にとって重要な魚種として日本各地で種苗放流が行われていて、琵琶湖では各地に出荷する種苗としてアユが採捕されている。資源量やその他の特徴により琵琶湖産の種苗は重用され、1990年代ごろは重量ベースで90パーセントを占めるなど、日本のアユ種苗を寡占していた。河川での交雑の可能性は小さいが、完全には否定されない。
アユ種苗での混獲による非意図的な導入の影響は大きく、例えば淀川水系固有種と三方五湖が本来の生息地であるハスが関東地方から九州地方に至る範囲で導入され国内外来種となっている。オイカワは東アジア一帯に広く分布する種とされているが、地理的に隔てられて遺伝的な分化が起きており、それぞれが固有の遺伝的特徴を持つ。アユ放流にともなって琵琶湖由来のオイカワが導入され、本来の生息域外に分布を広げただけでなく、在来のグループとの交雑を起こしている。高村 (2013, pp. 85–100) はマイクロサテライト領域DNAによって鬼怒川と那珂川のオイカワで関東グループと琵琶湖グループの交雑が起きていることを示した上で、琵琶湖由来のオイカワが定着していない河川が珍しいほどであるために、交雑や国内外来の問題を解明することが難しいと指摘している。
ゲンゴロウブナは、品種改良したヘラブナの名前で知られていて、釣りの対象として人為的なものを含む導入が行われて、現在では全国的に分布している。ヘラブナの放流種苗においても、モツゴやヨシノボリ属の混入が起こり分布域を拡散させたという。
沈水植物は維管束植物が23種、車軸藻類が13種確認されている。1950年 - 1960年代以降に、ガシャモクとリュウノヒゲモが絶滅したと考えられる。固有種であるネジレモは、茎を持たず葉をロゼット状に湖底から直接伸ばしているため、茎を持ち水面に葉を近づけられるクロモやコカナダモに比して水質悪化の影響を受けやすく、2000年ごろまでに個体数・分布域が大きく減少した。このほかサンネンモも固有種であり、2012年には野生絶滅種とされたホシツリモが河口湖に次いで発見された。外来種としては1960年代・1980年代にコカナダモが1970年代・1990年代にオオカナダモが大繁殖したほか、オオフサモ・ハゴロモモなども侵入している。
北湖における沈水植物の分布面積は2013年時点で8パーセントほどで、透明度の約2倍の水深10メートル近くまで生育している。北湖東岸など遠浅の湖底の箇所においては、沿岸から沖合いに向かってササバモ・オオササエビモ・ヒロハノエビモ・ヒロハノセンニンモ・サンネンモの順に優先種が変化する。南湖においては、1994年から2014年にかけて沈水植物の分布面積が11パーセントから96パーセントにまで拡大した。沈水植物群落の密生は船舶の航行や漁業の妨げとなり、低酸素水塊の発生による湖底の生物への影響なども懸念されるため、滋賀県などにより除去事業が実施されている。
浮葉植物については、外来種のチクゴスズメノヒエの分布拡大により、アサザの発芽場所が減少し、同種の自生群生地は2015年現在東近江市の農業用水路のみとなっている。また2004年以降は外来種のナガエツルノゲイトウがチクゴスズメノヒエ以上に群落を拡大させている。
湖岸や内湖には、葦の群落がある。葦は、富栄養化物質などを根から吸うことにより、水湿を改善する能力をもつ。また水の流れを緩やかにすることにより、同様に水質改善能力をもつ藻類やバクテリアの繁殖を促す役割も果たしている。また、琵琶湖は日本国内に現存する2大葦産地のひとつであり、葦簀などの加工品が生産されている。葦帯の一部は琵琶湖総合開発事業において消失したものの、1988年から1992年にかけて人工植栽が行われるなどした結果、2007年ごろには自然群落と同程度にまで復元されたと考えられる。
そのほか湖岸には、内陸の淡水湖沿岸においては唯一ハマゴウが自生している。1980年代と2000年代の湖岸の植生の変化を比較した金子 & 佐々木 (2016) によると、外来植物や人為的な植生、熱帯生種群や泥質立地種群が拡大する一方で、湖岸の景観を特徴づける植物群落が各湖岸地形において減少・消失している。
動物性プランクトンは約240種が記録されており、北湖表層水には1リットルあたり数個体から数百個体程度のミジンコが含まれる。ミジンコの中で最も多いのはカブトミジンコ(英語版)でアユなど餌となっている。2005年ごろからは捕食者のアユの減少により、外来種で大型のプリカリアミジンコ(英語版)が増加しており、ミジンコの濾過能力が琵琶湖の水質改善に影響を与えたと考えられる。そのほか、ヤマトヒゲナガケンミジンコ(オランダ語版)も多く見られ、ストロビリディウム属や小型センモウチュウといった原生動物は通年、ワムシはハネウデワムシ(英語版)が通年、ネズワムシ(英語版)が夏から秋にかけて見られる。
植物性プランクトンは約240種が記録されている、北湖表層水には1リットルあたり数百万細胞が含まれる。1950年代初頭には、秋から冬には珪藻(ホシガタケイソウ(英語版)やメロシラ(英語版))が、夏には緑藻(ビワクンショウモなど)が現れる比較的安定した季節変化が見られた。しかしその後の富栄養化にともない、1960年代半ばごろよりミカヅキモ(緑藻)・シネドラ(珪藻)・フォルミディウム(英語版)(藍藻)といった特定種の大増殖が発生するようになり、1977年以降黄金色藻のウログレナ(ドイツ語版)による赤潮(5-6月ごろ)が、1983年以降藍藻(アナベナやミクロキスティス(英語版))によるアオコ現象(夏 - 秋)が発生している。
琵琶湖は元々、近淡海・淡海・淡海の海(あふみのうみ)・水海(すいかい)・近江の海・細波(さざなみ)・鳰の海(にほのうみ)などと呼ばれていた。
『古事記』においては、その伊邪那岐の大神は、淡海の多賀に坐すなり(上巻)や東の方追ひ廻りて近淡海国に到り(中巻)といった用字で現在の滋賀県のことを表している。同書における琵琶湖を指す記述としては中巻の
いざ吾君 振熊が痛手追はずは 鳰鳥の 阿布美能宇美迩 潜きせなわ
という歌謡のみが挙げられる。一方『日本書紀』には
淡海の海 瀬田の済に 潜く鳥 目にし見えねば憤りしも
という歌謡をはじめとし、淡海の海・淡海の表記が多数見られ、近淡海の用字はほとんど見られない。同書における近江の表記は、天智天皇5年に是の冬に宮都の鼠、近江に向きて移るとあるなど、奈良時代の近江遷都以降に顕著に現れる。その後の『続日本紀』の717年(養老元年)の条には行至近江国 観望淡海とあり、近江を国名、淡海を琵琶湖と使い分けていたことが示唆される。
また同時期の藤原武智麻呂の伝記には、近江は宇宙の名地[......]水海清くして広しとの記述があり、これが琵琶湖を水海と表記したものの初出である。さざなみの用字については、713年(和銅6年)の『近江風土記』逸文を引いた
との文がある。鳰の海については、下って平安時代の『源氏物語』は「早蕨」の巻の
しなてるや 鳰の海に 漕ぐ舟の 夏帆ならぬとも逢い見し物を
や『千載和歌集』の
我がそでの 涙や鳰の海ならん かりにも人をみるめなければ
また『新古今和歌集』の
鳰の海や 月の光のうつろへば 波の花にも秋はみえけり
などがある。琵琶湖を代表する鳥である鳰(カイツブリ)は、上述のように『古事記』にも表れており、後の1965年(昭和40年)には滋賀県の県の鳥にも指定されている。
琵琶湖という呼称の最も古い用例は、木村 (2001, pp. 157f.) によると、室町時代の明応年間(1492年 - 1501年)に活躍した僧侶景徐周麟の漢詩集『翰林葫盧集』の中の七言絶句「湖上八景」における
である。なお、琵琶湖を琵琶の形に喩えた例はこれよりも古く、比叡山延暦寺の僧侶光宗が1311年から1347年(応長元年から貞和3年)にかけて編述した『渓嵐拾葉集』に
との記述がある。周麟が琵琶湖の呼称を用いている漢詩はもう1つあるが、それに次いで古い琵琶湖の用例は江戸時代の儒学者伊藤仁斎による1645年(正保2年)の漢詩「過琵琶湖作」まで待たなければならない。その後、同じく儒学者の貝原益軒が1689年(元禄2年)に若狭・近江を旅した際に記した日記『諸州めぐり 西北紀行』には次のような記述がある。
この記述は、上述の『渓嵐拾葉集』に沿ったものである。また、同年に松本村の原田蔵六が記した地誌『淡海録』第1巻には、
とある。元禄年間から享保年間にかけてはほかにも、松尾芭蕉による俳諧文や朝鮮通信使の申維翰による『海游録』など、各種資料において琵琶湖の表記が見られる。さらに、江戸時代後期には伊能忠敬が1807年(文化4年)に「琵琶湖図」を作成するなど、地図上にも琵琶湖の表記が現れるようになる。なお、琵琶湖の語源については、上述の(弁財天の)琵琶とするもののほか、アイヌ語の「貝を採るところ」を意味する語に由来し、ビワ(ビハ)は水辺や湿原がある場所を指すという吉田金彦の説や、楕円形を表すビワ、枇杷の実の形に由来とする説もある。
明治年間には、琵琶湖汽船や琵琶湖新聞・琵琶湖踊・琵琶湖治水会・琵琶湖疏水など琵琶湖の名を冠する名称が多く現れており、琵琶湖という名称が定着したことが窺える。なお、琵琶湖という漢字は難しいことから、ひらがな書きにしたびわ湖やびわこなどの表記も見られる。その他、別称や愛称としては以下のようなものがある。
2021年現在、琵琶湖汽船・オーミマリン・沖島離島振興推進協議会が定期航路を運営している。
琵琶湖周辺では、縄文後期の丸木舟(鰹節型と割竹型の2形態、全長は最大のもので7.9メートル)が発見されており、先史時代から湖上交通がおこなわれていたことがわかる。弥生中期後半には丸木舟は準構造船に発展し、古代には湖北と都を結ぶ航路が築かれていた。『万葉集』にも琵琶湖の船は多く詠まれているが、帆を読んだものはほとんどなく、当時帆走は未発達であったと推測される。東大寺・藤原宮・石山寺の造営においては、甲賀・高島・田上からの木材が湖上交通を利用して運搬されている。
その後、平安時代に都が長岡京から平安京に遷都されると、北国・東国と都とを結ぶ琵琶湖という交通路は、大きく発展していくことになる。『延喜式』巻二六主税には北陸六箇国の税は塩津や勝野(高島市大溝)から湖上路を大津に運ぶとの規定があり、東海よりの物資も中山道を経て朝妻(米原市)から同様に大津に運ばれた。
湖上交通は、大量の物資や人を運ぶには便利であったが、前述の風や波による遭難のリスクもあった。高市連黒人による
という歌からは、舟旅への恐れが窺える。平安時代ないし室町時代には、
という歌が詠まれ、また「急がば廻れ」という諺も広まった。
平安時代から三津浜と呼ばれた比叡山の外港坂本は、中世には大津を凌駕するかたちで栄えるようになり、京都への物資運搬を担う馬借・車借が室町時代以降大きな力を持っていくことにも繋がった。湖上交通の中心は平安時代から引き続き南北ルートであったが、中世以降は琵琶湖の最狭部である堅田などを拠点とする東西ルートも発展していく。また前述のように、港(津)の発展には内湖が関わっており、内湖を含む湖岸環境の変化により、津の立地も変化している。
中世には荘園領主により港が管理されるようになり、年貢などの貢献物の輸送も湖上輸送も増え、琵琶湖は経済的に利用されるようになる。堅田は中世をとおして湖上交通において中心的な役割を果たし、船の検問などを行い湖上の安全を保証する見返りに金品を求めることのできる上乗権(うわのりけん)と呼ばれる特権を室町時代に与えられた。湖上には坂本を中心に複数の関も設けられ、関銭は山寺の造営などに用いられた。
建武3年(1336年)には足利尊氏を追った義良親王・北畠顕家が大軍を率いて琵琶湖を東から西に渡るなど、湖上は軍事的にも利用されるようになっていく。戦国時代に入ると、従来の比叡山延暦寺に加え戦国大名の浅井氏が菅浦・大浦・沖島、六角氏が堅田の船を支配下に置くなど、各浦の船の掌握を図るようになった。
近世には、物資輸送・地場産業が振興され、発展した港の間で輸送を巡っての紛争もたびたび起こっていた。またこのころには、日本海などの弁財船よりも幅が狭い丸子船(丸船・丸木船・丸太船とも)と呼ばれる琵琶湖特有の木造和船が使われるようになった。後述するように湖岸の田畑や集落には、ホリと呼ばれる水路が張り巡らされており、たとえば草津市志那町では、閘門を通じて田舟を琵琶湖に下ろし、浜大津まで往復することもあったと伝えられている。
織田信長は港を重視し、天正元年(1573年)に船長約54メートルの船で坂本から京都に入るなど、琵琶湖を軍事的に大きく活用した。豊臣政権下では、京都から大阪へと物資の流れが変わり、それに伴い湖上交通の拠点も堅田や坂本から大津に移ることになる。豊臣秀吉により創設された大津百艘船は、大津からの積荷を独占的に扱えるなどとする特権を浅野長吉が天正15年(1587年)に下した高札により与えられた。また天正17年ごろには、観音寺が船奉行を務めることとなった。秀吉は、湊への着岸順に荷物を積み出すことができるとする艫折廻船(ともおりかいせん)という制度により、堅田の湖上特権を否定した平等な流通システムの創設もおこなった。豊臣政権下で築かれたこれらの体制は徳川政権下でも踏襲されることとなる。
西廻海運の成立以降は、若狭国の小浜・敦賀から琵琶湖を経由する流通路は衰退し、湖上水運は周辺域の流通路へと変容していった。このため、堅田・大津・近江八幡の三ヵ浦は小さな湊にまで出向き争論を繰り広げるようになり、その後堅田・大津・大溝・舩木・今津・海津・大浦・塩津・八幡の九ヵ浦体制が成立した。大津を拠点とする観音寺が貞享2年(1685年)に船奉行職を罷免され、以降京都や四日市を拠点とする幕府の官僚的代官が船奉行を務めることとなったことには、幕府にとって琵琶湖水運の地位が低下したことが表れている。もっとも船数は大幅には減少せず、江戸時代中期の享保年間には5740艘もの船が琵琶湖を行き来していたとされる。また、流通路としての地位の回復や後述の水害への対策、新田開発などを目的として、琵琶湖 - 敦賀間に運河を通す計画が、江戸時代を通じ複数回持ち上がっている。
江戸時代には幕府のほか、彦根藩も独自の船支配をおこなっていた。彦根では古代以来、朝妻が東西航路の起点であったが、元和年間に松原・米原・長浜の彦根三湊が水運の中核として取って代わった。享保年間には争論の結果、彦根三湊が大津百艘船の特権を切り崩すこととなった。
近代に入り明治2年(1869年)に蒸気船一番丸(5トン12馬力の木造外輪船)が就航すると、ふたたび湖上交通が大量輸送を担うこととなる。既存の和船問屋や漁業者は蒸気船への妨害を行ったが、明治4年(1871年)には大津百艘船などの旧来の制度は解体された。1874年(明治7年)までに15隻の蒸気船が就航しており、汽船間の競争の激化により事故が続発するようになったため(後述)、1875年(明治8年)7月、滋賀県により汽船取締規則の通達が出されている。さらに翌1876年3月より大津湊町に汽船取締会所および同支所7箇所が設立され、安全航行のための会所規則が定められた。1880年(明治13年)7月には大阪 - 京都間の鉄道開通にともない長浜 - 大津間の鉄道連絡船の営業をめぐる争いが生じ、1882年(明治15年)には滋賀県の介入のもと3社合併により18隻を所有する太湖汽船会社が設立されている。翌1883年には日本初となる湖上鋼鉄船第一太湖丸(516トン)および第二太湖丸(498トン)も定期航路に就航し、1884年には長浜 - 敦賀間および長浜 - 大垣間の鉄道全線開通に併せてこちらも日本初となる鉄道連絡船が営業を開始した。1886年(明治19年)には紺屋関汽船・山田汽船が合併し湖南汽船会社が設立され、湖上交通は太湖汽船と堅田以南を営業区域とする湖南汽船の2大会社に統一されていくこととなる。
当初日本政府や太湖汽船によって30年程度と見積もられていた鉄道連絡船の役目は、予想外に早い1889年(明治22年)に東海道線が全線開通したことにより、わずか7年で終りを迎えることとなった。そのため後述するように、2大汽船会社は、貨客輸送から遊覧船へと営業の主力を切り替えていくことになる。さらに1931年(大正15年)には江若鉄道が今津まで開通し、以降は輸送に占める湖上交通の割合は低下したが、小地域間の湖上交通は1960年代まで続いた。なお、丸子船のような木造船は生業・生活に密接に関わるものとして大正ごろまで使われており、1880年(明治13年)の『滋賀県物産誌』に基づくと、輸送船・漁船・田船など少なくとも1万1100艘の船が存在していた。
近現代にも、琵琶湖を経由して日本海と太平洋や瀬戸内海を繋ぐ運河計画は、琵琶湖疏水の築造に携わった田辺朔郎による昭和初期の「大琵琶湖運河計画」や、高度経済成長期の「日本横断運河構想」など複数回立てられている。しかしモータリゼーションが進んだ結果、1964年(昭和39年)に琵琶湖大橋が、1974年(昭和49年)に近江大橋が架橋されたことが象徴するように、琵琶湖は水運の手段ではなく陸運の障碍物へと転じていった。
琵琶湖の湖岸域では、河川の氾濫のほか、「水込み」と呼ばれる琵琶湖の水位上昇による水害に悩まされてきた。古文書における琵琶湖周辺の水害の記録は、701年(大宝元年)以降多く残されている。
琵琶湖の水害を防ぐための瀬田川改修の歴史は、奈良時代の僧侶行基による瀬田川の流れを阻害する小山(のちの大日山)の掘削の試みにまで遡ることができる。その後江戸時代には、幕府の普請が2回と自普請が3回、計5回の浚渫工事がおこなわれており、特に1699年(元禄12年)の「河村瑞賢の大普請」と、高島郡深溝村の庄屋藤原太郎兵衛家の尽力の末に実現した1831年(天保2年)の普請が大規模なものであった。またこの間、流量増加による洪水を危惧する下流住民の反対などによりなかなか浚渫が実現しなかった時期には、あさり取りなどと称した地元住民による小規模な浚渫などもおこなわれている。
近代に入ってからは1890年(明治23年)以降、滋賀県内の有志が結成した琵琶湖水利委員同盟会や滋賀県知事大越亨により、繰り返し淀川の浚渫の陳情がなされた。1885年(明治18年)の淀川洪水で大きな被害を受けた下流域の反対にも遭ったが、1893年(明治26年)からは小規模な浚渫が実現した。さらに1900年から1908年(明治33年から41年)にかけては、大規模な浚渫と上述の大日山の掘削がおこなわれ、また南郷洗堰が築造されたため琵琶湖の水位の調整が可能となった。これらの工事以前には、プラス3.76メートルにまで水位が上昇し琵琶湖周辺のほとんどの地域が237日にわたって浸水した1896年(明治29年)の洪水をはじめとし、ほぼ隔年で長期間の浸水が発生していたが、以降の浸水被害は4年に1度程度にまで減じた。その後1961年(昭和36年)には南郷洗堰の隣接地に瀬田川洗堰が築造されている。
前述のとおり、琵琶湖湖岸域では弥生時代ごろから稲作がおこなわれていた。田畑よりも低い位置にある琵琶湖の水は使いにくかったため、昭和中ごろまで琵琶湖の水を農業や生活に利用することは少なく、もっぱら琵琶湖への流入河川や井戸の水を利用してきた。これらの河川の水量は琵琶湖に比べると少なく、また扇状地であるため伏流水化しやすい地形が多く、甲良町など農業用水の確保に問題を抱える地域も多かった。
琵琶湖に隣接する湿地帯においては、傾斜が緩いため通常の灌漑が困難であったが、琵琶湖や内湖の水を利用した水田の開発が歴史的に試みられてきた。形成期においては、泥田(超湿田)が広く見られたと推測され、次いで跳ね釣瓶や縄をつけた桶による直接取水もおこなわれるようになったと推測されている。その後遅くとも近世中期(中世にまで遡れる可能性もある)までには、ホリと呼ばれる水路や「蛇車(じゃぐるま)」と呼ばれる足踏み式の水車などの揚水機を用いた逆水灌漑がおこなわれるようになる。また、琵琶湖と内湖ないしホリとの境界部に堰や閘門を設けて水位を上昇させる方法も用いられており、これは明治時代に南郷洗堰が築造され琵琶湖の水位が低下したことに伴い採用された例が多いと推定される。1904年(明治37年)以降はポンプにより琵琶湖から内湖に揚水する方法も用いられるようになっていった。なお、大正年間の調査に基づくと、逆水灌漑の分布は湖南・湖東に多く、平地の傾斜が大きい湖北・湖西では少なかった。
昭和30年代ごろには上水道の普及が始まり、以降湖水の利用量は増えていくことになる。滋賀県では1980年ごろから2000年ごろにかけて、人口の増加などの要因により湖水の利用が大幅に増え、2019年時点における上水道の主要な水源は琵琶湖の水となっている。また、農業水利においては1970年代以降、大型ポンプを備えた施設で湖から水を汲み上げ、パイプラインで農地に配水する逆水灌漑による湖水の利用が増加した。牧野厚史 (2001, pp. 205–206) は、このような水利用は利用者から見えにくく、生活と水循環の関係に思いを馳せることが難しくなっていると指摘し、八幡堀の保存活動などは、単なる資源としての水利用に留まらない水問題への地域固有の解決策の方向を示しているのではないかと述べている。
京都で琵琶湖の湖水を生活用水の源とするようになったのは、琵琶湖第二疏水を完成させた1912年(明治45年)のことである。第一疏水は第二疏水より古く1890年(明治23年)に完成している。琵琶湖疏水の建設は東京奠都によって衰退の危機にあった京都を再興することを目的とし、まずは疏水の水車動力によって工業を近代化し、さらに水運を確保する計画で京都府知事の北垣国道が先導した。当時、京都では鴨川に源流を持つ京都盆地の水系を賀茂別雷神社(上賀茂神社)が支配し、御所の水源も「御所御用水流通水掛リ之儀者賀茂別雷神社 旧一社ニテ支配被致候」とされていた。構造的に夏の渇水期になると上流小山郷の田畑の灌漑が優先されることになり、御所の水は枯渇する様であった。疏水によってに御所用水路の新たな付け替えもあり、御所の庭園と防火用桝への安定供給が図られるようになった。琵琶湖疏水を介して毎秒24立方メートル(2017年時点)を取水し、水源の99パーセント(2019年ごろ)を琵琶湖に頼る京都市は、1914年(大正3年)以来京都市民の感謝の気持ちとして滋賀県に毎年感謝金(琵琶湖疏水感謝金)を支払っている。財源は京都市民の水道料金で、滋賀県は感謝金を水源保全に充てている。
大阪では1895年(明治28年)に淀川を水源とする本格給水が始まった。第二次世界大戦後の高度経済成長期に際しては、著しい産業発展により淀川での安定した取水が必要になった。琵琶湖下流域における水資源の需要の急速な拡大に対応するために、1972年(昭和47年)に琵琶湖総合開発特別措置法が制定。琵琶湖総合開発事業を策定した。事業の策定にあたって上流への影響は避けられないことから、不利益を減らすために原案は滋賀県知事が作成し内閣総理大臣がこれを決定する形がとられた。同事業によって水位低下補償事業が完了し、水位の管理について国(瀬田川洗堰管理者)と滋賀県、下流府県が初めて合意した。規則では、洪水時はあらかじめ水位をマイナス20センチメートルあるいはマイナス30センチメートルに下げて対処、非洪水時は30センチメートルを上限になるべく水位を高く保ち渇水に備えることを基本とし、下流域の渇水時には琵琶湖水位マイナス1.5メートルまで湖水を利用できることになっている。また、増大する水の需要に1991年(平成3年)度までは不安定な「暫定豊水水利権」(河川の流量が一定の流量を超える場合に限って取水できる水利権)で対応してきたが、同年度末には水資源開発事業が概成し都市用水として最大毎秒40立方メートルの新規水利権が与えられた。下流域の水利権を拡大せざるを得なかった背景には、京阪地域が渇水時であっても比較的豊富な水量を保つ水源として淀川、さらにその水源である琵琶湖への依存を強めたことがある。琵琶湖総合開発事業では、琵琶湖を文化面を含み多方面で活用し親しんでいる滋賀県民の生活に直接的な影響が及ぶことは避けられず、上流と下流の利権をいかに調整するかが事業の肝となった。上流の不利益を解消するために、下流の利水公共団体は琵琶湖とその周辺の上流域の福祉増進に利するために下流負担金602億円を負担することになった。
琵琶湖の水利用を巡っては、下流の京都・大阪への対抗心を表すために「琵琶湖の水止めたろか」というジョークがしばしば用いられる。野田 (2001, p. 232) は滋賀県・京都府・大阪府の住民を対象にした1995年のアンケート調査を参照し、滋賀県以外の住民は渇水時などには水源として琵琶湖を意識するが、普段はその存在を別段気に留めていないのだと結論づけている。
琵琶湖の湖岸一帯では天然ガスが湧出している場所があり、古くは湖北(現在の高島市)において農家が燃料として使用する例も見られた。湖南では1883年夏、栗太郡常盤村(現在の草津市)において住民が井戸を掘った際に、地下水に溶け込んでいる天然ガスの存在に気が付かず、水にカンテラを近づけて火柱を作った逸話も残る。燃料事情が逼迫した1941年には、大津市が大阪鉱山監督局に栗太郡瀬田町(現在の大津市)で石油(メタンガス)の試掘申請を行っている。
前述のとおり、琵琶湖には多様な魚介類が生息しており、漁場の環境も岩場・砂浜・内湖・沖合と多様であり、また淡水であるため魚が湖と河川を行き来することも要因とし、漁法もまた多様かつ独特のものとなっている。その中でも特に「待ち(型)の漁法」の発達と新規漁具の制限が特徴として挙げられる。これは、積極的・新進的な漁法を用いることによる資源の枯渇を避けるための、閉鎖水域である琵琶湖ならではの知恵である。
固有種を含む琵琶湖の魚介類は、伝統的な食材として、2013年現在においても盛んに食されている。淡水魚の生食を忌避する日本においては珍しく、ビワマス・イワトコナマズ・ニゴロブナやゲンゴロウブナ・ハスなどは造りとしても食される。このほか「ジュンジュン」と呼ばれるすき焼き・寄せ鍋や焼き物、佃煮などとしても食される。また、小アユを利用して、アユの飴煮(あめだき)が大津の名物、土産物として作られてきた。さらに、滋賀県では発酵食品が発展しており、鮒寿司をはじめとするなれずしも作られる。滋賀県には、海産物を扱う鮮魚店とはべつに淡水魚専門の鮮魚店があり、これらの店では鮮魚のほか、佃煮・なれずしといった加工品や鴨なども扱われている。
琵琶湖における魚介類の利用は、1万年以上前にまで遡ることができる。前述したように、縄文時代の遺跡からは、貝殻や魚の骨などが発見されており、タンパク源に占める琵琶湖産の魚介類(特にコイ科)の比率は哺乳類よりも高かったと考えられている。また、漁網用と推測される石錘・土錘も出土しており、漁具とともに出土した丸木舟も漁労に用いられたと推定される。稲作が開始された弥生時代には、魚類が水田を産卵場所として利用するようになったこともあり、漁網に代わり魞(エリ)や筌といった小型陥穽漁具による待ちの漁法が発達し、タンパク源に占める魚介類の比率はさらに高まった。古墳時代には土錘が増加・多様化し、また麻網も普及するようになり、漁獲対象種も多様化したと考えられる。
その後中世ごろには網漁が発達しており、従来河川や内湖で用いられていた小型の魞が琵琶湖沖合いで用いられる大型で複雑な魞へと発展したのも、中世の13世紀ごろであると考えられる。2017年現在用いられている漁法の内、アユ沖掬い網漁(1960年代に導入)を除く漁法の原初形態は、中世にはすでに存在していたと考えられる。流通に制約の大きかった中世においては、京都の鮮魚需要に対する琵琶湖の役割も大きかった。このころまでに漁撈をおもに営む集団の組織化が進んでおり、13世紀ごろには漁撈を巡る複数の紛争が起きていたとの記録がある。一方13世紀は、仏教思想が庶民の間にも広まり殺生を禁断とする意識が高まった時代でもあり、その葛藤を伝える説話なども残されている。
近世の17世紀ごろには、淡水魚である鯉から海水魚である鯛に政権の中心部における需要は移っていったが、18世紀から19世紀にかけても、漁撈を巡る紛争は頻繁に起きており、琵琶湖周辺の集落における漁撈はむしろ活発化したと考えられる。明治以降には、網地素材の化学繊維への変化や動力船の導入により、漁獲能力が向上したほか、大正・昭和期には、テナガエビとワカサギが移入され、漁獲対象種に加わった。また、大正末ごろには内湖の平湖と柳平湖(草津市)を発祥の地とする淡水真珠の養殖が開始されたが、第二次世界大戦後は内湖と琵琶湖が切り離されたことなどによる水質悪化により衰退した。漁獲量は1957年には1万300トンに達したが、その後減少し続け、2012年にはピーク時の10分の1の1029トンにまで減じ、魚種の構成もアユが40パーセントを占めるようになるなど大きく変化している。また、1956年には29種の漁具が用いられていたが、2015年には8種にまで減少している。前述の外来種(特にブルーギル)の侵入は魞漁の主漁場である推移帯(英語版)の生態系の撹乱を引き起こし、漁業者の生活を脅かしている。
飛鳥時代の近江遷都以降、後述のように近江を舞台とした歌が数多く詠まれており、多くの歌人たちが近江を訪れ、琵琶湖と周囲の光景に感性を刺激されたことが推測できる。近江八景は、当初は文学的モチーフであったが、江戸時代中ごろには街道を通行する人が増えたこともあり、『名所記』『名所図会』といった挿絵入りの旅行案内書や浮世絵などをつうじて、全国の民衆に膾炙するようになった。
1889年(明治22年)の東海道線全線開通は、前述の鉄道連絡船の廃止に繋がり汽船会社の経営に打撃を与えたが、同時に京阪神から琵琶湖観光に気軽に訪れることを可能にもした。湖南汽船は1894年(明治27年)に大津と石山および坂本間の航路で湖上観光の営業を開始している。次いで太湖汽船も南湖 - 北湖間の航路運行を開始し、1895年(明治28年)には鉄道連絡船廃止時点のレベルまで業績を回復させるに至っている。本格的な湖上遊覧の嚆矢ともされる湖南汽船の「近江八景めぐり遊覧船」(1903年〈明治36年〉就航)に続き、太湖汽船も遊覧観光船の建造を行うなどより湖上遊覧に力を入れることとなり、以降季節ごとの観光客誘致が展開された。1912年(大正元年)には京津電車の三条 - 札ノ辻間が開通し、京都方面からの観光客はさらに増加、2大汽船会社の競争もより激しく展開された。この時期には竹生島や長命寺への巡礼を含む観光が定着している。昭和に入ると琵琶湖ホテルの建設や湖水浴場の整備も進められ、太湖汽船と京阪電鉄によるマキノ・スキー場開設の翌年にあたる1930年(昭和5年)から1962年(昭和37年)にかけては、スキー客運ぶスキー船も運行された。
第二次世界大戦後の1950年(昭和25年)には琵琶湖が国定公園に指定されている。これに先駆け前年には、滋賀県民からの公募によって「琵琶湖八景」が選ばれ、翌1951年には観光船玻璃丸が就航した。1968年(昭和43年)のびわこ大博覧会以降は、琵琶湖の水質が悪化するなど、観光が軽視されるようになるが、びわこ国体で湖上輸送が試みられたのを機に、再度観光が顧みられるようになる。1982年(昭和57年)には玻璃丸を継ぐかたちで外輪船ミシガンが就航し、滞在型観光を目的としたリゾート・ネックレス構想や水上スポーツ施設の整備なども計画されたが、バブル経済の崩壊により計画は進まなかった。その後は、環境保全や歴史的文化資産の活用などの観点も取り入れた新しい観光スタイルが模索されている。2019年(令和元年)には琵琶湖岸を1周する200キロメートルの自転車ルートであるビワイチが、ナショナルサイクルルートの第1弾として指定された。
前述のとおり、記紀にはいくつか琵琶湖を題材とした歌謡が含まれている。その後の『万葉集』にも琵琶湖を題材とした歌は複数含まれており、近江国を舞台とする歌は近江遷都以降のものが多い。同歌集には柿本人麿の
など、「淡海の海」「近江の海」が含まれた歌が14首ある。また、湖や志賀にかかる枕詞「さざなみ」「楽浪」を含む歌は10首あり、おなじく柿本人麿による
という歌が特に著名である。湖岸の湊を詠んだ歌も多く、小弁による
などが挙げられる。飛鳥時代の湖上の賑わいを示す歌としては、
などが挙げられる。一方、都落ち間近に平忠度が詠んだ
は、上述のさざなみの枕詞を用いた歌のなかでもっとも有名なものであるが、浅見によるとそこには渺々とした琵琶湖の風景が表れている。平安時代の人の往来を示す歌としては、長徳2年(996年)に父藤原為時の越前武生への赴任に同行した紫式部が高島町三尾崎で詠んだ
が挙げられる。
菅原孝標女による『更級日記』や鎌倉時代の阿仏尼による『十六夜日記』にも琵琶湖周辺の光景が記述されており、中世文学においては竹生島信仰が、『平家物語』や謡曲『竹生島』などの作品で取り上げられている。戦乱の世になると、謡曲『自然居士』や室町時代の小唄を集めた『閑吟集』において琵琶湖の人買舟や密漁といった荒々しい様相が描写されるようになるが、一方軍記物においては『義経記』などに琵琶湖は登場しているものの、湖上の戦の様子を描いた作品はほとんどない。江戸時代については、松尾芭蕉による
などの琵琶湖畔で詠んだ90あまりの俳句と『幻住庵記』、そして上田秋成による夢物語「夢応の鯉魚」(『雨月物語』)が傑作として挙げられる。
近現代に琵琶湖に関連する小説としては、次のようなものがある(丸括弧内はおもな関連する土地)。
室町時代を描いた谷崎潤一郎『盲目物語』は、湖上の描写は少ないものの、作品世界は竹生島の沈鬱な影を色濃く帯びており、秦恒平『みごもりの湖』では藤原仲麻呂の乱の、成澤邦正『琵琶湖の浮城』では室町末期水茎の岡の湖上の戦が描かれている。琵琶湖の汚染や自然破壊を扱った作品としては、早くは1919年(大正8年)の近松秋江『湖光島影』があり、第二次世界大戦後の高度経済成長期には西口克己『びわ湖』が発表されている。また、中上健次『日輪の翼』や平成の小林恭二『カブキの日』にも琵琶湖(前者は瀬田の唐橋、後者は堅田)を舞台とした描写があるが琵琶湖そのものにはわずかしか触れられておらず、松村 (2001, p. 268) は自然破壊などにより琵琶湖の生命力が衰えたためだと述べている。
琵琶湖が描かれた現存最古の絵画は、おそらく『源氏物語絵巻』の「関屋」の段である。高梨 (2001, pp. 269f.) は、これ以前の『一遍聖絵』や鶏足寺の十二神将像についても、琵琶湖の水運ネットワークの影響があると指摘している。室町時代後半からは『近江名所図』の大作が残されており、室町時代の狩野派による屏風絵、同じく室町時代の大徳寺瑞峯院の『堅田図旧襖絵』、17世紀前半(江戸時代)の屏風絵などが挙げられる。17世紀後半以降には、近江八景を題材とした絵画(歌川広重によるものが有名)や着物の蒔絵・陶磁器の絵付けなどが現れるが、同時期には古典文学に材をとったものなど、近江八景以外の絵画も描かれている。近代以降は、多くの洋画家・日本画家が琵琶湖の多様な姿を描いている一方、今村紫紅や下保昭などは近江八景の枠組みの中で新たな試みをおこなっている。
1917年(大正6年)に作られた『琵琶湖周航の歌』は、滋賀県民に広く愛唱されている。そのほか、後述の琵琶湖遭難事故を歌った『琵琶湖哀歌』がある。
琵琶湖を舞台とした映画としては、『幻の湖』、『偉大なる、しゅららぼん』、『マザーレイク』などが挙げられる。
昭和40年代、高度経済成長に伴って湖水の水質汚濁や富栄養化が進んだ。原因の一つに合成洗剤、リン酸塩が挙げられ、主婦層や女性団体が「石鹸運動」を起こして対策・改善を求めた。このため滋賀県は独自に工業排水(英語版)と生活排水を規制する、いわゆる琵琶湖条例(滋賀県琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例)を制定するに至った。このほか琵琶湖に関する滋賀県独自の条例としては、『滋賀県琵琶湖のレジャー利用の適正化に関する条例』や『滋賀県琵琶湖のヨシ群落の保全に関する条例』、景観を守るための『ふるさと滋賀の風景を守り育てる条例』などがある。
滋賀県は7月1日を「びわ湖の日」に定めており、琵琶湖を保全する様々な活動「びわ活」を推進している。また、2021年時点、国際連合持続可能な開発目標(SDGs)に倣い、2030年に向けた琵琶湖版SDGsである『マザーレイクゴールズ(MLGs)アジェンダ"』策定を進めている。
1990年から1991年にかけ琵琶湖総合開発事業の一環として水質測定施設である南湖湖心局(大津市唐崎沖1.5キロメートル)と北湖湖心局(大津市南比良沖4キロメートル及び高島市今津沖3.5キロメートル)の3基が設置され、pH値、溶存酸素量、水温、流速などのデータが自動送信されていた。しかし、内部の測定機器が老朽化し、必要なデータ量も確保できたとして2006年度までに稼働が停止された。その後も維持費がかかり、船舶の衝突事故のおそれもあることから2018年度に撤去されることとなった。
また、琵琶湖の北方に位置する福井県若狭湾岸には、敦賀原発・美浜原発など多数の原発が立地する。琵琶湖との最短距離は20キロメートル程度であるため、原発事故で放射能汚染されれば水の供給に影響する可能性があると指摘されている。また、ヨシ群落保全条約により、水鳥にとって重要なヨシ群落保全が図られている。ラムサール条約湿地を指定するための国際的な基準の一つに、「定期的に2万羽以上の水鳥を支える湿地」とあり、琵琶湖はその基準を満たしている。そのことから、1993年6月10日、北海道釧路市で開催された「ラムサール条約第5回締約会議」において、国内で9番目のラムサール条約湿地となった。琵琶湖がラムサール条約に登録されたことを受け、水鳥をはじめとする野生生物と、湿地の保全や湿原の賢明な利用について理解を深めるための普及啓発活動や、調査・研究・監視等を行う拠点施設として「琵琶湖水鳥・湿地センター」ができた。ラムサール条約に指定されたことで、滋賀県全体で、琵琶湖の自然環境への取り組みが強化された。
滋賀県内の水難事故の3分の1が大津市消防局管内で発生している。大津市消防局が2015年に出動した水難救助件数は21件で、救助件数全体に占める割合は9パーセントであり全国平均の4.4パーセントの2倍以上となっている。前述したおろしなどの風は、漁船やウィンドサーフィンの事故の原因となることも多く、1941年(昭和16年)には琵琶湖遭難事故が発生している。
先に触れた近代における蒸気船の事故としては、まず1874年(明治7年)に長運丸が唐崎沖でボイラーの破裂により沈没し、数十名の乗客が犠牲となっている。その翌年には、満芽丸(大津所属)が加重積載により小松沖で沈没し、47人の犠牲者を出した。
このほか、太平洋戦争の終戦間際に零式艦上戦闘機(零戦)六二型が琵琶湖に不時着している。1978年(昭和53年)、湖底に沈んでいた零戦が引き上げられ京都嵐山美術館が修復、その後は和歌山県「ゼロパーク」、広島県「大和ミュージアム」と引き渡され、展示された。
※文末の「#」は、関連する節へのページ内リンクである。
※『滋賀県レッドデータブック』2015年版に基づき、希少(亜)種には「*」を、絶滅危機増大(亜)種には「**」を、絶滅危惧(亜)種には「***」を附す また、環境省レッドリスト2020年版に基づき、絶滅危惧IB類およびI類には「⁑」を、IA類には「⁂」を附す。琵琶湖においては絶滅したとされる種には「†」を附す。 | [
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"text": "琵琶湖(びわこ)は、滋賀県にある日本最大の面積と貯水量を持つ湖。一級水系「淀川水系」に属する一級河川である。国土交通大臣から委託を受けて滋賀県知事が管理を担う。湖沼水質保全特別措置法指定湖沼で、ラムサール条約登録湿地でもある。",
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"text": "古くは淡海・淡海の海・水海・近江の海・細波・鳰の海などとも呼ばれ、「びわ湖」「びわこ」と表記されることもあるほか、「Mother Lake」の愛称や「近畿の水瓶」の別称で呼ばれることもある。",
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"text": "約440万年前に形成された古代湖であり、40-100万年ほど前に現在の位置に移動してきた。内湖を含む多様な地形や多数の固有種を含む豊かな生態系をもっているが、近現代の開発により失われたり減少したりした地形や種もある。古くから近畿地方の水運・水利・漁撈における役割を担い、近江八景などをとおして景勝地としても知られ、作品の題材となることも多いほか、環境保全活動も盛んにおこなわれている。",
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"text": "琵琶湖は鈴鹿山地・伊吹山地・野坂山地・比良山地・甲賀山地といった山々に囲まれた滋賀県の近江盆地に位置する。面積は669.26平方キロメートルで、滋賀県の面積の6分の1を占め、日本最大である。貯水量は275億トンで、こちらも日本一である。湖底が最も深い水域は竹生島と安曇川河口の間にあり、2005年には104.1メートルの最大水深が計測された。南北の延長は長浜市西浅井町塩津 – 大津市玉野浦間で63.49キロメートル、最広部は長浜市下坂浜 – 高島市新旭町饗庭間の22.8キロメートル、最狭部は守山市水保町 – 大津市今堅田間の1.35キロメートルである。流域面積は後述するように3848平方キロメートルで、淀川流域の47パーセントに当たる。",
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"text": "最狭部に架かる琵琶湖大橋を挟んだ北側の主湖盆を北湖(太湖)、南側の副湖盆を南湖と呼ぶ。面積58平方キロメートル・平均水深4メートルの南湖に対し、北湖は面積623平方キロメートル・平均水深41メートルであり、湖水の99パーセントは北湖に蓄えられている。",
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"text": "東京湾平均海面(T.P.)基準でプラス84.371メートル、大阪湾最低潮位(O.P.)基準でプラス85.614メートルの高さが琵琶湖基準水位(Biwako Surface Level、B.S.L.)と定められている。B.S.L.は、1874年に鳥居川観測点において「これ以上水位が下がることはない」と判断して定められたものと推測されているが、その後、後述するように瀬田川が改修されたため、さらに水位を下げることが可能となり、2000年ごろまでには満水位を意味するようになった。1992年制定の瀬田川洗堰操作規則では、大津市三保ヶ崎および堅田漁港・高島市大溝漁港・長浜市高月町片山漁港・彦根港における計測水位の平均値が琵琶湖の水位とされている。",
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"text": "琵琶湖の湖底地形は、北湖の北湖盆・中湖盆と南湖(南湖盆)に分けられる。若い地形であり水深70メートルを超す北湖に対し、南湖は湖沼の発達ステージの終末状態に近く、水深5メートル以下である。逆くの字型の平面形態を示す北湖の湖底地形は、北西 - 南東方向の北湖盆(深度80 - 90メートル)と北東 - 南西方向の中湖盆(深度75メートル前後)に分かれており、沖島(後述)北側付近には両者を分ける靴状の湖底地形がある。北湖盆と中湖盆のいずれも、東側は傾斜が緩く、西側は傾斜が急である。北湖岸においては、若いリアス状の地形が湖底へと続く。また、後述の湖中島のほか水没島も存在する。",
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"text": "琵琶湖中央の湖底には、900メートルの土砂が堆積しており、その下には500メートルほどの岩盤がある。南湖の烏丸半島付近にも900メートルの土砂が堆積しているが、琵琶湖全体でみると岩盤や土砂の厚さは一定ではない。",
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"text": "琵琶湖湖岸の構造は多様であり、そのため後述するように生物も多様である。傾斜は西岸は急で東岸は緩やかな傾向にあり、下記の山地系湖岸を除く77パーセントは、流入河川の造営力を受けた平野系湖岸である。また、底質と植生から次の3つに分類することができる。",
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"text": "湖岸域には陸上生物圏と水中生物圏をなだらかに繋ぐ推移帯(英語版)が広がり、生物多様性への寄与や水質浄化機能といった様々な役割を果たしてきた。しかし第二次世界大戦後、大規模な護岸工事などにより人工湖岸が増え、推移帯としての面積は大幅に減少した。",
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"text": "琵琶湖周囲の約50キロメートルには湖岸堤・管理用道路が建設されており、県道としても利用されている。またそのほぼ全区間には前浜()と呼ばれる消波帯が設けられており、堤防の高さを低く抑える効果に加え、親水空間としての役割も果たしている。湖岸堤により分断された生物環境については、「マザーレイク21計画」や「琵琶湖・淀川流域圏の再生計画」において堤脚水路の再自然化が掲げられており、連続性の再生を目指した試験的なビオトープの造成が2003年以降実施されている。",
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"text": "琵琶湖の周囲には、琵琶湖の一部が土砂の堆積などにより切り離されてできた内湖と呼ばれる潟湖がある。内湖は、琵琶湖とは水路で結ばれているため水位変動の影響を受ける。以下で述べるように20世紀に多くの内湖が消失し、2013年現在残されているのは、近江八幡市の西の湖をはじめとする総面積4.25平方キロメートルの23内湖のみである。",
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"text": "昭和初期ごろまで、琵琶湖の周囲には大小40あまり、総面積29平方キロメートル(1940年時点)の内湖があった。これらの内湖は、繁茂するヨシなどにより河川より流入する水を浄化する機能や、魚類の産卵・生育の場、あるいは堆積した泥による肥料の提供といった役割を担ってきた。また後述するように、今津や堅田といった津の発展において船溜まりとしての役割を果たしたほか、安土城や大溝城の立地にも影響を与えた。",
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"text": "近代に入ると、後述する1905年の南郷洗堰の築造や1943年から治水・利水を目的として開始された淀川第1期河水統制事業の影響で琵琶湖の平均水位が10センチメートルほど下がったため、内湖の水深も浅くなり、内湖漁業は衰退した。さらに第二次世界大戦後には、人口増加・食糧不足に対応するための農地開発として16箇所、総面積25平方キロメートルあまりの内湖が干拓され消失した。なお、1985年 - 1990年にかけては、琵琶湖総合開発事業による湖周道路の敷設により琵琶湖の一部が切り離され、内湖化した例もある。また、長浜市において2001年より干拓農地の一部を湛水しての早崎内湖ビオトープ実験がおこなわれるなど、内湖再生の試みも行われている。",
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"text": "琵琶湖には沖島・竹生島・多景島の3島がある。沖島は近江八幡市の沖合い1.5キロメートルに位置する周囲約6.8キロメートル・面積約1.53平方キロメートルの島で、淡水湖沼の有人島としては日本唯一である。竹生島は長浜市の沖合6キロメートルに位置する周囲約2キロメートル・面積約0.14平方キロメートルの島、多景島は彦根市の沖合い5キロメートルに位置する周囲約600メートル・面積約0.012平方キロメートルの島である。竹生島と多景島には寺院があり、竹生島は西国三十三所や琵琶湖八景に含まれている。このほか、多景島から西に4キロメートルの地点には沖の白石が、草津市には1978年ごろに着工された人工島の矢橋帰帆島がある。またかつては、奥島(近江八幡市)も独立した島であった。",
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"text": "なお、湖北町延勝寺地先には「奥の洲」と呼ばれる浅水域があり、その水面上にある小島も「奥の洲」と称されている(奥の洲は湖面の水位が低下すると地続きとなる)。",
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"text": "琵琶湖には117本の一級河川を含む約450本の流入河川があり、周囲の山地からの流れを源流とする。主な流入河川としては、湖南・湖東では野洲川・日野川・愛知川などが、湖北では姉川・高時川・余呉川などが挙げられる。湖西には大きな河川は安曇川しかなく、ほかは比良山地からの小河川である。この内、野洲川と安曇川以外は50キロメートル未満で、急勾配・出水のしやすさ・渇水の多さを特徴とする。中世後期以降、一部の河川は天井川化しており、それにともない湖岸の土砂堆積状況が変化し、河口域では三角州の発達した例や逆に陸地が後退した例がある。",
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"text": "流出河川は、堅い岩盤でできた山の間を細く抜けていく瀬田川のみであり、宇治川、淀川と名前を変えて、大阪湾(瀬戸内海)へ至る。瀬田川には、琵琶湖の水位調整と下流域の治水・利水のために瀬田川洗堰が設けられている。琵琶湖からの流出経路は、これに琵琶湖疏水(第一、第二)および宇治発電所水路を加えた計4か所である。瀬田川の周りの山に水が堰き止められていることは、琵琶湖が湖として成立している要因の一つである。琵琶湖の治水・利水・交通などにおける淀川や琵琶湖疏水との関係については、後述する。",
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"text": "琵琶湖の河川法上の扱いは、淀川水系の一級河川である。琵琶湖は国土交通大臣が管理する大臣管理区間ではなく、全体が指定区間に指定され滋賀県知事に管理が委託されている。",
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"text": "琵琶湖と瀬田川の境界は、東海道本線の瀬田川橋梁から250メートルほど上流側の地点である。これは、かつては瀬田の唐橋の位置とされていたものが、1894年の「淀川改良工事計画」において約1キロメートル上流に移されたのち、1896年の旧河川法において滋賀郡石山村と栗太郡瀬田村の間に定められ、さらに1965年の河川法改正に伴い指定され直したものである。",
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"text": "琵琶湖が所属する市は次のとおりである(北から時計回り)。各市名の右に、市ごとの琵琶湖の面積(単位:平方キロメートル)を示す。",
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"text": "琵琶湖の市町境界については、かつて、どの市町にも組み入れられていなかった。2007年5月8日、沿岸の各自治体による共同会議において境界の設定に合意し、各自治体の議会の同意を得た上で総務省に届け出を行い、9月28日付で『官報』に確定が公示された。境界確定の目的は主に地方交付税交付金の増額である。また、増額された交付金の半分は琵琶湖の保全に使われることが発表されている。",
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"text": "琵琶湖は世界有数の古代湖であり、その成立はおよそ440万年前まで遡る。以降現在に至るまでの琵琶湖の各時代の環境は、古琵琶湖層群と呼ばれる三重県から滋賀県にかけて分布する地層における各累層の泥・砂・礫の構成比率の違いにより示されている。",
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"text": "440万年ほど前に琵琶湖が生まれたのは、後の三重県伊賀市である。まず、地盤の断層運動によりできた浅い窪地に水が溜まり、40 - 50万年ほどかけて浅くて狭い湖となった(断層湖)。この湖は、旧大山田村付近にあったことから、大山田湖と呼ばれる。300万年ほど前になると、この湖は阿山地方にまで北上した。この時代の前期に湖は広がり、後期には甲賀地方(滋賀)に位置する北部の沈下により狭くて深い湖となった(阿山・甲賀湖、佐山湖)。260万年ほど前にはさらに北上し、水口地域・日野地域・多賀地域にまで広がっていった。この時期には蒲生湖沼群と呼ばれる小さな三日月湖などが多数集まった沼沢地群になり、その後さらに河川とその周囲の湿地といった環境になるなど、不安定な水域であった。この時代に水の流出方向は伊勢湾方面から京都・大阪方面に変わったと考えられている。",
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"text": "現在滋賀と三重・岐阜両県の水系を分断している鈴鹿山脈は、180万年ほど前に隆起し始めた。100万年ほど前になると、現在の南湖の位置に堅田湖と呼ばれる小さな湖が形成された。同じころ、現在の北湖中央付近にも湖があったがその後陸地化したことが、地層の調査に基づき推定されている。また90万年ほど前には、現在の北湖中央を南北に横切る山地があった。その後琵琶湖の周辺に大きな地殻変動が生じ山地が隆起した43万年ほど前に、北湖の地域にまで琵琶湖は広がり、以降北進することなく現在にまで至っている。40万年ほど前の琵琶湖は現在よりも細長く、その後東へ向けて広がったと考えられている。",
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"paragraph_id": 25,
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"text": "本節では、環境史(英語版)を中心に石器時代以降の琵琶湖の歴史について概説する。交通・治水・利水・漁撈・環境保全といった各分野における詳細については後述する。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "琵琶湖には90を超える湖底遺跡があり、縄文時代後期から近代初期にかけてを存続の終期とするそれらからは、琵琶湖周辺の生活や文化の歩みを窺い知ることができる。一方、近世以前の琵琶湖についての史料は限定的であり、湖岸域の土地利用は変化しやすく支配関係の把握が難しいといった問題もあるため、琵琶湖の環境史研究は発展途上である。後述するように琵琶湖では古くから湖上交通や漁撈がおこなわれおり、その拠点として多くの集落が発達しており、津・浦・浜などの文字を含む地名からは、その成立における琵琶湖との密接な結び付きをうかがえる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "琵琶湖が現在の位置に定まったのは、旧石器時代末期ごろであり、琵琶湖周辺ではこのころの石器が発見されているが、詳細は不明である。縄文早期後半の石山貝塚などの遺跡からは淡水産の魚介類の貝殻や骨が発見されており、一部山間部にも居住の痕跡はあるが、湖畔での居住を好んだ傾向が窺える。また後述するように、縄文後期には丸木舟が使用されていたことも判明している。弥生前期から中期にかけての湖底遺跡からは、土器・木器・石器・炭化米や環濠などが発見されており、灌漑・排水が比較的容易であり漁撈の便もよい琵琶湖畔において、初期の稲作が多く営まれていたと推測できる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "後述するように、大津京遷都がおこなわれた飛鳥時代以降、多くの歌人が琵琶湖を歌に詠み込んでおり、湖上の往来が盛んになされていたこともうかがえる。また、奈良時代から近代にかけて、琵琶湖治水のために瀬田川の浚渫・改修が繰り返し計画・実施されることになる。なお、湖底遺跡は平安時代末期を存続の終期とするものが多い。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "中世の文書や絵図に記された耕地の一部は、後に琵琶湖や内湖に水没している。後述する津の立地の変化の例として、この時期に琵琶湖水位の上昇により内湖が失われた木津(こづ、新旭町)に代わって、今津が発展するようになったことが挙げられる。また横江遺跡(守山市)などにおいては、鎌倉時代ごろの堀で囲まれた集落が確認されている。これらの堀はその深さや幅から、防衛機能よりも灌漑・排水や舟運としての性格が強かったと推測されており、水野 (2011, p. 10) は、琵琶湖の水位上昇に対応しての洪水対策という役割の可能性についても言及している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "織田・豊臣政権においては、安土城を拠点に湖上を一括管理し、経済・社会的に利用することが試みられた。安土城が築かれた大中湖一帯は、このころまで政治的中心地であったが、以降琵琶湖との間に砂州が形成されるなどしたため、豊臣・徳川政権と時代が進むにつれ、膳所や彦根にその地位を譲ることとなった。江戸時代の琵琶湖周辺域には、200あまりの集落があり、後述するように周囲の集落や田畑にはホリと呼ばれる水路が張り巡らされていた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "近代以降琵琶湖の面積は、1890年代の推定688平方キロメートルから、1990年代には669平方キロメートルまで減少している。この要因としては、南郷洗堰の築造に関連する水位の低下のほか、干拓・埋め立てや湖岸整備といった人為的なものが大きいと考えられる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "前述のとおり、琵琶湖の貯水量は275億トンであり、平均水位は84.371メートルがB.L.P.として定められている。",
"title": "湖水"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "琵琶湖の集水域(流域)は3843平方キロメートルで、その98パーセントは滋賀県であり、また滋賀県の90パーセントが琵琶湖の集水域である。2015年を対象とした推定によると、流入河川より39.3億トン・地下水より7.4億トン・湖面への直接降水より12.2億トンの計58.9億トンが琵琶湖に流入、湖面での蒸発により4.0億トン・瀬田川より48.4億トン・琵琶湖疏水より4.9億トンが琵琶湖から流出しており、滞留時間は4.7年である。",
"title": "湖水"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "琵琶湖の湖水は、その貯水量の約2倍の地下貯留水と繋がっており、湖水の保全と地下水の保全は密接に関わっている。また、琵琶湖周辺では年間平均10億トンの降雪があり、水温4度ほどで密度が大きい雪解け水は、北湖深部に酸素を供給する役割を果たす。",
"title": "湖水"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "琵琶湖の水流は、流出部がいずれも南にあるため、基本的に北から南に向かうが、下記の環流や静振・密度流などにより、北向きの流れも頻繁に発生する。",
"title": "湖水"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "透明度は、2018年の調査によると北湖で5.5メートル、南湖で2.2メートルであり、気象条件によっては16メートルを超える透明度を観測することもある。",
"title": "湖水"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "琵琶湖では、66種の固有種を含む1700種以上の水性動植物が報告されるなど、豊かな生物相をもつ。オオクチバスやブルーギルをはじめとする外来種の侵入や1992年の琵琶湖水位操作規則の改訂、内湖の消失、水田とのネットワークの分断等によって固有の生物相が大きく攪乱を受け、漁獲高が激減した種も多い。それらへの対抗策も講じられ、外来種駆除や生態系に配慮した水位操作、内湖の再生など様々な取り組みが行われているが、まだ十分な効果をあげられていない。オオクチバスもブルーギルもおおむね漸減傾向にあり平成19年と令和3年の生息量を比較するとオオクチバスは444t→178t、ブルーギルは1,689t→223tとなっている。",
"title": "生物相"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "琵琶湖周辺のアシ原にはクマネズミとドブネズミのクマネズミ属、カヤネズミなどが生息している。木造船に住むクマネズミ属は「ふなねずみ」と呼ばれ、その背中の毛は伝統工芸品である蒔絵筆(まきえふで)に用いられて、とくに根朱筆(ねじふで)と呼ばれた。2010年ごろからヌートリアが湖岸や淀川水系の河川で見られるといい、琵琶湖博物館が調査を行っている。",
"title": "生物相"
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{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "1980年代以降、日本各地でニホンイノシシやリュウキュウイノシシが海や湖を泳いで島に分布を拡大していることが報告されているが、海を渡る例が多く、確認された湖の例は琵琶湖の竹生島と沖島のみだという。沖島では伊崎半島から渡ってきたと思われるニホンイノシシが2009年に初めて目撃され、竹生島には2011年に葛籠尾崎から渡っている様子が目撃された。必ずしも島に留まらず、行き来する様子が確認されている。竹生島に渡っている個体群は、かつて奥島であった奥島山や長命寺山の山塊に生息しているものだが、視認されるのは1991年ごろからで古くからの生息域ではない。東南方向の山地部から来たと考えられている。高橋 (2017, pp. 26–41)では、調査を行っている時点で沖島の住民にイノシシの知見がなく、効果的な対策を行えておらず農作物に被害が生じていることを報告している。高橋はさらに、いずれの島もカワウの大きなコロニーがあり、これが発生する生ぐさい臭いがイノシシを誘引している可能性を指摘している。",
"title": "生物相"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "琵琶湖(内湖を含む)とその湖岸、流入河川の河口に生息する鳥類は、渡り鳥なども含めると140種類ほどになる。カモ科が31種と最も多く、シギ科・サギ科・カモメ科がそれに続く。",
"title": "生物相"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "ビワマスやアユなどは川を、コイ・フナ・ドジョウなどは水田を産卵場所として利用することが多いなど、琵琶湖に生息する魚類は周辺の水域との間を移動し、環境の違いをうまく利用している。",
"title": "生物相"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "陸封型である琵琶湖産アユは、両側回遊型の海産系アユと同種であるが、10センチメートルほど(海産系アユは30センチメートルほど)にしか成長せず、コアユとも呼ばれる。",
"title": "生物相"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "養殖や放流に用いられて日本の湖沼や河川にも一般的に生息している体高の高いコイ(飼育型コイ)はユーラシア大陸から導入された系統で、日本在来のコイとは異なることが遺伝学的な研究から明らかにされた。器官の形態や生息場所など生態学的な違いがあるが交雑が起こり、日本の自然水域では交雑個体が高頻度で検出されている。在来型コイが残存している水域は限られており、琵琶湖では北部に個体群が知られている。環境省のレッドリストでは「絶滅のおそれのある地域個体群(LP)」に指定されている。",
"title": "生物相"
},
{
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"tag": "p",
"text": "複数の琵琶湖に由来する種や遺伝的グループが淀川水系の外に導入されている。",
"title": "生物相"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "アユは河川漁業・遊漁にとって重要な魚種として日本各地で種苗放流が行われていて、琵琶湖では各地に出荷する種苗としてアユが採捕されている。資源量やその他の特徴により琵琶湖産の種苗は重用され、1990年代ごろは重量ベースで90パーセントを占めるなど、日本のアユ種苗を寡占していた。河川での交雑の可能性は小さいが、完全には否定されない。",
"title": "生物相"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "アユ種苗での混獲による非意図的な導入の影響は大きく、例えば淀川水系固有種と三方五湖が本来の生息地であるハスが関東地方から九州地方に至る範囲で導入され国内外来種となっている。オイカワは東アジア一帯に広く分布する種とされているが、地理的に隔てられて遺伝的な分化が起きており、それぞれが固有の遺伝的特徴を持つ。アユ放流にともなって琵琶湖由来のオイカワが導入され、本来の生息域外に分布を広げただけでなく、在来のグループとの交雑を起こしている。高村 (2013, pp. 85–100) はマイクロサテライト領域DNAによって鬼怒川と那珂川のオイカワで関東グループと琵琶湖グループの交雑が起きていることを示した上で、琵琶湖由来のオイカワが定着していない河川が珍しいほどであるために、交雑や国内外来の問題を解明することが難しいと指摘している。",
"title": "生物相"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "ゲンゴロウブナは、品種改良したヘラブナの名前で知られていて、釣りの対象として人為的なものを含む導入が行われて、現在では全国的に分布している。ヘラブナの放流種苗においても、モツゴやヨシノボリ属の混入が起こり分布域を拡散させたという。",
"title": "生物相"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "沈水植物は維管束植物が23種、車軸藻類が13種確認されている。1950年 - 1960年代以降に、ガシャモクとリュウノヒゲモが絶滅したと考えられる。固有種であるネジレモは、茎を持たず葉をロゼット状に湖底から直接伸ばしているため、茎を持ち水面に葉を近づけられるクロモやコカナダモに比して水質悪化の影響を受けやすく、2000年ごろまでに個体数・分布域が大きく減少した。このほかサンネンモも固有種であり、2012年には野生絶滅種とされたホシツリモが河口湖に次いで発見された。外来種としては1960年代・1980年代にコカナダモが1970年代・1990年代にオオカナダモが大繁殖したほか、オオフサモ・ハゴロモモなども侵入している。",
"title": "生物相"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "北湖における沈水植物の分布面積は2013年時点で8パーセントほどで、透明度の約2倍の水深10メートル近くまで生育している。北湖東岸など遠浅の湖底の箇所においては、沿岸から沖合いに向かってササバモ・オオササエビモ・ヒロハノエビモ・ヒロハノセンニンモ・サンネンモの順に優先種が変化する。南湖においては、1994年から2014年にかけて沈水植物の分布面積が11パーセントから96パーセントにまで拡大した。沈水植物群落の密生は船舶の航行や漁業の妨げとなり、低酸素水塊の発生による湖底の生物への影響なども懸念されるため、滋賀県などにより除去事業が実施されている。",
"title": "生物相"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "浮葉植物については、外来種のチクゴスズメノヒエの分布拡大により、アサザの発芽場所が減少し、同種の自生群生地は2015年現在東近江市の農業用水路のみとなっている。また2004年以降は外来種のナガエツルノゲイトウがチクゴスズメノヒエ以上に群落を拡大させている。",
"title": "生物相"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "湖岸や内湖には、葦の群落がある。葦は、富栄養化物質などを根から吸うことにより、水湿を改善する能力をもつ。また水の流れを緩やかにすることにより、同様に水質改善能力をもつ藻類やバクテリアの繁殖を促す役割も果たしている。また、琵琶湖は日本国内に現存する2大葦産地のひとつであり、葦簀などの加工品が生産されている。葦帯の一部は琵琶湖総合開発事業において消失したものの、1988年から1992年にかけて人工植栽が行われるなどした結果、2007年ごろには自然群落と同程度にまで復元されたと考えられる。",
"title": "生物相"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "そのほか湖岸には、内陸の淡水湖沿岸においては唯一ハマゴウが自生している。1980年代と2000年代の湖岸の植生の変化を比較した金子 & 佐々木 (2016) によると、外来植物や人為的な植生、熱帯生種群や泥質立地種群が拡大する一方で、湖岸の景観を特徴づける植物群落が各湖岸地形において減少・消失している。",
"title": "生物相"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "動物性プランクトンは約240種が記録されており、北湖表層水には1リットルあたり数個体から数百個体程度のミジンコが含まれる。ミジンコの中で最も多いのはカブトミジンコ(英語版)でアユなど餌となっている。2005年ごろからは捕食者のアユの減少により、外来種で大型のプリカリアミジンコ(英語版)が増加しており、ミジンコの濾過能力が琵琶湖の水質改善に影響を与えたと考えられる。そのほか、ヤマトヒゲナガケンミジンコ(オランダ語版)も多く見られ、ストロビリディウム属や小型センモウチュウといった原生動物は通年、ワムシはハネウデワムシ(英語版)が通年、ネズワムシ(英語版)が夏から秋にかけて見られる。",
"title": "生物相"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "植物性プランクトンは約240種が記録されている、北湖表層水には1リットルあたり数百万細胞が含まれる。1950年代初頭には、秋から冬には珪藻(ホシガタケイソウ(英語版)やメロシラ(英語版))が、夏には緑藻(ビワクンショウモなど)が現れる比較的安定した季節変化が見られた。しかしその後の富栄養化にともない、1960年代半ばごろよりミカヅキモ(緑藻)・シネドラ(珪藻)・フォルミディウム(英語版)(藍藻)といった特定種の大増殖が発生するようになり、1977年以降黄金色藻のウログレナ(ドイツ語版)による赤潮(5-6月ごろ)が、1983年以降藍藻(アナベナやミクロキスティス(英語版))によるアオコ現象(夏 - 秋)が発生している。",
"title": "生物相"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "琵琶湖は元々、近淡海・淡海・淡海の海(あふみのうみ)・水海(すいかい)・近江の海・細波(さざなみ)・鳰の海(にほのうみ)などと呼ばれていた。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "『古事記』においては、その伊邪那岐の大神は、淡海の多賀に坐すなり(上巻)や東の方追ひ廻りて近淡海国に到り(中巻)といった用字で現在の滋賀県のことを表している。同書における琵琶湖を指す記述としては中巻の",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "いざ吾君 振熊が痛手追はずは 鳰鳥の 阿布美能宇美迩 潜きせなわ",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "という歌謡のみが挙げられる。一方『日本書紀』には",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "淡海の海 瀬田の済に 潜く鳥 目にし見えねば憤りしも",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "という歌謡をはじめとし、淡海の海・淡海の表記が多数見られ、近淡海の用字はほとんど見られない。同書における近江の表記は、天智天皇5年に是の冬に宮都の鼠、近江に向きて移るとあるなど、奈良時代の近江遷都以降に顕著に現れる。その後の『続日本紀』の717年(養老元年)の条には行至近江国 観望淡海とあり、近江を国名、淡海を琵琶湖と使い分けていたことが示唆される。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "また同時期の藤原武智麻呂の伝記には、近江は宇宙の名地[......]水海清くして広しとの記述があり、これが琵琶湖を水海と表記したものの初出である。さざなみの用字については、713年(和銅6年)の『近江風土記』逸文を引いた",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "との文がある。鳰の海については、下って平安時代の『源氏物語』は「早蕨」の巻の",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "しなてるや 鳰の海に 漕ぐ舟の 夏帆ならぬとも逢い見し物を",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "や『千載和歌集』の",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "我がそでの 涙や鳰の海ならん かりにも人をみるめなければ",
"title": "人間との関わり"
},
{
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"tag": "p",
"text": "また『新古今和歌集』の",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "鳰の海や 月の光のうつろへば 波の花にも秋はみえけり",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "などがある。琵琶湖を代表する鳥である鳰(カイツブリ)は、上述のように『古事記』にも表れており、後の1965年(昭和40年)には滋賀県の県の鳥にも指定されている。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "琵琶湖という呼称の最も古い用例は、木村 (2001, pp. 157f.) によると、室町時代の明応年間(1492年 - 1501年)に活躍した僧侶景徐周麟の漢詩集『翰林葫盧集』の中の七言絶句「湖上八景」における",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "である。なお、琵琶湖を琵琶の形に喩えた例はこれよりも古く、比叡山延暦寺の僧侶光宗が1311年から1347年(応長元年から貞和3年)にかけて編述した『渓嵐拾葉集』に",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "との記述がある。周麟が琵琶湖の呼称を用いている漢詩はもう1つあるが、それに次いで古い琵琶湖の用例は江戸時代の儒学者伊藤仁斎による1645年(正保2年)の漢詩「過琵琶湖作」まで待たなければならない。その後、同じく儒学者の貝原益軒が1689年(元禄2年)に若狭・近江を旅した際に記した日記『諸州めぐり 西北紀行』には次のような記述がある。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "この記述は、上述の『渓嵐拾葉集』に沿ったものである。また、同年に松本村の原田蔵六が記した地誌『淡海録』第1巻には、",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "とある。元禄年間から享保年間にかけてはほかにも、松尾芭蕉による俳諧文や朝鮮通信使の申維翰による『海游録』など、各種資料において琵琶湖の表記が見られる。さらに、江戸時代後期には伊能忠敬が1807年(文化4年)に「琵琶湖図」を作成するなど、地図上にも琵琶湖の表記が現れるようになる。なお、琵琶湖の語源については、上述の(弁財天の)琵琶とするもののほか、アイヌ語の「貝を採るところ」を意味する語に由来し、ビワ(ビハ)は水辺や湿原がある場所を指すという吉田金彦の説や、楕円形を表すビワ、枇杷の実の形に由来とする説もある。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "明治年間には、琵琶湖汽船や琵琶湖新聞・琵琶湖踊・琵琶湖治水会・琵琶湖疏水など琵琶湖の名を冠する名称が多く現れており、琵琶湖という名称が定着したことが窺える。なお、琵琶湖という漢字は難しいことから、ひらがな書きにしたびわ湖やびわこなどの表記も見られる。その他、別称や愛称としては以下のようなものがある。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "2021年現在、琵琶湖汽船・オーミマリン・沖島離島振興推進協議会が定期航路を運営している。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "琵琶湖周辺では、縄文後期の丸木舟(鰹節型と割竹型の2形態、全長は最大のもので7.9メートル)が発見されており、先史時代から湖上交通がおこなわれていたことがわかる。弥生中期後半には丸木舟は準構造船に発展し、古代には湖北と都を結ぶ航路が築かれていた。『万葉集』にも琵琶湖の船は多く詠まれているが、帆を読んだものはほとんどなく、当時帆走は未発達であったと推測される。東大寺・藤原宮・石山寺の造営においては、甲賀・高島・田上からの木材が湖上交通を利用して運搬されている。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "その後、平安時代に都が長岡京から平安京に遷都されると、北国・東国と都とを結ぶ琵琶湖という交通路は、大きく発展していくことになる。『延喜式』巻二六主税には北陸六箇国の税は塩津や勝野(高島市大溝)から湖上路を大津に運ぶとの規定があり、東海よりの物資も中山道を経て朝妻(米原市)から同様に大津に運ばれた。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "湖上交通は、大量の物資や人を運ぶには便利であったが、前述の風や波による遭難のリスクもあった。高市連黒人による",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "という歌からは、舟旅への恐れが窺える。平安時代ないし室町時代には、",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "という歌が詠まれ、また「急がば廻れ」という諺も広まった。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "平安時代から三津浜と呼ばれた比叡山の外港坂本は、中世には大津を凌駕するかたちで栄えるようになり、京都への物資運搬を担う馬借・車借が室町時代以降大きな力を持っていくことにも繋がった。湖上交通の中心は平安時代から引き続き南北ルートであったが、中世以降は琵琶湖の最狭部である堅田などを拠点とする東西ルートも発展していく。また前述のように、港(津)の発展には内湖が関わっており、内湖を含む湖岸環境の変化により、津の立地も変化している。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "中世には荘園領主により港が管理されるようになり、年貢などの貢献物の輸送も湖上輸送も増え、琵琶湖は経済的に利用されるようになる。堅田は中世をとおして湖上交通において中心的な役割を果たし、船の検問などを行い湖上の安全を保証する見返りに金品を求めることのできる上乗権(うわのりけん)と呼ばれる特権を室町時代に与えられた。湖上には坂本を中心に複数の関も設けられ、関銭は山寺の造営などに用いられた。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "建武3年(1336年)には足利尊氏を追った義良親王・北畠顕家が大軍を率いて琵琶湖を東から西に渡るなど、湖上は軍事的にも利用されるようになっていく。戦国時代に入ると、従来の比叡山延暦寺に加え戦国大名の浅井氏が菅浦・大浦・沖島、六角氏が堅田の船を支配下に置くなど、各浦の船の掌握を図るようになった。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "近世には、物資輸送・地場産業が振興され、発展した港の間で輸送を巡っての紛争もたびたび起こっていた。またこのころには、日本海などの弁財船よりも幅が狭い丸子船(丸船・丸木船・丸太船とも)と呼ばれる琵琶湖特有の木造和船が使われるようになった。後述するように湖岸の田畑や集落には、ホリと呼ばれる水路が張り巡らされており、たとえば草津市志那町では、閘門を通じて田舟を琵琶湖に下ろし、浜大津まで往復することもあったと伝えられている。",
"title": "人間との関わり"
},
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"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "織田信長は港を重視し、天正元年(1573年)に船長約54メートルの船で坂本から京都に入るなど、琵琶湖を軍事的に大きく活用した。豊臣政権下では、京都から大阪へと物資の流れが変わり、それに伴い湖上交通の拠点も堅田や坂本から大津に移ることになる。豊臣秀吉により創設された大津百艘船は、大津からの積荷を独占的に扱えるなどとする特権を浅野長吉が天正15年(1587年)に下した高札により与えられた。また天正17年ごろには、観音寺が船奉行を務めることとなった。秀吉は、湊への着岸順に荷物を積み出すことができるとする艫折廻船(ともおりかいせん)という制度により、堅田の湖上特権を否定した平等な流通システムの創設もおこなった。豊臣政権下で築かれたこれらの体制は徳川政権下でも踏襲されることとなる。",
"title": "人間との関わり"
},
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"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "西廻海運の成立以降は、若狭国の小浜・敦賀から琵琶湖を経由する流通路は衰退し、湖上水運は周辺域の流通路へと変容していった。このため、堅田・大津・近江八幡の三ヵ浦は小さな湊にまで出向き争論を繰り広げるようになり、その後堅田・大津・大溝・舩木・今津・海津・大浦・塩津・八幡の九ヵ浦体制が成立した。大津を拠点とする観音寺が貞享2年(1685年)に船奉行職を罷免され、以降京都や四日市を拠点とする幕府の官僚的代官が船奉行を務めることとなったことには、幕府にとって琵琶湖水運の地位が低下したことが表れている。もっとも船数は大幅には減少せず、江戸時代中期の享保年間には5740艘もの船が琵琶湖を行き来していたとされる。また、流通路としての地位の回復や後述の水害への対策、新田開発などを目的として、琵琶湖 - 敦賀間に運河を通す計画が、江戸時代を通じ複数回持ち上がっている。",
"title": "人間との関わり"
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"text": "江戸時代には幕府のほか、彦根藩も独自の船支配をおこなっていた。彦根では古代以来、朝妻が東西航路の起点であったが、元和年間に松原・米原・長浜の彦根三湊が水運の中核として取って代わった。享保年間には争論の結果、彦根三湊が大津百艘船の特権を切り崩すこととなった。",
"title": "人間との関わり"
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"tag": "p",
"text": "近代に入り明治2年(1869年)に蒸気船一番丸(5トン12馬力の木造外輪船)が就航すると、ふたたび湖上交通が大量輸送を担うこととなる。既存の和船問屋や漁業者は蒸気船への妨害を行ったが、明治4年(1871年)には大津百艘船などの旧来の制度は解体された。1874年(明治7年)までに15隻の蒸気船が就航しており、汽船間の競争の激化により事故が続発するようになったため(後述)、1875年(明治8年)7月、滋賀県により汽船取締規則の通達が出されている。さらに翌1876年3月より大津湊町に汽船取締会所および同支所7箇所が設立され、安全航行のための会所規則が定められた。1880年(明治13年)7月には大阪 - 京都間の鉄道開通にともない長浜 - 大津間の鉄道連絡船の営業をめぐる争いが生じ、1882年(明治15年)には滋賀県の介入のもと3社合併により18隻を所有する太湖汽船会社が設立されている。翌1883年には日本初となる湖上鋼鉄船第一太湖丸(516トン)および第二太湖丸(498トン)も定期航路に就航し、1884年には長浜 - 敦賀間および長浜 - 大垣間の鉄道全線開通に併せてこちらも日本初となる鉄道連絡船が営業を開始した。1886年(明治19年)には紺屋関汽船・山田汽船が合併し湖南汽船会社が設立され、湖上交通は太湖汽船と堅田以南を営業区域とする湖南汽船の2大会社に統一されていくこととなる。",
"title": "人間との関わり"
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"text": "当初日本政府や太湖汽船によって30年程度と見積もられていた鉄道連絡船の役目は、予想外に早い1889年(明治22年)に東海道線が全線開通したことにより、わずか7年で終りを迎えることとなった。そのため後述するように、2大汽船会社は、貨客輸送から遊覧船へと営業の主力を切り替えていくことになる。さらに1931年(大正15年)には江若鉄道が今津まで開通し、以降は輸送に占める湖上交通の割合は低下したが、小地域間の湖上交通は1960年代まで続いた。なお、丸子船のような木造船は生業・生活に密接に関わるものとして大正ごろまで使われており、1880年(明治13年)の『滋賀県物産誌』に基づくと、輸送船・漁船・田船など少なくとも1万1100艘の船が存在していた。",
"title": "人間との関わり"
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"text": "近現代にも、琵琶湖を経由して日本海と太平洋や瀬戸内海を繋ぐ運河計画は、琵琶湖疏水の築造に携わった田辺朔郎による昭和初期の「大琵琶湖運河計画」や、高度経済成長期の「日本横断運河構想」など複数回立てられている。しかしモータリゼーションが進んだ結果、1964年(昭和39年)に琵琶湖大橋が、1974年(昭和49年)に近江大橋が架橋されたことが象徴するように、琵琶湖は水運の手段ではなく陸運の障碍物へと転じていった。",
"title": "人間との関わり"
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"text": "琵琶湖の湖岸域では、河川の氾濫のほか、「水込み」と呼ばれる琵琶湖の水位上昇による水害に悩まされてきた。古文書における琵琶湖周辺の水害の記録は、701年(大宝元年)以降多く残されている。",
"title": "人間との関わり"
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"text": "琵琶湖の水害を防ぐための瀬田川改修の歴史は、奈良時代の僧侶行基による瀬田川の流れを阻害する小山(のちの大日山)の掘削の試みにまで遡ることができる。その後江戸時代には、幕府の普請が2回と自普請が3回、計5回の浚渫工事がおこなわれており、特に1699年(元禄12年)の「河村瑞賢の大普請」と、高島郡深溝村の庄屋藤原太郎兵衛家の尽力の末に実現した1831年(天保2年)の普請が大規模なものであった。またこの間、流量増加による洪水を危惧する下流住民の反対などによりなかなか浚渫が実現しなかった時期には、あさり取りなどと称した地元住民による小規模な浚渫などもおこなわれている。",
"title": "人間との関わり"
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"paragraph_id": 93,
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"text": "近代に入ってからは1890年(明治23年)以降、滋賀県内の有志が結成した琵琶湖水利委員同盟会や滋賀県知事大越亨により、繰り返し淀川の浚渫の陳情がなされた。1885年(明治18年)の淀川洪水で大きな被害を受けた下流域の反対にも遭ったが、1893年(明治26年)からは小規模な浚渫が実現した。さらに1900年から1908年(明治33年から41年)にかけては、大規模な浚渫と上述の大日山の掘削がおこなわれ、また南郷洗堰が築造されたため琵琶湖の水位の調整が可能となった。これらの工事以前には、プラス3.76メートルにまで水位が上昇し琵琶湖周辺のほとんどの地域が237日にわたって浸水した1896年(明治29年)の洪水をはじめとし、ほぼ隔年で長期間の浸水が発生していたが、以降の浸水被害は4年に1度程度にまで減じた。その後1961年(昭和36年)には南郷洗堰の隣接地に瀬田川洗堰が築造されている。",
"title": "人間との関わり"
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"text": "前述のとおり、琵琶湖湖岸域では弥生時代ごろから稲作がおこなわれていた。田畑よりも低い位置にある琵琶湖の水は使いにくかったため、昭和中ごろまで琵琶湖の水を農業や生活に利用することは少なく、もっぱら琵琶湖への流入河川や井戸の水を利用してきた。これらの河川の水量は琵琶湖に比べると少なく、また扇状地であるため伏流水化しやすい地形が多く、甲良町など農業用水の確保に問題を抱える地域も多かった。",
"title": "人間との関わり"
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"text": "琵琶湖に隣接する湿地帯においては、傾斜が緩いため通常の灌漑が困難であったが、琵琶湖や内湖の水を利用した水田の開発が歴史的に試みられてきた。形成期においては、泥田(超湿田)が広く見られたと推測され、次いで跳ね釣瓶や縄をつけた桶による直接取水もおこなわれるようになったと推測されている。その後遅くとも近世中期(中世にまで遡れる可能性もある)までには、ホリと呼ばれる水路や「蛇車(じゃぐるま)」と呼ばれる足踏み式の水車などの揚水機を用いた逆水灌漑がおこなわれるようになる。また、琵琶湖と内湖ないしホリとの境界部に堰や閘門を設けて水位を上昇させる方法も用いられており、これは明治時代に南郷洗堰が築造され琵琶湖の水位が低下したことに伴い採用された例が多いと推定される。1904年(明治37年)以降はポンプにより琵琶湖から内湖に揚水する方法も用いられるようになっていった。なお、大正年間の調査に基づくと、逆水灌漑の分布は湖南・湖東に多く、平地の傾斜が大きい湖北・湖西では少なかった。",
"title": "人間との関わり"
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"paragraph_id": 96,
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"text": "昭和30年代ごろには上水道の普及が始まり、以降湖水の利用量は増えていくことになる。滋賀県では1980年ごろから2000年ごろにかけて、人口の増加などの要因により湖水の利用が大幅に増え、2019年時点における上水道の主要な水源は琵琶湖の水となっている。また、農業水利においては1970年代以降、大型ポンプを備えた施設で湖から水を汲み上げ、パイプラインで農地に配水する逆水灌漑による湖水の利用が増加した。牧野厚史 (2001, pp. 205–206) は、このような水利用は利用者から見えにくく、生活と水循環の関係に思いを馳せることが難しくなっていると指摘し、八幡堀の保存活動などは、単なる資源としての水利用に留まらない水問題への地域固有の解決策の方向を示しているのではないかと述べている。",
"title": "人間との関わり"
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"paragraph_id": 97,
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"text": "京都で琵琶湖の湖水を生活用水の源とするようになったのは、琵琶湖第二疏水を完成させた1912年(明治45年)のことである。第一疏水は第二疏水より古く1890年(明治23年)に完成している。琵琶湖疏水の建設は東京奠都によって衰退の危機にあった京都を再興することを目的とし、まずは疏水の水車動力によって工業を近代化し、さらに水運を確保する計画で京都府知事の北垣国道が先導した。当時、京都では鴨川に源流を持つ京都盆地の水系を賀茂別雷神社(上賀茂神社)が支配し、御所の水源も「御所御用水流通水掛リ之儀者賀茂別雷神社 旧一社ニテ支配被致候」とされていた。構造的に夏の渇水期になると上流小山郷の田畑の灌漑が優先されることになり、御所の水は枯渇する様であった。疏水によってに御所用水路の新たな付け替えもあり、御所の庭園と防火用桝への安定供給が図られるようになった。琵琶湖疏水を介して毎秒24立方メートル(2017年時点)を取水し、水源の99パーセント(2019年ごろ)を琵琶湖に頼る京都市は、1914年(大正3年)以来京都市民の感謝の気持ちとして滋賀県に毎年感謝金(琵琶湖疏水感謝金)を支払っている。財源は京都市民の水道料金で、滋賀県は感謝金を水源保全に充てている。",
"title": "人間との関わり"
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"text": "大阪では1895年(明治28年)に淀川を水源とする本格給水が始まった。第二次世界大戦後の高度経済成長期に際しては、著しい産業発展により淀川での安定した取水が必要になった。琵琶湖下流域における水資源の需要の急速な拡大に対応するために、1972年(昭和47年)に琵琶湖総合開発特別措置法が制定。琵琶湖総合開発事業を策定した。事業の策定にあたって上流への影響は避けられないことから、不利益を減らすために原案は滋賀県知事が作成し内閣総理大臣がこれを決定する形がとられた。同事業によって水位低下補償事業が完了し、水位の管理について国(瀬田川洗堰管理者)と滋賀県、下流府県が初めて合意した。規則では、洪水時はあらかじめ水位をマイナス20センチメートルあるいはマイナス30センチメートルに下げて対処、非洪水時は30センチメートルを上限になるべく水位を高く保ち渇水に備えることを基本とし、下流域の渇水時には琵琶湖水位マイナス1.5メートルまで湖水を利用できることになっている。また、増大する水の需要に1991年(平成3年)度までは不安定な「暫定豊水水利権」(河川の流量が一定の流量を超える場合に限って取水できる水利権)で対応してきたが、同年度末には水資源開発事業が概成し都市用水として最大毎秒40立方メートルの新規水利権が与えられた。下流域の水利権を拡大せざるを得なかった背景には、京阪地域が渇水時であっても比較的豊富な水量を保つ水源として淀川、さらにその水源である琵琶湖への依存を強めたことがある。琵琶湖総合開発事業では、琵琶湖を文化面を含み多方面で活用し親しんでいる滋賀県民の生活に直接的な影響が及ぶことは避けられず、上流と下流の利権をいかに調整するかが事業の肝となった。上流の不利益を解消するために、下流の利水公共団体は琵琶湖とその周辺の上流域の福祉増進に利するために下流負担金602億円を負担することになった。",
"title": "人間との関わり"
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"text": "琵琶湖の水利用を巡っては、下流の京都・大阪への対抗心を表すために「琵琶湖の水止めたろか」というジョークがしばしば用いられる。野田 (2001, p. 232) は滋賀県・京都府・大阪府の住民を対象にした1995年のアンケート調査を参照し、滋賀県以外の住民は渇水時などには水源として琵琶湖を意識するが、普段はその存在を別段気に留めていないのだと結論づけている。",
"title": "人間との関わり"
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"paragraph_id": 100,
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"text": "琵琶湖の湖岸一帯では天然ガスが湧出している場所があり、古くは湖北(現在の高島市)において農家が燃料として使用する例も見られた。湖南では1883年夏、栗太郡常盤村(現在の草津市)において住民が井戸を掘った際に、地下水に溶け込んでいる天然ガスの存在に気が付かず、水にカンテラを近づけて火柱を作った逸話も残る。燃料事情が逼迫した1941年には、大津市が大阪鉱山監督局に栗太郡瀬田町(現在の大津市)で石油(メタンガス)の試掘申請を行っている。",
"title": "人間との関わり"
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"paragraph_id": 101,
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"text": "前述のとおり、琵琶湖には多様な魚介類が生息しており、漁場の環境も岩場・砂浜・内湖・沖合と多様であり、また淡水であるため魚が湖と河川を行き来することも要因とし、漁法もまた多様かつ独特のものとなっている。その中でも特に「待ち(型)の漁法」の発達と新規漁具の制限が特徴として挙げられる。これは、積極的・新進的な漁法を用いることによる資源の枯渇を避けるための、閉鎖水域である琵琶湖ならではの知恵である。",
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"paragraph_id": 102,
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"text": "固有種を含む琵琶湖の魚介類は、伝統的な食材として、2013年現在においても盛んに食されている。淡水魚の生食を忌避する日本においては珍しく、ビワマス・イワトコナマズ・ニゴロブナやゲンゴロウブナ・ハスなどは造りとしても食される。このほか「ジュンジュン」と呼ばれるすき焼き・寄せ鍋や焼き物、佃煮などとしても食される。また、小アユを利用して、アユの飴煮(あめだき)が大津の名物、土産物として作られてきた。さらに、滋賀県では発酵食品が発展しており、鮒寿司をはじめとするなれずしも作られる。滋賀県には、海産物を扱う鮮魚店とはべつに淡水魚専門の鮮魚店があり、これらの店では鮮魚のほか、佃煮・なれずしといった加工品や鴨なども扱われている。",
"title": "人間との関わり"
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"paragraph_id": 103,
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"text": "琵琶湖における魚介類の利用は、1万年以上前にまで遡ることができる。前述したように、縄文時代の遺跡からは、貝殻や魚の骨などが発見されており、タンパク源に占める琵琶湖産の魚介類(特にコイ科)の比率は哺乳類よりも高かったと考えられている。また、漁網用と推測される石錘・土錘も出土しており、漁具とともに出土した丸木舟も漁労に用いられたと推定される。稲作が開始された弥生時代には、魚類が水田を産卵場所として利用するようになったこともあり、漁網に代わり魞(エリ)や筌といった小型陥穽漁具による待ちの漁法が発達し、タンパク源に占める魚介類の比率はさらに高まった。古墳時代には土錘が増加・多様化し、また麻網も普及するようになり、漁獲対象種も多様化したと考えられる。",
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"text": "その後中世ごろには網漁が発達しており、従来河川や内湖で用いられていた小型の魞が琵琶湖沖合いで用いられる大型で複雑な魞へと発展したのも、中世の13世紀ごろであると考えられる。2017年現在用いられている漁法の内、アユ沖掬い網漁(1960年代に導入)を除く漁法の原初形態は、中世にはすでに存在していたと考えられる。流通に制約の大きかった中世においては、京都の鮮魚需要に対する琵琶湖の役割も大きかった。このころまでに漁撈をおもに営む集団の組織化が進んでおり、13世紀ごろには漁撈を巡る複数の紛争が起きていたとの記録がある。一方13世紀は、仏教思想が庶民の間にも広まり殺生を禁断とする意識が高まった時代でもあり、その葛藤を伝える説話なども残されている。",
"title": "人間との関わり"
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"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "近世の17世紀ごろには、淡水魚である鯉から海水魚である鯛に政権の中心部における需要は移っていったが、18世紀から19世紀にかけても、漁撈を巡る紛争は頻繁に起きており、琵琶湖周辺の集落における漁撈はむしろ活発化したと考えられる。明治以降には、網地素材の化学繊維への変化や動力船の導入により、漁獲能力が向上したほか、大正・昭和期には、テナガエビとワカサギが移入され、漁獲対象種に加わった。また、大正末ごろには内湖の平湖と柳平湖(草津市)を発祥の地とする淡水真珠の養殖が開始されたが、第二次世界大戦後は内湖と琵琶湖が切り離されたことなどによる水質悪化により衰退した。漁獲量は1957年には1万300トンに達したが、その後減少し続け、2012年にはピーク時の10分の1の1029トンにまで減じ、魚種の構成もアユが40パーセントを占めるようになるなど大きく変化している。また、1956年には29種の漁具が用いられていたが、2015年には8種にまで減少している。前述の外来種(特にブルーギル)の侵入は魞漁の主漁場である推移帯(英語版)の生態系の撹乱を引き起こし、漁業者の生活を脅かしている。",
"title": "人間との関わり"
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"paragraph_id": 106,
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"text": "飛鳥時代の近江遷都以降、後述のように近江を舞台とした歌が数多く詠まれており、多くの歌人たちが近江を訪れ、琵琶湖と周囲の光景に感性を刺激されたことが推測できる。近江八景は、当初は文学的モチーフであったが、江戸時代中ごろには街道を通行する人が増えたこともあり、『名所記』『名所図会』といった挿絵入りの旅行案内書や浮世絵などをつうじて、全国の民衆に膾炙するようになった。",
"title": "人間との関わり"
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"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "1889年(明治22年)の東海道線全線開通は、前述の鉄道連絡船の廃止に繋がり汽船会社の経営に打撃を与えたが、同時に京阪神から琵琶湖観光に気軽に訪れることを可能にもした。湖南汽船は1894年(明治27年)に大津と石山および坂本間の航路で湖上観光の営業を開始している。次いで太湖汽船も南湖 - 北湖間の航路運行を開始し、1895年(明治28年)には鉄道連絡船廃止時点のレベルまで業績を回復させるに至っている。本格的な湖上遊覧の嚆矢ともされる湖南汽船の「近江八景めぐり遊覧船」(1903年〈明治36年〉就航)に続き、太湖汽船も遊覧観光船の建造を行うなどより湖上遊覧に力を入れることとなり、以降季節ごとの観光客誘致が展開された。1912年(大正元年)には京津電車の三条 - 札ノ辻間が開通し、京都方面からの観光客はさらに増加、2大汽船会社の競争もより激しく展開された。この時期には竹生島や長命寺への巡礼を含む観光が定着している。昭和に入ると琵琶湖ホテルの建設や湖水浴場の整備も進められ、太湖汽船と京阪電鉄によるマキノ・スキー場開設の翌年にあたる1930年(昭和5年)から1962年(昭和37年)にかけては、スキー客運ぶスキー船も運行された。",
"title": "人間との関わり"
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"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦後の1950年(昭和25年)には琵琶湖が国定公園に指定されている。これに先駆け前年には、滋賀県民からの公募によって「琵琶湖八景」が選ばれ、翌1951年には観光船玻璃丸が就航した。1968年(昭和43年)のびわこ大博覧会以降は、琵琶湖の水質が悪化するなど、観光が軽視されるようになるが、びわこ国体で湖上輸送が試みられたのを機に、再度観光が顧みられるようになる。1982年(昭和57年)には玻璃丸を継ぐかたちで外輪船ミシガンが就航し、滞在型観光を目的としたリゾート・ネックレス構想や水上スポーツ施設の整備なども計画されたが、バブル経済の崩壊により計画は進まなかった。その後は、環境保全や歴史的文化資産の活用などの観点も取り入れた新しい観光スタイルが模索されている。2019年(令和元年)には琵琶湖岸を1周する200キロメートルの自転車ルートであるビワイチが、ナショナルサイクルルートの第1弾として指定された。",
"title": "人間との関わり"
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"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "前述のとおり、記紀にはいくつか琵琶湖を題材とした歌謡が含まれている。その後の『万葉集』にも琵琶湖を題材とした歌は複数含まれており、近江国を舞台とする歌は近江遷都以降のものが多い。同歌集には柿本人麿の",
"title": "人間との関わり"
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"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "など、「淡海の海」「近江の海」が含まれた歌が14首ある。また、湖や志賀にかかる枕詞「さざなみ」「楽浪」を含む歌は10首あり、おなじく柿本人麿による",
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"paragraph_id": 111,
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"text": "という歌が特に著名である。湖岸の湊を詠んだ歌も多く、小弁による",
"title": "人間との関わり"
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"paragraph_id": 112,
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"text": "などが挙げられる。飛鳥時代の湖上の賑わいを示す歌としては、",
"title": "人間との関わり"
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"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "などが挙げられる。一方、都落ち間近に平忠度が詠んだ",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "は、上述のさざなみの枕詞を用いた歌のなかでもっとも有名なものであるが、浅見によるとそこには渺々とした琵琶湖の風景が表れている。平安時代の人の往来を示す歌としては、長徳2年(996年)に父藤原為時の越前武生への赴任に同行した紫式部が高島町三尾崎で詠んだ",
"title": "人間との関わり"
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{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "が挙げられる。",
"title": "人間との関わり"
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"paragraph_id": 116,
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"text": "菅原孝標女による『更級日記』や鎌倉時代の阿仏尼による『十六夜日記』にも琵琶湖周辺の光景が記述されており、中世文学においては竹生島信仰が、『平家物語』や謡曲『竹生島』などの作品で取り上げられている。戦乱の世になると、謡曲『自然居士』や室町時代の小唄を集めた『閑吟集』において琵琶湖の人買舟や密漁といった荒々しい様相が描写されるようになるが、一方軍記物においては『義経記』などに琵琶湖は登場しているものの、湖上の戦の様子を描いた作品はほとんどない。江戸時代については、松尾芭蕉による",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "などの琵琶湖畔で詠んだ90あまりの俳句と『幻住庵記』、そして上田秋成による夢物語「夢応の鯉魚」(『雨月物語』)が傑作として挙げられる。",
"title": "人間との関わり"
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"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "近現代に琵琶湖に関連する小説としては、次のようなものがある(丸括弧内はおもな関連する土地)。",
"title": "人間との関わり"
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"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "室町時代を描いた谷崎潤一郎『盲目物語』は、湖上の描写は少ないものの、作品世界は竹生島の沈鬱な影を色濃く帯びており、秦恒平『みごもりの湖』では藤原仲麻呂の乱の、成澤邦正『琵琶湖の浮城』では室町末期水茎の岡の湖上の戦が描かれている。琵琶湖の汚染や自然破壊を扱った作品としては、早くは1919年(大正8年)の近松秋江『湖光島影』があり、第二次世界大戦後の高度経済成長期には西口克己『びわ湖』が発表されている。また、中上健次『日輪の翼』や平成の小林恭二『カブキの日』にも琵琶湖(前者は瀬田の唐橋、後者は堅田)を舞台とした描写があるが琵琶湖そのものにはわずかしか触れられておらず、松村 (2001, p. 268) は自然破壊などにより琵琶湖の生命力が衰えたためだと述べている。",
"title": "人間との関わり"
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"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "琵琶湖が描かれた現存最古の絵画は、おそらく『源氏物語絵巻』の「関屋」の段である。高梨 (2001, pp. 269f.) は、これ以前の『一遍聖絵』や鶏足寺の十二神将像についても、琵琶湖の水運ネットワークの影響があると指摘している。室町時代後半からは『近江名所図』の大作が残されており、室町時代の狩野派による屏風絵、同じく室町時代の大徳寺瑞峯院の『堅田図旧襖絵』、17世紀前半(江戸時代)の屏風絵などが挙げられる。17世紀後半以降には、近江八景を題材とした絵画(歌川広重によるものが有名)や着物の蒔絵・陶磁器の絵付けなどが現れるが、同時期には古典文学に材をとったものなど、近江八景以外の絵画も描かれている。近代以降は、多くの洋画家・日本画家が琵琶湖の多様な姿を描いている一方、今村紫紅や下保昭などは近江八景の枠組みの中で新たな試みをおこなっている。",
"title": "人間との関わり"
},
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"paragraph_id": 121,
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"text": "1917年(大正6年)に作られた『琵琶湖周航の歌』は、滋賀県民に広く愛唱されている。そのほか、後述の琵琶湖遭難事故を歌った『琵琶湖哀歌』がある。",
"title": "人間との関わり"
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"text": "琵琶湖を舞台とした映画としては、『幻の湖』、『偉大なる、しゅららぼん』、『マザーレイク』などが挙げられる。",
"title": "人間との関わり"
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"text": "昭和40年代、高度経済成長に伴って湖水の水質汚濁や富栄養化が進んだ。原因の一つに合成洗剤、リン酸塩が挙げられ、主婦層や女性団体が「石鹸運動」を起こして対策・改善を求めた。このため滋賀県は独自に工業排水(英語版)と生活排水を規制する、いわゆる琵琶湖条例(滋賀県琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例)を制定するに至った。このほか琵琶湖に関する滋賀県独自の条例としては、『滋賀県琵琶湖のレジャー利用の適正化に関する条例』や『滋賀県琵琶湖のヨシ群落の保全に関する条例』、景観を守るための『ふるさと滋賀の風景を守り育てる条例』などがある。",
"title": "人間との関わり"
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"text": "滋賀県は7月1日を「びわ湖の日」に定めており、琵琶湖を保全する様々な活動「びわ活」を推進している。また、2021年時点、国際連合持続可能な開発目標(SDGs)に倣い、2030年に向けた琵琶湖版SDGsである『マザーレイクゴールズ(MLGs)アジェンダ\"』策定を進めている。",
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"text": "1990年から1991年にかけ琵琶湖総合開発事業の一環として水質測定施設である南湖湖心局(大津市唐崎沖1.5キロメートル)と北湖湖心局(大津市南比良沖4キロメートル及び高島市今津沖3.5キロメートル)の3基が設置され、pH値、溶存酸素量、水温、流速などのデータが自動送信されていた。しかし、内部の測定機器が老朽化し、必要なデータ量も確保できたとして2006年度までに稼働が停止された。その後も維持費がかかり、船舶の衝突事故のおそれもあることから2018年度に撤去されることとなった。",
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"text": "また、琵琶湖の北方に位置する福井県若狭湾岸には、敦賀原発・美浜原発など多数の原発が立地する。琵琶湖との最短距離は20キロメートル程度であるため、原発事故で放射能汚染されれば水の供給に影響する可能性があると指摘されている。また、ヨシ群落保全条約により、水鳥にとって重要なヨシ群落保全が図られている。ラムサール条約湿地を指定するための国際的な基準の一つに、「定期的に2万羽以上の水鳥を支える湿地」とあり、琵琶湖はその基準を満たしている。そのことから、1993年6月10日、北海道釧路市で開催された「ラムサール条約第5回締約会議」において、国内で9番目のラムサール条約湿地となった。琵琶湖がラムサール条約に登録されたことを受け、水鳥をはじめとする野生生物と、湿地の保全や湿原の賢明な利用について理解を深めるための普及啓発活動や、調査・研究・監視等を行う拠点施設として「琵琶湖水鳥・湿地センター」ができた。ラムサール条約に指定されたことで、滋賀県全体で、琵琶湖の自然環境への取り組みが強化された。",
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"text": "滋賀県内の水難事故の3分の1が大津市消防局管内で発生している。大津市消防局が2015年に出動した水難救助件数は21件で、救助件数全体に占める割合は9パーセントであり全国平均の4.4パーセントの2倍以上となっている。前述したおろしなどの風は、漁船やウィンドサーフィンの事故の原因となることも多く、1941年(昭和16年)には琵琶湖遭難事故が発生している。",
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"text": "先に触れた近代における蒸気船の事故としては、まず1874年(明治7年)に長運丸が唐崎沖でボイラーの破裂により沈没し、数十名の乗客が犠牲となっている。その翌年には、満芽丸(大津所属)が加重積載により小松沖で沈没し、47人の犠牲者を出した。",
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"text": "このほか、太平洋戦争の終戦間際に零式艦上戦闘機(零戦)六二型が琵琶湖に不時着している。1978年(昭和53年)、湖底に沈んでいた零戦が引き上げられ京都嵐山美術館が修復、その後は和歌山県「ゼロパーク」、広島県「大和ミュージアム」と引き渡され、展示された。",
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"text": "※文末の「#」は、関連する節へのページ内リンクである。",
"title": "人間との関わり"
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"text": "※『滋賀県レッドデータブック』2015年版に基づき、希少(亜)種には「*」を、絶滅危機増大(亜)種には「**」を、絶滅危惧(亜)種には「***」を附す また、環境省レッドリスト2020年版に基づき、絶滅危惧IB類およびI類には「⁑」を、IA類には「⁂」を附す。琵琶湖においては絶滅したとされる種には「†」を附す。",
"title": "人間との関わり"
}
] | 琵琶湖(びわこ)は、滋賀県にある日本最大の面積と貯水量を持つ湖。一級水系「淀川水系」に属する一級河川である。国土交通大臣から委託を受けて滋賀県知事が管理を担う。湖沼水質保全特別措置法指定湖沼で、ラムサール条約登録湿地でもある。 古くは淡海・淡海の海・水海・近江の海・細波・鳰(にお)の海などとも呼ばれ、「びわ湖」「びわこ」と表記されることもあるほか、「Mother Lake」の愛称や「近畿の水瓶」の別称で呼ばれることもある。 約440万年前に形成された古代湖であり、40-100万年ほど前に現在の位置に移動してきた。内湖を含む多様な地形や多数の固有種を含む豊かな生態系をもっているが、近現代の開発により失われたり減少したりした地形や種もある。古くから近畿地方の水運・水利・漁撈における役割を担い、近江八景などをとおして景勝地としても知られ、作品の題材となることも多いほか、環境保全活動も盛んにおこなわれている。 | {{Infobox 湖
|名称 = 琵琶湖
|周囲長 = 235.20{{sfn|環境政策課|2020|p=83}}
|湖沼型 = 中栄養湖
|淡汽 = [[淡水]]
|成因 = [[構造湖]]
|標高 = 84.371{{sfn|松田|2013|p=187}}
|貯水量 = 27.5{{sfn|環境政策課|2020|p=83}}
|平均水深 = 41.2{{sfn|環境政策課|2020|p=83}}
|最大水深 = 103.58{{sfn|環境政策課|2020|p=83}}
|面積 = 669.26{{sfn|環境政策課|2020|p=83}}
|画像 = [[ファイル:Lake biwa.jpg|300px]]<br/>衛星写真
|所在地 = {{JPN}} [[滋賀県]]{{Location map|Japan Shiga Prefecture#Japan|width=220|float=center|relief=1|label=琵琶湖}}{{Coord|35|20|0|N|136|10|0|E|region:JP-25_scale:400000|display=it}}
|透明度 = 2.2(南湖)5.5(北湖){{sfn|環境政策課|2020|p=13}}
}}
{{after float}}
'''琵琶湖'''(びわこ)は、[[滋賀県]]にある[[日本一の一覧|日本最大]]の[[面積]]と貯水量を持つ[[湖]]。[[一級水系]]「[[淀川]]水系」に属する[[一級河川]]である<!--「地理』-->。[[国土交通大臣]]から委託を受けて滋賀県知事が管理を担う。[[湖沼水質保全特別措置法]]指定湖沼で、[[ラムサール条約]]登録[[湿地]]でもある<!--「行政上の扱い」「年表」-->。
古くは淡海・淡海の海・水海・近江の海・細波・{{ruby|鳰|にお}}の海などとも呼ばれ、「びわ湖」「びわこ」と表記されることもあるほか、「{{lang|en|Mother Lake}}」の愛称や「近畿の[[水瓶]]」の別称で呼ばれることもある<!--「呼称」-->。
約440万年前に形成された[[古代湖]]であり、40-100万年ほど前に現在の位置に移動してきた<!--「自然史」-->。{{読み|内湖|ないこ}}を含む多様な地形や多数の固有種を含む豊かな生態系をもっているが、近現代の開発により失われたり減少したりした地形や種もある<!--「地理」「生物相」-->。古くから近畿地方の[[水運]]・[[水資源|水利]]・[[漁撈]]における役割を担い、[[近江八景]]などをとおして景勝地としても知られ、作品の題材となることも多いほか、環境保全活動も盛んにおこなわれている<!--「水利用」「文化や経済」「環境保全」-->。
[[ファイル:Two Views of Lake Biwa 2022 Jan 2.webm|thumb|琵琶湖]]
{{TOC limit}}
== 地理 ==
[[ファイル:20091015琵琶湖.jpg|thumb|left|120px|航空写真]]
{{after float}}
琵琶湖は[[鈴鹿山脈|鈴鹿山地]]・[[伊吹山地]]・[[野坂山地]]・[[比良山地]]・[[笠置山地|甲賀山地]]といった山々に囲まれた[[滋賀県]]の[[近江盆地]]に位置する{{Sfn|竹林|1999|p=12}}{{Sfn|水質保全機構|2020|p=1.2}}。面積は669.26[[平方キロメートル]]で、[[滋賀県]]の面積の6分の1を占め、[[日本一の一覧|日本最大]]である{{sfn|環境政策課|2020|p=83}}。貯水量は275億[[トン]]で、こちらも日本一である{{sfn|松田|2013|p=186}}{{efn2|第2位の[[支笏湖]]は、面積は78.7平方キロメートルと小さいが、最大水深が大きいため209億トンの貯水量をもつ{{sfn|松田|2013|p=186}}。}}。湖底が最も深い水域は[[竹生島]]と[[安曇川]][[河口]]の間にあり、2005年には104.1[[メートル]]{{efn2|これは海水面の約マイナス18メートルにあたる{{sfn|池田|2018|p=114}}。}}の最大水深が計測された{{sfn|松田|2013|p=187}}{{sfn|国土地理院: 湖沼調査}}{{sfn|熊谷|2012|p=114}}。南北の延長は長浜市西浅井町[[塩津村 (滋賀県)|塩津]] – [[大津市]]玉野浦間で63.49[[キロメートル]]、最広部は[[長浜市]]下坂浜 – 高島市新旭町[[饗庭村|饗庭]]間の22.8キロメートル、最狭部は[[守山市]]水保町 – 大津市[[堅田 (大津市)|今堅田]]間の1.35キロメートルである{{sfn|水質保全機構|2020|p=1.3}}。[[流域面積]]は[[#湖水|後述]]するように3848平方キロメートルで、[[淀川]]流域の47パーセントに当たる{{sfn|水質保全機構|2020|p=1.3}}。
最狭部に架かる[[琵琶湖大橋]]を挟んだ北側の主湖盆を'''北湖'''(太湖)、南側の副湖盆を'''南湖'''と呼ぶ{{sfn|国際協力総合研究所|1990|p=9}}{{sfn|大久保|1998|p=245}}{{sfn|嘉名|齋藤|1999|p=446}}。面積58平方キロメートル・平均[[水深]]4メートルの南湖に対し、北湖は面積623平方キロメートル・平均水深41メートルであり、湖水の99[[パーセント]]は北湖に蓄えられている{{sfn|植村|太井子|1990|p=723}}{{sfn|大久保|1998|p=245}}。
[[東京湾平均海面]]({{lang|en|T.P.}})基準でプラス84.371メートル、[[大阪湾最低潮位]]({{lang|en|O.P.}})基準でプラス85.614メートルの高さが琵琶湖基準水位({{lang|en|'''B'''iwako '''S'''urface '''L'''evel}}、'''{{lang|en|B.S.L.}}''')と定められている{{sfn|松田|2013|p=187}}{{sfn|琵琶湖河川事務所|2013|p=23}}。B.S.L.は、1874年に鳥居川観測点において「これ以上水位が下がることはない」と判断して定められたものと推測されているが、その後、[[#水害と治水|後述]]するように[[淀川|瀬田川]]が改修されたため、さらに水位を下げることが可能となり、2000年ごろまでには満水位を意味するようになった{{sfn|琵琶湖河川事務所|2013|p=23}}{{sfn|庄|2003|p=4}}{{sfn|戸田|2001|p=39}}。1992年制定の瀬田川洗堰操作規則では、大津市[[浜大津|三保ヶ崎]]および堅田漁港・高島市[[大溝町|大溝]]漁港・長浜市[[高月町]]片山漁港・彦根港における計測水位の平均値が琵琶湖の水位とされている{{sfn|林博通|2011|p=12}}{{sfn|琵琶湖河川事務所|2013|p=16}}。
{{main2|琵琶湖周辺の地域区分(湖南・湖東・湖北・湖西)|滋賀県#地域区分}}
=== 湖底 ===
{{節スタブ|湖底段丘と活構造|date=2021年3月}}
琵琶湖の湖底地形は、北湖の北湖盆・中湖盆と南湖(南湖盆)に分けられる{{sfn|池田|2018|p=114}}{{sfn|植村|太井子|1990|p=723}}。若い地形であり水深70メートルを超す北湖に対し、南湖は湖沼の発達ステージの終末状態に近く、水深5メートル以下である{{sfn|池田|2018|pp=114f}}。逆くの字型の平面形態を示す北湖の湖底地形は、北西 - 南東方向の北湖盆(深度80 - 90メートル)と北東 - 南西方向の中湖盆(深度75メートル前後)に分かれており、[[沖島]]([[#湖中島|後述]])北側付近には両者を分ける靴状の湖底地形がある{{sfn|池田|2018|p=114}}{{sfn|植村|太井子|1990|p=723}}。北湖盆と中湖盆のいずれも、東側は[[傾斜 (地質学)|傾斜]]が緩く、西側は傾斜が急である{{sfn|植村|太井子|1990|p=723}}。北湖岸においては、若い[[リアス式海岸|リアス状]]の地形が湖底へと続く<!--{{sfn|池田|2018|p=114}}-->。また、[[#湖中島|後述]]の{{読み|湖中島|こちゅうとう}}のほか水没島も存在する{{sfn|池田|2018|p=114}}。
琵琶湖中央の湖底には、900メートルの土砂が[[堆積]]しており、その下には500メートルほどの[[岩盤]]がある<!--{{sfn|里口|2018b|p=12}}-->。南湖の[[烏丸半島]]付近にも900メートルの土砂が堆積しているが、琵琶湖全体でみると岩盤や土砂の厚さは一定ではない{{sfn|里口|2018b|p=12}}{{efn2|中央と烏丸半島付近の土砂の厚さが同じなのは偶然である{{sfn|里口|2018b|p=12}}。}}。
=== 湖岸 ===
[[File:Biwako Quasi-National Park Omihachiman04s4s3200.jpg|thumb|[[近江八幡市]]の湖岸]]
{{after float}}
琵琶湖湖岸の構造は多様であり、そのため[[#生物相|後述]]するように生物も多様である<!--中島2001,p118-->。傾斜は西岸は急で東岸は緩やかな傾向にあり、下記の山地系湖岸を除く77パーセントは、流入河川の造営力を受けた{{読み|平野|へいや}}系湖岸である{{sfn|中島|2001|p=118}}。また、[[底質]]と[[植生]]から次の3つに分類することができる{{sfn|中島|2001|pp=118f}}。
;岩礫型湖岸
:北湖北岸と[[長命寺]]付近の山地系湖岸。岩や[[岩礁]]が主体<!--中島2001,p118-->。
;砂質型湖岸
:北湖の多くを占める。小礫や砂が主体<!--中島2001,p118-119-->。
;砂泥型湖岸
:最も植生が豊かであり、泥の堆積の発達に伴い、[[植物群落]]が発達する<!--中島2001,p119-->。
湖岸域には陸上[[生物圏]]と水中生物圏をなだらかに繋ぐ{{仮リンク|推移帯|en|Ecotone}}{{efn2|[[生物群系]]の境界など、異なる環境が接し連続的に入り交じる場所を指す[[生態学]]の用語。生物学の多様性が高い{{sfn|ブリタニカ・ジャパン|2014}}{{sfn|小学館|n.d.b|loc=エコトーン & 推移帯}}。エコトーン、移行帯とも{{sfn|小学館|n.d.b|loc=エコトーン & 推移帯}}{{sfn|中島|2001|p=117}}。}}が広がり、[[生物多様性]]への寄与や水質浄化機能といった様々な役割を果たしてきた{{sfn|中島|2001|pp=117 & 119}}{{sfn|水野|2011|p=6}}。しかし[[第二次世界大戦]]後、大規模な[[護岸工事]]などにより人工湖岸が増え{{efn2|2018年ごろの人工湖岸の割合は37パーセント(南湖では73パーセント)である{{sfn|東|2018|pp=118f}}。}}、推移帯としての面積は大幅に減少した{{sfn|水野|2011|p=6}}{{sfn|東|2018|pp=118f}}{{sfn|中島|2001|pp=119f}}。
琵琶湖周囲の約50キロメートルには湖岸堤・管理用道路が建設されており、県道としても利用されている{{efn2|管理は滋賀県と水資源機構が行う。}}<!--{{sfn|古賀|2018|p=27}}-->。またそのほぼ全区間には{{読み仮名|前浜|まえはま}}と呼ばれる消波帯が設けられており、堤防の高さを低く抑える効果に加え、親水空間としての役割も果たしている{{sfn|古賀|2018|p=27}}。湖岸堤により分断された生物環境については、「マザーレイク21計画」や「琵琶湖・淀川流域圏の再生計画」において堤脚水路の再自然化が掲げられており、連続性の再生を目指した試験的なビオトープの造成が2003年以降実施されている{{sfn|古賀|2018|p=35}}。
=== 内湖 ===
[[File:Inner lakes surrounding Mount Azuchi (c. 1928).jpg|thumb|left|[[昭和]]初期の安土山は小中湖(手前)と大中湖(奥)に囲まれていた{{sfn|県立公文書館|2020}}。]]
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{{see also|入江干拓|大中湖}}
琵琶湖の周囲には、琵琶湖の一部が土砂の堆積などにより切り離されてできた{{読み|内湖|ないこ}}と呼ばれる[[ラグーン|潟湖]]がある{{sfn|金木|2015|p=14}}{{sfn|西野|2018a|p=120}}。内湖は、琵琶湖とは水路で結ばれているため水位変動の影響を受ける{{sfn|金木|2015|p=14}}。以下で述べるように20世紀に多くの内湖が消失し、2013年現在残されているのは、[[近江八幡市]]の[[西の湖]]をはじめとする総面積4.25平方キロメートル{{efn2|人工{{読み|内湖|ないこ}}を加えると、2018年現在5.3平方キロメートルである{{sfn|西野|2018a|p=120}}。}}の23{{読み|内湖|ないこ}}のみである{{sfn|大道|2013|p=191}}{{sfn|西野|2018a|p=120}}。
[[File:琵琶湖の内湖.png|thumb|かつて琵琶湖周辺に存在した{{読み|内湖|ないこ}}の図]]
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[[昭和]]初期ごろまで、琵琶湖の周囲には大小40あまり、総面積29平方キロメートル(1940年時点)の{{読み|内湖|ないこ}}があった{{sfn|大道|2013|p=191}}。これらの{{読み|内湖|ないこ}}は、繁茂する[[ヨシ]]などにより河川より流入する水を浄化する機能や、魚類の産卵・生育の場、あるいは堆積した泥による肥料の提供といった役割を担ってきた{{sfn|大道|2013|pp=192f}}。また[[#環境史|後述]]するように、[[今津町 (滋賀県)|今津]]や[[堅田 (大津市)|堅田]]といった[[係留施設|津]]の発展において[[船溜まり]]としての役割を果たしたほか、[[安土城]]や[[大溝城]]の立地にも影響を与えた{{sfn|水野|2011|p=6}}。
近代に入ると、[[#水害と治水|後述]]する1905年の[[南郷洗堰]]の築造や1943年から治水・利水を目的として開始された淀川第1期[[河川総合開発事業#河水統制事業|河水統制事業]]の影響で琵琶湖の平均水位が10センチメートルほど下がったため、{{読み|内湖|ないこ}}の水深も浅くなり、{{読み|内湖|ないこ}}漁業は衰退した{{sfn|西野|2018a|p=120}}。さらに[[第二次世界大戦後]]には、人口増加・食糧不足に対応するための農地開発として16箇所、総面積25平方キロメートルあまりの{{読み|内湖|ないこ}}が干拓され消失した{{sfn|金木|2015|p=14}}。なお、1985年 - 1990年にかけては、[[琵琶湖総合開発事業]]による湖周道路の敷設により琵琶湖の一部が切り離され、{{読み|内湖|ないこ}}化した例もある{{sfn|金木|2015|p=14}}。また、[[長浜市]]において2001年より干拓農地の一部を湛水しての[[早崎内湖|早崎{{読み|内湖|ないこ}}]][[ビオトープ]]実験がおこなわれるなど、{{読み|内湖|ないこ}}再生の試みも行われている{{sfn|金木|2015|pp=15f}}{{sfn|早崎内湖再生保全協議会|loc=早崎内湖ビオトープとは & 事業概要}}。
=== 湖中島 ===
琵琶湖には[[沖島]]・[[竹生島]]・[[多景島]]の3島がある{{sfn|観光交流局|2018|pp=36f}}{{sfn|里口|2018b|p=16}}{{efn2|{{harvtxt|木村|2001|p=133}} は、これに沖の白石を加え4島としている。}}。沖島は[[近江八幡市]]の沖合い1.5キロメートルに位置する周囲約6.8キロメートル・面積約1.53平方キロメートルの島で、淡水湖沼の有人島としては日本唯一である<!-- 観光交流局2018a,pp=36-37 -->。竹生島は[[長浜市]]の沖合6キロメートルに位置する周囲約2キロメートル・面積約0.14平方キロメートルの島<ref>{{Cite web|和書|title=竹生島|滋賀県ホームページ |url=https://www.pref.shiga.lg.jp/ippan/kendoseibi/koutsu/12389.html |website=滋賀県ホームページ |access-date=2023-03-22 |language=ja}}</ref>、多景島は[[彦根市]]の沖合い5キロメートルに位置する周囲約600メートル・面積約0.012平方キロメートルの島である<!-- 観光交流局2018,pp=36-37 --><ref>{{Cite web|和書|title=琵琶湖に浮かぶ4つの島々と琵琶湖に架かる2つの橋 多景島 {{!}} いま滋賀.jp |url=https://imashiga.jp/2021/01/21/%e7%90%b5%e7%90%b6%e6%b9%96%e3%81%ab%e6%b5%ae%e3%81%8b%e3%81%b64%e3%81%a4%e3%81%ae%e5%b3%b6%e3%80%85%e3%81%a8%e7%90%b5%e7%90%b6%e6%b9%96%e3%81%ab%e6%9e%b6%e3%81%8b%e3%82%8b2%e3%81%a4%e3%81%ae-3/ |website=いま滋賀.jp {{!}} 「いま滋賀」は、一般社団法人・東京滋賀県人会の公式サイトです。 |date=2021-01-21 |access-date=2023-03-22 |language=ja}}</ref>。竹生島と多景島には寺院があり、竹生島は[[西国三十三所]]や[[琵琶湖八景]]に含まれている<!-- 観光交流局2018a,pp=36-37 -->。このほか、多景島から西に4キロメートルの地点には[[沖の白石]]が{{sfn|観光交流局|2018|pp=36f}}、[[草津市]]には1978年ごろに着工された[[人工島]]の[[矢橋帰帆島]]がある{{sfn|朝日新聞|2018}}。またかつて{{efn2|[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]まで{{sfn|平凡社|n.d.}}とも[[戦後|第二次世界大戦後]]の大中の湖の干拓まで{{sfn|大沼|2012b|p=104}}{{sfn|渡邉|2013}}{{sfn|朝日新聞|2016}}ともされる。}}は、[[奥島]](近江八幡市)も独立した島であった{{sfn|平凡社|n.d.}}。
なお、湖北町延勝寺地先には「奥の洲」と呼ばれる浅水域があり<ref>{{Cite web|和書|author=太田滋規|title=3.琵琶湖沿岸|url=https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/2018678.pdf|website=滋賀県|accessdate=2023-12-09}}</ref>、その水面上にある小島も「奥の洲」と称されている<ref>{{Cite web|和書|title=広報ながはま 2013年7月15日|url=https://www.city.nagahama.lg.jp/cmsfiles/contents/0000000/385/KohoNagahama130715_web01.pdf|website=長浜市|accessdate=2023-12-09}}</ref>(奥の洲は湖面の水位が低下すると地続きとなる<ref>{{Cite web|和書|title=滋賀県の琵琶湖が「モンサンミシェルみたい」に 水位低下で「珍光景」出現|url=https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/1157460|website=京都新聞|accessdate=2023-12-09}}</ref>)。
<gallery>
File:Chikubu island01s3200.jpg|竹生島
File:Oki Island (Lake Biwa).JPG|沖島
File:Biwako Takei island2012.jpg|多景島
File:Oki-no-shiraishi.JPG|沖の白石
</gallery>
=== 河川 ===
[[ファイル:20080813AnegawaBiwaKo.JPG|サムネイル|[[姉川]][[三角州]]]]
[[ファイル:20080813AdoGawa.JPG|サムネイル|[[安曇川]]三角州]]
{{after float}}
琵琶湖には117本の[[一級河川]]を含む約450本の流入河川があり{{sfn|一瀬|2018|p=157}}{{sfn|流域政策局|2018a|p=218}}、周囲の[[山地]]からの流れを[[源流]]とする{{sfn|日経新聞|2020}}。主な流入河川としては、湖南・湖東では[[野洲川]]・[[日野川 (滋賀県)|日野川]]・[[愛知川]]などが、湖北では[[姉川]]・[[高時川]]・[[余呉川]]などが挙げられる。湖西には大きな河川は[[安曇川]]しかなく、ほかは比良山地からの小河川である<!--流域政策局2018a,p.219-->。この内、野洲川と安曇川以外は50キロメートル未満で、急勾配・[[洪水|出水]]のしやすさ・[[渇水]]の多さを特徴とする{{sfn|流域政策局|2018a|p=219}}。[[中世日本|中世]]後期以降、一部の河川は[[天井川]]化しており、それにともない湖岸の土砂堆積状況が変化し、[[河口]]域では[[三角州]]の発達した例や逆に陸地が後退した例がある{{sfn|水野|2011|pp=12f}}。
流出河川は、堅い岩盤でできた山の間を細く抜けていく<!--里口-->[[淀川|瀬田川]]のみ<!--流政a-->であり、[[淀川|宇治川、淀川]]と名前を変えて、[[大阪湾]]([[瀬戸内海]])へ至る<!--流政b-->{{sfn|里口|2018b|p=9}}{{sfn|流域政策局|2018a|p=219}}{{sfn|流域政策局|2018b|p=228}}。瀬田川には、琵琶湖の水位調整と下流域の[[治水]]・利水のために[[瀬田川洗堰]]が設けられている{{sfn|流域政策局|2018a|p=219}}。琵琶湖からの流出経路は、これに[[琵琶湖疏水]](第一、第二)および宇治発電所水路を加えた計4か所である{{sfn|近畿地方整備局河川部|2009|p=198}}{{sfn|戸田|2001|p=38}}。瀬田川の周りの山に水が堰き止められていることは、琵琶湖が湖として成立している要因の一つである{{sfn|里口|2018b|p=9}}。琵琶湖の治水・利水・交通などにおける淀川や琵琶湖疏水との関係については、[[#人間との関わり|後述]]する。
=== 行政上の扱い ===
琵琶湖の[[河川法]]上の扱いは、[[淀川]]水系の[[一級河川]]である<!-- 琵琶湖開発総合管理所: 管理業務の目的と内容 -->。琵琶湖は国土交通大臣が管理する大臣管理区間ではなく、全体が[[指定区間]]に指定され滋賀県知事に管理が委託されている{{sfn|琵琶湖開発総合管理所: 管理業務の目的と内容}}{{efn2|例えば、琵琶湖岸に構築物を無許可で設置すると、河川法に基づいて滋賀県から撤去命令が出される。例:[http://www.shigaken-gikai.jp/voices/GikaiDoc/attach/Nittei/Nt1815_12.pdf 「行政代執行の実施結果について」]}}。
琵琶湖と瀬田川の境界は、[[東海道本線]]の瀬田川橋梁から250メートルほど上流側の地点{{efn2|大津市春嵐一丁目字南1030番1地先を右岸、大津市玉野浦字高砂2189番2地先を左岸とする{{sfn|琵琶湖河川事務所|2018}}。}}である<!--{{sfn|琵琶湖河川事務所|2018}}-->。これは、かつては瀬田の唐橋の位置とされていたものが、1894年の「淀川改良工事計画」において約1キロメートル上流に移されたのち、1896年の旧河川法において滋賀郡[[石山 (滋賀県)|石山村]]と栗太郡[[瀬田町|瀬田村]]の間に定められ、さらに1965年の[[河川法]]改正に伴い指定され直したものである{{sfn|琵琶湖河川事務所|2018}}。
琵琶湖が所属する市は次のとおりである(北から時計回り)。各市名の右に、市ごとの琵琶湖の面積(単位:平方キロメートル)を示す{{sfn|国土地理院|2020|p=82}}。
{{columns-list|colwidth=15em|
* [[長浜市]] - 141.42
* [[米原市]] - 27.32
* [[彦根市]] - 98.59
* [[東近江市]] - 5.15
* [[近江八幡市]] - 76.03
* [[野洲市]] - 19.58
* [[守山市]] - 10.16
* [[草津市]] - 19.17
* [[大津市]] - 89.92
* [[高島市]] - 181.93
}}
琵琶湖の市町境界については、かつて、どの市町にも組み入れられていなかった。2007年5月8日、沿岸の各自治体による共同会議において境界の設定に合意し、各自治体の議会の同意を得た上で[[総務省]]に届け出を行い、9月28日付で『[[官報]]』に確定が公示された{{sfn|総務省|2007}}{{sfn|朝日新聞|2007}}{{sfn|京都新聞|2007}}。境界確定の目的は主に[[地方交付税交付金]]の増額である。また、増額された交付金の半分は琵琶湖の保全に使われることが発表されている{{sfn|自治振興課|2007|p=1}}。
== 歴史 ==
{{see also|#年表}}
=== 自然史 ===
[[File:Lake Biwa Museum 20201024 04.jpg|thumb|[[古琵琶湖層群]]]]
{{after float}}
<!-- 本節における「現在」は、数十 - 数百万年オーダーのためWP:DATEDには当たらないと判断したうえで使用しています。-->
琵琶湖は世界有数の[[古代湖]]{{efn2|古代湖は世界に20ほどあり{{sfn|小学館|n.d.b|loc=古代湖}}、{{harvtxt|Kiprop|2017}} によると、琵琶湖はそのうち5番目に古い湖である<!-- 以前の版や英語版には3番目や13番めとする記述があったが、里口の研究以前の古い情報に基づいている可能性が高いと判断し、除去した。-->。}}であり、その成立はおよそ[[地球史年表#1000万年前 - 100万年前|440万年前]]{{efn2|この年代は、古琵琶湖層群の火山灰層の研究により明らかになったもので、以前は500万年前や600万年前とされることもあったが、この研究をおこなった里口保文へのインタビューによると、今後約400万年前との推定が覆される可能性はきわめて低いという{{sfn|里口|2018a|p=122}}{{sfn|林由佳里|2019}}。}}まで遡る<!-- 松田2013,p.188;里口2018,p.122 -->。以降現在に至るまでの琵琶湖の各時代の環境は、[[古琵琶湖層群]]と呼ばれる三重県から滋賀県にかけて分布する[[地層]]における各[[累層]]の[[泥]]・[[砂]]・[[礫]]の構成比率の違いにより示されている{{sfn|里口|2001|pp=20f}}。
440万年ほど前に琵琶湖が生まれたのは、後の三重県[[伊賀市]]である<!-- 松田2013,p.188;里口2018,p.122 -->。まず、[[地盤]]の[[断層]]運動によりできた浅い[[地溝|窪地]]に水が溜まり、40 - 50万年ほどかけて浅くて狭い湖となった([[構造湖|断層湖]])<!-- 松田2013,p.188;里口2018,p.122 -->{{efn2|[[津市|津]]付近に存在した東海湖と一体化した大きな湖だったとする仮説もある{{sfn|里口|2018b|p=65}}。}}。この湖は、旧[[大山田村 (三重県)|大山田村]]付近にあったことから、大山田湖と呼ばれる{{sfn|松田|2013|p=188}}{{sfn|里口|2018a|p=122}}。300万年ほど前になると、この湖は[[阿山郡|阿山地方]]にまで北上した{{sfn|松田|2013|p=189}}。この時代の前期に湖は広がり、後期には[[甲賀市|甲賀地方]](滋賀)に位置する北部の沈下により狭くて深い湖となった(阿山・甲賀湖、佐山湖){{sfn|松田|2013|p=189}}{{sfn|里口|2018a|p=123}}{{sfn|里口|2018b|pp=68f}}。260万年ほど前にはさらに北上し、[[水口町|水口地域]]・[[日野町 (滋賀県)|日野地域]]・[[多賀町|多賀地域]]にまで広がっていった{{sfn|松田|2013|pp=189f}}{{sfn|里口|2018a|p=123}}。この時期には蒲生湖沼群と呼ばれる小さな[[三日月湖]]などが多数集まった[[沼沢地]]群になり、その後さらに河川とその周囲の[[湿地]]といった環境{{efn2|{{harvtxt|里口|2018b|p=85}} は、魚種の連続性の観点などから、この時代にも湖があった可能性についても研究を進める必要があると述べている。}}になるなど、不安定な[[水域]]であった{{sfn|松田|2013|p=189}}{{sfn|里口|2018a|p=123}}。この時代に水の流出方向は[[伊勢湾]]方面から[[京都]]・[[大阪]]方面に変わったと考えられている{{sfn|里口|2018b|p=73}}{{efn2|このころ、瀬戸内海や大阪湾はまだ形成されていない{{sfn|里口|2018b|p=73}}。}}。
現在滋賀と[[三重県|三重]]・[[岐阜県|岐阜]]両県の[[水系]]を分断している[[鈴鹿山脈]]は、180万年ほど前に[[隆起と沈降|隆起]]し始めた{{sfn|里口|2018b|p=80}}{{efn2|水系が分断される以前、175万年ほど前の洪水では、岐阜の[[火山灰]]が滋賀・京都・大阪を通り[[淡路島]]まで流されている{{sfn|里口|2018b|p=81}}。}}。[[地球史年表#100万年前 - 10万年前|100万年ほど前]]になると、現在の南湖の位置に堅田湖と呼ばれる小さな湖が形成された{{sfn|松田|2013|p=189}}{{sfn|里口|2018a|p=123}}。同じころ、現在の北湖中央付近にも湖があったがその後陸地化したことが、地層の調査に基づき推定されている{{sfn|里口|2018b|pp=40f}}。また90万年ほど前には、現在の北湖中央を南北に横切る山地があった{{sfn|里口|2018b|pp=45f}}。その後琵琶湖の周辺に大きな地殻変動が生じ山地が隆起した43万年ほど前に、北湖の地域にまで琵琶湖は広がり、以降北進することなく現在にまで至っている{{sfn|松田|2013|p=189}}{{sfn|里口|2018a|p=123}}{{efn2|琵琶湖が現在でもすこしずつ北上・沈降していると紹介されることもあるが、地震によって地盤が上下することはあるものの、「年間3センチメートルで動いている」といった説明は誤りである{{sfn|里口|2012|p=124}}{{sfn|松田|2013|p=190}}。}}。40万年ほど前の琵琶湖は現在よりも細長く、その後東へ向けて広がったと考えられている{{sfn|里口|2018b|p=29}}。
=== 環境史 ===
{{節スタブ|近現代の[[琵琶湖総合開発事業]]関連など|date=2022年1月}}
[[File:Lake Biwa Museum 20201024 22.jpg|thumb|葛籠尾崎湖底遺跡]]
[[File:Hiradake02, Eight Views of Ōmi.png|サムネイル|1918年ごろの琵琶湖]]
{{after float}}
{{See also|滋賀県#歴史|淀川#淀川開発史}}
本節では、{{仮リンク|環境史|en|Environmental history}}を中心に石器時代以降の琵琶湖の歴史について概説する。交通・治水・利水・漁撈・環境保全といった各分野における詳細については[[#人間との関わり|後述]]する。
琵琶湖には90を超える[[琵琶湖湖底遺跡 (曖昧さ回避)|湖底遺跡]]があり、[[縄文時代]]後期から近代初期にかけてを存続の終期とするそれらからは、琵琶湖周辺の生活や文化の歩みを窺い知ることができる{{sfn|林博通|2001|p=240}}{{sfn|水野|2011|p=8}}{{sfn|木戸|2018|p=50}}{{efn2|これらの湖底遺跡のうち[[遺構]]を含むものについては、水位の変動、あるいは[[地すべり|地滑り]]や[[地震]]などによる地盤変動により湖底に沈んだものと断定できるが、[[遺物]]のみの[[遺跡]]の場合は、儀式や遺棄により湖底に沈められた可能性も考慮する必要がある{{sfn|林博通|2001|p=244}}。}}。一方、近世以前の琵琶湖についての[[史料]]は限定的であり、湖岸域の土地利用は変化しやすく支配関係の把握が難しいといった問題もあるため、琵琶湖の環境史研究は発展途上である{{sfn|水野|2011|p=7}}。[[#人間との関わり|後述]]するように琵琶湖では古くから湖上交通や漁撈がおこなわれおり、その拠点として多くの集落が発達しており、津・浦・浜などの文字を含む地名からは、その成立における琵琶湖との密接な結び付きをうかがえる{{sfn|迫田|2015|p=172}}。
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琵琶湖が現在<!--自然史レベルでの「現在」はWP:DATED違反ではないと判断-->の位置に定まったのは、[[日本列島の旧石器時代|旧石器時代]]末期ごろであり、琵琶湖周辺ではこのころの[[石器]]が発見されているが、詳細は不明である{{sfn|林博通|2001|p=239}}。縄文早期後半の[[石山貝塚]]などの遺跡からは淡水産の魚介類の貝殻や骨が発見されており、一部山間部にも居住の痕跡はあるが、湖畔での居住を好んだ傾向が窺える{{sfn|林博通|2001|pp=239f}}。また[[#先史・古代の交通|後述]]するように、縄文後期には[[丸木舟]]が使用されていたことも判明している{{sfn|用田|2018|p=54}}{{sfn|木村|2001|p=29}}。[[弥生時代|弥生]]前期から中期にかけての湖底遺跡からは、[[弥生土器|土器]]・[[木器]]・石器・炭化米や[[環濠集落|環濠]]などが発見されており、[[灌漑]]・排水が比較的容易であり[[漁撈]]の便もよい琵琶湖畔において、[[稲作#古代の稲作|初期の稲作]]が多く営まれていたと推測できる{{sfn|林博通|2001|p=241}}{{sfn|耕地課|2019|p=3}}。
[[#人間との関わり|後述]]するように、[[近江大津宮|大津京]]遷都がおこなわれた[[飛鳥時代]]以降、多くの歌人が琵琶湖を歌に詠み込んでおり、湖上の往来が盛んになされていたこともうかがえる<!--「呼称」「交通」「和歌」-->。また、[[奈良時代]]から近代にかけて、琵琶湖治水のために[[淀川|瀬田川]]の[[浚渫]]・改修が繰り返し計画・実施されることになる<!--水害と治水-->。なお、湖底遺跡は[[平安時代]]末期を存続の終期とするものが多い{{sfn|水野|2011|p=8}}。
中世の文書や絵図に記された[[農地|耕地]]の一部は、後に琵琶湖や{{読み|内湖|ないこ}}に水没している{{sfn|水野|2011|pp=11f}}。[[#中世の交通|後述]]する[[係留施設|津]]の立地の変化の例として、この時期に琵琶湖水位の上昇により{{読み|内湖|ないこ}}が失われた[[木津 (滋賀県)|木津]]{{small|(こづ、新旭町{{sfn|木村|2001|p=67}})}}に代わって、[[今津町 (滋賀県)|今津]]が発展するようになったことが挙げられる{{sfn|水野|2011|p=11}}。また[[横江遺跡]]([[守山市]])などにおいては、[[鎌倉時代]]ごろの[[堀]]で囲まれた[[集落]]が確認されている{{sfn|水野|2011|p=9}}。これらの堀はその深さや幅から、防衛機能よりも灌漑・排水や舟運としての性格が強かったと推測されており{{sfn|水野|2011|pp=9f}}、{{harvtxt|水野|2011|p=10}} は、琵琶湖の水位上昇に対応しての[[洪水]]対策という役割の可能性についても言及している。
[[織田政権|織田]]・[[豊臣政権]]においては、[[安土城]]を拠点に湖上を一括管理し、経済・社会的に利用することが試みられた{{sfn|用田|2018|p=54}}。安土城が築かれた[[大中湖]]一帯は、このころまで政治的中心地であったが、以降琵琶湖との間に砂州が形成されるなどしたため、豊臣・徳川政権と時代が進むにつれ、膳所や彦根にその地位を譲ることとなった{{sfn|小関|2011|pp=152ff.}}。[[江戸時代]]の琵琶湖周辺域には、200あまりの集落があり{{sfn|竹林|今井|1995|p=417}}、[[#近世の交通|後述]]するように周囲の集落や田畑にはホリと呼ばれる水路が張り巡らされていた<!--交通-->。
近代以降琵琶湖の面積{{efn2|{{読み|内湖|ないこ}}を含まない本湖のみの面積。}}は、1890年代の推定688[[平方キロメートル]]から、1990年代には669平方キロメートルまで減少している。この要因としては、[[南郷洗堰]]の築造に関連する水位の低下のほか、[[干拓]]・[[埋め立て]]や湖岸整備といった人為的なものが大きいと考えられる{{sfn|東|2012|pp=118f}}。
== 湖水 ==
[[#地理|前述]]のとおり、琵琶湖の貯水量は275億[[トン]]であり、平均水位は84.371メートルが{{lang|en|B.L.P.}}として定められている。
=== 水循環 ===
琵琶湖の集水域([[流域]])は3843[[平方キロメートル]]で、その98[[パーセント]]は[[滋賀県]]であり、また滋賀県の90パーセントが琵琶湖の集水域である{{sfn|戸田|2001|p=37}}{{sfn|水質保全機構|2020|p=1.3}}{{efn2|[[大戸川]]なども琵琶湖の水とともに滋賀県から流出しており、これらの集水域を合わせると滋賀県の98%を占めることになる{{sfn|戸田|2001|p=37}}}}。2015年を対象とした推定によると、流入河川より39.3億[[トン]]・[[地下水]]より7.4億トン・湖面への直接降水より12.2億トンの計58.9億トンが琵琶湖に流入、湖面での[[蒸発]]により4.0億トン・[[淀川|瀬田川]]より48.4億トン・[[琵琶湖疏水]]より4.9億トンが琵琶湖から流出しており、[[水循環#滞留時間|滞留時間]]は4.7年である{{sfn|佐藤|2018|pp=134f}}。
琵琶湖の湖水は、その貯水量の約2倍の地下貯留水と繋がっており、湖水の保全と地下水の保全は密接に関わっている{{sfn|川地|2015|p=18}}。また、琵琶湖周辺では年間平均10億トンの[[降雪]]があり、[[水温]]4度ほどで[[密度]]が大きい[[雪解け水]]は、北湖深部に酸素を供給する役割を果たす{{sfn|伏見|2015|p=22}}。
=== 水理現象 ===
琵琶湖の水流は、流出部がいずれも南にあるため、基本的に北から南に向かうが、下記の環流や静振・密度流などにより、北向きの流れ{{efn2|この北向きの逆流により、汚染された南湖の湖水が北湖に流入することが懸念されている{{sfn|湖沼技術研究会|2007|p=223}}。}}も頻繁に発生する{{sfn|湖沼技術研究会|2007|p=223}}。
;環流
:琵琶湖の[[環流]]は1925年<!--戸田2013, p=35には'26とあるが、id. p.37を見ると観測は'25とあり、'26は論文発表年と考えられるため、ほかの資料に従い'25とした。-->の[[神戸地方気象台|神戸海洋気象台]]の観測により発見され{{sfn|焦|2018|p=137}}{{sfn|山敷|松井|禰津|熊谷|2000|p=975}}<!--出典過剰{{sfn|大西|田中|1981}}{{sfn|森川|岡本|1960|p=173}}-->、1960年代から1995年ごろにかけて精力的な研究が行われた{{sfn|戸田|2013|p=36}}。北湖には北から第1環流([[時計回り・反時計回り|反時計回り]])、第2環流(時計回り)、第3環流(反時計回り)の3つの環流があり{{sfn|熊谷|石川|焦|2001|p-=43-44}}{{efn2|{{harvtxt|湖沼技術研究会|2007|p=222}} によると、南湖でも反時計回りの環流が確認されたことがある。}}、常に3つあるとは限らないが{{sfn|水環境部会|2008|p=1}}、第1環流は水温[[成層]]期(春 - 秋)の長期間存在する準定常流である{{sfn|焦|2018|p=137}}{{efn2|2005年には冬の環流も観測されている{{sfn|焦|2018|p=137}}。}}。[[流速]]は第1環流では8月から9月ごろに最大30 - 40[[センチメートル毎秒]]に達する{{sfn|熊谷|石川|焦|2001|p=45}}{{sfn|湖沼技術研究会|2007|p=221}}。環流は南北に移動しており、このことは[[生態系]]や[[漁業]]にも影響を与えていると考えられる{{sfn|熊谷|石川|焦|2001|p=45}}。また、環流は[[水質]]の分布にも影響を与えており、[[沿岸帯]]と沖帯に区分されることになる{{sfn|熊谷|石川|焦|2001|p=46}}。琵琶湖の環流は[[地衡流]]としての性格が強く、発生機構については2018年現在、風成論と熱成論の2つの説がある{{sfn|焦|2018|p=137}}{{sfn|戸田|2013|pp=45-47}}{{sfn|湖沼技術研究会|2007|p=217}}。
;[[セイシュ|静振]]<!--静振はセイシュ(Seiche)の訳語だが、セイシュから副振動へリダイレクトが適切か疑問({{Cite journal|和書|author=河地利彦 |title=セイシュと副振動 |journal=農業土木学会誌 |issn=0369-5123 |publisher=農業農村工学会 |year=1987 |volume=55 |issue=12 |pages=1187-1187,a2 |naid=130004100205 |doi=10.11408/jjsidre1965.55.12_1187 |url=https://doi.org/10.11408/jjsidre1965.55.12_1187}}を参照)なので、確証がない場合はリダイレクト解消はしないでください。-->
:湖水面に生じる表面静振には、[[周期]]の異なる3 - 7種類{{efn2|5種類とする場合の周期はそれぞれ、240.9分、71.9分、65.0分、39.8分、32.3分{{sfn|湖沼技術研究会|2007|p=212}}。}}がある{{sfn|湖沼技術研究会|2007|pp=211-215}}。水温水層の内部境界面に生じる内部静振は、表面静振に比してきわめて大きな[[振幅]]をもち、周期は一例においては63時間である<!--{{sfn2|湖沼技術研究会|2007|p=214}}-->。なお、内部静振が水位に与える影響はほとんどない{{sfn|湖沼技術研究会|2007|p=214}}。
;密度流
:[[台風]]などの強風時には、内部静振による北湖底層から南湖への[[密度流]]が生起するが、大半は北湖に還流するため、南北湖間の交換流としての影響は少ない{{sfn|湖沼技術研究会|2007|p=223}}。秋から冬にかけては、南湖の湖面冷却{{efn2|南湖は北湖に比して水深が浅いため、冷却が早い{{sfn|湖沼技術研究会|2007|p=224}}。}}により、南湖の水が北湖の底層部に潜り込む冬期密度流が発生する。冬期密度流は、発生後数日間持続し、北湖から南湖に還流することはない{{sfn|湖沼技術研究会|2007|p=224}}。
;全層循環
:琵琶湖では例年1 - 2月に、湖水が[[鉛直]]方向に混合し、水温と[[溶存酸素量]]が表水層から深水層まで一様になる全層循環(全循環)という物理現象が起こる{{sfn|焦|2018|p=138}}{{sfn|日経新聞|2021}}{{efn2|「[[湖沼#湖沼の温度]]」および「{{仮リンク|湖水層|en|Lake stratification}}」も参照。}}。湖底に棲息する生物に[[酸素]]を供給する働きをもち、「琵琶湖の深呼吸」とも呼ばれる{{sfn|日経新聞|2021}}。[[地球温暖化]]にともなう[[暖冬]]により、2006年と2015年の全層循環は3月中旬まで遅れ、2019年と2020年には2年連続{{efn2|翌2021年については、2月2日に観測が発表された{{sfn|日経新聞|2021}}}}で確認されなかった{{sfn|焦|2018|p=138}}{{sfn|日経新聞|2021}}。このような全層循環の弱体化により深水層の酸素が減少し、湖底動物の大量斃死につながることが懸念されていて{{sfn|陀安|奥田|由水|2011|p=89}}、実際に湖底にすむ固有種である[[ビワオオウズムシ]]の個体数が減少した要因に挙げられている{{sfn|朝日新聞|2021}}。
=== 水質 ===
{{節スタブ|date=2021年3月}}
[[透明度]]は、2018年の調査によると北湖で5.5[[メートル]]、南湖で2.2メートルであり{{sfn|環境政策課|2020|p=13}}、気象条件によっては16メートルを超える透明度を観測することもある{{sfn|石川|岡本|2007|p=2}}{{efn2|2007年3月15日に[[海津大崎]]付近の水深80メートルの地点で16.8メートルの透明度が観測された。なお、この観測は定期観測ではない{{sfn|石川|岡本|2007|p=2}}。}}。
== 関連する自然現象 ==
[[ファイル:Site at HIRA ropeway station Shiga,JAPAN.jpg|thumb|北比良峠から琵琶湖を見下ろす]]
[[ファイル:Biwako Shinkiro.jpg|thumb|冬の蜃気楼(高島市)]]
{{after float}}
{{see also|#水理現象}}
;津波
:滋賀県によると、西岸湖底断層系{{efn2|琵琶湖西岸断層帯は東北-南西方向に延び{{sfn|植村|太井子|1990}}{{要ページ番号|date=2021年2月}}、断層帯北部の最新活動時期は約2800年前から約2400年前ごろとされ、活動時には[[断層]]の西側が東側に対して相対的に2mから5m程度隆起した可能性がある。断層帯南部の最新活動時期は1185年([[元暦]]2年)の[[文治地震]]であった可能性があり、活動時には断層の西側が東側に対して相対的に6mから8m程度隆起した可能性があるとされている<ref>[https://www.jishin.go.jp/regional_seismicity/rs_katsudanso/f065_biwako-seigan/ 琵琶湖西岸断層帯] 地震調査研究推進本部事務局([[文部科学省]]研究開発局地震・防災研究課)2020年2月22日閲覧</ref>。}}南部では最大で[[マグニチュード]]7.6の地震が発生し、その場合、4.9メートルの[[津波]]が沖島に到達する。また、同断層系北部では最大でマグニチュード7.2の地震が発生し、その場合、[[長浜市]]沿岸に3メートルの津波が到達すると予測される。ただし、「西岸湖底断層系南部は[[活断層]]だが、300年以内に地震が起こる確率はほぼ0%。ほかの4断層はいずれも活断層ではなく、津波を伴う地震が発生する恐れは極めて小さい」としている<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20140317-ZH5NTA46HZIM3KCC4V6THPNV7Y/|title=「琵琶湖に津波はある?」最大で4・9メートル 滋賀県が試算(1/2ページ)|newspaper=[[産経新聞|産経WEST]]|website=|publisher=産経新聞社|accessdate=2018-12-17|date=2014-03-17}}</ref>。また、1185年7月9日に、実際に津波が発生した可能性がある。塩津港遺跡で発掘調査が行われた際、湖底で神社が発見され、その神社から津波と見られる痕跡が見つかった(柱が全て琵琶湖の岸に傾いていた)。また、『[[山槐記]]』には「琵琶湖の水は北に流れた」、[[鴨長明]]は「山は崩れて川を埋め、海(琵琶湖)は傾いて陸地を浸せり」と書いている<ref>[http://blog.goo.ne.jp/uo4/e/e39c0b9ab0acb7073e500b833f407438 『滋賀民報』]</ref>{{Full citation needed |date=2018-12-17 |title=この出典は新聞記事の転載。転載元の記事の書誌情報は不明。}}。
;おろし
:[[比良山地]]から琵琶湖に向かって吹く風は[[比良おろし]]と呼ばれ、琵琶湖の[[隆起と沈降|沈降]]と比良山地の[[隆起と沈降|隆起]]により生じた急峻な地形をその要因の一つとする{{sfn|武田|2001|pp=95-97}}。また[[高島市]]勝野では、比良おろしにともなう局地風と考えられる勝野おろしが恐れられている{{sfn|武田|2001|p=95}}。これらのおろしは、[[#事件や事故|後述]]するように事故の原因となることも多い。
;湖陸風
:琵琶湖畔では、陸面に比べ湖面の[[比熱]]が大きいことを要因とした風が発生する<!--武田2001-->。昼間は[[日照]]により陸面の[[気温]]が上昇し[[気圧]]が低くなるため、琵琶湖から陸地に向かって「湖風」が吹く<!--武田2001-->。逆に夜間は陸面のほうが先に冷え気圧が高まるため、陸地から琵琶湖に向かって「陸風」が吹く{{sfn|武田|2001|pp=97f}}。
;蜃気楼
:琵琶湖では、[[下位蜃気楼]]と[[上位蜃気楼]]の2種類の[[蜃気楼]]が発生する<!--{{sfn|伴|2018|p=144}}-->。複雑な像を生じる上位蜃気楼は、琵琶湖や[[富山湾]]において春先から初夏にかけて十数回しか発生せず、非常に珍しい現象である<!--{{sfn|伴|2018|p=144}}-->。この上位蜃気楼は、湖上に暖気が流入し上冷下暖の空気層が生じることにより発生する<!--{{sfn|伴|2018|p=144}}-->。下位蜃気楼は、逆に冷気が流入し上暖下冷の空気層が生じることにより発生し、世界各地で通年昼夜ともに長時間に渡り発生するため、珍しい現象ではない{{sfn|伴|2018|p=144}}{{sfn|京都新聞|2013}}。
== 生物相 ==
[[ファイル:Silurus_biwaensis1.jpg|サムネイル|ビワコオオナマズ]]
[[File:Recycle box for incasive alien fish.jpg|サムネイル|外来魚回収ボックス]]
{{after float}}
{{see also|#漁撈と食文化|#主な生物種|琵琶湖の固有種}}
琵琶湖では、66種の[[固有種]]{{efn2|[[亜種]]・[[変種]]を含む{{sfn|西野|2018b|p=152}}。{{仮リンク|ナガタニシ属|en|Heterogen longispira}}([[タニシ科]])と[[オグラヌマガイ属]]([[イシガイ目|イシガイ科]])は水系の固有[[属 (分類学)|属]]{{sfn|西野|2018b|p=152}}{{sfn|琵琶湖環境科学研究センター|n.d.}}。}}を含む1700種以上の水性動植物が報告されるなど、豊かな[[生物相]]をもつ{{sfn|西野|2018b|p=152}}。[[オオクチバス]]や[[ブルーギル]]をはじめとする[[外来種]]の侵入や1992年の琵琶湖水位操作規則の改訂、{{読み|内湖|ないこ}}の消失、[[水田]]とのネットワークの分断等によって固有の[[生物相]]が大きく攪乱を受け、漁獲高が激減した種も多い。それらへの対抗策も講じられ、外来種駆除や生態系に配慮した水位操作、{{読み|内湖|ないこ}}の再生など様々な取り組みが行われているが、まだ十分な効果をあげられていない{{要出典|date=2021年11月}}。オオクチバスもブルーギルもおおむね漸減傾向にあり平成19年と令和3年の生息量を比較するとオオクチバスは444t→178t、ブルーギルは1,689t→223tとなっている<ref>{{Cite web|和書|title=外来魚駆除対策事業|滋賀県ホームページ |url=https://www.pref.shiga.lg.jp/ippan/shigotosangyou/suisan/18681.html |website=滋賀県ホームページ |access-date=2023-03-19 |language=ja}}</ref>。
=== 哺乳類と鳥類 ===
琵琶湖周辺の[[アシ原]]には[[クマネズミ]]と[[ドブネズミ]]の[[クマネズミ属]]、[[カヤネズミ]]などが生息している。木造船に住む[[クマネズミ属]]は「ふなねずみ」と呼ばれ、その背中の毛は伝統工芸品である[[蒔絵筆]](まきえふで)に用いられて、とくに根朱筆(ねじふで)と呼ばれた{{sfn|毎日新聞|2020}}。2010年ごろから[[ヌートリア]]が湖岸や淀川水系の河川で見られるといい、琵琶湖博物館が調査を行っている{{sfn|県立琵琶湖博物館|2020}}。
1980年代以降、日本各地で[[ニホンイノシシ]]や[[リュウキュウイノシシ]]が海や湖を泳いで島に分布を拡大していることが報告されているが、海を渡る例が多く、確認された湖の例は琵琶湖の竹生島と沖島のみだという{{sfn|高橋|2017|pp=16-23}}。沖島では伊崎半島から渡ってきたと思われるニホンイノシシが2009年に初めて目撃され、竹生島には2011年に葛籠尾崎から渡っている様子が目撃された{{sfn|高橋|2017|pp=26-41}}。必ずしも島に留まらず、行き来する様子が確認されている{{sfn|高橋|2017|pp=26}}。竹生島に渡っている個体群は、かつて奥島であった奥島山や長命寺山の山塊に生息しているものだが、視認されるのは1991年ごろからで古くからの生息域ではない。東南方向の山地部から来たと考えられている{{sfn|高橋|2017|pp=26-41}}。{{harvtxt|高橋|2017|pp=26-41}}では、調査を行っている時点で沖島の住民にイノシシの知見がなく、効果的な対策を行えておらず農作物に被害が生じていることを報告している。高橋はさらに、いずれの島も[[カワウ]]の大きなコロニーがあり、これが発生する生ぐさい臭いがイノシシを誘引している可能性を指摘している。
琵琶湖({{読み|内湖|ないこ}}を含む)とその湖岸、流入河川の河口に生息する[[鳥類]]は、[[渡り鳥]]なども含めると140種類ほどになる。[[カモ科]]が31種と最も多く、[[シギ科]]・[[サギ科]]・[[カモメ科]]がそれに続く{{sfn|亀田|2001|pp=79f}}。
=== 魚類 ===
{{節スタブ|1=琵琶湖への外来魚(国内外来種と国外外来種を問わず)|date=2021年11月}}[[ビワマス]]や[[アユ]]などは川を、[[コイ]]・[[フナ]]・[[ドジョウ]]などは水田を産卵場所として利用することが多いなど、琵琶湖に生息する[[魚類]]は周辺の水域との間を移動し、環境の違いをうまく利用している{{sfn|遊磨|2001|p=112}}。
[[陸封]]型である琵琶湖産アユは、[[両側回遊]]型の海産系アユと同種であるが、10センチメートルほど(海産系アユは30センチメートルほど)にしか成長せず、[[アユ#コアユ|コアユ]]とも呼ばれる{{sfn|井村|2013|pp=25-45}}。
[[養殖業|養殖]]や[[放流]]に用いられて日本の湖沼や河川にも一般的に生息している体高の高いコイ(飼育型コイ)は[[ユーラシア|ユーラシア大陸]]から導入された系統で、日本[[在来種|在来]]のコイとは異なることが[[遺伝学]]的な研究から明らかにされた。器官の[[形態学 (生物学)|形態]]や生息場所など[[生態学]]的な違いがあるが[[交雑]]が起こり、日本の自然水域では交雑個体が高頻度で検出されている。在来型コイが残存している水域は限られており、琵琶湖では北部に[[個体群]]が知られている{{sfn|松崎|2013}}。[[環境省レッドリスト|環境省のレッドリスト]]では「絶滅のおそれのある地域個体群(LP)」に指定されている。
==== 琵琶湖に由来する外来魚 ====
{{Vertical_images_list
|幅 = 220px
|画像1 = Plecoglossus_altivelis_altivelis_ayu.jpg
|説明1 = [[信濃川|千曲川]]水系で捕獲されたコアユ
|画像2 = Gengoroubuna-P6041777.jpg
|説明2 = [[筑後川]]水系で捕獲されたゲンゴロウブナ
}}
複数の琵琶湖に由来する種や遺伝的グループが淀川水系の外に導入されている{{efn2|この用語としての導入は、意図性を問わず人の行為によって生物を自然分布外の自然環境に放つことをいう{{sfn|淀|瀬能|2013|p=242}}。}}。
[[アユ]]は河川漁業・遊漁にとって重要な魚種として日本各地で[[栽培漁業|種苗放流]]が行われていて、琵琶湖では各地に出荷する種苗としてアユが採捕されている<ref>{{PDFlink|[http://salmon.fra.affrc.go.jp/kankobutu/tech_repo/fe02/fishandegg159_p25-38.pdf 藤岡康弘、ビワマス]}} 水産総合研究センター さけますセンター『魚と卵』第159号 1990(H2)年3月</ref>。資源量やその他の特徴{{Efn2|詳細は「[[アユ#コアユ]]」を参照。}}により琵琶湖産の種苗は重用され{{sfn|谷口|池田|2009|pp=30-55}}、1990年代ごろは重量ベースで90パーセントを占めるなど、日本のアユ種苗を[[寡占]]していた{{sfn|井村|2013|pp=25-45}}。河川での[[交雑]]の可能性は小さいが、完全には否定されない{{sfn|谷口|池田|2009|pp=30-55}}。
アユ種苗での[[混獲]]による非意図的な導入の影響は大きく、例えば淀川水系固有種と[[三方五湖]]が本来の生息地である[[ハス (魚)|ハス]]が[[関東地方]]から[[九州地方]]に至る範囲で導入され国内外来種となっている{{efn2|琵琶湖のアユに随伴して侵入したと想定される国内外来魚には、ここに挙げたハスとオイカワの他に、カワムツ、ビワヒガイ、ワタカ、スゴモロコ、ギギ、オウミヨシノボリなどがあり10種を超えるという{{sfn|淀|2013|p=141}}。}}。[[オイカワ]]は[[東アジア]]一帯に広く分布する種とされているが、地理的に隔てられて遺伝的な分化が起きており、それぞれが固有の遺伝的特徴を持つ。アユ放流にともなって琵琶湖由来のオイカワが導入され、本来の生息域外に分布を広げただけでなく、在来のグループとの交雑を起こしている{{sfn|高村|2013|pp=85-100}}。{{harvtxt|高村|2013|pp=85-100}} は[[マイクロサテライト]]領域[[デオキシリボ核酸|DNA]]によって[[鬼怒川]]と[[那珂川]]のオイカワで関東グループと琵琶湖グループの交雑が起きていることを示した上で、琵琶湖由来のオイカワが定着していない河川が珍しいほどであるために、交雑や国内外来の問題を解明することが難しいと指摘している。
[[ゲンゴロウブナ]]は、品種改良したヘラブナの名前で知られていて、釣りの対象として人為的なものを含む導入が行われて、現在では全国的に分布している。ヘラブナの放流種苗においても、[[モツゴ]]や[[ヨシノボリ属]]の混入が起こり分布域を拡散させたという{{sfn|瀬能|2013|p=11}}。
=== 植物 ===
[[File:Vallisneria asiatica var. biwaensis..JPG|thumb|left|ネジレモ]]
{{after float}}
沈水植物は[[維管束植物]]が23種、[[車軸藻類]]が13種確認されている{{sfn|角野|2018|p=161}}。1950年 - 1960年代以降に、[[ガシャモク]]と[[リュウノヒゲモ]]が[[絶滅]]したと考えられる{{sfn|浜端|2015|p=48}}{{efn2|琵琶湖における絶滅{{sfn|浜端|2015|p=48}}。[[環境省レッドリスト]]においては、ガシャモクが絶滅危惧IA類、リュウノヒゲモが準絶滅危惧種に分類されている{{sfn|野生生物調査協会|Envision環境保全事務所|n.d.}}。}}。固有種である[[ネジレモ]]は、[[茎]]を持たず[[葉]]を[[ロゼット]]状に湖底から直接伸ばしているため、茎を持ち水面に葉を近づけられる[[クロモ (水草)|クロモ]]や[[コカナダモ]]に比して水質悪化の影響を受けやすく、2000年ごろまでに個体数・[[分布 (生物)|分布]]域が大きく減少した{{sfn|浜端|2015|p=49}}。このほか[[サンネンモ]]も固有種であり、2012年には野生絶滅種とされた[[ホシツリモ]]が[[河口湖]]に次いで発見された{{sfn|角野|2018|p=161}}。外来種としては1960年代・1980年代にコカナダモが1970年代・1990年代に[[オオカナダモ]]が大繁殖したほか、[[オオフサモ]]・[[ハゴロモモ]]なども侵入している{{sfn|浜端|2015|pp=52f}}{{efn2|コカナダモの大繁殖は富栄養化の時期と一致し、水質悪化の代名詞のように扱われることもあるが、実際は水質が良好な北湖北部の深水域が主な生育地であり、流れ藻をうまく除去することができれば[[栄養塩]]の除去につなげることも可能である{{sfn|浜端|2015|pp=52f}}。}}。
北湖における沈水植物の分布面積は2013年時点で8パーセントほどで、[[透明度]]の約2倍の[[水深]]10メートル近くまで生育している{{sfn|角野|2018|p=161}}。北湖東岸など遠浅の湖底の箇所においては、沿岸から沖合いに向かって[[ササバモ]]・[[オオササエビモ]]・[[ヒロハノエビモ]]・[[ヒロハノセンニンモ]]・サンネンモの順に優先種が変化する{{sfn|角野|2020|loc=サンネンモ}}。南湖においては、1994年から2014年にかけて沈水植物の分布面積が11パーセントから96パーセントにまで拡大した{{sfn|芳賀|2018|p=162}}{{efn2|2014年の調査では、在来種の[[センニンモ]]が最も多く、次いでコカナダモ・クロモ(在来種)・オオカナダモという順であった{{sfn|芳賀|2018|p=162}}。}}。沈水[[植物群落]]の密生は船舶の航行や漁業の妨げとなり、低酸素水塊の発生による湖底の生物への影響なども懸念されるため、滋賀県などにより除去事業が実施されている{{sfn|芳賀|2018|p=163}}。
[[浮葉植物]]については、外来種の[[チクゴスズメノヒエ]]の分布拡大により、[[アサザ]]{{efn2|{{harvtxt|野生生物調査協会|Envision環境保全事務所|n.d.}} の統一カテゴリにおいては、滋賀県では絶滅危惧I類とされている。}}の[[発芽]]場所が減少し、同種の自生群生地は2015年現在[[東近江市]]の農業用水路のみとなっている<!-- {{sfn|浜端|2015|pp=50f}} -->。また2004年以降は外来種の[[ナガエツルノゲイトウ]]がチクゴスズメノヒエ以上に群落を拡大させている{{sfn|浜端|2015|pp=50f}}。
湖岸や{{読み|内湖|ないこ}}には、葦{{efn2|[[ヨシ]]・[[ツルヨシ]]・[[セイタカヨシ]]の3種が生育している{{sfn|金子|2018|p=164}}。本記事においては、漢字で葦と書いた場合この3種を区別せず指すものとする。}}の群落がある{{sfn|長谷川|2015|p=58}}。葦は、[[富栄養化]]物質などを根から吸うことにより、水湿を改善する能力をもつ<!--{{sfn|長谷川|2015|p=60}}-->。また水の流れを緩やかにすることにより、同様に水質改善能力をもつ藻類やバクテリアの繁殖を促す役割も果たしている{{sfn|長谷川|2015|p=60}}。また、琵琶湖は日本国内に現存する2大葦産地のひとつであり、[[葦簀]]などの加工品が生産されている{{sfn|金子|2018|p=165}}。葦帯の一部は[[琵琶湖総合開発事業]]において消失したものの、1988年から1992年にかけて人工植栽が行われるなどした結果、2007年ごろには自然群落と同程度にまで復元されたと考えられる{{sfn|古賀|2018|p=33}}。
そのほか湖岸には、内陸の淡水湖沿岸においては唯一[[ハマゴウ]]が自生している{{efn2|滋賀県のレッドデータブックでは絶滅危機増大種に指定されている{{sfn|古賀|2018|p=39}}。}}{{sfn|古賀|2018|p=39}}。1980年代と2000年代の湖岸の植生の変化を比較した{{harvtxt|金子|佐々木|2016}} によると、外来植物や人為的な植生、熱帯生種群や泥質立地種群が拡大する一方で、湖岸の景観を特徴づける植物群落が各湖岸地形において減少・消失している。
=== プランクトン ===
動物性[[プランクトン]]は約240種が記録されており{{sfn|坂本|2015|p=36}}、北湖表層水には1[[リットル]]あたり数個体から数百個体程度の[[ミジンコ目|ミジンコ]]が含まれる{{sfn|伴|2015|p=39}}。ミジンコの中で最も多いのは{{仮リンク|カブトミジンコ|en|Daphnia galeata}}でアユなど餌となっている{{sfn|伴|2015|p=40}}{{efn2|カブトミジンコは[[ケンミジンコ]]や[[ノロ (ミジンコ)|ノロ]]など大型ミジンコにも捕食される{{sfn|伴|2015|p=40}}。}}。2005年ごろからは捕食者のアユの減少により、外来種で大型の{{仮リンク|プリカリアミジンコ|en|Daphnia pulicaria}}が増加しており、ミジンコの[[ろ過|濾過]]能力が琵琶湖の水質改善に影響を与えたと考えられる{{sfn|伴|2015|pp=41f}}{{sfn|目片|2020}}{{sfn|琵琶湖環境科学研究センター|n.d.}}{{efn2|単純に水質改善のためにミジンコを増やせばよいというわけではなく、魚類なども含めた食物連鎖の均衡を考慮する必要がある{{sfn|伴|2015|p=42}}{{sfn|目片|2020}}。}}。そのほか、{{仮リンク|ヤマトヒゲナガケンミジンコ|nl|Eodiaptomus japonicus}}も多く見られ、[[ストロビリディウム属]]{{efn2|[[繊毛虫門]]{{訳語疑問点範囲|[[少毛類|少毛綱]]|Oligotrichea|cand_prefix=原語|date=2021年4月}}[[コレオトリカ目]][[ストロビリディウム科]]{{sfn|GBIF|n.d.}}。}}や小型[[繊毛虫|センモウチュウ]]といった原生動物は通年、[[ワムシ]]は{{仮リンク|ハネウデワムシ属|en|Polyarthra|label=ハネウデワムシ}}が通年、{{仮リンク|ネズワムシ属|en|Trichocerca|label=ネズワムシ}}が夏から秋にかけて見られる{{sfn|永田|2018|p=158}}。
植物性プランクトンは約240種が記録されている{{sfn|坂本|2015|p=36}}、北湖表層水には1[[リットル]]あたり数百万細胞が含まれる{{sfn|伴|2015|p=39}}。1950年代初頭には、秋から冬には[[珪藻]]({{仮リンク|ホシガタケイソウ属|en|Asterionella|label=ホシガタケイソウ}}や{{仮リンク|メロシラ属|en|Melosira|label=メロシラ}})が、夏には[[緑藻]]([[ビワクンショウモ]]など)が現れる比較的安定した季節変化が見られた<!--{{sfn|坂本|2015|p=37}}-->。しかしその後の富栄養化にともない、1960年代半ばごろより[[ミカヅキモ]](緑藻)・[[シネドラ属|シネドラ]](珪藻)・{{仮リンク|フォルミディウム属|en|Phormidium|label=フォルミディウム}}([[藍藻]])といった特定種の大増殖が発生するようになり、1977年以降[[黄金色藻]]の{{仮リンク|ウログレナ属|de|Uroglena|label=ウログレナ}}による[[赤潮]](5-6月ごろ)が、1983年以降藍藻([[アナベナ]]や{{仮リンク|ミクロキスティス属|en|Microcystis|label=ミクロキスティス}})による[[アオコ|アオコ現象]](夏 - 秋)が発生している{{sfn|坂本|2015|p=37}}{{sfn|伴|2015|p=42}}{{sfn|一瀬|2018|p=156}}。
==人間との関わり ==
{{see also|#環境史}}
=== 呼称 ===
==== 古代の呼称 ====
琵琶湖は元々、近淡海{{efn2|これに対し、[[浜名湖]]のことを遠淡海と呼んだ{{sfn|木村|2001|pp=42f}}。}}・淡海・淡海の海{{small|(あふみのうみ)}}・水海{{small|(すいかい)}}・近江の海・細波{{small|(さざなみ)}}・鳰の海{{small|(にほのうみ)}}などと呼ばれていた{{sfn|木村|2018a|pp=8 & 46f}}{{sfn|畑|1994|p=9}}。
『[[古事記]]』においては、<q>その[[イザナギ|伊邪那岐]]の大神は、'''淡海'''の[[多賀町|多賀]]に坐すなり</q>(上巻)や<q>東の方追ひ廻りて'''近淡海国'''に到り</q>(中巻)といった用字で現在の滋賀県のことを表している{{sfn|木村|2001|pp=35f}}{{efn2|以下「呼称」節の引用文中の強調はすべて引用者による。}}。同書における琵琶湖を指す記述としては中巻の
{{quote|
{{inline block|いざ{{ruby|吾君|あぎ}}}}
{{inline block|[[武振熊|振熊]]が痛手追はずは}}
{{inline block|[[カイツブリ|鳰鳥]]の}}
{{inline block|'''{{ruby|阿布美能宇美|あふみのうみ}}'''{{ruby|迩|に}}}}
{{inline block|{{ruby|潜|かず}}きせなわ{{efn2|吾君:私の主君の意{{r|コトバンク 吾君}}。}}}}
}}
という歌謡のみが挙げられる{{sfn|木村|2001|pp=37f}}。一方『[[日本書紀]]』には
{{quote|
{{inline block|'''淡海の海'''}}
{{inline block|[[瀬田町|瀬田]]の済に}}
{{inline block|{{ruby|潜|かず}}く鳥}}
{{inline block
|{{inline block|目にし見えねば}}{{inline block|憤りしも}}
}}
}}
という歌謡をはじめとし、'''淡海の海'''・'''淡海'''の表記が多数見られ、'''近淡海'''の用字はほとんど見られない{{sfn|木村|2001|p=38}}。同書における近江の表記は、[[天智天皇]]5年{{efn2|これは、近江の表記が公的に国名と定められたと考えられている704年([[大宝 (日本)|大宝]]4年)の、約40年前である{{sfn|木村|2001|p=40}}。}}に<q>是の冬に宮都の鼠、'''近江'''に向きて移る</q>とあるなど、[[奈良時代]]の[[近江大津宮|近江遷都]]以降に顕著に現れる{{sfn|木村|2001|p=38}}。その後の『[[続日本紀]]』の717年([[養老]]元年)の条には<q>行至'''近江国''' 観望'''淡海'''</q>とあり、'''近江'''を国名、'''淡海'''を琵琶湖と使い分けていたことが示唆される{{sfn|木村|2001|pp=40f}}。
また同時期の[[藤原武智麻呂]]の伝記には、<q>'''近江'''は宇宙の名地{{small|[……]}}'''水海'''清くして広し</q>との記述があり、これが琵琶湖を'''水海'''と表記したものの初出である{{sfn|木村|2001|pp=41f}}。'''さざなみ'''の用字については、713年([[和銅]]6年)の『[[近江国風土記|近江風土記]]』[[逸文]]を引いた
{{quote|'''近江の国'''の風土記引きて言わく、'''淡海の国'''は'''淡海'''を以ちて国の号と為す。故に一名を'''細波国'''と言ふ。目の前に湖上の'''{{ruby|漣|さざ}}なみ'''を向ひ観るが所以なり。}}
との文がある{{sfn|木村|2001|p=47}}。'''鳰の海'''については、下って[[平安時代]]の『[[源氏物語]]』は「[[早蕨]]」の巻の
{{quote|
{{inline block|しなてるや}}
{{inline block|'''鳰の海'''に}}
{{inline block|漕ぐ舟の}}
{{inline block
|{{inline block|夏帆ならぬとも}}{{inline block|逢い見し物を}}
}}
}}
や『[[千載和歌集]]』の
{{quote|
{{inline block|我がそでの}}
{{inline block|涙や'''鳰の海'''ならん}}
{{inline block
|{{inline block|かりにも人を}}{{inline block|みるめなければ}}
}}
|[[上西門院兵衛]]{{sfn|高木|2004|p=27}}}}
また『[[新古今和歌集]]』の
{{quote|
{{inline block|'''鳰の海'''や}}
{{inline block|月の光の}}{{inline block|うつろへば}}
{{inline block
|{{inline block|波の花にも}}{{inline block|秋はみえけり}}
}}
|[[藤原家隆 (左京大夫)|藤原家隆]]}}
などがある<!-- 木村2001,pp48-49 -->。琵琶湖を代表する鳥である鳰([[カイツブリ]])は、上述のように『古事記』にも表れており、後の1965年([[昭和]]40年)には滋賀県の[[県の鳥]]にも指定されている{{sfn|木村|2001|pp=48f}}<ref>[https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/296925 「鳰の海」は今は昔…滋賀県鳥カイツブリ、生息数減もたくましく生き]『[[京都新聞]]』滋賀版(2020年7月6日)2021年4月10日閲覧</ref>。
==== 中近世の呼称 ====
[[File:Chikubu Island Hougonji DSCN1917.jpg|thumb|left|弁財天]]
{{after float}}
琵琶湖という呼称の最も古い用例は、{{harvtxt|木村|2001|pp=157f.}} によると、[[室町時代]]の[[明応]]年間(1492年 - 1501年)に活躍した僧侶[[景徐周麟]]の[[漢詩]]集『翰林葫盧集』の中の[[七言絶句]]「湖上八景」における
{{Quote|{{inline block|[[瀟湘八景|瀟湘八幅]]}} {{inline block|其の図案ずるに}} {{inline block|[[長命寺]]の前}} {{inline block|天下に無し}} {{inline block|一景新たに添う有声画}} {{inline block|袖中に携えて'''琵琶湖'''へ去る{{efn2|ゆうせいが。中国文人は絵画を「無声詩」、詩文を「有声画」と呼んだ{{sfn|木村|2001|p=158}}{{sfn|藤田|2003|p=161}}。}}}}}}
である。なお、琵琶湖を[[琵琶]]の形に喩えた例はこれよりも古く、比叡山[[延暦寺]]の僧侶[[光宗 (僧)|光宗]]が1311年から1347年([[応長]]元年から[[貞和]]3年)にかけて編述した『渓嵐拾葉集』に
{{Quote|尋云。湖海是[[弁才天|弁財天]]ノ[[三昧耶形|三摩耶形]]ナル方如何。答。凡'''水海'''ノ形ハ'''琵琶'''ノ相貌也。}}
との記述がある{{sfn|木村|2001|pp=73f}}。周麟が琵琶湖の呼称を用いている漢詩はもう1つあるが、それに次いで古い琵琶湖の用例は[[江戸時代]]の儒学者[[伊藤仁斎]]による1645年([[正保]]2年)の漢詩「過琵琶湖作」まで待たなければならない{{sfn|木村|2001|p=160}}。その後、同じく儒学者の[[貝原益軒]]が1689年(元禄2年)に[[若狭国|若狭]]・近江を旅した際に記した日記『諸州めぐり 西北紀行』には次のような記述がある{{sfn|木村|2001|pp=160f}}。
{{Quote|およそ'''淡海の海'''は、{{small|[以下琵琶湖の地形についての記述]}}。此湖の形はよく琵琶に似たり。[[堅田 (大津市)|堅田]]より北七[[里 (尺貫法)|里]]、東西広し。琵琶の腹に似たり。堅田より[[瀬田町|勢田]]まで四里は、東西狭し、一里の内外あり。たとえば琵琶に鹿首あるが如くせばし。勢田より[[宇治市|宇治]]まで弥せばし。琵琶の海老尾に比し、[[竹生島]]を覆手に比すといへり。故に此湖を'''琵琶湖'''と云。}}
[[ファイル:Inoh_taizu_biwako.jpg|サムネイル|『[[大日本沿海輿地全図]]』(レプリカ)より。]]
{{after float}}
この記述は、上述の『渓嵐拾葉集』に沿ったものである{{sfn|木村|2001|p=161}}。また、同年に松本村の原田蔵六が記した地誌『淡海録』第1巻には、
{{Quote|湖水を'''琵琶湖'''と名ずく{{small|[ママ]}}ハ、竹生島の天女音楽を好み給ふ故、海を'''琵琶湖'''と名づく、因みて神を妙音天女と名く}}
とある{{sfn|木村|2001|p=61-62}}。元禄年間から[[享保]]年間にかけてはほかにも、[[松尾芭蕉]]による[[俳諧|俳諧文]]や朝鮮通信使の申維翰による『[[海游録]]』など、各種資料において琵琶湖の表記が見られる{{sfn|木村|2001|pp=162-166}}。さらに、江戸時代後期には[[伊能忠敬]]が1807年(文化4年)に「琵琶湖図」を作成するなど、地図上にも琵琶湖の表記が現れるようになる{{sfn|木村|2001|pp=166f}}。なお、琵琶湖の語源については、上述の(弁財天の)琵琶とするもののほか、[[アイヌ語]]の「貝を採るところ」を意味する語に由来し、ビワ(ビハ)は水辺や湿原がある場所を指すという[[吉田金彦]]の説や、楕円形を表すビワ、枇杷の実の形に由来とする説もある{{sfn|木村|2001|pp=77f}}。
==== 近現代の呼称 ====
{{external media|width=230px
|image1=[https://www.pref.shiga.lg.jp/kensei/koho/koho/300454.html 滋賀県シンボルマーク「{{lang|en|Mother Lake}}」]
}}<!-- ウィキメディア・コモンズにアップロードされているが、実際にパブリック・ドメインであるか微妙であると判断し、掲載は保留。-->
[[明治]]年間には、[[琵琶湖汽船]]や[[琵琶湖新聞]]・琵琶湖踊・琵琶湖治水会・[[琵琶湖疏水]]など琵琶湖の名を冠する名称が多く現れており、琵琶湖という名称が定着したことが窺える{{sfn|木村|2001|p=170}}。なお、琵琶湖という漢字は難しいことから{{efn2|「琵」「琶」は[[当用漢字]]・[[常用漢字]]外の漢字である{{要出典|date=2021年2月}}。}}、[[平仮名|ひらがな]]書きにした'''びわ湖'''や'''びわこ'''などの表記も見られる{{sfn|八幡|1998|loc=第2章}}{{efn2|「{{intitle|"びわ湖"}}」および「{{intitle|"びわこ"}}」も参照。かつては「[[びわ町]]」という自治体も存在した。}}。その他、別称や愛称としては以下のようなものがある。
;{{lang|en|Mother Lake}}
:滋賀県は、2000年にマザーレイク21計画を策定するなど、琵琶湖を{{lang|en|Mother Lake}}(母なる湖)と呼んでおり、<q>母なる湖・琵琶湖。預かっているのは、滋賀県です</q>の[[キャッチコピー|文言]]を県の封筒に記載している{{sfn|嘉田|2012}}{{sfn|大田|2014|p=205}}。
;近畿の水瓶
:琵琶湖は[[#水利用|上述]]のように滋賀・京都・大阪に水を供給していることから「近畿の[[水瓶]]」などと呼ばれることもある{{sfn|産経新聞|2014}}<ref name="朝日20210410"/>。しかし滋賀県側は、1995年は[[稲葉稔 (政治家)|稲葉稔]]知事が「水瓶」との表現に抗議する答弁をおこなうなど、琵琶湖を「水瓶」と呼ぶ表現を避けている{{sfn|産経新聞|2014}}。これは、滋賀県民にとって自県の象徴的存在である琵琶湖を、いわば単なる貯水用[[ダム]]の一種として扱われては県民感情を大きく損なうとの理由によるものである{{sfn|野田|2001|pp=232f}}。
=== 交通 ===
{{see also|#主な港|琵琶湖運河|丸子船}}
2021年現在、[[琵琶湖汽船]]・[[オーミマリン]]・[[沖島 (琵琶湖)|沖島]]離島振興推進協議会が定期航路を運営している{{sfn|琵琶湖環状線利用促進協議会|2019|pp=1f}}{{sfn|琵琶湖汽船|loc=竹生島クルーズ: 料金・時刻表}}{{sfn|オーミマリン|2021}}{{sfn|離島振興推進協議会. 通船の時刻表}}。
==== 先史・古代の交通 ====
[[ファイル:Biwakomarukibune.jpg|thumb|left|古代の丸木舟のレプリカ([[滋賀県立安土城考古博物館|安土城考古博物館]])]]
{{after float}}
琵琶湖周辺では、[[縄文時代|縄文]]後期の[[丸木舟]](鰹節型と割竹型の2形態、全長は最大のもので7.9[[メートル]])が発見されており{{efn2|[[水茎遺跡|元水茎内湖干拓遺跡]](琵琶湖の丸木舟は、[[鳥浜遺跡]](福井県[[三方郡]])や[[加茂遺跡 (南房総市)|加茂遺跡]](千葉県旧[[丸山町]])の縄文早期のものに次いで古く、2001年時点での縄文後期 - 晩期の丸木舟の出土例は4箇所計21艘に及び、これは日本最多である{{sfn|木村|2001|p=29}}。{{harvtxt|太田|2012|p=10}} によると、[[水茎遺跡|元水茎内湖干拓遺跡]]([[近江八幡市]])から7隻、[[長命寺湖底遺跡]](同市)から1隻、[[松原内湖遺跡]]([[彦根市]])から10隻、[[尾上浜遺跡]](長浜市[[湖北町]])から1隻出土例があり、[[高田遺跡]]・[[鴨田遺跡]]([[長浜市]])からも丸木船やその破片の出土例がある。また、[[滋賀里遺跡]]([[大津市]])や元水茎内湖干拓遺跡からは[[櫂]]も出土している{{sfn|太田|2012|p=10}}。}}、[[先史時代#日本の先史時代|先史時代]]から[[湖沼交通|湖上交通]]がおこなわれていたことがわかる{{sfn|用田|2018|p=54}}{{sfn|木村|2001|pp=29f}}。[[弥生時代|弥生]]中期後半には丸木舟は準構造船に発展し{{efn2|日本における船舶の発展については「[[和船]]」も参照。}}、[[古代日本|古代]]には湖北と都を結ぶ[[航路]]が築かれていた<!--用田2018,p=54-->{{efn2|[[大中湖|大中の湖]]南遺跡{{small|([[安土町]]下富浦)}}からは[[飛鳥時代]]から[[奈良時代]]の[[港湾|港湾施設]]の[[遺構]]が発見されている{{sfn|木村|2001|p=54}}。}}。『[[万葉集]]』にも琵琶湖の船は多く詠まれているが、[[帆]]を読んだものはほとんどなく、当時[[帆走]]は未発達であったと推測される{{Sfn|横田|2012|pp=38f}}。[[東大寺]]・[[藤原京|藤原宮]]・[[石山寺]]の造営においては、[[甲賀郡|甲賀]]・[[高島郡 (滋賀県)|高島]]・[[栗太郡|田上]]からの木材が湖上交通を利用して運搬されている{{sfn|木村|2001|p=58}}{{sfn|用田|2018|p=54}}{{sfn|太田|2012|p=11}}。
その後、[[平安時代]]に都が[[長岡京]]から[[平安京]]に遷都されると、[[北陸道|北国]]・[[東国]]と都とを結ぶ琵琶湖という交通路は、大きく発展していくことになる{{sfn|木村|2001|p=59}}。『[[延喜式]]』巻二六主税には[[北陸道|北陸]]六箇国の税は[[塩津村 (滋賀県)|塩津]]や勝野{{small|(高島市[[大溝町|大溝]])}}から湖上路を[[大津市|大津]]に運ぶとの規定があり、[[東海地方|東海]]よりの物資も[[中山道]]を経て朝妻{{small|([[米原市]])}}から同様に大津に運ばれた{{sfn|大沼|2013a|pp=197-199}}{{sfn|濱|2014|p=68}}。
[[File:「朝妻船」『木曽路名所図絵』 (cropped).jpg|thumb|江戸初期に朝妻が米原湊に取って代わられた後、朝妻船は懐古的に描かれた{{sfn|太田|2012|p=11}}{{efn2|画像は[[西村中和]]『木曽路名所図会』巻一坤、[[秋里籬島]]編、西村吉兵衛(京都)刊、[[文化 (元号)|文化]]2年(1805年)より。}}。]]
{{after float}}
湖上交通は、大量の物資や人を運ぶには便利であったが、[[#関連する自然現象|前述]]の風や波による遭難のリスクもあった{{sfn|大沼|2013a|p=199}}。[[高市黒人|高市連黒人]]による
{{Quote
|{{inline block|わが船は}}{{inline block|比良の湊に}}{{inline block|漕ぎ{{ruby|泊|は}}てむ}}{{inline block
|{{inline block|沖へな{{ruby|離|さか}}りさ}}{{inline block|夜更けにけり}}
}}
||[[万葉集]]
}}
という歌からは、舟旅への恐れが窺える{{sfn|磯崎|2001|p=254}}。平安時代ないし[[室町時代]]には、
{{quote
|{{inline block|{{ruby|武士|もののふ}}の}}{{inline block|[[矢橋]]の船は早くとも}}{{inline block
|{{inline block|急がば廻れ}}{{inline block|[[瀬田の唐橋|瀬田の長橋]]}}
}}
|[[源俊頼]]もしくは[[宗長]]{{sfn|中日新聞|2021}}
}}
という歌が詠まれ、また「急がば廻れ」という[[ことわざ|諺]]も広まった{{sfn|中日新聞|2021}}{{sfn|大沼|2013a|p=199}}{{efn2|{{harvtxt|小学館|n.d.a}}は、歌に諺が由来するのではなく、すでに広まっていた諺を歌に詠み込んだものと推測している。}}。
==== 中世の交通 ====
平安時代から三津浜と呼ばれた[[比叡山]]の外港[[坂本 (大津市)|坂本]]は、[[中世日本|中世]]には大津を凌駕するかたちで栄えるようになり、京都への物資運搬を担う[[馬借]]・車借が室町時代以降大きな力を持っていく{{Efn2|「[[馬借]]」「[[土一揆]]」を参照。}}ことにも繋がった<!-- {{sfn|太田|2012|p=12}} -->。湖上交通の中心は平安時代から引き続き南北ルートであったが、中世以降は琵琶湖の最狭部である[[堅田 (大津市)|堅田]]{{efn2|堅田渡については、平安時代の記録も残されている{{sfn|木村|2001|pp=63f}}。}}などを拠点とする東西ルートも発展していく{{sfn|木村|2001|pp=63f}}{{sfn|太田|2012|p=12}}。また[[#内湖|前述]]のように、港(津)の発展には{{読み|内湖|ないこ}}が関わっており、{{読み|内湖|ないこ}}を含む湖岸環境の変化により、津の立地も変化している{{sfn|水野|2011|p=11}}。
中世には[[荘園 (日本)|荘園]]領主により港が管理されるようになり、[[年貢]]などの貢献物の輸送も湖上輸送も増え、琵琶湖は経済的に利用されるようになる{{sfn|木村|2001|p=64}}{{sfn|用田|2018|p=54}}。堅田は中世をとおして湖上交通において中心的な役割を果たし、船の検問などを行い湖上の安全を保証する見返りに金品を求めることのできる上乗権{{small|(うわのりけん)}}と呼ばれる特権を室町時代に与えられた{{sfn|杉江|2011|pp=10-12}}{{sfn|太田|2012|p=13}}。湖上には坂本を中心に複数の[[関所|関]]{{Efn2|坂本七ヶ関(本籍・導撫関・講堂関・横川関・中堂関・合関・西塔関)・堅田・奥島・船木([[安曇川町|安曇川]])・船木([[近江八幡市|近江八幡]])・[[沖島]]などが挙げられる{{sfn|杉江|2011|pp=10f}}{{sfn|太田|2012|p=12}}。}}も設けられ、関銭は山寺の造営などに用いられた{{sfn|杉江|2011|pp=10f}}{{sfn|太田|2012|p=12}}。
[[建武 (日本)|建武]]3年(1336年)には[[足利尊氏]]を追った[[後村上天皇|義良親王]]・[[北畠顕家]]が大軍を率いて琵琶湖を東から西に渡るなど、湖上は軍事的にも利用されるようになっていく{{sfn|木村|2001|pp=64f}}{{sfn|用田|2018|p=54}}。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に入ると、従来の[[延暦寺|比叡山延暦寺]]に加え[[戦国大名]]の[[浅井氏]]が[[菅浦の湖岸集落|菅浦]]・大浦・[[沖島]]、[[六角氏]]が堅田の船を支配下に置くなど、各浦の船の掌握を図るようになった{{sfn|太田|2012|p=14}}。
==== 近世の交通 ====
[[File:Lake Biwa Museum 20201024 35.jpg|thumb|left|丸子舟]]
{{after float}}
[[近世#日本|近世]]には、物資輸送・[[地場産業]]が振興され、発展した港の間で輸送を巡っての紛争もたびたび起こっていた。またこのころには、[[日本海]]などの[[弁才船|弁財船]]よりも幅が狭い[[丸子船]](丸船・丸木船・丸太船とも)と呼ばれる琵琶湖特有の木造[[和船]]が使われるようになった{{sfn|木村|2001|pp=67f}}。[[#滋賀での水利用|後述]]するように湖岸の田畑や集落には、ホリと呼ばれる水路が張り巡らされており、たとえば[[草津市]][[栗太郡|志那町]]では、[[閘門]]を通じて田舟を琵琶湖に下ろし、[[浜大津]]まで往復することもあったと伝えられている{{sfn|迫田|2015|pp=173f}}。
[[織田信長]]{{efn2|信長が築いた[[坂本城]]・[[長浜城 (近江国)|長浜城]]・[[大溝城]]・[[安土城]]は、いずれも[[水城 (城郭)|水城]]である{{sfn|大沼|2012a|p=21}}。}}は港を重視し、[[天正]]元年(1573年)に船長約54メートルの船で[[坂本 (大津市)|坂本]]から[[京都]]に入るなど、琵琶湖を軍事的に大きく活用した{{sfn|木村|2001|p=65}}{{efn2|[[中井均]]は「みずうみの城郭網」において、信長が交通の要所に[[安土城]]・[[長浜城 (近江国)|長浜城]]・[[坂本城]]・[[大溝城]]を築き、琵琶湖を取り囲むことで琵琶湖水運を掌握しようとしたとの説を唱えているが、{{harvtxt|杉江|2011|pp=24-45}} は実証性の不足などを指摘し否定的な見解を示している。織田信長の琵琶湖支配の独自性に否定的で、豊臣秀吉による琵琶湖舟運の再編を高く評価する杉江の主張について、{{harvtxt|太田|2012|pp=14f.}} は戦国大名との比較すると信長の琵琶湖舟運との関わりの積極性は否定できないとし、<q>信長への過大評価への警鐘として理解すべきであろう</q>と評価している。}}。[[豊臣政権]]下では、京都から[[大阪]]へと物資の流れが変わり、それに伴い湖上交通の拠点も堅田や坂本から[[大津市|大津]]に移ることになる{{sfn|杉江|1999|pp=15f}}{{sfn|太田|2012|p=15}}。[[豊臣秀吉]]により創設された[[大津百艘船]]は、大津からの積荷を独占的に扱えるなどとする特権を[[浅野長政|浅野長吉]]が[[天正]]15年(1587年)に下した高札により与えられた{{sfn|杉江|1999|pp=15f}}{{sfn|太田|2012|pp=15f}}。また天正17年ごろには、[[芦浦観音寺|観音寺]]が[[湖水船奉行|船奉行]]を務めることとなった{{sfn|杉江|1999|p=19}}。秀吉は、湊への着岸順に荷物を積み出すことができるとする艫折廻船{{Small|(ともおりかいせん)}}という制度により、堅田の湖上特権を否定した平等な流通システムの創設もおこなった{{sfn|太田|2012|p=16}}。豊臣政権下で築かれたこれらの体制は[[江戸幕府|徳川政権]]下でも踏襲されることとなる{{sfn|杉江|1999|p=34}}{{sfn|太田|2012|p=19}}。
[[ファイル:Hiroshige Boats on a lake.jpg|サムネイル|[[歌川広重]]の『[[近江八景]]』より「矢橋帰帆」(1834年ごろ)。]]
{{after float}}
[[西廻海運]]の成立以降は、[[若狭国]]の[[小浜藩|小浜]]・[[敦賀藩|敦賀]]から琵琶湖を経由する流通路は衰退し、湖上水運は周辺域の流通路へと変容していった{{sfn|杉江|2011|p=140}}。このため、堅田・大津・[[近江八幡市|近江八幡]]の三ヵ浦は小さな湊にまで出向き争論を繰り広げるようになり{{sfn|杉江|2011|p=144}}、その後堅田・大津・大溝・舩木・今津・[[海津村|海津]]・[[西浅井郡|大浦]]・塩津・八幡の九ヵ浦体制が成立した{{sfn|杉江|2011|pp=162 & 166}}。大津を拠点とする[[芦浦観音寺|観音寺]]が[[貞享]]2年(1685年)に船奉行職を罷免され、以降京都や[[四日市市|四日市]]を拠点とする[[江戸幕府|幕府]]の官僚的[[代官]]が船奉行を務めることとなったことには、幕府にとって琵琶湖水運の地位が低下したことが表れている{{sfn|杉江|2011|pp=148 & 154f}}。もっとも船数は大幅には減少せず{{sfn|杉江|2011|pp=141f}}、江戸時代中期の[[享保]]年間には5740艘もの船が琵琶湖を行き来していたとされる{{sfn|木村|2001|p=68}}。また、流通路としての地位の回復や[[#水害と治水|後述]]の水害への対策、[[新田開発]]などを目的として、[[琵琶湖運河|琵琶湖 - 敦賀間に運河を通す計画]]が、江戸時代を通じ複数回持ち上がっている{{sfn|辻川|2012|p=23}}。
江戸時代には幕府のほか、[[彦根藩]]も独自の船支配をおこなっていた{{sfn|杉江|2011|p=201}}。彦根では古代以来、朝妻が東西航路の起点であったが、[[元和 (日本)|元和]]年間に[[松原町 (彦根市)|松原]]・米原・[[長浜市|長浜]]の彦根三湊が水運の中核として取って代わった{{sfn|杉江|2011|p=174}}。享保年間には争論の結果、彦根三湊が大津百艘船の特権を切り崩すこととなった{{sfn|杉江|2011|p=201}}。
==== 近現代の交通 ====
{{See also|琵琶湖疏水#舟運}}[[File:Yabase-ura, Shiga pref around 1910.png|thumb|矢橋浦(1910年ごろ)|左]]近代に入り[[明治]]2年(1869年)に[[蒸気船]][[一番丸]](5[[トン (代表的なトピック)|トン]]12[[馬力]]の木造[[外輪船]])が就航すると、ふたたび湖上交通が大量輸送を担うこととなる{{sfn|末永|1991|p=90}}{{sfn|福井|2012|p=50}}{{sfn|用田|2018|p=54}}。既存の[[和船]]問屋や漁業者は蒸気船への妨害を行ったが、明治4年(1871年)には大津百艘船などの旧来の制度は解体された{{sfn|福井|2012|pp=50f}}。1874年(明治7年)までに15隻の蒸気船が就航しており、汽船間の競争の激化により事故が続発するようになったため([[#事件や事故|後述]])、1875年(明治8年)7月、滋賀県により汽船取締規則の通達が出されている{{sfn|福井|2012|pp=51f}}。さらに翌1876年3月より大津湊町に汽船取締会所および同支所7箇所が設立され、安全航行のための会所規則が定められた{{sfn|福井|2012|pp=52f}}。1880年(明治13年)7月には[[大阪駅|大阪]] - [[京都駅|京都]]間の鉄道開通にともない[[長浜港 (滋賀県)|長浜]] - [[大津港 (滋賀県)|大津]]間の[[鉄道連絡船]]の営業をめぐる争いが生じ、1882年(明治15年)には滋賀県の介入のもと3社合併により18隻を所有する[[太湖汽船|太湖汽船会社]]が設立されている<!--{{sfn|福井|2012|p=54}}-->。翌1883年には日本初となる湖上鋼鉄船第一太湖丸(516トン)および第二太湖丸(498トン)も定期航路に就航し、1884年には[[長浜駅|長浜]] - [[敦賀駅|敦賀]]間および長浜 - [[大垣駅|大垣]]間の鉄道全線開通に併せてこちらも日本初となる鉄道連絡船が営業を開始した{{sfn|福井|2012|p=54}}。1886年(明治19年)には紺屋関汽船・山田汽船が合併し[[湖南汽船|湖南汽船会社]]が設立され、湖上交通は太湖汽船と堅田以南を営業区域とする湖南汽船の2大会社に統一されていくこととなる{{sfn|福井|2012|p=54}}。
当初日本政府や太湖汽船によって30年程度と見積もられていた鉄道連絡船の役目は、予想外に早い1889年(明治22年)に[[東海道本線|東海道線]]が全線開通したことにより、わずか7年で終りを迎えることとなった{{Sfn|大沼|2012b|p=102}}。そのため[[#景勝・観光地として|後述]]するように、2大汽船会社は、貨客輸送から[[遊覧船]]へと営業の主力を切り替えていくことになる{{sfn|福井|2012|pp=54f}}。さらに1931年([[大正]]15年)には[[江若鉄道]]が[[近江今津駅 (江若鉄道)|今津]]まで開通し、以降は輸送に占める湖上交通の割合は低下したが、小地域間の湖上交通は1960年代まで続いた{{sfn|用田|2018|p=54}}。なお、丸子船のような木造船は生業・生活に密接に関わるものとして大正ごろまで使われており、1880年([[明治]]13年)の『滋賀県物産誌』に基づくと、輸送船・[[漁船]]・田船など少なくとも1万1100艘{{efn2|この内12パーセントは内陸部の船である。}}の船が存在していた{{sfn|牧野久美|2001|pp=257-262}}。
近現代にも、琵琶湖を経由して日本海と[[太平洋]]や[[瀬戸内海]]を繋ぐ運河計画は、琵琶湖疏水の築造に携わった[[田辺朔郎]]による[[昭和]]初期の「[[大琵琶湖運河計画]]」や、[[高度経済成長#日本の例|高度経済成長期]]の「[[日本横断運河|日本横断運河構想]]」など複数回立てられている{{sfn|用田|2011|pp=164f}}{{sfn|辻川|2012|p=23}}。しかし[[モータリゼーション]]が進んだ結果、1964年(昭和39年)に[[琵琶湖大橋]]が、1974年(昭和49年)に[[近江大橋]]が架橋されたことが象徴するように、琵琶湖は水運の手段ではなく陸運の障碍物へと転じていった{{sfn|辻川|2012|p=23}}。
=== 水害と治水 ===
[[ファイル:Seta river dam Shiga,JAPAN.jpg|thumb|left|瀬田川洗堰]]
{{after float}}
{{main2|瀬田川浚渫・改修の詳細|淀川#淀川開発史}}
<!-- 水害と治水の概要 -->
琵琶湖の湖岸域では、河川の[[氾濫]]のほか、「水込み」と呼ばれる琵琶湖の水位上昇による[[水害]]に悩まされてきた{{sfn|水野|2011|p=13}}{{sfn|竹林|今井|1995|p=409}}。古文書における琵琶湖周辺の水害の記録は、701年([[大宝 (日本)|大宝]]元年)以降多く残されている{{sfn|竹林|今井|1995|pp=419f}}。
<!-- 近世以前の治水 -->
琵琶湖の水害を防ぐための瀬田川改修の歴史は、[[奈良時代]]の僧侶[[行基]]による瀬田川の流れを阻害する小山(のちの大日山)の[[掘削]]の試みにまで遡ることができる{{sfn|竹林|今井|1995|p=409}}。その後江戸時代には、幕府の[[普請]]が2回と自普請が3回、計5回の[[浚渫]]工事がおこなわれており、特に1699年([[元禄]]12年)の「[[河村瑞賢]]の大普請」と、[[高島郡 (滋賀県)|高島郡]]深溝村の[[庄屋]]藤原太郎兵衛家の尽力の末に実現した1831年([[天保]]2年)の普請が大規模なものであった{{sfn|竹林|今井|1995|pp=410-412}}{{sfn|水野|2011|pp=13f}}。またこの間、流量増加による洪水を危惧する下流住民の反対などによりなかなか浚渫が実現しなかった時期には、[[アサリ|あさり]]取りなどと称した地元住民による小規模な浚渫などもおこなわれている{{sfn|竹林|今井|1995|pp=410-412}}。
<!-- 近代以降の治水 -->
近代に入ってからは1890年([[明治]]23年)以降、滋賀県内の有志が結成した琵琶湖水利委員同盟会や滋賀県知事[[大越亨]]により、繰り返し淀川の浚渫の陳情がなされた{{sfn|竹林|今井|1995|pp=412f}}。[[明治十八年の淀川洪水|1885年(明治18年)の淀川洪水]]で大きな被害を受けた下流域の反対にも遭ったが、1893年(明治26年)からは小規模な浚渫が実現した{{sfn|水野|2011|p=16}}{{sfn|竹林|今井|1995|pp=412-414}}。さらに1900年から1908年(明治33年から41年)にかけては、大規模な浚渫と上述の大日山の掘削がおこなわれ、また[[南郷洗堰]]が築造されたため琵琶湖の水位の調整が可能となった{{sfn|水野|2011|p=16}}{{sfn|竹林|今井|1995|p=414}}。これらの工事以前には、プラス3.76メートルにまで水位が上昇し琵琶湖周辺のほとんどの地域が237日にわたって浸水した[[明治29年琵琶湖洪水|1896年(明治29年)の洪水]]をはじめとし、ほぼ隔年で長期間の浸水が発生していたが、以降の浸水被害は4年に1度程度にまで減じた{{sfn|竹林|今井|1995|pp=418 & 420}}。その後1961年(昭和36年)には南郷洗堰の隣接地に[[瀬田川洗堰]]が築造されている{{sfn|日経新聞|2017}}{{sfn|日経新聞|2020}}。
=== 水利用 ===
==== 滋賀での水利用 ====
[[ファイル:Harie-Okawa_river-1_2020.jpg|サムネイル|琵琶湖への流入河川の一つである[[安曇川]][[水系]]の[[伏流水]]を利用した「川端文化」で知られる[[針江区]]。]]
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[[#環境史|前述]]のとおり、琵琶湖湖岸域では[[弥生時代]]ごろから[[稲作]]がおこなわれていた<!--前述要約につき出典略-->。田畑よりも低い位置にある琵琶湖の水は使いにくかったため、[[昭和]]中ごろまで琵琶湖の水を農業や生活に利用することは少なく、もっぱら琵琶湖への流入河川や[[井戸]]の水を利用してきた{{Sfn|牧野厚史|2001|p=202}}。これらの河川の水量は琵琶湖に比べると少なく<!--牧野-->、また[[扇状地]]であるため[[伏流水]]化しやすい地形が多く<!--耕地課-->、[[甲良町]]など[[農業用水]]の確保に問題を抱える地域も多かった<!--牧野-->{{Sfn|牧野厚史|2001|p=202}}{{sfn|耕地課|2019|p=23}}。
琵琶湖に隣接する[[湿地帯]]においては、傾斜が緩いため通常の[[灌漑]]が困難であったが{{sfn|市川|2011|p=209}}、琵琶湖や{{読み|内湖|ないこ}}の水を利用した[[田|水田]]の開発が歴史的に試みられてきた{{sfn|市川|2011|pp=234f}}。形成期においては、泥田([[湿田|超湿田]])が広く見られたと推測され、次いで跳ね[[釣瓶]]や縄をつけた[[桶]]による直接取水もおこなわれるようになったと推測されている{{sfn|市川|2011|p=234}}。その後遅くとも近世中期(中世にまで遡れる可能性もある)までには、ホリと呼ばれる[[溝渠|水路]]{{efn2|ホリは田舟の通路や炊事の場としても利用され、小魚や肥料用の土なども提供していた{{sfn|迫田|2015|p=174}}。}}や「蛇車{{small|(じゃぐるま)}}」と呼ばれる[[踏車|足踏み式の水車]]などの揚水機を用いた逆水灌漑がおこなわれるようになる{{sfn|市川|2011|p=234}}{{sfn|市川|2013|pp=267-269}}。また、琵琶湖と{{読み|内湖|ないこ}}ないしホリとの境界部に[[堰]]や[[閘門]]を設けて水位を上昇させる方法も用いられており、これは[[明治|明治時代]]に[[南郷洗堰]]が築造され琵琶湖の水位が低下したことに伴い採用された例が多いと推定される{{sfn|市川|2011|pp=216 & 234f}}。1904年(明治37年)以降は[[ポンプ]]により琵琶湖から{{読み|内湖|ないこ}}に揚水する方法も用いられるようになっていった{{sfn|市川|2011|p=235}}。なお、[[大正]]年間の調査に基づくと、逆水灌漑の分布は湖南・湖東に多く、平地の傾斜が大きい湖北・湖西では少なかった{{sfn|市川|2011|p=211}}。
[[昭和]]30年代ごろには[[上水道]]の普及が始まり、以降湖水の利用量は増えていくことになる{{Sfn|牧野厚史|2001|pp=202, 204}}。滋賀県では1980年ごろから2000年ごろにかけて、人口の増加などの要因により湖水の利用が大幅に増え、2019年時点における上水道の主要な水源は琵琶湖の水となっている{{Sfn|牧野厚史|2001|p=205}}{{sfn|滋賀県|2019a|p=14}}。また、農業水利においては1970年代以降、大型ポンプを備えた施設で湖から水を汲み上げ、[[パイプライン輸送|パイプライン]]で農地に配水する逆水灌漑による湖水の利用が増加した{{Sfn|牧野厚史|2001|p=205}}。{{harvtxt|牧野厚史|2001|pp=205-206|p=}} は、このような水利用は利用者から見えにくく、生活と[[水循環]]の関係に思いを馳せることが難しくなっていると指摘し、[[八幡堀]]の保存活動などは、単なる資源としての水利用に留まらない水問題への地域固有の解決策の方向を示しているのではないかと述べている。
==== 淀川下流域での水利用 ====
[[ファイル:疏水3178.JPG|thumb|left|琵琶湖から京都へ水を供給する琵琶湖疏水。]]
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{{see also|淀川#淀川開発史}}
<!-- 京阪神での水利用に占める琵琶湖の割合などについて要追記 -->
京都で琵琶湖の湖水を生活用水の源とするようになったのは、琵琶湖第二疏水を完成させた[[1912年]]([[明治]]45年)のことである{{Sfn|中川|2011|p=190}}。第一疏水は第二疏水より古く1890年(明治23年)に完成している{{Sfn|大久保|1998|p=245}}。[[琵琶湖疏水]]の建設は[[東京奠都]]によって衰退の危機にあった京都を再興することを目的とし、まずは疏水の水車動力によって工業を近代化し、さらに水運を確保する計画で[[京都府知事]]の[[北垣国道]]が先導した{{sfn|京都市上下水道局|2019c}}{{sfn|滋賀県|2018a}}。当時、京都では[[鴨川 (淀川水系)|鴨川]]に源流を持つ京都盆地の水系を[[賀茂別雷神社]](上賀茂神社)が支配し、[[京都御所|御所]]の水源も「御所御用水流通水掛リ之儀者賀茂別雷神社 旧一社ニテ支配被致候」とされていた{{sfn|小野|2019|p=1}}。構造的に夏の渇水期になると上流小山郷の田畑の灌漑が優先されることになり、御所の水は枯渇する様であった。疏水によってに御所用水路の新たな付け替えもあり、御所の庭園と防火用桝への安定供給が図られるようになった{{sfn|小野|2019|pp=1f}}。琵琶湖疏水を介して毎秒24[[立方メートル]](2017年時点){{sfn|京都市上下水道局|2019a}}を取水し、水源の99パーセント(2019年ごろ){{sfn|京都市上下水道局|2019b}}を琵琶湖に頼る[[京都市]]は、1914年([[大正]]3年)以来京都市民の感謝の気持ちとして滋賀県に毎年感謝金(琵琶湖疏水感謝金)を支払っている{{sfn|上江|2016}}{{sfn|門川|2015}}{{efn2|契約は10年ごとに更新され、2015年([[平成]]27年)の更新では三日月知事と水田雅博京都市公営企業管理者上下水道局長とで年間2億3千万円の契約を締結した(1千万円増額){{sfn|門川|2015}}{{sfn|京都市上下水道局|2015}}。}}。財源は京都市民の水道料金で、滋賀県は感謝金を水源保全に充てている{{sfn|京都市上下水道局|2015}}{{sfn|日経新聞|2015}}。
[[File:Otsu, Shiga Prefecture, Japan - panoramio (8).jpg|サムネイル|琵琶湖唯一の流出(自然)河川である瀬田川。]]
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大阪では[[1895年]](明治28年)に[[淀川]]を水源とする本格給水が始まった{{Sfn|中川|2011|p=190}}。[[第二次世界大戦後]]の[[高度経済成長|高度経済成長期]]に際しては、著しい産業発展により淀川での安定した取水が必要になった{{Sfn|中川|2011|p=191}}{{Sfn|大久保|1998|p=247}}。琵琶湖下流域における水資源の需要の急速な拡大に対応するために、1972年(昭和47年)に琵琶湖総合開発特別措置法が制定。[[琵琶湖総合開発事業]]を策定した{{Sfn|大久保|1998|p=247}}。事業の策定にあたって上流への影響は避けられないことから、不利益を減らすために原案は滋賀県知事が作成し[[内閣総理大臣]]がこれを決定する形がとられた{{Sfn|大久保|1998|p=248}}。同事業によって水位低下補償事業が完了し、水位の管理について国(瀬田川洗堰管理者)と滋賀県、下流府県が初めて合意した{{Sfn|中川|2011|p=193}}。規則では、[[洪水]]時はあらかじめ水位をマイナス20センチメートルあるいはマイナス30センチメートルに下げて対処、非洪水時は30センチメートルを上限になるべく水位を高く保ち[[渇水]]に備えることを基本とし{{Sfn|中川|2011|p=193}}、下流域の渇水時には琵琶湖水位マイナス1.5メートルまで湖水を利用できることになっている{{Sfn|中川|2011|p=191}}。また、増大する水の需要に[[1991年]](平成3年)度までは不安定な「暫定豊水水利権」(河川の流量が一定の流量を超える場合に限って取水できる[[水利権]])で対応してきたが、同年度末には水資源開発事業が概成し都市用水として最大毎秒40立方メートルの新規水利権が与えられた{{Sfn|三谷|1997|p=520}}{{Sfn|大阪市水道局|2020|p=101}}。下流域の水利権を拡大せざるを得なかった背景には、京阪地域が渇水時であっても比較的豊富な水量を保つ水源として淀川、さらにその水源である琵琶湖への依存を強めたことがある{{Sfn|中川|2011|p=191}}{{efn2|水利権の拡大によって、例えば[[1994年]](平成6年)夏の全国的な渇水によって阪神地区が大きな影響を受けることはなかった{{Sfn|三谷|1997|p=520}}。}}。琵琶湖総合開発事業では、琵琶湖を文化面を含み多方面で活用し親しんでいる滋賀県民の生活に直接的な影響が及ぶことは避けられず、上流と下流の利権をいかに調整するかが事業の肝となった{{Sfn|大久保|1998|p=|pp=247f}}。上流の不利益を解消するために、下流の利水公共団体は琵琶湖とその周辺の上流域の福祉増進に利するために下流負担金602億円を負担することになった{{Sfn|大久保|1998|p=248}}{{Sfn|大阪市水道局|2020|p=101}}{{sfn|国土交通省|1997}}。
琵琶湖の水利用を巡っては、下流の京都・大阪への対抗心を表すために「[[琵琶湖の水止めたろか]]」というジョークがしばしば用いられる{{sfn|ギャラクシー|2017}}{{sfn|日経新聞|2017}}。{{harvtxt|野田|2001|p=232}} は滋賀県・京都府・大阪府の住民を対象にした1995年のアンケート調査を参照し、滋賀県以外の住民は渇水時などには水源として琵琶湖を意識するが、普段はその存在を別段気に留めていないのだと結論づけている。
=== 天然ガスの利用 ===
琵琶湖の湖岸一帯では[[天然ガス]]が湧出している場所があり、古くは湖北(現在の高島市)において農家が燃料として使用する例も見られた。湖南では[[1883年]]夏、[[栗太郡]]常盤村(現在の草津市)において住民が[[井戸]]を掘った際に、[[地下水]]に溶け込んでいる天然ガスの存在に気が付かず、水に[[カンテラ]]を近づけて火柱を作った逸話も残る<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20180702-BRLNNIUCAVOARDOCLHODJIB66A/3/ |title=琵琶湖から天然ガス、戦中戦後に湧出の記録…近畿の水がめは天然資源の宝庫だった |publisher=産経新聞 |date=2018-07-02 |accessdate=2022-03-30}}</ref>。燃料事情が逼迫した[[1941年]]には、大津市が大阪鉱山監督局に栗太郡瀬田町(現在の大津市)で石油([[メタンガス]])の試掘申請を行っている<ref>大津市が琵琶湖の天然ガス試掘願い(『大阪毎日新聞』1941年4月16日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p229 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。
=== 漁撈と食文化 ===
[[File:琵琶湖 - panoramio (17).jpg|thumb|left|高島市の湖岸]]
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{{see also|日本の郷土料理一覧#滋賀県}}
<!-- 特徴 -->
[[#生物相|前述]]のとおり、琵琶湖には多様な[[魚介類]]が生息しており、漁場の環境も岩場・[[砂浜]]・{{読み|内湖|ないこ}}・沖合と多様であり、また淡水であるため[[魚類|魚]]が湖と[[川|河川]]を行き来することも要因とし、[[漁法]]もまた多様かつ独特のものとなっている{{Sfn|近江水の宝||p=|loc=[https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/2042814.pdf びわ湖の伝統的漁法]}}{{sfn|中藤|2011}}{{sfn|大沼|2013b|p=201}}。その中でも特に「待ち(型)の漁法」の発達と新規[[漁具]]の制限が特徴として挙げられる{{sfn|大沼|2013b|p=203}}{{Sfn|近江水の宝||p=|loc=[https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/2042814.pdf びわ湖の伝統的漁法]}}。これは、積極的・新進的な漁法を用いることによる[[資源]]の枯渇を避けるための、[[閉鎖性水域|閉鎖水域]]である琵琶湖ならではの知恵である{{sfn|中藤|2011}}{{sfn|大沼|2013b|p=203}}。
[[ファイル:Fish from Lake Biwa for sale at a fish store in Otsu, Shiga, Japan.jpg|thumb|鮮魚店で売られる琵琶湖の水産物([[大津市]]内)。]]
<!-- 食文化 -->
固有種を含む琵琶湖の魚介類は、伝統的な食材として、2013年現在においても盛んに食されている<!--{{sfn|大沼|2013c|p=207}}-->。淡水魚の[[生食]]を忌避する日本においては珍しく、[[ビワマス]]・[[イワトコナマズ]]・[[ニゴロブナ]]や[[ゲンゴロウブナ]]・[[ハス (魚)|ハス]]などは[[刺し身|造り]]としても食される{{sfn|大沼|2013c|p=207}}。このほか「ジュンジュン」と呼ばれる[[すき焼き]]・[[寄せ鍋]]や[[焼き物 (料理)|焼き物]]、[[佃煮]]などとしても食される{{sfn|大沼|2013c|p=209}}。また、小アユを利用して、[[小鮎の甘露煮|アユの飴煮(あめだき)]]が大津の名物、土産物として作られてきた<ref>「大津市吏員が特定店の客引きと苦情」『京都日出新聞』1926年10月26日(大正ニュース事典編纂委員会『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p.239 毎日コミュニケーションズ 1994年)</ref>。さらに、滋賀県では[[発酵食品]]が発展しており、[[鮒寿司]]をはじめとする[[なれずし]]も作られる{{sfn|堀越|2018|p=16}}{{sfn|小島|2018|p=19}}。滋賀県には、海産物を扱う[[鮮魚店]]とはべつに淡水魚専門の鮮魚店があり、これらの店では鮮魚のほか、佃煮・なれずしといった加工品や[[カモ|鴨]]なども扱われている{{sfn|桑村|2001|p=146}}。
==== 漁撈の歴史 ====
<!-- 古代以前 -->
[[File:Lake Biwa Museum 20201024 28.jpg|thumb|left|{{ruby|魞|エリ}}]]
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琵琶湖における魚介類の利用は、1万年以上前にまで遡ることができる{{sfn|大沼|2013b|p=200}}。[[#環境史|前述]]したように、[[縄文時代]]の遺跡からは、[[貝殻]]や魚の骨などが発見されており、[[タンパク質|タンパク源]]に占める琵琶湖産の魚介類(特に[[コイ科]])の比率は[[哺乳類]]よりも高かったと考えられている{{sfn|林博通|2001|p=239}}{{sfn|橋本|2001|p=246}}{{sfn|山根|2017|pp=16f}}。また、[[漁網]]用と推測される[[石錘]]・[[土錘]]も出土しており{{sfn|山根|2017|p=12}}、漁具とともに出土した[[丸木舟]]も漁労に用いられたと推定される{{sfn|太田|2012|p=11}}。[[稲作#古代の稲作|稲作が開始]]された[[弥生時代]]には、魚類が水田を[[産卵]]場所として利用するようになったこともあり、漁網に代わり<!--山根-->[[魞]]{{small|(エリ)}}や[[筌]]といった小型[[漁具#陥穽漁具|陥穽漁具]]による待ちの漁法が発達し{{efn2|{{harvtxt|山根|2017|p=20}} は、魞や[[梁 (漁具)|梁]]による待ちの漁法が縄文時代からおこなわれていた可能性について言及している。}}、[[タンパク質|タンパク]]源に占める魚介類の比率はさらに高まった{{sfn|水野|2011|p=15}}{{sfn|橋本|2001|p=247}}{{sfn|山根|2017|p=36}}。[[古墳時代]]には土錘が増加・多様化し、また[[アサ|麻]]網も普及するようになり、漁獲対象種も多様化したと考えられる{{sfn|山根|2017|pp=42 & 46}}。
<!-- 中世 -->
その後[[中世日本|中世]]ごろには網漁が発達しており、従来河川や{{読み|内湖|ないこ}}で用いられていた小型の魞が琵琶湖沖合いで用いられる大型で複雑な魞へと発展したのも、中世の[[13世紀]]ごろであると考えられる{{sfn|水野|2011|pp=15f}}。2017年現在用いられている漁法の内、アユ沖掬い網漁(1960年代に導入)を除く漁法の原初形態は、中世にはすでに存在していたと考えられる{{sfn|山根|2017|p=65}}。流通に制約の大きかった中世においては、京都の鮮魚需要に対する琵琶湖の役割も大きかった{{sfn|水野|2011|p=16}}。このころまでに<!-- 橋本2001には、明確な時期の記載がない -->[[漁撈]]をおもに営む集団の組織化が進んでおり、13世紀ごろには漁撈を巡る複数の紛争が起きていたとの記録がある{{sfn|橋本|2001|p=247}}。一方13世紀は、[[仏教]]思想が庶民の間にも広まり[[殺生]]を禁断とする意識が高まった時代でもあり、その葛藤を伝える説話なども残されている{{sfn|橋本|2001|pp=249f}}。
<!-- 近世以降 -->
[[近世#日本|近世]]の[[17世紀]]ごろには、[[淡水魚]]である[[コイ|鯉]]から[[海水魚]]である[[鯛]]に政権の中心部における需要は移っていったが、[[18世紀]]から[[19世紀]]にかけても、漁撈を巡る紛争は頻繁に起きており、琵琶湖周辺の集落における漁撈はむしろ活発化したと考えられる{{sfn|橋本|2001|p=250}}{{efn2|このことから{{harvtxt|橋本|2001|p=250}} は、現代の[[20世紀]]末に[[キャッチ・アンド・リリース]]を原則とした食慾には基づかない「漁撈」が主流となるまでは、漁撈の基本的な枠組みは17世紀ごろから変化しなかったのではないかと推察している。}}。[[明治]]以降には、網地素材の化学繊維への変化や動力船の導入により、漁獲能力が向上したほか、[[大正]]・[[昭和]]期には、[[テナガエビ]]と[[ワカサギ]]が移入され、漁獲対象種に加わった{{sfn|山根|2017|p=84}}。また、大正末ごろには{{読み|内湖|ないこ}}の[[平湖 (滋賀県)|平湖]]と[[柳平湖]]([[草津市]])を発祥の地とする[[イケチョウガイ|淡水真珠]]の養殖が開始されたが、[[第二次世界大戦後]]は{{読み|内湖|ないこ}}と琵琶湖が切り離されたことなどによる水質悪化により衰退した{{sfn|迫田|2015|p=175}}{{sfn|草津市農林水産課|}}。漁獲量は1957年には1万300[[トン]]に達したが、その後減少し続け、2012年にはピーク時の10分の1の1029トンにまで減じ、魚種の構成もアユが40[[パーセント]]を占めるようになるなど大きく変化している{{sfn|桑村|2001|p=143}}{{sfn|山根|2017|pp=87 & 107}}。また、1956年には29種の漁具が用いられていたが、2015年には8種にまで減少している{{sfn|山根|2017|p=37}}。[[#生物相|前述]]の外来種(特に[[ブルーギル]])の侵入は魞漁の主漁場である{{仮リンク|推移帯|en|Ecotone}}の生態系の撹乱を引き起こし、漁業者の生活を脅かしている{{sfn|山根|2017|pp=111f}}。
=== 景勝・観光地として ===
[[File:Michigan_-_Lake_Biwa%2C_Japan_-_DSC07330.JPG|thumb|left|外輪船ミシガン]]
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{{see also|滋賀県#観光|滋賀県の観光地}}
[[飛鳥時代]]の[[近江大津宮|近江遷都]]以降、[[#和歌|後述]]のように[[近江国|近江]]を舞台とした[[和歌|歌]]が数多く詠まれており、多くの歌人たちが近江を訪れ、琵琶湖と周囲の光景に感性を刺激されたことが推測できる{{sfn|木村|2001|p=49}}。[[近江八景]]{{efn2|近江八景の成立には諸説あり、[[室町時代]]ごろに漢詩に読まれる中で定着したものとも、江戸時代初期に[[近衛信尹]]が[[瀟湘八景]]に倣って選定した([[近衛政家]]・[[近衛尚通]]が選定したとの説は、{{harvtxt|高梨|2001|p=273}} によると、2001年現在では否定されている)ともされる{{sfn|井上|2013|pp=59f}}{{sfn|木村|2018b|p=58}}。}}は、当初は文学的[[話題|モチーフ]]であったが、江戸時代中ごろには[[街道]]を通行する人が増えたこともあり、『名所記』『[[名所図会]]』といった挿絵入りの旅行案内書や[[浮世絵]]などをつうじて、全国の民衆に膾炙するようになった{{sfn|井上|2013|pp=59f}}{{sfn|木村|2018b|p=58}}。
[[File:Eight Famous Sights of Omi by Imamura Shiko (Tokyo National Museum).jpg|サムネイル|100px|今村紫紅『近江八景』より「三井(晩鐘)」]]
1889年([[明治]]22年)の[[東海道本線|東海道線]]全線開通は、前述の鉄道連絡船の廃止に繋がり[[蒸気船|汽船]]会社の経営に打撃を与えたが、同時に[[京阪神]]から琵琶湖観光に気軽に訪れることを可能にもした{{Sfn|大沼|2012b|pp=102-104}}。湖南汽船は1894年(明治27年)に[[大津港 (滋賀県)|大津]]と[[石山 (滋賀県)|石山]]および[[坂本 (大津市)|坂本]]間の航路で湖上観光の営業を開始している。次いで太湖汽船も南湖 - 北湖間の航路運行を開始し、1895年(明治28年)には鉄道連絡船廃止時点のレベルまで業績を回復させるに至っている{{Sfn|大沼|2012b|p=104}}。本格的な湖上[[遊覧船|遊覧]]の嚆矢ともされる湖南汽船の「近江八景めぐり遊覧船」(1903年〈[[明治]]36年〉就航)に続き<!-- 琵琶湖百科編集委員会 -->、太湖汽船も遊覧観光船の建造を行うなどより湖上遊覧に力を入れることとなり<!-- 福井 -->、以降季節ごとの[[観光]]客誘致が展開された<!-- 琵琶湖百科編集委員会 -->{{sfn|琵琶湖百科編集委員会|2001|p=284}}{{sfn|福井|2012|p=55}}。1912年([[大正]]元年)には[[京津電気軌道|京津電車]]の[[三条駅 (京都府)|三条]] - [[札ノ辻駅|札ノ辻]]間が開通し、京都方面からの観光客はさらに増加、2大汽船会社の競争もより激しく展開された。この時期には[[竹生島]]や[[長命寺]]への巡礼を含む観光が定着している{{Sfn|大沼|2012b|p=104}}。[[昭和]]に入ると[[琵琶湖ホテル]]の建設や湖水浴場の整備も進められ{{sfn|琵琶湖百科編集委員会|2001|p=284}}、太湖汽船と[[京阪電気鉄道|京阪電鉄]]による[[マキノ高原|マキノ・スキー場]]開設の翌年にあたる1930年(昭和5年)から1962年(昭和37年)にかけては、スキー客運ぶスキー船も運行された{{Sfn|大沼|2012b|p=105}}。
[[第二次世界大戦]]後の1950年(昭和25年)には[[琵琶湖国定公園|琵琶湖が国定公園]]に指定されている。これに先駆け前年には、滋賀県民からの公募によって「[[琵琶湖八景]]」が選ばれ{{sfn|琵琶湖百科編集委員会|2001|p=284}}{{sfn|木村|2018b|p=59}}、翌1951年には観光船[[玻璃丸]]が就航した{{Sfn|大沼|2012b|p=105}}。1968年(昭和43年)の[[びわこ大博覧会]]以降は、琵琶湖の水質が悪化するなど、観光が軽視されるようになるが、[[びわこ国体]]で湖上輸送が試みられたのを機に、再度観光が顧みられるようになる<!--琵琶湖百科編集委員会2001,p=284-->。1982年(昭和57年)には玻璃丸を継ぐかたちで[[外輪船]][[ミシガン (旅客船)|ミシガン]]が就航し、滞在型観光を目的としたリゾート・ネックレス構想や水上スポーツ施設の整備なども計画されたが、[[バブル崩壊|バブル経済の崩壊]]により計画は進まなかった{{sfn|琵琶湖百科編集委員会|2001|p=284}}{{Sfn|大沼|2012b|p=106}}。その後は、環境保全や歴史的文化資産の活用などの観点も取り入れた[[エコツーリズム|新しい観光スタイル]]が模索されている{{sfn|琵琶湖百科編集委員会|2001|p=284}}。2019年([[令和]]元年<!--11月-->)には琵琶湖岸を1周する200キロメートルの自転車ルートである[[ビワイチ]]が、[[ナショナルサイクルルート]]の第1弾{{efn2|[[つくば霞ヶ浦りんりんロード]]、[[しまなみ海道サイクリングロード]]と同時{{sfn|滋賀県|2019}}。}}として指定された{{sfn|滋賀県|2019}}{{sfn|読売新聞|2021}}。
=== 作品の題材として ===
{{see also|近江八景#八景を取り入れた作品|滋賀県を舞台とした作品一覧}}
====和歌====
[[File:Kakinomoto Hitomaro.jpg|thumb|100px|left|柿本人麿]]
[[File:Warrior Taira-no-Tadanori about to Sleep under a Cherry Tree LACMA M.71.100.56a-c (2 of 3).jpg|thumb|left|100px|平忠度]]
[[File:Murasaki-Shikibu-composing-Genji-Monogatari.png|thumb|left|100px|紫式部]]
[[#古代の呼称|前述]]のとおり、[[記紀]]にはいくつか琵琶湖を題材とした[[和歌|歌謡]]が含まれている。その後の『[[万葉集]]』にも琵琶湖を題材とした歌は複数含まれており、[[近江国]]を舞台とする歌は[[近江大津宮|近江遷都]]以降のものが多い{{sfn|木村|2001|pp=44-49}}。同歌集には[[柿本人麿]]の
{{quote
|{{inline block|淡海の海}}{{inline block|夕浪千鳥汝が鳴けば}}{{inline block
|{{inline block|{{ruby|情|こころ}}もしのに}}{{inline block|いにしへ思ほゆ}}{{efn2|しのに:しおれての意{{sfn|畑|1994|p=9}}{{r|コトバンク しのに}}。}}
}}
}}
など、「淡海の海」「近江の海」が含まれた[[和歌|歌]]が14首ある{{sfn|木村|2001|p=44}}{{sfn|畑|1994|p=9}}{{efn2|近江国を舞台とした歌は116首と[[大和国]]・[[摂津国]]に次いで多く、そのうち近江・淡海の用字を含む歌は36首である{{sfn|木村|2001|p=44}}。}}。また、湖や志賀にかかる[[枕詞]]「さざなみ」「楽浪」を含む歌は10首あり、おなじく柿本人麿による
{{Quote
|{{inline block|さざなみの}}{{inline block|志賀の{{ruby|大曲|おおわだ}}淀むとも}}{{inline block
|{{inline block|昔の人に}}{{inline block|また逢わめやも}}{{efn2|大曲:大きな湾・入り江の意{{sfn|木村|2001|p=46}}{{r|コトバンク 曲}}。}}
}}
}}
{{Quote
|{{inline block|さざなみの}}{{inline block|志賀の[[唐崎 (大津市)|唐崎]]}}{{inline block|幸くあれど}}{{inline block
|{{inline block|大宮人の}}{{inline block|舟待ちかねつ}}
}}
}}
という歌が特に著名である{{sfn|木村|2001|p=46}}。湖岸の湊を詠んだ歌も多く、[[小弁 (飛鳥時代・奈良時代の歌人)|小弁]]{{efn2|小弁(しょうべん、生没年不詳)。[[飛鳥時代]]・[[奈良時代]]の歌人。[[春日倉老]]の子とされることもある。}}による
{{Quote
|{{inline block|[[高島郡 (滋賀県)|高島]]の{{ruby|[[安曇町|阿渡]]|あど}}の湊を}}{{inline block|漕ぎ過ぎて}}{{inline block
|{{inline block|[[塩津村 (滋賀県)|塩津]][[菅浦の湖岸集落|菅浦]]}}{{inline block|今から漕ぐらむ}}
}}
}}
などが挙げられる{{sfn|太田|2012|p=11}}{{r|コトバンク 小弁}}。[[飛鳥時代]]の湖上の賑わいを示す歌としては、
{{quote
|{{inline block|近江の海は}}{{inline block|港は{{ruby|八十|やそ}}{{efn2|字義通り80という意味ではなく、沢山の意である{{sfn|浅見|2001|p=277}}。}}ち}}{{inline block|いづくにか}}{{inline block
|{{inline block|君が舟{{ruby|泊|は}}て}}{{inline block|草結びけむ}}
}}
}}
などが挙げられる。一方、都落ち間近に[[平忠度]]が詠んだ
{{Quote
|{{inline block|さざなみや}}{{inline block|志賀の都はあれにしを}}{{inline block
|{{inline block|昔ながら{{efn2|昔ながらと[[長等山]]の[[掛詞]]{{sfn|浅見|2001|p=278}}。}}の}}{{inline block|山ざくらかな}}
}}
||[[千載和歌集]]
}}
は、上述のさざなみの枕詞を用いた歌のなかでもっとも有名なものであるが、浅見によるとそこには<q>渺々とした琵琶湖の風景</q>が表れている{{sfn|木村|2001|p=47}}{{sfn|浅見|2001|p=278}}。[[平安時代]]の人の往来を示す歌としては、[[長徳]]2年(996年)に父[[藤原為時]]の越前[[武生市|武生]]への赴任に同行した[[紫式部]]が[[高島町 (滋賀県)|高島町]]三尾崎で詠んだ
{{Quote
|{{inline block|三尾の海に}}{{inline block|網引く民の}}{{inline block|手間もなく}}{{inline block
|{{inline block|立ち居につけて}}{{inline block|都こひしも}}{{efn2|手間:動作の手を休める合間の意{{sfn|木村|2001|p=62}}{{r|コトバンク 手間}}。}}
}}
||[[紫式部集]]
}}
が挙げられる{{sfn|木村|2001|p=62}}。
{{clear|left}}
====その他文学====
[[File:Basho by Hokusai-small.jpg|thumb|left|100px|松尾芭蕉]]
[[菅原孝標女]]による『[[更級日記]]』や[[鎌倉時代]]の[[阿仏尼]]による『[[十六夜日記]]』にも琵琶湖周辺の光景が記述されており、中世文学においては[[竹生島]]信仰が、『[[平家物語]]』や[[謡曲]]『竹生島』などの作品で取り上げられている{{sfn|木村|2001|p=173}}{{sfn|松村|2001|p=264}}。戦乱の世になると、謡曲『[[自然居士 (能)|自然居士]]』や室町時代の小唄を集めた『[[閑吟集]]』において琵琶湖の[[人身売買|人買舟]]や[[密漁]]といった<q>荒々しい様相</q>が描写されるようになるが、一方軍記物においては『[[義経記]]』などに琵琶湖は登場しているものの、湖上の戦の様子を描いた作品はほとんどない{{sfn|松村|2001|p=265}}{{sfn|浅見|2001|p=278}}。[[江戸時代]]については、[[松尾芭蕉]]による
{{quote|四方より花吹き入れて鳰の海}}
などの琵琶湖畔で詠んだ90あまりの[[俳句]]と『[[幻住庵|幻住庵記]]』、そして[[上田秋成]]による夢物語「夢応の鯉魚」(『[[雨月物語]]』)が傑作として挙げられる{{sfn|松村|2001|p=256}}{{sfn|浅見|2001|p=280}}。
[[File:Shuko Chikamatsu.jpg|thumb|100px|近松秋江]]
近現代に琵琶湖に関連する[[小説]]としては、次のようなものがある(丸括弧内はおもな関連する土地){{sfn|松村|2001|pp=266-268}}。
{{col-list|colwidth=30em|
* [[小泉八雲]]『[[鮫人の恩返し]]<!--松村-->』([[瀬田の唐橋]])<!--1899-->『[[果心居士の話]]<!--松村-->』<!--1901-->
* [[泉鏡花]]『[[瓔珞品]]{{small|(ようらくぼん)}}<!--松村-->』<!--1905-->
* [[岡本かの子]]『[[金魚繚乱]]<!--松村-->』([[大津市|大津]])<!--1937-->
* [[井上靖]]『[[星と祭]]<!--松村-->』([[長浜市|長浜]])<!--1972-->
* [[芝木好子]]『[[群青の湖]]<!--松村-->』([[近江八幡]]・葛籠尾崎)<!--1990-->
}}
室町時代を描いた[[谷崎潤一郎]]『[[盲目物語]]』は、湖上の描写は少ないものの、<q>作品世界は竹生島の沈鬱な影を色濃く帯びており</q>{{sfn|松村|2001|p=266}}、[[秦恒平]]『[[みごもりの湖]]』では[[藤原仲麻呂の乱]]の、[[成澤邦正]]『[[琵琶湖の浮城]]』では室町末期[[水茎岡山城|水茎の岡]]の湖上の戦が描かれている{{sfn|松村|2001|p=265}}。琵琶湖の[[汚染]]や[[自然破壊]]を扱った作品としては、早くは1919年([[大正]]8年)の[[近松秋江]]『[[湖光島影]]』があり、[[第二次世界大戦後]]の[[高度経済成長期]]には[[西口克己]]『[[びわ湖 (小説)|びわ湖]]』が発表されている{{sfn|松村|2001|p=268}}。また、[[中上健次]]『[[日輪の翼]]』や[[平成]]の[[小林恭二]]『[[カブキの日]]』にも琵琶湖(前者は瀬田の唐橋、後者は[[堅田 (大津市)|堅田]])を舞台とした描写があるが琵琶湖そのものにはわずかしか触れられておらず、{{harvtxt|松村|2001|p=268}} は自然破壊などにより琵琶湖の生命力が衰えたためだと述べている。
==== 美術 ====
[[File:Genji emaki sekiya.jpg|thumb|left|「関屋」『源氏物語絵巻』]]
[[File:『堅田図旧襖絵』(部分)、16世紀(静嘉堂文庫所蔵).png|thumb|right|『堅田図旧襖絵』(部分)]]
{{after float}}
琵琶湖が描かれた現存最古の[[絵画]]は、おそらく『[[源氏物語の巻名一覧|源氏物語絵巻]]』の「[[関屋 (源氏物語)|関屋]]」の段である{{sfn|高梨|2001|p=271}}。{{harvtxt|高梨|2001|pp=269f.}} は、これ以前の『[[一遍聖絵]]』や[[鶏足寺 (長浜市)|鶏足寺]]の[[十二神将]]像についても、琵琶湖の水運ネットワークの影響があると指摘している。[[室町時代]]後半からは『近江名所図』の大作が残されており、室町時代の[[狩野派]]による[[屏風絵]]{{efn2|2021年現在、[[滋賀県立近代美術館]]所蔵{{sfn|滋賀県立近代美術館: 近江名所図}}。}}、同じく室町時代の大徳寺[[瑞峯院]]の『堅田図旧襖絵』{{efn2|後に屏風に改装され、[[静嘉堂文庫]]に伝えられた{{sfn|高梨|2001|p=273}}。}}、[[17世紀]]前半([[江戸時代]])の屏風絵{{efn2|2021年現在、[[サントリー美術館]]所蔵{{sfn|サントリー美術館: 近江名所図}}。}}など<!--高梨2001には、大津市歴史博物館蔵のもの挙げられているが、詳細不明-->が挙げられる{{sfn|高梨|2001|p=273}}{{sfn|滋賀県立近代美術館: 近江名所図}}{{sfn|静嘉堂文庫|2014}}。17世紀後半以降には、[[近江八景]]を題材とした絵画([[歌川広重]]によるものが有名)や[[和服|着物]]の[[蒔絵]]・[[陶磁器]]の絵付けなどが現れるが、同時期には古典文学に材をとったものなど、近江八景以外の絵画も描かれている<!-- 高梨2001,p.274-->。[[近代#日本|近代]]以降は、多くの[[洋画家]]・[[日本画家]]が琵琶湖の多様な姿を描いている一方、[[今村紫紅]]や[[下保昭]]などは近江八景の枠組みの中で新たな試みをおこなっている{{sfn|高梨|2001|p=274}}。
{{Flexbox|justify-content=space-around|align-items=center|style=width: 100%;|
{{multiple image
|footer = 『近江名所図』(狩野派、16世紀後半)
|width = 300px
|image1 = 『近江名所図』左隻、狩野派、室町時代.jpg
|image2 =『近江名所図』右隻、狩野派、室町時代.jpg
|align = center
}}
{{multiple image
|footer = 『近江名所図』(17世紀前半)
|width = 300px
|image1 =『近江名所図屛風』左隻、17世紀前半(サントリー美術館所蔵).jpg
|image2 =『近江名所図屛風』右隻、17世紀前半(サントリー美術館所蔵).jpg
|align = center
}}
}}
==== 音楽と映画 ====
1917年([[大正]]6年)に作られた『[[琵琶湖周航の歌]]』は、滋賀県民に広く愛唱されている{{sfn|飯田|2018|p=24}}。そのほか、[[#事件や事故|後述]]の[[琵琶湖遭難事故]]を歌った『[[琵琶湖哀歌]]』がある{{sfn|武田|2001|p=95}}。
琵琶湖を舞台とした映画としては、『[[幻の湖]]』{{efn2|琵琶湖周辺で1年2月に及ぶ長期[[ロケーション撮影|ロケ]]が行なわれた日本映画。[[琵琶湖大橋]]でクライマックスを迎える。}}、『[[偉大なる、しゅららぼん]]』{{efn2|[[万城目学]]の小説及び2014年春公開の映画。琵琶湖の神から力を授けられた湖の民の話。}}、『[[マザーレイク]]』などが挙げられる。
=== 環境保全 ===
{{節スタブ|date=2021年3月}}
[[昭和40年代]]、[[高度経済成長]]に伴って湖水の[[水質汚濁]]や[[富栄養化]]が進んだ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www2.nhk.or.jp/school/watch/clip/?das_id=D0005403107_00000| title=琵琶湖の環境問題| website=[[日本放送協会|NHK]] for School| accessdate=2021-02-09}}</ref>。原因の一つに[[合成洗剤]]、[[リン酸塩]]が挙げられ<ref>{{Cite web|和書| url=http://jsda.org/w/01_katud/a_seminar06.html|title=セミナー: もっと良く知ってほしい洗剤|website=[[日本石鹸洗剤工業会|JSDA 日本石鹸洗剤工業会]]|accessdate=2021-02-09}}</ref>、主婦層や女性団体が「[[石鹸]]運動」を起こして対策・改善を求めた<ref>{{Cite web|和書|website=滋賀県 |date=2014年9月11日 |url=https://www.pref.shiga.lg.jp/mizukankyobusiness/106669.html |title=琵琶湖を守る県民の活動、取組|accessdate=2021-02-09}}</ref>。このため滋賀県は独自に{{仮リンク|工業排水|en|Industrial wastewater treatment}}と[[生活排水]]を規制する、いわゆる琵琶湖条例(滋賀県琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例)を制定するに至った{{sfn|滋賀県|2021a}}{{sfn|滋賀県|2012}}<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.shiga.lg.jp/d/kankyo/files/rin-senzai-kinshi.pdf|title=りんを含む家庭用合成洗剤の使用の禁止について|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181221095820/https://www.pref.shiga.lg.jp/d/kankyo/files/rin-senzai-kinshi.pdf|archivedate=2018-12-21|deadlinkdate=2021-02-09}}</ref>。このほか琵琶湖に関する滋賀県独自の条例としては、『滋賀県琵琶湖のレジャー利用の適正化に関する条例』や『滋賀県琵琶湖の[[ヨシ]]群落の保全に関する条例』、景観を守るための『ふるさと滋賀の風景を守り育てる条例』などがある。
滋賀県は7月1日を「びわ湖の日」に定めており、琵琶湖を保全する様々な活動「びわ活」を推進している<ref name="朝日20210410">[https://www.asahi.com/articles/DA3S14864337.html 【47都道府県の謎】滋賀県民の「琵琶湖愛」がわかる日とは 環境保全への取り組み40年「びわ活」「ビワイチ」も][[be (朝日新聞)|『朝日新聞』土曜朝刊別刷り「be」]]2021年4月10日(4面)同日閲覧</ref>。また、2021年時点、[[国際連合]][[持続可能な開発目標]](SDGs)に倣い、2030年に向けた琵琶湖版SDGsである『マザーレイクゴールズ(MLGs)アジェンダ"』策定を進めている<ref>[https://www.pref.shiga.lg.jp/kensei/koho/e-shinbun/bosyuu/317517.html マザーレイクゴールズ(MLGs)アジェンダ(素案)へのご意見を募集します!] 滋賀県庁(2021年3月17日)2021年4月10日閲覧</ref>。
1990年から1991年にかけ[[琵琶湖総合開発事業]]の一環として水質測定施設である南湖湖心局(大津市[[唐崎 (大津市)|唐崎]]沖1.5キロメートル)と北湖湖心局(大津市南比良沖4キロメートル及び高島市[[今津町 (滋賀県)|今津]]沖3.5キロメートル)の3基が設置され、[[水素イオン指数|pH]]値、[[溶存酸素量]]、水温、流速などのデータが自動送信されていた{{sfn|京都新聞|2017}}。しかし、内部の測定機器が老朽化し、必要なデータ量も確保できたとして2006年度までに稼働が停止された。その後も維持費がかかり、船舶の衝突事故のおそれもあることから2018年度に撤去されることとなった{{sfn|京都新聞|2017}}。
また、琵琶湖の北方に位置する[[福井県]][[若狭湾]]岸には、[[敦賀発電所|敦賀原発]]・[[美浜発電所|美浜原発]]など多数の[[原子力発電所|原発]]が立地する。琵琶湖との最短距離は20キロメートル程度であるため、[[原子力事故|原発事故]]で[[放射能汚染]]されれば水の供給に影響する可能性があると指摘されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110715/lcl11071511500007-n1.htm|title=1435万人…原発事故、琵琶湖汚染想定し代替水源検討 関西広域連合|publisher=[[産経新聞|産経ニュース]]|date=2011-07-15|accessdate=2011-11-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110721235057/http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110715/lcl11071511500007-n1.htm|archivedate=2011-07-21}}</ref>。また、ヨシ群落保全条約により、水鳥にとって重要なヨシ群落保全が図られている。[[ラムサール条約登録地一覧 (登録番号1-1000)|ラムサール条約]]湿地を指定するための国際的な基準の一つに、「定期的に2万羽以上の水鳥を支える湿地」とあり、琵琶湖はその基準を満たしている。そのことから、1993年6月10日、北海道釧路市で開催された「ラムサール条約第5回締約会議」において、国内で9番目のラムサール条約湿地となった。琵琶湖がラムサール条約に登録されたことを受け、水鳥をはじめとする野生生物と、湿地の保全や湿原の賢明な利用について理解を深めるための普及啓発活動や、調査・研究・監視等を行う拠点施設として「琵琶湖水鳥・湿地センター」ができた。ラムサール条約に指定されたことで、滋賀県全体で、琵琶湖の自然環境への取り組みが強化された{{要出典|date=2022-08}}。
=== 事件や事故 ===
滋賀県内の[[水難事故]]の3分の1が[[大津市消防局]]管内で発生している<!--{{sfn|産経新聞|2017a}}-->。大津市消防局が2015年に出動した水難救助件数は21件で、救助件数全体に占める割合は9パーセントであり全国平均の4.4パーセントの2倍以上となっている{{sfn|産経新聞|2017a}}。[[#関連する自然現象|前述]]したおろしなどの風は、漁船や[[ウィンドサーフィン]]の事故の原因となることも多く、1941年(昭和16年)には[[琵琶湖遭難事故]]が発生している{{sfn|武田|2001|pp=95-97}}{{efn2|湖上以外でも、JR[[湖西線]]では貨物列車の転覆が2001年までに2回起こっており、列車の不通や[[徐行#鉄道の徐行|徐行]]運転の原因にもなっている{{sfn|武田|2001|p=97}}。}}。
[[#近現代の交通|先に触れた]]近代における蒸気船の事故としては、まず1874年([[明治]]7年)に長運丸が[[唐崎 (大津市)|唐崎]]沖で[[ボイラー]]の破裂により[[沈没]]し、数十名の乗客が犠牲となっている。その翌年には、満芽丸([[大津港 (滋賀県)|大津]]所属)が加重積載により[[小松村 (滋賀県)|小松]]沖で沈没し、47人の犠牲者を出した{{sfn|福井|2012|p=52}}。
このほか、[[太平洋戦争]]の終戦間際に[[零式艦上戦闘機]](零戦)六二型が琵琶湖に不時着している{{sfn|時事通信|2012}}。1978年(昭和53年)、湖底に沈んでいた零戦が引き上げられ[[京都嵐山美術館]]が修復、その後は[[和歌山県]]「[[ゼロパーク]]」、[[広島県]]「[[大和ミュージアム]]」と引き渡され、展示された<ref>{{Cite web|和書|url=https://wetwing.com/classic/yamato_zero/yamatoindex.html |title=大和ミュージアムの零戦62型 |website= |publisher= |accessdate=2018-12-17}}</ref>。
=== その他 ===
[[File:第38回鳥人間コンテスト_(20027495056).jpg|thumb|鳥人間コンテスト]]
[[File:大津港から出港する学習船「うみのこ(2代)」.jpg|thumb|学習船「うみのこ」(2代目)。]]
{{after float}}
;日本遺産
:2015年には、「水とくらしの文化」「水と祈りの文化」「水と食文化」の3つのストーリーで構成された「琵琶湖とその水辺景観 — 祈りと暮らしの水遺産」が[[文化庁]]により[[日本遺産]]として認定されている{{sfn|観光交流局|2018}}{{sfn|日本遺産: 琵琶湖とその水辺景観}}。
:<!-- -->
;スポーツやレジャー
:[[淀川|瀬田川]]を中心とし複数の艇庫があり、毎年5月には[[琵琶湖漕艇場]]で日本最大級の[[ボート競技|ボート]]大会である[[朝日レガッタ]]が開催される{{sfn|山脇|2018|pp=30f}}。1952年には[[びわこボートレース場]]が日本で3番目のボートレース場として開場している{{sfn|事業課|2015|p=1}}。[[カヌー]]や[[ドラゴンボート]]、[[ソーラーボート]]の競技もおこなわれるほか、[[ヨット]]、[[スタンドアップパドルボード]]などを楽しむこともできる{{sfn|山脇|2018|pp=30f}}。また、2003年には「琵琶湖レジャー利用適正化基本計画」が策定されている{{sfn|環境政策課|2020|p=87}}。
:<!-- -->
;教育
:滋賀県では、1983年の学習船「うみのこ」就航以降、県内の小学5年生を対象とし、[[滋賀県立びわ湖フローティングスクール|びわ湖フローティングスクール]]と呼ばれる1泊2日の体験学習を実施している{{sfn|武内|渡部|近藤|2001|p=149}}{{sfn|環境政策課|2020|p=58}}。また1981年以降、環境教育[[副読本]]『あおいびわ湖』(小学校)・『あおい琵琶湖』(中学校)・『琵琶湖と自然』(高校)を、ほぼ5年ごとに改訂を加えながら発行している{{sfn|滋賀県教育委員会|2018}}{{sfn|環境政策課|2020|p=61}}。
;研究機関
:琵琶湖に関連する研究機関としては、[[滋賀県琵琶湖環境科学研究センター]]・[[滋賀県立琵琶湖博物館]]・[[国立環境研究所]]琵琶湖分室などがあり、2014年には各部局・機関が連携して研究をおこなうために[[琵琶湖環境研究推進機構]]が設置された{{sfn|環境政策課|2018|p=240}}。
:<!-- -->
=== 年表 ===
※文末の「#」は、関連する節へのページ内リンクである。
* [[地球史年表#1000万年前 - 100万年前|440万年前]]ごろ – 後の三重県[[伊賀市]]に古琵琶湖が形成される(大山田湖){{sfn|里口|2018a|p=122}}。[[#自然史|#]]
* [[地球史年表#100万年前 - 10万年前|100万年前]]ごろ - 現在の南湖の位置に堅田湖が形成される{{sfn|里口|2018a|p=123}}。[[#自然史|#]]
* [[地球史年表#100万年前 - 10万年前|43万年前]]ごろ - 琵琶湖の移動が終わる{{sfn|里口|2018a|p=123}}。[[#自然史|#]]
* [[紀元前1万年]]ごろ - 湖岸域での人の営みの痕跡が残され始める{{sfn|林博通|2001|p=239}}{{sfn|琵琶湖百科編集委員会|2001|p=342}}。[[#環境史|#]]
* [[紀元前300年]]ごろ - 湖岸域で稲作が開始される{{sfn|琵琶湖百科編集委員会|2001|p=342}}。[[#環境史|#]]
* [[667年]]([[天智天皇]]6年)- [[近江大津宮]]への遷都{{sfn|琵琶湖百科編集委員会|2001|p=343}}。
* [[8世紀|700年]]ごろ - 僧侶行基が琵琶湖治水のため大日山の掘削を試みる{{sfn|竹林|今井|1995|p=409}}{{sfn|琵琶湖百科編集委員会|2001|p=343}}。[[#水害と治水|#]]
* [[1587年]]([[天正]]15年)- [[大津百艘船]]が特権を与えられる。この数年後には[[芦浦観音寺|観音寺]]が[[湖水船奉行|船奉行]]に任命される{{sfn|杉江|1999|pp=15f & 19}}。[[#近世の交通|#]]
* [[1699年]]([[元禄]]12年)- [[河村瑞賢]]による2度目の[[淀川|瀬田川]][[浚渫]](河合瑞賢の大普請){{sfn|竹林|今井|1995|p=411}}{{sfn|琵琶湖百科編集委員会|2001|p=346}}。[[#水害と治水|#]]
* [[1831年]]([[天保]]2年)- 深溝村の[[庄屋]]藤原太郎兵衛家の尽力の末瀬田川の浚渫が実現{{sfn|竹林|今井|1995|pp=411f}}{{sfn|琵琶湖百科編集委員会|2001|p=347}}。[[#水害と治水|#]]
* [[1869年]]([[明治]]2年)- [[蒸気船]]一番丸が就航{{sfn|用田|2018|p=54}}。[[#近現代の交通|#]]
* [[1890年]](明治23年)- 京都市へ水を供給する[[琵琶湖疏水|琵琶湖第1疏水]]が開通{{sfn|大久保|1998|p=245}}{{sfn|琵琶湖百科編集委員会|2001|p=348}}。[[#淀川下流域での水利用|#]]
* [[1896年]](明治29年)- [[河川法]]が制定され、以降琵琶湖とその流入河川は行政の管理下に置かれる{{sfn|水野|2011|p=16}}。[[#行政上の扱い|#]]
* [[1896年]](明示29年)- [[明治29年琵琶湖洪水|琵琶湖沿岸部で大洪水]]が起きる{{sfn|竹林|今井|1995|p=21}}{{sfn|琵琶湖百科編集委員会|2001|p=348}}。[[#水害と治水|#]]
* 1900年から1908年(明治33年から41年)- 南郷洗堰の築造を含む[[淀川|瀬田川]]の大規模な改修工事がおこなわれ、以降琵琶湖の水害は減る{{sfn|水野|2011|p=16}}。[[#水害と治水|#]]
* [[1912年]](明治45年)- [[琵琶湖疏水|琵琶湖第2疏水]]が開通{{Sfn|中川|2011|p=190}}{{sfn|琵琶湖百科編集委員会|2001|p=349}}。[[#淀川下流域での水利用|#]]
* [[1925年]]([[大正]]14年)- 琵琶湖の[[環流]]が発見される{{sfn|焦|2018|p=137}}。[[#水理現象|#]]
* [[1950年]]([[昭和]]25年)7月24日 - [[琵琶湖国定公園]]が指定される{{sfn|環境政策課|2020|p=86}}{{sfn|木村|2018b|p=59}}。[[#景勝・観光地として|#]]
* [[昭和30年代]] - 滋賀県で上下水道の普及が始まる{{Sfn|牧野厚史|2001|p=202}}。[[#滋賀での水利用|#]]
* [[1961年]](昭和36年)- [[瀬田川洗堰]]が築造される{{sfn|琵琶湖百科編集委員会|2001|p=350}}。[[#水害と治水|#]]
* [[1964年]](昭和39年)9月 - [[琵琶湖大橋]]が開通{{sfn|環境政策課|2020|p=86}}。[[#近現代の交通|#]]
* [[1970年代]] - 以降、大型ポンプとパイプラインを用いた逆水灌漑が拡大する{{Sfn|牧野厚史|2001|p=205}}。[[#滋賀での水利用|#]]
* [[1972年]](昭和47年)- 琵琶湖総合開発特別措置法の制定に伴い[[琵琶湖総合開発事業]]が策定される{{sfn|大久保|1998|p=247}}。[[#淀川下流域での水利用|#]]
* [[1974年]](昭和49年)9月 - [[近江大橋]]が開通。[[#近現代の交通|#]]
* [[1979年]](昭和55年)10月 - 琵琶湖条例(滋賀県琵琶湖の[[富栄養化]]の防止に関する[[条例]])が公布される{{sfn|環境政策課|2020|p=86}}。[[#環境保全|#]]
* [[1985年]](昭和60年)12月 - [[湖沼法]]における指定湖沼に指定される{{sfn|環境政策課|2020|p=86}}。
* [[1993年]]([[平成]]5年)- [[ラムサール条約]]登録湿地に認定される{{sfn|環境政策課|2020|p=87}}。<!-- [[#環境保全|#]] -->
* [[2000年]](平成12年)3月 – 「マザーレイク21計画」が策定される{{sfn|嘉田|2012}}。<!-- [[#環境保全|#]] -->
=== 年間行事・記念日 ===
*3月
** [[びわ湖開き]]{{sfn|京都新聞|2021}}
*7月
** びわ湖の日(1日){{sfn|滋賀県|2020a}}
** [[鳥人間コンテスト選手権大会]](下旬){{sfn|スポーツ報知|2020}}
*8月
** [[伊崎寺|伊崎の棹飛び]](1日){{sfn|伊崎寺: 棹飛び}}
** [[びわ湖大花火大会]]{{sfn|産経ニュース|2019}}
=== 主な生物種 ===
{{節スタブ|date=2021年12月}}
※『滋賀県レッドデータブック』2015年版に基づき、希少([[亜種|亜]])[[種 (分類学)|種]]には「*」を、絶滅危機増大(亜)種には「**」を、[[絶滅危惧種|絶滅危惧(亜)種]]には「***」を附す<ref>固有種については{{harvtxt|西野|2018b|p=153}}による。それ以外のものについては別途出典を後置する。</ref> また、環境省レッドリスト2020年版に基づき、絶滅危惧IB類およびI類には「⁑」を、IA類には「⁂」を附す{{sfn|環境省|2020}}。琵琶湖においては絶滅したとされる種には「†」を附す。
==== 動物 ====
[[File:Sarcocheilichthys biwaensis Kyoto aquarium 2.jpg|thumb|アブラヒガイ]]
[[File:Carassius_auratus_grandoculis_by_OpenCage.jpg|thumb|ニゴロブナ]]
[[File:Sarcocheilichthys_variegatus_microoculus_by_OpenCage.jpg|thumb|ビワヒガイ]]
[[File:Gnathopogon_caerulescens_by_DaijuAzuma.jpg|thumb|ホンモロコ]]
[[File:Ischikauia steenackeri Kyoto Aquarium 2.jpg|thumb|ワタカ]]
[[File:BiwaTrout(LakeBiwa-JP).jpg|thumb|ビワマス]]
[[File:Gymnogobius isaza by DaijuAzuma.jpg|thumb|イサザ]]
[[File:Silurus lithophilus by OpenCage.jpg|thumb|イワトコナマズ]]
{{after float|15em}}
*'''[[魚類]]'''
**固有(亜)種{{sfn|細谷|川瀬|2020}}
***[[カサゴ目]]{{仮リンク|カジカ科|en|Cottidae}}
****{{仮リンク|ウツセミカジカ|en|Cottus reinii}}{{small|({{仮リンク|カジカ属|en|Cottus (fish)|redirect=1}})}}{{efn2|独立種と見做さない研究者もいる{{sfn|西野|2018b|p=153}}。|name=独立種?}}
***[[コイ目]][[コイ科]]{{hlist-comma|list_style=display: list-item; margin-left: 1.6em; list-style: disc;
|[[アブラヒガイ]]{{#tag:sup|***|title="絶滅危惧種"}}{{#tag:sup|⁂|title="絶滅危惧IA類"}}
|[[ゲンゴロウブナ]]{{#tag:sup|*|title="希少種"}}{{#tag:sup|⁑|title="絶滅危惧IB類"}}
|[[スゴモロコ]]{{#tag:sup|*|title="希少種"}}
|[[ニゴロブナ]]{{#tag:sup|*|title="希少種"}}{{#tag:sup|⁑|title="絶滅危惧IB類"}}{{efn2|亜種。|name=亜種}}{{efn2|2013年に[[滋賀県立安土城考古博物館|安土城考古博物館]]がおこなった湖魚料理の人気アンケートを元に滋賀県ミュージアム活性化推進委員会が選定した琵琶湖八珍に含まれる種(ビワヨシノボリはゴリとして、アユはコアユとして選定){{sfn|大沼|2018|p=20}}{{sfn|水産課|2016}}。|name=琵琶湖八珍}}
|[[ビワヒガイ]]{{#tag:sup|*|title="希少種"}}{{efn2|name=亜種}}
|[[ホンモロコ]]{{#tag:sup|**|title="絶滅危機増大種"}}{{#tag:sup|⁂|title="絶滅危惧IA類"}}{{efn2|name=琵琶湖八珍}}
|[[ヨドゼゼラ]]{{#tag:sup|⁑|title="絶滅危惧IB類"}}{{small|({{仮リンク|ゼゼラ属|en|Biwia}})}}
|[[ワタカ]]{{#tag:sup|***|title="絶滅危惧種"}}{{#tag:sup|⁂|title="絶滅危惧IA類"}}
}}
***コイ目[[ドジョウ科]]{{hlist-comma|list_style=display: list-item; margin-left: 1.6em; list-style: disc;
|[[オオガタスジシマドジョウ]]{{#tag:sup|***|title="絶滅危惧種"}}{{#tag:sup|⁑|title="絶滅危惧IB類"}}
|[[ビワコガタスジシマドジョウ]]{{#tag:sup|***|title="絶滅危惧種"}}{{#tag:sup|⁑|title="絶滅危惧IB類"}}{{small|(以上[[シマドジョウ属]])}}
}}
***[[サケ目]][[サケ科]]
****[[ビワマス]]{{efn2|name=琵琶湖八珍}}
***[[スズキ目]][[ハゼ科]]{{hlist-comma|list_style=display: list-item; margin-left: 1.6em; list-style: disc;
|[[イサザ]]{{#tag:sup|***|title="絶滅危惧種"}}{{efn2|name=琵琶湖八珍}}
|[[ビワヨシノボリ]]{{small|([[ヨシノボリ属]])}}{{efn2|name=琵琶湖八珍}}
}}
***[[ナマズ目]][[ナマズ科]]{{hlist-comma|list_style=display: list-item; margin-left: 1.6em; list-style: disc;
|[[イワトコナマズ]]{{#tag:sup|**|title="絶滅危機増大種"}}
|[[ビワコオオナマズ]]{{#tag:sup|*|title="希少種"}}
}}
**その他[[在来種]]{{sfn|細谷|川瀬|2020}}
***サケ目[[アユ科]]{{efn2|{{lang|en|{{harvtxt|Nelson|2007|p=195}}}} は[[キュウリウオ目]][[キュウリウオ科]]と分類し、その下[[アユ亜科]]を置く。}}
****[[アユ]]{{efn2|name=琵琶湖八珍}}
***コイ目コイ科
****[[ハス (魚)|ハス]]{{#tag:sup|*|title="希少種"}}{{sfn|細谷|川瀬|2020}}{{efn2|name=琵琶湖八珍}}
**[[外来種]]
***[[スズキ目]][[サンフィッシュ科]]{{hlist-comma|list_style=display: list-item; margin-left: 1.6em; list-style: disc;
|[[オオクチバス]]{{sfn|細谷|川瀬|2020}}{{efn2|特定指定外来生物{{sfn|自然環境局|2020}}。『滋賀県琵琶湖のレジャー利用の適正化に関する条例』において[[キャッチ・アンド・リリース]]が禁止されている種{{sfn|滋賀県|2019b|loc=第8条}}。|name=キャッチアンドリリース禁止}}
|[[コクチバス]]{{sfn|国立環境研究所|n.d.}}{{efn2|name=キャッチアンドリリース禁止}}
|[[ブルーギル]]{{sfn|細谷|川瀬|2020}}{{efn2|name=キャッチアンドリリース禁止}}
}}
*'''[[貝類]]{{sfn|琵琶湖環境科学研究センター|n.d.}}'''
**固有(亜)種
***[[二枚貝綱]][[イシガイ目]]{{仮リンク|イシガイ科|en|Unionidae}}{{hlist-comma|list_style=display: list-item; margin-left: 1.6em; list-style: disc;
|[[イケチョウガイ]]{{#tag:sup|***|title="絶滅危惧種"}}{{#tag:sup|⁂|title="絶滅危惧IA類"}}
|[[オグラヌマガイ]]{{#tag:sup|***|title="絶滅危惧種"}}{{#tag:sup|⁑|title="絶滅危惧IB類"}}{{small|([[オグラヌマガイ属]]{{efn2|固有属{{sfn|西野|2018b|p=152}}。|name=固有属}})}}
|[[オトコタテボシガイ]]{{#tag:sup|**|title="絶滅危機増大種"}}{{small|([[オトコタテボシガイ属]])}}
|[[ササノハガイ]]{{efn2|name=独立種?}}
|[[タテボシガイ]]{{small|({{仮リンク|イシガイ族|en|Unio (bivalve)}})}}{{efn2|name=亜種}}
|[[マルドブガイ]]{{#tag:sup|*|title="希少種"}}{{small|([[ドブガイ属]])}}
|[[メンカラスガイ]]{{#tag:sup|*|title="希少種"}}{{small|({{仮リンク|カラスガイ属|en|Cristaria (bivalve)}})}}
}}
***二枚貝綱{{仮リンク|ハマグリ目|en|Venerida}}[[シジミ科]]
****[[セタシジミ]]{{#tag:sup|**|title="絶滅危機増大種"}}{{small|({{仮リンク|シジミ属|en|Corbicula}})}}
***二枚貝綱ハマグリ目[[ドブシジミ科]]
****[[カワムラマメシジミ]]{{small|({{仮リンク|マメシジミ属|en|Pisidium}})}}
***[[腹足綱]]{{仮リンク|吸腔目|en|Sorbeoconcha}}{{仮リンク|カワニナ科|en|Pleuroceridae}}{{hlist-comma|list_style=display: list-item; margin-left: 1.6em; list-style: disc;
|[[イボカワニナ]]{{#tag:sup|*|title="希少種"}}
|[[オオウラカワニナ]]{{#tag:sup|***|title="絶滅危惧種"}}
|[[カゴメカワニナ]]
|[[クロカワニナ]]{{#tag:sup|**|title="絶滅危機増大種"}}
|[[シライシカワニナ]]{{#tag:sup|*|title="希少種"}}
|[[タケシマカワニナ]]{{#tag:sup|*|title="希少種"}}
|[[タテジワカワニナ]]{{#tag:sup|***|title="絶滅危惧種"}}
|[[タテヒダカワニナ]]
|[[ナカセコカワニナ]]{{#tag:sup|**|title="絶滅危機増大種"}}{{#tag:sup|⁑|title="絶滅危惧I類"}}
|[[ナンゴウカワニナ]]{{#tag:sup|**|title="絶滅危機増大種"}}
|[[ハベカワニナ]]
|[[フトマキカワニナ]]{{#tag:sup|***|title="絶滅危惧種"}}
|[[ホソマキカワニナ]]{{#tag:sup|*|title="希少種"}}
|[[モリカワニナ]]{{#tag:sup|*|title="希少種"}}
|[[ヤマトカワニナ]]{{small|(以上{{仮リンク|カワニナ属|en|Semisulcospira}})}}
}}
***腹足綱吸腔目[[タニシ科]]
****{{仮リンク|ナガタニシ|en|ナガタニシ}}{{#tag:sup|*|title="希少種"}}{{small|([[ナガタニシ属]]{{efn2|name=固有属}})}}
***腹足綱吸腔目{{仮リンク|ミズシタダミ科|en|Valvatidae}}
****[[ビワコミズシタダミ]]{{small|({{仮リンク|ミズシタダミ属|en|Valvata}})}}
***腹足綱[[有肺目]][[ヒラマキガイ科]]{{hlist-comma|list_style=display: list-item; margin-left: 1.6em; list-style: disc;
|[[カドヒラマキガイ]]
|[[ヒロクチヒラマキガイ]]{{small|(以上{{仮リンク|ヒラマキガイ属|en|Gyraulus}})}}
}}
***腹足綱有肺目{{仮リンク|モノアラガイ科|en|Lymnaeidae}}
****[[オウミガイ]]{{small|({{仮リンク|モノアラガイ属|en|Radix (gastropod)}})}}
*'''[[節足動物]]'''
**固有種{{sfn|琵琶湖環境科学研究センター|n.d.}}
***[[外顎綱]][[カゲロウ目]]{{仮リンク|シロイロカゲロウ科|en|Polymitarcyidae}}{{sfn|石綿|2020}}
****[[ビワコシロカゲロウ]]{{small|({{仮リンク|シロイロカゲロウ属|en|Ephoron}})}}
***外顎綱[[トビケラ目]]{{仮リンク|コエグリトビケラ科|en|Apataniidae}}{{sfn|上西|2020}}
****[[ビワコエグリトビケラ]]{{small|({{仮リンク|コエグリトビケラ属|en|Apatania}})}}
***[[鰓脚綱]]{{仮リンク|双殻目 (節足動物)|en|Diplostraca|label=双殻目}}[[ミジンコ科]]
****[[ビワミジンコ]]{{#tag:sup|***|title="絶滅危惧種"}}{{small|({{仮リンク|ミジンコ属|en|Daphnia}})}}
***[[軟甲綱]][[端脚目]]{{仮リンク|キタヨコエビ科|en|Anisogammaridae}}{{hlist-comma|list_style=display: list-item; margin-left: 1.6em; list-style: disc;
|[[アナンデールヨコエビ]]{{#tag:sup|**|title="絶滅危機増大種"}}
|[[ナリタヨコエビ]]{{#tag:sup|**|title="絶滅危機増大種"}}{{small|(以上[[オオエゾヨコエビ属]])}}
}}
***軟甲綱端脚目{{仮リンク|コロフィウム科|en|Corophiidae}}
****[[ビワカマカ]]{{#tag:sup|**|title="絶滅危機増大種"}}{{small|([[カマカ属]])}}
**その他在来種
***外顎綱[[ハエ目]][[ユスリカ科]]{{sfn|井上|2020}}
****[[オオユスリカ]]{{efn2|通称「ビワコムシ」{{sfn|産経新聞|2017b|p=2}}。}}
***鰓脚綱双殻目ミジンコ科{{sfn|琵琶湖環境科学研究センター|n.d.}}
****{{仮リンク|カブトミジンコ|en|Daphnia galeata}}{{small|(ミジンコ属)}}{{sfn|伴|2015|p=40}}
***鰓脚綱双殻目ノロミジンコ科{{sfn|琵琶湖環境科学研究センター|n.d.}}
****[[ノロ (ミジンコ)|ノロ]]{{sfn|伴|2015|p=40}}
***軟甲綱[[十脚目]][[テナガエビ科]]
****[[スジエビ]]{{sfn|琵琶湖環境科学研究センター|n.d.}}{{efn2|name=琵琶湖八珍}}
***[[六幼生綱]][[カラヌス目]]{{仮リンク|ディアプトムス科|en|Diaptomidae}}
****{{仮リンク|ヤマトヒゲナガケンミジンコ|nl|Eodiaptomus japonicus}}{{small|({{ill|エオヒゲナガケンミジンコ属|en|Eodiaptomus}})}}{{sfn|永田|2018|p=158}}{{sfn|GBIF|n.d.|loc={{snamei|Eodiaptomus japonicus}}}}
**外来種{{sfn|琵琶湖環境科学研究センター|n.d.}}
***鰓脚綱双殻目ミジンコ科
****{{仮リンク|プリカリアミジンコ|en|Daphnia pulicaria}}{{small|(ミジンコ属)}}{{sfn|伴|2015|p=41}}
*'''[[鳥類]]{{sfn|水鳥・湿地センター|2020}}'''
**[[カイツブリ科|カイツブリ目カイツブリ科]]{{hlist-comma|list_style=display: list-item; margin-left: 1.6em; list-style: disc;|[[カンムリカイツブリ]]{{efn2|name=ラムサール}}|[[ハジロカイツブリ]]{{efn2|name=ラムサール}}}}
**[[カツオドリ目]][[ウ科]]
***[[カワウ]]{{efn2|name=ラムサール}}
**[[カモ目]][[カモ科]]{{hlist-comma|list_style=display: list-item; margin-left: 1.6em; list-style: disc;
|[[オオヒシクイ]]{{efn2|name=亜種}}{{efn2|2015 - 2017年のいずれかの年に[[ラムサール条約]]の1パーセント基準を超えた種{{sfn|須川|橋本|2018|p=181}}。|name=ラムサール}}
|[[オカヨシガモ]]{{efn2|name=ラムサール}}
|[[キンクロハジロ]]{{efn2|name=ラムサール}}
|[[ヒドリガモ]]{{efn2|name=ラムサール}}
|[[ホシハジロ]]{{efn2|name=ラムサール}}
|[[ミコアイサ]]{{efn2|name=ラムサール}}
|[[ヨシガモ]]{{efn2|name=ラムサール}}
}}
**[[ツル目]][[クイナ科]]
***[[オオバン]]{{efn2|name=ラムサール}}
*'''その他動物'''
**固有種{{sfn|琵琶湖環境科学研究センター|n.d.}}
***[[扁形動物門]][[三岐腸目]]{{仮リンク|オオウズムシ科|en|Dendrocoelidae}}
****[[ビワオオウズムシ]]{{#tag:sup|**|title="絶滅危機増大種"}}{{#tag:sup|⁑|title="絶滅危惧I類"}}
***扁形動物門{{仮リンク|多食目|en|Macrostomida}}{{仮リンク|フトクチヒメウズムシ科|en|Macrostomidae}}
****[[カワムラヒメウズムシ]]{{small|({{ill|マクロストマム属|en|Macrostomum}})}}
***[[海綿動物門]][[普通海綿綱]]{{仮リンク|タンスイカイメン科|en|Spongillidae}}
****[[オオツカイメン]]{{small|({{仮リンク|ヌマカイメン属|en|Spongilla}})}}
***[[環形動物門]][[ヒル綱]]{{仮リンク|吻蛭目|en|Rhynchobdellida}}{{仮リンク|グロシフォニ科|en|Glossiphoniidae}}
****[[イカリビル]]{{#tag:sup|***|title="絶滅危惧種"}}{{small|([[イカリビル属]])}}
**在来種
***[[輪形動物門]]{{仮リンク|単生殖巣綱|en|Monogononta}}{{仮リンク|プロイマ目|fr|Ploima}}[[ネズミワムシ科]]
****[[ネズミワムシ]]{{small|({{仮リンク|ネズワムシ属|en|Trichocerca}})}}{{sfn|永田|2018|p=158}}{{sfn|永田|2020}}
***輪形動物門単生殖巣綱プロイマ目{{仮リンク|ヒゲワムシ科|fr|Synchaetidae}}
****[[ハネウデワムシ]]{{small|({{仮リンク|ハネウデワムシ属|en|Polyarthra}})}}{{sfn|永田|2018|p=158}}{{sfn|永田|2020}}
<!--
*'''[[魚類]]'''
**[[外来種]]
***[[カムルチー]]([[ライギョ]])、[[レンギョ]]
*'''[[節足動物]]'''
:[[カワムラナベブタムシ]]
-->
==== 植物 ====
*'''[[被子植物]]'''
**固有種{{sfn|角野|2020}}
***([[単子葉類]])[[オモダカ目]][[トチカガミ科]]
****[[ネジレモ]]
***(単子葉類)オモダカ目[[ヒルムシロ科]]
****[[サンネンモ]]{{small|([[ヒルムシロ属]])}}{{#tag:sup|**|title="絶滅危機増大種"}}
**在来種
***(単子葉類)[[イネ目]][[イネ科]]{{sfn|琵琶湖環境科学研究センター|n.d.}}
****[[セイタカヨシ]]{{small|([[ヨシ属]])}}{{sfn|金子|2018|p=164}}
****[[ツルヨシ]]{{sfn|長谷川|2015|p=59}}
****[[ヨシ]]{{sfn|長谷川|2015|p=59}}
***(単子葉類)オモダカ目[[トチカガミ科]]{{sfn|角野|2020}}
****[[クロモ (水草)|クロモ]]{{sfn|浜端|2015|p=49}}{{sfn|芳賀|2018|p=162}}
***(単子葉類)オモダカ目ヒルムシロ科{{hlist-comma|list_style=display: list-item; margin-left: 1.6em; list-style: disc;
|[[オオササエビモ]]{{sfn|角野|2018|p=162}}{{sfn|角野|2020}}
|[[ササバモ]]{{sfn|芳賀|2018|p=162}}{{sfn|角野|2020}}
|{{仮リンク|センニンモ|en|Potamogeton maackianus}}{{sfn|芳賀|2018|p=162}}{{sfn|角野|2020}}
|[[ヒロハノエビモ]]{{sfn|角野|2018|p=162}}{{sfn|角野|2020}}
|[[ガシャモク]]{{#tag:sup|†|title="琵琶湖においては絶滅した種"}}{{sfn|浜端|2015|p=48}}{{sfn|角野|2020}}
|[[リュウノヒゲモ]]{{#tag:sup|†|title="琵琶湖においては絶滅した種"}}{{small|(以上[[ヒルムシロ属]])}}{{sfn|浜端|2015|p=48}}{{sfn|GBIF|n.d.|loc={{snamei|Potamogeton pectinatus}} {{lang|la|L.}}}}
}}
***([[真正双子葉類]])[[キク目]][[ミツガシワ科]]{{sfn|角野|2020}}
****[[アサザ]]{{sfn|浜端|2015|p=50}}
***(真正双子葉類)[[ユキノシタ目]][[アリノトウグサ科]]{{sfn|角野|2020}}
****{{仮リンク|ホザキノフサモ|en|Myriophyllum spicatum}}{{small|([[フサモ属]])}}{{sfn|芳賀|2018|p=162}}
**外来種
***(単子葉類)オモダカ目[[トチカガミ科]]{{sfn|浜端|2015|p=52}}{{sfn|角野|2020}}{{hlist-comma|list_style=display: list-item; margin-left: 1.6em; list-style: disc;|[[オオカナダモ]]{{sfn|浜端|2015|p=52}}|[[コカナダモ]]{{sfn|浜端|2015|p=52}}}}
***[[スイレン目]][[ハゴロモモ科]]{{sfn|GBIF|n.d.|loc={{snamei|Strobilidium}} {{lang|la|Schewiakoff}}}}
****[[ハゴロモモ]]{{sfn|浜端|2015|p=52}}
*'''[[接合藻]]'''
**{{仮リンク|チリモ目|en|Desmidiales|redirect=1}}{{仮リンク|ミカヅキモ科|en|Closteriaceae}}
***[[ミカヅキモ属]]{{sfn|坂本|2015|p=37}}
*'''[[緑藻植物門|緑藻植物]]'''
**[[車軸藻綱]][[シャジクモ目]][[シャジクモ科]]{{sfn|野生生物調査協会|Envision環境保全事務所|n.d.}}
***[[ホシツリモ]]{{sfn|角野|2018|p=161}}
**[[緑藻綱]][[ヨコワミドロ目]]{{仮リンク|アミミドロ科|en|Hydrodictyaceae|redirect=1}}
***[[ビワクンショウモ]]{{small|([[クンショウモ属]])}}{{sfn|坂本|2015|p=37}}{{sfn|琵琶湖環境科学研究センター|n.d.}}
==== その他 ====
*'''[[アメーボゾア]]'''
**[[ツブリネア綱]][[ナベカムリ目]]ナガツボカムリ科
***[[ビワツボカムリ|ビワコツボカムリ]]{{#tag:sup|†|title="琵琶湖においては絶滅した種"}}{{sfn|Ichise|Sakamaki|Shimano|2021|loc=p. 173 & passim}}
*'''[[珪藻]]{{efn2|珪藻植物門の分類は{{harvtxt|鈴木|南雲|2013}} に基づく。}}'''
**固有種
***[[チュウカンケイソウ綱]]{{仮リンク|ニセコアミケイソウ目|en|Thalassiosirales}}{{仮リンク|ニセコアミケイソウ科|en|Thalassiosiraceae}}
****[[スズキケイソウ]]{{small|([[プラエステファノス属]])}}{{sfn|辻|大塚|2018|p=3}}{{efn2|以前別種とされていたスズキケイソウモドキは、2018年現在同一種とされている{{sfn|辻|大塚|2018|p=2}}。}}
**その他
***[[クサリケイソウ綱]]{{仮リンク|オビケイソウ目|en|Fragilariophyceae}}[[オビケイソウ科]]
****{{仮リンク|ホシガタケイソウ属|en|Asterionella}}{{sfn|坂本|2015|p=37}}
****[[シネドラ属]]{{sfn|坂本|2015|p=37}}
***{{仮リンク|コアミケイソウ綱|en|Coscinodiscophyceae}}[[タルケイソウ目]][[タルケイソウ科]]
****[[メロシラ属]]{{sfn|坂本|2015|p=37}}
=== 主な港 ===
[[ファイル:Ogoto port Shiga,JAPAN.jpg|thumb|おごと温泉港]]
{{after float|20em}}
{{ul
|'''古代'''{{efn2|2001年以降に合併した市町は、{{harvtxt|滋賀県|2018a}}に基づいて2018年現在の市に分類した。|name=平成の大合併}}
*[[長浜市]]{{hlist-comma|list_style=margin: 0.3em 0 0 1.6em; display: list-item;
|[[塩津村 (滋賀県)|塩津]]([[西浅井町]]){{efn2|{{harvtxt|木村|2001|p=54}} において<q>歌集に詠みこまれた湊・浦</q>として挙げられているもの。|name=木村古代}}{{sfn|太田|2012|pp=10f<!--10頁の地図は滋賀県文化財保護協会編『琵琶湖をめぐる交通と経済力』よりの転載-->}}
|[[菅浦の湖岸集落|菅浦]](西浅井町){{efn2|name=木村古代}}
|津乎{{small|(つお)}}の崎([[湖北町]]尾上){{efn2|name=木村古代}}
}}
*[[米原市]]{{hlist-comma|list_style=margin: 0.3em 0 0 1.6em; display: list-item;
|磯{{efn2|name=木村古代}}
|朝妻{{efn2|name=木村古代}}{{sfn|太田|2012|pp=10f}}
}}
*[[大津市]]{{hlist-comma|list_style=margin: 0.3em 0 0 1.6em; display: list-item;
|[[唐崎 (大津市)|唐崎]]{{efn2|name=木村古代}}
|大津{{sfn|太田|2012|pp=10f}}
|志賀浦{{efn2|name=木村古代}}
|三津浜{{efn2|name=木村古代}}
|[[真野 (大津市)|真野浦]]{{efn2|name=木村古代}}
|比良湊([[志賀町 (滋賀県)|志賀町]]){{efn2|name=木村古代}}
}}
*[[高島市]]{{hlist-comma|list_style=margin: 0.3em 0 0 1.6em; display: list-item;
|勝野([[高島町 (滋賀県)|高島町]]){{efn2|name=木村古代}}{{sfn|太田|2012|pp=10f}}
|香取浦(高島町){{efn2|name=木村古代}}
|真長の浦(高島町){{efn2|name=木村古代}}
|安曇([[安曇川町]]){{efn2|name=木村古代}}
}}
*その他{{hlist-comma|list_style=margin: 0.3em 0 0 1.6em; display: list-item;
|水茎の岡([[近江八幡市]]){{efn2|name=木村古代}}
|[[矢橋]]([[草津市]]){{efn2|name=木村古代}}
}}
|'''中世'''{{sfn|太田|2012|p=12f}}
*米原市{{hlist-comma|list_style=margin: 0.3em 0 0 1.6em; display: list-item;
|朝妻
|[[筑摩御厨|筑摩]]
}}
*草津市{{hlist-comma|list_style=margin: 0.3em 0 0 1.6em; display: list-item;
|[[矢橋]]
|[[山田村 (滋賀県)|山田]]
|[[常盤村 (滋賀県)|志那]]
}}
*大津市{{hlist-comma|list_style=margin: 0.3em 0 0 1.6em; display: list-item;
|大津
|[[坂本 (大津市)|坂本]]
|[[堅田 (大津市)|堅田]]
}}
*高島市{{hlist-comma|list_style=margin: 0.3em 0 0 1.6em; display: list-item;
|[[今津町 (滋賀県)|今津]]
|[[海津村|海津]]
}}
*その他{{hlist-comma|list_style=margin: 0.3em 0 0 1.6em; display: list-item;
|塩津
|島(近江八幡市)
|[[八坂町 (彦根市)|八坂]]
}}
|'''近世'''{{efn2|name=平成の大合併}}
{{OSM Location map
|coord={{coord|35.2871|136.0780}}|zoom=9|width=213|height=260|nolabels=1|auto-caption=1
|caption=近世の主な港。[[File:Red pog.svg|10px]]は九ヵ浦、[[File:Dark Green 004040 pog.svg|10px]]は彦根三湊。
|mark-size1=10
|label1=大津|label-color1=hard grey|label-pos1=right|mark-coord1={{coord|35.01310|135.86621}}|mark-title1=大津
|label2=堅田|label-color2=hard grey|label-pos2=top|mark-coord2={{coord|35.10989|135.92137}}|mark-title2=堅田
|label3=大溝|label-color3=hard grey|label-pos3=right|mark-coord3={{coord|35.29273|136.01540}}|mark-title3=大溝
|label4=今津|label-color4=hard grey|label-pos4=left|mark-coord4={{coord|35.39721|136.03524}}|mark-title4=今津
|label5=海津|label-pos5=bottom|label-color5=hard grey|mark-coord5={{coord|35.4623|136.0715}}|mark-title5=海津
|label6=大浦|label-color6=hard grey|label-pos6=right|mark-coord6={{coord|35.48703|136.12211}}|mark-title6=大浦
|label7=塩津|mark-coord7={{coord|35.5135|136.16266}}|label-color7=hard grey|label-pos7=top|mark-title7=塩津
|label8=長浜|shape8=image|mark8=Dark Green 004040 pog.svg|label-color8=hard grey|label-pos8=left|mark-coord8={{coord|35.372694|136.264722}}|mark-title8=長浜
|label9=米原|shape9=image|mark9=Dark Green 004040 pog.svg|label-color9=hard grey|label-pos9=left|mark-coord9={{coord|35.31377|136.2901820}}|mark-title9=米原
|label10=松原|shape10=image|mark10=Dark Green 004040 pog.svg|label-color10=hard grey|label-pos10=bottom|mark-coord10={{coord|35.28802|136.24926}}|mark-title10=松原
|label11=八幡・舟木|label-color11=hard grey|label-pos11=top|mark-coord11={{coord|35.1562|136.0641}}|mark-title11=八幡・舟木
}}
{{+float|15em}}
*長浜市{{hlist-comma|list_style=margin: 0.3em 0 0 1.6em; display: list-item;
|塩津{{efn2|name=九ヵ浦|九ヵ浦{{sfn|杉江|2011|p=162}}。}}
|尾上({{small|おのうえ}}、湖北町){{efn2|name=木村近世}}
|長浜{{efn2|name=木村近世|{{harvtxt|木村|2001|p=67}} において<q>前述の古代の港以外のおもな港</q>として挙げられているもの。}}{{efn2|name=彦根三湊|彦根三湊{{sfn|杉江|2011|p=174}}。}}
|早崎([[びわ町]]){{efn2|name=木村近世|}}
|大浦(西浅井町){{efn2|name=九ヵ浦}}
}}
*米原市
**米原{{efn2|name=木村近世}}{{efn2|name=彦根三湊}}
*彦根市{{hlist-comma|list_style=margin: 0.3em 0 0 1.6em; display: list-item;
|八坂{{efn2|name=木村近世}}
|薩摩{{efn2|name=木村近世}}
|柳川{{efn2|name=木村近世}}
|[[松原町 (彦根市)|松原]]{{efn2|name=木村近世}}{{efn2|name=彦根三湊}}
}}
*近江八幡市{{hlist-comma|list_style=margin: 0.3em 0 0 1.6em; display: list-item;
|八幡{{efn2|name=九ヵ浦}}
|舟木{{efn2|name=木村近世}}{{efn2|name=九ヵ浦}}
|江頭{{efn2|name=木村近世}}
|[[常楽寺村|常楽寺]]([[安土町]]){{efn2|name=木村近世}}
}}
*大津市{{hlist-comma|list_style=margin: 0.3em 0 0 1.6em; display: list-item;
|大津{{efn2|name=九ヵ浦}}
|[[松本 (大津市)|松本]]{{efn2|name=木村近世}}
|坂本{{efn2|name=木村近世}}
|堅田{{efn2|name=木村近世}}{{efn2|name=九ヵ浦}}
|北小松(志賀町){{efn2|name=木村近世}}
|北比良(志賀町){{efn2|name=木村近世}}
}}
*高島市{{hlist-comma|list_style=margin: 0.3em 0 0 1.6em; display: list-item;
|[[大溝町|大溝]]([[高島町 (滋賀県)|高島町]]){{efn2|name=木村近世}}{{efn2|name=九ヵ浦}}
|木津({{small|こづ}}、[[新旭町]]){{efn2|name=木村近世}}
|今津{{efn2|name=木村近世}}{{efn2|name=九ヵ浦}}
|海津([[マキノ町]]){{efn2|name=木村近世}}{{efn2|name=九ヵ浦}}
}}
|'''近代'''{{sfn|大沼|2012b|pp=102f}}
* 長浜市{{hlist-comma|list_style=margin: 0.3em 0 0 1.6em; display: list-item;
|塩津|片山|南浜|長浜|竹生島
}}
*彦根市{{hlist-comma|list_style=margin: 0.3em 0 0 1.6em; display: list-item;
|松原|柳川
}}
*近江八幡市{{hlist-comma|list_style=margin: 0.3em 0 0 1.6em; display: list-item;
|常楽寺|長命寺|八幡|[[沖島 (琵琶湖)|沖ノ島]]
}}
* 草津市{{hlist-comma|list_style=margin: 0.3em 0 0 1.6em; display: list-item;
|志那|穴村|山田|矢橋
}}
* 大津市{{hlist-comma|list_style=margin: 0.3em 0 0 1.6em; display: list-item;
|大津|坂本|堅田|[[和邇村|和邇]]|[[小松村 (滋賀県)|小松]]
}}
*高島市{{hlist-comma|list_style=margin: 0.3em 0 0 1.6em; display: list-item;
|大溝|船木|深溝|今津|海津
}}
*その他{{hlist-comma|list_style=margin: 0.3em 0 0 1.6em; display: list-item;
| 米原
| [[能登川町|能登川]]([[東近江市]])
| 赤野井([[守山市]])
}}
|'''現代'''
{{OSM Location map
|coord={{coord|35.2498|136.0689}}|zoom=9|width=213|height=260|nolabels=1|auto-caption=1
|caption=現代の主な港。[[File:Red pog.svg|10px]]は地方港湾、[[File:Dark Green 004040 pog.svg|10px]]は第一種漁港。
|label1=長浜|mark-title1=長浜港|mark-coord1={{coord|35.37334|136.26423}}|label-pos1=bottom|label-color1=hard grey
|label2=竹生島|mark-title2=竹生島港|mark-coord2={{coord|35.42007|136.14343}}|label-pos2=right|label-color2=hard grey
|label3=彦根|mark-title3=彦根港|mark-coord3={{coord|35.28556|136.24733}}|label-pos3=left|label-color3=hard grey
|label4=大津|mark-title4=大津港|mark-coord4={{coord|35.01310|135.86621}}|label-pos4=bottom|label-color4=hard grey
|label5=大浦|mark-title5=大浦漁港|mark-coord5={{coord|35.4853|136.1231}}|label-pos5=right|label-color5=hard grey|mark5=Dark Green 004040 pog.svg
|label6=尾上|mark-title6=尾上漁港|mark-coord6={{coord|35.45|136.1885}}|label-pos6=right|label-color6=hard grey|mark6=Dark Green 004040 pog.svg
|label7=南浜|mark-title7=南浜漁港|mark-coord7={{coord|35.389|136.225}}|label-pos7=left|label-color7=hard grey|mark7=Dark Green 004040 pog.svg
|label8=磯|mark-title8=磯漁港|mark-coord8={{coord|35.308|136.26}}|label-pos8=right|label-color8=hard grey|mark8=Dark Green 004040 pog.svg
|label9=宇曽川|mark-title9=宇曽川漁港|mark-coord9={{coord|35.250|136.195}}|label-pos9=right|label-color9=hard grey|mark9=Dark Green 004040 pog.svg
|label10=柳川|mark-title10=柳川漁港|mark-coord10={{coord|35.229|136.154}}|label-pos10=left|label-color10=hard grey|mark10=Dark Green 004040 pog.svg
|label11=沖之島|mark-title11=沖之島漁港|mark-coord11={{coord|35.2|136.057}}|label-pos11=|label-color11=hard grey|mark11=Dark Green 004040 pog.svg
|label12=菖蒲|mark-title12=菖蒲漁港|mark-coord12={{coord|35.1375|136.001}}|label-pos12=right|label-color12=hard grey|mark12=Dark Green 004040 pog.svg
|label13=木浜|mark-title13=木浜漁港|mark-coord13={{coord|35.107|135.940}}|label-pos13=right|label-color13=hard grey|mark13=Dark Green 004040 pog.svg
|label14=志那|mark-title14=志那漁港|mark-coord14={{coord|35.054|135.924}}|label-pos14=left|label-color14=hard grey|mark14=Dark Green 004040 pog.svg
|label15=北山田|mark-title15=北山田漁港|mark-coord15={{coord|35.03|135.9145}}|label-pos15=right|label-color15=hard grey|mark15=Dark Green 004040 pog.svg
|label16=堅田|mark-title16=堅田漁港|mark-coord16={{coord|35.115|135.9245}}|label-pos16=left|label-color16=hard grey|mark16=Dark Green 004040 pog.svg
|label17=和邇|mark-title17=和邇漁港|mark-coord17={{coord|35.166|135.924}}|label-pos17=left|label-color17=hard grey|mark17=Dark Green 004040 pog.svg
|label18=北小松|mark-title18=北小松漁港|mark-coord18={{coord|35.256|135.976}}|label-pos18=bottom|label-color18=hard grey|mark18=Dark Green 004040 pog.svg
|label19=大溝|mark-title19=大溝漁港|mark-coord19={{coord|35.2936|136.0135}}|label-pos19=right|label-color19=hard grey|mark19=Dark Green 004040 pog.svg
|label20=北船木|mark-title20=北船木漁港|mark-coord20={{coord|35.3335|136.072}}|label-pos20=right|label-color20=hard grey|mark20=Dark Green 004040 pog.svg
|label21=今津|mark-title21=今津漁港|mark-coord21={{coord|35.3985|136.036}}|label-pos21=left|label-color21=hard grey|mark21=Dark Green 004040 pog.svg
|label22=浜分|mark-title22=浜分漁港|mark-coord22={{coord|35.4085|136.046}}|label-pos22=right|label-color22=hard grey|mark22=Dark Green 004040 pog.svg
|label23=知内|mark-title23=知内漁港|mark-coord23={{coord|35.449|136.057}}|label-pos23=left|label-color23=hard grey|mark23=Dark Green 004040 pog.svg
|label24=海津|mark-title24=海津漁港|mark-coord24={{coord|35.462|136.071}}|label-pos24=right|label-color24=hard grey|mark24=Dark Green 004040 pog.svg
}}
{{+float|15em}}
*長浜市{{hlist-comma|list_style=margin: 0.3em 0 0 1.6em; display: list-item;
|大浦漁港{{efn2|name=第一種漁港|第一種漁港{{sfn|滋賀県|2021b|p=96}}}}
|尾上漁港{{efn2|name=第一種漁港}}
|南浜漁港{{efn2|name=第一種漁港}}
|[[長浜港 (滋賀県)|長浜港]]{{efn2|[[地方港湾]]{{sfn|滋賀県|2020b}}。|name=地方港湾}}{{sfn|琵琶湖汽船|loc=各港へのアクセス}}
|[[竹生島]]港{{efn2|name=地方港湾}}{{sfn|滋賀県|2009}}}}
*彦根市{{hlist-comma|list_style=margin: 0.3em 0 0 1.6em; display: list-item;
|[[宇曽川]]漁港{{efn2|name=第一種漁港}}
|柳川漁港{{efn2|name=第一種漁港}}
|[[彦根港]]{{efn2|name=地方港湾}}
}}
*草津市{{hlist-comma|list_style=margin: 0.3em 0 0 1.6em; display: list-item;
|草津[[烏丸半島]]港{{sfn|琵琶湖汽船|loc=各港へのアクセス}}
|志那漁港{{efn2|name=第一種漁港}}
|北山田漁港{{efn2|name=第一種漁港}}
}}
*大津市{{hlist-comma|list_style=margin: 0.3em 0 0 1.6em; display: list-item;
|[[大津港 (滋賀県)|大津港]]{{efn2|name=地方港湾}}{{sfn|琵琶湖汽船|loc=各港へのアクセス}}
|[[びわ湖大津プリンスホテル|におの浜観光港]]{{sfn|琵琶湖汽船|loc=各港へのアクセス}}
|[[柳が崎湖畔公園]]港{{sfn|琵琶湖汽船|loc=各港へのアクセス}}
|[[雄琴温泉|おごと温泉]]港{{sfn|琵琶湖汽船|loc=各港へのアクセス}}
|堅田漁港{{efn2|name=第一種漁港}}
|[[琵琶湖大橋]]港{{sfn|琵琶湖汽船|loc=各港へのアクセス}}
|和邇漁港{{efn2|name=第一種漁港}}
|北小松漁港{{efn2|name=第一種漁港}}
}}
*高島市{{hlist-comma|list_style=margin: 0.3em 0 0 1.6em; display: list-item;
|大溝漁港{{efn2|name=第一種漁港}}
|北船木漁港{{efn2|name=第一種漁港}}
|今津港{{sfn|琵琶湖汽船|loc=各港へのアクセス}}
|今津漁港{{efn2|name=第一種漁港}}
|浜分漁港{{efn2|name=第一種漁港}}
|知内漁港{{efn2|name=第一種漁港}}
|海津漁港{{efn2|name=第一種漁港}}
}}
*その他{{hlist-comma|list_style=margin: 0.3em 0 0 1.6em; display: list-item;
|磯漁港(米原市){{efn2|name=第一種漁港}}
|沖之島漁港(近江八幡市){{efn2|name=第一種漁港}}
|菖蒲漁港([[野洲市]]){{efn2|name=第一種漁港}}
|木浜漁港(守山市){{efn2|name=第一種漁港}}
}}
<!--{{hlist-comma|[[長命寺]]港}}-->
}}
{{-}}
== 注釈 ==
{{Notelist2|30em}}
== 出典 ==
{{Reflist|17em|refs=
<ref name="コトバンク 吾君">「[https://kotobank.jp/word/%E5%90%BE%E5%90%9B-422974#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8 吾君]」『[[日本国語大辞典|精選版 日本国語大辞典]]』、[[小学館]](『[[コトバンク]]』、[[VOYAGE MARKETING]])。2021年12月15日閲覧。</ref>
<ref name="コトバンク 曲">「[https://kotobank.jp/word/%E6%9B%B2-53195#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8 曲]」『[[日本国語大辞典|精選版 日本国語大辞典]]』、[[小学館]](『[[コトバンク]]』、[[VOYAGE MARKETING]])。2021年12月15日閲覧。</ref>
<ref name="コトバンク しのに">「[https://kotobank.jp/word/%E3%81%97%E3%81%AE%E3%81%AB-522636#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8 しのに]」『[[日本国語大辞典|精選版 日本国語大辞典]]』、[[小学館]](『[[コトバンク]]』、[[VOYAGE MARKETING]])。2021年12月15日閲覧。</ref>
<ref name="コトバンク 小弁">「[https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E5%BC%81-1075759 小弁]」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』、[[講談社]](『[[コトバンク]]』、[[VOYAGE MARKETING]])。2021年12月13日閲覧。</ref>
<ref name="コトバンク 手間">「[https://kotobank.jp/word/%E6%89%8B%E9%96%93-576791#id=E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8 手間]」『[[日本国語大辞典|精選版 日本国語大辞典]]』、[[小学館]](『[[コトバンク]]』、[[VOYAGE MARKETING]])。2021年12月15日閲覧。</ref>
}}
== 参考文献 ==
{{ul
|'''書籍'''{{columns-list|colwidth=45em|
* {{cite book|和書|last=畑|first=裕子|authorlink=畑裕子|date=1994-07-20|title=近江百人一首を歩く|publisher=[[サンライズ出版]]|series=淡海文庫|isbn=4-88325-102-0|ref=harv}}
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* {{cite journal|和書|last=井村|first=博宣|title=滋賀県におけるアユの種苗全国供給と養殖業の地域的展開|journal=地域漁業研究|publisher=地域漁業学会|date=2013-08-01|ref=harv|doi=10.34510/jrfs.53.3_25|pages=25-45}}
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* {{cite journal|和書|last=濱|first=修|year=2014|month=03|title=『皇后宮』木簡と起請文祭祀|journal=紀要|publisher=滋賀県文化財保護協会|issue=27|url=http://shiga-bunkazai.jp/download/kiyou/27_hama.pdf|naid=40022111144|ref=harv}}
* {{cite journal|和書|last=大田|first=啓一|date=2014-09-05|title=大きな空間スケールの問題として 琵琶湖環境問題をみる|journal=水文・水資源学会誌|publisher=水文・水資源学会|pages=205-207|volume=27|issue=5|doi=10.3178/jjshwr.27.205|ref=harv}}
* {{cite journal|和書|date=2016-03|last1=金子|first1=有子|last2=佐々木|first2=寧|title=琵琶湖湖岸域における近年の植生変化について|journal=東洋大学紀要. 自然科学篇|publisher=東洋大学自然科学研究室|issue=60|pages=77-83|naid=120005820157|ref=harv}}
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* {{Cite web|和書|url=http://www.jsidre.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2019/04/suido_H30kikaku-2.pdf|title=琵琶湖疏水の開削と京都の近代化|accessdate=2021-01-17|last=小野|first=芳朗|website=[[農業農村工学会]]|year=2019|month=04|ref=harv}}
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・佐藤寛「涸沼のラムサール条約登録への道程」『中央学院大学社会システム研究所紀要』
2022年2月10日
|'''広報誌・パンフレットなど'''
* {{cite journal|和書|journal=[https://www.lberi.jp/read/publications/news センターニュース びわ湖みらい]|issue=8|publisher=[[滋賀県琵琶湖環境科学研究センター]]|year= 2007|month=10|title=研究最前線 暖冬がもたらしたびわ湖の異変|url=https://www.lberi.jp/app/webroot/files/03yomu/03-01kankoubutsu/03-01-02biwakomirai/files/biwakomirai8.pdf#page=2|pages=2-3|last=石川|first=俊之|last2=岡本|first2=高弘|ref=harv|id={{国立国会図書館書誌ID|000008037756}}}}
* {{cite book|和書|title=瀬田川洗堰|publisher=国土交通省[[近畿地方整備局]]琵琶湖河川事務所|date=2013-11|ref={{sfnref|琵琶湖河川事務所|2013}}|url=https://www.kkr.mlit.go.jp/biwako/info/officeinf/pdf/seta/A07128B00013.pdf}}
* {{cite book|和書|title=近江水の宝|date=2009年 - 2011年|publisher=[[滋賀県教育委員会]]・滋賀県埋蔵部文化センター|ref={{sfnref|近江水の宝}}|year=2009-2011|url=https://www.pref.shiga.lg.jp/ippan/bunakasports/bunkazaihogo/312322.html|id={{全国書誌番号|22287646}}}}
* {{cite journal|和書|date=2013-03|last=渡邉|first=潤子|title=匠の技!江戸の観光ガイドマップ|journal=びわ博だより|issue=12|publisher=[[滋賀県立琵琶湖博物館]]|page=4|url=https://www.biwahaku.jp/research/publication/uploads/012_biwahaku_dayori.pdf#page=4|ref=harv}}
* {{cite journal|和書|last=辻|first=彰洋|last2=大塚|first2=泰介|title=琵琶湖の固有種スズキケイソウの進化の謎に迫る|journal=びわはく|publisher=[[滋賀県立琵琶湖博物館]]|issue=2|date=2018-12-15|url=https://www.biwahaku.jp/uploads/20181219_biwahaku-2up.pdf#page=2|ref=harv|year=2018|id={{国立国会図書館書誌ID|028877088}}}}
* {{cite magazine|和書|year=2019|title=船でびわ湖を堪能!クルーズ特集|journal=びわ湖“周遊浪漫”紀行|publisher=琵琶湖環状線利用促進協議会|issue=28|pages=1-2|url=https://www.pref.shiga.lg.jp/kensei/koho/e-shinbun/oshirase/302647.html|ref={{sfnref|琵琶湖環状線利用促進協議会|2019}}}}
* {{Cite web|和書|title=淡水真珠パンフレット|website=[[草津市]]|work=[https://www.city.kusatsu.shiga.jp/kurashi/sangyobusiness/norinsuisan/tansuishinjyu.html 淡水真珠養殖のあゆみ]|publisher=草津市農林水産課|url=https://www.city.kusatsu.shiga.jp/kurashi/sangyobusiness/norinsuisan/tansuishinjyu.files/tannsuisinnjyuomote.pdf|accessdate=2021-04-08|ref={{sfnref|草津市農林水産課}}}}
|'''事典・辞典・データベース'''{{columns-list|colwidth=45em|
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** {{wikicite|ref={{sfnref|琵琶湖環境科学研究センター|n.d.}}|reference=「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/species/ryokushoku.html 緑色植物門]」「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/species/tanshiyou.html 単子葉植物]」「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/species/keisourui.html 珪藻綱]」「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/species/uzumusi.html ウズムシ類]」「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/species/kaimen.html 尋常カイメン綱]」「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/species/hiru.html ヒル綱]」「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/species/kokaku.html 甲殻亜門]」「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/species/ishigai.html イシガイ目]」「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/species/kyuko.html 吸腔目]」「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/species/yuhai.html ハマグリ目]」「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/species/hamaguri.html 有肺目]」2021年4月6日閲覧。}}
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** {{wikicite|ref={{sfnref|上西|2020}}|reference=上西, 実「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/data/apatania-biwaensis/ ビワコエグリトビケラ]」2020年3月、2021年3月20日閲覧。}}
** {{wikicite|ref={{sfnref|角野|2020}}|reference=角野, 康郎「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/data/nymphoides-peltata/ アサザ]」「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/data/potamogeton-anguillanus/ オオササエビモ]」「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/data/potamogeton-dentatus/ ガシャモク]」「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/data/hydrilla-verticillata/ クロモ]」「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/data/potamogeton-biwaensis/ サンネンモ]」「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/data/potamogeton-maackianus/ センニンモ]」「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/data/potamogeton-perfoliatus/ ヒロハノエビモ]」「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/data/myriophyllum-spicatum/ ホザキノフサモ]」2020年3月、2021年4月6日閲覧。}}
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** {{wikicite|ref={{sfnref|細谷|川瀬|2020}}|reference=細谷, 和海; 川瀬, 成吾「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/data/sarcocheilichthys-biwaensis/ アブラヒガイ]」「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/data/plecoglossus-altivelis-altivelis/ アユ]」「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/data/gymnogobius-isaza/ イサザ]」「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/data/cottus-reinii/ ウツセミカジカ]」「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/data/silurus-lithophilus/ イワトコナマズ]」「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/data/cobitis-magnostriata/ オオガタスジシマドジョウ]」「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/data/micropterus-salmoides/ オオクチバス]」「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/data/carassius-cuvieri/ ゲンゴロウブナ]」「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/data/squalidus-chankaensis-biwae/ スゴモロコ]」「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/data/carassius-buergeri-grandoculis/ ニゴロブナ]」「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/data/opsariichthys-uncirostris-uncirostris/ ハス]」「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/data/silurus-biwaensis/ ビワコオオナマズ]」「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/data/cobitis-minamorii-oumiensis/ ビワコガタスジシマドジョウ]」「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/data/sarcocheilichthys-variegatus-microoculus/ ビワヒガイ]」「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/data/oncorhynchus-sp/ ビワマス]」「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/data/rhinogobius-biwaensis/ ビワヨシノボリ]」「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/data/lepomis-macrochirus/ ブルーギル]」「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/data/gnathopogon-caerulescens/ ホンモロコ]」「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/data/biwia-yodoensis/ ヨドゼゼラ]」「[https://www.lberi.jp/iframe_dir/data/ischikauia-steenacheri/ ワタカ]」2020年3月、2021年3月20日閲覧。}}
* {{lang|en|''GBIF'', [[:en:Global Biodiversity Information Facility|Global Biodiversity Information Facility]] {{bracket|{{lang|ja|[[地球規模生物多様性情報機構]]}}}}.}}
** {{wikicite|ref={{sfnref|GBIF|n.d.}}|reference={{lang|en|“[https://www.gbif.org/species/2882443 {{lang|la|''Cabomba caroliniana'' A.Gray}}]”, “[https://www.gbif.org/species/4332547 {{lang|la|''Eodiaptomus japonicus'' (Burckhardt, 1913)}}]”, “[https://www.gbif.org/ja/species/8356154 {{lang|la|''Potamogeton pectinatus'' L.}}]”, “[https://www.gbif.org/ja/species/7868132 {{lang|la|''Strobilidium'' Schewiakoff, 1892}}]”}}. 2021年4月5日閲覧。}}
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* {{wikicite|reference=「[https://kotobank.jp/word/%E6%80%A5%E3%81%8C%E3%81%B0%E5%9B%9E%E3%82%8C-432744#E3.81.93.E3.81.A8.E3.82.8F.E3.81.96.E3.82.92.E7.9F.A5.E3.82.8B.E8.BE.9E.E5.85.B8 急がば回れ]」『ことわざを知る辞典』、[[小学館]](『[[コトバンク]]』、[[VOYAGE MARKETING]])。2021年12月15日閲覧。|ref={{sfnref|小学館|n.d.a}}}}
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* {{wikicite|reference=「[https://kotobank.jp/word/%E5%A5%A5%E5%B3%B6-822605#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 奥島]」『[[世界大百科事典]]』、第2版、[[平凡社]](『[[コトバンク]]』、[[VOYAGE MARKETING]])。2021年12月31日閲覧。|ref={{sfnref|平凡社|n.d.}}}}
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}}
|'''法令など'''
* {{wikicite|ref={{sfnref|滋賀県|2021a}}|reference=『[https://www.pref.shiga.lg.jp/site/jourei/reiki_int/reiki_honbun/k001RG00001105.html 滋賀県公害防止条例施行規則]』昭和48年3月24日 規則第10号(令和3年1月12日施行)。}}
* {{wikicite|ref={{sfnref|滋賀県|2012}}|reference=「[https://www.pref.shiga.lg.jp/site/jourei/reiki_int/reiki_honbun/k001RG00001109.html 滋賀県琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例]』昭和54年10月17日 条例第37号(平成24年6月1日施行)。}}
* {{wikicite|ref={{sfnref|滋賀県|2019b}}|reference=『[https://www.pref.shiga.lg.jp/site/jourei/reiki_int/reiki_honbun/k001RG00001113.html 滋賀県琵琶湖のレジャー利用の適正化に関する条例施行規則]』平成15年3月28日 規則第40号(令和元年7月1日施行)。}}
|'''行政資料など'''
* {{Cite book|和書|title=湖沼環境保全対策及び適正技術に関する調査研究|year=1990|date=1990年3月|publisher=国際協力事業団国際協力総合研修所|ref=harv|editor=国際協力総合研究所|chapter=第2章 滋賀県の自然環境と社会・経済環境|chapterurl=https://openjicareport.jica.go.jp/pdf/10842979_02.pdf|accessdate=2021-02-09}}
* {{Cite book|和書|title=水環境保全技術研修マニュアル: 総論|date=1998年3月|year=1998|publisher=海外環境協力センター|chapter=第18章 琵琶湖|chapterurl=https://www.env.go.jp/earth/coop/coop/document/04-wpctmj1/04-wpctmj1-18.pdf|last=大久保|first=卓也|pages=245-270|url=https://www.env.go.jp/earth/coop/coop/document/04-wpctmj1/contents.html|ref=harv|id={{全国書誌番号|99039505}}}}
* {{cite book|和書|title=湖沼における水理・水質管理の技術|year=2007|month=3|publisher=湖沼技術研究会|ref={{sfnref|湖沼技術研究会|2007}}|chapter=琵琶湖の水理・水質特性|url=https://www.mlit.go.jp/river/shishin_guideline/kankyo/kankyou/kosyo/tec/index.html|chapterurl=https://www.mlit.go.jp/river/shishin_guideline/kankyo/kankyou/kosyo/tec/pdf/6.5.pdf}}
* {{Cite web|和書|url=https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/1033278.pdf|title=琵琶湖における市町境界の確定について|website=滋賀県|author=総務部自治振興課|date=2007-05-15|ref={{sfnref|自治振興課|2007}}|accessdate=2021-02-19}}
* {{Cite web|和書|archiveurl=https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3192936/www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/2007/pdf/070928_3.pdf|archivedate=2011|deadlink=2021-02-10|title=報道資料 琵琶湖における市町の境界確定|website=[[総務省]]|date=2007-09-28|ref={{sfnref|総務省|2007}}|url=https://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/2007/pdf/070928_3.pdf}}
* {{Cite web|和書|work=[https://www.env.go.jp/council/09water/y0910-14b.html 中央環境審議会水環境部会 水生生物保全環境基準類型指定専門委員会(第14回) 議事次第・資料]|title=資料3-5 琵琶湖の水理現象について|website=[[環境省]]|url=https://www.env.go.jp/council/09water/y0910-14/mat03-6.pdf|accessdate=2021-02-10|ref={{sfnref|水環境部会|2008}}|date=2008-11-26}}
* {{cite book|publisher=近畿地方整備局河川部|url=https://www.kkr.mlit.go.jp/river/iinkaikatsudou/yodo_sui/index091113.html|chapterurl=https://www.kkr.mlit.go.jp/river/iinkaikatsudou/yodo_sui/qgl8vl0000007l7e-att/091113sono6.pdf|title=琵琶湖・淀川水系の洪水における水理特性及び流出現象の検証にかかる報告書|chapter=3.7.4 琵琶湖について|year=2009|month=11|ref={{sfnref|近畿地方整備局河川部|2009|pp=197-254}}|和書}}
* {{cite book|last=嘉田|first=由紀子|authorlink=嘉田由紀子|title=マザーレイク21計画|edition=第2期改定版|chapter=はじめに|year=2012|month=10|publisher=滋賀県琵琶湖環境部琵琶湖政策課|ref=harv|url=https://www.pref.shiga.lg.jp/ippan/kankyoshizen/biwako/11350.html|chapterurl=https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/22176.pdf|和書|id={{国立国会図書館書誌ID|023550552}}}}
* {{Cite web|和書|url=https://www.city.kyoto.lg.jp/suido/cmsfiles/contents/0000169/169291/dai4kaigiziroku.pdf|title=平成26年度 第4回京都市上下水道事業経営審議委員会議事録|work=京都市上下水道事業経営審議委員会について(平成26年度)|accessdate=2021-01-17|website=京都市上下水道局|year=2015|ref={{sfnref|京都市上下水道局|2015}}}}
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・ラムサール条約、新潟市を認証『日本経済新聞』2022年6月13日
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|'''その他ウェブページ'''
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}}
== 関連項目 ==
{{ul
|'''湖沼に関する記事'''{{columns-list|colwidth=15em|
* [[湖沼の一覧]] - 地域順
* [[湖沼の一覧 (面積順)]]
* [[日本の湖沼一覧]]
* [[世界湖沼会議]]
}}
|'''琵琶湖および周辺の地勢に関する記事'''{{columns-list|colwidth=15em|
* [[余呉湖]]
* [[北陸街道]]、[[鯖街道]]
}}
|'''交通'''{{columns-list|colwidth=45em|
* [[西日本旅客鉄道]](JR西日本)[[琵琶湖線]](琵琶湖の東岸を通る鉄道路線の愛称。正式には[[東海道本線]])
* JR[[湖西線]](琵琶湖の西岸を通る鉄道路線)
* JR[[北陸本線]](琵琶湖の東岸を通る鉄道路線)
* [[京阪電気鉄道|京阪]][[京阪石山坂本線|石山坂本線]](琵琶湖の西岸を通る鉄道路線)
}}
|'''琵琶湖に由来する名称'''
* {{仮リンク|琵琶湖 (小惑星)|la|4289 Biwako}}
}}
== 外部リンク ==
{{Commons|Lake_Biwa}}
{{osm box|r|63499}}
{{columns-list|colwidth=30em|
* [https://www.pref.shiga.lg.jp/motherlake/ 琵琶湖] - 滋賀県公式サイト
* [https://www.kkr.mlit.go.jp/biwako/index.php 琵琶湖河川事務所] - [[国土交通省]][[近畿地方整備局]]
* [https://www.water.go.jp/kansai/biwako/ 琵琶湖開発総合管理所] - [[独立行政法人]][[水資源機構]]
* [https://www.nies.go.jp/biwakobranch/ 国立環境研究所琵琶湖分室]
* [https://www.lberi.jp/ 滋賀県琵琶湖環境科学研究センター]
* [https://www.biwahaku.jp/ 滋賀県立琵琶湖博物館]
* [https://www.env.go.jp/water/kosyou/post_4.html 琵琶湖の保全及び再生に関する法律] - [[環境省]]
}}
{{日本のラムサール条約登録湿地}}
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[[Category:長浜市の地理]] | 2003-05-25T09:27:19Z | 2023-12-22T09:09:42Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%B5%E7%90%B6%E6%B9%96 |
9,326 | ビスマス | ビスマス(英語: bismuth [ˈbɪzməθ])あるいは蒼鉛()は、原子番号83の元素。元素記号は Bi(ラテン語: Bismuthumから)。第15族元素の一つ。
日本名は蒼鉛()。
ビスマスのドイツ語 Wismut は、1472年に与えられたザクセン州シュネーベルクの草原 (Wiese) の採掘許可権 (Mutung) から生まれた語 Wiesemutung に由来する。当時ビスマスは、アンチモン、錫、亜鉛などと混同されていた。
淡く赤みがかった銀白色の金属で、柔らかく脆い。結晶は虹色を示すことがあるが、これは表面の酸化膜で光が干渉することによる構造色であり、ビスマス単体の色ではない。半金属に分類される場合もあり、電気伝導性や熱伝導性は高くない。融点は271.3 °Cと低い。
常温で安定に存在し、凝固すると体積が増加する。ビスマス化合物には医薬品の材料となるものがあり、他の窒素族元素(ヒ素やアンチモン)の化合物に毒性が強いものが多いことと対照的である。
また、常温で強い反磁性を示すため、ビスマスを乗せた皿を水の上に浮かせるなど摩擦係数を減らしたものに強力な磁石を近づけると、反発し動くことを確認できる。
天然には硫化物(輝蒼鉛鉱)として主に産出するが、自然蒼鉛として単体での産出も知られている。鉱工業上はこれらの鉱物ではなく、主に鉛、モリブデン、タングステン精錬の副産物として生産される。18世紀にフランスのクロード・F・ジョフロアにより、単体であることが確認された。
ビスマス鉱石を構成する鉱石鉱物には、次のようなものがある。
日本ではビスマス単産の鉱山は無く、恵比寿鉱山(タングステン)、足尾鉱山(銅)などで副産物としてビスマスが生産された。
医薬品(整腸剤)の原料として、日本薬局方に収載されている。
単体のビスマスと他の金属(カドミウム、錫、鉛、インジウムなど)との合金は、それぞれの金属単体より低い融点となる。このため、鉛フリーはんだに添加されたり、あるいはより低温で溶けるウッド合金のような低融点合金に使われる。また、ビスマスは大きな熱電効果を示す物質であり、特にテルルとの合金は熱電変換素子として実用化されている。
化合物としては、銅酸化物高温超伝導体の1成分としても用いられ、ビスマスを含む超伝導物質はしばしばビスマス系高温超伝導物質、または単にビスマス系と呼ばれる。
上記以外にも、高比重・低融点で比較的柔らかく無害であることから鉛の代替として注目され、散弾や釣り用の錘、鉛・カドミウムの代替として黄銅への添加剤、ガラスの材料などとしても用いられる。
天然に存在するビスマスの同位体は全て放射性同位体である。主要な同位体である Bi は長らく安定同位体とされてきたが、理論的計算に基づいて不安定である可能性が指摘されていた。2003年、精密な測定で非常に長い半減期を持つ放射性同位体であることが判明し、最重安定同位体の地位を鉛 (Pb) に譲ることとなった。
Bi はごくわずかにα崩壊により崩壊するが、その半減期は2003年に測定された値で (1.9 ± 0.2) × 10 年(≒ 1700京〜2100京年)である。この値は現在の宇宙年齢の9桁以上も長い。
その他にも、半減期は短いが自然界には5つの同位体が存在する。いずれも、壊変系列の崩壊過程によって発生する同位体である。ウラン233の崩壊過程でできるビスマス213はα崩壊核種であり、α線を用いたがんの治療に期待されている(Actimab-B )。
収斂作用を持つビスマスの化合物は、腸粘膜のタンパク質と結合して被膜を作り炎症を起こした粘膜への刺激を和らげる効果があり、整腸剤として利用される。 | [
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] | ビスマスあるいは蒼鉛は、原子番号83の元素。元素記号は Bi。第15族元素の一つ。 | {{Expand English|Bismuth|date=2023-11}}
{{Elementbox
|name=bismuth
|japanese name=ビスマス
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|pronounce={{IPAc-en|ˈ|b|ɪ|z|m|ə|θ}} {{respell|BIZ|məth}}
|left=[[鉛]]
|right=[[ポロニウム]]
|above=[[アンチモン|Sb]]
|below=[[モスコビウム|Mc]]
|series=貧金属
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|image name=Bismuth crystals and 1cm3 cube.jpg
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|atomic mass=208.98040
|atomic mass 2=1
|atomic mass comment=
|electron configuration=[[[キセノン|Xe]]] 4f<sup>14</sup> 5d<sup>10</sup> 6s<sup>2</sup> 6p<sup>3</sup>
|electrons per shell=2, 8, 18, 32, 18, 5
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|phase=固体
|phase comment=
|density gplstp=
|density gpcm3nrt=9.78
|density gpcm3mp=10.05
|melting point K=544.7
|melting point C=271.5
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|boiling point K=1837
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|boiling point F=2847
|triple point K=
|triple point kPa=
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|critical point MPa=
|heat fusion=11.30
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|vapor pressure comment=
|crystal structure=[[三方晶系]]<ref>[http://www.mindat.org/min-684.html Bismuth], mindat.org</ref>
|oxidation states='''3''', 5
|oxidation states comment=弱[[酸性酸化物]]
|electronegativity=2.02
|number of ionization energies=4
|1st ionization energy=703
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|3rd ionization energy=2466
|atomic radius=156
|covalent radius=148 ± 4
|Van der Waals radius=[[1 E-10 m|207]]
|magnetic ordering=[[反磁性]]
|electrical resistivity=
|electrical resistivity at 0=
|electrical resistivity at 20=1.29 µ
|thermal conductivity=7.97
|thermal conductivity 2=
|thermal diffusivity=
|thermal expansion=
|thermal expansion at 25=13.4
|speed of sound=
|speed of sound rod at 20=1790
|speed of sound rod at r.t.=
|Young's modulus=32
|Shear modulus=12
|Bulk modulus=31
|Poisson ratio=0.33
|Mohs hardness=2 - 2.5
|Vickers hardness=
|Brinell hardness=94.2
|CAS number=7440-69-9
|isotopes=
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=207 | sym=Bi
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=31.55 [[年|y]]
| dm=[[電子捕獲|ε]], [[陽電子放出|β<sup>+</sup>]] | de=2.399 | pn=207 | ps=[[鉛|Pb]] }}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=208 | sym=Bi
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=368,000 y
| dm=[[電子捕獲|ε]], [[陽電子放出|β<sup>+</sup>]] | de=2.880 | pn=208 | ps=[[鉛|Pb]] }}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=209 | sym=Bi
| na=100% | hl=(1.9 ± 0.2) × 10<sup>19</sup> y
| dm=[[アルファ崩壊|α]] | de=3.14 | pn=205 | ps=[[タリウム|Tl]] }}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=210m | sym=Bi
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=3.04 × 10<sup>6</sup> y
| dm=[[核異性体転移|IT]] | de=0.271 | pn=210 | ps=Bi }}
|isotopes comment=
}}
'''ビスマス'''({{lang-en|bismuth}} {{IPA-en|ˈbɪzməθ|}})あるいは{{読み仮名|'''蒼鉛'''|そうえん}}は、[[原子番号]]83の[[元素]]。[[元素記号]]は '''Bi'''({{lang-la|Bismuthum}}から)。[[第15族元素]]の一つ。
== 名称 ==
日本名は{{読み仮名|'''蒼鉛'''|そうえん}}。
ビスマスの[[ドイツ語]] Wismut は、[[1472年]]に与えられた[[ザクセン州]]シュネーベルクの草原 (Wiese) の採掘許可権 (Mutung) から生まれた語 Wiesemutung に由来する。当時ビスマスは、[[アンチモン]]、[[錫]]、[[亜鉛]]などと混同されていた<ref>大学教育研究会編 「化学―物質と人間の歴史―」開成出版、1985年、{{ISBN2|4-87603-044-8}}</ref>。
== 特徴 ==
[[File:Bi-crystal.jpg|thumb|left|150px|人工的に作ったビスマスの結晶。酸化膜による構造色と、骸晶による特徴的な形状から、観賞用として市販されている。]]
淡く赤みがかった銀白色の[[金属]]で、柔らかく脆い。結晶は虹色を示すことがあるが、これは表面の酸化膜で光が[[干渉]]することによる[[構造色]]であり、ビスマス単体の色ではない。[[半金属]]に分類される場合もあり<ref>{{Cite web|和書|title=ビスマスとは|url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%93%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%82%B9-119866|website=コトバンク|accessdate=2021-08-05|first=化学辞典 第2版,日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,百科事典マイペディア,精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,栄養・生化学辞典,世界大百科事典|last=第2版,世界大百科事典内言及}}</ref>、[[電気伝導性]]や[[熱伝導性]]は高くない。[[融点]]は271.3 {{℃}}と低い。
[[常温]]で安定に存在し、[[凝固]]すると体積が増加する。ビスマス化合物には[[医薬品]]の材料となるものがあり、他の窒素族元素([[ヒ素]]や[[アンチモン]])の化合物に[[毒性]]が強いものが多いことと{{疑問点範囲|対照的である|date=2021-08-05}}。
また、常温で強い[[反磁性]]を示すため、ビスマスを乗せた皿を水の上に浮かせるなど摩擦係数を減らしたものに強力な磁石を近づけると、反発し動くことを確認できる。
== 産出 ==
天然には硫化物([[輝蒼鉛鉱]])として主に産出するが、[[自然蒼鉛]]として単体での産出も知られている。鉱工業上はこれらの鉱物ではなく、主に[[鉛]]、[[モリブデン]]、[[タングステン]]精錬の副産物として生産される<ref>[http://minerals.usgs.gov/minerals/pubs/commodity/bismuth/bismumcs96.pdf Bismuth, Mineral Commodity Summaries] (1996) Bismuth, USGeological Survey.</ref>。[[18世紀]]に[[フランス]]の[[クロード・F・ジョフロア]]により、[[単体]]であることが確認された。
=== ビスマス鉱石 ===
ビスマス鉱石を構成する[[鉱石鉱物]]には、次のようなものがある。
* [[自然蒼鉛]](自然ビスマス)(Bi)
* [[輝蒼鉛鉱]](輝ビスマス鉱)(Bi<sub>2</sub>S<sub>3</sub>)
* [[蒼鉛土]](ビスマイト)(Bi<sub>2</sub>O<sub>3</sub>)
日本ではビスマス単産の鉱山は無く、[[恵比寿鉱山]](タングステン)、[[足尾銅山|足尾鉱山]](銅)などで副産物としてビスマスが生産された。
== 用途 ==
[[医薬品]](整腸剤)の原料として、[[薬局方|日本薬局方]]に収載されている。
単体のビスマスと他の金属([[カドミウム]]、[[錫]]、[[鉛]]、[[インジウム]]など)との合金は、それぞれの金属単体より低い融点となる。このため、[[鉛フリーはんだ]]に添加されたり、あるいはより低温で溶ける[[ウッド合金]]のような[[低融点合金]]に使われる。また、ビスマスは大きな[[熱電効果]]を示す物質であり、特に[[テルル]]との合金は[[熱電変換素子]]として実用化されている。
化合物としては、銅酸化物[[高温超伝導体]]の1成分としても用いられ、ビスマスを含む[[超伝導]]物質はしばしばビスマス系高温超伝導物質、または単にビスマス系と呼ばれる。
上記以外にも、高比重・低融点で比較的柔らかく無害であることから鉛の代替として注目され、[[散弾]]や釣り用の[[錘]]、鉛・カドミウムの代替として黄銅への添加剤、ガラスの材料などとしても用いられる。
== 同位体 ==
{{main|ビスマスの同位体}}
天然に存在するビスマスの同位体は全て[[放射性同位体]]である。主要な同位体である <sup>209</sup>Bi は長らく[[安定同位体]]とされてきたが、理論的計算に基づいて不安定である可能性が指摘されていた。2003年、精密な測定で非常に長い半減期<!--(1.9×10<sup>19</sup>年=1900京年)-->を持つ放射性同位体であることが判明し<ref>セオドア・グレイ著 「世界で一番美しい元素図鑑」193ページ 2015年10月1日閲覧</ref>、最重[[安定同位体]]の地位を[[鉛]] (<sup>208</sup>Pb) に譲ることとなった。
<sup>209</sup>Bi はごくわずかに[[アルファ崩壊|α崩壊]]により崩壊するが、その[[半減期]]は[[2003年]]に測定された値で (1.9 ± 0.2) × 10<sup>19</sup> 年(≒ 1700京〜2100京年)である。この値は現在の[[ビッグバン|宇宙年齢]]の9桁以上も長い<ref>de Marcillac, P. Coron, N. Dambier, G. Leblanc, J. & Moalic, J.-P. Experimental detection of α-particles from the radioactive decay of natural bismuth. Nature 422, 876-878 (2003).</ref>。
その他にも、半減期は短いが自然界には5つの同位体が存在する。いずれも、壊変系列の崩壊過程によって発生する同位体である。ウラン233の崩壊過程でできるビスマス213はα崩壊核種であり、α線を用いた[[がん]]の治療に期待されている(Actimab-B <sup>TM</sup>)<ref>Allen BJ., "Clinical trials of targeted alpha therapy for cancer.", Rev Recent Clin Trials. 2008 Sep;3(3):185-91. (PubMed) https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/18782076</ref>。
== ビスマスの化合物 ==
収斂作用を持つビスマスの化合物は、[[腸粘膜]]のタンパク質と結合して被膜を作り炎症を起こした粘膜への刺激を和らげる効果があり、[[整腸剤]]として利用される。
* [[酸化ビスマス(III)]] (Bi<sub>2</sub>O<sub>3</sub>) - 整腸剤
* {{仮リンク|次没食子酸ビスマス|en|Bismuth subgallate}} (C<sub>7</sub>H<sub>5</sub>BiO<sub>6</sub>) - 整腸剤(日本薬局方収載)
* [[輝蒼鉛鉱]] (Bi<sub>3</sub>S<sub>3</sub>)
* [[塩化酸化ビスマス]] (BiOCl) - [[化粧品]]、パール塗料の原料。
* [[次硝酸ビスマス]] (Bi<sub>5</sub>O(OH)<sub>9</sub>(NO<sub>3</sub>)<sub>4</sub>) - 整腸剤(日本薬局方収載)
* 次サリチル酸ビスマス - 整腸剤
* [[炭酸酸化ビスマス(III)]] - 整腸剤
* [[チタン酸ビスマスナトリウム]] ((Bi<sub>1/2</sub>Na<sub>1/2</sub>)TiO<sub>3</sub>)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Bismuth|Bismuth}}
* {{Kotobank}}
{{元素周期表}}
{{ビスマスの化合物}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ひすます}}
[[Category:ビスマス|*]]
[[Category:元素]]
[[Category:ニクトゲン]]
[[Category:第15族元素]]
[[Category:第6周期元素]] | 2003-05-25T11:01:50Z | 2023-11-20T09:28:47Z | false | false | false | [
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"Template:元素周期表",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%82%B9 |
9,327 | イーリアス | 『イーリアス』(希: Ἰλιάς, 羅: Ilias, 英: Iliad)は、ホメロスによって作られたと伝えられる長編叙事詩で、最古期の古代ギリシア詩作品である。題名は「イーリオン(イーリオス/トロイア) (について)の(詩歌)」の意味。
ギリシア神話を題材とし、トロイア戦争十年目のある日に生じたアキレウスの怒りから、イーリオスの英雄ヘクトールの葬儀までを描写する。ギリシアの叙事詩として最古のものながら、最高のものとして考えられている。叙事詩環(叙事詩圏)を構成する八つの叙事詩のなかの一つである。
元々は口承によって伝えられてきたものである。『オデュッセイア』第八歌には、パイエーケス人たちがオデュッセウスを歓迎するために開いた宴に、そのような楽人デーモドコスが登場する。オデュッセウスはデーモドコスの歌うトロイア戦争の物語に涙を禁じえず、また、自身でトロイの木馬のくだりをリクエストし、再び涙を流した。
『イーリアス』の作者とされるホメーロス自身も、そのような楽人(あるいは吟遊詩人)だった。ホメーロスによって『イーリアス』が作られたというのは、紀元前8世紀半ば頃のことと考えられている。『イーリアス』はその後、紀元前6世紀後半のアテナイにおいて文字化され、紀元前2世紀にアレキサンドリアにおいて、ほぼ今日の形にまとめられたとされる。
松平千秋訳による。
1 悪疫、アキレウスの怒り。 2 夢。アガメムノン、軍の士気を試す。ボイオテイアまたは「軍船の表」。 3 休戦の誓い。城壁からの物見。パリスとメネラオスの一騎打。 4 誓約破棄。アガメムノンの閲兵。 5 ディオメデス奮戦す。 6 ヘクトルとアンドロマケの語らい。 7 ヘクトルとアイアスの一騎打。死体収容。 8 尻切れ合戦。 9 使節行。和解の嘆願。 10 ドロンの巻。 11 アガメムノン奮戦す。 12 防壁をめぐる戦い。 13 船陣脇の戦い。 14 ゼウス騙し。 15 船陣からの反撃。 16 パトロクロスの巻。 17 メネラオス奮戦す。 18 武具作りの巻。 19 アキレウス、怒りを収める。 20 神々の戦い。 21 河畔の戦い。 22 ヘクトルの死。 23 パトロクロスの葬送競技。 24 ヘクトルの遺体引き取り。
ホメーロスの叙事詩は朗誦の開始において、「ムーサ(詩神)への祈り」の句が入っている。それは、話を始める契機としての重要な宣言と共に、自然な形で詩のなかに織り込まれている。『イーリアス』では、最初の行は次のようになっている。
言葉の順番に意味を書くと、次のようになる。
ホメーロスの劇的構成というのは、この最初の一行より始まっており、なぜアキレウスが怒っているのかという聴衆の興味を引きつけた後、できごとの次第を息も継がせぬ緊迫感で展開する。
先の戦いで、アカイア勢(ギリシア軍)はトロイア側にささやかな勝利を収め、戦利品を手に入れた。しかし、その戦利品のなかには、光明神ポイボス・アポローンの神官であるクリューセースの娘クリューセーイスもまた含まれていた。戦闘の混乱のなかでアカイア勢に捕らわれた娘を返して貰おうと、神官クリューセースはアカイア軍の陣地を貢物を携え訪れるが、傲ったアカイア勢はクリューセースを侮辱する。
目的を果たせず、海辺を一人戻るクリューセースは、自らが仕える神アポローンに祈り、「アカイア軍に報いを」と求める。ムーサの言葉は劇的に転回し、クリューセースがこう祈るや、オリュンポスの高みより、ポイボス・アポローンが銀弓を手に空を飛び、アカイア軍の陣地の上空に至るや、数知れぬ矢を射かけ、アカイア軍陣地は、神の送る疫病に悲鳴をあげて倒れる兵士たちの修羅場と変ずる。
しかし、雄壮なアポローンの活躍を活写した後、なお、なぜアキレウスは怒っているのか、その理由は不明である。こうして、詩はさらに続いて行く。
翻って、このようにアキレウスが怒りを抱いたというのは、一体、戦いのどのような時点であったのか。それは、パリス(イーリオス王プリアモスの王子)に奪われたヘレネーを取り戻すべく、ヘレネーの夫メネラーオスをはじめとするアカイア族(ギリシア勢)がイーリオスに攻め寄せてから十年の歳月が流れたときのことであった。
ギリシア勢はメネラーオスの兄でミュケーナイ王のアガメムノーンの指揮の下で戦い、イーリオス勢はプリアモスの長子ヘクトールの指揮の下に戦っていた。アキレウスは、友人パトロクロスと共に、ミュルミドーン人たちを率いて戦いに参加していた。このような背景のなかで、神官クリューセースの神アポローンへの祈りの事件が起こったのである。
アポローンの矢による疫病の発生から十日目、アキレウスの発議により集会が持たれた。カルカースによって、アポローンの怒りを鎮める必要があるため、献策がなされた。それは、身の代なしに娘クリューセーイスを神官クリュセースに返すというものだった。クリューセーイスはアカイア勢の総帥アガメムノーンの戦利品となっていた。アガメムノーンはやむを得ず娘を解放することに同意する。
アガメムノーンは娘を失う代償を諸将に求める。それに対し、アキレウスは戦利品を分配しなおすべきでないことを主張し、「わたしには戦う義務はない。しかしあなたがた兄弟のために戦闘に参加している」と述べる。アガメムノーンは立腹し、軽率にも「われらのために戦う戦士は山ほどいる。そなたが義務で戦うというのなら、われらは汝なしでも戦うことができる」と応酬した。そして、クリューセーイスの代償として、アキレウスの戦利品であるブリーセーイスを自分のものにする。
アキレウスはアガメムノーンの仕打ちに怒り、母テティスに祈り、ゼウスがイーリオス勢の味方をすることでギリシア勢を追い詰めさせることを願う。テティスが請け合い、ゼウスに頼み込むと、ゼウスもこの願いを受け入れた。ゼウスの妻ヘーラーは、ゼウスがテティスの願い通りイーリオス勢の味方をするつもりではないかと気付き、ゼウスを難詰したが、息子ヘーパイストスのとりなしで、とりあえず怒りを納めた。
アキレウスはその日以降、集会にも出ず、戦闘にも参加しなくなった。こうしてアキレウスの怒りから始まり、『イーリアス』は劇的な展開において物語を繰り広げて行く。
ゼウスは、テティスの願いをどのように叶えるのがよいかを考え、ギリシア勢の総大将アガメムノーンを夢でまどわすことにした。アガメムノーンは、ネストールが「オリュムポスの神々は皆ギリシア勢の味方をすることになったから、全軍で攻め寄せればイーリオスを攻め落とせる」と説くところを夢に見た。目が覚めたアガメムノーンは、すぐにでもイーリオスを陥落させることができると思い込み、総攻撃を決意する。しかしゼウスは、ギリシア勢を劣勢に追い込み、アガメムノーンに、アキレウスを怒らせたことを後悔させることが目的だったのである。
ギリシア勢が美々しく隊伍を整えると、イーリオス勢も攻撃準備を完了した。両軍は、まさに激突しようとしていた。
このときパリスは軍勢の先頭に立ち、「誰でもいいから俺と勝負しろ」と言った。メネラーオスは、仇敵の姿を見るや、喜び勇んで飛び出してきた。しかしパリスはメネラーオスを見ると怖気づき、逃げ出してしまった。これを見たヘクトールは、イーリオスの災厄の種であるパリスの不甲斐なさをなじり、「貴様のような格好ばかりの奴は、さっさとメネラーオスに殺されてしまえばよかったのだ」と責めた。
するとパリスは殊勝にも「私とメネラーオスで一騎討ちをし、勝ったほうがヘレネーと奪った財宝を取ることにしたい」と申し出た。ヘクトールは喜び、ギリシア勢にこの話を申し込んだ。アガメムノーンもこの話を呑み、両軍の戦士が武装をはずして見守る中、両者が一騎討ちを行うことになった。
対峙するパリスとメネラーオス。双方が槍を投げるが、両者共にこれを避けた。次にメネラーオスが剣を抜いて切りかかると、メネラーオスの剣はパリスの兜にあたって砕けた。パリスがくらくらしているところを、メネラーオスが兜を掴んで自軍に引いていこうとした。するとアプロディーテーが兜の紐を切ってパリスの窮状を救った。メネラーオスの手には兜だけが残った。そしてなおも追いすがるメネラーオスから守るために、濃い霧でパリスを隠し、イーリオスに退却させた。
メネラーオスは姿を隠したパリスを探すが、見つけることができない。そこでアガメムノーンはメネラーオスが勝ったとして、ヘレネーと財宝の引渡しをイーリオス勢に申し入れた。
ヘクトールは目の前の出来事に青ざめたものの、誓い通りに戦いの結果を尊重しようとした。しかし、ゼウスはトロイアの運命に基づき、アテーナーに命じてトロイアの武将パンダロスに甘言をささやいた。それは誓いを破り、ギリシア(メネラーオス)への仇討ちをせよ、というささやきであった。
彼が矢を放った結果、メネラーオスは傷を負い、それを契機に再び戦いが始まった。
アキレウスなしでも優勢に立っていたギリシア勢も、名だたる英雄たちが傷ついたことをきっかけにして総崩れとなり、陣地の中にまで攻め込まれる。これを見たパトロクロスは、出陣してギリシア勢を助けてくれるようアキレウスに頼んだが、アキレウスは首を縦に振らない。そこでパトロクロスはアキレウスの鎧を借り、ミュルミドーン人たちを率いて出陣する。
アキレウスの鎧を着たパトロクロスの活躍により、ギリシア勢はイーリオス勢を押し返す。しかし、パトロクロスはイーリオスの王プリアモスの息子で、事実上の総大将であるヘクトールに討たれ、アキレウスの鎧も奪われてしまう。
パトロクロスの死をアキレウスは深く嘆き、ヘクトールへの復讐のために出陣することを決心する。アキレウスの母テティスはアキレウスのために新しい鎧を用意し、アキレウスに授ける。出陣したアキレウスは、イーリオスの名だたる勇士たちを葬り去る。形勢不利と見てイーリオス勢が城内に逃げ去る中、門前に一人、ヘクトールが待ち構える。
ギリシア勢とイーリオス勢が見守る中、アキレウスとヘクトールの一騎討ちが始まる。アキレウスはヘクトールを追いまわし、ヘクトールは逃げ回ってイーリオスの周りを三度回る。しかし、ついにヘクトールはアキレウスに討たれる。アキレウスはヘクトールの鎧を剥ぎ、戦車の後ろにつなげて引きずりまわす。復讐を遂げて満足したアキレウスは、さまざまな賞品を賭けてパトロクロスの霊をなぐさめるための競技会を開く。
競技会が終わった後も、アキレウスはヘクトールの遺体を引きずりまわすことをやめない。ヘクトールの父プリアモスはこれを悲しみ、深夜アキレウスのもとを訪れ、息子の遺体を返してくれるように頼む。アキレウスはプリアモスをいたわり、ヘクトールの遺体を返す。ヘクトールの葬儀の記述をもって、『イーリアス』は終わる。
( )内の数字はエピソードの巻数。
古代ローマ期は、詩人ウェルギリウスがローマ建国を描いた叙事詩『アエネーイス』は『イーリアス』を下敷としている。作中では、敗れたトロイアの武将アイネイアースが放浪の果てにたどり着いたイタリアでの出来事が語られ、その子孫がアウグストゥスの家系であることを示唆する描写がある。
1987年、マリオン・ジマー・ブラッドリー は『イーリアス』を元にした歴史ファンタジー小説『The Firebrand』を発表した。日本ではファイアーブランド三部作『太陽神の乙女』、『アプロディーテーの贈物』、『ポセイドーンの審判』として1991年に翻訳出版された。この小説はトロイアの王女カッサンドラーを主人公にしたフェミニズムファンタジーである。
2004年に封切りされた映画『トロイ』は、『イーリアス』のかなり自由な翻案である。配給元の大規模な宣伝や人気俳優の起用もあり、映画は興行的には成功を収めたが、アメリカ合衆国の映画批評家からは酷評された。何人かの批評家は「2004年最悪の映画」にこの映画を挙げた。ホメーロスの描く物語とこの映画のストーリーにはごくわずかな共通点しかない。
ダン・シモンズは、2003年に『イーリアス』を翻案した叙事詩的 SF 小説『イリアム』 (Ilium) を発表した。この小説は、2003年の最優秀 SF 小説としてローカス賞を受賞した。 | [
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"text": "『イーリアス』(希: Ἰλιάς, 羅: Ilias, 英: Iliad)は、ホメロスによって作られたと伝えられる長編叙事詩で、最古期の古代ギリシア詩作品である。題名は「イーリオン(イーリオス/トロイア) (について)の(詩歌)」の意味。",
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"text": "ギリシア神話を題材とし、トロイア戦争十年目のある日に生じたアキレウスの怒りから、イーリオスの英雄ヘクトールの葬儀までを描写する。ギリシアの叙事詩として最古のものながら、最高のものとして考えられている。叙事詩環(叙事詩圏)を構成する八つの叙事詩のなかの一つである。",
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"text": "元々は口承によって伝えられてきたものである。『オデュッセイア』第八歌には、パイエーケス人たちがオデュッセウスを歓迎するために開いた宴に、そのような楽人デーモドコスが登場する。オデュッセウスはデーモドコスの歌うトロイア戦争の物語に涙を禁じえず、また、自身でトロイの木馬のくだりをリクエストし、再び涙を流した。",
"title": "序説"
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"text": "『イーリアス』の作者とされるホメーロス自身も、そのような楽人(あるいは吟遊詩人)だった。ホメーロスによって『イーリアス』が作られたというのは、紀元前8世紀半ば頃のことと考えられている。『イーリアス』はその後、紀元前6世紀後半のアテナイにおいて文字化され、紀元前2世紀にアレキサンドリアにおいて、ほぼ今日の形にまとめられたとされる。",
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"text": "松平千秋訳による。",
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"text": "1 悪疫、アキレウスの怒り。 2 夢。アガメムノン、軍の士気を試す。ボイオテイアまたは「軍船の表」。 3 休戦の誓い。城壁からの物見。パリスとメネラオスの一騎打。 4 誓約破棄。アガメムノンの閲兵。 5 ディオメデス奮戦す。 6 ヘクトルとアンドロマケの語らい。 7 ヘクトルとアイアスの一騎打。死体収容。 8 尻切れ合戦。 9 使節行。和解の嘆願。 10 ドロンの巻。 11 アガメムノン奮戦す。 12 防壁をめぐる戦い。 13 船陣脇の戦い。 14 ゼウス騙し。 15 船陣からの反撃。 16 パトロクロスの巻。 17 メネラオス奮戦す。 18 武具作りの巻。 19 アキレウス、怒りを収める。 20 神々の戦い。 21 河畔の戦い。 22 ヘクトルの死。 23 パトロクロスの葬送競技。 24 ヘクトルの遺体引き取り。",
"title": "構成"
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"text": "ホメーロスの叙事詩は朗誦の開始において、「ムーサ(詩神)への祈り」の句が入っている。それは、話を始める契機としての重要な宣言と共に、自然な形で詩のなかに織り込まれている。『イーリアス』では、最初の行は次のようになっている。",
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"text": "ホメーロスの劇的構成というのは、この最初の一行より始まっており、なぜアキレウスが怒っているのかという聴衆の興味を引きつけた後、できごとの次第を息も継がせぬ緊迫感で展開する。",
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"text": "先の戦いで、アカイア勢(ギリシア軍)はトロイア側にささやかな勝利を収め、戦利品を手に入れた。しかし、その戦利品のなかには、光明神ポイボス・アポローンの神官であるクリューセースの娘クリューセーイスもまた含まれていた。戦闘の混乱のなかでアカイア勢に捕らわれた娘を返して貰おうと、神官クリューセースはアカイア軍の陣地を貢物を携え訪れるが、傲ったアカイア勢はクリューセースを侮辱する。",
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"text": "ギリシア勢はメネラーオスの兄でミュケーナイ王のアガメムノーンの指揮の下で戦い、イーリオス勢はプリアモスの長子ヘクトールの指揮の下に戦っていた。アキレウスは、友人パトロクロスと共に、ミュルミドーン人たちを率いて戦いに参加していた。このような背景のなかで、神官クリューセースの神アポローンへの祈りの事件が起こったのである。",
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"text": "アポローンの矢による疫病の発生から十日目、アキレウスの発議により集会が持たれた。カルカースによって、アポローンの怒りを鎮める必要があるため、献策がなされた。それは、身の代なしに娘クリューセーイスを神官クリュセースに返すというものだった。クリューセーイスはアカイア勢の総帥アガメムノーンの戦利品となっていた。アガメムノーンはやむを得ず娘を解放することに同意する。",
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"text": "アキレウスはアガメムノーンの仕打ちに怒り、母テティスに祈り、ゼウスがイーリオス勢の味方をすることでギリシア勢を追い詰めさせることを願う。テティスが請け合い、ゼウスに頼み込むと、ゼウスもこの願いを受け入れた。ゼウスの妻ヘーラーは、ゼウスがテティスの願い通りイーリオス勢の味方をするつもりではないかと気付き、ゼウスを難詰したが、息子ヘーパイストスのとりなしで、とりあえず怒りを納めた。",
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"text": "ギリシア勢とイーリオス勢が見守る中、アキレウスとヘクトールの一騎討ちが始まる。アキレウスはヘクトールを追いまわし、ヘクトールは逃げ回ってイーリオスの周りを三度回る。しかし、ついにヘクトールはアキレウスに討たれる。アキレウスはヘクトールの鎧を剥ぎ、戦車の後ろにつなげて引きずりまわす。復讐を遂げて満足したアキレウスは、さまざまな賞品を賭けてパトロクロスの霊をなぐさめるための競技会を開く。",
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"text": "競技会が終わった後も、アキレウスはヘクトールの遺体を引きずりまわすことをやめない。ヘクトールの父プリアモスはこれを悲しみ、深夜アキレウスのもとを訪れ、息子の遺体を返してくれるように頼む。アキレウスはプリアモスをいたわり、ヘクトールの遺体を返す。ヘクトールの葬儀の記述をもって、『イーリアス』は終わる。",
"title": "物語のあらすじ"
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"text": "( )内の数字はエピソードの巻数。",
"title": "主な登場者"
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"text": "古代ローマ期は、詩人ウェルギリウスがローマ建国を描いた叙事詩『アエネーイス』は『イーリアス』を下敷としている。作中では、敗れたトロイアの武将アイネイアースが放浪の果てにたどり着いたイタリアでの出来事が語られ、その子孫がアウグストゥスの家系であることを示唆する描写がある。",
"title": "後世の作品における『イーリアス』の影響"
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"text": "1987年、マリオン・ジマー・ブラッドリー は『イーリアス』を元にした歴史ファンタジー小説『The Firebrand』を発表した。日本ではファイアーブランド三部作『太陽神の乙女』、『アプロディーテーの贈物』、『ポセイドーンの審判』として1991年に翻訳出版された。この小説はトロイアの王女カッサンドラーを主人公にしたフェミニズムファンタジーである。",
"title": "後世の作品における『イーリアス』の影響"
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"text": "2004年に封切りされた映画『トロイ』は、『イーリアス』のかなり自由な翻案である。配給元の大規模な宣伝や人気俳優の起用もあり、映画は興行的には成功を収めたが、アメリカ合衆国の映画批評家からは酷評された。何人かの批評家は「2004年最悪の映画」にこの映画を挙げた。ホメーロスの描く物語とこの映画のストーリーにはごくわずかな共通点しかない。",
"title": "後世の作品における『イーリアス』の影響"
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"text": "ダン・シモンズは、2003年に『イーリアス』を翻案した叙事詩的 SF 小説『イリアム』 (Ilium) を発表した。この小説は、2003年の最優秀 SF 小説としてローカス賞を受賞した。",
"title": "後世の作品における『イーリアス』の影響"
}
] | 『イーリアス』は、ホメロスによって作られたと伝えられる長編叙事詩で、最古期の古代ギリシア詩作品である。題名は「イーリオン(イーリオス/トロイア) (について)の(詩歌)」の意味。 | [[画像:Homer Ilias Griphanius c1572.jpg|thumb|イリアスの表紙(1572年・Rihel社)]]
{{Greek mythology}}
『'''イーリアス'''』({{lang-el-short|Ἰλιάς}}, {{lang-la-short|Ilias}}, {{lang-en-short|Iliad}})は、[[ホメロス]]によって作られたと伝えられる長編[[叙事詩]]で、最古期の[[古代ギリシア]]詩作品である。題名は「[[イーリオン]]([[イーリオス]]/[[トロイア]]) (について)の(詩歌)」の意味<ref>[https://kotobank.jp/word/イリアス-32397 イリアスとは] - コトバンク</ref>。
== 序説 ==
[[ギリシア神話]]を題材とし、[[トロイア戦争]]十年目のある日に生じた[[アキレウス]]の怒りから、[[イリオス|イーリオス]]の英雄[[ヘクトール]]の葬儀までを描写する。[[ギリシア]]の叙事詩として最古のものながら、最高のものとして考えられている。[[叙事詩環]](叙事詩圏)を構成する八つの叙事詩のなかの一つである。
元々は[[口承]]によって伝えられてきたものである。『[[オデュッセイア]]』第八歌には、パイエーケス人たちが[[オデュッセウス]]を歓迎するために開いた宴に、そのような楽人[[デーモドコス]]が登場する。オデュッセウスはデーモドコスの歌うトロイア戦争の物語に涙を禁じえず、また、自身で[[トロイアの木馬|トロイの木馬]]のくだりをリクエストし、再び涙を流した{{要出典|date=2011年6月}}。
『イーリアス』の作者とされるホメーロス自身も、そのような楽人(あるいは[[吟遊詩人]])だった。ホメーロスによって『イーリアス』が作られたというのは、[[紀元前8世紀]]半ば頃のことと考えられている。『イーリアス』はその後、[[紀元前6世紀]]後半の[[アテナイ]]において文字化され、[[紀元前2世紀]]に[[アレキサンドリア]]において、ほぼ今日の形にまとめられたとされる<ref>野町啓『学術都市アレクサンドリア』講談社学術文庫, 2009, 250p. ISBN 4062919613</ref>。
== 構成 ==
===各歌の題===
松平千秋訳による。
1 悪疫、アキレウスの怒り。
2 夢。アガメムノン、軍の士気を試す。ボイオテイアまたは「軍船の表」。
3 休戦の誓い。城壁からの物見。パリスとメネラオスの一騎打。
4 誓約破棄。アガメムノンの閲兵。
5 ディオメデス奮戦す。
6 ヘクトルとアンドロマケの語らい。
7 ヘクトルとアイアスの一騎打。死体収容。
8 尻切れ合戦。
9 使節行。和解の嘆願。
10 ドロンの巻。
11 アガメムノン奮戦す。
12 防壁をめぐる戦い。
13 船陣脇の戦い。
14 ゼウス騙し。
15 船陣からの反撃。
16 パトロクロスの巻。
17 メネラオス奮戦す。
18 武具作りの巻。
19 アキレウス、怒りを収める。
20 神々の戦い。
21 河畔の戦い。
22 ヘクトルの死。
23 パトロクロスの葬送競技。
24 ヘクトルの遺体引き取り。
=== ムーサへの祈り ===
ホメーロスの叙事詩は朗誦の開始において、「[[ムーサ]](詩神)への祈り」の句が入っている。それは、話を始める契機としての重要な宣言と共に、自然な形で詩のなかに織り込まれている。『イーリアス』では、最初の行は次のようになっている。
: {{lang|grc|μῆνιν ἄειδε θεὰ Πηληϊάδεω Ἀχιλῆος}} (ラテン文字転写:Menin aeide, thea, Pele-iadeo Achileos)
言葉の順番に意味を書くと、次のようになる。
: 怒りを 歌ってください 女神(ムーサ)よ [[ペーレウス]]の息子である[[アキレウス]]の(怒りを)……
ホメーロスの劇的構成というのは、この最初の一行より始まっており、なぜアキレウスが怒っているのかという聴衆の興味を引きつけた後、できごとの次第を息も継がせぬ緊迫感で展開する。
=== ポイボス・アポローンの銀弓 ===
先の戦いで、アカイア勢(ギリシア軍)はトロイア側にささやかな勝利を収め、戦利品を手に入れた。しかし、その戦利品のなかには、光明神[[アポローン|ポイボス・アポローン]]の[[神官]]である[[クリューセース]]の娘[[クリューセーイス]]もまた含まれていた。戦闘の混乱のなかでアカイア勢に捕らわれた娘を返して貰おうと、神官クリューセースはアカイア軍の陣地を貢物を携え訪れるが、傲ったアカイア勢はクリューセースを侮辱する。
目的を果たせず、海辺を一人戻るクリューセースは、自らが仕える神アポローンに祈り、「アカイア軍に報いを」と求める。ムーサの言葉は劇的に転回し、クリューセースがこう祈るや、[[オリュンポス]]の高みより、ポイボス・アポローンが銀弓を手に空を飛び、アカイア軍の陣地の上空に至るや、数知れぬ矢を射かけ、アカイア軍陣地は、神の送る疫病に悲鳴をあげて倒れる兵士たちの修羅場と変ずる。
しかし、雄壮なアポローンの活躍を活写した後、なお、なぜアキレウスは怒っているのか、その理由は不明である。こうして、詩はさらに続いて行く。
== 物語のあらすじ ==
翻って、このようにアキレウスが怒りを抱いたというのは、一体、戦いのどのような時点であったのか。それは、[[パリス]](イーリオス王[[プリアモス]]の王子)に奪われた[[ヘレネー]]を取り戻すべく、ヘレネーの夫[[メネラーオス]]をはじめとするアカイア族(ギリシア勢)がイーリオスに攻め寄せてから十年の歳月が流れたときのことであった。
ギリシア勢はメネラーオスの兄で[[ミュケーナイ]]王の[[アガメムノーン]]の指揮の下で戦い、イーリオス勢はプリアモスの長子ヘクトールの指揮の下に戦っていた。アキレウスは、友人[[パトロクロス]]と共に、[[ミュルミドーン人]]たちを率いて戦いに参加していた。このような背景のなかで、神官クリューセースの神アポローンへの祈りの事件が起こったのである。
=== アキレウスとアガメムノーンの確執 (第1歌)===
<!-- クリュセの[[アポロン]]神殿の祭司クリューセースは、ギリシア勢にとらわれていた娘クリューセーイスを救おうと、莫大な身の代の品を持って参陣した。クリューセーイスはアガメムノーンの戦利品となっていた。アガメムノーンは彼女に執着しており、どうしても手放したくなかった。そこで、身の代を受け入れて娘を返すべきだと言う諸将に自分だけ反対し、クリューセースを侮辱して追い返した。クリューセースがアポローンに復讐を願うと、アポローンは疫病をはやらせ、ギリシア勢を苦しめた。-->
アポローンの矢による疫病の発生から十日目、アキレウスの発議により集会が持たれた。[[カルカース]]によって、アポローンの怒りを鎮める必要があるため、献策がなされた。それは、身の代なしに娘クリューセーイスを神官クリュセースに返すというものだった。クリューセーイスはアカイア勢の総帥アガメムノーンの戦利品となっていた。アガメムノーンはやむを得ず娘を解放することに同意する。
アガメムノーンは娘を失う代償を諸将に求める。<!--しかし自分の戦利品が減る代わりに、諸将に戦利品を分けてくれるように頼んだ。-->それに対し、アキレウスは戦利品を分配しなおすべきでないことを主張し、「わたしには戦う義務はない。<!--などないのに、-->しかしあなたがた兄弟のために戦闘に参加している<!--のだ-->」と述べる。<!--し、代わりにイーリオス陥落の際の分け前を多くすることを提案する。--><!--アガメムノーンは立腹し、「わたしには戦う義務はない。-- --などないのに、-- しかしあなたがた兄弟のために戦闘に参加している --のだ--」と述べる --いう-- アキレウスを侮辱する。-->アガメムノーンは立腹し、軽率にも「われらのために戦う戦士は山ほどいる。そなたが義務で戦うというのなら、われらは汝なしでも戦うことができる」と応酬した。<!--し、「われわれのために戦ってくれる戦士は山ほどいる。そんなことを言うなら、戦いに参加してくれなくてもいい」と言った。-->そして、クリューセーイスの代償として、アキレウスの戦利品である[[ブリーセーイス]]を自分のものにする。
アキレウスはアガメムノーンの仕打ちに怒り、母[[テティス]]に祈り、[[ゼウス]]がイーリオス勢の味方をすることでギリシア勢を追い詰めさせることを願う。<!--、アガメムノーンに自分を軽んじたことを後悔させてほしい」と頼んだ。-->テティスが請け合い、ゼウスに頼み込むと、ゼウスもこの願いを受け入れた。ゼウスの妻[[ヘーラー]]は、ゼウスがテティスの願い通りイーリオス勢の味方をするつもりではないかと気付き、ゼウスを難詰したが、息子[[ヘーパイストス]]のとりなしで、とりあえず怒りを納めた。<!-- この文章は何か。?? -->
アキレウスはその日以降、集会にも出ず、戦闘にも参加しなくなった。こうしてアキレウスの怒りから始まり、『イーリアス』は劇的な展開において物語を繰り広げて行く。<!--旗下のミュルミドーン人たちも、浜辺で槍投げなどに打ち興じていた。-->
=== 総攻撃の開始 (第2歌)===
ゼウスは、テティスの願いをどのように叶えるのがよいかを考え、ギリシア勢の総大将アガメムノーンを夢でまどわすことにした。アガメムノーンは、[[ネストール]]が「オリュムポスの神々は皆ギリシア勢の味方をすることになったから、全軍で攻め寄せればイーリオスを攻め落とせる」と説くところを夢に見た。目が覚めたアガメムノーンは、すぐにでもイーリオスを陥落させることができると思い込み、総攻撃を決意する。しかしゼウスは、ギリシア勢を劣勢に追い込み、アガメムノーンに、アキレウスを怒らせたことを後悔させることが目的だったのである。
ギリシア勢が美々しく隊伍を整えると、イーリオス勢も攻撃準備を完了した。両軍は、まさに激突しようとしていた。
=== パリスとメネラーオスの一騎討ち (第3,4歌)===
このときパリスは軍勢の先頭に立ち、「誰でもいいから俺と勝負しろ」<!-- そんなことを戦場で言うのか。?? -->と言った。メネラーオスは、仇敵の姿を見るや、喜び勇んで飛び出してきた。しかしパリスはメネラーオスを見ると怖気づき、逃げ出してしまった。これを見たヘクトールは、イーリオスの災厄の種であるパリスの不甲斐なさをなじり、「貴様のような格好ばかりの奴は、さっさとメネラーオスに殺されてしまえばよかったのだ」と責めた。
するとパリスは殊勝にも「私とメネラーオスで[[一騎討ち]]をし、勝ったほうがヘレネーと奪った財宝を取ることにしたい」と申し出た。ヘクトールは喜び、ギリシア勢にこの話を申し込んだ。アガメムノーンもこの話を呑み、両軍の戦士が武装をはずして見守る中、両者が一騎討ちを行うことになった。
対峙するパリスとメネラーオス。双方が槍を投げるが、両者共にこれを避けた。次にメネラーオスが剣を抜いて切りかかると、メネラーオスの剣はパリスの兜にあたって砕けた。パリスがくらくらしているところを、メネラーオスが兜を掴んで自軍に引いていこうとした。すると[[アプロディーテー]]が兜の紐を切ってパリスの窮状を救った。メネラーオスの手には兜だけが残った。そしてなおも追いすがるメネラーオスから守るために、濃い霧でパリスを隠し、イーリオスに退却させた。
メネラーオスは姿を隠したパリスを探すが、見つけることができない。そこでアガメムノーンはメネラーオスが勝ったとして、ヘレネーと財宝の引渡しをイーリオス勢に申し入れた。
ヘクトールは目の前の出来事に青ざめたものの、誓い通りに戦いの結果を尊重しようとした。しかし、ゼウスはトロイアの運命に基づき、[[アテーナー]]に命じてトロイアの武将[[パンダロス]]に甘言をささやいた。それは誓いを破り、ギリシア(メネラーオス)への仇討ちをせよ、というささやきであった。
彼が矢を放った結果、メネラーオスは傷を負い、それを契機に再び戦いが始まった。
=== パトロクロスの出陣 (第16歌)===
アキレウスなしでも優勢に立っていたギリシア勢も、名だたる英雄たちが傷ついたことをきっかけにして総崩れとなり、陣地の中にまで攻め込まれる。これを見たパトロクロスは、出陣してギリシア勢を助けてくれるようアキレウスに頼んだが、アキレウスは首を縦に振らない。そこでパトロクロスはアキレウスの鎧を借り、ミュルミドーン人たちを率いて出陣する。
=== パトロクロスの死 (第16歌)===
アキレウスの鎧を着たパトロクロスの活躍により、ギリシア勢はイーリオス勢を押し返す。しかし、パトロクロスはイーリオスの王プリアモスの息子で、事実上の総大将であるヘクトールに討たれ、アキレウスの鎧も奪われてしまう。
=== アキレウスの出陣 (第18-21歌)===
パトロクロスの死をアキレウスは深く嘆き、ヘクトールへの復讐のために出陣することを決心する。アキレウスの母テティスはアキレウスのために新しい鎧を用意し、アキレウスに授ける。出陣したアキレウスは、イーリオスの名だたる勇士たちを葬り去る。形勢不利と見てイーリオス勢が城内に逃げ去る中、門前に一人、ヘクトールが待ち構える。
=== ヘクトールとアキレウスの一騎討ち (第22,23歌)===
ギリシア勢とイーリオス勢が見守る中、アキレウスとヘクトールの一騎討ちが始まる。アキレウスはヘクトールを追いまわし、ヘクトールは逃げ回ってイーリオスの周りを三度回る。しかし、ついにヘクトールはアキレウスに討たれる。アキレウスはヘクトールの鎧を剥ぎ、戦車の後ろにつなげて引きずりまわす。復讐を遂げて満足したアキレウスは、さまざまな賞品を賭けてパトロクロスの霊をなぐさめるための競技会を開く。
=== ヘクトールの遺体引き渡しと葬儀 (第24歌)===
競技会が終わった後も、アキレウスはヘクトールの遺体を引きずりまわすことをやめない。ヘクトールの父プリアモスはこれを悲しみ、深夜アキレウスのもとを訪れ、息子の遺体を返してくれるように頼む。アキレウスはプリアモスをいたわり、ヘクトールの遺体を返す。ヘクトールの葬儀の記述をもって、『イーリアス』は終わる。
==主な登場者==
( )内の数字はエピソードの巻数。
===[[アカイア人|アカイア]](ギリシア)方===
;[[大アイアース]]
: アキレウスに次ぐアカイアの勇者。ヘクトールと2回一騎打ちをし、優勢になるが、とどめをさせない (7) (14)。
;[[アガメムノーン]]
: [[ミケーネ]]の王でアカイア軍の総帥。傲慢な総大将。アキレウスから捕虜の女を奪って、内輪喧嘩をしたことから物語が始まる (1)。
;[[アキレウス]]
: 直行激情型の主人公。友人パトロクロスを殺された (16) 敵討ちが、この叙事詩の主筋。
;[[オデュッセウス]]
: 叙事詩『[[オデュッセイア]]』の主人公にもなる智将。雄弁でアカイア軍をまとめ (2)、ディオメーデースと共にトロイアを偵察する (10)。
;[[ディオメーデース]]
: アキレウスに次ぐアカイアの勇士。アテーネーの庇護で、アイネイアースに勝ち、神アプロディーテやアレースをも負傷させる (5)。
;[[パトロクロス]]
: アキレウスの友。アカイア軍があわや全滅の危機時に、アキレウスの鎧を着てアキレウスの代わりに出陣し、戦死 (16)。
;[[メネラーオス]]
: [[スパルタ]]王。アガメムノーンの弟で、アカイア軍の副大将。妻ヘレネーをさらわれたことから戦争が始まった。パリスと代表戦 (3)。パトロクロスの遺体回収に、アイアースと共に活躍 (17)。
===トロイア方===
;[[アイネイアース]]
: アプロディーテとアレースの息子。トロイア方でヘクトールに次ぐ勇士。後年[[ヴェルギリウス]]が、彼を主人公にした『[[アエネーイス]]』を書いた。トロイア滅亡後にローマ建国の祖となる。
;[[アンドロマケー]]
: ヘクトールの妻。城壁でのヘクトールとの別れの場面 (6) とヘクトール死の場面 (22) に登場。
;[[パリス]](アレクサンドロス)
: ヘクトールの弟。彼がヘレネーをさらったことから戦争が始まった。意志は強くない美男子。格闘戦ではメネラーオスに負ける (3)。しかし弓矢の名手で、ディオメーデースやアイアースを傷つける (11)。
;[[プリアモス]]
: トロイアの王で、ヘクトールとパリスの父。最終巻でアキレウスの陣に行き、ヘクトールの遺体の返却をアキレウスに懇願 (24)。
;[[ヘクトール]]
: 副主人公。トロイアの王子で、トロイア軍の総指揮官。アカイア方のいろんな勇士と戦う。パトロクロスを殺したが (16)、アキレウスに復讐されて死ぬ(22)ことが、この叙事詩の主筋。
;[[ヘレネー]]
: スパルタ王メネラーオスの妻だったが、パリスについてトロイアに行ったため、この戦争になった (3)。自分の親戚同士の戦争であること、この戦争は彼女のせいだ、という白眼視などに耐える (24)。
===神々===
;[[ゼウス]]
: 最高神。テティスの願いで一時的にトロイアに味方し (1)、戦争への神々の介入を禁止した (8)。アキレウスが出陣すると中立に戻り、神々の関与を許す (20)。
====アカイアの味方の神々====
;[[アテーナー|アテーネー]]
: アテーネーはイオニア方言(アッティカ方言でアテーナー)。ギリシアの首都名にもなった知恵の女神。ディオメーデースなど、アカイアの勇士たちを守り、ヘクトールをだましてアキレウスと決戦させる (22)。
;[[テティス]]
: 海の女神でアキレウスの母。アキレウスが活躍できるよう、ゼウスに願ってトロイア軍を優勢にする (1)。アキレウス出陣時にヘーパイストスに鎧を作らせる (18)。
;[[ヘーパイストス]]
: 鍛冶の神。ゼウスとヘーレーの子。テティスが養育。彼女に頼まれてアキレウスの鎧を作る (18)。アキレウスが溺れそうになった時に火で助ける (21)。
;[[ヘーラー|ヘーレー]]
: ヘーレーはイオニア方言(アッティカ方言でヘーラー)。ゼウスの正妻。アプロディーテーに対抗してアカイアに味方する。トロイアに味方するゼウスを色仕掛けで眠らせる (14)。
;[[ポセイドーン]]
: ゼウスの兄の海神。ゼウスが眠っている間に危機のアカイア軍を助ける (13,14)。
====トロイアの味方の神々====
;[[アプロディーテー]]
: 愛と美の神。ローマ神話の[[ウェヌス]](ヴィーナス)。「もっとも美しい女」と[[パリスの審判|パリスに審判]]された事がトロイア戦争の発端。判定してくれたパリスを霧を使って守る (3)。
;[[アポローン]]
: ゼウスの息子で太陽神。アカイア軍に疫病を起こす (1)。パトロクロス出陣時に、彼を攻撃し、鎧をはぎとり、ヘクトールにとどめを刺させる (16)。
;[[アレース]]
: ゼウスとヘーレーの子で戦争の神。その強さは、人間ディオメーデースに傷つけられ (5)、姉アテーネーと戦って負ける程度 (21)。
== 日本語訳書(原典全訳)==
*『イーリアス』 [[土井晩翠]]訳([[冨山房]] 新版[[1995年]])、初版は1940年。
*『イーリアス』 [[呉茂一]]訳(旧版 [[岩波文庫]] 全3巻)、第10回[[読売文学賞]]受賞
**新版 [[平凡社ライブラリー]](上下)、2003年、解説[[沓掛良彦]]。[[電子出版]]、2014年
*『イリアス』 [[松平千秋]]訳(岩波文庫 全2巻、1992年/同・ワイド版、2004年)
*:呉訳は七五調を基本とした擬古文で、原文の語法などを生かすことを主眼においている。三巻の翻訳のうち、上巻には、従来の古典学の慣例解釈を破り、あえて直訳した箇所などもあり、その苦闘が伺われる。土井訳は終始一貫して日本語の[[韻文]]調に訳しており、『イーリアス』の叙事詩としての美しさを伝えようと腐心している。松平訳はこれに対し、現代人にとっての読みやすさを念頭に、原文が韻文であることを敢えて無視し、[[散文]]に置き換えている。詳しくは平凡社版の沓掛解説を参照。他に以下がある。
* 呉茂一訳 『[[世界古典文学全集]] 1 ホメーロス』 [[筑摩書房]]、初版1964年、復刊2005年ほか([[グーテンベルク21]]で[[電子出版]]、2013年)
**『筑摩世界文学大系 2 ホメーロス』 筑摩書房、初版1971年、各・後者は高津春繁訳「[[オデュッセイア]]」で訳文は各・散文体
* [[高津春繁]]訳 『イーリアス 愛蔵版』 筑摩書房、1969年
* 小野塚友吉訳 『完訳イリアス』 風濤社、2004年
== 後世の作品における『イーリアス』の影響 ==
[[古代ローマ]]期は、詩人[[ウェルギリウス]]が[[ローマ]]建国を描いた叙事詩『[[アエネーイス]]』は『イーリアス』を下敷としている。作中では、敗れたトロイアの武将[[アイネイアース]]が放浪の果てにたどり着いた[[イタリア]]での出来事が語られ、その子孫が[[アウグストゥス]]の家系であることを示唆する描写がある。
1987年、[[マリオン・ジマー・ブラッドリー]] は『イーリアス』を元にした歴史[[ファンタジー]]小説『The Firebrand』を発表した。日本ではファイアーブランド三部作『太陽神の乙女』、『アプロディーテーの贈物』、『ポセイドーンの審判』として1991年に翻訳出版された。この小説はトロイアの王女[[カッサンドラー]]を主人公にした[[フェミニズム]]ファンタジーである。
2004年に封切りされた映画『[[トロイ (映画)|トロイ]]』は、『イーリアス』のかなり自由な翻案である。配給元の大規模な宣伝や人気俳優の起用もあり、映画は興行的には成功を収めたが、[[アメリカ合衆国]]の映画批評家からは酷評された。何人かの批評家は「2004年最悪の映画」にこの映画を挙げた。ホメーロスの描く物語とこの映画のストーリーにはごくわずかな共通点しかない。
[[ダン・シモンズ]]は、2003年に『イーリアス』を翻案した叙事詩的 SF 小説『イリアム』 ([[w:Ilium (novel)|Ilium]]) を発表した。この小説は、2003年の最優秀 SF 小説として[[ローカス賞]]を受賞した。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Wikisourcelang|el|Ιλιάς}}
* [[トロイア戦争にかかわる伝説]]
* [[オデュッセイア]]
* [[ギリシア文学]]
* [[ギリシア神話]]
* [[ホメーロス問題]]
* [[二分心]] - イリアスの時代の人間の心の考察
* [[ロボ・ジョックス]] - 本作をモチーフとしたアメリカのSF映画。トロイア戦争を巨大ロボット同士の一騎討ちに置き換えてあり、主人公のリングネームは「アキレス」である。
* {{ill2|軍船のカタログ|en|Catalogue of Ships}} - 第2歌に収録された、アカイア陣営の指揮官と拠点への配属された船の数などの目録。
== 外部リンク ==
* {{青空文庫|001099|46996|旧字旧仮名|イーリアス}}([[土井晩翠]]訳)
* [https://web.archive.org/web/20040812150027/http://www.sm.rim.or.jp/~osawa/AGG/iliad/index.html 土井晩翠訳 イーリアス] - [[物語倶楽部]]の[[インターネットアーカイブ]]。後半は未完成のまま。
* {{Kotobank|イリアス}}
{{イーリアスの登場人物}}
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[[Category:紀元前8世紀の書籍]]
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[[Category:ホメーロス]] | 2003-05-25T11:14:55Z | 2023-10-30T12:16:57Z | false | false | false | [
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9,328 | ジョハリの窓 | ジョハリの窓(ジョハリのまど、英語: Johari window)とは自分をどのように公開ないし隠蔽するかという、コミュニケーションにおける自己の公開とコミュニケーションの円滑な進め方を考えるために提案された考え方。
1955年夏にアメリカにて催行された「グループ成長のためのラボラトリートレーニング」席上で、サンフランシスコ州立大学の心理学者ジョセフ・ルフト (Joseph Luft) とハリ・インガム (Harry Ingham) が発表した「対人関係における気づきのグラフモデル」を後に「ジョハリの窓」と呼ぶようになった。 ジョハリ (Johari) は提案した2人の名前を組み合わせたもので、ジョハリという人物がいる訳ではない。
自己には「公開されている自己」(open self) と「隠されている自己」(hidden self) があると共に、「自分は知らないが他人は知っている自己」(blind self) や「誰にも知られていない自己」(unknown self) もあると考えられる。
また、今日では「開かれた窓」(open self, open window)自分も他人もわかっている部分, 「気づかない窓」(blind self, blind window)自分は気がついていないものの、他人からは見られている自己, 「隠された窓」(hidden self, hidden window)自分は認識しているが、他人には知られていない部分, 「未知の窓」(unknown self, unknown window)自分も他人も気づいていない部分 とも訳されている。
これらを障子の格子のように図解し、格子をその四角の枠に固定されていないものとして、格子のみ移動しながら考えると、誰にも知られていない自己が小さくなれば、それはフィードバックされているという事であるし、公開された自己が大きくなれば、それは自己開示が進んでいるととる事が出来るだろう。
コミュニケーション心理学や健康心理学などにて頻繁に使用される考え方である。 | [
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== ジョハリの窓の誕生 ==
1955年夏にアメリカにて催行された「グループ成長のためのラボラトリートレーニング」席上で、[[サンフランシスコ州立大学]]の心理学者ジョセフ・ルフト (Joseph Luft) とハリ・インガム (Harry Ingham) が発表した「対人関係における気づきのグラフモデル」を後に「ジョハリの窓」と呼ぶようになった。
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== ジョハリの窓と自己の関係 ==
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自己には「公開されている自己」(open self) と「隠されている自己」(hidden self) があると共に、「自分は知らないが他人は知っている自己」(blind self) や「誰にも知られていない自己」(unknown self) もあると考えられる。
また、今日では「開かれた窓」(open self, open window)自分も他人もわかっている部分, 「気づかない窓」(blind self, blind window)自分は気がついていないものの、他人からは見られている自己, 「隠された窓」(hidden self, hidden window)自分は認識しているが、他人には知られていない部分, 「未知の窓」(unknown self, unknown window)自分も他人も気づいていない部分 とも訳されている。
これらを障子の格子のように図解し、格子をその四角の枠に固定されていないものとして、格子のみ移動しながら考えると、誰にも知られていない自己が小さくなれば、それは[[フィードバック]]されているという事であるし、公開された自己が大きくなれば、それは[[自己開示]]が進んでいるととる事が出来るだろう。
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== 出典 ==
* [https://jinjibu.jp/keyword/detl/736/ 「ジョハリの窓」とは?] - [[アイ・キュー|日本の人事部]]
== 外部リンク ==
* {{Cite journal|和書|author=Glover Toshiko, 小山田奈央 |title=実習 心の四つの窓--ジョハリの窓を活用する (実習集) |journal=人間関係研究 |issn=13464620 |publisher=南山大学 |year=2008 |issue=7 |pages=161-173 |naid=110008721424 |url=http://id.nii.ac.jp/1179/00001093/}}
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9,330 | 炭酸塩 | 炭酸塩(たんさんえん、英: carbonate)は、炭酸イオン(carbonate、CO3)を含む化合物の総称である。英語の carbonate は炭酸塩と炭酸イオンの他、炭酸エステル、炭酸塩化、炭化、飲料などに炭酸を加える操作のことも指す。無機炭素化合物の一種で、炭酸塩の中には、生物にとって重要な物質である炭酸カルシウムや、産業にとって重要な炭酸ナトリウムなどがある。炭酸塩はアルカリ金属以外は水に溶けないものが多い。一般に加熱により二酸化炭素を発生して金属酸化物を生じる。
炭酸イオンを含む塩に希釈した鉱酸(例:塩酸)を加えると気体の二酸化炭素が発生するため、炭酸イオンの検出に使われている。
炭酸イオンを含む塩は、産業や鉱物学的に重要な化合物群である。最も有名なのは石灰岩の主成分である方解石(カルサイト)である。加熱することによって炭酸塩から二酸化炭素を除去する過程を焼成と呼ぶ。
炭酸イオン(たんさんいおん、英: carbonate)は、イオン式が CO3、分子量が 60.01 g/mol で形式電荷が-2の多原子アニオンである。1個の炭素原子を中心に3個の酸素原子が等価に結合した平面三角形構造をとる(D3h分子対称性)。C-O結合距離は方解石中で 128.3 pm である。炭酸イオンは、炭酸 (H2CO3) の共役塩基である炭酸水素イオン (HCO−3) の共役酸になる。
炭酸イオンの正確な分子構造はルイス構造式で表現することは不可能である。
これは炭酸イオンが共鳴構造を持つためである。
実際には、炭酸イオンの電荷は非局在化によって3個の酸素原子に等しく2/3ずつ分布した構造をしている。
炭酸イオン CO3 は中程度に強い塩基である。炭酸イオンは弱酸である炭酸水素イオンの共役塩基であり、炭酸水素イオンは弱酸である炭酸イオンの中程度に強い共役塩基である。
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] | 炭酸塩は、炭酸イオン(carbonate、CO32−)を含む化合物の総称である。英語の carbonate は炭酸塩と炭酸イオンの他、炭酸エステル、炭酸塩化、炭化、飲料などに炭酸を加える操作のことも指す。無機炭素化合物の一種で、炭酸塩の中には、生物にとって重要な物質である炭酸カルシウムや、産業にとって重要な炭酸ナトリウムなどがある。炭酸塩はアルカリ金属以外は水に溶けないものが多い。一般に加熱により二酸化炭素を発生して金属酸化物を生じる。 | {{出典の明記|date=2011年10月}}
[[ファイル:Carbonate-3D-balls.png|thumb|200px|炭酸イオンの[[球棒モデル]]]]
'''炭酸塩'''(たんさんえん、{{Lang-en-short|carbonate}})は、'''炭酸イオン'''({{Lang|en|carbonate}}、{{chem|CO|3||2-}})を含む[[化合物]]の総称である。英語の carbonate は炭酸塩と炭酸イオンの他、[[炭酸エステル]]、炭酸塩化、炭化、[[炭酸飽和|飲料などに炭酸を加える操作]]のことも指す。[[炭素化合物|無機炭素化合物]]の一種で、炭酸塩の中には、[[生物]]にとって重要な物質である[[炭酸カルシウム]]や、[[産業]]にとって重要な[[炭酸ナトリウム]]などがある。炭酸塩は[[アルカリ金属]]以外は[[水]]に溶けないものが多い。一般に[[加熱]]により[[二酸化炭素]]を発生して[[金属酸化物]]を生じる。
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== 用途 ==
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炭酸イオンを含む塩は、産業や[[鉱物学]]的に重要な化合物群である。最も有名なのは[[石灰岩]]の主成分である[[方解石]](カルサイト)である。加熱することによって炭酸塩から二酸化炭素を除去する過程を[[焼成]]と呼ぶ。
== 炭酸イオン ==
'''炭酸イオン'''(たんさんいおん、{{Lang-en-short|carbonate}})は、[[イオン式]]が {{chem|CO|3||2-}}、[[分子量]]が 60.01 g/mol で[[形式電荷]]が-2の[[多原子イオン|多原子アニオン]]である。1個の炭素原子を中心に3個の酸素原子が等価に結合した[[平面三角形]]構造をとる(''D''<sub>3h</sub>[[分子対称性]])。{{chem|C-O}}結合距離は方解石中で 128.3 pm である。炭酸イオンは、[[炭酸]] {{chem|(H|2|CO|3|)}} の[[共役塩基]]である[[炭酸水素イオン]] {{chem|(HCO|3|-|)}} の[[共役酸]]になる{{要検証|date=2014年7月}}。
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これは炭酸イオンが[[共鳴構造]]を持つためである。
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== 酸 - 塩基化学 ==
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== 主な炭酸塩 ==
* [[炭酸アンモニウム]] ({{chem|(NH|4|)|2|CO|3}}) - 炭安とも呼ばれる。
* [[炭酸カリウム]] ({{chem|K|2|CO|3}}) - 植物の灰の成分であり、古代より[[洗剤]]として利用。現在は[[ガラス]]の原料として重要。
* [[炭酸カルシウム]] ({{chem|CaCO|3}}) - [[石灰石]]、[[サンゴ]]骨格、[[貝殻]]などの主成分。[[チョーク]]や[[ベビーパウダー]]の材料。白濁色の[[温泉]]の含有成分およびそれを模した[[入浴剤]]の成分。
* [[炭酸ナトリウム]] ({{chem|Na|2|CO|3}}) - [[石鹸]]、[[ガラス]]などの原料。炭酸ソーダとも呼ばれる。
* [[炭酸バリウム]] ({{chem|BaCO|3}}) - [[毒重石]]の主成分で人体に有害。[[胃]]の検査で[[造影剤]]として飲む[[バリウム]]はこれではなく、[[硫酸バリウム]]。
* [[炭酸マグネシウム]] ({{chem|MgCO|3}}) - 運動競技向けの[[滑り止め]]剤、[[研磨剤]]、[[医薬品]]に利用。
* [[炭酸リチウム]] ({{chem|Li|2|CO|3}})
* [[炭酸鉄(II)]] ({{chem|FeCO|3}})
* [[炭酸銀(I)]] ({{chem|Ag|2|CO|3}})
== 炭酸塩鉱物 ==
[[ファイル:CalcitePau.jpg|thumb|200px|[[方解石]]]]
{{See also|鉱物の一覧#炭酸塩鉱物}}
[[鉱物学]]において、炭酸塩からなる[[鉱物]]を'''炭酸塩鉱物'''(たんさんえんこうぶつ、{{Lang-en-short|[[:en:carbonate mineral|carbonate mineral]]}}<ref>{{Cite book|和書
|author = [[文部省]]編
|title = [[学術用語集]] 地学編
|url = http://sciterm.nii.ac.jp/cgi-bin/reference.cgi
|year = 1984
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* [[方解石]]・[[霰石]]・[[ファーテル石]]({{chem|CaCO|3}})
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== 脚注 ==
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== 参考文献 == <!-- {{Cite book}} --> <!-- {{Cite journal}} -->
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== 関連項目 ==
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* [[二酸化炭素]]
* [[炭酸水素塩]]
* [[鉱物]]、[[鉱物の一覧]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%82%AD%E9%85%B8%E5%A1%A9 |
9,331 | 叙事詩環 | 叙事詩環(じょじしかん、ギリシア語: Επικός Κύκλος エピコス・キュクロス、英語: Epic Cycle)とは、古代ギリシアで作られた、トロイア戦争に関する叙事詩サイクル(一群)のことである。叙事詩の環、叙事詩圏とも。叙事詩環に含まれる叙事詩を並べると、トロイア戦争についての記述が完結する。ホメーロスの叙事詩(厳密にはホメーロス作と言われる叙事詩)『イーリアス』と『オデュッセイア』も入れる研究家もあるが、ホメーロス以外の詩に対して用いられる場合がより多い。
いずれにしても、『イーリアス』と『オデュッセイア』を除く叙事詩は断片しか現存していない。断片では、プロクロス(哲学者のプロクロスとは別人)が書いた詳細なあらすじが最も貴重なものである(後述)。叙事詩はダクテュロス・ヘクサメトロス(長短短六歩格)で書かれている。
叙事詩環は、ギリシア幾何学様式時代(ギリシア暗黒時代。紀元前1100年-紀元前800年頃)に発展した局所的な英雄崇拝に基礎を置く口承を文学の中で蒸留させたものだった。その素材は、鉄器時代の視点から見た過去の青銅器時代のミケーネ文明の話である。
ホメーロスとそれ以外の叙事詩環の歴史的・文学的関係の研究は、「新分析」と呼ばれている。
叙事詩環には、以下のような叙事詩が含まれていた。
9世紀の学者・聖職者のフォティオスがその著書『Bibliotheca』の中で長大な叙事詩サイクルに解説し、そこには『ティタノマキア(Τιτανομαχία)』および「テーバイ圏」と呼ばれるサイクルも含まれる。
テーバイ圏は順に、以下の作品で構成される。
しかし、フォティオスの時代でもホメーロスを除く叙事詩は残っていなかったことは確かで、ピロクロスもフォティオスも正典となるサイクルについて言及していないようである。なお、現代の研究家たちは通常、テーバイ・サイクルを叙事詩環に含めない。
叙事詩環の中で現存するのは『イーリアス』と『オデュッセイア』のみである。他のものは断片が後世の作家に引用されるか、2、3行がぼろぼろの古代のパピルスの中に残っている程度である。
『ウェネトゥスA(Venetus A)』という名で知られる10世紀の『イーリアス』の写本の序文の中に、叙事詩環の切れ切れのあらすじが残っている。損傷がひどく、『キュプリア』のくだりは残っておらず、他の記録から補わなければならない(『キュプリア』の場合、他の叙事詩のことは書かれておらず『キュプリア』のみを含む写本がいくつか残っていた)。あらすじは抜粋が順番に書かれてある。この長大なあらすじは『Chrestomathy』と呼ばれ、それを書いたのが前述したプロクロスという人物である。プロクロスについては、哲学者のプロクロスと別人である以外は何もわかっていない。2世紀の文法学者Eutychius Proclus(ギリシア語読みはΕὐτυχίος Πρόκλος, Eutychios Proklos)とする説もあるが、まったく無名の人物という可能性もある。『Bibliotheca』の中でフォティオスが『Chrestomathy』について書いた記述は、フォティウスの本も『ウェネトゥスA』もプロクロスの同じ書から派生したものであることを明示している。
『イーリアス』と『オデュッセイア』を除く残り6つの叙事詩は、この2つの叙事詩で語られていないトロイア戦争の部分を述べるために、ホメーロスより後に書かれたものと一般に言われているが、それを裏付ける証拠はない。
新分析の研究者の中には、逆にホメーロスのものが後で、他の叙事詩から内容を引いてきたという前提に立つ研究者や、声高にではないが、伝説の素材から引かれたホメーロスの叙事詩が後に叙事詩環として具体化したと主張する研究者もおり、この議論は続いている。
古代においては、叙事詩環の中でホメーロスの叙事詩が最高のものと考えられていた。ヘレニズム期の学者たちはホメーロス以外の叙事詩環の作者たちを「ネオテロイ(νεώτεροι, neōteroi, 後の詩人たち)」あるいは「キュクリコス(κυκλικός, kyklikos, 環の)」と表すのが一般的で、これは「型にはまった」と同義語だった。以降、現代においても、「劣っている」=「後に書かれた」とされている。
アリストテレースは『詩学』の中で、筋の統一の大事さを述べるための材料として『オデュッセイア』を取り上げ、全体として統一が取れるように筋が組み立てられていると賞賛している。その一方で、『キュプリア』と『小イーリアス』を次のように批判している。「しかし、他の詩人たちは1人の人物、1つの時、多くの部分からなる1つの筋について話を構成する。『キュプリア』や『小イーリアス』がそうである。結果として、『イーリアス』や『オデュッセイア』からは1つの悲劇だけしか作れないが、『キュプリア』からはたくさん、『小イーリアス』からは8つ以上のものから作られる......」。
近年では、ホメーロス以外の作品に含まれる幻想的・魔術的内容をもって劣っているとする意見もあるが、『イーリアス』や『オデュッセイア』にも喋る馬や一つ目の巨人は登場する。
叙事詩環の中で語られた話は、後世の作家たちの題材となった。
いつどうして8つの叙事詩が1つに編纂され、「環(サイクル)」と呼ばれるようになったかについても諸説ある。19世紀後半、David Binning Monroは「キュコリコス(κυκλικός)」という語は「環」ではなく、「型にはまった」の意味であり、編纂されたのはヘレニズム期の遅くとも紀元前1世紀頃だと主張した。最近の研究家はもう少し前ではないかと考えているが、概ねこの説を受け入れている。
ホメーロスと他の作品の関係についても問題がある。ホメーロス以外の6つの叙事詩は、ホメーロスの話の前後と隙間を重複なく埋めるよう作られたように見える。しかし、元々はそうでなかったことは確かである。例えば、現存する『小イーリアス』の断片では、トロイア陥落後、ネオプトレモスがどうやってアンドロマケーを捕虜として連れ去ったかが語られているのだが、プロクロスのあらすじではトロイア陥落の前で終わっている。元々の『キュプリア』はプロクロスのあらすじから推測される以上に、トロイア戦争を描いていたという説もある。一方で、『キュプリア』は『イーリアス』を受けた形で構想され、プロクロスのあらすじは元々の構想を反映しているという説もある。
いずれにせよ、編纂するにあたって、叙事詩間で調整が行われたことは確かである。『イーリアス』の最後の行は、次のように、ヘクトールの葬儀で終わっている。
そして、『アイティオピス』の冒頭は、続けて読めるように、同じ書き出しで始まっている。
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"title": "環の編纂"
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] | 叙事詩環とは、古代ギリシアで作られた、トロイア戦争に関する叙事詩サイクル(一群)のことである。叙事詩の環、叙事詩圏とも。叙事詩環に含まれる叙事詩を並べると、トロイア戦争についての記述が完結する。ホメーロスの叙事詩(厳密にはホメーロス作と言われる叙事詩)『イーリアス』と『オデュッセイア』も入れる研究家もあるが、ホメーロス以外の詩に対して用いられる場合がより多い。 いずれにしても、『イーリアス』と『オデュッセイア』を除く叙事詩は断片しか現存していない。断片では、プロクロス(哲学者のプロクロスとは別人)が書いた詳細なあらすじが最も貴重なものである(後述)。叙事詩はダクテュロス・ヘクサメトロス(長短短六歩格)で書かれている。 叙事詩環は、ギリシア幾何学様式時代(ギリシア暗黒時代。紀元前1100年-紀元前800年頃)に発展した局所的な英雄崇拝に基礎を置く口承を文学の中で蒸留させたものだった。その素材は、鉄器時代の視点から見た過去の青銅器時代のミケーネ文明の話である。 ホメーロスとそれ以外の叙事詩環の歴史的・文学的関係の研究は、「新分析」と呼ばれている。 | {{Greek mythology}}
'''叙事詩環'''(じょじしかん、{{lang-el|Επικός Κύκλος}} エピコス・キュクロス、{{lang-en|Epic Cycle}})とは、[[古代ギリシア]]で作られた、[[トロイア戦争]]に関する[[叙事詩]][[サイクル (文学)|サイクル]](一群)のことである<!--「環」は、「完結」というような意味で言われているようである-->。'''叙事詩の環'''、'''叙事詩圏'''とも。叙事詩環に含まれる叙事詩を並べると、[[トロイア戦争]]についての記述が完結する。[[ホメーロス]]の叙事詩(厳密にはホメーロス作と言われる叙事詩)『[[イーリアス]]』と『[[オデュッセイア]]』も入れる研究家もあるが、ホメーロス以外の詩に対して用いられる場合がより多い。
いずれにしても、『イーリアス』と『オデュッセイア』を除く叙事詩は断片しか現存していない。断片では、プロクロス([[哲学者]]の[[プロクロス]]とは別人)が書いた詳細なあらすじが最も貴重なものである(後述)。叙事詩は[[ダクテュロス]]・[[ヘクサメトロス]](長短短六歩格)で書かれている。
叙事詩環は、[[ギリシア幾何学様式時代]](ギリシア暗黒時代。紀元前1100年-紀元前800年頃)に発展した局所的な英雄崇拝に基礎を置く[[口承]]を文学の中で蒸留させたものだった。その素材は、[[鉄器時代]]の視点から見た過去の[[青銅器時代]]の[[ミケーネ文明]]の話である。
ホメーロスとそれ以外の叙事詩環の歴史的・文学的関係の研究は、「[[ホメーロス問題#新分析論と口誦詩(オーラル・ポエトリー)研究|新分析]]」と呼ばれている。
==内容==
叙事詩環には、以下のような叙事詩が含まれていた。
{| class="wikitable"
|-
! 題名 !! 巻 !! 作者 (推定) !! 内容
|-
| '''[[キュプリア]]'''<br/>{{lang|el|Κύπρια}}, ''Kypria'' || 11 || スタシーノス
| トロイア戦争の引き金となった事件、とくに[[パリスの審判]]と、トロイア戦争の最初の9年間。
|-
| '''[[イーリアス]]'''<br/>{{lang|el|Ἰλιάς}}, ''Iliás'' || 24 || [[ホメーロス]]
| [[アキレウス]]の[[アガメムノーン]]に対する憤激。親友[[パトロクロス]]を殺された復讐として[[イーリオス|トロイア]]王子[[ヘクトール]]を殺害。
|-
| '''[[アイティオピス]]'''<br/>{{lang|el|Αἰθιοπίς}}, ''Aithiopis'' || 5 || ミレトスのアルクティノス
| [[アマゾーン]]の女王[[ペンテシレイア]]ならびに[[メムノーン]]がトロイアの援軍としてやって来て[[アンティロコス]]を討つが、復讐に燃えるアキレウスの手で殺される。さらに、アキレウスも死ぬ。
|-
| '''[[小イーリアス]]'''<br/>{{lang|el|Ἰλιὰς μικρά}}, ''Ilias mikra'' || 4 || レスケース
| アキレウスの死後の出来事。[[トロイアの木馬]]の建造を含む。
|-
| '''[[イーリオスの陥落]]'''<br/>{{lang|el|Ἰλίου πέρσις}}, ''Ilíou pérsis'' || 2 || ミレトスのアルクティノス
| ギリシア軍によるトロイの攻略。
|-
| '''[[ノストイ]]'''<br/>{{lang|el|Νόστοι}}, ''Nóstoi'' || 5 || アギアス or<br/>コリントスのエウメーロス
| ギリシア軍がトロイアを去る。アガメムノーンと[[メネラーオス]]の帰還。
|-
| '''[[オデュッセイア]]'''<br/>{{lang|el|Ὀδύσσεια}}, ''Odússeia'' || 24 || ホメーロス
| [[オデュッセウス]]が長い航海の果てに帰郷。不在中、妻[[ペーネロペー]]に求婚していた敵への復讐。
|-
| '''[[テレゴネイア]]'''<br/>{{lang|el|Τηλεγόνεια}}, ''Tēlegoneia'' || 2 || エウガモン
| オデュッセウスの[[セスプロティア|テスプローティアー]]への旅と[[イタキ島|イタケー]]への帰還。[[キルケー]]との間に生まれた子[[テーレゴノス]]のために死ぬ。
|}
9世紀の学者・聖職者の[[フォティオス]]がその著書『Bibliotheca』の中で長大な叙事詩サイクルに解説し、そこには『ティタノマキア([[:en:Titanomachy (epic poem)|{{lang|el|Τιτανομαχία}}]])』および「[[テーバイ圏]]」と呼ばれるサイクルも含まれる。
テーバイ圏は順に、以下の作品で構成される。
*'''[[オイディポデイア]]'''({{lang|el|Οἰδιπόδεια}})
*'''[[テーバイド]]'''({{lang|el|Θηβαΐδα}}<!--テーバイダと読めますが-->)
*'''[[エピゴノイ (叙事詩)|エピゴノイ]]'''({{lang|el|Επίγονοι}}, ''Epigonoi'')
*'''[[アルクメオーニス]]'''<!--検索してもないのですが-->({{lang|el|Ἀλκμεωνίς}}, ''Alkmeonis'')
しかし、フォティオスの時代でもホメーロスを除く叙事詩は残っていなかったことは確かで、ピロクロスもフォティオスも正典となるサイクルについて言及していないようである。なお、現代の研究家たちは通常、テーバイ・サイクルを叙事詩環に含めない。
==証拠==
叙事詩環の中で現存するのは『イーリアス』と『オデュッセイア』のみである。他のものは断片が後世の作家に引用されるか、2、3行がぼろぼろの古代の[[パピルス]]の中に残っている程度である。
『ウェネトゥスA([[:en:Venetus A|Venetus A]])』という名で知られる10世紀の『イーリアス』の写本の序文の中に、叙事詩環の切れ切れのあらすじが残っている。損傷がひどく、『キュプリア』のくだりは残っておらず、他の記録から補わなければならない(『キュプリア』の場合、他の叙事詩のことは書かれておらず『キュプリア』のみを含む写本がいくつか残っていた)。あらすじは抜粋が順番に書かれてある。この長大なあらすじは『Chrestomathy』と呼ばれ、それを書いたのが前述したプロクロスという人物である。プロクロスについては、哲学者のプロクロスと別人である以外は何もわかっていない。[[2世紀]]の文法学者[[:en:Eutychius Proclus|Eutychius Proclus]](ギリシア語読みは{{lang|el|Εὐτυχίος Πρόκλος}}, ''Eutychios Proklos'')とする説もあるが<ref>See e.g. Monro 1883.</ref>、まったく無名の人物という可能性もある。『Bibliotheca』の中でフォティオスが『Chrestomathy』について書いた記述は、フォティウスの本も『ウェネトゥスA』もプロクロスの同じ書から派生したものであることを明示している<ref>For further information see Monro 1883, and Severyns 1928, 1938a, 1938b, 1953, 1962, and 1963.</ref>。
== 評価と影響 ==
『イーリアス』と『オデュッセイア』を除く残り6つの叙事詩は、この2つの叙事詩で語られていないトロイア戦争の部分を述べるために、ホメーロスより後に書かれたものと一般に言われているが、それを裏付ける証拠はない。
新分析の研究者の中には、逆にホメーロスのものが後で、他の叙事詩から内容を引いてきたという前提に立つ研究者や、声高にではないが、伝説の素材から引かれたホメーロスの叙事詩が後に叙事詩環として具体化したと主張する研究者もおり、この議論は続いている。
古代においては、叙事詩環の中でホメーロスの叙事詩が最高のものと考えられていた。[[ヘレニズム]]期の学者たちはホメーロス以外の叙事詩環の作者たちを「ネオテロイ<!--検索では見つかりません-->({{lang|el|νεώτεροι}}, ''neōteroi'', 後の詩人たち)」あるいは「キュクリコス({{lang|el|κυκλικός}}, ''kyklikos'', 環の)」と表すのが一般的で、これは「型にはまった」と同義語だった。以降、現代においても、「劣っている」=「後に書かれた」とされている。
[[アリストテレース]]は『[[詩学 (アリストテレス)|詩学]]』の中で、筋の統一の大事さを述べるための材料として『オデュッセイア』を取り上げ、全体として統一が取れるように筋が組み立てられていると賞賛している。その一方で、『キュプリア』と『小イーリアス』を次のように批判している。「しかし、他の詩人たちは1人の人物、1つの時、多くの部分からなる1つの筋について話を構成する。『キュプリア』や『小イーリアス』がそうである。結果として、『イーリアス』や『オデュッセイア』からは1つの悲劇だけしか作れないが、『キュプリア』からはたくさん、『小イーリアス』からは8つ以上のものから作られる……」<ref>アリストテレース『詩学』1459a-b</ref>。<!--残り六つの叙事詩もまた、この愚をおかしてしまったのであろう。トロイア戦争の出来事を羅列し、つぎはぎだらけで統一を欠いた叙述に終始し、退屈な作品にしてしまったようなのである。このためこの六つの叙事詩は、徐々に読まれなくなって散逸してしまい、現代まで伝わっていない。-->
近年{{いつ|date=2021年5月12日 (水) 02:24 (UTC)}}では、ホメーロス以外の作品に含まれる幻想的・魔術的内容をもって劣っているとする意見もある<ref>J. Griffin 1977, "The Epic Cycle and the Uniqueness of Homer", ''Journal of Hellenic Studies'' 97: 39-53.</ref>が、『イーリアス』や『オデュッセイア』にも喋る馬や一つ目の巨人は登場する。
叙事詩環の中で語られた話は、後世の作家たちの題材となった。
*[[ウェルギリウス]]『[[アエネーイス]]』 - トロイア側からのトロイアの陥落。
*[[オウィディウス]]『[[変身物語]]』 - ギリシア軍のトロイ上陸(『キュプリア』から)。アキレウスの武具の審査(『小イーリアス』から)。
*[[スミュルナのコイントス]]『[[トロイア戦記]]』 - アキレウスの死からトロイア戦争の終局まで。
*[[アイスキュロス]]『[[オレステイア]]』三部作などのギリシア悲劇 - アガメムノーンの死とその息子[[オレステース]]の復讐(『ノストイ』から)。
== 環の編纂 ==
いつどうして8つの叙事詩が1つに編纂され、「環(サイクル)」と呼ばれるようになったかについても諸説ある。[[19世紀]]後半、[[:en:David Binning Monro|David Binning Monro]]は「キュコリコス({{lang|el|κυκλικός}})」という語は「環」ではなく、「型にはまった」の意味であり、編纂されたのはヘレニズム期の遅くとも紀元前1世紀頃だと主張した<ref>D.B. Monro 1883.</ref>。最近の研究家はもう少し前ではないかと考えているが、概ねこの説を受け入れている。
ホメーロスと他の作品の関係についても問題がある。ホメーロス以外の6つの叙事詩は、ホメーロスの話の前後と隙間を重複なく埋めるよう作られたように見える。しかし、元々はそうでなかったことは確かである。例えば、現存する『小イーリアス』の断片では、トロイア陥落後、[[ネオプトレモス]]がどうやって[[アンドロマケー]]を捕虜として連れ去ったかが語られているのだが<ref>''Little Iliad'' fr. 14 in West's edition.</ref>、プロクロスのあらすじではトロイア陥落の前で終わっている。元々の『キュプリア』はプロクロスのあらすじから推測される以上に、トロイア戦争を描いていたという説もある<ref>E.g. J. Marks 2002, "The Junction between the ''Kypria'' and the ''Iliad''", ''Phoenix'' 56: 1-24</ref><ref group="注">Burgessは『The Tradition of the Trojan War in Homer and the Epic Cycle』の中で、『キュプリア』はトロイア戦争を最初から最後まで物語っていたと主張した。</ref>。一方で、『キュプリア』は『イーリアス』を受けた形で構想され、プロクロスのあらすじは元々の構想を反映しているという説もある<ref>E.g. J. Latacz 1996, ''Homer, His Art and His World'' tr. J. Holoka (Ann Arbor); R. Scaife 1995, "The ''Kypria'' and its early reception", ''Classical Antiquity'' 14: 164-97.</ref>。
いずれにせよ、編纂するにあたって、叙事詩間で調整が行われたことは確かである。『イーリアス』の最後の行は、次のように、ヘクトールの葬儀で終わっている。
:'''{{lang|el|ὣς οἵ γ᾽ ἀμφίεπον τάφον Ἕκτορος}}''' {{lang|el|ἱπποδάμοιο.}}
そして、『アイティオピス』の冒頭は、続けて読めるように、同じ書き出しで始まっている。
:'''{{lang|el|ὣς οἵ γ' ἀμφίεπον τάφον Ἕκτορος}}''' {{lang|el|· ἦλθε δ' Ἀμαζών,}}
:(大意:ヘクトールの葬儀が営まれ、それからアマゾーンが到着した)
反対に、叙事詩の間には矛盾もある。たとえば、トロイア陥落の時、ヘクトールの子[[アステュアナクス]]を殺したギリシア兵は『小イーリアス』ではネオプトレモスだが、『イーリオスの攻略』ではオデュッセウスになっている。
==参考文献==
* [https://web.archive.org/web/20040605164307/http://sunsite.berkeley.edu/OMACL/Hesiod/ Online Medieval and Classical Library text] (translated by H.G. Evelyn-White, 1914; public domain)
* [http://www.gutenberg.org/etext/348 Project Gutenberg text] (translated by H.G. Evelyn-White, 1914)
* [http://www.stoa.org/hopper/text.jsp?doc=Stoa:text:2003.01.0004 Proklos' summary of the Epic Cycle, omitting the ''Telegony''] (translated by Gregory Nagy)
* Bernabé, A. 1987, ''Poetarum epicorum Graecorum testimonia et fragmenta'' pt. 1 (Leipzig). ISBN 3-322-00352-3
* Davies, M. 1988, ''Epicorum Graecorum fragmenta'' (Göttingen). ISBN 3-525-25747-3
* Hesiod & Evelyn-White, H.G., 1914, ''Hesiod: The Homeric Hymns and Homerica'' (Loeb Classical Library) ISBN 0-674-99063-3
* West, M.L. 2003, ''Greek Epic Fragments'' (Cambridge, MA). ISBN 0-674-99605-4
* Burgess, J.S. 2001, ''The Tradition of the Trojan War in Homer and the Epic Cycle'' (Baltimore). ISBN 0-8018-7890-X (pbk)
* Davies, M. 1989, ''The Greek Epic Cycle'' (Bristol). ISBN 1-85399-039-6 (pbk)
* Kullmann, W. 1960, ''Die Quellen der Ilias (troischer Sagenkreis)'' (Wiesbaden). ISBN 3-515-00235-9 (1998 reprint)
* Michalopoulos, Dimitri, ''Homer's Odyssey beyond the myths'', Piraeus: Institute of Hellenic Maritime History, 2016. [[Spezial:ISBN-Suche/9786188059931|ISBN 9786188059931]].
* Monro, D.B. 1883, "On the Fragment of Proclus' Abstract of the Epic Cycle Contained in the Codex Venetus of the ''Iliad''", ''Journal of Hellenic Studies'' 4: 305-334.
* Monro, D.B. 1901, ''Homer's Odyssey, books XIII-XXIV'' (Oxford), pp. 340-84. (Out of print)
* Severyns, A. 1928, ''Le cycle épique dans l'école d'Aristarque'' (Liège, Paris). (Out of print)
* Severyns, A. 1938, 1938, 1953, 1963, ''Recherches sur la "Chrestomathie" de Proclos'', 4 vols. (''Bibliothèque de la faculté de philosophie et lettres de l'université de Liège'' fascc. 78, 79, 132, 170; Paris). (Vols. 1 and 2 are on Photius, 3 and 4 on other MSS.)
* Severyns, A. 1962, ''Texte et apparat, histoire critique d'une tradition imprimée'' (Brussels).
==脚注==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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9,332 | バスク語 | バスク語(バスクご、euskara)は、スペインとフランスにまたがるバスク地方を中心に分布する孤立した言語で、おもにバスク人によって話されている。スペインのバスク州全域とナバラ州の一部ではスペイン語とともに公用語とされている。2006年現在、約66万5800人の話者がバスク地方に居住し、すべてスペイン語またはフランス語とのバイリンガルである。
文章は一般にラテン文字で表記される。音韻論的な特徴としては舌端音と舌尖音の区別があり、文法的な特徴としては能格と絶対格を使用する格の体系であることが挙げられる(能格言語)。語彙にはラテン語・スペイン語起源のものが多く見られる。
「バスク」の名は英語あるいはフランス語の basque の音訳であり、もともとはローマ帝国期に現在のスペインナバラ州やアラゴン州にいたヴァスコン人 (Vascones) の名に由来する。ヴァスコン人とバスク語話者は完全には一致していなかったと考えられているが、中世には Vascones という名称はバスク語を話す人々を指すために使われるようになった。スペイン語における伝統的な呼称 vascuence も「ヴァスコン人の」を意味するラテン語の vasconice に由来する。
バスク語では euskara といい、方言的な変異として euskera, eskuara, üskara, auskera などがある。この語と対比させて用いられる語に erdara(あるいは erdera )というものがある。「外国語」という意味で、かつては特にスペイン語またはフランス語を指して用いられたものだが、これは語源的に erdi「半分」と era「やり方」に分けられ、「舌足らずな話し方/不完全な言葉」という意味であったと考えられている。euskara の eusk- の方の意味ははっきりしていないが、ローマ帝国時代のアキテーヌにいたアウスキ人(羅:Ausci)に由来するという説や、「話す」という意味の動詞の再建形 *enau(t)s- に関係するという説がある。
方言は音韻・形態・語彙の地域的な変異が比較的大きく「村ごとに異なる」ともいわれる。伝統的には六つから九つに分類されてきた。
1998年にはバスク語学者のコルド・スアソによって再分類された。彼はいくつかの方言の呼称を改めたほか、低ナファロア方言とラプルディ方言を一つのグループにまとめ、エロンカリ方言と†サライツ方言(死語)を東部ナファロア方言として区別した。彼の分類によれば現在話されている方言は5方言に分けられる。
20世紀になってバスク語アカデミーによって標準語として制定された標準バスク語(Standard Basque)が、広く定着している。
バスク語は現存するどの言語とも系統関係が立証されていない孤立した言語であり、西ヨーロッパで唯一生き残ったインド=ヨーロッパ語族以前の言語(先印欧語)である。
紀元前58年に始まるガリア戦争以前から、現在のフランスアキテーヌ地域圏南部(当時のアクイタニア)にはアクイタニア人(英語版)が住んでいた。彼らの話していたアクイタニア語はバスク語の祖先かその近縁の言語である。同時代のイベリア半島で話されていた言語にはバスク語の祖先に当たるものは発見されていないが、ヴァスコン人など現在のバスク地方南部に住んでいた民族の一部がアクイタニア語を話していた可能性がある。アクイタニア語の南限については議論があり、現在のラ・リオハ州カラオラ辺りとする説やアラゴン州一帯とする説がある。
アクイタニア語はおそらくアクイタニアの多くの地域で早い時期に話されなくなったが、南西部では使われ続けた。ピレネー南部ではバスク地方全域に広がり、4世紀以降にはラ・リオハやブルゴス県付近にまで分布していたことが当時の地名から確認できる。
アクイタニア語を除けば、バスク語の使用を示す最古の文献は中世初期の碑文や写本である。バスク州ビスカヤ県エロリオにあるアルギニェタ墓地の墓石にはバスク語の名前が刻まれている。この碑文は883年のものとされている。また、ラ・リオハのサン・ミジャン修道院で見付かったラテン語の写本に付された注釈にはバスク語が用いられている。これはエミリアヌス注釈と呼ばれ、普通950年頃のものと考えられている。
10世紀以降、バスク語の人名や地名を記した文献が多く見られるようになる。おもに相続・寄付・納税などに関するラテン語の文書で、初期のものはアラバ県、ラ・リオハ、ブルゴス県で発見されたものが多い。また、ギプスコア県のオジャサバル修道院の遺贈に関する文書は1055年のもので、遺産の範囲に関する重要な語句がバスク語で書かれている。このような文書はとても珍しいものである。
バスク語と系統関係のあることが幅広く支持されている言語は、消滅したアクイタニア語だけである。
長期にわたって真剣に検討された仮説には以下のものがあるが、いずれもバスク語学者の支持を得ることはなく、反駁されている。
アフリカの言語のうち、ベルベル語など北アフリカで話されているものとバスク語の系統関係を提案する説は19世紀後半から見られる。ガーベレンツやシューハルトに始まり、オーストリアの言語学者ムカロフスキーが同系語を確定する試みを数点出版した。しかし、借用語・新語・存在しない語・幼児語・擬音語や、ベルベル語の一部でしか使われていない語を比較に用いる彼の手法は批判されており、この仮説を支持していないバスク語学者が多い。
バスク語をヨーロッパ諸言語の基層言語と関連づける考え方はフープシュミートに見られる。彼は印欧語族以前のヨーロッパの言語としてヨーロッパ=アフリカ語族とヒスパニア=コーカサス語族を想定し、バスク語はその名残であるとしたが、内的再建によって明らかになったバスク語の音変化と整合しない部分があり、問題がある。また近年ではフェネマンがヨーロッパの河川名に基づいてバスク語をヨーロッパ諸言語の基層言語として提案した。(バスコン基層語説を参照。)これもフープシュミートに対する批判と同様の観点から退けるバスク語学者が多い。
イベリア語は、イベリア半島東部・南東部を中心とした地域で使われていた言語で、紀元前6世紀から前1世紀にかけての金石文に記録が残っている。その大部分は独自のイベリア文字で書かれており、20世紀半ば、マヌエル・ゴメス=モレノ (Manuel Gómez-Moreno) によって初めて完全に解読された。
イベリア語とバスク語の系統関係を最初に明確に提案したのは、マヌエル・ララメンディ (Manuel Larramendi) である。彼は、1728年の La antigüedad y universalidad del Bascuenze en España で、イベリア語はバスク語の祖先であると主張した。この提案はパブロ・ペドロ・アスタルロア (Pablo Pedro Astarloa)、次いでヴィルヘルム・フォン・フンボルトに受け継がれた(Prüfung der Untersuchungen über die Urbewohner Hispaniens vermittelst der Vaskischen Sprache, 1821年)。
この時点では、イベリア語の解読はほとんど進んでいなかったので、バスク語とイベリア語の系統関係が具体的に検討されることはなかった。1893年にエミール・ヒュブナー (Emil Hübner) が既知のイベリア語文献を公刊したことで解読は少しずつ進み始めた。フーゴ・シューハルトは1908年の Die iberische Deklination でイベリア語の格変化を再構成し、バスク語の格変化と比較し、対応関係を見出した。しかし、このシューハルトの主張はいくつかの理由から否定されている。
20世紀前半にはゲルハルト・ベーア (Gerhard Bähr) がバスク語とイベリア語の系統関係を支持する証拠はほとんど無いという否定的な見解を示す一方、イベリア語の解読に精力的に取り組んだピオ・ベルトラン (Pío Beltrán) はこの仮説を支持した。
イベリア半島から遠く離れたカフカス山脈付近のカフカス諸語とバスク語と同語族を構成するという説がある。古くコーカサスはギリシャ・ローマ人より「イベリア」と呼ばれており、ここからスペインに移住した民族がバスク人の祖となり、イベリア半島の呼称もそこから来ているという説である。
さらに大規模には、シナ・チベット語族、ブルシャスキー語、デネ・エニセイ語族等も含めたデネ・コーカサス大語族仮説も存在する。
母音 / a i u e o / と、二重母音 / ai ei oi ui au eu / は多くの方言に存在する。これらの二重母音は、音声上は母音連続と区別されないが、音韻上は常に一つの音節として振る舞う。消滅したエロンカリ方言には対応する五つの鼻母音があった。またスベロア方言にはこの他に円唇前舌狭母音 /y/ と対応する六つの鼻母音がある。鼻母音の二重母音は / ãu ẽi ãi õi / がエロンカリ方言に見られたが、スベロア方言には無い。
無気無声破裂音 / p t k / は全ての方言にある。これに加えて無声硬口蓋破裂音 [c] が、西部では /t/ の異音、東部では独立の音素として存在する。北部には有気無声破裂音 / ph th kh / もある。
有声破裂音 / b d g / は全ての方言にある。音声上は対応する有声摩擦音や接近音となることが多い。有声硬口蓋破裂音 /ɟ/ を持つ方言が少しだけある。鼻音 / m n ɲ / は全ての方言にある。
歴史的には全ての方言に3種類の無声摩擦音が存在する。無声舌端歯茎摩擦音 /s̻/、無声舌尖歯茎摩擦音 /s̺/、無声歯茎硬口蓋摩擦音 /ɕ/ である。また、これらに対応する破擦音 /ts̻ ts̺ tɕ/ もある。フランス方言では /s̺ ts̺/ は無声舌尖後部歯茎音 [ʃ̺ tʃ̺] で発音される。/ɕ tɕ/ はしばしば /ʃ tʃ/ とも書かれる。西部では近年、舌尖/舌端の区別が失われている。この他に /f/ が多くの方言に見られる。ビスカヤ方言には有声舌端破裂音が、スベロア方言には有声舌尖破裂音が存在する。北部には /h/ もある。
ギプスコア方言やナファロア方言には次のような音素が見られる。
この他に、スベロア方言には有気閉鎖音、有声摩擦音、声門摩擦音、前舌円唇母音がある。
バスク語は普通ラテン文字で表記される。共通バスク語の正書法では、スペイン語アルファベットと同じく、基本字26文字に Ñ を加えた27文字が用いられる。このうち C, Q, V, W, Y の5文字は外来語の表記にのみ用いられる。この他 Ç が外来語の表記のために、Ü がスベロア方言の表記のために用いられる。
バスク語の綴り字法は原則として表音主義的であり、綴りと発音の対応関係は比較的分かりやすいものである。統一バスク語の綴り字とその一般的な発音を表に示す。
名詞句の構造は次のようになっている。
名詞句には必ずしも名詞が含まれなくてもよい。しかし限定詞は極少数の例外をのぞき必須である。修飾句と形容詞は複数回用いることができる。
限定詞には次のような語が含まれる。
定冠詞と指示詞にのみ数(単数と複数)の区別がある。
限定詞は「数詞+定冠詞」の場合のみ二つ用いることが可能である。
能格の例:Mendiak mendia behar ez du, baina gizonak gizona bai. 山は山を求めないが、人は人を求める。(ことわざ)
mendiak, gizonakのように-kのついたものが能格であり、つかないものが絶対格である。
バスク語は、他の欧米言語との共通点の少なさゆえに印欧系言語話者には習得が難しいとされる。
司馬遼太郎は、紀行文集『街道をゆく』の中で「ローマの神学生のあいだで創られたバスク語学習にちなむ“神話”」として、神からどんな罰を与えられても全くひるまなかった悪魔でさえ、3年間岩牢にこもってバスク語を勉強する罰を課されると神に許しを乞うた、という話を紹介している。
英語のジョークとして「悪魔がバスク人を誘惑するためにバスク語を習ったが、7年かかって覚えたのは『はい』と『いいえ』だけだった。」、この変形として「バスク人は決して悪魔の誘惑を受けて地獄には落ちない。なぜなら、悪魔はバスク語を話せないからだ。」といったものがある。
フランスのバイヨンヌにあるバスク民族博物館では、「かつて悪魔サタンは日本にいた。それがバスクの土地にやってきたのである」と挿絵入りの歴史が描かれているものが飾られている。同じく印欧系言語話者からみて習得の難しい日本語と重ね合わせている。 | [
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"text": "バスク語(バスクご、euskara)は、スペインとフランスにまたがるバスク地方を中心に分布する孤立した言語で、おもにバスク人によって話されている。スペインのバスク州全域とナバラ州の一部ではスペイン語とともに公用語とされている。2006年現在、約66万5800人の話者がバスク地方に居住し、すべてスペイン語またはフランス語とのバイリンガルである。",
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"text": "文章は一般にラテン文字で表記される。音韻論的な特徴としては舌端音と舌尖音の区別があり、文法的な特徴としては能格と絶対格を使用する格の体系であることが挙げられる(能格言語)。語彙にはラテン語・スペイン語起源のものが多く見られる。",
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"text": "「バスク」の名は英語あるいはフランス語の basque の音訳であり、もともとはローマ帝国期に現在のスペインナバラ州やアラゴン州にいたヴァスコン人 (Vascones) の名に由来する。ヴァスコン人とバスク語話者は完全には一致していなかったと考えられているが、中世には Vascones という名称はバスク語を話す人々を指すために使われるようになった。スペイン語における伝統的な呼称 vascuence も「ヴァスコン人の」を意味するラテン語の vasconice に由来する。",
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"text": "バスク語では euskara といい、方言的な変異として euskera, eskuara, üskara, auskera などがある。この語と対比させて用いられる語に erdara(あるいは erdera )というものがある。「外国語」という意味で、かつては特にスペイン語またはフランス語を指して用いられたものだが、これは語源的に erdi「半分」と era「やり方」に分けられ、「舌足らずな話し方/不完全な言葉」という意味であったと考えられている。euskara の eusk- の方の意味ははっきりしていないが、ローマ帝国時代のアキテーヌにいたアウスキ人(羅:Ausci)に由来するという説や、「話す」という意味の動詞の再建形 *enau(t)s- に関係するという説がある。",
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"text": "方言は音韻・形態・語彙の地域的な変異が比較的大きく「村ごとに異なる」ともいわれる。伝統的には六つから九つに分類されてきた。",
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"text": "1998年にはバスク語学者のコルド・スアソによって再分類された。彼はいくつかの方言の呼称を改めたほか、低ナファロア方言とラプルディ方言を一つのグループにまとめ、エロンカリ方言と†サライツ方言(死語)を東部ナファロア方言として区別した。彼の分類によれば現在話されている方言は5方言に分けられる。",
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"text": "20世紀になってバスク語アカデミーによって標準語として制定された標準バスク語(Standard Basque)が、広く定着している。",
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"text": "バスク語は現存するどの言語とも系統関係が立証されていない孤立した言語であり、西ヨーロッパで唯一生き残ったインド=ヨーロッパ語族以前の言語(先印欧語)である。",
"title": "歴史"
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"text": "紀元前58年に始まるガリア戦争以前から、現在のフランスアキテーヌ地域圏南部(当時のアクイタニア)にはアクイタニア人(英語版)が住んでいた。彼らの話していたアクイタニア語はバスク語の祖先かその近縁の言語である。同時代のイベリア半島で話されていた言語にはバスク語の祖先に当たるものは発見されていないが、ヴァスコン人など現在のバスク地方南部に住んでいた民族の一部がアクイタニア語を話していた可能性がある。アクイタニア語の南限については議論があり、現在のラ・リオハ州カラオラ辺りとする説やアラゴン州一帯とする説がある。",
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"text": "アクイタニア語はおそらくアクイタニアの多くの地域で早い時期に話されなくなったが、南西部では使われ続けた。ピレネー南部ではバスク地方全域に広がり、4世紀以降にはラ・リオハやブルゴス県付近にまで分布していたことが当時の地名から確認できる。",
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"text": "アクイタニア語を除けば、バスク語の使用を示す最古の文献は中世初期の碑文や写本である。バスク州ビスカヤ県エロリオにあるアルギニェタ墓地の墓石にはバスク語の名前が刻まれている。この碑文は883年のものとされている。また、ラ・リオハのサン・ミジャン修道院で見付かったラテン語の写本に付された注釈にはバスク語が用いられている。これはエミリアヌス注釈と呼ばれ、普通950年頃のものと考えられている。",
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"text": "10世紀以降、バスク語の人名や地名を記した文献が多く見られるようになる。おもに相続・寄付・納税などに関するラテン語の文書で、初期のものはアラバ県、ラ・リオハ、ブルゴス県で発見されたものが多い。また、ギプスコア県のオジャサバル修道院の遺贈に関する文書は1055年のもので、遺産の範囲に関する重要な語句がバスク語で書かれている。このような文書はとても珍しいものである。",
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"text": "バスク語と系統関係のあることが幅広く支持されている言語は、消滅したアクイタニア語だけである。",
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"text": "長期にわたって真剣に検討された仮説には以下のものがあるが、いずれもバスク語学者の支持を得ることはなく、反駁されている。",
"title": "系統"
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"text": "アフリカの言語のうち、ベルベル語など北アフリカで話されているものとバスク語の系統関係を提案する説は19世紀後半から見られる。ガーベレンツやシューハルトに始まり、オーストリアの言語学者ムカロフスキーが同系語を確定する試みを数点出版した。しかし、借用語・新語・存在しない語・幼児語・擬音語や、ベルベル語の一部でしか使われていない語を比較に用いる彼の手法は批判されており、この仮説を支持していないバスク語学者が多い。",
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"text": "バスク語をヨーロッパ諸言語の基層言語と関連づける考え方はフープシュミートに見られる。彼は印欧語族以前のヨーロッパの言語としてヨーロッパ=アフリカ語族とヒスパニア=コーカサス語族を想定し、バスク語はその名残であるとしたが、内的再建によって明らかになったバスク語の音変化と整合しない部分があり、問題がある。また近年ではフェネマンがヨーロッパの河川名に基づいてバスク語をヨーロッパ諸言語の基層言語として提案した。(バスコン基層語説を参照。)これもフープシュミートに対する批判と同様の観点から退けるバスク語学者が多い。",
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"text": "イベリア語は、イベリア半島東部・南東部を中心とした地域で使われていた言語で、紀元前6世紀から前1世紀にかけての金石文に記録が残っている。その大部分は独自のイベリア文字で書かれており、20世紀半ば、マヌエル・ゴメス=モレノ (Manuel Gómez-Moreno) によって初めて完全に解読された。",
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"text": "イベリア語とバスク語の系統関係を最初に明確に提案したのは、マヌエル・ララメンディ (Manuel Larramendi) である。彼は、1728年の La antigüedad y universalidad del Bascuenze en España で、イベリア語はバスク語の祖先であると主張した。この提案はパブロ・ペドロ・アスタルロア (Pablo Pedro Astarloa)、次いでヴィルヘルム・フォン・フンボルトに受け継がれた(Prüfung der Untersuchungen über die Urbewohner Hispaniens vermittelst der Vaskischen Sprache, 1821年)。",
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"text": "この時点では、イベリア語の解読はほとんど進んでいなかったので、バスク語とイベリア語の系統関係が具体的に検討されることはなかった。1893年にエミール・ヒュブナー (Emil Hübner) が既知のイベリア語文献を公刊したことで解読は少しずつ進み始めた。フーゴ・シューハルトは1908年の Die iberische Deklination でイベリア語の格変化を再構成し、バスク語の格変化と比較し、対応関係を見出した。しかし、このシューハルトの主張はいくつかの理由から否定されている。",
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"text": "20世紀前半にはゲルハルト・ベーア (Gerhard Bähr) がバスク語とイベリア語の系統関係を支持する証拠はほとんど無いという否定的な見解を示す一方、イベリア語の解読に精力的に取り組んだピオ・ベルトラン (Pío Beltrán) はこの仮説を支持した。",
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"text": "イベリア半島から遠く離れたカフカス山脈付近のカフカス諸語とバスク語と同語族を構成するという説がある。古くコーカサスはギリシャ・ローマ人より「イベリア」と呼ばれており、ここからスペインに移住した民族がバスク人の祖となり、イベリア半島の呼称もそこから来ているという説である。",
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"text": "さらに大規模には、シナ・チベット語族、ブルシャスキー語、デネ・エニセイ語族等も含めたデネ・コーカサス大語族仮説も存在する。",
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"text": "母音 / a i u e o / と、二重母音 / ai ei oi ui au eu / は多くの方言に存在する。これらの二重母音は、音声上は母音連続と区別されないが、音韻上は常に一つの音節として振る舞う。消滅したエロンカリ方言には対応する五つの鼻母音があった。またスベロア方言にはこの他に円唇前舌狭母音 /y/ と対応する六つの鼻母音がある。鼻母音の二重母音は / ãu ẽi ãi õi / がエロンカリ方言に見られたが、スベロア方言には無い。",
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"text": "無気無声破裂音 / p t k / は全ての方言にある。これに加えて無声硬口蓋破裂音 [c] が、西部では /t/ の異音、東部では独立の音素として存在する。北部には有気無声破裂音 / ph th kh / もある。",
"title": "音素"
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"text": "有声破裂音 / b d g / は全ての方言にある。音声上は対応する有声摩擦音や接近音となることが多い。有声硬口蓋破裂音 /ɟ/ を持つ方言が少しだけある。鼻音 / m n ɲ / は全ての方言にある。",
"title": "音素"
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"text": "歴史的には全ての方言に3種類の無声摩擦音が存在する。無声舌端歯茎摩擦音 /s̻/、無声舌尖歯茎摩擦音 /s̺/、無声歯茎硬口蓋摩擦音 /ɕ/ である。また、これらに対応する破擦音 /ts̻ ts̺ tɕ/ もある。フランス方言では /s̺ ts̺/ は無声舌尖後部歯茎音 [ʃ̺ tʃ̺] で発音される。/ɕ tɕ/ はしばしば /ʃ tʃ/ とも書かれる。西部では近年、舌尖/舌端の区別が失われている。この他に /f/ が多くの方言に見られる。ビスカヤ方言には有声舌端破裂音が、スベロア方言には有声舌尖破裂音が存在する。北部には /h/ もある。",
"title": "音素"
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"text": "ギプスコア方言やナファロア方言には次のような音素が見られる。",
"title": "音素"
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"text": "この他に、スベロア方言には有気閉鎖音、有声摩擦音、声門摩擦音、前舌円唇母音がある。",
"title": "音素"
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"text": "バスク語は普通ラテン文字で表記される。共通バスク語の正書法では、スペイン語アルファベットと同じく、基本字26文字に Ñ を加えた27文字が用いられる。このうち C, Q, V, W, Y の5文字は外来語の表記にのみ用いられる。この他 Ç が外来語の表記のために、Ü がスベロア方言の表記のために用いられる。",
"title": "表記"
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"text": "バスク語の綴り字法は原則として表音主義的であり、綴りと発音の対応関係は比較的分かりやすいものである。統一バスク語の綴り字とその一般的な発音を表に示す。",
"title": "表記"
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"text": "名詞句の構造は次のようになっている。",
"title": "文法"
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"text": "名詞句には必ずしも名詞が含まれなくてもよい。しかし限定詞は極少数の例外をのぞき必須である。修飾句と形容詞は複数回用いることができる。",
"title": "文法"
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"text": "限定詞には次のような語が含まれる。",
"title": "文法"
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"text": "定冠詞と指示詞にのみ数(単数と複数)の区別がある。",
"title": "文法"
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"tag": "p",
"text": "限定詞は「数詞+定冠詞」の場合のみ二つ用いることが可能である。",
"title": "文法"
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{
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"text": "能格の例:Mendiak mendia behar ez du, baina gizonak gizona bai. 山は山を求めないが、人は人を求める。(ことわざ)",
"title": "例文"
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{
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"text": "mendiak, gizonakのように-kのついたものが能格であり、つかないものが絶対格である。",
"title": "例文"
},
{
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"text": "バスク語は、他の欧米言語との共通点の少なさゆえに印欧系言語話者には習得が難しいとされる。",
"title": "バスク語学習の神話"
},
{
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"tag": "p",
"text": "司馬遼太郎は、紀行文集『街道をゆく』の中で「ローマの神学生のあいだで創られたバスク語学習にちなむ“神話”」として、神からどんな罰を与えられても全くひるまなかった悪魔でさえ、3年間岩牢にこもってバスク語を勉強する罰を課されると神に許しを乞うた、という話を紹介している。",
"title": "バスク語学習の神話"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "英語のジョークとして「悪魔がバスク人を誘惑するためにバスク語を習ったが、7年かかって覚えたのは『はい』と『いいえ』だけだった。」、この変形として「バスク人は決して悪魔の誘惑を受けて地獄には落ちない。なぜなら、悪魔はバスク語を話せないからだ。」といったものがある。",
"title": "バスク語学習の神話"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "フランスのバイヨンヌにあるバスク民族博物館では、「かつて悪魔サタンは日本にいた。それがバスクの土地にやってきたのである」と挿絵入りの歴史が描かれているものが飾られている。同じく印欧系言語話者からみて習得の難しい日本語と重ね合わせている。",
"title": "バスク語学習の神話"
}
] | バスク語(バスクご、euskara)は、スペインとフランスにまたがるバスク地方を中心に分布する孤立した言語で、おもにバスク人によって話されている。スペインのバスク州全域とナバラ州の一部ではスペイン語とともに公用語とされている。2006年現在、約66万5800人の話者がバスク地方に居住し、すべてスペイン語またはフランス語とのバイリンガルである。 | {{Infobox Language|name=バスク語
|nativename=Euskara
|pronunciation={{IPA|ews̺kaɾa}}
|familycolor=孤立
|states={{ESP}}<br />{{FRA}}など
|region=バスク地方
|ethnicity=[[バスク人]]
|speakers=66万5800人
|fam1=[[孤立した言語]]([[バスク語族]])
|stand1='''[[共通バスク語]]'''
|dia1=[[ビスカヤ方言]]
|dia2=[[ギプスコア方言]]
|dia3=[[高ナファロア方言]]
|dia4=[[低ナファロア方言]]
|dia5=[[ラプルディ方言]]
|dia6=[[スベロア方言]]
|script=[[ラテン文字]]([[バスク語アルファベット]])
|nation={{EUS}}<br />{{Flagicon|Navarra}} [[ナバラ州]]の一部
|agency={{flagicon|ESP}} [[エウスカルツァインディア]]
|iso1=eu
|iso2b=baq
|iso2t=eus
|iso3=eus
|vitality=脆弱
}}
'''バスク語'''(バスクご、euskara)は、[[スペイン]]と[[フランス]]にまたがる[[バスク地方]]を中心に分布する[[孤立した言語]]で、おもに[[バスク人]]によって話されている。スペインの[[バスク州]]全域と[[ナバラ州]]の一部では[[スペイン語]]とともに公用語とされている。2006年現在、約66万5800人の話者がバスク地方に居住し、すべてスペイン語または[[フランス語]]との[[二言語話者|バイリンガル]]である<ref>Eusko Jaularitza 2008: 202.</ref>。
==特徴==
文章は一般に[[ラテン文字]]で表記される。[[音韻論]]的な特徴としては[[舌端音]]と[[舌尖音]]の区別があり、文法的な特徴としては[[能格]]と[[絶対格]]を使用する[[格]]の体系であることが挙げられる([[能格言語]])。[[語彙]]には[[ラテン語]]・[[スペイン語]]起源のものが多く見られる。
===言語名===
「バスク」の名は[[英語]]あるいは[[フランス語]]の ''basque'' の音訳であり、もともとは[[ローマ帝国]]期に現在のスペイン[[ナバラ州]]や[[アラゴン州]]にいた[[ヴァスコン人]] (Vascones) の名に由来する。ヴァスコン人とバスク語話者は完全には一致していなかったと考えられているが、中世には ''Vascones'' という名称はバスク語を話す人々を指すために使われるようになった。[[スペイン語]]における伝統的な呼称 ''vascuence'' も「ヴァスコン人の」を意味するラテン語の ''vasconice'' に由来する。
バスク語では ''euskara'' といい、方言的な変異として ''euskera'', ''eskuara'', ''üskara'', ''auskera'' などがある。この語と対比させて用いられる語に ''erdara''(あるいは ''erdera'' )というものがある。「外国語」という意味で、かつては特にスペイン語またはフランス語を指して用いられたものだが、これは語源的に ''erdi''「半分」と ''era''「やり方」に分けられ、「舌足らずな話し方/不完全な言葉」という意味であったと考えられている。''euskara'' の ''eusk-'' の方の意味ははっきりしていないが、ローマ帝国時代の[[アキテーヌ]]にいたアウスキ人(羅:Ausci)に由来するという説や、「話す」という意味の動詞の再建形 *''enau(t)s-''
に関係するという説がある。
== 方言と標準バスク語 ==
[[ファイル:Euskalkiak.svg|right|330px|thumb|バスク語の方言
{|style="border:1px solid #CCCCCC; background-color:transparent;" align="center" width="100%"
|width="50%"|
{{legend|#8abf74|ビスカヤ方言}}
{{legend|#ce6f59|ギプスコア方言}}
{{legend|#6193d1|高ナファロア方言}}
{{legend|#d0ae65|低ナファロア方言}}
|width="50%"|
{{legend|#e995e8|ラプルディ方言}}
{{legend|#cade87|スベロア方言}}
{{legend|#bdf9f0|[[死語 (言語)|†]]エロンカリ方言}}
色の薄くなっているところは19世紀の使用域
|}]]
[[ファイル:Euskalkiak koldo zuazo 2008.png|right|330px|thumb|[[コルド・スアソ]]による現代バスク語諸方言の分類
{| style="border:1px solid #CCCCCC; background-color:transparent;" align="center" width="100%"
|width="37%"|
{{legend|#789244|西部方言}}{{legend|#cd5858|中央方言}}{{legend|#5c90cf|ナファロア方言}}
|width="63%"|
{{legend|#c39d4d|ナファロア=ラプルディ方言}}{{legend|#d2d25e|スベロア方言}}{{legend|#888888|19世紀のバスク語使用域}}
|}]]
[[方言]]は音韻・形態・語彙の地域的な変異が比較的大きく「村ごとに異なる」ともいわれる<ref>GB: 3</ref>。伝統的には六つから九つに分類されてきた。
*[[ビスカヤ方言]]
*{{仮リンク|ギプスコア方言|en|Gipuzkoan dialect}}
*{{仮リンク|高ナファロア方言|en|Upper Navarrese dialect}}(北・南)
*{{仮リンク|低ナファロア方言|en|Navarro-Lapurdian dialect}}(東・西)
*{{仮リンク|ラプルディ方言|en|Navarro-Lapurdian dialect}}
*{{仮リンク|スベロア方言|en|Souletin dialect}}(スベロア方言・[[死語 (言語)|†]][[エロンカリ方言]])
1998年にはバスク語学者の[[コルド・スアソ]]によって再分類された。彼はいくつかの方言の呼称を改めたほか、低ナファロア方言とラプルディ方言を一つのグループにまとめ、エロンカリ方言と†[[サライツ方言]](死語)を東部ナファロア方言として区別した。彼の分類によれば現在話されている方言は5方言に分けられる。
;ビスカヤ方言
:[[ビスカヤ県]]中・東部、[[アラバ県]]北部、[[ギプスコア県]]南西部で話されている。スアソは西部方言と呼び、4変種を区別している。
;ギプスコア方言
:ギプスコア県と[[ナバラ州]]バサブルア周辺で話されている。スアソは中央方言と呼び、4変種を区別している。
;高ナファロア方言
:ナバラ州中北部と同州サカナ周辺で話されている。スアソはナファロア方言と呼び、7変種を区別している。
;低ナファロア方言
:[[バス=ナヴァール]]で話されている。スアソはラプルディ方言とともにナファロア=ラプルディ方言と呼んで5変種を区別している。そのうち二つが低ナファロア方言に該当する。アミクセ方言は[[ガスコーニュ語]]の強い影響を受けており<ref>[[w:Martin Haase|Haase]] 1992.</ref>、マルコム・ロス([[w:Malcolm Ross (linguist)|Malcolm Ross]])が[[メタティピー]]の例として取りあげている<ref>Ross 2007.</ref>。
;ラプルディ方言
:[[ラブール]]で話されている。スアソのナファロア=ラプルディ方言のうち3変種がこれに該当する。
;スベロア方言
:[[スール (フランス)|スール]]で話されている。[[ベアルン語]]の影響を受けている。
===標準バスク語===
20世紀になって[[バスク語アカデミー]]によって[[標準語]]として制定された'''[[標準バスク語]]'''(Standard Basque)が、広く定着している。
== 歴史 ==
[[File:Linguistic map Southwestern Europe-II.gif|thumb|330px
|[[イベリア半島]]周辺の言語分布の変遷<br>{{legend|#842727|バスク語}}
]]
バスク語は現存するどの言語とも系統関係が立証されていない[[孤立した言語]]であり、西ヨーロッパで唯一生き残った[[インド=ヨーロッパ語族]]以前の言語([[先印欧語]])である<ref>Trask 1997: 35.</ref>。
[[紀元前58年]]に始まる[[ガリア戦争]]以前から、現在のフランス[[アキテーヌ地域圏]]南部(当時のアクイタニア)には{{仮リンク|アクイタニア人|en|Aquitani}}が住んでいた。彼らの話していた[[アクイタニア語]]はバスク語の祖先かその近縁の言語である。同時代のイベリア半島で話されていた言語にはバスク語の祖先に当たるものは発見されていないが、[[ヴァスコン人]]など現在のバスク地方南部に住んでいた民族の一部がアクイタニア語を話していた可能性がある<ref>Trask 1997: 36.</ref>。アクイタニア語の南限については議論があり、現在の[[ラ・リオハ州 (スペイン)|ラ・リオハ州]][[カラオラ]]辺りとする説や[[アラゴン州]]一帯とする説がある<ref>Trask 1997: 38.</ref>。
アクイタニア語はおそらくアクイタニアの多くの地域で早い時期に話されなくなったが、南西部では使われ続けた。ピレネー南部ではバスク地方全域に広がり、[[4世紀]]以降にはラ・リオハや[[ブルゴス県]]付近にまで分布していたことが当時の地名から確認できる<ref>Trask 1997: 39.</ref>。
アクイタニア語を除けば、バスク語の使用を示す最古の文献は中世初期の碑文や写本である。バスク州[[ビスカヤ県]][[エロリオ]]にあるアルギニェタ墓地の墓石にはバスク語の名前が刻まれている。この碑文は[[883年]]のものとされている。また、ラ・リオハの[[サン・ミジャンのユソ修道院とスソ修道院|サン・ミジャン修道院]]で見付かったラテン語の写本に付された注釈にはバスク語が用いられている。これはエミリアヌス注釈と呼ばれ、普通950年頃のものと考えられている<ref>Trask 1997: 41f.</ref>。
[[10世紀]]以降、バスク語の人名や地名を記した文献が多く見られるようになる。おもに相続・寄付・納税などに関するラテン語の文書で、初期のものは[[アラバ県]]、ラ・リオハ、ブルゴス県で発見されたものが多い。また、[[ギプスコア県]]のオジャサバル修道院の遺贈に関する文書は[[1055年]]のもので、遺産の範囲に関する重要な語句がバスク語で書かれている。このような文書はとても珍しいものである<ref>Trask 1997: 42f.</ref>。
== 系統 ==
バスク語と系統関係のあることが幅広く支持されている言語は、消滅した[[アクイタニア語]]だけである<ref>Trask 1997: 398.</ref>。
長期にわたって真剣に検討された仮説には以下のものがあるが、いずれもバスク語学者の支持を得ることはなく、反駁されている<ref>Trask 1997: 358ff.</ref>。
#アフリカの言語、特に[[アフロ・アジア語族]]([[ベルベル語]]など)と同系である。
#ヨーロッパ諸言語の[[基層語]]がバスク語である。
#[[インド=ヨーロッパ語族]]である。
#[[イベリア語]]がバスク語の祖先である。
#[[コーカサス諸語]]と同系である。
===アフリカの言語===
アフリカの言語のうち、[[ベルベル語]]など北アフリカで話されているものとバスク語の系統関係を提案する説は19世紀後半から見られる。[[ゲオルク・フォン・デア・ガーベレンツ|ガーベレンツ]]<ref>Gabelentz 1894.</ref>や[[フーゴー・シューハルト|シューハルト]]<ref>Schuchardt 1913, 1914-1917.</ref>に始まり、オーストリアの言語学者ムカロフスキー<ref>[[:de:Hans Günther Mukarovsky|Mukarovsky]] 1963-1964, 1969, 1981.</ref>が同系語を確定する試みを数点出版した。しかし、借用語・新語・存在しない語・幼児語・擬音語や、ベルベル語の一部でしか使われていない語を比較に用いる彼の手法は批判されており、この仮説を支持していないバスク語学者が多い<ref name=trask1997/>{{rp|361ff.}}。
===ヨーロッパの基層語===
バスク語をヨーロッパ諸言語の[[基層言語]]と関連づける考え方はフープシュミート<ref>[[:ca:Johannes Hubschmid|Hubschmid]] 1953, 1955</ref>に見られる。彼は印欧語族以前のヨーロッパの言語としてヨーロッパ=アフリカ語族とヒスパニア=コーカサス語族を想定し、バスク語はその名残であるとしたが、[[内的再建]]によって明らかになったバスク語の音変化と整合しない部分があり、問題がある<ref>Trask 1997: 365.</ref>。また近年ではフェネマン<ref>[[w:Theo Vennemann|Vennemann]] 1994.</ref>がヨーロッパの河川名に基づいてバスク語をヨーロッパ諸言語の基層言語として提案した。([[バスコン基層語説]]を参照。)これもフープシュミートに対する批判と同様の観点から退けるバスク語学者が多い。
===イベリア語===
[[Image:WilhelmvonHumboldt.jpg|thumb|120px|[[ヴィルヘルム・フォン・フンボルト|フンボルト]]]]
[[イベリア語]]は、[[イベリア半島]]東部・南東部を中心とした地域で使われていた言語で、[[紀元前6世紀]]から[[紀元前1世紀|前1世紀]]にかけての[[金石文]]に記録が残っている。その大部分は独自の[[イベリア文字]]で書かれており、20世紀半ば、[[マヌエル・ゴメス=モレノ]] (Manuel Gómez-Moreno) によって初めて完全に解読された<ref name=trask1997/>{{rp|378, 380}}。
イベリア語とバスク語の系統関係を最初に明確に提案したのは、[[マヌエル・ララメンディ]] (Manuel Larramendi) である。彼は、[[1728年]]の ''La antigüedad y universalidad del Bascuenze en España'' で、イベリア語はバスク語の祖先であると主張した。この提案は[[パブロ・ペドロ・アスタルロア]] (Pablo Pedro Astarloa)、次いで[[ヴィルヘルム・フォン・フンボルト]]に受け継がれた(''Prüfung der Untersuchungen über die Urbewohner Hispaniens vermittelst der Vaskischen Sprache'', [[1821年]])<ref name=trask1997/>{{rp|379}}。
この時点では、イベリア語の解読はほとんど進んでいなかったので、バスク語とイベリア語の系統関係が具体的に検討されることはなかった。[[1893年]]に[[エミール・ヒュブナー]] (Emil Hübner) が既知のイベリア語文献を公刊したことで解読は少しずつ進み始めた。[[フーゴ・シューハルト]]は[[1908年]]の ''Die iberische Deklination'' でイベリア語の[[格変化]]を再構成し、バスク語の格変化と比較し、対応関係を見出した。しかし、このシューハルトの主張はいくつかの理由から否定されている<ref name=trask1997/>{{rp|379f.}}。
[[20世紀]]前半には[[ゲルハルト・ベーア]] (Gerhard Bähr) がバスク語とイベリア語の系統関係を支持する証拠はほとんど無いという否定的な見解を示す一方、イベリア語の解読に精力的に取り組んだ[[ピオ・ベルトラン]] (Pío Beltrán) はこの仮説を支持した。
===コーカサス諸語===
イベリア半島から遠く離れた[[カフカス山脈]]付近の[[カフカス諸語]]とバスク語と同語族を構成するという説がある<ref>[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%A4%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%AB%E3%82%B9%E8%AA%9E%E6%97%8F/ イベリア・カフカス語族 - Yahoo!百科事典]</ref>。古くコーカサスは[[ギリシャ人|ギリシャ]]・[[ローマ人]]より「イベリア」と呼ばれており、ここから[[スペイン]]に移住した民族が[[バスク人]]の祖となり、[[イベリア半島]]の呼称もそこから来ているという説である。
さらに大規模には、[[シナ・チベット語族]]、[[ブルシャスキー語]]、[[デネ・エニセイ語族]]等も含めた[[デネ・コーカサス大語族]]仮説も存在する。
==音素==
母音 {{ipa| a i u e o }} と、[[二重母音]] {{ipa| ai ei oi ui au eu }} は多くの方言に存在する。これらの二重母音は、音声上は母音連続と区別されないが、音韻上は常に一つの音節として振る舞う。消滅した[[エロンカリ方言]]には対応する五つの鼻母音があった。また[[スベロア方言]]にはこの他に[[円唇前舌狭母音]] {{ipa|y}} と対応する六つの鼻母音がある。鼻母音の二重母音は {{ipa| ãu ẽi ãi õi }} がエロンカリ方言に見られたが、スベロア方言には無い。
無気無声破裂音 {{ipa| p t k }} は全ての方言にある。これに加えて[[無声硬口蓋破裂音]] [c] が、西部では {{ipa|t}} の異音、東部では独立の音素として存在する。北部には有気無声破裂音 {{ipa| pʰ tʰ kʰ }} もある。
有声破裂音 {{ipa| b d g }} は全ての方言にある。音声上は対応する有声摩擦音や接近音となることが多い。[[有声硬口蓋破裂音]] {{ipa|ɟ}} を持つ方言が少しだけある。鼻音 {{ipa| m n ɲ }} は全ての方言にある。
歴史的には全ての方言に3種類の[[無声音|無声]][[摩擦音]]が存在する。無声[[舌端音|舌端]][[無声歯茎摩擦音|歯茎摩擦音]] {{ipa|s̻}}、無声[[舌尖音|舌尖]]歯茎摩擦音 {{ipa|s̺}}、[[無声歯茎硬口蓋摩擦音]] {{ipa|ɕ}} である。また、これらに対応する破擦音 {{ipa|ts̻ ts̺ tɕ}} もある。フランス方言では {{ipa|s̺ ts̺}} は無声舌尖後部歯茎音 {{IPA|ʃ̺ tʃ̺}} で発音される。{{ipa|ɕ tɕ}} はしばしば {{ipa|ʃ tʃ}} とも書かれる。西部では近年、舌尖/舌端の区別が失われている。この他に {{ipa|f}} が多くの方言に見られる。[[ビスカヤ方言]]には有声舌端破裂音が、[[スベロア方言]]には有声舌尖破裂音が存在する。北部には {{ipa|h}} もある。
ギプスコア方言やナファロア方言には次のような音素が見られる<ref>GB: 15.</ref>。
{| class="infobox" style="float:none;"
|-
!colspan="2"|音素の一覧(ギプスコア方言・ナファロア方言)
|-
|
{| style="text-align:center;"
|-
!子音
!style="width:3.5em;"|[[唇音]]
![[舌尖音]]
![[舌端音]]
!前部[[舌背音]]
!後部舌背音
|-
!rowspan="2"|[[閉鎖音]]
|p
|t
|
|c
|k
|-
|b
|d
|
|class=IPA|ɟ
|g
|-
![[鼻音]]
|m
|n
|
|ɲ
|
|-
![[摩擦音]]
|f
|class=IPA|s̺
|class=IPA|s̻
|class=IPA|ʃ
|x
|-
![[破擦音]]
|
|class=IPA|ts̺
|class=IPA|ts̻
|class=IPA|tʃ
|
|-
![[側面接近音]]
|
|l
|
|class=IPA|ʎ
|
|-
![[はじき音]]
|
|class=IPA|ɾ
|
|
|
|-
![[ふるえ音]]
|
|r
|
|
|
|}
||
{| style="text-align:center;"
|-
!colspan="3"|母音
|-
|style="width:3.5em;"|i||style="width:3.5em;"| ||style="width:3.5em;"|u
|-
|e|| ||o
|-
| ||a ||
|}
|}
この他に、スベロア方言には有気閉鎖音、有声摩擦音、声門摩擦音、前舌円唇母音がある<ref>GB: 18.</ref>。
{| class="infobox" style="float:none;"
|-
!colspan="2"|音素の一覧(スベロア方言)
|-
|
{| style="text-align:center;"
|-
!子音
!style="width:3.5em;"|[[唇音]]
![[舌尖音]]
![[舌端音]]
!前部[[舌背音]]
!後部舌背音
![[声門音]]
|-
!rowspan="3"|[[閉鎖音]]
|p
|t
|
|c
|k
|
|-
|class=IPA|pʰ
|class=IPA|tʰ
|
|
|class=IPA|kʰ
|
|-
|b
|d
|
|class=IPA|ɟ
|g
|
|-
![[鼻音]]
|m
|n
|
|class=IPA|ɲ
|
|
|-
!rowspan="2"|[[摩擦音]]
|f
|class=IPA|s̺
|class=IPA|s̻
|class=IPA|ʃ
|
|h
|-
|
|class=IPA|z̻
|class=IPA|z̪
|class=IPA|ʒ
|
|class=IPA|h̃
|-
![[破擦音]]
|
|class=IPA|ts̺
|class=IPA|ts̻
|class=IPA|tʃ
|
|-
![[側面接近音]]
|
|l
|
|class=IPA|ʎ
|
|-
![[ふるえ音]]
|
|r
|
|
|
|}
||
{| style="text-align:center;"
|-
!colspan="3"|母音
|-
|style="width:3.5em;"|i y||style="width:3.5em;"| ||style="width:3.5em;"|u
|-
|e|| ||o
|-
| ||a ||
|}
|}
===主な音韻交替===
====母音====
;低母音 {{ipa|a}} の同化 (a→e / V<sup>[+high]</sup>C<sub>0</sub>__)
:低母音 {{ipa|a}} が高母音 {{ipa|i, u}} を含む音節の後で {{ipa|e}} と交替する。ビスカヤで話されている全ての方言と、ギプスコア方言・ナファロア方言の多くに見られる<ref>GB: 46.</ref>。
:*gizon='''a'''「男(単数)」→lagun='''e'''「仲間(単数)」
:*gizon b'''a'''t「ある男」→lagun b'''e'''t「ある仲間」
:*joan d'''a'''「行った」→etorri d'''e'''「来た」
:*dute-l'''a'''「彼らがそれを持っている(補文)」→dugu-l'''e'''「私達がそれを持っている(補文)」
;中母音 {{ipa|e, o}} の上昇 ([−low]→[+high] / __V)
:中母音 {{ipa|e, o}} が他の母音の前で高母音 {{ipa|i, u}} と交替する。共通バスク語を除くほとんど全ての方言で観察できる。[[ゲルニカ]]の方言やナファロア方言・ラプルディ方言の一部では {{ipa|e}} だけが高母音化し、{{ipa|o}} はしない。{{ipa|o}} だけが高母音化する方言は見つかっていない<ref>GB: 47f.</ref>。
:*etx'''e'''「家」→etx'''i'''-ak「家(複数)」、etx'''i'''=en「家(複数)の」、etx'''i'''=on「この家(複数)の」
:*kal'''e'''「街」→kal'''i'''-ak「街(複数)」、kal'''i'''=en「街(複数)の」、kal'''i'''=on「この街(複数)の」
:*bas'''o'''「森」→bas'''u'''-ak「森(複数)」、bas'''u'''=en「森(複数)の」、bas'''u'''=on「この森(複数)の」
:*itas'''o'''「海」→itsas'''u'''-ak「海(複数)」、itsas'''u'''=en「海(複数)の」、itsas'''u'''=on「この海(複数)の」
;子音/半母音の挿入
:高母音の後に半母音や子音が挿入される。
;語幹末の低母音 {{ipa|a}} の削除/上昇
:語幹末の {{ipa|a}} が母音始まりの接辞の前で削除される。または {{ipa|i, e}} と交替する。
==表記==
===文字===
バスク語は普通[[ラテン文字]]で表記される。'''共通バスク語'''の正書法では、[[スペイン語アルファベット]]と同じく、基本字26文字に [[Ñ]] を加えた27文字が用いられる。このうち C, Q, V, W, Y の5文字は[[外来語]]の表記にのみ用いられる。この他 [[Ç]] が外来語の表記のために、[[Ü]] が[[スベロア方言]]の表記のために用いられる。
{{バスク語アルファベット}}
===綴りと発音===
バスク語の[[綴り字]]法は原則として表音主義的であり、綴りと発音の対応関係は比較的分かりやすいものである。[[統一バスク語]]の綴り字とその一般的な発音を表に示す。
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
|-
! 綴り字 !! 発音 ([[国際音声記号|IPA]]) !! 発音の仕方 !! 語例
|-
| a || {{IPA|a}} || [[日本語]]のアよりやや前寄り || ama {{IPA|ama}}「母」
|-
| 母音間の b || {{IPA|β}} || || labe {{IPA|laβe}}「オーブン」
|-
| それ以外の b || {{IPA|b}} || 日本語のバ行子音 || enbor {{IPA|embor}}「丸太」
|-
| 母音間の d || {{IPA|ð}} || [[有声歯摩擦音]]<br />[[舌尖]]と歯の裏による[[有声]]の[[摩擦音]] || idi {{IPA|iði}}「雄牛」
|-
| それ以外の d || {{IPA|d}} || 日本語のダ、デ、ドの子音 || dike {{IPA|dike}}「堤防」
|-
| dd || {{IPA|ʝ}}~{{IPA|ɟ}} || [[有声硬口蓋摩擦音]]または[[有声硬口蓋破裂音|破裂音]] || onddo {{IPA|onʝo}}~{{IPA|onɟo}}「きのこ」
|-
| e || {{IPA|e}} || 日本語のエよりやや前寄り || eme {{IPA|eme}}「雌」
|-
| f || {{IPA|f}} || [[英語]]の /f/ || kafe {{IPA|kafe}}「コーヒー」
|-
| 母音間の g || {{IPA|ɣ}} || [[有声軟口蓋摩擦音]]<br />日本語のガ行子音と同じ位置の有声摩擦音 || lege {{IPA|leɣe}}「法律」
|-
| それ以外の g || {{IPA|g}} || 日本語のガ行子音 || gamelu {{IPA|gamelu}}「ラクダ」
|-
| rowspan="2" | h || {{IPA| }} || 発音しない || aho {{IPA|ao}}「口」
|-
| {{IPA|h}} || (北東部の方言話者)英語の /h/ || aho {{IPA|aho}}(同上)
|-
| 単母音の i || {{IPA|i}} || 日本語のイ || mami {{IPA|mami}}「パンの身」
|-
| 二重母音の i || {{IPA|j}} || 日本語のヤ行子音 || amai {{IPA|amaj}}「終わり」
|-
| rowspan="2" | j || {{IPA|x}} || (西部方言の話者)奥寄りの[[無声軟口蓋摩擦音]] || jaboi {{IPA|xaβoj}}「石鹸」
|-
| {{IPA|j̝}}~{{IPA|ʝ}}~{{IPA|ɟ}} || || jaboi {{IPA|j̝aβoj}}~{{IPA|ʝaβoj}}~{{IPA|ɟaβoj}}(同上)
|-
| k || {{IPA|k}} || 日本語のカ行子音 || kamino {{IPA|kamino}}「道路」
|-
| l || {{IPA|l}} || 英語の /l/ より前寄り || lagun {{IPA|laɣun}}「友人」
|-
| i の後ろの l || {{IPA|l}}~{{IPA|ʎ}} || 上または下のどちらかで発音される || mutil {{IPA|mutil}}~{{IPA|mutiʎ}}「少年」
|-
| ll || {{IPA|ʎ}} || [[硬口蓋側面接近音]] || galleta {{IPA|gaʎeta}}「ビスケット」
|-
| m || {{IPA|m}} || 日本語のマ行子音 || mendi {{IPA|mendi}}「山」
|-
| 母音の前の n || {{IPA|n}} || 日本語のナ行子音 || nini {{IPA|nini}}「瞳」
|-
| 子音の前の n || [[同器官的|同器官]]の[[鼻音]] || 日本語のン || kanpo {{IPA|kampo}}「野外」<br />banku {{IPA|baŋku}}「銀行」
|-
| ñ || {{IPA|ɲ}} || [[硬口蓋鼻音]]<br />舌先を下の歯の裏につけて n の発音をする<br />ニャ行子音に近い || andereño {{IPA|andeɾeɲo}}「小学校の女の先生」
|-
| o || {{IPA|o}} || 日本語のオよりやや丸めが強い || oro {{IPA|oɾo}}「全ての」
|-
| p || {{IPA|p}} || 日本語のパ行子音 || pago {{IPA|paɣo}}「ブナノキ」
|-
| 母音間の r || {{IPA|ɾ}} || 日本語の語中のラ行子音 || aro {{IPA|aɾo}}「時代」
|-
| それ以外の r || rowspan="2" | {{IPA|r}} || rowspan="2" | 巻き舌の r || erdi {{IPA|erdi}}「半分」
|-
| rr || errege {{IPA|ereɣe}}「王」
|-
| s || {{IPA|s̺}} || [[舌尖音]]の s<br />舌尖を歯茎に付けて s を発音する || soka {{IPA|s̺oka}}「ロープ」
|-
| 有声子音の前の s ||{{IPA|z̺}} || 上の音の有声音 || esne {{IPA|ez̺ne}}「牛乳」
|-
| t || {{IPA|t}} || 日本語のタ、テ、トの子音 || tabako {{IPA|taβako}}「タバコ」
|-
| ts || {{IPA|ʦ̺}} || 舌尖音の[[無声歯茎破擦音]]<br />舌尖を歯茎に付けて発音する日本語のツの子音 || atso {{IPA|aʦ̺o}}「老女」
|-
| tt || {{IPA|c}} || [[無声硬口蓋破裂音]] || ttipi {{IPA|cipi}}「小さな」
|-
| tx || {{IPA|tɕ}} || 日本語のチの子音 || etxe {{IPA|etɕe}}「家」
|-
| tz || {{IPA|ts}} || 日本語のツの子音 || atzo {{IPA|aʦo}}「昨日」
|-
| 単母音の u || {{IPA|u}} || 英語の /u/ よりやや広め || ume {{IPA|ume}}「赤ん坊」
|-
| 二重母音の u || {{IPA|w}} || 英語の /w/ || lau {{IPA|law}}「四」
|-
| x || {{IPA|ɕ}} || 日本語のシの子音 || xanpu {{IPA|ɕampu}}「シャンプー」
|-
| z || {{IPA|s}} || 日本語のサ、ス、セ、ソの子音 || zopa {{IPA|sopa}}「スープ」
|-
| 有声子音の前の z ||{{IPA|z}} || 日本語の語中のザ、ズ、ゼ、ゾの子音 || elizgizon {{IPA|elizgison}}「神父」
|}
==文法==
===名詞句===
名詞句の構造は次のようになっている。
:修飾句 + [[限定詞]]1 + [[名詞]] + [[形容詞]] + 限定詞2 + [[格]]標識
{|class="infobox" style="float: none;"
!colspan="6"|名詞句の例
|-
|atzo ikusi nituen||bi||neska||polit||=e||=i
|-
|昨日私が見た||2||少女||可愛い||=[[複数|PL]]||=[[与格|DAT]]
|-
|修飾句([[関係節]])||限定詞([[数詞]])||名詞||形容詞||限定詞([[冠詞]])||格標識
|-
|colspan="6"|「昨日私が見た2人の可愛い少女に」
|}
名詞句には必ずしも名詞が含まれなくてもよい。しかし限定詞は極少数の例外をのぞき必須である。修飾句と形容詞は複数回用いることができる。
====限定詞====
限定詞には次のような語が含まれる。
;限定詞1
:*''bat''「一」以外の数詞
:*量化詞の一部(''hanitz''「多くの」、''zenbat''「どのくらいの」など)
:*不定限定詞の一部(''zenbait''「いくつかの」、''zein''「どの」など)
;限定詞2
:*定冠詞と不定冠詞
:*指示詞
:*数詞の ''bat''「一」
:*量化詞の一部(''asko''「多くの」など)
:*不定限定詞の一部(''batzu''「いくつかの」など)
:*部分冠詞
定冠詞と指示詞にのみ[[数 (文法)|数]](単数と複数)の区別がある。
{|class="infobox" style="float: none;"
!colspan="3"|名詞句における数の区別の例
|-
|
{|
|-
|a.||gizon||hau
|-
|||男||これ(SG)
|-
|||colspan="2"|「この男(単数)」
|}
||
{|
|-
|b.||gizon||hau-ek
|-
|||男||これ-PL
|-
|||colspan="2"|「この男たち(複数)」
|}
||
{|
|-
|c.||zein||gizon
|-
|||どれ||男
|-
|||colspan="2"|「どの男(単数)/<br />どの男たち(複数)」
|}
|}
限定詞は「数詞+定冠詞」の場合のみ二つ用いることが可能である。
{|class="infobox" style="float: none;"
!colspan="3"|二つの限定詞を持つ名詞句の例
|-
|lau||zaldi||=ak
|-
|4||馬||=PL
|-
|限定詞1(数詞)||名詞||限定詞2(定冠詞)
|-
|colspan="3"|「その4頭の馬」
|}
=== 格 ===
* [[格]]は名詞句に接尾辞をつけることで標示される。
* [[能格]] - [[絶対格]]型の体系である。
* 文法関係を示す絶対格/能格/[[与格]]のほか、前置詞的な格や位置を表す格など14あまりの格が存在する。
=== 人称 ===
* [[二人称]]には普通形 zu(単数)/ zuek(複数)と親称形 hi の区別があり、動詞の活用において異なる振る舞いをする。親称には単数形しか無い。
* 親称は使われる範囲がきわめて限られている。主に兄弟姉妹に対してか、同性同年代の親しい友人に対して用いられる。
* 一部の方言を除いて三人称[[代名詞]]を欠いている。
=== 動詞 ===
* [[動詞]]は絶対格[[項 (言語学)|項]]/能格項/与格項の人称と数などによって[[活用]]する。
* 聞き手が親称の hi かどうかを動詞に標示する「聞き手活用」と呼ばれる語形変化がある。
* 動詞一語からなる単純型の活用と、[[分詞]]と助動詞からなる複合型の活用がある。
* 単純型の活用ができる動詞は十指に満たない。ほとんどの動詞には分詞しかなく、複合型の活用をする。
* 単純型では現在形、過去形、仮定形、命令形がある。
* 分詞には完了分詞、未完了分詞、前望分詞、語根がある。
== 例文 ==
能格の例:Mendiak mendia behar ez du, baina gizonak gizona bai. 山は山を求めないが、人は人を求める。(ことわざ)
<small>mendia''k'', gizona''k''のように-kのついたものが能格であり、つかないものが絶対格である。</small>
== バスク語学習の神話 ==
バスク語は、他の欧米言語との共通点の少なさゆえに印欧系言語話者には習得が難しいとされる。
[[司馬遼太郎]]は、紀行文集『[[街道をゆく]]』の中で「ローマの神学生のあいだで創られたバスク語学習にちなむ“神話”」として、神からどんな罰を与えられても全くひるまなかった悪魔でさえ、3年間岩牢にこもってバスク語を勉強する罰を課されると神に許しを乞うた、という話を紹介している<ref>司馬 1999: 83-84.</ref>。
[[英語]]の[[ジョーク]]として「[[悪魔]]がバスク人を誘惑するためにバスク語を習ったが、7年かかって覚えたのは『はい』と『いいえ』だけだった。」、この変形として「バスク人は決して悪魔の誘惑を受けて地獄には落ちない。なぜなら、悪魔はバスク語を話せないからだ。」といったものがある。
フランスの[[バイヨンヌ]]にあるバスク民族博物館では、「かつて悪魔サタンは日本にいた。それがバスクの土地にやってきたのである」と[[挿絵]]入りの歴史が描かれているものが飾られている。同じく印欧系言語話者からみて習得の難しい[[日本語]]と重ね合わせている<ref>城生・松崎 1995: 28-29</ref>。
== 関連項目 ==
* [[バスク人]]
* ビスカヤ語
* [[イカストラ]] - バスク語で教育を行う[[学校]]
* [[スペインの言語]]
* [[言語島]]
* [[バスク語版ウィキペディア]]
<!-- ハラルト・シュテュンプケ『鼻行類』(関連項目見るとわかるけど偽の科学論文)には、その架空の哺乳類の研究者に「IRRI EGINGARRI」 「gaukari sudur」先生ほか何人かバスク語の名前の人が登場し、アルゼンチンやフランスの研究所からその生き物の論文を発表したと書かれる。あの、この本はほぼ全欧の言語における冗談みたいな名前が出てきて、特別にバスク語だけいびってるわけでは、後のインタヴューでは作者はバスク地方で生活しており、その頃を「美しい時代」とか述懐してるし、決してアレなわけでは -->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|
<ref name=trask1997>Trask, R. L. (1997) ''The history of Basque''. London: Routledge.</ref>}}
== 文献 ==
* [[司馬遼太郎]] (1999)「バスクとそのひとびと」『街道をゆく 8:南蛮のみち』文藝春秋。
* [[城生佰太郎]]・松崎寛 (1995)『日本語「らしさ」の言語学』講談社。
* [[ホセ・アスルメンディ]]: "Die Bedeutung der Sprache in Renaissance und Reformation und die Entstehung der baskischen Literatur im religiösen und politischen Konfliktgebiet zwischen Spanien und Frankreich" In: Wolfgang W. Moelleken (出版社), Peter J. Weber (出版社): ''Neue Forschungsarbeiten zur Kontaktlinguistik'', [[ボン]]: Dümmler, 1997. ISBN 978-3537864192
* GB = Hualde & Ortiz de Urbina (eds.) 2003.
* [[w:José Ignacio Hualde|Hualde, José Ignacio]] & Jon Ortiz de Urbina (eds.) (2003) ''A grammar of Basque''. Berlin/New York: Mouton de Gruyter.
* [[w:Rudolf de Rijk|Rijk, Rudolf P. G. de]] (2008) ''Standard Basque: a progressive grammar''. Cambridge, MA. The MIT Press.
* SB = Rijk 2008.
*[[w:Larry Trask|Trask, R. L.]] (1997) ''The history of Basque''. London/New York: Routledge.
== 外部リンク ==
{{Commons category|Basque language}}
{{Wikipedia|eu}}
* {{ethnologue|code=eus}}
* [http://glottolog.org/resource/languoid/id/basq1248 Glottolog - Basque]{{en icon}}([[マックス・プランク進化人類学研究所]]によるデーターベース)
* [http://www.eitb.com/euskara/ EITB] - バスク語放送
{{フランス語}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:はすくこ}}
[[Category:バスク語|*]]
[[Category:フランスの言語]]
[[Category:スペインの言語]]
[[Category:バスク]]
[[Category:孤立した言語]]
[[Category:SOV型言語]] | null | 2023-04-24T13:35:15Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%B9%E3%82%AF%E8%AA%9E |
9,333 | 1206年 | 1206年(1206 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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] | 1206年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。 | {{年代ナビ|1206}}
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== 他の紀年法 ==
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* [[干支]] : [[丙寅]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[元久]]3年、[[建永]]元年[[4月27日 (旧暦)|4月27日]] -
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1866年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[南宋]] : [[開禧]]2年
** [[金 (王朝)|金]] : [[泰和 (金)|泰和]]6年
* 中国周辺
** [[西遼]] : [[天禧 (西遼)|天禧]]29年?
** [[西夏]]{{Sup|*}} : [[応天 (西夏)|応天]]元年
** [[モンゴル帝国]]{{Sup|*}} : 太祖([[チンギス・カン|チンギス・ハーン]])元年
** [[大理国]] : [[天開 (大理)|天開]]2年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[高麗]] : [[熙宗 (高麗王)|熙宗]]2年
** [[檀君紀元|檀紀]] : 3539年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[治平龍応]]2年
* [[仏滅紀元]] : 1748年 - 1749年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 602年 - 603年
* [[ユダヤ暦]] : 4966年 - 4967年
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== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1206|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* テムジン・ウゲが[[モンゴル]]諸部族を統一し、[[クリルタイ]]によって[[チンギス・カン|チンギス・ハン]]を名乗る。イェケ・モンゴル・ウルス([[モンゴル帝国]])の建国。
*ゴール朝の武将、アイバクが自立。[[デリー]]を都にして[[奴隷王朝]]成立。また、奴隷王朝成立によって、[[ローディー朝|ロディー朝]]滅亡の1526年までデリーを都とする5王朝による[[デリー・スルターン朝|デリー・スルタン朝]]が成立。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1206年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[4月7日]] - [[オットー2世 (バイエルン公)|オットー2世]]、[[バイエルン大公|バイエルン公]]、[[ライン宮中伯]](+ [[1253年]])
* [[11月29日]] - [[ベーラ4世 (ハンガリー王)|ベーラ4世]]、[[ハンガリー王国]][[アールパード王朝]]の[[ハンガリー国王一覧|国王]](+ [[1270年]])
* [[一然]]、[[高麗]]の[[禅宗]]の[[僧]](+ [[1289年]])
* [[グユク]]、[[モンゴル帝国]]第3代皇帝(+ [[1248年]])
* [[コンラート・フォン・テューリンゲン]]、[[ヘッセン州|ヘッセン]]=グーデンスベルク伯、[[ドイツ騎士団]]総長(+ [[1240年]])
* [[二階堂行方]]、[[鎌倉時代]]の[[官僚]](+ [[1267年]])
* [[北条朝直]]、鎌倉時代の[[武将]]、[[評定衆]](+ [[1264年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1206年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[4月16日]](元久3年[[3月7日 (旧暦)|3月7日]]) - [[九条良経]]、[[平安時代]]、[[鎌倉時代]]の[[公卿]](* [[1169年]])
* [[4月17日]](元久3年[[3月8日 (旧暦)|3月8日]])? - [[新田義兼]]、平安時代、鎌倉時代の[[武将]](* [[1139年]])
* [[6月4日]] - [[アデル・ド・シャンパーニュ]]、[[フランス王国|フランス]]王[[ルイ7世 (フランス王)|ルイ7世]]の3番目の王妃(* [[1140年]]?)
* [[7月12日]](建永元年[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]) - [[重源]]、平安時代、鎌倉時代の[[僧]](* [[1121年]])
* [[アル=ジャザリ]]、[[トルコ]]の[[ディヤルバクル]]出身の[[博学者]](* [[1136年]])
* [[桓宗 (西夏)|桓宗]]、[[西夏]]の第6代皇帝(* [[1177年]])
* [[シハーブッディーン・ムハンマド]]、[[ゴール朝]]の[[ガズナ]]政権の[[君主]](* 生年未詳)
* [[楊万里]]、[[南宋]]の[[学者]]、[[詩人]](* [[1127年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1206%E5%B9%B4 |
9,334 | オーディン | オーディンは、北欧神話の主神にして戦争と死の神。詩文の神でもあり吟遊詩人のパトロンでもある。魔術に長け、知識に対し非常に貪欲な神であり、自らの目や命を代償に差し出すこともあった。
北欧神話の原典に主に用いられている古ノルド語での表記は Óðinn (再建音: [oːðinː], オージンに近い)であり、オーディンは現代英語などへの転写形である Odin に由来する。
オーディンの名は "oðr"(狂った、激怒した)と -inn(-の主 など)からなり、語源的には「狂気、激怒(した者)の主」を意味すると考えられる。またこうした狂気や激怒がシャーマンのトランス状態を指していると考えれば「シャーマンの主」とも解釈可能である。
アングロサクソン人に信仰されていた時代の本来の古英語形は Ƿōden(Wōden, ウォーデン)であり、これは現代英語にも Woden, Wodan (ウォウドゥン)として引継がれている。また、ドイツ語では Wotan, Wodan (ヴォータン、ヴォーダン)という。8世紀にイタリアで書かれた『ランゴバルドの歴史(英語版)』では G(w)odan(ゴダン)という名前で言及されている。
各地を転々とした逸話があることから、本来は風神、嵐の神(天候神)としての神格を持っていたと考えられている。
タキトゥスは『ゲルマーニア』(97年 - 98年)において、ゲルマン人の最も尊崇する神をメルクリウスと呼んだが、これはギリシア・ローマのヘルメース/メルクリウスと同じく、疾行の神であったゲルマンの神ヴォーダン(オーディン)を指すものと推測される。
オーディンはメルクリウスと同様の知恵と計略に長けた神であり、ローマ暦で「メルクリウスの日」にあたる水曜日は、ゲルマン諸語では「オーディンの日」と呼ばれる。
水曜日は英語では Wednesday、ドイツ語では Wotanstag(通常はMittwoch)、オランダ語では woensdag、デンマーク語、ノルウェー語、スウェーデン語では onsdag となる。
また、オーディンが死と復活をしたとされる4月30日か5月1日に行われた風習はキリスト教到来以降も残り、中欧や北欧で『ヴァルプルギスの夜』の行事となった。
ユグドラシルの根元にあるミーミルの泉の水を飲むことで知恵を身に付け、魔術を会得した。片目はその時の代償として失ったとされる。
また、オーディンはルーン文字の秘密を得るために、ユグドラシルの木で首を吊り、グングニルに突き刺されたまま、9日9夜、自分を創造神オーディンに捧げたが、このときは縄が切れて命を取り留めている。
オーディンとは本来この創造神の名前であり、最高神オーディンは、その功績から創造神と同じ名で呼ばれるようになったとされている。
この逸話にちなんで、オーディンに捧げる犠牲は、首に縄をかけて木に吊るし、槍で貫く。なお、タロットカードの大アルカナ XII 「吊された男」は、このときのオーディンを描いたものだという解釈がある。
棲処は神々の世界アースガルズにあるヴァーラスキャールヴであり、フリズスキャールヴに座り、世界を見渡している。
グラズヘイムにあるヴァルハラに、ワルキューレによってエインヘリャル(戦死した勇者)を集め、ラグナロクに備え大規模な演習を毎日行わせるという。この演習では敗れた者も日没とともに再び蘇り、夜は大宴会を開き、翌日にはまた演習を行うことができるとされる。
愛馬は八本足のスレイプニール。フギン(=思考)、ムニン(=記憶)という2羽のワタリガラスを世界中に飛ばし、2羽が持ち帰るさまざまな情報を得ているという。また、足元にはゲリとフレキ(貪欲なもの)という2匹の狼がおり、オーディンは自分の食事はこれらの狼にやって自分は葡萄酒だけを飲んで生きているという。
その姿は、主に長い髭をたくわえ、つばの広い帽子を目深に被り、黒いローブを着た老人として描かれる。戦場においては黄金の兜を被り、青いマントを羽織って黄金の鎧を着た姿で表される。
また、トールと口論した渡し守ハールバルズの正体は変装したオーディンである。ゲイルロズ王の城を訪ねて炎の中に座らされたグリームニルもオーディンの別の姿であった。
霜の巨人のスットゥングが隠匿していた詩の蜜酒を略奪するため策略をこらした。オーディンは、蛇に変身して蜜酒のある場所へ侵入し、蜜酒の番をしていたスットゥングの娘グンロズの前で美青年の姿になって3夜を共にした後、彼女から3口分の蜜酒を飲ませてもらった。しかしオーディンはその3口で蜜酒の3つの容器を空にすると、素早く鷲に変身してアースガルズへ戻った。蜜酒は詩の才能のある人間たちにオーディンによって与えられることとなった。
最後はラグナロクにて、ロキの息子であるフェンリルによって飲み込まれる(または噛み殺される)結末を迎える。
古ノルド語で書かれた歌謡集(詩群)である古エッダに収録されている型式の詩で、「ハーヴァマール(Hávamál, 高き者の言葉)」は別名「オーディンの箴言」と和訳されている。
サクソ・グラマティクスが記した歴史書『デンマーク人の事績』第三の書ではオーティヌス(またはオティヌス)として登場する。息子のバルデルス(バルドル)をホテルス(ヘズ)に殺され、その敵を討つ子供をもうける為に、半ば強引な手段を使ってルテニ王の娘リンダ(リンド)と交わるが、それが原因で王位を追われた。しかし、後に賄賂によって復権した。
パウルス・ディアコヌスがイタリアで8世紀に記した歴史書『ランゴバルドの歴史(英語版)』が伝える伝説では、ゴダン(オーディン)は、ランゴバルド人とヴァンダル人の戦いの際、ランゴバルド人に勝利と部族名を与えた神として登場する。その伝承では、オーディンが「日の出の時最初に姿を見た者らに勝利を与える」としたのに対し、ランゴバルド人の族長の母ガンパラが一計を案じ、日の出の時に、髪の毛を髭に見えるように顔の前でまとめて男装した女たちの姿をオーディンに見せることに成功した。これによってオーディンはランゴバルド人に勝利を与える事になり、オーディンが「長い髭(ランゴバルド)の者たちは何者か」と発言したことからこれが部族名となった。
オーディンは半巨人的な存在である ボルと女巨人のベストラの間に生まれた。
兄弟にヴィリとヴェーがおり、彼ら兄弟は3人で原始の巨人ユミルを殺し、世界を創造した。
妻はフリッグで、彼女との間にバルドルがいるが、オーディンは女巨人との間にも子を成した。
娘のヨルズとの間にトール、グリーズとの間にヴィーザル、リンドとの間にヴァーリがいる。他に母親は未詳であるがホズ、ヘルモーズ、ブラギ、ヘイムダルも彼の息子とされている。
オーディンは多くの呼び名(ケニング)を持っている。 その呼び名としては、以下のものが挙げられる。 | [
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"text": "サクソ・グラマティクスが記した歴史書『デンマーク人の事績』第三の書ではオーティヌス(またはオティヌス)として登場する。息子のバルデルス(バルドル)をホテルス(ヘズ)に殺され、その敵を討つ子供をもうける為に、半ば強引な手段を使ってルテニ王の娘リンダ(リンド)と交わるが、それが原因で王位を追われた。しかし、後に賄賂によって復権した。",
"title": "『デンマーク人の事績』"
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"text": "パウルス・ディアコヌスがイタリアで8世紀に記した歴史書『ランゴバルドの歴史(英語版)』が伝える伝説では、ゴダン(オーディン)は、ランゴバルド人とヴァンダル人の戦いの際、ランゴバルド人に勝利と部族名を与えた神として登場する。その伝承では、オーディンが「日の出の時最初に姿を見た者らに勝利を与える」としたのに対し、ランゴバルド人の族長の母ガンパラが一計を案じ、日の出の時に、髪の毛を髭に見えるように顔の前でまとめて男装した女たちの姿をオーディンに見せることに成功した。これによってオーディンはランゴバルド人に勝利を与える事になり、オーディンが「長い髭(ランゴバルド)の者たちは何者か」と発言したことからこれが部族名となった。",
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"text": "オーディンは多くの呼び名(ケニング)を持っている。 その呼び名としては、以下のものが挙げられる。",
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] | オーディンは、北欧神話の主神にして戦争と死の神。詩文の神でもあり吟遊詩人のパトロンでもある。魔術に長け、知識に対し非常に貪欲な神であり、自らの目や命を代償に差し出すこともあった。 | {{redirect|オーディーン|その他の用法|オーディン (曖昧さ回避)}}
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{{Infobox deity
| type = Norse
| name = オーディン
| image = Georg von Rosen - Oden som vandringsman, 1886 (Odin, the Wanderer).jpg
| image_size = 250px
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| caption = {{small|流離人オーディン<br/>このように絵画などでは一般に、片目が無い、長い髭を持った老人で、つばの広い帽子を被り、[[グングニル]]という[[槍]]を持った姿で表される。[[スウェーデン]]の画家[[ゲオルク・フォン・ローゼン]]による(1886年)}}
| deity_of = {{small|[[魔術|魔術の神]] [[死神|戦争と死の神]] [[知識|知識の神]]}}
| Old_Norse = Óðinn
| abode = [[ヴァルハラ]], [[ヴァーラスキャールヴ]]
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| weapon = [[グングニル]]
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| children = [[バルドル]]<br/>[[ヨルズ]]の子:[[トール]]<br/>[[グリーズ]]の子:[[ヴィザール]]<br/>[[リンド (北欧神話)|リンド]]の子:[[ヴァーリ]]
| mount = [[スレイプニル]]
}}
'''オーディン'''は、[[北欧神話]]の[[主神]]にして[[戦争]]と[[死神|死の神]]。詩文の神でもあり[[吟遊詩人]]のパトロンでもある。[[魔術]]に長け、[[知識]]に対し非常に貪欲な神であり、自らの目や命を代償に差し出すこともあった。
== 名称 ==
北欧神話の原典に主に用いられている[[古ノルド語]]での表記は '''[[:en:wikt:Óðinn|Óðinn]]''' ([[再構 (言語学)|再建]]音: {{IPA|oːðinː}}, '''オージン'''に近い)であり、'''オーディン'''は現代[[英語]]などへの転写形である '''[[:en:wikt:Odin|Odin]]''' に由来する<ref group="注釈">『[[古エッダ]]』の日本語訳本として知られている[[谷口幸男]]訳『エッダ - 古代北欧歌謡集』 (1973年) は、「凡例」で「固有名詞はなるべく原音に近づけようとしたが、すでに本邦でよく用いられているオーディン、トールは、そのままにしておいた」と但し書きした上で「オーディン」表記を用いている。</ref>。
オーディンの名は "{{lang|non|oðr}}"(狂った、激怒した)と {{lang|non|-inn}}(-の主 など)からなり、語源的には「狂気、激怒(した者)の主」を意味すると考えられる。またこうした狂気や激怒がシャーマンのトランス状態を指していると考えれば「シャーマンの主」とも解釈可能である{{sfn|唐澤|2004|page=48}}。
[[アングロサクソン人]]に信仰されていた時代の本来の[[古英語]]形は '''{{lang|oen|Ƿōden}}'''({{lang|oen-latn|Wōden}}, ウォーデン)であり、これは現代英語にも {{lang|en|'''Woden'''}}, {{lang|en|'''Wodan'''}} (ウォウドゥン)として引継がれている。また、[[ドイツ語]]では {{lang|de|'''Wotan'''}}, {{lang|de|'''Wodan'''}} (ヴォータン、ヴォーダン)という。[[8世紀]]に[[イタリア]]で書かれた『{{仮リンク|ランゴバルドの歴史|en|Historia Langobardorum}}』では {{lang|la|'''G(w)odan'''}}(ゴダン)という名前で言及されている<ref name="日向訳注">[[#パウルス, 日向訳|日向訳注]], pp. 10-11</ref>。
各地を転々とした逸話があることから、本来は[[風神]]、嵐の神(天候神)としての神格を持っていたと考えられている<ref name="健部他">[[#健部他|健部他]]、p.215。</ref>。
[[タキトゥス]]は『[[ゲルマニア (書物)|ゲルマーニア]]』(97年 - 98年)において、ゲルマン人の最も尊崇する神を[[メルクリウス]]と呼んだが、これはギリシア・ローマの[[ヘルメース]]/メルクリウスと同じく、疾行の神であったゲルマンの神ヴォーダン(オーディン)を指すものと推測される{{sfn|泉井訳注|1979|pp=59-61}}。
オーディンはメルクリウスと同様の知恵と計略に長けた神であり、[[ローマ暦]]で「メルクリウスの日」にあたる[[水曜日]]は、ゲルマン諸語では「オーディンの日」と呼ばれる<ref>[[#菅原|菅原]]、p.85。</ref>。
水曜日は英語では {{lang|en|Wednesday}}、ドイツ語では {{lang|de|Wotanstag}}(通常は{{lang|de|Mittwoch}})、オランダ語では {{lang|nl|woensdag}}、[[デンマーク語]]、[[ノルウェー語]]、[[スウェーデン語]]では {{lang|da|onsdag}}<!--odhinsdagr--> となる。
また、オーディンが死と復活をしたとされる4月30日か5月1日に行われた風習はキリスト教到来以降も残り、中欧や北欧で『[[ヴァルプルギスの夜]]』の行事となった。
== 神話 ==
[[ユグドラシル]]の根元にある[[ミーミルの泉]]の水を飲むことで知恵を身に付け、魔術を会得した。片目はその時の代償として失ったとされる。
また、オーディンは[[ルーン文字]]の秘密を得るために、[[ユグドラシル]]の木で首を吊り、[[グングニル]]に突き刺されたまま、9日9夜、自分を創造神オーディンに捧げたが、このときは縄が切れて命を取り留めている。
オーディンとは本来この創造神の名前であり、最高神オーディンは、その功績から創造神と同じ名で呼ばれるようになったとされている。
この逸話にちなんで、オーディンに捧げる犠牲は、首に縄をかけて木に吊るし、槍で貫く。なお、[[タロット]]カードの[[大アルカナ]] XII 「[[吊された男]]」は、このときのオーディンを描いたものだという解釈がある。
棲処は神々の世界[[アースガルズ]]にある[[ヴァーラスキャールヴ]]であり、[[フリズスキャールヴ]]に座り、世界を見渡している。
[[グラズヘイム]]にある[[ヴァルハラ]]に、[[ワルキューレ]]によって[[エインヘリャル]](戦死した勇者)を集め、[[ラグナロク]]に備え大規模な演習を毎日行わせるという。この演習では敗れた者も日没とともに再び蘇り、夜は大宴会を開き、翌日にはまた演習を行うことができるとされる。
愛馬は八本足の[[スレイプニル|スレイプニール]]。[[フギンとムニン|フギン]](=思考)、[[フギンとムニン|ムニン]](=記憶)という2羽の[[ワタリガラス]]を世界中に飛ばし、2羽が持ち帰るさまざまな情報を得ているという。また、足元には[[ゲリとフレキ|ゲリ]]と[[ゲリとフレキ|フレキ]](貪欲なもの<ref>[[#ネッケル他編, 谷口訳|ネッケル他編, 谷口訳]]、p.59。</ref>)という2匹の[[オオカミ|狼]]がおり、オーディンは自分の食事はこれらの狼にやって自分は[[ワイン|葡萄酒]]だけを飲んで生きているという。
その姿は、主に長い髭をたくわえ、つばの広い帽子を目深に被り{{refnest|group="注釈"|『古エッダ』の『[[グリームニルの言葉|グリームニルの歌]]』でオーディンが名乗る別名の「シーズスケッグ」<ref name="kodai56">[[#ネッケル他編, 谷口訳|ネッケル他編, 谷口訳]]、p.56(『グリームニルの歌』第48節)。</ref>、「ハールバルズ」<ref>[[#ネッケル他編, 谷口訳|ネッケル他編, 谷口訳]]、p.57(同第49節)。</ref>、「シーズヘト」<ref name="kodai56" />は、それぞれ「長髯のもの」<ref>[[#ネッケル他編, 谷口訳|ネッケル他編, 谷口訳]]、p.62(訳注150)。</ref>、「灰色の髯」<ref>[[#ネッケル他編, 谷口訳|ネッケル他編, 谷口訳]]、p.62(訳注167)。</ref>、「目深に帽子をかぶったもの」<ref>[[#ネッケル他編, 谷口訳|ネッケル他編, 谷口訳]]、p.62(訳注149)。</ref>の意。}}、黒いローブを着た老人として描かれる<ref>[[#佐藤他|佐藤他]]、p.18。</ref>。戦場においては黄金の兜を被り<ref>[[オーディン#テッツナー, 手嶋訳|テッツナー, 手嶋訳]]、p.282。[[オーディン#ネッケル他編, 谷口訳|ネッケル他編, 谷口訳]]、p.276(「ギュルヴィたぶらかし」52章)</ref>、青いマントを羽織って<ref>[[オーディン#テッツナー, 手嶋訳|テッツナー, 手嶋訳]]、p.18。[[オーディン#菅原訳|菅原訳]]、p.31(「[[ヴォルスンガ・サガ]]」11章):「青黒い上衣を着た男」</ref>黄金の鎧を着た姿で表される<ref>[[#健部他|健部他]]、p.213。</ref>。
また、[[トール]]と口論した渡し守'''ハールバルズ'''の正体は変装したオーディンである。[[ゲイルロズ]]王の城を訪ねて炎の中に座らされた'''グリームニル'''もオーディンの別の姿であった。
[[霜の巨人]]の[[スットゥング]]が隠匿していた[[詩の蜜酒]]を略奪するため策略をこらした。オーディンは、[[ヘビ|蛇]]に変身して蜜酒のある場所へ侵入し、蜜酒の番をしていたスットゥングの娘[[グンロズ]]の前で美青年の姿になって3夜を共にした後、彼女から3口分の蜜酒を飲ませてもらった。しかしオーディンはその3口で蜜酒の3つの容器を空にすると、素早く[[ワシ|鷲]]に変身してアースガルズへ戻った。蜜酒は詩の才能のある人間たちにオーディンによって与えられることとなった。
最後は[[ラグナロク]]にて、[[ロキ]]の息子である[[フェンリル]]によって飲み込まれる(または噛み殺される)結末を迎える。
== エッダ詩「ハーヴァマール」 ==
[[古ノルド語]]で書かれた[[歌謡]]集([[詩]]群)である[[古エッダ]]に収録されている型式の詩で、「[[ハーヴァマール]]({{lang|non|Hávamál}}, 高き者の言葉)」は別名「オーディンの箴言」と和訳されている。
== 『デンマーク人の事績』 ==
[[サクソ・グラマティクス]]が記した歴史書『[[デンマーク人の事績]]』第三の書ではオーティヌス<ref>『北欧神話』([[#菅原|菅原]])<!--同名異本があるため著者姓を消さないで下さい-->で確認できる表記。</ref>(またはオティヌス<ref>『デンマーク人の事績』([[#サクソ, 谷口訳|谷口訳]])p.33で確認できる表記。</ref>)として登場する。息子のバルデルス([[バルドル]])をホテルス([[ヘズ]])に殺され、その敵を討つ子供をもうける為に、半ば強引な手段を使ってルテニ王の娘リンダ([[リンド (北欧神話)|リンド]])と交わるが、それが原因で王位を追われた。しかし、後に賄賂によって復権した<ref>[[#サクソ, 谷口訳|サクソ, 谷口訳]]、pp.105-108。</ref>。
== 『ランゴバルドの歴史』 ==
[[パウルス・ディアコヌス]]がイタリアで8世紀に記した歴史書『{{仮リンク|ランゴバルドの歴史|en|Historia Langobardorum}}』が伝える伝説では、ゴダン(オーディン)は、[[ランゴバルド人]]と[[ヴァンダル人]]の戦いの際、ランゴバルド人に勝利と部族名を与えた神として登場する。その伝承では、オーディンが「日の出の時最初に姿を見た者らに勝利を与える」としたのに対し、ランゴバルド人の族長の母ガンパラが一計を案じ、日の出の時に、髪の毛を髭に見えるように顔の前でまとめて男装した女たちの姿をオーディンに見せることに成功した。これによってオーディンはランゴバルド人に勝利を与える事になり、オーディンが「長い髭(ランゴバルド)の者たちは何者か」と発言したことからこれが部族名となった<ref name="日向訳注"/>。
== 系譜 ==
[[ファイル:AM 738 4to, 34v, BW Odin.jpeg|thumb|right|220px|17世紀のアイスランドの写本『[[AM 738 4to]]』に描かれたオーディン。]]
[[ファイル:NKS 1867 4to, 94r, Odin.jpg|thumb|right|220px|18世紀のアイスランドの写本『[[NKS 1867 4to]]』に描かれた、フギンとムニンから報告を受けるオーディン。]]
[[ファイル:Processed SAM sleipnir.jpg|thumb|right|220px|18世紀のアイスランドの写本『[[SÁM 66]]』に描かれた、スレイプニルにまたがるオーディン。]]
[[ファイル:Harald Haarfagres saga - vignett 3 - G. Munthe.jpg|thumb|right|220px|1899年に刊行された『ヘイムスクリングラ』の挿絵。ノルウェーの画家[[イェールハルド・ムンテ]]による。]]
[[ファイル:Ring31.jpg|thumb|right|220px|[[リヒャルト・ワーグナー]]の楽劇『[[ニーベルングの指環]]』にはオーディンに相当する神「ヴォータン」が登場する。[[アーサー・ラッカム]]が描いた、8本脚の馬で天翔るヴォータン。]]
オーディンは半巨人的な存在である [[ボル (北欧神話)|ボル]]と女巨人の[[ベストラ]]の間に生まれた。
兄弟に[[ヴィリとヴェー]]<ref>[[#ネッケル他編, 谷口訳|ネッケル他編, 谷口訳]]、p.229(「ギュルヴィたぶらかし」6章)</ref>{{refnest|group="注釈"|『巫女の予言』では兄弟は[[ヘーニル]]と[[ローズル]]とされている<ref>[[#ネッケル他編, 谷口訳|ネッケル他編, 谷口訳]]、pp.239-240(「巫女の予言」18節)。</ref>。}}がおり、彼ら兄弟は3人で原始の巨人[[ユミル]]を殺し、世界を創造した<ref>[[#ネッケル他編, 谷口訳|ネッケル他編, 谷口訳]]、p.9(「巫女の予言」4節)</ref><ref>[[#ネッケル他編, 谷口訳|ネッケル他編, 谷口訳]]、p.229(「ギュルヴィたぶらかし」7章)</ref>。
妻は[[フリッグ]]で、彼女との間に[[バルドル]]がいるが、オーディンは女巨人との間にも子を成した。
娘の[[ヨルズ]]<ref>[[#ネッケル他編, 谷口訳|ネッケル他編, 谷口訳]]、p.231(「ギュルヴィたぶらかし」9章)</ref>との間に[[トール]]、[[グリーズ]]との間に[[ヴィーザル]]、[[リンド (北欧神話)|リンド]]との間に[[ヴァーリ (オーディンの息子)|ヴァーリ]]がいる。他に母親は未詳であるが[[ホズ]]、[[ヘルモーズ]]、[[ブラギ]]、[[ヘイムダル]]も彼の息子とされている<ref>[[#菅原|菅原]]、p.124。</ref>。
== オーディンの呼称 ==
オーディンは多くの呼び名([[ケニング]])を持っている。
その呼び名としては、以下のものが挙げられる。
{{div col}}
* 全知全能の神
* 詩の神
* 戦神
* 魔術と狡知の神
* 死と霊感の神
* 万物の神
* 槍の神(ゲイルチュール)
* 戦死者の父(ヴァルフォズル)
* 戦死者の神(ヴァルチュール)
* 戦死者を受け入れる者(ヴァルソグニル)
* 偉大で崇高な神(フィムブルチュール)
* 鴉の神(フラヴナグズ、フラヴンアース)
* 叫ぶ者(ゴルニル、ゴロル)
* 語る者
* 高き者(ハール、ハーヴィ、ホヴィ)
* 禍を引きおこす者(ベルヴェルク)
* 知恵者(フロプト、フロプタチュール)
* 軍勢の父(ヘルフォズル)
* 恐ろしき者(ユッグ)
* 勝利を決める者(ガグンラーズ)
* 仮面をかぶる者(グリームニル)
* 人間の神(ヴェラチュール)
* 兜をかぶれるもの(グリーム)
* 旅路に疲れたもの(ガングレリ)
* 兜をつけたもの(ヒァームベリ)
* 第三のもの(スリジ)
* わきかえるもの・海?(スンド)
* 波(ウズ)
* 戦士の目をくらますもの([[ヘルブリンディ]])
* 真実のもの(サズ)
* 姿を変えるもの(スヴィパル)
* 真実をおしはかるもの(サンゲタル)
* 軍勢の名で快く感じるもの(ヘルテイト)
* 突くもの(フニカル、フニクズル)
* 片眼を欠くもの(ビレイグ)
* 焔の眼をせるもの(バーレイグ)
* (蜜酒を)隠すもの、守るもの(フィヨルニル)
* 誘惑に長じたもの(グラプスヴィズ)
* 途方もなく賢いもの(フィヨルスヴィズ)
* 眼深に帽子をかぶったもの(シーズヘト)
* 長髯の者(シーズスケッグ、シーズグラニ)
* 馬にのって突進するもの(アトリーズ)
* 船荷の神(ファルマチュール)
* 顔をかえることのできるもの(イヤールク)
* 船人(キャラル)(橇を引くときは)
* 促進者(スロール)(民会のときは)
* 滅ぼす者(ヴィズル)(戦では)
* 望むもの(オースキ)(神々のところでは)
* 最高のもの(オーミ)(神々のところでは)
* 同じように高きもの(ヤヴンハール)(神々のところでは)
* 盾をふりまわすもの(ビヴリンディ)(神々のところでは)
* 魔法(魔杖[[ガンド|ゲンドゥル]])の心得あるもの(ゲンドリル)(神々のところでは)
* 槍をもつもの(スヴィズル、スヴィズニル)
* 目覚めたるもの(ヴァク)
* 高座につくもの(スキルヴィング)
* さすらうもの(ヴァーヴズ)
* 生贄に決められたもの(ガウト)
* 灰色の鬚(ハールバルズ)(渡守に身を変えたオーディン)
* 戦の狼(ヒルドールヴ)
* がなり立てる者(ヴィズリル)
* 勝利を与える者(シグジル)
* 勝利の父(シグフォズル)
* 勝利の神(シグチュール)
* 万物の父(アルフォズル)
* 盲目の者(ブリンディ、ブリンド)
* 分捕品をつくる者(フェング)
* 攻撃者
* 救助者
* 疾駆する者
* 試す者
* 片眼の者(ホーアル)
* 知を欲す者
{{div col end}}
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|2|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=サクソ・グラマティクス |others=[[谷口幸男]]訳 |title=デンマーク人の事績 |publisher=[[学校法人東海大学出版部|東海大学出版会]] |date=1993-09 |isbn=978-4-486-01224-5 |ref=サクソ, 谷口訳 }}
* {{Cite |和書|last=唐澤|first=一友|title=アングロサクソン文学史:韻文編|date=2004|publisher=東進堂|ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author1=佐藤俊之|author2=F.E.A.R.|authorlink2=ファーイースト・アミューズメント・リサーチ|title=聖剣伝説 |publisher=[[新紀元社]] |series=[[Truth in Fantasy]] 30 |date=1997-12 |isbn=978-4-88317-302-0 |ref=佐藤他 }}
* {{Cite book |和書 |author7=|author8=|author9=|others=[[菅原邦城]]訳・解説 |title=ゲルマン北欧の英雄伝説 ヴォルスンガ・サガ |accessdate=|publisher=[[東海大学出版会]] |date=1979-7 |year=|isbn=978-4-486-00501-8 |author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|ref=菅原訳 |author=}}
* {{Cite book |和書 |author=菅原邦城|authorlink=菅原邦城 |title=北欧神話 |publisher=[[東京書籍]] |date=1984-10 |isbn=978-4-487-75047-4 |ref=菅原 }}
* {{Cite book |和書 |author1=健部伸明|authorlink1=健部伸明|author2=と怪兵隊|authorlink2=怪兵隊|title=虚空の神々 |publisher=新紀元社 |series=Truth in Fantasy 6 |date=1990-04 |isbn=978-4-915146-24-4 |ref=健部他 }}
* {{Cite book |和書 |author=ライナー・テッツナー |authorlink=:de:Reiner Tetzner |others=手嶋竹司訳 |title=ゲルマン神話 |volume=上 神々の時代 |publisher=[[青土社]] |date=1998-12 |isbn=978-4-7917-5673-5 |ref=テッツナー, 手嶋訳 }}
* {{Cite book |和書 |editor=V.G.ネッケル他 |others=谷口幸男訳 |title=エッダ - 古代北欧歌謡集 |publisher=[[新潮社]] |date=1973-08 |isbn=978-4-10-313701-6 |ref=ネッケル他編, 谷口訳 }}
* {{cite book |和書 |others=[[谷口幸男]]訳 |title=Hávamál〜[[ヴァイキング]]の知恵 |year=1994 |publisher=Guđrun Publishing |id=ISBN 9979-856-01-7 |ref=谷口訳 }} - [[アイスランド]]・[[レイキャビク]]の出版社Guđrun Publishingによる和訳。
* {{Cite book|和書|author=タキトゥス|authorlink=タキトゥス |others=[[泉井久之助]]訳注 |year=1979 |title=ゲルマーニア |publisher=岩波書店 |series=岩波文庫 |isbn=978-4-00-334081-3 |ref={{SfnRef|泉井訳注|1979}}}}
* {{Cite book|和書|author=パウルス・ディアコヌス|authorlink=パウルス・ディアコヌス |translator=[[日向太郎]] |title=ランゴバルドの歴史|date=2016-12 |publisher=[[知泉書館]] |isbn=978-4-86285-245-8 |ref=パウルス, 日向訳}}
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Odin}}
* [[オーズ]]
* [[オージンのワタリガラスの呪文歌]]
* [[ヴォルスンガ・サガ]]
* [[グラム (北欧神話)|グラム]]
* [[オドの力]]
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[[Category:北欧神話の神]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3 |
9,335 | レコードレーベル | レコードレーベル(英: record label)または単にレーベルは、本来はレコードの盤面中央部に貼付された、曲目、音楽家、レコード会社名などのクレジットが記載された「ラベル紙」である。「ラベル」は、英語表記で「label」であり、音楽業界では見た目からローマ字読みで日本語化された「ラベル」ではなく、アメリカなど業務上直接やりとりを行う上で使用されてきた発音から「レーベル」といってきた。
レコード業界では、それが転じて、ラベル紙に記された(印刷された) レコード会社やその傘下のブランド名自体を「レーベル」と呼ぶようになった。ブランド名としての「レーベル」は独立した会社組織になっている場合と、そうでない場合がある。
レーベルはラベル(label)のことでありレコード盤の中央に貼り付けられていたものを指す。レーベルはレコード会社ごとにデザインが異なったものが用いられブランド化が図られるようになった。
音楽のジャンルの多様化とともにレコード会社が様々な音楽性をもつアーティストを同時に抱えるようになると、レコード会社は音楽性ごとに組織化してレーベルを立てるようになった。
歴史のあるレーベルにはブランド的価値が発生するが、所属アーティストによって固定されたイメージがつきまとうこともある。そのイメージを払拭するためのブランド戦略の一環として新規のヒモ付きレーベルが作られることもある。また、マネージメントやプロデューサーなどが独立したレーベルを設け、原盤権などを分離する例も多い。プロ・アーティストが、アマチュアのためにレーベルを制定することもある(プライベートレーベル)。レーベルは、所属するミュージシャンの音楽とそのジャンル、方向性、規模を、作品以外で端的にアピールするための手法であるとも言え、レーベル買いなどという消費行動も存在した。
90年代ごろにはコロムビア、ワーナー、ポリグラムなどの6大メジャーが存在したが、その後合併が繰り返されて、メジャーによる寡占化が進行した。 レコード・レーベルはメジャー・レーベルとインディー・レーベルが存在するが、2014年における世界のメジャー・レーベルの市場占有率は、約65〜70パーセントとされている。 | [
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レコード業界では、それが転じて、ラベル紙に記された(印刷された) [[レコード会社]]やその傘下のブランド名自体を「レーベル」と呼ぶようになった。ブランド名としての「レーベル」は独立した会社組織になっている場合と、そうでない場合がある。
== 概要 ==
レーベルはラベル(label)のことでありレコード盤の中央に貼り付けられていたものを指す<ref name="ochiai73">{{Cite book |和書 |author=落合真司 |year=2003 |title=音楽業界ウラわざ |page=73 }}</ref>。レーベルはレコード会社ごとにデザインが異なったものが用いられブランド化が図られるようになった<ref name="ochiai73" />。
音楽のジャンルの多様化とともにレコード会社が様々な音楽性をもつアーティストを同時に抱えるようになると、レコード会社は音楽性ごとに組織化してレーベルを立てるようになった<ref>{{Cite book |和書 |author=落合真司 |year=2003 |title=音楽業界ウラわざ |pages=73-74 }}</ref>。
歴史のあるレーベルには[[ブランド]]的価値が発生するが、所属アーティストによって固定されたイメージがつきまとうこともある。そのイメージを払拭するためのブランド戦略の一環として新規のヒモ付きレーベルが作られることもある。また、マネージメントやプロデューサーなどが独立したレーベルを設け、原盤権などを分離する例も多い。プロ・アーティストが、アマチュアのためにレーベルを制定することもある(プライベートレーベル)。レーベルは、所属するミュージシャンの音楽とそのジャンル、方向性、規模を、作品以外で端的にアピールするための手法であるとも言え、レーベル買いなどという消費行動も存在した。
90年代ごろには[[コロムビア・レコード|コロムビア]]、[[ワーナー・ミュージック・グループ|ワーナー]]、[[ポリグラム]]などの6大メジャーが存在したが、その後[[合併 (企業)|合併]]が繰り返されて、メジャーによる寡占化が進行した。
レコード・レーベルはメジャー・レーベルとインディー・レーベルが存在するが、2014年における世界のメジャー・レーベルの市場占有率は、約65〜70[[パーセント]]とされている<ref>{{cite web|url=https://www.aim.org.uk/#/independent-music-now-growing-force-global-market/|title=Independent Music is now a growing force in the global market|date=1 February 2014|website=Musicindie.com|accessdate=08 January 2020}}</ref>。
==おもなレコードレーベル==
*[[タイシタレーベル]]
*[[クレプスキュール]]
*[[YENレーベル]]
*FTZ records
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[レコード会社]]
** [[レコード会社一覧]]
* [[インディーズ]]
* [[メジャー・デビュー (音楽家)]]
* [[ブランド]]
{{メジャーレコードレーベル}}
{{音楽}}
{{Music-stub}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:れことれえへる}}
[[Category:レコード・レーベル|*]]
[[Category:音楽に関するメディア]] | 2003-05-25T14:44:49Z | 2023-09-09T05:28:08Z | false | false | false | [
"Template:Music-stub",
"Template:Normdaten",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
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"Template:メジャーレコードレーベル",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB |
9,341 | タロとジロ | タロ(1955年(昭和30年)10月 - 1970年(昭和45年)8月11日)とジロ(1955年(昭和30年)10月 - 1960年(昭和35年)7月9日)は日本による初期の南極地域観測隊に同行した樺太犬の兄弟である。南極に取り残されながら共に生存し、1年後に救出されたことで有名になる。
1956年(昭和31年)1月、稚内市にて風連のクマと、クロの子として生まれ、タロ・ジロ・サブロの3兄弟だった。名前は当時南極観測隊用に樺太犬を集めていた犬飼哲夫北海道大学教授によって名付けられた。この名前は白瀬矗の南極探検の際、犬ぞりの先導犬として活躍した樺太犬、タロとジロ(「タロウとジロウ」、あるいは「タローとジロー」とも)にちなむ。
1956年(昭和31年)、南極観測隊に樺太犬による犬ぞりの使用が決定される。当時の北海道には約1,000頭の樺太犬がいたが、このうち犬ぞりに適した犬は40から50頭程度に過ぎなかった。この中から3頭の兄弟と父親を含む23頭が集められ、稚内で樺太出身の後藤直太郎によって訓練が行われた。このうちサブロは訓練中に病死している。
1956年(昭和31年)11月、総勢53名の第1次南極観測隊隊員がタロ、ジロを含む22頭の樺太犬と共に東京湾より南極観測船「宗谷」で南極へ出発。宗谷には暑さに弱い樺太犬たちのために、赤道越えのための冷房室が特別に用意された。隊員のうち11名が第1次越冬隊として選抜され、この中で菊池徹と最年少の北村泰一が犬係(北村自身の記述によれば、「犬かかり」)を任じられる。昭和基地に到着すると、病気などでそのまま帰国する3頭を除いた19頭の犬たちは、1957年の第1次越冬隊において犬ぞり引きなどに使役された。越冬中に2頭が病死、1頭が行方不明となった。また雌のシロ子はジロなどとの間に8頭の子を産んだ。
1957年(昭和32年)12月、宗谷が南極付近に到着した。昭和基地にいる第1次隊員と入れ替わって越冬するため、宗谷は第2次越冬隊を乗せていた。しかし、近年稀にみる悪天候にみまわれ、宗谷は昭和基地には到着できなかった。
1958年(昭和33年)2月6日、46日ぶりに外洋への脱出に成功し、7日、アメリカ海軍のウィンド級砕氷艦「バートン・アイランド」号と会合。支援を受けて8日、密群氷に再突入した。11日、6便に分かれて1次越冬隊11名、雄の三毛猫たけし、カナリア2羽が宗谷に帰船。12日、2次隊隊員3名が先遣隊として昭和基地に到着。13日、天候の悪化により空輸が困難となった。
14日、天候はますます悪化し、バ号自体の氷海脱出も危うくなった。午前10時、永田隊長から、一旦外洋に出てから天候が回復しだい再進入する計画なので3名は宗谷に戻るように指示したが、3名は、第1次隊が残した食料と樺太犬がいるので再進入の計画があるならばこのまま越冬準備を続けたい、万一再進入できなくても3名での越冬も十分可能であることを強く訴えた。
正午、隊長からは次のような最後通告が戻ってきた。「3名を収容して外洋に出るのはバ号艦長の至上命令であり、気象的にも空輸の可能性は後1便しかない。越冬には樺太犬が必要なので野犬化したり、共食いしたりしないよう、必ず鎖につないだまま帰船してほしい」
バ号艦長の命令では従うしかなかった3人は、南極生まれの子犬8頭とその母犬のシロ子はなんとしても連れ帰ることにした。15頭の犬の食料2か月分を分配した後、迎えに来た昭和号(DH-2)に子犬8頭とシロ子と共に昭和号に乗り込んだが、荷重超過で機は離陸できなかった。不時着用の燃料と食料を降ろすという森松整備士の機転によって帰船することができたが、15頭の犬は首輪で昭和基地付近につながれたままにされた。
17日、宗谷はバ号と共に外洋に出た後、18日、密群氷に再進入し昭和号を発進させられそうな水路や氷山を探したが見つからず、19日、風速30メートルを超える暴風雪により探照灯と電話アンテナがもぎ取られた。最後にせめて安楽死させようと考え、ヒ素入りステーキを準備したが昭和号が飛びたてる海面がなく、帰国期限の2月24日を迎えた。
24日、南極本部より第二次越冬・本観測を放棄せよとの命令が下り、計画を断念し、第2次越冬隊の派遣は断念された。それとともに15頭の犬の救出も見送られ、残された犬達の生存は絶望視された。この犬を置き去りにしたことにより、観測隊は激しい非難を浴びることとなった。7月には大阪府堺市に15頭を供養する銅像(樺太犬慰霊像)が建立された。
1959年(昭和34年)1月14日、第3次越冬隊のヘリコプターにより、上空から昭和基地に2頭の犬が生存していることが確認される。着陸すると駆けてきて操縦士に寄ってきたが、個体の判別がつかなかった。急遽、第1次越冬隊で犬係だった北村が次の機で基地に向かうことになった。犬達は北村に対しても警戒していたが、北村は2頭の中の1頭の前足の先が白いのを認め、「ジロ」ではないかと考え名前を呼んだところ反応して尻尾を振った。もう1頭も「タロ」との発声に反応したことから、この兄弟が生存していたことが確認されたのである。
基地には7頭の犬が首輪につながれたまま息絶えており、他の6頭の消息は知れなかった。基地に置いてきた犬の食料や死んだ犬を食べた形跡はなく、アザラシの糞やペンギンを食べて生きていたのだろうと北村は推測している。北村らは3次隊越冬の際、タロとジロが2頭でアザラシに襲いかかる所や食料を貯蔵する所を目撃している。この兄弟は特に首輪抜けが得意な個体だったと言われる。
しかしその後、北村は、犬たちはペンギンを襲うことはあっても食べることはまずなかったこと、アザラシの糞は好んで食べたが、アザラシを襲う際に海水に落ちる危険があること、いずれにせよ、犬たちが犬用食料(第2次隊が給餌しやすいよう開梱した状態で残されており、容易に食べられる状態であったにもかかわらず、全く手がつけられていなかった)よりもそれらを優先したとは考えがたいことを指摘し、これらの説を否定している。北村はその上で、食料の候補として、海水に浸かったため天然冷凍庫内に放棄されていた人間用食料(人間にとっては臭くて食べられたものではなかったが、犬は好んで食べたという)、第1次隊が犬ゾリ調査旅行を行った際にデポに残した食料、調査旅行の際に発見されたクジラの死骸、の3つを挙げている。
タロとジロの生還は日本中に衝撃と感動とをもたらし、2頭をたたえる歌「タロー・ジローのカラフト犬」(しばざきそうすけ作詞・豊田稔作曲、三浦尚子歌)、「よかったよかったタロー ジロー」(小林純一作詞・冨田勲作曲、小坂一也・本間千代子・みすず児童合唱団歌)までもが作られたほどである。さらに日本動物愛護協会によって、当時開業したばかりの東京タワーに15頭の樺太犬記念像(製作:安藤士〈忠犬ハチ公像の彫刻家〉、構成:斎藤弘山〈斎藤弘吉〉)が設置された。 2013年に国立極地研究所(立川市)へ移転。
タロとジロの生還から9年後の1968年、昭和基地のそばの解けた雪の中から、1匹の樺太犬の死骸が見つかった。灰色で短毛という特徴から、行方不明6匹のうち「リキ」と思われた。7歳と、最年長だったリキは、第1次越冬中から、幼かったタロとジロに自分の餌を与え、実の親のように片時も離れず2匹の面倒を見ていた。タロとジロの生存には、リキの存在があったのではないかと北村は推測している。
第3次隊にはペットとして樺太犬の子犬トチ、アク、ミヤが同行していたが、タロとジロが生存していたため牡のトチ、アクはソリ曳き犬として育てられた。第4次越冬隊ではさらに11頭の樺太犬とケープタウンでベルギー隊からもらったグリーンランド・ハスキーの子犬が参加することとなった。この樺太犬の中には第1次越冬中に昭和基地で生まれた犬も含まれた。
タロは第4次越冬隊と共に、1961年5月4日に4年半振りに日本に帰国。1961年から1970年まで札幌市の北海道大学植物園で犬飼哲夫の弟子の阿部永らによって飼育され、1970年(昭和45年)8月11日に老衰のため14歳7か月で没。人間でいえば約80-90歳という天寿を全うしての大往生であった。死後は同園で剥製として展示されている。またタロの血を引く子孫の犬が日本各地に散らばっている。
ジロは第4次越冬中の1960年(昭和35年)7月9日昭和基地で病死。5歳。ジロの剥製は東京都台東区の国立科学博物館に置かれていたが、極地で病死した状態から剥製にされたこともあって損傷が激しく、簡単に動かすことができなかった。
映画『南極物語』の影響もあり、タロとジロの剥製を一緒にさせてあげようという運動が起こる。これを受けて、1998年(平成10年)9月2日から17日間開催された稚内市青少年科学館での「タロ・ジロ里帰り特別展」で、タロとジロの剥製が初めて同じ場所で陳列された。また2006年(平成18年)7月15日 - 9月3日まで上野の国立科学博物館で開催された「ふしぎ大陸南極展2006」でもジロと共に剥製が展示された。
その後は再び、北海道大学植物園でタロの剥製が、国立科学博物館でジロの剥製が展示されている。
なおタロとジロを発見したS58型ヘリコプター1号機は1973年に退役後、南極観測時代の塗装に戻し1974~1998年まで東京・上野の国立科学博物館にジロと共に保存されていたが、1999年から筑波の保存庫に移った。同じくタロとジロを発見した2号機は1966年3月5日、全日空羽田沖墜落事故の遺体捜索中に海に墜落し失われた。この事故で亡くなった3人の中1人の里野光五郎機長はタロとジロを発見した時のパイロットだった。
1956年に稚内公園で第1次南極観測隊に参加する樺太犬の訓練が実施されたことから、1961年から稚内公園の供養塔前で南極観測隊で活躍した樺太犬の慰霊祭が執り行われている。
1983年(昭和58年)、タロとジロの生存劇を描いた映画『南極物語』が公開された。本作では、1968年(昭和43年)12月19日に第9次観測隊を率いて日本人として初めて南極点に到達した村山雅美が監修を行った。樺太犬が調達できないため、南極観測に最も多く用いられたエスキモー犬(アラスカン・マラミュート、シベリアン・ハスキー、サモエド、グリーンランド・ドッグ、カナディアン・エスキモー・ドッグ)で代用された。1984年(昭和59年)にテレビ東京で放送されたアニメ『宗谷物語』でも、タロとジロについて描かれている。さらに、2006年(平成18年)には、アメリカ合衆国のウォルト・ディズニー・ピクチャーズによって、この話を元に設定を変えた"Eight Below"(邦題『南極物語』)が製作された。2011年(平成23年)には『南極大陸』としてTBSでテレビドラマ化された。
なお、『南極物語』や『南極大陸』などの作品はあくまで創作であり、実際のできごととは異なる部分がかなりあるので注意が必要である。
犬たちを鎖につないだまま置き去りにしたということで、当時、南極観測に関わった人々への激しい批判が起きた。
SF作家の星新一は、この事件は人間側から見れば美談であるが、ペンギンの立場から見れば、獰猛な肉食動物を人間が置いていったために大被害を受けたという悲劇ではないかと考え、この視点からショートショート作品を1編書いている。「探検隊」という題名で、1961年(昭和36年)の作品集『ようこそ地球さん』に収録されている。また藤子・F・不二雄は、SF短編「裏町裏通り名画館」の中で、タロとジロを想起させる犬に捕食されるアザラシの親子の苦難を描いた映画(作中では『北極物語』つまり北極越冬隊の犬という設定)を登場させている。音楽家の團伊玖磨は鳥好き、犬嫌いの立場から、タロとジロを題材としたラジオドラマの音楽の仕事を断ったとエッセイ『パイプのけむり』の中で語っている。
21世紀現在では生態系保護のため、南極に犬など外来の生物を持ち込むことはできない(犬ぞりも参照)。 | [
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"text": "タロ(1955年(昭和30年)10月 - 1970年(昭和45年)8月11日)とジロ(1955年(昭和30年)10月 - 1960年(昭和35年)7月9日)は日本による初期の南極地域観測隊に同行した樺太犬の兄弟である。南極に取り残されながら共に生存し、1年後に救出されたことで有名になる。",
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"text": "1956年(昭和31年)1月、稚内市にて風連のクマと、クロの子として生まれ、タロ・ジロ・サブロの3兄弟だった。名前は当時南極観測隊用に樺太犬を集めていた犬飼哲夫北海道大学教授によって名付けられた。この名前は白瀬矗の南極探検の際、犬ぞりの先導犬として活躍した樺太犬、タロとジロ(「タロウとジロウ」、あるいは「タローとジロー」とも)にちなむ。",
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"text": "1956年(昭和31年)、南極観測隊に樺太犬による犬ぞりの使用が決定される。当時の北海道には約1,000頭の樺太犬がいたが、このうち犬ぞりに適した犬は40から50頭程度に過ぎなかった。この中から3頭の兄弟と父親を含む23頭が集められ、稚内で樺太出身の後藤直太郎によって訓練が行われた。このうちサブロは訓練中に病死している。",
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] | タロとジロは日本による初期の南極地域観測隊に同行した樺太犬の兄弟である。南極に取り残されながら共に生存し、1年後に救出されたことで有名になる。 | [[画像:Sakhalin Husky Jiro.JPG|250px|right|thumb|ジロの[[剥製]](2012年撮影、[[国立科学博物館]])]]
[[File:Taro and Dr. H. Abe.jpg|thumb|タロの剥製の前で見学者に説明をする晩年の世話をしていた阿部永博士(2022年撮影、[[北海道大学植物園]])]]
[[画像:The Statues of Taro & Jiro in Garden Pier, Minato-machi Minato Ward Nagoya 2009.jpg|250px|right|thumb|タロとジロの像(2009年撮影、[[名古屋市]][[港区 (名古屋市)|港区]]の[[ガーデンふ頭]])]]
'''タロ'''([[1955年]](昭和30年)10月 - [[1970年]](昭和45年)[[8月11日]])と'''ジロ'''(1955年(昭和30年)10月 - [[1960年]](昭和35年)[[7月9日]])は[[日本]]による初期の[[南極地域観測隊]]に同行した[[樺太犬]]の兄弟である。[[南極]]に取り残されながら共に生存し、1年後に救出されたことで有名になる。
== 生い立ち ==
[[画像:taro.jpg|250px|right|thumb|樺太犬訓練記念碑(2003年撮影、[[稚内公園]]。ただしモデルはタロとジロとの父親違いの兄弟)]]
1956年(昭和31年)1月、[[稚内市]]にて風連のクマと、クロの子として生まれ、タロ・ジロ・サブロの3兄弟だった。名前は当時南極観測隊用に樺太犬を集めていた[[犬飼哲夫]]北海道大学教授によって名付けられた。この名前は[[白瀬矗]]の南極探検の際、[[犬ぞり]]の先導犬として活躍した樺太犬、タロとジロ(「タロウとジロウ」<ref>[https://wanchan.jp/osusume/detail/3273 南極物語のモデルとなった樺太犬タロとジロの生涯とは]わんちゃんホンポ公式サイト</ref>、あるいは「タローとジロー」とも)にちなむ。
[[1956年]]([[昭和]]31年)、南極観測隊に樺太犬による犬ぞりの使用が決定される。当時の[[北海道]]には約1,000頭の樺太犬がいたが、このうち犬ぞりに適した犬は40から50頭程度に過ぎなかった。この中から3頭の兄弟と父親を含む23頭が集められ、稚内で[[樺太]]出身の[[後藤直太郎]]によって訓練が行われた。このうちサブロは訓練中に病死している。
== 第一次南極観測隊 ==
[[1956年]](昭和31年)11月、総勢53名の第1次南極観測隊隊員がタロ、ジロを含む22頭の樺太犬と共に[[東京湾]]より南極観測船「[[宗谷 (船)|宗谷]]」で[[南極]]へ出発。宗谷には暑さに弱い樺太犬たちのために、赤道越えのための冷房室が特別に用意された。隊員のうち11名が第1次越冬隊として選抜され、この中で[[菊池徹]]と最年少の[[北村泰一]]が犬係(北村自身の記述によれば、「犬かかり」)を任じられる。[[昭和基地]]に到着すると、病気などでそのまま帰国する3頭を除いた19頭の犬たちは、[[1957年]]の第1次越冬隊において犬ぞり引きなどに使役された。越冬中に2頭が病死、1頭が行方不明となった。また雌のシロ子はジロなどとの間に8頭の子を産んだ。
[[1957年]](昭和32年)12月、宗谷が南極付近に到着した。昭和基地にいる第1次隊員と入れ替わって越冬するため、宗谷は第2次越冬隊を乗せていた。しかし、近年稀にみる悪天候にみまわれ、宗谷は昭和基地には到着できなかった。
1958年(昭和33年)2月6日、46日ぶりに[[外洋]]への脱出に成功し、7日、アメリカ海軍のウィンド級砕氷艦「[[バートン・アイランド (砕氷艦)|バートン・アイランド]]」号と会合。支援を受けて8日、密群氷に再突入した。11日、6便に分かれて1次越冬隊11名、雄の[[三毛猫]][[たけし (猫)|たけし]]、[[カナリア]]2羽が宗谷に帰船。12日、2次隊隊員3名が先遣隊として昭和基地に到着。13日、天候の悪化により空輸が困難となった。
14日、天候はますます悪化し、バ号自体の氷海脱出も危うくなった。午前10時、永田隊長から、一旦外洋に出てから天候が回復しだい再進入する計画なので3名は宗谷に戻るように指示したが、3名は、第1次隊が残した食料と樺太犬がいるので再進入の計画があるならばこのまま越冬準備を続けたい、万一再進入できなくても3名での越冬も十分可能であることを強く訴えた。
正午、隊長からは次のような最後通告が戻ってきた。「3名を収容して外洋に出るのはバ号艦長の至上命令であり、気象的にも空輸の可能性は後1便しかない。越冬には樺太犬が必要なので[[野犬]]化したり、[[共食い]]したりしないよう、必ず鎖につないだまま帰船してほしい」<ref>南極観測船「宗谷」航海記 196項</ref>
バ号艦長の命令では従うしかなかった3人は、南極生まれの子犬8頭とその母犬のシロ子はなんとしても連れ帰ることにした。15頭の犬の食料2か月分を分配した後、迎えに来た昭和号([[デ・ハビランド・カナダ DHC-2|DH-2]])に子犬8頭とシロ子と共に昭和号に乗り込んだが、荷重超過で機は[[離陸]]できなかった。不時着用の燃料と食料を降ろすという森松整備士の機転によって帰船することができたが、15頭の犬は首輪で昭和基地付近につながれたままにされた。
17日、宗谷はバ号と共に外洋に出た後、18日、密群氷に再進入し昭和号を発進させられそうな水路や氷山を探したが見つからず、19日、風速30メートルを超える暴風雪により[[サーチライト|探照灯]]と電話アンテナがもぎ取られた。最後にせめて安楽死させようと考え、[[ヒ素]]入り[[ステーキ]]を準備したが昭和号が飛びたてる海面がなく、帰国期限の2月24日を迎えた<ref name="南極">南極観測船「宗谷」航海記 197項</ref>。
24日、[[南極地域観測統合推進本部|南極本部]]より第二次越冬・本観測を放棄せよとの命令が下り、計画を断念し、第2次越冬隊の派遣は断念された。それとともに15頭の犬の救出も見送られ、残された犬達の生存は絶望視された。この犬を置き去りにしたことにより、観測隊は激しい非難を浴びることとなった。7月には[[大阪府]][[堺市]]に15頭を供養する銅像(樺太犬慰霊像)が建立された。
== 奇跡の生存 ==
[[画像:Nankyokuchiiki-kansoku-50.jpg|thumb|250px|タロとジロをデザインした硬貨]]
[[1959年]](昭和34年)[[1月14日]]、第3次越冬隊のヘリコプターにより、上空から昭和基地に2頭の犬が生存していることが確認される。着陸すると駆けてきて操縦士に寄ってきたが、個体の判別がつかなかった。急遽、第1次越冬隊で犬係だった北村が次の機で基地に向かうことになった。犬達は北村に対しても警戒していたが、北村は2頭の中の1頭の前足の先が白いのを認め、「ジロ」ではないかと考え名前を呼んだところ反応して尻尾を振った。もう1頭も「タロ」との発声に反応したことから、この兄弟が生存していたことが確認されたのである<ref name="南極" />。
基地には7頭の犬が首輪につながれたまま息絶えており、他の6頭の消息は知れなかった。基地に置いてきた犬の食料や死んだ犬を食べた形跡はなく、[[アザラシ]]の[[糞]]や[[ペンギン]]を食べて生きていたのだろうと北村は推測している。北村らは3次隊越冬の際、タロとジロが2頭でアザラシに襲いかかる所や食料を貯蔵する所を目撃している。この兄弟は特に首輪抜けが得意な個体だったと言われる。
しかしその後、北村は、犬たちはペンギンを襲うことはあっても食べることはまずなかったこと、アザラシの糞は好んで食べたが、アザラシを襲う際に海水に落ちる危険があること、いずれにせよ、犬たちが犬用食料(第2次隊が給餌しやすいよう開梱した状態で残されており、容易に食べられる状態であったにもかかわらず、全く手がつけられていなかった)よりもそれらを優先したとは考えがたいことを指摘し、これらの説を否定している{{Sfn|嘉悦|2020|pages=286-291}}。北村はその上で、食料の候補として、海水に浸かったため天然冷凍庫内に放棄されていた人間用食料(人間にとっては臭くて食べられたものではなかったが、犬は好んで食べたという)、第1次隊が犬ゾリ調査旅行を行った際にデポに残した食料、調査旅行の際に発見されたクジラの死骸、の3つを挙げている{{Sfn|嘉悦|2020|pages=294-304}}。
タロとジロの生還は日本中に衝撃と感動とをもたらし、2頭をたたえる歌「タロー・ジローのカラフト犬」(しばざきそうすけ作詞・豊田稔作曲、三浦尚子歌)、「よかったよかったタロー ジロー」([[小林純一]]作詞・[[冨田勲]]作曲、[[小坂一也]]・[[本間千代子]]・みすず[[児童]][[合唱団]]歌)までもが作られたほどである。さらに日本動物愛護協会によって、当時開業したばかりの[[東京タワー]]に15頭の樺太犬記念像(製作:[[安藤士]]〈[[忠犬ハチ公]]像の彫刻家〉、構成:斎藤弘山〈[[斎藤弘吉]]〉)が設置された。<br />
[[2013年]]に[[国立極地研究所]]([[立川市]])へ移転。
タロとジロの生還から9年後の1968年、昭和基地のそばの解けた雪の中から、1匹の樺太犬の死骸が見つかった。灰色で短毛という特徴から、行方不明6匹のうち「リキ」と思われた。7歳と、最年長だったリキは、第1次越冬中から、幼かったタロとジロに自分の餌を与え、実の親のように片時も離れず2匹の面倒を見ていた。タロとジロの生存には、リキの存在があったのではないかと北村は推測している<ref>[https://www.nishinippon.co.jp/item/n/457285/ “タロとジロ守った?「南極物語」に“第3の生存犬” 元越冬隊60年目の証言 毎日新聞 2018/10/13 17:00]</ref>。
第3次隊には[[ペット]]として樺太犬の子犬トチ、アク、ミヤが同行していたが、タロとジロが生存していたため牡のトチ、アクはソリ曳き犬として育てられた。第4次越冬隊ではさらに11頭の樺太犬とケープタウンでベルギー隊からもらったグリーンランド・ハスキーの子犬が参加することとなった。この樺太犬の中には第1次越冬中に昭和基地で生まれた犬も含まれた。
== 帰国後 ==
タロは第4次越冬隊と共に、[[1961年]][[5月4日]]に4年半振りに日本に帰国。1961年から1970年まで[[札幌市]]の[[北海道大学植物園]]で犬飼哲夫の弟子の[[阿部永]]らによって飼育され、1970年(昭和45年)8月11日に[[老衰]]のため14歳7か月で没。人間でいえば約80-90歳という天寿を全うしての大往生であった。死後は同園で[[剥製]]として展示されている。またタロの血を引く子孫の犬が日本各地に散らばっている。
ジロは第4次越冬中の[[1960年]](昭和35年)[[7月9日]]昭和基地で病死。5歳。ジロの剥製は東京都台東区の[[国立科学博物館]]に置かれていたが、極地で病死した状態から剥製にされたこともあって損傷が激しく<ref>{{Cite book |和書 |author=フジテレビトリビア普及委員会 |year=2003 |title=トリビアの泉〜へぇの本〜 1 |publisher=講談社 }}</ref>、簡単に動かすことができなかった。
映画『南極物語』の影響もあり、タロとジロの剥製を一緒にさせてあげようという運動が起こる。これを受けて、1998年(平成10年)9月2日から17日間開催された[[稚内市]]青少年科学館での「タロ・ジロ里帰り特別展」で、タロとジロの剥製が初めて同じ場所で陳列された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.wakkanai.hokkaido.jp/kagakukan/t-j-satogaeri.htm|title=タロ・ジロ里帰り|accessdate=2012-01-03|publisher=稚内市青少年科学館|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080918051256/http://www.city.wakkanai.hokkaido.jp/kagakukan/t-j-satogaeri.htm|archivedate=2008年9月18日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。また2006年(平成18年)7月15日 - 9月3日まで上野の国立科学博物館で開催された「[[ふしぎ大陸南極展2006]]」でもジロと共に剥製が展示された<ref>[https://www.kahaku.go.jp/exhibitions/ueno/special/2006/south-pole/midokoro.html 日本南極観測50周年記念 ふしぎ大陸南極展 2006 国立科学博物館]</ref>。
その後は再び、北海道大学植物園でタロの剥製が、国立科学博物館でジロの剥製が展示されている。
なおタロとジロを発見したS58型ヘリコプター1号機は1973年に退役後、南極観測時代の塗装に戻し1974~1998年まで東京・上野の国立科学博物館にジロと共に保存されていたが、1999年から筑波の保存庫に移った。同じくタロとジロを発見した2号機は1966年3月5日、[[全日空羽田沖墜落事故]]の遺体捜索中に海に墜落し失われた。この事故で亡くなった3人の中1人の里野光五郎機長はタロとジロを発見した時のパイロットだった。
== 慰霊祭 ==
1956年に[[稚内公園]]で第1次南極観測隊に参加する樺太犬の訓練が実施されたことから、[[1961年]]から稚内公園の供養塔前で南極観測隊で活躍した樺太犬の慰霊祭が執り行われている<ref name="hokkaido-np-2014-8-3">{{Cite news|date=2014-08-03|newspaper=[[北海道新聞]]|title=元南極観測隊員の北村さん初参列 稚内で樺太犬の慰霊祭|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140810114448/http://www.hokkaido-np.co.jp/news/chiiki4/554825.html|url=http://www.hokkaido-np.co.jp/news/chiiki4/554825.html|publisher=北海道新聞社|accessdate=2014-08-03|archivedate=2014年8月10日|deadurldate=2017年9月}}</ref>。
== 映像化 ==
[[1983年]](昭和58年)、タロとジロの生存劇を描いた映画『'''[[南極物語]]'''』が公開された。本作では、[[1968年]](昭和43年)[[12月19日]]に第9次観測隊を率いて日本人として初めて[[南極点]]に到達した[[村山雅美]]が監修を行った。樺太犬が調達できないため、南極観測に最も多く用いられたエスキモー犬([[アラスカン・マラミュート]]、[[シベリアン・ハスキー]]、[[サモエド]]、[[グリーンランド・ドッグ]]、[[カナディアン・エスキモー・ドッグ]])で代用された。[[1984年]](昭和59年)に[[テレビ東京]]で放送されたアニメ『[[宗谷物語]]』でも、タロとジロについて描かれている。さらに、[[2006年]](平成18年)には、[[アメリカ合衆国]]の[[ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ]]によって、この話を元に設定を変えた[[南極物語_(2006年の映画)|"Eight Below"(邦題『南極物語』)]]が製作された。[[2011年]](平成23年)には『'''[[南極大陸 (テレビドラマ)|南極大陸]]'''』として[[TBSテレビ|TBS]]でテレビドラマ化された。
なお、『南極物語』や『南極大陸』などの作品はあくまで'''創作'''であり、実際のできごととは異なる部分がかなりあるので注意が必要である。
== 別の視点からみた南極の犬たち ==
犬たちを鎖につないだまま置き去りにしたということで、当時、南極観測に関わった人々への激しい批判が起きた。
SF作家の[[星新一]]は、この事件は人間側から見れば美談であるが、ペンギンの立場から見れば、獰猛な肉食動物を人間が置いていったために大被害を受けたという悲劇ではないかと考え、この視点から[[ショートショート]]作品を1編書いている。「探検隊」という題名で、1961年(昭和36年)の作品集『ようこそ地球さん』に収録されている。また[[藤子・F・不二雄]]は、SF短編「[[裏町裏通り名画館]]」の中で、タロとジロを想起させる犬に捕食される[[アザラシ]]の親子の苦難を描いた映画(作中では『北極物語』つまり北極越冬隊の犬という設定)を登場させている。音楽家の[[團伊玖磨]]は鳥好き、犬嫌いの立場から、タロとジロを題材としたラジオドラマの音楽の仕事を断ったとエッセイ『パイプのけむり』の中で語っている。
[[21世紀]]現在では生態系保護のため、南極に犬など外来の生物を持ち込むことはできない([[犬ぞり]]も参照)。
== 参考:第1次越冬隊に同行した樺太犬一覧 ==
{|class="wikitable" border="1" cellpadding="2"
!名前!!出身地!!年齢!!備考
|-
|アカ||[[稚内市|稚内]]||5||昭和基地で没
|-
|アンコ||[[苫小牧市|苫小牧]]||2||行方不明
|-
|クロ||[[利尻島|利尻]]||3.5||昭和基地で没
|-
|ゴロ||稚内||2||昭和基地で没
|-
|ジャック||利尻||3||行方不明
|-
|シロ||利尻||2||行方不明
|-
|シロ子||稚内||0.5||第1次越冬後、8頭の子と共に帰国
|-
|'''ジロ'''||'''[[稚内市|稚内]]'''||'''1'''||'''第4次越冬中に病死'''
|-
|'''タロ'''||'''稚内'''||'''1'''||'''第4次越冬後に帰国'''
|-
|テツ||[[旭川市|旭川]]||6||第1次越冬中に病死
|-
|デリー||旭川||5||行方不明
|-
|比布のクマ||[[比布町|比布]]||4.5||第1次越冬中に失踪
|-
|'''風連のクマ'''||'''[[風連町|風連]]'''||'''3'''||'''行方不明、タロとジロの実父'''
|-
|ペス||利尻||4||昭和基地で没
|-
|ベック||利尻||3.5||第1次越冬中に病死
|-
|ポチ||利尻||2.5||昭和基地で没
|-
|モク||[[深川市|深川]]||2||昭和基地で没
|-
|紋別のクマ||[[紋別市|紋別]]||3||昭和基地で没
|-
|リキ||旭川||6||行方不明→9年後に昭和基地付近で死体発見(※)
|}
* 注:年齢は「宗谷」出港時のもの。シロ子のみ雌、他全て雄。
* (※) 1968年2月に昭和基地付近で1頭の死体が発見されている。詳細な記録は残っておらず、どの犬であったかは特定されていないが、北村はリキだと推定している{{Sfn|嘉悦|2020|pages=324}}。鎖から抜け出せたが基地から離れなかったのは、第一次越冬中からよく面倒をみていた年下のタロとジロを見捨てられなかったからではないかと北村は推測している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/457285/|title=タロとジロ守った?「南極物語」に“第3の生存犬” 元越冬隊60年目の証言|publisher=西日本新聞|date=2018-10-13|accessdate=2018-10-17}}</ref>{{Sfn|嘉悦|2020|pages=307-308}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Citation | 和書
| last = 嘉悦 | first = 洋
| others = [[北村泰一]]監修
| title = その犬の名を誰も知らない
| publisher = [[小学館集英社プロダクション]]
| date = 2020-02-20 | year = 2020
| isbn = 978-4-7968-7792-3
| ref = harv
}}
* 菊池徹 『犬たちの南極』 [[中公文庫]] 1983年
* 北村泰一 『南極第一次越冬隊とカラフト犬』 教育社、1982年
** 新版改題 『南極越冬隊 タロジロの真実』 [[小学館文庫]]、2007年
* 北村泰一『カラフト犬物語 生きていたタロとジロ』 教育社、1982年、児童書
* 菊池徹 『タロ・ジロは生きていた ドキュメント フォト・南極』 教育出版センター、1983年 同
* [[藤原一生]]『タロ・ジロは生きていた 南極・カラフト犬物語』 教育出版センター、1983年、同
** 新版、菊池徹監修『タロ・ジロは生きていた 南極・カラフト犬物語』 銀の鈴社、2004年
* {{cite|和書|author1=[[犬飼哲夫]]|author2=[[芳賀良一]]|title=日本南極地域観測隊犬橇関係報告 (I) |journal=南極資料|issue=4|year=1958|publisher=国立極地研究所|doi=10.15094/00006857|id={{CRID|1573950401626543616}}}}
* {{cite|和書|author1=犬飼哲夫|author2=芳賀良一|title=日本南極地域観測隊犬橇関係報告 (II) |journal=南極資料|issue=10|year=1960|publisher=国立極地研究所|doi=10.15094/00006988|id={{CRID|1571417126836138496}}}}
* {{cite|和書|author=芳賀良一|title=無人の昭和基地(南極)における樺太犬の生存について|journal=帯広畜産大学学術研究報告 第I部|volume=3|issue=4|year=1963|publisher=帯広畜産大学|id={{CRID|1050845762515328128}}|url=http://id.nii.ac.jp/1588/00002571/}}
* 南極OB会編集委員会 南極観測船「宗谷」航海記 航海・機関・輸送の実録(成山堂、2014年)ISBN 9784425948314
== 関連項目 ==
* [[白瀬矗]] − 戦前の南極探検隊を率いる。南極を離れる際戦後の第一次南極観測隊と同じく悪天候に見舞われ連れてきた樺太犬21頭を置き去りにせざるを得なくなった。
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Taro and Jiro}}
* [https://www.city.wakkanai.hokkaido.jp/kagakukan/shiryo/nankyoku/taro_jiro_isshou.html 樺太犬タロ・ジロの一生 稚内市青少年科学館]
* {{Wayback|url=http://www.city.wakkanai.hokkaido.jp/main/gaiyo/tarojiro/|date=20020619084825|title=南極観測樺太犬 稚内市役所}}
* [https://news.livedoor.com/article/detail/15439801/ 「「南極物語」タロとジロ守った“第3の犬” 元越冬隊の北村氏、60年目の証言」 西日本新聞夕刊(2018年10月13日付)記事]
{{南極地域観測隊}}
{{DEFAULTSORT:たろとしろ}}
[[Category:犬の個体]]
[[Category:南極観測]]
[[Category:南極の歴史]]
[[Category:1955年生]]
[[Category:1960年没]]
[[Category:1970年没]] | 2003-05-25T18:53:34Z | 2023-11-01T23:43:30Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%AD%E3%81%A8%E3%82%B8%E3%83%AD |
9,342 | タロー | タロー、タロウ | [
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}
] | タロー、タロウ タロー (ギリシア神話) - ギリシア神話の女神。
タロット (tarot) のこと。
噺家の符牒で金銭のこと。
タロ - 日本による初期の南極観測の際活躍した樺太犬。
ヤクルトスワローズに在籍していたドゥエイン・ホージーの愛称。
タロー (ラジオDJ) - 日本のラジオパーソナリティ。
ウルトラマンタロウ - 「ウルトラシリーズ」第5作とその主人公。
TA☆RO - 中京テレビのバラエティ番組。石田純一、森下千里が司会を務める。 | '''タロー'''、'''タロウ'''
* [[タロー (ギリシア神話)]] - [[ギリシア神話]]の[[女神]]。
* [[タロット]] (tarot) のこと。
* [[噺家]]の[[符牒]]で金銭のこと。
* タロ - 日本による初期の[[南極]]観測の際活躍した[[樺太犬]]。{{See|[[タロとジロ]]}}
* [[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]に在籍していた[[ドゥエイン・ホージー]]の愛称。
* [[タロー (ラジオDJ)]] - 日本の[[ラジオパーソナリティ]]。
* [[ウルトラマンタロウ]] - 「[[ウルトラシリーズ]]」第5作とその主人公。
* [[TA☆RO]] - [[中京テレビ放送|中京テレビ]]の[[バラエティ番組]]。[[石田純一]]、[[森下千里]]が司会を務める。
== 姓 ==
{{定義リスト2
| Tharaud |
[[フランス語]]圏に見られる[[姓]]。
* [[アレクサンドル・タロー]] - [[フランス]]の[[ピアニスト]]。
* {{仮リンク|ジェローム・タロー|fr|Jérôme Tharaud}} - フランスの[[作家]]。
* {{仮リンク|ジャン・タロー|fr|Jean Tharaud}} - フランスの作家。ジェローム・タローの実弟。
| Tarrow |
[[英語]]圏に見られる姓。
* [[シドニー・タロウ]] - [[アメリカ合衆国]]の[[政治学者]]。
| Turow |
英語圏に見られる姓。
* [[スコット・トゥロー]](スコット・タロー) - アメリカの[[弁護士]]。[[小説家]]。
}}
== 関連項目 ==
* {{Intitle|タロー}}
* {{Intitle|タロウ}}
* [[太郎]]
* [[タローさん]] - [[ラナン・ルリー]]により作られた、日本の国を象徴する([[国の擬人化]])キャラクター。
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[[category:フランス語の姓]]
[[Category:英語の姓]]
[[Category:人物の愛称]] | 2003-05-25T19:52:06Z | 2023-09-05T15:08:33Z | true | false | false | [
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9,343 | 日高町 | 日高町 | [
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] | 日高町 日高町 (北海道) - 北海道沙流郡に所在。
日高町 (和歌山県) - 和歌山県日高郡に所在。 日高町 (兵庫県) - 兵庫県城崎郡に所在した。現・豊岡市。
日高町 (埼玉県) - 埼玉県入間郡に所在した。読みは「ひだかまち」。現・日高市。 日高町 - 茨城県日立市日高町。読みは「ひたかちょう」。町内にJR常磐線の小木津駅がある。
日高町 - 群馬県高崎市日高町。関越自動車道の前橋インターチェンジ付近に所在する。
日高町 - 兵庫県川西市の地名。町内に川西市立桜が丘小学校がある。
日高町 - 大分県日田市大字日高の地名。 | '''日高町'''
; 自治体
* [[日高町 (北海道)]] - [[北海道]][[沙流郡]]に所在。
* [[日高町 (和歌山県)]] - [[和歌山県]][[日高郡 (和歌山県)|日高郡]]に所在。
; 廃止自治体
* [[日高町 (兵庫県)]] - [[兵庫県]][[城崎郡]]に所在した。現・[[豊岡市]]。
* 日高町 (埼玉県) - [[埼玉県]][[入間郡]]に所在した。読みは「ひだかまち」。現・[[日高市]]。
; 地名
* 日高町 - [[茨城県]][[日立市]]日高町。読みは「ひたかちょう」。町内に[[東日本旅客鉄道|JR]][[常磐線]]の[[小木津駅]]がある。
* 日高町 - [[群馬県]][[高崎市]]日高町。[[関越自動車道]]の[[前橋インターチェンジ]]付近に所在する。
* 日高町 - [[兵庫県]][[川西市]]の地名。町内に[[川西市立桜が丘小学校]]がある。
* 日高町 - [[大分県]][[日田市]][[大字]]日高の地名。
{{地名の曖昧さ回避}} | null | 2021-04-25T03:00:15Z | false | false | false | [
"Template:地名の曖昧さ回避"
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9,344 | 1271年 | 1271年(1271 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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"title": "死去"
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] | 1271年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。 | {{年代ナビ|1271}}
{{year-definition|1271}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[辛未]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[文永]]8年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1931年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[南宋]] : [[咸淳]]7年
** [[元 (王朝)|元]] : [[至元 (元世祖)|至元]]8年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[高麗]] : [[元宗 (高麗王)|元宗]]12年
** [[檀君紀元|檀紀]]3604年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[陳朝]] : [[紹隆]]14年
* [[仏滅紀元]] : 1813年 - 1814年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 669年 - 670年
* [[ユダヤ暦]] : 5031年 - 5032年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1271|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[クビライ]]、国号を「[[元 (王朝)|大元]]」(ダイオン・イェケ・モンゴル・ウルス)と改める。
* [[マルコ・ポーロ]]が旅行へ出発([[東方見聞録]]の記述による)。
* 9月:高麗の[[三別抄]]から、共同で元に対抗する軍事的援助を求める使者が来訪し、[[蒙古]]と対抗するため兵力や兵糧の援助を請うたが、日本は黙殺した。
* 9月:[[元 (王朝)|元]]使の[[趙良弼]]らが元への服属を命じる国書を携えて5度目の使節としてきたが、日本は元の国書を黙殺した。
* 10月:[[日蓮]]聖人、[[佐渡国|佐渡]]配流
== 誕生 ==
{{see also|Category:1271年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月4日]] - [[イサベル・デ・アラゴン・イ・シシリア]]、[[ポルトガル王国|ポルトガル]]王[[ディニス1世 (ポルトガル王)|ディニス1世]]の妃(+ [[1336年]])
* [[2月9日]](文永7年[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]) - [[覚如]]、[[鎌倉時代]]、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[浄土真宗]]の[[僧]](+ [[1351年]])
* [[3月13日]] - [[グタ・ハブスブルスカー]]、[[ボヘミア王国|ボヘミア]]王[[ヴァーツラフ2世 (ボヘミア王)|ヴァーツラフ2世]]の最初の王妃(+ [[1297年]])
* [[3月14日]] - [[シュテファン1世 (バイエルン公)|シュテファン1世]]、[[バイエルン大公|下バイエルン公]](+ [[1310年]])
* [[9月8日]] - [[カルロ・マルテッロ・ダンジョ]]、[[ハンガリー王国|ハンガリー]][[王位請求者]](+ [[1295年]])
* [[9月17日]] - [[ヴァーツラフ2世 (ボヘミア王)|ヴァーツラフ2世]]、[[プシェミスル朝]]の[[ボヘミア]]王、[[ポーランド王国|ポーランド]]王(+ [[1305年]])
* [[11月4日]] - [[ガザン・ハン]]、[[イルハン朝]]の第7代君主(+ [[1304年]])
* [[ウドゥルタイ]]、[[元 (王朝)|元]]の[[武将]](+ [[1302年]])
* [[孤峰覚明]]、鎌倉時代、南北朝時代の[[臨済宗]]の僧(+ [[1361年]])
* [[土岐頼貞]]、鎌倉時代、南北朝時代の[[武将]](+ [[1339年]])
* [[ミハイル・ヤロスラヴィチ]]、[[トヴェリ]]公、[[ウラジーミル・スーズダリ大公国|ウラジーミル大公]](+ [[1318年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1271年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月28日]] - [[イザベル・ダラゴン]]、[[フランス王国|フランス]]王[[フィリップ3世 (フランス王)|フィリップ3世]]の王妃(* [[1247年]])
* [[3月30日]](文永8年[[2月18日 (旧暦)|2月18日]]) - [[新田政氏]]、[[鎌倉時代]]の[[武将]]、[[新田氏]]の第5代当主(* [[1208年]])
* [[4月17日]] - [[イザベル・ド・フランス (ナバラ王妃)|イザベル・ド・フランス]]、[[ナバラ王国|ナバラ]]王[[テオバルド2世 (ナバラ王)|テオバルド2世]]の妃(* [[1241年]])
* [[6月30日]](文永8年[[5月22日 (旧暦)|5月22日]]) - [[浄音]]、鎌倉時代の[[浄土宗]]の[[僧]](* [[1201年]])
* [[8月14日]](文永8年[[7月8日 (旧暦)|7月8日]]) - [[大炊御門家嗣]]、鎌倉時代の[[公卿]](* [[1197年]])
* [[8月25日]] - [[ジャンヌ・ド・トゥールーズ]]、[[トゥールーズ伯|トゥールーズ女伯]]、[[プロヴァンス伯|プロヴァンス女侯]](* [[1220年]])
* [[10月27日]] - [[ユーグ4世 (ブルゴーニュ公)|ユーグ4世]]、[[ブルゴーニュ公]](* [[1213年]])
* [[ウリヤンカダイ]]、[[モンゴル帝国]]の[[将軍]](* [[1200年]])
* [[ニグベイ]]、モンゴル帝国の王族、[[チャガタイ・ハン国|チャガタイ家]]の第8代当主(* 生年未詳)
* [[ヘレナ・アンゲリナ・ドゥーカイナ]]、[[シチリア王国|シチリア]]王[[マンフレーディ]]の2度目の王妃(* [[1242年]])
* [[ミカエル2世アンゲロス・コムネノス]]、[[エピロス専制侯国|エピロス専制公]](* 生年未詳)
* [[ヤロスラフ3世]]、[[トヴェリ]]公、[[ウラジーミル・スーズダリ大公国|ウラジーミル大公]](* [[1230年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1271}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=13|年代=1200}}
{{デフォルトソート:1271ねん}}
[[Category:1271年|*]] | null | 2021-05-19T21:39:19Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1271%E5%B9%B4 |
9,345 | 1234年 | 1234年(1234 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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] | 1234年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。 | {{年代ナビ|1234}}
{{year-definition|1234}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[甲午]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[天福 (日本)|天福]]2年、[[文暦]]元年[[11月5日 (旧暦)|11月5日]] -
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1894年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[南宋]] : [[端平]]元年
** [[金 (王朝)|金]] : [[天興 (金)|天興]]3年(旧[[1月10日 (旧暦)|1月10日]]まで)
* 中国周辺
** [[モンゴル帝国]]{{Sup|*}} : 太宗([[オゴデイ]])6年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[高麗]] : [[高宗 (高麗王)|高宗]]21年
** [[檀君紀元|檀紀]]3567年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[陳朝]] : [[天応政平]]3年
* [[仏滅紀元]] : 1776年 - 1777年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 631年 - 632年
* [[ユダヤ暦]] : 4994年 - 4995年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1234|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[モンゴル帝国|モンゴル]]と[[南宋]]の連合軍、[[金 (王朝)|金]]を滅ぼす([[蔡州の戦い]])。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1234年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[阿塔海]]、[[元 (王朝)|元]]の[[政治家]]、[[軍人]](+ [[1289年]])
* [[アバカ]]、[[イルハン朝]]の第2代[[ハーン|ハン]](+ [[1282年]])
* [[吉川経高]]、[[鎌倉時代]]の[[武士]](+ [[1319年]])
* [[二条教良]]、鎌倉時代の[[公卿]](+ 没年未詳)
* [[ベアトリス・ド・プロヴァンス]]、[[シチリア王国|シチリア]]王[[カルロ1世 (シチリア王)|カルロ1世]]の最初の妃(+ [[1267年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1234年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月9日]](天興3年[[1月7日 (旧暦)|1月7日]]) - [[哀宗 (金)|哀宗]]、[[金 (王朝)|金]]の第9代[[皇帝]](* [[1198年]])
* 2月9日(天興3年[[1月7日 (旧暦)|1月7日]]) - [[末帝 (金)|末帝]]、金の末代皇帝(* 生年未詳)
* [[4月7日]] - [[サンチョ7世 (ナバラ王)|サンチョ7世]]、[[ナバラ王国|ナバラ王]](* [[1154年]])
* [[6月18日]](天福2年[[5月20日 (旧暦)|5月20日]]) - [[仲恭天皇]]、第85代[[天皇]](* [[1218年]])
* [[7月11日]](天福2年[[6月14日 (旧暦)|6月14日]]) - [[多田仁綱]]、[[鎌倉時代]]の[[武将]](* 生年未詳)
* [[8月23日]](天福2年[[7月27日 (旧暦)|7月27日]]) - [[竹御所]]、第4代[[征夷大将軍|将軍]][[藤原頼経]]の[[正室]](* [[1202年]])
* [[8月27日]](天福2年[[8月2日 (旧暦)|8月2日]]) - [[宇都宮信房]]、[[平安時代]]、鎌倉時代の武将(* [[1156年]])
* [[8月31日]](天福2年[[8月6日 (旧暦)|8月6日]]) - [[後堀河天皇]]、第86代天皇(* [[1212年]])
* [[9月16日]](天福2年[[8月22日 (旧暦)|8月22日]]) - [[尾藤景綱]]、鎌倉時代の武将(* 生年未詳)
* [[12月20日]](文暦元年[[11月28日 (旧暦)|11月28日]]) - [[里見義成]]、平安時代、鎌倉時代の武将(* [[1157年]])
* [[完顔従恪]]、金の第7代皇帝[[衛紹王]]の嫡子(* 生年未詳)
* [[崔立]]、金の[[政治家]](* 生年未詳)
* [[ナンダウンミャー]]、[[ミャンマー|ビルマ]]の[[パガン王朝|パガン朝]]の第8代[[国王]](* 生年未詳)
* [[源家長]]、鎌倉時代の[[公家]]、[[歌人]]、[[新三十六歌仙]]の一人(* [[1170年]]?)
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1234}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=13|年代=1200}}
{{デフォルトソート:1234ねん}}
[[Category:1234年|*]] | null | 2023-03-07T11:15:27Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1234%E5%B9%B4 |
9,346 | 1274年 | 1274年(1274 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。 | [
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] | 1274年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。 | {{年代ナビ|1274}}
{{year-definition|1274}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[甲戌]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[文永]]11年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1934年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[南宋]] : [[咸淳]]10年
** [[元 (王朝)|元]] : [[至元 (元世祖)|至元]]11年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[高麗]] : [[元宗 (高麗王)|元宗]]15年
** [[檀君紀元|檀紀]]3607年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[陳朝]] : [[宝符]]2年
* [[仏滅紀元]] : 1816年 - 1817年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 672年 - 673年
* [[ユダヤ暦]] : 5034年 - 5035年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1274|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[文永の役]]
** 10月:元寇の元及び高麗連合軍の都元帥・[[忽敦]]、右副元帥・[[洪茶丘]]、左副元帥・[[劉復亨]]らの率いる蒙漢軍および[[金方慶]]らが率いる高麗王国軍、操船要員を含む3〜4万人を乗せた大小900艘の船団が朝鮮半島の[[合浦]](現在の大韓民国[[馬山市|馬山]])を出発し、[[対馬]]や[[壱岐]]を蹂躙した。
** 11月25日未明、元寇の元及び高麗連合軍が[[博多]]に上陸した。
* [[第2リヨン公会議]]
* 日蓮が幕府に赦免され、佐渡国から鎌倉へ帰る。
* [[ラッバーン・バール・サウマ]]が[[クビライ]]の許可を受け、[[エルサレム]]巡礼へ出発する。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1274年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[7月11日]] - [[ロバート1世 (スコットランド王)|ロバート1世]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Robert-the-Bruce Robert the Bruce king of Scotland] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[スコットランド王国|スコットランド]]王(+ [[1329年]])
* [[10月4日]] - [[ルドルフ1世 (バイエルン公)|ルドルフ1世]]、[[バイエルン大公|上バイエルン公]]、[[ライン宮中伯]](+ [[1319年]])
* [[ヴィオランテ・ディ・モンフェラート]]、[[東ローマ帝国]][[皇帝]][[アンドロニコス2世パレオロゴス]]の2度目の皇后(+ [[1317年]])
* [[西園寺公顕]]、[[鎌倉時代]]の[[公卿]]、[[歌人]](* [[1321年]])
* [[慈雲妙意]]、鎌倉時代、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[臨済宗]]の[[僧]](+ [[1345年]])
* [[新田朝氏]]、鎌倉時代の[[御家人]]、[[新田氏]]本宗家の第7代当主(+ [[1318年]])
* [[吉田定房]]、鎌倉時代の公卿(+ [[1338年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1274年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月7日]] - [[トマス・アクィナス]]、[[イタリア]]の[[哲学者]]、[[神学者]](* [[1225年]]?)
* [[6月26日]] - [[ナスィールッディーン・トゥースィー]]、[[シーア派]]の神学者、哲学者、[[数学者]]、[[天文学者]](* [[1201年]])
* [[7月15日]] - [[ボナヴェントゥラ]]、イタリアの神学者、[[枢機卿]]、[[フランシスコ会]]総長(* [[1221年]]?)
* [[7月22日]] - [[エンリケ1世 (ナバラ王)|エンリケ1世]]、[[ナバラ王国|ナバラ王]]、[[シャンパーニュ伯]](* [[1244年]]?)
* [[8月12日]](咸淳10年[[7月9日 (旧暦)|7月9日]]) - [[度宗]]、[[南宋]]の第6代[[皇帝]](* [[1240年]])
* [[9月2日]](文永11年[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]) - [[宗尊親王]]<ref>{{Harvnb|安田|1990|p=608|loc=田村憲美「宗尊親王」}}</ref>、[[鎌倉幕府]]6代[[征夷大将軍|将軍]]、[[歌人]](* [[1242年]])
* [[10月19日]](文永11年[[9月18日 (旧暦)|9月18日]]) - [[西八条禅尼]]、[[源実朝]]の[[正室]](* [[1193年]])
* [[11月4日]](文永11年[[10月5日 (旧暦)|10月5日]]) - [[宗助国]]、[[鎌倉時代]]の[[武将]](* [[1207年]]?)
* [[11月14日]](文永11年[[10月15日 (旧暦)|10月15日]]) - [[平景隆]]、鎌倉時代の武将、[[壱岐国]]の[[守護代]](* 生年未詳)
* [[ケーセギ・ヘンリク]]、[[ハンガリー王国]]の[[貴族|大貴族]](* 生年未詳)
* [[元宗 (高麗王)|元宗]]、第24代[[高麗王]](* [[1221年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1274}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=13|年代=1200}}
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[[Category:1274年|*]] | null | 2022-08-17T15:00:07Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1274%E5%B9%B4 |
9,347 | 1281年 | 1281年(1281 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。 | [
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"text": "1281年(1281 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。",
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] | 1281年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。 | {{年代ナビ|1281}}
{{year-definition|1281}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[辛巳]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[弘安]]4年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1941年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[元 (王朝)|元]] : [[至元 (元世祖)|至元]]18年
*** [[陳吊眼]] : [[昌泰 (陳吊眼)|昌泰]]元年旧閏8月 - 旧11月
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[高麗]] : [[忠烈王]]7年
** [[檀君紀元|檀紀]]3614年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[陳朝]] : [[紹宝]]3年
* [[仏滅紀元]] : 1823年 - 1824年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 679年 - 680年
* [[ユダヤ暦]] : 5041年 - 5042年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1281|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* 8月:[[フビライ・ハン]]率いる[[元 (王朝)|元]]の艦隊が1274年10月に続き日本を攻撃するが、大型の台風により壊滅する。{{Sfn|ファータド|2013|p=212|ps=「日本、神風で元を撃退 激しい台風が、フビライ・ハン率いる元の侵攻から日本を救う。」}}([[弘安の役]])
*10月29日 - [[第二次ホムスの戦い]]
== 誕生 ==
{{see also|Category:1281年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[9月1日]](弘安4年[[7月17日 (旧暦)|閏7月17日]]) - [[円観]]、[[鎌倉時代]]、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[天台宗]]の[[僧]](+ [[1356年]])
* [[今出川兼季]]、鎌倉時代、[[室町時代]]の[[公卿]]、[[従一位]][[太政大臣]](+ [[1339年]])
* [[オルジェイトゥ]]、[[イルハン朝]]の第8代君主(+ [[1316年]])
* [[カイシャン]]、[[モンゴル帝国]]の第7代[[皇帝]](+ [[1311年]])
* [[道昭 (天台宗)|道昭]]、鎌倉時代、南北朝時代の天台宗の僧、[[歌人]](+ [[1356年]])
* [[ルドルフ1世 (ボヘミア王)|ルドルフ1世]]、[[ボヘミア王]]、[[オーストリア公]](+ [[1307年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1281年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[4月28日]](弘安4年[[4月9日 (旧暦)|4月9日]]) - [[花山院師継]]、[[鎌倉時代]]の[[公卿]]、[[正二位]][[権大納言]](* [[1222年]])
* [[6月24日]](弘安4年[[6月7日 (旧暦)|6月7日]]) - [[二階堂行綱]]、鎌倉時代の[[御家人]](* [[1216年]])
* [[7月16日]](弘安4年[[6月29日 (旧暦)|6月29日]]) - [[少弐資時]]、鎌倉時代の[[壱岐国]][[守護代]](* [[1222年]])
* [[8月28日]](弘安4年[[7月13日 (旧暦)|閏7月13日]]) - [[少弐資能]]、鎌倉時代の御家人(* [[1198年]])
* [[9月23日]](弘安4年[[8月9日 (旧暦)|8月9日]]) - [[北条宗政]]、[[鎌倉幕府]][[評定衆]](* [[1253年]])
* [[チャブイ]]、[[モンゴル帝国]]の世祖[[クビライ]]の皇后(* 生年未詳)
<!-- == 注釈 ==
{{Reflist|group="注"}} -->
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book ja-jp |author=ピーター・ファータド(編集) |year=2013 |title=世界の歴史を変えた日 1001 |publisher=ゆまに書房 |isbn=978-4-8433-4198-8 |ref={{Sfnref|ファータド|2013}}}}<!-- 2013年10月15日初版1刷 -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1281}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=13|年代=1200}}
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[[Category:1281年|*]] | null | 2023-01-25T16:48:24Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1281%E5%B9%B4 |
9,348 | 罪刑法定主義 | 罪刑法定主義()とは、ある行為を犯罪として処罰するためには、立法府が制定する法令において、犯罪とされる行為の内容、及びそれに対して科される刑罰を予め、明確に規定しておかなければならないとする原則のことをいう。対置される概念は罪刑専断主義である。
ラテン語による標語"Nulla poena sine lege"(法律なければ刑罰なし)により知られ、罪刑法定主義と日本語訳されるこの概念は、ラテン語ではあるがローマ法に原典をもつものではなく、近代刑法学の父といわれるドイツ刑法学者フォイエルバッハにより1801年に提唱されたものである。なお、この標語は"Nulla poena sine crimine; Nullum crimen sine poena legali."(犯罪なければ刑罰なし、法定の刑罰なければ犯罪なし)と続く。
この原則の淵源は、1215年のマグナ・カルタに遡り、そこで謳われた法定手続の保証がイギリス帝国で再三確認されたのち、アメリカ合衆国に渡り、1776年ヴァージニア州権利章典8条に、1788年アメリカ合衆国憲法に、またヨーロッパに戻り、1789年フランス革命人権宣言8条がこれを宣言し、1791年のフランス憲法に盛り込まれ、全ヨーロッパ諸国の刑法に採用されることで罪刑法定主義は「近代刑法の大原則」として承認されるに至った。
罪刑法定主義の根拠は、以下のように自由主義・民主主義の原理にこれを求めることができる。
罪刑法定主義の派生原理として以下のような事項が要求される。
"Nulla poena sine lege"の派生としてたとえば以下の標語がある。
従来の法律が想定していた可能性を超えた態様の事件が発生した場合に、法律規定から処罰が出来なかったり刑罰に上限が出来てしまい、悪質だが処罰が難しかったり厳罰にすることができない、という点について、これを柔軟に処罰することができない罪刑法定主義は、批判的に捉えられることもある。
これに対し、罪刑法定主義という観念を有しない伝統的な英米法の法域では、後述のとおり行為時に成文法で禁止されておらず、判例上も犯罪として認知されていなかった行為が、裁判の結果としてコモン・ロー上の犯罪として処罰されることがあり得る。その意味で、コモン・ロー上の犯罪には、「弾力性」がある。
犯行発生当時に、従来の法律が想定していなかったような態様の事件としては以下のものがある。
律令をはじめとする日本も含めた近代以前の東アジア諸国の法体系においては、刑罰は法律の条文に基づいて行われることにはなっていたが、その一方で社会秩序の維持を名目として、法令に明記されていない(無正条)犯罪を類似した正条を根拠に裁く規定である「断罪無正条」や、法令に該当しない軽犯罪の裁判を行政官の情理による裁量に委ねる「不応為条」が必ず設けられており、類似の犯罪行為の規定からの類推適用が許されており、「法律なくして犯罪なし」とする罪刑法定主義の主旨とは対極に位置していた。これは東アジアの法体系における刑罰は厳格な絶対的法定刑(固定刑)を原則としており、こうした類推適用は国家や官吏の擅断によって刑罰が行われる危険性を持つ一方で、「法の欠缺補充機能」及び「減刑機能」によって絶対的法定刑を原則とする刑事法の弾力的運用を図るという側面を有していた。このため、こうした類推適用を排して罪刑法定主義を導入するためには法定刑の仕組を見直すなどの法体系の抜本的な変更を必要とした。
ただし、ヨーロッパで罪刑法定主義思想が主張される以前の徳川期の刑法でも、類推や拡張解釈については厳重な拘束があり、裁判官の自由に委ねられていたのではないことが指摘されている。
罪刑法定主義が日本で制度的に確立されるのは明治時代の旧刑法施行以後のことであり、大陸法の影響を受けた明治憲法(第23条)にその趣旨が規定されている。現行の日本国憲法では、第31条と第39条が主な根拠条文とされ、73条6号による、法律の委任以外の政令による罰則設定禁止と41条の国会中心立法から、慣習刑法の禁止は当然と解される。現行刑法には罪刑法定主義について直接触れた条項は存在しない。
英米法は、伝統的に罪刑法定主義の観念を有さず、裁判所は、成文法で禁止されていない行為であっても、コモン・ロー上の犯罪として、適当な刑罰を科すことができる。この法理は、現在でも、イギリスやアメリカの多くの法域において維持されている(他方で、現在では、法域によって、議会制定法が罪刑法定主義に相当する規定を定め、この法理を制限している場合もある。)。
コモン・ロー上で「犯罪」とされる行為の多くは、「先例」によって古くから「犯罪」とされてきた行為であるが、「先例のない行為」であっても、新たに「コモン・ロー上の犯罪行為」として認知され、刑罰を科されることがある。例として、イギリスのShaw対公訴長官事件(1961年)やアメリカのペンシルバニア州対Mochan事件(1955年)などがある。
英米法においても、「事後法の禁止」という考え方は一応存在する(アメリカ合衆国憲法第1編9節3項、10編1節など)。しかし、「コモン・ロー上の犯罪」として新たに認められたものは、「事後法の禁止」より優先して扱われ、抵触しないとされる。コモン・ローは、「十全な体系として昔から存在するものであり、判例は、それを宣明するものにすぎない」という立場に基づいて正当化されている。但し、人権意識の進展した近年においては、デュー・プロセス・オブ・ローの拡張概念である実体的デュー・プロセス(英語版)の理論により、可罰性の拡大は非常に謙抑的なものとなっており、実質的な罪刑法定主義的抑制は機能しているといえる。
国際法は成文化された条約だけでなく、成文化されていない慣習によって成り立つ慣習法を法源として認めている。現代の国際法の原則の多くは元々中世ヨーロッパにおける慣行に由来したものが多く、近代以降から国連の成立まで慣習国際法は長く不文の法として国際関係を規律してきた。国連の成立以後は条約によって規律される分野が増えて慣習国際法の適用範囲は狭まったといえるが、しかし条約には基本的に当事国間に限り有効という制限があり、条約が規律しない国際関係については今なお慣習国際法が適用される。1950年の欧州人権条約や、1966年の市民的及び政治的権利に関する国際規約の様に、国際法における法の不遡及を規定した国際条約でも罪刑法定主義や法の不遡及の原則の例外を認めている。 | [
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"text": "罪刑法定主義()とは、ある行為を犯罪として処罰するためには、立法府が制定する法令において、犯罪とされる行為の内容、及びそれに対して科される刑罰を予め、明確に規定しておかなければならないとする原則のことをいう。対置される概念は罪刑専断主義である。",
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"text": "これに対し、罪刑法定主義という観念を有しない伝統的な英米法の法域では、後述のとおり行為時に成文法で禁止されておらず、判例上も犯罪として認知されていなかった行為が、裁判の結果としてコモン・ロー上の犯罪として処罰されることがあり得る。その意味で、コモン・ロー上の犯罪には、「弾力性」がある。",
"title": "批判"
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"text": "犯行発生当時に、従来の法律が想定していなかったような態様の事件としては以下のものがある。",
"title": "批判"
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"text": "律令をはじめとする日本も含めた近代以前の東アジア諸国の法体系においては、刑罰は法律の条文に基づいて行われることにはなっていたが、その一方で社会秩序の維持を名目として、法令に明記されていない(無正条)犯罪を類似した正条を根拠に裁く規定である「断罪無正条」や、法令に該当しない軽犯罪の裁判を行政官の情理による裁量に委ねる「不応為条」が必ず設けられており、類似の犯罪行為の規定からの類推適用が許されており、「法律なくして犯罪なし」とする罪刑法定主義の主旨とは対極に位置していた。これは東アジアの法体系における刑罰は厳格な絶対的法定刑(固定刑)を原則としており、こうした類推適用は国家や官吏の擅断によって刑罰が行われる危険性を持つ一方で、「法の欠缺補充機能」及び「減刑機能」によって絶対的法定刑を原則とする刑事法の弾力的運用を図るという側面を有していた。このため、こうした類推適用を排して罪刑法定主義を導入するためには法定刑の仕組を見直すなどの法体系の抜本的な変更を必要とした。",
"title": "日本における沿革"
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"text": "罪刑法定主義が日本で制度的に確立されるのは明治時代の旧刑法施行以後のことであり、大陸法の影響を受けた明治憲法(第23条)にその趣旨が規定されている。現行の日本国憲法では、第31条と第39条が主な根拠条文とされ、73条6号による、法律の委任以外の政令による罰則設定禁止と41条の国会中心立法から、慣習刑法の禁止は当然と解される。現行刑法には罪刑法定主義について直接触れた条項は存在しない。",
"title": "日本における沿革"
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"text": "英米法は、伝統的に罪刑法定主義の観念を有さず、裁判所は、成文法で禁止されていない行為であっても、コモン・ロー上の犯罪として、適当な刑罰を科すことができる。この法理は、現在でも、イギリスやアメリカの多くの法域において維持されている(他方で、現在では、法域によって、議会制定法が罪刑法定主義に相当する規定を定め、この法理を制限している場合もある。)。",
"title": "英米法"
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"text": "コモン・ロー上で「犯罪」とされる行為の多くは、「先例」によって古くから「犯罪」とされてきた行為であるが、「先例のない行為」であっても、新たに「コモン・ロー上の犯罪行為」として認知され、刑罰を科されることがある。例として、イギリスのShaw対公訴長官事件(1961年)やアメリカのペンシルバニア州対Mochan事件(1955年)などがある。",
"title": "英米法"
},
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"text": "英米法においても、「事後法の禁止」という考え方は一応存在する(アメリカ合衆国憲法第1編9節3項、10編1節など)。しかし、「コモン・ロー上の犯罪」として新たに認められたものは、「事後法の禁止」より優先して扱われ、抵触しないとされる。コモン・ローは、「十全な体系として昔から存在するものであり、判例は、それを宣明するものにすぎない」という立場に基づいて正当化されている。但し、人権意識の進展した近年においては、デュー・プロセス・オブ・ローの拡張概念である実体的デュー・プロセス(英語版)の理論により、可罰性の拡大は非常に謙抑的なものとなっており、実質的な罪刑法定主義的抑制は機能しているといえる。",
"title": "英米法"
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"text": "国際法は成文化された条約だけでなく、成文化されていない慣習によって成り立つ慣習法を法源として認めている。現代の国際法の原則の多くは元々中世ヨーロッパにおける慣行に由来したものが多く、近代以降から国連の成立まで慣習国際法は長く不文の法として国際関係を規律してきた。国連の成立以後は条約によって規律される分野が増えて慣習国際法の適用範囲は狭まったといえるが、しかし条約には基本的に当事国間に限り有効という制限があり、条約が規律しない国際関係については今なお慣習国際法が適用される。1950年の欧州人権条約や、1966年の市民的及び政治的権利に関する国際規約の様に、国際法における法の不遡及を規定した国際条約でも罪刑法定主義や法の不遡及の原則の例外を認めている。",
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}
] | 罪刑法定主義とは、ある行為を犯罪として処罰するためには、立法府が制定する法令において、犯罪とされる行為の内容、及びそれに対して科される刑罰を予め、明確に規定しておかなければならないとする原則のことをいう。対置される概念は罪刑専断主義である。 | {{日本の刑法}}
{{読み仮名|'''罪刑法定主義'''|ざいけいほうていしゅぎ}}とは、ある行為を[[犯罪]]として処罰するためには、[[立法府]]が制定する[[法令]]において、犯罪とされる行為の内容、及びそれに対して科される[[刑罰]]を'''予め'''、'''明確に'''規定しておかなければならないとする原則のことをいう。対置される概念は罪刑専断主義である。
== 概要 ==
[[ラテン語]]による標語"''Nulla poena sine lege''"(法律なければ刑罰なし)により知られ、罪刑法定主義と日本語訳されるこの概念は、ラテン語ではあるが[[ローマ法]]に原典をもつものではなく、近代刑法学の父といわれるドイツ刑法学者[[アンゼルム・フォイエルバッハ|フォイエルバッハ]]により1801年に提唱されたものである<ref>「国際刑法と罪刑法定主義」小寺初世子(広島平和科学1982)[https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/1/15128/20141016122800297595/hps_05_83.pdf][http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00015128]PDF-P.3,P.9</ref>。なお、この標語は"''Nulla poena sine crimine; Nullum crimen sine poena legali.''"(犯罪なければ刑罰なし、法定の刑罰なければ犯罪なし)と続く。
この原則の淵源は、[[1215年]]の[[マグナ・カルタ]]に遡り、そこで謳われた法定手続の保証が[[イギリス帝国]]で再三確認されたのち、アメリカ合衆国に渡り、1776年ヴァージニア州権利章典8条に、1788年[[アメリカ合衆国憲法]]に、また[[ヨーロッパ]]に戻り、1789年フランス革命人権宣言8条がこれを宣言し、1791年のフランス憲法に盛り込まれ、全ヨーロッパ諸国の刑法に採用されることで罪刑法定主義は「近代刑法の大原則」として承認されるに至った<ref>「国際刑法と罪刑法定主義」小寺初世子(広島平和科学1982)[https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/1/15128/20141016122800297595/hps_05_83.pdf][http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00015128]PDF-P.9,10</ref>。
== 根拠 ==
罪刑法定主義の根拠は、以下のように[[自由主義]]・[[民主主義]]の原理にこれを求めることができる。
*どのような行為が犯罪に当たるかを国民にあらかじめ知らせることによって、それ以外の活動が自由であることを保障することが、自由主義の原理から要請される。
*何を罪とし、その罪に対しどのような刑を科すかについては、国民の代表者で組織される国会によって定め、国民の意思を反映させることが、民主主義の原理から要請される。
== 派生原則 ==
罪刑法定主義の派生原理として以下のような事項が要求される<ref>「国際刑法と罪刑法定主義」小寺初世子(広島平和科学1982)[https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/1/15128/20141016122800297595/hps_05_83.pdf][http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00015128]PDF-P.10,P.11</ref>。
*[[慣習刑法]]の禁止([[慣習法]]を直接処罰の根拠にしてはならない)
*刑事法における[[法解釈|類推解釈]]の禁止
*[[法の不遡及]]([[法の不遡及#刑罰法規不遡及の原則|事後法]]の禁止)
*[[絶対的不定期刑]]の禁止
*判例の不遡及的変更の原則
*{{仮リンク|実体的デュー・プロセス|en|Substantive due process}}の理論<ref>{{Cite book |和書
|author = [[平野龍一]]
|title = 刑法 総論 Ⅰ
|year = 1972
|publisher = [[有斐閣]]
|pages = 179-206 }}</ref>
**憲法が保障する基本的人権に反する刑罰法規の無効
**明確性の原則
**罪刑の均衡
"'''''Nulla poena sine lege'''''"の派生としてたとえば以下の標語がある<ref>{{cite book|last=Boot|first=M.|title=Genocide, Crimes Against Humanity, War Crimes: Nullum Crimen Sine Lege and the Subject Matter Jurisdiction of the International Criminal Court|year=2002|publisher=Intersentia|isbn=9789050952163|page=94|url=https://books.google.com/books?id=6QjrSHfoEiAC&pg=PA94}}</ref><ref>これはドイツ連邦共和国基本法103条2項およびドイツ刑法1条に関するドイツ憲法裁判所の意見による。Jescheck and Weigend, Lehrbuch Des Strafrechts: Allgemeiner Teilp. 128.</ref>。
:;''Nulla poena sine lege praevia''
::事前の法律なくして刑罰なし - [[事後法]]および刑法の遡及適用の禁止
:;''Nulla poena sine lege scripta''
::書かれた法律(成文法)なくして刑罰なし - [[慣習刑法]]の禁止
:;''Nulla poena sine lege certa''
::明確な法律なくして刑罰なし - 明確性の原則
:;''Nulla poena sine lege stricta''
::厳格な法律なくして刑罰なし - 拡張解釈・類推解釈の禁止
== 批判 ==
従来の法律が想定していた可能性を超えた態様の事件が発生した場合に、法律規定から処罰が出来なかったり刑罰に上限が出来てしまい、悪質だが処罰が難しかったり厳罰にすることができない、という点について、これを柔軟に処罰することができない罪刑法定主義は、批判的に捉えられることもある。
これに対し、罪刑法定主義という観念を有しない伝統的な[[英米法]]の法域では、後述のとおり行為時に[[成文法]]で禁止されておらず、判例上も犯罪として認知されていなかった行為が、裁判の結果としてコモン・ロー上の犯罪として処罰されることがあり得る。その意味で、[[コモン・ロー]]上の犯罪には、「弾力性」がある<ref name="名前なし-1">田中英夫『英米法総論』(下),東京大学出版会,1980,580頁。</ref>。
犯行発生当時に、従来の法律が想定していなかったような態様の事件としては以下のものがある。
*[[電気窃盗]]事件「電気は、窃盗罪において窃盗の目的とされる『物([[財物]])』であるか」
*ニセ牛缶事件「表示と中身が似ているが異なる商品の販売」
*[[天下一家の会事件]]「ある[[無限連鎖講|ねずみ講]]構造が、何ら刑法上の違反に当たらず、処分されなかった事例」
*[[国利民福の会事件]]「国債によるねずみ講構造」
*[[新潟少女監禁事件]]「誘拐当時9歳の少女が、その後約9年間にわたり監禁された事件について、逮捕監禁致傷罪の最高刑が懲役10年であり、少女の被害に比して短いとの批判があり、誘拐期間中の窃盗事件との[[併合罪]]とし訴追、微罪をもって併合罪の適用を図っているとの批判の中、裁判においても二転して確定した。事件後に法改正が行われ逮捕監禁致傷罪の最高刑が懲役15年に延長された」
*[[ザ・ムービー事件]]「情報抜き取り表示がある携帯アプリをダウンロードした人物の全電話帳データを抜きとって、[[個人情報]]を悪用する行為」
*[[日本航空1402便客室乗務員スカート内盗撮事件]]「上空を都道府県間を越えて高速で移動する旅客飛行機内で、[[スカート]]内を[[盗撮]]する行為の犯行時点の地域が不明であり、適用条例が確定されない」
*[[逗子ストーカー殺人事件]]「元恋人に婚約解消の慰謝料を要求する[[電子メール]]を、短期間に連続で大量に送信する行為が、[[ストーカー規制法]]に違反するか」
*[[GPSストーカー事件]]「[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]を用いて好意対象者の所在位置を調べる行為についてストーカー規制法の禁じる「見張り」に該当するか」
== 日本における沿革 ==
[[律令]]をはじめとする日本も含めた近代以前の東アジア諸国の法体系においては、刑罰は法律の条文に基づいて行われることにはなっていたが、その一方で社会秩序の維持を名目として、法令に明記されていない(無正条)犯罪を類似した正条を根拠に裁く規定である「'''[[断罪無正条]]'''」や、法令に該当しない軽犯罪の裁判を行政官の情理による裁量に委ねる「'''[[不応為条]]'''」が必ず設けられており、類似の犯罪行為の規定からの[[準用・類推適用|類推適用]]が許されており、「法律なくして犯罪なし」とする罪刑法定主義の主旨とは対極に位置していた。これは東アジアの法体系における刑罰は厳格な絶対的法定刑(固定刑)を原則としており、こうした類推適用は国家や官吏の擅断によって刑罰が行われる危険性を持つ一方で、「法の欠缺補充機能」及び「減刑機能」によって絶対的法定刑を原則とする刑事法の[[弾力的運用]]を図るという側面を有していた。このため、こうした類推適用を排して罪刑法定主義を導入するためには[[法定刑]]の仕組を見直すなどの法体系の抜本的な変更を必要とした<ref>岩谷十郎『明治日本の法解釈と法律家』(慶應義塾大学法学研究会、2012年)P177・P187・203</ref>。
ただし、ヨーロッパで罪刑法定主義思想が主張される以前の徳川期の刑法でも、類推や拡張解釈については厳重な拘束があり、裁判官の自由に委ねられていたのではないことが指摘されている<ref>[[鵜飼信成]]・[[福島正夫]]・[[川島武宜]]・辻󠄀清明編『講座 日本近代法発達史11』(勁草書房、1958年)288頁、[[佐伯千仭]]「刑事法より見たる日本的伝統」(論叢第50巻5・6号)</ref>。
罪刑法定主義が日本で制度的に確立されるのは明治時代の[[刑法 (日本)|旧刑法]]施行以後のことであり、大陸法の影響を受けた[[明治憲法]](第23条)にその趣旨が規定されている。現行の[[日本国憲法]]では、[[日本国憲法第31条|第31条]]と[[日本国憲法第39条|第39条]]が主な根拠条文とされ、[[日本国憲法第73条|73条]]6号による、法律の委任以外の政令による罰則設定禁止と[[日本国憲法第41条|41条]]の国会中心立法から、慣習刑法の禁止は当然と解される<ref>渋谷秀樹(2013) 『憲法(第2版)』 p196-7 有斐閣</ref>。現行刑法には罪刑法定主義について直接触れた条項は存在しない<ref group="注">これは、[[刑法 (日本)#現行刑法の制定|現行刑法制定時]]において、すでに明治憲法第23条が存在しており、自明のこととして規定されなかったと説明されるが、当時、刑法学会では[[牧野英一]]の指導の下、[[新派刑法学]]が有力であって、その思想の下、裁判官の裁量権限を強め、法規に対する拘束力を相対的に弱めた新刑法の基本的態度の反映とも見られている([[町野朔]]他『刑法学の歩み』(有斐閣新書))</ref>。
== 英米法 ==
英米法は、伝統的に罪刑法定主義の観念を有さず、裁判所は、成文法で禁止されていない行為であっても、[[コモン・ロー]]上の犯罪として、適当な刑罰を科すことができる。この法理は、現在でも、イギリスやアメリカの多くの法域において維持されている(他方で、現在では、法域によって、議会制定法が罪刑法定主義に相当する規定を定め、この法理を制限している場合もある。)<ref name="名前なし-1"/>。
[[コモン・ロー]]上で「犯罪」とされる行為の多くは、「[[先例]]」によって古くから「犯罪」とされてきた行為であるが、「'''先例のない行為'''」であっても、新たに「[[コモン・ロー]]上の犯罪行為」として認知され、刑罰を科されることがある。例として、イギリスのShaw対公訴長官事件(1961年)<ref>Shaw v. Director of Public Prosecutions [1962] A.C. 220.</ref>やアメリカのペンシルバニア州対Mochan事件(1955年)<ref>C. v. Mochan, 110 A.2d. 788 (Pa.Super.Ct.1955).</ref>などがある<ref>田中英夫『英米法総論』(下),東京大学出版会,1980,580頁,Loewy, Arnold H. "Criminal Law". 4th Ed., West Groop, 2003, 300.</ref>。
英米法においても、「[[遡及処罰の禁止|事後法の禁止]]」という考え方は一応存在する(アメリカ合衆国憲法第1編9節3項、10編1節など)。しかし、「[[コモン・ロー]]上の犯罪」として新たに認められたものは、「事後法の禁止」より優先して扱われ、抵触しないとされる。[[コモン・ロー]]は、「十全な体系として昔から存在するものであり、判例は、それを宣明するものにすぎない」という立場に基づいて正当化されている<ref name="名前なし-1"/>。但し、人権意識の進展した近年においては、[[デュー・プロセス・オブ・ロー]]の拡張概念である{{仮リンク|実体的デュー・プロセス|en|Substantive due process}}の理論により、可罰性の拡大は非常に謙抑的なものとなっており、実質的な罪刑法定主義的抑制は機能しているといえる<ref>{{Cite journal |和書
|author = 萩原滋
|authorlink = 萩原滋
|title = 《論説》実体的デュー・プロセスの理論の一考察(一)
|date = 1990-03
|publisher = 国士舘大学法学会
|journal = 国士舘法学
|volume = 22
|number =
|naid =
|pages = 179-206
|ref = }}
など</ref>。
== 国際法 ==
国際法は[[成文法|成文化]]された条約だけでなく、成文化されていない[[慣習]]によって成り立つ[[慣習法#国際法における慣習法|慣習法]]を法源として認めている。現代の[[国際法]]の原則の多くは元々中世[[ヨーロッパ]]における慣行に由来したものが多く、近代以降から[[国際連合|国連]]の成立まで慣習国際法は長く不文の法として国際関係を規律してきた<ref name="山本53-57">{{Harvnb|山本|2003|pages=53-57}}。</ref>。国連の成立以後は[[条約]]によって規律される分野が増えて慣習国際法の適用範囲は狭まったといえるが、しかし条約には基本的に当事国間に限り有効という制限があり、条約が規律しない国際関係については今なお慣習国際法が適用される<ref name="山本53-57" />。1950年の[[欧州人権条約]]や、1966年の[[市民的及び政治的権利に関する国際規約]]の様に、国際法における法の不遡及を規定した国際条約でも罪刑法定主義や[[法の不遡及]]の原則の例外を認めている<ref>「国際刑法と罪刑法定主義」小寺初世子(広島平和科学1982)[https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/1/15128/20141016122800297595/hps_05_83.pdf][http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00015128]PDF-P.12</ref>。
== 参考 ==
;[[マグナ・カルタ]]第39条
:Nullus liber homo capiatur, vel imprisonetur, aut disseisiatur, aut utlagetur, aut exuletur, aut aliquo modo destruatur, nec super eum ibimus, nec super eum mittemus, nisi per legale judicium parium suorum vel per legem terre.
:いずれの自由人も、同輩による適法の審判又は国法によるのでなければ、逮捕、収監、押収、追放他一切の侵害を受けることはなく、我々は、それを及ぼすこともない。
;[[大日本帝国憲法]][[大日本帝国憲法第23条|第23条]]
:日本臣民ハ法律ニ依ルニ非スシテ逮捕監禁審問処罰ヲ受クルコトナシ
;[[日本国憲法]][[日本国憲法第31条|第31条]]
:何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。
;[[欧州人権条約]] '''第七条'''(法律なくして処罰なし)
:一項 何人も、実行の時に国内法又は国際法により犯罪を警戒しなかった作為又は不作為を理由として有罪とされることはない。何人も、犯罪が行われた時に刑罰よりも重い刑罰を科されない。
:二項 この条は、文明諸国の認める法の一般原則より実行の時に犯罪とされていた作為又は不作為を理由として裁判しかつ処罰することを妨げるものではない。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
== 関連項目 ==
*[[日本国憲法第31条]]
*[[大日本帝国憲法第23条]]
*[[憲法]]
*[[刑法]]
**[[構成要件]]
*[[刑事訴訟法]]
*[[租税法律主義]]
*[[ハンムラビ法典]]・[[ウル・ナンム法典]]
*[[極東国際軍事裁判]]
{{Law-stub}}
{{DEFAULTSORT:さいけいほうていしゆき}}
[[Category:憲法]]
[[Category:刑法]]
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9,349 | 1804年 | 1804年(1804 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる閏年。 | [
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{{year-definition|1804}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[甲子]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]([[寛政暦]])
** [[享和]]4年、[[文化 (元号)|文化]]元年2月11日 -
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2464年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[嘉慶 (清)|嘉慶]]9年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[純祖]]4年
** [[檀君紀元|檀紀]]4137年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[阮朝]] : [[嘉隆]]3年
* [[仏滅紀元]] : 2346年 - 2347年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1218年9月18日 - 1219年9月28日
* [[ユダヤ暦]] : 5564年4月17日 - 5565年4月29日
* [[ユリウス暦]] : 1803年12月20日 - 1804年12月19日
* [[フランス革命暦]] : XII年雪月10日 - XIII年雪月10日
* [[修正ユリウス日]](MJD) : -20044 - -19679
* [[リリウス日]](LD) : 80797 - 81162
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1804}}
== できごと ==
* [[1月1日]] - 世界初の[[黒人]]による[[共和国]]である[[ハイチ]]が独立を宣言する。
* [[2月21日]] - [[リチャード・トレビシック]]が発明した[[蒸気機関車]]・ペナダレン号が初走行。
* [[3月22日]](文化元年[[2月11日 (旧暦)|2月11日]]) - 日本、改元して[[文化 (元号)|文化]]元年。
* [[5月10日]] - [[イギリス]]で第二次[[小ピット]]内閣が成立(-[[1806年]])。
* [[7月10日]](文化元年[[6月4日 (旧暦)|6月4日]]) - 日本で[[象潟地震]]が起こる。
* [[6月 (旧暦)|6月]] - [[江戸幕府]]が[[朝鮮通信使]]の礼を[[対馬国]]で受けることを決定する。
* [[7月11日]] - [[アメリカ合衆国副大統領]][[アーロン・バー]]と[[アメリカ合衆国財務長官|同財務長官]][[アレクサンダー・ハミルトン]]が[[決闘]]を行う。
* [[8月]] - [[ニコライ・レザノフ]]が長崎の出島に来航。
* [[8月11日]] - [[オーストリア大公国]]等[[ハプスブルク家]]の領土を以て[[オーストリア帝国]]が成立。神聖ローマ皇帝フランツ2世が初代オーストリア皇帝としても即位。
* [[9月1日]] - ドイツの天文学者[[カール・ハーディング]]が3番目の小惑星「ジュノー」を発見。
* [[12月2日]] - [[ナポレオン・ボナパルト]]が[[フランス第一帝政|フランス]]皇帝に就任
* [[阮朝]]の[[嘉隆帝]]が[[清]]朝より越南国王として[[冊封]]を授かり、王を名乗る事を正式に認められる。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1804年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月14日]] - [[ヨハン・シュトラウス1世]]<ref>{{Cite web|和書 |url = https://kotobank.jp/word/シュトラウス%28父%29-78011 |title = ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2021-04-25 }}</ref>、[[オーストリア]]の[[作曲家]](+ [[1849年]])
* [[3月30日]](文化元年[[2月19日 (旧暦)|2月19日]])- [[間部詮勝]]、[[老中]]、[[鯖江藩]]第7代藩主(+ [[1884年]])
* [[4月5日]] - [[マティアス・ヤーコプ・シュライデン]]、ドイツの[[植物学者]](+ [[1881年]])
* [[4月23日]] - [[マリー・タリオーニ]]、[[バレエ]]ダンサー(+ [[1884年]])
* [[4月24日]](文化元年[[3月15日 (旧暦)|3月15日]])- [[梁川紅蘭]]、女流[[漢詩人]](+ [[1879年]])
* [[6月1日]] - [[ミハイル・グリンカ|グリンカ]]、ロシアの[[作曲家]](+ [[1857年]])
* [[6月3日]] - [[リチャード・コブデン|コブデン]]、イギリスの[[政治家]]・[[自由貿易]]主義者(+ [[1865年]])
* [[6月10日]] - [[ヘルマン・シュレーゲル]]、[[鳥類学者]]・[[動物学者]](+ [[1884年]])
* [[6月12日]]([[文化 (元号)|文化]]元年[[5月5日 (旧暦)|5月5日]])- [[高野長英]]、[[蘭学者]](+ [[1850年]])
* [[7月1日]] - [[ジョルジュ・サンド]]、女流[[作家]](+ [[1876年]])
* [[7月4日]] - [[ナサニエル・ホーソーン|ホーソーン]]、アメリカの[[小説家]](+ [[1864年]])
* [[7月20日]] - [[リチャード・オーウェン]]、[[生物学者]](+ [[1892年]])
* [[7月28日]] - [[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ|フォイエルバッハ]]、ドイツの[[哲学者]](+ [[1872年]])
* [[8月31日]] - [[ホーレス・ケプロン|ケプロン]]、アメリカの[[農政]]家・[[軍人]]・[[政治家]](+ [[1885年]])
* [[10月3日]] - [[タウンゼント・ハリス|ハリス]]、[[アメリカ合衆国]][[外交官]](+ [[1878年]])
* [[10月18日]] - [[ラーマ4世]]、[[チャクリー王朝]]第4代[[タイ王国|シャム]]国王(+ [[1868年]])
* [[10月24日]] - [[ヴィルヘルム・ヴェーバー]]、[[物理学者]](+ [[1891年]])
* [[11月23日]] - [[フランクリン・ピアース]]、第14代[[アメリカ合衆国大統領]](+ [[1869年]])
* [[12月21日]] - [[ベンジャミン・ディズレーリ|ディズレーリ]]、元[[イギリス首相]](+ [[1881年]])
* [[12月23日]] - [[シャルル=オーギュスタン・サント=ブーヴ|サント=ブーヴ]]、フランスの[[批評家]](+ [[1869年]])
* 文化元年 - [[佐藤泰然]]、[[蘭方医]](+ [[1872年]])
* 文化元年 - [[武田耕雲斎]]、[[水戸藩]]士(+ [[1865年]])
* 文化元年 - [[都々逸坊扇歌]]、[[演奏家]](+ [[1852年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1804年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月6日]] - [[ジョゼフ・プリーストリー]]、[[化学者]](* [[1733年]])
* [[2月12日]] - [[イマヌエル・カント]]、[[哲学者]](* [[1724年]])
* [[2月15日]](享和4年[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]) - [[高橋至時]]、[[天文学者]](* [[1764年]])
* [[3月16日]](享和4年[[2月5日 (旧暦)|2月5日]]) - [[中井竹山]]、[[儒学者]](* [[1730年]])
* [[4月9日]] - [[ジャック・ネッケル]]、[[政治家]]、[[銀行家]](* [[1732年]])
* [[6月16日]] - [[ヨハン・アダム・ヒラー]]、[[作曲家]](* [[1728年]])
* [[7月12日]] - [[アレクサンダー・ハミルトン]]、政治家(* [[1755年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!--== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1804}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1804%E5%B9%B4 |
9,350 | 1814年 | 1814年(1814 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。
文化11年
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] | 1814年は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。 | {{年代ナビ|1814}}
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[甲戌]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]([[寛政暦]])
** [[文化 (元号)|文化]]11年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2474年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[嘉慶 (清)|嘉慶]]19年
*** [[朱毛俚]] : [[後明晏朝|晏朝]]元年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[純祖]]14年
** [[檀君紀元|檀紀]]4147年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[阮朝]] : [[嘉隆]]13年
* [[仏滅紀元]] : 2356年 - 2357年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1229年1月9日 - 1230年1月18日
* [[ユダヤ暦]] : 5574年4月9日 - 5575年4月18日
* [[ユリウス暦]] : 1813年12月20日 - 1814年12月19日
* [[修正ユリウス日]](MJD) : -16391 - -16027
* [[リリウス日]](LD) : 84450 - 84814
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1814}}文化11年
== できごと ==
* [[1月14日]] - [[キール条約]]締結。
* [[2月11日]] - ノルウェーがデンマーク=ノルウェーからの独立を宣言。
* [[3月27日]] - [[クリーク戦争]]([[米英戦争]]の一部とみなされる):[[ホースシュー・ベンドの戦い]]で米軍が[[イギリス]]の支援する[[クリーク族]]に対し勝利。
* [[3月31日]] - 第六次対仏大同盟がパリに入城し、ナポレオン戦争が終結、ナポレオンが捕えられる。
* [[4月6日]] - [[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]、即位。
* [[5月]] - [[ナポレオン・ボナパルト]]が[[エルバ島]]に配流される。
* [[7月5日]] - [[米英戦争]]: [[チッパワの戦い]]で米軍が勝利。
* [[7月20日]] - [[米英戦争]]: [[プレーリー・デュ・シエンの戦い]]で英国カナダ軍が勝利。
* [[7月25日]] - [[米英戦争]]: [[ランディーズ・レーンの戦い]]で米軍と英国カナダ軍が拮抗。
* [[8月13日]]-9月6日 - [[米英戦争]]: [[ヒューロン湖の戦闘]]で英国カナダ軍が勝利。
* [[9月1日]] - [[ウィーン会議]]開始。[[1815年]]6月9日まで継続する。
* [[9月6日]]-11日 - [[米英戦争]]: [[プラッツバーグの戦い]]で米軍が勝利。
* [[9月12日]]-15日 - [[米英戦争]]: [[ボルティモアの戦い]]で米軍が勝利。この時の[[フォートマクヘンリー|マクヘンリー砦]]の星条旗が[[星条旗 (国歌)|アメリカ合衆国国歌]]に歌われているものである。
* [[12月24日]] - [[米英戦争]]の停戦条約である[[ガン条約]]が、南[[ネーデルラント]]([[ベルギー]])の[[ヘント]](ガン)で締結。
=== 日付不詳 ===
* [[ジョージ・スチーブンソン]]、[[蒸気機関車]]を改良。
* [[フリードリヒ・カール・フォン・サヴィニー]]、『[[立法と法学に対するわれわれの時代の使命について|立法と法学に対するわれわれの時代の使命(資格)について]]』を著す。
* [[東インド会社]][[特許状]]更新。
<!-- シャルンホルストは1813年没のはず* [[ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト|シャルンホルスト]]が[[国民皆兵制]]実施。-->
* [[マサチューセッツ州]]に最初の[[紡績]]工場。
* [[ネパール戦争]]勃発。
* 『[[全唐文]]』完成。
== 芸術・文化 ==
=== 1814年の音楽 ===
* [[2月27日]] - [[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[交響曲第8番 (ベートーヴェン)|交響曲第8番]]初演
=== 1814年の宗教 ===
*[[11月11日]]、[[黒住宗忠]]が「天命直授」([[黒住教]])
== 誕生 ==
{{see also|Category:1814年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月1日]]([[嘉慶 (清)|嘉慶]]18年[[12月10日 (旧暦)|12月10日]]) - [[洪秀全]]、[[清]]末の[[宗教家]]・[[革命家]](+ [[1864年]])
* [[1月17日]] - [[ジェイムズ・コクラン・ドビン (1世)|ジェイムズ・コクラン・ドビン]]、第22代[[アメリカ合衆国海軍長官]](+ [[1857年]])
* [[3月9日]] - [[タラス・シェフチェンコ]]、[[詩人]]・[[画家]](+ [[1861年]])
* [[5月6日]] - [[ハインリヒ・ヴィルヘルム・エルンスト]]、[[ヴァイオリニスト]]・[[作曲家]](+ [[1865年]])
* [[5月12日]] - [[アドルフ・フォン・ヘンゼルト]]、作曲家・[[ピアニスト]](+ [[1889年]])
* [[5月13日]] - [[アレクサンデル・レッセル]]、画家・美術批評家(+ [[1884年]])
* [[5月15日]] - [[アントワーヌ・シャントルイユ]]、画家(+ [[1873年]])
* [[5月30日]] - [[ミハイル・バクーニン|バクーニン]]、ロシアの[[思想家]]・[[無政府主義者]](+ [[1876年]])
* [[6月25日]] - [[ガブリエル・オーギュスト・ドブレ]]、[[地質学者]](+ [[1896年]])
* [[6月30日]] - [[フランツ・フォン・ディンゲルシュテット]]、詩人・[[劇作家]]・劇場支配人(+ [[1881年]])
* [[7月19日]] - [[サミュエル・コルト]]、[[コルト・ファイヤーアームズ]]創立者(+ [[1862年]])
* [[8月30日]] - [[ホーレス・メイナード]]、第31代[[アメリカ合衆国郵政長官]](+ [[1882年]])
* [[9月29日]](文化11年[[8月16日 (旧暦)|8月16日]]) - [[金光大神]]、[[宗教家]]・[[金光教]][[教祖]](+ [[1883年]])
* [[10月4日]] - [[ジャン=フランソワ・ミレー]]、フランスの[[画家]]・[[バルビゾン派]](+ [[1875年]])
* [[10月15日]] - [[ミハイル・レールモントフ|レールモントフ]]、ロシアの詩人・[[作家]](+ [[1841年]])
* [[10月16日]] - [[ハンス・ブルノ・ガイニッツ]]、[[地質学者]]・[[古生物学者]](+ [[1900年]])
* [[11月6日]] - [[アドルフ・サックス]]、[[楽器]]製作者(+ [[1894年]])
* [[11月25日]] - [[ユリウス・ロベルト・フォン・マイヤー|マイヤー]]、ドイツの[[医師]]・[[エネルギー保存の法則]]の発見者の一人(+ [[1878年]])
* 月日不詳([[文化 (元号)|文化]]11年) - [[神戸の長吉]]、[[侠客]](+ [[1880年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1814年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月24日]](文化10年[[12月4日 (旧暦)|12月4日]]) - [[尾藤二洲]]、[[儒学者]](* [[1745年]])
* [[1月27日]] - [[ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ]]、哲学者(* [[1762年]])
* [[2月3日]] - [[ヤン・コジェルフ]]、作曲家(* [[1738年]])
* [[3月3日]](文化11年1月12日)- [[歌川豊春]]、浮世絵師(* [[1735年]])
* [[3月5日]] - [[アンドレイ・ヴォロニーヒン]]、建築家(* [[1759年]])
* [[3月26日]] - [[ジョゼフ・ギヨタン]]、[[ギロチン]]提案者(* [[1738年]])
* [[4月21日]](文化11年[[3月2日 (旧暦)|3月2日]]) - [[亀井南冥]]、儒学者・[[医者]](* [[1743年]])
* [[5月5日]] - [[アブドゥッラー1世・アッ=サバーハ]]、クウェート首長(* [[1740年]])
* [[5月29日]] - [[ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ]]、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]夫人(* [[1763年]])
* [[7月12日]] - [[ウィリアム・ハウ]]、イギリス軍の中将(* [[1729年]])
* [[7月19日]] - [[マシュー・フリンダース]]、航海家(* [[1774年]])
* [[8月31日]] - [[アーサー・フィリップ]]、[[イギリス]]の軍人(* [[1738年]])
* [[11月18日]] - [[ウィリアム・ジェソップ]]、土木技術者(* [[1745年]])
* [[11月23日]] - [[エルブリッジ・ゲリー]]、第5代[[アメリカ合衆国副大統領]](* [[1744年]])
* [[12月2日]] - [[マルキ・ド・サド]]、フランスの侯爵(* [[1740年]])
<!--== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1814}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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9,351 | 騎手 | 騎手(きしゅ、英語:jockey(ジョッキー))とは、馬に跨り、馬上から馬を操縦する人のことである。
競馬制度は国家・地域によって異なり、それぞれに独自の競馬文化と歴史を有し、開催運営や人材育成のシステムが築かれている。その中において「騎手」という意味の言葉が、競馬の競走への参加に必要な資格ないし公的なライセンスとしての資格称号を指すこともある。
競馬の場合、平地競走や障害競走では競走馬の背に騎乗するが、ばんえい競走や繋駕速歩競走ではそりや馬車に搭乗して操縦する。また騎手は自分の体重を含め指定された重量(斤量)で騎乗することが求められる。
英語で騎手を表すジョッキー (jockey) は、ジャックやジョンの蔑称であるジョックに由来する。ジョックは後にジョッキーと訛り、単に競馬好きや馬好きを表すようになった。かつてイギリスの競馬施行体であったジョッキークラブも元々は競馬愛好家の集まりである。現在の意味を持つようになったのは、騎手や調教師、馬主が分業されるようになった19世紀以降で、古い英語が残るオセアニア諸国などではライダーと呼ばれることが多い。繋駕速歩競走ではドライバーと呼ぶ。また日本では俗称として乗り役とも言う。そのほか「JK」や「J」との略称も使用されている。
競馬法に基づき、農林水産大臣の認可を受けた日本中央競馬会 (JRA) と地方競馬全国協会 (NAR) がそれぞれ試験を実施、免許を交付している。JRAの競馬学校、NARの地方競馬教養センターの騎手課程を経て、受験資格を得るのが一般的である。国家資格である。
受験資格は受験日時点で16歳以上の者であるが、さらに以下に記載した事項に該当するものは受験できない。
など(詳細については出典を参照のこと)。なお成年被後見人又は被保佐人を欠格条項とする規定については、令和元年6月14日に公布された「成年被後見人等の権利の制限に係る措置の適正化等を図るための関係法律の整備に関する法律」によって削除され、心身の故障等の状況を個別的、実質的に審査し、必要な能力の有無を判断することとなった。
中央競馬、地方競馬ともに有効期限は1年で、続けて騎乗する場合には試験を受け、免許を更新する必要がある。現行の制度では調教師免許などと同時に取得することはできない。中央競馬では平地競走と障害競走で、地方競馬では平地競走とばんえい競走でそれぞれ免許を交付している。
免許更新は中央が3月1日付、地方は所属する場により2015年以降年3回に分けられ、4月1日(南関東)、8月1日(金沢、笠松、名古屋、兵庫)、12月1日(ばんえい、北海道、岩手、高知、佐賀)付となる。また不合格になった者は翌年の同じ回より前の試験は受験できない。
中央競馬の騎手免許では、2009年までは競馬学校出身者、地方競馬全国協会の騎手免許を受けている者であって『本会の定めた基準』に該当する者、それ以外で分けられていたが、2010年以降は競馬学校出身者、地方競馬全国協会の騎手免許を受けている者、それ以外の3種類に変更された。
指定競走・交流競走・特別指定交流競走で騎手免許がない競走に騎乗する場合には、試験なく「その競走に限定した騎手免許」が交付される。日本国外の競馬で騎乗している騎手に対しては、日本国内の調教師・馬主を引受人として臨時に行われる試験に合格した上で、1ヶ月単位の短期免許を1年の間に3ヶ月間まで交付する。
2003年2月までJRA・NARの免許を両方持つ騎手は存在しなかったが、2003年2月に当時笠松競馬場所属であった安藤勝己がJRAの免許試験に合格し、同時にNARの騎手免許の取消願を提出した。
この時、NARはダブル免許を容認し、中央競馬の免許の取得による免許の取消には応じなかったため、2003年3月1日から安藤はJRAとNARの両方の免許を所有することとなった。この時点でJRAは、地方競馬の免許で騎乗した場合には中央競馬の免許を取り消すとしていた。一方で安藤がNARの交流競走に騎乗した時には、地方競馬全国協会は「すでに(地方競馬で有効な)免許がある」として短期免許を交付しなかったため、JRAは二重免許を特例として認めざるを得ない状況になり、特例を適用した。
その後、2003年6月16日に地方競馬全国協会は、安藤のNARにおける騎手免許を取り消したため、この特例は解消された。
現在、中央競馬及び地方競馬では騎手免許と調教師免許を同時に持つことはできない。つまり、調教師が自分の管理する競走馬に乗ってレースに出走することは現行の規定では不可能である。
1930年代以前は「調教師兼騎手」は珍しい存在ではなかった。一例を挙げると大久保房松などは、管理馬に騎乗して日本ダービー制覇を達成している(1933年、カブトヤマ)。調教師と騎手の業務が分離されるようになったのは、1937年に日本競馬会競馬施行規定が規定されてからである。ただしこの規定は、日本競馬会発足以前に免許を受けていた調教師(騎手)に対しては、1942年12月31日までは猶予期間とされたため、猶予期間中は引き続き調教師が騎手としても騎乗することができた。
なお、戦後の一時期も調教師が騎手を兼務することが可能であったが、1948年より調騎分離が厳格に適用されることになり、調教師と騎手の兼務が不可能となり、現在に至っている。
ばんえい競馬においては平地競馬よりもかなり遅く、1978年度より完全実施されている。
日本国籍を持たない騎手に対する免許制度としては、1994年より短期騎手免許制度が設けられているが、前述のとおり短期免許では騎乗期間が年間で最大3か月間に限られる。これに対し、外国人騎手からは「年間を通じて騎乗できる免許を発行できるようにして欲しい」との要望が以前からあり、これを受けてJRAでは2014年度の騎手免許試験より外国人騎手に対する通年免許の発行を認めることになった(試験の詳細については後述)。なお外国人騎手が中央競馬の通年免許の発行を受けた場合、当該騎手は「年間を通じて中央競馬で騎乗すること」が必須要件となる。
2013年10月に行われた1次試験ではミルコ・デムーロ(イタリア)が試験を受験、外国人騎手によるJRAの騎手試験受験第1号となったが、この年は不合格となった。
2015年にミルコ・デムーロとクリストフ・ルメール(フランス)が騎手免許試験に合格。外国人騎手として初めてJRAの通年免許を取得した。
その後、ダリオ・バルジュー(イタリア)が2015年と2016年の2回、JRA騎手免許試験の1次試験を受験したが、2年連続で不合格となった。
母国と日本の騎手免許併用の可否については、国により差異があり、併用ができないフランスの騎手免許を取得していたルメールはJRA通年免許の取得にあわせてフランスの騎手免許を返上している。
平地競走の騎手は着衣や馬具を含めて50数キロ(日本の場合、最も軽いケースで48キロ)での騎乗が求められることから、特に体重に関しては並の職業の比ではない厳しい自己管理の技術を必要とし、なおかつ馬に乗り操縦し競走を行うための専門的な騎乗技術が必要である。また、競馬関連法規や騎手としての競走の公正確保のために必要な知識や情報を学習することも必要である。
従って、一般の人がいきなり騎手になるということは極めて困難であり、よって専門的な養成が必要なスポーツである。そのため、競馬を開催している国や地域毎に騎手業のライセンス制度が整備されており、日本も含めて競馬が開催される国の大半には騎手養成のための教育機関や養成所が設置されている。他方、養成機関を経由せず、競馬場や厩舎、あるいは競馬関連産業で競走馬の扱い方を身に付けた人物が、技能試験を受けて騎手となれるシステムが整備されている国・地域も多い。
ばんえい競走の騎手重量は77キロで統一しており、比較的重めに設定していることから過度に減量を行う者は少ない。
日本の場合、中央競馬では1982年、騎手養成機関として千葉県に競馬学校が設立され、騎手課程が設けられた。養成期間は3年間。かつて騎手養成機関は馬事公苑に設置されており、騎手候補生が騎手講習会(長期講習と短期講習とがあった)を受けた後、騎手免許試験を受験する制度が採用されていた。
競馬学校の受験資格は、年齢は義務教育卒業から20歳まで。このため騎手課程の場合は現役の大学生や短大卒・大卒は受験が困難か不可能である。体重は育ち盛りの年頃であるため、入所時に44キロ以下。
地方競馬では栃木県に地方競馬教養センターがある。ここの騎手養成は2年間の長期課程である。かつては短期養成課程が存在したが、これは主に競馬場での厩務員や調教助手などの経歴者、並びに日本国外の騎手免許を取得しレースに出走した騎手を対象としたものであったが、岡田祥嗣のように経歴がなくても短期養成課程出身と言う例外もある(幼少期より馬に跨り、かつ岡田の父が厩務員をしていたこともある理由から)。
地方競馬のうちばんえい競馬については、騎手を養成する専門機関は存在しない(地方競馬教養センターに養成部門がない)。ばんえい競馬の騎手を目指す者は、ばんえい競馬の各厩舎において基礎技術を習得し、ばんえい競馬が独自の内容で開催している騎手免許試験を受験する。詳細はばんえい競走#騎手を参照。
どちらの機関でも、卒業前に騎手免許試験を受験して合格し、騎手免許を取得した上で、晴れて騎手となる。試験である以上、不合格となり騎手免許が取得できない事態、試験前の負傷・疾病で受験ができないという事態も起き、この場合に騎手になるためには、次の機会を待ち再度受験する必要がある。騎手免許の取得は中央競馬では3月1日、地方競馬は4月1日を基点(平地の場合。ばんえいは1月1日が基点)としているが、年に複数回の騎手免許試験が実施される地方競馬では年度途中の騎手デビューも珍しくない(平地の場合。ばんえいは年1回)。
日本以外の国での場合、日本と同様に専門の養成機関を主体とした騎手養成を行う地域、厩舎で徒弟修業を行い実践で騎乗技術を身に付けるという制度の地域、民間による騎手養成所が各地に設置されている地域など、地域毎に騎手養成方式は様々である。また、そのライセンス取得に至るまでの育成も、日本の様に少数精鋭主義を取り、最初の養成機関の入学試験から卒業までの時点でふるいを掛け続けて、徹底的に絞り込む「狭き門」であるところから、豪州のように、騎手養成所のカリキュラムを修了し、騎乗技術と公正確保に支障のない人物なら、騎手ライセンスを比較的容易に取得できる ところまで様々である。
騎手免許を統括するJRA・NARのいずれも、騎手免許試験については上記の養成機関への在籍経験を持たない人物でも、必要条件を満たせば受験自体は可能としている。
このため、上記の養成機関を経ずに、あるいは上記の養成機関に入ることができなくとも、あるいは中退を余儀なくされても、騎手として必要な乗馬技術を持っていれば、俗に「一発試験」などと呼ばれる形で騎手免許試験を受験すること自体は可能であり、合格すれば騎手免許を手にすることができる。小牧加矢太は競馬学校入学を断念したが、その後馬術競技選手として活動したのち2021年度騎手免許試験を受験して合格し、2022年に障害限定で騎手免許を取得している。
日本国外で競馬の世界に入り見習騎手等の形で騎乗経験を積むなどの手順を踏んで受験する騎手もいる。現在までにこのような手順で「一発試験」を突破し騎手免許を取得した者には、中央競馬では横山賀一と藤井勘一郎、地方競馬では中村尚平・笹田知宏の例があるが、非常に少ない。また、中村と笹田は帰国後に地方競馬の厩舎に入り調教厩務員を経験している。
また、特に地方競馬では、最初はまず厩務員として厩舎に入り調教騎乗などの実務の実践経験を現場で習得して調教担当厩務員などとなる、つまりは厩舎・競馬場での実践で受験に必要な技術を身に付け、その上で「一発試験」で受験→合格という手順を踏んで騎手となる方法がある。この厩舎で実務経験を積んで「一発試験」を受け騎手になったという経歴を持つ人物は数多いが、中にはJRA・地方競馬の騎手養成課程で中途断念を余儀なくされた人物が、再び騎手を志して厩舎に入り、「一発試験」を乗り越えて晴れて騎手免許を手にするケースも見られる。このような「再起」の経緯を持つ騎手としては石崎駿・安藤洋一などの例がある。なお、これは一見すれば大きな遠回りをしている様に見えるが、JRA競馬学校騎手課程を中途退学後に地方競馬の厩務員を経て「一発試験」で騎手免許を取得した石崎駿のケースでは、結果的に同時に競馬学校に入学した競馬学校騎手課程第18期生よりも半年以上早く騎手デビューを果たすことになった。
騎手免許試験の受験資格には年齢の上限が設けられておらず、かつての騎手養成機関の短期課程も騎乗技術を持つ事実上は競馬サークル内部の人間を対象としたもので、年齢制限が緩かったことから、「一発試験」やかつて存在した騎手養成の短期課程を経て騎手となった人物の中には、大学卒業後に縁あって厩舎に入り下乗りを経て騎手になるという経歴を辿った、俗に「学士騎手」などと呼ばれる人物がごく少人数ではあるが存在する。
いずれも元騎手であるが、JRAでは太宰義人・山内研二、地方競馬では森誉(船橋)・橋口弘次郎(佐賀)・早川順一(足利)などの例がある。なお、他にもJRAの大久保正陽や川合達彦が大学卒の学士騎手の範疇であるが、この2人は、騎手業と学業を両立させた上で大学を卒業したというさらに稀有な人物である。
元々、何らかの事情で一度引退した騎手が「一発試験」で騎手免許を再取得し復帰するケースはしばしば存在した。ただこの場合の受験資格は従来明文化されていなかった。これに対し2014年度のJRA騎手免許試験からは、外国人騎手の受験と同時に元騎手が復帰する場合の受験資格も明文化され、「過去にJRAの騎手で、騎手から直接JRAの調教助手または厩務員に転身したもの」以外は原則として試験の一部免除を行わないことになった。
2014年度の試験より、原則として元JRA騎手や外国人騎手については、一次試験のうち騎乗技術の実技試験が省略されるほか(外国人騎手の場合は体力測定も省略)、筆記試験も通常の騎手試験と内容が異なり、元JRA騎手については「競馬関係法規」のみ、外国人騎手の場合は「競馬関係法規及び中央競馬の騎手として必要な競馬に関する知識」のみとなる。また一次試験を日本語ではなく英語で受けることも可能になった。二次試験も外国人騎手については実技試験が省略され、代わりに技術に関する口頭試験が行われる(実質的には一次・二次とも地方競馬の騎手と同等の試験内容となっている)。ただし二次試験は全て日本語で行われるため、実際に試験を受験したミルコ・デムーロは一時騎乗を自粛してまで日本語の勉強を優先させ試験に備えた。一方で香港拠点のトップジョッキーであったジョアン・モレイラは、2018年に香港での騎手免許を一時返上したうえで、JRAの短期免許を断続的に取得して長期滞在しながら新規騎手免許試験に臨んだが一次試験で不合格になっており、翌年以降のJRA騎手免許試験受験は断念している。
いずれの国においても、競馬を開催している国では競馬に関する諸規則や法律が設けられており、これに基づいて騎手は競馬を統括する機関より騎手免許やライセンスの交付を受ける形となっており、雇用関係は別としても、その統括機関に騎手として登録されることで初めて競走への参加などの活動が可能になる。
日本の場合はJRA・NARのいずれかの組織から免許を受け、中央競馬の場合は美浦トレーニングセンター・栗東トレーニングセンターのいずれか、地方競馬の場合には各競馬場に所属する。また、調教師を頂点とする厩舎制度においては、騎手は厩舎への所属という形で雇用され、調教師から様々な指導を受ける。
統括機関が騎手養成機関を設置する以前は、騎手を志すものは文字通り調教師に弟子入りして騎手候補生(下乗り)として住み込みで厩舎の雑務をこなしながら競馬社会で必要な知識・技術・習慣を一から習得してやがては騎手免許を取得する、調教師は見習いとして入ってきた若者を衣食住の面倒を見ながら一人前の競馬人・社会人とするべく厩舎で鍛え上げる、徒弟制度そのものの育成システムになっていた。そのため師弟関係の精神的な結びつきは非常に強く、騎手となりキャリアを積んだ後も出身厩舎への帰属意識が強かった。また、調教師も管理馬に門下生を優先的に乗せるなどということも多く見られ、さらには門下生を養子や婿にしてやがて調教師に転じた暁には自身の厩舎や人脈を継承させる、門下生が調教師免許を取得し独立する際にも自身の管理馬やスタッフを譲り(さらに、割り当て馬房の不足の状態にある地方競馬の競馬場に所属している場合には割り当て馬房の一部なども譲る場合がある)、一種の暖簾分けにも似た形で厩舎の立ち上げをサポートする、などといった光景も多分に見られたものであった。ばんえい競走では専門養成機関がないため厩舎で働きながら基礎技術を研鑽することから、このような師弟関係が現在も残存している。
現在では競馬学校・地方競馬教養センターともに騎手育成は2〜3年の長期養成課程のみであり、生徒には最終学年で厩舎に所属し、調教などの技術指導を受ける長期実地研修のカリキュラムが設けられている。養成機関を卒業し試験に合格し晴れて騎手免許を取得すると、主に最終学年で指導を受けた厩舎に所属して騎手の生活をスタートさせる。特に競馬社会への縁故を全く持たずに騎手養成機関に入った者にとっては、研修先の厩舎が競馬社会と最初に繋がる縁ということになる。とはいえ、長期養成課程の騎手育成はあくまで養成機関によるものが中心軸であり、騎手の心理面で見た場合には得てして養成機関の教官が実質的な師匠という形になることも多く、現在の調教師と騎手の関係についていえば師匠と弟子ではなく単なる雇用主と従業員の感覚ではないかと窺われる状況も多く見られる。
これは特に中央競馬についていえることであるが、上述したように騎手免許試験のシステム上は厩舎で修行していわゆる「一発試験」を受験することは可能であるが、現実を見た場合、厩舎での下積み経験だけで長期養成課程を経ずに騎手免許を取得するのは事実上不可能になり、調教師が弟子を競馬人として一から育て上げ騎手に仕立て上げるということができなくなった。そのため、現在における厩舎所属の様式は師弟関係というよりもむしろ調教師が騎手のデビュー時の身元引受人になるという意味合いが強く、一般的な師弟関係や雇用関係よりも精神的な結びつきが希薄である場合も多い。騎手はデビュー後の数年間の内に所属厩舎を離れフリー騎手として独立することが多く、また、調教師が所属騎手を優先的に騎乗させることも以前より少なくなっている。もっとも、これらについては、経済情勢の変化などにより調教師に対する馬主の発言力・影響力が大幅に強くなり、特に多数の馬を所有し競走馬所有をビジネスとして展開している有力馬主や愛馬会法人(クラブ法人馬主)の所有馬では、実態として強い発言力を持った馬主サイドが騎手の選択権を握ってしまうことも多いなど、調教師が所属騎手を乗せてやりたくてもそれが中々できない状況が要因の1つになっている面も見られる。
中央競馬では「厩舎に所属しない」という意味でフリーランスの騎手が多数存在する。このような騎手をフリー騎手と呼ぶ。ただし一般的な「フリーランス」の意味とは異なり、厩舎に所属していなくても美浦か栗東、いずれかのトレーニングセンターに所属している上、さらにいえば日本中央競馬会 (JRA) に所属していることになる。
以前は実績のある騎手が所属厩舎と疎遠になったり、所属厩舎が解散したことを契機としてフリー騎手になるケースが多かったが、最近では一定期間を経過した若手騎手が実績に関係なくフリー騎手になるケースも多い。逆にフリーでやってきた騎手が厩舎とのつながりが生まれて厩舎に所属することもある。
この中央競馬のフリー騎手の嚆矢として知られるのは、「ナベ正」こと渡辺正人(1963年引退)である。渡辺の場合は戦前に入門した厩舎が太平洋戦争による競馬中止により消滅、戦後になっても復活せず、戦後も師匠の弟弟子など縁故のある厩舎に籍を置いたものの、当時の厩舎の人間関係では騎乗馬に恵まれず、最終的には自ら営業して騎乗馬を集めるようになったものである。当時はまだフリー騎手という概念も言葉もなかった。
地方競馬の場合、次に述べる南関東と兵庫を除き、少なくとも騎乗の自由は認められていない。地方競馬においては厩舎無所属での騎乗は認められておらず、必ずどこかの競馬場に所属する厩舎に騎手として所属する。これは期間限定騎乗騎手や短期免許でも同様である。南関東公営競馬では2012年4月1日から騎手会所属騎手制度が導入され、所定の条件を満たす者は南関東地区の各競馬場が所在する都県の騎手会所属騎手として、厩舎無所属で騎乗できるようになった。その後2022年4月1日より兵庫県競馬組合でも騎手会所属騎手制度が導入された(同組合での初の適用事例は廣瀬航)。なお、南関東と兵庫では騎手会所属になれる所定条件がそれぞれ異なっている。「地方競馬初のフリー騎手」として内田利雄が挙げられることがあるが、それは「一定の競馬場に長期間所属しない」という意味であって、それぞれの競馬場では厩舎所属の騎手となっている(詳細)。
外国籍の騎手が短期騎乗する場合には、中央競馬の場合は馬主と競馬関係者が身元保証人になる形でJRAから短期免許を得るがあくまでフリー騎手の立場で騎乗することも多い。地方競馬の場合には身元保証人の必要と短期免許をNARから交付される点は同様だが調教師と契約し厩舎に所属という形を必ずとっている。
NAR騎手がJRAに、またはその逆にJRA騎手がNARに移籍したケースもある。前者の事例では橋口弘次郎・安藤勝己・内田博幸・戸崎圭太など、多数存在している。その一方で後者の事例は相当に少なく、JRAからNARに移籍したのは松本弘・吉岡薫・桑島孝明のわずか3人のみである。
騎手の所属制度・育成システムは各国の競馬制度によって異なる。だが、上述の通り基本的にはいずれかの国・地域においても、当地の競馬統括団体に籍を起き、ライセンスの交付を受けることで騎手としての活動が可能になる。国籍・出身地とライセンスを受けている国・地域は必ずしも一致しないが、規則や競馬関連法規などで自国の国籍を持つ者に限定していることがある。
アメリカ・イギリス・フランスなどの競馬先進国やその影響が色濃いアラブ首長国連邦(ドバイ)などでは、21世紀の現在では騎手にとっては厩舎・調教師よりも馬主やエージェンシーと結ぶ契約がビジネス上重要になり、実績と人気を得た騎手は馬主および専属エージェントや幅広い馬主と契約を結んでいるエージェンシーと専属契約や優先騎乗契約を締結し、依頼に応じて世界各国を股に掛けて騎乗するのが一般的である。そのため、大枠として国籍や騎手ライセンスの交付を受けた各地域の競馬統括機関という意味での所属はあるものの、日本競馬的な対厩舎・調教師という意味での所属やフリーランスという概念は、肉親が経営する厩舎や師弟関係などにおいて一部に例外があるが基本的には薄くなっている。特に強い発言力を持つ有力馬主の所有馬では、馬主・エージェントが競走馬の日常の管理・調教から騎手の選択・騎乗馬の手配、さらに騎手へのレース戦術の指示まで大半の権限を握り、逆に調教師には騎手の選択権や騎手への指示の権限が全くないということも多く、調教師は単に馬主に預託された競走馬を馬主の指示通りに仕立て上げるだけ、さらに言えばレース当日に厩舎の馬房や名義を貸して出走手続きを代行し預託料や獲得賞金の一部をいわば手数料として受け取るだけといった、「調教師」というライセンスを持つ「競走馬をレース当日に出走させる条件を満たさせるための下請け業者」に過ぎない実態であることも往々に見られ、さらには管理馬に騎乗した騎手との接点が馬主やエージェントを介さなければ見出せないということも起きる。
対して、香港・マカオ・シンガポールなど、1980年代以降に競馬制度の近代化・国際化が進められた地域では、騎手は第一義的には現地の競馬統括団体に所属し、その枠の中で調教師と騎手が所属や騎乗にまつわる契約を結んで活動するという、日本に近い形態が現在でも多く見られる。その中には、自前の騎手や競馬関係者の養成所を持ってはいるものの、実際には他の地域からの移籍者や限定的なライセンスを得て活動する他地域所属の騎手に少なからず依存している競馬場も珍しくない。
オーストラリアの場合には、競馬の厩舎制度はほぼ全面的な外厩制となっており、競馬関係のライセンス取得が日本や欧米よりも比較的容易である。このこともあって、厩舎の規模の大小の差異は日本とは比べ物にならないほど著しく、大規模な厩舎には自前でトレーニングセンターの様な専用施設を構え100頭以上を管理するものが見られる一方で、競走馬の取扱者としては小規模な個人経営の牧場の経営者が競馬調教師としてのライセンスを取得し、競走馬も自己生産や自己所有のものを数頭管理するだけで、日々の世話を家族で行い、これを地元の競馬場や調教場などのコースに持ち込んで調教して仕上げ、主に地元の小さな「草レース」などへ出走させるスタイルの“家族経営型小規模厩舎”も数多く存在している。そのため、騎手の就業形態もまたさまざまで、トップクラスでは厩舎や馬主との契約や依頼で騎乗し騎手専業で活動する者がいる一方で、小規模な厩舎の管理馬では牧場主・馬主・調教師の子や兄弟が騎手を務めるなど、所属や契約以前の家族の枠で終始する事も珍しくない。また、日本の中央競馬の様な副業禁止規定がないため、この様な「草レース」での活動が中心の騎手の場合、普段は牧場や厩舎の仕事、あるいは肉体労働や店員など競馬とは無関係の仕事を持ち、これで生活資金や活動資金を確保しつつ、騎手としての活動を続けている者も多い。また、騎手希望者が騎乗ノウハウや競馬の規則を学びライセンスを取得するための民営の騎手養成所が多数存在している。その様な事情から、騎手ライセンスを所持する人数は日本よりも遥かに多く、騎手間の競争もより厳しいという一面がある。ニュージーランドもほぼ同様である。
また、オーストラリアやニュージーランドでの騎手ライセンス取得は国籍などにまつわる制限が他地域と比べて緩く、日本において競馬学校や地方競馬教養センターの騎手養成課程に入れなかったり、中途退学を余儀なくされた日本人にとっては騎手になるために残された数少ないルートの1つとなっている。そのため、騎手になるチャンスを求めて渡航し、現地のライセンスを取得後に調教師や厩舎と契約し所属したり、牧場の従業員として働きつつ騎手として参加するケースも若干数だが見られる。また、過去には廃止された地方競馬場に所属していた騎手が再起を目指して渡航し現地の養成所に入ったケースも見られる。
日本国内でJRAまたはNARが発行した騎手免許を持つ騎手が海外で騎乗する場合には、外国人騎手の日本における短期騎手免許と同様に、基本的には現地の競馬統括機関に所定のライセンスを発行してもらう必要がある。ライセンスの交付を受けるためには、現地の調教師・厩舎に身元保証を依頼してライセンスを申請する、馬主やエージェントと騎乗の契約書を交わして統括機関に申請するなどいくつかの方法があるが、これは渡航地の競馬制度や騎乗予定期間・騎乗予定状況などによって大きく変わり、自国での騎乗数・勝利数の実績が必要な国・地域も多い。他方で、騎乗技術向上の機会や騎乗機会を求める他地域の若手騎手に限定的に期間限定ライセンスを与えるシステムを持つ国・地域もある。
騎手の収入は主に以下の2つに分けられる。
競走に騎乗した際には、主に以下の2つが騎手の収入となる。
従って、高額な賞金の競走に勝利するほど収入は多くなる。
厩舎の業務とは、調教時の騎乗がメインであるが、厩舎に所属している場合には厩舎の一員として、その他の厩舎の雑務一般も行う(競走馬の餌付け・寝藁の交換など)。厩舎の一員として仕事をする以上、厩務員などと同様、毎月厩舎より給料をもらう。なお競馬学校に在籍する騎手候補生は必ずどこかの厩舎所属になることが義務付けられており、騎手としてデビューする際も厩舎所属からのデビューとなる。
騎手は競走に騎乗しなければ始まらない。調教中心の騎手もいるが、騎手の最も大きな収入源は賞金からの進上金である。
騎乗依頼は主に以下のように決められることが多い。
この様な要素が複雑に絡みあって競走への騎乗が決まる。中でも同じ騎手に何度か続けて騎乗してもらう場合、主戦騎手と呼ぶ。中央競馬においてはエージェントを介在した騎乗依頼も行われており、騎手・エージェント・馬主の三者間の関係も重要である。
他方、幾ら騎手が小柄な人物の専売特許の様な商売とはいえ、減量しても体重と装備の合計重量が指定の斤量を上回る場合にはその馬に騎乗できない。そのため、特にハンデキャップ競走では極端な軽斤量となった馬でそもそも騎乗可能な騎手が限られ、主戦騎手が極限の減量をしても騎乗不可能という事態も多分に発生する。この場合「当日その競馬場で騎乗予定で軽斤量で乗れるから」という理由で、軽量の騎手に対してそれまで全く縁のない厩舎から突然に騎乗依頼が来ることもある。
日本国外では事実上の馬主専属騎手が存在するなど、多種多様の騎乗依頼方法が行われている。
競走当日に落馬負傷などの何らかの要因により乗り代わりを行う際に、日本では当日別のレースに騎乗予定があり、当該レースに騎乗しない騎手に依頼する。日本国外では当日全く騎乗がなく、競馬場のスタンドで観戦している騎手に依頼することがある。フランスにおいて武豊が落馬により左手骨折の重傷を負った際、競馬場のスタンドで見学していた池添謙一に乗り代わりの依頼があったが、道具を持ってきていなかったため武豊とオリビエ・ペリエから借りてレースに臨んだ。なお、池添はこれがフランスデビュー戦となった。
レース前あるいはレース中の騎乗に際し、騎乗した馬を制御できなかった(御法不良: みのりふりょう)ためにレースに支障を来したり、他の競走馬の進路を妨害するなどした場合、あるいは負担重量がレース前後の検量で発表していた斤量と大きく異なっていた場合、その他スポーツマンシップに欠ける騎乗や言動(無断欠勤、競馬施設内外での暴力行為なども含まれる)を行った場合などは、競馬法施行規定第126条・第1項の規定で制裁を受けることがある。
制裁はその内容によって過怠金(いわゆる罰金)が科せられる。審議により降着以上になるような悪質な場合には一定期間の騎乗停止(中央競馬の場合、基本的には馬の癖による斜行の場合は1日〜2日間、その他明らかに騎手の判断ミスなどによる場合は一般的には4日〜6日間までだが、悪質な場合それ以上の期間に延長される場合あり)を受けることになる(降着処分にならなくても騎乗停止処分を受けることはある。また当該の競走馬に対しても再調教をして調教検査に合格するまで出走停止の措置が執られる場合がある)。
またこれらの制裁はポイントにも置き換えられ、30点をオーバーすると競馬学校やトレーニングセンターで騎乗技術などの再教育を受けることが義務付けられている。具体的には
といった内容のカリキュラムが、制裁事由・制裁歴・技術の程度・年齢・通算騎乗数などを勘案した上で実施される。
騎乗停止の制裁は、中央競馬・地方競馬相互間および日本国外との競馬相互間でも適用される、騎手交流競走などで騎乗停止処分を受けた場合、それに準じて騎手の所属競馬団体でも騎乗停止の処分を受けることになる。
騎手の仕事は肉体労働であり、加齢によって筋力や反応速度などが低下し、また基礎代謝の低下により体重・体力を維持し続けることが困難になることなどから、騎手としての責務を果たすことが難しくなっていく。また優勝劣敗の厳しい世界であり、成績と収入の両面で伸び悩んだ騎手はもとより、リーディング上位の常連として一時代を築いた騎手であっても全盛期を過ぎ騎乗数・勝利数・入着率、そして獲得総賞金額が減ってくれば収入は下がって行く。
従って一生にわたって騎手の仕事を続けることは難しく、本人が限界を感じたときなどに騎手としての免許・ライセンスを返上して引退し、何らかの形で第二の人生を歩むこととなる。例えば騎乗依頼が減り、収入が減ってくると年齢にかかわらず引退することもある。自分が所属していた厩舎の調教師が数年後に定年を迎えるなどの事情がある場合、その厩舎を引き継ぐ目的で調教師への転身を図ろうとする、すなわち調教師免許試験を受験する者もいる。リーディング上位の騎手であっても、支えてくれていた調教師や有力馬主の死去・撤退など、後ろ盾となる人間関係がなくなり成績・獲得賞金額が低下したことをきっかけに、騎手からの引退を検討する者は少なくない。
他方、騎手デビュー以降に予定外に身体の成長が続き、その結果として身長・体重が増加し若くして体重管理に苦しみ、負担重量などの問題から減量が自己管理の限界を超えて引退を余儀なくされる騎手も少なからず見られる。その中には、20代前半の若さであっても体重の問題で騎手業の継続が事実上不可能となり引退する者も少なくない。その中にはデビュー当初から優れた実績を挙げ才能を期待されていた人物も見られる。日本では中央・地方いずれにしても体重の下限が53kgを超えると、装備品などの重量の都合もあって下級条件戦や2歳戦での騎乗が困難になることが多い。JRAの場合は57kg程度で体重増加が止まれば、障害競走限定の免許を保持する騎手として活動を継続することが可能な場合もあるが、騎乗機会は大幅に限定される。さらに過酷なのは障害競走がない地方競馬で、体重と斤量の問題がそのまま騎乗困難に直結し若くしてやむを得ず引退を決断する者が少なからず見られる。さらには、過酷な減量を余儀なくされ、その連続の末に心身に変調を来たす騎手や、脳梗塞など重篤な疾病を発症して倒れ引退を余儀なくされるケースや、腎臓結石などの減量を著しく困難にする疾病を発症して長期的な健康面の観点から引退するケースも見られる。
騎手免許を返上した人物の第二の人生としては調教師や調教助手・厩務員などまず厩舎関係が第一に挙げられる。その他では後進の騎手の育成に携わる者、牧場での競走馬の生産・育成や競馬解説者・競馬予想家・馬運車・競走馬用飼料販売などの競馬周辺の産業に携わる者、さらにはまったく異なる職業に転身する者などさまざまである。特に中央競馬においては、負傷や不祥事以外で騎手を引退した者が引退と同時にJRAの組織から籍を抜き、競馬とは全く無関係の職業に転職するというケースは珍しく、まず縁のあった調教師を頼りその厩舎に一旦籍を置き調教助手になるという形で、その後厩舎スタッフとしての適性を見極めながら、改めてJRAの中でホースマンとして活動を続けるか、あるいはJRAの枠から飛び出して新天地を求めるかなど、身の振り方を考えるというスタイルが一般的である。前述の通り、騎手免許を返上した者でも騎手免許試験を受験することは可能であり、一度は調教助手に転業した柴田未崎のように騎手に復帰した事例もあるが、このような事例は世界的に見ても非常に少ない。調教師の仕事は騎手の仕事とは本質的に異なるため、佐々木竹見 (NAR) や岡部幸雄 (JRA) などは調教師への転身の道を選ぶことなく引退したが、この両名にしてもその後は統括団体に関与する形でホースマンとしての活動を続けている様に、騎手引退後に騎手時代の蓄えでそのまま悠々自適の余生に入るというケースはほとんどないに等しい。
他のスポーツの選手に比べれば純粋に身体的な能力を要求される要素は低く、勝ち星と収入を安定して確保し続けられる騎手は年齢を問わず第一線に留まることができる。また、日本の場合、騎手には定年制度がないため、視力低下や体重増加の問題が小さく騎手免許の更新に支障がない人物の場合、騎手としての能力を発揮できる限界年齢は比較的高く、歴代のリーディング上位騎手の中にも50代まで騎手業を続けた者は少なからず見られる。金沢競馬場などに所属した山中利夫は62歳まで騎乗を続けた(2012年7月引退)。2000年には中央競馬の調教師であった内藤繁春(調教師以前は騎手を勤めていた)が翌2001年2月で中央競馬での調教師の定年を迎えることを期に、69歳で騎手免許試験を受験したことがある(結果は不合格)。
他方で、競馬の競走では競走馬のスピードは時速約60 km/h 以上にも達し、それだけのスピードを出した競走馬から落馬したり走行中の馬に接触すれば重度の障害が残ることや、重傷・死亡に至る、場合によっては即死する危険がある。事実、競走中に発生した事故によって松若勲 (JRA) のように即死、あるいは岡潤一郎 (JRA) や佐藤隆(船橋)のように事故後加療の末に死亡した例、福永洋一 (JRA) や坂本敏美(名古屋)の例のように重篤な後遺症が残り再起できなかった騎手もいる。一方で、石山繁・常石勝義・高嶋活士(いずれもJRA)の例のように、重度の障害を負って引退を余儀なくされた後に、障害者スポーツへの転向をする騎手もいる(石山・常石・高嶋はいずれも脳挫傷を負い、障碍者馬術に転向)。一方で安田隆行 (JRA) のように落馬で一時は脳挫傷を負いながらも完治して騎手に復帰した事例も存在する。
大型動物のサラブレッドを扱う職業であるだけに、レース中以外でも調教中の落馬の他、馬に蹴られる・踏まれるなどの事故も少なからず付きまとう。
騎手は個人事業主であり、本来は騎手の仕事を1人で全てこなさなければならないが、騎手にはしなければならない仕事が増加してきており、1人でこなすのは困難となりつつある。そこで騎手の仕事を一部分担する仕事が登場してきている。
バレット (valet)とは、レース開催時において騎乗時に使用する道具の準備・斤量の調節など、いわゆる補佐として騎手のために雑務をこなす存在である。バレットは競馬場内では青いビブスを身に付けている。
このバレット制度は世界各国では一般的な制度である。アメリカ合衆国ではジョッキールームに騎手が腰かけた途端にバレットが担当騎手のブーツを即座に脱がしたり道具の整理および清掃などを行ったりすることもある。
日本では武豊が国外に遠征した際にバレットの存在を目にし、導入の必要性を感じたため、武は日本騎手クラブを通してJRAに要請し、その結果、1997年に当初は試験導入としてではあるが、公式に日本の中央競馬でもバレット制度が導入された(バレットを最初に雇用した騎手は的場均である)。その後21世紀に突入した2005年より正式にバレット制度が認められるようになった(2017年現在で31人のバレットがJRAに登録されている)。
その中央競馬においては、バレットは法的には騎手個人に雇用されるという形態をとっており、JRAはバレットの適性試験や裁決委員が行う面接以外はほとんど関与していない。そのため、バレットには適性試験や面接に合格さえすれば、基本的には性別、経歴、年齢を問わず無資格でなることができる。バレットはその騎手の身内(兄弟姉妹や親子など)や友人・知人など、信頼可能で親しい間柄にある者を雇用している場合が多い。また女性の比率も多い。
なおバレット制度が導入される以前にも競馬学校の騎手候補生が現役騎手に手伝いの形でバレットと同じような雑務を行うこともあった。
地方競馬に於いても、比較的賞金が高い南関東ではバレット制度が存在している。
バレットはファンエリアに出入り可能な代わりに、就労中に得た情報の漏洩や勝馬投票券の購入の他、また検量室とジョッキールーム以外の関係者エリアへの立入りも禁止されている。
日本では安藤勝己は実子、福永祐一と池添謙一は実妹、永島まなみが実姉と騎手の親族がバレットを務めることがある一方で、後藤浩輝がバレットを一般から募集していたこともある。福永は実妹を経て、現役後期はチームグリップのスタッフ(後に白浜雄造の妻となる)がバレットを務めていた。このほか小西一男調教師の娘である小西由紀が田辺裕信、元お笑いタレント「チング」の吉井慎一が武豊や福永祐一のバレット、武藤善則調教師の娘で歌手の武藤彩未が弟の武藤雅のバレットを務めていたこともあった。吉井は後に騎乗依頼仲介者に転身している。
各国の共通の事項だが、バレットは1人の騎手に複数付くこともある反面、1人のバレットが複数の騎手を担当することもある。
騎手のエージェント(代理人)は主に、調教師や馬主と交渉し、騎乗馬を確保する役割である。中央競馬ではエージェントの呼称を騎乗依頼仲介者としている。詳しくは同項目を参照。 | [
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"text": "騎手(きしゅ、英語:jockey(ジョッキー))とは、馬に跨り、馬上から馬を操縦する人のことである。",
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{
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"text": "競馬制度は国家・地域によって異なり、それぞれに独自の競馬文化と歴史を有し、開催運営や人材育成のシステムが築かれている。その中において「騎手」という意味の言葉が、競馬の競走への参加に必要な資格ないし公的なライセンスとしての資格称号を指すこともある。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
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"text": "競馬の場合、平地競走や障害競走では競走馬の背に騎乗するが、ばんえい競走や繋駕速歩競走ではそりや馬車に搭乗して操縦する。また騎手は自分の体重を含め指定された重量(斤量)で騎乗することが求められる。",
"title": "解説"
},
{
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"text": "英語で騎手を表すジョッキー (jockey) は、ジャックやジョンの蔑称であるジョックに由来する。ジョックは後にジョッキーと訛り、単に競馬好きや馬好きを表すようになった。かつてイギリスの競馬施行体であったジョッキークラブも元々は競馬愛好家の集まりである。現在の意味を持つようになったのは、騎手や調教師、馬主が分業されるようになった19世紀以降で、古い英語が残るオセアニア諸国などではライダーと呼ばれることが多い。繋駕速歩競走ではドライバーと呼ぶ。また日本では俗称として乗り役とも言う。そのほか「JK」や「J」との略称も使用されている。",
"title": "解説"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "競馬法に基づき、農林水産大臣の認可を受けた日本中央競馬会 (JRA) と地方競馬全国協会 (NAR) がそれぞれ試験を実施、免許を交付している。JRAの競馬学校、NARの地方競馬教養センターの騎手課程を経て、受験資格を得るのが一般的である。国家資格である。",
"title": "日本における免許制度"
},
{
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"tag": "p",
"text": "受験資格は受験日時点で16歳以上の者であるが、さらに以下に記載した事項に該当するものは受験できない。",
"title": "日本における免許制度"
},
{
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"tag": "p",
"text": "など(詳細については出典を参照のこと)。なお成年被後見人又は被保佐人を欠格条項とする規定については、令和元年6月14日に公布された「成年被後見人等の権利の制限に係る措置の適正化等を図るための関係法律の整備に関する法律」によって削除され、心身の故障等の状況を個別的、実質的に審査し、必要な能力の有無を判断することとなった。",
"title": "日本における免許制度"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "中央競馬、地方競馬ともに有効期限は1年で、続けて騎乗する場合には試験を受け、免許を更新する必要がある。現行の制度では調教師免許などと同時に取得することはできない。中央競馬では平地競走と障害競走で、地方競馬では平地競走とばんえい競走でそれぞれ免許を交付している。",
"title": "日本における免許制度"
},
{
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"tag": "p",
"text": "免許更新は中央が3月1日付、地方は所属する場により2015年以降年3回に分けられ、4月1日(南関東)、8月1日(金沢、笠松、名古屋、兵庫)、12月1日(ばんえい、北海道、岩手、高知、佐賀)付となる。また不合格になった者は翌年の同じ回より前の試験は受験できない。",
"title": "日本における免許制度"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "中央競馬の騎手免許では、2009年までは競馬学校出身者、地方競馬全国協会の騎手免許を受けている者であって『本会の定めた基準』に該当する者、それ以外で分けられていたが、2010年以降は競馬学校出身者、地方競馬全国協会の騎手免許を受けている者、それ以外の3種類に変更された。",
"title": "日本における免許制度"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "指定競走・交流競走・特別指定交流競走で騎手免許がない競走に騎乗する場合には、試験なく「その競走に限定した騎手免許」が交付される。日本国外の競馬で騎乗している騎手に対しては、日本国内の調教師・馬主を引受人として臨時に行われる試験に合格した上で、1ヶ月単位の短期免許を1年の間に3ヶ月間まで交付する。",
"title": "日本における免許制度"
},
{
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"tag": "p",
"text": "2003年2月までJRA・NARの免許を両方持つ騎手は存在しなかったが、2003年2月に当時笠松競馬場所属であった安藤勝己がJRAの免許試験に合格し、同時にNARの騎手免許の取消願を提出した。",
"title": "日本における免許制度"
},
{
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"tag": "p",
"text": "この時、NARはダブル免許を容認し、中央競馬の免許の取得による免許の取消には応じなかったため、2003年3月1日から安藤はJRAとNARの両方の免許を所有することとなった。この時点でJRAは、地方競馬の免許で騎乗した場合には中央競馬の免許を取り消すとしていた。一方で安藤がNARの交流競走に騎乗した時には、地方競馬全国協会は「すでに(地方競馬で有効な)免許がある」として短期免許を交付しなかったため、JRAは二重免許を特例として認めざるを得ない状況になり、特例を適用した。",
"title": "日本における免許制度"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "その後、2003年6月16日に地方競馬全国協会は、安藤のNARにおける騎手免許を取り消したため、この特例は解消された。",
"title": "日本における免許制度"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "現在、中央競馬及び地方競馬では騎手免許と調教師免許を同時に持つことはできない。つまり、調教師が自分の管理する競走馬に乗ってレースに出走することは現行の規定では不可能である。",
"title": "日本における免許制度"
},
{
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"tag": "p",
"text": "1930年代以前は「調教師兼騎手」は珍しい存在ではなかった。一例を挙げると大久保房松などは、管理馬に騎乗して日本ダービー制覇を達成している(1933年、カブトヤマ)。調教師と騎手の業務が分離されるようになったのは、1937年に日本競馬会競馬施行規定が規定されてからである。ただしこの規定は、日本競馬会発足以前に免許を受けていた調教師(騎手)に対しては、1942年12月31日までは猶予期間とされたため、猶予期間中は引き続き調教師が騎手としても騎乗することができた。",
"title": "日本における免許制度"
},
{
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"tag": "p",
"text": "なお、戦後の一時期も調教師が騎手を兼務することが可能であったが、1948年より調騎分離が厳格に適用されることになり、調教師と騎手の兼務が不可能となり、現在に至っている。",
"title": "日本における免許制度"
},
{
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"text": "ばんえい競馬においては平地競馬よりもかなり遅く、1978年度より完全実施されている。",
"title": "日本における免許制度"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "日本国籍を持たない騎手に対する免許制度としては、1994年より短期騎手免許制度が設けられているが、前述のとおり短期免許では騎乗期間が年間で最大3か月間に限られる。これに対し、外国人騎手からは「年間を通じて騎乗できる免許を発行できるようにして欲しい」との要望が以前からあり、これを受けてJRAでは2014年度の騎手免許試験より外国人騎手に対する通年免許の発行を認めることになった(試験の詳細については後述)。なお外国人騎手が中央競馬の通年免許の発行を受けた場合、当該騎手は「年間を通じて中央競馬で騎乗すること」が必須要件となる。",
"title": "日本における免許制度"
},
{
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"tag": "p",
"text": "2013年10月に行われた1次試験ではミルコ・デムーロ(イタリア)が試験を受験、外国人騎手によるJRAの騎手試験受験第1号となったが、この年は不合格となった。",
"title": "日本における免許制度"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "2015年にミルコ・デムーロとクリストフ・ルメール(フランス)が騎手免許試験に合格。外国人騎手として初めてJRAの通年免許を取得した。",
"title": "日本における免許制度"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "その後、ダリオ・バルジュー(イタリア)が2015年と2016年の2回、JRA騎手免許試験の1次試験を受験したが、2年連続で不合格となった。",
"title": "日本における免許制度"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "母国と日本の騎手免許併用の可否については、国により差異があり、併用ができないフランスの騎手免許を取得していたルメールはJRA通年免許の取得にあわせてフランスの騎手免許を返上している。",
"title": "日本における免許制度"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "平地競走の騎手は着衣や馬具を含めて50数キロ(日本の場合、最も軽いケースで48キロ)での騎乗が求められることから、特に体重に関しては並の職業の比ではない厳しい自己管理の技術を必要とし、なおかつ馬に乗り操縦し競走を行うための専門的な騎乗技術が必要である。また、競馬関連法規や騎手としての競走の公正確保のために必要な知識や情報を学習することも必要である。",
"title": "騎手の養成"
},
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"tag": "p",
"text": "従って、一般の人がいきなり騎手になるということは極めて困難であり、よって専門的な養成が必要なスポーツである。そのため、競馬を開催している国や地域毎に騎手業のライセンス制度が整備されており、日本も含めて競馬が開催される国の大半には騎手養成のための教育機関や養成所が設置されている。他方、養成機関を経由せず、競馬場や厩舎、あるいは競馬関連産業で競走馬の扱い方を身に付けた人物が、技能試験を受けて騎手となれるシステムが整備されている国・地域も多い。",
"title": "騎手の養成"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "ばんえい競走の騎手重量は77キロで統一しており、比較的重めに設定していることから過度に減量を行う者は少ない。",
"title": "騎手の養成"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "日本の場合、中央競馬では1982年、騎手養成機関として千葉県に競馬学校が設立され、騎手課程が設けられた。養成期間は3年間。かつて騎手養成機関は馬事公苑に設置されており、騎手候補生が騎手講習会(長期講習と短期講習とがあった)を受けた後、騎手免許試験を受験する制度が採用されていた。",
"title": "騎手の養成"
},
{
"paragraph_id": 27,
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"text": "競馬学校の受験資格は、年齢は義務教育卒業から20歳まで。このため騎手課程の場合は現役の大学生や短大卒・大卒は受験が困難か不可能である。体重は育ち盛りの年頃であるため、入所時に44キロ以下。",
"title": "騎手の養成"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "地方競馬では栃木県に地方競馬教養センターがある。ここの騎手養成は2年間の長期課程である。かつては短期養成課程が存在したが、これは主に競馬場での厩務員や調教助手などの経歴者、並びに日本国外の騎手免許を取得しレースに出走した騎手を対象としたものであったが、岡田祥嗣のように経歴がなくても短期養成課程出身と言う例外もある(幼少期より馬に跨り、かつ岡田の父が厩務員をしていたこともある理由から)。",
"title": "騎手の養成"
},
{
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"text": "地方競馬のうちばんえい競馬については、騎手を養成する専門機関は存在しない(地方競馬教養センターに養成部門がない)。ばんえい競馬の騎手を目指す者は、ばんえい競馬の各厩舎において基礎技術を習得し、ばんえい競馬が独自の内容で開催している騎手免許試験を受験する。詳細はばんえい競走#騎手を参照。",
"title": "騎手の養成"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "どちらの機関でも、卒業前に騎手免許試験を受験して合格し、騎手免許を取得した上で、晴れて騎手となる。試験である以上、不合格となり騎手免許が取得できない事態、試験前の負傷・疾病で受験ができないという事態も起き、この場合に騎手になるためには、次の機会を待ち再度受験する必要がある。騎手免許の取得は中央競馬では3月1日、地方競馬は4月1日を基点(平地の場合。ばんえいは1月1日が基点)としているが、年に複数回の騎手免許試験が実施される地方競馬では年度途中の騎手デビューも珍しくない(平地の場合。ばんえいは年1回)。",
"title": "騎手の養成"
},
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"text": "日本以外の国での場合、日本と同様に専門の養成機関を主体とした騎手養成を行う地域、厩舎で徒弟修業を行い実践で騎乗技術を身に付けるという制度の地域、民間による騎手養成所が各地に設置されている地域など、地域毎に騎手養成方式は様々である。また、そのライセンス取得に至るまでの育成も、日本の様に少数精鋭主義を取り、最初の養成機関の入学試験から卒業までの時点でふるいを掛け続けて、徹底的に絞り込む「狭き門」であるところから、豪州のように、騎手養成所のカリキュラムを修了し、騎乗技術と公正確保に支障のない人物なら、騎手ライセンスを比較的容易に取得できる ところまで様々である。",
"title": "騎手の養成"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "騎手免許を統括するJRA・NARのいずれも、騎手免許試験については上記の養成機関への在籍経験を持たない人物でも、必要条件を満たせば受験自体は可能としている。",
"title": "騎手の養成"
},
{
"paragraph_id": 33,
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"text": "このため、上記の養成機関を経ずに、あるいは上記の養成機関に入ることができなくとも、あるいは中退を余儀なくされても、騎手として必要な乗馬技術を持っていれば、俗に「一発試験」などと呼ばれる形で騎手免許試験を受験すること自体は可能であり、合格すれば騎手免許を手にすることができる。小牧加矢太は競馬学校入学を断念したが、その後馬術競技選手として活動したのち2021年度騎手免許試験を受験して合格し、2022年に障害限定で騎手免許を取得している。",
"title": "騎手の養成"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "日本国外で競馬の世界に入り見習騎手等の形で騎乗経験を積むなどの手順を踏んで受験する騎手もいる。現在までにこのような手順で「一発試験」を突破し騎手免許を取得した者には、中央競馬では横山賀一と藤井勘一郎、地方競馬では中村尚平・笹田知宏の例があるが、非常に少ない。また、中村と笹田は帰国後に地方競馬の厩舎に入り調教厩務員を経験している。",
"title": "騎手の養成"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "また、特に地方競馬では、最初はまず厩務員として厩舎に入り調教騎乗などの実務の実践経験を現場で習得して調教担当厩務員などとなる、つまりは厩舎・競馬場での実践で受験に必要な技術を身に付け、その上で「一発試験」で受験→合格という手順を踏んで騎手となる方法がある。この厩舎で実務経験を積んで「一発試験」を受け騎手になったという経歴を持つ人物は数多いが、中にはJRA・地方競馬の騎手養成課程で中途断念を余儀なくされた人物が、再び騎手を志して厩舎に入り、「一発試験」を乗り越えて晴れて騎手免許を手にするケースも見られる。このような「再起」の経緯を持つ騎手としては石崎駿・安藤洋一などの例がある。なお、これは一見すれば大きな遠回りをしている様に見えるが、JRA競馬学校騎手課程を中途退学後に地方競馬の厩務員を経て「一発試験」で騎手免許を取得した石崎駿のケースでは、結果的に同時に競馬学校に入学した競馬学校騎手課程第18期生よりも半年以上早く騎手デビューを果たすことになった。",
"title": "騎手の養成"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "騎手免許試験の受験資格には年齢の上限が設けられておらず、かつての騎手養成機関の短期課程も騎乗技術を持つ事実上は競馬サークル内部の人間を対象としたもので、年齢制限が緩かったことから、「一発試験」やかつて存在した騎手養成の短期課程を経て騎手となった人物の中には、大学卒業後に縁あって厩舎に入り下乗りを経て騎手になるという経歴を辿った、俗に「学士騎手」などと呼ばれる人物がごく少人数ではあるが存在する。",
"title": "騎手の養成"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "いずれも元騎手であるが、JRAでは太宰義人・山内研二、地方競馬では森誉(船橋)・橋口弘次郎(佐賀)・早川順一(足利)などの例がある。なお、他にもJRAの大久保正陽や川合達彦が大学卒の学士騎手の範疇であるが、この2人は、騎手業と学業を両立させた上で大学を卒業したというさらに稀有な人物である。",
"title": "騎手の養成"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "元々、何らかの事情で一度引退した騎手が「一発試験」で騎手免許を再取得し復帰するケースはしばしば存在した。ただこの場合の受験資格は従来明文化されていなかった。これに対し2014年度のJRA騎手免許試験からは、外国人騎手の受験と同時に元騎手が復帰する場合の受験資格も明文化され、「過去にJRAの騎手で、騎手から直接JRAの調教助手または厩務員に転身したもの」以外は原則として試験の一部免除を行わないことになった。",
"title": "騎手の養成"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "2014年度の試験より、原則として元JRA騎手や外国人騎手については、一次試験のうち騎乗技術の実技試験が省略されるほか(外国人騎手の場合は体力測定も省略)、筆記試験も通常の騎手試験と内容が異なり、元JRA騎手については「競馬関係法規」のみ、外国人騎手の場合は「競馬関係法規及び中央競馬の騎手として必要な競馬に関する知識」のみとなる。また一次試験を日本語ではなく英語で受けることも可能になった。二次試験も外国人騎手については実技試験が省略され、代わりに技術に関する口頭試験が行われる(実質的には一次・二次とも地方競馬の騎手と同等の試験内容となっている)。ただし二次試験は全て日本語で行われるため、実際に試験を受験したミルコ・デムーロは一時騎乗を自粛してまで日本語の勉強を優先させ試験に備えた。一方で香港拠点のトップジョッキーであったジョアン・モレイラは、2018年に香港での騎手免許を一時返上したうえで、JRAの短期免許を断続的に取得して長期滞在しながら新規騎手免許試験に臨んだが一次試験で不合格になっており、翌年以降のJRA騎手免許試験受験は断念している。",
"title": "騎手の養成"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "いずれの国においても、競馬を開催している国では競馬に関する諸規則や法律が設けられており、これに基づいて騎手は競馬を統括する機関より騎手免許やライセンスの交付を受ける形となっており、雇用関係は別としても、その統括機関に騎手として登録されることで初めて競走への参加などの活動が可能になる。",
"title": "騎手の所属"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "日本の場合はJRA・NARのいずれかの組織から免許を受け、中央競馬の場合は美浦トレーニングセンター・栗東トレーニングセンターのいずれか、地方競馬の場合には各競馬場に所属する。また、調教師を頂点とする厩舎制度においては、騎手は厩舎への所属という形で雇用され、調教師から様々な指導を受ける。",
"title": "騎手の所属"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "統括機関が騎手養成機関を設置する以前は、騎手を志すものは文字通り調教師に弟子入りして騎手候補生(下乗り)として住み込みで厩舎の雑務をこなしながら競馬社会で必要な知識・技術・習慣を一から習得してやがては騎手免許を取得する、調教師は見習いとして入ってきた若者を衣食住の面倒を見ながら一人前の競馬人・社会人とするべく厩舎で鍛え上げる、徒弟制度そのものの育成システムになっていた。そのため師弟関係の精神的な結びつきは非常に強く、騎手となりキャリアを積んだ後も出身厩舎への帰属意識が強かった。また、調教師も管理馬に門下生を優先的に乗せるなどということも多く見られ、さらには門下生を養子や婿にしてやがて調教師に転じた暁には自身の厩舎や人脈を継承させる、門下生が調教師免許を取得し独立する際にも自身の管理馬やスタッフを譲り(さらに、割り当て馬房の不足の状態にある地方競馬の競馬場に所属している場合には割り当て馬房の一部なども譲る場合がある)、一種の暖簾分けにも似た形で厩舎の立ち上げをサポートする、などといった光景も多分に見られたものであった。ばんえい競走では専門養成機関がないため厩舎で働きながら基礎技術を研鑽することから、このような師弟関係が現在も残存している。",
"title": "騎手の所属"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "現在では競馬学校・地方競馬教養センターともに騎手育成は2〜3年の長期養成課程のみであり、生徒には最終学年で厩舎に所属し、調教などの技術指導を受ける長期実地研修のカリキュラムが設けられている。養成機関を卒業し試験に合格し晴れて騎手免許を取得すると、主に最終学年で指導を受けた厩舎に所属して騎手の生活をスタートさせる。特に競馬社会への縁故を全く持たずに騎手養成機関に入った者にとっては、研修先の厩舎が競馬社会と最初に繋がる縁ということになる。とはいえ、長期養成課程の騎手育成はあくまで養成機関によるものが中心軸であり、騎手の心理面で見た場合には得てして養成機関の教官が実質的な師匠という形になることも多く、現在の調教師と騎手の関係についていえば師匠と弟子ではなく単なる雇用主と従業員の感覚ではないかと窺われる状況も多く見られる。",
"title": "騎手の所属"
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{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "これは特に中央競馬についていえることであるが、上述したように騎手免許試験のシステム上は厩舎で修行していわゆる「一発試験」を受験することは可能であるが、現実を見た場合、厩舎での下積み経験だけで長期養成課程を経ずに騎手免許を取得するのは事実上不可能になり、調教師が弟子を競馬人として一から育て上げ騎手に仕立て上げるということができなくなった。そのため、現在における厩舎所属の様式は師弟関係というよりもむしろ調教師が騎手のデビュー時の身元引受人になるという意味合いが強く、一般的な師弟関係や雇用関係よりも精神的な結びつきが希薄である場合も多い。騎手はデビュー後の数年間の内に所属厩舎を離れフリー騎手として独立することが多く、また、調教師が所属騎手を優先的に騎乗させることも以前より少なくなっている。もっとも、これらについては、経済情勢の変化などにより調教師に対する馬主の発言力・影響力が大幅に強くなり、特に多数の馬を所有し競走馬所有をビジネスとして展開している有力馬主や愛馬会法人(クラブ法人馬主)の所有馬では、実態として強い発言力を持った馬主サイドが騎手の選択権を握ってしまうことも多いなど、調教師が所属騎手を乗せてやりたくてもそれが中々できない状況が要因の1つになっている面も見られる。",
"title": "騎手の所属"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "中央競馬では「厩舎に所属しない」という意味でフリーランスの騎手が多数存在する。このような騎手をフリー騎手と呼ぶ。ただし一般的な「フリーランス」の意味とは異なり、厩舎に所属していなくても美浦か栗東、いずれかのトレーニングセンターに所属している上、さらにいえば日本中央競馬会 (JRA) に所属していることになる。",
"title": "騎手の所属"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "以前は実績のある騎手が所属厩舎と疎遠になったり、所属厩舎が解散したことを契機としてフリー騎手になるケースが多かったが、最近では一定期間を経過した若手騎手が実績に関係なくフリー騎手になるケースも多い。逆にフリーでやってきた騎手が厩舎とのつながりが生まれて厩舎に所属することもある。",
"title": "騎手の所属"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "この中央競馬のフリー騎手の嚆矢として知られるのは、「ナベ正」こと渡辺正人(1963年引退)である。渡辺の場合は戦前に入門した厩舎が太平洋戦争による競馬中止により消滅、戦後になっても復活せず、戦後も師匠の弟弟子など縁故のある厩舎に籍を置いたものの、当時の厩舎の人間関係では騎乗馬に恵まれず、最終的には自ら営業して騎乗馬を集めるようになったものである。当時はまだフリー騎手という概念も言葉もなかった。",
"title": "騎手の所属"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "地方競馬の場合、次に述べる南関東と兵庫を除き、少なくとも騎乗の自由は認められていない。地方競馬においては厩舎無所属での騎乗は認められておらず、必ずどこかの競馬場に所属する厩舎に騎手として所属する。これは期間限定騎乗騎手や短期免許でも同様である。南関東公営競馬では2012年4月1日から騎手会所属騎手制度が導入され、所定の条件を満たす者は南関東地区の各競馬場が所在する都県の騎手会所属騎手として、厩舎無所属で騎乗できるようになった。その後2022年4月1日より兵庫県競馬組合でも騎手会所属騎手制度が導入された(同組合での初の適用事例は廣瀬航)。なお、南関東と兵庫では騎手会所属になれる所定条件がそれぞれ異なっている。「地方競馬初のフリー騎手」として内田利雄が挙げられることがあるが、それは「一定の競馬場に長期間所属しない」という意味であって、それぞれの競馬場では厩舎所属の騎手となっている(詳細)。",
"title": "騎手の所属"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "外国籍の騎手が短期騎乗する場合には、中央競馬の場合は馬主と競馬関係者が身元保証人になる形でJRAから短期免許を得るがあくまでフリー騎手の立場で騎乗することも多い。地方競馬の場合には身元保証人の必要と短期免許をNARから交付される点は同様だが調教師と契約し厩舎に所属という形を必ずとっている。",
"title": "騎手の所属"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "NAR騎手がJRAに、またはその逆にJRA騎手がNARに移籍したケースもある。前者の事例では橋口弘次郎・安藤勝己・内田博幸・戸崎圭太など、多数存在している。その一方で後者の事例は相当に少なく、JRAからNARに移籍したのは松本弘・吉岡薫・桑島孝明のわずか3人のみである。",
"title": "騎手の所属"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "騎手の所属制度・育成システムは各国の競馬制度によって異なる。だが、上述の通り基本的にはいずれかの国・地域においても、当地の競馬統括団体に籍を起き、ライセンスの交付を受けることで騎手としての活動が可能になる。国籍・出身地とライセンスを受けている国・地域は必ずしも一致しないが、規則や競馬関連法規などで自国の国籍を持つ者に限定していることがある。",
"title": "騎手の所属"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "アメリカ・イギリス・フランスなどの競馬先進国やその影響が色濃いアラブ首長国連邦(ドバイ)などでは、21世紀の現在では騎手にとっては厩舎・調教師よりも馬主やエージェンシーと結ぶ契約がビジネス上重要になり、実績と人気を得た騎手は馬主および専属エージェントや幅広い馬主と契約を結んでいるエージェンシーと専属契約や優先騎乗契約を締結し、依頼に応じて世界各国を股に掛けて騎乗するのが一般的である。そのため、大枠として国籍や騎手ライセンスの交付を受けた各地域の競馬統括機関という意味での所属はあるものの、日本競馬的な対厩舎・調教師という意味での所属やフリーランスという概念は、肉親が経営する厩舎や師弟関係などにおいて一部に例外があるが基本的には薄くなっている。特に強い発言力を持つ有力馬主の所有馬では、馬主・エージェントが競走馬の日常の管理・調教から騎手の選択・騎乗馬の手配、さらに騎手へのレース戦術の指示まで大半の権限を握り、逆に調教師には騎手の選択権や騎手への指示の権限が全くないということも多く、調教師は単に馬主に預託された競走馬を馬主の指示通りに仕立て上げるだけ、さらに言えばレース当日に厩舎の馬房や名義を貸して出走手続きを代行し預託料や獲得賞金の一部をいわば手数料として受け取るだけといった、「調教師」というライセンスを持つ「競走馬をレース当日に出走させる条件を満たさせるための下請け業者」に過ぎない実態であることも往々に見られ、さらには管理馬に騎乗した騎手との接点が馬主やエージェントを介さなければ見出せないということも起きる。",
"title": "騎手の所属"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "対して、香港・マカオ・シンガポールなど、1980年代以降に競馬制度の近代化・国際化が進められた地域では、騎手は第一義的には現地の競馬統括団体に所属し、その枠の中で調教師と騎手が所属や騎乗にまつわる契約を結んで活動するという、日本に近い形態が現在でも多く見られる。その中には、自前の騎手や競馬関係者の養成所を持ってはいるものの、実際には他の地域からの移籍者や限定的なライセンスを得て活動する他地域所属の騎手に少なからず依存している競馬場も珍しくない。",
"title": "騎手の所属"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "オーストラリアの場合には、競馬の厩舎制度はほぼ全面的な外厩制となっており、競馬関係のライセンス取得が日本や欧米よりも比較的容易である。このこともあって、厩舎の規模の大小の差異は日本とは比べ物にならないほど著しく、大規模な厩舎には自前でトレーニングセンターの様な専用施設を構え100頭以上を管理するものが見られる一方で、競走馬の取扱者としては小規模な個人経営の牧場の経営者が競馬調教師としてのライセンスを取得し、競走馬も自己生産や自己所有のものを数頭管理するだけで、日々の世話を家族で行い、これを地元の競馬場や調教場などのコースに持ち込んで調教して仕上げ、主に地元の小さな「草レース」などへ出走させるスタイルの“家族経営型小規模厩舎”も数多く存在している。そのため、騎手の就業形態もまたさまざまで、トップクラスでは厩舎や馬主との契約や依頼で騎乗し騎手専業で活動する者がいる一方で、小規模な厩舎の管理馬では牧場主・馬主・調教師の子や兄弟が騎手を務めるなど、所属や契約以前の家族の枠で終始する事も珍しくない。また、日本の中央競馬の様な副業禁止規定がないため、この様な「草レース」での活動が中心の騎手の場合、普段は牧場や厩舎の仕事、あるいは肉体労働や店員など競馬とは無関係の仕事を持ち、これで生活資金や活動資金を確保しつつ、騎手としての活動を続けている者も多い。また、騎手希望者が騎乗ノウハウや競馬の規則を学びライセンスを取得するための民営の騎手養成所が多数存在している。その様な事情から、騎手ライセンスを所持する人数は日本よりも遥かに多く、騎手間の競争もより厳しいという一面がある。ニュージーランドもほぼ同様である。",
"title": "騎手の所属"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "また、オーストラリアやニュージーランドでの騎手ライセンス取得は国籍などにまつわる制限が他地域と比べて緩く、日本において競馬学校や地方競馬教養センターの騎手養成課程に入れなかったり、中途退学を余儀なくされた日本人にとっては騎手になるために残された数少ないルートの1つとなっている。そのため、騎手になるチャンスを求めて渡航し、現地のライセンスを取得後に調教師や厩舎と契約し所属したり、牧場の従業員として働きつつ騎手として参加するケースも若干数だが見られる。また、過去には廃止された地方競馬場に所属していた騎手が再起を目指して渡航し現地の養成所に入ったケースも見られる。",
"title": "騎手の所属"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "日本国内でJRAまたはNARが発行した騎手免許を持つ騎手が海外で騎乗する場合には、外国人騎手の日本における短期騎手免許と同様に、基本的には現地の競馬統括機関に所定のライセンスを発行してもらう必要がある。ライセンスの交付を受けるためには、現地の調教師・厩舎に身元保証を依頼してライセンスを申請する、馬主やエージェントと騎乗の契約書を交わして統括機関に申請するなどいくつかの方法があるが、これは渡航地の競馬制度や騎乗予定期間・騎乗予定状況などによって大きく変わり、自国での騎乗数・勝利数の実績が必要な国・地域も多い。他方で、騎乗技術向上の機会や騎乗機会を求める他地域の若手騎手に限定的に期間限定ライセンスを与えるシステムを持つ国・地域もある。",
"title": "騎手の所属"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "騎手の収入は主に以下の2つに分けられる。",
"title": "騎手の収入"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "競走に騎乗した際には、主に以下の2つが騎手の収入となる。",
"title": "騎手の収入"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "従って、高額な賞金の競走に勝利するほど収入は多くなる。",
"title": "騎手の収入"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "厩舎の業務とは、調教時の騎乗がメインであるが、厩舎に所属している場合には厩舎の一員として、その他の厩舎の雑務一般も行う(競走馬の餌付け・寝藁の交換など)。厩舎の一員として仕事をする以上、厩務員などと同様、毎月厩舎より給料をもらう。なお競馬学校に在籍する騎手候補生は必ずどこかの厩舎所属になることが義務付けられており、騎手としてデビューする際も厩舎所属からのデビューとなる。",
"title": "騎手の収入"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "騎手は競走に騎乗しなければ始まらない。調教中心の騎手もいるが、騎手の最も大きな収入源は賞金からの進上金である。",
"title": "騎乗依頼"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "騎乗依頼は主に以下のように決められることが多い。",
"title": "騎乗依頼"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "この様な要素が複雑に絡みあって競走への騎乗が決まる。中でも同じ騎手に何度か続けて騎乗してもらう場合、主戦騎手と呼ぶ。中央競馬においてはエージェントを介在した騎乗依頼も行われており、騎手・エージェント・馬主の三者間の関係も重要である。",
"title": "騎乗依頼"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "他方、幾ら騎手が小柄な人物の専売特許の様な商売とはいえ、減量しても体重と装備の合計重量が指定の斤量を上回る場合にはその馬に騎乗できない。そのため、特にハンデキャップ競走では極端な軽斤量となった馬でそもそも騎乗可能な騎手が限られ、主戦騎手が極限の減量をしても騎乗不可能という事態も多分に発生する。この場合「当日その競馬場で騎乗予定で軽斤量で乗れるから」という理由で、軽量の騎手に対してそれまで全く縁のない厩舎から突然に騎乗依頼が来ることもある。",
"title": "騎乗依頼"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "日本国外では事実上の馬主専属騎手が存在するなど、多種多様の騎乗依頼方法が行われている。",
"title": "騎乗依頼"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "競走当日に落馬負傷などの何らかの要因により乗り代わりを行う際に、日本では当日別のレースに騎乗予定があり、当該レースに騎乗しない騎手に依頼する。日本国外では当日全く騎乗がなく、競馬場のスタンドで観戦している騎手に依頼することがある。フランスにおいて武豊が落馬により左手骨折の重傷を負った際、競馬場のスタンドで見学していた池添謙一に乗り代わりの依頼があったが、道具を持ってきていなかったため武豊とオリビエ・ペリエから借りてレースに臨んだ。なお、池添はこれがフランスデビュー戦となった。",
"title": "騎乗依頼"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "レース前あるいはレース中の騎乗に際し、騎乗した馬を制御できなかった(御法不良: みのりふりょう)ためにレースに支障を来したり、他の競走馬の進路を妨害するなどした場合、あるいは負担重量がレース前後の検量で発表していた斤量と大きく異なっていた場合、その他スポーツマンシップに欠ける騎乗や言動(無断欠勤、競馬施設内外での暴力行為なども含まれる)を行った場合などは、競馬法施行規定第126条・第1項の規定で制裁を受けることがある。",
"title": "騎手に対する制裁"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "制裁はその内容によって過怠金(いわゆる罰金)が科せられる。審議により降着以上になるような悪質な場合には一定期間の騎乗停止(中央競馬の場合、基本的には馬の癖による斜行の場合は1日〜2日間、その他明らかに騎手の判断ミスなどによる場合は一般的には4日〜6日間までだが、悪質な場合それ以上の期間に延長される場合あり)を受けることになる(降着処分にならなくても騎乗停止処分を受けることはある。また当該の競走馬に対しても再調教をして調教検査に合格するまで出走停止の措置が執られる場合がある)。",
"title": "騎手に対する制裁"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "またこれらの制裁はポイントにも置き換えられ、30点をオーバーすると競馬学校やトレーニングセンターで騎乗技術などの再教育を受けることが義務付けられている。具体的には",
"title": "騎手に対する制裁"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "といった内容のカリキュラムが、制裁事由・制裁歴・技術の程度・年齢・通算騎乗数などを勘案した上で実施される。",
"title": "騎手に対する制裁"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "騎乗停止の制裁は、中央競馬・地方競馬相互間および日本国外との競馬相互間でも適用される、騎手交流競走などで騎乗停止処分を受けた場合、それに準じて騎手の所属競馬団体でも騎乗停止の処分を受けることになる。",
"title": "騎手に対する制裁"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "騎手の仕事は肉体労働であり、加齢によって筋力や反応速度などが低下し、また基礎代謝の低下により体重・体力を維持し続けることが困難になることなどから、騎手としての責務を果たすことが難しくなっていく。また優勝劣敗の厳しい世界であり、成績と収入の両面で伸び悩んだ騎手はもとより、リーディング上位の常連として一時代を築いた騎手であっても全盛期を過ぎ騎乗数・勝利数・入着率、そして獲得総賞金額が減ってくれば収入は下がって行く。",
"title": "騎手の引退・殉職"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "従って一生にわたって騎手の仕事を続けることは難しく、本人が限界を感じたときなどに騎手としての免許・ライセンスを返上して引退し、何らかの形で第二の人生を歩むこととなる。例えば騎乗依頼が減り、収入が減ってくると年齢にかかわらず引退することもある。自分が所属していた厩舎の調教師が数年後に定年を迎えるなどの事情がある場合、その厩舎を引き継ぐ目的で調教師への転身を図ろうとする、すなわち調教師免許試験を受験する者もいる。リーディング上位の騎手であっても、支えてくれていた調教師や有力馬主の死去・撤退など、後ろ盾となる人間関係がなくなり成績・獲得賞金額が低下したことをきっかけに、騎手からの引退を検討する者は少なくない。",
"title": "騎手の引退・殉職"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "他方、騎手デビュー以降に予定外に身体の成長が続き、その結果として身長・体重が増加し若くして体重管理に苦しみ、負担重量などの問題から減量が自己管理の限界を超えて引退を余儀なくされる騎手も少なからず見られる。その中には、20代前半の若さであっても体重の問題で騎手業の継続が事実上不可能となり引退する者も少なくない。その中にはデビュー当初から優れた実績を挙げ才能を期待されていた人物も見られる。日本では中央・地方いずれにしても体重の下限が53kgを超えると、装備品などの重量の都合もあって下級条件戦や2歳戦での騎乗が困難になることが多い。JRAの場合は57kg程度で体重増加が止まれば、障害競走限定の免許を保持する騎手として活動を継続することが可能な場合もあるが、騎乗機会は大幅に限定される。さらに過酷なのは障害競走がない地方競馬で、体重と斤量の問題がそのまま騎乗困難に直結し若くしてやむを得ず引退を決断する者が少なからず見られる。さらには、過酷な減量を余儀なくされ、その連続の末に心身に変調を来たす騎手や、脳梗塞など重篤な疾病を発症して倒れ引退を余儀なくされるケースや、腎臓結石などの減量を著しく困難にする疾病を発症して長期的な健康面の観点から引退するケースも見られる。",
"title": "騎手の引退・殉職"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "騎手免許を返上した人物の第二の人生としては調教師や調教助手・厩務員などまず厩舎関係が第一に挙げられる。その他では後進の騎手の育成に携わる者、牧場での競走馬の生産・育成や競馬解説者・競馬予想家・馬運車・競走馬用飼料販売などの競馬周辺の産業に携わる者、さらにはまったく異なる職業に転身する者などさまざまである。特に中央競馬においては、負傷や不祥事以外で騎手を引退した者が引退と同時にJRAの組織から籍を抜き、競馬とは全く無関係の職業に転職するというケースは珍しく、まず縁のあった調教師を頼りその厩舎に一旦籍を置き調教助手になるという形で、その後厩舎スタッフとしての適性を見極めながら、改めてJRAの中でホースマンとして活動を続けるか、あるいはJRAの枠から飛び出して新天地を求めるかなど、身の振り方を考えるというスタイルが一般的である。前述の通り、騎手免許を返上した者でも騎手免許試験を受験することは可能であり、一度は調教助手に転業した柴田未崎のように騎手に復帰した事例もあるが、このような事例は世界的に見ても非常に少ない。調教師の仕事は騎手の仕事とは本質的に異なるため、佐々木竹見 (NAR) や岡部幸雄 (JRA) などは調教師への転身の道を選ぶことなく引退したが、この両名にしてもその後は統括団体に関与する形でホースマンとしての活動を続けている様に、騎手引退後に騎手時代の蓄えでそのまま悠々自適の余生に入るというケースはほとんどないに等しい。",
"title": "騎手の引退・殉職"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "他のスポーツの選手に比べれば純粋に身体的な能力を要求される要素は低く、勝ち星と収入を安定して確保し続けられる騎手は年齢を問わず第一線に留まることができる。また、日本の場合、騎手には定年制度がないため、視力低下や体重増加の問題が小さく騎手免許の更新に支障がない人物の場合、騎手としての能力を発揮できる限界年齢は比較的高く、歴代のリーディング上位騎手の中にも50代まで騎手業を続けた者は少なからず見られる。金沢競馬場などに所属した山中利夫は62歳まで騎乗を続けた(2012年7月引退)。2000年には中央競馬の調教師であった内藤繁春(調教師以前は騎手を勤めていた)が翌2001年2月で中央競馬での調教師の定年を迎えることを期に、69歳で騎手免許試験を受験したことがある(結果は不合格)。",
"title": "騎手の引退・殉職"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "他方で、競馬の競走では競走馬のスピードは時速約60 km/h 以上にも達し、それだけのスピードを出した競走馬から落馬したり走行中の馬に接触すれば重度の障害が残ることや、重傷・死亡に至る、場合によっては即死する危険がある。事実、競走中に発生した事故によって松若勲 (JRA) のように即死、あるいは岡潤一郎 (JRA) や佐藤隆(船橋)のように事故後加療の末に死亡した例、福永洋一 (JRA) や坂本敏美(名古屋)の例のように重篤な後遺症が残り再起できなかった騎手もいる。一方で、石山繁・常石勝義・高嶋活士(いずれもJRA)の例のように、重度の障害を負って引退を余儀なくされた後に、障害者スポーツへの転向をする騎手もいる(石山・常石・高嶋はいずれも脳挫傷を負い、障碍者馬術に転向)。一方で安田隆行 (JRA) のように落馬で一時は脳挫傷を負いながらも完治して騎手に復帰した事例も存在する。",
"title": "騎手の引退・殉職"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "大型動物のサラブレッドを扱う職業であるだけに、レース中以外でも調教中の落馬の他、馬に蹴られる・踏まれるなどの事故も少なからず付きまとう。",
"title": "騎手の引退・殉職"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "騎手は個人事業主であり、本来は騎手の仕事を1人で全てこなさなければならないが、騎手にはしなければならない仕事が増加してきており、1人でこなすのは困難となりつつある。そこで騎手の仕事を一部分担する仕事が登場してきている。",
"title": "騎手をサポートする仕事"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "バレット (valet)とは、レース開催時において騎乗時に使用する道具の準備・斤量の調節など、いわゆる補佐として騎手のために雑務をこなす存在である。バレットは競馬場内では青いビブスを身に付けている。",
"title": "騎手をサポートする仕事"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "このバレット制度は世界各国では一般的な制度である。アメリカ合衆国ではジョッキールームに騎手が腰かけた途端にバレットが担当騎手のブーツを即座に脱がしたり道具の整理および清掃などを行ったりすることもある。",
"title": "騎手をサポートする仕事"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "日本では武豊が国外に遠征した際にバレットの存在を目にし、導入の必要性を感じたため、武は日本騎手クラブを通してJRAに要請し、その結果、1997年に当初は試験導入としてではあるが、公式に日本の中央競馬でもバレット制度が導入された(バレットを最初に雇用した騎手は的場均である)。その後21世紀に突入した2005年より正式にバレット制度が認められるようになった(2017年現在で31人のバレットがJRAに登録されている)。",
"title": "騎手をサポートする仕事"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "その中央競馬においては、バレットは法的には騎手個人に雇用されるという形態をとっており、JRAはバレットの適性試験や裁決委員が行う面接以外はほとんど関与していない。そのため、バレットには適性試験や面接に合格さえすれば、基本的には性別、経歴、年齢を問わず無資格でなることができる。バレットはその騎手の身内(兄弟姉妹や親子など)や友人・知人など、信頼可能で親しい間柄にある者を雇用している場合が多い。また女性の比率も多い。",
"title": "騎手をサポートする仕事"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "なおバレット制度が導入される以前にも競馬学校の騎手候補生が現役騎手に手伝いの形でバレットと同じような雑務を行うこともあった。",
"title": "騎手をサポートする仕事"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "地方競馬に於いても、比較的賞金が高い南関東ではバレット制度が存在している。",
"title": "騎手をサポートする仕事"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "バレットはファンエリアに出入り可能な代わりに、就労中に得た情報の漏洩や勝馬投票券の購入の他、また検量室とジョッキールーム以外の関係者エリアへの立入りも禁止されている。",
"title": "騎手をサポートする仕事"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "日本では安藤勝己は実子、福永祐一と池添謙一は実妹、永島まなみが実姉と騎手の親族がバレットを務めることがある一方で、後藤浩輝がバレットを一般から募集していたこともある。福永は実妹を経て、現役後期はチームグリップのスタッフ(後に白浜雄造の妻となる)がバレットを務めていた。このほか小西一男調教師の娘である小西由紀が田辺裕信、元お笑いタレント「チング」の吉井慎一が武豊や福永祐一のバレット、武藤善則調教師の娘で歌手の武藤彩未が弟の武藤雅のバレットを務めていたこともあった。吉井は後に騎乗依頼仲介者に転身している。",
"title": "騎手をサポートする仕事"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "各国の共通の事項だが、バレットは1人の騎手に複数付くこともある反面、1人のバレットが複数の騎手を担当することもある。",
"title": "騎手をサポートする仕事"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "騎手のエージェント(代理人)は主に、調教師や馬主と交渉し、騎乗馬を確保する役割である。中央競馬ではエージェントの呼称を騎乗依頼仲介者としている。詳しくは同項目を参照。",
"title": "騎手をサポートする仕事"
}
] | 騎手とは、馬に跨り、馬上から馬を操縦する人のことである。 競馬制度は国家・地域によって異なり、それぞれに独自の競馬文化と歴史を有し、開催運営や人材育成のシステムが築かれている。その中において「騎手」という意味の言葉が、競馬の競走への参加に必要な資格ないし公的なライセンスとしての資格称号を指すこともある。 | {{加筆|規約・規定に関する加筆(日本の中央競馬以外も含む)|date=2019年5月}}
{{独自研究|date=2023年1月4日 (水) 23:32 (UTC)}}
{{出典の明記|date=2023年1月4日 (水) 23:32 (UTC)}}
[[File:Tony dobbin.jpg|right|thumb|[[ハードル]]競走に騎乗する騎手]]
'''騎手'''(きしゅ、[[英語]]:jockey('''ジョッキー'''))とは、[[ウマ|馬]]に跨り、馬上から馬を操縦する人のことである。
競馬制度は国家・地域によって異なり、それぞれに独自の競馬文化と歴史を有し、開催運営や人材育成のシステムが築かれている。その中において「騎手」という意味の言葉が、[[競馬]]の[[競走]]への参加に必要な[[資格]]ないし公的な[[ライセンス]]としての[[資格称号]]を指すこともある。
== 解説 ==
競馬の場合、[[平地競走]]や[[障害競走]]では[[競走馬]]の背に騎乗するが、[[ばんえい競走]]や[[繋駕速歩競走]]ではそりや馬車に搭乗して操縦する。また騎手は自分の体重を含め指定された重量([[負担重量|斤量]])で騎乗することが求められる。
英語で騎手を表す'''ジョッキー''' ([[:en:Jockey|jockey]]) は、ジャックやジョンの蔑称であるジョックに由来する。ジョックは後にジョッキーと訛り、単に競馬好きや馬好きを表すようになった。かつてイギリスの競馬施行体であったジョッキークラブも元々は競馬愛好家の集まりである。現在の意味を持つようになったのは、騎手や調教師、馬主が分業されるようになった19世紀以降で、古い英語が残るオセアニア諸国などでは'''ライダー'''と呼ばれることが多い。[[繋駕速歩競走]]では'''ドライバー'''と呼ぶ。また日本では俗称として'''乗り役'''とも言う<ref>{{Cite book|和書|author=藤田伸二|authorlink=藤田伸二|title=競馬番長のぶっちゃけ話|year=2009|publisher=[[宝島社]]|isbn=9784796672368}}</ref>。そのほか「JK」や「J」との略称も使用されている。
== 日本における免許制度 ==
[[競馬法]]に基づき、[[農林水産大臣]]の認可を受けた[[日本中央競馬会]] (JRA) と[[地方競馬全国協会]] (NAR) がそれぞれ試験を実施、免許を交付している。JRAの[[競馬学校]]、NARの[[地方競馬教養センター]]の騎手課程を経て、受験資格を得るのが一般的である。[[国家資格]]である。
受験資格は受験日時点で16歳以上の者であるが、さらに以下に記載した事項に該当するものは受験できない<ref name="JRA2015080501">{{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/news/201508/pdf/080501.pdf |title=平成28年度 調教師及び騎手免許試験要領 |publisher=日本中央競馬会 |date=2015-08-05|accessdate=2015-10-27}}</ref><ref name="NAR201501">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.keiba.go.jp/whatsnew/pdf/150320_001.pdf |title=調教師・騎手免許試験関係公示 平成27年度第1回調教師・騎手免許試験 |publisher=地方競馬全国協会 |date=2015-07-21|accessdate=2015-10-27}}</ref><ref name="NAR201502">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.keiba.go.jp/whatsnew/pdf/150721_001.pdf |title=調教師・騎手免許試験関係公示 平成27年度第2回調教師・騎手免許試験 |publisher=地方競馬全国協会 |date=2015-07-21|accessdate=2015-10-27}}</ref>。
* 精神の機能の障害により競馬の実施に関する事務を適正に行うに当たって必要な認知、判断及び意思疎通を適切に行うことができない者並びに[[破産]]者で[[復権]]を得ない者
* [[禁錮]]以上の刑に処せられた者<ref>沖縄の復帰に伴う農林水産省令の適用の特別措置等に関する省令第19条により、沖縄の法令の規定により禁錮以上の刑に処せられた者も対象。刑法第34条の2により、刑期満了後に罰金以上の刑に処せられないで10年を経過した時は、欠格事由の対象外となる。</ref>
* 競馬法、[[日本中央競馬会法]]、[[自転車競技法]]、[[小型自動車競走法]]又は[[モーターボート競走法]]の規定に違反して罰金の刑に処せられた者
* 競馬に関与することを禁止され、又は停止されている者
* [[馬主]]
など(詳細については出典を参照のこと)。なお[[成年被後見人]]又は[[被保佐人]]を[[欠格]]条項とする規定については、令和元年6月14日に公布された「成年被後見人等の権利の制限に係る措置の適正化等を図るための関係法律の整備に関する法律」によって削除され、心身の故障等の状況を個別的、実質的に審査し、必要な能力の有無を判断することとなった。
中央競馬、地方競馬ともに有効期限は1年で、続けて騎乗する場合には試験を受け、免許を更新する必要がある。現行の制度では調教師免許などと同時に取得することはできない。中央競馬では[[平地競走]]と[[障害競走]]で、地方競馬では平地競走と[[ばんえい競走]]でそれぞれ免許を交付している。
免許更新は中央が3月1日付、地方は所属する場により2015年以降年3回に分けられ、4月1日(南関東)、8月1日(金沢、笠松、名古屋、兵庫)、12月1日(ばんえい、北海道、岩手、高知、佐賀)付となる<ref name="sponichi20150318">{{Cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2015/03/18/kiji/K20150318010001790.html |title=御神本、異例の免許失効 大井トップジョッキーが更新試験で不合格 |publisher=スポーツニッポン |date=2015-03-18 |accessdate=2015-10-27}}</ref><ref name="NAR201501" /><ref name="NAR201502" />。また不合格になった者は翌年の同じ回より前の試験は受験できない<ref name="sponichi20150318" /><ref name="NAR201501" /><ref name="NAR201502" />。
中央競馬の騎手免許では、2009年までは競馬学校出身者、地方競馬全国協会の騎手免許を受けている者であって『本会の定めた基準』に該当する者、それ以外で分けられていたが、2010年以降は競馬学校出身者、地方競馬全国協会の騎手免許を受けている者、それ以外の3種類に変更された{{Refnest|group=注|<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=http://www.jra.go.jp/news/200908/pdf/080501.pdf |title=平成22年度 調教師及び騎手免許試験要領 |publisher=日本中央競馬会|date=2009-08-05|accessdate=2015-10-27}} </ref>による。ただし、2009年までは「過去5年間に中央競馬において年間20勝以上の成績を2回以上収めた地方競馬所属騎手」については異なる内容の試験が行われていたが、2010年以降は「申請年を含む3年間に中央競馬において年間20勝以上の成績を2回以上収めた地方競馬所属騎手」について、実地の騎乗技術試験を省略するのみとなった。}}。
=== 短期騎手免許 ===
指定競走・交流競走・特別指定交流競走で騎手免許がない競走に騎乗する場合には、試験なく「その競走に限定した騎手免許」が交付される。日本国外の競馬で騎乗している騎手に対しては、日本国内の調教師・馬主を引受人として臨時に行われる試験に合格した上で、1ヶ月単位の短期免許を1年の間に3ヶ月間まで交付する。
{{see also|短期騎手免許}}
=== ダブル免許制と安藤勝己 ===
[[2003年]]2月までJRA・NARの免許を両方持つ騎手は存在しなかったが、[[2003年]]2月に当時[[笠松競馬場]]所属であった[[安藤勝己]]がJRAの免許試験に合格し、同時にNARの騎手免許の取消願を提出した。
この時、NARはダブル免許を容認し、中央競馬の免許の取得による免許の取消には応じなかったため、[[2003年]][[3月1日]]から安藤はJRAとNARの両方の免許を所有することとなった。この時点でJRAは、地方競馬の免許で騎乗した場合には中央競馬の免許を取り消すとしていた。一方で安藤がNARの交流競走に騎乗した時には、地方競馬全国協会は「すでに(地方競馬で有効な)免許がある」として短期免許を交付しなかったため、JRAは二重免許を特例として認めざるを得ない状況になり、特例を適用した。
その後、[[2003年]][[6月16日]]に地方競馬全国協会は、安藤のNARにおける騎手免許を取り消したため、この特例は解消された。
=== 調騎分離 ===
現在、中央競馬及び地方競馬では騎手免許と調教師免許を同時に持つことはできない。つまり、[[調教師]]が自分の管理する競走馬に乗ってレースに出走することは現行の規定では不可能である。
[[1930年代]]以前は「調教師兼騎手」は珍しい存在ではなかった。一例を挙げると[[大久保房松]]などは、管理馬に騎乗して[[東京優駿|日本ダービー]]制覇を達成している(1933年、[[カブトヤマ]])。調教師と騎手の業務が分離されるようになったのは、[[1937年]]に[[日本競馬会競馬施行規定]]が規定されてからである。ただしこの規定は、[[日本競馬会]]発足以前に免許を受けていた調教師(騎手)に対しては、[[1942年]][[12月31日]]までは猶予期間とされたため、猶予期間中は引き続き調教師が騎手としても騎乗することができた。
なお、戦後の一時期も調教師が騎手を兼務することが可能であったが、[[1948年]]より調騎分離が厳格に適用されることになり、調教師と騎手の兼務が不可能となり、現在に至っている。
ばんえい競馬においては平地競馬よりもかなり遅く、1978年度より完全実施されている。
=== 外国人と騎手免許 ===
日本国籍を持たない騎手に対する免許制度としては、[[1994年]]より[[短期騎手免許]]制度が設けられているが、前述のとおり短期免許では騎乗期間が年間で最大3か月間に限られる。これに対し、外国人騎手からは「年間を通じて騎乗できる免許を発行できるようにして欲しい」との要望が以前からあり、これを受けてJRAでは2014年度の騎手免許試験より外国人騎手に対する通年免許の発行を認めることになった<ref name="jra130807">[http://jra.jp/news/201308/pdf/080701.pdf 平成26年度 調教師及び騎手免許試験要領] - JRA・2013年8月7日</ref>(試験の詳細については後述)。なお外国人騎手が中央競馬の通年免許の発行を受けた場合、当該騎手は「年間を通じて中央競馬で騎乗すること」が必須要件となる。
2013年10月に行われた1次試験では[[ミルコ・デムーロ]](イタリア)が試験を受験、外国人騎手によるJRAの騎手試験受験第1号となった<ref>[https://web.archive.org/web/20131004073717/http://www.nikkansports.com/race/news/f-rc-tp0-20131002-1198525.html デムーロがJRA騎手免許1次試験を受験] - 日刊スポーツ・2013年10月2日</ref>が、この年は不合格となった。
2015年にミルコ・デムーロと[[クリストフ・ルメール]](フランス)が騎手免許試験に合格<ref>[http://www.jra.go.jp/news/201502/020504.html 2015年度 調教師・騎手免許試験合格者] - 日本中央競馬会・2015年2月5日</ref>。外国人騎手として初めてJRAの通年免許を取得した<ref>[https://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2015/02/05/kiji/K20150205009755100.html M・デムーロ、ルメールが合格 外国人初、JRA騎手免許試験] - スポニチアネックス・2015年2月5日</ref>。
その後、[[ダリオ・バルジュー]](イタリア)が2015年と2016年の2回、JRA騎手免許試験の1次試験を受験した<ref>[http://biz-journal.jp/gj/2016/07/post_938.html バルジュー騎手がJRA騎手試験2度目の挑戦へ! 世間認識と異なる「目的」と合格の可能性は?] - ギャンブルジャーナル</ref>が、2年連続で不合格となった。
母国と日本の騎手免許併用の可否については、国により差異があり、併用ができないフランスの騎手免許を取得していたルメールはJRA通年免許の取得にあわせてフランスの騎手免許を返上している<ref>[https://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2015/02/06/kiji/K20150206009758930.html JRA所属初の外国人騎手誕生 ルメール、猛勉強実り一発合格!] - スポニチアネックス・2015年2月6日</ref>。
== 騎手の養成 ==
平地競走の騎手は着衣や馬具を含めて50数キロ(日本の場合、最も軽いケースで48キロ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/keiba/news/202206290000562.html|title=今村聖奈騎手「『お友達になろう』という気持ちで」初騎乗テイエムスパーダに寄り添う/CBC賞|publisher=日刊スポーツ|date=2022-06-29|accessdate=2022-06-29}}</ref>)での騎乗が求められることから、特に体重に関しては並の職業の比ではない厳しい自己管理の技術を必要とし、なおかつ馬に乗り操縦し競走を行うための専門的な騎乗技術が必要である。また、競馬関連法規や騎手としての競走の公正確保のために必要な知識や情報を学習することも必要である。
従って、一般の人がいきなり騎手になるということは極めて困難であり、よって専門的な養成が必要なスポーツである。そのため、競馬を開催している国や地域毎に騎手業のライセンス制度が整備されており、日本も含めて競馬が開催される国の大半には騎手養成のための教育機関や養成所が設置されている。他方、養成機関を経由せず、競馬場や厩舎、あるいは競馬関連産業で競走馬の扱い方を身に付けた人物が、技能試験を受けて騎手となれるシステムが整備されている国・地域も多い。
ばんえい競走の騎手重量は77キロで統一しており、比較的重めに設定していることから過度に減量を行う者は少ない。
=== 養成機関 ===
日本の場合、中央競馬では[[1982年]]、騎手養成機関として千葉県に[[競馬学校]]が設立され、騎手課程が設けられた。養成期間は3年間。かつて騎手養成機関は[[馬事公苑]]に設置されており、騎手候補生が騎手講習会(長期講習と短期講習とがあった)を受けた後、騎手免許試験を受験する制度が採用されていた。
競馬学校の受験資格は、年齢は義務教育卒業から20歳まで。このため騎手課程の場合は現役の大学生や短大卒・大卒は受験が困難か不可能である。体重は育ち盛りの年頃であるため、入所時に44キロ以下。
地方競馬では[[栃木県]]に[[地方競馬教養センター]]がある。ここの騎手養成は2年間の長期課程である。かつては短期養成課程が存在したが、これは主に競馬場での[[厩務員]]や[[調教助手]]などの経歴者、並びに日本国外の騎手免許を取得しレースに出走した騎手を対象としたものであったが、[[岡田祥嗣]]のように経歴がなくても短期養成課程出身と言う例外もある(幼少期より馬に跨り、かつ岡田の父が厩務員をしていたこともある理由から)。
地方競馬のうち[[ばんえい競走|ばんえい競馬]]については、騎手を養成する専門機関は存在しない(地方競馬教養センターに養成部門がない)。ばんえい競馬の騎手を目指す者は、ばんえい競馬の各厩舎において基礎技術を習得し、ばんえい競馬が独自の内容で開催している騎手免許試験を受験する。詳細は[[ばんえい競走#騎手]]を参照。
どちらの機関でも、卒業前に騎手免許試験を受験して合格し、騎手免許を取得した上で、晴れて騎手となる。試験である以上、不合格となり騎手免許が取得できない事態、試験前の負傷・疾病で受験ができないという事態も起き、この場合に騎手になるためには、次の機会を待ち再度受験する必要がある。騎手免許の取得は中央競馬では[[3月1日]]、地方競馬は[[4月1日]]を基点(平地の場合。ばんえいは1月1日が基点)としているが、年に複数回の騎手免許試験が実施される地方競馬では年度途中の騎手デビューも珍しくない(平地の場合。ばんえいは年1回)。
日本以外の国での場合、日本と同様に専門の養成機関を主体とした騎手養成を行う地域、厩舎で徒弟修業を行い実践で騎乗技術を身に付けるという制度の地域、民間による騎手養成所が各地に設置されている地域など、地域毎に騎手養成方式は様々である。また、そのライセンス取得に至るまでの育成も、日本の様に少数精鋭主義を取り、最初の養成機関の入学試験から卒業までの時点でふるいを掛け続けて、徹底的に絞り込む「狭き門」であるところから、豪州のように、騎手養成所のカリキュラムを修了し、騎乗技術と公正確保に支障のない人物なら、騎手ライセンスを比較的容易に取得できる<ref group="注">その反面、実戦の場でより厳しい生存競争が待つということであり、例えば豪州の場合、騎手には日本のJRAのような[[副業禁止規定]]がないことから、騎手としての収入だけで生活できない者は牧場勤務や店員など様々な副業を行う。</ref> ところまで様々である。
=== 「一発試験」 ===
騎手免許を統括するJRA・NARのいずれも、騎手免許試験については上記の養成機関への在籍経験を持たない人物でも、必要条件を満たせば受験自体は可能としている。
このため、上記の養成機関を経ずに、あるいは上記の養成機関に入ることができなくとも、あるいは中退を余儀なくされても、騎手として必要な乗馬技術を持っていれば、俗に「一発試験」などと呼ばれる形で騎手免許試験を受験すること自体は可能であり、合格すれば騎手免許を手にすることができる。[[小牧加矢太]]は競馬学校入学を断念した<ref>{{Cite web|和書|url=https://hochi.news/articles/20210331-OHT1T50222.html?page=1 |title=馬術の小牧加矢太が障害限定で今秋JRA騎手試験に異例の挑戦 小牧太騎手の長男 |accessdate=2022-02-08}}</ref>が、その後馬術競技選手として活動したのち2021年度騎手免許試験を受験して合格し、2022年に障害限定で騎手免許を取得している<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=199458 |title=【JRA】令和4年度騎手免許試験の新規合格者10名が発表 |accessdate=2022-02-08}}</ref>。
日本国外で競馬の世界に入り[[見習騎手]]等の形で騎乗経験を積むなどの手順を踏んで受験する騎手もいる。現在までにこのような手順で「一発試験」を突破し騎手免許を取得した者には、中央競馬では[[横山賀一]]と[[藤井勘一郎]]、地方競馬では[[中村尚平]]・[[笹田知宏]]の例があるが、非常に少ない。また、中村と笹田は帰国後に地方競馬の厩舎に入り調教厩務員を経験している。
また、特に地方競馬では、最初はまず厩務員として厩舎に入り調教騎乗などの実務の実践経験を現場で習得して調教担当厩務員などとなる、つまりは厩舎・競馬場での実践で受験に必要な技術を身に付け、その上で「一発試験」で受験→合格という手順を踏んで騎手となる方法がある。この厩舎で実務経験を積んで「一発試験」を受け騎手になったという経歴を持つ人物は数多いが、中にはJRA・地方競馬の騎手養成課程で中途断念を余儀なくされた人物が、再び騎手を志して厩舎に入り、「一発試験」を乗り越えて晴れて騎手免許を手にするケースも見られる。このような「再起」の経緯を持つ騎手としては[[石崎駿]]・[[安藤洋一]]などの例がある。なお、これは一見すれば大きな遠回りをしている様に見えるが、JRA競馬学校騎手課程を中途退学後に地方競馬の厩務員を経て「一発試験」で騎手免許を取得した石崎駿のケースでは、結果的に同時に競馬学校に入学した競馬学校騎手課程第18期生よりも半年以上早く騎手デビューを果たすことになった。
=== 「学士騎手」 ===
騎手免許試験の受験資格には年齢の上限<ref group="注">[[#日本における免許制度|日本における免許制度]]で記載したように下限は16歳である。</ref>が設けられておらず、かつての騎手養成機関の短期課程も騎乗技術を持つ事実上は競馬サークル内部の人間を対象としたもので、年齢制限が緩かったことから、「一発試験」やかつて存在した騎手養成の短期課程を経て騎手となった人物の中には、[[大学]]卒業後に縁あって厩舎に入り下乗りを経て騎手になるという経歴を辿った、俗に「[[学士]]騎手」などと呼ばれる人物がごく少人数ではあるが存在する。
いずれも元騎手であるが、JRAでは[[太宰義人]]・[[山内研二]]、地方競馬では[[森誉]]([[船橋競馬場|船橋]])・[[橋口弘次郎]]([[佐賀競馬場|佐賀]])・早川順一([[足利競馬場|足利]])などの例がある。なお、他にもJRAの[[大久保正陽]]や[[川合達彦]]が大学卒の学士騎手の範疇であるが、この2人は、騎手業と学業を両立させた上で大学を卒業したというさらに稀有な人物である<ref group="注">大久保の場合は、大学に通っていたのは1950年代後半で、現在のような騎手の[[競馬の競走#調整ルーム|調整ルーム]]での前日集合という規則はまだなく、さらにJRAの場合、[[トレーニングセンター]]開設以前の競馬関係者の本拠地は市街地の競馬場であり、若い競馬関係者が[[夜学]]に通うことは可能であった。</ref><ref group="注">川合の場合は、騎手デビューの1年後に所属厩舎の許可を得て滋賀県内の夜学(定時制の高校)に通っていたが、当時の規則上競馬の仕事と学業との両立が難しく、出席日数不足で高校を自主退学した。その後フリーの騎手となり、1999年8月3日より6日まで実施された旧・[[大学入学資格検定]]を受検して一発合格した後に、立命館大学を受験して合格し、2000年4月より2004年の3月まで現役騎手を続けながら同大学に通っていた。大久保は同大学の先輩に当たり、また、川合は競馬学校世代の騎手で唯一の大学卒業者でもある。</ref>。
=== 外国人騎手・元騎手に対する試験 ===
元々、何らかの事情で一度引退した騎手が「一発試験」で騎手免許を再取得し復帰するケースはしばしば存在した<ref group="注">代表例として、JRAの[[蛯沢誠治]]、[[西田雄一郎]]は不祥事により一時的に騎手免許を返上、数年後に再取得している。</ref><ref group="注">地方競馬の例として[[兵庫県競馬組合]]では、他の競馬場から転入する際には、騎手免許を一時的に返上させられ、厩務員として6か月から1年の間従事し、騎手免許を再取得する内規があり、[[有馬澄男]]、[[北野真弘]]、[[中越豊光]]といった実績のあった騎手も例外がなかった。ただし、[[岐阜県地方競馬組合]]から移籍した[[川原正一]]については所属予定であった[[曾和直榮]]調教師の尽力もあって、騎手免許を保持したまま厩務員として従事し、約半年後に騎乗を再開する特例が認められた。その後、関係各所の申し合わせにより「移籍騎手は3か月間の研修期間が必要」との規定に緩和され、騎手免許も返上する必要もなくなった。2019年2月に[[高知県競馬組合]]から移籍した[[松木大地]]、2022年12月に[[ホッカイドウ競馬]]から移籍した[[山本咲希到]]にこの規定を適用されている。</ref>。ただこの場合の受験資格は従来明文化されていなかった。これに対し2014年度のJRA騎手免許試験からは、外国人騎手の受験と同時に元騎手が復帰する場合の受験資格も明文化され、「過去にJRAの騎手で、騎手から直接JRAの調教助手または厩務員に転身したもの」以外は原則として試験の一部免除を行わないことになった<ref name="jra130807" />。
2014年度の試験より、原則として元JRA騎手や外国人騎手については、一次試験のうち騎乗技術の実技試験が省略されるほか(外国人騎手の場合は体力測定も省略)、筆記試験も通常の騎手試験と内容が異なり、元JRA騎手については「競馬関係法規」のみ、外国人騎手の場合は「競馬関係法規及び中央競馬の騎手として必要な競馬に関する知識」のみとなる<ref name="jra130807" />。また一次試験を日本語ではなく英語で受けることも可能になった<ref name="jra130807" />。二次試験も外国人騎手については実技試験が省略され、代わりに技術に関する口頭試験が行われる<ref name="jra130807" />(実質的には一次・二次とも地方競馬の騎手と同等の試験内容となっている)。ただし二次試験は全て日本語で行われるため、実際に試験を受験したミルコ・デムーロは一時騎乗を自粛してまで日本語の勉強を優先させ試験に備えた<ref>[https://web.archive.org/web/20130908233204/http://www.nikkansports.com/race/news/p-rc-tp0-20130906-1184734.html Mデムーロ、騎手免許試験へ日本語猛勉強] - 日刊スポーツ・2013年9月6日</ref>。一方で香港拠点のトップジョッキーであった[[ジョアン・モレイラ]]は、2018年に香港での騎手免許を一時返上したうえで、JRAの短期免許を断続的に取得して長期滞在しながら新規騎手免許試験に臨んだが一次試験で不合格になっており<ref>[https://world.jra-van.jp/news/N0003903/ モレイラ騎手、JRA騎手免許一次試験で不合格] - JRA-VAN Ver.World 2018年10月12日</ref>、翌年以降のJRA騎手免許試験受験は断念している。
== 騎手の所属 ==
いずれの国においても、競馬を開催している国では競馬に関する諸規則や法律が設けられており、これに基づいて騎手は競馬を統括する機関より騎手免許やライセンスの交付を受ける形となっており、雇用関係は別としても、その統括機関に騎手として登録されることで初めて競走への参加などの活動が可能になる。
=== 日本 ===
日本の場合はJRA・NARのいずれかの組織から免許を受け、中央競馬の場合は[[美浦トレーニングセンター]]・[[栗東トレーニングセンター]]のいずれか、地方競馬の場合には各競馬場に所属する。また、調教師を頂点とする厩舎制度においては、騎手は厩舎への所属という形で雇用され、調教師から様々な指導を受ける。
統括機関が騎手養成機関を設置する以前は、騎手を志すものは文字通り調教師に弟子入りして騎手候補生(下乗り)として住み込みで厩舎の雑務をこなしながら競馬社会で必要な知識・技術・習慣を一から習得してやがては騎手免許を取得する、調教師は見習いとして入ってきた若者を[[衣食住]]の面倒を見ながら一人前の競馬人・社会人とするべく厩舎で鍛え上げる、[[徒弟制度]]そのものの育成システムになっていた。そのため師弟関係の精神的な結びつきは非常に強く、騎手となりキャリアを積んだ後も出身厩舎への帰属意識が強かった。また、調教師も管理馬に門下生を優先的に乗せるなどということも多く見られ、さらには門下生を[[養子]]や[[婿]]にしてやがて調教師に転じた暁には自身の厩舎や人脈を継承させる、門下生が調教師免許を取得し独立する際にも自身の管理馬やスタッフを譲り(さらに、割り当て馬房の不足の状態にある[[地方競馬]]の競馬場に所属している場合には割り当て馬房の一部なども譲る場合がある)、一種の[[暖簾分け]]にも似た形で厩舎の立ち上げをサポートする、などといった光景も多分に見られたものであった。ばんえい競走では専門養成機関がないため厩舎で働きながら基礎技術を研鑽することから、このような師弟関係が現在も残存している。
現在では競馬学校・地方競馬教養センターともに騎手育成は2〜3年の長期養成課程のみであり、生徒には最終学年で厩舎に所属し、調教などの技術指導を受ける長期実地研修のカリキュラムが設けられている。養成機関を卒業し試験に合格し晴れて騎手免許を取得すると、主に最終学年で指導を受けた厩舎に所属して騎手の生活をスタートさせる。特に競馬社会への縁故を全く持たずに騎手養成機関に入った者にとっては、研修先の厩舎が競馬社会と最初に繋がる縁ということになる。とはいえ、長期養成課程の騎手育成はあくまで養成機関によるものが中心軸であり、騎手の心理面で見た場合には得てして養成機関の[[教官]]が実質的な師匠という形になることも多く、現在の調教師と騎手の関係についていえば師匠と弟子ではなく単なる雇用主と従業員の感覚ではないかと窺われる状況も多く見られる。
これは特に中央競馬についていえることであるが、上述したように騎手免許試験のシステム上は厩舎で修行していわゆる「一発試験」を受験することは可能であるが、現実を見た場合、厩舎での下積み経験だけで長期養成課程を経ずに騎手免許を取得するのは事実上不可能になり、調教師が弟子を競馬人として一から育て上げ騎手に仕立て上げるということができなくなった。そのため、現在における厩舎所属の様式は師弟関係というよりもむしろ調教師が騎手のデビュー時の身元引受人になるという意味合いが強く、一般的な師弟関係や雇用関係よりも精神的な結びつきが希薄である場合も多い。騎手はデビュー後の数年間の内に所属厩舎を離れ'''フリー騎手'''として独立することが多く、また、調教師が所属騎手を優先的に騎乗させることも以前より少なくなっている。もっとも、これらについては、経済情勢の変化などにより調教師に対する馬主の発言力・影響力が大幅に強くなり、特に多数の馬を所有し競走馬所有をビジネスとして展開している有力馬主や愛馬会法人([[一口馬主|クラブ法人馬主]])の所有馬では、実態として強い発言力を持った馬主サイドが騎手の選択権を握ってしまうことも多いなど、調教師が所属騎手を乗せてやりたくてもそれが中々できない状況が要因の1つになっている面も見られる。
==== フリー騎手 ====
中央競馬では「厩舎に所属しない」という意味で[[フリーランス]]の騎手が多数存在する。このような騎手を'''フリー騎手'''と呼ぶ。ただし一般的な「フリーランス」の意味とは異なり、厩舎に所属していなくても[[美浦トレーニングセンター|美浦]]か[[栗東トレーニングセンター|栗東]]、いずれかの[[トレーニングセンター]]に所属している上、さらにいえば日本中央競馬会 (JRA) に所属していることになる。
以前は実績のある騎手が所属厩舎と疎遠になったり、所属厩舎が解散したことを契機としてフリー騎手になるケースが多かったが、最近では一定期間を経過した若手騎手が実績に関係なくフリー騎手になるケースも多い。逆にフリーでやってきた騎手が厩舎とのつながりが生まれて厩舎に所属することもある。
この中央競馬のフリー騎手の嚆矢として知られるのは、「ナベ正」こと[[渡辺正人 (競馬)|渡辺正人]]([[1963年]]引退)である。渡辺の場合は戦前に入門した厩舎が太平洋戦争による競馬中止により消滅、戦後になっても復活せず、戦後も師匠の弟弟子など縁故のある厩舎に籍を置いたものの、当時の厩舎の人間関係では騎乗馬に恵まれず、最終的には自ら営業して騎乗馬を集めるようになったものである。当時はまだフリー騎手という概念も言葉もなかった。
地方競馬の場合、次に述べる南関東と兵庫を除き、少なくとも騎乗の自由は認められていない。地方競馬においては厩舎無所属での騎乗は認められておらず、必ずどこかの競馬場に所属する厩舎に騎手として所属する。これは[[期間限定騎乗騎手]]や短期免許でも同様である。[[南関東公営競馬]]では2012年4月1日から騎手会所属騎手制度が導入され<ref>[http://www.nankankeiba.com/news_kiji/2144.do 騎手会所属騎手制度の導入等について] 南関東4競馬場公式ページ 2012年3月30日付</ref>、所定の条件を満たす者は南関東地区の各競馬場が所在する都県の[[騎手会所属騎手]]として、厩舎無所属で騎乗できるようになった。その後2022年4月1日より[[兵庫県競馬組合]]でも騎手会所属騎手制度が導入された(同組合での初の適用事例は廣瀬航)<ref>[https://www.daily.co.jp/horse/local/2022/04/21/0015237715.shtml 【地方競馬】兵庫競馬でも騎手会所属制度 広瀬航がフリー第1号] - デイリースポーツ online 2022年4月21日</ref>。なお、南関東と兵庫では騎手会所属になれる所定条件がそれぞれ異なっている。「地方競馬初のフリー騎手」として[[内田利雄]]が挙げられることがあるが、それは「一定の競馬場に長期間所属しない」という意味であって、それぞれの競馬場では厩舎所属の騎手となっている([[内田利雄#宇都宮競馬廃止後の所属先|詳細]])。
外国籍の騎手が短期騎乗する場合には、中央競馬の場合は馬主と競馬関係者が身元保証人になる形でJRAから短期免許を得るがあくまでフリー騎手の立場で騎乗することも多い。地方競馬の場合には身元保証人の必要と短期免許をNARから交付される点は同様だが調教師と契約し厩舎に所属という形を必ずとっている。
==== 所属の変更 ====
NAR騎手がJRAに、またはその逆にJRA騎手がNARに移籍したケースもある。前者の事例では橋口弘次郎・安藤勝己・[[内田博幸]]・[[戸崎圭太]]など、多数存在している。その一方で後者の事例は相当に少なく、JRAからNARに移籍したのは[[松本弘 (競馬)|松本弘]]・[[吉岡薫]]・[[桑島孝明]]のわずか3人のみである<ref>[http://www.hochi.co.jp/horserace/20170314-OHT1T50228.html 藤田伸二氏、ホッカイドウ競馬で騎手復帰目指す] - スポーツ報知</ref>。
=== 日本国外 ===
騎手の所属制度・育成システムは各国の競馬制度によって異なる。だが、上述の通り基本的にはいずれかの国・地域においても、当地の競馬統括団体に籍を起き、ライセンスの交付を受けることで騎手としての活動が可能になる。国籍・出身地とライセンスを受けている国・地域は必ずしも一致しないが、規則や競馬関連法規などで自国の国籍を持つ者に限定していることがある。
[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[イギリス]]・[[フランス]]などの競馬先進国やその影響が色濃い[[アラブ首長国連邦]]([[ドバイ]])などでは、21世紀の現在では騎手にとっては厩舎・調教師よりも馬主や[[エージェンシー]]と結ぶ契約がビジネス上重要になり、実績と人気を得た騎手は馬主および専属エージェントや幅広い馬主と契約を結んでいるエージェンシーと専属契約や優先騎乗契約を締結し、依頼に応じて世界各国を股に掛けて騎乗するのが一般的である。そのため、大枠として国籍や騎手ライセンスの交付を受けた各地域の競馬統括機関という意味での所属はあるものの、日本競馬的な対厩舎・調教師という意味での所属やフリーランスという概念は、肉親が経営する厩舎や師弟関係などにおいて一部に例外があるが基本的には薄くなっている。特に強い発言力を持つ有力馬主の所有馬では、馬主・エージェントが競走馬の日常の管理・調教から騎手の選択・騎乗馬の手配、さらに騎手へのレース戦術の指示まで大半の権限を握り、逆に調教師には騎手の選択権や騎手への指示の権限が全くないということも多く、調教師は単に馬主に預託された競走馬を馬主の指示通りに仕立て上げるだけ、さらに言えばレース当日に厩舎の馬房や名義を貸して出走手続きを代行し預託料や獲得賞金の一部をいわば[[手数料]]として受け取るだけといった、「調教師」というライセンスを持つ「競走馬をレース当日に出走させる条件を満たさせるための[[下請け]]業者」に過ぎない実態であることも往々に見られ、さらには管理馬に騎乗した騎手との接点が馬主やエージェントを介さなければ見出せないということも起きる。
対して、[[香港]]・[[マカオ]]・[[シンガポール]]など、1980年代以降に競馬制度の近代化・国際化が進められた地域では、騎手は第一義的には現地の競馬統括団体に所属し、その枠の中で調教師と騎手が所属や騎乗にまつわる契約を結んで活動するという、日本に近い形態が現在でも多く見られる。その中には、自前の騎手や競馬関係者の養成所を持ってはいるものの、実際には他の地域からの移籍者や限定的なライセンスを得て活動する他地域所属の騎手に少なからず依存している競馬場も珍しくない。
[[オーストラリア]]の場合には、競馬の厩舎制度はほぼ全面的な外厩制となっており、競馬関係のライセンス取得が日本や欧米よりも比較的容易である。このこともあって、厩舎の規模の大小の差異は日本とは比べ物にならないほど著しく、大規模な厩舎には自前でトレーニングセンターの様な専用施設を構え100頭以上を管理するものが見られる一方で、競走馬の取扱者としては小規模な[[個人事業主|個人経営]]の[[牧場]]の経営者が競馬調教師としてのライセンスを取得し、競走馬も自己生産や自己所有のものを数頭管理するだけで、日々の世話を家族で行い、これを地元の競馬場や調教場などのコースに持ち込んで調教して仕上げ、主に地元の小さな「草レース」などへ出走させるスタイルの“家族経営型小規模厩舎”も数多く存在している。そのため、騎手の就業形態もまたさまざまで、トップクラスでは厩舎や馬主との契約や依頼で騎乗し騎手専業で活動する者がいる一方で、小規模な厩舎の管理馬では牧場主・馬主・調教師の子や兄弟が騎手を務めるなど、所属や契約以前の家族の枠で終始する事も珍しくない。また、日本の中央競馬の様な[[副業]]禁止規定がないため、この様な「草レース」での活動が中心の騎手の場合、普段は牧場や厩舎の仕事、あるいは[[ブルーカラー|肉体労働]]や店員など競馬とは無関係の仕事を持ち、これで生活資金や活動資金を確保しつつ、騎手としての活動を続けている者も多い。また、騎手希望者が騎乗ノウハウや競馬の規則を学びライセンスを取得するための民営の騎手養成所が多数存在している。その様な事情から、騎手ライセンスを所持する人数は日本よりも遥かに多く、騎手間の競争もより厳しいという一面がある。[[ニュージーランド]]もほぼ同様である。
また、オーストラリアやニュージーランドでの騎手ライセンス取得は国籍などにまつわる制限が他地域と比べて緩く、日本において競馬学校や地方競馬教養センターの騎手養成課程に入れなかったり、中途退学を余儀なくされた日本人にとっては騎手になるために残された数少ないルートの1つとなっている。そのため、騎手になるチャンスを求めて渡航し、現地のライセンスを取得後に調教師や厩舎と契約し所属したり、牧場の従業員として働きつつ騎手として参加するケースも若干数だが見られる。また、過去には廃止された地方競馬場に所属していた騎手が再起を目指して渡航し現地の養成所に入ったケースも見られる。
日本国内でJRAまたはNARが発行した騎手免許を持つ騎手が海外で騎乗する場合には、外国人騎手の日本における短期騎手免許と同様に、基本的には現地の競馬統括機関に所定のライセンスを発行してもらう必要がある。ライセンスの交付を受けるためには、現地の調教師・厩舎に身元保証を依頼してライセンスを申請する、馬主やエージェントと騎乗の契約書を交わして統括機関に申請するなどいくつかの方法があるが、これは渡航地の競馬制度や騎乗予定期間・騎乗予定状況などによって大きく変わり、自国での騎乗数・勝利数の実績が必要な国・地域も多い。他方で、騎乗技術向上の機会や騎乗機会を求める他地域の若手騎手に限定的に期間限定ライセンスを与えるシステムを持つ国・地域もある。
== 騎手の収入 ==
騎手の[[収入]]は主に以下の2つに分けられる。
* [[競走]]に騎乗することで得られる収入
* 所属厩舎での業務をすることによって得られる収入
競走に騎乗した際には、主に以下の2つが騎手の収入となる。
* 賞金を得た場合には、その賞金の数%(日本の平地では5%、障害は7%)
* 騎乗手当
従って、高額な賞金の競走に勝利するほど収入は多くなる。
厩舎の業務とは、調教時の騎乗がメインであるが、厩舎に所属している場合には厩舎の一員として、その他の厩舎の雑務一般も行う(競走馬の餌付け・寝藁の交換など)。厩舎の一員として仕事をする以上、厩務員などと同様、毎月厩舎より給料をもらう。なお競馬学校に在籍する騎手候補生は必ずどこかの厩舎所属になることが義務付けられており、騎手としてデビューする際も厩舎所属からのデビューとなる。
== 騎乗依頼 ==
騎手は競走に騎乗しなければ始まらない。調教中心の騎手もいるが、騎手の最も大きな収入源は賞金からの進上金である。
騎乗依頼は主に以下のように決められることが多い。
* 馬主と騎手の関係
* 調教師と騎手の関係
** 所属している騎手は当然として、同じ厩舎で働いたという関係で兄弟子、弟弟子などのつながりがある。
* 負担重量(斤量)と騎手の関係
* 成績上位の騎手
* 当日、空いている騎手
この様な要素が複雑に絡みあって競走への騎乗が決まる。中でも同じ騎手に何度か続けて騎乗してもらう場合、[[主戦騎手]]と呼ぶ。中央競馬においては[[#エージェント|エージェント]]を介在した騎乗依頼も行われており、騎手・エージェント・馬主の三者間の関係も重要である。
他方、幾ら騎手が小柄な人物の専売特許の様な商売とはいえ、減量しても体重と装備の合計重量が指定の斤量を上回る場合にはその馬に騎乗できない。そのため、特に[[ハンデキャップ競走]]では極端な軽斤量となった馬でそもそも騎乗可能な騎手が限られ、主戦騎手が極限の減量をしても騎乗不可能という事態も多分に発生する。この場合「当日その競馬場で騎乗予定で軽斤量で乗れるから」という理由で、軽量の騎手に対してそれまで全く縁のない厩舎から突然に騎乗依頼が来ることもある。
日本国外では事実上の馬主専属騎手が存在するなど、多種多様の騎乗依頼方法が行われている。
競走当日に落馬負傷などの何らかの要因により乗り代わりを行う際に、日本では当日別のレースに騎乗予定があり、当該レースに騎乗しない騎手に依頼する。日本国外では当日全く騎乗がなく、競馬場のスタンドで観戦している騎手に依頼することがある。フランスにおいて[[武豊]]が落馬により左手骨折の重傷を負った際、競馬場のスタンドで見学していた[[池添謙一]]に乗り代わりの依頼があったが、道具を持ってきていなかったため武豊と[[オリビエ・ペリエ]]から借りてレースに臨んだ。なお、池添はこれがフランスデビュー戦となった。
== 騎手に対する制裁 ==
レース前あるいはレース中の騎乗に際し、騎乗した馬を制御できなかった(御法不良: みのりふりょう)ためにレースに支障を来したり、他の競走馬の進路を妨害するなどした場合、あるいは負担重量がレース前後の検量で発表していた斤量と大きく異なっていた場合、その他スポーツマンシップに欠ける騎乗や言動(無断欠勤、競馬施設内外での暴力行為なども含まれる)を行った場合などは、競馬法施行規定第126条・第1項の規定で制裁を受けることがある。
制裁はその内容によって過怠金(いわゆる罰金)が科せられる。審議により[[降着制度|降着]]以上になるような悪質な場合には一定期間の騎乗停止(中央競馬の場合、基本的には馬の癖による[[斜行]]の場合は1日〜2日間、その他明らかに騎手の判断ミスなどによる場合は一般的には4日〜6日間までだが、悪質な場合それ以上の期間に延長される場合あり)を受けることになる(降着処分にならなくても騎乗停止処分を受けることはある。また当該の競走馬に対しても再調教をして調教検査に合格するまで出走停止の措置が執られる場合がある)。
またこれらの制裁はポイントにも置き換えられ、30点をオーバーすると競馬学校や[[トレーニングセンター]]で騎乗技術などの再教育を受けることが義務付けられている。具体的には
* [[パトロールビデオ]]を活用した技術指導
* 競馬施行規程に関するテスト
* 精神訓話
* 基本[[乗馬]]技術の再教育
* 性格テストの結果による精神面の指導
* 特別講義
といった内容のカリキュラムが、制裁事由・制裁歴・技術の程度・年齢・通算騎乗数などを勘案した上で実施される。
騎乗停止の制裁は、中央競馬・地方競馬相互間および日本国外との競馬相互間でも適用される、騎手交流競走などで騎乗停止処分を受けた場合、それに準じて騎手の所属競馬団体でも騎乗停止の処分を受けることになる。
== 騎手の引退・殉職 ==
騎手の仕事は肉体労働であり、加齢によって筋力や反応速度などが低下し、また[[基礎代謝]]の低下により体重・体力を維持し続けることが困難になることなどから、騎手としての責務を果たすことが難しくなっていく。また優勝劣敗の厳しい世界であり、成績と収入の両面で伸び悩んだ騎手はもとより、リーディング上位の常連として一時代を築いた騎手であっても全盛期を過ぎ騎乗数・勝利数・入着率、そして獲得総賞金額が減ってくれば収入は下がって行く。
従って一生にわたって騎手の仕事を続けることは難しく、本人が限界を感じたときなどに騎手としての免許・ライセンスを返上して引退し、何らかの形で第二の人生を歩むこととなる。例えば騎乗依頼が減り、収入が減ってくると年齢にかかわらず引退することもある。自分が所属していた厩舎の調教師が数年後に定年を迎えるなどの事情がある場合、その厩舎を引き継ぐ目的で調教師への転身を図ろうとする、すなわち調教師免許試験を受験する者もいる。リーディング上位の騎手であっても、支えてくれていた調教師や有力馬主の死去・撤退など、後ろ盾となる人間関係がなくなり成績・獲得賞金額が低下したことをきっかけに、騎手からの引退を検討する者は少なくない。
他方、騎手デビュー以降に予定外に身体の成長が続き、その結果として身長・体重が増加し若くして体重管理に苦しみ、負担重量などの問題から減量が自己管理の限界を超えて引退を余儀なくされる騎手も少なからず見られる。その中には、20代前半の若さであっても体重の問題で騎手業の継続が事実上不可能となり引退する者も少なくない。その中にはデビュー当初から優れた実績を挙げ才能を期待されていた人物も見られる。日本では中央・地方いずれにしても体重の下限が53kgを超えると、装備品などの重量の都合もあって下級条件戦や2歳戦での騎乗が困難になることが多い。JRAの場合は57kg程度で体重増加が止まれば、障害競走限定の免許を保持する騎手として活動を継続することが可能な場合もあるが、騎乗機会は大幅に限定される。さらに過酷なのは障害競走がない地方競馬で、体重と斤量の問題がそのまま騎乗困難に直結し若くしてやむを得ず引退を決断する者が少なからず見られる。さらには、過酷な減量を余儀なくされ、その連続の末に心身に変調を来たす騎手や、[[脳梗塞]]など重篤な疾病を発症して倒れ引退を余儀なくされるケースや、[[腎臓結石]]などの減量を著しく困難にする疾病を発症して長期的な健康面の観点から引退するケースも見られる。
騎手免許を返上した人物の第二の人生としては[[調教師]]や[[調教助手]]・[[厩務員]]などまず厩舎関係が第一に挙げられる。その他では後進の騎手の育成に携わる者、牧場での競走馬の生産・育成や競馬解説者・競馬予想家・馬運車・競走馬用飼料販売などの競馬周辺の産業に携わる者、さらにはまったく異なる職業に転身する者などさまざまである。特に中央競馬においては、負傷や不祥事以外で騎手を引退した者が引退と同時にJRAの組織から籍を抜き、競馬とは全く無関係の職業に転職するというケースは珍しく、まず縁のあった調教師を頼りその厩舎に一旦籍を置き調教助手になるという形で、その後厩舎スタッフとしての適性を見極めながら、改めてJRAの中でホースマンとして活動を続けるか、あるいはJRAの枠から飛び出して新天地を求めるかなど、身の振り方を考えるというスタイルが一般的である。前述の通り、騎手免許を返上した者でも騎手免許試験を受験することは可能であり、一度は調教助手に転業した[[柴田未崎]]のように騎手に復帰した事例もあるが、このような事例は世界的に見ても非常に少ない。調教師の仕事は騎手の仕事とは本質的に異なるため、[[佐々木竹見]] (NAR) や[[岡部幸雄]] (JRA) などは調教師への転身の道を選ぶことなく引退したが、この両名にしてもその後は統括団体に関与する形でホースマンとしての活動を続けている様に、騎手引退後に騎手時代の蓄えでそのまま悠々自適の余生に入るというケースはほとんどないに等しい。
他のスポーツの選手に比べれば純粋に身体的な能力を要求される要素は低く、勝ち星と収入を安定して確保し続けられる騎手は年齢を問わず第一線に留まることができる。また、日本の場合、騎手には定年制度がないため、視力低下や体重増加の問題が小さく騎手免許の更新に支障がない人物の場合、騎手としての能力を発揮できる限界年齢は比較的高く、歴代のリーディング上位騎手の中にも50代まで騎手業を続けた者は少なからず見られる。[[金沢競馬場]]などに所属した[[山中利夫]]は62歳まで騎乗を続けた(2012年7月引退)。[[2000年]]には中央競馬の調教師であった[[内藤繁春]](調教師以前は騎手を勤めていた)が翌2001年2月で中央競馬での調教師の定年を迎えることを期に、69歳で騎手免許試験を受験したことがある(結果は不合格<ref group="注">仮に合格していたら、内藤が最高齢騎手(ただし、前述の通り過去に騎手経験があるため、厳密には騎手復帰)ということになっていた</ref>)。
他方で、競馬の競走では競走馬のスピードは時速約60 [[km/h]] 以上にも達し、それだけのスピードを出した競走馬から[[落馬]]したり走行中の馬に接触すれば重度の障害が残ることや、重傷・死亡に至る、場合によっては[[即死]]する危険がある。事実、競走中に発生した事故によって[[松若勲]] (JRA) のように即死、あるいは[[岡潤一郎]] (JRA) や[[佐藤隆 (競馬)|佐藤隆]]([[船橋競馬場|船橋]])のように事故後加療の末に死亡した例、[[福永洋一]] (JRA) や[[坂本敏美]]([[名古屋競馬場|名古屋]])の例のように重篤な[[後遺症]]が残り再起できなかった騎手もいる。一方で、[[石山繁]]・[[常石勝義]]・[[高嶋活士]](いずれもJRA)の例のように、重度の障害を負って引退を余儀なくされた後に、[[障害者スポーツ]]への転向をする騎手もいる(石山・常石・高嶋はいずれも[[脳挫傷]]を負い、障碍者[[馬術]]に転向)。一方で[[安田隆行]] (JRA) のように落馬で一時は脳挫傷を負いながらも完治して騎手に復帰した事例も存在する。
大型動物のサラブレッドを扱う職業であるだけに、レース中以外でも調教中の落馬の他、馬に蹴られる・踏まれるなどの事故も少なからず付きまとう。
== 騎手をサポートする仕事 ==
騎手は個人事業主であり、本来は騎手の仕事を1人で全てこなさなければならないが、騎手にはしなければならない仕事が増加してきており、1人でこなすのは困難となりつつある。そこで騎手の仕事を一部分担する仕事が登場してきている。
=== バレット ===
バレット (valet)とは、レース開催時において騎乗時に使用する道具の準備・斤量の調節など、いわゆる補佐として騎手のために雑務をこなす存在である<ref>[https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=188679 【求人情報】石橋脩騎手のバレットを募集します!] - [[netkeiba.com]] 2021.06.04</ref>。バレットは競馬場内では青い[[ビブス]]を身に付けている。
このバレット制度は世界各国では一般的な制度である。[[アメリカ合衆国]]ではジョッキールームに騎手が腰かけた途端にバレットが担当騎手のブーツを即座に脱がしたり道具の整理および清掃などを行ったりすることもある。
日本では[[武豊]]が国外に遠征した際にバレットの存在を目にし、導入の必要性を感じたため、武は[[日本騎手クラブ]]を通してJRAに要請し、その結果、1997年に当初は試験導入としてではあるが、公式に日本の中央競馬でもバレット制度が導入された(バレットを最初に雇用した騎手は[[的場均]]である<ref name="gendai20170528">日刊ゲンダイ 2017年5月28日号(同年5月27日発行分)10面、31面</ref><ref name="gendaidigital">[http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/race/206301 ハレの舞台を支えるバレット] - 日刊ゲンダイDIGITAL 2017年5月27日発信(2017年5月28日閲覧)</ref>)。その後21世紀に突入した2005年より正式にバレット制度が認められるようになった(2017年現在で31人のバレットがJRAに登録されている)<ref name="gendai20170528" /><ref name="gendaidigital" />。
その中央競馬においては、バレットは法的には騎手個人に雇用されるという形態をとっており、JRAはバレットの適性試験や[[裁決委員]]が行う面接以外はほとんど関与していない。そのため、バレットには適性試験や面接に合格さえすれば、基本的には性別、経歴、年齢を問わず無資格でなることができる。バレットはその騎手の身内(兄弟姉妹や親子など)や友人・知人など、信頼可能で親しい間柄にある者を雇用している場合が多い。また女性の比率も多い。
なおバレット制度が導入される以前にも競馬学校の騎手候補生が現役騎手に手伝いの形でバレットと同じような雑務を行うこともあった。
地方競馬に於いても、比較的賞金が高い南関東ではバレット制度が存在している。
バレットはファンエリアに出入り可能な代わりに、就労中に得た情報の漏洩や[[勝馬投票券]]の購入の他、また検量室とジョッキールーム以外の関係者エリアへの立入りも禁止されている<ref name="gendai20170528" /><ref name="gendaidigital" />。
日本では[[安藤勝己]]は実子、[[福永祐一]]と[[池添謙一]]は実妹、[[永島まなみ]]が実姉<ref>[https://umatoku.hochi.co.jp/articles/20230328-OHT1T51125.html 永島まなみ騎手活躍の影に姉の存在あり バレットのみなみさん「落ち着ける場所であれば」] - UMATOKU 2023年3月28日</ref>と騎手の親族がバレットを務めることがある一方で、[[後藤浩輝]]がバレットを一般から募集していたこともある<ref group="注">後藤は2011年のバレットの募集の際は自身の[[Twitter]](2011年10月28日に閉鎖)で行っていた。</ref>。福永は実妹を経て、現役後期は[[チームグリップ]]のスタッフ(後に[[白浜雄造]]の妻となる<ref>[https://news.netkeiba.com/?pid=column_view&cid=52819 【新規連載のお知らせ】現役ジョッキーの“愛ある鬼嫁”が描く、夫の奮闘と家族の姿!] - netkeiba.com 2023年4月16日</ref>)がバレットを務めていた<ref>[http://www.j-grip.com/news/news/?id=46 同社HPより]</ref>。このほか[[小西一男]]調教師の娘である[[小西由紀]]が[[田辺裕信]]、元[[お笑いタレント]]「[[チング]]」の[[吉井慎一]]が武豊や福永祐一のバレット<ref>週刊ギャロップ隔週連載「吉井慎一の武豊バレット日記」(連載終了)</ref>、[[武藤善則]]調教師の娘で歌手の[[武藤彩未]]が弟の[[武藤雅]]のバレット<ref>{{Cite web|和書|title=歌手の武藤彩未が「美味しい競馬」出演「勉強になりました」 父は元JRA騎手で現調教師、弟も騎手 - スポニチ Sponichi Annex 芸能 |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2021/12/11/kiji/20211211s00041000299000c.html |website=スポニチ Sponichi Annex |access-date=2023-09-10 |language=ja}}</ref>を務めていたこともあった。吉井は後に[[騎乗依頼仲介者]]に転身している。
各国の共通の事項だが、バレットは1人の騎手に複数付くこともある反面、1人のバレットが複数の騎手を担当することもある。
=== エージェント ===
騎手のエージェント([[代理人]])は主に、調教師や馬主と交渉し、騎乗馬を確保する役割である。中央競馬ではエージェントの呼称を[[騎乗依頼仲介者]]としている。詳しくは同項目を参照。
* [[カミーロ・マリン]] - [[アメリカ合衆国]]の騎手エージェント
* [[小原靖博]] - [[競馬ブック]][[記者]]であり、多くの有力騎手のエージェントをしている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[競馬学校]]
* [[地方競馬教養センター]]
* [[見習騎手]]
* [[女性騎手]]
* [[騎手一覧]]
* [[勝負服 (競馬)]]
* [[主戦騎手]]
* [[リーディングジョッキー]]
* [[騎乗依頼仲介者]]
* [[日本騎手クラブ]]
* [[中央競馬通算1000勝以上の騎手・調教師一覧]]
* [[日本の動物に関する資格一覧]]
{{農林水産省所管の資格・試験}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:きしゆ}}
[[Category:騎手|*]]
[[Category:競馬関連の職業]]
[[Category:日本の国家資格]]
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[[Category:業務独占資格]] | 2003-05-26T02:55:05Z | 2023-12-18T13:54:11Z | false | false | false | [
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9,358 | 奇数 | 奇数(きすう、英: odd number)とは、2 で割り切れない整数である。対義語で、2 で割り切れる整数は偶数という。
正負を問わず、−15, −3, 1, 7, 19 などはすべて奇数である。十進法では、一の位が 1, 3, 5, 7, 9 である数は奇数である。二進法では、2 の位(即ち一の位)が 1 ならば奇数で、一の位が 0 ならば偶数である。一般に 2n 進法(n は自然数)において、ある数が偶数であるか奇数であるかは、一の位(n の位)を見るだけで判別できる。
偶数と奇数は、位数が 2 の体の例を与える。
奇数は英語の "odd number" の訳である。"odd" には「奇妙な、偏った」という意味がある。
ギリシャの哲学者フィロラオスは次のように言ったとされる。「数字には特別な二種類がある。奇 (odd) と偶 (even) である。そしてこれらの混合が第三の要素として even-odd を生じる」。
以下、n は正の整数(自然数)であるとする。
知られている完全数は全て偶数であり、奇数の完全数が存在するかどうかは分かっていない。
約数の和で表せる奇数は、大抵の表せる個数は1個である。2個以上の約数の和で表せる奇数が無数にあるかどうかは分かっていない。 | [
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] | 奇数とは、2 で割り切れない整数である。対義語で、2 で割り切れる整数は偶数という。 正負を問わず、−15, −3, 1, 7, 19 などはすべて奇数である。十進法では、一の位が 1, 3, 5, 7, 9 である数は奇数である。二進法では、20 の位(即ち一の位)が 1 ならば奇数で、一の位が 0 ならば偶数である。一般に 2n 進法において、ある数が偶数であるか奇数であるかは、一の位を見るだけで判別できる。 偶数と奇数は、位数が 2 の体の例を与える。 | {{複数の問題
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'''奇数'''(きすう、{{lang-en-short|odd number}})とは、[[2|{{math|2}}]] で割り切れない[[整数]]である。対義語で、{{math|2}} で割り切れる整数は[[偶数]]という。
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偶数と奇数は、[[可換体#諸概念|位数]]が {{math|2}} の[[可換体|体]]の例を与える。
== 名称の由来 ==
奇数は英語の "odd number" の訳である。"odd" には「奇妙な、偏った」という意味がある。
ギリシャの哲学者[[フィロラオス]]は次のように言ったとされる。「数字には特別な二種類がある。奇 (odd) と偶 (even) である。そしてこれらの混合が第三の要素として even-odd を生じる」<ref>[https://mathshistory.st-andrews.ac.uk/Miller/mathword/o/ Earliest Known Uses of Some of the Words of Mathematics (O) - MacTutor History of Mathematics]</ref>。
== 数学的性質 ==
{{出典の明記|date=2015年9月|section=1}}
以下、''n'' は正の整数([[自然数]])であるとする。
* 偶数と奇数の[[加法|和]]、[[減法|差]]はともに奇数である。奇数と奇数の[[乗法|積]]も、また奇数である。
* 奇数と奇数の和、奇数と偶数の積はともに偶数である。
* 負の[[実数]]の奇数乗は、負の実数になる。
* [[五進法]]など「奇数[[位取り記数法|進法]]」では、1÷[[2]] のみならず 1÷[[偶数]] が割り切れない。即ち、「[[1/2|半分]]」を[[有限小数]]として表現できない。
* 同じく、[[十六進法]]など「[[2の冪|二の累乗数]]進法」では、1÷奇数(1と-1を除く) が割り切れない。即ち、「[[1/3]]」や「[[1/5]]」などを有限小数として表現できない。
* 2 以外の全ての[[素数]]は奇数である。つまり 3 以上の素数は全て奇数であり、それらを'''奇素数'''という。
* [[フィボナッチ数]]のうち奇数であるのは、3''n'' − 2 番目と 3''n'' − 1 番目のフィボナッチ数である。
* [[三角数]]のうち奇数であるのは、4''n'' − 3 番目と 4''n'' − 2 番目の三角数のみである。
* [[平方数]](四角数)のうち奇数であるのは、2''n'' − 1番目の平方数のみである。
* 最小の正の奇数である 1 から ''n'' 番目の正の奇数(2''n'' − 1)までの全ての奇数を足し合わせると、''n'' 番目の[[平方数]]に等しくなる。
* [[数論的関数]]を用いて、以下が知られている。
::<math>\sigma_{1}(N)/ N = n/d</math> (''n'', ''d'' ∈ ''N''<sup>*</sup>) かつ ω(''N'') = ''k'' が成り立つような正の奇数 ''N'' は、<math>(d+1)^{4^{k}}</math> より小さい。([[ペース・ニールセン]])
* [[6]] 以外の[[完全数]]は奇数の立方和で表せる。
* [[約数の和]]は平方数と平方数の2倍の数<ref>[[8]]、[[18]]、[[32]]、[[50]]、[[72]]、[[98]]、[[128]]、[[162]]、[[200]]、[[242]]、[[288]]、[[338]]、[[392]]、[[450]]、[[512]]、[[578]]、[[648]]、[[722]]、[[800]]etc</ref>の場合のみ奇数である。これは平方数の約数の個数が奇数になることと、偶数の素数が2しかないためである。
== 未解決問題 ==
知られている[[完全数]]は全て偶数であり、奇数の完全数が存在するかどうかは分かっていない。
約数の和で表せる奇数は、大抵の表せる個数は1個である。2個以上の約数の和で表せる奇数が無数にあるかどうかは分かっていない。
== その他奇数に関すること ==
{{独自研究|section=1|date=2014年8月19日 (火) 11:44 (UTC)}}
{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2014年8月19日 (火) 11:44 (UTC)}}
* [[中国]][[思想]]においては奇数は[[聖数]]とされる。[[日本]]の文化の中にもその影響が強く見られる。(例:[[七福神]]、祭日が[[3月3日]]・[[5月5日]]・[[7月7日]]・[[9月9日]]とある、など)
* [[陰陽五行思想]]においては、十二支の奇数番目は陽、偶数番目は陰を司る。このため奇数は縁起が良いとされる。
* 日本では奇数は割り切れないことから縁起のいい数とされ、特に1, 3, 5, 7は好まれる傾向がある。しかし9は「苦」に通じるので奇数だが縁起の悪い数と受け取られることが多い。逆に、中国では9は「久」に通じるので縁起が好い数とされている。海外では、7は「ラッキーセブン」として好まれるが、[[13]]は[[13 (忌み数)|縁起が悪い数]]だと考えられている(例:[[13階段|十三階段]], [[13日の金曜日]])。
* 一つの事案に関して判断する際に、参加人数を奇数に設定する場合がある。これは多数決を取る際に賛否同数に分かれないようにするため。例として、日本の[[最高裁判所]]の判事は、[[15]]人で組織されている。
* 団体競技のスポーツには、1チームの人数を奇数に設定する例が多い。例えば、[[バスケットボール]]は[[5]]人、[[野球]]は[[9]]人、[[サッカー]]は[[11]]人、[[ラグビーフットボール|ラグビー]]は15人である。
** [[野球]]のルールに用いられる数は奇数、特に 3 と 9 (= 3<sup>2</sup>) が多い(例:1チーム9人、1試合9[[イニング]]、3[[ストライク (野球)|ストライク]]で1[[アウト (野球)|アウト]]、3アウトでチェンジなど)。
* [[スーパー戦隊シリーズ]]では、戦隊の構成人数を奇数(特に3人か5人)に設定する例が多い。「[[宇宙戦隊キュウレンジャー]]」という9人の例もある。
* [[鉄道]]で下りの[[列車番号]]は一般に奇数が用いられる。
* [[航空機]]の[[便名]]においては国際線では基本的に西行きや南行きのフライトに奇数が割り当てられる。一方、国内線では例えば羽田発着を基準に考えた場合は羽田発便を下り便として奇数が割り当てられる。
* [[番勝負]]では勝負をつける必要があるため、奇数番の勝負が普通である。
* ロシアでは、偶数は弔事につながるという理由から、花は奇数で購入するようになっている。
== 脚注 ==
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
{{脚注の不足|date=2021-11|section=1}}
* Pace P. Nielsen, "[http://www.integers-ejcnt.org/vol3.html An upper bound for odd perfect numbers]," ''[http://www.integers-ejcnt.org/ Integers]'', vol. 3(2003), A14, 9 pp.
== 関連項目 ==
{{Wiktionary|奇数}}
* [[整数]]
* [[自然数]]
* [[偶数]]
* [[単偶数]]
* [[偶奇性]]
* [[オール・オッド (小惑星)]] - [[小惑星番号]]13579が全て奇数であることに因む[[小惑星]]。
* [[数秘術]]
{{DEFAULTSORT:きすう}}
[[Category:算術]]
[[Category:初等数学]]
[[Category:整数の類]]
[[Category:数学に関する記事]] | 2003-05-26T09:23:36Z | 2023-12-10T13:48:26Z | false | false | false | [
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"Template:独自研究",
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"Template:脚注の不足",
"Template:複数の問題",
"Template:Lang-en-short"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%87%E6%95%B0 |
9,359 | 偶数 | 偶数(ぐうすう、英: even number)とは、2 で割り切ることができる整数である。対義語で、2 で割り切れない整数は奇数という。
整数の定義から、0 と負の偶数も偶数に含まれる。具体的な偶数の例として −8, 0, 2, 14, 100, 526 などが挙げられる。これらはそれぞれ (−4) × 2, 0 × 2, 1 × 2, 7 × 2, 50 × 2, 263 × 2 に等しいため、2 で割っても余りを出さず、 2 で割り切ることができる。
より派生して、2 で割り切れるが 4 では割り切れない整数を単偶数または半偶数という。これに対して、4 で割り切れる整数を複偶数 (doubly even number) または全偶数という。
偶数と奇数は、偶数全体、奇数全体をそれぞれ一つの元と見て、二つの元からなる有限体の例を与える。
ルーレットのルールでは、0は偶数に含めないことになっている(奇数でもない)。
偶数は英語の "even number" の訳である。"even" は「平な、均等な」という意味で、直訳すれば「平数」である。偶数の"偶"は「ペア、二個一組」(用例:配偶者)という意味で、「二個一組になる数」を意味する。
ギリシャの哲学者フィロラオスは次のように言ったとされる。「数字には特別な二種類がある。奇 (odd) と偶 (even) である。そしてこれらの混合が第三の要素として even-odd を生じる」。
「odd」には、残りの,余分の という意味もあり二等分の余りの意である。
以下、m は整数、n は正の整数(自然数)であるとする。
偶数に関する未解決問題としてゴールドバッハの予想がある。ゴールドバッハの予想とは次の命題をいう。
ごく小さい数について実際に素数の和に書き直すことは容易であり、
などのように書くことができる。しかしすべての偶数について 2 つの素数の和で表すことができることを示すには、具体的な数について調べるだけでは不十分である。
現在発見されている完全数はすべて偶数である。奇数の完全数があるかどうかは知られていない。 | [
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] | 偶数とは、2 で割り切ることができる整数である。対義語で、2 で割り切れない整数は奇数という。 整数の定義から、0 と負の偶数も偶数に含まれる。具体的な偶数の例として −8, 0, 2, 14, 100, 526 などが挙げられる。これらはそれぞれ (−4) × 2, 0 × 2, 1 × 2, 7 × 2, 50 × 2, 263 × 2 に等しいため、2 で割っても余りを出さず、 2 で割り切ることができる。 より派生して、2 で割り切れるが 4 では割り切れない整数を単偶数または半偶数という。これに対して、4 で割り切れる整数を複偶数 または全偶数という。 偶数と奇数は、偶数全体、奇数全体をそれぞれ一つの元と見て、二つの元からなる有限体の例を与える。 ルーレットのルールでは、0は偶数に含めないことになっている(奇数でもない)。 | {{出典の明記|date=2020年5月}}
'''偶数'''(ぐうすう、{{lang-en-short|even number}})とは、[[2|{{math|2}}]] で割り切ることができる[[整数]]である。対義語で、{{math|2}} で割り切れない整数は[[奇数]]という。
整数の定義から、{{math|0}} と負の偶数も偶数に含まれる。具体的な偶数の例として {{math|−8, 0, 2, 14, 100, 526}} などが挙げられる。これらはそれぞれ {{math|(−4) × 2, 0 × 2, 1 × 2, 7 × 2, 50 × 2, 263 × 2}} に等しいため、{{math|2}} で割っても[[除法#整数の除法|余り]]を出さず、 {{math|2}} で割り切ることができる。
より派生して、{{math|2}} で割り切れるが {{math|4}} では割り切れない整数を'''[[単偶数]]'''または'''半偶数'''という。これに対して、{{math|4}} で割り切れる整数を'''[[複偶数]]''' ({{en|doubly even number}}) または'''全偶数'''という<ref>[http://magcube.la.coocan.jp/magcube/jp/terms.htm 『立体方陣と高次元方陣-三次元以上の魔方陣:用語集』]{{リンク切れ|date=2021-11}}</ref>。
偶数と奇数は、偶数全体、奇数全体をそれぞれ一つの元と見て、二つの元からなる[[有限体|有限]][[可換体|体]]の例を与える。
[[ルーレット]]のルールでは、0は偶数に含めないことになっている(奇数でもない)。
== 名称の由来 ==
偶数は英語の "even number" の訳である。"even" は「平な、均等な」という意味で、直訳すれば「平数」である。偶数の"偶"は「ペア、二個一組」(用例:配'''偶'''者)という意味で、「二個一組になる数」を意味する。
ギリシャの哲学者[[フィロラオス]]は次のように言ったとされる。「数字には特別な二種類がある。奇 (odd) と偶 (even) である。そしてこれらの混合が第三の要素として even-odd を生じる」<ref>[https://mathshistory.st-andrews.ac.uk/Miller/mathword/o/ Earliest Known Uses of Some of the Words of Mathematics (O) - MacTutor History of Mathematics]</ref>。
「odd」には、残りの,余分の という意味もあり二等分の余りの意である。
== 数学的性質 ==
以下、{{mvar|m}} は整数、{{mvar|n}} は正の整数([[自然数]])であるとする。
* [[素数]]のうち偶数であるのは {{math|2}} のみである。
* 偶数同士または奇数同士の[[加法|和]]は偶数である。
* 偶数同士または奇数同士の[[減法|差]]は偶数である。
* 偶数と整数の[[乗法|積]]は偶数である。
* [[実数]]の偶数乗は正の実数である。
* [[1の冪根|{{math|1}} の {{math|2''n''}} 乗根]]には、必ず {{math|1}} と {{math|−1}} が含まれる。
* [[フィボナッチ数]]のうち偶数であるのは、{{math|3''m''}} 番目のフィボナッチ数のみである。フィボナッチ数とは[[漸化式]] {{math|''F''{{sub|''m''+2}} {{=}} ''F''{{sub|''m''+1}} + ''F{{sub|m}}'', ''F''{{sub|0}} {{=}} 0, ''F''{{sub|1}} {{=}} 1}} を満たす数 {{math|''F{{sub|m}}''}} のことである。
* [[三角数]]のうち偶数であるのは、{{math|4''n'' − 1}} 番目と {{math|4''n''}} 番目の三角数のみである。三角数とは {{math|{{sfrac|''m''(''m'' + 1)|2}}}} と表すことのできる数である。
* [[平方数]](四角数)のうち偶数であるのは {{math|2''n''}} 番目の平方数 {{math|(2''n''){{sup|2}} {{=}} 4''n''{{sup|2}}}} のみである。
* 1組の[[ピタゴラスの定理|ピタゴラス数]]の3つの数のうち、少なくとも1つは偶数である。ピタゴラス数とは {{math|''a''{{sup|2}} + ''b''{{sup|2}} {{=}} ''c''{{sup|2}}}} を満たす'''整数'''の組 {{math|(''a'', ''b'', ''c'')}} のことである。
* 一般に、ある整数を {{math|2''n''}} 進法で表した場合、その数が偶数であることを判別するには、一の位の数が偶数かどうかを調べるだけで充分である。例えば、[[二進法]]では {{math|[[0]]}}、[[六進法]]では {{math|0, [[2]], [[4]]}}、[[八進法]]では{{math|0, 2, 4, [[6]]}}、[[十進法]]では {{math|0, 2, 4, 6, [[8]]}} が一の位に来ている場合に偶数となる。
* nが[[6|六]]以上の偶数[[位取り記数法|進法]]では、[[12]]の2乗は[[144]]になる。例えば、六進法の12{{sup|2}} = 144 は 十進法に換算して 8{{sup|2}} = 64であり、その他も十進法に換算して十二進法では14{{sup|2}} = 196、十六進法では18{{sup|2}} = 324、十八進法では20{{sup|2}} = 400、二十進法では22{{sup|2}} = 484、三十進法では32{{sup|2}} = 1024となる。
* [[約数の和]]は平方数と平方数の2倍の数<ref>[[8]]、[[18]]、[[32]]、[[50]]、[[72]]、[[98]]、[[128]]、[[162]]、[[200]]、[[242]]、[[288]]、[[338]]、[[392]]、[[450]]、[[512]]、[[578]]、[[648]]、[[722]]、[[800]]etc</ref>を除いて偶数である。また、ほとんどの数の約数の和は約数を多く持つ数である。
== 未解決問題 ==
偶数に関する[[数学上の未解決問題|未解決問題]]として[[ゴールドバッハの予想]]がある。ゴールドバッハの予想とは次の[[命題]]をいう。
:''{{math|4}} 以上のすべての偶数は、2 つの[[素数]]の和の形に表せる。''
ごく小さい数について実際に素数の和に書き直すことは容易であり、
:{{math|4 {{=}} 2 + 2, 6 {{=}} 3 + 3, 8 {{=}} 3 + 5, 10 {{=}} 5 + 5 {{=}} 3 + 7, 12 {{=}} 5 + 7, 14 {{=}} 3 + 11 {{=}} 7 + 7, 16 {{=}} 3 + 13 {{=}} 5 + 11, ...}}
などのように書くことができる。しかし'''すべての偶数'''について 2 つの素数の和で表すことができることを示すには、具体的な数について調べるだけでは不十分である。
現在発見されている[[完全数]]はすべて偶数である。奇数の完全数があるかどうかは知られていない。
== 参照元 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary|偶数}}
* [[整数]]
* [[自然数]]
* [[奇数]]
* [[単偶数]]
* [[偶奇性]]
* [[オール・イーヴン (小惑星)]] - [[小惑星番号]]24680が全て偶数であることに因む[[小惑星]]。
* [[数秘術]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:くうすう}}
[[Category:算術]]
[[Category:初等数学]]
[[Category:整数の類]]
[[Category:数学に関する記事]] | null | 2023-07-19T06:27:36Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%B6%E6%95%B0 |
9,368 | メルクリウス | メルクリウス (Mercurius) はローマ神話のデイ・コンセンテス (Dei Consentes) の一人であり、商人や旅人の守護神である。英語読みでマーキュリー (Mercury) とも表記される。
ギリシア神話の神々の伝令使ヘルメースと同化し、雄弁家、盗賊、商人、職人の庇護者とされた。ヘルメースと融合する前の元来の職能や性格は明瞭でないが、その名は merces (商品、財貨)に関係があるとも言われる商業の神である。ニュンペーのラールンダとの間にラールたち(ラレース)をもうけた。
メルクリウスの神殿は紀元前496年にアウェンティヌス丘の上に建てられたとされるが、これはローマの聖所ポメリウムの外にあったため、元からローマにいた神ではなく、外部から来た神と考えられている。
ローマ暦では、水曜日をメルクリウスの日 Diēs Mercuriī (ディエース・メルクリイー)としている。
タキトゥスは『ゲルマーニア』において、ゲルマン人が最も崇拝する神をメルクリウスと呼んだが、これはゲルマン神話の主神ウォーダンのことであったと考えられている。英語の Wednesday は「メルクリウスの日」を古英語で「ウォーデンの日」と翻訳したことに由来する。
別名をメルクリウスともエジプト人ヘルメスともいうヘルメス・トリスメギストスは、ヘルメス主義を象徴する神話的人物であるが、後世、ヨーロッパ中世およびルネサンス期において、錬金術の考案者にして諸学と技芸の祖であると考えられた。
カール・グスタフ・ユングは「メルクリウス」について次のように述べる。
「メルクリウスは(錬金術でいうところの、すなわち、無意識の)作業(オプス)の始めに位置し、終りに位置する。
メルクリウスは原初の両性具有存在ヘルマプロディートスであり、一旦は二つに分れて古典的な兄-妹の対の形を取るが、最後に「結合」において再び一つに結びつき、「新しい光」、すなわち、「賢者の石」という形態をとって光り輝く。
メルクリウスは金属であるが同時に液体でもあり(「メルクリウス=水星」を象徴する金属は水銀)、物質でもあるが同時に霊でもあり、冷たいが同時に火と燃え、毒であるが同時に妙薬でもあり、『諸対立を一つに結びつける対立物の合一の象徴なのである。』」
「メルクリウス」の変容性と多様性は錬金術の根本表象であり、すなわち、「メルクリウス」は我々の無意識、心的世界の一つの表象といえる。
「ライオンとユニコーン」は共に、錬金術における「メルクリウス」の象徴であるとされる。他に、「鳩、鹿、鷲、龍」なども「メルクリウス」の同義語とされる。 | [
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}
] | メルクリウス (Mercurius) はローマ神話のデイ・コンセンテス の一人であり、商人や旅人の守護神である。英語読みでマーキュリー (Mercury) とも表記される。 | {{Otheruses|[[ローマ神話]]のメルクリウス|その他の「メルクリウス」|マーキュリー}}
[[ファイル:Mercurius.jpg|thumb|250px|メルクリウス]]
[[ファイル:Lire_500_(Mercurio).JPG|250px|サムネイル|メルクリウスの肖像がデザインされている500リラ紙幣]]
'''メルクリウス''' ({{lang|la|Mercurius}}) は[[ローマ神話]]の[[ディー・コンセンテス|デイ・コンセンテス]] ({{lang|la|Dei Consentes}}) の一人であり、商人や旅人の[[守護神]]である<ref>スチュアート・ペローン 『ローマ神話』 中島健訳、青土社、1993年、p. 106, pp. 115-120.</ref>。英語読みで'''マーキュリー''' ({{lang|en|Mercury}}) とも表記される。
== 概要 ==
[[ギリシア神話]]の神々の伝令使[[ヘルメース]]と同化し、雄弁家、盗賊、商人、職人の庇護者とされた。ヘルメースと融合する前の元来の職能や性格は明瞭でないが、その名は {{lang|la|merces}} (商品、財貨)に関係があるとも言われる商業の神である<ref>呉茂一 『ギリシア神話(上)』 新潮社〈新潮文庫〉、昭和54年、236頁。</ref>。[[ニュンペー]]の[[ラールンダ]]との間にラールたち([[ラレース]])をもうけた。
メルクリウスの神殿は[[紀元前496年]]に[[アヴェンティーノ|アウェンティヌス]]丘の上に建てられたとされるが、これは[[ローマ]]の聖所[[ポメリウム]]の外にあったため、元からローマにいた神ではなく、外部から来た神と考えられている。
[[ローマ暦]]では、水曜日をメルクリウスの日 Diēs Mercuriī (ディエース・メルクリイー)としている。
[[タキトゥス]]は『ゲルマーニア』において、ゲルマン人が最も崇拝する神をメルクリウスと呼んだが、これは[[ゲルマン神話]]の主神[[オーディン|ウォーダン]]のことであったと考えられている。英語の Wednesday は「メルクリウスの日」を[[古英語]]で「ウォーデンの日」と翻訳したことに由来する。
別名をメルクリウスともエジプト人ヘルメスともいう[[ヘルメス・トリスメギストス]]は、[[ヘルメス主義]]を象徴する神話的人物であるが、後世、ヨーロッパ中世およびルネサンス期において、[[錬金術]]の考案者にして[[科学|諸学]]と[[技術|技芸]]の祖であると考えられた。
[[カール・グスタフ・ユング]]は「メルクリウス」について次のように述べる。
「メルクリウスは(錬金術でいうところの、すなわち、[[無意識]]の)作業([[オプス]])の始めに位置し、終りに位置する。
メルクリウスは原初の両性具有存在[[ヘルマプロディートス]]であり、一旦は二つに分れて古典的な兄-妹の対の形を取るが、最後に「結合」において再び一つに結びつき、「新しい光」、すなわち、「[[賢者の石]]」という形態をとって光り輝く。
メルクリウスは金属であるが同時に液体でもあり(「メルクリウス=水星」を象徴する金属は[[水銀]])、物質でもあるが同時に霊でもあり、冷たいが同時に火と燃え、毒であるが同時に妙薬でもあり、『諸対立を一つに結びつける対立物の合一の象徴なのである。』」
「メルクリウス」の変容性と多様性は錬金術の根本表象であり、すなわち、「メルクリウス」は我々の無意識、心的世界の一つの表象といえる。
「[[ライオン]]と[[ユニコーン]]」は共に、錬金術における「メルクリウス」の象徴であるとされる。他に、「鳩、鹿、鷲、龍」なども「メルクリウス」の同義語とされる。
==脚註==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Mercury (god)}}
* [[水星]]
* [[水銀]]
* [[オーディン]]
{{ローマ神話}}
{{Normdaten}}
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[[Category:ローマ神話の神]]
[[Category:水星神]]
[[Category:伝令神]]
[[Category:ヘルメース]]
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9,369 | ヘーリオス | ヘーリオス(古希: Ἥλιος , Hēlios)は、ギリシア神話の太陽神である。その名はギリシア語で「太陽」を意味する一般名詞と同一である。象徴となる聖鳥は雄鶏。
太陽は天空を翔けるヘーリオス神の4頭立て馬車であると古代ギリシア人は信じていた。
日本語では長母音を省略してヘリオスとも表記する。
紀元前4世紀頃から、ヘーリオスはアポローンと同一視(習合)されるようになった。これはアポローンに光明神としての性質があったためと考えられる。同様にヘーリオスの姉妹で月の女神であるセレーネーは、アポローンの双子の姉であるアルテミスと同一視されるようになった。
ヘーシオドスの『神統記』によれば、ヒュペリーオーンとテイアーの息子である。曙の女神エーオースや月の女神セレーネーは姉妹。また魔女のキルケーやヘーリアデス(太陽神の5人の娘たち)、パエトーンの父親でもある。
アポローンが乗る太陽の車を青空の牧場に駆る御者とも考えられた。
オリュムポスからみて、東の地の果てに宮殿を持つ。盲目になったオーリーオーンの目を治療した。また、常に空にあって地上のすべてを見ているため、アプロディーテーのアレースとの浮気をヘーパイストスに密告したのも、ハーデースがペルセポネーを誘拐した際にゼウスが加担したことをデーメーテールに教えたのもヘーリオスとヘカテーである。
ヘーリオスはアプロディーテー女神とアレース神の不義をいち早く見つけ、女神の夫ヘーパイストスに言いつけた。アプロディーテーはこの仕打ちを許すことができず、ペルシア王オルカモスの娘である美女レウコトエーにヘーリオスの目を釘付けにさせ、熱愛関係にいざなう。ヘーリオスの寵愛を受けていたニュムペーの、クリュティエーはこれを見過ごせず、厳格なオルカモスにレウコトエーが男と密通している旨を告げ、父王の手で彼女を裁かせる。ヘーリオスはその罪により生き埋めにされたレウコトエーの死体にネクタールを降り注ぎ、彼女の姿を乳香の木に変え、天界へと連れてゆく。一方、クリュティエーはヘーリオスからもはや振り向いてはもらえず、太陽を見ながら悲しみ泣き暮らすうちに死んでしまう。そして彼女は一輪の花になり、いつも愛しい人の方を向いているのである。
クリュティエーの変じた花は、ヒマワリやヘリオトロープ、あるいはキンセンカであるとも言われている。概して絵画や文学のモチーフとしてはヒマワリとされることが多いが、ヒマワリはアメリカ大陸の原産であり、この神話の成立時期にはヨーロッパでは知られていなかった。 | [
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] | ヘーリオスは、ギリシア神話の太陽神である。その名はギリシア語で「太陽」を意味する一般名詞と同一である。象徴となる聖鳥は雄鶏。 太陽は天空を翔けるヘーリオス神の4頭立て馬車であると古代ギリシア人は信じていた。 日本語では長母音を省略してヘリオスとも表記する。 紀元前4世紀頃から、ヘーリオスはアポローンと同一視(習合)されるようになった。これはアポローンに光明神としての性質があったためと考えられる。同様にヘーリオスの姉妹で月の女神であるセレーネーは、アポローンの双子の姉であるアルテミスと同一視されるようになった。 | {{Otheruses|ギリシア神話の神|'''ヘーリオス'''または'''ヘリオス'''のその他の用法}}
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'''ヘーリオス'''({{lang-grc-short|'''Ἥλιος ''', ''Hēlios''}})は、[[ギリシア神話]]の[[太陽神]]である。その名はギリシア語で「[[太陽]]」を意味する一般名詞と同一である。象徴となる聖鳥は[[ニワトリ|雄鶏]]。
太陽は天空を翔けるヘーリオス神の4頭立て馬車であると古代ギリシア人は信じていた。
[[日本語]]では[[長母音]]を省略して'''ヘリオス'''とも表記する。
紀元前4世紀頃から、ヘーリオスは[[アポローン]]と同一視([[習合]])されるようになった。これはアポローンに光明神としての性質があったためと考えられる。同様にヘーリオスの姉妹で月の女神である[[セレーネー]]は、アポローンの双子の姉である[[アルテミス]]と同一視されるようになった。
== 概説 ==
[[ヘーシオドス]]の『[[神統記]]』によれば、[[ヒュペリーオーン]]と[[テイアー]]の息子である。[[明け方|曙]]の女神[[エーオース]]や[[月]]の女神[[セレーネー]]は姉妹。また魔女の[[キルケー]]や[[ヘーリアデス]](太陽神の5人の娘たち)、[[パエトーン]]の父親でもある。
アポローンが乗る太陽の車を青空の牧場に駆る御者とも考えられた。
[[オリンポス山|オリュムポス]]からみて、東の地の果てに宮殿を持つ。盲目になった[[オーリーオーン]]の目を治療した。また、常に空にあって地上のすべてを見ているため、[[アプロディーテー]]の[[アレース]]との浮気を[[ヘーパイストス]]に密告したのも、[[ハーデース]]が[[ペルセポネー]]を誘拐した際に[[ゼウス]]が加担したことを[[デーメーテール]]に教えたのもヘーリオスと[[ヘカテー]]である。
=== レウコトエーとクリュティエー ===
ヘーリオスはアプロディーテー女神とアレース神の不義をいち早く見つけ、女神の夫ヘーパイストスに言いつけた。アプロディーテーはこの仕打ちを許すことができず、[[ペルシア]]王オルカモスの娘である美女レウコトエーにヘーリオスの目を釘付けにさせ、熱愛関係にいざなう。ヘーリオスの寵愛を受けていた[[ニュンペー|ニュムペー]]の、[[クリュティエー]]はこれを見過ごせず、厳格なオルカモスにレウコトエーが男と密通している旨を告げ、父王の手で彼女を裁かせる。ヘーリオスはその罪により生き埋めにされたレウコトエーの死体に[[蜜#英語と語源|ネクタール]]を降り注ぎ、彼女の姿を[[乳香]]の木に変え、天界へと連れてゆく。一方、クリュティエーはヘーリオスからもはや振り向いてはもらえず、太陽を見ながら悲しみ泣き暮らすうちに死んでしまう。そして彼女は一輪の花になり、いつも愛しい人の方を向いているのである<ref>オウィディウス『変身物語』巻4</ref>。
クリュティエーの変じた花は、[[ヒマワリ]]や[[ヘリオトロープ]]、あるいは[[キンセンカ]]であるとも言われている。概して絵画や文学のモチーフとしてはヒマワリとされることが多いが、ヒマワリは[[アメリカ大陸]]の原産であり、この神話の成立時期には[[ヨーロッパ]]では知られていなかった。
== その他 ==
* [[ヘリオガバルス]](在位218 - 222年)はシリアのエメサ(現在の[[ホムス]])にある太陽神の大司祭であったが、即位後、御神体である[[隕石]]をローマ市に搬入し、パラティヌス丘に神殿を作って、祀ったが、エラガバルス(ヘリオガバルス)殺害後は、神石はエメサに戻されている(弓削達 『地中海世界 新書西洋史2』 講談社現代新書 1973年 p.138)。
== 注釈 ==
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9,370 | 競走 | 競走(きょうそう、英: race レース、あるいは英: racing レーシング)とは、一定距離を走り、その速さを競うことである。
「競走」を字義通りに解せば「走りを競うこと」となる。走るものであれば何でも、たとえば馬や自動車でも一定距離走ってその速さを競えば競走やレースという。
なお「その速さを競う」と言っても、通常あらかじめ一定距離を定めておき、ゴールに到着した順番(着順)や、かかった時間で、順位を決める。(通常「競走」というのは、途中の瞬間的な最高速を測定して比べるものではない)
なお速さを比べるには、いくつもの方法がある。
次に示すように、さまざまな競走(レース)がある。
公営競技の競走は、1回の競い合いも、それを複数回まとめたものも競走やレースと呼ぶ。このため、競走がどちらの意味で用いられているか注意する必要がある。前者の意味としては「1つの公営競技場では1日に最大で12の競走が行われる」といった用法になり、後者の意味としては「1つの公営競技場では数日間連続で1競走が開催される」といった用法になる。
公営競技においては、数日間に亘る競走をまとめて開催(かいさい)という単位で呼ぶ。各公営競技の法令により、1つの公営競技場では年間開催数、および1開催の日数が決められている。
また、開催を数える単位には回(かい)が用いられる。例えば「第2回第3日」といえばその年に開催された第2回目の開催の3日目であることを表す。
公営競技における1開催は、日数をさらに何日間かに分割して行われるが、その分割された日数間の競走をまとめて節(せつ)と呼ぶ習慣がある。ただしこれは法令において正式に定義された用語ではない。
競輪・競艇・オートレースにおいては1節を1つの大会と捉えて、節内のチャンピオンを決定する方式(勝ち上がり方式、トーナメント方式ともいう)で行われている が、競馬においては同一開催内で複数回出走することは稀であるため、1つの開催を1つの大会と捉える概念が存在しない。 | [
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] | 競走とは、一定距離を走り、その速さを競うことである。 | '''競走'''(きょうそう、{{Lang-en-short|race}} '''レース'''、あるいは{{Lang-en-short|racing}} '''レーシング''')とは、一定距離を[[走る|走り]]、その[[速度|速さ]]を競うことである<ref>デジタル大辞泉</ref><ref>[[新村出]]編『[[広辞苑]]』第5版「競走」</ref>。
== 概説 ==
「競走」を字義通りに解せば「[[走る|走り]]を競うこと」となる。走るものであれば何でも、たとえば馬や自動車でも一定距離走ってその速さを競えば競走やレースという。
なお「その速さを競う」と言っても、通常あらかじめ一定距離を定めておき、ゴールに到着した順番(着順)や、かかった時間で、順位を決める。(通常「競走」というのは、途中の瞬間的な最高速を測定して比べるものではない)
なお速さを比べるには、いくつもの方法がある。
*あらかじめスタートラインの一定距離の先にゴールラインを定め、全員が同時にスタートし、ゴールラインに到着した順位で速さの順を確定する方法
*あらかじめスタートラインの一定距離の先にゴールラインを定めるが、全員が同時にスタートせず、時計を用い、スタート時刻とゴールラインに達した時刻をひとりひとり記録し、ゴール後に大会主催者がスタートからゴールするまでにかかった時間を[[引き算]]で算出し、事後的に順位を発表する方法(スタートラインに全員が並べない場合、コースが狭い場合などにこの方法が採用されることがある。人が山間部を走る過酷なレースなどでこの方法が採用されることがある。また自動車の[[ラリー]]レースでもこの方法が採用される)
*あらかじめ一定の時間を設定して、その時間でより長い距離を走った者の順位が高いとする方法。たとえば自動車レースでは、一定時間をあらかじめ決めておいてその時間でどれだけのサーキットを周回した回数の多さで速さを競う「○○時間[[耐久レース]]」という方式もある。また[[自転車]]競技の[[アワーレコード]]もあり、人の競走でも[[1時間競走]]というものはある。
== 具体例 ==
次に示すように、さまざまな競走(レース)がある。
* [[陸上競技]]の競走 - 人間が徒足で行う競走。通常は距離を決め走るものを競走という。「50m 走」「100m 走」「200m走」「1500m走」「10000m 走」などがある。一方、「[[フルマラソン]]」と表示されている場合は、たとえ具体的な距離が書かれていなくても、通常は42.195kmを走って順位を決める競走である。[[リレー]]方式で行う競走もある。日本で新聞社が自社の宣伝のためにイベントとして始めた[[駅伝競走]]もリレー方式の競走である。トラックを走る「トラック種目」と公道を走る「道路種目」に大分類されることもある。また短距離と長距離にも大分類されることがある。
* [[自転車]]の競走 - 人が[[自転車]]に乗り、一定距離を走り、着順を競う。[[オリンピック]]競技もあり、賭博の[[競輪]]もある。
* [[スケート]]の競走 - 細分化すると[[スピードスケート]]、[[ショートトラック]]、[[マススタート]]、[[アイスクロス]]などがある。
* [[スキー]]の競走 - 細分化すると[[アルペンスキー]]、[[スキークロス]]、[[クロスカントリースキー]]などがある。
* [[スノーボード]]の競走 - [[アルペンスノーボード]]、[[スノーボードクロス]]などがある。
* [[ソリ]]の競走 - [[ボブスレー]]競技などもあり、また[[犬ぞり]]レースは北欧やアラスカなどではさかんに大会が行われている。
* 馬の競走 - [[競馬]]。人と[[ウマ|馬]]が一体(人馬一体)となって(あるいは「人が馬に騎乗して」)、一定距離を走りその速さを競うもの。(着順は通常は馬の鼻先で決まるが、[[ばんえい競走]]ではソリの終端が基準)
* 犬の競走 - [[ドッグレース]]。[[犬]]が一定距離を走って速さを競う。(人は犬に乗らない)
* 自動車類の競走 - [[自動車]]や[[オートバイ]]等を用いるもの。いわゆる[[モータースポーツ]]。一般的にはそれらはすべて「レース」と呼ばれるが、[[国際自動車連盟]](FIA)では複数以上の車両が同時に競技を行う物のみをレースと呼び、レースへの参加にはより厳格な資格が必要になる。
* 人が泳ぐレース - [[競泳]]。人が一定距離を[[水泳]]し、その着順を競う。広義では、[[遠泳]]も含まれる。
* [[セーリング]]のレース - 一定距離を、[[セイル]]([[帆]])を推進力とする船を操作して進み、その着順で速さを競う。「[[ヨットレース]]」とも。セーリングのレースは海上でスタートするため、陸上でおこなう競技とは違いスタートラインに白線などは引けないので、2つの船や[[浮標|ブイ]](海面に設置された目印)を結んだ《目には見えない、観念的なライン》をスタートラインとする。ゴールラインもやはり同様で、白いテープなどは用いず《観念的なライン》に達した順で順位を確定する。現代ではビデオカメラ類のおかげで微妙な差も判定できる。
* [[ボート]]のレース - [[ボート競技]](競漕)。通常、[[オリンピック]]などは[[オール]]を用いるボート競技である。動力付きボートを用いるものは[[モーターボート競走]]として区別される(モーターボート競走はモータースポーツの一種にも分類される)。
* [[飛行機]]のレース - [[エアレース]]とも。かつてはさまざまエアレースがあったが、近年では指定された飛行ルートを最短時間で飛ぶタイムレースがさかんである。日本人には馴染みが薄かったが、日本人パイロット[[室屋義秀]]が[[レッドブル・エアレース・ワールドシリーズ]]で活躍するさまがNHKで放送されてからは広く認知されるようになった。
== 補足 ==
[[公営競技]]の競走は、1回の競い合いも、それを複数回まとめたものも競走やレースと呼ぶ。このため、競走がどちらの意味で用いられているか注意する必要がある。前者の意味としては「1つの公営競技場では1日に最大で12の競走が行われる」といった用法になり、後者の意味としては「1つの公営競技場では数日間連続で1競走が開催される」といった用法になる。
=== 開催 ===
公営競技においては、数日間に亘る競走をまとめて'''開催'''(かいさい)という単位で呼ぶ。各公営競技の法令により、1つの公営競技場では年間開催数、および1開催の日数が決められている。
また、開催を数える単位には'''回'''(かい)が用いられる。例えば「第2回第3日」といえばその年に開催された第2回目の開催の3日目であることを表す。
=== 節 ===
公営競技における1開催は、日数をさらに何日間かに分割して行われるが、その分割された日数間の競走をまとめて'''節'''(せつ)と呼ぶ習慣がある。ただしこれは法令において正式に定義された用語ではない。
[[競輪]]・[[競艇]]・[[オートレース]]においては1節を1つの大会と捉えて、節内のチャンピオンを決定する方式(勝ち上がり方式、トーナメント方式ともいう)で行われている<ref>オートレースにおいて、勝ち上がり方式が全開催で実施されるようになったのは[[1975年]]の4月より。それまでは競馬のような単発式の開催も行われていた(オートレースマガジン 2004年5月号より)。</ref> が、[[競馬]]においては同一開催内で複数回出走することは稀であるため<ref>ただし競馬もかつては1開催に複数回出走を前提とした競走も行われていた。{{main|[[優勝内国産馬連合競走#創設 - 競馬不況と連合二哩創設]]}}</ref>、1つの開催を1つの大会と捉える概念が存在しない。
{{main2|各公営競技の競走については、競馬は[[競馬の競走]]、[[競輪]]は[[競輪の競走一覧]]を}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:きようそう}}
[[Category:レース]] | 2003-05-26T15:18:02Z | 2023-09-04T03:08:36Z | false | false | false | [
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9,371 | シムシティシリーズ | シムシティシリーズ (英語: SimCity series) とはマクシス社のリアルタイム都市経営シミュレーションゲームのシリーズである。マクシス社がエレクトロニック・アーツに吸収された現在は同社から発売されている。
ミニスケープ(箱庭ゲーム)と呼ばれるコンピューターゲームの1つで、プレイヤーが市長となって街を運営していくことを目的としている。1989年に第1作『シムシティ』が発売されて以来、多くのシリーズが開発されている。日本語表記は当初は「シムシティー」だったが、のちに音引きなしの「シムシティ」に変更された。
『バンゲリングベイ』の作者ウィル・ライトによる作品。初代『シムシティー』は米国では1989年発売、日本では1990年に発売された。プレイヤーは市長となって、様々な手法で「シム」と呼ばれる市民が住む街を繁栄させていく。
未開地に住宅・商業・工業地区を指定、交通機関や電力などの各種インフラを整備することで街を発展させる一方、犯罪や公害、交通渋滞などの都市が抱える諸問題や火災や地震などの災害への対応、財政、条例、情報収集等々、プレイヤーの仕事は多種多様である。新作になるほど現実性の追求から仕事はさらに複雑化する傾向にある。
シナリオモードなどを除きクリア条件は設定されておらず、半永久的にゲームを続けることができる。概ねのシリーズでは資金が一定以上マイナスになる(負債を抱える)とゲームオーバーになる(上院議員に立候補という名目)。
セル・オートマトンを用いた自立環境系ゲームのはしりで、ライフゲームのようなモデルを複数層重ね合わせる事で予測のつかないリアルな街の様子を表現している。プレイヤーがアクションを与えなくてもそれらしく状況が変化していく画期的な作品である。
パーソナルコンピューター用から家庭用ゲーム機、携帯電話などにも移植されている。日本市場のパソコン向けにはイマジニアから出ているものがある。
エレクトロニック・アーツは、シムシティを子どもたちの教育にも活用することを考えている。シリーズ第3作である『シムシティ3000』では、公式サイトで「ティーチャーズガイド」(SimCity 3000 Teacher's Guide)が公開されている。また、初代シムシティはOne Laptop per Child(OLPC)の100ドルパソコン(XO)にプリインストールされることが発表されている。 | [
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] | シムシティシリーズ とはマクシス社のリアルタイム都市経営シミュレーションゲームのシリーズである。マクシス社がエレクトロニック・アーツに吸収された現在は同社から発売されている。 ミニスケープ(箱庭ゲーム)と呼ばれるコンピューターゲームの1つで、プレイヤーが市長となって街を運営していくことを目的としている。1989年に第1作『シムシティ』が発売されて以来、多くのシリーズが開発されている。日本語表記は当初は「シムシティー」だったが、のちに音引きなしの「シムシティ」に変更された。 | {{コンピュータゲームシリーズ
| タイトル = シムシティシリーズ<br>SimCitySeries
| 画像 = [[File:Micropolis - big city.png|280px|初代シムシティのゲーム画面]]<br />初代『[[シムシティ]]』のゲーム画面
| 開発元 =
| 発売元 = [[マクシス]]<br />[[エレクトロニック・アーツ]]、他
| ジャンル = [[経営シミュレーションゲーム|都市経営シミュレーションゲーム]]
| 製作者 = [[ウィル・ライト]]他
| 1作目 = [[シムシティー]]
| 1作目発売日 = [[1989年]]
| 最新作 = [[シムシティ (2013)]]
| 最新作発売日 = [[2013年]]3月5日
| スピンオフ作品 =
| 公式サイトURL = https://www.ea.com/ja-jp/games/simcity
| 公式サイトタイトル= シムシティ公式サイト
}}
'''シムシティシリーズ''' ({{lang-en|SimCity series}}) とは[[マクシス]]社のリアルタイム[[都市]][[経営シミュレーションゲーム]]のシリーズである。マクシス社が[[エレクトロニック・アーツ]]に吸収された現在は同社から発売されている。
[[ミニスケープ]](箱庭ゲーム)と呼ばれる[[コンピューターゲーム]]の1つで、プレイヤーが市長となって街を運営していくことを目的としている。[[1989年]]に第1作『[[シムシティ]]』が発売されて以来、多くのシリーズが開発されている。日本語表記は当初は「'''シムシティー'''」だった<ref>{{Cite web|和書|author= 任天堂|authorlink= 任天堂|url= https://www.nintendo.co.jp/n02/shvc/sc/index.html|title= シムシティー|language= 日本語 |accessdate=2007年10月12日 }}</ref>が、のちに[[音引き]]なしの「シムシティ」に変更された。
== ゲーム内容 ==
『[[バンゲリングベイ]]』の作者[[ウィル・ライト]]による作品。初代『シムシティー』は米国では[[1989年]]発売、日本では[[1990年]]に発売された。プレイヤーは[[市長]]となって、様々な手法で「シム」と呼ばれる市民が住む街を繁栄させていく。
未開地に住宅・商業・工業地区を指定、[[交通機関]]や電力などの各種[[インフラストラクチャー|インフラ]]を整備することで街を発展させる一方、[[犯罪]]や[[公害]]、[[交通渋滞]]などの[[都市]]が抱える諸問題や[[火災]]や[[地震]]などの[[災害]]への対応、[[財政]]、[[条例]]、情報収集等々、プレイヤーの仕事は多種多様である<ref name="natsukashi">[http://qbq.jp/ 株式会社QBQ]編 『[http://diapress.jp/archives/7402.html 懐かしスーパーファミコン パーフェクトガイド]』 [http://www.magazinebox.co.jp/ マガジンボックス](M.B.ムック)、2016年。ISBN 9784866400082 p90</ref>。新作になるほど現実性の追求から仕事はさらに複雑化する傾向にある。
シナリオモードなどを除きクリア条件は設定されておらず、半永久的にゲームを続けることができる。概ねのシリーズでは資金が一定以上マイナスになる(負債を抱える)とゲームオーバーになる([[上院議員]]に立候補という名目)。
[[セル・オートマトン]]を用いた自立環境系ゲームのはしりで、[[ライフゲーム]]のようなモデルを複数層重ね合わせる事で予測のつかないリアルな街の様子を表現している。プレイヤーがアクションを与えなくてもそれらしく状況が変化していく画期的な作品である。
[[パーソナルコンピューター]]用から[[家庭用ゲーム機]]、[[携帯電話]]などにも移植されている。日本市場のパソコン向けには[[イマジニア]]から出ているものがある。
=== 基本システム ===
<!--どの作品に登場するか番号をつけてもらえたら幸です。-->
*'''[[支持率]]''' - 市長の人気度。良い街づくりをするほど上昇していく。都市の人口を増やすには、まず支持率を上げることが不可欠である。主に'''教育'''・'''公安'''・'''防災'''・'''医療'''・'''雇用'''・'''公害'''・'''交通'''・'''公衆衛生'''・'''ライフラインの整備'''などを高めることで支持率を上昇させられる。
*'''[[租税|税金]]''' - 町の主な財源となる要素で、主に住宅税や商業税などがある。税率はプレイヤーの任意で設定することができる。高く設定しすぎると支持率が下がる一方、低くしすぎると収入が衰え町が財政破綻を起こすので注意が必要。税率の調整によって産業の発展を調整できる<ref name="natsukashi"/>。
*[[貿易]] - 他の都市に物品を輸出し、毎月一定の収入を得ることができる。ただし、例えば「石油を輸出すると火力発電所の発電量が下がる」といったデメリットも存在する。バージョンによっては同様に、一定の金額を払えば他の都市にゴミを処分してもらえる。
*[[災害]] - プレイ中には'''火災'''・'''地震'''・'''台風'''・'''UFOの襲来'''などの災害が起こり、都市が破壊される場合がある。火災だけは消防署を設置することで発生率を抑えられるが、その他は基本的に防ぎようがない。作品によってはミニゲームで被害を食い止められることもある<ref name="natsukashi"/>。
*[[地価]] - 土地の人気度を表すバロメーターで、地価が高いほど高ランクの建物が建ちやすい。地価は主に「交通の便が良いか」・「学校などが近くにあるか」・「周囲の環境は良好か」などで評価される。地価が高いほど税収が上がる効果がある。
== 主な建物 ==
;RCI+F系統
*[[住宅地]](R) - 町の主要要素の一つ。シムたちが住む場所で、町に最も多く建てられる建造物。低密度住宅・中密度住宅・高密度住宅の3つのランクがあり高いランクのものほど建てにくいが、より多くのシムが住める。
*[[商業地]](C) - 町の主要要素の一つ。シムたちの職場となり、住宅地とのバランスを考えて建てる必要がある。これも密度によって3つのランクに分けられるが、住宅地に比べて高いランクのものが建ちにくい。
*[[工業地]](I) - 町の主要要素の一つ。シムたちの職場となり、住宅地とのバランスを考えて建てる必要がある。比較的簡単に高密度の建物が建つので人口を増やしやすいが、周りの環境を汚染して公害を引き起こすというデメリットがある。
*[[農業地理学|農業地]] - 町の主要要素の一つ。工業地と同じ分類で扱われるがこちらは環境への影響はほとんどなく、とてもクリーンな産業である。しかし職場としての人気は低く人口を増やしにくいので、町の発展には不向きである。密度によるランク分けは無い。シムシティ4では低密度工業地となっている。
;公共施設
*[[学校]] - シムたちの教育を高める効果を持つ施設。同時に周囲の地価を高めるが、毎年の維持費がかかる。バージョンによっては小学校や大学、社会人向けの図書館や美術館など様々な種類がある。
*[[警察署]] - 犯罪率を低下させる効果を持つ施設。ただし毎年の維持費がかかる。刑務所と一緒に設置すれば効果が高まる<ref name="natsukashi"/>。
*[[消防署]] - 火災が起こったときに消火し、さらに周囲の火災発生率を低下させる効果を持つ施設。ただし毎年の維持費がかかる。
*[[病院]] - シムたちの健康度を引き上げ、平均寿命を延ばす効果がある施設。ただし毎年の維持費がかかる。環境が汚染されている土地に建てると効果が下がる。
*[[港湾|港]] - 工業の発展に不可欠な施設。公害が発生するほか、水辺で一定の水深が必要になるなど、建設場所には大きな制約がある。
*[[空港]] - 商業の発展に不可欠な施設。港と同様に公害を引き起こし、建設には広い土地が必要となる。
;ライフライン
*[[発電所]] - 電力の供給源で、これが不足すると町全体が廃墟になってしまうという重要な施設。様々なバリエーションがあるがいずれも建設費用が高く、デメリットが多くて扱いづらいものが多い。以下のような種類がある。
**[[火力発電所|石炭発電所]] - コストが安いのが魅力だが、大気汚染は激しい。年代によらず建てられる。
**[[火力発電所|石油発電所]] - 石炭より高出力で汚染もやや少ない。ただし若干割高。こちらも年代によらず建てられる。
**[[火力発電所|ガス発電所]] - 石炭や石油よりは出力が劣るが汚染は比較的少ない。
**[[原子力発電所]] - 大気汚染は無いが運が悪いと[[メルトダウン]]が起こり、放射能汚染を引き起こす。
**[[核融合発電所]] - 発電量が大きく大気汚染も放射能汚染も無いが、非常に高コスト。基本的には未来技術という扱いを受けており、ゲーム中の年代が21世紀にならないと利用できず、数ある発電所の中で最も登場が遅い。
**[[水力発電所]] - 値段が安く汚染も少ないが滝にしか建てられないうえ、発電量は低い。一度建てると半永久的に使えるので、これを大量に建てて終盤まで乗り切る手もある。2000のみ登場。
**[[風力発電|風力発電所]] - 値段が安くクリーンだが、面積あたりの発電量が低い。
**[[太陽光発電所]] - 発電量が大きくクリーンだが高コストである。また、天候に左右される。2000ではガスと同出力で値段は65%。
**マイクロ波発電所 - 宇宙空間にある太陽光発電所からマイクロ波として送信された電気を受け取る施設。高出力・クリーンだが、たまに送電に失敗して周辺が電子レンジ状態になってしまう。
*浄水場 - 水の供給源。水が行き届いていないところは、町の発展速度が著しく下がる。ただし、周囲の水質汚染が激しいと正常に作動しない。以下のようなバリエーションがある。
**[[給水塔]] - コストが低く建てやすい、オーソドックスな水施設。
**[[ポンプ|ポンプ場]] - コンパクトで給水量も多いが、近くに淡水の水場がないと給水量が下がる。4では地下水をくみ上げるため、どこでも給水量は変わらない。
**脱塩施設 - 海水を真水にする施設。近くに塩水の水場がないと動かない。
**水処理施設 - 水質汚染を除去する。
*[[ごみ埋め立て地]] - ごみを処分する施設。ごみの悪臭で周りの地価を下げてしまう。ただしそれ自体にはごみを処理する能力は殆ど無く、一時的な「ごみ置き場」として扱われる。置かれたごみが全て焼却場に運ばれるまでは撤去できない。
*[[焼却炉|焼却場]] - ごみを処分する施設。埋め立て地の何十倍ものスピードでごみを処理できるが、そのぶん環境への影響もかなり高い。コストはやや割高。
**エネルギー焼却炉 - ゴミを焼却しながら発電する。
*[[清掃工場|リサイクルセンター]] - 都市のゴミを減らす効果がある。
;交通
*道路 - もっとも基本的な交通手段。道路に面していない建物は発展がストップしてしまう。ただし交差点や曲がり角が多い複雑な交通網を作ってしまうと、その付近で渋滞が起こり排気ガスで大気汚染が起こるので注意が必要<ref name="natsukashi"/>。
*鉄道 - より多くの人数を輸送することに適した交通手段。車を使う人を減らし、道路の渋滞を減らす効果がある。貨物も運ぶ。
*地下鉄 - 地下に建設され駅も省スペースのため、人口密集地にも建設しやすいが高コスト。鉄道と違い旅客のみ。
*バス停 - 道路沿いに設置することで、渋滞を緩和できる。
*高速道路 - 通常の道路より車線が広く、早く移動できる。建設費と維持費は高いが立体交差なので通常の道路や線路とぶつかる心配がなく、設置しやすい。途中に料金所を設置すると渋滞が起こりやすくなるが、街に収入が入る。
;娯楽施設
*公園 - 市民の憩いの場となり、周囲の地価を高める施設。また、同時に周りの環境を大幅に改善できる。これといったデメリットは無く、優秀な施設。
== 教育への活用 ==
エレクトロニック・アーツは、シムシティを子どもたちの教育にも活用することを考えている。シリーズ第3作である『[[シムシティ3000]]』では、公式サイトで「ティーチャーズガイド」(SimCity 3000 Teacher's Guide)が公開されている<ref>{{Cite web|和書|author=Margy Kuntz|url=http://www.japan.ea.com/archive/simcity3000/guide/tips/pdf/sc3ktg.pdf|title=シムシティ3000ティーチャーズガイド|format=PDF|language=日本語 |accessdate=2007年11月10日 }}</ref>。また、初代シムシティは[[OLPC|One Laptop per Child]](OLPC)の100ドルパソコン(XO)にプリインストールされることが発表されている<ref>{{Cite web|和書|author=ITmedia News|authorlink=ITmedia|date=2007-11-9|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0711/09/news015.html|title=EA、シムシティを100ドルPCのOLPCプロジェクトに寄付|language=日本語 |accessdate=2007年11月10日 }}</ref>。
== シリーズ作品 ==
*[[シムシティー]]
*[[シムシティ2000]]
*[[シムシティ3000]]
**[[シムシティ3000#シムシティDS|シムシティDS]]
**[[シムシティ3000#シムシティDS2|シムシティDS2]]
**[[シムシティ]] - [[iPhone]]・[[iPod touch]]で提供されていた作品。
**[[シムシティ デラックス]](iPhone、iPad) - [[iPhone]]・[[iPod touch]]、[[iPad]]で提供されていた作品<ref name="SimCity BuildIt">{{Cite web|和書|url=http://www.swipe.jp/simcity-buildit-coming-to-ios-android/|title=箱庭ゲーム最新作『SimCity BuildIt』iOS/Android向けにリリース予定|publisher=swipe|date=2014-09-10|accessdate=2015-02-03}}</ref>。
**[[シムシティ3000#シムシティ クリエイター|シムシティ クリエイター]] - シリーズ初の[[Wii]]での作品。
*[[シムシティ4]] - 2003年1月にPC用として発売。
*[[シムシティ ソサエティーズ]] - 2007年11月に米豪欧で、12月に日本でPC用として発売。
*[[シムタウン]]
*シムシティ ネットワーク版 - [[iアプリ]]・[[EZアプリ]]・[[S!アプリ]]で提供されている作品。
*[[シムシティ3D]]
*#[[マクシス]]が[[エレクトロニック・アーツ]]に買収される以前の作品。現在発売中止。
*#シムシティ ネットワーク版の画像が[[3次元コンピュータグラフィックス|3D]]になったバージョン。[[FOMA]] 901i/902i対応、AUなど各機種でリリース。
*[[シムシティ (2013)]] - 2013年3月にPC用として発売。PC用としてシリーズ初のオンライン化された作品。
*[[Simcity Social]] - [[facebook]]などの[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]サイト上で、[[Adobe Flash Player]]を使って[[ウェブブラウザ]]上で遊べる、オンラインゲーム。
*[[SimCity BuildIt]] - [[App Store]]及び[[Google Play]]にて配信されているモバイル端末向けのシムシティ<ref name="SimCity BuildIt"/><ref>{{Cite web|和書|url=http://app.famitsu.com/20141223_477302/|title=【注目】都市育成の名作『SimCity』がスマホで登場! 街を手に取る操作感が新しい |publisher=[[ファミ通.com]]|date=2014-12-23|accessdate=2015-02-03}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 外部リンク ==
* [https://www.ea.com/ja-jp/games/simcity 「SimCity™」シリーズ - EA公式サイト]
* [https://www.nintendo.co.jp/wii/vc/vc_sc/ バーチャルコンソール シムシティ]
{{シムシリーズ}}
{{DEFAULTSORT:しむしていしりいす}}
[[Category:シムシリーズ|*]]
[[Category:コンピュータゲームのシリーズ]]
[[Category:Linux用ゲームソフト]]
[[Category:2003年のコンピュータゲーム]]
[[Category:2007年のコンピュータゲーム]] | 2003-05-26T15:53:31Z | 2023-10-16T12:10:17Z | false | false | false | [
"Template:Lang-en",
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"Template:コンピュータゲームシリーズ"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A0%E3%82%B7%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA |
9,372 | 名前空間 | 名前空間(なまえくうかん、英: namespace / name-space)は、名前の集合を分割することで衝突の可能性を低減しつつ参照を容易にする概念である。
この集合は、全事象の元の全ての組み合わせ可能なものからなる集合全体および物理的な名称を指すことが可能である。つまり英字・数字・記号などを組みあわせて作られる名前全てを含む集合である。名前に結び付けられる実体(型や変数や関数)は、名前がそれぞれどの集合(空間)に属するか指定されることで一意に定まる。名前空間が異なれば同じ名前でも別の実体に対応付けられる。
たとえば「一郎」という人名は日本中に何人もいるため、ひとりの人間に特定することはできない。このように、同一の名前のものが複数存在し、その区別がつかない状態を名前の衝突(名前の競合)と呼ぶ。しかし、「鈴木一郎」とフルネームで呼ぶことにより他の「佐藤一郎」や「山本一郎」といった人とは区別でき、名前の衝突を避けることができる。このとき「一郎」を単純名、「鈴木一郎」を完全限定名と呼ぶ。人名「一郎」は名前空間「鈴木」に属していると捉えることができる。また、同じ「鈴木」という姓である鈴木家の家族間では、「一郎」は暗黙的に「鈴木一郎」のことであると解釈されるため、わざわざ完全限定名の「鈴木一郎」で呼ぶ必要がない。また、予め「『一郎』とは『鈴木一郎』のことである」と宣言しておけば、その後単純名で「一郎」と呼んでも暗黙的に「鈴木一郎」だと解釈されるため、シンプルな「一郎」のみで呼ぶことができる。必要なら、「日本国東京都世田谷区○丁目○○鈴木一郎」と呼ぶことで、同姓同名の人間とも区別することができる。これらの考え方は名前空間の概念に近いものである(これは分かりやすく説明するための方便であり、名前空間とは厳密にはイコールではない)。
コンピュータプログラミングにおける名前空間は、ソースコード上で冗長な命名規則を用いなくても名前の衝突が起こらないようにし、しかもそれを容易に記述できるようにするためだけの概念であり、普通はそれ以上の意味は持っていない(上記の地名のたとえは行政上の管轄としての意味合いがあるが、プログラミング言語の名前空間には一意な名前という以上の意味合いはない)。Javaの機能、「パッケージ」では名前空間とアクセス制限、ソースファイルのディレクトリ構造の表現の機能を統合しているが、C++やC#の「純粋な」名前空間はクラスやそのメンバのアクセス制限とは無関係である。Cには名前空間を複数に分割する機能が無く、名前の衝突を避けるためにはなんらかの命名規則を用いる必要がある。
通常は文脈によって定まる名前空間が暗黙に指定される。指定したい実体に対応する名前が他の名前空間にある場合は、名前空間と名前を明示的に組み合わせることで一意に特定できる。たとえば名前bazは集合Aの中ではデータ型を表し、集合Bの中では変数を表すというように指定する。
同一のスコープに、異なる種別の構文要素で同じ名前(識別子)が出現する場合、文脈で区別する言語もある。
以下はJavaの例である。
この例では同じbazという名前を持つメソッド(関数)とフィールド(変数)が宣言されているが、doSomething()メソッド内に記述された名前bazには=演算子によって数値の代入がされており、Java処理系(コンパイラ)はそれが変数名であると文脈(context)から推定できる。ただし、このような曖昧な命名は、Java言語仕様上は合法ではあるものの、コードの可読性やメンテナンス性を損なうため、一般的には避けるべきである。違反コードには警告を出す静的コード解析ツールもある。なお、C/C++やC#、Schemeなどでは、上記のように同じ名前の関数(メソッド)と変数(フィールド)が同じスコープで再定義された時点でエラーになるか、値が束縛された名前で関数を呼び出そうとするとエラーになる。他の例としては、関数(メソッド)内で、その関数(メソッド)と同じ名前のローカル変数を定義した場合、文脈によって暗黙的に区別できるならば(それが望ましいかどうかは別として)同じ名前を使用することができる。
しかし、ひとつの名前空間の中で同名の型/同名の変数/同名の関数を複数定義すると問題が発生する。次の疑似コードのように、同じ名前の関数、Hogeを2つ定義したとする。
この場合、2つ目のHoge関数が定義された時点で、処理系は多重定義としてエラーを出す。特に複数のチームで開発を行っていると名前の衝突が起きやすい。次の例は、別々のチームで書かれた2つの関数Hoge()の名前の衝突を避けるため、関数名の先頭に「チーム名_」とつけるように取り決めた場合のものである。
これでも名前の衝突は避けられるが、呼び出しでは常にチーム名まで含めた名称で記述しなければならないため、記述も面倒でソースコードは読みにくくなってしまう。また、両方の関数をincludeしないような時には名前の衝突は起こらず、せっかくの命名規則も取り越し苦労に終わってしまう。このような場合は、2つのクラスHogeを別々の名前空間に入れる。
こうすると、上の関数Hogeの名前はTeamA.Hoge、下の関数Hogeの名前はTeamB.Hogeとなり、両者を区別できるようになる。複数のチームで開発を行う場合は、チームごとに使用する名前空間を決めておけば名前の衝突は起こらないので、それぞれのチームが自由に名前を付けることができる。しかし、ひとつのソースコード中でTeamA.HogeとTeamB.Hogeの片方だけを使う場合は、完全限定名での記述は冗長な表現となってしまう。以下の疑似コードでは、using namespace指令を使って、名前空間内の識別子をインポートし、修飾されていない単純名を使用できるようにしている。
処理系はusing namespace指令から単純名Hogeの完全限定名がTeamA.Hogeであることを推定し、単純名Hogeは完全限定名TeamA.Hogeに補完されてコンパイルが成功する。また、同一の名前空間内からの呼び出しでは単純名は自動的に補完されるため、常に単純名で記述することができる。下の例では、関数Hogeと関数Mainは同一の名前空間TeamAに属しているため、関数Mainからは単純名での記述で関数Hogeを呼び出すことができる。
オーバーロードをサポートする言語であれば、引数などのインターフェイスが異なる場合に限り、異なる関数や異なるメソッドに同じ名前を使用することができる。どのオーバーロードが使用されるかは、呼び出し時に渡す実引数の型などから文脈によって判断される。
これら名前空間およびそれに付随する概念は、プログラミング言語に限らず活用されている。例えば、EメールアドレスやURIも名前空間と同等の論理で組み立てられていることはよく知られており、このような命名の仕組みによって名前を区別、分類するようなものを、広く名前空間と呼ぶこともある。 | [
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"text": "この集合は、全事象の元の全ての組み合わせ可能なものからなる集合全体および物理的な名称を指すことが可能である。つまり英字・数字・記号などを組みあわせて作られる名前全てを含む集合である。名前に結び付けられる実体(型や変数や関数)は、名前がそれぞれどの集合(空間)に属するか指定されることで一意に定まる。名前空間が異なれば同じ名前でも別の実体に対応付けられる。",
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"text": "たとえば「一郎」という人名は日本中に何人もいるため、ひとりの人間に特定することはできない。このように、同一の名前のものが複数存在し、その区別がつかない状態を名前の衝突(名前の競合)と呼ぶ。しかし、「鈴木一郎」とフルネームで呼ぶことにより他の「佐藤一郎」や「山本一郎」といった人とは区別でき、名前の衝突を避けることができる。このとき「一郎」を単純名、「鈴木一郎」を完全限定名と呼ぶ。人名「一郎」は名前空間「鈴木」に属していると捉えることができる。また、同じ「鈴木」という姓である鈴木家の家族間では、「一郎」は暗黙的に「鈴木一郎」のことであると解釈されるため、わざわざ完全限定名の「鈴木一郎」で呼ぶ必要がない。また、予め「『一郎』とは『鈴木一郎』のことである」と宣言しておけば、その後単純名で「一郎」と呼んでも暗黙的に「鈴木一郎」だと解釈されるため、シンプルな「一郎」のみで呼ぶことができる。必要なら、「日本国東京都世田谷区○丁目○○鈴木一郎」と呼ぶことで、同姓同名の人間とも区別することができる。これらの考え方は名前空間の概念に近いものである(これは分かりやすく説明するための方便であり、名前空間とは厳密にはイコールではない)。",
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"text": "同一のスコープに、異なる種別の構文要素で同じ名前(識別子)が出現する場合、文脈で区別する言語もある。",
"title": "プログラミング"
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"text": "以下はJavaの例である。",
"title": "プログラミング"
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"text": "この例では同じbazという名前を持つメソッド(関数)とフィールド(変数)が宣言されているが、doSomething()メソッド内に記述された名前bazには=演算子によって数値の代入がされており、Java処理系(コンパイラ)はそれが変数名であると文脈(context)から推定できる。ただし、このような曖昧な命名は、Java言語仕様上は合法ではあるものの、コードの可読性やメンテナンス性を損なうため、一般的には避けるべきである。違反コードには警告を出す静的コード解析ツールもある。なお、C/C++やC#、Schemeなどでは、上記のように同じ名前の関数(メソッド)と変数(フィールド)が同じスコープで再定義された時点でエラーになるか、値が束縛された名前で関数を呼び出そうとするとエラーになる。他の例としては、関数(メソッド)内で、その関数(メソッド)と同じ名前のローカル変数を定義した場合、文脈によって暗黙的に区別できるならば(それが望ましいかどうかは別として)同じ名前を使用することができる。",
"title": "プログラミング"
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"text": "しかし、ひとつの名前空間の中で同名の型/同名の変数/同名の関数を複数定義すると問題が発生する。次の疑似コードのように、同じ名前の関数、Hogeを2つ定義したとする。",
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"text": "この場合、2つ目のHoge関数が定義された時点で、処理系は多重定義としてエラーを出す。特に複数のチームで開発を行っていると名前の衝突が起きやすい。次の例は、別々のチームで書かれた2つの関数Hoge()の名前の衝突を避けるため、関数名の先頭に「チーム名_」とつけるように取り決めた場合のものである。",
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"text": "これでも名前の衝突は避けられるが、呼び出しでは常にチーム名まで含めた名称で記述しなければならないため、記述も面倒でソースコードは読みにくくなってしまう。また、両方の関数をincludeしないような時には名前の衝突は起こらず、せっかくの命名規則も取り越し苦労に終わってしまう。このような場合は、2つのクラスHogeを別々の名前空間に入れる。",
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"text": "こうすると、上の関数Hogeの名前はTeamA.Hoge、下の関数Hogeの名前はTeamB.Hogeとなり、両者を区別できるようになる。複数のチームで開発を行う場合は、チームごとに使用する名前空間を決めておけば名前の衝突は起こらないので、それぞれのチームが自由に名前を付けることができる。しかし、ひとつのソースコード中でTeamA.HogeとTeamB.Hogeの片方だけを使う場合は、完全限定名での記述は冗長な表現となってしまう。以下の疑似コードでは、using namespace指令を使って、名前空間内の識別子をインポートし、修飾されていない単純名を使用できるようにしている。",
"title": "プログラミング"
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"text": "処理系はusing namespace指令から単純名Hogeの完全限定名がTeamA.Hogeであることを推定し、単純名Hogeは完全限定名TeamA.Hogeに補完されてコンパイルが成功する。また、同一の名前空間内からの呼び出しでは単純名は自動的に補完されるため、常に単純名で記述することができる。下の例では、関数Hogeと関数Mainは同一の名前空間TeamAに属しているため、関数Mainからは単純名での記述で関数Hogeを呼び出すことができる。",
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"text": "オーバーロードをサポートする言語であれば、引数などのインターフェイスが異なる場合に限り、異なる関数や異なるメソッドに同じ名前を使用することができる。どのオーバーロードが使用されるかは、呼び出し時に渡す実引数の型などから文脈によって判断される。",
"title": "プログラミング"
},
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"text": "これら名前空間およびそれに付随する概念は、プログラミング言語に限らず活用されている。例えば、EメールアドレスやURIも名前空間と同等の論理で組み立てられていることはよく知られており、このような命名の仕組みによって名前を区別、分類するようなものを、広く名前空間と呼ぶこともある。",
"title": "プログラミング以外の名前空間"
}
] | 名前空間は、名前の集合を分割することで衝突の可能性を低減しつつ参照を容易にする概念である。 この集合は、全事象の元の全ての組み合わせ可能なものからなる集合全体および物理的な名称を指すことが可能である。つまり英字・数字・記号などを組みあわせて作られる名前全てを含む集合である。名前に結び付けられる実体(型や変数や関数)は、名前がそれぞれどの集合(空間)に属するか指定されることで一意に定まる。名前空間が異なれば同じ名前でも別の実体に対応付けられる。 | {{複数の問題
|出典の明記=2022-01
|独自研究=2023-06
}}
{{WikipediaPage||Help:名前空間}}
'''名前空間'''(なまえくうかん、{{lang-en-short|namespace / name-space}})は、名前の集合を分割することで衝突の可能性を低減しつつ参照を容易にする概念である。
この集合は、全事象の元の全ての組み合わせ可能なものからなる[[集合]]全体および物理的な名称を指すことが可能である。つまり[[アルファベット|英字]]・[[数字]]・[[記号]]などを組みあわせて作られる[[名前]]全てを含む集合である。名前に結び付けられる実体([[データ型|型]]や[[変数 (プログラミング)|変数]]や[[サブルーチン|関数]])は、名前がそれぞれどの集合(空間)に属するか指定されることで一意に定まる。名前空間が異なれば同じ名前でも別の実体に対応付けられる。
==身近な類似例==
{{独自研究|section=1|date=2013年2月}}
たとえば「一郎」という人名は[[日本]]中に何人もいるため、ひとりの人間に特定することはできない。このように、同一の名前のものが複数存在し、その区別がつかない状態を名前の衝突(名前の競合)と呼ぶ。しかし、「鈴木一郎」とフルネームで呼ぶことにより他の「佐藤一郎」や「山本一郎」といった人とは区別でき、名前の衝突を避けることができる。{{独自研究範囲|date=2023-06|このとき「一郎」を単純名、「鈴木一郎」を完全限定名と呼ぶ。}}<!-- SJC-Pの用語を勝手に行政区分のたとえ話に持ち込んで、さも一般用語・一般論であるかのような独自理論を展開するな。 -->人名「一郎」は名前空間「鈴木」に属していると捉えることができる。また、同じ「鈴木」という[[姓]]である鈴木家の[[家族]]間では、「一郎」は暗黙的に「鈴木一郎」のことであると解釈されるため、わざわざ完全限定名の「鈴木一郎」で呼ぶ必要がない。また、予め「『一郎』とは『鈴木一郎』のことである」と宣言しておけば、その後単純名で「一郎」と呼んでも暗黙的に「鈴木一郎」だと解釈されるため、シンプルな「一郎」のみで呼ぶことができる。必要なら、「日本国東京都世田谷区○丁目○○鈴木一郎」と呼ぶことで、同姓同名の人間とも区別することができる{{efn|これは住所が同一の同姓同名人物はいないという前提に基づいている。例えば欧米では親子で同姓同名をつけることもあり、そのような親子が同居しているケースでは、住所による区別だけでは個人が一意に定まらず破綻する。同姓同名人物がルームシェアをしている場合も同様に破綻する。}}。これらの考え方は名前空間の概念に近いものである(これは分かりやすく説明するための方便であり、名前空間とは厳密にはイコールではない)。
==プログラミング==
{{独自研究|section=1|date=2023-06}}
コンピュータ[[プログラミング]]における名前空間は、[[ソースコード]]上で冗長な[[命名規則 (プログラミング)|命名規則]]を用いなくても名前の衝突が起こらないようにし、しかもそれを容易に記述できるようにするためだけの概念であり、普通はそれ以上の意味は持っていない(上記の地名のたとえは行政上の管轄としての意味合いがあるが、プログラミング言語の名前空間には一意な名前という以上の意味合いはない)。[[Java]]の機能、「[[パッケージ (Java)|パッケージ]]」では名前空間とアクセス制限、ソースファイルのディレクトリ構造の表現の機能を統合しているが、[[C++]]や[[C Sharp|C#]]の「純粋な」名前空間はクラス<!--[[クラス]]★曖昧回避にLinkせず該当項目に直接Linkを-->やそのメンバのアクセス制限とは無関係である。[[C言語|C]]には名前空間を複数に分割する機能が無く、名前の衝突を避けるためにはなんらかの命名規則を用いる必要がある。
{{独自研究範囲|date=2023-06|通常は文脈によって定まる名前空間が暗黙に指定される。指定したい実体に対応する名前が他の名前空間にある場合は、名前空間と名前を明示的に組み合わせることで一意に特定できる。たとえば名前<code>baz</code>は集合Aの中ではデータ型を表し、集合Bの中では変数を表すというように指定する。}}
同一の[[スコープ (プログラミング)|スコープ]]に、異なる種別の構文要素で同じ名前(識別子)が出現する場合、文脈で区別する言語もある。
以下はJavaの例である。
<syntaxhighlight lang="java">
public class SomeClass {
void baz() {}
int baz;
public void doSomething() {
baz = 100;
}
}
</syntaxhighlight>
この例では同じ<code>baz</code>という名前を持つ[[メソッド (計算機科学)|メソッド]](関数)と[[フィールド (計算機科学)|フィールド]](変数)が宣言されているが、<code>doSomething()</code>メソッド内に記述された名前<code>baz</code>には<code>=</code>演算子によって数値の代入がされており、Java処理系([[コンパイラ]])はそれが変数名であると文脈(context)から推定できる<ref>{{Cite web|url=https://docs.oracle.com/javase/specs/jls/se8/html/jls-6.html|title=Chapter 6. Names - Java SE 8 > Java SE Specifications > Java Language Specification|publisher=Oracle|quote=In determining the meaning of a name (§6.5), the context of the occurrence is used to disambiguate among packages, types, variables, and methods with the same name.|accessdate=2023-06-18}}</ref>。ただし、このような曖昧な命名は、Java言語仕様上は合法ではあるものの、コードの可読性やメンテナンス性を損なうため、一般的には避けるべきである。違反コードには警告を出す[[静的コード解析]]ツールもある<ref>[https://rules.sonarsource.com/java/RSPEC-1845 Java static code analysis: Methods and field names should not be the same or differ only by capitalization | SonarSource static code analysis]</ref>。なお、C/C++やC#、[[Scheme]]などでは、上記のように同じ名前の関数(メソッド)と変数(フィールド)が同じスコープで再定義された時点でエラーになるか、値が[[名前束縛|束縛された名前]]で関数を呼び出そうとするとエラーになる。他の例としては、関数(メソッド)内で、その関数(メソッド)と同じ名前の[[ローカル変数]]を定義した場合、文脈によって暗黙的に区別できるならば(それが望ましいかどうかは別として)同じ名前を使用することができる。
しかし、ひとつの名前空間の中で同名の型/同名の変数/同名の関数を複数定義すると問題が発生する。次の[[疑似コード]]のように、同じ名前の関数、Hogeを2つ定義したとする。
void Hoge() {}
void Hoge() {}
void Main() {
Hoge();
}
この場合、2つ目のHoge関数が定義された時点で、処理系は多重定義としてエラーを出す。特に複数のチームで開発を行っていると名前の衝突が起きやすい。次の例は、別々のチームで書かれた2つの関数Hoge()の名前の衝突を避けるため、関数名の先頭に「チーム名_」とつけるように取り決めた場合のものである。
void TeamA_Hoge() {}
void TeamB_Hoge() {}
void Main() {
TeamA_Hoge();
TeamB_Hoge();
}
これでも名前の衝突は避けられるが、呼び出しでは常にチーム名まで含めた名称で記述しなければならないため、記述も面倒でソースコードは読みにくくなってしまう。また、両方の関数をincludeしないような時には名前の衝突は起こらず、せっかくの命名規則も取り越し苦労に終わってしまう。このような場合は、2つのクラスHogeを別々の名前空間に入れる。
namespace TeamA {
void Hoge() {}
}
namespace TeamB {
void Hoge() {}
}
void Main() {
TeamA.Hoge();
TeamB.Hoge();
}
こうすると、上の関数Hogeの名前はTeamA.Hoge、下の関数Hogeの名前はTeamB.Hogeとなり、両者を区別できるようになる。複数のチームで開発を行う場合は、チームごとに使用する名前空間を決めておけば名前の衝突は起こらないので、それぞれのチームが自由に名前を付けることができる。しかし、ひとつのソースコード中でTeamA.HogeとTeamB.Hogeの片方だけを使う場合は、完全限定名での記述は冗長な表現となってしまう。以下の疑似コードでは、<code>using namespace</code>[[ディレクティブ|指令]]を使って、名前空間内の識別子をインポートし、修飾されていない単純名を使用できるようにしている{{efn|C++の場合は<code>using</code>宣言で名前空間内の特定の識別子を、<code>using namespace</code>指令で名前空間全体をインポートする<ref>[https://ja.cppreference.com/w/cpp/language/namespace 名前空間 - cppreference.com]</ref>。Javaの場合は<code>import</code>文を使ってパッケージ内の特定の型またはすべての型をインポートする<ref>[https://docs.oracle.com/javase/tutorial/java/package/usepkgs.html Using Package Members (The Java™ Tutorials > Learning the Java Language > Packages)]</ref>。C#では<code>using</code>指令を使うことで、その名前空間内で定義されたすべての型をインポートする<ref>[https://learn.microsoft.com/ja-jp/dotnet/csharp/language-reference/keywords/using-directive using ディレクティブ - C# リファレンス | Microsoft Learn]</ref>。なお、C++では名前空間スコープに直接変数や関数を定義することができ、またそのような関数は自由関数(free function)とも呼ばれる<ref>[https://learn.microsoft.com/en-us/cpp/cpp/functions-cpp Functions (C++) | Microsoft Learn]</ref>。一方、JavaやC#では名前空間スコープに直接フィールドやメソッドを定義することはできず、必ず何らかの型に所属させる必要がある。}}。
using namespace TeamA;
void Main() {
Hoge();
}
処理系は<code>using namespace</code>指令から単純名Hogeの完全限定名がTeamA.Hogeであることを推定し、単純名Hogeは完全限定名TeamA.Hogeに補完されてコンパイルが成功する。また、同一の名前空間内からの呼び出しでは単純名は自動的に補完されるため、常に単純名で記述することができる。下の例では、関数Hogeと関数Mainは同一の名前空間TeamAに属しているため、関数Mainからは単純名での記述で関数Hogeを呼び出すことができる。
namespace TeamA {
void Hoge() {}
void Main() {
Hoge(); // TeamA.Hogeの呼び出しだとみなされる
}
}
オーバーロードをサポートする言語であれば、引数などのインターフェイスが異なる場合に限り、異なる関数や異なるメソッドに同じ名前を使用することができる。どのオーバーロードが使用されるかは、呼び出し時に渡す実引数の型などから文脈によって判断される。
==プログラミング以外の名前空間==
これら名前空間およびそれに付随する概念は、プログラミング言語に限らず活用されている。例えば、E[[メールアドレス]]や[[Uniform Resource Identifier|URI]]も名前空間と同等の論理で組み立てられていることはよく知られており、このような命名の仕組みによって名前を区別、分類するようなものを、広く名前空間と呼ぶこともある。
# [[Uniform Resource Identifier|URI]]のスキームの名前空間は[[Internet Assigned Numbers Authority|IANA]]が管理している。
# [[Extensible Markup Language|XML]]の名前空間は、要素名などが重複することのないように整理された空間。xmlns属性などで名前空間を宣言する。例えば、「<html:p>」と記述されたタグでは、「html」が名前空間接頭辞で「p」が要素名を表す。
# [[ウィキペディア]]を含む[[MediaWiki]]の使用サイトにおいては、{{srlink|Help:名前空間}}のようなページの種類を区分する名前空間の一覧がある。例えば「Help:名前空間」という項目名においては、「Help」が名前空間、「名前空間」が名前である。この記事自体が、同名の項目でも、名前空間により書かれている内容が異なるものの一例として挙げることができる。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
==関連項目==
* [[スコープ (プログラミング)]]
* [[命名規則 (プログラミング)]]
{{DEFAULTSORT:なまえくうかん}}
[[Category:プログラミング]]
[[Category:メタデータ]]
[[Category:プログラミング言語の構文]]
[[Category:命名規則]] | 2003-05-26T15:57:10Z | 2023-09-23T18:42:00Z | false | false | false | [
"Template:Srlink",
"Template:Cite web",
"Template:複数の問題",
"Template:独自研究",
"Template:Efn",
"Template:Notelist",
"Template:Reflist",
"Template:WikipediaPage",
"Template:Lang-en-short",
"Template:独自研究範囲"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%89%8D%E7%A9%BA%E9%96%93 |
9,373 | A列車で行こうシリーズ | 『A列車で行こうシリーズ』は、アートディンクが開発した都市構築型の経営シミュレーションゲーム(ミニスケープ)のシリーズである。
『A列車で行こう2001』の発売を直前に控えた2000年12月13日に「A列車シリーズ構想」を発表した。『A列車で行こう2003〜(仮)』を皮切りに超高速なブロードバンド・ネットワーク上に構築された仮想世界において、プレイヤー間でのマップを共有、「経済」の概念を導入、プレイヤー間での土地や車両の売買、物件の競売、投資なども可能とし、本格的なネットゲームへと移行すると発表した。
しかし様々な事情によりネットゲームへの移行は無期限凍結の後中止され、現状のスタンドアローン方式を引き続き採用したシリーズがリリースされている。『HX』において車両のネット販売など、限定的にネットを利用したシステムが採用されているが、2014年現在においても本格ネットゲームへの移行を基にした「A列車シリーズ構想」は未定のままとなっている。
1985年12月発売 対応機種 FM-7、PC-8800、PC-9800、X1Turbo、MZ-2500、ファミリーコンピュータ、MSX2版はポニーキャニオンから1989年に発売。メガドライブ、他 Windows 95/98対応版 2000年4月発売。初期のものは大半がBASICでかかれ、処理の大きな一部のみがアセンブラで書かれていた。
大統領官邸から別荘までの大陸横断鉄道を、大統領列車の移動も含めて、1年間に建設するというゲーム。昼間のみ線路建設が可能なA列車を用いて線路を建設していく。闇雲に建設していくだけではたちまち経営破綻するため、いかに利益を生み出す路線を建設できるかが重要であり、パズルゲーム的なシステムが含まれていた。初級、中級、上級の3種類のマップが用意されている。また、上級では山岳部分にトンネルを掘る必要があり、A列車や線路が全く見えない状態で貫通させる必要があった。2013年9月24日からPC-8801版が、2015年5月26日からはFM-7版が、それぞれプロジェクトEGGにて配信されている。
1988年7月発売 対応機種 PC-9800、X68000
初代A列車で行こうの強化発展版。シリーズ第一弾がアメリカと思しき一国だったのに対し、アメリカ編・中国編・シベリア編・日本列島編・ヨーロッパ編の5種類のマップを選択できるようになった。前作での、移動距離と利益についての考慮がなされていない・A列車のあるところにしか駅を作れない等の問題点も改善されている。一度線路を敷設した後、撤去した場所には家が建ちやすいという整地と呼ばれるテクニックがあった。また、当時の最新鋭機VXシリーズでは、データをセーブできないバグがあった。シリーズ中唯一、廉価版や別プラットフォームで移植、再発売されていない作品である。2014年1月14日より、X68000版がプロジェクトEGGにて配信されている。
1990年12月発売 対応機種:PC-9800、 DOS/V(PC/AT)、FM-TOWNS、X68000、PCエンジン、Windows 95/98対応版 2000年3月発売。
システムとゲーム内容が大幅に見直され、目的地に向けて線路を建設していくという従来のパズルゲーム的な要素から、鉄道経営をメインとしたシミュレーションゲームへと内容が大幅に変化した。現在に至るA列車シリーズの源流となった作品である。鉄道路線を建設し会社を運営しながら、オフィスビルやホテルなどの様々な子会社を経営し都市全体の発展を目指す。ゲーム画面は、2Dトップビューから、クォータービューへと変化し、当時としては非常に美しい町並みだった。またインターフェイスは、メニューアイコンから様々なウィンドウを呼び出すマルチウィンドウタイプとなり、当時のMS-DOSゲームとしては大変珍しい物だった。これまでは客車列車、貨物列車、A列車、大統領等の専用列車の4種類しかなかったが、これ以降様々な種類の実在する列車がゲーム上で扱われていくことになった。なお、FM-TOWNS版は『A.III.マップコンストラクション』が本体に同梱。また、同時期にスーパーファミコンにプラットフォームを移行したバージョンである「A列車で行こうIII スーパーバージョン」(ラベル表記は「A3SV」)も発売された。2014年5月13日よりPC-9801版が、2020年1月21日よりPCエンジン版が、それぞれプロジェクトEGGにて配信されている。
1993年12月発売 対応機種:PC-9800、FM-TOWNS、Windows 3.1、Windows 95以降各種。
IIIのシステムが、さらに大幅に拡張され、高架橋の概念や鉄道路線の立体交差がサポートされ、線路敷設の自由度が大幅に増した。また、道路の建設やバス・モノレールの運行ができるようになっている。また、高層ビルの影になった部分が見えない等の問題に対処し、画面が90度単位で視点移動できるようになった。ヘイトカットと呼ばれる概念が導入され、任意の高度で都市を輪切りにした状態で、マップの開発が可能になるなど、インターフェイスもさらに高度化している。後年の『A列車で行こう7』はこの作品を現代のテクノロジーで作り直すというコンセプトで制作された。1993年の日本ソフトウェア大賞ゲームソフト部門最優秀賞受賞作品。その他受賞歴:日経WinPC読者が選ぶパソコン・ベスト・ソフト「WINDOWSゲームソフト部門」BEST SOFT賞受賞。
2000年3月17日に『A列車で行こう4 15th ANNIVERSARY』(対応機種:Windows 95/Windows 98)、2004年3月26日に『A列車で行こう 4 XP対応版』(対応機種:Windows 98/Windows Me/Windows 2000/Windows XP)が発売された。いずれもゲーム内容は初代Windows版と同一の廉価版。2014年8月19日より、PC-9801版がプロジェクトEGGにて配信されている。
1994年12月3日発売 対応機種:PlayStation
PC版のほぼ完全移植にあたるが、グラフィックや音源等は根本から再録されており、家庭用機独自の追加要素がある。後にベスト版も発売されている。特に作り上げた街を3Dポリゴン表示で眺められる3Dビューモードはユーザーに強く印象を残すことになり、後のシリーズにも影響を与え続けている。PC版とのメモリ性能差により描写スピード等は遅く感じられるが、インターフェイス、グラフィックや音源の質はそのものは向上している。PlayStation本体と同時発売したローンチタイトルでもあり、またデータ容量は当時としては良くも悪くも極めて大きなものとなった。なお本作に収録されているデフォルトBGMの一つである「街角の女」は、アレンジされつつ後のシリーズにほぼすべて収録されており、以後シリーズの看板BGMとなる。
PSマウス、マウスパッド、メモリーカードがセットになった限定記念セットも発売された。
1995年11月発売 対応機種:PlayStation、PS3/PSP
『A列車で行こうIV エヴォリューション』の各国発売にあわせ、言語を複数収録したインターナショナルバージョン。日本語、英語、ドイツ語、フランス語から選べるようになり、各国の有名列車の追加や各国の地形を模した15種類の新規マップが追加された。各国言語を選択した場合はゲーム中のメッセージ以外にもデータ読み込み時の表記なども全て選択言語で表示される他、文化的特色もグラフィックに反映され、子会社施設も各国の特色にあわせたものとなっており、3Dビューモードにおいてもそれらがポリゴンモデルとして反映されている。なお、収録BGMは前作『EVOLUTION』のアレンジ版になっている。後にベスト版が発売されたほか、2007年1月25日にはゲームアーカイブスで配信開始された。レイティングはCERO:A(全年齢対象)。
1996年12月発売 対応機種:Windows 95各種
子会社の数が増え、これまでの経営シミュレーションを踏襲しつつも、新しい交通機関としてヘリコプター、トラックが加わり、ゲーム内での時計が15分ずつ進み従来より1日のサイクルが長くなるなど鉄道運行シミュレーションとしての要素も見られるようになった。2Dトップビュー(上空からの俯瞰)と3Dビューを併用し、マップ上で運行されている乗り物を選び「乗車」を選択すると3Dで走行シーンや前面展望を楽しむこともできる。Windows 95版ではプレイできるマップのひとつに東京臨海副都心が収録されていたが、別途に3Dアクセラレーターボード"PowerVR"を必要とした。上記3D仕様のため、作り上げた街を自由な角度から眺められるようになり、メーカーと雑誌のコラボ企画であるフォトコンテスト等も開催された。なお、本作からタイトルの通し番号が今までのローマ数字表記からアラビア数字表記になった。
本作品のコンセプチュアル・アートはシド・ミードで、プレイヤーが経営する会社が一兆円の資産を達成したときにタイトルロールでも流れる。
1997年12月発売 対応機種:Windows 95各種
DirectXに対応した上記A列車で行こう5のリニューアル版。DirectX3Dの研究やビデオカードの改良等も進み、特殊仕様であったPower VRが不要となった。なお、1997年当時においてインテリマウスのスクロールに対応した数少ないソフトだった。後にWindows 98対応の「A列車で行こう5 完全版 ETERNAL」が発売された。
1997年12月発売 対応機種:PlayStation、PS3/PSP
PC版のほぼ完全移植にあたる家庭用機版。基本仕様はPC版と同じだが、家庭用機版とPC版では3Dビュー表示における街の描写や雰囲気が異なる。パソコン版は比較的処理が軽く動きも滑らかだが、道の表示やビルの描き込みが無機質的で、どこか幾何学模様のような雰囲気になるのに対し、家庭用機版は実際の街の雰囲気がリアルに描写されている。処理は重いものの3Dビュー表示における建物や都市の描写はむしろパソコン版よりも精密である。3Dポリゴンの描写能力は家庭用機種としての限界から、遠くの物が描写されない仕様ではあったが、3Dビューを高画質で記録できるモードも追加されている。また、オプショナルツアーで使われるBGM「A5Tours」はワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団による演奏である。2007年4月26日にはゲームアーカイブスでも配信開始された。レイティング(評価)はCERO:A(全年齢対象)。一部の楽曲はアートディンクが1994年に発売したPC98用ゲーム「HR2」に収録された物をアレンジしたものである。
また、ディスクはCDプレーヤーなどで再生できる。
1999年5月発売 対応機種:PlayStation
PlayStation用。5をベースにしながらも、都市シミュレータの色合いが濃くなってきた後期A列車の流れにおいて、初代A列車のようにゲーム全体を通して一貫した最終目的やストーリーを設けた異色作。父である鉄道王の遺志を継ぎ、ライバル会社よりも先に大陸横断鉄道を完成させるのが目的となる。ゲームは大きく3パートに分かれており、各々のパートの目的を完遂させつつ最終目標を目指す。プレイヤーは街の運営に直接は携われず、基本的に鉄道を運営することに邁進するのみ。資金の枯渇によるゲームオーバーがないことも特徴である。2017年11月22日にはゲームアーカイブスでも配信開始された。レイティングはCERO:A(全年齢対象)。
2006年6月発売 対応機種:PlayStation Portable
『A列車で行こうZ』のリメイク版。登場キャラクターが写実的だったPlayStation版と比較してアニメ調になっており、内容も新規ユーザーに受け入れられやすくするためか、やや軽めになっている。
2000年3月4日発売 対応機種:PlayStation 2
この作品からPS2へ参入。なお、本作品は日本におけるPS2のローンチタイトル10作品のひとつでもある。BGMを収録したサウンドトラックも発売された。
グラフィックは大幅に向上し、従来作品では切り替えが必要であった2Dマップ、パース表示、3D空間などの独立したインターフェースが本作では統合され、例えば3D空間を真上から見渡すように視点移動すると2Dマップ表示になるといったシームレスな画面遷移を実現している。
本作および2001は「鉄道を中心とした都市の発展」に重点が置かれ、プレイヤーに求められるものは「鉄道の建設」と「産業の誘致」の2項目のみという、シンプルなゲーム性となっている。III以降に実装されていた納税や決算、株式投資などといった要素は全て切り捨てられ、プレイヤー自身が能動的に都市開発をすることなく新システム「Emotional City System」(ECS)によって都市が自動発展するようになり、購入した土地に産業を誘致(農業・住宅・工業・商業・観光・無条件から選べる)することである程度はプレイヤーの意向も反映させられるものの、都市開発の要素も大幅に削られて街の運営に直接は携われなくなり、プレイの感覚は大幅に変化した。
産業同士にはそれぞれ相性があり、工業を誘致した駅と住宅を誘致した駅を隣接させることで双方の発展を促す相乗効果を生む一方で、工業を誘致した駅と商業を誘致した駅を隣接させた場合はあまり発展しないといった相性の悪い組み合わせもある。
鉄道建設においてもシンプルさが追求され、線路を敷設できるのは地表と高さが固定されている高架の2階層のみで、トンネルや地下鉄の建設はできず、シーサスクロッシングなど複雑な分岐器の設定もできない。また、道路も敷設できず(自動発展で建設される)、バスやトラックを走行させることもできない。
本作および2001は経営の要素が大幅に切り捨てられたことから行政管理シミュレーションの色が強い作風ではあるが、それらを切り捨てたことで1年がコンパクトにまとめられ、ゲーム内の時間進行も非常に速かった従来作品と比べて大幅に遅くなった 。従来作品では時刻の最小単位が1時間(III・IV)もしくは15分(V)であったが、本作での時刻の最小単位は1分となり、標準速度でゲーム内の1時間は実時間約30秒(約120倍速、1日約12分)で進むようになった。これに伴い、通勤ラッシュ時に列車を増発するなどのきめ細やかなダイヤ設定が可能になり、住宅地と工業地を結ぶ路線を通勤時間帯に合わせたダイヤ設定にすることで住宅地がより発展するなど、ダイヤ設定の重要性が大きくなっている。
詳細は「A列車で行こう2001」を参照
2001年3月8日発売 対応機種:PlayStation 2
『A6』のバージョンアップ版。PlayStation BB Unit等のハードディスクにインストールやデータのセーブができるほか、パソコンとネットワーク接続してスクリーンショットを保存できる「スナップショット」機能を備える。A6との相違点として資材の重要度が大幅に上がり、資材が不足した状態が続くとその駅周辺の発展が停滞もしくは衰退するようになった。なお、シリーズでは初めて駅に旅客が描写されるようになった。PlayStation BB Unitを介して新たな車両を追加出来る「トレインキット」も発売されており、2002年には2001とトレインキットをセットにした「A列車で行こう2001 パーフェクトセット」が発売された。
2003年6月19日発売 対応機種:Windows 95/98/Me/2000/XP/Vista/7
A列車で行こう2001のWindows移植版。パワーアップキットでの車両追加や、マップエディタも搭載。
DoCoMo 504i/505i/506i/900iなどで遊べるiアプリ版A列車。ダイヤの概念が無く、1本の線路上で電車同士の追い抜きもすれ違いも可能。分岐も作れない。また、駅は13 - 16個しか設置できない。駅を作れば、街が発展していく。待ち受けアプリに設定すれば、眺めているだけで街が発展していく。また、ネットワーク接続によるサービス提供が謳われていた。上級、中級などのマップからなる「基本マップランキング」、都道府県をモチーフにした「全国マップランキング」があり、個人成績ランキングではそれらを総合した人口ランキングなどがあった。また、自由に建物等を設置できる「箱庭モード」もあり、マップ別瞬間最大人口ランキングはこの箱庭モードも含んだランキングであったため、事実上各マップの(理論上の)最大人口が記録されていた。たとえば「自然」マップの最高は8972万人、「北海道」の最高人口は2351万人であったが、これは単位あたり最高人口を誇るマンションユニットを地図全体に敷き詰めた場合であり、実際のプレイでは達成不可能。実際のプレイにおいては、基本マップランキングでは「自然」マップの3049万人、全国マップランキングでは「北海道」マップにおける860万人(人口密度は実に5756.24に達していた)が最高であったが、通常は理論上の最大人口の20〜30分の1の人口となるものがほとんどであった。なお、全国マップは都道府県をモチーフにしているとはいえ、その県の一部だけが表現されている場合が多々あり、現実の面積は反映されていなかった(例えば前述の北海道マップは最大面積をもつ長野マップの1/4程の有効面積しか持たなかった)。
利用料金は、315円(税込)/月。販売元はハドソンであった。2012年3月をもってサービス終了。
2005年2月26日発売 対応機種:Windows XP、Windows Vista
鉄道運行シミュレーションとしての色合いを強めた『6』において大幅に削られた子会社や納税、決算、株式投資などの要素が復活し、1年が365日で構成される経営シミュレーションに回帰した。フル3D作品ではなく、列車等の一部が3Dであり他グラフィックは2Dで描かれており『4』の後継作と言えるが、時間進行は標準速度で1時間≒実時間2秒(1日約48秒、約1800倍速)と『5』と同程度である。
auのBREW端末対応版A列車。基本的なゲームシステムは上述の『i』とほぼ同様。ただし、ネットワークを活用したゲームシステムではないことと、待ち受け画面に設定できない点や、駅の上限16個(マップ外につながるトンネルを含む)列車の上限20個までと、若干仕様が異なる。プログラムをダウンロードするとその後はスタンドアローンで楽しむことができる(買い切り制)ため、料金はダウンロード時のパケット代とダウンロード代のみである。また、リジューム機能に対応し、ゲームを中断しても最大3日分(ゲーム内時間1年)をシミュレーションして再開することができる。
利用料金は、525円(税込)/1ダウンロード。販売元はハドソン。2006年1月26日サービス開始。
2006年12月21日、Xbox 360用ソフトとして発売。
基本的にPC版『7』の3Dバージョンである。A列車で行こう2001のように360度方向から眺めることができる。車両、建物等のグラフィックはA列車で行こう7のものと同じで、システムもほとんど変化していない。ただし、車両はオリジナル車両が10車両含まれているだけで、150種類の実在車両はXbox Liveを使用した有料販売となった。有料販売の車両は1種類:50マイクロソフトポイント(75円/税込)である。有料販売の配信が遅れていたが2007年12月5日、発売後一年近く経って、ようやくすべての車両が購入可能になった。2013年1月に配信サービスが終了したことで、2013年6月27日に150種類の実在車両の入った完全版が発売される。
問題点として、表示される文字が小さすぎてブラウン管テレビでは認識できないことがある。対処法としてはハイビジョンテレビにHD出力して使うか、「Xbox 360 VGA HD AV ケーブル」を使用してPCモニターを画面として使うことが有効である。
2008年3月21日発売 対応機種:Windows XP、Windows Vista
ナンバリングの付いたシリーズだが、内容は『A列車で行こうHX』のPC移植版である。
2009年4月23日発売 対応機種:ニンテンドーDS、ニンテンドー3DS
シリーズで初めて携帯ゲーム機向けに開発された作品。ハードの性能上リアルな鉄道が表現できないため、今作は「都市開発」と「経営」に重点を置いたシステムになっている。実在の車両は一切登場せず、今作では鉄道車両を開発する概念が新たに登場した。
福利厚生の充実といった社員の士気向上や、株式公開、車両開発、そして過去のナンバリングタイトルではプロジェクトとなっていた新幹線誘致などが、新要素「プラン」として登場した。
2010年2月11日発売 対応機種:Windows XP、Windows Vista、Windows 7、Windows 8、また、アップデートパッチを使用することにより64bit版OSにも対応(「Version 1.00 Build 150」以降)。
当初は1月29日に発売予定だったが、諸事情により2月11日に延期となった。
今作から車両の長さが10両編成まで対応することができ、より実際の車両に近くなった。納税、決算、株式投資といった鉄道経営シミュレーションとしての要素は踏襲されつつもゲーム内の時間進行速度は450倍と比較的遅くなっている。しかし『6』系統(120倍)よりは速く、マップが大幅に広くなった(10km四方)ことから相対的にも速く感じられることから『6』系統より鉄道運行シミュレーションの要素は薄い。また、グラフィック面は大幅に強化されつつも、遊びやすさを重視して鉄道・道路施設(線路・道路・駅・車両)は他の建物と比較してスケールが2倍とデフォルメされている。
時間進行速度については、アップデートパッチ(無料)により「時間拡張」が実装され、マップコントラクションにおいてゲーム内の時間の流れを変更(遅く)できるようになり、標準の「450」倍以外に『6』系統に相当する「120倍」のみならず更に遅い「60倍」・「30倍」から選択出来るようになり、プレイヤーの好みに応じて鉄道運行シミュレーションの色合いを濃くすることが可能となった。
2010年10月8日には拡張パック第1弾として「A列車で行こう9 建物キット」が発売された。同日に本体と「建物キット」の同梱版、「A列車で行こう9 with 建物キット」も発売。また、翌年の12月23日には拡張パック第2弾、「A列車で行こう9 建物キット2nd」が発売され、同日に本体と「建物キット」が2本セットとなった、「A列車で行こう9 完全版」も発売。
特に、2012年12月7日に発売されたA列車で行こう9 Version2.0 プロフェッショナルでは、ユーザーからの要望が多かった鉄道・道路施設のスケールを他の建物と同等にする機能(スケール1:1モード)や、『8』以降削られた架線柱の設置など、多くの新要素が追加された。
以降、2014年6月27日にA列車で行こう9 Version3.0 プレミアムが、更に2015年6月19日にはA列車で行こう9 Version4.0 マスターズが発売され、2015年12月11日には、これまでテレビゲームソフトや前面展望映像の商品に対して商品化許諾を一切出していなかったJR東海の方針転換を受け、同社の新幹線・在来線車両を収録した拡張パック第3弾、「JR東海パック」が発売された。
2018年9月6日に、A列車で行こう9 Version5.0 ファイナルが発売された。また、このVersion5.0ファイナルからWindows XPとWindows Vista、Windows 7やWindows 8の32-Bit版は動作対象外とされた。2021年9月17日からExp+コンプリートの車両と、追加で8車両を収録した車両キットが公式通販でダウンロード販売され、10月1日からパッケージ版が販売開始した。なお同時に、V5コンプリートパックが車両キットを含むコンプリートパックDXへ改定された。2022年4月22日は、新たに25種類の車両が入った車両キット2ndが発売された。
2017年12月21日発売 対応機種:PlayStation 4、PlayStation VR
『9』のPlayStation 4移植版。『2001』の発売以来16年ぶりとなる、据え置き型のPlayStationシリーズ作品である。新機能として、鉄道模型モードや、フライトモード、ガイドムービーが追加されたほか、全国の新幹線をはじめとした、新規車両(JR東海所属車両を含む)や、新規建物も収録された。
その後、2019年11月14日にはA列車9V5の内容を取り込んだA列車で行こうExp.+が、2020年7月15日には更に車両が追加されたA列車で行こうExp.+ コンプリートが、それぞれ発売された。
2014年2月13日発売 対応機種:ニンテンドー3DS
当初は2011年発売を予定していたが、2013年に変更された。評判の良かったニンテンドーDS版よりも品質を向上させる方向で開発を進めた結果、当初2013年12月12日発売を予定していたが、「より良い品質でお客様へお届けするため」として再度2014年発売へと延期された。
2016年12月1日発売。上記の「A列車で行こう3D」をNewニンテンドー3DS本体の処理能力向上に合わせてゲーム内の処理も高速化・最適化などに対応させたものでDLCの全シナリオが収録されていること以外にゲーム内容に変更はない。無印とのデータ互換性はある。なお無印版もDLC無しということ以外はA列車で行こう 3D NEO相当にアップデートできる。 。「NEW」専用ではなく従来の3DSでも遊べるが高速化の恩恵はない。
2016年12月15日発売。上記の「A列車で行こう3D」をPC向けに対応させたものでありグラフィックの解像度が4倍となった。ゲームオーバーにならないフリーモード、無印とDLCの全シナリオ収録の他オリジナルシナリオが3つ追加されている。自作シナリオ配布やライバルデータ配布も可能。
初代「A列車で行こう」をスマートフォン向けにリニューアルした有料配信アプリ。
【利用料】 480円(税込・通信費別)
【対応基本機種】 iOS:iPhone5S以降、Android:バージョン4.4以上
前述の「はじめてのA列車で行こう」を相模鉄道とのコラボレーション企画化した、スマートフォン向け無料アプリ。2018年12月13日よりApp Store、Google Playにて配信開始。
線路の敷設や駅の建設を行い、1年以内に20000系列車をゴール駅まで無事に届けることが目標。「二俣川駅→横浜駅」「横浜駅→湘南台駅」「海老名駅→横浜駅」の3マップが用意されている。
2021年12月20日をもって配信終了となったが、すでにインストールされているものに関しては2022年5月現在も引き続きプレイが可能となっている。
対応機種 iOS:iPhone 5S以降、Android:バージョン4.4以上
2021年3月12日発売 対応機種:Nintendo Switch、Steam、iOS、Android
A列車シリーズ35周年記念作品。「DS」「3D」に続く”箱庭系A列車”の系譜である。今回新たに「観光」の概念が加えられ、隣街から観光客を呼び込むことができる。さらに車両のカスタマイズ幅が広がり、カラーリング、装備、ラッピングといったデザインを行うことができる。キャラクターデザインは日向悠二。モバイル版は、オンライン接続が必要となる。
2022年11月3日発売 対応機種:Nintendo Switch
上記「A列車で行こう はじまる観光計画」の追加DLC(ダウンロードコンテンツ)である。日本国内に実在する鉄道車両や、各種施設などが追加された。 | [
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"text": "『A列車で行こうシリーズ』は、アートディンクが開発した都市構築型の経営シミュレーションゲーム(ミニスケープ)のシリーズである。",
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"text": "『A列車で行こう2001』の発売を直前に控えた2000年12月13日に「A列車シリーズ構想」を発表した。『A列車で行こう2003〜(仮)』を皮切りに超高速なブロードバンド・ネットワーク上に構築された仮想世界において、プレイヤー間でのマップを共有、「経済」の概念を導入、プレイヤー間での土地や車両の売買、物件の競売、投資なども可能とし、本格的なネットゲームへと移行すると発表した。",
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"text": "しかし様々な事情によりネットゲームへの移行は無期限凍結の後中止され、現状のスタンドアローン方式を引き続き採用したシリーズがリリースされている。『HX』において車両のネット販売など、限定的にネットを利用したシステムが採用されているが、2014年現在においても本格ネットゲームへの移行を基にした「A列車シリーズ構想」は未定のままとなっている。",
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"text": "1985年12月発売 対応機種 FM-7、PC-8800、PC-9800、X1Turbo、MZ-2500、ファミリーコンピュータ、MSX2版はポニーキャニオンから1989年に発売。メガドライブ、他 Windows 95/98対応版 2000年4月発売。初期のものは大半がBASICでかかれ、処理の大きな一部のみがアセンブラで書かれていた。",
"title": "シリーズの変遷"
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"text": "大統領官邸から別荘までの大陸横断鉄道を、大統領列車の移動も含めて、1年間に建設するというゲーム。昼間のみ線路建設が可能なA列車を用いて線路を建設していく。闇雲に建設していくだけではたちまち経営破綻するため、いかに利益を生み出す路線を建設できるかが重要であり、パズルゲーム的なシステムが含まれていた。初級、中級、上級の3種類のマップが用意されている。また、上級では山岳部分にトンネルを掘る必要があり、A列車や線路が全く見えない状態で貫通させる必要があった。2013年9月24日からPC-8801版が、2015年5月26日からはFM-7版が、それぞれプロジェクトEGGにて配信されている。",
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"text": "1988年7月発売 対応機種 PC-9800、X68000",
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"text": "初代A列車で行こうの強化発展版。シリーズ第一弾がアメリカと思しき一国だったのに対し、アメリカ編・中国編・シベリア編・日本列島編・ヨーロッパ編の5種類のマップを選択できるようになった。前作での、移動距離と利益についての考慮がなされていない・A列車のあるところにしか駅を作れない等の問題点も改善されている。一度線路を敷設した後、撤去した場所には家が建ちやすいという整地と呼ばれるテクニックがあった。また、当時の最新鋭機VXシリーズでは、データをセーブできないバグがあった。シリーズ中唯一、廉価版や別プラットフォームで移植、再発売されていない作品である。2014年1月14日より、X68000版がプロジェクトEGGにて配信されている。",
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"text": "1990年12月発売 対応機種:PC-9800、 DOS/V(PC/AT)、FM-TOWNS、X68000、PCエンジン、Windows 95/98対応版 2000年3月発売。",
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"text": "システムとゲーム内容が大幅に見直され、目的地に向けて線路を建設していくという従来のパズルゲーム的な要素から、鉄道経営をメインとしたシミュレーションゲームへと内容が大幅に変化した。現在に至るA列車シリーズの源流となった作品である。鉄道路線を建設し会社を運営しながら、オフィスビルやホテルなどの様々な子会社を経営し都市全体の発展を目指す。ゲーム画面は、2Dトップビューから、クォータービューへと変化し、当時としては非常に美しい町並みだった。またインターフェイスは、メニューアイコンから様々なウィンドウを呼び出すマルチウィンドウタイプとなり、当時のMS-DOSゲームとしては大変珍しい物だった。これまでは客車列車、貨物列車、A列車、大統領等の専用列車の4種類しかなかったが、これ以降様々な種類の実在する列車がゲーム上で扱われていくことになった。なお、FM-TOWNS版は『A.III.マップコンストラクション』が本体に同梱。また、同時期にスーパーファミコンにプラットフォームを移行したバージョンである「A列車で行こうIII スーパーバージョン」(ラベル表記は「A3SV」)も発売された。2014年5月13日よりPC-9801版が、2020年1月21日よりPCエンジン版が、それぞれプロジェクトEGGにて配信されている。",
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"text": "1993年12月発売 対応機種:PC-9800、FM-TOWNS、Windows 3.1、Windows 95以降各種。",
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"text": "IIIのシステムが、さらに大幅に拡張され、高架橋の概念や鉄道路線の立体交差がサポートされ、線路敷設の自由度が大幅に増した。また、道路の建設やバス・モノレールの運行ができるようになっている。また、高層ビルの影になった部分が見えない等の問題に対処し、画面が90度単位で視点移動できるようになった。ヘイトカットと呼ばれる概念が導入され、任意の高度で都市を輪切りにした状態で、マップの開発が可能になるなど、インターフェイスもさらに高度化している。後年の『A列車で行こう7』はこの作品を現代のテクノロジーで作り直すというコンセプトで制作された。1993年の日本ソフトウェア大賞ゲームソフト部門最優秀賞受賞作品。その他受賞歴:日経WinPC読者が選ぶパソコン・ベスト・ソフト「WINDOWSゲームソフト部門」BEST SOFT賞受賞。",
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"text": "2000年3月17日に『A列車で行こう4 15th ANNIVERSARY』(対応機種:Windows 95/Windows 98)、2004年3月26日に『A列車で行こう 4 XP対応版』(対応機種:Windows 98/Windows Me/Windows 2000/Windows XP)が発売された。いずれもゲーム内容は初代Windows版と同一の廉価版。2014年8月19日より、PC-9801版がプロジェクトEGGにて配信されている。",
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"text": "1994年12月3日発売 対応機種:PlayStation",
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"text": "PC版のほぼ完全移植にあたるが、グラフィックや音源等は根本から再録されており、家庭用機独自の追加要素がある。後にベスト版も発売されている。特に作り上げた街を3Dポリゴン表示で眺められる3Dビューモードはユーザーに強く印象を残すことになり、後のシリーズにも影響を与え続けている。PC版とのメモリ性能差により描写スピード等は遅く感じられるが、インターフェイス、グラフィックや音源の質はそのものは向上している。PlayStation本体と同時発売したローンチタイトルでもあり、またデータ容量は当時としては良くも悪くも極めて大きなものとなった。なお本作に収録されているデフォルトBGMの一つである「街角の女」は、アレンジされつつ後のシリーズにほぼすべて収録されており、以後シリーズの看板BGMとなる。",
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"text": "PSマウス、マウスパッド、メモリーカードがセットになった限定記念セットも発売された。",
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"text": "1995年11月発売 対応機種:PlayStation、PS3/PSP",
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"text": "『A列車で行こうIV エヴォリューション』の各国発売にあわせ、言語を複数収録したインターナショナルバージョン。日本語、英語、ドイツ語、フランス語から選べるようになり、各国の有名列車の追加や各国の地形を模した15種類の新規マップが追加された。各国言語を選択した場合はゲーム中のメッセージ以外にもデータ読み込み時の表記なども全て選択言語で表示される他、文化的特色もグラフィックに反映され、子会社施設も各国の特色にあわせたものとなっており、3Dビューモードにおいてもそれらがポリゴンモデルとして反映されている。なお、収録BGMは前作『EVOLUTION』のアレンジ版になっている。後にベスト版が発売されたほか、2007年1月25日にはゲームアーカイブスで配信開始された。レイティングはCERO:A(全年齢対象)。",
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"text": "1996年12月発売 対応機種:Windows 95各種",
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"text": "子会社の数が増え、これまでの経営シミュレーションを踏襲しつつも、新しい交通機関としてヘリコプター、トラックが加わり、ゲーム内での時計が15分ずつ進み従来より1日のサイクルが長くなるなど鉄道運行シミュレーションとしての要素も見られるようになった。2Dトップビュー(上空からの俯瞰)と3Dビューを併用し、マップ上で運行されている乗り物を選び「乗車」を選択すると3Dで走行シーンや前面展望を楽しむこともできる。Windows 95版ではプレイできるマップのひとつに東京臨海副都心が収録されていたが、別途に3Dアクセラレーターボード\"PowerVR\"を必要とした。上記3D仕様のため、作り上げた街を自由な角度から眺められるようになり、メーカーと雑誌のコラボ企画であるフォトコンテスト等も開催された。なお、本作からタイトルの通し番号が今までのローマ数字表記からアラビア数字表記になった。",
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"text": "本作品のコンセプチュアル・アートはシド・ミードで、プレイヤーが経営する会社が一兆円の資産を達成したときにタイトルロールでも流れる。",
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"text": "1997年12月発売 対応機種:Windows 95各種",
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"text": "DirectXに対応した上記A列車で行こう5のリニューアル版。DirectX3Dの研究やビデオカードの改良等も進み、特殊仕様であったPower VRが不要となった。なお、1997年当時においてインテリマウスのスクロールに対応した数少ないソフトだった。後にWindows 98対応の「A列車で行こう5 完全版 ETERNAL」が発売された。",
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"text": "1997年12月発売 対応機種:PlayStation、PS3/PSP",
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"text": "PC版のほぼ完全移植にあたる家庭用機版。基本仕様はPC版と同じだが、家庭用機版とPC版では3Dビュー表示における街の描写や雰囲気が異なる。パソコン版は比較的処理が軽く動きも滑らかだが、道の表示やビルの描き込みが無機質的で、どこか幾何学模様のような雰囲気になるのに対し、家庭用機版は実際の街の雰囲気がリアルに描写されている。処理は重いものの3Dビュー表示における建物や都市の描写はむしろパソコン版よりも精密である。3Dポリゴンの描写能力は家庭用機種としての限界から、遠くの物が描写されない仕様ではあったが、3Dビューを高画質で記録できるモードも追加されている。また、オプショナルツアーで使われるBGM「A5Tours」はワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団による演奏である。2007年4月26日にはゲームアーカイブスでも配信開始された。レイティング(評価)はCERO:A(全年齢対象)。一部の楽曲はアートディンクが1994年に発売したPC98用ゲーム「HR2」に収録された物をアレンジしたものである。",
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"text": "また、ディスクはCDプレーヤーなどで再生できる。",
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"text": "1999年5月発売 対応機種:PlayStation",
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"text": "PlayStation用。5をベースにしながらも、都市シミュレータの色合いが濃くなってきた後期A列車の流れにおいて、初代A列車のようにゲーム全体を通して一貫した最終目的やストーリーを設けた異色作。父である鉄道王の遺志を継ぎ、ライバル会社よりも先に大陸横断鉄道を完成させるのが目的となる。ゲームは大きく3パートに分かれており、各々のパートの目的を完遂させつつ最終目標を目指す。プレイヤーは街の運営に直接は携われず、基本的に鉄道を運営することに邁進するのみ。資金の枯渇によるゲームオーバーがないことも特徴である。2017年11月22日にはゲームアーカイブスでも配信開始された。レイティングはCERO:A(全年齢対象)。",
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"text": "2006年6月発売 対応機種:PlayStation Portable",
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"text": "『A列車で行こうZ』のリメイク版。登場キャラクターが写実的だったPlayStation版と比較してアニメ調になっており、内容も新規ユーザーに受け入れられやすくするためか、やや軽めになっている。",
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"text": "2000年3月4日発売 対応機種:PlayStation 2",
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"text": "この作品からPS2へ参入。なお、本作品は日本におけるPS2のローンチタイトル10作品のひとつでもある。BGMを収録したサウンドトラックも発売された。",
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"text": "グラフィックは大幅に向上し、従来作品では切り替えが必要であった2Dマップ、パース表示、3D空間などの独立したインターフェースが本作では統合され、例えば3D空間を真上から見渡すように視点移動すると2Dマップ表示になるといったシームレスな画面遷移を実現している。",
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"text": "本作および2001は「鉄道を中心とした都市の発展」に重点が置かれ、プレイヤーに求められるものは「鉄道の建設」と「産業の誘致」の2項目のみという、シンプルなゲーム性となっている。III以降に実装されていた納税や決算、株式投資などといった要素は全て切り捨てられ、プレイヤー自身が能動的に都市開発をすることなく新システム「Emotional City System」(ECS)によって都市が自動発展するようになり、購入した土地に産業を誘致(農業・住宅・工業・商業・観光・無条件から選べる)することである程度はプレイヤーの意向も反映させられるものの、都市開発の要素も大幅に削られて街の運営に直接は携われなくなり、プレイの感覚は大幅に変化した。",
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"text": "産業同士にはそれぞれ相性があり、工業を誘致した駅と住宅を誘致した駅を隣接させることで双方の発展を促す相乗効果を生む一方で、工業を誘致した駅と商業を誘致した駅を隣接させた場合はあまり発展しないといった相性の悪い組み合わせもある。",
"title": "シリーズの変遷"
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"text": "鉄道建設においてもシンプルさが追求され、線路を敷設できるのは地表と高さが固定されている高架の2階層のみで、トンネルや地下鉄の建設はできず、シーサスクロッシングなど複雑な分岐器の設定もできない。また、道路も敷設できず(自動発展で建設される)、バスやトラックを走行させることもできない。",
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"text": "本作および2001は経営の要素が大幅に切り捨てられたことから行政管理シミュレーションの色が強い作風ではあるが、それらを切り捨てたことで1年がコンパクトにまとめられ、ゲーム内の時間進行も非常に速かった従来作品と比べて大幅に遅くなった 。従来作品では時刻の最小単位が1時間(III・IV)もしくは15分(V)であったが、本作での時刻の最小単位は1分となり、標準速度でゲーム内の1時間は実時間約30秒(約120倍速、1日約12分)で進むようになった。これに伴い、通勤ラッシュ時に列車を増発するなどのきめ細やかなダイヤ設定が可能になり、住宅地と工業地を結ぶ路線を通勤時間帯に合わせたダイヤ設定にすることで住宅地がより発展するなど、ダイヤ設定の重要性が大きくなっている。",
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"text": "詳細は「A列車で行こう2001」を参照",
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"text": "2001年3月8日発売 対応機種:PlayStation 2",
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"text": "『A6』のバージョンアップ版。PlayStation BB Unit等のハードディスクにインストールやデータのセーブができるほか、パソコンとネットワーク接続してスクリーンショットを保存できる「スナップショット」機能を備える。A6との相違点として資材の重要度が大幅に上がり、資材が不足した状態が続くとその駅周辺の発展が停滞もしくは衰退するようになった。なお、シリーズでは初めて駅に旅客が描写されるようになった。PlayStation BB Unitを介して新たな車両を追加出来る「トレインキット」も発売されており、2002年には2001とトレインキットをセットにした「A列車で行こう2001 パーフェクトセット」が発売された。",
"title": "シリーズの変遷"
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"text": "2003年6月19日発売 対応機種:Windows 95/98/Me/2000/XP/Vista/7",
"title": "シリーズの変遷"
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"text": "A列車で行こう2001のWindows移植版。パワーアップキットでの車両追加や、マップエディタも搭載。",
"title": "シリーズの変遷"
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"text": "DoCoMo 504i/505i/506i/900iなどで遊べるiアプリ版A列車。ダイヤの概念が無く、1本の線路上で電車同士の追い抜きもすれ違いも可能。分岐も作れない。また、駅は13 - 16個しか設置できない。駅を作れば、街が発展していく。待ち受けアプリに設定すれば、眺めているだけで街が発展していく。また、ネットワーク接続によるサービス提供が謳われていた。上級、中級などのマップからなる「基本マップランキング」、都道府県をモチーフにした「全国マップランキング」があり、個人成績ランキングではそれらを総合した人口ランキングなどがあった。また、自由に建物等を設置できる「箱庭モード」もあり、マップ別瞬間最大人口ランキングはこの箱庭モードも含んだランキングであったため、事実上各マップの(理論上の)最大人口が記録されていた。たとえば「自然」マップの最高は8972万人、「北海道」の最高人口は2351万人であったが、これは単位あたり最高人口を誇るマンションユニットを地図全体に敷き詰めた場合であり、実際のプレイでは達成不可能。実際のプレイにおいては、基本マップランキングでは「自然」マップの3049万人、全国マップランキングでは「北海道」マップにおける860万人(人口密度は実に5756.24に達していた)が最高であったが、通常は理論上の最大人口の20〜30分の1の人口となるものがほとんどであった。なお、全国マップは都道府県をモチーフにしているとはいえ、その県の一部だけが表現されている場合が多々あり、現実の面積は反映されていなかった(例えば前述の北海道マップは最大面積をもつ長野マップの1/4程の有効面積しか持たなかった)。",
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"text": "利用料金は、315円(税込)/月。販売元はハドソンであった。2012年3月をもってサービス終了。",
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"text": "2005年2月26日発売 対応機種:Windows XP、Windows Vista",
"title": "シリーズの変遷"
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"text": "鉄道運行シミュレーションとしての色合いを強めた『6』において大幅に削られた子会社や納税、決算、株式投資などの要素が復活し、1年が365日で構成される経営シミュレーションに回帰した。フル3D作品ではなく、列車等の一部が3Dであり他グラフィックは2Dで描かれており『4』の後継作と言えるが、時間進行は標準速度で1時間≒実時間2秒(1日約48秒、約1800倍速)と『5』と同程度である。",
"title": "シリーズの変遷"
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"text": "auのBREW端末対応版A列車。基本的なゲームシステムは上述の『i』とほぼ同様。ただし、ネットワークを活用したゲームシステムではないことと、待ち受け画面に設定できない点や、駅の上限16個(マップ外につながるトンネルを含む)列車の上限20個までと、若干仕様が異なる。プログラムをダウンロードするとその後はスタンドアローンで楽しむことができる(買い切り制)ため、料金はダウンロード時のパケット代とダウンロード代のみである。また、リジューム機能に対応し、ゲームを中断しても最大3日分(ゲーム内時間1年)をシミュレーションして再開することができる。",
"title": "シリーズの変遷"
},
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"text": "利用料金は、525円(税込)/1ダウンロード。販売元はハドソン。2006年1月26日サービス開始。",
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"text": "2006年12月21日、Xbox 360用ソフトとして発売。",
"title": "シリーズの変遷"
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"text": "基本的にPC版『7』の3Dバージョンである。A列車で行こう2001のように360度方向から眺めることができる。車両、建物等のグラフィックはA列車で行こう7のものと同じで、システムもほとんど変化していない。ただし、車両はオリジナル車両が10車両含まれているだけで、150種類の実在車両はXbox Liveを使用した有料販売となった。有料販売の車両は1種類:50マイクロソフトポイント(75円/税込)である。有料販売の配信が遅れていたが2007年12月5日、発売後一年近く経って、ようやくすべての車両が購入可能になった。2013年1月に配信サービスが終了したことで、2013年6月27日に150種類の実在車両の入った完全版が発売される。",
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"text": "問題点として、表示される文字が小さすぎてブラウン管テレビでは認識できないことがある。対処法としてはハイビジョンテレビにHD出力して使うか、「Xbox 360 VGA HD AV ケーブル」を使用してPCモニターを画面として使うことが有効である。",
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"text": "2008年3月21日発売 対応機種:Windows XP、Windows Vista",
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"text": "ナンバリングの付いたシリーズだが、内容は『A列車で行こうHX』のPC移植版である。",
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"text": "2009年4月23日発売 対応機種:ニンテンドーDS、ニンテンドー3DS",
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"text": "シリーズで初めて携帯ゲーム機向けに開発された作品。ハードの性能上リアルな鉄道が表現できないため、今作は「都市開発」と「経営」に重点を置いたシステムになっている。実在の車両は一切登場せず、今作では鉄道車両を開発する概念が新たに登場した。",
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"text": "福利厚生の充実といった社員の士気向上や、株式公開、車両開発、そして過去のナンバリングタイトルではプロジェクトとなっていた新幹線誘致などが、新要素「プラン」として登場した。",
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"text": "2010年2月11日発売 対応機種:Windows XP、Windows Vista、Windows 7、Windows 8、また、アップデートパッチを使用することにより64bit版OSにも対応(「Version 1.00 Build 150」以降)。",
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"text": "当初は1月29日に発売予定だったが、諸事情により2月11日に延期となった。",
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"text": "今作から車両の長さが10両編成まで対応することができ、より実際の車両に近くなった。納税、決算、株式投資といった鉄道経営シミュレーションとしての要素は踏襲されつつもゲーム内の時間進行速度は450倍と比較的遅くなっている。しかし『6』系統(120倍)よりは速く、マップが大幅に広くなった(10km四方)ことから相対的にも速く感じられることから『6』系統より鉄道運行シミュレーションの要素は薄い。また、グラフィック面は大幅に強化されつつも、遊びやすさを重視して鉄道・道路施設(線路・道路・駅・車両)は他の建物と比較してスケールが2倍とデフォルメされている。",
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"text": "時間進行速度については、アップデートパッチ(無料)により「時間拡張」が実装され、マップコントラクションにおいてゲーム内の時間の流れを変更(遅く)できるようになり、標準の「450」倍以外に『6』系統に相当する「120倍」のみならず更に遅い「60倍」・「30倍」から選択出来るようになり、プレイヤーの好みに応じて鉄道運行シミュレーションの色合いを濃くすることが可能となった。",
"title": "シリーズの変遷"
},
{
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"text": "2010年10月8日には拡張パック第1弾として「A列車で行こう9 建物キット」が発売された。同日に本体と「建物キット」の同梱版、「A列車で行こう9 with 建物キット」も発売。また、翌年の12月23日には拡張パック第2弾、「A列車で行こう9 建物キット2nd」が発売され、同日に本体と「建物キット」が2本セットとなった、「A列車で行こう9 完全版」も発売。",
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},
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"text": "特に、2012年12月7日に発売されたA列車で行こう9 Version2.0 プロフェッショナルでは、ユーザーからの要望が多かった鉄道・道路施設のスケールを他の建物と同等にする機能(スケール1:1モード)や、『8』以降削られた架線柱の設置など、多くの新要素が追加された。",
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},
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"text": "以降、2014年6月27日にA列車で行こう9 Version3.0 プレミアムが、更に2015年6月19日にはA列車で行こう9 Version4.0 マスターズが発売され、2015年12月11日には、これまでテレビゲームソフトや前面展望映像の商品に対して商品化許諾を一切出していなかったJR東海の方針転換を受け、同社の新幹線・在来線車両を収録した拡張パック第3弾、「JR東海パック」が発売された。",
"title": "シリーズの変遷"
},
{
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"text": "2018年9月6日に、A列車で行こう9 Version5.0 ファイナルが発売された。また、このVersion5.0ファイナルからWindows XPとWindows Vista、Windows 7やWindows 8の32-Bit版は動作対象外とされた。2021年9月17日からExp+コンプリートの車両と、追加で8車両を収録した車両キットが公式通販でダウンロード販売され、10月1日からパッケージ版が販売開始した。なお同時に、V5コンプリートパックが車両キットを含むコンプリートパックDXへ改定された。2022年4月22日は、新たに25種類の車両が入った車両キット2ndが発売された。",
"title": "シリーズの変遷"
},
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"text": "2017年12月21日発売 対応機種:PlayStation 4、PlayStation VR",
"title": "シリーズの変遷"
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"text": "『9』のPlayStation 4移植版。『2001』の発売以来16年ぶりとなる、据え置き型のPlayStationシリーズ作品である。新機能として、鉄道模型モードや、フライトモード、ガイドムービーが追加されたほか、全国の新幹線をはじめとした、新規車両(JR東海所属車両を含む)や、新規建物も収録された。",
"title": "シリーズの変遷"
},
{
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"tag": "p",
"text": "その後、2019年11月14日にはA列車9V5の内容を取り込んだA列車で行こうExp.+が、2020年7月15日には更に車両が追加されたA列車で行こうExp.+ コンプリートが、それぞれ発売された。",
"title": "シリーズの変遷"
},
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"text": "2014年2月13日発売 対応機種:ニンテンドー3DS",
"title": "シリーズの変遷"
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{
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"text": "当初は2011年発売を予定していたが、2013年に変更された。評判の良かったニンテンドーDS版よりも品質を向上させる方向で開発を進めた結果、当初2013年12月12日発売を予定していたが、「より良い品質でお客様へお届けするため」として再度2014年発売へと延期された。",
"title": "シリーズの変遷"
},
{
"paragraph_id": 68,
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"text": "2016年12月1日発売。上記の「A列車で行こう3D」をNewニンテンドー3DS本体の処理能力向上に合わせてゲーム内の処理も高速化・最適化などに対応させたものでDLCの全シナリオが収録されていること以外にゲーム内容に変更はない。無印とのデータ互換性はある。なお無印版もDLC無しということ以外はA列車で行こう 3D NEO相当にアップデートできる。 。「NEW」専用ではなく従来の3DSでも遊べるが高速化の恩恵はない。",
"title": "シリーズの変遷"
},
{
"paragraph_id": 69,
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"text": "2016年12月15日発売。上記の「A列車で行こう3D」をPC向けに対応させたものでありグラフィックの解像度が4倍となった。ゲームオーバーにならないフリーモード、無印とDLCの全シナリオ収録の他オリジナルシナリオが3つ追加されている。自作シナリオ配布やライバルデータ配布も可能。",
"title": "シリーズの変遷"
},
{
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"text": "初代「A列車で行こう」をスマートフォン向けにリニューアルした有料配信アプリ。",
"title": "シリーズの変遷"
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{
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"text": "【利用料】 480円(税込・通信費別)",
"title": "シリーズの変遷"
},
{
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"text": "【対応基本機種】 iOS:iPhone5S以降、Android:バージョン4.4以上",
"title": "シリーズの変遷"
},
{
"paragraph_id": 73,
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"text": "前述の「はじめてのA列車で行こう」を相模鉄道とのコラボレーション企画化した、スマートフォン向け無料アプリ。2018年12月13日よりApp Store、Google Playにて配信開始。",
"title": "シリーズの変遷"
},
{
"paragraph_id": 74,
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"text": "線路の敷設や駅の建設を行い、1年以内に20000系列車をゴール駅まで無事に届けることが目標。「二俣川駅→横浜駅」「横浜駅→湘南台駅」「海老名駅→横浜駅」の3マップが用意されている。",
"title": "シリーズの変遷"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "2021年12月20日をもって配信終了となったが、すでにインストールされているものに関しては2022年5月現在も引き続きプレイが可能となっている。",
"title": "シリーズの変遷"
},
{
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"tag": "p",
"text": "対応機種 iOS:iPhone 5S以降、Android:バージョン4.4以上",
"title": "シリーズの変遷"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "2021年3月12日発売 対応機種:Nintendo Switch、Steam、iOS、Android",
"title": "シリーズの変遷"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "A列車シリーズ35周年記念作品。「DS」「3D」に続く”箱庭系A列車”の系譜である。今回新たに「観光」の概念が加えられ、隣街から観光客を呼び込むことができる。さらに車両のカスタマイズ幅が広がり、カラーリング、装備、ラッピングといったデザインを行うことができる。キャラクターデザインは日向悠二。モバイル版は、オンライン接続が必要となる。",
"title": "シリーズの変遷"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "2022年11月3日発売 対応機種:Nintendo Switch",
"title": "シリーズの変遷"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "上記「A列車で行こう はじまる観光計画」の追加DLC(ダウンロードコンテンツ)である。日本国内に実在する鉄道車両や、各種施設などが追加された。",
"title": "シリーズの変遷"
}
] | 『A列車で行こうシリーズ』は、アートディンクが開発した都市構築型の経営シミュレーションゲーム(ミニスケープ)のシリーズである。 | {{コンピュータゲームシリーズ
| タイトル = A列車で行こう
| 画像 =
| 開発元 = [[アートディンク]]
| 発売元 = [[アートディンク]]他
| ジャンル = [[シミュレーションゲーム]]
| 製作者 =
| 1作目 = A列車で行こう
| 1作目発売日 = [[1985年]]12月
| 最新作 = A列車で行こう はじまる観光計画
| 最新作発売日 =[[2021年]]3月12日
| スピンオフ作品 =
| 公式サイトURL = https://www.studioartdink.co.jp/index.php
| 公式サイトタイトル=https://www.studioartdink.co.jp/index.php - 株式会社スタジオアートディンク
}}
『'''A列車で行こうシリーズ'''』は、[[アートディンク]]が開発した都市構築型の[[経営シミュレーションゲーム]]([[ミニスケープ]])のシリーズである。
==歴史==
;[[1980年]]代 - シリーズ初期
:[[1986年]][[12月]]に[[パソコンゲーム|PC用ゲーム]]として発売。当初は[[鉄道]]をモチーフにした[[パズルゲーム]]の性質が強かったが、[[1990年]]に発売された第3作からクォータービューを使った形の都市構築型ゲームに転換した。この第3作『A列車で行こうIII』がヒットし、[[日本]]だけでなく[[ドイツ]]や[[アメリカ合衆国|アメリカ]]でも数々のゲームアワードを受賞したため、シリーズの方向性を決定づけることになった。[[1992年]]には英語版が、[[1993年]]にはアートディンクの[[ゲーム機|家庭用ゲーム機]]初参入第一弾として[[PCエンジン]][[SUPER CD-ROM2|SUPER CD-ROM<sup>2</sup>]]版が、[[1995年]]には[[スーパーファミコン]]版『A列車で行こう3 スーパーバージョン』([[マーベラスインタラクティブ|パック・イン・ビデオ]])も発売されている。
;[[1990年]]代 - シリーズ中期
:[[1994年]]に[[発売]]された『A列車で行こう4 EVOLUTION』([[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]])では、本シリーズでも人気の高い、3Dで作った町が眺められる「車窓モード」が追加された。その後もマイナーチェンジバージョンである『A列車で行こう4 EVOLUTION グローバル』を発売。翌年には[[パーソナルコンピュータ|PC]]版『5』の後、[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]版『5』を発売した。
;[[2000年]]代時点でのシリーズ状況
:『6』以降では、プラットフォームを[[PlayStation 2|PS2]]へと移行。[[PlayStation 2|PS2]]の演算能力をフルに使用した鉄道経営、都市発展[[シミュレーションゲーム]]へと進化した。最も際立っているのは、そのグラフィックである。通常画面が、フル[[ポリゴン]]の3Dへと進化、太陽の位置により光の具合が変化する。また、「'''Emotional City System'''」と呼ばれる都市発展[[システム]]を搭載。これによって、列車の運行状況、資材の状況、さらに近隣駅の産業との関係などの様々な要素を、都市の発展へとつなげていく。このシステムの特徴は、同じ線路配置で、同じ車両を使用し、同じ運行状況を作り出したとしても、絶対に同じ都市発展は行われないことである。『6』以降は、[[i-mode]]を搭載した携帯電話の普及に伴い『A列車で行こう i』が発表。また、2001のPC移植、発展バージョンとなる、『A列車で行こう The 21st Century』が発売されている。[[2005年]][[2月26日]]、『A列車で行こう7』がPCゲームとして発売された。この『7』では、再び『4』のゲームシステムに戻り、『6』から『21C』までの流れとは全く別の方向に進むことになった。以降『7』続き『HX』『8』『DS』『9』と、主に4の経営型シミュレーションのシステムと3Dのビジュアルを生かしたシリーズ展開となっている。
===「A列車シリーズ構想」===
『[[A列車で行こう2001]]』の発売を直前に控えた[[2000年]][[12月13日]]に「A列車シリーズ構想」を発表<ref>[http://www.artdink.co.jp/japanese/title/a2001/frame99.html アートディンク公式ページ内、A列車シリーズ構想について]</ref>した。『A列車で行こう2003〜(仮)』を皮切りに超高速な[[ブロードバンドインターネット接続|ブロードバンド・ネットワーク]]上に構築された仮想世界において、プレイヤー間でのマップを共有、「経済」の概念を導入、プレイヤー間での[[土地]]や[[車両]]の[[売買]]、物件の[[競売]]、[[投資]]なども可能とし、本格的なネットゲームへと移行すると発表した。
しかし様々な事情によりネットゲームへの移行は無期限凍結の後中止され、現状の[[スタンドアローン]]方式を引き続き採用したシリーズがリリースされている。『HX』において[[車両]]の[[ネット販売]]など、限定的にネットを利用したシステムが採用されているが、2014年現在においても本格ネットゲームへの移行を基にした「A列車シリーズ構想」は未定のままとなっている。
==シリーズの変遷==
{{Timeline of release years
| title = 発売の時系列
| subtitle = 太字:メインタイトル 斜体:リメイク・移植等
| 1985 = '''A列車で行こう'''
| 1988 = '''A列車で行こうII'''
| 1990 = '''A列車で行こうIII'''
| 1993 = '''A列車で行こうIV'''
| 1994 = ''A.IV.EVOLUTION''
| 1995a = ''A.IV.EVOLUTION GLOBAL''
| 1995b = '''A列車で行こう5'''
| 1997 = ''A列車で行こう5 完全版/家庭用版''
| 1999 = '''A列車で行こうZ -めざせ!大陸横断-'''
| 2000 = '''A列車で行こう6'''
| 2001 = ''A列車で行こう2001''
| 2003 = ''A列車で行こう The 21st Century''
| 2005 = '''A列車で行こう7'''
| 2006a = ''リサと一緒に大陸横断 〜A列車で行こう〜''
| 2006b = '''A列車で行こうHX'''
| 2008 = ''A列車で行こう8''
| 2009 = '''A列車で行こうDS'''
| 2010 = '''A列車で行こう9'''
| 2012 = ''A列車で行こう9 Version2.0 プロフェッショナル''
| 2014a= '''A列車で行こう3D'''
| 2014b = ''A列車で行こう9 version3.0 プレミアム''
| 2015 = ''A列車で行こう9 version4.0 マスターズ''
| 2016a = ''A列車で行こう3D NEO''
| 2016b = ''みんなのA列車で行こうPC''
| 2017 = ''A列車で行こうExp.''
| 2018a= ''A列車で行こう9 version5.0 ファイナル''
| 2018b= '''はじめてのA列車で行こう'''
| 2018c= ''相鉄線で行こう''
| 2019 = ''A列車で行こうExp.+''
| 2020 = ''A列車で行こうExp.+ コンプリート''
|2021='''A列車で行こう はじまる観光計画'''
|2022='''A列車で行こう ひろがる観光ライン'''}}
=== A列車で行こう===
[[1985年]]12月発売 対応機種 [[FM-7]]、[[PC-8800]]、[[PC-9800]]、[[X1 (コンピュータ)#X1turboシリーズ|X1Turbo]]、[[MZ-2500]]、[[ファミリーコンピュータ]]、[[MSX|MSX2]]版は[[ポニーキャニオン]]から1989年に発売。[[メガドライブ]]、他 [[Microsoft Windows 95|Windows 95]]/[[Microsoft Windows 98|98]]対応版 [[2000年]]4月発売。初期のものは大半が[[BASIC]]でかかれ、処理の大きな一部のみが[[アセンブラ]]で書かれていた。
[[ホワイトハウス|大統領官邸]]から別荘までの[[大陸横断鉄道]]を、大統領列車の移動も含めて、1年間に建設するというゲーム。昼間のみ線路建設が可能なA列車を用いて線路を建設していく。闇雲に建設していくだけではたちまち経営破綻するため、いかに利益を生み出す路線を建設できるかが重要であり、パズルゲーム的なシステムが含まれていた<ref group="注">途中、線路建設が出来ない耕地などが存在し、これらはその付近まで線路・駅を建設し、該当する地域の人口を増やすことによって耕地から変更させねばならない等、様々な要素があった。</ref>。初級、中級、上級の3種類のマップが用意されている。また、上級では[[山岳]]部分に[[トンネル]]を掘る必要があり、A列車や線路が全く見えない状態で貫通させる必要があった<ref>当時ゲームにあまり詳しくなかった開発陣が力任せに作った一作である。(『SLG解体新書』p.150)</ref>。[[2013年]][[9月24日]]からPC-8801版が<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.amusement-center.com/project/egg/2013/09/24/%e3%80%8ea%e5%88%97%e8%bb%8a%e3%81%a7%e8%a1%8c%e3%81%93%e3%81%86%e3%80%8f%e3%80%8e%e3%82%af%e3%83%aa%e3%83%a0%e3%82%be%e3%83%b3ii-%e2%88%92%e9%82%aa%e7%a5%9e%e3%81%ae%e9%80%86%e8%a5%b2%e2%88%92/|title=『A列車で行こう』『クリムゾンII −邪神の逆襲−』の配信を開始|publisher=[[D4エンタープライズ]]|date=2013年9月24日|accessdate=2018-08-13}}</ref>、[[2015年]][[5月26日]]からはFM-7版が<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.amusement-center.com/project/egg/2015/05/26/%e3%80%8ea%e5%88%97%e8%bb%8a%e3%81%a7%e8%a1%8c%e3%81%93%e3%81%86fm-7%e7%89%88%e3%80%8f%e3%80%8e%e3%82%a2%e3%83%a1%e3%83%aa%e3%82%ab%e3%83%b3%e3%83%88%e3%83%a9%e3%83%83%e3%82%afmsx%e7%89%88%e3%83%bb/|title=『A列車で行こう(FM-7版)』『アメリカントラック(MSX版・Windows8.1対応版)』配信開始|publisher=[[D4エンタープライズ]]|date=2015年5月26日|accessdate=2018-08-13}}</ref>、それぞれ[[プロジェクトEGG]]にて配信されている。
===A列車で行こうII===
[[1988年]]7月発売 対応機種 [[PC-9800]]、[[X68000]]
初代A列車で行こうの強化発展版。シリーズ第一弾が[[アメリカ合衆国|アメリカ]]と思しき一国だったのに対し、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]編・[[中国]]編・[[シベリア]]編・[[日本列島]]編・[[ヨーロッパ]]編の5種類のマップを選択できるようになった。前作での、移動距離と[[利益]]についての考慮がなされていない・A列車のあるところにしか駅を作れない等の問題点も改善されている。一度線路を敷設した後、撤去した場所には家が建ちやすいという整地と呼ばれるテクニックがあった。また、当時の最新鋭機VXシリーズでは、[[データ]]をセーブできない[[バグ]]があった。シリーズ中唯一、[[廉価版]]や別[[プラットフォーム_(コンピューティング)|プラットフォーム]]で移植、再発売されていない作品である。[[2014年]][[1月14日]]より、X68000版がプロジェクトEGGにて配信されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.amusement-center.com/project/egg/2014/01/14/%e3%80%8ea%e5%88%97%e8%bb%8a%e3%81%a7%e8%a1%8c%e3%81%93%e3%81%86ii%ef%bc%88x68000%ef%bc%89%e3%80%8f%e9%85%8d%e4%bf%a1%e9%96%8b%e5%a7%8b/|title=『A列車で行こうII(X68000)』配信開始|publisher=[[D4エンタープライズ]]|date=2014年1月14日|accessdate=2018-08-13}}</ref>。
===A列車で行こうIII===
[[1990年]]12月発売 対応機種:[[PC-9800]]、 [[DOS/V(PC/AT)]]、[[FM-TOWNS]]、[[X68000]]、[[PCエンジン]]、[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]/[[Microsoft Windows 98|98]]対応版 [[2000年]]3月発売。
システムとゲーム内容が大幅に見直され、目的地に向けて線路を建設していくという従来のパズルゲーム的な要素から、鉄道経営をメインとしたシミュレーションゲームへと内容が大幅に変化した。現在に至るA列車シリーズの源流となった作品である。鉄道路線を建設し会社を運営しながら、[[オフィスビル]]やホテルなどの様々な[[子会社]]を経営し都市全体の発展を目指す。ゲーム画面は、[[2次元コンピュータグラフィックス|2D]]トップビューから、クォータービューへと変化し、当時としては非常に美しい町並みだった<ref>アートディンクの河西克重曰く、''「作る手間を想像したりするととても作る気になれないな」''と言うものをあえて制作し、世間に驚きを与えたかったとのこと。(『SLG解体新書』p.154)</ref>。また[[インターフェイス]]は、メニューアイコンから様々なウィンドウを呼び出すマルチウィンドウタイプとなり、当時のMS-DOSゲームとしては大変珍しい物だった。これまでは客車列車、貨物列車、A列車、大統領等の専用列車の4種類しかなかったが、これ以降様々な種類の実在する列車がゲーム上で扱われていくことになった。なお、[[FM-TOWNS]]版は『A.III.マップコンストラクション』が本体に同梱。また、同時期にスーパーファミコンにプラットフォームを移行したバージョンである「A列車で行こうIII スーパーバージョン」(ラベル表記は「A3SV」)も発売された。[[2014年]][[5月13日]]よりPC-9801版が<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.amusement-center.com/project/egg/2014/05/13/%e3%80%8ea%e5%88%97%e8%bb%8a%e3%81%a7%e8%a1%8c%e3%81%93%e3%81%86iii%ef%bc%88pc-9801%ef%bc%89%e3%80%8f%e3%80%8e%e3%82%af%e3%83%aa%e3%83%a0%e3%82%be%e3%83%b3%ef%bc%88pc-8801%ef%bc%89%e3%80%8f%e9%85%8d/|title=『A列車で行こうIII(PC-9801)』『クリムゾン(PC-8801)』配信開始|publisher=[[D4エンタープライズ]]|date=2014年5月13日|accessdate=2018-08-13}}</ref>、[[2020年]][[1月21日]]よりPCエンジン版が<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.amusement-center.com/project/egg/2020/01/21/%e3%80%8ea%e5%88%97%e8%bb%8a%e3%81%a7%e8%a1%8c%e3%81%93%e3%81%86iii%ef%bc%88pc%e3%82%a8%e3%83%b3%e3%82%b8%e3%83%b3%e7%89%88%ef%bc%89%e3%80%8f%e3%83%97%e3%83%ad%e3%82%b8%e3%82%a7%e3%82%af%e3%83%88egg/|title=『A列車で行こうIII(PCエンジン版)』プロジェクトEGGにて配信開始|publisher=[[D4エンタープライズ]]|date=2020年1月21日|accessdate=2020-01-22}}</ref>、それぞれプロジェクトEGGにて配信されている。
===A列車で行こうIV===
[[1993年]]12月発売 対応機種:[[PC-9800]]、[[FM-TOWNS]]、[[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.1]]、[[Microsoft Windows|Windows 95以降]]各種。
IIIのシステムが、さらに大幅に拡張され、[[高架橋]]の概念や鉄道路線の[[立体交差]]がサポートされ、線路敷設の自由度が大幅に増した。また、道路の建設やバス・[[モノレール]]の運行ができるようになっている。また、高層ビルの影になった部分が見えない等の問題に対処し、画面が90度単位で視点移動できるようになった。ヘイトカットと呼ばれる概念が導入され、任意の高度で都市を輪切りにした状態で、マップの開発が可能になるなど、インターフェイスもさらに高度化している。後年の『A列車で行こう7』はこの作品を現代のテクノロジーで作り直すというコンセプトで制作された。1993年の[[日本ソフトウェア大賞]]ゲームソフト部門最優秀賞受賞作品。その他受賞歴:[[日経WinPC]]読者が選ぶパソコン・ベスト・ソフト「WINDOWSゲームソフト部門」BEST SOFT賞受賞。
[[2000年]][[3月17日]]に『A列車で行こう4 15th ANNIVERSARY』(対応機種:[[Windows 95]]/[[Windows 98]]<ref group="注">保証外だが[[Microsoft Windows XP|Windows XP]]でも動作するようである。</ref>)、[[2004年]][[3月26日]]に『A列車で行こう 4 XP対応版』(対応機種:[[Windows 98]]/[[Windows Me]]/[[Windows 2000]]/[[Microsoft Windows XP|Windows XP]])が発売された。いずれもゲーム内容は初代Windows版と同一の廉価版。[[2014年]][[8月19日]]より、PC-9801版がプロジェクトEGGにて配信されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.amusement-center.com/project/egg/2014/08/19/%e3%80%8e%e3%83%84%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%83%93%e3%83%bc%ef%bc%88msx%e7%89%88%ef%bc%89%e3%80%8f%e3%80%8ea%e5%88%97%e8%bb%8a%e3%81%a7%e8%a1%8c%e3%81%93%e3%81%864%ef%bc%88pc-9801%e7%89%88%ef%bc%89/|title=『ツインビー(MSX版)』『A列車で行こう4(PC-9801版)』配信開始|publisher=[[D4エンタープライズ]]|date=2014年8月19日|accessdate=2018-08-13}}</ref>。
====A.IV.EVOLUTION====
[[1994年]][[12月3日]]発売 対応機種:[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]
PC版のほぼ完全移植にあたるが、グラフィックや音源等は根本から[[リテイク|再録]]されており、家庭用機独自の追加要素がある。後にベスト版も発売されている。特に作り上げた街を3D[[ポリゴン]]表示で眺められる3Dビューモードはユーザーに強く印象を残すことになり、後のシリーズにも影響を与え続けている。PC版とのメモリ性能差により描写スピード等は遅く感じられるが、インターフェイス、グラフィックや音源の質はそのものは向上している。PlayStation本体と同時発売した[[ローンチタイトル]]でもあり、またデータ容量は当時としては良くも悪くも極めて大きなものとなった<ref group="注">1セーブファイルに対し[[メモリーカード]]内の実に15ブロック(PlayStation純正メモリーカード1枚分全て)を消費した。</ref>。なお本作に収録されているデフォルトBGMの一つである「街角の女」は、アレンジされつつ後のシリーズにほぼすべて収録されており、以後シリーズの看板BGMとなる。
PSマウス、マウスパッド、メモリーカードがセットになった限定記念セットも発売された。
==== A.IV.EVOLUTION GLOBAL ====
[[1995年]]11月発売 対応機種:[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]、[[PlayStation 3|PS3]]/[[PlayStation Portable|PSP]]
『A列車で行こうIV エヴォリューション』の各国発売にあわせ、言語を複数収録した[[インターナショナル]]バージョン。[[日本語]]、[[英語]]、[[ドイツ語]]、[[フランス語]]から選べるようになり、各国の有名列車の追加や各国の地形を模した15種類の新規マップが追加された。各国言語を選択した場合はゲーム中のメッセージ以外にもデータ読み込み時の表記なども全て選択言語で表示される他、文化的特色もグラフィックに反映され、子会社施設も各国の特色にあわせたものとなっており<ref group="注">タワーは各国の代表的シンボルである[[エッフェル塔]]や[[自由の女神像 (ニューヨーク)|自由の女神]]等が追加、[[寺院]]は教会や大聖堂になる。</ref>、3Dビューモードにおいてもそれらが[[ポリゴン]]モデルとして反映されている。なお、収録BGMは前作『EVOLUTION』のアレンジ版になっている。後にベスト版が発売されたほか、[[2007年]][[1月25日]]には[[ゲームアーカイブス]]で配信開始された<ref group="注">なお、同時に[[メモリーカード]]の保存容量が1データに対し14ブロックと少しではあるが改善された。</REF>。レイティングは{{CERO-A}}。
=== A列車で行こう5 ===
[[1996年]]12月発売 対応機種:[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]各種
子会社の数が増え、これまでの経営シミュレーションを踏襲しつつも、新しい交通機関として[[ヘリコプター]]、[[貨物自動車|トラック]]が加わり、ゲーム内での時計が15分ずつ進み従来より1日のサイクルが長くなるなど鉄道運行シミュレーションとしての要素も見られるようになった。2Dトップビュー(上空からの俯瞰)と3Dビューを併用し、マップ上で運行されている乗り物を選び「乗車」を選択すると3Dで走行シーンや前面展望を楽しむこともできる。[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]版ではプレイできるマップのひとつに[[東京臨海副都心]]が収録されていたが、別途に3D[[ハードウェアアクセラレーション|アクセラレーター]]ボード"[[PowerVR]]"を必要とした。上記3D仕様のため、作り上げた街を自由な角度から眺められるようになり、メーカーと雑誌のコラボ企画であるフォトコンテスト等も開催された。なお、本作からタイトルの通し番号が今までの[[ローマ数字]]表記から[[アラビア数字]]表記になった。
本作品のコンセプチュアル・アートは[[シド・ミード]]で、プレイヤーが経営する会社が一兆円の資産を達成したときにタイトルロールでも流れる。
====A列車で行こう5 完全版====
[[1997年]]12月発売 対応機種:[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]各種
[[DirectX]]に対応した上記A列車で行こう5のリニューアル版。DirectX3Dの研究や[[ビデオカード]]の改良等も進み、特殊仕様であったPower VRが不要となった。なお、[[1997年]]当時においてインテリマウスのスクロールに対応した数少ないソフトだった。後にWindows 98対応の「A列車で行こう5 完全版 ETERNAL」が発売された。
====A列車で行こう5 家庭用版====
[[1997年]]12月発売 対応機種:[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]、[[PlayStation 3|PS3]]/[[PlayStation Portable|PSP]]
PC版のほぼ完全移植にあたる家庭用機版。基本仕様はPC版と同じだが、家庭用機版とPC版では3Dビュー表示における街の描写や雰囲気が異なる。パソコン版は比較的処理が軽く動きも滑らかだが、道の表示やビルの描き込みが無機質的で、どこか幾何学模様のような雰囲気になるのに対し、家庭用機版は実際の街の雰囲気がリアルに描写されている。処理は重いものの3Dビュー表示における建物や都市の描写はむしろパソコン版よりも精密である。3Dポリゴンの描写能力は家庭用機種としての限界から、遠くの物が描写されない仕様ではあったが、3Dビューを高画質で記録できるモードも追加されている。また、オプショナルツアーで使われるBGM「A5Tours」は[[ワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団]]による演奏である<ref group="注">しかし後にSuperLite1500シリーズとして発売された家庭用廉価バージョンでは、車窓モードにおいて一部の曲が収録されていない。</ref>。[[2007年]][[4月26日]]には[[ゲームアーカイブス]]でも配信開始された。レイティング(評価)は{{CERO-A}}。一部の楽曲はアートディンクが1994年に発売したPC98用ゲーム「HR2」に収録された物をアレンジしたものである。
また、ディスクはCDプレーヤーなどで再生できる<ref group="注">トラック1はゲームのファイルなので再生しないよう注意が必要である</ref>。
===A列車で行こうZ -めざせ!大陸横断-===
[[1999年]]5月発売 対応機種:[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]
[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]用。5をベースにしながらも、都市シミュレータの色合いが濃くなってきた後期A列車の流れにおいて、初代A列車のようにゲーム全体を通して一貫した最終目的やストーリーを設けた異色作。父である鉄道王の遺志を継ぎ、ライバル会社よりも先に大陸横断鉄道を完成させるのが目的となる。ゲームは大きく3パートに分かれており、各々のパートの目的を完遂させつつ最終目標を目指す。プレイヤーは街の運営に直接は携われず、基本的に鉄道を運営することに邁進するのみ。資金の枯渇によるゲームオーバーがないことも特徴である。[[2017年]][[11月22日]]には[[ゲームアーカイブス]]でも配信開始された。レイティングは{{CERO-A}}。
====リサと一緒に大陸横断 〜A列車で行こう〜====
{{Main|リサと一緒に大陸横断 〜A列車で行こう〜}}
[[2006年]]6月発売 対応機種:[[PlayStation Portable]]
『A列車で行こうZ』のリメイク版<ref group="注">パッケージの隅に極めて小さいフォントで表記されている。</ref>。登場キャラクターが写実的だった[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]版と比較してアニメ調になっており、内容も新規ユーザーに受け入れられやすくするためか、やや軽めになっている。
===A列車で行こう6===
[[2000年]]3月4日発売 対応機種:[[PlayStation 2]]
この作品から[[PlayStation 2|PS2]]へ参入。なお、本作品は日本におけるPS2の[[ローンチタイトル]]10作品のひとつでもある。[[BGM]]を収録した[[サウンドトラック]]も発売された。
グラフィックは大幅に向上し、従来作品では切り替えが必要であった2Dマップ、パース表示、3D空間などの独立したインターフェースが本作では統合され、例えば3D空間を真上から見渡すように視点移動すると2Dマップ表示になるといったシームレスな画面遷移を実現している<ref name="a6news1">https://www.artdink.co.jp/japanese/title/a6/backno01.html</ref>。
本作および2001は「鉄道を中心とした都市の発展」に重点が置かれ、プレイヤーに求められるものは「鉄道の建設」と「産業の誘致」の2項目のみという、シンプルなゲーム性となっている<ref name="a6news1" />。III以降に実装されていた[[納税]]や[[決算]]、[[株式投資]]などといった要素は全て切り捨てられ、プレイヤー自身が能動的に都市開発をすることなく新システム「Emotional City System」(ECS)によって都市が自動発展するようになり、購入した土地に産業を誘致(農業・住宅・工業・商業・観光・無条件から選べる)することである程度はプレイヤーの意向も反映させられるものの、都市開発の要素も大幅に削られて街の運営に直接は携われなくなり、プレイの感覚は大幅に変化した<ref name="a6news2">https://www.artdink.co.jp/japanese/title/a6/backno02.html</ref>。
産業同士にはそれぞれ相性があり、工業を誘致した駅と住宅を誘致した駅を隣接させることで双方の発展を促す相乗効果を生む<ref name="a6news2" />一方で、工業を誘致した駅と商業を誘致した駅を隣接させた場合はあまり発展しないといった相性の悪い組み合わせもある。
鉄道建設においてもシンプルさが追求され、線路を敷設できるのは地表と高さが固定されている高架の2階層のみで、[[トンネル]]や[[地下鉄]]の建設はできず、シーサスクロッシングなど複雑な[[分岐器]]の設定もできない。また、道路も敷設できず(自動発展で建設される)、[[バス (交通機関)|バス]]や[[貨物自動車|トラック]]を走行させることもできない<ref group="注">道路の進行方向を制御して、思い通りの街を作る「区画整理」というテクニックも生まれた。</ref>。
本作および2001は経営の要素が大幅に切り捨てられたことから行政管理シミュレーションの色が強い作風ではあるが、それらを切り捨てたことで1年がコンパクトにまとめられ、ゲーム内の時間進行も非常に速かった従来作品と比べて大幅に遅くなった<ref name="a6news3">https://www.artdink.co.jp/japanese/title/a6/backno03.html</ref>
。従来作品では時刻の最小単位が1時間(III・IV)もしくは15分(V)であったが、本作での時刻の最小単位は1分となり、標準速度でゲーム内の1時間は実時間約30秒(約120倍速、1日約12分)で進むようになった。これに伴い、通勤ラッシュ時に列車を増発するなどのきめ細やかなダイヤ設定が可能になり、住宅地と工業地を結ぶ路線を通勤時間帯に合わせたダイヤ設定にすることで住宅地がより発展するなど、ダイヤ設定の重要性が大きくなっている<ref name="a6news3" />。<!--鉄道シミュレーションとしても根強い支持を受けている。-->
====A列車で行こう2001====
詳細は「[[A列車で行こう2001]]」を参照
[[2001年]][[3月8日]]発売 対応機種:[[PlayStation 2]]
『A6』のバージョンアップ版。[[PlayStation BB Unit]]等のハードディスクにインストールやデータのセーブができるほか、[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]とネットワーク接続してスクリーンショットを保存できる「スナップショット」機能を備える。A6との相違点として資材の重要度が大幅に上がり、資材が不足した状態が続くとその駅周辺の発展が停滞もしくは衰退するようになった。なお、シリーズでは初めて駅に旅客が描写されるようになった。PlayStation BB Unitを介して新たな車両を追加出来る「トレインキット」も発売されており、2002年には2001とトレインキットをセットにした「A列車で行こう2001 パーフェクトセット」が発売された。
====A列車で行こう The 21st Century====
[[2003年]][[6月19日]]発売 対応機種:[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]/[[Microsoft Windows 98|98]]/[[Microsoft Windows Millennium Edition|Me]]/[[Microsoft Windows 2000|2000]]/[[Microsoft Windows XP|XP]]/[[Microsoft Windows Vista|Vista]]/[[Microsoft Windows 7|7]]
A列車で行こう2001の[[Microsoft Windows|Windows]]移植版。[[パワーアップキット]]での車両追加や、[[マップエディタ]]も搭載。
===A列車で行こうi===
[[NTTドコモ|DoCoMo]] 504i/505i/506i/900iなどで遊べる[[iアプリ]]版A列車。[[ダイヤグラム|ダイヤ]]の概念が無く、1本の線路上で電車同士の追い抜きもすれ違いも可能。分岐も作れない。また、駅は13 - 16個しか設置できない。駅を作れば、街が発展していく。待ち受けアプリに設定すれば、眺めているだけで街が発展していく。また、ネットワーク接続によるサービス提供が謳われていた。上級、中級などのマップからなる「基本マップランキング」、都道府県をモチーフにした「全国マップランキング」があり、個人成績ランキングではそれらを総合した人口ランキングなどがあった。また、自由に建物等を設置できる「箱庭モード」もあり、マップ別瞬間最大人口ランキングはこの箱庭モードも含んだランキングであったため、事実上各マップの(理論上の)最大人口が記録されていた。たとえば「自然」マップの最高は8972万人、「北海道」の最高人口は2351万人であったが、これは単位あたり最高人口を誇るマンションユニットを地図全体に敷き詰めた場合であり、実際のプレイでは達成不可能。実際のプレイにおいては、基本マップランキングでは「自然」マップの3049万人、全国マップランキングでは「北海道」マップにおける860万人(人口密度は実に5756.24に達していた)が最高であったが、通常は理論上の最大人口の20〜30分の1の人口となるものがほとんどであった。なお、全国マップは都道府県をモチーフにしているとはいえ、その県の一部だけが表現されている場合が多々あり、現実の面積は反映されていなかった(例えば前述の北海道マップは最大面積をもつ長野マップの1/4程の有効面積しか持たなかった)。
利用料金は、315円(税込)/月。販売元は[[ハドソン]]であった。2012年3月をもってサービス終了。
===A列車で行こう7===
{{Main|A列車で行こう7}}
[[2005年]][[2月26日]]発売 対応機種:[[Microsoft Windows XP|Windows XP]]、[[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]
鉄道運行シミュレーションとしての色合いを強めた『6』において大幅に削られた[[子会社]]や[[納税]]、[[決算]]、[[株式投資]]などの要素が復活し、1年が365日で構成される[[経営シミュレーションゲーム|経営シミュレーション]]に回帰した。フル3D作品ではなく、列車等の一部が3Dであり他グラフィックは2Dで描かれており『4』の後継作と言えるが、時間進行は標準速度で1時間≒実時間2秒(1日約48秒、約1800倍速)と『5』と同程度である。
===A列車で行こうEZ===
[[Au (携帯電話)|au]]の[[BREW]][[端末]]対応版A列車。基本的なゲームシステムは上述の『i』とほぼ同様。ただし、ネットワークを活用したゲームシステムではないことと、待ち受け画面に設定できない点や、駅の上限16個(マップ外につながる[[トンネル]]を含む)[[列車]]の上限20個までと、若干仕様が異なる。プログラムを[[ダウンロード]]するとその後はスタンドアローンで楽しむことができる(買い切り制)ため、料金はダウンロード時の[[パケット]]代と[[ダウンロード]]代のみである。また、リジューム機能に対応し、[[ゲーム]]を中断しても最大3日分(ゲーム内[[時間]][[1年]])を[[シミュレーション]]して再開することができる。
[[使用 (法律)|利用]][[料金]]は、525円(税込)/1[[ダウンロード]]。[[販売]]元は[[ハドソン]]。[[2006年]]1月26日[[サービス]]開始。
===A列車で行こうHX===
[[2006年]][[12月21日]]、[[Xbox 360]]用[[ソフトウェア|ソフト]]として[[発売]]。
基本的に[[パーソナルコンピュータ|PC]]版『7』の3Dバージョンである。A列車で行こう2001のように360度方向から眺めることができる。車両、建物等のグラフィックはA列車で行こう7のものと同じで、システムもほとんど変化していない。ただし、車両はオリジナル車両が10車両含まれているだけで、150種類の実在車両は[[Xbox Live]]を使用した有料販売となった。有料販売の車両は1種類:50[[マイクロソフトポイント]](75円/税込)である。有料販売の配信が遅れていたが2007年12月5日、発売後一年近く経って、ようやくすべての[[車両]]が購入可能になった。2013年1月に配信サービスが終了したことで、[[2013年]][[6月27日]]に150種類の実在[[車両]]の入った完全版が発売される。
問題点として、表示される文字が小さすぎてブラウン管テレビでは認識できないことがある。対処法としては[[ハイビジョン]][[テレビ]]に[[ハイディフィニション|HD]]出力して使うか、「[[Xbox 360]] [[Video Graphics Array|VGA]] [[ハイデフィニション|HD]] [[AVケーブル|AV ケーブル]]」を使用してPCモニターを画面として使うことが有効である。
===A列車で行こう8===
{{Main|A列車で行こう8}}
[[2008年]][[3月21日]][[発売]] 対応[[機械|機種]]:[[Microsoft Windows XP|Windows XP]]、[[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]
ナンバリングの付いたシリーズだが、内容は『A列車で行こうHX』の[[パーソナルコンピュータ|PC]]移植版である。
===A列車で行こうDS===
{{main|A列車で行こうDS}}
[[2009年]][[4月23日]]発売 対応機種:[[ニンテンドーDS]]、[[ニンテンドー3DS]]
シリーズで初めて[[携帯ゲーム機]]向けに開発された作品。ハードの性能上リアルな[[鉄道]]が表現できないため、今作は「[[都市開発]]」と「経営」に重点を置いたシステムになっている<ref>https://www.inside-games.jp/article/2009/04/23/34931.html 【開発者インタビュー】ゲームの魅力を徹底解剖!『A列車で行こうDS』ディレクターに聞きました | インサイド</ref>。実在の車両は一切登場せず、今作では[[鉄道車両]]を開発する概念が新たに登場した。
福利厚生の充実といった社員の士気向上や、[[株式公開]]、[[車両]]開発、そして過去のナンバリングタイトルではプロジェクトとなっていた[[新幹線]]誘致などが、新要素「プラン」として登場した。
===A列車で行こう9===
{{Main|A列車で行こう9}}
[[2010年]][[2月11日]]発売 対応機種:[[Microsoft Windows XP|Windows XP]]、[[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]、[[Microsoft Windows 7|Windows 7]]、[[Microsoft Windows 8|Windows 8]]、また、アップデートパッチを使用することにより64bit版OSにも対応(「Version 1.00 Build 150」以降<ref group="注">旧バージョンでは「64bit版OSには対応していない」と公式サイトで言及されていた。しかし「Version 1.00 Build 130」では64bit版OSで動作させた場合の不具合が修正されており既に事実上64bit版OSでも動作可能であった。「Version 1.00 Build 150」で正式に対応された。</ref>)。
当初は[[1月29日]]に発売予定だったが、諸事情により[[2月11日]]に延期となった。
今作から車両の長さが10両編成まで対応することができ、より実際の車両に近くなった<ref group="注">「Version5.0」からは[[増解結]]が実装されたため、11両以上での運行も可能となっている。</ref>。納税、決算、株式投資といった鉄道経営シミュレーションとしての要素は踏襲されつつもゲーム内の時間進行速度は450倍と比較的遅くなっている。しかし『6』系統(120倍)よりは速く、マップが大幅に広くなった(10km四方)ことから相対的にも速く感じられることから『6』系統より鉄道運行シミュレーションの要素は薄い。また、グラフィック面は大幅に強化されつつも、遊びやすさを重視して[[鉄道]]・道路施設(線路・[[道路]]・駅・[[車両]])は他の建物と比較してスケールが2倍とデフォルメされている<ref name="a9scale">https://www.a-train9.jp/professional/fullscale.html</ref>。
時間進行速度については、アップデートパッチ([[無料]])により「時間拡張」が実装され、マップコントラクションにおいてゲーム内の時間の流れを変更(遅く)できるようになり、標準の「450」倍以外に『6』系統に相当する「120倍」のみならず更に遅い「60倍」・「30倍」から選択出来るようになり、プレイヤーの好みに応じて鉄道運行シミュレーションの色合いを濃くすることが可能となった。
[[2010年]][[10月8日]]には拡張パック第1弾として「A列車で行こう9 建物キット」が発売された。同日に本体と「建物キット」の同梱版、「A列車で行こう9 with 建物キット」も発売。また、翌年の[[12月23日]]には拡張パック第2弾、「A列車で行こう9 建物キット2nd」が発売され、同日に本体と「建物キット」が2本セットとなった、「A列車で行こう9 完全版」も発売。
特に、[[2012年]][[12月7日]]に発売された'''A列車で行こう9 Version2.0 プロフェッショナル'''では、ユーザーからの要望が多かった鉄道・道路施設のスケールを他の建物と同等にする機能(スケール1:1モード)<ref name="a9scale" />や、『8』以降削られた架線柱の設置<ref>https://www.a-train9.jp/professional/railway.html</ref>など、多くの新要素が追加された<ref>https://www.a-train9.jp/professional/professional.html</ref>。
以降、[[2014年]][[6月27日]]に'''A列車で行こう9 Version3.0 プレミアム'''が、更に[[2015年]][[6月19日]]には'''A列車で行こう9 Version4.0 マスターズ'''が発売され、[[2015年]][[12月11日]]には、これまでテレビゲームソフトや前面展望映像の商品に対して商品化許諾を一切出していなかった[[東海旅客鉄道|JR東海]]の方針転換を受け、同社の新幹線・在来線車両を収録した拡張パック第3弾、「JR東海パック」が発売された。
[[2018年]][[9月6日]]に、'''A列車で行こう9 Version5.0 ファイナル'''が発売された。また、このVersion5.0ファイナルから[[Microsoft Windows XP|Windows XP]]と[[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]、[[Microsoft Windows 7|Windows 7]]や[[Microsoft Windows 8|Windows 8]]の32-Bit版は動作対象外とされた。2021年9月17日からExp+コンプリートの車両と、追加で8車両を収録した'''車両キット'''が公式通販でダウンロード販売され、10月1日からパッケージ版が販売開始した。なお同時に、V5コンプリートパックが車両キットを含む'''コンプリートパックDX'''へ改定された。2022年4月22日は、新たに25種類の車両が入った車両キット2ndが発売された。
====A列車で行こうExp.====
[[2017年]][[12月21日]]発売 対応機種:[[PlayStation 4]]、[[PlayStation VR]]
『9』の[[PlayStation 4]]移植版。『2001』の発売以来16年ぶりとなる、据え置き型のPlayStationシリーズ作品である<ref>『A列車で行こうExp.』http://www.artdink.co.jp/japanese/title/aexp/product.html</ref>。新機能として、鉄道模型モードや、フライトモード、ガイドムービーが追加されたほか、全国の新幹線をはじめとした、新規車両(JR東海所属車両を含む)や、新規建物も収録された。
その後、2019年11月14日にはA列車9V5の内容を取り込んだ'''A列車で行こうExp.+'''が、2020年7月15日には更に車両が追加された'''A列車で行こうExp.+ コンプリート'''が、それぞれ発売された。
===A列車で行こう3D===
{{Main|A列車で行こう3D}}
[[2014年]][[2月13日]]発売 対応機種:[[ニンテンドー3DS]]
当初は[[2011年]]発売を予定していたが、[[2013年]]に変更された<ref>[https://twitter.com/artdink_tw/status/301992119663460352 Twitter / artdink_tw: 【A列車で行こう3D(仮題)】→「発売日未定」から「2013 ...]</ref>。評判の良かった[[ニンテンドーDS]]版よりも品質を向上させる方向で開発を進めた結果<ref>[http://www.atrain.jp/campaign/a3ds_interview.html A列車で行こう3D(仮称) ディレクター's インタビュー]</ref>、当初2013年[[12月12日]]発売を予定していたが、「より良い品質でお客様へお届けするため」として再度2014年発売へと延期された<ref>[https://www.4gamer.net/games/223/G022367/20131118032/ 「A列車で行こう 3D」の発売日が2014年2月13日に延期。最新プロモーション&スクリーンショットが公開に 4Gamer.net]</ref>。
====A列車で行こう3D NEO====
2016年12月1日発売。上記の「A列車で行こう3D」を[[Newニンテンドー3DS]]本体の処理能力向上に合わせてゲーム内の処理も高速化・最適化などに対応させたものでDLCの全シナリオが収録されていること以外にゲーム内容に変更はない。無印とのデータ互換性はある。なお無印版もDLC無しということ以外はA列車で行こう 3D NEO相当にアップデートできる。
<ref>[http://www.artdink.co.jp/japanese/title/a3d_neo/about_a3dneo/01.html 「A列車で行こう3D NEO」とは]</ref><ref>[http://www.artdink.co.jp/japanese/title/a3d_neo/product/01.html#update 『A列車で行こう3D』アップデートパッチ配信について]</ref><ref>[https://www.4gamer.net/games/354/G035437/20160830021/ Newニンテンドー3DS対応ソフト「A列車で行こう3D NEO」が12月1日に発売。2014年発売の「A列車で行こう3D」をNew3DS向けに最適化した決定版]</ref><ref>[http://trafficnews.jp/post/56812/ 『A列車で行こう3D NEO』12月発売 「New 3DS」で動作軽快に 追加シナリオも収録]</ref><ref>[https://www.inside-games.jp/article/2016/08/30/101370.html New3DS対応『A列車で行こう3DNEO』発売決定―前バージョン所有者には無料配信]</ref>。「NEW」専用ではなく従来の3DSでも遊べるが高速化の恩恵はない。
====みんなのA列車で行こうPC====
[[2016年]][[12月15日]]発売。上記の「[[A列車で行こう3D]]」をPC向けに対応させたものでありグラフィックの解像度が4倍となった。ゲームオーバーにならないフリーモード、無印とDLCの全シナリオ収録の他オリジナルシナリオが3つ追加されている。自作シナリオ配布やライバルデータ配布も可能。
===はじめてのA列車で行こう===
初代「A列車で行こう」をスマートフォン向けにリニューアルした有料配信アプリ。
【利用料】 480円(税込・[[通信費]]別)
【対応基本機種】 [[iOS]]:[[IPhone 5s|iPhone5S]]以降、[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]:バージョン[[Android 4.4|4.4]]以上
====相鉄線で行こう====
前述の「はじめてのA列車で行こう」を[[相模鉄道]]とのコラボレーション企画化した、[[スマートフォン]]向け無料アプリ。[[2018年]][[12月13日]]より[[App Store]]、[[Google Play]]にて配信開始<ref>https://cdn.sotetsu.co.jp/archives/news_release/pdf/181206_01.pdf</ref>。
線路の敷設や駅の建設を行い、1年以内に20000系列車をゴール駅まで無事に届けることが目標。「[[二俣川駅]]→[[横浜駅]]」「[[横浜駅]]→[[湘南台駅]]」「[[海老名駅]]→[[横浜駅]]」の3マップが用意されている。
[[2021年]][[12月20日]]をもって配信終了<ref>http://www.atrain.jp/sotetsu/phone/index.html</ref><ref>https://www.sotetsu.co.jp/news/train/info-train-064-2021-12-09/</ref>となったが、すでにインストールされているものに関しては[[2022年]]5月現在も引き続きプレイが可能となっている<ref group="注">推奨行為ではなく自己責任にはなるが、Androidの場合はGoogle Play外の非公式サイトから[[APK (ファイル形式)|APKファイル]]をダウンロードしインストールすることも可能。</ref>。
対応機種 [[iOS]]:[[IPhone 5s|iPhone 5S]]以降、[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]:バージョン[[Android 4.4|4.4]]以上
===A列車で行こう はじまる観光計画===
{{Main|A列車で行こう はじまる観光計画}}
[[2021年]][[3月12日]]発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.artdink.co.jp/japanese/title/a-tourism/|title=A列車で行こう はじまる観光計画|publisher=[[アートディンク]]|accessdate=2021-03-12}}</ref> 対応機種:[[Nintendo Switch]]、[[Steam]]、[[iOS]]、[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]
A列車シリーズ35周年記念作品。「[[A列車で行こうDS|DS]]」「[[A列車で行こう3D|3D]]」に続く”箱庭系A列車”の系譜である<ref>{{Cite web|和書|url= https://automaton-media.com/articles/newsjp/20210107-148334/|title= Nintendo Switch『A列車で行こう はじまる観光計画』3月12日発売へ。観光もテーマの都市開発鉄道シム、ゲーム内容の続報も公開|publisher=[[AUTOMATON]]|accessdate=2021-03-12}}</ref>。今回新たに「[[観光]]」の概念が加えられ、隣街から観光客を呼び込むことができる<ref>{{Cite web|和書|url= https://automaton-media.com/articles/newsjp/20210107-148334/|title= Nintendo Switch『A列車で行こう はじまる観光計画』3月12日発売へ。観光もテーマの都市開発鉄道シム、ゲーム内容の続報も公開|publisher=[[AUTOMATON]]|accessdate=2021-03-12}}</ref>。さらに車両のカスタマイズ幅が広がり、カラーリング、装備、ラッピングといったデザインを行うことができる<ref>{{Cite web|和書|url= https://automaton-media.com/articles/newsjp/20210107-148334/|title= Nintendo Switch『A列車で行こう はじまる観光計画』3月12日発売へ。観光もテーマの都市開発鉄道シム、ゲーム内容の続報も公開|publisher=[[AUTOMATON]]|accessdate=2021-03-12}}</ref>。キャラクターデザインは[[日向悠二]]。モバイル版は、オンライン接続が必要となる。
==== A列車で行こう ひろがる観光ライン ====
{{詳細記事|A列車で行こう はじまる観光計画}}
[[2022年]][[11月3日]]発売<ref>{{Cite web|和書|title=「A列車で行こう ひろがる観光ライン」11月3日発売決定 「はじまる観光計画」の観光がさらにひろがる! |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1428032.html |website=GAME Watch |date=2022-07-28 |access-date=2022-10-11 |language=ja |last=株式会社インプレス}}</ref> 対応機種:[[Nintendo Switch]]
上記「A列車で行こう はじまる観光計画」の追加DLC(ダウンロードコンテンツ)である。[[日本]]国内に実在する[[鉄道車両]]や、各種施設などが追加された。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
==参考文献==
*{{Cite book ja-jp | author = 多摩豊 | year = 1993 | title = SLG解体新書 | publisher = 光栄 | pages = pp.148-170}} 河西克重のインタビュー
==外部リンク==
*[https://www.artdink.co.jp/ アートディンク公式サイト]
*[http://www.atrain.jp/ A列車で行こう ポータルサイト]
**[http://www.artdink.co.jp/japanese/title/a6/ 「A列車で行こう6」公式サイト]
**[http://www.artdink.co.jp/japanese/title/a2001/ 「A列車で行こう2001」公式サイト]
**[http://www.artdink.co.jp/japanese/title/a7/ 「A列車で行こう7」公式サイト]
**[http://www.artdink.co.jp/japanese/title/atrain_hxc/ 「A列車で行こうHX 完全版」公式サイト]
**[http://www.artdink.co.jp/japanese/title/a8/ 「A列車で行こう8」公式サイト]
**[https://www.a-train9.jp/ 「A列車で行こう9」公式サイト]
**[http://www.artdink.co.jp/japanese/title/ads/ 「A列車で行こうDS」公式サイト]
**[http://www.artdink.co.jp/japanese/title/a3d/ 「A列車で行こう3D」公式サイト]
**[https://www.artdink.co.jp/japanese/title/a-tourism/ 「A列車で行こう はじまる観光計画」公式サイト]
**[http://www.jp.playstation.com/software/title/jp0011npjj00015_000000000000000001.html PlayStation公式サイト ゲームアーカイブス A.IV.Evolution GLOBAL]
**[http://www.jp.playstation.com/software/title/jp0011npjj00028_000000000000000001.html PlayStation公式サイト ゲームアーカイブス A5 A列車で行こう5]
**[http://www.jp.playstation.com/software/title/jp0011npjj00776_000000000000000001.html PlayStation公式サイト ゲームアーカイブス A列車で行こうZ めざせ!大陸横断]
**[https://www.amusement-center.com/project/egg/cgi/ecatalog-detail.cgi?contcode=7&product_id=1286 A列車で行こう for FM-7(プロジェクトEGG)]
**[http://www.atrain.jp/hajimetenoatrain/ はじめてのA列車で行こう]
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9,375 | 熱 | 物理学の熱力学において、熱(ねつ、英: heat)は、高温の物体から低温の物体へと移動するエネルギーである。
熱とは、ある系のエネルギーの変化から力学的な仕事を差し引いたものと定義される。
熱はエネルギーの移動形態の一つである。スコットランドの物理学者ジェームズ・クラーク・マクスウェルは1871年、「熱」の現代的定義を初めて発表した。マックスウェルの熱の定義は4つの規定で概説される。1つ目は熱力学第二法則によるもので、「(熱とは)ある物体から別の物体へ伝達される何か」だという規定である。2つ目は熱を数学的に扱うための「測定値」の規定である。3つ目は、熱が力学的仕事のような物質的でない何かに変換されることもあるため、「(熱を)物質として扱うことが出来ない」という規定である。最後は、「(熱は)エネルギーの1つの形態である」という規定である。
物体間で仕事を通じて移動する以外のエネルギーの移動形態を熱という。「熱」という形態を通して移動したエネルギーの量を「熱量」という。
熱は物体内に蓄えられるものではない。仕事と同様、それはある物体から別の物体への「エネルギーの移動」としてのみ存在する。熱の形で系にエネルギーを加えると系を構成する原子や分子の運動エネルギーや位置エネルギーの形をとる。
熱は必ず高温の物体から低温の物体へと移動する。低温の物体から高温の物体へと自発的に熱が移動することはない(熱力学第二法則と密接な関係がある事項である)。熱が移動した際に外部に熱が流出しなかったならば、高温の物体が放出した熱量と、低温の物体が接触した物体から得た熱量は等しい。また、同じ温度ならばみかけ上熱の移動はなく、この状態を熱平衡状態という。
熱力学第一法則によれば、孤立系のエネルギーは保存される。従って系の持つエネルギーを変化させるにはその系から外界に、あるいは外界からその系にエネルギーを伝達しなければならない。ある系にエネルギーを伝達する方法は、熱と仕事しかない。ある物体に仕事を行うということは定義上、その系にエネルギーを伝達することに他ならず、それによってその物体の外部パラメータ(例えば、体積、磁化、重力場における重心の位置など)が変化する。熱はそれら以外の手段による物体へのエネルギー伝達である。
熱平衡に近い複数の物体の場合、温度という概念が定義できるなら、熱伝達は物体間の温度差に関連する。それは複数の物体が相互に熱平衡状態に近づく不可逆過程である。
物質(注目する熱力学系)へ熱や仕事として加えられる(または引き去られる)エネルギーは、微視的にはその物質を構成する分子や原子の運動エネルギーや位置エネルギーの変化と見なせる。統計力学において内部エネルギーは、その物質が取り得る微視的状態から定義される統計集団を用いて、(その統計集団における)エネルギーの期待値として与えられる。特に理想気体の場合、気体分子間の相互作用は無視でき、内部エネルギーは気体分子の運動エネルギーの期待値と直接結び付けられる。例えば理想気体へ熱を加えると、それは気体分子が持つ運動エネルギーの平均を増加させることになる。
熱量の国際単位系における計量単位は ジュール(J)である。ジュールはSI組立単位の一つであり、SI基本単位であるキログラム(kg)・メートル(m)・秒(s)を用いて J = kg⋅m⋅s と表せる。あるいは力の単位であるニュートン(N)を用いて J = N⋅m と表すこともできる。
また国際単位系には含まれないが、伝統的な熱量の単位として、カロリー(cal)や英熱量(Btu)がある。これらの単位は、歴史的には単位質量の水の温度を基準となる温度から(採用している温度単位で)1度上昇するために必要な熱量として定義されていたが、現在は様々な方法で再定義されている。そのため、SI単位換算で値が異なる定義が複数存在する。
熱と力学的な仕事はともにエネルギーの移動の一形態であり、いずれもエネルギーの単位であるジュールを用いて表せることが知られている。歴史的には熱と仕事は別個の量と認識されており、熱の仕事当量の測定などを通じて熱量と仕事の等価性が確かめられている。
国際単位系におけるエネルギーの単位時間当たりの移動量の単位はワット (W) である。ワットはジュール毎秒(J/s)に等しい。
日本の計量法において、熱量の計量単位は、ジュール又はワット秒、ワット時と定められている。なお、仕事の計量単位も電力量の計量単位もジュール又はワット秒、ワット時である。
1999年10月以降、計量単位としてのカロリーの使用は特殊の計量である「人若しくは動物が摂取する物の熱量又は人若しくは動物が代謝により消費する熱量の計量」にのみ用いることができる。そして2002年4月以降、中学校学習指導要領において、熱量の計量単位は、ジュールを用いることとされた。カロリーの使用制限の経緯および栄養学における使用については「カロリー」の項を参照。
熱伝達で移されるエネルギー総量(amount of heat)は一般に Q で表され、一般に熱量と呼ばれる。その正負は、ある物質(熱力学系)が外界に熱を放出する場合を負(Q < 0)、ある物質が外界から熱を吸収する場合を正 (Q > 0)とするように定義される。
単位時間当たりの熱流 (heat transfer rate) は熱量の時間微分として表される。
熱流束 (heat flux) は単位面積の断面を通過する単位時間当たりの熱流と定義され、q と表記される。
熱に関連する内部エネルギーという用語は、物体の温度を上げることで増加するエネルギーにほぼ相当する。
熱 Q {\displaystyle Q} は系の内部エネルギー U {\displaystyle U} とその系がなす仕事 W {\displaystyle W} とに関係し、熱力学第一法則によれば次のようになる。
すなわち、系の内部エネルギーは仕事によっても熱力学的系の境界を越えた熱流によっても変化する。より詳細に言えば、内部エネルギーとは系内の微視的形態のエネルギーの総和である。それは分子の構造や分子の活動度と関連し、分子群の運動エネルギーと位置エネルギーの総和と見なすことができる。それは次のような種類のエネルギーで構成される。
乱雑な分子の並進運動のエネルギーと分子内の回転・振動運動のエネルギー、分子間の相互作用によるエネルギーや原子核エネルギーなどの和を、物質の内部エネルギーと呼ぶ。
定圧の理想気体に対して熱の形でエネルギーが流入すると、内部エネルギーが増大し、体積が制限されていなければ体積の変化(系の境界に対する仕事)が起きる。第一法則に立ち返り、系がなす仕事 W {\displaystyle W} を「境界 (boundary) に対する仕事 W b o u n d a r y {\displaystyle W_{\mathrm {boundary} }} 」と「その他 (other) の仕事 W o t h e r {\displaystyle W_{\mathrm {other} }} 」に分けると、次のようになる。
Δ U + W b o u n d a r y {\displaystyle \Delta U+W_{\mathrm {boundary} }} はエンタルピー H {\displaystyle H} であり、熱力学ポテンシャルの1つである。エンタルピー H {\displaystyle H} と内部エネルギー U {\displaystyle U} は共に状態関数である。熱機関のような循環過程では、1サイクルが完了すると状態関数が初期値に戻る。一方 Q {\displaystyle Q} も W {\displaystyle W} も系の属性でないとき、循環のステップ上で総和が0になるとは限らない。熱の無限小の表現 δ Q {\displaystyle \delta Q} は、仕事に関する過程の不完全微分を形成する。しかし、体積が変化しない過程などでは δ Q {\displaystyle \delta Q} が完全微分を形成する。同様に(熱の移動がない)断熱過程では、仕事の式は完全微分を形成するが、熱の移動を伴う過程では不完全微分となる。
ある物体(系)の温度変化とそれに要するエネルギーの比を熱容量と呼ぶ。また、単位質量、単位物質量、または単位体積あたりの熱容量を比熱容量と呼ぶ。
ピストン内の気体のような単純な圧縮可能な系では、エンタルピーと内部エネルギーの変化はそれぞれ定圧熱容量と定積熱容量とに関連付けることができる。体積を一定に保つ(定積)条件の下では、初期温度 T0 から最終的な温度 Tf に変化させるのに要する熱 Q {\displaystyle Q} は次の式で表される。
一方、圧力を一定に保つ(定圧)条件の下では、熱は次の式で表される。
定圧過程において系の体積変化を無視できる場合、外界へ仕事がなされず、内部エネルギーとエンタルピーの変化は一致する。このとき、 C p {\displaystyle C_{p}} と C v {\displaystyle C_{v}} は等しくなる。
比熱容量とは、単位質量当たりの熱容量である。熱容量は注目している系全体のエネルギーと温度の関係を示したものだが、比熱容量は系を構成する物質やその結晶構造の性質を示す。
十分低温な液体では、量子効果が重要になる。例えばヘリウム4のようなボース粒子の挙動がある。その場合、ボース=アインシュタイン凝縮点を境として比熱容量は不連続に変化する。
固体の振る舞いは、古典的にはデュロン=プティの法則によって説明されるが、これは比較的高温の領域でのみ成り立つ。低温の固体の振る舞いはデバイ模型によって説明できる。金属のように伝導電子の寄与がない場合、比熱への寄与は格子振動によるものが主となる。デバイ模型において、デバイ温度より十分低温の領域では比熱容量は温度の3乗に比例する。 一方、金属中の伝導電子の挙動を考慮する場合、第二項としてフェルミ分布関数などを必要とする。
単位物質量当たりの熱容量をモル熱容量と呼ぶ。モル熱容量と比熱容量は、体積や分子数といった示量変数ではなく系の内部自由度に依存している。一方、熱容量は系の分子数に依存する示量変数である。
熱容量は質量 m {\displaystyle m} と比熱容量 c s {\displaystyle c_{s}} の積で表される。
あるいは、モル数とモル熱容量 c n {\displaystyle c_{n}\,\!} から次のようにも表される。
1856年、ドイツの物理学者ルドルフ・クラウジウスが熱力学第二法則を定義し、そこで熱 Q と温度 T から次のような値を考えた。
そして1865年、この比をエントロピーと名付け、S と表記するようにした。
従って、熱の不完全微分 δQ は TdS という完全微分で定義されることになる。
言い換えれば、エントロピー関数 S は熱力学的系の境界を通る熱流の定量化と測定を容易にする。
一般に伝熱を扱う工学分野として機械工学と化学工学がある。「熱」の定義にはエネルギーの移動が含まれているが、「伝熱」という用語は工学などの場面で古くから使われてきた。伝熱は様々な機器や過程の設計・運用にとって重要な要素である。
伝熱は、[熱伝導]の機構でなされる。対流や放射は熱の移動形態ではなく、エネルギー移動形態であり、その機構について挙動を説明する別個の物理法則が発見されているが、実際のシステムではこれらが複合的に作用することがある。システムの伝熱を近似的に推定するための様々な数学的方法が開発されてきた。
仕事は熱に容易に変換することができるが、熱を仕事に変換するのは容易ではない。熱を仕事に変換する装置は熱機関と呼ばれている。また熱機関による熱から仕事への変換効率のことを熱効率といい、通常 η {\displaystyle \eta } (イータ:ギリシア文字)で表される。熱機関に与えられた熱を Q {\displaystyle Q} 、得られた仕事を W {\displaystyle W} とすれば、 η = W / Q {\displaystyle \eta =W/Q} となる。熱機関においては、いかなる装置でも高温の熱源から低温の熱源への熱の流出を完全に防ぐことはできないため、 η = 1 {\displaystyle \eta =1} となる(すなわち、与えた熱を完全に仕事に変換できる)熱機関は存在しえない(熱力学第二法則)。このことは永久機関の存在の不可能性とも関連がある。
過去、熱に関してはその源として熱素なるものの存在が信じられていた(カロリック説)。熱素説は熱量保存則が根底にあったことを忘れてはならない。熱素説は後にランフォード伯らによって否定された。ランフォード伯が、大砲の製作現場の金属の削り取りにおいて際限なく熱が発生することに矛盾を見出だした、という逸話はよく知られている。熱素説が正しければ、熱量は保存するので摩擦による熱の発生はいつか停止するはずだからである。
熱量計は物質の化学反応や状態変化に伴う熱容量の測定に用いられる。温度計と断熱容器で構成される。外部から熱が入ったり出て行かないように断熱容器になっている。 | [
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"text": "日本の計量法において、熱量の計量単位は、ジュール又はワット秒、ワット時と定められている。なお、仕事の計量単位も電力量の計量単位もジュール又はワット秒、ワット時である。",
"title": "熱量の単位"
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"text": "1999年10月以降、計量単位としてのカロリーの使用は特殊の計量である「人若しくは動物が摂取する物の熱量又は人若しくは動物が代謝により消費する熱量の計量」にのみ用いることができる。そして2002年4月以降、中学校学習指導要領において、熱量の計量単位は、ジュールを用いることとされた。カロリーの使用制限の経緯および栄養学における使用については「カロリー」の項を参照。",
"title": "熱量の単位"
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"text": "熱伝達で移されるエネルギー総量(amount of heat)は一般に Q で表され、一般に熱量と呼ばれる。その正負は、ある物質(熱力学系)が外界に熱を放出する場合を負(Q < 0)、ある物質が外界から熱を吸収する場合を正 (Q > 0)とするように定義される。",
"title": "記法"
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"text": "単位時間当たりの熱流 (heat transfer rate) は熱量の時間微分として表される。",
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"text": "熱流束 (heat flux) は単位面積の断面を通過する単位時間当たりの熱流と定義され、q と表記される。",
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"text": "熱に関連する内部エネルギーという用語は、物体の温度を上げることで増加するエネルギーにほぼ相当する。",
"title": "内部エネルギー"
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"text": "熱 Q {\\displaystyle Q} は系の内部エネルギー U {\\displaystyle U} とその系がなす仕事 W {\\displaystyle W} とに関係し、熱力学第一法則によれば次のようになる。",
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"text": "すなわち、系の内部エネルギーは仕事によっても熱力学的系の境界を越えた熱流によっても変化する。より詳細に言えば、内部エネルギーとは系内の微視的形態のエネルギーの総和である。それは分子の構造や分子の活動度と関連し、分子群の運動エネルギーと位置エネルギーの総和と見なすことができる。それは次のような種類のエネルギーで構成される。",
"title": "内部エネルギー"
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"text": "乱雑な分子の並進運動のエネルギーと分子内の回転・振動運動のエネルギー、分子間の相互作用によるエネルギーや原子核エネルギーなどの和を、物質の内部エネルギーと呼ぶ。",
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"text": "定圧の理想気体に対して熱の形でエネルギーが流入すると、内部エネルギーが増大し、体積が制限されていなければ体積の変化(系の境界に対する仕事)が起きる。第一法則に立ち返り、系がなす仕事 W {\\displaystyle W} を「境界 (boundary) に対する仕事 W b o u n d a r y {\\displaystyle W_{\\mathrm {boundary} }} 」と「その他 (other) の仕事 W o t h e r {\\displaystyle W_{\\mathrm {other} }} 」に分けると、次のようになる。",
"title": "内部エネルギー"
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"text": "Δ U + W b o u n d a r y {\\displaystyle \\Delta U+W_{\\mathrm {boundary} }} はエンタルピー H {\\displaystyle H} であり、熱力学ポテンシャルの1つである。エンタルピー H {\\displaystyle H} と内部エネルギー U {\\displaystyle U} は共に状態関数である。熱機関のような循環過程では、1サイクルが完了すると状態関数が初期値に戻る。一方 Q {\\displaystyle Q} も W {\\displaystyle W} も系の属性でないとき、循環のステップ上で総和が0になるとは限らない。熱の無限小の表現 δ Q {\\displaystyle \\delta Q} は、仕事に関する過程の不完全微分を形成する。しかし、体積が変化しない過程などでは δ Q {\\displaystyle \\delta Q} が完全微分を形成する。同様に(熱の移動がない)断熱過程では、仕事の式は完全微分を形成するが、熱の移動を伴う過程では不完全微分となる。",
"title": "内部エネルギー"
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"text": "ある物体(系)の温度変化とそれに要するエネルギーの比を熱容量と呼ぶ。また、単位質量、単位物質量、または単位体積あたりの熱容量を比熱容量と呼ぶ。",
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"text": "ピストン内の気体のような単純な圧縮可能な系では、エンタルピーと内部エネルギーの変化はそれぞれ定圧熱容量と定積熱容量とに関連付けることができる。体積を一定に保つ(定積)条件の下では、初期温度 T0 から最終的な温度 Tf に変化させるのに要する熱 Q {\\displaystyle Q} は次の式で表される。",
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"text": "一方、圧力を一定に保つ(定圧)条件の下では、熱は次の式で表される。",
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"text": "定圧過程において系の体積変化を無視できる場合、外界へ仕事がなされず、内部エネルギーとエンタルピーの変化は一致する。このとき、 C p {\\displaystyle C_{p}} と C v {\\displaystyle C_{v}} は等しくなる。",
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"text": "比熱容量とは、単位質量当たりの熱容量である。熱容量は注目している系全体のエネルギーと温度の関係を示したものだが、比熱容量は系を構成する物質やその結晶構造の性質を示す。",
"title": "内部エネルギー"
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"text": "十分低温な液体では、量子効果が重要になる。例えばヘリウム4のようなボース粒子の挙動がある。その場合、ボース=アインシュタイン凝縮点を境として比熱容量は不連続に変化する。",
"title": "内部エネルギー"
},
{
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"text": "固体の振る舞いは、古典的にはデュロン=プティの法則によって説明されるが、これは比較的高温の領域でのみ成り立つ。低温の固体の振る舞いはデバイ模型によって説明できる。金属のように伝導電子の寄与がない場合、比熱への寄与は格子振動によるものが主となる。デバイ模型において、デバイ温度より十分低温の領域では比熱容量は温度の3乗に比例する。 一方、金属中の伝導電子の挙動を考慮する場合、第二項としてフェルミ分布関数などを必要とする。",
"title": "内部エネルギー"
},
{
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"text": "単位物質量当たりの熱容量をモル熱容量と呼ぶ。モル熱容量と比熱容量は、体積や分子数といった示量変数ではなく系の内部自由度に依存している。一方、熱容量は系の分子数に依存する示量変数である。",
"title": "内部エネルギー"
},
{
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"text": "熱容量は質量 m {\\displaystyle m} と比熱容量 c s {\\displaystyle c_{s}} の積で表される。",
"title": "内部エネルギー"
},
{
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"text": "あるいは、モル数とモル熱容量 c n {\\displaystyle c_{n}\\,\\!} から次のようにも表される。",
"title": "内部エネルギー"
},
{
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"text": "1856年、ドイツの物理学者ルドルフ・クラウジウスが熱力学第二法則を定義し、そこで熱 Q と温度 T から次のような値を考えた。",
"title": "エントロピー"
},
{
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"text": "そして1865年、この比をエントロピーと名付け、S と表記するようにした。",
"title": "エントロピー"
},
{
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"text": "従って、熱の不完全微分 δQ は TdS という完全微分で定義されることになる。",
"title": "エントロピー"
},
{
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"text": "言い換えれば、エントロピー関数 S は熱力学的系の境界を通る熱流の定量化と測定を容易にする。",
"title": "エントロピー"
},
{
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"text": "一般に伝熱を扱う工学分野として機械工学と化学工学がある。「熱」の定義にはエネルギーの移動が含まれているが、「伝熱」という用語は工学などの場面で古くから使われてきた。伝熱は様々な機器や過程の設計・運用にとって重要な要素である。",
"title": "工学と熱"
},
{
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"text": "伝熱は、[熱伝導]の機構でなされる。対流や放射は熱の移動形態ではなく、エネルギー移動形態であり、その機構について挙動を説明する別個の物理法則が発見されているが、実際のシステムではこれらが複合的に作用することがある。システムの伝熱を近似的に推定するための様々な数学的方法が開発されてきた。",
"title": "工学と熱"
},
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"text": "仕事は熱に容易に変換することができるが、熱を仕事に変換するのは容易ではない。熱を仕事に変換する装置は熱機関と呼ばれている。また熱機関による熱から仕事への変換効率のことを熱効率といい、通常 η {\\displaystyle \\eta } (イータ:ギリシア文字)で表される。熱機関に与えられた熱を Q {\\displaystyle Q} 、得られた仕事を W {\\displaystyle W} とすれば、 η = W / Q {\\displaystyle \\eta =W/Q} となる。熱機関においては、いかなる装置でも高温の熱源から低温の熱源への熱の流出を完全に防ぐことはできないため、 η = 1 {\\displaystyle \\eta =1} となる(すなわち、与えた熱を完全に仕事に変換できる)熱機関は存在しえない(熱力学第二法則)。このことは永久機関の存在の不可能性とも関連がある。",
"title": "工学と熱"
},
{
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"text": "過去、熱に関してはその源として熱素なるものの存在が信じられていた(カロリック説)。熱素説は熱量保存則が根底にあったことを忘れてはならない。熱素説は後にランフォード伯らによって否定された。ランフォード伯が、大砲の製作現場の金属の削り取りにおいて際限なく熱が発生することに矛盾を見出だした、という逸話はよく知られている。熱素説が正しければ、熱量は保存するので摩擦による熱の発生はいつか停止するはずだからである。",
"title": "「熱」の歴史"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "熱量計は物質の化学反応や状態変化に伴う熱容量の測定に用いられる。温度計と断熱容器で構成される。外部から熱が入ったり出て行かないように断熱容器になっている。",
"title": "熱量計"
}
] | 物理学の熱力学において、熱は、高温の物体から低温の物体へと移動するエネルギーである。 熱とは、ある系のエネルギーの変化から力学的な仕事を差し引いたものと定義される。 | {{redirect|加熱|食材に熱を加える調理法|加熱調理}}
[[ファイル:171879main LimbFlareJan12 lg.jpg|300px|thumb|right|[[太陽]]の[[熱放射]]は、[[生命]]活動のエネルギー源である。]]
{{Thermodynamics sidebar}}
[[物理学]]の[[熱力学]]において、'''熱'''(ねつ、{{lang-en-short|heat}})は、高温の物体から低温の物体へと移動する[[エネルギー]]である<ref name=":0">[http://hyperphysics.phy-astr.gsu.edu/hbase/thermo/heat.html Discourse on Heat and Work] - Department of Physics and Astronomy, Georgia State University: Hyperphysics (online)</ref><ref name=":1">{{cite book|author=Perrot, Pierre|title=A to Z of Thermodynamics|publisher=Oxford University Press|year=1998|id=ISBN 0198565526}}</ref><ref name="Schroeder">{{Cite book|author=Schroeder, Daniel V.|title=An introduction to thermal physics|year=2000|publisher=Addison-Wesley|location=San Francisco, California|isbn=0-321-27779-1|quote=''Heat'' is defined as any spontaneous flow of energy from one object to another, caused by a difference in temperature between the objects.|page=18}}</ref><ref name=":2">{{cite book|author=Baierlein, Ralph|title=Thermal Physics|publisher=Cambridge University Press|year=2003|id=ISBN 0521658381}}</ref>。
熱とは、ある[[系 (自然科学)|系]]の[[エネルギー]]の変化から[[古典力学|力学]]的な[[仕事 (物理学)|仕事]]を差し引いたものと定義される<ref name="Reif">{{Cite book|author=F. Reif|title=Fundamentals of Statistical and Thermal Physics|year=2000|publisher=McGraw-Hll, Inc.|location=Singapore|isbn=0-07-085615-X|page=66}}</ref>。
== 概要 ==
熱は[[エネルギー]]の移動形態の一つである。スコットランドの物理学者[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]]は1871年、「熱」の現代的定義を初めて発表した。マックスウェルの熱の定義は4つの規定で概説される。1つ目は[[熱力学第二法則]]によるもので、「(熱とは)ある物体から別の物体へ伝達される何か」だという規定である。2つ目は熱を数学的に扱うための「測定値」の規定である。3つ目は、熱が力学的[[仕事 (物理学)|仕事]]のような物質的でない何かに変換されることもあるため、「(熱を)物質として扱うことが出来ない」という規定である。最後は、「(熱は)[[エネルギー]]の1つの形態である」という規定である。
物体間で[[仕事 (物理学)|仕事]]を通じて移動する'''以外'''のエネルギーの移動形態を'''熱'''という。「熱」という形態を通して移動したエネルギーの量を「熱量」という。
熱は物体内に蓄えられるものではない。仕事と同様、それはある物体から別の物体への「エネルギーの移動」としてのみ存在する。熱の形で系にエネルギーを加えると系を構成する原子や分子の運動エネルギーや位置エネルギーの形をとる<ref name="Smith">{{cite book|author= Smith, J.M., Van Ness, H.C., Abbot, M.M.|title=Introduction to Chemical Engineering Thermodynamics|publisher=McGraw-Hill|year=2005|id=ISBN 0073104450}}</ref>。
熱は必ず高温の物体から低温の物体へと移動する。低温の物体から高温の物体へと自発的に熱が移動することはない([[熱力学第二法則]]と密接な関係がある事項である)。熱が移動した際に外部に熱が流出しなかったならば、高温の物体が放出した熱量と、低温の物体が接触した物体から得た熱量は等しい。また、同じ温度ならばみかけ上熱の移動はなく、この状態を[[熱力学的平衡|熱平衡状態]]という。
[[熱力学第一法則]]によれば、[[孤立系]]のエネルギーは保存される。従って系の持つエネルギーを変化させるにはその系から外界に、あるいは外界からその系にエネルギーを伝達しなければならない。ある系にエネルギーを伝達する方法は、熱と仕事しかない。ある物体に仕事を行うということは定義上<ref name="Reif"/>、その系にエネルギーを伝達することに他ならず、それによってその物体の外部パラメータ(例えば、体積、磁化、重力場における重心の位置など)が変化する。熱はそれら以外の手段による物体へのエネルギー伝達である。
熱平衡に近い複数の物体の場合、温度という概念が定義できるなら、熱伝達は物体間の温度差に関連する。それは複数の物体が相互に熱平衡状態に近づく不可逆過程である。
=== 運動エネルギーと熱の関係 ===
{{see also|気体分子運動論|統計力学}}
物質(注目する熱力学系)へ熱や仕事として加えられる(または引き去られる)エネルギーは、微視的にはその物質を構成する分子や原子の[[運動エネルギー]]や[[位置エネルギー]]の変化と見なせる。[[統計力学]]において[[内部エネルギー]]は、その物質が取り得る微視的状態から定義される[[統計集団]]を用いて、(その統計集団における)エネルギーの[[期待値]]として与えられる。特に[[理想気体]]の場合、気体分子間の相互作用は無視でき、内部エネルギーは気体分子の運動エネルギーの期待値と直接結び付けられる。例えば理想気体へ熱を加えると、それは気体分子が持つ運動エネルギーの平均を増加させることになる。
<!--<ref>{{cite book | author=Clark, John, O.E. | title=The Essential Dictionary of Science | publisher=Barnes & Noble Books | year=2004 | id=ISBN 0760746168}}</ref>。-->
== 熱量の単位 ==
{{see also|ジュール|カロリー|英熱量}}
[[熱量]]の[[国際単位系]]における計量単位は [[ジュール]](J)である。ジュールは[[SI組立単位]]の一つであり、[[SI基本単位]]である[[キログラム]](kg)・[[メートル]](m)・[[秒]](s)を用いて J = kg⋅m<sup>2</sup>⋅s<sup>−2</sup> と表せる。あるいは[[力 (物理学)|力]]の単位である[[ニュートン (単位)|ニュートン]](N)を用いて J = N⋅m と表すこともできる。
また国際単位系には含まれないが、伝統的な熱量の単位として、[[カロリー]](cal)や[[英熱量]](Btu)がある。これらの単位は、歴史的には単位[[質量]]の[[水]]の[[温度]]を基準となる温度から(採用している温度単位で)1度上昇するために必要な熱量として定義されていたが、現在は様々な方法で再定義されている。そのため、SI単位換算で値が異なる定義が複数存在する。
熱と力学的な[[仕事 (物理学)|仕事]]はともに[[エネルギー]]の移動の一形態であり、いずれもエネルギーの単位であるジュールを用いて表せることが知られている。歴史的には熱と仕事は別個の量と認識されており、[[熱の仕事当量]]の測定などを通じて熱量と仕事の等価性が確かめられている。
国際単位系におけるエネルギーの単位時間当たりの移動量の単位は[[ワット]] (W) である。ワットはジュール毎秒(J/s)に等しい。
=== 日本の計量法における熱量の単位 ===
日本の[[計量法]]において、熱量の計量単位は、ジュール又は[[ワット秒]]、[[ワット時]]と定められている<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404AC0000000051&keyword=%E8%A8%88%E9%87%8F%E6%B3%95 計量法] 別表第1、「熱量」の欄</ref>。なお、[[仕事 (物理学)|仕事]]の計量単位も[[電力量]]の計量単位もジュール又はワット秒、ワット時である。
1999年10月以降、計量単位としてのカロリーの使用は特殊の計量である「人若しくは動物が摂取する物の熱量又は人若しくは動物が代謝により消費する熱量の計量」にのみ用いることができる<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357_20190520_501CO0000000006&keyword=%E8%A8%88%E9%87%8F%E5%8D%98%E4%BD%8D%E4%BB%A4 計量単位令] 第5条及び別表第6(項番13)</ref>。そして2002年4月以降、中学校[[学習指導要領]]において、熱量の計量単位は、ジュールを用いることとされた<ref>[https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2011/01/05/1234912_006.pdf 中学校学習指導要領解説、理科編]p.43、文部科学省、2008年7月。「電力量の単位はジュール(記号 J)で表されることを扱い,発生する熱量も同じジュールで表されることや日常使われている電力量,熱量の単位にも触れる。」</ref>。カロリーの使用制限の経緯および[[栄養学]]における使用については「[[カロリー]]」の項を参照。
== 記法 ==
熱伝達で移されるエネルギー総量({{en|amount of heat}}<ref>
{{Cite book
|和書
|author=BIPM|authorlink=BIPM
|date=2020-03
|translator=[[産業技術総合研究所]] 計量標準総合センター
|url=https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_日本語版_r.pdf
|title=国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版
|publisher=産業技術総合研究所 計量標準総合センター
|ref=国際単位系(SI)第9版(2019)
}} p.133 右下の欄外注記:現代の「熱量」の英語表記は {{en|''quantity'' of heat}} でなく {{en|''amount'' of heat}} である。なぜなら、計量学において単語 {{en|quantity}} に別の意味が有るからである。</ref>)は一般に {{mvar|Q}} で表され、一般に[[熱量]]と呼ばれる。その正負は、ある物質(熱力学系)が外界に熱を放出する場合を負({{math|''Q'' < 0}})、ある物質が外界から熱を吸収する場合を正 ({{math|''Q'' > 0}})とするように定義される。
単位時間当たりの熱流 ({{en|heat transfer rate}}) は熱量の[[時間微分]]として表される。
:<math>\dot{Q} = \frac{dQ}{dt}</math>
'''熱流束''' ({{en|heat flux}}) は単位面積の断面を通過する単位時間当たりの熱流と定義され、{{mvar|q}} と表記される。
== 内部エネルギー ==
{{Main|内部エネルギー}}
熱に関連する[[内部エネルギー]]という用語は、物体の[[温度]]を上げることで増加するエネルギーにほぼ相当する。
熱 <math>Q</math> は系の内部エネルギー <math>U</math> とその系がなす仕事 <math> W </math> とに関係し、[[熱力学第一法則]]によれば次のようになる。
:<math>\Delta U = Q - W \ </math>
すなわち、系の内部エネルギーは仕事によっても熱力学的系の境界を越えた熱流によっても変化する。より詳細に言えば、[[内部エネルギー]]とは系内の微視的形態のエネルギーの総和である。それは分子の構造や分子の活動度と関連し、分子群の運動エネルギーと位置エネルギーの総和と見なすことができる。それは次のような種類のエネルギーで構成される<ref>{{cite book | last = Cengel | first = Yungus, A. | coauthors = Boles, Michael | title = Thermodynamics: An Engineering Approach|edition= 4th | pages = 17–18 | publisher = McGraw-Hill|place=Boston | year = 2002 | id = ISBN 0-07-238332-1}}</ref>。
乱雑な分子の並進運動のエネルギーと分子内の回転・振動運動のエネルギー、分子間の相互作用によるエネルギーや原子核エネルギーなどの和を、物質の[[内部エネルギー]]と呼ぶ。
定圧の理想気体に対して熱の形でエネルギーが流入すると、内部エネルギーが増大し、体積が制限されていなければ体積の変化(系の境界に対する仕事)が起きる。[[熱力学第一法則|第一法則]]に立ち返り、系がなす仕事<math> W </math>を「境界 (boundary) に対する仕事<math>W_{\mathrm{boundary}} </math>」と「その他 (other) の仕事<math>W_{\mathrm{other}} </math>」に分けると、次のようになる。
:<math>\Delta U + W_{\mathrm{boundary}} = Q - W_{\mathrm{other}}\ </math>
<math>\Delta U + W_{\mathrm{boundary}}</math> は[[エンタルピー]] <math>H</math> であり、[[熱力学ポテンシャル]]の1つである。エンタルピー <math> H </math> と内部エネルギー <math> U </math> は共に[[状態量|状態関数]]である。[[熱機関]]のような循環過程では、1サイクルが完了すると状態関数が初期値に戻る。一方 <math>Q </math> も <math> W </math> も系の属性でないとき、循環のステップ上で総和が0になるとは限らない。熱の無限小の表現 <math>\delta Q </math> は、仕事に関する過程の[[不完全微分]]を形成する。しかし、体積が変化しない過程などでは <math>\delta Q </math> が[[完全微分]]を形成する。同様に(熱の移動がない)断熱過程では、仕事の式は完全微分を形成するが、熱の移動を伴う過程では不完全微分となる。
=== エンタルピーと内部エネルギー交換 ===
{{See also|熱容量|比熱容量}}
ある物体(系)の温度変化とそれに要するエネルギーの比を[[熱容量]]と呼ぶ。また、単位質量、単位物質量、または単位体積あたりの熱容量を[[比熱容量]]と呼ぶ。
==== 定積熱容量と定圧熱容量 ====
ピストン内の[[気体]]のような単純な圧縮可能な系では、エンタルピーと内部エネルギーの変化はそれぞれ定圧熱容量と定積熱容量とに関連付けることができる。体積を一定に保つ('''定積''')条件の下では、初期温度 ''T''<sub>0</sub> から最終的な温度 ''T<sub>f</sub>'' に変化させるのに要する熱 <math>Q</math> は次の式で表される。
:<math>Q = \int_{T_0}^{T_f}C_v\,dT = \Delta U\,\!</math>
一方、圧力を一定に保つ('''定圧''')条件の下では、熱は次の式で表される。
:<math>Q = \int_{T_0}^{T_f}C_p\,dT = \Delta H\ = \Delta U + \int_{V_0}^{V_f}P\,dV\,\!</math>
==== 圧縮できない物質 ====
定圧過程において系の体積変化を無視できる場合、外界へ仕事がなされず、内部エネルギーとエンタルピーの変化は一致する。このとき、<math>C_p</math> と <math>C_v</math> は等しくなる。
=== 比熱容量 ===
{{See also|比熱容量}}
比熱容量とは、単位[[質量]]当たりの熱容量である。熱容量は注目している系全体のエネルギーと温度の関係を示したものだが、比熱容量は系を構成する物質やその結晶構造の性質を示す。
十分低温な液体では、量子効果が重要になる。例えば[[ヘリウムの同位体|ヘリウム4]]のような[[ボース粒子]]の挙動がある。その場合、[[ボース=アインシュタイン凝縮]]点を境として比熱容量は不連続に変化する。
固体の振る舞いは、古典的には[[デュロン=プティの法則]]によって説明されるが、これは比較的高温の領域でのみ成り立つ。低温の固体の振る舞いは[[デバイ模型]]によって説明できる。金属のように伝導電子の寄与がない場合、比熱への寄与は格子振動によるものが主となる。デバイ模型において、デバイ温度より十分低温の領域では比熱容量は温度の3乗に比例する。
一方、金属中の伝導電子の挙動を考慮する場合、第二項として[[フェルミ分布関数]]などを必要とする。
==== モル熱容量と比熱容量 ====
{{see also|定圧モル熱容量|定積モル熱容量}}
単位物質量当たりの熱容量をモル熱容量と呼ぶ。モル熱容量と比熱容量は、体積や分子数といった[[示量性と示強性|示量変数]]ではなく系の内部自由度に依存している。一方、熱容量は系の分子数に依存する示量変数である。
熱容量は質量 <math>m</math> と[[比熱容量]] <math>c_s</math> の積で表される。
:<math>C_p = mc_s</math>
あるいは、[[モル]]数とモル熱容量 <math>c_n \,\!</math> から次のようにも表される。
:<math>C_p = nc_n</math>
== エントロピー ==
{{main|エントロピー}}
1856年、ドイツの物理学者[[ルドルフ・クラウジウス]]が[[熱力学第二法則]]を定義し、そこで熱 ''Q'' と温度 ''T'' から次のような値を考えた<ref>Published in Poggendoff’s Annalen, Dec. 1854, vol. xciii. p. 481; translated in the Journal de Mathematiques, vol. xx. Paris, 1855, and in the Philosophical Magazine, August 1856, s. 4. vol. xii, p. 81</ref><ref>Clausius, R. (1865). The Mechanical Theory of Heat]'' –with its Applications to the Steam Engine and to Physical Properties of Bodies. London: John van Voorst, 1 Paternoster Row. MDCCCLXVII.</ref>。
:<math> {} \frac {Q}{T}</math>
そして1865年、この比を[[エントロピー]]と名付け、''S'' と表記するようにした。
:<math> \Delta S = \frac {Q}{T}</math>
従って、熱の不完全微分 ''δQ'' は ''TdS'' という完全微分で定義されることになる。
:<math> \delta Q = T dS \,</math>
言い換えれば、エントロピー関数 ''S'' は熱力学的系の境界を通る熱流の定量化と測定を容易にする。
== 工学と熱 ==
=== 工学における伝熱 ===
[[ファイル:Hot metalwork.jpg|thumb|赤熱した鉄が周囲に[[伝熱]]している(主に[[温度放射]])]]
{{Main|伝熱}}
一般に伝熱を扱う工学分野として[[機械工学]]と[[化学工学]]がある。「熱」の定義にはエネルギーの移動が含まれているが、「伝熱」という用語は工学などの場面で古くから使われてきた。伝熱は様々な機器や過程の設計・運用にとって重要な要素である。
伝熱は、[熱伝導]の機構でなされる。対流や放射は熱の移動形態ではなく、エネルギー移動形態であり、その機構について挙動を説明する別個の物理法則が発見されているが、実際のシステムではこれらが複合的に作用することがある。システムの伝熱を近似的に推定するための様々な数学的方法が開発されてきた。
=== 熱から仕事への変換 ===
[[仕事 (物理学)|仕事]]は熱に容易に変換することができるが、熱を仕事に変換するのは容易ではない。熱を仕事に変換する装置は[[熱機関]]と呼ばれている。また熱機関による熱から仕事への変換効率のことを'''[[熱効率]]'''といい、通常<math>\eta</math>('''イータ''':ギリシア文字)で表される。熱機関に与えられた熱を <math>Q</math>、得られた仕事を <math>W</math> とすれば、<math>\eta=W/Q</math> となる。熱機関においては、いかなる装置でも高温の熱源から低温の熱源への熱の流出を完全に防ぐことはできないため、<math>\eta=1</math> となる(すなわち、与えた熱を完全に仕事に変換できる)熱機関は存在しえない([[熱力学第二法則]])。このことは[[永久機関]]の存在の不可能性とも関連がある。
== 「熱」の歴史 ==
{{main|カロリック説|フロギストン説|熱の仕事当量}}
=== カロリック説 ===
過去、熱に関してはその源として熱素なるものの存在が信じられていた([[カロリック説]])。熱素説は熱量保存則が根底にあったことを忘れてはならない。熱素説は後に[[ベンジャミン・トンプソン|ランフォード伯]]らによって否定された。ランフォード伯が、大砲の製作現場の金属の削り取りにおいて際限なく熱が発生することに矛盾を見出だした、という逸話はよく知られている。熱素説が正しければ、熱量は保存するので摩擦による熱の発生はいつか停止するはずだからである。
== 熱量計 ==
[[熱量計]]は物質の[[化学反応]]や[[状態変化]]に伴う[[熱容量]]の測定に用いられる。温度計と断熱容器で構成される。外部から熱が入ったり出て行かないように断熱容器になっている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[熱力学]]
* [[統計力学]]
* [[内部エネルギー]]
* [[伝熱]]
* [[熱量計]]
* [[熱交換器]]
* [[熱伝達率]]
* [[温度]]
* [[ヒートシンク]]
==外部リンク==
* [http://www.foxnews.com/story/0,2933,187464,00.html Plasma heat at 2 gigakelvins] - Article about extremely high temperature generated by scientists(Foxnews.com)
* [http://www.cheresources.com/convection.shtml Correlations for Convective Heat Transfer] - ChE Online Resources
* [http://canadaconnects.ca/chemistry/10114/ An Introduction to the Quantitative Definition and Analysis of Heat written for High School Students]
{{Normdaten}}
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[[Category:熱|*ねつ]]
[[Category:エネルギー|ねつ]]
[[Category:加熱|*]] | 2003-05-26T16:35:19Z | 2023-12-18T01:34:12Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%B1 |
9,376 | 可視光線 | 可視光線(かしこうせん、英: visible light)とは、電磁波のうち、ヒトの目で見える波長のもの。いわゆる光のこと。JIS Z8120の定義によれば、可視光線に相当する電磁波の波長は下界はおおよそ360-400 nm、上界はおおよそ760-830 nmである。可視光線より波長が短くなっても長くなっても、ヒトの目には見ることができなくなる。可視光線より波長の短いものを紫外線、長いものを赤外線と呼ぶ。可視光線に対し、赤外線と紫外線を指して、不可視光線(ふかしこうせん)と呼ぶ場合もある。
可視光線は、太陽やそのほか様々な照明から発せられる。通常は、様々な波長の可視光線が混ざった状態であり、この場合、光は白に近い色に見える。プリズムなどを用いて、可視光線をその波長によって分離してみると、それぞれの波長の可視光線が、ヒトの目には異なった色を持った光として認識されることがわかる。各波長の可視光線の色は、日本語では波長の短い側から順に、 紫、 青、 水色、 緑、 黄、 橙、 赤で、俗に七色といわれるが、これは連続的な移り変わりであり、文化によって分類の仕方は異なる(虹の色数を参照のこと)。波長ごとに色が順に移り変わること、あるいはその色の並ぶ様を、スペクトルと呼ぶ。
もちろん、可視光線という区分は、あくまでヒトの視覚を主体とした分類である。紫外線領域の視覚を持つ動物は多数ある(一部の昆虫類や鳥類など)。太陽光をスペクトル分解するとその多くは可視光線である。
ただし、スペクトル分解では現在の技術において観測できない周波数域(γ線よりもさらに、また極めて短い波長であるプランク周波数1.8549×10 Hzや、発見に至っていないそれ以遠の周波数の可能性)も否定できない。
また、進化とは一般的な進化論において、遺伝子の(突然)変異によってもたらされた個体の特性(とその他の特性の組み合わせ)が、その環境下において、結果として最も有利となり、生殖により子孫へと引き継がれ、種として変容・存続して行くことを指しており、太陽光の可視光線が進化を促しているとは言えない。
ただし興味深いのは、遺伝子の変異を促す要因として太陽からの放射線も一因として考えられており、遺伝子の変異の観点からは環境が進化を促しているとも言える。
可視光線は、通常はヒトの体に害はないが、例えば核爆発などの強い可視光線が目に入ると網膜の火傷の危険性がある。太陽の光を直接見ても同様である。 | [
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{{参照方法|date=2012年12月}}
{| class="wikitable" style="float:right; width:400px; text-align:center; margin:0.5em auto; width:auto; margin-left:1em;"
! colspan="4" style="background:#FFF;" | [[File:Linear visible spectrum.svg|center|250px|sRGB rendering of the spectrum of visible light]]
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{{色}}
[[File:Light Amplification by Stimulated Emission of Radiation.jpg|thumb|250px|right|可視光線[[レーザー]] (赤, 緑, 青, 青紫)]]
'''可視光線'''(かしこうせん、{{lang-en-short|visible light}})とは、[[電磁波]]のうち、[[ヒト]]の[[目]]で見える[[波長]]のもの。いわゆる[[光]]のこと。[[日本工業規格|JIS]] Z8120の定義によれば、可視光線に相当する電磁波の波長は下界はおおよそ360-400 [[ナノメートル|nm]]、上界はおおよそ760-830 nmである。可視光線より波長が短くなっても長くなっても、ヒトの目には見ることができなくなる。可視光線より波長の短いものを[[紫外線]]、長いものを[[赤外線]]と呼ぶ。可視光線に対し、赤外線と紫外線を指して、'''不可視光線'''(ふかしこうせん)と呼ぶ場合もある。
[[Image:Linear visible spectrum.svg]]
可視光線は、[[太陽]]やそのほか様々な[[照明]]から発せられる。通常は、様々な波長の可視光線が混ざった状態であり、この場合、光は白に近い色に見える。[[プリズム]]などを用いて、可視光線をその波長によって分離してみると、それぞれの波長の可視光線が、ヒトの目には異なった[[色]]を持った光として認識されることがわかる。各波長の可視光線の色は、日本語では波長の短い側から順に、{{colorbox|#7800fe}}紫、{{colorbox|#0300ff}} 青、{{colorbox|aqua}} 水色、{{colorbox|#01ff02}} 緑、{{colorbox|yellow}} 黄、{{colorbox|orange}} 橙、{{colorbox|red}} 赤で、俗に七色といわれるが、これは連続的な移り変わりであり、文化によって分類の仕方は異なる([[虹#分光学的発見の過程|虹の色数]]を参照のこと)。波長ごとに色が順に移り変わること、あるいはその色の並ぶ様を、[[スペクトル]]と呼ぶ。
もちろん、可視光線という区分は、あくまでヒトの視覚を主体とした分類である。[[紫外線]]領域の視覚を持つ動物は多数ある(一部の[[昆虫類]]や[[鳥類]]など)。太陽光をスペクトル分解するとその多くは可視光線である。
ただし、スペクトル分解では現在の技術において観測できない[[周波数]]域(γ線よりもさらに、また極めて短い波長であるプランク周波数1.8549×10<sup>43</sup> Hzや、発見に至っていないそれ以遠の周波数の可能性)も否定できない。
また、[[進化]]とは一般的な進化論において、遺伝子の(突然)変異によってもたらされた個体の特性(とその他の特性の組み合わせ)が、その環境下において、結果として最も有利となり、生殖により子孫へと引き継がれ、種として変容・存続して行くことを指しており、太陽光の可視光線が進化を促しているとは言えない。
ただし興味深いのは、遺伝子の変異を促す要因として太陽からの放射線も一因として考えられており、遺伝子の変異の観点からは環境が進化を促しているとも言える。
可視光線は、通常はヒトの体に害はないが、例えば核爆発などの強い可視光線が目に入ると[[網膜]]の火傷の危険性がある。太陽の光を直接見ても同様である。
<!--
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
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== 関連項目 ==
{{Commonscat|Visible spectrum}}
* [[電磁波]]
** [[光]] - [[紫外線]] - [[赤外線]]
* [[虹]] - [[プリズム]] - [[分光学]]
* [[色]]
* [[光覚]]
* [[可視光通信]]
* [[高エネルギー可視光線]]
* [[波長]]
== 外部リンク ==
* {{Cite jis|Z|8120}} 2011年3月23日閲覧。
* {{Kotobank}}
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[[Category:光学]]
[[Category:光|*かしこうせん]]
[[Category:色|*かしこうせん]]
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[[Category:視覚]] | 2003-05-26T16:36:59Z | 2023-11-10T11:19:57Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%AF%E8%A6%96%E5%85%89%E7%B7%9A |
9,377 | アルファ崩壊 | アルファ崩壊(アルファほうかい、α崩壊、英: alpha decay)とは、不安定な原子核が放射線としてアルファ線(α線)を放出する放射性崩壊の一種である。アルファ崩壊が発生する原因は量子力学におけるトンネル効果である。アルファ壊変(アルファかいへん)ともいう。
アルファ崩壊は、ある原子核がアルファ粒子(陽子2つ、中性子2つの、ヘリウム4の原子核)を放出し、原子番号と中性子数が2減る。
例えば次のような崩壊の事を指す
これはより一般的には次のように記述される。
アルファ粒子はヘリウム4の原子核でもあり、質量数や中性子数の減少はヘリウム原子核分と等しい。アルファ崩壊は一つの原子が二つの原子へと分かれる核分裂反応ととらえることもできる。
なお、崩壊の際にアルファ粒子は原子核内で働く核力(強い力)を振り切り、上回るだけのエネルギーを持つわけではない。アルファ崩壊はトンネル効果によりアルファ粒子がエネルギーの壁を通り抜け、原子核から飛び出すことにより起きている。原子核外へは強い力が及ばず、さらに原子核とアルファ粒子の間には電磁気力による斥力が働いているため、一度外へ出たアルファ粒子はそのまま原子の外へ高速で飛び出すことになる。
重い原子核が分裂することであるアルファ崩壊によりアルファ線が放出されるが、アルファ崩壊を起こす元素は崩壊系列の中においても限られ、崩壊系列のひとつであるウラン系列においてはウラン238(半減期は45億年)、ウラン234(半減期は24万年)、トリウム230(半減期は7万7千年)、ラジウム226(半減期は1600年)、ラドン222(半減期は3.82日)、ポロニウム218(半減期は3.05分)、ポロニウム214(半減期は164マイクロ秒)、ポロニウム210(半減期は138.4日)である。半減期が短いほど高水準の放射性活性が短期間続き、半減期が長いほど低水準の放射性活性が長期間続く。アレクサンドル・リトビネンコ暗殺の死因はポロニウム210による体内被曝とされている。 | [
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] | アルファ崩壊とは、不安定な原子核が放射線としてアルファ線(α線)を放出する放射性崩壊の一種である。アルファ崩壊が発生する原因は量子力学におけるトンネル効果である。アルファ壊変(アルファかいへん)ともいう。 | {{原子核物理学}}
'''アルファ崩壊'''(アルファほうかい、α崩壊、{{lang-en-short|alpha decay}})とは、[[不安定核|不安定]]な[[原子核]]が[[放射線]]として[[アルファ線|アルファ線(α線)]]を放出する[[放射性崩壊]]の一種である。アルファ崩壊が発生する原因は[[量子力学]]における[[トンネル効果]]である<ref>[[#Gamow(1928)|Gamow(1928)]] 及び {{citation|title=Quantum Mechanics and Radioactive Disintegration|author=R. W. Gurney, E. U. Condon|year=1929|ref=GC(1929)}}</ref>。'''アルファ壊変'''(アルファかいへん)ともいう<ref>[[#富永、佐野 2018|富永、佐野 2018]] p.17.</ref>。
==概要==
アルファ崩壊は、ある原子核が[[アルファ粒子]]([[陽子]]2つ、[[中性子]]2つの、[[ヘリウム4]]の[[原子核]])を放出し、[[原子番号]]と[[中性子]]数が2減る。[[Image:Alpha Decay.svg|thumb|アルファ崩壊|232x232ピクセル|左]]例えば次のような崩壊の事を指す<ref>Suchocki, John. Conceptual Chemistry, 2007. Page 119.</ref>
:<math>{}^{238}_{92}\hbox{U}\;\to\;{}^{234}_{90}\hbox{Th}\;+\;{}^4_2\hbox{He}^{2+}</math>
これはより一般的には次のように記述される。
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アルファ粒子はヘリウム4の原子核でもあり、質量数や中性子数の減少はヘリウム原子核分と等しい。アルファ崩壊は一つの原子が二つの原子へと分かれる[[核分裂反応]]ととらえることもできる。
なお、崩壊の際にアルファ粒子は原子核内で働く[[強い相互作用|核力]](強い力)を振り切り、上回るだけのエネルギーを持つわけではない。アルファ崩壊は[[トンネル効果]]によりアルファ粒子がエネルギーの壁を通り抜け、原子核から飛び出すことにより起きている。原子核外へは強い力が及ばず、さらに原子核とアルファ粒子の間には[[電磁相互作用|電磁気力]]による斥力が働いているため、一度外へ出たアルファ粒子はそのまま原子の外へ高速で飛び出すことになる。
重い原子核が分裂することであるアルファ崩壊により[[アルファ線]]が放出されるが、アルファ崩壊を起こす元素は[[崩壊系列]]の中においても限られ、崩壊系列のひとつである[[ウラン系列]]においては[[ウラン238]]([[半減期]]は45億年)、[[ウラン234]](半減期は24万年)、[[トリウム230]](半減期は7万7千年)、[[ラジウム226]](半減期は1600年)、[[ラドン222]](半減期は3.82日)、[[ポロニウム218]](半減期は3.05分)、[[ポロニウム214]](半減期は164[[マイクロ秒]])、[[ポロニウム210]](半減期は138.4日)である<ref>[[#アリソン 2011|アリソン 2011]] p.63.</ref>。半減期が短いほど高水準の放射性活性が短期間続き、半減期が長いほど低水準の放射性活性が長期間続く<ref>[[#アリソン 2011|アリソン 2011]] p.64.</ref>。[[アレクサンドル・リトビネンコ#中毒死事件|アレクサンドル・リトビネンコ暗殺]]の死因は[[ポロニウム210]]による体内被曝とされている<ref>[[#アリソン 2011|アリソン 2011]] p.65.</ref>。
==脚注==
<references />
==関連項目==
*[[放射性崩壊]]
**[[ベータ崩壊]]
**[[ガンマ崩壊]]
*[[アルファ粒子|アルファ粒子(線)]]
**[[ガイガー・ヌッタルの法則]]
**[[トンネル効果]]
*[[井戸型ポテンシャル]]
==参考文献==
*{{Cite book|和書
|author=ウェード・アリソン|authorlink=ウェード・アリソン
|year=2011
|title=放射能と理性-なぜ「100ミリシーベルト」なのか
|publisher=[[徳間書店]]
|series=
|isbn=978-4-19-863218-2
|ref=アリソン 2011
}}
*{{Cite book|和書
|author=富永健
|author2=佐野博敏
|year=2018
|title=放射化学概論
|edition=第4版
|publisher=[[東京大学出版会]]
|series=
|isbn=978-4-13-062512-8
|ref=富永、佐野 2018
}}
*{{Cite book|和書|title=原子核物理学|author=エンリコ・フェルミ|editor=小林稔|year=1954|publisher=吉岡書店|ref=フェルミ(1954) }}
*{{citation|title=Zur Quantentheorie des Atomkernes|author=G. Gamow|year=1928|url=http://www.nssp.uni-saarland.de/lehre/Vorlesung/Kernphysik_SS13/History/Papers/Gamov.pdf|ref=Gamow(1928) }}
*{{Cite book|和書|title=原子核はなぜ壊れるか 放射性崩壊の鍵|author=山田 勝美|year=1987|publisher=丸善出版|ref=山田(1987) }}
{{核反応}}
{{放射線}}
{{DEFAULTSORT:あるふあほうかい}}
[[Category:素粒子物理学]]
[[Category:原子核物理学]]
[[Category:ヘリウム]]
[[Category:放射線]] | null | 2022-06-30T01:05:52Z | false | false | false | [
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"Template:Cite book",
"Template:核反応",
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"Template:原子核物理学",
"Template:Lang-en-short"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A1%E5%B4%A9%E5%A3%8A |
9,378 | 加速度 | 加速度(かそくど、英: acceleration)は、単位時間当たりの速度の変化率(速度の時間微分)。速度ベクトルの時間的な変化を示すベクトルとして、加速度が定義される。
加速度はベクトルとして平行四辺形の法則で合成や分解ができるのは力や速度の場合と同様であるが、法線加速度、接線加速度に分解されることが多い。法線加速度は向きを変え、接線加速度は速さを変える。
微小時間Δtを
Δ = t ′ − t {\displaystyle {\Delta }=t'-t}
と定義すると、速度差Δvの定義は
Δ v = v ( t ′ ) − v ( t ) {\displaystyle {\Delta v}={\boldsymbol {v}}(t')-{\boldsymbol {v}}(t)}
であるから、これをΔtで割ってからΔt → 0として、加速度aは
a = lim Δ t → 0 Δ v Δ t ≡ d v d t {\displaystyle {\boldsymbol {a}}=\lim _{\Delta t\to 0}{\Delta {\boldsymbol {v}} \over \Delta t}\equiv {\frac {d{\boldsymbol {v}}}{dt}}}
と定義される。
平面運動を極座標(r,θ)で表した場合、動径方向・角方向成分はそれぞれ
a r = d 2 r d t 2 − r ( d θ d t ) 2 {\displaystyle a_{r}={\frac {d^{2}r}{dt^{2}}}-r\!\left({\frac {d\theta }{dt}}\right)^{2}}
a θ = 1 r d d t ( r 2 d θ d t ) {\displaystyle a_{\theta }={\frac {1}{r}}{\frac {d}{dt}}\!\left(r^{2}{\frac {d\theta }{dt}}\right)}
となる。
一般に減速度(げんそくど)と言われるのは、負(進行方向と反対)の加速度のことである。また、進行方向を変える(曲がる)のは、進行方向とは異なる方向への加速度を受けるということである。
遠心力による加速度を遠心加速度という。
物体に加速度がかかることと、力が加わることとは等価である(運動の第2法則)。
加速度の単位時間当たりの変化率は、加加速度あるいは躍度とよばれる。
加速度が一定
a ( t ) = a 0 {\displaystyle a(t)={\boldsymbol {a_{0}}}}
のとき経過時間t後の速度v(t)、変位x(t)は
t = 0 {\displaystyle t=0}
での速度をv0、位置座標をx0とすると
v ( t ) = v 0 + a 0 t {\displaystyle {\boldsymbol {v(t)}}=v_{0}+a_{0}t}
x ( t ) = x 0 + v 0 t + 1 2 a 0 t 2 {\displaystyle {\boldsymbol {x(t)}}=x_{0}+v_{0}t+{\frac {1}{2}}a_{0}t^{2}}
で求められる。
また、位置座標をx(0)=0とすれば、上記2式を変形することによってtを消去した次式が得られる。
v ( t ) 2 − v 0 2 = 2 a 0 x ( t ) {\displaystyle {\boldsymbol {v(t)^{2}}}-{\boldsymbol {v_{0}^{2}}}=2a_{0}x(t)}
加速度の単位には m/s(メートル毎秒毎秒)が用いられるほか、地震の揺れの加速度にはガル (Gal) という単位が使用される (100 Gal = 1 m/s)。
標準重力を基準としたジー (G)という単位があり、1.0 G = 9.806 65m/sである。 | [
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] | 加速度は、単位時間当たりの速度の変化率(速度の時間微分)。速度ベクトルの時間的な変化を示すベクトルとして、加速度が定義される。 | {{Otheruseslist|物理学としての加速度|鉄道車両の性能指標の加速度|起動加速度|角速度の変化率|角加速度|テンポの変化|アゴーギク|ヨハン・シュトラウスのワルツ|加速度円舞曲}}
{{出典の明記|date=2011年6月}}
{{物理量
|名称=加速度
|英語=acceleration
|記号=''a''
|次元=''[[長さ|L]] [[時間|T]]'' {{sup-|2}}
|階=ベクトル
|SI=[[メートル毎秒毎秒]] (m/s<sup>2</sup>)
|CGS=[[ガル]] (Gal)
|FPS=[[フィート毎秒毎秒]] (ft/s<sup>2</sup>)
|MKSG=[[標準重力|ジー]](G)
}}
{{古典力学}}
'''加速度'''(かそくど、{{lang-en-short|acceleration}})は、[[単位時間]]当たりの[[速度]]の[[変化率]](速度の[[時間微分]]{{efn2|物体の速度の、各時間の点での変化の[[割合]]。}})。速度ベクトルの時間的な変化を示すベクトルとして、加速度が定義される{{Sfn|小出昭一郎|1997|p=8}}。
== 概要 ==
加速度はベクトルとして[[平行四辺形]]の[[法則]]で合成や分解ができるのは力や速度の場合と同様であるが、'''[[法線]]加速度'''、'''[[接線]]加速度'''に分解されることが多い。法線加速度は向きを変え、接線加速度は[[速さ]]を変える。
微小時間{{Math|Δt}}を
{{Indent|<math>{\Delta } = t' - t</math>}}
と定義すると、速度差{{Math|Δv}}の定義は
{{Indent|<math>
{\Delta v} = \boldsymbol{v}(t') - \boldsymbol{v}(t) </math>}}
であるから、これを{{Math|Δt|big=}}で割ってから{{Math|Δt → 0}}として、加速度{{Math|a}}は
{{Indent|<math>\boldsymbol{a} =
\lim_{\Delta t \to 0}{\Delta\boldsymbol{v} \over \Delta t}
\equiv \frac{d\boldsymbol{v}}{dt}</math>}}
と定義される{{Sfn|小出昭一郎|1997|p=8}}。
[[平面運動]]を[[極座標]](r,θ)で表した場合、動径方向・角方向成分はそれぞれ
{{Indent|<math>a_r=\frac{d^2 r}{dt^2} - r\!\left(\frac{d\theta}{dt}\right)^2</math>}}
{{Indent|<math>a_\theta=\frac{1}{r}\frac{d}{dt}\!\left(r^2\frac{d\theta}{dt}\right)</math>}}
となる。
一般に'''減速度'''(げんそくど)と言われるのは、負(進行方向と反対)の加速度のことである。また、進行方向を変える(曲がる)のは、進行方向とは異なる方向への加速度を受けるということである。
[[遠心力]]による加速度を[[遠心加速度]]という。
[[物体]]に加速度がかかることと、[[力 (物理学)|力]]が加わることとは等価である([[運動の第2法則]])。
加速度の単位時間当たりの変化率は、加加速度あるいは[[躍度]]とよばれる。
== 等加速度運動 ==
[[File:Free-fall.gif|thumb|right|200px|[[自由落下]] (Free-fall)]]
加速度が一定{{Indent|<math>a(t)=\boldsymbol{a_0}</math>}}のとき経過時間t後の速度v(t)、変位x(t)は{{Indent|<math>t=0</math>}}での速度をv<sub>0</sub>、位置座標をx<sub>0</sub>とすると
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で求められる<ref>[https://kotobank.jp/word/等加速度運動-103230 世界大百科事典内の等加速度運動の言及]</ref>。
また、位置座標をx(0)=0とすれば、上記2式を変形することによってtを消去した次式が得られる<ref>[http://www.wakariyasui.sakura.ne.jp/p/mech/henni/toukasokudo.html 時間 t を含まない式]</ref>。
{{Indent|<math>\boldsymbol{v(t)^2}-\boldsymbol{v_0^2}=2a_0x(t)</math>}}
== 単位 ==
加速度の[[単位]]には m/s<sup>2</sup>([[メートル毎秒毎秒]])が用いられるほか、[[地震]]の揺れの加速度には[[ガル]] (Gal) という単位が使用される (100 Gal = 1 m/s<SUP>2</SUP>)。
[[標準重力]]を基準としたジー (G)という単位があり、1.0 G = 9.806 65m/s<sup>2</sup>である。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|title=物理学|date=1997-11-10|year=1997|publisher=裳華房|ref=harv|author=小出昭一郎|edition=三訂版|isbn=4-7853-2074-5}}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary}}
{{Commonscat}}
* [[運動の第2法則]]
* [[重力加速度]]
** [[地球の重力]] - [[標準重力]]
* [[躍度]](加加速度)
*[[加加加速度]] - ニュートン力学に則った、躍度の変化を表す正式な日本の単位。
* [[ホドグラフ]]
* [[加速度センサー]]
* [[起動加速度]](鉄道)
* [[加速度の比較]]
* [[微分]]
* [[加速度病]]([[乗り物酔い]])
* [[アトウッドの器械]] - 適度な大きさの一定加速度を作るための実験装置。
* [[減速]]
== 外部リンク ==
* {{kotobank}}
{{古典力学のSI単位}}
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[[Category:加速度|*]]
[[Category:力学]] | null | 2023-03-05T04:49:17Z | false | false | false | [
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"Template:古典力学"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E9%80%9F%E5%BA%A6 |
9,389 | サッカー選手一覧 | サッカー選手一覧では、地域別のサッカー選手の一覧について記述する(女子選手については女子サッカー選手一覧に記述)。 | [
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"text": "サッカー選手一覧では、地域別のサッカー選手の一覧について記述する(女子選手については女子サッカー選手一覧に記述)。",
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] | サッカー選手一覧では、地域別のサッカー選手の一覧について記述する(女子選手については女子サッカー選手一覧に記述)。 | {{ウィキプロジェクトリンク|サッカー選手}}
'''サッカー選手一覧'''では、地域別の[[サッカー]]選手の一覧について記述する(女子選手については[[女子サッカー選手一覧]]に記述)。
==アジア(AFC)==
*[[アジアのサッカー選手一覧]]
**[[日本のサッカー選手一覧]]
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** [[イラクのサッカー選手一覧]]
**オーストラリアのサッカー選手一覧
==アフリカ(CAF)==
*[[アフリカのサッカー選手一覧]]
**[[カメルーンのサッカー選手一覧]]
**[[コートジボワールのサッカー選手一覧]]
**[[ナイジェリアのサッカー選手一覧]]
==北中米・カリブ(CONCACAF)==
*[[北中米カリブ海諸国のサッカー選手一覧]]
**[[メキシコのサッカー選手一覧]]
**[[アメリカ合衆国のサッカー選手一覧]]
==南アメリカ(CONMEBOL)==
*[[南アメリカのサッカー選手一覧]]
**[[アルゼンチンのサッカー選手一覧]]
**[[ブラジルのサッカー選手一覧]]
**[[ウルグアイのサッカー選手一覧]]
**[[パラグアイのサッカー選手一覧]]
**[[チリのサッカー選手一覧]]
== オセアニア(OFC) ==
*[[オセアニアのサッカー選手一覧]]
=== アメリカ領サモア ===
{{See also|Category:アメリカ領サモアのサッカー選手}}
* [[ニッキー・サラプ]]
* [[ラミン・オット]]
* [[ジャイヤ・サエルア]]
=== 北マリアナ諸島 ===
* [[ルーカス・クネヒト]]
* {{仮リンク|Peter Loken|en|Peter Loken}}
=== クック諸島 ===
* {{仮リンク|Augusty Bartillard|en|Augusty Bartillard}}
* {{仮リンク|Campbell Best|en|Campbell Best}}
=== サモア ===
* {{仮リンク|Aukusitino Aitupe|en|Aukusitino Aitupe}}
* {{仮リンク|Masei Amosa|en|Masei Amosa}}
=== ソロモン諸島 ===
{{See also|Category:ソロモン諸島のサッカー選手}}
* [[ベンジャミン・トトリ]]
=== ツバル ===
* {{仮リンク|Uota Ale|en|Uota Ale}}
* {{仮リンク|Semese Alefaio|en|Semese Alefaio}}
=== トンガ ===
* {{仮リンク|Kinitoni Falatau|en|Kinitoni Falatau}}
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=== ニューカレドニア ===
* {{仮リンク|Marius Bako|en|Marius Bako}}
* {{仮リンク|Emile Béaruné|en|Emile Béaruné}}
=== ニュージーランド ===
{{See also|Category:ニュージーランドのサッカー選手}}
* [[アイザック・テレ・フィッツジェラルド]]
* [[イヴァン・ヴィセリッチ]]
=== バヌアツ ===
{{See also|Category:バヌアツのサッカー選手}}
* [[リチャード・イワイ]]
=== パプアニューギニア ===
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* {{仮リンク|Godfrey Baniau|en|Godfrey Baniau}}
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* [[オセア・ヴァカタレサウ]]
* [[ロイ・クリシュナ]]
=== ナウル ===
* {{仮リンク|Mati Fusi|en|Mati Fusi}}
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* {{仮リンク|Tongarua Akori|en|Tongarua Akori}}
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=== 西ヨーロッパ ===
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** [[北アイルランドのサッカー選手一覧]]
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* [[アルメン・アブディ]]
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* [[バージェ・イリオスキ]]
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** [[ポルトガルのサッカー選手一覧]]
==== キプロス ====
{{See also|Category:キプロスのサッカー選手}}
* [[ヨアンニス・オッカス]]
* [[ソティリス・カヤファス]]
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* [[ルーカス・ヴィントラ]]
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* [[アンディ・セルヴァ]]
* [[マヌエル・ポジャーリ]]
==== マルタ ====
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* [[アンドレ・シェンブリ]]
* [[ローウェン・マスカット]]
==外部リンク==
* [http://www.fifa.com/en/organisation/na/index.html FIFA] (FIFA加盟国(又は地域))
*[https://www.transfermarkt.com/ transfermarkt](英語)
{{国際サッカー}}
{{国際クラブサッカー}}
{{DEFAULTSORT:さつかあせんしゆいちらん}}
[[Category:サッカー選手一覧|*]] | null | 2021-01-24T23:53:23Z | false | false | false | [
"Template:国際サッカー",
"Template:国際クラブサッカー",
"Template:ウィキプロジェクトリンク",
"Template:See also",
"Template:仮リンク"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E9%81%B8%E6%89%8B%E4%B8%80%E8%A6%A7 |
9,392 | 宮城県沖地震 (2003年) | 宮城県沖地震(みやぎけんおきじしん)は、2003年(平成15年)5月26日18時24分に宮城県沖を震源として発生したマグニチュード7.1(Mw7.0)、最大震度6弱の地震。
本震は宮城県気仙沼沖の深さ72kmを震源として発生した。
岩手県大船渡市、江刺市(現:奥州市)、衣川村(同)、平泉町、室根村(現:一関市)、宮城県の石巻市、涌谷町、栗駒町(現:栗原市)、高清水町(同)、金成町(同)、桃生町(現:石巻市)で震度6弱を観測した。マグニチュード3から5、最大震度4に達する余震が続いた。
地震の名称は「宮城県沖地震」のほか、「三陸南地震」、「東北地震」、「東北地方地震」もしくは「宮城県北部沖地震」などと呼ばれている。なお、2008年6月14日午前8時43分(JST)頃に発生した岩手・宮城内陸地震とは異なる。
太平洋プレートの内部で、南北約30から40kmが上下20kmにわたってひび割れ、縦方向に約2mずれたとみられる(独立行政法人防災科学技術研究所)。震源の深さや発震機構が異なるため、地震調査研究推進本部は地震調査委員会で想定している宮城県沖地震とは異なるとしている。
この地震は被害が少なかった。ただ、北海道・東北地方・関東地方など、広い範囲で揺れを感じた。
防災科学技術研究所が設置した強震観測網によれば、牡鹿町で震度6強相当(計測震度6.1)の揺れを観測した。
地震の発生時刻、秋田・岩手・山形・宮城・福島の各テレビ放送局は夕方の県内ニュースの生放送中で、大きくスタジオのセットが音を立てて揺さぶられる様子や、キャスターが机の下に逃げ込む姿が見られ、強烈な地震であったことを印象付けた。NHK盛岡放送局では「おばんですいわて」を放送中で、阪本篤志アナウンサーが激しい揺れの中で注意を呼び掛けた。またNHK秋田放送局など、秋田県内各局でこの時間にあったニュースでは、日本海中部地震から20周年を特集したニュースの放送中に地震が起きた。いずれも、まもなく18時27分から東京都渋谷区のNHK放送センターにあるニュースセンターからの地震関連のニュースに切り替え(八波全中)武田真一アナウンサーが改めて地震の第一報を伝えた。
放送機器にも影響があった。IBC岩手放送のテレビ放送は、送信所のプログラム回線(STL)ケーブルが切れた影響で、地震発生直後の18時24分頃から21時20分頃までテレビ放送が出来ない状態となった。なお、ラジオの回線は無事であったため、同日22時ほどまで緊急警報放送を行った。 | [
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"text": "この地震は被害が少なかった。ただ、北海道・東北地方・関東地方など、広い範囲で揺れを感じた。",
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"text": "地震の発生時刻、秋田・岩手・山形・宮城・福島の各テレビ放送局は夕方の県内ニュースの生放送中で、大きくスタジオのセットが音を立てて揺さぶられる様子や、キャスターが机の下に逃げ込む姿が見られ、強烈な地震であったことを印象付けた。NHK盛岡放送局では「おばんですいわて」を放送中で、阪本篤志アナウンサーが激しい揺れの中で注意を呼び掛けた。またNHK秋田放送局など、秋田県内各局でこの時間にあったニュースでは、日本海中部地震から20周年を特集したニュースの放送中に地震が起きた。いずれも、まもなく18時27分から東京都渋谷区のNHK放送センターにあるニュースセンターからの地震関連のニュースに切り替え(八波全中)武田真一アナウンサーが改めて地震の第一報を伝えた。",
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"text": "放送機器にも影響があった。IBC岩手放送のテレビ放送は、送信所のプログラム回線(STL)ケーブルが切れた影響で、地震発生直後の18時24分頃から21時20分頃までテレビ放送が出来ない状態となった。なお、ラジオの回線は無事であったため、同日22時ほどまで緊急警報放送を行った。",
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] | 宮城県沖地震(みやぎけんおきじしん)は、2003年(平成15年)5月26日18時24分に宮城県沖を震源として発生したマグニチュード7.1(Mw7.0)、最大震度6弱の地震。 | {{地震
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| caption = 地震の震央の位置を示した地図
| date = [[2003年]]([[平成]]15年)[[5月26日]]
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| shindotype = [[気象庁震度階級|震度]]
| shindo = 6弱
| shindoarea = [[岩手県]][[江刺市]](現:[[奥州市]])、[[大船渡市]]など
| tsunami = なし
| type = [[地震#海洋プレート内地震|スラブ内地震]] ([[断層#逆断層|逆断層]]型)
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| mostafter = 同年5月27日 M4.9 最大震度4
| deaths = 負傷者174人<ref name="気象庁被害">[https://www.data.jma.go.jp/svd/eqev/data/higai/higai1996-new.html#higai1996 日本付近で発生した主な被害地震(平成8年以降)]気象庁。</ref>
| money =
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| data = [[気象庁]]
| plus =
}}
'''宮城県沖地震'''(みやぎけんおきじしん)は、[[2003年]]([[平成]]15年)[[5月26日]]18時24分に[[宮城県]]沖を[[震源]]として発生した[[マグニチュード]]7.1([[マグニチュード#モーメントマグニチュード Mw|Mw]]7.0)、最大[[気象庁震度階級|震度]]6弱の[[地震]]。
== 概説 ==
本震は宮城県[[気仙沼市|気仙沼]]沖の深さ72kmを[[震源]]として発生した。
[[岩手県]][[大船渡市]]、[[江刺市]](現:[[奥州市]])、[[衣川村]](同)、[[平泉町]]、[[室根村]](現:[[一関市]])、[[宮城県]]の[[石巻市]]、[[涌谷町]]、[[栗駒町]](現:[[栗原市]])、[[高清水町]](同)、[[金成町]](同)、[[桃生町]](現:石巻市)で[[震度]]6弱を観測した。マグニチュード3から5、最大震度4に達する[[余震]]が続いた。
地震の名称は「'''宮城県沖地震'''<ref>[https://www.bousai.go.jp/kaigirep/chuobou/senmon/nihonkaiko_chisimajishin/pdf/sankou2.pdf 3.千島海溝および日本海溝で発生した各地震の震度と津波の高さ] 内閣府</ref>」のほか、「'''三陸南地震'''」、「'''[[東北地震]]'''」、「'''東北地方地震'''」もしくは「'''宮城県北部沖地震'''」などと呼ばれている。なお、[[2008年]][[6月14日]]午前8時43分([[日本標準時|JST]])頃に発生した[[岩手・宮城内陸地震]]とは異なる。
[[太平洋プレート]]の内部で、南北約30から40kmが上下20kmにわたってひび割れ、縦方向に約2mずれたとみられる([[防災科学技術研究所|独立行政法人防災科学技術研究所]])。震源の深さや発震機構が異なるため、[[地震調査研究推進本部]]は地震調査委員会で想定している[[宮城県沖地震]]とは異なるとしている<ref>[https://www.jishin.go.jp/main/chousa/03may_miyagi/index.htm 2003年5月26日宮城県沖の地震の評価][[地震調査研究推進本部]]</ref>。
この地震は被害が少なかった。ただ、北海道・東北地方・関東地方など、広い範囲で揺れを感じた。
== 被害 ==
*死亡者なし。負傷者は174人<ref name="気象庁被害"/>。住宅の全壊2棟、半壊21棟、一部破損2,404棟<ref>[http://www.fdma.go.jp/bn/data/030526MiyagiJishin.PDF 宮城県沖を震源とする地震(確定報)]消防庁、2003年11月21日。</ref>。[[仙台市]]内で火災あり。
*[[水沢江刺駅|水沢江刺]]〜[[盛岡駅|盛岡]]間の23箇所で[[東北新幹線]]の橋梁の橋脚の外壁が剥げ、鉄骨がむき出しになった<ref>[https://doi.org/10.11188/seisankenkyu.55.396 2003年5月26日三陸南地震における東北新幹線高架橋橋脚の損傷と局所的な地盤震動特性の関係]生産研究 Vol. 55 (2003) No. 4 P 396-398</ref>。
*[[震源地]]のほぼ真上の気仙沼でがけ崩れ。築館町(現:栗原市)では、沢筋を盛り土造成した農地で平均勾配10゜という緩斜面で有りながら[[地すべり]]が発生<ref>[https://doi.org/10.3313/jls.48.52 近年の大規模地震に伴う地震地すべりの運動形態と地形・地質的発生の場] 日本地すべり学会誌Vol.48 (2011) No.1 P52-61</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.kiso.co.jp/pdfs/jishin/2003miyagioki/4_2tukidate.pdf 宮城県北部の築館町の地すべり]}} 基礎地盤コンサルタンツ株式会社</ref>。
*震度4を観測した[[山形市]]飯田西では電線破断により停電が発生。震度5強を観測した[[中山町]]では国道112号の橋梁の舗装部分が一部隆起したほか、震度5弱を観測した[[村山市]]楯岡の市道でも隆起が確認された。
== 地震発生の経緯 ==
*5月26日
**午後6時24分 - 地震発生
**[[東北新幹線]]や[[在来線]]の一部が運転を見合わせる。東北新幹線水沢江刺-盛岡間の高架橋橋脚が23本損傷、[[仙山線]]の[[仙山トンネル]]では壁の剥離が数カ所はがれているのが確認され見合わせが長引いた。
**仙台近郊では、一般電話は不通であったが携帯電話は使用可能で、インターネットへのモバイルでの接続が可能だった(地震直後)。
***一部[[IP電話]]、[[ADSL]]などの[[インターネット]]回線も、一時不通となった。
*[[5月27日]]
**午後6時 - 東北新幹線が全面復旧。宮城県内の在来線でも午前中までダイヤの乱れが続いた。
== 気象庁発表地点の震度(震度5弱以上) ==
{| class="wikitable"
|-
! style="width:2em" | 震度
! style="width:4em" | 都道府県
! 観測点名
|-
! style="{{震度色|6弱}}" rowspan="2" | 6弱
| [[岩手県]]
| [[江刺市]]大通り・[[大船渡市]]大船渡町・[[平泉町]]古戸・[[衣川村]]古戸・[[室根村]]役場
|-
| [[宮城県]]
| [[石巻市]]泉町・[[金成町]]沢辺・[[栗駒町]]岩ヶ崎・[[高清水町]]中町・[[桃生町]]中津山・[[涌谷町]]新町
|-
! style="{{震度色|5強}}" rowspan="5" | 5強
| [[青森県]]
| [[階上町]]道仏
|-
| 岩手県
| 大船渡市猪川町・[[一関市]]舞川・[[釜石市]]只越町・[[二戸市]]福岡・[[花巻市]]材木町・[[陸前高田市]]高田町・岩手[[胆沢町]]南都田・[[大迫町]]大迫・[[金ケ崎町]]西根・[[住田町]]世田米・岩手[[東和町 (岩手県)|東和町]]土沢・[[藤沢町]]藤沢・[[矢巾町]]南矢幅・[[大野村 (岩手県)|大野村]]大野・[[川崎村 (岩手県)|川崎村]]薄衣・[[玉山村]]渋民・[[宮守村]]下宮守
|-
| 宮城県
| [[気仙沼市]]赤岩・[[古川市]]三日町・[[一迫町]]真坂・[[岩出山町]]船場・[[鹿島台町]]平渡・宮城[[加美町]]小野田・宮城[[河南町 (宮城県)|河南町]]前谷地・[[唐桑町]]馬場・[[色麻町]]四竈・[[志津川町]]塩入・[[志波姫町]]沼崎・[[瀬峰町]]藤沢・宮城[[田尻町 (宮城県)|田尻町]]沼部・[[登米町]]寺池・[[中田町 (宮城県)|中田町]]宝江黒沼・宮城[[南郷町 (宮城県)|南郷町]]木間塚・[[迫町]]佐沼・[[鶯沢町]]南郷・宮城[[松山町 (宮城県)|松山町]]千石・[[矢本町]]矢本・[[鳴瀬町]]小野・[[米山町]]西野・[[若柳町]]川南・[[花山村]]本沢
|-
| [[秋田県]]
| [[西仙北町]]刈和野
|-
| [[山形県]]
| 山形[[中山町]]長崎
|-
! style="{{震度色|5弱}}" rowspan="6" | 5弱
| 青森県
| 青森[[南郷村 (青森県)|南郷村]]市野沢・[[五戸町]]古舘・[[福地村 (青森県)|福地村]]苫米地
|-
| 岩手県
| [[北上市]]柳原町・[[久慈市]]川崎町・[[水沢市]]大鐘町・[[宮古市]]茂市・[[盛岡市]]山王町・[[西根町]]大更・[[岩泉町]]岩泉・[[大槌町]]新町・[[紫波町]]日詰・大迫町役場・[[前沢町]]七日町・岩手[[山田町]]八幡町・[[沢内村]]太田・[[普代村]]銅屋・岩手[[新里村 (岩手県)|新里村]]茂市・[[滝沢市|滝沢村]]鵜飼・[[野田村]]野田・岩手[[大東町 (岩手県)|大東町]]大原・[[東山町]]長坂
|-
| 宮城県
| [[青葉区 (仙台市)|仙台青葉区]]大倉・[[泉区 (仙台市)|仙台泉区]]将監・石巻市大瓜・[[名取市]]増田・[[大河原町]]新南・[[雄勝町 (宮城県)|雄勝町]]・[[大郷町]]粕川・宮城[[川崎町 (宮城県)|川崎町]]前川・[[蔵王町]]円田・[[南方町]]八の森・[[本吉町]]津谷・[[亘理町]]下小路・[[大衡村]]大衡・宮城加美町宮崎・[[小牛田町]]北浦・宮城[[河北町 (宮城県)|河北町]]相野谷・宮城[[雄勝町 (宮城県)|雄勝町]]雄勝
|-
| 秋田県
| [[大曲市]]花園町・[[稲川町]]大館・[[羽後町]]西馬音内・[[雄和町]]妙法・[[大雄村]]三村・[[仙北町]]高梨
|-
| 山形県
| [[最上町]]向町・[[村山市]]中央
|-
| [[福島県]]
| [[相馬市]]中村・[[原町市]]三島町・[[小高町]]本町・福島[[鹿島町 (福島県)|鹿島町]]西町・[[富岡町]]本岡・[[都路村]]古道
|}
防災科学技術研究所が設置した強震観測網によれば、牡鹿町で震度6強相当(計測震度6.1)の揺れを観測した<ref>{{Cite web|和書|title=強震観測網|url=http://www.kyoshin.bosai.go.jp/kyoshin/quake/|editor=[[防災科学技術研究所]]|accessdate=2014-03-16}}</ref>。
== 対応 ==
=== 報道 ===
地震の発生時刻、秋田・岩手・山形・宮城・福島の各テレビ放送局は夕方の県内ニュースの生放送中で、大きくスタジオのセットが音を立てて揺さぶられる様子や、キャスターが机の下に逃げ込む姿が見られ、強烈な地震であったことを印象付けた。[[NHK盛岡放送局]]では「[[おばんですいわて]]」を放送中で、[[阪本篤志]]アナウンサーが激しい揺れの中で注意を呼び掛けた<ref>[https://news.sbs.co.kr/news/endPage.do?news_id=N0311426413 일본, 진도7 강진 불구 '사망자 없었다'](SBSモーニングワイド、2003年5月27日)</ref>。また[[NHK秋田放送局]]など、秋田県内各局でこの時間にあったニュースでは、[[日本海中部地震]]から20周年を特集したニュースの放送中に地震が起きた。いずれも、まもなく18時27分から東京都渋谷区の[[NHK放送センター]]にあるニュースセンターからの地震関連のニュースに切り替え(八波全中)[[武田真一]]アナウンサーが改めて地震の第一報を伝えた<ref>{{NHKアーカイブス|A200305261827041300100|全11波臨時ニュース<QF付き>}}(BSアナログ放送とデジタル放送を含めた11波表記)</ref>。
放送機器にも影響があった。[[IBC岩手放送]]のテレビ放送は、送信所のプログラム回線(STL)ケーブルが切れた影響で、地震発生直後の18時24分頃から21時20分頃までテレビ放送が出来ない状態となった。なお、ラジオの回線は無事であったため、同日22時ほどまで緊急警報放送を行った。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[三陸沖地震]] - 三陸沖で発生する地震の総称。
*[[宮城県沖地震]] - 宮城県沖で発生する地震の総称。
*[[東北地方太平洋沖地震]] - 2011年に発生した地震。
== 外部リンク ==
* [https://web.archive.org/web/20140318184640/http://www.seisvol.kishou.go.jp/eq/2003_05_26_miyagi/ 2003年5月26日宮城県沖の地震の各種資料等] 気象庁
* [https://www.data.jma.go.jp/svd/eqev/data/gaikyo/monthly/200305/monthly200305.pdf 平成15年5月 地震・火山月報(防災編)- 気象庁]
* [https://wwweic.eri.u-tokyo.ac.jp/EIC/EIC_News/030526.html 東大震研情報センター EIC地震学ノート No.135 5月26日宮城県沖地震]
* [http://www.eri.u-tokyo.ac.jp/topics/MIYAGI03/index-j.html 2003/05/26 宮城県沖の地震 (Mj 7.0)特集ページ] [[東京大学地震研究所]]
* {{NHK災害アーカイブス|D0026010484_00000|2003年 宮城県沖で地震 震度6弱}}
{{日本近代地震}}
{{DEFAULTSORT:みやきけんおきししん2003}}
[[Category:平成時代の地震]]
[[Category:2003年の地震]]
[[Category:2003年の日本における災害]]
[[Category:東北地方の歴史]]
[[Category:大地震]]
[[Category:2003年5月]] | 2003-05-27T07:10:55Z | 2023-11-18T23:56:37Z | false | false | false | [
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:PDFlink",
"Template:Cite web",
"Template:NHKアーカイブス",
"Template:NHK災害アーカイブス",
"Template:日本近代地震",
"Template:地震"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E7%9C%8C%E6%B2%96%E5%9C%B0%E9%9C%87_(2003%E5%B9%B4) |
9,393 | ケプラーの法則 | ケプラーの法則(ケプラーのほうそく)は、ドイツの天文学者ヨハネス・ケプラーによって発見された惑星の運動に関する法則である。
ケプラーは、ティコ・ブラーエの観測記録から、太陽に対する火星の運動を推定し、以下のように定式化した。
先に、第1法則および第2法則が発見されて1609年に発表され、後に、第3法則が発見されて1619年に発表された。
第1法則は、惑星の軌道が真円ではなく楕円であることと、太陽の位置は楕円の中心ではなく焦点の1つであることを述べている(もう片方の焦点には何もない)。また、惑星の軌道が太陽を含む一平面上であることも暗に意味している。後のニュートン力学では、中心力の作用する2体問題の解として、束縛運動であるならば楕円運動になることが示される。
楕円運動の発見のエピソードとして、当時、惑星の運動は円であると信じられていたが、それに従わない火星のデータをティコ・ブラーエが困ってケプラーに担当させたため、との話がある。
第2法則は、太陽に近いところでは惑星は速度を増し、太陽から遠いところでは惑星は速度を落とすことを意味している。これは、惑星が軌道上を移動する際の面積速度が一定である事を意味し、「面積速度一定の法則」と呼ばれる事も有るが、面積速度とは、惑星の位置ベクトルと速度ベクトルの外積に他ならず、ニュートン力学における、角運動量保存の法則に相当する。
第3法則は、公転周期の長さは楕円軌道の長半径のみに依存して決まることを意味する。楕円軌道の離心率に依存しないので、楕円軌道の長半径が同じであれば、円運動でも楕円運動でも周期は同じになる。この法則も後のニュートン力学で導ける。
ケプラーの法則に従う運動をケプラー運動ともいう。
ケプラーの法則は、天動説に対する地動説の優位を決定的なものにした。ニコラウス・コペルニクスによって地動説が唱えられて以降も、地動説に基づく惑星運動モデルは、従来の天動説モデルと比べ、実用上必ずしも優れたものではなかった。
しかしケプラーの法則の登場により、地動説モデルは天動説モデルよりも、はるかに正確に惑星の運動を記述することが可能になった。ケプラーの法則の発見は、地球含む惑星の形が真円ではないことを裏付けた。
また、惑星の軌道を楕円形であるとした第1法則は、天体は真円に基づく運動をするはずであるという、古代ギリシア以来の常識を打ち破るものでもあった。
江戸時代の日本の天文学者、麻田剛立は第3法則に類似した法則を独自に発見し、『五星距地之奇法』の中に記述を残している。
アイザック・ニュートンは、自分が発見した運動の法則と、このケプラーの法則などを元に万有引力の法則を導き出した。一方、ケプラーの法則は万有引力の法則を、惑星のポテンシャルエネルギーと運動エネルギーの和が負である(すなわち、惑星が無限遠まで飛んでいかない)という条件の下、太陽の質量に比べ惑星の質量が十分小さい(すなわち、太陽は静止していると見なせ、惑星間の相互作用は無視できる)という近似を行って解くことによって導くことができる。ケプラーが太陽系の惑星の運動について述べたことは、ある質点とその周囲を回るそれに比べて十分に質量の小さな質点という、2つの任意の質点間に対しても同様に成り立つことが分かる。
したがって、ケプラーの法則は、太陽と惑星の間だけでなく、惑星と衛星(あるいは人工衛星)などの間でも成立する。
なお、第2、第3法則は二つの質点の質量が同程度でも成立する。このことから、第3法則と万有引力の法則を利用して連星系の主星と伴星、太陽と惑星、二重惑星、惑星と衛星などの質量の和も求めることもできる。軌道長半径 (質量が同程度の場合は連星間距離)を a、公転周期を P、主星の質量を M、伴星の質量を m、万有引力定数を G とすれば、これらの関係は次のようになる。 | [
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"text": "江戸時代の日本の天文学者、麻田剛立は第3法則に類似した法則を独自に発見し、『五星距地之奇法』の中に記述を残している。",
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"text": "アイザック・ニュートンは、自分が発見した運動の法則と、このケプラーの法則などを元に万有引力の法則を導き出した。一方、ケプラーの法則は万有引力の法則を、惑星のポテンシャルエネルギーと運動エネルギーの和が負である(すなわち、惑星が無限遠まで飛んでいかない)という条件の下、太陽の質量に比べ惑星の質量が十分小さい(すなわち、太陽は静止していると見なせ、惑星間の相互作用は無視できる)という近似を行って解くことによって導くことができる。ケプラーが太陽系の惑星の運動について述べたことは、ある質点とその周囲を回るそれに比べて十分に質量の小さな質点という、2つの任意の質点間に対しても同様に成り立つことが分かる。",
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"title": "万有引力の法則との関係"
}
] | ケプラーの法則(ケプラーのほうそく)は、ドイツの天文学者ヨハネス・ケプラーによって発見された惑星の運動に関する法則である。 | {{読み仮名_ruby不使用|'''ケプラーの法則'''|ケプラーのほうそく}}は、[[ドイツ]]の[[天文学者]][[ヨハネス・ケプラー]]によって発見された[[惑星]]の運動に関する法則である。
[[ファイル:Аномалии.gif|thumb|ケプラーの法則を動画で示した図。]]
[[ファイル:Plocha pruvodice.png|thumb|
緑色の観測範囲は近い位置にいる為角度の変化が大きく、赤色の観測範囲は遠い位置にいる為角度の変化が小さく、紺色の観測範囲は角度の変化が緩やかに増える。その角度の変化を計測することで、ケプラーの法則が成り立つ。
<!--一応編集しましたが、具体的な内容になる案がございましたら加筆編集お願いいたします!-->
]]
== 法則 ==
ケプラーは、[[ティコ・ブラーエ]]の観測記録から<ref>原康夫『物理学通論 I』 p107、学術図書出版、2004年</ref>、[[太陽]]に対する[[火星]]の運動を推定し<ref>松田哲『パリティ物理学コース 力学』 p86、丸善、2002年</ref>、以下のように定式化した。
;第1法則(楕円軌道の法則)
[[File:kepler-first-law.svg|thumb|Figure 1: ケプラーの第1法則(楕円軌道の法則)。太陽が楕円の焦点のひとつ。]]
:惑星は、[[太陽]]を[[焦点 (幾何学)|焦点]]のひとつとする[[楕円軌道]]上を動く<ref>『数学と理科の法則・定理集』159頁。アントレックス(発行)図書印刷株式会社(印刷)</ref>。
:太陽の位置を原点に取り、太陽と惑星の距離 {{mvar|r}}、 [[真近点角]] {{mvar|θ}} をパラメータとする[[極座標系|極座標]]では、惑星の軌道は次の式で与えられる。
::<math>r=\frac{h^2/\mu}{1+\varepsilon\, \cos\theta}.</math>
:ここで、 {{mvar|h}} は単位質量当たりの[[角運動量]]、{{math|{{mvar|μ}} {{=}} {{mvar|GM}}}} は[[太陽質量]]Mと[[万有引力定数]]Gの積、{{mvar|ε}} は楕円の[[離心率]]である。ただし {{math|0 ≦ ε < 1}} であり、{{math|ε {{=}} 0}} のとき、太陽中心の円軌道を表す。
;第2法則(面積速度一定の法則)
:惑星と太陽とを結ぶ[[線分]]が単位時間に掃く面積(面積速度)は、一定である。
;第3法則(調和の法則)
:惑星の[[公転周期]]の2乗は、[[軌道長半径]]の3乗に[[比例]]する。
先に、第1法則および第2法則が発見されて[[1609年]]に発表され<ref>Astronomia Nova 『新天文学』[[岸本良彦]]訳(工作舎、2013年 ISBN 978-4-87502-453-8)</ref>、後に、第3法則が発見されて1619年に発表された<ref>Harmonice Mundi 『宇宙の調和』[[岸本良彦]]訳(工作舎、2009年 ISBN 978-4-87502-418-7)</ref>。
== 法則の意味するもの ==
第1法則は、惑星の軌道が真円ではなく楕円であることと、太陽の位置は楕円の中心ではなく[[焦点]]の1つであることを述べている(もう片方の焦点には何もない)。また、惑星の軌道が太陽を含む一平面上であることも暗に意味している。後のニュートン力学では、[[中心力]]の作用する[[2体問題]]の解として、束縛運動であるならば楕円運動になることが示される。
楕円運動の発見のエピソードとして、当時、惑星の運動は円であると信じられていたが、それに従わない火星のデータを[[ティコ・ブラーエ]]が困ってケプラーに担当させたため、との話がある。
第2法則は、太陽に近いところでは惑星は速度を増し、太陽から遠いところでは惑星は速度を落とすことを意味している。これは、惑星が軌道上を移動する際の面積速度が一定である事を意味し、「面積速度一定の法則」と呼ばれる事も有るが、面積速度とは、惑星の位置[[空間ベクトル|ベクトル]]と速度ベクトルの[[クロス積|外積]]に他ならず、ニュートン力学における、[[角運動量保存の法則]]に相当する。
第3法則は、公転周期の長さは楕円軌道の長半径のみに依存して決まることを意味する。楕円軌道の[[離心率]]に依存しないので、楕円軌道の長半径が同じであれば、[[円運動]]でも楕円運動でも周期は同じになる。この法則も後のニュートン力学で導ける。
ケプラーの法則に従う運動を'''ケプラー運動'''ともいう。
==科学史における意義==
ケプラーの法則は、[[天動説]]に対する[[地動説]]の優位を決定的なものにした。[[ニコラウス・コペルニクス]]によって[[地動説]]が唱えられて以降も、地動説に基づく惑星運動モデルは、従来の[[天動説]]モデルと比べ、実用上必ずしも優れたものではなかった。
しかしケプラーの法則の登場により、地動説モデルは天動説モデルよりも、はるかに正確に惑星の運動を記述することが可能になった。ケプラーの法則の発見は、[[地球]]含む惑星の軌道の形が真円ではないことを裏付けた。
また、惑星の軌道を[[楕円形]]であるとした第1法則は、天体は[[円 (数学)|真円]]に基づく運動をするはずであるという、[[古代ギリシア]]以来の常識を打ち破るものでもあった。
[[江戸時代]]の日本の天文学者、[[麻田剛立]]は第3法則に類似した法則を独自に発見し、『五星距地之奇法』の中に記述を残している<ref>鹿毛敏夫、『月のえくぼ(クレーター)を見た男 麻田剛立』P.194、くもん出版、2008年、ISBN 978-4-7743-1391-7</ref>。
==万有引力の法則との関係==
[[アイザック・ニュートン]]は、自分が発見した[[運動の法則]]と、このケプラーの法則などを元に[[万有引力|万有引力の法則]]を導き出した。一方、ケプラーの法則は万有引力の法則を、[[惑星]]の[[ポテンシャルエネルギー]]と[[運動エネルギー]]の和が負である(すなわち、惑星が無限遠まで飛んでいかない)という条件の下、[[太陽]]の質量に比べ惑星の[[質量]]が十分小さい(すなわち、太陽は静止していると見なせ、惑星間の相互作用は無視できる)という近似を行って解くことによって導くことができる。ケプラーが[[太陽系]]の惑星の運動について述べたことは、ある[[質点]]とその周囲を回るそれに比べて十分に質量の小さな質点という、2つの任意の質点間に対しても同様に成り立つことが分かる。
したがって、ケプラーの法則は、太陽と惑星の間だけでなく、惑星と[[衛星]](あるいは[[人工衛星]])などの間でも成立する。
なお、第2、第3法則は二つの質点の質量が同程度でも成立する。このことから、第3法則と万有引力の法則を利用して[[連星]]系の主星と伴星、太陽と惑星、[[二重惑星]]、惑星と衛星などの質量の和も求めることもできる。[[軌道長半径]] (質量が同程度の場合は連星間距離)を {{Mvar|a}}、[[公転周期]]を {{Mvar|P}}、主星の質量を {{Mvar|M}}、伴星の質量を {{Mvar|m}}、[[万有引力定数]]を {{Mvar|G}} とすれば、これらの関係は次のようになる。
:<math>\frac{a^3}{P^2}=G\frac{M+m}{4\pi^2}.</math>
== 脚注 ==
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{{Reflist}}
== 関連項目 ==
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*[[円運動]]
*[[軌道力学]]
*[[ニュートン力学]]
*[[年周視差]]
*[[法則の一覧]]
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== 外部リンク ==
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*{{Kotobank|ケプラーの法則}}
{{軌道}}
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[[Category:軌道]]
[[Category:自然科学の法則]]
[[Category:物理学のエポニム]]
[[Category:実験式]]
[[Category:ヨハネス・ケプラー]]
[[Category:天文学に関する記事]] | 2003-05-27T07:50:47Z | 2023-12-22T01:01:11Z | false | false | false | [
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9,394 | 日本海中部地震 |
日本海中部地震(にほんかいちゅうぶじしん)は、1983年(昭和58年)5月26日11時59分57.5秒に、秋田県の能代市西方沖80 km(北緯40度21.6分 東経139度04.4分 / 北緯40.3600度 東経139.0733度 / 40.3600; 139.0733)の地点で発生した逆断層型の地震である。地震の規模はM7.7(Mw7.7-7.9)。
当時日本海側で発生した最大級の地震であり、秋田県・青森県・山形県の日本海側で10 mを超える津波による被害が出た。日本での死者は104人に上り、そのうち100人が津波による犠牲者であった。家屋の全半壊3049棟、船舶沈没または流失706隻、被害総額は約518億円にのぼった。
震度4以上(当時の震度階による)を観測した地点は以下の通りであった。
震源に最も近い能代市では当時まだ地震計が設置されておらず、震度5またはそれ以上と推測された。
本震に先立ち前震とみられる地震が5月14日22時49分頃(M 5)、5月22日4時52分頃(M 2.4)、同日23時14分頃(M 2.3)に本震と同じ場所で発生している。本震は、約20秒間隔で発生した2つの揺れで構成されている。本震発生後の余震は、6月1日0時まで有感地震が211回、無感地震が828回あった。さらに6月に入ってから6月9日21時49分にM 6.1、同22時4分にM 5.9、そして最大の余震(M 7.1)が本震発生後の1か月ほど後の6月21日15時25分に発生した。この余震では津波が観測された。
気象庁が正式名称の「日本海中部地震」を発表するまでの間に報道各局が便宜上使用した名称として使われ、公式の記録上には残らないものに「秋田沖地震」や「日本海秋田沖地震」の通称がある。
サハリンから新潟沖へとつながる、日本海東縁変動帯の日本列島の乗る島弧地殻と、日本海の海洋地殻の境界付近で発生した地震。後年の詳細な調査により、プレート境界型に近い地震発生様式である可能性が高いことが明かになった。また約1000年前に、同様な大地震が発生していた可能性も指摘されている。
青森県西津軽郡岩崎村の沖合約40 kmで、震源域のすぐ近くにある長さ50 m、幅13 m程度の岩礁の島、久六島では約30 cm - 40 cm沈下したと考えられる。
震源域は“く”の字を逆にした様な形で、総延長が約100 km。
複数の手法による解析の結果、いくつかの破壊モデルが挙げられている。
その1つは、本震は約50秒間の3つのサブイベントからなる。第1イベントは最初の破壊点から北北東方向に久六島の西方沖まで破壊が進んだ。第2イベントは第1イベントの終了後約10秒間の時間をあけて北北西に進み北緯40.8付近で止まった。第3イベントは第2イベントが止まった北緯40.8付近で破壊方向を北北西方向に変え進んだ。
別な解析では、2つのサブイベントからなり主破壊は30 - 35 km離れたところで24秒 - 26秒間隔で発生した、などがある。
1964年男鹿半島沖地震 (M 6.9)は破壊開始点が近接しており先行した地震と考える説もある。また、本震発生の12日前の5月14日に 破壊開始点付近でM 4.9 の地震が発生し顕著な活動は、5月20日頃まで続いた。また発生に先立ち、約10年間の静穏化が発生していた。
当時のシステムで津波警報が発表されたのは地震発生から14分後であったことと、日本海側に津波は来ないという俗説がまかり通っていたことが人的被害を大きくした。
到達が最も早かった青森県の西津軽郡深浦町では地震発生約7分後に引き波として到達し、8分後第1波として到達している。最大潮位は65 cmであった。最も波高が高かった場所は秋田県の山本郡峰浜村(現在の八峰町)で波高14 mを記録した。また、男鹿半島でも6 mの津波を記録している。しかし、冬の季節風による強烈な波浪を防ぐために作られた日本海側特有の頑丈な港湾施設が波を弱めたとも言われている。
津波による死者の内訳は41人が護岸工事中の作業員、釣り人が18人、遠足中の小学生13人などであった。地震発生が晴天の昼間、当日の波が穏やかだった等の事情により、沿岸には作業船、漁船、レジャー船などが多数出船していた。そのため、直ちに救助作業や遺体の収容作業が行われ、遺体が収容できなかった行方不明者は無かった。
津波は概ね10分位の周期であった。
この地震によって生じた津波では、実際に津波が来襲してから津波警報が発表されている場所が多かった。これは、震源と海岸線が近いこともあるが、気象庁から当時は電報書式で伝達されていた「ゴクオオツナミ」(5区大津波)という津波警報を、「極大津波」と勘違いした地区の担当者がいたこともあった。5区とは日本海側北部と陸奥湾のことであったが、勘違いのため津波が少ないとされていたこの地区の担当者の通報が遅れた。ただ、仮に勘違いがなかったとしても津波警報は間に合わなかったとされた。
津波警報の遅れは問題視され、その後各種の改善策が採られた。一例として、無線により各地へ津波警報を伝え、海岸線の人々にそれを伝えるシステムが構築されたことが挙げられる。このシステムは北海道南西沖地震でも役立ったが、奥尻島では地震発生後わずか3分で津波が到達し、システムの限界も露呈した。
日本海中部地震の経験から作り上げたシステムは、スマトラ島沖地震で甚大な被害を受けた地区にも紹介された。
日本沿岸での『大津波警報』発令は、1953年11月26日に発生した房総沖地震以来、30年ぶりとなった。
地方の放送局や一般家庭にもビデオカメラが普及し始めた時期であり、地震の瞬間や津波の鮮明な映像が初めて多く残されたことも1つの特徴である。
有史以来東北北部日本海側に被害を及ぼした地震は多いが、そのほとんどが内陸部に震源を持ち、人的被害は住宅が壊れたことなどによるものが多かった。1964年(昭和39年)5月7日には日本海中部地震とほぼ同じ場所でM 6.9の男鹿半島沖地震が発生しているが、このときは堤防決壊が3カ所、山崩れが5カ所、全壊住宅1戸、半壊住宅5戸の被害で津波は1 m未満しかなく、津波による被害はなかったため、逆に海岸に避難した方が安全であった。また、研究不足から日本海東縁海底を震源とする巨大地震とそれに続く津波に対する危険性の認識を低くさせていた。明治以降たびたび津波に襲われた三陸海岸の住民と違って、地震を津波に直接結びつける意識が行政および住民になく、津波警報がテレビで放映されても住民はそれに疑念を持った。そのことも前述のような津波被害につながる原因となった。反面、地震発生時が正午頃にもかかわらず、火災発生が全くなかったのは、地震と火災を結びつけて考えていた住民の意識と行政の啓蒙の成果とされている。
東日流外三郡誌では、十三湊の安東氏の勢力が失われるのは巨大地震とそれに続く津波が原因であるとするが、現在、東日流外三郡誌は偽書とされ、また十三湊には巨大津波の痕跡はないことが、発掘により明らかになっている。
この地域では1000年以上のサイクルで地震が発生すると想定され、その対策の効果を疑問視する人もいた。だが、わずか10年後の巨大地震でもある北海道南西沖地震が発生して対策の効果はある程度確認されている。
その後の研究により、日本海東縁地域は実は活発な地震地帯であり18世紀以降、100年に4 - 5回程度津波を伴う地震が続いていることが明らかとなり、太平洋側の相模湾・駿河湾や東海地域なみの観測態勢が望まれている。
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] | 日本海中部地震(にほんかいちゅうぶじしん)は、1983年(昭和58年)5月26日11時59分57.5秒に、秋田県の能代市西方沖80 kmの地点で発生した逆断層型の地震である。地震の規模はM7.7(Mw7.7-7.9)。 | {{地震
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|plus=
}}
'''日本海中部地震'''(にほんかいちゅうぶじしん)は、[[1983年]]([[昭和]]58年)[[5月26日]]11時59分57.5秒に、[[秋田県]]の[[能代市]]西方沖80 [[キロメートル|km]]({{Coord|40|21.6||N|139|04.4||E|display=inline}})の地点で発生した逆断層型の[[地震]]である。地震の規模は[[気象庁マグニチュード|M]]7.7([[モーメントマグニチュード|Mw]]7.7-7.9)。
== 概要 ==
当時日本海側で発生した最大級の地震であり、秋田県・青森県・山形県の日本海側で10 [[メートル|m]]を超える[[津波]]による被害が出た。[[日本]]での死者は104人に上り、そのうち100人が津波による犠牲者であった<ref name="souran">宇佐美 龍夫(2003)『最新版 日本被害地震総覧 416‐2001』東京大学出版会</ref>。家屋の全半壊3049棟、船舶沈没または流失706隻<ref name="souran" />、被害総額は約518億円にのぼった<ref>[http://www.bousai.pref.aomori.jp/jisinsouran/nihonkai/2_higai_target.htm 日本海中部地震 被害の概要] 防災科学技術研究所</ref>。
[[震度]]4以上(当時の震度階による)を観測した地点は以下の通りであった<ref name="sindo">{{Cite web|和書|title=震度データベース検索|url= https://www.data.jma.go.jp/svd/eqdb/data/shindo/index.html#19830526115957 |editor=[[気象庁]]|accessdate=2021/07/13}}</ref>。
{| class="wikitable"
!震度
!都道府県
!観測所
|-
! rowspan="2" style="{{震度色|5弱}}" |5
|[[青森県]]
|[[深浦町|深浦]]・[[むつ市|むつ]]
|-
|[[秋田県]]
|[[秋田市|秋田]]
|-
! rowspan="4" style="{{震度色|4}}" |4
|青森県
|[[青森地方気象台|青森]]・[[八戸市|八戸]]・[[弘前市|弘前]]<ref>『陸奥新報』1983年5月27日朝刊1面「東北大揺れ M7.7直撃」記事。</ref>
|-
|[[北海道]]
|[[森町 (北海道)|森]]・[[江差町|江差]]
|-
|[[岩手県]]
|[[盛岡市|盛岡]]
|-
|[[山形県]]
|[[酒田市|酒田]]
|}
震源に最も近い能代市では当時まだ地震計が設置されておらず、震度5またはそれ以上と推測された。
== 解説 ==
本震に先立ち前震とみられる地震が5月14日22時49分頃(M 5)、5月22日4時52分頃(M 2.4)、同日23時14分頃(M 2.3)に本震と同じ場所で発生している。本震は、約20秒間隔で発生した2つの揺れで構成されている<ref>[http://www.bousai.pref.aomori.jp/jisinsouran/nihonkai/img/pic2_17.htm 弘前大学構内で観測された日本海中部地震の加速度記録] 弘前大学理学部(地震予知連絡会会報 第31巻)</ref>。本震発生後の余震は、6月1日0時まで有感地震が211回、無感地震が828回あった。さらに6月に入ってから6月9日21時49分にM 6.1、同22時4分にM 5.9、そして最大の余震(M 7.1)が本震発生後の1か月ほど後の6月21日15時25分に発生した。この余震では津波が観測された。
[[気象庁]]が正式名称の「日本海中部地震」を発表するまでの間に報道各局が便宜上使用した名称として使われ、公式の記録上には残らないものに'''「秋田沖地震」'''や'''「日本海秋田沖地震」'''の通称がある。
=== 地学的知見 ===
[[樺太|サハリン]]から新潟沖へとつながる、[[日本海東縁変動帯]]の日本列島の乗る島弧地殻と、日本海の海洋地殻の境界付近で発生した地震<ref>{{PDFlink|[https://cais.gsi.go.jp/YOCHIREN/activity/199/image199/199_all.pdf 第199回地震予知連絡会(2013年5月30日)議事概要 p.23]}} 地震予知連絡会</ref>。後年の詳細な調査により、プレート境界型に近い地震発生様式である可能性が高いことが明かになった<ref name="yochi90_12_08">{{PDFlink|[https://cais.gsi.go.jp/YOCHIREN/report/kaihou90/12_08.pdf 第199回地震予知連絡会重点検討課題「日本海で発生する地震と津波」概要(北海道大)]}} 地震予知連絡会 会報第90巻</ref>。また約1000年前に、同様な大地震が発生していた可能性も指摘されている<ref name="yochi90_12_08"/>。
青森県[[西津軽郡]][[岩崎村 (青森県)|岩崎村]]の沖合約40 kmで、震源域のすぐ近くにある長さ50 m、幅13 m程度の岩礁の島、[[久六島]]では約30 cm - 40 cm沈下したと考えられる<ref>山科健一郎, 中村一明, 福留高明 ほか、「[https://doi.org/10.4294/zisin1948.38.1_81 1983年日本海中部地震による久六島の沈下]」 地震 第2輯 1985年 38巻 1号 p.81-91, {{DOI|10.4294/zisin1948.38.1_81}}</ref>。
=== 地震像 ===
震源域は“く”の字を逆にした様な形で、総延長が約100 km。
複数の手法による解析の結果、いくつかの破壊モデルが挙げられている。
その1つは、本震は約50秒間の3つのサブイベントからなる<ref>小菅正裕, 池田仁美, 鎌塚吉忠 ほか、[https://doi.org/10.11366/sokuchi1954.32.290 余震分布・地殻変動・津波データによる1983年日本海中部地震の静的断層モデル] 測地学会誌 Vol.32 (1986) No.4 P.290-302, {{doi|10.11366/sokuchi1954.32.290}}</ref>。第1イベントは最初の破壊点から北北東方向に久六島の西方沖まで破壊が進んだ。第2イベントは第1イベントの終了後約10秒間の時間をあけて北北西に進み北緯40.8付近で止まった。第3イベントは第2イベントが止まった北緯40.8付近で破壊方向を北北西方向に変え進んだ。
別な解析では、2つのサブイベントからなり主破壊は30 - 35 km離れたところで24秒 - 26秒間隔で発生した<ref>伊藤潔, 梅田康弘, 黒磯章夫 ほか、[https://doi.org/10.4294/zisin1948.39.2_301 広帯域地震観測記録による1983年日本海中部地震の特性] 地震 第2輯 Vol.39 (1986) No.2 P.301-311</ref>、などがある。
=== 前震活動 ===
1964年[[男鹿半島沖地震]] (M 6.9)は破壊開始点が近接しており先行した地震と考える説もある<ref>海野徳仁, 伊藤喜宏, 五十嵐俊博 ほか、[https://doi.org/10.4294/zisin1948.53.3_263 1964年男鹿半島沖地震 (M 6.9): 1983年日本海中部地震に19年先行したすべり?] 地震 第2輯 Vol.53 (2000-2001) No.3 P.263-268, {{doi|10.4294/zisin1948.53.3_263}}</ref>。また、本震発生の12日前の5月14日に 破壊開始点付近でM 4.9 の地震が発生し顕著な活動は、5月20日頃まで続いた<ref>{{PDFlink|[https://cais.gsi.go.jp/YOCHIREN/report/kaihou31/02_02.pdf 1983年日本海中部地震の前震・余震活動(東北大・弘前大)]}} 地震予知連絡会 会報第31巻</ref>。また発生に先立ち、約10年間の静穏化が発生していた<ref>吉田明夫、青木元、「[https://doi.org/10.5026/jgeography.111.2_212 大地震の前に日本海沿岸の広域に現れた地震活動の静穏化]」 地学雑誌 2002年 111巻 2号 p.212-221, {{doi|10.5026/jgeography.111.2_212}}</ref>。
== 地震被害 ==
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|+警察庁 1983年12月
||
!colspan="2" | 死者・負傷者数
!colspan="4" | 住宅被害棟数
!colspan="2" | その他
|-
!地域||死亡||負傷||全壊||半壊||全半焼||一部損壊||道路||山崩れ
|-
!北海道
||||5||||||||55||2||3
|-
!青森県
||||18||167||587||2||1265||77||
|-
!秋田県
||4||36||757||1029||3||1735||535||40
|-
!山形県
||||||||||||1||1||
|-
!新潟県
||||||||||||||1||
|-
!合計
||4||59||924||1616||5||3056||616||43
|}
* 倒壊物等により、秋田県内で4人が死亡した。
** [[秋田市]]大町二丁目の[[本金西武|本金デパート]]の名物「本金タワー」が倒壊し屋根を直撃、4階で催事の準備をしていた主婦3人が下敷きになり1人が死亡した。
** [[能代市]]と[[男鹿市]]では、地震によるショックで、高齢女性がそれぞれ1名死亡した<ref>『1983年日本海中部地震災害報告書』(建設省東北地方建設局・昭和61年3月発行)8頁「表1-2-1 死者の原因別内訳(自治省消防庁報告より)」から。</ref>。
* 家屋の被害は、全壊934戸、半壊2115戸、一部損壊3258戸、流出52戸、浸水214戸、その他2582戸に達し、被害総額は1482億3827万円余。秋田県では[[太平洋戦争]]下の[[土崎空襲]]以後の最大の災害であった。
* 火災被害の報告は一般家屋ではなかったが、秋田市の[[東北電力]][[秋田火力発電所]]内の原油の浮屋根タンクで火災が発生し、新潟でも石油タンクが石油の溢流を起こした。これらは[[長周期地震動]]による[[スロッシング]]によるものであることが後にわかった<ref>{{PDFlink|[http://www.irric.co.jp/risk_info/disaster/pdf/saigairiskjoho33.pdf 長周期地震動の危険性]}} 株式会社インターリスク総研 災害リスク情報・第33号</ref><ref>[https://hdl.handle.net/2261/12918 工藤一嘉,坂上実:1983年日本海中部地震による石油タンク被害と地震動の特徴について:新潟における石油溢流の問題点] 東京大学地震研究所彙報. 第59冊第2号, 1984.10.20, pp.361-382, {{hdl|2261/12918}}</ref>。
* [[液状化現象]]によって、港湾・道路・鉄道・[[八郎潟]]の[[干拓堤防]]の破壊などが起きた。液状化現象は[[1964年]](昭和39年)の[[新潟地震]]から注目された現象であったが、この地震での広範囲にわたる被害により、さらに注目されるようになった。
* 地震による直接的な被害は比較的少なかったが、電力・通信・ガス・水道・交通などのライフラインが被害を受け、特に水道やガスなどの被害は市民生活に長期間の影響を与えた。二次被害が心配されたが、梅雨の時期を迎えてもこの年は比較的降雨量が少なく、大事に至らなかった。
* 283箇所の人造の溜め池の堤体(堤)の全体が崩壊、あるいは堤体の一部崩壊、亀裂、沈下が発生、10箇所では決壊も生じた。決壊は最大震(本震)の直後から数十分程度で生じたと考えられる。なお、堤体の築造後10年以内の被害率および被害の程度が大きかった事が報告されている<ref>[https://doi.org/10.11408/jjsidre1965.55.10_939 谷茂、長谷川高士:日本海中部地震を中心とした溜池の地震被害] 農業土木学会誌 Vol.55 (1987) No.10 P.939-947,a1, {{doi|10.11408/jjsidre1965.55.10_939}}</ref>。
* 男鹿市船越地区と[[南秋田郡]][[天王町]](現在の[[潟上市]])とを連絡する幹線道路に関し、八郎潟に架かる橋と陸地との間で数十センチの路面段差が生じたため一時的に車両の通行が遮断された。
== 津波被害 ==
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|+警察庁 1983年12月
||
!colspan="2" | 死者・負傷者数
!colspan="4" | 住宅被害数(棟)
!colspan="3" | 船舶(隻)
|-
!地域||死亡||負傷||全壊||半壊||流出||一部損壊||沈没||流出||破損
|-
!北海道
||4||19||9||12||||||42||180||289
|-
!青森県
||17||4||||||||||21||65||228
|-
!秋田県
||79||71||||485||52||202||60||136||483
|-
!山形県
||||||||||||||9||||
|-
!新潟県
||||2||||||||||||8||24
|-
!石川県
||||3||1||2||||||12||6||
|-
!京都府
||||||||||||||7||18||
|-
!島根県
||||5||||||||||104||56||145
|-
!合計
||100||104||10||499||52||202||235||451||1187
|-
|}
当時のシステムで津波警報が発表されたのは地震発生から14分後であったことと、日本海側に津波は来ないという俗説がまかり通っていたことが人的被害を大きくした。
到達が最も早かった青森県の[[西津軽郡]][[深浦町]]では地震発生約7分後に引き波として到達し、8分後第1波として到達している。最大潮位は65 [[センチメートル|cm]]であった。最も波高が高かった場所は秋田県の[[山本郡]][[峰浜村]](現在の[[八峰町]])で波高14 mを記録した。また、[[男鹿半島]]でも6 mの津波を記録している。しかし、冬の季節風による強烈な波浪を防ぐために作られた日本海側特有の頑丈な港湾施設が波を弱めたとも言われている。
津波による死者の内訳は41人が護岸工事中の作業員、釣り人が18人、遠足中の小学生13人などであった。地震発生が晴天の昼間、当日の波が穏やかだった等の事情により、沿岸には作業船、漁船、レジャー船などが多数出船していた。そのため、直ちに救助作業や遺体の収容作業が行われ、遺体が収容できなかった行方不明者は無かった<ref>{{PDFlink|[http://www.histeq.jp/kaishi_18/29-Yamashita.pdf 津波における「引き波の恐怖」 - 昭和三陸津波の死者数と行方不明者数の比率の意味するもの -]}} 歴史地震研究会 歴史地震・第18号</ref>。
津波は概ね10分位の周期であった。
=== 秋田県の被害 ===
[[ファイル:濤安の乙女像.jpg|thumb|[[八峰町]](旧・[[八森町]])にある、犠牲者を追悼するために建立された「濤安の乙女」像(2013年9月)]]
* 当時、東北電力能代火力発電所建設のため埋め立て工事中であった[[能代港]]では、埋め立ての外枠となるケーソン上で作業中だった作業員や潜水士などが津波に飲み込まれ、35人が死亡する最大の被害が出た。能代港には殉難者慰霊碑が設立されている。
* [[男鹿市]]の加茂青砂では、遠足で訪れていた[[北秋田郡]][[合川町]](現在の[[北秋田市]])立[[北秋田市立合川南小学校|合川南小学校]]の児童43人と引率教諭たちが津波に襲われた。多くは漁船や付近の女性などに救出されたが、児童13人が死亡した。遺留品の散乱する現場の空撮映像が全国ニュースで配信されたこともあって、県民や国内はもとより日本国外にも大きな衝撃を与えた。合川南小学校には[[教皇|ローマ教皇]][[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]をはじめ、全世界からメッセージが寄せられた。また、同校では外国人音楽家による無料演奏会も催された。[[男鹿市立加茂青砂小学校]](2001年(平成13年)4月に[[男鹿市立北陽小学校|北陽小学校]]へ統合され廃校)には、合川南小学校の慰霊碑が建立されている。
* 男鹿市の[[秋田県立男鹿水族館|男鹿水族館]]では、観光客のスイス人女性が津波にさらわれて死亡した。その後、記憶に留め慰霊するために水族館駐車場脇に像が建てられた。このほか男鹿では日本海中部地震津波慰霊の碑に波の高さが刻まれている。
* 漁船が転覆するなどして、[[能代市]]・山本郡[[峰浜村]]・[[八森町]](現在の[[八峰町]])で漁業関係者10人が死亡した。また、峰浜村では砂丘を乗り越えて押し寄せた津波が海岸線から800メートル奥まで到達して農作業中の3人が死亡したほか、八森町では2人が死亡した。
* そのほか磯釣りをしていた10人など県内全体で79人が死亡した。
* 能代港・[[秋田港]]・八森港・男鹿漁港など港湾施設で大きな被害が出たほか、漁船や沿岸部の建築物も大きな被害を受けた。
* 男鹿市の堤防に関しては、河口付近で途切れる堤防端部の津波ダメージが大きかった。特に河川に面した堤防土台部の石垣の石組みが津波によって崩落・流出する被害が目立った。
* 男鹿市の砂浜の桟橋に関しては、橋を架けた橋脚がズレたり傾いたりすることで上部構造がズレ落ちる被害(海底の液状化現象)が発生した。
=== 青森県の被害 ===
* 県内外から来ていた釣り客9人が津波に襲われ死亡した。ほか、漁港の修築工事中に逃げ遅れた者、作業中の漁業関係者など合計17人が死亡した。
* 震源地に近い日本海側沿岸の町村で853隻の漁船が損壊するなどの水産関係で大きな被害を受けた。
* この地震<!---と津波--->による青森県内の被害総額は、518億1495万6千円にのぼった<ref>『1983.5.26日本海中部地震の記録』(青森県土木部河川課・1984年12月15日発行)14頁「昭和58年(1983年)日本海中部地震災害被害状況」から参照。</ref>。
=== その他の県 ===
* [[能登半島]]にある石川県[[輪島市]]では当日午前中、漁港近くで別の取材をしていた[[NHK金沢放送局]]の記者が津波襲来時の撮影に成功している。市内中心部を流れる輪島川河口を、高さこそ1 m強<!--横幅の限られた河川などでは当然ながら海岸部での最大潮位を上回る-->ながら凄まじいエネルギーで逆巻いて遡上する激しい波の姿や、河口に隣接する輪島漁港内から逃げ遅れて波にまかれ転覆する小型刺し網漁船と辛くも脱出する船長の姿など、津波の現実を生々しく捉えた映像が全国へ送り出された。この映像記録は、後々まで研究者の貴重な資料として活用されている。
* 輪島漁港の様子が放映される一方で、その沖合50 km北に位置する[[舳倉島]]の被害はほとんど伝えられることはなかった(地元の教師が撮影した津波の映像は上記のNHKの番組で放送されている)。津波警報からわずか5分後に津波が襲来、海抜わずか11 mとあって家屋等の被害も甚大であった。満足な通信設備のなかったことや、島民に死者がでなかったことなどが背景にある。小規模だった堤防は役に立たず、小さな漁港は漁網や流入物で接岸できなくなり、満足な重機もなかった上に支援に入ることもままならなかった島では、人力中心の復旧となり、完全復旧するには夏までかかった。<!--離島の被害実態が無視されたに等しい状況は後のナホトカ号重油事故でも同じ-->
* その津波は遠く[[北近畿]]や[[山陰地方]]、[[北部九州|九州北部]]にまでも到達し、島根県の[[江の川]]などでも中流で川を遡る50 cm以上の波がはっきりと空撮で報道された。
* 震源域から直接到達した波のほかに、対岸の[[朝鮮半島]]や[[沿海州]]で反射した波も2 - 5時間後に積丹半島・山陰沿岸・能登半島などに顕著な震幅の波として到達している<ref>[https://hdl.handle.net/2261/12969 日本海津波における大陸からの反射波] 東京大学地震研究所彙報. 第61冊第2号, 1986.12.10, pp. 329-338</ref>。
=== 日本国外 ===
* 対岸の[[大韓民国|韓国]]にも津波が襲来<ref>韓国中央気象台は15時30分に津波警報を発令したが、実際は警報発令前に津波が襲来した。(東奥日報1983年5月27日朝刊記事)</ref> し、死者1人、行方不明者2人と報道された。韓国で被害が発生したのは日本海中央部にある[[大和堆]]によって津波が増幅されたのではないかとも言われている。韓国中央気象台の観測によれば、2 - 5 mの浸水高を観測し約4億ウォンの被害を計上した<ref>{{NAID|110004642550}} 韓国東海岸を襲った日本海中部地震津波 (Report of the 1983 Nihonkai-Chubu Earthquake Tsunami along the East Coast of the Republic of Korea)] 防災科学技術研究資料 90, 1-96, 1985-01-14,(独)防災科学技術研究所</ref>。
* [[ソビエト連邦|ソ連]](現在の[[ロシア]])でも沿海州([[沿海地方]])で津波が観測されている。[[ウラジオストク]]では、日本海中部地震の情報から住民を高台に避難させたという。ウラジオストクでは津波の高さはそれほどでもなく、人的被害はなかった。
== 津波警報 ==
この地震によって生じた津波では、実際に津波が来襲してから[[津波警報]]が発表されている場所が多かった<ref>[http://www.sydrose.com/case100/214/ 日本海中部地震による津波] 失敗百選</ref>。これは、[[震源]]と海岸線が近いこともあるが、[[気象庁]]から当時は電報書式で伝達されていた「ゴクオオツナミ」(5区大津波)という津波警報を、「極大津波」と勘違いした地区の担当者がいたこともあった。5区とは日本海側北部と陸奥湾のことであったが、勘違いのため津波が少ないとされていたこの地区の担当者の通報が遅れた。ただ、仮に勘違いがなかったとしても津波警報は間に合わなかったとされた。
津波警報の遅れは問題視され、その後各種の改善策が採られた。一例として、無線により各地へ津波警報を伝え、海岸線の人々にそれを伝えるシステムが構築されたことが挙げられる。このシステムは[[北海道南西沖地震]]でも役立ったが、[[奥尻島]]では地震発生後わずか3分で津波が到達し、システムの限界も露呈した。
日本海中部地震の経験から作り上げたシステムは、[[スマトラ島沖地震]]で甚大な被害を受けた地区にも紹介された。
日本沿岸での『大津波警報』発令は、[[1953年]][[11月26日]]に発生した[[房総沖地震]]以来、30年ぶりとなった<ref>『東奥日報』1983年5月27日付け朝刊2面「30年ぶりの警報 大津波 余震は2、3週間も」記事から。</ref>。
== 報道 ==
{{Notice|ウィキペディアは百科事典です。影響のあった事象を追記する際は、『地震が影響を与えたその事象が、その後どのように他に波及したか』まで解説して下さい。単なる中止報道や放送局内で生じた2次現象記述はご遠慮下さい。|section=1}}
{{注意|放送番組への影響について、本記事での記載は出典付きであってもご遠慮ください。[[WP:JPE/B]]に抵触しない形で記載するようにしてください。|date=2016年6月}}
地方の放送局や一般家庭にもビデオカメラが普及し始めた時期であり、地震の瞬間や津波の鮮明な映像が初めて多く残されたことも1つの特徴である。
=== テレビ ===
* [[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]とラジオ第一放送・FM放送ではちょうど正午の『[[NHKニュース]]』を放送中だったが、地震発生の一報を受け緊急放送に切り替えて進行<ref>{{NHKアーカイブス|A198305261200001300100|ニュース}}</ref>。途中で[[津波警報]]を放送したが津波襲来に間に合わなかった<ref>{{NHKアーカイブス|A198305261219001300100|津波警報 「秋田県を中心に地震,規模はM7.7。 東北日本海沿岸に12:14大津波警報を発令ほか」}}</ref>。このあとも[[NHK秋田放送局|秋田]]や[[NHK青森放送局|青森]]とつなぎ<ref>{{NHKアーカイブス|A198305261700001300100|特別番組・日本海中部地震 「各地の被害」 ―国鉄被害状況―「被害まとめ」「今後の見通し」}}</ref>、[[600 こちら情報部]]の内容を地震関連情報に差し替えて<ref>{{NHKアーカイブス|A198305261800001300100|600こちら情報部 「日本海中部地震」 }}</ref>、通常の番組編成を白紙化、休止して地震報道を行った<ref>「630」は通常通り。なお現在フリージャーナリストの[[池上彰]]は、当時[[NHK放送センター|東京]]の社会部に所属しており、地震発生直後に飛行機で秋田へと向かい現地リポートを担当した。</ref>。また、秋田局のカメラマンが取材中に秋田市内で地震に遭遇・ガソリンスタンドなどが激しく揺れる瞬間を撮影しており、映像がニュースや特集番組で放送された。
* [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]([[日本ニュースネットワーク|NNN]])では[[お昼のワイドショー]]を放送中に一報が入り、番組内容を変更して対応した。また、[[青森市]]農業会館で開かれていた青森県農業政策会議の最中に地震が発生し、椅子が動くなか大勢の参加者が立ち上がれなくなった生々しい映像を[[青森放送]]の新米の葛西真也カメラマンが偶然撮影し、NNNの記録として残った他、アメリカ[[NBC]]など世界にもこの映像が配信された。
* [[フジテレビジョン|フジテレビ]]([[フジニュースネットワーク|FNN]])では『[[森田一義アワー 笑っていいとも!|笑っていいとも!]]』<ref>{{要出典範囲|[[秋田テレビ]]では最初の4分間、『[[十字屋テレビショッピング]]』を放送|date=2023年11月}}。</ref> の放送中の一報だが、「[[テレフォンショッキング]]」(ゲスト・[[小室等]])を流したことまでは確認されている。当時、青森県にはFNNの系列局がなかったため、[[フジテレビ青森支局]]が取材を行ったほか秋田テレビや[[仙台放送]]、当時フジテレビ系だった[[山形テレビ]]、[[北海道文化放送]]など周辺の局が取材団を組んで対応。秋田テレビでは、公園の噴水の水が激しい揺れで四方八方に飛び散る映像や、[[秋田市営八橋球場]]で[[高校総体]]予選の野球大会中に地震が発生して選手や観客がパニックになった映像を撮影して繰り返し放送した。また、この年の4月にFNNに加入したばかりの[[福島テレビ]]ではこの地震の[[報道特別番組|報道特番]]がFNN加入後初めて放送された『FNN報道特別番組』であったほか、FNNの取材団として取材活動にも尽力した。
* [[TBSテレビ|TBS]](東京放送、[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|JNN]])では、『[[スーパーダイスQ]]』の放送中の一報から『JNN報道特別番組』(ネット冠つきかは不明)を放送。秋田県にはJNNの系列局がないため、被害状況は[[IBC岩手放送|岩手放送]]や[[青森テレビ]]、[[東北放送]]など周辺の局が取材団を組んで対応した。
* [[テレビ朝日]]([[オールニッポン・ニュースネットワーク|ANN]])では当時青森・秋田両県に[[ネットワーク (放送)|フルネット]]局がなかったため、日本テレビ系とテレビ朝日系のクロスネットであった青森放送やフジテレビ系とテレビ朝日系のクロスネットであった秋田テレビの映像を利用した。先に述べた会議場での様子(青森放送撮影)や噴水の様子(秋田テレビ撮影)がANNの記録として残り、現在では[[秋田朝日放送]]や[[青森朝日放送]]で利用されている。なお、この2局ではクロスネットの枠の都合上『ANN報道特別番組』は放送されなかったほか、時差放送で第一報時に『[[アフタヌーンショー]]』を放送していた局も本来のメイン系列の報道特番優先で放送がなされず返上されたところもあった。
* 当時普及しつつあった家庭用[[ビデオカメラ]]などを使って、地元住民や旅行者等が津波の克明な映像・写真を多数撮影したが、それらも各放送局に提供されニュースや特集番組(同年9月30日にNHKで放送された『目撃された大津波 - 日本海中部地震の記録』など)で放送された。[[男鹿市]]立鹿山(ろくざん)小学校(現:[[男鹿市立北陽小学校|北陽小学校]])では全校児童が校庭に避難する中に津波が延々と押し寄せ、恐怖のあまり児童が叫ぶ様子が家庭用ビデオで撮影され、繰り返し放送された。[[秋田県立男鹿水族館]]でも、津波によって駐車場から自動車がさらわれてしまう映像が撮られた。青森県の[[十三湖]]では人々や車が次々に津波に飲み込まれるショッキングな連続写真が撮られた。 事実上、動く映像としての津波を数々の視点から捉えた初めての地震となった。これらの映像は世界各国にも放映され、多数の動画で津波の恐ろしさを世界中に知らしめる初めての事例ともなった。後の[[東日本大震災]]でも津波の映像が多く放映されている。
=== ラジオ ===
<!-- 出典:ラジオマガジン1983年8月号 -->
* 地震発生後、(秋田放送では上野泰夫アナが担当していた[[まっぴる御免! 歌謡りくぅえすと]]の時間だった。[[ラジオトゥデイ2:00]]は緊急特別番組体制だったため休止)[[秋田放送]]では午後11時まで緊急特別番組を放送した。緊急特別番組の中では市民報告、各自治体からの報告など決め細かな情報を伝えた<ref>{{Cite journal|和書|title=「日本海中部地震」にみる秋田放送の報道体制|journal=企業と広告|volume=9|issue=7|publisher=チャネル|date=1983-07-01|pages=41 - 43|id={{NDLJP|2853004/23}}}}</ref>。
* 地震後の道路状況の悪さ(亀裂など)からラジオカーの出動が困難になったため、アマチュア無線家からも情報を募った。しばらくして[[男鹿市]]にある[[秋田県立男鹿海洋高等学校#秋田県立船川水産高等学校|秋田県立船川水産高校]]のアマチュア無線クラブから津波の情報が寄せられた。
* 青森放送でも午後1時40分<ref>開始時刻に関する出典は、『青森放送50年史99ページ ネットワーク強化の時代』より。</ref> から午後4時30分まで緊急特別番組を放送した。
* [[北海道放送]]でも特別番組を放送した(放送時間不明)。 これは[[鎌田強|同局のアナウンサー]]が妻の出産で秋田に帰省していたときに偶然にもこの地震に遭遇したためである。アナウンサーは札幌に戻る際、局から「取材に功あったため、帰路は出張扱いにする」と連絡を受けたという。なお、[[札幌市]]は震源地から距離があったこともあり、[[STVラジオ]](当時:[[札幌テレビ放送]])では定時ニュースで触れたのみだった。
== 地震史 ==
有史以来東北北部日本海側に被害を及ぼした地震は多いが、そのほとんどが内陸部に震源を持ち、人的被害は住宅が壊れたことなどによるものが多かった。1964年(昭和39年)5月7日には日本海中部地震とほぼ同じ場所でM 6.9の[[男鹿半島沖地震]]が発生しているが、このときは堤防決壊が3カ所、山崩れが5カ所、全壊住宅1戸、半壊住宅5戸の被害で津波は1 m未満しかなく、津波による被害はなかったため、逆に海岸に避難した方が安全であった。また、研究不足から日本海東縁海底を震源とする巨大地震とそれに続く津波に対する危険性の認識を低くさせていた。明治以降たびたび津波に襲われた三陸海岸の住民と違って、地震を津波に直接結びつける意識が行政および住民になく、津波警報がテレビで放映されても住民はそれに疑念を持った。そのことも前述のような津波被害につながる原因となった。反面、地震発生時が正午頃にもかかわらず、火災発生が全くなかったのは、地震と火災を結びつけて考えていた住民の意識と行政の啓蒙の成果とされている。
[[東日流外三郡誌]]では、[[十三湊]]の[[安東氏]]の勢力が失われるのは巨大地震とそれに続く津波が原因であるとするが、現在、東日流外三郡誌は偽書とされ、また十三湊には巨大津波の痕跡はないことが、発掘により明らかになっている<ref>[http://inoues.net/ruins/3naitosaminato.html 十三湊遺跡]</ref>。
この地域では1000年以上のサイクルで地震が発生すると想定され<ref>[https://www.jishin.go.jp/main/chousa/03jun_nihonkai/index.html 日本海東縁部の地震活動の長期評価について] 地震調査研究推進本部</ref>、その対策の効果を疑問視する人もいた。だが、わずか10年後の巨大地震でもある[[北海道南西沖地震]]が発生して対策の効果はある程度確認されている。
その後の研究により、日本海東縁地域は実は活発な地震地帯であり18世紀以降、100年に4 - 5回程度津波を伴う地震が続いていることが明らかとなり、太平洋側の[[相模湾]]・[[駿河湾]]や東海地域なみの観測態勢が望まれている<ref>{{PDFlink|[http://www.bosai.go.jp/library/pub/report/PDF/35/35tsuji1.pdf 日本海に発生した地震津波と数値計算結果]}} (独) [[防災科学技術研究所]]</ref><ref name="tky12622">[https://hdl.handle.net/2261/12622 日本海沿岸における歴史津波の挙動とその波源域] [[東京大学地震研究所]]彙報. 第52冊第1号, 1977.11.30, pp.49-7, {{ISSN|0040-8972}}, {{hdl|2261/12622}}</ref>。
== 備考 ==
=== 自然災害伝承碑 ===
[[File:1983 Sea of Japan earthquake cenotaph in Noshiro.jpg|thumb|日本海中部地震殉難者慰霊碑(秋田県能代市)。能代港では当時火力発電所建設に伴う埋め立て工事が行われていたため、作業員35名が犠牲となった。]]
* 合川南小学校児童地震津波殉難の碑(秋田県男鹿市戸賀加茂青砂)<ref name="oga2019">{{Cite web|和書|url= https://www.city.oga.akita.jp/soshik/kiki/bosai/4/1354.html |title= 国土地理院地図に男鹿の自然災害伝承碑が掲載されました |publisher= 男鹿市 |accessdate=2021-07-13}}</ref>
* スイス人女性犠牲者の慰霊碑(秋田県男鹿市戸賀塩浜)<ref name="oga2019" />
* 日本海中部地震津波慰霊之碑(秋田県男鹿市五里合神谷)<ref name="oga2019" />
* 日本海中部地震地震災害復旧記念碑(秋田県男鹿市角間崎)<ref name="oga2019" />
* 津波之塔(青森県五所川原市十三北口)<ref>{{Cite web|和書|title= 十三湖の津波之塔が自然災害伝承碑 by 陸奥新報 |url=http://www.mutusinpou.co.jp/news/2021/05/65173.html |website=www.mutusinpou.co.jp |access-date=2022-09-19}}</ref><ref name=":0">{{Cite web|和書|title=自然災害伝承碑 {{!}} 国土地理院 |url=https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/bousaichiri41077.html |website=www.gsi.go.jp |access-date=2022-09-19}}</ref>
* 濤安の乙女(秋田県山本郡八峰町八森)<ref name=":0" />
他
=== 県民防災の日 ===
* この日本海中部地震をきっかけに5月26日は秋田県の「県民防災の日」となり、県内各地で大地震を想定した防災訓練が毎年行われている。
=== 映像 ===
* 2003年(平成15年)の[[宮城県沖地震 (2003年)|三陸南地震]]は日本海中部地震と同日に発生し、秋田県内のテレビ局で日本海中部地震から20周年を特集したニュースを放送している最中に揺れを観測した。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* 『秋田県地震対策基礎調査報告書』1982年 東京大学地震研究所 宇佐美龍夫 他著 東京大学地震研究所蔵
* {{Cite web|和書|author=|date=|url=http://jishin.ocn.ne.jp/higai.html|title=地震被害状況|publisher=[[OCN]]|accessdate=2011-11-12}}
** {{PDFlink|{{Wayback|url=http://jishin.ocn.ne.jp/pdf/higai-21.pdf |title=日本海中部地震 |date=*}}}}
== 関連項目 ==
* [[激濤 Magnitude 7.7]] - [[矢口高雄]]の描き下ろしによる日本海中部地震を題材にした漫画。
* [[日本海東縁変動帯]]
* [[北海道南西沖地震]] - 1993年(平成5年)7月に発生した北海道の地震。津波で多くの人命が失われた。
* [[宮城県沖地震 (2003年)]](南三陸地震) - 本地震発生から20年目当日に発生、青森・秋田・山形の一部地域でも震度5を観測した。
*[[東北地方太平洋沖地震]](東日本大震災) - 2011年(平成23年)3月に東北の三陸沖で発生した日本の観測史上最大の地震。
* [[能代地震]] - この地域で以前起きた大きな地震。
== 外部リンク ==
* 青森県防災ページ 「[https://web.archive.org/web/20120607030640/http://www.bousai.pref.aomori.jp/jisinsouran/nihonkai/select_menu.htm 地震総覧 日本海中部地震]」
** [https://web.archive.org/web/20090301135245/http://www.bousai.pref.aomori.jp/jisinsouran/nihonkai/1_jisin_target.htm 地震の概要]
** [https://web.archive.org/web/20120607030640/http://www.bousai.pref.aomori.jp/jisinsouran/nihonkai/select_menu.htm 青森県の被害状況]
* [https://web.archive.org/web/20090902064756/http://pref.akita.jp/syobo/bousai/bousai4.html 秋田県の被害状況]
* [https://www.jma-net.go.jp/akita/jishin/tyubu.htm 昭和58年(1983年)日本海中部地震] 秋田地方気象台
* {{PDFlink|[https://www.gsj.jp/data/bull-gsj/49-01_01.pdf 日本海東縁海域の活構造およびその地震との関係]}}(独) 産業技術総合研究所 地質調査総合センター
* {{NHK放送史|D0009030186_00000|日本海中部地震}}
* {{NHK災害アーカイブス|D0026010012_00000|1983年 日本海中部地震}}
* [https://www.ina.fr/ina-eclaire-actu/video/cab00045580/antenne-2-le-journal-de-20h-emission-du-26-mai-1983 Antenne 2 Le Journal de 20H : émission du 26 mai 1983] - [[フランス国立視聴覚研究所|INA]]{{fr icon}}(動画の14:50よりニュース)
* {{YouTube time|c-D3S31MjPk|JA2 20H : EMISSION DU 26 MAI 1983|t=14m50s}} - [[フランス国立視聴覚研究所|INA Actu]]{{fr icon}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B5%B7%E4%B8%AD%E9%83%A8%E5%9C%B0%E9%9C%87 |
9,395 | 体積 | 体積(たいせき、英: volume)とは3次元空間において、その空間の領域の大きさを示す量(物理量)である。和語では嵩(かさ)という。
上記の通り、三次元の構造(モノなど)の空間的な大きさの程度を示す量が体積であるが、厳密さが求められる数学においては、体積の定義の説明は複雑である。以下にその概略を示す(難解であれば、#体積の算出法へ読み進んでさしつかえない)。
体積は、3次元空間内の部分集合(すなわち三次元の図形)に対して規定することができる。この三次元図形は、定義関数によって指定(空間上の位置や形を決定)することができる。体積とは、この定義関数を3次元座標系の全体にわたって積分して得られる値である。たとえば、ユークリッド空間で直交座標系における定義関数f(x,y,z)を使うと、この関数で表現される三次元図形の体積は三重積分を用いて次のように表される。
この定義から、0次元の概念である点や、1次元の概念の線、2次元の面といった次元が3未満の図形の「体積」については、それぞれこの積分の値は0となる。
参考までに、体積のより広い概念として測度がある。
かいつまんでいえば体積とは、各片の長さがa, b, cの直方体に対して、積abcを計算したものである。これはもちろん上記の定義に則った結果である。基本的な三次元図形に対しては、上記の定義は簡単な計算式で表現することができる。以下にそれらの体積の計算法(公式)をいくつか示す。なお、式中のπ は円周率 (3.14...)である。
体積は、物理量としては「長さの3乗」の次元を有している。体積を計算する際に、長さの単位で表現される数値を(公式などで)計算するが、その長さの単位の3乗が一般に体積の単位となる。たとえば、mmであればmm、kmであればkmである。
国際単位系では、体積の単位は立方メートル (m)を使用する。この単位は漢字で表記して立米(りゅうべい)と呼ばれることもある。また、立方センチメートル (cm; ccやmLと同義)や、リットル (1,000 cm = L)も体積の単位として実用上よく用いられている。
尺貫法における体積の単位は、石・斗・升・合・才などがある。
化学分析では体積計が用いられる。特にガラス製のメスフラスコついては国際標準化機構 (ISO)にて詳細な構造や使用方法などの規格が定められている。
体積の計測にはメスフラスコ(全量フラスコ)のほか、ホールピペット(全量ピペット)やメスピペット、ビュレット、メスシリンダーがある。メスフラスコのように、容器の全量の目盛まで液体を入れたときに目盛り等の表記値が体積を表す受用の器具(英: To Contain (TC)、独: Einguss (E)で表記)、および、ピペットやビュレットのように、固有の排出時間内に排出先端より出た液の量を体積として表す出用の器具(同じくTo Deliver (TD)やAusguss (A)の表記)に、これらは分類される。
容積(ようせき)あるいは容量(ようりょう)は、ある容器の収納容量を考えたとき、その中に入り得る物体・物質の体積のことを指す。物理量としては、容積は体積と同じように算出可能であり、容積の単位は一般に体積と同じものを使用する。日本では、計量単位を定めている計量法体系において、「容積」の語が用いられることはなく、すべて「体積」あるいは「内容体積」と表記されている。食品表示基準においても、食品の内容量の表示規制として、「容積」ではなく「体積」あるいは「内容体積」が用いられている。 | [
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"text": "化学分析では体積計が用いられる。特にガラス製のメスフラスコついては国際標準化機構 (ISO)にて詳細な構造や使用方法などの規格が定められている。",
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"text": "体積の計測にはメスフラスコ(全量フラスコ)のほか、ホールピペット(全量ピペット)やメスピペット、ビュレット、メスシリンダーがある。メスフラスコのように、容器の全量の目盛まで液体を入れたときに目盛り等の表記値が体積を表す受用の器具(英: To Contain (TC)、独: Einguss (E)で表記)、および、ピペットやビュレットのように、固有の排出時間内に排出先端より出た液の量を体積として表す出用の器具(同じくTo Deliver (TD)やAusguss (A)の表記)に、これらは分類される。",
"title": "体積の計測"
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"text": "容積(ようせき)あるいは容量(ようりょう)は、ある容器の収納容量を考えたとき、その中に入り得る物体・物質の体積のことを指す。物理量としては、容積は体積と同じように算出可能であり、容積の単位は一般に体積と同じものを使用する。日本では、計量単位を定めている計量法体系において、「容積」の語が用いられることはなく、すべて「体積」あるいは「内容体積」と表記されている。食品表示基準においても、食品の内容量の表示規制として、「容積」ではなく「体積」あるいは「内容体積」が用いられている。",
"title": "体積と容積"
}
] | 体積とは3次元空間において、その空間の領域の大きさを示す量(物理量)である。和語では嵩(かさ)という。 | {{物理量
|名称 =
|英語 = volume
|画像 =
|記号 =''V''
|次元 =[[長さ|L]]{{sup|3}}
|階 =スカラー
|SI = [[立方メートル]] ([[立方メートル|m<sup>3</sup>]])
|CGS = [[立方センチメートル]] ([[立方センチメートル|cm<sup>3</sup>]])
|MTS =
|DKS = [[リットル]] (L)
|FPS = [[立方フィート]] ([[立方フィート|ft<sup>3</sup>]])
|MKSG =
|CGSG =
|FPSG =
|プランク = [[プランク体積]] (''V''{{sub|P}})
|原子 =
}}
'''体積'''(たいせき、{{Lang-en-short|volume}})とは[[3次元]][[空間]]において、その空間の[[領域 (数学)|領域]]の大きさを示す[[量]]([[物理量]])である<ref>{{Cite web|和書|title=体積|算数用語集 |url=https://www.shinko-keirin.co.jp/keirinkan/sansu/WebHelp/05/page5_02.html |website=www.shinko-keirin.co.jp |access-date=2023-10-20}}</ref><ref>ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典: 体積.</ref>。[[和語]]では'''嵩'''(かさ)という。
== 定義 ==
上記の通り、三次元の構造(モノなど)の空間的な大きさの程度を示す量が体積であるが、厳密さが求められる[[数学]]においては、体積の定義の説明は複雑である。以下にその概略を示す(難解であれば、[[#体積の算出法]]へ読み進んでさしつかえない)。
体積は、3次元空間内の部分集合(すなわち三次元の[[図形]])に対して規定することができる。この三次元図形は、[[指示関数|定義関数]]によって指定(空間上の位置や形を決定)することができる。体積とは、この定義関数を3次元座標系の全体にわたって[[積分法|積分]]して得られる値である<ref>世界大百科事典 第2版: 体積</ref>。たとえば、[[ユークリッド空間]]で[[直交座標系]]における定義関数''f''(''x'',''y'',''z'')を使うと、この関数で表現される三次元図形の体積は三重積分を用いて次のように表される。<!-- 体積の定義に前提として体積の定義があり循環論的なため、右の文はひとまずコメントアウト; 直感にはまず直方体の体積を定義し、一般の立体に対しては小さな直方体の集まりでその立体を近似した極限を以って体積を定義する。 -->
:<math>\int_{-\infty}^{\infty}\int_{-\infty}^{\infty}\int_{-\infty}^{\infty} f(x,y,z) dxdydz</math>
この定義から、0次元の概念である[[点 (数学)|点]]や、1次元の概念の[[曲線|線]]、2次元の[[面]]といった次元が3未満の図形の「体積」については、それぞれこの積分の値は0となる。
参考までに、体積のより広い概念として[[測度論|測度]]がある。
== 体積の公式 ==
かいつまんでいえば体積とは、各片の長さが''{{Mvar|a}}'', ''{{Mvar|b}}'', ''{{Mvar|c}}''の[[直方体]]に対して、[[積]]''{{Mvar|abc}}''を計算したものである。これはもちろん[[体積#定義|上記の定義]]に則った結果である。基本的な三次元図形に対しては、上記の定義は簡単な計算式で表現することができる。以下にそれらの体積の計算法(公式)をいくつか示す。なお、式中の[[π|{{π}}]] は[[円周率]] (3.14…)である。
{| class="wikitable"
|+
!図形
!公式
!注
|-
|[[正六面体|立方体]]
|''{{Mvar|s}}''{{sup|3}}
|''{{Mvar|s}}'' は一辺の長さ
|-
|[[直方体]]
|''{{Mvar|lwh}}''
|''{{Mvar|l}}'', ''{{Mvar|w}}'', ''{{Mvar|h}}''はそれぞれ奥行き、幅、高さである<ref>上記本文と文字は異なるが、同じ意味である。つまるところ、何を文字に使っても直方体の体積の公式は変わらない。</ref>
|-
|[[円柱 (数学)|円柱]]
|{{π}}''{{Mvar|r}}''{{sup|2}}''{{Mvar|h}}''
|''{{Mvar|r}}''は上下の円の半径、''{{Mvar|h}}''は高さである
|-
|[[球体|球]]
|{{sfrac|4|3}}{{π}}''{{Mvar|r}}''{{sup|3}}
|{{Mvar|r}}は球の半径である
|-
|[[円錐]]
|{{sfrac|1|3}}{{π}}''{{Mvar|r}}''{{sup|2}}''{{Mvar|h}}''
|{{Mvar|r}}は底面の円の半径、''{{Mvar|h}}''は高さである
|-
|[[角柱]]
|''{{Mvar|Ah}}''
|''{{Mvar|A}}''は底面積、''{{Mvar|h}}''は高さである
|-
|[[平行六面体]]
|<nowiki>|</nowiki>'''''{{Mvar|A}}''''' · ('''''{{Mvar|B}}''''' × '''''{{Mvar|C}}'''''<nowiki>)|</nowiki>
|'''''{{Mvar|A}}''''', '''''{{Mvar|B}}''''', '''''{{Mvar|C}}''''' は平行六面体を張る[[線型結合|独立]]な3次元[[空間ベクトル|ベクトル]]である<ref>式中の[[演算子]]はそれぞれ、"·" は[[ドット積]]、"×" は[[クロス積]]を表す。"|x|"はxの[[絶対値]]を表す。</ref><!--このようなベクトル3つの積を'''スカラー三重積'''という--><!--三重積については[[外積]]辺りに書くのが適当か-->
|-
|任意の図形
|[[積分記号|∫]]''{{Mvar|A}}''(''{{Mvar|h}}'')''{{Mvar|dh}}''
|''{{Mvar|h}}''軸に沿って、関数''{{Mvar|A}}''(''{{Mvar|h}}'')で示される断面積をもつ図形である<ref>この公式は、[[#定義]]からも分かるように、三重積分のうち二重積分のみを先に計算してしまった形の特別な場合(二重積分の結果が''{{Mvar|A}}''(''{{Mvar|h}}''))である。</ref>。ここで、''{{Mvar|h}}''は高さ方向の変数である。
|}
== 体積の単位 ==
体積は、物理量としては「[[長さ]]の3乗」の次元を有している。体積を計算する際に、長さの単位で表現される数値を(公式などで)計算するが、その長さの単位の3乗が一般に体積の単位となる。たとえば、mmであればmm<sup>3</sup>、kmであればkm<sup>3</sup>である<ref>ここで単位の先頭に[[SI接頭語]](いわゆる[[補助単位]])が付いているが、いずれもm<sup>3</sup>(立方メートル)にSI接頭語を付けたものではない。順序としては、SI接頭語を付けた単位(mmやkm)をまず準備し、それらをそれぞれ3乗している。</ref>。
[[国際単位系]]では、体積の単位は'''[[立方メートル]] (m<sup>3</sup>)'''を使用する<ref>なお、[[SI基本単位]]としての長さの単位は[[メートル]] (m)である。</ref>。この単位は漢字で表記して立米(りゅうべい)と呼ばれることもある。また、'''[[立方センチメートル]] (cm<sup>3</sup>; cc'''<ref>ccは元来"cubic centimetre"の略称であり、これは"cm<sup>3</sup>"の英語での読みそのものである。その略号のccが単位として定着している。</ref>'''やmLと同義)'''や、'''[[リットル]] (1,000 cm<sup>3</sup> = [[リットル|L]])'''も体積の単位として実用上よく用いられている。
[[尺貫法]]における体積の単位は、[[石 (単位)|石]]・[[斗]]・[[升]]・[[合]]・[[才]]などがある。
== 体積の計測 ==
[[ファイル:Simple Measuring Cup.jpg|サムネイル|液体の体積を量る道具の例]]
[[分析化学|化学分析]]では体積計が用いられる。特に[[ガラス]]製の[[メスフラスコ]]ついては[[国際標準化機構]] (ISO)にて詳細な構造や使用方法などの規格が定められている<ref name="hosaka">[https://www.climbing-web.com/files/uploads/technicaldata_glass_volumeter.pdf 穂坂光司「ガラス体積計の基礎知識」] クライミング、2020年4月15日閲覧</ref>。
体積の計測にはメスフラスコ(全量フラスコ)のほか、[[ホールピペット]](全量ピペット)や[[メスピペット]]、[[ビュレット]]、[[メスシリンダー]]がある<ref name="hosaka" />。メスフラスコのように、容器の全量の目盛まで液体を入れたときに目盛り等の表記値が体積を表す'''受用の器具'''([[英語|英]]: To Contain ('''TC''')、[[ドイツ語|独]]: Einguss ('''E''')で表記)、および、ピペットやビュレットのように、固有の排出時間内に排出先端より出た液の量を体積として表す'''出用の器具'''(同じくTo Deliver ('''TD''')やAusguss ('''A''')の表記)に、これらは分類される<ref name="hosaka" />。
== 体積と容積 ==
'''容積'''(ようせき)あるいは'''容量'''(ようりょう)は、ある容器の収納容量を考えたとき、その中に入り得る物体・物質の体積のことを指す。物理量としては、容積は体積と同じように算出可能であり<ref>容積の計算では、収納・収蔵できる空間領域の大きさで計算を行う。</ref>、容積の単位は一般に体積と同じものを使用する。[[日本]]では、計量単位を定めている[[計量法]]体系において、「容積」の語が用いられることはなく、すべて「体積」あるいは「内容体積」と表記されている{{Efn|計量法<ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404AC0000000051 |title=計量法 |accessdate=2014-07-04 |work=e-Gov法令検索 |publisher=総務省行政管理局}}</ref>第2条第1項第1号の列挙の単位、別表第1 体積の項。}}{{Efn|計量単位令<ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357 |title=計量単位令 |accessdate=2014-07-04 |work=e-Gov法令検索 |publisher=総務省行政管理局}}</ref>別表第1 第11号「体積」、別表第3 第5号「濃度」体積百分率など。}}。[[食品表示]]基準においても、食品の内容量の表示規制として、「容積」ではなく「体積」あるいは「内容体積」が用いられている{{Efn|食品表示基準<ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=427M60000002010 |title=食品表示基準 |accessdate=2016-04-17 |work=e-Gov法令検索 |publisher=総務省行政管理局}}</ref>第3条(横断的義務表示)、内容量又は固形量及び内容総量 1において、「内容重量、内容'''体積'''又は内容数量を表示することとし、内容'''体積'''はミリリットル又はリットル…」としている。}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
{{Wikidata property|P2234}}
*[[長さ]]
*[[面積]] - [[表面積]]
*[[体積の比較]]
*[[調理用計量器]]
*[[3D]]
*[[体積形式]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:たいせき}}
[[Category:初等数学]]
[[Category:体積|*]]
[[Category:立体図形]]
[[Category:物理量]]
[[Category:数学に関する記事]]
[[Category:空間]] | 2003-05-27T08:40:21Z | 2023-12-30T02:39:23Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%93%E7%A9%8D |
9,402 | 静止トランスファ軌道 | 静止遷移軌道、静止トランスファ軌道(せいしせんいきどう、せいしトランスファきどう、geostationary transfer orbit, GTO)は、人工衛星を静止軌道にのせる前に、一時的に投入される軌道で、よく利用されるのは、遠地点が静止軌道の高度、近地点が低高度の楕円軌道である。
静止軌道は、地表からの高度が赤道上約36,000 kmとなる円軌道である。衛星をこの軌道に投入する際には次のような手順をとるのが普通である。
このような軌道高度の変換方式を一般にホーマン変換、トランスファ軌道をホーマン遷移軌道とよび、変換に要するエネルギーが最小で済むことで知られる。この方式は、低軌道→静止軌道に限らず、同心円となっている円軌道間の遷移において、軌道の半径の比が11.94を超えない場合は最も効率が良い。 (軌道の半径の比が11.94を超える場合は、二重楕円遷移の方が軌道変換に要するエネルギーが小さい)
パーキング軌道からGTOに変換する際には打上げロケットの最上段を、GTOから静止軌道に変換する際には衛星に内蔵した小型ロケットを用いることが多い。後者は遠地点 (apogee) で噴射することからアポジモーター (apogee motor) と呼ぶ。
上記の軌道変換中に、軌道面も変更する。パーキング軌道は通常打ち上げ地点の緯度に近い軌道傾斜角を持つため、例えば種子島やバイコヌールなどの射場から打ち上げると、静止衛星に必要な軌道傾斜角0°に変換する必要がある。この意味では射場の緯度は赤道に近いほどよく、欧州宇宙機関が用いるフランス領ギアナのクールー宇宙センターは北緯6°程度と立地条件が良い。シーローンチ社は赤道上の海上施設からの打ち上げサービスを行っており、軌道変換という視点からはもっとも効率がよい。
以上で説明した遷移方式の他に「スーパシンクロナス・トランスファ軌道」(意訳して、長楕円~などとも)による静止軌道への投入法がある。遠地点が静止軌道よりもかなり高い楕円軌道から、遠地点下げと近地点上げを並行して行って静止軌道に投入するもので、高緯度からの場合には、前述の軌道傾斜角の変換に要するエネルギーが通常の場合よりも少なくできる手順がある。高緯度に射場のある旧ソ連系の打上げサービスが積極的に研究しており、近年は他の地域の宇宙サービスや、特に日本の諸条件でも検討の価値がある場合があると見て研究している。 | [
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] | 静止遷移軌道、静止トランスファ軌道は、人工衛星を静止軌道にのせる前に、一時的に投入される軌道で、よく利用されるのは、遠地点が静止軌道の高度、近地点が低高度の楕円軌道である。 | {{出典の明記|date=2023年2月26日 (日) 09:19 (UTC)}}
'''静止遷移軌道'''、'''静止トランスファ軌道'''(せいしせんいきどう、せいしトランスファきどう、geostationary transfer orbit, GTO)は、[[人工衛星]]を[[静止軌道]]にのせる前に、一時的に投入される[[人工衛星の軌道|軌道]]で、よく利用されるのは、[[近点・遠点|遠地点]]が静止軌道の高度、[[近点・遠点|近地点]]が低高度の[[楕円軌道]]である<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20120402111821/http://spaceinfo.jaxa.jp/ja/types_orbits.html |title=軌道の種類 |author= 宇宙情報センター|date= |work= |publisher= |accessdate=2016-01-30 }}</ref>。
== 概要 ==
静止軌道は、地表からの高度が[[赤道]]上約36,000 kmとなる[[円軌道]]である。衛星をこの軌道に投入する際には次のような手順をとるのが普通である。
[[画像:Geostational-Transfer-Orbit.png|300px|thumb|right|図:静止トランスファ軌道と静止軌道]]
;待機軌道に打上げ
:まず、ロケットで衛星を低高度で地球を周回する円軌道に打ち上げる。これを[[宇宙待機軌道|待機軌道]](図の点線で示す円)と呼ぶ。
;静止遷移軌道に軌道変換
:次に、適切な時間にロケットエンジンで加速し、遠地点を静止軌道の高度まで上げる。このとき遠地点が衛星の追跡管制上都合の良い位置になるように、軌道変換の時刻を選ぶ必要がある。一旦待機軌道(パーキング軌道)に投入する理由はこのためである。
;静止ドリフト軌道に軌道変換
:近地点の高度を遠地点に等しく、すなわち円軌道になるように軌道変換を行う。このためには、遠地点でロケットエンジンを使用して推力を与える必要がある。通常、数回に分けてエンジンを噴射させ、軌道変換を行う。
;最終的な静止軌道に移動
:最後に、衛星内蔵の姿勢制御用エンジンで軌道高度の微調整を行い、所定の静止位置に移動する。
このような軌道高度の変換方式を一般にホーマン変換、トランスファ軌道を[[ホーマン遷移軌道]]とよび、変換に要するエネルギーが最小で済むことで知られる。この方式は、低軌道→静止軌道に限らず、同心円となっている円軌道間の遷移において、軌道の半径の比が11.94を超えない場合は最も効率が良い。
(軌道の半径の比が11.94を超える場合は、[[二重楕円遷移]]の方が軌道変換に要するエネルギーが小さい)
パーキング軌道からGTOに変換する際には打上げロケットの最上段を、GTOから静止軌道に変換する際には衛星に内蔵した小型ロケットを用いることが多い。後者は遠地点 (apogee) で噴射することから[[アポジキックモーター|アポジモーター]] (apogee motor) と呼ぶ。
上記の軌道変換中に、軌道面も変更する。パーキング軌道は通常打ち上げ地点の緯度に近い軌道傾斜角を持つため、例えば[[種子島宇宙センター|種子島]]や[[バイコヌール宇宙基地|バイコヌール]]などの[[射場]]から打ち上げると、静止衛星に必要な軌道傾斜角0°に変換する必要がある。この意味では射場の緯度は赤道に近いほどよく、[[欧州宇宙機関]]が用いる[[フランス領ギアナ]]の[[ギアナ宇宙センター|クールー宇宙センター]]は北緯6°程度と立地条件が良い。[[シーローンチ]]社は赤道上の海上施設からの打ち上げサービスを行っており、軌道変換という視点からはもっとも効率がよい。
以上で説明した遷移方式の他に「スーパシンクロナス・トランスファ軌道」(意訳して、長楕円~などとも)による静止軌道への投入法がある。遠地点が静止軌道よりもかなり高い楕円軌道から、遠地点下げと近地点上げを並行して行って静止軌道に投入するもので、高緯度からの場合には、前述の軌道傾斜角の変換に要するエネルギーが通常の場合よりも少なくできる手順がある。高緯度に射場のある旧ソ連系の打上げサービスが積極的に研究しており、近年は他の地域の宇宙サービスや、特に日本の諸条件でも検討の価値がある場合があると見て研究している。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈・出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[人工衛星]]
* [[ロケット]]
* [[人工衛星の軌道]] - [[対地同期軌道]]
* [[楕円軌道]] - [[ケプラーの法則]]
* [[静止軌道]]
* [[地球周回軌道]]
{{軌道}}
{{DEFAULTSORT:せいしとらんすふあきとう}}
[[Category:人工衛星の軌道]] | 2003-05-27T10:49:41Z | 2023-12-04T19:24:26Z | false | false | false | [
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"Template:Cite web",
"Template:軌道",
"Template:出典の明記"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%99%E6%AD%A2%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%95%E3%82%A1%E8%BB%8C%E9%81%93 |
9,403 | N-Iロケット | N-Iロケット(エヌイチロケット)は、宇宙開発事業団 (NASDA) と三菱重工業が米国のデルタロケットの技術や構成要素を基に開発し、三菱重工業が製造した日本初の人工衛星打ち上げ用液体燃料ロケット。
東京大学宇宙航空研究所(後の宇宙科学研究所)が、科学衛星と衛星打ち上げ用固体燃料ロケットを自主開発し打ち上げ実績を重ねていたのに対して、実用商用衛星の打上げを目指して設立されたNASDAは、液体燃料ロケットの実用化を急ぐために自主開発を諦め、一部がブラックボックスの条件で米国のデルタロケットの技術を段階的に習得していく開発手法を採った。ロケットの技術は弾道ミサイルの技術に繋がるため、米国としても日本のロケット技術を管理下に置く事は好ましいと考えていた。
1970年(昭和45年)10月にNロケットの開発が始まり、1975年(昭和50年)に技術試験衛星「きく」を搭載した第1号機の打ち上げに成功した。1982年(昭和57年)までに合計7機を打ち上げ技術習得の目標は達成できたが、打上げ能力が衛星の大型化に対応できないためN-IIロケットの開発に移行することになった。
JAXAのFAQによればNロケットの「N」は日本の頭文字であり、またMロケットの次という意味も込められている。当初は単にN(ロケット)と呼ばれていたが、改良型の名称が具体化するにつれてN-I(ロケット)と呼ばれるようになった。文部科学省公開資料の科学技術白書では昭和53年版からN-I、N-II、H-Iの各名称が用いられている。
第二段を除けば主要部分はDelta Mロケットと略同型と言える。
3段式の液体+固体ロケット | [
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] | N-Iロケット(エヌイチロケット)は、宇宙開発事業団 (NASDA) と三菱重工業が米国のデルタロケットの技術や構成要素を基に開発し、三菱重工業が製造した日本初の人工衛星打ち上げ用液体燃料ロケット。 | {{Otheruses|[[日本]]の[[ロケット]]|[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[ソ連の有人月旅行計画|月飛行計画]]用ロケット|N-1}}
{{ロケット
|名称 = N-I
|画像名 = N-I.svg
|画像サイズ = 75px
|画像の注釈 = N-Iロケット
|基本データ =
|運用国 = [[日本]]
|開発者 = {{plainlist|
*[[宇宙開発事業団|NASDA]]
*[[三菱重工業|三菱重工]]
}}
|運用機関 = NASDA
|使用期間 = [[1975年]] - [[1982年]]
|打ち上げ数 = 7回
|成功数 = 6回
|開発費用 = 990億円<ref>日下実男 『日本の人工衛星』 ダイヤモンド社、1971年8月12日。p.259</ref>
|公式ページ = https://www.jaxa.jp/projects/rockets/n1/index_j.html
|公式ページ名 = JAXA - N-Iロケット
|物理的特徴 =
|段数 = 3段
|ブースター = 3基
|総質量 = 90.4 トン
|空虚質量 =
|全長 = 32.57 m
|直径 = 2.44 m(本体部分)
|軌道投入能力 =
|低軌道 = 1,200 kg , 800 kg
|低軌道詳細 = 200 km / 30度 , 1,000 km / 30度
|静止軌道 = 130 kg<br>(燃焼後アポジモータ含)
|その他軌道名 = 地球重力圏脱出軌道
|その他軌道 = 180 kg
}}
'''N-Iロケット'''(エヌイチロケット)は、[[宇宙開発事業団]] (NASDA) と[[三菱重工業]]が[[米国]]の[[デルタロケット]]の技術や構成要素を基に開発し、三菱重工業が製造した日本初の[[人工衛星]]打ち上げ用[[液体燃料ロケット]]。
== 概要 ==
[[東京大学]]宇宙航空研究所(後の[[宇宙科学研究所]])が、[[科学衛星]]と衛星打ち上げ用[[固体燃料ロケット]]を自主開発し打ち上げ実績を重ねていたのに対して、実用商用衛星の打上げを目指して設立されたNASDAは、液体燃料ロケットの実用化を急ぐために自主開発を諦め、一部が[[ブラックボックス (代表的なトピック)|ブラックボックス]]の条件で米国のデルタロケットの技術を段階的に習得していく開発手法を採った。ロケットの技術は[[弾道ミサイル]]の技術に繋がるため、米国としても日本のロケット技術を管理下に置く事は好ましいと考えていた。
[[1970年]]([[昭和]]45年)10月にNロケットの開発が始まり<ref>[https://www.jaxa.jp/about/history/nasda_j.html 宇宙開発事業団(NASDA)沿革]JAXA公式サイト 2023年9月3日閲覧。</ref>、[[1975年]](昭和50年)に技術試験衛星「[[きく (人工衛星)|きく]]」を搭載した第1号機の打ち上げに成功した。[[1982年]](昭和57年)までに合計7機を打ち上げ技術習得の目標は達成できたが、打上げ能力が衛星の大型化に対応できないため[[N-IIロケット]]の開発に移行することになった。
== 名称 ==
[http://www.jaxa.jp/pr/inquiries/qa/rockets.html#09 JAXAのFAQ]によればNロケットの「N」は日本の頭文字であり、また[[ミューロケット|Mロケット]]の次という意味も込められている。当初は単にN(ロケット)と呼ばれていたが、改良型の名称が具体化するにつれてN-I(ロケット)と呼ばれるようになった。文部科学省公開資料の[[科学技術白書]]では[http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpaa197801/hpaa197801_2_078.html 昭和53年版]からN-I、N-II、H-Iの各名称が用いられている。
== 諸元と構成 ==
第二段を除けば主要部分はDelta Mロケットと略同型と言える。
=== 主要諸元 ===
{|class="wikitable" style="text-align:center"
|+主要諸元一覧<ref>{{Cite journal|和書|author=竹中幸彦|year=1984|month=3|title=N-Iロケット開発の歩み|journal=日本航空宇宙学会誌|volume=32|issue=362|pages=pp.127-141|publisher=日本航空宇宙学会|issn=0021-4663|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsass1969/32/362/32_362_127/_article/-char/ja/|doi=10.2322/jjsass1969.32.127|accessdate=2023-09-03}}</ref>
!colspan="2"|諸元\各段
!第1段
!補助ロケット
!第2段
!第3段
!フェアリング
|-
!rowspan="3"|寸<br>法
!長さ (m)
|21.44
|7.25
|5.44<br>(第2段アダプタ含む)
|1.37
|5.69
|-
!全長 (m)
|colspan="5"|32.57
|-
!外径 (m)
|2.44
|0.79
|1.62
|0.94
|1.65
|-
!rowspan="2"|重<br>量
!各段全備重量 (t)
|70.09
|13.40<br>(3本)
|5.86<br>(第2段アダプタ含む)
|0.67
|0.26
|-
!全段重量 (t)
|colspan="5"|90.28 <br>(衛星除く)
|-
!rowspan="8"|エ<br>ン<br>ジ<br>ン
!名称
|MB-3-3
|[[キャスター (ロケットモータ)#キャスターII|キャスターII]]
|[[LE-3]]
|スター37N
|rowspan="8"|N/A
|-
!型式
|液体ロケット
|固体ロケット
|液体ロケット
|固体ロケット
|-
!推進薬種類<br>(酸化剤/燃料)
|LOX/[[ケロシン|RJ-1]]
|HTPB
|[[四酸化二窒素|NTO]]/[[エアロジン-50|A-50]]
|HTPB
|-
!推進薬重量 (t)
|66.53
|11.24<br>(3本)
|4.74
|0.56
|-
!比推力 (s)
|249<br>(海面上)
|238<br>(海面上)
|290<br>(真空中)
|291<br>(真空中)
|-
!平均推力 (tf)
|77<br>(海面上)
|71<br>(海面上、3本分)
|5.4<br>(真空中)
|4.0<br>(真空中)
|-
!燃焼時間 (s)
|224
|39
|246
|41
|-
!推進薬供給方式
|ターボポンプ
|N/A
|ヘリウムガス押し
|N/A
|-
!rowspan="2"|制御<br>シス<br>テム
!ピッチ<br>ヨー
|ジンバル
|rowspan="2"|N/A
|ジンバル(推力飛行中)<br>ガスジェット(慣性飛行中)
|rowspan="2"|スピン安定
|rowspan="2"|N/A
|-
!ロール
|バーニアエンジン
|ガスジェット
|}
=== 構成 ===
3段式の液体+固体ロケット
* 第1段 : MB-3-3
*: 長タンク型ソアーロケットと略同型である。当初は[[ノックダウン生産]]であったが、後に[[マクドネル・ダグラス]]社に[[ロイヤリティ]]を支払い、三菱重工業が[[ライセンス生産]]した。エンジンは[[液体酸素]]と[[ケロシン]]を推進剤とするMB-3-3エンジンで、こちらも同様に当初はノックダウン生産であり、後にTRW社のライセンスで三菱重工業が製造した。そのうち燃焼器やガスジェネレータ等、エンジンの一部部品は三菱重工業から石川島播磨重工業(現・[[IHI]])に委託された。ライセンス生産化にあたっては日本独自の改良が施されており、タンクの素材であるアルミ合金を溶接が容易なものへ変更され、また、タンク壁面は[[ワッフル構造]]から[[アイソグリッド構造]]へ変更された。
* 第1段補助ブースタ (SOB) : [[キャスター (ロケットモータ)#キャスターII|キャスターII]]
*: [[チオコール|サイオコール]]社のライセンスで[[日産自動車]](現・[[IHIエアロスペース]])が製造したものを3基使用。当初は地上試験用と実機用に合計15基を輸入した。
* 第2段 : [[LE-3]]
*: NASDAが独自に[[Qロケット]]の第3段用として開発し、三菱重工業が製造していた[[LE-3]]エンジン(推進剤は[[四酸化二窒素]]と[[エアロジン-50]])を使用している。N-Iへの適用にあたり、[[マクドネル・ダグラス]]社及び[[ロケットダイン]]社によってチェック・アンド・レビューによる技術指導が行われた。LE-3は、日米宇宙協定に関する米議会の決定によって技術移転が許可されたAJ10-118Eエンジンよりも、推力及び比推力で勝るものだったが、N-Iと同じ時期にデルタロケットで使用されていた同エンジンの改良型であるAJ10-118Fエンジンと比較すると、燃焼時間や比推力では劣るものであった。
* 第3段 : スター37N
*: [[ATKランチ・システムズ・グループ|サイオコール]]製のスター37N球形固体ロケットモータを輸入<ref>図説 宇宙開発新時代 - 科学技術庁研究開発局宇宙企画課 編 / 1989年7月25日 p.111</ref><ref>新版 日本ロケット物語 - 大澤弘之 監修 / 2003年9月29日 p.151</ref>。
* ペイロード・フェアリング
*: マクドネル・ダグラス製のデルタロケット用[[ペイロードフェアリング|フェアリング]]を輸入
* 誘導装置
*: 当時は[[慣性誘導装置]]の技術がなかったため、誘導計算機を地上で持つ電波誘導方式で、[[日本電気|NEC]]がライセンス生産。
== 打ち上げ実績 ==
{| class="wikitable" cellpadding="4"
!機体
!打上げ年月日
!成否
!積荷
!目的
!軌道
!備考
|-
|1号機<br>(N1F)
|[[1975年]][[9月9日]]
|bgcolor = "#90ff90"|成功
|[[きく1号]]
|技術試験衛星I型
|[[低軌道|LEO]]
|日本で初めての大型液体ロケットの打ち上げ<br>14:00の打ち上げ目標であったが{{efn2|地上にある[[液体酸素|LOX]]貯蔵タンクへの加圧作業ができない不具合が起き、ロケットにLOXを充填できなくなった。そのため、[[決死隊]]が結成されLOXピットに赴き、調圧システムの不具合と確認し、手動弁でLOX貯蔵タンクへの加圧を行った。LOXピットは排出された濃い酸素を含んだ霧で覆われ危険な状態であったが、全員無事帰還した。}}14:30に打ち上げられた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.cosmotec-hp.jp/column/future10.html|title=宇宙こぼれ話 代表取締役社長 虎野吉彦 第10回 ある勇者達の話(第10回)|publisher=株式会社コスモテック|accessdate=2018-10-11}}</ref>
|-
|2号機<br>(N2F)
|[[1976年]][[2月29日]]
|bgcolor = "#90ff90"|成功
|[[うめ (人工衛星)|うめ]]
|電離層観測衛星
|LEO
|
|-
|3号機<br>(N3F)
|[[1977年]][[2月23日]]
|bgcolor = "#90ff90"|成功
|[[きく2号]]
|技術試験衛星II型
|[[静止軌道|GEO]]
|日本初の[[静止衛星]]
|-
|4号機<br>(N4F)
|[[1978年]][[2月16日]]
|bgcolor = "#90ff90"|成功
|[[うめ2号]]
|電離層観測衛星
|LEO
|
|-
|5号機<br>(N5F)
|[[1979年]][[2月6日]]
|bgcolor = "#ffffdd"|'''一部失敗'''
|[[あやめ (人工衛星)|あやめ]]
|実験用静止通信衛星
|[[静止トランスファ軌道|GTO]]
|衛星分離直後に3段目が衛星に追突し[[静止軌道]]投入に失敗
|-
|6号機<br>(N6F)
|[[1980年]][[2月22日]]
|bgcolor = "#90ff90"|成功
|[[あやめ2号]]
|実験用静止通信衛星
|GTO
|GTO投入(打ち上げ)には成功<br>静止軌道移行のために衛星の[[アポジモーター]]を噴射した際に通信途絶
|-
|7号機<br>(N9F)
|[[1982年]][[9月3日]]
|bgcolor = "#90ff90"|成功
|[[きく4号]]
|技術試験衛星III型
|LEO
|
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
'''注釈'''
{{Notelist2}}
'''出典'''
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[宇宙開発]]
* [[人工衛星の軌道]]
* [[ETVロケット]]
* [[なんばCITY]] - かつて、本ロケットの実寸大模型を設置した「[[なんばCITY#なんばガレリア(旧ロケット広場)|ロケット広場]]」があった。
== 外部リンク ==
* [https://www.jaxa.jp/projects/rockets/n1/index_j.html JAXA N-Iロケット]2023年9月3日閲覧。
{{日本の衛星打ち上げロケット|after=[[N-IIロケット]]|after2=[[H-Iロケット]]}}
{{Expendable launch systems}}
{{三菱重工業}}
{{DEFAULTSORT:N01J}}
[[Category:日本のロケット]]
[[Category:三菱重工業の製品]] | 2003-05-27T11:07:16Z | 2023-09-28T08:35:13Z | false | false | false | [
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"Template:Expendable launch systems",
"Template:Cite web",
"Template:日本の衛星打ち上げロケット",
"Template:Otheruses",
"Template:ロケット",
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"Template:三菱重工業"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/N-I%E3%83%AD%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88 |
9,404 | N-IIロケット | N-IIロケット(N-2ロケット)は、宇宙開発事業団(NASDA)と三菱重工業が米国のデルタロケットの技術や構成要素を基に開発し、三菱重工業が製造した人工衛星打上げ用液体燃料ロケット。
N-IIロケットは前身のN-Iロケットと同じく、実用化を急ぐため、米国のデルタロケットを母体に完成品輸入またはライセンス生産方式で徐々に技術を習得していく方針で開発された。この方式は、打ち上げの際には米国の許可が必要であったり、一部技術がブラックボックスで習得を出来ないなどの弊害も多少あるが、米国の技術を効率よく取得できるという利点があった。
1974年(昭和49年)に大型化する衛星側の要求に答えるためにNロケット(後のN-I)の後継機としてN改良型ロケット計画が決定された。この計画の中でN改良型1型ロケットとされたのがN-IIロケットであり1976年(昭和51年)10月から開発が開始された。
当初は、N-Iロケットの開発時に技術導入し国産化した第二段エンジンのLE-3の性能向上により打ち上げ能力を向上する計画であったが、希望期間内に日本国内の技術のみで改良するには技術の蓄積が不足していたため、静止軌道(GEO)に350kg級の衛星を送る能力を確保するべく、引き続きデルタロケットの技術導入を行うことになった。こうして第二段エンジンはデルタロケットで使われていた第二段エンジン(AJ10-118F)の改良型を使用することになった。このようにN-IIロケットはライセンス生産品とノックダウン生産品を継ぎ接ぎしているため、N-Iでは53%から65%程度だった国産化率が56%から61%程度へと低下している。
1981年(昭和56年)に技術試験衛星「きく3号」を搭載した第1号機が打ち上げられ、1987年(昭和62年)まで合計8機すべての打ち上げに成功し運用を終了した。後継は1986年(昭和61年)に初飛行したH-Iロケットである。
デルタ1904と略同型(組み合わせの構成番号としては存在するが米国では打ち上げられていない)。デルタロケットとしては、第1段から第3段まで8フィート直径である"Straight Eight"タイプの初期型である。
3段式の液体+固体ロケット
当初はN改良型2型ロケット(後のH-Iロケット)までのつなぎとして3機のみの打ち上げ予定であったが、N-II 1号機(N7F)打ち上げ成功とH-I用第2段エンジン(LE-5)の開発難航により8号機まで打ち上げられることとなった。 | [
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] | N-IIロケット(N-2ロケット)は、宇宙開発事業団(NASDA)と三菱重工業が米国のデルタロケットの技術や構成要素を基に開発し、三菱重工業が製造した人工衛星打上げ用液体燃料ロケット。 | {{ロケット
|名称 = N-II
|画像名 = N-II.svg
|画像サイズ = 75px
|画像の注釈 = N-IIロケット
|基本データ =
|運用国 = {{JPN}}
|開発者 = [[宇宙開発事業団|NASDA]]<br/>[[三菱重工業|三菱重工]]
|運用機関 = NASDA
|使用期間 = [[1981年]] - [[1987年]]
|打ち上げ数 = 8回
|成功数 = 8回
|開発費用 =
|打ち上げ費用 = 約46億円(N13F)<ref name="FI">{{Cite journal|last=Velupillai|first=David|date=1984-01-14|url=http://www.flightglobal.com/pdfarchive/view/1984/1984%20-%200073.html|title=Commercial Rockets : N-II|journal=[[Flight International]]|pages=pp.99|language=英語|accessdate=2009-09-14|archive-url=https://web.archive.org/web/20150607071237/http://www.flightglobal.com/pdfarchive/view/1984/1984%20-%200073.html|archive-date=2015-06-07}}</ref><br/>約50億円(N16F)<ref name="FI"/>
|原型 = [[N-Iロケット]], [[デルタロケット]]
|公式ページ = https://www.jaxa.jp/projects/rockets/n2/index_j.html
|公式ページ名 = JAXA - N-IIロケット
|物理的特徴 =
|段数 = 3段
|ブースター = 9基
|総質量 = 135.2 トン
|空虚質量 =
|全長 = 35.36 m
|直径 = 2.44 m(本体部分)
|軌道投入能力 =
|低軌道 = 2,000 kg
|静止移行軌道 = 730 kg
|静止軌道 = 350 kg<br/>(燃焼後アポジモータ含)
|その他軌道名 = 地球重力圏脱出軌道
|その他軌道 = 500 kg
}}
'''N-IIロケット(N-2ロケット)'''は、[[宇宙開発事業団]](NASDA)と[[三菱重工業]]が[[アメリカ合衆国|米国]]の[[デルタロケット]]の技術や構成要素を基に開発し、三菱重工業が製造した[[人工衛星]]打上げ用[[液体燃料ロケット]]。
== 概要 ==
N-IIロケットは前身の[[N-Iロケット]]と同じく、実用化を急ぐため、米国のデルタロケットを母体に完成品輸入または[[ライセンス生産]]方式で徐々に技術を習得していく方針で開発された。この方式は、打ち上げの際には米国の許可が必要であったり、一部技術が[[ブラックボックス (代表的なトピック)|ブラックボックス]]で習得を出来ないなどの弊害も多少あるが、米国の技術を効率よく取得できるという利点があった。
[[1974年]](昭和49年)に大型化する衛星側の要求に答えるためにNロケット(後のN-I)の後継機としてN改良型ロケット計画が決定された。この計画の中でN改良型1型ロケットとされたのがN-IIロケットであり[[1976年]](昭和51年)10月から開発が開始された<ref>[https://www.jaxa.jp/about/history/nasda_j.html 宇宙開発事業団(NASDA)沿革] JAXA公式サイト 2023年9月3日閲覧。</ref>。
当初は、N-Iロケットの開発時に技術導入し国産化した第二段エンジンの[[LE-3]]の性能向上により打ち上げ能力を向上する計画であったが、希望期間内に日本国内の技術のみで改良するには技術の蓄積が不足していたため<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=107603913X00419751119 第76回国会 科学技術振興対策特別委員会 第4号] - [[1965年]][[11月19日]]</ref>、[[静止軌道]](GEO)に350kg級の衛星を送る能力を確保するべく、引き続きデルタロケットの技術導入を行うことになった。こうして第二段エンジンはデルタロケットで使われていた第二段エンジン(AJ10-118F)の改良型を使用することになった。このようにN-IIロケットはライセンス生産品と[[ノックダウン生産]]品を継ぎ接ぎしているため、N-Iでは53%から65%程度だった[[国産化率]]が56%から61%程度へと低下している<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=109413928X00419810417 第94回国会 科学技術特別委員会 第4号] - [[1981年]][[4月17日]]</ref>。
[[1981年]](昭和56年)に技術試験衛星「きく3号」を搭載した第1号機が打ち上げられ、[[1987年]](昭和62年)まで合計8機すべての打ち上げに成功し運用を終了した。後継は[[1986年]](昭和61年)に初飛行した[[H-Iロケット]]である。
== 諸元と構成 ==
デルタ1904と略同型(組み合わせの構成番号としては存在するが米国では打ち上げられていない)。デルタロケットとしては、第1段から第3段まで8フィート直径である"Straight Eight"タイプの初期型である。
=== 主要諸元 ===
{|class="wikitable" style="text-align:center;"
|+主要諸元一覧<ref>新版 日本ロケット物語 - 大澤弘之 監修 / 2003年9月29日 p.151,162</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=松田敬|year=1984|month=11|title=H-Iロケット開発の現況|journal=日本航空宇宙学会誌|volume=32|issue=370|pages=pp.603-611|publisher=日本航空宇宙学会|issn=0021-4663|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsass1969/32/370/32_370_603/_article/-char/ja/|doi=10.2322/jjsass1969.32.603|accessdate=2023-09-03}}</ref>
|-
!colspan="2"|諸元\各段
!第1段
!補助ロケット
!第2段
!第3段
!フェアリング
|-
!rowspan="3"|寸<br/>法
!長さ(m)
|22.4
|7.3
|6.0
|2.1
|7.9
|-
!全長(m)
|colspan="5"|35.4
|-
!外径(m)
|2.4
|0.8
|2.4
|1.0
|2.4
|-
!rowspan="2"|重<br/>量
!各段全備重量(t)
|86.4<br/>(段間部含む)
|40.3<br/>(9本)
|6.7
|1.3
|0.6
|-
!全段重量(t)
|colspan="5"|135.2<br/>(衛星除く)
|-
!rowspan="8"|エ<br/>ン<br/>ジ<br/>ン
!名称
|MB-3-3
|[[キャスター (ロケットモータ)#キャスターII|キャスターII]]
|[[AJ-10|AJ10-118FJ/AJ10-118FJI]]
|スター37E
|rowspan="8"|N/A
|-
!型式
|液体ロケット
|固体ロケット
|液体ロケット
|固体ロケット
|-
!推進薬種類<br/>(酸化剤/燃料)
|LOX/[[ケロシン|RJ-1]]
|[[HTPB]]
|[[四酸化二窒素|NTO]]/[[エアロジン-50|A-50]]
|HTPB
|-
!推進薬重量(t)
|81.9
|33.6<br/>(9本)
|5.8
|1.1
|-
!比推力(s)
|249<br/>(海面上)
|238<br/>(海面上)
|314/319<br/>(真空中)
|286<br/>(真空中)
|-
!平均推力(tf)
|77.1<br/>(海面上)
|22.5<br/>(海面上)(1本分)
|4.6<br/>(真空中)
|6.8<br/>(真空中)
|-
!燃焼時間(s)
|273
|38
|
|
|-
!推進薬供給方式
|[[ガス発生器サイクル|ターボポンプ]]
|N/A
|[[圧送式サイクル|ヘリウムガス押し]]
|N/A
|-
!rowspan="2"|制御<br/>シス<br/>テム
!ピッチ<br/>ヨー
|[[ジンバル]]
|rowspan="2"|N/A
|ジンバル(推力飛行中)<br/>ガスジェット(慣性飛行中)
|rowspan="2"|スピン安定
|rowspan="2"|N/A
|-
!ロール
|[[バーニア]]エンジン
|ガスジェット
|-
|}
=== 構成 ===
3段式の液体+固体ロケット
* 第1段: MB-3-3
*: N-Iと同じエンジン(推進剤は[[液体酸素]]と[[ケロシン]])であるが、燃料タンクを延長した。長タンク拡張型ソアーロケットと同型である。
* 第1段補助ロケット: [[キャスター (ロケットモータ)#キャスターII|Castor II]]
*: N-Iと同じく[[日産自動車]](現・[[IHIエアロスペース]])がライセンス生産した[[固体ロケットブースタ|固体補助ロケット]]を使用。本数を3本から9本に増やし、推力を増強。
* 第2段(SSPS, Pc-UP SSPS, ITIP SSPS): [[AJ-10|AJ10-1180FJ, AJ10-118FJI]]
*: 当初は第2段用エンジンとして、国産の[[LE-3]]に再着火能力を付加した[[LE-3#発展案|LE-4]]<ref>宇宙開発事業団史 - 宇宙開発事業団史編纂委員会 / [[2003年]]9月 p.80</ref>の使用を予定していたが、能力不足であることやLE-5へ開発リソースを集中する必要があったことから、[[エアロジェット]]社製[[AJ-10|AJ10-118F]]エンジンに軽量化と性能向上を図ったAJ10-118FJ(SSPS。推進剤は[[四酸化二窒素]]と[[エアロジン-50]])を採用。エンジンは石川島播磨重工業の技術者立ち合いのもと、エアロジェット社が開発した。当初計画では受注数が3機のみであったため、輸入部品による[[ノックダウン生産]]となっている<ref name="IHI">『IHI航空宇宙50年の歩み』 / 「IHI航空宇宙50年の歩み」編纂委員会監修・企画・編集 - 石川島播磨重工業株式会社 JP:21302522 P.212-213</ref>。3号機以降は燃焼圧を上げることでGTO換算で約20kg能力が向上し、また5号機以降は噴射器を改良したAJ10-118FJIエンジンを用いることで、さらに[[静止トランスファ軌道|GTO]]換算で約40kg能力が向上した。
* 第3段: Star-37E
*: [[ATKランチ・システムズ・グループ|サイオコール]]製の固体ロケットモータを輸入<ref>図説 宇宙開発新時代 - 科学技術庁研究開発局宇宙企画課 編 / [[1989年]]7月25日 p.111</ref><ref>新版 日本ロケット物語 - 大澤弘之 監修 / [[2003年]]9月29日 p.151,162</ref>。
* ペイロード・フェアリング
*: [[マクドネル・ダグラス]]製のデルタ用[[ペイロードフェアリング|フェアリング]]を輸入。
* 誘導装置
*: デルタ用の[[慣性誘導装置]]を「[[ブラックボックス (代表的なトピック)|ブラックボックス]]」として輸入。
== 実績 ==
{| border="1" cellpadding="4" class="wikitable"
|-align=center
!機体!!打上げ年月日!!成否!!積荷!!目的!!軌道!!備考
|-
|1号機<br/>(N7F)||[[1981年]][[2月11日]]||bgcolor = "#90ff90"|成功||[[きく3号]]||技術試験衛星IV型||GTO||
|-
|2号機<br/>(N8F)||1981年[[8月10日]]||bgcolor = "#90ff90"|成功||[[ひまわり2号]]||気象衛星2号||GEO||[[ひまわり (気象衛星)|ひまわり]]1号は[[1977年]]に[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]の[[デルタロケット|デルタ2914]]で打上げ<br/>打ち上げの際、警戒飛行中のヘリコプターが墜落して6名が死亡する事故が発生<ref>{{Cite report
| date= 1982年12月8日
| title= 航空事故調査報告書
| url= https://www.mlit.go.jp/jtsb/aircraft/rep-acci/58-1-JA9262.pdf
| publisher= 航空事故調査委員会
| format = PDF
| accessdate= 2016-01-19
}}</ref>
|-
|3号機<br/>(N10F)||[[1983年]][[2月4日]]||bgcolor = "#90ff90"|成功||[[さくら2号a]]||通信衛星2号a||GEO||[[さくら (人工衛星)|さくら1号]]は[[1977年]]にNASAのデルタ2914で打上げ
|-
|4号機<br/>(N11F)||[[1983年]][[8月6日]]||bgcolor = "#90ff90"|成功||[[さくら2号b]]||通信衛星2号b||LEO||
|-
|5号機<br/>(N12F)||[[1984年]][[1月23日]]||bgcolor = "#90ff90"|成功||[[ゆり2号a]]||放送衛星2号a||GEO||[[ゆり (人工衛星)|ゆり1号]]は[[1978年]]にNASAのデルタ2914で打上げ
|-
|6号機<br/>(N13F)||[[1984年]][[8月10日]]||bgcolor = "#90ff90"|成功||[[ひまわり3号]]||気象衛星3号||GEO||
|-
|7号機<br/>(N14F)||[[1986年]][[2月12日]]||bgcolor = "#90ff90"|成功||[[ゆり2号b]]||放送衛星2号b||GEO||
|-
|8号機<br/>(N16F)||[[1987年]][[2月19日]]||bgcolor = "#90ff90"|成功||[[もも1号]]||海洋観測衛星1号||LEO||
|}
当初はN改良型2型ロケット(後のH-Iロケット)までのつなぎとして3機のみの打ち上げ予定であったが、N-II 1号機(N7F)打ち上げ成功とH-I用第2段エンジン([[LE-5]])の開発難航により8号機まで打ち上げられることとなった<ref name="IHI"/>。
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[宇宙開発事業団]]
* [[デルタロケット]]
* [[ロケット]]
* [[宇宙開発]]
* [[人工衛星の軌道]]
== 外部リンク ==
* [https://www.jaxa.jp/projects/rockets/n2/index_j.html JAXA N-IIロケット]2023年9月3日閲覧。
{{日本の衛星打ち上げロケット|before=[[N-Iロケット]]|after=[[H-Iロケット]]}}
{{Expendable launch systems}}
{{三菱重工業}}
{{デフォルトソート:N02J}}
[[Category:日本のロケット]]
[[Category:三菱重工業の製品]] | 2003-05-27T11:14:07Z | 2023-09-03T12:00:06Z | false | false | false | [
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"Template:Cite journal",
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9,405 | 境界要素法 | 境界要素法(きょうかいようそほう、英: boundary element method、BEM)とは、汎用性の高い離散化解析手法の1つで、有限差分法、有限体積法、有限要素法と並び、汎用離散化解析手法の主要3解法の1つとして理工学の分野で受け入れられている。電子計算機の発明・発展以前から進められてきた、応用数学における積分方程式の研究に端を発していることもあり、境界積分方程式法(Boundary Integral Equation Method、略してBIEM)と呼ばれることもある。
電磁気学では、この境界要素法をもちいた電磁界解析をモーメント法(Method of Moments、MOM)と呼んでいる。
解析手法は、積分方程式の定式化と離散化の2段階を経て構成される。
境界要素法では、まず対象とする問題の支配(微分)方程式から境界積分方程式を導出する。定式化には直接法と間接法の2種類がある。今日では、支配方程式の未知量をそのまま積分方程式の未知量として取り扱うことのできる、直接法定式化を採用する場合が多い。ここでは、2次元ラプラス問題を例に、直接法定式化による境界積分方程式の導出方法を説明する。
ラプラス問題は、支配方程式:
と、境界条件:
とを同時に満たす解(ポテンシャル)u を求める問題である。ここで、Ωは領域であり、領域の境界Γは、ポテンシャルu が規定されている境界Γu と、フラックス q = ∂ u / ∂ n {\displaystyle q=\partial u/\partial n} が規定されている境界Γq からなり、 Γ u ∪ Γ q = Γ , Γ u ∩ Γ q = ∅ {\displaystyle \Gamma _{u}\cup \Gamma _{q}=\Gamma ,\Gamma _{u}\cap \Gamma _{q}=\emptyset } であるものとする。また、n は境界での外向き法線方向を示す。
上で示した支配方程式と関数u とをかけ合わせてΩに関する領域積分を考えると、u が真の解であれば支配方程式を満足するため、これを含む項を積分しても0となる。
この恒等式を2回部分積分すると、 q ∗ = ∂ u ∗ / ∂ n {\displaystyle q^{*}=\partial u^{*}/\partial n} として、
を得る。なお、下添字 x は点x に関する積分であることを表している。
得られた式を見ると、領域積分が1つだけ残っている。これを消し去るために、関数u は次式を満足するように与える。
この関数u は基本解と呼ばれており、ラプラス問題では、 r = | x − ξ | {\displaystyle r=|{\boldsymbol {x}}-{\boldsymbol {\xi }}|} (2点間の距離)として、
で与えられる。u は、空間内の点ξに大きさ 1 の単位わきだしがあったときの、点x で観測されるポテンシャル値を与える関数、と解釈することができる。そのため、 ξ {\displaystyle {\boldsymbol {\xi }}} はソース点、 x {\displaystyle {\boldsymbol {x}}} は観測点と呼ばれる。
この定義式を上の積分方程式に代入すると、
を得る。この式は、境界上のポテンシャルとフラックスの分布が得られている時に、領域内部の点x におけるポテンシャル値を計算する際に用いることができる。ラプラス問題や静弾性問題などでは、観測されるポテンシャル値に及ぼす境界上の解の変動の影響は距離が離れると共に小さくなるため、境界要素法によると内部の点でのポテンシャル値は精度よく計算できると考えられている。
次に、この積分方程式において、ポテンシャル値を評価する点ξを領域内部から境界上の点に移動させる。基本解u ,q は r = 0 で関数値が無限大に発散するため、点ξの境界上への移動は、境界積分が有限確定値となるように注意しながら、極限の意味で考える必要がある。その結果、先に示した積分方程式は、極限操作によって次のようになる。
ここで、c (ξ) は、点ξの境界形状から決まる定数で、境界が滑らかであれば 1/2、かど点であれば当該点での内角の大きさから与えられる。この式が境界積分方程式 (Boundary Integral Equation) であり,境界要素法の離散化の出発点となる重要な方程式である。
境界要素法は、先に示した境界積分方程式を離散化し、近似解を得るための方法である。離散化においては、
が必要となる。以下では、先に取り上げた2次元ラプラス問題を例に、順を追ってその内容を説明する。
先に示したように、2次元ラプラス問題ではポテンシャルu とフラックスq とが変数(未知量)である境界積分方程式の離散化が必要になる。そこでまず、u とq とをN 個の補間関数を用いて近似する。
ここで、φj は補間関数であり、有限要素法で用いられている曲線要素や三角形要素、四辺形要素などをそのまま利用できる。なお、境界要素近似においては、定式化の上で特段の制約がない限り、区間一定近似の導入が可能である。その簡易さと境界積分の計算のしやすさから、多くの場合で区間一定近似が用いられる。
上で示した近似関数を境界積分方程式に代入すると、次の残差方程式を得る。
近似関数をN 個の補間関数を用いて定義したことに注意して、残差方程式に対して次のいずれかの条件を課し、N 個の(積分)方程式を導出する。
境界要素法では、前者の選点法を採用して離散化を進めるのが一般的である。その結果、
ここで、
とおくと、次のN 元の代数方程式を得る。
なお、解の一意性が保証される場合では、境界値Uj , Qj はどちらか一方が未知で、もう一方が既知である。そのため、未知境界値をまとめてXj 、未知境界値に乗じられている係数をAij 、既知境界値と係数成分との乗算結果をまとめてbi で表すと、次の連立一次方程式を得る。
この式を解くことで、境界上のポテンシャルとフラックスが近似的に得られることになる。
前節で示したように、境界積分方程式の離散化においては境界値の近似と境界積分の計算が必要となる。その際,当然のことながら物体形状も定義しておく必要がある。領域形状の近似表現においても、有限要素法で用いられる曲線要素や平面・曲面要素がそのまま利用できる。ただし、境界値の近似では区間一定近似が適用可能であったが、領域形状の近似においては区間一定近似を用いることはできない。
先に述べた選点法で積分方程式を代数方程式に置き換える場合、次の境界積分の計算が必要となる。
これらの積分は、被積分関数u , q が x = ξi で無限大となる特異性がある。境界要素解析において満足のいく結果を得るためには、この「特異性」を示す関数の積分をいかに精度よく、効率よく処理するかが重要である。この特異積分は、可能ならば解析的に(手計算で)処理し、不可能ならば特異性を除去した上で数値的に処理するか、または剛体移動条件や一定ポテンシャル条件などの物理的に満たさねばならない条件を用いて間接的に計算することになる。
なお、境界積分は、選点が境界上にない場合でもその取り扱いには注意を要する。選点と積分領域との距離が積分領域の代表長さに比べて小さい場合には、被積分関数が積分領域内で大きく変動し、ガウス求積などの数値積分公式を用いて積分計算を実行する場合に積分精度が大幅に低下することがある。境界積分の計算は係数行列の作成において必要となり、その積分誤差が大きくなると近似解の誤差も増大する。改善のためには、積分領域を細分割して積分を計算する方法が最も簡単である。
主要な境界値問題・初期値境界値問題における基本解は、次の通りである。
境界要素法には、以下のような特徴、および利点・欠点がある。
境界要素法の最大の特徴は、対象とする問題によっては「境界上の離散化のみで近似解が得られる」ことにある。境界上の離散化は、3次元問題ならば曲面上、2次元問題ならば曲線上で行われる。そのため、有限要素法のように領域内の離散近似が必要な解法と比べ、離散化に必要な要素や節点の数が少なくて済む。
境界上の離散化だけで問題が解ける場合としては、静的問題・定常問題では ラプラス問題、線形弾性問題、定常波動問題などのように、線形問題で離散化の際に用いられる基本解が解析的に厳密に得られ、かつ内部ソースや物体力のような支配方程式の非同次項が存在しない場合である。ただし、支配方程式が非同次項を含んでいても常にこの特徴が失われる訳ではなく、非同次項の種類によっては非同次項を含む領域積分を境界積分に変換できる場合もある(例:線形弾性問題における重力の作用)。
時間発展型問題において境界上の離散化のみで近似解を得るためには、線形問題の際に課された条件の他に、時間に関する離散化方法にも注意が必要である。具体的には、与えられた問題に対応する時間と空間に関する積分方程式(時間域積分方程式)を定式化の出発点とし、空間・時間双方を離散化した上で、当該の定式化の下での基本解と初期条件との領域積分(定式化の結果として残る積分項)が消滅するか、または境界積分に置換可能な場合に限り、時間発展問題の境界要素解析でも境界上の離散化だけで近似解が得られることになる。有限要素解析や差分計算の場合のように、時間方向の離散化を時間積分法で近似的に処理すると、解析における各時刻において現時刻での場の値と基本解とを含む領域積分が生じ、上述の特徴は失われてしまうことになる。
なお、境界要素法は、幾何学的非線形問題や材料非線形問題のように、領域内部で満たすことを求められる支配方程式や構成方程式そのものに非線形性がある場合でも近似解を得ることが可能ではある。しかし、定式化の取り扱いの中で領域積分が副次的に生じ、境界要素法の最大の利点である「境界上の離散化だけで近似解が得られる」点が失われてしまい、現在ではあまり用いられない。
離散化に用いる要素や節点の数、場の変数の評価点の数が小さくなれば、最終的に得られる代数方程式(多元連立(一次)方程式)の規模(元数、未知量の総数)も小さくなる。線形問題・非線形問題を問わず、汎用の離散化解析手法では支配方程式を最終的に連立一次方程式に帰着させ、この方程式の解から近似解を構成するため、連立方程式の元数の大小は解析時の計算負荷(使用メモリ、計算時間)に直結する。当然のことながら、問題の規模を小さくすれば、計算負荷はより小さく抑えられることになる。
上述のように、境界要素法では規模の小さい連立一次方程式を取り扱うことができるものの、方程式の係数行列の成分はほぼ全て 0 でないものとなる。そのため、係数行列の保存に要する記憶量は方程式の元数N に比例する。また、連立方程式の解を得るためには、ガウスの消去法に代表される直接法を用いれば N に、反復法 (数値計算)を用いてもN に比例する計算量が必要となる。
領域内の離散化が必要となる有限要素法や有限差分法では、係数行列の成分のほとんどが 0 である疎行列となるため、多少問題の規模が大きくなっても使用メモリや計算量は境界要素法と比べて少なくて済む場合が少なくない。そのため、この点は境界要素法の最大の欠点の一つとして考えられている。解決策としては、多体問題の解析の高速化に用いられていた高速多重極展開法(英語版)の適用や、ウェーブレットの利用が提案されている。
上述のような当該解法の特徴,および利点・欠点を考慮して,今日において境界要素法が得意とする問題としては以下のものがある.
波動伝搬問題とは、対象とする領域内で物理量の擾乱が「波動」として有限な速さで伝播していく問題であり、その多くは開領域の問題(領域に無限遠を含む問題)または半無限領域の問題として定義されることが多い。境界要素法では、開領域の問題をそのまま取り扱うことができ、特に波動問題では、無限遠での波動の放射が近似処理なしに表現できる。有限差分法や有限要素法では動的応答の観測点から十分離れたところに仮想的に境界を設け、そこでは波動の放射を表現するような近似的な取り扱いが必要となる。そのような点から、境界要素法は地盤振動解析や地震波の伝播解析、音響問題の解析、電磁場解析などで用いられることが多い。ただし、閉領域を対象とした動的問題(振動問題など)においては、有限要素解析の場合のようなモード解析ができない上、有限要素法と比べて計算時間を要することから、あまり多用されないようである。
境界要素法の利点の1つに、境界上の離散化だけで問題を解くことができる点があった。形状最適化問題とは、工学分野の構造部材の形状を、所定の目的関数と制約条件の下で自動的に最適化する問題である。部材の供用を弾性限界内に考えた場合、弾性応答は境界積分方程式を解くことで把握でき、設計感度の計算も同様となる。感度計算は形状の変更のたびに必要となるが、境界上の離散化のみでよいため、要素分割等の作業の手間を大幅に削減することができる。 | [
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"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "波動伝搬問題とは、対象とする領域内で物理量の擾乱が「波動」として有限な速さで伝播していく問題であり、その多くは開領域の問題(領域に無限遠を含む問題)または半無限領域の問題として定義されることが多い。境界要素法では、開領域の問題をそのまま取り扱うことができ、特に波動問題では、無限遠での波動の放射が近似処理なしに表現できる。有限差分法や有限要素法では動的応答の観測点から十分離れたところに仮想的に境界を設け、そこでは波動の放射を表現するような近似的な取り扱いが必要となる。そのような点から、境界要素法は地盤振動解析や地震波の伝播解析、音響問題の解析、電磁場解析などで用いられることが多い。ただし、閉領域を対象とした動的問題(振動問題など)においては、有限要素解析の場合のようなモード解析ができない上、有限要素法と比べて計算時間を要することから、あまり多用されないようである。",
"title": "得意とする問題"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "境界要素法の利点の1つに、境界上の離散化だけで問題を解くことができる点があった。形状最適化問題とは、工学分野の構造部材の形状を、所定の目的関数と制約条件の下で自動的に最適化する問題である。部材の供用を弾性限界内に考えた場合、弾性応答は境界積分方程式を解くことで把握でき、設計感度の計算も同様となる。感度計算は形状の変更のたびに必要となるが、境界上の離散化のみでよいため、要素分割等の作業の手間を大幅に削減することができる。",
"title": "得意とする問題"
}
] | 境界要素法とは、汎用性の高い離散化解析手法の1つで、有限差分法、有限体積法、有限要素法と並び、汎用離散化解析手法の主要3解法の1つとして理工学の分野で受け入れられている。電子計算機の発明・発展以前から進められてきた、応用数学における積分方程式の研究に端を発していることもあり、境界積分方程式法と呼ばれることもある。 電磁気学では、この境界要素法をもちいた電磁界解析をモーメント法と呼んでいる。 | '''境界要素法'''(きょうかいようそほう、{{lang-en-short|boundary element method}}、BEM)とは、汎用性の高い離散化解析手法の1つで<ref name="ta">境界要素法 ―基本と応用―、2004年10月、978-4-254-23104-5、J.T.カチカデーリス 著/田中正隆 ・荒井雄理 訳、朝倉書店。</ref><ref name="wa">Wrobel, L. C.; Aliabadi, M. H. (2002), The Boundary Element Method, New York: John Wiley & Sons, p. 1066, ISBN 978-0-470-84139-6 (in two volumes).</ref><ref name="cc">Cheng, Alexander H.-D.; Cheng, Daisy T. (2005), "Heritage and early history of the boundary element method", Engineering Analysis with Boundary Elements, 29 (3): 268–302.</ref>、[[有限差分法]]<ref name="fdm">Strikwerda, J. C. (2004). Finite difference schemes and partial differential equations. SIAM.</ref><ref name="smith">Smith, G. D. (1985). Numerical solution of partial differential equations: finite difference methods. Oxford University Press.</ref>、[[有限体積法]]<ref name="fvm">LeVeque, Randall (2002), Finite Volume Methods for Hyperbolic Problems, Cambridge University Press.</ref>、[[有限要素法]]<ref name="mori">森正武. (1986) 有限要素法とその応用. 岩波書店.</ref><ref name="kikuchi1999">菊池文雄. (1999). 有限要素法概説 [新訂版]. サイエンス社.</ref><ref name="kikuchi1994">菊池文雄. (1994). 有限要素法の数理. 培風館.</ref><ref name="freefem">有限要素法で学ぶ現象と数理―[[FreeFem++]]数理思考プログラミング―, 日本応用数理学会 監修・大塚 厚二・高石 武史著, 共立出版.</ref>と並び、汎用離散化解析手法の主要3解法の1つとして理工学の分野で受け入れられている。電子計算機の発明・発展以前から進められてきた、[[応用数学]]における[[積分方程式]]の研究<ref>[[吉田耕作]]『積分方程式論』岩波全書、1950</ref><ref>[[溝畑茂]]. 積分方程式入門. 朝倉書店.</ref><ref>Kondo, J. Integral Equations. Oxford, England: Clarendon Press, 1992.</ref><ref>Wazwaz, A. M. (2011). Linear and nonlinear integral equations. Berlin: Springer.</ref>に端を発していることもあり、境界積分方程式法(Boundary Integral Equation Method、略してBIEM)と呼ばれることもある<ref>Budreck, D. E., & Achenbach, J. D. (1988). Scattering from three-dimensional planar cracks by the boundary integral equation method.</ref><ref>Dehghan, M., & Mirzaei, D. (2008). Numerical solution to the unsteady two‐dimensional Schrödinger equation using meshless local boundary integral equation method. International journal for numerical methods in engineering, 76(4), 501-520.</ref>。
[[電磁気学]]では、この境界要素法をもちいた[[電磁界解析]]を'''モーメント法'''(Method of Moments、MOM)と呼んでいる<ref name="mom1">Gibson, W. C. (2014). The method of moments in electromagnetics. CRC Press.</ref><ref name="mom2">Harrington, R. F. (1987). The method of moments in electromagnetics. Journal of Electromagnetic waves and Applications, 1(3), 181-200.</ref><ref name="mom3">Newman, E. H. (1988). Simple examples of the method of moments in electromagnetics. IEEE Transactions on Education, 31(3), 193-200.</ref><ref name="mom4">Lezar, E., & Davidson, D. B. (2010). GPU-accelerated method of moments by example: Monostatic scattering. IEEE Antennas and Propagation Magazine, 52(6), 120-135.</ref>。
== 解法の基本的な考え方<ref name="ta"/><ref name="wa"/><ref name="cc"/>==
解析手法は、積分方程式の定式化と離散化の2段階を経て構成される。
=== 境界積分方程式の定式化<ref name="ta"/><ref name="wa"/><ref name="cc"/> ===
境界要素法では、まず対象とする問題の支配(微分)方程式から境界積分方程式を導出する。定式化には直接法と間接法の2種類がある。今日では、[[支配方程式]]の未知量をそのまま積分方程式の未知量として取り扱うことのできる、直接法定式化を採用する場合が多い。ここでは、2次元ラプラス問題を例に、直接法定式化による境界積分方程式の導出方法を説明する。
==== 例:2次元ラプラス問題 ====
ラプラス問題は、支配方程式:
:<math>
\nabla^2 u=\frac{\partial^2 u}{\partial x_1^2}(\boldsymbol{x})+\frac{\partial^2 u}{\partial x_2^2}(\boldsymbol{x})=0,
\quad\quad(\boldsymbol{x}\in \Omega)
</math>
と、境界条件:
:<math>\begin{align}
u(\boldsymbol{x})&=\bar{u}(\boldsymbol{x}),\quad (\boldsymbol{x}\ \mathrm{on}\ \Gamma_u),
\\
q(\boldsymbol{x})&=\frac{\partial u}{\partial n}(\boldsymbol{x})
=\bar{q}(\boldsymbol{x}),\quad (\boldsymbol{x}\ \mathrm{on}\ \Gamma_q),
\end{align}</math>
とを同時に満たす解(ポテンシャル)''u'' を求める問題である。ここで、Ωは領域であり、領域の境界Γは、[[ポテンシャル]]''u'' が規定されている境界Γ<sub>''u''</sub> と、[[流束|フラックス]] <math>q=\partial u/\partial n</math> が規定されている境界Γ<sub>''q''</sub> からなり、<math>\Gamma_u\cup \Gamma_q=\Gamma, \Gamma_u\cap \Gamma_q=\emptyset</math> であるものとする。また、''n'' は境界での外向き法線方向を示す。
上で示した支配方程式と関数''u''<sup>*</sup> とをかけ合わせてΩに関する領域積分を考えると、''u'' が真の解であれば支配方程式を満足するため、これを含む項を積分しても0となる。
:<math>
\int_\Omega \left( \frac{\partial^2 u}{\partial x_1^2}(\boldsymbol{x})
+\frac{\partial^2 u}{\partial x_2^2}(\boldsymbol{x})\right) u^*(\boldsymbol{x})d\Omega=0
</math>
この恒等式を2回[[部分積分]]すると、<math>q^*=\partial u^*/\partial n</math>として、
:<math>
\int_\Gamma q(\boldsymbol{x})u^*(\boldsymbol{x}) d\Gamma_x
-\int_\Gamma u(\boldsymbol{x}) q^*(\boldsymbol{x})d\Gamma_x
+\int_\Omega u(\boldsymbol{x})\left(
\frac{\partial^2 u^*}{\partial x_1^2}(\boldsymbol{x})
+\frac{\partial^2 u^*}{\partial x_2^2}(\boldsymbol{x})\right)d\Omega_x=0,
</math>
を得る。なお、下添字 ''x'' は点'''''x''''' に関する積分であることを表している。
得られた式を見ると、領域積分が1つだけ残っている。これを消し去るために、関数''u''<sup>*</sup> は次式を満足するように与える。
:<math>
\frac{\partial^2 u^*}{\partial x_1^2}(\boldsymbol{x};\boldsymbol{\xi})
+\frac{\partial^2 u^*}{\partial x_2^2}(\boldsymbol{x};\boldsymbol{\xi})
+\delta(\boldsymbol{x}-\boldsymbol{\xi})=0,
</math>
この関数''u''<sup>*</sup> は基本解と呼ばれており、ラプラス問題では、<math>r=|\boldsymbol{x}-\boldsymbol{\xi}|</math> (2点間の距離)として、
:<math>
u^*(\boldsymbol{x};\boldsymbol{\xi})=-\frac{1}{2\pi}\ln r,
</math>
で与えられる。''u''<sup>*</sup> は、空間内の点'''ξ'''に大きさ 1 の単位わきだしがあったときの、点'''''x''''' で観測されるポテンシャル値を与える関数、と解釈することができる。そのため、<math>\boldsymbol{\xi}</math> はソース点、<math>\boldsymbol{x}</math> は観測点と呼ばれる。
この定義式を上の積分方程式に代入すると、
:<math>
u(\boldsymbol{\xi})
=\int_\Gamma u^*(\boldsymbol{x};\boldsymbol{\xi})q(\boldsymbol{x})d\Gamma_x
-\int_\Gamma q^*(\boldsymbol{x};\boldsymbol{\xi})u(\boldsymbol{x})d\Gamma_x,
\quad (\boldsymbol{\xi}\in \Omega)
</math>
を得る。この式は、境界上のポテンシャルとフラックスの分布が得られている時に、領域内部の点'''''x''''' におけるポテンシャル値を計算する際に用いることができる。ラプラス問題や静弾性問題などでは、観測されるポテンシャル値に及ぼす境界上の解の変動の影響は距離が離れると共に小さくなるため、境界要素法によると内部の点でのポテンシャル値は精度よく計算できると考えられている。
次に、この積分方程式において、ポテンシャル値を評価する点'''ξ'''を領域内部から境界上の点に移動させる。基本解''u''<sup>*</sup> ,''q''<sup>*</sup> は ''r'' = 0 で関数値が無限大に発散するため、点'''ξ'''の境界上への移動は、境界積分が有限確定値となるように注意しながら、極限の意味で考える必要がある。その結果、先に示した積分方程式は、極限操作によって次のようになる。
:<math>
c(\boldsymbol{\xi})u(\boldsymbol{\xi})
+\int_\Gamma q^*(\boldsymbol{x};\boldsymbol{\xi})u(\boldsymbol{x})d\Gamma_x
-\int_\Gamma u^*(\boldsymbol{x};\boldsymbol{\xi})q(\boldsymbol{x})d\Gamma_x=0,\quad\quad
(\boldsymbol{\xi},\boldsymbol{x}\in \Gamma)
</math>
ここで、''c'' ('''ξ''') は、点'''ξ'''の境界形状から決まる定数で、境界が滑らかであれば 1/2、かど点であれば当該点での内角の大きさから与えられる。この式が境界積分方程式 (Boundary Integral Equation) であり,境界要素法の離散化の出発点となる重要な方程式である。
=== 境界積分方程式の離散化<ref name="ta"/><ref name="wa"/><ref name="cc"/> ===
境界要素法は、先に示した境界積分方程式を離散化し、近似解を得るための方法である。離散化においては、
#境界上の未知量(ラプラス問題であればポテンシャル''u'' とフラックス''q'' )の近似
#近似関数を代入した後に得られる(積分方程式の)残差方程式の取り扱い
#境界形状の近似
#境界上の積分計算
が必要となる。以下では、先に取り上げた2次元ラプラス問題を例に、順を追ってその内容を説明する。
==== 境界上の未知量の近似====
先に示したように、2次元ラプラス問題ではポテンシャル''u'' とフラックス''q'' とが変数(未知量)である境界積分方程式の離散化が必要になる。そこでまず、''u'' と''q'' とを''N'' 個の補間関数を用いて近似する。
:<math>
u(\boldsymbol{x})\approx \tilde{u}(\boldsymbol{x})
=\sum_{j=1}^N\phi_j(\boldsymbol{x})U_j,\quad\quad
q(\boldsymbol{x})\approx \tilde{q}(\boldsymbol{x})
=\sum_{j=1}^N\phi_j(\boldsymbol{x})Q_j,
</math>
ここで、φ<sub>''j''</sub> は補間関数であり、有限要素法で用いられている曲線[[計算格子|要素]]や三角形要素、四辺形要素など<ref name="mori"/><ref name="kikuchi1999"/><ref name="kikuchi1994"/><ref name="freefem"/>をそのまま利用できる。なお、境界要素近似においては、定式化の上で特段の制約がない限り、区間一定近似の導入が可能である。その簡易さと境界積分の計算のしやすさから、多くの場合で区間一定近似が用いられる。
==== 残差方程式の取り扱いと代数方程式の導出 ====
上で示した近似関数を境界積分方程式に代入すると、次の残差方程式を得る。
:<math>
R(\boldsymbol{\xi}):=
c(\boldsymbol{\xi})\tilde{u}(\boldsymbol{\xi})
+\int_\Gamma q^*(\boldsymbol{x};\boldsymbol{\xi})\tilde{u}(\boldsymbol{x})d\Gamma_x
-\int_\Gamma u^*(\boldsymbol{x};\boldsymbol{\xi})\tilde{q}(\boldsymbol{x})d\Gamma_x
\neq 0.
</math>
近似関数を''N'' 個の補間関数を用いて定義したことに注意して、残差方程式に対して次のいずれかの条件を課し、''N'' 個の(積分)方程式を導出する。
*境界上に''N'' 個の代表点(選点)'''ξ'''<sub>''i''</sub> (''i'' = 1, 2, ... , ''N'' ) を置き、この各点で残差について <math>R(\boldsymbol{\xi}_i)=0</math> であることを求める(選点法)。
*''N'' 個の補間関数φ<sub>''i''</sub> (''i'' = 1, 2, ... , ''N'' ) と残差方程式との境界積分を考え、各々が全て 0 となることを求める({{仮リンク|ガラーキン法|en|Galerkin method}}<ref>Slimane Adjerid and Mahboub Baccouch (2010) Galerkin methods. Scholarpedia, 5(10):10056.</ref>)。
境界要素法では、前者の選点法を採用して離散化を進めるのが一般的である。その結果、
:<math>
R(\boldsymbol{\xi}_i)=\sum_{j=1}^N\left[
c(\boldsymbol{\xi}_i)\phi_j(\boldsymbol{\xi}_i)
+\int_\Gamma q^*(\boldsymbol{x};\boldsymbol{\xi}_i)
\phi_j(\boldsymbol{x})d\Gamma_x\right]U_j
-\sum_{j=1}^N\left[
\int_\Gamma u^*(\boldsymbol{x};\boldsymbol{\xi}_i)\phi_j(\boldsymbol{x})d\Gamma_x
\right]Q_j=0,
</math>
ここで、
:<math>
G_{ij}=\int_\Gamma u^*(\boldsymbol{x};\boldsymbol{\xi}_i)\phi_j(\boldsymbol{x})d\Gamma,\quad
H_{ij}=c(\boldsymbol{\xi}_i)\phi_j(\boldsymbol{\xi}_i)
+\int_\Gamma q^*(\boldsymbol{x};\boldsymbol{\xi}_i)
\phi_j(\boldsymbol{x})d\Gamma_x
</math>
とおくと、次の''N'' 元の代数方程式を得る。
:<math>
\sum_{j=1}^N H_{ij}U_j=\sum_{j=1}^N G_{ij}Q_j,\quad\quad (i=1,2,\ldots,N)
</math>
なお、解の一意性が保証される場合では、境界値''U<sub>j</sub>'' , ''Q<sub>j</sub>'' はどちらか一方が未知で、もう一方が既知である。そのため、未知境界値をまとめて''X<sub>j</sub>'' 、未知境界値に乗じられている係数を''A<sub>ij</sub>'' 、既知境界値と係数成分との乗算結果をまとめて''b<sub>i</sub>'' で表すと、次の連立一次方程式を得る。
:<math>
\sum_{j=1}^N A_{ij}X_j=b_i, \quad\quad (i=1,2,\ldots,N)
</math>
この式を解くことで、境界上のポテンシャルとフラックスが近似的に得られることになる。
==== 境界形状の近似 ====
前節で示したように、境界積分方程式の離散化においては境界値の近似と境界積分の計算が必要となる。その際,当然のことながら物体形状も定義しておく必要がある。領域形状の近似表現においても、有限要素法で用いられる曲線要素や平面・曲面要素<ref name="mori"/><ref name="kikuchi1999"/><ref name="kikuchi1994"/><ref name="freefem"/>がそのまま利用できる。ただし、境界値の近似では区間一定近似が適用可能であったが、領域形状の近似においては区間一定近似を用いることはできない。
==== 境界上の積分計算 ====
先に述べた選点法で積分方程式を代数方程式に置き換える場合、次の境界積分の計算が必要となる。
:<math>
\int_\Gamma u^*(\boldsymbol{x};\boldsymbol{\xi}_i)\phi_j(\boldsymbol{x})d\Gamma_x,\quad
\int_\Gamma q^*(\boldsymbol{x};\boldsymbol{\xi}_i)\phi_j(\boldsymbol{x})d\Gamma_x.
</math>
これらの積分は、被積分関数''u''<sup>*</sup> , ''q''<sup>*</sup> が '''''x''''' = '''ξ'''<sub>''i''</sub> で無限大となる特異性がある。境界要素解析において満足のいく結果を得るためには、この「特異性」を示す関数の積分をいかに精度よく、効率よく処理するかが重要である。この特異積分は、可能ならば解析的に(手計算で)処理し、不可能ならば特異性を除去した上で数値的に処理するか、または[[剛体]]移動条件や一定ポテンシャル条件などの物理的に満たさねばならない条件を用いて間接的に計算することになる。
なお、境界積分は、選点が境界上にない場合でもその取り扱いには注意を要する。選点と積分領域との距離が積分領域の代表長さに比べて小さい場合には、被積分関数が積分領域内で大きく変動し、[[ガウス求積]]<ref>Weisstein, Eric W. "Gaussian Quadrature." From MathWorld--A Wolfram Web Resource. {{URL|https://mathworld.wolfram.com/GaussianQuadrature.html}}</ref>などの数値積分公式を用いて積分計算を実行する場合に積分精度が大幅に低下することがある。境界積分の計算は係数行列の作成において必要となり、その積分誤差が大きくなると近似解の誤差も増大する。改善のためには、積分領域を細分割して積分を計算する方法が最も簡単である。
=== 基本解 ===
主要な[[境界値問題]]・初期値境界値問題における基本解は、次の通りである。
*ラプラス問題(ポテンシャル問題)
*:<math>r=|\boldsymbol{x}-\boldsymbol{\xi}|</math>:ソース点と積分点との距離、
*:<math>
u^*(\boldsymbol{x};\boldsymbol{\xi})=-\frac{1}{2\pi}\ln r,\quad\text{(for 2D)},\quad\quad
u^*(\boldsymbol{x};\boldsymbol{\xi})=\frac{1}{4\pi r},\quad \text{(for 3D)}
</math>
*静弾性問題(等方均質の場合, Kelvin解<ref>Podio-Guidugli P., Favata A. (2014) The Kelvin Problem. In: Elasticity for Geotechnicians. Solid Mechanics and Its Applications, vol 204. Springer, Cham</ref>)
*:<math>r=|\boldsymbol{x}-\boldsymbol{\xi}|</math>:ソース点と積分点との距離,''E'' :[[ヤング率]]、ν:[[ポアソン比]]、
*:<math>G=\frac{E}{2(1+\nu)}</math>:[[せん断弾性係数]]、δ<sub>''ij''</sub> :[[クロネッカーのデルタ]]、
*:<math>
u_{ij}^*(\boldsymbol{x};\boldsymbol{\xi})
=-\frac{1}{8\pi (1-\nu)G}\left[
(3-4\nu)\ln r \delta_{ij}-\frac{\partial r}{\partial x_i}\frac{\partial r}{\partial x_j}
\right],\quad \text{(for 2D)}
</math>
*:ただし、この式は[[平面ひずみ]]問題の基本解である。[[平面応力]]問題の場合には、νを<math>\nu'=\nu/(1+\nu)</math>に置き換えて基本解を構成すればよい。
*:<math>
u_{ij}^*(\boldsymbol{x};\boldsymbol{\xi})
=\frac{1}{16\pi (1-\nu)Gr}\left[
(3-4\nu)\delta_{ij}+\frac{\partial r}{\partial x_i}\frac{\partial r}{\partial x_j}
\right],\quad \text{(for 3D)}
</math>
*定常スカラー波動問題
==解法の特徴・利点と欠点==
境界要素法には、以下のような特徴、および利点・欠点がある<ref name="ta"/><ref name="wa"/><ref name="cc"/>。
=== 境界上の離散化のみで近似解が得られる ===
境界要素法の最大の特徴は、対象とする問題によっては「境界上の離散化のみで近似解が得られる」ことにある。境界上の離散化は、3次元問題ならば曲面上、2次元問題ならば曲線上で行われる。そのため、[[有限要素法]]のように領域内の離散近似が必要な解法と比べ<ref name="mori"/><ref name="kikuchi1999"/><ref name="kikuchi1994"/><ref name="freefem"/>、離散化に必要な要素や節点の数が少なくて済む。
境界上の離散化だけで問題が解ける場合としては、静的問題・定常問題では ラプラス問題、線形弾性問題<ref>畔上秀幸, & 呉志強. (1994). 線形弾性問題における領域最適化解析: 力法によるアプローチ. 日本機械学会論文集 A 編, 60(578), 2312-2318.</ref>、定常波動問題<ref>山本善之, & 中野孝昭. (1977). 深海域における定常波動問題の近似解析法. 日本造船学会論文集, 1977(142), 28-35.</ref><ref>瀬戸秀幸, & 山本善之. (1974). 有限要素法による定常波動問題の基礎的研究. 日本造船学会論文集, 1974(136), 181-190.</ref><ref>山本善之, 中野孝昭, & 光田哲久. (1976). 有限要素法による定常波動問題の基礎的研究 (第 2 報). 日本造船学会論文集, 1976(140), 121-126.</ref><ref>瀬戸秀幸. (1977). 有限要素法による定常波動問題の基礎的研究 (第 3 報). 日本造船学会論文集, 1977(141), 50-60.</ref><ref>瀬戸秀幸. (1978). 有限要素法による定常波動問題の基礎的研究 (第 4 報). 日本造船学会論文集, 1978(144), 88-95.</ref>などのように、線形問題で離散化の際に用いられる基本解が解析的に厳密に得られ、かつ内部ソースや[[物体力]]のような支配方程式の非同次項が存在しない場合である。ただし、支配方程式が非同次項を含んでいても常にこの特徴が失われる訳ではなく、非同次項の種類によっては非同次項を含む領域積分を境界積分に変換できる場合もある(例:線形弾性問題における重力の作用)。
時間発展型問題において境界上の離散化のみで近似解を得るためには、線形問題の際に課された条件の他に、時間に関する離散化方法にも注意が必要である。具体的には、与えられた問題に対応する時間と空間に関する積分方程式(時間域積分方程式)を定式化の出発点とし、空間・時間双方を離散化した上で、当該の定式化の下での基本解と初期条件との領域積分(定式化の結果として残る積分項)が消滅するか、または境界積分に置換可能な場合に限り、時間発展問題の境界要素解析でも境界上の離散化だけで近似解が得られることになる。有限要素解析や差分計算の場合のように、時間方向の離散化を時間積分法で近似的に処理すると、解析における各時刻において現時刻での場の値と基本解とを含む領域積分が生じ、上述の特徴は失われてしまうことになる。
なお、境界要素法は、幾何学的非線形問題や材料非線形問題<ref>Foerster, A., & Kuhn, G. (1994). A field boundary element formulation for material nonlinear problems at finite strains. International journal of solids and structures, 31(12-13), 1777-1792.</ref>のように、領域内部で満たすことを求められる支配方程式や[[構成方程式]]そのものに非線形性がある場合でも近似解を得ることが可能ではある。しかし、定式化の取り扱いの中で領域積分が副次的に生じ、境界要素法の最大の利点である「境界上の離散化だけで近似解が得られる」点が失われてしまい、現在ではあまり用いられない。
=== 離散化して得られる問題の規模を小さく抑えることができる ===
離散化に用いる要素や節点の数、場の変数の評価点の数が小さくなれば、最終的に得られる代数方程式(多元連立(一次)方程式)の規模(元数、未知量の総数)も小さくなる。線形問題・非線形問題を問わず、汎用の離散化解析手法では支配方程式を最終的に[[連立一次方程式]]に帰着させ<ref name="fdm"/><ref name="smith"/><ref name="mori"/><ref name="kikuchi1999"/><ref name="kikuchi1994"/><ref name="freefem"/><ref name="tabata">田端正久; 偏微分方程式の数値解析, 2010. 岩波書店.</ref><ref name="to">登坂宣好, & 大西和榮. (2003). 偏微分方程式の数値シミュレーション. 東京大学出版会.</ref>、この方程式の解から近似解を構成するため<ref name="fdm"/><ref name="smith"/><ref name="mori"/><ref name="kikuchi1999"/><ref name="kikuchi1994"/><ref name="freefem"/><ref name="tabata"/><ref name="to"/>、連立方程式の元数の大小は解析時の計算負荷(使用メモリ、計算時間)に直結する<ref name="app">Demmel, J. W. (1997). Applied numerical linear algebra. Society for Industrial and Applied Mathematics.</ref><ref name="cmt">Ciarlet, P. G., Miara, B., & Thomas, J. M. (1989). Introduction to numerical linear algebra and optimization. Cambridge University Press.</ref><ref name="tb">Trefethen, Lloyd; Bau III, David (1997). Numerical Linear Algebra (1st ed.). Philadelphia: Society for Industrial and Applied Mathematics.</ref>。当然のことながら、問題の規模を小さくすれば、計算負荷はより小さく抑えられることになる。
=== 離散化により得られた連立方程式の係数行列が密な行列となる ===
上述のように、境界要素法では規模の小さい連立一次方程式を取り扱うことができるものの、方程式の係数行列の成分はほぼ全て 0 でないものとなる。そのため、係数行列の保存に要する記憶量は方程式の元数''N'' に比例する。また、連立方程式の解を得るためには、[[ガウスの消去法]]に代表される直接法を用いれば ''N''<sup>3</sup> に<ref name="app"/><ref name="cmt"/><ref name="tb"/>、[[反復法|反復法 (数値計算)]]を用いても''N''<sup>2</sup> に比例する計算量が必要となる<ref name="app"/><ref name="cmt"/><ref name="tb"/>。
領域内の離散化が必要となる有限要素法や有限差分法では<ref name="fdm"/><ref name="smith"/><ref name="mori"/><ref name="kikuchi1999"/><ref name="kikuchi1994"/><ref name="freefem"/>、係数行列の成分のほとんどが 0 である[[疎行列]]となるため、多少問題の規模が大きくなっても使用メモリや計算量は境界要素法と比べて少なくて済む場合が少なくない。そのため、この点は境界要素法の最大の欠点の一つとして考えられている。解決策としては、[[多体問題]]<ref>Martin, P. A., & Rothen, F. (2013). Many-body problems and quantum field theory: an introduction. Springer Science & Business Media.</ref>の解析の高速化に用いられていた{{仮リンク|高速多重極展開法|en|Fast multipole method}}<ref>Coifman, R., Rokhlin, V., & Wandzura, S. (1993). The fast multipole method for the wave equation: A pedestrian prescription. IEEE Antennas and Propagation magazine, 35(3), 7-12.</ref><ref>Darve, E. (2000). The fast multipole method: numerical implementation. Journal of Computational Physics, 160(1), 195-240.</ref><ref>牧野淳一郎, & 川井敦. (1999). 研究展望: 高速多重極展開法-粒子法への応用を中心として. 応用力学論文集, 2, 101-109.</ref>の適用や、[[ウェーブレット]]の利用が提案されている<ref>Walnut, D. F. (2013). An introduction to wavelet analysis. Springer Science & Business Media.</ref><ref>Qian, S. (2002). Introduction to time-frequency and wavelet transforms (Vol. 68). Upper Saddle River, NJ: Prentice Hall PTR.</ref><ref>Newland, D. E. (2012). An introduction to random vibrations, spectral & wavelet analysis. Courier Corporation.</ref>。
=== 開領域(無限領域)の問題をそのまま取り扱うことができる ===
{{節スタブ}}
== 得意とする問題 ==
上述のような当該解法の特徴,および利点・欠点を考慮して,今日において境界要素法が得意とする問題としては以下のものがある.
=== (開領域の)波動伝播の問題 ===
波動伝搬問題とは、対象とする領域内で物理量の擾乱が「[[波動]]」として有限な速さで伝播していく問題であり、その多くは開領域の問題(領域に無限遠を含む問題)または半無限領域の問題として定義されることが多い<ref>Achenbach, J. (2012). Wave propagation in elastic solids. Elsevier.</ref><ref>Tatarski, V. I. (2016). Wave propagation in a turbulent medium. Courier Dover Publications.</ref><ref>Brillouin, L. (2013). Wave propagation and group velocity (Vol. 8). Academic Press.</ref><ref>Dingemans, M. W. (1997). Water wave propagation over uneven bottoms (Vol. 13). World Scientific.</ref>。境界要素法では、開領域の問題をそのまま取り扱うことができ<ref name="ta"/><ref name="wa"/><ref name="cc"/>、特に波動問題では、無限遠での波動の放射が近似処理なしに表現できる。有限差分法や有限要素法では動的応答の観測点から十分離れたところに仮想的に境界を設け、そこでは波動の放射を表現するような近似的な取り扱いが必要となる。そのような点から、境界要素法は[[地盤]]振動解析<ref>東平光生, & 吉田望. (1989). 時間領域の有限要素法と境界要素法の結合解法による地盤振動解析. 土木学会論文集, (410), 395-404.</ref>や[[地震波]]の伝播解析、[[音響]]問題の解析<ref>鈴木真二, 今井守之, & 石山慎一. (1986). 境界要素法とモード解析法による構造体の振動・音響解析. 日本機械学会論文集 C 編, 52(473), 310-317.</ref><ref>松本敏郎, 田中正隆, & 山田泰永. (1993). 境界要素法による音響問題の設計感度解析法. 日本機械学会論文集 C 編, 59(558), 430-435.</ref><ref>田中正隆, & 増田佳文. (1987). 音響問題に対する境界要素法はん用解析システムの開発. 日本機械学会論文集 C 編, 53(486), 387-391.</ref>、[[電磁場]]解析<ref name="mom1"/><ref name="mom2"/><ref name="mom3"/><ref name="mom4"/>などで用いられることが多い。ただし、閉領域を対象とした動的問題(振動問題など)においては、有限要素解析の場合のようなモード解析<ref>Petyt, M. (2010). Introduction to finite element vibration analysis. Cambridge University Press.</ref>ができない上、有限要素法と比べて計算時間を要することから、あまり多用されないようである。
=== 形状最適化問題 ===
境界要素法の利点の1つに、境界上の離散化だけで問題を解くことができる点があった<ref name="ta"/><ref name="wa"/><ref name="cc"/>。形状最適化問題とは、工学分野の構造部材の形状を、所定の目的関数と制約条件の下で自動的に最適化する問題である<ref>畔上秀幸. (2016). 形状最適化問題. 森北出版.</ref><ref>畔上秀幸. (1997). 形状最適化問題の解法. 計算工学, 2(4), 239-247.</ref><ref>Sokolowski, J., & Zolésio, J. P. (1992). Introduction to shape optimization. Springer, Berlin, Heidelberg.</ref><ref>Ding, Y. (1986). Shape optimization of structures: a literature survey. Computers & Structures, 24(6), 985-1004.</ref>。部材の供用を弾性限界内に考えた場合、弾性応答は境界積分方程式を解くことで把握でき、設計感度の計算も同様となる。感度計算は形状の変更のたびに必要となるが、境界上の離散化のみでよいため、要素分割等の作業の手間を大幅に削減することができる。
== 関連記事 ==
*[[数値解析]]
*[[CAE]]
*[[有限要素法]]
*[[代用電荷法]]
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
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==参考文献==
* Banerjee, Prasanta Kumar (1994), The Boundary Element Methods in Engineering (2nd ed.), London, etc.[[: en:McGraw-Hill|McGraw-Hill]], ISBN 978-0-07-707769-3.
* Beer, Gernot; Smith, Ian; Duenser, Christian, The Boundary Element Method with Programming: For Engineers and Scientists, Berlin – Heidelberg – New York: [[Springer-Verlag]], pp. XIV+494, ISBN 978-3-211-71574-1
* Cheng, Alexander H.-D.; Cheng, Daisy T. (2005), "Heritage and early history of the boundary element method", Engineering Analysis with Boundary Elements, 29 (3): 268–302.
* Katsikadelis, John T. (2002), Boundary Elements Theory and Applications, Amsterdam: Elsevier, pp. XIV+336, ISBN 978-0-080-44107-8.
* Wrobel, L. C.; Aliabadi, M. H. (2002), The Boundary Element Method, New York: John Wiley & Sons, p. 1066, ISBN 978-0-470-84139-6 (in two volumes).
{{偏微分方程式の数値解法}}
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[[Category:数値微分方程式]]
[[Category:数値流体力学]]
[[Category:計算電磁気学]]
[[Category:数学に関する記事]]
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9,408 | ベリリウム | ベリリウム(新ラテン語: beryllium, 英: beryllium [bəˈrɪliəm])は、原子番号4の元素である。元素記号はBe。原子量は9.01218。第2族元素のひとつ。
1798年にルイ=ニコラ・ヴォークランが「グルキニウム(旧元素記号Gl、glucinium)」と名づけた。語源のglykysは、ギリシア語で「甘さ」という言葉を意味する。これは、ベリリウム化合物が甘みを持つことに由来している。
1828年には、マルティン・ハインリヒ・クラプロートが「ベリリウム」と命名した。この名前は緑柱石(beryl、ギリシア語で beryllos)に由来している。
初期の分析において緑柱石とエメラルドは常に類似した成分が検出されており、この物質はケイ酸アルミニウムであると誤って結論づけられていた。鉱物学者であったルネ=ジュスト・アユイはこの2つの結晶が著しい類似点を示すことを発見し、彼はこれを化学的に分析するために化学者であるルイ=ニコラ・ヴォークランに尋ねた。1797年、ヴォークランは緑柱石をアルカリで処理することによって水酸化アルミニウムを溶解させ、アルミニウムからベリリウム酸化物を分離させることに成功した。
1828年にフリードリヒ・ヴェーラーとアントワーヌ・ビュシーがそれぞれ独自に、金属カリウムと塩化ベリリウムを反応させることによるベリリウムの単離に成功した。
カリウムは、当時新しく発見された方法である電気分解によってカリウム化合物より生産されていた。この化学的手法によって得られるベリリウムは小さな粒状であり、金属ベリリウムのインゴットを鋳造もしくは鍛造することはできなかった。1898年、ポール・ルボー(英語版)はフッ化ベリリウムとフッ化ナトリウムの混合融液を直接電気分解することによって、初めて純粋なベリリウムの試料を得た。19世紀は、新しいベリリウム化合物が見つかると、融点や溶解度だけでなく、味までも報告するのが当たり前だった。
第一次世界大戦以前にも有意な量のベリリウムが生産されていたが、大規模生産が始まったのは1930年代初期からである。ベリリウムの生産量は、硬いベリリウム銅合金および蛍光灯の蛍光体用途の需要の伸びによって、第二次世界大戦中に急速に増加した。初期の蛍光灯にはベリリウムを含有したオルトケイ酸亜鉛が使用されていたが、のちにベリリウムの有毒性が発見されたためハロリン酸系蛍光体に置き換えられた。また、ベリリウムの初期の主要な用途のひとつとして、その硬さや融点の高さ、非常に優れたヒートシンク性能を利用した軍用機のブレーキへの利用が挙げられるが、こちらも環境への配慮から別の材料に代替された。
ベリリウムは緑柱石などの鉱物から産出される。緑柱石は不純物に由来する色の違いによってアクアマリンやエメラルドなどと呼ばれ、宝石としても用いられる。常温常圧で安定した結晶構造は六方最密充填構造(HCP)である。単体は銀白色の金属で、空気中では表面に酸化被膜が生成され安定に存在できる。モース硬度は6から7を示し、硬く、常温では脆いが、高温になると展延性が増す。酸にもアルカリにも溶解する。ベリリウムの安定同位体は恒星の元素合成においては生成されず、宇宙線による核破砕によって炭素や窒素などより重い元素から生成される。
ベリリウムは周期表の上では第2族元素に属しているが、その性質は同じ族の元素であるカルシウムやストロンチウムよりもむしろ第13族元素であるアルミニウムに類似している。たとえば、カルシウムやストロンチウムは炎色反応によって発色するが、ベリリウムは無色である。そのため、ベリリウムは第2族元素ではあるが、アルカリ土類金属には含めないこともある。また、ベリリウムの二元化合物の構造は亜鉛とも類似している。
ベリリウムの同素体は2つあり、常温、常圧(標準状態)における安定した結晶構造は六方最密充填構造(HCP)であり、その格子定数はa=226.8 pm、b=359.4 pmである。高温になると、体心立方格子の結晶構造が最も安定となる。モース硬度6から7と第2族元素の中でもっとも硬いが、粉砕によって粉末にできるほど脆い。しかしながら、高温になると展延性が増すため、核融合炉のような高温条件で利用する用途において高い機械的性質を発揮することができる。この用途では、400 °Cを下回る温度になると使用上問題となるレベルにまで展延性が低下してしまう。比重は1.816、融点は1284 °C、沸点は2767 °Cである。
ベリリウムのヤング率は287 GPaと鉄のヤング率より50 %も高く、非常に強い曲げ強さを有している。このような高いヤング率に由来してベリリウムの剛性は非常に優れており、後述の熱負荷の大きい環境における安定性も相まって宇宙船や航空機などの構造部材に利用されている。また、このヤング率の大きさと、ベリリウムが比較的低密度であるという物性が組み合わさることにより、周囲の状況に応じて変化するものの、およそ12.9 km/sという著しく高い音の伝導性を示す。この性質を利用して音響材料におけるスピーカーの振動板などに用いられている。ベリリウムの他の重要な特性としては、1925 J/(kg·K)という高い比熱および、216 W/(m·K)という高い熱伝導率が挙げられ、これらの物性によってベリリウムは単位重量当たりの放熱物性にもっとも優れた金属である。この放熱物性を利用した用途としてヒートシンク材料が挙げられ、電子材料などにおいて活用されている。またこれらの物性は、11.4×10 Kという比較的低い線形熱膨張率や1284 °Cという高い融点も相まって、熱負荷の大きな状況下における非常に高い安定性をもたらしている。
ベリリウムの単体は還元性が非常に強く、その標準酸化還元電位E0は −1.85 V である。この標準電位の値はイオン化傾向においてアルミニウムの上に位置しているため大きな化学活性が期待されるが、実際には表面が酸化物の膜(酸化被膜)に覆われて不動態化するため高温に熱した状態でさえも空気や水と反応しない。しかしながら、いったん点火すれば輝きながら燃焼して酸化ベリリウムと窒化ベリリウムの混合物が形成される。
ベリリウムは通常、表面に酸化被膜を形成しているため酸に対しての強い耐性を示すが、酸化被膜を取り除いた純粋なベリリウムでは、塩酸や希硫酸のような酸化力を持たない酸に対しては容易に溶解する。硝酸のような酸化力を有する酸に対してはゆっくりとしか溶解しない。また、強アルカリに対してはオキソ酸イオンであるベリリウム酸イオン(Be(OH)4)を形成して水素ガスを発生させながら溶解する。このような酸やアルカリに対する性質はアルミニウムと類似している。ベリリウムは水とも水素を発生させながら反応するが、水との反応によって生じる水酸化ベリリウムは水に対する溶解度が低く金属表面に被膜を形成するため、金属表面のベリリウムが反応しきればそれ以上反応は進行しない。
ベリリウム原子の電子配置は[He]2sである。ベリリウムはその原子半径の小ささに対してイオン化エネルギーが大きいため電荷を完全に分離することは難しく、そのためベリリウムの化合物は共有結合性を有している。また、ベリリウムの高い正の電荷密度からも共有結合性を説明できる。ファヤンスの法則によると、イオン結合で、サイズが小さく高い正の電荷を持つ陽イオンは、陰イオンの最外殻電子を引っ張り、(これを分極という。)共有結合性を生じる。ベリリウムイオンはサイズが小さく2+と電荷も高いため、共有結合性を有する。第2周期元素は原子量が大きくなるにしたがってイオン化エネルギーも増大する法則が見られるが、ベリリウムはその法則から外れており、より原子量の大きなホウ素よりもイオン化エネルギーが大きい。これは、ベリリウムの最外殻電子が2s軌道上にあり、ホウ素の最外殻電子は2p軌道上にあることに起因している。2p軌道の電子は内殻に存在するs軌道の電子によって遮蔽効果(有効核電荷も参照)を受けるため、2p軌道に存在する最外殻電子のイオン化エネルギーが低下する。一方で2s軌道の電子は遮蔽効果を受けないため、相対的に2p軌道の電子よりもイオン化エネルギーが大きくなり、これによってベリリウムとホウ素の間でイオン化エネルギーの大きさの逆転が生じる。
ベリリウムの錯体もしくは錯イオンは、たとえばテトラアクアベリリウム(II)イオン(Be[(H2O)4])やテトラハロベリリウム酸イオン(BeX4)のように、多くの場合4配位を取る。EDTA はほかの配位子よりも優先してベリリウムに配位して八面体形の錯体を形成するため、分析技術にこの性質が利用される。たとえば、ベリリウムのアセチルアセトナト錯体にEDTAを加えると、EDTAがアセチルアセトンよりも優先してベリリウムとの間で錯体を形成してアセチルアセトンが分離するため、ベリリウムを溶媒抽出することができる。このようなEDTAを用いた錯体形成においてはAlのようなほかの陽イオンによって悪影響を受けることがある。
硫酸ベリリウムや硝酸ベリリウムのようなベリリウム塩の溶液は [ Be ( H 2 O ) 4 ] 2 + {\displaystyle {\ce {[Be(H2O)4]^{2+}}}} イオンの加水分解によって酸性を示す。
加水分解によるほかの生成物には、3量体イオン [ Be 3 ( OH ) 3 ( H 2 O ) 6 ] 3 + {\displaystyle {\ce {[Be3(OH)3(H2O)6]^{3+}}}} が含まれる。
ベリリウムは多くの非金属原子と二元化合物を形成する。無水ハロゲン化物としては、フッ素、塩素、臭素、ヨウ素との化合物が知られており、固体状態においては橋掛け結合によって重合している。フッ化ベリリウム(BeF2)は、二酸化ケイ素のような角を共有したBeF4の四面体構造を取り、ガラス状においては無秩序な直鎖構造を取る。塩化ベリリウムおよび臭化ベリリウムは両端を共有した直鎖状の構造を取る。すべてのハロゲン化ベリリウムは、気体の状態においては線形のモノマー分子構造を取る。塩化ベリリウムは金属ベリリウムを塩素と直接反応させることによって得られ、これは塩化アルミニウムと同様の製法である。
酸化ベリリウムはウルツ鉱型構造を取る耐火性の白色結晶であり、金属と同じぐらい高い熱伝導率を有する。酸化ベリリウムは2種類の多形が存在し、低温型の酸化ベリリウムは熱したアルカリ溶液などに溶解するが、高温では相転移してより安定な構造となり、濃硫酸に硫酸アンモニウムを加えた熱シロップのみにしか溶解しなくなる。ほかのベリリウムと第16族元素との化合物は硫化ベリリウムやセレン化ベリリウム、テルル化ベリリウムが知られており、それらはすべて閃亜鉛鉱型構造を取る。水酸化ベリリウムは両性を示し、その酸性水溶液がほかのベリリウム塩を合成する出発原料とされる。
窒化ベリリウム(Be3N2)は非常に加水分解をしやすい、高融点な化合物である。アジ化ベリリウム(BeN6)およびリン化ベリリウム(Be3P2)は窒化ベリリウムと類似した構造を有していることが知られている。塩基性硝酸ベリリウムおよび塩基性酢酸ベリリウムは4つのベリリウム原子が中心の酸素イオンに配位した四面体構造を取る。Be5B、Be4B、Be2B、BeB2、BeB6、BeB12のようないくつかのホウ素化ベリリウムも知られている。炭化ベリリウム(Be2C)は耐火性のレンガ色をした化合物であり、水と反応してメタンを発生させる。ケイ素化ベリリウムは同定されていない。
ベリリウムは、高エネルギーな中性子線に対して広い散乱断面積を有しており、その散乱断面積は0.01 eV を上回るものに対しておよそ6バーンである。散乱断面積の正確な値はベリリウムの結晶サイズや純度に強く依存するため実際の散乱断面積は1桁ほど低くなり、ベリリウムが効果的に減速させることのできる中性子線のエネルギー範囲0.03 eV 以上のものに限られる。このため、ベリリウムは高エネルギーな熱中性子は効果的に減速させることができるものの、エネルギーの低い冷中性子は減速させることができずに透過してしまう。この性質を利用して、さまざまなエネルギーを持つ中性子の中から冷中性子のみを取り出すためのフィルターとして利用される。
ベリリウムのおもな同位体であるBeは(n, 2n)中性子反応によって1つの中性子を消費して2つの中性子を放出し、2つのアルファ粒子に分裂する。したがって、ベリリウムの中性子反応は消費する中性子よりも多くの中性子を放出して系内の中性子を増加させる。
金属としてのベリリウムは大部分のX線およびガンマ線を透過するため、X線管などのX線装置におけるX線の出力窓として有用である。ベリリウムはまた、ベリリウムの原子核と高速のアルファ粒子との衝突によって中性子線を放出するため、実験における比較的少数の中性子線を得るための良好な中性子線源である。
ベリリウムの安定同位体はBeのみであり、したがってベリリウムはモノアイソトピック元素である。Beは恒星において宇宙線の陽子が炭素などのベリリウムよりも重い元素を崩壊させることによって生成され、超新星爆発によって宇宙中に分散する。このようにして宇宙中にチリやガスとして分散したBeは、分子雲を形成する原子のひとつとして星形成に寄与し、新しくできた星の構成元素として取り込まれる。
Beは、地球の大気に含まれる酸素および窒素が宇宙線による核破砕を受けることで生成される。宇宙線による核破砕によって生成したベリリウム同位体の大気中の滞在時間は成層圏で1年程度、対流圏で1か月程度とされており、その後は地表面に蓄積する。Beはベータ崩壊によってB になるものの、その136万年という比較的長い半減期のためにBeとして地表面に長期間滞留し続ける。そのため、Beおよびその娘核種は、自然界における土壌の侵食や形成、ラテライトの発達などを調査するのに利用される。また、太陽の磁気的活動が活発化すると太陽風が増大し、その期間は太陽風の影響によって地球に到達する銀河宇宙線が減少するため、銀河宇宙線によって生成されるBeの生成量は太陽活動の活発さに反比例して減少する。したがってBeは、同様に宇宙線によって生成されるC(炭素14)とともに太陽活動の変動を記録しているため、極地方のアイスコア中に残されたBeおよびCの解析をすることで、過去の太陽活動の変遷を間接的に知ることができる。
核爆発もまたBeの生成源であり、核爆発によって発生した高速中性子が大気中の二酸化炭素に含まれるCと反応することによって生成される。これは、核実験試験場の過去の活動を示す指標のひとつである。
半減期53日の同位体Beもまた宇宙線によって生成され、その大気中の存在量はBeと同様に太陽活動と関係している。Beの半減期はおよそ7×10 sと非常に短く、この半減期の短さはベリリウムよりも重い元素がビッグバン原子核合成によっては生成されなかった原因ともなっている。すなわち、Beの半減期が非常に短いためにビッグバン原子核合成段階の宇宙において核融合反応に利用できるBeの濃度が非常に低く、そのような低濃度のBeがHeと核融合して炭素を合成するにはビッグバン原子核合成段階の時間が不十分であったことに起因する。イギリスの天文学者であるフレッド・ホイルは、BeおよびCのエネルギー準位から、より多くの時間を元素合成に利用することが可能なヘリウムを燃料とする恒星内であれば、いわゆるトリプルアルファ反応と呼ばれる反応によって炭素の生成が可能であることを示し、それによって超新星によって放出される塵とガスから炭素を基礎とした生命の創生が可能となることを明らかにした。
ベリリウムのもっとも内側の電子は化学結合に関与することができるため、Beの電子捕獲による崩壊は、化学結合に関与することのできる原子軌道から電子を奪うことによって起こる。その崩壊確率はベリリウムの電子構成に大部分を依存しており、核崩壊においてまれなケースである。
既知のベリリウム同位体のうち、もっとも半減期が短いものは中性子放出によって崩壊するBeであり、その半減期は2.7×10 sである。Beもまた非常に半減期が短く、5.0×10 sである。エキゾチック原子核であるBeおよびBeは、中性子が原子核の周りを周回する中性子ハローを示すことが知られている。この現象は、液滴模型において、古典的なトーマス・フェルミ理論による表面対称エネルギーの影響によって、中性子の分布が陽子分布よりも外部に大きく広がっていると理解することができる。
ベリリウムの不安定な同位体元素は恒星内元素合成においても生成されるが、これらは生成後すぐに崩壊する。
なお、原子番号が偶数で、安定同位体が1つしかない元素はベリリウムだけである。通常、原子番号が20以下の元素においては、ベーテ・ヴァイツゼッカーの質量公式のペアリング項に現われるように、陽子と中性子が偶数であるものは奇数のものと比較して結合エネルギーが大きく安定であるのに加え、対称性項に現われるように陽子数と中性子数が同数のものほどのため安定となるが、陽子数および中性子数がともに4であるBeは例外的に不安定である。これは、Beの崩壊生成物であるHeが魔法数を取っているため非常に安定であることによる。
ベリリウムの性質はアルカリ土類金属よりもアルミニウムなどと類似しているため、ベリリウムの分析方法はアルミニウムや鉄、クロム、希土類元素などと同一のグループとして扱われる。このようなグループはアンモニアによるアルカリ性の条件において水酸化物の沈殿を生じることからアンモニア属と呼ばれる。
ベリリウムはアルカリ性の状態で3, 5, 7, 2', 4'-ペンタヒドロキシフラボン(モリン)と反応させることで黄色の蛍光を観察することができるため、この反応を利用して定性分析を行うことができる。この蛍光は日光ではあまり発色しないため、発色を観察するためには紫外線の照射を行う。このベリリウムとモリンとの反応を阻害するようなイオンが共存していなければ、10の分率でも十分に強い発色を観察することができるほどに分析感度が高く、この方法での検出限界は0.02 ng(= 10 g)である。モリンはリチウムやスカンジウム、大量のカルシウムや亜鉛などとも反応して蛍光を発するため、これらのイオンが共存しているとベリリウムの検出を阻害するが、その発光強度は弱いため通常は問題とならない。また、カルシウムはピロリン酸、亜鉛はシアン化物を加えることによってそれらの元素とモリンとの反応を抑制することができる。
ベリリウムはアンモニアによって水酸化物の沈殿を生じるため、これを利用して重量分析を行うことができる。この水酸化物の沈殿はpH6.5から10までの範囲で生じ、アンモニア添加量が過剰になりpHが高くなりすぎると水酸化物の沈殿が再溶解してしまう。得られた水酸化物を濾過、洗浄したあと、強熱することで水酸化ベリリウムを酸化ベリリウムとし、その重量を計量することでベリリウム濃度が分析される。この方法を用いる場合、分析試料の溶液中に炭酸塩もしくは炭酸ガスが含まれると、水酸化ベリリウムとして沈殿せずに炭酸ベリリウムとして溶液中に残ってしまうため、分析結果に誤差が生じる原因となる。また、沈殿の洗浄が不十分で塩化物が残留していると、強熱時に水酸化ベリリウムと反応して塩化ベリリウムとなって揮発してしまうため、こちらも誤差の原因になる。鉱石中のベリリウムの分析などの多成分中のベリリウムを分析する際には、アルミニウムや鉄などの成分がベリリウムと同様の条件で水酸化物の沈殿を生成するため、前処理を行いこれらの元素を分離する必要がある。通常用いられる方法としては、いったん不純物を含んだ水酸化物の沈殿を生成させ、その水酸化物を炭酸水素ナトリウムで処理し、ベリリウムを水溶性の炭酸塩として水に溶解させることで鉄やアルミニウムから分離する方法が用いられる。また、ケイ素を多く含む場合は炭酸ナトリウムを用いたアルカリ溶融法が用いられる。このような古典的手法のほか、イオン交換膜法や水銀電極を用いた電気分解などの方法も利用される。
溶液中の微量のベリリウムの分析には電気炉加熱原子吸光光度法(AAS)もしくは誘導結合プラズマ発光分析法(ICP-AES)、誘導結合プラズマ質量分析法(ICP-MS)が用いられる。AASの吸収波長は234.9 nm であり、ICP-AESの発光波長は313.042 nm が用いられる。AASでは試料溶液は塩酸もしくは硝酸で酸性に調整し、ICP-AESおよびICP-MSでは硝酸で酸性に調整して分析を行う。海水のようなほかの塩類を多く含む試料を測定する場合には、EDTAおよびアセチルアセトンを用いて溶媒抽出法によりベリリウムを分離する。もっとも感度の高いベリリウムの分析手法としては、トリフルオロアセチルアセトンを用いて揮発性のベリリウム錯体としてガスクロマトグラフィーを用いて分析する方法が挙げられ、検出限界0.08 pg(= 10 g)という分析精度が1971年に報告されている。
ベリリウムは宇宙において非常にまれな元素で、宇宙全体の平均濃度の推定値は質量分率で10であり、ニオブより原子量の小さい元素の中ではホウ素と並んでもっとも存在率が小さい。太陽内部でも質量分率10とまれであり、レニウムと同程度の存在量である。一方、地球におけるベリリウム濃度は、地表の岩石中の質量分率の推定値でおよそ(2.8–5)×10、海水中でおよそ6×10、河川の水においては海水中よりは多くおよそ10である。太陽中のベリリウム濃度が地球上のベリリウム濃度と比較して著しく低い原因は、太陽の燃焼における核反応で消費されるためと考えられている。
地表の岩石中のベリリウム濃度は前述のようにおよそ(2.8–5)×10であるが、ベリリウム鉱石によって高濃度にベリリウムが存在する地域もある。ベリリウムは約4000種類の既知の鉱石のうち、約100種類の鉱石において主成分となっており、その中でも重要なものは、ベルトラン石(英語版)(Be4Si2O7(OH)2)、緑柱石(Al2Be3Si6O18)およびフェナカイト(Be2SiO4)である。このようなベリリウム鉱石は、おもにマグマの冷却過程に由来するペグマタイト中で濃縮される。また、ベリリウム鉱石は凝灰岩や閃長岩からも発見されており、これらはすべて火山活動に由来する火成岩や火山砕屑岩である。また、土壌中のベリリウムは植物によってわずかに吸収され、カラマツなど特定の植物はベリリウムを蓄積する。
大気中のベリリウム濃度は先進国の都市部でおよそ0.03–0.07 ng/mほどであるが、ベリリウムの大気への主要供給源は化石燃料の燃焼によるものであるため、工業化の進んでいない国においてはさらに低濃度になると推測されている。1987年のアメリカ合衆国環境保護庁のデータによれば、自然におけるベリリウムの大気への放出量は年間5.2トンほどであるが、化石燃料の燃焼を含む人類の活動によるベリリウムの大気への放出量は年間187.4トンにも及ぶ。
ベリリウムは高温状態で酸素と高い親和性を示すなどの性質を有しているため、ベリリウム化合物から金属ベリリウムを精製することは非常に困難である。19世紀の間は金属ベリリウムを得るための方法として、フッ化ベリリウムとフッ化ナトリウムの混合物を電気分解するという方法が用いられていた。しかしこのような方法は、ベリリウムの融点が高いために金属ベリリウムの製造に類似した方法を用いるアルカリ金属の製造と比較して多くのエネルギーが必要だった。20世紀の初めには、ヨウ化ベリリウムの熱分解によるベリリウムの生産法が研究され、ジルコニウムの生産法に類似した方法が成功を収めたが、この方法では大量生産において経済的に採算が取れないことが判明した。2007年時点では、ベリリウム鉱石中の酸化ベリリウムを処理することによってフッ化ベリリウムとし、それをマグネシウムを用いて還元させることで生産されている。
この金属ベリリウムの精製に用いられるフッ化ベリリウムは、おもにベリリウム鉱物である緑柱石を原料として生産される。ベリリウム鉱石は石英と同程度の比重であるために比重差を利用した選鉱を行うことができず、多くの場合選鉱は手作業に頼っているが、ベリリウム鉱石にガンマ線を照射することで、ベリリウムから放出された中性子を検出して選別する自動装置も開発されている。こうして選鉱された緑柱石からベリリウムを抽出するために硫酸処理が行われるが、鉱石のままでは硫酸と400 °Cで反応させたとしてもベリリウムはほとんど溶解しないため、前処理としてアルカリ処理もしくは熱処理が行われる。アルカリ処理は、ケイ素を多く含む試料を分析する際に用いられるアルカリ溶融法と同様の原理でケイ素と金属を分離する方法であり、ベリリウム鉱石に水酸化ナトリウムや炭酸ナトリウムのようなアルカリを加えて溶融させる。熱処理は1650 °C以上の高温に加熱することで緑柱石を溶融させ、鉱石中のベリリウムを完全に酸化ベリリウムとしたあと、再度900 °Cに加熱することで二酸化ケイ素から遊離させてベリリウムの溶解性を高める方法である。このようにしてベリリウムを溶出させやすいように前処理を行ったあと、硫酸処理を行うことで硫酸ベリリウムの溶液として鉱石からベリリウムを抽出することができる。得られた硫酸ベリリウム溶液をアルカリで中和することで水酸化ベリリウムの沈殿が得られ、これをフッ化アンモニウムと反応させたあと、熱分解させることによってフッ化ベリリウムが生産される。また、ベリリウム鉱石中からベリリウムを分離抽出する方法としては、ヘキサフルオロケイ酸ナトリウムを加えて700 °Cで溶融させテトラフルオロベリリウム酸ナトリウムとして抽出する方法や、ベリリウム鉱石を炭素とともに塩素気流下、630 °C以上で塩素と直接反応させて塩化ベリリウムとして抽出する方法などがある。このようにして得られた塩化ベリリウムを溶融塩電解することでも金属ベリリウムを生産することができる。この方法では、塩化ベリリウムの電気伝導度が非常に低く電解効率が悪いため、塩化ナトリウムが助剤として加えられる。
工業規模でのベリリウム産出に関与しているのはアメリカ、中国、カザフスタンの3国のみである。2008年時点のアメリカにおけるベリリウムおよびベリリウム化合物のおもな生産者は、ブラッシュ・エンジニアード・マテリアルズ社である。ブラッシュ・エンジニアード・マテリアルズ社では、ベリリウムを製錬するための原料の大部分を自身が所有するスポール山の鉱床(ユタ州)から産出されるベリリウム鉱石(ベルトラン石を含む)から得ている。ベリリウムの製錬およびほかの精製は、ユタ州デルタ(英語版)の北10マイルにある工場で行われており、その場所はインターマウンテン・パワー・プロジェクトによる発電設備から近くかつ町からも離れているために選ばれた。1998年から2008年までの間、ベリリウムの世界の生産量は343トンからおよそ200トンにまで減少しており、200トンのうち176トン(88 %)はアメリカで生産されている。真空鋳造によって製造されたベリリウムインゴットの2001年におけるアメリカ市場でのキログラム単価は745ドルであった。
ベリリウムはおもに合金の硬化剤として利用され、その代表的なものにベリリウム銅合金がある。また、非常に強い曲げ強さ、熱的安定性および熱伝導率の高さ、金属としては比較的低い密度などの物理的性質を利用して、高速航空機やミサイル、宇宙船、通信衛星などの軍事産業や航空宇宙産業において構造部材として用いられる。ベリリウムは低密度かつ原子量が小さいためX線やその他電離放射線に対して透過性を示し、その特性を利用してX線装置や粒子物理学の試験におけるX線透過窓として用いられる。
ベリリウムの用途には、その物理的性質を利用したX線装置や構造材、鏡(ベリリウムミラー)、合金材料、音響材料としての用途、磁気的性質を利用した工具製造、電子物性を利用した電子材料、核的性質を利用した中性子源や、ベリリウム鉱石の外観の美しさを利用した宝石としての用途が挙げられる。この中には核兵器やミサイル、射撃管制装置などの軍事的用途も含まれ、そのような分野に関する詳細な情報を入手することは難しい。また、ベリリウムの毒性により、過去に用いられていた蛍光材料としての用途はすでにほかの代替材料に置き換えられており、ベリリウム銅合金なども代替材料の開発が進められている。
ベリリウムは原子番号が小さく電子の数が少ないため、X線に対する透過率が非常に高い。そのため、X線源やビームライン、X線望遠鏡などの検出器用の窓に用いられる。この用途においては、X線像に不要な像が写り込むことを回避するためにベリリウムの純度と清潔さがもっとも要求される。また、X線探知機のX線放射窓としてもベリリウムの薄膜が用いられている。これは、ベリリウムのX線吸収率が非常に低いことによって、高強度のシンクロトロン放射光に典型的な低エネルギーX線に起因する熱の影響を最小限に留めることができるためである。さらに、シンクロトロンによる放射線試験のための真空気密窓およびビームチューブの素材にはベリリウムのみが用いられている。ほかにも、エネルギー分散型X線分析などのさまざまなX線を利用した分析機器においては、ベリリウム製のサンプルホルダーが常用される。これは、ベリリウムから発生する特性X線や蛍光X線の有するエネルギーが100 eV以下と分析試料由来のX線と比較して非常に低く、試料の分析データに影響を与えないためである。
ベリリウムはまた、素粒子物理学の実験装置において高エネルギー粒子を衝突させる場所周辺のビームラインを構築するための素材として用いられる。たとえば、大型ハドロン衝突型加速器の実験における主要な4つの検出器すべて(ALICE検出器、ATLAS検出器、CMS検出器(英語版)、LHCb検出器(英語版))やテバトロン、SLAC国立加速器研究所において用いられている。このような用途においてはベリリウムが持つさまざまな性質が効果的に働いている。すなわち、ベリリウムの原子番号の小ささに由来する高エネルギー粒子に対する透過性が比較的高いという性質や、ベリリウムの密度が低いという性質によって、粒子の衝突によって発生した生成物を重大な相互作用なしに周囲の検出器へと誘導することができる。また、ベリリウムは剛性が高いためベリリウムのパイプ内を非常に高真空にでき、残留した気体分子による相互作用を最小限にすることができる。さらに、ベリリウムは熱的に非常に安定しているため、絶対零度よりわずかに高い程度の極低温においても正常に機能することができる。そのうえ、ベリリウムの反磁性を有する性質によって、粒子線を収束させて検出器まで導くために用いられる複雑な多極電磁石システムへの干渉を防ぐことができる。
ベリリウムは剛性が大きく、軽く、広い温度範囲における寸法安定性を有しているため、防衛産業や航空宇宙産業において軽量な構造部材として、たとえば、高速航空機やミサイル、宇宙船、通信衛星などに用いられる。液体燃料ロケットには高純度ベリリウムのロケットエンジンノズルが用いられている。また、少数ではあるものの自転車のフレームにも用いられている。また、ベリリウムは硬く、融点が高く、さらに非常に優れたヒートシンク性能を有しているため、軍用機やレース車両のブレーキディスクに用いられていたが、環境への配慮のため代替材料が用いられている。
ベリリウムは優れた弾性剛性を有しているため、ジャイロスコープによる慣性航法装置や光学系のための支持構造物などの精密機器にも利用される。
なお、ベリリウムでばねを作った場合、200億回以上の衝撃に耐えることができる。
ベリリウムミラーは、気象衛星のような低重量および長期間の寸法安定性が重要とされる用途に対する大面積の鏡(しばしばハニカムミラー(英語版))に用いられる。たとえば、ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡の主鏡はベリリウム製であり、同様の理由でスピッツァー宇宙望遠鏡もベリリウム製の反射望遠鏡が用いられている。
また、より小さなベリリウムミラーは光学的な制御システムや射撃管制装置に用いられる。たとえば、ドイツの主力戦車であるレオパルト1やレオパルト2に用いられている。これらのシステムには鏡の非常に迅速な動きが要求されるため、ベリリウムの低重量かつ高剛性な性質が必要とされる。通常このベリリウムミラーは、光学的仕上げ材による研磨をより容易に行えるように無電解ニッケルめっきによって被覆される。しかしながら極低温条件で用いる場合などには、熱膨張率の違いによって被覆材に歪みが生じてしまうため、このような用途においては被覆材を用いずに直接磨き上げられる。
機雷などの爆発物は磁気に反応して爆発する磁気信管を一般的に備えているため、軍による機雷の除去作業では磁性を持たないベリリウムやその合金から作られる器具が用いられる。それらはまた、強い磁場を発生させる核磁気共鳴画像法(MRI)の機械の近くで用いられるメンテナンス器具や建設材料にも用いられる。無線通信や強力なレーダー(通常は軍用)の分野においては、非常に磁気の強いクライストロン (Klystron) やマグネトロン、進行波管などの高レベルなマイクロ波を発生させるための送信機が使われるため、それらを調整するためにもまたベリリウム製の手工具が用いられる。
ベリリウムは低質量かつ高剛性である。このため、音の伝導率はおよそ12.9 km/sと高い。ベリリウムのこの物性を利用して、ツイーター(高音域スピーカー)の振動板としておもにドーム型に成形し使用される。しかしながら、ベリリウムはしばしばチタン以上に高価であり、その脆性の高さにより成形が困難である。また処置を誤れば製品の毒性を封印できないため、ベリリウム製のツイーターはハイエンドな家庭用や業務用オーディオ、Public Addressなどの用途に限られている。高音域スピーカーの振動板としての使用例としては、ヤマハ・パイオニアなどの音響機器メーカーの製品がある。それ以外ではヤマハ・パイオニア・オーディオテクニカ・グレース製ピックアップ・カートリッジのカンチレバーに用いられた例がある。また、その熱伝導率のよさから、セラミック送信管(アイマック(英語版)社製、eimac8873)の本体および純正放熱用熱伝導体として酸化ベリリウムが採用された例がある。ベリリウムはほかの金属との合金としても頻繁に利用されるが、その合金組成に明記されないこともある。
ベリリウムの薄いプレートやホイールは、しばしばテラー・ウラム型のような熱核爆弾において、核融合燃料に「点火」するためのトリガーである第一段階の核分裂爆弾を囲うプルトニウムピットの最外層として用いられる。このようなベリリウムの層は、Puを爆縮させるための良好な核反応促進材であり、初期の実験的な原子炉において中性子反射減速材として利用されていたように良好な中性子反射体でもある。
ベリリウムはまた、比較的少ない中性子を必要とする原子炉規模以下の実験用途において、一般的に中性子源として用いられる。この目的のためのBeターゲット材は、PoやRa、Pu、Amなどの放射性同位体から放出される高エネルギーなアルファ粒子を衝突させることで中性子が取り出される。このときに起こる核反応によって、BeはCになり、遊離した中性子はアルファ粒子が移動するのと同じ方向へ放出される。ベリリウムはそのような中性子源として、urchinと呼ばれる中性子点火器(英語版)として初期の原子爆弾にも利用されていた。
ベリリウムは欧州連合のトーラス共同研究施設における核融合研究所においても利用されており、より高度なITERにおいてプラズマに直接接する部分の素材としても利用されている。ベリリウムはまた、その機械的、化学的、核的な物性の組み合わせのよさから、核燃料棒の被覆素材としての利用も提案されている。フッ化ベリリウムは、溶融塩原子炉設計の多くの仮定において、溶媒、減速材および冷却材としての使用が想定されている、共晶塩であるフッ化リチウムベリリウム(英語版)を構成する塩のひとつである。
ベリリウムはIII-V族半導体においてP型半導体のドーパントである。それは、分子線エピタキシー法(MBE)によって製造されるヒ化ガリウムやヒ化アルミニウムガリウム、ヒ化インジウムガリウム、ヒ化インジウムアルミニウム(英語版)のような素材において広く用いられている。クロス圧延されたベリリウムのシートはプリント基板への表面実装における優れた構造支持体である。電子材料におけるベリリウムの重要な用途は、構造支持のみならずヒートシンク素材としての用途がある。この用途においては、アルミナおよびポリイミドガラス基盤と調和した熱膨張率が必要とされる。これらの電子的用途のために特別に設計されたベリリウム-酸化ベリリウム複合材料は「E-Material(英語版)」と呼ばれ、さまざまな基盤素材に合わせて熱膨張率を調整できる利点がある。
電気絶縁性および優れた熱伝導率、高い耐久性、硬さ、非常に高い融点という複数の特性が要求されるような多くの用途において、酸化ベリリウムが利用される。酸化ベリリウムは、電気通信のための無線周波送信機におけるパワートランジスタの絶縁基盤として多用される。酸化ベリリウムはまた、酸化ウランの核燃料ペレットにおいて熱伝導性を向上させるための用途が検討されている。ベリリウム化合物は蛍光灯にも用いられていたが、ベリリウムを用いた蛍光灯の製造工場で働く労働者にベリリウム中毒が発症したため、この用途でのベリリウムの利用は中止された。
ベリリウム鉱物である緑柱石のうち、状態のいいものは宝石として利用される。緑柱石由来の宝石としては、不純物としてクロムを含み濃い緑色を呈するエメラルド、2価の鉄を含み水色を呈するアクアマリン、3価の鉄を含み黄色を呈するゴールデンベリル、マンガンを含むレッドベリルやモルガナイトなどがある。
同じくベリリウム鉱物である金緑石からなる宝石には、宝石の表面に猫の目のような細い光の筋が見えるキャッツアイ効果を示す猫目石や、光源の種類によって見える色が変化する変色効果を示すアレキサンドライトといった特殊な効果を示すものがあり、キャッツアイ効果と変色効果を併せ持つものも存在する。アレキサンドライトの赤紫色は不純物として含まれる鉄によるものである。
銅(Cu)に0.15–2.0 %程度を混ぜてベリリウム銅合金として利用される。銅よりもはるかに強く、純銅に近い良好な電気伝導性がある。膨張率はステンレス鋼や鋼に近い。ゆっくり変化する磁界に対し高い透磁率をもつ。銅合金の中でも優れた機械的強度を持っており、電気回路のコネクタなどで使われるばねの材料に用いられる。また、磁化しにくい、打撃を受けても火花が出ない特徴を持つことから、石油化学工業などの爆発雰囲気の中で使用する防爆工具に安全保持上用いることもある。ベリリウム銅合金はまた、Jason pistolsと呼ばれる船から錆やペンキをはぎ取るのに用いられる針状の器具にも用いられる。また、銅の代わりにニッケルを用いた合金も同様に利用される。ベリリウム銅合金はベリリウムの持つ毒性のために代替材料の開発が進められており、実用化されているものもある。
また、アルミベリリウム合金も軽量かつ強度が高い特徴があり、F1レーシングカーの部品(安全性の観点から2004年以降は使用禁止)や航空機の部品にも使用されている。
堆積学分野では同位体のBeおよびBeと鉛の同位体Pbの存在比率により、地層の堆積物の輸送がどのようなイベントで生じたのか、つまり「ゆっくりと安定した堆積なのか」「河川の氾濫や洪水、嵐による急激な堆積なのか」などを調べることが可能である。
ベリリウムを含有する塵は人体へと吸入されることによって毒性を示すため、その商業利用には技術的な難点がある。ベリリウムは細胞組織に対して腐食性のため、慢性ベリリウム症と呼ばれる致死性の慢性疾患を引き起こす。
ベリリウムは人体への曝露によってベリリウム肺症もしくは慢性ベリリウム症として知られる深刻な慢性肺疾患を引き起こすようにきわめて毒性の高い物質であり、水棲生物に対しても非常に強い毒性を示す。また、細胞組織に対して腐食性であるため、可溶性塩の吸入によって化学性肺炎である急性ベリリウム症を引き起こし、皮膚との接触によって炎症が引き起こされる。
慢性ベリリウム症は数週間から20年以上と非常に個人差の大きい潜伏期間があり、その死亡率は37 %で、妊婦においてはさらに死亡率が高くなる。慢性ベリリウム症は基本的には自己免疫疾患であり、感受性を有する人は5 %以下であると見られている。慢性ベリリウム症におけるベリリウムの毒性の機序は、ベリリウムが酵素に影響を与えることで代謝や細胞複製が阻害されることによる。慢性ベリリウム中毒は多くの点でサルコイドーシスに類似しており、鑑別診断においてはこれらを見分けることが重要とされる。
急性ベリリウム症は基本的には化学性肺炎であり、慢性ベリリウム症とは異なる機序によるものである。その定義は「継続期間1年未満のベリリウム由来の肺疾患」とされており、ベリリウムへの曝露量と症状の重さには直接的な因果関係が見られる。ベリリウム濃度が1000 μg/m以上になると発症し、100 μg/m未満では発症しないことが明らかとなっている。
急性ベリリウム症は最高曝露量の設定による作業環境の改善にともない減少しているが、慢性ベリリウム症はベリリウムを扱う産業において多く発生しており、ベリリウムの許容濃度を順守している工場においても慢性ベリリウム疾患の発症した例が確認されている。また、このような産業に関わらない人々にも化石燃料の燃焼に起因する極微量の曝露がみられる。
ベリリウムおよびベリリウム化合物は、WHOの下部機関IARCより発癌性がある(Type1)と勧告されている。カリフォルニア州環境保健有害性評価局が算出した公衆健康目標のガイドライン値は1 μg/L、有害物質疾病登録局が算出した最小リスク質量分率は0.002 mg/kg·d(体重1 kgあたり、1日に0.002 mg)とされている。ベリリウムは生体内で代謝されないため、一度体内に取り込まれたベリリウムは排出されにくく、おもに骨に蓄積されて尿により排出される。
1933年(昭和8年)、ドイツにおいて「化学性肺炎」という形で急性ベリリウム症が初めて報告され、ついで1946年(昭和21年)には慢性ベリリウム症がアメリカで報告された。このような症例は蛍光灯工場やベリリウム抽出プラントにおいて多くみられたため、1949年(昭和24年)には蛍光灯におけるベリリウムの利用が中止され、1950年代初頭にはベリリウムの最高曝露濃度が25 μg/mに定められた。こうして作業環境が大幅に改善されたことによって急性ベリリウム症の罹患率は激減したが、核産業や航空宇宙産業、ベリリウム銅などの合金、電子装置の製造などの分野においてはベリリウムの利用が続いている。1952年(昭和27年)、アメリカ合衆国でベリリウム症例登録制度がはじまり、1983年(昭和58年)までに888件の症例が登録された。この制度においては6つの診断基準が定められ、そのうち3つが当てはまると慢性ベリリウム症であるとして登録されるようになっていた。検査技術の向上した2001年(平成13年)現在では、肺の経気管支の生体組織診断などによる組織病理学的な確認、リンパ球幼若化試験およびベリリウムの曝露歴の3点が診断基準とされている。ベリリウムは原子爆弾の核反応促進材に利用されるため、初期の原子爆弾の開発に携わった研究者の幾人かはベリリウム中毒によって命を落としている(たとえばアメリカの核物理学者でありマンハッタン計画にも携わったハーバート・L・アンダーソン(英語版)など)。
ベリリウムは酸化被膜のために反応性に乏しい金属であるが、一度着火すると燃焼しやすい性質であるため、空気中にベリリウムの粉塵が存在している状態では粉塵爆発が起こる危険性がある。 | [
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"text": "ベリリウム(新ラテン語: beryllium, 英: beryllium [bəˈrɪliəm])は、原子番号4の元素である。元素記号はBe。原子量は9.01218。第2族元素のひとつ。",
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"text": "1798年にルイ=ニコラ・ヴォークランが「グルキニウム(旧元素記号Gl、glucinium)」と名づけた。語源のglykysは、ギリシア語で「甘さ」という言葉を意味する。これは、ベリリウム化合物が甘みを持つことに由来している。",
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"text": "1828年には、マルティン・ハインリヒ・クラプロートが「ベリリウム」と命名した。この名前は緑柱石(beryl、ギリシア語で beryllos)に由来している。",
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"text": "初期の分析において緑柱石とエメラルドは常に類似した成分が検出されており、この物質はケイ酸アルミニウムであると誤って結論づけられていた。鉱物学者であったルネ=ジュスト・アユイはこの2つの結晶が著しい類似点を示すことを発見し、彼はこれを化学的に分析するために化学者であるルイ=ニコラ・ヴォークランに尋ねた。1797年、ヴォークランは緑柱石をアルカリで処理することによって水酸化アルミニウムを溶解させ、アルミニウムからベリリウム酸化物を分離させることに成功した。",
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"text": "1828年にフリードリヒ・ヴェーラーとアントワーヌ・ビュシーがそれぞれ独自に、金属カリウムと塩化ベリリウムを反応させることによるベリリウムの単離に成功した。",
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"text": "カリウムは、当時新しく発見された方法である電気分解によってカリウム化合物より生産されていた。この化学的手法によって得られるベリリウムは小さな粒状であり、金属ベリリウムのインゴットを鋳造もしくは鍛造することはできなかった。1898年、ポール・ルボー(英語版)はフッ化ベリリウムとフッ化ナトリウムの混合融液を直接電気分解することによって、初めて純粋なベリリウムの試料を得た。19世紀は、新しいベリリウム化合物が見つかると、融点や溶解度だけでなく、味までも報告するのが当たり前だった。",
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"text": "第一次世界大戦以前にも有意な量のベリリウムが生産されていたが、大規模生産が始まったのは1930年代初期からである。ベリリウムの生産量は、硬いベリリウム銅合金および蛍光灯の蛍光体用途の需要の伸びによって、第二次世界大戦中に急速に増加した。初期の蛍光灯にはベリリウムを含有したオルトケイ酸亜鉛が使用されていたが、のちにベリリウムの有毒性が発見されたためハロリン酸系蛍光体に置き換えられた。また、ベリリウムの初期の主要な用途のひとつとして、その硬さや融点の高さ、非常に優れたヒートシンク性能を利用した軍用機のブレーキへの利用が挙げられるが、こちらも環境への配慮から別の材料に代替された。",
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"text": "ベリリウムは緑柱石などの鉱物から産出される。緑柱石は不純物に由来する色の違いによってアクアマリンやエメラルドなどと呼ばれ、宝石としても用いられる。常温常圧で安定した結晶構造は六方最密充填構造(HCP)である。単体は銀白色の金属で、空気中では表面に酸化被膜が生成され安定に存在できる。モース硬度は6から7を示し、硬く、常温では脆いが、高温になると展延性が増す。酸にもアルカリにも溶解する。ベリリウムの安定同位体は恒星の元素合成においては生成されず、宇宙線による核破砕によって炭素や窒素などより重い元素から生成される。",
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"text": "ベリリウムは周期表の上では第2族元素に属しているが、その性質は同じ族の元素であるカルシウムやストロンチウムよりもむしろ第13族元素であるアルミニウムに類似している。たとえば、カルシウムやストロンチウムは炎色反応によって発色するが、ベリリウムは無色である。そのため、ベリリウムは第2族元素ではあるが、アルカリ土類金属には含めないこともある。また、ベリリウムの二元化合物の構造は亜鉛とも類似している。",
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"text": "ベリリウムの同素体は2つあり、常温、常圧(標準状態)における安定した結晶構造は六方最密充填構造(HCP)であり、その格子定数はa=226.8 pm、b=359.4 pmである。高温になると、体心立方格子の結晶構造が最も安定となる。モース硬度6から7と第2族元素の中でもっとも硬いが、粉砕によって粉末にできるほど脆い。しかしながら、高温になると展延性が増すため、核融合炉のような高温条件で利用する用途において高い機械的性質を発揮することができる。この用途では、400 °Cを下回る温度になると使用上問題となるレベルにまで展延性が低下してしまう。比重は1.816、融点は1284 °C、沸点は2767 °Cである。",
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"text": "ベリリウムのヤング率は287 GPaと鉄のヤング率より50 %も高く、非常に強い曲げ強さを有している。このような高いヤング率に由来してベリリウムの剛性は非常に優れており、後述の熱負荷の大きい環境における安定性も相まって宇宙船や航空機などの構造部材に利用されている。また、このヤング率の大きさと、ベリリウムが比較的低密度であるという物性が組み合わさることにより、周囲の状況に応じて変化するものの、およそ12.9 km/sという著しく高い音の伝導性を示す。この性質を利用して音響材料におけるスピーカーの振動板などに用いられている。ベリリウムの他の重要な特性としては、1925 J/(kg·K)という高い比熱および、216 W/(m·K)という高い熱伝導率が挙げられ、これらの物性によってベリリウムは単位重量当たりの放熱物性にもっとも優れた金属である。この放熱物性を利用した用途としてヒートシンク材料が挙げられ、電子材料などにおいて活用されている。またこれらの物性は、11.4×10 Kという比較的低い線形熱膨張率や1284 °Cという高い融点も相まって、熱負荷の大きな状況下における非常に高い安定性をもたらしている。",
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"text": "ベリリウムの単体は還元性が非常に強く、その標準酸化還元電位E0は −1.85 V である。この標準電位の値はイオン化傾向においてアルミニウムの上に位置しているため大きな化学活性が期待されるが、実際には表面が酸化物の膜(酸化被膜)に覆われて不動態化するため高温に熱した状態でさえも空気や水と反応しない。しかしながら、いったん点火すれば輝きながら燃焼して酸化ベリリウムと窒化ベリリウムの混合物が形成される。",
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"text": "ベリリウムは通常、表面に酸化被膜を形成しているため酸に対しての強い耐性を示すが、酸化被膜を取り除いた純粋なベリリウムでは、塩酸や希硫酸のような酸化力を持たない酸に対しては容易に溶解する。硝酸のような酸化力を有する酸に対してはゆっくりとしか溶解しない。また、強アルカリに対してはオキソ酸イオンであるベリリウム酸イオン(Be(OH)4)を形成して水素ガスを発生させながら溶解する。このような酸やアルカリに対する性質はアルミニウムと類似している。ベリリウムは水とも水素を発生させながら反応するが、水との反応によって生じる水酸化ベリリウムは水に対する溶解度が低く金属表面に被膜を形成するため、金属表面のベリリウムが反応しきればそれ以上反応は進行しない。",
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"text": "ベリリウム原子の電子配置は[He]2sである。ベリリウムはその原子半径の小ささに対してイオン化エネルギーが大きいため電荷を完全に分離することは難しく、そのためベリリウムの化合物は共有結合性を有している。また、ベリリウムの高い正の電荷密度からも共有結合性を説明できる。ファヤンスの法則によると、イオン結合で、サイズが小さく高い正の電荷を持つ陽イオンは、陰イオンの最外殻電子を引っ張り、(これを分極という。)共有結合性を生じる。ベリリウムイオンはサイズが小さく2+と電荷も高いため、共有結合性を有する。第2周期元素は原子量が大きくなるにしたがってイオン化エネルギーも増大する法則が見られるが、ベリリウムはその法則から外れており、より原子量の大きなホウ素よりもイオン化エネルギーが大きい。これは、ベリリウムの最外殻電子が2s軌道上にあり、ホウ素の最外殻電子は2p軌道上にあることに起因している。2p軌道の電子は内殻に存在するs軌道の電子によって遮蔽効果(有効核電荷も参照)を受けるため、2p軌道に存在する最外殻電子のイオン化エネルギーが低下する。一方で2s軌道の電子は遮蔽効果を受けないため、相対的に2p軌道の電子よりもイオン化エネルギーが大きくなり、これによってベリリウムとホウ素の間でイオン化エネルギーの大きさの逆転が生じる。",
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"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "ベリリウムの錯体もしくは錯イオンは、たとえばテトラアクアベリリウム(II)イオン(Be[(H2O)4])やテトラハロベリリウム酸イオン(BeX4)のように、多くの場合4配位を取る。EDTA はほかの配位子よりも優先してベリリウムに配位して八面体形の錯体を形成するため、分析技術にこの性質が利用される。たとえば、ベリリウムのアセチルアセトナト錯体にEDTAを加えると、EDTAがアセチルアセトンよりも優先してベリリウムとの間で錯体を形成してアセチルアセトンが分離するため、ベリリウムを溶媒抽出することができる。このようなEDTAを用いた錯体形成においてはAlのようなほかの陽イオンによって悪影響を受けることがある。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "硫酸ベリリウムや硝酸ベリリウムのようなベリリウム塩の溶液は [ Be ( H 2 O ) 4 ] 2 + {\\displaystyle {\\ce {[Be(H2O)4]^{2+}}}} イオンの加水分解によって酸性を示す。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "加水分解によるほかの生成物には、3量体イオン [ Be 3 ( OH ) 3 ( H 2 O ) 6 ] 3 + {\\displaystyle {\\ce {[Be3(OH)3(H2O)6]^{3+}}}} が含まれる。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "ベリリウムは多くの非金属原子と二元化合物を形成する。無水ハロゲン化物としては、フッ素、塩素、臭素、ヨウ素との化合物が知られており、固体状態においては橋掛け結合によって重合している。フッ化ベリリウム(BeF2)は、二酸化ケイ素のような角を共有したBeF4の四面体構造を取り、ガラス状においては無秩序な直鎖構造を取る。塩化ベリリウムおよび臭化ベリリウムは両端を共有した直鎖状の構造を取る。すべてのハロゲン化ベリリウムは、気体の状態においては線形のモノマー分子構造を取る。塩化ベリリウムは金属ベリリウムを塩素と直接反応させることによって得られ、これは塩化アルミニウムと同様の製法である。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "酸化ベリリウムはウルツ鉱型構造を取る耐火性の白色結晶であり、金属と同じぐらい高い熱伝導率を有する。酸化ベリリウムは2種類の多形が存在し、低温型の酸化ベリリウムは熱したアルカリ溶液などに溶解するが、高温では相転移してより安定な構造となり、濃硫酸に硫酸アンモニウムを加えた熱シロップのみにしか溶解しなくなる。ほかのベリリウムと第16族元素との化合物は硫化ベリリウムやセレン化ベリリウム、テルル化ベリリウムが知られており、それらはすべて閃亜鉛鉱型構造を取る。水酸化ベリリウムは両性を示し、その酸性水溶液がほかのベリリウム塩を合成する出発原料とされる。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "窒化ベリリウム(Be3N2)は非常に加水分解をしやすい、高融点な化合物である。アジ化ベリリウム(BeN6)およびリン化ベリリウム(Be3P2)は窒化ベリリウムと類似した構造を有していることが知られている。塩基性硝酸ベリリウムおよび塩基性酢酸ベリリウムは4つのベリリウム原子が中心の酸素イオンに配位した四面体構造を取る。Be5B、Be4B、Be2B、BeB2、BeB6、BeB12のようないくつかのホウ素化ベリリウムも知られている。炭化ベリリウム(Be2C)は耐火性のレンガ色をした化合物であり、水と反応してメタンを発生させる。ケイ素化ベリリウムは同定されていない。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "ベリリウムは、高エネルギーな中性子線に対して広い散乱断面積を有しており、その散乱断面積は0.01 eV を上回るものに対しておよそ6バーンである。散乱断面積の正確な値はベリリウムの結晶サイズや純度に強く依存するため実際の散乱断面積は1桁ほど低くなり、ベリリウムが効果的に減速させることのできる中性子線のエネルギー範囲0.03 eV 以上のものに限られる。このため、ベリリウムは高エネルギーな熱中性子は効果的に減速させることができるものの、エネルギーの低い冷中性子は減速させることができずに透過してしまう。この性質を利用して、さまざまなエネルギーを持つ中性子の中から冷中性子のみを取り出すためのフィルターとして利用される。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "ベリリウムのおもな同位体であるBeは(n, 2n)中性子反応によって1つの中性子を消費して2つの中性子を放出し、2つのアルファ粒子に分裂する。したがって、ベリリウムの中性子反応は消費する中性子よりも多くの中性子を放出して系内の中性子を増加させる。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "金属としてのベリリウムは大部分のX線およびガンマ線を透過するため、X線管などのX線装置におけるX線の出力窓として有用である。ベリリウムはまた、ベリリウムの原子核と高速のアルファ粒子との衝突によって中性子線を放出するため、実験における比較的少数の中性子線を得るための良好な中性子線源である。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "ベリリウムの安定同位体はBeのみであり、したがってベリリウムはモノアイソトピック元素である。Beは恒星において宇宙線の陽子が炭素などのベリリウムよりも重い元素を崩壊させることによって生成され、超新星爆発によって宇宙中に分散する。このようにして宇宙中にチリやガスとして分散したBeは、分子雲を形成する原子のひとつとして星形成に寄与し、新しくできた星の構成元素として取り込まれる。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "Beは、地球の大気に含まれる酸素および窒素が宇宙線による核破砕を受けることで生成される。宇宙線による核破砕によって生成したベリリウム同位体の大気中の滞在時間は成層圏で1年程度、対流圏で1か月程度とされており、その後は地表面に蓄積する。Beはベータ崩壊によってB になるものの、その136万年という比較的長い半減期のためにBeとして地表面に長期間滞留し続ける。そのため、Beおよびその娘核種は、自然界における土壌の侵食や形成、ラテライトの発達などを調査するのに利用される。また、太陽の磁気的活動が活発化すると太陽風が増大し、その期間は太陽風の影響によって地球に到達する銀河宇宙線が減少するため、銀河宇宙線によって生成されるBeの生成量は太陽活動の活発さに反比例して減少する。したがってBeは、同様に宇宙線によって生成されるC(炭素14)とともに太陽活動の変動を記録しているため、極地方のアイスコア中に残されたBeおよびCの解析をすることで、過去の太陽活動の変遷を間接的に知ることができる。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "核爆発もまたBeの生成源であり、核爆発によって発生した高速中性子が大気中の二酸化炭素に含まれるCと反応することによって生成される。これは、核実験試験場の過去の活動を示す指標のひとつである。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "半減期53日の同位体Beもまた宇宙線によって生成され、その大気中の存在量はBeと同様に太陽活動と関係している。Beの半減期はおよそ7×10 sと非常に短く、この半減期の短さはベリリウムよりも重い元素がビッグバン原子核合成によっては生成されなかった原因ともなっている。すなわち、Beの半減期が非常に短いためにビッグバン原子核合成段階の宇宙において核融合反応に利用できるBeの濃度が非常に低く、そのような低濃度のBeがHeと核融合して炭素を合成するにはビッグバン原子核合成段階の時間が不十分であったことに起因する。イギリスの天文学者であるフレッド・ホイルは、BeおよびCのエネルギー準位から、より多くの時間を元素合成に利用することが可能なヘリウムを燃料とする恒星内であれば、いわゆるトリプルアルファ反応と呼ばれる反応によって炭素の生成が可能であることを示し、それによって超新星によって放出される塵とガスから炭素を基礎とした生命の創生が可能となることを明らかにした。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "ベリリウムのもっとも内側の電子は化学結合に関与することができるため、Beの電子捕獲による崩壊は、化学結合に関与することのできる原子軌道から電子を奪うことによって起こる。その崩壊確率はベリリウムの電子構成に大部分を依存しており、核崩壊においてまれなケースである。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "既知のベリリウム同位体のうち、もっとも半減期が短いものは中性子放出によって崩壊するBeであり、その半減期は2.7×10 sである。Beもまた非常に半減期が短く、5.0×10 sである。エキゾチック原子核であるBeおよびBeは、中性子が原子核の周りを周回する中性子ハローを示すことが知られている。この現象は、液滴模型において、古典的なトーマス・フェルミ理論による表面対称エネルギーの影響によって、中性子の分布が陽子分布よりも外部に大きく広がっていると理解することができる。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "ベリリウムの不安定な同位体元素は恒星内元素合成においても生成されるが、これらは生成後すぐに崩壊する。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "なお、原子番号が偶数で、安定同位体が1つしかない元素はベリリウムだけである。通常、原子番号が20以下の元素においては、ベーテ・ヴァイツゼッカーの質量公式のペアリング項に現われるように、陽子と中性子が偶数であるものは奇数のものと比較して結合エネルギーが大きく安定であるのに加え、対称性項に現われるように陽子数と中性子数が同数のものほどのため安定となるが、陽子数および中性子数がともに4であるBeは例外的に不安定である。これは、Beの崩壊生成物であるHeが魔法数を取っているため非常に安定であることによる。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "ベリリウムの性質はアルカリ土類金属よりもアルミニウムなどと類似しているため、ベリリウムの分析方法はアルミニウムや鉄、クロム、希土類元素などと同一のグループとして扱われる。このようなグループはアンモニアによるアルカリ性の条件において水酸化物の沈殿を生じることからアンモニア属と呼ばれる。",
"title": "分析"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "ベリリウムはアルカリ性の状態で3, 5, 7, 2', 4'-ペンタヒドロキシフラボン(モリン)と反応させることで黄色の蛍光を観察することができるため、この反応を利用して定性分析を行うことができる。この蛍光は日光ではあまり発色しないため、発色を観察するためには紫外線の照射を行う。このベリリウムとモリンとの反応を阻害するようなイオンが共存していなければ、10の分率でも十分に強い発色を観察することができるほどに分析感度が高く、この方法での検出限界は0.02 ng(= 10 g)である。モリンはリチウムやスカンジウム、大量のカルシウムや亜鉛などとも反応して蛍光を発するため、これらのイオンが共存しているとベリリウムの検出を阻害するが、その発光強度は弱いため通常は問題とならない。また、カルシウムはピロリン酸、亜鉛はシアン化物を加えることによってそれらの元素とモリンとの反応を抑制することができる。",
"title": "分析"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "ベリリウムはアンモニアによって水酸化物の沈殿を生じるため、これを利用して重量分析を行うことができる。この水酸化物の沈殿はpH6.5から10までの範囲で生じ、アンモニア添加量が過剰になりpHが高くなりすぎると水酸化物の沈殿が再溶解してしまう。得られた水酸化物を濾過、洗浄したあと、強熱することで水酸化ベリリウムを酸化ベリリウムとし、その重量を計量することでベリリウム濃度が分析される。この方法を用いる場合、分析試料の溶液中に炭酸塩もしくは炭酸ガスが含まれると、水酸化ベリリウムとして沈殿せずに炭酸ベリリウムとして溶液中に残ってしまうため、分析結果に誤差が生じる原因となる。また、沈殿の洗浄が不十分で塩化物が残留していると、強熱時に水酸化ベリリウムと反応して塩化ベリリウムとなって揮発してしまうため、こちらも誤差の原因になる。鉱石中のベリリウムの分析などの多成分中のベリリウムを分析する際には、アルミニウムや鉄などの成分がベリリウムと同様の条件で水酸化物の沈殿を生成するため、前処理を行いこれらの元素を分離する必要がある。通常用いられる方法としては、いったん不純物を含んだ水酸化物の沈殿を生成させ、その水酸化物を炭酸水素ナトリウムで処理し、ベリリウムを水溶性の炭酸塩として水に溶解させることで鉄やアルミニウムから分離する方法が用いられる。また、ケイ素を多く含む場合は炭酸ナトリウムを用いたアルカリ溶融法が用いられる。このような古典的手法のほか、イオン交換膜法や水銀電極を用いた電気分解などの方法も利用される。",
"title": "分析"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "溶液中の微量のベリリウムの分析には電気炉加熱原子吸光光度法(AAS)もしくは誘導結合プラズマ発光分析法(ICP-AES)、誘導結合プラズマ質量分析法(ICP-MS)が用いられる。AASの吸収波長は234.9 nm であり、ICP-AESの発光波長は313.042 nm が用いられる。AASでは試料溶液は塩酸もしくは硝酸で酸性に調整し、ICP-AESおよびICP-MSでは硝酸で酸性に調整して分析を行う。海水のようなほかの塩類を多く含む試料を測定する場合には、EDTAおよびアセチルアセトンを用いて溶媒抽出法によりベリリウムを分離する。もっとも感度の高いベリリウムの分析手法としては、トリフルオロアセチルアセトンを用いて揮発性のベリリウム錯体としてガスクロマトグラフィーを用いて分析する方法が挙げられ、検出限界0.08 pg(= 10 g)という分析精度が1971年に報告されている。",
"title": "分析"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "ベリリウムは宇宙において非常にまれな元素で、宇宙全体の平均濃度の推定値は質量分率で10であり、ニオブより原子量の小さい元素の中ではホウ素と並んでもっとも存在率が小さい。太陽内部でも質量分率10とまれであり、レニウムと同程度の存在量である。一方、地球におけるベリリウム濃度は、地表の岩石中の質量分率の推定値でおよそ(2.8–5)×10、海水中でおよそ6×10、河川の水においては海水中よりは多くおよそ10である。太陽中のベリリウム濃度が地球上のベリリウム濃度と比較して著しく低い原因は、太陽の燃焼における核反応で消費されるためと考えられている。",
"title": "分布"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "地表の岩石中のベリリウム濃度は前述のようにおよそ(2.8–5)×10であるが、ベリリウム鉱石によって高濃度にベリリウムが存在する地域もある。ベリリウムは約4000種類の既知の鉱石のうち、約100種類の鉱石において主成分となっており、その中でも重要なものは、ベルトラン石(英語版)(Be4Si2O7(OH)2)、緑柱石(Al2Be3Si6O18)およびフェナカイト(Be2SiO4)である。このようなベリリウム鉱石は、おもにマグマの冷却過程に由来するペグマタイト中で濃縮される。また、ベリリウム鉱石は凝灰岩や閃長岩からも発見されており、これらはすべて火山活動に由来する火成岩や火山砕屑岩である。また、土壌中のベリリウムは植物によってわずかに吸収され、カラマツなど特定の植物はベリリウムを蓄積する。",
"title": "分布"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "大気中のベリリウム濃度は先進国の都市部でおよそ0.03–0.07 ng/mほどであるが、ベリリウムの大気への主要供給源は化石燃料の燃焼によるものであるため、工業化の進んでいない国においてはさらに低濃度になると推測されている。1987年のアメリカ合衆国環境保護庁のデータによれば、自然におけるベリリウムの大気への放出量は年間5.2トンほどであるが、化石燃料の燃焼を含む人類の活動によるベリリウムの大気への放出量は年間187.4トンにも及ぶ。",
"title": "分布"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "ベリリウムは高温状態で酸素と高い親和性を示すなどの性質を有しているため、ベリリウム化合物から金属ベリリウムを精製することは非常に困難である。19世紀の間は金属ベリリウムを得るための方法として、フッ化ベリリウムとフッ化ナトリウムの混合物を電気分解するという方法が用いられていた。しかしこのような方法は、ベリリウムの融点が高いために金属ベリリウムの製造に類似した方法を用いるアルカリ金属の製造と比較して多くのエネルギーが必要だった。20世紀の初めには、ヨウ化ベリリウムの熱分解によるベリリウムの生産法が研究され、ジルコニウムの生産法に類似した方法が成功を収めたが、この方法では大量生産において経済的に採算が取れないことが判明した。2007年時点では、ベリリウム鉱石中の酸化ベリリウムを処理することによってフッ化ベリリウムとし、それをマグネシウムを用いて還元させることで生産されている。",
"title": "生産"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "この金属ベリリウムの精製に用いられるフッ化ベリリウムは、おもにベリリウム鉱物である緑柱石を原料として生産される。ベリリウム鉱石は石英と同程度の比重であるために比重差を利用した選鉱を行うことができず、多くの場合選鉱は手作業に頼っているが、ベリリウム鉱石にガンマ線を照射することで、ベリリウムから放出された中性子を検出して選別する自動装置も開発されている。こうして選鉱された緑柱石からベリリウムを抽出するために硫酸処理が行われるが、鉱石のままでは硫酸と400 °Cで反応させたとしてもベリリウムはほとんど溶解しないため、前処理としてアルカリ処理もしくは熱処理が行われる。アルカリ処理は、ケイ素を多く含む試料を分析する際に用いられるアルカリ溶融法と同様の原理でケイ素と金属を分離する方法であり、ベリリウム鉱石に水酸化ナトリウムや炭酸ナトリウムのようなアルカリを加えて溶融させる。熱処理は1650 °C以上の高温に加熱することで緑柱石を溶融させ、鉱石中のベリリウムを完全に酸化ベリリウムとしたあと、再度900 °Cに加熱することで二酸化ケイ素から遊離させてベリリウムの溶解性を高める方法である。このようにしてベリリウムを溶出させやすいように前処理を行ったあと、硫酸処理を行うことで硫酸ベリリウムの溶液として鉱石からベリリウムを抽出することができる。得られた硫酸ベリリウム溶液をアルカリで中和することで水酸化ベリリウムの沈殿が得られ、これをフッ化アンモニウムと反応させたあと、熱分解させることによってフッ化ベリリウムが生産される。また、ベリリウム鉱石中からベリリウムを分離抽出する方法としては、ヘキサフルオロケイ酸ナトリウムを加えて700 °Cで溶融させテトラフルオロベリリウム酸ナトリウムとして抽出する方法や、ベリリウム鉱石を炭素とともに塩素気流下、630 °C以上で塩素と直接反応させて塩化ベリリウムとして抽出する方法などがある。このようにして得られた塩化ベリリウムを溶融塩電解することでも金属ベリリウムを生産することができる。この方法では、塩化ベリリウムの電気伝導度が非常に低く電解効率が悪いため、塩化ナトリウムが助剤として加えられる。",
"title": "生産"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "工業規模でのベリリウム産出に関与しているのはアメリカ、中国、カザフスタンの3国のみである。2008年時点のアメリカにおけるベリリウムおよびベリリウム化合物のおもな生産者は、ブラッシュ・エンジニアード・マテリアルズ社である。ブラッシュ・エンジニアード・マテリアルズ社では、ベリリウムを製錬するための原料の大部分を自身が所有するスポール山の鉱床(ユタ州)から産出されるベリリウム鉱石(ベルトラン石を含む)から得ている。ベリリウムの製錬およびほかの精製は、ユタ州デルタ(英語版)の北10マイルにある工場で行われており、その場所はインターマウンテン・パワー・プロジェクトによる発電設備から近くかつ町からも離れているために選ばれた。1998年から2008年までの間、ベリリウムの世界の生産量は343トンからおよそ200トンにまで減少しており、200トンのうち176トン(88 %)はアメリカで生産されている。真空鋳造によって製造されたベリリウムインゴットの2001年におけるアメリカ市場でのキログラム単価は745ドルであった。",
"title": "生産"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "ベリリウムはおもに合金の硬化剤として利用され、その代表的なものにベリリウム銅合金がある。また、非常に強い曲げ強さ、熱的安定性および熱伝導率の高さ、金属としては比較的低い密度などの物理的性質を利用して、高速航空機やミサイル、宇宙船、通信衛星などの軍事産業や航空宇宙産業において構造部材として用いられる。ベリリウムは低密度かつ原子量が小さいためX線やその他電離放射線に対して透過性を示し、その特性を利用してX線装置や粒子物理学の試験におけるX線透過窓として用いられる。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "ベリリウムの用途には、その物理的性質を利用したX線装置や構造材、鏡(ベリリウムミラー)、合金材料、音響材料としての用途、磁気的性質を利用した工具製造、電子物性を利用した電子材料、核的性質を利用した中性子源や、ベリリウム鉱石の外観の美しさを利用した宝石としての用途が挙げられる。この中には核兵器やミサイル、射撃管制装置などの軍事的用途も含まれ、そのような分野に関する詳細な情報を入手することは難しい。また、ベリリウムの毒性により、過去に用いられていた蛍光材料としての用途はすでにほかの代替材料に置き換えられており、ベリリウム銅合金なども代替材料の開発が進められている。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "ベリリウムは原子番号が小さく電子の数が少ないため、X線に対する透過率が非常に高い。そのため、X線源やビームライン、X線望遠鏡などの検出器用の窓に用いられる。この用途においては、X線像に不要な像が写り込むことを回避するためにベリリウムの純度と清潔さがもっとも要求される。また、X線探知機のX線放射窓としてもベリリウムの薄膜が用いられている。これは、ベリリウムのX線吸収率が非常に低いことによって、高強度のシンクロトロン放射光に典型的な低エネルギーX線に起因する熱の影響を最小限に留めることができるためである。さらに、シンクロトロンによる放射線試験のための真空気密窓およびビームチューブの素材にはベリリウムのみが用いられている。ほかにも、エネルギー分散型X線分析などのさまざまなX線を利用した分析機器においては、ベリリウム製のサンプルホルダーが常用される。これは、ベリリウムから発生する特性X線や蛍光X線の有するエネルギーが100 eV以下と分析試料由来のX線と比較して非常に低く、試料の分析データに影響を与えないためである。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "ベリリウムはまた、素粒子物理学の実験装置において高エネルギー粒子を衝突させる場所周辺のビームラインを構築するための素材として用いられる。たとえば、大型ハドロン衝突型加速器の実験における主要な4つの検出器すべて(ALICE検出器、ATLAS検出器、CMS検出器(英語版)、LHCb検出器(英語版))やテバトロン、SLAC国立加速器研究所において用いられている。このような用途においてはベリリウムが持つさまざまな性質が効果的に働いている。すなわち、ベリリウムの原子番号の小ささに由来する高エネルギー粒子に対する透過性が比較的高いという性質や、ベリリウムの密度が低いという性質によって、粒子の衝突によって発生した生成物を重大な相互作用なしに周囲の検出器へと誘導することができる。また、ベリリウムは剛性が高いためベリリウムのパイプ内を非常に高真空にでき、残留した気体分子による相互作用を最小限にすることができる。さらに、ベリリウムは熱的に非常に安定しているため、絶対零度よりわずかに高い程度の極低温においても正常に機能することができる。そのうえ、ベリリウムの反磁性を有する性質によって、粒子線を収束させて検出器まで導くために用いられる複雑な多極電磁石システムへの干渉を防ぐことができる。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "ベリリウムは剛性が大きく、軽く、広い温度範囲における寸法安定性を有しているため、防衛産業や航空宇宙産業において軽量な構造部材として、たとえば、高速航空機やミサイル、宇宙船、通信衛星などに用いられる。液体燃料ロケットには高純度ベリリウムのロケットエンジンノズルが用いられている。また、少数ではあるものの自転車のフレームにも用いられている。また、ベリリウムは硬く、融点が高く、さらに非常に優れたヒートシンク性能を有しているため、軍用機やレース車両のブレーキディスクに用いられていたが、環境への配慮のため代替材料が用いられている。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "ベリリウムは優れた弾性剛性を有しているため、ジャイロスコープによる慣性航法装置や光学系のための支持構造物などの精密機器にも利用される。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "なお、ベリリウムでばねを作った場合、200億回以上の衝撃に耐えることができる。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "ベリリウムミラーは、気象衛星のような低重量および長期間の寸法安定性が重要とされる用途に対する大面積の鏡(しばしばハニカムミラー(英語版))に用いられる。たとえば、ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡の主鏡はベリリウム製であり、同様の理由でスピッツァー宇宙望遠鏡もベリリウム製の反射望遠鏡が用いられている。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "また、より小さなベリリウムミラーは光学的な制御システムや射撃管制装置に用いられる。たとえば、ドイツの主力戦車であるレオパルト1やレオパルト2に用いられている。これらのシステムには鏡の非常に迅速な動きが要求されるため、ベリリウムの低重量かつ高剛性な性質が必要とされる。通常このベリリウムミラーは、光学的仕上げ材による研磨をより容易に行えるように無電解ニッケルめっきによって被覆される。しかしながら極低温条件で用いる場合などには、熱膨張率の違いによって被覆材に歪みが生じてしまうため、このような用途においては被覆材を用いずに直接磨き上げられる。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "機雷などの爆発物は磁気に反応して爆発する磁気信管を一般的に備えているため、軍による機雷の除去作業では磁性を持たないベリリウムやその合金から作られる器具が用いられる。それらはまた、強い磁場を発生させる核磁気共鳴画像法(MRI)の機械の近くで用いられるメンテナンス器具や建設材料にも用いられる。無線通信や強力なレーダー(通常は軍用)の分野においては、非常に磁気の強いクライストロン (Klystron) やマグネトロン、進行波管などの高レベルなマイクロ波を発生させるための送信機が使われるため、それらを調整するためにもまたベリリウム製の手工具が用いられる。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "ベリリウムは低質量かつ高剛性である。このため、音の伝導率はおよそ12.9 km/sと高い。ベリリウムのこの物性を利用して、ツイーター(高音域スピーカー)の振動板としておもにドーム型に成形し使用される。しかしながら、ベリリウムはしばしばチタン以上に高価であり、その脆性の高さにより成形が困難である。また処置を誤れば製品の毒性を封印できないため、ベリリウム製のツイーターはハイエンドな家庭用や業務用オーディオ、Public Addressなどの用途に限られている。高音域スピーカーの振動板としての使用例としては、ヤマハ・パイオニアなどの音響機器メーカーの製品がある。それ以外ではヤマハ・パイオニア・オーディオテクニカ・グレース製ピックアップ・カートリッジのカンチレバーに用いられた例がある。また、その熱伝導率のよさから、セラミック送信管(アイマック(英語版)社製、eimac8873)の本体および純正放熱用熱伝導体として酸化ベリリウムが採用された例がある。ベリリウムはほかの金属との合金としても頻繁に利用されるが、その合金組成に明記されないこともある。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "ベリリウムの薄いプレートやホイールは、しばしばテラー・ウラム型のような熱核爆弾において、核融合燃料に「点火」するためのトリガーである第一段階の核分裂爆弾を囲うプルトニウムピットの最外層として用いられる。このようなベリリウムの層は、Puを爆縮させるための良好な核反応促進材であり、初期の実験的な原子炉において中性子反射減速材として利用されていたように良好な中性子反射体でもある。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "ベリリウムはまた、比較的少ない中性子を必要とする原子炉規模以下の実験用途において、一般的に中性子源として用いられる。この目的のためのBeターゲット材は、PoやRa、Pu、Amなどの放射性同位体から放出される高エネルギーなアルファ粒子を衝突させることで中性子が取り出される。このときに起こる核反応によって、BeはCになり、遊離した中性子はアルファ粒子が移動するのと同じ方向へ放出される。ベリリウムはそのような中性子源として、urchinと呼ばれる中性子点火器(英語版)として初期の原子爆弾にも利用されていた。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "ベリリウムは欧州連合のトーラス共同研究施設における核融合研究所においても利用されており、より高度なITERにおいてプラズマに直接接する部分の素材としても利用されている。ベリリウムはまた、その機械的、化学的、核的な物性の組み合わせのよさから、核燃料棒の被覆素材としての利用も提案されている。フッ化ベリリウムは、溶融塩原子炉設計の多くの仮定において、溶媒、減速材および冷却材としての使用が想定されている、共晶塩であるフッ化リチウムベリリウム(英語版)を構成する塩のひとつである。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "ベリリウムはIII-V族半導体においてP型半導体のドーパントである。それは、分子線エピタキシー法(MBE)によって製造されるヒ化ガリウムやヒ化アルミニウムガリウム、ヒ化インジウムガリウム、ヒ化インジウムアルミニウム(英語版)のような素材において広く用いられている。クロス圧延されたベリリウムのシートはプリント基板への表面実装における優れた構造支持体である。電子材料におけるベリリウムの重要な用途は、構造支持のみならずヒートシンク素材としての用途がある。この用途においては、アルミナおよびポリイミドガラス基盤と調和した熱膨張率が必要とされる。これらの電子的用途のために特別に設計されたベリリウム-酸化ベリリウム複合材料は「E-Material(英語版)」と呼ばれ、さまざまな基盤素材に合わせて熱膨張率を調整できる利点がある。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "電気絶縁性および優れた熱伝導率、高い耐久性、硬さ、非常に高い融点という複数の特性が要求されるような多くの用途において、酸化ベリリウムが利用される。酸化ベリリウムは、電気通信のための無線周波送信機におけるパワートランジスタの絶縁基盤として多用される。酸化ベリリウムはまた、酸化ウランの核燃料ペレットにおいて熱伝導性を向上させるための用途が検討されている。ベリリウム化合物は蛍光灯にも用いられていたが、ベリリウムを用いた蛍光灯の製造工場で働く労働者にベリリウム中毒が発症したため、この用途でのベリリウムの利用は中止された。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "ベリリウム鉱物である緑柱石のうち、状態のいいものは宝石として利用される。緑柱石由来の宝石としては、不純物としてクロムを含み濃い緑色を呈するエメラルド、2価の鉄を含み水色を呈するアクアマリン、3価の鉄を含み黄色を呈するゴールデンベリル、マンガンを含むレッドベリルやモルガナイトなどがある。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "同じくベリリウム鉱物である金緑石からなる宝石には、宝石の表面に猫の目のような細い光の筋が見えるキャッツアイ効果を示す猫目石や、光源の種類によって見える色が変化する変色効果を示すアレキサンドライトといった特殊な効果を示すものがあり、キャッツアイ効果と変色効果を併せ持つものも存在する。アレキサンドライトの赤紫色は不純物として含まれる鉄によるものである。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "銅(Cu)に0.15–2.0 %程度を混ぜてベリリウム銅合金として利用される。銅よりもはるかに強く、純銅に近い良好な電気伝導性がある。膨張率はステンレス鋼や鋼に近い。ゆっくり変化する磁界に対し高い透磁率をもつ。銅合金の中でも優れた機械的強度を持っており、電気回路のコネクタなどで使われるばねの材料に用いられる。また、磁化しにくい、打撃を受けても火花が出ない特徴を持つことから、石油化学工業などの爆発雰囲気の中で使用する防爆工具に安全保持上用いることもある。ベリリウム銅合金はまた、Jason pistolsと呼ばれる船から錆やペンキをはぎ取るのに用いられる針状の器具にも用いられる。また、銅の代わりにニッケルを用いた合金も同様に利用される。ベリリウム銅合金はベリリウムの持つ毒性のために代替材料の開発が進められており、実用化されているものもある。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "また、アルミベリリウム合金も軽量かつ強度が高い特徴があり、F1レーシングカーの部品(安全性の観点から2004年以降は使用禁止)や航空機の部品にも使用されている。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "堆積学分野では同位体のBeおよびBeと鉛の同位体Pbの存在比率により、地層の堆積物の輸送がどのようなイベントで生じたのか、つまり「ゆっくりと安定した堆積なのか」「河川の氾濫や洪水、嵐による急激な堆積なのか」などを調べることが可能である。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "ベリリウムを含有する塵は人体へと吸入されることによって毒性を示すため、その商業利用には技術的な難点がある。ベリリウムは細胞組織に対して腐食性のため、慢性ベリリウム症と呼ばれる致死性の慢性疾患を引き起こす。",
"title": "危険性"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "ベリリウムは人体への曝露によってベリリウム肺症もしくは慢性ベリリウム症として知られる深刻な慢性肺疾患を引き起こすようにきわめて毒性の高い物質であり、水棲生物に対しても非常に強い毒性を示す。また、細胞組織に対して腐食性であるため、可溶性塩の吸入によって化学性肺炎である急性ベリリウム症を引き起こし、皮膚との接触によって炎症が引き起こされる。",
"title": "危険性"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "慢性ベリリウム症は数週間から20年以上と非常に個人差の大きい潜伏期間があり、その死亡率は37 %で、妊婦においてはさらに死亡率が高くなる。慢性ベリリウム症は基本的には自己免疫疾患であり、感受性を有する人は5 %以下であると見られている。慢性ベリリウム症におけるベリリウムの毒性の機序は、ベリリウムが酵素に影響を与えることで代謝や細胞複製が阻害されることによる。慢性ベリリウム中毒は多くの点でサルコイドーシスに類似しており、鑑別診断においてはこれらを見分けることが重要とされる。",
"title": "危険性"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "急性ベリリウム症は基本的には化学性肺炎であり、慢性ベリリウム症とは異なる機序によるものである。その定義は「継続期間1年未満のベリリウム由来の肺疾患」とされており、ベリリウムへの曝露量と症状の重さには直接的な因果関係が見られる。ベリリウム濃度が1000 μg/m以上になると発症し、100 μg/m未満では発症しないことが明らかとなっている。",
"title": "危険性"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "急性ベリリウム症は最高曝露量の設定による作業環境の改善にともない減少しているが、慢性ベリリウム症はベリリウムを扱う産業において多く発生しており、ベリリウムの許容濃度を順守している工場においても慢性ベリリウム疾患の発症した例が確認されている。また、このような産業に関わらない人々にも化石燃料の燃焼に起因する極微量の曝露がみられる。",
"title": "危険性"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "ベリリウムおよびベリリウム化合物は、WHOの下部機関IARCより発癌性がある(Type1)と勧告されている。カリフォルニア州環境保健有害性評価局が算出した公衆健康目標のガイドライン値は1 μg/L、有害物質疾病登録局が算出した最小リスク質量分率は0.002 mg/kg·d(体重1 kgあたり、1日に0.002 mg)とされている。ベリリウムは生体内で代謝されないため、一度体内に取り込まれたベリリウムは排出されにくく、おもに骨に蓄積されて尿により排出される。",
"title": "危険性"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "1933年(昭和8年)、ドイツにおいて「化学性肺炎」という形で急性ベリリウム症が初めて報告され、ついで1946年(昭和21年)には慢性ベリリウム症がアメリカで報告された。このような症例は蛍光灯工場やベリリウム抽出プラントにおいて多くみられたため、1949年(昭和24年)には蛍光灯におけるベリリウムの利用が中止され、1950年代初頭にはベリリウムの最高曝露濃度が25 μg/mに定められた。こうして作業環境が大幅に改善されたことによって急性ベリリウム症の罹患率は激減したが、核産業や航空宇宙産業、ベリリウム銅などの合金、電子装置の製造などの分野においてはベリリウムの利用が続いている。1952年(昭和27年)、アメリカ合衆国でベリリウム症例登録制度がはじまり、1983年(昭和58年)までに888件の症例が登録された。この制度においては6つの診断基準が定められ、そのうち3つが当てはまると慢性ベリリウム症であるとして登録されるようになっていた。検査技術の向上した2001年(平成13年)現在では、肺の経気管支の生体組織診断などによる組織病理学的な確認、リンパ球幼若化試験およびベリリウムの曝露歴の3点が診断基準とされている。ベリリウムは原子爆弾の核反応促進材に利用されるため、初期の原子爆弾の開発に携わった研究者の幾人かはベリリウム中毒によって命を落としている(たとえばアメリカの核物理学者でありマンハッタン計画にも携わったハーバート・L・アンダーソン(英語版)など)。",
"title": "危険性"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "ベリリウムは酸化被膜のために反応性に乏しい金属であるが、一度着火すると燃焼しやすい性質であるため、空気中にベリリウムの粉塵が存在している状態では粉塵爆発が起こる危険性がある。",
"title": "危険性"
}
] | ベリリウムは、原子番号4の元素である。元素記号はBe。原子量は9.01218。第2族元素のひとつ。 | {{元素
|name = beryllium
|japanese name = ベリリウム
|number = 4
|symbol = Be
|left = [[リチウム]]
|right = [[ホウ素]]
|above = -
|below = [[マグネシウム|Mg]]
|series = アルカリ土類金属
|series comment =
|group = 2
|period = 2
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|series color =
|phase color =
|appearance = 灰白色
|image name = Be foils.jpg
|image name comment =
|image name 2 =
|image size 2 =
|image name 2 comment =
|atomic mass = 9.012182
|atomic mass 2 = 3
|atomic mass comment =
|electron configuration = [[[ヘリウム|He]]] 2s{{sup|2}}
|electrons per shell = 2, 2
|color = 銀白色
|phase = 固体
|phase comment =
|density gplstp =
|density gpcm3nrt = 1.85
|density gpcm3nrt 2 =
|desnity gpcm3nrt 3 =
|density gpcm3mp = 1.690
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|sublimation point K =
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|triple point K 2 =
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|critical point MPa =
|heat fusion = 7.895
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|vapor pressure comment =
|crystal structure = hexagonal
|japanese crystal structure = [[六方晶系]]
|oxidation states = 3, '''2''', 1
|oxidation states comment = [[酸化物|両性酸化物]]
|electronegativity = 1.57
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|magnetic ordering=[[反磁性]]
|electrical resistivity =
|electrical resistivity at 0 =
|electrical resistivity at 20 =
|thermal conductivity=200
|thermal conductivity 2=
|thermal diffusivity =
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|thermal expansion at 25 = 11.3
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|speed of sound rod at 20 =
|speed of sound rod at r.t. = 12870
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|Young's modulus = 287
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|CAS number = 7440-41-7
|isotopes =
{{Elementbox_isotopes_decay
|mn = [[ベリリウム7|7]]
|sym = Be
|na=[[微量放射性同位体|trace]]
|hl = [[1 E6 s|53.12 d]]
|dm = [[電子捕獲|ε]]/[[ガンマ崩壊|γ]]
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{{Elementbox_isotopes_stable
|mn = [[ベリリウム9|9]]
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|na = '''100%'''
|n = 5
}}
{{Elementbox_isotopes_decay
|mn=[[ベリリウム10|10]]
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|pn = [[ホウ素10|10]]
|ps = [[ホウ素|B]]}}
}}
'''ベリリウム'''({{lang-lan|beryllium}}<ref>{{Cite web
|url = http://www.encyclo.co.uk/webster/B/40
|title = Webster's Revised Unabridged Dictionary (1913)
|publisher = ONLINE Encyclopedia
|accessdate = 2011-10-12
}}</ref>, {{lang-en-short|beryllium}} {{IPA-en|bəˈrɪliəm|}})は、[[原子番号]]4の[[元素]]である。[[元素記号]]は'''Be'''。[[原子量]]は9.01218。[[第2族元素]]のひとつ。
== 名称 ==
[[ファイル:Louis Nicolas Vauquelin.jpg|thumb|180px|ヴォークラン]]
[[ファイル:Berillo.jpg|thumb|right|200px|緑柱石]]
[[1798年]]に[[ルイ=ニコラ・ヴォークラン]]が「グルキニウム(旧元素記号Gl、glucinium)」と名づけた。語源のglykysは、ギリシア語で「甘さ」という言葉を意味する。これは、ベリリウム化合物が甘みを持つことに由来している<ref name="Weeks">{{citation
|last = Weeks
|first = Mary Elvira
|year = 1933
|title = The Discovery of the Elements
|publisher = Journal of Chemical Education
|location = Easton, PA
|chapter = XII. Other Elements Isolated with the Aid of Potassium and Sodium: Beryllium, Boron, Silicon and Aluminium
|isbn = 0-7661-3872-0}}</ref>。
[[1828年]]には、[[マルティン・ハインリヒ・クラプロート]]が「ベリリウム」と命名した。この名前は[[緑柱石]](beryl、[[ギリシア語]]で beryllos)に由来している<ref>[[#yamaguchi2007|山口 (2007) 58頁。]]</ref><ref name="名前なし-1">{{cite book|和書
|title = 元素を知る事典: 先端材料への入門
|author = 村上雅人
|year = 2004
|page = 68
|publisher = 海鳴社
|isbn = 487525220X
}}</ref>。
== 歴史 ==
初期の分析において[[緑柱石]]と[[エメラルド]]は常に類似した成分が検出されており、この物質は[[ケイ酸アルミニウム]]であると誤って結論づけられていた。[[鉱物学]]者であった[[ルネ=ジュスト・アユイ]]はこの2つの[[結晶]]が著しい類似点を示すことを発見し、彼はこれを化学的に分析するために[[化学者]]である[[ルイ=ニコラ・ヴォークラン]]に尋ねた。[[1797年]]、ヴォークランは緑柱石をアルカリで処理することによって[[水酸化アルミニウム]]を溶解させ、[[アルミニウム]]からベリリウム酸化物を分離させることに成功した<ref>{{citation
|journal = Annales de Chimie
|url = https://books.google.co.jp/books?id=dB8AAAAAMAAJ&pg=RA1-PA155&redir_esc=y&hl=ja
|pages = 155-169
|first = Louis-Nicolas|last = Vauquelin
|title = De l'Aiguemarine, ou Béril; et découverie d'une terre nouvelle dans cette pierre
|year = 1798
|issue = 26
}}</ref>。
[[1828年]]に[[フリードリヒ・ヴェーラー]]<ref>{{citation
|journal = Annalen der Physik
|volume = 89
|issue = 8
|pages = 577-582
|title = Ueber das Beryllium und Yttrium
|first = Friedrich
|last = Wöhler
|authorlink = フリードリヒ・ヴェーラー|doi = 10.1002/andp.18280890805
|year = 1828
|bibcode = 1828AnP....89..577W
}}</ref>と[[アントワーヌ・ビュシー]]<ref>{{citation
|journal = Journal de Chimie Medicale
|url = https://books.google.co.jp/books?id=pwUFAAAAQAAJ&pg=PA456&redir_esc=y&hl=ja
|pages = 456-457
|first = Antoine
|last = Bussy
|title = D'une travail qu'il a entrepris sur le glucinium
|year = 1828
|issue = 4
}}</ref>がそれぞれ独自に、金属[[カリウム]]と[[塩化ベリリウム]]を反応させることによるベリリウムの単離に成功した。
: <chem>BeCl2 + 2K -> 2KCl + Be</chem>
[[カリウム]]は、当時新しく発見された方法である[[電気分解]]によってカリウム化合物より生産されていた。この化学的手法によって得られるベリリウムは小さな粒状であり、金属ベリリウムの[[地金|インゴット]]を[[鋳造]]もしくは[[鍛造]]することはできなかった<ref name="名前なし-1"/>。[[1898年]]、{{仮リンク|ポール・ルボー|en|Paul Lebeau}}は[[フッ化ベリリウム]]と[[フッ化ナトリウム]]の混合融液を直接電気分解することによって、初めて純粋なベリリウムの試料を得た<ref name="Weeks" />。19世紀は、新しいベリリウム化合物が見つかると、融点や溶解度だけでなく、味までも報告するのが当たり前だった<ref name="名前なし-2">{{Cite book|title=Muki kagaku.|url=https://www.worldcat.org/oclc/1022213386|publisher=東京化学同人|date=2009|isbn=978-4-8079-0684-0|oclc=1022213386|others=Rayner-Canham, Geoffrey., Overton, T. (Tina), Nishihara, hiroshi., Takagi, shigeru., Moriyama, hiroshi., 西原, 寛}}</ref>。
[[第一次世界大戦]]以前にも有意な量のベリリウムが生産されていたが、大規模生産が始まったのは1930年代初期からである。ベリリウムの生産量は、硬い[[ベリリウム銅]]合金および蛍光灯の蛍光体用途の需要の伸びによって、[[第二次世界大戦]]中に急速に増加した。初期の[[蛍光灯]]にはベリリウムを含有した[[オルトケイ酸亜鉛]]が使用されていたが、のちにベリリウムの有毒性が発見されたため[[ハロリン酸系蛍光体]]に置き換えられた<ref>{{citation
|chapter = A Review of Early Inorganic Phosphors
|url = https://books.google.co.jp/books?id=klE5qGAltjAC&pg=PA98&redir_esc=y&hl=ja
|page = 98
|title = Revolution in lamps: a chronicle of 50 years of progress
|isbn = 9780881733785
|author1 = Kane, Raymond
|author2 = Sell, Heinz
|year = 2001}}</ref>。また、ベリリウムの初期の主要な用途のひとつとして、その硬さや融点の高さ、非常に優れた[[ヒートシンク]]性能を利用した軍用機の[[ブレーキ]]への利用が挙げられるが、こちらも環境への配慮から別の材料に代替された<ref name=Be/>。
== 特徴 ==
ベリリウムは[[緑柱石]]などの[[鉱物]]から産出される。緑柱石は不純物に由来する色の違いによって[[アクアマリン]]や[[エメラルド]]などと呼ばれ、[[宝石]]としても用いられる。常温常圧で安定した[[結晶構造]]は[[六方最密充填構造]](HCP)である。単体は銀白色の金属で、空気中では表面に酸化被膜が生成され安定に存在できる。[[モース硬度]]は6から7を示し、硬く、常温では脆いが、高温になると[[展延性]]が増す。[[酸]]にも[[アルカリ]]にも溶解する。ベリリウムの安定同位体は恒星の[[元素合成]]においては生成されず、[[宇宙線による核破砕]]によって[[炭素]]や[[窒素]]などより重い元素から生成される。
ベリリウムは[[周期表]]の上では[[第2族元素]]に属しているが、その性質は同じ族の元素である[[カルシウム]]や[[ストロンチウム]]よりもむしろ[[第13族元素]]である[[アルミニウム]]に類似している<ref name=chitani187>[[#千谷1959|千谷 (1959)]] 187頁。</ref>。たとえば、カルシウムやストロンチウムは[[炎色反応]]によって発色するが、ベリリウムは無色である<ref name=chitani198>[[#千谷1959|千谷 (1959)]] 198頁。</ref>。そのため、ベリリウムは第2族元素ではあるが、[[アルカリ土類金属]]には含めないこともある<ref name=basic26>[[#櫻井鈴木中尾2003|櫻井、鈴木、中尾 (2005)]] 26頁。</ref>。また、ベリリウムの[[二元化合物]]の構造は[[亜鉛]]とも類似している<ref name=CW267>[[#CW1987|コットン、ウィルキンソン (1987)]] 267頁。</ref>。
=== 物理的性質 ===
ベリリウムの同素体は2つあり、常温、常圧([[標準状態]])における安定した[[結晶構造]]は[[六方最密充填構造]](HCP)であり、その[[格子定数]]はa=226.8 pm、b=359.4 pmである<ref name=chitani199>[[#千谷1959|千谷 (1959)]] 199頁。</ref>。高温になると、体心立方格子の結晶構造が最も安定となる。モース硬度6から7<ref>{{Cite journal
|title = Occurrence of nonpegmatite beryllium in the United States
|author = Lawrence A. Warner et al.
|publisher = [[アメリカ地質調査所|United States Geological Survey]]
|page = 2
|journal = U.S. Geological Survey professional paper
|volume = 318
}}</ref>と第2族元素の中でもっとも硬いが、粉砕によって粉末にできるほど脆い<ref name=chitani193/>。しかしながら、高温になると[[展延性]]が増すため<ref>{{Cite book
|title = 無機化学ハンドブック
|author = 無機化学ハンドブック編集委員会
|year = 1965
|publisher = 技報堂出版
|page = 1229
|isbn = 4765500020
}}</ref>、[[核融合炉]]のような高温条件で利用する用途において高い機械的性質を発揮することができる<ref name=yoshida>{{Cite journal
|author = 吉田直亮
|year = 1995
|title = PFC開発における材料損傷研究
|journal = プラズマ・核融合学会誌
|volume = 71
|issue = 5
|publisher = プラズマ・核融合学会
|url = http://jasosx.ils.uec.ac.jp/JSPF/JSPF_TEXT/jspf1995/jspf1995_05/jspf1995_05-389.pdf
|accessdate = 2012-01-25
}}</ref>。この用途では、{{val|400|ul=degC}}を下回る温度になると使用上問題となるレベルにまで[[展延性]]が低下してしまう<ref name=yoshida/>。比重は1.816、[[融点]]は1284 °C、[[沸点]]は2767 °Cである<ref name=chitani193/>。
ベリリウムの[[ヤング率]]は287 GPaと[[鉄]]のヤング率より50 %も高く<ref>{{Cite web|和書|title=ベリリウム反射体要素欠陥評価法に関する検討|url=http://jolissrch-inter.tokai-sc.jaea.go.jp/pdfdata/JAEA-Technology-2011-034.pdf|publisher=日本原子力研究開発機構|page=6|accessdate=2014-08-19}}</ref>、非常に強い[[曲げ強さ]]を有している。このような高いヤング率に由来してベリリウムの[[剛性]]は非常に優れており、後述の熱負荷の大きい環境における安定性も相まって[[宇宙船]]や[[航空機]]などの構造部材に利用されている。また、このヤング率の大きさと、ベリリウムが比較的低密度であるという物性が組み合わさることにより、周囲の状況に応じて変化するものの、およそ12.9 km/sという著しく高い音の伝導性を示す。この性質を利用して音響材料におけるスピーカーの[[振動板]]などに用いられている。ベリリウムの他の重要な特性としては、{{val|1925|u=J/(kg·K)}}という高い[[比熱]]および、{{val|216|u=W/(m·K)}}という高い[[熱伝導率]]が挙げられ、これらの物性によってベリリウムは単位重量当たりの放熱物性にもっとも優れた金属である。この放熱物性を利用した用途として[[ヒートシンク]]材料が挙げられ、電子材料などにおいて活用されている。またこれらの物性は、{{val|11.4|e=-6|u=K{{sup-|1}}}}という比較的低い線形[[熱膨張率]]や1284 °Cという高い融点も相まって、熱負荷の大きな状況下における非常に高い安定性をもたらしている<ref name=Be>{{citation
|title = Landolt-Börnstein - Group VIII Advanced Materials and Technologies: Powder Metallurgy Data. Refractory, Hard and Intermetallic Materials
|chapter = 11 Beryllium
|volume = 2A1
|doi = 10.1007/10689123_36
|isbn = 978-3-540-42942-5
|pages = 1-11
|editor = Beiss, P.
|author = Behrens, V.
|year = 2003
|publisher = Springer
|location = Berlin
}}</ref>。
=== 化学的性質 ===
ベリリウムの[[単体]]は[[還元]]性が非常に強く、その標準[[酸化還元電位]]E{{sub|0}}は −1.85 [[ボルト (単位)|V]] である<ref>[[#charlot1974|シャルロー (1974)]] 295頁。</ref>。この標準電位の値は[[イオン化傾向]]において[[アルミニウム]]の上に位置しているため大きな化学活性が期待されるが、実際には表面が酸化物の膜(酸化被膜)に覆われて[[不動態]]化するため高温に熱した状態でさえも空気や水と反応しない。しかしながら、いったん点火すれば輝きながら燃焼して[[酸化ベリリウム]]と[[窒化ベリリウム]]の混合物が形成される<ref name=Greenwood>{{citation
|author = N. N. Greenwood, A. Earnshaw
|year = 1997
|title = Chemistry of the Elements
|edition = 2nd ed.
|publisher = Elsevier Science Ltd (Butterworth-Heinemann)
|location = Oxford
|isbn = 0080379419
}}</ref>。
ベリリウムは通常、表面に酸化被膜を形成しているため[[酸]]に対しての強い耐性を示すが、酸化被膜を取り除いた純粋なベリリウムでは、[[塩酸]]や希[[硫酸]]のような[[酸化]]力を持たない酸に対しては容易に溶解する。[[硝酸]]のような酸化力を有する酸に対してはゆっくりとしか溶解しない。また、強[[アルカリ]]に対しては[[オキソ酸]]イオンであるベリリウム酸イオン(Be(OH){{sub|4}}{{sup|2−}})を形成して[[水素]]ガスを発生させながら溶解する。このような酸やアルカリに対する性質はアルミニウムと類似している<ref name=CW271>[[#CW1987|コットン、ウィルキンソン (1987)]] 271頁。</ref>。ベリリウムは水とも水素を発生させながら反応するが、水との反応によって生じる[[水酸化ベリリウム]]は水に対する溶解度が低く金属表面に被膜を形成するため、金属表面のベリリウムが反応しきればそれ以上反応は進行しない<ref name=chitani195>[[#千谷1959|千谷 (1959)]] 195頁。</ref>。
[[ファイル:Elektronskal 4.png|left|thumb|150px|ベリリウムの[[電子殻]]]]
ベリリウム[[原子]]の[[電子配置]]は[He]2s{{sup|2}}である。ベリリウムはその[[原子半径]]の小ささに対して[[イオン化エネルギー]]が大きいため[[電荷]]を完全に分離することは難しく、そのためベリリウムの化合物は[[共有結合]]性を有している<ref name=CW269>[[#CW1987|コットン、ウィルキンソン (1987)]] 269頁。</ref>。また、ベリリウムの高い正の電荷密度からも共有結合性を説明できる。ファヤンスの法則によると、イオン結合で、サイズが小さく高い正の電荷を持つ陽イオンは、陰イオンの最外殻電子を引っ張り、(これを分極という。)共有結合性を生じる。ベリリウムイオンはサイズが小さく2+と電荷も高いため、共有結合性を有する<ref name="名前なし-2"/>。[[第2周期元素]]は原子量が大きくなるにしたがって[[イオン化エネルギー]]も増大する法則が見られるが、ベリリウムはその法則から外れており、より原子量の大きな[[ホウ素]]よりもイオン化エネルギーが大きい。これは、ベリリウムの[[最外殻電子]]が2s軌道上にあり、[[ホウ素]]の最外殻電子は2p軌道上にあることに起因している。2p軌道の電子は内殻に存在するs軌道の電子によって[[遮蔽効果]]([[有効核電荷]]も参照)を受けるため、2p軌道に存在する最外殻電子のイオン化エネルギーが低下する。一方で2s軌道の電子は遮蔽効果を受けないため、相対的に2p軌道の電子よりも[[イオン化エネルギー]]が大きくなり、これによってベリリウムとホウ素の間でイオン化エネルギーの大きさの逆転が生じる<ref>{{cite book|和書
|title = 物理化学II: 量子化学編
|author = 伊藤和明
|year = 2008
|series = 理工系基礎レクチャー
|publisher = 化学同人
|page = 112
|isbn = 4759810854
}}</ref>。
ベリリウムの[[錯体]]もしくは錯イオンは、たとえばテトラアクアベリリウム(II)イオン(Be[(H{{sub|2}}O){{sub|4}}]{{sup|2+}})やテトラハロベリリウム酸イオン(BeX{{sub|4}}{{sup|2−}})のように、多くの場合4[[配位結合|配位]]を取る<ref name=CW269/>。[[エチレンジアミン四酢酸|EDTA]] はほかの[[配位子]]よりも優先してベリリウムに配位して[[八面体形]]の錯体を形成するため、分析技術にこの性質が利用される。たとえば、ベリリウムのアセチルアセトナト錯体にEDTAを加えると、EDTAが[[アセチルアセトン]]よりも優先してベリリウムとの間で錯体を形成してアセチルアセトンが分離するため、ベリリウムを[[溶媒抽出法|溶媒抽出]]することができる。このようなEDTAを用いた錯体形成においてはAl{{sup|3+}}のようなほかの陽イオンによって悪影響を受けることがある<ref>{{citation
|title = Determination of a trace amount of beryllium in water samples by graphite furnace atomic absorption spectrometry after preconcentration and separation as a beryllium-acetylacetonate complex on activated carbon
|author = Okutani, T.; Tsuruta, Y.; Sakuragawa, A.
|journal = Anal. Chem.
|year = 1993
|volume = 65
|pages = 1273-1276
|doi = 10.1021/ac00057a026
|issue = 9
}}</ref>。
=== 化合物 ===
[[ファイル:Beryllium sulfate 4 hydrate.jpg|thumb|150px|硫酸ベリリウム]]
[[硫酸ベリリウム]]や[[硝酸ベリリウム]]のようなベリリウム[[塩 (化学)|塩]]の[[溶液]]は <chem>[Be(H2O)4]^{2+}</chem>イオンの[[加水分解]]によって酸性を示す。
: <chem>[Be(H2O)4]^2+ + H2O <=> [Be(H2O)3(OH)]^+ + H3O^+</chem>
加水分解によるほかの生成物には、[[二量体|3量体]]イオン <chem>[Be3(OH)3(H2O)6]^{3+}</chem>が含まれる。
ベリリウムは多くの[[非金属]]原子と[[二元化合物]]を形成する。無水ハロゲン化物としては、[[フッ素]]、[[塩素]]、[[臭素]]、[[ヨウ素]]との化合物が知られており、固体状態においては橋掛け結合によって[[重合体|重合]]している<ref name=CW269/>。[[フッ化ベリリウム]](BeF{{sub|2}})は、[[二酸化ケイ素]]のような角を共有したBeF{{sub|4}}の四面体構造を取り、[[ガラス]]状においては無秩序な直鎖構造を取る<ref name=CW272>[[#CW1987|コットン、ウィルキンソン (1987)]] 272頁。</ref>。[[塩化ベリリウム]]および[[臭化ベリリウム]]は両端を共有した直鎖状の構造を取る。すべての[[ハロゲン化物|ハロゲン化]]ベリリウムは、気体の状態においては線形の[[モノマー]]分子構造を取る<ref name="Greenwood" /><ref name=CW269/>。塩化ベリリウムは金属ベリリウムを塩素と直接反応させることによって得られ、これは[[塩化アルミニウム]]と同様の製法である<ref name=chitani222>[[#千谷1959|千谷 (1959)]] 222頁。</ref>。
酸化ベリリウムは[[ウルツ鉱型構造]]を取る耐火性の白色結晶であり、金属と同じぐらい高い熱伝導率を有する。酸化ベリリウムは2種類の[[多形]]が存在し、低温型の酸化ベリリウムは熱したアルカリ溶液などに溶解するが、高温では[[相転移]]してより安定な構造となり、濃硫酸に[[硫酸アンモニウム]]を加えた熱シロップのみにしか溶解しなくなる<ref name=CW271/>。ほかのベリリウムと[[第16族元素]]との化合物は[[硫化ベリリウム]]や[[セレン化ベリリウム]]、[[テルル化ベリリウム]]が知られており、それらはすべて[[閃亜鉛鉱型構造]]を取る<ref name="Wiberg&Holleman">{{citation
|author = Wiberg, Egon; Holleman, Arnold Frederick
|year = 2001
|title = Inorganic Chemistry
|publisher = Elsevier
|isbn = 0123526515
}}</ref>。[[水酸化ベリリウム]]は[[両性 (化学)|両性]]を示し<ref name=CW271/>、その酸性水溶液がほかのベリリウム塩を合成する出発原料とされる<ref name="Greenwood" />。
[[窒化ベリリウム]](Be{{sub|3}}N{{sub|2}})は非常に[[加水分解]]をしやすい、高融点な化合物である。[[アジ化ベリリウム]](BeN{{sub|6}})および[[リン化ベリリウム]](Be{{sub|3}}P{{sub|2}})は窒化ベリリウムと類似した構造を有していることが知られている。塩基性硝酸ベリリウムおよび塩基性[[酢酸ベリリウム]]は4つのベリリウム原子が中心の酸素イオンに配位した四面体構造を取る<ref name="Wiberg&Holleman" />。Be{{sub|5}}B、Be{{sub|4}}B、Be{{sub|2}}B、BeB{{sub|2}}、BeB{{sub|6}}、BeB{{sub|12}}のようないくつかの[[ホウ素化ベリリウム]]も知られている。[[炭化ベリリウム]](Be{{sub|2}}C)は耐火性のレンガ色をした化合物であり、水と反応して[[メタン]]を発生させる<ref name="Wiberg&Holleman" />。ケイ素化ベリリウムは同定されていない<ref name="Greenwood" />。
=== 核的性質 ===
ベリリウムは、高エネルギーな[[中性子線]]に対して広い[[散乱断面積]]を有しており、その散乱断面積は0.01 [[電子ボルト|eV]] を上回るものに対しておよそ6[[バーン (単位)|バーン]]である。散乱断面積の正確な値はベリリウムの結晶サイズや純度に強く依存するため実際の散乱断面積は1桁ほど低くなり、ベリリウムが効果的に[[減速材|減速]]させることのできる中性子線のエネルギー範囲0.03 eV 以上のものに限られる。このため、ベリリウムは高エネルギーな[[熱中性子]]は効果的に減速させることができるものの、エネルギーの低い[[中性子線|冷中性子]]は減速させることができずに透過してしまう。この性質を利用して、さまざまなエネルギーを持つ[[中性子]]の中から冷中性子のみを取り出すためのフィルターとして利用される<ref>{{Cite journal
|url = https://hdl.handle.net/2115/41603
|title = ベリリウムフィルターの散乱冷中性子による透過スペクトル歪
|author = 井上和彦、坂本幸夫
|journal = 北海道大學工學部研究報告
|publisher = 北海道大学
|volume = 97
|pages = 57-61頁。
}}</ref>。
ベリリウムのおもな同位体である{{sup|9}}Beは(n, 2n)中性子反応によって1つの中性子を消費して2つの中性子を放出し、2つのアルファ粒子に分裂する。したがって、ベリリウムの中性子反応は消費する中性子よりも多くの中性子を放出して系内の中性子を増加させる。
: <chem>^9_4Be{} + \mathit{n} -> 2(^4_2He){} + 2\mathit{n}</chem><ref name="BeMelurgy" />
金属としてのベリリウムは大部分のX線および[[ガンマ線]]を透過するため、X線管などのX線装置におけるX線の出力窓として有用である。ベリリウムはまた、ベリリウムの原子核と高速の[[アルファ粒子]]との衝突によって中性子線を放出するため、実験における比較的少数の[[中性子線]]を得るための良好な中性子線源である<ref name=Be/>。
: <chem>^9_4Be{} + ^4_2He -> ^{12}_6C{} + \mathit{n}</chem><ref name="BeMelurgy">{{citation
|url = https://books.google.co.jp/books?id=FCnUN45cL1cC&pg=PA239&redir_esc=y&hl=ja
|page = 239
|chapter = Nuclear Properties
|title = Beryllium its Metallurgy and Properties
|publisher = University of California Press
|first = Henry H|last = Hausner}}</ref>
=== 同位体および元素合成 ===
[[ファイル:Solar Activity Proxies.png|thumb|300px|太陽活動の変化による{{sup|10}}Be濃度変化のプロット。{{sup|10}}Be濃度を示す左側の縦軸は上にいくほど値が小さくなっていることに注意]]
{{main|ベリリウムの同位体}}
ベリリウムの安定[[同位体]]は{{sup|9}}Beのみであり、したがってベリリウムは[[モノアイソトピック元素]]である。{{sup|9}}Beは恒星において[[宇宙線]]の[[陽子]]が[[炭素]]などのベリリウムよりも重い元素を崩壊させることによって生成され、[[超新星爆発]]によって宇宙中に分散する。このようにして宇宙中にチリやガスとして分散した{{sup|9}}Beは、[[分子雲]]を形成する原子のひとつとして[[星形成]]に寄与し、新しくできた星の構成元素として取り込まれる<ref>[[#Monica2010|Brian, Monica (2010)]] p. 58</ref>。
{{sup|10}}Beは、[[地球の大気]]に含まれる[[酸素]]および[[窒素]]が[[宇宙線による核破砕]]を受けることで生成される。宇宙線による核破砕によって生成したベリリウム同位体の大気中の滞在時間は[[成層圏]]で1年程度、[[対流圏]]で1か月程度とされており、その後は地表面に蓄積する。{{sup|10}}Beは[[ベータ崩壊]]によって{{sup|10}}[[ホウ素|B]] になるものの、その136万年という比較的長い[[半減期]]のために{{sup|10}}Beとして地表面に長期間滞留し続ける。そのため、{{sup|10}}Beおよびその娘核種は、自然界における[[土壌]]の[[侵食]]や形成、[[ラテライト]]の発達などを調査するのに利用される<ref>{{cite web
|url = http://www.sahra.arizona.edu/programs/isotopes/beryllium.html
|title = Beryllium: Isotopes and Hydrology
|author =
|date =
|work =
|publisher = University of Arizona, Tucson
|accessdate =2011-04-10
}}</ref>。また、[[太陽]]の磁気的活動が活発化すると[[太陽風]]が増大し、その期間は太陽風の影響によって地球に到達する[[銀河宇宙線]]が減少するため、銀河宇宙線によって生成される{{sup|10}}Beの生成量は太陽活動の活発さに反比例して減少する。したがって{{sup|10}}Beは、同様に宇宙線によって生成される{{sup|14}}C([[炭素14]])とともに太陽活動の変動を記録しているため、極地方の[[氷床コア|アイスコア]]中に残された{{sup|10}}Beおよび{{sup|14}}Cの解析をすることで、過去の太陽活動の変遷を間接的に知ることができる<ref>{{Cite web|和書
|url = https://kaken.nii.ac.jp/file/KAKENHI-PROJECT-18340153/18340153seika.pdf
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20181104182833/https://kaken.nii.ac.jp/file/KAKENHI-PROJECT-18340153/18340153seika.pdf
|format = PDF
|title = ベリリウム10と炭素14を用いた最終退氷期の太陽活動変遷史に関する研究
|work = 科学研究費補助金研究成果報告書
|author = 堀内一穂ほか
|date = 2009-5-20
|accessdate = 2018-11-4
|archivedate = 2018-11-4
}}</ref>。
[[核爆発]]もまた{{sup|10}}Beの生成源であり、核爆発によって発生した[[高速中性子]]が大気中の[[二酸化炭素]]に含まれる{{sup|13}}Cと反応することによって生成される。これは、[[核実験]]試験場の過去の活動を示す指標のひとつである<ref>{{citation
|doi = 10.1016/j.jenvrad.2007.07.016
|year = 2008
|month = Feb
|author = Whitehead, N; Endo, S; Tanaka, K; Takatsuji, T; Hoshi, M; Fukutani, S; Ditchburn, Rg; Zondervan, A
|title = A preliminary study on the use of (10)Be in forensic radioecology of nuclear explosion sites
|volume = 99
|issue = 2
|pages = 260-70
|pmid = 17904707
|journal = Journal of environmental radioactivity
}}</ref>。
半減期53日の同位体{{sup|7}}Beもまた宇宙線によって生成され、その大気中の存在量は{{sup|10}}Beと同様に太陽活動と関係している。[[ベリリウム8|{{sup|8}}Be]]の半減期はおよそ{{val|7|e=-17|u=s}}と非常に短く、この半減期の短さはベリリウムよりも重い元素が[[ビッグバン原子核合成]]によっては生成されなかった原因ともなっている<ref>{{citation
|last1 = Boyd
|first1 = R. N.
|last2 = Kajino
|first2= T.
|year = 1989
|title = Can Be-9 provide a test of cosmological theories?
|journal = The Astrophysical Journal
|volume = 336
|bibcode = 1989ApJ...336L..55B
|pages = L55
|doi = 10.1086/185360
}}</ref>。すなわち、{{sup|8}}Beの半減期が非常に短いためにビッグバン原子核合成段階の宇宙において[[原子核融合|核融合反応]]に利用できる{{sup|8}}Beの濃度が非常に低く、そのような低濃度の{{sup|8}}Beが{{sup|4}}Heと核融合して炭素を合成するにはビッグバン原子核合成段階の時間が不十分であったことに起因する。[[イギリス]]の[[天文学者]]である[[フレッド・ホイル]]は、{{sup|8}}Beおよび{{sup|12}}Cの[[エネルギー準位]]から、より多くの時間を元素合成に利用することが可能なヘリウムを燃料とする[[恒星]]内であれば、いわゆる[[トリプルアルファ反応]]と呼ばれる反応によって炭素の生成が可能であることを示し、それによって[[超新星]]によって放出される塵とガスから炭素を基礎とした生命の創生が可能となることを明らかにした<ref>{{citation
|url = https://books.google.co.jp/books?id=PXGWGnPPo0gC&pg=PA223&redir_esc=y&hl=ja
|page = 223
|title = Supernovae and nucleosynthesis
|author = Arnett, David
|publisher = Princeton University Press
|year = 1996
|isbn = 0691011478
}}</ref>。
ベリリウムのもっとも内側の電子は[[化学結合]]に関与することができるため、{{sup|7}}Beの[[電子捕獲]]による崩壊は、化学結合に関与することのできる[[原子軌道]]から電子を奪うことによって起こる。その崩壊確率はベリリウムの電子構成に大部分を依存しており、核崩壊においてまれなケースである<ref>{{Cite web
|url = http://math.ucr.edu/home/baez/physics/ParticleAndNuclear/decay_rates.html
|title = How to Change Nuclear Decay Rates
|first = Bill
|last = Johnson
|publisher = University of California, Riverside
|accessdate = 2011-10-10
|year = 1993
}}</ref>。
既知のベリリウム同位体のうち、もっとも半減期が短いものは[[中性子放出]]によって崩壊する{{sup|13}}Beであり、その半減期は{{val|2.7|e=-21|u=s}}である。{{sup|6}}Beもまた非常に半減期が短く、{{val|5.0|e=-21|u=s}}である<ref name=crc>Hammond, C. R. "Elements" in {{RubberBible86th}}</ref>。[[エキゾチック原子核]]である{{sup|11}}Beおよび{{sup|14}}Beは、中性子が[[原子核]]の周りを周回する[[中性子ハロー]]を示すことが知られている<ref>{{citation
|doi = 10.1146/annurev.ns.45.120195.003111
|title = Nuclear Halos
|year = 1995
|author = Hansen, P. G.; Jensen, A. S.; Jonson, B.
|journal = Annual Review of Nuclear and Particle Science
|volume = 45
|pages = 59
1|bibcode = 1995ARNPS..45..591H }}</ref>。この現象は、[[液滴模型]]において、古典的な[[トーマス・フェルミモデル|トーマス・フェルミ理論]]による表面対称エネルギーの影響によって、中性子の分布が陽子分布よりも外部に大きく広がっていると理解することができる<ref>{{Cite web|和書
|url = http://www2.aasa.ac.jp/graduate/gsscs/reports01/PDF/05-001.pdf
|title = 原子核の表面対称エネルギーの検討
|author = 親松和浩
|accessdate = 2011-10-10
}}</ref>。
ベリリウムの不安定な同位体元素は[[恒星内元素合成]]においても生成されるが、これらは生成後すぐに崩壊する<ref>{{citation
|url = https://books.google.co.jp/books?id=ILQ7sTrRixMC&pg=PA172&redir_esc=y&hl=ja
|page = 172
|title = Physics: 1981-1990
|author = Ekspong, G. ''et al.''
|publisher = World Scientific
|year = 1992
|pages = 172 ff.
|isbn = 9789810207298
}}</ref>。
なお、原子番号が偶数で、安定同位体が1つしかない元素はベリリウムだけである<ref>[[#kenneth2009|Kenneth (2009)]] p. 151</ref>。通常、原子番号が20以下の元素においては、[[ベーテ・ヴァイツゼッカーの公式|ベーテ・ヴァイツゼッカーの質量公式]]のペアリング項に現われるように、陽子と中性子が偶数であるものは奇数のものと比較して[[質量欠損|結合エネルギー]]が大きく安定であるのに加え、対称性項に現われるように陽子数と中性子数が同数のものほどのため安定となるが、陽子数および中性子数がともに4である{{sup|8}}Beは例外的に不安定である<ref>{{Cite web|和書
|url = http://www.th.phys.titech.ac.jp/~muto/lectures/INP02/INP02_chap03.pdf
|title = 原子核物理学概論 平成14年度講義資料 第3章 質量公式
|pages = 44-45, 49
|publisher = 東京工業大学 武藤研究室
|accessdate = 2011-10-13
}}</ref>。これは、{{sup|8}}Beの崩壊生成物である{{sup|4}}Heが[[魔法数]]を取っているため非常に安定であることによる。
== 分析 ==
ベリリウムの性質は[[アルカリ土類金属]]よりも[[アルミニウム]]などと類似しているため、ベリリウムの分析方法はアルミニウムや鉄、[[クロム]]、[[希土類元素]]などと同一のグループとして扱われる。このようなグループは[[アンモニア]]によるアルカリ性の条件において[[水酸化物]]の[[沈殿]]を生じることから[[定性無機分析#第3属カチオン|アンモニア属]]と呼ばれる<ref>[[#charlot1974|シャルロー (1974)]] 287頁。</ref>。
=== 定性分析 ===
ベリリウムはアルカリ性の状態で3, 5, 7, 2', 4'-ペンタヒドロキシフラボン(モリン)と反応させることで黄色の[[蛍光]]を観察することができるため、この反応を利用して[[定性分析]]を行うことができる。この蛍光は日光ではあまり発色しないため、発色を観察するためには[[紫外線]]の照射を行う。このベリリウムとモリンとの反応を阻害するようなイオンが共存していなければ、10{{sup-|6}}の分率でも十分に強い発色を観察することができるほどに分析感度が高く、この方法での検出限界は0.02 ng(= 10{{sup|−9}} g)である<ref name=charlot297>[[#charlot1974|シャルロー (1974)]] 297頁。</ref><ref name=WHO12>[[#WHONIHS2001|WHO, NIHS (2001) 12頁。]]</ref>。モリンは[[リチウム]]や[[スカンジウム]]、大量の[[カルシウム]]や[[亜鉛]]などとも反応して蛍光を発するため、これらのイオンが共存しているとベリリウムの検出を阻害するが、その発光強度は弱いため通常は問題とならない。また、カルシウムは[[ピロリン酸]]、亜鉛は[[シアン化物]]を加えることによってそれらの元素とモリンとの反応を抑制することができる<ref name=charlot297/>。
=== 定量分析 ===
ベリリウムはアンモニアによって水酸化物の沈殿を生じるため、これを利用して[[重量分析]]を行うことができる<ref name=katou100>[[#katou1932|加藤 (1932)]] 100頁。</ref>。この水酸化物の沈殿は[[水素イオン指数|pH]]6.5から10までの範囲で生じ、アンモニア添加量が過剰になりpHが高くなりすぎると水酸化物の沈殿が再溶解してしまう<ref>[[#charlot1974|シャルロー (1974)]] 296頁。</ref>。得られた水酸化物を[[濾過]]、洗浄したあと、強熱することで水酸化ベリリウムを酸化ベリリウムとし、その重量を計量することでベリリウム濃度が分析される。この方法を用いる場合、分析試料の溶液中に[[炭酸塩]]もしくは[[炭酸ガス]]が含まれると、水酸化ベリリウムとして沈殿せずに炭酸ベリリウムとして溶液中に残ってしまうため、分析結果に誤差が生じる原因となる。また、沈殿の洗浄が不十分で[[塩化物]]が残留していると、強熱時に[[水酸化ベリリウム]]と反応して[[塩化ベリリウム]]となって[[揮発]]してしまうため、こちらも誤差の原因になる<ref name=katou100/>。鉱石中のベリリウムの分析などの多成分中のベリリウムを分析する際には、アルミニウムや鉄などの成分がベリリウムと同様の条件で水酸化物の沈殿を生成するため、前処理を行いこれらの元素を分離する必要がある<ref>[[#katou1932|加藤 (1932)]] 102頁。</ref>。通常用いられる方法としては、いったん不純物を含んだ水酸化物の沈殿を生成させ、その水酸化物を[[炭酸水素ナトリウム]]で処理し、ベリリウムを水溶性の炭酸塩として水に溶解させることで鉄やアルミニウムから分離する方法が用いられる<ref>[[#katou1932|加藤 (1932)]] 101、104頁。</ref>。また、ケイ素を多く含む場合は[[炭酸ナトリウム]]を用いたアルカリ溶融法が用いられる<ref>[[#katou1932|加藤 (1932)]] 104頁。</ref>。このような古典的手法のほか、イオン交換膜法や水銀電極を用いた[[電気分解]]などの方法も利用される<ref name=WHO12/>。
溶液中の微量のベリリウムの分析には電気炉加熱[[原子吸光|原子吸光光度法]](AAS)もしくは[[誘導結合プラズマ|誘導結合プラズマ発光分析法]](ICP-AES)、誘導結合プラズマ質量分析法(ICP-MS)が用いられる。AASの吸収波長は234.9 [[ナノメートル|nm]] であり、ICP-AESの発光波長は313.042 nm が用いられる。AASでは試料溶液は[[塩酸]]もしくは[[硝酸]]で[[酸性]]に調整し、ICP-AESおよびICP-MSでは硝酸で酸性に調整して分析を行う。[[海水]]のようなほかの塩類を多く含む試料を測定する場合には、EDTAおよびアセチルアセトンを用いて[[溶媒抽出法]]によりベリリウムを分離する<ref>{{Cite web|和書
|title = 要調査項目等調査マニュアル(水質、底質、水生生物)
|url = https://www.env.go.jp/water/chosa/h12-12/401.pdf
|format = pdf
|chapter = IV. 分析法 i.金属類の分析法
|publisher = 環境庁水質保全局水質管理課
|year = 2000
|accessdate = 2011-12-23
}}</ref>。もっとも感度の高いベリリウムの分析手法としては、トリフルオロアセチルアセトンを用いて揮発性のベリリウム錯体として[[ガスクロマトグラフィー]]を用いて分析する方法が挙げられ、検出限界0.08 pg(= 10{{sup|−12}} g)という分析精度が1971年に報告されている<ref name=WHO1213>[[#WHONIHS2001|WHO, NIHS (2001) 12-13頁。]]</ref>。
== 分布 ==
[[ファイル:Beryllium OreUSGOV.jpg|thumb|ベリリウム鉱石]]
ベリリウムは[[宇宙]]において非常にまれな元素で、宇宙全体の平均濃度の推定値は質量分率で10{{sup-|9}}であり、[[ニオブ]]より原子量の小さい元素の中ではホウ素と並んでもっとも存在率が小さい<ref>{{citation
|url = http://www.webelements.com/periodicity/abundance_universe/ |title=Abundance in the universe
|work = Mark Winter, The University of Sheffield and WebElements Ltd, UK
|publisher = WebElements
|accessdate = 2011-09-19
}}</ref>。[[太陽]]内部でも質量分率10{{sup-|10}}とまれであり、[[レニウム]]と同程度の存在量である<ref>{{citation |url = http://www.webelements.com/periodicity/abundance_sun/
|title = Abundance in the sun
|work = Mark Winter, The University of Sheffield and WebElements Ltd, UK
|publisher = WebElements
|accessdate = 2011-09-19
}}</ref>。一方、地球におけるベリリウム濃度は、地表の岩石中の質量分率の推定値でおよそ{{val|2.8|-|5|e=-6}}<ref name=WHO16>[[#WHONIHS2001|WHO, NIHS (2001) 16頁。]]</ref>、海水中でおよそ{{val|6|e=-13}}<ref>{{citation
|url = http://www.webelements.com/periodicity/abundance_seawater/
|title = Abundance in oceans
|work = Mark Winter, The University of Sheffield and WebElements Ltd, UK
|publisher = WebElements
|accessdate = 2011-09-19
}}</ref>、河川の水においては海水中よりは多くおよそ10{{sup-|10}}である<ref>{{citation
|url = http://www.webelements.com/periodicity/abundance_stream/
|title = Abundance in stream water
|work = Mark Winter, The University of Sheffield and WebElements Ltd, UK
|publisher = WebElements
|accessdate = 2011-09-19
}}</ref><ref name=WebElements>{{citation
|url = http://www.webelements.com/beryllium/geology.html
|title = Beryllium: geological information
|work = Mark Winter, The University of Sheffield and WebElements Ltd, UK
|publisher = WebElements
|accessdate = 2011-09-19
}}</ref>。太陽中のベリリウム濃度が地球上のベリリウム濃度と比較して著しく低い原因は、太陽の燃焼における核反応で消費されるためと考えられている<ref>{{Cite book
|author = Charles R. Cowley
|year = 1995
|title = An Introduction to Cosmochemistry
|page = 201
|publisher = Cambridge University Press
|isbn = 0521459206
}}</ref>。
地表の岩石中のベリリウム濃度は前述のようにおよそ{{val|2.8|-|5|e=-6}}であるが、ベリリウム鉱石によって高濃度にベリリウムが存在する地域もある<ref name=WHO16>[[#WHONIHS2001|WHO, NIHS (2001) 16頁。]]</ref>。ベリリウムは約4000種類の既知の鉱石のうち、約100種類の鉱石において主成分となっており<ref>{{Cite book
|author = Rick Adair
|year = 2007
|title = Beryllium
|page = 48
|publisher = The Rosen Publishing Group
|isbn = 1404210032
}}</ref>、その中でも重要なものは、{{仮リンク|ベルトラン石|en|Bertrandite}}(Be{{sub|4}}Si{{sub|2}}O{{sub|7}}(OH){{sub|2}})、[[緑柱石]](Al{{sub|2}}Be{{sub|3}}Si{{sub|6}}O{{sub|18}})および[[フェナカイト]](Be{{sub|2}}SiO{{sub|4}})である<ref>[[#kenneth2009|Kenneth (2009)]] p. 65</ref>。このようなベリリウム鉱石は、おもに[[マグマ]]の冷却過程に由来する[[ペグマタイト]]中で濃縮される<ref>{{Cite web|和書
|title = 梶原・正路(1997)による〔『エネルギー・資源ハンドブック』(1015-1020p)から〕
|url = http://home.hiroshima-u.ac.jp/er/Rmin_EG_B3.html
|publisher = 広島大学地球資源論研究室
|accessdate = 2012-01-28}}</ref>。また、ベリリウム鉱石は[[凝灰岩]]や[[閃長岩]]からも発見されており<ref>{{Cite web|和書
|title = 鉱物資源を考える(5)
|url = http://home.hiroshima-u.ac.jp/er/Rmin_TT5.html
|publisher = 広島大学地球資源論研究室
|accessdate = 2012-01-28
}}</ref>、これらはすべて火山活動に由来する[[火成岩]]や[[火山砕屑岩]]である。また、土壌中のベリリウムは植物によってわずかに吸収され、[[カラマツ]]など特定の植物はベリリウムを蓄積する<ref name=WHO15>[[#WHONIHS2001|WHO, NIHS (2001) 15頁。]]</ref>。
大気中のベリリウム濃度は先進国の都市部でおよそ{{val|0.03|-|0.07|u=ng/m3}}ほどであるが、ベリリウムの[[大気]]への主要供給源は[[化石燃料]]の燃焼によるものであるため、工業化の進んでいない国においてはさらに低濃度になると推測されている。1987年の[[アメリカ合衆国環境保護庁]]のデータによれば、自然におけるベリリウムの大気への放出量は年間5.2トンほどであるが、化石燃料の燃焼を含む人類の活動によるベリリウムの大気への放出量は年間187.4トンにも及ぶ<ref name=WHO1516>[[#WHONIHS2001|WHO, NIHS (2001) 15-16頁。]]</ref>。
== 生産 ==
[[ファイル:Be-140g.jpg|thumb|高純度ベリリウム(99 %以上、140 g)]]
ベリリウムは高温状態で酸素と高い親和性を示すなどの性質を有しているため、ベリリウム化合物から金属ベリリウムを精製することは非常に困難である。19世紀の間は金属ベリリウムを得るための方法として、[[フッ化ベリリウム]]と[[フッ化ナトリウム]]の混合物を[[電気分解]]するという方法が用いられていた<ref name="Weeks" />。しかしこのような方法は、ベリリウムの融点が高いために金属ベリリウムの製造に類似した方法を用いるアルカリ金属の製造と比較して多くのエネルギーが必要だった。[[20世紀]]の初めには、[[ヨウ化ベリリウム]]の熱分解によるベリリウムの生産法が研究され、[[ジルコニウム]]の生産法に類似した方法が成功を収めたが、この方法では大量生産において経済的に採算が取れないことが判明した<ref>{{citation
|doi = 10.1080/08827508808952633
|title = Beryllium Extraction - A Review
|year = 1988
|author = Babu, R. S.
|journal = Mineral Processing and Extractive Metallurgy Review
|volume = 4
|pages = 39
|last2 = Gupta
|first2 = C. K.
|url = http://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/08827508808952633
|accessdate = 2011-09-20
}}</ref>。2007年時点では、ベリリウム鉱石中の酸化ベリリウムを処理することによって[[フッ化ベリリウム]]とし、それを[[マグネシウム]]を用いて還元させることで生産されている<ref name=tanaka>{{cite book|和書
|title = よくわかる最新レアメタルの基本と仕組み
|author = 田中和明
|year = 2007
|page = 115
|publisher = 秀和システム
|isbn = 4798018090
}}</ref>。
: <chem>BeF2 + Mg -> MgF2 + Be</chem>
この金属ベリリウムの精製に用いられるフッ化ベリリウムは、おもにベリリウム鉱物である[[緑柱石]]を原料として生産される<ref name=chitani193/>。ベリリウム鉱石は[[石英]]と同程度の比重であるために比重差を利用した[[選鉱]]を行うことができず、多くの場合選鉱は手作業に頼っているが、ベリリウム鉱石に[[ガンマ線]]を照射することで、ベリリウムから放出された中性子を検出して選別する自動装置も開発されている<ref name=Ullman16>[[#Ullman|Aldinger et al. (1985)]] p. 16</ref>。こうして選鉱された緑柱石からベリリウムを抽出するために[[硫酸]]処理が行われるが、鉱石のままでは硫酸と400 °Cで反応させたとしてもベリリウムはほとんど溶解しないため、前処理としてアルカリ処理もしくは熱処理が行われる<ref name=Ullman17/>。アルカリ処理は、ケイ素を多く含む試料を分析する際に用いられるアルカリ溶融法と同様の原理で[[ケイ素]]と金属を分離する方法であり、ベリリウム鉱石に[[水酸化ナトリウム]]や[[炭酸ナトリウム]]のようなアルカリを加えて溶融させる<ref name=Ullman17/>。熱処理は1650 °C以上の高温に加熱することで緑柱石を溶融させ、鉱石中のベリリウムを完全に酸化ベリリウムとしたあと、再度900 °Cに加熱することで二酸化ケイ素から遊離させてベリリウムの溶解性を高める方法である<ref name=Ullman17>[[#Ullman|Aldinger et al. (1985)]] p. 17</ref>。このようにしてベリリウムを溶出させやすいように前処理を行ったあと、[[硫酸]]処理を行うことで[[硫酸ベリリウム]]の溶液として鉱石からベリリウムを抽出することができる<ref name=chitani193/>。得られた硫酸ベリリウム溶液をアルカリで中和することで水酸化ベリリウムの沈殿が得られ、これを[[フッ化アンモニウム]]と反応させたあと、熱分解させることによってフッ化ベリリウムが生産される<ref name=chitani193>[[#千谷1959|千谷 (1959)]] 193頁。</ref>。また、ベリリウム鉱石中からベリリウムを分離抽出する方法としては、[[ヘキサフルオロケイ酸ナトリウム]]を加えて700 °Cで溶融させテトラフルオロベリリウム酸ナトリウムとして抽出する方法や<ref name=Ullman1718>[[#Ullman|Aldinger et al. (1985)]] pp. 17-18</ref>、ベリリウム鉱石を[[炭素]]とともに塩素気流下、630 °C以上で塩素と直接反応させて[[塩化ベリリウム]]として抽出する方法などがある<ref name=Ullman18>[[#Ullman|Aldinger et al. (1985)]] p. 18</ref>。このようにして得られた塩化ベリリウムを[[溶融塩電解]]することでも金属ベリリウムを生産することができる<ref name=tanaka/>。この方法では、塩化ベリリウムの電気伝導度が非常に低く電解効率が悪いため、[[塩化ナトリウム]]が助剤として加えられる<ref name=CW271/>。
工業規模でのベリリウム産出に関与しているのはアメリカ、中国、カザフスタンの3国のみである<ref>{{citation
|url = http://www.beryllium.com/sources-beryllium
|title = Sources of Beryllium
|work = Materion Brush Inc.
|publisher = Materion Brush Inc.
|accessdate = 2011-09-19
}}</ref>。2008年時点のアメリカにおけるベリリウムおよびベリリウム化合物のおもな生産者は、ブラッシュ・エンジニアード・マテリアルズ社である<ref>{{citation
|url = http://www.brushelmore.com/history.asp
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20080724113346/http://www.brushelmore.com/history.asp
|archivedate = 2008年7月24日
|title = Brush Wellman - Elmore, Ohio Plant :: Company History
|accessdate = 2011-09-20
|deadurldate = 2017年9月
}}</ref>。ブラッシュ・エンジニアード・マテリアルズ社では、ベリリウムを製錬するための原料の大部分を自身が所有するスポール山の鉱床([[ユタ州]])から産出されるベリリウム鉱石(ベルトラン石を含む)から得ている。ベリリウムの製錬およびほかの精製は、ユタ州{{仮リンク|デルタ (ユタ州)|en|Delta, Utah|label=デルタ}}の北10[[マイル]]にある工場で行われており<ref name="spor">{{citation
|url = http://pubs.usgs.gov/of/1998/ofr-98-0524/SPORMTN.HTM
|title = Slides of the fluorspar, beryllium, and uranium deposits at Spor Mountain, Utah
|first = David A.
|last = Lindsey
|publisher = United States Geological Survey
|accessdate = 2011-09-19
}}</ref>、その場所はインターマウンテン・パワー・プロジェクトによる発電設備から近くかつ町からも離れているために選ばれた<ref>{{citation
|url = http://ludb.clui.org/ex/i/UT3176/
|title = Brush Wellman Beryllium Plant
|work = The Center for Land Use Interpretation
|publisher = The Center for Land Use Interpretation
|accessdate = 2011-09-19
}}</ref>。1998年から2008年までの間、ベリリウムの世界の生産量は343トンからおよそ200トンにまで減少しており、200トンのうち176トン(88 %)はアメリカで生産されている<ref name="USGSMCS2000">{{citation
|url = http://minerals.usgs.gov/minerals/pubs/commodity/beryllium/100300.pdf
|title = Commodity Summary 2000: Beryllium
|publisher = United States Geological Survey
|accessdate = 2011-09-19
}}</ref><ref name="USGSMCS2010">{{citation
|url = http://minerals.usgs.gov/minerals/pubs/commodity/beryllium/mcs-2010-beryl.pdf
|title = Commodity Summary 2010: Beryllium
|publisher = United States Geological Survey
|accessdate =2011-09-19
}}</ref>。真空鋳造によって製造されたベリリウムインゴットの2001年におけるアメリカ市場でのキログラム単価は745ドルであった<ref name="USGS">{{citation
|url = http://minerals.usgs.gov/minerals/pubs/commodity/beryllium/
|title = Beryllium Statistics and Information
|publisher = United States Geological Survey
|accessdate = 2011-09-19
}}</ref>。
== 用途 ==
ベリリウムはおもに[[合金]]の硬化剤として利用され、その代表的なものに[[ベリリウム銅]]合金がある。また、非常に強い[[曲げ強さ]]、熱的安定性および[[熱伝導率]]の高さ、金属としては比較的低い密度などの物理的性質を利用して、高速[[航空機]]や[[ミサイル]]、[[宇宙船]]、[[通信衛星]]などの[[軍事産業]]や[[航空宇宙産業]]において構造部材として用いられる。ベリリウムは低密度かつ原子量が小さいため[[X線]]やその他[[電離放射線]]に対して透過性を示し、その特性を利用してX線装置や[[素粒子物理学|粒子物理学]]の試験における[[X線透過窓]]として用いられる。
ベリリウムの用途には、その物理的性質を利用したX線装置や構造材、鏡(ベリリウムミラー)、合金材料、音響材料としての用途、磁気的性質を利用した工具製造、電子物性を利用した電子材料、核的性質を利用した中性子源や、ベリリウム鉱石の外観の美しさを利用した宝石としての用途が挙げられる。この中には[[核兵器]]や[[ミサイル]]、[[射撃管制装置]]などの軍事的用途も含まれ、そのような分野に関する詳細な情報を入手することは難しい<ref>Petzow, Günter ''et al.'' "Beryllium and Beryllium Compounds" in Ullmann's Encyclopedia of Industrial Chemistry 2005, Wiley-VCH, Weinheim. {{DOI|10.1002/14356007.a04_011.pub2}}</ref>。また、ベリリウムの毒性により、過去に用いられていた蛍光材料としての用途はすでにほかの代替材料に置き換えられており、ベリリウム銅合金なども代替材料の開発が進められている。
=== X線透過窓 ===
[[ファイル:Be foil square.jpg|thumb|right|鋼鉄製のケースに乗せられた四角いベリリウム箔。真空チャンバーと[[X線顕微鏡]]の間で「窓」として用いられる]]
ベリリウムは原子番号が小さく電子の数が少ないため、[[X線]]に対する[[透過率 (光学)|透過率]]が非常に高い。そのため、X線源やビームライン、[[X線望遠鏡]]などの検出器用の窓に用いられる。この用途においては、X線像に不要な像が写り込むことを回避するためにベリリウムの純度と清潔さがもっとも要求される。また、X線探知機のX線放射窓としてもベリリウムの薄膜が用いられている。これは、ベリリウムのX線吸収率が非常に低いことによって、高強度の[[シンクロトロン放射光]]に典型的な低エネルギーX線に起因する熱の影響を最小限に留めることができるためである。さらに、[[シンクロトロン]]による放射線試験のための真空気密窓およびビームチューブの素材にはベリリウムのみが用いられている。ほかにも、[[エネルギー分散型X線分析]]などのさまざまなX線を利用した分析機器においては、ベリリウム製のサンプルホルダーが常用される。これは、ベリリウムから発生する[[特性X線]]や[[蛍光X線]]の有するエネルギーが100 eV以下と分析試料由来のX線と比較して非常に低く、試料の分析データに影響を与えないためである<ref name=Be/>。
ベリリウムはまた、[[素粒子物理学]]の実験装置において高エネルギー粒子を衝突させる場所周辺のビームラインを構築するための素材として用いられる。たとえば、[[大型ハドロン衝突型加速器]]の実験における主要な4つの検出器すべて([[ALICE検出器]]、[[ATLAS検出器]]、{{仮リンク|CMS検出器|en|Compact Muon Solenoid}}、{{仮リンク|LHCb検出器|en|LHCb}})<ref>{{citation
|title = Installation and commissioning of vacuum systems for the LHC particle detectors
|publisher = CERN
|first1 = R.
|last1 = Veness
|first2 = D.
|last2 = Ramos
|first3 =P.
|last3 = Lepeule
|first4 = A.
|last4 = Rossi
|first5 =G.
|last5 = Schneider
|first6 = S.
|last6 = Blanchard
|url = http://cdsweb.cern.ch/record/1199583/files/CERN-ATS-2009-005.pdf
|accessdate = 2011-09-26
}}</ref>や[[テバトロン]]、[[SLAC国立加速器研究所]]において用いられている。このような用途においてはベリリウムが持つさまざまな性質が効果的に働いている。すなわち、ベリリウムの原子番号の小ささに由来する高エネルギー粒子に対する透過性が比較的高いという性質や、ベリリウムの密度が低いという性質によって、粒子の衝突によって発生した生成物を重大な相互作用なしに周囲の検出器へと誘導することができる。また、ベリリウムは剛性が高いためベリリウムのパイプ内を非常に高真空にでき、残留した気体分子による相互作用を最小限にすることができる。さらに、ベリリウムは熱的に非常に安定しているため、[[絶対零度]]よりわずかに高い程度の極低温においても正常に機能することができる。そのうえ、ベリリウムの[[反磁性]]を有する性質によって、[[粒子線]]を収束させて検出器まで導くために用いられる複雑な多極電磁石システムへの干渉を防ぐことができる<ref>{{citation
|doi = 10.1016/S0168-9002(01)01149-4
|title = A new inner vertex detector for STAR
|year = 2001
|author = Wieman, H
|journal = Nuclear Instruments and Methods in Physics Research Section a Accelerators Spectrometers Detectors and Associated Equipment
|volume = 473
|pages = 205
|bibcode = 2001NIMPA.473..205W
}}</ref>。
=== 機械的用途 ===
ベリリウムは[[剛性]]が大きく、軽く、広い温度範囲における寸法安定性を有しているため、[[防衛産業]]や[[航空宇宙産業]]において軽量な構造部材として、たとえば、高速[[航空機]]や[[ミサイル]]、[[宇宙船]]、[[通信衛星]]などに用いられる。<!--近年では特に、増加する[[スペースデブリ]]が落下して地表まで到達する懸念があることからも、大気中で燃焼しやすい材料の1つとして[[マグネシウム]]、[[チタン]]合金などと同様に多用される傾向がある{{要出典|date=2011年9月}}。-->[[液体燃料ロケット]]には高純度ベリリウムの[[ロケットエンジンノズル]]が用いられている<ref>{{citation
|url = https://books.google.co.jp/books?id=IpEnvBtSfPQC&pg=PA690&redir_esc=y&hl=ja
|title = Metals handbook
|chapter = Beryllium
|first = Joseph R.
|last = Davis
|publisher = ASM International
|year = 1998
|isbn = 9780871706546
|pages = 690-691
}}</ref><ref>{{citation
|url = https://books.google.co.jp/books?id=6fdmMuj0rNEC&pg=PA62&redir_esc=y&hl=ja
|page = 62
|title = Encyclopedia of materials, parts, and finishes
|author = Schwartz, Mel M.
|publisher = CRC Press
|year = 2002
|isbn = 1566766613
}}</ref>。また、少数ではあるものの[[自転車]]のフレームにも用いられている<ref name=museum>{{citation
|url = http://mombat.org/American.htm
|title = Museum of Mountain Bike Art & Technology: American Bicycle Manufacturing
|accessdate = 2011-09-26
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20110720022521/http://mombat.org/American.htm
|archivedate = 2011年7月20日
|deadurldate = 2017年9月
}}</ref>。また、ベリリウムは硬く、融点が高く、さらに非常に優れた[[ヒートシンク]]性能を有しているため、軍用機やレース車両の[[ブレーキディスク]]に用いられていたが、環境への配慮のため代替材料が用いられている<ref name=Be/><ref>ポルシェ909[[ベルクスパイダー]]のブレーキディスクなどに使用された。christophorus 336 2009年2月/3月 The Porsche Magagine, 39</ref>。
ベリリウムは優れた弾性剛性を有しているため、[[ジャイロスコープ]]による[[慣性航法装置]]や光学系のための支持構造物などの精密機器にも利用される<ref name=Be/>。
なお、ベリリウムでばねを作った場合、200億回以上の衝撃に耐えることができる。
=== ベリリウムミラー ===
[[ファイル:James Webb Space Telescope Mirror37.jpg|thumb|right|ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡のベリリウム製の主鏡]]
ベリリウムミラーは、[[気象衛星]]のような低重量および長期間の寸法安定性が重要とされる用途に対する大面積の鏡(しばしば{{仮リンク|ハニカムミラー|en|Honeycomb mirror}})に用いられる。たとえば、[[ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡]]の主鏡はベリリウム製であり<ref>{{citation
|title = Origami Observatory: Behind the Scenes with the Webb Space Telescope
|url = http://www.scientificamerican.com/article.cfm?id=origami-observatory
|journal = Scientific American Magazine
|date = 2010-10
|author = Robert Irion
|accessdate = 2011-09-25
}}</ref>、同様の理由で[[スピッツァー宇宙望遠鏡]]もベリリウム製の反射望遠鏡が用いられている<ref>{{citation
|title = The Spitzer Space Telescope Mission
|first = M. W.
|last = Werner
|arxiv = astro-ph/0406223
|journal = Astrophysical Journal Supplement
|year = 2004
|doi = 10.1086/422992
|volume = 154
|pages = 1
|last2 = Roellig|first2 = T. L.
|last3 = Low|first3 = F. J.
|last4 = Rieke|first4 = G. H.
|last5 = Rieke|first5 = M.
|last6 = Hoffmann|first6 = W. F.
|last7 = Young|first7 = E.
|last8 = Houck|first8 = J. R.
|last9 = Brandl|first9 = B.
|bibcode = 2004ApJS..154....1W
}}</ref>。
また、より小さなベリリウムミラーは光学的な[[制御システム]]や[[射撃管制装置]]に用いられる。たとえば、ドイツの[[主力戦車]]である[[レオパルト1]]や[[レオパルト2]]に用いられている<ref>{{citation
|url = http://spie.org/x648.html?product_id=137998
|title = Production of metal matrix composite mirrors for tank fire control systems (Proceedings Paper)
|author = Alan L. Geiger, Eric Ulph, Sr.
|date = 1992-9-16
|doi = 10.1117/12.137998
|accessdate = 2011-09-25
}}</ref>。これらのシステムには鏡の非常に迅速な動きが要求されるため、ベリリウムの低重量かつ高剛性な性質が必要とされる。通常このベリリウムミラーは、光学的仕上げ材による研磨をより容易に行えるように[[無電解ニッケルめっき]]によって被覆される。しかしながら極低温条件で用いる場合などには、熱膨張率の違いによって被覆材に歪みが生じてしまうため、このような用途においては被覆材を用いずに直接磨き上げられる<ref name=Be/>。
=== 磁気的用途 ===
[[機雷]]などの爆発物は磁気に反応して爆発する磁気[[信管]]を一般的に備えているため、[[軍]]による[[機雷]]の除去作業では磁性を持たないベリリウムやその合金から作られる器具が用いられる<ref>{{Cite news
|url = http://oai.dtic.mil/oai/oai?verb=getRecord&metadataPrefix=html&identifier=AD0263919|title = The selection of low-magnetic alloys for EOD tools
|publisher = Naval Weapons Plant Washington DC
|author = Kojola, Kenneth ; Lurie, William
|date = 1961-08-09
|accessdate = 2011-09-26
}}</ref>。それらはまた、強い磁場を発生させる[[核磁気共鳴画像法]](MRI)の機械の近くで用いられるメンテナンス器具や建設材料にも用いられる<ref>{{citation
|url = https://books.google.co.jp/books?id=EqtlqFNkWwQC&pg=PT891&redir_esc=y&hl=ja
|page = 891
|title = Understanding anesthesia equipment
|author = Dorsch, Jerry A. and Dorsch, Susan E.
|publisher = Lippincott Williams & Wilkins
|year = 2007
|isbn = 0781776031
}}</ref>。[[無線通信]]や強力なレーダー(通常は軍用)の分野においては、非常に磁気の強い[[クライストロン]]{{enlink|Klystron}}や[[マグネトロン]]、[[進行波管]]などの高レベルな[[マイクロ波]]を発生させるための[[送信機]]が使われるため、それらを調整するためにもまたベリリウム製の手工具が用いられる<ref>{{citation
|author = MobileReference
|title = Electronics Quick Study Guide for Smartphones and Mobile Devices
|url = https://books.google.com/books?id=AG6H633VIAcC&pg=PT2396
|accessdate = 2011-09-26
|date = 1 January 2007
|publisher = MobileReference
|isbn = 9781605011004
|pages = 2396-
}}</ref>。
=== 音響材料 ===
[[ファイル:Yamaha NS-2000 Speaker -midrange-.jpg|thumb|200px|ベリリウム製ドーム型振動板を持つスピーカーユニット]]
ベリリウムは低質量かつ高剛性である。このため、音の伝導率はおよそ12.9 km/sと高い。ベリリウムのこの物性を利用して、[[ツイーター]](高音域スピーカー)の[[振動板]]としておもに[[ドーム]]型に成形し使用される。しかしながら、ベリリウムはしばしば[[チタン]]以上に高価であり、その脆性の高さにより成形が困難である。また処置を誤れば製品の毒性を封印できないため、ベリリウム製のツイーターは[[ハイエンド]]な家庭用や業務用オーディオ、[[Public Address]]などの用途に限られている<ref>{{Cite web
|url = http://www.hometheaterhifi.com/speaker-product-reviews/speakers/usher-be-718-bookshelf-speakers-with-beryllium-tweeters.html
|first = John E.
|last = Johnson, Jr.
|date = 2007-11-12
|accessdate = 2011-10-11
|title = Usher Be-718 Bookshelf Speakers with Beryllium Tweeters
}}</ref><ref>{{Cite web
|url = http://www.focalprofessional.com/en/technologies/index.php#tabs-2
|accessdate = 2011-10-11
|title = Beryllium use in pro audio Focal speakers
}}</ref><ref>{{Cite web
|url = http://www.krksys.com/product_expose.php
|publisher = KRK Systems
|accessdate = 2011-10-11
|title = Exposé E8B studio monitor
}}</ref>。高音域スピーカーの振動板としての使用例としては、[[ヤマハ]]<ref>{{Cite web|和書
|url = http://www.stereosound.co.jp/hivi/media_yamaha/tobise_okazaki.html
|title = ヤマハ開発者の「実は黙っていたこと」 第3回「Soavo篇」
|publisher = STEREO SOUND
|accessdate = 2011-10-11
}}</ref>・[[パイオニア]]<ref>{{Cite web|和書
|url = https://xtech.nikkei.com/dm/article/NEWS/20050921/108794/
|title = パイオニア,高級スピーカシステム「S-7EX」のツイータにベリリウム振動板を採用
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|author = 浜田基彦
|publisher = 日経ものづくり
|accessdate = 2011-10-11
}}</ref>などの音響機器メーカーの製品がある。それ以外ではヤマハ・パイオニア・[[オーディオテクニカ]]・[[品川無線|グレース]]製[[レコードプレーヤー|ピックアップ・カートリッジ]]の[[カンチレバー]]に用いられた例がある<ref>{{Cite web|和書
|url = http://sts.kahaku.go.jp/sts/detail.php?07_class=l&key=104810541010&APage=762
|title = PUカートリッジ F-8L
|publisher = [[国立科学博物館]] 産業技術史資料情報センター
|accessdate = 2011-10-11
}}</ref>。また、その熱伝導率のよさから、セラミック送信管({{仮リンク|アイマック|en|Eimac}}社製、eimac8873)の本体および純正放熱用熱伝導体として酸化ベリリウムが採用された例がある<ref>{{Cite web
|url = http://www.radioamator.ro/articole/files/388/8873-8874-8875%20-%20Eimac.pdf
|title = TECHNICAL DATA
|publisher = Eimac
|page = 4
|accessdate = 2011-11-12
}}</ref>。ベリリウムはほかの金属との合金としても頻繁に利用されるが、その合金組成に明記されないこともある<ref>{{Cite web
|url = http://www.electrofusionproducts.com/userfiles/China_Be_Domes_Report.pdf
|first = Mark
|last = Svilar
|date = 2004-01-08
|accessdate = 2009-02-13
|title = Analysis of "Beryllium" Speaker Dome and Cone Obtained from China
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20090225154138/http://www.electrofusionproducts.com/userfiles/China_Be_Domes_Report.pdf
|archivedate = 2009年2月25日
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
=== 核物性の利用 ===
ベリリウムの薄いプレートやホイールは、しばしば[[テラー・ウラム型]]のような熱核爆弾において、核融合燃料に「点火」するためのトリガーである第一段階の核分裂爆弾を囲う[[ピット (核兵器)|プルトニウムピット]]の最外層として用いられる。このようなベリリウムの層は、{{sup|239}}Puを[[爆縮]]させるための良好な核反応促進材であり、初期の実験的な[[原子炉]]において中性子反射減速材として利用されていたように良好な[[中性子反射体]]でもある<ref name=weapons/>。
[[ファイル:Beryllium target.jpg|thumb|[[陽子線]]を[[中性子線]]に「変換」するベリリウムターゲット]]
ベリリウムはまた、比較的少ない中性子を必要とする原子炉規模以下の実験用途において、一般的に中性子源として用いられる。この目的のための{{sup|9}}Beターゲット材は、{{sup|210}}[[ポロニウム|Po]]や{{sup|226}}[[ラジウム|Ra]]、{{sup|239}}[[プルトニウム|Pu]]、{{sup|241}}[[アメリシウム|Am]]などの[[放射性同位体]]から放出される高エネルギーなアルファ粒子を衝突させることで中性子が取り出される。このときに起こる核反応によって、{{sup|9}}Beは{{sup|12}}Cになり、遊離した中性子はアルファ粒子が移動するのと同じ方向へ放出される。ベリリウムはそのような中性子源として、''urchin''と呼ばれる{{仮リンク|中性子点火器|en|Modulated neutron initiator}}として初期の原子爆弾にも利用されていた<ref name=weapons>{{citation
|url = https://books.google.co.jp/books?id=yTIOAAAAQAAJ&pg=PA35&redir_esc=y&hl=ja
|page = 35
|title = How nuclear weapons spread
|author = Barnaby, Frank
|publisher = Routledge
|year = 1993
|isbn = 0415076749
}}</ref>。
ベリリウムは[[欧州連合]]の[[トーラス共同研究施設]]における核融合研究所においても利用されており、より高度な[[ITER]]において[[プラズマ]]に直接接する部分の素材としても利用されている<ref>{{citation
|url = https://books.google.co.jp/books?id=9ngHTkC8hG8C&pg=PA15&redir_esc=y&hl=ja
|page = 15
|title = Nuclear fusion research
|author = Clark, R. E. H.; Reiter, D.
|publisher = Springer
|year = 2005
|isbn = 3540230386
}}</ref>。ベリリウムはまた、その機械的、化学的、核的な物性の組み合わせのよさから、[[燃料棒|核燃料棒]]の被覆素材としての利用も提案されている<ref name=Be/>。[[フッ化ベリリウム]]は、[[溶融塩原子炉]]設計の多くの仮定において、溶媒、減速材および冷却材としての使用が想定されている、[[共晶塩]]である{{仮リンク|フッ化リチウムベリリウム|en|FLiBe}}を構成する塩のひとつである<ref>{{citation
|doi = 10.1016/j.fusengdes.2005.08.101
|title = JUPITER-II molten salt Flibe research: An update on tritium, mobilization and redox chemistry experiments
|year = 2006
|last1 = Petti|first1 = D
|last2 = Smolik|first2 = G
|last3 = Simpson|first3 = M
|last4 = Sharpe|first4 = J
|last5 = Anderl|first5 = R
|last6 = Fukada|first6 = S
|last7 = Hatano|first7 = Y
|last8 = Hara|first8 = M
|last9 = Oya|first9 = Y
|journal = Fusion Engineering and Design
|volume = 81
|pages = 1439
|issue = 8-14
}}</ref>。
=== 電子材料 ===
ベリリウムは[[III-V族半導体]]において[[P型半導体]]の[[ドープ|ドーパント]]である。それは、[[分子線エピタキシー法]](MBE)によって製造される[[ヒ化ガリウム]]や[[ヒ化アルミニウムガリウム]]、[[ヒ化インジウムガリウム]]、{{仮リンク|ヒ化インジウムアルミニウム|en|Aluminium indium arsenide}}のような素材において広く用いられている<ref>{{Cite book
|url = https://books.google.co.jp/books?id=oJs6nK3TZrwC&pg=PA104&redir_esc=y&hl=ja
|page = 104
|title = High-power diode lasers
|author = Diehl, Roland
|publisher = Springer
|year = 2000
|isbn = 3540666931
}}</ref>。クロス圧延されたベリリウムのシートは[[プリント基板]]への[[表面実装]]における優れた構造支持体である。電子材料におけるベリリウムの重要な用途は、構造支持のみならず[[ヒートシンク]]素材としての用途がある。この用途においては、[[アルミナ]]および[[ポリイミドガラス基盤]]と調和した[[熱膨張率]]が必要とされる。これらの電子的用途のために特別に設計されたベリリウム-[[酸化ベリリウム]]複合材料は「{{仮リンク|E-Material|en|E-Material}}」と呼ばれ、さまざまな基盤素材に合わせて熱膨張率を調整できる利点がある<ref name=Be/>。
[[絶縁性|電気絶縁性]]および優れた熱伝導率、高い耐久性、硬さ、非常に高い融点という複数の特性が要求されるような多くの用途において、酸化ベリリウムが利用される。酸化ベリリウムは、[[電気通信]]のための[[高周波|無線周波]][[送信機]]における[[電力用半導体素子|パワートランジスタ]]の絶縁基盤として多用される。酸化ベリリウムはまた、[[酸化ウラン(IV)|酸化ウラン]]の[[核燃料]]ペレットにおいて熱伝導性を向上させるための用途が検討されている<ref>{{Cite web
|url = http://news.uns.purdue.edu/UNS/html4ever/2005/050927.Solomon.nuclear.html
|date = 2005-09-27
|title = Purdue engineers create safer, more efficient nuclear fuel, model its performance |publisher = Purdue University
|accessdate = 2011-10-12
}}</ref>。ベリリウム化合物は[[蛍光灯]]にも用いられていたが、ベリリウムを用いた蛍光灯の製造工場で働く労働者にベリリウム中毒が発症したため、この用途でのベリリウムの利用は中止された<ref>{{Cite book
|pages = 30-33
|author = Breslin AJ
|chapter = Chap. 3. Exposures and Patterns of Disease in the Beryllium Industry
|title = in Beryllium: Its Industrial Hygiene Aspects
|editor = Stokinger, HE
|publisher = Academic Press, New York
|year = 1966
}}</ref>。
=== 宝石 ===
ベリリウム鉱物である[[緑柱石]]のうち、状態のいいものは宝石として利用される<ref name=Be/><ref>[[#kenneth2009|Kenneth (2009)]] pp. 20-26</ref><ref>{{citation
|chapter = Distribution of major deposits
|url = https://books.google.co.jp/books?id=zNicdkuulE4C&pg=PA265&redir_esc=y&hl=ja
|pages = 265-269
|isbn = 9780873352338|title = Industrial minerals & rocks: commodities, markets, and uses
|author = Mining, Society for Metallurgy, Exploration (U.S)
|date = 2006-03-05
}}</ref>。緑柱石由来の宝石としては、不純物として[[クロム]]を含み濃い緑色を呈する[[エメラルド]]、2価の[[鉄]]を含み水色を呈する[[アクアマリン]]、3価の鉄を含み黄色を呈するゴールデンベリル、[[マンガン]]を含む[[レッドベリル]]や[[モルガナイト]]などがある<ref>[[#sakikawa1980|崎川 (1980)]] 31-36頁。</ref><ref>{{Cite book|和書
|title = 鉱物―萌えて覚える鉱物科学の基本
|author = 鉱物科学萌研究会
|year = 2010
|publisher = PHP研究所
|page = 157
|isbn = 4569773745
}}</ref>。
同じくベリリウム鉱物である[[金緑石]]からなる宝石には、宝石の表面に猫の目のような細い光の筋が見える[[キャッツアイ効果]]を示す[[猫目石]]や、光源の種類によって見える色が変化する変色効果を示す[[アレキサンドライト]]といった特殊な効果を示すものがあり、キャッツアイ効果と変色効果を併せ持つものも存在する<ref>[[#sakikawa1980|崎川 (1980)]] 37-38頁。</ref>。アレキサンドライトの赤紫色は不純物として含まれる鉄によるものである。
{{gallery
|ファイル:Beryl-130023.jpg|エメラルド
|ファイル:Beryl-132078.jpg|アクアマリン
|ファイル:Beryl-tu03b.jpg|レッドベリル
|ファイル:Beryl-morg05b.jpg|モルガナイト
|ファイル:Cymophane.jpg|猫目石
|ファイル:Alexandrite 26.75cts.jpg|アレキサンドライト
}}
=== 合金 ===
[[ファイル:CuBe Tool.jpg|thumb|150px|ベリリウム銅製の工具]]
[[銅]](Cu)に0.15–2.0 %程度を混ぜて[[ベリリウム銅|ベリリウム銅合金]]として利用される。銅よりもはるかに強く、純銅に近い良好な電気伝導性がある。膨張率は[[ステンレス]]鋼や鋼に近い。ゆっくり変化する[[磁界]]に対し高い[[透磁率]]をもつ<ref name=BeCu>{{Cite web|和書
|url = http://www.materion.jp/alloy/tech_lit/GuideToCopperBeryllium.pdf
|title = ベリリウム銅ガイド
|publisher = ブラッシュ ウエルマン ジャパン
|page = 6
|accessdate = 2011-10-12
}}</ref>。銅合金の中でも優れた[[機械的強度]]を持っており、電気回路のコネクタなどで使われる[[ばね]]の材料に用いられる<ref>{{Cite book |和書 |editor=ばね技術研究会 |year=2000 |title=ばね用材料とその特性 |publisher=日刊工業新聞社 |pages=pp. 190, 203–204 }}</ref>。また、磁化しにくい、打撃を受けても火花が出ない特徴を持つ<ref>{{Cite web|和書
|url = http://www.materion.jp/alloy/tech_lit/GuideToCopperBeryllium.pdf
|title = ベリリウム銅ガイド
|publisher = ブラッシュ ウエルマン ジャパン
|page = 37
|accessdate = 2011-10-12
}}</ref>ことから、[[石油化学工業]]などの爆発雰囲気の中で使用する[[防爆工具]]に安全保持上用いることもある。ベリリウム銅合金はまた、Jason pistolsと呼ばれる船から[[錆]]や[[ペンキ]]をはぎ取るのに用いられる針状の器具にも用いられる<ref>{{Cite news
|date = 2005-02-01
|url = http://www.smh.com.au/news/National/Defence-forces-face-rare-toxic-metal-exposure-risk/2005/02/01/1107228681666.html
|title = Defence forces face rare toxic metal exposure risk|work=The Sydney Morning Herald
|accessdate = 2011-09-25
}}</ref>。また、[[銅]]の代わりに[[ニッケル]]を用いた合金も同様に利用される<ref name=basic30>[[#櫻井鈴木中尾2003|櫻井、鈴木、中尾 (2005)]] 30頁。</ref>。ベリリウム銅合金はベリリウムの持つ毒性のために代替材料の開発が進められており、実用化されているものもある<ref>{{Cite web|和書
|url = http://www.furukawa.co.jp/jiho/fj107/fj107_13.pdf
|format = pdf
|title = 端子・コネクター用銅合金EFTEC®-97の開発
|author = 宇佐見隆行、江口立彦、大山好正、栗原正明、平井崇夫
|year = 2001
|publisher=古河電工
|accessdate = 2011-12-24
}}</ref><ref>{{Cite web|和書
|url = http://www.japanmetal.com/back_number/news/newsidt2011041805.html
|title = 日本精線、ベリリウム使用せず 高強度銅合金線を開発
|date = 2011-04-18
|publisher = 日刊産業新聞
|accessdate = 2011-12-24
}}</ref><ref>{{Cite web|和書
|url = http://www.kirari-tech.metro.tokyo.jp/sekai/se_yamato.html
|title = 大和合金株式会社(三芳合金工業株式会社)
|publisher = 東京都産業労働局
|accessdate = 2011-12-24
}}</ref>。
また、アルミベリリウム合金も軽量かつ強度が高い特徴があり、[[フォーミュラ1|F1]]レーシングカーの部品(安全性の観点から2004年以降は使用禁止)や[[航空機]]の部品にも使用されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jaish.gr.jp/anzen/gmsds/0190.html|title=製品安全データシート ベリリウム|publisher=中央労働災害防止協会 安全衛生情報センター|accessdate=2011-10-12}}</ref>。
=== 堆積学的履歴解析 ===
堆積学分野では同位体の{{sup|10}}Beおよび{{sup|7}}Beと鉛の同位体{{sup|210}}Pbの存在比率により、地層の堆積物の輸送がどのようなイベントで生じたのか、つまり「ゆっくりと安定した堆積なのか」「河川の氾濫や洪水、嵐による急激な堆積なのか」などを調べることが可能である<ref>[https://doi.org/10.4096/jssj.73.19 金井豊:ベリリウム同位体を用いる堆積学的研究] 堆積学研究 2014年 73巻 1号 p.19-26, {{doi|10.4096/jssj.73.19}}</ref>。
== 危険性 ==
ベリリウムを含有する[[塵]]は[[人体]]へと吸入されることによって毒性を示すため、その商業利用には技術的な難点がある。ベリリウムは細胞組織に対して腐食性のため、[[慢性ベリリウム症]]と呼ばれる致死性の慢性疾患を引き起こす。
=== 人体への影響 ===
<div style="float: right;">
{{Chembox
| Name = ベリリウム
| ImageFile =
| ImageSize =
| ImageName =
| IUPACName =
| OtherNames =
| Section1 = {{Chembox Hazards
| EU分類={{Hazchem T}}{{Hazchem Xn}}
| GHSPictograms ={{GHSp|GHS06}}{{GHSp|GHS08}}
| おもな危険性=腐食性
| IngestionHazard=大いにあり
| InhalationHazard=大いにあり
| ExternalMSDS =
| 眼への危険性=大いにあり
| 皮膚への危険性=大いにあり
| NFPA-H = 4 | NFPA-F = 3 | NFPA-R = 3 | NFPA-O = <!-- 英語版ではこの数値でしたので、そのまま転記しました。相違点がございましたら訂正お願い申し上げる次第でございます。-->
| MainHazards = 腐食性
| 引火点= ?
| Rフレーズ=
| Sフレーズ=
| JP-PDSCL=劇物。<!-- 何故か表示されないようです。-->
| PEL=
| NOAEL=
| LD50=
| LC50=
}}
}}
{|class="wikitable"
!style="background:#f90;"|NFPA 704
|-
|style="text-align:left;"|{{NFPA 704|Health = 3|Flammability = 1|Reactivity = 0|Other = }}
|-
|style="width:80pt;"|金属ベリリウムに対する[[NFPA 704|ファイア・ダイアモンド]]表示<ref name=icsc>{{ICSC-ref|0226|accessdate=2011-12-11}}</ref>
|}</div>
ベリリウムは人体への曝露によって[[ベリリウム肺症]]もしくは慢性ベリリウム症として知られる深刻な慢性肺疾患を引き起こすようにきわめて毒性の高い物質であり<ref name=NIHS/>、水棲生物に対しても非常に強い毒性を示す<ref name=icsc/>。また、細胞組織に対して腐食性であるため、可溶性塩の吸入によって化学性肺炎である急性ベリリウム症を引き起こし、皮膚との接触によって炎症が引き起こされる<ref name=NIHS>{{citation
|title = 環境保健クライテリア No.106 ベリリウム
|url = https://www.nihs.go.jp/hse/ehc/sum1/ehc106.html
|publisher = 国立医薬品食品衛生研究所
|accessdate = 2011-09-13
}}</ref>。
慢性ベリリウム症は数週間から20年以上と非常に個人差の大きい潜伏期間があり、その死亡率は37 %で、妊婦においてはさらに死亡率が高くなる<ref name=NIHS/>。慢性ベリリウム症は基本的には[[自己免疫疾患]]であり、感受性を有する人は5 %以下であると見られている<ref name=WHO37>[[#WHONIHS2001|WHO, NIHS (2001) 37頁。]]</ref>。慢性ベリリウム症におけるベリリウムの毒性の機序は、ベリリウムが酵素に影響を与えることで代謝や細胞複製が阻害されることによる<ref name=NIHS/>。慢性ベリリウム中毒は多くの点で[[サルコイドーシス]]に類似しており、[[鑑別診断]]においてはこれらを見分けることが重要とされる<ref name=WHO36>[[#WHONIHS2001|WHO, NIHS (2001) 36頁。]]</ref>。
急性ベリリウム症は基本的には化学性肺炎であり、慢性ベリリウム症とは異なる機序によるものである。その定義は「継続期間1年未満のベリリウム由来の肺疾患」<ref>[[#WHONIHS2001|WHO, NIHS (2001) 35頁。]] より引用</ref>とされており、ベリリウムへの曝露量と症状の重さには直接的な因果関係が見られる。ベリリウム濃度が1000 μg/m{{sup|3}}以上になると発症し、100 μg/m{{sup|3}}未満では発症しないことが明らかとなっている<ref name=WHO35>[[#WHONIHS2001|WHO, NIHS (2001) 35頁。]]</ref>。
急性ベリリウム症は最高曝露量の設定による作業環境の改善にともない減少しているが、慢性ベリリウム症はベリリウムを扱う産業において多く発生しており<ref name=NIHS/><ref>{{citation
|title = ベリリウム症
|chapter = 肺疾患
|url = https://www.msdmanuals.com/ja-jp/プロフェッショナル/05-肺疾患/環境性肺疾患/ベリリウム症
|publisher = Merck & Co., Inc., Kenilworth, N.J., U.S.A
|accessdate = 2018-11-05
}}</ref>、ベリリウムの許容濃度を順守している工場においても慢性ベリリウム疾患の発症した例が確認されている<ref>[[#WHONIHS2001|WHO, NIHS (2001) 38頁。]]</ref>。また、このような産業に関わらない人々にも化石燃料の燃焼に起因する極微量の曝露がみられる<ref name=nishimura9/>。
ベリリウムおよびベリリウム化合物は、[[世界保健機関|WHO]]の下部機関[[国際がん研究機関|IARC]]より[[発癌性]]がある(Type1)と勧告されている<ref>{{citation
|url = https://inchem.org/documents/iarc/vol58/mono58-1.html
|publisher = International Agency for Research on Cancer
|title = IARC Monograph, Volume 58
|year = 1993
|accessdate = 2011-09-13
}}</ref>。カリフォルニア州環境保健有害性評価局が算出した公衆健康目標のガイドライン値は1 μg/L、有害物質疾病登録局が算出した最小リスク質量分率は0.002 mg/kg·d(体重1 kgあたり、1日に0.002 mg)とされている<ref name=nishimura10>[[#西村2006|西村 (2006) 10頁。]]</ref>。ベリリウムは生体内で代謝されないため、一度体内に取り込まれたベリリウムは排出されにくく<ref name=nishimura9>[[#西村2006|西村 (2006) 9頁。]]</ref>、おもに骨に蓄積されて尿により排出される<ref>[[#WHONIHS2001|WHO, NIHS (2001) 6頁。]]</ref>。
=== ベリリウム症の歴史 ===
1933年(昭和8年)、[[ドイツ帝国|ドイツ]]において「化学性肺炎」という形で急性ベリリウム症が初めて報告され、ついで1946年(昭和21年)には慢性ベリリウム症がアメリカで報告された<ref>{{citation|和書
|title = 慢性ベリリウム症の2剖険例
|url = https://hdl.handle.net/10470/9414
|author = 豊田智里, 金田良夫, 河上牧夫 ほか
|publisher = 東京女子医科大学
|journal = 東京女子医科大学雑誌
|volume = 64
|issue = 12
|year = 1994
|pages = 1063-1064
|accessdate = 2020-07-16}}</ref>。このような症例は蛍光灯工場やベリリウム抽出プラントにおいて多くみられたため、1949年(昭和24年)には蛍光灯におけるベリリウムの利用が中止され、1950年代初頭にはベリリウムの最高曝露濃度が25 μg/m{{sup|3}}に定められた。こうして作業環境が大幅に改善されたことによって急性ベリリウム症の罹患率は激減したが、核産業や航空宇宙産業、[[ベリリウム銅]]などの合金、電子装置の製造などの分野においてはベリリウムの利用が続いている。1952年(昭和27年)、[[アメリカ合衆国]]でベリリウム症例登録制度がはじまり、1983年(昭和58年)までに888件の症例が登録された<ref name=NIHS/>。この制度においては6つの診断基準が定められ、そのうち3つが当てはまると慢性ベリリウム症であるとして登録されるようになっていた<ref name=WHO36/>。検査技術の向上した2001年(平成13年)現在では、肺の[[気管支鏡|経気管支]]の[[生体組織診断]]などによる組織病理学的な確認、リンパ球幼若化試験およびベリリウムの曝露歴の3点が診断基準とされている<ref name=WHO37/>。ベリリウムは[[原子爆弾]]の核反応促進材に利用されるため、初期の原子爆弾の開発に携わった研究者の幾人かはベリリウム中毒によって命を落としている(たとえばアメリカの核物理学者であり[[マンハッタン計画]]にも携わった{{仮リンク|ハーバート・L・アンダーソン|en|Herbert L. Anderson}}など<ref>{{citation
|url = http://www.atomicarchive.com/Photos/CP1/image5.shtml
|title = Photograph of Chicago Pile One Scientists 1946
|date = 2006-06-19
|publisher = Office of Public Affairs, Argonne National Laboratory
|accessdate = 2011-09-13
}}</ref>)。
=== 爆発性 ===
ベリリウムは酸化被膜のために反応性に乏しい金属であるが、一度着火すると燃焼しやすい性質であるため、空気中にベリリウムの粉塵が存在している状態では[[粉塵爆発]]が起こる危険性がある<ref name=NIHS/>。<!--近年、軽量で、また運用を終えて地球へ落下しても大気中で燃焼しやすい性質が注目され人工衛星に多用されるが、燃焼して大気中に放散された後のベリリウムが、人体を含む環境に与える影響についてはまだ議論が少ない。-->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}{{Reflist|30em}}
== 参考文献 ==
・寄藤文平「元素生活」{{Refbegin|40em}}
* {{Cite book
|title = Ullman's Encyclopedia of Industrial Chemistry
|year = 1985
|volume = A4
|chapter = beryllium and beryllium compounds
|last1 = Aldinger|first1 = Fritz
|last2 = Jönsson|first2 = Sigurd
|last3 = Petzow|first3 = Günter
|last4 = Preuss|first4 = Otto
|editor = Wolfgang Gerhartz
|edition = 5th
|publisher = Wiley-VCH
|isbn = 3527201041
|ref = Ullman
}}
* {{Cite book
|author = Nordstrom, Brian and Halka, Monica
|year = 2010
|title = Alkali & Alkaline-Earth Metals
|series = Periodic Table of the Elements
|publisher = Facts on File
|isbn = 0816073694
|ref = Monica2010
}}
* {{citation
|chapter = Sources of Beryllium
|url = https://books.google.co.jp/books?id=3-GbhmSfyeYC&pg=PA20&redir_esc=y&hl=ja
|pages = 20-26
|isbn = 9780871707215
|title = Beryllium chemistry and processing
|author1 = Walsh, Kenneth A
|year = 2009
|ref = kenneth2009
}}
* {{Cite book|和書
|author = 加藤虎郎
|year = 1932
|title = 標準定量分析法
|publisher = [[丸善]]
|ref = katou1932
}}
* {{cite book|和書
|author = F.A. コットン, [[ジェフリー・ウィルキンソン|G. ウィルキンソン]]
|others = 中原 勝儼
|title = コットン・ウィルキンソン無機化学(上)
|publisher = [[培風館]]
|year = 1987
|edition = 原書第4版
|isbn = 4 563041920
|ref = CW1987
}}
* {{Cite book|和書
|title = 宝石のみかた
|author = 崎川範行
|year = 1980
|publisher = [[保育社]]
|isbn = 4586505001
|ref = sakikawa1980
}}
* {{Cite book|和書
|author = 櫻井武、鈴木晋一郎、中尾安男
|year = 2003
|title = ベーシック無機化学
|publisher = [[化学同人]]
|ref = 櫻井鈴木中尾2003
|isbn = 4759809031
}}
* {{Cite book|和書
|author = G. シャルロー
|others = 曽根興二、田中元治 訳
|title = 定性分析化学II ―溶液中の化学反応
|year = 1974
|edithion = 改訂版
|publisher = [[共立出版]]
|ref = charlot1974
}}
* {{Cite book|和書
|author = 千谷利三
|year = 1959
|title = 新版 無機化学(上巻)
|publisher = 産業図書
|ref = 千谷1959
}}
* {{Cite book|和書
|author = 西村泉
|year = 2006
|title = 微量物質の健康リスクに関する文献調査
|publisher = [[電力中央研究所]]
|ref = 西村2006
|isbn = 4862162398
}}
* {{Cite book|和書
|author = 山口潤一郎
|year = 2007
|title = 図解入門 よくわかる最新元素の基本と仕組み
|series = How‐nual Visual Guide Book
|publisher = [[秀和システム]]
|isbn = 4798015911
|ref = yamaguchi2007
}}
* {{Citation
|url = https://www.nihs.go.jp/hse/cicad/full/no32/full32.pdf
|title = 国際化学物質簡潔評価文書 No. 32 ベリリウムおよびベリリウム化合物
|year = 2001
|publisher = [[世界保健機関]] 国際化学物質安全性計画、[[国立医薬品食品衛生研究所]] 安全情報部
|ref = WHONIHS2001
|accessdate= 2011-12-11
}}
{{Refend}}
==関連文献==
* {{Cite journal |和書|author =諸住正太郎|title =最近のベリリウムの研究から|date =1963|publisher =日本金属学会|journal =日本金属学会会報|volume =2|issue =5|doi=10.2320/materia1962.2.277|pages =277-285|ref = }}
<!--
== 関連項目 ==
-->
== 外部リンク ==
{{Commons&cat}}
{{Wiktionary|ベリリウム|Beryllium|beryllium}}
* {{ICSC|0226}}
* 国際化学物質安全性計画 環境保健クライテリア 106 「ベリリウム」([https://www.nihs.go.jp/hse/ehc/sum1/ehc106.html 国立医薬品食品衛生研究所安全情報部による抄訳])
* [https://www.webelements.com/beryllium/ WebElements "beryllium"] {{en icon}}
* [http://www.yamatogokin.co.jp/index.php?page_id=30 ベリリウム鋼] - 大和合金
* {{Kotobank|2=世界大百科事典 第2版}}
{{元素周期表}}
{{ベリリウムの化合物}}
{{Normdaten}}
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[[Category:ベリリウム|*]]
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9,410 | 計算化学 | 計算化学(けいさんかがく、英語: computational chemistry)とは、計算によって理論化学の問題を取り扱う、化学の一分野である。複雑系である化学の問題は計算機の力を利用しなければ解けない問題が多いため、計算機化学と呼ばれることもあるが、両者はその言葉の適用範囲が異なっている。
近年のコンピュータの処理能力の発達に伴い、実験、理論と並ぶ第三の研究手段と考えられるまでに発展した。主に以下の手法を用いて化学の問題を取り扱う。 | [
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] | 計算化学とは、計算によって理論化学の問題を取り扱う、化学の一分野である。複雑系である化学の問題は計算機の力を利用しなければ解けない問題が多いため、計算機化学と呼ばれることもあるが、両者はその言葉の適用範囲が異なっている。 近年のコンピュータの処理能力の発達に伴い、実験、理論と並ぶ第三の研究手段と考えられるまでに発展した。主に以下の手法を用いて化学の問題を取り扱う。 分子軌道法(MO法)
分子動力学法(MD法)
モンテカルロ法(MC法)
分子力学法(MM法)
密度汎関数法(DFT法) | '''計算化学'''(けいさんかがく、{{lang-en|computational chemistry}})とは、計算によって[[理論化学]]の問題を取り扱う、化学の一分野である。[[複雑系]]である化学の問題は[[計算機]]の力を利用しなければ解けない問題が多いため、[[計算機化学]]と呼ばれることもあるが、両者はその言葉の適用範囲が異なっている。
近年の[[コンピュータ]]の処理能力の発達に伴い、実験、理論と並ぶ第三の研究手段と考えられるまでに発展した。主に以下の手法を用いて化学の問題を取り扱う。
* [[分子軌道法]](MO法)
* [[分子動力学法]](MD法)
* [[モンテカルロ法]](MC法)
* [[分子力学法]](MM法)
* [[密度汎関数法]](DFT法)
== 参考文献 ==
* Jensen, F. ''Introduction to Computational Chemistry''; John Wiley & Sons: Chichester, 1999. ISBN 0-4719-8085-4.
* Cramer, C. J. ''Essentials of Computational Chemistry''; John Wiley & Sons: Chichester, 2005; Second Edition. ISBN 0-470-09181-9.
* 『実験化学講座』 第5版 「計算化学」 丸善、2004年。
* 堀憲次・山本豪紀『Gaussianプログラムで学ぶ 情報化学・計算化学実験』丸善出版、2006年
* 武次徹也編『すぐできる 量子化学計算 ビギナーズマニュアル』平尾公彦監修、講談社サイエンティフィク、2006年
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|化学|[[File:Nuvola apps edu science.svg|32px|ウィキポータル 化学]]}}
* [[構造化学]]
* [[量子化学]]
* [[計算機化学]]
* [[計算科学]](包括的な研究部門)
* [[ケモインフォマティクス]]
== 外部リンク ==
* [http://www.sccj.net/ 日本コンピュータ化学会]
* [http://cbi-society.org/ 情報計算化学生物学会]
* [http://www.molsci.jp/ 分子科学会]
* [http://www.cheminfonavi.co.jp/cac/ CACフォーラム]
* [http://cicsj.chemistry.or.jp/ 日本化学会情報化学部会]
{{化学}}
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{{DEFAULTSORT:けいさんかかく}}
[[Category:計算化学|*]]
[[Category:理論化学]]
[[Category:研究の計算分野]]
[[Category:化学の分野]] | null | 2023-01-19T02:47:14Z | false | false | false | [
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9,411 | 分子軌道法 | 量子化学において、分子軌道法(ぶんしきどうほう、英: Molecular Orbital method)、通称「MO法」とは、原子に対する原子軌道の考え方を、そのまま分子に対して適用したものである。
分子軌道法では、分子中の電子が原子間結合として存在しているのではなく、原子核や他の電子の影響を受けて分子全体を動きまわるとして、分子の構造を決定する。
この分子中の一電子波動関数である「分子軌道」を求めるシュレーディンガー方程式は、非常に単純な分子、例えば水素分子イオン(H2)では回転楕円体座標を使って厳密に解くことができる。しかしながら、通常は分子軌道を求めるのは困難であるため、分子軌道波動関数 ψ j M O {\displaystyle \psi _{j}^{\mathrm {MO} }} は、既知のn個の原子軌道 χ i A O {\displaystyle \chi _{i}^{\mathrm {AO} }} の線形結合(重ね合わせ)で表せると仮定する。
ここで展開係数 c i j {\displaystyle c_{ij}} について、基底状態については、時間依存しないシュレーディンガー方程式にこの式を代入し、変分原理を適用することで決定できる。この方法はLCAO(原子軌道の線型結合、Linear Combination of Atomic Orbital)近似と呼ばれる。もし χ i A O {\displaystyle \chi _{i}^{\mathrm {AO} }} が完全系を成すならば、任意の分子軌道を χ i A O {\displaystyle \chi _{i}^{\mathrm {AO} }} で表せる。
またユニタリ変換することで、量子化学計算における収束を速くすることができる。分子軌道法はしばしば原子価結合法と比較されることがある。
1927年に原子価結合法が成立した後、フリードリッヒ・フント、ロバート・マリケン、ジョン・クラーク・スレイター、ジョン・レナード-ジョーンズらによって開発された。分子軌道理論はもともと「フント-マリケン理論」と呼ばれていた。「オービタル」という名前は1932年にマリケンによって導入された。1933年には分子軌道法は、有効な理論であると受け入れられるようになった。ドイツの化学者エーリヒ・ヒュッケルによると、分子軌道法の最初の定量的な利用は1929年のレナード-ジョーンズによって成された。分子軌道波動関数の正確な計算は、1938年にチャールズ・クールソン(英語版)が水素分子について行った。1950年には、分子軌道は「自己無撞着場ハミルトニアンの固有関数(波動関数)」として厳密に定義され、分子軌道法は厳密でつじつまが合うものになった。この厳密なアプローチは分子におけるハートリー-フォック法として知られている。分子の計算において、分子軌道は原子軌道基底の観点で拡張され、ルーターン方程式が開発された。これは多くの非経験的分子軌道法の発展につながった。またそれとは別に、半経験的分子軌道法として知られる方法で導かれた経験的なパラメーターを用いる多くの近似法でも分子軌道法は適用される。
分子軌道 (MO) 理論は、原子間の結合によって生じる分子軌道を表わすために原子軌道の線形結合(LCAO)を用いる。これらはしばしば「結合性」軌道、反結合性軌道、非結合性軌道に分類される。結合性軌道は任意の原子対の「間」の領域に電子密度が集中しているため、その電子密度は2つの核のそれぞれを引き付ける傾向にあり、2つの原子を互いに結び付ける。反結合性軌道はそれぞれの核の「背後」に電子密度を集中させるため、2つの核のそれぞれをもう一方から逆方向に引っ張る傾向にあり、実際に2つの核の間の結合を弱める。非結合性軌道中の電子は原子軌道を関連付けられる傾向にあり、互いに正の相互作用も負の相互作用もせず、これらの軌道中の電子は結合の強さに寄与することも損うこともない。
分子の分子軌道は分子軌道ダイアグラムで図示することができる。
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] | 量子化学において、分子軌道法(ぶんしきどうほう、英: Molecular Orbital method)、通称「MO法」とは、原子に対する原子軌道の考え方を、そのまま分子に対して適用したものである。 分子軌道法では、分子中の電子が原子間結合として存在しているのではなく、原子核や他の電子の影響を受けて分子全体を動きまわるとして、分子の構造を決定する。 この分子中の一電子波動関数である「分子軌道」を求めるシュレーディンガー方程式は、非常に単純な分子、例えば水素分子イオン(H2+)では回転楕円体座標を使って厳密に解くことができる。しかしながら、通常は分子軌道を求めるのは困難であるため、分子軌道波動関数 ψ j M O は、既知のn個の原子軌道 χ i A O の線形結合(重ね合わせ)で表せると仮定する。 ここで展開係数 c i j について、基底状態については、時間依存しないシュレーディンガー方程式にこの式を代入し、変分原理を適用することで決定できる。この方法はLCAO(原子軌道の線型結合、Linear Combination of Atomic Orbital)近似と呼ばれる。もし χ i A O が完全系を成すならば、任意の分子軌道を χ i A O で表せる。 またユニタリ変換することで、量子化学計算における収束を速くすることができる。分子軌道法はしばしば原子価結合法と比較されることがある。 | {{電子構造論}}
[[ファイル:Dihydrogen-MO-Diagram.svg|thumb|350px|水素分子の[[分子軌道ダイアグラム]]。]]
[[量子化学]]において、'''分子軌道法'''(ぶんしきどうほう、{{lang-en-short|'''M'''olecular '''O'''rbital method}})、通称「'''MO法'''」とは、[[原子]]に対する[[原子軌道]]の考え方を、そのまま[[分子]]に対して適用したものである。
分子軌道法では、[[分子]]中の[[電子]]が[[原子]]間[[結合]]として存在しているのではなく、原子核や他の電子の影響を受けて分子全体を動きまわるとして、分子の構造を決定する<ref>{{cite book|author=Daintith, J. |title=Oxford Dictionary of Chemistry|location=New York | publisher=Oxford University Press|year=2004|isbn=0-19-860918-3}}</ref>。
この分子中の一電子波動関数である「[[分子軌道]]」を求める[[シュレーディンガー方程式]]は、非常に単純な分子、例えば[[水素分子イオン]](H<sub>2</sub><sup>+</sup>)では回転楕円体座標を使って厳密に解くことができる。しかしながら、通常は分子軌道を求めるのは困難であるため、分子軌道[[波動関数]]<math> \psi_j^\mathrm{MO}</math>は、既知のn個の[[原子軌道]]<math>\chi_i^\mathrm{AO}</math>の[[線型結合|線形結合]]([[重ね合わせ]])で表せると仮定する<ref>{{cite book|author=Licker, Mark, J. |title=McGraw-Hill Concise Encyclopedia of Chemistry|location=New York | publisher=McGraw-Hill|year=2004|isbn=0-07-143953-6}}</ref>。
:<math>\psi_j^\mathrm{MO} = \sum_{i=1}^{n} c_{ij} \chi_i^\mathrm{AO}</math>
ここで展開係数<math> c_{ij}</math>について、[[基底状態]]については、時間依存しない[[シュレーディンガー方程式]]にこの式を代入し、[[変分原理]]を適用することで決定できる。この方法は[[LCAO法|LCAO]](原子軌道の線型結合、Linear Combination of Atomic Orbital)近似と呼ばれる。もし<math>\chi_i^\mathrm{AO}</math>が[[完全系]]を成すならば、任意の分子軌道を<math>\chi_i^\mathrm{AO}</math>で表せる。
また[[ユニタリ変換]]することで、量子化学計算における収束を速くすることができる。分子軌道法はしばしば[[原子価結合法]]と比較されることがある。
==歴史==
1927年に原子価結合法が成立した後、[[フリードリッヒ・フント]]、[[ロバート・マリケン]]、[[ジョン・クラーク・スレイター]]、[[ジョン・レナード-ジョーンズ]]らによって開発された<ref>{{cite book | last = Coulson | first = Charles, A. | title = Valence | publisher = Oxford at the Clarendon Press | year = 1952}}</ref>。分子軌道理論はもともと「フント-マリケン理論」と呼ばれていた<ref name="Mulliken" >[https://web.archive.org/web/20141112210044/http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/chemistry/laureates/1966/mulliken-lecture.pdf Spectroscopy, Molecular Orbitals, and Chemical Bonding] - [[ロバート・マリケン|Robert Mulliken]]'s 1966 Nobel Lecture</ref>。「オービタル」という名前は1932年にマリケンによって導入された<ref name="Mulliken" />。1933年には分子軌道法は、有効な理論であると受け入れられるようになった<ref>[http://www.quantum-chemistry-history.com/LeJo_Dat/LJ-Hall1.htm Lennard-Jones Paper of 1929] - Foundations of Molecular Orbital Theory.</ref>。ドイツの化学者[[エーリヒ・ヒュッケル]]によると、分子軌道法の最初の定量的な利用は1929年のレナード-ジョーンズによって成された<ref>Hückel, E. (1934). ''Trans. Faraday Soc. 30'', 59.</ref>。分子軌道波動関数の正確な計算は、1938年に{{仮リンク|チャールズ・クールソン|en|Charles Coulson}}が水素分子について行った<ref>Coulson, C.A. (1938). ''Proc. Camb. Phil. Soc. 34'', 204.</ref>。1950年には、[[分子軌道]]は「[[セルフコンシステント|自己無撞着場]][[ハミルトニアン]]の[[固有状態|固有関数]](波動関数)」として厳密に定義され、分子軌道法は厳密でつじつまが合うものになった<ref>Hall, G.G. Lennard-Jones, Sir John. (1950). ''Proc. Roy. Soc. A202'', 155.</ref>。この厳密なアプローチは分子における[[ハートリー-フォック法]]として知られている。分子の計算において、分子軌道は[[基底状態|原子軌道基底]]の観点で拡張され、[[ローターン方程式|ルーターン方程式]]が開発された<ref>Jensen (1999), pp. 65 - 69.</ref>。これは多くの[[非経験的分子軌道法]]の発展につながった。またそれとは別に、[[半経験的分子軌道法]]として知られる方法で導かれた経験的なパラメーターを用いる多くの近似法でも分子軌道法は適用される<ref>Jensen (1999), pp. 81 - 92.</ref>。
==軌道の種類==
[[ファイル:MO diagram dihydrogen.png|thumb|right|300px|2つの水素原子の原子軌道からH<sub>2</sub>の分子軌道(中央)が形成されることを示す[[分子軌道ダイアグラム]]。より低いエネルギーのMOは結合性であり、2つのH核の間に電子密度が集中している。より高いエネルギーのMOは反結合性であり、それぞれのH核の背後に電子密度が集中している。]]
分子軌道 (MO) 理論は、原子間の結合によって生じる分子軌道を表わすために[[LCAO法|原子軌道の線形結合]](LCAO)を用いる。これらはしばしば「結合性」軌道、[[反結合性軌道]]、[[非結合性軌道]]に分類される。結合性軌道は任意の原子対の「間」の領域に電子密度が集中しているため、その電子密度は2つの核のそれぞれを引き付ける傾向にあり、2つの原子を互いに結び付ける<ref name="Tarr 2013">Miessler and Tarr (2013), ''Inorganic Chemistry'', 5th ed, 117-165, 475-534.</ref>。反結合性軌道はそれぞれの核の「背後」に電子密度を集中させるため、2つの核のそれぞれをもう一方から逆方向に引っ張る傾向にあり、実際に2つの核の間の結合を弱める。非結合性軌道中の電子は原子軌道を関連付けられる傾向にあり、互いに正の相互作用も負の相互作用もせず、これらの軌道中の電子は結合の強さに寄与することも損うこともない<ref name="Tarr 2013"/>。
分子の分子軌道は[[分子軌道ダイアグラム]]で図示することができる。
== 分類 ==
分子軌道 (MO) は、シュレディンガー方程式を解くことによって得られる。この際用いる近似の程度によって、分子軌道法は大きく次の三つに分類できる。
* [[経験的分子軌道法]]
* [[半経験的分子軌道法]]
* [[非経験的分子軌道法]]
== 利用例 ==
* [[スペクトル]]の解釈
* [[反応中間体|不安定中間体]]の構造の推定
* [[反応経路]]の推定
==脚注==
{{reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=藤永茂|authorlink=藤永茂|title=分子軌道法|publisher=岩波書店|year=1980}}
* {{cite book|author=Jensen, F.|title=Introduction to Computational Chemistry|publisher= John Wiley & Sons|year= 1999|isbn= 0471980854}}
* {{Cite book|和書|author=A. ザボ, N.S. オストランド、大野公男、坂井建男、望月祐志訳、|title=新しい量子化学上・下|publisher=[[東京大学出版会]].}}
* {{cite book|author=H. Eyring, J. Walter and G. Kimball|title= Quantum Chemistry|publisher= Wiley|location= New York|year= 1944}}
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|化学|[[File:Nuvola apps edu science.svg|32px|ウィキポータル 化学]]}}
{{ウィキプロジェクトリンク|化学|[[File:Nuvola apps edu science.svg|32px|ウィキプロジェクト 化学]]}}
* [[経験的分子軌道法]]
* [[半経験的分子軌道法]]
* [[非経験的分子軌道法]]
* [[フラグメント分子軌道法]]
* [[フロンティア軌道理論]]
* [[ハートリー=フォック方程式]]
* [[量子化学]]
* [[計算化学]]
* [[密度汎関数理論]]
* [[原子価結合法]]
* [[第一原理計算]]
* [[有機電子論]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ふんしきとうほう}}
[[category:電子]]
[[category:分子]]
[[Category:計算化学]]
[[Category:量子化学]]
[[Category:電子軌道]]
[[Category:化学の理論]] | 2003-05-27T14:39:39Z | 2023-09-15T16:47:00Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E5%AD%90%E8%BB%8C%E9%81%93%E6%B3%95 |
9,412 | 計算機化学 | 計算機化学 (けいさんきかがく、computer chemistry) とは、計算機を使って化学の問題を取り扱う、化学の一分野である。
一般に、計算機化学と呼ばれるのは、コンピュータを使って次のようなことをする場合である。
いずれも、近年のコンピュータの発達によって可能となった。 分子設計、材料設計、薬物設計、機能設計といったことに応用されている。 生命現象の原子・分子レベルからの理論的解明へ期待が持たれている。
似た言葉に計算化学がある。 これは、計算機化学と同じ意味として使用されることがあるが、計算化学と呼ばれるのは上記の1,2を行う場合であり、さらに計算機を使用しない場合も含まれる。 | [
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}
] | 計算機化学 とは、計算機を使って化学の問題を取り扱う、化学の一分野である。 一般に、計算機化学と呼ばれるのは、コンピュータを使って次のようなことをする場合である。 原子・分子・分子集団の電子状態の計算。→分子軌道法
原子・分子・分子集団のコンピュータ・シミュレーション。→分子動力学法、モンテカルロ法
データベースの利用。
その他。分子構造の可視化、等。 いずれも、近年のコンピュータの発達によって可能となった。
分子設計、材料設計、薬物設計、機能設計といったことに応用されている。
生命現象の原子・分子レベルからの理論的解明へ期待が持たれている。 似た言葉に計算化学がある。
これは、計算機化学と同じ意味として使用されることがあるが、計算化学と呼ばれるのは上記の1,2を行う場合であり、さらに計算機を使用しない場合も含まれる。 | {{混同|計算機科学|計算幾何学}}
'''計算機化学''' (けいさんきかがく、'''computer chemistry''') とは、計算機を使って[[化学]]の問題を取り扱う、化学の一分野である。
一般に、計算機化学と呼ばれるのは、[[コンピュータ]]を使って次のようなことをする場合である。
#[[原子]]・[[分子]]・[[分子集団]]の[[電子状態]]の計算。→[[分子軌道法]]
#原子・分子・分子集団のコンピュータ・[[シミュレーション]]。→[[分子動力学法]]、[[モンテカルロ法]]
#[[データベース]]の利用。
#その他。分子構造の可視化、等。
いずれも、近年のコンピュータの発達によって可能となった。
分子設計、材料設計、薬物設計、機能設計といったことに応用されている。
生命現象の原子・分子レベルからの理論的解明へ期待が持たれている。
似た言葉に[[計算化学]]がある。
これは、計算機化学と同じ意味として使用されることがあるが、計算化学と呼ばれるのは上記の1,2を行う場合であり、さらに計算機を使用しない場合も含まれる。
==関連項目==
*[[計算物理学]]
*[[計算化学]]
*[[ケモインフォマティクス]]
[[Category:化学の分野|けいさんきかかく]]
[[Category:計算化学|けいさんきかかく]] | null | 2020-04-19T02:34:55Z | false | false | false | [
"Template:混同"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%88%E7%AE%97%E6%A9%9F%E5%8C%96%E5%AD%A6 |
9,414 | 半島 | 半島(はんとう)とは、3方位が水(海・川・湖など)に接している陸地のこと。「半島」とは『訂正増訳采覧異言』にある言葉で、その語源はオランダ語のハルフエイラント(蘭: halfeiland ・「半ば、半分」を意味する half と「島」を意味する eiland の2語による造語。現代オランダ語では schiereiland の方が一般的)またはラテン語のパエニンスラ(ラテン語: paeninsula・「ほぼ、半ば」を意味する paene と「島沢」を意味する insula の2語による造語=「ほぼ島のようなもの」)とされている。
半島は、陸地の一部が海などの水域に突き出た形になった部分である。非常に小さいものは岬と呼ばれる。大陸と島など他の地理的概念と同様に、具体的かつ普遍的な定義はない。歴史を通じて海上交通での知見より、海から見て「島のように見える陸地」を慣行として「半島」と呼ばれているものである。そのためヨーロッパやインドのように非常に大きな半島は亜大陸・大陸と呼ばれる。 現在は、アラビア半島が最大の半島とみなされている。また、半島の一部がさらに突き出た形になっている場合、それを別の半島と見なすこともある。
半島の成り立ちは様々である。
面積10万平方キロメートル以上の半島を大きい順に次に記す。 | [
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] | 半島(はんとう)とは、3方位が水(海・川・湖など)に接している陸地のこと。「半島」とは『訂正増訳采覧異言』にある言葉で、その語源はオランダ語のハルフエイラントまたはラテン語のパエニンスラとされている。 | [[ファイル:Cap Bon NASA.jpg|thumb|280px|[[ボン岬半島]]]]
[[ファイル:Arabian Peninsula dust SeaWiFS-2.jpg|thumb|280px|[[アラビア半島]]]]
[[ファイル:Izu Peninsula Shizuoka Japan SRTM.jpg|thumb|[[伊豆半島]](静岡県)]]
[[ファイル:Satsuma Peninsula Kagoshima Japan SRTM.jpg|thumb|[[薩摩半島]](鹿児島県)]]
[[ファイル:Ishigaki_hirakubo_hanto.jpg|thumb|280px|[[平久保半島]](沖縄県)]]
'''半島'''(はんとう)とは、3方位が水([[海]]・[[川]]・[[湖]]など)に接している[[陸地]]のこと。「半島」とは『[[訂正増訳采覧異言]]』にある言葉で、その語源はオランダ語のハルフエイラント({{lang-nl-short|halfeiland}} ・「半ば、半分」を意味する ''half'' と「[[島]]」を意味する ''eiland'' の2語による造語。現代オランダ語では ''schiereiland'' の方が一般的)またはラテン語のパエニンスラ({{lang-la|paeninsula}}・「ほぼ、半ば」を意味する ''paene'' と「島沢」を意味する ''insula'' の2語による造語=「ほぼ島のようなもの」)とされている。
== 概要 ==
半島は、陸地の一部が海などの水域に突き出た形になった部分である。非常に小さいものは[[岬]]と呼ばれる。[[大陸]]と[[島]]など他の地理的概念と同様に、具体的かつ普遍的な定義はない。歴史を通じて海上交通での知見より、海から見て「島のように見える陸地」を慣行として「半島」と呼ばれているものである。そのため[[ヨーロッパ大陸|ヨーロッパ]]や[[インド亜大陸|インド]]のように非常に大きな半島は[[亜大陸]]・[[大陸]]と呼ばれる。 現在は、[[アラビア半島]]が最大の半島とみなされている。また、半島の一部がさらに突き出た形になっている場合、それを別の半島と見なすこともある。
=== 成り立ち ===
半島の成り立ちは様々である。
; プレート移動に拠るもの
: [[プレート]]移動に伴って起こるもの。大規模な半島の多くはプレート移動が要因となっている。[[インドプレート]]が[[ユーラシアプレート]]に長い時間をかけてぶつかることによってできた[[インド亜大陸|インド半島]]がよく知られた例である。逆に、アラビア半島は大陸地殻が引き裂かれる形で半島となっている。また、日本では[[伊豆半島]]([[フィリピン海プレート]]の移動に拠る)の例が知られている。
; 砂嘴、陸繋島に拠るもの
: [[河川]]から流れてきた[[土砂]]が堆積し[[砂嘴]]を形成したり、砂嘴が海岸から程近い[[島]]と繋がり[[陸繋島]]となった場合に半島となる。この場合、規模は小さい。砂嘴の例としては[[野付半島]]、陸繋島の例としては[[男鹿半島]]がある。
; 水域の埋め立てや干拓に拠るもの
: 工業用地などを造成するため、人工的に土砂で海洋などを埋め立てたり、干拓したりして海岸と島が繋がったもの。規模は小さい。日本では香焼半島、児島半島などの例がある。
; 火山活動によるもの
: 火山島や海底火山の噴火活動により噴出物や溶岩流などで海が埋まり、陸続きになったもの。日本では島原半島などの例がある。
; 土地の隆起または沈降によるもの
: 地震などにより土地が隆起したり沈降したりして元の地形から海に突き出たもの。日本では能登半島や房総半島が隆起によってできたとされる。
{{節スタブ}}
== 世界のおもな半島 ==
面積10万平方キロメートル以上の半島を大きい順に次に記す。
# [[アラビア半島]]
# インド半島(ここでは[[南インド]]([[w:en:Peninsular_India]])部分を指す)<!--英語だと[[インド半島]]=南インド、の模様。しかし日本では[[インド亜大陸]]を指すのが通例なので要検討。-->
# [[ラブラドル半島]]
# [[スカンジナビア半島]]
# [[イベリア半島]]
# [[インドシナ半島]]<!--順位修正-->
# [[アナトリア半島]]
# [[バルカン半島]]
# [[カムチャツカ半島]]
# [[マレー半島]]
# [[朝鮮半島]]
<!--# [[朝鮮半島]]([[大韓民国]]では「韓半島」(한반도)と呼ぶ)←現地国家がどのように呼んでいるかを記載するなら、すべての項目に記載するべきでは?できないのなら朝鮮半島のみの記載は必要ないかと思いますが-->
# [[ヨーク岬半島]]
# [[イタリア半島]]
# [[バハ・カリフォルニア半島]]
# [[フロリダ半島]]
# [[ブーシア半島]](カナダ・[[ヌナブト準州|ヌナヴト]])
<!--#[[ケープヨーク半島]]←ヨーク岬半島と同じもののようですが?-->
# ソマリア半島([[アフリカの角]])
=== 順位外 ===
{{col-start}}
{{col-2}}
* [[サンフランシスコ半島]]
* [[クリミア半島]]
* [[ボン岬半島]]
* [[山東半島]]
* [[遼東半島]]
* [[九龍半島]]
* [[雷州半島]]
* [[バターン半島]]
* [[カタール|カタール半島]]
* [[シナイ半島]]
* [[ペロポネソス半島]]
* [[コーンウォール半島]]
* [[コタンタン半島]]
* [[ブルターニュ|ブルターニュ半島]]
* [[ユトランド半島]]
* [[アンゲルン半島]]
{{col-2}}
* [[コラ半島]]
* [[カニン半島]]
* [[ヤマル半島]]
* [[ギダン半島]]
* [[タイミル半島]]
* [[チュクチ半島]]
* [[アラスカ半島]]
* [[ユカタン半島]]
* [[タイタオ半島]]
* [[アーネムランド半島]]
* [[南極半島]]
* [[エドワード7世半島]]
* [[バルデス半島]]
* [[ガスペ半島]]
* [[ユーラン半島]]
<!--* [[コーンワル半島]] == コーンウォール半島 では?-->
* [[ミナハサ半島]]
{{col-end}}
== 日本の半島一覧 ==
{{col-start}}
{{col-2}}
=== 北海道 ===
* [[根室半島]]
* [[野付半島]]
* [[知床半島]]
* [[積丹半島]]
* [[渡島半島]]
** [[亀田半島]](先端の東側)
** [[松前半島]](先端の西側)
* [[絵鞆半島]]
* [[散布山|散布半島]]
=== 青森県 ===
* [[下北半島]]
* [[津軽半島]]
** [[小泊半島]]
* [[夏泊半島]]
=== 秋田県 ===
* [[男鹿半島]]
=== 岩手県 ===
* [[重茂半島]]
* [[船越半島]]
* [[広田半島]]
=== 宮城県 ===
* [[唐桑半島]]
* [[牡鹿半島]]
=== 千葉県 ===
* [[銚子半島]]
* [[房総半島]]
=== 神奈川県 ===
* [[三浦半島]]
* [[真鶴半島]]
=== 新潟県 ===
* [[小木半島]]
=== 石川県 ===
* [[能登半島]]
=== 福井県 ===
* [[敦賀半島]]
* [[常神半島]]
* [[大島半島 (福井県)|大島半島]]
* [[内外海半島]]
* [[音海半島]]
* [[大浦半島]]
=== 静岡県 ===
* [[伊豆半島]]
* [[五味半島]]
=== 愛知県 ===
* [[渥美半島]]
* [[知多半島]]
=== 三重県 ===
* [[志摩半島]]
** [[前島半島]]
=== 滋賀県 ===
* [[烏丸半島]]
=== 京都府 ===
* [[丹後半島]]
* 大浦半島
=== 和歌山県 ===
* [[紀伊半島]]
=== 鳥取県 ===
* [[弓ヶ浜半島]]
=== 島根県 ===
* [[島根半島]]
=== 岡山県 ===
* [[児島半島]]
=== 広島県 ===
* [[沼隈半島]]
=== 山口県 ===
* [[向津具半島]]
* [[室津半島]]
* [[下関半島]]
=== 徳島県 ===
* [[那佐半島]]
=== 香川県 ===
* [[讃岐半島]]
* [[三都半島]]
* [[荘内半島]]
=== 愛媛県 ===
* [[高縄半島]]
* [[佐田岬半島]]
* [[由良半島]]
=== 高知県 ===
*[[横浪半島]]
*[[足摺半島]]
=== 福岡県 ===
* [[企救半島]]
* [[若松半島]]
* [[糸島半島]]
=== 佐賀県 ===
* [[東松浦半島]]
=== 長崎県 ===
* [[北松浦半島]]
* [[西彼杵半島]]
* [[俵ヶ浦半島]]
* [[長崎半島]]
** 香焼半島
* [[島原半島]]
=== 熊本県 ===
* [[宇土半島]]
* [[富岡半島]]
=== 大分県 ===
* [[国東半島]]
* [[佐賀関半島]]
* [[長目半島]]
* [[四浦半島]]
* [[鶴見半島]]
=== 宮崎県 ===
* [[遠見半島]]
=== 鹿児島県 ===
* [[薩摩半島]]
* [[大隅半島]]
* [[野間半島]]
* [[笠利半島]]
=== 沖縄県 ===
* [[本部半島]]
* [[与勝半島]]
* [[知念半島]]
* [[平久保半島]]
{{col-end}}
==国土が半島にある国 ==
===アジア===
*[[サウジアラビア]]([[アラビア半島]])
*[[アラブ首長国連邦]](アラビア半島)
*[[オマーン]](アラビア半島)
*[[イエメン]](アラビア半島)
*[[カタール]](アラビア半島にあるカタール半島)
*[[タイ王国|タイ]]([[インドシナ半島]])
*[[ベトナム]](インドシナ半島)
*[[カンボジア]](インドシナ半島)
*[[ラオス]](インドシナ半島)
*[[ミャンマー]](インドシナ半島)
*[[マレーシア]](インドシナ半島に連続する[[マレー半島]])
*[[大韓民国]]([[朝鮮半島]])
*[[朝鮮民主主義人民共和国]](朝鮮半島)
*[[トルコ]]([[アナトリア半島]])
===ヨーロッパ===
*[[スペイン]]([[イベリア半島]])
*[[ポルトガル]](イベリア半島)
*[[ジブラルタル]](イベリア半島)
*[[スウェーデン]]([[スカンジナビア半島]])
*[[ノルウェー]](スカンジナビア半島)
*[[デンマーク]]([[ユトランド半島]])
*[[イタリア]]([[イタリア半島]])
*[[サンマリノ]](イタリア半島)
*[[バチカン]](イタリア半島)
*[[スロベニア]]([[バルカン半島]])
*[[クロアチア]](バルカン半島)
*[[セルビア]](バルカン半島)
*[[モンテネグロ]](バルカン半島)
*[[北マケドニア]](バルカン半島)
*[[ギリシャ]](バルカン半島に連続する[[ペロポネソス半島]])
*[[ブルガリア]](バルカン半島)
===アフリカ===
*[[ソマリア]]([[アフリカの角]])
== その他 ==
* [[日本]]を列島、[[中国]]を大陸と表現するとき、[[朝鮮]]は半島と表される。
* スペイン語で「半島人([[ペニンスラール]])」といえば[[ラテンアメリカ]]などの[[植民地]]出身者([[クリオーリョ]])に対して本国出身者という意味になる。
== 関連項目 ==
{{commonscat|Peninsulas}}
* [[島]]
* [[半島振興法]]
{{日本の半島}}
{{地形}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:はんとう}}
[[Category:地形]]
[[Category:半島|*]]
[[Category:地政学]] | 2003-05-27T16:09:06Z | 2023-09-15T08:44:08Z | false | false | false | [
"Template:Commonscat",
"Template:日本の半島",
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"Template:Lang-nl-short",
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"Template:節スタブ",
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"Template:Col-2"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E5%B3%B6 |
9,415 | 相撲部屋 | 相撲部屋(すもうべや)は、大相撲の協会員が所属する団体。および、その団体が生活の拠点とする施設。
江戸時代に起源をもつ大相撲は、指導者である年寄(親方)と、力士(弟子)との間で疑似的な大家族制を持っており、その"家族"の生活の場として、部屋が存在する。部屋では、相撲の稽古のみならず、年寄を中心とした共同生活を営んでいる。
そのため、現在でも日本相撲協会の年寄・力士・行司・呼出・床山は全員いずれかの相撲部屋に所属しており、所属していない者は本場所に出場できない。また、全ての部屋には年寄・力士がそれぞれ1人以上所属している必要がある。
該当部屋に所属する年寄の中の責任者(師匠)の年寄名跡が部屋名に冠せられる。そのため、同じ部屋の部屋名のみ変更になる例、逆に、組織的つながりはなくても部屋名が同一になる例がある。
相撲部屋の構成員は、部屋を代表する年寄(師匠)を中心に寝食を共にしており、幕下以下の力士(取的)は、大部屋で共同生活をする。十両以上の関取になると個室が与えられるが、結婚するまでは部屋に住むことが基本のルールである。ただし、関取を多く擁している部屋では個室が足りなくなり、やむを得ず関取にマンション暮らしを許す場合がある(春日野部屋や九重部屋など)。
各部屋は、それぞれ自前の稽古場を持つ。以前は、稽古場を構えず、一門の部屋への出稽古を常態としていた部屋もあったが、1965年1月場所からの部屋別総当たり制を機に、稽古土俵を持たなければ部屋の新設・存続は認められなくなった。部屋の創立から施設の完成までに時間がかかる場合は、仮施設をOBから受けることが原則である。
どれだけ所属力士が多くても、ほとんどの部屋では稽古土俵は1つである。「他人の相撲を見るのも稽古のうち」という意味合いと、「他人を押しのけて土俵に上がるようでなくてはならない(それくらいの稽古に対する積極性と気概が必要だ)」という考え方による。ただし、稽古の効率化を図って2つの土俵を備える例も少数ながら存在する(前田山の高砂部屋、照國の伊勢ヶ濱部屋、琴櫻の佐度ヶ嶽部屋、稀勢の里の二所ノ関部屋)。また、肥後ノ海の木瀬部屋では、2017年11月場所(九州場所)の宿舎に3つの土俵を設置したことがあった。
相撲部屋は一種の"イエ"であり、日本相撲協会からも基本的に独立して運営されている。協会からは所属力士数等に応じて補助金が交付されるが、これだけでは部屋の運営を賄うことはできず、師匠自身にも、自前で必要経費を調達する資金力が求められる。不動産としての部屋の施設も、師匠(当代、あるいは先代以前およびその遺族)、後援者などが資金を出して構える(あるいは、賃貸物件を構える)必要がある。また、部屋の立地自治体や近隣住民との繋がりも重視し、町興しの一環として相撲部屋が運営されている面もある。
同部屋の力士は疑似的な「家族」であることから、本割では対戦しない(部屋別総当たり制)。そして、入門時に所属した部屋から他部屋に移籍することは原則として認められない。
相撲部屋も、通常の"イエ"のように、師匠から弟子へと、年寄名跡に付随する形で継承される。継承に際して、師匠の娘を有力な弟子と結婚させて養子縁組を行い、婿入りの形で民法上も親子関係を築く事例が少なくない。そのため、「部屋持ち親方は娘が生まれると赤飯炊いて喜ぶ」「相撲部屋に男児はいらぬ」と俗に言われる(師匠の息子が年寄襲名資格を満たせる成績を達成する保証はないため)。
1つの部屋に部屋の創設の資格および意志を持った力士が複数名いる場合は、分家独立をして新しい部屋を構えることもある。逆に、後継者に恵まれなかった部屋や、年寄・力士がいなくなった部屋は閉鎖され、"イエ"の系統は途絶える(残っていた部屋の構成員は、他部屋に移籍する。
部屋数は昭和まではおおむね30部屋前後で安定していたが、平成になると若乃花・貴乃花兄弟の活躍によって相撲人気が高まり総力士数が増え、それに合わせて部屋の新設が相次ぎ、2004年には史上最高の55部屋にまで到達した。しかし、新しい部屋の乱立によって所属力士が数人しかいない小規模な部屋が多くなり、部屋の運営に支障をきたしたり、歴史の浅い部屋が大相撲の伝統をうまく継承できずに力士が問題を起こすケースが出てきた。これを受けて、これまで明文化されていなかった部屋創設の要件として、師匠の現役時の成績を設けることによって(後述)、分家独立を抑制させた。平成後期以降は入門者の減少と合わせて部屋数も減少し、現在はおおむね43~44部屋前後で落ち着いている。
部屋の分離独立が進むと、同一の部屋から分離独立した部屋の系統が発生する。これらの系統に基づく部屋の集まりを「一門」と呼び、現在でも冠婚葬祭や合同稽古などを実施、協会の役員選挙も慣例的に一門別に頭数が割り振られている。かつては無所属の部屋も許されていたが、2018年の貴乃花一門の解散を機に、いずれかの一門への所属が義務付けられるようになった(一門制度)。
国技館との間の交通の便などを考慮し、2023年現在相撲部屋の本拠地はほぼ全て関東地方に存在するが、大阪・名古屋・福岡の本場所開催時には、力士や親方・スタッフは場所の前後を含め約1ヶ月ほど現地に滞在する必要が生じる。そのため各部屋は現地滞在用の宿舎を独自に確保している。
宿舎として使われる施設は主に神社や寺が多いが、後援者の伝手などを頼り大学や企業の研修施設を利用する例、パチンコ店の元店舗を利用する例などもあり、部屋によって様々である。
近年では核家族化の傾向も手伝って、力士志願の若者の中にも従来の大家族的な大所帯での生活になじめない者も多く、多数の兄弟子がいる大部屋をむしろ避ける傾向も見られる。出羽海や高砂などといった名門部屋でも、大部屋としてまとまっていくのは難しくなってきている。元横綱の栃ノ海は停年退職後に相撲部屋の小規模化の弊害について「稽古相手が少ないから強くならない。少ない弟子が部屋を去ることを恐れて親方が弟子に甘くなりがちである」とする趣旨の指摘を行ったことがある。
かつて相撲部屋の女将は旅館や料亭の娘や花柳界の女性らがなる例も多かったというが、現在は結婚前に1人の女性として職を持ちながら関取と恋愛結婚して女将になるケースが多い。
平成時代からはウエイトトレーニング設備を備えた部屋も多い。昭和時代までは器具で作った筋肉は相撲では役に立たないと敬遠される傾向があった(隆の里や霧島など昭和世代の力士にもウエイトトレーニングを取り入れた例はあった)が、平成に入って貴乃花や武双山らの成功もあって、力士が他のトレーニングジムへ通う煩を避けるためもあり、こうした傾向が進んでいる。入門時の基準にこうした設備の充実を挙げる新弟子も少なくない。2010年代では九重部屋や伊勢ヶ濱部屋が筋力トレーニングを行う部屋の代表となっている。
力士の喫煙に関しては各部屋の師匠の考えによって異なる。かつては喫煙したら破門という部屋もあったが、中には上がり座敷で喫煙しながら指導していた親方もいる。傾向として、師匠が喫煙者だと、力士も容認されがち。稽古場の陰に灰皿が置かれ、力士の稽古後の一服が珍しくない部屋もある。かつては角界においては喫煙者が珍しくない状況であったが、2023年7月場所終了時点では十両以上の関取70人のうち、喫煙者は10数%ほどで、8、9人に1人程度の割合である。
多くの相撲部屋は、一般人の希望があれば稽古の見学を受け入れている。ただし、多くの部屋では見学者が守らなければならないルールを設けているのが実情である。一般に、相撲部屋の稽古見学では、私語、喫煙、飲食、席の途中移動、携帯電話の電源をONにすること、無断撮影、着帽・サングラスの着用、土俵や力士に足を向けること、土俵や稽古スペースに入り込むこと、体調不良時の見学が禁止されている。
2020年以降に日本で新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が流行した際、相撲部屋による共同生活が感染拡大防止のために避けるべき「密閉・密集・密接」という“3密”の最たる例でもあると指摘された。2021年には荒汐部屋や九重部屋からそれぞれ12人以上の感染者が確認されクラスター化した。2022年2月には幕内42人中過半数が感染した。
嘉風は現役終盤期に御嶽海、正代との鼎談で「基本的には名門大学ほどラインが強い。しかも有能な人材ほど、好きに部屋を選ばせてもらえない」と、大学の相撲部と相撲部屋の間にある人材供給のパイプの存在について語っている。
2023年12月25日現在の相撲部屋(5大一門、計44部屋)。すべて所在地が関東であり、特に両国国技館周辺の東京都墨田区に集中立地している。
デフォルトでは消滅年月の昇順。部屋名は50音順ソート、師匠の列は番付順ソート。
左から閉鎖した部屋名、閉鎖した年、閉鎖時点の師匠の現役名。
以下は存在時期及び、師匠が不明な部屋である。
もともと部屋の分離独立に関する基準はなく、理事会で承認されればどの年寄でも部屋を新設することができたが、上述の部屋数の急増を受けて、平成中期に部屋創設の要件に該当年寄の現役時代の成績の制限を加えた。
2006年9月28日制定。以下の要件を満たし、引退から1年以上経過した後、師匠の了承と理事会の承認を得ること。
1998年5月1日制定。現役力士が理事会で相撲部屋継承者と認められれば、通常の年寄襲名条件(年寄名跡#襲名条件を参照)ではなく、例外規定を適用し、現役を引退して部屋を継承することが可能となった。条件は以下。
この規定になって以降、部屋を新設したのは10例である。
なお、この規定が制定されて以降木瀬部屋が2012年4月に北の湖部屋から独立、中川部屋が2017年1月に追手風部屋から独立が承認されているが、木瀬部屋は2010年5月31日の閉鎖処分の解除による再興のため、中川部屋は2016年10月17日に閉鎖処分を受けて一時的に消滅した旧春日山部屋の再興のため新設には当たらないとされている。
また、現役を引退して部屋を継承したのは2例である。
なお、部屋の師匠が停年もしくは逝去したことに伴い部屋付きの親方が師匠になる場合は条件等の制限はない。 | [
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"text": "相撲部屋は一種の\"イエ\"であり、日本相撲協会からも基本的に独立して運営されている。協会からは所属力士数等に応じて補助金が交付されるが、これだけでは部屋の運営を賄うことはできず、師匠自身にも、自前で必要経費を調達する資金力が求められる。不動産としての部屋の施設も、師匠(当代、あるいは先代以前およびその遺族)、後援者などが資金を出して構える(あるいは、賃貸物件を構える)必要がある。また、部屋の立地自治体や近隣住民との繋がりも重視し、町興しの一環として相撲部屋が運営されている面もある。",
"title": "相撲部屋の運営"
},
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"text": "同部屋の力士は疑似的な「家族」であることから、本割では対戦しない(部屋別総当たり制)。そして、入門時に所属した部屋から他部屋に移籍することは原則として認められない。",
"title": "相撲部屋の運営"
},
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"text": "相撲部屋も、通常の\"イエ\"のように、師匠から弟子へと、年寄名跡に付随する形で継承される。継承に際して、師匠の娘を有力な弟子と結婚させて養子縁組を行い、婿入りの形で民法上も親子関係を築く事例が少なくない。そのため、「部屋持ち親方は娘が生まれると赤飯炊いて喜ぶ」「相撲部屋に男児はいらぬ」と俗に言われる(師匠の息子が年寄襲名資格を満たせる成績を達成する保証はないため)。",
"title": "相撲部屋の運営"
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"text": "1つの部屋に部屋の創設の資格および意志を持った力士が複数名いる場合は、分家独立をして新しい部屋を構えることもある。逆に、後継者に恵まれなかった部屋や、年寄・力士がいなくなった部屋は閉鎖され、\"イエ\"の系統は途絶える(残っていた部屋の構成員は、他部屋に移籍する。",
"title": "相撲部屋の運営"
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"text": "部屋数は昭和まではおおむね30部屋前後で安定していたが、平成になると若乃花・貴乃花兄弟の活躍によって相撲人気が高まり総力士数が増え、それに合わせて部屋の新設が相次ぎ、2004年には史上最高の55部屋にまで到達した。しかし、新しい部屋の乱立によって所属力士が数人しかいない小規模な部屋が多くなり、部屋の運営に支障をきたしたり、歴史の浅い部屋が大相撲の伝統をうまく継承できずに力士が問題を起こすケースが出てきた。これを受けて、これまで明文化されていなかった部屋創設の要件として、師匠の現役時の成績を設けることによって(後述)、分家独立を抑制させた。平成後期以降は入門者の減少と合わせて部屋数も減少し、現在はおおむね43~44部屋前後で落ち着いている。",
"title": "相撲部屋の運営"
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"text": "部屋の分離独立が進むと、同一の部屋から分離独立した部屋の系統が発生する。これらの系統に基づく部屋の集まりを「一門」と呼び、現在でも冠婚葬祭や合同稽古などを実施、協会の役員選挙も慣例的に一門別に頭数が割り振られている。かつては無所属の部屋も許されていたが、2018年の貴乃花一門の解散を機に、いずれかの一門への所属が義務付けられるようになった(一門制度)。",
"title": "相撲部屋の運営"
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"text": "国技館との間の交通の便などを考慮し、2023年現在相撲部屋の本拠地はほぼ全て関東地方に存在するが、大阪・名古屋・福岡の本場所開催時には、力士や親方・スタッフは場所の前後を含め約1ヶ月ほど現地に滞在する必要が生じる。そのため各部屋は現地滞在用の宿舎を独自に確保している。",
"title": "相撲部屋の運営"
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"text": "宿舎として使われる施設は主に神社や寺が多いが、後援者の伝手などを頼り大学や企業の研修施設を利用する例、パチンコ店の元店舗を利用する例などもあり、部屋によって様々である。",
"title": "相撲部屋の運営"
},
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"text": "近年では核家族化の傾向も手伝って、力士志願の若者の中にも従来の大家族的な大所帯での生活になじめない者も多く、多数の兄弟子がいる大部屋をむしろ避ける傾向も見られる。出羽海や高砂などといった名門部屋でも、大部屋としてまとまっていくのは難しくなってきている。元横綱の栃ノ海は停年退職後に相撲部屋の小規模化の弊害について「稽古相手が少ないから強くならない。少ない弟子が部屋を去ることを恐れて親方が弟子に甘くなりがちである」とする趣旨の指摘を行ったことがある。",
"title": "相撲部屋を取り巻く環境"
},
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"text": "かつて相撲部屋の女将は旅館や料亭の娘や花柳界の女性らがなる例も多かったというが、現在は結婚前に1人の女性として職を持ちながら関取と恋愛結婚して女将になるケースが多い。",
"title": "相撲部屋を取り巻く環境"
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"text": "平成時代からはウエイトトレーニング設備を備えた部屋も多い。昭和時代までは器具で作った筋肉は相撲では役に立たないと敬遠される傾向があった(隆の里や霧島など昭和世代の力士にもウエイトトレーニングを取り入れた例はあった)が、平成に入って貴乃花や武双山らの成功もあって、力士が他のトレーニングジムへ通う煩を避けるためもあり、こうした傾向が進んでいる。入門時の基準にこうした設備の充実を挙げる新弟子も少なくない。2010年代では九重部屋や伊勢ヶ濱部屋が筋力トレーニングを行う部屋の代表となっている。",
"title": "相撲部屋を取り巻く環境"
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"text": "力士の喫煙に関しては各部屋の師匠の考えによって異なる。かつては喫煙したら破門という部屋もあったが、中には上がり座敷で喫煙しながら指導していた親方もいる。傾向として、師匠が喫煙者だと、力士も容認されがち。稽古場の陰に灰皿が置かれ、力士の稽古後の一服が珍しくない部屋もある。かつては角界においては喫煙者が珍しくない状況であったが、2023年7月場所終了時点では十両以上の関取70人のうち、喫煙者は10数%ほどで、8、9人に1人程度の割合である。",
"title": "相撲部屋を取り巻く環境"
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{
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"text": "多くの相撲部屋は、一般人の希望があれば稽古の見学を受け入れている。ただし、多くの部屋では見学者が守らなければならないルールを設けているのが実情である。一般に、相撲部屋の稽古見学では、私語、喫煙、飲食、席の途中移動、携帯電話の電源をONにすること、無断撮影、着帽・サングラスの着用、土俵や力士に足を向けること、土俵や稽古スペースに入り込むこと、体調不良時の見学が禁止されている。",
"title": "相撲部屋を取り巻く環境"
},
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"paragraph_id": 20,
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"text": "2020年以降に日本で新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が流行した際、相撲部屋による共同生活が感染拡大防止のために避けるべき「密閉・密集・密接」という“3密”の最たる例でもあると指摘された。2021年には荒汐部屋や九重部屋からそれぞれ12人以上の感染者が確認されクラスター化した。2022年2月には幕内42人中過半数が感染した。",
"title": "相撲部屋を取り巻く環境"
},
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"text": "嘉風は現役終盤期に御嶽海、正代との鼎談で「基本的には名門大学ほどラインが強い。しかも有能な人材ほど、好きに部屋を選ばせてもらえない」と、大学の相撲部と相撲部屋の間にある人材供給のパイプの存在について語っている。",
"title": "相撲部屋を取り巻く環境"
},
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"text": "2023年12月25日現在の相撲部屋(5大一門、計44部屋)。すべて所在地が関東であり、特に両国国技館周辺の東京都墨田区に集中立地している。",
"title": "部屋一覧"
},
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"text": "デフォルトでは消滅年月の昇順。部屋名は50音順ソート、師匠の列は番付順ソート。",
"title": "過去に存在した部屋"
},
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"text": "左から閉鎖した部屋名、閉鎖した年、閉鎖時点の師匠の現役名。",
"title": "過去に存在した部屋"
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"text": "以下は存在時期及び、師匠が不明な部屋である。",
"title": "過去に存在した部屋"
},
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"text": "もともと部屋の分離独立に関する基準はなく、理事会で承認されればどの年寄でも部屋を新設することができたが、上述の部屋数の急増を受けて、平成中期に部屋創設の要件に該当年寄の現役時代の成績の制限を加えた。",
"title": "部屋の創設・継承資格"
},
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"text": "2006年9月28日制定。以下の要件を満たし、引退から1年以上経過した後、師匠の了承と理事会の承認を得ること。",
"title": "部屋の創設・継承資格"
},
{
"paragraph_id": 28,
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"text": "1998年5月1日制定。現役力士が理事会で相撲部屋継承者と認められれば、通常の年寄襲名条件(年寄名跡#襲名条件を参照)ではなく、例外規定を適用し、現役を引退して部屋を継承することが可能となった。条件は以下。",
"title": "部屋の創設・継承資格"
},
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"text": "この規定になって以降、部屋を新設したのは10例である。",
"title": "部屋の創設・継承資格"
},
{
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"text": "なお、この規定が制定されて以降木瀬部屋が2012年4月に北の湖部屋から独立、中川部屋が2017年1月に追手風部屋から独立が承認されているが、木瀬部屋は2010年5月31日の閉鎖処分の解除による再興のため、中川部屋は2016年10月17日に閉鎖処分を受けて一時的に消滅した旧春日山部屋の再興のため新設には当たらないとされている。",
"title": "部屋の創設・継承資格"
},
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"text": "また、現役を引退して部屋を継承したのは2例である。",
"title": "部屋の創設・継承資格"
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"text": "なお、部屋の師匠が停年もしくは逝去したことに伴い部屋付きの親方が師匠になる場合は条件等の制限はない。",
"title": "部屋の創設・継承資格"
}
] | 相撲部屋(すもうべや)は、大相撲の協会員が所属する団体。および、その団体が生活の拠点とする施設。 | [[ファイル:Sumo-Nobori Flag.jpg|200px|thumb|部屋を応援する幟の一例]]
'''相撲部屋'''(すもうべや)は、[[大相撲]]の協会員が所属する団体。および、その団体が生活の拠点とする施設。
== 概要 ==
江戸時代に起源をもつ大相撲は、指導者である[[年寄]](親方)と、[[力士]](弟子)との間で疑似的な大家族制を持っており、その"家族"の生活の場として、'''部屋'''が存在する。'''部屋'''では、相撲の稽古のみならず、年寄を中心とした共同生活を営んでいる。
そのため、現在でも[[日本相撲協会]]の年寄・力士・[[行司]]・[[呼出]]・[[床山#大相撲における床山|床山]]は全員いずれかの相撲部屋に所属しており、所属していない者は[[本場所]]に出場できない。また、全ての部屋には年寄・力士がそれぞれ1人以上所属している必要がある。
== 相撲部屋の運営 ==
=== 名称 ===
該当部屋に所属する年寄の中の責任者('''師匠''')の[[年寄名跡]]が部屋名に冠せられる。そのため、同じ部屋の部屋名のみ変更になる例、逆に、組織的つながりはなくても部屋名が同一になる例がある。
=== 部屋の日常 ===
相撲部屋の構成員は、部屋を代表する年寄(師匠)を中心に寝食を共にしており、[[幕下]]以下の力士([[力士養成員|取的]])は、大部屋で共同生活をする。[[十両]]以上の[[関取]]になると個室が与えられるが、[[結婚]]するまでは部屋に住むことが基本のルールである。ただし、関取を多く擁している部屋では個室が足りなくなり、やむを得ず関取にマンション暮らしを許す場合がある(春日野部屋や九重部屋など)<ref name="heya">ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』(2017年、B・B・MOOK)p66</ref>。
各部屋は、それぞれ自前の稽古場を持つ。以前は、稽古場を構えず、一門の部屋への出稽古を常態としていた部屋もあったが、1965年1月場所からの[[部屋別総当たり制]]を機に、稽古土俵を持たなければ部屋の新設・存続は認められなくなった。部屋の創立から施設の完成までに時間がかかる場合は、仮施設をOBから受けることが原則である。
どれだけ所属力士が多くても、ほとんどの部屋では稽古土俵は1つである。「他人の相撲を見るのも稽古のうち」という意味合いと、「他人を押しのけて土俵に上がるようでなくてはならない(それくらいの稽古に対する積極性と気概が必要だ)」という考え方による。ただし、稽古の効率化を図って2つの土俵を備える例も少数ながら存在する([[前田山英五郎|前田山]]の高砂部屋、[[照國萬藏|照國]]の伊勢ヶ濱部屋、[[琴櫻傑將|琴櫻]]の佐度ヶ嶽部屋、[[稀勢の里寛|稀勢の里]]の二所ノ関部屋)。また、[[肥後ノ海直哉|肥後ノ海]]の木瀬部屋では、2017年11月場所(九州場所)の宿舎に3つの土俵を設置したことがあった。
=== 協会からの独立性 ===
相撲部屋は一種の"イエ"であり、[[日本相撲協会]]からも基本的に独立して運営されている。協会からは所属力士数等に応じて補助金が交付されるが、これだけでは部屋の運営を賄うことはできず{{Refnest|group="注釈"|2021年の報道によると、力士養成費などが協会から支給されることが考慮されて「力士が10人いて黒字」と言われる<ref>[https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/287509 峰崎部屋と東関部屋が閉鎖 大相撲は部屋運営受難の時代に] 日刊ゲンダイDIGITAL 2021/04/07 06:00 (2021年4月7日閲覧)</ref>。}}、師匠自身にも、自前で必要経費を調達する資金力が求められる。不動産としての部屋の施設も、師匠(当代、あるいは先代以前およびその遺族)、後援者などが資金を出して構える(あるいは、賃貸物件を構える)必要がある。また、部屋の立地自治体や近隣住民との繋がりも重視し、町興しの一環として相撲部屋が運営されている面もある<ref>田中亮『全部わかる大相撲』(2019年11月20日発行、成美堂出版)pp.110-111</ref>{{Refnest|group="注釈"|2021年の『週刊ポスト』の調査によると、部屋施設の所有者が親方本人であるのは、全42部屋のうち28部屋であり、親方の親族名義の物件が2部屋、民間企業などからの賃貸が6部屋とのこと<ref>週刊ポスト2021年5月21日号</ref>。}}。
同部屋の力士は疑似的な「家族」であることから、[[本割]]では対戦しない([[系統別総当たり制#部屋別総当たり制|部屋別総当たり制]])<ref group="注釈">ただし優勝決定戦では同部屋でも対戦させる。</ref>。そして、入門時に所属した部屋から他部屋に移籍することは原則として認められない<ref group="注釈">ただし、所属していた部屋が何らかの理由で閉鎖された場合には、他の部屋への移籍を認められる。また、分家独立によって新たな部屋が創設された場合にも、希望者は新たな部屋への移籍を認められる。なお、親方については師匠の許可があれば閉鎖・独立の場合でなくても移籍は認められる。</ref>。
=== 部屋の継承、増減 ===
相撲部屋も、通常の"イエ"のように、師匠から弟子へと、[[年寄名跡]]に付随する形で継承される。継承に際して、師匠の娘を有力な弟子と結婚させて[[養子縁組]]を行い、婿入りの形で民法上も親子関係を築く事例が少なくない。そのため、「部屋持ち親方は娘が生まれると[[赤飯]]炊いて喜ぶ」「相撲部屋に男児はいらぬ」と俗に言われる(師匠の息子が年寄襲名資格を満たせる成績を達成する保証はないため)<ref name="okamibeya">[https://number.bunshun.jp/articles/-/846400 大関貴景勝が“親方”の娘と婚約 相撲部屋のおかみさんとは?――2020 BEST5] Number Web 2021/01/04 11:00 (2021年1月5日閲覧)</ref>。
1つの部屋に部屋の創設の資格および意志を持った力士が複数名いる場合は、分家独立をして新しい部屋を構えることもある。逆に、後継者に恵まれなかった部屋や、年寄・力士がいなくなった部屋は閉鎖され、"イエ"の系統は途絶える(残っていた部屋の構成員は、他部屋に移籍する<ref group="注釈">全員まとめて同じ部屋へ移籍するのが原則だが、平成以降は複数の部屋に分かれて移籍する例も見られるようになった([[田子ノ浦部屋 (2000-2012)|旧・田子ノ浦部屋]]、[[中川部屋]]など)。</ref><ref group="注釈">本場所中や直前に師匠が不在になった場合、師匠が急死した場合などの緊急事態においては、部屋付き親方が師匠代行を務めたり、一門の別の部屋の師匠を師匠代行としてその部屋の預かりとして、旧部屋の処遇が決まるまでの暫定措置とする場合も増えている([[山響部屋|北の湖部屋]]、[[井筒部屋]]、[[東関部屋]]など)。</ref>。
部屋数は昭和まではおおむね30部屋前後で安定していたが、平成になると[[花田虎上|若乃花]]・[[貴乃花光司|貴乃花]]兄弟の活躍によって相撲人気が高まり総力士数が増え、それに合わせて部屋の新設が相次ぎ、2004年には史上最高の55部屋にまで到達した。しかし、新しい部屋の乱立によって所属力士が数人しかいない小規模な部屋が多くなり、部屋の運営に支障をきたしたり、歴史の浅い部屋が大相撲の伝統をうまく継承できずに力士が問題を起こすケースが出てきた。これを受けて、これまで明文化されていなかった部屋創設の要件として、師匠の現役時の成績を設けることによって([[#部屋の創設・継承資格|後述]])、分家独立を抑制させた。平成後期以降は入門者の減少と合わせて部屋数も減少し、現在はおおむね43~44部屋前後で落ち着いている。
=== 一門との関係 ===
部屋の分離独立が進むと、同一の部屋から分離独立した部屋の系統が発生する。これらの系統に基づく部屋の集まりを「[[一門 (相撲)|一門]]」と呼び、現在でも冠婚葬祭や合同稽古などを実施、協会の役員選挙も慣例的に一門別に頭数が割り振られている<ref group="注釈">[[巡業]]が協会単位で行われるようになる前は、これも一門単位で行っていた。</ref>。かつては無所属の部屋も許されていたが、2018年の[[貴乃花一門]]の解散を機に、いずれかの一門への所属が義務付けられるようになった('''一門制度''')。
=== 東京以外の宿舎 ===
国技館との間の交通の便などを考慮し、2023年現在相撲部屋の本拠地はほぼ全て関東地方に存在するが、大阪・名古屋・福岡の本場所開催時には、力士や親方・スタッフは場所の前後を含め約1ヶ月ほど現地に滞在する必要が生じる。そのため各部屋は現地滞在用の宿舎を独自に確保している。
宿舎として使われる施設は主に神社や寺が多いが<ref>[https://plus.chunichi.co.jp/blog/dosukoi-hanako/article/516/4995/ 相撲部屋の宿舎いろいろ@大阪場所] - 中日新聞・2016年3月12日</ref>、後援者の伝手などを頼り大学や企業の研修施設を利用する例<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/201906250000509.html 白鵬の宮城野部屋に充実宿舎、トヨタ豊田社長計らい] - 日刊スポーツ・2019年6月25日</ref>、[[パチンコ店]]の元店舗を利用する例<ref>[https://www.fukuoka-keizai.co.jp/news/%E9%A3%AF%E5%A1%9A%E5%B8%82%E6%9C%AC%E7%94%BA%E3%81%AB%E4%BA%8C%E5%AD%90%E5%B1%B1%E9%83%A8%E5%B1%8B%E3%81%AE%E5%AE%BF%E8%88%8E%E3%80%80%E7%8E%89%E5%B1%8B%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97/ 飯塚市本町に二子山部屋の宿舎 玉屋グループ] - ふくおか経済Web・2023年11月6日</ref>などもあり、部屋によって様々である。
== 相撲部屋を取り巻く環境 ==
近年では[[核家族]]化の傾向も手伝って、力士志願の若者の中にも従来の大家族的な大所帯での生活になじめない者も多く、多数の兄弟子がいる大部屋をむしろ避ける傾向も見られる。出羽海や高砂などといった名門部屋でも、大部屋としてまとまっていくのは難しくなってきている。元横綱の[[栃ノ海晃嘉|栃ノ海]]は停年退職後に相撲部屋の小規模化の弊害について「稽古相手が少ないから強くならない。少ない弟子が部屋を去ることを恐れて親方が弟子に甘くなりがちである」とする趣旨の指摘を行ったことがある<ref>{{Cite web|和書|url=http://mainichi.jp/sports/news/20130330k0000e050173000c.html |title=大相撲:第49代横綱・栃ノ海の花田茂広さんに聞く |accessdate=2014-08-02 |archiveurl=https://archive.fo/sLR4a |archivedate=2014-08-10}}</ref>。
かつて相撲部屋の[[女将]]は旅館や料亭の娘や[[花街|花柳界]]の女性らがなる例も多かったというが、現在は結婚前に1人の女性として職を持ちながら関取と恋愛結婚して女将になるケースが多い<ref name="okamibeya"/>。
平成時代からは[[ウエイトトレーニング]]設備を備えた部屋も多い。昭和時代までは器具で作った[[筋肉]]は相撲では役に立たないと敬遠される傾向があった([[隆の里俊英|隆の里]]や[[霧島一博|霧島]]など昭和世代の力士にもウエイトトレーニングを取り入れた例はあった)が、[[平成]]に入って貴乃花や[[武双山正士|武双山]]{{efn|[[三重ノ海剛司|武蔵川]]と[[旭國斗雄|大島]]の対談では、武蔵川が「リハビリ用であってこれを主体として稽古を行うつもりはなかった。」と積極的な利用の意図が無かったことを話していた<ref>『相撲』2012年5月号</ref>。}}らの成功もあって、力士が他の[[トレーニングジム]]へ通う煩を避けるためもあり、こうした傾向が進んでいる。入門時の基準にこうした設備の充実を挙げる新弟子も少なくない。2010年代では九重部屋や伊勢ヶ濱部屋が筋力トレーニングを行う部屋の代表となっている。
力士の喫煙に関しては各部屋の師匠の考えによって異なる。かつては喫煙したら破門という部屋もあったが、中には上がり座敷で喫煙しながら指導していた親方もいる。傾向として、師匠が喫煙者だと、力士も容認されがち。稽古場の陰に灰皿が置かれ、力士の稽古後の一服が珍しくない部屋もある。かつては角界においては喫煙者が珍しくない状況であったが、2023年7月場所終了時点では十両以上の関取70人のうち、喫煙者は10数%ほどで、8、9人に1人程度の割合である<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202308180001677.html 力士はたばこを吸ってはいけないのか? 相撲界の喫煙事情を解説] 日刊スポーツ 2023年8月19日6時0分 (2023年8月19日閲覧)</ref>。
多くの相撲部屋は、一般人の希望があれば稽古の見学を受け入れている。ただし、多くの部屋では見学者が守らなければならないルールを設けているのが実情である。一般に、相撲部屋の稽古見学では、私語、喫煙、飲食、席の途中移動、携帯電話の電源をONにすること、無断撮影、着帽・サングラスの着用、土俵や力士に足を向けること、土俵や稽古スペースに入り込むこと、体調不良時の見学が禁止されている<ref>田中亮『全部わかる大相撲』(2019年11月20日発行、成美堂出版)p.19</ref>。
2020年以降に日本で[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)]]が流行した際、相撲部屋による共同生活が感染拡大防止のために避けるべき[[3つの密|「密閉・密集・密接」という“3密”]]の最たる例でもあると指摘された<ref>[https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2020/04/11/kiji/20200410s00005000330000c.html “3密”そろう相撲部屋 一気にクラスター化する恐れも…] Sponichi Annex 2020年4月11日 05:30(2020年4月11日閲覧)</ref>。2021年には荒汐部屋<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2021/01/07/kiji/20210106s00005000522000c.html|website=スポニチアネックス|accessdate=2021-03-22|title=白鵬以外の宮城野部屋力士陰性、クラスター発生の荒汐部屋は休場へ|publisher=スポーツニッポン新聞社}}</ref>や九重部屋<ref>{{Cite web|和書|title=大相撲 九重部屋 新たに5人が新型コロナ陽性に 計14人に|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210119/k10012822251000.html|website=NHKニュース|accessdate=2021-03-22|last=日本放送協会|date=2021年1月19日}}</ref>からそれぞれ12人以上の感染者が確認されクラスター化した。2022年2月には幕内42人中過半数が感染した<ref>{{Cite web|和書|title=幕内・宇良と十両・平戸海が新型コロナ感染 9日には幕内42人中21人の感染判明 - 大相撲 : 日刊スポーツ |url=https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202202100001388.html |website=nikkansports.com |accessdate=2022-02-14 |language=ja |date=2022年2月10日}}</ref>。
[[嘉風雅継|嘉風]]は現役終盤期に[[御嶽海久司|御嶽海]]、[[正代直也|正代]]との鼎談で「基本的には名門大学ほどラインが強い。しかも有能な人材ほど、好きに部屋を選ばせてもらえない」と、大学の相撲部と相撲部屋の間にある人材供給のパイプの存在について語っている<ref>[https://smart-flash.jp/sports/34274/1/ 「大卒力士」座談会「有能な人材ほど好きに部屋を選べない!」(1/2ページ)] SmartFLASH 2018.02.18 06:00 (週刊FLASH 2018年1月30日号、2021年12月20日閲覧)</ref>。
== 部屋一覧 ==
{{地図外部リンク
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}}
2023年12月27日現在の相撲部屋(5大一門、計44部屋)。すべて所在地が[[関東地方|関東]]であり、特に[[両国国技館]]周辺の[[東京都]][[墨田区]]に集中立地している。
{{Clear}}
{| class="sortable wikitable" style="font-size:85%; text-align:center"
|-
! 部屋名
! 開祖
! 師匠
! 部屋付き親方
! 一門
! 創設年月日
! これまでの出世頭(十両以上、'''太字'''は現役力士)
! 現役の出世頭(十両以上)
! 独立した部屋
! 合併した部屋
! 旧部屋名
! 備考
|-
! [[出羽海部屋]]
| 3代[[出羽海|出羽ノ海]]<br>(幕下・[[桂川立吉|桂川]])
| 11代[[出羽海]]<br>(前2・[[小城ノ花昭和|小城ノ花]])
| 14代[[中立 (相撲)|中立]](小結・[[小城錦康年|小城錦]])<br>16代[[高崎 (相撲)|高崎]](前6・[[金開山龍|金開山]])
| [[出羽海一門]]<br>'''総帥'''
| 1862年
| {{display none|01}}横綱・[[常陸山谷右エ門|常陸山]]<br>横綱・[[大錦卯一郎|大錦]]<br>横綱・[[栃木山守也|栃木山]]<br>横綱・[[常ノ花寛市|常ノ花]]<br>横綱・[[武藏山武|武藏山]]<br>横綱・[[安藝ノ海節男|安藝ノ海]]<br>横綱・[[千代の山雅信|千代の山]]<br>横綱・[[佐田の山晋松|佐田の山]]<br>横綱・[[三重ノ海剛司|三重ノ海]]
| {{display none|02}}大関・[[御嶽海久司|御嶽海]]
| [[春日野部屋]]<br>[[九重部屋]]<ref group="注釈">独立時に出羽海一門を破門となっており、高砂一門へ移籍。</ref><br>[[藤島部屋|武蔵川部屋]]<br>[[境川部屋|中立部屋]]<br>[[田子ノ浦部屋 (2000-2012)|田子ノ浦部屋]]
| 田子ノ浦部屋<ref group="注釈" name="tagonoura">所属力士8人が[[出羽海部屋]](5人)と[[春日野部屋]](3人)へ分割移籍。</ref>
|
|
|-
! [[春日野部屋]]
| 8代[[春日野]]<br>(横綱・[[栃木山守也|栃木山]])
| 11代[[春日野]]<br>(関脇・[[栃乃和歌清隆|栃乃和歌]])
| 9代[[富士ヶ根]](小結・[[大善尊太|大善]])<br>15代[[二十山]](小結・[[栃乃花仁|栃乃花]])<br>24代[[竹縄]](関脇・[[栃乃洋泰一|栃乃洋]])<br>12代[[三保ヶ関]](前1・[[栃栄篤史|栃栄]])<br>18代[[岩友]](前7・[[木村山守|木村山]])<br>13代[[清見潟]](関脇・[[栃煌山雄一郎|栃煌山]])
| [[出羽海一門]]
| 1925年
| {{display none|01}}横綱・[[栃錦清隆|栃錦]]<br>横綱・[[栃ノ海晃嘉|栃ノ海]]
| {{display none|03}}関脇・[[碧山亘右|碧山]]
| [[玉ノ井部屋]]<br>[[入間川部屋]]<br>[[常盤山部屋|千賀ノ浦部屋]]
| [[田子ノ浦部屋 (2000-2012)|田子ノ浦部屋]]<ref group="注釈" name="tagonoura"/><br>[[二所ノ関部屋 (1909-2013)|二所ノ関部屋]]<ref group="注釈" name="nishonoseki">年寄(3人)・行司・床山は[[松ヶ根部屋]]へ、年寄(1人)は[[春日野部屋]]へ分割移籍。</ref><br>[[三保ヶ関部屋]]<ref group="注釈" name="mihogaseki">力士・年寄・世話人・呼出は[[春日野部屋]]へ、床山は[[山響部屋|北の湖部屋]]へ分割移籍。</ref>
|
|
|-
! [[玉ノ井部屋]]
| 13代[[玉ノ井]]<br>(関脇・[[栃東知頼|栃東]])
| 14代[[玉ノ井]]<br>(大関・[[栃東大裕|栃東]])
| 不在
| [[出羽海一門]]
| 1990年1月
| {{display none|02}}大関・[[栃東大裕|栃東]]
| {{display none|05-04}}前4・[[富士東和佳|富士東]]
| なし
| なし
|
|
|-
! [[雷部屋 (1993-)|雷部屋]]
| 16代[[入間川 (相撲)|入間川]]<br>(関脇・[[栃司哲史|栃司]])
| 17代[[雷 (相撲)|雷]]<br>(小結・[[垣添徹|垣添]])
| 16代[[入間川 (相撲)|入間川]](関脇・栃司)
| [[出羽海一門]]
| 1993年1月
| {{display none|05-04}}前4・[[皇司信秀|皇司]]
| {{display none|06-08}}十5・[[獅司大|獅司]]
| なし
| なし
| 2023年1月31日までは入間川部屋。
|
|-
! [[山響部屋]]
| 一代北の湖<br>(横綱・[[北の湖敏満|北の湖]])
| 20代[[山響]]<br>(前1・[[巌雄謙治|巌雄]])
| 29代[[小野川 (年寄名跡)|小野川]](前2・[[北太樹明義|北太樹]])
| [[出羽海一門]]
| 1985年12月1日
| {{display none|04}}小結・[[臥牙丸勝|臥牙丸]]
| {{display none|05-15}}前15・[[北磻磨聖也|北磻磨]]
| なし
| [[二十山部屋]]<br>[[木瀬部屋]]<ref group="注釈" name="kise">[[肥後ノ海直哉|11代木瀬]]の不祥事により部屋が閉鎖処分。木瀬及び所属力士は北の湖部屋へ移籍。その後処分解除にともない部屋再興。</ref><br>[[三保ヶ関部屋]]<ref group="注釈" name="mihogaseki"/>
| 2015年11月30日までは北の湖部屋。
|
|-
! [[式秀部屋]]
| 9代[[式守秀五郎]]<br>(小結・[[大潮憲司|大潮]])
| 10代[[式守秀五郎]]<br>(前9・[[北桜英敏|北桜]])
| 不在
| [[出羽海一門]]
| 1992年4月
| {{display none|06-14}}十14・[[千昇秀貴|千昇]]
| 不在
| なし
| なし
|
| 2013年1月4日までは時津風一門所属。
|-
! [[木瀬部屋]]
| colspan="2"|11代[[木村瀬平]]<br>(前1・[[肥後ノ海直哉|肥後ノ海]])
| 15代[[若藤]](前4・[[皇司信秀|皇司]])<br>13代[[稲川 (相撲)|稲川]](小結・[[普天王水|普天王]])<br>17代[[井筒 (相撲)|井筒]](前12・[[明瀬山光彦|明瀬山]])<br>21代[[千田川 (相撲)|千田川]](前2・[[德勝龍誠|德勝龍]])
| [[出羽海一門]]
| 2003年12月1日
| {{display none|04}}小結<ref group="注釈">閉鎖処分中の北の湖部屋在籍時代に在位</ref>・[[臥牙丸勝|臥牙丸]]<br>小結・[[常幸龍貴之|常幸龍]]<br>'''小結・[[宇良和輝|宇良]]'''
| {{display none|04}}小結・[[宇良和輝|宇良]]
| なし
| なし
|
| 2010年5月31日から2012年4月1日まで部屋閉鎖処分<ref group="注釈" name="kise"/>。
|-
! [[尾上部屋]]
| colspan="2"|17代[[尾上 (相撲)|尾上]]<br>(小結・[[濱ノ嶋啓志|濱ノ嶋]])
| 22代[[千賀ノ浦]](前12・[[里山浩作|里山]])<br>22代[[北陣]](前8・[[天鎧鵬貴由輝|天鎧鵬]])
| [[出羽海一門]]
| 2006年8月1日
| {{display none|02}}大関・[[把瑠都凱斗|把瑠都]]
| 不在
| なし
| なし
|
|
|-
! [[藤島部屋]]
| 14代[[武蔵川]]<br>(横綱・[[三重ノ海剛司|三重ノ海]])
| 18代[[藤島 (相撲)|藤島]]<br>(大関・[[武双山正士|武双山]])
| 15代[[大鳴戸]](大関・[[出島武春|出島]])<br>14代[[山分]](前1・[[武雄山喬義|武雄山]])<br>13代[[待乳山 (相撲)|待乳山]](前3・[[武州山隆士|武州山]])<br>19代[[錦島]](前2・[[翔天狼大士|翔天狼]])
| [[出羽海一門]]
| 1981年8月
| {{display none|01}}横綱・[[武蔵丸光洋|武蔵丸]]
| {{display none|05-14}}前14・[[武将山虎太郎|武将山]]
| [[武蔵川部屋]]<br>[[二子山部屋]]
| なし
| 2010年9月30日までは武蔵川部屋。
|
|-
! [[武蔵川部屋]]
| colspan="2"|15代[[武蔵川]]<br>(横綱・[[武蔵丸光洋|武蔵丸]])
| 不在
| [[出羽海一門]]
| 2013年4月1日
| colspan="2"|不在
| なし
| なし
|
|
|-
! [[二子山部屋]]
| colspan="2"|14代[[二子山 (相撲)|二子山]]<br>(大関・[[雅山哲士|雅山]])
| 不在
| [[出羽海一門]]
| 2018年4月1日
| colspan="2"|{{display none|06-01}}'''前16・[[狼雅外喜義|狼雅]]'''
| なし
| なし
|
|
|-
! [[境川部屋]]
| 12代[[中立 (相撲)|中立]]<br>(小結・[[両国梶之助|両国]])
| 13代[[境川 (相撲)|境川]]<br>(小結・[[両国梶之助|両国]])
| 18代[[関ノ戸 (相撲)|関ノ戸]](小結・[[岩木山竜太|岩木山]])<br>15代[[山科 (相撲)|山科]](前2・[[豊響隆太|豊響]])<br>17代[[出来山 (相撲)|出来山]](前14・[[寶智山幸観|寶千山]])<br>18代[[振分]](前2・[[佐田の富士哲博|佐田の富士]])
| [[出羽海一門]]
| 1998年5月
| {{display none|02}}大関・[[豪栄道豪太郎|豪栄道]]
| {{display none|03}}関脇・[[妙義龍泰成|妙義龍]]
| [[武隈部屋]]
| なし
| 2003年1月までは中立部屋。
|
|-
! [[武隈部屋]]
| colspan="2"|14代[[武隈 (相撲)|武隈]]<br>(大関・[[豪栄道豪太郎|豪栄道]])
| 不在
| [[出羽海一門]]
| 2022年2月1日
| colspan="2"|{{display none|05-03}}'''前3・[[豪ノ山登輝|豪ノ山]]'''
| なし
| なし
|
|
|-
! [[立浪部屋]]
| 4代[[立浪]]<br>(小結・[[緑嶌友之助|緑嶌]])
| 7代[[立浪]]<br>(小結・[[旭豊勝照|旭豊]])
| 不在
| [[出羽海一門]]
| 1915年
| {{display none|01}}横綱・[[双葉山定次|双葉山]]<br>横綱・[[羽黒山政司|羽黒山]]<br>横綱・[[双羽黒光司|双羽黒]]
| {{display none|02}}大関・[[豊昇龍智勝|豊昇龍]]
| [[中川部屋#旧・中川部屋|中川部屋]]<br>[[時津風部屋]]<br>[[中川部屋|春日山部屋]]<br>[[大島部屋]]<br>[[武隈部屋]]
| [[追手風部屋]]
|
| 2012年5月までは伊勢ヶ濱一門所属。<br>2018年5月までは貴乃花一門所属。<br>2018年9月までは無所属。
|-
! [[二所ノ関部屋]]
| 16代[[荒磯 (相撲)|荒磯]]<br>(横綱・[[稀勢の里寛|稀勢の里]])
| 13代[[二所ノ関]]<br>(横綱・[[稀勢の里寛|稀勢の里]])
| 13代[[中村 (相撲)|中村]](関脇・[[嘉風雅継|嘉風]])
| [[二所ノ関一門]]<br>'''総帥'''
| 2021年8月1日
| colspan="2"|{{display none|05-03}}'''前3・[[友風勇太|友風]]'''<ref group="注釈" name="ogurumazaii">尾車部屋在籍時代に在位</ref>
| なし
| [[尾車部屋]]<ref group="注釈" name="oguruma">年寄(2人)・力士(3人)・世話人・床山は[[押尾川部屋]]へ、年寄・力士(8人)・呼出は[[二所ノ関部屋]]へ分割移籍。</ref>
| 2021年12月23日までは荒磯部屋。
|
|-
! [[放駒部屋]]
| 9代[[松ヶ根]]<br>(大関・[[若嶋津六夫|若嶋津]])
| 18代[[放駒]]<br>(関脇・[[玉乃島新|玉乃島]])
| 10代[[松ヶ根]](前8・[[玉力道栄来|玉力道]])<br>13代[[湊川 (相撲)|湊川]](小結・[[大徹忠晃|大徹]])
| [[二所ノ関一門]]
| 1990年2月18日
| {{display none|04}}小結・[[松鳳山裕也|松鳳山]]
| {{display none|05-07}}前7・[[一山本大生|一山本]]
| なし
| [[二所ノ関部屋 (1909-2013)|二所ノ関部屋]]<ref group="注釈" name="nishonoseki"/>
| 2014年12月1日までは松ヶ根部屋。<br>2021年12月23日までは二所ノ関部屋。
|
|-
! [[佐渡ヶ嶽部屋]]
| 11代[[佐渡ヶ嶽]]<br>(小結・[[琴錦登|琴錦]])
| 13代[[佐渡ヶ嶽]]<br>(関脇・[[琴ノ若晴將|琴ノ若]])
| 13代[[粂川]](小結・[[琴稲妻佳弘|琴稲妻]])<br>16代[[白玉 (相撲)|白玉]](前3・[[琴椿克之|琴椿]])<br>18代[[浜風_(相撲)|浜風]](前3・[[五城楼勝洋|五城楼]])<br>14代[[秀ノ山 (年寄名跡)|秀ノ山]](大関・[[琴奨菊和弘|琴奨菊]])<br>18代[[荒磯 (相撲)|荒磯]](関脇・[[琴勇輝一巖|琴勇輝]])
| [[二所ノ関一門]]
| 1955年
| {{display none|01}}横綱・[[琴櫻傑將|琴櫻]]
| {{display none|03}}関脇・[[琴ノ若傑太|琴ノ若]]
| [[尾車部屋]]<br>[[鳴戸部屋]]
| なし
|
|
|-
! [[押尾川部屋]]
| colspan="2"|22代[[押尾川]]<br>(関脇・[[豪風旭|豪風]])
| 8代[[尾車]](大関・[[琴風豪規|琴風]])
| [[二所ノ関一門]]
| 2022年2月7日
| colspan="2"|{{display none|05-10}}'''前10・[[矢後太規|矢後]]'''<ref group="注釈" name="ogurumazaii"/>
| なし
| [[尾車部屋]]<ref group="注釈" name="oguruma"/>
|
|
|-
! [[鳴戸部屋]]
| colspan="2"|15代[[鳴戸]]<br>(大関・[[琴欧洲勝紀|琴欧洲]])
| 不在
| [[二所ノ関一門]]
| 2017年4月1日
| colspan="2"|{{display none|06-03}}'''十3・[[欧勝馬出気|欧勝馬]]'''
| なし
| なし
|
|
|-
! [[片男波部屋]]
| 12代[[片男波]]<br>(関脇・[[玉乃海太三郎|玉乃海]])
| 14代[[片男波]]<br>(関脇・[[玉春日良二|玉春日]])
| 17代[[熊ヶ谷]](前9・[[玉飛鳥大輔|玉飛鳥]])
| [[二所ノ関一門]]
| 1961年5月
| {{display none|01}}横綱・[[玉の海正洋|玉の海]]
| {{display none|03}}関脇・[[玉鷲一朗|玉鷲]]
| なし
| [[中川部屋]]<ref group="注釈" name="nakagawa">[[時津風部屋]](親方1人、力士2人)・[[友綱部屋]](力士2人)・[[片男波部屋]](力士1人、呼出1人)・[[宮城野部屋]](力士1人、世話人1人)・[[朝日山部屋]](力士1人)・[[追手風部屋]](力士1人)・[[荒汐部屋]](床山1人)・[[伊勢ノ海部屋]](床山1人)の8部屋へ分割移籍。</ref>
|
|
|-
! [[田子ノ浦部屋]]
| 13代[[鳴戸]]<br>(横綱・[[隆の里俊英|隆の里]])
| 15代[[田子ノ浦 (相撲)|田子ノ浦]]<br>(前8・[[隆の鶴伸一|隆の鶴]])
| 不在
| [[二所ノ関一門]]
| 1989年2月1日
| {{display none|01}}横綱・[[稀勢の里寛|稀勢の里]]
| {{display none|02}}大関・[[髙安晃|髙安]]
| [[西岩部屋]]<br>[[荒磯部屋]]
| なし
| 2013年12月25日までは鳴戸部屋。
|
|-
! [[西岩部屋]]
| colspan="2"|12代[[西岩]]<br>(関脇・[[若の里忍|若の里]])
| 不在
| [[二所ノ関一門]]
| 2018年2月1日
| colspan="2"|不在
| なし
| [[峰崎部屋]]<ref group="注釈" name="minesaki">年寄(1人)・行司(1人)・力士は[[芝田山部屋]]へ、年寄(1人)・行司(1人)は[[高田川部屋]]へ、行司(1人)・呼出・床山は[[西岩部屋]]へ分割移籍。</ref>
|
|
|-
! [[高田川部屋]]
| 8代[[高田川 (相撲)|高田川]]<br>(大関・[[前の山太郎|前の山]])
| 9代[[高田川 (相撲)|高田川]]<br>(関脇・[[安芸乃島勝巳|安芸乃島]])
| 15代[[花籠]](関脇・[[太寿山忠明|太寿山]])
| [[二所ノ関一門]]
| 1974年4月
| {{display none|04}}小結・[[前乃臻康夫|前乃臻]]<br>小結・[[剣晃敏志|剣晃]]<br> '''小結・[[竜電剛至|竜電]] '''
| {{display none|04}}小結・[[竜電剛至|竜電]]
| なし
| [[峰崎部屋]]<ref group="注釈" name="minesaki"/>
|
| 1998年1月までは高砂一門所属。<br>2011年1月17日までは無所属。
|-
! [[芝田山部屋]]
| colspan="2"|12代[[芝田山]]<br>(横綱・[[大乃国康|大乃国]])
| 7代[[峰崎]](前2・[[三杉磯拓也|三杉磯]])
| [[二所ノ関一門]]
| 1999年6月
| {{display none|06-07}}十7・[[若乃島史也|若乃島]]
| 不在
| なし
| [[放駒部屋]]<br>[[峰崎部屋]]<ref group="注釈" name="minesaki"/>
|
|
|-
! [[大嶽部屋]]
| 一代大鵬<br>(横綱・[[大鵬幸喜|大鵬]])
| 17代[[大嶽 (相撲)|大嶽]]<br>(十4・[[大竜忠博|大竜]])
| 不在
| [[二所ノ関一門]]
| 1971年12月
| {{display none|03}}関脇・[[巨砲丈士|巨砲]]
| {{display none|05-06}}前6・[[王鵬幸之介|王鵬]]
| [[阿武松部屋]]
| [[押尾川部屋]]<ref group="注釈" name="oshiogawa">力士・年寄・呼出(1人)は[[尾車部屋]]へ、呼出(2人)は[[大嶽部屋]]へ、床山は[[錦戸部屋]]へ分割移籍。</ref>
| 2004年1月1日までは大鵬部屋。
| 2010年1月までは二所ノ関一門所属。<br>2018年6月までは貴乃花一門所属。<br>2018年9月までは旧貴乃花一門所属扱い。
|-
! [[阿武松部屋]]
| 12代[[阿武松 (相撲)|阿武松]]<br>(関脇・[[益荒雄広生|益荒雄]])
| 13代[[阿武松 (相撲)|阿武松]]<br>(前8・[[大道健二|大道]])
| 12代[[不知火 (年寄名跡)|不知火]](小結・[[若荒雄匡也|若荒雄]])
| [[二所ノ関一門]]
| 1994年10月
| {{display none|04}}小結・[[若荒雄匡也|若荒雄]]<br>'''小結・[[阿武咲奎也|阿武咲]]'''
| {{display none|04}}小結・[[阿武咲奎也|阿武咲]]
| なし
| なし
|
| 2010年1月までは二所ノ関一門所属。<br>2018年6月までは貴乃花一門所属。<br>2018年9月までは旧貴乃花一門所属扱い。
|-
! [[常盤山部屋]]
| 19代[[千賀ノ浦]]<br>(関脇・[[舛田山靖仁|舛田山]])
| 17代[[常盤山]]<br>(小結・[[隆三杉太一|隆三杉]])
| 不在
| [[二所ノ関一門]]
| 2004年9月27日
| colspan="2"|{{display none|02}}'''大関・[[貴景勝貴信|貴景勝]]'''
| なし
| [[貴乃花部屋]]
| 2020年11月26日までは千賀ノ浦部屋。
| 2016年4月8日までは出羽海一門所属。<br>2018年6月までは貴乃花一門所属。<br>2018年9月までは旧貴乃花一門所属扱い。
|-
! [[湊部屋]]
| 22代[[湊 (相撲)|湊]]<br>(小結・[[豊山広光|豊山]])
| 23代[[湊 (相撲)|湊]]<br>(前2・[[湊富士孝行|湊富士]])
| 不在
| [[二所ノ関一門]]
| 1982年12月
| {{display none|03}}関脇・[[逸ノ城駿|逸ノ城]]
| 不在
| なし
| なし
|
| 2017年12月17日までは時津風一門所属。<br>2018年9月までは無所属。
|-
! [[錣山部屋]]
| 20代[[錣山]]<br>(関脇・[[寺尾常史|寺尾]])
| 不在
| 19代[[立田川 (相撲)|立田川]](小結・[[豊真将紀行|豊真将]])
| [[二所ノ関一門]]
| 2004年1月27日
| colspan="2"|{{display none|03}}'''関脇・[[阿炎政虎|阿炎]]'''
| なし
| なし
|
| 2017年12月17日までは時津風一門所属。<br>2018年9月までは無所属。
|-
! [[時津風部屋]]
| 一代双葉山<br>(横綱・[[双葉山定次|双葉山]])
| 17代[[時津風 (相撲)|時津風]]<br>(前1・[[土佐豊祐哉|土佐豊]])
| 13代[[枝川 (相撲)|枝川]](前1・[[蒼樹山秀樹|蒼樹山]])<br>15代[[中川 (相撲)|中川]](前14・[[旭里憲治|旭里]])
| [[時津風一門]]<br>'''総帥'''
| 1941年5月
| {{display none|01}}横綱・[[鏡里喜代治|鏡里]]
| {{display none|02}}大関・[[正代直也|正代]]
| [[立田川部屋]]<br>[[湊部屋]]<br>[[式秀部屋]]<br>[[荒汐部屋]]
| [[中川部屋]]<ref group="注釈" name="nakagawa"/>
| 1945年11月までは双葉山相撲道場。
|
|-
! [[荒汐部屋]]
| 8代[[荒汐]]<br>(小結・[[大豊昌央|大豊]])
| 9代[[荒汐]]<br>(前2・[[蒼国来栄吉|蒼国来]])
| 不在
| [[時津風一門]]
| 2002年6月1日
| colspan="2"|{{display none|03}}'''関脇・[[若隆景渥|若隆景]] '''<br> '''関脇・[[若元春港|若元春]] '''
| なし
| [[中川部屋]]<ref group="注釈" name="nakagawa"/>
|
|
|-
! [[伊勢ノ海部屋]]
| 不明
| 12代[[伊勢ノ海]]<br>(前3・[[北勝鬨準人|北勝鬨]])
| 13代[[勝ノ浦]](前2・[[起利錦利郎|起利錦]])<br>10代[[甲山 (相撲)|甲山]](前11・[[大碇剛|大碇]])<br>13代[[立川 (相撲)|立川]](関脇・[[土佐ノ海敏生|土佐ノ海]])<br>24代[[春日山 (相撲)|春日山]](関脇・[[勢翔太|勢]])<br>13代[[高島 (相撲)|高島]](関脇・[[高望山大造|髙望山]])<br>8代[[鏡山 (相撲)|鏡山]](関脇・[[多賀竜昇司|多賀竜]])
| [[時津風一門]]
| 1757年以前{{Refnest|group="注釈"|ただし、1934年と1946年に一旦閉鎖したことがある。}}
| {{display none|01}}横綱・[[谷風梶之助 (2代)|谷風]]<br>横綱・[[柏戸剛|柏戸]]
| {{display none|04}}小結・[[錦木徹也|錦木]]
| [[鏡山部屋]]
| [[中川部屋]]<ref group="注釈" name="nakagawa"/><br>鏡山部屋
|
| 1942年5月再興。
|-
! [[陸奥部屋]]
| 7代[[井筒 (相撲)|井筒]]<br>(横綱・[[西ノ海嘉治郎 (初代)|初代西ノ海]])
| 9代[[陸奥 (相撲)|陸奥]]<br>(大関・[[霧島一博|初代霧島]])
| 17代[[浦風]](前1・[[敷島勝盛|敷島]])<br>12代[[立田山]](前1・[[薩洲洋康貴|薩洲洋]])
| [[時津風一門]]
| 1900年頃
| {{display none|01}}横綱・[[西ノ海嘉治郎 (2代)|2代西ノ海]]<br>横綱・[[西ノ海嘉治郎 (3代)|3代西ノ海]]<br>横綱・[[鶴竜力三郎|鶴竜]]
| {{display none|02}}大関・[[霧島鐵力|2代霧島]]
| [[君ヶ濱部屋]]<br>[[音羽山部屋]]
| [[立田川部屋]]<br>[[井筒部屋]]
| 1974年4月までは井筒部屋。
|
|-
! [[音羽山部屋]]
| colspan="2"|24代[[音羽山 (相撲)|音羽山]]<br>(横綱・[[鶴竜力三郎|鶴竜]])
| 不在
| [[時津風一門]]
| 2023年12月27日
| colspan="2"|不在
| なし
| なし
|
|
|-
! [[追手風部屋]]
| colspan="2"|11代[[追手風]]<br>(前2・[[大翔山直樹|大翔山]])
| 不在
| [[時津風一門]]
| 1998年10月1日
| {{display none|03}}関脇・[[追風海直飛人|追風海]]<br> '''関脇・[[大栄翔勇人|大栄翔]]'''
| {{display none|03}}関脇・[[大栄翔勇人|大栄翔]]
| [[中川部屋]]
| [[中川部屋|春日山部屋]]<ref group="注釈">[[濱錦竜郎|21代春日山]]の師匠不適格処分により部屋が閉鎖処分。春日山及び所属力士は追手風部屋へ移籍。その後[[旭里憲治|15代中川]]を師匠として[[中川部屋]]として再興したが、15代中川の懲戒処分に伴う部屋閉鎖処分により中川部屋は閉鎖された。</ref><br>中川部屋<ref group="注釈" name="nakagawa"/>
|
| 2016年12月22日までは伊勢ヶ濱一門所属。
|-
! [[高砂部屋]]
| 初代[[高砂 (相撲)|高砂]]<br>(前1・[[高砂浦五郎 (初代)|高砂]])
| 8代[[高砂 (相撲)|高砂]]<br>(関脇・[[朝赤龍太郎|朝赤龍]])
| 15代[[若松 (相撲)|若松]](前1・[[朝乃若武彦|朝乃若]])
| [[高砂一門]]<br>'''総帥'''
| 1880年頃
| {{display none|01}}横綱・[[西ノ海嘉治郎 (初代)|初代西ノ海]]<br>横綱・[[小錦八十吉 (初代)|初代小錦]]<br>横綱・[[前田山英五郎|前田山]]<br>横綱・[[東富士欽壹|東富士]]<br>横綱・[[朝潮太郎 (3代)|3代朝潮]]<br>横綱・[[朝青龍明徳|朝青龍]]
| {{display none|02}}大関・[[朝乃山広暉|朝乃山]]
| [[大山部屋]]<br>[[若松部屋]]<br>[[高田川部屋]]<br>[[東関部屋]]<br>[[中村部屋]]<br>[[錦戸部屋]]
| 大山部屋<br>若松部屋
|
|
|-
! [[錦戸部屋]]
| colspan="2"|10代[[錦戸 (相撲)|錦戸]]<br>(関脇・[[水戸泉政人|水戸泉]])
| 不在
| [[高砂一門]]
| 2002年12月1日
| colspan="2"|{{display none|05-15}}'''前15・[[水戸龍聖之|水戸龍]]'''
| なし
| [[押尾川部屋]]<ref group="注釈" name="oshiogawa"/>
|
|
|-
! [[九重部屋]]
| 11代[[九重 (相撲)|九重]]<br>(横綱・[[千代の山雅信|千代の山]])
| 14代[[九重 (相撲)|九重]]<br>(大関・[[千代大海龍二|千代大海]])
| 13代[[谷川 (相撲)|谷川]](関脇・[[北勝力英樹|北勝力]])<br>25代[[佐ノ山]](前1・[[千代の国憲輝|千代の国]])<br>13代[[大山 (相撲)|大山]](小結・[[千代鳳祐樹|千代鳳]])
| [[高砂一門]]
| 1967年1月31日
| {{display none|01}}横綱・[[北の富士勝昭|北の富士]]<br>横綱・[[千代の富士貢|千代の富士]]<br>横綱・[[北勝海信芳|北勝海]]
| {{display none|05-02}}前2・[[千代翔馬富士雄|千代翔馬]]
| [[井筒部屋]]<br>[[八角部屋]]
| 井筒部屋
|
|
|-
! [[八角部屋]]
| colspan="2"|8代[[八角 (相撲)|八角]]<br>(横綱・[[北勝海信芳|北勝海]])
| 19代[[陣幕 (相撲)|陣幕]](前1・[[富士乃真司|富士乃真]])<br>14代[[東関]](小結・[[高見盛精彦|高見盛]])<br>13代[[君ヶ濱]](関脇・[[隠岐の海歩|隠岐の海]])
| [[高砂一門]]
| 1993年10月
| {{display none|03}}関脇・[[北勝力英樹|北勝力]]<br>関脇・[[隠岐の海歩|隠岐の海]]
| {{display none|04}}小結・[[北勝富士大輝|北勝富士]]
| なし
| [[東関部屋]]
|
|
|-
! [[伊勢ヶ濱部屋]]
| 3代[[安治川 (相撲)|安治川]]<br>(関脇・[[陸奥嵐幸雄|陸奥嵐]])
| 9代[[伊勢ヶ濱]]<br>(横綱・[[旭富士正也|旭富士]])
| 17代[[楯山 (相撲)|楯山]](前6・[[誉富士歓之|誉富士]])
| [[伊勢ヶ濱一門]]<br>'''総帥'''
| 1979年4月
| {{display none|01}}横綱・[[日馬富士公平|日馬富士]]<br>'''横綱・[[照ノ富士春雄|照ノ富士]]'''
| {{display none|01}}横綱・[[照ノ富士春雄|照ノ富士]]
| [[安治川部屋]]
| [[間垣部屋]]<br>[[朝日山部屋]]<ref group="注釈" name="asahiyama">年寄・力士・世話人・床山(1人)は[[伊勢ヶ濱部屋]]へ、若者頭・呼出・床山(1人)は[[浅香山部屋]]へ分割移籍。</ref>
| 2007年11月までは[[安治川部屋]]。
|
|-
! [[安治川部屋]]
| colspan="2"|8代[[安治川 (相撲)|安治川]]<br>(関脇・[[安美錦竜児|安美錦]])
| 不在
| [[伊勢ヶ濱一門]]
| 2022年12月1日
| colspan="2"|不在
| なし
| なし
|
|
|-
! [[大島部屋]]
| 8代[[高島 (相撲)|高嶋]]<br>(前4・[[八甲山純司|八甲山]])
| 6代[[大島 (相撲)|大島]]<br>(関脇・[[旭天鵬勝|旭天鵬]])
| 18代[[玉垣 (年寄名跡)|玉垣]](小結・[[智ノ花伸哉|智乃花]])<br>21代[[桐山]](前11・[[旭日松広太|旭日松]])
| [[伊勢ヶ濱一門]]
| 1922年
| {{display none|01}}横綱・[[吉葉山潤之輔|吉葉山]]
| {{display none|05-08}}前8・[[旭大星託也|旭大星]]
| [[追手風部屋]]<br>[[浅香山部屋]]
| [[武隈部屋]]<br>[[大島部屋]]<br>[[中川部屋]]<ref group="注釈" name="nakagawa"/>
| 1961年5月までは高嶋部屋。<br>2022年1月31日までは友綱部屋。
|
|-
! [[宮城野部屋]]
| 一代吉葉山<br>(横綱・[[吉葉山潤之輔|吉葉山]])
| 13代[[宮城野 (年寄名跡)|宮城野]]<br>(横綱・[[白鵬翔|白鵬]])
| 23代[[間垣]](前5・[[石浦鹿介|石浦]])
| [[伊勢ヶ濱一門]]
| 1958年1月
| {{display none|01}}横綱・[[白鵬翔|白鵬]]
| {{display none|05-04}}前4・[[炎鵬晃|炎鵬]]
| なし
| [[中川部屋]]<ref group="注釈" name="nakagawa"/>
| 1960年までは吉葉山道場。
|
|-
! [[浅香山部屋]]
| colspan="2"|15代[[浅香山 (相撲)|浅香山]]<br>(大関・[[魁皇博之|魁皇]])
| 13代[[友綱]](関脇・[[魁聖一郎|魁聖]])
| [[伊勢ヶ濱一門]]
| 2014年2月1日
| colspan="2"|{{display none|06-02}}'''十2・[[魁勝旦祈|魁勝]]'''
| なし
| [[朝日山部屋]]<ref group="注釈" name="asahiyama"/>
|
|
|-
! [[朝日山部屋]]
| colspan="2"|19代[[朝日山 (相撲)|朝日山]]<br>(関脇・[[琴錦功宗|琴錦]])
| 不在
| [[伊勢ヶ濱一門]]
| 2016年6月1日
| colspan="2"|不在
| なし
| [[中川部屋]]<ref group="注釈" name="nakagawa"/>
|
| 2017年1月12日までは二所ノ関一門所属。
|-
|}
== 過去に存在した部屋 ==
=== 平成以降 ===
デフォルトでは'''消滅年月'''の昇順。'''部屋名'''は50音順ソート、'''師匠'''の列は番付順ソート。
==== 部屋の閉鎖によるもの ====
{| class="sortable wikitable" style="line-height:1.4em; font-size:95%; margin-right:0px;"
!部屋名!!師匠!!一門!!消滅年月!!理由!!移籍先<br>(特記外は全員同一部屋)!!備考
|-
|{{Display none|かすかやま/}}[[中川部屋|春日山部屋]]||{{Display none|05-}}[[前頭]]1・[[大昇充宏|大昇]]|| style="white-space:nowrap;" |[[伊勢ヶ濱一門|立浪・伊勢ヶ濱]]||1990年7月||16代春日山が[[定年|停年]]直前に部屋を閉鎖したため||[[伊勢ヶ濱部屋|安治川部屋]]||1997年7月再興
|-
|{{Display none|おおなると/}}[[大鳴戸部屋]]||{{Display none|03-}}[[関脇]]・[[高鐵山孝之進|高鉄山]]||立浪・伊勢ヶ濱||1995年1月|| style="white-space:nowrap;" |11代大鳴戸が廃業したため||[[桐山部屋]]||
|-
|{{Display none|くまかたに/}}[[熊ヶ谷部屋]]||{{Display none|05-}}前頭8・[[芳野嶺元志|芳野嶺]]||立浪・伊勢ヶ濱||1996年5月||12代熊ヶ谷が停年直前に部屋を閉鎖したため||[[立浪部屋]]||
|-
|{{Display none|きせ/}}[[木瀬部屋#旧・木瀬部屋|木瀬部屋]]||{{Display none|05-}}前頭9・[[清ノ森政夫|清ノ森]]||立浪・伊勢ヶ濱||2000年2月||10代木瀬が停年直前に部屋を閉鎖したため||[[桐山部屋]]||
|-
|{{Display none|たつたかわ/}}[[立田川部屋]]||{{Display none|03-}}関脇・[[青ノ里盛|青ノ里]]||[[時津風一門|時津風]]||2000年9月||14代立田川が停年直前に部屋を閉鎖したため||[[陸奥部屋]]||
|-
|{{Display none|かふとやま/}}[[甲山部屋]]||{{Display none|05-}}前頭1・[[大雄辰實|大雄]]||時津風||2002年7月||所属力士が0人となったため||[[湊部屋]]||
|-
|{{Display none|たけくま/}}[[武隈部屋#旧・武隈部屋|武隈部屋]]||{{Display none|03-}}関脇・[[黒姫山秀男|黒姫山]]||立浪・伊勢ヶ濱||2004年3月||所属力士が0人となったため||[[友綱部屋]]||
|-
|{{Display none|おしおかわ/}}[[押尾川部屋]]||{{Display none|02-}}[[大関]]・[[大麒麟將能|大麒麟]]||[[二所ノ関一門|二所ノ関]]||2005年3月||17代押尾川が停年前に部屋を閉鎖したため||*[[尾車部屋]]<ref group="注釈">親方・力士・呼出(1人)</ref><br>* [[大嶽部屋]] <ref group="注釈">呼出(2人)</ref><br>* [[錦戸部屋]] <ref group="注釈">床山</ref>||
|-
|{{Display none|はたちやま/}}[[二十山部屋]]||{{Display none|02-}}大関・[[北天佑勝彦|北天佑]]||[[出羽海一門|出羽海]]||2006年6月||13代二十山死去のため||[[山響部屋|北の湖部屋]]||
|-
|style="white-space:nowrap;"|{{Display none|いせかはま/}}[[伊勢ヶ濱部屋 (1929-2007)|伊勢ヶ濱部屋]]||{{Display none|05-}}前頭1・[[和晃敏郎|和晃]]||[[伊勢ヶ濱一門|立浪]]||2007年{{Display none|0}}1月||8代伊勢ヶ濱が停年前に部屋を閉鎖したため||* [[桐山部屋]]<ref group="注釈">親方・力士・世話人</ref><br>* [[高島部屋]]<ref group="注釈">行司</ref>||
|-
|{{Display none|あらいそ/}}[[荒磯部屋]]||{{Display none|04-}}[[小結]]・[[二子岳武|二子岳]]||二所ノ関||2008年9月||12代荒磯が停年直前に部屋を閉鎖したため||* [[放駒部屋|松ヶ根部屋]]<ref group="注釈">親方・呼出</ref><br>* [[花籠部屋]]<ref group="注釈">力士</ref>||
|-
|{{Display none|きせ/}}[[木瀬部屋]]|| style="white-space:nowrap;" |{{Display none|05-}}前頭1・[[肥後ノ海直哉|肥後ノ海]]||出羽海||2010年5月||11代木瀬の不祥事により部屋閉鎖処分となったため||[[山響部屋|北の湖部屋]]||2012年4月処分解除に伴い再興
|-
|{{Display none|きりやま/}}[[桐山部屋]]||{{Display none|04-}}小結・[[黒瀬川國行|黒瀬川]]||立浪||2011年1月||20代桐山が停年前に部屋を閉鎖したため||* [[朝日山部屋]]<ref group="注釈">親方・力士・若者頭・世話人・呼出、床山の一部</ref><br>* [[追手風部屋]]<ref group="注釈">行司、床山の一部</ref><br>* [[友綱部屋]]<ref group="注釈">呼出の一部</ref>||
|-
|{{Display none|たかしま/}}[[高島部屋]]||{{Display none|03-}}関脇・[[高望山大造|高望山]]||立浪||2011年6月||所属力士が0人となったため||[[中川部屋|春日山部屋]]||
|-
|{{Display none|たこのうら/}}[[田子ノ浦部屋 (2000-2012)|田子ノ浦部屋]]||{{Display none|05-}}前頭1・[[久島海啓太|久島海]]||出羽海||2012年{{Display none|0}}2月||14代田子ノ浦死去のため||* [[出羽海部屋]]<ref group="注釈">力士([[海龍元生|海龍]]ら5名)</ref><br>* [[春日野部屋]]<ref group="注釈">力士([[碧山亘右|碧山]]ら3名)</ref>||平成以降で初めて所属力士が2部屋以上に分かれて移籍
|-
|{{Display none|おおしま/}}[[大島部屋]]||{{Display none|02-}}大関・[[旭國斗雄|旭國]]||立浪||2012年{{Display none|0}}4月||2代大島が停年のため||[[友綱部屋]]||
|-
|{{Display none|はなかこ/}}[[花籠部屋]]||{{Display none|03-}}関脇・[[太寿山忠明|太寿山]]||二所ノ関||2012年{{Display none|0}}5月||15代花籠が停年前に部屋を閉鎖したため||[[峰崎部屋]]||
|-
|{{Display none|なかむら/}}[[中村部屋]]||{{Display none|03-}}関脇・[[富士櫻栄守|富士櫻]]||[[高砂一門|高砂]]||2012年12月||10代中村が停年直前に部屋を閉鎖したため||* [[東関部屋]]<ref group="注釈">親方・力士・床山</ref><br>* [[八角部屋]]<ref group="注釈">行司</ref>||
|-
|{{Display none|にしよのせき/}}[[二所ノ関部屋 (1909-2013)|二所ノ関部屋]]||{{Display none|03-}}関脇・[[金剛正裕|金剛]]||二所ノ関||2013年{{Display none|0}}1月{{Refnest|group="注釈"|これ以前も1931年に閉鎖している。}} ||所属力士が0人となったため||* [[放駒部屋|松ヶ根部屋]]<ref group="注釈">親方([[金剛正裕|10代二所ノ関]]、[[麒麟児和春|19代北陣]]、[[大徹忠晃|13代湊川]])</ref><br>* [[春日野部屋]]<ref group="注釈">親方([[大善尊太|9代富士ヶ根]])</ref>||
|-
|{{Display none|はなれこま/}}[[放駒部屋#旧・放駒部屋|放駒部屋]]||{{Display none|02-}}大関・[[魁傑將晃|魁傑]]||二所ノ関||2013年{{Display none|0}}2月||17代放駒が停年直前に部屋を閉鎖したため||[[芝田山部屋]]||
|-
|{{Display none|まかき/}}[[間垣部屋]]||{{Display none|01-}}[[横綱]]・[[若乃花幹士 (2代)|若乃花]]||[[貴乃花一門|貴乃花]]||2013年{{Display none|0}}3月||18代間垣が停年前に部屋を閉鎖したため||[[伊勢ヶ濱部屋]]||
|-
|{{Display none|みほかせき/}}[[三保ヶ関部屋]]||{{Display none|02-}}大関・[[増位山太志郎|増位山]]||出羽海||2013年10月||10代三保ヶ関が停年直前に部屋を閉鎖したため||* [[春日野部屋]]<ref group="注釈">親方・力士・世話人・行司・呼出</ref><br>* [[山響部屋|北の湖部屋]]<ref group="注釈">床山</ref>||
|-
|{{Display none|あさひやま/}}[[朝日山部屋]]||{{Display none|02-}}大関・[[大受久晃|大受]]||[[伊勢ヶ濱一門|伊勢ヶ濱]]||2015年1月||18代朝日山が停年直前に部屋を閉鎖したため||* [[伊勢ヶ濱部屋]]<ref group="注釈">親方・力士・世話人、床山の一部</ref><br>* [[浅香山部屋]]<ref group="注釈">若者頭・呼出、床山の一部</ref>||
|-
|{{Display none|かすかやま/}}[[中川部屋|春日山部屋]]||{{Display none|05-}}[[前頭]]11・[[濱錦竜郎|濵錦]]|| style="white-space:nowrap;" |伊勢ヶ濱||2016年10月||21代春日山の師匠不適格処分に伴い部屋が一時閉鎖処分となったため||[[追手風部屋]]||2017年[[中川部屋]]として再興
|-
|{{Display none|たかのはな/}}[[貴乃花部屋]]||{{Display none|01-}}横綱・[[貴乃花光司|貴乃花]]|| style="white-space:nowrap;" |無所属<br>(旧貴乃花)||2018年10月||一代年寄貴乃花が相撲協会を退職したため||[[常盤山部屋|千賀ノ浦部屋]]||
|-
|{{Display none|いつつ/}}[[井筒部屋]]||{{Display none|03-}}関脇・[[逆鉾昭廣|逆鉾]]|| style="white-space:nowrap;" |時津風||2019年9月{{Refnest|group="注釈"|これ以前も1944年に閉鎖している。}} ||15代井筒死去のため||[[陸奥部屋]]||15代井筒の死去が[[大相撲令和元年9月場所|本場所]]中のため、本場所終了までは[[鏡山部屋]]の一時預かりとなり本場所終了後陸奥部屋へ移籍
|-
|{{Display none|なかかわ/}}[[中川部屋]]||{{Display none|05-}}前頭14・[[旭里憲治|旭里]]|| style="white-space:nowrap;" |時津風||2020年7月||15代中川の不適切指導による懲戒処分(部屋閉鎖)のため||* [[時津風部屋]]<ref group="注釈">親方、力士(2人)</ref><br>* [[友綱部屋]]<ref group="注釈">力士(2人)</ref><br>* [[片男波部屋]]<ref group="注釈">力士(1人)、呼出</ref><br>* [[宮城野部屋]]<ref group="注釈">力士(1人)、世話人</ref><br>* [[朝日山部屋]]<ref group="注釈">力士(1人)</ref><br>* [[追手風部屋]]<ref group="注釈">力士(1人)</ref><br>* [[荒汐部屋]]<ref group="注釈">床山(1人)</ref><br>* [[伊勢ノ海部屋]]<ref group="注釈">床山(1人)</ref>||
|-
|{{Display none|あすませき/}}[[東関部屋]]||{{Display none|04-}}小結・[[高見盛精彦|高見盛]]||高砂||2021年4月||14代東関が停年前に部屋を閉鎖したため||[[八角部屋]]||
|-
|{{Display none|みねさき/}}[[峰崎部屋]]||{{Display none|05-02}}前頭2・[[三杉磯拓也|三杉磯]]||二所ノ関||2021年4月||7代峰崎が停年直前に部屋を閉鎖したため||* [[芝田山部屋]]<ref group="注釈">力士、親方・行司の一部</ref><br>* [[高田川部屋]]<ref group="注釈">親方・行司の一部</ref><br>* [[西岩部屋]]<ref group="注釈">呼出・床山、行司の一部</ref>||
|-
|{{Display none|かかみやま/}}[[鏡山部屋]]||{{Display none|03-}}関脇・[[多賀竜昇司|多賀竜]]||時津風||2021年7月||8代鏡山が停年前に部屋を閉鎖したため||[[伊勢ノ海部屋]]||
|-
|{{Display none|おくるま/}}[[尾車部屋]]||{{Display none|02-}}大関・[[琴風豪規|琴風]]||二所ノ関||2022年2月||8代尾車が停年直前に部屋を閉鎖したため||* [[押尾川部屋]]<ref group="注釈">親方・力士の一部、世話人、床山</ref><br>* [[二所ノ関部屋]]<ref group="注釈">親方・力士の一部、呼出</ref>||
|}
==== 部屋名の変更によるもの ====
{| class="sortable wikitable" style="line-height:1.4em; font-size:95%; margin-right:0px;"
!部屋名!!師匠!!一門!!消滅年月!!変更後の部屋名!!変更理由!!備考
|-
|{{Display none|ふししま/}}[[藤島部屋 (1982-1993)|藤島部屋]]||{{Display none|02-}}[[大関]]・[[貴ノ花利彰|貴ノ花]]||[[二所ノ関一門|二所ノ関]]||1993年2月||{{Display none|名跡変更/}}[[貴乃花部屋#10代二子山部屋時代|二子山部屋]]||藤島部屋と二子山部屋が合併し、12代[[藤島 (相撲)|藤島]]が11代[[二子山 (相撲)|二子山]]に名跡変更したため||
|-
|{{Display none|わかまつ/}}[[若松部屋]]||{{Display none|02-}}大関・[[朝潮太郎 (4代)|朝潮]]||[[高砂一門|高砂]]||2002年2月||{{Display none|名跡変更/}}[[高砂部屋]]||若松部屋と高砂部屋が合併し、11代[[若松 (相撲)|若松]]が7代[[高砂 (相撲)|高砂]]に名跡変更したため||
|-
|{{Display none|なかたち/}}[[境川部屋|中立部屋]]||{{Display none|04-}}[[小結]]・[[両国梶之助|両国]]||[[出羽海一門|出羽海]]||2003年1月||{{Display none|名跡変更/}}[[境川部屋]]||12代[[中立 (相撲)|中立]]が13代[[境川 (相撲)|境川]]に名跡変更したため||
|-
|{{Display none|たいほう/}}[[大嶽部屋|大鵬部屋]]||{{Display none|01-}}[[横綱]]・[[大鵬幸喜|大鵬]]||二所ノ関||2004年1月||{{Display none|名称変更/}}[[大嶽部屋]]||一代年寄大鵬から[[貴闘力忠茂|16代大嶽]]へ部屋を継承したため||
|-
|{{Display none|ふたこやま/}}[[貴乃花部屋#10代二子山部屋時代|二子山部屋]]||{{Display none|02-}}大関・[[貴ノ花利彰|貴ノ花]]||二所ノ関||2004年2月||{{Display none|名称変更/}}[[貴乃花部屋]]||11代二子山から[[貴乃花光司|一代年寄貴乃花]]へ部屋を継承したため||
|-
|{{Display none|あしかわ/}}[[伊勢ヶ濱部屋|安治川部屋]]||{{Display none|01-}}横綱・[[旭富士正也|旭富士]]||[[伊勢ヶ濱一門|立浪]]|| style="white-space:nowrap;" |2007年11月||{{Display none|名跡変更/}}[[伊勢ヶ濱部屋]]||4代[[安治川 (相撲)|安治川]]が9代[[伊勢ヶ濱]]に名跡変更したため||
|-
|{{Display none|むさしかわ/}}[[藤島部屋|武蔵川部屋]]||{{Display none|01-}}横綱・[[三重ノ海剛司|三重ノ海]]||出羽海||2010年9月||{{Display none|名称変更/}}[[藤島部屋]]||14代武蔵川から[[武双山正士|18代藤島]]へ部屋を継承したため||
|-
|{{Display none|なると/}}[[田子ノ浦部屋|鳴戸部屋]]||{{Display none|05-}}[[前頭]]8・[[隆の鶴伸一|隆の鶴]]||二所ノ関||2013年12月||{{Display none|名跡変更/}}[[田子ノ浦部屋]]||14代[[鳴戸]]が16代[[田子ノ浦 (相撲)|田子ノ浦]]に名跡変更したため||
|-
|{{Display none|まつかね/}}[[放駒部屋|松ヶ根部屋]]||{{Display none|02-}}大関・[[若嶋津六夫|若嶋津]]||二所ノ関||2014年12月||{{Display none|名跡変更/}}[[放駒部屋|二所ノ関部屋]]||9代[[松ヶ根]]が12代[[二所ノ関]]に名跡変更したため||
|-
|{{Display none|きたのうみ/}}[[山響部屋|北の湖部屋]]||{{Display none|01-}}横綱・[[北の湖敏満|北の湖]]||出羽海||2015年11月||{{Display none|名称変更/}}[[山響部屋]]||一代年寄北の湖の死去に伴い、[[巌雄謙治|20代山響]]が部屋を継承したため||一代年寄北の湖の死去が[[大相撲平成27年11月場所|本場所]]中だったため本場所終了までは20代山響が師匠代行を務めた
|-
|{{Display none|ちかのうら/}}[[常盤山部屋|千賀ノ浦部屋]]||{{Display none|04-}}小結・[[隆三杉太一|隆三杉]]||二所ノ関||2020年11月||{{Display none|名跡変更/}}[[常盤山部屋]]||20代[[千賀ノ浦]]が17代[[常盤山]]に名跡変更したため||
|-
|{{Display none|にしよのせき/}}[[放駒部屋|二所ノ関部屋]]||{{Display none|02-}}大関・[[若嶋津六夫|若嶋津]]||二所ノ関||2021年12月||{{Display none|名称変更/}}[[放駒部屋]]||12代二所ノ関から[[玉乃島新|18代放駒]]へ部屋を継承したため||名称変更時に床山1人が片男波部屋へ移籍
|-
|{{Display none|あらいそ/}}[[二所ノ関部屋|荒磯部屋]]||{{Display none|01-}}横綱・[[稀勢の里寛|稀勢の里]]||二所ノ関||2021年12月||{{Display none|名跡変更/}}[[二所ノ関部屋]]||16代[[荒磯 (相撲)|荒磯]]が13代二所ノ関に名跡変更したため||
|-
|{{Display none|ともつな/}}[[友綱部屋]]||{{Display none|03-}}[[関脇]]・[[旭天鵬勝|旭天鵬]]||[[伊勢ヶ濱一門|伊勢ヶ濱]]||2022年2月||{{Display none|名跡変更/}}[[大島部屋]]||11代[[友綱]]が6代[[大島 (相撲)|大島]]に名跡変更したため||
|-
|{{Display none|いるまかわ/}}[[雷部屋 (1993-)|入間川部屋]]||{{Display none|03-}}関脇・[[栃司哲史|栃司]]||出羽海||2023年2月||{{Display none|名称変更/}}[[雷部屋]]||16代入間川から[[垣添徹|17代雷]]へ部屋を継承したため||名称変更時に[[皇司信秀|15代若藤]]が木瀬部屋へ移籍
|}
=== 平成以前 ===
左から閉鎖した部屋名、閉鎖した年、閉鎖時点の師匠の現役名。
* [[大山部屋]] 1986年 [[大飛進]]
* [[花籠部屋]]1985年 [[輪島大士]]
* [[高島部屋]] 1982年 [[三根山隆司]]
* [[君ヶ濱部屋]]1978年 [[鶴ヶ嶺昭男]]
* [[間垣部屋]] 1975年 [[清水川明於]]
* [[中川部屋]] 1973年 [[清恵波清隆]]
* [[谷川部屋]]1969年 [[八幡野平八郎]]{{Refnest|group="注釈"|これ以前も1960年に閉鎖している。}}
* [[湊川部屋]]1965年 [[十勝岩豊]]
* [[小野川部屋]]1965年 [[錦華山大五郎]] {{Refnest|group="注釈"|これ以前も1934年、1944年に閉鎖している。}}
* [[追手風部屋]]1965年 [[清水川元吉]]
* [[錦島部屋]]1964年 [[木村今朝三]]
* [[振分部屋]]1964年 [[朝潮太郎 (3代)]]
* [[佐ノ山部屋]]1964年 [[國登國生]]
* [[立川部屋]]1963年 [[緋縅力弥 (4代)]]
* [[大鳴戸部屋]]1963年 [[二瀬山勝語]]
* [[浦風部屋]]1962年 [[太郎山勇吉]] {{Refnest|group="注釈"|これ以前も1941年に閉鎖している。}}
* [[雷部屋]]1961年 [[番神山政三郎]]
* [[中村部屋]]1961年 [[楯甲新蔵]]
* [[熊ヶ谷部屋]]1961年 [[三根山隆司]]
* [[荒磯部屋]]1961年 [[照國萬蔵]] {{Refnest|group="注釈"|なお、この部屋が存在している間、伊勢ヶ濱部屋は一旦閉鎖していた。}}
* [[宮城野部屋|吉葉山道場]]1960年 [[吉葉山潤之輔]]
* [[陸奥部屋]]1960年 [[大潮清治郎]]
* [[佐ノ山部屋]]1960年 [[朝響信親]]
* [[宮城野部屋]]1957年 [[鳳谷五郎]]
* [[熊ヶ谷部屋]]1957年 [[敷嶌猪之助]] {{Refnest|group="注釈"|これ以前も1927年に閉鎖している。}}
* [[西岩部屋]]1956年 [[鯱ノ里一郎]] {{Refnest|group="注釈"|なお、この部屋が存在している間、若松部屋は一旦閉鎖していた。}}
* [[富士ヶ根部屋]]1955年 [[若湊三郎]] {{Refnest|group="注釈"|これ以前も1947年に閉鎖している。}}
* [[武隈部屋]]1954年 [[両國勇治郎]] {{Refnest|group="注釈"|これ以前も1933年に閉鎖している。}}
* [[小野川部屋|陣幕部屋]] 1954年 [[青葉山徳雄]] {{Refnest|group="注釈"|これ以前も1938年、1947年に閉鎖している。}}
* [[式秀部屋]]1954年 [[有明五郎]]
* [[花籠部屋|芝田山部屋]]1953年 [[大ノ海久光]]
* [[尾上部屋]]1952年 [[野州山義朗]] {{Refnest|group="注釈"|これ以前も1931年、1951年に閉鎖している。}}
* [[安治川部屋]]1951年 [[巴潟誠一]]
* [[山分部屋]] 1949年 [[駒ノ里秀雄]]
* [[若藤部屋]] 1948年 [[越ノ海東治郎]]
* [[振分部屋]] 1948年 [[浪ノ音健蔵]] {{Refnest|group="注釈"|これ以前も1941年に閉鎖している。}}
* [[湊川部屋]] 1948年 [[綾錦由之丞]]
* [[枝川部屋]] 1947 [[海光山大五郎]]
* [[春日山部屋]] 1947年 [[藤ノ川雷五郎]]
* [[甲山部屋]] 1947年 [[小松山貞造]]
* [[玉ノ井部屋]] 1947年 [[陸奥錦秀二郎]]
* [[友綱部屋]] 1947年 [[矢筈山登]]
* [[花籠部屋]] 1947年 [[三杉礒善七]]
* [[中川部屋]] 1947年 [[吉野山要治郎]]
* [[二子山部屋]] 1947年 [[土州山役太郎]]
* [[時津風部屋|双葉山道場]]1946年 [[双葉山定次]]
* [[音羽山部屋]]1946年 [[白岩亮治]] {{Refnest|group="注釈"|これ以前も1938年に閉鎖している。}}
* [[立田山部屋]]1946年 [[能代潟錦作]]
* [[三保ヶ関部屋]] 1946年 [[滝ノ海調太郎]]
* [[谷川部屋]] 1946年 [[黒瀬川浪之助]]
* [[小野川部屋|高崎部屋]] 1946年 [[錦華山大五郎]]
* [[佐渡ヶ嶽部屋]] 1946年 [[阿久津川高一郎]]
* [[鏡山部屋]] 1945年 [[金木山弥一郎]]
* [[芝田山部屋]] 1944年 [[宮城山福松]]
* [[高田川部屋]] 1944年 [[早瀬川一栄]] {{Refnest|group="注釈"|これ以前も1931年に閉鎖している。}}
* [[玉垣部屋]] 1943年 [[巴潟誠一]]
* [[式秀部屋]] 1943年 [[有明吾郎]]
* [[片男波部屋]] 1943年 [[開月勘太郎]] {{Refnest|group="注釈"|これ以前も1936年に閉鎖している。}}
* [[千賀ノ浦部屋]] 1943年 [[幡瀬川邦七郎]]
* [[甲山部屋]] 1943年 [[小田ノ山権蔵]]
* [[二十山部屋]] 1943年 [[小錦八十吉 (2代)]]
* [[荒汐部屋]] 1943年 [[殿り卯三郎]]
* [[粂川部屋]] 1942年 [[鏡岩善四郎]]
* [[時津風部屋]] 1941年 [[小九紋竜梅吉]] {{Refnest|group="注釈"|これ以前も1935年に閉鎖している。}}
* [[尾車部屋]] 1941年 [[大戸平吉太郎]] {{Refnest|group="注釈"|これ以前も1937年に閉鎖している。}}
* [[八角部屋]] 1940年 [[大鳴門灘右エ門 (3代)]] {{Refnest|group="注釈"|これ以前も1933年に閉鎖している。}}
* [[出来山部屋]] 1938年 [[紫雲竜吉之助]]
* [[松ヶ根部屋]] 1935年 [[紅葉川規知朝]]
* [[押尾川部屋]] 1935年 [[時ノ矢五郎]]
* [[待乳山部屋]] 1934年 [[光風貞太郎]]
* [[九重部屋]] 1934年 [[豊國福馬]]
* [[浅香山部屋]] 1934年 [[西ノ海嘉治郎 (3代)]]
* [[武蔵川部屋]] 1933年 [[鴨緑江渡右衛門]]
* [[山科部屋]] 1933年 [[柏山吾郎]]
* [[白玉部屋]] 1932年 [[宮城山福松]]
* [[片男波部屋]] 1932年 [[高緑太三郎]]
* [[中川部屋]] 1931年 [[鬼鹿毛清七]]
* [[錦戸部屋]] 1931年 [[錦戸春吉]]
* [[浦風部屋]] 1931年 [[浦ノ濱栄治郎]]
* [[立田山部屋]] 1930年 [[白岩亮治]]
* [[岩友部屋]]1930年 [[響矢由太郎]]
* [[清見潟部屋]]1930年 [[岩木山孫平]]
* [[楯山部屋]]1930年 [[国ノ音治三郎]]
* [[追手風部屋]]1929年 [[追手風政吉]]
* [[中立部屋]]1928年 [[伊勢ノ濱慶太郎]]
* [[千賀ノ浦部屋]]1928年 [[綾川五郎次 (大正)|綾川五郎次]]
* [[白玉部屋]]1928年 [[玉椿憲太郎]]
* [[湊川部屋]]1928年 [[綾浪源鋭]]
* [[千田川部屋]]1928年 [[木村喜三郎]]
* [[田子ノ浦部屋]]1927年 [[鬼ヶ谷才治]]
* [[浅香山部屋]]1927年 [[八嶌山平八郎]]
* [[湊部屋]]1927年 [[日ノ出山常吉]]
* [[荒磯部屋]]1927年 [[鶴渡清治郎]]
* [[雷部屋]]1927年 [[梅ヶ谷藤太郎 (2代)]]
* [[桐山部屋]]1927年 [[高武蔵源太郎]]
* [[勝ノ浦部屋]]1927年[[滝ノ音啓五郎]]
* [[錣山部屋]]1925年 [[小金山伝治郎]]
* [[入間川部屋]]1923年 [[両國梶之助 (國岩)|両國梶之助]]
* [[音羽山部屋]]1923年 [[梅垣直治郎]]
* [[不知火部屋]] 1923年 [[松の音吉松]]
* [[藤島部屋]]1923年 [[藤見嶽虎之助]]
* [[春日山部屋]]1923年 [[當り矢信太郎]]
* [[立川部屋]]1923年 [[甲吾郎]]
* [[峰崎部屋]]1922年 [[木村銀治郎 (2代)]]
* [[高島部屋]]1922年 [[谷ノ音喜市]]
* [[花籠部屋]]1921年 [[荒岩亀之助]]
* [[佐ノ山部屋]]1921年 [[朝汐太郎 (初代)]]
* [[大嶽部屋]]1920年 [[玉手山七郎]]
* [[東関部屋]]1920年 [[太刀山峰右エ門]]
* [[根岸部屋]] 1920年代? [[根岸治右衛門 (10代)]]
* [[待乳山部屋]]1919年 [[大砲万右エ門]]
* [[稲川部屋]]1916年 [[稲川政右エ門 (4代)]]
* [[錦戸部屋]]1916年 [[錦戸春吉]]
* [[甲山部屋]]1915年 [[大甲信太郎]]
* [[秀ノ山部屋]]1914年 [[天津風雲右エ門]]
* [[入間川部屋]]1911年 [[有村直吉]]
* [[武蔵川部屋]]1911年 [[劔山谷右エ門 (2代)]]
* [[千賀ノ浦部屋]]1910年 [[大泉保吉]]
* [[関ノ戸部屋]]1910年代? [[逆鉾与治郎]]
* [[竹縄部屋]] 1910年代? [[千歳川絹治]]
* [[八角部屋]]1908年 [[大鳴門灘右エ門 (2代)]]
* [[立田川部屋]]1907年 [[朝日嶽鶴之助 (幕下)]]
* [[玉垣部屋]]1905年 [[浦ノ海光太郎]]
* [[木瀬部屋]]1905年 [[木村瀬平 (立行司)|木村瀬平]]
* [[千賀ノ浦部屋]]1904年 [[大達羽左エ門]]
* [[九重部屋]]1903年 [[浦湊喜太郎]]
* [[濱風部屋]]1900年代?[[稲葉山菊二郎]]
'''以下は存在時期及び、師匠が不明な部屋である。'''
* [[雷電部屋]]
* [[木村庄之助部屋]]
* [[式守伊之助部屋]]
* [[秋津嶋部屋]]
* [[阿蘇ヶ嶽部屋]]
* [[出水川部屋]]
* [[梅ヶ谷部屋]]
* [[大木戸部屋]]
* [[大橋部屋]]
* [[神楽部屋]]
* [[柏戸部屋]]
* [[御所ヶ浦部屋]]
* [[御所車部屋]]
* [[呉服部屋]]
* [[小松山部屋]]
* [[竹嶋部屋]]
* [[千歳川部屋]]
* [[笘ヶ嶋部屋]]
* [[名取川部屋]]
* [[捻鉄部屋]]
* [[八ッヶ峰部屋]]
* [[雪見山部屋]]
* [[四賀峰部屋]]
* [[七ツ森部屋]]
== 部屋の創設・継承資格 ==
もともと部屋の分離独立に関する基準はなく、理事会で承認されればどの年寄でも部屋を新設することができたが、上述の部屋数の急増を受けて、平成中期に部屋創設の要件に該当年寄の現役時代の成績の制限を加えた。
; 部屋創設(分家独立)の要件
[[2006年]]9月28日制定。以下の要件を満たし、引退から1年以上経過した後、師匠の了承と理事会の承認を得ること<ref>{{Cite news|url=http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2011/09/30/kiji/K20110930001725120.html |title=相撲部屋継、新設には理事会の承認が必要に|work=スポニチアネックス|publisher=スポーツニッポン新聞社|date=2011-09-30|accessdate=2016-1-21}}{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>。
# [[横綱]]もしくは[[大関]](大関から陥落した力士も含む)
# [[三役]]([[関脇]]・[[小結]])通算25場所以上
# [[幕内]]通算60場所以上(番付制限なし)
; 既存の部屋の継承に限定した要件
[[1998年]][[5月1日]]制定。現役力士が理事会で相撲部屋継承者と認められれば、通常の年寄襲名条件([[年寄名跡#襲名条件]]を参照)ではなく、例外規定を適用し、現役を引退して部屋を継承することが可能となった。条件は以下。
# 幕内通算12場所以上<ref name="keisyoevent">日刊スポーツ 2017年3月4日</ref>
# 幕内・[[十両]](関取)通算20場所以上<ref name="keisyoevent"/>
=== 現在の有資格者 ===
; 部屋付きの年寄で部屋創設の条件を満たしたもの
{| class="wikitable"
!年寄名
!現役時代の四股名
!条件
!備考
|-
|[[大鳴戸]]武春<br/><small>おおなると たけはる</small>
|[[出島武春]]
|元大関
|
|-
|[[秀ノ山 (年寄名跡)|秀ノ山]]和弘<br/><small>ひでのやま かずひろ</small>
|[[琴奨菊和弘]]
|元大関
|[[秀ノ山部屋]]を創設予定
|-
|[[清見潟]]雄一郎<br/><small>きよみがた ゆういちろう</small>
|[[栃煌山雄一郎]]
|三役通算25場所<br/>(最高位関脇)
|
|-
|[[竹縄]]泰一<br/><small>たけなわ たいいち</small>
|[[栃乃洋泰一]]
|幕内通算81場所<br/>(最高位関脇)
|
|-
|[[立川 (相撲)|立川]]敏生<br/><small>たてかわ としお</small>
|[[土佐ノ海敏生]]
|幕内通算80場所<br/>(最高位関脇)
|
|-
|[[中村 (相撲)|中村]]雅継<br/><small>なかむら まさつぐ</small>
|[[嘉風雅継]]
|幕内通算79場所<br/>(最高位関脇)
|[[中村部屋]]を創設予定<ref group="注釈">[[尾車部屋]]閉鎖から創設までは[[二所ノ関部屋]]に部屋付きとして所属。</ref>
|-
|[[君ヶ濱]]歩<br/><small>きみがはま あゆみ</small>
|[[隠岐の海歩]]
|幕内通算75場所<br/>(最高位関脇)
|
|-
|[[花籠]]忠明<br/><small>はなかご たかあき</small>
|[[太寿山忠明]]
|幕内通算64場所<br/>(最高位関脇)
|過去に部屋創設経験あり<ref group="注釈">1992年10月に[[貴乃花部屋|二子山部屋]]から独立し[[花籠部屋]]を創設(再興)したが、2012年5月に経営難を理由に[[峰崎部屋]]へ吸収合併されて消滅している。</ref>
|-
|[[友綱]]一郎<br/><small>ともづな いちろう</small>
|[[魁聖一郎]]
|幕内通算60場所<br/>(最高位関脇)
|ブラジル出身
|-
|[[粂川]]佳弘<br/><small>くめがわ よしひろ</small>
|[[琴稲妻佳弘]]
|幕内通算60場所<br/>(最高位小結)
|
|-
|}
=== 規定が適用された例 ===
この規定になって以降、部屋を新設したのは11例である。
{| class="wikitable"
!部屋名
!創設年月
!年寄名<br/>(現役時代の四股名)
!条件<br/>(独立時の所属部屋)
!備考
|-
|[[武蔵川部屋]]
|2013年4月
|[[武蔵川]]光偉<br/>([[武蔵丸光洋]])
|第67代横綱<br/>([[藤島部屋]])
|アメリカ合衆国出身
|-
|[[浅香山部屋]]
|2014年2月
|[[浅香山 (相撲)|浅香山]]博之<br/>([[魁皇博之]])
|元大関<br/>([[友綱部屋]])
|
|-
|[[朝日山部屋]]
|2016年6月
|[[朝日山 (相撲)|朝日山]]宗功<br/>([[琴錦功宗]])
|三役通算34場所(最高位関脇)<br/>([[尾車部屋]])
|出身部屋は佐渡ヶ嶽部屋
|-
|[[鳴戸部屋]]
|2017年4月
|[[鳴戸]]勝紀<br/>([[琴欧洲勝紀]])
|元大関<br/>([[佐渡ヶ嶽部屋]])
|ブルガリア出身
|-
|[[西岩部屋]]
|2018年2月
|[[西岩]]忍<br/>([[若の里忍]])
|三役通算26場所(最高位関脇)<br/>([[田子ノ浦部屋]])
|
|-
|[[二子山部屋]]
|2018年4月
|[[二子山 (相撲)|二子山]]雅高<br/>([[雅山哲士]])
|元大関<br/>(藤島部屋)
|
|-
|荒磯部屋
|2021年8月
|[[荒磯 (相撲)|荒磯]]寛<br/>([[稀勢の里寛]])
|第72代横綱<br/>(田子ノ浦部屋)
|2021年12月24日、[[二所ノ関部屋]]に改称
|-
|[[武隈部屋]]
|2022年2月
|[[武隈 (相撲)|武隈]]豪太郎<br/>([[豪栄道豪太郎]])
|元大関<br/>([[境川部屋]])
|
|-
|[[押尾川部屋]]
|2022年2月
|[[押尾川]]旭<br/>([[豪風旭]])
|幕内通算86場所(最高位関脇)<br/>(尾車部屋)
|
|-
|[[安治川部屋]]
|2022年12月
|[[安治川 (相撲)|安治川]]竜児<br/>([[安美錦竜児]])
|幕内通算97場所(最高位関脇)<br/>([[伊勢ヶ濱部屋]])
|
|-
|[[音羽山部屋]]
|2023年12月
|[[音羽山 (相撲)|音羽山]]力三郎<br/>([[鶴竜力三郎]])
|第71代横綱<br/>([[陸奥部屋]])
|モンゴル出身
|}
なお、この規定が制定されて以降[[木瀬部屋]]が2012年4月に[[山響部屋|北の湖部屋]]から独立、[[中川部屋]]が2017年1月に[[追手風部屋]]から独立が承認されているが、木瀬部屋は2010年5月31日の閉鎖処分の解除による再興のため<ref group="注釈">木瀬部屋の師匠である[[肥後ノ海直哉]]は幕内通算53場所で部屋新設の条件を満たしていない。</ref>、中川部屋は2016年10月17日に閉鎖処分を受けて一時的に消滅した旧春日山部屋の再興のため<ref group="注釈">2016年10月の閉鎖処分の際に新たな師匠が就任する場合に部屋の再興が認められることになっていた。</ref><ref group="注釈">その後、2020年7月に中川親方の弟子への暴力行為が発覚し、理事会で部屋閉鎖処分が下されたため中川部屋は消滅。中川親方は[[時津風部屋]]へ、力士・床山・呼出・世話人は時津風部屋など8部屋へ転籍した。</ref><ref group="注釈">中川部屋の師匠だった[[旭里憲治]]は幕内通算4場所のため部屋新設の条件を満たしていない。</ref>新設には当たらないとされている。
また、現役を引退して部屋を継承したのは2例である。
{| class="wikitable"
!部屋名
!継承年
!四股名<br />(最高位)
!条件
!備考
|-
|[[宮城野部屋]]
|2004年8月
|[[金親和憲]]<br />(十両2)
|関取通算24場所
|2010年12月に15代[[熊ヶ谷]](元幕内[[竹葉山真邦|竹葉山]])と名跡交換をして部屋の師匠から退く。<br />2015年10月日本相撲協会を解雇。
|-
|[[中川部屋|春日山部屋]]
|2012年1月
|[[濱錦竜郎]]<br />(前頭11)
|関取通算27場所
|2016年10月師匠辞任勧告により春日山部屋が閉鎖となり[[追手風部屋]]へ移籍したため<ref group="注釈">その後、追手風部屋の部屋付き親方だった15代[[中川 (相撲)|中川]](元幕内[[旭里憲治|旭里]])が旧春日山部屋の力士を引き取り[[中川部屋]]として再興されたが、2020年7月に15代中川の弟子への暴力行為により部屋閉鎖処分を受けて消滅した。</ref>部屋の師匠から退く。<br />2017年1月日本相撲協会を退職。
|-
|}
なお、部屋の師匠が停年もしくは逝去したことに伴い部屋付きの親方が師匠になる場合は条件等の制限はない。
== 各種部屋別記録 ==
; 最多横綱昇進
: 出羽海部屋 8人([[大錦卯一郎]]、[[栃木山守也]]、[[常ノ花寛市]]、[[武藏山武]]、[[安藝ノ海節男]]、[[千代の山雅信]]、[[佐田の山晋松]]、[[三重ノ海剛司]])
; 最多幕内最高優勝
: 九重部屋 52回([[北の富士勝昭]]10回、[[千代の富士貢]]31回、[[北勝海信芳]]8回、[[千代大海龍二]]3回)
::* 元千代の山の旧九重部屋は師匠の死で消滅、独立して井筒部屋を興していた元北の富士がこれを吸収して、新九重部屋となったもので、ふたつの九重部屋は厳密には別の部屋という見方もある。同様に、千代の富士引退とともに、元北の富士は部屋を譲り、独立した八角部屋(元北勝海)に所属したので、これも別の部屋という考え方も可能になる。北の富士の10回および千代大海の3回の優勝を数えないとすれば、39回になる。そうなると、出羽海部屋の49回が最多にみえるが、出羽海部屋も、1922年6月の常陸山死去のあと、独立して入間川部屋を興していた元両国が吸収したともいえるので、常陸山時代の常陸山1回、両国1回、大錦5回、栃木山5回、常ノ花1回を減らせば36回になる。すると、白鵬1人のみで45回優勝の宮城野部屋が最多となる。
; 最多連続幕内最高優勝
: 出羽海部屋 10場所連続(大正6年1月~大正10年5月、栃木山守也5回、大錦卯一郎4回、常ノ花寛市1回)
: 九重部屋 10場所連続(昭和60年9月~昭和62年3月、千代の富士貢8回、北勝海信芳2回)
; 同一部屋力士による三賞独占(受賞者3人以上)
: 出羽海部屋([[1949年|昭和24年]]5月、殊勲賞:[[千代の山雅信]]、敢闘賞:[[羽島山昌乃武]]、技能賞:[[五ツ海義男]])
::優勝も同部屋の[[増位山大志郎]]。
: 藤島部屋([[1991年|平成3年]]5月、殊勲賞:[[貴乃花光司|貴花田光司]]、敢闘賞:[[安芸乃島勝巳|安芸ノ島勝己]]:[[貴闘力忠茂]]、技能賞:該当者なし)
: 二子山部屋([[1993年|平成5年]]5月、殊勲賞:[[花田虎上|若ノ花勝]]、敢闘賞:[[貴ノ浪貞博]]、技能賞:[[貴闘力忠茂]])
::優勝も同部屋の[[貴乃花光司|貴ノ花光司]]。
== 相撲部屋を題材としたテレビドラマ ==
* [[ひらり (テレビドラマ)|ひらり]](1992年、[[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]])
* [[まったナシ!]] (1992年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]][[土曜ドラマ (日本テレビ)|土曜グランド劇場]])
* [[おかみさんドスコイ!!]](2002年、[[毎日放送|MBS]][[ドラマ30]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Sumo stables}}
* [[相撲用語一覧]]
* [[年寄]]
* [[年寄名跡]]
* [[日本相撲協会]]
== 外部リンク ==
* [http://www.sumo.or.jp/ResultRikishiData/sumo_beya 相撲部屋のご紹介] - 日本相撲協会
{{相撲}}
{{相撲部屋}}
{{デフォルトソート:すもうへや}}
[[Category:相撲部屋|*]]
[[Category:一門]] | 2003-05-27T17:00:13Z | 2023-12-27T09:40:03Z | false | false | false | [
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"Template:脚注ヘルプ",
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"Template:相撲",
"Template:相撲部屋",
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"Template:Cite web",
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"Template:リンク切れ"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E6%92%B2%E9%83%A8%E5%B1%8B |
9,416 | 大相撲 | 大相撲(おおずもう)は、
公益財団法人日本相撲協会が主催する大相撲(おおずもう)は、世界中で行われる相撲興行の中で、最も有名かつ権威のある競技興行である。東京での開催場所は国技館である(詳しくは国技館、国技#日本の国技を参照)。 土俵に立つものおよび出場できるものは男性に限られる。
現在の日本相撲協会の前身として、人的・組織的につながる相撲興行組織は、江戸時代の江戸および大坂における相撲の組織である。大坂の相撲組織に関しては、大坂相撲の項目を参照のこと。ここでは、江戸時代以来の江戸相撲の歴史について記述する。
興行としての相撲が組織化されたのは、江戸時代の始め頃(17世紀)とされる。これは寺社が建立や移築のための資金を集める興行として行うものであり、これを「勧進相撲」といった。1624年、四谷塩町長禅寺(笹寺)において明石志賀之助が行ったのが最初である。しかし勝敗をめぐり喧嘩が絶えず、浪人集団との結びつきが強いという理由から、1648年から幕府によってたびたび禁止令が出されていた。
ところが、1657年の明暦の大火により多数の寺社再建が急務となり、またあぶれた相撲人が生業が立たず争い事が収まらなかったため、1684年、寺社奉行の管轄下において、職業としての相撲団体の結成と、年寄による管理体制の確立を条件として勧進相撲の興行が許可された。この時、興行を願い出た者に、初代の雷権太夫がいて、それが年寄名跡の創めともなった。最初の興行は前々年に焼失し復興を急いでいた江戸深川の富岡八幡宮境内で行われた。その後興行は江戸市中の神社(富岡や本所江島杉山神社、蔵前八幡、芝神明社など)で不定期に興行していたが、1744年から季節毎に年4度行われるようになった。この頃には勧進の意味は薄れて相撲渡世が濃くなり、1733年から花火大会が催されるなど江戸の盛り場として賑わいを見せていた両国橋左岸の本所回向院で1768年に最初の大規模な興行が行われた。ここでの開催が定着したのは1833年のことである。
『相撲傳書』によると、この頃は土俵はなく「人方屋」という見物人が直径7 - 9m(4 - 5間)の人間の輪を作り、その中で取組が行われた。17世紀半ばには格闘技のリングのように柱の下へ紐などで囲った場所で行われた。それが後に俵で囲んだ四角い土俵になった。次に1670年頃に土俵の四隅に四神を表す4色の布を巻いた柱を立て、屋根を支えた方屋の下に五斗俵による3.94m(13尺)の丸い土俵が設けられた。18世紀始めに俵を2分の1にし地中に半分に埋めた一重土俵ができた。これに外円をつけて二重土俵(これは「蛇の目土俵」とも言う)となった。これは内円に16俵、外円に20俵用いることから「36俵」と呼ばれた。
江戸の他にも、この時期には京都や大坂に相撲の集団ができた。当初は朝廷の権威、大商人の財力によって看板力士を多く抱えた京都、大坂相撲が江戸相撲をしのぐ繁栄を見せた。興行における力士の一覧と序列を定めた番付も、この頃から、相撲場への掲示用の板番付だけでなく、市中に広めるための木版刷りの形式が始まった。現存する最古の木版刷りの番付は、江戸では1757年のものであるが、京都や大坂では、それよりも古いものが残されている。
しかし江戸相撲は、1789年11月、司家の吉田追風から二代目・谷風梶之助、小野川喜三郎への横綱免許を実現。さらに征夷大将軍徳川家斉観戦の1791年上覧相撲を成功させる。雷電爲右衞門の登場もあって、この頃から江戸相撲が大いに盛り上がった。やがて、「江戸で土俵をつとめてこそ本当の力士」という風潮が生まれた。
各団体間の往来は比較的自由であり、江戸相撲が京都や大阪へ出向いての合併興行(大場所)も恒例としてほぼ毎年開催された。力量も三者でそれほどの差はなく、この均衡が崩れ始めるのは幕末から明治にかけてのことである。
1827年、江戸幕府が「江戸相撲方取締」という役を江戸相撲の吉田司家に認めた。
幕末に「相撲VSレスリング」や「相撲VSボクシング」の異種試合が行われた事がある。また、アメリカ合衆国海軍のマシュー・ペリー提督が黒船で来航した1853年6月11日)に、雷權太夫や玉垣額之助ら年寄総代は文書により攘夷協力を番所に申し出している。一方、翌年ペリーが再来日して条約を締結した際には、米国へ返礼として贈られた米200俵を江戸相撲の力士たちが軽々と運び、米軍人を驚嘆させた。
1863年6月3日、大阪北新地で壬生浪士組(後の新選組)と死傷事件を起こした。大坂相撲の力士で死亡したのは中頭の熊川熊次郎(肥後出身)であった。この事件の手打ちとして京都での興行では京都、大阪の両相撲が協力した。力士の中には、後に勤皇の志士となった者もいた。
明治維新と文明開化に伴い、1871年東京府のいわゆる「裸体禁止令」により東京相撲の力士は罰金、鞭打ち刑に処された。また、「相撲禁止論」が浮上した事もある。このような事態に対し、自らも相撲をとることの多かった明治天皇 および その意を受けた伊藤博文らの尽力により、1884年に天覧相撲が実現され、大相撲が社会的に公認されることにより危機を乗り越えることができた。この天覧相撲の力士は58連勝(史上3位)を記録した15代横綱初代・梅ヶ谷藤太郎であった。
東京大角力協会(1889年に東京相撲会所から改称)と大阪相撲協会ができ、組織としての形態が確立した。1890年に入幕から39連勝で大関に駆け上がった初代・小錦八十吉と横綱免許を受けた大関初代・西ノ海嘉治郎のねじれ現象の解決のため、番付に初めて〈横綱〉の表記が登場する。これはなかば偶然の産物ではあったが、これをきっかけに横綱・大関が実質的な地位として確立していくようになる。
この頃から映像が映され出し、小錦や大砲が映された貴重な映像(1900年撮影)が現存している。
20世紀の変わり目の頃には、横綱常陸山谷右エ門(1896年に名古屋相撲から大阪相撲へ、後広島相撲から東京相撲へ)と二代目・梅ヶ谷藤太郎の「梅常陸時代」による東京相撲の隆盛が生じ、東京が相撲の中心という意識が広がっていく。
1907年、常陸山が渡米した。この渡米は日本国外に相撲を本格的に紹介する最初の出来事であった。
1909年6月2日、初の常設相撲場となる両国国技館の落成。土俵入りは、東の横綱、常陸山と西の横綱、梅ヶ谷により行われた。これに並行して投げ祝儀の禁止、力士の羽織袴での場所入り、行司の烏帽子直垂着用、幟・積樽の廃止、東西制の導入などにより相撲の近代スポーツ化がすすめられた。東西制は団体優勝制度であり、優勝旗が授与された。時事新報社の優勝額贈呈により、現在の優勝制度が始まる。それまでは幕内力士の出場がなかった千秋楽にも、幕内全力士が出場するようになり、名実共に10日間興行の体裁が整った。興行日数は、1923年5月から11日間に増加した。
1910年5月の夏場所に行司の衣装がそれまでの裃、袴から烏帽子、直垂となった。
1917年11月29日に両国国技館が火災で焼失し、一時期靖国神社境内で本場所が行われたこともあった。
興行としての相撲が定着することで、力士の待遇の近代化への要求があらわれ、いくつかの紛擾事件が起きるようになった。東京相撲では、1923年に三河島事件と呼ばれる力士待遇の改善を求めるストライキが発生し、その処理を巡って横綱大錦卯一郎が廃業する事件が起こる。大阪相撲においても同年龍神事件と呼ばれる紛擾が発生し、力士他多くの関係者が廃業し、大阪相撲の実力が低下する。1923年9月1日の関東大震災により両国国技館も屋根柱などを残して焼失。1924年1月春場所は、両国国技館再建中のために名古屋で開催された。それを不満に思った一部の力士は、本場所に出場しなかった。
1925年、当時の皇太子・裕仁親王(後の昭和天皇)の台覧相撲に際して、皇太子の下賜金により摂政宮賜杯、現在の天皇賜杯が作られる。これを契機に、東京・大阪の両相撲協会の合同が計画され、技量審査のための合同相撲が開かれる。また、1926年1月場所から、今までは優勝掲額のみであった個人優勝者に賜杯が授与されることになり、個人優勝制度が確立する。
1927年、東京相撲協会と大阪相撲協会が解散し、大日本相撲協会が発足したのち、本場所は1月(両国)、3月(関西)、5月(両国)、10月(関西)の計4回:11日間で開催(1929年は10月でなく9月)されるようになる。ただしこの時期には、番付編成は若干の試行錯誤も伴いながらも、1月と3月、5月と10月のそれぞれを合算して行われ、関西本場所では優勝額の授与も行われなかった。
この時期、勝負に関する様々な改定が行われた。1928年からラジオ中継が始まったために、仕切り線と仕切りの制限時間が設けられた。個人優勝制度確立の中で、不戦勝・不戦敗制度の全面施行、物言いのついた相撲での預かりの廃止と取り直し制度の導入、二番後取り直しによる引き分けの縮小化がこの時期に実施され、勝負を争うスポーツとしての要素が強くなった。
1931年4月の天覧相撲の際、二重土俵の内円を無くし径4.55m(15尺)の一重土俵にした。またこの際にそれまで四本柱の下に座布団を敷いて土俵上に据わっていた勝負検査役を土俵下に降ろし現在と同じ配置の5人とした。
1932年1月に起こった春秋園事件で大規模な待遇改善要求を掲げて多くの力士が脱退したため、2月、3月は各8日間の変則興行となり、脱退組が関西角力協会を翌年作ったことで1933年から関西場所は廃止され、年2回の開催(1月、5月)となった。
69連勝を記録した双葉山の影響で興行日数は1937年5月場所より13日間となり、1939年5月場所より15日間と移り変わる。
第二次世界大戦の影響が次第に相撲界にも及び、1944年に両国国技館が大日本帝国陸軍に接収され、5月場所から本場所開催地を小石川後楽園球場に移した。そのために1月場所開催は困難になり、1944年には10月に本場所を繰り上げて開催した。1945年5月場所は晴天7日間、神宮外苑相撲場(後の明治神宮第二球場)で開催予定だったが空襲などのために6月に延期、両国国技館で傷痍将兵のみ招待しての晴天7日間非公開で開催された。今日まで唯一の本場所非公開開催である。これが戦争中最後の本場所となった。ちなみにこれらの場所の幕下以下の取組は事前に1944年の10月は神宮外苑、1945年の6月は春日野部屋で非公開で行われ、このことを記念して、春日野部屋では後々まで稽古場に当時の土を保存していた。また、兵役に就いた力士や、戦死・戦災死・捕虜として抑留された力士もいた。東京大空襲で両国国技館や相撲部屋を焼失。
戦後には、各部屋の離散状態、又は本場所開催などに対して連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に許可を仰がなければならないなど様々な問題を抱えながらも大相撲の復興は始まる。1945年9月に土俵を16尺(約4.84m)と大きくし、焼失した両国国技館を若干修復し、本場所の秋場所(11月:10日間)が開催された。土俵については力士会の反対で元の大きさ4.55m(15尺)に戻された。1946年に両国国技館が連合国軍最高司令官総司令部によって接収されメモリアルホールとして改装された。そのこけら落としとして、同年の11場所(13日間)が行われた。連合国軍最高司令官総司令部によって本場所開催を年3回認められたが、メモリアルホールを使用することは許可されず、1947年には明治神宮外苑相撲場にて行うこととなる。青天井のこの相撲場では正月場所は行われず、6月、11月、又は1948年の5月をそれぞれ執り行うに留まった。同じ年の1948年の秋場所(10月:11日間)には、戦後初の大阪場所が大阪市福島公園内に建築された仮設国技館で開催された。この時期に、優勝決定戦や三賞制度の制定、東西制から系統別総当たり制への変更が行われた。
1949年になり日本橋の浜町公園内に仮設国技館(木造)を建設し、ようやく1月場所(13日間)を開催する。5月場所では戦後初めて15日間行われ、以後興行期間は15日間となる。この浜町公園の仮設国技館は公園内に設置されていたことが問題となり、この2場所しか使用されず取り壊しとなった。そのため戦前に次期国技館建設用に用意していた蔵前の土地に仮設国技館を建設することとなる。ところがこの浅草蔵前仮設国技館(蔵前国技館)も消防署からの命令によって仮設であっても鉄筋造りの国技館が必要となり、蔵前仮設国技館の鉄筋化をはかり、その後5か年計画として年々充実されていった。
1950年から1952年は、本場所(1月、5月、9月)が各15日間実施(ただし1952年は大阪場所が開かれず、3場所とも東京で開催)。このうち大阪は、1950年9月場所は阿倍野橋畔に、1951年9月場所は難波(現在の大阪府立体育会館所在地)にそれぞれ仮設国技館を建て興行を行った。1952年に難波の仮設国技館を建替え、鉄骨製の大阪府立体育館(1987年から大阪府立体育会館)が竣工。翌1953年3月場所の会場となった。以後3月場所は大阪開催となり、現在に至る。
横綱の相次ぐ不成績が問題となり、1950年4月に有識者からなる横綱審議委員会が発足した。全国的にテレビが普及するに従い、NHKの相撲のテレビ中継が始まる。一時は民放各社も中継していたが、間もなく撤退した。
栃錦と初代・若乃花の栃若時代が到来し、年間の場所数が増えていく。1957年には11月場所(九州場所、福岡スポーツセンター)、1958年には7月場所(名古屋場所、名古屋市金山体育館)を行うようになり、現在のような6場所(1月、3月、5月、7月、9月、11月)、15日間という体系になった。また、1965年1月場所から完全部屋別総当たり制が実施され、それぞれ現在に至っている。
国会で公益法人としての相撲協会のあり方について質疑が行われたこと(1957年3月2日の衆議院予算委員会および4月3日の衆議院文教委員会)を受けて、相撲茶屋制度の改革、月給制の導入、相撲教習所の設立などの改革が行われた。また理事長に重要事項の建議を行える運営審議委員会も発足し財界トップや政治家が名を連ねた。横綱審議委員会の内規もこの時期に充実した。
1961年には年寄の停年制が実施された(「停年」の表記については後述)。1966年には法人名を日本相撲協会に改称。1967年には前頭・十両の枚数削減も実施した。1968年には役員選挙の制度を改定、1969年には勝負判定にビデオ映像の使用を開始した。
1965年にはソ連、1973年には中国、1981年にはメキシコと海外公演が行われ、国際的な認知が始まる。
1970年頃になると、力士と暴力団とのかかわり、八百長が疑われる内容の相撲の横行、力士の健康問題等の諸問題が明らかとなり、1971年12月には再び国会で協会のあり方が取り上げられた。これを受けた協会理事会において、中学校在籍中の入門の禁止(当時在籍していた中学生力士は、中学校卒業まで東京場所の日曜・祝日のみの出場となる)、公傷制度の導入(2003年11月場所限りで廃止されるまで続く)、相撲競技監察委員会の設置、行司の完全年功序列を廃し成績考課を導入等の改革を打ち出した(いずれも1972年1月場所より施行)。
1985年1月、現在の国技館が両国駅近くに完成し、再び両国に相撲が戻った。蔵前国技館は旧軍放出資材を用いて建てられたため、新しい国技館の建築が検討されていた。相撲協会など関係者は、相撲と縁の深い回向院のある両国界隈に建設地を定めた。そして約3年、総工費およそ150億円をかけ両国国技館が落成となった。
平成初期に千代の富士貢以下横綱が相次いで引退し一時的に横綱が不在になる。この時期は大型のハワイ出身力士が台頭し、6代小錦八十吉が横綱昇進目前まで行く。その後、曙太郎、武蔵丸光洋がそれぞれ横綱昇進、優勝回数を二ケタに乗せる。また、二子山部屋が部屋師匠の11代二子山(元大関・初代貴ノ花)の息子である若乃花勝・貴乃花光司を中心に多くの関取を輩出した。若乃花・貴乃花は特に女性ファンの獲得に成功し、若貴ブームと呼ばれた。1993年頃から2000年頃にかけては、この4横綱がしのぎを削った。貴乃花は優勝22回に達し、一代年寄の資格を得た。
2000年代半ばになると二子山部屋の勢いは衰え、ハワイ出身力士は姿を消す。入れ替わって朝青龍明徳以下、スピード重視のモンゴル出身力士が登場する。朝青龍は2005年に史上初の年間全場所制覇を達成、次いで横綱になった白鵬翔は2010年に63連勝、2015年に優勝回数記録を更新するなど、ともに一時代を築いた。次いで日馬富士公平、鶴竜力三郎が横綱に昇進するなど、モンゴル出身力士が圧倒的に優位な時代が続いている。同時期にヨーロッパ出身力士も登場し、ブルガリア出身の琴欧洲勝紀とエストニア出身の把瑠都凱斗が大関にまで上った。日本人力士の中では稀勢の里寛が横綱に昇進している。
2000年後半から不祥事が相次ぎ、2007年には時津風部屋力士暴行死事件、2008年には力士による大麻取締法違反事件の責任を取る形で理事長が辞任、2010年には野球賭博問題、2011年には八百長問題が発覚してそれぞれ本場所に影響を及ぼした。その後も力士間での暴力事件、立行司によるセクシャルハラスメント行為の発覚、道路交通法違反(無免許運転)行為、「女人禁制」の問題などが存在する。
2014年1月30日、公益財団法人の登記を行い、新法人としてスタートした。財団法人となった1925年以来89年ぶりの改組で、引き続き税制の優遇を受ける。
2019年5月場所より、アメリカ大統領杯の授与が始まる。
2020年、新型コロナウイルスの感染拡大に際しては、3月場所を無観客開催、5月場所を中止、7月場所は会場を名古屋から東京へ移し、観客数を制限したうえで開催した。9月場所も観客数を制限して開催し、11月場所も福岡から東京に移して開催された。また、協会員から罹患者が発生し、死者も出た。
2021年3月場所13日目、三段目取組において掬い投げを食らった力士が頭から土俵上に転落、病院に搬送されて治療を受けていたが、同年4月に肺血栓による急性呼吸不全のため死亡した。土俵上での取組による事故で死亡した初の事例となった。
大相撲の興行としては、本場所と巡業が特に大きなウェイトを占める。
本場所は協会主催で定期的かつ公式な興行で、技量を査定し、待遇(地位と給与)を決める性質がある。1958年以降は隔月で年間6場所行われている。開催場所は2019年現在のもので、呼称は日本相撲協会の表記に準ずる(メディア等により表記が異なる場合がある。本場所#概要を参照)。
本場所のない時期には、力士一行が本場所が行われていない地方へ出向き、1日限りの相撲披露を行う。これを(相撲・大相撲) 巡業という。協会では巡業を本場所と並ぶ最重要事業として位置付けている。
関取が所属していない部屋の取的は、巡業に参加することができず、部屋によっては合宿を行う部屋もある。
勝敗が番付や給金に反映されない興行を総称して花相撲と呼ぶ。トーナメント相撲、親善相撲、奉納相撲、引退相撲などがある。巡業も広く捉えれば花相撲の一つである。
海外公演とは、日本国外から招待を受けて日本相撲協会主催で日本国外にて取組を行うことである。日本の伝統国技を日本国外で披露すると同時に、相手国との友好親善、国際文化交流に寄与することを目的にしている。力士は「裸の親善大使」などと呼ばれ、これまでに13回開催している。
協会とは別に主催者となる地元の興行主(勧進元)がいて、日本国外の大相撲ファン拡大と収益を目的にしている。ただし、力士が土俵で取組を披露したり、国際文化交流を図ったりするなどの形態は海外公演と変わらない。海外公演より歴史は古く、これまでに11回開催している。
国威発揚のために大相撲が利用された昭和戦前期には、満州をはじめとする大陸巡業が恒例となっており、国際連盟の委任統治領であった南洋群島に巡業したこともある。しかし、これらの巡業は各部屋・一門による海外巡業であり協会全体での巡業ではなかった。戦後はハワイ巡業がしばしば行われ、元関脇・高見山大五郎もここでスカウトされた。
飛行機での移動の際は、万が一のことを考えて重量配分のために力士がいくつかの便に分乗する。
横綱(よこづな)は、大相撲の力士における最高の称号であり、現行の番付制度においては力士の最高位でもある。語源的には、横綱だけが腰に締めることを許されている白麻製の綱の名称に由来する。現在の大相撲においては、横綱は、全ての力士を代表する存在であると同時に、神の依り代であることの証とされている。それ故、横綱土俵入りは、病気・故障等の場合を除き、現役横綱の義務である。
横綱は、天下無双であるという意味を込めて「日下開山」(ひのしたかいさん)と呼ばれることもある。
大相撲内での力士の地位は「番付」と呼ばれる順位表で示される。
横綱・大関・関脇・小結・前頭・十両を纏めた総称が「関取」と呼ばれ、そのうち十両を除く横綱から前頭を纏めた総称が「幕内」と呼ばれる。大相撲では、この「幕内」を最上位とし、以下、十両・幕下・三段目・序二段・序ノ口 と続く6つの階層から成り立り、幕下以下を纏めた総称は「取的」と呼ばれる。各力士は一場所ごとに自分が所属する階層内で決められた数の取り組みを行い、その成績によって各階層内での順位付けや各階層間の昇進や降格が行われる。なお、番付上においては序ノ口が最下位であるが、序ノ口で負け越しが続いたり、休場が続いたりすると序ノ口から陥落し、番付の範疇に含まれない「番付外」と呼ばれる立場になる。また、「番付外」で一定の成績を収め、次の場所で序ノ口として出場する権利を獲得した立場の者を「新序」と呼ぶが、これも番付の範疇には含まれない。
番付は基本的に勝ち越せば上がり、負け越せば下がる。
ただし、同じ地位で同じ成績をあげても、場所によって昇進・降格幅が大きく異なる事例がこれまで数多く発生している。これは「番付は生き物」と称され、他の力士の成績との兼ね合いや各階層の定員が決められている事から来るものである。
それとは別に三役や横綱への昇進のかかるケースで不公平感が問題視されることがある。横綱や大関への昇進には特に優秀な成績が求められるが、その基準が定常的な基準となっていないため、昇進にあたりその都度昇進の可否を検討することとなっている。その昇進の基準や条件が客観性の明らかな数値基準ではないため、物議を醸し問題となる場合が多い。背景には、出身地や人種による人気の格差や看板である横綱・大関の人数を確保したい興行上の理由があると考えられる。
本場所の対戦の組み合わせを取組と呼ぶ。関取は15日間すべて、取的は隔日のペースで7番とる(1960年7月場所以降)。取組は場所中に随時編成されて、原則前日午後に発表される。
幕内最高優勝は1909年6月場所、新聞社による最高成績者への優勝額贈呈によって事実上始まった。当初は物言いがついた相撲であえて決着をつけない預りや、取り組み編成後に一方の力士が休場した場合、相手力士も休場扱いとなる制度などあって、これらが優勝争いを左右することも少なくなかった。その後、預りの廃止や不戦勝制度、同点の場合の優勝決定戦の導入などがありつつ、白星数の優劣で優勝を争う大筋は変わらぬまま現在に至っている。
同じ幕内に属して(2014年現在の定員は42名)幕内最高優勝を争う立場であっても、上位と下位で15日間の対戦相手がまったく違うことなどへの批判もあり、過去に横綱・大関とまったく対戦せずに全勝した時津山仁一や、十両力士への敗戦があった佐田の山晋松の優勝が物議を醸した例がある。そのため、現在では幕内下位で優勝争いの先頭または2番手につけている力士を、終盤に横綱・大関と対戦させることで、優勝の価値の公平化を図っている。
所属部屋ごとの対戦相手の不公平もしばしば問題視される。近年の例では、二子山部屋や武蔵川部屋の幕内力士が上位に集中していた、1990年代後半から2000年代初頭に、個人別総当たり制の導入が話題になったことがあった。養成員(幕下以下の力士)時代は大部屋で共同生活を送るという相撲部屋のしきたりが、個人別総当たり制の実現を妨げる要因となっている。
現行制度では、大相撲の力士を志望する者は、新弟子検査を受検し、体格検査及び内臓検査に合格しなければならない。国籍は不問だが、「外国出身力士は各部屋1人ずつ」という規定が存在する。2019年2月に力士(競技者)規定の一部が改正となり、入れ墨の禁止も明文化された。
大相撲力士の報酬制度は、地位によって与えられる給与・手当と、成績給に相当する力士褒賞金(給金)と、いわゆる2階建てになっている。
(2019年1月現在)
十両以上の力士(関取)には、次の通りの金額が月額給与として支給される。そのため、11月場所において十両で負け越し、1月場所で幕下に陥落した場合でも12月分の給与は支給される。幕下陥落が確実になり引退の意思を固めた力士が、翌月分の給与確保のため引退届提出を番付編成会議後まで遅らせ、翌場所の番付に名を残すケースも多い。
給与額は原則として年1回、理事会において見直すこととなっている。給与額は2001年に現行の金額となって以降2018年まで据え置きだったが、2018年11月の理事会の決定により、2019年1月場所から十両以上の力士の給料が増額されている。
賞与は、9月と12月にそれぞれ月額給与の1カ月分が支給される。したがって、年額賞与は月額給与の2カ月分である。賞与の支給月が世間一般の6月と12月と違っているのは、以前に支給されていた巡業手当が賞与に変わったためである。
本場所特別手当は、小結以上の力士に対して本場所ごとに年6回支給される。11日間以上出場した場合は全額、6日-10日間出場した場合は3分の2、5日間以下の出場の場合は3分の1が支給され、全休(不戦敗も含む)の場合は支給されない。
出張手当は、3月場所、7月場所、11月場所の年3回、各場所ごとに次の通りの1日分支給金額を35日分支給される。
力士補助金は、1月場所、5月場所、9月場所の年3回、髪結の補助金として支給される。
場所ごとに過去に残した成績に応じて支給される。計算の基礎となる持ち給金(支給標準額)の累積は序ノ口から始まり、持ち給金を4000倍した金額が十両以上の力士(関取)に支給される。持ち給金は勝ち越し1点につき50銭ずつ累積され、負け越しや休場などでの減額はない。金星や幕内最高優勝では大きな加算があるほか、十両・幕内(関脇と小結を含む)・大関・横綱と持ち給金の最低額が決まっており、昇進時に累積額がその金額に満たなければ番付に応じた最低額まで引き上げられる。
幕下以下は「力士養成員」と呼ばれ、給与と力士褒賞金は支給されないが、場所手当と本場所の成績による幕下以下奨励金(勝ち星1つごとに支給される勝星奨励金と勝ち越した数に応じて支給される勝越金)が本場所ごとに年6回支給される。
(2019年1月現在)
成績による場所ごとの収入の計算式を示すと次のようになる。
上に示した成績の負け数には休場も含む。幕下上位及び序ノ口下位の八番相撲の場合は、負け越している場合は勝越金がないため7番取って同じ数の白星を挙げた力士と同じになるが、勝ち越している場合は上の式にそのまま当てはまらず、勝越金が偶数点分になることが起こりうる。また今後出る可能性はほぼないと思われるが、引分や痛み分けが絡んだ場合も上の式にそのまま当てはまらないことが起こりうる。
このほか、本場所における電車賃が乗車券で支給される。
力士養成員でも、寝食は各々相撲部屋でできる(費用は協会から部屋持ち親方に対して、力士養成員1人につき月額70,000円、年額840,000円が支給されている)うえに、共同の食事「ちゃんこ」もあるので、幕下以下の生活が続いても食いはぐれることはない。ただし慣習としての部屋への上納つまり「持ち出し」もあるので必ずしも全額が可処分所得になるわけではない。特に親方、部屋の看板である十両以上の力士はかなりの額を「持ち出し」せねばならないが、逆に部屋に十両以上力士がいるかいないかで部屋の生活水準、ひいては本場所成績が大きく異なってくる。
大相撲の力士がテレビのCMに出演することを全面禁止していた時代があった。これは1985年からで、大相撲の力士は本業の相撲でPRすることに専念するようにしてほしいという春日野理事長(当時)の方針に沿ったものであった。ただしCM禁止中の時代でも、本場所の協会指定懸賞企業および巡業を支援するスポンサーと公共の広告に限って出演することはあった。ナショナル(後のパナソニック)乾電池の小錦、日本航空の大相撲ブラジル公演PR、国民年金の貴乃花、若乃花などがある。2002年2月に一般企業のCM出演は解禁されており、その第1号は日立マクセルDVDメディアの栃東である。
幕内での取組によっては企業が懸賞金を提供するケースがあり、勝利した力士に授与される。企業から提供される懸賞金は2019年9月以降は1本につき7万円となっているが、納税充当金として3万円、協会の事務経費として1万円が天引きされ、力士の手取りは懸賞金1本当たり3万円となる。
力士が番付の6階級のいずれかで優勝すると、以下の賞金が授与される。
三賞を受賞した力士は、1つにつき200万円が授与される。
横綱に昇進した力士は、名誉賞として100万円が授与される。
新大関に昇進した力士は、名誉賞として50万円が授与される。ただし大関から陥落した力士が大関に復帰(再昇進)した場合は授与されない。
また力士の例ではないが、行司の場合は、立行司に昇進すると、名誉賞として50万円が授与される。
十両以上の力士には、現役引退時に退職金に相当する養老金および勤続加算金(いわゆる一般功労金)が支給される。資格者は幕内連続20場所以上または幕内通算25場所以上の者で、それに満たない者は非資格者となる。ただし、現役中に協会から除名処分を受けた者には支給されない。解雇処分された者については理事会の付帯決議で一部または全部の支給が見送られることがある。
(2006年1月現在、単位:円)
番付の各地位における勤続場所数を乗じて、それぞれを加算した金額が勤続加算金の合計となる。下表の( )内の数字は、非資格者。
(2006年1月現在、単位:円)
横綱・大関には、現役引退時に理事会の決議により養老金および勤続加算金とは別に特別功労金が支給される。
かつては、支給額は公表されていたが、2005年4月1日から個人情報保護法が施行されたことにより、同年5月場所から支給額は非公表となった。この措置に対しては公益法人たる財団法人日本相撲協会の方針として不適切であるとの意見もある。
力士には、地位によって以下の待遇の違いがある。
このほかにも以下のような違いがある。
歴史的に見て、力士は永く薄給で酷使されてきた。江戸時代には本場所の興行収入は一部の年寄たち(江戸相撲会所。現在の日本相撲協会の前身)によって山分けされ、看板となるような人気力士、花形力士は別として、大半の力士への給与はなけなしのものだった。
三役力士ともなれば、大名家からお抱えとされ、藩士としての報償を受け取り、また贔屓客からの祝儀もあった。こうした力士は地方巡業へ出掛ければ各地の興行主(勧進元)から引く手あまたであって、むしろ懐は他の武士階級より潤っていた。一方、そうでない大半の力士は、細々と自主興行による「手相撲」で地方巡業を行い食いつないでいた。但し、いわゆる「力人信仰」から来る善意の喜捨も多く、本当に食うに困るまで困窮する力士は少なかった。
本場所で「星を売る」、いわゆる八百長行為も横行していたと見られており、現在でも度々、八百長行為の存在が指摘されている。但し、その真相解明は八百長行為を名指しされた者が八百長行為を認めることはないため、事情聴取も内輪の狎れ合いで済まされ、尻すぼみに終わる。これには、そもそも格闘技で年90回(十両以上は1場所15番×年6場所)もガチンコで試合を行うというのはアスリートの肉体的に不可能で、それを行おうともすれば力士の生命に対する危険はより高くなってしまうという意見もある。
明治に入って以降も、大名家が藩閥政治の有力者に成り代わっただけで、こうした状況は変わらなかった。そのため力士による待遇改善要求は度々おこり、昭和における春秋園事件はその最後にして最大のものだった。相撲取りが相撲を取ることによって生計が立つようになったのは、昭和に入ってからと言って良い。1958年(昭和33年)、こうした相撲界の体質は国会で問題視され、それ以降は月給制等による力士の待遇改善の試みが進んだ。それでも、年6場所および地方巡業により一年間のほとんどを拘束される力士たちに対しては、「時給で見れば世界でもっとも可哀想なプロスポーツ選手」という声があり、横綱でも他のプロスポーツ選手のトップクラスと比べると相当に収入は安い。
また、金銭面に関しては、後援者(タニマチ)からの祝儀が大きな収入源の一つになっている。各力士によってタニマチの大小はあるが、横綱・大関などへ有力な人物がタニマチになった場合、優勝時には1,000万円以上の祝儀が集められるという。特に千代の富士の全盛時は一晩で5,000万円集まったという。これは角界では後援者からの祝儀は給与より大きな比重を占めているという現実がある。年寄株の取得資金、部屋経営の資金、有力学生相撲選手の獲得資金等も含めて、角界はタニマチなしでは成り立たない構造となっている。
一般に力士は日本相撲協会と労働契約を結び雇用される給与所得者とされており、他のプロスポーツ選手の大半が個人事業主であることに対して労働条件を異にする部分があるためこういった収入面に関する話題では一律に比較できないとも指摘される。実際に小錦は自身の大関在位時代(1987年7月場所から1993年11月場所)の月給について「100万円くらい。僕たちは着物を着るけど、安くても一つ30万円」と証言しており、地位に見合った着物など必需品を自費で購入することを考えれば安いとする主張をしたことがある。同時に「僕の時代は、どんな幕内力士でも(懸賞は)必ずあった」とも話しており、さらに「僕も200万近く貰っていた。一番いいときに」と自身の全盛期には場所の懸賞金が1ヶ月分の給料を上回っていた事実も明かした。この時代に及んでも尚、協会から支給される月給だけでは関取個人の生活にも不足が生じる前提が生じていたのである。2001年(平成13年)に力士・年寄の給料増額が記録されてから2019年1月に力士の給料増額まで据え置きとなっていた時期があった。2008年には当時の力士会会長の朝青龍が「せめて場所入り用の交通費ぐらい何とかしてくれ」と相撲協会に賃上げを要求したが首脳陣に相手にされなかったという報告もあり、協会の財政状況があまりよくなかったとされる。ただし2015年の冬季ボーナスは「もし俺に何かあったら、(給料の底上げを)頼むぞ」と北の湖が協会関係者に伝えていたことなどが影響し、2014年と比べて3割ほどアップしたという。
とはいえ、力士が労働者として相撲協会に雇用されているのか、その特別な能力をプロとして提供することを委任しているのか、実は契約上曖昧である。たとえば日馬富士の貴ノ岩への傷害事件の際に白鵬や鶴竜まで減給処分になったのは、弁護士の山口元一によると「労働基準法91条が定める制裁制限の幅を超えていました。これは日本相撲協会が力士所属契約について、雇用契約たる性質を否定していることを示しています」とのこと。なお、2011年の大相撲八百長問題で解雇された蒼国来が起こした訴訟における東京地裁の判決は、相撲協会と力士との間で結ばれている契約は「準委任契約」(=力士は個人事業主である)としている。
一方で、福利厚生や引退時の退職金制度、税法上の取り扱い等では、他のプロスポーツより充実していて、見方によってはむしろ一般企業に勤める労働者に近い。例えば、国技館内には力士のみならず一般の診療も受け付ける診療所(公益財団法人日本相撲協会診療所。通称「相撲診療所」)があること、健康保険組合(日本相撲協会健康保険組合)を独自に運営していること、厚生年金制度を導入していること、また税金面においては給与所得や退職所得が適用されることにより、自身の報酬を事業所得として申告する他のプロスポーツ選手には無い手厚い控除が受けられること等である。1969年3月11日には国税庁が力士等に対する課税について個別通達を行っていて、これにより後援会から受け取る祝儀などを含めて力士が得る有形無形の収入について適切な形で租税計算を行うことが可能となっている。収入の無い幕下以下の力士であっても社会保険に加入することが可能であり、この場合は保険料は全額協会負担となる。
一般の個人事業主の場合のように相撲部屋が銀行の融資を受けるケースもあるが、新興の部屋の場合は12代中立の中立部屋の例のように難航する場合もある。この例の場合、多くの銀行の担当者から断られた末に最後のつもりで尋ねた銀行の担当者が相撲に理解を持っていたことからようやく融資を受けられるようになった。
力士が引退後協会に残らない時や年寄が停年を待たずに退職する場合などには廃業という言葉を用いてきたが、現役幕内力士であった旭道山和泰が衆議院議員選挙に出馬し当選したことがきっかけとなり、語感もあまり良くないことから1996年11月17日から次のように表現を改めた。
満65歳(誕生日の前日)を以って年寄は定年退職となるが、日本相撲協会では停年の表現を用いる。年を取ることをやめ、余生を楽しんでもらいたいという意をこめてのことである。なお、2014年11月16日からは停年になった年寄の再雇用制度が発足しており、この制度の適用を受けた年寄は給与が停年前より低くなり、部屋を持つことができないなどの制約はあるものの70歳までは日本相撲協会に残ることができる。
横綱審議委員会と言う諮問機関や、一部の事務職を外部から採用している以外、すべて元力士(年寄)によって運営され、その閉鎖性は繰り返し指摘される。かつてはおおむね年寄は短命であり、年寄株もむしろ余り気味なことが通例だったが、近年では空き株がほとんどない状況が続いている。結果として年寄株の高騰を招き(額面は9桁、億単位に達している)、1998年5月には「準年寄」制度の導入などで対応したが(2006年末廃止)、それでも数々のトラブルが発生している。小錦、若乃花(花田虎上)、曙といった、大関・横綱を務め人気もあった力士たちが次々協会を退職している理由としては、芸能界や格闘技、プロレスなど他分野に新天地を求めたい気持ちがあるが、親方になっても将来が保証されていない現状であり、そうした先行きの不透明感も一因としてあると言われている。
また、その閉鎖性のため旧態依然の封建的体質が色濃く残り、一部の部屋では俗に「かわいがり」と言われる(稽古名目での)私刑が横行していた。2007年には時津風部屋力士暴行死事件が発覚。愛知県警が双津竜順一らを立件する事態にまで至り、日本相撲協会北の湖敏満理事長(第55代横綱)が文部科学省より呼び出され事情を説明する騒ぎとなっている。また、時津風部屋では日本相撲協会による事情聴取についてマスメディアが駆け付けた際に時津風部屋所属力士が憤慨しカメラマンに暴行する事件も発生している。2010年9月にも、元十両・大勇武龍泉が12代芝田山(第62代横綱・大乃国)から暴行を受けたとして被害届を警視庁に提出。親方は書類送検されたが2011年1月起訴猶予となり、2012年12月に両者の間で和解が成立した。
また、力士養成員への手当金の親方による着服疑惑とそれによるトラブルも繰り返し指摘され続けているが、関取になったときに力士として認められるという慣習ゆえに、対応が取られた様子は当然ない。
理事会の申し合わせにより各部屋の外国出身者(日本国籍取得者も含む)の採用は1人までとされており、個人の出身地により参加機会が不均等になっている。
年寄になるためには、日本国籍が必要である。運営上の閉鎖性問題もあるが、これは日本相撲協会が文部科学省所轄の公益財団法人であることが大きい。外国出身で役力士を務める者もおり、元高見山の12代東関や第67代横綱・武蔵丸の15代武蔵川など日本国籍を取得(帰化)して相撲協会に残る者もいる。
その一方、横綱・大関を務めた力士が引退後に角界を離れる場合もあるが、その事情は様々である。第64代横綱・曙は日本国籍を取得済みで、引退時に曙親方として東関部屋の部屋付きとなっている。年寄名跡の取得を希望していたが、師匠の12代東関が金銭観念の甘さを見て経営者の側面もある部屋継承者として適格と判断しなかったという。第68代横綱・朝青龍は2010年1月16日未明に一般人に対する暴行事件を起こしたため、同年2月4日に相撲協会の引退勧告に従って引責引退をしている。また元大関・把瑠都は角界のしきたりや慣習に馴染めず、引退後も角界に残る意向は無かったという。
日本相撲協会主催の大相撲は土俵上への女性の立ち入りを認めていない。
この女人禁制の風習は明治期の「違式詿違条例」発令と「神道の穢れ感」を利用し「虚構の伝統」が創られたとされる。
日本の相撲の歴史においては室町時代から女相撲も存在しているが、団体も違い、同一興行も行われていない。1957年に大相撲の四国巡業において女相撲の大関若緑が勧進元挨拶をしたのは、第39代横綱・前田山と第二次世界大戦で相撲をやめてしまった若緑が懇意であったことからのはからいであった。固辞する若緑に対し、前田山は「責任はとるから」と頼み込み、若緑は土俵上に立ったという。
近年の日本では力士を志す人数は減少しており、2007年の名古屋場所にて行われた新弟子検査の受検者数は初めてゼロであった(2018年の名古屋場所で二度目の受検者ゼロ)。それと併せて、大学相撲出身者および外国人による力士数の増加により、「宗教色を帯びた伝統的な儀式」よりも「一般スポーツ競技の一種」と捉えている力士数が増えている。
本場所の観戦チケットの販売は相撲茶屋を前身とする国技館サービス株式会社が行っているが、一部の常連客への優遇が根強く、一般の観客の枡席券入手は困難な状況が続いている。
大相撲の公演中、升席では喫煙が認められていたが、健康増進法の施行に伴い、2005年(平成17年)1月場所から全館禁煙となった(室内スポーツの観覧席で唯一タバコが吸えた場所が大相撲の升席であったが、以前から他の観客や力士の健康や防災面からも異常との指摘も多く、ようやく重い腰を上げた形である)。そのため、升席で使用していた灰皿が相撲博物館に寄贈された。灰皿は陶製の物であるが、木枠に入っているなど特殊な形状をしている。
金星などの番狂わせがあった時や横綱が負けた時、観客が土俵に向かって座布団を投げる光景が見られることがある。2008年11月の大相撲九州場所からは、座布団投げ自体を危険行為とみなして厳しく取り締まることになり、マス席の座布団は、これまでの1人用の正方形4枚から2人用(縦1メートル25、横50センチ)の座布団2枚に変更し、さらに2枚をひもで結んでつなげた形に変わった。これにより、1人でも座布団に座っていれば座布団を投げられない仕組みになった。しかし、重さが2枚計4.8キロとなって投げられた場合の危険性が増したということで、同場所以降は、座布団投げが確認された場合は警察に通報するという厳罰化がなされた(詳細は「座布団の舞」の項を参照)。
1961年から1991年まで、パンアメリカン航空賞が優勝力士に送られていた。この贈呈にはパンアメリカン航空極東支配人のデビッド・ジョーンズが、「ヒョー、ショー、ジョォー」という独特の言い回しで始まる、方言なども取り入れた、ウィットに富んだ表彰状の読み上げを行い、好評を博していた。ジョーンズの注目度が非常に高かったため、多くの国々から友好杯などの賞が増えるきっかけともなった。しかし、1991年5月場所を最後に同賞は廃され(パンナム自体その約半年後に倒産)、ジョーンズも2005年2月2日に逝去している。
「フランス共和国大統領杯」は、知日派で大の大相撲ファンと自他ともに認めていた第五共和国第五代大統領・ジャック・シラクが設けた優勝力士に対する大統領顕彰だったが、2007年5月にニコラ・サルコジが第六代大統領に就任すると、これをあっさりと廃止してしまった。シラクとの対比を自己の選挙戦の推進力としていたサルコジは、「坊主憎けりゃ袈裟まで」の方便をあらゆる分野で繰り広げた。その結果、シラクが幕内力士の名を諳んじるほどの相撲通だったものとは正反対に、サルコジは「あんなのは長い髪を結った太った男たちがやる、決して美しいとは言えないスポーツにすぎません」と大相撲を一方的にこき下ろすこととなり、これが事実上の選挙公約の一つにまでなってしまったためである。
2011年の名古屋場所から「日仏友好杯」として復活。副賞としてピエール・エルメ監修の黄金マカロン(22個)が贈呈されるが、生菓子という性質上、後日の受注製造となっているため、本場所での表彰式では巨大マカロンのオブジェが土俵に登場している。
「アメリカ合衆国大統領杯」は、前々から相撲に興味を持っていた、アメリカ合衆国第四十五代大統領・ドナルド・トランプが令和元年(2019年)五月場所観戦時に設けた優勝力士に対する大統領顕彰のこと。朝乃山が受賞した。なお、翌年以降も五月場所の優勝力士に贈呈する予定となっている。 | [
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"text": "公益財団法人日本相撲協会が主催する大相撲(おおずもう)は、世界中で行われる相撲興行の中で、最も有名かつ権威のある競技興行である。東京での開催場所は国技館である(詳しくは国技館、国技#日本の国技を参照)。 土俵に立つものおよび出場できるものは男性に限られる。",
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"text": "現在の日本相撲協会の前身として、人的・組織的につながる相撲興行組織は、江戸時代の江戸および大坂における相撲の組織である。大坂の相撲組織に関しては、大坂相撲の項目を参照のこと。ここでは、江戸時代以来の江戸相撲の歴史について記述する。",
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"text": "興行としての相撲が組織化されたのは、江戸時代の始め頃(17世紀)とされる。これは寺社が建立や移築のための資金を集める興行として行うものであり、これを「勧進相撲」といった。1624年、四谷塩町長禅寺(笹寺)において明石志賀之助が行ったのが最初である。しかし勝敗をめぐり喧嘩が絶えず、浪人集団との結びつきが強いという理由から、1648年から幕府によってたびたび禁止令が出されていた。",
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"text": "ところが、1657年の明暦の大火により多数の寺社再建が急務となり、またあぶれた相撲人が生業が立たず争い事が収まらなかったため、1684年、寺社奉行の管轄下において、職業としての相撲団体の結成と、年寄による管理体制の確立を条件として勧進相撲の興行が許可された。この時、興行を願い出た者に、初代の雷権太夫がいて、それが年寄名跡の創めともなった。最初の興行は前々年に焼失し復興を急いでいた江戸深川の富岡八幡宮境内で行われた。その後興行は江戸市中の神社(富岡や本所江島杉山神社、蔵前八幡、芝神明社など)で不定期に興行していたが、1744年から季節毎に年4度行われるようになった。この頃には勧進の意味は薄れて相撲渡世が濃くなり、1733年から花火大会が催されるなど江戸の盛り場として賑わいを見せていた両国橋左岸の本所回向院で1768年に最初の大規模な興行が行われた。ここでの開催が定着したのは1833年のことである。",
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"text": "『相撲傳書』によると、この頃は土俵はなく「人方屋」という見物人が直径7 - 9m(4 - 5間)の人間の輪を作り、その中で取組が行われた。17世紀半ばには格闘技のリングのように柱の下へ紐などで囲った場所で行われた。それが後に俵で囲んだ四角い土俵になった。次に1670年頃に土俵の四隅に四神を表す4色の布を巻いた柱を立て、屋根を支えた方屋の下に五斗俵による3.94m(13尺)の丸い土俵が設けられた。18世紀始めに俵を2分の1にし地中に半分に埋めた一重土俵ができた。これに外円をつけて二重土俵(これは「蛇の目土俵」とも言う)となった。これは内円に16俵、外円に20俵用いることから「36俵」と呼ばれた。",
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"text": "江戸の他にも、この時期には京都や大坂に相撲の集団ができた。当初は朝廷の権威、大商人の財力によって看板力士を多く抱えた京都、大坂相撲が江戸相撲をしのぐ繁栄を見せた。興行における力士の一覧と序列を定めた番付も、この頃から、相撲場への掲示用の板番付だけでなく、市中に広めるための木版刷りの形式が始まった。現存する最古の木版刷りの番付は、江戸では1757年のものであるが、京都や大坂では、それよりも古いものが残されている。",
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"text": "しかし江戸相撲は、1789年11月、司家の吉田追風から二代目・谷風梶之助、小野川喜三郎への横綱免許を実現。さらに征夷大将軍徳川家斉観戦の1791年上覧相撲を成功させる。雷電爲右衞門の登場もあって、この頃から江戸相撲が大いに盛り上がった。やがて、「江戸で土俵をつとめてこそ本当の力士」という風潮が生まれた。",
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"text": "各団体間の往来は比較的自由であり、江戸相撲が京都や大阪へ出向いての合併興行(大場所)も恒例としてほぼ毎年開催された。力量も三者でそれほどの差はなく、この均衡が崩れ始めるのは幕末から明治にかけてのことである。",
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"text": "1827年、江戸幕府が「江戸相撲方取締」という役を江戸相撲の吉田司家に認めた。",
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"text": "幕末に「相撲VSレスリング」や「相撲VSボクシング」の異種試合が行われた事がある。また、アメリカ合衆国海軍のマシュー・ペリー提督が黒船で来航した1853年6月11日)に、雷權太夫や玉垣額之助ら年寄総代は文書により攘夷協力を番所に申し出している。一方、翌年ペリーが再来日して条約を締結した際には、米国へ返礼として贈られた米200俵を江戸相撲の力士たちが軽々と運び、米軍人を驚嘆させた。",
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"text": "1863年6月3日、大阪北新地で壬生浪士組(後の新選組)と死傷事件を起こした。大坂相撲の力士で死亡したのは中頭の熊川熊次郎(肥後出身)であった。この事件の手打ちとして京都での興行では京都、大阪の両相撲が協力した。力士の中には、後に勤皇の志士となった者もいた。",
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"text": "明治維新と文明開化に伴い、1871年東京府のいわゆる「裸体禁止令」により東京相撲の力士は罰金、鞭打ち刑に処された。また、「相撲禁止論」が浮上した事もある。このような事態に対し、自らも相撲をとることの多かった明治天皇 および その意を受けた伊藤博文らの尽力により、1884年に天覧相撲が実現され、大相撲が社会的に公認されることにより危機を乗り越えることができた。この天覧相撲の力士は58連勝(史上3位)を記録した15代横綱初代・梅ヶ谷藤太郎であった。",
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"text": "東京大角力協会(1889年に東京相撲会所から改称)と大阪相撲協会ができ、組織としての形態が確立した。1890年に入幕から39連勝で大関に駆け上がった初代・小錦八十吉と横綱免許を受けた大関初代・西ノ海嘉治郎のねじれ現象の解決のため、番付に初めて〈横綱〉の表記が登場する。これはなかば偶然の産物ではあったが、これをきっかけに横綱・大関が実質的な地位として確立していくようになる。",
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"text": "この頃から映像が映され出し、小錦や大砲が映された貴重な映像(1900年撮影)が現存している。",
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"text": "20世紀の変わり目の頃には、横綱常陸山谷右エ門(1896年に名古屋相撲から大阪相撲へ、後広島相撲から東京相撲へ)と二代目・梅ヶ谷藤太郎の「梅常陸時代」による東京相撲の隆盛が生じ、東京が相撲の中心という意識が広がっていく。",
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"text": "1907年、常陸山が渡米した。この渡米は日本国外に相撲を本格的に紹介する最初の出来事であった。",
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"text": "1909年6月2日、初の常設相撲場となる両国国技館の落成。土俵入りは、東の横綱、常陸山と西の横綱、梅ヶ谷により行われた。これに並行して投げ祝儀の禁止、力士の羽織袴での場所入り、行司の烏帽子直垂着用、幟・積樽の廃止、東西制の導入などにより相撲の近代スポーツ化がすすめられた。東西制は団体優勝制度であり、優勝旗が授与された。時事新報社の優勝額贈呈により、現在の優勝制度が始まる。それまでは幕内力士の出場がなかった千秋楽にも、幕内全力士が出場するようになり、名実共に10日間興行の体裁が整った。興行日数は、1923年5月から11日間に増加した。",
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"text": "1910年5月の夏場所に行司の衣装がそれまでの裃、袴から烏帽子、直垂となった。",
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"text": "興行としての相撲が定着することで、力士の待遇の近代化への要求があらわれ、いくつかの紛擾事件が起きるようになった。東京相撲では、1923年に三河島事件と呼ばれる力士待遇の改善を求めるストライキが発生し、その処理を巡って横綱大錦卯一郎が廃業する事件が起こる。大阪相撲においても同年龍神事件と呼ばれる紛擾が発生し、力士他多くの関係者が廃業し、大阪相撲の実力が低下する。1923年9月1日の関東大震災により両国国技館も屋根柱などを残して焼失。1924年1月春場所は、両国国技館再建中のために名古屋で開催された。それを不満に思った一部の力士は、本場所に出場しなかった。",
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"text": "1925年、当時の皇太子・裕仁親王(後の昭和天皇)の台覧相撲に際して、皇太子の下賜金により摂政宮賜杯、現在の天皇賜杯が作られる。これを契機に、東京・大阪の両相撲協会の合同が計画され、技量審査のための合同相撲が開かれる。また、1926年1月場所から、今までは優勝掲額のみであった個人優勝者に賜杯が授与されることになり、個人優勝制度が確立する。",
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"text": "1927年、東京相撲協会と大阪相撲協会が解散し、大日本相撲協会が発足したのち、本場所は1月(両国)、3月(関西)、5月(両国)、10月(関西)の計4回:11日間で開催(1929年は10月でなく9月)されるようになる。ただしこの時期には、番付編成は若干の試行錯誤も伴いながらも、1月と3月、5月と10月のそれぞれを合算して行われ、関西本場所では優勝額の授与も行われなかった。",
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"text": "この時期、勝負に関する様々な改定が行われた。1928年からラジオ中継が始まったために、仕切り線と仕切りの制限時間が設けられた。個人優勝制度確立の中で、不戦勝・不戦敗制度の全面施行、物言いのついた相撲での預かりの廃止と取り直し制度の導入、二番後取り直しによる引き分けの縮小化がこの時期に実施され、勝負を争うスポーツとしての要素が強くなった。",
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"text": "1931年4月の天覧相撲の際、二重土俵の内円を無くし径4.55m(15尺)の一重土俵にした。またこの際にそれまで四本柱の下に座布団を敷いて土俵上に据わっていた勝負検査役を土俵下に降ろし現在と同じ配置の5人とした。",
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"text": "1932年1月に起こった春秋園事件で大規模な待遇改善要求を掲げて多くの力士が脱退したため、2月、3月は各8日間の変則興行となり、脱退組が関西角力協会を翌年作ったことで1933年から関西場所は廃止され、年2回の開催(1月、5月)となった。",
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"text": "69連勝を記録した双葉山の影響で興行日数は1937年5月場所より13日間となり、1939年5月場所より15日間と移り変わる。",
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"text": "第二次世界大戦の影響が次第に相撲界にも及び、1944年に両国国技館が大日本帝国陸軍に接収され、5月場所から本場所開催地を小石川後楽園球場に移した。そのために1月場所開催は困難になり、1944年には10月に本場所を繰り上げて開催した。1945年5月場所は晴天7日間、神宮外苑相撲場(後の明治神宮第二球場)で開催予定だったが空襲などのために6月に延期、両国国技館で傷痍将兵のみ招待しての晴天7日間非公開で開催された。今日まで唯一の本場所非公開開催である。これが戦争中最後の本場所となった。ちなみにこれらの場所の幕下以下の取組は事前に1944年の10月は神宮外苑、1945年の6月は春日野部屋で非公開で行われ、このことを記念して、春日野部屋では後々まで稽古場に当時の土を保存していた。また、兵役に就いた力士や、戦死・戦災死・捕虜として抑留された力士もいた。東京大空襲で両国国技館や相撲部屋を焼失。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "戦後には、各部屋の離散状態、又は本場所開催などに対して連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に許可を仰がなければならないなど様々な問題を抱えながらも大相撲の復興は始まる。1945年9月に土俵を16尺(約4.84m)と大きくし、焼失した両国国技館を若干修復し、本場所の秋場所(11月:10日間)が開催された。土俵については力士会の反対で元の大きさ4.55m(15尺)に戻された。1946年に両国国技館が連合国軍最高司令官総司令部によって接収されメモリアルホールとして改装された。そのこけら落としとして、同年の11場所(13日間)が行われた。連合国軍最高司令官総司令部によって本場所開催を年3回認められたが、メモリアルホールを使用することは許可されず、1947年には明治神宮外苑相撲場にて行うこととなる。青天井のこの相撲場では正月場所は行われず、6月、11月、又は1948年の5月をそれぞれ執り行うに留まった。同じ年の1948年の秋場所(10月:11日間)には、戦後初の大阪場所が大阪市福島公園内に建築された仮設国技館で開催された。この時期に、優勝決定戦や三賞制度の制定、東西制から系統別総当たり制への変更が行われた。",
"title": "歴史"
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"text": "1949年になり日本橋の浜町公園内に仮設国技館(木造)を建設し、ようやく1月場所(13日間)を開催する。5月場所では戦後初めて15日間行われ、以後興行期間は15日間となる。この浜町公園の仮設国技館は公園内に設置されていたことが問題となり、この2場所しか使用されず取り壊しとなった。そのため戦前に次期国技館建設用に用意していた蔵前の土地に仮設国技館を建設することとなる。ところがこの浅草蔵前仮設国技館(蔵前国技館)も消防署からの命令によって仮設であっても鉄筋造りの国技館が必要となり、蔵前仮設国技館の鉄筋化をはかり、その後5か年計画として年々充実されていった。",
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"text": "1950年から1952年は、本場所(1月、5月、9月)が各15日間実施(ただし1952年は大阪場所が開かれず、3場所とも東京で開催)。このうち大阪は、1950年9月場所は阿倍野橋畔に、1951年9月場所は難波(現在の大阪府立体育会館所在地)にそれぞれ仮設国技館を建て興行を行った。1952年に難波の仮設国技館を建替え、鉄骨製の大阪府立体育館(1987年から大阪府立体育会館)が竣工。翌1953年3月場所の会場となった。以後3月場所は大阪開催となり、現在に至る。",
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"text": "横綱の相次ぐ不成績が問題となり、1950年4月に有識者からなる横綱審議委員会が発足した。全国的にテレビが普及するに従い、NHKの相撲のテレビ中継が始まる。一時は民放各社も中継していたが、間もなく撤退した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 32,
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"text": "栃錦と初代・若乃花の栃若時代が到来し、年間の場所数が増えていく。1957年には11月場所(九州場所、福岡スポーツセンター)、1958年には7月場所(名古屋場所、名古屋市金山体育館)を行うようになり、現在のような6場所(1月、3月、5月、7月、9月、11月)、15日間という体系になった。また、1965年1月場所から完全部屋別総当たり制が実施され、それぞれ現在に至っている。",
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"text": "国会で公益法人としての相撲協会のあり方について質疑が行われたこと(1957年3月2日の衆議院予算委員会および4月3日の衆議院文教委員会)を受けて、相撲茶屋制度の改革、月給制の導入、相撲教習所の設立などの改革が行われた。また理事長に重要事項の建議を行える運営審議委員会も発足し財界トップや政治家が名を連ねた。横綱審議委員会の内規もこの時期に充実した。",
"title": "歴史"
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"text": "1961年には年寄の停年制が実施された(「停年」の表記については後述)。1966年には法人名を日本相撲協会に改称。1967年には前頭・十両の枚数削減も実施した。1968年には役員選挙の制度を改定、1969年には勝負判定にビデオ映像の使用を開始した。",
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"text": "1965年にはソ連、1973年には中国、1981年にはメキシコと海外公演が行われ、国際的な認知が始まる。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "1970年頃になると、力士と暴力団とのかかわり、八百長が疑われる内容の相撲の横行、力士の健康問題等の諸問題が明らかとなり、1971年12月には再び国会で協会のあり方が取り上げられた。これを受けた協会理事会において、中学校在籍中の入門の禁止(当時在籍していた中学生力士は、中学校卒業まで東京場所の日曜・祝日のみの出場となる)、公傷制度の導入(2003年11月場所限りで廃止されるまで続く)、相撲競技監察委員会の設置、行司の完全年功序列を廃し成績考課を導入等の改革を打ち出した(いずれも1972年1月場所より施行)。",
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"text": "1985年1月、現在の国技館が両国駅近くに完成し、再び両国に相撲が戻った。蔵前国技館は旧軍放出資材を用いて建てられたため、新しい国技館の建築が検討されていた。相撲協会など関係者は、相撲と縁の深い回向院のある両国界隈に建設地を定めた。そして約3年、総工費およそ150億円をかけ両国国技館が落成となった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "平成初期に千代の富士貢以下横綱が相次いで引退し一時的に横綱が不在になる。この時期は大型のハワイ出身力士が台頭し、6代小錦八十吉が横綱昇進目前まで行く。その後、曙太郎、武蔵丸光洋がそれぞれ横綱昇進、優勝回数を二ケタに乗せる。また、二子山部屋が部屋師匠の11代二子山(元大関・初代貴ノ花)の息子である若乃花勝・貴乃花光司を中心に多くの関取を輩出した。若乃花・貴乃花は特に女性ファンの獲得に成功し、若貴ブームと呼ばれた。1993年頃から2000年頃にかけては、この4横綱がしのぎを削った。貴乃花は優勝22回に達し、一代年寄の資格を得た。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 39,
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"text": "2000年代半ばになると二子山部屋の勢いは衰え、ハワイ出身力士は姿を消す。入れ替わって朝青龍明徳以下、スピード重視のモンゴル出身力士が登場する。朝青龍は2005年に史上初の年間全場所制覇を達成、次いで横綱になった白鵬翔は2010年に63連勝、2015年に優勝回数記録を更新するなど、ともに一時代を築いた。次いで日馬富士公平、鶴竜力三郎が横綱に昇進するなど、モンゴル出身力士が圧倒的に優位な時代が続いている。同時期にヨーロッパ出身力士も登場し、ブルガリア出身の琴欧洲勝紀とエストニア出身の把瑠都凱斗が大関にまで上った。日本人力士の中では稀勢の里寛が横綱に昇進している。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "2000年後半から不祥事が相次ぎ、2007年には時津風部屋力士暴行死事件、2008年には力士による大麻取締法違反事件の責任を取る形で理事長が辞任、2010年には野球賭博問題、2011年には八百長問題が発覚してそれぞれ本場所に影響を及ぼした。その後も力士間での暴力事件、立行司によるセクシャルハラスメント行為の発覚、道路交通法違反(無免許運転)行為、「女人禁制」の問題などが存在する。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2014年1月30日、公益財団法人の登記を行い、新法人としてスタートした。財団法人となった1925年以来89年ぶりの改組で、引き続き税制の優遇を受ける。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "2019年5月場所より、アメリカ大統領杯の授与が始まる。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2020年、新型コロナウイルスの感染拡大に際しては、3月場所を無観客開催、5月場所を中止、7月場所は会場を名古屋から東京へ移し、観客数を制限したうえで開催した。9月場所も観客数を制限して開催し、11月場所も福岡から東京に移して開催された。また、協会員から罹患者が発生し、死者も出た。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2021年3月場所13日目、三段目取組において掬い投げを食らった力士が頭から土俵上に転落、病院に搬送されて治療を受けていたが、同年4月に肺血栓による急性呼吸不全のため死亡した。土俵上での取組による事故で死亡した初の事例となった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 45,
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"text": "大相撲の興行としては、本場所と巡業が特に大きなウェイトを占める。",
"title": "興行"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "本場所は協会主催で定期的かつ公式な興行で、技量を査定し、待遇(地位と給与)を決める性質がある。1958年以降は隔月で年間6場所行われている。開催場所は2019年現在のもので、呼称は日本相撲協会の表記に準ずる(メディア等により表記が異なる場合がある。本場所#概要を参照)。",
"title": "興行"
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{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "本場所のない時期には、力士一行が本場所が行われていない地方へ出向き、1日限りの相撲披露を行う。これを(相撲・大相撲) 巡業という。協会では巡業を本場所と並ぶ最重要事業として位置付けている。",
"title": "興行"
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"paragraph_id": 48,
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"text": "関取が所属していない部屋の取的は、巡業に参加することができず、部屋によっては合宿を行う部屋もある。",
"title": "興行"
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"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "勝敗が番付や給金に反映されない興行を総称して花相撲と呼ぶ。トーナメント相撲、親善相撲、奉納相撲、引退相撲などがある。巡業も広く捉えれば花相撲の一つである。",
"title": "興行"
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"paragraph_id": 50,
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"text": "海外公演とは、日本国外から招待を受けて日本相撲協会主催で日本国外にて取組を行うことである。日本の伝統国技を日本国外で披露すると同時に、相手国との友好親善、国際文化交流に寄与することを目的にしている。力士は「裸の親善大使」などと呼ばれ、これまでに13回開催している。",
"title": "興行"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "協会とは別に主催者となる地元の興行主(勧進元)がいて、日本国外の大相撲ファン拡大と収益を目的にしている。ただし、力士が土俵で取組を披露したり、国際文化交流を図ったりするなどの形態は海外公演と変わらない。海外公演より歴史は古く、これまでに11回開催している。",
"title": "興行"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "国威発揚のために大相撲が利用された昭和戦前期には、満州をはじめとする大陸巡業が恒例となっており、国際連盟の委任統治領であった南洋群島に巡業したこともある。しかし、これらの巡業は各部屋・一門による海外巡業であり協会全体での巡業ではなかった。戦後はハワイ巡業がしばしば行われ、元関脇・高見山大五郎もここでスカウトされた。",
"title": "興行"
},
{
"paragraph_id": 53,
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"text": "飛行機での移動の際は、万が一のことを考えて重量配分のために力士がいくつかの便に分乗する。",
"title": "興行"
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{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "横綱(よこづな)は、大相撲の力士における最高の称号であり、現行の番付制度においては力士の最高位でもある。語源的には、横綱だけが腰に締めることを許されている白麻製の綱の名称に由来する。現在の大相撲においては、横綱は、全ての力士を代表する存在であると同時に、神の依り代であることの証とされている。それ故、横綱土俵入りは、病気・故障等の場合を除き、現役横綱の義務である。",
"title": "横綱"
},
{
"paragraph_id": 55,
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"text": "横綱は、天下無双であるという意味を込めて「日下開山」(ひのしたかいさん)と呼ばれることもある。",
"title": "横綱"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "大相撲内での力士の地位は「番付」と呼ばれる順位表で示される。",
"title": "番付"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "横綱・大関・関脇・小結・前頭・十両を纏めた総称が「関取」と呼ばれ、そのうち十両を除く横綱から前頭を纏めた総称が「幕内」と呼ばれる。大相撲では、この「幕内」を最上位とし、以下、十両・幕下・三段目・序二段・序ノ口 と続く6つの階層から成り立り、幕下以下を纏めた総称は「取的」と呼ばれる。各力士は一場所ごとに自分が所属する階層内で決められた数の取り組みを行い、その成績によって各階層内での順位付けや各階層間の昇進や降格が行われる。なお、番付上においては序ノ口が最下位であるが、序ノ口で負け越しが続いたり、休場が続いたりすると序ノ口から陥落し、番付の範疇に含まれない「番付外」と呼ばれる立場になる。また、「番付外」で一定の成績を収め、次の場所で序ノ口として出場する権利を獲得した立場の者を「新序」と呼ぶが、これも番付の範疇には含まれない。",
"title": "番付"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "番付は基本的に勝ち越せば上がり、負け越せば下がる。",
"title": "番付"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "ただし、同じ地位で同じ成績をあげても、場所によって昇進・降格幅が大きく異なる事例がこれまで数多く発生している。これは「番付は生き物」と称され、他の力士の成績との兼ね合いや各階層の定員が決められている事から来るものである。",
"title": "番付"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "それとは別に三役や横綱への昇進のかかるケースで不公平感が問題視されることがある。横綱や大関への昇進には特に優秀な成績が求められるが、その基準が定常的な基準となっていないため、昇進にあたりその都度昇進の可否を検討することとなっている。その昇進の基準や条件が客観性の明らかな数値基準ではないため、物議を醸し問題となる場合が多い。背景には、出身地や人種による人気の格差や看板である横綱・大関の人数を確保したい興行上の理由があると考えられる。",
"title": "番付"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "本場所の対戦の組み合わせを取組と呼ぶ。関取は15日間すべて、取的は隔日のペースで7番とる(1960年7月場所以降)。取組は場所中に随時編成されて、原則前日午後に発表される。",
"title": "取組"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "幕内最高優勝は1909年6月場所、新聞社による最高成績者への優勝額贈呈によって事実上始まった。当初は物言いがついた相撲であえて決着をつけない預りや、取り組み編成後に一方の力士が休場した場合、相手力士も休場扱いとなる制度などあって、これらが優勝争いを左右することも少なくなかった。その後、預りの廃止や不戦勝制度、同点の場合の優勝決定戦の導入などがありつつ、白星数の優劣で優勝を争う大筋は変わらぬまま現在に至っている。",
"title": "優勝制度"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "同じ幕内に属して(2014年現在の定員は42名)幕内最高優勝を争う立場であっても、上位と下位で15日間の対戦相手がまったく違うことなどへの批判もあり、過去に横綱・大関とまったく対戦せずに全勝した時津山仁一や、十両力士への敗戦があった佐田の山晋松の優勝が物議を醸した例がある。そのため、現在では幕内下位で優勝争いの先頭または2番手につけている力士を、終盤に横綱・大関と対戦させることで、優勝の価値の公平化を図っている。",
"title": "優勝制度"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "所属部屋ごとの対戦相手の不公平もしばしば問題視される。近年の例では、二子山部屋や武蔵川部屋の幕内力士が上位に集中していた、1990年代後半から2000年代初頭に、個人別総当たり制の導入が話題になったことがあった。養成員(幕下以下の力士)時代は大部屋で共同生活を送るという相撲部屋のしきたりが、個人別総当たり制の実現を妨げる要因となっている。",
"title": "優勝制度"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "現行制度では、大相撲の力士を志望する者は、新弟子検査を受検し、体格検査及び内臓検査に合格しなければならない。国籍は不問だが、「外国出身力士は各部屋1人ずつ」という規定が存在する。2019年2月に力士(競技者)規定の一部が改正となり、入れ墨の禁止も明文化された。",
"title": "力士の条件"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "大相撲力士の報酬制度は、地位によって与えられる給与・手当と、成績給に相当する力士褒賞金(給金)と、いわゆる2階建てになっている。",
"title": "力士の報酬"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "(2019年1月現在)",
"title": "力士の報酬"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "十両以上の力士(関取)には、次の通りの金額が月額給与として支給される。そのため、11月場所において十両で負け越し、1月場所で幕下に陥落した場合でも12月分の給与は支給される。幕下陥落が確実になり引退の意思を固めた力士が、翌月分の給与確保のため引退届提出を番付編成会議後まで遅らせ、翌場所の番付に名を残すケースも多い。",
"title": "力士の報酬"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "給与額は原則として年1回、理事会において見直すこととなっている。給与額は2001年に現行の金額となって以降2018年まで据え置きだったが、2018年11月の理事会の決定により、2019年1月場所から十両以上の力士の給料が増額されている。",
"title": "力士の報酬"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "賞与は、9月と12月にそれぞれ月額給与の1カ月分が支給される。したがって、年額賞与は月額給与の2カ月分である。賞与の支給月が世間一般の6月と12月と違っているのは、以前に支給されていた巡業手当が賞与に変わったためである。",
"title": "力士の報酬"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "本場所特別手当は、小結以上の力士に対して本場所ごとに年6回支給される。11日間以上出場した場合は全額、6日-10日間出場した場合は3分の2、5日間以下の出場の場合は3分の1が支給され、全休(不戦敗も含む)の場合は支給されない。",
"title": "力士の報酬"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "出張手当は、3月場所、7月場所、11月場所の年3回、各場所ごとに次の通りの1日分支給金額を35日分支給される。",
"title": "力士の報酬"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "力士補助金は、1月場所、5月場所、9月場所の年3回、髪結の補助金として支給される。",
"title": "力士の報酬"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "場所ごとに過去に残した成績に応じて支給される。計算の基礎となる持ち給金(支給標準額)の累積は序ノ口から始まり、持ち給金を4000倍した金額が十両以上の力士(関取)に支給される。持ち給金は勝ち越し1点につき50銭ずつ累積され、負け越しや休場などでの減額はない。金星や幕内最高優勝では大きな加算があるほか、十両・幕内(関脇と小結を含む)・大関・横綱と持ち給金の最低額が決まっており、昇進時に累積額がその金額に満たなければ番付に応じた最低額まで引き上げられる。",
"title": "力士の報酬"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "幕下以下は「力士養成員」と呼ばれ、給与と力士褒賞金は支給されないが、場所手当と本場所の成績による幕下以下奨励金(勝ち星1つごとに支給される勝星奨励金と勝ち越した数に応じて支給される勝越金)が本場所ごとに年6回支給される。",
"title": "力士の報酬"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "(2019年1月現在)",
"title": "力士の報酬"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "成績による場所ごとの収入の計算式を示すと次のようになる。",
"title": "力士の報酬"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "上に示した成績の負け数には休場も含む。幕下上位及び序ノ口下位の八番相撲の場合は、負け越している場合は勝越金がないため7番取って同じ数の白星を挙げた力士と同じになるが、勝ち越している場合は上の式にそのまま当てはまらず、勝越金が偶数点分になることが起こりうる。また今後出る可能性はほぼないと思われるが、引分や痛み分けが絡んだ場合も上の式にそのまま当てはまらないことが起こりうる。",
"title": "力士の報酬"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "このほか、本場所における電車賃が乗車券で支給される。",
"title": "力士の報酬"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "力士養成員でも、寝食は各々相撲部屋でできる(費用は協会から部屋持ち親方に対して、力士養成員1人につき月額70,000円、年額840,000円が支給されている)うえに、共同の食事「ちゃんこ」もあるので、幕下以下の生活が続いても食いはぐれることはない。ただし慣習としての部屋への上納つまり「持ち出し」もあるので必ずしも全額が可処分所得になるわけではない。特に親方、部屋の看板である十両以上の力士はかなりの額を「持ち出し」せねばならないが、逆に部屋に十両以上力士がいるかいないかで部屋の生活水準、ひいては本場所成績が大きく異なってくる。",
"title": "力士の報酬"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "大相撲の力士がテレビのCMに出演することを全面禁止していた時代があった。これは1985年からで、大相撲の力士は本業の相撲でPRすることに専念するようにしてほしいという春日野理事長(当時)の方針に沿ったものであった。ただしCM禁止中の時代でも、本場所の協会指定懸賞企業および巡業を支援するスポンサーと公共の広告に限って出演することはあった。ナショナル(後のパナソニック)乾電池の小錦、日本航空の大相撲ブラジル公演PR、国民年金の貴乃花、若乃花などがある。2002年2月に一般企業のCM出演は解禁されており、その第1号は日立マクセルDVDメディアの栃東である。",
"title": "副業の制約など"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "幕内での取組によっては企業が懸賞金を提供するケースがあり、勝利した力士に授与される。企業から提供される懸賞金は2019年9月以降は1本につき7万円となっているが、納税充当金として3万円、協会の事務経費として1万円が天引きされ、力士の手取りは懸賞金1本当たり3万円となる。",
"title": "懸賞金"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "力士が番付の6階級のいずれかで優勝すると、以下の賞金が授与される。",
"title": "各種賞金"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "三賞を受賞した力士は、1つにつき200万円が授与される。",
"title": "各種賞金"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "横綱に昇進した力士は、名誉賞として100万円が授与される。",
"title": "各種賞金"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "新大関に昇進した力士は、名誉賞として50万円が授与される。ただし大関から陥落した力士が大関に復帰(再昇進)した場合は授与されない。",
"title": "各種賞金"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "また力士の例ではないが、行司の場合は、立行司に昇進すると、名誉賞として50万円が授与される。",
"title": "各種賞金"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "十両以上の力士には、現役引退時に退職金に相当する養老金および勤続加算金(いわゆる一般功労金)が支給される。資格者は幕内連続20場所以上または幕内通算25場所以上の者で、それに満たない者は非資格者となる。ただし、現役中に協会から除名処分を受けた者には支給されない。解雇処分された者については理事会の付帯決議で一部または全部の支給が見送られることがある。",
"title": "力士の退職金"
},
{
"paragraph_id": 89,
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"text": "(2006年1月現在、単位:円)",
"title": "力士の退職金"
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"paragraph_id": 90,
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"text": "番付の各地位における勤続場所数を乗じて、それぞれを加算した金額が勤続加算金の合計となる。下表の( )内の数字は、非資格者。",
"title": "力士の退職金"
},
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"text": "(2006年1月現在、単位:円)",
"title": "力士の退職金"
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"text": "横綱・大関には、現役引退時に理事会の決議により養老金および勤続加算金とは別に特別功労金が支給される。",
"title": "力士の退職金"
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"text": "かつては、支給額は公表されていたが、2005年4月1日から個人情報保護法が施行されたことにより、同年5月場所から支給額は非公表となった。この措置に対しては公益法人たる財団法人日本相撲協会の方針として不適切であるとの意見もある。",
"title": "力士の退職金"
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"text": "力士には、地位によって以下の待遇の違いがある。",
"title": "力士の待遇"
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"text": "このほかにも以下のような違いがある。",
"title": "力士の待遇"
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"text": "歴史的に見て、力士は永く薄給で酷使されてきた。江戸時代には本場所の興行収入は一部の年寄たち(江戸相撲会所。現在の日本相撲協会の前身)によって山分けされ、看板となるような人気力士、花形力士は別として、大半の力士への給与はなけなしのものだった。",
"title": "力士の待遇"
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"text": "三役力士ともなれば、大名家からお抱えとされ、藩士としての報償を受け取り、また贔屓客からの祝儀もあった。こうした力士は地方巡業へ出掛ければ各地の興行主(勧進元)から引く手あまたであって、むしろ懐は他の武士階級より潤っていた。一方、そうでない大半の力士は、細々と自主興行による「手相撲」で地方巡業を行い食いつないでいた。但し、いわゆる「力人信仰」から来る善意の喜捨も多く、本当に食うに困るまで困窮する力士は少なかった。",
"title": "力士の待遇"
},
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"text": "本場所で「星を売る」、いわゆる八百長行為も横行していたと見られており、現在でも度々、八百長行為の存在が指摘されている。但し、その真相解明は八百長行為を名指しされた者が八百長行為を認めることはないため、事情聴取も内輪の狎れ合いで済まされ、尻すぼみに終わる。これには、そもそも格闘技で年90回(十両以上は1場所15番×年6場所)もガチンコで試合を行うというのはアスリートの肉体的に不可能で、それを行おうともすれば力士の生命に対する危険はより高くなってしまうという意見もある。",
"title": "力士の待遇"
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"text": "明治に入って以降も、大名家が藩閥政治の有力者に成り代わっただけで、こうした状況は変わらなかった。そのため力士による待遇改善要求は度々おこり、昭和における春秋園事件はその最後にして最大のものだった。相撲取りが相撲を取ることによって生計が立つようになったのは、昭和に入ってからと言って良い。1958年(昭和33年)、こうした相撲界の体質は国会で問題視され、それ以降は月給制等による力士の待遇改善の試みが進んだ。それでも、年6場所および地方巡業により一年間のほとんどを拘束される力士たちに対しては、「時給で見れば世界でもっとも可哀想なプロスポーツ選手」という声があり、横綱でも他のプロスポーツ選手のトップクラスと比べると相当に収入は安い。",
"title": "力士の待遇"
},
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"text": "また、金銭面に関しては、後援者(タニマチ)からの祝儀が大きな収入源の一つになっている。各力士によってタニマチの大小はあるが、横綱・大関などへ有力な人物がタニマチになった場合、優勝時には1,000万円以上の祝儀が集められるという。特に千代の富士の全盛時は一晩で5,000万円集まったという。これは角界では後援者からの祝儀は給与より大きな比重を占めているという現実がある。年寄株の取得資金、部屋経営の資金、有力学生相撲選手の獲得資金等も含めて、角界はタニマチなしでは成り立たない構造となっている。",
"title": "力士の待遇"
},
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"paragraph_id": 101,
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"text": "一般に力士は日本相撲協会と労働契約を結び雇用される給与所得者とされており、他のプロスポーツ選手の大半が個人事業主であることに対して労働条件を異にする部分があるためこういった収入面に関する話題では一律に比較できないとも指摘される。実際に小錦は自身の大関在位時代(1987年7月場所から1993年11月場所)の月給について「100万円くらい。僕たちは着物を着るけど、安くても一つ30万円」と証言しており、地位に見合った着物など必需品を自費で購入することを考えれば安いとする主張をしたことがある。同時に「僕の時代は、どんな幕内力士でも(懸賞は)必ずあった」とも話しており、さらに「僕も200万近く貰っていた。一番いいときに」と自身の全盛期には場所の懸賞金が1ヶ月分の給料を上回っていた事実も明かした。この時代に及んでも尚、協会から支給される月給だけでは関取個人の生活にも不足が生じる前提が生じていたのである。2001年(平成13年)に力士・年寄の給料増額が記録されてから2019年1月に力士の給料増額まで据え置きとなっていた時期があった。2008年には当時の力士会会長の朝青龍が「せめて場所入り用の交通費ぐらい何とかしてくれ」と相撲協会に賃上げを要求したが首脳陣に相手にされなかったという報告もあり、協会の財政状況があまりよくなかったとされる。ただし2015年の冬季ボーナスは「もし俺に何かあったら、(給料の底上げを)頼むぞ」と北の湖が協会関係者に伝えていたことなどが影響し、2014年と比べて3割ほどアップしたという。",
"title": "力士の待遇"
},
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"paragraph_id": 102,
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"text": "とはいえ、力士が労働者として相撲協会に雇用されているのか、その特別な能力をプロとして提供することを委任しているのか、実は契約上曖昧である。たとえば日馬富士の貴ノ岩への傷害事件の際に白鵬や鶴竜まで減給処分になったのは、弁護士の山口元一によると「労働基準法91条が定める制裁制限の幅を超えていました。これは日本相撲協会が力士所属契約について、雇用契約たる性質を否定していることを示しています」とのこと。なお、2011年の大相撲八百長問題で解雇された蒼国来が起こした訴訟における東京地裁の判決は、相撲協会と力士との間で結ばれている契約は「準委任契約」(=力士は個人事業主である)としている。",
"title": "力士の待遇"
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"text": "一方で、福利厚生や引退時の退職金制度、税法上の取り扱い等では、他のプロスポーツより充実していて、見方によってはむしろ一般企業に勤める労働者に近い。例えば、国技館内には力士のみならず一般の診療も受け付ける診療所(公益財団法人日本相撲協会診療所。通称「相撲診療所」)があること、健康保険組合(日本相撲協会健康保険組合)を独自に運営していること、厚生年金制度を導入していること、また税金面においては給与所得や退職所得が適用されることにより、自身の報酬を事業所得として申告する他のプロスポーツ選手には無い手厚い控除が受けられること等である。1969年3月11日には国税庁が力士等に対する課税について個別通達を行っていて、これにより後援会から受け取る祝儀などを含めて力士が得る有形無形の収入について適切な形で租税計算を行うことが可能となっている。収入の無い幕下以下の力士であっても社会保険に加入することが可能であり、この場合は保険料は全額協会負担となる。",
"title": "力士の待遇"
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"paragraph_id": 104,
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"text": "一般の個人事業主の場合のように相撲部屋が銀行の融資を受けるケースもあるが、新興の部屋の場合は12代中立の中立部屋の例のように難航する場合もある。この例の場合、多くの銀行の担当者から断られた末に最後のつもりで尋ねた銀行の担当者が相撲に理解を持っていたことからようやく融資を受けられるようになった。",
"title": "力士の待遇"
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"paragraph_id": 105,
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"text": "力士が引退後協会に残らない時や年寄が停年を待たずに退職する場合などには廃業という言葉を用いてきたが、現役幕内力士であった旭道山和泰が衆議院議員選挙に出馬し当選したことがきっかけとなり、語感もあまり良くないことから1996年11月17日から次のように表現を改めた。",
"title": "退職"
},
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"paragraph_id": 106,
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"text": "満65歳(誕生日の前日)を以って年寄は定年退職となるが、日本相撲協会では停年の表現を用いる。年を取ることをやめ、余生を楽しんでもらいたいという意をこめてのことである。なお、2014年11月16日からは停年になった年寄の再雇用制度が発足しており、この制度の適用を受けた年寄は給与が停年前より低くなり、部屋を持つことができないなどの制約はあるものの70歳までは日本相撲協会に残ることができる。",
"title": "退職"
},
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"text": "横綱審議委員会と言う諮問機関や、一部の事務職を外部から採用している以外、すべて元力士(年寄)によって運営され、その閉鎖性は繰り返し指摘される。かつてはおおむね年寄は短命であり、年寄株もむしろ余り気味なことが通例だったが、近年では空き株がほとんどない状況が続いている。結果として年寄株の高騰を招き(額面は9桁、億単位に達している)、1998年5月には「準年寄」制度の導入などで対応したが(2006年末廃止)、それでも数々のトラブルが発生している。小錦、若乃花(花田虎上)、曙といった、大関・横綱を務め人気もあった力士たちが次々協会を退職している理由としては、芸能界や格闘技、プロレスなど他分野に新天地を求めたい気持ちがあるが、親方になっても将来が保証されていない現状であり、そうした先行きの不透明感も一因としてあると言われている。",
"title": "因習的な問題"
},
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"text": "また、その閉鎖性のため旧態依然の封建的体質が色濃く残り、一部の部屋では俗に「かわいがり」と言われる(稽古名目での)私刑が横行していた。2007年には時津風部屋力士暴行死事件が発覚。愛知県警が双津竜順一らを立件する事態にまで至り、日本相撲協会北の湖敏満理事長(第55代横綱)が文部科学省より呼び出され事情を説明する騒ぎとなっている。また、時津風部屋では日本相撲協会による事情聴取についてマスメディアが駆け付けた際に時津風部屋所属力士が憤慨しカメラマンに暴行する事件も発生している。2010年9月にも、元十両・大勇武龍泉が12代芝田山(第62代横綱・大乃国)から暴行を受けたとして被害届を警視庁に提出。親方は書類送検されたが2011年1月起訴猶予となり、2012年12月に両者の間で和解が成立した。",
"title": "因習的な問題"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "また、力士養成員への手当金の親方による着服疑惑とそれによるトラブルも繰り返し指摘され続けているが、関取になったときに力士として認められるという慣習ゆえに、対応が取られた様子は当然ない。",
"title": "因習的な問題"
},
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"text": "理事会の申し合わせにより各部屋の外国出身者(日本国籍取得者も含む)の採用は1人までとされており、個人の出身地により参加機会が不均等になっている。",
"title": "因習的な問題"
},
{
"paragraph_id": 111,
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"text": "年寄になるためには、日本国籍が必要である。運営上の閉鎖性問題もあるが、これは日本相撲協会が文部科学省所轄の公益財団法人であることが大きい。外国出身で役力士を務める者もおり、元高見山の12代東関や第67代横綱・武蔵丸の15代武蔵川など日本国籍を取得(帰化)して相撲協会に残る者もいる。",
"title": "因習的な問題"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "その一方、横綱・大関を務めた力士が引退後に角界を離れる場合もあるが、その事情は様々である。第64代横綱・曙は日本国籍を取得済みで、引退時に曙親方として東関部屋の部屋付きとなっている。年寄名跡の取得を希望していたが、師匠の12代東関が金銭観念の甘さを見て経営者の側面もある部屋継承者として適格と判断しなかったという。第68代横綱・朝青龍は2010年1月16日未明に一般人に対する暴行事件を起こしたため、同年2月4日に相撲協会の引退勧告に従って引責引退をしている。また元大関・把瑠都は角界のしきたりや慣習に馴染めず、引退後も角界に残る意向は無かったという。",
"title": "因習的な問題"
},
{
"paragraph_id": 113,
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"text": "日本相撲協会主催の大相撲は土俵上への女性の立ち入りを認めていない。",
"title": "因習的な問題"
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"text": "この女人禁制の風習は明治期の「違式詿違条例」発令と「神道の穢れ感」を利用し「虚構の伝統」が創られたとされる。",
"title": "因習的な問題"
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"text": "日本の相撲の歴史においては室町時代から女相撲も存在しているが、団体も違い、同一興行も行われていない。1957年に大相撲の四国巡業において女相撲の大関若緑が勧進元挨拶をしたのは、第39代横綱・前田山と第二次世界大戦で相撲をやめてしまった若緑が懇意であったことからのはからいであった。固辞する若緑に対し、前田山は「責任はとるから」と頼み込み、若緑は土俵上に立ったという。",
"title": "因習的な問題"
},
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"paragraph_id": 116,
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"text": "近年の日本では力士を志す人数は減少しており、2007年の名古屋場所にて行われた新弟子検査の受検者数は初めてゼロであった(2018年の名古屋場所で二度目の受検者ゼロ)。それと併せて、大学相撲出身者および外国人による力士数の増加により、「宗教色を帯びた伝統的な儀式」よりも「一般スポーツ競技の一種」と捉えている力士数が増えている。",
"title": "因習的な問題"
},
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"paragraph_id": 117,
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"text": "本場所の観戦チケットの販売は相撲茶屋を前身とする国技館サービス株式会社が行っているが、一部の常連客への優遇が根強く、一般の観客の枡席券入手は困難な状況が続いている。",
"title": "因習的な問題"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "大相撲の公演中、升席では喫煙が認められていたが、健康増進法の施行に伴い、2005年(平成17年)1月場所から全館禁煙となった(室内スポーツの観覧席で唯一タバコが吸えた場所が大相撲の升席であったが、以前から他の観客や力士の健康や防災面からも異常との指摘も多く、ようやく重い腰を上げた形である)。そのため、升席で使用していた灰皿が相撲博物館に寄贈された。灰皿は陶製の物であるが、木枠に入っているなど特殊な形状をしている。",
"title": "因習的な問題"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "金星などの番狂わせがあった時や横綱が負けた時、観客が土俵に向かって座布団を投げる光景が見られることがある。2008年11月の大相撲九州場所からは、座布団投げ自体を危険行為とみなして厳しく取り締まることになり、マス席の座布団は、これまでの1人用の正方形4枚から2人用(縦1メートル25、横50センチ)の座布団2枚に変更し、さらに2枚をひもで結んでつなげた形に変わった。これにより、1人でも座布団に座っていれば座布団を投げられない仕組みになった。しかし、重さが2枚計4.8キロとなって投げられた場合の危険性が増したということで、同場所以降は、座布団投げが確認された場合は警察に通報するという厳罰化がなされた(詳細は「座布団の舞」の項を参照)。",
"title": "因習的な問題"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "1961年から1991年まで、パンアメリカン航空賞が優勝力士に送られていた。この贈呈にはパンアメリカン航空極東支配人のデビッド・ジョーンズが、「ヒョー、ショー、ジョォー」という独特の言い回しで始まる、方言なども取り入れた、ウィットに富んだ表彰状の読み上げを行い、好評を博していた。ジョーンズの注目度が非常に高かったため、多くの国々から友好杯などの賞が増えるきっかけともなった。しかし、1991年5月場所を最後に同賞は廃され(パンナム自体その約半年後に倒産)、ジョーンズも2005年2月2日に逝去している。",
"title": "外資系企業・他国からの表彰"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "「フランス共和国大統領杯」は、知日派で大の大相撲ファンと自他ともに認めていた第五共和国第五代大統領・ジャック・シラクが設けた優勝力士に対する大統領顕彰だったが、2007年5月にニコラ・サルコジが第六代大統領に就任すると、これをあっさりと廃止してしまった。シラクとの対比を自己の選挙戦の推進力としていたサルコジは、「坊主憎けりゃ袈裟まで」の方便をあらゆる分野で繰り広げた。その結果、シラクが幕内力士の名を諳んじるほどの相撲通だったものとは正反対に、サルコジは「あんなのは長い髪を結った太った男たちがやる、決して美しいとは言えないスポーツにすぎません」と大相撲を一方的にこき下ろすこととなり、これが事実上の選挙公約の一つにまでなってしまったためである。",
"title": "外資系企業・他国からの表彰"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "2011年の名古屋場所から「日仏友好杯」として復活。副賞としてピエール・エルメ監修の黄金マカロン(22個)が贈呈されるが、生菓子という性質上、後日の受注製造となっているため、本場所での表彰式では巨大マカロンのオブジェが土俵に登場している。",
"title": "外資系企業・他国からの表彰"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "「アメリカ合衆国大統領杯」は、前々から相撲に興味を持っていた、アメリカ合衆国第四十五代大統領・ドナルド・トランプが令和元年(2019年)五月場所観戦時に設けた優勝力士に対する大統領顕彰のこと。朝乃山が受賞した。なお、翌年以降も五月場所の優勝力士に贈呈する予定となっている。",
"title": "外資系企業・他国からの表彰"
}
] | 大相撲(おおずもう)は、 日本相撲協会が主催する相撲興行。
4分を超える取組。また、がっぷりと四つに組んだ力士同士の力が拮抗し、組み合った状態で3分を超える取組。組み合ったまま4分を超えると「水入り」になる場合がある。 公益財団法人日本相撲協会が主催する大相撲(おおずもう)は、世界中で行われる相撲興行の中で、最も有名かつ権威のある競技興行である。東京での開催場所は国技館である(詳しくは国技館、国技#日本の国技を参照)。
土俵に立つものおよび出場できるものは男性に限られる。 | {{Otheruseslist|日本相撲協会の興行|一般的な相撲|相撲|かつて発行されていた雑誌|大相撲 (雑誌)}}
{{出典の明記|date=2018年1月24日 (水) 23:38 (UTC)}}
{{ウィキプロジェクトリンク|相撲}}<!--注意 パイプを使用する際の"_"は半角空白を"_"に置換する処理を省くために行っているので「わざわざ半角空白に戻さないでください。」また、章・節に記号は使用しないでください。記号を使用せずとも目次などでレベルは判断できます。-->
'''大相撲'''(おおずもう)は、
# [[日本相撲協会]]が主催する[[相撲]][[興行]]。
# 4分を超える取組。また、がっぷりと四つに組んだ[[力士]]同士の力が拮抗し、組み合った状態で3分を超える取組。組み合ったまま4分を超えると「[[水入り]]」になる場合がある。
[[公益財団法人]][[日本相撲協会]]が主催する'''大相撲'''(おおずもう)は、世界中で行われる[[相撲]][[興行]]の中で、最も有名かつ権威のある競技興行である。[[東京]]での開催場所は'''[[両国国技館|国技館]]'''である(詳しくは[[両国国技館|国技館]]、[[国技#日本の国技]]を参照)。<!--相撲の歴史は非常に長く、[[皇室]]との関わりも深いと考えられている。:大相撲ではなく相撲のことであれば、ここでは不必要-->
[[土俵]]に立つものおよび出場できるものは男性に限られる。
[[ファイル:Kunisada Sumo Triptychon c1860s.jpg|thumb|400px|[[相撲絵]]([[歌川国貞]]、1860年代)]]
[[ファイル:Dohyo_all.png|200px|thumb|相撲競技場全体図]]
[[ファイル:Sumo-Nobori Flag.jpg|200px|thumb|大相撲の[[力士]]を応援する[[幟]]]]
== 歴史 ==
[[File:Oda_Nobunaga_sumo.jpg|right|thumb|250px|天正六年(1578年)、[[織田信長]]が安土城にて[[相撲]]を観戦。両国国技館の「織田信長公相撲観覧之図」]]
{{出典の明記|section=1|date=2012年1月}}
現在の[[日本相撲協会]]の前身として、人的・組織的につながる[[相撲]][[興行]]組織は、[[江戸時代]]の[[江戸]]および[[大坂]]における相撲の組織である。大坂の相撲組織に関しては、[[大坂相撲]]の項目を参照のこと。ここでは、江戸時代以来の江戸相撲の[[歴史]]について記述する。
[[ファイル:Somagahana Fuchiemon.jpg|right|thumb|220px|大小の[[刀]]を佩刀し[[武士]]と同じ待遇であった力士<ref>[[歌川国貞]]画:大判[[錦絵]]:杣ヶ花 渕右エ門(そまがはな・ふちえもん)</ref>]]
=== 江戸時代 ===
興行としての相撲が組織化されたのは、[[江戸時代]]の始め頃(17世紀)とされる。これは[[寺社]]が建立や移築のための資金を集める[[興行]]として行うものであり、これを「'''勧進相撲'''」といった。[[1624年]]、四谷塩町長禅寺(笹寺)において明石志賀之助が行ったのが最初である。しかし勝敗をめぐり[[喧嘩]]が絶えず、[[浪人]]集団との結びつきが強いという理由から、[[1648年]]から[[江戸幕府|幕府]]によってたびたび[[禁止令]]が出されていた<ref name="4gumi">大空出版『相撲ファン』vol.06 p103</ref>。
ところが、[[1657年]]の[[明暦の大火]]により多数の寺社再建が急務となり、またあぶれた相撲人が[[生業]]が立たず争い事が収まらなかったため、[[1684年]]、[[寺社奉行]]の管轄下において、職業としての相撲団体の結成と、年寄による管理体制の確立を条件として勧進相撲の興行が許可された。この時、興行を願い出た者に、初代の[[雷 (相撲)|雷権太夫]]がいて、それが[[年寄名跡]]の創めともなった。最初の興行は前々年に焼失し復興を急いでいた江戸深川の[[富岡八幡宮]]境内で行われた。その後興行は江戸市中の神社(富岡や[[本所]][[江島杉山神社]]、[[蔵前神社|蔵前八幡]]、[[芝大神宮|芝神明社]]など)で不定期に興行していたが、[[1744年]]から季節毎に年4度行われるようになった。この頃には勧進の意味は薄れて相撲[[渡世]]が濃くなり、[[1733年]]から[[隅田川花火大会|花火大会]]が催されるなど江戸の盛り場として賑わいを見せていた[[両国橋]]左岸の本所[[回向院]]で[[1768年]]に最初の大規模な興行が行われた。ここでの開催が定着したのは[[1833年]]のことである<ref>{{PDFLink|[https://web.archive.org/web/20160315162208/https://www.kcf.or.jp/fukagawa/pdf/03010090003501.pdf 「大相撲の歴史と深川(4)」]}}[[深川江戸資料館]] 資料館ノート106号、2014年11月16日発行、2016年1月5日閲覧。</ref>。
『相撲傳書』によると、この頃は[[土俵]]はなく「人方屋」という見物人が直径7 - 9[[メートル|m]](4 - 5[[間]])の人間の輪を作り、その中で取組が行われた。17世紀半ばには[[リング_(格闘技)|格闘技のリング]]のように柱の下へ紐などで囲った場所で行われた。それが後に俵で囲んだ四角い土俵になった。次に1670年頃に土俵の四隅に[[四神]]を表す4色の布を巻いた柱を立て、屋根を支えた方屋の下に五斗俵による3.94m(13[[尺]])の丸い土俵が設けられた。18世紀始めに俵を2分の1にし地中に半分に埋めた一重土俵ができた。これに外円をつけて二重土俵(これは「蛇の目土俵」とも言う)となった。これは内円に16俵、外円に20俵用いることから「36俵」と呼ばれた。
江戸の他にも、この時期には京都や大坂に相撲の集団ができた。当初は[[朝廷 (日本)|朝廷]]の権威、大商人の財力によって看板力士を多く抱えた京都、大坂相撲が江戸相撲をしのぐ繁栄を見せた。興行における力士の一覧と序列を定めた[[番付]]も、この頃から、相撲場への掲示用の板番付だけでなく、市中に広めるための木版刷りの形式が始まった。現存する最古の木版刷りの番付は、江戸では[[1757年]]のものであるが、京都や大坂では、それよりも古いものが残されている。<!--各地の相撲集団に所属する力士たちは薄給で酷使され、その実態は男の売春業だったとする説もある([[日下公人]]「あと三年で、世界は江戸になる」ビジネス社、p.74)。この人は研究者ではないでしょう-->
しかし江戸相撲は、[[1789年]]11月、司家の吉田追風から[[谷風梶之助_(2代)|二代目・谷風梶之助]]、[[小野川喜三郎]]への[[横綱]]免許を実現。さらに[[征夷大将軍]][[徳川家斉]]観戦の[[1791年]]上覧相撲を成功させる<ref>{{Cite journal|和書 | author = 木梨雅子 | title = 「寛政の上覧相撲」(1791年)の開催経緯について : 19代目吉田善左衛門の登用をめぐって | journal = 体育学研究 | volume = 43 | issue = 5-6 | pages = 234-244 | publisher = [[日本体育学会]] | date = 1998 | doi = 10.5432/jjpehss.KJ00003392098 | naid = 110001919260}}</ref>。[[雷電爲右エ門|雷電爲右衞門]]の登場もあって、この頃から江戸相撲が大いに盛り上がった。やがて、「江戸で土俵をつとめてこそ本当の力士」という風潮が生まれた。
各団体間の往来は比較的自由であり、江戸相撲が京都や大阪へ出向いての合併興行(大場所)も恒例としてほぼ毎年開催された。力量も三者でそれほどの差はなく、この均衡が崩れ始めるのは幕末から明治にかけてのことである。
[[1827年]]、[[江戸幕府]]が「江戸相撲方取締」という役を江戸相撲の[[吉田司家]]に認めた。
[[幕末]]に「相撲VS[[レスリング]]」や「相撲VS[[ボクシング]]」の[[異種試合]]が行われた事がある。また、[[アメリカ合衆国]][[アメリカ海軍|海軍]]の[[マシュー・ペリー]]提督が[[黒船]]で来航した[[1853年]]6月11日)に、雷權太夫や玉垣額之助ら年寄総代は文書により攘夷協力を番所に申し出している。一方、翌年ペリーが再来日して条約を締結した際には、米国へ返礼として贈られた米200俵を江戸相撲の力士たちが軽々と運び、米軍人を驚嘆させた。
[[1863年]][[6月3日]]、大阪北新地で壬生浪士組(後の[[新選組]])と死傷事件を起こした。大坂相撲の力士で死亡したのは中頭の[[熊川熊次郎]]([[肥後国|肥後]]出身)であった。この事件の手打ちとして京都での興行では京都、大阪の両相撲が協力した。力士の中には、後に勤皇の[[志士]]となった者もいた。
=== 明治・大正 ===
[[ファイル:Wrestling at Tokyo 1890s.jpg|thumb|250px|明治中頃]]
[[ファイル:Hitachiyama Chicago 1907.jpg|thumb|220px|訪米中の常陸山]]
[[明治維新]]と[[文明開化]]に伴い、[[1871年]]東京府のいわゆる「[[裸体禁止令]]」により東京相撲の力士は罰金、鞭打ち刑に処された。また、「[[相撲禁止論]]」が浮上した事もある。このような事態に対し、自らも相撲をとることの多かった[[明治天皇]] および その意を受けた伊藤博文らの尽力により、[[1884年]]に[[天覧相撲]]が実現され、大相撲が社会的に公認されることにより危機を乗り越えることができた。この[[天覧相撲]]の力士は58連勝(史上3位)を記録した15代横綱[[梅ヶ谷藤太郎_(初代)|初代・梅ヶ谷藤太郎]]であった。
東京大角力協会(1889年に[[江戸相撲会所|東京相撲会所]]から改称)と大阪相撲協会ができ、組織としての形態が確立した。[[1890年]]に入幕から39連勝で大関に駆け上がった[[小錦八十吉 (初代)|初代・小錦八十吉]]と横綱免許を受けた大関[[西ノ海嘉治郎 (初代)|初代・西ノ海嘉治郎]]のねじれ現象の解決のため、番付に初めて〈横綱〉の表記が登場する。これはなかば偶然の産物ではあったが、これをきっかけに横綱・大関が実質的な地位として確立していくようになる。
この頃から映像が映され出し、[[小錦八十吉 (初代)|小錦]]や[[大砲万右エ門|大砲]]が映された貴重な映像(1900年撮影)が現存している。
20世紀の変わり目の頃には、横綱[[常陸山谷右エ門]](1896年に名古屋相撲から大阪相撲へ、後広島相撲から東京相撲へ)と[[梅ヶ谷藤太郎_(2代)|二代目・梅ヶ谷藤太郎]]の「梅常陸時代」による東京相撲の隆盛が生じ、東京が相撲の中心という意識が広がっていく。
[[1907年]]、常陸山が渡米した。この渡米は日本国外に相撲を本格的に紹介する最初の出来事であった。
[[1909年]][[6月2日]]、初の常設相撲場となる[[両国国技館]]の落成。土俵入りは、東の横綱、常陸山と西の横綱、梅ヶ谷により行われた。これに並行して投げ祝儀の禁止、力士の羽織袴での場所入り、行司の烏帽子直垂着用、幟・積樽の廃止、[[東西制]]の導入などにより相撲の近代スポーツ化がすすめられた。東西制は団体優勝制度であり、優勝旗が授与された。[[毎日新聞社|時事新報社]]の[[優勝額]]贈呈により、現在の優勝制度が始まる。それまでは幕内力士の出場がなかった[[千秋楽]]にも、幕内全力士が出場するようになり、名実共に10日間興行の体裁が整った。興行日数は、[[1923年]]5月から11日間に増加した。
1910年5月の夏場所に行司の衣装がそれまでの[[裃]]、[[袴]]から[[烏帽子]]、[[直垂]]となった。
[[1917年]]11月29日に両国国技館が火災で焼失し、一時期[[靖国神社]]境内で本場所が行われたこともあった。
興行としての相撲が定着することで、力士の待遇の近代化への要求があらわれ、いくつかの紛擾事件が起きるようになった。東京相撲では、[[1923年]]に[[三河島事件]]と呼ばれる力士待遇の改善を求めるストライキが発生し、その処理を巡って横綱[[大錦卯一郎]]が廃業する事件が起こる。大阪相撲においても同年[[龍神事件]]と呼ばれる紛擾が発生し、力士他多くの関係者が廃業し、大阪相撲の実力が低下する。1923年9月1日の[[関東大震災]]により両国国技館も屋根柱などを残して焼失。[[1924年]]1月春場所は、両国国技館再建中のために名古屋で開催された。それを不満に思った一部の力士は、本場所に出場しなかった<ref>『大相撲ジャーナル』2017年8月号 p40</ref>。
[[1925年]]、当時の皇太子・裕仁親王(後の[[昭和天皇]])の台覧相撲に際して、皇太子の下賜金により摂政宮賜杯、現在の[[天皇賜杯]]が作られる。これを契機に、東京・大阪の両相撲協会の合同が計画され、技量審査のための合同相撲が開かれる。また、[[1926年]]1月場所から、今までは優勝掲額のみであった個人優勝者に賜杯が授与されることになり、個人優勝制度が確立する。
=== 昭和戦前から戦後初期 ===
[[1927年]]、東京相撲協会と大阪相撲協会が解散し、大日本相撲協会が発足したのち、本場所は1月(両国)、3月(関西)、5月(両国)、10月(関西)の計4回:11日間で開催(1929年は10月でなく9月)されるようになる。ただしこの時期には、番付編成は若干の試行錯誤も伴いながらも、1月と3月、5月と10月のそれぞれを合算して行われ、関西本場所では優勝額の授与も行われなかった。
この時期、勝負に関する様々な改定が行われた。[[1928年]]から[[ラジオ]]中継が始まったために<ref>{{NHK放送史|D0009060010_00000|大相撲}}</ref>、仕切り線と仕切りの制限時間が設けられた。個人優勝制度確立の中で、[[不戦勝 (相撲)|不戦勝]]・不戦敗制度の全面施行、[[物言い]]のついた相撲での[[預り (相撲)|預かり]]の廃止と[[取り直し]]制度の導入、二番後取り直しによる[[引分 (相撲)|引き分け]]の縮小化がこの時期に実施され、勝負を争うスポーツとしての要素が強くなった。
[[1931年]]4月の[[天覧相撲]]の際、二重土俵の内円を無くし径4.55m(15尺)の一重土俵にした。またこの際にそれまで四本柱の下に座布団を敷いて土俵上に据わっていた[[勝負審判|勝負検査役]]を土俵下に降ろし現在と同じ配置の5人とした。
[[1932年]]1月に起こった[[春秋園事件]]で大規模な待遇改善要求を掲げて多くの力士が脱退したため、2月、3月は各8日間の変則興行となり、脱退組が関西角力協会を翌年作ったことで1933年から関西場所は廃止され、年2回の開催(1月、5月)となった。
69連勝を記録した[[双葉山定次|双葉山]]の影響で興行日数は[[1937年]]5月場所より13日間となり、[[1939年]]5月場所より15日間と移り変わる。
[[第二次世界大戦]]の影響が次第に相撲界にも及び、[[1944年]]に両国国技館が[[大日本帝国陸軍]]に接収され、5月場所から本場所開催地を[[後楽園球場|小石川後楽園球場]]に移した。そのために1月場所開催は困難になり、1944年には10月に本場所を繰り上げて開催した。[[1945年]]5月場所は晴天7日間、[[明治神宮外苑|神宮外苑]]相撲場(後の[[明治神宮野球場|明治神宮第二球場]])で開催予定だったが空襲などのために6月に延期、両国国技館で[[傷痍軍人|傷痍将兵]]のみ招待しての晴天7日間非公開で開催された。今日まで唯一の本場所非公開開催である。これが戦争中最後の本場所となった。ちなみにこれらの場所の幕下以下の取組は事前に1944年の10月は神宮外苑、1945年の6月は[[春日野部屋]]で非公開で行われ、このことを記念して、春日野部屋では後々まで稽古場に当時の土を保存していた。また、兵役に就いた力士や、戦死・戦災死・捕虜として抑留された力士もいた。[[東京大空襲]]で両国国技館や相撲部屋を焼失。
戦後には、各部屋の離散状態、又は本場所開催などに対して[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)に許可を仰がなければならないなど様々な問題を抱えながらも大相撲の復興は始まる。1945年9月に[[土俵]]を16尺(約4.84m)と大きくし、焼失した両国国技館を若干修復し、本場所の秋場所(11月:10日間)が開催された。土俵については力士会の反対で元の大きさ4.55m(15尺)に戻された。1946年に両国国技館が連合国軍最高司令官総司令部によって接収されメモリアルホールとして改装された。そのこけら落としとして、同年の11場所(13日間)が行われた。連合国軍最高司令官総司令部によって本場所開催を年3回認められたが、メモリアルホールを使用することは許可されず、[[1947年]]には[[明治神宮]]外苑相撲場にて行うこととなる。青天井のこの相撲場では正月場所は行われず、6月、11月、又は[[1948年]]の5月をそれぞれ執り行うに留まった。同じ年の1948年の秋場所(10月:11日間)には、戦後初の大阪場所が[[大阪市]]福島公園内に建築された仮設国技館で開催された。この時期に、[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]や[[三賞]]制度の制定、東西制から系統別総当たり制への変更が行われた。
=== 昭和戦後 ===
[[1949年]]になり[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]の浜町公園内に仮設国技館(木造)を建設し、ようやく1月場所(13日間)を開催する。5月場所では戦後初めて15日間行われ、以後興行期間は15日間となる。この浜町公園の仮設国技館は公園内に設置されていたことが問題となり、この2場所しか使用されず取り壊しとなった。そのため戦前に次期国技館建設用に用意していた[[蔵前]]の土地に仮設国技館を建設することとなる。ところがこの浅草蔵前仮設国技館([[蔵前国技館]])も消防署からの命令によって仮設であっても鉄筋造りの国技館が必要となり、蔵前仮設国技館の鉄筋化をはかり、その後5か年計画として年々充実されていった。
[[1950年]]から[[1952年]]は、本場所(1月、5月、9月)が各15日間実施(ただし1952年は大阪場所が開かれず、3場所とも東京で開催)。このうち大阪は、1950年9月場所は[[阿倍野橋]]畔に、[[1951年]]9月場所は[[難波]](現在の[[大阪府立体育会館]]所在地)にそれぞれ仮設国技館を建て興行を行った。1952年に難波の仮設国技館を建替え、鉄骨製の大阪府立体育館(1987年から大阪府立体育会館)が竣工。翌[[1953年]]3月場所の会場となった。以後3月場所は大阪開催となり、現在に至る。
横綱の相次ぐ不成績が問題となり、1950年4月に有識者からなる[[横綱審議委員会]]が発足した。全国的に[[テレビ]]が普及するに従い、[[日本放送協会|NHK]]の相撲のテレビ中継が始まる。一時は民放各社も中継していたが、間もなく撤退した。
[[栃錦清隆|栃錦]]と[[若乃花幹士 (初代)|初代・若乃花]]の栃若時代が到来し、年間の場所数が増えていく。[[1957年]]には11月場所(九州場所、[[福岡スポーツセンター]])、[[1958年]]には7月場所(名古屋場所、[[名古屋市金山体育館]])を行うようになり、現在のような6場所(1月、3月、5月、7月、9月、11月)、15日間という体系になった。また、[[1965年]]1月場所から完全部屋別総当たり制が実施され、それぞれ現在に至っている。
[[国会 (日本)|国会]]で公益法人としての相撲協会のあり方について質疑が行われたこと(1957年3月2日の[[衆議院]][[予算委員会]]<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=102605261X01119570302¤t=15 第26回国会 衆議院 予算委員会 第11号 昭和32年3月2日]</ref>および4月3日の衆議院[[文部科学委員会|文教委員会]]<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=102605077X01519570403¤t=21 第26回国会 衆議院 文教委員会 第15号 昭和32年4月3日]</ref>)を受けて、[[相撲茶屋]]制度の改革、月給制の導入、[[相撲教習所]]の設立などの改革が行われた<ref>[[リー・トンプソン (社会学者)|リー・トンプソン]]著、中久郎編『スポーツの近代化から見た相撲』91頁 現代社会学の諸理論 世界思想社(1990年)</ref>。また理事長に重要事項の建議を行える[[運営審議委員会]]も発足し財界トップや政治家が名を連ねた。横綱審議委員会の内規もこの時期に充実した。
1961年には[[年寄]]の停年制が実施された(「停年」の表記については後述)。1966年には法人名を日本相撲協会に改称。1967年には前頭・十両の枚数削減も実施した。1968年には役員選挙の制度を改定、1969年には勝負判定に[[物言い#ビデオ判定|ビデオ映像の使用]]を開始した。
1965年にはソ連、[[1973年]]には中国、[[1981年]]にはメキシコと海外公演が行われ、国際的な認知が始まる。
1970年頃になると、力士と[[暴力団]]とのかかわり、[[八百長]]が疑われる内容の相撲の横行、力士の健康問題等の諸問題が明らかとなり、[[1971年]]12月には再び国会で協会のあり方が取り上げられた<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=106705077X00319711201¤t=1 第67回国会衆議院文教委員会第3号 昭和46年12月1日]における[[鈴木一 (政治家)|鈴木一]]衆議院議員の発言</ref><ref>朝日新聞1971年12月2日付朝刊スポーツ面</ref>。これを受けた協会理事会において、[[中学校]]在籍中の入門の禁止(当時在籍していた中学生力士は、中学校卒業まで東京場所の日曜・祝日のみの出場となる)、[[公傷制度]]の導入([[2003年]]11月場所限りで廃止されるまで続く)、[[相撲競技監察委員会]]の設置、[[行司]]の完全[[年功序列]]を廃し成績考課を導入等の改革を打ち出した<ref>朝日新聞1971年12月5日付朝刊社会面、朝日新聞1971年12月23日付朝刊スポーツ面</ref>(いずれも[[1972年]]1月場所より施行)。
[[1985年]]1月、現在の国技館が[[両国駅]]近くに完成し、再び両国に相撲が戻った。蔵前国技館は旧軍放出資材を用いて建てられたため、新しい国技館の建築が検討されていた。相撲協会など関係者は、相撲と縁の深い[[回向院]]のある両国界隈に建設地を定めた。そして約3年、総工費およそ150億円をかけ両国国技館が落成となった<ref>[https://gendai.media/articles/-/69476 サイエンス365days]ブルーバック編集部 科学今日はこんな日 1月9日新国技館の落成式が行われた 20200109</ref>。
=== 平成 ===
[[ファイル:Sumo-Japan.jpg|thumb|220px|[[相撲]]、[[立合い]](2010年)]]
[[file:Dohyo.png|200px|thumb|土俵と各配置(行司・力士・勝負審判・控え力士・力水・塩)]]
平成初期に[[千代の富士貢]]以下横綱が相次いで引退し一時的に横綱が不在になる。この時期は大型の[[ハワイ州|ハワイ]]出身力士が台頭し、6代[[小錦八十吉 (6代)|小錦八十吉]]が横綱昇進目前まで行く。その後、[[曙太郎]]、[[武蔵丸光洋]]がそれぞれ横綱昇進、優勝回数を二ケタに乗せる。また、[[二子山部屋]]が部屋師匠の11代[[二子山 (相撲)|二子山]](元大関・初代[[貴ノ花利彰|貴ノ花]])の息子である[[花田虎上|若乃花勝]]・[[貴乃花光司]]を中心に多くの関取を輩出した。若乃花・貴乃花は特に女性ファンの獲得に成功し、'''若貴ブーム'''と呼ばれた。1993年頃から2000年頃にかけては、この4横綱がしのぎを削った。貴乃花は優勝22回に達し、一代年寄の資格を得た。
2000年代半ばになると二子山部屋の勢いは衰え、ハワイ出身力士は姿を消す。入れ替わって[[朝青龍明徳]]以下、スピード重視のモンゴル出身力士が登場する。朝青龍は2005年に史上初の年間全場所制覇を達成、次いで横綱になった[[白鵬翔]]は2010年に63連勝、2015年に優勝回数記録を更新するなど、ともに一時代を築いた。次いで[[日馬富士公平]]、[[鶴竜力三郎]]が横綱に昇進するなど、モンゴル出身力士が圧倒的に優位な時代が続いている。同時期にヨーロッパ出身力士も登場し、[[ブルガリア]]出身の[[琴欧洲勝紀]]と[[エストニア]]出身の[[把瑠都凱斗]]が大関にまで上った。日本人力士の中では[[稀勢の里寛]]が横綱に昇進している。
2000年後半から不祥事が相次ぎ、2007年には[[時津風部屋力士暴行死事件]]、2008年には力士による[[大麻取締法]][[大相撲力士大麻問題|違反事件]]の責任を取る形で理事長が辞任、2010年には[[大相撲野球賭博問題|野球賭博問題]]、2011年には[[大相撲八百長問題|八百長問題]]が発覚してそれぞれ本場所に影響を及ぼした。その後も力士間での暴力事件、立行司による[[セクシャルハラスメント]]行為の発覚、[[道路交通法]]違反([[無免許運転]])行為、「[[女人禁制]]」の問題などが存在する<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=35aIqDTYOD8 大相撲舞鶴場所、舞鶴市長倒れ、救命女性に「女性は土俵から降りて下さい」とアナウンス] - YouTube</ref><ref>{{Cite news|url= https://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20180404000146 |title= 救命女性に「土俵から降りて」 大相撲巡業、市長倒れ |newspaper= 京都新聞 |date= 2018-04-04 |accessdate= 2020-03-01 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20180404111243/https://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20180404000146 |archivedate=2018-04-04 }}</ref><ref>{{Cite news|url= https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/201804040000764.html |title= 若手行司が女人禁制の指摘に慌て土俵降下アナウンス |newspaper= 日刊スポーツ |date= 2018-04-04 |accessdate= 2020-03-01 }}</ref><ref>[http://www.yomiuri.co.jp/national/20180404-OYT1T50190.html 市長の応急処置で土俵上がった女性に「下りて」]{{リンク切れ|date=2020年3月}}</ref><ref>{{Cite news|url= https://www.sankei.com/article/20180406-UV5TRQQ3RJKEXJA2MQFGUVBVTI/ |title= 女性土俵問題、米でも報道 「日本の差別反映」と批判 |newspaper= 産経ニュース |publisher= 産経デジタル |date= 2018-04-06 |accessdate= 2020-03-01 }}</ref>。
[[2014年]][[1月30日]]、[[財団法人#公益財団法人|公益財団法人]]の登記を行い、新法人としてスタートした。財団法人となった1925年以来89年ぶりの改組で、引き続き税制の優遇を受ける<ref>{{Cite news|url= http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2014/01/30/kiji/K20140130007487790.html |title= 新相撲協会スタート 北の湖理事長「公益法人の責務果たす」 |newspaper= Sponichi Annex |publisher= スポーツニッポン新聞社 |date= 2014-01-30 |accessdate= 2020-03-01 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20140218012925/http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2014/01/30/kiji/K20140130007487790.html |archivedate=2014-02-18 }}</ref>。
=== 令和 ===
2019年5月場所より、アメリカ大統領杯の授与が始まる。
2020年、[[2019新型コロナウイルス|新型コロナウイルス]]の感染拡大に際しては、3月場所を無観客開催<ref>[https://www.sankei.com/article/20200307-JNSLABQOJBKT3ASYN2IYPIN7MY/ 史上初の無観客開催 相撲協会は感染阻止に躍起 力士の思いは…] 産経新聞 2020年3月7日</ref>、5月場所を中止、7月場所は会場を名古屋から東京へ移し、観客数を制限したうえで開催した<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASN5454K2N54UTQP00B.html 大相撲、夏場所中止に 名古屋場所は国技館に会場を変更] 朝日新聞デジタル 2020年5月4日</ref><ref>[https://www.at-s.com/sports/article/sumo/803333.html秋場所も観客の上限約2500人 相撲協会、7月同様の運営]</ref>。9月場所も観客数を制限して開催し、11月場所も福岡から東京に移して開催された<ref>[https://www.sanspo.com/sports/news/20200714/sum20071405010002-n1.html11月場所は東京開催決定 福岡への移動考慮 ]</ref>。また、協会員から罹患者が発生し、死者も出た<ref>[https://mainichi.jp/articles/20200513/k00/00m/050/086000c コロナで高田川部屋の28歳三段目力士が死亡] 毎日新聞デジタル 2020年5月13日</ref>。
2021年3月場所13日目、三段目取組において掬い投げを食らった力士が頭から土俵上に転落、病院に搬送されて治療を受けていたが、同年4月に肺血栓による急性呼吸不全のため死亡した<ref>{{Cite news |和書|title=響龍さん死去 28歳 春場所取組で倒れ入院、寝たきり続き急性呼吸不全で |newspaper=日刊スポーツ |date=2021-04-29|url=https://www.nikkansports.com/m/battle/sumo/news/202104290000467_m.html?mode=all |accessdate=2021-04-29}}</ref>。土俵上での取組による事故で死亡した初の事例となった。
== 興行 ==
大相撲の興行としては、'''本場所'''と'''巡業'''が特に大きなウェイトを占める。
=== 本場所 ===
{{main|本場所}}
'''本場所'''は協会主催で定期的かつ公式な興行で、技量を査定し、待遇(地位と給与)を決める性質がある。[[1958年]]以降は隔月で年間6場所行われている。開催場所は2019年現在のもので、呼称は日本相撲協会の表記に準ずる(メディア等により表記が異なる場合がある。[[本場所#概要]]を参照)。
{| class="wikitable"
!開催月!!正式名称!!通称!!開催場所
|-
|[[1月]]||一月場所||初場所||[[両国国技館]]
|-
|[[3月]]||三月場所||[[春]]場所<br>大阪場所||[[大阪府立体育会館|エディオンアリーナ大阪(大阪府立体育会館)]]
|-
|[[5月]]||五月場所||[[夏]]場所<ref>開催は[[太陽暦]]の[[5月]]だが、「[[夏]]場所」と呼ばれる。</ref>||両国国技館
|-
|[[7月]]||七月場所||[[名古屋市|名古屋]]場所||[[愛知県体育館|ドルフィンズアリーナ(愛知県体育館)]]
|-
|[[9月]]||九月場所||[[秋]]場所||両国国技館
|-
|[[11月]]||十一月場所||[[九州]]場所||[[福岡国際センター]]
|}
<gallery widths="200" style="font-size:90%;">
File:Ryogoku Great Sumo Hall.jpg|両国国技館
File:EDION Arena Osaka.JPG|{{small|エディオンアリーナ大阪(大阪府立体育会館)}}
File:Aichi Prefectural Gymnasium.JPG|{{small|ドルフィンズアリーナ(愛知県体育館)}}
File:Fukuoka International Center.jpg|福岡国際センター
</gallery>
=== 地方巡業 ===
本場所のない時期には、力士一行が本場所が行われていない地方へ出向き、1日限りの相撲披露を行う。これを'''(相撲・大相撲) 巡業'''という。協会では巡業を本場所と並ぶ最重要事業として位置付けている。
{{main|巡業#大相撲における巡業}}
関取が所属していない部屋の取的は、巡業に参加することができず、部屋によっては合宿を行う部屋もある。
=== 花相撲 ===
{{main|花相撲}}
勝敗が番付や給金に反映されない興行を総称して'''花相撲'''と呼ぶ。トーナメント相撲、親善相撲、奉納相撲、引退相撲などがある。巡業も広く捉えれば花相撲の一つである。
=== 海外公演 ===
海外公演とは、日本国外から招待を受けて日本相撲協会主催で日本国外にて取組を行うことである。日本の伝統国技を日本国外で披露すると同時に、相手国との友好親善、国際文化交流に寄与することを目的にしている。力士は「裸の親善大使」などと呼ばれ、これまでに13回開催している。
{| class="wikitable"
!回数!!開催年月!!名 称!!都 市!!備 考
|-
|第1回||1965年7月-8月||{{flagicon|URS}}[[ソビエト連邦|ソ連]]公演||[[モスクワ]]、[[ハバロフスク]]||日ソ復交調印10周年記念
|-
|第2回||1973年4月||{{flagicon|CHN}}[[中華人民共和国|中国]]公演||[[北京市|北京]]、[[上海市|上海]]||[[日中国交正常化]]記念
|-
|第3回||1981年6月||{{flagicon|MEX}}[[メキシコ]]公演||[[メキシコシティ]]||
|-
|第4回||1985年6月||{{flagicon|USA}}[[アメリカ合衆国|アメリカ]]公演||[[ニューヨーク]]||東京ニューヨーク姉妹都市25周年記念
|-
|第5回||1986年10月||{{flagicon|FRA}} [[パリ]]公演||パリ||東京パリ友好都市提携5周年記念
|-
|第6回||1990年6月||{{flagicon|BRA}}[[ブラジル]]公演||[[サンパウロ]]||
|-
|第7回||1991年10月||{{flagicon|UK}} [[ロンドン]]公演||ロンドン||[[ロンドン日本協会]]設立100周年記念
|-
|第8回||1995年10月||{{flagicon|AUT}} {{flagicon|FRA}} [[ヨーロッパ]]公演||[[ウィーン]]、パリ||
|-
|第9回||1997年6月||{{flagicon|AUS}}[[オーストラリア]]公演||[[メルボルン]]、[[シドニー]]||日豪外交100周年記念
|-
|第10回||1998年6月||{{flagicon|CAN}}[[カナダ]]公演||[[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]]||
|-
|第11回||2004年2月||{{flagicon|KOR}}[[大韓民国|韓国]]公演||[[ソウル特別市|ソウル]]、[[釜山広域市|釜山]]||日韓共同未来プロジェクト
|-
|第12回||2004年6月||{{flagicon|CHN}}中国公演||北京、上海||日中定期航空路線開設30周年記念
|-
|第13回||2005年10月||{{flagicon|USA}} [[ラスベガス]]公演||ラスベガス||ラスベガス市制100周年記念
|-
|第14回||2009年10月(中止)||{{flagicon|UK}} ロンドン公演||ロンドン||世界的な不況により中止
|-
|第15回||2013年6月(延期)||{{flagicon|RUS}} モスクワ公演||モスクワ||
|}
=== 海外巡業 ===
協会とは別に主催者となる地元の興行主(勧進元)がいて、日本国外の大相撲ファン拡大と収益を目的にしている。ただし、力士が土俵で取組を披露したり、国際文化交流を図ったりするなどの形態は海外公演と変わらない。海外公演より歴史は古く、これまでに11回開催している。
国威発揚のために大相撲が利用された昭和戦前期には、[[満州]]をはじめとする大陸巡業が恒例となっており、[[国際連盟]]の[[委任統治]]領であった[[南洋群島]]に巡業したこともある。しかし、これらの巡業は各部屋・一門による海外巡業であり協会全体での巡業ではなかった。戦後はハワイ巡業がしばしば行われ、元関脇・[[高見山大五郎]]もここでスカウトされた。
飛行機での移動の際は、万が一のことを考えて重量配分のために力士がいくつかの便に分乗する<ref>田中亮『全部わかる大相撲』(2019年11月20日発行、成美堂出版)p.131</ref>。
{| class="wikitable"
!回数!!開催年月!!名称!!都市!!備考
|-
|第1回||1962年6月||{{flagicon|USA}} ハワイ巡業||[[ホノルル]]||
|-
|第2回||1964年2月||{{flagicon|USA}} ハワイ、ロサンゼルス巡業||ホノルル、[[ロサンゼルス]]||[[角界拳銃密輸事件]]が起こる
|-
|第3回||1966年||{{flagicon|USA}} ハワイ巡業||ホノルル||
|-
|第4回||1970年6月||{{flagicon|USA}} ハワイ巡業||ホノルル||
|-
|第5回||1972年2月||{{flagicon|USA}} ハワイ巡業||ホノルル||
|-
|第6回||1974年6月||{{flagicon|USA}} ハワイ巡業||ホノルル||
|-
|第7回||1976年6月||{{flagicon|USA}} ハワイ、ロサンゼルス巡業||ホノルル、ロサンゼルス||
|-
|第8回||1981年6月||{{flagicon|USA}} アメリカ巡業||[[サンノゼ]]、ロサンゼルス||
|-
|第9回||1992年6月||{{flagicon|ESP}} [[スペイン]]、{{flagicon|GER}} [[ドイツ]]巡業||[[マドリード]]、[[デュッセルドルフ]]||
|-
|第10回||1993年2月||{{flagicon|HKG}} 香港巡業||[[香港]]||
|-
|第11回||1993年6月||{{flagicon|USA}} アメリカ巡業||ホノルル、サンノゼ||
|-
|第12回||2006年8月||{{flagicon|Taiwan}} [[台湾]]巡業||[[台北市|台北]]||13年ぶりに海外巡業が復活
|-
|第13回||2007年6月||{{flagicon|USA}} ハワイ巡業||ホノルル||14年ぶりのハワイ巡業
|-
|第14回||2008年6月||{{flagicon|USA}} ロサンゼルス巡業||ロサンゼルス||
|-
|第15回||2008年8月||{{flagicon|Mongolia}} [[モンゴル国|モンゴル]]巡業||[[ウランバートル]]||
|-
|第16回||2013年8月||{{Flagicon|Indonesia}} [[ジャカルタ]]巡業||ジャカルタ||
|}
== 横綱 ==
{{main|横綱}}
'''横綱'''(よこづな)は、大相撲の[[力士]]における最高の[[称号]]であり、現行の[[番付]]制度においては力士の最高位でもある。語源的には、横綱だけが腰に締めることを許されている白麻製の[[注連縄|綱]]の名称に由来する。現在の大相撲においては、横綱は、全ての力士を代表する存在であると同時に、[[神 (神道)|神]]の[[依り代]]であることの証とされている。それ故、[[横綱土俵入り]]は、病気・故障等の場合を除き、現役横綱の義務である。
横綱は、天下無双であるという意味を込めて「[[日下開山]]」('''ひのしたかいさん''')と呼ばれることもある。
{{現役横綱}}
== 番付==
{{main|番付}}
大相撲内での力士の地位は「'''番付'''」と呼ばれる順位表で示される。
[[横綱]]・[[大関]]・[[関脇]]・[[小結]]・[[前頭]]・[[十両]]を纏めた総称が「[[関取]]」と呼ばれ、そのうち十両を除く横綱から前頭を纏めた総称が「[[幕内]]」と呼ばれる。大相撲では、この「幕内」を最上位とし、以下、十両・[[幕下]]・[[三段目]]・[[序二段]]・[[序ノ口]] と続く6つの階層から成り立り、幕下以下を纏めた総称は「[[取的]]」と呼ばれる。各力士は一場所ごとに自分が所属する階層内で決められた数の取り組みを行い、その成績によって各階層内での順位付けや各階層間の昇進や降格が行われる。なお、番付上においては序ノ口が最下位であるが、序ノ口で[[負け越し]]が続いたり、休場が続いたりすると序ノ口から陥落し、番付の範疇に含まれない「[[番付外]]」と呼ばれる立場になる。また、「番付外」で一定の成績を収め、次の場所で序ノ口として出場する権利を獲得した立場の者を「[[新序]]」と呼ぶが、これも番付の範疇には含まれない<ref>ただし「番付外」や「新序」も力士の経歴を説明する場合は解かり易くするために番付の一種として扱う。</ref>。
=== 昇進と降格 ===
番付は基本的に[[勝ち越し|勝ち越せ]]ば上がり、[[負け越し|負け越せ]]ば下がる。
ただし、同じ地位で同じ成績をあげても、場所によって昇進・降格幅が大きく異なる事例がこれまで数多く発生している。これは「'''[[番付#番付は生き物|番付は生き物]]'''」と称され、他の力士の成績との兼ね合いや各階層の定員が決められている事から来るものである。
それとは別に三役や横綱への昇進のかかるケースで不公平感が問題視されることがある。横綱や大関への昇進には特に優秀な成績が求められるが、その基準が定常的な基準となっていないため、昇進にあたりその都度昇進の可否を検討することとなっている<ref>[http://www.jiji.com/jc/zc?k=201311/2013112500795 条件は「13勝以上の優勝」=稀勢の里の綱とり-大相撲横審|2013/11/25-19:41|時事ドットコム]</ref>。その昇進の基準や条件が客観性の明らかな数値基準ではないため、物議を醸し問題となる場合が多い。背景には、出身地や人種による人気の格差や看板である横綱・大関の人数を確保したい興行上の理由があると考えられる<ref>[http://www.tokyo-sports.co.jp/sports/sumou/160594/ 稀勢綱取りに外国人力士猛反発|2013年07月08日 16時00分|東スポWeb]</ref>。
== 取組==
{{main|取組}}
[[本場所]]の対戦の組み合わせを'''取組'''と呼ぶ。[[関取]]は15日間すべて、[[取的]]は隔日のペースで7番とる(1960年7月場所以降)。取組は場所中に随時編成されて、原則前日午後に発表される。
== 優勝制度 ==
[[幕内最高優勝力士の一覧|幕内最高優勝]]は[[1909年]]6月場所、新聞社による最高成績者への[[優勝額]]贈呈によって事実上始まった。当初は[[物言い]]がついた相撲であえて決着をつけない[[預り (相撲)|預り]]や、取り組み編成後に一方の力士が休場した場合、相手力士も休場扱いとなる制度などあって、これらが優勝争いを左右することも少なくなかった。その後、預りの廃止や[[不戦勝 (相撲)|不戦勝]]制度、同点の場合の[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]の導入などがありつつ、白星数の優劣で優勝を争う大筋は変わらぬまま現在に至っている。
{{See also|賜杯}}
=== 優勝制度の不公平 ===
同じ幕内に属して(2014年現在の定員は42名)幕内最高優勝を争う立場であっても、上位と下位で15日間の対戦相手がまったく違うことなどへの批判もあり<ref>[http://www.plus-blog.sportsnavi.com/nihiljapk/article/331 幕内は、白鵬ら上位総当たりとそれ以外とで相撲の質が異なる。歪な構造が生み出す、大相撲の魅力|2013年10月07日|Sportsnavi]</ref>、過去に横綱・大関とまったく対戦せずに全勝した[[時津山仁一]]や、十両力士への敗戦があった[[佐田の山晋松]]の優勝が物議を醸した例がある。そのため、現在では幕内下位で優勝争いの先頭または2番手につけている力士を、終盤に横綱・大関と対戦させることで<ref>横綱対大関の対戦カードや大関対大関の対戦カードを減らして下位の優勝争い力士と横綱や大関との対戦カードを組んでいる。</ref>、優勝の価値の公平化を図っている。
所属部屋ごとの対戦相手の不公平もしばしば問題視される。近年の例では、[[二子山部屋]]や[[武蔵川部屋]]の幕内力士が上位に集中していた<ref>横綱・大関のみ表記するが、二子山部屋の貴乃花,若乃花,貴ノ浪、武蔵川部屋の武蔵丸,出島,武双山,雅山などで、表記した力士は、横綱対横綱や横綱対大関の対戦カードが他の力士に比べて減る事になる。</ref>、1990年代後半から2000年代初頭に、個人別総当たり制の導入が話題になったことがあった。養成員(幕下以下の力士)時代は大部屋で共同生活を送るという相撲部屋のしきたりが、個人別総当たり制の実現を妨げる要因となっている。
== 力士の条件 ==
{{main|[[新弟子検査]]、[[幕下付出]]、[[力士]]}}
現行制度では、大相撲の力士を志望する者は、'''新弟子検査'''を受検し、体格検査及び内臓検査に合格しなければならない。国籍は不問だが、「外国出身力士は各部屋1人ずつ」という規定が存在する。2019年2月に力士(競技者)規定の一部が改正となり、[[入れ墨]]の禁止も明文化された<ref>{{Cite web|和書|title=相撲、過度な験担ぎのひげ禁止 協会が力士会で通達 | 共同通信|url=https://web.archive.org/web/20190327085646/https://this.kiji.is/473055246088602721?c=39546741839462401|website=共同通信|date=2019-02-26|accessdate=2019-03-08|language=ja|last=共同通信}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=力士の過度な験担ぎのひげ禁止 清潔な身だしなみの徹底図る、相撲協会|url=https://www.sanspo.com/sports/news/20190226/sum19022618040007-n1.html|website=SANSPO.COM(サンスポ)|date=2019-02-26|accessdate=2019-03-08|language=ja-JP}}</ref>。
== 力士の報酬 ==
=== 関取の報酬 ===
大相撲力士の報酬制度は、地位によって与えられる給与・手当と、成績給に相当する[[力士褒賞金]](給金)と、いわゆる2階建てになっている。
(2019年1月現在)
{| class="wikitable" style="text-align:right"
!項目!!横綱!!大関!!三役(関脇・小結)!!平幕(前頭)!!十両
|-
|align=center|月額給与||300万円||250万円||180万円||140万円||110万円
|-
|align=center|年額給与||3,600万円||3,000万円||2,160万円||1,680万円||1,320万円
|-
|align=center|年額賞与||600万円||500万円||360万円||280万円||220万円
|-
|align=center|特別手当||120万円||90万円||30万円|| ||
|-
|align=center|出張手当||115.5万円||99.7万円||85万円||74.5万円||68.2万円
|-
|align=center|力士補助金||7.5万円||7.5万円||7.5万円||7.5万円||7.5万円
|-
|align=center|力士褒賞金(1場所)||60万円||40万円||24万円||24万円||16万円
|- bgcolor="yellow"
|align=center|年額報酬||4,803万円||3,937.2万円||2,786.5万円||2,186万円||1,711.7万円
|}
*力士褒賞金は、本場所ごとの最低支給金額(年額報酬では6場所分で計算)。
==== 給与 ====
十両以上の力士([[関取]])には、次の通りの金額が'''月額'''[[給与]]として支給される。そのため、11月場所において十両で負け越し、1月場所で幕下に陥落した場合でも12月分の給与は支給される。幕下陥落が確実になり引退の意思を固めた力士が、翌月分の給与確保のため引退届提出を番付編成会議後まで遅らせ、翌場所の番付に名を残すケースも多い。
給与額は原則として年1回、理事会において見直すこととなっている。給与額は2001年に現行の金額となって以降2018年まで据え置きだったが、2018年11月の理事会の決定により、2019年1月場所から十両以上の力士の給料が増額されている<ref>[https://mainichi.jp/articles/20181130/k00/00m/050/026000c 力士給与18年ぶり増額 横綱で月額300万円]毎日新聞</ref>。
*[[横綱]]:300万円
*[[大関]]:250万円
*[[三役]]:180万円
*[[平幕]]:140万円
*[[十両]]:110万円
==== 賞与 ====
[[賞与]]は、9月と12月にそれぞれ月額給与の1カ月分が支給される。したがって、年額賞与は月額給与の2カ月分である。賞与の支給月が世間一般の6月と12月と違っているのは、以前に支給されていた巡業手当が賞与に変わったためである。
==== 本場所特別手当 ====
本場所特別手当は、小結以上の力士に対して本場所ごとに年6回支給される。11日間以上出場した場合は全額、6日-10日間出場した場合は3分の2、5日間以下の出場の場合は3分の1が支給され、全休(不戦敗も含む)の場合は支給されない。
*横綱:200,000円
*大関:150,000円
*関脇・小結:50,000円
==== 出張手当 ====
出張手当は、3月場所、7月場所、11月場所の年3回、各場所ごとに次の通りの1日分支給金額を35日分<ref group="注">番付発表日から本場所初日前日までの13日間、本場所15日間、本場所千秋楽翌日から本場所千秋楽の翌日曜日までの7日間(この間は休みとなり、休み明けから巡業が始まる)の合計。</ref>支給される。
*横綱:宿泊費8,000円、日当3,000円
*大関:宿泊費7,500円、日当2,000円
*関脇・小結:宿泊費6,500円、日当1,600円
*平幕:宿泊費5,700円、日当1,400円
*<!--十枚目(-->十両<!--)-->:宿泊費5,300円、日当1,200円
==== 力士補助金 ====
力士補助金は、1月場所、5月場所、9月場所の年3回、髪結の補助金として支給される。
*横綱から十枚目(十両)まで:一律25,000円
==== 力士褒賞金 ====
場所ごとに過去に残した成績に応じて支給される。計算の基礎となる持ち給金(支給標準額)の累積は序ノ口から始まり、持ち給金を'''4000倍'''した金額が十両以上の力士([[関取]])に支給される。持ち給金は'''[[勝ち越し]]1点につき50銭'''ずつ累積され<ref group="注">ゆえに、勝ち越しは'''給金直し'''とも言われる。</ref>、[[負け越し]]や[[休場]]などでの減額はない。[[金星]]や[[幕内最高優勝]]では大きな加算<ref group="注">金星:10円、[[優勝]](全勝以外):30円、優勝(全勝):50円</ref>があるほか、十両・幕内([[関脇]]と[[小結]]を含む)・大関・横綱と持ち給金の最低額が決まっており、昇進時に累積額がその金額に満たなければ番付に応じた最低額まで引き上げられる。
{| class="wikitable"
|+ 力士褒賞金の最低支給標準額
! 番付 !! 持ち給金<br>(最低額) !! 最低支給額<br>(1場所ごと)
|-
! [[横綱]]
|150円 || 60万円
|-
! [[大関]]
|100円 || 40万円
|-
! [[幕内]]
|60円 || 24万円
|-
! [[十両]]
|40円 || 16万円
|}
{{main|力士褒賞金}}
=== 力士養成員の報酬 ===
幕下以下は「[[力士養成員]]」と呼ばれ、給与と力士褒賞金は支給されないが、場所手当と本場所の成績による幕下以下奨励金(勝ち星1つごとに支給される勝星奨励金と勝ち越した数に応じて支給される勝越金)が本場所ごとに年6回支給される。
*幕下:165,000円
*三段目:110,000円
*序二段:88,000円
*序ノ口:77,000円
(2019年1月現在)
{| class="wikitable" style="text-align:right"
!項目!!幕下!!三段目!!序二段!!序ノ口
|-
|align=center|場所手当||165,000円||110,000円||88,000円||77,000円
|- bgcolor="yellow"
|align=center|年額報酬||990,000円||660,000円||528,000円||462,000円
|-
|align=center|勝星奨励金(1つあたり)||2,500円||2,000円||1,500円||1,500円
|-
|align=center|勝越金(1つあたり)||6,000円||4,500円||3,500円||3,500円
|}
成績による場所ごとの収入の計算式を示すと次のようになる。
*7戦全敗:場所手当のみ
*1勝6敗:場所手当+勝星奨励金1勝分
*2勝5敗:場所手当+勝星奨励金2勝分
*3勝4敗:場所手当+勝星奨励金3勝分
*4勝3敗:場所手当+勝星奨励金4勝分+勝越金1点分
*5勝2敗:場所手当+勝星奨励金5勝分+勝越金3点分
*6勝1敗:場所手当+勝星奨励金6勝分+勝越金5点分
*7戦全勝:場所手当+勝星奨励金7勝分+勝越金7点分
上に示した成績の負け数には休場も含む。幕下上位及び序ノ口下位の[[八番相撲]]の場合は、負け越している場合は勝越金がないため7番取って同じ数の白星を挙げた力士と同じになるが、勝ち越している場合は上の式にそのまま当てはまらず、勝越金が偶数点分になることが起こりうる。また今後出る可能性はほぼないと思われるが、[[引分 (相撲)|引分]]や[[痛み分け]]が絡んだ場合も上の式にそのまま当てはまらないことが起こりうる。
このほか、本場所における電車賃が乗車券で支給される。
力士養成員でも、寝食は各々相撲部屋でできる(費用は協会から部屋持ち親方に対して、力士養成員1人につき月額70,000円、年額840,000円が支給されている)うえに、共同の食事「[[ちゃんこ]]」もあるので、幕下以下の生活が続いても食いはぐれることはない。ただし慣習としての部屋への上納つまり「持ち出し」もあるので必ずしも全額が可処分所得になるわけではない。特に親方、部屋の看板である十両以上の力士はかなりの額を「持ち出し」せねばならないが、逆に部屋に十両以上力士がいるかいないかで部屋の生活水準、ひいては本場所成績が大きく異なってくる。
== 副業の制約など ==
大相撲の力士がテレビの[[コマーシャルメッセージ|CM]]に出演することを全面禁止していた時代があった。これは[[1985年]]からで、大相撲の力士は本業の相撲でPRすることに専念するようにしてほしいという[[栃錦清隆|春日野]]理事長(当時)の方針に沿ったものであった。ただしCM禁止中の時代でも、本場所の協会指定懸賞企業および巡業を支援するスポンサーと公共の広告に限って出演することはあった。[[パナソニック|ナショナル]](後のパナソニック)[[乾電池]]の[[小錦八十吉 (6代)|小錦]]、[[日本航空]]の大相撲ブラジル公演PR、[[国民年金]]の[[貴乃花光司|貴乃花]]、[[花田虎上|若乃花]]などがある。[[2002年]]2月に一般企業のCM出演は解禁されており、その第1号は[[日立マクセル]]DVDメディアの[[栃東大裕|栃東]]である。
== 懸賞金 ==
幕内での取組によっては企業が懸賞金を提供するケースがあり、勝利した力士に授与される。企業から提供される懸賞金は2019年9月以降は1本につき7万円となっているが、納税充当金として3万円、協会の事務経費として1万円が天引きされ、力士の手取りは懸賞金1本当たり3万円となる。
{{main|懸賞 (相撲)}}
== 各種賞金 ==
=== 優勝賞金 ===
力士が番付の6階級のいずれかで優勝すると、以下の賞金が授与される。
* 幕内最高優勝 - 1000万円
* 十両優勝 - 200万円
* 幕下優勝 - 50万円
* 三段目優勝 - 30万円
* 序二段優勝 - 20万円
* 序ノ口優勝 - 10万円
=== 三賞賞金 ===
[[三賞]]を受賞した力士は、1つにつき200万円が授与される。
=== 名誉賞 ===
横綱に昇進した力士は、名誉賞として100万円が授与される。
新大関に昇進した力士は、名誉賞として50万円が授与される。ただし大関から陥落した力士が大関に復帰(再昇進)した場合は授与されない。
また力士の例ではないが、行司の場合は、[[立行司]]に昇進すると、名誉賞として50万円が授与される。
== 力士の退職金 ==
{{main|日本相撲協会#解雇|除名#大相撲の除名}}{{see also|日本相撲協会#過去に処分された力士・親方衆・関係者}}
十両以上の力士には、現役引退時に退職金に相当する養老金および勤続加算金(いわゆる一般功労金)が支給される。資格者は幕内連続20場所以上または幕内通算25場所以上の者で、それに満たない者は非資格者となる。ただし、現役中に協会から除名処分を受けた者には支給されない。解雇処分された者については理事会の付帯決議で一部または全部の支給が見送られることがある。
=== 養老金 ===
(2006年1月現在、単位:円)
{| class="wikitable"
!!!横綱!!大関!!三役!!平幕!!十両
|-
|資格者||15,000,000||10,000,000||7,630,000||7,630,000||4,750,000
|-
|非資格者||--||--||7,630,000||4,750,000+(勤続場所数-1)×120,000||1,150,000+(勤続場所数-1)×150,000
|}
=== 勤続加算金 ===
番付の各地位における勤続場所数を乗じて、それぞれを加算した金額が勤続加算金の合計となる。下表の( )内の数字は、非資格者。
(2006年1月現在、単位:円)
{| class="wikitable"
!!!横綱!!大関!!三役!!平幕!!十両
|-
|横綱||500,000||400,000||250,000||200,000||150,000
|-
|大関||--||400,000||250,000||200,000||150,000
|-
|三役||--||--||250,000||200,000 (150,000)||150,000
|-
|平幕||--||--||--||200,000 (150,000)||150,000
|-
|十両||--||--||--||--||150,000
|}
===特別功労金===
[[横綱]]・[[大関]]には、現役引退時に理事会の決議により養老金および勤続加算金とは別に特別功労金が支給される。
かつては、支給額は公表されていたが、2005年4月1日から[[個人情報保護法]]が施行されたことにより、同年5月場所から支給額は非公表となった。この措置に対しては'''[[公益法人]]'''たる財団法人[[日本相撲協会]]の方針として不適切であるとの意見もある。
== 力士の待遇 ==
力士には、地位によって以下の待遇の違いがある。
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
|-
!地位!!幕内(横綱 - 前頭)!!十両!!幕下!!三段目!!序二段!!序ノ口
|-
! 髷
| colspan="2"|[[大銀杏]]
| colspan="4"|[[丁髷]]<br>(十両との対戦時および[[弓取式]]、巡業中の[[初切]]出演、[[床山]]の練習台、引退時の[[断髪式]]の際は大銀杏容認)
|-
! 服
| colspan="2"|紋付羽織袴
| colspan="2"|着物・羽織(外套・襟巻も着用可)
| 着物・羽織
| 着物(浴衣もしくはウール)
|-
! 帯
| colspan="3"|[[博多織|博多帯]]
| colspan="3"|[[銅アンモニアレーヨン|ベンベルグ]]
|-
! 傘
| colspan="3"|[[番傘]]・[[蛇の目傘]]
| colspan="3"|[[洋傘]]
|-
! 履物
| colspan="2"|[[足袋]]に[[雪駄]](畳敷き)
| 足袋に雪駄(エナメル製)
| 素足に雪駄(エナメル製)
| colspan="2"|素足に[[下駄]]
|-
! 稽古廻し
| colspan="2"|白色・木綿
| colspan="4"|黒色・木綿
|-
! 取り廻し
| colspan="2"|[[博多織]]繻子(色は事実上自由)
| colspan="4"|黒色・木綿
|-
! 下がり
| colspan="2"|取り廻しの共布
| colspan="4"|紐
|-
! 足袋の色
| colspan="2"|白
| colspan="4"|黒
|-
! <span style="white-space:nowrap;">控えの敷物</span>
| 私物の座布団(色・デザインは自由)
| 共用の座布団(紫一色)
| colspan="4"|畳に直座(幕下上位五番および十両との対戦時は十両と同じ座布団)
|-
! 月ごとの収入
| colspan="2"|月額給与
| colspan="4"|-
|-
! 場所ごとの収入
| colspan="2"|力士褒賞金
| colspan="4"|場所手当・奨励金
|-
|}
このほかにも以下のような違いがある。
;大関以上の力士
*国技館の駐車場に直接乗り入れることができる<ref group="注">ただし、現役力士の自動車運転は内規で禁止([[運転免許]]の取得そのものは可)されているため、別に運転手を確保する必要がある。</ref>。
*巡業の支度部屋は個室が用意される<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/201908130000759.html 鶴竜力士会会長、巡業中支度部屋の空調に“物言い”] - 日刊スポーツ、2019年8月13日</ref>。
*協会の公式の移動においては、[[飛行機]]は[[ファーストクラス]]、鉄道([[新幹線]])では[[グリーン車|グリーン席]]に座ることができる。
*[[化粧廻し]]の馬簾の色に[[紫]]を使える<ref group="注">ただし、紫馬簾は関脇以下でも、横綱の太刀持ち・露払いを務める者は例外的に使用が可能。また、大関を陥落した者も引き続き使える。</ref>。
*師匠の了承があれば、引退後1年以上の経過をもって部屋を新設できる<ref group="注">引退時に大関から陥落していた場合であってもこの権利は維持される。</ref>。
;三役以上の力士
*初日と千秋楽に行われる協会挨拶で理事長と共に土俵に上がる。
;幕内以上の力士
*横綱土俵入りで露払いや太刀持ちを務めることができる<ref group="注">ただし、出世が早いなどの理由で大銀杏が結えない力士は務められない。</ref>。
*夏場(5月場所から9月場所)は染め抜きの[[着物]]を着用することができる。
;十両以上の力士
*一人前の力士として扱われ、敬称である「[[関取]]」「**関」と呼ばれる他、[[力士会]]に参加できる。
*幕下以下の力士が付け人として付く<ref group="注">地位が上がるほど人数も増える。</ref>。ちゃんこ作り、掃除、買出しなどの部屋の雑用も原則免除。
*相撲部屋において個室が与えられるか、別居が許される<ref group="注">幕下以下の力士は、共同の部屋で寝起きする。</ref>。
*起床時間など生活の自由度が飛躍的に増す<ref group="注">幕下以下の力士より遅い時間に稽古場に現れることが多い。</ref>。
*結婚が許される。
*巡業・本場所などの興行で自分の名前が入った[[幟]]を立てることができる<ref group="注">これらは一般に後援会から寄贈される事が多い。</ref>。
*化粧回しを締めて[[土俵入り]]を行う<ref group="注">十両と幕内は別に行われる。</ref>。
*支度部屋に[[明荷]]を持ち込むことができる<ref group="注">横綱は3個、横綱以外は1個。陥落した者を含めて幕下以下では使えない。</ref>。
*取組では、力水、力紙、塩を使用する<ref group="注">幕下上位の取組の場合で、進行が早い場合は塩を使用することがある。</ref>。
*優勝力士に頼まれて優勝旗を持ち、優勝力士と一緒にオープンカーに乗って優勝行進できる。
* 本場所や公式の場では髷を[[大銀杏]]に結う<ref group="注">大銀杏はあくまで「正装」であり、関取でも稽古の時など、普段結う髷は[[丁髷]]である。また、幕下以下の力士養成員でも本場所で十両力士と対する場合や弓取り式を行う者、[[初っ切り]]、断髪式の時は大銀杏が結える他、床山が練習するために大銀杏を結うことはある。</ref>。
*個人のサインを書くことが協会から許される<ref group="注">十両経験者であっても現在の番付が幕下以下の場合は不可。</ref><ref>{{Cite web |url=http://sadogatake.net/page010.html |title=佐渡ケ嶽部屋 行事/予定 |website=佐渡ケ嶽部屋 |accessdate=2023-11-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20161112193423/http://sadogatake.net/page010.html |archivedate=2016-11-12 |deadlinkdate=2023-11-18 |url-status=unfit}}</ref>。
=== 待遇の歴史 ===
歴史的に見て、力士は永く薄給で酷使されてきた。[[江戸時代]]には本場所の興行収入は一部の[[年寄]]たち([[江戸相撲会所]]。現在の[[日本相撲協会]]の前身)によって山分けされ、看板となるような人気力士、花形力士は別として、大半の力士への給与はなけなしのものだった。
三役力士ともなれば、大名家から[[抱え (相撲)|お抱え]]とされ、藩士としての報償を受け取り、また贔屓客からの祝儀もあった。こうした力士は地方巡業へ出掛ければ各地の興行主(勧進元)から引く手あまたであって、むしろ懐は他の武士階級より潤っていた。一方、そうでない大半の力士は、細々と自主興行による「手相撲」で地方巡業を行い食いつないでいた。但し、いわゆる「力人信仰」から来る善意の喜捨も多く、本当に食うに困るまで困窮する力士は少なかった。
本場所で「星を売る」、いわゆる[[八百長]]行為も横行していたと見られており、現在でも度々、八百長行為の存在が指摘されている。但し、その真相解明は八百長行為を名指しされた者が八百長行為を認めることはないため、事情聴取も内輪の狎れ合いで済まされ、尻すぼみに終わる。これには、そもそも格闘技で年90回(十両以上は1場所15番×年6場所)も[[ガチンコ]]で試合を行うというのはアスリートの肉体的に不可能で、それを行おうともすれば力士の生命に対する危険はより高くなってしまうという意見もある<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/241267?page=4 貴乃花問題で誰も触れない横綱のリアル寿命] 東洋経済ONLINE 2018/10/04 15:00 (2022年1月31日閲覧)</ref>。
[[明治]]に入って以降も、大名家が[[藩閥政治]]の有力者に成り代わっただけで、こうした状況は変わらなかった。そのため力士による待遇改善要求は度々おこり、[[昭和]]における[[春秋園事件]]はその最後にして最大のものだった。相撲取りが相撲を取ることによって生計が立つようになったのは、昭和に入ってからと言って良い。[[1958年]](昭和33年)、こうした相撲界の体質は[[国会]]で問題視され、それ以降は月給制等による力士の待遇改善の試みが進んだ。それでも、年6場所および地方巡業により一年間のほとんどを拘束される力士たちに対しては、「時給で見れば世界でもっとも可哀想なプロスポーツ選手」という声があり、横綱でも他のプロスポーツ選手のトップクラスと比べると相当に収入は安い。
また、金銭面に関しては、後援者([[タニマチ]])からの祝儀が大きな収入源の一つになっている。各力士によってタニマチの大小はあるが、横綱・大関などへ有力な人物がタニマチになった場合、優勝時には1,000万円以上の祝儀が集められるという。特に[[千代の富士]]の全盛時は一晩で5,000万円集まったという。これは角界では後援者からの祝儀は給与より大きな比重を占めているという現実がある。年寄株の取得資金、部屋経営の資金、有力学生相撲選手の獲得資金等も含めて、角界はタニマチなしでは成り立たない構造となっている。
=== 力士の労働契約について ===
一般に力士は日本相撲協会と労働契約を結び雇用される[[給与所得|給与所得者]]とされており、他のプロスポーツ選手の大半が[[個人事業主]]であることに対して[[労働条件]]を異にする部分があるためこういった収入面に関する話題では一律に比較できないとも指摘される。実際に[[小錦八十吉 (6代)|小錦]]は自身の大関在位時代(1987年7月場所から1993年11月場所)の月給について「100万円くらい。僕たちは着物を着るけど、安くても一つ30万円」と証言しており、地位に見合った着物など必需品を自費で購入することを考えれば安いとする主張をしたことがある。同時に「僕の時代は、どんな幕内力士でも(懸賞は)必ずあった」とも話しており、さらに「僕も200万近く貰っていた。一番いいときに」と自身の全盛期には場所の懸賞金が1ヶ月分の給料を上回っていた事実も明かした。<ref>『解禁!暴露ナイト』2013年1月24日放送分</ref><ref>[https://news.livedoor.com/article/detail/7349173/ KONISHIKI、相撲界の驚くべき金銭事情を明かす] Sports Watch 2013年01月25日11時30分</ref>この時代に及んでも尚、協会から支給される月給だけでは関取個人の生活にも不足が生じる前提が生じていたのである。[[2001年]](平成13年)に力士・年寄の給料増額が記録されてから2019年1月に力士の給料増額まで据え置きとなっていた時期があった。[[2008年]]には当時の力士会会長の朝青龍が「せめて場所入り用の交通費ぐらい何とかしてくれ」と相撲協会に賃上げを要求したが首脳陣に相手にされなかったという報告もあり、協会の財政状況があまりよくなかったとされる<ref>『相撲』2013年12月号57頁</ref>。ただし2015年の冬季ボーナスは「もし俺に何かあったら、(給料の底上げを)頼むぞ」と北の湖が協会関係者に伝えていたことなどが影響し、2014年と比べて3割ほどアップしたという<ref>週刊女性2017年8月1日号</ref>。
とはいえ、力士が労働者として相撲協会に雇用されているのか、その特別な能力をプロとして提供することを委任しているのか、実は契約上曖昧である。たとえば日馬富士の貴ノ岩への傷害事件の際に白鵬や鶴竜まで減給処分になったのは、弁護士の山口元一によると「労働基準法91条が定める制裁制限の幅を超えていました。これは日本相撲協会が力士所属契約について、雇用契約たる性質を否定していることを示しています」とのこと<ref>[https://www.jprime.jp/articles/-/21156?page=3 大関・朝乃山の6場所出場停止処分に弁護士は「違法」、協会の“やりたい放題”に危惧(3/3ページ)] 週刊女性PRIME 2021/6/15 (文・和田靜香、2021年6月15日閲覧)</ref>。なお、2011年の[[大相撲八百長問題]]で解雇された[[蒼国来栄吉#解雇処分から訴訟へ|蒼国来]]が起こした訴訟における[[東京地方裁判所|東京地裁]]の判決は、相撲協会と力士との間で結ばれている契約は「[[委任#準委任|準委任]]契約」(='''力士は[[個人事業主]]である''')としている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/289/084289_hanrei.pdf|title=平成25年3月25日判決言渡 平成23年(ワ)第20049号 地位確認等請求事件|accessdate=2021-06-16|publisher=最高裁判所}}</ref>。
一方で、[[福利厚生]]や引退時の[[退職金]]制度、税法上の取り扱い等では、他のプロスポーツより充実していて、見方によってはむしろ一般企業に勤める[[労働者]]に近い。例えば、国技館内には力士のみならず一般の[[診療]]も受け付ける[[診療所]](公益財団法人日本相撲協会診療所。通称「相撲診療所」<ref>[http://sumo.or.jp/IrohaKyokai/organization/ 協会の使命・組織]日本相撲協会</ref>)があること、[[健康保険組合]](日本相撲協会健康保険組合<ref>[http://hokeninfolist.main.jp/dt06133409.html 日本相撲協会健康保険組合]全国保険者情報一覧</ref>)を独自に運営していること、[[厚生年金]]制度を導入していること、また税金面においては[[給与所得]]や[[退職所得]]が適用されることにより、自身の報酬を[[事業所得]]として申告する他のプロスポーツ選手には無い手厚い控除が受けられること等である。1969年3月11日には[[国税庁]]が力士等に対する課税について個別通達<ref>[https://www.nta.go.jp/law/tsutatsu/kobetsu/shotoku/shinkoku/590311/01.htm 力士等に対する課税について] 国税庁</ref>を行っていて、これにより後援会から受け取る祝儀などを含めて力士が得る有形無形の収入について適切な形で租税計算を行うことが可能となっている。<ref group="注">また、幕内力士の場合は納税対策として懸賞金の一部(2014年5月以降は26,700円)が納税充当金として天引きされ、力士本人の名義で協会がプールし、納税額に不足が生じた時はここから充当されるようになっている。</ref>収入の無い幕下以下の力士であっても[[社会保険]]に加入することが可能であり、この場合は保険料は全額協会負担となる<ref>日本相撲協会寄附行為施行細則 第85条</ref>。
一般の[[個人事業主]]の場合のように[[相撲部屋]]が銀行の融資を受けるケースもあるが、新興の部屋の場合は[[両国梶之助|12代中立]]の[[境川部屋|中立部屋]]の例のように難航する場合もある。この例の場合、多くの銀行の担当者から断られた末に最後のつもりで尋ねた銀行の担当者が相撲に理解を持っていたことからようやく融資を受けられるようになった<ref>[http://sankei.jp.msn.com/sports/news/140821/mrt14082114010001-n1.htm 男気と大和魂] MSN産経ニュース 2014.8.21 14:01 (1/2ページ)</ref>。
== 退職 ==
力士が[[引退]]後協会に残らない時や年寄が停年を待たずに退職する場合などには廃業という言葉を用いてきたが、現役幕内力士であった[[旭道山和泰]]が[[衆議院議員選挙]]に出馬し当選したことがきっかけとなり、語感もあまり良くないことから1996年11月17日から次のように表現を改めた。
{| class="wikitable"
|-
!区分!!改称前!!改称後
|-
! rowspan="2"|力士
||廃業||rowspan="2" |引退
|-
|引退
|-
! rowspan="2"|年寄
||廃業||退職
|-
| colspan="2"| 停年、退職
|}
満65歳(誕生日の前日)を以って年寄は[[定年退職]]となるが、日本相撲協会では'''停年'''の表現を用いる。年を取ることをやめ、余生を楽しんでもらいたいという意をこめてのことである。なお、2014年11月16日からは停年になった年寄の再雇用制度が発足しており、この制度の適用を受けた年寄は給与が停年前より低くなり、部屋を持つことができないなどの制約はあるものの70歳までは日本相撲協会に残ることができる。
== 因習的な問題==
===閉鎖性===
[[横綱審議委員会]]と言う諮問機関や、一部の事務職を外部から採用している以外、すべて元力士([[年寄]])によって運営され、その閉鎖性は繰り返し指摘される。かつてはおおむね年寄は短命であり、[[年寄名跡|年寄株]]もむしろ余り気味なことが通例だったが、近年では空き株がほとんどない状況が続いている。結果として年寄株の高騰を招き(額面は9桁、億単位に達している)、1998年5月には「[[準年寄]]」制度の導入などで対応したが([[2006年]]末廃止)、それでも数々のトラブルが発生している。[[小錦八十吉 (6代)|小錦]]、若乃花([[花田虎上]])、[[曙太郎|曙]]といった、大関・横綱を務め人気もあった力士たちが次々協会を退職している理由としては、[[芸能界]]や[[格闘技]]、[[プロレス]]など他分野に新天地を求めたい気持ちがあるが、親方になっても将来が保証されていない現状であり、そうした先行きの不透明感も一因としてあると言われている。
また、その閉鎖性のため旧態依然の封建的体質が色濃く残り、一部の部屋では俗に「[[かわいがり]]」と言われる(稽古名目での)[[私刑]]が横行していた。[[2007年]]には[[時津風部屋力士暴行死事件]]が発覚。[[愛知県警察|愛知県警]]が双津竜順一らを立件する事態にまで至り、日本相撲協会[[北の湖敏満]]理事長(第55代横綱)が[[文部科学省]]より呼び出され事情を説明する騒ぎとなっている。また、時津風部屋では日本相撲協会による事情聴取についてマスメディアが駆け付けた際に時津風部屋所属力士が憤慨しカメラマンに暴行する事件も発生している。2010年9月にも、元十両・[[大勇武龍泉]]が12代[[芝田山]](第62代横綱・[[大乃国康|大乃国]])から暴行を受けたとして被害届を警視庁に提出。親方は書類送検されたが2011年1月起訴猶予となり、2012年12月に両者の間で和解が成立した。
また、[[力士養成員]]への手当金の親方による着服疑惑とそれによるトラブルも繰り返し指摘され続けているが、関取になったときに力士として認められるという慣習ゆえに、対応が取られた様子は当然ない。
===出身地による参加機会の不均等===
理事会の申し合わせにより各部屋の外国出身者(日本国籍取得者も含む)の採用は1人までとされており、個人の出身地により参加機会が不均等になっている。
==== 年寄の国籍要件 ====
年寄になるためには、[[日本国籍]]が必要である。運営上の閉鎖性問題もあるが、これは日本相撲協会が[[文部科学省]]所轄の[[財団法人#公益財団法人|公益財団法人]]であることが大きい。外国出身で役力士を務める者もおり、元[[高見山大五郎|高見山]]の12代[[東関]]や第67代横綱・[[武蔵丸光洋|武蔵丸]]の15代[[武蔵川]]など日本国籍を取得([[帰化]])して相撲協会に残る者もいる。
その一方、横綱・大関を務めた力士が引退後に角界を離れる場合もあるが、その事情は様々である。第64代横綱・[[曙太郎|曙]]は日本国籍を取得済みで、引退時に曙親方として東関部屋の部屋付きとなっている。年寄名跡の取得を希望していたが、師匠の12代東関が金銭観念の甘さ<ref>{{Cite web|和書|title=曙「懸賞金17本、ホームレスにあげたことある」|url=https://www.narinari.com/Nd/20170242455.html|website=ナリナリドットコム(2017年2月22日)|accessdate=2020-06-22|language=ja|publisher=}}</ref>を見て経営者の側面もある部屋継承者として適格と判断しなかったという<ref>「[[相撲 (雑誌)|相撲]]」2012年2月号</ref>。第68代横綱・[[朝青龍明徳|朝青龍]]は2010年1月16日未明に一般人に対する暴行事件を起こしたため、同年2月4日に相撲協会の引退勧告に従って引責引退をしている。また元大関・[[把瑠都凱斗|把瑠都]]は角界のしきたりや慣習に馴染めず、引退後も角界に残る意向は無かったという<ref>{{Cite web|和書|title=未練なし!把瑠都が角界と“完全決別” – 東京スポーツ新聞社|url=https://www.tokyo-sports.co.jp/sports/sumou/183023/|website=東スポWeb – 東京スポーツ新聞社(2013年9月12日)|accessdate=2020-06-22|language=ja|publisher=}}</ref>。
=== 女人禁制 ===
日本相撲協会主催の大相撲は[[土俵]]上への[[女性]]の立ち入りを認めていない。
* [[2000年]]に[[大阪府]][[都道府県知事|知事]]に就任した日本初の女性都道府県知事である[[太田房江]]は春場所の優勝力士に大阪府知事賞を直接授与することを日本相撲協会側に要求したが、認められなかった。
* [[2007年]][[9月19日]](秋場所11日目)には観客の40歳前後の女性が土俵に乱入する事件が発生している。これに関して日刊スポーツは「約1400年の大相撲の歴史で初めて女人禁制が破られた」としている<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/201804050000234.html 女性乱入ハプニング/過去の女人禁制問題] - 日刊スポーツ、2018年4月5日</ref>。日本相撲協会側ではこれについて、この女性が土俵内には入っていないため伝統は破られていないとしている<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2285939?pid=2164687 大相撲 土俵に女性乱入で伝統は崩壊か?] - AFPBB、2007年9月20日</ref>。
* 2018年4月4日、巡業先の[[舞鶴市]]で[[多々見良三]]市長が土俵上であいさつ中に倒れ、救命のため医療従事者の女性が土俵に上がったが、相撲協会はこの女性に対して土俵を降りるよう場内アナウンスで促した<ref>[http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20180404000146 救命女性に「土俵から降りて」 大相撲巡業、市長倒れ」]京都新聞 2018年04月04日 19時59分</ref>。これについて八角理事長は「人命にかかわる状況には不適切な対応でした」と謝罪している([[「女性は土俵から降りてください」騒動]])<ref>[https://hochi.news/articles/20180404-OHT1T50331.html 八角理事長が謝罪 倒れた舞鶴市長へ救命措置の女性に土俵から降りるようアナウンス] - スポーツ報知 2018年4月5日0時2分</ref>。
この[[女人禁制]]の風習は明治期の「[[違式かい違条例|違式詿違条例]]」発令と「神道の穢れ感」を利用し「虚構の伝統」が創られたとされる<ref name=yoshi>{{Cite journal|和書|author=吉崎祥司 |author2=稲野一彦 |url=http://id.nii.ac.jp/1807/00005765/ |title=相撲における「女人禁制の伝統」について |journal=北海道教育大学紀要人文科学・社会科学編 |date=2008-08 |volume=59 |issue=1 |pages=71-86 |doi=10.32150/00005765 |ISSN=1344-2562 |publisher=北海道教育大学}}</ref>。
日本の相撲の歴史においては[[室町時代]]から[[女相撲]]も存在しているが、団体も違い、同一興行も行われていない<ref name="yoshi" />。[[1957年]]に大相撲の四国巡業において女相撲の大関[[若緑]]が勧進元挨拶をしたのは、第39代横綱・[[前田山英五郎|前田山]]と[[第二次世界大戦]]で相撲をやめてしまった若緑が懇意であったことからのはからいであった<ref>[https://hochi.news/articles/20180408-OHT1T50167.html 約60年前に土俵に上がった“女大関”の息子が巡業騒動に言及…「バンキシャ!」が特集] - 2018年4月8日19時8分 スポーツ報知</ref><ref>遠藤泰夫『女大関 若緑』朝日新聞社、2004年。ISBN 978-4021000843</ref>。固辞する若緑に対し、前田山は「責任はとるから」と頼み込み、若緑は土俵上に立ったという<ref>{{Cite web|和書|title=かつて、大相撲の土俵に上がった女性がいた。地方巡業で起きた前代未聞のできごと|url=https://www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/wakamidori-zeki|website=BuzzFeed(2018年4月9日)|accessdate=2020-06-07|language=en|first=Kota|last=Hatachi|publisher=}}</ref>。
===志願者の減少と意識の変容===
近年の日本では力士を志す人数は減少しており、2007年の名古屋場所にて行われた新弟子検査の受検者数は初めてゼロであった(2018年の名古屋場所で二度目の受検者ゼロ)<ref group="注">留意すべき事項として名古屋場所の新弟子検査の受検者数は例年少なく、高校・大学を中退して受検する者が減少していることも一因である。</ref>。それと併せて、大学相撲出身者および外国人による力士数の増加により、「宗教色を帯びた伝統的な儀式」よりも「一般スポーツ競技の一種」と捉えている力士数が増えている。
===その他===
;相撲茶屋問題
{{main|相撲茶屋}}
本場所の観戦チケットの販売は相撲茶屋を前身とする国技館サービス株式会社が行っているが、一部の常連客への優遇が根強く、一般の観客の枡席券入手は困難な状況が続いている。
;観客席での喫煙
大相撲の公演中、升席では[[喫煙]]が認められていたが、[[健康増進法]]の施行に伴い、[[2005年]](平成17年)1月場所から全館禁煙となった(室内スポーツの観覧席で唯一タバコが吸えた場所が大相撲の升席であったが、以前から他の観客や力士の健康や防災面からも異常との指摘も多く、ようやく重い腰を上げた形である)。そのため、升席で使用していた灰皿が[[相撲博物館]]に寄贈された。灰皿は陶製の物であるが、木枠に入っているなど特殊な形状をしている。
;座布団投げ
[[金星 (相撲)|金星]]などの番狂わせがあった時や横綱が負けた時、観客が土俵に向かって座布団を投げる光景が見られることがある。2008年11月の大相撲九州場所からは、座布団投げ自体を危険行為とみなして厳しく取り締まることになり、マス席の座布団は、これまでの1人用の正方形4枚から2人用(縦1メートル25、横50センチ)の座布団2枚に変更し、さらに2枚をひもで結んでつなげた形に変わった。これにより、1人でも座布団に座っていれば座布団を投げられない仕組みになった。しかし、重さが2枚計4.8キロとなって投げられた場合の危険性が増したということで、同場所以降は、座布団投げが確認された場合は警察に通報するという厳罰化がなされた(詳細は「[[座布団の舞]]」の項を参照)。
== 外資系企業・他国からの表彰 ==
=== 外資系企業 ===
1961年から1991年まで、[[パンアメリカン航空]]賞が優勝力士に送られていた。この贈呈にはパンアメリカン航空極東支配人の[[デビッド・ジョーンズ (パンアメリカン航空)|デビッド・ジョーンズ]]が、「ヒョー、ショー、ジョォー」という独特の言い回しで始まる、方言なども取り入れた、ウィットに富んだ表彰状の読み上げを行い、好評を博していた。ジョーンズの注目度が非常に高かったため、多くの国々から友好杯などの賞が増えるきっかけともなった。しかし、1991年5月場所を最後に同賞は廃され(パンナム自体その約半年後に倒産)、ジョーンズも2005年[[2月2日]]に逝去している。
=== フランス共和国大統領杯・日仏友好杯 ===
「フランス共和国大統領杯」は、知日派で大の大相撲ファンと自他ともに認めていた第五共和国第五代大統領・[[ジャック・シラク]]が設けた優勝力士に対する大統領顕彰だったが、2007年5月に[[ニコラ・サルコジ]]が第六代大統領に就任すると、これをあっさりと廃止してしまった。シラクとの対比を自己の選挙戦の推進力としていたサルコジは、「坊主憎けりゃ袈裟まで」の方便をあらゆる分野で繰り広げた。その結果、シラクが幕内力士の名を諳んじるほどの相撲通だったものとは正反対に、サルコジは'''「あんなのは長い髪を結った太った男たちがやる、決して美しいとは言えないスポーツにすぎません」'''と大相撲を一方的にこき下ろすこととなり、これが事実上の選挙公約の一つにまでなってしまったためである。
[[大相撲平成23年7月場所|2011年の名古屋場所]]から「日仏友好杯」として復活。副賞として[[ピエール・エルメ]]監修の黄金[[マカロン]](22個)が贈呈されるが、生菓子という性質上、後日の受注製造となっているため、本場所での表彰式では巨大マカロンのオブジェが土俵に登場している<ref>{{Cite web|和書|url=https://withnews.jp/article/f0141009001qq000000000000000G0010501qq000010905A|title=大相撲の優勝力士に贈られる「巨大マカロン」の正体|accessdate=2019年8月21日|publisher=withnews(2014年10月9日作成)}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://mag.japaaan.com/archives/65228|title=大相撲の表彰式でおなじみ巨大マカロン!なぜ登場するようになったのか?|accessdate=2019年8月21日|publisher=Japaaanマガジン(2017年11月29日作成)}}</ref>。
=== アメリカ合衆国大統領杯 ===
「アメリカ合衆国大統領杯」は、前々から相撲に興味を持っていた、アメリカ合衆国第四十五代大統領・[[ドナルド・トランプ]]が令和元年(2019年)五月場所観戦時に設けた優勝力士に対する大統領顕彰のこと。[[朝乃山英樹|朝乃山]]が受賞した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/affairs/news/190526/afr1905260026-n1.html|title=トランプ大統領、朝乃山関に米国大統領杯を授与|accessdate=2019年5月27日|publisher=産経新聞(2019年5月26日作成)}}</ref>。なお、翌年以降も五月場所の優勝力士に贈呈する予定となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASM5V6D41M5VUTQP03B.html|title=米大統領杯、来年以降も贈呈へ 夏場所の優勝力士に|accessdate=2019年5月27日|publisher=朝日新聞(2019年5月26日作成)}}</ref>。
== 大相撲を主題とした作品 ==
=== テレビゲーム ===
*大相撲([[データイースト]]、1984年)
*[[出世大相撲]]([[テクノスジャパン]](後の[[アークシステムワークス]](著作権保有および発売))、1984年)
*[[つっぱり大相撲]]([[テクモ]](後の[[コーエーテクモゲームス]])、1987年)
*[[寺尾のどすこい大相撲]]([[ジャレコ]]、1989年)
*SDバトル大相撲 平成ヒーロー場所([[バンプレスト]](後の[[バンダイナムコゲームス]])、1990年)
*千代の富士の大銀杏([[フェイス (ゲーム会社)|FACE]]、1990年)
*スーパー大相撲熱戦大一番([[ナムコ]](後のバンダイナムコゲームス)、1992年)
*大相撲魂([[タカラ (玩具メーカー)|タカラ]](後の[[タカラトミー]])、1992年)
*つっぱり大相撲 平成版([[テクモ]](後の[[コーエーテクモゲームス]])、1992年)
*つっぱり大相撲 立身出世編(テクモ(後のコーエーテクモゲームス)、1993年)
*若貴大相撲 夢の兄弟対決(イマジニア、1993年)
*ああ播磨灘(1993年)
*[[横綱物語]]([[ケイエスエス|KSS]](後の[[ソフトガレージ]])、1994年)
*[[64大相撲]](ボトムアップ、1997年)
*64大相撲2(ボトムアップ、1998年)
*どすこい伝説(ケイエスエス、1999年)
*日本相撲協會公認 日本大相撲([[コナミ]]、2000年)
*日本相撲協會公認 日本大相撲 格闘編(コナミ、2001年)
*SIMPLE1500シリーズ Vol.58 THE すもう([[D3パブリッシャー]]、2001年)
*日本相撲協會公認 日本大相撲 激闘本場所編(コナミ、2002年)
*つっぱり大相撲 Wii部屋(テクモ、2009年)
=== モバイルゲーム ===
*みんなで大相撲(Japan Internet Technologies、2011年)
*大相撲カード決戦(HINATA、2013年)
*大相撲ごっつぁんバトル(HINATA開発、バンダイナムコエンターテインメント配信、2017年)
=== 落語 ===
*[[花筏]]
*[[阿武松 (落語)|阿武松]]
*[[大安売り]]
*[[佐ノ山]]
*[[千早振る]]
=== 雑誌 ===
==== 現在刊行中 ====
*[[相撲 (雑誌)|相撲]]([[ベースボール・マガジン社]]) - 日本相撲協会[[機関誌]]扱い。
*[[NHK G-Media 大相撲中継]]([[毎日新聞出版]])
*スポーツ報知 大相撲ジャーナル([[報知新聞社]])
==== かつて刊行していた雑誌 ====
*[[大相撲 (雑誌)|大相撲]]([[読売新聞|読売新聞社]]) - 2010年9月号をもって休刊。
*VANVAN相撲界(ベースボール・マガジン社) - 1998年終刊。
*別冊グラフNHK大相撲特集号→[[大相撲中継|NHK大相撲中継]]([[NHKサービスセンター]])
*[[NHK G-Media 大相撲ジャーナル]]([[イースト・プレス]])
=== 小説 ===
*どすこい。([[京極夏彦]])
*[[大相撲殺人事件]]([[小森健太朗]])
*[[雷電本記]]([[飯嶋和一]])
=== 漫画作品 ===
*[[ああ播磨灘]]([[さだやす圭]])
*[[両国花錦闘士]]([[岡野玲子]])
*[[のたり松太郎]]([[ちばてつや]])
*[[おかみさん 新米内儀相撲部屋奮闘記|おかみさん]]([[一丸]])
*[[やぐら嵐]]([[ビッグ錠]])
*[[やぐら太鼓の詩]]([[琴剣]])
*[[ちゃんこ屋虎太郎]](琴剣)
*[[はっけよい]]([[前川たけし]])
*[[巴戦、待ったなし]](岸本景子)
*[[おっとと、お相撲くん]]([[コンタロウ]])
*[[どす恋ジゴロ]]([[平松伸二]])
*[[嗚呼どす恋ジゴロ]](平松伸二)
*[[よりきり君]](平ひさし)
*[[大相撲刑事]]([[ガチョン太朗]])
*[[力人伝説 -鬼を継ぐもの-]](原作:[[宮崎まさる]]、作画:[[小畑健]])
*[[ももたろう]]([[小山ゆう]])
*[[バチバチ]]([[佐藤タカヒロ]])
**[[バチバチ|バチバチBurst]]([[佐藤タカヒロ]])
**[[バチバチ|鮫島、最後の十五日]]([[佐藤タカヒロ]])
*[[達磨 (漫画)|達磨]]([[木村えいじ]])
*[[火ノ丸相撲]]([[川田 (漫画家)|川田]])
*[[さくらのはなみち]](原作:希戸塚一示、作画:西山田 )
*[[りきじょ]](歌麿)
*[[ガチンコッ!]]([[山下てつお]])
*[[どすこーい!勝五郎]](柴山みのる)
*[[すもう甲子園]]([[貝塚ひろし]])
*[[すまひとらしむ]]([[いおり真]]、取材協力・来未)
=== 映画作品 ===
*[[名寄岩 涙の敢闘賞]]([[小杉勇]]監督、[[1956年]])
*[[若ノ花物語 土俵の鬼]]([[森永健次郎]]監督、1956年)
=== テレビドラマ ===
*[[千代の富士物語]]([[関西テレビ放送|関西テレビ]]、1991年)
*[[まったナシ!]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、1992年)
*[[ひらり (テレビドラマ)|ひらり]]([[日本放送協会|NHK]]、1992年)
*[[おかみさんドスコイ!!]]([[毎日放送]]、2002年)
*[[サンクチュアリ -聖域-]]([[Netflix]]、2023年)
=== その他 ===
*「鬼無双シリーズ」「世界最強の国技 SUMOU」
:[[ニコニコ動画]]における相撲の映像に[[ロボットアニメ]]や[[対戦格闘ゲーム]]のような派手なエフェクトを入れた[[MADムービー]]で、単に「SUMOU」と呼ばれることもある。[[ニコニコ動画]]で再生数の多い人気動画のひとつであり、2015年に開催された[[ニコニコ超会議]]では、相撲協会協力の下現役の力士がリアルタイムでMADムービーを再現する「リアルSUMOU」が開催され<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20150426-a103/ RIKISHIが真の力を解放「ニコニコ超会議」大相撲超会議場所が大盛況] マイナビニュース 2015年4月26日</ref>、同年の[[ACC (社団法人)|ACC]] CM FESTIVALではインタラクティブ部門で”ACCゴールド”を受賞した<ref>[http://dwango.co.jp/pi/ns/2015/1028/index2.html ニコニコ超会議2015「リアルSUMOU」55th ACC CM FESTIVAL・インタラクティブ部門で”ACCゴールド”を受賞] 株式会社ドワンゴ 2015年10月28日</ref>。2017年の超会議でも同様のイベントが開催された。
==大相撲ファンの著名人==
{{See|好角家}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連書 ==
*風見明『相撲、国技となる』2002年9月 大修館書店 ISBN 4-469-26502-0 競技場が「国技館」と名付けられた経緯などが詳しく述べられている。
== 関連項目 ==
*用語・名鑑
**[[相撲用語一覧]]
**[[大相撲の決まり手一覧]]
**[[大相撲隠語一覧]]
**[[大相撲力士一覧]]
**[[現役中に死亡した力士一覧]]
**[[横綱一覧]]
**[[大関一覧]]
**[[関脇一覧]]
**[[小結一覧]]
**[[現役年寄一覧]]
**[[大相撲優勝力士一覧]]
**[[幕内最高優勝の記録]]
***[[勝利#大相撲|勝利数]]
*概論・制度・伝統
**[[相撲]]
**[[相撲界]]
**[[年寄]]
**[[年寄名跡]]
**[[年寄株問題]]
**[[行司]]
**[[横綱土俵入り]]
**[[大相撲中継]]
**[[座布団の舞]]
**[[水入り]]
**[[八百長]]
*団体・施設
**[[日本相撲協会]]
**[[横綱審議委員会]]
**[[相撲部屋]]
**[[蔵前国技館]]
**[[両国国技館]]
**[[愛知県体育館]]
**[[福岡国際センター]]
**[[大阪府立体育会館]]
== 外部リンク ==
{{Wikinewscat}}
{{commons&cat}}
* [http://www.sumo.or.jp/ 日本相撲協会公式サイト]
* [https://web.archive.org/web/20200804045459/http://tsubotaa.la.coocan.jp/shis/ss00.html 日本相撲史概略]
* [https://web.archive.org/web/20090220235854/http://www.fsinet.or.jp/~sumo/sumo.htm 大相撲 記録の玉手箱](2009年2月20日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])
* [https://web.archive.org/web/20120517124509/http://sumo.goo.ne.jp/index.html goo 大相撲]
* [https://web.archive.org/web/20080120202046/http://www.amy.hi-ho.ne.jp/fukunokami/sumou/sumou.htm 江戸時代のお相撲さん] - 開設者の先祖が「真力鉄蔵」という[[江戸時代]]の力士らしい。(2008年1月20日時点のアーカイブ)
* [https://web.archive.org/web/20120222225128/http://www.eonet.ne.jp/~otagiri/index.html スポーツ文化情報館](2012年2月22日時点のアーカイブ)
* [https://web.archive.org/web/20100206063305/http://beemanet.com/essay/sumo/ 「日本社会における相撲の変容」―文化史としての日本相撲史―](2010年2月5日時点のアーカイブ)
* [https://web.archive.org/web/20190510215621/http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/forum/text/fn086.html 社会的構築物としての相撲―報恩古式大相撲の事例を巡って]
* [https://sports.mb.softbank.jp/genre/sumo 大相撲 - スポナビライブ]
* {{Soundlink|[https://abema.tv/now-on-air/sumo 大相撲(生配信)] - ABEMA 大相撲チャンネル}}
* [https://sumo-hositori.com 大相撲星取表]
* {{Kotobank}}
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9,422 | チェコスロバキア |
チェコスロバキア(チェコ語: Československo、スロバキア語: Česko-Slovensko)は、1918年から1992年にかけて中央ヨーロッパに存在した連邦国家である。
現在のチェコ共和国およびスロバキア共和国により構成されていた。これはトマーシュ・マサリクやエドヴァルド・ベネシュが唱えた、チェコ人とスロバキア人がひとつの国を形成するべきであるというチェコスロバキア主義に基づくものである。建国当初は現在のウクライナの一部であるカルパティア・ルテニアも領域に加えられていた。首都は現在のチェコ首都であるプラハ。国旗は現在のチェコ共和国と同じものが使用されていた。
1948年からはチェコスロバキア共産党の事実上の一党独裁制によるソ連型社会主義国となり、1960年に国名はチェコスロバキア社会主義共和国(チェコ語・スロバキア語: Československá socialistická republika)とされ、1989年まで使用された。
1989年のビロード革命によって共産主義体制が崩壊するとまもなく分離の動きが進み、1993年1月1日、チェコスロバキアは連邦制を解消してチェコ共和国とスロバキア共和国に分離、解体された(ビロード離婚)。
当初国名は、1918年の第一共和国建国当初、切れ目ない一つの単語として表記する「Československo」と、ハイフン記号でつなげた形の「Česko-Slovensko」の両方の表記が混在して使われ、1920年の憲法制定時にハイフン記号がない「"Československo"」で統一された(国名「チェコスロバキア共和国」:Československá republika)。
スロバキアの自治を認めたミュンヘン協定(1938年)からナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体(1939年)までの第二共和国では、ハイフン記号がある方の表記が正式表記となった。
しかし第二次世界大戦後の1945年にチェコスロバキア共和国が復活すると、再びハイフン記号なしの表記に改められ、1960年の社会主義共和国への改称(チェコスロバキア社会主義共和国:Československá socialistická republika)や1969年の連邦制移行(国名変更なし)後も長く用いられた。
ビロード革命後の1990年に連邦議会で繰り広げられた政治論争「ハイフン戦争」の結果、国名は連結接続詞で列挙する形で、チェコ語では「Česká a Slovenská Federativní Republika」、スロバキア語では「Česká a Slovenská Federatívna Republika」に改められ1993年1月1日の解体まで使用された。
地域名称としての「チェコスロバキア」については、チェコ語では従来どおり「Československo」が用いられているが、スロバキア語ではスロバキア科学アカデミーが1990年に提唱した新しい正書法に基づき「Česko-Slovensko」が用いられている。
第一共和国の議会制度はフランス第三共和政をモデルした体制で、元老院および代議院からなる二院制の国民議会を設け、男女普通選挙による直接選挙で議員を選出した。政党は小党が分立する状態が続いたが、政権を担当した主要5政党(国民民主党、農村共和党、人民党、社会民主労働者党、社会党)が非公式機関の5党委員会「ピェトカ」(Pětka)を設けて国会対策について調整した。
ドイツ人政党や少数民族政党も存在したが第一共和国時代には政権を担当することはなかった。このうちズデーテン・ドイツ人党は1935年の国政選挙で第2党に躍進し、ナチス・ドイツとの結びつきを強めてチェコスロバキア政府に圧力をかけ、第一共和国解体に結びついた。また1918年のピッツバーグ協定に盛り込まれた「スロバキア人による自治」の履行を求めていたスロバキア人民党は、1939年に2代目党首のヨゼフ・ティソがスロバキア共和国(第一共和国)の独立を宣言して実権を掌握し、ドイツと保護条約を締結。第二共和国の解体に結びついた。
一方、社会民主労働者党から分離して発足したチェコスロバキア共産党は、第一共和国時代には合法政党として活動し、国政選挙では常に10%以上の支持を獲得していた。ミュンヘン協定のあと非合法化されて1938年12月に解散し、中央執行委員会はモスクワに亡命して国外党指導部を設立。スロバキア国内にスロバキア共産党が発足した。第二次世界大戦後の1946年憲法制定国民議会選挙で第一党に躍進。1948年に閣内対立による非共産党閣僚辞任に乗じて書記長のゴットワルトが実権を握り(2月クーデター)、同年の総選挙で諸政党でつくる共産党主導の国民戦線(Národní fronta)が圧勝したことで一党独裁体制を確立した。
民族主義保守政党
カトリック政党
社会主義・共産主義政党
ドイツ人政党・少数民族政党
「プラハの春」後の1969年にチェコ社会主義共和国とスロバキア社会主義共和国による連邦制に移行し、国権の最高機関として連邦議会が設けられた。同等の権限を有する人民院(定数150)と民族院(定数150)の二院制で、法案成立は両院可決を条件としていた。
人民院は人口に応じて定数を定めた選挙区選挙で、民族院は両共和国から各75人を選出して構成した。任期は5年。民族院の採決方法は、両共和国の議員団がそれぞれ別に投票を行ってともに賛成多数の場合に可決と見なす方式をとり、共和国単位の拒否権発動を担保していた。また両共和国にはそれぞれ一院制の地方議会であるチェコ国民議会(定数200)とスロバキア国民議会(定数150)が設けられた。
社会主義時代には両院とも5回の選挙が行われたが、チェコスロバキア共産党を含む統一戦線組織である国民戦線(Národní fronta)が全議席を占めた。連邦議会における国民戦線の構成政治組織は次の通り。
民主化後の連邦共和国では新憲法の制定が行われなかったため、1993年の連邦解消まで社会主義時代の議会制度が存続した。連邦議会は任期満了の1990年に実施する総選挙までの間、暫定措置として国民戦線が占める議席の半数を民主化勢力に指名方式で明け渡すことになり、1989年12月から1990年2月にかけて段階的に実施された。同年6月には1946年の憲法制定国民議会選挙以来44年ぶりとなる自由選挙が行われ、チェコ共和国分では「市民フォーラム」(Občanské fórum)、スロバキア共和国分では「暴力に反対する公衆」(Verejnosť proti násiliu)の両民主化グループが人民院、民族院とも第一党となった。
1992年6月には、人民院議員選挙とチェコ、スロバキア両共和国の国民議会選挙(→チェコ側の選挙、スロバキア側の選挙)が行われた。このうち人民院選挙は、チェコ共和国分(定数99)では市民フォーラムから分裂した右派政党「市民民主党」(Občanská demokratická strana、党首:ヴァーツラフ・クラウス)とカトリック政党「キリスト教民主主義党」(Křesťansko demokratická strana)の連合が48議席を獲得、スロバキア共和国分(定数51)では暴力に反対する公衆から分裂した右派政党(ただし経済政策面では国家介入主義的で左派的だった)「民主スロバキア運動」(Hnutie za demokratické Slovensko、党首:ヴラジミール・メチアル)が24議席を獲得してそれぞれ第一党となった。両党は選挙直後から連邦解消について議論を開始し、連邦制を解消することで同年7月に合意した。
国境を接する国は、真北から時計回りにポーランド、ソ連(現在のウクライナ)、ハンガリー、オーストリア、西ドイツ、東ドイツであった。1939年のスロヴァキア独立以前は南東部でルーマニアとも接している。 国土は大きく3つの地域に分かれる。西からボヘミア、モラビア、スロバキアである。
ケッペンの気候区分にいう西岸海洋性気候 (Cfb) が広がるが、東部は一部大陸性の亜寒帯湿潤気候 (Dfb) である。首都プラハの年平均気温は9度、年平均降水量は486mmであった。
1970年時点では、チェック人 (65%)、スロバキア人 (30%)、その他の民族 (5%) という比率であった。この構成は1990年時点でも変化していない。ただし、右上にある表ではチェック人とモラビア人を区別している。1970年代においてはソビエト連邦を含む全社会主義国の中で所得を含む生活水準がもっとも高かった。7歳から15歳までの初等教育は無料であった。 | [
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"text": "ケッペンの気候区分にいう西岸海洋性気候 (Cfb) が広がるが、東部は一部大陸性の亜寒帯湿潤気候 (Dfb) である。首都プラハの年平均気温は9度、年平均降水量は486mmであった。",
"title": "地理"
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"text": "1970年時点では、チェック人 (65%)、スロバキア人 (30%)、その他の民族 (5%) という比率であった。この構成は1990年時点でも変化していない。ただし、右上にある表ではチェック人とモラビア人を区別している。1970年代においてはソビエト連邦を含む全社会主義国の中で所得を含む生活水準がもっとも高かった。7歳から15歳までの初等教育は無料であった。",
"title": "国民"
}
] | チェコスロバキアは、1918年から1992年にかけて中央ヨーロッパに存在した連邦国家である。 現在のチェコ共和国およびスロバキア共和国により構成されていた。これはトマーシュ・マサリクやエドヴァルド・ベネシュが唱えた、チェコ人とスロバキア人がひとつの国を形成するべきであるというチェコスロバキア主義に基づくものである。建国当初は現在のウクライナの一部であるカルパティア・ルテニアも領域に加えられていた。首都は現在のチェコ首都であるプラハ。国旗は現在のチェコ共和国と同じものが使用されていた。 1948年からはチェコスロバキア共産党の事実上の一党独裁制によるソ連型社会主義国となり、1960年に国名はチェコスロバキア社会主義共和国とされ、1989年まで使用された。 1989年のビロード革命によって共産主義体制が崩壊するとまもなく分離の動きが進み、1993年1月1日、チェコスロバキアは連邦制を解消してチェコ共和国とスロバキア共和国に分離、解体された(ビロード離婚)。 | {{pp-vandalism|small=yes}}
{{参照方法|date=2016年9月}}
{{基礎情報 過去の国
|略名 = チェコスロバキア
|日本語国名 = チェコスロバキア共和国
|公式国名 = {{native name|cs|Československá republika|italic=no}}<br/>{{native name|sk|Česko-Slovenská republika|italic=no}}
|建国時期 = [[1918年]]
|亡国時期 = [[1992年]]<br>{{smaller|(1939年 - 1945年:[[チェコスロバキア亡命政府|亡命政府]])}}
|先代1 = オーストリア=ハンガリー帝国
|先旗1 = Flag of the Habsburg Monarchy.svg
|次代1 = チェコ
|次旗1 = Flag of the Czech Republic.svg
|次代2 = スロバキア
|次旗2 = Flag of Slovakia.svg
|国旗画像 = Flag of the Czech Republic.svg
|国章画像 = Middle coat of arms of Czechoslovakia.svg
|国章リンク = [[チェコスロバキアの国章|国章]]
|国章幅 = 85
|標語 = <br>1918年 - 1989年:[[真実は勝つ|Pravda vítězí]]{{cs icon}}<br />''真実は勝つ''<br />1989年 - 1992年:[[真実は勝つ|Veritas Vincit]]{{la icon}}<br />''真実は勝つ''
|国歌 = <br>'''チェコ:'''[[我が家何処や|Kde domov můj]]{{cs icon}}<br />''我が家何処や''<br><div style="display:inline-block;margin-top:0.4em;">{{center|[[File:Czech anthem.ogg]]}}</div><br /><br>'''スロバキア:'''[[稲妻がタトラの上を走り去り|Nad Tatrou sa blýska]]{{sk icon}}<br />''稲妻がタトラの上を走り去り''<br /><div style="display:inline-block;margin-top:0.4em;">{{center|[[File:National anthem of Slovakia, performed by the United States Navy Band.ogg]]}}</div>
|位置画像 = Czechoslovakia location map.svg
|位置画像説明 = 戦間期と冷戦期のチェコスロバキアの位置
|公用語 = [[チェコ語]]、[[スロバキア語]]
|首都 = [[プラハ]]
|元首等肩書 = [[チェコスロバキアの大統領|大統領]]
|元首等年代始1 = 1918年
|元首等年代終1 = 1935年
|元首等氏名1 = [[トマーシュ・マサリク]]
|元首等年代始2 = 1935年
|元首等年代終2 = 1938年
|元首等氏名2 = [[エドヴァルド・ベネシュ]]
|元首等年代始3 = 1945年
|元首等年代終3 = 1948年
|元首等氏名3 = エドヴァルド・ベネシュ
|元首等年代始4 = 1989年
|元首等年代終4 = 1992年
|元首等氏名4 = [[ヴァーツラフ・ハヴェル]]
|首相等肩書 = [[チェコスロバキアの首相|首相]]
|首相等年代始1 = 1918年
|首相等年代終1 = 1919年
|首相等氏名1 = [[カレル・クラマーシュ]]
|首相等年代始2 = 1992年7月2日
|首相等年代終2 = 12月30日
|首相等氏名2 = {{仮リンク|ヤン・ストラースキー|en|Jan Stráský}}
|面積測定時期1 = 1993年
|面積値1 = 127,900
|人口測定時期1 = 1993年
|人口値1 = 15,600,000
|変遷1 = [[オーストリア=ハンガリー帝国]]からの[[独立]]
|変遷年月日1 = 1918年10月28日
|変遷2 = [[ナチス・ドイツ]]による[[ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体|併合]]
|変遷年月日2 = 1939年9月1日(1945年独立)
|変遷3 = [[チェコスロバキア社会主義共和国|社会主義体制]]確立
|変遷年月日3 = 1948年
|変遷4 = [[国号]]を[[チェコスロバキア社会主義共和国]]に改称
|変遷年月日4 = 1960年
|変遷5 = [[ビロード革命]]
|変遷年月日5 = 1989年
|変遷6 = 国号を[[チェコおよびスロバキア連邦共和国]]に改称
|変遷年月日6 = 1989年
|変遷7 = [[ビロード離婚]]
|変遷年月日7 = 1993年
|通貨 = [[チェコスロバキア・コルナ]]
|時間帯 = [[UTC+1]]([[中央ヨーロッパ時間]])
|夏時間 = [[UTC+2]]([[中央ヨーロッパ夏時間]])
|時間帯追記 =
|ccTLD = [[.cs]]
|ccTLD追記 =
|国際電話番号 = +42
|国際電話番号追記 =
|現在 = {{CZE}}<br/>{{SVK}}<br/>{{UKR}}
|注記 =
}}
{{チェコの歴史}}
'''チェコスロバキア'''({{lang-cs|Československo}}、{{lang-sk|Česko-Slovensko}})は、[[1918年]]から[[1992年]]にかけて[[中央ヨーロッパ]]に存在した連邦国家である。
現在の[[チェコ|チェコ共和国]]および[[スロバキア|スロバキア共和国]]により構成されていた。これは[[トマーシュ・マサリク]]や[[エドヴァルド・ベネシュ]]が唱えた、チェコ人とスロバキア人がひとつの国を形成するべきであるという[[チェコスロバキア主義]]に基づくものである。建国当初は現在の[[ウクライナ]]の一部である[[ザカルパッチャ州|カルパティア・ルテニア]]も領域に加えられていた。首都は現在のチェコ首都である[[プラハ]]。国旗は現在のチェコ共和国と同じものが使用されていた。
1948年からは[[チェコスロバキア共産党]]の[[ヘゲモニー政党制|事実上の一党独裁制]]による[[ソ連型社会主義]]国となり、1960年に国名は'''[[チェコスロバキア社会主義共和国]]'''([[チェコ語]]・[[スロバキア語]]: {{lang|cs-sk|Československá socialistická republika}})とされ、1989年まで使用された。
1989年の[[ビロード革命]]によって共産主義体制が崩壊するとまもなく分離の動きが進み、1993年1月1日、チェコスロバキアは連邦制を解消してチェコ共和国とスロバキア共和国に分離、解体された([[ビロード離婚]])。
== 国名 ==
当初国名は、1918年の第一共和国建国当初、切れ目ない一つの単語として表記する「{{lang|cz|Československo}}」と、ハイフン記号でつなげた形の「{{lang|sk|Česko-Slovensko}}」の両方の表記が混在して使われ、1920年の憲法制定時にハイフン記号がない「{{lang|cz|"Československo"}}」で統一された(国名「チェコスロバキア共和国」:{{lang|cz|Československá republika}})。
スロバキアの自治を認めた[[ミュンヘン協定]](1938年)から[[ナチス・ドイツ]]による[[ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体|チェコスロバキア解体]](1939年)までの第二共和国では、ハイフン記号がある方の表記が正式表記となった。
しかし[[第二次世界大戦]]後の1945年にチェコスロバキア共和国が復活すると、再びハイフン記号なしの表記に改められ、1960年の[[チェコスロバキア社会主義共和国|社会主義共和国]]への改称(チェコスロバキア社会主義共和国:{{lang|cz|Československá socialistická republika}})や1969年の連邦制移行(国名変更なし)後も長く用いられた。
[[ビロード革命]]後の1990年に連邦議会で繰り広げられた政治論争「[[ハイフン戦争]]」の結果、国名は連結接続詞で列挙する形で、チェコ語では「{{lang|cz|Česká a Slovenská Federativní Republika}}」、スロバキア語では「{{lang|sk|Česká a Slovenská Federatívna Republika}}」<ref group="注釈">日本語でも「及び」で列挙するかたちの「[[チェコ及びスロバキア連邦共和国]]」。</ref>に改められ1993年1月1日の解体まで使用された。
地域名称としての「チェコスロバキア」については、チェコ語では従来どおり「{{lang|cs|Československo}}」が用いられているが、スロバキア語ではスロバキア科学アカデミーが1990年に提唱した新しい正書法に基づき「{{lang|sk|Česko-Slovensko}}」が用いられている。
== 歴史 ==
{{main|en:History of Czechoslovakia|チェコの歴史|スロバキアの歴史}}
*1915年 [[ロシア帝国]]が[[チェコ人]]と[[スロバキア人]]捕虜によって第1チェコスロバキア狙撃連隊([[チェコ軍団|チェコスロバキア軍団]])を結成。
*1916年 ベネシュとマサリク、[[ミラン・シュテファーニク]]らがパリで「チェコスロバキア国民委員会」([[:cs:Československá národní rada]])を設立。
*1918年
**6月29日 [[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]が国民委員会を「将来のチェコスロバキア政府の基礎」として承認。
**10月18日 国民委員会が「ワシントン宣言」を行い独立を宣言。マサリクを初代大統領とするチェコスロバキア暫定政府を設立。
**10月28日 チェコスロバキア国内の国民委員会が独立宣言を行い、プラハの政庁を占拠。後にこの日が独立記念日となる。
**11月10日 [[ズデーテン地方]]の[[ドイツ人]]政府へ侵攻。支配下に置く。
*1919年
**5月20日 [[ハンガリー評議会共和国]]軍がスロバキアに侵攻、スロバキア・ソビエト共和国を建国する。([[ハンガリー・ルーマニア戦争]])
**8月2日 ルーマニア軍の攻撃によりハンガリー評議会共和国崩壊。スロバキアを奪還。
**9月10日 [[サン=ジェルマン条約]] によって独立とズデーテン地方の領有が確定。
*1920年 共和国憲法を制定し'''{{仮リンク|チェコスロバキア第一共和国|en|First Czechoslovak Republic|label=チェコスロバキア共和国}}'''(第一共和国、Československá republika)成立。
*1938年 [[ミュンヘン会談|ミュンヘン協定]]でズデーテン地方を[[ナチス・ドイツ]]に、[[テッシェン]]を[[ポーランド]]に割譲。[[第一次ウィーン裁定]]によるスロバキア南部とカルパティア・ルテニア南部のハンガリー割譲決定を受け、スロバキアと下カルパティア・ルテニアでの独立運動が激化する。[[エドヴァルド・ベネシュ]]大統領は亡命し、スロバキアの自治を認めた'''{{仮リンク|チェコスロバキア第二共和国|en|Second Czechoslovak Republic|label=チェコ=スロバキア共和国}}'''(第二共和国、Česko-Slovenská republika)が成立。
*1939年 '''[[スロバキア共和国 (1939年-1945年)|スロバキア共和国]]'''(第一共和国:Slovenská republika)と'''[[カルパト・ウクライナ|カルパト・ウクライナ共和国]]'''({{Lang-uk|Карпатська Україна}})が独立して第二共和国は解体。チェコは[[ベーメン・メーレン保護領|ボヘミア・モラビア保護領]](チェコ語:Protektorát Čechy a Morava、ドイツ語「[[ベーメン・メーレン保護領]]」:Protektorat Böhmen und Mähren)になる([[ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体|チェコスロバキア併合]])。カルパト・ウクライナ共和国は独立3日後に[[ハンガリー王国]]により併合。{{仮リンク|スロバキア・ハンガリー戦争|en|Slovak–Hungarian War}}によりスロバキア南部もハンガリーに併合。
*1940年 [[第二次世界大戦]]勃発にともない、[[ロンドン]]にベネシュを首班とする'''[[チェコスロバキア共和国亡命政府]]'''が成立。
*1944年 スロバキア国内で対独抵抗運動の[[スロバキア民衆蜂起|スロバキア民族蜂起]]が勃発。
*1945年 スロバキア第一共和国政府消滅。チェコスロバキア共産党が主導する国民戦線がスロバキア・[[コシツェ]]に臨時政府を設ける。ベネシュがロンドンから帰国して'''チェコスロバキア共和国'''(第三共和国、Československá republika)が復活。
*1948年 閣内対立による非共産党閣僚の辞任に乗じて第一党の[[チェコスロバキア共産党]]書記長[[クレメント・ゴットワルト]]がベネシュから実権を奪う([[1948年のチェコスロバキア政変|二月事件]])。総選挙で共産党と共産党主導の国民戦線が圧勝して'''[[人民民主主義]]'''(lidově-demokratická)宣言を行い、事実上の社会主義国化。国名はチェコスロバキア共和国(Československá republika)のまま変わらず。
*1960年 社会主義共和国憲法を採択して正式に[[社会主義国]]となり、国名を'''[[チェコスロバキア社会主義共和国]]'''(Československá socialistická republika)に改称。
*1968年 スロバキア出身の[[アレクサンデル・ドゥプチェク]]共産党第一書記によって「[[人間の顔をした社会主義]]」をスローガンとした自由改革路線([[プラハの春]])が推進されるが、急速な[[自由化]]を危惧した[[ワルシャワ条約機構]]軍が全土を占領し改革路線は頓挫する([[ソ連によるチェコスロヴァキアへの軍事侵攻|チェコスロバキア侵攻]])。以後[[民主化]]まで[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]の駐留が開始される。
*1969年 [[チェコ社会主義共和国]](Česká socialistická republika)と[[スロバキア社会主義共和国]](Slovenská socialistická republika)による形式的な[[連邦]]制に移行(国名は変わらず)。[[グスターフ・フサーク]]が第一書記に就任して「[[正常化体制 (チェコスロヴァキア)|正常化体制]]」と呼ばれる政治的引き締めと[[中央集権]]体制の強化を推進する。
*1977年 [[ヴァーツラフ・ハヴェル]]ら反体制派[[知識人]]が政府の[[人権蹂躙|人権侵害]]を批判する「[[憲章77]]」を発表。
*1989年 '''[[ビロード革命]]'''で共産党政権が崩壊。ハヴェルが大統領に就任し、ドゥプチェクが連邦議会議長として復権。
*1990年 スロバキア社会主義共和国が3月に「スロバキア共和国」に、次いでチェコ社会主義共和国が「チェコ共和国」にそれぞれ改称。連邦議会で「[[ハイフン戦争]]」と呼ばれる政治論争が起き、国名を'''[[チェコおよびスロバキア連邦共和国]]'''(チェコ語:Česká a Slovenská Federativní Republika、スロバキア語:Česká a Slovenská Federatívna Republika)に改称。
*1992年 総選挙で第一党となったチェコの市民民主党とスロバキアの民主スロバキア運動が連邦制解消に合意。 連邦議会で「連邦解消法」が可決成立。
*1993年 連邦解消法に基づき1月1日午前0時に[[チェコ|チェコ共和国]]と[[スロバキア|スロバキア共和国]]に分離([[ビロード離婚]]){{要出典|date=2021-05}}。
{{チェコスロバキアの変遷|state=uncollapsed}}
== 政治 ==
=== 大統領 ===
==== チェコスロバキア共和国(第一共和国)====
*[[トマーシュ・マサリク]](1918年-1935年)
*[[エドヴァルド・ベネシュ]](1935年-1938年)
==== チェコ=スロバキア共和国(第二共和国)====
*[[エミール・ハーハ]](1938年-1939年)
**(1939年-1945年)、ドイツ保護下の[[ベーメン・メーレン保護領]]の大統領
==== ロンドン亡命政府 ====
*エドヴァルド・ベネシュ(1940年-1945年)
==== チェコスロバキア共和国(第三共和国)====
*エドヴァルド・ベネシュ(1945年-1948年)
==== チェコスロバキア共和国(人民民主主義)====
*[[クレメント・ゴットワルト]](1948年-1953年)
*[[アントニーン・ザーポトツキー]](1953年-1957年)
*[[アントニーン・ノヴォトニー]](1957年-1960年)
==== チェコスロバキア社会主義共和国 ====
*アントニーン・ノヴォトニー(1960年-1968年)
*[[ルドヴィーク・スヴォボダ]](1968年-1975年)
*[[グスターフ・フサーク]](1975年-1989年)
*[[ヴァーツラフ・ハヴェル]](1989年-1990年)
==== チェコおよびスロバキア連邦共和国 ====
*ヴァーツラフ・ハヴェル(1990年-1992年)
=== 首相 ===
==== 第一共和国 ====
*[[カレル・クラマーシュ]](1918年-1919年)
*[[ヴラスチミル・トゥサル]](1919年-1920年)
*[[ヤン・チェルニー]](1920年-1921年)
*エドヴァルド・ベネシュ(1921年-1922年)
*[[アントニーン・シュヴェフラ]](1922年-1926年)
*ヤン・チェルニー(1926年-1926年)
*アントニーン・シュヴェフラ(1926年-1929年)
*[[フランチシェク・ウドルジャル]](1929年-1932年)
*[[ヤン・マリペトル]](1932年-1935年)
*[[ミラン・ホッジャ]](1935年-1938年)
==== 第二共和国 ====
*[[ヤン・シロヴィー]](1938年-1938年)
*[[ルドルフ・ベラン]](1938年-1939年)
==== ロンドン亡命政府 ====
*[[ヤン・シュラーメク]](1940年-1945年)
=== 共産党書記長 ===
==== チェコスロバキア共和国(人民民主主義)====
*[[クレメント・ゴットワルト]](1948年-1953年)
*[[アントニーン・ノヴォトニー]](1953年-1960年)
==== チェコスロバキア社会主義共和国 ====
*アントニーン・ノヴォトニー(1960年-1968年)
*[[アレクサンデル・ドゥプチェク]](1968年-1969年)
*[[グスターフ・フサーク]](1969年-1987年)
*[[ミロシュ・ヤケシュ]](1987年-1989年)
=== 議会・政党 ===
==== 第一共和国-社会主義共和国時代 ====
[[File:Czechoslovakia01.png|thumb|300px|right|1938年当時のチェコスロバキアの区分。左から[[ボヘミア]]、[[モラビア]]・[[シレジア]]、[[スロバキア]]、[[カルパティア・ルテニア]]]]
[[File:Münchner abkommen5+.svg|thumb|right|300px|チェコスロバキアの係争地域。1はドイツ要求地域であるズデーテン。2はポーランド要求地域のテッシェン、3は[[ウィーン裁定]]でハンガリー領になる南部スロバキアと南部カルパティア・ルテニア、4はカルパティア・ルテニア、5はチェコ、6はスロバキア]]
[[ファイル:Czechoslovakia.png|thumb|250px|共産党体制下の'''チェコスロバキア'''(左・青色チェコ、右・水色スロバキア)]]
第一共和国の議会制度は[[フランス第三共和政]]をモデルした体制で、元老院および代議院からなる二院制の国民議会を設け、男女普通選挙による直接選挙で議員を選出した。政党は小党が分立する状態が続いたが、政権を担当した主要5政党([[国民民主党 (チェコスロバキア)|国民民主党]]、[[農業党 (チェコスロバキア)|農村共和党]]、人民党、社会民主労働者党、[[チェコスロバキア国民社会党|社会党]])が非公式機関の5党委員会「ピェトカ」(Pětka)を設けて国会対策について調整した。
ドイツ人政党や少数民族政党も存在したが第一共和国時代には政権を担当することはなかった。このうち[[ズデーテン・ドイツ人党]]は1935年の国政選挙で第2党に躍進し、ナチス・ドイツとの結びつきを強めてチェコスロバキア政府に圧力をかけ、第一共和国解体に結びついた。また1918年のピッツバーグ協定に盛り込まれた「スロバキア人による自治」の履行を求めていた[[スロバキア人民党]]は、1939年に2代目党首の[[ヨゼフ・ティソ]]がスロバキア共和国(第一共和国)の独立を宣言して実権を掌握し、ドイツと保護条約を締結。第二共和国の解体に結びついた。
一方、社会民主労働者党から分離して発足した[[チェコスロバキア共産党]]は、第一共和国時代には合法政党として活動し、国政選挙では常に10%以上の支持を獲得していた。ミュンヘン協定のあと非合法化されて1938年12月に解散し、中央執行委員会は[[モスクワ]]に亡命して国外党指導部を設立。スロバキア国内に[[スロバキア共産党]]が発足した。第二次世界大戦後の1946年憲法制定国民議会選挙で第一党に躍進。1948年に閣内対立による非共産党閣僚辞任に乗じて書記長のゴットワルトが実権を握り(2月クーデター)、同年の総選挙で諸政党でつくる共産党主導の国民戦線(Národní fronta)が圧勝したことで一党独裁体制を確立した。
'''民族主義保守政党'''
*チェコスロバキア国民民主党(Československá národní demokracie)
**1935年 ファシスト系の国民同盟(Národní sjednocení)に再編。
*チェコスロバキア農村共和党(Republikánská strana československého venkova)※通称:農民党(Agrární strana)
**1922年 農業者・小農民共和党(Republikánská strana zemědělského a malorolnického lidu)に改称。
**1938年 チェコスロバキア人民党と統合して国民統一党(Strana národní jednoty)に改称。
'''カトリック政党'''
*チェコスロバキア人民党(Československá strana lidová)
**1938年 農業者・小農民共和党と統合して国民統一党に改称。
**1945年 国民戦線の構成政党として復活。
'''社会主義・共産主義政党'''
*チェコスロバキア社会民主労働者党(Československá sociálně demokratická strana dělnická)
**1938年 チェコスロバキア国民社会党と統合して国民労働党(Národní strana práce)に改称。
**1945年 チェコスロバキア社会民主労働者党として復活
**1946年 チェコスロバキア共産党に吸収統合。
*チェコスロバキア社会党(Českoslovenká strana socialistická)
**1926年 チェコスロバキア国民社会党(Českoslovenká strana národně socialistická)に改称。
**1938年 チェコスロバキア社会民主労働者党と統合して国民労働党に改称。
**1945年 国民戦線の構成政党として復活。
*チェコスロバキア共産党(Komunistická strana Československa)
**1921年 チェコスロバキア社会民主労働者党左派が分離して結成。
**1946年 チェコスロバキア社会民主労働者党を吸収統合。
'''ドイツ人政党・少数民族政党'''
*スロバキア人民党(Slovenská ľudová strana)
**1925年 フリンカ・スロバキア人民党(Hlinkova slovenská ľudová strana)に改称。
*ドイツ人国民党(Německá národní strana)
*農業者同盟(Německý svaz zemědělců)
*ドイツ人キリスト教社会党(Německá křesťansko sociální strana lidová)
*ドイツ人国民社会主義労働者党(Německá národně socialistická strana dělnická)
*ドイツ人社会民主党(Německá sociálně demokratická strana dělnická v ČSR)
*[[ズデーテン・ドイツ人党]](Sudetendeutsche Partei)
==== 社会主義共和国時代(連邦制移行後)====
[[画像:Federální shromáždění, 2010.jpg|250px|thumb|right|旧チェコスロバキア社会主義共和国連邦議会(のちチェコスロバキア連邦共和国連邦議会、現・チェコ国立美術館)]]
「プラハの春」後の1969年に[[チェコ社会主義共和国]]と[[スロバキア社会主義共和国]]による連邦制に移行し、国権の最高機関として連邦議会が設けられた。同等の権限を有する人民院(定数150)と民族院(定数150)の二院制で、法案成立は両院可決を条件としていた。
人民院は人口に応じて定数を定めた選挙区選挙で、民族院は両共和国から各75人を選出して構成した。任期は5年。民族院の採決方法は、両共和国の議員団がそれぞれ別に投票を行ってともに賛成多数の場合に可決と見なす方式をとり、共和国単位の拒否権発動を担保していた。また両共和国にはそれぞれ一院制の地方議会であるチェコ国民議会(定数200)とスロバキア国民議会(定数150)が設けられた。
社会主義時代には両院とも5回の選挙が行われたが、チェコスロバキア共産党を含む[[統一戦線]]組織である国民戦線(Národní fronta)が全議席を占めた。連邦議会における国民戦線の構成政治組織は次の通り。
*チェコスロバキア共産党(Komunistická strana Československa)
*[[キリスト教民主同盟=チェコスロバキア人民党|チェコスロバキア人民党]] (Československá strana lidová) - [[衛星政党]]
*[[チェコスロバキア国民社会党|チェコスロバキア社会党]](Československá strana socialistická)
*革命的労働組合運動(Revoluční odborové hnutí)
*社会主義青年同盟(Socialistický svaz mládeže)
*農民同盟(Svaz rolníků)
*チェコスロバキア女性同盟(Československý svaz žen)
*チェコスロバキア・ソビエト友好同盟(Svaz československo-sovětského přátelství)
*協同組合中央委員会(Ústřední rada družstev)
*チェコスロバキア体育同盟(Československý svaz tělesné výchovy)
*陸軍協力者同盟(Svaz pro spolupráci s armádou)
*チェコスロバキア反ファシズム戦士同盟(Československý svaz protifašistických bojovníků)
*チェコスロバキア赤十字社(Československý červený kříž)
*チェコスロバキア社会主義共和国防火同盟(Svaz požární ochrany ČSSR)
*チェコスロバキア科学技術協会(Československá vědecko-technická společnost)
*身体障害者同盟(Svaz invalidů)
*チェコスロバキア平和委員会(Československý mírový výbor)
*社会主義者アカデミー(Socialistická akademie)
*チェコスロバキアジャーナリスト同盟(Československý svaz novinářů)
*チェコスロバキア郵趣同盟(Svaz československých filatelistů)
====連邦共和国時代(民主化後)====
民主化後の連邦共和国では新憲法の制定が行われなかったため、1993年の連邦解消まで社会主義時代の議会制度が存続した。連邦議会は任期満了の1990年に実施する総選挙までの間、暫定措置として国民戦線が占める議席の半数を民主化勢力に指名方式で明け渡すことになり、1989年12月から1990年2月にかけて段階的に実施された。同年6月には1946年の憲法制定国民議会選挙以来44年ぶりとなる自由選挙が行われ、チェコ共和国分では「[[市民フォーラム]]」(Občanské fórum)、スロバキア共和国分では「[[暴力に反対する公衆]]」(Verejnosť proti násiliu)の両民主化グループが人民院、民族院とも第一党となった。
1992年6月には、[[1992年チェコスロバキア連邦議会選挙|人民院議員選挙]]とチェコ、スロバキア両共和国の国民議会選挙(→[[1992年チェコ共和国国民評議会選挙|チェコ側の選挙]]、[[1992年スロバキア共和国国民評議会選挙|スロバキア側の選挙]])が行われた。このうち人民院選挙は、チェコ共和国分(定数99)では市民フォーラムから分裂した[[右翼|右派]]政党「[[市民民主党_(チェコ)|市民民主党]]」(Občanská demokratická strana、党首:[[ヴァーツラフ・クラウス]])と[[カトリック教会|カトリック]]政党「キリスト教民主主義党」(Křesťansko demokratická strana)の連合が48議席を獲得、スロバキア共和国分(定数51)では暴力に反対する公衆から分裂した右派政党(ただし[[経済政策]]面では国家介入主義的で[[左翼|左派]]的だった)「[[民主スロバキア運動]]」(Hnutie za demokratické Slovensko、党首:[[ヴラジミール・メチアル]])が24議席を獲得してそれぞれ第一党となった。両党は選挙直後から連邦解消について議論を開始し、連邦制を解消することで同年7月に合意した。
== 地理 ==
国境を接する国は、真北から時計回りに[[ポーランド]]、[[ソビエト連邦|ソ連]](現在の[[ウクライナ]])、[[ハンガリー]]、[[オーストリア]]、[[西ドイツ]]、[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]であった。1939年のスロヴァキア独立以前は南東部で[[ルーマニア]]とも接している。
国土は大きく3つの地域に分かれる。西からボヘミア、モラビア、スロバキアである。
*ボヘミア - ズデーテン山地、[[エルツ山地]]、ボヘミア森に囲まれ、中央を[[エルベ川|ラベ川(エルベ川)]]が流れる盆地。主要都市はプラハ。
*モラビア - [[モラヴァ川 (中欧)|モラバ川]]による沖積平野。モラバ川はドナウ川の支流である。主要都市は、[[ブルノ]]。
*スロバキア - カルパティア山部の南麓に相当する。最高峰ガルラホフカ山 (2663m) がそびえる。主要都市は[[ブラチスラヴァ]]。
=== 気候 ===
ケッペンの気候区分にいう[[西岸海洋性気候]] (Cfb) が広がるが、東部は一部大陸性の[[亜寒帯湿潤気候]] (Dfb) である。首都プラハの年平均気温は9度、年平均降水量は486mmであった。
== 国民 ==
1970年時点では、チェック人 (65%)、スロバキア人 (30%)、その他の民族 (5%) という比率であった。この構成は1990年時点でも変化していない。ただし、右上にある表ではチェック人とモラビア人を区別している。1970年代においてはソビエト連邦を含む全社会主義国の中で所得を含む生活水準がもっとも高かった。7歳から15歳までの初等教育は無料であった。
== 関連書籍 ==
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*中欧の分裂と統合 マサリクとチェコスロヴァキア建国 [[林忠行]] 1993.7. 中公新書
*チェコスロバキア現代経済史 S.ドフスキー 岡田勝定 訳. 合同出版社, 1960.
*戦車と自由 チェコスロバキア事件資料集. 第1-2 みすず書房編集部 編. みすず書房, 1968
*その後のチェコスロバキア プロレタリア国際主義のもとに ノーボスチ通信社編. 新時代社, 1968.
*それでもチェコは戦う 二千語宣言署名者は訴える 番町書房, 1968.
*チェコスロバキア事件をこう見る ノーボスチ通信社編 新時代社訳 新時代社, 1968.
*チェコスロバキア事件について 事実・文書・新聞と目撃者の証言 ソビエト・ジャーナリスト・プレス・グループ編 新時代社訳編 新時代社, 1968.
*チェコスロヴァキア史 ピエール・ボヌール [[山本俊朗]]訳. 白水社, 1969. 文庫クセジュ
*フサーク チェコスロバキアの新指導者 新時代社訳編 新時代社, 1969.
*人民民主主義の史的展開 下巻 (チェコスロヴァキア,ハンガリー,ルーマニア) [[柴田政義]] 大月書店, 1975.
*雁がとぶ古城 チェコスロバキア旅のスケッチ [[丸木俊]] 朔人社, 1977.12.
*{{Cite book|和書|author=[[石川晃弘]]|title=くらしのなかの社会主義 チェコスロヴァキアの市民生活|publisher=青木書店|date=1977-12|id={{NDLJP|12183967}}}}
*ハンガリー・チェコスロヴァキア現代史 [[矢田俊隆]] 山川出版社 1978.9. 世界現代史
*新しい社会主義 チェコスロヴァキアの事例 [[片岡信之]] 千倉書房, 1979.3.
*集権的社会主義の成立 チェコスロヴァキアの事例 片岡信之 千倉書房, 1980.1.
*チェコスロバキア革命の教訓 バツラフ・クラール 福田豊,山崎真訳. ありえす書房, 1980.11.
*チェコスロバキアの教育制度 パベル・イェニーク著 ヤン・ネメヨブスキー英訳 匂坂恭子訳 大洋産業海外業務部 1986.11.
*チェコスロヴァキアの民族衣装 技法調査を中心に 中嶋朝子ほか共著 源流社, 1987.3.
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Notelist}}
== 関連項目 ==
*[[ボヘミア王冠領]]
*[[チェコスロバキアの起源]]([[:en:Origins of Czechoslovakia]])
*[[チェコスロバキアの歴史]]([[:en:History of Czechoslovakia]])
*[[チェコスロバキア主義]]
*[[チェコスロバキア国民意識の歴史]]
== 外部リンク ==
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9,425 | キュロス | キュロス
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== 人名 ==
古代[[ペルシア人]]の男性名。キュロス({{Lang|el|Κύρος}})は[[ギリシア語]]形で、古代[[ペルシア語]]では「クリシュ」などという。
* [[キュロス1世]] - [[アンシャン]]王。キュロス2世の祖父。
* [[キュロス2世]] - [[アケメネス朝]]の初代皇帝。大キュロス、キュロス大王とも呼ばれる。
* [[小キュロス]] - アケメネス朝の王子。[[アルタクセルクセス2世]]の弟。
== 地名 ==
* [[キュロス (ギリシャ)]] - 古代[[マケドニア王国]]の都市。
* [[キュロス (シリア)]] - [[セレウコス朝]]の創始者[[セレウコス1世]]によって建てられた都市。
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* キュロス - [[漫画]]『[[ONE PIECE]]』の登場人物。
== 関連項目 ==
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9,426 | キュロス2世 | キュロス2世(古代ペルシャ語: 𐎤𐎢𐎽𐎢𐏁 Kuruš、古代ギリシア語: Κῦρος キューロス、ペルシア語: کوروش、紀元前600年頃 - 紀元前529年)は、アケメネス朝ペルシアの初代国王(諸王の王:紀元前550年 - 紀元前529年)。古代エジプトを除く全ての古代オリエント諸国を統一して空前の大帝国を建設した。現代のイラン人は、キュロスをイランの建国者と称えている。
古代ペルシア語名はクルシュ。古代ギリシア語名はキューロス。古典ヘブライ語名はコレシュ。同名の王子小キュロスと区別して「大キュロス」、キュロス大王、同名のアンシャン王キュロス1世と区別してキュロス2世と呼ばれる。
キュロスは、紀元前600年頃、ペルシア王国の王である父カンビュセス1世と母マンダネ(メディア王アステュアゲスの娘)の間に、王子として生まれた。当時のペルシア王国はメディア王国に従属する小王国にすぎなかった。ペルシアの王都はアンシャンにあり、ペルシア国王はアンシャン王の称号も代々保持していた。アンシャンはエラムの故地でもあり、エラム語やエラムの諸制度を引き継いでいたものの、エラム王国自体は衰退して西部のスサ周辺のみを領有するようになっていた。紀元前559年にキュロスは即位し、ペルシア王国第7代の王(紀元前559年-紀元前550年)となった。
紀元前552年にメディアに反乱を起こした(en:Persian Revolt、en:Battle of Hyrba)。紀元前550年にメディア王に恨みを抱いていたメディアの将軍ハルパゴスの裏切りもあり(en:Battle of the Persian Border)、メディアの首都エクバタナを攻略してメディア王アステュアゲスを打倒し、祖父の国であるメディアを滅ぼした。この時をもって、統一王朝としてのアケメネス朝が始まったとされる。キュロスはエクバタナを制圧するとメディア領土全域の制圧に乗り出し、これを支配した。
次に不死身の1万人(不死隊)と呼ばれた軍団を率いて小アジア西部のリュディア王国に攻め込んだ。紀元前547年秋のプテリアの戦いでは引き分けたが、同年10月のテュンブラの戦いではリュディア王クロイソスを破り、続いて首都サルディス攻囲戦でリュディアを征服した。ヘロドトスによればその時キュロスはクロイソスを火刑に処そうとしたが、クロイソスがアポロンに嘆願すると突如雨が降って火を消したため、キュロスはクロイソスの命を助けた。その後、クロイソスはキュロスに参謀的な役割で仕えた。この後、さらにハルパゴスに命じてカリア、リュキア、イオニアのギリシア人ポリスといったアナトリア西端のエーゲ海沿岸地方を恭順させた。紀元前546年には旧ペルシア地方に新首都パサルガダエの建設を始めた。
紀元前540年にスサを陥落させ、エラムは滅亡した。
東方各地を転戦して征服し、紀元前539年にオピスの戦いでナボニドゥス率いる新バビロニア王国を倒した。10月29日にバビロンに入城して「諸王の王」と号した。紀元前538年または紀元前537年に「クロスの勅令(キュロスの勅令)」を発し、バビロン捕囚にあったユダヤ人をはじめ、バビロニアにより強制移住させられた諸民族を解放した。キュロスは、被征服諸民族に対して寛大であったので、後世に理想的な帝王として仰がれた。それより200年以上前、旧約聖書では彼がユダヤ人を解放して帰国させることが予告されており、メシア(救世主)と呼ばれている(イザヤ書45章1節)。またこのとき、キュロスは新バビロニアのネブカドネザル2世によって略奪されていたエルサレム神殿の什器を返還し、エルサレムに神殿の再建を命じた。この再建は難航し、紀元前520年ごろに第二神殿が完成した時にはキュロスはすでにこの世を去っていたものの、この恩とキュロス以降も継続された宗教寛容政策により、ユダヤ人はアケメネス朝の統治下においては一度も反乱を起こさなかった。キュロスは子のカンビュセス2世にバビロンの統治を命じ、旧バビロニアの統治機構をそのまま利用して統治を進めた。この時期に、キュロスは宣撫文書としてキュロスの円筒印章を作らせ、ペルシアの統治の正当性を主張させた。
彼はさらに東方辺境に転戦して、バクトリアやソグディアナを征服し、サカを従属させて、この地域の総督としてスメルディス王子を置いた。こうしてキュロスは、東はヤクサルテス川(古希: Ἰαξάρτης)から西は小アジアに至る広大なペルシア王国を建設した。
ヘロドトスは著書『ヒストリアイ』の中で、キュロスは、トミュリス女王率いるマッサゲタイ人との戦いで戦死したという説を伝えている。しかしすでに一部の統治権を譲渡されていたこともあり、皇太子であるカンビュセス2世への政権移譲は滞りなく行われた。カンビュセス2世は紀元前525年に残る大国であるエジプトを征服し、オリエントに広大な統一帝国が誕生することとなった。
キュロスの墓(英語版)は、王都パサルガダエに築かれた。この陵墓は現在でも残っており、2004年にパサルガダエの都市遺跡の一部として世界遺産に登録された。
キュロスの帝国はその当時としては空前絶後の大きさのものであり、それまでのオリエントの4大国であったメディア・リュディア・新バビロニア・エジプトのうち、エジプトを除く3つを併呑したうえエラムやフェニキアといった独立勢力や東方の地域までを含むものであった。こうした広大で多様な地域を統治するため、キュロスは王国を20の州に分け、各州ごとにサトラップ(総督、太守)をおいて統治させた。このサトラップ制は、それまでメディア王国において用いられていた制度をそのまま利用したものである。キュロスは宗教に関しては寛容な姿勢を保ち、これはアケメネス朝の統治期を通じ守られた。帝国の公用語はアンシャン時代から引き続きエラム語であり、アケメネス朝一代を通じてそれは変わらなかった。
ユダヤ人をバビロン捕囚から解放したことで彼らの評価を得たことやクセノポンその他の評価も高かったことにより、キュロスは理想的な君主の一人として後世に伝えられるようになった。近代に入ると、パフラヴィー朝イランのモハンマド・レザー・パフラヴィーはイラン人の民族意識を高揚させる政策を取り、キュロスはペルシア帝国の建国者として賞揚されるようになった。キュロスの円筒印章を「史上最初の人権宣言」と呼んでさかんに宣伝したのもこの時期のことである。1971年にはキュロスのアケメネス朝建国2500年を記念してペルセポリスで盛大なイラン建国二千五百年祭典を開催し、パサルガダエのキュロス2世の墓においても国王の演説が行われた。またこの時にイラン暦の紀元がキュロス即位時(紀元前559年)に変更されてイラン皇帝暦と名を変え、ヒジュラ暦に代わって国家の公式な暦となった。この暦が公式に施行されたのは翌1976年であり、このため西暦1976年は皇帝暦2535年となった。しかし1979年にイラン革命が起こってパフラヴィー朝の王制が廃止されると、このキュロス紀元も廃止された。 | [
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] | キュロス2世は、アケメネス朝ペルシアの初代国王。古代エジプトを除く全ての古代オリエント諸国を統一して空前の大帝国を建設した。現代のイラン人は、キュロスをイランの建国者と称えている。 | {{出典の明記|date=2007年2月|ソートキー=人0000年以前没}}
{{基礎情報 君主
| 人名 = キュロス2世
| 各国語表記 = Cyrus II
| 君主号 =
| 画像 = Illustrerad Verldshistoria band I Ill 058.jpg
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 在位 = [[紀元前559年]]頃 - [[紀元前529年]]
| 戴冠日 =
| 別号 =
| 全名 =
| 出生日 = 不明
| 生地 =
| 死亡日 = [[紀元前529年]]
| 没地 = [[シルダリヤ川]]
| 埋葬日 =
| 埋葬地 = [[パサルガダエ]]
| 継承者 = [[カンビュセス2世]]
| 継承形式 = 継承者
| 配偶者1 = {{仮リンク|カッサンダネ|en|Cassandane}}
| 子女 = [[カンビュセス2世]]<br>[[スメルディス]]<br>[[ロクサーナ (キュロス2世の娘)|ロクサーナ]]<br>[[アトッサ]]<br>[[アルテュストネ]]
| 王家 =
| 王朝 = [[アケメネス朝]]
| 王室歌 =
| 父親 = [[カンビュセス1世]]
| 母親 = [[マンダネ (メディア)|マンダネ]]
| 宗教 =
| サイン =
}}
'''キュロス2世'''([[古代ペルシャ語]]: {{lang|peo|𐎤𐎢𐎽𐎢𐏁}}<ref>Source: [[:File:I am Cyrus, Achaemenid King - Pasargadae.JPG|a column]] in Pasargadae.</ref> {{unicode|Kuruš}}、{{lang-grc|Κῦρος}} <small>キューロス</small>、{{lang-fa|کوروش}}、[[紀元前576年]]頃 - [[紀元前529年]])は、[[アケメネス朝]]ペルシア帝国の初代[[シャー|国王]]([[諸王の王]]、[[紀元前559年]] - 紀元前529年<ref>{{harv|Dandamaev|1989|p=71}}</ref>)。[[古代エジプト]]を除く全ての[[古代オリエント]]諸国を統一して空前の大帝国を建設した。現代の[[イラン]]においてもキュロス大王をイランの建国者とする動きがある。
== 名前 ==
[[File:I am Cyrus, Achaemenid King - Pasargadae.JPG|right|thumb|250px| ]]
[[古代ペルシア語]]名は'''クルシュ'''。古代ギリシア語名は'''キューロス'''。[[古典ヘブライ語]]名はコレシュ。同名の王子[[小キュロス]]と区別して「大キュロス」、'''キュロス大王'''、同名のアンシャン王[[キュロス1世]]と区別して'''キュロス2世'''と呼ばれる。
== 生涯 ==
=== 出生 ===
[[古代ギリシャ]]の歴史家ヘロドトスの記録によれば、キュロスは[[ペルシア]]王国の王である父[[カンビュセス1世]]と母[[マンダネ]]([[メディア王国|メディア]]王[[アステュアゲス]]の娘)の間に、王子として生まれた。当時のペルシア王国は[[メディア王国]]に従属する小王国にすぎなかった。ペルシアの王都は[[アンシャン]]にあり、ペルシア国王はアンシャン王の称号も代々保持していた。アンシャンは[[エラム]]の故地でもあり、[[エラム語]]やエラムの諸制度を引き継いでいたものの、エラム王国自体は衰退して西部のスサ周辺のみを領有するようになっていた。[[紀元前559年]]にキュロスは即位し、ペルシア王国第7代の王([[紀元前559年]]-紀元前550年)となった。
=== メディア王国への反乱 ===
[[紀元前552年]]にメディアに反乱を起こした([[:en:Persian Revolt]]、[[:en:Battle of Hyrba]])。[[紀元前550年]]にメディア王に恨みを抱いていたメディアの将軍[[メディアのハルパゴス|ハルパゴス]]の裏切りもあり([[:en:Battle of the Persian Border]])、メディアの首都[[エクバタナ]]を攻略してメディア王[[アステュアゲス]]を打倒し、[[宗主国]]メディアを滅ぼした。この時をもって、統一王朝としてのアケメネス朝が始まったとされる。キュロスは[[エクバタナ]]を制圧するとメディア領土全域の制圧に乗り出し、これを支配した。
=== リュディア王国征服 ===
次に'''不死身の1万人'''([[不死隊]])と呼ばれた軍団を率いて[[小アジア]]西部の[[リュディア|リュディア王国]]に攻め込んだ。[[紀元前547年]]秋の[[プテリアの戦い]]では引き分けたが、同年10月の[[テュンブラの戦い]]ではリュディア王[[クロイソス]]を破り、続いて首都[[サルディス攻囲戦 (紀元前547年)|サルディス攻囲戦]]でリュディアを征服した。[[ヘロドトス]]によればその時キュロスはクロイソスを[[火刑]]に処そうとしたが、クロイソスが[[アポロン]]に嘆願すると突如雨が降って火を消したため、キュロスはクロイソスの命を助けた。その後、クロイソスはキュロスに[[参謀]]的な役割で仕えた。この後、さらにハルパゴスに命じて[[カリア]]、[[リュキア]]、[[イオニア]]の[[ギリシア人]][[ポリス]]といった[[アナトリア]]西端の[[エーゲ海]]沿岸地方を恭順させた。[[紀元前546年]]には旧ペルシア地方に新首都[[パサルガダエ]]の建設を始めた。
=== 新バビロニア征服 ===
[[File:Ancient near east 540 bc.gif|right|thumb|300px|キュロス2世のバビロン侵攻直前の古代近東]]
[[紀元前540年]]には[[スサ]]を陥落させ、[[エラム|エラム王国]]を滅ぼした。キュロスの征服活動は止まる暇もなく、その翌年の[[紀元前539年]]に[[オピスの戦い]]で[[ナボニドゥス]]率いる[[新バビロニア|新バビロニア王国]]軍を大敗させ、10月29日に[[バビロン]]に入城して「[[諸王の王]]」と号した<ref name="名前なし-1">「世界の古代帝国歴史図鑑 大国の覇権と人々の暮らし」p104 トマス・ハリソン編 本村凌二監修 藤井留美訳 柊風舎 2011年10月20日第1刷</ref>。[[紀元前538年]]または[[紀元前537年]]に「キュロスの勅令」を発し、[[バビロン捕囚]]にあった[[ユダヤ人]]をはじめ、バビロニアにより強制移住させられた諸民族を解放した。キュロスは被征服諸民族に対して寛大に扱い、[[旧約聖書]]においてもユダヤ人を解放する唯一の非ユダヤ人[[メシア]](救世主)であると評された([[イザヤ書]]45章1節)<ref>「物語 エルサレムの歴史」p70 笈川博一 中央公論新社 2010年7月25日発行</ref>。またこのとき、キュロスは新バビロニアの[[ネブカドネザル2世]]によって略奪されていた[[エルサレム神殿]]の什器を返還し、エルサレムに神殿の再建を命じた。この再建は難航し、[[紀元前520年]]ごろに[[第二神殿]]が完成した時にはキュロスはすでに死去していたものの、キュロス以降も継続された宗教寛容政策に彼への尊敬も相まってか、ユダヤ人はアケメネス朝の統治下においては一度も反乱を起こさなかった<ref>「物語 エルサレムの歴史」p72-73 笈川博一 中央公論新社 2010年7月25日発行</ref>。キュロスは子の[[カンビュセス2世]]にバビロンの統治を命じ、旧バビロニアの統治機構をそのまま利用して統治を進めた。この時期にキュロスは宣撫文書として[[キュロスの円筒印章]]を作らせ、ペルシアの統治の正当性を主張させた。
=== 中央アジア征服 ===
彼はさらに東方辺境に転戦して、[[バクトリア]]や[[ソグディアナ]]を征服し、[[サカ]]を従属させて、この地域の総督として[[スメルディス]]王子を置いた。こうしてキュロスは、東は[[ヤクサルテス川]]({{lang-grc-short|Ἰαξάρτης}})から西は小アジアに至る広大なペルシア王国を建設した。
=== マッサゲタイとの戦いと崩御 ===
[[File:Persia-Cyrus2-World3.png|right|thumb|300px|キュロス2世戦没時のアケメネス朝領土]]
ヘロドトスは著書『[[歴史 (ヘロドトス)|ヒストリアイ]]』の中で、キュロスは、[[トミュリス]]女王率いる[[マッサゲタイ]]人との戦いで戦死したという説を伝えている。しかしすでに一部の統治権を譲渡されていたこともあり、皇太子であるカンビュセス2世への政権移譲は滞りなく行われた。カンビュセス2世は紀元前525年に残る大国である[[エジプト]]を征服し、オリエントに広大な統一帝国が誕生することとなった。
{{仮リンク|キュロスの墓|en|Tomb of Cyrus}}は、王都[[パサルガダエ]]に築かれた。この陵墓は現在でも残っており、[[2004年]]にパサルガダエの都市遺跡の一部として[[世界遺産]]に登録された。
== 統治 ==
キュロスの帝国はその当時としては空前絶後の大きさのものであり、それまでの[[オリエント]]の4大国であった[[メディア王国|メディア]]・[[リュディア]]・[[新バビロニア]]・[[エジプト]]のうち、エジプトを除く3カ国を併呑したうえエラムや[[フェニキア]]といった独立勢力や東方の地域までを含むものであった。こうした広大で多様な地域を統治するため、キュロスは王国を20の州に分け、各州ごとに[[サトラップ]](太守)をおいて統治させた。このサトラップ制は、それまでメディア王国において用いられていた制度をそのまま利用したものである。キュロスは[[宗教]]に関しては寛容な姿勢を保ち、これはアケメネス朝の統治期を通じ守られた。帝国の公用語はアンシャン時代から引き続き[[エラム語]]であり、アケメネス朝一代を通じてそれは変わらなかった。
==後世の評価==
[[File:Pasargad Tomb Cyrus3.jpg|right|thumb|250px|キュロス大王のものと伝えられる墓(パサルガダエ)]]
[[ユダヤ人]]を[[バビロン捕囚]]から解放したことで、[[聖書]]や哲学者[[クセノポン]]の著作(『[[キュロスの教育]]』)において高く評価され、キュロスは理想的な君主として東西洋問わずイメージ付けされるようになった。近代に入ると、[[パフラヴィー朝]]の皇帝[[モハンマド・レザー・パフラヴィー]]は[[ペルシア人|イラン人]]の民族意識を高揚させる政策を取り、キュロスはペルシア帝国の建国者として賞揚された。[[キュロスの円筒印章]]が「世界史上最古の[[人権宣言]]」としてさかんに喧伝された。[[1971年]]にはキュロスの[[アケメネス朝]]建国2500年を記念するという名目で[[ペルセポリス]]で盛大な[[イラン建国二千五百年祭典]]を開催し、[[パサルガダエ]]の{{仮リンク|キュロス大王陵|en|tomb of Cyrus}}にて国王の演説が行われた。またこの時に[[イラン暦]]の紀元がキュロス即位時(紀元前559年)に変更されてイラン皇帝暦と名を変え、[[ヒジュラ暦]]に代わって国家の公式な[[暦]]となった。なお、この暦が正式に施行されたのは翌[[1976年]](皇帝暦2535年)であった<ref>http://tbias.jp/materials/reference_tools 公益財団法人東洋文庫研究部 イスラーム地域研究資料室 2016年9月28日閲覧</ref>。しかしわずか3年後の[[1979年]]に[[イラン革命]]が起こり、パフラヴィー朝王政の崩壊に伴ってイラン皇帝暦も廃止された。
近年では[[ナショナリズム|イラン民族主義]]の高揚に伴い、キュロス大王の人気や知名度がイラン人の間で高まるようになり、キュロスがバビロニア軍を撃ち破って[[古代オリエント]]を一統した[[イラン暦]]の8月7日([[グレゴリオ暦]]10月29日)をイラン民族主義の記念日([[キュロス大王の日]])にしょうとする動きが盛んになっている。[[神権政治|イスラム神権政治]]を掲げる[[イランの政治|イラン当局]]はこうした動きを警戒している。
==考古資料==
;キュロスの伝記
:キュロスの伝記には、[[クセノポン]]による「[[キュロスの教育]]」がある。
;タナハ・旧約聖書
:[[タナハ]]の[[諸書]]、[[旧約聖書]]の『[[ダニエル書]]』などに登場する。
;コーラン
:[[クルアーン|コーラン]]にも登場する([[:en:Cyrus the Great in the Quran]])。
;賢人シュンティパスの書
:「[[パンチャタントラ]]」「[[アラビアンナイト]]」と並ぶ、西アジアまたはインド起源とされる枠物語『[[シンドバード]]の書』の中世ギリシア語訳。枠物語に登場する王の名がキューロスである。[[1080年]]に[[東ローマ帝国]]の[[アンドレオポーロス]]({{lang-el|Μιχαήλ Ανδρεόπουλος }}、{{lang-en|Michael Andreopoulos}})によってシリア語版からギリシア語に翻訳された。
;キュロスの円筒印章[[File:Cyrus Cylinder front.jpg|right|thumb|250px|キュロスの円筒印章(前面、大英博物館蔵)]]
:[[大英博物館]]には[[キュロス・シリンダー|キュロスの円筒印章]]が所蔵されている。これによれば、キュロスは、紀元前6世紀半ばにメディア、リディア、新バビロニアを滅ぼし、メソポタミアを統一した。この[[円筒印章]]には諸民族を解放し、弾圧や圧政を廃し、寛容な支配を推し進めた様が描かれており、人類初の人権宣言とも称される<ref>[http://nng.nikkeibp.co.jp/nng/magazine/0808/feature01/_03.shtml 追憶のペルシャ] - ナショナルジオグラフィック 2008年8月号</ref>。
;ナボニドゥス年代誌、ナボニドゥスの円筒形碑文
:新バビロニア帝国の最後の王である、ナボニドゥスの治世を扱っている『[[ナボニドゥス年代誌]]』にはエラムの滅亡やバビロン占領後のキュロスの行動が記されている。この他、同時期のものである[[ナボニドゥスの円筒形碑文]]においてもキュロスの治世が賞賛された文が記載されており、キュロスの円筒印章を含むこの3つの史料は[[プロパガンダ]]的なものであると考えられている<ref name="名前なし-1"/>。
== 脚注 ==
{{commonscat|Cyrus the Great}}
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== 参考文献 ==
*ヘロドトス著『歴史』松平千秋訳、岩波文庫。上巻1971年、ISBN 978-4003340516,中巻1972年 ISBN 978-4003340523,下巻1972年、ISBN-13: 978-4003340530
*クセノポン著『キュロスの教育』松本仁助訳、京都大学学術出版会 (2004/02)、ISBN 978-4876981496
*ミカエール・アンドレオポーロス著『賢人シュンティパスの書』西村正身訳、未知谷、2000年、ISBN 978-4915841958
== 関連項目 ==
*[[ゾロアスター教]]
*[[イラン建国二千五百年祭典]]
*[[キュロス大王の日]]
{{先代次代|[[アケメネス朝]]の王|紀元前559年 - 紀元前529年|[[カンビュセス1世]]|[[カンビュセス2世]]}}
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9,431 | ルイ・ド・ブロイ | ルイ・ド・ブロイ(Louis Victor de Broglie)こと、第7代ブロイ公爵ルイ=ヴィクトル・ピエール・レーモン(Louis-Victor Pierre Raymond, 7e duc de Broglie 、1892年8月15日 - 1987年3月19日)は、フランスの理論物理学者。
彼が博士論文で仮説として提唱したド・ブロイ波(物質波)は、当時こそ孤立していたが、後にシュレディンガーによる波動方程式として結実し、量子力学の礎となった。
ルイ・ド・ブロイは、ルイ14世によって授爵された名門貴族ブロイ家の直系子孫にあたり、フランスの首相を二度務めた第4代当主アルベール・ド・ブロイの孫として、1892年にフランスのディエップに生まれた。父は当時公子であり、後の第5代当主ヴィクトル (Victor) 。祖父の母方祖母にスタール夫人がいる。
はじめは祖父の導きからソルボンヌ大学で歴史学を専攻したが、やがて17歳年上の兄で軍人・物理学者でもあった第6代当主モーリス・ド・ブロイの影響を受け、物理学に強い興味を持つようになる。
第一次世界大戦時には電波技術者として従軍し、エッフェル塔に配属されていた。戦後は兄とともに、自宅に設けた実験室で研究を行った。さらにソルボンヌ大学で物理学を修め、1924年に物理学の博士号を得た。
ド・ブロイは博士論文において、後にド・ブロイ波(物質波)と呼ばれることになる仮説を提起している。これはウィリアム・ローワン・ハミルトン以来の、光学と数学間のアナロジーを継ぐものであった。すでにアルベルト・アインシュタインは1905年の論文において、光電効果について電磁波を粒子として解釈することで説明していた。また博士論文提出前年の1923年にはアーサー・コンプトンが電子によるX線の散乱においてコンプトン効果を発見し、光量子説は有力な証拠を得た。ド・ブロイはこれらに影響を受け、逆に粒子もまた波動のように振舞えるのではないかと自身の博士論文で提案したのである。
すなわち、この仮説は光子だけではなく全ての物質が波動性を持つとするもので、波長λと運動量pが次の式で関係付けられた。
これは、ド・ブロイの方程式と呼ばれる。光子の運動量pをp= E c {\displaystyle {\tfrac {E}{c}}} 、光子の波長λをλ= c f {\displaystyle {\tfrac {c}{f}}} (cは真空中の光速度)とした、アインシュタインの式の一般化である。
しかし、大学にこの論文を提出した際、教授陣はその内容を完全に理解できなかった。そのため、教授の一人がアインシュタインにセカンドオピニオンを求めたところ、「この青年は博士号よりノーベル賞を受けるに値する」との返答を得たという。アインシュタインのこの予言は5年後に現実のものとなる。
1926年からド・ブロイはソルボンヌ大学で教えるようになるが、間もなくド・ブロイ波の理論は1927年に電子回折の観察をする2つの別々の実験によって検証された。アバディーン大学のジョージ・パジェット・トムソンは薄い金属の多結晶フィルムに電子ビームを通し、予想された通りの干渉パターンを得た。一方、ベル研究所のクリントン・デイヴィソンとレスター・ジャマーはニッケルの単結晶格子に電子ビームを通して同じ結果を得た。また1928年には日本の菊池正士も雲母の薄膜による電子線の干渉現象を観察している。
1928年にド・ブロイはアンリ・ポアンカレ研究所の理論物理学教授となった。そして1929年に「電子の波動性の発見」によってノーベル物理学賞を受賞した。
ド・ブロイの理論は、シュレーディンガーが波動力学を定式化する際の基礎となった。1938年には前年のシュレーディンガーに続き、マックス・プランク・メダルが授与された。
1944年には兄モーリスに10年遅れてアカデミー・フランセーズ会員となった。1960年に兄が没すると、その子供は早世していたため、公爵家の当主を継いだ。1952年ユネスコからカリンガ賞受賞。
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] | ルイ・ド・ブロイこと、第7代ブロイ公爵ルイ=ヴィクトル・ピエール・レーモンは、フランスの理論物理学者。 彼が博士論文で仮説として提唱したド・ブロイ波(物質波)は、当時こそ孤立していたが、後にシュレディンガーによる波動方程式として結実し、量子力学の礎となった。 | {{Infobox scientist
|name = ルイ・ド・ブロイ<br />Louis Victor de Broglie
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'''ルイ・ド・ブロイ'''(Louis Victor de Broglie)こと、'''第7代ブロイ公爵ルイ=ヴィクトル・ピエール・レーモン'''(Louis-Victor Pierre Raymond, 7e duc de Broglie 、[[1892年]][[8月15日]] - [[1987年]][[3月19日]])は、[[フランス]]の[[理論物理学者]]。
彼が博士論文で仮説として提唱した[[ド・ブロイ波]](物質波)は、当時こそ孤立していたが、後に[[エルヴィン・シュレーディンガー|シュレディンガー]]による[[波動方程式]]として結実し、量子力学の礎となった。
==生涯==
ルイ・ド・ブロイは、[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]によって授爵された名門[[貴族]][[ブロイ公|ブロイ家]]の直系子孫にあたり、フランスの首相を二度務めた第4代当主[[アルベール・ド・ブロイ]]の孫として、1892年にフランスの[[ディエップ (セーヌ=マリティーム県)|ディエップ]]に生まれた。父は当時公子であり、後の第5代当主[[ヴィクトル・ド・ブロイ_(1846-1906)|ヴィクトル]]{{enlink|Victor, 5th duc de Broglie|Victor}}。祖父の母方祖母に[[スタール夫人]]がいる。
はじめは祖父の導きから[[ソルボンヌ大学]]で[[歴史学]]を専攻したが、やがて17歳年上の兄で軍人・物理学者でもあった第6代当主[[モーリス・ド・ブロイ]]の影響を受け、物理学に強い興味を持つようになる。
[[第一次世界大戦]]時には[[電波]]技術者として従軍し、[[エッフェル塔]]に配属されていた。戦後は兄とともに、自宅に設けた実験室で研究を行った。さらにソルボンヌ大学で物理学を修め、[[1924年]]に物理学の博士号を得た。
ド・ブロイは博士論文において、後に'''ド・ブロイ波(物質波)'''と呼ばれることになる仮説を提起している。これは[[ウィリアム・ローワン・ハミルトン]]以来の、光学と数学間のアナロジーを継ぐものであった。すでに[[アルベルト・アインシュタイン]]は[[1905年]]の論文において、[[光電効果]]について[[電磁波]]を粒子として解釈することで説明していた。また博士論文提出前年の[[1923年]]には[[アーサー・コンプトン]]が[[電子]]による[[X線]]の散乱において[[コンプトン効果]]を発見し、光量子説は有力な証拠を得た。ド・ブロイはこれらに影響を受け、逆に粒子もまた波動のように振舞えるのではないかと自身の博士論文で提案したのである。
すなわち、この仮説は光子だけではなく全ての物質が波動性を持つとするもので<ref>Donald H Menzel, "''Fundamental formulas of Physics''", volume 1, page 153; Gives the de Broglie wavelengths for composite particles such as protons and neutrons.</ref><ref>[[Brian Greene]], [[The Elegant Universe]], page 104 "all matter has a wave-like character"</ref>、波長''λ''と運動量''p''が次の式で関係付けられた。
:<math>\lambda = \frac{h}{p}</math>
これは、'''ド・ブロイの方程式'''と呼ばれる。光子の運動量''p''をp= <math>\tfrac{E}{c}</math>、光子の波長''λ''をλ= <math>\tfrac{c}{f}</math>(cは真空中の[[光速度]])とした、アインシュタインの式の一般化である。
しかし、大学にこの論文を提出した際、教授陣はその内容を完全に理解できなかった。そのため、教授の一人がアインシュタインにセカンドオピニオンを求めたところ、「この青年は博士号よりノーベル賞を受けるに値する」との返答を得たという<ref>{{Cite book|和書|author=レオン・レーダーマン|authorlink=レオン・レーダーマン|coauthors=[[クリストファー・ヒル]]|others=[[小林茂樹]]訳|date=2008-04-15|title=対称性 レーダーマンが語る量子から宇宙まで|publisher=白揚社|pages={{要ページ番号|date=2012年5月}}|isbn=978-4-8269-0144-4|url=http://www.hakuyo-sha.co.jp/cgi-bin/search.cgi?mode=detail&mode2=search&id=364|ref=レーダーマン&ヒル2008}}</ref>。アインシュタインのこの予言は5年後に現実のものとなる。
[[1926年]]からド・ブロイはソルボンヌ大学で教えるようになるが、間もなくド・ブロイ波の理論は[[1927年]]に[[電子回折]]の観察をする2つの別々の実験によって検証された。[[アバディーン大学]]の[[ジョージ・パジェット・トムソン]]は薄い金属の多結晶フィルムに[[電子ビーム]]を通し、予想された通りの干渉パターンを得た。一方、[[ベル研究所]]の[[クリントン・デイヴィソン]]と[[レスター・ジャマー]]はニッケルの単結晶格子に電子ビームを通して同じ結果を得た。また[[1928年]]には日本の[[菊池正士]]も雲母の薄膜による電子線の干渉現象を観察している。
1928年にド・ブロイは[[アンリ・ポアンカレ研究所]]の[[理論物理学]]教授となった。そして[[1929年]]に「電子の波動性の発見」によって[[ノーベル物理学賞]]を受賞した<ref name="nobel"></ref>。
ド・ブロイの理論は、シュレーディンガーが[[波動力学]]を定式化する際の基礎となった。[[1938年]]には前年のシュレーディンガーに続き、[[マックス・プランク・メダル]]が授与された<ref name="max"></ref>。
[[1944年]]には兄モーリスに10年遅れて[[アカデミー・フランセーズ]]会員となった。[[1960年]]に兄が没すると、その子供は早世していたため、公爵家の当主を継いだ。1952年[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]からカリンガ賞受賞。
[[1962年]]にアンリ・ポアンカレ研究所を退官し、1975年に[[ヘルムホルツ・メダル]]受賞、[[1987年]]に[[パリ]]郊外の[[ルーヴシエンヌ]]で死去している。
== 著作 ==
* ''Recherches sur la théorie des quanta'' (量子理論の研究), Thesis, Paris, 1924, Ann. de Physique (10) '''3''', 22 (1925)
* ''Ondes et mouvements'' (波動と運動) Paris: Gauthier-Villars, 1926.
* ''Rapport au 5e Conseil de Physique Solvay.'' Brussels, 1927.
* ''La mécanique ondulatoire'' (波動力学). Paris: Gauthier-Villars, 1928.
* ''Matière et lumière'' (物質と光). Paris: Albin Michel, 1937.
* ''Une tentative d'interprétation causale et non linéaire de la mécanique ondulatoire: la théorie de la double solution.'' Paris: Gauthier-Villars, 1956.
** 英訳: ''Non-linear Wave Mechanics: A Causal Interpretation.'' Amsterdam: Elsevier, 1960.
* ''Sur les sentiers de la science'' (科学の小路から).
* ''Introduction à la nouvelle théorie des particules de M. Jean-Pierre Vigier et de ses collaborateurs.'' Paris: Gauthier-Villars, 1961. Paris: Albin Michel, 1960.
** 英訳: ''Introduction to the Vigier Theory of elementary particles.'' Amsterdam: Elsevier, 1963.
* ''Étude critique des bases de l'interprétation actuelle de la mécanique ondulatoire.'' Paris: Gauthier-Villars, 1963.
** 英訳: ''The Current Interpretation of Wave Mechanics: A Critical Study.'' Amsterdam, Elsevier, 1964.
* ''Certitudes et incertitudes de la science'' (科学の確実性と不確実性) Paris: Albin Michel, 1966.
== 出典 ==
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== 関連項目 ==
{{commons|Louis de Broglie}}
* [[量子論]]
* [[ド・ブロイ波]]
* [[粒子と波動の二重性]]
* [[電子回折]]
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9,432 | エルヴィン・シュレーディンガー | エルヴィーン・ルードルフ・ヨーゼフ・アレクサンダー・シュレーディンガー(ドイツ語: Erwin Rudolf Josef Alexander Schrödinger [ˈɛɐ̯viːn ˈʃʁøːdɪŋɐ]、1887年8月12日 - 1961年1月4日)は、オーストリア出身の理論物理学者。
1926年に波動形式の量子力学である「波動力学」を提唱。次いで量子力学の基本方程式であるシュレーディンガー方程式や、1935年にはシュレーディンガーの猫を提唱するなど、量子力学の発展を築き上げたことで名高い。
1933年にイギリスの理論物理学者ポール・ディラックと共に「新形式の原子理論の発見」の業績によりノーベル物理学賞を受賞した。1937年にはマックス・プランク・メダルが授与された。
1983年から1997年まで発行されていた1000オーストリア・シリング紙幣に肖像が使用されていた。シュレディンガーとも表記される。
1887年8月12日、オーストリア=ハンガリー帝国のウィーンにて、父ルドルフ・シュレーディンガー(Rudolf Schrödinger)、母エミリー・バウアー(Emily Bauer)の元に生まれる。父ルドルフはバイエルン王国出身で広い教養を持った人物であった。一人っ子のシュレーディンガーも父の影響を受け、少年の頃から多方面に興味を示した。
ギムナジウムでは自然科学のみならず古典言語の文法やドイツの詩、ドイツの哲学者アルトゥル・ショーペンハウアーの作品を好んだ。
1906年にウィーン大学に入学し、物理学を専攻した。ウィーン大学には同国出身の物理学者ルートヴィッヒ・ボルツマンが物理学教授を務めていたが、シュレーディンガーがウィーン大学に入学する直前の1906年9月5日にボルツマンはうつ病により自殺したため、その後任として同国出身の物理学者フリードリヒ・ハーゼノールが教鞭を執った。
シュレーディンガーは、ハーゼノールを通じてボルツマンの学説に強い感銘と影響を受けており、理論物理学者を目指したのもボルツマンの影響が大きい。後にシュレーディンガーはボルツマンについて、
と述べているほどである。
ウィーン大学在学中は連続体力学の固有値問題に取り組み、1910年に博士課程の指導教員にはハーゼノールが携わった。
1911年にウィーン大学物理学研究室の室長であるフランツ・S・エクスナー(英語版)から実験物理学を教わりながら助手を務めたが、第一次世界大戦の勃発によってシュレーディンガーは1914年から1918年にかけて砲兵の士官としてゴリツィア、ドゥイーノ、システィアーナ(英語版)、プロセッコ、ウィーンの戦線に従軍した。なお1915年10月7日にハーゼノールはこの戦争により南チロルでイタリア軍と戦って戦死した。
1920年4月6日にアンネマリー・バーテル(Annemarie Bertel、1896年12月3日 - 1965年10月3日)と結婚する。
同年1920年、フリードリヒ・シラー大学イェーナにてドイツの物理学者マックス・ヴィーンの助手を務めた。同年9月にはシュトゥットガルト大学の准教授を務め、1921年はシレジア(当時ドイツ領)のブレスラウ大学(現:ヴロツワフ大学)にて教授を務めた。また同年1921年にスイスのチューリッヒ大学にてドイツの物理学者マックス・フォン・ラウエの後任として6年間、数理物理学教授を務めた。なおチューリッヒ大学の同僚にはオランダの物理学者、化学者であるピーター・デバイやドイツの数学者ヘルマン・ワイルがいた。特にワイルとは親しく交流していた。
チューリッヒ大学在学中の主な研究は固体比熱、熱力学、原子スペクトルであった。また、エクスナーやドイツの生理学者、物理学者であるヘルマン・フォン・ヘルムホルツの影響を受けて、色の生理学的研究も行った。
1925年から1926年にかけてシュレーディンガーは、フランスの物理学者ルイ・ド・ブロイが発見した物質波の概念を基にして量子力学の基礎方程式、シュレーディンガー方程式をハミルトン-ヤコビ方程式などを用いて導出し、波動力学を展開した。この際、力学と光学との間の対応関係を指摘するハミルトンのアナロジーが指針となったと言われる。さらに、ドイツの理論物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルクの提唱した行列力学と、自身の波動力学が数学的に同等であることを証明した。シュレーディンガーは量子力学の確立に大いに貢献し、デンマークの理論物理学者ニールス・ボーアの提唱した量子論の結果を完璧なものにしたと言える。
1927年にはフンボルト大学ベルリンにてドイツの物理学者マックス・プランクの後任として教授を務める。しかし1933年にアドルフ・ヒトラーが政権を掌握すると、ユダヤ人学者の弾圧に反対してベルリン大学を辞職し、イギリスに渡ってオックスフォード大学のフェローとなった。同年、波動力学と行列力学とが数学的に同等であることをシュレーディンガーと独立に証明したポール・ディラックと共にノーベル物理学賞を受賞した。
1934年にアメリカ合衆国へ渡り、プリンストン大学で講義を行った。プリンストン大学はシュレーディンガーが亡くなるまで居場所を提供したが、シュレーディンガーは拒否した。その後はエディンバラ大学に向かうはずだったがビザの遅れによって断念し、1936年にはオーストリアのグラーツ大学に教授として留まった。
1935年に、箱の中に猫と放射性物質のラジウムの他、ガイガーカウンターと青酸ガス発生装置を入れるという「シュレーディンガーの猫」の思考実験を提唱する。ドイツの理論物理学者アルベルト・アインシュタイン、ロシアの物理学者ボリス・ポドリスキー、アメリカ合衆国の物理学者ネイサン・ローゼンらが行った思考実験であるアインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックスとは違った、量子力学の欠陥についての指摘を行った。
1937年にドイツ物理学会からマックス・プランク・メダルが授与されたが、1938年にオーストリア併合(アンシュルス)によってオーストリアがドイツに併合され、シュレーディンガーも教授を解任させられた。一時は妻アンネマリーと共にイタリアに亡命した。その後、再度移住したシュレーディンガーはベルギーのゲント大学の教授となったが、1939年の第二次世界大戦の開戦とともに、オーストリアを併合したドイツとベルギーとは敵国となってしまう。同年、当時アイルランド自由国首相であったエイモン・デ・ヴァレラに招聘され、最終的にはアイルランドに亡命し、ダブリン高等研究所で研究を続けた。
1943年にダブリンのトリニティ・カレッジで講演を行なった。
1944年、トリニティ・カレッジでの講演の内容を基にして『生命とは何か』を著し、分子生物学への道を開いた。
1948年にアイルランドの市民権を得た。
1952年に『科学とヒューマニズム』を著した。
1955年に定年退職する。第二次世界大戦後の1956年にはオーストリアに帰国し、母校であるウィーン大学の教授に就任。1958年には『精神と物質』によって人間の意識の解明に取り組んだ。
1961年1月4日、ウィーンで結核のため亡くなる。
遺体はアルプバッハ(英語版)の墓地に、1965年10月5日に亡くなった妻アンネマリーと共に納められた。
生涯ヒンドゥー教のヴェーダーンタ哲学に興味を有した(若き日にショーペンハウアーを読み耽った影響)。著書の中で、「量子力学」の基礎になった波動方程式が、東洋の哲学の諸原理を記述している、と語り、『精神と物質』には、次のように記している。「西洋科学の構造に東洋の同一化の教理を同化させることによって解き明かされるだろう。一切の精神は一つだと言うべきでしょう。私はあえて、それは不滅だと言いたいのです。私は西洋の言葉でこれを表現するのは適さないということを認めるものです。」「宗教は科学に対抗するものなのではなく、むしろ宗教は、これとかかわりのない科学的な研究のもたらしたものによって支持されもするものなのであります。神は時空間のどこにも見出せない。これは誠実な自然主義者の言っていることであります。」「西洋科学へは東洋思想の輸血を必要としている。」
晩年の著書でも言及している通り、物理学に対しては強い情愛と理念を持っていた。
私生活では、結婚制度をブルジョア的価値観と軽蔑して複数の妻を持とうとし、婚外子を3人持つなど、奔放な生き方で知られた。ムーアによる伝記研究で明らかにされた複数の女性たちとの関係を認めており、その中には10代の少女も含まれていた。 | [
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] | エルヴィーン・ルードルフ・ヨーゼフ・アレクサンダー・シュレーディンガーは、オーストリア出身の理論物理学者。 1926年に波動形式の量子力学である「波動力学」を提唱。次いで量子力学の基本方程式であるシュレーディンガー方程式や、1935年にはシュレーディンガーの猫を提唱するなど、量子力学の発展を築き上げたことで名高い。 1933年にイギリスの理論物理学者ポール・ディラックと共に「新形式の原子理論の発見」の業績によりノーベル物理学賞を受賞した。1937年にはマックス・プランク・メダルが授与された。 1983年から1997年まで発行されていた1000オーストリア・シリング紙幣に肖像が使用されていた。シュレディンガーとも表記される。 | {{Infobox scientist
|name = エルヴィン・シュレーディンガー<br />Erwin Schrödinger
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|awards = {{nowrap|[[ノーベル物理学賞]] (1933)}}<ref name="nobel">[http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/physics/laureates/1933/ The Nobel Prize in Physics 1933]ノーベル賞公式サイト、2012年8月25日閲覧</ref><br />[[マックス・プランク・メダル]] (1937)<ref name="max">[http://www.dpg-physik.de/preise/preistraeger_mp.html Preisträger Max Planck nach Jahren][[ドイツ物理学会]]、2012年8月25日閲覧</ref>
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'''エルヴィン・ルードルフ・ヨーゼフ・アレクサンダー・シュレーディンガー'''({{lang-de|Erwin Rudolf Josef Alexander Schrödinger}} {{IPA-de|ˈɛɐ̯viːn ˈʃʁøːdɪŋɐ|}}、[[1887年]][[8月12日]] - [[1961年]][[1月4日]])は、[[オーストリア]]出身の[[理論物理学者]]。'''シュレディンガー'''とも表記される。
[[1926年]]に[[波動]]形式の[[量子力学]]である「[[波動力学]]」を提唱。次いで量子力学の基本[[方程式]]である[[シュレーディンガー方程式]]や、[[1935年]]には[[シュレーディンガーの猫]]を提唱するなど、量子力学の発展を築き上げたことで名高い{{sfn|グランド現代百科事典|1983|p=408}}。
[[1933年]]に[[イギリス]]の理論物理学者[[ポール・ディラック]]と共に「新形式の原子理論の発見」の業績により[[ノーベル物理学賞]]を受賞した<ref name="nobel" />{{sfn|グランド現代百科事典|1983|p=408}}。[[1937年]]には[[マックス・プランク・メダル]]が授与された<ref name="max" />。
[[1983年]]から[[1997年]]まで発行されていた1000[[オーストリア・シリング]]紙幣に肖像が使用されていた。
== 生涯 ==
[[ファイル:Erwin Schrodinger2.jpg|thumb|200px|若かりし頃のシュレーディンガー]]
[[ファイル:Grave Schroedinger.jpg|thumb|200px|{{仮リンク|アルプバッハ|en|Alpbach}}にあるシュレーディンガーと妻アンネマリーの墓。彼らの名前の上に[[シュレーディンガー方程式]]{{Equation box 1
|equation=<math>i \hbar \frac{\partial}{\partial t}\Psi = \hat H \Psi</math>
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|border colour = #50C878
|background colour = #ECFCF4}}が刻まれてある]]
[[ファイル:Erwin Schrodinger at U Vienna.JPG|thumb|200px|[[ウィーン大学]]にあるシュレーディンガーの[[胸像]]]]
1887年8月12日、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の[[ウィーン]]にて、父[[ルドルフ・シュレーディンガー]](Rudolf Schrödinger)、母エミリー・バウアー(Emily Bauer)の元に生まれる。父ルドルフは[[バイエルン王国]]出身で広い教養を持った人物であった{{sfn|万有百科大事典|1976|p=249}}。一人っ子のシュレーディンガーも父の影響を受け、少年の頃から多方面に興味を示した{{sfn|万有百科大事典|1976|p=249}}。
[[ギムナジウム]]では[[自然科学]]のみならず[[古典言語]]の[[文法]]やドイツの詩{{sfn|万有百科大事典|1976|p=249}}、ドイツの[[哲学者]][[アルトゥル・ショーペンハウアー]]の作品を好んだ。
[[1906年]]に[[ウィーン大学]]に入学し、[[物理学]]を専攻した。ウィーン大学には同国出身の物理学者[[ルートヴィッヒ・ボルツマン]]が物理学教授を務めていたが、シュレーディンガーがウィーン大学に入学する直前の1906年[[9月5日]]にボルツマンは[[うつ病]]により自殺したため{{sfn|万有百科大事典|1976|p=249}}{{sfn|世界大百科事典|1972|p=506}}、その後任として同国出身の物理学者[[フリードリヒ・ハーゼノール]]が教鞭を執った。
シュレーディンガーは、ハーゼノールを通じてボルツマンの学説に強い感銘と影響を受けており、理論物理学者を目指したのもボルツマンの影響が大きい。後にシュレーディンガーはボルツマンについて、
{{Cquote|''ボルツマンの考えた道こそ科学に於ける私の初恋と言っても良い''|4=p249|5=万有百科大事典 16 物理・数学}}
と述べているほどである。
ウィーン大学在学中は[[連続体力学]]の[[固有値問題]]に取り組み、[[1910年]]に[[博士課程]]の指導教員にはハーゼノールが携わった。
[[1911年]]にウィーン大学物理学研究室の室長である{{仮リンク|フランツ・S・エクスナー|en|Franz S. Exner}}から[[実験物理学]]を教わりながら[[助手 (教育)|助手]]を務めたが{{sfn|世界大百科事典|1972|p=506}}、[[第一次世界大戦]]の勃発によってシュレーディンガーは[[1914年]]から[[1918年]]にかけて[[砲兵]]の士官として[[ゴリツィア]]、[[ドゥイーノ]]、{{仮リンク|システィアーナ|en|Sistiana}}、[[プロセッコ]]、ウィーンの戦線に従軍した。なお[[1915年]][[10月7日]]にハーゼノールはこの戦争により[[南チロル]]で[[イタリア軍]]と戦って戦死した。
[[1920年]][[4月6日]]にアンネマリー・バーテル(Annemarie Bertel、[[1896年]][[12月3日]] - [[1965年]][[10月3日]])と結婚する。
同年1920年、[[フリードリヒ・シラー大学イェーナ]]にてドイツの物理学者[[マックス・ヴィーン]]の助手を務めた。同年[[9月]]には[[シュトゥットガルト大学]]の[[准教授]]を務め、[[1921年]]は[[シレジア]](当時ドイツ領)のブレスラウ大学(現:[[ヴロツワフ大学]])にて教授を務めた。また同年1921年に[[スイス]]の[[チューリッヒ大学]]にてドイツの物理学者[[マックス・フォン・ラウエ]]の後任として6年間、[[数理物理学]]教授を務めた。なおチューリッヒ大学の同僚には[[オランダ]]の物理学者、化学者である[[ピーター・デバイ]]やドイツの数学者[[ヘルマン・ワイル]]がいた<ref name="kotobank">{{Cite web|和書|author=藤村淳|url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC-78460#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29|title=シュレーディンガー|publisher=[[日本大百科全書]](ニッポニカ)([[コトバンク]])|accessdate=2019-05-19}}。</ref>。特にワイルとは親しく交流していた。
チューリッヒ大学在学中の主な研究は[[固体比熱]]、[[熱力学]]、[[原子スペクトル]]であった。また、エクスナーやドイツの生理学者、物理学者である[[ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ]]の影響を受けて、色の[[生理学]]的研究も行った。
[[1925年]]から1926年にかけてシュレーディンガーは、[[フランス]]の物理学者[[ルイ・ド・ブロイ]]が発見した[[物質波]]の概念を基にして量子力学の[[基礎方程式]]、[[シュレーディンガー方程式]]を[[ハミルトン-ヤコビ方程式]]などを用いて導出し、[[波動力学]]を展開した{{sfn|万有百科大事典|1976|p=249}}。この際、[[力学]]と[[光学]]との間の対応関係を指摘する[[ハミルトンのアナロジー]]が指針となったと言われる{{要出典|date=2016年9月}}。さらに、ドイツの理論物理学者[[ヴェルナー・ハイゼンベルク]]の提唱した[[行列力学]]と、自身の波動力学が数学的に同等であることを証明した。シュレーディンガーは量子力学の確立に大いに貢献し、[[デンマーク]]の理論物理学者[[ニールス・ボーア]]の提唱した[[量子論]]の結果を完璧なものにしたと言える。
{{See also|シュレーディンガー方程式}}
[[1927年]]には[[フンボルト大学ベルリン]]にてドイツの物理学者[[マックス・プランク]]の後任として教授を務める{{sfn|グランド現代百科事典|1983|p=408}}。しかし1933年に[[アドルフ・ヒトラー]]が政権を掌握すると、[[ユダヤ人]]学者の弾圧に反対してベルリン大学を辞職し{{sfn|世界大百科事典|1972|p=506}}、イギリスに渡って{{sfn|グランド現代百科事典|1983|p=408}}[[オックスフォード大学]]の[[フェロー]]となった。同年、波動力学と行列力学とが数学的に同等であることをシュレーディンガーと独立に証明したポール・ディラックと共にノーベル物理学賞を受賞した。
[[1934年]]に[[アメリカ合衆国]]へ渡り、[[プリンストン大学]]で講義を行った。プリンストン大学はシュレーディンガーが亡くなるまで居場所を提供したが、シュレーディンガーは拒否した。その後は[[エディンバラ大学]]に向かうはずだったが[[査証|ビザ]]の遅れによって断念し、[[1936年]]にはオーストリアの[[グラーツ大学]]に教授として留まった。
1935年に、箱の中に猫と[[放射性物質]]の[[ラジウム]]の他、[[ガイガーカウンター]]と[[青酸ガス]]発生装置を入れるという「シュレーディンガーの猫」の[[思考実験]]を提唱する。ドイツの理論物理学者[[アルベルト・アインシュタイン]]、[[ロシア]]の物理学者[[ボリス・ポドリスキー]]、アメリカ合衆国の物理学者[[ネイサン・ローゼン]]らが行った思考実験である[[アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックス]]とは違った、量子力学の欠陥についての指摘を行った。
1937年に[[ドイツ物理学会]]からマックス・プランク・メダルが授与されたが<ref name="max" />、[[1938年]]にオーストリア併合([[アンシュルス]])によってオーストリアがドイツに併合され、シュレーディンガーも教授を解任させられた。一時は妻アンネマリーと共に[[イタリア王国|イタリア]]に亡命した。その後、再度移住したシュレーディンガーは[[ベルギー]]の[[ゲント大学]]の教授となったが、[[1939年]]の[[第二次世界大戦]]の開戦とともに、オーストリアを併合したドイツとベルギーとは敵国となってしまう。同年、当時[[アイルランド自由国]]首相であった[[エイモン・デ・ヴァレラ]]に招聘され、最終的にはアイルランドに亡命し<ref>{{Harvnb|竹内|1999|p=196}}</ref>、[[ダブリン高等研究所]]で研究を続けた。
[[1943年]]にダブリンの[[トリニティ・カレッジ (ダブリン大学)|トリニティ・カレッジ]]で講演を行なった。
[[1944年]]、トリニティ・カレッジでの講演の内容を基にして『[[生命とは何か]]』を著し、[[分子生物学]]への道を開いた。
[[1948年]]にアイルランドの[[市民権]]を得た。
[[1952年]]に『[[科学とヒューマニズム]]』を著した。
[[1955年]]に[[定年退職]]する。第二次世界大戦後の[[1956年]]にはオーストリアに帰国し、母校であるウィーン大学の教授に就任。[[1958年]]には『[[精神と物質]]』によって人間の意識の解明に取り組んだ。
1961年1月4日、ウィーンで[[結核]]のため亡くなる。
遺体は{{仮リンク|アルプバッハ|en|Alpbach}}の墓地に、1965年10月5日に亡くなった妻アンネマリーと共に納められた。
== 思想 ==
生涯[[ヒンドゥー教]]の[[ヴェーダーンタ学派|ヴェーダーンタ]]哲学に興味を有した(若き日にショーペンハウアーを読み耽った影響)。著書の中で、「量子力学」の基礎になった波動方程式が、東洋の哲学の諸原理を記述している、と語り、『精神と物質』には、次のように記している。「西洋科学の構造に東洋の同一化の教理を同化させることによって解き明かされるだろう。一切の精神は一つだと言うべきでしょう。私はあえて、それは不滅だと言いたいのです。私は西洋の言葉でこれを表現するのは適さないということを認めるものです。」「宗教は科学に対抗するものなのではなく、むしろ宗教は、これとかかわりのない科学的な研究のもたらしたものによって支持されもするものなのであります。神は時空間のどこにも見出せない。これは誠実な自然主義者の言っていることであります。」「西洋科学へは東洋思想の輸血を必要としている。」
晩年の著書でも言及している通り、物理学に対しては強い情愛と理念を持っていた。
私生活では、結婚制度をブルジョア的価値観と軽蔑して複数の妻を持とうとし、[[婚外子]]を3人持つなど、奔放な生き方で知られた。ムーアによる伝記研究で明らかにされた複数の女性たちとの関係を認めており、その中には10代の少女も含まれていた<ref>[https://www.geni.com/people/Erwin-Schr%C3%B6dinger-Nobel-Prize-in-Physics-1933/6000000000469927083 Erwin Schrödinger, Nobel Prize in Physics 1933]</ref>。
== 著作 ==
* {{Cite book|和書|others=[[岡小天]]・[[鎮目恭夫]]共訳|year=1951|title=生命とは何か 物理学者のみた生細胞|series=岩波新書 第72|publisher=岩波書店}}
** {{Cite book|和書|others=岡小天・鎮目恭夫共訳|year=2008|month=5|title=生命とは何か 物理的にみた生細胞|series=岩波文庫|publisher=岩波書店|isbn=978-4-00-339461-8}}
* {{Cite book|和書|others=[[伏見康治]]・[[三田博雄]]・[[友松芳郎]]共訳|year=1956|title=科学とヒューマニズム|series=現代科学叢書|publisher=みすず書房}}
* {{Cite book|和書|others=[[湯川秀樹]]監修、[[田中正 (物理学者)|田中正]]ほか訳|year=1974|title=シュレーディンガー選集|volume=1|publisher=共立出版}}
* {{Cite book|和書|others=湯川秀樹監修、田中正ほか訳|year=1974|title=シュレーディンガー選集|volume=2|publisher=共立出版}}
* {{Cite book|和書|others=[[中村量空]]ほか訳|year=1987|month=6|title=わが世界観 自伝|publisher=共立出版|isbn=4-320-03240-3}}
** {{Cite book|和書|others=[[橋本芳契]]監修、中村量空・[[早川博信]]・[[橋本契]]訳|year=2002|month=4|title=わが世界観|series=ちくま学芸文庫|publisher=筑摩書房|isbn=4-480-08689-7}}
* {{Cite book|和書|others=中村量空訳|year=1987|month=8|title=精神と物質 意識と科学的世界像をめぐる考察|publisher=[[工作舎]]}}
** {{Cite book|和書|others=中村量空訳|year=1999|month=1|title=精神と物質 意識と科学的世界像をめぐる考察|edition=改訂版|publisher=[[工作舎]]|isbn=4-87502-305-7}}
* {{Cite book|和書|others=[[河辺六男]]訳|year=1991|month=11|title=自然とギリシャ人 原子論をめぐる古代と現代の対話|publisher=[[工作舎]]|isbn=4-87502-189-5}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=ケン・ウィルバー編著|authorlink=ケン・ウィルバー|others=[[田中三彦]]・[[吉福伸逸]]訳|year=1987|month=8|title=量子の公案 現代物理学のリーダーたちの神秘観|publisher=[[工作舎]]|isbn=4-87502-137-2}}
* {{Cite book|和書|author=竹内薫|authorlink=竹内薫|coauthors=[[竹内さなみ|Sanami]]|year=1998|month=12|title=シュレディンガーの哲学する猫|publisher=[[徳間書店]]|isbn=4-19-860953-5}}
** {{Cite book|和書|author=竹内薫|coauthors=竹内さなみ|year=2008|month=11|title=シュレディンガーの哲学する猫|series=中公文庫|publisher=中央公論新社|isbn=978-4-12-205076-1}}
*{{Cite book|和書|editor=竹内均|editor-link=竹内均|date=1999-04-10|title=科学の世紀を開いた人々(上)|publisher=ニュートンプレス|isbn=978-4-315-51533-6|ref={{Harvid|竹内|1999}}}}
* {{Cite book|和書|author1=中村量空|author2=福井謙一序|authorlink2=福井謙一|year=1993|month=5|title=シュレーディンガーの思索と生涯 波動のパラダイムを求めて|publisher=[[工作舎]]|isbn=4-87502-216-6}}
* {{Cite book|和書|author=W.ムーア|authorlink=W.ムーア|others=[[小林澈郎]]・[[土佐幸子]]訳|year=1995|month=5|title=シュレーディンガー その生涯と思想|publisher=培風館|isbn=4-563-02220-9}}
* {{Cite book|和書|author=小山慶太|authorlink=小山慶太|coauthors=|editor=小林敬和|editor-link=小林敬和|others=|title=科学史人物事典 150のエピソードが語る天才たち|origdate=2013-2-25|isbn=978-4121022042|url=|format=|accessdate=|edition=初版|date=|year=|publisher=[[中央公論新社]]|location=|series=|language=日本語}}
* {{Cite book|和書|author=彌永昌吉|authorlink=彌永昌吉|coauthors=[[中村誠太郎]]、[[三村征雄]]、[[湯川秀樹]]|editor=相賀徹夫|editor-link=相賀徹夫|others=|title=万有百科大事典 16 物理・数学|origdate=1976-4-20|url=|format=|accessdate=|edition=初版|date=|year=|publisher=[[小学館]]|location=|series=[[日本大百科全書]]|language=日本語}}
* {{Cite book|和書|author=|authorlink=|coauthors=|editor=林達夫|editor-link=林達夫|others=|title=世界大百科事典 14 シャーシュ|origdate=1972-4|url=|format=|accessdate=|edition=1972年版|date=|year=|publisher=[[平凡社]]|location=|series=[[世界大百科事典]]|language=日本語}}
* {{Cite book|和書|author=|authorlink=|coauthors=|editor=鈴木泰二|editor-link=鈴木泰二|others=|title=グランド現代百科事典 15 シツキーシヨウオ|origdate=1983-6-1|url=|format=|accessdate=|edition=|date=|year=|publisher=[[学習研究社]]|location=|series=|language=日本語}}
* {{Cite book|和書|author=|authorlink=|coauthors=|editor=鈴木勤|editor-link=鈴木勤|others=|title=世界文化大百科事典 6 シヤフーセンソ|origdate=1971|url=|format=|accessdate=|edition=|date=|year=|publisher=[[世界文化社]]|location=|series=|language=日本語}}
{{-}}
== 関連項目 ==
*[[ツィッターベヴェーグンク]]
*[[ネゲントロピー]]
*[[シュレディンガー音頭]]
*[[シュレーディンガー方程式]]
**[[非線形シュレディンガー方程式]]
*[[シュレーディンガー描像]]
*[[シュレーディンガーの猫]]
*[[シュレーディンガー場]]
*[[シュレーディンガー・メダル]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Erwin Schrödinger}}
* {{kotobank|シュレーディンガー}}
{{量子力学}}
{{ノーベル物理学賞受賞者 (1926年-1950年)}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しゆれえていんかあ えるういん}}
[[Category:エルヴィン・シュレーディンガー|*]]
[[Category:20世紀の物理学者]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC |
9,441 | ニールス・ボーア | ニールス・ヘンリク・ダヴィド・ボーア(デンマーク語: Niels Henrik David Bohr、1885年10月7日 - 1962年11月18日)は、デンマークの理論物理学者。量子論の育ての親として、前期量子論の展開を指導、量子力学の確立に大いに貢献した。王立協会外国人会員。ユダヤ人。
コペンハーゲンに生まれ、1903年にコペンハーゲン大学に入学。1911年にイギリスへ留学し、キャヴェンディッシュ研究所にてジョゼフ・ジョン・トムソンの下で研究を行った後、1911年にマンチェスター大学のアーネスト・ラザフォードの元で原子模型の研究に着手した。
その後、コペンハーゲン大学に戻り、ラザフォードの原子模型の欠点をマックス・プランクの量子仮説を用いて解消し、1913年にボーアの原子模型を確立した。
1921年にコペンハーゲンに理論物理学研究所(ニールス・ボーア研究所)を開き、外国から多くの物理学者を招いてコペンハーゲン学派を成することになる。原子物理学への貢献により1922年にノーベル物理学賞を受賞。
その後も、ヴェルナー・ハイゼンベルクらの後進とともに、量子力学(行列力学)の形成を推進。1926年、エルヴィン・シュレーディンガーが波動力学を発表したときには、コペンハーゲンに招きよせ、討論に疲弊して倒れたシュレーディンガーの病床で議論を続けたことは有名である。議論の場においては決して手を抜かない性格であった。ところが、ハイゼンベルクとは意見が対立するようになり、疲れ果てたボーアは、ノルウェーにスキーに出かけた。
アルベルト・アインシュタインが量子力学に反対するようになると、尊敬するアインシュタインとも論争を続けて説得しようとした。有名なエピソードにマックス・ボルン宛にアインシュタインが書いた手紙("Gott würfelt nicht." 神はサイコロを振らない)に反論した名言("Schreiben Sie Gott nicht vor, was er tun und lassen soll." 神に何をなすべきか、何をなさざるべきかを貴方が語るなかれ)がある。ボーアは社交的な人柄だったので、多くの物理学者から慕われ、量子力学の形成に指導的役割を果たした。
1941年9月、ヴェルナー・ハイゼンベルグから、原爆開発に使う原子炉の図を手渡される。ナチス・ドイツの原爆開発を仄めかしながら、ハイゼンベルグは「技術的努力が必要だが、十分に開発可能」と答えた。同盟国側の研究者達と親交のあったボーアは、ハイゼンベルグがナチス・ドイツに有利な情報を引き出そうとしているのではないかと恐れ、そこで会話を中断。1943年、イギリスの助けにより、秘密裏にナチス・ドイツ占領下のデンマークから出国。同年、ハイゼンベルグから受け取った原子炉の図をロスアラモス研究所の物理学者達に渡した。
第二次世界大戦が始まり、ナチス・ドイツがヨーロッパでの侵略を始めると、ユダヤ人を母に持つボーアはイギリスを経由してアメリカに渡った。
1939年に発表されたボーアの原子核分裂の予想(ウラン235は他のウランの同位体に比べ分裂しやすい)は、原子爆弾開発への重要な理論根拠にされた。しかし、ボーアは軍拡競争を憂慮し、西側諸国にソ連も含めた原子爆弾の管理及び使用に関する国際協定の締結に奔走したが、結局ボーアの願いは叶わなかった。
ボーアの研究は実験物理学から始まった。その後、段々と理論的傾向が強くなった:1911年の博士論文では、金属中の電子を古典論で扱う限り、磁性が生じないことを示した。英国留学中の初期段階では、実験的研究を行っていたが、ラザフォードの下に留学中に理論家に転向した。この時、水素原子のボーア模型の着想を得た。デンマークに帰国後、上記のような水素原子のボーア・モデルを提案し、同時に対応原理を提唱した。また、量子力学の創出に貢献し、相補性の概念を確立した。さらに原子核の液滴模型を改良し、ウラン238でなく235が核分裂を生じやすいことを指摘した。20世紀初頭の物理学に様々な貢献しており、相対性理論の確立者であるアインシュタインと双璧を成すと称される。アインシュタインとは量子力学の基礎論の分野で、多くの議論を戦わせた。アインシュタインが「光子箱」の思考実験を持ち出し、不確定性関係 ΔEΔt > h の成立に異論を唱えると、一般相対性理論を使って ΔEΔt > h を擁護し、アインシュタインに反論した。
業績内容の詳細ついては「ボーア」の項(「ボーアの原子模型」、「ボーアの量子条件」、「ボーア半径」、「ボーア磁子」、「ボーア=ファン・リューエンの定理」)も参照。
ボーアは、量子論の解き明かした粒子と波動の二重性、位置と速度の間の不確定性などの世界像を「相補性」と名付け、後半生には量子物理学と東洋哲学に類似性があるとして東洋哲学、特に易経を研究していた。さらに、次のようにも言っている。「原子物理学論との類似性を認識するためには、われわれはブッダや老子といった思索家がかつて直面した認識上の問題にたち帰り、大いなる存在のドラマのなかで、観客でもあり演技者でもある我々の位置を調和あるものとするように努めねばならない。」その傾倒ぶりは、偉大な功績により、デンマーク最高の勲章であるエレファント勲章を受けた時、「紋章」に選んだのが、陰と陽、光と闇の互いが互いを生み出す様を表した東洋の意匠、太極図であったことからもうかがえる。その紋章は、デンマークのフレデリクスボー城に、世界の王室・元首の紋章とともに飾られている。
1997年に107番元素がボーアの名にちなみ「ボーリウム」と命名された。
ボーアはランタノイドの性質の類似性や3価イオンの色などからランタノイドの電子軌道の構造を推定し(ボーアのランタノイド仮説)、当時未発見だった72番元素はランタノイドではなくジルコニウムに類似したものだと予言してボーア研究所のディルク・コスターとゲオルク・ド・ヘヴェシーにジルコンの分析を提唱。結果発見されたのがハフニウムである。
また、1975年には、息子のオーゲ・ニールス・ボーアもノーベル物理学賞を受賞した。更に、父のクリスティアン・ボーア(Christian Bohr)は、ボーア効果で知られる生理学者である。
小惑星(3948) Bohrはボーアの名前にちなんで命名された。
マイケル・フレインの1998年の戯曲『コペンハーゲン』は、1941年にハイゼンベルクとボーアが会った際に何が起こったのかを探求するという内容である。本戯曲はBBCによってボーア役がスティーヴン・レイ、ハイゼンベルク役がダニエル・クレイグというキャストでテレビドラマ化されており、2002年9月26日に初放映された。BBCの科学ドキュメンタリーシリーズ、『ホライズン』でも同じ1941年の会見が既に1992年にテレビ化されており、ボーア役はアンソニー・ベイト、ハイゼンベルク役はフィリップ・アンソニーであった。。 | [
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"text": "ニールス・ヘンリク・ダヴィド・ボーア(デンマーク語: Niels Henrik David Bohr、1885年10月7日 - 1962年11月18日)は、デンマークの理論物理学者。量子論の育ての親として、前期量子論の展開を指導、量子力学の確立に大いに貢献した。王立協会外国人会員。ユダヤ人。",
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"title": "生涯"
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"text": "アルベルト・アインシュタインが量子力学に反対するようになると、尊敬するアインシュタインとも論争を続けて説得しようとした。有名なエピソードにマックス・ボルン宛にアインシュタインが書いた手紙(\"Gott würfelt nicht.\" 神はサイコロを振らない)に反論した名言(\"Schreiben Sie Gott nicht vor, was er tun und lassen soll.\" 神に何をなすべきか、何をなさざるべきかを貴方が語るなかれ)がある。ボーアは社交的な人柄だったので、多くの物理学者から慕われ、量子力学の形成に指導的役割を果たした。",
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"text": "1941年9月、ヴェルナー・ハイゼンベルグから、原爆開発に使う原子炉の図を手渡される。ナチス・ドイツの原爆開発を仄めかしながら、ハイゼンベルグは「技術的努力が必要だが、十分に開発可能」と答えた。同盟国側の研究者達と親交のあったボーアは、ハイゼンベルグがナチス・ドイツに有利な情報を引き出そうとしているのではないかと恐れ、そこで会話を中断。1943年、イギリスの助けにより、秘密裏にナチス・ドイツ占領下のデンマークから出国。同年、ハイゼンベルグから受け取った原子炉の図をロスアラモス研究所の物理学者達に渡した。",
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"text": "1939年に発表されたボーアの原子核分裂の予想(ウラン235は他のウランの同位体に比べ分裂しやすい)は、原子爆弾開発への重要な理論根拠にされた。しかし、ボーアは軍拡競争を憂慮し、西側諸国にソ連も含めた原子爆弾の管理及び使用に関する国際協定の締結に奔走したが、結局ボーアの願いは叶わなかった。",
"title": "生涯"
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"text": "ボーアの研究は実験物理学から始まった。その後、段々と理論的傾向が強くなった:1911年の博士論文では、金属中の電子を古典論で扱う限り、磁性が生じないことを示した。英国留学中の初期段階では、実験的研究を行っていたが、ラザフォードの下に留学中に理論家に転向した。この時、水素原子のボーア模型の着想を得た。デンマークに帰国後、上記のような水素原子のボーア・モデルを提案し、同時に対応原理を提唱した。また、量子力学の創出に貢献し、相補性の概念を確立した。さらに原子核の液滴模型を改良し、ウラン238でなく235が核分裂を生じやすいことを指摘した。20世紀初頭の物理学に様々な貢献しており、相対性理論の確立者であるアインシュタインと双璧を成すと称される。アインシュタインとは量子力学の基礎論の分野で、多くの議論を戦わせた。アインシュタインが「光子箱」の思考実験を持ち出し、不確定性関係 ΔEΔt > h の成立に異論を唱えると、一般相対性理論を使って ΔEΔt > h を擁護し、アインシュタインに反論した。",
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"title": "業績"
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"text": "ボーアは、量子論の解き明かした粒子と波動の二重性、位置と速度の間の不確定性などの世界像を「相補性」と名付け、後半生には量子物理学と東洋哲学に類似性があるとして東洋哲学、特に易経を研究していた。さらに、次のようにも言っている。「原子物理学論との類似性を認識するためには、われわれはブッダや老子といった思索家がかつて直面した認識上の問題にたち帰り、大いなる存在のドラマのなかで、観客でもあり演技者でもある我々の位置を調和あるものとするように努めねばならない。」その傾倒ぶりは、偉大な功績により、デンマーク最高の勲章であるエレファント勲章を受けた時、「紋章」に選んだのが、陰と陽、光と闇の互いが互いを生み出す様を表した東洋の意匠、太極図であったことからもうかがえる。その紋章は、デンマークのフレデリクスボー城に、世界の王室・元首の紋章とともに飾られている。",
"title": "個人的関心"
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"text": "1997年に107番元素がボーアの名にちなみ「ボーリウム」と命名された。",
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"text": "ボーアはランタノイドの性質の類似性や3価イオンの色などからランタノイドの電子軌道の構造を推定し(ボーアのランタノイド仮説)、当時未発見だった72番元素はランタノイドではなくジルコニウムに類似したものだと予言してボーア研究所のディルク・コスターとゲオルク・ド・ヘヴェシーにジルコンの分析を提唱。結果発見されたのがハフニウムである。",
"title": "後世への影響と記念"
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"text": "また、1975年には、息子のオーゲ・ニールス・ボーアもノーベル物理学賞を受賞した。更に、父のクリスティアン・ボーア(Christian Bohr)は、ボーア効果で知られる生理学者である。",
"title": "後世への影響と記念"
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"text": "小惑星(3948) Bohrはボーアの名前にちなんで命名された。",
"title": "後世への影響と記念"
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"text": "マイケル・フレインの1998年の戯曲『コペンハーゲン』は、1941年にハイゼンベルクとボーアが会った際に何が起こったのかを探求するという内容である。本戯曲はBBCによってボーア役がスティーヴン・レイ、ハイゼンベルク役がダニエル・クレイグというキャストでテレビドラマ化されており、2002年9月26日に初放映された。BBCの科学ドキュメンタリーシリーズ、『ホライズン』でも同じ1941年の会見が既に1992年にテレビ化されており、ボーア役はアンソニー・ベイト、ハイゼンベルク役はフィリップ・アンソニーであった。。",
"title": "ボーアが登場する作品"
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] | ニールス・ヘンリク・ダヴィド・ボーアは、デンマークの理論物理学者。量子論の育ての親として、前期量子論の展開を指導、量子力学の確立に大いに貢献した。王立協会外国人会員。ユダヤ人。 | {{Expand English|Niels Bohr|fa=yes|date=2020年12月}}
{{Infobox scientist
| name = Niels Bohr<br>ニールス・ボーア
| image = Niels Bohr.jpg
| image _size = 200px
| caption = ニールス・ボーア(1922)
| birth_name = Niels Henrik David Bohr
| birth_date = {{birth date|1885|10|7|df=y}}
| birth_place = {{DEN}} [[コペンハーゲン]]
| death_date = {{death date and age|df=yes|1962|11|18|1885|10|7}}
| death_place = {{DEN}} コペンハーゲン
| nationality = {{DEN}}
| field =
| alma_mater = [[コペンハーゲン大学]]<br />[[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]
|thesis_title = Studier over Metallernes Elektrontheori (Studies on the Electron Theory of Metals)
|thesis_url = http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S187605030870015X
|thesis_year =1911
| workplaces = コペンハーゲン大学<br>[[ケンブリッジ大学]]
| doctoral_advisor =
| academic_advisors = [[ジョゼフ・ジョン・トムソン]]<br />[[アーネスト・ラザフォード]]
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| notable_students = [[レフ・ランダウ]]
| known_for = [[ボーア半径]]<br>[[ボーアの量子条件]]
| influenced =
| awards = [[ノーベル物理学賞]](1922)<br>[[コプリ・メダル]](1938)
| signature = Niels Bohr Signature.svg
}}
{{thumbnail:begin}}
{{thumbnail:ノーベル賞受賞者|1922年|ノーベル物理学賞|原子構造とその放射に関する研究}}
{{thumbnail:end}}
'''ニールス・ヘンリク・ダヴィド・ボーア'''({{lang-da|Niels Henrik David Bohr}}<ref>デンマーク語では'''ネルス・ボア'''{{ipa|nels ˈb̥oɐ̯ˀ}}と発音</ref>、[[1885年]][[10月7日]] - [[1962年]][[11月18日]])は、[[デンマーク]]の理論[[物理学者]]<ref>{{cite web
| url = https://www.nobelprize.org/prizes/physics/1922/bohr/biographical/
| title = Niels Bohr The Nobel Prize in Physics 1922 Biography
| accessdate = 2012-10-08}}</ref>。[[量子論]]の育ての親として、[[前期量子論]]の展開を指導、[[量子力学]]の確立に大いに貢献した。[[王立協会]]外国人会員。ユダヤ人。
== 生涯 ==
=== ヨーロッパ時代 ===
[[コペンハーゲン]]に生まれ、[[1903年]]に[[コペンハーゲン大学]]に入学。[[1911年]]に[[イギリス]]へ留学し、[[キャヴェンディッシュ研究所]]にて[[ジョゼフ・ジョン・トムソン]]の下で研究を行った後、[[1911年]]に[[マンチェスター大学]]の[[アーネスト・ラザフォード]]の元で[[原子模型]]の研究に着手した。
その後、コペンハーゲン大学に戻り、[[ラザフォードの原子模型]]の欠点を[[マックス・プランク]]の[[量子仮説]]を用いて解消し、[[1913年]]に[[ボーアの原子模型]]を確立した。
[[1921年]]にコペンハーゲンに理論物理学研究所([[ニールス・ボーア研究所]])を開き、外国から多くの物理学者を招いて[[コペンハーゲン学派 (量子力学)|コペンハーゲン学派]]を成することになる。[[原子物理学]]への貢献により[[1922年]]に[[ノーベル物理学賞]]を受賞。
その後も、[[ヴェルナー・ハイゼンベルク]]らの後進とともに、量子力学([[行列力学]])の形成を推進。[[エルヴィン・シュレーディンガー|1926年、エルヴィン・シュレーディンガー]]が[[波動力学]]を発表したときには、コペンハーゲンに招きよせ、討論に疲弊して倒れたシュレーディンガーの病床で議論を続けたことは有名である。議論の場においては決して手を抜かない性格であった。ところが、ハイゼンベルクとは意見が対立するようになり、疲れ果てたボーアは、ノルウェーにスキーに出かけた。
[[アルベルト・アインシュタイン]]が量子力学に反対するようになると、尊敬するアインシュタインとも論争を続けて説得しようとした。有名なエピソードに[[マックス・ボルン]]宛にアインシュタインが書いた手紙({{Lang|de|"Gott [[wikt:würfelt|würfelt]] nicht."}}<ref name="die_welt_einstein" /> 神はサイコロを振らない)に反論した名言({{Lang|de|"Schreiben Sie Gott nicht vor, was er tun und lassen soll."}}<ref name="die_welt_einstein">[https://www.welt.de/kultur/article154427053/Einstein-mochte-den-Begriff-Relativitaet-nicht.html „Einstein mochte den Begriff ‚Relativität‘ nicht“ - DIE WELT]、2022年4月閲覧。</ref> 神に何をなすべきか、何をなさざるべきかを貴方が語るなかれ)がある。ボーアは社交的な人柄だったので、多くの物理学者から慕われ、量子力学の形成に指導的役割を果たした。
==== 原爆に関して ====
1941年9月、[[ヴェルナー・ハイゼンベルグ]]から、原爆開発に使う原子炉の図を手渡される。[[ナチス・ドイツ]]の原爆開発を仄めかしながら、ハイゼンベルグは「技術的努力が必要だが、十分に開発可能」と答えた。同盟国側の研究者達と親交のあったボーアは、ハイゼンベルグがナチス・ドイツに有利な情報を引き出そうとしているのではないかと恐れ、そこで会話を中断。1943年、[[イギリス]]の助けにより、秘密裏にナチス・ドイツ占領下のデンマークから出国。同年、ハイゼンベルグから受け取った原子炉の図を[[ロスアラモス国立研究所|ロスアラモス研究所]]の物理学者達に渡した。<ref>{{Cite web |title=The Mysterious Meeting between Niels Bohr and Werner Heisenberg |url=http://www.nww2m.com/2011/09/the-mysterious-meeting-between-niels-bohr-and-werner-heisenberg/ |website=The National WWII Museum Blog |date=2011-09-15 |access-date=2022-08-13 |language=en-US |first=Virginia Weinmann |last=says}}</ref>
=== アメリカ時代 ===
[[第二次世界大戦]]が始まり、[[ナチス・ドイツ]]が[[ヨーロッパ]]での侵略を始めると、[[ユダヤ人]]を母に持つボーアは[[イギリス]]を経由して[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に渡った。
[[1939年]]に発表されたボーアの[[原子核分裂]]の予想([[ウラン235]]は他の[[ウランの同位体]]に比べ分裂しやすい)は、[[原子爆弾]]開発への重要な理論根拠にされた。しかし、ボーアは[[軍備拡張競争|軍拡競争]]を憂慮し、[[西側諸国]]に[[ソビエト連邦|ソ連]]も含めた原子爆弾の管理及び使用に関する国際協定の締結に奔走したが、結局ボーアの願いは叶わなかった。
{{See|日本への原子爆弾投下#原子爆弾投下阻止の試みと挫折}}
== 業績 ==
ボーアの研究は実験物理学から始まった。その後、段々と理論的傾向が強くなった<ref>ステファン・ローゼンタール編、豊田利幸訳「ニールス・ボーア-その友と同僚よりみた生涯と業績」(岩波書店、1970年)</ref>:1911年の博士論文では、金属中の電子を古典論で扱う限り、磁性が生じないことを示した。英国留学中の初期段階では、実験的研究を行っていたが、ラザフォードの下に留学中に理論家に転向した。この時、水素原子のボーア模型の着想を得た。デンマークに帰国後、上記のような水素原子のボーア・モデルを提案し、同時に[[対応原理]]を提唱した。また、量子力学の創出に貢献し、[[相補性]]の概念を確立した。さらに原子核の[[液滴模型]]を改良し、[[ウラン238]]でなく[[ウラン235|235]]が核分裂を生じやすいことを指摘した。20世紀初頭の物理学に様々な貢献しており、相対性理論の確立者であるアインシュタインと双璧を成すと称される。アインシュタインとは量子力学の基礎論の分野で、多くの議論を戦わせた。アインシュタインが「光子箱」の思考実験を持ち出し、不確定性関係 {{Math|Δ''E''Δ''t'' > ''h''}} の成立に異論を唱えると、一般相対性理論を使って {{Math|Δ''E''Δ''t'' > ''h''}} を擁護し、アインシュタインに反論した。
業績内容の詳細ついては「[[ボーア]]」の項(「[[ボーアの原子模型]]」、「[[ボーアの量子条件]]」、「[[ボーア半径]]」、「[[ボーア磁子]]」、「[[ボーア=ファン・リューエンの定理]]」)も参照。
{{節スタブ}}
==個人的関心==
[[File:Coat of Arms of Niels Bohr.svg|thumb|ボーアがデザインした勲章]]
ボーアは、[[量子論]]の解き明かした[[粒子と波動の二重性]]、[[位置]]と[[速度]]の間の[[不確定性原理|不確定性]]などの[[世界像]]を「'''[[相補性]]'''」と名付け、後半生には[[量子物理学]]と[[東洋哲学]]に[[類似性]]があるとして東洋哲学、特に易経を研究していた。さらに、次のようにも言っている。「原子物理学論との類似性を認識するためには、われわれは[[ブッダ]]や[[老子]]といった思索家がかつて直面した認識上の問題にたち帰り、大いなる[[存在]]のドラマのなかで、観客でもあり演技者でもある我々の位置を調和あるものとするように努めねばならない。」その傾倒ぶりは、偉大な功績により、[[デンマーク]]最高の[[勲章]]である[[エレファント勲章]]を受けた時、「[[紋章]]」に選んだのが、[[陰]]と[[陽]]、光と闇の互いが互いを生み出す様を表した東洋の意匠、[[太極図]]であったことからもうかがえる。その紋章は、デンマークの[[フレデリクスボー城]]に、世界の王室・元首の紋章とともに飾られている。
== 後世への影響と記念 ==
[[1997年]]に107番[[元素]]がボーアの名にちなみ「[[ボーリウム]]」と命名された。
ボーアは[[ランタノイド]]の性質の類似性や3価イオンの色などから[[ランタノイド]]の[[電子軌道]]の構造を推定し(ボーアのランタノイド仮説)、当時未発見だった72番元素はランタノイドではなく[[ジルコニウム]]に類似したものだと予言してボーア研究所の[[ディルク・コスター]]と[[ゲオルク・ド・ヘヴェシー]]に[[ジルコン]]の分析を提唱。結果発見されたのが[[ハフニウム]]である[http://www.ielement.org/hf.html]。
また、[[1975年]]には、息子の[[オーゲ・ニールス・ボーア]]も[[ノーベル物理学賞]]を受賞した。更に、父の[[クリスティアン・ボーア]](Christian Bohr)は、[[ボーア効果]]で知られる生理学者である。
[[小惑星]][[ボーア (小惑星)|(3948) Bohr]]はボーアの名前にちなんで命名された<ref>{{cite web|url=https://minorplanetcenter.net/db_search/show_object?object_id=3948|title=(3948) Bohr = 1975 TG5 = 1975 VH7 = 1978 NR1 = 1981 JF = 1985 RF|publisher=MPC|accessdate=2021-09-23}}</ref>。
== 受賞歴 ==
*1905年 液体の表面張力の実験的研究でデンマーク王立科学アカデミーから金メダル
*1921年 [[ヒューズ・メダル]]
*1923年 [[マテウチ・メダル]]
*1925年 [[バーナード・メダル]]
*1926年 [[フランクリン・メダル]]
*1930年 [[マックス・プランク・メダル]]
*1938年 [[コプリ・メダル]]
*1958年 [[ラザフォードメダル賞]]
*1961年 [[ヘルムホルツ・メダル]]
== エピソード ==
*<!--1908年ロンドンオリンピック、サッカーデンマーク代表選手(非補欠登録GK)-->アマチュアサッカー選手出身、{{Lang|dan|Akademisk Boldklub}}([[ABコペンハーゲン]])ゴールキーパー<ref>{{cite news|last=Dart|first=James|date=27 July 2005|url=http://www.guardian.co.uk/football/2005/jul/27/theknowledge.panathinaikos|title=National service for footballers|work=The Guardian|location=London|accessdate=8 October 2012}}</ref>。なお、ボーアは若い頃[[サッカー]]が得意だったが、デンマーク正代表選手として[[ロンドンオリンピック (1908年)|オリンピック]]に出場し銀メダルを獲得したのは弟の[[ハラルト・ボーア]]である<ref>同上 文献4</ref>。ハラルトは[[数学者]]で、[[ベルンハルト・リーマン|リーマン]]の[[リーマンゼータ函数|ゼータ関数]]を研究し、また[[概周期函数]]を発見した。文武両道のハラルトに比べ、数学の虫だったニールスはサッカーの試合で失点する度に「ニールスはゴールキーパーなのに頭の中は数学の事でいっぱいだからシュートが止められない」と数学好きと絡めて茶化され、果てには「紙に数式をメモしている間にゴールされてしまった」という逸話がジョークとして残っている。1908年ロンドンオリンピックは欠員が出た場合の予備選手として声がかかっていたが本選には招集されていない。
*弟は2歳年下であったが、ボーアの博士号取得の前年に22歳で博士号を取得した<ref name="名前なし-1">同上 文献3</ref>。誰もが名声を得るのは弟の方だろうと思っていたが、後年世界的に有名になったのは兄の方であった(しかし、弟は若い時分からそうなることを予見し、周囲にもそう言っていた)。
*論文原稿は、いつも徹底的に書き直し完璧を目指した(改訂の回数は十指に余った)。しかし、苦労して完成させた原稿は、非常に深遠ではあるが、明快とは言い難いものであった<ref>エミリオ・セグレ著、久保亮五、矢崎裕二訳「X線からクォークまで」(みすず書房、1982年)</ref>。
*手紙を書く場合も上記の流儀を通した。ある日、弟がニールスの机の上で見つけた手紙(弟には完全に出来上がっているように見えた)を投函しないのか尋ねたところ、「それは、下書きのための第1草稿だよ」と答えた<ref name="名前なし-1"/>。
*[[口述筆記]]で原稿を作成することも多く、仲間がボーアの口述を筆写した。口述筆記で作成した講演会の原稿(徹底的な改訂を加えたもの)をいつも事前に準備していたが、いざ登壇すると、原稿を一切無視した講演を行い、仲間を仰天させた<ref>アブラハム・パイス著、杉山 滋郎、伊藤 伸子訳「物理学者たちの20世紀-ボーア、アインシュタイン、オッペンハイマーの思い出」 (朝日新聞社、2004年)</ref>。
*[[英語]]力は[[英文学]]を読んで上達させたため、文法的に正しい英語を書くことはできたが、会話はデンマーク訛りが強かった<ref>[http://www.mediatheque.lindau-nobel.org/videos/31564/1962-atomic-physics-and-human-knowledge/laureate-bohr リンダウ会議のボーア講演 録音(1962年)]</ref>。ある時、理論物理学者のリチャード・[[ファインマン]]は兵役検査で精神科医の「聞こえるはずがない声を聞いた事があるか」という質問にいたずら心を出して、デンマーク訛りの英語を[[声帯模写]](ボーアを真似)した結果、「適性不良」として兵役検査から落とされた。
*1937年(昭和12年)に来日した際<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=Gty26kHct-g 「ニールス・ボーア博士の見た東北大学」(東北大学史料館所蔵フィルム、2006年)]</ref>、観光で見た富士山の姿を相補性原理の説明に使ったことがある<ref>長島要一著「ニールス・ボーアは日本で何を見たか:量子力学の巨人、一九三七年の講演旅行」(平凡社、2013年)</ref>。
==ボーアが登場する作品==
[[マイケル・フレイン]]の1998年の戯曲『[[コペンハーゲン (戯曲)|コペンハーゲン]]』は、1941年にハイゼンベルクとボーアが会った際に何が起こったのかを探求するという内容である<ref>{{cite web |url=http://www.complete-review.com/reviews/fraynm/cophagen.htm |title=Copenhagen – Michael Frayn |publisher=The Complete Review |accessdate=27 February 2013 }}</ref>。本戯曲は[[BBC]]によってボーア役が[[スティーヴン・レイ]]、ハイゼンベルク役が[[ダニエル・クレイグ]]というキャストでテレビドラマ化されており、2002年9月26日に初放映された。BBCの科学ドキュメンタリーシリーズ、『ホライズン』でも同じ1941年の会見が既に1992年にテレビ化されており、ボーア役はアンソニー・ベイト、ハイゼンベルク役はフィリップ・アンソニーであった。<ref>''Horizon: Hitler's Bomb'', [[BBC Two]], 24 February 1992</ref>。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 著作 ==
*{{Cite book|和書|editor=[[大学書林]]編輯部編|year=1941|title=原子論と力学|publisher=大学書林}}
*{{Cite book|和書|others=[[玉木英彦]]ほか訳解説|year=1988|month=4|title=国連への公開状 1950年6月9日|series=Publication no.29|publisher=仁科記念財団}}
*{{Cite book|和書|others=[[井上健 (物理学者)|井上健]]訳|year=1990|month=3|title=原子理論と自然記述|publisher=みすず書房|isbn=4-622-02544-2}}
**{{Cite book|和書|others=井上健訳|year=2008|month=1|title=原子理論と自然記述|edition=新装版|publisher=みすず書房|isbn=978-4-622-07357-4}}
*{{Cite book|和書|others=[[山本義隆]]編訳|year=1999|month=4|title=因果性と相補性|series=岩波文庫 ニールス・ボーア論文集 1|publisher=岩波書店|isbn=4-00-339401-1}}
*{{Cite book|和書|others=山本義隆編訳|year=2000|month=4|title=量子力学の誕生|series=岩波文庫 ニールス・ボーア論文集 2|publisher=岩波書店|isbn=4-00-339402-X}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2017年10月|section=1}}
*{{Cite book|和書|author=西尾成子|authorlink=西尾成子|title=現代物理学の父ニールス・ボーア ''開かれた研究所から開かれた世界へ''|date=|year=1993|publisher=[[中公新書]]}}
== 関連項目 ==
* [[ボーア半径]]
* [[ボーアの量子条件]]
* [[仁科芳雄]]
== 外部リンク ==
{{Commons|Niels Henrik David Bohr}}
* [https://archive.org/details/Niels_Bohr ボーアの紹介動画] - [[インターネットアーカイブ]]
* [https://kotobank.jp/word/%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%A2-131511 ボーアとは]([[コトバンク]])
* {{Wayback|url=http://spaceinfo.jaxa.jp/ja/niels_bohr.html |title=宇宙情報センター / SPACE INFORMATION CENTER :ニールス・ボーア |date=20120928081232}}
* {{青空文庫|001163|43657|旧字旧仮名|NIELS BOHR}}([[仁科芳雄]]著)
{{ノーベル物理学賞受賞者 (1901年-1925年)}}
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[[Category:ニールス・ボーア|*]]
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9,442 | シンボリック相互作用論 | シンボリック相互作用論(シンボリックそうごさようろん、Symbolic Interactionism)とは、1960年代初頭にアメリカの社会学者H・G・ブルーマーが提唱した、社会学的・社会心理学的パースペクティブの1つである。人間間の社会的相互作用(相互行為)、特にシンボリックな相互作用(symbolic interaction)を主たる研究対象とし、そうした現象を「行為者の観点」から明らかにしようとするものである。
シンボリック相互作用論(シンボリック相互行為論)は通常、その歴史的由来をジョージ・ハーバート・ミードの業績に遡ることが出来る。ミードは生前数多くの論文を執筆したが、ミードのシンボリック相互作用論に対する影響の大部分は、彼の講義を聴講していた学生らによる講義録やメモの出版を通じて、あるいは当時ミードに学んだ学生の一人であったブルーマーによるミード解釈を通じて及ぼされたと言われている。ブルーマーは、主として1950年代と1960年代に数多くの論文を執筆し、シンボリック相互作用論の体系化を図った。
ブルーマーのシンボリック相互作用論が、タルコット・パーソンズを中心とする構造機能主義社会学や、G・A・ランドバーグを中心とする社会学的実証主義(操作主義)を批判し、それに代わる分析枠組や研究手法を発展させようとしたことは良く知られている。とりわけ、その分析枠組に関しては、これまでの日本の研究においては、それが提示する「動的社会」観が高く評価されてきた。すなわち、社会を、「主体的人間」によって、形成・再形成される「流動的な過程」ないしは「変動的」「生成発展的」なものと捉える、そうした社会観が高く評価されてきた。
当初「シンボリック相互作用論」と言えば、それは「ブルーマー」と同義という時代がしばらくの間続いた。とはいえその後、1970年代、1980年代になると、シンボリック相互作用論を担う新しい「リーダーとして」、ノーマン・デンジン、タモツ・シブタニ、アンセルム・ストラウス、ラルフ・ターナー、ハワード・ベッカー、ヒュー・ダンカン、S・ストライカー、ゲイリー・ファインなどが登場し、この理論の新たな方向性が模索されるとともに、ブルーマーの理論化に対する種々の批判が展開されるに至り、従来からのシンボリック相互作用論とこれら新たなリーダーたちのシンボリック相互作用論との間で活発な相互影響過程が生じた。1980年代にはさらに、アーヴィング・ゴッフマンが登場し、「ドラマツルギー」と呼ばれる手法が提示された。
アメリカ社会学においては、この手法はSIと呼ばれ、SIにもとづいた幼児集団の観察など、社会心理学的な実証研究や小集団研究が一時期は盛んに行われた。ただ、質的研究や質的な社会調査は、的確な分析結果をもとに成果を発表することが難しく、研究者にとっては発表論文数が少なくなりがちとなる。このことから、かならずしも研究者の評価にはつながらず、競争が厳しいアメリカ社会学においては全般的に沈滞気味であり、研究例は減少傾向にあると言わざるをえない。
ブルーマーによれば、シンボリック相互作用論は以下の3つの基本的「前提」を共有するパースペクティブを指す(Blumer 1969: 2=1991: 2)。
人々は日常生活において、身のまわりの現実を構成する様々な事物(「事柄」(thing))に種々の「意味」(meaning)を付与しながら(あるいは前もって付与した上で)、その現実に働きかけ(=行為、社会的行為)を行っている(第1前提)。換言するならば、人間は、自らと現実との間に「意味」をはさんで生活している、とも言える。ブルーマーは、そうした意味が付与された事物を「対象」(object)と、その対象からのみ構成される領域を「世界」(world)と呼んで、「現実の世界」(world of reality)から区別している。人間は「世界」のなかで生活しているのであって、「現実の世界」のなかで生活しているわけではない。どのような対象が構成されるかは、その対象をめぐってどのような社会的相互作用が営まれるかに依存している。たとえば一本の「木材」は、これから野球をやろうとする人々の間では<バット>という対象になるかも知れないし、山で遭難したグループのなかでは<たき火の薪>という対象になるかも知れない。事物の意味は事物それ自体にあらかじめ備わっているわけではないし(=実在論の否定)、また、ある一個人が恣意的に「我思うゆえに」付与しているわけでもない(=観念論の否定)(第2前提)。その事物がどういう対象として構築されるかで、その対象(というよりも対象となる事物)に対する働きかけ方も異なってくる(第1前提)。ブルーマーは対象を、物的対象・社会的対象・抽象的対象の3つに分類しているが、上記のこと(第2前提)は、どの対象についても当てはまることである。とはいえ、先行する社会的相互作用を通じて生み出された対象に対して、人々は既存の意味とは異なる意味を付与する可能性がある(第3前提)。「夫婦同姓制度」(事物)は<当たり前>(意味a)ではなく、それは日本国憲法第13条の理念に反する<社会問題的状態である>(意味b)と主張する人々は、「夫婦同姓制度」=<当たり前>という社会的対象に「違和感」という新しい意味を付与した人々だ、と捉えることが出来る。
上記の3つの前提のうち、とりわけ第3の前提は、シンボリック相互作用論が捉える「人間観」を考える上で非常に重要なものである。
ブルーマーは、人間というものを概念化する上で、その「活動的」(active)な性格をとりわけ重要視した。人間とは、自らの外部や内部から自分に寄せられる(と社会科学一般において想定されている)種々の刺激に対して「ただ単に反応する」(merely respond)、という「消極的」(passive)な存在ではない。むしろ人間は、そうした刺激を自らに「表示」(indication)し、それを「解釈」(interpretation)することで、その刺激が自らにとって持つ意味を再構成する可能性を常に秘めた存在である。換言するならば、人間とその行動は、「刺激→反応」という図式において捉えられべきではなく、「刺激→解釈→反応」という図式において捉えられるべきなのである。人間は、自らを取り巻く現実の世界に「対峙する」存在として、その行動は自動的に「解放ないしは放出」(release)されるものとしてではなく、解釈という営みによって漸進的に「構築」される(constructed)ものとして捉えられなければならない。こうしたブルーマーによる(シンボリック相互作用論による)人間の捉え方は、一方で心理学におけるワトソン流の「行動主義」(behaviorism)を、他方で社会学における「社会化過剰の人間観」を強く論敵として意識したものである。
「個人と社会」の関係について、シンボリック相互作用論は、社会が人間を規定する側面よりも、人間が社会を規定する側面を強調している。社会とは、解釈を行う人びと(「主体的人間」)によって、日々形成・再形成を経験している「動的」で「過程的」なものと捉えられなければならない(「動的社会」観)。決して、静態的で不動な社会が、人びとを一方的に「社会化」し「社会統制」の檻に閉じ込めているわけではない。シンボリック相互作用論の「社会観」の内実を、ブルーマーは以下のように要約している。
人間の社会は、そこに暮らす人々による社会的相互作用が幾重にも折り重なったものと捉えることが出来る。そうした人々の社会的相互作用は、そこに参与する個々人の解釈過程に媒介されている。であるならば、「方法論」として、社会を研究する社会学者たちは、そうした個々人の解釈過程の内側に入りこまなければならないことになる。ここからシンボリック相互作用論者たちは、研究姿勢としての「行為者の観点」からのアプローチを強調する。このアプローチにはしばしば「ヒューマン・ドキュメント」などの質的(定性的)資料が用いられることになる。 | [
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] | シンボリック相互作用論とは、1960年代初頭にアメリカの社会学者H・G・ブルーマーが提唱した、社会学的・社会心理学的パースペクティブの1つである。人間間の社会的相互作用(相互行為)、特にシンボリックな相互作用を主たる研究対象とし、そうした現象を「行為者の観点」から明らかにしようとするものである。 | '''シンボリック相互作用論'''(シンボリックそうごさようろん、Symbolic Interactionism)とは、[[1960年代]]初頭にアメリカの[[社会学者]][[ハーバート・ジョージ・ブルーマー|H・G・ブルーマー]]が提唱した<ref>ブルーマー自身によれば、彼がこの立場を「構築」したのは1937年のことである。とはいえ、この立場をブルーマー自身の立場として名実ともに「提唱」したのは1969年のことである。那須壽、1995年「現代のシンボリック相互作用論者--ブルーマー」船津衛・宝月誠編『シンボリック相互作用論の世界』恒星社厚生閣、参照。</ref>、[[社会学]]的・[[社会心理学]]的[[パースペクティブ]]の1つである。人間間の[[社会的相互作用]](相互行為)、特にシンボリックな[[相互作用]](symbolic interaction)を主たる研究対象とし、そうした現象を「行為者の観点」から明らかにしようとするものである<ref>桑原司、2003年「[https://web.archive.org/web/20120724073859/http://www.cc.kagoshima-u.ac.jp/about/information/ccc_kouhou_2003_no16.html 『シンボリック相互作用論ノート』のWeb公開について]」『鹿児島大学総合情報処理センター「広報」』No.16、参照。</ref>。
== 概要(歴史的流れ) ==
シンボリック相互作用論(シンボリック相互行為論)<ref>大別して「シカゴ学派」「アイオワ学派」「イリノイ学派」「ドラマ学派」の4つに分けられる。次を参照のこと。船津衛、1995年「シンボリック相互作用論の特質」船津衛・宝月誠編『シンボリック相互作用論の世界』恒星社厚生閣。</ref>は通常、その歴史的由来を[[ジョージ・ハーバート・ミード]]の業績に遡ることが出来る<ref>ミードの「[[自我]]の社会性」からブルーマーのシンボリック相互作用論への系譜については、次を参照のこと。船津衛、1983年『自我の社会理論』恒星社厚生閣。</ref>。ミードは生前数多くの論文を執筆したが、ミードのシンボリック相互作用論に対する影響の大部分は、彼の講義を聴講していた学生らによる講義録やメモの出版を通じて、あるいは当時ミードに学んだ学生の一人であったブルーマーによるミード解釈を通じて及ぼされたと言われている。ブルーマーは、主として[[1950年代]]と1960年代に数多くの論文を執筆し、シンボリック相互作用論の体系化を図った<ref>その間に書かれた論文から11本の論文を収録し(第2章~第12章)、[[1969年]]に出版されたのが、Blumer (1969=1991)である。ちなみに同書の第1章は、1963年脱稿の書き下ろしである。次を参照のこと。内田健、2007年「私たちはSIで何ができるか--言葉の歩みをふりかえりながら」東北社会学研究会『社会学研究』第82号。</ref><ref>以上のことからシンボリック相互作用論は、ミードが創始者であり、ブルーマーによって提唱・確立されたという見方もある。</ref>。
ブルーマーのシンボリック相互作用論が、[[タルコット・パーソンズ]]を中心とする[[構造機能主義]]社会学や、G・A・ランドバーグを中心とする社会学的実証主義([[操作主義]])を批判し、それに代わる分析枠組や研究手法を発展させようとしたことは良く知られている。とりわけ、その分析枠組に関しては、これまでの[[日本]]の研究においては、それが提示する「動的社会」観が高く評価されてきた。すなわち、社会を、「主体的人間」によって、形成・再形成される「流動的な過程」ないしは「変動的」「生成発展的」なものと捉える、そうした社会観が高く評価されてきた<ref>日本におけるシンボリック相互作用論の紹介は、船津衛、1976年『シンボリック相互作用論』[[恒星社厚生閣]]を嚆矢とする。</ref>。
当初「シンボリック相互作用論」と言えば、それは'''「ブルーマー」と同義'''という時代がしばらくの間続いた。とはいえその後、1970年代、1980年代になると、シンボリック相互作用論を担う新しい「リーダーとして」<ref>あくまで「リーダーとして」。学界へのシンボリック相互作用論者としての登場それ自体について言うならば、シブタニは[https://hdl.handle.net/10232/18398 1955年]、ベッカーは1963年(『アウトサイダーズ』)、[[ストラウス]]は1959年(『鏡と仮面』)と考えられ、ブルーマー(Blumer 1969)よりも早かったとさえ言える。このことはゴフマン(1959)(『行為と演技』)についても言えることである。</ref>、[[ノーマン・デンジン]]、[[タモツ・シブタニ]]、[[アンセルム・ストラウス]]、[[ラルフ・ターナー]]、[[ハワード・ベッカー]]、[[ヒュー・ダンカン]]、S・ストライカー、ゲイリー・ファインなどが登場し、この理論の新たな方向性が模索されるとともに、ブルーマーの理論化に対する種々の批判が展開されるに至り、従来からのシンボリック相互作用論とこれら新たなリーダーたちのシンボリック相互作用論との間で活発な相互影響過程が生じた。[[1980年代]]にはさらに、[[アーヴィング・ゴッフマン]]が登場し、「[[ドラマツルギー (社会学)|ドラマツルギー]]」と呼ばれる手法が提示された。
[[アメリカ社会学]]においては、この手法は'''SI'''と呼ばれ、SIにもとづいた幼児集団の観察など、[[社会心理学]]的な実証研究や[[小集団研究]]が一時期は盛んに行われた。ただ、[[定性的研究|質的研究]]や質的な[[社会調査]]は、的確な分析結果をもとに成果を発表することが難しく、研究者にとっては発表論文数が少なくなりがちとなる。このことから、かならずしも研究者の評価にはつながらず、競争が厳しいアメリカ社会学においては全般的に沈滞気味であり、研究例は減少傾向にあると言わざるをえない。
==シンボリック相互作用論における「前提」・「人間観」・「社会観」・「方法論」==
ブルーマーによれば、シンボリック相互作用論は以下の3つの基本的「'''前提'''」を共有するパースペクティブを指す(Blumer 1969: 2=1991: 2)。
#人間は、ある事柄が自分にとって持つ意味にもとづいて行為する。
#そうした事柄の意味は、その人間がその相手と執り行う社会的相互作用から発生する、ないしは導出される。
#そうした事柄の意味は、その事柄に対処する際にその人間が活用する解釈過程(=自分自身との相互作用)の過程を通じて、取り扱われたり、修正されたりする。
人々は日常生活において、身のまわりの現実を構成する様々な事物(「事柄」(thing))に種々の「意味」(meaning)を付与しながら(あるいは前もって付与した上で)、その現実に働きかけ(=行為、社会的行為)を行っている(第1前提)。換言するならば、人間は、自らと現実との間に「意味」をはさんで生活している、とも言える。ブルーマーは、そうした意味が付与された事物を「対象」(object)と、その対象からのみ構成される領域を「世界」(world)と呼んで、「現実の世界」(world of reality)<ref>「事物」それ自体の集まりから構成される領域を指す。</ref>から区別している。人間は「世界」のなかで生活しているのであって、「現実の世界」のなかで生活しているわけではない<ref>ここで言う「意味」とは、[[ストラウス]]の言う「名前」に相当する。次の文献を参照のこと。皆川満寿美、1989年「社会過程の社会学--ヒューズ」片桐雅隆編『意味と日常世界』世界思想社。</ref>。どのような対象が構成されるかは、その対象をめぐってどのような社会的相互作用が営まれるかに依存している。たとえば一本の「木材」<ref>これ自体も<木材>という対象ではあるが。</ref>は、これから野球をやろうとする人々の間では<バット>という対象になるかも知れないし、山で遭難したグループのなかでは<たき火の薪>という対象になるかも知れない。事物の意味は事物それ自体にあらかじめ備わっているわけではないし(=[[実在論]]の否定)、また、ある一個人が恣意的に「我思うゆえに」付与しているわけでもない(=[[観念論]]の否定)(第2前提)。その事物がどういう対象として構築されるかで、その対象(というよりも対象となる事物)に対する働きかけ方も異なってくる(第1前提)。ブルーマーは対象を、物的対象・社会的対象・抽象的対象の3つに分類しているが、上記のこと(第2前提)は、どの対象についても当てはまることである<ref>社会のなかに存在するある一定の「社会状態」(事物)が<社会問題>(社会的対象)となるか否かは、その社会状態それ自体に求められるというよりも、その状態をめぐる社会的相互作用(「集合的定義の過程」)に求められる。次の文献を参照のこと。Blumer 1971=2006年、桑原司(解説)山口健一(訳)「[https://hdl.handle.net/10232/6922 集合行動としての社会問題]」鹿児島大学経済学会『経済学論集』第66号。木原綾香・桑原司、2012年「[http://id.nii.ac.jp/1066/00000157/ 社会問題研究とリアリティ]」『九州地区国立大学教育系・文系研究論文集』第6巻第1号。</ref><ref>また、「ブルーマーのシンボリック相互作用論」(事物)は、その後の種々の批判のなかで(学界における社会的相互作用)、<様々な理論化>(抽象的対象群)を生み出した。</ref>。とはいえ、先行する社会的相互作用を通じて生み出された対象に対して、人々は既存の意味とは異なる意味を付与する可能性がある(第3前提)。「夫婦同姓制度」(事物)は<当たり前>(意味a)ではなく、それは日本国憲法第13条の理念に反する<社会問題的状態である>(意味b)と主張する人々は、「夫婦同姓制度」=<当たり前>という社会的対象に「違和感」という新しい意味を付与した人々だ、と捉えることが出来る<ref>草柳千早、2004年『「曖昧な生きづらさ」と社会』世界思想社、参照。だからといって、人びとは日常生活において、自由に(フリーハンドに)、あるいは気の向くままに既存の意味を変更できる、とブルーマーやほかのシンボリック相互作用論者たちが考えていたわけではない。事物の意味(対象)は、常に、多様な人びとの間の社会的相互作用という「異なる意味付与の競合」のなかで練り上げられていくものである。次を参照のこと。徳川直人、2002年「相互行為とイデオロギー」伊藤勇・徳川直人編『相互行為の社会心理学』北樹出版。</ref>。
上記の3つの前提のうち、とりわけ第3の前提は、シンボリック相互作用論が捉える「'''人間観'''」を考える上で非常に重要なものである。
ブルーマーは、人間というものを概念化する上で、その「活動的」(active)な性格をとりわけ重要視した<ref>船津衛の言う「主体的人間」観に相当する。</ref>。人間とは、自らの外部や内部から自分に寄せられる(と社会科学一般において想定されている)種々の刺激に対して「ただ単に反応する」(merely respond)、という「消極的」(passive)な存在ではない<ref>船津衛の言う「受身的人間」観に相当する。</ref>。むしろ人間は、そうした刺激を自らに「表示」(indication)し、それを「解釈」(interpretation)することで、その刺激が自らにとって持つ意味を再構成する可能性を常に秘めた存在である。換言するならば、人間とその行動は、「刺激→反応」という図式において捉えられべきではなく、「刺激→解釈→反応」という図式において捉えられるべきなのである。人間は、自らを取り巻く現実の世界に「対峙する」存在として、その行動は自動的に「解放ないしは放出」(release)されるものとしてではなく、解釈という営みによって漸進的に「構築」される(constructed)ものとして捉えられなければならない。こうしたブルーマーによる(シンボリック相互作用論による)人間の捉え方は、一方で心理学におけるワトソン流の「[[行動主義]]」(behaviorism)を、他方で社会学における「[[社会化過剰の人間観]]」を強く論敵として意識したものである<ref>船津衛、1993年「ブルーマーの社会学とその『人間観』的基礎」東北社会学研究会『社会学研究』第60号、参照。</ref>。
「[[個人と社会]]」の関係について、シンボリック相互作用論は、社会が人間を規定する側面よりも、人間が社会を規定する側面を強調している。社会とは、解釈を行う人びと(「主体的人間」)によって、日々形成・再形成を経験している「動的」で「過程的」なものと捉えられなければならない(「動的社会」観)。決して、静態的で不動な社会<ref>「静的社会」観</ref>が、人びとを一方的に「社会化」し「社会統制」の檻に閉じ込めているわけではない。シンボリック相互作用論の「'''社会観'''」の内実を、ブルーマーは以下のように要約している。
{{Quotation|このアプローチ〔=シンボリック相互作用論〕では、・・・・人々は、その中で、展開途中にある自らの行為を互いに適合させ合わなければならないような、巨大な相互作用過程の中にいるものとして理解される。この相互作用過程は、他者〔たち〕に対して何をするべきかに関する表示をおこない、また、他者からの表示を解釈する<ref>このときに生じる解釈の形式が「考慮の考慮」(taking into account of taking into account)である。次を参照のこと。桑原司・油田真希、2011年「[http://id.nii.ac.jp/1066/00000124/ シンボリック相互作用論序説]」『九州地区国立大学教育系・文系研究論文集』第5巻第1号。</ref>ということから成り立っている。彼等は対象<ref>「対象」(object)とは、「事柄」(thing)と「意味」(meaning)からなり、その事柄の意味とは、その事柄がある一定の「パースペクティブ」(perspective)から捉えられた、その捉えられ方を指している。</ref>からなる世界に住んでおり、この対象の意味によって、自らの適応活動や行為に方向づけが与えられる。彼等の対象は、自分自身という対象も含めて、彼等が互いに相互作用することを通じて、形成されたり、維持されたり、弱められたり、変容されたりしてゆく。・・・・人々は互いに異なった様式でアプローチし、異なった世界に住み、異なった意味のセットに基づいて、自らの行為を方向づけてゆく。にもかかわらず、研究されているのが、家族であれ、少年非行のグループであれ、企業であれ、政党であれ、我々はそこに、表示と解釈の過程を通して形成されるものとして集合体の活動を見出さなくてはならないのである。|Blumer|(1969) 20-21=(1991)26-27}}
人間の社会は、そこに暮らす人々による社会的相互作用が幾重にも折り重なったものと捉えることが出来る<ref>[[ジンメル]]の「[[社会化の形式]]」の議論を参照のこと。ジンメルの思想は、[[シカゴ学派 (社会学)|シカゴ学派社会学]]のみならず、シンボリック相互作用論にも継承されている。</ref>。そうした人々の社会的相互作用は、そこに参与する個々人の解釈過程に媒介されている。であるならば、「'''方法論'''」として、社会を研究する社会学者たちは、そうした個々人の解釈過程の内側に入りこまなければならないことになる。ここからシンボリック相互作用論者たちは、研究姿勢としての'''「行為者の観点」からのアプローチ'''を強調する<ref>船津(1976: 68-77, 87-92)、参照。</ref>。このアプローチにはしばしば「ヒューマン・ドキュメント」などの質的(定性的)資料が用いられることになる<ref>桑原司、2013年「[http://id.nii.ac.jp/1066/00000168/ シンボリック相互作用論の方法論的立場]」『九州地区国立大学教育系・文系研究論文集』第6巻第2号、参照。</ref>。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[定性的研究]] ([[:en:Qualitative research]]) - [[定量的研究]] ([[:en:Quantitative research]])
* [[自我]]
* [[社会的相互作用]]
* [[プラグマティズム]]
* [[シカゴ学派 (社会学)|シカゴ学派]]
* [[社会構築主義]]
* [[社会学]]
* [[社会心理学]]
== 参考文献 ==
I)翻訳(ブルーマーの著作)
* [[ハーバート・ジョージ・ブルーマー|ハーバート・ブルーマー]]([[後藤将之]]訳)『シンボリック相互作用論-パースペクティヴと方法』[[勁草書房]]、1991年<ref>なお、本書の第6章については、既に次の文献にその邦訳が収録されている。W.I. トーマス・F. ズナニエツキ著、(桜井厚訳)『生活史の社会学-ヨーロッパとアメリカにおけるポーランド農民』御茶の水書房、1983年</ref>、ISBN 432660073X。
: 原書は、Blumer, H.G., ''Symbolic Interactionism: Perspective and Method'', [[Prentice - Hall]], 1969. なお、ペーパーバック版としては次のものがある。Blumer, ''Symbolic Interactionism: Perspective and Method'', University of California Press, 1986. ISBN 0520056760.
*[[ハーバート・ジョージ・ブルーマー|ハーバート・ブルーマー]]([[片桐雅隆]]ほか訳)『産業化論再考-シンボリック相互作用論の視点から』[[勁草書房]]、1995年。ISBN 9784326601011。
: 原書は、Maines, D.R., and T.J.Morrione (ed.), ''Industrialization as an Agent of Social Change'', Aldine de Gruyter, 1990.
*[[ハーバート・ジョージ・ブルーマー|ハーバート・ブルーマー]](山口健一訳)「[https://ci.nii.ac.jp/naid/120001394128 集合行動としての社会問題]」[[鹿児島大学]]経済学会『経済学論集』第66号、2006年。{{ISSN|0389-0104}}。
: 原書は、Blumer H.G., Social Problems as Collective Behavior, ''Social Problems'', 18(Winter), 1971.
II)日本語文献<!--以下は被引用度順-->
* [[船津衛]]『シンボリック相互作用論』[[恒星社厚生閣]]、1976年。
* [[船津衛]]『アメリカ社会学の展開』恒星社厚生閣、1999年。 ISBN 9784769908913。
* 船津衛・[[宝月誠]]編著『シンボリック相互作用論の世界』[[恒星社厚生閣]]、1995年。 ISBN 4769908091。
* 中野正大・宝月誠編著『シカゴ学派の社会学』世界思想社、2003年。ISBN 9784790710295。
* [[片桐雅隆]]編著『意味と日常世界』[[世界思想社]]、1989年。 ISBN 4790703479。
*片桐雅隆『変容する日常世界』世界思想社、1991年。ISBN 9784790704058。
* 伊藤勇・[[徳川直人]]編著『相互行為の社会心理学』[[北樹出版]]、2002年。ISBN 9784893848710。
* [[草柳千早]]「ブルーマーとシンボリック相互作用論--経験的・社会的世界への接近--」[[那須壽]]編『クロニクル社会学--人と理論の魅力を語る--』[[有斐閣]]<有斐閣アルマ>、1997年。 ISBN 4641120412。
* 内田健「[http://jairo.nii.ac.jp/0069/00005361 ミクロ-マクロ問題-相互行為論からのアプローチ]」『人間科学研究』第9号、1996年。
==脚注(参考文献)==
<references/>
== 外部リンク ==
* [http://www.espach.salford.ac.uk/sssi/ シンボリック相互作用論学会(SSSI)]
* [http://www.sal.tohoku.ac.jp/soc/cgi-bin/wiki.cgi?page=%A1%D8%BC%D2%B2%F1%B3%D8%B8%A6%B5%E6%A1%D9%C2%E882%B9%E6 シンボリック相互作用論の刷新]
* [https://symbolic-interactionism-jp.blogspot.com/ シンボリック相互行為論研究会]
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9,443 | 音声学 | 音声学(おんせいがく、羅: phonetica、英: phonetics)とは、音声について科学的に研究する言語学の一分野である。
音声学は、音声の正確な観察とその記述、および音声が生じる過程や機構の解明をねらいとしており、「人間が音声を使ってコミュニケーションをとる時に何が起きているか」を科学的に研究する学問である。1) 発音、2) 空気振動による伝播、3) 聴き取り、という観点から、調音音声学、音響音声学、聴覚音声学の三分野に分けられ研究されている。言語学の立場や方法には調音音声学を中心に用いる。
また、発声器官に関する医学的研究も音声学に含まれることがある。
調音音声学は人類史の中で非常に長い歴史を持っている。その発端は、紀元前4~5世紀に古代インドで行われていたサンスクリット語の研究であるとされている。
16世紀~18世紀には、イギリスで古典的な音声学が誕生し、19世紀から発達した。この頃に活躍したイギリスの音声学の研究者として、Sir Isaac Pitman, Alexander John Ellis, Alexander Melville Bell, Henry Sweetが挙げられる。Ellisは、phoneticsという用語を初めて使用し、Sweetはイギリスの伝統的な音声学である英国学派音声学(British School of Phonetics)を確立させた。
20世紀以降、英国学派音声学はイギリス・ロンドンのユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)音声学科を中心に発展した。UCL音声学科教授のJohn Christopher Wells(現・名誉教授)は、1912年、UCLにイギリスで最初の音声学科を開設したDaniel Jonesの後継者として、20世紀で最も高名な音声学者である。
なお、UCLに開設された音声学科は、2008年1月にその幕を閉じ、心理学言語科学専攻人間コミュニケーション科学科に統合されている。
島岡・佐藤(1987)によれば、音声学は、音声の正確な観察とその記述、および音声が生じる過程や機構の解明をねらいとしている。一方、音韻論は、言語体系に占める音声の位置づけ、およびその役割や機能に関する事柄を解明することをねらいとしている。
音声学と音韻論の一般的な定義は以下のとおりである。
また、音韻論において、音声学的な違いはどうであれ、心理的な実在として、母語話者にとって同じと感じられ、また意味を区別する働きをする音声上の最小単位となる音を「音素」という。また、音声学的に異なるとされる、物理的な音を「異音」という。
例えば日本語では、「さんばい(三倍)」「さんだい(三台)」「さんかい(三回)」の3つの語において、日本語話者はこれらの「ん」を「同じ音」として認識している。しかし、実際に発音してみると、さんばい[sambai]、さんだい[sandai]、さんかい[saŋkai]となり、「ん」の音声が[m][n][ŋ]のように異なっていることが分かる。このとき、日本語において[m][n][ŋ]は同じ音素/N/の異音である、といえる。
そして、音声学と音韻論の分離に貢献したのが、プラハ学派(プラーグ学派)である。この学派は、ソシュールのラングとパロールの区別に影響を受け、音声におけるラングの研究として、音韻論の確立に努めた。プラハ学派によれば、音声におけるパロールを研究するのが音声学であり、ラングを研究するのが音韻論ということになる。
但し、音韻と音素の違いについては、研究者によって意見が異なる。音韻と音素は同じであるとする立場や、音韻の最小単位が音素であるとする立場、音韻を論じるために必要な単位の一つに音素があるとする立場などがある。
音韻論で抽出した有限の音素 (phoneme) はスラッシュ / / の間に入れて音韻表記するが、音声学における物理的な異音 (allophone) は国際音声記号 (IPA) を始めとした音声記号を角括弧 [ ] で囲んで単音表記する。
IPAは、言語音の区別の研究が進んだり、新たな言語音が発見されたり、またより精度の高い表記を目指すに伴って、たびたび更新されている。
音声記号はIPAの他にも、コンピュータ上での記述に適したX-SAMPAやキルシェンバウム、各言語固有の音声記号が存在し、米語、ウラル語学や印欧語学固有の記号等、目的に合わせて様々な音声記号が考案されている。
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'''音声学'''(おんせいがく、{{lang-la-short|phonetica}}、{{lang-en-short|phonetics}})とは、[[音声]]について科学的に[[研究]]する[[言語学]]の一分野である。
== 概要 ==
音声学は、音声の正確な観察とその記述、および音声が生じる過程や機構の解明をねらいとしており、「人間が音声を使ってコミュニケーションをとる時に何が起きているか」を科学的に研究する学問である。1) 発音、2) 空気振動による伝播、3) 聴き取り、という観点から、'''[[調音音声学]]'''、'''[[音響音声学]]'''、'''[[聴覚音声学]]'''の三分野に分けられ研究されている。言語学の立場や方法には調音音声学を中心に用いる。
また、[[発声器官]]に関する[[医学]]的研究も音声学に含まれることがある。
== 歴史 ==
調音音声学は人類史の中で非常に長い歴史を持っている。その発端は、紀元前4~5世紀に古代インドで行われていた[[サンスクリット|サンスクリット語]]の研究であるとされている。
16世紀~18世紀には、イギリスで古典的な音声学が誕生し、19世紀から発達した<ref>小泉保『音声学入門』大学書林, p2</ref>。この頃に活躍したイギリスの音声学の研究者として、[[アイザック・ピットマン|''Sir Isaac Pitman'']], [[アレクサンダー・ジョン・エリス|''Alexander John Ellis'']], [[アレクサンダー・メルヴィル・ベル|''Alexander Melville Bell'']], [[ヘンリー・スウィート|''Henry Sweet'']]が挙げられる。''Ellis''は、''phonetics''という用語を初めて使用し、''Sweet''はイギリスの伝統的な音声学である英国学派音声学(''British School of Phonetics'')を確立させた。
20世紀以降、英国学派音声学はイギリス・ロンドンの[[ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン|ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)]]音声学科を中心に発展した。UCL音声学科教授の[[ジョン・ウェルズ (音声学者)|''John Christopher Wells'']](現・名誉教授)は、1912年、UCLにイギリスで最初の音声学科を開設した[[ダニエル・ジョーンズ (音声学者)|''Daniel Jones'']]の後継者として、20世紀で最も高名な音声学者である。
なお、UCLに開設された音声学科は、2008年1月にその幕を閉じ、心理学言語科学専攻人間コミュニケーション科学科に統合されている。
== 音声学と音韻論の違い ==
島岡・佐藤(1987)によれば、音声学は、音声の正確な観察とその記述、および音声が生じる過程や機構の解明をねらいとしている。一方、[[音韻論]]は、言語体系に占める音声の位置づけ、およびその役割や機能に関する事柄を解明することをねらいとしている<ref>{{Cite book|和書|title=最新の音声学・音韻論 - 現代英語を中心に -|publisher=研究社出版株式会社|author=島岡 丘|date=1987年5月8日|pages=1.1 音声学と音韻論|edition=初版|author2=佐藤 寧}}</ref>。
音声学と音韻論の一般的な定義は以下のとおりである。
; 音声学 : 普遍的で、世界中に通じる一つの音声学がある。<br />「音声がどうやって作られ、どのように伝わり、どのように理解することが出来るか」を科学的、客観的に研究する学問。音声学的に捉えた音の最小単位を「単音」という。
; 音韻論 : 言語固有の物で、それぞれの言語ごとの[[音韻論]]がある。<br />ある言語で、「音声がどのように並べられ、どのように入れ替わり、どのように意味を持った上で区別するか」、音声学的に捉えられた音の異なりを「意味の区別に役立つか否か」という観点から研究し、音声の位置づけ、およびその役割や機能に関する事柄を解明することをねらいとする。
また、音韻論において、音声学的な違いはどうであれ、心理的な実在として、母語話者にとって同じと感じられ、また意味を区別する働きをする音声上の最小単位となる音を「[[音素]]」という。また、音声学的に異なるとされる、物理的な音を「[[異音]]」という。
例えば[[日本語]]では、「さんばい(三倍)」「さんだい(三台)」「さんかい(三回)」の3つの語において、日本語話者はこれらの「ん」を「同じ音」として認識している。しかし、実際に発音してみると、さんばい[sambai]、さんだい[sandai]、さんかい[saŋkai]となり、「ん」の音声が[m][n][ŋ]のように異なっていることが分かる。このとき、日本語において[m][n][ŋ]は同じ音素/N/の[[異音]]である、といえる。
そして、音声学と音韻論の分離に貢献したのが、[[プラハ学派]](プラーグ学派)である。この学派は、[[フェルディナン・ド・ソシュール|ソシュール]]の[[ラング]]と[[パロール]]の区別に影響を受け、音声におけるラングの研究として、音韻論の確立に努めた。プラハ学派によれば、音声におけるパロールを研究するのが音声学であり、ラングを研究するのが音韻論ということになる。
但し、音韻と音素の違いについては、研究者によって意見が異なる。音韻と音素は同じであるとする立場<ref>{{Citebook|和書|title=音声学基本事典|publisher=勉誠出版|author=城生・福森・斎藤|date=2011年8月}|pages=179-180}}</ref>や、音韻の最小単位が音素であるとする立場<ref>{{Citebook|和書|title=図解日本語|publisher=三省堂|author=沖森・木村・陳・山本|date=2006年9月|pages=12-18}}</ref>、音韻を論じるために必要な単位の一つに音素があるとする立場<ref>{{Citebook|和書|title=日本語音声学入門[改訂版]|publisher=三省堂|author=斎藤純男|date=2011年11月|pages=157-159}}</ref>などがある。
== 音声表記 ==
音韻論で抽出した有限の[[音素]] (''phoneme'') は[[スラッシュ (記号)|スラッシュ]] / / の間に入れて音韻表記するが、音声学における物理的な[[異音]] (''allophone'') は[[国際音声記号]] (IPA) を始めとした[[音声記号]]を[[角括弧]] [ ] で囲んで単音表記する。
IPAは、言語音の区別の研究が進んだり、新たな言語音が発見されたり、またより精度の高い表記を目指すに伴って、たびたび更新されている。
*例:「ホワイト」
**英語表記:white
**音韻表記:/wīt/ /hwayt/ /hwīt/ など
**単音表記:{{IPA|waɪt}}、{{IPA|ʍaɪt}} など{{refnest|group=注|現代英語においては、{{IPA|waɪt}}のほうが優勢である。詳細は{{仮リンク|英語における⟨wh⟩の発音|en|Pronunciation of English ⟨wh⟩}}を参照。}}
[[音声記号]]はIPAの他にも、コンピュータ上での記述に適した[[X-SAMPA]]や[[キルシェンバウム]]、各言語固有の音声記号が存在し、[[米語]]<ref>[[ARPABET]]</ref>、[[ウラル語学]]<ref>{{仮リンク|ウラル音声記号|en|Uralic Phonetic Alphabet}}</ref>や[[印欧語学]]固有の記号等、目的に合わせて様々な音声記号が考案されている。
しかし一方で、精度の高い表記(精密表記)には限界があるとして、音声表記を絶対視するのは危険であると主張する立場もある<ref>{{Citebook|和書|title=言語学[第二版]|publisher=東京大学出版会|author=風間・上野・松村・町田|date=2004年9月}|pages=224-227}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献・URL ==
*荻野綱男『現代日本語学入門』明治書院, 2018年
*萩野仁志・後野仁彦『「医師」と「声楽家」が解き明かす発声のメカニズム』音楽之友社,2004年
*沖森卓也・木村義之・陳力衛・山本慎吾『図解日本語』三省堂, 2006年
*風間喜代三・上野善道・松村一登・町田健『言語学[第二版]』東京大学出版会, 2004年
*川原繋人『ビジュアル音声学』三省堂, 2018年
*[[J.C.キャットフォード]]『実践音声学入門』竹林滋・設楽優子・内田洋子 訳,大修館書店,2006年
*小泉保『音声学入門』大学書林,1996年
*小泉保『改訂 音声学入門』大学書林,2003年
*斎藤純男『日本語音声学入門[改訂版]』三省堂, 2011年
*島岡丘・佐藤寧『最新の音声学・音韻論-現代英語を中心に-』研究社出版,1987年
*城生佰太郎・福盛貴弘・斎藤純男『音声学基本事典』勉誠出版, 2011年
*Ladefoged, Peter and Sandra F. Disner (2012) ''Vowels and Consonants'', Wily-Blackwell, 『母音と子音:音声学の世界に踏み出そう』田村幸誠・貞光宮城訳、開拓社、2021年. ISBN 978-4-7589-2286-9
*[http://japanlinked.com/english/vowellesson1.html 英語の発音ビデオガイド]{{リンク切れ|date=2022年2月}}
*[http://www.coelang.tufs.ac.jp/mt/ 東京外国語大学言語モジュール]
== 関連項目 ==
=== 共通 ===
* [[発声器官]]
* [[スペクトログラム]]
* [[国際音声学会]]
=== 言語学関連 ===
* [[肺臓気流機構|気流]] - [[発声]] - [[調音]]([[調音部位]] | [[調音方法]])
* [[発音]]
{{子音}}{{母音}}
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[[Category:音声学|*]]
[[Category:言語学の分野]] | null | 2023-06-17T09:40:44Z | false | false | false | [
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9,444 | インターネットラジオ | インターネットラジオとは、インターネットプロトコルを通じて、主として音声で番組を配信するインターネットのコンテンツの一形態である。単にネットラジオ、またはウェブラジオ、ネトラジ、IRともいう。
ラジオと称してはいるが、電波ではなくインターネット上にて配信されるため、パソコン・スマートフォン・スマートスピーカー等を利用し聴取する。
インターネットラジオには、聴取にラジオ用の専用機器が不要なこと、通常の放送では電波が弱かったり混信が発生する地域でもクリアな音声で受信できること、SNSなどインターネット特有の付加機能を利用できることなどの利点がある。
一定速度以上(配信元の配信設定に依存)の転送速度を持つインターネット接続環境と、再生ソフトを組み込んだパソコン・スマートフォン・スマートスピーカーもしくはインターネットラジオ再生端末との組み合わせにより、技術的には世界中どこでも聴取が可能である。そのため、海外のポピュラー音楽やクラシック音楽の演奏会を聴取したり、他言語学習の素材として用いる者もいる。
原理上、送信側も受信側と同様の条件 で配信することができる。それまで最も簡便な放送手段であった、無線局免許状を必要としないミニFM局と比べても運用に必要な機器の入手や維持は容易であり、個人が全世界あてに情報を発信することも可能となった。他方でIPアドレスや通信経路の制限、著作権・放送権の制約等により聴取できない場合もあるなど、既存のラジオ放送にはない制約も生ずる。
日本のアニメ・ゲーム・声優系の番組(アニラジ)では、配信を終了したコンテンツをCD-ROMやDVD-ROMにまとめた「ラジオCD」「ラジオDVD」が発売されることがある。
2000年代には、以下のようなネットラジオソフトやサービスが登場した。
インターネットラジオ受信に対応したオーディオ機器も一部に存在した。
スマートフォンや、YouTube・ニコニコ動画などの各種配信サービスの普及で、音声配信は一般化したものとなった。radiko等の大手放送局によるIPサイマル放送も普及した。
以下の3種類がある。一部の国では法令により配信形態に制限が設けられることがある。
接続、伝送、提供それぞれに複数の方式があり、主要なものは以下の通り。
ダウンロードしたファイルを、デジタルオーディオプレイヤーなどに転送していつでも聞けるようにしたポッドキャストもある。
各国の法令遵守の必要はあるが、それ以外に内容の制限はない。既存の放送局が電波放送の内容をそのまま流す場合もあるが、限りある電波資源を使っていないことや費用面などの障壁の低さから、実験的なフォーマットの番組やほぼ無編集の長時間番組、粗暴・卑猥な言動を含んだ番組など、既存の放送に比べて自由度が高い傾向がある。
一方で、著作権をはじめとした権利処理に係る制度が未整備であったり、多額の使用料を求められるなどの理由により、音楽や特定人物の肉声を含む番組の配信が事実上困難となる(あるいは製作・配信側から忌避される)ケースも存在する。
音楽を放送する場合には、主に著作権法による規制の下に置かれる。そのほか、地上波放送の放送権に関する問題がある。
著作権法上いわゆる地上波放送は「公衆送信のうち、公衆によつて同一の内容の送信が同時に受信されることを目的として行う無線通信の送信」となる。インターネットラジオは基本的には「自動公衆送信」となる。自動公衆送信とは「公衆送信のうち、公衆からの求めに応じ自動的に行うもの(放送又は有線放送に該当するものを除く)」である。
放送(放送法に基づく放送事業者が行う配信)は著作権上の手続きに便宜が図られている。日本音楽著作権協会(JASRAC)の利用料規定では、電波による放送では利用者数に関係なく決められた著作権料を支払うことができ、事前に制作費に著作権料を織り込むことが可能である。ところがインターネットラジオは放送法に基づく放送ではないので、能動的に接続した利用者数に応じて著作権料が変動し、事前に制作費に著作権料を織り込むことが難しく、聴取者が増えれば増えただけ(聴取されずともアクセスされた回数分だけ)後から多額の著作権料が請求される仕組みになっている。JASRACと信託契約を締結していない場合は、個別に利用料を定額とする契約も可能ではあるが、強制許諾ではなく契約交渉に手間がかかる。
また、市販の音楽ソフトを利用する場合には、著作隣接権や実演家人格権などをクリアするため、レコード会社や著作権管理団体等とも交渉を行わなければならず、その煩雑さから個人のインターネットラジオにおいては市販の音楽ソフトを流すことは困難である。
これはインターネットテレビでも同様であり、インターネットラジオ・テレビにおいては、なるべく著作権料が発生しないような番組作りになっている。こうした状況から、インディーズアーティストとの関係を密にしたり、例外的に権利者の許可を得て流すなどの動きも見られた。
2006年10月8日に、日本レコード協会と実演家著作隣接権センター(CPRA)によって「ラジオ・テレビの放送番組の楽曲のネット利用の集中管理」が開始され、放送局が運営するサイト上において番組をラジオ放送と同時にストリーミング配信するという条件であれば権利者に個別に許可を得る必要がなくなった。
音楽等に関する著作権以外では、スポーツ中継、特にオリンピックやFIFAワールドカップといった国際的な大会や、一部の国内大会(プロ野球における東北楽天ゴールデンイーグルス主催試合は2011年度まで配信対象外だった)における放送権の問題、選挙期間中の政見放送の扱いなどがある。
なおradikoについては、全国を放送地域としている短波放送の日経ラジオ社(ラジオNIKKEI)および全国に展開する通信制大学である放送大学の授業放送という特殊な目的を持つ放送大学ラジオ(関東地上波では1985年の開学以来、東京タワーと前橋中継局からFM波で放送しているが、2018年9月限りで地デジテレビを含む地上波放送を廃止して同年10月以降はBSデジタル放送に一本化。ただし、radikoでの配信は引き続き実施)と、東日本大震災発生直後に「復興radiko」と称して期間限定で配信された岩手・宮城・福島・茨城の放送局を除き、県域免許制度等に配慮し放送地域が限定されている(有料のradikoプレミアムでは一部の放送局・番組を抜き、地域外の放送局を聴取できる)。
大韓民国では、ほぼ全ての地上波道域ラジオ局でインターネットラジオが実施されており、地上波放送よりも多く聴かれていることから、ラジオ放送の主要メディアにまで発展している。
日本の地上波ラジオと異なり、全世界を対象に配信されているため、オリンピック中継はインターネットラジオの実施開始に合わせて放送を打ち切っている(少なくとも2000年シドニーオリンピック辺から)。IOCが定める放映権はインターネット配信全般も含まれている替わりに、実施対象国のみに限られる制約のため。
基本的に無料配信であるため、FIFAが定める放映権で有料での放送・配信が認められていないFIFAワールドカップ中継は韓国戦や決勝戦を中心とした試合をインターネットラジオの実施開始後も持続している。
ここでは既存のラジオ放送局をインターネットでサイマル放送するものを挙げる。PCでの聴取対応可否や配信形式はそれぞれ異なる。有料サービスもある(局数は2021年4月現在) | [
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"text": "以下の3種類がある。一部の国では法令により配信形態に制限が設けられることがある。",
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"text": "各国の法令遵守の必要はあるが、それ以外に内容の制限はない。既存の放送局が電波放送の内容をそのまま流す場合もあるが、限りある電波資源を使っていないことや費用面などの障壁の低さから、実験的なフォーマットの番組やほぼ無編集の長時間番組、粗暴・卑猥な言動を含んだ番組など、既存の放送に比べて自由度が高い傾向がある。",
"title": "番組内容"
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"text": "一方で、著作権をはじめとした権利処理に係る制度が未整備であったり、多額の使用料を求められるなどの理由により、音楽や特定人物の肉声を含む番組の配信が事実上困難となる(あるいは製作・配信側から忌避される)ケースも存在する。",
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"text": "著作権法上いわゆる地上波放送は「公衆送信のうち、公衆によつて同一の内容の送信が同時に受信されることを目的として行う無線通信の送信」となる。インターネットラジオは基本的には「自動公衆送信」となる。自動公衆送信とは「公衆送信のうち、公衆からの求めに応じ自動的に行うもの(放送又は有線放送に該当するものを除く)」である。",
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"text": "また、市販の音楽ソフトを利用する場合には、著作隣接権や実演家人格権などをクリアするため、レコード会社や著作権管理団体等とも交渉を行わなければならず、その煩雑さから個人のインターネットラジオにおいては市販の音楽ソフトを流すことは困難である。",
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"text": "これはインターネットテレビでも同様であり、インターネットラジオ・テレビにおいては、なるべく著作権料が発生しないような番組作りになっている。こうした状況から、インディーズアーティストとの関係を密にしたり、例外的に権利者の許可を得て流すなどの動きも見られた。",
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"text": "なおradikoについては、全国を放送地域としている短波放送の日経ラジオ社(ラジオNIKKEI)および全国に展開する通信制大学である放送大学の授業放送という特殊な目的を持つ放送大学ラジオ(関東地上波では1985年の開学以来、東京タワーと前橋中継局からFM波で放送しているが、2018年9月限りで地デジテレビを含む地上波放送を廃止して同年10月以降はBSデジタル放送に一本化。ただし、radikoでの配信は引き続き実施)と、東日本大震災発生直後に「復興radiko」と称して期間限定で配信された岩手・宮城・福島・茨城の放送局を除き、県域免許制度等に配慮し放送地域が限定されている(有料のradikoプレミアムでは一部の放送局・番組を抜き、地域外の放送局を聴取できる)。",
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"text": "大韓民国では、ほぼ全ての地上波道域ラジオ局でインターネットラジオが実施されており、地上波放送よりも多く聴かれていることから、ラジオ放送の主要メディアにまで発展している。",
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"text": "日本の地上波ラジオと異なり、全世界を対象に配信されているため、オリンピック中継はインターネットラジオの実施開始に合わせて放送を打ち切っている(少なくとも2000年シドニーオリンピック辺から)。IOCが定める放映権はインターネット配信全般も含まれている替わりに、実施対象国のみに限られる制約のため。",
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"text": "基本的に無料配信であるため、FIFAが定める放映権で有料での放送・配信が認められていないFIFAワールドカップ中継は韓国戦や決勝戦を中心とした試合をインターネットラジオの実施開始後も持続している。",
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"text": "ここでは既存のラジオ放送局をインターネットでサイマル放送するものを挙げる。PCでの聴取対応可否や配信形式はそれぞれ異なる。有料サービスもある(局数は2021年4月現在)",
"title": "インターネットラジオ事業者"
}
] | インターネットラジオとは、インターネットプロトコルを通じて、主として音声で番組を配信するインターネットのコンテンツの一形態である。単にネットラジオ、またはウェブラジオ、ネトラジ、IRともいう。 ラジオと称してはいるが、電波ではなくインターネット上にて配信されるため、パソコン・スマートフォン・スマートスピーカー等を利用し聴取する。 | {{複数の問題
| 出典の明記 = 2021年3月
| 独自研究 = 2021年8月
}}
'''インターネットラジオ'''とは、[[インターネットプロトコル]]を通じて、主として音声で番組を配信する[[インターネット]]の[[コンテンツ]]の一形態である。単に'''ネットラジオ'''、または'''ウェブラジオ'''、'''ネトラジ'''、'''IR'''ともいう。
[[ラジオ]]と称してはいるが、[[電波]]ではなくインターネット上にて配信されるため、[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]・[[スマートフォン]]・[[スマートスピーカー]]等を利用し聴取する。
== 概要と原理 ==
インターネットラジオには、聴取にラジオ用の専用機器が不要なこと、通常の放送では電波が弱かったり混信が発生する地域でもクリアな音声で受信できること、SNSなどインターネット特有の付加機能を利用できることなどの利点がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://style.nikkei.com/article/DGXNASFK2401J_U4A120C1000000/ |title=スマホでラジオに再び活気、世界の放送を手の中に |publisher=NIKKEI STYLE |accessdate=2021-08-27}}</ref>。
一定速度以上(配信元の配信設定に依存)の転送速度を持つインターネット接続環境と、再生ソフトを組み込んだ[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]・[[スマートフォン]]・[[スマートスピーカー]]もしくはインターネットラジオ再生端末との組み合わせにより、<!--原則として-->技術的には世界中どこでも聴取が可能である。そのため、海外の[[ポピュラー音楽]]や[[クラシック音楽]]の演奏会を聴取したり、他言語学習の素材として用いる者もいる。
原理上、送信側も受信側と同様の条件<ref group="注">音声[[入力機器]]は別途必要。方式によっては仲介するサーバーや回線等が必要になることもある。</ref> で配信することができる。それまで最も簡便な放送手段であった、[[無線局免許状]]を必要としない[[ミニFM]]局と比べても運用に必要な機器の入手や維持は容易であり、個人が全世界あてに情報を発信することも可能となった。他方で[[IPアドレス]]や[[ルーティング|通信経路]]の制限、[[著作権]]・[[放映権|放送権]]の制約等により聴取できない場合もあるなど、既存のラジオ放送にはない制約も生ずる。
日本の[[アニメーション|アニメ]]・[[ゲーム]]・[[声優]]系の番組([[アニラジ]])では、配信を終了したコンテンツをCD-ROMやDVD-ROMにまとめた「[[ラジオCD]]」「ラジオDVD」が発売されることがある。
== 歴史 ==
=== 2000年代 ===
2000年代には、以下のようなネットラジオソフトやサービスが登場した。
*ポータルサイト
** [[キャララジオ]] - アニメ関係の映像・音楽メーカー7社合同によるインターネットラジオサイト。参加各社の配信サイトへのポータルサイト的役割をもつ。
** [[ねとらじ]] - [[2001年]][[12月31日]]に「らじちゃんねる」として個人運営で開設され、[[2002年]][[5月5日]]に現名称に変更。[[2004年]][[7月13日]]に[[ライブドア]]へ、[[2011年]][[8月31日]]に元の運営者が設立した株式会社ねとらじに営業権が譲渡された。
* [[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]
** [[らじろぐ]] - ネットラジオとブログサービスを一体化。[[2010年]][[8月31日]]をもって運営を終了した。
** [[ケロログ]] - 音声ブログ。
** [[Second Life]] - グループボイスチャット機能を用いて擬似的にネットラジオ放送を行うことができる。[[SHOUTcast]]、[[Icecast]]等のストリーミング配信を仮想空間内で再生することも可能。
** [[Stickam JAPAN!]]
* 配信用ソフトウェア
** [[SHOUTcast]]
** [[Icecast]]
** [[PeerCast]] - P2P方式配信・受信両用、[[Winamp]]等の再生ソフトが別に必要。
** [[ストリーミング#主なストリーミングサーバ|Helix Universal Server]] - [[ストリーミング]]方式。
** Windows Mediaシリーズ - ストリーミング方式。
* 受信・再生用ソフトウェア
** [[Windows Media Player]]
** [[RealPlayer]]
** [[Winamp]]
** [[iTunes]]
** [[ヤマハ|Yamaha MidRadio]]
** [[Evil Player]] - [[SHOUTcast]] の再生・録音に対応。
インターネットラジオ受信に対応したオーディオ機器も一部に存在した。
=== 2010年代 ===
[[スマートフォン]]や、[[YouTube]]・[[ニコニコ動画]]などの各種配信サービスの普及で、音声配信は一般化したものとなった。[[radiko]]等の大手放送局によるIP[[サイマル放送]]も普及した。
== 配信形態 ==
以下の3種類がある。一部の国では法令により配信形態に制限が設けられることがある。
* 既存の放送局がインターネット上で従来の電波放送と同内容の[[音声]]、もしくはそれに準ずる内容を配信するもの。
** 電波放送と同内容をほぼ同時に[[ストリーミング]]で[[ネット配信|インターネット配信]]するシステムや[[サービス]]は'''[[サイマル放送|サイマル配信]]'''とも呼称される<ref name="av">[https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/353896.html ラジオをほぼ100%サイマル配信する「radiko.jp」の挑戦] - [[Impress Watch|AV Watch]] 2010年3月12日</ref><ref name="rekishi">{{PDFlink|[http://www.nhk.or.jp/digital/b_tech/pdf2012/nhk2012_2.pdf 放送技術の歴史]}} - NHK</ref>。
*** 日本ではストリーミングによるライブ配信として、[[日本放送協会|NHK]]による「[[NHKネットラジオ らじる★らじる]]」や[[民間放送]]共同出資の「[[radiko]]」がある。この2つは基本的に地上波放送と同様の内容([[コマーシャルメッセージ|CM]]含む)を配信する「サイマル配信」<ref name="av"/><ref name="rekishi"/> を採用し、サービスの[[一般名]]として'''IPサイマルラジオ'''を使用している<ref>[http://radiko.jp/out/index.html サービス地域外のためラジオを聴くことができません] - radiko<br/>{{PDFlink|[http://radiko.jp/newsrelease/pdf/20120719_001_pressrelease.pdf ラジオ NIKKEI 第2を『radiko.jp』で 全国各地へ配信開始]}} - radiko 2012年7月19日</ref><ref name="nhk20110715">{{PDFlink|[http://www.nhk.or.jp/pr/keiei/shiryou/soukyoku/2011/07/009.pdf NHK IPサイマルラジオサービスの名称について]}} - NHK ラジオセンター・編成局 2011年[[7月15日]]</ref>。日本国内のみが配信およびアプリケーションのダウンロード対象としており、県域民放の地域外での聴取は原則として有料である{{efn2|2021年3月以降は『radikoプレミアム』のみが該当する。}}。
** 番組単位で[[サイマル放送|サイマル]]・[[オンデマンド]]方式による配信をしている場合もある。
** 日本の[[コミュニティ放送|コミュニティ放送局]]をサイマル配信するサービスとして「[[SimulRadio]]」・「[[JCBAインターネットサイマルラジオ]]」・「[[FM++]]」がある。全世界を配信対象{{efn2|このため、コミュニティ放送局は[[ジャパンコンソーシアム]]に加盟することが出来ず、[[国際オリンピック委員会|IOC]]が定める[[放映権]]でインターネット放送は配信対象国のみに限られる[[近代オリンピック|オリンピック中継]]ができないことを逆手に取り、全世界に向けて配信することが可能となっている。一方、[[広域放送]]の配信サービス全般では、ジャパンコンソーシアムに加盟している局を配信しているため、日本の[[VPN]]のみを対象としている。}}としているため、[[J-WAVE]]など、県域放送局の内容はradikoプレミアム一極化の観点で配信対象外であるが、[[ミュージックバード]]製作のコミュニティ放送局向け番組は配信の対象に入っている{{efn2|この措置のため、J-WAVEを再送信するコミュニティFMは減少傾向にある替わりに、ミュージックバードを再送信するコミュニティ放送局は増加傾向にある。}}。
* [[インターネット放送]]を専門とする企業や団体がインターネット上で配信するもの。
* 個人または放送を専門としない企業や団体がインターネット上で配信するもの。
== 配信方式 ==
{{更新|date=2022-11}}
接続、伝送、提供それぞれに複数の方式があり、主要なものは以下の通り。
=== 接続方式 ===
; [[ユニキャスト]]([[Peer to Peer]](P2P))方式
: [[Transmission Control Protocol|TCP]]などを用いて個別に接続を確立してデータを送信する方式。
:* [[クライアントサーバモデル|クライアント-サーバ]]方式
:: 現在主流の方式。データ配信者の設置した配信サーバに受信者がプレーヤーなどで接続し、配信側が各接続相手ごとに個別にデータを送信する。同じデータを複数回送る必要があり、接続数が増えるほど伝送[[帯域]]幅も必要となるなど無駄が多いが、帯域さえ十分にあれば安定して聴取できる。
:* P2P方式(P2Pネットワーク中継転送方式)
:: ユニキャスト方式の一種で、リスナーは単に受信するだけではなく、受信データを他の受信者に中継転送する。インターネット上に独自のP2Pネットワークを構成し、受信リクエストの処理やデータの転送に利用する。高速なサーバ・回線を用意する必要が無いためコストが低く抑えられ、またサーバダウン等のリスクも分散できる一方、多段[[転送]]を繰り返すため接続数が増えるほど安定性に欠ける傾向がある。[[PeerCast]]など。
; マルチキャスト方式
: [[User Datagram Protocol|UDP]][[マルチキャスト]][[パケット]]を用いて、ネットワーク上の全ての受信者に一度にデータを送信する方式。受信者ごとに個別に内容を送信する必要があるオンデマンド方式には適さない。配信側、インターネット[[伝送路]]共に伝送帯域を大幅に節約できる。ただし、配信者と受信者の間に接続されている全ての[[Internet Protocol|IP]]機器がマルチキャストに対応していないと利用できない。
=== 伝送方式 ===
; ダウンロード方式
: 全データをダウンロードした後に聴取が開始されるもので、主に[[MP3]]等の音声・音楽圧縮方式で圧縮され、[[Hypertext Transfer Protocol|HTTP]]や[[File Transfer Protocol|FTP]]などの既存のプロトコルを通じてファイルの形で配信される。再生開始までの待ち時間が長い、データの品質が伝送帯域幅の制限を受けないなどの特性を持ち、ファイルサイズの問題からデータは短時間となる傾向がある。
: しかしながら、最近のインターネットブラウザで再生できるようなストリーミングサービスはダウンロード方式で、数秒程度に分割した音声ファイルを次々とダウンロードして再生することにより、長時間の遅延の小さなリアルタイムストリーミングを実現している。この方法では、ファイル転送の実体はダウンロードであるので、既存の[[コンテンツデリバリネットワーク|CDN]]により負荷分散できるというメリットも大きい。
; メタファイル
: 配信データのアドレスなどの情報([[メタデータ]])だけを記録したファイルの事。ブラウザなどがデータを一度にダウンロードし切ろうとするのを見越して、データ本体の代わりにサイズの小さいメタファイルをダウンロードさせ、この情報をプレーヤーが読み取って自力で受信、再生を始める。ダウンロード完了待ち回避のほか、ストリーミングでも非標準プロトコルを認識しないといった問題を回避するために使われる。[[RealPlayer]]のramファイルや、[[Windows Media]]シリーズの[[Advanced Systems Format|asx、wax]]ファイルなどが有名。そのほかに、[[RSS]]をメタファイルとして使用する[[ポッドキャスティング]]がある。回線速度が低い時代に多用された。
; ストリーミング方式
: 全データを一度にダウンロードするのではなく、その時々の再生に必要なデータだけをリアルタイムに送信する方式。一般に再生開始までの待ち時間を極めて短くできる。この方式を利用する事によりデータをリアルタイム処理することができるため、長時間の[[生放送]]も可能となった。
: [[Real Time Streaming Protocol|RTSP]]、[[Microsoft Media Services|MMS]]などといった独自のプロトコルが使われ、データがファイルの形式を取っていないため特殊な方法を用いない限り保存できない。受信者一人当たりが利用する伝送帯域が抑えられることや、シーク操作などで飛ばされた部分のデータ送信を省略できるといった利点がある一方、受信者側の回線に十分な帯域がない場合には「音飛び」など音声品質の劣化が避けられず、また帯域の限られている端末では事実上聴取不可能となる欠点もある。
=== 提供方式 ===
; オンデマンド(アーカイブ)方式
: 事前に放送する内容を収録しておくなどして、利用者のリクエストによっていつでも聴取できるようにする方式。提供されている範囲で好きな時間に好きな内容を聞くことができる。
ダウンロードしたファイルを、デジタルオーディオプレイヤーなどに転送していつでも聞けるようにした[[ポッドキャスト]]もある。
; ライブ([[生放送]])方式
: マイクなどの録音機器から入ってきた音声をその場で配信データへと変換して視聴者へリアルタイムに送信する方式。伝送にはリアルタイム処理のできるストリーミング方式を利用する必要がある。リアルタイムでアーカイブされ、巻き戻しが出来ることもある。
:* リクエスト方式
:: ライブ方式の一種で、ウェブサイトなどを通じて寄せられたリクエストを元に、放送内容を随時変更して配信する方式。ライブ放送とオンデマンドの中間的性質をもっており、主に音楽放送で利用される。
== 番組内容 ==
各国の[[法令遵守]]の必要はあるが、それ以外に内容の制限はない。既存の放送局が電波放送の内容をそのまま流す場合もあるが、限りある電波資源を使っていないことや費用面などの障壁の低さから、実験的なフォーマットの番組やほぼ無編集の長時間番組、粗暴・卑猥な言動を含んだ番組など、既存の放送に比べて自由度が高い傾向がある。
一方で、[[著作権]]をはじめとした権利処理に係る制度が未整備であったり、多額の使用料を求められるなどの理由により、音楽や特定人物の肉声を含む番組の配信が事実上困難となる(あるいは製作・配信側から忌避される)ケースも存在する。
=== 権利処理の問題点 ===
音楽を放送する場合には、主に[[著作権法]]による規制の下に置かれる。そのほか、地上波放送の[[放映権|放送権]]に関する問題がある。
==== 日本 ====
著作権法上いわゆる地上波放送は「公衆送信のうち、公衆によつて同一の内容の送信が同時に受信されることを目的として行う無線通信の送信」となる。インターネットラジオは基本的には「自動公衆送信」となる。自動公衆送信とは「公衆送信のうち、公衆からの求めに応じ自動的に行うもの(放送又は有線放送に該当するものを除く)」である。
放送([[放送法]]に基づく放送事業者が行う配信)は著作権上の手続きに便宜が図られている。[[日本音楽著作権協会]](JASRAC)の利用料規定では、電波による放送では利用者数に関係なく決められた著作権料を支払うことができ、事前に制作費に著作権料を織り込むことが可能である。ところがインターネットラジオは放送法に基づく放送ではないので、能動的に接続した利用者数に応じて著作権料が変動し、事前に制作費に著作権料を織り込むことが難しく、聴取者が増えれば増えただけ(聴取されずともアクセスされた回数分だけ)後から多額の著作権料が請求される仕組みになっている。JASRACと信託契約を締結していない場合は、個別に利用料を定額とする契約も可能ではあるが、強制許諾ではなく契約交渉に手間がかかる。
また、市販の音楽ソフトを利用する場合には、著作隣接権や実演家人格権などをクリアするため、レコード会社や著作権管理団体等とも交渉を行わなければならず、その煩雑さから個人のインターネットラジオにおいては市販の音楽ソフトを流すことは困難である。
これは[[インターネットテレビ]]でも同様であり、インターネットラジオ・テレビにおいては、なるべく著作権料が発生しないような番組作りになっている。こうした状況から、[[インディーズ]]アーティストとの関係を密にしたり、例外的に権利者の許可を得て流すなどの動きも見られた。
[[2006年]][[10月8日]]に、[[日本レコード協会]]と[[実演家著作隣接権センター]](CPRA)によって「ラジオ・テレビの放送番組の楽曲のネット利用の集中管理」が開始され、放送局が運営するサイト上において番組をラジオ放送と同時にストリーミング配信するという条件であれば権利者に個別に許可を得る必要がなくなった。
音楽等に関する著作権以外では、スポーツ中継、特に[[近代オリンピック|オリンピック]]や[[FIFAワールドカップ]]といった国際的な大会や、一部の国内大会([[日本のプロ野球|プロ野球]]における[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]主催試合は[[2011年の東北楽天ゴールデンイーグルス|2011年度]]まで配信対象外だった)における放送権の問題、選挙期間中の[[政見放送]]の扱いなどがある。
なおradikoについては、全国を放送地域としている[[短波放送]]の[[日経ラジオ社]](ラジオNIKKEI)および全国に展開する[[大学通信教育|通信制大学]]である[[放送大学]]の[[大学教育放送|授業放送]]という特殊な目的を持つ[[放送大学 (基幹放送)#BSデジタルラジオ放送|放送大学ラジオ]](関東地上波では1985年の開学以来、[[東京タワー]]と前橋中継局からFM波で放送しているが、2018年9月限りで地デジテレビを含む地上波放送を廃止して同年10月以降はBSデジタル放送に一本化。ただし、radikoでの配信は引き続き実施)と、[[東日本大震災]]発生直後に「復興radiko」と称して期間限定で配信された[[岩手県|岩手]]・[[宮城県|宮城]]・[[福島県|福島]]・[[茨城県|茨城]]の放送局を除き、県域免許制度等に配慮し放送地域が限定されている(有料のradikoプレミアムでは一部の放送局・番組を抜き、地域外の放送局を聴取できる)。
==== 韓国 ====
[[大韓民国]]では、ほぼ全ての地上波道域ラジオ局でインターネットラジオが実施されており、地上波放送よりも多く聴かれていることから、ラジオ放送の主要メディアにまで発展している。
日本の地上波ラジオと異なり、全世界を対象に配信されているため、オリンピック中継はインターネットラジオの実施開始に合わせて放送を[[打ち切り|打ち切っている]](少なくとも[[2000年シドニーオリンピック]]辺から)。IOCが定める[[放映権]]はインターネット配信全般も含まれている替わりに、実施対象国のみに限られる[[制約]]のため。
基本的に[[無料]]配信であるため、FIFAが定める放映権で有料での放送・配信が認められていないFIFAワールドカップ中継は[[サッカー大韓民国代表|韓国戦]]や[[決勝戦]]を中心とした試合をインターネットラジオの実施開始後も持続している。
== インターネットラジオ事業者 ==
* [[:Category:インターネットラジオ局|Category:インターネットラジオ局]]参照。
** 特に日本の事例については[[:Category:日本のインターネットラジオ局|Category:日本のインターネットラジオ局]]参照。
=== サイマル放送サービス ===
{{See also|ラジオのサイマル配信サービス対応局の一覧}}
ここでは既存のラジオ放送局をインターネットでサイマル放送するものを挙げる。PCでの聴取対応可否や配信形式はそれぞれ異なる。有料サービスもある(局数は2021年4月現在)
* ラジオ放送をインターネットで同時並行配信するサービス。
** [[radiko]] - 民放ラジオ99社101局とNHKラジオ第一・NHK-FMが参加。
** [[NHKネットラジオ らじる★らじる]] - NHKラジオの放送をインターネットで同時並行配信するサービス。
* [[ラジオクラウド]] - ポッドキャスト型サービス。過去番組もシリーズで配信。ただし各ラジオ局の一部番組のみ配信(また、番組の一部分のみ配信)。全国の主要ラジオ局など64局に対応。
* [[ドコデモFM#AuDee|AuDee]] - JFN系列局の番組などを配信。2020年9月までは同時並行配信も実施していた。
* コミュニティFMの自主制作番組をネット配信するサービス。
** [[SimulRadio]]
** [[JCBAインターネットサイマルラジオ]]
** [[TuneIn Radio]]
** [[ListenRadio]]
** [[FM++]]
* [[SHOUTcast]] - SHOUTcastを利用したインターネットラジオ局の案内。2006年11月時点で700以上のラジオ局が登録されている。
* [[Pandora Radio]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 種田守倖「[http://www.kumazasa.co.jp/fmc/fmc.html 聴かせてやんない!〜ウェブラジオFMCインサイドストーリー〜]」 くまざさ出版社 ISBN 4-938546-37-X
== 関連項目 ==
* [[通信と放送の融合]]
* [[インターネットテレビ]]
* [[IP放送]]
* [[ポッドキャスト]]
* [[ストリーミング]]
* [[ラジオのサイマル配信サービス対応局の一覧]]
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[[Category:インターネットラジオ|*]]
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[[Category:国際放送]] | 2003-05-28T03:24:14Z | 2023-11-20T06:15:36Z | false | false | false | [
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9,445 | あんみつ姫 | 『あんみつ姫』(あんみつひめ)は、倉金章介による日本の漫画作品。また、それをもとにした映画、テレビドラマ、テレビアニメ作品、および同作品に登場する主人公の名前である。
漫画作品としては、1949年から1955年にかけて光文社『少女』に連載された原作と、テレビアニメ化のタイアップとして1986年から1987年に講談社『なかよし』に掲載された竹本泉版がある。
やんちゃでお転婆、おちゃっぴい な「あんみつ姫」が、城の内外で騒動を巻き起こす時代劇コメディ。菓子類に因んだキャラクターの名前や、江戸時代を舞台にしていながら現代のものが混在し、発表当時の出来事や流行が作中に数多く登場するという特徴がある。
原作漫画が一旦連載終了した1954年に、東宝系の東京映画で雪村いづみ主演の映画が2本作られ、以降何度も映像化されている。1958年にはKRT(ラジオ東京テレビ、現在のTBSテレビ)にて、中原美紗緒主演で連続ドラマ化。1960年のドラマ放送終了後には、松竹で再び映画化され、鰐淵晴子が主演した。
原作者の没後に作られた映像化作品は、全てフジテレビ系列で放送されている。1983年には小泉今日子主演で『月曜ドラマランド』にて再度ドラマ化された。1986年にはスタジオぴえろ製作のテレビアニメ作品として放送。小山茉美があんみつ姫の声を演じたほか、当時の人気アイドルグループであるおニャン子クラブが主題歌を務めた。このアニメ版をもとにしてセガ・マークIII用ソフトとしてテレビゲーム化もされている。また、1986年から1987年まで、関西電力のCMのキャラクターに起用された。
その後も、1995年に第32回『新春かくし芸大会』で内田有紀が演じ、2008年には井上真央主演でドラマ化された。
1949年、すでに創刊されていた光文社の少年雑誌『少年』と対をなす少女雑誌として、『少女』が創刊された。以来『少女』では、売出し中だった長谷川町子による漫画「仲よし手帖」が連載されていたが、さらにこの雑誌の柱となる漫画を求めた編集部は、長谷川と同じ田河水泡の門下である倉金章介に白羽の矢を立てた。倉金と編集部は、終戦後の不自由な時代に少女たちを満足させるためには、衣食住、とくに「食べるものと着るもの」が必要であると考え、登場人物の名前を、当時は入手困難だった甘い食べ物に設定し、主人公を振袖のお姫さまとした。また、親たちが子供を気遣う余裕のない時代だったため、現実の厳しさから離れた夢のある物語を展開するための舞台として、江戸時代が設定された。こうして『少女』の第4号(5月号)から「あんみつ姫」の連載がスタートし、1万部程度だった『少女』の発行部数を70万部まで伸ばすほどの人気漫画となった。
少女たちだけでなく、少年たちの間でも人気を博した『あんみつ姫』は、単行本となり、映画化もされた。『少女』での連載終了から1年後の1956年には、集英社の少女雑誌『りぼん』で連載を再開。1958年からは、掲載誌を同社の芸能雑誌『明星』に移し、「あんみつ姫もお年頃」のタイトルで連載され、テレビドラマ化もされた。講談社の『たのしい二年生』、小学館の『幼稚園』と平行しながら、『明星』での連載は1962年4月号まで続いた。
1950年にキングレコードより発売された漫画のイメージソング。
1986年の竹本泉による漫画は、テレビアニメ版と広義のメディアミックスの関係にある作品ではあるが、アニメ版の新番組告知が公表される前から連載が始まり、アニメ版のコミカライズではなく、全く別内容のナンセンスコメディとなっている。 特徴的なこととして、主要キャラクターとして隣の国の若殿様“さくらもち太郎”というオリジナルのキャラクターが登場している。これは元々アニメ版の企画段階で用意されたキャラクターに起源を持つが、アニメ版では設定が正式決定するまでに没となって未登場になり、竹本版でのみ登場になったという経緯を辿ったものである。
1951年12月30日から1952年3月30日まで、ラジオ東京(現:TBSラジオ)で日曜日17:05 - 17:25に放送された音楽放送劇。光文社の一社提供。
ほか
雑誌『少女』に連載された「あんみつ姫」を原作としている。以下の二本が公開された。
『あんみつ姫の武者修業』のタイトルで、1960年12月27日から松竹で正月映画として公開された。時代劇初主演の鰐淵晴子のほか、多数の歌謡スターやジャズ界の人気者が出演した。雑誌『明星』に連載されていた「あんみつ姫もお年頃」を原作としており、姫の年齢は16歳に設定されている。
あんみつ姫の映像化作品としては初のカラー作品。
1958年12月1日から1960年10月28日まで、KRT(現:TBS)系列で月曜日の19:00 - 19:30→金曜日の19:00 - 19:30(JST)に放送された。ブラザーミシン販売の一社提供で、生放送番組。全100回。
『明星』に連載されていた「あんみつ姫もお年頃」を原作としている。
脚注のないものは第50回台本より。
脚注のないものは第50回台本より。
『朝日新聞』(東京・大阪・西武・名古屋)の番組表を基に作成。
1960年9月時点。番組開始当初は南海放送でも放送されていた。
1986年10月5日から1987年9月27日まで、フジテレビ系列(テレビ大分・テレビ宮崎各局を除く)で毎週日曜18:00 - 18:30枠に於いて放送された。
『サントリー スポーツ天国』、『スポーツ特Q』と、それまでスポーツニュース番組が放送されていたこの枠でアニメ作品が放送されるのは、『未来警察ウラシマン』の枠移動前の1983年3月末以来3年半振りとなった。なお、従来本枠で放送されたアニメの制作を請け負っていたタツノコプロは、本作では企画協力という形で参加している。
原則として各話一話完結であるが、以前の回で登場したキャラクターやストーリーがのちの回で言及されることも多い。
※放送日時は個別に出典が提示されているものを除き1987年9月終了時点、放送系列は放送当時のものとする
アニメの放送期間中にセガ・エンタープライゼスより同社のテレビゲーム機、セガ・マークIII用ソフトとして発売された。アドベンチャーゲームに分類されるが当時主流であったコマンド選択方式ではなく、あんみつ姫を直接操作して探索を行うなどアクションゲームの要素が強い。
物語は新装開店したケーキ屋「ぽんぽこ」に向かうため、8つに切断された店のチラシを探し回り、城を抜け出すというもの。ゲームには時刻の概念があり、移動を繰り返すたびに少しずつ時間が経過していく。夕方5時までにケーキ屋にたどり着かないとゲームオーバーになってしまう。
用意されている面はあまから城、城と町を繋ぐ森、町、町とケーキ屋を繋ぐ森の4つ。このうちあまから城と町は他のキャラクターとの会話やアイテムの捜索といった謎解きを行うアドベンチャーシーン、2つの森は左右への移動とジャンプ、唯一の攻撃方法となる金平糖投げを駆使し、敵や罠をかわしながら終点を目指すアクションシーンとなる。画面はいずれもサイドビュー表示。
ファミリーコンピュータを越える同時発色数というマークIIIの特徴を生かし、各キャラクターは小さいながらもアニメの雰囲気を損なうことなく再現された。しかしゲーム内では謎解きに関するヒントはほとんど用意されておらず、ある時刻に特定の場所で何かを行うといった複雑な謎やすぐゲームオーバーになる理不尽な罠が非常に多いなど、アニメの主な視聴者層である子供を対象としている作品にもかかわらず難易度が高く設定されており、マークIIIユーザーからの幅広い支持は得られなかった。
日本国外の市場ではキャラクターをあんみつ姫からセガのマスコット的存在であったアレックスキッドに変更し、Alex Kidd in High Tech Worldのタイトルで発売された。High Tech Worldと名が付いているもののキャラクターグラフィックに変更が加えられている程度で、あんみつ姫の舞台となった江戸時代の雰囲気は残されている。 | [
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"text": "『明星』に連載されていた「あんみつ姫もお年頃」を原作としている。",
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"text": "脚注のないものは第50回台本より。",
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"text": "脚注のないものは第50回台本より。",
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"text": "『朝日新聞』(東京・大阪・西武・名古屋)の番組表を基に作成。",
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"text": "1960年9月時点。番組開始当初は南海放送でも放送されていた。",
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"text": "1986年10月5日から1987年9月27日まで、フジテレビ系列(テレビ大分・テレビ宮崎各局を除く)で毎週日曜18:00 - 18:30枠に於いて放送された。",
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"text": "『サントリー スポーツ天国』、『スポーツ特Q』と、それまでスポーツニュース番組が放送されていたこの枠でアニメ作品が放送されるのは、『未来警察ウラシマン』の枠移動前の1983年3月末以来3年半振りとなった。なお、従来本枠で放送されたアニメの制作を請け負っていたタツノコプロは、本作では企画協力という形で参加している。",
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"text": "原則として各話一話完結であるが、以前の回で登場したキャラクターやストーリーがのちの回で言及されることも多い。",
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"text": "※放送日時は個別に出典が提示されているものを除き1987年9月終了時点、放送系列は放送当時のものとする",
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"text": "アニメの放送期間中にセガ・エンタープライゼスより同社のテレビゲーム機、セガ・マークIII用ソフトとして発売された。アドベンチャーゲームに分類されるが当時主流であったコマンド選択方式ではなく、あんみつ姫を直接操作して探索を行うなどアクションゲームの要素が強い。",
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"text": "物語は新装開店したケーキ屋「ぽんぽこ」に向かうため、8つに切断された店のチラシを探し回り、城を抜け出すというもの。ゲームには時刻の概念があり、移動を繰り返すたびに少しずつ時間が経過していく。夕方5時までにケーキ屋にたどり着かないとゲームオーバーになってしまう。",
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"text": "用意されている面はあまから城、城と町を繋ぐ森、町、町とケーキ屋を繋ぐ森の4つ。このうちあまから城と町は他のキャラクターとの会話やアイテムの捜索といった謎解きを行うアドベンチャーシーン、2つの森は左右への移動とジャンプ、唯一の攻撃方法となる金平糖投げを駆使し、敵や罠をかわしながら終点を目指すアクションシーンとなる。画面はいずれもサイドビュー表示。",
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"text": "ファミリーコンピュータを越える同時発色数というマークIIIの特徴を生かし、各キャラクターは小さいながらもアニメの雰囲気を損なうことなく再現された。しかしゲーム内では謎解きに関するヒントはほとんど用意されておらず、ある時刻に特定の場所で何かを行うといった複雑な謎やすぐゲームオーバーになる理不尽な罠が非常に多いなど、アニメの主な視聴者層である子供を対象としている作品にもかかわらず難易度が高く設定されており、マークIIIユーザーからの幅広い支持は得られなかった。",
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"text": "日本国外の市場ではキャラクターをあんみつ姫からセガのマスコット的存在であったアレックスキッドに変更し、Alex Kidd in High Tech Worldのタイトルで発売された。High Tech Worldと名が付いているもののキャラクターグラフィックに変更が加えられている程度で、あんみつ姫の舞台となった江戸時代の雰囲気は残されている。",
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] | 『あんみつ姫』(あんみつひめ)は、倉金章介による日本の漫画作品。また、それをもとにした映画、テレビドラマ、テレビアニメ作品、および同作品に登場する主人公の名前である。 漫画作品としては、1949年から1955年にかけて光文社『少女』に連載された原作と、テレビアニメ化のタイアップとして1986年から1987年に講談社『なかよし』に掲載された竹本泉版がある。 | {{pp-vandalism|small=yes}}
『'''あんみつ姫'''』(あんみつひめ)は、[[倉金章介]]による[[日本]]の[[漫画]]作品。また、それをもとにした[[映画]]、[[テレビドラマ]]、[[テレビアニメ]]作品、および同作品に登場する主人公の名前である。
漫画作品としては、[[1949年]]から[[1955年]]にかけて[[光文社]]『[[少女 (雑誌)|少女]]』に連載された原作と、テレビアニメ化の[[タイアップ]]として[[1986年]]から[[1987年]]に[[講談社]]『[[なかよし]]』に掲載された[[竹本泉]]版がある。
== 概要 ==
やんちゃで[[お転婆]]、[[Wikt:おちゃっぴい|おちゃっぴい]] な「[[あんみつ]]姫」が、城の内外で騒動を巻き起こす時代劇コメディ。[[菓子]]類に因んだキャラクターの名前や、[[江戸時代]]を舞台にしていながら現代のものが混在し、発表当時の出来事や流行が作中に数多く登場するという特徴がある。
原作漫画が一旦連載終了した{{Efn2|後に再開している。}}[[1954年]]に、[[東宝]]系の[[東京映画]]で[[雪村いづみ]]主演の映画が2本作られ、以降何度も映像化されている。[[1958年]]にはKRT(ラジオ東京テレビ、現在の[[TBSテレビ]])にて、[[中原美紗緒]]主演で連続ドラマ化。[[1960年]]のドラマ放送終了後には、[[松竹]]で再び映画化され、[[鰐淵晴子]]が主演した<ref name="講談社1989">講談社編『昭和 二万日の全記録 第8巻 占領下の民主主義 昭和22年-24年』講談社、1989年、276-277頁。{{ISBN2|4061943588}}。</ref><ref name="倉金1971">倉金章介「楽しい思い出」『少年漫画劇場』第5巻、筑摩書房、1971年、312-313頁。{{ASIN|B00KNPFZBQ}}。</ref>。
原作者の没後に作られた映像化作品は、全て[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列で放送されている。[[1983年]]には[[小泉今日子]]主演で『[[月曜ドラマランド]]』にて再度ドラマ化された{{Efn2|この作品は1989年にビデオソフト化もされた。}}。[[1986年]]には[[ぴえろ|スタジオぴえろ]]製作の[[テレビアニメ]]作品として放送。[[小山茉美]]があんみつ姫の声を演じたほか、当時の人気アイドルグループである[[おニャン子クラブ]]が主題歌を務めた。このアニメ版をもとにして[[セガ・マークIII]]用ソフトとして[[テレビゲーム]]化もされている。また、1986年から[[1987年]]まで、[[関西電力]]の[[コマーシャル|CM]]のキャラクターに起用された。
その後も、[[1995年]]に第32回『[[新春かくし芸大会]]』で[[内田有紀]]が演じ、2008年には[[井上真央]]主演でドラマ化された。
== 登場人物 ==
=== 原作に登場するキャラクター ===
;あんみつ姫
:本作の主人公。きれいな着物を着たあまから城の[[姫|お姫さま]]。長いまつげが特徴。器量よしで優しく朗らかな性格だが、おちゃっぴいなうえに大変なおてんば。好奇心旺盛で、城を抜け出すなど、無邪気で自由奔放な行動で[[腰元]]や周囲の者たちを困らせているが、皆から愛されている。勉強、料理、裁縫は苦手。
;カステラ夫人
:アメリカから来たあんみつ姫の[[家庭教師]]で、「カステラ先生」と呼ばれている。[[天狗]]のように長い鼻を持つ。多才な人物で、英語やアメリカ文化の他にも、遊びや様々なことを姫に教え、経験させた。城へ来て間もない頃は、風俗習慣の違いからたびたび珍事を引き起こしたが、次第にあまから城に馴染み、日本語も上達していった。運動神経がよく、人並み外れた腕力を持つ。連載当時に[[上皇明仁|皇太子]]の英語教師であった「[[エリザベス・ヴァイニング|ヴァイニング夫人]]」をヒントにしたキャラクター<ref name="娯楽よみうり1955">「モデルはだれでしょう 人気漫画のタネあかし」『週刊娯楽よみうり 12月23日号』読売新聞社、1955年、14-15頁。{{NDLJP|3553476}}</ref>。
;まんじゅう
:[[茶坊主]]。姓は甘井。元気でとんちのある利口な少年。弟のしお豆と共にあんみつ姫の遊び相手になることが多い。母を病気で亡くしており、あまから城へ来る前は、父親のラーメン屋台を手伝いながら、赤ん坊だった弟を背負って学校に通っていた。誘拐された姫を救った功によって茶坊主となり、以降もたびたび姫の危機を救っている。城下町の甘辛町に一人で暮らしている父親に、仕送りをしている<ref>No.43「まんじゅう しお豆物語」</ref>。
;しお豆
:まんじゅうの弟。見習い茶坊主をしている。まだ幼く、わがままを言ったり、無茶をして周りを振り回すこともあるが、稀に兄に負けない活躍を見せる。まんじゅう、しお豆は、倉金章介の息子がモデルになっている{{R|娯楽よみうり1955}}。
;あわのだんごの守
:あんみつ姫の父で、あまから城の[[城主大名|城主]]。姫からは「パパ」と呼ばれている。呑気な性格の反面、恥ずかしがり屋であがり性。口髭が薄いことを気にしている。一人娘の姫に甘い。大変な発明狂という一面も持っている<ref>『少女』昭和30年2月号、光文社、1955年、37頁。{{NDLJP|1819515}}</ref><ref>『文藝春秋増刊 漫画読本』昭和30年3号、文藝春秋新社、1955年、92頁。{{NDLJP|3198054}}</ref>。
;しぶ茶の方
:あんみつ姫の母。姫からは「ママ」と呼ばれている。生真面目な性格で、姫曰く「賢夫人」。姫や殿の行儀作法に厳しいが、おだてに乗りやすい。
;甘ぐりの助
:[[小姓]]の少年。まじめでやや要領が悪いところがある。剣術ができるが活躍の場は多くない。
;せんべい
:[[奴]]。しょっぱい顔をしているが、気は優しくて力持ちな城の門番。
;腰元たち
:皆同じような容姿に描かれており、読者からは見分けがつかない。城を抜け出したあんみつ姫の身代わりをさせられた「きなこ」の他に、「あんこ、しるこ、かのこ、だんご」がおり、腰元五人組を名乗っている。この他にも、腰元募集で採用された「もなか」、「ざらめ」など、数多くの腰元が存在する<ref>No.36「腰元大ぼしゅう」</ref>。
;おはぎの局
:腰元たちを束ねる[[局|お局]]。[[独身]]。
=== アニメ版で追加されたキャラクター ===
;あべ川彦左ェ門
:口うるさい[[家老]]。竹本泉版、井上真央版にも同名のキャラクターが登場する。
;柿の種介
:おっちょこちょいの[[家臣]]。日頃からこき使われている。
;[[平賀源内]]
:城下に住む天才[[発明家]]だが、しばしば失敗しては爆発している。同じ顔をした愛犬のジュリーを飼っている。
;おっとっと
:右耳だけが長くて折れている猫。神社の金をギャンブルなどで使い果たして夜逃げした神主のペットだった。あんみつ姫が源内に頼んで作った「オートマからくり神社」によって借金を返した後、姫のペットになる。
== 漫画 ==
=== 倉金章介版 ===
1949年、すでに創刊されていた光文社の少年雑誌『[[少年 (雑誌)|少年]]』と対をなす少女雑誌として、『少女』が創刊された。以来『少女』では、売出し中だった[[長谷川町子]]による漫画「[[仲よし手帖]]」が連載されていたが、さらにこの雑誌の柱となる漫画を求めた編集部は、長谷川と同じ[[田河水泡]]の門下である倉金章介{{Efn2|初出時の筆名は「倉金良行」で、1949年9月号より「倉金章介」。}}に白羽の矢を立てた。倉金と編集部は、終戦後の不自由な時代に少女たちを満足させるためには、衣食住、とくに「食べるものと着るもの」が必要であると考え、登場人物の名前を、当時は入手困難だった甘い食べ物に設定し、主人公を振袖のお姫さまとした。また、親たちが子供を気遣う余裕のない時代だったため、現実の厳しさから離れた夢のある物語を展開するための舞台として、江戸時代が設定された。こうして『少女』の第4号(5月号)から「あんみつ姫」の連載がスタートし、1万部程度だった『少女』の発行部数を70万部まで伸ばすほどの人気漫画となった<ref>[[尾崎秀樹]]「あんみつ姫」『小さい巨像』[[朝日新聞社]]、1974年、47-53頁。</ref>。
少女たちだけでなく、少年たちの間でも人気を博した『あんみつ姫』は、[[単行本]]となり、映画化もされた{{R|講談社1989}}。『少女』での連載終了から1年後の[[1956年]]には、集英社の少女雑誌『[[りぼん]]』で連載を再開<ref name="小学館2006">小学館漫画賞事務局編『現代漫画博物館』小学館、2006年、27頁。{{ISBN2|4091790038}}。</ref>。1958年からは、掲載誌を同社の芸能雑誌『[[Myojo|明星]]』に移し、「あんみつ姫もお年頃」のタイトルで連載され、テレビドラマ化もされた{{R|倉金1971}}{{Efn2|また、集英社の雑誌連載と並行して、1957年から2年間、小学館の学習雑誌『小学四年生』では、「まんじゅうくん しお豆くん」のタイトルで漫画が連載されている。あんみつ姫も登場するが、本作品では茶坊主の兄弟が主役になっている。}}。講談社の『[[たのしい二年生]]』、小学館の『[[幼稚園 (雑誌)|幼稚園]]』と平行しながら、『明星』での連載は1962年4月号まで続いた{{R|小学館2006}}。
==== 主題歌 ====
[[1950年]]に[[キングレコード]]より発売<ref>“[http://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8266452 あんみつ姫 - 歴史的音源]”、国立国会図書館 歴史的音源、2018年11月20日閲覧。</ref>された漫画のイメージソング。
;「あんみつ姫」
:作詞 - 倉金章介、[[長田恒雄]] / 作曲 - [[山本雅之 (作曲家)|山本雅之]] / 編曲 - 山本雅之 / 歌 - 小谷和子、キング児童合唱団
;「カステラ夫人」
:作詞 - 長田恒雄 / 作曲・編曲 - 長谷川堅二 / 歌 - 田中洋子、金の鈴合唱団
=== 竹本泉版 ===
1986年の竹本泉による漫画は、テレビアニメ版と広義のメディアミックスの関係にある作品ではあるが、アニメ版の新番組告知が公表される前から連載が始まり、アニメ版の[[コミカライズ]]ではなく、全く別内容のナンセンスコメディとなっている。
特徴的なこととして、主要キャラクターとして隣の国の若殿様“さくらもち太郎”というオリジナルのキャラクターが登場している。これは元々アニメ版の企画段階で用意されたキャラクターに起源を持つが、アニメ版では設定が正式決定するまでに没となって未登場になり、竹本版でのみ登場になったという経緯を辿ったものである{{Efn2|アニメ[[タイアップ]]商品の企画時期などの関係から、アニメ版の[[南家こうじ]]のデザインによるキャラクター対比表が放映前の段階で業界内部に出回っていた為、アニメ版さくらもち太郎が描かれているタイアップ商品も僅かであるが発売されている。}}。
* 竹本はデビュー当初より、いわゆる[[スター・システム (小説・アニメ・漫画)|スター・システム]]的な手法を駆使してきた漫画家の一人だが、『あんみつ姫』ではこれまでの作品と比べても、かなりの数のキャラクターで過去作品でも登場した常連キャラクターのデザインが用いられている。竹本の場合、[[手塚治虫]]のようにキャラクターに決まった名前が無く、文章だけではキャティングの説明が困難であるため、細かい説明は省くが、たとえばだんごの守は、デビュー作である『[[夢みる7月猫]]』の他に『[[あおいちゃんパニック!]]』や『ルプ☆さらだ』などたびたび登場している竹本の定番キャラクターの1つである。
* 1995年に復刻版単行本が出た際、[[インディアン]]や[[黒人]]の表現が差別的であるとして、「[[黒人差別をなくす会]]」より抗議を受けたため、この部分を人種とは無関係な表現に改変して再版された。
* [[2008年]]に「完全版」名義でリニューアル版が発売。完全版の名の通りカラーページも色付きで再録されている。あとがきでは竹本版を元にパチンコ化の話が持ち上がっていたが、ターゲット層不明のため流れた事が明かされている。
=== 書籍情報 ===
==== 倉金章介版 ====
* [[光文社]]版 - 全2巻、[[1951年]]-[[1952年]]
* [[二見書房]] サラ文庫版、1976年
: 光文社版収録作品34本のうちの28本を収録{{Efn2|「ほたるがり」、「アメリカパノラマ展」、「交換教授」、「マゲきり丸」、「東京見物」、「まんじゅう しお豆物語」が未収録。}}。台詞が省略されている箇所がある。
* 講談社漫画文庫版 - 上下2巻、1976年
: 絵と台詞の細部が変更されている。
==== 竹本泉版 ====
* 講談社 ワイドKC版 - 全4巻、1986年-1987年
* [[宙出版]] ミッシィコミックスMSL版 - 全2巻、1995年
* [[幻冬舎]] バーズコミックススペシャル - 全2巻、2008年
== ラジオドラマ ==
1951年12月30日から1952年3月30日まで{{Efn2|『[[朝日新聞]]』東京朝刊の番組表では、1952年の1月13日から1月27日の期間と、3月23日、3月30日の放送は確認できない。}}、ラジオ東京(現:[[TBSラジオ]])で日曜日17:05 - 17:25に放送された音楽放送劇。光文社の一社提供<ref>『TBS50年史 資料編』東京放送、2002年、193頁。</ref>。
=== キャスト ===
* 浅沼由美代{{Efn2|『朝日新聞』1951年12月30日付東京朝刊、4頁では「浅沼弓子」}}
* 千葉信男
ほか
== 映画 ==
=== 雪村いづみ版 ===
雑誌『少女』に連載された「あんみつ姫」を原作としている。以下の二本が公開された。
* 『あんみつ姫・甘辛城の巻』([[東京映画]]制作・[[東宝]]配給、1954年11月10日公開)
* 『あんみつ姫・妖術競べの巻』(東京映画制作・東宝配給、1954年11月23日公開)
==== キャスト ====
* あんみつ姫 - 雪村いづみ
* あわのだんごの守 - [[藤原釜足]]
* 甘茶の方 - [[松田トシ]]
* カステラ夫人 - [[丹下キヨ子]]
* 甘栗之助 - 沢村みつ子
* まんじゅう - 小畑やすし
* 虎焼皮右衛門 - 大庭六郎
* 塩野飴内 - [[天津敏]]
* 腰元きなこ - 清水谷洋子
* 小倉ようかん - [[有島一郎]]
* 弓太郎 - [[久保明]]
* 妹すみれ - [[松島トモ子]]
* 不知火甚内 - [[益田喜頓]]
* お銀 - 二条雅子
* 鬼塚刑部 - [[瀬川路三郎]]
* お熊の方 - [[出雲八枝子]]
* イタチョコ博士 - 有木山太
==== スタッフ ====
* 監督:仲木繁夫
* 製作:滝村和男、山崎喜暉
* 原作:倉金章介
* 脚色:若尾徳平、新井一
* 撮影:遠藤精一
* 音楽:[[浅井挙曄]]
* 美術:島康平
* 録音:西尾昇
* 照明:島百味
==== 主題歌 ====
;「あんみつ姫」
:作詞 - 井田誠一 / 作曲 - [[吉田正]] / 編曲 - 多忠修 / 歌 - 雪村いづみ
;「愛の真珠貝」
:作詞 - 井田誠一 / 作曲 - 吉田正 / 編曲 - 多忠修 / 歌 - 雪村いづみ
==== 同時上映 ====
* 『甘辛城の巻』:『新鞍馬天狗 第二話 東寺の決闘』(原作:[[大佛次郎]]、脚本:[[松浦健郎]]、監督:[[青柳信雄]]、主演:[[小堀明男]])
* 『妖術競べの巻』:『[[女性に関する十二章]]』(原作:[[伊藤整]]、脚本:[[和田夏十]]、監督:[[市川崑]]、主演:[[津島恵子]])
=== 鰐淵晴子版 ===
『あんみつ姫の武者修業』のタイトルで、1960年12月27日から[[松竹]]で正月映画として公開された。時代劇初主演の鰐淵晴子のほか、多数の歌謡スターやジャズ界の人気者が出演した<ref>「中二タワー 映画物語」『中学時代二年生2月号』旺文社、1961年、10頁。{{NDLJP|1741617}}</ref>。雑誌『明星』に連載されていた「あんみつ姫もお年頃」を原作としており、姫の年齢は16歳に設定されている。
あんみつ姫の映像化作品としては初のカラー作品{{R|倉金1971}}。
==== キャスト ====
* あんみつ姫 - 鰐淵晴子
* 粟乃団子の守 - [[曽我廼家明蝶]]
* 渋茶の方 - [[若水ヤエ子]]
* 金鍔三太夫 - [[森川信]]
* 腰元きなこ - [[瞳麗子]]
* 安部川団五郎 - [[倉多爽平|倉田爽平]]
* 天堂一角 - 安住譲
* 怪盗闇太郎 - [[藤山寛美]]
* おせん - [[関千恵子]]
* 艶歌師浩ちゃん - [[守屋浩]]
* 開運堂 - [[大泉滉]]
* 座長藤九郎 - [[三波春夫]]
* 千鳥太夫 - [[島倉千代子]]
* 歌う子供たち - コロムビア・ポニーズ
* 甘栗角之進 - [[永田光男]]
* 柿田宗蓮 - 田中謙三
* 岡っ引久六 - [[トニー谷]]
==== スタッフ ====
* 監督:大曽根辰保
* 製作:島尾良造
* 原作:倉金章介
* 脚色:[[関沢新一]]
* 撮影:倉持友一
* 音楽:加藤三雄
* 美術:大角純一
* 録音:福安賢洋
* 照明:蒲原正次郎
==== 主題歌 ====
;「小鳥とあんみつ」
:作詞 - 関沢新一 / 作曲 - [[浜口庫之助]] / 歌 - 鰐淵晴子
== テレビドラマ ==
=== 中原美紗緒版 ===
1958年[[12月1日]]から1960年[[10月28日]]まで、KRT(現:[[TBS]])系列で月曜日の19:00 - 19:30→金曜日の19:00 - 19:30([[日本標準時|JST]])に放送された<ref name="TBS50">『TBS50年史 資料編』東京放送、2002年、203頁。</ref>。[[ブラザー販売|ブラザーミシン販売]]の[[一社提供]]<ref>『朝日新聞』1958年12月1日付東京朝刊、5頁。「ブラザーミシン」広告より。</ref><ref name="中原版95">{{Cite web|和書|url=http://db.nkac.or.jp/detail.htm?id=N01-04405-00|title=あんみつ姫と江戸の隠密|publisher=脚本データベース|accessdate=2019-11-2}}</ref>で、生放送番組<ref name="朝日放送">「テレビ番組CM内容一覧表」『Voice of voices』第17集、朝日放送、1960年、73頁。{{NDLJP|1828144}}</ref>。全100回。
『明星』に連載されていた「あんみつ姫もお年頃」を原作としている{{R|倉金1971}}。
==== キャスト ====
脚注のないものは第50回[[台本]]<ref name="中原版50">『あんみつ姫:あんみつ姫と落葉の唄. 50』 国立国会図書館デジタルコレクション。{{NDLJP|10256609}}</ref>より。
* あんみつ姫 - 中原美紗緒
* 殿様 - [[太宰久雄]]
* 奥方 - [[浜田百合子]]<ref name="明星1959-2">「ラジオ・テレビのページ」『明星』2月号、集英社、1959年、202頁。{{NDLJP|1721889}}</ref>、[[三崎千恵子]]
* お萩 - [[南風洋子]]
* 家老石衣 - 藤山竜一{{R|明星1959-2}}
* 乳母あられ - [[堀越節子]]{{R|明星1959-2}}
* きなこ - [[小桜京子]]
* しるこ - 八木千枝{{R|明星1959-2}}
* あんこ - 尾瀬俊子{{R|明星1959-2}}
* 奴・せんべい - [[由利徹]]{{R|明星1959-2}}、[[渥美清]]{{R|倉金1971}}<ref name="中原1991">中原美紗緒『唄(シャンソン)に恋して』紀尾井書房、1991年、265頁。</ref>
* まんじゅう - [[谷幹一]]
* しお豆 - [[関敬六]]
* 羽夢三太夫 - 由利徹
* 黒雲勘左エ門 - [[大森義夫]]
* あずき - [[桜京美]]
* 豆板 - [[南利明 (俳優)|南利明]]
* [[若水ヤエ子]]{{R|TBS50}}
<!-- * [[高島忠夫]](レギュラーなのか調査中) -->
==== スタッフ ====
脚注のないものは第50回台本{{R|中原版50}}より。
* 原作:倉金章介
* 脚本(脚色):[[山下与志一]]<ref name="ドラマ1959">「主要放送テレビ・ドラマ一覧」『年刊テレビ・ドラマ代表作選集 1959年版』清和書院、1959年、281頁。{{NDLJP|1358541}}</ref><ref name="少女ブック">『少女ブック』昭和34年5月号、集英社、1959年、133頁。{{NDLJP|1832273}}</ref>、[[能見正比古]]<ref>『放送作家年鑑 1966』日本放送作家協会、1966年、67頁。{{NDLJP|1348510}}</ref>{{R|少女ブック}}、木村重夫、加藤文治<ref>『放送作家年鑑 1966』日本放送作家協会、1966年、37頁。{{NDLJP|1348510}}</ref>、津瀬宏<ref name="中原版72">{{Cite web|和書|url=http://db.nkac.or.jp/detail.htm?id=N02-08959-00|title=あんみつ姫と開かずの間|publisher=脚本データベース|accessdate=2019-11-2}}</ref>、宮田達男<ref name="中原版85">{{Cite web|和書|url=http://db.nkac.or.jp/detail.htm?id=N02-10741-01|title=あんみつ姫と幽霊|publisher=脚本データベース|accessdate=2019-11-2}}</ref>
* 音楽:[[石川皓也]]
* 演出:長島嘉一郎<!-- 長島喜一郎? -->{{R|ドラマ1959}}、篠原庸、松原呦一、萩原啓一、[[樋口祐三]]<ref name="中原版89">{{Cite web|和書|url=http://db.nkac.or.jp/detail.htm?id=N02-10741-02|title=あんみつ姫とノド自慢|publisher=脚本データベース|accessdate=2019-11-2}}</ref>、和気とし子{{R|中原版89}}
* 美術:柳沢満智男
* 進行:服部展宏
* 小道具:清水専二、加藤良明
* 衣装:村山かよ
* 化粧:小林チヤ
* 代理店:[[博報堂]]
* [[テクニカルディレクター (テレビ)|TD]]:金子正宏
* 1CAM:宇田文夫
* 2CAM:石井浩
* 3CAM:岡本悦弥
* [[CCU]]:年友達男
* AUDIO:須藤良司、堀口隆司
* LIGHT:島崎幸二、青木武、荒木誠
* EFFECT:小松啓明、直井清明
==== 主題歌 ====
;「あんみつ姫」
:作詞 - 山下与志一 / 作曲・編曲 - 石川皓也 / 歌 - 中原美紗緒 、[[ボニー・ジャックス]]
==== 放送日程 ====
『朝日新聞』(東京・大阪・西武・名古屋)の[[番組表]]を基に作成。
{| class="wikitable" style="font-size:small; text-align:center"
!放送回!!放送日!!サブタイトル!!rowspan="51"| !!放送回!!放送日!!サブタイトル
|-
|1||style="text-align:right"|'''1958年'''12月{{0}}1日||あんみつ姫もお年頃||51||style="text-align:right"|11月16日||あんみつ姫と金の鯱
|-
|2||style="text-align:right"|12月{{0}}8日||あんみつ姫と腰元たち||52||style="text-align:right"|11月23日||あんみつ姫と感謝の日
|-
|3||style="text-align:right"|12月15日||あんみつ姫のボーナス||53||style="text-align:right"|11月30日||あんみつ姫と愛の大売出し<ref name="放送脚本資料">{{Cite web|和書|url=https://rnavi.ndl.go.jp/avmaterial/tmp/kyakuhonichiran.pdf |title=放送脚本資料一覧(タイトル順)|format=PDF |website=リサーチ・ナビ |publisher=国立国会図書館 |pages=54-55 |accessdate=2019-11-9}}</ref>
|-
|4||style="text-align:right"|12月22日||あんみつ姫とクリスマス||54||style="text-align:right"|12月{{0}}7日||あんみつ姫と忍術修業
|-
|5||style="text-align:right"|12月29日||あんみつ姫のお年越||55||style="text-align:right"|12月14日||あんみつ姫とボーイフレンド
|-
|6||style="text-align:right"|'''1959年'''{{0}}1月{{0}}5日||あんみつ姫のファッションショー||56||style="text-align:right"|12月21日||あんみつ姫と三太九郎助{{R|放送脚本資料}}
|-
|7||style="text-align:right"|1月12日||あんみつ姫の乳兄妹||57||style="text-align:right"|12月28日||あんみつ姫と年の暮
|-
|8||style="text-align:right"|1月19日||あんみつ姫とお家の御法度||58||style="text-align:right"|'''1960年'''{{0}}1月{{0}}4日||あんみつ姫の初夢
|-
|9||style="text-align:right"|1月26日||あんみつ姫は御心配||59||style="text-align:right"|1月11日||あんみつ姫と花嫁人形{{R|放送脚本資料}}{{Efn2|台本の表紙では「花嫁修業」から「花嫁人形」に訂正されている<ref>[http://db.nkac.or.jp/detail.htm?id=N01-04388-00 あんみつ姫と花嫁人形] 脚本データベース、2019年11月2日閲覧。</ref>。『朝日新聞』1960年1月11日付朝刊「テレビ欄」では、東京・西武・名古屋では「あんみつ姫と花嫁修業」となっている。}}
|-
|10||style="text-align:right"|2月{{0}}2日||あんみつ姫と花言葉||60||style="text-align:right"|1月18日||あんみつ姫とお脈拝見{{R|放送脚本資料}}
|-
|11||style="text-align:right"|2月{{0}}9日||あんみつ姫の冒険||61||style="text-align:right"|1月25日||あんみつ姫と新家老
|-
|12||style="text-align:right"|2月16日||あんみつ姫の冒険2||62||style="text-align:right"|2月{{0}}1日||あんみつ姫とスパイ
|-
|13||style="text-align:right"|2月23日||あんみつ姫と冷い戦争||63||style="text-align:right"|2月{{0}}8日||あんみつ姫と針供養{{R|放送脚本資料}}
|-
|14||style="text-align:right"|3月{{0}}2日||あんみつ姫と心の旅路||64||style="text-align:right"|2月15日||あんみつ姫と春浅し
|-
|15||style="text-align:right"|3月{{0}}9日||あんみつ姫とご隠居||65||style="text-align:right"|2月22日||あんみつ姫と入学試験
|-
|16||style="text-align:right"|3月16日||あんみつ姫と春がすみ||66||style="text-align:right"|2月29日||あんみつ姫と女の一大事{{R|放送脚本資料}}
|-
|17||style="text-align:right"|3月23日||あんみつ姫と花見の喧嘩||67||style="text-align:right"|3月{{0}}7日||あんみつ姫と敵討の父娘
|-
|18||style="text-align:right"|3月30日||あんみつ姫と時の氏神||68||style="text-align:right"|3月14日||あんみつ姫とそばやの娘
|-
|19||style="text-align:right"|4月{{0}}6日||あんみつ姫と招待状||69||style="text-align:right"|3月21日||あんみつ姫と就職の春{{R|放送脚本資料}}{{Efn2|『朝日新聞』1960年3月21日付名古屋朝刊、5頁では、「あんみつ姫と彼岸桜」となっている。}}
|-
|20||style="text-align:right"|4月13日||あんみつ姫と夕月姫||70||style="text-align:right"|3月28日||あんみつ姫と精神修養
|-
|21||style="text-align:right"|4月20日||あんみつ姫とゆく春||71||style="text-align:right"|4月{{0}}4日||あんみつ姫と愛のお作法{{R|放送脚本資料}}
|-
|22||style="text-align:right"|4月27日||あんみつ姫とつみ草||72||style="text-align:right"|4月11日||あんみつ姫と開かずの間
|-
|23||style="text-align:right"|5月{{0}}4日||あんみつ姫と旅立ち||73||style="text-align:right"|4月18日||あんみつ姫と春の珍事
|-
|24||style="text-align:right"|5月11日||あんみつ姫とゴマのハエ||74||style="text-align:right"|4月25日||あんみつ姫とのんきな殿様{{R|放送脚本資料}}
|-
|25||style="text-align:right"|5月18日||あんみつ姫と狐つき||75||style="text-align:right"|5月{{0}}6日||あんみつ姫と真空斬りの巻{{Efn2|この回より金曜日に放送。}}
|-
|26||style="text-align:right"|5月25日||あんみつ姫とある少女||76||style="text-align:right"|5月13日||あんみつ姫と恐いお役人
|-
|27||style="text-align:right"|6月{{0}}1日||あんみつ姫と関所破り||77||style="text-align:right"|5月20日||あんみつ姫と家宝の土瓶{{R|放送脚本資料}}{{Efn2|これ以降の台本の表紙にVTRと書かれているのが確認できる<ref>[http://db.nkac.or.jp/detail.htm?id=N01-04396-00 あんみつ姫と家宝の土瓶] 脚本データベース、2019年11月2日閲覧。</ref>。}}
|-
|28||style="text-align:right"|6月{{0}}8日||あんみつ姫と鉄砲屋||78||style="text-align:right"|5月27日||あんみつ姫と旅法師
|-
|29||style="text-align:right"|6月15日||あんみつ姫と三休さん||79||style="text-align:right"|6月{{0}}3日||あんみつ姫の御縁談
|-
|30||style="text-align:right"|6月22日||あんみつ姫と仙人||80||style="text-align:right"|6月10日||あんみつ姫と初夏の風
|-
|31||style="text-align:right"|6月29日||あんみつ姫と大海賊||81||style="text-align:right"|6月17日||あんみつ姫と御意見無用{{Efn2|台本では「あんみつと御意見無用」<ref>[http://db.nkac.or.jp/detail.htm?id=N01-04397-00 あんみつと御意見無用] 脚本データベース、2019年11月2日閲覧。</ref>}}
|-
|32||style="text-align:right"|7月{{0}}6日||あんみつ姫とある島||82||style="text-align:right"|6月24日||あんみつ姫と太陽がいっぱい{{Efn2|台本では「あんみつと太陽がいっぱい」<ref>[http://db.nkac.or.jp/detail.htm?id=N01-04398-00 あんみつと太陽がいっぱい] 脚本データベース、2019年11月2日閲覧。</ref>}}
|-
|33||style="text-align:right"|7月13日||あんみつ姫と司令官||83||style="text-align:right"|7月{{0}}1日||あんみつ姫と庭の古井戸
|-
|34||style="text-align:right"|7月20日||あんみつ姫と旅の宿||84||style="text-align:right"|7月{{0}}8日||あんみつ姫としゃっくり病
|-
|35||style="text-align:right"|7月27日||あんみつ姫と竜神さま||85||style="text-align:right"|7月15日||あんみつ姫と幽霊
|-
|36||style="text-align:right"|8月{{0}}3日||あんみつ姫とあまから城||86||style="text-align:right"|7月22日||あんみつ姫とゆかたの季節{{R|放送脚本資料}}
|-
|37||style="text-align:right"|8月10日||あんみつ姫と闇太郎||87||style="text-align:right"|7月29日||あんみつ姫と殺し屋の巻{{R|放送脚本資料}}
|-
|38||style="text-align:right"|8月17日||あんみつ姫とからくり城||88||style="text-align:right"|8月{{0}}5日||あんみつ姫と御駕籠騒動
|-
|39||style="text-align:right"|8月24日||あんみつ姫と危険旅行||89||style="text-align:right"|8月12日||あんみつ姫のノド自慢{{Efn2|台本では「あんみつ姫とノド自慢」{{R|中原版89}}}}
|-
|40||style="text-align:right"|8月31日||あんみつ姫と謎のひな||90||style="text-align:right"|8月19日||あんみつ姫と水騒動
|-
|41||style="text-align:right"|9月{{0}}7日||あんみつ姫と御前会議||91||style="text-align:right"|8月26日||あんみつ姫と瓢箪騒動{{Efn2|台本では89回<ref>[http://db.nkac.or.jp/detail.htm?id=N02-10741-03 あんみつ姫と瓢箪騒動] 脚本データベース、2022年6月4日閲覧。</ref>。}}
|-
|42||style="text-align:right"|9月14日||あんみつ姫と北の旅||92||style="text-align:right"|9月{{0}}2日||あんみつ姫と秋近し
|-
|43||style="text-align:right"|9月21日||あんみつ姫と旅の絵師||93||style="text-align:right"|9月{{0}}9日||あんみつ姫とオンボロ部落
|-
|44||style="text-align:right"|9月28日||あんみつ姫と北の国||94||style="text-align:right"|9月16日||あんみつ姫とやりくり大名{{R|放送脚本資料}}
|-
|45||style="text-align:right"|10月{{0}}5日||あんみつ姫と宝さがし||95||style="text-align:right"|9月23日||あんみつ姫と江戸の隠密{{R|放送脚本資料}}
|-
|46||style="text-align:right"|10月12日||あんみつ姫と竜神の池||96||style="text-align:right"|9月30日||あんみつ姫とラブ・レター{{Efn2|台本では「あんみつ姫とラブレター」<ref>[http://db.nkac.or.jp/detail.htm?id=N02-10741-04 あんみつ姫とラブレター] 脚本データベース、2022年6月4日閲覧。</ref>}}
|-
|47||style="text-align:right"|10月19日||あんみつ姫と三太夫||97||style="text-align:right"|10月{{0}}7日||あんみつ姫と外国大使
|-
|48||style="text-align:right"|10月26日||あんみつ姫と黒雲一家大あばれ||98||style="text-align:right"|10月14日||あんみつ姫と合カギ
|-
|49||style="text-align:right"|11月{{0}}2日||あんみつ姫と黒雲さんの草履とり||99||style="text-align:right"|10月21日||あんみつ姫は名判官
|-
|50||style="text-align:right"|11月{{0}}9日||あんみつ姫と落葉の唄{{R|放送脚本資料}}||100||style="text-align:right"|10月28日||あんみつ姫と晴れの鹿島立ち
|}
==== 放送局 ====
1960年9月時点。番組開始当初は[[南海放送]]でも放送されていた<ref>「明星連載人気テレビ・マンガ あんみつ姫もお年頃」グラビア『明星』2月号、集英社、1959年。{{NDLJP|1721889}}</ref><ref name="南海放送1964">『南海放送十年』南海放送、1964年、123頁。{{NDLJP|2505399}}</ref>。
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!放送地域!!放送局{{R|中原版95}}!!放送日時<ref>『明星』11月号、集英社、1960年、183頁。{{NDLJP|1721994}}</ref>!!備考
|-
|[[広域放送|関東広域圏]]||KRT||rowspan="5"|月曜 19:00 - 19:30 (第74回まで)<br/>↓<br/>金曜 19:00 - 19:30 (第75回以降)||'''制作局'''
|-
|[[宮城県]]||[[東北放送|東北放送テレビ]]||1959年4月1日開局。
|-
|[[広域放送|中京広域圏]]||[[中部日本放送]]||
|-
|[[広域放送|近畿広域圏]]||[[朝日放送テレビ|朝日放送]]||1959年2月までは[[大阪テレビ放送]]。
|-
|[[福岡県]]||[[RKB毎日放送|RKB毎日]]||
|-
|[[北海道]]||[[北海道放送]]||rowspan="10"|月曜 19:00 - 19:30||
|-
|[[岩手県]]||[[IBC岩手放送|ラジオ岩手テレビ]]||1959年9月1日開局。
|-
|[[新潟県]]||[[新潟放送]]||1958年12月22日[[サービス放送]]開始<ref name="新潟放送1967">『新潟放送十五年のあゆみ』新潟放送、1967年、261頁。{{NDLJP|2518084}}</ref>。
|-
|[[長野県]]||[[信越放送]]||
|-
|[[静岡県]]||[[静岡放送]]||
|-
|[[石川県]]||[[北陸放送]]||
|-
|[[鳥取県]]・[[島根県]]||[[山陰放送|ラジオ山陰テレビ]]||1959年12月15日開局。
|-
|[[岡山県・香川県の放送|香川県・岡山県]]||[[RSK山陽放送|山陽放送]]||
|-
|[[広島県]]||[[中国放送|ラジオ中国テレビ]]||1959年4月1日開局。
|-
|[[熊本県]]||[[熊本放送|ラジオ熊本テレビ]]||1959年4月1日開局。
|}
{{前後番組
|放送局=[[TBSテレビ|KRT(現:TBS)]]系
|放送枠=月曜19:00枠
|番組名=あんみつ姫<br/>(中原美紗緒版)
|前番組=おさげ社長
|次番組=[[シャイアン (テレビドラマ)|シャイアン]]<br/>(19:00 - 20:00)<br />【ここから西部劇ドラマ枠】
|2放送局=KRT(現:TBS)系
|2放送枠=金曜19:00枠
|2番組名=あんみつ姫<br/>(中原美紗緒版)<br />【当番組より[[TBS金曜7時枠の連続ドラマ|ドラマ枠]]】
|2前番組=[[ぴよぴよ大学|テレビぴよぴよ大学]]
|2次番組=お嬢さん奮闘記
|3放送局=KRT(現:TBS)系
|3放送枠=[[ブラザー工業|日本ミシン製造(ブラザー工業)]][[一社提供]]枠
|3番組名=あんみつ姫<br />(中原美紗緒版)
|3前番組=おさげ社長
|3次番組=お嬢さん奮闘記
}}
=== 小泉今日子版 ===
==== 放映 ====
* 1983年5月23日
* 1983年10月17日
* 1984年1月9日
: すべてフジテレビ『月曜ドラマランド』枠。
==== キャスト ====
* あんみつ姫 - [[小泉今日子]]
* おこしの局 - [[由紀さおり]]
* [[小松政夫]]
* 品川千兵衛 - [[東八郎]]
* 団子の守 - [[金田龍之介]]
* [[イッセー尾形]]
* [[山本みどり]]
* [[辻沢響江|辻沢杏子]]
* 相原一夫
* [[コント赤信号]]
==== スタッフ ====
* 監督:大黒章弘(第1、2回)、杉村治司(第3回)
* 脚本:奥津啓治
* 企画:[[久保田榮一]]、石川泰平
* プロデューサー:大黒章弘、[[福本義人]]
* 制作:[[テレパック]]、フジテレビ
==== 主題歌 ====
;「[[まっ赤な女の子]]」(第1作)
:作詞 - [[康珍化]] / 作曲 - [[筒美京平]] / 編曲 - [[佐久間正英]] / 歌 - 小泉今日子
;「[[クライマックス御一緒に]]」(第2,3作)
:作詞 - [[森雪之丞]] / 作曲 - [[井上大輔]] / 編曲 - 井上大輔 / 歌 - 小泉今日子(「あんみつ姫」名義)
{{前後番組
|放送局=[[フジテレビジョン|フジテレビ]][[フジネットワーク|系列]]
|放送枠=[[月曜ドラマランド]]
|番組名=あんみつ姫<br />(小泉今日子版第1作)<br />(1983.5.23)
|前番組=どっきり天馬先生<br />(第4作)<br />(1983.5.16)
|次番組=どっきり天馬先生<br />(第5作)<br />(1983.5.30)
|2番組名=あんみつ姫<br />(小泉今日子版第2作)<br />(1983.10.17)
|2前番組=[[いじわるばあさん|帰って来た意地悪ばあさん]]<br />(1983.10.10)
|2次番組=[[胸さわぎの放課後]]<br />(第1作)<br />(1983.10.24)
|3番組名=あんみつ姫<br />(小泉今日子版第3作)<br />(1984.1.9)
|3前番組=[[いじわる看護婦|長谷川町子の<br />いじわる看護婦スペシャル]]<br />(第4作)<br />(1983.12.26)
|3次番組=七にんめのいとこ<br />(1984.1.16)
}}
=== 井上真央版 ===
==== 放映 ====
* '''2008年新春スペシャルドラマ あんみつ姫の大冒険!'''
*: [[2008年]][[1月6日]]19:00 - 20:54([[日本標準時|JST]]) 視聴率14.6%([[関東地方|関東地区]]・[[ビデオリサーチ]]調べ)。
* '''2009年新春ドラマSP! あんみつ姫2'''
*: [[2009年]][[1月11日]]19:00 - 20:54(JST) 視聴率9.6%(関東地区・ビデオリサーチ調べ)。
==== キャスト ====
* あんみつ姫 - [[井上真央]]
* カステラ夫人(あんみつ姫の家庭教師) - [[夏木マリ]]
: 冒頭の[[ナレーション]]も担当。
* あべかわ彦左エ門(老中) - [[泉谷しげる]]
* 甘栗の助(小姓) - [[今井悠貴]]
: [[スポンサー]]の読み上げも担当。
* いちご大福(あんみつ姫の親友) - [[中川翔子]]
* しるこ(腰元シスターズ) - [[大島美幸]]([[森三中]])
* あんこ(腰元シスターズ) - [[村上知子]](森三中)
* きなこ(腰元シスターズ) - [[黒沢かずこ]](森三中)
* しぶ茶(あんみつ姫の祖母) - [[白川由美]](特別出演)
* 金つばのリュウ(謎の遊び人、その実態は甘辛国東町奉行あんみつ同心・遠山竜之進) - [[京本政樹]]
* てん茶(奥方・あんみつ姫の母上) - [[和久井映見]]
* あわの団子の守(殿様・あんみつ姫の父上) - [[柳葉敏郎]]
: 第2作には「自ら発明した[[熱気球]]で旅行をしていて留守」との設定で登場していない。
; 第1作ゲスト
* 煎兵衛(スリ集団「こんぺい党」のリーダー) - [[小出恵介]]
* おはぎ(「こんぺい党」の一員) - [[森迫永依]]
* あられ(「こんぺい党」の一員) - 岩井進士郎
* あめ吉(「こんぺい党」の一員) - 浅沼太貴
* 銭形うい郎(同心) - [[ワッキー|脇田寧人]]([[ペナルティ (お笑いコンビ)|ペナルティ]])
* やき餅(岡っ引き) - [[ヒデ (お笑い芸人)|中川秀樹]](ペナルティ)
* ハナカミ王子(杉の木国の王子・あんみつ姫の見合い相手) - [[渡辺和洋]](フジテレビ[[アナウンサー]])
* 横綱王子(ちゃんこ国の王子・あんみつ姫の見合い相手) - [[脇知弘]]
* 一発屋王子(お笑い国の王子・あんみつ姫の見合い相手) - [[ダンディ坂野]]
* ギョロリ王子(K-1王国の王子・あんみつ姫の見合い相手) - [[ボビー・オロゴン]]
* 桃山三太夫(町で人気の役者) - [[早乙女太一]]
* 喜多内太郎(悪党の僧侶) - [[段田安則]]
* 腹黒伊蔵(悪党の家老) - [[中条きよし]]
; 第2作ゲスト
* 野牛九兵衛 (浪人となり身を変えていた吉良吉良国の若様・かがみ餅之助) - [[内田朝陽]]
* 胡桃姫(吉良吉良国の姫、実は甘栗の助の母) - [[大塚寧々]]
* 五平餅(ちまきの父・提灯屋、元武士) - [[温水洋一]]
* ちまき(吉良吉良国に暮らす娘) - [[八木優希]]
* 巴里酢(比留豚姉妹・「比留豚」の仲居) - [[はるな愛]]
* 肉桂(比留豚姉妹・「比留豚」の仲居) - [[前田健 (タレント)|前田健]]
: エンディングの振付も担当。
* かがみ大福餅(吉良吉良国の殿様) - [[山田明郷]]
* 団子屋のオヤジ - [[春海四方]]
* 動物浜口(天下一武闘会の出場者) - [[アニマル浜口]]
* おニャン子太郎(天下一武闘会の出場者) - [[猫ひろし]]
* 一発屋王子(天下一武闘会の出場者) - ダンディ坂野
* [[髭男爵]]{{Efn2|役名は不明だが、山田ルイ五十三世が演じる[[キャラクター]]は、ひぐち君が演じているキャラクターを「ひぐち君」と呼んでいる。}}
* 我滅猪生(吉良吉良国の勘定奉行) - [[竹内力]]
* 錦玉(宿場「比留豚」の女将) - [[杉本彩]]
* 阿久田偉観(吉良吉良国を牛耳る大老) - [[中尾彬]]
==== スタッフ ====
* 演出:[[西浦正記]]
* 脚本:[[いずみ吉紘]]
* 企画:松崎容子
* プロデューサー:浅野澄美、三田真奈美
* 制作:フジテレビ、[[フジクリエイティブコーポレーション|FCC]]
==== 主題歌 ====
;「[[Diamonds (プリンセス プリンセスの曲)|ダイアモンド]]」
:作詞 - [[中山加奈子]] / 作曲 - [[奥居香]]
:歌・あんみつファミリー([[井上真央]]、[[中川翔子]]、[[柳葉敏郎]]、[[夏木マリ]]、[[泉谷しげる]]、[[京本政樹]]、[[白川由美]]、[[森三中]])
== テレビアニメ ==
{{Infobox animanga/Header
|タイトル= あんみつ姫
|画像= Anmitsu Hime logo.png
|サイズ= 240px
|ジャンル=時代劇アニメ、ギャグアニメ
}}
{{Infobox animanga/TVAnime
|タイトル=
|原作= [[倉金章介]]
|総監督=[[案納正美]]
|監督=
|シリーズ構成= [[浦沢義雄]]
|脚本= 浦沢義雄、[[高屋敷英夫]]、[[菅良幸]]など
|キャラクターデザイン= [[南家こうじ]]
|音楽= [[手使海ユトロ|小笠原寛]]
|アニメーション制作=[[ぴえろ|スタジオぴえろ]]
|製作= フジテレビ、[[読売広告社]]、スタジオぴえろ
|放送局= [[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列
|放送開始= [[1986年]][[10月5日]]
|放送終了= [[1987年]][[9月27日]]
|話数= 全51話
|その他=
}}
{{Infobox animanga/Footer
|ウィキプロジェクト= [[プロジェクト:アニメ|アニメ]]
|ウィキポータル= [[Portal:アニメ|アニメ]]
}}
[[1986年]][[10月5日]]から[[1987年]][[9月27日]]まで、フジテレビ系列([[テレビ大分]]・[[テレビ宮崎]]各局を除く)で毎週[[日曜日|日曜]]18:00 - 18:30枠に於いて放送された。
『[[サントリー スポーツ天国]]』、『[[スポーツ特Q]]』と、それまでスポーツニュース番組が放送されていたこの枠でアニメ作品が放送されるのは、『[[未来警察ウラシマン]]』の枠移動前の1983年3月末以来3年半振りとなった。なお、従来本枠で放送されたアニメの制作を請け負っていた[[タツノコプロ]]は、本作では企画協力という形で参加している。
原則として各話一話完結であるが、以前の回で登場したキャラクターやストーリーがのちの回で言及されることも多い。
=== キャスト ===
* あんみつ姫(声優 - [[小山茉美]])
* あわの団子の守(殿様)(声優 - [[神山卓三]])
* しぶ茶(奥方)(声優 - [[京田尚子]])
* カステラ夫人(家庭教師)(声優 - [[青木菜な|青木菜奈]])
* 柿の種助(家臣)(声優 - [[千葉繁]])
* あべかわ彦左ェ門(家老)(声優 - [[八奈見乗児]])
* おはぎの局(女中頭)(声優 - [[鈴木れい子]])
* せんべい(やっこ)(声優 - [[玄田哲章]])
* 甘ぐりの助(小姓)(声優 - [[三田ゆう子]])
* まんじゅう(茶ぼうず)(声優 - [[渕崎ゆり子]])
* しお豆(まんじゅうの弟)(声優 - [[稀代桜子|星野桜子]])
* だんご(腰元)(声優 - [[吉田美保]])
* しるこ(腰元)(声優 - 鈴木祐子)
* かのこ(腰元)(声優 - [[前田雅恵]])
* あんこ(腰元)(声優 - [[江沢昌子]])
* きなこ(腰元)(声優 - [[西原久美子]])
* もなか(腰元)(声優 - 今井洋子)
* [[平賀源内]](声優 - [[富山敬]])
* ジュリー(犬)(声優 - [[玄田哲章]])
* おっとっと(猫)(声優 - 千葉繁)
* ワンタン(中国人のラーメン屋)(声優 - [[緒方賢一]])
* チャーシュー(ワンタンの子供)(声優 - [[さとうあい]])
* 苦味涸らしの守(苦味藩の殿様)(声優 - [[肝付兼太]])
* にがり姫(苦味藩の姫)(声優 - [[原えりこ]])
* あつあげのすけ(苦味藩の若君)(声優 - [[鷹森淑乃]])
* お涼(スケバングループのリーダー)(声優 - [[岡本麻弥]])
* 祈祷師(老婆)(声優 - [[北川智繪]])
* ET(宇宙人)(声優 - [[中尾隆聖]])
* UFO(ETの息子)(声優 - [[神代智恵]])
* 語り(声優 - 大野智子)
=== スタッフ ===
* 原作:[[倉金章介]](連載誌:『[[なかよし|月刊なかよし]]』、『[[テレビマガジン]]』、『[[たのしい幼稚園 (雑誌)|たのしい幼稚園]]』)
* 製作:[[布川ゆうじ]]
* 総監督:[[案納正美]]
* プロデューサー:[[遠藤龍之介]]、[[清水賢治]](フジテレビ)、[[木村京太郎 (プロデューサー)|木村京太郎]](読売広告社)、鈴木義瀧(スタジオぴえろ)
* 企画:嶋村一夫 (読売広告社)
* シリーズ構成:[[浦沢義雄]]
* キャラクターデザイン:[[南家こうじ]]
* 総作画監督:[[岸義之]]
* 美術監督:新井寅雄
* 撮影監督:小島秀和
* 音響監督:[[藤山房伸|藤山房延]]
* 音楽:[[手使海ユトロ|小笠原寛]]
* 音楽制作:フジパシフィック音楽出版、キャニオン・レコード
* 制作担当:鈴木重裕
* 色指定:[[いわみみか。|岩見美香]]
* 編集:森田編集室
* 録音制作:[[ザック・プロモーション]]
* 効果:[[佐々木純一]]([[アニメサウンドプロダクション]])
* 調整:松沢清、久保田隆
* 選曲:中村修
* 文芸:久島一仁
* 企画協力:[[タツノコプロ|竜の子プロダクション]]
* 制作:[[フジテレビジョン|フジテレビ]]、[[読売広告社]]、[[ぴえろ|スタジオぴえろ]]
=== 主題歌・挿入歌 ===
;オープニングテーマ - 「[[恋はくえすちょん]]」{{Efn2|同曲は、『[[月曜ドラマランド]]』でもエンディングテーマとして使われていた。こちらではおニャン子クラブのメンバーの歌唱映像を使用した。}}
:作詞 - [[秋元康]] / 作曲・編曲 - [[見岳章]] / 歌 - [[おニャン子クラブ]](レーベル - [[ポニーキャニオン|キャニオン・レコード]])
;エンディングテーマ - 「あんみつ大作戦」
:作詞 - 秋元康 / 作曲 - [[長沢ヒロ]] / 編曲 - [[山川恵津子]] / 歌 - おニャン子クラブ(レーベル - キャニオン・レコード)
;挿入歌
:;プリンセスあんみつ
::作詞 - [[伊藤アキラ]] / 作曲・編曲 - 小笠原寛 / 歌 - 小山茉美
:;あまから城あっぱれ音頭
::作詞 - 伊藤アキラ / 作曲・編曲 - 小笠原寛 / 歌 - 小山茉美
=== 各話リスト ===
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!話数!!サブタイトル!!脚本!!絵コンテ!!演出!!作画監督!!放送日
|-
|1||プリンセスは誕生日がお好き||rowspan="3"|[[浦沢義雄]]||[[案納正美|八尋旭]]||日高麗||池上裕之||'''1986年'''<br />10月5日
|-
|2||御先祖様のステキな贈り物||colspan="2" style="text-align:center"|[[石山タカ明]]||[[高岡希一]]||10月12日
|-
|3||天才科学者源内さん登場!||colspan="2" style="text-align:center"|[[香川豊]]||川端宏||10月19日
|-
|4||初めまして!私の城下町!!||[[金春智子]]||colspan="2" style="text-align:center"|[[本郷みつる|本郷満]]||本山浩司||10月26日
|-
|5||オートマからくり神社||浦沢義雄||colspan="2" style="text-align:center"|立場良||[[岸義之]]||11月2日
|-
|6||黄門様がやって来た!!||[[高屋敷英夫]]||colspan="2" style="text-align:center"|石山タカ明||千明ゆり||11月9日
|-
|7||謎の必殺中国拳法、来々拳!!||[[菅良幸]]||colspan="2" style="text-align:center"|石井文子||石井邦幸||11月16日
|-
|8||せんべいさん、涙の大ズモウ||久島一仁||colspan="2" style="text-align:center"|香川豊||川端宏||11月23日
|-
|9||謎の忍者軍団、こんぺい党||菅良幸||八尋旭||青木佐恵子||[[三原武憲]]||11月30日
|-
|10||恐怖の雪山スキー!!||高屋敷英夫||colspan="2" style="text-align:center"|石山タカ明||増谷三郎||12月7日
|-
|11||源内さんのアッパレ一日殿様||浦沢義雄||colspan="2" style="text-align:center"|立場良||池上裕之||12月14日
|-
|12||屋根裏のメリークリスマス!||金春智子||colspan="2" style="text-align:center"|香川豊||千明ゆり||12月21日
|-
|13||あの素晴らしい愛をもう一度!||浦沢義雄||colspan="2" style="text-align:center"|本郷満||[[柳田義明]]||12月28日
|-
|14||初春の大空に舞うケンカ凧!!||菅良幸||colspan="2" style="text-align:center"|石山タカ明||三原武憲||'''1987年'''<br />1月4日
|-
|15||天才爆発浮世絵師、写楽の謎||高屋敷英夫||colspan="2" style="text-align:center"|立場良||池上裕之||1月11日
|-
|16||暗黒港、姫様対ギャング!||浦沢義雄||[[中村隆太郎]]||岩本保雄||増谷三郎||1月18日
|-
|17||姫様家出!あんみつ一人旅!||菅良幸||colspan="2" style="text-align:center"|石井文子||重国勇二||1月25日
|-
|18||モーレツ姫様ダメ鬼猛特訓!||久島一仁||colspan="2" style="text-align:center"|中村孝一郎||柳田義明||2月1日
|-
|19||発覚!家老のスキャンダル!||高屋敷英夫||colspan="2" style="text-align:center"|香川豊||千明ゆり||2月8日
|-
|20||初恋は波止場の夜霧とともに||rowspan="2"|浦沢義雄||colspan="2" style="text-align:center"|岩本保雄||和泉絹子||2月15日
|-
|21||走れ!名馬アマカラシンボリ||colspan="2" style="text-align:center"|石山タカ明||池上裕之||2月22日
|-
|22||ゲゲゲのあんみつ妖怪ひな祭||高屋敷英夫||colspan="2" style="text-align:center"|立場良||昆進之介||3月1日
|-
|23||バイトはつらいよ姫様奮闘篇||菅良幸||中村隆太郎||中山晴夫||増谷三郎||3月8日
|-
|24||謎のあまから城連続盗難事件||久島一仁||colspan="2" style="text-align:center"|香川豊||川端宏||3月15日
|-
|25||スーパーあんみつブラザーズII||rowspan="2"|浦沢義雄||colspan="2" style="text-align:center"|中村隆太郎||和泉絹子||3月22日
|-
|26||姫様結婚!?お見合い地獄篇!!||colspan="2" style="text-align:center"|石山タカ明||池上裕之||3月29日
|-
|27||ギョッ!姫様アメリカ留学!?||高屋敷英夫||colspan="2" style="text-align:center"|立場良||昆進之介||4月5日
|-
|28||怪獣アッシー哀しみの逆襲!||菅良幸||colspan="2" style="text-align:center"|岩本保雄||増谷三郎||4月12日
|-
|29||甘えん坊将軍あんみつ評判記||浦沢義雄||八尋旭||青木佐恵子||青嶋克巳||4月19日
|-
|30||猛火!?あまから城が燃える日||[[山本優]]||colspan="2" style="text-align:center"|中村隆太郎||和泉絹子||4月26日
|-
|31||楽しい楽しい宇宙大戦争!!||浦沢義雄||香川豊||日高麗||川端宏||5月3日
|-
|32||大出世!!甘栗の助の殿様物語||金春智子||colspan="2" style="text-align:center"|石山タカ明||古宇田文男||5月10日
|-
|33||爆走!!甘辛カーグランプリ!!||高屋敷英夫||colspan="2" style="text-align:center"|中村隆太郎||増谷三郎||5月17日
|-
|34||ミクロの姫様ミニミニ大戦争||菅良幸||colspan="2" style="text-align:center"|立場良||和泉絹子||5月24日
|-
|35||西部のあんみつ荒野の大決闘||浦沢義雄||colspan="2" style="text-align:center"|青木佐恵子||昆進之介||5月31日
|-
|36||ドラキュラの夢は夜ひらく!?||山本優||八尋旭||日高麗||池上裕之||6月7日
|-
|37||霧のロンドンあんみつ名探偵||金春智子||colspan="2" style="text-align:center"|石山タカ明||川端宏||6月14日
|-
|38||ドラゴンあんみつ珍々西遊記||高屋敷英夫||colspan="2" style="text-align:center"|中村隆太郎||増谷三郎||6月21日
|-
|39||カリブ海!海賊退治大作戦!!||菅良幸||colspan="2" style="text-align:center"|立場良||古宇田文男||6月28日
|-
|40||銀河のロマンス、星に願いを||浦沢義雄||八尋旭||青木佐恵子||池上裕之||7月5日
|-
|41||[[コミュニケーションカーニバル 夢工場'87|夢工場]]!!姫様はコンパニオン||菅良幸||colspan="2" style="text-align:center"|中村隆太郎||和泉絹子||7月12日
|-
|42||涙の乙姫!思い出の渚!!||山本優||colspan="2" style="text-align:center"|岩本保雄||増谷三郎||7月26日
|-
|43||ゲゲゲのあんみつ亡霊夏祭り||久島一仁||colspan="2" style="text-align:center"|石山タカ明||川端宏||8月2日
|-
|44||夏に御用心!友情の軽井沢||金春智子||colspan="2" style="text-align:center"|立場良||古宇田文男||8月9日
|-
|45||悲しきカッパ姫様怒りの逆襲||高屋敷英夫||colspan="2" style="text-align:center"|岩本保雄||増谷三郎||8月16日
|-
|46||宇宙の姫様ロケット大作戦!!||山本優||八尋旭||日高麗||池上裕之||8月23日
|-
|47||大逆転!種介涙の結婚物語!!||菅良幸||colspan="2" style="text-align:center"|中村隆太郎||和泉絹子||8月30日
|-
|48||ゲゲゲのあんみつ死霊館の謎||高屋敷英夫||colspan="2" style="text-align:center"|立場良||川端宏||9月6日
|-
|49||蛇屋敷!謎の美少女を救え!!||金春智子||colspan="2" style="text-align:center"|石山タカ明||池上裕之||9月13日
|-
|50||激動!甘辛城内大戦争!!||rowspan="2"|浦沢義雄||colspan="2" style="text-align:center"|中村隆太郎||和泉絹子||9月20日
|-
|51||幸せに!花嫁はあんみつ姫||colspan="2" style="text-align:center"|立場良||青嶋克巳||9月27日
|}
=== 放送局 ===
※放送日時は個別に出典が提示されているものを除き1987年9月終了時点、放送系列は放送当時のものとする<ref>{{Cite journal |和書 |journal=[[アニメージュ]] |issue=1987年10月号 |publisher=[[徳間書店]] |title=全国縦断放映リスト |pages=110}}</ref>
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!放送地域!!放送局!!放送日時!!放送系列!!備考
|-
|[[広域放送|関東広域圏]]||フジテレビ||rowspan="22"|日曜 18:00 - 18:30||rowspan="20"|[[フジネットワーク|フジテレビ系列]]||'''制作局'''
|-
|[[北海道]]||[[北海道文化放送]]||
|-
|[[宮城県]]||[[仙台放送]]||
|-
|[[秋田県]]||[[秋田テレビ]]||1987年3月までは[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]]とのクロスネット局。
|-
|[[山形県]]||[[山形テレビ]]||
|-
|[[福島県]]||[[福島テレビ]]||
|-
|[[新潟県]]||[[NST新潟総合テレビ|新潟総合テレビ]]||現・NST新潟総合テレビ。
|-
|[[長野県]]||[[長野放送]]||
|-
|[[静岡県]]||[[テレビ静岡]]||
|-
|[[富山県]]||[[富山テレビ放送|富山テレビ]]||
|-
|[[石川県]]||[[石川テレビ放送|石川テレビ]]||
|-
|[[福井県]]||[[福井テレビジョン放送|福井テレビ]]||
|-
|中京広域圏||[[東海テレビ放送|東海テレビ]]||
|-
|近畿広域圏||[[関西テレビ放送|関西テレビ]]||
|-
|[[島根県]]・[[鳥取県]]||[[山陰中央テレビジョン放送|山陰中央テレビ]]||
|-
|[[岡山県・香川県の放送|岡山県・香川県]]||[[岡山放送]]||
|-
|[[広島県]]||[[テレビ新広島]]||
|-
|[[愛媛県]]||[[テレビ愛媛|愛媛放送]]||現・テレビ愛媛。
|-
|[[福岡県]]||[[テレビ西日本]]||
|-
|[[佐賀県]]||[[サガテレビ]]||
|-
|[[熊本県]]||[[テレビ熊本]]||フジテレビ系列<br>テレビ朝日系列||
|-
|[[沖縄県]]||[[沖縄テレビ放送|沖縄テレビ]]||フジテレビ系列||
|-
|[[青森県]]||[[青森放送]]||木曜 17:00 - 17:30||テレビ朝日系列<br>[[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]]||
|-
|[[岩手県]]||[[テレビ岩手]]||日曜 7:15 - 7:45(1987年9月時点)<br>↓<br>日曜 8:30 - 9:00<ref>{{Cite journal |和書 |journal=[[アニメディア]] |issue=1988年6月号 |publisher=[[学研ホールディングス|学研]] |title=TV STATION NETWORK |pages=79}}</ref>||rowspan="2"|日本テレビ系列||
|-
|[[山梨県]]||[[山梨放送]]||火曜 17:00 - 17:30||
|-
|[[山口県]]||[[テレビ山口]]||月曜 17:00 - 17:30||[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]]<br>フジテレビ系列||
|-
|[[長崎県]]||[[テレビ長崎]]||月曜 16:30 - 17:00||rowspan="2"|日本テレビ系列<br>フジテレビ系列||
|-
|[[鹿児島県]]||[[鹿児島テレビ放送|鹿児島テレビ]]||水曜 16:30 - 17:00||
|}
{{前後番組
|放送局=[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系
|放送枠=[[フジテレビ系列日曜夕方6時台枠のアニメ|日曜18時台前半枠]]
|番組名=あんみつ姫(アニメ版)
|前番組=[[スポーツ特Q]]
|次番組=[[のらくろクン]]
}}
== 映像ソフト ==
;[[VHS]]
:;テレビアニメ版
*放送順とは関係なく、各巻セレクトされた3話ずつを収録。
:;テレビドラマ版
*小泉今日子のあんみつ姫:全3巻。
;[[DVD]]
:;テレビアニメ版
* あんみつ姫 DVD-BOX1:2005年6月29日発売。1 - 27話を収録。キャラクターデザイナー、岸義之が描き下ろしたジャケットにDVDシリーズが入っている。
* あんみつ姫 DVD-BOX2:2005年8月31日発売。28 - 51話を収録。
:;テレビドラマ版
* あんみつ姫:2008年6月27日発売。井上真央版。
== テレビゲーム ==
{{コンピュータゲーム
| Title=あんみつ姫
| Plat=[[セガ・マークIII]]/[[マスターシステム]]
| Dev=
| Pub=[[セガ・エンタープライゼス]]
| Date=[[1987年]][[7月19日]]
| Sale=
| Genre=[[アクションゲーム]]+[[アドベンチャーゲーム]]
| Play=1人
| Media=1Mb[[ロムカセット|ロムカートリッジ]]
| etc=パスワードコンティニュー
}}
アニメの放送期間中に[[セガ・エンタープライゼス]]より同社のテレビゲーム機、[[セガ・マークIII]]用ソフトとして発売された。[[アドベンチャーゲーム]]に分類されるが当時主流であったコマンド選択方式ではなく、あんみつ姫を直接操作して探索を行うなど[[アクションゲーム]]の要素が強い。
=== ゲーム内容 ===
物語は新装開店した[[ケーキ]]屋「ぽんぽこ」に向かうため、8つに切断された店の[[チラシ]]を探し回り、城を抜け出すというもの。ゲームには[[時刻]]の概念があり、移動を繰り返すたびに少しずつ時間が経過していく。夕方5時までにケーキ屋にたどり着かないとゲームオーバーになってしまう。
用意されている面はあまから城、[[城]]と[[町]]を繋ぐ森、町、町とケーキ屋を繋ぐ森の4つ。このうちあまから城と町は他のキャラクターとの会話やアイテムの捜索といった謎解きを行うアドベンチャーシーン、2つの[[森林|森]]は左右への移動とジャンプ、唯一の攻撃方法となる金平糖投げを駆使し、敵や罠をかわしながら終点を目指すアクションシーンとなる。画面はいずれもサイドビュー表示。
=== 操作方法 ===
*'''[[十字キー|方向ボタン]]''' : あんみつ姫の移動
**'''左右''' : 移動
**'''上''' : 階段を上る・部屋や建物に入る・モノを調べる
**'''下''' : 階段を降りる
*'''[[押しボタン|1ボタン]](左)''' : ゲーム画面とマップ画面の切り替え・ジャンプ
*'''2ボタン(右)''' : メッセージの切り替え・ショット
=== 備考 ===
[[ファミリーコンピュータ]]を越える同時発色数というマークIIIの特徴を生かし、各キャラクターは小さいながらもアニメの雰囲気を損なうことなく再現された。しかしゲーム内では謎解きに関するヒントはほとんど用意されておらず、ある時刻に特定の場所で何かを行うといった複雑な謎やすぐゲームオーバーになる理不尽な罠が非常に多いなど、アニメの主な視聴者層である子供を対象としている作品にもかかわらず難易度が高く設定されており、マークIIIユーザーからの幅広い支持は得られなかった。
日本国外の市場ではキャラクターをあんみつ姫からセガのマスコット的存在であった[[アレックスキッド]]に変更し、''Alex Kidd in High Tech World''のタイトルで発売された。High Tech Worldと名が付いているもののキャラクターグラフィックに変更が加えられている程度で、あんみつ姫の舞台となった江戸時代の雰囲気は残されている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 外部リンク ==
* {{Jmdb name|id=0240490|name=映画版リスト}}
* [https://pierrot.jp/archive/1985/tv80_13.html 株式会社ぴえろ 公式サイト] - アニメ版 作品情報
* [https://otn.fujitv.co.jp/b_hp/912200009.html フジテレビ ONE TWO NEXT(ワンツーネクスト)] - 井上版ドラマ 作品情報
* [https://www.fujitv.co.jp/m/drama/anmitsu/ あんみつ姫] - 井上版ドラマ モバイル版公式サイト
* [https://www.fujitv.co.jp/m/drama/anmitsu2/ あんみつ姫2]
{{ブラザー工業}}
{{おニャン子クラブ}}
{{タツノコプロ}}
{{ぴえろ}}
{{Manga-stub}}
{{デフォルトソート:あんみつひめ}}
[[Category:漫画作品 あ|んみつひめ]]
[[Category:1949年の漫画]]
[[Category:時代劇漫画]]
[[Category:少女漫画雑誌掲載漫画]]<!--原作-->
[[Category:竹本泉の漫画作品]]
[[Category:なかよし本誌の漫画作品]]<!--竹本版-->
[[Category:TBSラジオのドラマ]]
[[Category:1954年の映画]]
[[Category:時代劇映画]]
[[Category:漫画を原作とする映画作品]]
[[Category:1960年の映画]]
[[Category:漫画を原作とするテレビドラマ]]
[[Category:TBS金曜7時枠の連続ドラマ]]
[[Category:TBSの一社提供番組]]
[[Category:ブラザー工業一社提供番組]]
[[Category:月曜ドラマランド]]
[[Category:フジテレビのスペシャルドラマ]]
[[Category:1958年のテレビドラマ]]
[[Category:1983年のテレビドラマ]]
[[Category:1984年のテレビドラマ]]
[[Category:テレパックのテレビドラマ]]
[[Category:2008年のテレビドラマ]]
[[Category:2009年のテレビドラマ]]
[[Category:いずみ吉紘脚本のテレビドラマ]]
[[Category:アニメ作品 あ|んみつひめ]]
[[Category:1986年のテレビアニメ]]
[[Category:フジテレビ系アニメ]]
[[Category:ぴえろ]]
[[Category:読売広告社のアニメ作品]]
[[Category:浦沢義雄のシナリオ作品]]
[[Category:時代劇アニメ]]
[[Category:セガ・マークIII&マスターシステム用ソフト]]
[[Category:アドベンチャーゲーム]]
[[Category:アクションゲーム]]
[[Category:小泉今日子]] | 2003-05-28T03:59:40Z | 2023-11-09T23:53:43Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%82%93%E3%81%BF%E3%81%A4%E5%A7%AB |
9,455 | ジャーゴンファイル | ジャーゴンファイル(英: jargon file)とはハッカーの俗語をまとめた用語集のことである。元々、ジャーゴンファイルはマサチューセッツ工科大学人工知能研究所やスタンフォード大学人工知能研究所、それにBBNテクノロジーズ社やカーネギーメロン大学、ウースター工科大学を含めた古いアーパネットの人工知能、LISP、PDP-10コミュニティの技術文化から生まれたハッカーの俗語をまとめたものであった。
ジャーゴンファイル(以降は jargon-1 あるいは単にファイルと呼ぶ)は1975年にスタンフォード大学のラファエル・フィンケル(英語版)によって始められた。この時から1991年にスタンフォード大学のコンピューターが最終的に停止するまで、ファイルは「AIWORD.RF[UP,DOC]」という名前でそこにあった。一部の用語の起源はそれよりも相当古くからあるものである。例えば、frob や moby の一部の意味はマサチューセッツ工科大学の Tech Model Railroad Club まで遡ることができ、少なくとも1960年代の初頭まで遡ることができると信じられている。jargon-1 の改訂には版数がつけられておらず、まとめて「バージョン1」とみなされることもある。
1976年にマーク・クリスピンはスタンフォード大学のコンピューターでファイルに関する告知を見て、FTP でファイルをマサチューセッツ工科大学にコピーした。彼はファイルの内容が「AI用語」に限定されていないことに気づき、自分のディレクトリ内に「AI:MRC;SAIL JARGON」というファイル名で保存した。
ファイルは「JARGON >」に改名され、マーク・クリスピンとガイ・スティール・ジュニアによって様々な内容の充実が行われた。不幸にも、この活動の間、だれもがジャーゴン(専門用語)という用語をスラング(俗語)に訂正することに思い至らず、訂正しようとしたときには辞典はジャーゴンファイルという名で広く知れ渡っていた。おそらくはこの「専門用語」という言葉が辞典がまじめなものであるという誤った印象を与えるもととなった。
ラファエル・フィンケルはその後すぐに活動への関与からはずれ、ドン・ウッズがファイルのスタンフォード大学側連絡係となった。以降、ファイルはスタンフォード大学とマサチューセッツ工科大学に複製が置かれ、定期的に同期がとられた。
ファイルは1983年頃まで時々思い出したように拡張された。リチャード・ストールマンはこの頃の有名な寄稿者であり、マサチューセッツ工科大学やITS関連の多くの造語を付け加えた。
1981年の春にはチャールズ・スパージェンという名のハッカーによってファイルからかなりの部分がスチュワート・ブランドの「CoEvolution Quarterly」(第29号の26-35ページ)にフィル・ワドラーとガイ・スティール・ジュニアの挿絵とともに掲載された。ファイルが印刷物として出版されたのはこれが最初のようである。
後期のバージョンの jargon-1 が、大衆市場向けの解説を加えて拡充され、ガイ・スティール・ジュニアの編集によって、「The Hacker's Dictionary」という題で書籍として出版された。他の jargon-1 の編集者(ラファエル・フィンケル、ドン・ウッズ、マーク・クリスピン)もこの改訂に寄与しており、リチャード・ストールマンとジェフ・グッドフェローも寄与した。この本(現在は絶版である)をこれ以降は「Steele-1983」と呼び、前述の6人をこの本の共著者と呼ぶ。
Steele-1983 の出版の直後、ファイルの拡大と変更は事実上停止した。元々、これはファイルの更新を一時的に停止することによって Steele-1983 の出版を容易にさせるためのものであったが、外部の状況の変化によってこの「一時的」な停止は恒久的なものになった。
人工知能研究所の文化は1970年代の後期に予算の削減と、それにともなって内製のソフトウェアのかわりにベンダーによってサポートされたハードウェアとプロプライエタリなソフトウェアを可能な限り使用するようにとの管理上の決定が行われたことによって大きな打撃を受けた。マサチューセッツ工科大学ではほとんどの人工知能研究は専用のLISPマシンに変更された。また、同時期の人工知能技術の商用化により、人工知能研究で最も優秀で才能のある人材がマサチューセッツ州の128号線沿いの新興企業や西のシリコンバレーに出て行ってしまった。こうした新興企業がマサチューセッツ工科大学の LISP マシンを構築した。中心となるマサチューセッツ工科大学の人工知能コンピュータは人工知能ハッカーが愛したITSのホストではなく、TWENEXシステムとなった。
スタンフォード大学人工知能研究所は1980年頃には実質的に活動が中止されていた。それでもスタンフォード大学のコンピュータは計算機科学学部の資産として1991年まで動き続けた。スタンフォード大学は主要な TWENEX サイトとなり、一時は10台以上の TOPS-20 システムが稼働していた。しかし1980年代の中頃にはほとんどの興味深いソフトウェア開発は新しく現れた BSD UNIX 標準仕様の上で行われていた。
1983年5月にはファイルを育んだ PDP-10 中心の文化はディジタル・イクイップメント・コーポレーションのジュピター計画中止によって致命的打撃を被った。すでに散り散りになっていたファイルの編纂者は他の物事に移った。Steele-1983 は著者たちにとって失われつつあった伝統を記念するものとなった。この時点では関係者の中にはファイルの影響がどれだけ広い範囲に渡っていたかを認識していたものはいなかったのである。
1980年代の中頃にはファイルの内容はすでに古いものとなっていた。しかしファイルを中心として成長した伝説は失われることはなかった。書籍とアーパネットから取り寄せられたソフトコピーはマサチューセッツ工科大学とスタンフォードからはほど遠い文化にまで広まっていた。ファイルの内容はハッカーの言語やユーモアに強い影響を与え続けた。マイクロコンピュータ時代の到来などによってハッカー界が爆発的に膨張しても、ファイルは一種の神聖不可侵の叙事詩、「研究所の騎士」による英雄的功績を記録したハッカー文化版の「Matter of Britain」(アーサー王と円卓の騎士の伝説集)として見られていた。ハッカー界全体の変化の速度は非常に加速したが、ジャーゴンファイルは生きた文書からイコンとなり、7年間に渡ってほとんど手つかずのまま残された。
新しい改訂は1990年に始まり、後期の版の jargon-1 のほぼテキスト全体が含まれていた(一部の廃れた PDP-10 関連の項目は Steele-1983 の編集者たちと慎重に相談した上で取り除かれた)。この版には Steele-1983 の約8割が取り込まれた。一部の構成要素と今では歴史的興味の対象でしかない Steele-1983 で導入された項目は省略された。
新しい版は古いジャーゴンファイルよりも広い範囲を対象とした。人工知能や PDP-10 ハッカーの文化だけでなく、真のハッカー気質が存在する技術的なコンピュータ文化全体をカバーすることを目的としていたのである。今では半分以上の項目が Usenet に起源があり、現在C言語と UNIX 利用者の間で使用されている用語を表している。また IBM PCプログラマ、Amigaファン、Macintosh 愛好者、IBMメインフレーム界などの他の文化からも用語を集める努力も行われている。
エリック・レイモンドが現在のファイルを保守しており、ガイ・スティール・ジュニアがそれを手伝っている。レイモンドは書籍版である「The New Hacker's Dictionary」の代表編集者でもある。一部には新しいメンテナが自分自身が発明した用語を追加している。ジャーゴンファイルを歴史的に興味深い一つの文化の記録から技術用語の一般的な辞典に変えてしまったなどと批判するものもいる。レイモンドはこうした懸念に対して jargon.org ウェブサイト内で応えている。また古い版のジャーゴンファイルは多くのサイトに保存されている。 | [
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"text": "1976年にマーク・クリスピンはスタンフォード大学のコンピューターでファイルに関する告知を見て、FTP でファイルをマサチューセッツ工科大学にコピーした。彼はファイルの内容が「AI用語」に限定されていないことに気づき、自分のディレクトリ内に「AI:MRC;SAIL JARGON」というファイル名で保存した。",
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"text": "ファイルは「JARGON >」に改名され、マーク・クリスピンとガイ・スティール・ジュニアによって様々な内容の充実が行われた。不幸にも、この活動の間、だれもがジャーゴン(専門用語)という用語をスラング(俗語)に訂正することに思い至らず、訂正しようとしたときには辞典はジャーゴンファイルという名で広く知れ渡っていた。おそらくはこの「専門用語」という言葉が辞典がまじめなものであるという誤った印象を与えるもととなった。",
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"text": "ラファエル・フィンケルはその後すぐに活動への関与からはずれ、ドン・ウッズがファイルのスタンフォード大学側連絡係となった。以降、ファイルはスタンフォード大学とマサチューセッツ工科大学に複製が置かれ、定期的に同期がとられた。",
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"text": "ファイルは1983年頃まで時々思い出したように拡張された。リチャード・ストールマンはこの頃の有名な寄稿者であり、マサチューセッツ工科大学やITS関連の多くの造語を付け加えた。",
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"text": "1981年の春にはチャールズ・スパージェンという名のハッカーによってファイルからかなりの部分がスチュワート・ブランドの「CoEvolution Quarterly」(第29号の26-35ページ)にフィル・ワドラーとガイ・スティール・ジュニアの挿絵とともに掲載された。ファイルが印刷物として出版されたのはこれが最初のようである。",
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"text": "後期のバージョンの jargon-1 が、大衆市場向けの解説を加えて拡充され、ガイ・スティール・ジュニアの編集によって、「The Hacker's Dictionary」という題で書籍として出版された。他の jargon-1 の編集者(ラファエル・フィンケル、ドン・ウッズ、マーク・クリスピン)もこの改訂に寄与しており、リチャード・ストールマンとジェフ・グッドフェローも寄与した。この本(現在は絶版である)をこれ以降は「Steele-1983」と呼び、前述の6人をこの本の共著者と呼ぶ。",
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"text": "Steele-1983 の出版の直後、ファイルの拡大と変更は事実上停止した。元々、これはファイルの更新を一時的に停止することによって Steele-1983 の出版を容易にさせるためのものであったが、外部の状況の変化によってこの「一時的」な停止は恒久的なものになった。",
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"text": "人工知能研究所の文化は1970年代の後期に予算の削減と、それにともなって内製のソフトウェアのかわりにベンダーによってサポートされたハードウェアとプロプライエタリなソフトウェアを可能な限り使用するようにとの管理上の決定が行われたことによって大きな打撃を受けた。マサチューセッツ工科大学ではほとんどの人工知能研究は専用のLISPマシンに変更された。また、同時期の人工知能技術の商用化により、人工知能研究で最も優秀で才能のある人材がマサチューセッツ州の128号線沿いの新興企業や西のシリコンバレーに出て行ってしまった。こうした新興企業がマサチューセッツ工科大学の LISP マシンを構築した。中心となるマサチューセッツ工科大学の人工知能コンピュータは人工知能ハッカーが愛したITSのホストではなく、TWENEXシステムとなった。",
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"text": "スタンフォード大学人工知能研究所は1980年頃には実質的に活動が中止されていた。それでもスタンフォード大学のコンピュータは計算機科学学部の資産として1991年まで動き続けた。スタンフォード大学は主要な TWENEX サイトとなり、一時は10台以上の TOPS-20 システムが稼働していた。しかし1980年代の中頃にはほとんどの興味深いソフトウェア開発は新しく現れた BSD UNIX 標準仕様の上で行われていた。",
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"text": "1983年5月にはファイルを育んだ PDP-10 中心の文化はディジタル・イクイップメント・コーポレーションのジュピター計画中止によって致命的打撃を被った。すでに散り散りになっていたファイルの編纂者は他の物事に移った。Steele-1983 は著者たちにとって失われつつあった伝統を記念するものとなった。この時点では関係者の中にはファイルの影響がどれだけ広い範囲に渡っていたかを認識していたものはいなかったのである。",
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"text": "1980年代の中頃にはファイルの内容はすでに古いものとなっていた。しかしファイルを中心として成長した伝説は失われることはなかった。書籍とアーパネットから取り寄せられたソフトコピーはマサチューセッツ工科大学とスタンフォードからはほど遠い文化にまで広まっていた。ファイルの内容はハッカーの言語やユーモアに強い影響を与え続けた。マイクロコンピュータ時代の到来などによってハッカー界が爆発的に膨張しても、ファイルは一種の神聖不可侵の叙事詩、「研究所の騎士」による英雄的功績を記録したハッカー文化版の「Matter of Britain」(アーサー王と円卓の騎士の伝説集)として見られていた。ハッカー界全体の変化の速度は非常に加速したが、ジャーゴンファイルは生きた文書からイコンとなり、7年間に渡ってほとんど手つかずのまま残された。",
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"text": "新しい改訂は1990年に始まり、後期の版の jargon-1 のほぼテキスト全体が含まれていた(一部の廃れた PDP-10 関連の項目は Steele-1983 の編集者たちと慎重に相談した上で取り除かれた)。この版には Steele-1983 の約8割が取り込まれた。一部の構成要素と今では歴史的興味の対象でしかない Steele-1983 で導入された項目は省略された。",
"title": "1990年以降"
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"text": "新しい版は古いジャーゴンファイルよりも広い範囲を対象とした。人工知能や PDP-10 ハッカーの文化だけでなく、真のハッカー気質が存在する技術的なコンピュータ文化全体をカバーすることを目的としていたのである。今では半分以上の項目が Usenet に起源があり、現在C言語と UNIX 利用者の間で使用されている用語を表している。また IBM PCプログラマ、Amigaファン、Macintosh 愛好者、IBMメインフレーム界などの他の文化からも用語を集める努力も行われている。",
"title": "1990年以降"
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"text": "エリック・レイモンドが現在のファイルを保守しており、ガイ・スティール・ジュニアがそれを手伝っている。レイモンドは書籍版である「The New Hacker's Dictionary」の代表編集者でもある。一部には新しいメンテナが自分自身が発明した用語を追加している。ジャーゴンファイルを歴史的に興味深い一つの文化の記録から技術用語の一般的な辞典に変えてしまったなどと批判するものもいる。レイモンドはこうした懸念に対して jargon.org ウェブサイト内で応えている。また古い版のジャーゴンファイルは多くのサイトに保存されている。",
"title": "1990年以降"
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] | ジャーゴンファイルとはハッカーの俗語をまとめた用語集のことである。元々、ジャーゴンファイルはマサチューセッツ工科大学人工知能研究所やスタンフォード大学人工知能研究所、それにBBNテクノロジーズ社やカーネギーメロン大学、ウースター工科大学を含めた古いアーパネットの人工知能、LISP、PDP-10コミュニティの技術文化から生まれたハッカーの俗語をまとめたものであった。 | '''ジャーゴンファイル'''({{lang-en-short|jargon file}})とは[[ハッカー]]の[[俗語]]をまとめた用語集のことである。元々、ジャーゴンファイルは[[マサチューセッツ工科大学人工知能研究所]]や[[スタンフォード大学人工知能研究所]]、それに[[BBNテクノロジーズ]]社や[[カーネギーメロン大学]]、[[ウースター工科大学]]を含めた古い[[アーパネット]]の[[人工知能]]、[[LISP]]、[[PDP-10]]コミュニティの技術文化から生まれたハッカーの俗語をまとめたものであった。
== 1975年から1983年 ==
ジャーゴンファイル(以降は {{lang|en|jargon-1}} あるいは単にファイルと呼ぶ)は[[1975年]]に[[スタンフォード大学]]の{{仮リンク|ラファエル・フィンケル|en|Raphael Finkel}}によって始められた。この時から[[1991年]]にスタンフォード大学のコンピューターが最終的に停止するまで、ファイルは「<code>AIWORD.RF[UP,DOC]</code>」という名前でそこにあった。一部の用語の起源はそれよりも相当古くからあるものである。例えば、{{lang|en|frob}} や {{lang|en|moby}} の一部の意味はマサチューセッツ工科大学の {{lang|en|[[Tech Model Railroad Club]]}} まで遡ることができ、少なくとも1960年代の初頭まで遡ることができると信じられている。{{lang|en|jargon-1}} の改訂には版数がつけられておらず、まとめて「バージョン1」とみなされることもある。
1976年に[[マーク・クリスピン]]はスタンフォード大学のコンピューターでファイルに関する告知を見て、FTP でファイルをマサチューセッツ工科大学にコピーした。彼はファイルの内容が「AI用語」に限定されていないことに気づき、自分のディレクトリ内に「<code>AI:MRC;SAIL JARGON</code>」というファイル名で保存した。
ファイルは「<code>JARGON ></code>」<ref>[[Incompatible Timesharing System|ITS]]では「<code>></code>」がつくと自動的にバージョン管理が行われる</ref>に改名され、マーク・クリスピンと[[ガイ・スティール・ジュニア]]によって様々な内容の充実が行われた。不幸にも、この活動の間、だれもがジャーゴン(専門用語)という用語をスラング(俗語)に訂正することに思い至らず、訂正しようとしたときには辞典はジャーゴンファイルという名で広く知れ渡っていた。おそらくはこの「専門用語」という言葉が辞典がまじめなものであるという誤った印象を与えるもととなった。
ラファエル・フィンケルはその後すぐに活動への関与からはずれ、[[ドン・ウッズ]]がファイルのスタンフォード大学側連絡係となった。以降、ファイルはスタンフォード大学とマサチューセッツ工科大学に複製が置かれ、定期的に同期がとられた。
ファイルは[[1983年]]頃まで時々思い出したように拡張された。[[リチャード・ストールマン]]はこの頃の有名な寄稿者であり、マサチューセッツ工科大学やITS関連の多くの造語を付け加えた。
[[1981年]]の春にはチャールズ・スパージェンという名のハッカーによってファイルからかなりの部分が[[スチュワート・ブランド]]の「{{lang|en|[[CoEvolution Quarterly]]}}」(第29号の26-35ページ)に[[フィル・ワドラー]]とガイ・スティール・ジュニアの挿絵<!--(including a couple of the Crunchly cartoons)-->とともに掲載された。ファイルが印刷物として出版されたのはこれが最初のようである。
後期のバージョンの {{lang|en|jargon-1}} が、大衆市場向けの解説を加えて拡充され、ガイ・スティール・ジュニアの編集によって、「{{lang|en|The Hacker's Dictionary}}」<ref>{{lang|en|Harper & Row CN 1082}}、ISBN 0-06-091082-8</ref>という題で書籍として出版された。他の {{lang|en|jargon-1}} の編集者(ラファエル・フィンケル、ドン・ウッズ、マーク・クリスピン)もこの改訂に寄与しており、リチャード・ストールマンとジェフ・グッドフェローも寄与した。この本(現在は[[絶版]]である)をこれ以降は「{{lang|en|Steele}}-1983」と呼び、前述の6人をこの本の共著者と呼ぶ。
== 1983年から1990年 ==
{{lang|en|Steele}}-1983 の出版の直後、ファイルの拡大と変更は事実上停止した。元々、これはファイルの更新を一時的に停止することによって {{lang|en|Steele}}-1983 の出版を容易にさせるためのものであったが、外部の状況の変化によってこの「一時的」な停止は恒久的なものになった。
人工知能研究所の文化は[[1970年代]]の後期に予算の削減と、それにともなって内製のソフトウェアのかわりにベンダーによってサポートされたハードウェアと[[プロプライエタリソフトウェア|プロプライエタリなソフトウェア]]を可能な限り使用するようにとの管理上の決定が行われたことによって大きな打撃を受けた。マサチューセッツ工科大学ではほとんどの人工知能研究は専用の[[LISPマシン|{{lang|en|LISP}}マシン]]に変更された。また、同時期の人工知能技術の商用化により、人工知能研究で最も優秀で才能のある人材がマサチューセッツ州の128号線沿いの新興企業や西の[[シリコンバレー]]に出て行ってしまった。こうした新興企業がマサチューセッツ工科大学の {{lang|en|LISP}} マシンを構築した。中心となるマサチューセッツ工科大学の人工知能コンピュータは人工知能ハッカーが愛したITSのホストではなく、{{lang|en|[[TWENEX]]}}システムとなった。
スタンフォード大学人工知能研究所は[[1980年]]頃には実質的に活動が中止されていた。それでもスタンフォード大学のコンピュータは計算機科学学部の資産として[[1991年]]まで動き続けた。スタンフォード大学は主要な {{lang|en|TWENEX}} サイトとなり、一時は10台以上の [[TOPS-20|{{lang|en|TOPS}}-20]] システムが稼働していた。しかし1980年代の中頃にはほとんどの興味深いソフトウェア開発は新しく現れた {{lang|en|[[Berkeley Software Distribution|BSD UNIX]]}} 標準仕様の上で行われていた。
1983年5月にはファイルを育んだ PDP-10 中心の文化は[[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション]]の[[ジュピター計画]]中止によって致命的打撃を被った。すでに散り散りになっていたファイルの編纂者は他の物事に移った。{{lang|en|Steele}}-1983 は著者たちにとって失われつつあった伝統を記念するものとなった。この時点では関係者の中にはファイルの影響がどれだけ広い範囲に渡っていたかを認識していたものはいなかったのである。
1980年代の中頃にはファイルの内容はすでに古いものとなっていた。しかしファイルを中心として成長した伝説は失われることはなかった。書籍と[[アーパネット]]から取り寄せられたソフトコピーはマサチューセッツ工科大学とスタンフォードからはほど遠い文化にまで広まっていた。ファイルの内容はハッカーの言語やユーモアに強い影響を与え続けた。[[マイクロコンピュータ]]時代の到来などによってハッカー界が爆発的に膨張しても、ファイル<!--(やAppendix AのSome AI Koansなどの資料)-->は一種の神聖不可侵の叙事詩、「研究所の騎士」による英雄的功績を記録したハッカー文化版の「{{lang|en|Matter of Britain}}」(アーサー王と円卓の騎士の伝説集)として見られていた。ハッカー界全体の変化の速度は非常に加速したが、ジャーゴンファイルは生きた文書からイコンとなり、7年間に渡ってほとんど手つかずのまま残された。
== 1990年以降 ==
新しい改訂は[[1990年]]に始まり、後期の版の {{lang|en|jargon-1}} のほぼテキスト全体が含まれていた(一部の廃れた PDP-10 関連の項目は {{lang|en|Steele}}-1983 の編集者たちと慎重に相談した上で取り除かれた)。この版には {{lang|en|Steele}}-1983 の約8割が取り込まれた。一部の構成要素と今では歴史的興味の対象でしかない {{lang|en|Steele}}-1983 で導入された項目は省略された。
新しい版は古いジャーゴンファイルよりも広い範囲を対象とした。人工知能や PDP-10 ハッカーの文化だけでなく、真のハッカー気質が存在する技術的なコンピュータ文化全体をカバーすることを目的としていたのである。今では半分以上の項目が {{lang|eN|[[Usenet]]}} に起源があり、現在[[C言語]]と {{lang|en|[[UNIX]]}} 利用者の間で使用されている用語を表している。また [[IBM PC]]プログラマ、{{lang|es|[[Amiga]]}}ファン、{{lang|en|[[Macintosh]]}} 愛好者、IBMメインフレーム界などの他の文化からも用語を集める努力も行われている。
[[エリック・レイモンド]]が現在のファイルを保守しており、[[ガイ・スティール・ジュニア]]がそれを手伝っている。レイモンドは書籍版である「{{lang|en|The New Hacker's Dictionary}}」の代表編集者でもある。一部には新しいメンテナが自分自身が発明した用語を追加している。ジャーゴンファイルを歴史的に興味深い一つの文化の記録から技術用語の一般的な辞典に変えてしまったなどと批判するものもいる。レイモンドはこうした懸念に対して <code>jargon.org</code> ウェブサイト内<ref>http://www.catb.org/~esr/jargon/jargtxt.html</ref>で応えている。また古い版のジャーゴンファイルは多くのサイトに保存されている。
== 書誌情報 ==
*{{Cite book|和書|author=ガイ・スティール ほか共著|others=[[犬伏茂之]] 訳|year=1989|month=10|title=ハッカー英語辞典|series=自然社ペーパーバックス|publisher=自然社(出版) 産学社(発売)|isbn=4-7825-7006-6|ref=スティールほか1989}} - 原題: {{lang|en|The hacker’s dictionary}}、{{lang|en|Steele}}-1983 の日本語訳。
*{{Cite book|和書|editor=エリック・レイモンド|others=ガイ・スティール 絵、[[福崎俊博]] 訳|year=1995|month=9|title=ハッカーズ大辞典|series=アスキー・ブックス|publisher=アスキー|isbn=4-7561-0374-X|ref=レイモンド1995}} - 原題: {{lang|en|The hacker’s dictionary}}、第二版
*{{Cite book|和書|editor=エリック・レイモンド|others=ガイ・スティール 絵、[[福崎俊博]] 訳|year=2002|month=6|title=ハッカーズ大辞典|edition=改訂新版|series=アスキー・ブックス|publisher=アスキー|isbn=4-7561-4084-X|ref=レイモンド2002}} - 原題: {{lang|en|The New Hacker’s Dictionary}}、第三版
*{{Cite book|editor=エリック・レイモンド|year=1996|title={{lang|en|The New Hacker's Dictionary}}|edition=第三版|publisher=マサチューセッツ工科大学出版局|isbn=0-262-68092-0|ref=Raymond1996}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
*''この記事は一部がジャーゴンファイルの改訂履歴に基づいている。ジャーゴンファイルは[[パブリックドメイン]]である。''
== 外部リンク ==
* [http://catb.org/jargon/ Jargon File 4.4.8]
* [http://www.dourish.com/goodies/jargon.html 元のJargon File(保守されていない)]
* [https://web.archive.org/web/20110723230646/http://www.cosman246.com/jargon.html 現在のJargon File 5.0.0]とその[https://web.archive.org/web/20110723230646/http://www.cosman246.com/jargon.html#revision%20history 改訂履歴]
* [http://www.nurs.or.jp/~sug/soft/jargon.htm 日本版Jargon File]
* [http://jargon.juanjoconti.com.ar/ Random Jargon File quote]
{{デフォルトソート:しやあこんふあいる}}
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9,456 | 分子軌道 | 分子軌道(ぶんしきどう)または分子オービタル(英: Molecular orbital、略称: MO)は、分子中の各電子の波の様な振る舞いを記述する一電子波動関数のことである。分子軌道法において中心的な役割を果たし、電子に対するシュレーディンガー方程式を、一電子近似を用いて解くことによって得られる。
1個の電子の位置ベクトル r {\displaystyle {\boldsymbol {r}}} の関数であり、 φ i ( r ) {\displaystyle \phi _{i}({\boldsymbol {r}})} と表される。原子に対する原子軌道に対応するものである。
この関数は、特定の領域に電子を見い出す確率といった化学的、物理学的性質を計算するために使うことができる。「オービタル」(英: orbital)という用語は、「one-electron orbital wave function: 1電子オービタル(軌道〔orbit〕のような)波動関数」の略称として1932年にロバート・マリケンによって導入された。初歩レベルでは、分子軌道は関数が顕著な振幅を持つ空間の「領域」を描写するために使われる。分子軌道は大抵、分子のそれぞれの原子の原子軌道あるいは混成軌道や原子群の分子軌道を結合させて構築される。分子軌道はハートリー-フォック法や自己無撞着場(SCF)法を用いて定量的に計算することができる。
分子軌道 (MO) は電子が見出される可能性が高い分子中の領域を表わす。分子軌道は、原子中の電子の位置を予測する原子軌道の結合によって得られる。分子軌道は分子の電子配置(一電子〈あるいは電子の対〉の空間的分布ならびにエネルギー)を詳細に記述できる。通常、特に定性的あるいは非常に近似的な利用では、MOは原子軌道の線形結合によって表わされる。これらは分子中の結合の単純なモデルを提供することにおいて非常に有益である。計算化学におけるほとんどの今日的な手法は、系のMOを計算することから始まる。分子軌道は、原子核やその他の電子の平均分布によって生成された電場中の一電子の挙動を記述する。2電子が同じ軌道を占有する場合、パウリの排他原理はそれらが逆のスピンを持つことを要求する。必然的にこれは近似であり、分子の電子波動関数の精度の高い描写は軌道を持たない(配置間相互作用を参照)。
分子軌道が規格化されているならば、その絶対値の二乗に微小体積 d r {\displaystyle d{\boldsymbol {r}}} を掛けたもの
は、その微小体積 d r {\displaystyle d{\boldsymbol {r}}} 中に電子を見出す確率を表す。
化学反応の理論的予測とその解釈。→フロンティア軌道理論
分子軌道は原子軌道間の許容された相互作用によって生じる。これは原子軌道の対称性(群論から決定される)が互いに適合する時に許容される。原子軌道相互作用の効率は2つの原子軌道間の重なりによって決定され、これは原子軌道のエネルギーが近接している際に顕著である。最終的に、形成された分子軌道の数は、分子を形成するために結合された原子中の原子軌道の数と等しくなければならない。
不正確であるが定性的に有用な分子構造の議論のために、分子軌道は「原子軌道の線形結合分子軌道法」アンザッツ(LCAO法)によって得ることができる。ここでは、分子軌道は原子軌道の線形結合として表現される。
分子軌道は、1927年、1928年にフリードリッヒ・フント とロバート・マリケン によって初めて導入された。
原子軌道の線形結合(LCAO)による分子軌道の近似はジョン・レナード=ジョーンズによって1929年に導入された。レナード=ジョーンズの画期的な論文は、量子原理からどのようにしてフッ素および酸素分子の電子構造を導くかを示した。この分子軌道理論への定性的アプローチは現代量子化学の始まりの一部である。
原子軌道の線形結合 (LCAO) は、分子を構成する原子間で結合が起きる際に形成される分子軌道を推定するために使用することができる。原子軌道と同様に、電子の挙動を記述するシュレーディンガー方程式を分子軌道のために構築することができる。原子軌道の線形結合あるいは原子波動関数の和および差は分子のシュレーディンガー方程式の近似解を与える。単純な二原子分子については、得られた波動関数は以下の式で数学的に表現される。
この時、 Ψ {\displaystyle \Psi } および Ψ ∗ {\displaystyle \Psi ^{*}} はそれぞれ結合性分子軌道および反結合性分子軌道の分子波動関数であり、 ψ a {\displaystyle \psi _{a}} および ψ b {\displaystyle \psi _{b}} はそれぞれ原子aおよびbの原子波動関数、 c a {\displaystyle c_{a}} および c b {\displaystyle c_{b}} は調整係数である。これらの係数は、個々の原子軌道のエネルギーおよび対称性に依存して、正の値も負の値もとることができる。2つの原子が互いに近接すると、それらの原子軌道は重なり電子密度が高い領域が作られる。その結果、2つの原子間で分子軌道が形成される。原子は、正に荷電した核と結合性分子軌道を占有する負に荷電した電子との間の静電引力によって互いに結び付けられる。
原子軌道が相互作用する時、得られた分子軌道には結合性、反結合性あるいは非結合性の3つの種類がある。
原子軌道間の相互作用の種類は、原子軌道の対称性s、pなどと似た分子軌道対称性ラベルσ(シグマ)、π(パイ)などによってさらに分類することができる。
σ対称性を持つMOは、2つの原子s軌道あるいは2つの原子pz軌道の相互作用によって生じる。軌道が2つの核中心を結ぶ軸(核間軸)に関して対称的とすると、MOはσ対称性を持つ。これは、核間軸の周りのMOの回転が位相を変化させないことを意味する。σ* 軌道(σ反結合性軌道)も、核間軸の周りを回転した時に同じ位相を維持する。σ* 軌道は核の間に核間軸に対して垂直な節面を持つ。
π対称性を持つMOは、2つの原子px軌道あるいはpy軌道の相互作用によって生じる。軌道が核間軸の周りの回転に関して非対称とすると、MOはπ対称性を持つ。これは、核間軸の周りのMOの回転が位相の変化が起きることを意味する。π* 軌道(π反結合性軌道)も、核間軸の周りを回転した時に位相の変化が起きる。π* 軌道もまた核間に節面を持つ。
δ対称性を持つMOは、2つの原子dxyあるいはdx-y軌道の相互作用によって生じる。これらの分子軌道は低エネルギーd原子軌道を含むため、遷移金属錯体中で見られる。
理論化学者らは、f原子軌道の重なりに対応するφ結合といった高次結合が起こり得ると推測してきた。2005年現在、φ結合を含むと主張されている分子として1例のみが知られている(U2分子中のU−U結合)。
反転中心を有する分子(中心対称分子(英語版))については、分子軌道に対して適応できるさらなる対称性ラベルが存在する。
中心対称分子として以下ものがある。
非中心対称分子としては以下のものがある。
分子中の対称中心を通る反転によって分子軌道の位相が変化しない場合、MOは偶(g、ドイツ語: gerade)対称性を持つと言われる。分子中の対称中心を通る反転によって分子軌道の位相が変化する場合、MOは奇(u、ドイツ語: ungerade)対称性を持つと言われる。
σ対称性を持つ結合性MOでは軌道はσgとラベルでき、σ対称性を持つ反結合性MOでは軌道はσuとラベルできる。π対称性を持つ結合性MOはπuとラベルできる。しかし、π対称性を持つ反結合性MOはπgとラベルできる。
MOの定性的アプローチは、分子中の結合性相互作用を可視化するために分子軌道ダイアグラムを用いる。このダイアグラムでは、分子軌道は横線で表わされる。高い線の位置は軌道のエネルギーが高いことを表わし、縮退した軌道は間隔を空けて同じ高さに置かれる。次に、分子軌道に対してフントの規則とパウリの排他原理に合うように電子を配置していく。より複雑な分子については、結合の定性的理解において波動力学的アプローチは有用性を失う(しかし定量的アプローチではまだ必要とされる)。
複数の分子軌道が同じエネルギーを持つ場合、それらは縮退していると言われる。例えば、周期表の最初の10種類の元素の等核二原子分子において、pxおよびpy原子軌道に由来する分子軌道は2つの縮退した結合性軌道(低エネルギー)および2つの縮退した反結合性軌道(高エネルギー)をもたらす。
2つの原子の原子軌道間のエネルギー差がかなり大きい時、一方の原子の軌道が結合性軌道にほぼ完全に寄与し、もう一方の原子の軌道が反結合性軌道にほぼ完全に寄与する。ゆえに、電子が一方からもう一方の電子に移動した時に、この状況は有効となる。
分子の結合次数(あるいは結合数)は、結合性および反結合性分子軌道中の電子の数を以下のように組み合わせることで決定することができる。
結合次数 = 0.5*[(結合性軌道中の電子の数) - (反結合性軌道中の電子の数)]
例えば、結合性軌道に8個の電子と反結合性軌道に2つの電子を持つN2の結合次数は3であり、三重結合を構成する。結合長は結合次数に反比例する。
Be2はMOによれば結合次数は0となるが、結合長245 pm、結合エネルギー10 kJ/molの高度に不安定なBe2が存在する実験的証拠があることに留意すべきである。
最高被占分子軌道(highest occupied molecular orbital)および最低空分子軌道(lowest unoccupied molecular orbital)は、それぞれHOMOおよびLUMOとしばしば呼ばれる。バンドギャップと称されるHOMOおよびLUMOのエネルギー差は、分子の可励起性の指標としての機能を果たす。エネルギー差が小さい程、より励起しやすい。
等核二原子MOは、基底系のそれぞれの原子軌道からの等しい寄与を含んでいる。これはH2、He2、Li2の等核二原子MOダイアグラムで示される(これら全ては対称性軌道を含んでいる)。
単純なMOの例として、H'、H"とラベルされた2つの原子からなる水素分子H2を考える(分子軌道ダイアグラムを参照)。最低エネルギーの原子軌道1s'および1s"は分子の対称性に応じて変形しない。しかしながら、以下の対称適合原子軌道は変化する。
対称結合(結合性軌道と呼ばれる)は基底軌道よりもエネルギー的に低く、反対称結合(反結合性軌道と呼ばれる)はより高い。H2分子は2つの電子を持つため、それら両方が結合性軌道に入ることができ、2つの自由水素原子よりも系をエネルギー的により低く(つまりより安定に)している。これは共有結合と呼ばれる。「結合次数」は結合性電子の数と反結合性電子の数を足して2で割ったものと等しい。この例では、結合性軌道に2つの電子があり、反結合性軌道には電子がないため結合次数は1となり、2つの水素結合間には単結合が存在する。
一方、He'、He"とラベルされた原子を持つHe2の仮想的な分子を考えてみる。ここでも、最低エネルギー原子軌道1s'および1s"は分子の対称性に応じて変化しないが、以下の対称適合原子軌道は変化する。
H2分子と同様に、対称結合(結合性軌道と呼ばれる)は基底軌道よりもエネルギー的に低く、反対称結合(反結合性軌道と呼ばれる)はより高い。しかしながら、その基底状態においてそれぞれのヘリウム原子は1s軌道に2つの電子を有しており、合わせると4つの電子がある。2つの電子がより低エネルギーの結合性軌道を占有するが、残りの2つがより高エネルギーの反結合性軌道を占有する。ゆえに、結果として得られた分子の周りの電子密度は2つの電子間の結合(σ結合と呼ばれる)の形成を支持しない。ゆえに、分子は存在しない。もう一つの見方として結合次数を考えると、2つの結合性電子と2つの反結合性電子が存在することから、結合次数は0となり結合は存在しない。
二リチウムLi2は2つのLi原子の1sおよび2s原子軌道(基底関数系)の重なりによって形成される。それぞれのLi原子は結合性相互作用に3つの電子を提供し、6つの電子が最低エネルギーにある3つの分子軌道σg(1s)、σu*(1s)、σg(2s)を占有する。結合次数の式を用いると、二リチウムの結合次数は1(単結合)となる。
He2の仮想的な分子を考えると、原子軌道の基底系がH2の場合と同じであるため、結合性軌道と反結合性軌道がどちらも占有され、エネルギー的な利益はなくなる。HeHはわずかにエネルギー的利益があるがH2 + 2 Heほどではなく、そのため分子は短時間しか存在できない。一般的に、閉殻したHeといった原子はその他の原子とほとんど結合を作らない。短寿命のファンデルワールス錯体を除くと、既知の貴ガス化合物はほとんどない。
等核二原子分子のMOはそれぞれの相互作用する原子軌道から等しい寄与を受けているが、異核二原子分子のMOは異なる原子軌道の寄与を含んでいる。異核二原子分子において、原子軌道の対称性および軌道エネルギーの類似性によって決定される原子軌道間の重なりが十分である場合、結合性あるいは反結合性軌道を作り出すための軌道相互作用が起こる。
フッ化水素HFにおいて、H 1sおよびF 2s軌道の重なりは対称性によって許容されるが、2つの原子軌道間のエネルギー差が分子軌道を作り出すための相互作用を妨げる。H 1sおよびF 2pz軌道間の重なりも対称性許容であり、これらの2つの原子軌道のエネルギー差は小さい。ゆえに、これらは相互作用し、σおよびσ* MOと結合次数が1の分子が作られる。HFは非中心対称分子であるため、その分子軌道には対称性ラベルgやuは適応されない。
分子のエネルギー準位の定量的な値を得るため、配置間相互作用 (CI) 拡張がfull CI限界に向かって速く収束するような分子軌道が必要とされる。このような関数を得るための最も一般的な手法が、分子軌道をフォック演算子の固有関数として表現するハートリー-フォック法である。この方法は通常、原子核を中心としたガウス関数の線形結合として分子軌道を表現することによってこの問題を解く。これらの線形結合の係数を求める問題はローターン方程式として知られる一般固有値問題であり、つまりハートリー-フォック方程式の特定の表現である。MOの量子化学計算を行うことができる多くのプログラムがある(例: Spartan、HyperChem)。
単純な説明では、実験的分子軌道エネルギーは原子価軌道に対する紫外光電子分光法と内殻軌道に対するX線光電子分光法によって得ることができることがしばしば示唆される。しかしながら、これらの実験はイオン化エネルギー(分子と1電子を取り除くことで得られるイオンの一つとの間のエネルギー差)を測定しているため不正確である。イオン化エネルギーはクープマンズの定理によって軌道エネルギーと近似的に関連づけられている。これら2つの値がよく一致する分子もあれば、非常に悪い場合もある。 | [
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"text": "分子軌道(ぶんしきどう)または分子オービタル(英: Molecular orbital、略称: MO)は、分子中の各電子の波の様な振る舞いを記述する一電子波動関数のことである。分子軌道法において中心的な役割を果たし、電子に対するシュレーディンガー方程式を、一電子近似を用いて解くことによって得られる。",
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"text": "1個の電子の位置ベクトル r {\\displaystyle {\\boldsymbol {r}}} の関数であり、 φ i ( r ) {\\displaystyle \\phi _{i}({\\boldsymbol {r}})} と表される。原子に対する原子軌道に対応するものである。",
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"text": "この関数は、特定の領域に電子を見い出す確率といった化学的、物理学的性質を計算するために使うことができる。「オービタル」(英: orbital)という用語は、「one-electron orbital wave function: 1電子オービタル(軌道〔orbit〕のような)波動関数」の略称として1932年にロバート・マリケンによって導入された。初歩レベルでは、分子軌道は関数が顕著な振幅を持つ空間の「領域」を描写するために使われる。分子軌道は大抵、分子のそれぞれの原子の原子軌道あるいは混成軌道や原子群の分子軌道を結合させて構築される。分子軌道はハートリー-フォック法や自己無撞着場(SCF)法を用いて定量的に計算することができる。",
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"text": "分子軌道 (MO) は電子が見出される可能性が高い分子中の領域を表わす。分子軌道は、原子中の電子の位置を予測する原子軌道の結合によって得られる。分子軌道は分子の電子配置(一電子〈あるいは電子の対〉の空間的分布ならびにエネルギー)を詳細に記述できる。通常、特に定性的あるいは非常に近似的な利用では、MOは原子軌道の線形結合によって表わされる。これらは分子中の結合の単純なモデルを提供することにおいて非常に有益である。計算化学におけるほとんどの今日的な手法は、系のMOを計算することから始まる。分子軌道は、原子核やその他の電子の平均分布によって生成された電場中の一電子の挙動を記述する。2電子が同じ軌道を占有する場合、パウリの排他原理はそれらが逆のスピンを持つことを要求する。必然的にこれは近似であり、分子の電子波動関数の精度の高い描写は軌道を持たない(配置間相互作用を参照)。",
"title": "概要"
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"text": "分子軌道が規格化されているならば、その絶対値の二乗に微小体積 d r {\\displaystyle d{\\boldsymbol {r}}} を掛けたもの",
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"text": "は、その微小体積 d r {\\displaystyle d{\\boldsymbol {r}}} 中に電子を見出す確率を表す。",
"title": "物理的意味"
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"text": "化学反応の理論的予測とその解釈。→フロンティア軌道理論",
"title": "応用"
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"text": "分子軌道は原子軌道間の許容された相互作用によって生じる。これは原子軌道の対称性(群論から決定される)が互いに適合する時に許容される。原子軌道相互作用の効率は2つの原子軌道間の重なりによって決定され、これは原子軌道のエネルギーが近接している際に顕著である。最終的に、形成された分子軌道の数は、分子を形成するために結合された原子中の原子軌道の数と等しくなければならない。",
"title": "分子軌道の形成"
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"text": "不正確であるが定性的に有用な分子構造の議論のために、分子軌道は「原子軌道の線形結合分子軌道法」アンザッツ(LCAO法)によって得ることができる。ここでは、分子軌道は原子軌道の線形結合として表現される。",
"title": "定性的議論"
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"text": "分子軌道は、1927年、1928年にフリードリッヒ・フント とロバート・マリケン によって初めて導入された。",
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"text": "原子軌道の線形結合(LCAO)による分子軌道の近似はジョン・レナード=ジョーンズによって1929年に導入された。レナード=ジョーンズの画期的な論文は、量子原理からどのようにしてフッ素および酸素分子の電子構造を導くかを示した。この分子軌道理論への定性的アプローチは現代量子化学の始まりの一部である。",
"title": "定性的議論"
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"text": "原子軌道の線形結合 (LCAO) は、分子を構成する原子間で結合が起きる際に形成される分子軌道を推定するために使用することができる。原子軌道と同様に、電子の挙動を記述するシュレーディンガー方程式を分子軌道のために構築することができる。原子軌道の線形結合あるいは原子波動関数の和および差は分子のシュレーディンガー方程式の近似解を与える。単純な二原子分子については、得られた波動関数は以下の式で数学的に表現される。",
"title": "定性的議論"
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"text": "この時、 Ψ {\\displaystyle \\Psi } および Ψ ∗ {\\displaystyle \\Psi ^{*}} はそれぞれ結合性分子軌道および反結合性分子軌道の分子波動関数であり、 ψ a {\\displaystyle \\psi _{a}} および ψ b {\\displaystyle \\psi _{b}} はそれぞれ原子aおよびbの原子波動関数、 c a {\\displaystyle c_{a}} および c b {\\displaystyle c_{b}} は調整係数である。これらの係数は、個々の原子軌道のエネルギーおよび対称性に依存して、正の値も負の値もとることができる。2つの原子が互いに近接すると、それらの原子軌道は重なり電子密度が高い領域が作られる。その結果、2つの原子間で分子軌道が形成される。原子は、正に荷電した核と結合性分子軌道を占有する負に荷電した電子との間の静電引力によって互いに結び付けられる。",
"title": "定性的議論"
},
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"text": "原子軌道が相互作用する時、得られた分子軌道には結合性、反結合性あるいは非結合性の3つの種類がある。",
"title": "定性的議論"
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"text": "原子軌道間の相互作用の種類は、原子軌道の対称性s、pなどと似た分子軌道対称性ラベルσ(シグマ)、π(パイ)などによってさらに分類することができる。",
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"text": "σ対称性を持つMOは、2つの原子s軌道あるいは2つの原子pz軌道の相互作用によって生じる。軌道が2つの核中心を結ぶ軸(核間軸)に関して対称的とすると、MOはσ対称性を持つ。これは、核間軸の周りのMOの回転が位相を変化させないことを意味する。σ* 軌道(σ反結合性軌道)も、核間軸の周りを回転した時に同じ位相を維持する。σ* 軌道は核の間に核間軸に対して垂直な節面を持つ。",
"title": "定性的議論"
},
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"text": "π対称性を持つMOは、2つの原子px軌道あるいはpy軌道の相互作用によって生じる。軌道が核間軸の周りの回転に関して非対称とすると、MOはπ対称性を持つ。これは、核間軸の周りのMOの回転が位相の変化が起きることを意味する。π* 軌道(π反結合性軌道)も、核間軸の周りを回転した時に位相の変化が起きる。π* 軌道もまた核間に節面を持つ。",
"title": "定性的議論"
},
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"text": "δ対称性を持つMOは、2つの原子dxyあるいはdx-y軌道の相互作用によって生じる。これらの分子軌道は低エネルギーd原子軌道を含むため、遷移金属錯体中で見られる。",
"title": "定性的議論"
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"text": "理論化学者らは、f原子軌道の重なりに対応するφ結合といった高次結合が起こり得ると推測してきた。2005年現在、φ結合を含むと主張されている分子として1例のみが知られている(U2分子中のU−U結合)。",
"title": "定性的議論"
},
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"text": "反転中心を有する分子(中心対称分子(英語版))については、分子軌道に対して適応できるさらなる対称性ラベルが存在する。",
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"text": "中心対称分子として以下ものがある。",
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"text": "非中心対称分子としては以下のものがある。",
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"text": "分子中の対称中心を通る反転によって分子軌道の位相が変化しない場合、MOは偶(g、ドイツ語: gerade)対称性を持つと言われる。分子中の対称中心を通る反転によって分子軌道の位相が変化する場合、MOは奇(u、ドイツ語: ungerade)対称性を持つと言われる。",
"title": "定性的議論"
},
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"text": "σ対称性を持つ結合性MOでは軌道はσgとラベルでき、σ対称性を持つ反結合性MOでは軌道はσuとラベルできる。π対称性を持つ結合性MOはπuとラベルできる。しかし、π対称性を持つ反結合性MOはπgとラベルできる。",
"title": "定性的議論"
},
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"text": "MOの定性的アプローチは、分子中の結合性相互作用を可視化するために分子軌道ダイアグラムを用いる。このダイアグラムでは、分子軌道は横線で表わされる。高い線の位置は軌道のエネルギーが高いことを表わし、縮退した軌道は間隔を空けて同じ高さに置かれる。次に、分子軌道に対してフントの規則とパウリの排他原理に合うように電子を配置していく。より複雑な分子については、結合の定性的理解において波動力学的アプローチは有用性を失う(しかし定量的アプローチではまだ必要とされる)。",
"title": "定性的議論"
},
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"text": "複数の分子軌道が同じエネルギーを持つ場合、それらは縮退していると言われる。例えば、周期表の最初の10種類の元素の等核二原子分子において、pxおよびpy原子軌道に由来する分子軌道は2つの縮退した結合性軌道(低エネルギー)および2つの縮退した反結合性軌道(高エネルギー)をもたらす。",
"title": "定性的議論"
},
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"text": "2つの原子の原子軌道間のエネルギー差がかなり大きい時、一方の原子の軌道が結合性軌道にほぼ完全に寄与し、もう一方の原子の軌道が反結合性軌道にほぼ完全に寄与する。ゆえに、電子が一方からもう一方の電子に移動した時に、この状況は有効となる。",
"title": "定性的議論"
},
{
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"text": "分子の結合次数(あるいは結合数)は、結合性および反結合性分子軌道中の電子の数を以下のように組み合わせることで決定することができる。",
"title": "定性的議論"
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"text": "結合次数 = 0.5*[(結合性軌道中の電子の数) - (反結合性軌道中の電子の数)]",
"title": "定性的議論"
},
{
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"text": "例えば、結合性軌道に8個の電子と反結合性軌道に2つの電子を持つN2の結合次数は3であり、三重結合を構成する。結合長は結合次数に反比例する。",
"title": "定性的議論"
},
{
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"text": "Be2はMOによれば結合次数は0となるが、結合長245 pm、結合エネルギー10 kJ/molの高度に不安定なBe2が存在する実験的証拠があることに留意すべきである。",
"title": "定性的議論"
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"text": "最高被占分子軌道(highest occupied molecular orbital)および最低空分子軌道(lowest unoccupied molecular orbital)は、それぞれHOMOおよびLUMOとしばしば呼ばれる。バンドギャップと称されるHOMOおよびLUMOのエネルギー差は、分子の可励起性の指標としての機能を果たす。エネルギー差が小さい程、より励起しやすい。",
"title": "定性的議論"
},
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"text": "等核二原子MOは、基底系のそれぞれの原子軌道からの等しい寄与を含んでいる。これはH2、He2、Li2の等核二原子MOダイアグラムで示される(これら全ては対称性軌道を含んでいる)。",
"title": "分子軌道の例"
},
{
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"text": "単純なMOの例として、H'、H\"とラベルされた2つの原子からなる水素分子H2を考える(分子軌道ダイアグラムを参照)。最低エネルギーの原子軌道1s'および1s\"は分子の対称性に応じて変形しない。しかしながら、以下の対称適合原子軌道は変化する。",
"title": "分子軌道の例"
},
{
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"text": "対称結合(結合性軌道と呼ばれる)は基底軌道よりもエネルギー的に低く、反対称結合(反結合性軌道と呼ばれる)はより高い。H2分子は2つの電子を持つため、それら両方が結合性軌道に入ることができ、2つの自由水素原子よりも系をエネルギー的により低く(つまりより安定に)している。これは共有結合と呼ばれる。「結合次数」は結合性電子の数と反結合性電子の数を足して2で割ったものと等しい。この例では、結合性軌道に2つの電子があり、反結合性軌道には電子がないため結合次数は1となり、2つの水素結合間には単結合が存在する。",
"title": "分子軌道の例"
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"text": "一方、He'、He\"とラベルされた原子を持つHe2の仮想的な分子を考えてみる。ここでも、最低エネルギー原子軌道1s'および1s\"は分子の対称性に応じて変化しないが、以下の対称適合原子軌道は変化する。",
"title": "分子軌道の例"
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{
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"text": "H2分子と同様に、対称結合(結合性軌道と呼ばれる)は基底軌道よりもエネルギー的に低く、反対称結合(反結合性軌道と呼ばれる)はより高い。しかしながら、その基底状態においてそれぞれのヘリウム原子は1s軌道に2つの電子を有しており、合わせると4つの電子がある。2つの電子がより低エネルギーの結合性軌道を占有するが、残りの2つがより高エネルギーの反結合性軌道を占有する。ゆえに、結果として得られた分子の周りの電子密度は2つの電子間の結合(σ結合と呼ばれる)の形成を支持しない。ゆえに、分子は存在しない。もう一つの見方として結合次数を考えると、2つの結合性電子と2つの反結合性電子が存在することから、結合次数は0となり結合は存在しない。",
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"text": "二リチウムLi2は2つのLi原子の1sおよび2s原子軌道(基底関数系)の重なりによって形成される。それぞれのLi原子は結合性相互作用に3つの電子を提供し、6つの電子が最低エネルギーにある3つの分子軌道σg(1s)、σu*(1s)、σg(2s)を占有する。結合次数の式を用いると、二リチウムの結合次数は1(単結合)となる。",
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"text": "He2の仮想的な分子を考えると、原子軌道の基底系がH2の場合と同じであるため、結合性軌道と反結合性軌道がどちらも占有され、エネルギー的な利益はなくなる。HeHはわずかにエネルギー的利益があるがH2 + 2 Heほどではなく、そのため分子は短時間しか存在できない。一般的に、閉殻したHeといった原子はその他の原子とほとんど結合を作らない。短寿命のファンデルワールス錯体を除くと、既知の貴ガス化合物はほとんどない。",
"title": "分子軌道の例"
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{
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"text": "等核二原子分子のMOはそれぞれの相互作用する原子軌道から等しい寄与を受けているが、異核二原子分子のMOは異なる原子軌道の寄与を含んでいる。異核二原子分子において、原子軌道の対称性および軌道エネルギーの類似性によって決定される原子軌道間の重なりが十分である場合、結合性あるいは反結合性軌道を作り出すための軌道相互作用が起こる。",
"title": "分子軌道の例"
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"text": "フッ化水素HFにおいて、H 1sおよびF 2s軌道の重なりは対称性によって許容されるが、2つの原子軌道間のエネルギー差が分子軌道を作り出すための相互作用を妨げる。H 1sおよびF 2pz軌道間の重なりも対称性許容であり、これらの2つの原子軌道のエネルギー差は小さい。ゆえに、これらは相互作用し、σおよびσ* MOと結合次数が1の分子が作られる。HFは非中心対称分子であるため、その分子軌道には対称性ラベルgやuは適応されない。",
"title": "分子軌道の例"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "分子のエネルギー準位の定量的な値を得るため、配置間相互作用 (CI) 拡張がfull CI限界に向かって速く収束するような分子軌道が必要とされる。このような関数を得るための最も一般的な手法が、分子軌道をフォック演算子の固有関数として表現するハートリー-フォック法である。この方法は通常、原子核を中心としたガウス関数の線形結合として分子軌道を表現することによってこの問題を解く。これらの線形結合の係数を求める問題はローターン方程式として知られる一般固有値問題であり、つまりハートリー-フォック方程式の特定の表現である。MOの量子化学計算を行うことができる多くのプログラムがある(例: Spartan、HyperChem)。",
"title": "定量的アプローチ"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "単純な説明では、実験的分子軌道エネルギーは原子価軌道に対する紫外光電子分光法と内殻軌道に対するX線光電子分光法によって得ることができることがしばしば示唆される。しかしながら、これらの実験はイオン化エネルギー(分子と1電子を取り除くことで得られるイオンの一つとの間のエネルギー差)を測定しているため不正確である。イオン化エネルギーはクープマンズの定理によって軌道エネルギーと近似的に関連づけられている。これら2つの値がよく一致する分子もあれば、非常に悪い場合もある。",
"title": "定量的アプローチ"
}
] | 分子軌道(ぶんしきどう)または分子オービタルは、分子中の各電子の波の様な振る舞いを記述する一電子波動関数のことである。分子軌道法において中心的な役割を果たし、電子に対するシュレーディンガー方程式を、一電子近似を用いて解くことによって得られる。 1個の電子の位置ベクトル r の関数であり、 ϕ i と表される。原子に対する原子軌道に対応するものである。 この関数は、特定の領域に電子を見い出す確率といった化学的、物理学的性質を計算するために使うことができる。「オービタル」という用語は、「one-electron orbital wave function: 1電子オービタル(軌道〔orbit〕のような)波動関数」の略称として1932年にロバート・マリケンによって導入された。初歩レベルでは、分子軌道は関数が顕著な振幅を持つ空間の「領域」を描写するために使われる。分子軌道は大抵、分子のそれぞれの原子の原子軌道あるいは混成軌道や原子群の分子軌道を結合させて構築される。分子軌道はハートリー-フォック法や自己無撞着場(SCF)法を用いて定量的に計算することができる。 | [[ファイル:Orbitals acetylene.jpg|right|thumb|[[アセチレン]] (H–C≡C–H) の完全な分子軌道群。左欄は基底状態で占有されているMOを示し、最上部が最もエネルギーの低い軌道である。1部のMOで見られる白色と灰色の線はアセチレン分子の[[球棒モデル]]による表示である。オービタル波動関数は赤色の領域で正、青色の領域で負である。右欄は基底状態では空のMOを示しているが、励起状態ではこれらの軌道は占有され得る。]]
[[ファイル:Benzene-LUMO-transparent-3D-balls.png|thumb|[[ベンゼン]]の[[最低空軌道]]]]
'''分子軌道'''(ぶんしきどう)または'''分子オービタル'''({{lang-en-short|Molecular orbital}}、略称: MO)は、[[分子]]中の各[[電子]]の波の様な振る舞いを記述する一電子[[波動関数]]のことである。[[分子軌道法]]において中心的な役割を果たし、電子に対する[[シュレーディンガー方程式]]を、[[一電子近似]]を用いて解くことによって得られる。
1個の電子の位置ベクトル <math>\boldsymbol{r}</math> の関数であり、 <math>\phi_i(\boldsymbol{r})</math> と表される。[[原子]]に対する[[原子軌道]]に対応するものである。
この関数は、特定の領域に[[電子]]を見い出す確率といった化学的、物理学的性質を計算するために使うことができる。「オービタル」({{lang-en-short|orbital}})という用語は、「{{lang|en|one-electron orbital wave function}}: 1電子オービタル(軌道〔{{lang|en|orbit}}〕のような)波動関数」の略称として1932年に[[ロバート・マリケン]]によって導入された<ref>{{cite journal
| last=Mulliken | first=Robert S.
| title=Electronic Structures of Polyatomic Molecules and Valence. II. General Considerations
|date=July 1932
| journal=[[Physical Review]]
| volume=41 | issue=1 | pages=49–71
| bibcode = 1932PhRv...41...49M
| doi = 10.1103/PhysRev.41.49
}}</ref>。初歩レベルでは、分子軌道は関数が顕著な振幅を持つ空間の「領域」を描写するために使われる。分子軌道は大抵、分子のそれぞれの[[原子]]の[[原子軌道]]あるいは[[混成軌道]]や原子群の分子軌道を結合させて構築される。分子軌道は[[ハートリー-フォック方程式|ハートリー-フォック法]]や[[自己無撞着場]](SCF)法を用いて定量的に計算することができる。
==概要==
分子軌道 (MO) は[[電子]]が見出される可能性が高い分子中の領域を表わす。分子軌道は、原子中の電子の位置を予測する原子軌道の結合によって得られる。分子軌道は分子の[[電子配置]](一電子〈あるいは電子の対〉の空間的分布ならびにエネルギー)を詳細に記述できる。通常、特に定性的あるいは非常に近似的な利用では、MOは[[LCAO法|原子軌道の線形結合]]によって表わされる。これらは分子中の結合の単純なモデルを提供することにおいて非常に有益である。[[計算化学]]におけるほとんどの今日的な手法は、系のMOを計算することから始まる。分子軌道は、原子核やその他の電子の平均分布によって生成された電場中の一電子の挙動を記述する。2電子が同じ軌道を占有する場合、[[パウリの排他原理]]はそれらが逆の[[スピン (物理学)|スピン]]を持つことを要求する。必然的にこれは近似であり、分子の電子波動関数の精度の高い描写は軌道を持たない([[配置間相互作用]]を参照)。
==物理的意味==
分子軌道が[[規格化]]されているならば、その[[絶対値]]の二乗に微小体積<math>d\boldsymbol{r}</math>を掛けたもの
:<math>
\phi_i^{*}(\boldsymbol{r})\phi_i(\boldsymbol{r})\,d\boldsymbol{r}
=|\phi_i(\boldsymbol{r})|^2\,d\boldsymbol{r}
</math>
は、その微小体積<math>d\boldsymbol{r}</math>中に電子を見出す確率を表す。
== 応用 ==
[[化学反応]]の理論的予測とその解釈。→[[フロンティア軌道理論]]
==分子軌道の形成==
分子軌道は原子軌道間の許容された相互作用によって生じる。これは原子軌道の対称性([[群論]]から決定される)が互いに適合する時に許容される。原子軌道相互作用の効率は2つの原子軌道間の重なりによって決定され、これは原子軌道のエネルギーが近接している際に顕著である。最終的に、形成された分子軌道の数は、分子を形成するために結合された原子中の原子軌道の数と等しくなければならない。
==定性的議論==
不正確であるが定性的に有用な分子構造の議論のために、分子軌道は「原子軌道の線形結合分子軌道法」[[アンザッツ]]([[LCAO法]])によって得ることができる。ここでは、分子軌道は原子軌道の[[線形結合]]として表現される。
===原子軌道の線形結合 (LCAO)===
{{main|LCAO法}}
分子軌道は、1927年、1928年に[[フリードリッヒ・フント]]<ref>{{cite journal|author=Hund, D.|title=Zur Deutung einiger Erscheinungen in den Molekelspektren [On the interpretation of some phenomena in molecular spectra]|journal=Zeitschrift für Physik|volume=36| pages =657-674|year=1926|doi= 10.1007/BF01400155}}</ref><ref>{{cite journal|author=Hunt, F.|doi=10.1007/BF01400234|title=Zur Deutung der Molekelspektren. I |journal=Zeitschrift für Physik|volume=40|pages=742-764|year=1927}}</ref><ref>{{cite journal|author=Hunt, F.|doi=10.1007/BF01397124|title=Zur Deutung der Molekelspektren. II |journal=Zeitschrift für Physik|volume=42|pages=93–120|year=1927}}</ref><ref>{{cite journal|author=Hunt, F.|doi=10.1007/BF01397249|title=Zur Deutung der Molekelspektren. III. Bemerkungen über das Schwingungs- und Rotationsspektrum bei Molekeln mit mehr als zwei Kernen|journal=Zeitschrift für Physik|volume=43|pages=805-826|year=1927}}</ref><ref>{{cite journal|author=Hunt, F.|doi=10.1007/BF01400239|title=Zur Deutung der Molekelspektren. IV|journal=Zeitschrift für Physik|volume=51|pages=759-795|year=1928}}</ref><ref>{{cite journal|author=Hunt, F.|doi= 10.1007/BF01339271|title=Zur Deutung der Molekelspektren V. Die angeregten Elektronenterme von Molekeln mit zwei gleichen Kernen (H2, He2, Li2, N2+, N2 ...)|journal=Zeitschrift für Physik|volume=63|pages=719-751 |year=1930}}</ref> と[[ロバート・マリケン]]<ref>{{cite journal|author=Mulliken, R. S.|title=Electronic States and Band Spectrum Structure in Diatomic Molecules. IV. Hund's Theory; Second Positive Nitrogen and Swan Bands; Alternating Intensities|journal=Phys. Rev.|volume= 29| pages= 637-649|year=1927|doi=10.1103/PhysRev.29.637}}</ref><ref>{{cite journal|author=Mulliken, R. S.|title=The assignment of quantum numbers for electrons in molecules. I|journal=Phys. Rev.|volume= 32| pages= 186-222|year=1928|doi=
10.1103/PhysRev.32.186}}</ref> によって初めて導入された<ref>{{cite journal|title=Friedrich Hund and Chemistry|author=Werner Kutzelnigg|journal=[[アンゲヴァンテ・ケミー|Angew. Chem. Int. Ed.]]|volume= 35|pages= 573-586|year=1996|doi=10.1002/anie.199605721}}</ref><ref>{{cite journal|author=Mulliken, R. S.|title=Spectroscopy, Molecular Orbitals, and Chemical Bonding|journal=[[サイエンス|Science]]|year= 1967|volume= 157|issue=3784|pages= 13-24|doi= 10.1126/science.157.3784.13 |url=http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/chemistry/laureates/1966/mulliken-lecture.html}}</ref>。
原子軌道の線形結合(LCAO)による分子軌道の近似は[[ジョン・レナード=ジョーンズ]]によって1929年に導入された<ref>{{cite journal|author=Lennard-Jones, J. E. |year=1929|journal= Trans. Faraday Soc.|title=The electronic structure of some diatomic molecules|volume=25|pages= 668-686|doi=10.1039/TF9292500668 }}</ref>。レナード=ジョーンズの画期的な論文は、量子原理からどのようにして[[フッ素]]および[[酸素]]分子の電子構造を導くかを示した。この分子軌道理論への定性的アプローチは現代[[量子化学]]の始まりの一部である。
原子軌道の線形結合 (LCAO) は、分子を構成する原子間で結合が起きる際に形成される分子軌道を推定するために使用することができる。原子軌道と同様に、電子の挙動を記述する[[シュレーディンガー方程式]]を分子軌道のために構築することができる。原子軌道の線形結合あるいは原子波動関数の和および差は分子のシュレーディンガー方程式の近似解を与える。単純な二原子分子については、得られた波動関数は以下の式で数学的に表現される。
:<math>\Psi = c_a \psi_a + c_b \psi_b</math>
:<math>\Psi^* = c_a \psi_a - c_b \psi_b</math>
この時、<math>\Psi</math>および<math>\Psi^*</math>はそれぞれ結合性分子軌道および[[反結合性軌道|反結合性分子軌道]]の分子波動関数であり、<math>\psi_a</math>および<math>\psi_b</math>はそれぞれ原子aおよびbの原子波動関数、<math>c_a</math>および<math>c_b</math>は調整係数である。これらの係数は、個々の原子軌道のエネルギーおよび対称性に依存して、正の値も負の値もとることができる。2つの原子が互いに近接すると、それらの原子軌道は重なり電子密度が高い領域が作られる。その結果、2つの原子間で分子軌道が形成される。原子は、正に荷電した核と結合性分子軌道を占有する負に荷電した電子との間の静電引力によって互いに結び付けられる<ref name="Gary L. Miessler 2004">Gary L. Miessler; Donald A. Tarr. Inorganic Chemistry. Pearson Prentice Hall, 3rd ed., 2004.</ref>。
===結合性、反結合性、非結合性MO===
原子軌道が相互作用する時、得られた分子軌道には結合性、反結合性あるいは非結合性の3つの種類がある。
;結合性MO
:原子軌道間の結合性相互作用は相乗的(同相の)相互作用である。結合性MOはそれらを作るために混合された原子軌道よりもエネルギー的に低い。
;[[反結合性軌道|反結合性MO]]
:原子軌道間の反結合性相互作用は相殺的(異相の)相互作用である。反結合性MOはそれらを作るために混合された原子軌道よりもエネルギー的に高い。
;[[非結合性軌道|非結合性MO]]
:非結合性MOは適合する対称性の欠如のために原子軌道間で相互作用が起こらなかったことの結果である。非結合性MOは分子中の原子の一つの原子軌道と等しいエネルギーを持つ。
===σおよびπ軌道===
原子軌道間の相互作用の種類は、原子軌道の対称性s、pなどと似た分子軌道対称性ラベルσ(シグマ)、π(パイ)などによってさらに分類することができる。
====σ対称性====
{{more|σ結合}}
σ対称性を持つMOは、2つの原子s軌道あるいは2つの原子p<sub>z</sub>軌道の相互作用によって生じる。軌道が2つの核中心を結ぶ軸(核間軸)に関して対称的とすると、MOはσ対称性を持つ。これは、核間軸の周りのMOの回転が位相を変化させないことを意味する。σ* 軌道(σ反結合性軌道)も、核間軸の周りを回転した時に同じ位相を維持する。σ* 軌道は核の間に核間軸に対して垂直な節面を持つ<ref name="Catherine E. Housecroft 2005, p. 29-33">Catherine E. Housecroft, Alan G, Sharpe, Inorganic Chemistry, Pearson Prentice Hall; 2nd Edition, 2005, p. 29-33.</ref>。
====π対称性====
{{more|π結合}}
π対称性を持つMOは、2つの原子p<sub>x</sub>軌道あるいはp<sub>y</sub>軌道の相互作用によって生じる。軌道が核間軸の周りの回転に関して非対称とすると、MOはπ対称性を持つ。これは、核間軸の周りのMOの回転が位相の変化が起きることを意味する。π* 軌道(π反結合性軌道)も、核間軸の周りを回転した時に位相の変化が起きる。π* 軌道もまた核間に節面を持つ<ref name="Catherine E. Housecroft 2005, p. 29-33"/><ref>Peter Atkins; Julio De Paula. Atkins’ Physical Chemistry. Oxford University Press, 8th ed., 2006.</ref><ref>Yves Jean; Francois Volatron. An Introduction to Molecular Orbitals. Oxford University Press, 1993.</ref><ref>Michael Munowitz, Principles of Chemistry, Norton & Company, 2000, p. 229-233.</ref>。
====δ対称性====
{{more|δ結合}}
δ対称性を持つMOは、2つの原子d<sub>xy</sub>あるいはd<sub>x<sup>2</sup>-y<sup>2</sup></sub>軌道の相互作用によって生じる。これらの分子軌道は低エネルギーd原子軌道を含むため、[[遷移金属]]錯体中で見られる。
====φ対称性====
{{see|φ結合}}
{{multiple image
| width = 120
| image1 = Phi-bond-f-orbitals-2D.png
| image2 = Phi-bond-boundary-surface-diagram-2D.png
| caption = 適切に並んだf原子軌道は、φ分子軌道(φ結合)を形成するために重なり合うことができる。
}}
理論化学者らは、f原子軌道の重なりに対応するφ結合といった高次結合が起こり得ると推測してきた。2005年現在、φ結合を含むと主張されている分子として1例のみが知られている([[ウラン|U<sub>2</sub>]]分子中のU−U結合)<ref>{{cite journal|last=Gagliardi|first=Laura|coauthors=Roos, Björn O.|title=Quantum chemical calculations show that the uranium molecule U2 has a quintuple bond|journal=[[ネイチャー|Nature]]|year=2005|volume=433|pages=848–851|doi=10.1038/nature03249|url=http://archive-ouverte.unige.ch/unige:3652|bibcode = 2005Natur.433..848G }}</ref>。
===偶対称性および奇対称性===
反転中心を有する分子({{仮リンク|中心対称性|en|centrosymmetry|label=中心対称分子}})については、分子軌道に対して適応できるさらなる対称性ラベルが存在する。
中心対称分子として以下ものがある。
*[[等核分子]]、X<sub>2</sub>
*[[八面体形]]、EX<sub>6</sub>
*[[平面四角形]]、EX<sub>4</sub>
非中心対称分子としては以下のものがある。
*異核分子、XY
*[[四面体形]]、EX<sub>4</sub>
分子中の対称中心を通る反転によって分子軌道の位相が変化しない場合、MOは偶(g、{{lang-de|gerade}})対称性を持つと言われる。分子中の対称中心を通る反転によって分子軌道の位相が変化する場合、MOは奇(u、{{lang-de|ungerade}})対称性を持つと言われる。
σ対称性を持つ結合性MOでは軌道はσ<sub>g</sub>とラベルでき、σ対称性を持つ反結合性MOでは軌道はσ<sub>u</sub>とラベルできる。π対称性を持つ結合性MOはπ<sub>u</sub>とラベルできる。しかし、π対称性を持つ反結合性MOはπ<sub>g</sub>とラベルできる<ref name="Catherine E. Housecroft 2005, p. 29-33"/>。
===MOダイアグラム===
{{main|分子軌道ダイアグラム}}
MOの定性的アプローチは、分子中の結合性相互作用を可視化するために[[分子軌道ダイアグラム]]を用いる。この[[ダイアグラム]]では、分子軌道は横線で表わされる。高い線の位置は軌道のエネルギーが高いことを表わし、縮退した軌道は間隔を空けて同じ高さに置かれる。次に、分子軌道に対して[[フントの規則]]と[[パウリの排他原理]]に合うように電子を配置していく。より複雑な分子については、結合の定性的理解において波動力学的アプローチは有用性を失う(しかし定量的アプローチではまだ必要とされる)。
* 軌道の[[基底関数系 (化学)|基底関数系]]は分子軌道相互作用に利用可能な原子軌道(結合性あるいは反結合性)を含む。
* 分子軌道の数は、線形拡張あるいは基底関数系に含まれる原子軌道の数と等しい。
*分子が対称性を有する場合は、縮退した原子軌道(同じ原子エネルギーを持つ)は線形結合にグループ化される('''対称適合原子軌道'''と呼ばれる)。これは{{仮リンク|対称変換群|en|Symmetry group}}の表現に属するため、この群を記述する[[波動関数]]は'''対称適合線形結合''' ('''SALC''') として知られている。
*一つの群表現に属する分子軌道の数は、この表現に属する対称適合原子軌道の数と等しい。
*特定の表現内では、原子[[エネルギー準位]]が近接している場合は対称適合原子軌道はより混合する。
===分子軌道における結合===
====軌道の縮退====
{{main|縮退}}
複数の分子軌道が同じエネルギーを持つ場合、それらは[[縮退]]していると言われる。例えば、周期表の最初の10種類の元素の等核二原子分子において、p<sub>x</sub>およびp<sub>y</sub>原子軌道に由来する分子軌道は2つの縮退した結合性軌道(低エネルギー)および2つの縮退した反結合性軌道(高エネルギー)をもたらす<ref name="Gary L. Miessler 2004"/>。
====イオン結合====
{{main|イオン結合}}
2つの原子の原子軌道間のエネルギー差がかなり大きい時、一方の原子の軌道が結合性軌道にほぼ完全に寄与し、もう一方の原子の軌道が反結合性軌道にほぼ完全に寄与する。ゆえに、電子が一方からもう一方の電子に移動した時に、この状況は有効となる。
====結合次数および結合長====
{{main|結合長}}
分子の結合次数(あるいは結合数)は、結合性および反結合性分子軌道中の電子の数を以下のように組み合わせることで決定することができる。
結合次数 = 0.5*[(結合性軌道中の電子の数) - (反結合性軌道中の電子の数)]
例えば、結合性軌道に8個の電子と反結合性軌道に2つの電子を持つN<sub>2</sub>の結合次数は3であり、[[三重結合]]を構成する。結合長は結合次数に反比例する。
Be<sub>2</sub>はMOによれば結合次数は0となるが、結合長245 pm、結合エネルギー10 kJ/molの高度に不安定なBe<sub>2</sub>が存在する実験的証拠があることに留意すべきである<ref name="Catherine E. Housecroft 2005, p. 29-33"/>。
====HOMOおよびLUMO====
{{main|HOMO/LUMO}}
最高被占分子軌道(highest occupied molecular orbital)および最低空分子軌道(lowest unoccupied molecular orbital)は、それぞれHOMOおよびLUMOとしばしば呼ばれる。[[バンドギャップ]]と称されるHOMOおよびLUMOのエネルギー差は、分子の[[励起状態|可励起性]]の指標としての機能を果たす。エネルギー差が小さい程、より励起しやすい。
==分子軌道の例==
===等核二原子分子===
等核二原子MOは、基底系のそれぞれの原子軌道からの等しい寄与を含んでいる。これはH<sub>2</sub>、He<sub>2</sub>、Li<sub>2</sub>の等核二原子MOダイアグラムで示される(これら全ては対称性軌道を含んでいる)<ref name="Catherine E. Housecroft 2005, p. 29-33"/>。
====H<sub>2</sub>====
単純なMOの例として、H'、H"とラベルされた2つの原子からなる[[水素]]分子H<sub>2</sub>を考える([[分子軌道ダイアグラム]]を参照)。最低エネルギーの原子軌道1s'および1s"は[[分子の対称性]]に応じて変形しない。しかしながら、以下の対称適合原子軌道は変化する。
{| class="wikitable"
|-
!1s' - 1s"
|反対称結合: 鏡映によって変化する、その他の操作では変化しない。
|-
!1s' + 1s"
|対称結合: 全ての[[対称操作]]によって変化しない。
|}
対称結合(結合性軌道と呼ばれる)は基底軌道よりもエネルギー的に低く、反対称結合(反結合性軌道と呼ばれる)はより高い。H<sub>2</sub>分子は2つの電子を持つため、それら両方が結合性軌道に入ることができ、2つの自由水素原子よりも系をエネルギー的により低く(つまりより安定に)している。これは[[共有結合]]と呼ばれる。「結合次数」は結合性電子の数と反結合性電子の数を足して2で割ったものと等しい。この例では、結合性軌道に2つの電子があり、反結合性軌道には電子がないため結合次数は1となり、2つの水素結合間には単結合が存在する。
[[ファイル:H2OrbitalsAnimation.gif|thumb|right|300px|水素原子(左および右)の[[原子軌道|1s軌道]]の電子波動関数とH<sub>2</sub>分子の対応する結合性(下)および反結合性(上)電子軌道。波動関数の[[実部]]は青色の曲線、[[虚部]]は赤色の曲線である。赤い点は陽子の位置を示している。電子波動関数は[[シュレーディンガー方程式|シュレーディンガー波動方程式]]に従って振動し、軌道はその[[定常波]]となる。定常波の周波数は軌道のエネルギーに比例する。]]
====He<sub>2</sub>====
一方、He'、He"とラベルされた原子を持つHe<sub>2</sub>の仮想的な分子を考えてみる。ここでも、最低エネルギー原子軌道1s'および1s"は分子の対称性に応じて変化しないが、以下の対称適合原子軌道は変化する。
{| class="wikitable"
|-
!1s' - 1s"
|反対称結合: 鏡映によって変化する、その他の操作では変化しない。
|-
!1s' + 1s"
|対称結合: 全ての[[対称操作]]によって変化しない。
|}
H<sub>2</sub>分子と同様に、対称結合(結合性軌道と呼ばれる)は基底軌道よりもエネルギー的に低く、反対称結合(反結合性軌道と呼ばれる)はより高い。しかしながら、その基底状態においてそれぞれのヘリウム原子は1s軌道に2つの電子を有しており、合わせると4つの電子がある。2つの電子がより低エネルギーの結合性軌道を占有するが、残りの2つがより高エネルギーの反結合性軌道を占有する。ゆえに、結果として得られた分子の周りの電子密度は2つの電子間の結合(σ結合と呼ばれる)の形成を支持しない。ゆえに、分子は存在しない。もう一つの見方として結合次数を考えると、2つの結合性電子と2つの反結合性電子が存在することから、結合次数は0となり結合は存在しない。
====Li<sub>2</sub>====
[[二リチウム]]Li<sub>2</sub>は2つのLi原子の1sおよび2s原子軌道(基底関数系)の重なりによって形成される。それぞれのLi原子は結合性相互作用に3つの電子を提供し、6つの電子が最低エネルギーにある3つの分子軌道σ<sub>g</sub>(1s)、σ<sub>u</sub>*(1s)、σ<sub>g</sub>(2s)を占有する。結合次数の式を用いると、二リチウムの結合次数は1(単結合)となる。
====貴ガス====
He<sub>2</sub>の仮想的な分子を考えると、原子軌道の基底系がH<sub>2</sub>の場合と同じであるため、結合性軌道と反結合性軌道がどちらも占有され、エネルギー的な利益はなくなる。HeHはわずかにエネルギー的利益があるがH<sub>2</sub> + 2 Heほどではなく、そのため分子は短時間しか存在できない。一般的に、閉殻したHeといった原子はその他の原子とほとんど結合を作らない。短寿命の[[ファンデルワールス力|ファンデルワールス錯体]]を除くと、既知の[[貴ガス化合物]]はほとんどない。
===異核二原子分子===
等核二原子分子のMOはそれぞれの相互作用する原子軌道から等しい寄与を受けているが、異核二原子分子のMOは異なる原子軌道の寄与を含んでいる。異核二原子分子において、原子軌道の対称性および軌道エネルギーの類似性によって決定される原子軌道間の重なりが十分である場合、結合性あるいは反結合性軌道を作り出すための軌道相互作用が起こる。
====HF====
[[フッ化水素]]HFにおいて、H 1sおよびF 2s軌道の重なりは対称性によって許容されるが、2つの原子軌道間のエネルギー差が分子軌道を作り出すための相互作用を妨げる。H 1sおよびF 2p<sub>z</sub>軌道間の重なりも対称性許容であり、これらの2つの原子軌道のエネルギー差は小さい。ゆえに、これらは相互作用し、σおよびσ* MOと結合次数が1の分子が作られる。HFは非中心対称分子であるため、その分子軌道には対称性ラベルgやuは適応されない<ref>Catherine E. Housecroft, Alan G, Sharpe, Inorganic Chemistry, Pearson Prentice Hall; 2nd Edition, 2005, p. 41-43.</ref>。
==定量的アプローチ==
分子の[[エネルギー準位]]の定量的な値を得るため、[[配置間相互作用]] (CI) 拡張がfull CI限界に向かって速く収束するような分子軌道が必要とされる。このような関数を得るための最も一般的な手法が、分子軌道を[[フォック演算子]]の[[固有関数]]として表現する[[ハートリー-フォック方程式|ハートリー-フォック法]]である。この方法は通常、原子核を中心とした[[ガウス関数]]の線形結合として分子軌道を表現することによってこの問題を解く。これらの線形結合の係数を求める問題は[[ローターン方程式]]として知られる一般[[固有値]]問題であり、つまりハートリー-フォック方程式の特定の表現である。MOの量子化学計算を行うことができる多くのプログラムがある(例: Spartan、[[HyperChem]])。
単純な説明では、実験的分子軌道エネルギーは原子価軌道に対する[[紫外光電子分光法]]と内殻軌道に対する[[X線光電子分光法]]によって得ることができることがしばしば示唆される。しかしながら、これらの実験は[[イオン化エネルギー]](分子と1電子を取り除くことで得られるイオンの一つとの間のエネルギー差)を測定しているため不正確である。イオン化エネルギーは[[クープマンズの定理]]によって軌道エネルギーと近似的に関連づけられている。これら2つの値がよく一致する分子もあれば、非常に悪い場合もある。
==脚注==
{{reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Molecular orbitals}}
*[[分子軌道法]]
*[[分子軌道ダイアグラム]]
*[[原子軌道]]
==外部リンク==
*[http://www.falstad.com/qmmo/ Java molecular orbital viewer] shows orbitals of hydrogen molecular ion.
*[http://winter.group.shef.ac.uk/orbitron/ The orbitron], a visualization of all atomic, and some molecular and hybrid orbitals
*[http://sourceforge.net/projects/xeo/ xeo] Visualizations of some atomic and molecular atoms
*[http://www.webreader.net/animations.htm Simulations of molecules with electrons caught in molecular orbital] (Simulations run on PC only.)
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ふんしきとう}}
[[Category:分子]]
[[Category:電子]]
[[Category:量子化学]]
[[Category:理論化学]]
[[Category:電子軌道]] | 2003-05-28T08:44:59Z | 2023-08-25T20:23:39Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E5%AD%90%E8%BB%8C%E9%81%93 |
9,458 | 半経験的分子軌道法 | 半経験的分子軌道法(はんけいけんてきぶんしきどうほう、英: semi-empirical molecular orbital method)では、ハートリー-フォック方程式を解く際に経験的パラメータを使用して、分子の電子状態を計算する。ab initio分子軌道法に比べ計算量が大幅に減少するため、大きな分子を取り扱うのに有利である。また、経験的パラメータを用いることによって電子相関効果の一部を含むことができる。その近似方法には、省略する分子積分や用いるパラメータによって多くの手法が存在する。 | [
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"text": "半経験的分子軌道法(はんけいけんてきぶんしきどうほう、英: semi-empirical molecular orbital method)では、ハートリー-フォック方程式を解く際に経験的パラメータを使用して、分子の電子状態を計算する。ab initio分子軌道法に比べ計算量が大幅に減少するため、大きな分子を取り扱うのに有利である。また、経験的パラメータを用いることによって電子相関効果の一部を含むことができる。その近似方法には、省略する分子積分や用いるパラメータによって多くの手法が存在する。",
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] | 半経験的分子軌道法では、ハートリー-フォック方程式を解く際に経験的パラメータを使用して、分子の電子状態を計算する。ab initio分子軌道法に比べ計算量が大幅に減少するため、大きな分子を取り扱うのに有利である。また、経験的パラメータを用いることによって電子相関効果の一部を含むことができる。その近似方法には、省略する分子積分や用いるパラメータによって多くの手法が存在する。 パリサー・パー・ポープル (PPP) 近似: π電子のみを扱う。特に共役化合物の計算に有効であった。
CNDO/2、INDO: 全原子価電子を扱う。それぞれ、Complete Neglect of Differential Overlap(電子反発積分内の微分重なりを無視するという意)、Intermediate Neglect of Differential Overlap(CNDOで無視された電子積分の一部は評価する)の略称である。スレーターの原子軌道を用いた分子積分に合うようにパラメータ化されている。
MNDO、AM1、PM3、PM6: 全原子価電子を扱う。実験的に得られた生成熱、双極子モーメント、イオン化ポテンシャル、分子構造などに計算結果が合うように分子積分パラメータを調整した方法。MOPACなどのソフトウェアにより広く使われている。 | {{電子構造論}}
'''半経験的分子軌道法'''(はんけいけんてきぶんしきどうほう、{{lang-en-short|semi-empirical molecular orbital method}})では、[[ハートリー-フォック方程式]]を解く際に経験的パラメータを使用して、分子の電子状態を計算する。''ab initio''分子軌道法に比べ計算量が大幅に減少するため、大きな分子を取り扱うのに有利である。また、経験的パラメータを用いることによって[[電子相関]]効果の一部を含むことができる。その近似方法には、省略する[[ガウス軌道|分子積分]]や用いるパラメータによって多くの手法が存在する。
*[[パリサー・パー・ポープル法|パリサー・パー・ポープル]] (PPP) 近似: [[π電子]]のみを扱う。特に[[共役系|共役]][[化合物]]の計算に有効であった。
*[[CNDO/2]]、{{ill2|INDO|en|INDO}}: 全原子価電子を扱う。それぞれ、{{en|Complete Neglect of Differential Overlap}}(電子反発積分内の[[ゼロ微分重なり|微分重なりを無視する]]という意)、{{en|Intermediate Neglect of Differential Overlap}}(CNDOで無視された電子積分の一部は評価する)の略称である。[[スレーター軌道|スレーターの原子軌道]]を用いた分子積分に合うようにパラメータ化されている。
*[[MNDO]]、{{ill2|AM1|en|Austin Model 1}}、[[PM3]]、[[PM6]]: 全原子価電子を扱う。実験的に得られた[[生成熱]]、[[双極子|双極子モーメント]]、[[イオン化エネルギー|イオン化ポテンシャル]]、[[分子構造]]などに計算結果が合うように分子積分パラメータを調整した方法。[[MOPAC]]などのソフトウェアにより広く使われている。
== 参考文献 ==
* {{cite journal|author=Michael J. S. Dewar, Eve G. Zoebisch, Eamonn F. Healy, and James J. P. Stewart|title=Development and use of quantum mechanical molecular models. 76. AM1: A New General Purpose Quantum Mechanical Molecular Model|doi=10.1021/ja00299a024|journal= [[J. Am. Chem. Soc.]]|volume=107 |year=1985|pages=3902-3909}} AM1ハミルトニアンを提出した原著論文。
== 関連項目 ==
* [[分子軌道法]]
* [[ゼロ微分重なり]]
{{DEFAULTSORT:はんけいけんてきふんしきとうほう}}
[[Category:計算物理学]]
[[Category:計算化学]]
[[Category:電子軌道]]
[[Category:半経験的分子軌道法|*]] | null | 2020-07-10T21:33:17Z | false | false | false | [
"Template:Lang-en-short",
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"Template:Cite journal",
"Template:電子構造論"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E7%B5%8C%E9%A8%93%E7%9A%84%E5%88%86%E5%AD%90%E8%BB%8C%E9%81%93%E6%B3%95 |
9,459 | 非経験的分子軌道法 | 非経験的分子軌道法(ひけいけんてきぶんしきどうほう、英: non-empirical molecular orbital method)または第一原理分子軌道法(だいいちげんりぶんしきどうほう、英: ab initio molecular orbital method)とは、量子化学に基づく計算化学手法である。
非経験的分子軌道法では、ハートリー-フォック方程式(正確には、閉殻系の場合はRoothaan-Hall方程式、開殻系の場合はPople-Nesbet方程式である)を解くために必要な分子積分を、実験値に置き換えたり省略したりせずにすべて計算する。物理定数以外の実験値を全く使用せずに分子軌道を計算するため、ab initio MO法、ab initio分子軌道法、第一原理分子軌道法とも呼ばれる。
ab initioという用語は、ベンゼンの励起状態に関する半経験的研究においてロバート・パー(英語版)およびデイヴィッド・クレイグ(英語版)ら共同研究者によって、量子化学において初めて使われた。背景はパーによって詳述されている。「量子力学の第一原理から」という現代的意味で用いたのは、Chenやローターンが初めてで、AllenおよびKaroは論文のタイトルにも用いて明確にこの用語を定義した。
ほとんどの場合、シュレーディンガー方程式を解くために用いられる基底関数系(大抵LCAOアンザッツから構築される)は完全ではなく、イオン化や散乱過程と関連したヒルベルト空間に広がらない(連続スペクトルを参照)。ハートリー-フォック法ならびに配置間相互作用法では、この近似によってシュレーディンガー方程式を「単純」な電子的分子ハミルトニアン(英語版)の固有値方程式として扱うことができ、解の離散(英語版)集合が得られる。
以下はHF法より高精度な方法である(beyond HF、Post-HFなどと呼ばれることがある)。 | [
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"text": "非経験的分子軌道法では、ハートリー-フォック方程式(正確には、閉殻系の場合はRoothaan-Hall方程式、開殻系の場合はPople-Nesbet方程式である)を解くために必要な分子積分を、実験値に置き換えたり省略したりせずにすべて計算する。物理定数以外の実験値を全く使用せずに分子軌道を計算するため、ab initio MO法、ab initio分子軌道法、第一原理分子軌道法とも呼ばれる。",
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"text": "ab initioという用語は、ベンゼンの励起状態に関する半経験的研究においてロバート・パー(英語版)およびデイヴィッド・クレイグ(英語版)ら共同研究者によって、量子化学において初めて使われた。背景はパーによって詳述されている。「量子力学の第一原理から」という現代的意味で用いたのは、Chenやローターンが初めてで、AllenおよびKaroは論文のタイトルにも用いて明確にこの用語を定義した。",
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"text": "ほとんどの場合、シュレーディンガー方程式を解くために用いられる基底関数系(大抵LCAOアンザッツから構築される)は完全ではなく、イオン化や散乱過程と関連したヒルベルト空間に広がらない(連続スペクトルを参照)。ハートリー-フォック法ならびに配置間相互作用法では、この近似によってシュレーディンガー方程式を「単純」な電子的分子ハミルトニアン(英語版)の固有値方程式として扱うことができ、解の離散(英語版)集合が得られる。",
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"text": "以下はHF法より高精度な方法である(beyond HF、Post-HFなどと呼ばれることがある)。",
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] | 非経験的分子軌道法または第一原理分子軌道法とは、量子化学に基づく計算化学手法である。 非経験的分子軌道法では、ハートリー-フォック方程式(正確には、閉殻系の場合はRoothaan-Hall方程式、開殻系の場合はPople-Nesbet方程式である)を解くために必要な分子積分を、実験値に置き換えたり省略したりせずにすべて計算する。物理定数以外の実験値を全く使用せずに分子軌道を計算するため、ab initio MO法、ab initio分子軌道法、第一原理分子軌道法とも呼ばれる。 ab initioという用語は、ベンゼンの励起状態に関する半経験的研究においてロバート・パーおよびデイヴィッド・クレイグら共同研究者によって、量子化学において初めて使われた。背景はパーによって詳述されている。「量子力学の第一原理から」という現代的意味で用いたのは、Chenやローターンが初めてで、AllenおよびKaroは論文のタイトルにも用いて明確にこの用語を定義した。 ほとんどの場合、シュレーディンガー方程式を解くために用いられる基底関数系(大抵LCAOアンザッツから構築される)は完全ではなく、イオン化や散乱過程と関連したヒルベルト空間に広がらない(連続スペクトルを参照)。ハートリー-フォック法ならびに配置間相互作用法では、この近似によってシュレーディンガー方程式を「単純」な電子的分子ハミルトニアンの固有値方程式として扱うことができ、解の離散集合が得られる。 | {{出典の明記|date=2011年12月}}
'''非経験的分子軌道法'''(ひけいけんてきぶんしきどうほう、{{lang-en-short|non-empirical molecular orbital method}})または'''第一原理分子軌道法'''(だいいちげんりぶんしきどうほう、{{lang-en-short|''ab initio'' molecular orbital method}})とは、[[量子化学]]に基づく計算化学手法である<ref name=levine>{{cite book
| last = Levine | first = Ira N.
| title = Quantum Chemistry
| publisher = Prentice Hall | year = 1991 | location = Englewood Cliffs, New jersey
| pages = 455–544 | isbn = 0-205-12770-3}}</ref>。
非経験的分子軌道法では、[[ハートリー-フォック方程式]](正確には、[[閉殻系]]の場合は[[Roothaan-Hall方程式]]、開殻系の場合は[[Pople-Nesbet方程式]]である)を解くために必要な[[分子積分]]を、実験値に置き換えたり省略したりせずにすべて計算する。[[物理定数]]以外の実験値を全く使用せずに[[分子軌道]]を計算するため、'''''ab initio'' MO法'''、'''''ab initio''分子軌道法'''、'''第一原理分子軌道法'''とも呼ばれる。
''[[ab initio]]''という用語は、ベンゼンの励起状態に関する[[半経験的分子軌道法|半経験的]]研究において{{仮リンク|ロバート・パー|en|Robert Parr}}および{{仮リンク|デイヴィッド・P・クレイグ|en|David P. Craig|label=デイヴィッド・クレイグ}}ら共同研究者によって、量子化学において初めて使われた<ref>{{cite web|url=http://www.quantum-chemistry-history.com/Parr1.htm |title=History of Quantum Chemistry|first= Robert G.|last=Parr|accessdate=2014-06-13}}</ref><ref>
{{cite journal
| last = Parr | first = Robert G. | author-link = Robert Parr
|author2=Craig D. P. |author3=Ross, I. G
| title = Molecular Orbital Calculations of the Lower Excited Electronic Levels of Benzene, Configuration Interaction included
| journal = Journal of Chemical Physics
| volume = 18
| issue = 12
| pages = 1561–1563
| year = 1950
| doi = 10.1063/1.1747540}}</ref>。背景はパーによって詳述されている<ref>{{ cite journal|doi=10.1002/qua.560370407|last=Parr|first= R. G.|title=On the genesis of a theory|journal= Int. J. Quantum Chem.|volume= 37|issue=4|pages=327–347 |year=1990}}</ref>。「量子力学の[[第一原理]]から」という現代的意味で用いたのは、Chen<ref>{{ cite journal|doi=10.1063/1.1740713|last=Chen|first= T. C.|title=Expansion of Electronic Wave Functions of Molecules in Terms of 'United‐Atom' Wave Functions|journal=J. Chem. Phys.|volume= 23|issue=11|pages=2200–2201|year=1955}}</ref>やローターン<ref>{{cite journal| doi=10.1063/1.1744313| last=Roothaan|first= C. C. J.| title=Evaluation of Molecular Integrals by Digital Computer|journal= J. Chem. Phys. |volume=28| issue=5|pages= 982–983 |year=1958}}</ref>が初めてで、AllenおよびKaroは論文のタイトルにも用いて明確にこの用語を定義した。
ほとんどの場合、シュレーディンガー方程式を解くために用いられる[[基底関数系 (化学)|基底関数系]](大抵[[LCAO法|LCAO]][[アンザッツ]]から構築される)は完全ではなく、[[イオン化]]や[[散乱]]過程と関連した[[ヒルベルト空間]]に広がらない({{仮リンク|連続スペクトル|en|continuous spectrum}}を参照)。[[ハートリー-フォック法]]ならびに[[配置間相互作用法]]では、この近似によって[[シュレーディンガー方程式]]を「単純」な{{仮リンク|分子ハミルトニアン|en|Molecular Hamiltonian|label=電子的分子ハミルトニアン}}の[[固有値]]方程式として扱うことができ、解の{{仮リンク|離散スペクトル|en|Discrete spectrum (physics)|label=離散}}集合が得られる。
== 種類 ==
;[[ハートリー-フォック法]](HF法)
:RHF法(閉殻系分子、1つのMOに異なるスピンの電子2つ)、[[制限開殻ハートリー=フォック法|ROHF法]](開殻系分子、1つのMOに異なるスピンの電子2つ、1つのMOに不対スピンとなる電子1つ)、[[非制限ハートリー=フォック法|UHF法]](開殻系分子、α電子とβ電子を別々の軌道に)
以下はHF法より高精度な方法である(beyond HF、[[ポスト-ハートリー-フォック法|Post-HF]]などと呼ばれることがある)。
;[[メラー=プレセット法|Møller-Plesset摂動法]](MP法)
:Rayleigh-Schrödinger[[摂動|摂動法]]による近似。2次以上の摂動により[[電子相関]]が取り込まれる。その次数により、MP''n'' (''n''=2,3,4,…) 法と呼ばれる。
;[[配置間相互作用法]](CI法)
:多電子波動関数(全電子波動関数)を単一の[[スレーター行列式]]ではなく、励起電子配置による複数のスレーター行列式の[[線形結合]]として近似する方法。CISD(1,2電子励起配置を使用)、CISDT(CISDに加え、3電子励起配置を考慮)、CISDTQ(さらに4電子励起配置を考慮)、full CI法に加え、参照電子配置を複数以上考慮するMR-CI法も一般的になってきた。
;[[多配置自己無撞着場|多配置SCF法]]([[:en:Multi-configurational self-consistent field|MCSCF]]法)
:CI法では、まず多電子励起電子配置の波動関数を求めておき、その線形結合時の係数のみを最適化するのに対し、この方法では同時に[[分子軌道]]も最適化する。最適化する価電子数と分子軌道数を指定するCASSCF (Complete Active Space SCF) 法がよく使われる。
;[[クラスター展開法]](CC法)
:多電子励起電子配置を、より少ない電子の励起配置の積で表す。CCSD、CCSDT、CCSD (T)、SAC (Symmetry Adapted Cluster) -CI法など。一般に[[大きさについての無矛盾性]]({{lang-en-short|size-consistency}})を満たすことなどが特徴。
;[[Iterative CI-General Single and Double法]](ICI-GSD法)
:Iterationが必要だが、1,2電子励起電子配置を考慮するだけでfull-CIと同等の解が得られる。
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 関連項目 ==
* [[分子軌道法]]
* [[経験的分子軌道法]]
* [[半経験的分子軌道法]]
* [[第一原理計算]]
* [[密度汎関数法]]
{{DEFAULTSORT:ひけいけんてきふんしきとうほう}}
[[Category:理論化学]]
[[Category:量子化学]]
[[Category:計算化学]]
[[Category:物性物理学]]
[[Category:電子軌道]] | null | 2022-05-08T23:51:43Z | false | false | false | [
"Template:Cite web",
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"Template:Cite book"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E%E7%B5%8C%E9%A8%93%E7%9A%84%E5%88%86%E5%AD%90%E8%BB%8C%E9%81%93%E6%B3%95 |
9,460 | 経験的分子軌道法 | 経験的分子軌道法(けいけんてきぶんしきどうほう, empirical molecular orbital method)に分類される方法には次の二つが挙げられる。 | [
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] | 経験的分子軌道法に分類される方法には次の二つが挙げられる。 (単純)ヒュッケル法 E. Hückel (1931) による。
拡張ヒュッケル法 R. Hoffmann (1963) による。(単純)ヒュッケル法よりも近似を少なくし計算する積分を増やし、原子間の結合がはっきりと分かっていない系に対しても適用できるように改善した方法。ab initio 分子軌道法の初期推量として用いられることが多い。 | '''経験的分子軌道法'''(けいけんてきぶんしきどうほう, empirical molecular orbital method)に分類される方法には次の二つが挙げられる。
* (単純)[[ヒュッケル法]] (Hückel method) E. Hückel (1931) による。
*[[拡張ヒュッケル法]] (extended Hückel method) R. Hoffmann (1963) による。(単純)ヒュッケル法よりも近似を少なくし計算する積分を増やし、原子間の結合がはっきりと分かっていない系に対しても適用できるように改善した方法。''ab initio'' 分子軌道法の初期推量として用いられることが多い。
== 関連項目 ==
*[[分子軌道法]] (Molecular Orbital Method)
*[[エーリヒ・ヒュッケル]]
*[[ロアルド・ホフマン]]
{{DEFAULTSORT:けいけんてきふんしきとうほう}}
[[Category:計算物理学|けいけんてきふんしきとうほう]]
[[Category:電子軌道]]
[[Category:エーリヒ・ヒュッケル]] | null | 2021-06-16T13:16:38Z | false | false | false | [] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E9%A8%93%E7%9A%84%E5%88%86%E5%AD%90%E8%BB%8C%E9%81%93%E6%B3%95 |
9,462 | 水蒸気 | 水蒸気(すいじょうき、スチームともいう)は、水が気化した蒸気。空気中の水蒸気量、特に飽和水蒸気量に対する水蒸気量の割合のことを湿度という。
水蒸気は無色の気体であり、目には見えない。雲は液体である水滴と水蒸気を含む空気の気体との混相だが、気体と液体の両方の性質を備えた状態の分子により可視化される。その他、霧、靄、湯気など白く見えるものは、水蒸気を含む空気と水滴のうちの水滴である。
なお、湯気(ゆげ)は水蒸気がより温度の低い場で冷えて凝結し、水滴となったために白く見えるもの。たとえば、やかんで湯を沸かした際、その口から湯気が噴出しているところを見ると、口の近くだけは透明に見える。この部分は水蒸気であり、外気に触れて気体の温度が低下し凝結した水滴と水蒸気の混相が湯気である。
火山が多く天然に湧く温泉が随所で見られる日本では、温泉特に熱泉の水蒸気が空気中で急激に冷やされて湯気となり煙のように白く沸き立ち上っているように見える様から、古くから湯煙(ゆけむり)と呼ばれ親しまれた。
例として、南紀徳川史に収められた「十寸穂の薄(ますほのすすき)」の四巻「牟婁郡」には、紀州湯峯温泉の説明書きとして「湯口は非常に熱く、湯煙が立ち昇って近辺は霧のようになっており、雲が無いときはより顕著で、食べ物を煮たり白米を浸して暫く置くと御飯となるが、大根は煮るのが難しい」と書かれている。
一定圧力下で常温の水をゆっくり加熱すると、ある温度(大気圧 760 mmHg のもとでは 100 °C)で蒸気に変わる。加熱に伴って水が蒸発し全体の体積が増加するが、その間温度は一定のまま変わらない。すべての水が蒸発して気体となった後、ゆっくりとさらに加熱すると、蒸気の温度は再び増加し始める。
蒸気となった水を冷却すると、同じ経路を逆にたどって、蒸気は凝縮して液体の水になる。以上の変化は、水に限らず一般の物質に共通している。一部の水(液体)が蒸発を始める温度を、その圧力における飽和温度とよび、逆にその圧力を、その温度における飽和圧力(飽和蒸気圧)とよぶ。標準大気圧の水の飽和温度は 100 °C であり、100 °C の水の飽和圧力は 760 mmHg = 1013.25 hPa である。飽和温度は圧力が上昇すると共に上昇する。
飽和温度の水(液体)を飽和水(水以外では飽和液)、蒸気を飽和蒸気とよび、飽和温度以下の温度の水(液体)をサブクール水(水以外ではサブクール液)、飽和温度以上の温度の蒸気(気体)を過熱蒸気(水以外でも同じ)とよぶ。サブクール水または過熱蒸気の熱力学的状態は、二つの状態量(通常は圧力と温度)で指定することができる。
蒸気泡を含んだ水や水滴を含んだ蒸気は一般に湿り蒸気とよばれる。水と蒸気が熱力学的平衡(圧力と温度があい等しい)であれば、飽和水(液)と飽和蒸気の混合物である。湿り蒸気であれば圧力は飽和圧力であり、温度は飽和温度である。湿り蒸気の熱力学的状態は圧力または温度に加えて、次式の乾き度(英語版) χ を用いて指定することができる。
圧力が高くなると、気体の飽和蒸気の比体積(単位質量あたりの体積)は小さくなり、一方飽和水の比体積は飽和温度が高くなるため少しずつ大きくなり、ある圧力で飽和水と飽和蒸気の状態は一点に合体する。この状態は臨界点とよばれ、臨界点以上の圧力では液体と気体の区別をつけることはできなくなる(⇒超臨界流体)。水の臨界点は、圧力 220.64バール (22.064 MPa; 217.75 atm) 、温度 373.95 °C (647.10 K) 、比体積 0.0031700 m/kg である。
湿り蒸気を密閉容器の中でゆっくり冷却すると、蒸気の一部が凝縮すると共に温度と圧力が低下する。湿り蒸気を維持したままある温度に達すると、湿り蒸気の一部に氷が生じ、温度も圧力も変化しなくなる。この状態を三重点とよび、水の場合は、温度 0.01 °C (273.16 K)、圧力 0.006112バール (0.0006112 MPa; 0.006032 atm) である。水の三重点は国際単位系の温度定義の基準点に用いられている。
三重点の水をさらに冷却すると、水が氷に変化(凝固)し、水がなくなると温度と圧力が再び低下し始め、蒸気が氷に変化(固体と気体間の状態変化を総じて昇華という)する。液体の水は、三重点と臨界点の間の限られた圧力範囲で存在することになる。これらの事がらは、水に限らず一般の物質に共通した性質である。
水蒸気は古くから、蒸し料理や蒸し風呂に利用されてきた。圧力釜やオートクレーブもほぼこれを利用している。
水蒸気を利用した蒸気機関は、産業革命における動力源として重要な役割を担った。現代ではレシプロ式は衰退の一途をたどったが、汽力発電(火力発電や原子力発電)で蒸気タービンの駆動に利用されている。
そのほか、水蒸気を熱媒とした蒸気暖房や、高温を利用した清掃用具(スチームクリーナー)がある。 | [
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] | 水蒸気(すいじょうき、スチームともいう)は、水が気化した蒸気。空気中の水蒸気量、特に飽和水蒸気量に対する水蒸気量の割合のことを湿度という。 | {{Redirect|スチーム|ゲーム配信ソフト|steam}}
{{Redirect|ゆげ|tacicaのアルバム|YUGE}}
'''水蒸気'''(すいじょうき、'''スチーム'''ともいう)は、[[水]]が[[気化]]した[[蒸気]]。空気中の水蒸気量、特に飽和水蒸気量に対する水蒸気量の割合のことを[[湿度]]という。
== 水蒸気と湯気 ==
{{wiktionary|ゆげ|湯気}}
水蒸気と湯気は状態と性質が異なり、水蒸気が気体で目に見えないのに対し、湯気は液体で目に見える状態である<ref>[https://doi.org/10.14935/jssep.34.0_455 渡辺勇三「面白科学実験を数量的に議論する」日本科学教育学会年会論文集34巻] 一般社団法人 日本科学教育学会、2023年11月30日閲覧</ref>。[[霧]]、川霧、[[温泉]]の湯煙、湯を沸かしている[[やかん]]の口から出る湯気、寒い朝の白い息などは、水が[[蒸発]]後に冷却され[[凝縮|凝結]]したもので、その生じた液体も直後に蒸発して瞬時に消えてしまうことが多い<ref>[https://doi.org/10.3154/jvs.18.70_192 山下 晃「手作り実験あれこれ―教育の現場からPart3 (1)」可視化情報学会誌18巻70号192-197頁] 社団法人 可視化情報学会、2023年11月30日閲覧</ref>。
なお、「蒸気」は科学時代になって生まれた概念であるため、ほとんどの国で湯気から派生した言葉を当てている<ref name="ishida">[https://dl.ndl.go.jp/view/prepareDownload?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F10417043&contentNo=1 石田博幸、木村久美子「ブラジルとアジア諸国の科学用語比較」] 、2023年11月30日閲覧</ref>。例えば[[タイ語]]では「アイナム」といい蒸気と水蒸気、湯気の区別がない<ref name="ishida" />。一方、[[英語]]ではsteam(湯気)とvapor(蒸気)があり、後者のほうが意味的には揮発に近く水からは離れているとされる<ref name="ishida" />。
<gallery>
ファイル:Kochendes wasser02.jpg|水蒸気は無色である
ファイル:Watervapor cup.jpg|ティーカップから立ち上る水蒸気を含む湯気
ファイル:Kusatsu yubatake 200503.jpg|湯煙([[草津温泉]]の[[湯畑]])
</gallery>
== 水と蒸気 ==
{{出典の明記|date=2023年11月|section=1}}
一定圧力下で常温の水をゆっくり加熱すると<ref group="注釈">水全体の温度が均一になる程度にゆっくりと加熱するとする。強く加熱すると加熱面近くの水の温度が上昇し、場合によってはそこから蒸気泡が生じる。液中から蒸気泡が生じる蒸発を[[沸騰]]とよぶ。</ref>、ある温度(大気圧 760 [[水銀柱ミリメートル|mmHg]] のもとでは 100 [[セルシウス度|℃]])で蒸気に変わる<ref group="注釈">気体の占める部分は空気等を除去し、液体と同じ圧力の水蒸気だけとする。</ref>。加熱に伴って水が[[蒸発]]し全体の体積が増加するが、その間温度は一定のまま変わらない。すべての水が蒸発して気体となった後、ゆっくりとさらに加熱すると、蒸気の温度は再び増加し始める。
[[ファイル:Pv_Chart_of_Water.svg|thumb|right|325px|水の P-v 線図]]
蒸気となった水を冷却すると、同じ経路を逆にたどって、蒸気は[[凝縮]]して液体の水になる。以上の変化は、水に限らず一般の物質に共通している。一部の水(液体)が蒸発を始める温度を、その圧力における'''飽和温度'''とよび<ref group="注釈">標準大気圧 760 mmHg での飽和温度を特に[[沸点]]とよび区別する。水の沸点は 100 ℃(正確には 99.9743 ℃)である。[[沸点]]という用語は、圧力を標準大気圧に限定せずに、広く飽和温度の意味で用いられる場合もある。</ref>、逆にその圧力を、その温度における'''飽和圧力(飽和蒸気圧)'''とよぶ。標準大気圧の水の飽和温度は 100 ℃ であり、100 ℃ の水の飽和圧力は 760 mmHg = 1013.25 hPa である。飽和温度は圧力が上昇すると共に上昇する。
{{Anchors|飽和蒸気と過熱蒸気}}飽和温度の水(液体)を'''飽和水'''(水以外では飽和液)、蒸気を'''飽和蒸気'''とよび、飽和温度以下の温度の水(液体)を'''サブクール水'''(水以外ではサブクール液)、飽和温度以上の温度の蒸気(気体)を'''過熱蒸気'''(水以外でも同じ)とよぶ。サブクール水または過熱蒸気の[[熱力学|熱力学的状態]]は、二つの状態量(通常は圧力と温度)で指定することができる。
[[ファイル:TS-Wasserdampf_engl.png|thumb|right|325px|水の T-s 線図]]
蒸気泡を含んだ水や水滴を含んだ蒸気は一般に'''湿り蒸気'''とよばれる。水と蒸気が熱力学的平衡(圧力と温度があい等しい)であれば、飽和水(液)と飽和蒸気の混合物である。湿り蒸気であれば圧力は飽和圧力であり、温度は飽和温度である。湿り蒸気の熱力学的状態は圧力または温度に加えて、次式の{{仮リンク|乾き度|en|Vapor quality}} {{math|χ}} を用いて指定することができる。
:<math>\chi = \frac{m_\mathrm{vapour}}{m_\mathrm{total}}</math>
::<math>m_\mathrm{vapour}</math>:気体の質量、<math>m_\mathrm{total}</math>:全体の質量
[[ファイル:HS-Wasserdampf_engl.png|thumb|right|325px|水の h-s 線図]]
圧力が高くなると、気体の飽和蒸気の[[比容積|比体積]](単位質量あたりの体積)は小さくなり、一方飽和水の比体積は飽和温度が高くなるため少しずつ大きくなり、ある圧力で飽和水と飽和蒸気の状態は一点に合体する。この状態は[[臨界点]]とよばれ、臨界点以上の圧力では液体と気体の区別をつけることはできなくなる(⇒[[超臨界流体]])。水の臨界点は、圧力 {{Convert2|220.64|bar|MPa atm|lk=on}} 、温度 {{Convert|373.95|C|K|lk=on}} 、比体積 0.0031700 m<sup>3</sup>/kg である。
湿り蒸気を密閉容器の中でゆっくり冷却すると、蒸気の一部が凝縮すると共に温度と圧力が低下する。湿り蒸気を維持したままある温度に達すると、湿り蒸気の一部に氷が生じ、温度も圧力も変化しなくなる。この状態を[[三重点]]とよび、水の場合は、温度 {{Convert|0.01|C|K}}、圧力 {{Convert2|0.006112|bar|MPa atm}} である。水の三重点は国際単位系の温度定義の基準点に用いられている。
三重点の水をさらに冷却すると、水が氷に変化([[凝固]])し、水がなくなると温度と圧力が再び低下し始め、蒸気が氷に変化(固体と気体間の状態変化を総じて[[昇華 (化学)|昇華]]という)する。液体の水は、三重点と臨界点の間の限られた圧力範囲で存在することになる。これらの事がらは、水に限らず一般の物質に共通した性質である。
== 水蒸気の利用 ==
食品分野では古くから[[蒸し料理]]、澱粉性食品の加工や焼成に用いられてきた<ref name="iyota">[http://www.netsubussei.jp/group/iyota.pdf 伊與田 浩志「熱と空気と過熱水蒸気の話~乾燥と食品加工の研究から~」] 日本熱物性学会、2023年11月30日閲覧</ref>。業務用厨房機器や食品加工装置([[スチームコンベクションオーブン]]など)や調理家電([[炊飯器]]など)にも利用されている<ref name="iyota" />。[[圧力釜]]や[[オートクレーブ]]もほぼこれを利用している。
また、水蒸気を利用した[[蒸気機関]]は、主に[[産業革命]]以降に熱エネルギーから運動エネルギーへ変換する[[原動機|動力源]]として重要な役割を担った<ref name="iyota" />。[[汽力発電]]([[火力発電]]や[[原子力発電]])で[[蒸気タービン]]の駆動に利用されている。
このほか、水蒸気を[[熱媒]]とした[[蒸気暖房]]、[[風呂|蒸し風呂]]、高温を利用した[[清掃用具]](スチームクリーナー)がある。
== 注釈 ==
{{Reflist|group="注釈"}}
== 参考文献 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
<!-- {{Wiktionary}} -->
{{Commonscat|Water vapor}}
* [[蒸気]]
**[[蒸気圧]]
**[[蒸気霧]](川霧・湖霧・湖沼霧・[[海霧]])
* [[飽和水蒸気量]]
* [[湿度]]
* [[水蒸気爆発]]
* [[地球の大気]]
* [[空気]]
* [[温室効果ガス]]
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:すいしようき}}
[[Category:水環境]]
[[Category:大気]]
[[Category:温室効果ガス]]
[[Category:熱力学]]
[[Category:水の形態]] | 2003-05-28T10:26:46Z | 2023-11-29T21:37:30Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E8%92%B8%E6%B0%97 |
9,463 | トロイア戦争 | トロイア戦争(トロイアせんそう、ギリシア語: Τρωικός πόλεμος, 英語: Trojan War)は、ギリシア神話に記述された、小アジアのトロイアに対して、ミュケーナイを中心とするアカイア人の遠征軍が行った戦争である。トロイ戦争、トロヤ戦争という表記もみられる。
トロイア、あるいはトローアスという呼称は、後の時代にイーリオス一帯の地域につけられたものである。この戦争の記述から、古代ギリシアにおいて、ホメーロスの英雄叙事詩『イーリアス』、『オデュッセイア』のほか、『キュプリア』、『アイティオピス』、『イーリオスの陥落』などから成る一大叙事詩環が派生した。またウェルギリウスはトロイア滅亡後のアイネイアースの遍歴を『アエネーイス』にて描いている。
この戦の起因は、『キュプリア』に詳しい。大神ゼウスは、増え過ぎた人口を調節するために、ヘーラーとは別の妻でもある、秩序の女神・テミスと試案を重ね、遂に大戦を起こして人類の大半を死に至らしめる決意を固めた。
オリンポスでは人間の子ペーレウスとティーターン族の娘テティスの婚儀が行われていたが、不和の女神・エリスだけはこの饗宴に招待されず、怒った彼女は、「最も美しい女神へ(καλλίστῃ)」と書かれた、ヘスペリデスの黄金の林檎(不和の林檎)を神々の座へ投げ入れた。この供物をめぐって、殊にヘーラー、アテーナー、アプロディーテーの三女神による激しい対立が起り、ゼウスはこの林檎が誰にふさわしいかをトロイアの王子パリスにゆだねた(パリスの審判)。
三女神はそれぞれが最も美しい装いを凝らしてパリスの前に立ち、なおかつ、ヘーラーは世界を支配する力を、アテーナーはいかなる戦争にも勝利を得る力を、アプロディーテーは最も美しい女を、それぞれ与える約束を行った。パリスはその若さによって富と権力を措いて愛を選び、アプロディーテーの誘いによってスパルタ王メネラーオスの妃ヘレネーを連れ去った。パリスの妹でトロイアの王女カッサンドラーのみはこの事件が国を滅ぼすことになると予言したが、アポローンの呪いによって聞き入れられなかった。
メネラーオスは、兄でミュケーナイの王であるアガメムノーンにその事件を告げ、さらにオデュッセウスとともにトロイアに赴いてヘレネーの引き渡しを求めた。しかし、パリスはこれを断固拒否したため、アガメムノーン、メネラーオス、オデュッセウスはヘレネー奪還とトロイア懲罰の遠征軍を組織した。
この戦争では神々も両派に分かれ、ヘーラー、アテーナー、ポセイドーンがギリシア側に、アポローン、アルテミス、アレース、アプロディーテーがトロイア側に味方した。
ボイオーティア地方のアウリスに集結したアガメムノーンを総大将とするアカイア軍は、総勢10万、1168隻の大艦隊であった。アカイア人の遠征軍はトロイア近郊の浜に上陸し、アキレウスの活躍もあって、待ち構えたトロイア軍を撃退すると、浜に陣を敷いた。トロイア軍は強固な城壁を持つ市街に籠城し、両軍は海と街の中間に流れるスカマンドロス河を挟んで対峙した。『イーリアス』の物語は、双方に犠牲を出しながら9年が過ぎ、戦争が10年目に差し掛かった時期を起点に始まる。
戦争末期の状況については、『イーリアス』のほか、『アイティオピス』や『アイアース』において語られる。トロイアの勇将ヘクトールとアカイアの英雄アキレウスの没後、戦争は膠着状態に陥った。しかし、アカイア方の知将オデュッセウスは、巨大な木馬を造り、その内部に兵を潜ませるという作戦を考案し(『小イーリアス』では女神アテーナーが考案し)、これを実行に移した。この「トロイアの木馬」の計は、アポローンの神官ラーオコオーンと王女カッサンドラーに見抜かれたが、ラーオコオーンは海蛇に絞め殺され、カッサンドラーの予言は誰も信じることができない定めになっていたので、トロイアはこの策略にかかり、一夜で陥落した。
アイスキュロスの『アガメムノーン(Agamemnon)』によると、トロイア戦争はアカイア遠征軍の勝利に終わったが、アカイア軍の名だたる指揮官たちも悲劇的な末路をたどった。小アイアースはアテーナーの神殿でカッサンドラーを強姦した事でアテーナーの逆鱗に触れ、船を沈没させられて死亡した。メネラーオスは帰国途中、暴風に悩まされエジプトに漂流し、8年掛かりで帰還。総司令官アガメムノーンは、帰郷後、妻とその愛人によって暗殺された。オデュッセウスは、『オデュッセイア』にあるように、故郷にたどりつくまで10年もの間、諸国を漂流しなければならなかった。
ギリシア神話それ自体は歴史書ではなく、あくまで神話である。トロイア戦争については、紀元前1250年頃にトロイアで実際に大規模な戦争があったとする説もあれば、紀元前1700年から紀元前1200年頃にかけて、小アジア一帯が繰り返し侵略をうけた事実から形成されたという説もある。そもそもトロイア戦争自体が全くの架空であるという説もないわけではない。
古代都市イーリオスは長く伝説上のものと思われていたが、19世紀末、ハインリヒ・シュリーマンによりトロイア一帯の遺跡が発掘された。遺跡は9層になっており、シュリーマンは発掘した複数の時代の遺跡のうち、火災の跡のある下から第2層がトロイア戦争時代の遺跡と推測した。後に第2層は紀元前2000年よりも前の地層でトロイア戦争の時代よりもかなり古いものであることが判明した。シュリーマンと共に発掘にあたったヴィルヘルム・デルプフェルトは下から6番めの第6層に破壊や火災のあとがあることから、第6層がトロイア時代のものであると考えた。1930年代にブレゲンによって再調査が行われ、第6層の都市の火災は部分的で破壊に方向性があることから地震の可能性が強いと推測した。そして第7層の都市は火災が都市全体を覆っていることや、破壊の混乱ぶりから人為的なものであると推測する。また、発見された人骨も、胴体と頭部が分離したものが発見されるなど、戦争による人為的な破壊を間接的に証明した。現在では第7層がトロイア戦争のあったと伝えられる時期(紀元前13世紀中期)であると考えられている。
トロイア戦争にまつわる叙事詩の全てが架空のものではないとすれば、その中心はやはりイーリオスの破壊と考えられる。都市が火災に見舞われたことは考古学的に間違いないが、それが侵略によるものかどうかは、可能性としてはかなり高いものの推察の域を出ない。さらに、トロイアの略奪があったとする場合、『イーリアス』に従えばアカイア人による侵略ということになるが、ミュケーナイが宗主権を握っていることや、ここに登場する諸都市がミケーネ文明に栄えた都市であることから、アカイア人が入植する以前のミュケーナイ人による侵攻、あるいはトラーキアやプリギュアの他民族による侵略であったと考えられる。少なくとも、アカイア人であったとする積極的な証拠は存在しない。 | [
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"text": "トロイア戦争にまつわる叙事詩の全てが架空のものではないとすれば、その中心はやはりイーリオスの破壊と考えられる。都市が火災に見舞われたことは考古学的に間違いないが、それが侵略によるものかどうかは、可能性としてはかなり高いものの推察の域を出ない。さらに、トロイアの略奪があったとする場合、『イーリアス』に従えばアカイア人による侵略ということになるが、ミュケーナイが宗主権を握っていることや、ここに登場する諸都市がミケーネ文明に栄えた都市であることから、アカイア人が入植する以前のミュケーナイ人による侵攻、あるいはトラーキアやプリギュアの他民族による侵略であったと考えられる。少なくとも、アカイア人であったとする積極的な証拠は存在しない。",
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] | トロイア戦争は、ギリシア神話に記述された、小アジアのトロイアに対して、ミュケーナイを中心とするアカイア人の遠征軍が行った戦争である。トロイ戦争、トロヤ戦争という表記もみられる。 トロイア、あるいはトローアスという呼称は、後の時代にイーリオス一帯の地域につけられたものである。この戦争の記述から、古代ギリシアにおいて、ホメーロスの英雄叙事詩『イーリアス』、『オデュッセイア』のほか、『キュプリア』、『アイティオピス』、『イーリオスの陥落』などから成る一大叙事詩環が派生した。またウェルギリウスはトロイア滅亡後のアイネイアースの遍歴を『アエネーイス』にて描いている。 | {{出典の明記|date=2016年5月}}
[[File:Penthesilea önderliğindeki Amazon savaşçılar (Troya Savaşı betimlemesi) (2).jpg|thumb|right|250px|トロイア戦争のミニチュア]]
{{トロイア戦争}}
'''トロイア戦争'''(トロイアせんそう、{{lang-el|Τρωικός πόλεμος}}, {{lang-en|Trojan War}})は、[[ギリシア神話]]に記述された、[[小アジア]]の[[イリオス|トロイア]]に対して、[[ミケーネ|ミュケーナイ]]を中心とするアカイア人の遠征軍が行った戦争である。'''トロイ戦争'''、'''トロヤ戦争'''という表記もみられる<ref>{{kotobank|トロイ戦争[神話]|2=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}}</ref><ref>{{kotobank|トロイ戦争|2=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}}</ref><ref>{{kotobank|トロヤ戦争|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref><ref>{{kotobank|トロイア戦争|2=百科事典マイペディア}}</ref>。
トロイア、あるいはトローアスという呼称は、後の時代に[[イーリオス]]一帯の地域につけられたものである。この戦争の記述から、[[古代ギリシア]]において、[[ホメーロス]]の英雄[[叙事詩]]『[[イーリアス]]』、『[[オデュッセイア]]』のほか、『[[キュプリア]]』、『[[アイティオピス]]』、『[[イーリオスの陥落]]』などから成る一大[[叙事詩環]]が派生した。また[[ウェルギリウス]]はトロイア滅亡後の[[アイネイアース]]の遍歴を『[[アエネーイス]]』にて描いている。
== 原因 ==
[[Image:Rubens - Judgement of Paris.jpg|thumb|230px|right|『[[パリスの審判]]』([[ピーテル・パウル・ルーベンス|ルーベンス]]画)]]
この戦の起因は、『[[キュプリア]]』に詳しい。大神[[ゼウス]]は、増え過ぎた人口を調節するために、[[ヘーラー]]とは別の妻でもある、秩序の女神・[[テミス]]と試案を重ね、遂に大戦を起こして人類の大半を死に至らしめる決意を固めた。
[[オリンポス山|オリンポス]]では人間の子[[ペーレウス]]と[[ティーターン]]族の娘[[テティス]]の婚儀が行われていたが、不和の女神・[[エリス (ギリシア神話)|エリス]]だけはこの饗宴に招待されず、怒った彼女は、「最も美しい女神へ({{lang|el|καλλίστῃ}})」と書かれた、[[ヘスペリデス]]の[[黄金の林檎]]([[不和の林檎]])を神々の座へ投げ入れた。この供物をめぐって、殊に[[ヘーラー]]、[[アテーナー]]、[[アプロディーテー]]の三女神による激しい対立が起り、ゼウスはこの林檎が誰にふさわしいかをトロイアの王子[[パリス]]にゆだねた([[パリスの審判]])。
三女神はそれぞれが最も美しい装いを凝らしてパリスの前に立ち、なおかつ、ヘーラーは世界を支配する力を、アテーナーはいかなる戦争にも勝利を得る力を、アプロディーテーは最も美しい女を、それぞれ与える約束を行った。パリスはその若さによって富と権力を措いて愛を選び、アプロディーテーの誘いによって[[スパルタ]]王[[メネラーオス]]の妃[[ヘレネー]]を連れ去った。パリスの妹でトロイアの王女[[カッサンドラー]]のみはこの事件が国を滅ぼすことになると予言したが、[[アポローン]]の呪いによって聞き入れられなかった。
メネラーオスは、兄でミュケーナイの王である[[アガメムノーン]]にその事件を告げ、さらに[[オデュッセウス]]とともにトロイアに赴いてヘレネーの引き渡しを求めた。しかし、パリスはこれを断固拒否したため、アガメムノーン、メネラーオス、オデュッセウスはヘレネー奪還とトロイア懲罰の遠征軍を組織した。
この戦争では神々も両派に分かれ、ヘーラー、アテーナー、[[ポセイドーン]]がギリシア側に、アポローン、[[アルテミス]]、[[アレース]]、アプロディーテーがトロイア側に味方した。
== 戦いの経過 ==
[[ボイオーティア]]地方の[[アウリス]]に集結したアガメムノーンを総大将とするアカイア軍は、総勢10万、1168隻の大艦隊であった。アカイア人の遠征軍はトロイア近郊の浜に上陸し、[[アキレウス]]の活躍もあって、待ち構えたトロイア軍を撃退すると、浜に陣を敷いた。トロイア軍は強固な城壁を持つ市街に籠城し、両軍は海と街の中間に流れる[[スカマンドロス|スカマンドロス河]]を挟んで対峙した。『イーリアス』の物語は、双方に犠牲を出しながら9年が過ぎ、戦争が10年目に差し掛かった時期を起点に始まる。
戦争末期の状況については、『イーリアス』のほか、『[[アイティオピス]]』や『[[アイアース (ソポクレス)|アイアース]]』において語られる。トロイアの勇将[[ヘクトール]]とアカイアの英雄アキレウスの没後、戦争は膠着状態に陥った。しかし、アカイア方の知将オデュッセウスは、巨大な木馬を造り、その内部に兵を潜ませるという作戦を考案し(『[[小イーリアス]]』では女神アテーナーが考案し)、これを実行に移した。この「[[トロイアの木馬]]」の計は、アポローンの神官[[ラーオコオーン]]と王女[[カッサンドラー]]に見抜かれたが、ラーオコオーンは海蛇に絞め殺され、カッサンドラーの予言は誰も信じることができない定めになっていたので、トロイアはこの策略にかかり、一夜で陥落した。
== 戦後 ==
[[Image:The Murder Of Agamemnon - Project Gutenberg eText 14994.png|thumb|230px|right|暗殺されるアガメムノーン]]
[[アイスキュロス]]の『アガメムノーン(Agamemnon)』によると、トロイア戦争はアカイア遠征軍の勝利に終わったが、アカイア軍の名だたる指揮官たちも悲劇的な末路をたどった。[[小アイアース]]はアテーナーの神殿で[[カッサンドラー]]を強姦した事でアテーナーの逆鱗に触れ、船を沈没させられて死亡した。[[メネラーオス]]は帰国途中、暴風に悩まされ[[エジプト]]に漂流し、8年掛かりで帰還。総司令官[[アガメムノーン]]は、帰郷後、妻とその愛人によって暗殺された。[[オデュッセウス]]は、『[[オデュッセイア]]』にあるように、故郷にたどりつくまで10年もの間、諸国を漂流しなければならなかった。
== 考古学におけるトロイア戦争 ==
ギリシア神話それ自体は歴史書ではなく、あくまで神話である。トロイア戦争については、紀元前1250年頃にトロイアで実際に大規模な戦争があったとする説もあれば、[[紀元前1700年]]から[[紀元前1200年]]頃にかけて、小アジア一帯が繰り返し侵略をうけた事実から形成されたという説もある。そもそもトロイア戦争自体が全くの架空であるという説もないわけではない。
古代都市[[イーリオス]]は長く伝説上のものと思われていたが、19世紀末、[[ハインリヒ・シュリーマン]]によりトロイア一帯の遺跡が発掘された。遺跡は9層になっており、シュリーマンは発掘した複数の時代の遺跡のうち、火災の跡のある下から第2層がトロイア戦争時代の遺跡と推測した。後に第2層は[[紀元前2000年]]よりも前の[[地層]]でトロイア戦争の時代よりもかなり古いものであることが判明した。シュリーマンと共に発掘にあたった[[ヴィルヘルム・デルプフェルト]]は下から6番めの第6層に破壊や火災のあとがあることから、第6層がトロイア時代のものであると考えた。1930年代にブレゲンによって再調査が行われ、第6層の都市の火災は部分的で破壊に方向性があることから地震の可能性が強いと推測した。そして第7層の都市は火災が都市全体を覆っていることや、破壊の混乱ぶりから人為的なものであると推測する。また、発見された人骨も、胴体と頭部が分離したものが発見されるなど、戦争による人為的な破壊を間接的に証明した。現在では第7層がトロイア戦争のあったと伝えられる時期([[紀元前13世紀]]中期)であると考えられている。
トロイア戦争にまつわる叙事詩の全てが架空のものではないとすれば、その中心はやはりイーリオスの破壊と考えられる。都市が火災に見舞われたことは考古学的に間違いないが、それが侵略によるものかどうかは、可能性としてはかなり高いものの推察の域を出ない。さらに、トロイアの略奪があったとする場合、『イーリアス』に従えばアカイア人による侵略ということになるが、ミュケーナイが宗主権を握っていることや、ここに登場する諸都市が[[ミケーネ文明]]に栄えた都市であることから、アカイア人が入植する以前のミュケーナイ人による侵攻、あるいは[[トラーキア]]や[[フリギア|プリギュア]]の他民族による侵略であったと考えられる。少なくとも、[[アカイア人]]であったとする積極的な証拠は存在しない。
== トロイア戦争に関する作品 ==
===原典===
*『[[ホメロス]] [[イリアス]]』 [[松平千秋]]訳で[[岩波文庫]]ほか
*『ホメロス [[オデュッセイア]]』 松平千秋訳で岩波文庫ほか
*『[[ウェルギリウス]] [[アエネイス]]』 [[西洋古典叢書]]:[[京都大学学術出版会]]ほか
*『[[アイスキュロス]] [[アガメムノン]]』 [[ギリシア悲劇]]全集:岩波書店ほか
*『[[スミュルナのコイントス|クイントゥス]] トロイア戦記』 [[松田治]]訳 [[講談社学術文庫]]
*『コルートス [[ヘレネー]]誘拐/トリピオドーロス トロイア落城』松田治訳 講談社学術文庫
*[[ピロストラトス]] 『英雄が語るトロイア戦争』 [[内田次信]]訳 [[平凡社ライブラリー]]
*『スタシノス [[キュプリア]]』<ref name=herasias>[https://changhykw.uijin.com/libra/herasias.html ギリシア叙事詩断片集]も参照。</ref>
*『アルクティノス [[アイティオピス]]』<ref name=herasias/>
*『アルクティノス [[イリオス]]の攻略』<ref name=herasias/>
===トロイア叢書===
:伝承としての西洋文学「トロイア戦記」、[[岡三郎]]訳・解説で[[国文社]]全4巻
*『ディクテュスとダーレスのトロイア戦争物語』
*グイド・デッレ・コロンネ 『トロイア滅亡史』
*[[ジョヴァンニ・ボッカッチョ]] 『フィローストラト』
*[[ジェフリー・チョーサー]] 『トロイルス』
===日本語文献===
*『トロイア戦争全史』 松田治 講談社学術文庫
*『トロイア戦争とシュリーマン』 ニック・マッカーティ、「シリーズ絵解き世界史」原書房、総監修は[[本村凌二]]
*『トロイアの黒い船団―ギリシア神話の物語上』 [[ローズマリー・サトクリフ]]、[[山本史郎]]訳、[[原書房]] ISBN 4562034300
:下巻は「[[オデュッセウス]]の冒険」で同時刊行
*『イリアス トロイアで戦った英雄たちの物語』 アレッサンドロ・バリッコ、草皆伸子訳、[[白水社]]
*『甦るトロイア戦争』 エーベルハルト・ツァンガー、和泉雅人訳、[[大修館書店]]
*『トロイアの歌 ギリシア神話物語』 コリーン・マクロウ、高瀬素子訳 [[日本放送出版協会]]
===オペラ===
*『[[トロイアの人々]]』 [[エクトル・ベルリオーズ]]作曲、ウェルギリウスの『[[アエネイス]]』を題材とする
===映画===
*『[[トロイのヘレン]]』 [[ロバート・ワイズ]]監督、1955年
*『{{仮リンク|大城砦|it|La guerra di Troia}}』 [[ジョルジョ・フェローニ]]監督、1962年
*『[[トロイ (映画)|トロイ]]』 [[ウォルフガング・ペーターゼン]]監督、2004年
===テレビドラマ===
*『{{仮リンク|トロイ ザ・ウォーズ|en|Helen of Troy (miniseries)}}』TVムービー(ミニ・シリーズ)、2003年
===ゲーム===
*『[[TROY無双|トロイ無双]]』[[コーエーテクモゲームス]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Trojan War}}
*[[第0次世界大戦]]
*[[トロイア戦争にかかわる伝説]]
*[[イーリアス]]
*[[イリオス]]
*[[ミケーネ文明]]
*[[ギリシア神話]]
*[[ギリシア悲劇]]
*[[叙事詩環]]
*[[ハインリヒ・シュリーマン]]
*[[トロイアの木馬]]
*[[ウィリアム・シェイクスピア]] - [[トロイラスとクレシダ]]
*[[ロボ・ジョックス]](トロイア戦争を巨大ロボット同士の[[一騎討ち]]に置き換えた、ホメロスの『イリアス』をモチーフとしたアメリカのSF映画)
{{ギリシア神話}}
{{古代ギリシア・ローマの戦争}}
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[[Category:トロイア戦争|*]]
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9,465 | ウィーン | ウィーン(標準ドイツ語: Wien 発音〈ヴィーン〉、バイエルン・オーストリア語: Wean〈ヴェアン〉、仏: Vienne 発音〈ヴィエンヌ〉、英: Vienna 発音〈ヴィエナ〉)は、オーストリアの首都。9つの連邦州のひとつで、都市州である。漢字による当て字では維納と表記される。
2017年1月1日時点での人口は186万7582人。ヨーロッパ有数の世界都市である。
第一次世界大戦までは、オーストリア=ハンガリー帝国の首都として、ドイツ帝国を除く中東欧の大部分に君臨し、さらに19世紀後半までは神聖ローマ帝国やドイツ連邦を通じて、形式上はドイツ民族全体の帝都でもあった。クラシック音楽が盛んで、過去にモーツァルトやベートーヴェン、シューベルトなど、多くの作曲家が活躍したことから「音楽の都」・「楽都」とも呼ばれる。
ローマ帝国の宿営地ウィンドボナ (Vindobona) をその起源とし、かつてヨーロッパの数か国を支配したハプスブルク家のオーストリア帝国の首都であった。マリア・テレジア女帝時代に栄えた市街は、フランツ・ヨーゼフ1世の治下で整備された。リングと呼ばれる環状道路は、ウィーンの近代化を実現するために、19世紀の後半にかつて旧市街を囲んでいた堀を埋め立てて造られたものである。シュテファン寺院(シュテファン大聖堂)や旧市街をふくむ歴史地区は、「ウィーン歴史地区」の名称で2001年にユネスコの世界遺産に登録された。ここには旧王宮であるホーフブルク宮殿(現在は大統領官邸や博物館、国立図書館などとして使用)・ウィーン国立歌劇場・ブルク劇場・自然史博物館・美術史博物館、中央駅に近いベルヴェデーレ宮殿などが含まれる。
ウィーンは、そもそもの成り立ちが2つの道が交差するところに生まれた町であった。ドナウ川に沿ってヨーロッパを東西に横切る道と、バルト海とイタリアを結ぶ南北の道(琥珀街道)である。そこはゲルマン系、スラヴ系、マジャール系、ラテン系のそれぞれの居住域の接点にあたり、歴史的に見ても上述のように、紀元前5世紀以降ケルト人の居住する小村であったところにローマ帝国の北の拠点が建設されたのが起源であった。オスマン帝国の隆盛時には西ヨーロッパからみてイスラム勢力圏への入り口にもあたっており、伝統的にも多彩な民族性を集約する都市として栄えた。
その地理上の位置は、かつて共産圏に属した東ドイツのベルリンや東欧スラヴ民族の国家チェコのプラハよりも東であり、第二次世界大戦後の冷戦時代にあっても、国際政治上微妙な位置にあった。
また、都心から南南西方面に離れた場所には、かつてウィーン会議の舞台となった世界遺産のシェーンブルン宮殿がある。これは、レオポルト1世が狩猟用の別荘として建てたものを、マリア・テレジアが離宮として完成させたものである。
現在のウィーンは、国際機関本部の集積地ともなっており、日本政府も在ウィーン国際機関日本政府代表部を置いている。ウィーンに本部を置いている機関は次の通り。
2017年に発表された「世界の都市総合力ランキング」では、世界14位と評価された。ヨーロッパの都市ではロンドン、パリ、アムステルダム、ベルリン、フランクフルトに次ぐ6位。
古代ローマの時代、ウィーンはちょうどローマ帝国の北の境界にあたる位置にあり、ウィンドボナ(bona はケルト語で集落・町)と呼ばれる宿営地が置かれた。これがウィーンの地名の起源と言われている。
中世にもドナウ川沿いの交易地であったウィーンが本格的な発展期を迎えたのは、オーストリアを治めていたバーベンベルク家が1155年にクロスターノイブルクからウィーンに遷都したことに起因する。1221年、ウィーンは都市特権を獲得した。1241年、ワールシュタットの戦いやモヒの戦いで勝利を収めたモンゴル帝国軍が郊外まで迫った。バーベンベルク家は13世紀半ばに断絶し、1278年よりオーストリア公となったハプスブルク家の支配下におかれた。14世紀、建設公と称されたルドルフ4世のもとで、ウィーンは大きな発展を遂げた。この時代にシュテファン寺院やウィーン大学が建てられている。やがてハプスブルク家は婚姻政策の成功により16世紀に入るとボヘミアやハンガリーを初めとする多くの王国を相続し、ドイツの神聖ローマ帝国の帝位を独占。16世紀前半にはカール5世のもとヨーロッパ最大のドイツ系の帝国を築くに至る。
ドイツ民族居住地域の東端に位置し、スラヴ文化やマジャール文化の影響も受けると同時にその立地は国防上の難点でもある。1529年のオスマン帝国による第一次ウィーン包囲など、ヨーロッパ全体を震撼させる事件もあった。しかし、ハプスブルク家の支配下で帝都ウィーンでは華やかな貴族文化が栄えていた。1683年にもオスマン帝国による第二次ウィーン包囲を受けたが撃退、17世紀末からは旧市街の王宮ホーフブルクに加え、離宮シェーンブルン宮殿が郊外(現在は市内)に造営された。これが18世紀末から現在に至る「音楽の都ウィーン」の礎となった。18世紀末にはヨーゼフ2世によりウィーン総合病院(ドイツ語版、英語版)が開設され、プラーター公園が一般市民に開放されるなど都市環境が改善されていった。
19世紀半ばに産業革命を迎えたウィーンは、農村からの流入により急激に人口が増加した。1869年に63万であったが1910年には203万を数え、当時のヨーロッパではロンドン、パリ、ベルリンと並ぶ都会であった。1873年にはウィーン万国博覧会も開催。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は自ら立案して大規模な都市改造を行い、市壁を撤去し環状道路(リングシュトラーセ)と置き換えた。路面電車が導入され、歴史主義的建造物やモニュメントを街路に面して配した。現在のウィーン旧市街の外観はこの改造に拠っている。
オーストリア=ハンガリー帝国は多民族国家であり、支配民族であったドイツ人は帝国の人口5千万の25%余りを占めるにすぎなかった。帝国各地からの人口流入により、ウィーンの街ではドイツ語・ハンガリー語・チェコ語・ポーランド語・イディッシュ語・ルーマニア語はもちろんのこと、ロマ語・イタリア語までヨーロッパのあらゆる言語を耳にすることができたと言われる。
帝国各地からあらゆる民族出身の才能が集まり、ウィーン文化はその絶頂期を迎えた。
1914年に始まった第一次世界大戦は1918年にドイツ・オーストリア側の敗北をもって終戦した。ハプスブルク家の帝国は解体し、チェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴスラビア、ポーランドなどが次々と独立、ウィーンは経済的困窮に追い込まれる。新しい共和国の首都となったウィーンでは社会主義系の市政が発足し、保守的な地方の農村部からは「赤いウィーン」と呼ばれて、両派の政治的確執は国政全体の不安定へとつながった。また、ほぼドイツ人だけの国となった新オーストリアで、東端に位置しなお濃厚な東欧色を残すウィーンは微妙な立場でもあった。このような時代をウィーンで過ごしたアドルフ・ヒトラーはやがてドイツで独裁者となった。1938年、ヒトラーは母国オーストリアをドイツに併合し(アンシュルス)、ウィーンは約700年ぶりに首都でなくなった。
1945年、第二次世界大戦でナチスは崩壊し、ウィーン攻勢でソビエト連邦軍に占領され、その後連合国の合意で米英仏ソ四か国の共同占領下に置かれた。1949年の映画『第三の男』は、この時代のウィーンの雰囲気をよく伝えている。
1955年、オーストリア国家条約の締結によりオーストリアは主権国家として独立を回復した。旧ハプスブルク帝国の継承国家のほとんどが共産圏に組み込まれる中で、オーストリアでは共産党が国民の支持を得られず、経済的には西側との関係を保ったまま永世中立国として歩むことになった。
ブルーノ・クライスキー首相は、ウィーン国際センターの建設を提案し、ウィーンをニューヨーク、ジュネーヴに次ぐ第3の国連都市にすることに成功した。ウィーンは国際連合ウィーン事務局として数々の国際機関の所在地となった。しかし鉄のカーテンにより、かつての後背地であった東欧を失ったウィーンの人口は、ゆるやかに減少を続けた。人口100万人以上の大都市のうち、20世紀を通し、人口が減少したのはウィーンだけである。
1989年のベルリンの壁崩壊は、中欧におけるウィーンの持つ価値を蘇らせた。150万人を切っていた人口は特に外国からの流入により再び増加傾向にあり、2030年ごろには再び200万人の大台を回復すると予想されている。これは2004年に中東欧8か国が欧州連合に加盟したのに加えて、2007年にはルーマニアとブルガリア、2013年にはクロアチアが加盟、今後もセルビアをはじめとするバルカン諸国の加盟が見込まれるからである。
ウィーンには中東欧の経済的中枢として多くの多国籍企業が進出するようになったが、旧共産圏諸国のインフラが整うにつれて、企業の拠点としてプラハやブダペストなどとの競合も厳しくなっている。このため2005年に法人税などが引き下げられた。
ウィーン市はバイオテクノロジー産業の育成に注力しており、Vienna Biocenter などを積極的に整備している。またウィーンに拠点を置く金融機関が活発な買収を通じて中東欧での業務を拡大しており、中東欧における金融の中心としての地位をワルシャワと競っている。他方、観光も相変わらずウィーンの重要産業である。ICCAによる2016年の国際会議の開催件数では、パリに次ぎ世界第2位であった。
現在ウィーンの人口はおよそ195万人で欧州連合の5番目に大きな都市である。ウィーンは国際的な都市でおよそ70万人(およそウィーン人口40%)がオーストリア国籍を有していない。ウィーンで一番多い外国籍はセルビア人であり、その数はおよそ1万人。オーストリア=ハンガリー帝国の時代からセルビア人は多く、ユーゴスラビア紛争後、セルビア人はさらに増えた。ウィーンはセルビア国外で最大のセルビア人コミュニティが形成されている。ウィーンはその他バルカン半島からの人が多く、主にボスニア人、ルーマニア人、ハンガリー人が存在し、イスラム教信者(主にトルコ人、シリア人)の数も多い。 ウィーンは1840年代人口50万を超え、1870年代100万、1910年200万を超えた。ウィーンはロンドンとベルリンと共に世界で最初に人口100万人を到達した都市の一つ。戦争の原因で人口が減少したが、今ウィーンは大幅に人口が増加する都市の一つである。
市の中央を、北西から南東にかけてドナウ川が横切っている。かつては氾濫を繰り返したこの川は、19世紀に大規模な治水工事が行われたことでまっすぐな姿になった。旧市街に接してドナウ運河が流れており、こちらをドナウ川であると誤解する観光客も多い。ウィーン市街はドナウ右岸を中心に発展してきたが、左岸は地下鉄の延長工事が進行中で、新興住宅地として人口が増加している。
市西部はウィーンの森として知られる森林地帯になっている。散策路が縦横無尽に走っており、市民の憩いの場になっている。13区にあるラインツ動物園内には皇帝の別荘ヘルメスヴィラがあり、市民に開放されている。
元皇室の料地でヨーゼフ2世が一般市民に開放したプラーター公園があり、公園内には映画『第三の男』にも登場した観覧車がある。
ウィーン中央墓地は、帝国崩壊前に人口400万を想定して建設された巨大な墓地である。著名な作曲家の墓は一か所に集められており、訪れる日本人も多い。ウィーン市が所有しており、全て分譲ではなく賃貸である。
サンクト・マルクス墓地(ドイツ語版、英語版)にはモーツァルトが埋葬されているが、遺骨は所在不明のため、中央墓地に墓碑がある。グスタフ・マーラーの墓は中央墓地ではなく、妻アルマの実家に近い19区のグリンツィング墓地にある。
ウィーンの気候はケッペンの気候区分によれば、西岸海洋性気候と湿潤大陸性気候の変わり目に位置する。夏は適度な暑さで、平均気温は22 - 26°Cの範囲で経過。最高気温は30°Cを超えることもあり、最低気温は15°C位である。冬は比較的寒く、平均気温は氷点下付近まで下がる。12月から3月にかけては降雪も見られる。春や秋はさわやかで、穏やかに経過する。
年間平均降水量は620 mm程度。ウィーンの森がある西側は市内で降水量が多い場所で、年平均降水量が700 - 800 mmになる。平坦な東側は年平均降水量が500-550 mmと、市内では乾燥した区域である。
ウィーンは市であると同時に連邦州である。伝統的にオーストリア社会民主党 (SPÖ) の牙城であり、市議会でも過半数を握っている。市長(=州首相)は直接選挙ではなく市議会で選ばれ、現在はミヒャエル・ルートヴィヒ(ドイツ語版、英語版)である。
元市長のヘルムート・ツィルクは、映画『男はつらいよ 寅次郎心の旅路』に出演するなど親日家であった。
2008年、プライスウォーターハウスクーパースが公表した調査によると、ウィーンの都市GDPは1,220億ドルであり、世界第50位である。金融業、観光業が盛んで、オーストリアの国内総生産の約5分の1を占める。1921年に始まり2年に1度開かれているウィーン見本市は、中央ヨーロッパの経済活動に重要な役割をはたしている。第二次世界大戦後のウィーンを特色づけるのは、外国人観光客の増加である。
ウィーン国際空港(空港コードVIE)
都心から東南東に約20キロメートル離れた、ドナウ川沿いのニーダーエスターライヒ州シュヴェヒャートにある国際空港。オーストリア航空グループ、ニキ航空、ユーロウイングスがこの空港をベースに多くの路線を開設している。2015年の利用者数は2,277万5,044人。冷戦期には小さな空港であったが、その後は西欧と東欧、中東を結ぶハブ空港として大きく成長している。フランクフルト空港を凌ぎ、最も多くの東欧路線をもつ空港である。1980年代前半から、成田国際空港との間でオーストリア航空によって直行便が運行されているが、円安や団体ツアー客増加による不採算性により、2016年9月4日をもって運航を休止したが、2018年5月にオーストリア航空が運行を再開、ANAも2019年2月より羽田空港発着で運行を開始した。
Sバーン(国営鉄道)によってウィーン市内と結ばれている。2009年には新しい空港駅とウィーン・ミッテ駅をノンストップ16分で結ぶCAT(City Airport Train)が開業した。またリムジンバスがウィーン西駅・中央駅や、スロバキア、ハンガリー、チェコなどを結んでいる。2015年にはリンツ方面からの長距離列車が中央駅経由で乗り入れを開始した。
西方のリンツやザルツブルク、そしてドイツ方面を結ぶA1と、南のグラーツやイタリア、スロベニア方面を結ぶA2は冷戦期に既に開通していた。1990年代になり、ウィーン国際空港まで開通していたA4がブダペストまで延伸された。またA4から分岐してブラチスラヴァに至るA6が2007年に開通した。
2004年のEU拡大にともない、新規加盟国からの通過車両が増え、市内のA23では渋滞が激しくなっていたが、A4とA2を結ぶ環状道路の役割をもつS1が2006年4月に供用開始され、リンツおよびグラーツ方面からウィーン空港、ブダペスト方面へ渋滞なしに行けるようになった。
ブルノ方面への高速道路A5は2010年2月にシュリック (Schrick) まで部分開通、併せて環状線S1の北部区間も開通した。2013年にA5のチェコ国境までの開通が予定されている。
オーストリアの高速道路は、料金所をもたない。自家用車はヴィネット (Vignette) と呼ばれる有効期限のあるシールを購入して貼らなければならないが、その価格は年間72ユーロと割安である。2か月有効や、10日有効のものもある。貼らないで走行しているところを見つかると高額の罰金を徴収される。トラックについては車両に積載された装置により走行キロ数に応じて料金を徴収するシステムになっている。
主要幹線はオーストリア連邦鉄道 (ÖBB) により運行されているが、民間の鉄道会社ウェストバーンもウィーンからザルツブルク方面に列車を運行している。
かつてウィーンからは帝国の各方面にむけて個別に鉄道が敷かれたため、パリやロンドンなどに見られるようにターミナル駅が分散しているが、これは現代の国際的な旅客移動を考えると合理的ではなかった。例えばドイツ方面から東欧方面に乗り継ぐためには、西駅から南駅に路面電車で移動しなければならなかった。また、南駅も構内で東駅と南駅に分かれており、イタリア方面から東欧方面には直通できない構造になっていた。このため、全ての国際列車が発着する中央駅が建設されることになり、2012年末に暫定開業、2015年に全面完成をみた。周辺は再開発されオフィスビルや住宅、緑地、学校、商店などを含む複合施設街区が誕生した。
西駅からリンツ・ザルツブルク方面へ向かうオーストリア西部鉄道はEUからTrans european network (TEN) の指定を受けた路線であり、パリ - ミュンヘン - ウィーン - ブダペストを結ぶ欧州の背骨である。このため、高規格路線化の工事が順次進められている。2008年末の新車両の導入により最高速度200 km/hで運行されている。ラインツ・トンネルの工事完成後は、中央駅を経由しリンツ方面からウィーン国際空港まで列車が乗り入れるようになった。
また、ポーランド南部まで延びている軌間の広いシベリア鉄道をウィーンまたはブラチスラヴァまで延長し、ドナウ川の水運を利用してヨーロッパ各地までアジアからの貨物を運ぶ計画が進行中である。
市内の主要駅は以下の通り。
市内には地下鉄とSバーン(近郊電車)、路面電車およびバス路線がくまなく走っている。地下鉄と路面電車はウィーン市交通局が運営している。かつてウィーンは地下鉄の整備が遅れていたため、世界最大の路面電車王国であったが、地下鉄の整備も進み、路面電車は地下鉄の補完的な役割になりつつあるが、それでもなお市交通局の路線総延長は188 km, 路線系統は32系統と、大規模なネットワークを抱える。路面電車の車両はバリアフリーの超低床車(写真)が順次導入されている。これは通称ULFと称し、世界一の超低床である。ポルシェ社のデザインで、21区にあるシーメンス工場で製作されたものである。また、オーストリア政府の支援のもと貨物輸送を行っており、ウィーン市交通局の車両工場と車庫を結ぶ部品配給用の事業用列車が運行されている。2006年にはそれに加え、試験的ながらULFを使用して、クリスマスシーズンのショッピング小荷物の配送を請け負った実績を残している。ウィーン国立歌劇場横にあるオーパー停留所では、保養地であるバーデンまでの間を結ぶウィーン地方鉄道の電車が乗り入れてくる光景が見られる。
地下鉄はU1・U2・U3・U4・U6の5路線であり、このうちU4とU6は19世紀末のシュタットバーン (Stadtbahn) を1970年代末に地下鉄として改築・再利用したもの(一部区間は延伸)であり、建築家オットー・ワーグナーの手になる建築・インフラ群が多く使用されている。他の3路線は1980年以降に新たに開通したものである。
2006年9月にはU1が北にレオポルダウ (Leopoldau) まで、2008年5月にはU2が翌月開催されたサッカー欧州選手権決勝の会場であるスタジアムまで延伸された。2010年には更にドナウ川を超え、22区のアスペルンシュトラーセ (Aspernstraße) まで延長された。昔の飛行場跡地であるフルークフェルト・アスペルン (Flugfeld Aspern) には新しいニュータウン「セーシュタット・アスペルン」(Seestadt Aspern) が建設中で、2013年にはU2がさらにここまで延伸された。U1が南部オーバーラー (Oberlaa) へ延伸工事中で、2017年の開業を予定している。
欠番となっているU5の建設計画も決定した。既存のU2の一部(カールスプラッツ方面 - ラートハウス)をU5に転換し、それをさらに北西部に向けて延伸するものである。延伸第一期はフランクープラッツ (Frankuhplatz) まで、第二期はAKHでU6と接続し、エルターラインプラッツ (Elterleinplatz) に至る。 U2は第一期はラートハウスから南進し、繁華街のノイバウガッセ (Neubaugasse) でU3と、ピルグラムガッセ (Pilgramgasse) でU4と、マッツラインスドルファープラッツ (Matzleinsdorferplatz) でSバーンと接続させる。第二期はさらにヴィーナーベルク (Wienerberg) のビジネスパークに至るという計画である。第一期の完成は2023年を予定している。
ウィーン郊外とウィーン市内を結ぶSバーンは増強計画があり、郊外からの通勤者が鉄道を利用するように、老朽化した駅を改築するなどの措置がとられている。また、地下鉄の終着駅付近を中心にパークアンドライド施設の整備が進められており、安い料金で丸一日駐車をすることができる。長期契約もある。
宮廷文化の栄えたウィーンは18世紀末から20世紀初頭にかけて、数々の大作曲家の活躍の舞台となった。
また、かつては世界屈指の学問の都であり、特に19世紀末から20世紀初頭にかけて多くの先端的な業績を生み出したほか、カールス教会など建築分野でも傑作が存在する。
ウィーンのカフェハウスは、オスマン帝国によるウィーン包囲の際にトルコ軍が置いていったコーヒー豆をコシルツキーが発見したことに始まると言われる。19世紀にはウィーンのカフェ文化は文化生活の中心であった。多くのカフェは当時と変わらぬ姿で多くの観光客を惹きつけている。なお、ウィンナ・コーヒーは「ウィーン風コーヒー」の意味であるが、実際にはウィーンにこの名前のコーヒーは存在しない。
ウィーンの代表的カフェハウスには以下のようなものがある。
ウィーンの歴史を反映して多数の美術館・博物館がある。
1365年創立のウィーン大学は現在のドイツ語圏で最古・最大の大学であり、教官や卒業生から11名のノーベル賞受賞者を輩出している。かつてウィーン大学医学部は医学研究において世界的な中心のひとつであった。例えば、精神科医のジークムント・フロイトや小児科医のハンス・アスペルガーなどを輩出しており、日本からも斎藤茂吉らが留学している。また世界で初めて胃切除を行ったのもウィーン大学教授のテオドール・ビルロートで、現代においてもビルロートの方法で手術がなされている。この際に摘出された標本は、ウィーン大学で見学することができる。しかし、第二次大戦後にはユダヤ人学者が流出したことや鉄のカーテンにより東欧からの人材の流入が止まった一方、アメリカの大学が著しい発展を遂げたことにより、学問の中心としてのウィーンはその地位を失った。しかし現在は再び東欧やドイツなどからの学生の流入が多くなっている。学生数が著しく増加傾向にあるため、各大学の権限が拡大され、入学直後の学期を厳しくして選別を図る措置をとるほか、志望者の多い学科を中心に入学制限が順次導入されている。選考方法は主として入学試験による。
エゴン・シーレらの出身校であるウィーン美術アカデミーはヒトラーが受験して合格できなかったため、後に独裁者になる道を開いてしまった学校でもある。アントニオ・サリエリが初代学長だった歴史があるウィーン国立音楽大学および、戦後市によって設立されたウィーン音楽院は多くの著名なクラシック音楽の演奏家を輩出している。この他に国立大学としてはウィーン経済大学、ウィーン工科大学、ウィーン農科大学、ウィーン医科大学(旧ウィーン大学医学部)、ウィーン獣医大学、グスタフ・クリムトの出身校であるウィーン応用美術大学がある。ウィーン経済大学 (WU) は2013年にブラーター内に移転した。
従来のオーストリアでは大学は全て国立であったが、21世紀に入って私立大学 (Privatuni) を認める制度ができたため、多くの私立大学が設立されている。ウィーン音楽院(市立)やリンツのブルックナー音楽院のように既存の学校がこの制度により大学となったケースも多い。
またオーストリア政府は、トップレベルの科学技術研究施設を目標に、Institute of Science and Technology Austriaを設立した。ウィーン郊外のクロースターノイブルクにあり、博士課程の学生およびポスドクを受け入れている。研究者の多くはアメリカやドイツなど国外から招かれており、教育、研究は英語で行われている。
ウィーンではモーツァルトやベートーヴェンをはじめ、数多くの作曲家が活躍し、「音楽の都」と呼ばれている。
ウィーンは舞踏会の街でもあり、数多くの舞踏会がカーニバル(ファシング)シーズン中に開かれている。
オーストリア・ブンデスリーガに属しているサッカークラブ、FKアウストリア・ウィーンとSKラピード・ウィーンがウィーンを本拠地としている。
また、オーストリアを代表するスタジアムであるエルンスト・ハッペル・シュタディオンでは、UEFAの5つ星スタジアムとしてこれまでUEFAチャンピオンズリーグの決勝戦が4度開催された。2008年6月にスイスとオーストリアの共催で開かれたUEFA欧州選手権2008 (EURO 2008) の決勝戦もここで行われた。
市民の娯楽としてスケートなども盛んであり、冬季は通常のスケートリンク以外に市庁舎前広場にスケートリンクが開場する。
ほか | [
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"text": "ウィーン(標準ドイツ語: Wien 発音〈ヴィーン〉、バイエルン・オーストリア語: Wean〈ヴェアン〉、仏: Vienne 発音〈ヴィエンヌ〉、英: Vienna 発音〈ヴィエナ〉)は、オーストリアの首都。9つの連邦州のひとつで、都市州である。漢字による当て字では維納と表記される。",
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"text": "2017年1月1日時点での人口は186万7582人。ヨーロッパ有数の世界都市である。",
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"text": "第一次世界大戦までは、オーストリア=ハンガリー帝国の首都として、ドイツ帝国を除く中東欧の大部分に君臨し、さらに19世紀後半までは神聖ローマ帝国やドイツ連邦を通じて、形式上はドイツ民族全体の帝都でもあった。クラシック音楽が盛んで、過去にモーツァルトやベートーヴェン、シューベルトなど、多くの作曲家が活躍したことから「音楽の都」・「楽都」とも呼ばれる。",
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"text": "ローマ帝国の宿営地ウィンドボナ (Vindobona) をその起源とし、かつてヨーロッパの数か国を支配したハプスブルク家のオーストリア帝国の首都であった。マリア・テレジア女帝時代に栄えた市街は、フランツ・ヨーゼフ1世の治下で整備された。リングと呼ばれる環状道路は、ウィーンの近代化を実現するために、19世紀の後半にかつて旧市街を囲んでいた堀を埋め立てて造られたものである。シュテファン寺院(シュテファン大聖堂)や旧市街をふくむ歴史地区は、「ウィーン歴史地区」の名称で2001年にユネスコの世界遺産に登録された。ここには旧王宮であるホーフブルク宮殿(現在は大統領官邸や博物館、国立図書館などとして使用)・ウィーン国立歌劇場・ブルク劇場・自然史博物館・美術史博物館、中央駅に近いベルヴェデーレ宮殿などが含まれる。",
"title": "概要"
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"text": "ウィーンは、そもそもの成り立ちが2つの道が交差するところに生まれた町であった。ドナウ川に沿ってヨーロッパを東西に横切る道と、バルト海とイタリアを結ぶ南北の道(琥珀街道)である。そこはゲルマン系、スラヴ系、マジャール系、ラテン系のそれぞれの居住域の接点にあたり、歴史的に見ても上述のように、紀元前5世紀以降ケルト人の居住する小村であったところにローマ帝国の北の拠点が建設されたのが起源であった。オスマン帝国の隆盛時には西ヨーロッパからみてイスラム勢力圏への入り口にもあたっており、伝統的にも多彩な民族性を集約する都市として栄えた。",
"title": "概要"
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{
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"text": "その地理上の位置は、かつて共産圏に属した東ドイツのベルリンや東欧スラヴ民族の国家チェコのプラハよりも東であり、第二次世界大戦後の冷戦時代にあっても、国際政治上微妙な位置にあった。",
"title": "概要"
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"text": "また、都心から南南西方面に離れた場所には、かつてウィーン会議の舞台となった世界遺産のシェーンブルン宮殿がある。これは、レオポルト1世が狩猟用の別荘として建てたものを、マリア・テレジアが離宮として完成させたものである。",
"title": "概要"
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{
"paragraph_id": 7,
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"text": "現在のウィーンは、国際機関本部の集積地ともなっており、日本政府も在ウィーン国際機関日本政府代表部を置いている。ウィーンに本部を置いている機関は次の通り。",
"title": "概要"
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"text": "2017年に発表された「世界の都市総合力ランキング」では、世界14位と評価された。ヨーロッパの都市ではロンドン、パリ、アムステルダム、ベルリン、フランクフルトに次ぐ6位。",
"title": "概要"
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"text": "古代ローマの時代、ウィーンはちょうどローマ帝国の北の境界にあたる位置にあり、ウィンドボナ(bona はケルト語で集落・町)と呼ばれる宿営地が置かれた。これがウィーンの地名の起源と言われている。",
"title": "歴史"
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"text": "中世にもドナウ川沿いの交易地であったウィーンが本格的な発展期を迎えたのは、オーストリアを治めていたバーベンベルク家が1155年にクロスターノイブルクからウィーンに遷都したことに起因する。1221年、ウィーンは都市特権を獲得した。1241年、ワールシュタットの戦いやモヒの戦いで勝利を収めたモンゴル帝国軍が郊外まで迫った。バーベンベルク家は13世紀半ばに断絶し、1278年よりオーストリア公となったハプスブルク家の支配下におかれた。14世紀、建設公と称されたルドルフ4世のもとで、ウィーンは大きな発展を遂げた。この時代にシュテファン寺院やウィーン大学が建てられている。やがてハプスブルク家は婚姻政策の成功により16世紀に入るとボヘミアやハンガリーを初めとする多くの王国を相続し、ドイツの神聖ローマ帝国の帝位を独占。16世紀前半にはカール5世のもとヨーロッパ最大のドイツ系の帝国を築くに至る。",
"title": "歴史"
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"text": "ドイツ民族居住地域の東端に位置し、スラヴ文化やマジャール文化の影響も受けると同時にその立地は国防上の難点でもある。1529年のオスマン帝国による第一次ウィーン包囲など、ヨーロッパ全体を震撼させる事件もあった。しかし、ハプスブルク家の支配下で帝都ウィーンでは華やかな貴族文化が栄えていた。1683年にもオスマン帝国による第二次ウィーン包囲を受けたが撃退、17世紀末からは旧市街の王宮ホーフブルクに加え、離宮シェーンブルン宮殿が郊外(現在は市内)に造営された。これが18世紀末から現在に至る「音楽の都ウィーン」の礎となった。18世紀末にはヨーゼフ2世によりウィーン総合病院(ドイツ語版、英語版)が開設され、プラーター公園が一般市民に開放されるなど都市環境が改善されていった。",
"title": "歴史"
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"text": "19世紀半ばに産業革命を迎えたウィーンは、農村からの流入により急激に人口が増加した。1869年に63万であったが1910年には203万を数え、当時のヨーロッパではロンドン、パリ、ベルリンと並ぶ都会であった。1873年にはウィーン万国博覧会も開催。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は自ら立案して大規模な都市改造を行い、市壁を撤去し環状道路(リングシュトラーセ)と置き換えた。路面電車が導入され、歴史主義的建造物やモニュメントを街路に面して配した。現在のウィーン旧市街の外観はこの改造に拠っている。",
"title": "歴史"
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"text": "オーストリア=ハンガリー帝国は多民族国家であり、支配民族であったドイツ人は帝国の人口5千万の25%余りを占めるにすぎなかった。帝国各地からの人口流入により、ウィーンの街ではドイツ語・ハンガリー語・チェコ語・ポーランド語・イディッシュ語・ルーマニア語はもちろんのこと、ロマ語・イタリア語までヨーロッパのあらゆる言語を耳にすることができたと言われる。",
"title": "歴史"
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"text": "帝国各地からあらゆる民族出身の才能が集まり、ウィーン文化はその絶頂期を迎えた。",
"title": "歴史"
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"text": "1914年に始まった第一次世界大戦は1918年にドイツ・オーストリア側の敗北をもって終戦した。ハプスブルク家の帝国は解体し、チェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴスラビア、ポーランドなどが次々と独立、ウィーンは経済的困窮に追い込まれる。新しい共和国の首都となったウィーンでは社会主義系の市政が発足し、保守的な地方の農村部からは「赤いウィーン」と呼ばれて、両派の政治的確執は国政全体の不安定へとつながった。また、ほぼドイツ人だけの国となった新オーストリアで、東端に位置しなお濃厚な東欧色を残すウィーンは微妙な立場でもあった。このような時代をウィーンで過ごしたアドルフ・ヒトラーはやがてドイツで独裁者となった。1938年、ヒトラーは母国オーストリアをドイツに併合し(アンシュルス)、ウィーンは約700年ぶりに首都でなくなった。",
"title": "歴史"
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"text": "1945年、第二次世界大戦でナチスは崩壊し、ウィーン攻勢でソビエト連邦軍に占領され、その後連合国の合意で米英仏ソ四か国の共同占領下に置かれた。1949年の映画『第三の男』は、この時代のウィーンの雰囲気をよく伝えている。",
"title": "歴史"
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"text": "1955年、オーストリア国家条約の締結によりオーストリアは主権国家として独立を回復した。旧ハプスブルク帝国の継承国家のほとんどが共産圏に組み込まれる中で、オーストリアでは共産党が国民の支持を得られず、経済的には西側との関係を保ったまま永世中立国として歩むことになった。",
"title": "歴史"
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"text": "ブルーノ・クライスキー首相は、ウィーン国際センターの建設を提案し、ウィーンをニューヨーク、ジュネーヴに次ぐ第3の国連都市にすることに成功した。ウィーンは国際連合ウィーン事務局として数々の国際機関の所在地となった。しかし鉄のカーテンにより、かつての後背地であった東欧を失ったウィーンの人口は、ゆるやかに減少を続けた。人口100万人以上の大都市のうち、20世紀を通し、人口が減少したのはウィーンだけである。",
"title": "歴史"
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"text": "1989年のベルリンの壁崩壊は、中欧におけるウィーンの持つ価値を蘇らせた。150万人を切っていた人口は特に外国からの流入により再び増加傾向にあり、2030年ごろには再び200万人の大台を回復すると予想されている。これは2004年に中東欧8か国が欧州連合に加盟したのに加えて、2007年にはルーマニアとブルガリア、2013年にはクロアチアが加盟、今後もセルビアをはじめとするバルカン諸国の加盟が見込まれるからである。",
"title": "歴史"
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"text": "ウィーンには中東欧の経済的中枢として多くの多国籍企業が進出するようになったが、旧共産圏諸国のインフラが整うにつれて、企業の拠点としてプラハやブダペストなどとの競合も厳しくなっている。このため2005年に法人税などが引き下げられた。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "ウィーン市はバイオテクノロジー産業の育成に注力しており、Vienna Biocenter などを積極的に整備している。またウィーンに拠点を置く金融機関が活発な買収を通じて中東欧での業務を拡大しており、中東欧における金融の中心としての地位をワルシャワと競っている。他方、観光も相変わらずウィーンの重要産業である。ICCAによる2016年の国際会議の開催件数では、パリに次ぎ世界第2位であった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "現在ウィーンの人口はおよそ195万人で欧州連合の5番目に大きな都市である。ウィーンは国際的な都市でおよそ70万人(およそウィーン人口40%)がオーストリア国籍を有していない。ウィーンで一番多い外国籍はセルビア人であり、その数はおよそ1万人。オーストリア=ハンガリー帝国の時代からセルビア人は多く、ユーゴスラビア紛争後、セルビア人はさらに増えた。ウィーンはセルビア国外で最大のセルビア人コミュニティが形成されている。ウィーンはその他バルカン半島からの人が多く、主にボスニア人、ルーマニア人、ハンガリー人が存在し、イスラム教信者(主にトルコ人、シリア人)の数も多い。 ウィーンは1840年代人口50万を超え、1870年代100万、1910年200万を超えた。ウィーンはロンドンとベルリンと共に世界で最初に人口100万人を到達した都市の一つ。戦争の原因で人口が減少したが、今ウィーンは大幅に人口が増加する都市の一つである。",
"title": "人口統計"
},
{
"paragraph_id": 23,
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"text": "市の中央を、北西から南東にかけてドナウ川が横切っている。かつては氾濫を繰り返したこの川は、19世紀に大規模な治水工事が行われたことでまっすぐな姿になった。旧市街に接してドナウ運河が流れており、こちらをドナウ川であると誤解する観光客も多い。ウィーン市街はドナウ右岸を中心に発展してきたが、左岸は地下鉄の延長工事が進行中で、新興住宅地として人口が増加している。",
"title": "地理"
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{
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"text": "市西部はウィーンの森として知られる森林地帯になっている。散策路が縦横無尽に走っており、市民の憩いの場になっている。13区にあるラインツ動物園内には皇帝の別荘ヘルメスヴィラがあり、市民に開放されている。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "元皇室の料地でヨーゼフ2世が一般市民に開放したプラーター公園があり、公園内には映画『第三の男』にも登場した観覧車がある。",
"title": "地理"
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{
"paragraph_id": 26,
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"text": "ウィーン中央墓地は、帝国崩壊前に人口400万を想定して建設された巨大な墓地である。著名な作曲家の墓は一か所に集められており、訪れる日本人も多い。ウィーン市が所有しており、全て分譲ではなく賃貸である。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 27,
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"text": "サンクト・マルクス墓地(ドイツ語版、英語版)にはモーツァルトが埋葬されているが、遺骨は所在不明のため、中央墓地に墓碑がある。グスタフ・マーラーの墓は中央墓地ではなく、妻アルマの実家に近い19区のグリンツィング墓地にある。",
"title": "地理"
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{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "ウィーンの気候はケッペンの気候区分によれば、西岸海洋性気候と湿潤大陸性気候の変わり目に位置する。夏は適度な暑さで、平均気温は22 - 26°Cの範囲で経過。最高気温は30°Cを超えることもあり、最低気温は15°C位である。冬は比較的寒く、平均気温は氷点下付近まで下がる。12月から3月にかけては降雪も見られる。春や秋はさわやかで、穏やかに経過する。",
"title": "気候"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "年間平均降水量は620 mm程度。ウィーンの森がある西側は市内で降水量が多い場所で、年平均降水量が700 - 800 mmになる。平坦な東側は年平均降水量が500-550 mmと、市内では乾燥した区域である。",
"title": "気候"
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{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "ウィーンは市であると同時に連邦州である。伝統的にオーストリア社会民主党 (SPÖ) の牙城であり、市議会でも過半数を握っている。市長(=州首相)は直接選挙ではなく市議会で選ばれ、現在はミヒャエル・ルートヴィヒ(ドイツ語版、英語版)である。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "元市長のヘルムート・ツィルクは、映画『男はつらいよ 寅次郎心の旅路』に出演するなど親日家であった。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2008年、プライスウォーターハウスクーパースが公表した調査によると、ウィーンの都市GDPは1,220億ドルであり、世界第50位である。金融業、観光業が盛んで、オーストリアの国内総生産の約5分の1を占める。1921年に始まり2年に1度開かれているウィーン見本市は、中央ヨーロッパの経済活動に重要な役割をはたしている。第二次世界大戦後のウィーンを特色づけるのは、外国人観光客の増加である。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "ウィーン国際空港(空港コードVIE)",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "都心から東南東に約20キロメートル離れた、ドナウ川沿いのニーダーエスターライヒ州シュヴェヒャートにある国際空港。オーストリア航空グループ、ニキ航空、ユーロウイングスがこの空港をベースに多くの路線を開設している。2015年の利用者数は2,277万5,044人。冷戦期には小さな空港であったが、その後は西欧と東欧、中東を結ぶハブ空港として大きく成長している。フランクフルト空港を凌ぎ、最も多くの東欧路線をもつ空港である。1980年代前半から、成田国際空港との間でオーストリア航空によって直行便が運行されているが、円安や団体ツアー客増加による不採算性により、2016年9月4日をもって運航を休止したが、2018年5月にオーストリア航空が運行を再開、ANAも2019年2月より羽田空港発着で運行を開始した。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "Sバーン(国営鉄道)によってウィーン市内と結ばれている。2009年には新しい空港駅とウィーン・ミッテ駅をノンストップ16分で結ぶCAT(City Airport Train)が開業した。またリムジンバスがウィーン西駅・中央駅や、スロバキア、ハンガリー、チェコなどを結んでいる。2015年にはリンツ方面からの長距離列車が中央駅経由で乗り入れを開始した。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "西方のリンツやザルツブルク、そしてドイツ方面を結ぶA1と、南のグラーツやイタリア、スロベニア方面を結ぶA2は冷戦期に既に開通していた。1990年代になり、ウィーン国際空港まで開通していたA4がブダペストまで延伸された。またA4から分岐してブラチスラヴァに至るA6が2007年に開通した。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2004年のEU拡大にともない、新規加盟国からの通過車両が増え、市内のA23では渋滞が激しくなっていたが、A4とA2を結ぶ環状道路の役割をもつS1が2006年4月に供用開始され、リンツおよびグラーツ方面からウィーン空港、ブダペスト方面へ渋滞なしに行けるようになった。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "ブルノ方面への高速道路A5は2010年2月にシュリック (Schrick) まで部分開通、併せて環状線S1の北部区間も開通した。2013年にA5のチェコ国境までの開通が予定されている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "オーストリアの高速道路は、料金所をもたない。自家用車はヴィネット (Vignette) と呼ばれる有効期限のあるシールを購入して貼らなければならないが、その価格は年間72ユーロと割安である。2か月有効や、10日有効のものもある。貼らないで走行しているところを見つかると高額の罰金を徴収される。トラックについては車両に積載された装置により走行キロ数に応じて料金を徴収するシステムになっている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "主要幹線はオーストリア連邦鉄道 (ÖBB) により運行されているが、民間の鉄道会社ウェストバーンもウィーンからザルツブルク方面に列車を運行している。",
"title": "交通"
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{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "かつてウィーンからは帝国の各方面にむけて個別に鉄道が敷かれたため、パリやロンドンなどに見られるようにターミナル駅が分散しているが、これは現代の国際的な旅客移動を考えると合理的ではなかった。例えばドイツ方面から東欧方面に乗り継ぐためには、西駅から南駅に路面電車で移動しなければならなかった。また、南駅も構内で東駅と南駅に分かれており、イタリア方面から東欧方面には直通できない構造になっていた。このため、全ての国際列車が発着する中央駅が建設されることになり、2012年末に暫定開業、2015年に全面完成をみた。周辺は再開発されオフィスビルや住宅、緑地、学校、商店などを含む複合施設街区が誕生した。",
"title": "交通"
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{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "西駅からリンツ・ザルツブルク方面へ向かうオーストリア西部鉄道はEUからTrans european network (TEN) の指定を受けた路線であり、パリ - ミュンヘン - ウィーン - ブダペストを結ぶ欧州の背骨である。このため、高規格路線化の工事が順次進められている。2008年末の新車両の導入により最高速度200 km/hで運行されている。ラインツ・トンネルの工事完成後は、中央駅を経由しリンツ方面からウィーン国際空港まで列車が乗り入れるようになった。",
"title": "交通"
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{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "また、ポーランド南部まで延びている軌間の広いシベリア鉄道をウィーンまたはブラチスラヴァまで延長し、ドナウ川の水運を利用してヨーロッパ各地までアジアからの貨物を運ぶ計画が進行中である。",
"title": "交通"
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{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "市内の主要駅は以下の通り。",
"title": "交通"
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{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "市内には地下鉄とSバーン(近郊電車)、路面電車およびバス路線がくまなく走っている。地下鉄と路面電車はウィーン市交通局が運営している。かつてウィーンは地下鉄の整備が遅れていたため、世界最大の路面電車王国であったが、地下鉄の整備も進み、路面電車は地下鉄の補完的な役割になりつつあるが、それでもなお市交通局の路線総延長は188 km, 路線系統は32系統と、大規模なネットワークを抱える。路面電車の車両はバリアフリーの超低床車(写真)が順次導入されている。これは通称ULFと称し、世界一の超低床である。ポルシェ社のデザインで、21区にあるシーメンス工場で製作されたものである。また、オーストリア政府の支援のもと貨物輸送を行っており、ウィーン市交通局の車両工場と車庫を結ぶ部品配給用の事業用列車が運行されている。2006年にはそれに加え、試験的ながらULFを使用して、クリスマスシーズンのショッピング小荷物の配送を請け負った実績を残している。ウィーン国立歌劇場横にあるオーパー停留所では、保養地であるバーデンまでの間を結ぶウィーン地方鉄道の電車が乗り入れてくる光景が見られる。",
"title": "交通"
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{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "地下鉄はU1・U2・U3・U4・U6の5路線であり、このうちU4とU6は19世紀末のシュタットバーン (Stadtbahn) を1970年代末に地下鉄として改築・再利用したもの(一部区間は延伸)であり、建築家オットー・ワーグナーの手になる建築・インフラ群が多く使用されている。他の3路線は1980年以降に新たに開通したものである。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2006年9月にはU1が北にレオポルダウ (Leopoldau) まで、2008年5月にはU2が翌月開催されたサッカー欧州選手権決勝の会場であるスタジアムまで延伸された。2010年には更にドナウ川を超え、22区のアスペルンシュトラーセ (Aspernstraße) まで延長された。昔の飛行場跡地であるフルークフェルト・アスペルン (Flugfeld Aspern) には新しいニュータウン「セーシュタット・アスペルン」(Seestadt Aspern) が建設中で、2013年にはU2がさらにここまで延伸された。U1が南部オーバーラー (Oberlaa) へ延伸工事中で、2017年の開業を予定している。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "欠番となっているU5の建設計画も決定した。既存のU2の一部(カールスプラッツ方面 - ラートハウス)をU5に転換し、それをさらに北西部に向けて延伸するものである。延伸第一期はフランクープラッツ (Frankuhplatz) まで、第二期はAKHでU6と接続し、エルターラインプラッツ (Elterleinplatz) に至る。 U2は第一期はラートハウスから南進し、繁華街のノイバウガッセ (Neubaugasse) でU3と、ピルグラムガッセ (Pilgramgasse) でU4と、マッツラインスドルファープラッツ (Matzleinsdorferplatz) でSバーンと接続させる。第二期はさらにヴィーナーベルク (Wienerberg) のビジネスパークに至るという計画である。第一期の完成は2023年を予定している。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "ウィーン郊外とウィーン市内を結ぶSバーンは増強計画があり、郊外からの通勤者が鉄道を利用するように、老朽化した駅を改築するなどの措置がとられている。また、地下鉄の終着駅付近を中心にパークアンドライド施設の整備が進められており、安い料金で丸一日駐車をすることができる。長期契約もある。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "宮廷文化の栄えたウィーンは18世紀末から20世紀初頭にかけて、数々の大作曲家の活躍の舞台となった。",
"title": "観光"
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"text": "また、かつては世界屈指の学問の都であり、特に19世紀末から20世紀初頭にかけて多くの先端的な業績を生み出したほか、カールス教会など建築分野でも傑作が存在する。",
"title": "観光"
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"paragraph_id": 52,
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"text": "ウィーンのカフェハウスは、オスマン帝国によるウィーン包囲の際にトルコ軍が置いていったコーヒー豆をコシルツキーが発見したことに始まると言われる。19世紀にはウィーンのカフェ文化は文化生活の中心であった。多くのカフェは当時と変わらぬ姿で多くの観光客を惹きつけている。なお、ウィンナ・コーヒーは「ウィーン風コーヒー」の意味であるが、実際にはウィーンにこの名前のコーヒーは存在しない。",
"title": "観光"
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"text": "ウィーンの代表的カフェハウスには以下のようなものがある。",
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"text": "ウィーンの歴史を反映して多数の美術館・博物館がある。",
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"text": "1365年創立のウィーン大学は現在のドイツ語圏で最古・最大の大学であり、教官や卒業生から11名のノーベル賞受賞者を輩出している。かつてウィーン大学医学部は医学研究において世界的な中心のひとつであった。例えば、精神科医のジークムント・フロイトや小児科医のハンス・アスペルガーなどを輩出しており、日本からも斎藤茂吉らが留学している。また世界で初めて胃切除を行ったのもウィーン大学教授のテオドール・ビルロートで、現代においてもビルロートの方法で手術がなされている。この際に摘出された標本は、ウィーン大学で見学することができる。しかし、第二次大戦後にはユダヤ人学者が流出したことや鉄のカーテンにより東欧からの人材の流入が止まった一方、アメリカの大学が著しい発展を遂げたことにより、学問の中心としてのウィーンはその地位を失った。しかし現在は再び東欧やドイツなどからの学生の流入が多くなっている。学生数が著しく増加傾向にあるため、各大学の権限が拡大され、入学直後の学期を厳しくして選別を図る措置をとるほか、志望者の多い学科を中心に入学制限が順次導入されている。選考方法は主として入学試験による。",
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"text": "エゴン・シーレらの出身校であるウィーン美術アカデミーはヒトラーが受験して合格できなかったため、後に独裁者になる道を開いてしまった学校でもある。アントニオ・サリエリが初代学長だった歴史があるウィーン国立音楽大学および、戦後市によって設立されたウィーン音楽院は多くの著名なクラシック音楽の演奏家を輩出している。この他に国立大学としてはウィーン経済大学、ウィーン工科大学、ウィーン農科大学、ウィーン医科大学(旧ウィーン大学医学部)、ウィーン獣医大学、グスタフ・クリムトの出身校であるウィーン応用美術大学がある。ウィーン経済大学 (WU) は2013年にブラーター内に移転した。",
"title": "教育"
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"text": "従来のオーストリアでは大学は全て国立であったが、21世紀に入って私立大学 (Privatuni) を認める制度ができたため、多くの私立大学が設立されている。ウィーン音楽院(市立)やリンツのブルックナー音楽院のように既存の学校がこの制度により大学となったケースも多い。",
"title": "教育"
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"text": "またオーストリア政府は、トップレベルの科学技術研究施設を目標に、Institute of Science and Technology Austriaを設立した。ウィーン郊外のクロースターノイブルクにあり、博士課程の学生およびポスドクを受け入れている。研究者の多くはアメリカやドイツなど国外から招かれており、教育、研究は英語で行われている。",
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"text": "ウィーンではモーツァルトやベートーヴェンをはじめ、数多くの作曲家が活躍し、「音楽の都」と呼ばれている。",
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"text": "ウィーンは舞踏会の街でもあり、数多くの舞踏会がカーニバル(ファシング)シーズン中に開かれている。",
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"text": "オーストリア・ブンデスリーガに属しているサッカークラブ、FKアウストリア・ウィーンとSKラピード・ウィーンがウィーンを本拠地としている。",
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"text": "また、オーストリアを代表するスタジアムであるエルンスト・ハッペル・シュタディオンでは、UEFAの5つ星スタジアムとしてこれまでUEFAチャンピオンズリーグの決勝戦が4度開催された。2008年6月にスイスとオーストリアの共催で開かれたUEFA欧州選手権2008 (EURO 2008) の決勝戦もここで行われた。",
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"text": "市民の娯楽としてスケートなども盛んであり、冬季は通常のスケートリンク以外に市庁舎前広場にスケートリンクが開場する。",
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"text": "ほか",
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] | ウィーンは、オーストリアの首都。9つの連邦州のひとつで、都市州である。漢字による当て字では維納と表記される。 2017年1月1日時点での人口は186万7582人。ヨーロッパ有数の世界都市である。 第一次世界大戦までは、オーストリア=ハンガリー帝国の首都として、ドイツ帝国を除く中東欧の大部分に君臨し、さらに19世紀後半までは神聖ローマ帝国やドイツ連邦を通じて、形式上はドイツ民族全体の帝都でもあった。クラシック音楽が盛んで、過去にモーツァルトやベートーヴェン、シューベルトなど、多くの作曲家が活躍したことから「音楽の都」・「楽都」とも呼ばれる。 | {{Otheruses|[[オーストリア]]の首都|その他|ウィーン (曖昧さ回避)}}
{{infobox settlement
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'''ウィーン'''<!--または'''ヴィーン'''--><ref group="注釈">[[日本語]]表記では主に「ウィーン」が用いられるが、標準[[ドイツ語]]での[[W]]の発音は [v] であり、「ヴィーン」の表記が近い。[[バイエルン・オーストリア語]]では[[:bar:Wean|'''Wean''']](ヴェアン、[[ドイツ語#方言]]を参照)と発音される。</ref>(標準{{lang-de|'''Wien'''}} {{audio|Wien1.ogg|発音|help=no}}〈ヴィーン〉、{{lang-bar|'''Wean'''}}〈ヴェアン〉、{{lang-fr-short|Vienne}} {{audio|fr-Vienne.ogg|発音|help=no}}〈ヴィエンヌ〉、{{lang-en-short|Vienna}}{{audio|En-us-Vienna.ogg|発音|help=no}}〈ヴィエナ〉)は、[[オーストリア]]の[[首都]]。9つの[[オーストリアの地方行政区画|連邦州]]のひとつ<ref>『[[ブリタニカ国際大百科事典]]』{{どれ|date=2021年11月}}{{要ページ番号|date=2021年11月}}</ref>で、[[都市州]]である。漢字による当て字では'''維納'''と表記される<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E7%B6%AD%E7%B4%8D-438205|title=維納|website=[[コトバンク]]|publisher=DIGITALIO|accessdate=2022-10-01}}</ref>。
2017年1月1日時点での人口は186万7582人。[[ヨーロッパ]]有数の[[世界都市]]である。
[[第一次世界大戦]]までは、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の首都として、[[ドイツ帝国]]を除く中東欧の大部分に君臨し、さらに19世紀後半までは[[神聖ローマ帝国]]や[[ドイツ連邦]]を通じて、形式上は[[ドイツ人|ドイツ民族]]全体の[[帝都]]でもあった。[[クラシック音楽]]が盛んで、過去に[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]や[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]、[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]など、多くの作曲家が活躍したことから「'''音楽の都'''」・「'''楽都'''」とも呼ばれる<ref>和田奈津子・[[萩岩睦美]]『マリア・フォン・トラップ』[[集英社]]〈学習まんが 世界の伝記NEXT〉、2012年、14頁。</ref>。
== 概要 ==
[[ファイル:LocationWien.jpg|thumb|'''ウィーンの位置''' 左の[[アルプス山脈]]と右の[[カルパティア山脈]](図にはほとんど描かれていない)の間を流れるドナウ川のほとりにあるため、交通の要衝でもある]]
[[ファイル:Wien in Austria.svg|thumb|オーストリアにおけるウィーンの位置]]
[[ファイル:Stadtteile von Wien entlang der Donau (gesehen von Nordwesten).jpg|thumb|'''ウィーン市街の遠景''' 左に国際機関本部の集積地([[ウィーン国際センター]])があり、ドナウ川をはさんで旧市街が広がる]]
[[ローマ帝国]]の宿営地[[ウィンドボナ]] (Vindobona) をその起源とし、かつてヨーロッパの数か国を支配した[[ハプスブルク家]]の[[オーストリア帝国]]の首都であった。[[マリア・テレジア]]女帝時代に栄えた市街は、[[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]の治下で整備された。[[リングシュトラーセ|リング]]と呼ばれる環状道路は、ウィーンの近代化を実現するために、19世紀の後半にかつて旧市街を囲んでいた堀を埋め立てて造られたものである。[[シュテファン寺院]](シュテファン大聖堂)や旧市街をふくむ歴史地区は、「[[ウィーン歴史地区]]」の名称で2001年に[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]に登録された。ここには旧王宮である[[ホーフブルク宮殿]]({{いつ範囲|現在は|date=2021年11月}}[[オーストリア大統領|大統領]]官邸や博物館、[[オーストリア国立図書館|国立図書館]]などとして使用)・[[ウィーン国立歌劇場]]・[[ブルク劇場]]・[[ウィーン自然史博物館|自然史博物館]]・[[美術史博物館]]、[[ウィーン中央駅|中央駅]]に近い[[ベルヴェデーレ宮殿]]などが含まれる。
ウィーンは、そもそもの成り立ちが2つの道が交差するところに生まれた町であった。[[ドナウ川]]に沿ってヨーロッパを東西に横切る道と、[[バルト海]]と[[イタリア]]を結ぶ南北の道([[琥珀の道|琥珀街道]])である。そこは[[ゲルマン人|ゲルマン系]]、[[スラヴ人|スラヴ系]]、[[マジャル人|マジャール系]]、[[ラテン人|ラテン系]]のそれぞれの居住域の接点にあたり、歴史的に見ても上述のように、紀元前5世紀以降[[ケルト人]]の居住する小村であったところにローマ帝国の北の拠点が建設されたのが起源であった。[[オスマン帝国]]の隆盛時には西ヨーロッパからみて[[イスラム]]勢力圏への入り口にもあたっており、伝統的にも多彩な民族性を集約する都市として栄えた。
その地理上の位置は、かつて[[東側諸国|共産圏]]に属した[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の[[ベルリン]]や[[東ヨーロッパ|東欧]]スラヴ民族の国家[[チェコ]]の[[プラハ]]よりも東であり、[[第二次世界大戦]]後の[[冷戦]]時代にあっても、国際政治上微妙な位置にあった。
また、都心から南南西方面に離れた場所には、かつて[[ウィーン会議]]の舞台となった世界遺産の[[シェーンブルン宮殿]]がある。これは、[[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト1世]]が狩猟用の別荘として建てたものを、[[マリア・テレジア]]が離宮として完成させたものである。
現在のウィーンは、[[国際機関]]本部の集積地ともなっており、[[日本]]政府も在ウィーン国際機関日本[[政府代表部]]を置いている。ウィーンに本部を置いている機関は次の通り。
* [[国際連合ウィーン事務局]] (UNOV)
* [[国際原子力機関]] (IAEA)
* [[国際連合工業開発機関]] (UNIDO)
* 包括的核実験禁止条約機構準備委員会 ([[:en:Comprehensive Nuclear-Test-Ban Treaty Organization|CTBTO]])
* [[国連薬物犯罪事務所]] (UNODC)
* [[石油輸出国機構]] (OPEC)
* [[欧州安全保障協力機構]] (OSCE)
* [[国際新聞編集者協会]] (IPI)
* 国際ドナウ河保護委員会 ([[:en:International Commission for the Protection of the Danube River|ICPDR]])
2017年に発表された「[[世界都市|世界の都市総合力ランキング]]」では、世界14位と評価された<ref>[http://www.mori-m-foundation.or.jp/ius/gpci/ 世界の都市総合力ランキング(GPCI) 2017] 森記念財団都市戦略研究所 2018年7月19日閲覧。</ref>。ヨーロッパの都市では[[ロンドン]]、[[パリ]]、[[アムステルダム]]、[[ベルリン]]、[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]に次ぐ6位。
== 歴史 ==
{{main|ウィーンの歴史}}
=== ローマ時代 ===
[[古代ローマ]]の時代、ウィーンはちょうど[[ローマ帝国]]の北の境界にあたる位置にあり、ウィンドボナ(bona はケルト語で集落・町)と呼ばれる宿営地が置かれた。これがウィーンの地名の起源と言われている。
=== ハプスブルク家の帝都 ===
[[ファイル:Wien-1683(1686)-Allen.jpg|thumb|1683年のウィーン]]
[[ファイル:Canaletto (I) 058.jpg|thumb|18世紀のウィーン]]
[[ファイル:Palacio de schönbrunn 01.jpg|thumb|[[シェーンブルン宮殿]]]]
[[ファイル:Wien Opernhaus um 1900.jpg|thumb|left|1900年ウィーン国立歌劇場]]
中世にもドナウ川沿いの交易地であったウィーンが本格的な発展期を迎えたのは、オーストリアを治めていた[[バーベンベルク家]]が1155年に[[クロスターノイブルク]]からウィーンに遷都したことに起因する。1221年、ウィーンは都市特権を獲得した。1241年、[[ワールシュタットの戦い]]や[[モヒの戦い]]で勝利を収めた[[モンゴル帝国]]軍が郊外まで迫った。バーベンベルク家は13世紀半ばに断絶し、1278年より[[オーストリア公]]となったハプスブルク家の支配下におかれた。14世紀、建設公と称された[[ルドルフ4世 (オーストリア公)|ルドルフ4世]]のもとで、ウィーンは大きな発展を遂げた。この時代にシュテファン寺院やウィーン大学が建てられている。やがてハプスブルク家は婚姻政策の成功により16世紀に入ると[[ボヘミア王冠領|ボヘミア]]や[[ハンガリー王国|ハンガリー]]を初めとする多くの王国を相続し、[[ドイツ]]の[[神聖ローマ帝国]]の帝位を独占。16世紀前半には[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]のもとヨーロッパ最大のドイツ系の帝国を築くに至る。
ドイツ民族居住地域の東端に位置し、スラヴ文化やマジャール文化の影響も受けると同時にその立地は国防上の難点でもある。1529年のオスマン帝国による[[第一次ウィーン包囲]]など、ヨーロッパ全体を震撼させる事件もあった。しかし、ハプスブルク家の支配下で帝都ウィーンでは華やかな貴族文化が栄えていた。1683年にもオスマン帝国による[[第二次ウィーン包囲]]を受けたが撃退、17世紀末からは旧市街の[[ホーフブルク宮殿|王宮ホーフブルク]]に加え、離宮[[シェーンブルン宮殿]]が郊外(現在は市内)に造営された。これが18世紀末から現在に至る「音楽の都ウィーン」の礎となった。18世紀末には[[ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ2世]]により{{仮リンク|ウィーン総合病院|de|Allgemeines Krankenhaus der Stadt Wien|en|Vienna General Hospital}}が開設され、[[プラーター公園]]が一般市民に開放されるなど都市環境が改善されていった。
19世紀半ばに[[産業革命]]を迎えたウィーンは、農村からの流入により急激に人口が増加した。1869年に63万であったが1910年には203万を数え、当時のヨーロッパではロンドン、パリ、ベルリンと並ぶ都会であった。1873年には[[ウィーン万国博覧会]]も開催。皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]は自ら立案して大規模な都市改造を行い、市壁を撤去し環状道路([[リングシュトラーセ]])と置き換えた。路面電車が導入され、歴史主義的建造物やモニュメントを街路に面して配した。現在のウィーン旧市街の外観はこの改造に拠っている。
オーストリア=ハンガリー帝国は[[多民族国家]]であり、支配民族であったドイツ人は帝国の人口5千万の25%余りを占めるにすぎなかった。帝国各地からの人口流入により、ウィーンの街では[[ドイツ語]]・[[ハンガリー語]]・[[チェコ語]]・[[ポーランド語]]・[[イディッシュ語]]・[[ルーマニア語]]はもちろんのこと、[[ロマ語]]・[[イタリア語]]までヨーロッパのあらゆる[[言語]]を耳にすることができたと言われる。
帝国各地からあらゆる民族出身の才能が集まり、ウィーン文化はその絶頂期を迎えた。
{{main|世紀末ウィーン}}
=== 第一次大戦と帝国の崩壊 ===
1914年に始まった[[第一次世界大戦]]は1918年にドイツ・オーストリア側の敗北をもって終戦した。ハプスブルク家の帝国は解体し、[[チェコスロバキア]]、[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー]]、[[ユーゴスラビア王国|ユーゴスラビア]]、[[ポーランド第二共和国|ポーランド]]などが次々と独立、ウィーンは経済的困窮に追い込まれる。[[第一共和国 (オーストリア)|新しい共和国]]の首都となったウィーンでは[[オーストリア社会民主党|社会主義系]]の市政が発足し、保守的な地方の農村部からは「'''赤いウィーン'''」と呼ばれて、両派の政治的確執は国政全体の不安定へとつながった。また、ほぼドイツ人だけの国となった新オーストリアで、東端に位置しなお濃厚な東欧色を残すウィーンは微妙な立場でもあった。このような時代をウィーンで過ごした[[アドルフ・ヒトラー]]はやがて[[ドイツ国|ドイツ]]で独裁者となった。1938年、ヒトラーは母国オーストリアをドイツに併合し([[アンシュルス]])、ウィーンは約700年ぶりに首都でなくなった。
=== 永世中立国の首都として ===
[[ファイル:Uno_City_Kaiserwasser.jpg|thumb|ウィーン国際センター(国連諸機関の入るオフィスビル)]]
1945年、第二次世界大戦でナチスは崩壊し、[[ウィーン攻勢]]で[[ソビエト連邦]]軍に占領され、その後[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の合意で[[連合軍軍政期 (オーストリア)|米英仏ソ四か国の共同占領下]]に置かれた。1949年の映画『[[第三の男]]』は、この時代のウィーンの雰囲気をよく伝えている。
1955年、[[オーストリア国家条約]]の締結によりオーストリアは主権国家として独立を回復した。旧[[ハプスブルク君主国|ハプスブルク帝国]]の継承国家のほとんどが共産圏に組み込まれる中で、オーストリアでは[[共産党]]が国民の支持を得られず、経済的には西側との関係を保ったまま[[永世中立国]]として歩むことになった。
[[ブルーノ・クライスキー]]首相は、[[ウィーン国際センター]]の建設を提案し、ウィーンを[[ニューヨーク]]、[[ジュネーヴ]]に次ぐ第3の国連都市にすることに成功した。ウィーンは[[国際連合ウィーン事務局]]として数々の国際機関の所在地となった。しかし[[鉄のカーテン]]により、かつての後背地であった東欧を失ったウィーンの人口は、ゆるやかに減少を続けた。人口100万人以上の大都市のうち、20世紀を通し、人口が減少したのはウィーンだけである。
=== 現代のウィーン ===
1989年の[[ベルリンの壁崩壊]]は、中欧におけるウィーンの持つ価値を蘇らせた。150万人を切っていた人口は特に外国からの流入により再び増加傾向にあり、2030年ごろには再び200万人の大台を回復すると予想されている。これは2004年に中東欧8か国が[[欧州連合]]に加盟したのに加えて、2007年には[[ルーマニア]]と[[ブルガリア]]、2013年には[[クロアチア]]が加盟、今後も[[セルビア]]をはじめとする[[バルカン半島|バルカン]]諸国の加盟が見込まれるからである。
ウィーンには中東欧の経済的中枢として多くの[[多国籍企業]]が進出するようになったが、旧共産圏諸国のインフラが整うにつれて、企業の拠点としてプラハや[[ブダペスト]]などとの競合も厳しくなっている。このため2005年に法人税などが引き下げられた。
ウィーン市はバイオテクノロジー産業の育成に注力しており、Vienna Biocenter などを積極的に整備している。またウィーンに拠点を置く金融機関が活発な買収を通じて中東欧での業務を拡大しており、中東欧における金融の中心としての地位をワルシャワと競っている。他方、観光も相変わらずウィーンの重要産業である。[[国際会議協会|ICCA]]による2016年の国際会議の開催件数では、パリに次ぎ世界第2位であった。
== 人口統計 ==
{| class="infobox" style="float:right text-align:center;"
|colspan=2| '''国別の海外出身者の人口'''<ref>{{cite report |title=Statistisches Jahrbuch der Stadt Wien 2019 |trans-title=Statistical Yearbook of the City of Vienna 2019 |url=https://www.wien.gv.at/statistik/pdf/jahrbuch-2019.pdf#page=67 |page=69 |date=November 2019 |publisher=Stadt Wien (City of Vienna) |access-date=29 June 2020 |archive-date=1 July 2020 |archive-url=https://web.archive.org/web/20200701040527/https://www.wien.gv.at/statistik/pdf/jahrbuch-2019.pdf#page=67 |url-status=dead}}</ref>
|-
! 出身国 !! 人口 (2022)
|-
| {{flag|Serbia}} ||78,291
|-
| {{flag|Germany}} ||52,034
|-
| {{flag|Turkey}} ||45,714
|-
| {{flag|Poland}} ||44,235
|-
| {{flag|Bosnia and Herzegovina}} ||40,425
|-
| {{flag|Romania}} ||38,376
|-
| {{flag|Syria}} ||26,530
|-
| {{flag|Hungary}} ||26,046
|-
| {{flag|Croatia}} ||24,563
|-
| {{flag|Ukraine}} ||23,715
|-
| {{flag|Bulgaria}} ||20,572
|-
| {{flag|Russia}} ||18,346
|-
| {{flag|Slovakia}} ||17,683
|-
| {{flag|Afghanistan}} ||17,021
|-
| {{flag|Iran}} ||15,234
|-
| {{flag|Czech Republic}} ||13,706
|-
| {{flag|North Macedonia}} ||13,137
|-
| {{flag|Italy}} ||12,376
|-
| {{flag|India}} ||11,283
|-
| {{flag|Egypt}} ||10,892
|}
現在ウィーンの人口はおよそ195万人で[[欧州連合]]の5番目に大きな都市である。ウィーンは国際的な都市でおよそ70万人(およそウィーン人口40%)がオーストリア国籍を有していない。ウィーンで一番多い外国籍は[[セルビア人]]であり、その数はおよそ1万人。[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の時代からセルビア人は多く、[[ユーゴスラビア紛争]]後、セルビア人はさらに増えた。ウィーンはセルビア国外で最大のセルビア人コミュニティが形成されている。ウィーンはその他[[バルカン半島]]からの人が多く、主に[[ボスニア人]]、[[ルーマニア人]]、[[ハンガリー人]]が存在し、[[イスラム教]]信者(主に[[トルコ人]]、[[シリア人]])の数も多い。<ref>{{cite report |title=Statistisches Jahrbuch der Stadt Wien 2019 |trans-title=Statistical Yearbook of the City of Vienna 2019 |url=https://www.wien.gv.at/statistik/pdf/jahrbuch-2019.pdf#page=67 |page=69 |date=November 2019 |publisher=Stadt Wien (City of Vienna) |access-date=29 June 2020 |archive-date=1 July 2020 |archive-url=https://web.archive.org/web/20200701040527/https://www.wien.gv.at/statistik/pdf/jahrbuch-2019.pdf#page=67 |url-status=dead}}</ref> ウィーンは[[1840年]]代人口50万を超え、[[1870年代]]100万、[[1910年]]200万を超えた。{{要出典|date=2023年6月28日 (水) 21:38 (UTC)|ウィーンは[[ロンドン]]と[[ベルリン]]と共に世界で最初に人口100万人を到達した都市の一つ。戦争の原因で人口が減少したが、今ウィーンは大幅に人口が増加する都市の一つである。}}
== 地理 ==
[[ファイル:Wien-Landsat001.jpg|thumb|'''ウィーンの衛星写真''' 中央上から右中央に流れるのが[[ドナウ川]]。画面中央部に向かってドナウ川から分かれる細い流れがドナウ運河。画面中央部にドナウ運河を左側に位置するのがウィーン旧市街である([[ランドサット]]映像)]]
{{see also|ウィーンの行政区}}
=== 川と運河 ===
市の中央を、北西から南東にかけて[[ドナウ川]]が横切っている。かつては氾濫を繰り返したこの川は、19世紀に大規模な治水工事が行われたことでまっすぐな姿になった。旧市街に接して[[ドナウ運河]]が流れており、こちらをドナウ川であると誤解する観光客も多い。ウィーン市街はドナウ右岸を中心に発展してきたが、左岸は[[ウィーン地下鉄|地下鉄]]の延長工事が進行中で、新興住宅地として人口が増加している。
=== 森林と公園 ===
市西部は[[ウィーンの森]]として知られる森林地帯になっている。散策路が縦横無尽に走っており、市民の憩いの場になっている。13区にあるラインツ動物園内には皇帝の別荘ヘルメスヴィラがあり、市民に開放されている。
元皇室の料地で[[ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ2世]]が一般市民に開放した[[プラーター公園]]があり、公園内には映画『第三の男』にも登場した[[観覧車]]がある。
=== 墓地 ===
[[ウィーン中央墓地]]は、帝国崩壊前に人口400万を想定して建設された巨大な墓地である。著名な作曲家の墓は一か所に集められており、訪れる日本人も多い。ウィーン市が所有しており、全て分譲ではなく賃貸である。
{{仮リンク|サンクト・マルクス墓地|de|Sankt Marxer Friedhof|en|St. Marx Cemetery}}にはモーツァルトが埋葬されているが、遺骨は所在不明のため、中央墓地に墓碑がある。[[グスタフ・マーラー]]の墓は中央墓地ではなく、妻アルマの実家に近い19区の[[グリンツィング墓地]]にある。
== 気候 ==
ウィーンの気候は[[ケッペンの気候区分]]によれば、[[西岸海洋性気候]]と[[湿潤大陸性気候]]([[亜寒帯湿潤気候]])の変わり目に位置する。夏は適度な暑さで、平均気温は22 - 26℃の範囲で経過。最高気温は30℃を超えることもあり、最低気温は15℃位である。冬は比較的寒く、平均気温は氷点下付近まで下がる。12月から3月にかけては降雪も見られる。春や秋はさわやかで、穏やかに経過する。
年間平均降水量は620 mm程度。ウィーンの森がある西側は市内で降水量が多い場所で、年平均降水量が700 - 800 mmになる。平坦な東側は年平均降水量が500-550 mmと、市内では乾燥した区域である。
{{Weather box|location= ウィーン
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|source 1= Central Institute for Meteorology and Geodynamics<ref name="ZAMG">{{cite web|url=http://www.zamg.ac.at/fix/klima/oe71-00/klima2000/klimadaten_oesterreich_1971_frame1.htm|title=Klimadaten von Österreich 1971 - 2000 - Wien-Hohe Warte|language = German| publisher= Central Institute for Meteorology and Geodynamics|accessdate=2012-09-06}}</ref>
|date = September 2012}}
== 政治 ==
[[ファイル:Döbling (Wien) - Karl-Marx-Hof.JPG|thumb|「'''カール・マルクス・ホーフ'''」と呼ばれる市営住宅は戦間期の「[[赤いウィーン]]」の代表的建築物である]]
[[ファイル:Vienna, administrative divisions - Nmbrs.svg|thumb|ウィーンの行政区画]]
ウィーンは市であると同時に連邦州である。伝統的に[[オーストリア社会民主党]] (SPÖ) の牙城であり、市議会でも過半数を握っている。市長(=州首相)は直接選挙ではなく市議会で選ばれ、{{いつ範囲|現在は|date=2021年11月}}{{仮リンク|ミヒャエル・ルートヴィヒ|de|Michael Ludwig (Politiker, 1961)|en|Michael Ludwig}}である。
元市長の[[ヘルムート・ツィルク]]は、映画『[[男はつらいよ 寅次郎心の旅路]]』に出演するなど親日家であった。
=== 日本との姉妹・友好都市関係 ===
* 1区([[インネレシュタット (ウィーン)|インネレシュタット]])- [[東京都]][[台東区]]
* 9区([[アルザーグルント]])- [[兵庫県]][[宝塚市]]
* 12区([[マイドリング]])- [[岐阜県]][[岐阜市]]
* 13区([[ヒーツィング]])- [[大阪府]][[羽曳野市]]
* 17区([[ヘルナルス]])- 東京都[[府中市 (東京都)|府中市]]
* 19区([[デープリング]])- 東京都[[世田谷区]]
* 21区([[フローリツドルフ]])- 東京都[[葛飾区]]
* 22区([[ドナウシュタット]])- 東京都[[荒川区]]
== 経済 ==
2008年、[[プライスウォーターハウスクーパース]]が公表した調査によると、ウィーンの[[域内総生産順リスト|都市GDP]]は1,220億[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]であり、世界第50位である<ref>[https://www.ukmediacentre.pwc.com/Content/Detail.asp?ReleaseID=3421&NewsAreaID=2 プライスウォーターハウスクーパースによる都市のGDP]</ref>。金融業、観光業が盛んで、オーストリアの国内総生産の約5分の1を占める。1921年に始まり2年に1度開かれている[[ウィーン見本市]]は、[[中央ヨーロッパ]]の経済活動に重要な役割をはたしている。第二次世界大戦後のウィーンを特色づけるのは、外国人観光客の増加である。
== 交通 ==
=== 空港 ===
[[ファイル:VIE Ankunftshalle.JPG|thumb|ウィーン国際空港]]
'''[[ウィーン国際空港]]'''(空港コードVIE)
都心から東南東に約20キロメートル離れた、ドナウ川沿いの[[ニーダーエスターライヒ州]][[:de:Schwechat|シュヴェヒャート]]にある国際空港。[[オーストリア航空]]グループ、[[ニキ航空]]、[[ユーロウイングス]]がこの空港をベースに多くの路線を開設している。2015年の利用者数は2,277万5,044人。冷戦期には小さな空港であったが、その後は西欧と東欧、中東を結ぶ[[ハブ空港]]として大きく成長している。[[フランクフルト空港]]を凌ぎ、最も多くの東欧路線をもつ空港である。[[1980年代]]前半から、[[成田国際空港]]との間でオーストリア航空によって直行便が運行されているが、円安や団体ツアー客増加による不採算性により<ref>[http://www.aviationwire.jp/archives/86729 オーストリア航空が日本撤退、ウィーンどう行く?]</ref>、2016年9月4日をもって運航を休止したが、2018年5月にオーストリア航空が運行を再開<ref>[https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/1069214.html オーストリア航空、成田~ウィーン線を再開。2018年5月15日から週5便で] トラベルWatch 2017年7月6日、2019年3月4日閲覧。</ref>、[[全日本空輸|ANA]]も2019年2月より[[羽田空港]]発着で運行を開始した<ref>[https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/1e8abc31d24116d7a55914a2c992b8157a0cfe0e ANAが羽田~ウィーン線を来年2月に就航。ヨーロッパ直行便の路線と提携関係はこうなる] 鳥海高太朗(Yahoo!ニュース) 2018年10月16日、2019年3月4日閲覧。</ref>。
[[Sバーン]](国営鉄道)によってウィーン市内と結ばれている。2009年には新しい空港駅と[[ウィーン・ミッテ駅]]をノンストップ16分で結ぶCAT(City Airport Train)が開業した。またリムジンバスがウィーン西駅・中央駅や、スロバキア、ハンガリー、チェコなどを結んでいる。2015年には[[リンツ]]方面からの長距離列車が中央駅経由で乗り入れを開始した。
=== 高速道路 ===
西方のリンツや[[ザルツブルク]]、そして[[ドイツ]]方面を結ぶA1と、南の[[グラーツ]]やイタリア、[[スロベニア]]方面を結ぶA2は冷戦期に既に開通していた。1990年代になり、ウィーン国際空港まで開通していたA4がブダペストまで延伸された。またA4から分岐して[[ブラチスラヴァ]]に至るA6が2007年に開通した。
2004年の[[EU拡大]]にともない、新規加盟国からの通過車両が増え、市内のA23では渋滞が激しくなっていたが、A4とA2を結ぶ環状道路の役割をもつS1が2006年4月に供用開始され、リンツおよびグラーツ方面からウィーン空港、ブダペスト方面へ渋滞なしに行けるようになった。
[[ブルノ]]方面への高速道路A5は2010年2月にシュリック (Schrick) まで部分開通、併せて環状線S1の北部区間も開通した。2013年にA5のチェコ国境までの開通が予定されている。
[[オーストリアの高速道路]]は、料金所をもたない。自家用車は[[ヴィネット]] (Vignette) と呼ばれる有効期限のあるシールを購入して貼らなければならないが、その価格は年間72[[ユーロ]]と割安である。2か月有効や、10日有効のものもある。貼らないで走行しているところを見つかると高額の罰金を徴収される。トラックについては車両に積載された装置により走行キロ数に応じて料金を徴収するシステムになっている。
=== 鉄道 ===
[[ファイル:Wien Hauptbahnhof, 2014-10-14 (50).jpg|thumb|ウィーン中央駅]]
主要幹線は[[オーストリア連邦鉄道]] (ÖBB) により運行されているが、民間の鉄道会社ウェストバーンもウィーンからザルツブルク方面に列車を運行している。
かつてウィーンからは帝国の各方面にむけて個別に鉄道が敷かれたため、パリやロンドンなどに見られるようにターミナル駅が分散しているが、これは現代の国際的な旅客移動を考えると合理的ではなかった。例えばドイツ方面から東欧方面に乗り継ぐためには、西駅から南駅に路面電車で移動しなければならなかった。また、南駅も構内で東駅と南駅に分かれており、イタリア方面から東欧方面には直通できない構造になっていた。このため、全ての国際列車が発着する中央駅が建設されることになり、2012年末に暫定開業、2015年に全面完成をみた。周辺は再開発されオフィスビルや住宅、緑地、学校、商店などを含む複合施設街区が誕生した。
西駅からリンツ・ザルツブルク方面へ向かう[[オーストリア西部鉄道]]はEUから[[:en:Trans european network|Trans european network]] (TEN) の指定を受けた路線であり、パリ - ミュンヘン - ウィーン - ブダペストを結ぶ欧州の背骨である。このため、高規格路線化の工事が順次進められている。2008年末の新車両の導入により最高速度200 km/hで運行されている。ラインツ・トンネルの工事完成後は、中央駅を経由しリンツ方面からウィーン国際空港まで列車が乗り入れるようになった。
また、ポーランド南部まで延びている[[軌間]]の広い[[シベリア鉄道]]をウィーンまたはブラチスラヴァまで延長し、ドナウ川の水運を利用してヨーロッパ各地までアジアからの貨物を運ぶ計画が進行中である。
市内の主要駅は以下の通り。
* [[ウィーン西駅]] (Westbahnhof):ドイツ、[[スイス]]、リンツ、ザルツブルク、[[インスブルック]]方面。地下鉄U6・U3が発着。市内最大の商店街である[[マリアヒルファー通り]]に近い。
* [[ウィーン中央駅]] (Hauptbahnhof):2015年に全面開業し、全ての国際列車、優等列車がこの駅に停車するようになった。
* [[ウィーン・ミッテ駅]] (Wien Mitte):Sバーンの主要路線および、地下鉄U4・U3, 空港特急CATが発着し、チェックイン設備もある。地下鉄を含めた1日の発着列車数がオーストリア国内で最も多い駅である。
* [[ウィーン・マイドリング駅]] (Wien Meidling):ウィーン中央駅が開業するまでの間、南駅の機能は主にこの駅に移されていた。U6やWiener Lokalbahn, 路面電車62などが通じている。ウィーン西方面からウィーン中央駅に向かう列車はすべてウィーン・マイドリング駅にも停車する。
=== 市内交通 ===
<!--{{main|ウィーン地下鉄}}-->
[[ファイル:Rathausplatz, Vienna, Tram line J, tram type ULF A, July 2003.jpg|thumb|left|'''ウィーンの路面電車''' 段差18 cmで世界一床が低いためUltra Low Floor tram (ULF) と呼ばれる]]
[[ファイル:MetrokarlplatzWK.jpg|thumb|カールスプラッツ駅舎(オットー・ワグナー設計)]]
[[ファイル:Fiaker 1.JPG|thumb|フィアカー(観光馬車)]]
市内には[[ウィーン地下鉄|地下鉄]]と[[Sバーン]](近郊電車)、[[ウィーン市電|路面電車]]およびバス路線がくまなく走っている。地下鉄と路面電車は[[:de:Wiener Linien|ウィーン市交通局]]が運営している。かつてウィーンは地下鉄の整備が遅れていたため、世界最大の路面電車王国であったが、地下鉄の整備も進み、路面電車は地下鉄の補完的な役割になりつつあるが、それでもなお市交通局の路線総延長は188 km, 路線系統は32系統と、大規模なネットワークを抱える。路面電車の車両はバリアフリーの超低床車(写真)が順次導入されている。これは通称ULFと称し、世界一の超低床である。[[ポルシェ]]社のデザインで、21区にある[[シーメンス]]工場で製作されたものである。また、オーストリア政府の支援のもと貨物輸送を行っており、ウィーン市交通局の車両工場と車庫を結ぶ部品配給用の事業用列車が運行されている。2006年にはそれに加え、試験的ながらULFを使用して、クリスマスシーズンのショッピング小荷物の配送を請け負った実績を残している。ウィーン国立歌劇場横にあるオーパー停留所では、保養地である[[バーデン]]までの間を結ぶウィーン地方鉄道の電車が乗り入れてくる光景が見られる。
地下鉄はU1・U2・U3・U4・U6の5路線であり、このうちU4とU6は19世紀末の[[シュタットバーン (ウィーン)|シュタットバーン]] (Stadtbahn) を1970年代末に地下鉄として改築・再利用したもの(一部区間は延伸)であり、建築家[[オットー・ワーグナー]]の手になる建築・インフラ群が多く使用されている。他の3路線は1980年以降に新たに開通したものである。
2006年9月にはU1が北にレオポルダウ (Leopoldau) まで、2008年5月にはU2が翌月開催された[[UEFA欧州選手権|サッカー欧州選手権]]決勝の会場であるスタジアムまで延伸された。2010年には更にドナウ川を超え、22区のアスペルンシュトラーセ (Aspernstraße) まで延長された。昔の飛行場跡地であるフルークフェルト・アスペルン (Flugfeld Aspern) には新しいニュータウン「セーシュタット・アスペルン」(Seestadt Aspern) が建設中で、2013年にはU2がさらにここまで延伸された。U1が南部オーバーラー (Oberlaa) へ延伸工事中で、2017年の開業を予定している。
欠番となっているU5の建設計画も決定した。既存のU2の一部(カールスプラッツ方面 - ラートハウス)をU5に転換し、それをさらに北西部に向けて延伸するものである。延伸第一期はフランクープラッツ (Frankuhplatz) まで、第二期はAKHでU6と接続し、エルターラインプラッツ (Elterleinplatz) に至る。 U2は第一期はラートハウスから南進し、繁華街のノイバウガッセ (Neubaugasse) でU3と、ピルグラムガッセ (Pilgramgasse) でU4と、マッツラインスドルファープラッツ (Matzleinsdorferplatz) でSバーンと接続させる。第二期はさらにヴィーナーベルク (Wienerberg) のビジネスパークに至るという計画である。第一期の完成は2023年を予定している。
ウィーン郊外とウィーン市内を結ぶSバーンは増強計画があり、郊外からの通勤者が鉄道を利用するように、老朽化した駅を改築するなどの措置がとられている。また、地下鉄の終着駅付近を中心にパークアンドライド施設の整備が進められており、安い料金で丸一日駐車をすることができる。長期契約もある。
== 観光 ==
[[ファイル:Karlskirche1.jpg|thumb|カールス教会]]
[[ファイル:Wien - Stephansdom (1).JPG|thumb|[[シュテファン大聖堂]]]]
[[ファイル:Peterskirche Church.JPG|thumb|ペーター教会]]
宮廷文化の栄えたウィーンは18世紀末から20世紀初頭にかけて、数々の大作曲家の活躍の舞台となった。
また、かつては世界屈指の学問の都であり、特に19世紀末から20世紀初頭にかけて多くの先端的な業績を生み出したほか、[[カールス教会]]など建築分野でも傑作が存在する。
=== 宮殿、大聖堂 ===
* [[シェーンブルン宮殿]]
* [[ベルヴェデーレ宮殿]]
* [[ホーフブルク宮殿]]
* [[カールス教会]]
* [[シュテファン大聖堂]]
* [[ヴォティーフ教会]]
* [[ペーター教会]]
* [[聖ミヒャエル教会 (ウィーン)|聖ミヒャエル教会]]
=== 劇場 ===
* [[ブルク劇場]] ドイツ語圏で最高の格式を誇るとされる劇場
=== カフェハウス ===
[[ファイル:Kaffee_Alt_Wien.JPG|thumb|Kaffee Alt Wien]]
ウィーンの[[カフェハウス]]は、オスマン帝国によるウィーン包囲の際にトルコ軍が置いていったコーヒー豆をコシルツキーが発見したことに始まると言われる。19世紀にはウィーンのカフェ文化は文化生活の中心であった。多くのカフェは当時と変わらぬ姿で多くの観光客を惹きつけている。なお、[[ウィンナ・コーヒー]]は「ウィーン風コーヒー」の意味であるが、実際にはウィーンにこの名前のコーヒーは存在しない。
ウィーンの代表的カフェハウスには以下のようなものがある。
* [[カフェ・ゲルシュトナー]] (Gerstner):1847年創業。旧皇室御用達 (k.u.k.) でケルントナー通りにある。国立歌劇場内や[[ウィーン楽友協会]]ホール内にも出店しており、コンサートの休憩時間に利用できる。美術史博物館内にも支店がある。
* [[カフェ・ラントマン]]:ウィーンで最もエレガントなカフェと呼ばれた老舗。1873年創業。東京の青山に支店がある。
* [[ホテル・ザッハー]]:国立歌劇場の裏にある。[[ザッハトルテ]]の元祖。
* [[デメル|カフェ・デメル]] (Demel):同じくザッハトルテが名物。旧皇室御用達。
* [[カフェ・ハイナー]] (Heiner):旧皇室御用達。
* [[カフェ・ツェントラール]] (Central):[[ペーター・アルテンベルク]]、[[アルフレート・ポルガー]]、[[エゴン・フリーデル]]など多くの「カフェ文士」が愛用。ポルガーに『カフェ・ツェントラールの理論』なる文章がある。
* グリーエンシュタイドゥル (Griensteidl):[[フーゴ・フォン・ホーフマンスタール]]など多くの世紀末ウィーンの文人・芸術家が愛用。
* シュヴァルツェンベルク (Schwarzenberg):楽友協会や[[ホテルインペリアル]]に近い。リング沿いにある由緒あるカフェ。
* ショッテンリング (Schottenring):リング沿いで最も歴史のあるカフェであったが、建物改装を機に閉店。
* アルト・ヴィーン (Alt Wien):内装など、店名の通り古さを感じさせる店。
* オーバーラー (Oberlaa):歴史は古くないが、ウィーン市内に多くの支店をもつ人気のカフェハウス。
* ハヴェルカ (Hawelka):旧市街の中心部にあり、開店以来内装を変更していない。
* [[カフェ・ムゼーウム]] (Museum):[[アドルフ・ロース]]による開店当時の内装のままに復元されたカフェ。[[グスタフ・クリムト]]はじめ[[世紀末ウィーン]]の建築家や画家が多く出入りしていた。
* ティローラーホーフ (Tirolerhof):自家製の[[アプフェルシュトゥルーデル]]が人気。
* [[カフェ・モーツァルト]] (Mozart):国立歌劇場裏。ブルクガルテンにあるモーツァルト像は、かつてこのカフェの目の前にあった。
* ブロイナーホーフ (Bräunerhof):[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン]]が常連だった。
* カフェ・シュペール (Sperl)
=== 美術館・博物館 ===
[[ファイル:Maria-Theresien-Platz in Wien.jpg|thumb|[[美術史美術館]]]]
[[ファイル:Kunsthistorisches Museum Interior.JPG|thumb|美術史美術館]]
[[ファイル:Belveder - widok od frontu - Vienna.jpg|thumb|ベルヴェデーレ宮殿]]
[[ファイル:HGM Wien.jpg|thumb|220px|[[ウィーン軍事史博物館]]]]
ウィーンの歴史を反映して多数の[[美術館]]・[[博物館]]がある。
* [[美術史美術館]] - コレクションの一部は[[エフェソス]]博物館などの分館にも展示。
* [[自然史博物館]]
* [[ホーフブルク王宮]]内宝物館 - 美術史美術館の分館であり、[[聖遺物]]として[[聖槍]]([[聖ロンギヌス|ロンギヌス]]の槍として知られ、さらに中央部に[[聖釘]]が針金で固定されている)や数々の聖釘がある。
* [[アルベルティーナ]]
* [[リヒテンシュタイン美術館]]
* [[オーストリア・ギャラリー]](ベルヴェデーレ) - [[ベルヴェデーレ宮殿]]の上宮にある。クリムトをはじめ、オーストリアの画家の作品を集めた美術館。
* [[レオポルド美術館]] - [[エゴン・シーレ]]のコレクションでは世界最大のもの。[[ユダヤ人]]の眼科医レオポルド博士のコレクションを、オーストリア政府が買い取り美術館にした。
* ルードヴィヒ財団現代美術館 [[ミュージアムクォーター]] (MuseumsQuartier) 内。
* [[造形美術アカデミー絵画館]] - 造形美術アカデミー(美術学校)の学内にあり、[[ヒエロニムス・ボス]]のコレクションを持つ。アドルフ・ヒトラーはこの美術アカデミーの受験に失敗した。
* [[オーストリア応用美術博物館]] (MAK)
* [[ウィーン軍事史博物館]]
* ウィーン民俗博物館
* ウィーン路面電車博物館
* オーストリア演劇博物館
* ウィーン犯罪博物館
* エスペラント&地球儀博物館
* エッセルコレクション - ウィーン北郊クロスターノイブルクにある現代美術館。Baumaxの創業者エッセルにより建てられた。
* [[エゴン・シーレ美術館]] - シーレの出身地トゥルン(ウィーン郊外)にあり、デッサンなど小品が年代順に並んでいる。
==== 関連項目 ====
* [[ウィーン学団]]
* [[ウィーン学派]]
* [[ウィーン分離派]]
* [[ビーダーマイヤー]]
* [[世紀末ウィーン]]
== 教育 ==
[[ファイル:Wien - Universität (2).JPG|thumb|[[ウィーン大学]]]]
1365年創立の[[ウィーン大学]]は{{いつ範囲|現在の|date=2021年11月|post-text=の}}[[ドイツ語#ドイツ語圏|ドイツ語圏]]で最古・最大の[[大学]]であり、教官や卒業生から11名の[[ノーベル賞]]受賞者を輩出している。かつてウィーン大学医学部は医学研究において世界的な中心のひとつであった。例えば、精神科医の[[ジークムント・フロイト]]や小児科医の[[ハンス・アスペルガー]]などを輩出しており、日本からも[[斎藤茂吉]]らが留学している。また世界で初めて胃切除を行ったのもウィーン大学教授の[[テオドール・ビルロート]]で、現代においてもビルロートの方法で手術がなされている。この際に摘出された標本は、ウィーン大学で見学することができる。しかし、第二次大戦後には[[ユダヤ人]]学者が流出したことや鉄のカーテンにより東欧からの人材の流入が止まった一方、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の大学が著しい発展を遂げたことにより、学問の中心としてのウィーンはその地位を失った。しかし現在は再び東欧やドイツなどからの学生の流入が多くなっている。学生数が著しく増加傾向にあるため、各大学の権限が拡大され、入学直後の学期を厳しくして選別を図る措置をとるほか、志望者の多い学科を中心に入学制限が順次導入されている。選考方法は主として入学試験による。
[[エゴン・シーレ]]らの出身校である[[ウィーン美術アカデミー]]はヒトラーが受験して合格できなかったため、後に独裁者になる道を開いてしまった学校でもある。[[アントニオ・サリエリ]]が初代学長だった歴史がある[[ウィーン国立音楽大学]]および、戦後市によって設立された[[ウィーン音楽院]]は多くの著名なクラシック音楽の演奏家を輩出している。この他に国立大学としては[[ウィーン経済大学]]、[[ウィーン工科大学]]、[[ウィーン農科大学]]、[[ウィーン医科大学]](旧ウィーン大学医学部)、[[ウィーン獣医大学]]、[[グスタフ・クリムト]]の出身校である[[ウィーン応用美術大学]]がある。ウィーン経済大学 (WU) は2013年にブラーター内に移転した。
従来のオーストリアでは大学は全て国立であったが、21世紀に入って私立大学 (Privatuni) を認める制度ができたため、多くの私立大学が設立されている。ウィーン音楽院(市立)やリンツのブルックナー音楽院のように既存の学校がこの制度により大学となったケースも多い。
またオーストリア政府は、トップレベルの科学技術研究施設を目標に、Institute of Science and Technology Austriaを設立した。ウィーン郊外のクロースターノイブルクにあり、博士課程の学生および[[ポスドク]]を受け入れている。研究者の多くはアメリカやドイツなど国外から招かれており、教育、研究は英語で行われている。
== 文化 ==
=== 音楽 ===
ウィーンではモーツァルトやベートーヴェンをはじめ、数多くの作曲家が活躍し、「[[音楽]]の都」と呼ばれている。
==== 歌劇場・コンサートホール ====
[[ファイル:Wien - Staatsoper (1).JPG|thumb|[[ウィーン国立歌劇場]]]]
* [[ウィーン国立歌劇場]] - 世界で最も有名な歌劇場の一つ。
* [[ウィーン・フォルクスオーパー]] - [[オペレッタ]]を上演する劇場。
* [[ウィーン楽友協会]](ヴィーナー・ムジークフェライン)- [[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]の本拠地
* [[ウィーン・コンツェルトハウス]] - [[ウィーン交響楽団]]の本拠地
* [[アン・デア・ウィーン劇場]] - 1980年代からは[[ミュージカル]]の舞台として役割を果たしたが、2006年より再び[[オペラ]]が上演されるようになった。
* [[ローナッハー]]
==== 演奏団体 ====
* [[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]](ウィーン・フィル) - ウィーン・フィルは、ウィーン国立歌劇場でオペラの伴奏を行う[[ウィーン国立歌劇場管弦楽団]]が、それ以外の演奏会で演奏するときの名前である。数ある[[オーケストラ]]の中でも最も有名なオーケストラの一つである。本拠地は[[ウィーン楽友協会]]大ホール。また、[[グスタフ・マーラー]]の[[交響曲第8番 (マーラー)|交響曲第8番]]など大規模編成を要する曲を演奏する場合などのように、やや大きな舞台を持つ[[コンツェルトハウス]]で演奏会を行うことも少なくない。毎年元日には[[マチネー]]で[[ニューイヤーコンサート]]を開催する。
* [[ウィーン交響楽団]] - 1900年創設。本拠地はコンツェルトハウスだが、楽友協会でも相当数の演奏会を行っている。
* [[ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団|トーンキュンストラー交響楽団]]
* [[ウィーン放送交響楽団]]
* [[ウィーン・フォルクスオーパー交響楽団]] - 例年[[年末年始]]に訪日し、[[サントリーホール]]のジルヴェスターコンサートにも出演する。
* [[ホーフブルクカペレ]]
* [[ウィーン室内管弦楽団]]
* [[ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス]] - 1953年に指揮者[[ニコラウス・アーノンクール]]が結成した古楽器オーケストラ。
* [[アルバン・ベルク弦楽四重奏団]] - 現代最高の弦楽四重奏団の一つ。ウィーン音楽大学教授でウィーン・フィルの[[コンサートマスター]]も務めていた[[ギュンター・ピヒラー]]が同僚と結成。2008年限りで解散。
==== 関連項目 ====
* {{仮リンク|オーストリアの音楽|en|Music of Austria}}
* [[ウィーン楽派]]
* [[新ウィーン楽派]]
* [[ウィーン少年合唱団]]
* [[ウィンナ・ワルツ]]
* [[シュランメル音楽]]
* {{仮リンク|ウィンナ・リート|de|Wienerlied|en|Wienerlied}}
=== 舞踏会 ===
ウィーンは[[舞踏会]]の街でもあり、数多くの舞踏会が[[謝肉祭|カーニバル]](ファシング)シーズン中に開かれている。
* 皇帝舞踏会
* 花の舞踏会
* ウィーン・フィルの舞踏会
* [[ヴィーナー・オーパンバル]]([[歌劇場]]舞踏会)
* カフェハウスオーナーの舞踏会
* お菓子屋さんの舞踏会
* 法律家の舞踏会
* 仮面舞踏会
=== 食文化 ===
==== 関連項目 ====
* [[オーストリア料理]]
* [[ホイリゲ]] - ウィーン周辺に見られる[[ワイン]]酒場。
=== スポーツ ===
[[サッカー・ブンデスリーガ (オーストリア)|オーストリア・ブンデスリーガ]]に属している[[サッカー]]クラブ、[[FKアウストリア・ウィーン]]と[[SKラピード・ウィーン]]がウィーンを本拠地としている。
また、オーストリアを代表するスタジアムである[[エルンスト・ハッペル・シュタディオン]]では、[[欧州サッカー連盟|UEFA]]の5つ星スタジアムとしてこれまで[[UEFAチャンピオンズリーグ]]の決勝戦が4度開催された。2008年6月にスイスとオーストリアの共催で開かれた[[UEFA欧州選手権2008]] (EURO 2008) の決勝戦もここで行われた。
市民の娯楽として[[スケート]]なども盛んであり、冬季は通常のスケートリンク以外に[[ウィーン市庁舎|市庁舎]]前広場にスケートリンクが開場する。
=== ウィーンが舞台となった映画 ===
* [[間諜X27]]
* [[会議は踊る]]
* [[未完成交響楽]]
* [[皇帝円舞曲 (映画)|皇帝円舞曲]]
* [[第三の男]] - [[グレアム・グリーン]]の小説及び[[オーソン・ウェルズ]]主演の同名の映画
* [[輪舞 (1950年の映画)|輪舞]]
* [[プリンセス・シシー]]
* [[愛の嵐 (映画)|愛の嵐]] - 1973年製作。[[オーストリア自由党]] (FPÖ) が結党された翌1957年のウィーンが舞台である。[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]とウィーンの街を舞台にして、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]の[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]員だったホテル夜勤フロント係とユダヤ人女性との[[性的倒錯|倒錯]]した愛が描かれている。親衛隊員たちと[[極右]]思想がオーストリア社会に深く浸透していることも明らかにされている。
* [[男はつらいよ 寅次郎心の旅路]] - 原作[[山田洋次]]、主演[[渥美清]]。ケルントナー通り近くに位置する3つ星[[ホテル]]「ツーア・ヴィーナー・シュターツオーパー」(Zur Wiener Staatsoper) は同映画で寅次郎が宿泊したホテル。
* [[007 リビング・デイライツ]] - 1987年公開。
* [[恋人までの距離]](原題:''Before Sunrise'', 1995年)
ほか
[[ファイル:Schloss schoenbrunn hdr panorama.jpg|thumb|center|760px|シェーンブルン宮殿]]
== 姉妹都市 ==
* {{flagicon|SLO}} [[リュブリャナ]]([[スロベニア]])
* {{flagicon|SRB}} [[ベオグラード]]([[セルビア]])
* {{flagicon|CZE}} [[ブルノ]] ([[チェコ共和国]])
* {{flagicon|HUN}} [[ブダペスト]]([[ハンガリー]])
* {{flagicon|CRO}} [[ザグレブ]]([[クロアチア]])
* {{flagicon|SVK}} [[ブラチスラヴァ]]([[スロバキア]])
* {{flagicon|ISR}} [[テルアビブ]]([[イスラエル]])
* {{flagicon|RUS}} [[モスクワ]]([[ロシア]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[イラリオン・アルフェエフ]] - [[ロシア正教会]]の前ウィーン[[主教]]。[[神学者]]・歴史学者・[[作曲家]]。
* [[ウィーン条約 (曖昧さ回避)]]
* [[ウィーン出身の人物]]
== 参考文献 ==
* 松井隆夫 『ウィーンの街の物語』 [[小学館]]ショトル・ミュージアム、1998年
== 外部リンク ==
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; 公式
* [https://www.wien.gv.at/ ウィーン州政府公式サイト] {{de icon}}{{en icon}}
; 観光
* [http://info.wien.at/article.asp?IDArticle=11771 ウィーン市観光局] {{ja icon}}
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; 文化
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; その他
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9,466 | パウロ | パウロ(希: Παῦλος、? - 60年頃)は、初期キリスト教の使徒であり、新約聖書の著者の一人。はじめはサンヘドリンと共にイエスの信徒を迫害していたが、回心してイエスを信じる者となり、ヘレニズム世界に伝道を行った。ユダヤ名でサウロ(希:Σαῦλος,ヘブライ語: שָׁאוּל、Šāʼûl)とも呼ばれる。古代ローマの属州キリキアの州都タルソス(今のトルコ中南部メルスィン県のタルスス)生まれのユダヤ人。
「サウロ」はユダヤ名(ヘブライ語)であり、ギリシア語名では「パウロス」となる(現代ギリシャ語ではパヴロス)。彼は「使徒として召された」(ローマ1:1)と述べており、日本正教会では教会スラヴ語を反映してパウェルと呼ばれる。正教会ではパウロを首座使徒との呼称を以て崇敬する。
聖人であり、その記念日はペトロとともに6月29日(ユリウス暦を使用する正教会では7月12日に相当)である。
正教会やカトリック教会はパウロを使徒と呼んで崇敬するが、イエスの死後に信仰の道に入ってきたためイエスの直弟子ではなく、「最後の晩餐」に連なった十二使徒の中には数えられない。
パウロはギリシア語とヘブライ語を話すことができた。
新約聖書の『使徒行伝』によれば、パウロは生まれながらのローマ市民権保持者であった。ベニヤミン族のユダヤ人でもともとファリサイ派に属し、エルサレムにて高名なラビであるガマリエル1世(ファリサイ派の著名な学者ヒレルの孫)のもとで学んだ。パウロはそこでキリスト教徒たちと出会う。熱心なユダヤ教徒の立場から、始めはキリスト教徒を迫害する側についていた。ステファノを殺すことにも賛成していた。
ダマスコへの途上において、「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」と、天からの光とともにイエス・キリストの声を聞いた、その後、目が見えなくなった。アナニアというキリスト教徒が神のお告げによってサウロのために祈るとサウロの目から鱗のようなものが落ちて、目が見えるようになった。こうしてパウロ(サウロ)はキリスト教徒となった。この経験は「サウロの回心」といわれ、紀元34年頃のこととされる。一般的な絵画表現では、イエスの幻を見て馬から落ちるパウロの姿が描かれることが多い。
一方でパウロ自身はこのエピソードを自ら紹介しておらず、単に「召されて使徒となった」などと記している。
その後、かつてさんざん迫害していた使徒たちに受け入れられるまでに、ユダヤ教徒たちから何度も激しく拒絶され命を狙われたが、やがてアンティオキアを拠点として小アジア、マケドニアなどローマ帝国領内へ赴き、会堂(シナゴーグ)を拠点にしながらバルナバやテモテ、マルコといった弟子や協力者と共に布教活動を行った。布教活動の時パウロの職業はテント職人であった。復活の奇跡を行った事もある。特に異邦人に伝道したことが重要である。『使徒行伝』によれば3回の伝道旅行を行ったのち、エルサレムで捕縛されたが、ローマ市民であるパウロに刑罰を科すには正式の裁判手続きが必要であり、そのためローマに送られ軟禁された。伝承によれば皇帝ネロのとき60年代後半にローマで斬首刑に処され殉教したと言われる。またローマからスペインにまで伝道旅行をしたとの伝承もある。
年代順にみると、新約中で最も古い書簡とされるテサロニケ人への第一の手紙と生前のナザレのイエスとの間には、初期のエルサレム教会より伝わる伝承が存在したとされる。その伝承の中には、信仰告白定型と呼ばれるものがあり、書簡の中でパウロが、ナザレのイエスは生き返ったと表明している箇所については、この伝承に基づいているとされている。。パウロにとっては、すでに死去したナザレのイエスが直接自身に内的な啓示によって通信してきた体験がイエスはキリストであるという信仰に至るきっかけとなった。盲目からの奇跡的回復という話は自身が記していないことから、キリストはイエスであったと考えるようになったのは、イエスを名乗る存在の内的な啓示と、第三の天にまであげられたというある人の天界の体験とが原因として読み取れる。ガラテヤ人への手紙1:16によれば、啓示に神の御子が現れるのをよしとしたのは神であり、その啓示の仕方は、パウロ自身の内側に御子が啓示されたというものであった。手紙の文面では、生前のイエスと関連づけて理解したものではなく、キリストとはユダヤ教の神からくるものであり、それは、これまで自分が迫害していた集団でイエスと呼ばれていた者であった、というくらいの内的な転換であった。そののちパウロは、ただちに使徒の住むエルサレムに赴くことはせずアラビア行きを実行したと記していることからも、使徒たちの伝承してきている話を精査してゆく方向にはすすまなかった。むしろ後年の使徒会議における使徒たち(割礼にこだわっていた)のことを、かの「大使徒たち」と呼ぶような関係にあった。手紙の中で、自分はその人たちに何ら劣っていないとパウロは表明している。そのことから見てもパウロは使徒たちの伝承してきている教えには、批判的なところも感じていたようである。後年使徒会議のためにエルサレムに赴いたときは、啓示によってエルサレムに行くことになったと記していることや、自身はユダヤ教において卓越していて、父祖たちの伝承に熱心であり、民族の中でも勝っていたと自分を位置付けていたことも、自分は大使徒たちに何ら劣っていないとする自信の裏づけとなっていたようだ。また、当時の教会の中には、第一に使徒たち、第二に預言者たち、第三に教師たちがいて、次に力ある業、次に癒しの賜物、補助の働き、指導能力、種々の異言などの順列があったとパウロはしている。これらは聖霊による恵みの賜物であると記されている。当時聖霊は世の終わりに神から与えられると信じられていた救いの霊と考えられていた。しかし、世の終わりでもないのに聖霊現象が信者に出現したのは、終末の賜物の先取りであり、「霊の手付金」であると信者によって受け止められていた。そしてそれらはキリストの復活で現実のものとなった、という解釈が教会内においてなされていた。初期のエルサレム教会に伝わっていた伝承や予言はいくつかあり、大使徒の話を聞くことは無くても、そうした伝承にはパウロも影響を受けていたと思われる。そうしたことからパウロはテサロニケ第一の手紙において、復活したイエスはキリストであり、復活は世の終わりを現実のものとするものであり、彼は自らの啓示に現れたユダヤ教のキリストであったと記した。パウロは、自分が生きているうちにやってくる主の来臨の時には、啓示に出現したキリストによって生き残ったままで救われることになったという信仰を奥義として信者に説いていた。50年ころ、パウロはテサロニケの信者への手紙の中で、下記のような終末観を表明している。 生きているうちに主の来臨がおきる。 生きているうちに合図の声とともに主が天から下ってくる。 生きているうちにキリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえる。 生きているうちによみがえった死人や眠っていた人たちが天に上げられる。 生きたままで空中で主に会うことになり、そののちはいつも主と共にいることになる。
パウロはユダヤ教時代から、分派を嫌った。イエスはユダヤ教に言われるところのキリストだとする集団 を迫害したのも、パリサイ派としてユダヤ教の中の一派としての異端を排除しようとした行為である。後世においてキリスト教が国教化された後にも継承されてゆく分派、異端排斥は、ナザレのイエスが分派・異端を仲間として容認したこととは、大きく異なっている。ナザレのイエスが信仰していたのは平和の神であるとされていて、パウロも手紙において平和の神という語を多用していたけれど、異端者に対しては平和的でなかった。 。イエスの啓示を受けて回心したとされた後でも、その排他性・異端排斥性に変化はなかった。手紙の中では、呪ってはならないという指導を信者に対してなしているが、これは内的な啓示で受けた言葉をそのまま繰り返しただけのようである 。異邦人への伝道をするようになっても、党派心、分裂、分派を為す者は神の国を受け継ぐことはないと説いている。そして、自らの異邦人への伝道を「キリストの福音」であるとして、キリストの福音を変質しようとする者に対して呪いの言葉を記している。
パウロとナザレのイエスの教説の異なっている点は、異端排斥と並んで、終末観があげられる。ナザレのイエスが直接に語った終末観とは、マルコ福音書13:32にある「かの日ないし〔かの〕時刻については、誰も知らない。天にいるみ使いたちも、子も知らない。父のみが知っている」、という記述であるとされている。なお、マルコ福音書に出てくる終末については、エルサレム神殿崩壊を世の終わりの出来事と理解する筆者の見方や古い注によって編集されており 不明瞭な記述となっている。世の終わりについて、ナザレのイエスは天のみ使いさえも計り知ることのできないほどの深遠な事態であるとしているのに対して、パウロは、自分が生きているうちに主の来臨の時はやってくるとしていた。。 一方、ヨハネ福音書はイエスの終末観と共通の部分があると思われ、世の終わり・裁きの時という概念は明瞭になっていない。人々がイエスの啓示に対して下す判断が、その人の運命を決定するとされ、悪人を裁いて滅ぼすためではなく、救うために布教していることが記されている。ヨハネ福音書では、裁きはもう来ているとされていて、この世の支配者はすでに裁かれたともされている。ちなみに、この世の支配者に対する、裁きの時がすでに来ている例としては、聖霊を冒涜するものは永遠の罪に定められる、とするイエスの教説、があげられる。これはキリスト信者を激しく迫害していたと述懐していたパウロにも十分当てはまる罪であったと考えられる。ユダヤ教徒が、ユダヤ教に精通し、義を求めて熱心に信仰しているというだけで、聖霊冒涜の永遠の罪を犯すリスクにさらされるということは不可思議なことである。また、永遠の罪というのは、原罪という枠組みを超えていて、かつ日常的な精神の悪であるようにも見える。罪からの救いを求め、信仰義認論を説いていたパウロは、書簡の中で、自分が救われるためには、あるいは救いの経験があったのは、信仰だったということを述べている。
パウロ書簡には新約聖書中真性書簡として『ローマの信徒への手紙』『コリントの信徒への手紙一』『コリントの信徒への手紙二』『ガラテヤの信徒への手紙』『フィリピの信徒への手紙』『テサロニケの信徒への手紙一』『フィレモンへの手紙』があり、偽名書簡として『エフェソの信徒への手紙』『コロサイの信徒への手紙』『テサロニケの信徒への手紙二』『テモテへの手紙一』『テモテへの手紙二』『テトスへの手紙』がある。
なお伝統的にパウロ書簡とされる『ヘブライ人への手紙』は近代までパウロの手によるとされていたが、そもそも匿名の手紙であり、今日では後代の筆者によるものとする見方が支持されている。
パウロ自身が記したのは、テサロニケ人への第一の手紙(執筆年代は50年頃)、コリント人への第一の手紙(執筆年代は54年頃)、コリント人への第二の手紙(執筆年代は54年から55年頃にかけての手紙の集合体とされる)、ガラテヤ人への手紙(執筆年代は54年頃)、フィリピ人への手紙(執筆年代は54年後半頃)、フィレモンへの手紙(執筆年代は54年から55年頃)、ローマ人への手紙(執筆年代は55年から56年頃)。
これら以外はパウロの名を使った偽書である可能性が高いとされる。
歴史的キリスト教会がパウロの著者性を認めてきた『テサロニケの信徒への手紙二』『コロサイの信徒への手紙』がパウロの真正書簡であるか自由主義神学者の中では議論があり、『エフェソの信徒への手紙』およびいわゆる牧会書簡(『テモテへの手紙一』、『テモテへの手紙二』、『テトスへの手紙』)はパウロの弟子によるものとされ、パウロを擬してパウロの死後書かれたとする見方が今日の自由主義神学(リベラル派)では一般的である。リベラル派ではこれらを擬似パウロ書簡と称する。
近代の自由主義神学の批判的聖書学高等批評によれば(異論もあるが)、パウロ書簡は新約聖書中、著者が明らかである唯一のものであり、また全文書の中で(一般的には『テサロニケの信徒への手紙一』)最古の文書である。
他にもパウロの名を借りた『パウロの黙示録』『パウロ行伝』といった外典も存在し、パウロという人物の影響力の大きさを物語っている。
教会のリーダーは男性であるべきと主張した(当時各地の教会で婦人による問題が多発していたためといわれる)(しかし、パウロ書簡と同時期に成立した福音書においては、むしろ女性信徒が男性信徒よりも高く評価されている)。結婚は苦難を招くと説いた。結婚は性的誤りを無くす為に有ると説いた。結婚できるのは神からの特権であるとも説いている。 パウロにおいては自らの不完全さ、罪の意識が非常に強いことがまず指摘できる。彼は心の欲する善を行うことができずに、かえって心の欲せざる悪をなしてしまうことに悩んだ。そのため彼の思想では人間の無力さが強調される。このような人間は自力では救われることがないために、神の恩寵によってしか救われないし、パウロはイエスの死こそ神の自己犠牲であると考える。この神の自己犠牲によって人間は罪から解放されるのであり、これを信じ、イエスの教えを実践することで新しい生を迎えることができるという。この新しい生は物質性を捨て、人類史から神の世界に逃れることではない。このことは初期教父、たとえばエイレナイオスにおいてグノーシス主義の説く異端の教説に対する批判のなかで明確に表明される。彼によれば、人類の救済史とはあくまでその本来的な物質性から、神の導きによってより高次の霊性を獲得していく過程である。そしてこのような立場に立つとき、物質的な現実世界は矛盾と不幸に満ちている不完全なものとして相対化されていくのである。だが同時にこの物質的世界こそが神の救済史の舞台であり、神の現存し、働きかける場である。
パウロの政治思想としては、受動的服従が知られる。ウォーリンによれば、パウロや初期の教会指導者たちが政治権力への服従を繰り返し述べていることは、この時代のキリスト教徒に政治秩序への鋭い対立意識があったことを物語っているという。。事実66年にはユダヤ戦争(〜70年)が起き、112年〜115年にもユダヤ人が蜂起し、135年にもバル・コクバの乱が起きている。パウロによれば、この世の権威は神に拠らないものはなく、したがってこれを受け入れなくてはならない。パウロは政治的権威に対して負う義務と宗教的権威に対するそれを区別した。しかしそれは政治的忠誠心と宗教的忠誠心を完全に分離したものであると主張したわけではない。彼は政治秩序を神の摂理の中に位置づけ、当時のキリスト教徒が政治秩序のキリスト教的理解に基づいて受け入れるよう促した。
パウロは、教会と国家を分離し、国家に対するキリスト教の服従を説くが、従うべき対象として「皇帝」ではなく、神によって認められた「権威」を挙げている。パウロはローマ帝国の支配を無条件に肯定しているともいわれる。
ローマ帝国のキリスト教に対する迫害についてテオドール・モムゼンは、ローマ帝国によって「許された宗教」ユダヤ教と「許されざる宗教」キリスト教と対比したが、1世紀段階では、キリスト教迫害はネロ迫害を除いてユダヤ教迫害の一環として行われている。またネロ帝によるキリスト教迫害についても、タキトゥスの記述は2世紀におけるキリスト教観を示しており、1世紀段階のヨセフスや新約聖書との相違が著しいため、その史実性には幅がある。
パウロは「自分の手で働くこと」を推奨しているが、これは古典古代の労働観に反する。古典古代においては労働は奴隷がするもので、自由人は閑暇(スコレー σχολη)にあることを誇りとしていた。アリストテレスは「幸福は閑暇(スコレー)に存すると考えられる。」と述べており、ハンナ・アーレントによれば、アリストテレスは全体として必要に従属しているヒト属を人間と呼ぶことを認めなかった。
パウロは復活の教えを強調した。(当時、ユダヤ教ではサドカイ派などや、キリスト教会内部でも、イエスの教えに反して復活を否定する動きがあったためか。)もし死人の復活がないならキリストもよみがえらなかった事になり、それをよみがえらせたと言っている私達は神にそむく偽証人という事になる為、全ての人の中で最もあわれむべき存在になるとまで語った。
パウロはアテネに滞在した際にエピクロス派やストア派の哲学者数人と論じ合っている。 当時、哲学とキリスト教の教えを巧妙に混ぜた教えが多かったためか、それらの哲学を「むなしいだましごと」と批判した事もある。
ルターはパウロ書簡を極めて高く評価している。
ルター以来パウロはユダヤ教からイエスによって解放されたとする見解が主流であったが、トロクメによると彼自身の意識ではユダヤの思想家であり、意識としてはユダヤ教内部の論争に関わっていたつもりであったとされる。またトロクメは歴史家たちがパウロを「キリスト教の創始者」と考える傾向にあることを批判し、この考えがイエスを「ユダヤ教の改革者」という誤った位置づけに貶めるものだという。トロクメはパウロの思想がアウグスティヌス以前は正確に理解されているとは必ずしも言えないこと、中世の神学者たちも彼をあまり重視していないことを挙げ、パウロにキリスト教における中心的な地位を与えたのはルネサンスと宗教改革であると述べている。 | [
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"text": "年代順にみると、新約中で最も古い書簡とされるテサロニケ人への第一の手紙と生前のナザレのイエスとの間には、初期のエルサレム教会より伝わる伝承が存在したとされる。その伝承の中には、信仰告白定型と呼ばれるものがあり、書簡の中でパウロが、ナザレのイエスは生き返ったと表明している箇所については、この伝承に基づいているとされている。。パウロにとっては、すでに死去したナザレのイエスが直接自身に内的な啓示によって通信してきた体験がイエスはキリストであるという信仰に至るきっかけとなった。盲目からの奇跡的回復という話は自身が記していないことから、キリストはイエスであったと考えるようになったのは、イエスを名乗る存在の内的な啓示と、第三の天にまであげられたというある人の天界の体験とが原因として読み取れる。ガラテヤ人への手紙1:16によれば、啓示に神の御子が現れるのをよしとしたのは神であり、その啓示の仕方は、パウロ自身の内側に御子が啓示されたというものであった。手紙の文面では、生前のイエスと関連づけて理解したものではなく、キリストとはユダヤ教の神からくるものであり、それは、これまで自分が迫害していた集団でイエスと呼ばれていた者であった、というくらいの内的な転換であった。そののちパウロは、ただちに使徒の住むエルサレムに赴くことはせずアラビア行きを実行したと記していることからも、使徒たちの伝承してきている話を精査してゆく方向にはすすまなかった。むしろ後年の使徒会議における使徒たち(割礼にこだわっていた)のことを、かの「大使徒たち」と呼ぶような関係にあった。手紙の中で、自分はその人たちに何ら劣っていないとパウロは表明している。そのことから見てもパウロは使徒たちの伝承してきている教えには、批判的なところも感じていたようである。後年使徒会議のためにエルサレムに赴いたときは、啓示によってエルサレムに行くことになったと記していることや、自身はユダヤ教において卓越していて、父祖たちの伝承に熱心であり、民族の中でも勝っていたと自分を位置付けていたことも、自分は大使徒たちに何ら劣っていないとする自信の裏づけとなっていたようだ。また、当時の教会の中には、第一に使徒たち、第二に預言者たち、第三に教師たちがいて、次に力ある業、次に癒しの賜物、補助の働き、指導能力、種々の異言などの順列があったとパウロはしている。これらは聖霊による恵みの賜物であると記されている。当時聖霊は世の終わりに神から与えられると信じられていた救いの霊と考えられていた。しかし、世の終わりでもないのに聖霊現象が信者に出現したのは、終末の賜物の先取りであり、「霊の手付金」であると信者によって受け止められていた。そしてそれらはキリストの復活で現実のものとなった、という解釈が教会内においてなされていた。初期のエルサレム教会に伝わっていた伝承や予言はいくつかあり、大使徒の話を聞くことは無くても、そうした伝承にはパウロも影響を受けていたと思われる。そうしたことからパウロはテサロニケ第一の手紙において、復活したイエスはキリストであり、復活は世の終わりを現実のものとするものであり、彼は自らの啓示に現れたユダヤ教のキリストであったと記した。パウロは、自分が生きているうちにやってくる主の来臨の時には、啓示に出現したキリストによって生き残ったままで救われることになったという信仰を奥義として信者に説いていた。50年ころ、パウロはテサロニケの信者への手紙の中で、下記のような終末観を表明している。 生きているうちに主の来臨がおきる。 生きているうちに合図の声とともに主が天から下ってくる。 生きているうちにキリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえる。 生きているうちによみがえった死人や眠っていた人たちが天に上げられる。 生きたままで空中で主に会うことになり、そののちはいつも主と共にいることになる。",
"title": "キリスト信仰"
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"text": "パウロはユダヤ教時代から、分派を嫌った。イエスはユダヤ教に言われるところのキリストだとする集団 を迫害したのも、パリサイ派としてユダヤ教の中の一派としての異端を排除しようとした行為である。後世においてキリスト教が国教化された後にも継承されてゆく分派、異端排斥は、ナザレのイエスが分派・異端を仲間として容認したこととは、大きく異なっている。ナザレのイエスが信仰していたのは平和の神であるとされていて、パウロも手紙において平和の神という語を多用していたけれど、異端者に対しては平和的でなかった。 。イエスの啓示を受けて回心したとされた後でも、その排他性・異端排斥性に変化はなかった。手紙の中では、呪ってはならないという指導を信者に対してなしているが、これは内的な啓示で受けた言葉をそのまま繰り返しただけのようである 。異邦人への伝道をするようになっても、党派心、分裂、分派を為す者は神の国を受け継ぐことはないと説いている。そして、自らの異邦人への伝道を「キリストの福音」であるとして、キリストの福音を変質しようとする者に対して呪いの言葉を記している。",
"title": "キリスト信仰"
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"text": "パウロとナザレのイエスの教説の異なっている点は、異端排斥と並んで、終末観があげられる。ナザレのイエスが直接に語った終末観とは、マルコ福音書13:32にある「かの日ないし〔かの〕時刻については、誰も知らない。天にいるみ使いたちも、子も知らない。父のみが知っている」、という記述であるとされている。なお、マルコ福音書に出てくる終末については、エルサレム神殿崩壊を世の終わりの出来事と理解する筆者の見方や古い注によって編集されており 不明瞭な記述となっている。世の終わりについて、ナザレのイエスは天のみ使いさえも計り知ることのできないほどの深遠な事態であるとしているのに対して、パウロは、自分が生きているうちに主の来臨の時はやってくるとしていた。。 一方、ヨハネ福音書はイエスの終末観と共通の部分があると思われ、世の終わり・裁きの時という概念は明瞭になっていない。人々がイエスの啓示に対して下す判断が、その人の運命を決定するとされ、悪人を裁いて滅ぼすためではなく、救うために布教していることが記されている。ヨハネ福音書では、裁きはもう来ているとされていて、この世の支配者はすでに裁かれたともされている。ちなみに、この世の支配者に対する、裁きの時がすでに来ている例としては、聖霊を冒涜するものは永遠の罪に定められる、とするイエスの教説、があげられる。これはキリスト信者を激しく迫害していたと述懐していたパウロにも十分当てはまる罪であったと考えられる。ユダヤ教徒が、ユダヤ教に精通し、義を求めて熱心に信仰しているというだけで、聖霊冒涜の永遠の罪を犯すリスクにさらされるということは不可思議なことである。また、永遠の罪というのは、原罪という枠組みを超えていて、かつ日常的な精神の悪であるようにも見える。罪からの救いを求め、信仰義認論を説いていたパウロは、書簡の中で、自分が救われるためには、あるいは救いの経験があったのは、信仰だったということを述べている。",
"title": "キリスト信仰"
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"text": "パウロ書簡には新約聖書中真性書簡として『ローマの信徒への手紙』『コリントの信徒への手紙一』『コリントの信徒への手紙二』『ガラテヤの信徒への手紙』『フィリピの信徒への手紙』『テサロニケの信徒への手紙一』『フィレモンへの手紙』があり、偽名書簡として『エフェソの信徒への手紙』『コロサイの信徒への手紙』『テサロニケの信徒への手紙二』『テモテへの手紙一』『テモテへの手紙二』『テトスへの手紙』がある。",
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"text": "なお伝統的にパウロ書簡とされる『ヘブライ人への手紙』は近代までパウロの手によるとされていたが、そもそも匿名の手紙であり、今日では後代の筆者によるものとする見方が支持されている。",
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"text": "パウロ自身が記したのは、テサロニケ人への第一の手紙(執筆年代は50年頃)、コリント人への第一の手紙(執筆年代は54年頃)、コリント人への第二の手紙(執筆年代は54年から55年頃にかけての手紙の集合体とされる)、ガラテヤ人への手紙(執筆年代は54年頃)、フィリピ人への手紙(執筆年代は54年後半頃)、フィレモンへの手紙(執筆年代は54年から55年頃)、ローマ人への手紙(執筆年代は55年から56年頃)。",
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"text": "これら以外はパウロの名を使った偽書である可能性が高いとされる。",
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"text": "歴史的キリスト教会がパウロの著者性を認めてきた『テサロニケの信徒への手紙二』『コロサイの信徒への手紙』がパウロの真正書簡であるか自由主義神学者の中では議論があり、『エフェソの信徒への手紙』およびいわゆる牧会書簡(『テモテへの手紙一』、『テモテへの手紙二』、『テトスへの手紙』)はパウロの弟子によるものとされ、パウロを擬してパウロの死後書かれたとする見方が今日の自由主義神学(リベラル派)では一般的である。リベラル派ではこれらを擬似パウロ書簡と称する。",
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"text": "近代の自由主義神学の批判的聖書学高等批評によれば(異論もあるが)、パウロ書簡は新約聖書中、著者が明らかである唯一のものであり、また全文書の中で(一般的には『テサロニケの信徒への手紙一』)最古の文書である。",
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"text": "他にもパウロの名を借りた『パウロの黙示録』『パウロ行伝』といった外典も存在し、パウロという人物の影響力の大きさを物語っている。",
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"text": "教会のリーダーは男性であるべきと主張した(当時各地の教会で婦人による問題が多発していたためといわれる)(しかし、パウロ書簡と同時期に成立した福音書においては、むしろ女性信徒が男性信徒よりも高く評価されている)。結婚は苦難を招くと説いた。結婚は性的誤りを無くす為に有ると説いた。結婚できるのは神からの特権であるとも説いている。 パウロにおいては自らの不完全さ、罪の意識が非常に強いことがまず指摘できる。彼は心の欲する善を行うことができずに、かえって心の欲せざる悪をなしてしまうことに悩んだ。そのため彼の思想では人間の無力さが強調される。このような人間は自力では救われることがないために、神の恩寵によってしか救われないし、パウロはイエスの死こそ神の自己犠牲であると考える。この神の自己犠牲によって人間は罪から解放されるのであり、これを信じ、イエスの教えを実践することで新しい生を迎えることができるという。この新しい生は物質性を捨て、人類史から神の世界に逃れることではない。このことは初期教父、たとえばエイレナイオスにおいてグノーシス主義の説く異端の教説に対する批判のなかで明確に表明される。彼によれば、人類の救済史とはあくまでその本来的な物質性から、神の導きによってより高次の霊性を獲得していく過程である。そしてこのような立場に立つとき、物質的な現実世界は矛盾と不幸に満ちている不完全なものとして相対化されていくのである。だが同時にこの物質的世界こそが神の救済史の舞台であり、神の現存し、働きかける場である。",
"title": "思想"
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"text": "パウロの政治思想としては、受動的服従が知られる。ウォーリンによれば、パウロや初期の教会指導者たちが政治権力への服従を繰り返し述べていることは、この時代のキリスト教徒に政治秩序への鋭い対立意識があったことを物語っているという。。事実66年にはユダヤ戦争(〜70年)が起き、112年〜115年にもユダヤ人が蜂起し、135年にもバル・コクバの乱が起きている。パウロによれば、この世の権威は神に拠らないものはなく、したがってこれを受け入れなくてはならない。パウロは政治的権威に対して負う義務と宗教的権威に対するそれを区別した。しかしそれは政治的忠誠心と宗教的忠誠心を完全に分離したものであると主張したわけではない。彼は政治秩序を神の摂理の中に位置づけ、当時のキリスト教徒が政治秩序のキリスト教的理解に基づいて受け入れるよう促した。",
"title": "思想"
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"text": "パウロは、教会と国家を分離し、国家に対するキリスト教の服従を説くが、従うべき対象として「皇帝」ではなく、神によって認められた「権威」を挙げている。パウロはローマ帝国の支配を無条件に肯定しているともいわれる。",
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"text": "ローマ帝国のキリスト教に対する迫害についてテオドール・モムゼンは、ローマ帝国によって「許された宗教」ユダヤ教と「許されざる宗教」キリスト教と対比したが、1世紀段階では、キリスト教迫害はネロ迫害を除いてユダヤ教迫害の一環として行われている。またネロ帝によるキリスト教迫害についても、タキトゥスの記述は2世紀におけるキリスト教観を示しており、1世紀段階のヨセフスや新約聖書との相違が著しいため、その史実性には幅がある。",
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"text": "パウロは「自分の手で働くこと」を推奨しているが、これは古典古代の労働観に反する。古典古代においては労働は奴隷がするもので、自由人は閑暇(スコレー σχολη)にあることを誇りとしていた。アリストテレスは「幸福は閑暇(スコレー)に存すると考えられる。」と述べており、ハンナ・アーレントによれば、アリストテレスは全体として必要に従属しているヒト属を人間と呼ぶことを認めなかった。",
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"text": "パウロは復活の教えを強調した。(当時、ユダヤ教ではサドカイ派などや、キリスト教会内部でも、イエスの教えに反して復活を否定する動きがあったためか。)もし死人の復活がないならキリストもよみがえらなかった事になり、それをよみがえらせたと言っている私達は神にそむく偽証人という事になる為、全ての人の中で最もあわれむべき存在になるとまで語った。",
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"text": "パウロはアテネに滞在した際にエピクロス派やストア派の哲学者数人と論じ合っている。 当時、哲学とキリスト教の教えを巧妙に混ぜた教えが多かったためか、それらの哲学を「むなしいだましごと」と批判した事もある。",
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"text": "ルターはパウロ書簡を極めて高く評価している。",
"title": "評価"
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"text": "ルター以来パウロはユダヤ教からイエスによって解放されたとする見解が主流であったが、トロクメによると彼自身の意識ではユダヤの思想家であり、意識としてはユダヤ教内部の論争に関わっていたつもりであったとされる。またトロクメは歴史家たちがパウロを「キリスト教の創始者」と考える傾向にあることを批判し、この考えがイエスを「ユダヤ教の改革者」という誤った位置づけに貶めるものだという。トロクメはパウロの思想がアウグスティヌス以前は正確に理解されているとは必ずしも言えないこと、中世の神学者たちも彼をあまり重視していないことを挙げ、パウロにキリスト教における中心的な地位を与えたのはルネサンスと宗教改革であると述べている。",
"title": "評価"
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] | パウロは、初期キリスト教の使徒であり、新約聖書の著者の一人。はじめはサンヘドリンと共にイエスの信徒を迫害していたが、回心してイエスを信じる者となり、ヘレニズム世界に伝道を行った。ユダヤ名でサウロとも呼ばれる。古代ローマの属州キリキアの州都タルソス(今のトルコ中南部メルスィン県のタルスス)生まれのユダヤ人。 | {{Otheruses|キリスト教の新約聖書上の人物}}
{{Redirect|聖パウロの改宗|パルミジャニーノの絵画|聖パウロの改宗 (パルミジャニーノ)}}
{{観点|date=2021年12月}}
{{Infobox saint
| name=パウロ
| birth_date=紀元5年<ref>[http://www.pbs.org/empires/peterandpaul/footsteps/footsteps_1_1.html Peter and Paul . In the Footsteps of Paul . Tarsus . 1]. PBS. Retrieved on 2010-11-19.</ref>
| death_date=紀元67年<ref name="名前なし-1">Harris, Stephen L. Understanding the Bible. Palo Alto: Mayfield. 1985. ISBN 978-1-55934-655-9
p. 411"</ref>
| feast_day=
| venerated_in=キリスト教全宗派
| image=Saint_Paul_Ananias_Sight_Restored.jpg
| caption = [[ピエトロ・ダ・コルトーナ]]が1631年に描いたパウロの回心
| birth_place=[[ローマ帝国]]、[[キリキア属州]]、[[タルスス]]<ref>{{Bibleref2|Acts|22:3|9}}</ref><br>(現[[トルコ]]南部)
| death_place= [[ローマ]]<ref name="名前なし-1"/>
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| canonized_by=
| attributes=[[剣]]
| patronage= 神学者、伝道、異邦人クリスチャン<ref>[https://www.catholic.org/saints/saint.php?saint_id=91 Catholic Online]</ref>
| major_shrine=[[サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂]] }}
[[ファイル:Saint Paul.jpg|right|thumb|200px|[[ジャン・フーケ]]による絵、中央にパウロ]]
'''パウロ'''({{lang-el-short|Παῦλος}}<ref group="注">ラテン文字表記: {{ラテン翻字|grc|Paulos}}</ref>、? - [[60年]]頃<ref>『新約聖書』岩波書店P990のパウロ文書の成立の付表 新約聖書翻訳委員会</ref>)は、初期[[キリスト教]]の[[使徒]]であり、[[新約聖書]]の著者の一人。はじめは[[サンヘドリン]]と共に[[イエス・キリスト|イエス]]の信徒を迫害していたが、[[回心]]して[[イエス・キリスト|イエス]]を信じる者となり、[[ヘレニズム]]世界に伝道を行った。ユダヤ名で'''サウロ'''([[ギリシア語|希:Σαῦλος,]]{{lang-he|שָׁאוּל}}、{{en|Šāʼûl}})<ref>{{Cite book|洋書|title=A Greek-English Lexicon of the New Testament and Other Early Christian Literature|year=2010|publisher=University of Chicago Press|page=917|author=Walter Bauer|editor=Frederick Danker|edition=3|location=Chicago|isbn=9780226039336}}</ref>とも呼ばれる。[[古代ローマ]]の属州[[キリキア]]の州都タルソス(今の[[トルコ]]中南部メルスィン県の[[タルスス]])生まれの[[ユダヤ人]]<ref>[https://www.wordproject.org/bibles/jp/44/9.htm#0 使徒言行録9章以下]</ref>。
== 概要 ==
「サウロ」はユダヤ名(ヘブライ語)であり、ギリシア語名では「パウロス」となる(現代ギリシャ語では'''パヴロス''')。彼は「[[使徒]]として召された」(ローマ1:1)と述べており、[[日本正教会]]では[[教会スラヴ語]]を反映して'''パウェル'''と呼ばれる。正教会ではパウロを[[首座使徒]]との呼称を以て崇敬する。
[[聖人]]であり、その記念日は[[ペトロ]]とともに[[6月29日]]([[ユリウス暦]]を使用する正教会では[[7月12日]]に相当)である。
[[正教会]]や[[カトリック教会]]はパウロを[[使徒]]と呼んで崇敬するが、イエスの死後に信仰の道に入ってきたためイエスの直弟子ではなく、「[[最後の晩餐]]」に連なった[[十二使徒]]の中には数えられない。
パウロは[[ギリシア語]]と[[ヘブライ語]]を[[多言語#話者|話すことができた]]<ref>[[s:使徒行伝(口語訳)#21:37|使徒行伝(口語訳)#21:37-40]]</ref>。
==略歴==
*ローマ市民権を持つユダヤ教徒であった<ref>歴史的に見ると新約聖書の著作の中でこの世に存在していたことが確認できているのは、ナザレのイエスとパウロである。パウロ自身によるものであることがはっきりしている書簡に基づいて、パウロの生涯を見ることが可能である。[[キリスト教#福音書等の成立年代と著者]]参照 </ref>。
*紀元後[[30年]]ごろ<ref>[https://www.britannica.com/biography/Jesus Britannica.com]</ref>[[刑死]]によって[[ナザレのイエス]]が他界する。
*イエスはキリストだとする集団が生まれた<ref>キリスト者という語が使われた時期は1世紀の終わり頃とされる。『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店P427(使徒行伝11:26 における注5 荒井)</ref>。
*イエスはキリストだとする集団を根絶しようとし、信者を取り締まり、牢に入れた<ref>使徒行伝8:3. </ref><ref>パウロがステファノへのリンチを見ていたという事実は、歴史的に疑問であるとされている。『新約聖書』岩波書店P591(ガラテヤ人への手紙1:13 における注2 青野)</ref><ref>福音書における「罪人」とは、律法を守らぬ徴税人や売春婦等に投げかけられる蔑称として用いられている(『新約聖書』岩波書店、補注・用語解説P29 罪人の項目 新約聖書翻訳委員会)。イエスは「悪」よりの救済(マタイ6-13)を救済としていたが、それとは異なり、パウロは自己の内面に宗教的「罪」を認め、そこからの救済を追及してゆくことになる。(『新約聖書』岩波書店、補注・用語解説P29 罪人の項目 新約聖書翻訳委員会)</ref>。
*年代は不明であるが、イエスはキリストだとする集団の一員となった<ref>パウロの第一回の伝道旅行は47-48年とされていて、ガラテヤ1:18の注9によれば、その2-3年前にアラビア行きが行われたということになる。『新約聖書』岩波書店(P990)のパウロ文書の成立の付表 新約聖書翻訳委員会</ref><ref>教義的な大きな転向があったわけではなく、自らユダヤ人であったパウロは、神のユダヤ人への約束は不変であると考えていたとされている。「信仰義認論」によって彼らも最終的には救われるのだ(ローマ人への手紙11:26)としているので、ユダヤ教で言われていたところのキリストはイエスであったというほどの変化であった。『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店P928 (ローマ人への手紙の解説 青野)</ref>。
*[[50年]]ころ、ユダヤ人からの迫害を受けてきていることを記している<ref>テサロニケ人への第一の手紙2:15。ほかにも迫害の例としては、使徒行伝17:5などがあるとされる。『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店P491(テサロニケ人への第一の手紙2:15における注6 青野</ref><ref>自らの信仰の根幹をなすユダヤ教の信仰とユダヤ人との区分けは不明</ref>。
*[[54年]]ころ、コリント人への第一の手紙を記し<ref>『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店P921 (コリント第一の手紙の解説 青野)</ref>、書簡の中で、死んだはずのナザレのイエスに自分は出会ったことがあるとしている<ref>コリント人への第一の手紙15:8 </ref><ref>コリント第一の手紙15:5において、弟子12人にイエスが現れたことを記しているが、ルカはこの時点の「12人」を常に「11人」に修正している。その修正のないことは、イエス顕現の伝承が早い時期に成立したことを示唆している。『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店2004,p.543コリント人への第一の手紙 15:5における注1 青野</ref>。
*54年頃、ガラテヤ人への手紙を記し<ref name="名前なし-2">『新約聖書』岩波書店P924 ガラテヤ人への手紙解説 青野</ref>、自らの'''異邦人への伝道'''を「キリストの[[福音]]」と表明して伝道していることを記している。その福音は、すでに死去したナザレのイエスが直接自身に内的な[[啓示]]によって通信してきたものであることを表明した<ref>ガラテヤ人への手紙1:16-18において、パウロはダマスコスで回心の際に、神より異邦人伝道に召し出されたことを証言している。『新約聖書』岩波書店P465 使徒行伝22:21における注8 荒井</ref>。
*いくつかの地方に教会を開く<ref>直筆の手紙の中で、ローマ人への手紙はパウロ自身が設立したのではない教会に宛てた唯一の手紙とされる。『新約聖書』岩波書店P625 ローマ人への手紙1-7における注9</ref>。
*投獄される<ref>フィレモンへの手紙は獄中から書かれた。『新約聖書』岩波書店P620 フィレモンへの手紙1:1における注1青野</ref>。
*刑死により他界する<ref>60年ころローマにて殉教?『新約聖書』岩波書店2004年(P990)のパウロ文書の成立の付表 新約聖書翻訳委員会</ref>。
*66年から70年、第一次[[ユダヤ戦争]]の結果として[[エルサレム神殿]]が崩壊した。異邦人への「キリストの福音」が主流となる。
== 生涯 ==
=== ユダヤ教徒時代 ===
[[ファイル:PaulT.jpg|thumb|230x230px|[[ヴァランタン・ド・ブーローニュ]]もしくは[[ニコラ・トゥルニエ]]による[[1620年]]ごろの作。執筆中のパウロ]]
[[ファイル:Albrecht Dürer 027.jpg|thumb|418x418px|[[アルブレヒト・デューラー|デューラー]]『4人の使徒』(部分)。マルコ(左)とパウロ(右)]]
新約聖書の『[[使徒行伝]]』によれば、パウロは生まれながらの'''[[ローマ市民権]]'''保持者であった<ref>『使徒行伝』22:25-29。</ref>。[[ベニヤミン]]族のユダヤ人でもともと[[ファリサイ派]]に属し、[[エルサレム]]にて高名な[[ラビ]]である[[ガマリエル1世]](ファリサイ派の著名な学者[[ヒレル]]の孫)のもとで学んだ。パウロはそこでキリスト教徒たちと出会う。熱心なユダヤ教徒の立場から、始めはキリスト教徒を[[迫害]]する側についていた。[[ステファノ]]を殺すことにも賛成していた<ref>[[s:使徒行伝(口語訳)#8:1|使徒行伝(口語訳)#8:1]]</ref>。
=== 回心 ===
[[ダマスカス|ダマスコ]]への途上において、「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」と、天からの光とともに[[イエス・キリスト]]の声を聞いた、その後、目が見えなくなった。アナニアというキリスト教徒が神のお告げによってサウロのために祈るとサウロの目から鱗のようなものが落ちて、目が見えるようになった<ref group="注">「目から鱗が落ちた」という言葉の語源</ref>。こうしてパウロ(サウロ)はキリスト教徒となった<ref>選ばれた器と表現される。[[s:使徒行伝(口語訳)#9:15|使徒行伝(口語訳)#9:15]]</ref><ref group="注">[[自由主義神学]]では、パウロ自身が『ガラテア書』で言及していないことから、これを「伝説的」な事件とみなし、パウロの回心の史実性が否定される</ref>。この経験は「'''サウロの回心'''」といわれ、紀元34年頃のこととされる。一般的な絵画表現では、イエスの幻を見て馬から落ちるパウロの姿が描かれることが多い。
一方でパウロ自身はこのエピソードを自ら紹介しておらず、単に「召されて使徒となった」などと記している。
=== 回心後の伝道活動 ===
その後、かつてさんざん迫害していた使徒たちに受け入れられるまでに、ユダヤ教徒たちから何度も激しく拒絶され命を狙われたが、やがて[[アンティオキア]]を拠点として小アジア、マケドニアなど[[ローマ帝国]]領内へ赴き、会堂([[シナゴーグ]])を拠点にしながら[[バルナバ]]や[[テモテ]]、[[マルコ (福音記者)|マルコ]]といった弟子や協力者と共に布教活動を行った。布教活動の時パウロの職業はテント職人であった<ref>『使徒行伝』18:3</ref>。復活の奇跡を行った事もある<ref>[[s:使徒行伝(口語訳)#20:9|使徒行伝(口語訳)#20:9-12]]</ref>。特に異邦人に伝道したことが重要である。『使徒行伝』によれば3回の伝道旅行を行ったのち、エルサレムで捕縛されたが、ローマ市民であるパウロに刑罰を科すには正式の裁判手続きが必要であり、そのため[[ローマ]]に送られ軟禁された。伝承によれば皇帝[[ネロ]]のとき[[60年代]]後半にローマで[[斬首刑]]に処され[[殉教]]したと言われる。またローマから[[ヒスパニア|スペイン]]にまで伝道旅行をしたとの伝承もある。
== キリスト信仰 ==
年代順にみると、新約中で最も古い書簡とされるテサロニケ人への第一の手紙と生前のナザレのイエスとの間には、初期のエルサレム教会より伝わる伝承が存在したとされる<ref>『新約聖書』岩波書店P543コリント人への第一の手紙15:3における注15 青野</ref>。その伝承の中には、信仰告白定型と呼ばれるものがあり、書簡の中でパウロが、ナザレのイエスは生き返ったと表明している箇所については、この伝承に基づいているとされている。<ref>コリント人への第一の手紙15:8</ref>。パウロにとっては、すでに死去したナザレのイエスが直接自身に内的な[[啓示]]によって通信してきた体験<ref>ガラテヤ人への手紙1:16</ref>がイエスはキリストであるという信仰に至るきっかけとなった。<ref>しかし、この時代は新約旧約時代間の断絶意識は薄く、信仰と言う場合はキリスト教への改宗ではなく、旧約にもとづく敬虔という意味合いが強かったとされる。『新約聖書』岩波書店P726テモテへの第2の手紙1:5における注2 保坂</ref>盲目からの奇跡的回復という話は自身が記していないことから、キリストはイエスであったと考えるようになったのは、イエスを名乗る存在の内的な啓示と、第三の天にまであげられたというある人の天界の体験<ref>ある人とはパウロ自身のことであるとされている。『新約聖書』岩波書店P571(コリント第二の手紙12:2における注3 青野)</ref>とが原因として読み取れる。ガラテヤ人への手紙1:16によれば、啓示に神の御子が現れるのをよしとしたのは神であり、その啓示の仕方は、パウロ自身の内側に御子が啓示されたというものであった。手紙の文面では、生前のイエスと関連づけて理解したものではなく、キリストとはユダヤ教の神からくるものであり<ref>パウロは神中心主義であるとされている。『新約聖書』岩波書店P508(コリント第一の手紙3:23における注1 青野)</ref>、それは、これまで自分が迫害していた集団でイエスと呼ばれていた者であった、というくらいの内的な転換であった。そののちパウロは、ただちに使徒の住むエルサレムに赴くことはせずアラビア行きを実行したと記していることからも、使徒たちの伝承してきている話を精査してゆく方向にはすすまなかった。むしろ後年の使徒会議における使徒たち(割礼にこだわっていた)のことを、かの「大使徒たち」と呼ぶような関係にあった。<ref>『新約聖書』岩波書店P566(コリント第二の手紙11:5における注6 青野)</ref>手紙の中で、自分はその人たちに何ら劣っていないとパウロは表明している。そのことから見てもパウロは使徒たちの伝承してきている教えには、批判的なところも感じていたようである。後年使徒会議のためにエルサレムに赴いたときは、啓示によってエルサレムに行くことになったと記していることや、自身はユダヤ教において卓越していて、父祖たちの伝承に熱心であり、民族の中でも勝っていた<ref>ガラテヤ人への手紙1:14</ref>と自分を位置付けていたことも、自分は大使徒たちに何ら劣っていないとする自信の裏づけとなっていたようだ。また、当時の教会の中には、第一に使徒たち、第二に預言者たち、第三に教師たちがいて、次に力ある業、次に癒しの賜物、補助の働き、指導能力、種々の異言などの順列があったとパウロはしている。<ref>『新約聖書』岩波書店P534(コリント第一の手紙12:28における注9 青野)</ref>これらは聖霊による恵みの賜物であると記されている。当時聖霊は世の終わりに神から与えられると信じられていた救いの霊と考えられていた。しかし、世の終わりでもないのに聖霊現象が信者に出現したのは、終末の賜物の先取りであり、「霊の手付金」であると信者によって受け止められていた。そしてそれらはキリストの復活で現実のものとなった、という解釈が教会内においてなされていた。<ref>『新約聖書』岩波書店 補注 用語解説P24 聖霊の項目 新約聖書翻訳委員会</ref>初期のエルサレム教会に伝わっていた伝承や予言はいくつかあり、大使徒の話を聞くことは無くても、そうした伝承にはパウロも影響を受けていたと思われる。そうしたことからパウロはテサロニケ第一の手紙において、復活したイエスはキリストであり、復活は世の終わりを現実のものとするものであり、彼は自らの啓示に現れたユダヤ教のキリストであったと記した。パウロは、自分が生きているうちにやってくる主の来臨の時には、啓示に出現したキリストによって生き残ったままで救われることになったという信仰を奥義として信者に説いていた<ref name="名前なし-3">再臨の時まで生き残るというのは、パウロの確信であるとされている。『新約聖書』岩波書店P546(コリント第一の手紙15:51における注6 青野)</ref>。50年ころ、パウロはテサロニケの信者への手紙の中で、下記のような終末観を表明している。<ref>結果的には、主の来臨が来なかったことにより、信者に説いていた真理は「実現しなかった予測」にとどまることになったが、これは主の言葉として伝承されてきた初期キリスト教の預言者の言葉である可能性が大であるとされている。『新約聖書』岩波書店P494(テサロニケ第一の手紙4:15における注11 青野)</ref>
生きているうちに主の来臨がおきる。
生きているうちに合図の声とともに主が天から下ってくる。
生きているうちにキリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえる。
生きているうちによみがえった死人や眠っていた人たちが天に上げられる。
生きたままで空中で主に会うことになり、そののちはいつも主と共にいることになる。<ref>テサロニケ人への第一の手紙 4:15</ref>
パウロはユダヤ教時代から、分派を嫌った。イエスはユダヤ教に言われるところのキリストだとする集団 <ref>キリスト者という語が使われた時期は1世紀の終わり頃とされる。『新約聖書』岩波書店P426(使徒行伝11:26における注5 荒井)</ref>を迫害したのも、パリサイ派としてユダヤ教の中の一派としての異端を排除しようとした行為である。<ref>分派・異端を排除することは、唯一神教に見られる特徴である</ref>後世においてキリスト教が国教化された後にも継承されてゆく分派、異端排斥は、ナザレのイエスが分派・異端を仲間として容認したこととは、大きく異なっている。<ref>マルコによる福音書9:38</ref>ナザレのイエスが信仰していたのは平和の神であるとされていて<ref>マタイによる福音書5:9</ref>、パウロも手紙において平和の神という語を多用していたけれど、異端者に対しては平和的でなかった。<ref>パウロが平和の神の語を使用している箇所は、コリント人への第一の手紙14:33、コリント人への第二の手紙13:11、フィリピ人への手紙4:9、ローマ人への手紙15:33がある。(『新約聖書』岩波書店P667ローマ人への手紙15:33における注22 青野)他に、テサロニケ第一の手紙5:23もある</ref>
<ref>マルコ12-29においては、神は唯一の神ではなく、(唯一の神と表記すべき個所を)一なる神と表記しているとされている(『新約聖書』岩波書店P52(マルコ福音書12:29における注11 佐藤)。また、マルコによる福音書9:38~40には、唯一神教に見られがちな、排他性・異端排斥とは異なる調和的立場がイエスの教示として記されている</ref>。イエスの啓示を受けて回心したとされた後でも、その排他性・異端排斥性に変化はなかった。手紙の中では、呪ってはならないという指導を信者に対してなしているが、これは内的な啓示で受けた言葉をそのまま繰り返しただけのようである <ref>呪ってはならないという言葉は、パウロが実際に啓示で受け継いだイエスの言葉を引用している可能性があるとされている『新約聖書』岩波書店P658ローマ人への手紙12:14における注11 青野</ref>。異邦人への伝道をするようになっても、党派心、分裂、分派を為す者は神の国を受け継ぐことはないと説いている。<ref>ガラテヤ人への手紙5:20</ref>そして、自らの異邦人への伝道を「キリストの福音」であるとして、キリストの福音を変質しようとする者に対して呪いの言葉を記している。<ref>ガラテヤ人への手紙1:8</ref><ref>[[ニカイア・コンスタンティノポリス信条#日本語訳|ニカイヤ信条]]参照</ref>
パウロとナザレのイエスの教説の異なっている点は、異端排斥と並んで、終末観があげられる。ナザレのイエスが直接に語った終末観とは、マルコ福音書13:32にある「かの日ないし〔かの〕時刻については、誰も知らない。天にいるみ使いたちも、子も知らない。父のみが知っている」、という記述であるとされている。<ref>『新約聖書』岩波書店P495(1テサ5:1の注19 青野)</ref>なお、マルコ福音書に出てくる終末については、エルサレム神殿崩壊を世の終わりの出来事と理解する筆者の見方や古い注によって編集されており<ref>『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店P55、P57</ref> 不明瞭な記述となっている。世の終わりについて、ナザレのイエスは天のみ使いさえも計り知ることのできないほどの深遠な事態であるとしているのに対して、パウロは、自分が生きているうちに主の来臨の時はやってくるとしていた。<ref name="名前なし-3"/>。
一方、ヨハネ福音書<ref> 執筆年代は90年代、著者は無名の作者で、彼をよく理解した別の人物が今の形に成したとされる。『新約聖書』岩波書店P918 (ヨハネ福音書の解説 小林)</ref>はイエスの終末観と共通の部分があると思われ、世の終わり・裁きの時という概念は明瞭になっていない。人々がイエスの啓示に対して下す判断が、その人の運命を決定するとされ、悪人を裁いて滅ぼすためではなく、救うために布教していることが記されている。<ref name="名前なし-4">『新約聖書』岩波書店補注 用語解説P19 裁きの項目 新約聖書翻訳委員会</ref>ヨハネ福音書では、裁きはもう来ているとされていて、この世の支配者はすでに裁かれたともされている。<ref name="名前なし-4"/>ちなみに、この世の支配者に対する、裁きの時がすでに来ている例としては、聖霊を冒涜するものは永遠の罪に定められる、とするイエスの教説<ref>マルコ3:28</ref>、があげられる。これはキリスト信者を激しく迫害していたと述懐していたパウロにも十分当てはまる罪であったと考えられる。ユダヤ教徒が、ユダヤ教に精通し、義を求めて熱心に信仰しているというだけで、聖霊冒涜の永遠の罪を犯すリスクにさらされるということは不可思議なことである。また、永遠の罪というのは、原罪という枠組みを超えていて、かつ日常的な精神の悪であるようにも見える。罪からの救いを求め、信仰義認論を説いていたパウロは、書簡の中で、自分が救われるためには、あるいは救いの経験があったのは、信仰だったということを述べている。
== パウロ書簡 ==
{{main|パウロ書簡}}
[[パウロ書簡]]には新約聖書中真性書簡として『[[ローマの信徒への手紙]]』『[[コリントの信徒への手紙一]]』『[[コリントの信徒への手紙二]]』『[[ガラテヤの信徒への手紙]]』『[[フィリピの信徒への手紙]]』『[[テサロニケの信徒への手紙一]]』『[[フィレモンへの手紙]]』があり、偽名書簡として『[[エフェソの信徒への手紙]]』『[[コロサイの信徒への手紙]]』『[[テサロニケの信徒への手紙二]]』『[[テモテへの手紙一]]』『[[テモテへの手紙二]]』『[[テトスへの手紙]]』がある。
なお伝統的にパウロ書簡とされる『[[ヘブライ人への手紙]]』は近代までパウロの手によるとされていたが、そもそも匿名の手紙であり、今日では後代の筆者によるものとする見方が支持されている。
===パウロ書簡の成立年代と著者===
パウロ自身が記したのは、テサロニケ人への第一の手紙(執筆年代は50年頃)<ref>『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店P920 テサロニケ人への第一の手紙解説 青野</ref>、コリント人への第一の手紙(執筆年代は54年頃)<ref>『新約聖書』岩波書店P921 コリント人への第一の手紙解説 青野</ref>、コリント人への第二の手紙(執筆年代は54年から55年頃にかけての手紙の集合体とされる)<ref>『新約聖書』岩波書店P922 コリント人への第二の手紙解説 青野</ref>、ガラテヤ人への手紙(執筆年代は54年頃)<ref name="名前なし-2"/>、フィリピ人への手紙(執筆年代は54年後半頃)<ref>『新約聖書』岩波書店P925 フィリピ人への手紙解説 青野</ref>、フィレモンへの手紙(執筆年代は54年から55年頃)<ref>『新約聖書』岩波書店P927 フィレモンへの手紙解説 青野</ref>、ローマ人への手紙(執筆年代は55年から56年頃)<ref>『新約聖書』岩波書店P928 ローマ人への手紙解説 青野</ref>。
これら以外はパウロの名を使った偽書である可能性が高いとされる。<ref>『新約聖書』岩波書店P929~P933 (コロサイ、テサロニケ第二、テモテ第一、第二、ヘブルにおける各解説)保坂 小林 </ref>
=== 自由主義神学での議論 ===
歴史的キリスト教会がパウロの著者性を認めてきた『[[テサロニケの信徒への手紙二]]』『[[コロサイの信徒への手紙]]』がパウロの真正書簡であるか[[自由主義神学]]者の中では議論があり、『[[エフェソの信徒への手紙]]』およびいわゆる[[牧会書簡]](『[[テモテへの手紙一]]』、『[[テモテへの手紙二]]』、『[[テトスへの手紙]]』)はパウロの弟子によるものとされ{{Sfn|エティエンヌ・トロクメ|2004|p=8}}、パウロを擬してパウロの死後書かれたとする見方が今日の[[自由主義神学]](リベラル派)では一般的である。リベラル派ではこれらを[[擬似パウロ書簡]]と称する。
近代の[[自由主義神学]]の批判的聖書学[[高等批評]]によれば(異論もあるが)、パウロ書簡は新約聖書中、著者が明らかである唯一のものであり、また全文書の中で(一般的には『テサロニケの信徒への手紙一』)最古の文書である。
=== 外典 ===
他にもパウロの名を借りた『[[パウロの黙示録]]』『[[パウロ行伝]]』といった[[外典]]も存在し、パウロという人物の影響力の大きさを物語っている。
== 思想 ==
教会のリーダーは男性であるべきと主張した(当時各地の教会で婦人による問題が多発していたためといわれる)<ref>[[s:コリント人への第一の手紙(口語訳)#11:3|コリント人への第一の手紙(口語訳)#11:3]]</ref><ref>[[s:エペソ人への手紙(口語訳)#5:22|エペソ人への手紙(口語訳)#5:22-25]]</ref><ref>[[s:テモテヘの第一の手紙(口語訳)#2:12|テモテヘの第一の手紙(口語訳)#2:12-14]]</ref>(しかし、パウロ書簡と同時期に成立した福音書においては、むしろ女性信徒が男性信徒よりも高く評価されている<ref>マルコによる福音書 4:35-41、5:25-34、8章と14章の対比、15:40-16:7</ref><ref>ヨハネによる福音書 4:26-39、12章、13章、20:1-16</ref><ref>{{cite book|和書|author= [[荒井献]]|title= 新約聖書の女性観|year= 1988|publisher= 岩波書店|series= 岩波セミナーブックス|pages= 47, 74-78, 175, 187-194}}</ref>)。結婚は苦難を招くと説いた<ref>[[s:コリント人への第一の手紙(口語訳)#7:28|コリント人への第一の手紙(口語訳)#7:28]]</ref>。結婚は性的誤りを無くす為に有ると説いた<ref>[[s:コリント人への第一の手紙(口語訳)#7:9|コリント人への第一の手紙(口語訳)#7:9]]</ref>。{{要出典|範囲=結婚できるのは神からの特権であるとも説いている。|date=2018年5月}}
パウロにおいては自らの不完全さ、罪の意識が非常に強いことがまず指摘できる。彼は心の欲する[[善]]を行うことができずに、かえって心の欲せざる[[悪]]をなしてしまうことに悩んだ<ref>[[s:ローマ人への手紙(口語訳)#7:21|ローマ人への手紙(口語訳)#7:21-25]]</ref>。そのため彼の思想では人間の無力さが強調される<ref>[[s:コリント人への第一の手紙(口語訳)#9:27|コリント人への第一の手紙(口語訳)#9:27]]</ref>。このような人間は自力では救われることがないために、神の恩寵によってしか救われないし、パウロはイエスの死こそ神の自己犠牲であると考える<ref>[[s:ローマ人への手紙(口語訳)#5:6|ローマ人への手紙(口語訳)#5:6-10]]</ref>。この神の自己犠牲によって人間は罪から解放されるのであり、これを信じ、イエスの教えを実践することで新しい[[生]]を迎えることができるという<ref>[[s:ローマ人への手紙(口語訳)#5:12|ローマ人への手紙(口語訳)#5:12-21]]</ref>。この新しい生は[[物質]]性を捨て、人類史から神の世界に逃れることではない。このことは初期[[教父]]、たとえば[[エイレナイオス]]において[[グノーシス主義]]の説く[[異端]]の教説に対する批判のなかで明確に表明される。彼によれば、人類の救済史とはあくまでその本来的な物質性から、神の導きによってより高次の霊性を獲得していく過程である。そしてこのような立場に立つとき、物質的な現実世界は矛盾と不幸に満ちている不完全なものとして相対化されていくのである。だが同時にこの物質的世界こそが神の救済史の舞台であり、神の現存し、働きかける場である{{Sfn|クラウス・リーゼンフーバー|2003|pp=28-31}}{{Sfn|鈴木宣明|1994|pp=72-83}}。
=== 政治思想 ===
パウロの政治思想としては、受動的服従が知られる。ウォーリンによれば、パウロや初期の教会指導者たちが政治権力への服従を繰り返し述べていることは、この時代のキリスト教徒に政治秩序への鋭い対立意識があったことを物語っているという。{{Sfn|シェルドン・S・ウォーリン|1994|p=112}}。事実[[66年]]には[[ユダヤ戦争]](〜[[70年]])が起き、[[112年]]〜[[115年]]にもユダヤ人が蜂起し、[[135年]]にも[[バル・コクバの乱]]が起きている。パウロによれば、この世の権威は神に拠らないものはなく、したがってこれを受け入れなくてはならない。パウロは政治的権威に対して負う義務と宗教的権威に対するそれを区別した。しかしそれは政治的忠誠心と宗教的忠誠心を完全に分離したものであると主張したわけではない。彼は政治秩序を神の摂理の中に位置づけ、当時のキリスト教徒が政治秩序のキリスト教的理解に基づいて受け入れるよう促した。{{Sfn|シェルドン・S・ウォーリン|1994|p=112}}
{{Quotation|「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。|パウロ|「ローマ人への手紙」13.1-4。新共同訳}}
[[File:T-mommsen-2.jpg|110px|右|thumb|[[テオドール・モムゼン]]<br/>1890年の『ローマ法から見た宗教的逸脱』において、帝政初期のキリスト教迫害の理由を「国家離反」に求め、キリスト教迫害史研究に決定的な一歩を刻みつけた]]
パウロは、教会と国家を分離し、国家に対するキリスト教の服従を説くが、従うべき対象として「皇帝」ではなく、神によって認められた「権威」を挙げている{{Sfn|M・パコー|1985|pp=12-13}}。パウロはローマ帝国の支配を無条件に肯定しているともいわれる{{Sfn|エティエンヌ・トロクメ|2004|p=152}}。
==== 歴史家の意見 ====
ローマ帝国のキリスト教に対する迫害について[[テオドール・モムゼン]]は、ローマ帝国によって「許された宗教」ユダヤ教と「許されざる宗教」キリスト教と対比したが、[[1世紀]]段階では、キリスト教迫害は[[ネロ]]迫害を除いてユダヤ教迫害の一環として行われている{{Sfn|保坂高殿|2003|p=227}}。またネロ帝によるキリスト教迫害についても、[[タキトゥス]]の記述は[[2世紀]]におけるキリスト教観を示しており、[[1世紀]]段階の[[フラヴィウス・ヨセフス|ヨセフス]]や[[新約聖書]]との相違が著しいため、その史実性には幅がある{{Sfn|保坂高殿|2003|pp=278-284}}。
=== 労働観 ===
パウロは「自分の手で働くこと」を推奨している{{Refnest|group="注"|「そして、わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい」<ref>新共同訳、「テサロニケの信徒への手紙一」4.11。</ref>}}が、これは古典古代の労働観に反する{{Sfn|エティエンヌ・トロクメ|2004|pp=151-152}}。[[古典古代]]においては労働は[[奴隷]]がするもので、自由人は閑暇([[スコレー]] {{lang|el|σχολη}})にあることを誇りとしていた。アリストテレスは「幸福は閑暇(スコレー)に存すると考えられる。」{{Sfn|アリストテレス|1971|loc=下巻p.175}}と述べており、[[ハンナ・アーレント]]によれば、アリストテレスは全体として必要に従属している[[ヒト属]]を人間と呼ぶことを認めなかった{{Sfn|ハンナ・アレント|1994|pp=137-138}}。
=== 死生観 ===
パウロは[[復活 (キリスト教)|復活の教え]]を強調した。(当時、ユダヤ教ではサドカイ派などや、キリスト教会内部でも、イエスの教えに反して復活を否定する動きがあったためか。)もし死人の復活がないならキリストもよみがえらなかった事になり、それをよみがえらせたと言っている私達は神にそむく偽証人という事になる為、全ての人の中で最もあわれむべき存在になるとまで語った<ref>[[s:コリント人への第一の手紙(口語訳)#15:12|コリント人への第一の手紙(口語訳)#15:12-19]]</ref><ref>偽りの証人は罰を免れない、偽りをいう者は滅びる。[[s:箴言(口語訳)#19:9|箴言(口語訳)#19:9]]</ref>。
=== 哲学との接点 ===
パウロは[[アテネ]]に滞在した際に[[エピクロス派]]や[[ストア派]]の哲学者数人と論じ合っている<ref>[[s:使徒行伝(口語訳)#17:16|使徒行伝(口語訳)#17:16-18]]</ref>。
当時、哲学とキリスト教の教えを巧妙に混ぜた教えが多かったためか、それらの哲学を「むなしいだましごと」と批判した事もある<ref>[[s:コロサイ人への手紙(口語訳)#2:8|コロサイ人への手紙(口語訳)#2:8]]</ref>。
== 評価 ==
;ルターによる評価
[[マルティン・ルター|ルター]]は[[パウロ書簡]]を極めて高く評価している<ref>M.ルター『新約聖書への序言』「新約聖書の正しい且つ最も貴重な書はどれであるか」([[1522年]])、石原謙訳『キリスト者の自由、聖書への序言』岩波文庫、[[1955年]] ISBN 4003380819 所収</ref>。
;トロクメによる評価
ルター以来パウロはユダヤ教からイエスによって解放されたとする見解が主流であったが、トロクメによると彼自身の意識ではユダヤの思想家であり、意識としてはユダヤ教内部の論争に関わっていたつもりであったとされる{{Sfn|エティエンヌ・トロクメ|2004|p=130}}。またトロクメは歴史家たちがパウロを「キリスト教の創始者」と考える傾向にあることを批判し、この考えがイエスを「ユダヤ教の改革者」という誤った位置づけに貶めるものだという。トロクメはパウロの思想が[[アウグスティヌス]]以前は正確に理解されているとは必ずしも言えないこと、中世の神学者たちも彼をあまり重視していないことを挙げ、パウロにキリスト教における中心的な地位を与えたのは[[ルネサンス]]と[[宗教改革]]であると述べている{{Sfn|エティエンヌ・トロクメ|2004|pp=165-166}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist|25em}}
== 参考文献 ==
{{Commons&cat|Paul_of_Tarsus|Saint_Paul}}
* {{Cite book |和書 |author=エティエンヌ・トロクメ |year=2004 |title=聖パウロ |translator=[[加藤隆]] |publisher=[[白水社]]<[[文庫クセジュ]]> |isbn=978-4560508817 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=保坂高殿 |year=2003 |title=ローマ帝政初期のユダヤ・キリスト教迫害 |publisher=[[教文館]] |isbn=978-4764272255 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=M・パコー |year=1985 |title=テオクラシー |translator=[[坂口昂吉]]・[[鷲見誠一]] |publisher=創文社 |isbn=978-4423493458 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=クラウス・リーゼンフーバー |year=2003 |title=中世思想史 |translator=[[村井則夫]] |publisher=[[平凡社]]<[[平凡社ライブラリー]]> |isbn=978-4582764857 |ref=harv}}
*{{Cite book |和書 |author=ハンナ・アレント |translator=[[志水速雄]] |year=1994 |title=人間の条件 |publisher=[[筑摩書房]]<[[ちくま学芸文庫]]> |isbn=978-4480081568 |ref=harv}}
*シェルドン・S・ウォーリン 『西欧政治思想史―政治とヴィジョン』 尾形典男・佐々木武・佐々木毅・田中治男・福田歓一・有賀弘・半沢孝麿訳、福村出版、1994年。ISBN 978-4571400162。
*新約聖書翻訳委員会『新約聖書』岩波書店、2004年。 訳者、 佐藤研 小林稔 荒井献 青野太潮 保坂高殿 大貫隆 小河陽 (解説 、佐藤研 小林稔 青野太潮 保坂高殿 大貫隆 小河陽) 補注・用語解説 新約聖書翻訳委員会
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|キリスト教|[[画像:Golden_Christian_Cross.svg|35px|Portal:キリスト教]]}}
*[[信仰義認]]
*[[割礼]]
*[[サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂|サン・パオロ・フオリ・レ・ムーラ大聖堂]]
*[[スタヒイ]](スタキス) - パウロの弟子と伝えられている。[[正教会]]で[[七十門徒]]。
*[[パウロ 愛と赦しの物語]]
*[[心のともしび]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
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{{使徒パウロの第二回伝道旅行}}
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9,467 | ストックホルム | ストックホルム(Stockholm [stɔkː(h)ɔlm] ( 音声ファイル))は、スウェーデンの首都で、同国最大の都市である。スウェーデン東部のストックホルム県 (Stockholms län) に属する。2021年時点の市の人口は約98万人。
北欧を代表する世界都市でもある。北欧で最大の人口を誇り、バルト海沿岸ではサンクトペテルブルクに次いで第2位。「水の都」、「北欧のヴェネツィア」とも言われ、水の上に浮いているような都市景観を持つ。
2014年にはアメリカ合衆国のシンクタンクが公表した、ビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて世界第33位の都市と評価された。
1912年に第5回夏季オリンピックが開催された。漢字表記は士篤恒、須篤保留武。
13世紀の半ばに、小島スタツホルメン島に砦として築かれたのが都市建設の最初である。
1250年代に即位したとされるフォルクンガ王朝初代国王ビルイェル・ヤールが築き、小都市の機能も備えたとされる。戦闘に備えて島を囲むように丸太の柵が巡らされていたために、「丸太の小島」と呼ばれるようになった。これはスウェーデン語で「ストックホルム」と言う。
都市はスタツホルメン島外へ次第に拡大し、近郊の小島などに広がっていった。都市の名も「ストックホルム」として落ち着いた。都市の始まりとして築かれたスタツホルメン島は「ガムラスタン(旧市街)」と呼ばれ、昔ながらの中世の建物が建ち並んでいる。
13世紀中葉以降、バルト海沿岸のハンザ同盟都市との交易で成長。カルマル同盟下で、デンマーク王家にとって重要な都市となっていく。スウェーデンの都市は、他のヨーロッパの都市と比べると小規模で、ストックホルム以外の都市化は遅々として進んでいなかった。
1520年、クリスチャン2世がストックホルムの血浴と呼ばれる独立派の処刑を行う。
この結果として独立運動が高揚、1523年にスウェーデンはグスタフ1世の下でスウェーデン王国として独立し、その首都として人口が増加、1600年には1万人に達する。
17世紀はスウェーデンが列強の一つに成長した時期であり、ストックホルムの人口も1610年から1680年の間に6倍に膨れ上がった。しかし、他国のような人口爆発はスウェーデンにおいては小規模にしか発生せず、都市と言えるような街は他には海港ヨーテボリ(イェーテボリ)くらいしか無かった。スカンディナヴィア(スカンジナビア)の諸都市と国内の諸都市を結ぶ交易を、ストックホルムが独占していく。1710年、この地でもペストが猛威を振るう。さらに大北方戦争の敗北で都市の発展に翳りが見えたが、「自由の時代」を経てグスタフ3世の治世で文化面で「ロココの時代」を迎える。19世紀後半には再び産業の中心都市として復興し、人口も移民の流入で増加する。ストックホルム生まれは市の人口の4割にも達せず、商業などを通じてドイツ人やオランダ人などが大量に入植し、ストックホルムの都市化が進んだ。この時期、カロリンスカ研究所など多くの研究機関・大学が創設された。なお、1713年以降の市内のあらゆる種類の建築物の建築図面と計画は2011年、「ストックホルム都市計画委員会のアーカイブ」としてユネスコの世界の記憶に指定された。
18世紀以降には直接戦火に巻き込まれなかったため、20世紀以降のストックホルムは現代的な多民族都市へと成長。クララ地区などの古い歴史的町並みは、現代建築に建て替えられていった。ストックホルムの人口は増加を続けているが、それは自然増ではなく移民によって構築されている。最近になって移民が独自のコミュニティを形成し始めている。
購買平価説に基づき、2020年のストックホルムの一人当たり実質国民総所得は80,120ドルと予測される。
重化学工業は市内には事実上存在しない。市の雇用を吸収しているのはハイテク産業である。IT産業のセンターは市の北部に形成されている。ストックホルム最大の企業(従業員数)はストックホルムに本社を置く移動体通信メーカーのエリクソンで、およそ8,500人を雇用している。
金融業も発展しており、2020年にイギリスのシンクタンクにより、ストックホルムは世界第28位の金融センターと評価されている。
メーラレン湖がバルト海に達する場所に位置し、市の中心部はストックホルム諸島 (Stockholm archipelago) を構成する島々の内、14の小島を含む。市の地勢上の中心はリッダー湾に沿っている。市の面積の30%は運河が占め、公園や緑地帯も30%を占めている。
西岸海洋性気候に属する。高緯度地方のため、1日の日照時間は夏の18時間から12月下旬の6時間まで差が激しい。メキシコ湾流の影響で緯度の割には温暖。年間の降水量は464.9mm。地球温暖化により、冬季の降雪がない年も増えつつある。
欧州連合 (EU) 諸国では一般的に、大都市に住む人は人口の少ない地域に住む人の3倍もの問題を経験しているが、スウェーデンでは2倍以下である。2021年の世界平和指数で、経済平和研究所が「犯罪動向と刑事司法制度の運用に関する国連研究」に基づき、意図的殺人の項目でスウェーデンを1.55(5段階評価)とし、日本の1.15より高いが、少なくともEUではフィンランドの1.8より低く、オランダの1.3やドイツの1.45やデンマークの1.5とほとんど変わらず、アメリカ合衆国の2.75よりはるかに低い。暴力犯罪カテゴリーではレベル2(1 - 5段階)、安全・安心への取り組み不足カテゴリーでは1.46を獲得した。まとめると、暴力犯罪のカテゴリーレベル2であるスウェーデンの人口の少ない地域の2倍弱の治安問題を抱える大都市ストックホルムの治安状況は、日本より悪いがアメリカより良いということである。そして、それがEUの大都市の平均と同程度である。
ストックホルムはどの都市とも正式に姉妹都市提携をしていないが、世界中の首都と協力関係にある。 | [
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"title": "気候"
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] | ストックホルムは、スウェーデンの首都で、同国最大の都市である。スウェーデン東部のストックホルム県 に属する。2021年時点の市の人口は約98万人。 北欧を代表する世界都市でもある。北欧で最大の人口を誇り、バルト海沿岸ではサンクトペテルブルクに次いで第2位。「水の都」、「北欧のヴェネツィア」とも言われ、水の上に浮いているような都市景観を持つ。 2014年にはアメリカ合衆国のシンクタンクが公表した、ビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて世界第33位の都市と評価された。 1912年に第5回夏季オリンピックが開催された。漢字表記は士篤恒、須篤保留武。 | {{世界の市
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|最高行政執行者所属党派 = [[穏健党]]
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|水面面積比率 =
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|標高(フィート) =
|人口の時点 = 2021年12月31日
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|夏時間の協定世界時との時差 = +2
|郵便番号の区分 =
|郵便番号 =
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|公式ウェブサイト = https://international.stockholm.se/
|備考 =
}}
'''ストックホルム'''(Stockholm {{IPA-sv|stɔkː(h)ɔlm||sv-Stockholm.ogg}})は、[[スウェーデン]]の[[首都]]で、同国最大の[[都市]]である。スウェーデン東部の[[ストックホルム県]] (Stockholms län) に属する。2021年時点の市の[[人口]]は約98万人。
[[北欧]]を代表する[[世界都市]]でもある。北欧で最多の人口を誇り、[[バルト海]]沿岸では[[サンクトペテルブルク]]に次いで第2位。「水の都」、「北欧の[[ヴェネツィア]]」とも言われ、水の上に浮いているような都市景観を持つ。
2014年には[[アメリカ合衆国]]の[[シンクタンク]]が公表した、[[ビジネス]]・[[人材]]・[[文化 (代表的なトピック)|文化]]・[[政治]]などを対象とした総合的な[[世界都市#研究調査|世界都市ランキング]]において世界第33位の都市と評価された<ref name="GCI">[http://www.atkearney.com/documents/10192/4461492/Global+Cities+Present+and+Future-GCI+2014.pdf/3628fd7d-70be-41bf-99d6-4c8eaf984cd5 2014 Global Cities Index and Emerging Cities Outlook] (2014年4月公表)</ref>。
1912年に[[1912年ストックホルムオリンピック|第5回夏季オリンピック]]が開催された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/olympic/rio2016/column/rioeys/news/1695271.html|title=立ち上がれ!0メダル県、出生地別メダル獲得数公開|publisher=日刊スポーツ|date=2016-08-15|accessdate=2023-03-22}}</ref>。漢字表記は'''士篤恒'''、'''須篤保留武'''。
== 歴史 ==
{{出典の明記|date=2022年4月|section=1}}
[[ファイル:Stockholm panorama 1868.jpg|180px|left|thumb|1868年頃に熱気球から描かれたストックホルム(西方向を望む)]]
[[ファイル:Stockholm Kungsträdgården (1890-1900).jpg|180px|left|thumb|1890–1900年頃のストックホルムの[[王立公園 (スウェーデン)|王立公園]]]]
[[13世紀]]の半ばに、小島[[スタツホルメン島]]<ref group="注釈">[[メーラレン湖]]から東の[[バルト海]]へ向かう流れが、途中の[[リッダーフィヨルド]]へ抜ける狭隘地点に位置する。</ref>に[[要塞|砦]]として築かれたのが都市建設の最初である。
[[1250年代]]に即位したとされる[[フォルクンガ王朝]]初代国王[[ビルイェル・ヤール]]が築き、小都市の機能も備えたとされる。戦闘に備えて島を囲むように丸太の柵が巡らされていたために、「丸太の小島」と呼ばれるようになった。これは[[スウェーデン語]]で「ストックホルム」と言う。
都市はスタツホルメン島外へ次第に拡大し、近郊の小島などに広がっていった。都市の名も「ストックホルム」として落ち着いた。都市の始まりとして築かれたスタツホルメン島は「[[ガムラスタン]](旧市街)」と呼ばれ、昔ながらの[[中世]]の建物が建ち並んでいる。
13世紀中葉以降、バルト海沿岸の[[ハンザ同盟]]都市との交易で成長。[[カルマル同盟]]下で、[[デンマーク]]王家にとって重要な都市となっていく。スウェーデンの都市は、他の[[ヨーロッパ]]の都市と比べると小規模で、ストックホルム以外の[[都市化]]は遅々として進んでいなかった。
1520年、[[クリスチャン2世 (デンマーク王)|クリスチャン2世]]が[[ストックホルムの血浴]]と呼ばれる独立派の処刑を行う。
この結果として独立運動が高揚、1523年にスウェーデンは[[グスタフ1世 (スウェーデン王)|グスタフ1世]]の下で[[スウェーデン|スウェーデン王国]]として独立し、その首都として人口が増加、1600年には1万人に達する。
[[17世紀]]はスウェーデンが[[列強]]の一つに成長した時期であり、ストックホルムの人口も1610年から1680年の間に6倍に膨れ上がった。しかし、他国のような[[人口爆発]]はスウェーデンにおいては小規模にしか発生せず、都市と言えるような街は他には海港[[ヨーテボリ]](イェーテボリ)くらいしか無かった。[[スカンディナヴィア]](スカンジナビア)の諸都市と国内の諸都市を結ぶ交易を、ストックホルムが独占していく。1710年、この地でも[[ペスト]]が猛威を振るう。さらに[[大北方戦争]]の敗北で都市の発展に翳りが見えたが、「[[自由の時代]]」を経て[[グスタフ3世 (スウェーデン王)|グスタフ3世]]の治世で文化面で「[[ロココ]]の時代」を迎える。[[19世紀]]後半には再び産業の中心都市として復興し、人口も[[移民]]の流入で増加する。ストックホルム生まれは市の人口の4割にも達せず、[[商業]]などを通じて[[ドイツ人]]や[[オランダ人]]などが大量に入植し、ストックホルムの都市化が進んだ。この時期、[[カロリンスカ研究所]]など多くの研究機関・大学が創設された。なお、1713年以降の市内のあらゆる種類の建築物の[[建築図面]]と計画は2011年、「ストックホルム[[都市計画]]委員会の[[アーカイブ]]」として[[ユネスコ]]の[[世界の記憶]]に指定された<ref>{{Cite web |url=http://www.unesco.org/new/en/communication-and-information/memory-of-the-world/register/full-list-of-registered-heritage/registered-heritage-page-8/stockholm-city-planning-committee-archives#c200831 |title=Stockholm City Planning Committee Archives |access-date= |publisher=UNESCO |archive-url=https://webarchive.unesco.org/web/20220331182418/http://www.unesco.org/new/en/communication-and-information/memory-of-the-world/register/full-list-of-registered-heritage/registered-heritage-page-8/stockholm-city-planning-committee-archives#c200831 |archive-date=Mar 31, 2022 |deadlinkdate=2023/02/09}}</ref>。
[[18世紀]]以降には直接戦火に巻き込まれなかったため、[[20世紀]]以降のストックホルムは現代的な多民族都市へと成長。[[:en:Klara (Stockholm)|クララ]]地区などの古い歴史的町並みは、現代建築に建て替えられていった。ストックホルムの人口は増加を続けているが、それは自然増ではなく移民によって構築されている。{{いつ範囲|最近になって|date=2022年4月}}移民が独自の[[共同体|コミュニティ]]を形成し始めている。
== 経済 ==
購買平価説に基づき、2020年のストックホルムの一人当たり実質国民総所得は80,120ドルと予測される<ref>{{Cite web |title=OECD Statistics |url=https://stats.oecd.org/ |website=stats.oecd.org |accessdate=2022-03-10}}</ref><ref>{{Cite web |title=GNI per capita, PPP (current international $) {{!}} Data |url=https://data.worldbank.org/indicator/NY.GNP.PCAP.PP.CD?end=2020&most_recent_value_desc=true&start=2020&year_high_desc=true |website=data.worldbank.org |accessdate=2022-03-10}}</ref>。
[[工業#工業の分野|重化学工業]]は市内には事実上存在しない。市の雇用を吸収しているのは[[ハイテク]]産業である。[[情報技術|IT]]産業のセンターは市の北部に形成されている。ストックホルム最大の企業(従業員数)はストックホルムに本社を置く[[移動体通信]]メーカーの[[エリクソン]]で、およそ8,500人を雇用している。
[[金融機関|金融業]]も発展しており、2020年に[[イギリス]]の[[シンクタンク]]により、ストックホルムは世界第28位の[[金融センター]]と評価されている<ref>{{Cite web|title=GFCI 27 Rank - Long Finance|url=https://www.longfinance.net/programmes/financial-centre-futures/global-financial-centres-index/gfci-27-explore-data/gfci-27-rank/|website=www.longfinance.net|accessdate=2020-07-14}}</ref>。
== 地理 ==
[[メーラレン湖]]が[[バルト海]]に達する場所に位置し、市の中心部はストックホルム諸島 (Stockholm archipelago) を構成する島々の内、14の小島を含む。市の地勢上の中心はリッダー湾に沿っている。市の面積の30%は[[運河]]が占め、[[公園]]や[[グリーンベルト|緑地帯]]も30%を占めている。
== 交通 ==
===航空===
*[[ストックホルム・アーランダ空港]]
*[[ストックホルム・ブロンマ空港]]
===鉄道===
*[[SJ AB|国鉄]]
*[[ストールストックホルムス・ロカールトラフィーク|SL]] (Storstockholms Lokaltrafik)
**郊外電車 (Pendeltåg)
***Bålsta - Kungsängen/Märsta- Sollentuna - Karlberg - Stockholm City (T-Centralen) - Älvsjö - Nynäshamn/ - Södertälje hamn - Gnesta/Södertälje Centrum
***Roslagsbanan
***Saltsjöbanan
**[[ストックホルム地下鉄|地下鉄]] (Tunnelbanan)
***「Röda linjen」(赤線) - Mörby centrum - Tekniska Högskolan/Ropsten - Östermalmstorg - T-Centralen - Liljeholmen - Sätra - Norsborg/- Telefonplan - Fruängen
***「Gröna linjen」(緑線)- Hässelby strand - Alvik - T-Centralen - Gullmarsplan - Högdalen - Hagsätra/- Skärmarbrink - Skarpnäck/- Hökarängen - Farsta strand
***「Blå linjen」(青線) - Akalla/Hjulsta - Västra skogen - T-Centralen - Kungsträdgården
**[[:en:Trams in Stockholm|トラム]] (Spårvagnstrafik)
***Spårväg City
***Djurgårdslinjen
***Nockebybanan
***Lidingöbanan
***Tvärbanan
*[[ストックホルム中央駅]] 国際列車
===海運===
*[[バルト海クルーズ]] 国際航路([[シリヤライン]]、[[タリンク]]、[[ヴァイキングライン]]など)
== 気候 ==
[[西岸海洋性気候]]に属する。高緯度地方のため、1日の[[日照時間]]は夏の18時間から12月下旬の6時間まで差が激しい。[[メキシコ湾流]]の影響で緯度の割には温暖。年間の[[降水量]]は464.9mm。[[地球温暖化]]により、冬季の降雪がない年も増えつつある。
<!--Infobox begins-->{{Weather box
|location= ストックホルム(1991~2020)
|metric first = Y
|single line = Y
|Jan record high C = 11.1
|Feb record high C = 12.2
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|precipitation colour = green
|Jan precipitation mm = 32.7
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|year precipitation mm =
|year precipitation days =
|year sun =
|date=2022年7月
}}<!--Infobox ends-->
== 治安 ==
[[欧州連合]] (EU) 諸国では一般的に、大都市に住む人は人口の少ない地域に住む人の3倍もの問題を経験しているが、スウェーデンでは2倍以下である<ref name=":3">{{Cite web |title=Fler upplever brottslighet och vandalisering i sitt bostadsområde |url=http://www.scb.se/hitta-statistik/artiklar/2019/fler-upplever-brottslighet-och-vandalisering-i-sitt-bostadsomrade/ |website=Statistiska Centralbyrån |accessdate=2022-02-10 |language=sv}}</ref>。2021年の[[世界平和度指数|世界平和指数]]で、[[経済平和研究所]]が「犯罪動向と刑事司法制度の運用に関する[[国際連合|国連]]研究」に基づき、意図的殺人の項目でスウェーデンを1.55(5段階評価)とし、[[日本]]の1.15より高いが、少なくともEUでは[[フィンランド]]の1.8より低く、[[オランダ]]の1.3や[[ドイツ]]の1.45や[[デンマーク]]の1.5とほとんど変わらず、[[アメリカ合衆国]]の2.75よりはるかに低い。暴力犯罪カテゴリーではレベル2(1 - 5段階)、安全・安心への取り組み不足カテゴリーでは1.46を獲得した<ref>{{Cite web |title=Global Peace Index Map » The Most & Least Peaceful Countries |url=https://www.visionofhumanity.org/maps/ |website=Vision of Humanity |accessdate=2022-02-11 |language=en-US}}</ref>。まとめると、暴力犯罪のカテゴリーレベル2であるスウェーデンの人口の少ない地域の2倍弱の治安問題を抱える大都市ストックホルムの治安状況は、日本より悪いがアメリカより良いということである。そして、それがEUの大都市の平均と同程度である<ref name=":3" />。
== 文化 ==
=== ストックホルムを舞台にした作品 ===
*[[ペール・ヴァールー|シューヴァル&ヴァールー夫妻]]による『[[マルティン・ベック|警部マルティン・ベック]]シリーズ』全10巻の舞台。初めから10作限定で、スウェーデン社会の10年を描くという構想で書かれたものであり、ストックホルムの町やその周辺の町のあちこちが登場する。
*[[宮崎駿]]監督のアニメ『[[魔女の宅急便 (1989年の映画)|魔女の宅急便]]』の舞台となる街「コリコ」のモデルの1つである。おもにモデルとなったのは[[ゴットランド島]]の[[ヴィスビュー|ヴィスビー]]で、他に[[ポルトガル]]や[[アイルランド]]なども使われている。
*[[佐々木譲]]による小説『[[ストックホルムの密使]]』([[日本冒険小説協会]]大賞受賞作)
*[[アストリッド・リンドグレーン|リンドグレーン]]による『[http://www.aga-search.com/885kalleblomkvist.html 名探偵カッレくん]』、『カッレくんの冒険』、『名探偵カッレとスパイ団』
=== ストックホルム出身の人物 ===
*[[ユーハン・ヘルミク・ルーマン]](後期[[バロック音楽]]の作曲家)
*[[アルフレッド・ノーベル]]([[ダイナマイト]]の発明者)
*'''[[ヴァン・ヴァルフリート・エクマン]]([[海洋物理学]]者)'''
=== 建築 ===
{{wide image|Stockholm stadshuset.jpg|2000px|ストックホルム市庁舎から西の[[メーラレン湖]]方向を望む。}}
[[ファイル:Katarina kyrka utsikt Gamla stan 2012a.jpg|thumb|[[ガムラスタン]]]]
[[ファイル:Kungliga slottet 19 juni 2010.jpg|thumb|[[ストックホルム宮殿]]]]
*[[ガムラスタン]] (Gamla Stan) - 旧市街。
**[[ストックホルム宮殿|王宮]] (Kungliga Slottet) - 内部は博物館、正午に衛兵交代式が行われる。
**[[国会議事堂 (スウェーデン)|国会議事堂]] (Riksdagshuset)
**大聖堂 (Domkyrkan)
**ユダヤ教会
**[[騎士]]の家 (Riddarhuset)
*[[ユールゴーデン]] (Djurgården)
**[[グローナルンド遊園地]]
*ローゼンダル宮殿 (Djurgården)
*[[リッダルホルム教会]] (Riddarholmskyrkan)
*[[ストックホルム市庁舎]] (Stadshuset) - 内部公開。[[ノーベル賞]]受賞者の記念晩餐会が開かれることで世界的に有名。
*ロングホルメン[[刑事施設|監獄]] (Långholmen) - [[ユースホステル]]として活用。
*カクネスタワー (Kaknästornet) - [[電波塔|テレビ塔]]。
*[[スコーグスシュルコゴーデン]] (Skogskyrkogården) - 直訳すると「森の教会墓地」。建築家アスプルンドが設計した郊外墓地。[[世界遺産]]。
*[[帆船]]アフ・チャップマン号 - 保存公開。内部はユースホステルとして活用。
=== 博物館 ===
[[ファイル:Nationalmuseum 2012.jpg|thumb|[[スウェーデン国立美術館]]。]]
*郵便博物館 (Postmuseet)
*貨幣博物館
*[[ノーベル博物館]] - ガムラスタン地区。
*[http://homepage2.nifty.com/~bunko/hokuo/01stock/01.htm スカンセン野外博物館] - 世界最初にできた[[野外博物館]]。
*[[ストックホルム近代美術館]]
*[[スウェーデン国立美術館]] (Nationalmuseet)
*[http://abc0120.net/words03/abc2009080201.html スウェーデン国立近代美術館]
*[[スウェーデン国立歴史博物館]] (Historiska museet)
*音楽博物館 (Musikmuseet) - [[ABBA]]の展示が地下にある。幅広い関係資料が閲覧できる機械もある。
*兵器博物館
*東洋博物館 (Östasiatiska museet)
*[[北方民族博物館]] (Nordiska museet) - 国立の博物館。スウェーデン全体についての総合博物館。歴史民俗宗教、[[生活史]]、[[博物学|自然史]]など幅広い展示。また、地下にABBAの展示コーナーがあった。
*[[ヴァーサ (戦列艦)|ヴァーサ号]]博物館 (Vasamuseet)
*ダンス博物館 (Dansmuseet)
*国立民族誌博物館 (Etnografiska Museet) - 世界各国の[[民族誌]]資料の展示。敷地内には日本の[[茶室]]「瑞暉亭(ずいきてい)」もある。1935年に一度建てられたが1969年焼失し、1990年に再建されたもの<ref>[http://www.varldskulturmuseerna.se/en/etnografiskamuseet/programme/the-japanese-tea-house/ Japanese Tea House] Etnografiska Museet</ref><ref>[http://archistory.korea.ac.kr/archive_110919/Articles/08%20SADI%20NEWS%2029%201_5.pdf アルヴァ・アールト ヴィラ・マイレアと「床の間」] 金顯燮、SADI NEWS 29, THE SCANDINAVIAN ARCHITECTURE AND DESIGN INSTITUTE OF JAPAN 2008</ref>
=== 劇場 ===
*[[オペラ]]劇場 (Kungliga Operan)
*[[スウェーデン王立歌劇場]]
*[[スウェーデン王立バレエ団]]
=== 郊外 ===
[[ファイル:Drottningholm.jpg|thumb|[[ドロットニングホルム宮殿]]]]
*[[メーラレン湖]]の遊覧船 - レストランつきの蒸気船がドロットニングホルム、ビルカ、シグチューナ、マリエフレッド、ストックホルム諸島の島々に就航。季節運航。また、ユールゴーデン周遊などストックホルム市内遊覧コースは頻発。
*[[ドロットニングホルム宮殿]] (Drottningholms slott) - 世界遺産。
**ドロットニングホルム宮廷庭園 - 世界遺産。
**ドロットニングホルム宮廷劇場 (Drottningholmsteatern) - 世界最古の屋内劇場、現役。王立オペラとバレエが使用。世界遺産。
*[[ビルカ]] (Birka) - [[ヴァイキング]]時代の遺跡のある島。世界遺産。
*[[ホーヴゴーデン]] (Hovgården) - ヴァイキング期の遺跡。ビルカとともに世界遺産登録。
*シグチューナ (Sigtuna) - スウェーデンの古い町並みが保存されている。
*マリエフレド (Mariefred)
*ストックホルム群島 (Stockholms skärgård)
**バックスホルム要塞 (Vaxholmskastellet)
=== スポーツ ===
[[ファイル:Zinkensdamms IP during winter.jpg|thumb|[[バンディ]]]]
*[[ストックホルム・スタディオン]]
*[[サッカー]]
**[[ハンマルビーIF]]
**[[ユールゴーデンIF]]
**[[AIKソルナ]]
*[[陸上競技]]
**[[DNガラン]] ([[:en:BAUHAUS-galan|DN Galan]])
== 対外関係 ==
=== 姉妹都市 ===
ストックホルムはどの都市とも正式に[[姉妹都市]]提携をしていないが、世界中の首都と協力関係にある。
=== 提携都市 ===
{{colbegin|2}}
*{{flagicon|BOL}}[[ラパス]]([[ボリビア多民族国]] [[ラパス県 (ボリビア)|ラパス県]])
*{{flagicon|BIH}}[[サラエヴォ]]([[ボスニア・ヘルツェゴビナ|ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦]])
*{{flagicon|COL}}[[サンティアゴ・デ・カリ|カリ]]([[コロンビア共和国]] [[バジェ・デル・カウカ県]])
*{{flagicon|DEN}}[[コペンハーゲン]]([[デンマーク|デンマーク王国]] [[デンマーク首都地域|首都地域]])
*{{flagicon|EST}}[[タリン]]([[エストニア共和国]] [[ハリュ県]])
*{{flagicon|DEN}}{{flagicon|FRO}}[[トースハウン]]([[デンマーク王国]] [[フェロー諸島|フェロー諸島国]] [[ストレイモイ島]])
*{{flagicon|FIN}}[[ヘルシンキ]]([[フィンランド|フィンランド共和国]] [[ウーシマー|ウーシマー州]] [[ウーシマー県]])
*{{flagicon|ETH}}[[アディスアベバ]]([[エチオピア連邦民主共和国]] [[アディスアベバ|アディスアベバ自治区]])
*{{flagicon|GRL}}[[ヌーク]]([[デンマーク王国]] [[グリーンランド|グリーンランド国]] [[セルメルソーク|セルメルソーク地区]])
*{{flagicon|ISL}}[[レイキャヴィーク]]([[アイスランド共和国]] [[大レイキャヴィーク|大レイキャヴィーク地方]])
*{{flagicon|ITA}}[[バッサーノ・デル・グラッパ]]([[イタリア共和国]] [[ヴェネト州]] [[ヴィチェンツァ県]])
*{{flagicon|ITA}}[[シラクサ]]([[イタリア共和国]] [[シチリア州]] [[シラクーザ県]])
*{{flagicon|LVA}}[[リガ]]([[ラトビア|ラトビア共和国]] [[ラトビアの地方行政区画#直轄市|直轄市]])
*{{flagicon|LTU}}[[ヴィリニュス]]([[リトアニア共和国]] [[ズーキヤ|ズーキヤ地方]] [[ヴィリニュス郡]])
*{{flagicon|MNE}}[[ポドゴリツァ]]([[モンテネグロ|モンテネグロ国]] [[モンテネグロの基礎自治体#ポドゴリツァ|首都地域]])
*{{flagicon|MAR}}[[ケミセット]]([[モロッコ王国]] [[ラバト=サレ=ケニトラ地方|ラバト・サレ・ケニトラ地方]] ケミセット州)
*{{flagicon|NED}}[[アムステルダム]]([[オランダ|オランダ王国]] [[北ホラント州]])
*{{flagicon|RUS}}[[サンクトペテルブルク]]([[ロシア連邦]] [[ロシアの連邦市|連邦市]])
*{{flagicon|ALB}}[[ティラナ]]([[アルバニア共和国]] [[ティラナ州]] [[ティラナ県]])
*{{flagicon|SRB}}[[ベオグラード]]([[セルビア共和国]] [[特別市]])
*{{flagicon|TUR}}[[イスタンブール]]([[トルコ共和国]] [[イスタンブール県]])
*{{flagicon|UKR}}[[キーウ]]([[ウクライナ]] [[ウクライナの地方行政区画#ウクライナの地方行政区画|特別市]])
{{colend}}
== 関連項目 ==
* [[残留性有機汚染物質に関するストックホルム条約]]
* [[さらば、ストックホルム]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Stockholm|Stockholm}}
=== 公式 ===
* [https://international.stockholm.se/ ストックホルム市公式サイト] {{en icon}}
=== 日本政府 ===
* [https://www.se.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在スウェーデン日本国大使館]
=== 観光 ===
* [http://letsgo-sweden.com/ストックホルム/ ストックホルム (Stockholm ) のご紹介 北欧 在日スウェーデン大使館公認旅行観光サイト] - 一般社団法人 スウェーデン観光文化センター
* {{Wayback |url=http://www.visitsweden.com/VSTemplates/Page____40578.aspx |title=Stockholm – Scandinavia |date=20060502185840}} - Visit Sweden (SWEDEN.SE - the official gateway to Sweden) {{en icon}}
{{夏季オリンピック開催都市}}
{{欧州連合加盟国の首都}}
{{ヨーロッパの首都}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:すとつくほるむ}}
[[Category:ストックホルム|*]]
[[Category:ヨーロッパの首都]]
[[Category:スウェーデンの都市]]
[[Category:ハンザ同盟]]
[[Category:夏季オリンピックの開催都市]]
[[Category:ストックホルム県の市]]
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[[Category:ユネスコ記憶遺産]]
[[Category:ビルイェル・ヤール]] | 2003-05-28T13:18:01Z | 2023-11-24T08:00:53Z | false | false | false | [
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9,468 | 御茶ノ水駅 | 御茶ノ水駅(おちゃのみずえき)は、東京都千代田区・文京区にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)の駅である。
神田川(外堀)南側(千代田区側)にJR東日本の駅が、北側(文京区側)に東京メトロの駅がある。所在地は、JR東日本が千代田区神田駿河台二丁目、東京メトロが文京区湯島一丁目である。
JR東日本の各線(後述)と、東京メトロの丸ノ内線が乗り入れる接続駅である。また、各路線に駅番号が付与されている。
JR東日本の駅は、当駅の所属線である中央本線と、当駅を終点とする総武本線(支線)との分岐駅となっている。中央本線の当駅以西(新宿方面)は急行線(快速線)と緩行線との複々線区間である。急行線には東京駅発着の中央線快速電車が、緩行線には総武本線(錦糸町駅方面)と直通運転を行っている中央・総武線各駅停車が乗り入れる。2020年(令和2年)3月13日までは早朝・深夜帯(始発 - 概ね午前6時過ぎと概ね翌日午前0時過ぎ - 終電まで)に限って東京駅発着で中央緩行線に乗り入れる各駅停車も運行されていたが、同年3月14日のダイヤ改正に伴い、中央・総武緩行線当駅折り返し発着は廃止となり、すべての時間帯で千葉駅 - 当駅 - 三鷹駅の直通運転となっている(これに付随して、その時間帯に運行していた東京駅発着の中央線各駅停車も廃止され、こちらは終日快速以上の優等列車のみの乗り入れとなった)。
またJR東日本の駅は、特定都区市内制度における「東京都区内」、類似の制度である「東京山手線内」に属している。
駅名の元となった地名の由来については御茶ノ水を参照。
現在の中央本線の新宿 - 八王子間は、私鉄の甲武鉄道が建設した。その後甲武鉄道は東京市街地中心部への路線延長を図り、1895年(明治28年)4月3日に飯田町駅まで蒸気機関車による運転で開通した。この飯田町駅は飯田橋駅よりも東側にあった駅で、後に貨物駅となり1999年(平成11年)に廃止となった。さらに甲武鉄道は、列車運転本数の増加を図るとともに、蒸気機関車の運転による音や煤煙の公害を軽減する目的もあって、路線の電化を行って電車の運転を開始し、路線の市街地方面へのさらなる延長を行った。こうして1904年(明治37年)12月31日に飯田町から御茶ノ水までの路線が当初から複線電化で開通し、御茶ノ水駅がこの際に開業した。御茶ノ水 - 中野の間で1日28往復、新宿までは10分間隔の運転であった。当初の御茶ノ水駅は現在地よりも新宿寄り、御茶ノ水橋を挟んで反対側にあった。当時の駅舎の跡地には神田警察署お茶の水交番が所在している。駅舎は洋風木造平屋建て、またプラットホームは相対式ホーム2面2線であった。
この区間の建設に当たっては、東京市区改正委員会から道路への影響を避けるように求められ、結果として外濠の内側を走る経路が選択された。また土手や崖地の景観をできるだけ保全するように求められ、さらに湧水にも苦しめられる難工事となった。こうした条件から、御茶ノ水駅は神田川と崖が迫る狭隘な場所に建設される結果となった。
甲武鉄道はさらに御茶ノ水駅より東側の区間の建設を進めていた。しかし1906年(明治39年)10月1日に鉄道国有法により甲武鉄道は国有化され、御茶ノ水駅は国有鉄道の駅となるとともに、御茶ノ水駅より東への延長工事も国鉄へ引き継がれた。1908年(明治41年)4月19日に昌平橋駅までが開通して、当駅は中間駅となった。また同年10月12日に国有鉄道線路名称が制定されて、御茶ノ水駅が所属する路線は中央本線と命名された。
1923年(大正12年)9月1日には関東大震災に見舞われ、御茶ノ水駅は駅舎が一部焼失する被害を受けた。しかしこれは応急復旧されてそのまま使用された。また神田川に面した崖が大規模に崩落し、この箇所を復旧した形跡は2010年代に入ってもなお残されている。
それまであまり輸送量の大きな路線ではなかった中央本線は関東大震災後、復興資材となる砂利の輸送が拡大し、通勤輸送についても輸送量が急増した。さらに失業対策事業の一環もあって、大正末期に御茶ノ水 - 中野間の複々線化工事に着手することになった。またこの頃、総武本線は両国駅(1931年までは両国橋駅)が起点だったため、旅客はバスや市電に乗り換えて他の路線の駅に向かわなければならなかった。総武本線を市街中心地まで延長して他の路線と連絡させる計画は古くからあったが、関東大震災で市街地が焼失したことを契機とする区画整理の一環として線路用地を買収し、両国と御茶ノ水を結ぶ高架路線を建設することになった。
この工事に伴い、御茶ノ水駅はそれまでの所在地より東側の、お茶の水橋と聖橋の間に移転した。出入口は御茶ノ水橋と聖橋の双方のたもとに設けられた。プラットホームは島式ホームを2面設置して、両国と連絡する総武本線の線路を内側、中央本線の線路を外側にした方向別配置とした。総武本線の線路は御茶ノ水を出ると、33パーミルの上り勾配で登って中央本線の上り線を跨ぎ越す構造とされた。総武本線は中央本線の緩行線・急行線の双方ともに連絡でき、かつ折り返しもできる配線とされた。プラットホームは完成時点では全長152.2メートル、幅は川側の中央本線上り・総武本線下りホームが6.5メートル、山側の総武本線上り・中央本線下りホームが5.8メートルとなった。
工事は、中央本線の電車が行き交う脇で、しかも駿河台の民家に近接して高さ12メートルに及ぶ擁壁を構築する必要があるなど、困難なものとなった。施工は大倉土木(現在の大成建設)が請け負った。総武本線側の工事が完成して1932年(昭和7年)7月1日から御茶ノ水駅に総武本線の電車が乗り入れを開始し、続いて1933年(昭和8年)9月15日に御茶ノ水 - 飯田町間の複々線化工事が完成して中央線急行電車(現在の中央線快速)が運転を開始した。
総武本線の乗り入れ工事に合わせて、2代目の御茶ノ水駅舎の建築が行われた。この頃の建築界では、過去の様式にとらわれずに新しい建築材料にもっとも適した建築をしようというウィーン分離派(ウィンナー・セセッション)の動きが出ていた。そして鉄・ガラス・コンクリートといった材料を使って、無装飾で実用本位な建築を行うインターナショナル・スタイルが誕生し、日本においてもこうしたモダニズム建築の動きが見られるようになった。こうしたモダニズム建築の様式による駅舎の設計を行ったのは、東京帝国大学建築学科を卒業して鉄道省に入省した、建築家の伊藤滋であった。設計に際しては、湯島聖堂の近くにあるから東洋趣味を重んじたものにするように、との外部団体からの要望も寄せられたが、伊藤はこれを一蹴し、震災復興橋梁として先に完成していた聖橋(1927年完成)、御茶ノ水橋(1931年完成)との調和を重視した設計を行った。それまでの駅はいったん乗客を待合室に滞留させてからプラットホームへ導くものであったが、伊藤は駅は道路の一部であるとして旅客流動を重視した設計を行い、やってくる乗客を次々に捌く新しい電車時代の駅を設計した。これは駅舎設計の根本的な転換で、以降の通勤電車の駅の設計の基本となった。これ以降、乗降客数は比べ物にならないほど増加したものの、御茶ノ水駅はその機能を果たし続けている。
第二次世界大戦後は、国鉄の駅にはプラットホームの延長や上屋の設置といった工事が行われた。1954年(昭和29年)1月20日には帝都高速度交通営団(営団)丸ノ内線の御茶ノ水駅が開業し、1969年(昭和44年)12月20日には営団千代田線の新御茶ノ水駅も付近に開業している。丸ノ内線の御茶ノ水駅の建設にあたっては国鉄駅より駿河台側や国鉄駅の直下なども検討され、後者の案に関しては中川浩一によれば展覧会で完成予想パノラマも展示されたとのことだが、最終的には建設費節約の関係や国鉄駅の基礎を解体することが不可能なことから、現在地の神田川左岸が選択された。御茶ノ水駅は神田川に面した急傾斜地に建設された関係で、アプローチ部分が半地下の駅舎のような構造となったが、建設費の節約を追求した当時の鈴木清秀営団総裁の「いたずらに宏壮華美を求めない」との方針の影響を受けてか国鉄の御茶ノ水駅と同じくインターナショナル・スタイルで設計されることになった。設計を担当したのは、国鉄の御茶ノ水駅の設計にも伊藤滋を補佐して関わった土橋長俊の主宰する土橋大野建築事務所であった。風致地区であったため上質な仕上げが心がけられ、ガラスをはめ込んだ出入口や軟石を貼るなどされている。単純な直線と曲線を組み合わせたシンプルで無駄のない造形であり、頂部の半円形の連続窓は土橋のかかわった交通博物館のガラス張りの階段室に通じるとされる。第二次世界大戦中の鉄筋コンクリートなどの資材不足により一度は途絶えた日本の鉄道におけるモダニズム建築はここで再び受け継がれ、以降の国鉄の駅舎の多くがインターナショナル・スタイルで建設されていくことになった。当駅付近の丸ノ内線建設工事の際に、縄文時代の遺物が発見されて学術調査により貝塚と認定され、お茶の水貝塚と命名されている。
1968年(昭和43年)7月16日の22時30分頃、国鉄の当駅1番線ホームを出発した豊田行き10両編成の電車のドアに乗客が挟まれているのを駅員が発見し、非常停止ブザーを扱ったために電車が非常停止した。後続の高尾行き10両編成の電車の運転士は、先行列車が出発するだろうとの見込みに基づいて、自動列車停止装置 (ATS) の電源を切って停止現示の信号を無視して進入したため追突事故を起こし、重軽傷者150人以上を出した。
国鉄分割民営化直後、JR東日本では1988年(昭和63年)に御茶ノ水駅の改築計画を打ち出した。従来の単なる通過点としての駅から、人々が楽しみ、最新の情報が得られる多様なサービス機能を備えることが必要であるとして、「都市型未来志向のモデル駅」として、事業費65億円、賞金2000万円の公開コンペを1989年に実施した。252点の応募があり、ゼネコンの応募した作品が最優秀に選ばれた。最優秀賞の設計は、3階建て延べ床面積約11,000平方メートルで、1階は列柱とアーチのコンコース、2階には水族館とホール、3階には美術館を備えるものであった。しかしその後、列車の運行を止めずに工事を進めるには上部を支える強い支柱が必要で技術的に難しいといった理由からJRはチームを解散し、改築計画は自然消滅となった。
改築計画の消滅により、1932年に完成した駅構造がそのまま21世紀まで使い続けられることになった。駅が神田川と駿河台に挟まれた狭隘な場所にあるという構造上・立地上の問題からバリアフリー対応が十分に行われず、車椅子用のリフトは設置されているが、エレベーターやエスカレーターは設置されていないままであった。周辺に大学病院などの大規模な病院が数多く立地し、外来で通院する高齢者などから苦情が寄せられていたため、2002年に周辺の8病院が連名でJR東日本にバリアフリー対応の要請を行い、また、2006年12月下旬からエレベーターとエスカレーターの設置を求める署名運動が行われて、2008年に約1万2000人分の署名を千代田区長に提出して対策推進を要望した。
これに対して、JR東日本は長らく費用面から及び腰であったが、2010年3月26日に、当駅で2010年度末からバリアフリー整備を行うことがJR東日本より発表された。また同日千代田区もJR東日本と連携して駅前広場の整備事業を行うことを発表した。その内容は、線路上空に人工地盤を設置し、改札内に連絡通路を新設し、御茶ノ水橋口駅舎および聖橋口の駅前広場機能の整備を行う。また、聖橋口駅舎を人工地盤上に移設してエレベーターやエスカレーターなどを設置することによりバリアフリー整備を行うものであった。これには、聖橋口前での旧日立製作所本社ビル(御茶ノ水セントラルビル)跡地での大型複合ビル建設など、病院の町としてだけでなく新たなオフィスビルの集積を目指した都市改造プロジェクトが進められていることから、新たな客層獲得がJR東日本の改修工事着手を後押しすることになったと推測されている。
今回の計画は、当駅が狭い場所に立地していることから非常に難易度の高い大規模な工事になり、それに伴い列車の運行を変更する可能性もあるという。2010年度内に概略設計や関係者との調整を行い、同年度末の工事着手を目指して検討が進められる。2013年の秋以降は、駅構内や周辺の耐震補強を含めた本格的な駅改良工事へ入り、バリアフリー整備関連は2018年度まで、駅前広場機能整備は2020年度の完成を目標としていたが、工事の過程で広範囲に渡る地中埋設物の処理の影響により、バリアフリー設備は2019年1月末、駅前広場機能整備は2023年度に変更されることになった。その後、2023年10月17日に、JR東日本は、新聖橋口駅舎が同年12月3日、駅前広場機能整備が2024年度中に使用開始することを発表した。
JR中央線は、2020年代前半(2021年度以降の向こう5年以内)をめどに快速電車に2階建てグリーン車を2両連結させ12両編成運転を行う。そのため快速電車が停車する1・4番線は、ホームの12両編成対応改築工事が実施される。
直営駅(駅長配置)で当駅の他に秋葉原駅を管理している。島式ホーム2面4線を持つ地上駅で、橋上駅舎を有している。御茶ノ水橋と聖橋の間にホームがあり、それぞれの橋の南側に出口がある。それぞれ御茶ノ水橋口と聖橋口と称する。駅本屋は御茶ノ水橋側(水道橋側)にある。さらに聖橋口より東側(秋葉原側)に平日の朝のみ機能している出口専用の臨時改札口がある。高台の擁壁と神田川の間に線路が敷かれているため、ホームの幅が非常に狭い。改良工事前、トイレは御茶ノ水橋口と聖橋口の改札口内にあって、ともに多機能トイレはなかった。現在は1ヶ所に集約されて、多機能トイレも設置されている。
御茶ノ水橋口駅舎は、1932年(昭和7年)7月の総武本線乗り入れに合わせて使用開始された、伊藤滋設計によるモダニズム建築であり、それまでの乗客を待合室に滞留させてからプラットホームに導く駅から、旅客流動を重視して次々に乗客を電車に流し込む、新しい通勤電車の駅のスタイルを初めて確立した。東側の聖橋口駅舎は大きく改築されており原形を留めていないが、御茶ノ水橋口駅舎は建設以来大きく手を入れられていない。しかしバリアフリー対策工事に2013年度から着手することになっていることは前記した。
外側2線を中央線快速が、内側2線を中央・総武線各駅停車がそれぞれ使用し、同じ方向の列車を同じホームで乗り換えできる、方向別複々線となっている。これを実現するために御茶ノ水駅の前後に立体交差が設置されている。並走する三鷹 - 御茶ノ水間のうち同方向であれば、階段を使わずに乗り換えが可能な唯一の駅である。
当駅を境に中央線と総武線の各駅停車の列車が相互直通運転を行う。2020年(令和2年)3月13日まで、早朝と深夜は中央線・総武線は分離して運転を行っていた。総武線は当駅で折り返し、中央線は当駅の水道橋方で快速線と緩行線との間を転線して東京駅発着で運転され、快速用のE233系電車が使用された。総武線の上り列車は2番線に到着し、そのまま中央緩行線下り本線に引き上げ、その後3番線に入線して総武線下り列車となっていた。千葉方面の特急列車も当駅で転線する。上下(東西)両線とも、快速線・緩行線相互間の転線は水道橋方のポイントで可能である。なお、3番線から中央緩行線西行きへの出発も可能だが、通常は設定がない。
2020年(令和2年)3月14日のダイヤ改正以降は前述の通り早朝・深夜の総武線・中央線分離運転が廃止され、当駅を始発・終着とする列車は大幅に削減された。
(出典:JR東日本:駅構内図)
相対式ホーム2面2線を有する地下駅。
1番線銀座方に池袋方面線路への片渡り線が1本ある。定期ダイヤでの当駅発着列車は2010年現在設定されていないが、池袋駅 - 当駅間が開業した時から東京駅への延伸まで引き上げ線として使われた後、淡路町駅まで延伸開業した際(当時は単線運転)に池袋方面行の電車が渡り線を使用し転線していた名残りである。2007年6月にホームドアが設置されたが、車両とホームの隙間を調整する工事のため、2008年3月22日まで稼動を一時休止して、翌23日に再開された。
かつては定期券うりばがJR口改札前にあったが、1993年11月に東京駅へ移転となり、代替措置として継続定期券発売機が設置された(のちに新規定期券も購入可能)。
JRの駅とは違い、両改札口にエレベーターが設置されている。なお、1番線ホームへの改札口にあるエレベーターは、東京医科歯科大学に直接入ることができる。
駅は神田川に面した急傾斜地に建設された関係で、アプローチ部分が半地下構造の駅舎に類する設計で設けられた。この部分は、国鉄・JR御茶ノ水駅の1932年完成の駅舎にも関わった土橋長俊が主宰する土橋大野建築事務所の設計で、国鉄・JRの御茶ノ水口駅舎と同じインターナショナル・スタイルを採用している。
かつては千代田線新御茶ノ水駅との連絡駅となっていたが、都営地下鉄新宿線小川町駅が開業し、新御茶ノ水駅と淡路町駅が直接つながったことで、新御茶ノ水駅と当駅(東京メトロ)との連絡を解消した(ただし、JRの乗り換え案内では現在も千代田線が含まれている)。
改札口は2か所で、各ホームに直結している。1番線の改札を出ると1番出入口、2番線の改札を出ると2番出入口しか利用できない構造となっている。1番線で降りて2番出入口へ行きたい場合は(その逆も同様)改札口横の地下通路を用いて隣のホームへ向かうこととなる。また地下通路にはエレベーターの設置はない。
(出典:東京メトロ:構内図)
ワンマン運転開始に伴い、スイッチ制作の発車メロディ(発車サイン音)が導入されている。
曲は1番線が、「ハートレール」(串田亨作曲)、2番線が「ジェントルトレイン」(福嶋尚哉作曲)である。
各年度の1日平均乗降人員は下表の通りである(JRは除く)。
各年度の1日平均乗車人員は下表の通りである。
JR線の北を神田川が流れる。丸ノ内線の駅は神田川の北側にあり、御茶ノ水橋でつながる。聖橋は東、お茶の水橋は西に架かる。駅周辺は明治・日本・順天堂・東京医科歯科の各大学などがあり、『日本のカルチエ・ラタン』とも呼ばれる学生街として知られている。また、楽器店やスポーツ用品店、歴史ある有名病院も数多い。
なお、お茶の水女子大学の最寄り駅は当駅ではなく丸ノ内線茗荷谷駅と有楽町線護国寺駅である。前身の東京女子高等師範学校が湯島聖堂および現在の東京医科歯科大学の敷地内にあったためである。
駅西口の「御茶ノ水駅前」停留所に、都営バスと千代田区地域福祉交通「風ぐるま」(日立自動車交通が運行)、文京区コミュニティバス「Bーぐる」(日立自動車交通が運行)の路線が乗り入れている。 | [
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"text": "JR東日本の駅は、当駅の所属線である中央本線と、当駅を終点とする総武本線(支線)との分岐駅となっている。中央本線の当駅以西(新宿方面)は急行線(快速線)と緩行線との複々線区間である。急行線には東京駅発着の中央線快速電車が、緩行線には総武本線(錦糸町駅方面)と直通運転を行っている中央・総武線各駅停車が乗り入れる。2020年(令和2年)3月13日までは早朝・深夜帯(始発 - 概ね午前6時過ぎと概ね翌日午前0時過ぎ - 終電まで)に限って東京駅発着で中央緩行線に乗り入れる各駅停車も運行されていたが、同年3月14日のダイヤ改正に伴い、中央・総武緩行線当駅折り返し発着は廃止となり、すべての時間帯で千葉駅 - 当駅 - 三鷹駅の直通運転となっている(これに付随して、その時間帯に運行していた東京駅発着の中央線各駅停車も廃止され、こちらは終日快速以上の優等列車のみの乗り入れとなった)。",
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"text": "現在の中央本線の新宿 - 八王子間は、私鉄の甲武鉄道が建設した。その後甲武鉄道は東京市街地中心部への路線延長を図り、1895年(明治28年)4月3日に飯田町駅まで蒸気機関車による運転で開通した。この飯田町駅は飯田橋駅よりも東側にあった駅で、後に貨物駅となり1999年(平成11年)に廃止となった。さらに甲武鉄道は、列車運転本数の増加を図るとともに、蒸気機関車の運転による音や煤煙の公害を軽減する目的もあって、路線の電化を行って電車の運転を開始し、路線の市街地方面へのさらなる延長を行った。こうして1904年(明治37年)12月31日に飯田町から御茶ノ水までの路線が当初から複線電化で開通し、御茶ノ水駅がこの際に開業した。御茶ノ水 - 中野の間で1日28往復、新宿までは10分間隔の運転であった。当初の御茶ノ水駅は現在地よりも新宿寄り、御茶ノ水橋を挟んで反対側にあった。当時の駅舎の跡地には神田警察署お茶の水交番が所在している。駅舎は洋風木造平屋建て、またプラットホームは相対式ホーム2面2線であった。",
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"text": "この区間の建設に当たっては、東京市区改正委員会から道路への影響を避けるように求められ、結果として外濠の内側を走る経路が選択された。また土手や崖地の景観をできるだけ保全するように求められ、さらに湧水にも苦しめられる難工事となった。こうした条件から、御茶ノ水駅は神田川と崖が迫る狭隘な場所に建設される結果となった。",
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"text": "甲武鉄道はさらに御茶ノ水駅より東側の区間の建設を進めていた。しかし1906年(明治39年)10月1日に鉄道国有法により甲武鉄道は国有化され、御茶ノ水駅は国有鉄道の駅となるとともに、御茶ノ水駅より東への延長工事も国鉄へ引き継がれた。1908年(明治41年)4月19日に昌平橋駅までが開通して、当駅は中間駅となった。また同年10月12日に国有鉄道線路名称が制定されて、御茶ノ水駅が所属する路線は中央本線と命名された。",
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"text": "1923年(大正12年)9月1日には関東大震災に見舞われ、御茶ノ水駅は駅舎が一部焼失する被害を受けた。しかしこれは応急復旧されてそのまま使用された。また神田川に面した崖が大規模に崩落し、この箇所を復旧した形跡は2010年代に入ってもなお残されている。",
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"text": "それまであまり輸送量の大きな路線ではなかった中央本線は関東大震災後、復興資材となる砂利の輸送が拡大し、通勤輸送についても輸送量が急増した。さらに失業対策事業の一環もあって、大正末期に御茶ノ水 - 中野間の複々線化工事に着手することになった。またこの頃、総武本線は両国駅(1931年までは両国橋駅)が起点だったため、旅客はバスや市電に乗り換えて他の路線の駅に向かわなければならなかった。総武本線を市街中心地まで延長して他の路線と連絡させる計画は古くからあったが、関東大震災で市街地が焼失したことを契機とする区画整理の一環として線路用地を買収し、両国と御茶ノ水を結ぶ高架路線を建設することになった。",
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"text": "この工事に伴い、御茶ノ水駅はそれまでの所在地より東側の、お茶の水橋と聖橋の間に移転した。出入口は御茶ノ水橋と聖橋の双方のたもとに設けられた。プラットホームは島式ホームを2面設置して、両国と連絡する総武本線の線路を内側、中央本線の線路を外側にした方向別配置とした。総武本線の線路は御茶ノ水を出ると、33パーミルの上り勾配で登って中央本線の上り線を跨ぎ越す構造とされた。総武本線は中央本線の緩行線・急行線の双方ともに連絡でき、かつ折り返しもできる配線とされた。プラットホームは完成時点では全長152.2メートル、幅は川側の中央本線上り・総武本線下りホームが6.5メートル、山側の総武本線上り・中央本線下りホームが5.8メートルとなった。",
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"text": "工事は、中央本線の電車が行き交う脇で、しかも駿河台の民家に近接して高さ12メートルに及ぶ擁壁を構築する必要があるなど、困難なものとなった。施工は大倉土木(現在の大成建設)が請け負った。総武本線側の工事が完成して1932年(昭和7年)7月1日から御茶ノ水駅に総武本線の電車が乗り入れを開始し、続いて1933年(昭和8年)9月15日に御茶ノ水 - 飯田町間の複々線化工事が完成して中央線急行電車(現在の中央線快速)が運転を開始した。",
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"text": "総武本線の乗り入れ工事に合わせて、2代目の御茶ノ水駅舎の建築が行われた。この頃の建築界では、過去の様式にとらわれずに新しい建築材料にもっとも適した建築をしようというウィーン分離派(ウィンナー・セセッション)の動きが出ていた。そして鉄・ガラス・コンクリートといった材料を使って、無装飾で実用本位な建築を行うインターナショナル・スタイルが誕生し、日本においてもこうしたモダニズム建築の動きが見られるようになった。こうしたモダニズム建築の様式による駅舎の設計を行ったのは、東京帝国大学建築学科を卒業して鉄道省に入省した、建築家の伊藤滋であった。設計に際しては、湯島聖堂の近くにあるから東洋趣味を重んじたものにするように、との外部団体からの要望も寄せられたが、伊藤はこれを一蹴し、震災復興橋梁として先に完成していた聖橋(1927年完成)、御茶ノ水橋(1931年完成)との調和を重視した設計を行った。それまでの駅はいったん乗客を待合室に滞留させてからプラットホームへ導くものであったが、伊藤は駅は道路の一部であるとして旅客流動を重視した設計を行い、やってくる乗客を次々に捌く新しい電車時代の駅を設計した。これは駅舎設計の根本的な転換で、以降の通勤電車の駅の設計の基本となった。これ以降、乗降客数は比べ物にならないほど増加したものの、御茶ノ水駅はその機能を果たし続けている。",
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"text": "第二次世界大戦後は、国鉄の駅にはプラットホームの延長や上屋の設置といった工事が行われた。1954年(昭和29年)1月20日には帝都高速度交通営団(営団)丸ノ内線の御茶ノ水駅が開業し、1969年(昭和44年)12月20日には営団千代田線の新御茶ノ水駅も付近に開業している。丸ノ内線の御茶ノ水駅の建設にあたっては国鉄駅より駿河台側や国鉄駅の直下なども検討され、後者の案に関しては中川浩一によれば展覧会で完成予想パノラマも展示されたとのことだが、最終的には建設費節約の関係や国鉄駅の基礎を解体することが不可能なことから、現在地の神田川左岸が選択された。御茶ノ水駅は神田川に面した急傾斜地に建設された関係で、アプローチ部分が半地下の駅舎のような構造となったが、建設費の節約を追求した当時の鈴木清秀営団総裁の「いたずらに宏壮華美を求めない」との方針の影響を受けてか国鉄の御茶ノ水駅と同じくインターナショナル・スタイルで設計されることになった。設計を担当したのは、国鉄の御茶ノ水駅の設計にも伊藤滋を補佐して関わった土橋長俊の主宰する土橋大野建築事務所であった。風致地区であったため上質な仕上げが心がけられ、ガラスをはめ込んだ出入口や軟石を貼るなどされている。単純な直線と曲線を組み合わせたシンプルで無駄のない造形であり、頂部の半円形の連続窓は土橋のかかわった交通博物館のガラス張りの階段室に通じるとされる。第二次世界大戦中の鉄筋コンクリートなどの資材不足により一度は途絶えた日本の鉄道におけるモダニズム建築はここで再び受け継がれ、以降の国鉄の駅舎の多くがインターナショナル・スタイルで建設されていくことになった。当駅付近の丸ノ内線建設工事の際に、縄文時代の遺物が発見されて学術調査により貝塚と認定され、お茶の水貝塚と命名されている。",
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"text": "1968年(昭和43年)7月16日の22時30分頃、国鉄の当駅1番線ホームを出発した豊田行き10両編成の電車のドアに乗客が挟まれているのを駅員が発見し、非常停止ブザーを扱ったために電車が非常停止した。後続の高尾行き10両編成の電車の運転士は、先行列車が出発するだろうとの見込みに基づいて、自動列車停止装置 (ATS) の電源を切って停止現示の信号を無視して進入したため追突事故を起こし、重軽傷者150人以上を出した。",
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"text": "かつては定期券うりばがJR口改札前にあったが、1993年11月に東京駅へ移転となり、代替措置として継続定期券発売機が設置された(のちに新規定期券も購入可能)。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "JRの駅とは違い、両改札口にエレベーターが設置されている。なお、1番線ホームへの改札口にあるエレベーターは、東京医科歯科大学に直接入ることができる。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "駅は神田川に面した急傾斜地に建設された関係で、アプローチ部分が半地下構造の駅舎に類する設計で設けられた。この部分は、国鉄・JR御茶ノ水駅の1932年完成の駅舎にも関わった土橋長俊が主宰する土橋大野建築事務所の設計で、国鉄・JRの御茶ノ水口駅舎と同じインターナショナル・スタイルを採用している。",
"title": "駅構造"
},
{
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"tag": "p",
"text": "かつては千代田線新御茶ノ水駅との連絡駅となっていたが、都営地下鉄新宿線小川町駅が開業し、新御茶ノ水駅と淡路町駅が直接つながったことで、新御茶ノ水駅と当駅(東京メトロ)との連絡を解消した(ただし、JRの乗り換え案内では現在も千代田線が含まれている)。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 33,
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"text": "改札口は2か所で、各ホームに直結している。1番線の改札を出ると1番出入口、2番線の改札を出ると2番出入口しか利用できない構造となっている。1番線で降りて2番出入口へ行きたい場合は(その逆も同様)改札口横の地下通路を用いて隣のホームへ向かうこととなる。また地下通路にはエレベーターの設置はない。",
"title": "駅構造"
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"text": "(出典:東京メトロ:構内図)",
"title": "駅構造"
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"text": "ワンマン運転開始に伴い、スイッチ制作の発車メロディ(発車サイン音)が導入されている。",
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"text": "曲は1番線が、「ハートレール」(串田亨作曲)、2番線が「ジェントルトレイン」(福嶋尚哉作曲)である。",
"title": "駅構造"
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"text": "各年度の1日平均乗降人員は下表の通りである(JRは除く)。",
"title": "利用状況"
},
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"text": "各年度の1日平均乗車人員は下表の通りである。",
"title": "利用状況"
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{
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"tag": "p",
"text": "JR線の北を神田川が流れる。丸ノ内線の駅は神田川の北側にあり、御茶ノ水橋でつながる。聖橋は東、お茶の水橋は西に架かる。駅周辺は明治・日本・順天堂・東京医科歯科の各大学などがあり、『日本のカルチエ・ラタン』とも呼ばれる学生街として知られている。また、楽器店やスポーツ用品店、歴史ある有名病院も数多い。",
"title": "駅周辺"
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"text": "なお、お茶の水女子大学の最寄り駅は当駅ではなく丸ノ内線茗荷谷駅と有楽町線護国寺駅である。前身の東京女子高等師範学校が湯島聖堂および現在の東京医科歯科大学の敷地内にあったためである。",
"title": "駅周辺"
},
{
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"tag": "p",
"text": "駅西口の「御茶ノ水駅前」停留所に、都営バスと千代田区地域福祉交通「風ぐるま」(日立自動車交通が運行)、文京区コミュニティバス「Bーぐる」(日立自動車交通が運行)の路線が乗り入れている。",
"title": "バス路線"
}
] | 御茶ノ水駅(おちゃのみずえき)は、東京都千代田区・文京区にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)の駅である。 神田川(外堀)南側(千代田区側)にJR東日本の駅が、北側(文京区側)に東京メトロの駅がある。所在地は、JR東日本が千代田区神田駿河台二丁目、東京メトロが文京区湯島一丁目である。 | {{駅情報
|駅名 = 御茶ノ水駅
|画像 = Ochanomizu Station 230514a.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 御茶ノ水橋から見た御茶ノ水駅<br />(2023年5月)
|地図 = {{maplink2|frame=yes|zoom=15|frame-width=300|plain=yes|frame-align=center
|type=point|type2=point|type3=point
|marker=rail|marker2=rail-metro|marker3=rail-metro
|coord={{coord|35|41|59.5|N|139|45|50|E}}|marker-color=008000|title=JR 御茶ノ水駅
|coord2={{coord|35|42|2|N|139|45|50.5|E}}|marker-color2=f62e36|title2=東京メトロ 御茶ノ水駅
|coord3={{coord|35|41|53|N|139|45|57.6|E}}|marker-color3=00bb85|title3=東京メトロ 新御茶ノ水駅
}}右下は新御茶ノ水駅
|よみがな = おちゃのみず
|ローマ字 = Ochanomizu
|所在地 = [[東京都]][[千代田区]]・[[文京区]]
|所属事業者 = {{Plainlist|
* [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本|駅詳細]])
* [[東京地下鉄]](東京メトロ・[[#東京メトロ|駅詳細]])}}
}}
'''御茶ノ水駅'''(おちゃのみずえき)は、[[東京都]][[千代田区]]・[[文京区]]にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[東京地下鉄]](東京メトロ)の[[鉄道駅|駅]]である。
[[神田川 (東京都)|神田川]](外堀)南側(千代田区側)にJR東日本の駅が、北側(文京区側)に東京メトロの駅がある。所在地は、JR東日本が千代田区[[神田駿河台]]二丁目、東京メトロが文京区[[湯島]]一丁目である。
== 乗り入れ路線 ==
JR東日本の各線(後述)と、東京メトロの[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]が乗り入れる接続駅である。また、各路線に[[駅ナンバリング|駅番号]]が付与されている。
* JR東日本:各線(後述)
* 東京メトロ:[[File:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|15px|M]] 丸ノ内線 - 駅番号「'''M 20'''」
JR東日本の駅は、当駅の[[日本の鉄道駅#所属線|所属線]]である[[中央本線]]と、当駅を終点とする[[総武本線]](支線)との分岐駅となっている。中央本線の当駅以西(新宿方面)は急行線(快速線)と緩行線との複々線区間である。急行線には[[東京駅]]発着の[[中央線快速|中央線快速電車]]が、緩行線には総武本線([[錦糸町駅]]方面)と直通運転を行っている[[中央・総武緩行線|中央・総武線各駅停車]]が乗り入れる。[[2020年]](令和2年)[[3月13日]]までは早朝・深夜帯(始発 - 概ね午前6時過ぎと概ね翌日午前0時過ぎ - 終電まで)に限って東京駅発着で中央緩行線に乗り入れる各駅停車も運行されていたが、同年[[3月14日]]のダイヤ改正に伴い<ref group="報道" name="press/20191213_ho01">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20191213_ho01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191213080612/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20191213_ho01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2020年3月ダイヤ改正について|page=6|publisher=東日本旅客鉄道|date=2019-12-13|accessdate=2020-02-29|archivedate=2019-12-13}}</ref><ref group="報道" name="pre1912_daikai">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre1912_daikai.pdf|title=2020年3月ダイヤ改正について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道千葉支社|page=3|date=2019-12-13|accessdate=2020-04-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191213092140/https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre1912_daikai.pdf|archivedate=2019-12-13}}</ref>、中央・総武緩行線当駅折り返し発着は廃止となり、すべての時間帯で千葉駅 - 当駅 - 三鷹駅の直通運転となっている(これに付随して、その時間帯に運行していた東京駅発着の中央線各駅停車も廃止され、こちらは終日快速以上の優等列車のみの乗り入れとなった)。
* [[File:JR JC line symbol.svg|15px|JC]] 中央線(快速):[[急行線]]を走行する中央本線の近距離電車。八王子駅・高尾駅方面の列車の他に、[[立川駅]]から[[青梅線]]へ直通する列車も運行 - 駅番号「'''JC 03'''」
* [[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 中央・総武線(各駅停車):緩行線を走行する中央本線の近距離電車。当駅以西は中央本線を走行し、当駅以東は総武本線支線を経由し、錦糸町駅から総武本線へ走行する<ref group="注">[[総武快速線|総武線(快速)]]は錦糸町駅での乗り換えを必要とする。</ref>。 - 駅番号「'''JB 18'''」
またJR東日本の駅は、[[特定都区市内]]制度における「[[特定都区市内#設定区域一覧|東京都区内]]」、類似の制度である「[[東京山手線内]]」に属している。
== 歴史 ==
駅名の元となった地名の由来については[[御茶ノ水]]を参照。
=== 甲武鉄道による開業 ===
[[File:甲武鉄道御茶ノ水駅(1905年).jpg|thumb|甲武鉄道御茶ノ水駅(1905年)]]
[[File:Ochanomizu in the Taisho era.JPG|thumb|大正時代の御茶ノ水駅]]
現在の中央本線の[[新宿駅|新宿]] - [[八王子駅|八王子]]間は、[[私鉄]]の[[甲武鉄道]]が建設した。その後甲武鉄道は東京市街地中心部への路線延長を図り、1895年(明治28年)4月3日に[[飯田町駅]]まで[[蒸気機関車]]による運転で開通した<ref name="sone05-22">[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、22頁</ref>。この飯田町駅は[[飯田橋駅]]よりも東側にあった駅で、後に貨物駅となり1999年(平成11年)に廃止となった。さらに甲武鉄道は、列車運転本数の増加を図るとともに、蒸気機関車の運転による音や煤煙の公害を軽減する目的もあって、路線の[[鉄道の電化|電化]]を行って[[電車]]の運転を開始し、路線の市街地方面へのさらなる延長を行った。こうして1904年(明治37年)12月31日に飯田町から御茶ノ水までの路線が当初から[[複線]]電化で開通し、御茶ノ水駅がこの際に開業した{{R|sone05-22}}。御茶ノ水 - [[中野駅 (東京都)|中野]]の間で1日28往復、新宿までは10分間隔の運転であった<ref name = "飯田町駅ものがたり">[[#飯田町駅ものがたり|「飯田町駅ものがたり」]]</ref>。当初の御茶ノ水駅は現在地よりも新宿寄り、[[御茶ノ水橋]]を挟んで反対側にあった。当時の駅舎の跡地には[[神田警察署]]お茶の水交番が所在している<ref name = "市街線点描">[[#市街線点描|「甲武鉄道の市街線点描」]]</ref>。駅舎は洋風木造平屋建て<ref name = "駅のはなし_140">[[#駅のはなし|『駅のはなし』p.140]]</ref>、またプラットホームは相対式ホーム2面2線であった<ref name = "今昔50年_55">[[#今昔50年|『中央線 オレンジ色の電車今昔50年』p.55]]</ref>。
この区間の建設に当たっては、[[市区改正|東京市区改正]]委員会から道路への影響を避けるように求められ、結果として[[外濠 (東京都)|外濠]]の内側を走る経路が選択された。また土手や崖地の景観をできるだけ保全するように求められ、さらに湧水にも苦しめられる難工事となった。こうした条件から、御茶ノ水駅は神田川と崖が迫る狭隘な場所に建設される結果となった<ref name = "バリアフリー検証_75-76">[[#バリアフリー検証|「JR御茶ノ水駅のバリアフリー化検証」pp.75 - 76]]</ref>。
甲武鉄道はさらに御茶ノ水駅より東側の区間の建設を進めていた。しかし1906年(明治39年)10月1日に[[鉄道国有法]]により甲武鉄道は国有化され、御茶ノ水駅は国有鉄道の駅となるとともに、御茶ノ水駅より東への延長工事も国鉄へ引き継がれた。1908年(明治41年)4月19日に[[昌平橋駅]]までが開通して、当駅は中間駅となった<ref name="sone05-23">[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、23頁</ref>。また同年10月12日に[[国鉄・JR線路名称一覧|国有鉄道線路名称]]が制定されて、御茶ノ水駅が所属する路線は中央本線と命名された<ref name = "飯田町駅ものがたり" />。
=== 総武本線の乗り入れ工事 ===
[[File:Ochanomizu Station, 1934.jpg|thumb|御茶ノ水駅と聖橋(1934年、撮影:[[石川光陽]])]]
1923年(大正12年)9月1日には[[関東大震災]]に見舞われ、御茶ノ水駅は駅舎が一部焼失する被害を受けた。しかしこれは応急復旧されてそのまま使用された<ref name = "バリアフリー検証_76">[[#バリアフリー検証|「JR御茶ノ水駅のバリアフリー化検証」p.76]]</ref>。また神田川に面した崖が大規模に崩落し、この箇所を復旧した形跡は2010年代に入ってもなお残されている<ref name = "今昔50年_55" />。
それまであまり輸送量の大きな路線ではなかった中央本線は関東大震災後、復興資材となる砂利の輸送が拡大し、通勤輸送についても輸送量が急増した。さらに失業対策事業の一環もあって、大正末期に御茶ノ水 - 中野間の[[複々線]]化工事に着手することになった<ref name = "百年史9_184-185">[[#百年史9|『日本国有鉄道百年史』9 pp.184 - 185]]</ref>。またこの頃、総武本線は[[両国駅]](1931年までは両国橋駅)が起点だったため、旅客は[[バス (交通機関)|バス]]や[[東京都電車|市電]]に乗り換えて他の路線の駅に向かわなければならなかった。総武本線を市街中心地まで延長して他の路線と連絡させる計画は古くからあったが、関東大震災で市街地が焼失したことを契機とする[[土地区画整理事業|区画整理]]の一環として線路用地を買収し、両国と御茶ノ水を結ぶ高架路線を建設することになった<ref name = "高架線工事_846">[[#高架線工事|「御茶ノ水・両国間高架線工事に就て」p.846]]</ref>。
この工事に伴い、御茶ノ水駅はそれまでの所在地より東側の、[[お茶の水橋]]と[[聖橋]]の間に移転した。出入口は御茶ノ水橋と聖橋の双方のたもとに設けられた。[[プラットホーム]]は島式ホームを2面設置して、両国と連絡する総武本線の線路を内側、中央本線の線路を外側にした方向別配置とした。総武本線の線路は御茶ノ水を出ると、33[[パーミル]]の上り勾配で登って中央本線の上り線を跨ぎ越す構造とされた<ref name = "高架線工事_847">[[#高架線工事|「御茶ノ水・両国間高架線工事に就て」p.847]]</ref>。総武本線は中央本線の緩行線・急行線の双方ともに連絡でき、かつ折り返しもできる配線とされた。プラットホームは完成時点では全長152.2[[メートル]]、幅は川側の中央本線上り・総武本線下りホームが6.5メートル、山側の総武本線上り・中央本線下りホームが5.8メートルとなった<ref name = "画報_39">[[#画報|「御茶の水両国橋間高架線建設工事に就て」p.39]]</ref>。
工事は、中央本線の電車が行き交う脇で、しかも[[駿河台]]の民家に近接して高さ12メートルに及ぶ[[擁壁]]を構築する必要があるなど、困難なものとなった。施工は大倉土木(現在の[[大成建設]])が請け負った<ref name = "高架線工事_848">[[#高架線工事|「御茶ノ水・両国間高架線工事に就て」p.848]]</ref><ref name = "画報_38-39">[[#画報|「御茶の水両国橋間高架線建設工事に就て」pp.38 - 39]]</ref>。総武本線側の工事が完成して1932年(昭和7年)7月1日から御茶ノ水駅に総武本線の電車が乗り入れを開始し、続いて1933年(昭和8年)9月15日に御茶ノ水 - 飯田町間の複々線化工事が完成して中央線急行電車(現在の[[中央線快速]])が運転を開始した<ref name = "百年史9_184-185" />。
総武本線の乗り入れ工事に合わせて、2代目の御茶ノ水駅舎の建築が行われた<ref name = "駅のはなし_140-142">[[#駅のはなし|『駅のはなし』pp.140 - 142]]</ref>。この頃の建築界では、過去の様式にとらわれずに新しい建築材料にもっとも適した建築をしようという[[ウィーン分離派]](ウィンナー・セセッション)の動きが出ていた<ref name = "百年史9_259">[[#百年史9|『日本国有鉄道百年史』9 p.259]]</ref>。そして[[鋼|鉄]]・[[ガラス]]・[[コンクリート]]といった材料を使って、無装飾で実用本位な建築を行う[[インターナショナル・スタイル]]が誕生し、日本においてもこうした[[モダニズム建築]]の動きが見られるようになった<ref name = "世界の駅_41-44">[[#世界の駅|『世界の駅・日本の駅』pp.41 - 44]]</ref>。こうしたモダニズム建築の様式による駅舎の設計を行ったのは、[[東京大学|東京帝国大学]]建築学科を卒業して[[鉄道省]]に入省した、建築家の[[伊藤滋 (建築家)|伊藤滋]]であった。設計に際しては、[[湯島聖堂]]の近くにあるから東洋趣味を重んじたものにするように、との外部団体からの要望も寄せられたが、伊藤はこれを一蹴し、震災復興橋梁として先に完成していた聖橋(1927年完成)、御茶ノ水橋(1931年完成)との調和を重視した設計を行った。それまでの駅はいったん乗客を[[待合室]]に滞留させてから[[プラットホーム]]へ導くものであったが、伊藤は駅は道路の一部であるとして旅客流動を重視した設計を行い、やってくる乗客を次々に捌く新しい電車時代の駅を設計した<ref name = "世界の駅_45">[[#世界の駅|『世界の駅・日本の駅』p.45]]</ref>。これは駅舎設計の根本的な転換で、以降の通勤電車の駅の設計の基本となった。これ以降、乗降客数は比べ物にならないほど増加したものの、御茶ノ水駅はその機能を果たし続けている<ref name = "駅のはなし_140-142" />。
=== 地下鉄の乗り入れ ===
[[第二次世界大戦]]後は、国鉄の駅にはプラットホームの延長や上屋の設置といった工事が行われた。1954年(昭和29年)1月20日には[[帝都高速度交通営団]](営団)丸ノ内線の御茶ノ水駅が開業し、1969年(昭和44年)12月20日には[[東京メトロ千代田線|営団千代田線]]の[[新御茶ノ水駅]]も付近に開業している<ref name = "今昔50年_55-57">[[#今昔50年|『中央線 オレンジ色の電車今昔50年』pp.55 - 57]]</ref>。丸ノ内線の御茶ノ水駅の建設にあたっては国鉄駅より駿河台側や国鉄駅の直下なども検討され、後者の案に関しては[[中川浩一]]によれば展覧会で完成予想パノラマも展示されたとのことだが、最終的には建設費節約の関係や国鉄駅の基礎を解体することが不可能なことから、現在地の神田川左岸が選択された<ref name="RP759_136-137">{{Cite journal|和書|author=中川浩一|title=半世紀前のルポルタージュ 丸ノ内線池袋-御茶ノ水 着工から開業まで|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2005-03-10|volume=55|issue=第3号(通巻759号)|pages=136 - 137|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。御茶ノ水駅は神田川に面した急傾斜地に建設された関係で、アプローチ部分が半地下の駅舎のような構造となったが、建設費の節約を追求した当時の[[鈴木清秀]]営団総裁の「いたずらに宏壮華美を求めない」との方針の影響を受けてか国鉄の御茶ノ水駅と同じくインターナショナル・スタイルで設計されることになった。設計を担当したのは、国鉄の御茶ノ水駅の設計にも伊藤滋を補佐して関わった[[土橋長俊]]の主宰する土橋大野建築事務所であった。[[風致地区]]であったため上質な仕上げが心がけられ、ガラスをはめ込んだ出入口や軟石を貼るなどされている。単純な直線と曲線を組み合わせたシンプルで無駄のない造形であり、頂部の半円形の連続窓は土橋のかかわった[[交通博物館]]のガラス張りの階段室に通じるとされる。第二次世界大戦中の鉄筋コンクリートなどの資材不足により一度は途絶えた日本の鉄道におけるモダニズム建築はここで再び受け継がれ、以降の国鉄の駅舎の多くがインターナショナル・スタイルで建設されていくことになった<ref name = "遺産_54-58">[[#遺産|『東京鉄道遺産』pp.54 - 58]]</ref>。当駅付近の丸ノ内線建設工事の際に、[[縄文時代]]の遺物が発見されて学術調査により[[貝塚]]と認定され、[[お茶の水貝塚]]と命名されている。
=== 追突事故 ===
1968年(昭和43年)7月16日の22時30分頃、国鉄の当駅1番線ホームを出発した[[豊田駅|豊田]]行き10両編成の電車のドアに乗客が挟まれているのを駅員が発見し、非常停止ブザーを扱ったために電車が非常停止した。後続の[[高尾駅 (東京都)|高尾]]行き10両編成の電車の運転士は、先行列車が出発するだろうとの見込みに基づいて、[[自動列車停止装置]] (ATS) の電源を切って停止現示の信号を無視して進入したため追突事故を起こし、重軽傷者150人以上を出した<ref group="新聞" name="朝日19680717">{{Cite news |title = 国電、御茶ノ水駅で追突 百五十人以上重軽傷 御茶ノ水駅の国電追突事故 |newspaper = 朝日新聞東京版朝刊 |date = 1968-07-17}}</ref>。
=== 駅改良工事 ===
[[国鉄分割民営化]]直後、JR東日本では1988年(昭和63年)に御茶ノ水駅の改築計画を打ち出した。従来の単なる通過点としての駅から、人々が楽しみ、最新の情報が得られる多様なサービス機能を備えることが必要であるとして、「都市型未来志向のモデル駅」として、事業費65億円、賞金2000万円の公開コンペを1989年に実施した。252点の応募があり、[[ゼネコン]]の応募した作品が最優秀に選ばれた。最優秀賞の設計は、3階建て延べ床面積約11,000[[平方メートル]]で、1階は列柱とアーチの[[コンコース]]、2階には[[水族館]]とホール、3階には[[美術館]]を備えるものであった。しかしその後、列車の運行を止めずに工事を進めるには上部を支える強い支柱が必要で技術的に難しいといった理由からJRはチームを解散し、改築計画は自然消滅となった<ref group="新聞">{{Cite news |title = 駅改築計画ストップ JRはチーム解散「新御茶ノ水駅」 |newspaper = 朝日新聞東京版朝刊 |date = 1993-10-14}}</ref>。
改築計画の消滅により、1932年に完成した駅構造がそのまま21世紀まで使い続けられることになった。駅が神田川と駿河台に挟まれた狭隘な場所にあるという構造上・立地上の問題から[[バリアフリー]]対応が十分に行われず、[[車椅子]]用のリフトは設置されているが、[[エレベーター]]や[[エスカレーター]]は設置されていないままであった。周辺に[[大学病院]]などの大規模な[[病院]]が数多く立地し、外来で通院する[[高齢者]]などから苦情が寄せられていたため、2002年に周辺の8病院が連名でJR東日本にバリアフリー対応の要請を行い、また、2006年12月下旬からエレベーターとエスカレーターの設置を求める[[署名運動]]が行われて、2008年に約1万2000人分の署名を千代田区長に提出して対策推進を要望した<ref name = "バリアフリー検証_77">[[#バリアフリー検証|「JR御茶ノ水駅のバリアフリー化検証」p.77]]</ref>。
これに対して、JR東日本は長らく費用面から及び腰であったが、2010年3月26日に、当駅で2010年度末からバリアフリー整備を行うことがJR東日本より発表された。また同日千代田区もJR東日本と連携して[[広場#交通広場と駅前広場|駅前広場]]の整備事業を行うことを発表した。その内容は、線路上空に人工地盤を設置し、改札内に連絡通路を新設し、御茶ノ水橋口駅舎および聖橋口の駅前広場機能の整備を行う。また、聖橋口駅舎を人工地盤上に移設してエレベーターやエスカレーターなどを設置することによりバリアフリー整備を行うものであった<ref name = "バリアフリー検証_78">[[#バリアフリー検証|「JR御茶ノ水駅のバリアフリー化検証」p.78]]</ref><ref group="報道" name="PR20100326">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2009/20100322.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190629072242/https://www.jreast.co.jp/press/2009/20100322.pdf|format=PDF|language=日本語|title=JR中央線御茶ノ水駅バリアフリー整備について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2010-03-26|accessdate=2020-04-21|archivedate=2019-06-29}}</ref>。これには、聖橋口前での旧[[日立製作所]]本社ビル(御茶ノ水セントラルビル)跡地での大型複合ビル建設など、病院の町としてだけでなく新たなオフィスビルの集積を目指した都市改造プロジェクトが進められていることから、新たな客層獲得がJR東日本の改修工事着手を後押しすることになったと推測されている<ref name = "バリアフリー検証_79-80">[[#バリアフリー検証|「JR御茶ノ水駅のバリアフリー化検証」pp.79 - 80]]</ref>。
今回の計画は、当駅が狭い場所に立地していることから非常に難易度の高い大規模な工事になり、それに伴い列車の運行を変更する可能性もあるという。2010年度内に概略設計や関係者との調整を行い、同年度末の工事着手を目指して検討が進められる<ref group="報道" name="PR20100326" />。2013年の秋以降は、駅構内や周辺の耐震補強を含めた本格的な駅改良工事へ入り<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2013/20130902.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190828231639/https://www.jreast.co.jp/press/2013/20130902.pdf|format=PDF|language=日本語|title=JR中央線御茶ノ水駅バリアフリー整備等の本体工事着手について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2013-09-03|accessdate=2020-05-08|archivedate=2019-08-28}}</ref>、バリアフリー整備関連は2018年度まで、駅前広場機能整備は2020年度の完成を目標としていたが、工事の過程で広範囲に渡る地中埋設物の処理の影響により、バリアフリー設備は2019年1月末、駅前広場機能整備は2023年度に変更されることになった<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2018/20181015.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181126015638/http://www.jreast.co.jp/press/2018/20181015.pdf|format=PDF|language=日本語|title=中央線御茶ノ水駅改札内エレベーターの供用開始ならびに聖橋口駅前広場の完成時期変更について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2018-10-24|accessdate=2020-04-21|archivedate=2018-11-26}}</ref>。その後、2023年10月17日に、JR東日本は、新聖橋口駅舎が同年12月3日、駅前広場機能整備が2024年度中に使用開始することを発表した<ref group="報道" name="jre-press-20231017_to02" />。
JR中央線は、[[2020年代]]前半(2021年度以降の向こう5年以内)をめどに快速電車に2階建てグリーン車を2両連結させ12両編成運転を行う。そのため快速電車が停車する1・4番線は、ホームの12両編成対応改築工事が実施される<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2014/20150203.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190924030537/https://www.jreast.co.jp/press/2014/20150203.pdf|format=PDF|language=日本語|title=中央快速線等へのグリーン車サービスの導入について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2015-02-04|accessdate=2020-04-21|archivedate=2019-09-24}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.sankei.com/smp/economy/news/170324/ecn1703240001-s1.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170324011255/https://www.sankei.com/smp/economy/news/170324/ecn1703240001-s1.html|title=JR東日本、中央線のグリーン車計画を延期|newspaper=産経新聞|date=2017-03-24|accessdate=2020-11-29|archivedate=2017-03-24}}</ref>。
=== 年表 ===
* [[1904年]]([[明治]]37年)[[12月31日]]:当駅 - [[飯田町駅]]間開通と同時に[[甲武鉄道]]の駅として御茶ノ水橋の新宿寄りに開業{{R|sone05-22}}。旅客営業のみ。
* [[1906年]](明治39年)[[10月1日]]:[[鉄道国有法]]による甲武鉄道の国有化に伴い、[[鉄道省|官設鉄道]]の駅となる{{R|sone05-23}}。
* [[1908年]](明治41年)
** [[4月19日]]:[[昌平橋駅]] - 当駅間が開通{{R|sone05-23}}。
** [[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|国有鉄道線路名称]]制定により、中央本線の駅となる{{R|sone05-23}}。
* [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|線路名称]]制定により中央東線(1911年から中央本線)の所属となる{{R|sone05-23}}。
* [[1923年]]([[大正]]12年)[[9月1日]]:[[関東大震災]]により旧駅舎の一部が焼失したが、応急復旧して継続使用。御茶ノ水付近は崖の崩落を含む施設被害を受ける。
* [[1932年]]([[昭和]]7年)[[7月1日]]:現在地に伊藤滋が「モダニズム」を取り入れて設計した新駅舎に移転。両国と結ぶ[[総武本線]]が乗り入れ<ref name="sone26">{{Cite book|和書|author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=26号 総武本線・成田線・鹿島線・東金線|pages=17-19|date=2010-01-17}}</ref>。
* [[1933年]](昭和8年)[[9月15日]]:御茶ノ水 - 飯田町間複々線化完成、中央線急行電車(現在の中央快速線)運転開始<ref>[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、24頁</ref>。
* [[1949年]](昭和24年)[[6月1日]]:[[日本国有鉄道]]発足<ref>[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、25頁</ref>。
* [[1954年]](昭和29年)[[1月20日]]:[[池袋駅]] - 当駅間の開通と同時に[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)丸ノ内線の駅が開業。
* [[1968年]](昭和43年)[[7月16日]]:22時30分頃、国鉄の駅の1番線において追突事故発生<ref group="新聞" name="朝日19680717" />。
* [[1972年]](昭和47年)[[7月15日]]:[[総武快速線]]の開業に伴い、総武本線の起点駅から総武本線支線の終点駅となる<ref name="sone26"/>。
* [[1978年]](昭和53年)1月:聖橋口駅舎を鉄骨造2階建てに改築<ref>{{Cite journal |和書|author=<!-- 著者名記載なし -->|title=<!-- 記事のタイトル記載なし -->|journal=鉄道建築ニュース |date=1978-08-01 |number=1978年8月号(通巻第344号)|publisher=鉄道建築協会 |page=63 }}</ref>。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、国鉄の駅は東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる<ref name="sone26"/>。同時に聖橋口の東側に出口専用の臨時改札口が開設される<ref name="RJ248">{{Cite journal|和書|date=1987-07|journal=[[鉄道ジャーナル]]|volume=21|issue=8|page=90|publisher=鉄道ジャーナル社}}</ref>。開設当初は日曜祝日を除く8時00分 から9時15分のみ使用<ref name="RJ248"/>。
* [[1991年]]([[平成]]3年)[[8月22日]]:JR東日本のお茶の水橋口に[[自動改札機]]を設置し、使用開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1992-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '92年版 |chapter=JR年表 |page=181 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-113-9}}</ref>。
* [[1992年]](平成4年)
** [[10月27日]]:JR東日本の臨時改札口に自動改札機を設置し、使用開始<ref name="JRR1993">{{Cite book|和書 |date=1993-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '93年版 |chapter=JR年表 |page=183 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-114-7}}</ref>。
** [[12月3日]]:JR東日本の聖橋口に自動改札機を設置し、使用開始{{R|JRR1993}}。
* [[1993年]](平成5年)[[11月4日]]:営団地下鉄の定期券うりばが東京駅構内へ移転のため閉鎖。代替措置として、継続定期券発売機を導入<ref>'94営団地下鉄ハンドブック</ref><ref group = "注">[[上野駅]]、[[霞ケ関駅 (東京都)|霞ヶ関駅]]、[[銀座駅]]、[[新橋駅]]、[[秋葉原駅]]、[[葛西駅]]と同時に導入。翌[[1994年]]に導入された[[後楽園駅]]も合わせて、営団では数少ない継続定期券発売機設置駅であった。</ref>。
* [[1999年]](平成11年):JR東日本の駅が[[関東の駅百選]]に選定される<ref name="stations" />。選定理由は「ホームから歴史のある聖橋や神田川と緑をあおぐ由緒ある素朴な駅」<ref name="stations">{{Cite book|和書|author=(監修)「鉄道の日」関東実行委員会|title=駅の旅物語 関東の駅百選|publisher=[[人文社]]|date=2000-10-14|pages=28-29,228|edition=初版|isbn=4795912807}}</ref>。
* [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-23|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。
* [[2004年]](平成16年)[[4月1日]]:帝都高速度交通営団(営団地下鉄)民営化に伴い、丸ノ内線の駅は東京地下鉄(東京メトロ)に継承される<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-03-25|archivedate=2006-07-08}}</ref>。
* [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:東京地下鉄でICカード「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-05|archivedate=2020-05-01}}</ref>。
* [[2019年]](平成31年)[[1月29日]]:JR東日本の駅で改札階とホームを連絡するエレベーターとエスカレーターの使用を開始<ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASM1X4TL3M1XUTIL02D.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200508125309/https://www.asahi.com/articles/ASM1X4TL3M1XUTIL02D.html|title=御茶ノ水駅バリアフリー化、29日から 5年超の難工事|newspaper=朝日新聞|date=2019-01-29|accessdate=2020-05-08|archivedate=2020-05-08}}</ref>。
* [[2020年]]([[令和]]2年)[[3月14日]]:この日より中央・総武線各駅停車が終日直通運転となる<ref group="報道" name="press/20191213_ho01" /><ref group="報道" name="pre1912_daikai" />。これに伴い、当駅折り返し列車がなくなる(最終の当駅止まり2本、翌朝の当駅始発2本を除く)<ref group="報道" name="press/20191213_ho01" /><ref group="報道" name="pre1912_daikai" />。
* [[2023年]](令和5年)[[12月3日]]:新しい聖橋口駅舎の使用を開始<ref group="報道" name="jre-press-20231017_to02">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2023/tokyo/20231017_to02.pdf|title=中央線御茶ノ水駅 新しい聖橋口駅舎の使用開始について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道首都圏本部、東京建設プロジェクトマネジメントオフィス、電気システムインテグレーションオフィス|date=2023-10-17|accessdate=2023-10-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231017090105/https://www.jreast.co.jp/press/2023/tokyo/20231017_to02.pdf|archivedate=2023-10-17}}</ref>。
== 駅構造 ==
=== JR東日本 ===
{{駅情報
|社色 = #008000
|文字色 =
|駅名 = JR 御茶ノ水駅
|画像 = Ochanomizustation-crosswalk-July27-2015.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 御茶ノ水橋口(2015年7月)
|よみがな = おちゃのみず
|ローマ字 = Ochanomizu
|電報略号 = チヤ
|所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|所在地 = [[東京都]][[千代田区]][[神田駿河台]]二丁目6-1
|座標 = {{coord|35|41|59.5|N|139|45|50|E|region:JP-13_type:railwaystation|display=inline,title|name=JR 御茶ノ水駅}}
|開業年月日 = [[1904年]]([[明治]]37年)[[12月31日]]{{R|sone05-22}}
|駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]])
|ホーム = 2面4線
|乗車人員 = 80,139
|統計年度 = 2022年
|乗入路線数 = 2
|所属路線1 = {{color|#f15a22|■}}[[中央線快速|中央線(快速)]]<br />(線路名称上は[[中央本線]])
|駅番号1 = {{駅番号r|JC|03|#f15a22|1}}
|前の駅1 = JC 02 [[神田駅 (東京都)|神田]]
|駅間A1 = 1.3
|駅間B1 = 4.0
|次の駅1 = [[四ツ谷駅|四ツ谷]] JC 04
|キロ程1 = 1.3 km([[神田駅 (東京都)|神田]]起点)<br />[[東京駅|東京]]から2.6
|起点駅1 =
|所属路線2 = {{color|#ffd400|■}}[[中央・総武緩行線|中央・総武線(各駅停車)]]{{Refnest|group="*"|線路名称上は、秋葉原方は[[総武本線]](支線)、水道橋方は中央本線}}
|駅番号2 = {{駅番号r|JB|18|#ffd400|1}}
|前の駅2 = JB 19 [[秋葉原駅|秋葉原]]
|駅間A2 = 0.9
|駅間B2 = 0.8
|次の駅2 = [[水道橋駅|水道橋]] JB 17
|キロ程2 = 4.3 km([[錦糸町駅|錦糸町]]起点)<br />[[千葉駅|千葉]]から38.7
|起点駅2 =
|乗換 = {{駅番号r|C|12|#00bb85|4}}<ref name="tokyosubway"/>[[新御茶ノ水駅]]<ref name="transfer">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/renrakuteiki/pdf/00.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200512081618/https://www.jreast.co.jp/renrakuteiki/pdf/00.pdf|title=●JR線と連絡会社線との乗り換え駅|archivedate=2020-05-12|accessdate=2020-07-26|publisher=東日本旅客鉄道|format=PDF|language=日本語}}</ref><br />([[東京メトロ千代田線]])
|備考 = {{Plainlist|
* [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]])
* [[みどりの窓口]] 有
* [[File:JR area YAMA.svg|15px|山]][[File:JR area KU.svg|15px|区]] [[東京山手線内]]・[[特定都区市内|東京都区内]]駅}}
|備考全幅 = {{Reflist|group="*"}}
}}
[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[駅長]]配置)で当駅の他に[[秋葉原駅]]を管理している。[[島式ホーム]]2面4線を持つ[[地上駅]]で、[[橋上駅|橋上駅舎]]を有している。御茶ノ水橋と[[聖橋]]の間にホームがあり、それぞれの橋の南側に出口がある。それぞれ御茶ノ水橋口と聖橋口と称する。駅本屋は御茶ノ水橋側(水道橋側)にある。さらに聖橋口より東側(秋葉原側)に平日の朝のみ機能している出口専用の臨時改札口がある。高台の擁壁と[[神田川 (東京都)|神田川]]の間に線路が敷かれているため、ホームの幅が非常に狭い。改良工事前、[[便所|トイレ]]は御茶ノ水橋口と聖橋口の改札口内にあって、ともに多機能トイレはなかった。現在は1ヶ所に集約されて、多機能トイレも設置されている。
御茶ノ水橋口駅舎は、1932年(昭和7年)7月の総武本線乗り入れに合わせて使用開始された、伊藤滋設計によるモダニズム建築であり、それまでの乗客を待合室に滞留させてからプラットホームに導く駅から、旅客流動を重視して次々に乗客を電車に流し込む、新しい通勤電車の駅のスタイルを初めて確立した<ref name = "駅のはなし_140-142" />。東側の聖橋口駅舎は大きく改築されており原形を留めていないが、御茶ノ水橋口駅舎は建設以来大きく手を入れられていない<ref>[[#遺産|『東京鉄道遺産』pp.44 - 45]]</ref>。しかしバリアフリー対策工事に2013年度から着手することになっていることは前記した。
外側2線を中央線快速が、内側2線を中央・総武線各駅停車がそれぞれ使用し、同じ方向の列車を[[対面乗り換え|同じホームで乗り換え]]できる、[[複々線#方向別複々線|方向別複々線]]となっている。これを実現するために御茶ノ水駅の前後に立体交差が設置されている<ref name = "東京圏複々線">[[#東京圏複々線|「東京圏複々線区間の配線と運転の興味」]]</ref>。並走する[[三鷹駅|三鷹]] - 御茶ノ水間のうち同方向であれば、階段を使わずに乗り換えが可能な唯一の駅である。
当駅を境に中央線と総武線の各駅停車の列車が[[直通運転|相互直通運転]]を行う。2020年(令和2年)3月13日まで、早朝と深夜は中央線・総武線は分離して運転を行っていた。総武線は当駅で折り返し、中央線は当駅の水道橋方で[[快速線]]と緩行線との間を転線して[[東京駅]]発着で運転され、快速用の[[JR東日本E233系電車|E233系電車]]が使用された。総武線の上り列車は2番線に到着し、そのまま中央緩行線下り本線に引き上げ、その後3番線に入線して総武線下り列車となっていた<ref group = "注">渡り線までの間隔が十分にあるため、1番線の発着には支障はない。</ref>。千葉方面の特急列車も当駅で転線する。上下(東西)両線とも、快速線・緩行線相互間の転線は[[水道橋駅|水道橋]]方のポイントで可能である。なお、3番線から中央緩行線西行きへの出発も可能だが、通常は設定がない。
2020年(令和2年)3月14日のダイヤ改正以降は前述の通り早朝・深夜の総武線・中央線分離運転が廃止され、当駅を始発・終着とする列車は大幅に削減された<ref group="注">中央緩行線御茶ノ水行き最終電車は同駅到着後に水道橋駅へ回送で折り返し、翌日は御茶ノ水駅へ回送され同駅より総武緩行線千葉行き始発電車として運用する。また中央緩行線三鷹行き始発電車は、津田沼駅より回送で到着後同駅より旅客電車として運用される。</ref>。
==== のりば ====
<!-- 方面表記は、出典の「構内図」の記載に基づく -->
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先
|-
!1
|[[File:JR JC line symbol.svg|15px|JC]] 中央線(快速)
|style="text-align:center"|下り
|nowrap="nowrap"|[[新宿駅|新宿]]・[[立川駅|立川]]・[[八王子駅|八王子]]・[[高尾駅 (東京都)|高尾]]・[[青梅駅|青梅]]方面
|-
!2
|rowspan="2"|[[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 中央・総武線(各駅停車)
|style="text-align:center"|西行
|[[水道橋駅|水道橋]]・[[飯田橋駅|飯田橋]]・[[市ケ谷駅|市ケ谷]]・[[三鷹駅|三鷹]]方面
|-
!3
|style="text-align:center"|東行
|[[秋葉原駅|秋葉原]]・[[錦糸町駅|錦糸町]]・[[船橋駅|船橋]]・[[千葉駅|千葉]]方面
|-
!4
|[[File:JR_JC_line_symbol.svg|15x15ピクセル|JC]] 中央線(快速)
|style="text-align:center"|上り
|[[神田駅 (東京都)|神田]]・[[東京駅|東京]]方面
|}
(出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/384.html JR東日本:駅構内図])
* 2番線と3番線の間に総武本線の[[距離標|0キロポスト]]が設置されている。
<gallery>
JRE-Chuo-Line-Ochanomizu-Sta-Hijiribashi.jpg|JR御茶ノ水駅 聖橋口(2012年5月)
JRE Ochanomizu-STA Ochanomizubashi-Gate 2022.jpg|御茶ノ水橋口改札(2022年12月)
JRE Ochanomizu-STA Hijiribashi-Gate 2023.jpg|聖橋口改札(2023年12月)
JRE Ochanomizu-STA Hijiribashi-Gate 2022.jpg|仮設の頃の聖橋口改札(2022年12月)
JRE Ochanomizu-STA Provisional-Gate 2022.jpg|出口専用臨時改札(2022年12月)
JRE Ochanomizu-STA Platform1-2.jpg|1・2番線ホーム(2022年12月)
JRE Ochanomizu-STA Platform3-4.jpg|3・4番線ホーム(2022年12月)
JRE Ochanomizu-STA Zero-kilometer-post.jpg|総武線の0キロポスト(2022年12月)
御茶ノ水駅聖橋口正面 (2023.12.28).jpg|2023年末の聖橋口正面 (2023年12月)
</gallery>
=== 東京メトロ ===
{{駅情報
|社色 = #109ed4
|文字色 =
|駅名 = 東京地下鉄 御茶ノ水駅
|画像 = Tokyo-Metro Ochanomizu-STA Entrance1.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 1番出入口(2022年12月)
|よみがな = おちゃのみず
|ローマ字 = Ochanomizu
|前の駅 = M 19 [[淡路町駅|淡路町]]
|駅間A = 0.8
|駅間B = 0.8
|次の駅 = [[本郷三丁目駅|本郷三丁目]] M 21
|駅番号 = {{駅番号r|M|20|#f62e36|4}}<ref name="tokyosubway">[https://www.tokyometro.jp/ 東京地下鉄] 公式サイトから抽出(2019年05月26日閲覧)</ref>
|所属事業者 = [[東京地下鉄]](東京メトロ)
|所属路線 = {{color|#f62e36|●}}<ref name="tokyosubway"/>[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]
|キロ程 = 6.4
|電報略号 = チヤ
|起点駅 = [[池袋駅|池袋]]<!--駅番号の付番とは逆です-->
|所在地 = [[東京都]][[文京区]][[湯島]]一丁目5-8
|座標 = {{coord|35|42|2|N|139|45|50.5|E|region:JP-13_type:railwaystation|name=東京地下鉄 御茶ノ水駅}}
|駅構造 = [[地下駅]]
|ホーム = 2面2線
|開業年月日 = [[1954年]]([[昭和]]29年)[[1月20日]]
|乗車人員 =
|乗降人員 = <ref group="メトロ" name="me2022" />47,741
|統計年度 = 2022年
|乗換 =
|備考 =
}}
[[相対式ホーム]]2面2線を有する[[地下駅]]。
1番線[[銀座駅|銀座]]方に[[池袋駅|池袋]]方面線路への片渡り線が1本ある<ref name="RP926_end">{{Cite journal|和書|author=|title=線路略図|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2016-12-10|volume=66|issue=第12号(通巻926号)|page=巻末|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。定期ダイヤでの当駅発着列車は2010年現在設定されていないが、池袋駅 - 当駅間が開業した時から[[東京駅]]への延伸まで[[引き上げ線]]として使われた後、[[淡路町駅]]まで延伸開業した際(当時は[[単線]]運転)に池袋方面行の電車が渡り線を使用し転線していた名残りである。[[2007年]]6月に[[ホームドア]]が設置されたが、車両とホームの隙間を調整する工事のため、2008年[[3月22日]]まで稼動を一時休止して、翌23日に再開された。
かつては定期券うりばがJR口改札前にあったが、1993年11月に東京駅へ移転となり、代替措置として継続定期券発売機が設置された(のちに新規定期券も購入可能)。
JRの駅とは違い、両改札口にエレベーターが設置されている。なお、1番線ホームへの改札口にあるエレベーターは、[[東京医科歯科大学]]に直接入ることができる。
駅は神田川に面した急傾斜地に建設された関係で、アプローチ部分が半地下構造の駅舎に類する設計で設けられた。この部分は、国鉄・JR御茶ノ水駅の1932年完成の駅舎にも関わった[[土橋長俊]]が主宰する土橋大野建築事務所の設計で、国鉄・JRの御茶ノ水口駅舎と同じインターナショナル・スタイルを採用している<ref name = "遺産_54-58" />。
かつては[[東京メトロ千代田線|千代田線]][[新御茶ノ水駅]]との連絡駅となっていたが、[[都営地下鉄新宿線]][[小川町駅 (東京都)|小川町駅]]が開業し、新御茶ノ水駅と淡路町駅が直接つながったことで、新御茶ノ水駅と当駅(東京メトロ)との連絡を解消した(ただし、JRの乗り換え案内では現在も千代田線が含まれている)。
改札口は2か所で、各ホームに直結している。1番線の改札を出ると1番出入口、2番線の改札を出ると2番出入口しか利用できない構造となっている。1番線で降りて2番出入口へ行きたい場合は(その逆も同様)改札口横の地下通路を用いて隣のホームへ向かうこととなる。また地下通路にはエレベーターの設置はない<ref group="注">丸ノ内線[[東高円寺駅]]も同様にホームを渡る地下通路にエレベーターの設置はない。</ref>。
==== のりば ====
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先
|-
!1
|rowspan=2|[[File:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|15px|M]] 丸ノ内線
|[[新宿駅|新宿]]・[[荻窪駅|荻窪]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/ochanomizu/timetable/marunouchi/a/index.html |title=御茶ノ水駅時刻表 新宿・荻窪方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-02}}</ref>
|-
!2
|[[池袋駅|池袋]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/ochanomizu/timetable/marunouchi/b/index.html |title=御茶ノ水駅時刻表 池袋方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-02}}</ref>
|}
(出典:[https://www.tokyometro.jp/station/ochanomizu/index.html 東京メトロ:構内図])
<gallery>
Ochanomizu Station (Tokyo Metro)-2.jpg|医科歯科大学方面2番出入口(2018年2月)
Tokyo-Metro Ochanomizu-STA JR-Ochanomizu-Sta-District-Gate.jpg|JR御茶ノ水駅方面改札(2022年12月)
Tokyo-Metro Ochanomizu-STA Tokyo-Medical-and-Dental-Univ-District-Gate.jpg|東京医科歯科大学方面改札(2022年12月)
Tokyo-Metro Ochanomizu-STA Platform1.jpg|1番線ホーム(2022年12月)
Tokyo-Metro Ochanomizu-STA Platform2.jpg|2番線ホーム(2022年12月)
</gallery>
==== 発車メロディ ====
ワンマン運転開始に伴い、[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]制作の発車メロディ(発車サイン音)が導入されている。
曲は1番線が、「ハートレール」(串田亨作曲)、2番線が「ジェントルトレイン」([[福嶋尚哉]]作曲)である<ref>{{Cite web|和書|title=音源リスト|東京メトロ|url=http://www.switching.co.jp/sound/index3.html|website=株式会社スイッチオフィシャルサイト|accessdate=2019-08-27|publisher=株式会社スイッチ}}</ref>。
== 利用状況 ==
* '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''80,139人'''である<ref group="利用客数">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員] - JR東日本</ref>。
*: 東日本管内の駅では[[神田駅 (東京都)|神田駅]]に次いで第43位。
* '''東京メトロ''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''47,741人'''である<ref group="メトロ" name="me2022" />。
*: 東京メトロ全130駅中70位<!--他鉄道との直結連絡駅及び共用している駅の乗降人員は順位から除いております-->。
=== 年度別1日平均乗降人員 ===
各年度の1日平均'''乗降'''人員は下表の通りである(JRは除く)。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗降人員<ref group="統計" name="toukei">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref><ref group="統計" name="bunkyo">[http://www.city.bunkyo.lg.jp/kusejoho/toke/toukei.html 文京の統計] - 文京区</ref>
!rowspan=2|年度
!colspan=2|営団 / 東京メトロ
|-
!1日平均<br />乗降人員
!増加率
|-
|1967年(昭和42年)
|69,050
|
|-
|1968年(昭和43年)
|73,720
|6.8%
|-
|1969年(昭和44年)
|73,383
|−0.5%
|-
|1970年(昭和45年)
|76,565
|4.3%
|-
|1971年(昭和46年)
|79,828
|4.3%
|-
|1972年(昭和47年)
|78,265
|−2.0%
|-
|1973年(昭和48年)
|74,323
|−5.0%
|-
|1974年(昭和49年)
|74,864
|0.7%
|-
|1975年(昭和50年)
|71,698
|−4.2%
|-
|1976年(昭和51年)
|71,085
|−0.9%
|-
|1977年(昭和52年)
|71,417
|0.5%
|-
|1978年(昭和53年)
|65,102
|−8.8%
|-
|1979年(昭和54年)
|63,475
|−2.5%
|-
|1980年(昭和55年)
|62,725
|−1.2%
|-
|1981年(昭和56年)
|64,349
|2.6%
|-
|1982年(昭和57年)
|65,275
|1.4%
|-
|1983年(昭和58年)
|65,005
|−0.4%
|-
|1984年(昭和59年)
|66,007
|1.5%
|-
|1985年(昭和60年)
|65,702
|−0.5%
|-
|1986年(昭和61年)
|64,928
|−1.2%
|-
|1987年(昭和62年)
|65,332
|0.6%
|-
|1988年(昭和63年)
|65,694
|0.6%
|-
|1989年(平成元年)
|64,066
|−2.5%
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|62,923
|−1.8%
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|63,000
|0.1%
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|62,615
|−0.6%
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|61,770
|−1.3%
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|53,943
|{{要出典|date=2015年5月}}
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|57,877
|
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|56,547
|−2.3%
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|54,852
|−3.0%
|-
|1998年(平成10年)
|47,712
|{{要出典|date=2015年5月}}
|-
|1999年(平成11年)
|46,581
|{{要出典|date=2015年5月}}
|-
|2000年(平成12年)
|52,451
|
|-
|2001年(平成13年)
|52,665
|0.4%
|-
|2002年(平成14年)
|52,022
|−1.2%
|-
|2003年(平成15年)
|51,483
|−1.0%
|-
|2004年(平成16年)
|50,649
|−1.6%
|-
|2005年(平成17年)
|50,980
|0.7%
|-
|2006年(平成18年)
|51,980
|2.0%
|-
|2007年(平成19年)
|54,018
|3.9%
|-
|2008年(平成20年)
|52,565
|−2.7%
|-
|2009年(平成21年)
|52,203
|−0.7%
|-
|2010年(平成22年)
|52,137
|−0.1%
|-
|2011年(平成23年)
|51,629
|−1.0%
|-
|2012年(平成24年)
|52,642
|2.0%
|-
|2013年(平成25年)
|55,529
|5.5%
|-
|2014年(平成26年)
|55,540
|0.0%
|-
|2015年(平成27年)
|57,455
|3.4%
|-
|2016年(平成28年)
|58,407
|1.7%
|-
|2017年(平成29年)
|59,493
|1.9%
|-
|2018年(平成30年)
|60,053
|0.9%
|-
|2019年(令和元年)
|59,281
|−1.3%
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="メトロ" name="me2020">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2020.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2020年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>38,672
|−34.8%
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="メトロ" name="me2021">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2021.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2021年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>42,427
|9.7%
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="メトロ" name="me2022">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/index.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>47,741
|12.5%
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(1900年代 - 1930年代) ===
各年度の1日平均'''乗車'''人員は下表の通りである。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="東京府統計">東京府統計書 - 国立国会図書館(近代デジタル化資料)</ref>
!年度
!甲武鉄道 /<br />国鉄
!出典
|-
|1904年(明治37年)
|<ref group="備考">1904年12月31日開業。開業日から1905年3月31日までの計91日間を集計したデータ。</ref>708
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806584/213?viewMode= 明治37年]</ref>
|-
|1905年(明治38年)
|1,807
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806585/196?viewMode= 明治38年]</ref>
|-
|1907年(明治40年)
|1,725
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806587/190?viewMode= 明治40年]</ref>
|-
|1908年(明治41年)
|1,153
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806589/103?viewMode= 明治41年]</ref>
|-
|1909年(明治42年)
|1,085
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806591/106?viewMode= 明治42年]</ref>
|-
|1911年(明治44年)
|1,179
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972667/131?viewMode= 明治44年]</ref>
|-
|1912年(大正元年)
|1,342
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972670/134?viewMode= 大正元年]</ref>
|-
|1913年(大正{{0}}2年)
|1,318
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972675/127?viewMode= 大正2年]</ref>
|-
|1914年(大正{{0}}3年)
|1,390
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972677/386?viewMode= 大正3年]</ref>
|-
|1915年(大正{{0}}4年)
|1,471
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972678/348?viewMode= 大正4年]</ref>
|-
|1916年(大正{{0}}5年)
|1,832
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972679/383?viewMode= 大正5年]</ref>
|-
|1919年(大正{{0}}8年)
|3,530
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972680/266?viewMode= 大正8年]</ref>
|-
|1920年(大正{{0}}9年)
|5,702
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972681/302?viewMode= 大正10年]</ref>
|-
|1922年(大正11年)
|10,372
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972682/303?viewMode= 大正11年]</ref>
|-
|1923年(大正12年)
|7,758
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972683/294?viewMode= 大正12年]</ref>
|-
|1924年(大正13年)
|9,308
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972684/292?viewMode= 大正13年]</ref>
|-
|1925年(大正14年)
|10,711
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448121/326?viewMode= 大正14年]</ref>
|-
|1926年(昭和元年)
|13,317
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448138/316?viewMode= 昭和元年]</ref>
|-
|1927年(昭和{{0}}2年)
|15,740
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448164/314?viewMode= 昭和2年]</ref>
|-
|1928年(昭和{{0}}3年)
|19,405
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448188/346?viewMode= 昭和3年]</ref>
|-
|1929年(昭和{{0}}4年)
|22,194
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448218/334?viewMode= 昭和4年]</ref>
|-
|1930年(昭和{{0}}5年)
|23,036
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448245/339?viewMode= 昭和5年]</ref>
|-
|1931年(昭和{{0}}6年)
|23,108
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448278/342?viewMode= 昭和6年]</ref>
|-
|1932年(昭和{{0}}7年)
|27,019
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448259/315?viewMode= 昭和7年]</ref>
|-
|1933年(昭和{{0}}8年)
|31,188
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446322/333?viewMode= 昭和8年]</ref>
|-
|1934年(昭和{{0}}9年)
|32,244
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446161/341?viewMode= 昭和9年]</ref>
|-
|1935年(昭和10年)
|34,363
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446276/339?viewMode= 昭和10年]</ref>
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(1953年 - 2000年) ===
<!--東京都統計年鑑、千代田区統計書を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計" name="bunkyo" />
!年度
!国鉄 /<br />JR東日本
!営団
!出典
|-
|1953年(昭和28年)
|88,821
|
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1953/tn53qa0009.pdf 昭和28年]}} - 11ページ</ref>
|-
|1954年(昭和29年)
|98,230
|
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1954/tn54qa0009.pdf 昭和29年]}} - 9ページ</ref>
|-
|1955年(昭和30年)
|98,756
|
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1955/tn55qa0009.pdf 昭和30年]}} - 9ページ</ref>
|-
|1956年(昭和31年)
|103,951
|13,104
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1956/tn56qa0009.pdf 昭和31年]}}</ref>
|-
|1957年(昭和32年)
|102,345
|14,648
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1957/tn57qa0009.pdf 昭和32年]}}</ref>
|-
|1958年(昭和33年)
|103,943
|16,280
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1958/tn58qa0009.pdf 昭和33年]}}</ref>
|-
|1959年(昭和34年)
|104,850
|17,442
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1959/tn59qyti0510u.htm 昭和34年]</ref>
|-
|1960年(昭和35年)
|108,613
|17,550
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1960/tn60qyti0510u.htm 昭和35年]</ref>
|-
|1961年(昭和36年)
|114,967
|21,447
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1961/tn61qyti0510u.htm 昭和36年]</ref>
|-
|1962年(昭和37年)
|126,729
|22,649
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1962/tn62qyti0510u.htm 昭和37年]</ref>
|-
|1963年(昭和38年)
|135,379
|26,625
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1963/tn63qyti0510u.htm 昭和38年]</ref>
|-
|1964年(昭和39年)
|142,534
|26,851
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1964/tn64qyti0510u.htm 昭和39年]</ref>
|-
|1965年(昭和40年)
|149,289
|32,979
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1965/tn65qyti0510u.htm 昭和40年]</ref>
|-
|1966年(昭和41年)
|156,043
|33,021
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1966/tn66qyti0510u.htm 昭和41年]</ref>
|-
|1967年(昭和42年)
|162,237
|34,183
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1967/tn67qyti0510u.htm 昭和42年]</ref>
|-
|1968年(昭和43年)
|166,561
|36,325
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm 昭和43年]</ref>
|-
|1969年(昭和44年)
|151,401
|36,492
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref>
|-
|1970年(昭和45年)
|148,025
|37,508
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref>
|-
|1971年(昭和46年)
|152,194
|39,142
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1971/tn71qyti0510u.htm 昭和46年]</ref>
|-
|1972年(昭和47年)
|156,597
|38,559
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref>
|-
|1973年(昭和48年)
|157,099
|36,581
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm 昭和48年]</ref>
|-
|1974年(昭和49年)
|162,145
|37,342
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref>
|-
|1975年(昭和50年)
|159,418
|35,049
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm 昭和50年]</ref>
|-
|1976年(昭和51年)
|162,315
|34,896
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref>
|-
|1977年(昭和52年)
|159,975
|35,343
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref>
|-
|1978年(昭和53年)
|151,036
|31,614
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref>
|-
|1979年(昭和54年)
|140,456
|30,924
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref>
|-
|1980年(昭和55年)
|122,644
|30,232
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref>
|-
|1981年(昭和56年)
|121,329
|31,308
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref>
|-
|1982年(昭和57年)
|120,334
|31,433
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref>
|-
|1983年(昭和58年)
|122,806
|31,967
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref>
|-
|1984年(昭和59年)
|128,121
|32,856
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref>
|-
|1985年(昭和60年)
|127,005
|32,092
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref>
|-
|1986年(昭和61年)
|125,885
|31,956
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref>
|-
|1987年(昭和62年)
|126,186
|32,029
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 昭和62年]</ref>
|-
|1988年(昭和63年)
|132,466
|32,632
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref>
|-
|1989年(平成元年)
|131,701
|32,078
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref>
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|135,384
|31,486
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|139,549
|31,120
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|140,597
|31,239
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|138,595
|30,427
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|133,762
|29,926
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|130,672
|28,602
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|127,863
|27,644
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|123,631
|26,951
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|120,323
|26,312
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>118,211
|25,967
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>116,955
|25,759
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref>
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) ===
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計" name="bunkyo" /><ref group="統計">[https://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/kuse/toke/kisotoke/index.html 行政基礎資料集] - 千代田区</ref>
! rowspan="2" |年度
! colspan="3" |JR東日本
! rowspan="2" |営団 /<br />東京メトロ
! rowspan="2" |出典
|-
!定期外
!定期
!合計
|-
|2001年(平成13年)
|
|
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>116,215
|25,621
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|
|
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>114,721
|25,283
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|
|
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>111,870
|24,962
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|
|
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>109,175
|25,068
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|
|
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>106,964
|25,233
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|
|
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>105,954
|25,674
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|
|
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>107,205
|26,705
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|
|
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>104,632
|26,110
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|
|
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>103,011
|25,989
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|
|
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>101,617
|25,995
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|
|
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>100,518
|25,710
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|<ref group="JR" name="jreast-2012" />39,014
|<ref group="JR" name="jreast-2012" />61,142
|<ref group="JR" name="jreast-2012">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>100,157
|26,131
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 平成24年]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|<ref group="JR" name="jreast-2013" />40,714
|<ref group="JR" name="jreast-2013" />64,023
|<ref group="JR" name="jreast-2013">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>104,737
|27,618
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 平成25年]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|<ref group="JR" name="jreast-2014" />40,703
|<ref group="JR" name="jreast-2014" />62,474
|<ref group="JR" name="jreast-2014">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>103,177
|27,562
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 平成26年]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|<ref group="JR" name="jreast-2015" />41,204
|<ref group="JR" name="jreast-2015" />63,686
|<ref group="JR" name="jreast-2015">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>104,890
|28,481
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 平成27年]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|<ref group="JR" name="jreast-2016" />40,935
|<ref group="JR" name="jreast-2016" />63,881
|<ref group="JR" name="jreast-2016">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>104,816
|28,995
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 平成28年]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|<ref group="JR" name="jreast-2017" />41,209
|<ref group="JR" name="jreast-2017" />64,526
|<ref group="JR" name="jreast-2017">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>105,735
|29,584
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 平成29年]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|<ref group="JR" name="jreast-2018" />41,073
|<ref group="JR" name="jreast-2018" />64,817
|<ref group="JR" name="jreast-2018">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>105,890
|29,860
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 平成30年]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="JR" name="jreast-2019" />39,099
|<ref group="JR" name="jreast-2019" />64,483
|<ref group="JR" name="jreast-2019">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>103,582
|29,486
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 平成31年・令和元年]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="JR" name="jreast-2020" />21,596
|<ref group="JR" name="jreast-2020" />44,933
|<ref group="JR" name="jreast-2020">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>66,530
|
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="JR" name="jreast-2021" />25,970
|<ref group="JR" name="jreast-2021" />45,277
|<ref group="JR" name="jreast-2021">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>71,248
|
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="JR" name="jreast-2022" />30,574
|<ref group="JR" name="jreast-2022" />49,565
|<ref group="JR" name="jreast-2022">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>80,139
|
|
|}
;備考
{{Reflist|group="備考"}}
== 駅周辺 ==
{{See also|御茶ノ水|神田駿河台|湯島|外神田|神田淡路町|神田須田町|神田小川町|神田神保町|猿楽町|本郷 (文京区)|新御茶ノ水駅#駅周辺}}
JR線の北を神田川が流れる。丸ノ内線の駅は神田川の北側にあり、御茶ノ水橋でつながる。聖橋は東、お茶の水橋は西に架かる。駅周辺は[[明治大学|明治]]・[[日本大学|日本]]・[[順天堂大学|順天堂]]・[[東京医科歯科大学|東京医科歯科]]の各大学などがあり、『日本の[[カルチエ・ラタン]]』とも呼ばれる[[街#学生街|学生街]]として知られている。また、[[楽器]]店や[[スポーツ]]用品店、歴史ある有名[[病院]]も数多い。
なお、[[お茶の水女子大学]]の最寄り駅は当駅ではなく丸ノ内線[[茗荷谷駅]]と[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]][[護国寺駅]]である。前身の[[師範学校|東京女子高等師範学校]]が[[湯島聖堂]]および現在の[[東京医科歯科大学]]の敷地内にあったためである。
=== 北側 ===
{{columns-list|2|
* [[東京医科歯科大学]] 湯島キャンパス
** [[東京医科歯科大学医学部附属病院]]
** [[東京医科歯科大学歯学部附属病院]]
** 御茶ノ水郵便局
* [[順天堂大学]] 本郷・御茶の水キャンパス
** [[順天堂大学医学部附属順天堂医院]]
* おりがみ会館
* [[東京都水道歴史館]]
* [[湯島聖堂]]
* [[神田明神]]
* 東京ガーデンパレス(ホテル)
* 平和と労働センター・全労連会館
** [[全国労働組合総連合]]事務所
** [[日本国民救援会]]
** [[原水爆禁止日本協議会]]
** [[全日本民主医療機関連合会]]
** [[労働者教育協会]]
** [[治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟]]
* [[日本サッカー協会ビル]]
* [[本郷通り]]
|}}
=== 南側 ===
{{columns-list|2|
* [[明治大学]](本部・[[明治大学駿河台キャンパス|駿河台キャンパス]])
* [[日本大学]]([[日本大学歯学部・大学院歯学研究科|歯学部]]・[[日本大学理工学部・大学院理工学研究科|理工学部]])
** [[日本大学病院]]
** [[日本大学歯学部付属歯科病院]]
* [[文化学院]]
* [[御茶の水美術専門学校]]
* [[学校法人アテネ・フランセ|アテネ・フランセ]]
* [[御茶の水美術学院]]
* [[駿台予備学校]]
* [[四谷大塚]] 御茶ノ水校舎
* 杏雲堂病院
* [[三楽病院|公益社団法人東京都教職員互助会三楽病院]]
** 三楽病院付属生活習慣病クリニック
* 名倉クリニック
* 井上眼科病院
** 井上眼科病院付属駿河台診療所
** 井上眼科病院付属お茶の水・眼科クリニック
* 神尾記念病院
* 浜田病院
* 神田駿河台郵便局
* 小川町郵便局
* 新御茶ノ水駅前郵便局
* [[神田郵便局]]
* [[ニコライ堂]](正式名は「東京復活大聖堂」。[[日本ハリストス正教会]]の府主教座・本部)
* [[山の上ホテル]]
* [[御茶ノ水ソラシティ]]
** [[日本製紙]]本社
** [[宇宙航空研究開発機構]] (JAXA) 東京事務所
** [[デジタルハリウッド]]本社・東京本校
** [[デジタルハリウッド大学]]
* [[ワテラス]]
* 総評会館([[日本労働組合総連合会]]本部)
* [[神田古書店街]]([[神田神保町]])
* [[三省堂書店]] 神田本店
* [[日本出版販売]]本社
* [[三井住友海上]]本社
* [[キリスト教女子青年会|東京YWCA]]会館
* [[明大通り]]
* [[東京都道405号外濠環状線|外堀通り]]
* [[国道17号]]
* マロニエ通り
* [[神保町駅]](東京メトロ半蔵門線、都営地下鉄三田線・新宿線)
* [[新御茶ノ水駅]](東京メトロ千代田線)
* [[小川町駅 (東京都)|小川町駅]](都営地下鉄新宿線)
* [[淡路町駅]](東京メトロ丸ノ内線)
|}}
<gallery>
Tokyo Public Transportation L8609.jpg|神田川とJR線秋葉原方の下を通る丸ノ内線
Zenrouren Kaikan (1).jpg|平和と労働センター・全労連会館
Japan football museum11+ 2006 0709.jpg|2002FIFAワールドカップ記念日本サッカーミュージアム
Nikolai-do.jpg|ニコライ堂
</gallery>
== バス路線 ==
<!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。-->
駅西口の「'''御茶ノ水駅前'''」停留所に、[[都営バス]]と千代田区地域福祉交通「[[風ぐるま (千代田区)|風ぐるま]]」([[日立自動車交通]]が運行)、文京区コミュニティバス「[[Bーぐる]]」([[日立自動車交通]]が運行)の路線が乗り入れている。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!のりば!!運行事業者!!系統・行先
|-
!御茶ノ水駅北側1
|rowspan="5" style="text-align:center;"|都営バス
|[[都営バス巣鴨営業所#茶51系統|'''茶51''']]:[[駒込駅|駒込駅南口]]
|-
!御茶ノ水駅北側2
|'''茶51''':[[秋葉原駅|秋葉原駅前]]
|-
!御茶ノ水橋口改札前3
|[[都営バス北営業所#東43系統|'''東43''']]:[[東京駅のバス乗り場#丸の内北口|東京駅丸の内北口]]
|-
!御茶ノ水橋口改札前4
|'''東43''':荒川土手
|-
!御茶ノ水橋北側5
|[[都営バス巣鴨営業所#上01・茶07系統|'''茶07''']]:[[東京大学本郷地区キャンパス#本郷キャンパス|東大構内]]
|-
!御茶ノ水橋北側
|rowspan="2" style="text-align:center;"|風ぐるま
|[[風ぐるま (千代田区)#秋葉原ルート|'''秋葉原ルート''']]:[[千代田区役所]]
|-
!rowspan="2"|御茶ノ水橋口改札前
|[[風ぐるま (千代田区)#富士見・神保町ルート|'''富士見・神保町ルート''']]:千代田区役所
|-
|style="text-align:center;"|Bーぐる
|[[Bーぐる#本郷・湯島ルート|'''本郷・湯島ルート''']]:[[湯島駅]]・春日一丁目
|}
== 隣の駅 ==
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: [[File:JR JC line symbol.svg|15px|JC]] 中央線(快速)
:: {{Color|#0099ff|■}}特別快速「[[ホリデー快速おくたま]]」(土休日上りのみ)<!-- おくたまは定期列車扱い --->・{{Color|#ff0066|■}}通勤特快(平日上りのみ)・{{Color|#0033ff|■}}中央特快・{{Color|#339966|■}}青梅特快・{{Color|#990099|■}}通勤快速(平日下りのみ)・{{Color|#f15a22|■}}快速
::: [[神田駅 (東京都)|神田駅]] (JC 02) - *<s>[[万世橋駅]]</s> - '''御茶ノ水駅 (JC 03)''' - [[四ツ谷駅]] (JC 04)
:: *<s>打消線</s>は廃駅
: [[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 中央・総武線(各駅停車)
::: [[秋葉原駅]] (JB 19) - '''御茶ノ水駅 (JB 18)''' - [[水道橋駅]] (JB 17) ※線路名称上の中央本線としての当駅の隣の駅は神田駅と水道橋駅であるが、双方の駅に停車する列車は存在しない。
; 東京地下鉄(東京メトロ)
: [[File:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|15px|M]] 丸ノ内線
::: [[淡路町駅]] (M 19) - '''御茶ノ水駅 (M 20)''' - [[本郷三丁目駅]] (M 21)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注"}}
==== 出典 ====
{{Reflist|2}}
===== 報道発表資料 =====
{{Reflist|group="報道"|2}}
===== 新聞記事 =====
{{Reflist|group="新聞"}}
=== 利用状況 ===
; JR・地下鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="利用客数"}}
; JR東日本の1999年度以降の乗車人員
{{Reflist|group="JR"|22em}}
; 東京地下鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="メトロ"|22em}}
; JR・地下鉄の統計データ
{{Reflist|group="統計"}}
; 東京府統計書
{{Reflist|group="東京府統計"|17em}}
; 東京都統計年鑑
{{Reflist|group="東京都統計"|17em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite journal|和書 |author = 三宅俊彦 |title = 飯田町駅ものがたり |journal = [[鉄道ピクトリアル]] |issue = 869 |year = 2012 |month = 11 |publisher = 電気車研究会 |pages = 24 - 31 |ref = 飯田町駅}}
* {{Cite journal|和書 |author = 三宅俊彦 |title = 甲武鉄道の市街線点描 |journal = [[鉄道ピクトリアル]] |issue = 869 |year = 2012 |month = 11 |publisher = 電気車研究会 |pages = 42 - 43 |ref = 市街線点描}}
* {{Cite journal|和書 |author = 祖田圭介 | title = 東京圏複々線区間の配線と運転の興味 |journal = [[鉄道ピクトリアル]] |issue = 776 |year = 2006 |month = 6 |publisher = 電気車研究会 |pages = 46 - 53 |ref = 東京圏複々線}}
* {{Cite journal|和書 |author = 西律子 |title = JR御茶ノ水駅のバリアフリー化検証 |journal = お茶の水地理 |volume = 51 |date = 2012-03-31 |publisher = お茶の水地理学会 |pages = 73 - 85 |url = http://teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/bitstream/10083/51797/1/07_73-85.pdf |format = PDF |ref = バリアフリー検証}}
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* {{Cite journal|和書 |author = 平井喜久松 |title = 御茶の水両国橋間高架線建設工事に就て |journal = 土木建築工事画報 |volume = 8 |issue = 8 | year = 1932 |month = 8 |publisher = [[土木学会]] |pages = 33 - 40 |url = http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/08-08/08-08-1677.pdf |format = PDF |ref = 画報}}
* {{Cite book|和書 |title = [[日本国有鉄道百年史]] |volume = 9 |date = 1972-03-25 |publisher = [[日本国有鉄道]] |ref = 百年史9}}
* {{Cite book|和書 |editor = 交建設計・駅研グループ |title = 駅のはなし |date = 1997-01-18 |edition = 改訂二版 |publisher = [[成山堂書店]] |ref = 駅のはなし}}
* {{Cite book|和書 |editor = 小池滋・青木栄一・和久田康雄 |title = 世界の駅・日本の駅 |date = 2010-06-25 |edition = 第1刷 |publisher = [[悠書館]] |ref = 世界の駅}}(御茶ノ水駅に関する部分の執筆は小野田滋)
* {{Cite book|和書 |author = 三好好三・三宅俊彦・塚本雅啓・山口雅人 |title = 中央線 オレンジ色の電車今昔50年 |date = 2008-04-01 |edition = 初版 |publisher = [[JTBパブリッシング]] |ref = 今昔50年}}
* {{Cite book|和書 |author = 小野田滋 |title = 東京鉄道遺産 |date = 2013-05-20 |edition = 第1刷 |publisher = [[講談社]] |ref = 遺産}}
* {{Cite journal |和書|author=[[曽根悟]](監修) |journal=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部(編集) |publisher=[[朝日新聞出版]] |issue=5
|title=中央本線 |date=2009-08-09 |ref=sone05 }}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Ochanomizu Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=384|name=御茶ノ水}}
* [https://www.tokyometro.jp/station/ochanomizu/index.html 御茶ノ水駅/M20 | 路線・駅の情報 | 東京メトロ]
* [https://www.jreast.co.jp/construction/station/#station04 進行中の建設プロジェクト > 駅改良・開発プロジェクト] - 東日本旅客鉄道
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9,470 | 判例 | 判例(はんれい、英語: judicial precedents)は、裁判において具体的事件における裁判所が示した法律的判断。日本法においては特に最高裁判所が示した判断をいう。これに対し、下級審の判断は実務上「裁判例」と呼ばれ区別される。英米法においては裁判所の判断のうち「レイシオ・デシデンダイ」(ラテン語: ratio decidendi)として法的拘束力を有するものをいう。
判例は、「先例」としての重み付けがなされ、それ以後の判決に拘束力を持ち、影響を及ぼす。その根拠としては、「法の公平性維持」が挙げられる。つまり、「同類・同系統の訴訟・事件に対して、裁判官によって判決が異なることは不公平である」という考え方である。なお、同類、同系統の事例に対して同様の判決が繰り返されて積み重なっていくと、その後の裁判に対する拘束力が一層強まり、不文法の一種である「判例法」を形成することになる。
英米法の国では、判例が第一次的な法源とされている。ただし、制定法も第二次的な法源である。
判例は、法的拘束力 (doctrine of stare decisis)を有するとされ、成文法が全く、あるいはほとんどないにもかかわらず、判例のみで一つの法分野を形成することもある。法的拘束力について、英国では1898年に貴族院で厳格な先例拘束性が確立され(London Tramways Co., Ltd. v. London County Council [1898] A.C.375事件による)、1966年に決別が表明されるまで(英語版)先例拘束性の原理がとられていたのに対し、アメリカ合衆国においては厳格な先例拘束性の原理が成立しておらず、比較的緩やかに判例変更が認められている。
大陸法の国では、判例は英米法の国ほどの法的拘束力がなく、法源の一つでなく、制定法や慣習法のみが法源であると解するのが、伝統的な理解である。しかし、法解釈について最終判断を委ねられる最上級の裁判所の判例は、下級裁判所にとって拘束力を有するだけでなく、あらゆる法律実務に対して事実上の拘束力を有する。したがって、大陸法の国においても、広い意味での判例法は存在すると言える。
日本における判例は、その射程の広狭により、以下のように法理判例・場合判例および事例判例の3種類に分類される。各判例がどの類型に属するかは、最高裁の公式判例集の判示事項や判例要旨の記載ぶりからある程度判断可能である。
日本における判例の法源性については学説が分かれている。
裁判所法第10条第3号は「憲法その他の法令の解釈適用について、意見が前に最高裁判所のした裁判に反するとき」は大法廷で判断することが必要であると定める。すなわち、現行制度は最高裁判所の判例につきその変更は慎重な手続を設けて、容易に変更ができないようにしているのである。また、最高裁判例に反する下級審の裁判があったときには法令解釈の違背があるとして取り消すことができる。法令の安定的な解釈と事件を通しての事後的な法令解釈の統一を図るためであり、最高裁判所の判例には後の裁判所の判断に対し拘束力があるものと解釈されている。
同一事件について上級裁判所が下した判断は、当該事件限りにおいて下級裁判所を拘束する(裁判所法4条)。これは、日本法上判例または裁判例が有する法的拘束力の一例であるが、審級制が採用されている以上当然の帰結であるとされる。
ある判決が最高裁判所の判例や大日本帝国憲法下の大審院・高等裁判所の判例に反する場合、刑事訴訟で上告理由となり(刑事訴訟法405条2号3号)、民事訴訟で上告受理申立理由となり(民事訴訟法318条1項)、また許可抗告事由(民訴法337条2項)となる。
上級裁判所は、法令解釈に誤りがある場合は原裁判を破棄することができる(刑訴法第397条第1項、第2項、第400条。民訴法第325条第1項、第337条第5項)。
一般に公式判例集に登載する裁判の選択は、最高裁判所に置かれている判例委員会でなされる(判例委員会規程第1条、同第2条)。7人以下の裁判官が委員となり、調査官および事務総局の職員が幹事となり、原則として月1回開かれている。そこで、判例集に登載されることが決定された判例については、幹事の起案した判示事項、判例要旨、参照条文なども審議決定される。判例委員会は、何かが判例であるかを公的に決定するものではないが、この判例委員会の決定は重要な手がかりになると見なされている。また判例集の記述がなんらかの確定的事実を述べたものではないことには注意すべきだとされる。
大陸法系の訴訟手続をとる日本では、判例に法律や政令と同じような価値はない。国会の定める法律(あるいはより下位の存在である条例)が法源として採用されることが原則である。一方で、法的安定性や法の下の平等といった要請から、判例に制定法や慣習法とは異なる二次的なものとしての法源性を認めるべきであるという有力説もある。 | [
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] | 判例は、裁判において具体的事件における裁判所が示した法律的判断。日本法においては特に最高裁判所が示した判断をいう。これに対し、下級審の判断は実務上「裁判例」と呼ばれ区別される。英米法においては裁判所の判断のうち「レイシオ・デシデンダイ」として法的拘束力を有するものをいう。 | '''判例'''(はんれい、{{Lang-en|judicial precedents}})は、[[裁判]]において具体的事件における[[裁判所]]が示した法律的判断。[[日本法]]においては特に[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]が示した判断をいう。これに対し、下級審の判断は実務上「'''裁判例'''」と呼ばれ区別される{{sfn|畑佳秀|2019|p=45}}。[[英米法]]においては裁判所の判断のうち「[[判決理由#レイシオ・デシデンダイ|レイシオ・デシデンダイ]]」({{lang-la|''ratio decidendi''}})として[[法的拘束力]]を有するものをいう。
== 判例の意義 ==
=== 概論 ===
判例は、「[[先例]]」としての重み付けがなされ、それ以後の[[判決]]に拘束力を持ち、影響を及ぼす。その根拠としては、「[[法 (法学)|法]]の公平性維持」が挙げられる。つまり、「同類・同系統の[[訴訟]]・事件に対して、[[裁判官]]によって判決が異なることは不公平である」という考え方である。なお、同類、同系統の事例に対して同様の判決が繰り返されて積み重なっていくと、その後の裁判に対する拘束力が一層強まり、[[不文法]]の一種である「'''判例法'''」を形成することになる。
=== 英米法 ===
[[コモン・ロー|英米法]]の国では、'''判例'''が第一次的な[[法源]]とされている。ただし、[[制定法]]も第二次的な法源である。
判例は、[[法的拘束力]] (doctrine of stare decisis)を有するとされ、[[成文法]]が全く、あるいはほとんどないにもかかわらず、判例のみで一つの法分野を形成することもある。法的拘束力について、[[英国]]では1898年に貴族院で厳格な先例拘束性が確立され(''London Tramways Co., Ltd. v. London County Council'' [1898] A.C.375事件による<ref>{{cite web|url=http://www.e-lawresources.co.uk/London-Street-Tramways-v-London-County-Council.php|title=London Street Tramways Co Ltd v London County Council <nowiki>[1898]</nowiki> AC 375|website=e-lawsource.co.uk|accessdate=2021-12-08}}</ref>)、{{仮リンク|プラクティス・ステートメント|en|Practice Statement|label=1966年に決別が表明されるまで}}先例拘束性の原理がとられていたのに対し、[[アメリカ合衆国]]においては厳格な先例拘束性の原理が成立しておらず、比較的緩やかに判例変更が認められている。
=== 大陸法 ===
[[大陸法]]の国では、判例は英米法の国ほどの法的拘束力がなく、[[法源]]の一つでなく、[[制定法]]や[[慣習法]]のみが法源であると解するのが、伝統的な理解である。しかし、[[法解釈]]について最終判断を委ねられる[[最高裁判所|最上級の裁判所]]の判例は、下級裁判所にとって拘束力を有するだけでなく、あらゆる法律実務に対して事実上の拘束力を有する。したがって、大陸法の国においても、広い意味での判例法は存在すると言える。
=== 日本における判例 ===
====日本における判例の射程====
日本における判例は、その射程の広狭により、以下のように法理判例・場合判例および事例判例の3種類に分類される{{sfn|畑佳秀|2019|pp=46-47}}。各判例がどの類型に属するかは、最高裁の公式判例集の判示事項や判例要旨の記載ぶりからある程度判断可能である{{sfn|畑佳秀|2019|pp=52-53}}。
*'''法理判例'''とは、一般的な法理を判示するものである。
*'''事例判例'''とは、当該事案の個別具体的な事情においてのみ適用される法理を判示するものである。ただし、どの程度の事案の類似性があれば同様の法理が適用されるかは必ずしも明らかにならない。なお、事例判例の判示内容に一般論が含まれていたとしても、それが当該事案の解決に資するものでないのであれば傍論と評価される。
*'''場合判例'''とは、事例判例よりも抽象化された一定の「場合」において一般的に適用される法理を判示するものであり、法理判例と事例判例の中間に位置するものである。
====日本における判例の法源性====
日本における判例の[[法源]]性については[[学説]]が分かれている。
[[裁判所法]]第10条第3号は「憲法その他の法令の解釈適用について、意見が前に最高裁判所のした裁判に反するとき」は大法廷で判断することが必要であると定める。すなわち、現行制度は最高裁判所の判例につきその変更は慎重な手続を設けて、容易に変更ができないようにしているのである。また、最高裁判例に反する下級審の裁判があったときには法令解釈の違背があるとして取り消すことができる。法令の安定的な解釈と事件を通しての事後的な法令解釈の統一を図るためであり、最高裁判所の判例には後の裁判所の判断に対し拘束力があるものと解釈されている{{sfn|土屋文昭|2011|p=220}}。
同一事件について上級裁判所が下した判断は、当該事件限りにおいて下級裁判所を拘束する([[裁判所法]]4条)。これは、日本法上判例または裁判例が有する法的拘束力の一例であるが、審級制が採用されている以上当然の帰結であるとされる{{sfn|畑佳秀|2019|pp=45-46}}。
ある判決が[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]の判例や[[大日本帝国憲法]]下の[[大審院]]・[[高等裁判所]]の判例に反する場合、[[刑事訴訟]]で[[上告]]理由となり([[刑事訴訟法]]405条2号3号)、[[民事訴訟]]で上告受理申立理由となり([[民事訴訟法]]318条1項){{efn|上告受理の申立ては「原判決に最高裁判所の判例と相反する判断がある事件その他の法令の解釈に関する重要な事項を含むものと認められる事件」について申立てがされる。}}、また許可抗告事由(民訴法337条2項){{efn|高等裁判所の決定及び命令について「最高裁判所の判例と相反する判断がある場合その他の法令の解釈に関する重要な事項を含むと認められる場合」について申立てがされ、高等裁判所がこれを許可したときにすることができる(民訴法337条第1項、第2項)。}}となる。
上級裁判所は、法令解釈に誤りがある場合は原裁判を破棄することができる(刑訴法第397条第1項、第2項、第400条。民訴法第325条第1項、第337条第5項)。
====日本における公式判例集====
一般に公式判例集に登載する裁判の選択は、最高裁判所に置かれている判例委員会でなされる(判例委員会規程第1条、同第2条)。7人以下の裁判官が委員となり、調査官および事務総局の職員が幹事となり、原則として月1回開かれている。そこで、判例集に登載されることが決定された判例については、幹事の起案した判示事項、判例要旨、参照条文なども審議決定される{{sfn|村林隆一|2003|p=81}}。判例委員会は、何かが判例であるかを公的に決定するものではないが、この判例委員会の決定は重要な手がかりになると見なされている{{sfn|今村隆|2009|p=52|loc=脚注45}}。また判例集の記述がなんらかの確定的事実を述べたものではないことには注意すべきだとされる{{efn|{{harvnb|中野次雄|2002|p=30}}によれば、「判例とその読み方(改訂版)」P.30によれば、「(判例集の)作成者としては、その裁判の「判例」だと自ら考えたものを要旨として書いたわけで、それはたしかに「判例」を発見するのに参考になり、よい手がかりにはなる。少なくとも、索引的価値があることは十分に認めなければならない。しかし、なにが「判例」かは・・大いに問題があるところで、作成者が判例だと思ったこととそれが真の判例だということとは別である。現に要旨の中には、どうみても傍論としかいえないものを掲げたものもあるし・・稀な過去の例ではあるが、裁判理由とくい違った要旨が示されたことすらないではない・・。判決・決定要旨として書かれたものをそのまま「判例」だと思うのはきわめて危険で、判例はあくまで裁判理由の中から読む人自身の頭で読み取られなければならない」のであるという{{sfn|村林|2003|p=81}}。}}。
大陸法系の[[訴訟]]手続をとる[[日本]]では、判例に法律や政令と同じような価値はない。[[国会]]の定める[[法律]](あるいはより下位の存在である[[条例]])が法源として採用されることが原則である。一方で、法的安定性や法の下の平等といった要請から、判例に制定法や慣習法とは異なる二次的なものとしての法源性を認めるべきであるという有力説もある{{sfn|土屋文昭|2011|p=224|loc=脚注23}}。
== 判例の一覧 ==
[[判例集]]、{{ill2|判例の一覧|en|Lists of case law}}
* {{ill2|English Reports|en|English Reports}} - 英国の judgments of the higher English courts における1220 - 1866年の判例をまとめた判例集。
* {{ill2|Law report|en|Law report}} - 1865年以降のイギリスの判例集で法廷で使われ、最も信頼度の高い判例集<ref name=doi156>{{Cite journal |last=染谷 |first=雅幸 |last2=石川 |first2=優佳 |last3=内記 |first3=香子 |date=2001 |title=海外の法令・判例情報(<特集>法令・判例情報) |url=https://doi.org/10.18919/jkg.51.3_156 |language=ja |doi=10.18919/jkg.51.3_156}}</ref>。
* Recueil Sirey(1791-1964) 、Recueil Dalloz(1845‐1964)‐ フランス<ref name=doi156/>。
* {{ill2|Entscheidungen des Bundesverfassungsgerichts|de|Entscheidungen des Bundesverfassungsgerichts}} - ドイツ。
* [[:Category:判例]]
** [[:Category:アメリカ合衆国の判例]]
** [[:en:Category:English case law]] - イギリスの判例
** [[:Category:言論・表現の自由に関する裁判]]
** [[:Category:国際裁判所の判例]]
** [[:Category:国際司法裁判所の判例]]
** [[:Category:日本の判例]]
== 脚注 ==
===注釈===
{{notelist}}
===出典===
{{reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{citebook|和書|editor=中野次雄|title=判例の読み方|edition=改訂版|publisher=有斐閣|year=2002|ISBN= 4641027730|ref=harv}}<!--2009年に3訂版が出ている-->
* {{cite journal|和書|title=判例に関する覚書--民事判例の主論を中心として|author=土屋文昭|journal=東京大学法科大学院ローレビュー|volume=6|pages=218-233|date=2011-09|ref=harv|naid= 40019036714 |url=http://www.sllr.j.u-tokyo.ac.jp/06/papers/v06part11(tsuchiya).pdf|format=pdf}}
* {{cite journal|和書|title=民事判例の「実践的」読み方について : 判決文等の形式面から読み取れること|author=畑佳秀|journal=東京大学法科大学院ローレビュー|volume=13・14|pages=44-55|date=2019-11|ref=harv|naid= 40022090593|url=http://www.sllr.j.u-tokyo.ac.jp/13/papers/v13part05(hata).pdf|format=pdf}}
* {{cite journal|和書|title=判例と傍論--最高裁平成12.4.11判決(民集54巻4号1368頁)に因んで|author=村林隆一|journal=パテント |volume=56|issue=4|pages=79-84 |date=2003-04|ref=harv|naid= 80016171386|url=https://system.jpaa.or.jp/patents_files_old/200304/jpaapatent200304_079-084.pdf|format=pdf}}
* {{cite journal|和書|title=再論・課税訴訟における要件事実論の意義|author=今村隆|journal=税大ジャーナル |volume=10 |pages=27-53 |date=2009-02 |url=https://www.nta.go.jp/about/organization/ntc/kenkyu/backnumber/journal/10/pdf/10_02.pdf|format=pdf|ref=harv|naid= 40016626575}}
== 関連項目 ==
* [[民集]]
* [[刑集]]
* [[不文憲法]]
* [[慣習法]]
* [[判決理由]]
== 外部リンク ==
*[http://hanrei.saiban.in 判例検索β - 裁判.in]
*[https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/search1 最高裁判例集の検索]
*[http://hanrei.jp/ 知的財産権に関する判例検索]
*[http://www.clo.jp/img/pdf/60/14.pdf/ 裁判エッセイ35 判例委員会で学んだこと]川口冨男(元高松高等裁判所長官)
* {{Kotobank}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:はんれい}}
[[Category:裁判]]
[[Category:司法]]
[[Category:判例|*]]
[[Category:刑事訴訟法]]
[[Category:民事訴訟法]] | 2003-05-28T13:59:44Z | 2023-11-22T09:35:07Z | false | false | false | [
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9,474 | 作業療法士 | 作業療法士(さぎょうりょうほうし、英: occupational therapist、略称: OT)は、医療従事者の一員である。理学療法士(PT)、言語聴覚士(ST)、視能訓練士(CO)と共に、リハビリテーション職と称されるもののうちの一つ。厚生労働大臣の免許を受けて、「作業療法士」の名称独占資格を用いて、医師の指示の下に、「作業療法」を行うことを業とする者をいう。
出典:
作業療法士は、理学療法士及び作業療法士法第15条により診療の補助として作業療法を行なう。
2010年4月30日の医政発0430第1号より、理学療法士及び作業療法士法第2条第1項の「作業療法」については、同項の「手芸、工作」という文言から、「医療現場において手工芸を行わせること」といった認識が広がっている。
以下に掲げる業務については、理学療法士及び作業療法士法第2条第1項の「作業療法」に含まれるものであることから、作業療法士を積極的に活用することが望まれる。
このほか、作業療法士には訓練の一環として、また気分転換や社会性の改善のためにゲーム・レクリエーション活動の知識が欠かせない。代表的なゲーム・レクリエーションとしては、トランプ、オセロ、囲碁、将棋、輪投げ、パズル、ダンス、ゲートボール、風船バレーボールが挙げられる。
一般には、作業療法は18世紀から19世紀の「道徳療法」が起源だといわれている。これを行った者の代表がフランス革命時代の精神科医のフィリップ・ピネルである。
第二次世界大戦後、暫くしてWHOの指導に基づき、行政主導という形で取り組みが始められた。そして、当時の米国の主要な作業療法の情勢を模範にして、その形式を導入した。そのため、当初は、身体障害分野のリハビリテーションのみを想定していたが急遽、精神科リハビリテーションの中での作業療法についても、資格化の取り組みが行われた。ただし実際には、日本の精神科作業療法の歴史と実情には合わない形での導入がなされたという。
2015年現在、有資格者は74,801名、養成校数は184校である。
作業療法士になるためには、専門の養成校を卒業し、作業療法士国家試験に合格しなければならない。養成校については、理学療法士作業療法士養成施設を参照のこと。
理学療法士と作業療法士は専門職であり内容が明らかに異なるが、お互いの足りない部分を満たす関係となっている。
日本の国家資格による理学療法士・作業療法士の違いは以下であるが、法律は各国で違う為、国によって業務範囲が異なる。
ここで言う応用動作とは食事動作・トイレ動作・入浴動作・更衣動作・炊事・洗濯・掃除等、多岐にわたり、基本的動作とは応用動作の基本となる動作「寝返り・起き上がり・座位保持・移乗・立ち上がり・移動」を指す。 | [
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] | 作業療法士は、医療従事者の一員である。理学療法士(PT)、言語聴覚士(ST)、視能訓練士(CO)と共に、リハビリテーション職と称されるもののうちの一つ。厚生労働大臣の免許を受けて、「作業療法士」の名称独占資格を用いて、医師の指示の下に、「作業療法」を行うことを業とする者をいう。 | {{資格
|名称 = 作業療法士
|英名 = Occupational therapist
|英項名 = Occupational therapist
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'''作業療法士'''(さぎょうりょうほうし、英: occupational therapist、略称: OT)は、[[医療従事者]]の一員である。[[理学療法士]](PT)、[[言語聴覚士]](ST)、[[視能訓練士]](CO)と共に、[[リハビリテーション]]職と称されるもののうちの一つ。[[厚生労働大臣]]の[[免許]]を受けて、「作業療法士」の[[名称独占資格]]を用いて、[[医師]]の指示の下に、「[[作業療法]]」を行うことを業とする者をいう。
== 概要 ==
=== 作業療法の定義(世界作業療法士連盟(WFOT)2004)===
* 作業療法とは、作業を通して健康と幸福な生活の推進にかかわる職業である。作業療法の主目標は、人々が日々の生活の営みに参加できるようにすることである。作業療法士は、こうした成果を達成するために、人々が自らの参加能力の向上をもたらすような事柄に取り組めるようにしたり、参加をよりよく支援するための環境整備を行ったりする。
* 作業療法士は、広範囲におよぶ教育を受けることにより、健康状態に由来する身体の機能もしくは構造的な障害があり、かつ社会参加への障壁を体験している人々と、個人あるいは集団レベルで協業していくための知識と技術を身につけている。
* 作業療法士は、物理的な環境、社会の態度や制度的な環境によって、人々の参加が支えられることもあれば、制約されることもあることを確信している。それゆえ作業療法の実践が、人々の参加を促進するために、環境面の変革に向けられることもある。
* 作業療法は、病院、保健センター、家庭、職場、学校、矯正施設、高齢者住宅などを含む多岐にわたる場で実践される。クライエントは[[作業療法]]過程に積極的に関与し、作業療法の成果は多様かつクライエント主導であり、参加の観点、あるいは参加がもたらす満足という観点から判断される。
* 作業療法士は90%の確率で
出典:<ref>[http://www.jaot.or.jp/international/wfot_definition.html 作業療法の定義(WFOT 2012)] - 一般社団法人 日本作業療法士協会</ref>
== 業務 ==
作業療法士は、[[理学療法士及び作業療法士法]]第15条により診療の補助として作業療法を行なう。
[[2010年]]4月30日の医政発0430第1号<ref>{{Cite web|和書|url= http://wwwhourei.mhlw.go.jp/hourei/doc/tsuchi/T100506G0010.pdf |title= 医療スタッフの協働・連携によるチーム医療の推進について |author= 厚生労働省医政局長 |date= 2010-04-30 |accessdate= 2020-03-30 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20100815090625/http://wwwhourei.mhlw.go.jp/hourei/doc/tsuchi/T100506G0010.pdf |archivedate= 2010-08-15 }}</ref>より、理学療法士及び作業療法士法第2条第1項の「作業療法」については、同項の「手芸、工作」という文言から、「医療現場において手工芸を行わせること」といった認識が広がっている。
以下に掲げる業務については、理学療法士及び作業療法士法第2条第1項の「作業療法」に含まれるものであることから、作業療法士を積極的に活用することが望まれる。
* 作業療法士が食事訓練を実施する際などの喀痰等の吸引
* 移動、食事、排泄、入浴等の日常生活活動に関する[[日常生活動作|ADL]]訓練
* 家事、外出等の[[手段的日常生活動作|IADL]]訓練
* 作業耐久性の向上、作業手順の習得、就労環境への適応等の職業関連活動の訓練
* 福祉用具の使用等に関する訓練
* 退院後の住環境への適応訓練
* [[発達障害]]や[[高次脳機能障害]]等に対する[[リハビリテーション]]
このほか、作業療法士には訓練の一環として、また気分転換や社会性の改善のためにゲーム・レクリエーション活動の知識が欠かせない<ref>柏木正好『理学療法士・作業療法士になる!?』秀和システム、2005年、94頁。</ref>。代表的なゲーム・レクリエーションとしては、[[トランプ]]、[[オセロ (ボードゲーム)|オセロ]]、[[囲碁]]、[[将棋]]、[[輪投げ]]、[[パズル]]、[[ダンス]]、[[ゲートボール]]、[[風船バレーボール]]が挙げられる<ref>柏木正好『理学療法士・作業療法士になる!?』秀和システム、2005年、95頁。</ref>。
== 日本の作業療法士の歴史 ==
=== 概要 ===
一般には、[[作業療法]]は18世紀から19世紀の「[[道徳療法]]」が起源だといわれている。これを行った者の代表が[[フランス革命]]時代の精神科医の[[フィリップ・ピネル]]である。
{{要出典範囲|date=2010年6月|[[第二次世界大戦]]後、暫くして[[世界保健機関|WHO]]の指導に基づき、行政主導という形で取り組みが始められた}}。{{要出典範囲|date=2010年6月|そして、当時の[[アメリカ合衆国|米国]]の主要な[[作業療法]]の情勢を模範にして、その形式を導入した}}。{{要出典範囲|date=2010年6月|そのため、当初は、身体障害分野の[[リハビリテーション]]のみを想定していた}}が{{要出典範囲|date=2010年6月|急遽、[[精神科]]リハビリテーションの中での作業療法についても、資格化の取り組みが行われた。ただし実際には、日本の精神科作業療法の歴史と実情には合わない形での導入がなされた}}という。
=== 年譜 ===
* [[1963年]] - 国内で最初の養成学校([[東京病院附属リハビリテーション学院|国立療養所東京病院附属リハビリテーション学院]](3年制))が設立される。リハビリテーションに関する[[専門学校]]は、[[厚生省]](当時)の管轄となる。その後、[[短期大学|短大]]・[[大学]]にも養成学科が設立されていくが、これらは[[文部省]]の管轄である。
* [[1965年]] - [[理学療法士及び作業療法士法]]が制定される。
* [[1966年]] - [[国家資格]]としての作業療法士が制定される。
* [[1966年]]9月 - [[日本作業療法士協会]]が結成される。
* [[1974年]] - 精神科作業療法[[診療報酬制度]]が法定化される。
* [[1975年]] - 精神科作業療法診療報酬制度が点数化される。
* [[1975年]]5月 - 72回[[日本精神神経学会]]総会決議[[シンポジウム]]が開催される。作業療法がテーマであった。一般演題に菅修の『作業療法の奏効機転』があった。この総会の主目的は、「作業療法点数化に反対」であった。反対理由は、作業療法と称し患者を病院で使役させる、悪徳病院の使役を正当化するなどであった。
* [[1985年]][[6月13日]] - 日本作業療法士協会が作業療法の定義を独自に定める。
* [[1993年]] - [[広島大学]]に初めて四年制の作業療法士養成課程([[医学部]][[保健学科]][[作業療法学]][[専攻]])が設置される。
* [[1996年]] - 作業療法学の修士課程が設置された。
* [[1998年]] - 作業療法学の博士課程が設置された。
* [[2007年]] - 日本作業療法士協会が「作業療法5ヵ年戦略」を策定した。
* [[2008年]]12月 - 9月25日を作業療法の日と制定した。
* [[2009年]]12月 - 政治団体、日本作業療法士連盟が設立される。
* [[2013年]] - 日本作業療法士協会が「第二次作業療法5ヵ年戦略」を策定した<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.jaot.or.jp/wp-content/uploads/2014/10/2nd-5year-strategy.pdf |title= 第二次作業療法5ヵ年戦略(2013−2017) |publisher= 一般社団法人 日本作業療法士協会 |date= 2013-06-20 |accessdate= 2020-03-30 }}</ref>。
== データ ==
2015年現在、有資格者は74,801名、養成校数は184校である<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.jaot.or.jp/kankobutsu/pdf/ot-news2016/2016-01.pdf |title= 日本作業療法士協会誌 第46巻 |publisher= 一般社団法人 日本作業療法士協会 |date= 2016-01-15 |accessdate= 2020-03-30 }}</ref>。
== 養成 ==
作業療法士になるためには、専門の養成校を卒業し、[[作業療法士国家試験]]に合格しなければならない。養成校については、[[理学療法士作業療法士養成施設]]を参照のこと。
==日本における作業療法士と理学療法士の違い==
理学療法士と作業療法士は専門職であり内容が明らかに異なるが、お互いの足りない部分を満たす関係となっている。
日本の国家資格による理学療法士・作業療法士の違いは以下であるが、法律は各国で違う為、国によって業務範囲が異なる。
* 理学療法の対象は身体に障害があり、主として基本的動作能力の低下を認める者の内、医師により医学的根拠に基づいて理学療法が有効であると判断された者。
* 作業療法の対象は身体又は精神に障害があり、主としてその応用的動作能力又は社会的適応能力の低下を認める者の内、医師により医学的根拠に基づいて作業療法が有効であると判断された者。
* 理学療法の手段は[[物理療法]]、[[運動療法]]、基本的動作訓練。
* 作業療法の手段は作業、日常生活動作訓練、手段的日常生活動作訓練 職業関連活動の訓練 住環境への適応訓練。
* 理学療法の目的は主として基本的動作能力の回復。
* 作業療法の目的は主として主としてその応用的動作能力又は社会的適応能力の回復。
ここで言う応用動作とは食事動作・トイレ動作・入浴動作・更衣動作・炊事・洗濯・掃除等、多岐にわたり、基本的動作とは応用動作の基本となる動作「寝返り・起き上がり・座位保持・移乗・立ち上がり・移動」を指す。
== 日本の作業療法士免許を持つ著名人 ==
* [[生田宗博]]
* [[太田篤志]]
* [[京極真]]
* [[杉原素子]]
* [[関昌家]]
* [[田邉浩文]]
* [[藤原茂]]
* [[堀越啓仁]]
* [[矢谷令子]]
* [[山田孝]]
* [[山根寛]]
* [[吉川ひろみ]]
* [[森本更紗]]
* [[小西紀一]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
{{節スタブ}}
== 関連項目 ==
* [[作業]]
* [[作業科学]]
* [[作業療法]]
* [[リハビリテーション]]
* [[感覚統合療法]]
* [[日本の医療・福祉・教育に関する資格一覧]]
* [[理学療法士]]
* [[言語聴覚士]]
* [[視能訓練士]]
* [[養成施設]]
== 外部リンク ==
* [https://www.jaot.or.jp/ 一般社団法人日本作業療法士協会]
* [http://www.wfot.org/ WFOT]{{En icon}}
* [https://web.archive.org/web/20070829151038/http://www.kequlica.com/ 作業療法士ナビ]
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[[Category:作業療法士|*]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%9C%E6%A5%AD%E7%99%82%E6%B3%95%E5%A3%AB |
9,478 | リチウム | リチウム(新ラテン語: lithium、英: lithium [ˈlɪθiəm])は、原子番号3の元素である。元素記号はLi。原子量は6.941。アルカリ金属元素の一つ。
発見者が所属していた研究室の主催者イェンス・ベルセリウスが名付けた。λιθoς(lithos)は、ギリシャ語で「石」を意味する。これは、リチウムが鉱石から発見されたことにちなむ。
銀白色の軟らかい元素であり、全ての金属元素の中で最も軽く、比熱容量は全固体元素中で最も高い。
リチウムの化学的性質は、他のアルカリ金属元素よりもむしろアルカリ土類金属元素に類似している。酸化還元電位は全元素中で最も低い。リチウムには2つの安定同位体および8つの放射性同位体があり、天然に存在するリチウムは安定同位体であるLiおよびLiからなっている。これらのリチウムの安定同位体は、中性子の衝突などによる核分裂反応を起こしやすいため恒星中で消費されやすく、原子番号の近い他の元素と比較して存在量は著しく小さい。
常温常圧では銀白色の軟らかい金属で、ナトリウムより硬い。常温で安定な結晶構造は体心立方格子(BCC)。融点は180 °C、沸点は1330 °C(沸点は異なる実験値あり)であり、その融点および沸点はアルカリ金属元素の中で最も高い。また0.534という比重は全金属元素の中で最も軽く、水より軽い3つの金属元素のうちの一つ(残りの二つはナトリウムとカリウム)でもある。また、3582 J/(kg⋅K)という比熱容量は全固体元素中で最大である。その比熱容量の高さから、リチウムは伝熱用途において冷却材としてしばしば利用される。
リチウムの熱膨張率はアルミニウムの2倍、鉄のほぼ4倍である。常圧、400 μK以下の条件で超伝導となり、20 GPaという高圧条件下においては9 K以上というより高い温度で超伝導となる。
炎色反応においてリチウムおよびその化合物は深紅色の炎色を呈する。主な輝線は波長670.8 nmの赤色のスペクトル線であり、他に610.4 nm(橙色)、460.3 nm(青色)などにスペクトル線が見られる。
リチウムは70 K(−203.15 °C)以下の温度で、ナトリウムと同じようにマルテンサイト変態を起こす。4.2 K(−268.95 °C)で菱面体晶を取り、より高い温度で面心立方晶となり、それから体心立方晶となる。液体ヘリウムを用いて4 Kまで冷却すると菱面体晶が最も支配的となる。高圧条件下においては、複数の同素体の形を取ることが報告されている。また、80 GPa程度の高圧下で金属から半導体に相転移する。
同じアルカリ金属のナトリウム、カリウムと比べて反応性は劣り、イオン半径が小さいため電荷/半径比がアルカリ金属としては高く、化合物の化学的性質は、アルカリ土類金属、特にマグネシウムと類似する(ただし、リチウムはアルカリ土類金属ではない)。乾いた空気中ではほとんど変化しないが、水分があると常温でも窒素と反応して窒化リチウム(Li3N)を生ずる。また、熱すると燃焼して酸化リチウム(Li2O)になる。このため、金属リチウムはアルゴン雰囲気下で取り扱う必要がある。ただし燃焼により酸化物を生成する挙動は他のアルカリ金属が空気中で燃焼した場合、過酸化物や超酸化物を生成するのとは対照的である。
イオン化傾向が大きく、酸化還元電位は全元素中でももっと低い−3.045 Vであるが、水との反応性はアルカリ金属中では最も穏かである。それでも多量のリチウムと水が反応すると発火する。
リチウムは腐食性を有しており、高濃度のリチウム化合物に曝露されると肺水腫が引き起こされることがある。リチウムは覚醒剤を合成するためのバーチ還元における還元剤として利用されるため、一部の地域ではリチウム電池の販売が規制の対象となっている。また、リチウム電池は短絡によって急速に放電して過熱することで爆発が起こる危険性がある。
上記のようにリチウムは腐食性を有しているため、身体へのあらゆる接触を避けることが求められる。水と激しく反応するために、リチウムは禁水性の物質とされている。よって、安全のためにナフサのような非反応性の化合物中に保管される。粉末状のリチウム、もしくは多くの場合は塩基性であるリチウム化合物を吸入すると鼻や喉が刺激され、一方でより高濃度のリチウム(化合物)に曝されると肺水腫を引き起こすことがある。
妊娠第1三半期の間にリチウムを摂取した女性の産む子どもにおいて、エブスタイン奇形が発生するリスクが増加するという報告があったが、催奇形性を否定する調査結果もある。
天然に存在するリチウムはLiおよびLiの2つの安定同位体からなっており、その天然存在比はLiが92.5 %と大半を占めている。この2つの天然同位体はどちらも、リチウムよりも軽い元素であるヘリウムおよび重い元素であるベリリウムに比べて核子に対する原子核の結合エネルギー(英語版)が極端に低く、これはつまり安定な軽元素の中でもリチウムは極めて核分裂反応を起こしやすいということを意味している。これら2つのリチウム天然同位体は、重水素およびヘリウム3以外のどんな安定核種よりも核子あたりの結合エネルギーが低い。そのため非常に軽い元素であるにもかかわらず太陽系における原子番号32番までの元素のうちでリチウム元素が占める存在量の順位は25位であってあまり多くない。
リチウムには8つの放射性同位体の存在が明らかにされており、比較的半減期の長いものとして半減期838 msのLiおよび半減期178 msのLiがある。他の全ての放射性同位体は半減期8.6 ms以下である。もっとも半減期の短いものはLiであり、それは陽子放出によって崩壊し、その半減期は7.6×10 sである。エキゾチック原子核であるLiは中性子ハローを示すことが知られている。Liは、存在が確認されている中で、H以外で唯一陽子のみで構成された原子核を持つ。
Liはビッグバン原子核合成において生成された原生核種(英語版)のひとつである。少量のLiおよびLiは恒星内元素合成において生産されるが、生産される速度と同程度の速さで燃焼して消費されると考えられている。LiおよびLiはより重い元素が宇宙線による核破砕を受けることによっても少量が付加的に生成され、初期の太陽系でのBeおよびBeの放射性崩壊によっても生成される。また、Liは炭素星においても生成される。
リチウムは原子量が小さいためLiとLiの相対質量差は14.7%と非常に大きく、そのため自然現象の作用による同位体の分離が起こりやすい元素である。リチウムイオンは粘土鉱物の八面体サイトにおいてマグネシウムや鉄の代替となり、高配位の八面体サイトには軽い同位体であるLiがLiより優先して取り込まれるため粘土鉱物においてはLiが濃縮される。また、リチウムが水に溶解する際にはLiが優先して溶出するため、河川や海中においてLiの濃縮が起こる。更に、海底で形成される粘土鉱物によって海水中のLiが取り込まれるため、海水中のLi濃度は河川よりも更に高くなっている。
リチウム同位体の分離にはレーザー分離法(英語版)と呼ばれる方法が利用できる。このような同位体分離はLiの利用を目的として行われており、Liが抽出された後のリチウムは試薬用などに再利用されている。そのため天然物と比較してのLi同位体比が多くなった状態のリチウムが流通しており、試薬中のリチウムではLiの含有率は2.007%から7.672%の幅を持っている。日本化学会原子量専門委員会が作成する各元素の原子量を有効数字4桁で表して一覧とした「4桁の原子量表」においても、リチウムは人為的な同位体分離の影響で原子量の変動範囲が大きいため唯一有効数字3桁の値とされている。
1817年にヨアン・オーガスト・アルフェドソンがペタル石の分析によって発見した。アルフェドソンは金属リチウムの単離には成功せず、1821年にウィリアム・トマス・ブランドが電気分解によって初めて金属リチウムの単離に成功した。1923年、ドイツのメタルゲゼルシャフト社が溶融塩電解による金属リチウムの工業的生産法を発見し、その後の金属リチウム生産へとつながっていった。第二次世界大戦の戦中戦後には航空機用の耐熱グリースとしての小さな需要しかなかったが、冷戦下には水素爆弾製造のための需要が急激に増加した。その後、冷戦の終了により核兵器用のリチウムの需要が大幅に冷え込んだものの、21世紀にかけて電気自動車(EV)の動力であるリチウムイオン二次電池用の需要を満たすため中南米やオーストラリア、中華人民共和国で採掘や鉱山開発が進んでおり、「白い黄金」とも呼ばれるようになった。
1800年、ブラジルの化学者ジョゼ・ボニファシオ・デ・アンドラーダ・エ・シルヴァによってスウェーデンのウート島(英語版)の鉱山からリチウムを含有した葉長石(LiAlSi4O10)が発見された。葉長石の発見から17年後の1817年、当時イェンス・ベルセリウスの研究室で働いていたヨアン・オーガスト・アルフェドソンが葉長石の分析から新しい元素の存在を発見した。この元素はナトリウムやカリウムに似た化合物を形成したが、ナトリウムやカリウムの炭酸塩および水酸化物が水に対する溶解度および塩基性の高い物質であることと対照的に、炭酸リチウムおよび水酸化リチウムの水に対する溶解度や塩基性は低かった。
後に、アルフェドソンはリシア輝石やリチア雲母にもリチウムが含まれていることを示した。1818年、クリスティアン・グメリンはリチウム塩類が深紅色の炎色反応を示すことを初めて言及した。アルフェドソンとグメリンはリチウム塩類から単体のリチウム金属を単離しようとしたが、成功しなかった。1821年、ウィリアム・トマス・ブランドは、以前にハンフリー・デービーが同じアルカリ金属類のナトリウムおよびカリウムの単体金属を得るのに利用した電気分解によって、酸化リチウムよりリチウムの単体金属を得た。ブランドはまた、塩化リチウムのようないくつかの純粋なリチウム塩類の分析から、リチア(酸化リチウム)がおよそ55 %の金属リチウムを含んでいると見積もり、リチウムの原子量をおよそ9.8 g/molであると推定した(現在の値は6.94 g/mol)。1855年、ロベルト・ブンゼン、アウグストゥス・マーティセンによって塩化リチウムの電気分解から大量の金属リチウムが生成された。1923年から始まった、ドイツ企業のメタルゲゼルシャフト社による、塩化リチウムおよび塩化カリウムの混合液を電気分解させて金属リチウムを得る工業的生産法は、その後のリチウムの商業生産へとつながる発見となった。
リチウムの生産とその用途は、歴史的にいくつかの急激な転換点を経験している。初期に見出されたリチウムの主要な用途は、第二次世界大戦およびその直後の期間における、航空機のエンジンやそれに類似した用途のための高温グリースであった。まだ小さな市場であったこの時期の需要の大部分は、アメリカ合衆国のいくつかの小規模な鉱工業によって支えられていた。
1つ目の転換点となったのは、冷戦下において水素爆弾製造を目的としたリチウムの需要の劇的な増加である。リチウム6およびリチウム7に中性子を照射することでトリチウムの生産が行われ、このような単独でのトリチウム生産に役立つのみならず、重水素化リチウムの形で水素爆弾内の固体核融合燃料にも用いられた。1950年代後半から1980年代中期の期間、アメリカはリチウムの主要な生産者となった。最終的には、42000 トンの水酸化リチウムが備蓄されていた。天然産のものに比べて備蓄されていたリチウムは同位体比が大きく異なり,リチウム6の75 %が減損されていた。
そのほかにもリチウムはガラスの融点を降下させるのに用いられ、また、ホール・エルー法における酸化アルミニウムの溶解性の改善のためにも用いられた。1990年代半ばまでは、産業用途と核開発の2つの用途がリチウム市場を支配していた。
2つ目の転換点となる冷戦の終了により、核兵器開発競争も下火になるとリチウムの需要は減少し、アメリカ合衆国エネルギー省が備蓄していたリチウムの一般市場への売却はリチウムの価格をさらに押し下げた。1990年代半ばになるとこれを背景に、いくつかの会社が、地下や鉱山より採掘されたリチウム原料を用いるよりもより安価である塩水からのリチウムの抽出を開始した。これによって多くの鉱山は閉山するか、ペグマタイトなどほかの採算が取れる鉱石のみに絞っての採掘へと移行した。たとえば、アメリカのノースカロライナ州キングスマウンテン近郊の鉱山は、21世紀になる前に閉山した。
2000年代になるとリチウムイオン電池が急速に普及し、2007年にはリチウムの主要な用途となるなどリチウムの需要が再び増大した。リチウムイオン電池におけるリチウム需要の急増によって、企業はリチウム需要を満たすために塩水抽出によるリチウム生産能力の増強に努めている。リチウム資源の偏在と価格の高沸を回避する為、代替のナトリウムやカリウムを使う電池の開発も真剣に進められている。ただし全ての元素中で最低電位を示すリチウムが最も優秀なイオンキャリアで有る事は変わらない。
2019年からは直接金属リチウムを負極活物質として利用できる全固体電池が実用化された。また2023年からは大容量全固体電池も実用化された。この全固体電池は金属リチウムを負極活物質として利用できる為、リチウムイオン電池より遥かに高性能を示し、今後は電気自動車用にも搭載予定となっている。
リチウムは地球上に広く分布しているが、非常に高い反応性のために単体としては存在していない。地殻中で25番目に多く存在する元素であり、火成岩や塩湖鹹水中に多く含まれる。リチウムの埋蔵量の多くはアンデス山脈沿いに偏在しており、最大の産出国はチリである。海水中にはおよそ2300億トンのリチウムが含まれており、海水からリチウムを回収する技術の研究開発が進められている。世界のリチウム市場は少数の供給企業による寡占状態であるため、資源の偏在性と併せて需給ギャップが懸念されている。日本では有馬温泉(兵庫県)と鉄輪温泉(大分県)でリチウムが確認されているが、資料が極めて乏しく、また古い。
リチウムはビッグバンによって合成された3つの元素のうちの1つであり、ビッグバン原子核合成においてLiおよびLiの2つの安定同位体が合成された。ビッグバン原子核合成によって生成する原子の量は光子とバリオンの存在比に依存しているためリチウムの存在量は理論的に予測することが可能であるはずだが、それによって求められたリチウムの理論量と実際の観測によるリチウムの存在量との間には矛盾が生じていた。しかしながら、2013年6月に『Astronomy and Astrophysics(天文学および天体物理学)』にて発表されたケンブリッジ大学のKarin Lindらのグループによる論文において、ハワイのW・M・ケック天文台にある世界最大級の望遠鏡「ケックI」を使い、洗練された理論モデルを用い強力なスーパーコンピューターでデータ解析を行うことで、リチウムの存在量がビッグバン原子核合成における理論量と矛盾しないことが示された。
リチウムは水素、ヘリウムとともにビッグバンによって合成された初めの元素のひとつであるが、リチウムおよびベリリウムとホウ素は近い原子番号の他の元素と比較してその存在量は著しく小さい。これは、リチウムが低温で核反応を起こすため消費されやすく、かつリチウムが生成されるような核反応が少ないことの結果である。
リチウムは亜恒星天体である褐色矮星や、特定の特異な橙色の星において見られる。リチウムは温度が低く小さな褐色矮星に存在するが、より温度の高い赤色矮星では核反応によって消費されリチウムが存在しないため、太陽よりも小さなこれら2つを識別するためにリチウムの存在を確認する「リチウム・テスト」と呼ばれる方法が利用される。ケンタウルス座X-4のような橙色の星からもまたリチウムが検出される。これらの星は中性子星やブラックホールのようなより大きな天体を周回しており、水素やヘリウムよりも重いリチウムが重力によって星の表面へと引かれるためリチウムが観測されると考えられる。
リチウム原子核は太陽内部の高温の環境において容易に破壊される。このため今日太陽表面に存在するリチウムの量は、太陽系の材料となった星間物質における原初の存在比と比べて100分の1以下にまで減少していると考えられている。この減少率は太陽内部の状態(特に元素の鉛直方向の輸送の程度)に影響されるため、リチウム存在量は直接観測が困難な太陽の内部モデルを検証する上での制約条件の1つとなる。
リチウムは地球上に広く分布しているが、非常に高い化学反応性を持つために化合物になっており,元素単体としては存在していない。海水に含まれるリチウムの総量は非常に多く2300億トンと推定されており、その分率は(0.14–0.24)×10、もしくはモル濃度で25 μmol/Lと比較的安定した濃度で存在している。熱水噴出孔ではより高濃度にリチウムが存在しており、その分率は7×10に達する。
地殻中のリチウム濃度は重量分率でおよそ(20–70)×10にわたると見積もられており、地殻中で25番目に多く存在する元素である。リチウムは火成岩を構成する非主要な元素であり、中でも花崗岩で最大の濃度となる。リチウム鉱物であるリシア輝石や葉長石を含有するペグマタイトもまた多くリチウムを含んでおり、リチウム源として最も多く商業利用されている。もう一つの重要なリチウム鉱物にリチア雲母がある。新しいリチウム源としてはヘクトライト粘土があり、アメリカのWestern Lithium Corporation社によって活発に資源開発されている。リチウムは、水分蒸発量の多い乾燥した地域の塩湖などにおいて非常に長い時間をかけて濃縮され、鉱床を形成することも知られている。そのような乾燥した塩湖には、全世界のリチウム埋蔵量(鉱石ベース)のおよそ半分におよぶ540万トンの埋蔵量を有していると推定されているボリビアのウユニ塩原や、埋蔵量の27 %、およそ300万トンの埋蔵量を有するチリのアタカマ塩原などが含まれる。
アメリカ地質調査所の2011年の推定によると、最大の可採埋蔵量を有する国はチリの750万トンであり、チリは生産量も1万2600トンと世界最大である。他の主要なリチウム産出国としては、オーストラリア、アルゼンチン、中国が含まれる。ボリビアは世界最大のリチウム埋蔵量を占めるウユニ塩原を有しているが、技術的・政治的な問題によりリチウム生産の事業化には至っていない。
2010年6月、『ニューヨーク・タイムズ』は、アメリカの地質学者がアフガニスタン西部の干上がった塩湖跡にリチウムを含む巨大な堆積物が存在していると考え、地質調査を行っていると報じた。アメリカ合衆国国防総省は「彼らの初期の分析結果によれば、ガズニー州のある場所には現在知られている中で世界最大のリチウム埋蔵量を有するボリビアのそれと同程度に大きなリチウム鉱床が存在する可能性が示されている」と述べた。これらの予想は、おもにソ連によって収集された1979年から1989年頃の古いデータに基づいており、アメリカ地質調査所のAfghanistan Minerals Projectの長であるスティーブン・ペータースは、過去2年間にアフガニスタンで行ったアメリカ地質調査所の関与したどのような新しい鉱物の測量においても確認されておらず、「我々はいかなるリチウムの発見も承知していない」と述べた。2021年現在、オーストラリア、チリ、中国の3か国だけで、世界生産の90%を占める。アルゼンチンに先行投資している日本企業の後を追って、中国では同国にリチウム採掘への投資を行っている。
2023年1月、『ニューズウィーク日本版』は、カシミール地方でインドが実効支配するリーシー地域(英語版)にて推定590万トンにおよぶリチウム資源を発見した旨をインド政府当局が発表したと報じているが、専門家によれば、インドがリチウム採掘や精製の技術を整備するのに要する期間は少なくとも10年と見ている。
リチウムは多数の植物、プランクトンおよび無脊椎生物において痕跡量存在しており、その分率は(69–5760)×10である。脊椎動物中のリチウム濃度は先述のものよりもわずかに低く、ほとんど全ての脊椎動物の体組織および体液中には(21–763)×10のリチウムが含まれている。水棲生物はリチウムを生物濃縮する。これらの生物においてリチウムがどのような生物学的役割を有しているかは知られていないが、哺乳類の栄養学的な研究によってリチウムの健康に対する重要性が示されており、必須微量元素として1 mg/dのRDA(1日に摂取すべき栄養量)が提言されている。2011年に報告された日本における観察研究によると、飲料水中に含まれる天然由来のリチウムが人間の寿命を増やす可能性が示唆されている。
リチウムの生産量は第二次世界大戦後に大きく増加した。リチウムはペグマタイトなどの火成岩中から他の元素と分離され、もしくは鉱泉や塩水溜まり(塩湖かん水)、堆積塩などから抽出される。金属リチウムは55 %の塩化リチウムと45 %の塩化カリウムの混合物を450 °Cで溶融塩として電解することによって生産される。金属リチウムの価格は1998年時点で95 USドル/kg(43 USドル/ポンド)であった。また、リチウムイオン電池の原料に使われる炭酸リチウムの価格は、車載用バッテリー用途の需要の高まりにより2015年以降高騰しており、2015年6月に7.7ドル/kgであった平均価格が、2016年6月には26.8 ドル/kgにまで上昇している。
アメリカ地質調査所の推定によるリチウムの可採埋蔵量は鉱石ベースで1300万トンである。それは南米のアンデス山脈沿いに多く見られ、リチウムの主要生産国としてチリやアルゼンチンが挙げられる。両国はリチウムを塩湖かん水から生産しており、アメリカでもネバダ州にあるシルバーピーク鉱山の塩湖かん水からリチウムを産出している。世界の既知の埋蔵量のうち、半数近くをアンデス山脈の中央東部に位置するボリビアが占めているが、この資源の開発はあまり進展しておらず、2013年2月に日本とボリビアの共同でリチウムの抽出試験が開始されたばかりである。
一方で、リチウム鉱石からのリチウム生産は主にオーストラリアやジンバブエなどで行われている。オーストラリアではペグマタイトからタンタルを生成する際の副生物として回収されており、世界2位の生産量を占めている。鉱石としてのリチウム資源はアメリカが全埋蔵量の47 %を有しているが、2010年の時点ではアメリカで稼働中のリチウム鉱山は塩湖かん水を利用するシルバーピーク鉱山のみであり、リチウム鉱石の採掘は行われていない。
潜在的なリチウムの資源回収源として地熱井戸が挙げられる。地熱井戸では高温の水のような地熱流体の移動を介して地表に熱エネルギーを伝達するが、そのような地熱流体に含まれるリチウムを単純な濾過技術によって回収することが可能であり、これは既に現場実証されている。環境保護に関するコストは、主に既存の地熱井戸操業に関するものであるため、相対的な環境面の影響は肯定的である。
世界金融危機後、産業界において炭酸リチウムの市場規模縮小が広がったため、世界最大手のソシエダード・キミカ・イ・ミネラ・デ・チリ(SQM)のようなリチウムの主要供給者は、リチウム資源開発者の新規参入を考慮し、さらに市場でのその立場を守るために設定価格を20 %低下させた。2012年には、リチウム需要の増加にともない市場規模は拡大している。2012年の『ビジネスウィーク』の記事は、「億万長者であるフリオ・ポンセが支配する"SQM"、ヘンリー・クラビスのコールバーグ・クラビス・ロバーツ社に支援されたロックウッド、フィラデルフィアに拠点を置くFMC社」などの既存企業によるリチウム市場の寡占を概説した。リチウム電池の需要が年におよそ25 %ずつ増加しており、全体のリチウム需要を4–5 %ほど押し上げているため、世界的なリチウムの消費量は2012年の15万トンから2020年には30万トンにまで急増する可能性がある。
ローレンス・バークレー国立研究所とカリフォルニア大学バークレー校による2011年の研究によると、現在推定されているリチウムの埋蔵量からは10億台オーダーもの40キロワット時のリチウムイオン二次電池を製造可能であると見積もられ、リチウム埋蔵量の問題は電気自動車向けの大規模なバッテリー製造の律速因子とはなりえないことが示された。ミシガン大学およびフォード・モーター社が2011年に行ったもう一つの研究によると、2100年までのリチウム需要を支えるのに十分なリチウム資源が存在することが示され、そこにはリチウムを広範囲に必要とするハイブリッド電気自動車やプラグインハイブリッドカー、バッテリー式電動輸送機器などの用途が含まれている。この研究では世界中のリチウム埋蔵量を3900万トンと見積もり、90年間の全リチウム需要を経済成長に関するシナリオとリサイクル率に応じて12–20メガトンと分析している。しかしながら、単一産地で需要のほとんどを生産するという資源の偏在性および、先述の独占的な少数の供給企業による市場の寡占という問題があるため、商業的な需要ギャップが懸念されている。2015年以降、テスラモーターズをはじめとした自動車メーカーによる電気自動車向けの需要が高まっており、車載用バッテリーに使われることも相まって、リチウムは「白い石油」とも呼ばれている。使用済み製品からのリチウムのリサイクルについては、現状ではその技術がなく、経済性が見込まれないため進んでいない。これは、原料の炭酸リチウムの生産はエネルギー集約的な産業ではないため製造コストが低く、費用のかかるリサイクル品では価格的に競争にならないという要因が大きい。
海水中には2300億トンのリチウムが溶けており、事実上無限の埋蔵量を有する。海水中のリチウム濃度は他の元素と比べて比較的高いため採算ラインのボーダー上にあり、効率的な回収方法が開発されれば経済的に実用可能になる可能性がある。2004年には海水リチウムを抽出するためのパイロットプラントが日本の佐賀大学海洋エネルギーセンターで稼働を開始し、150日間で192グラムの塩化リチウムが海水から回収された。このプラントは火力発電所などが取水した海水を二次利用することを想定し、ポンプで汲み上げた海水から吸着剤を用いてリチウムを回収する方式が採用されている。これは、100万キロワット級の規模の発電所を想定した場合、1基あたり年間700トンの塩化リチウムを回収できる計算になるが、吸着剤由来のマンガンの溶出や、回収コストが従来法の20倍かかるなど、実用化にはまだ課題が残っている。2014年には日本原子力研究開発機構が、濃淡電池の原理を利用し海水からのリチウムイオン抽出と発電を同時に行う技術を開発した。
リチウムは陶器やガラスの添加剤、光学ガラス、電池(一次電池および二次電池)、耐熱グリースや連続鋳造のフラックスとして利用される。2011年時点で最大の用途は陶器やガラス用途であるが、二次電池用途での需要が将来的に増加していくものと予測されている。リチウムの同位体は水素爆弾や核融合炉などにおいて核融合燃料であるトリチウムを生成するために利用されている。
2011年におけるリチウムの用途は陶器やガラスなどの窯業用途が最も多く、リチウムの全消費量の29 %を占めている。リチウムイオン二次電池などのバッテリー用途でのリチウムの消費量は全体の27 %であり、携帯用電子機器や自動車用バッテリーなどの需要拡大にともない、この用途での消費量は増加傾向にある。窯業、バッテリー用に続く用途として、自動車などに使われる耐熱・耐圧グリース用途、鋼を連続鋳造する際の融剤としての用途、空調用途、合成ゴムの重合触媒などの用途が挙げられる。
リチウム鉱石はアルミナ、シリカとの化合物で、すりつぶして窯業材料に用いられる。塩湖かん水から分離された水酸化リチウムは電池に用いられる。
火にかけても割れない土鍋の材料としてペタライト葉長石を40–50 %配合した低熱膨張性耐熱陶土を用いる。グラタン皿などの耐熱陶器にも応用されている。萬古焼で50年ほど前から大量生産され、ジンバブエ、ブラジル産のリチウム鉱石が使われている。
リチウムは窯業において、釉薬の融点を下げるための強力な媒熔剤として利用される。釉薬の融点を下げる方法としては、水溶性のアルカリ性化合物をガラスと溶融させて不溶化したフリットと呼ばれる媒熔剤を用いる方法と、フリットを用いずに、もともと不溶性のアルカリ性化合物を用いる方法があるが、リチウムはおもに後者として用いられる。リチウム源としてはおもに炭酸リチウムが用いられ、焼成によって酸化リチウムもしくはケイ酸リチウムの形で釉層を形成する。リチウムはほかのアルカリ金属、アルカリ土類金属元素と比較して熱膨張係数が小さいため、リチウムを釉薬に加えることで釉薬の貫入(ひび割れ)を少なくすることができる。また、リチウムによって釉薬の流動性が高まるため、釉薬のむらを防ぎ全体的に均一な層を形成することができる。
リチウムは耐熱ガラスや光学ガラスの配合剤としても利用される。リチウムアルミノケイ酸塩を熱処理によって結晶化ガラスとしたセラミックスは非常に熱膨張係数が低いため急激な温度変化に強く、耐熱食器に用いられ、このような結晶化ガラスを利用したセラミックスはパイロセラムと呼ばれる。また、リチウムはイオン半径が小さく電場強度が強いため、ガラス中で隣接する酸素イオンを大きく分極させて屈折率を上昇させることができ、この効果を利用して光学ガラスの一つである屈折率分布型光学レンズに利用される。フッ化リチウムは紫外から赤外までの広範囲の光を透過し、特に紫外域の透過性能が優れているため、光学窓材料などに利用される。
リチウムは標準酸化還元電位が3.03 Vと最も低いため電池の負極材料として適しており、金属リチウムを負極材料、正極材料としてフッ化黒鉛や二酸化マンガンなどを用いた一次電池がリチウム電池として実用化されている。リチウム電池はエネルギー密度が高いため小型化に向いており、また自己放電が少ないため電池寿命が長いといった特徴を有している。そのため、小型・軽量・長寿命といった機能が要求されるメモリバックアップなどの用途で利用されている。これらの一次電池の多くは定まった用途にのみ用いられるものであるため、需要は一定であるが、エレクトロニクス機器や測定機器の電源などに用いられる塩化チオニルリチウム電池は需要が増加している。
二次電池用途でのリチウム需要は2004年から2008年の間で年間20 %を越える伸び率を示しており、この用途におけるリチウムの需要は将来的にも増加し続けると予測されている。リチウムイオン二次電池は正極材料として主にコバルト酸リチウムが、負極材料としては炭素が用いられており、電解質の支持塩には六フッ化リン酸リチウムが使用されている。リチウムイオン二次電池は、エネルギー密度が高い、動作電圧が3.7 Vと高い、自然放電が少ない、メモリー効果がないといった有用な特徴を有しており、携帯機器用の小型電池から車載用、産業用の大型電池まで幅広く使われている。負極材料に炭素が使われる理由として、一価のリチウムイオンはグラファイトの層間に止まることができ、アノードにグラファイトを用いて、リチウムイオンを止め貯められている。近年は負極材料に直接金属リチウムを利用した全固体電池も普及している。今後、電気自動車やメガソーラー の蓄電設備として、さらなる需要が見込まれている。
Liはトリチウムを製造するための原料や、核融合における中性子吸収材として用いられる。天然のリチウムはおよそ7.5 %のLiを含んでおり、核兵器で利用するため同位体分離(英語版)によって大量に生産されていた。Liも原子炉の冷却材として関心を集めている。
重水素化リチウムは初期の水素爆弾における最適な原子核融合燃料として利用された。水素爆弾が初めに実験された当時はその反応機構は完全には理解されていなかったが、LiおよびLiが中性子の衝突によってトリチウムを生成する反応がブラボー実験において核暴走を生み出した要因となった。トリチウムは比較的容易に重水素と核融合反応を起こし、その詳細は秘匿されたままであるが、Liを用いた重水素化リチウムは最新の核兵器においてもいまだに核融合材料としての役割を果たしているようである。
Liを高濃度に濃縮させたフッ化リチウムとフッ化ベリリウムを混合させたフリーベは溶融塩原子炉における溶融塩として用いられる。フッ化リチウムはリチウムの化合物の中でも安定であり、フリーベは低融点な塩である。加えて、Liおよびベリリウム、フッ素は熱中性子捕獲断面積が十分に低いため、原子炉中の核分裂反応を阻害しない数少ない核種の一つである
重水素およびトリチウムを燃料とする磁場閉じ込め方式の核融合炉において、リチウムはトリチウムを生み出すのに用いられる。自然にトリチウムが発生することは非常に稀であるため、反応場であるプラズマをリチウムの入ったブランケットで覆い、プラズマでの重水素とトリチウムの反応から生じる中性子をリチウムと反応させて核分裂させることで、より多くのトリチウムを生成させる必要がある。
リチウムはまたアルファ粒子源としても利用される。Liが加速陽子と衝突することでBeとなり、Beはすぐに核分裂して2つのアルファ粒子となる。この反応は1932年にジョン・コッククロフトおよびアーネスト・ウォルトンによって行われた初の完全な人工原子核反応であり、この業績は当時「splitting the atom」と呼ばれた。
医療用として炭酸リチウム(リチウム塩)が躁病および躁うつ病の躁状態の患者に処方される。炭酸リチウムが躁病に効果があることは、1949年にオーストラリアのジョン・ケイドによって発見された。イギリスの大学の研究者らによるメタ分析では、他地域と比較し相対的にリチウム濃度が高い水道水の地域ほど、自殺率が低いことが明らかとなっている。日本国内でも2006年、大分大学の調査にて、大分県下において同様の調査を行ったところ、リチウム濃度の高い水道水の地区では自殺率が下がることが判明され、2022年には東京都の発表にて、「眼房水解析により、自殺者は非自殺死亡者よりリチウム濃度が低い」ことが発表されている。 炭酸リチウムの抗躁薬としての効果は、神経伝達物質の遊離やリン脂質の代謝を抑制する作用などが関係していると考えられているが、いまだ解明されていない。炭酸リチウムの投与は治療上有効とされる血中濃度と中毒に陥る濃度との範囲が狭いため、定期的に血液検査を行い、適切な血中濃度に保たれているかを確認しなければならない。また、利尿薬やACE阻害薬などとの併用によって腎臓でのリチウムの再吸収が促進され、中毒に陥りやすくなる。副作用としてはリチウムの中毒症状のほか不整脈や多尿、甲状腺機能の低下などがあり、腎不全や心不全の患者や妊婦には禁忌である。特に妊娠初期の女性では、胎児に心血管系の奇形(エブスタイン奇形)が発生するリスクが増加する。炭酸リチウムの投与によって体重が増加することがあるが、その原因は明確でなく、炭酸リチウムの副作用である口の渇きに起因して高カロリーな飲料が菓子類とともに多量に摂取されがちになる影響も原因の一つであると考えられている。
一般の消費者にとって最も容易に利用できるリチウム源はリチウム電池であり、いくつかの管轄区域においてリチウム電池の販売が制限されている。リチウムは、アルカリ金属を無水の液体アンモニアに溶解させた溶液を用いて還元反応を行うバーチ還元によって、プソイドエフェドリンおよびエフェドリンを覚醒剤のメタンフェタミンに還元させるために用いることができる。
大部分のリチウム電池は短絡によって非常に急速に放電して過熱し、それによって爆発の可能性につながることがあるため(熱暴走)、運送や積荷に関して、特に航空機のような特定の輸送機関を用いることが禁止されている場合がある。大部分の消費者向けのリチウム電池はこの種の事故を防ぐために、熱の過負荷から保護する回路が内蔵されているか、もしくは本質的に短絡時に流れる電流を制限するような設計がされている。自然発生的な熱暴走に至る内部短絡は、電池の製造欠陥もしくは損傷のために発現することが知られていた。
日本では消防法による危険物のうち、「別表第一の品名欄に掲げる物品で同表に定める区分に応じ同表の性質欄に掲げる性状を有するもの」の中の「第3類 自然発火性物質及び禁水性物質」の「第1種 自然発火性物質及び禁水性物質」として金属リチウム(Li)が、また、「第2種 自然発火性物質及び禁水性物質」水素化リチウム(LiH)として消防法での危険物に該当している。
リチウムはレアメタルと並んで産業に不可欠で、近年世界各国で二次電池としての需要が伸びていることにより、投資の対象になりつつあり、投機的な資金が流入することにより相場が高騰しつつある。過去には銀の木曜日によるシルバーショックやレアメタルの輸出規制により相場が高騰した事例があり、相場の暴騰が懸念される。
そのような事態を見据えて各社では代替技術の開発が進められる。 | [
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"text": "リチウム(新ラテン語: lithium、英: lithium [ˈlɪθiəm])は、原子番号3の元素である。元素記号はLi。原子量は6.941。アルカリ金属元素の一つ。",
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"text": "発見者が所属していた研究室の主催者イェンス・ベルセリウスが名付けた。λιθoς(lithos)は、ギリシャ語で「石」を意味する。これは、リチウムが鉱石から発見されたことにちなむ。",
"title": "名称"
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"text": "銀白色の軟らかい元素であり、全ての金属元素の中で最も軽く、比熱容量は全固体元素中で最も高い。",
"title": "性質"
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"text": "リチウムの化学的性質は、他のアルカリ金属元素よりもむしろアルカリ土類金属元素に類似している。酸化還元電位は全元素中で最も低い。リチウムには2つの安定同位体および8つの放射性同位体があり、天然に存在するリチウムは安定同位体であるLiおよびLiからなっている。これらのリチウムの安定同位体は、中性子の衝突などによる核分裂反応を起こしやすいため恒星中で消費されやすく、原子番号の近い他の元素と比較して存在量は著しく小さい。",
"title": "性質"
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"text": "常温常圧では銀白色の軟らかい金属で、ナトリウムより硬い。常温で安定な結晶構造は体心立方格子(BCC)。融点は180 °C、沸点は1330 °C(沸点は異なる実験値あり)であり、その融点および沸点はアルカリ金属元素の中で最も高い。また0.534という比重は全金属元素の中で最も軽く、水より軽い3つの金属元素のうちの一つ(残りの二つはナトリウムとカリウム)でもある。また、3582 J/(kg⋅K)という比熱容量は全固体元素中で最大である。その比熱容量の高さから、リチウムは伝熱用途において冷却材としてしばしば利用される。",
"title": "性質"
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"text": "リチウムの熱膨張率はアルミニウムの2倍、鉄のほぼ4倍である。常圧、400 μK以下の条件で超伝導となり、20 GPaという高圧条件下においては9 K以上というより高い温度で超伝導となる。",
"title": "性質"
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"text": "炎色反応においてリチウムおよびその化合物は深紅色の炎色を呈する。主な輝線は波長670.8 nmの赤色のスペクトル線であり、他に610.4 nm(橙色)、460.3 nm(青色)などにスペクトル線が見られる。",
"title": "性質"
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"text": "リチウムは70 K(−203.15 °C)以下の温度で、ナトリウムと同じようにマルテンサイト変態を起こす。4.2 K(−268.95 °C)で菱面体晶を取り、より高い温度で面心立方晶となり、それから体心立方晶となる。液体ヘリウムを用いて4 Kまで冷却すると菱面体晶が最も支配的となる。高圧条件下においては、複数の同素体の形を取ることが報告されている。また、80 GPa程度の高圧下で金属から半導体に相転移する。",
"title": "性質"
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"text": "同じアルカリ金属のナトリウム、カリウムと比べて反応性は劣り、イオン半径が小さいため電荷/半径比がアルカリ金属としては高く、化合物の化学的性質は、アルカリ土類金属、特にマグネシウムと類似する(ただし、リチウムはアルカリ土類金属ではない)。乾いた空気中ではほとんど変化しないが、水分があると常温でも窒素と反応して窒化リチウム(Li3N)を生ずる。また、熱すると燃焼して酸化リチウム(Li2O)になる。このため、金属リチウムはアルゴン雰囲気下で取り扱う必要がある。ただし燃焼により酸化物を生成する挙動は他のアルカリ金属が空気中で燃焼した場合、過酸化物や超酸化物を生成するのとは対照的である。",
"title": "性質"
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"text": "イオン化傾向が大きく、酸化還元電位は全元素中でももっと低い−3.045 Vであるが、水との反応性はアルカリ金属中では最も穏かである。それでも多量のリチウムと水が反応すると発火する。",
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"text": "リチウムは腐食性を有しており、高濃度のリチウム化合物に曝露されると肺水腫が引き起こされることがある。リチウムは覚醒剤を合成するためのバーチ還元における還元剤として利用されるため、一部の地域ではリチウム電池の販売が規制の対象となっている。また、リチウム電池は短絡によって急速に放電して過熱することで爆発が起こる危険性がある。",
"title": "性質"
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"text": "上記のようにリチウムは腐食性を有しているため、身体へのあらゆる接触を避けることが求められる。水と激しく反応するために、リチウムは禁水性の物質とされている。よって、安全のためにナフサのような非反応性の化合物中に保管される。粉末状のリチウム、もしくは多くの場合は塩基性であるリチウム化合物を吸入すると鼻や喉が刺激され、一方でより高濃度のリチウム(化合物)に曝されると肺水腫を引き起こすことがある。",
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"text": "妊娠第1三半期の間にリチウムを摂取した女性の産む子どもにおいて、エブスタイン奇形が発生するリスクが増加するという報告があったが、催奇形性を否定する調査結果もある。",
"title": "性質"
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"text": "天然に存在するリチウムはLiおよびLiの2つの安定同位体からなっており、その天然存在比はLiが92.5 %と大半を占めている。この2つの天然同位体はどちらも、リチウムよりも軽い元素であるヘリウムおよび重い元素であるベリリウムに比べて核子に対する原子核の結合エネルギー(英語版)が極端に低く、これはつまり安定な軽元素の中でもリチウムは極めて核分裂反応を起こしやすいということを意味している。これら2つのリチウム天然同位体は、重水素およびヘリウム3以外のどんな安定核種よりも核子あたりの結合エネルギーが低い。そのため非常に軽い元素であるにもかかわらず太陽系における原子番号32番までの元素のうちでリチウム元素が占める存在量の順位は25位であってあまり多くない。",
"title": "同位体"
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"text": "リチウムには8つの放射性同位体の存在が明らかにされており、比較的半減期の長いものとして半減期838 msのLiおよび半減期178 msのLiがある。他の全ての放射性同位体は半減期8.6 ms以下である。もっとも半減期の短いものはLiであり、それは陽子放出によって崩壊し、その半減期は7.6×10 sである。エキゾチック原子核であるLiは中性子ハローを示すことが知られている。Liは、存在が確認されている中で、H以外で唯一陽子のみで構成された原子核を持つ。",
"title": "同位体"
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"text": "Liはビッグバン原子核合成において生成された原生核種(英語版)のひとつである。少量のLiおよびLiは恒星内元素合成において生産されるが、生産される速度と同程度の速さで燃焼して消費されると考えられている。LiおよびLiはより重い元素が宇宙線による核破砕を受けることによっても少量が付加的に生成され、初期の太陽系でのBeおよびBeの放射性崩壊によっても生成される。また、Liは炭素星においても生成される。",
"title": "同位体"
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"text": "リチウムは原子量が小さいためLiとLiの相対質量差は14.7%と非常に大きく、そのため自然現象の作用による同位体の分離が起こりやすい元素である。リチウムイオンは粘土鉱物の八面体サイトにおいてマグネシウムや鉄の代替となり、高配位の八面体サイトには軽い同位体であるLiがLiより優先して取り込まれるため粘土鉱物においてはLiが濃縮される。また、リチウムが水に溶解する際にはLiが優先して溶出するため、河川や海中においてLiの濃縮が起こる。更に、海底で形成される粘土鉱物によって海水中のLiが取り込まれるため、海水中のLi濃度は河川よりも更に高くなっている。",
"title": "同位体"
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"text": "リチウム同位体の分離にはレーザー分離法(英語版)と呼ばれる方法が利用できる。このような同位体分離はLiの利用を目的として行われており、Liが抽出された後のリチウムは試薬用などに再利用されている。そのため天然物と比較してのLi同位体比が多くなった状態のリチウムが流通しており、試薬中のリチウムではLiの含有率は2.007%から7.672%の幅を持っている。日本化学会原子量専門委員会が作成する各元素の原子量を有効数字4桁で表して一覧とした「4桁の原子量表」においても、リチウムは人為的な同位体分離の影響で原子量の変動範囲が大きいため唯一有効数字3桁の値とされている。",
"title": "同位体"
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"paragraph_id": 18,
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"text": "1817年にヨアン・オーガスト・アルフェドソンがペタル石の分析によって発見した。アルフェドソンは金属リチウムの単離には成功せず、1821年にウィリアム・トマス・ブランドが電気分解によって初めて金属リチウムの単離に成功した。1923年、ドイツのメタルゲゼルシャフト社が溶融塩電解による金属リチウムの工業的生産法を発見し、その後の金属リチウム生産へとつながっていった。第二次世界大戦の戦中戦後には航空機用の耐熱グリースとしての小さな需要しかなかったが、冷戦下には水素爆弾製造のための需要が急激に増加した。その後、冷戦の終了により核兵器用のリチウムの需要が大幅に冷え込んだものの、21世紀にかけて電気自動車(EV)の動力であるリチウムイオン二次電池用の需要を満たすため中南米やオーストラリア、中華人民共和国で採掘や鉱山開発が進んでおり、「白い黄金」とも呼ばれるようになった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 19,
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"text": "1800年、ブラジルの化学者ジョゼ・ボニファシオ・デ・アンドラーダ・エ・シルヴァによってスウェーデンのウート島(英語版)の鉱山からリチウムを含有した葉長石(LiAlSi4O10)が発見された。葉長石の発見から17年後の1817年、当時イェンス・ベルセリウスの研究室で働いていたヨアン・オーガスト・アルフェドソンが葉長石の分析から新しい元素の存在を発見した。この元素はナトリウムやカリウムに似た化合物を形成したが、ナトリウムやカリウムの炭酸塩および水酸化物が水に対する溶解度および塩基性の高い物質であることと対照的に、炭酸リチウムおよび水酸化リチウムの水に対する溶解度や塩基性は低かった。",
"title": "歴史"
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"text": "後に、アルフェドソンはリシア輝石やリチア雲母にもリチウムが含まれていることを示した。1818年、クリスティアン・グメリンはリチウム塩類が深紅色の炎色反応を示すことを初めて言及した。アルフェドソンとグメリンはリチウム塩類から単体のリチウム金属を単離しようとしたが、成功しなかった。1821年、ウィリアム・トマス・ブランドは、以前にハンフリー・デービーが同じアルカリ金属類のナトリウムおよびカリウムの単体金属を得るのに利用した電気分解によって、酸化リチウムよりリチウムの単体金属を得た。ブランドはまた、塩化リチウムのようないくつかの純粋なリチウム塩類の分析から、リチア(酸化リチウム)がおよそ55 %の金属リチウムを含んでいると見積もり、リチウムの原子量をおよそ9.8 g/molであると推定した(現在の値は6.94 g/mol)。1855年、ロベルト・ブンゼン、アウグストゥス・マーティセンによって塩化リチウムの電気分解から大量の金属リチウムが生成された。1923年から始まった、ドイツ企業のメタルゲゼルシャフト社による、塩化リチウムおよび塩化カリウムの混合液を電気分解させて金属リチウムを得る工業的生産法は、その後のリチウムの商業生産へとつながる発見となった。",
"title": "歴史"
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"text": "リチウムの生産とその用途は、歴史的にいくつかの急激な転換点を経験している。初期に見出されたリチウムの主要な用途は、第二次世界大戦およびその直後の期間における、航空機のエンジンやそれに類似した用途のための高温グリースであった。まだ小さな市場であったこの時期の需要の大部分は、アメリカ合衆国のいくつかの小規模な鉱工業によって支えられていた。",
"title": "歴史"
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"text": "1つ目の転換点となったのは、冷戦下において水素爆弾製造を目的としたリチウムの需要の劇的な増加である。リチウム6およびリチウム7に中性子を照射することでトリチウムの生産が行われ、このような単独でのトリチウム生産に役立つのみならず、重水素化リチウムの形で水素爆弾内の固体核融合燃料にも用いられた。1950年代後半から1980年代中期の期間、アメリカはリチウムの主要な生産者となった。最終的には、42000 トンの水酸化リチウムが備蓄されていた。天然産のものに比べて備蓄されていたリチウムは同位体比が大きく異なり,リチウム6の75 %が減損されていた。",
"title": "歴史"
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"text": "そのほかにもリチウムはガラスの融点を降下させるのに用いられ、また、ホール・エルー法における酸化アルミニウムの溶解性の改善のためにも用いられた。1990年代半ばまでは、産業用途と核開発の2つの用途がリチウム市場を支配していた。",
"title": "歴史"
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"text": "2つ目の転換点となる冷戦の終了により、核兵器開発競争も下火になるとリチウムの需要は減少し、アメリカ合衆国エネルギー省が備蓄していたリチウムの一般市場への売却はリチウムの価格をさらに押し下げた。1990年代半ばになるとこれを背景に、いくつかの会社が、地下や鉱山より採掘されたリチウム原料を用いるよりもより安価である塩水からのリチウムの抽出を開始した。これによって多くの鉱山は閉山するか、ペグマタイトなどほかの採算が取れる鉱石のみに絞っての採掘へと移行した。たとえば、アメリカのノースカロライナ州キングスマウンテン近郊の鉱山は、21世紀になる前に閉山した。",
"title": "歴史"
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"text": "2000年代になるとリチウムイオン電池が急速に普及し、2007年にはリチウムの主要な用途となるなどリチウムの需要が再び増大した。リチウムイオン電池におけるリチウム需要の急増によって、企業はリチウム需要を満たすために塩水抽出によるリチウム生産能力の増強に努めている。リチウム資源の偏在と価格の高沸を回避する為、代替のナトリウムやカリウムを使う電池の開発も真剣に進められている。ただし全ての元素中で最低電位を示すリチウムが最も優秀なイオンキャリアで有る事は変わらない。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "2019年からは直接金属リチウムを負極活物質として利用できる全固体電池が実用化された。また2023年からは大容量全固体電池も実用化された。この全固体電池は金属リチウムを負極活物質として利用できる為、リチウムイオン電池より遥かに高性能を示し、今後は電気自動車用にも搭載予定となっている。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "リチウムは地球上に広く分布しているが、非常に高い反応性のために単体としては存在していない。地殻中で25番目に多く存在する元素であり、火成岩や塩湖鹹水中に多く含まれる。リチウムの埋蔵量の多くはアンデス山脈沿いに偏在しており、最大の産出国はチリである。海水中にはおよそ2300億トンのリチウムが含まれており、海水からリチウムを回収する技術の研究開発が進められている。世界のリチウム市場は少数の供給企業による寡占状態であるため、資源の偏在性と併せて需給ギャップが懸念されている。日本では有馬温泉(兵庫県)と鉄輪温泉(大分県)でリチウムが確認されているが、資料が極めて乏しく、また古い。",
"title": "分布"
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"text": "リチウムはビッグバンによって合成された3つの元素のうちの1つであり、ビッグバン原子核合成においてLiおよびLiの2つの安定同位体が合成された。ビッグバン原子核合成によって生成する原子の量は光子とバリオンの存在比に依存しているためリチウムの存在量は理論的に予測することが可能であるはずだが、それによって求められたリチウムの理論量と実際の観測によるリチウムの存在量との間には矛盾が生じていた。しかしながら、2013年6月に『Astronomy and Astrophysics(天文学および天体物理学)』にて発表されたケンブリッジ大学のKarin Lindらのグループによる論文において、ハワイのW・M・ケック天文台にある世界最大級の望遠鏡「ケックI」を使い、洗練された理論モデルを用い強力なスーパーコンピューターでデータ解析を行うことで、リチウムの存在量がビッグバン原子核合成における理論量と矛盾しないことが示された。",
"title": "分布"
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"text": "リチウムは水素、ヘリウムとともにビッグバンによって合成された初めの元素のひとつであるが、リチウムおよびベリリウムとホウ素は近い原子番号の他の元素と比較してその存在量は著しく小さい。これは、リチウムが低温で核反応を起こすため消費されやすく、かつリチウムが生成されるような核反応が少ないことの結果である。",
"title": "分布"
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"paragraph_id": 30,
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"text": "リチウムは亜恒星天体である褐色矮星や、特定の特異な橙色の星において見られる。リチウムは温度が低く小さな褐色矮星に存在するが、より温度の高い赤色矮星では核反応によって消費されリチウムが存在しないため、太陽よりも小さなこれら2つを識別するためにリチウムの存在を確認する「リチウム・テスト」と呼ばれる方法が利用される。ケンタウルス座X-4のような橙色の星からもまたリチウムが検出される。これらの星は中性子星やブラックホールのようなより大きな天体を周回しており、水素やヘリウムよりも重いリチウムが重力によって星の表面へと引かれるためリチウムが観測されると考えられる。",
"title": "分布"
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"text": "リチウム原子核は太陽内部の高温の環境において容易に破壊される。このため今日太陽表面に存在するリチウムの量は、太陽系の材料となった星間物質における原初の存在比と比べて100分の1以下にまで減少していると考えられている。この減少率は太陽内部の状態(特に元素の鉛直方向の輸送の程度)に影響されるため、リチウム存在量は直接観測が困難な太陽の内部モデルを検証する上での制約条件の1つとなる。",
"title": "分布"
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"text": "リチウムは地球上に広く分布しているが、非常に高い化学反応性を持つために化合物になっており,元素単体としては存在していない。海水に含まれるリチウムの総量は非常に多く2300億トンと推定されており、その分率は(0.14–0.24)×10、もしくはモル濃度で25 μmol/Lと比較的安定した濃度で存在している。熱水噴出孔ではより高濃度にリチウムが存在しており、その分率は7×10に達する。",
"title": "分布"
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"text": "地殻中のリチウム濃度は重量分率でおよそ(20–70)×10にわたると見積もられており、地殻中で25番目に多く存在する元素である。リチウムは火成岩を構成する非主要な元素であり、中でも花崗岩で最大の濃度となる。リチウム鉱物であるリシア輝石や葉長石を含有するペグマタイトもまた多くリチウムを含んでおり、リチウム源として最も多く商業利用されている。もう一つの重要なリチウム鉱物にリチア雲母がある。新しいリチウム源としてはヘクトライト粘土があり、アメリカのWestern Lithium Corporation社によって活発に資源開発されている。リチウムは、水分蒸発量の多い乾燥した地域の塩湖などにおいて非常に長い時間をかけて濃縮され、鉱床を形成することも知られている。そのような乾燥した塩湖には、全世界のリチウム埋蔵量(鉱石ベース)のおよそ半分におよぶ540万トンの埋蔵量を有していると推定されているボリビアのウユニ塩原や、埋蔵量の27 %、およそ300万トンの埋蔵量を有するチリのアタカマ塩原などが含まれる。",
"title": "分布"
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"text": "アメリカ地質調査所の2011年の推定によると、最大の可採埋蔵量を有する国はチリの750万トンであり、チリは生産量も1万2600トンと世界最大である。他の主要なリチウム産出国としては、オーストラリア、アルゼンチン、中国が含まれる。ボリビアは世界最大のリチウム埋蔵量を占めるウユニ塩原を有しているが、技術的・政治的な問題によりリチウム生産の事業化には至っていない。",
"title": "分布"
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"text": "2010年6月、『ニューヨーク・タイムズ』は、アメリカの地質学者がアフガニスタン西部の干上がった塩湖跡にリチウムを含む巨大な堆積物が存在していると考え、地質調査を行っていると報じた。アメリカ合衆国国防総省は「彼らの初期の分析結果によれば、ガズニー州のある場所には現在知られている中で世界最大のリチウム埋蔵量を有するボリビアのそれと同程度に大きなリチウム鉱床が存在する可能性が示されている」と述べた。これらの予想は、おもにソ連によって収集された1979年から1989年頃の古いデータに基づいており、アメリカ地質調査所のAfghanistan Minerals Projectの長であるスティーブン・ペータースは、過去2年間にアフガニスタンで行ったアメリカ地質調査所の関与したどのような新しい鉱物の測量においても確認されておらず、「我々はいかなるリチウムの発見も承知していない」と述べた。2021年現在、オーストラリア、チリ、中国の3か国だけで、世界生産の90%を占める。アルゼンチンに先行投資している日本企業の後を追って、中国では同国にリチウム採掘への投資を行っている。",
"title": "分布"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "2023年1月、『ニューズウィーク日本版』は、カシミール地方でインドが実効支配するリーシー地域(英語版)にて推定590万トンにおよぶリチウム資源を発見した旨をインド政府当局が発表したと報じているが、専門家によれば、インドがリチウム採掘や精製の技術を整備するのに要する期間は少なくとも10年と見ている。",
"title": "分布"
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"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "リチウムは多数の植物、プランクトンおよび無脊椎生物において痕跡量存在しており、その分率は(69–5760)×10である。脊椎動物中のリチウム濃度は先述のものよりもわずかに低く、ほとんど全ての脊椎動物の体組織および体液中には(21–763)×10のリチウムが含まれている。水棲生物はリチウムを生物濃縮する。これらの生物においてリチウムがどのような生物学的役割を有しているかは知られていないが、哺乳類の栄養学的な研究によってリチウムの健康に対する重要性が示されており、必須微量元素として1 mg/dのRDA(1日に摂取すべき栄養量)が提言されている。2011年に報告された日本における観察研究によると、飲料水中に含まれる天然由来のリチウムが人間の寿命を増やす可能性が示唆されている。",
"title": "分布"
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"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "リチウムの生産量は第二次世界大戦後に大きく増加した。リチウムはペグマタイトなどの火成岩中から他の元素と分離され、もしくは鉱泉や塩水溜まり(塩湖かん水)、堆積塩などから抽出される。金属リチウムは55 %の塩化リチウムと45 %の塩化カリウムの混合物を450 °Cで溶融塩として電解することによって生産される。金属リチウムの価格は1998年時点で95 USドル/kg(43 USドル/ポンド)であった。また、リチウムイオン電池の原料に使われる炭酸リチウムの価格は、車載用バッテリー用途の需要の高まりにより2015年以降高騰しており、2015年6月に7.7ドル/kgであった平均価格が、2016年6月には26.8 ドル/kgにまで上昇している。",
"title": "生産"
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"paragraph_id": 39,
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"text": "アメリカ地質調査所の推定によるリチウムの可採埋蔵量は鉱石ベースで1300万トンである。それは南米のアンデス山脈沿いに多く見られ、リチウムの主要生産国としてチリやアルゼンチンが挙げられる。両国はリチウムを塩湖かん水から生産しており、アメリカでもネバダ州にあるシルバーピーク鉱山の塩湖かん水からリチウムを産出している。世界の既知の埋蔵量のうち、半数近くをアンデス山脈の中央東部に位置するボリビアが占めているが、この資源の開発はあまり進展しておらず、2013年2月に日本とボリビアの共同でリチウムの抽出試験が開始されたばかりである。",
"title": "生産"
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"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "一方で、リチウム鉱石からのリチウム生産は主にオーストラリアやジンバブエなどで行われている。オーストラリアではペグマタイトからタンタルを生成する際の副生物として回収されており、世界2位の生産量を占めている。鉱石としてのリチウム資源はアメリカが全埋蔵量の47 %を有しているが、2010年の時点ではアメリカで稼働中のリチウム鉱山は塩湖かん水を利用するシルバーピーク鉱山のみであり、リチウム鉱石の採掘は行われていない。",
"title": "生産"
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"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "潜在的なリチウムの資源回収源として地熱井戸が挙げられる。地熱井戸では高温の水のような地熱流体の移動を介して地表に熱エネルギーを伝達するが、そのような地熱流体に含まれるリチウムを単純な濾過技術によって回収することが可能であり、これは既に現場実証されている。環境保護に関するコストは、主に既存の地熱井戸操業に関するものであるため、相対的な環境面の影響は肯定的である。",
"title": "生産"
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"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "世界金融危機後、産業界において炭酸リチウムの市場規模縮小が広がったため、世界最大手のソシエダード・キミカ・イ・ミネラ・デ・チリ(SQM)のようなリチウムの主要供給者は、リチウム資源開発者の新規参入を考慮し、さらに市場でのその立場を守るために設定価格を20 %低下させた。2012年には、リチウム需要の増加にともない市場規模は拡大している。2012年の『ビジネスウィーク』の記事は、「億万長者であるフリオ・ポンセが支配する\"SQM\"、ヘンリー・クラビスのコールバーグ・クラビス・ロバーツ社に支援されたロックウッド、フィラデルフィアに拠点を置くFMC社」などの既存企業によるリチウム市場の寡占を概説した。リチウム電池の需要が年におよそ25 %ずつ増加しており、全体のリチウム需要を4–5 %ほど押し上げているため、世界的なリチウムの消費量は2012年の15万トンから2020年には30万トンにまで急増する可能性がある。",
"title": "生産"
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"text": "ローレンス・バークレー国立研究所とカリフォルニア大学バークレー校による2011年の研究によると、現在推定されているリチウムの埋蔵量からは10億台オーダーもの40キロワット時のリチウムイオン二次電池を製造可能であると見積もられ、リチウム埋蔵量の問題は電気自動車向けの大規模なバッテリー製造の律速因子とはなりえないことが示された。ミシガン大学およびフォード・モーター社が2011年に行ったもう一つの研究によると、2100年までのリチウム需要を支えるのに十分なリチウム資源が存在することが示され、そこにはリチウムを広範囲に必要とするハイブリッド電気自動車やプラグインハイブリッドカー、バッテリー式電動輸送機器などの用途が含まれている。この研究では世界中のリチウム埋蔵量を3900万トンと見積もり、90年間の全リチウム需要を経済成長に関するシナリオとリサイクル率に応じて12–20メガトンと分析している。しかしながら、単一産地で需要のほとんどを生産するという資源の偏在性および、先述の独占的な少数の供給企業による市場の寡占という問題があるため、商業的な需要ギャップが懸念されている。2015年以降、テスラモーターズをはじめとした自動車メーカーによる電気自動車向けの需要が高まっており、車載用バッテリーに使われることも相まって、リチウムは「白い石油」とも呼ばれている。使用済み製品からのリチウムのリサイクルについては、現状ではその技術がなく、経済性が見込まれないため進んでいない。これは、原料の炭酸リチウムの生産はエネルギー集約的な産業ではないため製造コストが低く、費用のかかるリサイクル品では価格的に競争にならないという要因が大きい。",
"title": "生産"
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"text": "海水中には2300億トンのリチウムが溶けており、事実上無限の埋蔵量を有する。海水中のリチウム濃度は他の元素と比べて比較的高いため採算ラインのボーダー上にあり、効率的な回収方法が開発されれば経済的に実用可能になる可能性がある。2004年には海水リチウムを抽出するためのパイロットプラントが日本の佐賀大学海洋エネルギーセンターで稼働を開始し、150日間で192グラムの塩化リチウムが海水から回収された。このプラントは火力発電所などが取水した海水を二次利用することを想定し、ポンプで汲み上げた海水から吸着剤を用いてリチウムを回収する方式が採用されている。これは、100万キロワット級の規模の発電所を想定した場合、1基あたり年間700トンの塩化リチウムを回収できる計算になるが、吸着剤由来のマンガンの溶出や、回収コストが従来法の20倍かかるなど、実用化にはまだ課題が残っている。2014年には日本原子力研究開発機構が、濃淡電池の原理を利用し海水からのリチウムイオン抽出と発電を同時に行う技術を開発した。",
"title": "生産"
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"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "リチウムは陶器やガラスの添加剤、光学ガラス、電池(一次電池および二次電池)、耐熱グリースや連続鋳造のフラックスとして利用される。2011年時点で最大の用途は陶器やガラス用途であるが、二次電池用途での需要が将来的に増加していくものと予測されている。リチウムの同位体は水素爆弾や核融合炉などにおいて核融合燃料であるトリチウムを生成するために利用されている。",
"title": "用途"
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"paragraph_id": 46,
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"text": "2011年におけるリチウムの用途は陶器やガラスなどの窯業用途が最も多く、リチウムの全消費量の29 %を占めている。リチウムイオン二次電池などのバッテリー用途でのリチウムの消費量は全体の27 %であり、携帯用電子機器や自動車用バッテリーなどの需要拡大にともない、この用途での消費量は増加傾向にある。窯業、バッテリー用に続く用途として、自動車などに使われる耐熱・耐圧グリース用途、鋼を連続鋳造する際の融剤としての用途、空調用途、合成ゴムの重合触媒などの用途が挙げられる。",
"title": "用途"
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"text": "リチウム鉱石はアルミナ、シリカとの化合物で、すりつぶして窯業材料に用いられる。塩湖かん水から分離された水酸化リチウムは電池に用いられる。",
"title": "用途"
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"text": "火にかけても割れない土鍋の材料としてペタライト葉長石を40–50 %配合した低熱膨張性耐熱陶土を用いる。グラタン皿などの耐熱陶器にも応用されている。萬古焼で50年ほど前から大量生産され、ジンバブエ、ブラジル産のリチウム鉱石が使われている。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "リチウムは窯業において、釉薬の融点を下げるための強力な媒熔剤として利用される。釉薬の融点を下げる方法としては、水溶性のアルカリ性化合物をガラスと溶融させて不溶化したフリットと呼ばれる媒熔剤を用いる方法と、フリットを用いずに、もともと不溶性のアルカリ性化合物を用いる方法があるが、リチウムはおもに後者として用いられる。リチウム源としてはおもに炭酸リチウムが用いられ、焼成によって酸化リチウムもしくはケイ酸リチウムの形で釉層を形成する。リチウムはほかのアルカリ金属、アルカリ土類金属元素と比較して熱膨張係数が小さいため、リチウムを釉薬に加えることで釉薬の貫入(ひび割れ)を少なくすることができる。また、リチウムによって釉薬の流動性が高まるため、釉薬のむらを防ぎ全体的に均一な層を形成することができる。",
"title": "用途"
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{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "リチウムは耐熱ガラスや光学ガラスの配合剤としても利用される。リチウムアルミノケイ酸塩を熱処理によって結晶化ガラスとしたセラミックスは非常に熱膨張係数が低いため急激な温度変化に強く、耐熱食器に用いられ、このような結晶化ガラスを利用したセラミックスはパイロセラムと呼ばれる。また、リチウムはイオン半径が小さく電場強度が強いため、ガラス中で隣接する酸素イオンを大きく分極させて屈折率を上昇させることができ、この効果を利用して光学ガラスの一つである屈折率分布型光学レンズに利用される。フッ化リチウムは紫外から赤外までの広範囲の光を透過し、特に紫外域の透過性能が優れているため、光学窓材料などに利用される。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "リチウムは標準酸化還元電位が3.03 Vと最も低いため電池の負極材料として適しており、金属リチウムを負極材料、正極材料としてフッ化黒鉛や二酸化マンガンなどを用いた一次電池がリチウム電池として実用化されている。リチウム電池はエネルギー密度が高いため小型化に向いており、また自己放電が少ないため電池寿命が長いといった特徴を有している。そのため、小型・軽量・長寿命といった機能が要求されるメモリバックアップなどの用途で利用されている。これらの一次電池の多くは定まった用途にのみ用いられるものであるため、需要は一定であるが、エレクトロニクス機器や測定機器の電源などに用いられる塩化チオニルリチウム電池は需要が増加している。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "二次電池用途でのリチウム需要は2004年から2008年の間で年間20 %を越える伸び率を示しており、この用途におけるリチウムの需要は将来的にも増加し続けると予測されている。リチウムイオン二次電池は正極材料として主にコバルト酸リチウムが、負極材料としては炭素が用いられており、電解質の支持塩には六フッ化リン酸リチウムが使用されている。リチウムイオン二次電池は、エネルギー密度が高い、動作電圧が3.7 Vと高い、自然放電が少ない、メモリー効果がないといった有用な特徴を有しており、携帯機器用の小型電池から車載用、産業用の大型電池まで幅広く使われている。負極材料に炭素が使われる理由として、一価のリチウムイオンはグラファイトの層間に止まることができ、アノードにグラファイトを用いて、リチウムイオンを止め貯められている。近年は負極材料に直接金属リチウムを利用した全固体電池も普及している。今後、電気自動車やメガソーラー の蓄電設備として、さらなる需要が見込まれている。",
"title": "用途"
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{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "Liはトリチウムを製造するための原料や、核融合における中性子吸収材として用いられる。天然のリチウムはおよそ7.5 %のLiを含んでおり、核兵器で利用するため同位体分離(英語版)によって大量に生産されていた。Liも原子炉の冷却材として関心を集めている。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "重水素化リチウムは初期の水素爆弾における最適な原子核融合燃料として利用された。水素爆弾が初めに実験された当時はその反応機構は完全には理解されていなかったが、LiおよびLiが中性子の衝突によってトリチウムを生成する反応がブラボー実験において核暴走を生み出した要因となった。トリチウムは比較的容易に重水素と核融合反応を起こし、その詳細は秘匿されたままであるが、Liを用いた重水素化リチウムは最新の核兵器においてもいまだに核融合材料としての役割を果たしているようである。",
"title": "用途"
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"text": "Liを高濃度に濃縮させたフッ化リチウムとフッ化ベリリウムを混合させたフリーベは溶融塩原子炉における溶融塩として用いられる。フッ化リチウムはリチウムの化合物の中でも安定であり、フリーベは低融点な塩である。加えて、Liおよびベリリウム、フッ素は熱中性子捕獲断面積が十分に低いため、原子炉中の核分裂反応を阻害しない数少ない核種の一つである",
"title": "用途"
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{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "重水素およびトリチウムを燃料とする磁場閉じ込め方式の核融合炉において、リチウムはトリチウムを生み出すのに用いられる。自然にトリチウムが発生することは非常に稀であるため、反応場であるプラズマをリチウムの入ったブランケットで覆い、プラズマでの重水素とトリチウムの反応から生じる中性子をリチウムと反応させて核分裂させることで、より多くのトリチウムを生成させる必要がある。",
"title": "用途"
},
{
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"text": "リチウムはまたアルファ粒子源としても利用される。Liが加速陽子と衝突することでBeとなり、Beはすぐに核分裂して2つのアルファ粒子となる。この反応は1932年にジョン・コッククロフトおよびアーネスト・ウォルトンによって行われた初の完全な人工原子核反応であり、この業績は当時「splitting the atom」と呼ばれた。",
"title": "用途"
},
{
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"tag": "p",
"text": "医療用として炭酸リチウム(リチウム塩)が躁病および躁うつ病の躁状態の患者に処方される。炭酸リチウムが躁病に効果があることは、1949年にオーストラリアのジョン・ケイドによって発見された。イギリスの大学の研究者らによるメタ分析では、他地域と比較し相対的にリチウム濃度が高い水道水の地域ほど、自殺率が低いことが明らかとなっている。日本国内でも2006年、大分大学の調査にて、大分県下において同様の調査を行ったところ、リチウム濃度の高い水道水の地区では自殺率が下がることが判明され、2022年には東京都の発表にて、「眼房水解析により、自殺者は非自殺死亡者よりリチウム濃度が低い」ことが発表されている。 炭酸リチウムの抗躁薬としての効果は、神経伝達物質の遊離やリン脂質の代謝を抑制する作用などが関係していると考えられているが、いまだ解明されていない。炭酸リチウムの投与は治療上有効とされる血中濃度と中毒に陥る濃度との範囲が狭いため、定期的に血液検査を行い、適切な血中濃度に保たれているかを確認しなければならない。また、利尿薬やACE阻害薬などとの併用によって腎臓でのリチウムの再吸収が促進され、中毒に陥りやすくなる。副作用としてはリチウムの中毒症状のほか不整脈や多尿、甲状腺機能の低下などがあり、腎不全や心不全の患者や妊婦には禁忌である。特に妊娠初期の女性では、胎児に心血管系の奇形(エブスタイン奇形)が発生するリスクが増加する。炭酸リチウムの投与によって体重が増加することがあるが、その原因は明確でなく、炭酸リチウムの副作用である口の渇きに起因して高カロリーな飲料が菓子類とともに多量に摂取されがちになる影響も原因の一つであると考えられている。",
"title": "用途"
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{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "一般の消費者にとって最も容易に利用できるリチウム源はリチウム電池であり、いくつかの管轄区域においてリチウム電池の販売が制限されている。リチウムは、アルカリ金属を無水の液体アンモニアに溶解させた溶液を用いて還元反応を行うバーチ還元によって、プソイドエフェドリンおよびエフェドリンを覚醒剤のメタンフェタミンに還元させるために用いることができる。",
"title": "規制"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "大部分のリチウム電池は短絡によって非常に急速に放電して過熱し、それによって爆発の可能性につながることがあるため(熱暴走)、運送や積荷に関して、特に航空機のような特定の輸送機関を用いることが禁止されている場合がある。大部分の消費者向けのリチウム電池はこの種の事故を防ぐために、熱の過負荷から保護する回路が内蔵されているか、もしくは本質的に短絡時に流れる電流を制限するような設計がされている。自然発生的な熱暴走に至る内部短絡は、電池の製造欠陥もしくは損傷のために発現することが知られていた。",
"title": "規制"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "日本では消防法による危険物のうち、「別表第一の品名欄に掲げる物品で同表に定める区分に応じ同表の性質欄に掲げる性状を有するもの」の中の「第3類 自然発火性物質及び禁水性物質」の「第1種 自然発火性物質及び禁水性物質」として金属リチウム(Li)が、また、「第2種 自然発火性物質及び禁水性物質」水素化リチウム(LiH)として消防法での危険物に該当している。",
"title": "規制"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "リチウムはレアメタルと並んで産業に不可欠で、近年世界各国で二次電池としての需要が伸びていることにより、投資の対象になりつつあり、投機的な資金が流入することにより相場が高騰しつつある。過去には銀の木曜日によるシルバーショックやレアメタルの輸出規制により相場が高騰した事例があり、相場の暴騰が懸念される。",
"title": "リチウム相場"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "そのような事態を見据えて各社では代替技術の開発が進められる。",
"title": "リチウム相場"
}
] | リチウムは、原子番号3の元素である。元素記号はLi。原子量は6.941。アルカリ金属元素の一つ。 | {{Elementbox
|name=lithium
|japanese name=リチウム
|number=3
|symbol=Li
|left=[[ヘリウム]]
|right=[[ベリリウム]]
|above=[[水素|H]]
|below=[[ナトリウム|Na]]
|series=アルカリ金属
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|appearance=銀白色の金属
|image name=Lithium paraffin.jpg
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|image name comment=
|image name 2=
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|atomic mass=6.941
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|electron configuration=[[[ヘリウム|He]]] 2s<sup>1</sup>
|electrons per shell=2, 1
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|vapor pressure comment=
|crystal structure=body-centered cubic
|japanese crystal structure=[[体心立方格子構造]]
|oxidation states='''1''', -1
|oxidation states comment=[[強塩基性酸化物]]
|electronegativity=0.98
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|covalent radius=[[1 E-10 m|128±7]]
|Van der Waals radius=[[1 E-10 m|182]]
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|electrical resistivity=
|electrical resistivity at 0=
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|CAS number=7439-93-2
|isotopes=
{{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[リチウム6|6]] | sym=Li | na=7.5% | n=3}}
{{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[リチウム7|7]] | sym=Li | na='''92.5%''' | n=4}}
}}
'''リチウム'''({{lang-lan-short|lithium}}<ref>[http://www.encyclo.co.uk/webster/L/49 Encyclo - Webster's Revised Unabridged Dictionary (1913)]</ref>、{{lang-en-short|lithium}} {{IPA-en|ˈlɪθiəm|}})は、[[原子番号]]3の[[元素]]である。[[元素記号]]は'''Li'''。[[原子量]]は6.941。[[アルカリ金属]]元素の一つ。
== 名称 ==
[[ファイル:Wie funktioniert eine Lithium-Schwefel-Batterie?.webm|サムネイル|リチウム]]
発見者が所属していた研究室の主催者[[イェンス・ベルセリウス]]が名付けた。{{lang|el|λιθoς}}(lithos)は、[[ギリシャ語]]で「[[石]]」を意味する。これは、リチウムが[[鉱石]]から発見されたことにちなむ<ref name=krebs/><ref name=webelementshistory/><ref name=vanderkrogt/>。
== 性質 ==
[[ファイル:Lithium.svg|thumb|]]
銀白色の軟らかい元素であり、全ての金属元素の中で最も軽く、[[比熱容量]]は全[[固体]]元素中で最も高い。
リチウムの化学的性質は、他のアルカリ金属元素よりもむしろ[[アルカリ土類金属]]元素に類似している。[[酸化還元電位]]は全元素中で最も低い。リチウムには2つの安定[[同位体]]および8つの[[放射性同位体]]があり、天然に存在するリチウムは安定同位体である<sup>6</sup>Liおよび<sup>7</sup>Liからなっている。これらのリチウムの安定同位体は、[[中性子]]の衝突などによる[[核分裂反応]]を起こしやすいため[[恒星]]中で消費されやすく、原子番号の近い他の元素と比較して存在量は著しく小さい。
=== 物理的性質 ===
[[File:FlammenfärbungLi.png|thumb|left|150px|リチウムの炎色反応]]
常温常圧では銀白色の軟らかい金属で、[[ナトリウム]]より硬い。常温で安定な[[結晶]]構造は[[体心立方格子]](BCC)。[[融点]]は{{val|180|u=degC}}、[[沸点]]は{{val|1330|u=degC}}(沸点は異なる実験値あり)であり、その融点および沸点はアルカリ金属元素の中で最も高い<ref>{{RubberBible86th}}</ref>。また0.534という[[比重]]は全金属元素の中で最も軽く、[[水]]より軽い3つの金属元素のうちの一つ(残りの二つはナトリウムと[[カリウム]])でもある<ref name=krebs>{{Cite book|last = Krebs|first = Robert E.|year = 2006|title = The History and Use of Our Earth's Chemical Elements: A Reference Guide|publisher = Greenwood Press|location = Westport, Conn.|isbn = 0-313-33438-2}}</ref>。また、{{val|3582|ul=J|up=(kg⋅K)}}という比熱容量は全固体元素中で最大である<ref>{{Cite book|title=Lithium (Understanding the Elements of the Periodic Table: Set 3)|author=Paula Johanson|year=2007|publisher=The Rosen Publishing Group|page=20|isbn=9781404209404}}</ref>。その比熱容量の高さから、リチウムは[[伝熱]]用途において[[冷却材]]としてしばしば利用される<ref name=CRC>{{Cite book| author = Hammond, C. R. |title = The Elements, in Handbook of Chemistry and Physics 81st edition| publisher =CRC press| year = 2000| isbn = 0-8493-0481-4}}</ref>。
リチウムの[[熱膨張率]]は[[アルミニウム]]の2倍、[[鉄]]のほぼ4倍である<ref>{{cite web|url=http://www.engineeringtoolbox.com/linear-expansion-coefficients-d_95.html|title = Coefficients of Linear Expansion|publisher = Engineering Toolbox|accessdate=2012-12-09}}</ref>。常圧、400 μ[[ケルビン|K]]以下の条件で[[超伝導]]となり<ref>{{Cite journal|doi=10.1038/nature05820|year=2007|author=Tuoriniemi, J; Juntunen-Nurmilaukas, K; Uusvuori, J; Pentti, E; Salmela, A; Sebedash, A|title=Superconductivity in lithium below 0.4 millikelvin at ambient pressure|volume=447|issue=7141|pages=187–9|pmid=17495921|journal=Nature|bibcode = 2007Natur.447..187T }}</ref>、20 G[[パスカル (単位)|Pa]]という高圧条件下においては9 K以上というより高い温度で超伝導となる<ref>{{Cite journal|doi=10.1126/science.1078535|year=2002|author=Struzhkin, V. V.; Eremets, M. I.; Gan, W; Mao, H. K.; Hemley, R. J.|title=Superconductivity in dense lithium|volume=298|issue=5596|pages=1213–5|pmid=12386338|journal=Science|bibcode = 2002Sci...298.1213S }}</ref>。
[[炎色反応]]においてリチウムおよびその化合物は深紅色の炎色を呈する。主な[[輝線]]は波長670.8 nmの赤色の[[スペクトル線]]であり、他に610.4 nm(橙色)、460.3 nm(青色)などにスペクトル線が見られる<ref>{{cite book | 和書 | author = 千谷利三 | year = 1959 | title = 新版 無機化学(上巻) | publisher = 産業図書 |pages=82-83 | ref = 千谷1959}}</ref>。
リチウムは70 K({{val|-203.15|u=degC}})以下の温度で、ナトリウムと同じように[[マルテンサイト変態]]を起こす。4.2 K({{val|-268.95|u=degC}})で菱面体晶を取り、より高い温度で面心立方晶となり、それから体心立方晶となる。液体ヘリウムを用いて4 Kまで冷却すると菱面体晶が最も支配的となる<ref name="overhauser">{{Cite journal|first = A. W.|last = Overhauser|title=Crystal Structure of Lithium at 4.2 K|doi=10.1103/PhysRevLett.53.64|volume=53|pages=64–65|year=1984|journal = Physical Review Letters|bibcode=1984PhRvL..53...64O}}</ref>。[[高圧]]条件下においては、複数の同素体の形を取ることが報告されている<ref>{{cite journal|last1=Schwarz|first1=Ulrich|title=Metallic high-pressure modifications of main group elements|journal=Zeitschrift für Kristallographie|volume=219|page=376|year=2004|doi=10.1524/zkri.219.6.376.34637|issue=6–2004|bibcode = 2004ZK....219..376S }}</ref>。また、80 GPa程度の高圧下で金属から[[半導体]]に[[相転移]]する<ref>Takahiro Matsuoka & Katsuya Shimizu, "Direct observation of a pressure-induced metal-to-semiconductor transition in lithium", ''Nature'' '''458''', 186-189 (2009). {{doi|10.1038/nature07827}}</ref>。
=== 化学的性質 ===
[[File:Butyllithium-hexamer-from-xtal-3D-balls-A.png|thumb|left|n-ブチルリチウム6量体]]
同じアルカリ金属のナトリウム、カリウムと比べて[[化学反応|反応性]]は劣り、[[イオン半径]]が小さいため[[電荷]]/半径比がアルカリ金属としては高く、化合物の化学的性質は、[[アルカリ土類金属]]、特に[[マグネシウム]]と類似する<ref name="Cotton">F. ALBERT COTTON and GEOFFREY WILKINSON, Cotton and Wilkinson ADVANCED INORGANIC CHEMISTRY A COMPREHENSIVE TEXT Fourth Edition, INTERSCIENCE, 1980.</ref>(ただし、リチウムはアルカリ土類金属ではない)。乾いた[[空気]]中ではほとんど変化しないが、水分があると常温でも[[窒素]]と反応して[[窒化リチウム]](Li<sub>3</sub>N)を生ずる。また、熱すると燃焼して[[酸化リチウム]](Li<sub>2</sub>O)になる。このため、金属リチウムは[[アルゴン]]雰囲気下で取り扱う必要がある。ただし燃焼により酸化物を生成する挙動は他のアルカリ金属が空気中で燃焼した場合、[[過酸化物]]や[[超酸化物]]を生成するのとは対照的である<ref name="Cotton" />。
[[イオン化傾向]]が大きく、[[酸化還元電位]]は全元素中でももっと低い{{val|-3.045|u=V}}であるが、水との反応性はアルカリ金属中では最も穏かである。それでも多量のリチウムと水が反応すると発火する。
=== 危険性 ===
リチウムは[[腐食]]性を有しており、高濃度のリチウム化合物に曝露されると[[肺水腫]]が引き起こされることがある。リチウムは[[覚醒剤]]を合成するための[[バーチ還元]]における[[還元剤]]として利用されるため、一部の地域では[[リチウム電池]]の販売が規制の対象となっている。また、リチウム電池は短絡によって急速に放電して過熱することで爆発が起こる危険性がある。
<div style="float: right;">
{| class="wikitable"
|-
! style="background:#f90;"|NFPA 704
|-
| style="text-align:left;"|{{NFPA 704|Health = 3|Flammability = 0|Reactivity = 2|Other = <s>W</s>}}
|-
| style="width:80pt;"|金属リチウムに対する[[NFPA 704|ファイア・ダイアモンド]]表示
|}</div>
上記のようにリチウムは腐食性を有しているため、身体へのあらゆる接触を避けることが求められる<ref name=icsc>{{ICSC-ref|0710|accessdate=2011-7-8}}</ref>。水と激しく反応するために、リチウムは禁水性の物質とされている。よって、安全のために[[ナフサ]]のような非反応性の化合物中に保管される<ref>{{Cite book|url = https://books.google.co.jp/books?id=Oo3xAmmMlEwC&pg=PA244&redir_esc=y&hl=ja|pages = 244–246|isbn = 9780849325236|author = Furr, A. K.|year = 2000|publisher = CRC Press|location = Boca Raton|title = CRC handbook of laboratory safety}}</ref>。粉末状のリチウム、もしくは多くの場合は[[塩基性]]であるリチウム化合物を吸入すると鼻や喉が刺激され、一方でより高濃度のリチウム(化合物)に曝されると[[肺水腫]]を引き起こすことがある<ref name=icsc/>。
妊娠第1三半期の間にリチウムを摂取した女性の産む子どもにおいて、[[エブスタイン奇形]]が発生するリスクが増加するという報告があった<ref name="pmid18982835">{{cite journal |author=Yacobi S, Ornoy A |title=Is lithium a real teratogen? What can we conclude from the prospective versus retrospective studies? A review |journal=Isr J Psychiatry Relat Sci |volume=45 |issue=2 |pages=95–106 |year=2008 |pmid=18982835 |url=http://www.psychiatry.org.il/presentation_sender.asp?info_id=53760 }}{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref><ref>Weinstein, M. R. and Goldfield, M. D.: Cardiovascular malformations with Lithium use during pregnancy, Am. J. Psychiatry, 132, 529-531 (1975).</ref>が、催奇形性を否定する調査結果もある<ref>松島英介「[https://doi.org/10.18977/jspog.18.3_327 妊婦・授乳婦に対する向精神薬の使い方(教育講演,<特集>第42回日本女性心身医学会学術集会報告)]」『女性心身医学』2014年 18巻 3号 pp.327-332, {{doi|10.18977/jspog.18.3_327}}</ref>。
== 同位体 ==
天然に存在するリチウムは<sup>6</sup>Liおよび<sup>7</sup>Liの2つの安定同位体からなっており、その[[天然存在比]]は<sup>7</sup>Liが92.5 %と大半を占めている<ref name=krebs/><ref name=emsley/><ref name=isotopesproject>{{cite web|url=http://ie.lbl.gov/education/parent/Li_iso.htm|title=Isotopes of Lithium|accessdate=2008-04-21|publisher=Berkeley National Laboratory, The Isotopes Project|deadlinkdate=2017年9月|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080513123152/http://ie.lbl.gov/education/parent/Li_iso.htm|archivedate=2008年5月13日}}</ref>。この2つの天然同位体はどちらも、リチウムよりも軽い元素である[[ヘリウム]]および重い元素である[[ベリリウム]]に比べて[[核子]]に対する{{仮リンク|原子核の結合エネルギー|en|Nuclear binding energy}}が極端に低く、これはつまり安定な軽元素の中でもリチウムは極めて[[核分裂反応]]を起こしやすいということを意味している。これら2つのリチウム天然同位体は、[[重水素]]および[[ヘリウム3]]以外のどんな安定核種よりも核子あたりの結合エネルギーが低い<ref name=bind>[[:File:Binding energy curve - common isotopes.svg]] shows binding energies of stable nuclides graphically; the source of the data-set is given in the figure background.</ref>。そのため非常に軽い元素であるにもかかわらず[[太陽系]]における原子番号32番までの元素のうちでリチウム元素が占める存在量の順位は25位であってあまり多くない<ref name="Lodders2003">Numerical data from: {{doi | 10.1086/375492 }} Graphed at [[:File:SolarSystemAbundances.jpg]]</ref>。
リチウムには8つの放射性同位体の存在が明らかにされており、比較的[[半減期]]の長いものとして半減期{{val|838|u=ms}}の<sup>8</sup>Liおよび半減期{{val|178|u=ms}}の<sup>9</sup>Liがある。他の全ての放射性同位体は半減期{{val|8.6|u=ms}}以下である。もっとも半減期の短いものは<sup>4</sup>Liであり、それは[[陽子放出]]によって[[放射性崩壊|崩壊]]し、その半減期は{{val|7.6|e=-23|u=s}}である<ref name=nuclidetable>{{cite web|url=http://www.nndc.bnl.gov/chart/reCenter.jsp?z=104&n=158|title=Interactive Chart of Nuclides|publisher=Brookhaven National Laboratory|author=Sonzogni, Alejandro|location=National Nuclear Data Center|accessdate=2008-06-06}}</ref>。[[エキゾチック原子核]]である<sup>11</sup>Liは[[中性子ハロー]]を示すことが知られている。[[リチウム3|<sup>3</sup>Li]]は、存在が確認されている中で、[[水素|<sup>1</sup>H]]以外で唯一[[陽子]]のみで構成された原子核を持つ。
<sup>7</sup>Liは[[ビッグバン原子核合成]]において生成された{{仮リンク|原生核種|en|Primordial nuclide}}のひとつである。少量の<sup>6</sup>Liおよび<sup>7</sup>Liは[[恒星内元素合成]]において生産されるが、生産される速度と同程度の速さで{{仮リンク|リチウム燃焼|en|Lithium burning|label=燃焼}}して消費されると考えられている<ref>{{Cite journal|title=Lithium Isotopic Abundances in Metal-poor Halo Stars |year=2006|journal=The Astrophysical Journal|doi = 10.1086/503538|volume=644|page=229|author=Asplund, M.|bibcode=2006ApJ...644..229A|arxiv = astro-ph/0510636|display-authors=1|last2=Lambert|first2=David L.|last3=Nissen|first3=Poul Erik|last4=Primas|first4=Francesca|last5=Smith|first5=Verne V. }}</ref>。<sup>6</sup>Liおよび<sup>7</sup>Liはより重い元素が[[宇宙線による核破砕]]を受けることによっても少量が付加的に生成され、初期の太陽系での<sup>7</sup>Beおよび<sup>10</sup>Beの[[放射性崩壊]]によっても生成される<ref>{{Cite journal |url=http://sims.ess.ucla.edu/PDF/Chaussidon_et_al_Geochim%20Cosmochim_2006a.pdf |doi=10.1016/j.gca.2005.08.016 |first1=M. |last1=Chaussidon |first2=F. |last2=Robert |first3=K.D. |last3=McKeegan |journal=Geochimica et Cosmochimica Acta |volume=70 |issue=1 |year=2006 |pages=224–245 |title=Li and B isotopic variations in an Allende CAI: Evidence for the in situ decay of short-lived <sup>10</sup>Be and for the possible presence of the short−lived nuclide <sup>7</sup>Be in the early solar system |bibcode=2006GeCoA..70..224C |format=PDF |deadlinkdate=2017年9月 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100718065257/http://sims.ess.ucla.edu/PDF/Chaussidon_et_al_Geochim%20Cosmochim_2006a.pdf |archivedate=2010年7月18日 }}</ref>。また、<sup>7</sup>Liは[[炭素星]]においても生成される<ref>{{Cite journal|title=Episodic lithium production by extra-mixing in red giants |bibcode=2000A&A...358L..49D |first1=P. A. |last1=Denissenkov |first2=A. |last2=Weiss |journal=Astronomy and Astrophysics |volume=358 |pages=L49–L52 |year=2000|arxiv = astro-ph/0005356 }}</ref>。
リチウムは原子量が小さいため<sup>6</sup>Liと<sup>7</sup>Liの相対質量差は14.7%と非常に大きく、そのため自然現象の作用による同位体の分離が起こりやすい元素である。リチウムイオンは粘土鉱物の八面体サイトにおいて[[マグネシウム]]や[[鉄]]の代替となり、高配位の八面体サイトには軽い同位体である<sup>6</sup>Liが<sup>7</sup>Liより優先して取り込まれるため粘土鉱物においては<sup>6</sup>Liが濃縮される<ref>{{Cite journal|和書|title=リチウム資源—各鉱床タイプの概要とリチウム同位体による成因論—|author=荒岡大輔|year=2015|journal=岩石鉱物科学|volume=44|issue=5|pages=pp.266, 268|publisher=鉱物科学会|doi=10.2465/gkk.150206}}</ref><ref name=nishio2010>{{Cite journal|和書|title=リチウム同位体が拓く地殻流体科学|author=西尾嘉朗|date=2010-06|journal=地質ニュース|volume=670|publisher=[[産業技術総合研究所]] 地質調査総合センター|url=https://www.gsj.jp/data/chishitsunews/2010_06_05.pdf|accessdate=2023-12-16}}</ref>。また、リチウムが水に溶解する際には<sup>7</sup>Liが優先して溶出するため、河川や海中において<sup>7</sup>Liの濃縮が起こる<ref name=kanai2011/>。更に、海底で形成される粘土鉱物によって海水中の<sup>6</sup>Liが取り込まれるため、海水中の<sup>7</sup>Li濃度は河川よりも更に高くなっている<ref name=nishio2010/>。
リチウム同位体の分離には{{仮リンク|レーザー分離法|en|Atomic vapor laser isotope separation}}と呼ばれる方法が利用できる<ref>{{Cite book| page=330| url=http://www.opticsjournal.com/tla.htm| title=Tunable Laser Applications| author=[[F. J. Duarte|Duarte, F. J]]| publisher=CRC Press| year=2009| isbn=1-4200-6009-0| deadlinkdate=2017年9月| archiveurl=https://web.archive.org/web/20110928023458/http://www.opticsjournal.com/tla.htm| archivedate=2011年9月28日}}</ref>。このような同位体分離は<sup>6</sup>Liの利用を目的として行われており、<sup>6</sup>Liが抽出された後のリチウムは試薬用などに再利用されている。そのため天然物と比較して<sup>6</sup>のLi同位体比が少なくなった状態のリチウムが流通しており、<sup>6</sup>Liの天然存在比は7.5%であるものの試薬中における<sup>6</sup>Liの含有比は2.007%から7.672%と大きな変動幅を持っている<ref name=kanai2011>{{Cite journal|和書|title=リチウムの化学・地球化学のよもやま話|author=金井豊|date=2011-03|journal=地質ニュース|volume=679|publisher=[[産業技術総合研究所]] 地質調査総合センター|url=https://www.gsj.jp/data/chishitsunews/2011_03_08.pdf|accessdate=2023-12-16}}</ref>。[[日本化学会]]原子量専門委員会が作成する各元素の原子量を[[有効数字]]4桁で表して一覧とした「4桁の原子量表」においても、リチウムは人為的な同位体分離の影響で原子量の変動範囲が大きいため唯一有効数字3桁の値とされている<ref>{{Cite web|title=「原子量表(2023)」について|author=日本化学会 原子量専門委員会|url=https://www.chemistry.or.jp/know/atom_2023.pdf|publisher=[[日本化学会]]|accessdate=2023-12-16}}</ref>。
{{see|リチウムの同位体}}
== 歴史 ==
[[1817年]]に[[ヨアン・オーガスト・アルフェドソン]]が[[ペタル石]]の分析によって発見した。アルフェドソンは金属リチウムの[[単離]]には成功せず、1821年にウィリアム・トマス・ブランドが[[電気分解]]によって初めて金属リチウムの単離に成功した。1923年、[[ドイツ]]のメタルゲゼルシャフト社が[[溶融塩]]電解による金属リチウムの工業的生産法を発見し、その後の金属リチウム生産へとつながっていった。[[第二次世界大戦]]の戦中戦後には航空機用の耐熱グリースとしての小さな需要しかなかったが、[[冷戦]]下には[[水素爆弾]]製造のための需要が急激に増加した。その後、冷戦の終了により[[核兵器]]用のリチウムの需要が大幅に冷え込んだものの、21世紀にかけて[[電気自動車]](EV)の動力である[[リチウムイオン二次電池]]用の需要を満たすため[[中南米]]や[[オーストラリア]]、[[中華人民共和国]]で採掘や鉱山開発が進んでおり、「白い[[黄金]]」とも呼ばれるようになった<ref name="日経20220223">マイケル・ストット([[フィナンシャルタイムズ]]』[[ラテンアメリカ]]エディター)「中南米、リチウムで皮算用」『[[日本経済新聞]]』朝刊2022年2月23日オピニオン面</ref>。
[[ファイル:Arfwedson Johan A.jpg|thumb|1817にリチウムを発見したヨアン・オーガスト・アルフェドソン]]
[[1800年]]、[[ブラジル]]の化学者[[ジョゼ・ボニファシオ・デ・アンドラーダ・エ・シルヴァ]]によって[[スウェーデン]]の{{仮リンク|ウート島|en|Utö, Sweden}}の鉱山からリチウムを含有した[[葉長石]](LiAlSi<sub>4</sub>O<sub>10</sub>)が発見された<ref name=mindat>{{citation | url = http://www.mindat.org/min-3171.html | title = Petalite Mineral Information | accessdate = 10 August 2009}}</ref><ref name=webelementshistory>{{citation | url = http://www.webelements.com/lithium/history.html | title = Lithium:Historical information | accessdate = 10 August 2009}}</ref><ref name=discovery>{{citation | title = Discovery of the Elements | last = Weeks | first = Mary | year = 2003 | page = 124 | publisher = Kessinger Publishing | location = Whitefish, Montana, United States | isbn = 0766138720 | url = https://books.google.com/?id=SJIk9BPdNWcC | accessdate = 10 August 2009}}</ref>。葉長石の発見から17年後の[[1817年]]、当時[[イェンス・ベルセリウス]]の研究室で働いていた[[ヨアン・オーガスト・アルフェドソン]]が葉長石の分析から新しい元素の存在を発見した<ref name=berzelius>{{citation | url = http://www.chemeddl.org/collections/ptl/ptl/chemists/bios/arfwedson.html | title = Johan August Arfwedson | accessdate = 10 August 2009 | work = Periodic Table Live! | deadlinkdate = 2017年9月 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20101007084500/http://www.chemeddl.org/collections/ptl/ptl/chemists/bios/arfwedson.html | archivedate = 2010年10月7日 }}</ref><ref name=uwis>{{citation | url = http://genchem.chem.wisc.edu/lab/PTL/PTL/BIOS/arfwdson.htm | archiveurl = https://web.archive.org/web/20080605152857/http://genchem.chem.wisc.edu/lab/PTL/PTL/BIOS/arfwdson.htm | archivedate = 2008年6月5日 | title = Johan Arfwedson | accessdate = 10 August 2009 | deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref><ref name=vanderkrogt>{{citation | publisher = Elementymology & Elements Multidict | title = Lithium | first = Peter | last = van der Krogt | url = http://elements.vanderkrogt.net/element.php?sym=Li | accessdate = 2010-10-05}}</ref>。この元素はナトリウムやカリウムに似た化合物を形成したが、ナトリウムやカリウムの[[炭酸塩]]および[[水酸化物]]が水に対する溶解度および塩基性の高い物質であることと対照的に、[[炭酸リチウム]]および[[水酸化リチウム]]の水に対する溶解度や塩基性は低かった<ref name=compounds>{{citation | url = http://www.chemguide.co.uk/inorganic/group1/compounds.html | title = Compounds of the Group 1 Elements | accessdate = 10 August 2009 | last = Clark | first = Jim | year = 2005}}</ref>。
後に、アルフェドソンは[[リシア輝石]]や[[リチア雲母]]にもリチウムが含まれていることを示した<ref name=webelementshistory/>。[[1818年]]、クリスティアン・グメリンはリチウム塩類が深紅色の[[炎色反応]]を示すことを初めて言及した<ref name=webelementshistory/>。アルフェドソンとグメリンはリチウム塩類から単体のリチウム金属を単離しようとしたが、成功しなかった<ref name=webelementshistory/><ref name=vanderkrogt/><ref name="eote">{{citation | year = 2004 |title = Encyclopedia of the Elements: Technical Data – History – Processing – Applications | publisher = Wiley | isbn = 978-3527306664 | pages = 287–300 | author = Per Enghag}}</ref>。[[1821年]]、ウィリアム・トマス・ブランドは、以前に[[ハンフリー・デービー]]が同じアルカリ金属類のナトリウムおよびカリウムの単体金属を得るのに利用した電気分解によって、[[酸化リチウム]]よりリチウムの単体金属を得た<ref name=emsley>{{citation | last = Emsley | first = John | title = Nature's Building Blocks | publisher = Oxford University Press | location = Oxford | year = 2001 | isbn = 0198503415}}</ref><ref name="eote" /><ref>{{citation | publisher = Royal Institution of Great Britain | journal = The Quarterly Journal of Science and the Arts | volume = 5 | title = The Quarterly journal of science and the arts | year = 1818 | page = 338 | format = PDF | accessdate = 2010-10-05 | url = https://books.google.co.jp/books?id=D_4WAAAAYAAJ&redir_esc=y&hl=ja}}</ref><ref>{{citation | url = http://www.diracdelta.co.uk/science/source/t/i/timeline/source.html | title = Timeline science and engineering | publisher = DiracDelta Science & Engineering Encyclopedia | accessdate = 2008-09-18 | deadlinkdate = 2017年9月 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20081205043252/http://www.diracdelta.co.uk/science/source/t/i/timeline/source.html | archivedate = 2008年12月5日 }}</ref>。ブランドはまた、[[塩化リチウム]]のようないくつかの純粋なリチウム塩類の分析から、リチア(酸化リチウム)がおよそ55 %の金属リチウムを含んでいると見積もり、リチウムの[[原子量]]をおよそ9.8 g/molであると推定した(現在の値は6.94 g/mol)<ref>{{citation | url = https://books.google.co.jp/books?id=zkIAAAAAYAAJ&redir_esc=y&hl=ja | first1 = William Thomas | last1 = Brande | first2 = William James | last2 = MacNeven | title = A manual of chemistry | year = 1821 | page = 191 | accessdate = 2010-10-08}}</ref>。[[1855年]]、[[ロベルト・ブンゼン]]、アウグストゥス・マーティセンによって塩化リチウムの電気分解から大量の金属リチウムが生成された<ref name=webelementshistory/>。[[1923年]]から始まった、ドイツ企業のメタルゲゼルシャフト社による、塩化リチウムおよび[[塩化カリウム]]の混合液を電気分解させて金属リチウムを得る工業的生産法は、その後のリチウムの商業生産へとつながる発見となった<ref name=webelementshistory/><ref>{{citation | url = http://www.echeat.com/essay.php?t=29195 | title = Analysis of the Element Lithium | first = Thomas | last = Green | date =2006-06-11 | publisher = echeat}}</ref>。
リチウムの生産とその用途は、歴史的にいくつかの急激な転換点を経験している。初期に見出されたリチウムの主要な用途は、第二次世界大戦およびその直後の期間における、航空機のエンジンやそれに類似した用途のための高温グリースであった。まだ小さな市場であったこの時期の需要の大部分は、[[アメリカ合衆国]]のいくつかの小規模な鉱工業によって支えられていた。
1つ目の転換点となったのは、冷戦下において水素爆弾製造を目的としたリチウムの需要の劇的な増加である。リチウム6およびリチウム7に中性子を照射することで[[トリチウム]]の生産が行われ、このような単独でのトリチウム生産に役立つのみならず、重水素化リチウムの形で水素爆弾内の固体[[核融合]]燃料にも用いられた。[[1950年代]]後半から[[1980年代]]中期の期間、アメリカはリチウムの主要な生産者となった。最終的には、{{val|42000|u=トン}}の水酸化リチウムが備蓄されていた。天然産のものに比べて備蓄されていたリチウムは同位体比が大きく異なり,リチウム6の75 %が減損されていた<ref name="USGSCR1994">{{citation | url = http://minerals.usgs.gov/minerals/pubs/commodity/lithium/450494.pdf | title = Commodity Report 1994: Lithium |format=PDF | publisher = United States Geological Survey | accessdate = 2010-11-03 | year = 1994 | first = Joyce A. | last = Ober}}</ref>。
そのほかにもリチウムは[[ガラス]]の融点を降下させるのに用いられ、また、[[ホール・エルー法]]における[[酸化アルミニウム]]の溶解性の改善のためにも用いられた<ref name="ciuz2003">{{citation | doi = 10.1002/ciuz.200300264 | title = Lithium und seine Verbindungen – Industrielle, medizinische und wissenschaftliche Bedeutung | year = 2003 | last1 = Deberitz | first1 = JüRgen | first2 = Gernot | journal = Chemie in unserer Zeit | volume = 37 | page = 258 | last2 = Boche}}</ref><ref name="ciuz1985">{{citation | doi = 10.1002/ciuz.19850190505 | title = Lithium – wie es nicht im Lehrbuch steht | year = 1985 | last1 = Bauer | first1 = Richard | journal = Chemie in unserer Zeit | volume = 19 | page = 167}}</ref>。[[1990年代]]半ばまでは、産業用途と核開発の2つの用途がリチウム市場を支配していた。
2つ目の転換点となる冷戦の終了により、核兵器開発競争も下火になるとリチウムの需要は減少し、[[アメリカ合衆国エネルギー省]]が備蓄していたリチウムの一般市場への売却はリチウムの価格をさらに押し下げた<ref name="USGSCR1994"/>。1990年代半ばになるとこれを背景に、いくつかの会社が、地下や鉱山より採掘されたリチウム原料を用いるよりもより安価である[[塩水]]からのリチウムの抽出を開始した。これによって多くの鉱山は閉山するか、[[ペグマタイト]]などほかの採算が取れる鉱石のみに絞っての採掘へと移行した。たとえば、アメリカの[[ノースカロライナ州]][[キングスマウンテン (ノースカロライナ州)|キングスマウンテン]]近郊の鉱山は、[[21世紀]]になる前に閉山した。
[[2000年代]]になると[[リチウムイオン電池]]が急速に普及し、[[2007年]]にはリチウムの主要な用途となる<ref name="USGSYB1994">{{citation | url = http://minerals.usgs.gov/minerals/pubs/commodity/lithium/myb1-2007-lithi.pdf | title = Minerals Yearbook 2007 : Lithium |format=PDF | publisher = United States Geological Survey | accessdate = 2010-11-03 | year = 1994 | first = Joyce A. | last = Ober}}</ref>などリチウムの需要が再び増大した。[[リチウムイオン電池]]におけるリチウム需要の急増によって、企業はリチウム需要を満たすために塩水抽出によるリチウム生産能力の増強に努めている<ref name="IMR">{{citation | first = Jessica Elzea | last = Kogel | title = Industrial minerals & rocks: commodities, markets, and uses | isbn = 9780873352338 | page = 599 | url = https://books.google.co.jp/books?id=zNicdkuulE4C&pg=PA600&lpg=PAPA599&redir_esc=y&hl=ja | chapter = Lithium | year = 2006 | publisher = Society for Mining, Metallurgy, and Exploration | location = Littleton, Colo.}})</ref><ref>{{citation | url = https://books.google.co.jp/books?id=8erDL_DnsgAC&pg=PA339&redir_esc=y&hl=ja | title = Encyclopedia of Chemical Processing and Design: Volume 28 – Lactic Acid to Magnesium Supply-Demand Relationships | publisher = M. Dekker | author = McKetta, John J. | date = 2007-07-18 | accessdate = 2010-09-29 | isbn = 9780824724788}}</ref>。リチウム資源の偏在と価格の高沸を回避する為、代替のナトリウムやカリウムを使う電池の開発も真剣に進められている。ただし全ての元素中で最低[[電位]]を示すリチウムが最も優秀なイオンキャリアで有る事は変わらない。
[[2019年]]からは直接金属リチウムを負極活物質として利用できる[[全固体電池]]が実用化された<ref>{{Cite web|和書|title=トヨタ、村田製、TDK...大注目の全固体電池!早くもシェア争奪戦 ニュースイッチ by 日刊工業新聞社 |url=https://newswitch.jp/p/24873 |website=ニュースイッチ by 日刊工業新聞社 |access-date=2023-07-15 |language=ja}}</ref>。また2023年からは大容量[[全固体電池]]も実用化された<ref>{{Cite web|和書|title=マクセル、京都に全固体電池量産体制 6月から出荷 - 化学工業日報 電子版 |url=https://chemicaldaily.com/archives/305860 |website=化学工業日報 電子版 - 化学工業をコアに周辺産業を網羅する「化学工業日報 電子版」のWebサイトです |date=2023-05-07 |access-date=2023-07-15}}</ref>。この[[全固体電池]]は金属リチウムを負極活物質として利用できる為、[[リチウムイオン二次電池|リチウムイオン電池]]より遥かに高性能を示し、今後は[[電気自動車]]用にも搭載予定となっている。
== 分布 ==
[[File:Elemental abundances.svg|thumb|350px|[[地殻]]中のリチウムの存在量は、原子数においておおよそ[[塩素]]と同程度である]]
リチウムは地球上に広く分布しているが、非常に高い反応性のために単体としては存在していない。地殻中で25番目に多く存在する元素であり、[[火成岩]]や[[塩湖]][[鹹水]]中に多く含まれる。リチウムの埋蔵量の多くは[[アンデス山脈]]沿いに偏在しており、最大の産出国は[[チリ]]である。海水中にはおよそ2300億トンのリチウムが含まれており、海水からリチウムを回収する技術の研究開発が進められている。世界のリチウム市場は少数の供給企業による寡占状態であるため、資源の偏在性と併せて需給ギャップが懸念されている。日本では[[有馬温泉]]([[兵庫県]])と[[鉄輪温泉]]([[大分県]])でリチウムが確認されているが、資料が極めて乏しく、また古い。
=== 宇宙 ===
{{main|元素合成}}
リチウムは[[ビッグバン]]によって合成された3つの元素のうちの1つであり、[[ビッグバン原子核合成]]において<sup>6</sup>Liおよび<sup>7</sup>Liの2つの安定同位体が合成された<ref>{{cite journal | bibcode= 1985ARA&A..23..319B | title= Big bang nucleosynthesis – Theories and observations | author1= Boesgaard | first1= A. M. | last2= Steigman | first2= G. | volume= 23 | year= 1985 | page= 319 | journal= IN: Annual review of astronomy and astrophysics. Volume 23 (A86-14507 04–90). Palo Alto | doi= 10.1146/annurev.aa.23.090185.001535}}</ref>。ビッグバン原子核合成によって生成する原子の量は[[光子]]と[[バリオン]]の存在比に依存しているためリチウムの存在量は理論的に予測することが可能であるはずだが、それによって求められたリチウムの理論量と実際の観測によるリチウムの存在量との間には矛盾が生じていた。しかしながら、2013年6月に『Astronomy and Astrophysics(天文学および天体物理学)』にて発表された[[ケンブリッジ大学]]のKarin Lindらのグループによる論文において、[[ハワイ]]の[[W・M・ケック天文台]]にある世界最大級の望遠鏡「ケックI」を使い、洗練された理論モデルを用い強力な[[スーパーコンピューター]]でデータ解析を行うことで、リチウムの存在量がビッグバン原子核合成における理論量と矛盾しないことが示された<ref>{{Cite web|url=http://keckobservatory.org/recent/entry/international_team_on_keck_observatory_strengthens_big_bang_theory|title=International Team on Keck Observatory Strengthens Big Bang Theory|date=2013-06-05|publisher=W・M・ケック天文台|accessdate=2013-06-15}}</ref>。
リチウムは[[水素]]、[[ヘリウム]]とともにビッグバンによって合成された初めの元素のひとつであるが、リチウムおよび[[ベリリウム]]と[[ホウ素]]は近い原子番号の他の元素と比較してその存在量は著しく小さい。これは、リチウムが低温で核反応を起こすため消費されやすく、かつリチウムが生成されるような核反応が少ないことの結果である<ref name=wesleyan>{{cite web |url=http://www.astro.wesleyan.edu/~bill/courses/astr231/wes_only/element_abundances.pdf |archiveurl=https://web.archive.org/web/20060901133923/http://www.astro.wesleyan.edu/~bill/courses/astr231/wes_only/element_abundances.pdf |archivedate=2006年9月1日 |title=Element Abundances |format=PDF |accessdate=2009-11-17 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。
リチウムは[[亜恒星天体]]である[[褐色矮星]]や、特定の特異な橙色の星において見られる。リチウムは温度が低く小さな褐色矮星に存在するが、より温度の高い[[赤色矮星]]では核反応によって消費されリチウムが存在しないため、[[太陽]]よりも小さなこれら2つを識別するためにリチウムの存在を確認する「リチウム・テスト」と呼ばれる方法が利用される<ref name=emsley/><ref>{{cite web|url=http://www.universetoday.com/24593/brown-dwarf/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110225032434/http://www.universetoday.com/24593/brown-dwarf/|archivedate=2011年2月25日|title=Brown Dwarf|accessdate=2009-11-17|last=Cain|first=Fraser|publisher=Universe Today|deadlinkdate=2017年9月}}</ref><!--It is intended for viewing by internal users only.<ref>{{cite web|url=http://www-int.stsci.edu/~inr/ldwarf3.html |title=L Dwarf Classification|accessdate=2013-03-06 | first =Neill | last = Reid | date = 2002-03-10}}</ref>-->。ケンタウルス座X-4のような橙色の星からもまたリチウムが検出される。これらの星は[[中性子星]]や[[ブラックホール]]のようなより大きな天体を周回しており、水素やヘリウムよりも重いリチウムが重力によって星の表面へと引かれるためリチウムが観測されると考えられる<ref name=emsley/>。
リチウム原子核は太陽内部の高温の環境において容易に破壊される。このため今日太陽表面に存在するリチウムの量は、太陽系の材料となった[[星間物質]]における原初の存在比と比べて100分の1以下にまで減少していると考えられている。この減少率は太陽内部の状態(特に元素の鉛直方向の輸送の程度)に影響されるため、リチウム存在量は直接観測が困難な太陽の内部モデルを検証する上での制約条件の1つとなる<ref name="Chr93">{{cite journal |author=Christensen-Dalsgaard et al. |year=1993 |bibcode=1993ApJ...403L..75C | journal=アストロフィジカルジャーナル |volume=403 |pages=75}}</ref>。
=== 地上 ===
[[File:Piles of Salt Salar de Uyuni Bolivia Luca Galuzzi 2006 a.jpg|thumb|350px|世界最大のリチウム埋蔵量を有すると推定されている[[ボリビア]]の[[ウユニ]]塩湖]]
リチウムは[[地球]]上に広く分布しているが、非常に高い化学反応性を持つために化合物になっており,元素単体としては存在していない<ref name=krebs/>。海水に含まれるリチウムの総量は非常に多く2300億トンと推定されており、その分率は{{val|0.14|-|0.24|e=-6}}、もしくは[[モル濃度]]で25 μmol/L<ref>{{cite web|url=https://link.springer.com/chapter/10.1007%2F3-540-13534-0_3 |title=Extraction of metals from sea water|year=1984|publisher=Springer Berlin Heidelberg|accessdate=2013-06-6}}</ref>と比較的安定した濃度で存在している<ref>{{cite web |url=http://www.ioes.saga-u.ac.jp/ioes-study/li/lithium/occurence.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090502142924/http://www.ioes.saga-u.ac.jp/ioes-study/li/lithium/occurence.html |archivedate=2009年5月2日 |title=Lithium Occurrence |accessdate=2009-03-13 |publisher=Institute of Ocean Energy, Saga University, Japan |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref><ref name=enc/>。[[熱水噴出孔]]ではより高濃度にリチウムが存在しており、その分率は{{val|7|e=-6}}に達する<ref name=enc/>。
[[地殻]]中のリチウム濃度は重量分率でおよそ{{val|20|-|70|e=-6}}にわたると見積もられており<ref name=krebs/>、地殻中で25番目に多く存在する元素である<ref>{{Cite book|title=Handbook of Environmental Isotope Geochemistry Volume 1|author=Mark Baskaran|year=2011|page=42|publisher=Springer|isbn=3642106374}}</ref>。リチウムは[[火成岩]]を構成する非主要な元素であり、中でも[[花崗岩]]で最大の濃度となる。リチウム鉱物である[[リシア輝石]]や[[葉長石]]を含有する[[ペグマタイト]]もまた多くリチウムを含んでおり、リチウム源として最も多く商業利用されている<ref name="kamienski">{{Cite book|first = Conrad W. |last = Kamienski, McDonald, Daniel P.; Stark, Marshall W.; Papcun, John R.|chapter =Lithium and lithium compounds|title =Kirk-Othmer Encyclopedia of Chemical Technology|publisher = John Wiley & Sons, Inc.| year = 2004|doi =10.1002/0471238961.1209200811011309.a01.pub2}}</ref>。もう一つの重要なリチウム鉱物に[[リチア雲母]]がある<ref>{{cite book|title=Shriver & Atkins' Inorganic Chemistry|edition=5|publisher=W. H. Freeman and Company|place= New York|year= 2010|page=296|isbn=0199236178|author=Atkins, Peter }}</ref>。新しいリチウム源としては[[ヘクトライト]][[粘土]]があり、アメリカのWestern Lithium Corporation社によって活発に資源開発されている<ref>{{Cite journal|author= Moores, S.|title= Between a rock and a salt lake|journal= Industrial Minerals|date= June 2007|page=58|volume=477}}</ref>。リチウムは、水分蒸発量の多い乾燥した地域の塩湖などにおいて非常に長い時間をかけて濃縮され、鉱床を形成することも知られている<ref>{{Cite web|和書|title=リチウム資源-ウユニ塩湖- |format=PDF |url=http://unit.aist.go.jp/georesenv/result/green-report/report10/p73.pdf|page=2|publisher=[[産業技術総合研究所]]|accessdate=2013-06-16|deadlinkdate=2017年7月 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130220164545/http://unit.aist.go.jp/georesenv/result/green-report/report10/p73.pdf |archivedate=2013-02-20}}</ref>。そのような乾燥した塩湖には、全世界のリチウム埋蔵量(鉱石ベース)のおよそ半分におよぶ540万トンの埋蔵量を有していると推定されている[[ボリビア]]の[[ウユニ]]塩原<ref name=kyoto/><ref>{{Cite web|title=LITHIUM, A STRATEGIC ELEMENT FOR ENERGY IN THE WORLD MARKET |format=PDF |author=Robert Bruce Wallace|url=http://www.depfe.unam.mx/p-cientifica/wallace-bruce_2012.pdf|accessdate=2013-08-14|page=9}}</ref>や、埋蔵量の27 %、およそ300万トンの埋蔵量を有する[[チリ]]の[[アタカマ塩原]]<ref name=Forbes>{{cite news|url=http://www.forbes.com/forbes/2008/1124/034.html|title=The Saudi Arabia of Lithium|work=[[フォーブス (雑誌)|Forbes]]|author=Brendan I. Koerner|date=2008-10-30|accessdate=2011-05-12}} ''Published on Forbes Magazine dated November 24, 2008''.</ref><ref>{{Cite web|title=LITHIUM, A STRATEGIC ELEMENT FOR ENERGY IN THE WORLD MARKET |format=PDF |author=Robert Bruce Wallace|url=http://www.depfe.unam.mx/p-cientifica/wallace-bruce_2012.pdf|accessdate=2013-08-14|page=6}}</ref>などが含まれる。
[[アメリカ地質調査所]]の2011年の推定によると、最大の可採埋蔵量<ref group="note" name="res">{{PDF|[http://minerals.usgs.gov/minerals/pubs/mcs/2011/mcsapp2011.pdf Apendixes]}}. USGSの定義によれば、埋蔵量 (reserve base) とは「実績ある技術および現在の経済状況の想定を超えて、将来において経済的に利用可能となるような潜在的可能性を有している資源をも含有したものを示す。埋蔵量には、現在経済的に利用可能なもの(可採埋蔵量、reserves)、準経済的なもの(準埋蔵量、marginal reserves)および経済的に採算の取れないもの(非経済的埋蔵量、subeconomic resources)が含まれる。」</ref>を有する国は[[チリ]]の750万トンであり<ref>Clarke, G.M. and Harben, P.W., "Lithium Availability Wall Map". Published June 2009. Referenced at [https://archive.is/20130113005019/http://www.lithiumalliance.org/about-lithium/lithium-sources/85-broad-based-lithium-reserves International Lithium Alliance](2013年1月13日時点の[[archive.is|アーカイブ]])</ref>、チリは生産量も1万2600トンと世界最大である<ref name="minerals.usgs.gov"/>。他の主要なリチウム産出国としては、[[オーストラリア]]、[[アルゼンチン]]、[[中国]]が含まれる<ref name="minerals.usgs.gov"/><ref>{{cite web|url=http://www.meridian-int-res.com/Projects/Lithium_Microscope.pdf |title=The Trouble with Lithium 2 |format=PDF|work=Meridian International Research |year=2008 |accessdate=2010-09-29}}</ref>。ボリビアは世界最大のリチウム埋蔵量を占めるウユニ塩原を有しているが、技術的・政治的な問題によりリチウム生産の事業化には至っていない<ref name=kyoto/>。
2010年6月、『[[ニューヨーク・タイムズ]]』は、アメリカの地質学者が[[アフガニスタン]]西部の干上がった塩湖跡にリチウムを含む巨大な堆積物が存在していると考え、地質調査を行っていると報じた。[[アメリカ合衆国国防総省]]は「彼らの初期の分析結果によれば、[[ガズニー州]]のある場所には現在知られている中で世界最大のリチウム埋蔵量を有するボリビアのそれと同程度に大きなリチウム鉱床が存在する可能性が示されている」と述べた<ref>{{cite news|url=http://www.nytimes.com/2010/06/14/world/asia/14minerals.html?pagewanted=1&hp|title=U.S. Identifies Vast Riches of Minerals in Afghanistan|accessdate=2010-06-13|work=The New York Times|first=James|last=Risen|date=2010-06-13}}</ref>。これらの予想は、おもに[[ソ連]]によって収集された1979年から1989年頃の古いデータに基づいており、アメリカ地質調査所のAfghanistan Minerals Projectの長であるスティーブン・ペータースは、過去2年間にアフガニスタンで行ったアメリカ地質調査所の関与したどのような新しい鉱物の測量においても確認されておらず、「我々はいかなるリチウムの発見も承知していない」と述べた<ref>{{cite news| url=http://business.timesonline.co.uk/tol/business/industry_sectors/natural_resources/article7149696.ece|location=London|work=The Times |title=Taleban zones mineral riches may rival Saudi Arabia says Pentagon|first1=Jeremy|last1=Page|first2=Michael|last2=Evans|date=2010-06-15}}</ref>。2021年現在、オーストラリア、チリ、中国の3か国だけで、世界生産の90%を占める<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN21E5C0R20C23A4000000/ |title=チリ大統領、リチウム国有化を表明 世界2位の生産国 |publisher=日本経済新聞(BPの資料を引用) |date=2023-04-22 |accessdate=2023-04-25}}</ref>。アルゼンチンに先行投資している日本企業の後を追って、中国では同国にリチウム採掘への投資を行っている。
2023年1月、『[[ニューズウィーク日本版]]』は、[[カシミール地方]]で[[インド]]が実効支配する{{仮リンク|リーシー地域|en|Reasi district}}にて推定590万トンにおよぶリチウム資源を発見した旨をインド政府当局が発表したと報じているが、専門家によれば、インドがリチウム採掘や精製の技術を整備するのに要する期間は少なくとも10年と見ている{{Sfn |ニューズウィーク2023年2月28日 |p=13}}。
=== 生体 ===
リチウムは多数の[[植物]]、[[プランクトン]]および[[無脊椎生物]]において痕跡量存在しており、その分率は{{val|69|-|5760|e=-9}}である。[[脊椎動物]]中のリチウム濃度は先述のものよりもわずかに低く、ほとんど全ての脊椎動物の体組織および体液中には{{val|21|-|763|e=-9}}のリチウムが含まれている<ref name=enc/>。水棲生物はリチウムを[[生物濃縮]]する<ref>{{cite journal|last1=Chassard-Bouchaud |first1=C| last2=Galle|first2=P|last3=Escaig|first3=F|last4=Miyawaki|first4=M|title=Bioaccumulation of lithium by marine organisms in European, American, and Asian coastal zones: microanalytic study using secondary ion emission|journal=Comptes rendus de l'Academie des sciences. Serie III, Sciences de la vie|volume=299|issue=18|pages=719–24|year=1984|pmid=6440674}}</ref>。これらの生物においてリチウムがどのような生物学的役割を有しているかは知られていないが<ref name=enc>{{cite web|url=http://www.enclabs.com/lithium.html|accessdate=2010-10-15|title=Some Facts about Lithium|publisher=ENC Labs}}</ref>、[[哺乳類]]の[[栄養学]]的な研究によってリチウムの健康に対する重要性が示されており、必須微量元素として1 mg/dのRDA(1日に摂取すべき栄養量)が提言されている<ref>{{Cite journal|pmid=11838882|year=2002|last1=Schrauzer|first1=GN|title=Lithium: Occurrence, dietary intakes, nutritional essentiality|volume=21|issue=1|pages=14–21|journal=Journal of the American College of Nutrition}}</ref>。2011年に報告された日本における観察研究によると、飲料水中に含まれる天然由来のリチウムが人間の寿命を増やす可能性が示唆されている<ref>{{cite journal|doi=10.1007/s00394-011-0171-x|title=Low-dose lithium uptake promotes longevity in humans and metazoans|journal=European Journal of Nutrition|year=2011|last1=Zarse|first1=Kim|last2=Terao|first2=Takeshi|last3=Tian|first3=Jing|last4=Iwata|first4=Noboru|last5=Ishii|first5=Nobuyoshi|last6=Ristow|first6=Michael|volume=50|issue=5|pages=387–9|pmid=21301855|pmc=3151375}}</ref>。
== 生産 ==
{|class="wikitable sortable floatright" style="font-size: 90%; text-align: right"
|+リチウム生産量(鉱石ベース、2011年) および可採埋蔵量(単位:トン)<ref name="minerals.usgs.gov">U.S. Geological Survey, 2012, [http://minerals.usgs.gov/minerals/pubs/commodity/lithium/ commodity summaries] 2011: U.S. Geological Survey</ref>
|-
! 国
! 生産量
! 可採埋蔵量<ref group=note name=res/>
|-
| style="text-align: left" | {{flag|アルゼンチン}}
| 3200
| {{val|850000}}
|-
| style="text-align: left" | {{flag|オーストラリア}}
| 9260
| {{val|970000}}
|-
| style="text-align: left" | {{flag|ブラジル}}
| 160
| {{val|64000}}
|-
| style="text-align: left" | {{flag|カナダ}} (2010)
| 480
| {{val|180000}}
|-
| style="text-align: left" | {{flag|チリ}}
| {{val|12600}}
| {{val|7500000}}
|-
| style="text-align: left" | {{flag|中華人民共和国}}
| 5200
| {{val|3500000}}
|-
| style="text-align: left" | {{flag|ポルトガル}}
| 820
| {{val|10000}}
|-
| style="text-align: left" | {{flag|ジンバブエ}}
| 470
| {{val|23000}}
|-
| style="text-align: left" | {{flag|チェコ}}
| 3800
| {{val|1200000}}
|- style="font-weight: bold"
| style="text-align:left" | 世界計 || {{val|34000}} || {{val|13000000}}
|}
リチウムの生産量は第二次世界大戦後に大きく増加した。リチウムはペグマタイトなどの火成岩中から他の元素と分離され、もしくは鉱泉や[[塩水溜まり]](塩湖かん水)、堆積塩などから抽出される。金属リチウムは55 %の[[塩化リチウム]]と45 %の[[塩化カリウム]]の混合物を{{val|450|u=degC}}で溶融塩として電解することによって生産される<ref>{{Greenwood&Earnshaw2nd|page=73}}</ref>。金属リチウムの価格は1998年時点で95 [[アメリカ合衆国|USドル]]/kg(43 USドル/[[ポンド (質量)|ポンド]])であった<ref name="ober">{{cite web|url=http://minerals.usgs.gov/minerals/pubs/commodity/lithium/450798.pdf |title=Lithium|accessdate = 2007-08-19|last=Ober |first=Joyce A |format=PDF |pages = 77–78| publisher=[[United States Geological Survey]]}}</ref>。また、リチウムイオン電池の原料に使われる炭酸リチウムの価格は、車載用バッテリー用途の需要の高まりにより2015年以降高騰しており、2015年6月に7.7ドル/kgであった平均価格が、2016年6月には26.8 ドル/kgにまで上昇している<ref name=minerals>{{Cite web|url=http://www.indmin.com/Article/3648970/Lithium-recycling-still-too-expensive.html|title=Lithium recycling still 'too expensive'|publisher=INDUSTRIAL MINERALS}|accessdate=2017-07-08}}</ref>。
アメリカ地質調査所の推定によるリチウムの可採埋蔵量は鉱石ベースで1300万トンである<ref name="minerals.usgs.gov"/>。それは南米のアンデス山脈沿いに多く見られ、リチウムの主要生産国としてチリやアルゼンチンが挙げられる。両国はリチウムを塩湖かん水から生産しており、アメリカでも[[ネバダ州]]にあるシルバーピーク鉱山の塩湖かん水からリチウムを産出している<ref name=CRC>{{Cite book| author = Hammond, C. R. |title = The Elements, in Handbook of Chemistry and Physics 81st edition| publisher =CRC press| year = 2000| isbn = 0-8493-0481-4}}</ref>。世界の既知の埋蔵量のうち、半数近くをアンデス山脈の中央東部に位置する[[ボリビア]]が占めているが、この資源の開発はあまり進展しておらず、2013年2月に日本とボリビアの共同でリチウムの抽出試験が開始されたばかりである<ref name=kyoto>{{Cite web|和書|url=http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20130223000074|title=ボリビアでリチウム抽出本格化 日本が実験|date=2012-02-23|publisher=京都新聞|accessdate=2013-06-16|deadlinkdate=2017年7月 |archiveurl=https://archive.is/20130625134833/http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20130223000074 |archivedate=2013-06-25}}</ref>。
一方で、リチウム鉱石からのリチウム生産は主にオーストラリアや[[ジンバブエ]]などで行われている<ref name="minerals.usgs.gov"/>。オーストラリアではペグマタイトから[[タンタル]]を生成する際の副生物として回収されており<ref name=JOGMEC>{{Cite web|和書|title=オーストラリアの投資環境調査 |format=PDF |year=2005|url=http://mric.jogmec.go.jp/public/report/2006-12/ausall.pdf|page=25|publisher=石油天然ガス・金属鉱物資源機構|accessdate=2013-06-18}}</ref>、世界2位の生産量を占めている<ref name="minerals.usgs.gov"/>。鉱石としてのリチウム資源はアメリカが全埋蔵量の47 %を有しているが<ref name=jogmec2>{{Cite web|和書|title=リチウムの資源と需給-Lithium Supply & Markets Conference 2009 (LSM’09) 参加報告-|url=http://mric.jogmec.go.jp/public/current/09_21.html|publisher=石油天然ガス・金属鉱物資源機構|year=2009|accessdate=2013-06-18}}</ref>、2010年の時点ではアメリカで稼働中のリチウム鉱山は塩湖かん水を利用するシルバーピーク鉱山のみであり、リチウム鉱石の採掘は行われていない<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jogmec.go.jp/news/release/release0266.html|title=米国ネバダ州でリチウムの共同探鉱契約を締結|year=2010|publisher=石油天然ガス・金属鉱物資源機構|accessdate=2013-06-18}}</ref>。
潜在的なリチウムの資源回収源として[[地熱]][[井戸]]が挙げられる。地熱井戸では高温の水のような地熱流体の移動を介して地表に熱エネルギーを伝達するが<ref name="bourcier">Parker, Ann. [https://str.llnl.gov/str/JanFeb05/Bourcier.html Mining Geothermal Resources]. Lawrence Livermore National Laboratory</ref>、そのような地熱流体に含まれるリチウムを単純な濾過技術によって回収することが可能であり、これは既に現場実証されている<ref name="Simbol">Patel, P. (2011-11-16) [https://www.technologyreview.com/s/426131/startup-to-capture-lithium-from-geothermal-plants/ Startup to Capture Lithium from Geothermal Plants]. technologyreview.com</ref>。環境保護に関するコストは、主に既存の地熱井戸操業に関するものであるため、相対的な環境面の影響は肯定的である<ref name="NYT">Wald, M. (2011-09-28) [http://www.nytimes.com/2011/09/28/business/energy-environment/simbol-materials-plans-to-extract-lithium-from-geothermal-plants.html?_r=1 Start-Up in California Plans to Capture Lithium, and Market Share]. The New York Times</ref>。
[[世界金融危機 (2007年-)|世界金融危機]]後、産業界において[[炭酸リチウム]]の市場規模縮小が広がったため、世界最大手の[[ソシエダード・キミカ・イ・ミネラ・デ・チリ]](SQM)のようなリチウムの主要供給者は、リチウム資源開発者の新規参入を考慮し、さらに市場でのその立場を守るために設定価格を20 %低下させた<ref>{{cite web|url=http://www.prnewswire.com/news-releases/sqm-announces-new-lithium-prices-62933122.html |title=SQM Announces New Lithium Prices – SANTIAGO, Chile, Sept. 30 /PRNewswire-FirstCall/ |publisher=Prnewswire.com |date=2009-09-30 |accessdate=2013-05-01}}</ref>。2012年には、リチウム需要の増加にともない市場規模は拡大している。2012年の『[[ビジネスウィーク]]』の記事は、「億万長者であるフリオ・ポンセが支配する"SQM"、ヘンリー・クラビスの[[コールバーグ・クラビス・ロバーツ]]社に支援されたロックウッド、フィラデルフィアに拠点を置くFMC社」などの既存企業によるリチウム市場の寡占を概説した。リチウム電池の需要が年におよそ25 %ずつ増加しており、全体のリチウム需要を4–5 %ほど押し上げているため、世界的なリチウムの消費量は2012年の15万トンから2020年には30万トンにまで急増する可能性がある<ref>{{cite web|last=Riseborough |first=Jesse |url=http://www.businessweek.com/news/2012-06-19/ipad-boom-strains-lithium-supplies-after-prices-triple |title=IPad Boom Strains Lithium Supplies After Prices Triple |publisher=Businessweek |date=June 20, 2012 |accessdate=2013-05-01|deadlinkdate=2017年7月 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120622183939/http://www.businessweek.com/news/2012-06-19/ipad-boom-strains-lithium-supplies-after-prices-triple |archivedate=2012-06-22}}</ref>。
[[ローレンス・バークレー国立研究所]]と[[カリフォルニア大学バークレー校]]による2011年の研究によると、現在推定されているリチウムの埋蔵量からは10億台[[オーダー (物理学)|オーダー]]もの40[[キロワット時]]の[[リチウムイオン二次電池]]を製造可能であると見積もられ、リチウム埋蔵量の問題は電気自動車向けの大規模なバッテリー製造の律速因子とはなりえないことが示された<ref>{{cite web|url=http://www.greencarcongress.com/2011/06/albertus-20110617.html|title=Study finds resource constraints should not be a limiting factor for large-scale EV battery production|publisher=[[Green Car Congress]]|date=2011-06-17|accessdate=2011-06-17}}</ref>。[[ミシガン大学]]および[[フォード・モーター]]社が2011年に行ったもう一つの研究によると、2100年までのリチウム需要を支えるのに十分なリチウム資源が存在することが示され、そこにはリチウムを広範囲に必要とする[[ハイブリッドカー|ハイブリッド電気自動車]]や[[プラグインハイブリッドカー]]、[[バッテリー式電動輸送機器]]などの用途が含まれている。この研究では世界中のリチウム埋蔵量を3900万トンと見積もり、90年間の全リチウム需要を経済成長に関するシナリオとリサイクル率に応じて12–20メガトンと分析している<ref>{{cite web|url=http://www.greencarcongress.com/2011/08/lithium-20110803.html|title=University of Michigan and Ford researchers see plentiful lithium resources for electric vehicles|publisher=[[Green Car Congress]]|date=2011-08-03|accessdate=2011-08-11}}</ref>。しかしながら、単一産地で需要のほとんどを生産するという資源の偏在性および、先述の独占的な少数の供給企業による市場の寡占という問題があるため、商業的な需要ギャップが懸念されている<ref>[https://web.archive.org/web/20090828053233/http://premium.nikkeibp.co.jp/em/column/torii/56/index.shtml 鳥井弘之の『ニュースの深層』「EV時代」のキーマテリアル リチウム資源の将来を探る](2009年8月28日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])『ECO JAPAN』日経BP社、2009年8月6日公開</ref><ref name=jogmec2/>。2015年以降、[[テスラモーターズ]]をはじめとした自動車メーカーによる電気自動車向けの需要が高まっており、車載用バッテリーに使われることも相まって、リチウムは「白い石油」とも呼ばれている<ref>{{Cite web|和書|url=http://jp.wsj.com/articles/SB12692037482832534161104582049443640143870|title=テスラが変える金属市場、リチウム価格が急騰|publisher=THE WALL STREET JOURNAL|accessdate=2017-07-08}}</ref>。使用済み製品からのリチウムのリサイクルについては、現状ではその技術がなく、経済性が見込まれないため進んでいない<ref>{{PDF|[http://www.jogmec.go.jp/mric_web/jouhou/material/2007/Li.pdf JOGMEC 28 リチウム(Li)]}}{{リンク切れ|date=2017年7月}}</ref>。これは、原料の炭酸リチウムの生産はエネルギー集約的な産業ではないため製造コストが低く、費用のかかるリサイクル品では価格的に競争にならないという要因が大きい<ref name=minerals/>。
=== 海水リチウムの抽出 ===
海水中には2300億トンのリチウムが溶けており、事実上無限の埋蔵量を有する。海水中のリチウム濃度は他の元素と比べて比較的高いため採算ラインのボーダー上にあり、効率的な回収方法が開発されれば経済的に実用可能になる可能性がある<ref>{{Cite journal|author=近藤正聡、吉塚和治|title=海水からのリチウム回収 |format=PDF |year=2011|journal=J. Plasma Fusion Res.|volume=87|issue=12|url=http://www.jspf.or.jp/Journal/PDF_JSPF/jspf2011_12/jspf2011_12-795.pdf|accessdate=2013-06-18}}</ref>。2004年には海水リチウムを抽出するためのパイロットプラントが日本の[[佐賀大学]]海洋エネルギーセンターで稼働を開始し<ref name="20040417-47news">{{Cite news |url=http://www.47news.jp/CN/200404/CN2004041701000022.html |title=海水からリチウムを抽出 佐賀でプラント本格稼働 |newspaper=47NEWS |agency=共同通信 |publisher=全国新聞ネット |date=2004-04-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080115111448/http://www.47news.jp/CN/200404/CN2004041701000022.html |archivedate=2008-01-15}}</ref>、150日間で192グラムの塩化リチウムが海水から回収された<ref name=ion>{{Cite journal|和書|author=吉塚和治|title=海水からの実用的リチウム回収|year=2012|journal=日本イオン交換学会誌|volume=23|issue=3|url=https://doi.org/10.5182/jaie.23.59 |accessdate=2013-06-18 |doi=10.5182/jaie.23.59 }}</ref>。このプラントは火力発電所などが取水した海水を二次利用することを想定し、ポンプで汲み上げた海水から吸着剤を用いてリチウムを回収する方式が採用されている。これは、100万キロワット級の規模の発電所を想定した場合、1基あたり年間700トンの塩化リチウムを回収できる計算になるが、吸着剤由来のマンガンの溶出や、回収コストが従来法の20倍かかるなど、実用化にはまだ課題が残っている<ref name=ion/>。2014年には[[日本原子力研究開発機構]]が、[[濃淡電池]]の原理を利用し海水からのリチウムイオン抽出と発電を同時に行う技術を開発した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jaea.go.jp/02/press2013/p14020701/|title=海水中のリチウム資源を回収する革新的な元素分離技術を確立-リチウム資源循環型社会の実現へ大きく前進-|accessdate=2017-04-22}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=星野毅 |date=2014 |url=https://doi.org/10.11457/swsj.68.228 |title=イオン液体含浸有機隔膜による海水からのリチウム資源回収 |journal=日本海水学会誌 |volume=68 |issue=4 |pages=228-234 |naid=130005097736 |doi=10.11457/swsj.68.228 |ISSN=0369-4550 |publisher=日本海水学会}}</ref>。
== 用途 ==
リチウムは[[陶器]]や[[ガラス]]の添加剤、[[光学ガラス]]、電池([[一次電池]]および[[二次電池]])、耐熱グリースや連続[[鋳造]]のフラックスとして利用される。2011年時点で最大の用途は陶器やガラス用途であるが、二次電池用途での需要が将来的に増加していくものと予測されている。リチウムの同位体は[[水素爆弾]]や[[核融合炉]]などにおいて核融合燃料であるトリチウムを生成するために利用されている。
[[File:Global Lithium Uses.svg|thumb|全世界でのリチウムの用途(2011年、USGSによる推定値)<ref name=usgs2011/>
{{legend|#ef4f30|陶器およびガラス(29 %)}}
{{legend|#f9af20|電池(27 %)}}
{{legend|#f2eb23|潤滑グリース(12 %)}}
{{legend|#a5e429|連続鋳造(5 %)}}
{{legend|#00e8cf|空調用途(4 %)}}
{{legend|#103dc9|重合触媒(3 %)}}
{{legend|#a53ae0|アルミニウム製造(2 %)}}
{{legend|#e200f4|薬品(2 %)}}
{{legend|#da003e|その他(16 %)}}]]
2011年におけるリチウムの用途は[[陶器]]や[[ガラス]]などの[[窯業]]用途が最も多く、リチウムの全消費量の29 %を占めている。[[リチウムイオン二次電池]]などのバッテリー用途でのリチウムの消費量は全体の27 %であり、携帯用電子機器や自動車用バッテリーなどの需要拡大にともない、この用途での消費量は増加傾向にある。窯業、バッテリー用に続く用途として、自動車などに使われる耐熱・耐圧グリース用途、鋼を連続鋳造する際の[[融剤]]としての用途、空調用途、合成ゴムの重合触媒などの用途が挙げられる<ref name=usgs2011>{{Cite news|author=USGS |year=2011|title=Lithium|url= http://minerals.usgs.gov/minerals/pubs/commodity/lithium/mcs-2012-lithi.pdf|accessdate=2013-07-14|format=PDF}}</ref>。
リチウム鉱石はアルミナ、シリカとの化合物で、すりつぶして窯業材料に用いられる。塩湖かん水から分離された水酸化リチウムは電池に用いられる。
=== 窯業 ===
火にかけても割れない土鍋の材料としてペタライト[[葉長石]]を40–50 %配合した低熱膨張性耐熱陶土を用いる。グラタン皿などの耐熱陶器にも応用されている。萬古焼で50年ほど前から大量生産され、ジンバブエ、ブラジル産のリチウム鉱石が使われている。
リチウムは窯業において、釉薬の融点を下げるための強力な媒熔剤として利用される<ref name=youkyou>宗宮重行、吉木文平、浜野健也 ほか、[https://doi.org/10.2109/jcersj1950.73.835_C164 セラミック原料解説集 ケ] 窯業協會誌 1965年 73巻 835号 p.C164-C173, {{doi|10.2109/jcersj1950.73.835_C164}}</ref>。釉薬の融点を下げる方法としては、水溶性のアルカリ性化合物をガラスと溶融させて不溶化したフリットと呼ばれる媒熔剤を用いる方法と、フリットを用いずに、もともと不溶性のアルカリ性化合物を用いる方法があるが、リチウムはおもに後者として用いられる<ref name=fukuhara>{{Cite web|和書|title=低温焼成用の釉薬技術 |format=PDF |url=http://www.aichi-inst.jp/tokoname/research/report/tokoname_2002_03.pdf|author=福原徹、今西千恵子|publisher=愛知県産業技術研究所|accessdate=2013-07-14}}</ref>。リチウム源としてはおもに炭酸リチウムが用いられ<ref name=jogmec2/>、焼成によって酸化リチウムもしくはケイ酸リチウムの形で釉層を形成する<ref name=youkyou/>。リチウムはほかのアルカリ金属、アルカリ土類金属元素と比較して熱膨張係数が小さいため、リチウムを釉薬に加えることで釉薬の貫入(ひび割れ)を少なくすることができる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mpstpc.pref.mie.lg.jp/KOU/cri/defect/defectf2.htm|title=表面欠点「貫入」の防止法|publisher=三重県工業研究所|accessdate=2013-07-14|deadlinkdate=2017年7月 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150816232619/http://www.mpstpc.pref.mie.lg.jp/KOU/cri/defect/defectf2.htm |archivedate=2015-08-16}}</ref>。また、リチウムによって釉薬の流動性が高まるため、釉薬のむらを防ぎ全体的に均一な層を形成することができる<ref name=youkyou/>。
リチウムは耐熱ガラスや光学ガラスの配合剤としても利用される。リチウムアルミノケイ酸塩を[[熱処理]]によって結晶化ガラスとした[[セラミックス]]は非常に熱膨張係数が低いため急激な温度変化に強く、耐熱食器に用いられ<ref>{{Cite journal|url=https://hdl.handle.net/11133/1731 |title=リチウムアノレミノケイ酸塩結晶の超低熱膨張特性|author=小林雄一、片山正貴、加藤美佳|year=2011|volume=13|publisher=[[愛知工業大学]]|journal=愛知工業大学総合技術研究所・研究報告 |format=PDF |hdl=11133/1731 }}</ref>、このような結晶化ガラスを利用したセラミックスはパイロセラムと呼ばれる<ref>{{Cite book|title=Intermediate Technical Japanese, Volume 1: Readings and Grammatical Patterns|author=James L. Davis|year=2002|page=396|publisher=Univ of Wisconsin Press|isbn=9780299185534}}</ref>。また、リチウムはイオン半径が小さく[[電場]]強度が強いため、ガラス中で隣接する酸素イオンを大きく分極させて屈折率を上昇させることができ、この効果を利用して光学ガラスの一つである屈折率分布型光学レンズに利用される<ref>{{Cite web|和書|title=リチウム-ナトリウムイオン交換による屈折率分布型ロッドレンズの作製に関する研究|year=1998|author=藤井清澄|pages=4-5|url=http://t2r2.star.titech.ac.jp/cgi-bin/publicationinfo.cgi?q_publication_content_number=CTT100725798 |publisher=東京工業大学|accessdate=2013-07-14 |format=PDF |deadlinkdate=2017年7月 |naid=500000182153 }}</ref>。フッ化リチウムは[[紫外線|紫外]]から[[赤外線|赤外]]までの広範囲の光を透過し、特に紫外域の透過性能が優れているため、光学窓材料などに利用される<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.greentec.co.jp/business/mado/index3.html|title=代表的な窓材の透過率|publisher=GREENTEC CO.,LTD|accessdate=2013-07-14}}</ref>。
=== 電池 ===
==== 一次電池 ====
{{main|リチウム電池}}
リチウムは標準酸化還元電位が3.03 [[ボルト (単位)|V]]と最も低いため電池の[[負極]]材料として適しており<ref>{{Cite journal|和書|author=石井壮一郎, 片山恵一 |date=2001 |url=https://opac.time.u-tokai.ac.jp/webopac/TC20003694 |title=トピックス リチウムイオン二次電池用電極材料 |journal=東海大学紀要 工学部 |ISSN=05636787 |publisher=東海大学工学部 |volume=41 |issue=2 |pages=65-70 |naid=110000194499}}</ref>、金属リチウムを負極材料、[[正極]]材料として[[フッ化黒鉛]]や[[二酸化マンガン]]などを用いた一次電池がリチウム電池として実用化されている。リチウム電池はエネルギー密度が高いため小型化に向いており、また自己放電が少ないため電池寿命が長いといった特徴を有している。そのため、小型・軽量・長寿命といった機能が要求されるメモリバックアップなどの用途で利用されている<ref>{{Cite book|和書|title=最新工業化学: 革新技術の創出と製品化|author=深瀬康司|year=2012|page=56|publisher=東京電機大学出版局|isbn=9784501627300}}</ref>。これらの一次電池の多くは定まった用途にのみ用いられるものであるため、需要は一定であるが、エレクトロニクス機器や測定機器の電源などに用いられる[[塩化チオニルリチウム電池]]は需要が増加している<ref>{{Cite web|和書|title=二次電池、一次電池の世界市場を調査|url=https://www.fuji-keizai.co.jp/market/14014.html|publisher=富士経済|accessdate=2017-07-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=一次電池技術発展の系統化調査 |format=PDF |url=http://sts.kahaku.go.jp/diversity/document/system/pdf/036.pdf|author=吉田和正|pages=207-208|publisher=かはく技術史大系 産業技術史料情報センター|accessdate=2013-07-15}}</ref>。
==== 二次電池 ====
{{main|リチウムイオン二次電池}}
二次電池用途でのリチウム需要は2004年から2008年の間で年間20 %を越える伸び率を示しており<ref name=jogmec2/>、この用途におけるリチウムの需要は将来的にも増加し続けると予測されている<ref name=usgs2011/>。[[リチウムイオン二次電池]]は正極材料として主に[[コバルト酸リチウム]]が、負極材料としては炭素が用いられており、電解質の支持塩には[[ヘキサフルオロリン酸リチウム|六フッ化リン酸リチウム]]が使用されている<ref name=JPO>{{Cite web|和書|title=平成21年度特許出願技術動向調査報告書 リチウムイオン電池(要約版) |format=PDF |url=http://www.jpo.go.jp/shiryou/pdf/gidou-houkoku/21lithium_ion_battery.pdf|pages=2-3|publisher=特許庁|accessdate=2013-07-16}}</ref>。リチウムイオン二次電池は、エネルギー密度が高い、動作電圧が3.7 V<ref name=JPO/>と高い、自然放電が少ない、[[メモリー効果]]がないといった有用な特徴を有しており<ref>{{Cite web|和書|title=リチウムイオン電池の基本構成とその特長 |format=PDF |url=http://www.jsae.or.jp/~dat1/mr/motor33/No33_03.pdf|author=辰巳国昭|page=3|publisher=公益社団法人 自動車技術会|accessdate=2013-07-15}}</ref>、携帯機器用の小型電池から車載用、産業用の大型電池まで幅広く使われている<ref name=JPO/>。負極材料に炭素が使われる理由として、一価のリチウムイオンは[[グラファイト]]の層間に止まることができ、[[アノード]]に[[グラファイト]]を用いて、リチウムイオンを止め貯められている。近年は負極材料に直接金属リチウムを利用した[[全固体電池]]も普及している。今後、[[電気自動車]]や[[太陽光発電|メガソーラー]] の蓄電設備として、さらなる需要が見込まれている。
=== 核 ===
<sup>6</sup>Liは[[トリチウム]]を製造するための原料や、核融合における中性子吸収材として用いられる。天然のリチウムはおよそ7.5 %の<sup>6</sup>Liを含んでおり、核兵器で利用するため{{仮リンク|同位体分離|en|Isotope separation}}によって大量に生産されていた<ref>{{cite book|pages=59–60|url=https://books.google.co.jp/books?id=0oa1vikB3KwC&pg=PA60&redir_esc=y&hl=ja|title=Nuclear Wastelands: A Global Guide to Nuclear Weapons Production and Its Health and Environmental Effects|author=Makhijani, Arjun and Yih, Katherine |publisher=MIT Press|year= 2000|isbn=0-262-63204-7}}</ref>。<sup>7</sup>Liも[[原子炉]]の[[冷却材]]として関心を集めている<ref>{{cite book|url=https://books.google.co.jp/books?id=iRI7Cx2D4e4C&pg=PA278&redir_esc=y&hl=ja|page=278|title=Nuclear wastes: technologies for separations and transmutation|publisher=National Academies Press|year=1996|isbn=0-309-05226-2|author=National Research Council (U.S.). Committee on Separations Technology and Transmutation Systems}}</ref><ref>[http://spacenuclear.jp/nuclear/spacereactor2.html 宇宙用原子炉の冷却材と発電方式] スペース&ニュークリア</ref>。
[[File:Castle Bravo Blast.jpg|thumb|重水素化リチウムを用いた核実験の[[キノコ雲]]([[キャッスル作戦]]、[[ブラボー実験]])]]
重水素化リチウムは初期の水素爆弾における最適な[[原子核融合]]燃料として利用された。水素爆弾が初めに実験された当時はその反応機構は完全には理解されていなかったが、<sup>6</sup>Liおよび<sup>7</sup>Liが中性子の衝突によってトリチウムを生成する反応が[[ブラボー実験]]において核暴走を生み出した要因となった。トリチウムは比較的容易に重水素と核融合反応を起こし、その詳細は秘匿されたままであるが、<sup>6</sup>Liを用いた重水素化リチウムは最新の核兵器においてもいまだに核融合材料としての役割を果たしているようである<ref>池上英雄「[https://doi.org/10.11470/oubutsu1932.60.212 常温核融合研究の現状と今後]」『応用物理』1991年 60巻 3号 p.212-219, {{doi|10.11470/oubutsu1932.60.212}}</ref>。
<sup>7</sup>Liを高濃度に濃縮させた[[フッ化リチウム]]と[[フッ化ベリリウム]]を混合させたフリーベは[[溶融塩原子炉]]における[[溶融塩]]として用いられる。フッ化リチウムはリチウムの化合物の中でも安定であり、フリーベは低融点な塩である。加えて、<sup>7</sup>Liおよびベリリウム、フッ素は熱中性子捕獲断面積が十分に低いため、[[原子炉]]中の[[核分裂反応]]を阻害しない数少ない[[核種]]の一つである<ref group="note">フッ素およびベリリウムの天然同位体はそれぞれ{{sup|19}}Fおよび{{sup|9}}Beのみである。溶融塩増殖炉の燃料の主成分として用いられる[[アクチノイド]]および、{{sup|7}}Li、{{sup|9}}Be、{{sup|19}}F以外の十分に低い熱中性子捕獲断面積を有する核種は、{{sup|2}}H、{{sup|11}}B、{{sup|15}}N、{{sup|209}}Bi、[[炭素]]と[[酸素]]の安定同位体のみである。</ref><ref>{{cite journal|last1=Baesjr|first1=C|title=The chemistry and thermodynamics of molten salt reactor fuels|journal=Journal of Nuclear Materials|volume=51|page=149|year=1974|doi=10.1016/0022-3115(74)90124-X|bibcode = 1974JNuM...51..149B }}</ref>
重水素およびトリチウムを燃料とする[[磁場閉じ込め方式]]の核融合炉において、リチウムはトリチウムを生み出すのに用いられる。自然にトリチウムが発生することは非常に稀であるため、反応場であるプラズマをリチウムの入った[[ブランケット]]で覆い、プラズマでの重水素とトリチウムの反応から生じる中性子をリチウムと反応させて核分裂させることで、より多くのトリチウムを生成させる必要がある。
:<chem>^6Li{} + \mathit{n} -> {}^4He{} + {}^3T</chem>
リチウムはまた[[アルファ粒子]]源としても利用される。{{sup|7}}Liが加速陽子と衝突することで{{sup|8}}Beとなり、{{sup|8}}Beはすぐに核分裂して2つのアルファ粒子となる。この反応は1932年に[[ジョン・コッククロフト]]および[[アーネスト・ウォルトン]]によって行われた初の完全な人工[[原子核反応]]であり、この業績は当時「splitting the atom」と呼ばれた<ref group=note>人間によって誘導された核反応は1917年という早い時期に達成されていたが、これは自然に発生したアルファ粒子の衝突を利用したものであり完全な人工原子核反応ではなかった。</ref><ref>{{Cite book|url=https://books.google.co.jp/books?id=XyOBx2R2CxEC&pg=PA139&redir_esc=y&hl=ja|page=139|title=Nobel Prize Winners in Physics|author= Agarwal, Arun|publisher=APH Publishing|year=2008|isbn=81-7648-743-0}}</ref><ref>[http://www-outreach.phy.cam.ac.uk/camphy/cockcroftwalton/cockcroftwalton9_1.htm "'Splitting the Atom': Cockcroft and Walton, 1932: 9. Rays or Particles?"] Department of Physics,University of Cambridge</ref>。
=== 医薬品 ===
{{main|リチウム塩}}
医療用として炭酸リチウム(リチウム塩)が[[躁病]]および[[躁うつ病]]の躁状態の患者に処方される<ref name="mhgap">{{Cite report|publisher=[[世界保健機関]] |title=mhGAP Intervention Guide for mental, neurological and substance use disorders in non-specialized health settings |date=2010 |isbn=9789241548069 |url=http://www.who.int/mental_health/publications/mhGAP_intervention_guide/en/ }}</ref><ref name=kaneko/>。炭酸リチウムが躁病に効果があることは、1949年にオーストラリアの[[ジョン・ケイド]]によって発見された<ref name=TIP1987>{{Cite journal|title=躁鬱病に対する薬物治療|journal=正しい治療と薬の情報|volume=2|issue=12|year=1987|url=http://tip-online.org/memberspdf/1987_12.pdf|publisher=医薬品・治療研究会|pages=93-96 |format=PDF |deadlinkdate=2017年7月}}</ref>。[[イギリス]]の大学の研究者らによる[[メタ分析]]では、他地域と比較し相対的にリチウム濃度が高い[[水道水]]の地域ほど、[[自殺]]率が低いことが明らかとなっている<ref>{{Cite news|title=水道水に含まれるリチウムが自殺防止に? |newspaper=ニューズウィーク日本版 |url=https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/08/post-94105_1.php |accessdate=2023-04-07 |date=2020-08-04 |author=松丸さとみ}}</ref>。日本国内でも[[2006年]]、[[大分大学]]の調査にて、[[大分県]]下において同様の調査を行ったところ、リチウム濃度の高い[[水道水]]の地区では自殺率が下がることが判明され<ref>{{Cite web|和書|url=https://medical-tribune.co.jp/kenko100/articles/130729527547/ |title=水道水のリチウム濃度が自殺率に関係―大分大 |publisher =株式会社メディカルトリビューン |date=2013-07-29 |accessdate=2023-04-07}}</ref>、[[2022年]]には[[東京都]]の発表にて、「[[房水|眼房水]]解析により、自殺者は非自殺死亡者よりリチウム濃度が低い」ことが発表されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/hodohappyo/press/2022/11/11/07.html |title=自殺者では非自殺死亡者よりリチウム濃度が低い 眼房水解析 |publisher =東京都 |date=2022-11-11 |accessdate=2023-04-07}}</ref>。
炭酸リチウムの[[抗躁薬]]としての効果は、[[神経伝達物質]]の遊離や[[リン脂質]]の[[代謝]]を抑制する作用などが関係していると考えられているが、いまだ解明されていない<ref name=kaneko>{{Cite book|和書|title=薬理学: 薬学教育モデル・コアカリキュラム準拠|author=金子周司|year=2009|pages=164-165|publisher=化学同人|isbn=4759812660}}</ref>。炭酸リチウムの投与は治療上有効とされる血中濃度と[[中毒]]に陥る濃度との範囲が狭いため、定期的に[[血液検査]]を行い、適切な血中濃度に保たれているかを確認しなければならない<ref name=mhgap /><ref name=kaneko/>。また、[[利尿薬]]や[[ACE阻害薬]]などとの併用によって腎臓でのリチウムの再吸収が促進され、中毒に陥りやすくなる<ref>{{Cite book|和書|title=よくわかるPOS薬歴の基本と書き方|author=井手口直子,宮木智子|year=2009|page=160|publisher=秀和システム|isbn=4798021636}}</ref>。副作用としてはリチウムの中毒症状のほか不整脈や多尿、甲状腺機能の低下などがあり<ref name=mhgap />、腎不全や心不全の患者や妊婦には禁忌である<ref name=mhgap />。特に妊娠初期の女性では、胎児に心血管系の奇形(エブスタイン奇形)が発生するリスクが増加する。炭酸リチウムの投与によって体重が増加することがあるが、その原因は明確でなく、炭酸リチウムの副作用である口の渇きに起因して高カロリーな飲料が菓子類とともに多量に摂取されがちになる影響も原因の一つであると考えられている<ref name=TIP1987/>。
=== その他 ===
[[File:US Navy 040626-N-5319A-006 An Anti-Submarine Warfare (ASW) MK-50 Torpedo is launched from guided missile destroyer USS Bulkeley (DDG 84).jpg|thumb|燃料としてリチウムを用いた[[魚雷]]]]
; 増ちょう剤
: [[グリース]]に[[粘性]]を持たせるための増ちょう剤としてリチウム[[石鹸]]が用いられる。リチウム石鹸は[[水酸化リチウム]]と[[脂肪酸]]を反応させることで得られ、特にステアリン酸リチウムは広い温度範囲で高い耐圧・耐熱性を有している。リチウム石鹸グリースにはリチウムの脂肪酸塩が5–25 %ほど含まれており、一般工業用品や軸受け、自動車、鉄道、航空機、重機、家電製品などに広く汎用的に用いられている<ref>{{Cite web|和書|title=ケミカルプロファイル 水酸化リチウム |format=PDF |url=http://www.cmcbooks.co.jp/user_data/pdf/cp09112.pdf|publisher=シーエムシー出版|accessdate=2013-07-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=グリースの分類と特性|url=http://www.kyodoyushi.co.jp/grease/index3_1.html|publisher=共同油脂株式会社|accessdate=2013-07-16|deadlinkdate=2017年7月 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130812021456/http://www.kyodoyushi.co.jp/grease/index3_1.html |archivedate=2013-08-12}}</ref><ref name=jogmec2/>。
:
; 炎色反応を利用
: リチウムが炎色反応によって紅色を呈することを利用して、リチウム化合物は赤い[[花火]]や[[発炎筒]]において着色剤および酸化剤として用いられる<ref name=CRC/><ref>Wiberg, Egon; Wiberg, Nils and Holleman, Arnold Frederick [https://books.google.co.jp/books?id=Mtth5g59dEIC&pg=PA1089&redir_esc=y&hl=ja Inorganic chemistry], Academic Press (2001) ISBN 0-12-352651-5, p. 1089</ref>。
:
; 冶金
: [[冶金]]の分野においては、金属リチウムは[[溶接]]や[[はんだ]]づけの際に金属材料を溶融させやすくし、不純物を吸着することで酸化物を除去するフラックスとして利用される。また、炭酸リチウムは[[鋼鉄]]を連続鋳造するためのフラックスとしても利用される。連続鋳造用途でのリチウム消費量は鋼鉄生産量の好不調に左右され、2011年では全消費量の5 %を占めている<ref>{{Cite web|和書|title=28 リチウム (Li) |format=PDF |url=http://mric.jogmec.go.jp/public/report/2005-12/Li.pdf|publisher=石油天然ガス・金属鉱物資源機構|accessdate=2013-07-24}}</ref><ref name=usgs2011/>。リチウムとアルミニウムの合金{{enlink|Aluminium–lithium alloy}}は高い[[剛性]]を有しながら低密度であるという特性を有しており、航空機の構造材料を作るのに利用される。リチウムアルミニウム合金は一般的な合金と比較して[[破壊靱性]]が低く、[[異方性]]を有するという問題があり、銅や亜鉛、ジルコニウムなどの添加や鋳造方法の改良による改善が図られている<ref>{{Cite web|和書|title=航空機に於けるアルミリチウム合金の開発動向 |format=PDF |url=http://www.iadf.or.jp/8361/LIBRARY/MEDIA/H17_doukochosa/H17-5-7.pdf|publisher=公益財団法人 航空機国際共同開発促進基金|accessdate=2013-07-24 |naid=10030930880 }}{{リンク切れ|date=2018年8月}}</ref>。
:
; ガス中の水分、二酸化炭素を除去
: [[塩化リチウム]]および[[臭化リチウム]]は吸湿性を有しているため、ガスの除湿剤として用いられる<ref name=CRC/>。[[水酸化リチウム]]および[[過酸化リチウム]]は、[[宇宙船]]や[[潜水艦]]などの閉鎖空間において、二酸化炭素を除去して空気を浄化するための用途として最も多く用いられる塩である。水酸化リチウムを含むアルカリ金属の水酸化物は、いずれも空気中の二酸化炭素を吸収して炭酸塩を形成するが、水酸化リチウムはリチウムの原子量の小ささに起因して重量あたりの二酸化炭素吸収量がアルカリ金属の水酸化物の中で最も大きいため、好んで利用される。過酸化リチウムは二酸化炭素を吸収して炭酸リチウムを形成する反応とともに酸素の放出が伴う<ref>{{cite book|chapter=Air Quality Systems for Related Enclosed Spaces: Spacecraft Air|author=Mulloth, L.M. and Finn, J.E.|title=The Handbook of Environmental Chemistry|year=2005|volume=4H|pages=383–404|doi=10.1007/b107253}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.dtic.mil/cgi-bin/GetTRDoc?Location=U2&doc=GetTRDoc.pdf&AD=AD0619497|title=Application of lithium chemicals for air regeneration of manned spacecraft|publisher=Lithium Corporation of America & Aeropspace Medical Research Laboratories |format=PDF |year=1965|accessdate=2013-07-26}}</ref>。
:
:: <chem>2Li2O2 + 2CO2 -> 2Li2CO3 + O2</chem>
:
; 高分子工業
: 有機リチウム化合物は[[高分子]]および[[ファインケミカル]]の製造に広く利用されている。高分子工業は[[アルキルリチウム]]化合物の主要な消費者であり、[[触媒]]もしくはオレフィン基のアニオン重合における[[ラジカル開始剤]]として用いられる<ref>{{cite web|url=http://chemical.ihs.com/CEH/Public/Reports/681.7000/ |title=Organometallics|work=IHS Chemicals|date=February 2012|accessdate=2013-07-27}}</ref><ref>{{Cite journal|title=Polymerization of 1,2-dimethylenecyclobutane by organolithium initiators|journal= Russian Chemical Bulletin| volume =37|year=2005|doi=10.1007/BF00962487|pages=1782–1784|author=Yurkovetskii, A. V.|first2=V. L.|first3=K. L.|last2=Kofman|last3=Makovetskii|issue=9}}</ref><ref>{{Cite journal|doi=10.1021/ma00159a001|title=Functionalization of polymeric organolithium compounds. Amination of poly(styryl)lithium|year=1986|author=Quirk, Roderic P.|journal=Macromolecules|volume=19|page=1291|first2=Pao Luo|last2=Cheng|bibcode = 1986MaMol..19.1291Q|issue=5 }}</ref><ref>{{Cite book|title=Advances in organometallic chemistry|author= Stone, F. G. A.; West, Robert| publisher= Academic Press|year= 1980|isbn= 0-12-031118-6|page=55|url=https://books.google.co.jp/books?id=_gai4kRfcMUC&printsec=frontcover&redir_esc=y&hl=ja}}</ref>。ファインケミカル産業において、有機リチウム化合物は強塩基や[[炭素-炭素結合]]を形成させるための試薬として作用する。有機リチウム化合物は金属リチウムと[[有機ハロゲン化合物]]から合成される<ref>{{Cite book|url=https://books.google.co.jp/books?id=_SJ2upYN6DwC&pg=PA192&redir_esc=y&hl=ja|page=192|title=Synthetic approaches in organic chemistry|author=Bansal, Raj K. |year=1996|isbn=0-7637-0665-5}}</ref>。この反応においては、生成した有機リチウム化合物が未反応の有機ハロゲン化物と反応してしまうウルツカップリング反応が競合的に進行するため目的反応の進行が阻害されやすく、低温で反応を進めるか、もしくはウルツカップリングを起こしにくい[[有機臭素化合物]]を用いる必要がある<ref group="note">[[有機塩素化合物]]を用いてもウルツカップリングの進行を排除できるが、塩素の場合は金属リチウムに数パーセントのナトリウムを添加する必要がある。</ref><ref>{{Cite book|和書|title=最新有機合成法: 設計と戦略|author=M.H. ナンツ|others=檜山爲次郎 訳|year=2009|page=279|publisher=化学同人|isbn=4759811745}}</ref><ref>{{cite patent | country = JP | number = 2010502843| title = リチウム−多孔性金属酸化物組成物、及びリチウム試薬−多孔性金属組成物| inventor =シグナ・ケミストリー・リミテッド・ライアビリティ・カンパニー}}([http://www.ekouhou.net/%E3%83%AA%E3%83%81%E3%82%A6%E3%83%A0%E2%88%92%E5%A4%9A%E5%AD%94%E6%80%A7%E9%87%91%E5%B1%9E%E9%85%B8%E5%8C%96%E7%89%A9%E7%B5%84%E6%88%90%E7%89%A9%E3%80%81%E5%8F%8A%E3%81%B3%E3%83%AA%E3%83%81%E3%82%A6%E3%83%A0%E8%A9%A6%E8%96%AC%E2%88%92%E5%A4%9A%E5%AD%94%E6%80%A7%E9%87%91%E5%B1%9E%E7%B5%84%E6%88%90%E7%89%A9/disp-A,2010-502843.html ekouhou.netによる特許本文])</ref>。
:
; 推進剤
: 金属リチウムや[[水素化アルミニウムリチウム]]などのヒドリド錯体は、高エネルギーな[[ロケットエンジンの推進剤]]として軍事利用される<ref name=emsley/>。[[アメリカ海軍]]が開発した[[魚雷]]である[[Mk50 (魚雷)|Mk50]]は、固体リチウムのブロック上に[[六フッ化硫黄]]ガスを噴霧することで発生する化学エネルギーを推進力として利用しており、それは内蔵型化学エネルギー推進力システム(SCEPS)と呼ばれる。このシステムは、リチウムと六フッ化硫黄との反応によって発生した熱で[[水蒸気]]を生成し、その蒸気を利用して[[ランキンサイクル]]を駆動させることで魚雷を推進させる閉鎖系のシステムである<ref>{{Cite journal|title=Stored Chemical Energy Propulsion System for Underwater Applications| author=Hughes, T.G.; Smith, R.B. and Kiely, D.H. |journal= Journal of Energy|year= 1983|volume=7|issue=2 |pages=128–133|doi=10.2514/3.62644}}</ref>。
:
; 地球物理学
: [[地球物理学]]分野では、[[地下水]]に含まれるリチウム同位体組成を知ることで地下水の由来が「表層水」あるいは「地殻深部」かを知ることができるため、地殻内部構造の解析に用いられている<ref>[https://doi.org/10.4145/jahs.43.119 西尾嘉朗「リチウム同位体による地殻流体研究の新展開 —地殻活動の全貌解明に向けて—」]『日本水文科学会誌』Vol.43 (2013) No.4 p.119-135, {{doi|10.4145/jahs.43.119}}</ref>。
== 規制 ==
一般の消費者にとって最も容易に利用できるリチウム源はリチウム電池であり、いくつかの管轄区域においてリチウム電池の販売が制限されている。リチウムは、[[アルカリ金属]]を無水の液体[[アンモニア]]に溶解させた溶液を用いて還元反応を行う[[バーチ還元]]によって、[[プソイドエフェドリン]]および[[エフェドリン]]を[[覚醒剤]]の[[メタンフェタミン]]に還元させるために用いることができる<ref>{{cite web|url=http://www.illinoisattorneygeneral.gov/methnet/understandingmeth/basics.html |title=Illinois Attorney General – Basic Understanding Of Meth |publisher=Illinoisattorneygeneral.gov |accessdate=2010-10-06}}</ref><ref>{{cite journal|url=http://jolt.unc.edu/sites/default/files/7_nc_jl_tech_421.pdf|format=PDF|accessdate=2010-10-05|title=Methamphetamine remediation research act of 2005: Just what the doctor ordered for cleaning up methfields—or sugar pill placebo?|journal=North Carolina Journal of Law & Technology|year=2006|volume=7|first=Aaron R.|last=Harmon|deadlinkdate=2017年9月|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100613120359/http://jolt.unc.edu/sites/default/files/7_nc_jl_tech_421.pdf|archivedate=2010年6月13日}}</ref>。
大部分のリチウム電池は[[短絡]]によって非常に急速に放電して過熱し、それによって爆発の可能性につながることがあるため([[熱暴走]])、運送や積荷に関して、特に[[航空機]]のような特定の輸送機関を用いることが禁止されている場合がある。大部分の消費者向けのリチウム電池はこの種の事故を防ぐために、熱の過負荷から保護する回路が内蔵されているか、もしくは本質的に短絡時に流れる電流を制限するような設計がされている。自然発生的な熱暴走に至る内部短絡は、電池の製造欠陥もしくは損傷のために発現することが知られていた<ref>{{Cite book|isbn = 9780306447587|pages = 15–16|url = https://books.google.co.jp/books?id=i7U-0IB8tjMC&pg=PA15&redir_esc=y&hl=ja|author = Samuel C. Levy and Per Bro.|year = 1994|publisher = Plenum Press|location = New York|title = Battery hazards and accident prevention}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.tsa.gov/travelers/airtravel/assistant/batteries.shtm |title=TSA: Safe Travel with Batteries and Devices |publisher=Tsa.gov |date=2008-01-01 |accessdate=2010-10-06|deadlinkdate=2017年7月 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20101227093418/http://www.tsa.gov/travelers/airtravel/assistant/batteries.shtm |archivedate=2010-12-27}}</ref>。
日本では[[消防法]]による[[危険物]]のうち、「別表第一の品名欄に掲げる物品で同表に定める区分に応じ同表の性質欄に掲げる性状を有するもの」の中の「第3類 自然発火性物質及び禁水性物質」の「第1種 自然発火性物質及び禁水性物質」として金属リチウム(Li)が、また、「第2種 自然発火性物質及び禁水性物質」水素化リチウム(LiH)として消防法での[[危険物]]に該当している。
== リチウム相場 ==
[[Image:Lithium world production.svg|thumb|リチウムの産出量]]
リチウムは[[レアメタル]]と並んで産業に不可欠で、近年世界各国で[[二次電池]]としての需要が伸びていることにより、[[投資]]の対象になりつつあり、投機的な資金が流入することにより相場が高騰しつつある。過去には[[銀の木曜日]]による[[シルバーショック]]やレアメタルの輸出規制により相場が高騰した事例があり、相場の暴騰が懸念される。
そのような事態を見据えて各社では代替技術の開発が進められる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{reflist|group=note}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
== 参考文献 ==
* {{Cite magazine|title = [[ニューズウィーク]]日本版(2023年2月28日号) |chapter = インドが見つけたリチウムという宝の山 |newspaper = |publisher = CCCメディアハウス |date = 2023-2-28 |ref = {{Sfnref |ニューズウィーク2023年2月28日}} }}
== 関連項目 ==
{{Commons|Lithium}}
* [[リチウム塩]] - 医薬品として利用される。
* [[リチウムの同位体]]
* [[リチウムテスト]]
== 外部リンク ==
* {{ICSC|0710}}
* {{YouTube|Ft4E1eCUItI|Alkali metals in water ( Not the braniac version )}}{{en icon}} - アルカリ金属元素と水の反応動画
* [https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN21E5C0R20C23A4000000/ チリ大統領、リチウム国有化を表明 世界2位の生産国(日本経済新聞2023年4月22日記事)]
* {{Kotobank}}
{{元素周期表}}
{{リチウムの化合物}}
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{{Normdaten}}
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[[Category:リチウム|*]]
[[Category:元素]]
[[Category:アルカリ金属]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%81%E3%82%A6%E3%83%A0 |
9,479 | ドミニカ | ドミニカ (Dominica, Dominika, Dominyka)
以下の2つの国家がいずれもカリブ海に位置する。
ヨーロッパ系の女性名。 | [
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] | ドミニカ | '''ドミニカ''' (Dominica, Dominika, Dominyka)
== 地名 ==
以下の2つの国家がいずれも[[カリブ海]]に位置する。
* [[ドミニカ共和国]]({{lang-es-short|República Dominicana}}) - [[イスパニョーラ島]]の東側を領土とする国。
* [[ドミニカ国]]({{lang-en-short|Commonwealth of Dominica}}) - [[ドミニカ島]]を領土とする国。別称ドミニカ連邦。
== 人名 ==
ヨーロッパ系の女性名。
* [[ドミニカ・ヴァリウカヴィキューテ]] - リトアニアのフィギュアスケート選手。
* [[ドミニカ・ストルミロ]] - ベルギーのバレーボール選手。
* [[ドミニカ・チブルコバ]] - スロバキアのテニス選手。
* [[ドミニカ・パレタ]] - ポーランド生まれのメキシコの女優。
== 関連項目 ==
* {{前方一致ページ一覧}}
* {{Intitle}}
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[[Category:同名の地名]]
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9,480 | ソール (ローマ神話) | ソール(Sōl)は、ローマ神話の太陽神である。長母音を省略してソルとも表記される。
後にギリシア神話のヘーリオスと同一視される。
また、アポローンやミトラスなどの別の太陽神と習合し、帝政ローマの時代には、ほとんど主神の様に篤く信仰された。
英語の形容詞 solar の語源でもある。 | [
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] | ソール(Sōl)は、ローマ神話の太陽神である。長母音を省略してソルとも表記される。 後にギリシア神話のヘーリオスと同一視される。 また、アポローンやミトラスなどの別の太陽神と習合し、帝政ローマの時代には、ほとんど主神の様に篤く信仰された。 英語の形容詞 solar の語源でもある。 | {{出典の明記| date = 2023-10}}
'''ソール'''('''Sōl''')は、[[ローマ神話]]の[[太陽神]]である。[[長母音]]を省略して'''ソル'''とも表記される。
後に[[ギリシア神話]]の[[ヘーリオス]]と同一視される。
また、[[アポローン]]や[[ミスラ|ミトラス]]などの別の太陽神と習合し、[[ローマ帝国|帝政ローマ]]の時代には、ほとんど主神の様に篤く信仰された。
[[英語]]の形容詞 ''solar'' の語源でもある。
{{Commonscat|Sol Invictus}}
== 関連項目 ==
* [[太陽]]
* [[ソール (北欧神話)]]
* [[ソル・インウィクトゥス]] - 「不敗の太陽」の意で、後期ローマ帝国の公式な太陽神で兵士の守護神
{{ローマ神話}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:そる}}
[[Category:ローマ神話の神]]
[[Category:太陽神]] | 2003-05-28T14:51:59Z | 2023-10-24T13:46:04Z | false | false | false | [
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"Template:Normdaten"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%83%AB_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%A5%9E%E8%A9%B1) |
9,488 | ミクロネシア連邦 | ミクロネシア連邦(ミクロネシアれんぽう、英: Federated States of Micronesia、漢字表記:蜜克羅尼西亜連邦)、通称ミクロネシアは、オセアニア・ミクロネシア地域に位置する共和制国家。首都はポンペイ島のパリキール。
マリアナ諸島の南東、パラオの東、マーシャル諸島の西、パプアニューギニアの北ないし北東にある。地理的には、カロリン諸島と呼ばれる。
正式名称は、Federated States of Micronesia。略称、FSM。単なる Micronesia は、この国を含むさらに広い地域全体の公式名称であるが、しばしば、この国を指す言葉としても用いられる。
日本語の表記はミクロネシア連邦。通称ミクロネシア。英語での発音はマイクロニージャ[ˌmaɪkroʊˈniːʒə] である。
言語学的、考古学的見解によると、紀元前4000年から紀元前2000年には、フィリピンやインドネシア地方から渡ってきた定住者がいたといわれている。また、東側のポンペイ州やチューク州にはギルバート諸島やソロモン諸島からツバル、キリバスを経由して来た一団もおり、最初の開拓者は、進んだ農業(栽培)技術と高度な航海知識を持つオーストロネシア語族の民族であったと推測されている。
ポンペイ島では、12世紀から16世紀ごろにかけてシャウテレウル王朝が支配していた(ナンマトル遺跡)。コスラエでは14世紀から19世紀中ごろまで王朝があった(レラ遺跡)。
1525年、香料諸島(インドネシア)を目指して航海していたポルトガルの探検隊がヤップ島本島とユリシー島を「発見」。1529年、スペインの探検隊がカロリン諸島を「発見」し、大航海時代にはスペインを中心とした国の中継点となり、ヤップ島にはスペイン植民地政府が設置され、1595年にマリアナ諸島とカロリン諸島がスペインの領土と宣言された。しかし、キリスト教の布教以外に実際の統治は行われなかった。コスラエは、1824年にフランス船が入港したのがヨーロッパとの最初の接触であった。その後、スペインは1886年に要塞建設などを開始した。
1869年、ドイツが貿易の拠点をヤップ島に開設し、スペインがそれに対し1885年に軍隊を派遣したが、結局スペインは1899年米西戦争に敗れ国力が疲弊していたこともあり、ドイツにパラオを含むカロリン諸島を売却した。ドイツはこの地を「ドイツ領ニューギニア」として植民地化した。
1914年より第一次世界大戦が勃発し、日本が赤道以北のドイツ領ミクロネシアを管理下に置いた。日本はそれ以前よりドイツ領ミクロネシアとの経済関係を強化しており、ミクロネシアの経済は日本との貿易に依存していた。
1920年、国際連盟は日本にミクロネシアの統治を委任し、日本の「委任統治領南洋諸島」として南洋庁の下に置かれた。この期間、先住民の人口は、当時約40,000人ほどしかなかったのに対し、日本人居住者は85,000人を超えていた。
日本の委任統治下では、これまで本国から遠かったためドイツの植民地下で蔑ろにされていた近代的な電気や水道、学校や病院などのインフラストラクチャーの充実が進み、同時に植民政策により日本人事業家が経済を活発化させたため、サトウキビ、採鉱、漁業、熱帯農業が主要産業となり、ミクロネシアは貿易黒字が続くという状態であった。
第二次世界大戦が勃発すると、世界最大級の環礁に囲まれたトラック諸島などは、天然の要塞として日本軍の太平洋における最重要拠点のひとつとなった。1944年2月から、アメリカ軍はこの地域の日本軍基地に対して攻撃を開始し、軍事基地としての機能を喪失させると大部分の島は軍事作戦上放置された。第二次世界大戦の終戦により日本の統治は終了した。
1947年、国際連合はミクロネシア地域を6つの地区(ポンペイ(旧称ポナペ)、コスラエ(旧称クサイエ島。当時は、ポンペイの一部とされていた。)、チューク(旧称トラック)、ヤップ、パラオ、マーシャル諸島、マリアナ諸島北部)に分け、アメリカ合衆国を受任国とする太平洋諸島信託統治領とした。
1965年アメリカはミクロネシア議会の発足に合意、1970年代後半より自治独立の交渉が始まった。1978年7月、ミクロネシア憲法が起草され、信託統治領下の6つの地域のうち、マーシャル諸島とパラオでは住民投票で否決されたものの、残りのトラック(現在のチューク)、ヤップ、ポナペ(現在のポンペイ)およびクサイエ島(現在のコスラエ)の4地域では可決した。
このため、ポンペイ、チューク、ヤップ、コスラエの4地区が「ミクロネシア連邦」を構成する州となり、ミクロネシア連邦(FSM)憲法の下で連邦制をとることが決定し、国連はこれを認めた。
1979年5月10日、この憲法が発効して、ミクロネシア連邦が施行されたため、国際連盟・国連による長年にわたる管理下のもと失われていた主権を回復した。旧地区は連邦を構成する州となり、独自の州憲法を採択した。そして、連邦および各州の議員を選ぶための統一選挙も行われ、全ミクロネシア議会の議長であったトシオ・ナカヤマが初代大統領に就任した。
1986年11月3日にミクロネシア連邦は、国防と安全保障をアメリカに委託した自由連合盟約国として、事実上独立した。1990年12月に、国際連合安全保障理事会は正式に信託統治の終了を宣言し、1991年、ミクロネシア連邦は国連に加盟し、国際社会の一員となった。
独立までの経過については信託統治#太平洋諸島も参照。
大統領制をとっている連邦国家で、政党はない。大統領の任期は4年で、各州出身議員の間から輪番制で互選されるという紳士協定があるが、必ずしも厳格には適用されていない。
連邦議会は一院制で、4年任期議員4名(各州1名)、2年任期議員10名(チューク州5名、ポンペイ州3名、ヤップ州1名、コスラエ州1名)。
アメリカ合衆国との間で締結されている自由連合盟約により、安全保障及び一部外交上の権限は同国が保持している。
海軍によって国防を始めとした防衛体制がなされている。
2022年ロシアのウクライナ侵攻では、ロシアに抗議するため、同国との外交関係を断絶している。
ミクロネシア連邦は、フィリピンの東に浮かぶカロリン諸島に属する607の島からなる。島は東西に約3200km、南北に約1,200kmに渡って広がっている。
熱帯雨林気候(Af)で年平均気温は26〜28°C。年降水量は3,000mmを越え、夏多雨。
ミクロネシア連邦は、4つの州からなる。
国旗の4つの白い星は、主要4島(コシャエ、トラック、ポナペ、ヤップ)を表す。
漁業と農業(ココナッツやキャッサバ)が主産業で、魚介類を主に日本へ輸出し、生活必需品を主にアメリカ合衆国から輸入しているが、貿易額は赤字を記録している。
IMFに加盟しており、歳入の約5割がアメリカからの援助額で、2003年から20年間で13億ドルを援助する予定で漁業・農業・観光による自立経済を目指している。
住民はミクロネシア系が多い。また、ポリネシア系の住民もいる。日系ミクロネシア連邦人もおり、人口の2割を占めているとも言われ、初代大統領のトシオ・ナカヤマは日系2世、第7代大統領であるマニー・モリは日系4世である。
また、1990年代以降は華人・フィリピン人の移民も増加している。
言語は英語が公用語であり、また共通語として使われている。その他チューク語、ヤップ語、コスラエ語、ポンペイ語、ウリシ語、ウォレアイ語、カピンガマランギ語、ヌクオロ語などが使われている。
現在では減少しているが、高齢者の中には日本語を話せる人もいる。また、日本語由来の単語も多く、日本人の姓を使っている人もいる。
宗派宗教としてはキリスト教が有力であり、ローマ・カトリックとプロテスタントが半分程度である。ただし土着の精霊信仰も色濃く残っており、近年はキリスト教によって抑圧されていた儀式の復活も行われている。
ミクロネシア連邦は全般的には「比較的安全な国」と言える状態にある。だが、以前と比べ犯罪発生率は高くなって来ており、最近では日本人を含む外国人が家屋侵入や盗難の被害に遭う例が増えていることから、自己防衛の意識を持つことが必要とされている。なお、人目を引くような華美な服装は「裕福な人物である」という見方が根強い為に犯罪の対象とされることが多く、肌を著しく露出する服装も性的被害に遭い易い要因の一端となっていて、自己防衛の意識をより一層強める必要性が求められている。
国内4州で発生している犯罪は、銃器などによる強盗や殺人などの凶悪事件は少なく、家屋侵入、窃盗、暴行や鞄類のひったくりや置き引きが主となっている。特にチューク州については、飲酒に端を発する喧嘩などの騒動や、走行中の車両に対する投石・凶器使用による攻撃といった事案が発生し、治安が悪化しているとの報告がされている為、一層の注意が必要となる状況が続いている。
ミクロネシアの放送局は、地上波をヤップ州が担当しており州営のヤップテレビがある。ほかに、有線放送としてアイランド・ケーブルテレビがある。
インターネットはFSM Telecommunications Corporationというプロバイダが主流である。新聞はインサイド・オセアニアがある。
同連邦の文化は国体が成立する以前から一元化されている訳ではなく、現在まで画一されていない。したがって同連邦の州4ヶ所にはそれぞれ独自の文化と伝統が存在している。
同連邦の文化的特徴として一般的に挙げられるものは、氏族ならび一族の系統の濃厚さであり、世帯が両親や祖父母、子、いとこ、そしてさらに遠い親戚を含んだ拡大家族を形成するといった繋がりを築き上げている。またこれは、国内の複数の島に広がることもあって複雑なものとなっている。
エメリター・キーレンは、ミクロネシア連邦における著名な作家である。キーレンは元々グアムの出身だが、同連邦へ帰化した存在の一人である。
同連邦の伝統音楽は4つの州で大きく異なっている。最近ではユーロポップ、カントリー・ミュージック、レゲエの影響を受けたポピュラー音楽へ進化している面が見受けられる。
祝日が日曜日に当たる場合は翌日の月曜日へ振り替えられる仕組みとなっており、同様に祝日が土曜日に当たる場合は前日の金曜日へ差し替えられる形で祝われるようになっている。
また、各州には独自の祝日が制定されていて公式に定められているものでない為に、旅行などの用事で同連邦を訪れる人々からは混乱を招く要因の一つとされている面がある。
オリンピックにおけるミクロネシア連邦(フランス語版)は2000年シドニー五輪で初参加を果たし、以後夏季オリンピックには継続して出場している。しかし、冬季オリンピックには未出場である。
ミクロネシア連邦サッカー協会(英語版)によって構成されるサッカーミクロネシア連邦代表は、これまでFIFAワールドカップやOFCネイションズカップには未出場となっている。 | [
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"text": "ミクロネシア連邦(ミクロネシアれんぽう、英: Federated States of Micronesia、漢字表記:蜜克羅尼西亜連邦)、通称ミクロネシアは、オセアニア・ミクロネシア地域に位置する共和制国家。首都はポンペイ島のパリキール。",
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] | ミクロネシア連邦、通称ミクロネシアは、オセアニア・ミクロネシア地域に位置する共和制国家。首都はポンペイ島のパリキール。 マリアナ諸島の南東、パラオの東、マーシャル諸島の西、パプアニューギニアの北ないし北東にある。地理的には、カロリン諸島と呼ばれる。 | {{基礎情報 国
| 略名 =ミクロネシア連邦
| 日本語国名 =ミクロネシア連邦
| 公式国名 ='''{{Lang|en|Federated States of Micronesia}}'''
| 国旗画像 =Flag of Micronesia.svg
| 国章画像 =[[ファイル:Seal_of_the_Federated_States_of_Micronesia.svg|100px]]
| 国章リンク =([[ミクロネシア連邦の国章|国章]])
| 標語 =''{{Lang|en|Peace Unity Liberty}}'' <br />(英語: 平和、連帯、自由)
| 位置画像 =Micronesia on the globe (Southeast Asia centered) (small islands magnified).svg
| 公用語 =[[英語]]
| 首都 =[[パリキール]]
| 最大都市 =[[ウェノ]]
| 元首等肩書 =[[ミクロネシア連邦の大統領|大統領]]
| 元首等氏名 =[[ウェスリー・シミナ]]
| 首相等肩書 ={{仮リンク|ミクロネシア連邦の副大統領|en|Vice President of the Federated States of Micronesia|label=副大統領}}
| 首相等氏名 ={{仮リンク|アレン・パリク|en|Aren Palik}}
| 面積順位 =175
| 面積大きさ =1 E8
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| 人口統計年 =2020
| 人口順位 =180
| 人口大きさ =1 E5
| 人口値 =11万5000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/fm.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-11-11}}</ref>
| 人口密度値 =164.3<ref name=population/>
| GDP統計年元 =
| GDP値元 =
| GDP統計年MER =2019
| GDP順位MER =177
| GDP値MER =3億8,300万<ref>{{Cite web|url=https://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2019/01/weodata/weorept.aspx?pr.x=38&pr.y=0&sy=2017&ey=2024&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=868&s=NGDPD,PPPGDP,NGDPDPC,PPPPC&grp=0&a=|accessdate=2021年6月1日|title=Report for Selected Countries and Subjects|website=www.imf.org}}</ref>
| GDP統計年 =2019
| GDP順位 =172
| GDP値 =3億6,300万
| GDP/人 =3,534
| 建国形態 =[[独立]]<br /> - 日付
| 建国年月日 =[[アメリカ合衆国]]の信託統治領から<br />[[1986年]][[11月3日]]
| 通貨 =[[アメリカ合衆国ドル]]
| 通貨コード =USD
| 時間帯 =(+10〜11)
| 夏時間 =なし
| ISO 3166-1 = FM / FSM
| ccTLD =[[.fm]]
| 国際電話番号 =691
| 注記 =
|国歌=[[ミクロネシアの愛国者|{{lang|en|Patriots of Micronesia}}]]{{en icon}}<br>''ミクロネシアの愛国者''<br><center>[[ファイル:Micronesia National Anthem.ogg]]}}
'''ミクロネシア連邦'''(ミクロネシアれんぽう、{{lang-en-short|Federated States of Micronesia}}、[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字表記]]:蜜克羅尼西亜連邦<ref>{{Cite web|和書|title=世界の国名の漢字表記一覧表 |url=https://kanji.jitenon.jp/cat/hyoki01.html |website=kanji.jitenon.jp |access-date=2022-05-22 |language=ja}}</ref>)、通称'''ミクロネシア'''は、[[オセアニア]]・[[ミクロネシア]]地域に位置する[[共和制]][[国家]]。首都は[[ポンペイ島]]の[[パリキール]]。
[[マリアナ諸島]]の南東、[[パラオ]]の東、[[マーシャル諸島]]の西、[[パプアニューギニア]]の北ないし北東にある。地理的には、[[カロリン諸島]]と呼ばれる。
== 国名 ==
正式名称は、{{lang|en|Federated States of Micronesia}}。略称、{{lang|en|'''FSM'''}}。単なる {{lang|en|Micronesia}} は、この国を含むさらに広い地域全体の公式名称であるが、しばしば、この国を指す言葉としても用いられる。
日本語の表記は'''ミクロネシア連邦'''。通称'''ミクロネシア'''。英語での発音は'''マイクロニージャ'''{{IPAc-en|ˌ|m|aɪ|k|r|oʊ|ˈ|n|iː|ʒ|ə}} である。
== 歴史 ==
{{main|{{仮リンク|ミクロネシア連邦の歴史|en|History of the Federated States of Micronesia}}}}
=== 先史時代 ===
言語学的、考古学的見解によると、[[紀元前4000年]]から[[紀元前2000年]]には、[[フィリピン]]や[[インドネシア]]地方から渡ってきた定住者がいたといわれている。また、東側のポンペイ州やチューク州にはギルバート諸島やソロモン諸島からツバル、キリバスを経由して来た一団もおり、最初の開拓者は、進んだ農業(栽培)技術と高度な航海知識を持つ[[オーストロネシア語族]]の民族であったと推測されている。
[[ポンペイ島]]では、[[12世紀]]から[[16世紀]]ごろにかけて[[シャウテレウル王朝]]が支配していた([[ナンマトル|ナンマトル遺跡]])。[[コスラエ]]では[[14世紀]]から[[19世紀]]中ごろまで王朝があった([[レラ遺跡]])。
=== スペイン・ドイツ統治時代 ===
[[1525年]]、香料諸島([[インドネシア]])を目指して航海していた[[ポルトガル]]の探検隊が[[ヤップ島]]本島と[[ユリシー島]]を「発見」。[[1529年]]、[[スペイン]]の探検隊が[[カロリン諸島]]を「発見」し、[[大航海時代]]には[[スペイン]]を中心とした国の中継点となり、ヤップ島にはスペイン[[植民地]][[政府]]が設置され、[[1595年]]に[[マリアナ諸島]]と[[カロリン諸島]]が[[スペイン帝国|スペイン]]の領土と宣言された。しかし、キリスト教の布教以外に実際の統治は行われなかった。[[コスラエ州|コスラエ]]は、[[1824年]]に[[フランス]]船が入港したのがヨーロッパとの最初の接触であった。その後、スペインは[[1886年]]に要塞建設などを開始した。
[[1869年]]、[[ドイツ]]が貿易の拠点をヤップ島に開設し、スペインがそれに対し[[1885年]]に軍隊を派遣したが、結局スペインは[[1899年]][[米西戦争]]に敗れ国力が疲弊していたこともあり、ドイツに[[パラオ]]を含むカロリン諸島を売却した。ドイツはこの地を「[[ドイツ領ニューギニア]]」として植民地化した。
=== 日本統治時代 ===
[[ファイル:Natsushima Kogakko classroom.JPG|thumb|[[チューク諸島|トラック島]]の[[公学校]]([[1930年]]ごろ)]]
[[1914年]]より[[第一次世界大戦]]が勃発し、[[日本]]が赤道以北のドイツ領ミクロネシアを管理下に置いた。日本はそれ以前よりドイツ領ミクロネシアとの経済関係を強化しており、ミクロネシアの経済は日本との貿易に依存していた。
[[1920年]]、[[国際連盟]]は日本にミクロネシアの統治を委任し、日本の「[[委任統治領]][[南洋諸島]]」として[[南洋庁]]の下に置かれた。この期間、先住民の人口は、当時約40,000人ほどしかなかったのに対し、日本人居住者は85,000人を超えていた。
[[ファイル:Making Dried bonito at Chuuk, Micronesia in 1931.png|サムネイル|かつお節の生産(チューク島、1931年ごろ)]]
日本の委任統治下では、これまで本国から遠かったためドイツの植民地下で蔑ろにされていた近代的な[[電気]]や[[水道]]、[[学校]]や[[病院]]などのインフラストラクチャーの充実が進み、同時に植民政策により日本人事業家が経済を活発化させたため、サトウキビ、採鉱、漁業、熱帯農業が主要産業となり、ミクロネシアは貿易黒字が続くという状態であった。
[[第二次世界大戦]]が勃発すると、世界最大級の[[環礁]]に囲まれた[[チューク諸島|トラック諸島]]などは、天然の[[要塞]]として[[日本軍]]の太平洋における最重要拠点のひとつとなった。[[1944年]][[2月]]から、[[アメリカ軍]]はこの地域の日本軍基地に対して攻撃を開始し、軍事基地としての機能を喪失させると大部分の島は軍事作戦上放置された。第二次世界大戦の終戦により日本の統治は終了した。
=== アメリカ信託統治 ===
[[1947年]]、[[国際連合]]はミクロネシア地域を6つの地区(ポンペイ(旧称ポナペ)、コスラエ(旧称クサイエ島。当時は、ポンペイの一部とされていた。)、チューク(旧称トラック)、ヤップ、パラオ、マーシャル諸島、マリアナ諸島北部)に分け、[[アメリカ合衆国]]を受任国とする[[太平洋諸島信託統治領]]とした。
[[1965年]]アメリカはミクロネシア議会の発足に合意、[[1970年代]]後半より自治独立の交渉が始まった。[[1978年]][[7月]]、ミクロネシア憲法が起草され、信託統治領下の6つの地域のうち、マーシャル諸島とパラオでは住民投票で否決されたものの、残りのトラック(現在のチューク)、ヤップ、ポナペ(現在のポンペイ)およびクサイエ島(現在のコスラエ)の4地域では可決した。
[[ファイル:Manny Mori and Yasuo Fukuda 20071130 1.jpg|thumb|220px|ミクロネシア連邦[[ミクロネシア連邦の大統領|大統領]][[マニー・モリ]](左)と[[内閣総理大臣]][[福田康夫]](右)([[2007年]][[11月30日]]、[[総理大臣官邸]]にて)]]
このため、ポンペイ、チューク、ヤップ、コスラエの4地区が「ミクロネシア連邦」を構成する州となり、ミクロネシア連邦(FSM)憲法の下で連邦制をとることが決定し、国連はこれを認めた。
=== 独立 ===
[[1979年]][[5月10日]]、この憲法が発効して、ミクロネシア連邦が施行されたため、国際連盟・国連による長年にわたる管理下のもと失われていた[[主権]]を回復した。旧地区は連邦を構成する州となり、独自の州憲法を採択した。そして、連邦および各州の議員を選ぶための統一選挙も行われ、全ミクロネシア議会の議長であった[[トシオ・ナカヤマ]]が初代大統領に就任した。
[[1986年]][[11月3日]]にミクロネシア連邦は、国防と安全保障をアメリカに委託した[[自由連合 (国家間関係)|自由連合]]盟約国として、事実上独立した。[[1990年]][[12月]]に、[[国際連合安全保障理事会]]は正式に信託統治の終了を宣言し、[[1991年]]、ミクロネシア連邦は国連に加盟し、国際社会の一員となった。
独立までの経過については[[信託統治#太平洋諸島]]も参照。
== 政治 ==
{{main|{{仮リンク|ミクロネシア連邦の政治|en|Politics of the Federated States of Micronesia}}}}
<!-- 本文 -->
[[大統領制]]をとっている[[連邦]][[国家]]で、[[政党]]はない。大統領の任期は4年で、各州出身議員の間から輪番制で互選されるという紳士協定があるが、必ずしも厳格には適用されていない<ref>「ミクロネシア連邦」『世界年鑑2016』([[共同通信社]]、2016年)228頁。</ref>。
{{See also|{{仮リンク|ミクロネシア連邦における選挙|fr|Circonscriptions électorales des États fédérés de Micronésie}}}}
[[連邦議会 (ミクロネシア連邦)|連邦議会]]は一院制で、4年任期議員4名(各州1名)、2年任期議員10名(チューク州5名、ポンペイ州3名、ヤップ州1名、コスラエ州1名)。
アメリカ合衆国との間で締結されている[[自由連合盟約]]により、安全保障及び一部外交上の権限は同国が保持している。
{{See also|{{仮リンク|ミクロネシア連邦の憲法|fr|Constitution des États fédérés de Micronésie}}}}
== 軍事 ==
{{節スタブ}}
[[海軍]]によって[[国防]]を始めとした防衛体制がなされている。
{{See also|{{仮リンク|ミクロネシア連邦海軍|fr|Marine des États fédérés de Micronésie}}}}
== 外交・国際関係 ==
{{See also|{{仮リンク|ミクロネシア連邦の外交政策|fr|Politique étrangère des États fédérés de Micronésie}}|{{仮リンク|ミクロネシア連邦の国際関係|en|Foreign relations of the Federated States of Micronesia}}|{{仮リンク|ミクロネシア連邦の外交使節団の一覧|en|List of diplomatic missions in the Federated States of Micronesia}}|{{仮リンク|ミクロネシア連邦の駐在外国公館の一覧|en|List of diplomatic missions of the Federated States of Micronesia}}}}
{{節スタブ}}
[[2022年ロシアのウクライナ侵攻]]では、[[ロシア]]に抗議するため、同国との外交関係を断絶している<ref>{{Cite web |title=ミクロネシア連邦がロシアと外交関係を断絶 |url=https://www.cnn.co.jp/world/35184064.html |date=2022-2-25 |accessdate=2022-2-25|newspaper=CNN|language=ja}}</ref>。
=== アメリカ合衆国との関係 ===
{{sectstub}}
{{main|{{仮リンク|ミクロネシア連邦とアメリカ合衆国の関係|en|Micronesia-United States relations}}}}
=== オーストラリアやニュージーランドとの関係 ===
{{sectstub}}
=== 日本との関係 ===
{{sectstub}}
{{main|日本とミクロネシア連邦の関係}}
== 地理 ==
[[ファイル:Map of the Federated States of Micronesia CIA.jpg|370px|thumb|ミクロネシア連邦の地図]]
{{main|{{仮リンク|ミクロネシア連邦の地理|en|Geography of the Federated States of Micronesia}}}}
ミクロネシア連邦は、[[フィリピン]]の東に浮かぶ[[カロリン諸島]]に属する607の島からなる。島は東西に約3200km、南北に約1,200kmに渡って広がっている。
=== 気候 ===
[[熱帯雨林気候]](Af)で年平均気温は26〜28℃。年降水量は3,000mmを越え、夏多雨。
== 地方行政区分 ==
{{Main|ミクロネシア連邦の行政区画}}
ミクロネシア連邦は、4つの州からなる。
* [[ファイル:Flag of Yap.svg|border|25px]] [[ヤップ州]] ({{lang|en|Yap}})
* [[ファイル:Flag of Chuuk.svg|border|25px]] [[チューク州]] ({{lang|en|Chuuk}})
* [[ファイル:Flag of Pohnpei.svg|border|25px]] [[ポンペイ州]] ({{lang|en|Pohnpei}})
* [[ファイル:Flag of Kosrae.svg|border|25px]] [[コスラエ州]] ({{lang|en|Kosrae}})
国旗の4つの白い星は、主要4島(コシャエ、トラック、ポナペ、ヤップ)を表す。
== 経済 ==
{{main|{{仮リンク|ミクロネシア連邦の経済|en|Economy of the Federated States of Micronesia|es|Economía de los Estados Federados de Micronesia|fr|Économie dans les États fédérés de Micronésie}}}}
<!-- 本文 -->
[[漁業]]と[[農業]]([[ココナッツ]]や[[キャッサバ]])が主産業で、[[魚介類]]を主に日本へ輸出し、生活必需品を主にアメリカ合衆国から輸入しているが、貿易額は[[黒字と赤字|赤字]]を記録している。
[[国際通貨基金|IMF]]に加盟しており、[[歳入]]の約5割がアメリカからの援助額で、[[2003年]]から20年間で13億ドルを援助する予定で漁業・農業・[[観光]]による自立経済を目指している。
== 交通 ==
{{main|ミクロネシア連邦の交通}}
=== 空港 ===
{{main|ミクロネシア連邦の空港の一覧}}
== 国民 ==
[[File:MoriFSM.jpg|thumb|180px|日系4世の[[マニー・モリ]]]]
<!-- ''詳細は[[ミクロネシア連邦の国民]]を参照'' -->
<!-- (住民の人種構成、言語、宗教など) -->
<!-- 本文 -->
=== 民族 ===
住民は[[ミクロネシア人|ミクロネシア系]]が多い。また、[[ポリネシア]]系の住民もいる。[[日系ミクロネシア連邦人]]もおり、人口の2割を占めているとも言われ、初代大統領のトシオ・ナカヤマは日系2世、第7代大統領である[[マニー・モリ]]は日系4世である。
{{See also|{{仮リンク|ミクロネシア連邦の人口統計|en|Demographics of the Federated States of Micronesia}}}}
また、1990年代以降は[[華人]]・[[フィリピン人]]の移民も増加している。
=== 言語 ===
言語は[[英語]]が[[公用語]]であり、また[[共通語]]として使われている。その他[[チューク語]]、[[ヤップ語]]、[[コスラエ語]]、[[ポンペイ語]]、[[ウリシ語]]、[[ウォレアイ語]]、[[カピンガマランギ語]]、[[ヌクオロ語]]などが使われている。
{{See also|ミクロネシア諸語}}
現在では減少しているが、高齢者の中には[[日本語]]を話せる人もいる。また、日本語由来の単語も多く、日本人の姓を使っている人もいる。
=== 宗教 ===
{{main|{{仮リンク|ミクロネシア連邦の宗教|en|Religion in the Federated States of Micronesia}}}}
[[宗派]]宗教としては[[キリスト教]]が有力であり、[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]と[[プロテスタント]]が半分程度である。ただし土着の[[精霊信仰]]も色濃く残っており、近年はキリスト教によって抑圧されていた[[儀式]]の復活も行われている。
=== 教育 ===
{{Main|{{仮リンク|ミクロネシア連邦の教育|en|Education in the Federated States of Micronesia}}}}
=== 保健 ===
{{main|{{仮リンク|ミクロネシア連邦における保健|en|Health in the Federated States of Micronesia}}}}
== 治安 ==
ミクロネシア連邦は全般的には「比較的安全な国」と言える状態にある。だが、以前と比べ[[犯罪]]発生率は高くなって来ており、最近では日本人を含む外国人が家屋[[侵入]]や[[盗難]]の被害に遭う例が増えていることから、[[護身術|自己防衛]]の意識を持つことが必要とされている。なお、人目を引くような華美な服装は「裕福な人物である」という見方が根強い為に犯罪の対象とされることが多く、肌を著しく露出する服装も[[性犯罪|性的被害]]に遭い易い要因の一端となっていて、自己防衛の意識をより一層強める必要性が求められている。
国内4州で発生している犯罪は、[[銃器]]などによる[[強盗]]や[[殺人]]などの凶悪事件は少なく、家屋[[侵入]]、[[窃盗]]、[[暴行]]や[[鞄]]類の[[ひったくり]]や[[置き引き]]が主となっている。特にチューク州については、飲酒に端を発する[[喧嘩]]などの騒動や、走行中の車両に対する投石・凶器使用による攻撃<ref group="注">鋭利な刃を矢の先端に付け、それを射るといった手口。</ref>といった事案が発生し、治安が悪化しているとの報告がされている為、一層の注意が必要となる状況が続いている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_270.html|title=ミクロネシア連邦 安全対策基礎データ「犯罪発生状況、防犯対策」|accessdate=2021-12-05|publisher=外務省}}</ref>。
{{sectstub}}
=== 人権 ===
{{main|{{仮リンク|ミクロネシア連邦における人権|en|Human rights in the Federated States of Micronesia}}}}
{{sectstub}}
== マスコミ==
=== 情報・通信 ===
ミクロネシアの[[放送局]]は、地上波を[[ヤップ州]]が担当しており州営の'''ヤップテレビ'''がある。ほかに、有線放送として'''アイランド・ケーブルテレビ'''がある。
[[インターネット]]は'''FSM Telecommunications Corporation'''という[[インターネットサービスプロバイダ|プロバイダ]]が主流である。新聞は'''インサイド・オセアニア'''がある。
{{See also|{{仮リンク|ミクロネシア連邦における電気通信|en|Telecommunications_in_the_Federated_States_of_Micronesia}}}}
== 文化 ==
{{main|{{仮リンク|ミクロネシア連邦の文化|es|Cultura de los Estados Federados de Micronesia|fr|Culture des États fédérés de Micronésie}}}}
{{節スタブ}}
同連邦の文化は国体が成立する以前から一元化されている訳ではなく、現在まで画一されていない。したがって同連邦の州4ヶ所にはそれぞれ独自の文化と伝統が存在している。
同連邦の文化的特徴として一般的に挙げられるものは、[[氏族]]ならび[[一族]]の系統の濃厚さであり、世帯が両親や祖父母、子、[[いとこ]]、そしてさらに遠い親戚を含んだ[[拡大家族]]を形成するといった繋がりを築き上げている。またこれは、国内の複数の島に広がることもあって複雑なものとなっている。
=== 食文化 ===
{{節スタブ}}
<!-- 本文 -->
=== 文学 ===
[[エメリター・キーレン]]は、ミクロネシア連邦における著名な作家である。キーレンは元々[[グアム]]の出身だが、同連邦へ帰化した存在の一人である。
{{節スタブ}}
=== 音楽 ===
{{main|{{仮リンク|ミクロネシア連邦の音楽|en|Music of the Federated States of Micronesia}}}}
<!-- 本文 -->
同連邦の伝統音楽は4つの州で大きく異なっている。最近では[[ユーロポップ]]、[[カントリー・ミュージック]]、[[レゲエ]]の影響を受けた[[ポピュラー音楽]]へ進化している面が見受けられる。
=== 建築 ===
{{節スタブ}}
<!-- 本文 -->
=== 世界遺産 ===
{{Main|ミクロネシア連邦の世界遺産}}
=== 祝祭日 ===
{| class="wikitable" style="font-size:90%; margin-left:1em"
|-
!日付!!日本語表記!!現地語表記!!備考
|-
| [[1月1日]]|| [[元日]]|| | ||
|-
| [[5月10日]]||ミクロネシア連邦記念日|| | || [[憲法記念日]]
|-
| [[10月24日]]|| [[国連の日]]|| | ||
|-
| [[11月3日]]|| [[独立記念日]]|| | ||
|-
| [[12月25日]]|| [[クリスマス]]|| | ||
|}
祝日が[[日曜日]]に当たる場合は翌日の[[月曜日]]へ振り替えられる仕組みとなっており、同様に祝日が[[土曜日]]に当たる場合は前日の[[金曜日]]へ差し替えられる形で祝われるようになっている。
また、各州には独自の祝日が制定されていて公式に定められているものでない為に、旅行などの用事で同連邦を訪れる人々からは混乱を招く要因の一つとされている面がある。
== スポーツ ==
{{Main|Category:ミクロネシア連邦のスポーツ}}
{{仮リンク|オリンピックにおけるミクロネシア連邦|fr|États fédérés de Micronésie aux Jeux olympiques}}は[[2000年シドニーオリンピック|2000年シドニー五輪]]で初参加を果たし、以後[[夏季オリンピック]]には継続して出場している。しかし、[[冬季オリンピック]]には未出場である。
{{See also|オリンピックのミクロネシア連邦選手団}}
=== サッカー ===
{{Main|{{仮リンク|ミクロネシア連邦のサッカー|en|Football in the Federated States of Micronesia}}}}
{{仮リンク|ミクロネシア連邦サッカー協会|en|Federated States of Micronesia Football Association}}によって構成される[[サッカーミクロネシア連邦代表]]は、これまで[[FIFAワールドカップ]]や[[OFCネイションズカップ]]には未出場となっている。
== 著名な出身者 ==
{{Main|Category:ミクロネシア連邦の人物}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[ミクロネシア連邦関係記事の一覧]]
* [[ミクロネシア]]
* [[カロリン諸島]]
* [[チューク諸島]]([[トラック島]])
* [[ジープ島]]
* [[南洋庁]]
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Federated States of Micronesia|Micronesia}}
; 政府
* [https://www.fsmgov.org/ ミクロネシア連邦政府] {{en icon}}
; 日本政府
* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/micronesia/ 日本外務省 - ミクロネシア連邦] {{ja icon}}
; 観光
* [http://www.visit-micronesia.fm/jp/index.html ミクロネシア政府観光局] {{ja icon}}
*[https://visitchuuk.wixsite.com/japanese チューク州政府観光局] {{ja icon}}
* [http://visityap.jp/ ヤップ州観光局] {{ja icon}}
; その他
* [https://pic.or.jp/country_information/4809/ PIC - ミクロネシア]
{{オセアニア}}
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[[Category:ミクロネシア連邦|*]]
[[Category:オセアニアの国]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%82%A2%E9%80%A3%E9%82%A6 |
9,489 | 卓球 | 卓球(たっきゅう、英: Table tennis)は球技の一種である。2人(あるいは2組のペア)のプレーヤーがテーブルをはさんで向かい合い、対戦相手のコートへとプラスチック製のボールをラケットで打ち合って、得点を競う。
他のネット型球技と同じく「ボールを交互にリターン(返球)し合い、相手がリターンできないようリターンをした者が得点する」という典型的な形式のラケットスポーツである(⇒#ルール)。一方で、ボールの回転(スピン)の影響が大きく、スピンを利用した多様な打法があり(⇒#打法)、打法に特化した多くのプレースタイルがある(⇒#戦型)。こういったプレーの多様性から、ラケット等の用具も様々な特徴のものが開発されている(⇒#用具)。対戦者間の距離は3メートル程度と非常に近い為に表情や手指といった互いの細かな所作が観察可能であり、心理的な駆け引きやメンタルも勝敗に影響するなど、「究極の対人競技」とも評される。競技スポーツとしては体力と知性の双方に高い水準が求められ、トッププレーヤーに至っては「心技体智」のすべてに一流であることが要求されるスポーツである。
卓球は、ジュ・ド・ポームなどの中世のテニスゲームをもとに、1880年代にイギリスで考案されたとされる。1891年に、ゲーム用品・スポーツ用品メーカーのジャック・オブ・ロンドン社が「ゴシマ」という商標で、現在の「卓球用具一式」のような商品を発売している。同社は1900年に、これまでコルク製であったボールをセルロイド製に改良した。このボールを打つ際の音にちなんで「ピンポン (Ping Pong)」と命名して売り出したところ製品はヒットし、瞬く間にイギリスをはじめとしたヨーロッパ諸国を中心に普及した。この際に「ピンポン」とともに「卓球(Table Tennis)」の呼称も一般化し、これが現在の競技名となっている。
卓球の発祥国であるイギリスにおいては、当初は二つの協会が並立するも、ほどなく統合されて英国卓球協会(現・卓球イングランド(英語版))となり、1922年には同国で卓球の「標準ルール」が定められ、競技スポーツとしての発展が進んだ。
1900年代頃には、欧州でゴム製のラバーが開発され、ラバーを貼り付けたラケットが主流となった。この当時は、それほど強い打球ができなかったことやコートを仕切るネットが高かったこともあり、卓球は守りに徹した方が有利なスポーツであった。たとえば、1点を取るのに2時間以上かかったという記録も残っている。
卓球が国際的な競技スポーツとなるに際して、統一されたルール下での国際大会を円滑に運営するために、国際卓球連盟 (略称: ITTF)が1926年に発足している。同年には、ロンドンで最初の世界卓球選手権が開催され、男女の各シングルス部門ではローランド・ヤコビとメドニヤンスキ・マリア(ともにハンガリー代表)がそれぞれ初代のチャンピオンとなった。
この頃に、各国でも卓球の国内管理組織が設立されている。たとえば、ドイツでは1925年にドイツ卓球連盟(ドイツ語版)が、スウェーデンでは1926年にスウェーデン卓球協会(スウェーデン語版)が、フランスでは1927年にフランス卓球連盟(フランス語版)が、日本では1929年に日本卓球会(現在の日本卓球協会 (JTTA))が、アメリカでは1933年に現・USAテーブル・テニス(英語版)がそれぞれ設立されている。
卓球の日本への普及については、1902年に東京高等師範学校教授の坪井玄道がフランスから用具一式を日本に持ち込み、坪井の普及活動を契機に国内へ広まったとされる。一方で、山田耕筰の著作によると、より早い1901年には「岡山で卓球をした」という記録もある。
1937年には、日本では初となる国際試合が行われた。この際に、日本選手はハンガリーの元世界チャンピオンと対戦している。当時の日本卓球界にはまだラバー(上記)が普及しておらず、ラバーが貼られたラケットを用いる選手とは初の対戦であった。日本選手はラケットに何も貼っていない状態でありながらも、好成績を収めた。
第二次世界大戦後には、卓球はさらに競技スポーツとしての発展が進み、ヨーロッパのみならずアジアでの普及・発展が特に進んだ。中国では中国卓球協会(英語版)、台湾では中華民国卓球協会、韓国では大韓卓球協会(朝鮮語版)といった組織が各国等でそれぞれ発足している。また、大州ごとの各国協会間の連携組織として、1957年にヨーロッパではヨーロッパ卓球連合(英語版)が、1972年にアジアではアジア卓球連合(英語版)等がそれぞれ設立されており、世界の各地域での国際公式大会の主催等をしている。
卓球はやがて、1988年のソウルオリンピックよりオリンピック競技ともなった。その一方で、約100年の歴史をもつITTFも、エンターテイメント性の高い興行であるWTTへの移行を推進するなど、より一層の普及を図っており、今なお世界的に多分野・多方面への広がりをみせているスポーツである。
ここでは特に断りが無い限り、ITTFによる標準ルールのうち、非身体障害者による競技を想定したシングルス(1名対1名の試合)の規定について説明する。(他のルールについては以下の記事、節を参照)
ここではルールの理解に必要な最低限の用具の規定を概説する(詳細は用具節内の各説明を参照)。
卓球台(台、テーブルとも)は平らな上面(プレーイングサーフェス; 奥行2.74 m・幅1.525 mの長方形)をもつ塗装された木製の板である(⇒#卓球台)。プレーイングサーフェスは、競技場の床から76 cmの高さに設置されており、短辺をエンド、長辺をサイドとそれぞれ呼ぶ。プレーイングサーフェスは、エンドに平行なネットによって2つのコートに等分されている。試合で対戦する各プレーヤーは、それぞれのエンドのコートにつき、ネットをはさんで向かい合う。ネットはプレーイングサーフェスから15.25 cmの高さとなるよう、2つの支柱によって張られている(ネットと支柱を合わせてネットアセンブリと呼ぶ)。標準ボール(単にボールとも)は直径40 mmの、重量2.7 gのプラスチック製の球であり、光沢のない白色か橙色のものを用いる(⇒#ボール)。ラケットは木製のブレードにラバーを貼った用具であり、プレーヤーはラバーの面を用いて打球する(⇒#ラケット、#ブレード、#ラバー)。
卓球の試合は奇数のゲームから構成され、たとえば、最大で7ゲームを行う試合は「7ゲームマッチ」と呼ばれる。各ゲームは、両プレーヤーとも0点(0-0)のポイントスコア(単にスコア、得点とも)からスタートする。ゲームにおいてプレーヤーは、サービスから始まるラリー(ラケットによる相手コートへのボールの打ち合い)を行い、ラリーにおいて以下の要件を満たすことでポイントスコアを得る。
ひとつのラリーが終わったら、得点者の確認後、同様に次のラリーを行う。これを繰り返して11点を先取したプレーヤーが、ゲームの勝者となる。
ひとつのゲームが終了すると、ゲームの勝者にゲームスコアが1つ与えられて、次のゲームを同様に行う。このようにゲームを繰り返して行い、規定のゲームスコア数(最大ゲーム数の過半数)を先取したプレーヤーが、その時点で試合の勝者となる。たとえば、7ゲームマッチでは4ゲームの先取で試合の勝者となる。
以下に、本概要で述べた試合の手順・規定について詳細を示す。
試合の実施に先立って、挨拶、審判とプレーヤーの3者で試合に用いるラケットの確認及びコイントスを行う。コイントスの結果によって、試合開始時のサービス実施者や使用エンド(コート)等の諸条件を定める(日本では、コイントスに代えて、くじやじゃんけん (拳)の実施も行われる)。つづけて、プレーヤー間で2分以内のラリー練習を行う。
試合は第1ゲームから始まる。各ゲームでは、勝者が決まるまで、ラリー(サービス、レシーブと以降のリターン)によるポイントスコアの獲り合いを以下の通り行う。
ゲームでは、以上のようにサービスから始まるラリーが繰り返される。ひとつのゲームにおいては、2点差以上を付けて11点を先取したプレーヤーが、そのゲームの勝者となる。ただし、ポイントスコアが10-10となった際は、さらに競技を進めて2点差となる得点を先取したプレーヤーがゲームの勝者となる。ゲームの進行に際しては、両プレーヤーのサービスの機会や使用コートの均等化のため、以下の交替制が定められている。
試合においては、各ゲームの勝者にはゲームスコアが1つ付与される。プレーヤーは、試合の勝者が決まるまでゲームを繰り返し、ゲームスコアの獲り合いを行う。ゲームの終了時点で最大ゲーム数の過半数のゲームスコアを得た者は、試合の勝者となる。勝者の決定をもって、卓球の試合は終了となる(実施したゲーム数が最大ゲーム数に達していない場合でも、この時点で試合終了となる)。
以上が標準的な卓球の試合進行である。大会のような競技会においては、ひとつの試合が終わった後は、勝者が別の者と次の試合を行ったり(トーナメント戦の場合)、勝者・敗者ともにそれぞれ別の者と試合を行ったりする(リーグ戦の場合)。大会で予定された必要な試合のすべてが終了した時点で、各大会の規約等にそって優勝者や入賞者等が決まり、大会は終了する。
試合の進行に付随するその他のルール・慣例等を以下に述べる。
卓球におけるダブルスは、各チーム2名のペア同士の計4名で試合が行われる競技である。基本的にはシングルスと同じルールで行われるが、以下に示すいくつかの規定・条件が加わる。大きな特徴としては、各チームはペア内では、最後にリターンしたプレーヤーではないプレーヤーが、次のリターンを行わなければならないという点があげられる。すなわち、ペアのプレーヤーは必ず交互にリターンしなくてはならない。詳細を以下に示す。
以上のことから必然的に、ダブルスにおいては、誰が誰の打球をリターンしなくてはならないかは固定化される。このリターンする打球順については、ゲームが進むごとに次のように交替となる。
以上のようにダブルスの打球順は複雑であるが、この結果として、相手のペアの2名について両者からの打球を受ける機会は、試合全体で均等化されている。また、ダブルスのみの規定として、以下のようにサービスのコースについて制限がある。
世界卓球選手権や全日本卓球選手権などの大会では、男子2人または女子2人のそれぞれのペア同士で行われるダブルス(男子ダブルス、女子ダブルス)に加えて、男子1人・女子1人ずつのペアで行う混合ダブルス(ミックスダブルス)が行われている。
上で述べた通り、ダブルスにおいても、サーバーのペアは2回のサービス実施(2回のラリー)ごとに交替する。以下に、プレーヤーA(以下単に「A」と記す)とプレーヤーB(同「B」)のペアと、それに対するプレーヤーX(同「X」)とプレーヤーY(同「Y」)のペアの打球順序の交替の例を示す。ここで、Nは0以上の整数であり、サービスは第1球目、レシーブは第2球目と数えている。以下同じく、レシーブに対するリターンは3球目であり、3球目打球へのリターンが4球目...となって、ラリーが継続する。
上の表の通り、ひとつのゲーム内ではリターンするべき打球をする相手は一貫して固定されている。また、ひとつのゲーム中では、打球順は常に...→A→X→B→Y→A→...のように循環していることも分かる。
以下に、第一ゲームの打球順が上の表の通りであった場合の、以降の各ゲーム開始時の打球順の例を示す。上記の同じゲーム内における場合とは異なり、エンドの交替(ゲームの開始、あるいは、最終ゲームでのいずれかのペアの5点先取)が起こると、リターンするべき打球を打つ相手も交替する。この交替の結果として、先ほどの打球順の「循環」は...→A→Y→B→X→A→...のように逆転するようになる。
ここでは可能な2つの選択例をそれぞれ示した。第2ゲームの初めのサーバーはXでもYでもよい。このとき一方で、レシーバーのペアは、Xの打球はAが、Yの打球はBが、それぞれ必ずリターンしなくてはならない。第3ゲーム以降も、各ペア内において、ゲーム開始時のサーバーは自由に選んでよい。各ゲーム内で固定し、かつ、エンドの交替ごとに交替するものは、リターンすべき打球をする相手(誰が誰の打球をリターンするか)である。
以上のように、卓球はあくまでもシングルスやダブルスといった「個人または2人ペアによる競技」である。一方で、国・地域や競技団体などのチームとチームの「対戦」として、団体戦も多くの大会で開催されている。卓球における団体戦は、各チームに登録された選手がシングルスやダブルスの試合を複数回行うことで実施される。
団体戦は開催される大会等により様々な方式が採られ、試合順・構成は必ずしも統一されていない。世界卓球選手権等では、対戦する各チームは3人の選手で構成されている。この3人から試合出場順(オーダー)を決めて、シングルスによる最大5回の試合を行い、先に3勝した側が勝ちとなる方式が採用されている。北京オリンピックの団体戦等では、同じく1チームは3人の選手で構成されるが、4試合のシングルスと1試合のダブルス(4単1複)を実施する方式であった。日本国内の大会でも、参加者数や競技実態をふまえた様々な形式の団体戦が実施されている。
卓球の世界的な標準ルールは、1926年に発足の国際卓球連盟(ITTF)が管理・管轄している。歴史の項で示したように、現在の卓球とはまだスタイルの異なる競技であったとともに、用具の開発も黎明期にあった。このような状況において、卓球を国際的な競技スポーツとするため、様々なルール整備が行われた。現在の卓球に近い競技となった後も、以下に示したように、技術や用具の変遷に応じて、卓球の健全な普及のために、ルール等の改正が行われている。
卓球における用具とは、卓球台やその付随品などの競技環境設備のほか、ラケットや競技用服装等といったプレーヤーが身につけて使用する道具・服飾類を総称したものである。卓球の打球等の運動は非常に繊細であり、ボールの軌道やスピン、バウンドは用具によって大きな影響を受ける。そのため、卓球の公的管理組織(ITTFやJTTA等)によって、その規定が詳細になされている。以下では、各用具について概説する。
卓球におけるラケットは、サービスやリターンの際にボールを打球するものであり、ブレードとラバーから成る。ブレードは主に木材(単一の木板あるいは合板)から作られている。ラバーは表面がゴム製であり、打球する面にはラバーが貼られていなければならない。様々な特徴を有した多くのラケットがあり、プレーヤーは目的に合うラケットを選択することができる。ただし、一つの試合中においてプレーヤー個人がラケットを変更することは、原則としてできない。なお、用具のなかでもラケットは特に繊細であり、保管には温度・湿度・日光などの条件に注意を払う必要がある。
打球時にボールがラケットから受ける力は、打球面に対して垂直(ラケット面の法線方向)および平行(同接線方向)の二つの力に分けて理解される。K・ティーフェンハッバ(カールスルーエ大学)とA・デュリー(パリ=サクレー大学)による打球の運動モデルは、ボールに対するラケットの法線方向・接線方向それぞれの反発係数をパラメーターとして、打球の速度やスピンの挙動をよく説明している。いまひとつのパラメーターは振動特性である。川副嘉彦(埼玉工業大学)によるシミュレーションモデルと実測の検証によると、打球時に振動が少ないラケットは、エネルギーの散逸が起こりにくく、結果として球威が高くなる。これに加えて、打球面の動摩擦係数も打球に影響を及ぼす(ラバーの項で後述)。これらの力学的パラメーター(各反発係数、振動特性、動摩擦係数等)は球質に強く影響するため、用具メーカーはラケット(ブレードおよびラバー)の開発に際して、これらの指標を重視している。製品においては、消費者(主にプレーヤー)に分かりやすいように、各パラメーターやそれに代わる数値等の表現が用いられている。
世界各国・地域でラケットには様々な呼び方があり、日本やITTF等の国際協会では「ラケット」、アメリカ合衆国では「パドル」、ヨーロッパでは「バット」と呼ばれる。
公式試合に使用可能なラケットには、レジャー向けの廉価なラバー付きラケットや、競技レベルの選手向けの市販製品ラケット、選手自身の好みでカスタマイズした特注ラケット等がある。日本国内の公式試合に使用するラケットには、目視できる箇所にメーカー名やJTTAの公認証の表示が義務付けられている。
卓球には異なる握り方のラケット(主にシェークハンドとペンホルダーの二種)がある。現在はシェークハンドが比較的多数を占めている。一方で、中国式ペンホルダーを使っての両ハンド攻撃を得意とする選手が世界ランキングの上位に名を連ねることもあり、一概にどちらが優位であるかを結論できない。
シェークハンドラケットは、握手(英: shake hands)するように握るラケットである。両面にラバーを貼って使用する。ラバーは表面と裏面で異なる色のものを貼らなければならない。グリップの形状は、ストレート、フレア、アナトミックなどの様々な形状にさらに分類される。一般に、図のような円弧状の打球面のラケットが使われている。フォアハンド面(手のひらの側)とバックハンド面(手の甲の側)の各面それぞれを比較的容易に打球したい方向に向けることができる。伝統的にヨーロッパ出身の選手は主にシェークハンドを使用している。近年、特にフォアハンドとバックハンドの両面(両ハンド)での攻防を重視するプレーヤーは、シェークハンドを選択する傾向にある。
ペンホルダーラケットは、ペンを持つように握るラケットである。ペンホルダーラケットはさらに日本式ペンホルダーラケットと中国式ペンホルダーラケットに大別できる。いずれも表面にラバーが貼られる。表面のみにラバーを貼る場合は、ラバーを貼っていない裏面での打球は認められない。一方で、裏面にラバーを貼ることもできる。たとえば、試合中やラリー中にラケットの表裏を反転して、球質の異なる打球とすることができる(反転打法)。他に、裏面打法を行うプレーヤーもいる。ラバーの色の規定はシェークハンドと同様である。シェークハンドに対して比較的、フォアハンド側やミドル(身体の正面付近)、台上の打球に対処しやすい。歴史的にアジアでは、ペンホルダーが主流であったが、1990年代以降にシェークハンドを使用する選手が増加し、ペンホルダーの選手数を上回ってきている。一方で、主に片面のみにラバーを張るペンホルダーは、シェークハンドより重量が軽く、また、決定打の威力も出しやすいため、女子プレーヤーやフットワークに優れたプレーヤーの選択肢でもある。
ブレードは平らな木板とグリップからなるラケットの主要構造部分である。ブレード面は硬質な平面でなければならず、その材質は厚みの85パーセント以上の部分が天然の木でなくてはならないと、ITTFは規定している。一方で、ブレードの大きさ(面積)は特に定められていない。
競技レベルの卓球では、正確なボールタッチによる打球のコントロールが要求され、ブレードの特性は重要である。この特性のひとつは反発係数であり、これは打球の弾むスピードを支配する。もうひとつは振動特性であり、これは打球時のラケットの微小変形・振動のし易さの指標である。一般に、硬いラケットほど反発係数が高く、よりスピードのある打球が可能となる。表記はまちまちだが、各メーカーはブレード製品の上記の特性を様々な数値等で表示している。
ブレードの主要素材は木材である。一枚の板からなると単板製のブレードと、異なる特性の複数の板材を組み合わせた合板製のブレードに区別できる。ブレードの特性は、素材は使用される木材の特徴のみならず、その製造工程等によっても変化する。
先述の通り、ブレードは厚みの15%以内であれば天然の木以外の材料を使用することが認められている。用いられるブレード材の一部として、炭素繊維、アリレート、ケブラー、ガラス繊維、チタン、ザイロンなどの特殊素材やそれらの複合材が使用されている。ブレードの合板構成のなかに特殊素材が用いられることで、木材のみのラケットよりも反発係数が一般に高くなる。また、ブレード面の比較的広い範囲で反発特性・振動特性が均一で、最適打球点(いわゆるスイートスポット)が広いとされる。一方で、特殊素材を含むブレードでは、木材のみのラケットに比べて、緩急を付けにくいという短所もあるとされる。
現代の卓球では、ラバーは重量化とスピードグルーの使用禁止に伴って、ブレードにおいて軽さと高い反発特性の両立が求められている。そこで用具メーカーは、軽いが吸湿性のある桐材の有効利用を模索し、これを簡便に乾燥させて造るブレードの製造法を確立した。桐材を低温で加熱処理して含有の水分を除き、ブレードの軽量化し、さらに、吸湿性を低減した。この製法によるブレードは、高い反発係数と振動特性を得つつ、広いブレード面での均一な特性を有しており、特殊素材製のブレードのような性質であるとされる。
卓球のラバーは、粒の配列構造を片面に有するゴム製のシートであり、ラケットにおけるボールの打球面である。ゴム製のシート単独からなるツブラバー、および、ツブラバーとスポンジ製のシートを接着剤で貼り合わせたサンドイッチラバーの二種に大別できる。
ラバーにおいては、既に述べた反発係数がその特徴に影響を及ぼすほか、動摩擦係数も大きくラバーの性質を左右する。以下に示すラバーの分類において、各ラバーの反発係数と動摩擦係数は著しく異なっており、それらは競技の実践上で打球の特徴となって表れる。一般に、反発係数の大きなラバーはスピードの速い打球を生み出し、動摩擦係数の大きなラバーは回転を強くかけることができる。ボールが平面でバウンドする際には、ボールが滑らずに(接触面で瞬間的に拘束されて回転しながら)バウンドするケース、および、ボールが接触面で滑ってバウンドするケースの2パターンに分類できる。どちらのパターンが主となるかは、打球の速度・スピンのほか進入角度にも依存するが、これらに加えてラバーの性能でも決まる(反発係数と動摩擦係数が高いほど滑らない)。一般に、滑らないバウンドの仕方において、ラケットのスイングに沿った(打球者が通常意図する)スピンがかかることになる。
他のラバーの性質としてラバーの硬さがあり、ラバー硬度という指標で表記される。硬さの表記にはISOに準拠した硬度やその他の値など複数の表示が採用されており、プレーヤーがラバーを選ぶ際に参考とされる。一般に、硬いラバーは威力のある打球をしやすく、柔らかいラバーは打球のコントロールがしやすいとされる。
ラバーの厚さはITTFの規則で定められており、ツブラバーにおいては、ゴムシート部の厚さは2.0 mmを以内でなくてはならない。サンドイッチラバーにおいては、ツブラバー部分の厚さは2.0 mm以内、ツブラバー層とスポンジ層の厚さの合計は4.0 mm以内と定められている。他に、粒の形状やアスペクト比に関しても規定が詳細に定められている。ラバーには多くの種類が存在するが、公式戦の出場には主幹する卓球連盟等の認証が必要である。たとえば、ITTFが管轄する国際大会等では、ITTFの公認ラバーリストに掲載されているラバーに限り使用が認められている。2006年4月以降の日本国内の公式大会においては、JTTAあるいはITTFによって公認されているラバーの使用が認められている。
ラバーの特性は、特に最表面のゴムシートの特性に大きく依存しているほか、スポンジ層との組み合わせ等によって複合的に決まり、多様なラインナップがある。以下の各項にてラバーの構成部材について述べる。
多くのラバーに共通する基本的な構成と特徴は以上の通りである。ラバーの性質に加えて、ブレードの特性(主に反発係数、振動特性等)も打球に影響するため、プレーヤーに合うラケット(ブレードとラバーの組み合わせ)を求めるには、情報収集や試行錯誤が必要となる。
なお、ラバーの長期的な耐久性はあまり高くない。使用せずとも少しずつ酸化等でゴムが変質し、練習等での反復使用によりラバーの性能(反発特性や動摩擦力)は徐々に変化してくる。用具メーカーが推奨するラバー交換の目安(ラバーの寿命)は、一般の選手で1カ月、練習量が少ない選手でも2 - 3カ月とされる。短期的な視点では、プレー中にラバーに埃などが付着し、表面の性能が変化する。これらの付着物を拭き取ってラバーの性能を回復するため、専用のラバークリーナーも市販されている。
以下に、各タイプのラバーについてそれぞれ解説する。
裏ソフトラバーは、ゴムシートの平らな面を外向きにして(粒側を内側に向けて)スポンジ層と貼り合わせたサンドイッチラバーの一種である。ボールとの接触面積が広く、動摩擦係数が大きくなるため、ボールに回転をかけやすい。一般的なほとんどの打法を実践しやすいため、現在においても最もよく使われているタイプのラバーである。
表ソフトラバーは、ゴムシートの粒の面を外向きにして(平面の側を内側に向けて)、スポンジと貼り合わせたサンドイッチラバーである。ゴムシートの粒の側が最表面であるために、ボールとの接触面積が小さい。このため、高い反発係数を有しつつも、動摩擦係数は比較的に低めになり、いわゆる「球離れが早い」跳ね返り方をする。裏ソフトラバーと比べると、相手の打ったボールの回転の影響を受けにくい。基本的に前陣速攻型のプレーヤーやカット主戦型のプレーヤーが用いる場合が多い。シートの粒形状や特性により回転系・スピード系・変化系等に分類される。
裏ソフトラバーよりも製品のラインナップは比較的少ないが、裏ソフトラバーのケースと同様に、従来よりも高弾性なテンション系表ソフトラバーなどの新たな開発品も製品化されている。反発係数の大きなスポンジを採用した回転系テンション系表ソフトラバーも市場に現れるなど、表ソフトラバーの特徴を活かした新たな用具の開発も進められている。
後述のラージボール卓球の競技では、ルールにより表ソフトラバーのみが使用を認められている。ラージボール競技用に開発された表ソフトラバーも存在し、これらは硬式用と比べて柔らかいものが多く、ボールが変形しにくいという特徴を有している。
粒高ラバー(ツブ高ラバー)は、構造上は表ソフトラバー(上記)と類似しており、ゴムシートの粒の側を外側に向けたラバーである。表ソフトラバーとの違いは、その名の通り、粒の高さが高く、粒が柔らかいといった特徴である。スポンジの有る粒高ラバーと、スポンジの無い一枚の粒高ラバーの二種が、主に市販されており、これらを総称して、粒高ラバーと呼ぶ。
粒高ラバーは、構造上の性質から、打球時に大きく粒がしなるように変形する。反発係数も動摩擦係数も低いことが特徴である。粒が柔らかいほど、打球に変化をつけやすい。自発的にボールに回転を与えるのは難しい一方で、相手の回転の影響も受けにくい。そのため、相手の回転を利用したり、そのまま回転を残してリターンしたりしやすい(参照: スピンに応じた打法)。粒高ラバーでの打球では、自身の打法と相手の打球の質の双方に影響をうけるため、扱う側も予測しない回転や変化が表れることもある。使用者の技量にもよるが、粒高ラバーによるドライブ打法等も可能である。
粒高ラバーは、主にカット型や前陣攻守型のプレーヤーが変化を付けるために用いる。反転型ペンホルダーラケットに貼って使用する場合もある。いすれも、戦型によって粒高ラバーは用途が異なり、好まれる製品も異なる。
かつては、シート表面にアンチ加工(摩擦を低減する加工)を施されたアンチ粒高ラバーが存在していた。2008年以降にアンチ粒高ラバーの使用が禁止されたことにより、以前と比べて粒高ラバーの性能は相対的に低下しており、プラスチック製ボールの移行後はさらにこれが顕著となっている。一方で近年は、従来の粒高ラバーよりも高弾性化したテンション系粒高ラバーも登場している。
ツブラバー(一枚ラバーとも)は、表ソフトラバーからスポンジを除いた構造のラバーである。第二次世界大戦以前のラバーとしては、このツブラバーしかなかった。反発係数も動摩擦係数も低めのラバーであるが、安定した打球を打てるという利点がある。現在、このラバーを用いる選手は非常に少ない。かつては、このツブラバーの構造の表裏を裏返したラバー(裏ソフトラバーからスポンジを除いたものに相当)も存在したが、この裏返したラバーは現在のルールでは使用が禁止されている。
アンチラバーは、一見しての外見は普通の裏ソフトラバーだが、動摩擦係数が極端に少なくなるように設計されたラバーである。アンチラバーを用いて裏ソフトラバーと同様の打法を試みても、ボールに回転かかる回転量は小さい。
かつては、同色の裏ソフトラバーと組み合わせることで、ラバー外観の酷似性とそれに反した性質差を利用し、ラケットを反転させて相手に打球の変化を分かりづらくさせるスタイルに主に使用されていた。しかし、両面に同色のラバーを貼ったラケットが使用禁止となった(1983年のルール改正)後は、アンチラバーの使用者は激減した。
上述の通り、競技用のラケットの多くは、ブレードとラバーが別々に市販されており、両者を接着してラケットとして完成させる必要がある。ブレードにラバーを接着する接着剤について、現在使用が認められているのは、水溶性接着剤や接着シート、固形接着剤である。かつては、ゴムを有機溶剤で溶かした接着剤が広く使用されていた。しかし、有機溶剤が人体に有害であるため、2007年4月1日よりの日本国内の小学生の大会から段階的に、有機溶剤を含む接着剤の使用が制限されはじめた。2007年9月1日以降は、有機溶剤を含む接着剤は日本国内のすべての大会で禁止された。国際大会では2008年9月1日より禁止となった(詳細はスピードグルーや補助剤の節を参照)。
現在、日本国内においては、JTTA公認の接着剤の使用が認められている。一方で、2009年時点おいてITTFは、特定の接着剤を公認していない。公式大会等では、仮に意図して有機溶剤を用いてなくても、試合後のラケット検査で残留溶剤が検出された場合は失格となる。これを防ぐには、ラバーのパッケージを開けてから72時間程度放置した後に、非有機溶剤系の接着剤(日本ではJTTA公認品)を使用して、ラバーをブレードに貼ることが良いとされる。
スピードグルーは、ラバーをブレードに貼り付ける接着剤の一つであり、有機溶剤を多く含む。ラバーに塗ると、溶剤分子がスポンジの中で拡散して、ラバーのスポンジが膨張する。この状態でラバーをブレードに貼ると、スポンジの膨張分だけラバー全体が面方向に引っ張られて常に伸長負荷がかかり、ラバーの反発力と摩擦力が高くなる。ラバーに負荷がかかり劣化が早まるデメリットがあったものの、スピードグルーは世界的に普及し、主に攻撃型の選手に広く普及していった。
しかしルールの変遷で述べたように、現在は、スピードグルーは使用が禁止されている。スピードグルーの問題を提起したのは、ITTF会長(当時)の荻村伊智朗であった。このときは、選手のスピードグルー使用による見学者の中毒事故等の事例が知られていた。荻村は、卓球の普及という観点から、次の理由をあげ、スピードグルーの使用禁止を提案した。
こうしてまず、スピードグルーの成分であるトルエンの規制が実施された。しかしながら、この規制によりスピードグルーのラバーへの効果が低下したため、逆に、スピードグルーの効果を高める「重ね塗り」や「蒸らし」といった溶剤を多用する用法が編み出された。このように、スピードグルーの使用と規制は、イタチごっこの状態が長らく続いた。
やがて、卓球選手のスピードグルーによるアナフィラキシーショックの事故が起こり、健康上の問題が再度議論されるようになった。こうした経緯から、荻村の遺志を継いだ日本委員のリードによって、ITTFはスピードグルーの使用禁止をついに決断し、北京五輪終了後の2008年9月1日をもって、公式ルールにて禁止とされた。
前述の通り、有機溶剤を含む接着剤の使用が禁止されたことで、毒性のない水溶性接着剤(主成分は水、天然ゴム、アクリル)が普及した。一方で、スピードグルーの使用が禁止となることを見越して、「ブースター」と呼ばれる接着力のない補助剤や水溶性グルーが卓球用品メーカーから販売されていた。補助剤のラバーへの使用によって、スピードグルー同様にラバーの性能を向上させることができた。揮発性の有機溶剤を含まず鉱物油を主成分としているため、取り扱いが比較的容易で、かつ、効果が持続しやすい、といったメリットがあった。
これについてITTFは、補助剤の塗布はラバーを加工・改造する行為であり「用具のドーピング」にあたるとして、ルール改正を行い、事実上、補助剤を使用禁止とした。日本ではJTTAも、ITTFのルール改定通知に基づき、2008年10月1日以降に開催される全ての大会において、ブースターを含む補助剤類についても使用禁止すると発表した。禁止対象の補助剤類を販売していた卓球用具メーカーも、2008年9月末をもって販売を中止することを発表した。
補助剤の規制は速やかに進んだ一方で、スピードグルーの禁止から僅か1ヶ月で補助剤も禁止されたため、補助剤を発売してきたメーカーは、多くの在庫を抱えるようになり、経営を圧迫したとされる。また、大会運用の不備面として、禁止化の直後のヨーロッパ卓球選手権では、ラケットの検査機器が新ルールに対応できなかったことから、従来通り補助剤を使用する選手もいる状況になっていた。
グリップ部のテーピング等も含めて、ラケットの操作性・保持性に好ましい素材のブレード部への付与等は(他のルールを侵さない範囲で)認められている。このうちのサイドテープは、競技中に予期せずラケットが卓球台にあたったときに、ラケットの側面(サイド)を破損しないためにつける保護テープである。金属製のサイドテープもあり、ラケットの総重量や重心位置を調節することも出来る。
一般的に卓球(硬式卓球)で使用されているボール(試合球、ピンポン球とも)は、直径が40 mmで、重量は2.7 gである。ラージボール卓球のものは、直径が44 mmで、重量は2.2 - 2.4 gである。ボールの色は白と橙色の二色がある。硬式卓球ではどちらの色のボールを使用してもよいが、ラージボール卓球では橙色のみが用いられる。ボールの品質はプレーの精度に大きく影響する一方で、完全な球構造のボールを高精度で大量製造することは技術的に難しい。そこでボールの製造においては、同じ製造ラインで作られた球をすべて検査して、個々の真球度に応じてグレード付けする方法を採っている。真球度が最高のものは3スター (スリースター)とグレード付けされている。JTTA主幹のものを含む多くの大会では、3スターのボールが使用される。
歴史をみると、硬式卓球の試合球のサイズは、2000年のルール変更で、直径38 mmから直径40 mmへと大きくなっている。このボールの大きさの変化によって、以下の影響があったとされる。
ボールの素材にも変化があった。かつてはセルロイドが主流だったが、2010年代に非セルロイドの材質のもの(各種プラスチック素材)に移行している。セルロイド製のボールは燃えやすく、火災の危険性があったためである。危険物として航空機への持込を断られた事例(アテネ五輪前)もあり、IOCがITTFにボールの材質変更を求めたともいわれる。なお、ボールの材質の変更に際しては、ITTFは以下の理由を挙げている。
日本では、2014年から日本卓球教会の定めるルールとして、非セルロイド素材で製造する事が義務付けられ、以降、プラスチックボールが用いられるようになった。プラスチックへの材質変更による影響として、次の変化があったとされる。
また、ブラスチックボールの導入初期は、メーカーによって性能のバラツキが大きく、また、壊れやすいという指摘もあった。
卓球台は競技を行うにあたって、卓球台は競技場の床面に設置される水平な台であり、サイズや高さ、材質、物性がルールで規定されている(サイズ等の詳細はルールを参照)。卓球台は、経年による反り返りを防ぐために3層構造になっている。三層の中心の層には、細長い板がフローリング床のように横の継ぎ目をずらして配置され、変形を防ぐ設計となっている。プレーイングサーフェスの反発性能として、全面での均質なボールの跳ね返りが規定されている。
卓球台(プレーイングサーフェス)の色は、1980年代まで主に緑色であった。卓球のイメージチェンジのために、荻村伊智朗(当時ITTF会長)の発案により、青色の卓球台が製作された。この卓球台は、1991年に千葉市で開催された第41回世界卓球選手権や翌1992年のバルセロナオリンピックで用いられ、以降、世界中に広まって主流のカラーリングとなり、現在に至っている。
競技領域とは、大会等の試合会場にて確保・設営される、卓球競技が実施される空間領域のことである。卓球台(ネットアセンブリを含む)を中心として、コート番号の表示、適切な床面、審判席、スコアカウント器、タオルボックス、打球止めのフェンス等のほか、ボール一式など必要な用具が備えられている。プレーヤーの競技ができる範囲として、競技領域の奥行は14 m以上、幅は7 m以上、かつ、高さは床面から5 m以上の空間が確保されている。参考までに、卓球台自体は2.74 m×1.525 mの領域に過ぎないが、卓球台の20倍以上に及ぶ競技領域の確保には、バスケットボールやバレーボール等の全コート面の四半ほどの広さが必要となる。また、建築基準法施行令第21条による天井高さは「2.1メートル以上」であるが、当該施行令が想定するような空間の多くは上記の高さの要請を満たさず、公式な卓球競技は実施できない(もちろん、練習や娯楽・文化としての卓球ではこの限りではない)。
卓球における競技用服装(英: playing clothing)は、上が襟付でポロシャツに類似した形状のものやTシャツ状のもの、下はハーフパンツ・スカートが基本である。日本国内の公式試合で使用が認められるのは、JTTAの公認品のみである。また、プレーヤー同士が類似した色の競技用服装を着ていた場合は、片方のプレーヤーが着替えなければならない。JTTA主幹のものを含む日本国内の試合では、ゼッケンの着用も必須である。
かつての卓球の競技用服装は、単色のポロシャツ形状のものが多かったが、近年はテニスやバドミントンと似た素材・デザインで、軽く撥水性が向上したものが多い。ショーツは股下が短いものが多く、女性に不評であったが、近年では男性用でも太ももにかかるくらいのものが増えるなど、時代に応じて変化している。また、アンダーシャツやスパッツの着用も認められている。
また、事前の確認が必要であるが、個人がデザインした競技用服装も、前述の要件を満たせば使用可能である。2007年1月に行われた全日本卓球選手権では、四元奈生美がワンショルダーとミニスカートという斬新な競技用服装で試合に出場し、注目を集めた。
シューズに関しては、ある程度の水準の大会までは特に規定がなく、一般的な体育館用シューズであれば何を履いてもよいとされる。ほか、ヘアバンドやリストバンド等も規定の範囲で使用可能である。
卓球におけるロボットマシーンは、全自動で一定の(あるいは、規則的/ランダムな)回転やコースの飛球を対面のコートに周期的に送り続ける機械装置であり、実戦等での対戦相手の打球を疑似的に連続再現するための練習用の用具である。
卓球の練習法のひとつに多球練習がある。人と人による多球練習において、文字通り多くのボールを一度に用いて、一方の者が相手の練習者に様々な球質のボールを相手コートへ連続的に送り込み(球出し)、練習者はこのボールを連続でリターンし続けてトレーニングを行う。ロボットマシーンは、この多球練習の球出しの役割を人間に代わって行うことができる(すなわち、練習者が独りだけの状態であっても、多球練習ができる)。
なお、本項で述べるロボットとは根本的に異なった、人間のプレーヤーのようなラリーを行うことのできるロボットも工学の研究対象として開発されている(卓球の普及の項を参照)。
卓球における打法は、第一球目のボールを打ち出す技術(サービス)、および、その後(第二球目以降)のラリーにおいてボールを打ち返す技術(リターン)に分けられる。いずれも、主にフォアハンドとバックハンドに大きく分類される。台から離れた位置からの打法に加えて、台上(プレーイングサーフェスの上)で打球に対応する為の台上技術の存在も、卓球の特徴の一つである。
かつてはフォアハンド打法主体のプレーが主流であったし、事実として今なお、より強力な威力(速度・スピン)の打球ができるのはバックハンドではなくフォアハンドでの打法である。しかし時代とともに、新打法や厳しいコースを突く戦術等が開発され、ラリーのスピードは全体的に速くなった。現代では、この速いラリーに対応するために、フォアハンドとバックハンドを速やかに切り替えて両ハンドによる強打で攻める戦術が発展している。
以下では、特に断りがない限り、右利きのプレーヤーの打法について述べる。左利きのプレーヤーについては、下記の内容において適宜左右を反転させて読解することで、同様の打法を理解・実践できる。
打法の多くはボールの回転(スピン)を利用する。打法におけるスピンの制御は、打球の挙動ひいてはリターンの成否、得点・失点につながる重要な要素である。スピンは、縦回転(上回転/下回転)、横回転(順横回転/逆横回転)、コークスクリュー回転(ヘッドコークスピン/フットコークスピン)の独立した3軸方向の回転に分類できる。実際の打法によるスピンは、この3軸回転のなかのいずれか、あるいはそれらの複合されたものである。どの軸方向にもほとんど回転のかかっていない無回転(ナックル)の打球も存在する。
理想的な質点は重力の存在下で放物線の軌道を描くが、卓球のボールの飛跡はスピンの影響を顕著に受ける。たとえば、スピンと空気の存在に由来する抗力と揚力(マグヌス力等)によって、放物線から外れた軌道となる。また、スピンを有する飛球が卓球台やラケット面でバウンドすると、多くの場合は、回転するボールと接触面の摩擦によって、逸れた方向へ飛び出すようにボールが跳ねる。
一例をあげると、あるプレーヤーが上回転をかける打球をすると、このボールは下方向に向かって徐々に放物線軌道よりもずれていく。このボールが相手コート上でバウンドすると、ボールは前進方向へ加速を受けて跳ねる。このボールを相手が正面から静止したラケットで打球しようとすると、ボールはラバーの表面で上方向へ跳ね上がるように反射する。
打法によって生み出されるスピンは以上のような効果を有しており、リターンを試みる際はこれらの点に注意する必要がある。以下の表に、ボールの回転とその揚力による軌道・反射の変化についてまとめた(表中の「方向」は、A・デュレ(パリ=サクレー大学)とR・セイデル(アディダス)による検討等における座標系に準じており、いずれも打法の打球者からみた方向を示している)。
スピンパラメーター SPは、上術のボールの回転がバウンド時等に与える影響を定量化する為の、スピンの強さの指標である。バウンドの検討対象とする平面(プレーイングサーフェスやラケット面)に平行な速度やスピンの成分について、打球の速さを v {\displaystyle v} m/s、スピンの回転数を ν {\displaystyle \nu } Hzとしたとき、以下の式で定義される(式中の π {\displaystyle \pi } は円周率であり、 r {\displaystyle r} はボールの半径0.020 mである)。
S P = 2 π r ν v {\displaystyle SP=2\pi r{\frac {\nu }{v}}}
スピンパラメーターの値は正と負の両方を取り得るが、対象とするバウンド面上でボールが加速を受ける回転方向のものを正として、デュレとセイデルの検討では打法ごとについて表に示した値が報告されている。一般に、ボールの回転数が大きいほど、また、ボールの速度が遅いほど、スピンパラメーターは大きくなる。スピンパラメーターが1を超えると、スピンの効果が打球速度のそれを上回り、ボールは対象面上において前進方向へ加速を受けることができる(例: ドライブ打法による前進するバウンド)。反対に、スピンパラメーターが-1より下回っていると、対象面との接点の反対側において、ボールは進行方向と逆向きに局所運動している(例: カット打法によるボール)。また、ボールが飛行中に受ける揚力(マグヌス力)ひいては軌道の変化の度合いも、スピンパラメーターの値に依存する。
サービスにおける打球などを含めて、無回転のボールを打球すると、スイングの方向に応じたスピンがかかる。スイングでボールに与えるエネルギーの相当量がスピンの発生に用いられるため、無回転のボールに回転をかけて狙いの方向へ飛ばす為には、ラケットのスイングや打球面の角度の調整に注意を払う必要がある。
次に、強いスピンがかかったボールに応じる例として、プレーイングサーフェスに対して大きな正のスピンパラメーターをもつ打球(ドライブ打法等の上回転の打球)をリターンしなくてはならない局面での、打法の原則を示す。
以上では縦方向の回転(上回転/下回転)を例として取り上げたが、他の回転方向のスピンについても、これらの原則は同様である。
卓球では必ずサービス(いわゆるサーブ)から一連のラリーが始まる。サービスは、これを戦略の起点としてゲームを組み立てる、最重要技術のひとつである。サービスは、フォアサービスとバックサービスに大きく分類され、さらに、それぞれにショートサービスとロングサービスがある。特にサービスにおいては、ボールの回転は重要な要素である。縦回転・横回転・コークスクリュー回転や、これらの複合回転あるいは無回転(ナックル)のサービスといった、多くのバリエーションの球質を出すためのサービスが存在する。一見同じモーションのサービスであっても、微妙なラケットの角度や向き・速度等の変化の技巧で、回転の質・量やスピードの異なる球種を出すことができる。
時代ごとのルール改正により、レシーバーは相手のサービスの性質(回転や速さ、コース等)を見抜きやすくなる傾向にはある。しかし逆にこのことで、さらに高度なサービス技術が発達してきたという側面もある。代表的なものとしては、フェイクモーションやラケットの視覚的秘匿、フォロースルー、バーティカルサービス等がある。また、トッププレーヤーになると、レットによるサービスのやり直しを利用する者もいるほか、巧みなサービスの一連の動作で、相手のレシーブのタイミングを外したり、相手のペースを乱したり、高度なサービス戦術を採るプレーヤーが多い。
フォアサービスは、自分の体に対して利き腕側(右利きであれば、身体の右側)からのラケットのスイングで、ボールを打ち出すサービスである。サービスに適したスイングを行いやすいよう、サービス時のみラケットのグリップ法を変えることもある。シングルスの試合では、自陣のバック側の位置からサービスを出すことが多い。以下に、フォアサービスの応用技術例を示す。
バックサービスは、主に利き腕の反対側(右利きの場合、身体の左側)からラケットをスイングして・打球されるサービスである。身体に対して、どの位置でボールをインパクトするかはプレーヤーによって異なる(フォア側まで振り抜いて打つプレーヤーもいる)。両足のスタンスをラリー時と同じに保ってサービスを出せるため、サービス後に早くラリー時の体勢へ戻すことが出来るという利点がある。
以下では、フォアサービス・バックサービスを問わず、その他のサービスやその付随技術を解説する。
本節以降では、レシーブを含めたラリーにおける打法技術について、それぞれ概説する。ラリーにおいても、打法はフォアハンド打法とバックハンド打法に大別される。フォアハンド・バックハンドともに、前陣(台上や台に近い位置)・中陣(台から少し離れた位置)・後陣(台から離れた位置)の位置取りや相手の打球の質によって、各打法の詳細は異なる。なお、フォアとバックの中間的な位置はミドルと呼ばれる。
フォアハンド打法は、身体の利き腕側の飛球に対して、ラケットを外側(右利きの場合、右側)から身体の中心に向けて弧を描くように振り、このスイング動作でボールを捉えて打球する技術である。利き腕を動かせる空間的あるいは身体的な自由度が高く、スイングを大きくできるので、威力のある打球が可能である。
バックハンド打法は、身体の利き腕とは逆側の飛球(右利きの場合は左側の飛球)を打つ打法である。利き腕が体幹等と交差するため、フォアハンドと比べてスイングは小さくなる。打球の威力は出しにくいが、身体の前で素早く打球できるといった特徴がある。相手の打球をリターンして再度相手へ返すまでの時間を短縮しやすいため、速いラリー展開に持ち込む場合に有効である。
フォアハンド打法主体の時代には、利き手側の逆足(右利きの場合は左脚)をやや前に出すスタンスが基本であった。近年、フォアハンドとバックハンドによる両ハンド打法が求められるにつれ、両足をほぼ平行にしたスタンスから、フォアハンドとバックハンドの両打法を行うスタンスが標準的となっている。
ロング打法は、卓球台からそう離れていない位置(前陣・中陣)への飛球に対して、特に意識した強い回転をかけようとせずに、身体の外側から中心に向けてラケットを斜め上に振り抜き、ボールをやや摺り上げるようにして前方の相手コートへとリターンする打法である。フォアハンドロング打法とバックハンドロング打法とがあり、それぞれ、後述の様々な打法の基礎となる標準的なスイングである。強振しないロング打法(特にフォアハンドロング)は、専ら練習においてラリーを長く続ける目的で行われることがあり、卓球入門者の基礎固めや中・上級者のウォーミングアップとして、利用される打法である。フォアハンドのロング打法は、単にフォア打ちとも呼ぶ。なお、この打法では、回転は特に強くかけないが、摺り上げるようにスイングして打つ為にゆるやかな上回転がかかっており、利き腕に由来する若干の横回転がかかることがある。
ドライブ打法は、ロング打法から派生した、ボールに強い前進回転(トップスピン)を与える打法である。基本のロング打法をある程度身に付けてから習得する技術である。ドライブ打法でリターンするにあたっては、ボールのやや上側を擦るように打ち、かつ、より上に振り上げるようなスイングで打ち抜いて、強い前進回転をかける打球を行う。
以下に示した様々なドライブ打法(スピードやスピンの制御の仕方等)が確立されている。弱点とされたミドルへの打球に対するリターンにおいても、肩甲骨打法等のそれを克服する打法がトッププレーヤーを中心にして普及している。また、ラケット等の用具の発展や練習環境の変化に伴い、従来はパワーに難のあった女子プレーヤーにおいても、一通りの代表的なドライブ打法を習得するプレーヤーが増加し、多くの戦型のプレーヤーに幅広く用いられるようになった。
ドライブ打法によるボールは、放物線運動から下方向に沈み込むように加速を受ける(いわゆる「弧線の弾道」を描く)ため、強振しても、相手コートに安定して入りやすい。このように、回転量の少ないスマッシュより比較的安定性が高いほか、打法の多様さから、ドライブ打法を中心とした戦術は現在広く用いられている。
スマッシュは、ロング打法のスイングを基本にして、ボールを正面から弾くように、ラケットのフラット面で叩き付けるように強振する打法である。決定打として打つプレーヤーが多い。ドライブより小さなスイングでより速いボールを打つことができる。世界のトッププレーヤーの中には、初速が時速280km以上のスマッシュを打つ者もいる。球離れの早い表ソフトラバーを使用するプレーヤーが多用するほか、高く浮いた飛球への強打やロビング(後述)への対応で使用することが多い。一方で、ドライブのように相手コート内で沈むような打球にはならず、直線的な弾道となため、相手コートに正確にリターンすることは一般に難しい。
相手にスマッシュを打たれてしまった場合は、打球にスピードがあるため、ラケットに当てることさえ難しい。しかしながら、応用技術にて示す打法等によって、リターンすることは不可能ではない。
カット打法は、カット主戦型のプレーヤーが特に使用する、大きい旋回半径で斬り下げるようなスイングが特徴的な打法である。上で述べた、主に前方上方向にスイングする様々な打法とは大きく異なり、下向きに切るスイングでボールに強い後退回転(下回転、バックスピン)を与える。ドライブ打法類の上回転のボールが下方向に沈み込むように加速を受けるのに対して、下回転での速い速度のボールは、一般にリターンが安定しない。一方で、強い下回転のかかったボールを攻撃的打法で強く打ち返すことは、触球時に意図せず落球させてしまうなど、難度が高い。こういった理由から、カット打法は、下回転をかけることを主目的に、ドライブ打法類と比べて緩やかな速度のボールを打つことに特化し、カバーできる空間的範囲の広さを恃んで、中陣・後陣に下がって相手の強打をリターンする守備的な戦術に用いられる。
カット打法は、後方でボールを身体の比較的近くまで引き付けて、フォアハンドでもバックハンドでも、ボールを拾うように、相手の球威も利用しつつ、切り下げて相手コートへと返る打球を行う。相手の球質によって、カット打法のスイングは細かに変える必要があり、小さな回転のボールに適したI字型スイングや、強い上回転のかかったボールに適したL字型スイングなど臨機応変な対応が求められる。カット打法の上級者となると、下回転(バックスピン)のほかに、斜め下回転、横回転、コークスクリュー回転をカットボールに織り交ぜたり、巧妙に無回転のナックルボールを繰り出したりするプレーヤーもいる。
一般に用具には速い球速が追及される傾向がある一方、カット主戦型向けのラケットはコントロール性能などの安定性を重視して設計されている。また、カット打法で使用するラバーは裏ソフトラバーのみでなく、粒高ラバーないし表ソフトラバーを組み合わせて貼って、速度・スピン・コースに大きな変化を付けるような用い方も少なくない。
台上技術は、競技の場の構造に「台」が存在する卓球に特有の技術である。基本的には、飛距離の短い打球をプレーイングサーフェス上で打ち返してリターンする打法である。台が構造上の障害となってラケットを強く振り抜けないため、台上技術による打球は球威が比較的弱く、これを決定打とすることは難しい。そのため、以下に示す打法を戦術的に利用して、決定打を打てる機会をつくることが重要となる。特に、馬琳(中国)の台上技術は、戦略的に練られた回転・コースと激しい球質の変化に優れており、これにより相手のリターンの手段を限定・強制させ、試合を優位に運んだとされる。
ショート打法とは、台上(あるいは台上の近くを含む前陣)において、相手の打球のバウンド直後を身体の中心あたりで捉えて、ボールを押し返すように、ラケットを前に押し出して打球する技術である。ショート打法は、ペンホルダー・シェークハンドともに、バックハンドにおいて基本となる技術である。一方で、相手の球質によっては、フォアハンド側であっても、以下の応用技術を中心に、フォアハンドによるショート打法の派生技術が用いられる。
ツッツキは台上の短いボールに対して、カットよりもコンパクトなスイングでボールの底部を突くようにして打球する打法である。台上から出ないボール(そのままでは台上で2度バウンドする短い飛球)や長めのボールに対して、ラケット面をやや上に向けて下回転を掛けたリターンとすることが多い。ミスをしにくい打法だが、相手の攻撃を受けるリスクが比較的高い。一方で技術次第では、強烈な下回転や横回転を入れたり、長短の変化をつけたりすることができ、相手のミスを誘うこともできる。また、回転を掛けない無回転のツッツキでリターンすることもできる(ナックル)。
ストップは、主に相手の短い下回転系のボールに対して、バウンド直後の打球を捉えて、相手のコートで2バウンド以上するように短く手前にリターンする打法である。台上の短いサービスに対するレシーブなどで主に使われる。低いストップに対しては、空間的制約からドライブ打法が不可能であるため、防御技術として有効である。上級者のストップ打法によるリターンでは、上回転系のボールを返したり、強烈な下回転を掛けたりすることも可能である。ストップ打法の飛球をストップで応じてリターンすることを「ダブルストップ」という。また、後ろへ下がった相手からのリターンに対して、ネット際に小さく落とすようなストップ打法を「ドロップショット」と呼ぶ場合もある。
フリックは、相手のショートサービスまたは台上への短い打球に対して、台上で前進回転を与えつつ払うようにリターンする打法である。フリック打法に際しては、フリックした球を相手にカウンター強打されないように、テイクバックのない非常にコンパクトなスイングで素早く打球がなされる。技術が向上すれば、台上での強打ともいえるほどのスピードのある打球を打つことも可能で、レシーブから直接得点を狙うこともできる。
プッシュは、ショート打法において強く押し出すように打つ打法ある。主に、ペンホルダーのミドルやバックハンド側の攻撃として用いる。シェークハンドのバックハンドの強振に比べて威力は出しにくいが、打点が早く、やり方によっては同等以上に打ち合うこともできる。
チキータはピーター・コルベル(チェコ)が発案した打法であり、横回転をかけるバックハンドの台上ドライブ打法である。チキータバナナのようなカーブを描くことから、このように呼ばれるようになった。チキータ・レシーブとも称する。ペンホルダーの裏面打法あるいはシェークハンドでの打法として適している。チキータ打法ではコンパクトなスイングでも強打ができ、フリック打法とともに台上での強打技術として重宝されており、現代卓球の主要なレシーブ技術となっている。なお、チキータのスイングから打球する逆横回転系のチキータは逆チキータと呼ばれている。
ここでは主に、上記の打法に対して応じる技を中心に解説する。トッププレーヤーのリターンの間隔(打球から相手の打球までの時間)は最短で0.2秒ほどと言われ、これは人間の物体運動に対する全身応答までの最短時間である0.3秒より短い。したがって特に、カウンターのような強打に強打で応じる打法では、必然的にこの時間の不足分(0.1秒)を越える早い応答が必要になる。これに対処する為にトッププレーヤーは、先手先手で相手のリターンを先読みして、打球を「待ち伏せ」することで、この不足分の時間を作り出している。なかでも劉詩雯(中国)は、自身の打球モーションを終えて次の打球の予備動作へ入るタイミングが他のプレーヤーより抜きん出て早く、上記の「待ち伏せ」に特に優れた選手と評されている。
ブロックは、相手のスマッシュやドライブ等の強打に対して、前陣・中陣にかまえて、バウンドの上昇期や頂点で当てるようにリターンする守備的打法である。ブロック打法では、相手の球威を殺す為、回転の影響を特に受ける。そのため、裏ソフトラバーでブロック打法を行う場合は、ラケット角度を的確に調整する必要がある。ブロックは、相手の強打を返すことが目的のため、スイングはあまり大きくとらない。
相手の球の威力を「殺して返す」、「そのまま返す」、「自分の力を上乗せして返す」など、リターンの球質に変化をつける技術もある。技術レベルにもよるが、プレーヤーによっては、相手の強打をブロックして、台上で2バウンドさせるほどまでに威力を殺すことが可能である。横回転をかけたサイドスピンブロックなどで球質を変化させてミスを誘うことができるなど、相手が打ってきた球を悉くブロックして相手のつなぎ球を狙い撃ちするという戦術を取るプレーヤーもいる。粒高ラバー等の使用者では、サイドスピンブロックやカットブロック(下回転をかけるブロック)等の技術によって、相手の打球のスピンを利用・反転してリターンすることもできる。
カウンターは、相手の強打をさらに強打で撃ち返す技術全般を指す。基本的には、上記のブロック技術において、テイクバックをやや大きく取り、飛球に合わせて振り抜くスイングとすることで威力のあるカウンターとなる。カウンターに際しては、体勢が整わない相手を打ち抜くことや、相手の球威を利用することが目的である。このように、応じ技であるため、定まった打法は特になく、カウンタードライブのような特に攻撃的なカウンターもあれば、カウンターブロックのような守備的な側面をもった打法もある。いずれも、相手の強打を狙い打つ打法であるため、難度は高いが、成功すれば得点力も高い、ハイリスク・ハイリターンな技術である。
ミート打ちは、主に表ソフトラバーのプレーヤーが使う攻撃方法であり、相手の回転がかかったボールに対して、スマッシュのように強くはじいてリターンする打法である。相手の回転に合わせてのラケットの角度の微調整が肝要であることから、ミート打ちの一部を角度打ちと呼ぶこともある。ラケットをコンパクトに振り切り、ボールを擦らず打球するので、あまり回転がかからず威力自体はそれほど強くないが、早い打点で打つため、相手のリターンへの動作が時間的に間に合わず、ミート打ちを決定打とすることもできる。
カット打ちは、ツッツキやカットの下回転を利用してリターンする打法である(スピンに応じた打法)。打つべき相手の打球がツッツキである場合は、ツッツキ打ちとも呼ばれる。相手の下回転を利用する打法のため、打点やタイミングの正確さが要求される。カット打ちによって、強く前進回転を掛けてリターンする方法もある。
カット打ちは、打ち損じた場合に打球スピードが遅くなり、浮いしまった打球を相手に強打されるリスクがある。しかし、高島規郎によって8の字打法が考案されたことにより、カット打ちの欠点がほぼ解消されている。この打法と類似の技巧として楕円打法があり、カット打法とは反対の、ドライブ打法に対するリターンに応用されている。
ロビングは、相手の強打等によるボールを高く打ち上げるように打球して、長い滞空時間でリターンする打法である。相手のミスを誘うものだが、繰り返し相手からスマッシュなどの強打を受けやすい。ロビング打法では打球が高くあがる分、卓球台でのバウンド時に回転の影響を受けやすい。そのため、上下回転やコークスクリュー回転などの強烈な回転(ボールの回転を参照)をかけてロビングすることで、相手にとって打ちにくい球としてリターンすることが可能である。
フィッシュは、中陣・後陣でにおいて、ロビングよりも低い弾道で相手のボールを返す打法である。フィッシュ打法は、ブロック打法(上記)よりも打球点を遅くして、頂点を過ぎところで打球する打法とされる。相手の攻撃をしのぐ、いわゆるつなぎ球だが、ロビングに比べて相手にリターンされにくくすることもできる。このように、相手の攻撃をフィッシュでしのいで、相手が攻めあぐねたところで、一気に反撃をするといった戦法も用いられる。
多くの場合、ひとりのプレイヤーがすべての打法を望む競技レベルまで習得することは難しい。プレーヤーは、自身の適正や好みによって、習熟する技術をある程度選ぶ必要がある。その結果として卓球には、攻守や前陣・中陣・後陣のプレー領域、その他に特化したプレースタイルがあり、戦型と呼ばれる。グリップよるラケットの分類にあるように、ラケットにはグリップごとに長所短所があり、戦型をシェークハンドとペンホルダーのそれぞれのグリップによるものに分類することもできる。以下の各項にそれぞれの戦型の概要を示した。また、戦型ではないがそれに類したプレーヤーの分類として、左利き(サウスポー)であることがあげられる。大多数である右利きのプレーヤーとはボールの回転やフォア・バックの打球位置等が左右反転するため、左利きのプレーヤーと対戦する際には異なった戦術を採る必要がある。
シェークハンドラケットは、フォアハンドとバックハンドの双方(両ハンド)で強振・強打を行いやすい。一方で、ミドル(身体の近く、フォアとバックの選択に迷う位置)への強打には比較的弱い。これらの特性を活かして、主に以下の戦型が多くのプレーヤーによって実践されている。
ペンホルダーラケットは、フォアハンドで特に威力のある打球が可能であるが、バックハンドでは相対的に守勢に回らざるを得ないことが多い。一方、台上での技術を含むミドルへの打球に対して対処しやすい。ペンホルダーの使用者はこれらの特性から、主に以下の戦型を採っている。
ラージボール卓球とは、JTTAが卓球の普及を目的として考案し、ルール・用具規格等を1988年に制定した、新しい体系の卓球競技である。一般的な卓球(硬式卓球)で使われているボール(直径40 mm)よりも大きなボール(直径44 mm)を使って行われる。ボールが大きい等のルールの違いから、空気抵抗の効果が増大するため、ボールの速度および回転量が従来の卓球よりも減り、ラリーが続きやすいなどの特徴がある。高齢者等でも手軽にできる生涯スポーツとして考案されたものであるが、近年は、ラージボール卓球へ参入する若年層を含む硬式卓球経験者も多くなっている。このような競技人口の増加に伴い、全国各地で多くの大会が開催されている。
硬式卓球との主な違いは、以下の通りである。
歴史で述べた通り、日本への卓球の伝来・普及は、1902年からの坪井玄道によるものとされる。それよりしばらくの間は、日本独自の用具とルールの発展があった。初の卓球統轄機関として大日本卓球協会が創立された1921年(大正10年)頃は、軟式卓球(日本式卓球)のルールによる競技が行われていた。硬式卓球との主な違いは以下の通りである。
この日本独自の軟式(日本式)卓球は、ラージボール卓球の普及や硬式卓球のルールの変遷などをうけて、2001年(平成13年)度をもって幕を閉じた。
ここまでの節で特に解説のなかった卓球関連用語を本節に示す。
以下の項目に示すように、卓球発祥の地であるヨーロッパで普及がはじめに進み、ITTFなどの国際団体も初期はヨーロッパ諸国主導で設立・運営された。次いで、アジアで広く普及されるに至り、特に、日本、中国、韓国といった強豪国が現れ、以降はヨーロッパの選手に引けを取らない結果を残すようになった。とりわけ中国は、世界トップの卓球先進国となっており、オリンピックの卓球競技等の国際大会では、上位入賞者をほぼ独占する状況である。選手個々人について、1991年10月以降のITTF世界ランキングでは、大会成績等のポイントを機械集計して順位付けされたものが随時発表されているが、ここで一位となった選手のほとんどが中国人選手である。このように、スウェーデンやドイツといった卓球伝統国を除けば、世界レベルの大会の上位者(特にシングルス)は主にアジア勢が占める傾向がある。一方で、ダブルス(男女各部門や混合ダブルス)や団体戦等では、多くの国々にも戦果を挙げるチャンスが十分ある状態であり、パラ卓球も含め各々の選手が向上心をもって卓球競技に臨んでいる。
大衆スポーツや生涯スポーツとして、娯楽・文化としての卓球は各国それぞれで普及が進んでおり、映画などの創作作品にも卓球がテーマ化・題材化されている。工学に目を転じると、TOPIOやフォルフェウスなどの高度なロボット開発も進んでおり、競技以外の面でも卓球は人類文化の一部となっている。
競技スポーツとしては、傾向として、アジアとヨーロッパで卓球が盛んである。以下に述べる中国の帰化選手が世界各地に移り住んで選手・指導者として生活を営んでいるため、元・中国人の代表選手や指導者が多い国もある。
娯楽スポーツ・生涯スポーツとしての卓球は、他のスポーツと比べ、ゲームをプレーするにあたっての敷居(最低限のルールの理解、スキルの習得、場所・道具・プレーヤーの確保)が比較的低い。それほど服装は問われず、力のない女性や子供でもできること、ケガの心配も比較的少ないことから、気軽に遊ぶことが出来るスポーツの一つである。そのため、老若男女問わず親しみやすく、実践しやすいスポーツとして主に卓球の盛んな国々で愛好されている。
他の視点から楽しむ目的で卓球から派生させたスポーツも多く、ラージボール卓球はもちろんのこと、ハードバット卓球(英語版)やアルティメット卓球(フランス語版)、スリッパ温泉卓球、ヘディス、ビアポンといったものが考案・実施されている。 | [
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"text": "卓球(たっきゅう、英: Table tennis)は球技の一種である。2人(あるいは2組のペア)のプレーヤーがテーブルをはさんで向かい合い、対戦相手のコートへとプラスチック製のボールをラケットで打ち合って、得点を競う。",
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"text": "他のネット型球技と同じく「ボールを交互にリターン(返球)し合い、相手がリターンできないようリターンをした者が得点する」という典型的な形式のラケットスポーツである(⇒#ルール)。一方で、ボールの回転(スピン)の影響が大きく、スピンを利用した多様な打法があり(⇒#打法)、打法に特化した多くのプレースタイルがある(⇒#戦型)。こういったプレーの多様性から、ラケット等の用具も様々な特徴のものが開発されている(⇒#用具)。対戦者間の距離は3メートル程度と非常に近い為に表情や手指といった互いの細かな所作が観察可能であり、心理的な駆け引きやメンタルも勝敗に影響するなど、「究極の対人競技」とも評される。競技スポーツとしては体力と知性の双方に高い水準が求められ、トッププレーヤーに至っては「心技体智」のすべてに一流であることが要求されるスポーツである。",
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"text": "卓球は、ジュ・ド・ポームなどの中世のテニスゲームをもとに、1880年代にイギリスで考案されたとされる。1891年に、ゲーム用品・スポーツ用品メーカーのジャック・オブ・ロンドン社が「ゴシマ」という商標で、現在の「卓球用具一式」のような商品を発売している。同社は1900年に、これまでコルク製であったボールをセルロイド製に改良した。このボールを打つ際の音にちなんで「ピンポン (Ping Pong)」と命名して売り出したところ製品はヒットし、瞬く間にイギリスをはじめとしたヨーロッパ諸国を中心に普及した。この際に「ピンポン」とともに「卓球(Table Tennis)」の呼称も一般化し、これが現在の競技名となっている。",
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"text": "卓球の発祥国であるイギリスにおいては、当初は二つの協会が並立するも、ほどなく統合されて英国卓球協会(現・卓球イングランド(英語版))となり、1922年には同国で卓球の「標準ルール」が定められ、競技スポーツとしての発展が進んだ。",
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"text": "1900年代頃には、欧州でゴム製のラバーが開発され、ラバーを貼り付けたラケットが主流となった。この当時は、それほど強い打球ができなかったことやコートを仕切るネットが高かったこともあり、卓球は守りに徹した方が有利なスポーツであった。たとえば、1点を取るのに2時間以上かかったという記録も残っている。",
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"text": "卓球が国際的な競技スポーツとなるに際して、統一されたルール下での国際大会を円滑に運営するために、国際卓球連盟 (略称: ITTF)が1926年に発足している。同年には、ロンドンで最初の世界卓球選手権が開催され、男女の各シングルス部門ではローランド・ヤコビとメドニヤンスキ・マリア(ともにハンガリー代表)がそれぞれ初代のチャンピオンとなった。",
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"text": "この頃に、各国でも卓球の国内管理組織が設立されている。たとえば、ドイツでは1925年にドイツ卓球連盟(ドイツ語版)が、スウェーデンでは1926年にスウェーデン卓球協会(スウェーデン語版)が、フランスでは1927年にフランス卓球連盟(フランス語版)が、日本では1929年に日本卓球会(現在の日本卓球協会 (JTTA))が、アメリカでは1933年に現・USAテーブル・テニス(英語版)がそれぞれ設立されている。",
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"text": "卓球の日本への普及については、1902年に東京高等師範学校教授の坪井玄道がフランスから用具一式を日本に持ち込み、坪井の普及活動を契機に国内へ広まったとされる。一方で、山田耕筰の著作によると、より早い1901年には「岡山で卓球をした」という記録もある。",
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"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "1937年には、日本では初となる国際試合が行われた。この際に、日本選手はハンガリーの元世界チャンピオンと対戦している。当時の日本卓球界にはまだラバー(上記)が普及しておらず、ラバーが貼られたラケットを用いる選手とは初の対戦であった。日本選手はラケットに何も貼っていない状態でありながらも、好成績を収めた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦後には、卓球はさらに競技スポーツとしての発展が進み、ヨーロッパのみならずアジアでの普及・発展が特に進んだ。中国では中国卓球協会(英語版)、台湾では中華民国卓球協会、韓国では大韓卓球協会(朝鮮語版)といった組織が各国等でそれぞれ発足している。また、大州ごとの各国協会間の連携組織として、1957年にヨーロッパではヨーロッパ卓球連合(英語版)が、1972年にアジアではアジア卓球連合(英語版)等がそれぞれ設立されており、世界の各地域での国際公式大会の主催等をしている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "卓球はやがて、1988年のソウルオリンピックよりオリンピック競技ともなった。その一方で、約100年の歴史をもつITTFも、エンターテイメント性の高い興行であるWTTへの移行を推進するなど、より一層の普及を図っており、今なお世界的に多分野・多方面への広がりをみせているスポーツである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "ここでは特に断りが無い限り、ITTFによる標準ルールのうち、非身体障害者による競技を想定したシングルス(1名対1名の試合)の規定について説明する。(他のルールについては以下の記事、節を参照)",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "ここではルールの理解に必要な最低限の用具の規定を概説する(詳細は用具節内の各説明を参照)。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "卓球台(台、テーブルとも)は平らな上面(プレーイングサーフェス; 奥行2.74 m・幅1.525 mの長方形)をもつ塗装された木製の板である(⇒#卓球台)。プレーイングサーフェスは、競技場の床から76 cmの高さに設置されており、短辺をエンド、長辺をサイドとそれぞれ呼ぶ。プレーイングサーフェスは、エンドに平行なネットによって2つのコートに等分されている。試合で対戦する各プレーヤーは、それぞれのエンドのコートにつき、ネットをはさんで向かい合う。ネットはプレーイングサーフェスから15.25 cmの高さとなるよう、2つの支柱によって張られている(ネットと支柱を合わせてネットアセンブリと呼ぶ)。標準ボール(単にボールとも)は直径40 mmの、重量2.7 gのプラスチック製の球であり、光沢のない白色か橙色のものを用いる(⇒#ボール)。ラケットは木製のブレードにラバーを貼った用具であり、プレーヤーはラバーの面を用いて打球する(⇒#ラケット、#ブレード、#ラバー)。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "卓球の試合は奇数のゲームから構成され、たとえば、最大で7ゲームを行う試合は「7ゲームマッチ」と呼ばれる。各ゲームは、両プレーヤーとも0点(0-0)のポイントスコア(単にスコア、得点とも)からスタートする。ゲームにおいてプレーヤーは、サービスから始まるラリー(ラケットによる相手コートへのボールの打ち合い)を行い、ラリーにおいて以下の要件を満たすことでポイントスコアを得る。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "ひとつのラリーが終わったら、得点者の確認後、同様に次のラリーを行う。これを繰り返して11点を先取したプレーヤーが、ゲームの勝者となる。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "ひとつのゲームが終了すると、ゲームの勝者にゲームスコアが1つ与えられて、次のゲームを同様に行う。このようにゲームを繰り返して行い、規定のゲームスコア数(最大ゲーム数の過半数)を先取したプレーヤーが、その時点で試合の勝者となる。たとえば、7ゲームマッチでは4ゲームの先取で試合の勝者となる。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "以下に、本概要で述べた試合の手順・規定について詳細を示す。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "試合の実施に先立って、挨拶、審判とプレーヤーの3者で試合に用いるラケットの確認及びコイントスを行う。コイントスの結果によって、試合開始時のサービス実施者や使用エンド(コート)等の諸条件を定める(日本では、コイントスに代えて、くじやじゃんけん (拳)の実施も行われる)。つづけて、プレーヤー間で2分以内のラリー練習を行う。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "試合は第1ゲームから始まる。各ゲームでは、勝者が決まるまで、ラリー(サービス、レシーブと以降のリターン)によるポイントスコアの獲り合いを以下の通り行う。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "ゲームでは、以上のようにサービスから始まるラリーが繰り返される。ひとつのゲームにおいては、2点差以上を付けて11点を先取したプレーヤーが、そのゲームの勝者となる。ただし、ポイントスコアが10-10となった際は、さらに競技を進めて2点差となる得点を先取したプレーヤーがゲームの勝者となる。ゲームの進行に際しては、両プレーヤーのサービスの機会や使用コートの均等化のため、以下の交替制が定められている。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "試合においては、各ゲームの勝者にはゲームスコアが1つ付与される。プレーヤーは、試合の勝者が決まるまでゲームを繰り返し、ゲームスコアの獲り合いを行う。ゲームの終了時点で最大ゲーム数の過半数のゲームスコアを得た者は、試合の勝者となる。勝者の決定をもって、卓球の試合は終了となる(実施したゲーム数が最大ゲーム数に達していない場合でも、この時点で試合終了となる)。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "以上が標準的な卓球の試合進行である。大会のような競技会においては、ひとつの試合が終わった後は、勝者が別の者と次の試合を行ったり(トーナメント戦の場合)、勝者・敗者ともにそれぞれ別の者と試合を行ったりする(リーグ戦の場合)。大会で予定された必要な試合のすべてが終了した時点で、各大会の規約等にそって優勝者や入賞者等が決まり、大会は終了する。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "試合の進行に付随するその他のルール・慣例等を以下に述べる。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "卓球におけるダブルスは、各チーム2名のペア同士の計4名で試合が行われる競技である。基本的にはシングルスと同じルールで行われるが、以下に示すいくつかの規定・条件が加わる。大きな特徴としては、各チームはペア内では、最後にリターンしたプレーヤーではないプレーヤーが、次のリターンを行わなければならないという点があげられる。すなわち、ペアのプレーヤーは必ず交互にリターンしなくてはならない。詳細を以下に示す。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "以上のことから必然的に、ダブルスにおいては、誰が誰の打球をリターンしなくてはならないかは固定化される。このリターンする打球順については、ゲームが進むごとに次のように交替となる。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "以上のようにダブルスの打球順は複雑であるが、この結果として、相手のペアの2名について両者からの打球を受ける機会は、試合全体で均等化されている。また、ダブルスのみの規定として、以下のようにサービスのコースについて制限がある。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "世界卓球選手権や全日本卓球選手権などの大会では、男子2人または女子2人のそれぞれのペア同士で行われるダブルス(男子ダブルス、女子ダブルス)に加えて、男子1人・女子1人ずつのペアで行う混合ダブルス(ミックスダブルス)が行われている。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "上で述べた通り、ダブルスにおいても、サーバーのペアは2回のサービス実施(2回のラリー)ごとに交替する。以下に、プレーヤーA(以下単に「A」と記す)とプレーヤーB(同「B」)のペアと、それに対するプレーヤーX(同「X」)とプレーヤーY(同「Y」)のペアの打球順序の交替の例を示す。ここで、Nは0以上の整数であり、サービスは第1球目、レシーブは第2球目と数えている。以下同じく、レシーブに対するリターンは3球目であり、3球目打球へのリターンが4球目...となって、ラリーが継続する。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "上の表の通り、ひとつのゲーム内ではリターンするべき打球をする相手は一貫して固定されている。また、ひとつのゲーム中では、打球順は常に...→A→X→B→Y→A→...のように循環していることも分かる。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "以下に、第一ゲームの打球順が上の表の通りであった場合の、以降の各ゲーム開始時の打球順の例を示す。上記の同じゲーム内における場合とは異なり、エンドの交替(ゲームの開始、あるいは、最終ゲームでのいずれかのペアの5点先取)が起こると、リターンするべき打球を打つ相手も交替する。この交替の結果として、先ほどの打球順の「循環」は...→A→Y→B→X→A→...のように逆転するようになる。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "ここでは可能な2つの選択例をそれぞれ示した。第2ゲームの初めのサーバーはXでもYでもよい。このとき一方で、レシーバーのペアは、Xの打球はAが、Yの打球はBが、それぞれ必ずリターンしなくてはならない。第3ゲーム以降も、各ペア内において、ゲーム開始時のサーバーは自由に選んでよい。各ゲーム内で固定し、かつ、エンドの交替ごとに交替するものは、リターンすべき打球をする相手(誰が誰の打球をリターンするか)である。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "以上のように、卓球はあくまでもシングルスやダブルスといった「個人または2人ペアによる競技」である。一方で、国・地域や競技団体などのチームとチームの「対戦」として、団体戦も多くの大会で開催されている。卓球における団体戦は、各チームに登録された選手がシングルスやダブルスの試合を複数回行うことで実施される。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "団体戦は開催される大会等により様々な方式が採られ、試合順・構成は必ずしも統一されていない。世界卓球選手権等では、対戦する各チームは3人の選手で構成されている。この3人から試合出場順(オーダー)を決めて、シングルスによる最大5回の試合を行い、先に3勝した側が勝ちとなる方式が採用されている。北京オリンピックの団体戦等では、同じく1チームは3人の選手で構成されるが、4試合のシングルスと1試合のダブルス(4単1複)を実施する方式であった。日本国内の大会でも、参加者数や競技実態をふまえた様々な形式の団体戦が実施されている。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "卓球の世界的な標準ルールは、1926年に発足の国際卓球連盟(ITTF)が管理・管轄している。歴史の項で示したように、現在の卓球とはまだスタイルの異なる競技であったとともに、用具の開発も黎明期にあった。このような状況において、卓球を国際的な競技スポーツとするため、様々なルール整備が行われた。現在の卓球に近い競技となった後も、以下に示したように、技術や用具の変遷に応じて、卓球の健全な普及のために、ルール等の改正が行われている。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "卓球における用具とは、卓球台やその付随品などの競技環境設備のほか、ラケットや競技用服装等といったプレーヤーが身につけて使用する道具・服飾類を総称したものである。卓球の打球等の運動は非常に繊細であり、ボールの軌道やスピン、バウンドは用具によって大きな影響を受ける。そのため、卓球の公的管理組織(ITTFやJTTA等)によって、その規定が詳細になされている。以下では、各用具について概説する。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "卓球におけるラケットは、サービスやリターンの際にボールを打球するものであり、ブレードとラバーから成る。ブレードは主に木材(単一の木板あるいは合板)から作られている。ラバーは表面がゴム製であり、打球する面にはラバーが貼られていなければならない。様々な特徴を有した多くのラケットがあり、プレーヤーは目的に合うラケットを選択することができる。ただし、一つの試合中においてプレーヤー個人がラケットを変更することは、原則としてできない。なお、用具のなかでもラケットは特に繊細であり、保管には温度・湿度・日光などの条件に注意を払う必要がある。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "打球時にボールがラケットから受ける力は、打球面に対して垂直(ラケット面の法線方向)および平行(同接線方向)の二つの力に分けて理解される。K・ティーフェンハッバ(カールスルーエ大学)とA・デュリー(パリ=サクレー大学)による打球の運動モデルは、ボールに対するラケットの法線方向・接線方向それぞれの反発係数をパラメーターとして、打球の速度やスピンの挙動をよく説明している。いまひとつのパラメーターは振動特性である。川副嘉彦(埼玉工業大学)によるシミュレーションモデルと実測の検証によると、打球時に振動が少ないラケットは、エネルギーの散逸が起こりにくく、結果として球威が高くなる。これに加えて、打球面の動摩擦係数も打球に影響を及ぼす(ラバーの項で後述)。これらの力学的パラメーター(各反発係数、振動特性、動摩擦係数等)は球質に強く影響するため、用具メーカーはラケット(ブレードおよびラバー)の開発に際して、これらの指標を重視している。製品においては、消費者(主にプレーヤー)に分かりやすいように、各パラメーターやそれに代わる数値等の表現が用いられている。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "世界各国・地域でラケットには様々な呼び方があり、日本やITTF等の国際協会では「ラケット」、アメリカ合衆国では「パドル」、ヨーロッパでは「バット」と呼ばれる。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "公式試合に使用可能なラケットには、レジャー向けの廉価なラバー付きラケットや、競技レベルの選手向けの市販製品ラケット、選手自身の好みでカスタマイズした特注ラケット等がある。日本国内の公式試合に使用するラケットには、目視できる箇所にメーカー名やJTTAの公認証の表示が義務付けられている。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "卓球には異なる握り方のラケット(主にシェークハンドとペンホルダーの二種)がある。現在はシェークハンドが比較的多数を占めている。一方で、中国式ペンホルダーを使っての両ハンド攻撃を得意とする選手が世界ランキングの上位に名を連ねることもあり、一概にどちらが優位であるかを結論できない。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "シェークハンドラケットは、握手(英: shake hands)するように握るラケットである。両面にラバーを貼って使用する。ラバーは表面と裏面で異なる色のものを貼らなければならない。グリップの形状は、ストレート、フレア、アナトミックなどの様々な形状にさらに分類される。一般に、図のような円弧状の打球面のラケットが使われている。フォアハンド面(手のひらの側)とバックハンド面(手の甲の側)の各面それぞれを比較的容易に打球したい方向に向けることができる。伝統的にヨーロッパ出身の選手は主にシェークハンドを使用している。近年、特にフォアハンドとバックハンドの両面(両ハンド)での攻防を重視するプレーヤーは、シェークハンドを選択する傾向にある。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "ペンホルダーラケットは、ペンを持つように握るラケットである。ペンホルダーラケットはさらに日本式ペンホルダーラケットと中国式ペンホルダーラケットに大別できる。いずれも表面にラバーが貼られる。表面のみにラバーを貼る場合は、ラバーを貼っていない裏面での打球は認められない。一方で、裏面にラバーを貼ることもできる。たとえば、試合中やラリー中にラケットの表裏を反転して、球質の異なる打球とすることができる(反転打法)。他に、裏面打法を行うプレーヤーもいる。ラバーの色の規定はシェークハンドと同様である。シェークハンドに対して比較的、フォアハンド側やミドル(身体の正面付近)、台上の打球に対処しやすい。歴史的にアジアでは、ペンホルダーが主流であったが、1990年代以降にシェークハンドを使用する選手が増加し、ペンホルダーの選手数を上回ってきている。一方で、主に片面のみにラバーを張るペンホルダーは、シェークハンドより重量が軽く、また、決定打の威力も出しやすいため、女子プレーヤーやフットワークに優れたプレーヤーの選択肢でもある。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "ブレードは平らな木板とグリップからなるラケットの主要構造部分である。ブレード面は硬質な平面でなければならず、その材質は厚みの85パーセント以上の部分が天然の木でなくてはならないと、ITTFは規定している。一方で、ブレードの大きさ(面積)は特に定められていない。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "競技レベルの卓球では、正確なボールタッチによる打球のコントロールが要求され、ブレードの特性は重要である。この特性のひとつは反発係数であり、これは打球の弾むスピードを支配する。もうひとつは振動特性であり、これは打球時のラケットの微小変形・振動のし易さの指標である。一般に、硬いラケットほど反発係数が高く、よりスピードのある打球が可能となる。表記はまちまちだが、各メーカーはブレード製品の上記の特性を様々な数値等で表示している。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "ブレードの主要素材は木材である。一枚の板からなると単板製のブレードと、異なる特性の複数の板材を組み合わせた合板製のブレードに区別できる。ブレードの特性は、素材は使用される木材の特徴のみならず、その製造工程等によっても変化する。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "先述の通り、ブレードは厚みの15%以内であれば天然の木以外の材料を使用することが認められている。用いられるブレード材の一部として、炭素繊維、アリレート、ケブラー、ガラス繊維、チタン、ザイロンなどの特殊素材やそれらの複合材が使用されている。ブレードの合板構成のなかに特殊素材が用いられることで、木材のみのラケットよりも反発係数が一般に高くなる。また、ブレード面の比較的広い範囲で反発特性・振動特性が均一で、最適打球点(いわゆるスイートスポット)が広いとされる。一方で、特殊素材を含むブレードでは、木材のみのラケットに比べて、緩急を付けにくいという短所もあるとされる。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "現代の卓球では、ラバーは重量化とスピードグルーの使用禁止に伴って、ブレードにおいて軽さと高い反発特性の両立が求められている。そこで用具メーカーは、軽いが吸湿性のある桐材の有効利用を模索し、これを簡便に乾燥させて造るブレードの製造法を確立した。桐材を低温で加熱処理して含有の水分を除き、ブレードの軽量化し、さらに、吸湿性を低減した。この製法によるブレードは、高い反発係数と振動特性を得つつ、広いブレード面での均一な特性を有しており、特殊素材製のブレードのような性質であるとされる。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "卓球のラバーは、粒の配列構造を片面に有するゴム製のシートであり、ラケットにおけるボールの打球面である。ゴム製のシート単独からなるツブラバー、および、ツブラバーとスポンジ製のシートを接着剤で貼り合わせたサンドイッチラバーの二種に大別できる。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "ラバーにおいては、既に述べた反発係数がその特徴に影響を及ぼすほか、動摩擦係数も大きくラバーの性質を左右する。以下に示すラバーの分類において、各ラバーの反発係数と動摩擦係数は著しく異なっており、それらは競技の実践上で打球の特徴となって表れる。一般に、反発係数の大きなラバーはスピードの速い打球を生み出し、動摩擦係数の大きなラバーは回転を強くかけることができる。ボールが平面でバウンドする際には、ボールが滑らずに(接触面で瞬間的に拘束されて回転しながら)バウンドするケース、および、ボールが接触面で滑ってバウンドするケースの2パターンに分類できる。どちらのパターンが主となるかは、打球の速度・スピンのほか進入角度にも依存するが、これらに加えてラバーの性能でも決まる(反発係数と動摩擦係数が高いほど滑らない)。一般に、滑らないバウンドの仕方において、ラケットのスイングに沿った(打球者が通常意図する)スピンがかかることになる。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "他のラバーの性質としてラバーの硬さがあり、ラバー硬度という指標で表記される。硬さの表記にはISOに準拠した硬度やその他の値など複数の表示が採用されており、プレーヤーがラバーを選ぶ際に参考とされる。一般に、硬いラバーは威力のある打球をしやすく、柔らかいラバーは打球のコントロールがしやすいとされる。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "ラバーの厚さはITTFの規則で定められており、ツブラバーにおいては、ゴムシート部の厚さは2.0 mmを以内でなくてはならない。サンドイッチラバーにおいては、ツブラバー部分の厚さは2.0 mm以内、ツブラバー層とスポンジ層の厚さの合計は4.0 mm以内と定められている。他に、粒の形状やアスペクト比に関しても規定が詳細に定められている。ラバーには多くの種類が存在するが、公式戦の出場には主幹する卓球連盟等の認証が必要である。たとえば、ITTFが管轄する国際大会等では、ITTFの公認ラバーリストに掲載されているラバーに限り使用が認められている。2006年4月以降の日本国内の公式大会においては、JTTAあるいはITTFによって公認されているラバーの使用が認められている。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "ラバーの特性は、特に最表面のゴムシートの特性に大きく依存しているほか、スポンジ層との組み合わせ等によって複合的に決まり、多様なラインナップがある。以下の各項にてラバーの構成部材について述べる。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "多くのラバーに共通する基本的な構成と特徴は以上の通りである。ラバーの性質に加えて、ブレードの特性(主に反発係数、振動特性等)も打球に影響するため、プレーヤーに合うラケット(ブレードとラバーの組み合わせ)を求めるには、情報収集や試行錯誤が必要となる。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "なお、ラバーの長期的な耐久性はあまり高くない。使用せずとも少しずつ酸化等でゴムが変質し、練習等での反復使用によりラバーの性能(反発特性や動摩擦力)は徐々に変化してくる。用具メーカーが推奨するラバー交換の目安(ラバーの寿命)は、一般の選手で1カ月、練習量が少ない選手でも2 - 3カ月とされる。短期的な視点では、プレー中にラバーに埃などが付着し、表面の性能が変化する。これらの付着物を拭き取ってラバーの性能を回復するため、専用のラバークリーナーも市販されている。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "以下に、各タイプのラバーについてそれぞれ解説する。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "裏ソフトラバーは、ゴムシートの平らな面を外向きにして(粒側を内側に向けて)スポンジ層と貼り合わせたサンドイッチラバーの一種である。ボールとの接触面積が広く、動摩擦係数が大きくなるため、ボールに回転をかけやすい。一般的なほとんどの打法を実践しやすいため、現在においても最もよく使われているタイプのラバーである。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "表ソフトラバーは、ゴムシートの粒の面を外向きにして(平面の側を内側に向けて)、スポンジと貼り合わせたサンドイッチラバーである。ゴムシートの粒の側が最表面であるために、ボールとの接触面積が小さい。このため、高い反発係数を有しつつも、動摩擦係数は比較的に低めになり、いわゆる「球離れが早い」跳ね返り方をする。裏ソフトラバーと比べると、相手の打ったボールの回転の影響を受けにくい。基本的に前陣速攻型のプレーヤーやカット主戦型のプレーヤーが用いる場合が多い。シートの粒形状や特性により回転系・スピード系・変化系等に分類される。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "裏ソフトラバーよりも製品のラインナップは比較的少ないが、裏ソフトラバーのケースと同様に、従来よりも高弾性なテンション系表ソフトラバーなどの新たな開発品も製品化されている。反発係数の大きなスポンジを採用した回転系テンション系表ソフトラバーも市場に現れるなど、表ソフトラバーの特徴を活かした新たな用具の開発も進められている。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "後述のラージボール卓球の競技では、ルールにより表ソフトラバーのみが使用を認められている。ラージボール競技用に開発された表ソフトラバーも存在し、これらは硬式用と比べて柔らかいものが多く、ボールが変形しにくいという特徴を有している。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "粒高ラバー(ツブ高ラバー)は、構造上は表ソフトラバー(上記)と類似しており、ゴムシートの粒の側を外側に向けたラバーである。表ソフトラバーとの違いは、その名の通り、粒の高さが高く、粒が柔らかいといった特徴である。スポンジの有る粒高ラバーと、スポンジの無い一枚の粒高ラバーの二種が、主に市販されており、これらを総称して、粒高ラバーと呼ぶ。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "粒高ラバーは、構造上の性質から、打球時に大きく粒がしなるように変形する。反発係数も動摩擦係数も低いことが特徴である。粒が柔らかいほど、打球に変化をつけやすい。自発的にボールに回転を与えるのは難しい一方で、相手の回転の影響も受けにくい。そのため、相手の回転を利用したり、そのまま回転を残してリターンしたりしやすい(参照: スピンに応じた打法)。粒高ラバーでの打球では、自身の打法と相手の打球の質の双方に影響をうけるため、扱う側も予測しない回転や変化が表れることもある。使用者の技量にもよるが、粒高ラバーによるドライブ打法等も可能である。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "粒高ラバーは、主にカット型や前陣攻守型のプレーヤーが変化を付けるために用いる。反転型ペンホルダーラケットに貼って使用する場合もある。いすれも、戦型によって粒高ラバーは用途が異なり、好まれる製品も異なる。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "かつては、シート表面にアンチ加工(摩擦を低減する加工)を施されたアンチ粒高ラバーが存在していた。2008年以降にアンチ粒高ラバーの使用が禁止されたことにより、以前と比べて粒高ラバーの性能は相対的に低下しており、プラスチック製ボールの移行後はさらにこれが顕著となっている。一方で近年は、従来の粒高ラバーよりも高弾性化したテンション系粒高ラバーも登場している。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "ツブラバー(一枚ラバーとも)は、表ソフトラバーからスポンジを除いた構造のラバーである。第二次世界大戦以前のラバーとしては、このツブラバーしかなかった。反発係数も動摩擦係数も低めのラバーであるが、安定した打球を打てるという利点がある。現在、このラバーを用いる選手は非常に少ない。かつては、このツブラバーの構造の表裏を裏返したラバー(裏ソフトラバーからスポンジを除いたものに相当)も存在したが、この裏返したラバーは現在のルールでは使用が禁止されている。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "アンチラバーは、一見しての外見は普通の裏ソフトラバーだが、動摩擦係数が極端に少なくなるように設計されたラバーである。アンチラバーを用いて裏ソフトラバーと同様の打法を試みても、ボールに回転かかる回転量は小さい。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "かつては、同色の裏ソフトラバーと組み合わせることで、ラバー外観の酷似性とそれに反した性質差を利用し、ラケットを反転させて相手に打球の変化を分かりづらくさせるスタイルに主に使用されていた。しかし、両面に同色のラバーを貼ったラケットが使用禁止となった(1983年のルール改正)後は、アンチラバーの使用者は激減した。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "上述の通り、競技用のラケットの多くは、ブレードとラバーが別々に市販されており、両者を接着してラケットとして完成させる必要がある。ブレードにラバーを接着する接着剤について、現在使用が認められているのは、水溶性接着剤や接着シート、固形接着剤である。かつては、ゴムを有機溶剤で溶かした接着剤が広く使用されていた。しかし、有機溶剤が人体に有害であるため、2007年4月1日よりの日本国内の小学生の大会から段階的に、有機溶剤を含む接着剤の使用が制限されはじめた。2007年9月1日以降は、有機溶剤を含む接着剤は日本国内のすべての大会で禁止された。国際大会では2008年9月1日より禁止となった(詳細はスピードグルーや補助剤の節を参照)。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "現在、日本国内においては、JTTA公認の接着剤の使用が認められている。一方で、2009年時点おいてITTFは、特定の接着剤を公認していない。公式大会等では、仮に意図して有機溶剤を用いてなくても、試合後のラケット検査で残留溶剤が検出された場合は失格となる。これを防ぐには、ラバーのパッケージを開けてから72時間程度放置した後に、非有機溶剤系の接着剤(日本ではJTTA公認品)を使用して、ラバーをブレードに貼ることが良いとされる。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "スピードグルーは、ラバーをブレードに貼り付ける接着剤の一つであり、有機溶剤を多く含む。ラバーに塗ると、溶剤分子がスポンジの中で拡散して、ラバーのスポンジが膨張する。この状態でラバーをブレードに貼ると、スポンジの膨張分だけラバー全体が面方向に引っ張られて常に伸長負荷がかかり、ラバーの反発力と摩擦力が高くなる。ラバーに負荷がかかり劣化が早まるデメリットがあったものの、スピードグルーは世界的に普及し、主に攻撃型の選手に広く普及していった。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "しかしルールの変遷で述べたように、現在は、スピードグルーは使用が禁止されている。スピードグルーの問題を提起したのは、ITTF会長(当時)の荻村伊智朗であった。このときは、選手のスピードグルー使用による見学者の中毒事故等の事例が知られていた。荻村は、卓球の普及という観点から、次の理由をあげ、スピードグルーの使用禁止を提案した。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "こうしてまず、スピードグルーの成分であるトルエンの規制が実施された。しかしながら、この規制によりスピードグルーのラバーへの効果が低下したため、逆に、スピードグルーの効果を高める「重ね塗り」や「蒸らし」といった溶剤を多用する用法が編み出された。このように、スピードグルーの使用と規制は、イタチごっこの状態が長らく続いた。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "やがて、卓球選手のスピードグルーによるアナフィラキシーショックの事故が起こり、健康上の問題が再度議論されるようになった。こうした経緯から、荻村の遺志を継いだ日本委員のリードによって、ITTFはスピードグルーの使用禁止をついに決断し、北京五輪終了後の2008年9月1日をもって、公式ルールにて禁止とされた。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "前述の通り、有機溶剤を含む接着剤の使用が禁止されたことで、毒性のない水溶性接着剤(主成分は水、天然ゴム、アクリル)が普及した。一方で、スピードグルーの使用が禁止となることを見越して、「ブースター」と呼ばれる接着力のない補助剤や水溶性グルーが卓球用品メーカーから販売されていた。補助剤のラバーへの使用によって、スピードグルー同様にラバーの性能を向上させることができた。揮発性の有機溶剤を含まず鉱物油を主成分としているため、取り扱いが比較的容易で、かつ、効果が持続しやすい、といったメリットがあった。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "これについてITTFは、補助剤の塗布はラバーを加工・改造する行為であり「用具のドーピング」にあたるとして、ルール改正を行い、事実上、補助剤を使用禁止とした。日本ではJTTAも、ITTFのルール改定通知に基づき、2008年10月1日以降に開催される全ての大会において、ブースターを含む補助剤類についても使用禁止すると発表した。禁止対象の補助剤類を販売していた卓球用具メーカーも、2008年9月末をもって販売を中止することを発表した。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "補助剤の規制は速やかに進んだ一方で、スピードグルーの禁止から僅か1ヶ月で補助剤も禁止されたため、補助剤を発売してきたメーカーは、多くの在庫を抱えるようになり、経営を圧迫したとされる。また、大会運用の不備面として、禁止化の直後のヨーロッパ卓球選手権では、ラケットの検査機器が新ルールに対応できなかったことから、従来通り補助剤を使用する選手もいる状況になっていた。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "グリップ部のテーピング等も含めて、ラケットの操作性・保持性に好ましい素材のブレード部への付与等は(他のルールを侵さない範囲で)認められている。このうちのサイドテープは、競技中に予期せずラケットが卓球台にあたったときに、ラケットの側面(サイド)を破損しないためにつける保護テープである。金属製のサイドテープもあり、ラケットの総重量や重心位置を調節することも出来る。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "一般的に卓球(硬式卓球)で使用されているボール(試合球、ピンポン球とも)は、直径が40 mmで、重量は2.7 gである。ラージボール卓球のものは、直径が44 mmで、重量は2.2 - 2.4 gである。ボールの色は白と橙色の二色がある。硬式卓球ではどちらの色のボールを使用してもよいが、ラージボール卓球では橙色のみが用いられる。ボールの品質はプレーの精度に大きく影響する一方で、完全な球構造のボールを高精度で大量製造することは技術的に難しい。そこでボールの製造においては、同じ製造ラインで作られた球をすべて検査して、個々の真球度に応じてグレード付けする方法を採っている。真球度が最高のものは3スター (スリースター)とグレード付けされている。JTTA主幹のものを含む多くの大会では、3スターのボールが使用される。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "歴史をみると、硬式卓球の試合球のサイズは、2000年のルール変更で、直径38 mmから直径40 mmへと大きくなっている。このボールの大きさの変化によって、以下の影響があったとされる。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "ボールの素材にも変化があった。かつてはセルロイドが主流だったが、2010年代に非セルロイドの材質のもの(各種プラスチック素材)に移行している。セルロイド製のボールは燃えやすく、火災の危険性があったためである。危険物として航空機への持込を断られた事例(アテネ五輪前)もあり、IOCがITTFにボールの材質変更を求めたともいわれる。なお、ボールの材質の変更に際しては、ITTFは以下の理由を挙げている。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "日本では、2014年から日本卓球教会の定めるルールとして、非セルロイド素材で製造する事が義務付けられ、以降、プラスチックボールが用いられるようになった。プラスチックへの材質変更による影響として、次の変化があったとされる。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "また、ブラスチックボールの導入初期は、メーカーによって性能のバラツキが大きく、また、壊れやすいという指摘もあった。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "卓球台は競技を行うにあたって、卓球台は競技場の床面に設置される水平な台であり、サイズや高さ、材質、物性がルールで規定されている(サイズ等の詳細はルールを参照)。卓球台は、経年による反り返りを防ぐために3層構造になっている。三層の中心の層には、細長い板がフローリング床のように横の継ぎ目をずらして配置され、変形を防ぐ設計となっている。プレーイングサーフェスの反発性能として、全面での均質なボールの跳ね返りが規定されている。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "卓球台(プレーイングサーフェス)の色は、1980年代まで主に緑色であった。卓球のイメージチェンジのために、荻村伊智朗(当時ITTF会長)の発案により、青色の卓球台が製作された。この卓球台は、1991年に千葉市で開催された第41回世界卓球選手権や翌1992年のバルセロナオリンピックで用いられ、以降、世界中に広まって主流のカラーリングとなり、現在に至っている。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "競技領域とは、大会等の試合会場にて確保・設営される、卓球競技が実施される空間領域のことである。卓球台(ネットアセンブリを含む)を中心として、コート番号の表示、適切な床面、審判席、スコアカウント器、タオルボックス、打球止めのフェンス等のほか、ボール一式など必要な用具が備えられている。プレーヤーの競技ができる範囲として、競技領域の奥行は14 m以上、幅は7 m以上、かつ、高さは床面から5 m以上の空間が確保されている。参考までに、卓球台自体は2.74 m×1.525 mの領域に過ぎないが、卓球台の20倍以上に及ぶ競技領域の確保には、バスケットボールやバレーボール等の全コート面の四半ほどの広さが必要となる。また、建築基準法施行令第21条による天井高さは「2.1メートル以上」であるが、当該施行令が想定するような空間の多くは上記の高さの要請を満たさず、公式な卓球競技は実施できない(もちろん、練習や娯楽・文化としての卓球ではこの限りではない)。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "卓球における競技用服装(英: playing clothing)は、上が襟付でポロシャツに類似した形状のものやTシャツ状のもの、下はハーフパンツ・スカートが基本である。日本国内の公式試合で使用が認められるのは、JTTAの公認品のみである。また、プレーヤー同士が類似した色の競技用服装を着ていた場合は、片方のプレーヤーが着替えなければならない。JTTA主幹のものを含む日本国内の試合では、ゼッケンの着用も必須である。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "かつての卓球の競技用服装は、単色のポロシャツ形状のものが多かったが、近年はテニスやバドミントンと似た素材・デザインで、軽く撥水性が向上したものが多い。ショーツは股下が短いものが多く、女性に不評であったが、近年では男性用でも太ももにかかるくらいのものが増えるなど、時代に応じて変化している。また、アンダーシャツやスパッツの着用も認められている。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "また、事前の確認が必要であるが、個人がデザインした競技用服装も、前述の要件を満たせば使用可能である。2007年1月に行われた全日本卓球選手権では、四元奈生美がワンショルダーとミニスカートという斬新な競技用服装で試合に出場し、注目を集めた。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "シューズに関しては、ある程度の水準の大会までは特に規定がなく、一般的な体育館用シューズであれば何を履いてもよいとされる。ほか、ヘアバンドやリストバンド等も規定の範囲で使用可能である。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "卓球におけるロボットマシーンは、全自動で一定の(あるいは、規則的/ランダムな)回転やコースの飛球を対面のコートに周期的に送り続ける機械装置であり、実戦等での対戦相手の打球を疑似的に連続再現するための練習用の用具である。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "卓球の練習法のひとつに多球練習がある。人と人による多球練習において、文字通り多くのボールを一度に用いて、一方の者が相手の練習者に様々な球質のボールを相手コートへ連続的に送り込み(球出し)、練習者はこのボールを連続でリターンし続けてトレーニングを行う。ロボットマシーンは、この多球練習の球出しの役割を人間に代わって行うことができる(すなわち、練習者が独りだけの状態であっても、多球練習ができる)。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "なお、本項で述べるロボットとは根本的に異なった、人間のプレーヤーのようなラリーを行うことのできるロボットも工学の研究対象として開発されている(卓球の普及の項を参照)。",
"title": "用具"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "卓球における打法は、第一球目のボールを打ち出す技術(サービス)、および、その後(第二球目以降)のラリーにおいてボールを打ち返す技術(リターン)に分けられる。いずれも、主にフォアハンドとバックハンドに大きく分類される。台から離れた位置からの打法に加えて、台上(プレーイングサーフェスの上)で打球に対応する為の台上技術の存在も、卓球の特徴の一つである。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "かつてはフォアハンド打法主体のプレーが主流であったし、事実として今なお、より強力な威力(速度・スピン)の打球ができるのはバックハンドではなくフォアハンドでの打法である。しかし時代とともに、新打法や厳しいコースを突く戦術等が開発され、ラリーのスピードは全体的に速くなった。現代では、この速いラリーに対応するために、フォアハンドとバックハンドを速やかに切り替えて両ハンドによる強打で攻める戦術が発展している。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "以下では、特に断りがない限り、右利きのプレーヤーの打法について述べる。左利きのプレーヤーについては、下記の内容において適宜左右を反転させて読解することで、同様の打法を理解・実践できる。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "打法の多くはボールの回転(スピン)を利用する。打法におけるスピンの制御は、打球の挙動ひいてはリターンの成否、得点・失点につながる重要な要素である。スピンは、縦回転(上回転/下回転)、横回転(順横回転/逆横回転)、コークスクリュー回転(ヘッドコークスピン/フットコークスピン)の独立した3軸方向の回転に分類できる。実際の打法によるスピンは、この3軸回転のなかのいずれか、あるいはそれらの複合されたものである。どの軸方向にもほとんど回転のかかっていない無回転(ナックル)の打球も存在する。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "理想的な質点は重力の存在下で放物線の軌道を描くが、卓球のボールの飛跡はスピンの影響を顕著に受ける。たとえば、スピンと空気の存在に由来する抗力と揚力(マグヌス力等)によって、放物線から外れた軌道となる。また、スピンを有する飛球が卓球台やラケット面でバウンドすると、多くの場合は、回転するボールと接触面の摩擦によって、逸れた方向へ飛び出すようにボールが跳ねる。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "一例をあげると、あるプレーヤーが上回転をかける打球をすると、このボールは下方向に向かって徐々に放物線軌道よりもずれていく。このボールが相手コート上でバウンドすると、ボールは前進方向へ加速を受けて跳ねる。このボールを相手が正面から静止したラケットで打球しようとすると、ボールはラバーの表面で上方向へ跳ね上がるように反射する。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "打法によって生み出されるスピンは以上のような効果を有しており、リターンを試みる際はこれらの点に注意する必要がある。以下の表に、ボールの回転とその揚力による軌道・反射の変化についてまとめた(表中の「方向」は、A・デュレ(パリ=サクレー大学)とR・セイデル(アディダス)による検討等における座標系に準じており、いずれも打法の打球者からみた方向を示している)。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "スピンパラメーター SPは、上術のボールの回転がバウンド時等に与える影響を定量化する為の、スピンの強さの指標である。バウンドの検討対象とする平面(プレーイングサーフェスやラケット面)に平行な速度やスピンの成分について、打球の速さを v {\\displaystyle v} m/s、スピンの回転数を ν {\\displaystyle \\nu } Hzとしたとき、以下の式で定義される(式中の π {\\displaystyle \\pi } は円周率であり、 r {\\displaystyle r} はボールの半径0.020 mである)。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "S P = 2 π r ν v {\\displaystyle SP=2\\pi r{\\frac {\\nu }{v}}}",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "スピンパラメーターの値は正と負の両方を取り得るが、対象とするバウンド面上でボールが加速を受ける回転方向のものを正として、デュレとセイデルの検討では打法ごとについて表に示した値が報告されている。一般に、ボールの回転数が大きいほど、また、ボールの速度が遅いほど、スピンパラメーターは大きくなる。スピンパラメーターが1を超えると、スピンの効果が打球速度のそれを上回り、ボールは対象面上において前進方向へ加速を受けることができる(例: ドライブ打法による前進するバウンド)。反対に、スピンパラメーターが-1より下回っていると、対象面との接点の反対側において、ボールは進行方向と逆向きに局所運動している(例: カット打法によるボール)。また、ボールが飛行中に受ける揚力(マグヌス力)ひいては軌道の変化の度合いも、スピンパラメーターの値に依存する。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "サービスにおける打球などを含めて、無回転のボールを打球すると、スイングの方向に応じたスピンがかかる。スイングでボールに与えるエネルギーの相当量がスピンの発生に用いられるため、無回転のボールに回転をかけて狙いの方向へ飛ばす為には、ラケットのスイングや打球面の角度の調整に注意を払う必要がある。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "次に、強いスピンがかかったボールに応じる例として、プレーイングサーフェスに対して大きな正のスピンパラメーターをもつ打球(ドライブ打法等の上回転の打球)をリターンしなくてはならない局面での、打法の原則を示す。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "以上では縦方向の回転(上回転/下回転)を例として取り上げたが、他の回転方向のスピンについても、これらの原則は同様である。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "卓球では必ずサービス(いわゆるサーブ)から一連のラリーが始まる。サービスは、これを戦略の起点としてゲームを組み立てる、最重要技術のひとつである。サービスは、フォアサービスとバックサービスに大きく分類され、さらに、それぞれにショートサービスとロングサービスがある。特にサービスにおいては、ボールの回転は重要な要素である。縦回転・横回転・コークスクリュー回転や、これらの複合回転あるいは無回転(ナックル)のサービスといった、多くのバリエーションの球質を出すためのサービスが存在する。一見同じモーションのサービスであっても、微妙なラケットの角度や向き・速度等の変化の技巧で、回転の質・量やスピードの異なる球種を出すことができる。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "時代ごとのルール改正により、レシーバーは相手のサービスの性質(回転や速さ、コース等)を見抜きやすくなる傾向にはある。しかし逆にこのことで、さらに高度なサービス技術が発達してきたという側面もある。代表的なものとしては、フェイクモーションやラケットの視覚的秘匿、フォロースルー、バーティカルサービス等がある。また、トッププレーヤーになると、レットによるサービスのやり直しを利用する者もいるほか、巧みなサービスの一連の動作で、相手のレシーブのタイミングを外したり、相手のペースを乱したり、高度なサービス戦術を採るプレーヤーが多い。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "フォアサービスは、自分の体に対して利き腕側(右利きであれば、身体の右側)からのラケットのスイングで、ボールを打ち出すサービスである。サービスに適したスイングを行いやすいよう、サービス時のみラケットのグリップ法を変えることもある。シングルスの試合では、自陣のバック側の位置からサービスを出すことが多い。以下に、フォアサービスの応用技術例を示す。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "バックサービスは、主に利き腕の反対側(右利きの場合、身体の左側)からラケットをスイングして・打球されるサービスである。身体に対して、どの位置でボールをインパクトするかはプレーヤーによって異なる(フォア側まで振り抜いて打つプレーヤーもいる)。両足のスタンスをラリー時と同じに保ってサービスを出せるため、サービス後に早くラリー時の体勢へ戻すことが出来るという利点がある。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "以下では、フォアサービス・バックサービスを問わず、その他のサービスやその付随技術を解説する。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "本節以降では、レシーブを含めたラリーにおける打法技術について、それぞれ概説する。ラリーにおいても、打法はフォアハンド打法とバックハンド打法に大別される。フォアハンド・バックハンドともに、前陣(台上や台に近い位置)・中陣(台から少し離れた位置)・後陣(台から離れた位置)の位置取りや相手の打球の質によって、各打法の詳細は異なる。なお、フォアとバックの中間的な位置はミドルと呼ばれる。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "フォアハンド打法は、身体の利き腕側の飛球に対して、ラケットを外側(右利きの場合、右側)から身体の中心に向けて弧を描くように振り、このスイング動作でボールを捉えて打球する技術である。利き腕を動かせる空間的あるいは身体的な自由度が高く、スイングを大きくできるので、威力のある打球が可能である。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "バックハンド打法は、身体の利き腕とは逆側の飛球(右利きの場合は左側の飛球)を打つ打法である。利き腕が体幹等と交差するため、フォアハンドと比べてスイングは小さくなる。打球の威力は出しにくいが、身体の前で素早く打球できるといった特徴がある。相手の打球をリターンして再度相手へ返すまでの時間を短縮しやすいため、速いラリー展開に持ち込む場合に有効である。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "フォアハンド打法主体の時代には、利き手側の逆足(右利きの場合は左脚)をやや前に出すスタンスが基本であった。近年、フォアハンドとバックハンドによる両ハンド打法が求められるにつれ、両足をほぼ平行にしたスタンスから、フォアハンドとバックハンドの両打法を行うスタンスが標準的となっている。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "ロング打法は、卓球台からそう離れていない位置(前陣・中陣)への飛球に対して、特に意識した強い回転をかけようとせずに、身体の外側から中心に向けてラケットを斜め上に振り抜き、ボールをやや摺り上げるようにして前方の相手コートへとリターンする打法である。フォアハンドロング打法とバックハンドロング打法とがあり、それぞれ、後述の様々な打法の基礎となる標準的なスイングである。強振しないロング打法(特にフォアハンドロング)は、専ら練習においてラリーを長く続ける目的で行われることがあり、卓球入門者の基礎固めや中・上級者のウォーミングアップとして、利用される打法である。フォアハンドのロング打法は、単にフォア打ちとも呼ぶ。なお、この打法では、回転は特に強くかけないが、摺り上げるようにスイングして打つ為にゆるやかな上回転がかかっており、利き腕に由来する若干の横回転がかかることがある。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "ドライブ打法は、ロング打法から派生した、ボールに強い前進回転(トップスピン)を与える打法である。基本のロング打法をある程度身に付けてから習得する技術である。ドライブ打法でリターンするにあたっては、ボールのやや上側を擦るように打ち、かつ、より上に振り上げるようなスイングで打ち抜いて、強い前進回転をかける打球を行う。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "以下に示した様々なドライブ打法(スピードやスピンの制御の仕方等)が確立されている。弱点とされたミドルへの打球に対するリターンにおいても、肩甲骨打法等のそれを克服する打法がトッププレーヤーを中心にして普及している。また、ラケット等の用具の発展や練習環境の変化に伴い、従来はパワーに難のあった女子プレーヤーにおいても、一通りの代表的なドライブ打法を習得するプレーヤーが増加し、多くの戦型のプレーヤーに幅広く用いられるようになった。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "ドライブ打法によるボールは、放物線運動から下方向に沈み込むように加速を受ける(いわゆる「弧線の弾道」を描く)ため、強振しても、相手コートに安定して入りやすい。このように、回転量の少ないスマッシュより比較的安定性が高いほか、打法の多様さから、ドライブ打法を中心とした戦術は現在広く用いられている。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "スマッシュは、ロング打法のスイングを基本にして、ボールを正面から弾くように、ラケットのフラット面で叩き付けるように強振する打法である。決定打として打つプレーヤーが多い。ドライブより小さなスイングでより速いボールを打つことができる。世界のトッププレーヤーの中には、初速が時速280km以上のスマッシュを打つ者もいる。球離れの早い表ソフトラバーを使用するプレーヤーが多用するほか、高く浮いた飛球への強打やロビング(後述)への対応で使用することが多い。一方で、ドライブのように相手コート内で沈むような打球にはならず、直線的な弾道となため、相手コートに正確にリターンすることは一般に難しい。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "相手にスマッシュを打たれてしまった場合は、打球にスピードがあるため、ラケットに当てることさえ難しい。しかしながら、応用技術にて示す打法等によって、リターンすることは不可能ではない。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "カット打法は、カット主戦型のプレーヤーが特に使用する、大きい旋回半径で斬り下げるようなスイングが特徴的な打法である。上で述べた、主に前方上方向にスイングする様々な打法とは大きく異なり、下向きに切るスイングでボールに強い後退回転(下回転、バックスピン)を与える。ドライブ打法類の上回転のボールが下方向に沈み込むように加速を受けるのに対して、下回転での速い速度のボールは、一般にリターンが安定しない。一方で、強い下回転のかかったボールを攻撃的打法で強く打ち返すことは、触球時に意図せず落球させてしまうなど、難度が高い。こういった理由から、カット打法は、下回転をかけることを主目的に、ドライブ打法類と比べて緩やかな速度のボールを打つことに特化し、カバーできる空間的範囲の広さを恃んで、中陣・後陣に下がって相手の強打をリターンする守備的な戦術に用いられる。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "カット打法は、後方でボールを身体の比較的近くまで引き付けて、フォアハンドでもバックハンドでも、ボールを拾うように、相手の球威も利用しつつ、切り下げて相手コートへと返る打球を行う。相手の球質によって、カット打法のスイングは細かに変える必要があり、小さな回転のボールに適したI字型スイングや、強い上回転のかかったボールに適したL字型スイングなど臨機応変な対応が求められる。カット打法の上級者となると、下回転(バックスピン)のほかに、斜め下回転、横回転、コークスクリュー回転をカットボールに織り交ぜたり、巧妙に無回転のナックルボールを繰り出したりするプレーヤーもいる。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "一般に用具には速い球速が追及される傾向がある一方、カット主戦型向けのラケットはコントロール性能などの安定性を重視して設計されている。また、カット打法で使用するラバーは裏ソフトラバーのみでなく、粒高ラバーないし表ソフトラバーを組み合わせて貼って、速度・スピン・コースに大きな変化を付けるような用い方も少なくない。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "台上技術は、競技の場の構造に「台」が存在する卓球に特有の技術である。基本的には、飛距離の短い打球をプレーイングサーフェス上で打ち返してリターンする打法である。台が構造上の障害となってラケットを強く振り抜けないため、台上技術による打球は球威が比較的弱く、これを決定打とすることは難しい。そのため、以下に示す打法を戦術的に利用して、決定打を打てる機会をつくることが重要となる。特に、馬琳(中国)の台上技術は、戦略的に練られた回転・コースと激しい球質の変化に優れており、これにより相手のリターンの手段を限定・強制させ、試合を優位に運んだとされる。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "ショート打法とは、台上(あるいは台上の近くを含む前陣)において、相手の打球のバウンド直後を身体の中心あたりで捉えて、ボールを押し返すように、ラケットを前に押し出して打球する技術である。ショート打法は、ペンホルダー・シェークハンドともに、バックハンドにおいて基本となる技術である。一方で、相手の球質によっては、フォアハンド側であっても、以下の応用技術を中心に、フォアハンドによるショート打法の派生技術が用いられる。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "ツッツキは台上の短いボールに対して、カットよりもコンパクトなスイングでボールの底部を突くようにして打球する打法である。台上から出ないボール(そのままでは台上で2度バウンドする短い飛球)や長めのボールに対して、ラケット面をやや上に向けて下回転を掛けたリターンとすることが多い。ミスをしにくい打法だが、相手の攻撃を受けるリスクが比較的高い。一方で技術次第では、強烈な下回転や横回転を入れたり、長短の変化をつけたりすることができ、相手のミスを誘うこともできる。また、回転を掛けない無回転のツッツキでリターンすることもできる(ナックル)。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "ストップは、主に相手の短い下回転系のボールに対して、バウンド直後の打球を捉えて、相手のコートで2バウンド以上するように短く手前にリターンする打法である。台上の短いサービスに対するレシーブなどで主に使われる。低いストップに対しては、空間的制約からドライブ打法が不可能であるため、防御技術として有効である。上級者のストップ打法によるリターンでは、上回転系のボールを返したり、強烈な下回転を掛けたりすることも可能である。ストップ打法の飛球をストップで応じてリターンすることを「ダブルストップ」という。また、後ろへ下がった相手からのリターンに対して、ネット際に小さく落とすようなストップ打法を「ドロップショット」と呼ぶ場合もある。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "フリックは、相手のショートサービスまたは台上への短い打球に対して、台上で前進回転を与えつつ払うようにリターンする打法である。フリック打法に際しては、フリックした球を相手にカウンター強打されないように、テイクバックのない非常にコンパクトなスイングで素早く打球がなされる。技術が向上すれば、台上での強打ともいえるほどのスピードのある打球を打つことも可能で、レシーブから直接得点を狙うこともできる。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "プッシュは、ショート打法において強く押し出すように打つ打法ある。主に、ペンホルダーのミドルやバックハンド側の攻撃として用いる。シェークハンドのバックハンドの強振に比べて威力は出しにくいが、打点が早く、やり方によっては同等以上に打ち合うこともできる。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "チキータはピーター・コルベル(チェコ)が発案した打法であり、横回転をかけるバックハンドの台上ドライブ打法である。チキータバナナのようなカーブを描くことから、このように呼ばれるようになった。チキータ・レシーブとも称する。ペンホルダーの裏面打法あるいはシェークハンドでの打法として適している。チキータ打法ではコンパクトなスイングでも強打ができ、フリック打法とともに台上での強打技術として重宝されており、現代卓球の主要なレシーブ技術となっている。なお、チキータのスイングから打球する逆横回転系のチキータは逆チキータと呼ばれている。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "ここでは主に、上記の打法に対して応じる技を中心に解説する。トッププレーヤーのリターンの間隔(打球から相手の打球までの時間)は最短で0.2秒ほどと言われ、これは人間の物体運動に対する全身応答までの最短時間である0.3秒より短い。したがって特に、カウンターのような強打に強打で応じる打法では、必然的にこの時間の不足分(0.1秒)を越える早い応答が必要になる。これに対処する為にトッププレーヤーは、先手先手で相手のリターンを先読みして、打球を「待ち伏せ」することで、この不足分の時間を作り出している。なかでも劉詩雯(中国)は、自身の打球モーションを終えて次の打球の予備動作へ入るタイミングが他のプレーヤーより抜きん出て早く、上記の「待ち伏せ」に特に優れた選手と評されている。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "ブロックは、相手のスマッシュやドライブ等の強打に対して、前陣・中陣にかまえて、バウンドの上昇期や頂点で当てるようにリターンする守備的打法である。ブロック打法では、相手の球威を殺す為、回転の影響を特に受ける。そのため、裏ソフトラバーでブロック打法を行う場合は、ラケット角度を的確に調整する必要がある。ブロックは、相手の強打を返すことが目的のため、スイングはあまり大きくとらない。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "相手の球の威力を「殺して返す」、「そのまま返す」、「自分の力を上乗せして返す」など、リターンの球質に変化をつける技術もある。技術レベルにもよるが、プレーヤーによっては、相手の強打をブロックして、台上で2バウンドさせるほどまでに威力を殺すことが可能である。横回転をかけたサイドスピンブロックなどで球質を変化させてミスを誘うことができるなど、相手が打ってきた球を悉くブロックして相手のつなぎ球を狙い撃ちするという戦術を取るプレーヤーもいる。粒高ラバー等の使用者では、サイドスピンブロックやカットブロック(下回転をかけるブロック)等の技術によって、相手の打球のスピンを利用・反転してリターンすることもできる。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "カウンターは、相手の強打をさらに強打で撃ち返す技術全般を指す。基本的には、上記のブロック技術において、テイクバックをやや大きく取り、飛球に合わせて振り抜くスイングとすることで威力のあるカウンターとなる。カウンターに際しては、体勢が整わない相手を打ち抜くことや、相手の球威を利用することが目的である。このように、応じ技であるため、定まった打法は特になく、カウンタードライブのような特に攻撃的なカウンターもあれば、カウンターブロックのような守備的な側面をもった打法もある。いずれも、相手の強打を狙い打つ打法であるため、難度は高いが、成功すれば得点力も高い、ハイリスク・ハイリターンな技術である。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "ミート打ちは、主に表ソフトラバーのプレーヤーが使う攻撃方法であり、相手の回転がかかったボールに対して、スマッシュのように強くはじいてリターンする打法である。相手の回転に合わせてのラケットの角度の微調整が肝要であることから、ミート打ちの一部を角度打ちと呼ぶこともある。ラケットをコンパクトに振り切り、ボールを擦らず打球するので、あまり回転がかからず威力自体はそれほど強くないが、早い打点で打つため、相手のリターンへの動作が時間的に間に合わず、ミート打ちを決定打とすることもできる。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 135,
"tag": "p",
"text": "カット打ちは、ツッツキやカットの下回転を利用してリターンする打法である(スピンに応じた打法)。打つべき相手の打球がツッツキである場合は、ツッツキ打ちとも呼ばれる。相手の下回転を利用する打法のため、打点やタイミングの正確さが要求される。カット打ちによって、強く前進回転を掛けてリターンする方法もある。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "カット打ちは、打ち損じた場合に打球スピードが遅くなり、浮いしまった打球を相手に強打されるリスクがある。しかし、高島規郎によって8の字打法が考案されたことにより、カット打ちの欠点がほぼ解消されている。この打法と類似の技巧として楕円打法があり、カット打法とは反対の、ドライブ打法に対するリターンに応用されている。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "ロビングは、相手の強打等によるボールを高く打ち上げるように打球して、長い滞空時間でリターンする打法である。相手のミスを誘うものだが、繰り返し相手からスマッシュなどの強打を受けやすい。ロビング打法では打球が高くあがる分、卓球台でのバウンド時に回転の影響を受けやすい。そのため、上下回転やコークスクリュー回転などの強烈な回転(ボールの回転を参照)をかけてロビングすることで、相手にとって打ちにくい球としてリターンすることが可能である。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "フィッシュは、中陣・後陣でにおいて、ロビングよりも低い弾道で相手のボールを返す打法である。フィッシュ打法は、ブロック打法(上記)よりも打球点を遅くして、頂点を過ぎところで打球する打法とされる。相手の攻撃をしのぐ、いわゆるつなぎ球だが、ロビングに比べて相手にリターンされにくくすることもできる。このように、相手の攻撃をフィッシュでしのいで、相手が攻めあぐねたところで、一気に反撃をするといった戦法も用いられる。",
"title": "打法"
},
{
"paragraph_id": 139,
"tag": "p",
"text": "多くの場合、ひとりのプレイヤーがすべての打法を望む競技レベルまで習得することは難しい。プレーヤーは、自身の適正や好みによって、習熟する技術をある程度選ぶ必要がある。その結果として卓球には、攻守や前陣・中陣・後陣のプレー領域、その他に特化したプレースタイルがあり、戦型と呼ばれる。グリップよるラケットの分類にあるように、ラケットにはグリップごとに長所短所があり、戦型をシェークハンドとペンホルダーのそれぞれのグリップによるものに分類することもできる。以下の各項にそれぞれの戦型の概要を示した。また、戦型ではないがそれに類したプレーヤーの分類として、左利き(サウスポー)であることがあげられる。大多数である右利きのプレーヤーとはボールの回転やフォア・バックの打球位置等が左右反転するため、左利きのプレーヤーと対戦する際には異なった戦術を採る必要がある。",
"title": "戦型"
},
{
"paragraph_id": 140,
"tag": "p",
"text": "シェークハンドラケットは、フォアハンドとバックハンドの双方(両ハンド)で強振・強打を行いやすい。一方で、ミドル(身体の近く、フォアとバックの選択に迷う位置)への強打には比較的弱い。これらの特性を活かして、主に以下の戦型が多くのプレーヤーによって実践されている。",
"title": "戦型"
},
{
"paragraph_id": 141,
"tag": "p",
"text": "ペンホルダーラケットは、フォアハンドで特に威力のある打球が可能であるが、バックハンドでは相対的に守勢に回らざるを得ないことが多い。一方、台上での技術を含むミドルへの打球に対して対処しやすい。ペンホルダーの使用者はこれらの特性から、主に以下の戦型を採っている。",
"title": "戦型"
},
{
"paragraph_id": 142,
"tag": "p",
"text": "ラージボール卓球とは、JTTAが卓球の普及を目的として考案し、ルール・用具規格等を1988年に制定した、新しい体系の卓球競技である。一般的な卓球(硬式卓球)で使われているボール(直径40 mm)よりも大きなボール(直径44 mm)を使って行われる。ボールが大きい等のルールの違いから、空気抵抗の効果が増大するため、ボールの速度および回転量が従来の卓球よりも減り、ラリーが続きやすいなどの特徴がある。高齢者等でも手軽にできる生涯スポーツとして考案されたものであるが、近年は、ラージボール卓球へ参入する若年層を含む硬式卓球経験者も多くなっている。このような競技人口の増加に伴い、全国各地で多くの大会が開催されている。",
"title": "他の競技ルール"
},
{
"paragraph_id": 143,
"tag": "p",
"text": "硬式卓球との主な違いは、以下の通りである。",
"title": "他の競技ルール"
},
{
"paragraph_id": 144,
"tag": "p",
"text": "歴史で述べた通り、日本への卓球の伝来・普及は、1902年からの坪井玄道によるものとされる。それよりしばらくの間は、日本独自の用具とルールの発展があった。初の卓球統轄機関として大日本卓球協会が創立された1921年(大正10年)頃は、軟式卓球(日本式卓球)のルールによる競技が行われていた。硬式卓球との主な違いは以下の通りである。",
"title": "他の競技ルール"
},
{
"paragraph_id": 145,
"tag": "p",
"text": "この日本独自の軟式(日本式)卓球は、ラージボール卓球の普及や硬式卓球のルールの変遷などをうけて、2001年(平成13年)度をもって幕を閉じた。",
"title": "他の競技ルール"
},
{
"paragraph_id": 146,
"tag": "p",
"text": "ここまでの節で特に解説のなかった卓球関連用語を本節に示す。",
"title": "用語"
},
{
"paragraph_id": 147,
"tag": "p",
"text": "以下の項目に示すように、卓球発祥の地であるヨーロッパで普及がはじめに進み、ITTFなどの国際団体も初期はヨーロッパ諸国主導で設立・運営された。次いで、アジアで広く普及されるに至り、特に、日本、中国、韓国といった強豪国が現れ、以降はヨーロッパの選手に引けを取らない結果を残すようになった。とりわけ中国は、世界トップの卓球先進国となっており、オリンピックの卓球競技等の国際大会では、上位入賞者をほぼ独占する状況である。選手個々人について、1991年10月以降のITTF世界ランキングでは、大会成績等のポイントを機械集計して順位付けされたものが随時発表されているが、ここで一位となった選手のほとんどが中国人選手である。このように、スウェーデンやドイツといった卓球伝統国を除けば、世界レベルの大会の上位者(特にシングルス)は主にアジア勢が占める傾向がある。一方で、ダブルス(男女各部門や混合ダブルス)や団体戦等では、多くの国々にも戦果を挙げるチャンスが十分ある状態であり、パラ卓球も含め各々の選手が向上心をもって卓球競技に臨んでいる。",
"title": "卓球の普及"
},
{
"paragraph_id": 148,
"tag": "p",
"text": "大衆スポーツや生涯スポーツとして、娯楽・文化としての卓球は各国それぞれで普及が進んでおり、映画などの創作作品にも卓球がテーマ化・題材化されている。工学に目を転じると、TOPIOやフォルフェウスなどの高度なロボット開発も進んでおり、競技以外の面でも卓球は人類文化の一部となっている。",
"title": "卓球の普及"
},
{
"paragraph_id": 149,
"tag": "p",
"text": "競技スポーツとしては、傾向として、アジアとヨーロッパで卓球が盛んである。以下に述べる中国の帰化選手が世界各地に移り住んで選手・指導者として生活を営んでいるため、元・中国人の代表選手や指導者が多い国もある。",
"title": "卓球の普及"
},
{
"paragraph_id": 150,
"tag": "p",
"text": "娯楽スポーツ・生涯スポーツとしての卓球は、他のスポーツと比べ、ゲームをプレーするにあたっての敷居(最低限のルールの理解、スキルの習得、場所・道具・プレーヤーの確保)が比較的低い。それほど服装は問われず、力のない女性や子供でもできること、ケガの心配も比較的少ないことから、気軽に遊ぶことが出来るスポーツの一つである。そのため、老若男女問わず親しみやすく、実践しやすいスポーツとして主に卓球の盛んな国々で愛好されている。",
"title": "卓球の普及"
},
{
"paragraph_id": 151,
"tag": "p",
"text": "他の視点から楽しむ目的で卓球から派生させたスポーツも多く、ラージボール卓球はもちろんのこと、ハードバット卓球(英語版)やアルティメット卓球(フランス語版)、スリッパ温泉卓球、ヘディス、ビアポンといったものが考案・実施されている。",
"title": "卓球の普及"
}
] | 卓球は球技の一種である。2人(あるいは2組のペア)のプレーヤーがテーブルをはさんで向かい合い、対戦相手のコートへとプラスチック製のボールをラケットで打ち合って、得点を競う。 他のネット型球技と同じく「ボールを交互にリターン(返球)し合い、相手がリターンできないようリターンをした者が得点する」という典型的な形式のラケットスポーツである(⇒#ルール)。一方で、ボールの回転(スピン)の影響が大きく、スピンを利用した多様な打法があり(⇒#打法)、打法に特化した多くのプレースタイルがある(⇒#戦型)。こういったプレーの多様性から、ラケット等の用具も様々な特徴のものが開発されている(⇒#用具)。対戦者間の距離は3メートル程度と非常に近い為に表情や手指といった互いの細かな所作が観察可能であり、心理的な駆け引きやメンタルも勝敗に影響するなど、「究極の対人競技」とも評される。競技スポーツとしては体力と知性の双方に高い水準が求められ、トッププレーヤーに至っては「心技体智」のすべてに一流であることが要求されるスポーツである。 | {{redirect|テーブルテニス|コンピュータゲーム|テーブルテニス (コンピュータゲーム)}}{{スポーツ
| 画像 =[[File:Ishikawa and Fukuhara at Table Tennis Pro Tour Grand Finals 2011 (2).jpg|300px]]
| 見出し = 2011年[[ITTFワールドツアーグランドファイナル]]女子ダブルスの試合
| 競技統括団体 = [[国際卓球連盟]]
| 通称 = ピンポン
| 起源 = [[ジュ・ド・ポーム]]等の中世の[[テニス]]をもとに近代に考案
| 競技登録者 =
| クラブ =
| 身体接触 = 無
| 選手 = 2人(シングルス)あるいは4人(ダブルス)
| 男女 = 有。男女混合ダブルス(ミックスダブルス)
| カテゴリ = 屋内競技、球技、ラケットスポーツ
| ボール = プラスチック製で直径40 mmの中空球 (ラージボールでは44 mm)
| オリンピック = [[1988年ソウルオリンピックの卓球競技|1988年]]-
}}
'''卓球'''(たっきゅう、[[英語|英]]: Table tennis)は[[球技]]の一種である。2人(あるいは2組のペア)のプレーヤーがテーブルをはさんで向かい合い、対戦相手のコートへと[[合成樹脂|プラスチック]]製の[[ボール]]を[[ラケット]]で打ち合って、得点を競う。
他の[[球技#ネット型|ネット型球技]]と同じく「ボールを交互にリターン(返球)し合い、相手がリターンできないようリターンをした者が得点する」という典型的な形式のラケットスポーツである(⇒[[#ルール]])。一方で、[[卓球#ボールの回転|ボールの回転(スピン)]]の影響が大きく、スピンを利用した多様な打法があり(⇒[[#打法]])、打法に特化した多くのプレースタイルがある(⇒[[#戦型]])。こういったプレーの多様性から、[[卓球#ラケット|ラケット]]等の用具も様々な特徴のものが開発されている(⇒[[#用具]])。対戦者間の距離は3[[メートル]]程度と非常に近い為に表情や手指といった互いの細かな所作が観察可能であり<ref name=":27" />、心理的な駆け引き<ref name=":7" />やメンタル<ref>{{Cite journal|author=Suzuki, M., Okazawa, Y., Yonekawa, N., Yoshizawa, Y., Tsuruhara, K., Yamamoto, Y.|year=1992|journal=Int. J. Table Tennis Sci.|volume=1|page=51}}</ref><ref>{{Cite journal|author=Scott, M. J., Scott III, M. J.|year=2013|journal=Int. J. Table Tennis Sci.|volume=8|page=129}}</ref><ref>{{Cite journal|author=Kawano, M., Mimura, K., Kaneko M.|year=1992|journal=Int. J. Table Tennis Sci.|volume=1|page=57}}</ref>も勝敗に影響するなど、「究極の対人競技」<ref name=":27">{{Cite book|和書 |title=卓球王 水谷隼 終わりなき戦略 |date=2020-08-25 |year=2020 |publisher=[[卓球王国]] |author=[[水谷隼]]}}</ref>とも評される。競技スポーツとしては体力と知性の双方に高い水準が求められ<ref name=":28" />、トッププレーヤーに至っては「心技体智」のすべてに一流であることが要求されるスポーツである<ref name=":27" />。
== 歴史 ==
=== 卓球の誕生 ===
[[ファイル:Ping-Pong 2.jpg|サムネイル|初期の「ピンポン」の製品。写真は[[パーカー・ブラザーズ]]社製のもの。ラケットとネット、ボール、および当時のルールブックが同梱されている。]]
卓球は、[[ジュ・ド・ポーム]]などの[[中世]]の[[テニス]]ゲームをもとに、[[1880年代]]に[[イギリス]]で考案されたとされる<ref group="注釈">厳密な意味での「卓球の考案者」の詳細は定かでない。[[1883年]]に[[スラセンジャー]]社が、ネットに関する[[特許]]において「'''卓上のテニス'''」についての言及をしている。その後に、現代の「'''卓球'''」の概念に通じる特許について、多くの例が続いた。それらのなかでも、確認できる早期のものとして、[[ジェームズ・デボンシャー]]の特許([[1885年]]申請、1887年失効)の存在が、[[国際卓球連盟]]によって挙げられている。</ref><ref name="ITTF">{{Cite web |url=https://www.ittf.com/history/documents/historyoftabletennis/ |publisher=International Table Tennis Federation |title=HistoryofTableTennis |accessdate=2020-03-30}}</ref>。1891年に、ゲーム用品・スポーツ用品メーカーの[[ジャック・オブ・ロンドン]]社が「ゴシマ」という商標で、現在の「卓球用具一式」のような商品を発売している<ref group="注釈">しかしながら、この最初の製品自体は商業的に成功しなかった。</ref><ref group="注釈">デボンシャーの特許を含む「卓球」のアイデアに対して、[[ジャック・オブ・ロンドン]]社が対価等を支払ったかどうかについては、ITTFはまったくの不明と述べている。一方で、同社はデボンシャーの特許の失効から長い期間が経過しているという事実には言及しており、これが同社の製品の独自性の根拠ともされる。</ref><ref name="ITTF" />。同社は1900年に、これまで[[コルク]]製であったボールを[[セルロイド]]製<ref group="注釈">現在はセルロイドでなくプラスチック製のボールが主に用いられている。</ref>に改良した。このボールを打つ際の音にちなんで「'''[[ピンポン]]''' ('''Ping Pong''')」と命名して売り出したところ製品はヒットし、瞬く間にイギリスをはじめとしたヨーロッパ諸国を中心に普及した<ref group="注釈">以上の経緯に関係した「ゴシマ」という商品名は、その後徐々に同社の製品からは消えていった。</ref><ref name="ITTF" />。この際に「ピンポン」とともに「'''卓球'''('''Table Tennis''')」の呼称も一般化し<ref name="ITTF" />、これが現在の競技名となっている。[[ファイル:Partie de Tennis de table en 1901.jpg|サムネイル|La Vie au grand air誌(1901年)に掲載された当時の卓球の様子。]]
=== 初期の卓球 ===
卓球の発祥国であるイギリスにおいては、当初は二つの協会が並立するも<ref group="注釈">卓球協会(Table Tennis Association)とピンポン協会(Ping Pong Association)の二つの協会が存在した。</ref>、ほどなく統合されて英国卓球協会(現・{{仮リンク|卓球イングランド|en|Table Tennis England}}<ref>{{Cite web |title=Home |url=https://www.tabletennisengland.co.uk/ |website=Table Tennis England |access-date=2023-06-24 |language=en-GB}}</ref>)となり、1922年には同国で卓球の「標準ルール」が定められ、競技スポーツとしての発展が進んだ<ref name="ITTF" />。
[[1900年代]]頃には、[[欧州]]で[[ゴム]]製の[[#ラバー|ラバー]]<ref group="注釈">構造としては、現在の[[卓球#ツブラバー|ツブラバー]]に類似したラバーであった。</ref>が開発され、ラバーを貼り付けたラケットが主流となった<ref name="y2009-nippon">[https://web.archive.org/web/20090122193447/http://yokohama2009.com/Default.aspx?tabid=87 日本卓球栄光の歴史](2009年1月22日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) 2009年[[世界卓球選手権]]横浜大会公式[[ウェブサイト|サイト]]</ref>。この当時は、それほど強い打球ができなかったことやコートを仕切るネットが高かったこともあり<ref name="y2009-sekai">[https://web.archive.org/web/20090122193442/http://yokohama2009.com/Default.aspx?tabid=86 世界卓球選手権の歴史](2009年1月22日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) 2009年[[世界卓球選手権]]横浜大会公式サイト</ref>、卓球は守りに徹した方が有利なスポーツであった。たとえば、1点を取るのに2時間以上かかったという記録も残っている<ref group="注釈">第10回[[世界卓球選手権]](1936年)での記録である。</ref><ref name="y2009-sekai" />。
=== 国際的な普及 ===
卓球が国際的な競技スポーツとなるに際して、統一されたルール下での国際大会を円滑に運営するために、'''[[国際卓球連盟]]''' (略称: '''ITTF'''<ref>ITTF Handbook, 50th ed., 1.1.1.1.</ref>)が[[1926年]]に発足している<ref name="ITTF" />。同年には、[[ロンドン]]で最初の'''[[世界卓球選手権]]'''が開催され、男女の各シングルス部門では[[ローランド・ヤコビ]]と[[メドニヤンスキ・マリア]](ともに[[ハンガリー]]代表)がそれぞれ初代のチャンピオンとなった。
この頃に、各国でも卓球の国内管理組織が設立されている。たとえば、[[ドイツ]]では1925年に{{仮リンク|ドイツ卓球連盟|de|Deutscher Tischtennis-Bund}}<ref>{{Cite web |title=tischtennis.de |url=https://www.tischtennis.de/ |website=www.tischtennis.de |access-date=2023-06-24}}</ref>が、[[スウェーデン]]では1926年に{{仮リンク|スウェーデン卓球協会|sv|Svenska Bordtennisförbundet}}<ref>{{Cite web |title=Startsida |url=https://sbtf.se/ |website=Svenska Bordtennisförbundet – SBTF |access-date=2023-06-24 |language=sv-SE}}</ref>が、[[フランス]]では1927年に{{仮リンク|フランス卓球連盟|fr|Fédération française de tennis de table}}<ref>{{Cite web |title=FFTT - Fédération Française de Tennis de Table |url=https://www.fftt.com/site/ |website=www.fftt.com |access-date=2023-06-24}}</ref>が、[[日本]]では1929年<!-- 7月12日 -->に日本卓球会(現在の'''[[日本卓球協会]]''' ('''JTTA'''))<ref>日本体育協会五十年史</ref>が、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では1933年に現・{{仮リンク|USAテーブル・テニス|en|USA Table Tennis}}<ref>{{Cite web |url=https://www.teamusa.org/USA-Table-Tennis/Governance-and-Financials |title=USA Table Tennis - Governance and Financials |access-date=2023-06-24}}</ref>がそれぞれ設立されている。
==== 日本への普及 ====
[[File:ピンポン伝来の地(岡山)を示す碑.jpg|thumb|日本で最初にピンポンをした場所にある碑(岡山市)]]
卓球の日本への普及については、1902年に[[東京高等師範学校]]教授の[[坪井玄道]]が[[フランス]]から用具一式を日本に持ち込み、坪井の普及活動を契機に国内へ広まったとされる<ref>卓球 知識の泉 藤井基男 2003年 株式会社卓球王国 P23</ref>。一方で、[[山田耕筰]]の著作によると、より早い1901年には「[[岡山県|岡山]]で卓球をした」という記録もある<ref group="注釈">1886年生まれの山田耕筰が15歳の時(1901年)に相当する。</ref><ref>山田耕筰著作全集3 株式会社 岩波書店 2001年 P667</ref>。
1937年には、日本では初となる国際試合が行われた。この際に、日本選手はハンガリーの元世界チャンピオンと対戦している。当時の日本卓球界にはまだラバー(上記)が普及しておらず、ラバーが貼られたラケットを用いる選手とは初の対戦であった<ref name="y2009-nippon" />。日本選手はラケットに何も貼っていない状態<ref group="注釈">このラケットの打球面に何も貼っていない状態は'''木ベラ'''と呼ばれる。現在のルールでは木ベラの面(たとえば、ペンホルダーラケットのラバーを貼ってない裏面)での打球は違反である。</ref>でありながらも、好成績を収めた<ref name="y2009-nippon" />。
=== 第二次世界大戦後~現在 ===
[[第二次世界大戦]]後には、卓球はさらに競技スポーツとしての発展が進み<ref group="注釈">とりわけ競技内容やルールに深くかかわるため、この詳細は[[卓球#ルール|ルール]]や[[卓球#ルールの変遷|ルールの変遷]]の項目で述べる。</ref>、[[ヨーロッパ]]のみならず[[アジア]]での普及・発展が特に進んだ。[[中華人民共和国|中国]]では{{仮リンク|中国卓球協会|en|Chinese Table Tennis Association}}、[[中華民国|台湾]]では[[中華民国卓球協会]]<ref name=":34">{{Cite web |title=中華民國桌球協會 |url=https://www.cttta.org.tw/ |website=www.cttta.org.tw |access-date=2023-06-24}}</ref>、[[大韓民国|韓国]]では{{仮リンク|大韓卓球協会|ko|대한탁구협회}}<ref>{{Cite web |url=http://www.koreatta.or.kr/ |website=www.koreatta.or.kr |access-date=2023-06-24 |title=대한탁구협회}}</ref><!-- (いずれも第二次世界大戦後ではあるが、設立年は不明) -->といった組織が各国等でそれぞれ発足している。また、[[大州]]ごとの各国協会間の連携組織として、1957年に[[ヨーロッパ]]では{{仮リンク|ヨーロッパ卓球連合|en|European Table Tennis Union}}が、1972年に[[アジア]]では{{仮リンク|アジア卓球連合|en|Asian Table Tennis Union}}等がそれぞれ設立されており、世界の各地域での国際公式大会の主催等をしている<ref group="注釈">詳細は[[卓球#運営機構・育成組織等|運営機構・育成組織等]]参照</ref>。
卓球はやがて、[[1988年ソウルオリンピック|1988年のソウルオリンピック]]より[[オリンピックの卓球競技|'''オリンピック競技''']]ともなった。その一方で、約100年の歴史をもつITTFも、エンターテイメント性の高い興行である[[ワールドテーブルテニス|'''WTT''']]<ref group="注釈">ワールドテーブルテニス有限会社(ITTFが株を保有)が運営する大会のことである。現地観戦・メディア観戦を問わず観戦者第一の考え方から大会運営等の活動をしており、新たな観戦者層・競技者層の拡大ひいては卓球の一層の普及を目的のひとつとしている。</ref><ref>{{Cite web |title=World Table Tennis |url=https://worldtabletennis.com/aboutus |website=worldtabletennis.com |access-date=2023-06-05}}</ref>への移行を推進するなど、より一層の普及を図っており、今なお世界的に多分野・多方面への広がりをみせているスポーツである<ref group="注釈">[[卓球#卓球の普及|卓球の普及]]の項を参照。</ref>。
== ルール ==
ここでは特に断りが無い限り、ITTFによる標準ルールのうち、非[[身体障害|身体障害者]]による競技を想定した'''シングルス'''(1名対1名の試合)の規定について説明する。(他のルールについては以下の記事、節を参照)
* [[卓球#ダブルス|'''ダブルス''' (標準ルール)]]: 2名のペア同士の試合
* '''[[卓球#ラージボール卓球|ラージボール卓球]]''': ラージボールを使用する競技
* '''[[パラ卓球]]'''、'''[[車いすの部]]''': 障害者を想定した競技
=== 用具規定 ===
[[File:Table Tennis Table Blue.svg|thumb|330x330px|プレーイングサーフェスが青く塗装された卓球台。高さ(Height)、奥行き(Length)、幅(Width)のほか、ネットの構造も詳細に規定されている。]]
ここではルールの理解に必要な最低限の用具の規定を概説する(詳細は[[卓球#用具|用具]]節内の各説明を参照)。
'''卓球台'''('''台'''、'''テーブル'''とも)は平らな上面('''プレーイングサーフェス'''; 奥行2.74 m・幅1.525 mの長方形)をもつ塗装された木製の板である(⇒[[#卓球台]])<ref group="注釈">卓球台天板の木製版において、その横側面はプレーイングサーフェスではない。</ref>。プレーイングサーフェスは、競技場の床から76 cmの高さに設置されており、短辺を'''エンド'''、長辺を'''サイド'''とそれぞれ呼ぶ<ref group="注釈">短辺を示す白線を'''エンドライン'''、長辺を示す白線を'''サイドライン'''とそれぞれ呼ぶ。エンドラインは特に競技上で重要なラインであり、ルール上のエンドラインは「エンドラインを示す白線、および、その両端から無限遠へ伸びる直線」を指す。</ref><ref>ITTF Handbook, 50th ed., 2.5.14.</ref><ref name=":16">日本卓球ルール2023</ref>。プレーイングサーフェスは、エンドに平行な'''ネット'''によって2つの'''コート'''に等分されている。試合で対戦する各プレーヤーは、それぞれのエンドのコートにつき、ネットをはさんで向かい合う<ref group="注釈">各コートは、サイドに平行な直線で'''ハーフコート'''に等分されており、各プレーヤーからみて'''ライトハーフコート'''(右側)および'''レフトハーフコート'''(左側)とそれぞれ呼ぶエンドライン・サイドラインおよびハーフコートの境界には白線が引かれている(なお、ハーフコート境界を示す白線部分は、ライトハーフコート面に含まれるとみなされる)。ハーフコートの区分や取り決めは、[[卓球#ダブルス|ダブルス]]においてのみ使用する。</ref><ref name=":13">ITTF Handbook, 50th ed., 2.1.</ref>。ネットはプレーイングサーフェスから15.25 cmの高さとなるよう、2つの支柱によって張られている(ネットと支柱を合わせて'''ネットアセンブリ'''と呼ぶ)<ref group="注釈">支柱は'''サポート'''とも呼ばれる。支柱の支持器具もネットアセンブリに含まれる。ネットの張り方としては「張られた状態のネットの中央に100 gの錘を乗せた際に、ネットの下がりが1 cm以内になるように張る」と定められている。また、ネットは、プレーイングサーフェスおよび左右二つの支柱に接触するように張られる。</ref><ref>ITTF Handbook, 50th ed., 2.2.</ref>。'''標準ボール'''(単に'''ボール'''とも)は直径40 mmの、[[重さ|重量]]2.7 gの[[合成樹脂|プラスチック]]製の[[ボール|球]]であり、[[光沢]]のない[[白|白色]]か[[橙色]]のものを用いる(⇒[[#ボール]])<ref name=":14">ITTF Handbook, 50th ed., 2.3.</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.son.or.jp/docs/pdf/rule/2016_Mar_table_tennis.pdf SO Summer Sports Rules June 2016]}} スペシャルオリンピックス日本</ref>。'''ラケット'''は木製の[[卓球#ブレード|'''ブレード''']]に[[卓球#ラバー|'''ラバー''']]を貼った用具であり、プレーヤーはラバーの面を用いて打球する(⇒[[#ラケット]]、[[#ブレード]]、[[#ラバー]])<ref group="注釈">ラケットは競技の性質に大きく影響する重要な用具であり、また、プレーヤーごとに多様多種なラケットが選ばれている。こちらも詳細は示した各節で述べる。</ref>。
=== 試合進行 ===
==== 試合の概要 ====
[[ファイル:Table tennis at the 2018 Summer Youth Olympics – Men's Singles Bronze Medal Match 505.jpg|サムネイル|330x330ピクセル|'''7ゲームマッチ'''のシングルスの試合の様子。奥の電光掲示板に試合の進行状況が表示されている。'''ゲームスコア'''は3-3であり、第7ゲームまで進行している。現在のゲームの'''ポイントスコア'''は6-7であり、この'''ゲームの勝者'''が'''試合の勝者'''となる。なお、'''サービス'''を行うのは[[林昀儒|"LIN Yun-Ju"]]であり(氏名のハイライト表示)、両プレーヤーがタイムアウトの権利を行使済みである("T"の表示)。]]
卓球の'''試合'''は[[奇数]]の'''ゲーム'''から構成され<ref>ITTF Handbook, 50th ed., 2.11.</ref>、たとえば、最大で7ゲームを行う試合は「7ゲームマッチ」と呼ばれる。各ゲームは、両プレーヤーとも0点(0-0)の'''ポイントスコア'''(単に'''スコア'''、'''得点'''とも)からスタートする。ゲームにおいてプレーヤーは、'''サービス'''から始まる'''ラリー'''<ref>ITTF Handbook, 50th ed., 2.5.1.</ref>(ラケットによる相手コートへのボールの打ち合い)を行い、ラリーにおいて以下の要件を満たすことでポイントスコアを得る<ref>ITTF Handbook, 50th ed., 2.10</ref><ref group="注釈">卓球における得点の加点は、ほぼすべての場合において1点のみである。</ref>。
* 正規のサービスに失敗した場合は、相手の得点(1点)となる。<ref group="注釈">「相手の得点」は「自身の失点」と表現されることもある。他のスポーツでも多くの場合そうであるように、原則として卓球のスコアは減じられることはない。本記事における「失点」とは、対戦相手への得点の付与を意味する。</ref>
* 相手コートへの正規の返球('''リターン''')に失敗した場合は、相手の得点(1点)となる。<ref>ITTF Handbook, 50th ed., 2.10.1.2.</ref><ref group="注釈">ただし、相手のリターンへの不当な妨害行為('''オブストラクション''')等があった場合は、妨害された者の得点(1点)となる。</ref><ref group="注釈">かいつまんで言えば、ラリー(リターンの応酬)のなかで、「相手がリターンできない打球」で相手コートにリターンした者に一点が与えられる。サービスでの得点(サービスエース)もこれに準じる。</ref>
ひとつのラリーが終わったら、得点者の確認後、同様に次のラリーを行う。これを繰り返して11点を先取したプレーヤーが、ゲームの勝者となる<ref group="注釈" name=":2">ポイントスコアが10-10となった場合は、次にどちらかが11点目を得てもゲームの決着とならない。10-10よりさらに競技を進めて、先に2点差となる得点を得たプレーヤーが、ゲームの勝者となる。類似の他競技のルール・用語にもある、いわゆる「デュース」である。</ref><ref name=":15" />。
ひとつのゲームが終了すると、ゲームの勝者に'''ゲームスコア'''が1つ与えられて、次のゲームを同様に行う<ref group="注釈">ただしここで、次のゲームに進めるに際して、プレーヤーは、エンドおよび最初のサーバーの交代(下記)を行う。</ref>。このようにゲームを繰り返して行い、規定のゲームスコア数(最大ゲーム数の過半数)を先取したプレーヤーが、その時点で試合の勝者となる。たとえば、7ゲームマッチでは4ゲームの先取で試合の勝者となる<ref group="注釈">7ゲームマッチのほか、5ゲームマッチ(3ゲーム先取で勝利)などもよく実施される。また、練習的な意味合いで、3ゲームマッチや1ゲームのみの試合も行われることがある。</ref>。
以下に、本概要で述べた試合の手順・規定について詳細を示す。
==== 試合開始前 ====
試合<ref group="注釈">ここでは、公認審判がレフェリングするような大規模な大会の例を述べる。中小規模の大会やいわゆる練習試合においてはこの限りではない。</ref>の実施に先立って、挨拶、審判とプレーヤーの3者で試合に用いるラケットの確認<ref>ITTF Handbook, 50th ed., 2.4.8.</ref>及び[[コイントス]]を行う。コイントスの結果によって、試合開始時のサービス実施者や使用エンド(コート)等の諸条件を定める<ref group="注釈">正確には、当該コイントスの勝者は「'''第一ゲーム開始時にサーバーであるかレシーバーであるか'''」もしくは「'''第一ゲームにおいて使用するコート(エンド)'''」のいずれか一方を自由に選択することができる。上記2つの選択事項のうちコイントスの勝者が選ばなかった事項は、同コイントスの敗者が選択できる。他にも、試合に使用するボールや服装等の取り決めが必要な場合は、これらも同じくコイントスによってその勝者が選択できる。</ref><ref>ITTF Handbook, 50th ed., 2.13.1.</ref><ref>ITTF Handbook, 50th ed., 2.13.2.</ref>(日本では、コイントスに代えて、[[くじ]]や[[じゃんけん|じゃんけん (拳)]]の実施も行われる<ref name=":16" />)。つづけて、プレーヤー間で2分以内のラリー練習を行う<ref group="注釈">用具やプレーヤー自身も含めた競技環境等のコンディション確認とウォーミングアップの為に行う。時間の関係により、「ラリー練習はラリー数にして○本」などと適宜変更されることがある。</ref><ref>ITTF Handbook, 50th ed., 3.4.3.</ref>。
==== ラリー ====
試合は第1ゲームから始まる。各ゲームでは、勝者が決まるまで、ラリー(サービス、レシーブと以降のリターン)によるポイントスコアの獲り合いを以下の通り行う。
; サービス
: [[ファイル:Alexander Shibayev.jpg|サムネイル|サービスの様子。サービスにおいて、ボールや身体の位置には厳格なルールが定められている(写真は[[アレクサンダー・シバエフ]]によるサービスで、ボールを投げ上げた直後のもの)]]ゲームにおけるラリー<ref group="注釈">ルール上の'''インプレー'''の状態</ref>は、'''サービス'''('''第一球目'''の打球)によって始まる。コイントス等によりサービスを行うプレーヤー('''サーバー''')となった者は、次の手順に従ってサービスを行わなければならない<ref>ITTF Handbook, 50th ed., 2.5.9.</ref>。
:# ラケットを持っていない手('''フリーハンド''')の手のひらの上にボールを静止させる。<ref group="注釈">このとき、フリーハンドは規定の位置で手のひらを開いた状態でなければならない。この規定の位置とは、卓球台の自らのコートエンドより後方であり、かつ、プレーイングサーフェスより上の位置である。</ref><ref name=":17" />
:# フリーハンドでボールを16 cm以上の高さに投げ上げる。<ref group="注釈">このとき、フリーハンドは手を開いたままの状態を維持して、ボールにスピンをかけぬように、ほぼ垂直に投げ上げる必要がある。</ref><ref>ITTF Handbook, 50th ed., 2.6.2.</ref>
:# このボールが上昇をやめて落ちてくるところを、サーバーはラケットによって打球する。<ref group="注釈">はじめのボールの静止位置の条件と同じく、このときの打球する位置は、エンドラインより後ろであり、さらに、プレーイングサーフェスより上でなくてはならない。</ref>
:# サービスの打球は、まず自分のコートで1度だけバウンドし、次にネットの上を越えて、さらに相手のコートにバウンドしなくてはならない<ref>ITTF Handbook, 50th ed., 2.6.3.</ref>。 以上の手順でサービスを行えなかった場合は、サービスの失敗とみなされ、サーバーの失点(相手プレーヤーに1点の得点)となる。
:;サービスにおけるレット
::上記の手順通りにサービスを実施して相手のコートに打球が触れた場合であっても、ネットを越える際に、ネットに打球が接触していた場合は、審判から即座に'''レット'''を宣告される。レットの宣告時は、いずれのプレーヤーの得点ともならず、同プレーの再試行となる<ref group="注釈">レットとなったサービスは、サービスの実施回数(後述のサーバー交替の要件回数)に数えない。また、このときサーバーは、競技ルール上のいかなる不利益を負わずに、サービスのやり直しができる。参考までに。類似の球技である[[テニス]]においては、サービスにおいてのフォルト(サービスの失敗の一種)は、一度目の試行に限っては失点とされない。また、テニスではフォルトを二度連続すると失点となるが、卓球ではレットとなるサービスを何度繰り返しても失点にはならない。</ref><ref name="名前なし-20231105131057">ITTF Handbook, 50th ed., 2.5.3.</ref>。ただし、上記の手順通りでなかった場合(相手のコートに打球が接触しなかった場合等)は、打球のネットへの接触の有無にかかわらず、サービスのミス(相手プレーヤーに1点の得点)となる。
:;その他のサービスの規定
::サービスをするときには、サーバーはボールを投げ上げたのち速やかに、ボールとネットの間の領域からフリーハンドを退けなくてはならない<ref name=":18" />。サーバーの身体等<ref group="注釈">ここでは、フリーハンドや服装等も含まれる。</ref>によっても、打球時のボールを相手プレーヤーから視覚的に隠してはならない<ref>ITTF Handbook, 50th ed., 2.6.6.</ref>。審判は、プレーヤーのサービスが規定を満たしているか注意深く観察し、違反行為に対しては注意や失点を与える<ref group="注釈">たとえば、サービスをする際にトスが低かった場合(16 cm未満のトス)など、サービスに審判が疑義を示した場合は、サーバーに「注意」が与えられる。このときは、サービスのやり直しをするが、再度同様の疑わしいサービスとなったときは「フォルト」とされ、レシーバーの得点になる。一方で、ルール上明らかな違反サービスは(このような注意がなされることなく)フォルトとされ、レシーバーの得点となる。</ref>。
; レシーブ
: [[ファイル:Hayata Hina ATTC2017 6.jpeg|サムネイル|レシーブの様子(写真は[[早田ひな]]の[[卓球#打法|チキータ]]によるレシーブ)]]コイントス等により'''レシーバー'''となったプレーヤーは、相手プレーヤーのサービスに対する'''レシーブ'''('''第二球目'''の打球)を、以下の手順で行わなければならない<ref>ITTF Handbook, 50th ed., 2.5.10</ref>。なお、レシーブを含めて、ボールを打球して相手コートに正規に返球することを'''リターン'''と呼ぶ<ref name=":19">ITTF Handbook, 50th ed., 2.7.</ref>。
:# 相手の打球が自身のコートで一度バウンドした後に、このボールを自身のラケットで打球する。このバウンド以後で、かつ、再度ボールが卓球台や競技領域の地面にバウンドするまでの間であれば、打球を行える。ただし、相手の打球が自身のコートで1度バウンドするまでは打球してはならない(⇒下記の「ラリーにおける違反行為」にあるように「ボレー」は違反である)。
:# この自身の打球がラケットから離れてから、直接に(または、ネットアセンブリとの接触を経由して<ref group="注釈">通常、ネットアセンブリへの打球の接触によってプレー(ラリー)が無効・やり直しとなるのは、サービスの場合のみである。</ref>)相手のコートで1バウンド以上の接触が起こった場合、リターンとして認められる。リターンが出来なかった場合は、レシーバーの失点(相手プレーヤーに1点の得点)となる。
; リターン(ラリーの継続)
: レシーバーがリターンしたのちは、サーバーにリターンの義務が生じ、相手プレーヤーのコートにリターン('''第三球目'''の打球)をしなくてはならない。第3球目以降のリターンの手順は、上記のレシーブ(第二球目)のものと同一である<ref group="注釈">すなわち、リターンしなくてはならないプレーヤーは、自身のコートに一度バウンドしたボールを打って相手コートに直接(あるいはネットアセンブリへの接触を経て)返球する必要がある。参考までに。卓球における打球は慣例的に、「N球目(Nは[[自然数]])」という数え方をする。上述の通り、サービスは「1球目」であり、レシーブは「2球目」である。以降「3球目」、「4球目」…と続く。サーバーのプレーヤーは「奇数球目」のリターンを行い、レシーバーのプレーヤーは「偶数球目」の打球(リターン)を行うことになる。</ref><ref name=":19" /><ref>ITTF Handbook, 50th ed., 2.8.1</ref>。あとは、プレーヤー間で交互にリターンし合う'''ラリー'''の状態が続く。このようにリターンを交互に繰り返して、どちらかのプレーヤーがリターンに失敗すると失点(相手プレーヤーに1点の得点)となり、ラリーは終了<ref group="注釈">これをもって、次のサービスまでの間、インプレーの状態は解除となる。</ref>する。
: ラリーの終了後は、審判による加点者の確認ののち、ふたたびサービスから次のラリーを行う。
:; ラリーにおける違反行為
:: サービスとレシーブを含めたラリーにおいて、次のケースに該当する場合はリターンとは認められず、違反者の失点(相手の得点)となる。
::* '''オブストラクション''': 対戦相手のリターンへの不当な妨害行為である。たとえば、相手がリターンを試みる際、まだ相手の打球が自身のコートに接触する前に、その飛球にラケット・身体を問わず触れてしまった場合が該当する<ref group="注釈">ただしこのとき、相手の返球がコート触れることなく自らのコートのエンドラインより後方に飛球した状態等のルールで定める場合であれば、地面に落球する前にボールを(ラケットや手やなどで)捕球しても、オブストラクション(失点)とはならない。すなわちこれは、相手の打球がコートにまったく触れもしない、相手のリターンのオーバーミスが明らかである場合である。</ref><ref>ITTF Handbook, 50th ed., 2.5.8.</ref><ref>ITTF Handbook, 50th ed., 2.10.1.6.</ref><ref>ITTF Handbook, 50th ed., 2.10.1.4.</ref>。
::* '''ボレー行為''': 相手が返球したボールが自分の台にバウンドする前に、ボールを直接ラケット(あるいは身体・競技用服装)で打ってしまった場合(他の球技のいわゆる[[ボレー]]のような打球)が該当する<ref group="注釈">上記のオブストラクションと形式的には同一の違反である。なお、'''ハーフボレー'''という打法(台上等で素早くリターンする打法)が存在するが、これは飛球の台でのバウンド後に行う正規の打法であり、このルールで扱う「ボレー」には該当しない。参考までに、類似の球技である[[テニス]]においては、ボレーは(サービス以外の飛球に対しては)正規のリターンとして認められている。</ref>
::* '''2バウンド''': ボールを自分のコートで2バウンドさせた場合は失点(相手の得点)となる<ref group="注釈">2度目のバウンドが競技場の地面で起こった場合も、同様に失点となる。</ref>。
::* '''ダブルヒット'''(二度打ち): 一回のリターン試行時にボールをラケット等で2度打球した場合が該当する<ref group="注釈">ここでいう「ラケット等」には、打球者の身体や服装も含まれる。ただし、一連の打球動作において、意図的なものでなければ、ダブルヒットは有効なリターンとして認められる。</ref><ref>ITTF Handbook, 50th ed., 2.10.1.7</ref>。
::なお、打球において、'''ラケットハンド'''(ラケットを持つ手)の手首よりも先(指など)にボールが当たって相手のコートに入った場合は、正規のリターンとして認められる<ref group="注釈">すなわち、リターンに際しては必ずしもラケットやラバーに当たらずともよい。ただし一般に、このような返球を意図的に行うことは極めて難しいうえに、メリットも小さい。</ref><ref name=":2">ITTF Handbook, 50th ed., 2.5.7.</ref>。一方で、ラリー中に以下の行為を行った場合は、リターンの義務の発生・有無とは無関係に、失点(相手の得点)となる。
::* '''ハンドオンテーブル''': フリーハンドが台上に触れるなどした場合<ref>ITTF Handbook, 50th ed., 2.10.1.11</ref>
::* '''タッチネット''': 身体やラケットがネットアセンブリに触れた場合<ref>ITTF Handbook, 50th ed., 2.10.1.10</ref>
;カウントの取り方
: [[File:Table tennis umpire.jpg|thumb|卓球台のサイド付近に座り、一般的なスコアボードを操作する[[審判員|審判]]。中央の大きな数字が'''ポイントスコア'''(現在進行中のゲームでの得点)であり、両端の小さな数字は'''ゲームスコア'''(各プレーヤーが得たゲーム数)である。]]スコアボードの点数を付ける審判は、点数が入る度にサーバー側の点数・レシーバー側の点数を順に英語<ref group="注釈">この発声は、中国国内の試合においては、サーバー側の点数・対・レシーバー側の点数の順に中国語でなされる。(大会開催地の現地語での発声が実施されている例)</ref>で発声し、スコアボードの得点カウンター部を後ろから前へめくって<ref name=":36">{{Cite book|和書 |title=わかりやすい卓球のルール |date=2020-01-10 |publisher=[[成美堂出版]] |editor= |author=[[白川誠之]] (監修)}}</ref>得点者の得点表示を更新する。
==== ゲームの進行・終了 ====
ゲームでは、以上のようにサービスから始まるラリーが繰り返される。ひとつのゲームにおいては、2点差以上を付けて11点を先取したプレーヤーが、そのゲームの勝者となる。ただし、ポイントスコアが10-10となった際は、さらに競技を進めて2点差となる得点を先取したプレーヤーがゲームの勝者となる<ref name=":2" group="注釈" /><ref name=":15" />。ゲームの進行に際しては、両プレーヤーのサービスの機会や使用コートの均等化のため、以下の交替制が定められている。
; サーバーの交替
:ゲームの進行において、サーバーとなるプレーヤーは、同じプレーヤーが2本のサービスを行うごとに交替となる<ref name=":1">ITTF Handbook, 50th ed., 2.13.3.</ref>。参考までに、両プレーヤーのポイントスコアの[[加法|和]]が[[偶数]](2の倍数)となった際に、サーバーの交替が起こると判断することもできる<ref group="注釈">サービスは2本の実施を行うごとにサーバーが交替となり、かつ、(特殊な例外を除いて)サービスの実施ごとにどちらかの競技者に1点の得点が入るためである。</ref>。
:ポイントスコアが10-10となった場合には、そのゲームにおいて、以降のサーバーはサービスを1回実施するごとに交替となる。
; エンドの交替
: ひとつのゲームの勝者が決まり、次のゲームに進むにあたって、各プレーヤーは前のゲームと反対側のコート(エンド)に移って次のゲームを行う('''エンドの交替'''<ref group="注釈">'''チェンジコート'''あるいは'''コートチェンジ'''とも呼ぶ。</ref>)<ref name=":21">ITTF Handbook, 50th ed., 2.13.7.</ref>。ここでのエンドの交替の際は、コートの交替だけでなく、ゲーム開始時のサーバーも交替し、前のゲームにおいて最初にレシーブをしたプレーヤーからサービスを始める<ref>ITTF Handbook, 50th ed., 2.13.6.</ref>。
: また、最終ゲーム(たとえば、7ゲームマッチの7ゲーム目等)では、いずれかのプレーヤーが5点を獲得した時点で、エンドの交替が実施される<ref group="注釈">ただし、この場合のエンドの交替では、かならずしもサーバーは交替せず、サーバーの交替は該当ゲーム内でのサービスの実施回数(得点経過)にのみ従う。</ref><ref name=":21" />。
==== 試合の進行・終了 ====
[[ファイル:Mondial Ping - Mixed Doubles - Final - 66.jpg|サムネイル|混合ダブルスの試合終了後の様子([[第52回世界卓球選手権個人戦|2013年の世界選手権]])。監督と勝利の喜びを分かち合う[[キム・ヒョクボン]]と[[キム・ジョン]]。]]試合においては、各ゲームの勝者にはゲームスコアが1つ付与される。プレーヤーは、試合の勝者が決まるまでゲームを繰り返し、ゲームスコアの獲り合いを行う。ゲームの終了時点で最大ゲーム数の過半数<ref group="注釈">たとえば、7ゲームマッチの場合は4ゲームである。</ref>のゲームスコアを得た者は、試合の勝者となる<ref name=":20">ITTF Handbook, 50th ed., 2.12.1</ref>。勝者の決定をもって、卓球の試合は終了となる(実施したゲーム数が最大ゲーム数に達していない場合でも、この時点で試合終了となる<ref group="注釈">たとえば、7ゲームマッチのケースでは、ゲームスコアが3-1の状態での第5ゲームにおいて、ゲームの勝者が4つ目のゲームスコアを獲得した場合、ゲームスコアが4-1となって勝者が決し、この試合はこの第5ゲームをもって終了となる。(第6ゲーム、第7ゲームは実施しない)</ref>)。
[[ファイル:Table tennis at the 2018 Summer Youth Olympics – Medal Ceremonies Men 120.jpg|サムネイル|大会の表彰式の様子(2018年の[[ユースオリンピックの卓球競技|ユースオリンピック]])。左から、[[張本智和]](銀メダル)、[[王楚欽]](金メダル)、[[カナック・ジャー]](銅メダル)。]]
以上が標準的な卓球の試合進行である。'''大会'''のような競技会においては、ひとつの試合が終わった後は、勝者が別の者と次の試合を行ったり([[トーナメント方式|トーナメント戦]]の場合)、勝者・敗者ともにそれぞれ別の者と試合を行ったりする([[リーグ戦]]の場合)。大会で予定された必要な試合のすべてが終了した時点で、各大会の規約等にそって'''優勝者'''や'''入賞者'''等<ref group="注釈">大会によっては、優勝や入賞の他、[[卓球#上記機構等による賞・段級制度|団級位・ランキング・栄典が認定]]されたり、[[卓球#主要な卓球大会・リーグ戦機構|別の大会]]への出場権を与えられたりする場合もある。</ref>が決まり、大会は終了する。
試合の進行に付随するその他のルール・慣例等を以下に述べる。
; 促進ルール
: {{Seealso|促進ルール}}
: '''促進ルール'''は試合時間短縮を目的としたルール上の取り決めである。ひとつのゲームにおいて、双方のポイントスコアの合計が18未満であり、かつ、開始より10分が経過してもゲームが終わっていない場合は、促進ルールが適用され、リターン回数制限などが発生する<ref name="名前なし_2-20231105131057">ITTF Handbook, 50th ed., 2.15.</ref>。なお、双方のプレーヤーが合意すれば、上記の条件を満たさずとも、最初から促進ルールを適用させた試合とすることもできる。
; タイムアウト
: '''タイムアウト'''は、試合中に必要に応じて、ゲーム進行を一旦停止して<ref group="注釈">ただし、ラリー中(インプレー時)においては、タイムアウトを要請してのプレーの停止は、原則としてできない。</ref>、プレーヤーが助言を受ける等の時間を得る行為である。試合中のタイムアウトは、1試合につき1回のみ要請することができる。タイムアウトの制限時間は60秒以内である<ref>ITTF Handbook, 50th ed., 3.4.4.1.1.</ref>。このとき、タイムアウトを要求しなかった側のプレーヤーも、助言等を受けることができる。タイムアウトを要求したプレーヤーがコートに戻って試合再開の意志を示した際は、相手プレーヤーは速やかにコートに戻らなくてはならない<ref>ITTF Handbook, 50th ed., 3.4.4.2.5.</ref>。また、双方のプレーヤーが同じタイミングでタイムアウトを取った場合には、双方のタイムアウトの権利が消費される<ref group="注釈">それ以降その試合では、双方ともにタイムアウトは使用できなくなる。</ref><ref>ITTF Handbook, 50th ed., 3.4.4.2.6.</ref>。
; タオリング
: '''タオリング'''([[英語|英]]: toweling)は、競技中に短時間にて[[タオル]]で[[汗]]をふくことである。次の条件を満した際に、タオリングが認められる<ref>ITTF Handbook, 50th ed., 3.4.4.1.2.</ref>。
:* 各ゲームの開始から数えて、6の倍数だけポイントスコアが発生(6, 12, 18回…)した際(すなわち、両プレーヤーのポイントスコアの合計が6の倍数なった場合である)<ref>[[テレビ朝日]]『[[日本人の3割しか知らないこと くりぃむしちゅーのハナタカ!優越館]]』 2016年8月7日放送分より</ref>
:* 最終ゲームにおいて、エンド(コート)の交替をした際
:* 上記の他に、ラケットの表面が汗でぬれた場合や、メガネに汗がついた場合といった、意図しないアクシデント対しては、審判員の許可があった場合は、タオリングが認められる。
; その他
:* ラリー中にボールが割れるなどして破損した場合は、そのラリーによる得点は無効となる。ただし、割れたことに気付かずにラリーが終わって、ラリー後にボールを検めて割れていたことが判明した場合は、そのラリーでの得点は有効となる。<ref group="注釈">ボール破損していた場合。その後の対応としては、審判によるボール交換が行われる。新しいボールに対しては、練習打(ラリー)を行う。その後、あらためてゲームが再開される。</ref>
:* 他のコートからボールが飛んで来るなどして、ラリーの妨害になった場合は、審判が即座にレットを宣告してラリーは中断され<ref group="注釈">ただし、審判がレットを宣言していない「インプレーの状態」で、競技者は審判の許可なくラリーを中断できない。その場合は、許可なくラリーを中断した競技者の方の失点(相手の得点)になる。</ref>、そのラリーによる得点は無効となる<ref>ITTF Handbook, 50th ed., 2.9.1.3</ref>。その後は、ゲーム再開に支障がなくなったのを確認してから、サービスのやり直しにてゲームは再開される。
:* バッドマナー(プレーヤーやその関係者による、対戦相手への害意のある行動や、観客への威嚇等攻撃的態度、スポーツとして品位を損なう言動全般を指す。侮蔑的な発言や、ボール・テーブル等設備の故意による損壊、競技領域外へのボールの打ち込み、試合運営者の侮蔑等の行為が該当する)<ref>ITTF Handbook, 50th ed., 3.5.2.1.</ref>については、警告として[[イエローカード]]が提示され<ref name=":16" /><ref>ITTF Handbook, 50th ed., 3.5.2.2.</ref>、スコアボードに黄色の標識が掲示される<ref>ITTF Handbook, 50th ed., 3.4.1.5.</ref>。2度目の同様の行為には、イエローカードとともに[[レッドカード]]が提示され、相手に1点が与えられる<ref name=":35">ITTF Handbook, 50th ed., 3.5.2.3.</ref>。3度目の同様の行為に対しては、相手に2点<ref group="注釈">卓球において、得点は一度に1点であることがほとんどだが、これは一度に2点以上が得点される数少ない例である。</ref>が与えられる<ref name=":35" />。4度目の場合は、レフェリー(審判長)に報告され<ref>ITTF Handbook, 50th ed., 3.5.2.4.</ref>、審判長が処断する(審判長はそのプレーヤーを失格・退場処分とすることができる<ref>ITTF Handbook, 50th ed., 3.5.2.8.</ref>)。<ref name=":16" />
=== ダブルス ===
卓球における'''ダブルス'''は、各チーム2名のペア同士の計4名で試合が行われる競技である。基本的にはシングルスと同じルールで行われるが、以下に示すいくつかの規定・条件が加わる。大きな特徴としては、各チームはペア内では、最後にリターンしたプレーヤーではないプレーヤーが、次のリターンを行わなければならないという点があげられる。すなわち、ペアのプレーヤーは必ず交互にリターンしなくてはならない。詳細を以下に示す。
* ラリーにおいて、各ペアのプレーヤーは必ず交互に交替してリターンしなければならない<ref>ITTF Handbook, 50th ed., 2.8.2.</ref>。もし、相手ペアからのリターンを同一のプレーヤー(最後に相手ペアに対してリターンしたプレーヤー)が二度続けて打球した場合、リターンと認められず、失点(相手ペアの得点)になる<ref>ITTF Handbook, 50th ed., 2.10.1.12</ref>。
* サーバーの交替の際は、これまでサーバー側だったペアにおいては、サービスをしていなかったプレーヤーがレシーバーになる。レシーバー側だったペアにおいては、それまでレシーバーだったプレーヤーが次のサーバーになる<ref>ITTF Handbook, 50th ed., 2.13.5.</ref>。
以上のことから必然的に、ダブルスにおいては、誰が誰の打球をリターンしなくてはならないかは固定化される。このリターンする打球順については、ゲームが進むごとに次のように交替となる。
* ひとつのゲームが終わって次のゲームへ進むときは、前のゲームで最初にレシーブをしたペアからサービスを始める(サーバーとなるペアの交替)。このゲームにおいて、レシーバー側のペアでは、前のゲームでサーバーの打球を受けたプレーヤーとは別のプレーヤーがレシーバーにならなければならない(打球する相手の交替)<ref group="注釈">このとき、サーバー側のペアにおいて、最初にサービスをする者はどちらのプレーヤーを選択しても良い。ただし、レシーバー側のペアは、サーバー側の選択に応じて、サーバーの打球をリターンする者を上記のように正しく選ばなくてはならない。</ref><ref name=":23">ITTF Handbook, 50th ed., 2.13.4.</ref>。
* 最終ゲームにおいて一方のペアが5点を先取したとき、次のラリーより、サービスをリターンするべきレシーバーは交替となる<ref group="注釈">シングルスの場合と同じく、ダブルスでも最終ゲームで一方のペアが5点を先取した場合は、エンドの交替をする。また、これもシングルスと同じく、このエンド交替によるサーバーの交替はない。最終ゲーム中も、サーバーの交替は、サービスの実施回数(得点経過)のみによって決まる。</ref><ref name=":21" />。
[[ファイル:Service en double (tennis de table).svg|サムネイル|プレーイングサーフェスを上からみた図。ダブルスにおけるサービスは、必ず各コートのライトハーフコート内(茶色の領域)で一度ずつバウンドさせなければならない(青い矢印のコースに沿ったサービスとなる)。]]以上のようにダブルスの打球順は複雑であるが、この結果として、相手のペアの2名について両者からの打球を受ける機会は、試合全体で均等化されている。また、ダブルスのみの規定として、以下のようにサービスのコースについて制限がある。
*サービスは、サーバーのライトハーフコートからレシーバーのライトハーフコート<ref group="注釈">レシーバー側からみて右側(ライト)のコートである。</ref>へと、プレーイングサーフェスを斜めに交差するように、それぞれバウンドさせなければならない<ref name=":22" />。サービスの打球のバウンド位置が各ライトハーフコートから逸脱<ref group="注釈">ライトハーフコートとレフトハーフコートを分ける白線上をバウンドした場合は、ライトハーフコートでバウンドしたとみなされる。</ref>した場合は、サービスの失敗となり、相手のポイントになる<ref group="注釈">卓球のルールの大部分は、右利き・左利き双方のプレーヤーにとって対称(対等)に構築されているが、このダブルスのサービスの面規定(各エンドのプレーヤーの右半面であること)は競技者の利き手によらず固定であり、上記の「対称性」からは外れる。</ref>。
[[世界卓球選手権]]や[[全日本卓球選手権大会|全日本卓球選手権]]などの大会では、男子2人または女子2人のそれぞれのペア同士で行われるダブルス('''男子ダブルス'''、'''女子ダブルス''')に加えて、男子1人・女子1人ずつのペアで行う'''混合ダブルス'''(ミックスダブルス)が行われている。
;ひとつのゲーム内におけるサーバー・レシーバーの交替の例
上で述べた通り、ダブルスにおいても、サーバーのペアは2回のサービス実施(2回のラリー)ごとに交替する。以下に、プレーヤーA(以下単に「A」と記す)とプレーヤーB(同「B」)のペアと、それに対するプレーヤーX(同「X」)とプレーヤーY(同「Y」)のペアの打球順序の交替の例を示す。ここで、Nは0以上の整数であり、サービスは第1球目、レシーブは第2球目と数えている<ref name=":26" />。以下同じく、レシーブに対するリターンは3球目であり、3球目打球へのリターンが4球目…となって、ラリーが継続する。
{| class="wikitable"
|+
!ゲーム進行
!サーバー(4N+1球目打者)
!レシーバー(4N+2球目打者)
!4N+3球目打者
!4N+4球目打者
|-
|第1, 2ラリー
|A
|X
|B
|Y
|-
|第3, 4ラリー
|X
|B
|Y
|A
|-
|第5, 6ラリー
|B
|Y
|A
|X
|-
|第7, 8ラリー
|Y
|A
|X
|B
|-
|第9, 10ラリー(第1, 2ラリーと同じ)
|A
|X
|B
|Y
|-
|以下同様に継続
|…
|…
|…
|…
|}
上の表の通り、ひとつのゲーム内ではリターンするべき打球をする相手は一貫して固定されている。また、ひとつのゲーム中では、打球順は常に…→A→X→B→Y→A→…のように循環していることも分かる。<ref group="注釈">先述の通り、この打球順序を誤って打球した場合、その誤打球者のペアは失点(相手ペアの得点)となる。</ref>
;各ゲーム開始時(エンドの交替時)におけるサーバー・レシーバーの交替例
以下に、第一ゲームの打球順が上の表の通りであった場合の、以降の各ゲーム開始時の打球順の例を示す。上記の同じゲーム内における場合とは異なり、エンドの交替(ゲームの開始、あるいは、最終ゲームでのいずれかのペアの5点先取)が起こると、リターンするべき打球を打つ相手も交替する。この交替の結果として、先ほどの打球順の「循環」は…→A→Y→B→X→A→…のように逆転するようになる。
{| class="wikitable"
|+
!ゲーム進行
!サーバー(4N+1球目打者)
!レシーバー(4N+2球目打者)
!4N+3球目打者
!4N+4球目打者
|-
|第1ゲーム開始時
|A
|X
|B
|Y
|-
|第2ゲーム開始時(選択例1)
|X
|A
|Y
|B
|-
|第2ゲーム開始時(選択例2)
|Y
|B
|X
|A
|-
|第3ゲーム開始時(選択例1)
|A
|X
|B
|Y
|-
|第3ゲーム開始時(選択例2)
|B
|Y
|A
|X
|-
|以下同様に継続<ref group="注釈">参考までに、奇数ゲームおよび「最終ゲームの5点先取時まで」は、打球順(誰が誰の打球をリターンすべきか)は一貫して同一である。偶数ゲームおよび「最終ゲームの5点先取後」では、打球順は(奇数ゲームのものとは)逆順で一貫して同一となる。</ref>
|…
|…
|…
|…
|}
ここでは可能な2つの選択例をそれぞれ示した。第2ゲームの初めのサーバーはXでもYでもよい。このとき一方で、レシーバーのペアは、Xの打球はAが、Yの打球はBが、それぞれ必ずリターンしなくてはならない。第3ゲーム以降も、各ペア内において、ゲーム開始時のサーバーは自由に選んでよい<ref group="注釈">同様に、レシーバー側はサーバー側の選択によって、レシーバーとなるプレーヤーを正しく選ばなくてはならない。</ref>。各ゲーム内で固定し、かつ、エンドの交替ごとに交替するものは、リターンすべき打球をする相手(誰が誰の打球をリターンするか)である。
=== 団体戦 ===
[[ファイル:Japan China MNT final WTTC2016.jpeg|サムネイル|団体戦の様子([[第53回世界卓球選手権団体戦|2016年の世界卓球]]の試合開始前)。向かって左は[[中華人民共和国|中国]]代表([[張継科]]・[[馬龍]]・[[許昕]])、右は[[日本]]代表([[大島祐哉]]・[[吉村真晴]]・[[水谷隼]])。]]
以上のように、卓球はあくまでもシングルスやダブルスといった「個人または2人ペアによる競技」である。一方で、国・地域や競技団体などのチームとチームの「対戦」として、'''団体戦'''も多くの大会で開催されている。卓球における団体戦は、各チームに登録された選手がシングルスやダブルスの試合を複数回行うことで実施される。
団体戦は開催される大会等により様々な方式が採られ、試合順・構成は必ずしも統一されていない。[[世界卓球選手権]]等では、対戦する各チームは3人の選手で構成されている。この3人から試合出場順(オーダー)を決めて、シングルスによる最大5回の試合を行い、先に3勝した側が勝ちとなる方式が採用されている<ref>ITTF Handbook, 50th ed., 3.7.6.1.</ref>。[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]の団体戦等では、同じく1チームは3人の選手で構成されるが、4試合のシングルスと1試合のダブルス(4単1複)を実施する方式であった<ref group="注釈">たとえばこの場合、3人のチームメンバーから、延べ6人のプレーヤー(シングルス4名とダブルス2名)を出さなくてはならない。このため、同じ選手が、シングルスとダブルスの両方に出ることになる。</ref><ref>ITTF Handbook, 50th ed., 3.7.6.3.</ref>。日本国内の大会でも、参加者数や競技実態をふまえた様々な形式の団体戦が実施されている<ref group="注釈">たとえば日本国内の団体戦では、[[日本卓球リーグ]]を始めとして4人の選手で1チームを構成し、4試合のシングルと1試合のダブルス(4単1複)を行う方式が多い。他にも、6試合のシングルと1試合のダブルス(6単1複; 関東学生連盟等)や3試合のシングルと2試合のダブルス(3単2複; 新日本スポーツ連盟等)などの方式もある。ローカル大会になると2単1複やダブルスのみの団体戦や男女混成の団体戦もあり、多彩な方式で行われている。中学生等では、「4単1複」の団体戦においては、6人の選手で1チームとすることがある。</ref><ref name=":16" />。
=== ルールの変遷 ===
卓球の世界的な標準ルールは、[[1926年]]に発足の[[国際卓球連盟]](ITTF)が管理・管轄している。[[卓球#歴史|歴史]]の項で示したように、現在の卓球とはまだスタイルの異なる競技であったとともに、用具の開発も黎明期にあった。このような状況において、卓球を国際的な競技スポーツとするため、様々なルール整備が行われた。現在の卓球に近い競技となった後も、以下に示したように、技術や用具の変遷に応じて、卓球の健全な普及のために、ルール等の改正が行われている。
;フィンガースピンサービスの禁止等
:「フィンガースピンサービス」とは、サービス時にフリーハンドの指を使い、ボールに強力で多様な回転を生じさせる技術である。1937年に行われた第11回世界卓球選手権においては、このサービスを駆使した男子[[アメリカ合衆国|アメリカ]]チームは好成績を収めた<ref name="y2009-sekai"/>。その反面、強い回転に慣れていない対戦相手がレシーブミスを連発し、ラリーが続かない展開となった<ref name="y2009-sekai"/>。一方ではラリーが長すぎ、一方では短すぎる、という両極端な展開となり、観客が退屈と感じる試合が続出した。これをうけて、ITTFはルールの改正を行い、ネットの高さの引き下げ、試合時間の制限([[促進ルール]])、フィンガースピンサービスの禁止を決定し<ref name="y2009-sekai"/>、現在に至っている<ref>ITTF Handbook, 50th ed., 2.2.2</ref><ref name="名前なし_2-20231105131057"/><ref name=":17">ITTF Handbook, 50th ed., 2.6.1.</ref>。この後、再び守備型が有利な状況となり、1940年代から1950年代初頭までは[[ヨーロッパ|欧州]]の選手によるカット主戦型が全盛となった<ref name="y2009-nippon"/><ref name="y2009-sekai"/><ref name="sports_classic">白髭隆幸・SPORTS 21、[https://web.archive.org/web/20071108235129/http://j-senioronline.com/sports_classic/000119.html 第三十回 卓球ニッポンを支えた名選手・荻村伊知朗]([[インターネットアーカイブ]]) Japan Senior Online</ref>。
;用具の発展と近代卓球の基礎となる規則の制定
:[[第二次世界大戦]]後の[[1950年代]]に、[[日本]]が新しい用具を続々と開発し、実戦に使用され結果を出しはじめた<ref name="y2009-nippon"/><ref name="y2009-sekai"/><ref name="sports_classic"/>。たとえば、従来のラバーを裏返しにして貼る「裏ラバー」が使われるようになった。これはボールとの接触面積が広いために[[摩擦]]の効果が大きく、強い回転をかけやすくなり、それを大きく活かした攻撃を行うことが可能となった。さらに、[[太平洋戦争]]時に[[航空機]]燃料タンク[[防弾]]用など、軍事用に用いられていた独立気泡[[スポンジ]]が卓球の用具として使われるようになった。スポンジ製のシートは反発力が強く、従来のラバーと比べて打球の威力の飛躍的向上につながった<ref name="y2009-nippon"/><ref name="y2009-sekai"/><ref name="sports_classic"/>。このスポンジを「ラバー」として、打球面に貼り付けたラケットが当時開発されている(スポンジラバー)<ref group="注釈">スポンジの原料・素材は必ずしもゴム類(ラバー)ではない。したがって、ゴムシートの貼られていないスポンジのみのシートを「スポンジラバー」と呼称することは、誤解を招き得るが、出典にある通りここでは「スポンジラバー」と表記している。</ref><ref name="sports_classic"/>。他にも、スポンジシートを用いたラバーが開発され、裏ラバーとスポンジを貼りあわせた「'''[[卓球#裏ソフトラバー|裏ソフトラバー]]'''」、ツブラバー(表ラバー)とスポンジを貼りあわせた「'''[[卓球#表ソフトラバー|表ソフトラバー]]'''」が登場した。さらに、表ソフトの粒を長く柔らかく設計した「'''[[卓球#粒高ラバー|粒高ラバー]]'''」も開発された。[[1952年]]の第19回世界卓球選手権では、それらの特徴を大きく活かし、主にスマッシュ攻撃を武器に、日本代表は初参加の世界卓球選手権ながらも、女子団体・男子シングルス・男子ダブルス・女子ダブルスの4種目で優勝を果たした。これにより、日本卓球は黄金時代の口火を切り、1950年代の世界選手権において日本選手が各種目にて優勝者を多数輩出した<ref name="y2009-nippon"/><ref name="y2009-sekai"/><ref name="sports_classic"/>。
:[[1959年]]、この多様なラバーが多く登場する事態をうけて、ITTFは本格的なラバーのルールの制定に乗り出した。スポンジのみで構成されるスポンジラバーは禁止となり、公式競技から姿を消した。その他のラバーについては、その厚みの上限値等が規定されて、現在に至っている<ref>ITTF Handbook, 50th ed., 2.4.3.</ref>。現在は、ITTFによって使用可能なラバーが逐次に公式リストに登録され、ITTFによる公式戦では当該リストにあるラバーのみの使用が認められている<ref group="注釈">詳細は、[[卓球#ラバー|ラバー]]の項目を参照のこと。</ref>。
;同色ラバーの禁止
:[[1983年]]のルール改正により、両面に同色ラバーを貼ったラケットの使用が禁止された。ラバーを貼った面の反対側の面には、異なる色のラバーを貼るか、異なる色を着色しなければならなくなった<ref name=":0">ITTF Handbook, 50th ed., 2.4.6.</ref>。これは、異なる性質の同色ラバーをそれぞれの面に貼った場合に、相手プレーヤーが見分けられなくなるのを防ぐためである。
;ボール径の変更(38 mmボールから40 mmボールへ)
:[[2000年]]より、競技に使用されるボールの直径が38 mmから40 mmへと変更され、現在に至っている<ref>ITTF Handbook, 50th ed., 2.3.1.</ref>。これによって、[[ボール]]の空気抵抗が増し、従来よりもラリーが続くようになった。
;1ゲームの勝利得点数の変更(11点制の導入)
:[[2001年]]には、これまでの21点制から11点制に変更された。これにより、11点の先取<ref group="注釈">ただし、変わらず、2点差以上を付けた状態でゲームの決勝点(11点目)をとる必要がある。また、同様に、10-10のポイントスコアの状態となった場合は、2点差となる得点の先取でゲームの勝者となる。</ref>が1ゲームの勝利の要件となった<ref name=":15">ITTF Handbook, 50th ed., 2.11.1.</ref><ref name=":1" />。ともなって、サービスは5本ずつの実施後にサーバーが交替していたが、これもサービス2本実施ごとの交替と変更された。
;サービスルールの再改正
:レシーバーにとって、対戦相手のサービスの球種の判別はレシーブの成否にかかわる大きな要素である。[[2002年]]には、腕<ref group="注釈">ここでは、ラケットを持たない方の手の腕(フリーアーム)を意味する。</ref>や身体を使って、ラケットに当たる瞬間の打球を隠すサービス<!-- (ハンドハイドサービス、ボディーハイドサービス) -->が完全に禁止され、現在に至っている<ref name=":18">ITTF Handbook, 50th ed., 2.6.5.</ref><ref group="注釈">この改正の以前から、サービスの打球は常にプレーイングサーフェスより上の高さになければならない等の規定が定められており、相手プレーヤーからサービスの打球をレシーバーから隠すことは禁止されていた。2002年の改正では、フリーアーム(少なくともトスの直後はボールの近くに位置する)の扱いも含めて、どのようなサービスが打球を隠す行為になるかについて、改正・明文化された。</ref><ref name=":22">ITTF Handbook, 50th ed., 2.6.4.</ref>。
;有機溶剤等の使用禁止(ラバーの後加工の禁止)
:[[2007年]]9月から、日本国内での主要大会において[[溶媒|有機溶剤]]性接着剤の使用が禁止された。以後、有害な揮発性有機溶剤の(少なくとも競技場での)不使用はITTFのポリシーとなり<ref>ITTF Handbook, 50th ed., 3.2.4.</ref>、[[2008年]]9月から全面的に有機溶剤性接着剤の使用が禁止された。さらに、その1カ月後には補助剤も禁止となり、一切の[[物理学|物理的]]・[[化学|化学的]]および他の手段を用いた「後加工」は禁止<ref name=":3">ITTF Handbook, 50th ed., 2.4.7.</ref>となった。また、同時期にアンチ加工された粒高ラバーの使用も禁止されている。以降、ラバーはITTFの承認を得たもののみが使用可能である<ref>ITTF Handbook, 50th ed., 3.2.1.3</ref>。
:[[中華人民共和国|中国]]のメーカーからは、本規則への対策として、製造段階でラバーのスポンジ面に補助剤グルーを塗布した「'''已打底'''」と呼ばれるラバーが発売されている<ref group="注釈">このような処置をしていないノングルやノン・ブースターのラバーは「'''未打底'''」として区別されている。もちろん、未打底については、公認接着剤の規定違反に触れるものではない。</ref>。ただし、已打底のラバーであっても、ITTFの公認ラバーリストに掲載されているものであれば、公式大会での使用は可能である。
;プラスチックボールの使用開始
:[[2014年]]から、ボールの素材が変更となった。これまでの[[セルロイド]]製ボールに加えて[[合成樹脂|プラスチック]]製ボールが登場<ref>ITTF Handbook, 50th ed., 2.3.3.</ref>し、[[2015年]]からは主要な国際大会においてもプラスチック製ボールが使用されている(ボールの直径は、40 mmのままで変更はない)。
;カラーラバーの解禁
:1983年のルール改正(上述)以降、ラバーの色やブレード木材面の塗装の色は、[[赤]]と[[黒]]のみが認められていた。[[2021年]]10月に、赤と黒に加えて[[青]]、[[ピンク]]、[[紫]]、[[緑]]といった多様な色の'''カラーラバー'''の使用が解禁された。たとえば、「黒と赤」あるいは「黒と他の色<ref group="注釈">ただし、黒及びボールの色([[白|白色]]あるいは[[橙色]])とは明確に識別できる色であることが条件である。</ref>」といった組み合わせであれば、これらの色の使用が認められるようになった<ref name=":0" />。
== 用具 ==
卓球における'''用具'''とは、卓球台やその付随品などの競技環境設備のほか、ラケットや競技用服装等といったプレーヤーが身につけて使用する道具・服飾類を総称したものである。卓球の打球等の運動は非常に繊細であり、ボールの軌道やスピン、バウンドは用具によって大きな影響を受ける<ref group="注釈">競技場の気温・湿度等の空気を含む周辺環境の影響も無視できない要素であることを付記しておく。</ref>。そのため、卓球の公的管理組織(ITTFやJTTA等)によって、その規定が詳細になされている。以下では、各用具について概説する。
=== ラケット ===
卓球における'''[[ラケット]]'''は、サービスやリターンの際にボールを打球するものであり、'''ブレード'''と'''ラバー'''から成る。ブレードは主に[[木材]](単一の[[材木|木板]]あるいは[[合板]])から作られている<ref group="注釈">木材ではない「特殊素材」を木材に複合化したブレードも使用される。</ref><ref group="注釈">ラバーを張る前の状態のブレードも、同じく「ラケット」と呼称されることがある。区別のため、本項ではこれを「ラケット」とは呼ばず「ブレード」と統一して述べる。</ref>。ラバーは表面が[[ゴム]]製であり、打球する面にはラバーが貼られていなければならない<ref name=":10" />。様々な特徴を有した多くのラケットがあり、プレーヤーは目的に合うラケットを選択することができる。ただし、一つの試合中においてプレーヤー個人がラケットを変更することは、原則としてできない<ref group="注釈">ただし、ラケットが損傷を受けた場合は交換可能である。</ref><ref>ITTF Handbook, 50th ed., 3.5.2.5.</ref>。なお、用具のなかでもラケットは特に繊細であり、保管には[[温度]]・[[湿度]]・[[太陽光|日光]]などの条件に注意を払う必要がある<ref group="注釈">そのため、ラケットの保管に適したラケットケースが各メーカーから発売されている。</ref>。
打球時にボールがラケットから受ける力は、打球面に対して垂直(ラケット面の[[法線ベクトル|法線]]方向)および平行(同[[接線]]方向)の二つの力に分けて理解される。K・ティーフェンハッバ([[カールスルーエ工科大学|カールスルーエ大学]])とA・デュリー([[パリ=サクレー大学]])による打球の運動モデルは、ボールに対するラケットの'''法線方向・接線方向それぞれの[[反発係数]]'''をパラメーターとして、打球の速度やスピンの挙動をよく説明している<ref name=":8">{{Cite journal|author=Tiefenbacher, K., Durey, A.|year=1994|title=The Impact of the Table Tennis Ball on the Racket (Backside Coverings)|journal=Int. J. Table Tennis Sci.|volume=2|page=1-14}}</ref>。いまひとつのパラメーターは'''[[振動|振動特性]]'''である。川副嘉彦([[埼玉工業大学]])によるシミュレーションモデルと実測の検証によると、打球時に振動が少ないラケットは、[[エネルギー]]の散逸が起こりにくく、結果として球威が高くなる<ref name=":12">{{Cite journal|author=Kawazoe, Y.|year=1992|title=Ball/Racket Impact and Computer Aided Design of Rackets|journal=Int. J. Table Tennis Sci.|volume=1|page=9-18}}</ref>。これに加えて、打球面の[[摩擦|'''動摩擦係数''']]も打球に影響を及ぼす([[卓球#ラバー|ラバー]]の項で後述)<ref name=":9">{{Cite journal|author=Varenberg, M, Varenberg, A.|year=2012|title=Table Tennis Rubber: Tribological Characterization|journal=Tribol. Lett.|volume=47|page=51-56}}</ref>。これらの力学的パラメーター(各反発係数、振動特性、動摩擦係数等)は球質に強く影響するため、[[卓球#卓球用具メーカー|用具メーカー]]はラケット(ブレードおよびラバー)の開発に際して、これらの指標を重視している。製品においては、消費者(主にプレーヤー)に分かりやすいように、各パラメーターやそれに代わる数値等の表現<ref group="注釈">たとえば、ラバーの性能としてボールの「スピード」や「回転量」、あるいは、ブレードの性能として「反発力」や「振動」などのパラメーターが、各社独自の数値基準で開示されている。また、数値を用いずに「攻撃用」や「守備用」といったプレースタイル(戦型)と直結した用具性能の表現もなされることがある。</ref>が用いられている。
<!-- 世界各国でラケットに対する指向は異なり、ヨーロッパでは特にラバーに回転の掛けやすさを求める(この場合、高い反発係数のラケットに動摩擦係数の大きいラバーを貼って使用する傾向にある。)。一方、アジアではブレードに回転の掛けやすさや変化を求め、反発特性はラバーに求めることが多い(この場合、中程度の反発係数のラケットに対して、高い反発係数のラバーを貼って使用する傾向になる)。 -->世界各国・地域でラケットには様々な呼び方があり、日本やITTF等の国際協会では「ラケット」、アメリカ合衆国では「'''[[パドル]]'''」、ヨーロッパでは「'''[[バット]]'''」と呼ばれる。
公式試合に使用可能なラケットには、レジャー向けの廉価なラバー付きラケット<ref group="注釈">パッケージによってはボールや二本目のラケットが入っている。また、公式試合で使用できない「レジャー向けラケット」も販売されている。</ref>や、競技レベルの選手向けの市販製品ラケット<ref group="注釈">ここでは、ラバーは付属していないブレードのみのものを指す。ラバーは販売店舗あるいは個人で別途に貼り付ける必要がある</ref>、選手自身の好みでカスタマイズした特注ラケット等がある。日本国内の公式試合に使用するラケットには、目視できる箇所にメーカー名やJTTAの公認証の表示が義務付けられている<ref group="注釈">ブレードやラバーに「JTTAA」の文字の刻印等がされているものがそれである。JTTAの認証のないラケットの使用については、大会主催者側への使用許可の届け出が必要である。</ref>。
;グリップよるラケットの分類
卓球には異なる握り方のラケット(主に'''[[シェークハンド]]'''と'''[[ペンホルダー]]'''の二種)がある。現在はシェークハンドが比較的多数を占めている<ref name=":26" />。一方で、中国式ペンホルダーを使っての両ハンド攻撃を得意とする選手が[[ITTF世界ランキング|世界ランキング]]の上位に名を連ねることもあり、一概にどちらが優位であるかを結論できない。
==== シェークハンド ====
{{Seealso|シェークハンド}}
[[ファイル:Imp.europea1.JPG|サムネイル|シェークハンドラケット]]
シェークハンドラケットは、[[握手]]([[英語|英]]: shake hands)するように握るラケットである。両面にラバーを貼って使用する。ラバーは表面と裏面で異なる色のものを貼らなければならない<ref name=":0" />。グリップの形状は、ストレート、フレア、アナトミックなどの様々な形状にさらに分類される<ref group="注釈">特に前二者のグリップの使用率が高い。用具メーカーによっては、これらにST (ストレート)、FL (フレア)、AN (アナトミック)といった記号をつけて、グリップ種を表示している。</ref><ref name=":26" />。一般に、図のような円弧状の打球面のラケットが使われている<ref group="注釈">変わったタイプのラケットとして、サイバーシェイプと呼ばれる多角形型のラケットなどもある。</ref>。'''フォアハンド面'''(手のひらの側)と'''バックハンド面'''(手の甲の側)の各面それぞれを比較的容易に打球したい方向に向けることができる。伝統的に[[ヨーロッパ]]出身の選手は主にシェークハンドを使用している<ref group="注釈">ただし、[[何志文]](スペイン)や[[倪夏蓮]](ルクセンブルク)、[[シャン・シャオナ]](ドイツ)といったペンホルダーの選手は、中国からの帰化選手として例がある。21世紀に入ってからは、[[邱党]](ドイツ)や{{仮リンク|フェリックス・ルブラン|fr|Félix Lebrun}}(フランス)といったヨーロッパ出身のペンホルダー選手も現れている。</ref>。近年、特に[[卓球#フォアハンドとバックハンド|フォアハンドとバックハンド]]の両面('''両ハンド''')での攻防を重視するプレーヤーは、シェークハンドを選択する傾向にある。
==== ペンホルダー ====
{{Seealso|ペンホルダー|裏面打法}}
ペンホルダーラケットは、[[ペン]]を持つように握るラケットである。ペンホルダーラケットはさらに'''日本式ペンホルダーラケット'''と'''中国式ペンホルダーラケット'''に大別できる。いずれも'''表面'''<ref group="注釈">親指と人差し指で挟み込む側の面のこと。</ref>にラバーが貼られる。表面のみにラバーを貼る場合は、ラバーを貼っていない'''裏面'''<ref group="注釈">中指、薬指、小指で支える側の面のこと。</ref>での打球は認められない<ref>ITTF Handbook, 50th ed., 2.10.1.8.</ref><ref group="注釈">通常、'''ラケットハンド'''(ラケットを持つ手)の手首より先の部分に当たってのリターンは正規な「打球」と認められるが、ペンホルダー等のラバーを貼らない面はその例外である。</ref><ref name=":2" />。一方で、裏面にラバーを貼ることもできる。たとえば、試合中やラリー中にラケットの表裏を反転して、球質の異なる打球とすることができる('''反転打法''')<ref group="注釈">この場合、表面と裏面とで性能の異なるラバーを貼る。</ref>。他に、'''[[裏面打法]]'''<ref group="注釈">ペンホルダーラケットの表裏の反転をせずに、そのままのグリップで、裏面による打球を行う打法のこと。バックハンドによる強打をしやすいとされる。</ref>を行うプレーヤーもいる<ref name=":26" />。ラバーの色の規定はシェークハンドと同様である<ref group="注釈">表面と裏面とで異なる色のラバーを貼らなければならない。</ref><ref group="注釈">参考までに。片面のみにラバーを貼る場合においては、裏面はそのままでは木材面が露出している。この木材面には、表面と異なる色の薄い着色シートを貼るか、塗料やインク等で塗りつぶすかしなければならない</ref><ref name=":0" />。シェークハンドに対して比較的、フォアハンド側や'''ミドル'''(身体の正面付近)、'''台上'''の打球に対処しやすい。歴史的に[[アジア]]では、ペンホルダーが主流であったが、[[1990年代]]以降にシェークハンドを使用する選手が増加し、ペンホルダーの選手数を上回ってきている。一方で、主に片面のみにラバーを張るペンホルダーは、シェークハンドより重量が軽く、また、決定打の威力も出しやすいため、女子プレーヤーやフットワークに優れたプレーヤーの選択肢でもある。
; 日本式ペンホルダー
: [[ファイル:TT-Griffhaltung JapPenholder VH k.jpg|サムネイル|日本式ペンホルダーラケット]]日本式ペンホルダーラケットは、主に[[コルク]]製の台形柱型のグリップが特色である。ブレードの形状によって角型・角丸型・丸型などのペンホルダー独自のバリエーションがあり、得意とする打法・技術がそれぞれ異なる。[[日本]]や[[大韓民国|韓国]]、[[台湾]]などに使用する選手が多い。片面のみにラバーが貼られるケースを想定して、日本式ペンホルダーの製品は、流通時に既に裏面が塗りつぶされているものも多い。
:; 反転式ペンホルダー
:: 日本式ペンホルダーの一種である'''反転式ペンホルダーラケット'''は、反転打法(上記)を行っても持ちやすいように、台形柱型のグリップを特殊形状に変化させたラケットである。反転打法を前提としたブレードであり、両面にラバーを貼りやすいように設計されている。
; 中国式ペンホルダー
: [[ファイル:PRC DHS Double Happiness Table tennis bat 01.JPG|サムネイル|中国式ペンホルダーラケット]]中国式ペンホルダーラケットは、日本式ペンホルダーと比べるとグリップ部に大きな構造体(台形円柱のコルク等)がなく、ちょうどシェークハンドの柄を短くしたようなラケットである。ブレードの形状・厚さ等は、シェークハンドの同コンセプトの製品と共通している仕様のものが多い。中国式ペンホルダーでも、裏面へのラバーの貼り付け有無は任意である。
==== その他のラケット ====
; ハンドソウ
: シェークハンドにもペンホルダーに分類できないグリップのラケットとして'''ハンドソウラケット'''がある。その名の通り[[鋸|ハンドソウ]]や[[拳銃]]を握るように持つラケットである<ref>[https://web.archive.org/web/20190223031256/http://www.yasaka-jp.com/ca_rack/d51.html ハンドソウラケットの一例] [[ヤサカ (卓球用品)|ヤサカ]]公式[[ウェブサイト|サイト]]</ref>。「'''ピストルタイプラケット'''('''ピストル型ラケット''')」や「'''ガンブレード型ラケット'''」と呼称されることもある。使用している選手は非常に稀である<ref group="注釈">ハンドソウラケットで、フォア面とバック面を異質のラバーにする選手は、さらに数少ない。</ref>。このグリップの特性としては、曲がるドライブが打ちやすいといわれる。一方で、サービスに変化をつけるのが難しいとされる。
=== ブレード ===
[[ファイル:Table tennis sandwich rubber.jpg|サムネイル|ラケットの構造(拡大写真)。木の合板製のブレードの両面に、それぞれ異なる種類の裏ソフトラバー(スポンジとゴムを貼り合わせたもの)が貼り付けられている。ラバーは、色以外にも各層の構造(厚さや粗密)が異なることがわかる。]]'''ブレード'''は平らな木板とグリップからなるラケットの主要構造部分である<ref group="注釈">ブレードは「ラバーを貼る前の状態のラケット」と理解することもできる。また、ラバーが貼られたラケットのうち、グリップと木板の部分のみを指して「ブレード」あるいは「ブレード部」とも呼ぶ。</ref>。ブレード面は硬質な平面でなければならず<ref name=":25">ITTF Handbook, 50th ed., 2.4.1.</ref>、その材質は厚みの85パーセント以上の部分が天然の木でなくてはならない<ref group="注釈">この規定の指す「厚み」については、グリップ部は「厚み」に含めない。</ref><ref name=":24">ITTF Handbook, 50th ed., 2.4.2.</ref>と、ITTFは規定している。一方で、ブレードの大きさ(面積)は特に定められていない<ref name=":25" /><ref group="注釈">ブレードの大きさについては、面積が大きくなるほど打球できる領域が増えて有利になるが、一方で、重たさや空気の抵抗が増すといった不利がある。</ref><ref>{{Cite book|和書 |author=フジテレビトリビア普及委員会 |year=2004 |title=トリビアの泉〜へぇの本〜 6 |publisher=講談社}}</ref>。
<!-- トッププレーヤーなどの -->競技レベルの卓球では、正確なボールタッチによる打球のコントロールが要求され、ブレードの特性は重要である。この特性のひとつは'''反発係数'''であり<ref name=":8" />、これは打球の弾むスピードを支配する。もうひとつは'''振動特性'''であり<ref name=":12" />、これは打球時のラケットの微小変形・振動のし易さの指標である。一般に、硬いラケットほど反発係数が高く、<!-- 球離れが速くなり、 -->よりスピードのある打球が可能となる<ref>[https://web.archive.org/web/20080811023720/http://www.butterfly.co.jp/query/#q06 よくある質問/Q.ラケットに表示されている打球感のハード、ソフトとはどういう意味ですか?](2008年8月11日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) バタフライ卓球用品/[[タマス]]公式サイト</ref><ref group="注釈">ブレード厚が厚いと板の剛性が高くなり、弾みやすく、球離れも速くなりやすい。</ref>。<!-- 逆に、柔らかいラケットは、打球の衝撃を吸収するように反発する。これにより、強い回転をかけたり、打球方向を制御したりしやすい。ブレードが薄いと、ブレードが柔らくなり、しなるので、打球との接触時間が増え、回転がかけやすくなる。 -->表記はまちまちだが、各メーカーはブレード製品の上記の特性を様々な数値等で表示している<ref group="注釈">たとえば、弾みやすさの指標として、OFF、ALL、DEF(および+や-の符号)といった記号が用いられて。類似の表記として、ファースト、ミッドファースト、ミッド、ミッドスロー、スローいった表記もある。上記の場合、最も硬いものは「OFF+」ないし「ファースト」、最も柔らかいものは「DEF」ないし「スロー」である。</ref>。<!-- これらの性能と関連して。打球音とラケットの性能には特に因果関係は示されておらず、打球音は使用される材質や重量によって左右される部分が大きいとされる。 -->
==== 単板と合板 ====
ブレードの主要素材は木材である。一枚の板からなると'''単板'''製のブレードと、異なる特性の複数の板材を組み合わせた'''合板'''製のブレードに区別できる。ブレードの特性は、素材は使用される木材の特徴のみならず、その製造工程等によっても変化する。
; 単板
: '''単板ブレード'''('''単板ラケット''')は、その名の通り、一枚の檜板ないし桂板から作られているブレード(ラケット)である。単板のブレードでは、[[檜]]や[[カツラ (植物)|桂]]が主に使用される。<!-- 単板では、「吸い付く」と評される独特の打球感がある。 -->木目を縦横に重ね合わせて耐久性を得ている合板に比べて、単板には割れやすいという欠点がある。耐久性を上げるため、単板のブレードでは木目が縦目になるように造られている。<!-- ブレードの特性が一枚の板材の質に影響されるため、同じ仕様のラケットであっても、品質のばらつきが大きいとされる。一方で、 -->高品質の檜を使った単板ラケットは、打球感に加えて、反発係数と振動特性のバランスが良いため、特に角型ペンホルダー<ref group="注釈">単板ブレードの仕様は、ラバーを両面に貼るシェークハンドでは、ラケットの総重量が大きくなってしまうために、あまり用いられない。</ref>のドライブ主戦型プレーヤーに用いられることがある<ref group="注釈">このような背景から、高品質の檜単板を求めるプレーヤーのなかには、特注の単板ラケットを購入する者もみられる。</ref>。
; 合板
: '''合板ブレード'''('''合板ラケット''')は、異なる特性の板材からなる合板製のブレード(ラケット)である。それぞれの木目が交互に縦横となるよう組み合わせられ、反発係数と振動特性のバランスがとられている。木材の組み合わせの自由度から、単板のラケットに比べて、多彩な特性の合板のブレードが作られている<ref group="注釈">また、合板は'''特殊素材'''(後述)との併用が可能であることも特徴である。</ref>。<!-- 品質のばらつきも小さいとされる。 --><!-- シェークハンドや中国式ペンホルダーなどで特に主要に用いられており、 -->貼り合わせられた木材の枚数によって区別でき、3枚合板、5枚合板、7枚合板などに大別される<ref name=":26" />。<!-- 構成板の数については、3枚のものから、多いもので17枚のものも存在している。 --><!-- 4枚合板や6枚合板といった偶数枚の合板のブレードも存在する。 -->反発性や振動特性について、木材と特殊素材の組み合わせから、様々なタイプのブレードが設計・製造可能である。
: 基本的な合板の構成について、'''5枚合板ブレード'''を例にして述べる。5枚合板では、軽め'''中芯'''材<ref group="注釈">上述の通り、中芯材はブレードの基盤となる木材で、ブレード中に占める割合が高いため、軽量材が主に使用されている。</ref>を2枚の'''添芯'''材<ref group="注釈">添材と上板(後述)は、反発力と剛性のバランスをとるために用いられている。</ref>で挟み、さらに最表面となる2枚の'''上板'''<ref group="注釈">上板については、ラバーの交換時に木材が割れて剥がれるのを防ぐため、柔らかすぎる木材は用いられない。</ref>で挟む構造になっている。この中芯材・添材・上板の使用木材と厚さの設計で、ブレードの様々な要求性能に応えている。中芯には[[キリ|桐]]・[[バルサ]]材・[[ヤナギ|柳]]・[[シナノキ|シナ材]]・アバシ・[[オベチェ|アユース]]・サンバなどの比重が小さい木材が使われる。添芯には[[マツ|パイン]]・アネグレ・スプルース・染色材などが、上板にはリンバ・コト・[[クルミ|ウォルナット]]・檜・アユース・染色材などがそれぞれ使用されている<ref group="注釈">近年では、[[コクタン|黒檀]]・[[シタン|紫檀]]・ウエンジ材・ブラッドウッド・[[ホワイト・アッシュ|ホワイトアッシュ]]などのハードウッドも上板に用いられている。</ref>。
: 中芯に使われている桐やバルサ材は軽量材であることから、セルロイドボール時代では打球が軽くなるという欠点があった<ref group="注釈">特に桐は、[[箪笥]]などに使用されてきたほどの木材なので、湿気を吸うことで、打球感や弾性が変化してしまいやすい特性もあった。</ref>。しかし、現代のプラスチック製ボール時代においては、特有の打球感<!-- 「球を掴む感覚」 -->と高い弾性、<!-- 板厚を厚くすることで -->回転量に由来する球威から、桐やバルサ材が注目を浴びるようになり<ref group="注釈">ただし、湿気への対策は依然課題点である。</ref>、<!-- このように、主に回転量を増すための選択肢として、 -->その良さが再考されるようになったとされる。
:; 3枚合板
:: '''3枚合板ブレード'''は、中芯材と2枚の上板で構成されているブレードである。合板の枚数が少なく強度が小さいため、中芯材の厚さを確保したり特殊素材を入れたりすることで、高い反発係数を得ているものもある。中芯材の木目が柔らかい横目となることからも、強度の点でブレードの薄型化は困難である。構造に由来する打球感の柔らかさがメリットであり、前陣速攻型やカット主戦型向けのラケットが存在する。
:; 5枚合板
:: 5枚合板ブレードは、上記の通り、中芯材と2枚の添材、さらに2枚の上板で構成されているブレードである。中芯材の木目が硬い縦目のため、反発係数と振動特性のバランスがよく、ブレードの薄型化も可能である。特徴が異なる製品のバリエーションが多いため、[[卓球#戦型|戦型]]を問わず、初心者から上級者まで広く用いられている<ref name=":26" />。特殊素材と組み合わせる際も、中芯材は縦目になるため、純木のものと特殊素材入りのものとをあわせて、5枚合板のブレードは主流のひとつとなっている。
:; 7枚合板
:: '''7枚合板ブレード'''は、中芯材と4枚の添材、さらに2枚の上板で構成されているブレードである。ブレードが厚いため、反発係数が高く<ref name=":26" />、振動を抑える特性がある。高い反発係数に由来する球離れの早さがある一方で、中芯材の木目が柔らかい横目になるため、5枚合板とは異なる打球感もある。<!-- 中陣・後陣での打法では、5枚合板と比べて弾みが上がらないという短所もある。この性質から、7枚合板は専ら前陣に特化した仕様である。このように、上級者や純木材のブレードを好むプレーヤー向けのラケットとされる。 -->上述のように、プラスチックボールに対して特有の球威があり、以下の特殊素材使用ブレードとはまた別の新たな選択肢となっている。
==== 特殊素材 ====
[[ファイル:Composite-blade.jpg|サムネイル|特殊素材(黒色の層の部分)を使用したブレード例の断面イメージ。5枚合板ブレードにおいて、合板の間(2か所)に特殊素材をはさんだ構造となっている。]]
先述の通り、ブレードは厚みの15%以内であれば天然の木以外の材料を使用することが認められている<ref name=":24" />。用いられるブレード材の一部として、[[炭素繊維]]、[[非晶ポリアリレート|アリレート]]<!-- (ベクトランファイバー) -->、[[ケブラー]]、[[ガラス繊維]]、[[チタン]]、[[ザイロン]]などの'''特殊素材'''やそれらの複合材<ref group="注釈">たとえば、カーボンファイバーとアリレートを合わせた「アリレートカーボン」や、ザイロンとカーボンを合わせた「ZLC」、ケブラーとカーボンが使われた「ケブラーカーボン」などがある。</ref>が使用されている<ref group="注釈">他にも、テキサリウム、シルバーカーボン、バサルトファイバー、テキストリーム… など多種多様の特殊素材がある。</ref>。ブレードの合板構成のなかに特殊素材が用いられることで<ref group="注釈">一例として、5枚合板の構成内における特殊素材の配置パターンについて述べる。上板と添芯の間に配置するもの('''アウター型特殊素材合板ブレード''')や、さらに内側の中芯と添芯の間に配置するもの('''インナー型特殊素材合板ブレード''')等のバリエーションがある。アウター型は反発特性が特に高くなり、インナー型は木材に近い特性になるとされる。</ref>、木材のみのラケットよりも反発係数が一般に高くなる<ref name=":26" />。また、ブレード面の比較的広い範囲で反発特性・振動特性が均一で、最適打球点(いわゆるスイートスポット)が広いとされる。一方で、特殊素材を含むブレードでは、木材のみのラケットに比べて、緩急を付けにくいという短所もあるとされる。
==== 加熱処理した木材 ====
<!-- フォアとバックの両ハンドでの攻防スタイルが確立された -->現代の卓球では、ラバーは重量化とスピードグルーの使用禁止に伴って、ブレードにおいて軽さと高い反発特性の両立が求められている。そこで用具メーカーは、軽いが吸湿性のある桐材の有効利用を模索し、これを簡便に乾燥させて造るブレードの製造法を確立した。桐材を低温で加熱処理して含有の水分を除き、ブレードの軽量化し、さらに、吸湿性を低減した。この製法によるブレードは、高い反発係数と振動特性を得つつ、広いブレード面での均一な特性を有しており、特殊素材製のブレードのような性質であるとされる<!-- (2010年頃より登場した新しいタイプのラケットがこれにあたる。) -->。<!-- 一方で、この加工法によるものは、木材に物理的な加工を施したために特性が変化しており、木材本来のものとはまた別の性質のブレードとも位置付けられる。 -->
=== ラバー ===
[[ファイル:Table Tennis Rubbers.jpg|サムネイル|330x330ピクセル|卓球のラバーは二種類に分類される。左は'''ツブラバー'''、右は'''サンドイッチラバー'''である。サンドイッチラバーはゴム製のシート(赤色)とスポンジ(白色)の二層構造である。]]
卓球の'''ラバー'''は、粒の配列構造を片面に有する'''[[ゴム]]'''製のシートであり、ラケットにおけるボールの打球面である。ゴム製のシート単独からなる[[卓球#ツブラバー|'''ツブラバー''']]'''<ref group="注釈">一部の[[卓球#粒高ラバー|粒高ラバー]]もゴムシートのみからなる。</ref>'''、および、ツブラバーと'''[[スポンジ]]'''製のシートを接着剤で貼り合わせた'''サンドイッチラバー'''の二種に大別できる<ref name=":16" /><ref name=":10">ITTF Handbook, 50th ed., 2.4.3.</ref>。
ラバーにおいては、既に述べた'''[[反発係数]]'''がその特徴に影響を及ぼす<ref name=":8" />ほか、[[摩擦|'''動摩擦係数''']]も大きくラバーの性質を左右する<ref name=":9" />。以下に示すラバーの分類において、各ラバーの反発係数と動摩擦係数は著しく異なっており、それらは競技の実践上で打球の特徴となって表れる。一般に、反発係数の大きなラバーはスピードの速い打球を生み出し、動摩擦係数の大きなラバーは回転を強くかけることができる<ref group="注釈">各ラバーの説明で後述するように、競技において、この数値が大きければ大きいほど良いということではない。</ref>。ボールが平面でバウンドする際には、ボールが滑らずに(接触面で瞬間的に拘束されて回転しながら)バウンドするケース、および、ボールが接触面で滑ってバウンドするケースの2パターンに分類できる<ref name=":5" />。どちらのパターンが主となるかは、打球の速度・スピンのほか進入角度にも依存するが、これらに加えてラバーの性能でも決まる(反発係数と動摩擦係数が高いほど滑らない)。一般に、滑らないバウンドの仕方において、ラケットのスイングに沿った(打球者が通常意図する)スピンがかかることになる<ref group="注釈">ただし、ラバー上で滑ることを意図したラバー(粒高ラバーなどの回転の影響を受けにくいもの)やそれらを活かした打法があり、必ずしも滑らないバウンドの仕方が良いということではない。</ref>。
他のラバーの性質としてラバーの[[硬さ]]があり、'''ラバー硬度'''という指標で表記される。<!-- 回転系テンションラバー(後述)は、気泡スポンジを搭載しているために、表記数値よりも数度程柔らかいとされる。 -->硬さの表記には[[国際標準化機構|ISO]]に準拠した硬度<ref group="注釈">日本硬度、中国球式硬度等</ref>やその他の値<ref group="注釈">中国針式硬度、あるいは、メーカー独自の硬度基準(ドイツ硬度、[[タマス]](バタフライ)硬度)等がある。</ref>など複数の表示が採用されており<ref group="注釈">このように、ラバー硬度の数値は製造国ごとに異なるため、ラバーを選ぶ際には硬度換算する必要がある。たとえば、日本硬度で40度の硬さのラバーと同じ硬さのラバーを選ぶ場合は、バタフライ硬度で-5度前後、ドイツ硬度で+5度前後、中国針式硬度で-10度前後の硬度数値を目安にしてラバーを選ぶことになる。ラバーを選ぶ際に基準とされるラバー硬度値は、日本硬度で40度、ドイツ硬度で47.5度が目安とされる。中国では、針式硬度と球式硬度の二種類の硬度基準があるため、ラバー選定時に混乱をきたさないように、メーカーによっては軟、中、硬等の表記がなされている。</ref>、プレーヤーがラバーを選ぶ際に参考とされる。一般に、硬いラバーは<!-- 相手の下回転のボール等に対して、 -->威力のある打球をしやすく<ref group="注釈">一方で、ボールの食い込みにくさから、スイングで狙う方向への打球のコントロールが難しい。</ref>、柔らかいラバーは<!-- 適度なボールの食い込みによって -->打球のコントロールがしやすいとされる<ref group="注釈">一方で、ボールの食い込みに由来するエネルギーの損失が大きく、強打時等の球威は低くなる傾向にあるとされる。</ref>。
ラバーの厚さはITTFの規則で定められており、ツブラバーにおいては、ゴムシート部の厚さは2.0 mmを以内でなくてはならない<ref name=":10" />。サンドイッチラバーにおいては、ツブラバー部分の厚さは2.0 mm以内<ref>ITTF Handbook, 50th ed., 2.4.3.2.</ref>、ツブラバー層とスポンジ層の厚さの合計は4.0 mm以内と定められている<ref group="注釈">この厚みには、ラバーのゴムとスポンジの各層をつなぐ接着層の厚さも含む。</ref><ref name=":10" />。他に、粒の形状やアスペクト比に関しても規定が詳細に定められている。ラバーには多くの種類が存在するが、公式戦の出場には主幹する卓球連盟等の認証が必要である。たとえば、ITTFが管轄する国際大会等では、ITTFの公認ラバーリスト<ref group="注釈">ITTAによって、このリストは毎年4月と10月に更新されている。</ref>に掲載されているラバーに限り使用が認められている<ref group="注釈">この認証を明示するため、2008年以降発売の新製品ラバーには、国際卓球連盟の公認の表示 (「ITTFA」の文字)と、メーカー番号、登録番号(「メーカー番号-登録番号」の形式)が、縁で囲まれた形で表示されているものが多い。</ref><ref>ITTF Handbook, 50th ed., 3.2.1.</ref>。2006年4月以降<ref group="注釈">それ以前の日本国内での公式大会では、目視可能な位置にメーカー名、ITTFAマーク、JTTAAマークの表示があるものの使用が義務付けられていた。</ref>の日本国内の公式大会においては、JTTAあるいはITTFによって公認されているラバーの使用が認められている<ref name=":16" />。
ラバーの特性は、特に最表面のゴムシートの特性に大きく依存しているほか、スポンジ層との組み合わせ等によって複合的に決まり、多様なラインナップがある<ref group="注釈">たとえば、同じゴムシートの製品ラインナップでも、異なる特性のスポンジを組み合わせた製品がある。逆に、同じ種類のスポンジ層に異なるシートを組み合わせたラインナップが用意されることもある。</ref>。以下の各項にてラバーの構成部材について述べる。
; ゴムシート
: ツブラバーとサンドイッチラバーが共通して有する、ゴム製のシート構造を「'''(通常の)ツブラバー'''」と呼ぶ<ref name=":16" /><ref name=":10" />。それ自身が単独でラバーである[[卓球#ツブラバー|(通常の)ツブラバー]]と混同しないように、本記事では、ラバーにおけるゴム製のシート構造部を特に指す場合は、'''ゴムシート'''(あるいは単に'''シート''')と呼ぶ<ref group="注釈">'''トップシート'''との呼び方もある。</ref><ref>{{Cite web|和書|title=TIBHAR 卓球ラバー |url=http://www.tibhar.jp/sp/rubber.htm |website=www.tibhar.jp |access-date=2023-07-09}}</ref>。
: どのラバーにおいても、ゴムシートはラケットのラバー面の最表面である。'''天然[[ゴム]]'''または'''合成ゴム'''を主原料として、'''顔料'''で黒や赤その多の色を着けられている<ref group="注釈">このとき顔料の赤・緑・青の比率を変えることでシートの色が決まる。顔料を赤のみ使用した場合は赤いシートとなり、全ての色の顔料を使用した場合は黒いシートとなる。</ref>。一般に、天然ゴムと合成ゴムの割合等によって性能や寿命、シートの透明度が変わる<ref group="注釈">天然ゴムの比率が高いほど、ボールにかけられる回転量が大きく、ラバーの寿命が長く、シートの透明度が低くなる。逆に、合成ゴムの比率が高いほど、ボールの弾みが大きくなり、ラバーの寿命が短くなり、シートの透明度が高くなる。</ref><!-- 顔料の使用量が多い黒いシートは柔らかくなりやすく、球離れに至るまでの滞在時間が長くなるため、回転量が増えやすい。逆に、赤いシートは固くなりやすいために球離れが早い。それ以外の色のシートの性能は、顔料の比率によってバラツキが大きい。 -->。ゴムシートの形状は、ゴムシートとブレード・スポンジとの相互作用を考慮して設計されている。具体的にはゴムシートは、片面が均一な平面であり、その反対側の面には'''粒'''(あるいは'''イボ''')と呼ばれる円柱型の突起がある。粒は平面[[六方最密充填構造|六方格子]]状に規則的に密に配置されている。この粒の配置には'''縦配列'''ないし'''横配列'''のものがそれぞれある<ref group="注釈">六方格子の最近接した粒の並ぶ方向が、ラケットの横幅方向(グリップに対して垂直な方向)と平行なものが「'''横目の粒'''」の配列である。同じく、粒がラケットの縦の長さ方向(グリップに対して平行な方向)と平行なものが「'''縦目の粒'''」の配列である。それぞれ、ラバー性能の差異につながる。</ref>。これらのゴムシートの素材・成分や、粒の形状・配列、平面部の厚みといった構造は、ラバーの諸特性に大きく影響する。<!-- たとえば、ゴムシートの平面部分が厚いほど重量が重くなり、シートの変形にも影響を与える。 -->
; スポンジ
: ラバーにおける'''[[スポンジ]]'''のシートは、サンドイッチラバーの構成要素であり、上記のゴムシートと組み合わせて用いる<ref group="注釈">ただし上述の通り、スポンジ層はラバーにとって、必須の構造ではない([[卓球#ツブラバー|ツブラバー]]等)。また、スポンジ層はゴムシートと比べて重量は軽い。</ref>。ラバーがブレードに貼り付けられる際は、このスポンジ層が(薄い接着剤層を介して)ブレードに密着するよう貼り付けられる。スポンジの性能は主に、打球時のボールのラバーへの食い込みとその後の復元力となって表れる。<!-- 弾性が高いスポンジほど、復元力が速く強く、ゴムシートの引き連れ効果も増す。「皮付き」と呼ばれる硬いものもある。 -->スポンジの厚さについては、厚いものほど威力のある強い回転が掛けられる<ref group="注釈">スポンジ層が厚いほど、ボールとの接触時間が長くなり、ゴムシートを介しての強い回転が掛けられる。逆に、薄いスポンジ層の場合は、強打や強打へのリターン等に際して、ボールとの接触時間が短くなり、回転量も小さくなる。</ref>。しかしながら、必ずしも厚いスポンジ層がゴムシートやラバーの特性にとって良いわけではない。たとえば、速いボールに対しては、反発係数が高くなり、飛距離等の制御が難しい。<!-- スポンジ層の薄いものは、スマッシュ打法に適しているほか、擦り打ちでの回転を掛けやすいなどのメリットがある。 -->
: ラバー製品では、様々な厚さのスポンジのラバーが販売されている<ref group="注釈">用具メーカーごとにスポンジの厚さの表記は異なる。たとえば、2.2 mmのものが「MAX」、2.3 mmのものが「ULTRA MAX」ないし「MAX+」、MAX未満のものはスポンジ厚の数値で表記されるなどしている。日本では、これに準じて「特厚」、「厚」、「中」、「薄」、「極薄」等の表記がされている。</ref>。ラバーの種類・性質によって、好まれるスポンジの厚さの傾向には差異がある<ref group="注釈">[[卓球#裏ソフトラバー|裏ソフトラバー]]は厚いスポンジ層のラインナップが多い。[[卓球#表ソフトラバー|表ソフトラバー]]は、プレースタイルの多様さから、スポンジの厚さのバリエーションが豊富である。[[卓球#粒高ラバー|粒高ラバー]]については、薄めのスポンジかスポンジ無し製品が多い。</ref>。
多くのラバーに共通する基本的な構成と特徴は以上の通りである。ラバーの性質に加えて、ブレードの特性(主に反発係数、振動特性等)も打球に影響するため、プレーヤーに合うラケット(ブレードとラバーの組み合わせ)を求めるには、情報収集や試行錯誤が必要となる。
なお、ラバーの長期的な耐久性はあまり高くない。使用せずとも少しずつ<!-- 乾燥や -->酸化等でゴムが変質し、練習等での反復使用によりラバーの性能(反発特性や動摩擦力)は徐々に変化してくる<ref group="注釈">強い回転を掛けたり、強打をしたり、また、これらのボールを受けたりする為、ラバーにはボールによる変形が繰り返し与えられる。これらの動的変形によって、ラバーは大きな摩擦・摩耗を反復的に受ける。</ref>。用具メーカーが推奨するラバー交換の目安(ラバーの寿命)は、一般の選手で1カ月、練習量が少ない選手でも2 - 3カ月とされる<ref>[https://web.archive.org/web/20080811023720/http://www.butterfly.co.jp/query/#q08 よくある質問/Q.ラケットにもラバー同様に寿命はありますか?](2008年8月11日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) バタフライ卓球用品/[[タマス]]公式サイト</ref>。短期的な視点では、プレー中にラバーに埃などが付着し、表面の性能が変化する。これらの付着物を拭き取ってラバーの性能を回復するため、専用のラバークリーナーも市販されている<ref group="注釈">ラバークリーナーの製品としては、[[界面活性剤]]を含む[[泡]]状・[[液体|液]]状の洗浄液を出す[[スプレー]]缶や、それらでラバーを拭き取り(掃き取り)して清掃する為の専用の[[スポンジ]]等がある。洗浄後は、専用のスポンジで洗浄液をよく除き、ラバーをよく乾かす必要がある。</ref>。
以下に、各タイプのラバーについてそれぞれ解説する。
==== 裏ソフトラバー ====
[[ファイル:Pimple-in rubber for table tennis.jpg|サムネイル|裏ソフトラバーの構造(ラケット(木目)上に貼られた状態の断面図)。ゴム製のシート(赤色)がスポンジ層(白色)に接着されている。上方の平らな面が打球面である。ボールと接触面積が広く、摩擦が大きく、強い回転をかけやすい。]]
'''裏ソフトラバー'''は、ゴムシートの平らな面を外向きにして(粒側を内側に向けて)スポンジ層と貼り合わせたサンドイッチラバーの一種である。ボールとの接触面積が広く、動摩擦係数が大きくなるため、ボールに回転をかけやすい。一般的なほとんどの打法を実践しやすいため、現在においても最もよく使われているタイプのラバーである。<ref name=":26" />
; 高弾性・高摩擦系
: '''高弾性・高摩擦系裏ソフトラバー'''は、ゴムシートとスポンジの設計により、その名の通り、高い弾性と動摩擦係数を実現した裏ソフトラバーである。<!-- ゴムシートを薄くして粒をやや細くて高めに設計されている。粒がスポンジに食い込みやすい。スポンジの反発力でボールを飛ばすと同時に、シート表面の摩擦力を利用して引き連れ効果を起こして、高い弾性と摩擦力から、ボールに強い回転を掛けることを実現している。 -->弾道の安定性が良く、[[卓球#ボールの回転|回転]]の強い[[卓球#ドライブ打法|ドライブ打法]]に適している。<!-- 起点が不明な記述: 40年以上もの -->長い歴史があり、ロングセラーのラバーもある。<!-- 過去には、シートの合成ゴム比率を上げることで弾みを向上させたラバーや、高弾性・高摩擦系の特徴を生かしてテンション系ラバー並みの高い弾性を有する2.6 mmの超極厚スポンジ採用のラバーなど個性的なラバーも開発された。 -->かつては、シェアの高いラバーであったが、テンション系ラバーの普及につれて<ref group="注釈">この普及には、ルール改正によるグルーの使用禁止が影響したとされる。</ref>、使用者は減少している。一方で、近年の技術革新で、より高い反発係数と動摩擦力が実現されている。日本のメーカーの得意分野である。
; テンション系
: [[ファイル:Inverted table tennis rubber.jpg|サムネイル|ブレードに貼り付けられた状態のテンション系裏ソフトラバー]]'''テンション系裏ソフトラバー'''は、シート及びスポンジを構成する[[重合体|ゴム分子]]に人為的に負荷(テンション)をかけた状態としたラバーである<ref group="注釈">メーカーによっては、'''ハイテンション型'''、'''エネルギー内蔵型'''などの様々な呼び名がある。</ref>。これにより、従来の裏ソフトラバーと比べて高い反発係数と動摩擦力を実現している<ref name=":26" />。<!-- ボールが食い込んでからの速い復元力と強烈なシートの引き連れ効果によって、従来の高弾性・高摩擦系と比べて高い弾性と摩擦力を実現している。打球音が高い。 -->一方で、ラバー寿命は短くなりやすい<ref group="注釈">近年、ラバーのさらなる高性能化と耐久性の向上が図られているも、価格は高騰化の傾向にある。</ref>。<!-- シートの形状は、高弾性・高摩擦系ラバーに準ずる。一部のラバーではシートが厚くて粒が低くて太く、粒の太さもルール上で認められているギリギリの太さにすることで、台上処理技術に適したテンション系ラバーも登場している。 -->
: <!-- 強打に際して、鋭く曲がるカーブドライブやシュートドライブ等を打つのに適している。一方で、プレーヤーの技量水準の高さを要する(扱い慣れていない場合、棒球となったり、回転量不足となったりするなど、打球の制御が難しいという側面も持ち合わせている)。 -->[[卓球#スピードグルー|スピードグルーの使用禁止]]以降に普及が進んだとされ、トッププレーヤーの間で使用者が多い。回転系テンションラバー(下記)の登場にあわせて、主流のひとつとなったラバーである。ドイツや日本のメーカーの得意分野である。
:; スピード系テンション
:: '''スピード系テンションラバー'''は、テンション系裏ソフトラバーのなかでは歴史の長い製品である。<!-- 全般的にシートが柔らかくて変形しやすく、球が食い込んでからのレスポンスが非常に早い。 -->軽打時でも、その高い反発係数を利用した打球が可能である<ref group="注釈">ただし、強打時にはエネルギーをロスしやすい。また、使用者の回転を掛ける技術が乏しいと、打球時に棒球となりやすい。</ref>。打法によっては、ゴムシートの高い動摩擦係数を巧みに用いて、強烈な回転を掛けることが可能である<ref group="注釈">シェークのバック面や中国式ペンの裏面に貼るのに適しているとされる。</ref>。
:; 回転系テンション
:: '''回転系テンションラバー'''は、ゴムシート表面の動摩擦力を高めて、回転を掛けやすくしたテンション系ラバーである。シートの硬さとスポンジの柔らかさが適度に設計されており、軽打時、中打時、強打時で弾みと回転の緩急が付けやすい。<!-- 天然ゴム比率が高いシートと気泡の大きいテンションスポンジを組み合わせたタイプのテンション系裏ソフトラバーである。スポンジがラバー硬度よりも若干柔らかいので、球が食い込みやすい。ゴムシートの構造的特徴としては、通常のテンション系と比べて少し厚く、粒が若干太くて低い。 --><!-- 全般的に球が食い込むレスポンスに優れている。一方で、食い込んでからのレスポンスが遅いので、手首主体の打法は比較的やりづらい傾向にある。特にスポンジが柔らかいものは、食い込んでからのレスポンスがさらに遅い。 -->このような特徴から、上述のスピードグルーの経緯もあって、現在において主流のひとつとなっているラバーである。<!-- また、回転系テンションラバーのなかには、いわゆる曇り系やマット系と言われている製品があり、カット主戦型や日本式ペンには好まれるラバーとされる。これらは、天然ゴムで構成された硬いシートに強いテンションを掛けたものを指す。従来の回転系テンションよりも回転が多く掛かりやすいが、シートが硬いため重量が重く、スポンジが硬いものになると粘着系ラバーと遜色ない硬さとなる。シートが非常に硬いことから、シェークのバック面では扱いづらいが、記述の通りマッチする戦型もある。 -->
; 粘着系
: '''粘着系裏ソフトラバー'''は、シート表面に粘着性を付与した裏ソフトラバーであり、特に動摩擦係数の高いラバーである。<!-- シートが厚めで、粒が低くて太いものが多い。粒配列は縦目のものと横目のものがある。同じ厚さの他種のラバーと比べると、重量が重めで、弾性が低いものが多い。粒が低い上にスポンジが硬いものが多く、ボールが食い込みにくくなっている。 -->粘着性が強い製品では、静止したボールをラケットの粘着ラバー面で上から押さえて着けて、そのまま上にボールを持ち上げることができるほどの粘着力がある。打球時は、ラケットの面をボールに添えるように当て擦ることで、強烈な回転を掛けることができる。ボールとラバーの接触時間が長く、クセ球を出しやすく、回転量に変化もつけやすい。その反面、相手の回転の影響も受けやすい。また、他のラバーと比べて非常にデリケートである<ref group="注釈">たとえば、シート表面の粘着性能の保持のため、市販の一部のラバークリーナーが使えないというデメリットがある。各メーカーからは、粘着系ラバー保管用の粘着シートが発売されており、これを使用してラバーを保管することで、シートの粘着力を強化あるいは維持することが可能である。</ref>。粘着系ラバーは、主に中国系の選手や、日本のドライブ主戦型やカット主戦型の選手などに使用者が多い。中国のメーカーの得意分野である。
:; 強粘着系、微粘着系、超微粘着系
:: シート表面の粘着性能の強さによって、さらに強粘着系、微粘着系、超微粘着系といった分類がされることがある。粘着性が強いほど動摩擦係数が上がり、回転量が多くなりやすい。一方、反発係数は低下して、打球スピードが低下しやすい傾向にある。
:; 粘着系テンション
:: '''粘着系テンションラバー'''は、粘着系ラバーとテンション系ラバーの特徴を併せた、従来の粘着系ラバーよりも反発係数が高い裏ソフトラバーである。反発係数の高いスポンジを採用した'''粘着系回転系テンションラバー'''も、市販されている。<!-- 粘着系ラバーの欠点であったボールの食い込みが改善されており、当て擦ってのドライブ打法などがやりやすい。 -->
:; 極薄系
:: '''極薄裏ソフトラバー'''は、<!-- 粘着質のシートと粒が低いシート形状の特性を生かして、 -->極薄の厚さのスポンジと組み合わせることで、粒高ラバーに類似した挙動を示す粘着系ラバーである。反発係数が小さい一方、動摩擦係数は大きい。粘着ラバーの特徴である回転量とクセ球に加えて、粒高ラバーのような変化をつけることが可能である。ペンホルダーの粒ラバー使用者に向いたラバーであるとされる。
; コントロール系
: '''コントロール系裏ソフトラバー'''は、柔らかいスポンジとシートを用い、打球をコントロールしやすいように設計されたラバーである。扱いやすく、安価で長寿命な事が多いため、初心者などを含め、技術を身につける際に使用されることもある。しかしながら、反発係数と動摩擦力は低いため、競技段階のレベルでの使用では威力不足の感があり、使用している人は少ない。
==== 表ソフトラバー ====
[[ファイル:Pimples-out rubber (short-pip rubber) for table tennis.jpg|サムネイル|表ソフトラバー(赤色: ゴム製シート、白色: スポンジ)。上方(ツブの出ている側)が打球面である。ボールの反発係数が高く、スピードのある打球となる。]]
[[ファイル:Ito Mima ATTC2017 13.jpeg|サムネイル|表ソフトラバーを貼ったバック面で、台上からの素早いリターンを行う[[伊藤美誠]]]]'''表ソフトラバー'''は、ゴムシートの粒の面を外向きにして(平面の側を内側に向けて)、スポンジと貼り合わせたサンドイッチラバーである<ref group="注釈">スポンジとゴムシートの接合部の構造上、スポンジに食い込みにくいため、裏ソフトよりも柔らかいスポンジが採用されている。</ref>。ゴムシートの粒の側が最表面であるために、ボールとの接触面積が小さい。このため、高い反発係数を有しつつも、動摩擦係数は比較的に低めになり、いわゆる「球離れが早い」跳ね返り方をする。裏ソフトラバーと比べると、相手の打ったボールの回転の影響を受けにくい<ref group="注釈">その一方で、自発的に掛けられる回転量は、裏ソフトラバーに比べると小さい。</ref><ref name=":26" />。基本的に前陣速攻型のプレーヤーやカット主戦型のプレーヤーが用いる場合が多い。シートの粒形状や特性により回転系・スピード系・変化系等に分類される<ref group="注釈">それぞれに適するよう、粒配列は縦目と横目のパターンがラインナップされている。</ref>。
<!-- 近年では、ラケット両面に裏ソフトラバーを貼ったドライブ主戦型が多くなっている影響もあり -->裏ソフトラバーよりも製品のラインナップは比較的少ないが、裏ソフトラバーのケースと同様に、従来よりも高弾性な'''テンション系表ソフトラバー'''などの新たな開発品も製品化されている<ref name=":26" />。反発係数の大きなスポンジを採用した'''回転系テンション系表ソフトラバー'''も市場に現れるなど、表ソフトラバーの特徴を活かした新たな用具の開発も進められている。
後述の[[卓球#ラージボール卓球|ラージボール卓球]]の競技では、ルールにより表ソフトラバーのみが使用を認められている。ラージボール競技用に開発された表ソフトラバーも存在し、これらは硬式用と比べて柔らかいものが多く、ボールが変形しにくいという特徴を有している。
; 回転系表ソフト
: '''回転系表ソフトラバー'''は、表ソフトラバーのなかでも回転がかけやすいラバーである。一方で、スピード系表ソフトのように球離れは早くなく、ナックルなどの変化した質の球も出しにくいとされる。主に、スマッシュを主力武器としながら、ドライブでの強打も織り交ぜるタイプのプレーヤーに向くとされる。
; スピード系表ソフト
: '''スピード系表ソフトラバー'''は、表ソフトラバーの中ではもっとも球離れが早く、ナックル系の球も出しやすいラバーである。ただし、回転系表ソフトラバーのような強い回転をかけることは難しいとされる。主に、ドライブ打法をつなぎ技として使い、スマッシュを主力武器とするタイプのプレーヤーに向くとされる。
; 変化系表ソフト
: '''変化系表ソフトラバー'''は、ナックルなどの変化が出やすい設計の表ソフトラバーである。かつては、表ソフトラバーの中では前の二者と比べて使用者は少なかったが、[[福原愛]]がこのタイプのラバーで実績を残したことで、使用者が増えたとされる。また、プラスチック製のボールへの移行により、(粒高ラバーと比べて)カット打法での良い球質の打球となることも見出され、カットマンを中心とした使用者も増えている。
==== 粒高ラバー ====
[[ファイル:Pimples-out rubber (long-pip rubber) for table tennis.jpg|サムネイル|粒高ラバー(赤色: ゴム製シート、白色: スポンジ)。表ソフトラバーと比べて、ツブが高くて長い。ツブがしなるように倒れ、複雑な球質でリターンできる。]]
[[ファイル:Pimples-out rubber (long-pip rubber) for table tennis (ordinary pimpled rubber).jpg|サムネイル|粒高ラバーにはスポンジ層がないものもある。]]
'''粒高ラバー'''('''ツブ高ラバー''')は、構造上は表ソフトラバー(上記)と類似しており、ゴムシートの粒の側を外側に向けたラバーである。表ソフトラバーとの違いは、その名の通り、粒の高さが高く、粒が柔らかいといった特徴である。スポンジの有る粒高ラバーと、スポンジの無い'''一枚の粒高ラバー'''の二種が、主に市販されており、これらを総称して、粒高ラバーと呼ぶ<ref group="注釈">日本語では「イボ高」とも呼ばれるが、イボという語感を避け、粒高ラバーと称されることが多い。</ref>。
粒高ラバーは、構造上の性質から、打球時に大きく粒がしなるように変形する<ref group="注釈">表ソフトラバーと比べて、粒の形状がさらに高く、ゴムシートは水平面部分が薄い。また、スポンジ有りの粒高ラバーであっても、スポンジは非常に薄い。なお、表ソフトラバーの粒は、粒高ラバーのように激しくしなったり、倒れたりせず、ボールの反発も大きい。</ref>。反発係数も動摩擦係数も低いことが特徴である<ref group="注釈">一方で、粒が倒れた(しなった)状態においては、打法によっては表ソフトラバー以上の強い動摩擦係数も示す。</ref><ref name=":9" />。粒が柔らかいほど、打球に変化をつけやすい。自発的にボールに回転を与えるのは難しい一方で、相手の回転の影響も受けにくい<ref name=":26" />。そのため、相手の回転を利用したり、そのまま回転を残してリターンしたりしやすい(参照: [[卓球#スピンに応じた打法|スピンに応じた打法]])<ref group="注釈">打球の際に粒がボールを弾くため、自発的な回転はかけにくい反面、相手が打ち込んできた打球の回転を維持・残存させることができる。</ref>。粒高ラバーでの打球では、自身の打法と相手の打球の質の双方に影響をうけるため、扱う側も予測しない回転や変化が表れることもある。使用者の技量にもよるが、粒高ラバーによるドライブ打法等も可能である。
粒高ラバーは、主にカット型や前陣攻守型のプレーヤーが変化を付けるために用いる。反転型ペンホルダーラケットに貼って使用する場合もある。いすれも、[[卓球#戦型|戦型]]によって粒高ラバーは用途が異なり、好まれる製品も異なる<ref group="注釈">一般的に、カットの回転量と変化量を求めるカット型では粒が高くて細いものが好まれる。ブロックでの変化量とスピン反転能力を求めるペン粒などの守備型では、粒が低くて細いものが好まれる。ミドルが弱く粒高にも攻撃力が求められるシェーク前陣攻守型では、それらの中間くらいの性能のものが選ばれる傾向にある。</ref>。
かつては、シート表面にアンチ加工(摩擦を低減する加工)を施されたアンチ粒高ラバーが存在していた。2008年以降にアンチ粒高ラバーの使用が禁止されたことにより、以前と比べて粒高ラバーの性能は相対的に低下しており、プラスチック製ボールの移行後はさらにこれが顕著となっている<ref group="注釈">なお、2008年以降に発売されたラバーはITTF登録番号が表記されているものが多く、これらのITTF登録番号の表記は、使用している粒高ラバーが「アンチ粒高ラバーではない」という証明としても使用できる。</ref>。一方で近年は、従来の粒高ラバーよりも高弾性化した'''テンション系粒高ラバー'''も登場している<ref name=":26" />。
==== ツブラバー ====
[[ファイル:Pimples-out rubber (short-pip rubber) for table tennis (ordinary pimpled rubber).jpg|サムネイル|ツブラバー。構造はゴム製シート(赤色)のみである。]]
'''ツブラバー'''<ref name=":16" />('''一枚ラバー'''とも)は、[[卓球#表ソフトラバー|表ソフトラバー]]からスポンジを除いた構造のラバーである<ref group="注釈">広義の「ツブラバー」や「一枚ラバー」は、「[[卓球#粒高ラバー|粒高ラバー]]のうちのスポンジ層のないもの」も含む。本節を含めて、本記事では、「ツブラバー」はより狭義の「表ソフトラバーからスポンジを除いたもの」を指している([[卓球#粒高ラバー|粒高ラバー]]のスポンジ層のないものとは異なるものとして、区別している)。</ref>。[[第二次世界大戦]]以前のラバーとしては、このツブラバーしかなかった。反発係数も動摩擦係数も低めのラバーであるが、安定した打球を打てるという利点がある。現在、このラバーを用いる選手は非常に少ない。かつては、このツブラバーの構造の表裏を裏返したラバー([[卓球#裏ソフトラバー|裏ソフトラバー]]からスポンジを除いたものに相当)も存在したが、この裏返したラバーは現在のルールでは使用が禁止されている。
==== アンチラバー ====
'''アンチラバー'''は、一見しての外見は普通の[[卓球#裏ソフトラバー|裏ソフトラバー]]だが、動摩擦係数が極端に少なくなるように設計されたラバーである<ref group="注釈">ラケット交換時などにラバーの製品名等の刻印を確認できるため、アンチラバーであること自体の確認は容易に可能である。</ref>。アンチラバーを用いて裏ソフトラバーと同様の打法を試みても、ボールに回転かかる回転量は小さい<ref name=":26" />。<!-- コントロール性を高めるため、やわらかいスポンジが使われていることも多いが、メーカーによっては折れないほどの硬いスポンジとシートで構成されているものもある。 -->
かつては、同色の裏ソフトラバーと組み合わせることで、ラバー外観の酷似性とそれに反した性質差を利用し、ラケットを反転させて相手に打球の変化を分かりづらくさせるスタイルに主に使用されていた。しかし、両面に同色のラバーを貼ったラケットが使用禁止となった(1983年のルール改正)後は、アンチラバーの使用者は激減した。
=== 接着剤 ===
上述の通り、競技用のラケットの多くは、ブレードとラバーが別々に市販されており、両者を接着してラケットとして完成させる必要がある。ブレードにラバーを接着する[[接着剤]]について、現在使用が認められているのは、[[水溶液|水溶性]]接着剤や接着シート、[[固体|固形]]接着剤である。かつては、[[ゴム]]を[[溶媒|有機溶剤]]で溶かした接着剤が広く使用されていた。しかし、有機溶剤が人体に有害であるため、2007年4月1日よりの日本国内の小学生の大会から段階的に、有機溶剤を含む接着剤の使用が制限されはじめた。2007年9月1日以降は、有機溶剤を含む接着剤は日本国内のすべての大会で禁止された。国際大会では2008年9月1日より禁止となった(詳細は[[卓球#スピードグルー|スピードグルー]]や[[卓球#補助剤|補助剤]]の節を参照)。
現在、日本国内においては、JTTA公認の接着剤の使用が認められている。一方で、2009年時点おいてITTFは、特定の接着剤を公認していない。<!-- また、塗った接着剤とラバーにわずかに含まれている残留溶剤が反応するおそれもある。 -->公式大会等では、仮に意図して有機溶剤を用いてなくても、試合後のラケット検査で残留溶剤が検出された場合は失格となる。これを防ぐには、ラバーのパッケージを開けてから72時間程度放置した後に、非有機溶剤系の接着剤(日本ではJTTA公認品)を使用して、ラバーをブレードに貼ることが良いとされる。
==== スピードグルー ====
[[ファイル:Frischkleben.jpg|サムネイル|スピードグルー(ブレードの上の液体。保管時は、刷毛付きのフタと缶で貯蔵されている)。現在は使用が禁止されている。]]
'''スピードグルー'''は、ラバーをブレードに貼り付ける接着剤の一つであり、有機溶剤を多く含む。ラバーに塗ると、溶剤[[分子]]がスポンジの中で[[拡散]]して、ラバーのスポンジが膨張する。この状態でラバーをブレードに貼ると、スポンジの膨張分だけラバー全体が面方向に引っ張られて常に伸長負荷がかかり、ラバーの反発力と摩擦力が高くなる<ref group="注釈">このグルー効果を最初に発見したのは、ハンガリーの[[ティボル・クランパ]]と言われている。日本の使用は、1980年前半に元日本チャンピオンだった[[渡辺武弘]]がベルギー製のグルーを持ち帰ったものが最初であった。</ref>。<!-- スピードグルーによって、スポンジが柔らかくなるため、ゴムシートが引張圧で少し硬くなっていても、ラバー全体としては柔らかくなっている。また、「金属音」とも呼ばれるほどの高い打球音になる。 -->ラバーに負荷がかかり劣化が早まるデメリットがあったものの、スピードグルーは世界的に普及し、主に攻撃型の選手に広く普及していった。
しかし[[卓球#ルールの変遷|ルールの変遷]]で述べたように、現在は、スピードグルーは使用が禁止されている。スピードグルーの問題を提起したのは、ITTF会長(当時)の[[荻村伊智朗]]であった<ref name=":36" />。このときは、選手のスピードグルー使用による見学者の[[中毒]]事故等の事例が知られていた<ref name=":36" />。荻村は、卓球の普及という観点から、<!-- グルーに頼る打法への慣れから、平時のボールスピードが減速すること、 -->次の理由をあげ、スピードグルーの使用禁止を提案した。
* スピードグルーの使用は「用具へのドーピング」であり、スポーツ精神の観点から好ましくない。
* 多くのスピードグルーが含有する[[トルエン]]は人体に有害である。
* スピードグルーが[[シンナー|シンナー遊び]]等の卓球以外の不適切な用途に使用されて、社会問題化した。
こうしてまず、スピードグルーの成分であるトルエンの規制が実施された<ref group="注釈">ここでは、トルエンに代わって[[ヘプタン]]が主成分となった。日本でトルエンは、[[化学物質の審査及び製造等の規制に関する法律]]の有機溶剤中毒予防規則において第二種有機溶剤に該当する規制対象。ヘプタン自体はこれに非該当である。</ref>。しかしながら、この規制によりスピードグルーのラバーへの効果が低下したため、逆に、スピードグルーの効果を高める「重ね塗り」や「蒸らし」といった溶剤を多用する用法が編み出された。このように、スピードグルーの使用と規制は、イタチごっこの状態が長らく続いた。
やがて、卓球選手のスピードグルーによる[[アナフィラキシー|アナフィラキシーショック]]の事故<ref>{{Cite web|和書|title=スピードグルー禁止が早まる可能性も・・今年の9月か? |url=https://world-tt.com/ps_info/ps_report_detail.php?bn=112&pg=HEAD&page=BACK&rpcdno=19 |website=world-tt.com |access-date=2023-09-24 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=スーパーロング・チャックによるアレルギー事故発生について |url=https://www.butterfly.co.jp/news/info/20070509.html |website=www.butterfly.co.jp |access-date=2023-09-24 |language=ja}}</ref>が起こり、健康上の問題が再度議論されるようになった。こうした経緯から<ref group="注釈">スピードグルー自体も揮発性・可燃性が高く、輸送の面でも法規上の対策が必要であった。</ref>、荻村の遺志<ref group="注釈">スピードグルーの完全な禁止が決定するまでに、荻村は1994年に死去している。</ref>を継いだ日本委員のリードによって<ref name=":36" />、ITTFは'''スピードグルーの使用禁止'''をついに決断し、[[北京オリンピック 2008|北京五輪]]終了後の2008年9月1日をもって<ref group="注釈">当初2007年9月1日に施行される予定であったが、翌年に[[2008年北京オリンピック|北京五輪]]を控えたこともあり、急な競技規則変更を避けたとされる。</ref>、公式ルール<ref>ITTF Handbook, 50th ed., 3.2.4.1.</ref>にて禁止とされた。
==== 補助剤 ====
前述の通り、有機溶剤を含む接着剤の使用が禁止されたことで、毒性のない'''水溶性接着剤'''(主成分は[[水]]、天然ゴム、[[アクリルゴム|アクリル]])が普及した。一方で、スピードグルーの使用が禁止となることを見越して、「'''ブースター'''」と呼ばれる接着力のない'''補助剤'''や'''水溶性グルー'''が卓球用品メーカーから販売されていた。補助剤のラバーへの使用によって、スピードグルー同様にラバーの性能を向上させることができた。揮発性の有機溶剤を含まず鉱物油を主成分としているため、取り扱いが比較的容易で、かつ、効果が持続しやすい、といったメリットがあった。<!-- 一方で、揮発性が低いためラバーを剥がしての塗り直しができないこと、スピードグルーのような鋭いレスポンスは得られないこと、塗ることによって重量が重くなること、といったデメリットがあった。 -->
これについてITTFは、補助剤の塗布はラバーを加工・改造する行為であり「用具のドーピング」にあたるとして、ルール改正を行い、事実上、補助剤を使用禁止とした<ref group="注釈">2008年10月1日以降において、「後加工の禁止」という規定が加えられている。</ref><ref name=":3" />。日本ではJTTAも、ITTFのルール改定通知に基づき、2008年10月1日以降に開催される全ての大会において、ブースターを含む補助剤類についても使用禁止すると発表した<ref>{{PDFlink|[http://www.tokushima-takkyu.tanuki.jp/rule/rule1.pdf 今後の接着剤の使用とラケット検査について(日本卓球協会 平成19年6月11日)]}} 徳島県卓球協会</ref><ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20080915231404/http://www.jtta.or.jp/news/2008/08rule0913.pdf ルール変更について]}}(2008年9月15日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) [[日本卓球協会]] 2008年(平成20年)9月13日</ref>。禁止対象の補助剤類を販売していた卓球用具メーカーも、2008年9月末をもって販売を中止することを発表した。
補助剤の規制は速やかに進んだ一方で、スピードグルーの禁止から僅か1ヶ月で補助剤も禁止されたため、補助剤を発売してきたメーカーは、多くの在庫を抱えるようになり、経営を圧迫したとされる。また、大会運用の不備面として、禁止化の直後の[[ヨーロッパ卓球選手権]]では、ラケットの検査機器が新ルールに対応できなかったことから、従来通り補助剤を使用する選手もいる状況になっていた。
=== サイドテープ ===
グリップ部のテーピング等も含めて、ラケットの操作性・保持性に好ましい素材のブレード部への付与等は(他のルールを侵さない範囲で)認められている<ref>ITTF Handbook, 50th ed., 2.4.4.</ref>。このうちの'''サイドテープ'''は、競技中に予期せずラケットが卓球台にあたったときに、ラケットの側面(サイド)を破損しないためにつける保護テープである<ref group="注釈">一般的に、サイドテープ幅は6 mm、8 mm、10 mm、12 mm等のラインナップがある。</ref>。<!-- ラケットのブレードのみを覆うように貼るプレーヤーや、使用しているラケットのラバーのスポンジ部分まで覆うように貼るプレーヤーもいる。 -->金属製のサイドテープもあり、ラケットの総重量や重心位置を調節することも出来る。
=== ボール ===
一般的に卓球(硬式卓球)で使用されている'''ボール'''('''試合球'''、'''ピンポン球'''とも)は、直径が40 mmで、重量は2.7 gである<ref name=":14" />。[[卓球#ラージボール卓球|ラージボール卓球]]のものは、直径が44 mmで、重量は2.2 - 2.4 gである。ボールの色は白と橙色の二色がある。硬式卓球ではどちらの色のボールを使用してもよいが、ラージボール卓球では橙色のみが用いられる<ref group="注釈">周囲環境(照明・床・背景)、競技用服装の色、卓球台の色によってボールを視認しづらい場合は、どちらかの色のボールを使用するか選ぶことができる大会もある。</ref>。ボールの品質はプレーの精度に大きく影響する一方で、完全な球構造のボールを高精度で大量製造することは技術的に難しい。そこでボールの製造においては、同じ製造ラインで作られた球をすべて検査して、個々の真球度に応じてグレード付けする方法を採っている<ref group="注釈">グレード分けは、ボールを坂路で転がしたときの軌跡のずれの大きさで実施している。完全な球ならば坂路をまっすぐ下り、ゆがみが大きいほどずれが大きくなる。この性質を利用して品質の判定を行う。</ref>。真球度が最高のものは'''3スター''' ('''スリースター''')とグレード付けされている<ref group="注釈">グレードは、最高ランクの「3スター」から、最低ランクの「無印」まで4段階に分けられている</ref>。JTTA主幹のものを含む多くの大会では、3スターのボールが使用される<ref group="注釈">一方で、1つの大会の公式球に複数のメーカーが選ばれる例もあった。</ref><ref>[http://www.sankei.com/premium/print/150213/prm1502130002-c.html 【スポーツ異聞】「照明暗すぎる」「大会使用球を統一して」卓球“モノ言う王者・水谷隼”の問題提起] - 産経ニュース 2015年2月13日</ref><ref name=":16" />。
[[File:Ballsizes.JPG|thumb|ラケットとボール。ボールの直径は、左側のものから順に40 mm, 44 mm, 54 mmである。]]
歴史をみると、硬式卓球の試合球のサイズは、2000年のルール変更で、直径38 mmから直径40 mmへと大きくなっている。このボールの大きさの変化によって、以下の影響があったとされる。
* 空気抵抗が大きくなったために速く遠くへ飛びにくくなった。<!-- 回転がかけにくくなった。 --><!-- ナックル等の変化性の打球の影響が小さくなった。 -->
* 以上の結果として、ラリーが続きやすくなった。
ボールの素材にも変化があった。かつては[[セルロイド]]が主流だったが、2010年代に非セルロイドの材質のもの(各種[[合成樹脂|プラスチック]]素材)に移行している<ref group="注釈">オリンピックの卓球競技では、2012年の[[2012年ロンドンオリンピック|ロンドンオリンピック]]からプラスチックボールに変更されている。</ref><ref name="plastics-japan">{{Cite web|和書|url=https://plastics-japan.com/archives/3899 |title=プラスチックの材質分析例~ピンポン球の材質 |publisher=プラスチックス・ジャパン・ドットコム |accessdate=2020-01-15}}</ref>。セルロイド製のボールは燃えやすく、火災の危険性があったためである。危険物として航空機への持込を断られた事例([[2004年アテネオリンピック|アテネ五輪]]前)もあり、[[国際オリンピック委員会|IOC]]がITTFにボールの材質変更を求めたともいわれる<ref>[http://japanese.donga.com/List/3/all/27/426883/1 卓球ボールが変わる…「プラスチックボール」は選手にとって毒か、薬か] - 東亜日報</ref>。なお、ボールの材質の変更に際しては、ITTFは以下の理由を挙げている<ref name="plastics-japan" />。
* セルロイドは燃えやすい。
* セルロイドは太陽光などにより劣化しやすく、耐久性に乏しい。
* 良質のセルロイドの入手は難しくなっている<ref group="注釈">たとえば、セルロイドの公式球は製造に半年かかる(セルロイドを練り上げて板状にするのに3か月、丸く型抜きしてアルコール浸けで半月、自然乾燥に半月、半球体にするのに半月、一つの球体にして表面を研磨するのに半月、その後に乾燥、マーク押し、包装という工程を経て完成させていた)</ref><ref>{{Cite book|和書 |author=フジテレビトリビア普及委員会 |year=2003 |title=トリビアの泉〜へぇの本〜 2 |publisher=講談社}}</ref>
* プラスチック素材の方が、回転も弾みも抑えられラリー戦が続きやすい。
日本では、2014年から日本卓球教会の定めるルールとして、非セルロイド素材で製造する事が義務付けられ、以降、プラスチックボールが用いられるようになった<ref group="注釈">つなぎ目のあるボールと、つなぎ目のない'''シームレスボール'''の双方が認められている。</ref><ref name=":16" />。プラスチックへの材質変更による影響として、次の変化があったとされる。
* 打球感が変化した。<!-- 回転量が相対的に低下した。 --><!-- (シボがつけられなくなったことによる) --><!-- 打球時の初速は速くなった。 -->
* シームレス(継ぎ目無し)のボールで特に、弾みのばらつきが減少し、打球が安定した。
また、ブラスチックボールの導入初期は、メーカーによって性能のバラツキが大きく、また、壊れやすいという指摘もあった<ref>[http://www.hochi.co.jp/sports/ballsports/20160801-OHT1T50262.html 【卓球】思わぬ“洗礼”試合球6球だけ!美誠「気をつけて使わないと」] - スポーツ報知、2016年8月2日</ref>。
=== 卓球台 ===
'''卓球台'''は競技を行うにあたって、卓球台は競技場の床面に設置される水平な台であり、サイズや高さ、材質、物性がルールで規定されている(サイズ等の詳細は[[卓球#ルール|ルール]]を参照)<ref name=":13" />。卓球台は、経年による反り返りを防ぐために3層構造になっている。三層の中心の層には、細長い板がフローリング床のように横の継ぎ目をずらして配置され、変形を防ぐ設計となっている。プレーイングサーフェスの[[ボールの跳ね返り運動|反発性能]]として、全面での均質なボールの跳ね返りが規定されている<ref group="注釈">全面にわたって均質であり、30 cmの高さから標準ボールを落下させて約23 cmの高さまで跳ね上がること、と具体的には規定されている。</ref><ref>ITTF Handbook, 50th ed., 2.1.3.</ref>。
卓球台(プレーイングサーフェス)の色は、1980年代まで主に[[緑]]色<ref group="注釈">より正確に表現するならば、「黒に近い深緑」といえる。</ref><ref>[http://www.sanei-net.co.jp/news/wp-content/uploads/201608_rinentokeiei.pdf 「理念と経営」2016年8月号]</ref>であった。卓球のイメージチェンジのために<ref>[http://www.asahi.com/area/kanagawa/articles/MTW20160408150130002.html 【アスリートを支える】青い卓球台 復興願って] - 朝日新聞 2016年4月8日</ref><ref group="注釈">また、この卓球台の改善事例の背景として、テレビ番組で出演者の[[タモリ]]が[[織田哲郎]]に『あれ(卓球)って根暗だよね』と発言したことにより、翌年の中学生の卓球部の部員が激減した事がきっかけである、とも指摘されている</ref><ref>[https://www.narinari.com/Nd/20150933606.html Narinari.com 2015年9月8日付] 2017年2月22日閲覧</ref>、[[荻村伊智朗]](当時ITTF会長)の発案により、'''[[青]]色の卓球台'''が製作された。この卓球台は、[[1991年]]に[[千葉市]]で開催された[[第41回世界卓球選手権]]や翌[[1992年]]の[[1992年バルセロナオリンピック|バルセロナオリンピック]]で用いられ、以降、世界中に広まって主流のカラーリングとなり、現在に至っている。
=== 競技領域 ===
[[ファイル:German Open Magdeburg 3.JPG|サムネイル|卓球の競技領域。写真はドイツオープン大会([[マクデブルク]])の様子。この体育館のアリーナでは、あわせて12の競技領域が設営されている。]]
'''競技領域'''とは、大会等の試合会場にて確保・設営される、卓球競技が実施される空間領域のことである。[[卓球#用具規定|卓球台]](ネットアセンブリを含む)を中心として、コート番号の表示、適切な床面、審判席、スコアカウント器、タオルボックス、打球止めのフェンス等のほか、ボール一式など必要な用具が備えられている。プレーヤーの競技ができる範囲として、競技領域の奥行は14 m以上、幅は7 m以上、かつ、高さは床面から5 m以上の空間が確保されている<ref name=":16" /><ref>ITTF Handbook, 50th ed., 3.2.3.1</ref>。参考までに、卓球台自体は2.74 m×1.525 mの領域に過ぎないが、卓球台の20倍以上に及ぶ競技領域の確保には、[[バスケットボール]]や[[バレーボール]]等の全コート面の四半ほどの広さが必要となる。また、[[建築基準法]]施行令第21条による天井高さは「2.1メートル以上」であるが、当該施行令が想定するような空間の多くは上記の高さの要請を満たさず、公式な卓球競技は実施できない(もちろん、練習や[[卓球#娯楽・文化としての卓球|娯楽・文化としての卓球]]ではこの限りではない)。
=== 競技用服装 ===
卓球における'''競技用服装'''<ref name=":16" />([[英語|英]]: '''playing clothing'''<ref>ITTF Handbook, 50th ed., 3.2.2.</ref>)<ref group="注釈">スポーツ競技において、試合用の服装を[[ユニフォーム]]と呼ぶことがあるが、これらは文字通り「統一されたデザインの服装(uniform)」である。原則として卓球は個人競技であり、むしろ本節で述べるように、競技の性質から、プレーヤーの識別のためにプレーヤー間では異なる服装がルール上求められる。卓球における「ユニフォーム」の例をあげるならば、ダブルスのペアや団体戦のチーム内で、意匠を揃えるもの等がある(それでも、同チームの所属者と大会の個人戦で対戦することになった場合等は、どちらか一方のプレーヤーに服装の変更が求められる)。</ref>は、上が[[襟]]付で[[ポロシャツ]]に類似した形状のものや[[Tシャツ]]状のもの、下は[[ハーフパンツ]]・スカートが基本である。日本国内の公式試合で使用が認められるのは、JTTAの公認品のみである<ref group="注釈">公認された競技用服装には公認マークが表示されている。非公認品、あるいは、打球が視認しづらいなど試合の妨げとなる[[デザイン]]がされているものは、審判長の判断のもと使用不可とされることがある。</ref><ref name=":16" />。また、プレーヤー同士が類似した色の競技用服装を着ていた場合は、片方のプレーヤーが着替えなければならない<ref group="注釈">その際に着替えるプレーヤーは、サーバー・レシーバーや使用エンドの決定時と同様に、[[卓球#試合進行|コイントスやじゃんけん(拳)]]で決める。</ref><ref name=":16" />。JTTA主幹のものを含む日本国内の試合では、[[ゼッケン]]の着用も必須である<ref name=":16" />。
かつての卓球の競技用服装は、単色のポロシャツ形状のものが多かったが、近年は[[テニス]]や[[バドミントン]]と似た素材・デザインで、軽く撥水性が向上したものが多い。[[短パン|ショーツ]]は股下が短いものが多く、女性に不評であったが、近年では男性用でも太ももにかかるくらいのものが増えるなど、時代に応じて変化している。また、[[アンダーシャツ]]や[[スパッツ]]の着用も認められている<ref name=":16" />。
また、事前の確認が必要であるが、個人がデザインした競技用服装も、前述の要件を満たせば使用可能である。[[2007年]][[1月]]に行われた全日本卓球選手権では、[[四元奈生美]]がワンショルダーと[[ミニスカート]]という斬新な競技用服装で試合に出場し、注目を集めた。
[[靴|シューズ]]に関しては、ある程度の水準の大会までは特に規定がなく、一般的な[[体育館]]用シューズであれば何を履いてもよいとされる。ほか、[[ヘアバンド]]や[[リストバンド]]等も規定の範囲で使用可能である。
=== ロボット・マシーン ===
[[ファイル:2008LeisureTaiwan Day1 Chanson CS-5003 Table Tennis Machine.jpg|サムネイル|練習用のロボットマシーン。練習者が打ち返した打球はネットで集められ、中央の装置に装填され、反復的に発射される。]]
卓球における'''ロボットマシーン'''は、全自動で一定の(あるいは、規則的/ランダムな)回転やコースの飛球を対面のコートに周期的に送り続ける[[機械]]装置であり、実戦等での対戦相手の打球を疑似的に連続再現するための練習用の用具である<ref>{{Cite web|和書|title=卓球台・卓球ロボット他 {{!}} 株式会社 ヤサカ |url=https://www.yasakajp.com/goods/tf/ |access-date=2023-06-11 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ロボットマシン |url=https://www.nittaku.com/products/tables-equipments/robot-machine/ |website=Nittaku(ニッタク) 日本卓球 {{!}} 卓球用品の総合メーカーNittaku(ニッタク) 日本卓球株式会社の公式ホームページ |access-date=2023-06-11 |language=ja}}</ref>。
卓球の練習法のひとつに'''多球練習'''がある。人と人による多球練習において、文字通り多くのボールを一度に用いて、一方の者が相手の練習者に様々な球質のボールを相手コートへ連続的に送り込み('''球出し''')、練習者はこのボールを連続でリターンし続けてトレーニングを行う<ref group="注釈">主に指導者が球出しを行い、練習者はこれを反復してリターンし続ける。これにより練習者は、新たな技法の習得時に基礎を固めたり、実戦を想定した厳しい相手の打球への対処を身につけたりする。</ref>。ロボットマシーンは、この多球練習の球出しの役割を人間に代わって行うことができる(すなわち、練習者が独りだけの状態であっても、多球練習ができる)。
なお、本項で述べるロボットとは根本的に異なった、人間のプレーヤーのようなラリーを行うことのできるロボットも工学の研究対象として開発されている([[卓球#卓球の普及|卓球の普及]]の項を参照)。
== 打法 ==
卓球における打法は、第一球目のボールを打ち出す技術([[卓球#サービス|'''サービス''']])、および、その後(第二球目以降)のラリーにおいてボールを打ち返す技術(リターン)に分けられる。いずれも、主に[[卓球#フォアハンドとバックハンド|'''フォアハンド'''と'''バックハンド''']]に大きく分類される。台から離れた位置からの打法に加えて、台上(プレーイングサーフェスの上)で打球に対応する為の'''[[卓球#台上技術|台上技術]]'''の存在<ref group="注釈">卓球の台上では、卓球台が物理的な障害物となって、大きなスイングの打法(特に下から上に擦り上げるようなドライブ打法)が概して難しく、この台上技術も発達している。</ref>も、卓球の特徴の一つである。
かつてはフォアハンド打法主体のプレーが主流であったし、事実として今なお、より強力な威力(速度・スピン)の打球ができるのはバックハンドではなくフォアハンドでの打法である<ref name=":7" />。しかし時代とともに、新打法や厳しいコースを突く戦術等が開発され<ref group="注釈">ルール自体は、年を経るごとに、打球速度を抑える方向に改訂される傾向にはある。[[卓球#スピードグルー|スピードグルー]]類の使用や規制、40 mmボールへの変更等の度重なる[[卓球#ルールの変遷|ルール変更]]が該当する。([[卓球#ルールの変遷|ルールの変遷]]を参照)</ref>、ラリーのスピードは全体的に速くなった<ref name=":6" />。現代では、この速いラリーに対応するために、フォアハンドとバックハンドを速やかに切り替えて'''両ハンド'''による強打で攻める戦術が発展している。
以下では、特に断りがない限り、[[利き手|右利き]]のプレーヤーの打法について述べる。[[左利き]]のプレーヤーについては、下記の内容において適宜左右を反転させて読解することで、同様の打法を理解・実践できる。
=== ボールの回転 ===
[[ファイル:Wikipedia-TableTennis-TopspinCurve-4Phases.PNG|サムネイル|330x330ピクセル|上回転の打球の飛跡(左側から打球)。 1. ラケット(赤線)で擦り上げて強く打った上回転球は、はじめは直線的に進む。2. 下向きの揚力を受けて、やがて相手コートで沈むように落ちる。 3. コートでバウンドする際、前進方向に加速を受ける。 4. これを打ち返すと、上向きに打球が逸れる
]]
[[ファイル:Wikipedia-TableTennis-BackspinCurve-4Phases.PNG|サムネイル|330x330ピクセル|下回転の打球の飛跡(左側から打球)。 1. ラケット(赤線)で切り下げ打った下回転球は、ゆるやかな山なりの軌道で進む。 2. 上向きの揚力を受けるため、相手コート内でも伸びるように進む。 3. コートでバウンドする際、後退方向に加速を受ける。 4. これを打ち返すと、下向きに打球が逸れる
]]
打法の多くはボールの回転([[角速度|スピン]])を利用する<ref name=":4" />。打法におけるスピンの制御は、打球の挙動ひいてはリターンの成否、得点・失点につながる重要な要素である<ref name=":4">{{Cite journal|author=Seydel, R.|year=1992|title=Determinant Factors of the Table Tennis Game - Measurement and Simulation of Ball-Flying Curves -|journal=Int. J. Table Tennis Sci.|volume=1|page=1-7}}</ref>。スピンは、'''縦回転'''([[トップスピン|上回転]]/[[カット|下回転]])、'''横回転'''([[シュート (球種)|順横回転]]/[[カーブ (球種)|逆横回転]])、'''[[ジャイロボール|コークスクリュー回転]]'''(ヘッドコークスピン/フットコークスピン)<ref group="注釈">競技や分野によっては、[[ジャイロボール]]、[[ジャイロ効果|ジャイロ回転]]とも呼ばれる。</ref>の独立した3軸方向の回転に分類できる。実際の打法によるスピンは、この3軸回転のなかのいずれか、あるいはそれらの複合されたものである<ref name=":5">{{Cite journal|author=Durey, A., Seydel, R.|year=1994|title=Perfecting of a Ball Bounce and Trajectories Simulation Software :In order to Predict the Consequences of Changing Table Tennis Rules|journal=Int. J. Table Tennis Sci.|volume=2|page=15-32}}</ref>。どの軸方向にもほとんど回転のかかっていない'''無回転'''(ナックル)の打球も存在する。
理想的な[[質点]]は[[重力]]の存在下で[[放物線]]の軌道を描くが、卓球のボールの飛跡はスピンの影響を顕著に受ける。たとえば、スピンと[[空気]]の存在に由来する[[抗力]]と[[揚力]]([[マグヌス効果|マグヌス力]]等)によって、放物線から外れた軌道となる<ref name=":4" />。また、スピンを有する飛球が卓球台やラケット面でバウンドすると、多くの場合は、回転するボールと接触面の[[摩擦]]によって、逸れた方向へ飛び出すようにボールが跳ねる。
一例をあげると、あるプレーヤーが上回転をかける打球をすると、このボールは下方向に向かって徐々に放物線軌道よりもずれていく。このボールが相手コート上でバウンドすると、ボールは前進方向へ加速を受けて跳ねる<ref name=":5" />。このボールを相手が正面から静止したラケットで打球しようとすると、ボールはラバーの表面で上方向へ跳ね上がるように反射する<ref group="注釈">これは「''上回転をかけたドライブ打法によるボールは、伸びるように飛んだ後に弧線を描いて沈み込み、台上で加速するように跳ねる。これをリターンしようとするとラケットで跳ね返ったボールは上方向に逸れる''」という実践上の打球の挙動と一致する。</ref>。
打法によって生み出されるスピンは以上のような効果を有しており、リターンを試みる際はこれらの点に注意する必要がある<ref group="注釈">注意点として、どのようなスピンがかかっていても、それを上回るほどの球速がある場合は、かならずしも上記のようにはならない。たとえば、わずかに上回転がかかったボールであっても、非常に大きな前進速度を有する場合に台上でバウンドする際においては、後退する方向への加速を受ける。</ref>。以下の表に、ボールの回転とその揚力による軌道・反射の変化についてまとめた(表中の「方向」は、A・デュレ(パリ=サクレー大学)とR・セイデル([[アディダス]])による検討<ref name=":5" />等における座標系に準じており、いずれも打法の打球者からみた方向を示している<ref group="注釈">ここでは、まっすぐ正面への右利きのフォアハンド打法を、相手が正面からリターンすることを仮定している。また、左回転・右回転は、どちらが「順」でどちらが「逆」を指すか、打法等によってもケースバイケースであり得る。技法の解説を読み解くに際しては、実際の回転方向(スピンの角速度の方向)がどちらであるか注意を払う必要がある。</ref>)。
{| class="wikitable"
|+
!球質
![[角速度]]の方向
!飛跡の加速方向
!台上バウンド時の加速方向
!相手が受ける球の加速方向
|-
|'''上'''回転(ドライブ、トップスピン)
|左
|下
|前
|'''上'''
|-
|'''下'''回転(カット、バックスピン)
|右
|上
|後
|'''下'''
|-
|'''左'''回転(カーブ、逆横回転サービス)
|上
|'''左'''
|(無)
|右
|-
|'''右'''回転(シュート、順横回転サービス)
|下
|'''右'''
|(無)
|左
|-
|ヘッドコークスピン('''右'''ずれバウンド)
|前
|(無)
|'''右'''
|(無)
|-
|フットコークスピン('''左'''ずれバウンド)
|後
|(無)
|'''左'''
|(無)
|-
|無回転(ナックル)
|(無)
|(無)
|(無)
|(無)
|-
|'''任意のスピン'''<math>\vec{\omega}</math>'''についての一般則<ref name=":5" />'''
|<math>\vec{\omega}</math>
|<math>\vec{\omega}\times\vec{v}</math> <ref group="注釈">ここでは、ベクトル<math>\vec{v}</math>はボールの飛行速度を、演算子<math>\times</math>は[[クロス積|外積]]をそれぞれ表す。</ref>
|<math>\vec{\omega}\times\vec{n}_{table}</math><ref group="注釈"><math>\vec{n}_{table}</math>は卓球台の面(プレーイングサーフェス)の[[法線ベクトル]]である。すなわち、この法線ベクトルは垂直に上を向いている。</ref>
|<math>\vec{\omega}\times\vec{n}_{racket}</math><ref group="注釈"><math>\vec{n}_{racket}</math>はラケット(ラバー面)の法線ベクトルである。打球に対して、相手がラケットをまっすぐ正面に向けているならば、この法線ベクトルは打球方向<math>\vec{v}</math>とちょうど反対を向いている。</ref>
|}
==== スピンパラメーター ====
{| class="wikitable floatright"
|+
!打法
!スピンパラメーター
|-
|[[卓球#ドライブ打法|ドライブ打法]]
|1.0 ~ 1.9
|-
|[[卓球#ブロック|ブロック]]
|0.1 ~ 0.4
|-
|[[卓球#スマッシュ打法|スマッシュ打法]]
|0.0 ~ 0.2
|-
|[[卓球#ツッツキ打法|ツッツキ打法]]
| -0.6 ~ -0.4
|-
|[[卓球#カット打法|カット打法]]
| -2.6 ~ -0.4
|}
'''スピンパラメーター''' ''SP''は、上術のボールの回転がバウンド時等に与える影響を定量化する為の、スピンの強さの指標である。バウンドの検討対象とする平面(プレーイングサーフェスやラケット面)に平行な速度やスピンの成分について、打球の速さを<math>v</math> [[メートル毎秒|m/s]]、スピンの回転数を<math>\nu</math> [[ヘルツ|Hz]]としたとき、以下の式で定義される(式中の<math>\pi</math>は[[円周率]]であり、<math>r</math>はボールの半径0.020 [[メートル|m]]である)<ref group="注釈">スピンパラメーターは[[無次元量]]であり、単位はない。</ref>。
<math>SP=2\pi r\frac{\nu}{v}</math>
スピンパラメーターの値は正と負の両方を取り得るが、対象とするバウンド面上でボールが加速を受ける回転方向のものを正として、デュレとセイデルの検討<ref name=":5" />では[[卓球#打法|打法]]ごとについて表に示した値が報告されている。一般に、ボールの回転数が大きいほど、また、ボールの速度が遅いほど、スピンパラメーター<ref group="注釈">より正確には、「スピンパラメーター」ではなく「スピンパラメーターの[[絶対値]]」である。</ref>は大きくなる。スピンパラメーターが1を超えると、スピンの効果が打球速度のそれを上回り、ボールは対象面上において前進方向へ加速を受けることができる(例: ドライブ打法による前進するバウンド)。反対に、スピンパラメーターが-1より下回っていると、対象面との接点の反対側において、ボールは進行方向と逆向きに局所運動している(例: カット打法によるボール)。また、ボールが飛行中に受ける[[揚力]]([[マグヌス効果|マグヌス力]])ひいては軌道の変化の度合いも、スピンパラメーターの値に依存する。
==== スピンに応じた打法 ====
;無回転(ナックル)のボールのケース
サービスにおける打球などを含めて、無回転のボールを打球すると、スイングの方向に応じたスピンがかかる<ref name=":5" />。スイングでボールに与えるエネルギーの相当量がスピンの発生に用いられるため、無回転のボールに回転をかけて狙いの方向へ飛ばす為には、ラケットのスイングや打球面の角度の調整に注意を払う必要がある<ref name=":11" />。
;スピンがかかったボールのケース
次に、強いスピンがかかったボールに応じる例として、プレーイングサーフェスに対して大きな正のスピンパラメーターをもつ打球([[卓球#ドライブ打法|ドライブ打法]]等の上回転の打球)をリターンしなくてはならない局面での、打法の原則を示す<ref group="注釈">ここで例にあげる各打法の詳細については、後続の節をそれぞれ参照のこと。</ref>。
:;相手のスピンを利用するリターン
:正のスピンパラメーターの打球に対しては、ラケット面をやや下に向けてボールを受けることで、弱くスイングする比較的容易な打法([[卓球#ブロック|ブロック]]等)であっても、相手の球威(速度・スピン)を利用して速いスピードのリターンボールとできる(この際のリターンボールは、ほぼ無回転<ref group="注釈">スピンのかかっているボールを打球する際に、ボールの飛行方向に垂直に擦るスイングがなければ、打球はほぼ無回転となる。たとえば、ボールに対してラケット面をほぼフラットにして振るスマッシュ打法による打球は、スピンパラメーターはほぼゼロ(無回転)である。</ref>となるか、ラケットスイングに由来する回転がわずかにかかる)<ref group="注釈">同じく、スマッシュ打法やカウンタードライブ打法といった強くスイングする打法でも、難度は高くなるが同様にしてリターンが可能である。また、カウンタードライブ打法の場合は、ラケットスイングによってスピンをかけ返せるため、無回転でなく正のスピンパラメーターの球質でのリターンとなる。</ref>。ラケット面が十分に下を向いていないと、スピンによってボールは上に跳ねるように加速を受けて浮き上がり、相手のコートをオーバーしてしまうか、(リターンできたとしても)相手にとっての[[チャンスボール]]となってしまう。
:;相手のスピンに逆らうリターン
:同様の正のスピンパラメーターの打球に対して、ラケット面を上に向けてリターンする場合について述べる([[卓球#カット打法|カット打法]]等の下回転でのリターン)。リターンする側には、スピンに由来するボールの局所運動よりも速いラケットスイングが要求される。もし、スイング速度が十分でなければ、そのラケットで受けたボールは、相手のかけたスピンが打球後にやや減衰するのみで、ほとんど前に飛ばないか後方へ向かう(すなわちリターンの失敗となる)。ただし、ラケット面を適切に調整したうえで十分にスイングできれば、ボールを前方へ打ち返すことができ、さらに、相手のかけた回転に自身のスイングによるスピンを「上乗せ」したリターンボールとすることが可能である(たとえば、カット打法でのリターンの場合、特に低い負のスピンパラメーターでのリターンとなる)。<ref group="注釈">ここでは慣例的に「相手のスピンに逆らう」と題しているが、本例をより正確に述べるなら、相手のドライブ打法(正のスピンパラメーター)と自身のカット打法(負のスピンパラメーター)によるそれぞれのボールは、いずれも同じ方向のスピン角運動ベクトルを有している(固定された空間座標からみたボールの回転方向は同じである)。ここでの「相手のスピンに逆らう」とは、それぞれの打球者からみたスピンパラメーターが反対の符号になっていることを指す。</ref>
以上では縦方向の回転(上回転/下回転)を例として取り上げたが、他の回転方向のスピンについても、これらの原則は同様である。<ref group="注釈">以上のこれらのリターン法の打法について、ここでは標準的な裏ソフトラバーを用いたラケットでのリターンを想定している。</ref><ref name=":11" /><ref name=":26">{{Cite book|和書 |title=卓球 基本と練習メニュー |date=2009-01-22 |year=2009 |publisher=[[池田書店]] |author=[[大江正人]]}}</ref>
=== サービス ===
卓球では必ず'''サービス'''(いわゆる'''サーブ''')から一連のラリーが始まる<ref group="注釈">上に述べた通り、卓球のラリーにおいてサービスは「1球目」の打球と数えられている。</ref>。サービスは、これを戦略の起点としてゲームを組み立てる、最重要技術のひとつである。サービスは、'''フォアサービス'''と'''バックサービス'''に大きく分類され、さらに、それぞれに'''ショートサービス'''と'''ロングサービス'''がある<ref group="注釈">狭義のショートサービスは、相手コート上で2バウンド以上する軌道となるサービスのことを指す。これに対して、ロングサービスは、相手コート上で1バウンドだけして卓球台の外へ出る軌道のサービスのことを指す。</ref>。特にサービスにおいては、ボールの回転は重要な要素である。縦回転・横回転・コークスクリュー回転や、これらの複合回転あるいは無回転(ナックル)のサービスといった、多くのバリエーションの球質を出すためのサービスが存在する。一見同じモーションのサービスであっても、微妙なラケットの角度や向き・速度等の変化の技巧で、回転の質・量やスピードの異なる球種を出すことができる。
時代ごとのルール改正<ref group="注釈">2002年のルール改正に際しての、ハンドハイドサービスおよびボディーハイドサービスが完全に禁止などが特に該当する。</ref>により、レシーバーは相手のサービスの性質(回転や速さ、コース等)を見抜きやすくなる傾向にはある。しかし逆にこのことで、さらに高度なサービス技術が発達してきたという側面もある。代表的なものとしては、フェイクモーションやラケットの視覚的秘匿<ref group="注釈">サービスの打球の瞬間は、ラケットとボールを含むインパクトの様子をレシーバーに対して隠してはならない。一方で、その打球の前後において、ラケットを隠すことは違反ではない。</ref>、フォロースルー、バーティカルサービス等がある。また、トッププレーヤーになると、レットによるサービスのやり直しを利用する者もいる<!-- 打球し損じたサービスを、ネットにかけてレットで逃げることで無駄な失点を防ぐこともあるとされる。 -->ほか、巧みなサービスの一連の動作で、相手のレシーブのタイミングを外したり、相手のペースを乱したり、高度なサービス戦術を採るプレーヤーが多い。
==== フォアサービス ====
[[ファイル:Wang Hao OQ 2012.jpg|サムネイル|[[王皓]]によるフォアハンドサービス(ボールを投げ上げた直後の様子)]]フォアサービスは、自分の体に対して利き腕側(右利きであれば、身体の右側)からのラケットのスイングで、ボールを打ち出すサービスである。サービスに適したスイングを行いやすいよう、サービス時のみラケットのグリップ法を変えることもある<ref group="注釈">強い回転をかけられるよう手首の可動範囲をひろげたり、打球を制御しやすくしたりする為、サービスに特化した様々なグリップに変えて打つプレーヤーが多い。</ref>。シングルスの試合では、自陣のバック側の位置からサービスを出すことが多い<ref group="注釈">試合展開や戦術によっては、中央付近等の他の位置からサービスを行う場合もある。</ref>。以下に、フォアサービスの応用技術例を示す。
; アップダウンサービス
: アップダウンサービスは、フォアサービスの一種である。同じスイング軌道からラケットを上または下に振って、上回転と下回転を使い分けるサービスである。技術が上がれば横回転系を混ぜることも、後述のバーティカルサービスにすることも、フェイクモーションを加えることも可能である。
; YGサービス (ヤングジェネレーションサービス)
: YGサービスは、フォアサービスの一種であり、体の内側から外側にスイングして回転をかけるサービスである。逆横回転系のボールを出すサービスとして主に使われている<ref name=":26" />。1990年代にヨーロッパで[[ヴェルナー・シュラガー]]らの若手選手が編み出し、普及したとされる<ref name=":27" />。上述のルール改正以前は、打球のインパクトの様子を隠すことが認められていたため、順横回転系のフォアサービスと併せてよく用いられた。ルール改正後もYGサービスは、回転のバリエーションを増やす目的や、サービス戦術やラリー展開を変える目的等で用いられている。'''YG'''、'''ヤンジェネ'''などと略称もされる。
; 巻き込みサービス
: 巻き込みサービスは、フォアサービスの一種であり、ラケットのヘッドをやや上向きに立てて、逆横回転系のボールを出すサービスである。YGサービスより回転量は劣ることがある。一方で、特にシェークハンドにおいて、ラケットのグリップをサービスの為に変える必要がないというメリットがあるため、3球目のリターンに向けた速い戻りを必要とする女子プレーヤーを中心に使用者が多い。
; バーティカルサービス
: バーティカルサービスは、横回転サービスの一種であり、インパクト時にラケットを立ててラケットの面を相手に見せ、どの方向に回転を掛けたのか相手にわかりづらくしたサービスである。上述のルール改正に伴って、フォアハンドサービスを発展させたものであり、順横回転系・逆横回転系の双方のボールを出すことが可能なサービスである。特性上、必ず横回転が掛かるため、純粋な下回転サービスと上回転サービスが出来ないという短所もある。バックサービスとして用いることも技術的に可能である。
==== バックサービス ====
[[ファイル:Mondial Ping - Men's Singles - Round 4 - Kenta Matsudaira-Vladimir Samsonov - 29.jpg|サムネイル|バックハンドサービスを行う[[ブラディミル・サムソノフ]](奥の緑の服装の選手)]]バックサービスは、主に利き腕の反対側(右利きの場合、身体の左側)からラケットをスイングして・打球されるサービスである。身体に対して、どの位置でボールをインパクトするかはプレーヤーによって異なる(フォア側まで振り抜いて打つプレーヤーもいる)。両足のスタンスをラリー時と同じに保ってサービスを出せるため、サービス後に早くラリー時の体勢へ戻すことが出来るという利点がある。
==== その他のサービス技術 ====
以下では、フォアサービス・バックサービスを問わず、その他のサービスやその付随技術を解説する。
; しゃがみ込みサービス
: しゃがみ込みサービスは、サービスを出す際に膝を曲げてしゃがみ込みながら出すサービスである<ref name=":26" />。強い回転をかけることが可能だが、元の体勢に戻るのが遅くなると、相手のレシーブに対して反応が遅くなるという欠点もある。
:; 王子サーブ
:: {{Seealso|王子サーブ}}
:: 王子サーブはしゃがみ込みサービスの一種であり、下へ屈伸しながらラケットを縦に振り下ろして、ラケットの裏面で球を切り回転をかけるサービスである。
; スピードロングサービス
: スピードロングサービスは、ロングサービスの一種であり、速いスピードをつけることを目的としたロングサービスである。2バウンド目を相手コートのエンドライン付近にバウンドさせるように狙う。相手の不意を突ければ、サービスエースを狙うことができ、レシーバーに充分な体勢で打球させない目的でも使用される。一方で、相手にカウンターを狙われると、サーバーが早く体勢を戻せず、失点につながるという短所もある。
; 投げ上げサービス(ハイトスサービス)
: 投げ上げサービスは、はじめのトスをする際に、ボールを高く投げ上げて出すサービスである<ref group="注釈">世界には、投げ上げサービスで7 - 8メートルもの高いトスを上げる選手もいる。</ref>。落ちてくる球の軌道が打球ポイントからずれてミスも出やすいが、落球の勢いを利用でき、回転やスピードを増すことができる。競技場によっては、照明の光が投げ上げた先で重なるので、サービスを行う前に、プレー環境を確認する必要がある。
;フェイクモーション・フォロースルー
:フェイクモーションやフォロースルーはともに、サービスでの打球前、打球後において、相手を幻惑させる目的で実施される、サービスに付随する技術の一種である。
:通常のサービスのスイングのみでは、レシーバーにサービスの回転パターンが見抜かれやすいため、高い競技レベルになると、サービス時にフェイクのスイング(ボールを打球しないスイング)を入れる'''フェイクモーション'''が用いられる。また、サービスを打った直後の'''フォロースルー'''では、ボールへの干渉とは無関係に肘を上げたり、ラケットのスイング軌道とは異なる動きを入れたり、肘を上げてラケットの向きを変えたり、ラケットを隠したり、といった各種のモーションを加えることで、相手を惑わすことができる。トッププレーヤーを中心に使用者が多い。
=== フォアハンドとバックハンド ===
本節以降では、レシーブを含めたラリーにおける打法技術について、それぞれ概説する。ラリーにおいても、打法は'''フォアハンド打法'''と'''バックハンド打法'''に大別される。フォアハンド・バックハンドともに、'''前陣'''(台上や台に近い位置)・'''中陣'''(台から少し離れた位置)・'''後陣'''(台から離れた位置)の位置取りや相手の打球の質によって、各打法の詳細は異なる。なお、フォアとバックの中間的な位置は'''ミドル'''と呼ばれる<ref group="注釈">人体の構造上、威力のあるリターンが難しく、フォアとバックのどちらの打法で打つべきか迷うこともあり、ミドルは一般に多くのプレーヤーの弱点である。</ref>。[[ファイル:Xu Xin ATTC2017 88.jpeg|サムネイル|フォアハンド打法を行う[[許昕]](奥の左利きの選手)]]フォアハンド打法は、身体の利き腕側の飛球に対して、ラケットを外側(右利きの場合、右側)から身体の中心に向けて弧を描くように振り、このスイング動作でボールを捉えて打球する技術である。利き腕を動かせる空間的あるいは身体的な自由度が高く、スイングを大きくできるので、威力のある打球が可能である<ref name=":7" />。[[ファイル:Chen Meng ATTC2017 9.jpeg|サムネイル|バックハンド打法を行う[[陳夢]]]]
バックハンド打法は、身体の利き腕とは逆側の飛球(右利きの場合は左側の飛球)を打つ打法である<ref group="注釈">フォアハンド打法とは対照的に、バックハンド打法でラケットを振り抜く方向は、ペンホルダーとシェークハンドのラケットの違いや打法によって異なり、多様である。</ref>。利き腕が[[胴体|体幹]]等と交差するため、フォアハンドと比べてスイングは小さくなる。打球の威力は出しにくいが、身体の前で素早く打球できるといった特徴がある。相手の打球をリターンして再度相手へ返すまでの時間を短縮しやすいため、速いラリー展開に持ち込む場合に有効である。
フォアハンド打法主体の時代には、利き手側の逆足(右利きの場合は左脚)をやや前に出すスタンスが基本であった。近年、フォアハンドとバックハンドによる両ハンド打法が求められるにつれ<ref group="注釈">常に利き手の逆足を前に出して打つ打法について、現代では以下のようなデメリットが指摘されている。たとえば、シェークハンドラケットにおいては、フォアハンドで強打できるゾーンは広いものの、打球位置が後退してしまう。また、バックハンド打法を強く振りにくく、フォアハンド・バックハンドの切り返しも難しい。クロスやストレートといったコースの打ち分けも難しい。</ref>、両足をほぼ平行にしたスタンスから、フォアハンドとバックハンドの両打法を行うスタンスが標準的となっている<ref group="注釈">このスタンスの場合、大きく右方向(フォア側のストレートやバック側のクロス)へ打球する際は、その都度、従来型のように利き腕の逆足を前に出す。逆に、左方向(バック側のストレートやフォア側のクロス)へのリターンでは、都度、利き腕側の足を前に出す。</ref><ref>{{Cite book|和書 |title=卓球練習メニュー200 打ち方と戦術の基本 |date=2013-02-20 |year=2013 |publisher=池田書店 |isbn=978-4262163796}}</ref>。
==== ロング打法 ====
ロング打法は、卓球台からそう離れていない位置(前陣・中陣)への飛球に対して、特に意識した強い回転をかけようとせずに、身体の外側から中心に向けてラケットを斜め上に振り抜き、ボールをやや摺り上げるようにして前方の相手コートへとリターンする打法である<ref group="注釈">フォアハンドのロング打法では、右足から左足へと体重移動して(右利きの場合)、スイングと身体の動きを合わせ、打球を安定させる。</ref>。フォアハンドロング打法とバックハンドロング打法とがあり、それぞれ、後述の様々な打法の基礎となる標準的なスイングである。強振しないロング打法(特にフォアハンドロング)は、専ら練習においてラリーを長く続ける目的で行われることがあり、卓球入門者の基礎固めや中・上級者のウォーミングアップとして、利用される打法である<ref name=":26" />。フォアハンドのロング打法は、単に'''フォア打ち'''とも呼ぶ<ref name=":26" />。なお、この打法では、回転は特に強くかけないが、摺り上げるようにスイングして打つ為にゆるやかな上回転がかかっており、利き腕に由来する若干の横回転がかかることがある<ref name=":11">{{Cite book|和書 |title=ベクトルで考える卓球戦術 |date=2022-12-19 |year=2022 |publisher=自費出版 |author=小松秀二(公認卓球指導員) |edition=Ver. 2.0.0 |isbn=979-8786151924}}</ref><ref name=":7" />。
;バックハンドのロング打法
:バックハンドにおけるもっとも基礎的な打法は[[卓球#ショート打法|ショート打法]]であり、バックハンドのロング打法は比較的難度が高い。また、シェークハンドとペンホルダーのラケットの握り方等で打球法も大きく異なる<ref group="注釈">バックハンドのロング打法では、左足から右足へと体重移動して(右利きの場合)、フォアハンドの場合と同様に、スイングと身体の動きを合わせる。</ref>。
:シェークハンドの場合は、グリップと腕・手首の関節の構造上、バックハンドのロング打法は比較的行いやすい。バックのショート打法が身体のほぼ正面でボールを捉えるのに対して、ロング打法では体の左側から中心に向けてスイングする。ちょうどフォアのロング打法と対称的なラケットスイングとなる。
:ペンホルダーのバックハンドのロング打法場合は、ラケットアームの脇を閉めて[[肘]]を体側で固定するようにして、肘を支点に前腕を身体の左側から中心に向けて上方向に旋回させるようにスイングする。シェークハンドの同打法が腕全体でスイングできるのに対して、ペンホルダーのスイングは前腕のみのものとなる<ref group="注釈">[[田崎俊雄]]のように、肘を固定せずに腕全体を使って、ペンホルダーのバックハンド打法で強く振り抜くことのできる選手もいる。</ref>。このため、体勢が安定するというメリットがあるものの、相対的に打球の威力は低い。ただし、ペンホルダーの場合は、[[裏面打法]]によるバックハンドロング打法も可能である<ref name=":26" />。シェークハンドの場合と同様に、腕全体を使った関節の動きが可能であり、体の左側から中心に向けて振るスイングとできる。
==== ドライブ打法 ====
[[ファイル:Zhang Jike 01.JPG|サムネイル|フォアハンドドライブ打法を行う[[張継科]]。ボールを捉え、ラケットを下にテイクバックして、打球姿勢に入っている。]]ドライブ打法は、ロング打法から派生した、ボールに強い前進回転(トップスピン)を与える打法である<ref group="注釈">[[ヨーロッパ]]ではドライブのことを「'''topspin'''」と呼んでいる。</ref>。基本のロング打法をある程度身に付けてから習得する技術である<ref name=":26" />。ドライブ打法でリターンするにあたっては、<!-- 打球時にボールをラバーに食い込ませて擦る技術が重要である。具体的には、 -->ボールのやや上側を擦るように打ち、かつ、より上に振り上げるようなスイングで打ち抜いて、強い前進回転をかける打球を行う。
以下に示した様々なドライブ打法(スピードやスピンの制御の仕方等)が確立されている。弱点とされたミドルへの打球に対するリターンにおいても、'''肩甲骨打法'''<ref name=":6">{{Cite book|和書 |title=続 卓球戦術ノート |date=2012-07-27 |year=2012 |publisher=[[卓球王国]] |author=[[高島規郎]]}}</ref>等のそれを克服する打法がトッププレーヤーを中心にして普及している。また、ラケット等の用具の発展や練習環境の変化に伴い、従来はパワーに難のあった女子プレーヤーにおいても、一通りの代表的なドライブ打法を習得するプレーヤーが増加し、多くの[[卓球#戦型|戦型]]のプレーヤーに幅広く用いられるようになった。
ドライブ打法によるボールは、放物線運動から下方向に沈み込むように加速を受ける(いわゆる「弧線の弾道」を描く)ため、強振しても、相手コートに安定して入りやすい。このように、回転量の少ないスマッシュより比較的安定性が高いほか、打法の多様さから、ドライブ打法を中心とした戦術は現在広く用いられている。
; スピードドライブ
: スピードドライブは、台の水平面に近い打球位置から低い軌道でのリターンを狙う、スピード重視のドライブ打法である。スピード重視ではあるが、上回転がかかっており、上述の通り弾道が弧線を描いて沈むため、リターンの安定性を確保することが可能である。ラバーの性能の向上により、スピードドライブ打法は比較的コントロールしやすくなってきており、ボールを早い打球点で捉えやすく、リターンされても連打しやすいことから、上回転系の球種への強打において使用することが多い。一方で、下回転系の球種に対してはスピードドライブを打ちにくく、しっかり回転を掛ける技量を要する。<!-- 打球音について、スマッシュは打球音が大きく鳴るのに対して、スピードドライブはスマッシュと比べて打球音が小さい。 -->
:; パワードライブ
:: パワードライブは、上記のスピードドライブの球速をより増やして、さらに、強いスピンを掛けて威力を高めたドライブ打法である。1970年代頃のヨーロッパ諸国の選手の間で考案された技術とされるが、40 mmボール時代(2000年代以降)となっても「主戦武器」として、より重要視されるようになった技術である。通常のスピードドライブがリターンの安定性を求めるものであるのに対して、パワードライブは決定打として用いられる<ref name=":6" />。スマッシュ並みのスピードに加えて、強烈な回転をかける必要があるため、習得するには相応の練習量、筋力を必要とする。
; ループドライブ
: ループドライブは、回転量を重視した、山なりに近い軌道のドライブ打法である<ref name=":26" />。回転の影響が通常のドライブより顕在化するため、ドライブ打法特有のバウンド後の伸びる軌道について、特に沈み込むように感じるとされる。スピードドライブに比べて、下回転系のボールに対して使用しやすい。弾道の安定性が高いため、上回転系のボールを強打することにも使用できる。一方で、ループドライブの軌道は高く、着地位置によっては遅い打球となるため、反撃を受けることもある<ref group="注釈">また、ラケットの振り抜き方が弱いと、対下回転系のレシーブでもミスをしやすく、打球のスピードも遅くなりやすい。そのため、弧線を描いたスピードのあるループドライブを打つには、相応の練習を必要とする。</ref>。<!-- ループドライブの発展技術として、相手側のネット近くに山なりの弧を描いた弾道でバウンドさせた後に、低い弾道となって相手コート上でさらにバウンドする(相手の台上で二度バウンドして反撃を防ぐ)ような打法が試合で使われるようになった。これには、強い回転をかけ、スピードを殺して、かつ、ネット近くに落とす高度なコントロールが求められる。 -->
; カーブドライブ
: カーブドライブは、上記のドライブ打法の回転に加えて、左回転(右利きのプレーヤーのフォアハンドドライブの場合)を打球に与えるドライブ打法である<ref group="注釈">競技者の利き腕の左右や、固有のドライブ打法のスイングの癖によって、通常の打法の時点でカーブのような一定の横回転がかかる場合もある。</ref><ref name=":26" />。このとき打球者からみて、カーブドライブの飛球は左側へ曲がる<ref name=":4" />。他の球技の変化球と同様に、(上回転と合成された結果の)回転軸の向きや、回転量、打球のスピードによって、多彩な球質の打球となる。たとえば、上記のカーブドライブ例では、相手コート上でのバウンド時にボールは前方への加速を受ける。さらに、リターンする為に相手がこのボールにラケットで触れると、(カーブドライブの打球者からみて)ボールは右上方向への加速を受ける。プレーヤーごとの固有のフォームや打球コースによって通常のドライブの打球が自然とカーブドライブあるいはシュートドライブ(下記)となることがある<ref name=":7" />が、上級者は意識的にカーブドライブとシュートドライブの左右の回転を使い分けることができる。
; シュートドライブ
: シュートドライブは、カーブドライブとは逆に、右回転(右利きのプレーヤーのフォアハンドドライブの場合)を打球に与えるドライブ打法である<ref name=":26" />。このとき打球者からみて、シュートドライブの飛球は右側へ曲がる<ref name=":4" />。同じくこの例では、相手コート上でバウンドする際にボールは前方への加速を受け、リターンする為に相手がこのボールにラケットで触れると、(シュートドライブの打球者からみて)ボールは左上方向への加速を受ける。
==== スマッシュ打法 ====
スマッシュは、ロング打法のスイングを基本にして、ボールを正面から弾くように、ラケットのフラット面で叩き付けるように強振する打法である<ref name=":26" />。決定打として打つプレーヤーが多い。ドライブより小さなスイングでより速いボールを打つことができる。世界のトッププレーヤーの中には、初速が時速280km以上のスマッシュを打つ者もいる。球離れの早い[[卓球#表ソフトラバー|表ソフトラバー]]を使用するプレーヤーが多用するほか、高く浮いた飛球への強打や[[卓球#ロビング|ロビング]](後述)への対応で使用することが多い。一方で、ドライブのように相手コート内で沈むような打球にはならず、直線的な弾道となため、相手コートに正確にリターンすることは一般に難しい。
相手にスマッシュを打たれてしまった場合は、打球にスピードがあるため、ラケットに当てることさえ難しい。しかしながら、[[卓球#応用技術|応用技術]]にて示す打法等によって、リターンすることは不可能ではない。
; バックハンドスマッシュ(ペンホルダー)
: 威力を重視するスマッシュは、大きくスイングできるフォアハンドで専ら用いられる打法である。一方で、シェークハンドでもペンホルダーでも、バックハンドによるスマッシュ打法で打つこと自体は可能である。特に、ペンホルダーラケットを使用してのバックハンドのスマッシュ打法は独特であり、たとえば、右足を前にしてフリーハンドを引き(右利きの場合)、肩を支点に腕を動かしながら体重を乗せ、相手コート向けて強打する打法がある。これは、少ない予備動作でコンパクトに振り抜く打法であるため、コースを読まれにくいメリットがある。
==== カット打法 ====
[[ファイル:ITTF World Tour 2017 German Open Filus Ruwen 04.jpg|サムネイル|バックハンドのカット打法を行う[[ルーウェン・フィルス]]。台から距離をとり、相手からの球を低くまで引き付けて打球した直後]]カット打法は、[[カット主戦型]]のプレーヤーが特に使用する、大きい旋回半径で斬り下げるようなスイングが特徴的な打法である。上で述べた、主に前方上方向にスイングする様々な打法とは大きく異なり、下向きに切るスイングでボールに強い後退回転(下回転、バックスピン)を与える<ref name=":26" />。ドライブ打法類の上回転のボールが下方向に沈み込むように加速を受けるのに対して、下回転での速い速度のボールは、一般にリターンが安定しない<ref group="注釈">カット打法の下回転のボールは、浮き上がるような力を受ける。このため、カット打法で速い速度のボールを打っても、カットの飛球は相手コート内で沈みにくい。その結果として、強打によるカットボールのリターンは安定しない。</ref>。一方で、強い下回転のかかったボールを攻撃的打法で強く打ち返すことは、触球時に意図せず落球させてしまうなど、難度が高い。こういった理由から、カット打法は、下回転をかけることを主目的に、ドライブ打法類と比べて緩やかな速度のボールを打つことに特化し、カバーできる空間的範囲の広さを恃んで、中陣・後陣に下がって相手の強打をリターンする守備的な戦術に用いられる。
カット打法は、後方でボールを身体の比較的近くまで引き付けて、フォアハンドでもバックハンドでも、ボールを拾うように、相手の球威も利用しつつ、切り下げて相手コートへと返る打球を行う。相手の球質によって、カット打法のスイングは細かに変える必要があり、小さな回転のボールに適した'''I字型スイング'''や、強い上回転のかかったボールに適した'''L字型スイング'''など臨機応変な対応が求められる<ref group="注釈">ここでいう「I字型」と「L字型」はそれぞれの[[筆記体#筆記法|筆記体]]の書き方を指している(Iは大文字であるが、Lは小文字(ℓ)であることに注意)</ref><ref name=":6" />。カット打法の上級者となると、下回転(バックスピン)のほかに、斜め下回転、横回転、コークスクリュー回転をカットボールに織り交ぜたり、巧妙に無回転のナックルボールを繰り出したりするプレーヤーもいる<ref name=":6" />。
一般に[[卓球#用具|用具]]には速い球速が追及される傾向がある一方、カット主戦型向けのラケットはコントロール性能などの安定性を重視して設計されている<ref name=":26" />。また、カット打法で使用するラバーは裏ソフトラバーのみでなく、[[卓球#粒高ラバー|粒高ラバー]]ないし[[卓球#表ソフトラバー|表ソフトラバー]]を組み合わせて貼って、速度・スピン・コースに大きな変化を付けるような用い方も少なくない<ref group="注釈">一般的には、守備頻度が高いバックでのカットを行う面に、粒高ラバーや表ソフトラバーが使用されることが多い。</ref>。
=== 台上技術 ===
[[ファイル:Mondial Ping - Men's Doubles - Semifinals - 33.jpg|サムネイル|[[馬琳]]による台上技術]]
台上技術は、競技の場の構造に「台」が存在する卓球に特有の技術である。基本的には、飛距離の短い打球<ref group="注釈">たとえば、相手側のコート内でそのままでは2度バウンドするような打球(ショートサービス等)が該当する。これは「台上に収まる打球」とも表現される。</ref>をプレーイングサーフェス上で打ち返してリターンする打法である。台が構造上の障害となってラケットを強く振り抜けないため、台上技術による打球は球威が比較的弱く、これを決定打とすることは難しい<ref group="注釈">台上技術においては、台上の打球位置に対して足を台の下まで踏み込んで移動し、そのうえで打球する。脚を動かしての身体の移動と打球を同時に行なってしまうと、体重移動と打球が同時となり、余計な力が加わってミスの原因となりやすい。このことから、ラリーで咄嗟に打球する場合を除いて、移動と同時の打球は基本的に推奨されていない。</ref>。そのため、以下に示す打法を戦術的に利用して、決定打を打てる機会をつくることが重要となる<ref group="注釈">たとえば、ツッツキ打法で相手選手のループドライブ等緩手を誘発する、チキータ打法で中陣~後陣のラリーに持ち込む、といった戦術的な駆け引きが展開される。</ref>。特に、[[馬琳]](中国)の台上技術は、戦略的に練られた回転・コースと激しい球質の変化に優れており、これにより相手のリターンの手段を限定・強制させ、試合を優位に運んだとされる<ref name=":7" />。
==== ショート打法 ====
ショート打法とは、台上(あるいは台上の近くを含む前陣)において、相手の打球のバウンド直後を身体の中心あたりで捉えて、ボールを押し返すように、ラケットを前に押し出して打球する技術である<ref group="注釈">ショート打法でも、ロング打法の場合と同様に、体重移動を行ってスイングと身体の動きをそろえて、打球を安定させる。だたし、ここでの体重移動の適正な方向は、ラケット等によって異なる。右利きの場合、シェークハンドやペンホルダーの裏面打法の場合は、左足から右足へと体重移動を行う。ペンホルダーの表面でのバックショート打法では、右足から左足に体重移動を行う。</ref>。ショート打法は、ペンホルダー・シェークハンドともに、バックハンドにおいて基本となる技術である<ref group="注釈">ショート打法は、後述の台上技術の基礎となる打法である。[[卓球#フォアハンドとバックハンド|フォアロング打法]]と同様に、強振しないショート打法は、練習における基礎固めやウォーミングアップとして、専らに利用される。</ref><ref name=":26" />。一方で、相手の球質によっては、フォアハンド側であっても、以下の応用技術を中心に、フォアハンドによるショート打法の派生技術が用いられる。
==== ツッツキ打法 ====
ツッツキは台上の短いボールに対して、[[#カット打法|カット]]よりもコンパクトなスイングでボール<ref group="注釈">ツッツキは主に、下回転のかかったボールへ対処する打法である。 </ref>の底部を突くようにして打球する打法である。台上から出ないボール(そのままでは台上で2度バウンドする短い飛球)や長めのボールに対して、ラケット面をやや上に向けて下回転を掛けたリターンとすることが多い<ref name=":26" />。ミスをしにくい打法だが、相手の攻撃を受けるリスクが比較的高い。一方で技術次第では、強烈な下回転や横回転を入れたり、長短の変化をつけたりすることができ、相手のミスを誘うこともできる。また、回転を掛けない無回転のツッツキでリターンすることもできる(ナックル)。
==== ストップ打法 ====
ストップは、主に相手の短い下回転系のボールに対して、バウンド直後の打球を捉えて、相手のコートで2バウンド以上するように短く手前にリターンする打法である。台上の短いサービスに対するレシーブなどで主に使われる。低いストップに対しては、空間的制約からドライブ打法が不可能であるため、防御技術として有効である<ref group="注釈">しかし、ストップした球が意図せず浮いてしまった場合は、相手にとっての[[チャンスボール]]となってしまう。</ref>。上級者のストップ打法によるリターンでは、上回転系のボールを返したり、強烈な下回転を掛けたりすることも可能である。ストップ打法の飛球をストップで応じてリターンすることを「'''ダブルストップ'''」という。また、後ろへ下がった相手からのリターンに対して、ネット際に小さく落とすようなストップ打法を「'''ドロップショット'''」と呼ぶ場合もある。
==== フリック打法 ====
フリックは、相手のショートサービスまたは台上への短い打球に対して、台上で前進回転を与えつつ払うようにリターンする打法である<ref name=":26" />。フリック打法に際しては、フリックした球を相手にカウンター強打されないように、テイクバックのない非常にコンパクトなスイングで素早く打球がなされる。技術が向上すれば、台上での強打ともいえるほどのスピードのある打球を打つことも可能で、レシーブから直接得点を狙うこともできる。
==== プッシュ打法 ====
プッシュは、ショート打法において強く押し出すように打つ打法ある。主に、[[ペンホルダー]]のミドルやバックハンド側の攻撃として用いる<ref name=":26" />。[[シェークハンド]]のバックハンドの強振に比べて威力は出しにくい<ref group="注釈">ただし、シェークハンドではミドル(身体の中央付近、フォアとバックの切り替えの起こる位置)への球は強打しにくい。</ref>が、打点が早く、やり方によっては同等以上に打ち合うこともできる。
==== チキータ打法 ====
チキータは[[ピーター・コルベル]](チェコ)が発案した打法であり、横回転をかけるバックハンドの台上ドライブ打法である<ref name=":27" />。チキータバナナ<ref group="注釈">[[バナナ]]の[[商標|ブランド名]]の一つである。</ref>のようなカーブを描くことから、このように呼ばれるようになった。'''チキータ・レシーブ'''とも称する。ペンホルダーの[[裏面打法]]<ref group="注釈">チキータの流行(後記)の前から、[[王皓]]らが台上バックハンドドライブ打法として使用していた。</ref>あるいはシェークハンドでの打法として適している<ref name=":27" />。チキータ打法ではコンパクトなスイングでも強打ができ、フリック打法とともに台上での強打技術として重宝されており、現代卓球の主要なレシーブ技術となっている。なお、チキータのスイングから打球する逆横回転系のチキータは'''逆チキータ'''と呼ばれている。<!-- 打法は様々であるが、加藤美優が多用する逆チキータは「ミユータ」、シモン・ゴジが多用する逆チキータは「ゴジータ」と呼ばれている。 -->
;張継科の台上ドライブ技術
: チキータ自体は1990年代頃から存在する技術であったが、2010年代以降にチキータが卓球の主流技術として世に広まったのは[[張継科]](中国)による影響といわれる<ref name=":27" />。張継科のチキータには非常に強い上回転がかけられており、レシーブやつなぎの技術ではなく、高速で一発で抜き去ることが可能な決定打といえる程の威力があったとされる<ref group="注釈">張継科と何度も対戦した[[水谷隼]](日本)は、張継科のチキータは強力すぎて(一般的な)チキータのレベルではなかったと、自著で述べている。</ref><ref name=":27" />。このことは2010年代当時の卓球界に衝撃を与え、チキータが以後の世界中のプレーヤーに広く普及されるに至った<ref name=":27" />。
=== 応用技術 ===
[[ファイル:Liu Shiwen ATTC2017 78.jpeg|サムネイル|速いラリーに応じる[[劉詩雯]]]]
ここでは主に、上記の打法に対して応じる技を中心に解説する。トッププレーヤーのリターンの間隔(打球から相手の打球までの時間)は最短で0.2[[秒]]ほどと言われ、これは[[人間]]の物体運動に対する全身応答までの最短時間である0.3秒より短い。したがって特に、カウンターのような強打に強打で応じる打法では、必然的にこの時間の不足分(0.1秒)を越える早い応答が必要になる。これに対処する為にトッププレーヤーは、先手先手で相手のリターンを先読みして、打球を「待ち伏せ」することで、この不足分の時間を作り出している。なかでも[[劉詩雯]](中国)は、自身の打球モーションを終えて次の打球の予備動作へ入るタイミングが他のプレーヤーより抜きん出て早く、上記の「待ち伏せ」に特に優れた選手と評されている。<ref name=":7" />
==== ブロック ====
ブロックは、相手のスマッシュやドライブ等の強打に対して、前陣・中陣にかまえて、バウンドの上昇期や頂点で当てるようにリターンする守備的打法である<ref name=":26" />。ブロック打法では、相手の球威を殺す為、回転の影響を特に受ける。そのため、裏ソフトラバーでブロック打法を行う場合は、ラケット角度を的確に調整する必要がある。ブロックは、相手の強打を返すことが目的のため、スイングはあまり大きくとらない。
相手の球の威力を「殺して返す」、「そのまま返す」、「自分の力を上乗せして返す」など、リターンの球質に変化をつける技術もある。技術レベルにもよるが、プレーヤーによっては、相手の強打をブロックして、台上で2バウンドさせるほどまでに威力を殺すことが可能である。横回転をかけた'''サイドスピンブロック'''などで球質を変化させてミスを誘うことができるなど、相手が打ってきた球を悉くブロックして相手のつなぎ球を狙い撃ちするという戦術を取るプレーヤーもいる。粒高ラバー等の使用者では、サイドスピンブロックや'''カットブロック'''(下回転をかけるブロック)等の技術によって、相手の打球の[[卓球#スピンに応じた打法|スピンを利用・反転]]してリターンすることもできる。
==== カウンター ====
[[カウンターアタック|カウンター]]は、相手の強打をさらに強打で撃ち返す技術全般を指す。基本的には、上記のブロック技術において、テイクバックをやや大きく取り、飛球に合わせて振り抜くスイングとすることで威力のあるカウンターとなる<ref name=":26" />。カウンターに際しては、体勢が整わない相手を打ち抜くことや、相手の球威を利用することが目的である。このように、応じ技であるため、定まった打法は特になく、カウンタードライブのような特に攻撃的なカウンターもあれば、カウンターブロックのような守備的な側面をもった打法もある。いずれも、相手の強打を狙い打つ打法であるため、難度は高いが、成功すれば得点力も高い、ハイリスク・ハイリターンな技術である。
; カウンタードライブ
: カウンタードライブは、相手のドライブ打法に対して、打球の反発力や回転量を利用してドライブ打法で打ち返す技術である。スピードのあるドライブをリターンする局面もあるため、練習量に加えて、打球の性質を判別する能力や打球するタイミングの判断力も要求される。上級者のプレーヤーがよく用いる技術である。
; みまパンチ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=CEc8cTYl9Uo |title=【世界卓球スーパープレー】伊藤美誠「みまパンチ」世界卓球2018 |access-date=2023-06-11 |author=[[テレビ東京]]}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=伊藤美誠、女王撃破の“みまパンチ”に海外実況興奮「オオ、これはノーチャンス!」 |url=https://the-ans.jp/news/42583/ |website=THE ANSWER スポーツ文化・育成&総合ニュース・コラム |access-date=2023-06-11 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.youtube.com/watch?v=5a224okj1tw&t=185s |title=Best of Mima Ito! (JPN) |access-date=2023-06-11 |author=[[ワールドテーブルテニス]]}}</ref><!-- はりパンチ -->
: [[伊藤美誠]]<!-- や張本智和 -->の使用しているカウンター技術は<!-- それぞれ -->このように称されている。<!-- 共通しているのは、肩関節内旋2ndポジションのスイングによる打法であることであり、肩関節内旋1stポジションのスイングである一般的なカウンター打法とは全く別の技術とされている。 -->各種の打法の中でも難度の高い部類に入る。一般的なカウンターと比べて、腕の可動域を大きく用いるために威力を出しやすく、<!-- ナックル性の変化も出しやすいため -->重い球質となる。
==== ミート打ち ====
ミート打ちは、主に[[卓球#表ソフトラバー|表ソフトラバー]]のプレーヤーが使う攻撃方法であり、相手の回転がかかったボールに対して、スマッシュのように強くはじいてリターンする打法である。相手の回転に合わせてのラケットの角度の微調整が肝要であることから、ミート打ちの一部を'''角度打ち'''と呼ぶこともある<ref name=":26" />。ラケットをコンパクトに振り切り、ボールを擦らず打球するので、あまり回転がかからず威力自体はそれほど強くないが、早い打点で打つため、相手のリターンへの動作が時間的に間に合わず、ミート打ちを決定打とすることもできる。
==== カット打ち ====
カット打ちは、ツッツキやカットの下回転を利用してリターンする打法である([[卓球#スピンに応じた打法|スピンに応じた打法]])<ref name=":26" />。打つべき相手の打球がツッツキである場合は、ツッツキ打ちとも呼ばれる。相手の下回転を利用する打法のため、打点やタイミングの正確さが要求される。カット打ちによって、強く前進回転を掛けてリターンする方法もある。
カット打ちは、打ち損じた場合に打球スピードが遅くなり、浮いしまった打球を相手に強打されるリスクがある。しかし、[[高島規郎]]によって'''8の字打法'''<ref group="注釈">テイクバック時から打球、フォロースルーまでの、ラケット及びラケットアームの一連の動きが、打球方向の鉛直平面上で「8」の字を描くように動くことから、この名で呼ばれる。</ref>が考案されたことにより、カット打ちの欠点がほぼ解消されている。この打法と類似の技巧として'''楕円打法'''<ref group="注釈">この打法では、テイクバック時から打球、フォロースルーまでの、ラケット及びラケットアームの一連の動きが、打球方向の鉛直平面上で楕円を描くように動くことから、この名で呼ばれる。</ref>があり、カット打法とは反対の、ドライブ打法に対するリターンに応用されている<ref name=":7">{{Cite book|和書 |title=敗者を勝者に変える 卓球戦術ノート |date=2019-04-30 |year=2019 |publisher=[[卓球王国]] |author=[[高島規郎]]}}</ref>。
==== ロビング ====
ロビングは、相手の強打等によるボールを高く打ち上げるように打球して、長い滞空時間でリターンする打法である<ref name=":26" />。相手のミスを誘うものだが、繰り返し相手からスマッシュなどの強打を受けやすい。ロビング打法では打球が高くあがる分、卓球台でのバウンド時に回転の影響を受けやすい。そのため、上下回転やコークスクリュー回転などの強烈な回転([[卓球#ボールの回転|ボールの回転]]を参照)をかけてロビングすることで、相手にとって打ちにくい球としてリターンすることが可能である。
==== フィッシュ ====
フィッシュは、中陣・後陣でにおいて、ロビングよりも低い弾道で相手のボールを返す打法である。フィッシュ打法は、ブロック打法(上記)よりも打球点を遅くして、頂点を過ぎところで打球する打法とされる。相手の攻撃をしのぐ、いわゆるつなぎ球だが、ロビングに比べて相手にリターンされにくくすることもできる。このように、相手の攻撃をフィッシュでしのいで、相手が攻めあぐねたところで、一気に反撃をするといった戦法も用いられる。
== 戦型 ==
{{Seealso|ドライブ主戦型|前陣速攻型|カット主戦型}}多くの場合、ひとりのプレイヤーがすべての[[卓球#打法|打法]]を望む競技レベルまで習得することは難しい。プレーヤーは、自身の適正や好みによって、習熟する技術をある程度選ぶ必要がある。その結果として卓球には、攻守や前陣・中陣・後陣のプレー領域、その他に特化したプレースタイルがあり、'''戦型'''と呼ばれる<ref>{{Cite web|和書|title=「戦型」について知ろう |url=https://www.nittaku.com/enjoy-learning/beginners/playing-style/ |website=Nittaku(ニッタク) 日本卓球 {{!}} 卓球用品の総合メーカーNittaku(ニッタク) 日本卓球株式会社の公式ホームページ |access-date=2023-06-04 |language=ja}}</ref>。[[卓球#ラケット|グリップよるラケットの分類]]にあるように、ラケットにはグリップごとに長所短所があり、戦型をシェークハンドとペンホルダーのそれぞれのグリップによるものに分類することもできる。以下の各項にそれぞれの戦型の概要を示した。また、戦型ではないがそれに類したプレーヤーの分類として、[[左利き|左利き(サウスポー)]]であることがあげられる<ref name=":7" />。大多数である右利きのプレーヤーとはボールの回転やフォア・バックの打球位置等が左右反転するため、左利きのプレーヤーと対戦する際には異なった戦術を採る必要がある<ref name=":7" />。
=== シェークハンドの戦型 ===
{{Seealso|シェークハンド}}
シェークハンドラケットは、'''フォアハンド'''と'''バックハンド'''の双方('''両ハンド''')で強振・強打を行いやすい。一方で、'''ミドル'''(身体の近く、フォアとバックの選択に迷う位置)への強打には比較的弱い。これらの特性を活かして、主に以下の戦型が多くのプレーヤーによって実践されている。
; [[ドライブ主戦型|ドライブ主戦型 (シェークハンド)]]
: ドライブ主戦型は、現在多くの戦型のなかで主流となっている戦型である。前陣~後陣で前後左右のフットワークを駆使し、ボールに強いドライブをかけて常に積極的に攻撃的打法に試合にのぞむスタイルである<ref name=":26" />。<!-- ドライブ主戦型同士のラリー戦は、力強く迫力があることに定評があるとされる。 -->[[ファイル:Mattias Karlsson WTTC2016 2.jpeg|サムネイル|シェークハンドラケットのフォア面に表ソフトラバーを使用する'''異質攻撃型'''の[[マティアス・ファルク]]]]
; [[前陣速攻型|前陣速攻型 (シェークハンド)]]
: 前陣速攻型は、その名のとおり、卓球台に近い位置(前陣)でプレーする戦型である。相手の打球の種類やコースを瞬時に見てとり、早いタイミングで攻撃を仕掛けていくプレースタイルである<ref name=":26" />。早いテンポでの打ち合いに適した表ソフトラバーをラケットのいずれかの面に貼っているプレーヤーもいる。<!-- 判断の速さと動体視力がもっとも必要とされる戦型である。 -->小柄なプレーヤーでも強さを発揮することができるため、日本人でこの戦型をとる選手も多い。
: 著名な選手: [[リ・ジャウェイ]]([[シンガポール]])<ref name=":26" />、[[福原愛]](日本)<ref name=":26" />
; [[カット主戦型]]
: カット主戦型は、卓球台から離れた位置(後陣)で、相手の強打に対してカット打法による強い下回転をかけたボールで対応する戦型である<ref name=":26" />。相手の強打に対してカット打法で守備にまわる一方で、チャンスとみると一気に前に出て反撃する攻撃的な戦型でもある。攻守の範囲を広くするフットワークとねばり強いカット打法の技術、そして、攻めに転じる運動量が要求されるスタイルである<ref>{{Cite book|和書 |title=みるみる上達スポーツ練習メニュー5卓球 |publisher=ポプラ社 |page=106}}</ref>。
; 異質攻守型
: 異質攻守型は、台から離れずショートに対しての相手のミスで点を取る戦型である。その名の通り、ラケットのバックハンド側に粒高ラバー等の異種ラバーを貼り、それによる変化ボールやコースの緩急で相手のミスを誘う<ref name=":26" />。フォアハンド側には裏ソフトラバーや表ソフトラバーを貼り、フォアに来たボールはスマッシュやドライブで攻撃する。また、打球に緩急をつけるために、ラリー中にラケットを反転させて攻守を切り替えることがある。
: 「ペン粒」とも呼ばれているペンホルダーの異質ショート型(下記)に対して、シェークハンドの異質攻守型は「'''シェーク粒'''」と呼ばれている。この戦型は、異質ショート型とは異なり、ミドルに弱いため、ブロックで変化を付け続ける守備的なスタイルが取れないため、攻撃的な粒高ラバーを貼ることが多い。
: 著名な選手: [[福岡春菜]]([[日本]])<ref name=":26" />
; オールラウンド型
:オールラウンド型は、両面に裏ソフトラバーを張り、ドライブから前陣での速攻やロビング等の守備など多くの技術を駆使して点を取る戦型である<ref name=":26" />。戦術の柔軟性や高い身体能力、前陣・中陣・後陣全てで戦うことができる技術力が求められる。
:著名な選手: [[ヤン=オベ・ワルドナー]]([[スウェーデン]])、[[ティモ・ボル]]([[ドイツ]])<ref name=":26" />、[[水谷隼]](日本)
=== ペンホルダーの戦型 ===
[[ファイル:20220814 ECM22 Table Tennis 8266.jpg|サムネイル|ペンホルダーによる裏面打法を行う[[邱党]]]]{{Seealso|ペンホルダー|裏面打法}}
ペンホルダーラケットは、フォアハンドで特に威力のある打球が可能であるが、バックハンドでは相対的に守勢に回らざるを得ないことが多い。一方、台上での技術を含むミドルへの打球に対して対処しやすい。ペンホルダーの使用者はこれらの特性から、主に以下の戦型を採っている。
; [[ドライブ主戦型|ドライブ主戦型 (ペンホルダー)]]
: ペンホルダーのドライブ主戦型は、主にフォアハンドドライブによって攻め、回り込みや飛びつきなど、フットワークを活かしたダイナミックなプレーをする戦型である。日本語では「'''ペンドラ'''」とも通称されている。身体とラケットグリップの構造上、シェークハンドのドライブ主戦型ほど強いバックハンドドライブを打つのは難しいといわれるが、それを十二分に補えるだけの得点力のある快速プッシュや、バックハンドスマッシュを得意とする選手もいる。ペンホルダーの弱点であるバックハンドで太刀打ちするために、[[裏面打法]]によって強力なバックハンドドライブ(いわゆる裏面ドライブ)を打つ選手もいる。
: 著名な選手: [[金擇洙]]([[大韓民国|韓国]])、[[馬琳]]([[中華人民共和国|中国]])、[[吉田海偉]](日本)<ref name=":26" />、[[柳承敏]](韓国)、[[王皓]](中国)<ref name=":26" />、[[許昕]](中国)
; [[前陣速攻型|前陣速攻型 (ペンホルダー)]]
: ペンホルダーの前陣速攻型は、表ソフトラバーを用いて、できるだけ短い手数で攻撃につなげ、積極的に攻める戦型である。主にスマッシュを決定打として用いている。ドライブ主戦型と同じく、裏面打法でバックハンドドライブを打つ選手もいる。
: 著名な選手: [[田崎俊雄]](日本)<ref name=":26" />、[[劉国梁]](中国、元・中国ナショナルチームコーチ、現中国卓球協会会長)
; 異質ショート型
: 異質ショート型は、主に反転式や中国式のペンホルダーラケットを用いて両面にラバーを貼り、このうちの片面の粒高ラバーを駆使して攻守に立ち回る戦型である。「'''ペン粒'''」と通称される。裏ソフトラバーと粒高ラバー、あるいは、表ソフトラバーと粒高ラバーの組み合わせたラケットを使用すること一般的である。試合中は、台の近くでプレーし、粒高ラバーによるブロックの変化で相手のタイミングを崩し、相手の隙をみて攻撃を行う。加えて、ラケットを反転して異なった球質の打球を出して、相手のミスを誘うなど、守備的な戦法を採る。ラバーの基準変更などの[[卓球#ルールの変遷|ルールの変遷]]によって、粒高ラバーの威力がかつてより減少していることもあり、この戦型を採用しているトッププレーヤーは非常に少ない。
: 著名な選手: [[倪夏蓮]](元・中国代表選手、後に[[ルクセンブルク]]に[[帰化]]し代表選手に)、[[陳晴]](中国)
== 他の競技ルール ==
=== ラージボール卓球 ===
==== 概要 ====
'''ラージボール卓球'''<ref group="注釈">2012 (平成24)年4月1日より前は'''新卓球'''と呼ばれていた。</ref>とは、JTTAが卓球の普及を目的として考案し、ルール・用具規格等を[[1988年]]に制定した、新しい体系の卓球競技である。一般的な卓球('''硬式卓球''')で使われているボール(直径40 mm)よりも大きなボール(直径44 mm)を使って行われる。ボールが大きい等のルールの違いから、[[抗力|空気抵抗]]の効果が増大するため、ボールの速度および回転量が従来の卓球よりも減り、ラリーが続きやすいなどの特徴がある。高齢者等でも手軽にできる生涯スポーツとして考案されたものであるが、近年は、ラージボール卓球へ参入する若年層を含む硬式卓球経験者も多くなっている。このような競技人口の増加に伴い、全国各地で多くの大会が開催されている。
==== 硬式卓球との違い ====
硬式卓球との主な違いは、以下の通りである。
*使用するボールが大きく(直径44 mm)て軽い(質量2.2~2.4 g)。<ref group="注釈">硬式卓球のボールと比べると、ちょうど直径は10%大きく、質量は10%小さい。この結果、[[質量|慣性質量]]は10%小さく、[[慣性モーメント]]は10%大きい(ただし、同じ用具・同じ打法での[[トルク]]自体も10%大きくなる)。</ref>
*ラバーは表ソフトラバーのみ使用が可能である。<ref group="注釈">ただし、[[卓球#ラバー|ラバー]]の項で述べたように、表ソフトラバーと粒高ラバーは異なるものであり、ラージボール卓球でも粒高ラバーは使用できない。</ref>
*プレーイングサーフェスからのネットの高さが2 cm高い(17.25 cm)。
*競技大会ルールにおけるゲームの進行は、3ゲームマッチ(2ゲーム先取で勝利)で、各ゲームは11点制である。
*[[促進ルール]]の適用を判断する基準の時間が8分である。(硬式卓球の場合(10分)より2分早い)
==== 歴史 ====
* 1988年: これまでの卓球から派生した新競技としてルール等が制定された。
* 2012年4月1日: 現在の名称(「ラージボール卓球」)に変更され、'''基本ルール'''と'''競技ルール'''が整備・制定された。
* 2018年3月31日まで: ポイントスコアが10-10となった以降において、スコアが12-12となった場合は、13ポイント目の先取でゲームの勝者となった。また、サービスのトスの高さの規定がなかった<ref group="注釈">硬式卓球では、16 cm以上ほぼ真上に投げ上げるよう定められている。</ref>。
* 2018年4月1日: 競技ルールは'''競技大会ルール'''に改められ、硬式卓球の基本ルールに合わせるかたちで、以下の改定が行われた。
** ひとつのゲーム内で10-10となった以降は、先に2ポイントを付けたものを勝者とすると改められた。
** サービスに関しては、ボールのフリーハンドの手のひらの上で2〜3秒静止すること、トスの高さは16 cm以上上げること、といったルールが追加された。
** 競技大会ルールの制定にともなって、基本ルールは'''レクリエーションルール'''へと名称が変更された。
* 2019年1月1日: 競技大会ルールにおいて、競技用服装やアドバイスに関する規程が硬式卓球と同様となるよう、ルール・規定が変更となった。<ref group="注釈">具体的には、競技用服装の色については、「ボールの色とは関係なく任意」であったが、「使用するボールの色と明らかに違う色」に変更された。アドバイスについては、「ラリー中を除いていつでも」に変更された。</ref>
* 2022年4月1日: 競技大会ルール・レクリエーションルール共に、黒と赤のみだったラバー色に関するルールについて、「片方は黒、もう片方はボールの色とはっきり区別できる明るい色」に変更され、硬式と同様に、カラーラバーの使用が可能となった。
{{anchors|軟式|軟式卓球|日本式|日本式卓球}}
=== 軟式(日本式)卓球 ===
[[卓球#歴史|歴史]]で述べた通り、日本への卓球の伝来・普及は、[[1902年]]からの[[坪井玄道]]によるものとされる<ref name="y2009-nippon"/>。それよりしばらくの間は、日本独自の用具とルールの発展があった<ref name="y2009-nippon"/>。初の卓球統轄機関として'''大日本卓球協会'''が創立された[[1921年]](大正10年)頃は、'''軟式卓球'''('''日本式卓球''')のルールによる競技が行われていた。硬式卓球との主な違いは以下の通りである。
*競技で使用するボールの直径は、36.9 mm以上かつ38.9 mm以下である
*ボールの重さは、2 g以上かつ2.13 g以下である
*ネットの高さは、2 cm高い17.25 cmである
この日本独自の軟式(日本式)卓球は、[[卓球#ラージボール卓球|ラージボール卓球]]の普及や[[卓球#ルール|硬式卓球のルール]]の[[卓球#ルールの変遷|変遷]]などをうけて、[[2001年]](平成13年)度をもって幕を閉じた。
== 用語 ==
ここまでの節で特に解説のなかった卓球関連用語を本節に示す。
; クロスとストレート
: クロス('''クロスコース''')は、プレーイングサーフィスの対角線上に沿った打球コースを指す<ref name=":26" />。反対にストレート('''ストレートコース''')は、プレーイングサーフェスのサイドラインに沿った打球コースを指す<ref name=":26" />。一般にラリーの際、クロスコースは、ネットの高さに対する相手コート中での飛距離の長短の許容幅(リターン可能なエリア)が広く、ストレートコースに比べてリターンをしやすい。また、ダブルスにおけるサービスは、ライトハーフコートからのクロスコースのもののみが許容されている([[卓球#ダブルス|上述]])。
; 回り込みと飛びつき<ref name=":6" />
: それぞれフットワークの技術の呼称である。'''回り込み'''は、バックハンド側にくる相手のリターンに対して、旋回しつつ素早く身体全体をバックハンド側に移動し、フォアハンドで打球(特に強打)する為のフットワーク技術である<ref name=":26" />。逆に、'''飛びつき'''は、バックハンド側のエンド付近に居る状態で、相手のリターンがフォアハンド側(エンドの反対側)にくる際に、一足飛びにフォア側へと急ぎ移動して、飛球に追いつき、これを打球する為のフットワーク技術である<ref name=":26" />。
: 以上を組み合わせると、たとえば次のようなラリーの概況の説明が可能となる。— ''相手がバック側に出してきた<u>クロスコース</u>のサービスを、<u>回り込んで</u> <u>ストレートコース</u>に強打した。相手はこれに<u>飛びついて</u>くらいつこうとするもラケットに当てられず、レシーブエースとなった。''
; エッジ(エッジボール)
: '''エッジボール'''は、ラリーの際などに卓球台の端('''エッジ''')に触れたボールのことである<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%82%A8%E3%83%83%E3%82%B8%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB-1728392 エッジボール とは - コトバンク]</ref><ref>「観戦必携/すぐわかる スポーツ用語辞典」1998年1月20日発行、発行人・中山俊介、50頁。</ref>。一般にラリーの際、エッジにリターンしたボールはプレーイングサーフェスに当たったものとみなされ、有効なリターンである。一方で、卓球台天板の鉛直側面('''サイド''')はプレーイングサーフェスではなく、仮にリターンしようとしてサイドに当てたとしても、有効なリターンとは認められない<ref>ITTF Handbook, 50th ed., 2.1.2.</ref>。
; レット
:「レット」は審判に拠る宣告のひとつで、プレー中断させて、もう一度やり直させる事である。レットとなったラリー(サービスを含む)においては得点は発生せず、サービスの試行回数にも数えない<ref group="注釈">すなわち、レットとなったサービスを含むラリーは、サーバー・レシーバーの交替要件の回数として数えない。</ref><ref name="名前なし-20231105131057"/><ref>ITTF Handbook, 50th ed., 2.13.3.</ref>。たとえば、サービスのボールがネットに触れて相手コートに入った場合<ref>ITTF Handbook, 50th ed., 2.9.1.1.</ref>や、相手の準備ができていない状態でサービスを行った場合<ref>ITTF Handbook, 50th ed., 2.9.1.2.</ref>などが、レットに該当する<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88-661776 レットとは] - コトバンク、2016年6月24日閲覧</ref>。
; ラブゲーム
:ラブゲームとは、相手に一点も取られず(11-0で)ゲームの勝者となることである。国際大会では、10-0になった時に勝っている側はわざとミスをして相手に1点を与え、負けている側は勝とうとせず次にミスをする、ということがいわゆる「マナー」となっているとされる。これは競技上のルールではなく、構わず完封(ラブゲームの達成)を行うプレーヤーもいる<ref>https://number.bunshun.jp/articles/-/832627</ref><ref>https://www.tv-tokyo.co.jp/tabletennis/news/2020/03/010022.html</ref><ref name=":27" />。
== 卓球の普及 ==
=== 世界的な動向 ===
[[卓球#卓球の盛んな国々|以下の項目]]に示すように、卓球発祥の地である[[ヨーロッパ]]で普及がはじめに進み、ITTFなどの国際団体も初期はヨーロッパ諸国主導で設立・運営された。次いで、[[アジア]]で広く普及されるに至り、特に、[[日本]]、[[中華人民共和国|中国]]、[[大韓民国|韓国]]といった強豪国が現れ、以降はヨーロッパの選手に引けを取らない結果を残すようになった<ref name=":26" />。とりわけ中国は、世界トップの卓球先進国となっており、[[オリンピックの卓球競技]]等の国際大会では、上位入賞者をほぼ独占する状況である。選手個々人について、1991年10月以降の[[ITTF世界ランキング]]では、大会成績等のポイントを機械集計して順位付けされたものが随時発表されているが、ここで一位となった選手のほとんどが中国人選手である<ref group="注釈">具体的には、男子では、同システムで18人の1位のランカーがいるが、うち10人が中国人選手であり。同システムでの女子部門に至っては、11人の1位ランカーの全員が中国人選手である。(2023年6月時点)</ref><ref name=":26" />。このように、[[スウェーデン]]や[[ドイツ]]といった卓球伝統国を除けば、世界レベルの大会の上位者(特にシングルス)は主にアジア勢が占める傾向がある。一方で、ダブルス(男女各部門や混合ダブルス)や団体戦等では、多くの国々にも戦果を挙げるチャンスが十分ある状態であり、[[パラ卓球]]も含め各々の選手が向上心をもって卓球競技に臨んでいる。
大衆スポーツや生涯スポーツとして、[[卓球#娯楽・文化としての卓球|娯楽・文化としての卓球]]は各国それぞれで普及が進んでおり、[[映画]]などの創作作品にも卓球がテーマ化・題材化されている。[[工学]]に目を転じると、[[TOPIO]]や[[フォルフェウス]]<ref group="注釈">日本の[[オムロン]]が開発している。</ref>などの高度なロボット開発も進んでおり、競技以外の面でも卓球は人類文化の一部となっている。
=== 卓球の盛んな国々 ===
競技スポーツとしては、傾向として、[[アジア]]と[[ヨーロッパ]]で卓球が盛んである。以下に述べる中国の[[帰化選手]]が世界各地に移り住んで選手・指導者として生活を営んでいるため、元・中国人の代表選手や指導者が多い国もある。
;[[日本]]
:[[ファイル:Ichiro Ogimura 1955.jpg|サムネイル|荻村伊智朗]]競技スポーツとしては、国際大会での好成績やセミプロリーグ([[Tリーグ (卓球)|Tリーグ]])の存在、複数の国内トップ大会([[卓球#主要な日本国内大会|下記]])の定期開催、国際大会の多数誘致がなされていること等から、世界でも屈指の卓球の盛んな国といえる。歴史をみると、[[1950年代]] - [[1970年代]]には、日本式ペンホルダーの豪快なフォアハンドを武器に、シングルスの世界チャンピオンを男女あわせて13人輩出するなど、世界でトップクラスであった。主な選手として、男子では[[荻村伊智朗]](ITTF会長等も歴任)、[[田中利明]]、[[長谷川信彦]]ら、女子では[[松崎キミ代]]、[[山泉和子|伊藤和子]]、[[江口冨士枝]]らが挙げられる<ref group="注釈">いずれの選手も、[[世界卓球選手権]]の優勝と[[世界卓球殿堂]]入りを果たしている。</ref><ref name=":26" />。[[1980年代]]以降、シェークハンドラケットの普及のタイミングで、プレースタイルの変化・世代交代等による停滞期が続いたものの、[[2000年代]]以降は、JTTA主導による強化方針が実を結びつつある<ref name=":26" />。たとえば、[[世界卓球選手権|世界選手権]]や[[近代オリンピック|オリンピック]]等の主要国際大会をみると、女子<ref group="注釈">世界選手権団体では、5大会連続で銅メダルを獲得。2014年と2016年の同・団体戦では、銀メダルを獲得。五輪の団体戦では、2012年に銀メダル獲得。2016年に銅メダル獲得。2021年に銀メダルを獲得している。</ref>、男子<ref group="注釈">[[2005年]]世界ジュニア選手権団体戦で優勝。[[2008年]]~[[2014年]]の世界卓球選手権団体で、4大会連続の銅メダル獲得。オリンピックの団体では、2016年に銀メダル獲得。2021年に銅メダルを獲得している。</ref>ともに結果を残してきている。また、[[2021年]]の[[東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会|東京五輪]]での新種目の混合ダブルスでは、日本卓球史初となる五輪の金メダルも獲得している。近年の個々の選手をみると、[[2016年リオデジャネイロオリンピック|リオデジャネイロオリンピック]]の男子シングルスで銅メダル獲得の[[水谷隼]]<ref group="注釈">水谷は、同大会の男子団体でも銀メダルを獲得している。</ref>や、[[2017年アジア卓球選手権|2017年アジア選手権]]優勝・[[第54回世界卓球選手権個人戦|2017年の世界選手権]]銅メダル獲得の[[平野美宇]]<ref group="注釈">アジア選手権では3人の中国選手を破っての優勝であった。また、世界選手権での銅メダルは48年ぶりの女子シングルスでの快挙であった。</ref>、2021年の東京五輪女子シングルスで銅メダル獲得の[[伊藤美誠]]<ref group="注釈">伊藤は、2021年の東京五輪では、女子シングルスの銅メダル獲得のほか、水谷と出場の混合ダブルスでも金メダルも獲得し、女子団体では銀メダルを獲得した。これは、一つのオリンピック大会における金銀銅の3種のメダルのコンプリート獲得であり、オリンピックにおいて卓球史上初の達成者となった。参考までに、一大会におけるオリンピックの金銀銅のメダルコンプリートの達成者は、日本人選手では9人目である(他の達成者は、[[体操競技]]の[[小野喬]]、[[中山彰規]]、[[監物永三]]、[[笠松茂]]、[[塚原光男]]、[[具志堅幸司]]、[[森末慎二]]、[[競泳]]の[[萩野公介]]、[[スピードスケート]]の[[髙木美帆]])。伊藤の達成は、夏季オリンピックの日本人女子選手としては初のことである。</ref>、数々の最年少優勝記録を樹立し日本男子として過去最高<ref name=":1" group="注釈" />の[[ITTF世界ランキング]]3位となった[[張本智和]]<ref name=":27" />、といった傑出した選手も登場している。一方で、こういった一部の選手だけがかろうじて世界のトッププレーヤーと渡り合える実力を持つのみで、他の日本選手の実力はまだまだであり、危機感を持つべきだという厳しい意見もある<ref group="注釈">具体的には、2010年代以降の男子日本代表は団体戦で成果を挙げてきたが、これらは[[張本智和]]と[[水谷隼]]の二名の奮闘によるところが大きい。たとえば、張本(あるいは水谷)が不振のときは、男子日本の団体戦の結果はことごとく不首尾である。水谷は自著において、以上の内容を「傲慢な分析ではなく客観的な事実」として具体的な実例・根拠を述べつつ説明している。</ref><ref name=":27" />。
:文化面や生涯スポーツの面では、[[卓球#娯楽・文化としての卓球|娯楽・文化としての卓球]]に示すように、国民的関心も高い。
;[[中華人民共和国]]
:[[ファイル:Mondial Ping - Men's Singles - Round 4 - Ma Long-Koki Niwa - 02.jpg|サムネイル|劉国梁]]世界最大の卓球大国であり、近年の世界ランキング1位となった者(29名)<ref group="注釈" name=":1">ここでは、コンピュータ処理でランキングされる1991年10月以降のランキングについて述べている。</ref>のうち、21名が中国人選手である<ref group="注釈">2023年6月時点。</ref><ref name=":26" />。歴史的には、前陣速攻を軸とした台上卓球を得意としている。「天才」<ref name=":27" />と評される[[劉国梁]](世界ランク1位・[[オリンピックの卓球競技|五輪男子単優勝]]・[[世界卓球選手権|世界卓球男子単優勝]]、中国卓球協会会長)をはじめとして表ソフトラバーを使用する選手がかつては多かったが、近年では、粘着系ラバーを使用する選手が圧倒的に多くなっている。男子・女子いずれも選手層が厚く、その反面で、行き場の無くなった強豪選手が数多く海外に流出し、結果的に世界中に[[帰化選手]]を送り込むこととなった。[[2008年]]の[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]では、男女の各個人部門で表彰台を独占し、同・団体では男女共に金メダルを獲得した。こうした背景として、2019年に『ラリーズ』が報じたところによると、有力な選手候補生は、小学校相当の年頃から学校へは行かず、年中卓球に打ち込んで、ナショナルチームを目指しており、このシステムが強豪卓球選手を輩出しているという<ref>[https://rallys.online/person/player-voice/china01/ なぜ中国は卓球が強いのか?<Vol1.水谷隼>] ラリーズ 2019.08.02 (2020年8月17日閲覧)</ref>。
;[[香港]]
:卓球の国際試合には「地域」として参加している。中国と似たプレースタイルの選手が多いほか、代表選手のほとんどは中国の帰化選手である。
;[[大韓民国]]
:フットワークを生かしたダイナミックなプレーをする選手が多い。[[ソウルオリンピック]]・[[アテネオリンピック (2004年)|アテネオリンピック]]では男子シングルスの金メダルを獲得している。
;[[朝鮮民主主義人民共和国]]
:男子は、韓国の選手と比べてストイックなプレーを得意としているとされる。女子は、粒高や表ソフトを使った異質選手が多いとされる。中国選手と練習を行うこともある。[[2002年]]のアジア競技大会の決勝では中国を破ったり、アテネ五輪ではキム・ヒャンミが中国系選手を倒して銀メダルを獲得したり、2016年の世界卓球選手権団体では女子が銅メダルを獲得したり、リオデジャネイロオリンピックではキム・ソンイがシングルスで銅メダルを獲得したりと、結果を残している。
:台湾や日本、韓国に近いプレースタイルの選手が多い。中国ほどの強さはないが、ランク上位に顔を出すことがある。
;[[シンガポール]]
:代表選手は中国の帰化選手が多く、プレースタイルも中国と類似している。女子は、[[2008年]]世界選手権と2008年[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]の団体でいずれも銀メダルを獲得しており、2010年の世界選手権(団体)では中国を破り、金メダルを獲得した。
;[[ドイツ]]
:卓球のプロリーグ([[卓球ブンデスリーガ|ブンデスリーガ]])があり、特に男子では世界中から有力な選手が集まっている。男子は、2008年北京オリンピック団体で銀メダルを獲得し、2012年ロンドンオリンピック団体で銀メダルを獲得のほか、2016年リオデジャネイロオリンピック団体で銅メダルを獲得している。女子においても、2016年のリオデジャネイロオリンピックで団体銀メダルを獲得するなど、ヨーロッパの強豪国である。
;[[スウェーデン]]
:[[ファイル:Jan-Ove Waldner.JPG|サムネイル|ヤン=オベ・ワルドナー]]かつて[[1980年代]]後半から[[1990年代]]にかけて、[[スウェーデン]]は男子の卓球の頂点を占めていた。シェークハンドによる両ハンド攻撃から台上の速攻までこなして、「卓球の世界を変えた」<ref name=":28">{{Cite book|和書 |title=卓球戦術ノート |date=2001-12-10 |year=2001 |publisher=[[卓球王国]] |author=[[高島規郎]]}}</ref>、「天才」<ref name=":27" />等と評される[[ヤン=オベ・ワルドナー]](世界ランク1位・五輪男子単優勝・世界卓球男子単優勝)や[[ヨルゲン・パーソン]]らの多くのチャンピオンを輩出している<ref name=":26" />。近年の選手層の成績は復調傾向にあり、2018年の世界選手権団体戦で銅メダルを獲得しているほか、2019年の世界選手権個人戦ではシングルスで銀メダルを獲得している。
;[[フランス]]
:卓球のプロリーグがあり、かつてはヨーロッパにおいてドイツやスウェーデンと並ぶ強豪国であり、[[ジャン=フィリップ・ガシアン]]などのトップ選手を擁していた<ref name=":26" />。しかし、世代交代により[[2000年代]]までは低迷傾向であった。
;[[イングランド]]
:卓球の国際試合には「地域」として参加している。島国であり、かつ、過去に香港を統治した歴史的背景から、他のヨーロッパ諸国とは異なるプレースタイルの選手が多いとされる。長らく低迷期が続いていたが、男子部門は2016年の世界卓球選手権大会で銅メダルを獲得している。
;[[ロシア]]
:卓球のプロリーグ(プレミアリーグ)があり、男子では世界中から有力な選手が集まっており、若手の育成も進んでいる。
;[[オーストリア]]
:世界選手権団体戦では、近年はほとんど決勝トーナメントに進出しており、安定した強さを有している。2003年の世界選手権個人戦では、[[ヴェルナー・シュラガー]]がシングルスで金メダルを獲得した。
;他の[[ヨーロッパ]]諸国
:上記諸国以外のヨーロッパの国々においても、卓球は盛んである。比較的に小国が多いため、世代交代による浮き沈みが激しい一方、有力選手の所属国は国際大会において好成績を残すことがある。たとえば、[[ベルギー]]からは[[ジャン=ミッシェル・セイブ]]などの有力選手が現れ、卓球界をリードしていた<ref name=":26" />。
;[[北アメリカ]]
:上述の国々ほど卓球が盛んとは言えないが、中国の帰化選手が代表となり、レベルの底上げがなされている。
;[[ブラジル]]
:[[2016年リオデジャネイロオリンピック|リオデジャネイロオリンピック]]以降に卓球が盛んになってきており、2018年の世界選手権団体戦では初のベスト8入賞を果たした。
=== 娯楽・文化としての卓球 ===
[[ファイル:Ping Pong.jpg|サムネイル|オフィスで卓球に興じる様子。レクリエーションとしての卓球を行うことはかなり容易である。どのような[[卓球#競技用服装|服装]]でもよいし、[[卓球#ラケット|ラケットの握り方]]も何でもよいし、[[卓球#ダブルス|ダブルスの複雑な打球順]]を憶える必要もない。]]
[[ファイル:Ultimate .jpg|サムネイル|アルティメット卓球の様子]]
娯楽スポーツ・生涯スポーツとしての卓球は、他のスポーツと比べ、ゲームをプレーするにあたっての敷居(最低限のルールの理解、スキルの習得、場所・道具・プレーヤーの確保)が比較的低い<ref name=":26" />。それほど服装は問われず、力のない女性や子供でもできること、ケガの心配も比較的少ないことから、気軽に遊ぶことが出来るスポーツの一つである。そのため、老若男女問わず親しみやすく、実践しやすいスポーツとして主に[[卓球#卓球の盛んな国々|卓球の盛んな国々]]で愛好されている。<!--しかし卓球部員はいわゆる[[ジョック]]([[陽キャ]])ではなく[[ナード]]([[陰キャ]])として扱われる(これは[[偏見]]であり、[[タモリ]]の[[根暗]]発言が[[原因]]でこのような状況が出来てしまったとの意見がある)ことが一般的であるが、北米やヨーロッパではこのような偏見は無い。ただし、欧米でも前述のように中国人をはじめとした黄色人種に人気のあるスポーツであるというイメージはある-->
他の視点から楽しむ目的で卓球から派生させたスポーツも多く、[[卓球#ラージボール卓球|ラージボール卓球]]はもちろんのこと、{{仮リンク|ハードバット卓球|en|Hardbat}}<ref group="注釈">その名の通り「硬いラケット」を用いる卓球である。スピードとスピンが強くなる「柔らかい」ラバーは用いないために、打球の速度が遅く回転量も少ないことが特徴である。</ref>や{{仮リンク|アルティメット卓球|fr|Ultimate ping}}<ref group="注釈">4倍の面積の卓球台でプレーする競技である。</ref>、[[スリッパ温泉卓球大会|スリッパ温泉卓球]]、[[ヘディス]]、[[ビアポン]]といったものが考案・実施されている。
;日本
:日本において文化面では、1993年に漫画『[[行け!稲中卓球部]]』がベストセラーとなり、ほぼ同時期に[[福原愛]]が「天才卓球少女」として脚光を浴びた<ref name=":26" />こともあり、大衆への認知が広まった。1996年~1997年には[[松本大洋]]による[[漫画]]『[[ピンポン (漫画)|ピンポン]]』が発表され、その映画化作品『[[ピンポン (映画)|ピンポン]]』([[窪塚洋介]]主演、2002年)も封切りされ、以降、ブームが若者の間にも広まった。また、映画『[[卓球温泉]]』([[松坂慶子]]主演、1998年)は温泉地での卓球ブームを振興したとされる。
;中華人民共和国
:[[ファイル:Mao Zedong ping pong.jpg|サムネイル|卓球をプレーする[[毛沢東]]]]中国において卓球は深く重視されており、建国者である[[毛沢東]]がスポーツ文化発展の一環として今日の中国卓球の礎を作ったという見解さえある<ref>{{Cite web|和書|title=<レコチャ広場>世界一の中国卓球=その基礎を築いたのは毛沢東の言葉だった―中国 |url=https://www.recordchina.co.jp/b47899-s0-c60-d0000.html |website=Record China |access-date=2023-07-16 |language=ja |first=Record |last=China}}</ref>。[[ピンポン外交]]に代表されるように、ときに卓球は政治手段ともなった<ref>{{Cite web|和書|title=asahi.com:朝日新聞 歴史は生きている |url=https://www.asahi.com/international/history/chapter09/02.html |website=www.asahi.com |access-date=2023-07-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nihon-u.ac.jp/sports_sciences/pdf/research/bulletin/202303_hiyoshi.pdf |title=ピンポン外交と日本の役割についての考察 |access-date=2023-07-16 |publisher=[[日本大学]]}}</ref>。また、中華人民共和国建国前の[[中国共産党]]を取材したジャーナリストの[[エドガー・スノー]]は、著作「[[中国の赤い星]]」において、イギリス発祥の卓球というスポーツが[[中国人民解放軍]]で当時流行したことに奇妙さを感じたと記述している<ref>{{Cite web |title=Sport of a nation: Table tennis in China - CGTN |url=http://news.cgtn.com/news/3d637a4d3455544d/share_p.html |website=news.cgtn.com |access-date=2023-07-16}}</ref>。2010年代以降は、カリスマ性のある[[張継科]]<ref group="注釈">激しいパフォーマンスを伴うこともあり、ときに物議をかもすアクションも行い、良くも悪くも話題を集め、ブームを形成した。</ref><ref name=":27" />の登場によって、中国においては卓球選手が[[アイドル]]のようになり、中国選手の出場する各地の大会へ駆けつける[[追っかけ]]等の熱烈な[[ファン]]も現れるようになった<ref name=":27" />。
== 選手 ==
*[[卓球選手一覧]]
=== タイトルホルダー ===
{| class="wikitable"
|+
!大会
!年次 (開催回)
!種目
!優勝者
|-
| rowspan="5" |[[オリンピックの卓球競技|IOC 夏季オリンピック 卓球競技]]
| rowspan="5" |[[2020年東京オリンピックの卓球競技|2020年 (第32回)]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://olympics.com/ja/olympic-games/tokyo-2020/results/table-tennis |title=東京2020 卓球 結果 |access-date=2023-07-16 |publisher=[[国際オリンピック委員会]]}}</ref>
|男子シングルス
|[[馬龍]]([[中華人民共和国|中国]])
|-
|女子シングルス
|[[陳夢]](中国)
|-
|混合ダブルス
|[[水谷隼]]・[[伊藤美誠]]([[日本]])
|-
|男子団体
|[[2020年東京オリンピックの中国選手団|中国代表]]
|-
|女子団体
|中国代表
|-
| rowspan="7" |[[世界卓球選手権|ITTF世界卓球選手権]]
| rowspan="5" |2023年 (第57回)<ref>{{Cite web |title=World Table Tennis |url=https://worldtabletennis.com/eventInfo?eventId=2660&selectedTab=Overview |website=worldtabletennis.com |access-date=2023-07-16}}</ref>
|男子シングルス
|[[樊振東]](中国)
|-
|男子ダブルス
|樊振東・[[王楚欽]](中国)
|-
|女子シングルス
|[[孫穎莎]](中国)
|-
|女子ダブルス
|陳夢・[[王ゲイ迪|王芸迪]](中国)
|-
|混合ダブルス
|王楚欽・孫穎莎(中国)
|-
| rowspan="2" |[[第56回世界卓球選手権団体戦|2022年 (第56回)]]<ref>{{Cite web |title=World Table Tennis |url=https://worldtabletennis.com/teamseventInfo?eventId=2535&selectedTab=Overview |website=worldtabletennis.com |access-date=2023-07-16}}</ref>
|男子団体
|中国代表
|-
|女子団体
|中国代表
|-
| rowspan="5" |[[ワールドテーブルテニス#グランドスマッシュ|WTTグランドスマッシュ]]
| rowspan="5" |2023年 (第2回)<ref>{{Cite web |title=World Table Tennis |url=https://worldtabletennis.com/eventInfo?selectedTab=Overview&eventId=2629 |website=worldtabletennis.com |access-date=2023-07-16}}</ref>
|男子シングルス
|樊振東(中国)
|-
|男子ダブルス
|樊振東・王楚欽(中国)
|-
|女子シングルス
|孫穎莎(中国)
|-
|女子ダブルス
|[[王曼昱]]・孫穎莎(中国)
|-
|混合ダブルス
|王楚欽・孫穎莎(中国)
|-
| rowspan="2" |[[ワールドテーブルテニス#WTTカップ・ファイナル|WTTカップファイナル]]
| rowspan="2" |2022年 (第2回)<ref>{{Cite web |title=World Table Tennis |url=https://worldtabletennis.com/eventInfo?eventId=2627&selectedTab=Overview |website=worldtabletennis.com |access-date=2023-07-16}}</ref>
|男子シングルス
|王楚欽(中国)
|-
|女子シングルス
|孫穎莎(中国)
|}
=== ランキング首位 ===
{| class="wikitable"
|+
!ランキング
!年・週
!部門
!首位プレーヤー
|-
| rowspan="8" |[[ITTF世界ランキング]]
| rowspan="8" |2023年・第34週<ref>{{Cite web |title=Rankings |url=https://www.ittf.com/rankings/ |website=International Table Tennis Federation |access-date=2023-08-27 |language=en-GB}}</ref>
|男子シングルス<ref>{{Cite web |title=Senior Men's Singles |url=https://www.ittf.com/wp-content/uploads/2023/08/2023_34_SEN_MS.html |website=www.ittf.com |access-date=2023-08-27}}</ref>
|樊振東(中国)
|-
|女子シングルス<ref>{{Cite web |title=Senior Women's Singles |url=https://www.ittf.com/wp-content/uploads/2023/08/2023_34_SEN_WS.html |website=www.ittf.com |access-date=2023-08-27}}</ref>
|孫穎莎(中国)
|-
|男子ダブルス(ペア)<ref>{{Cite web |title=Senior Men's Doubles Pairs |url=https://www.ittf.com/wp-content/uploads/2023/08/2023_34_SEN_MD.html |website=www.ittf.com |access-date=2023-08-27}}</ref>
|[[張禹珍]]・[[林鐘勳]]([[大韓民国|韓国]])
|-
|男子ダブルス(個人)<ref>{{Cite web |title=Senior Men's Doubles Individuals |url=https://www.ittf.com/wp-content/uploads/2023/08/2023_34_SEN_MDI.html |website=www.ittf.com |access-date=2023-08-27}}</ref>
|林鐘勳(韓国)
|-
|女子ダブルス(ペア)<ref>{{Cite web |title=Senior Women's Doubles Pairs |url=https://www.ittf.com/wp-content/uploads/2023/08/2023_34_SEN_WD.html |website=www.ittf.com |access-date=2023-08-27}}</ref>
|[[田志希]]・[[申裕斌]](韓国)
|-
|女子ダブルス(個人)<ref>{{Cite web |title=Senior Women's Doubles Individuals |url=https://www.ittf.com/wp-content/uploads/2023/08/2023_34_SEN_WDI.html |website=www.ittf.com |access-date=2023-08-27}}</ref>
|申裕斌(韓国)
|-
|混合ダブルス(ペア)<ref>{{Cite web |title=Senior Mixed Doubles Pairs |url=https://www.ittf.com/wp-content/uploads/2023/08/2023_34_SEN_XD.html |website=www.ittf.com |access-date=2023-08-27}}</ref>
|王楚欽・孫穎莎(中国)
|-
|混合ダブルス(個人)<ref>{{Cite web |title=Senior Mixed Doubles Individuals |url=https://www.ittf.com/wp-content/uploads/2023/08/2023_34_SEN_XDI.html |website=www.ittf.com |access-date=2023-08-27}}</ref>
|王楚欽(中国)
|}
== 組織・団体 ==
=== 運営機構・育成組織等 ===
==== 国際機構 ====
*[[国際卓球連盟]] (ITTF)
**[[ワールドテーブルテニス]] (WTT)
*[[アジア卓球連盟]] (Table Tennis Federation of Asia; TTFA)
*{{仮リンク|アジア卓球連合|en|Asian Table Tennis Union}} (ATTU)
*{{仮リンク|ヨーロッパ卓球連合|en|European Table Tennis Union}} (ETTU)
*{{仮リンク|ラテンアメリカ卓球連合|en|Latin American Table Tennis Union}} (ULTM)
*{{仮リンク|北アメリカ卓球連合|en|Northern American Table Tennis Union}} (NATTU)
*{{仮リンク|オセアニア卓球連合|en|Oceania Table Tennis Federation}} (OTTF)
==== 各国の協会・オリンピック委員会 ====
*{{仮リンク|卓球イングランド|en|Table Tennis England}}
*{{仮リンク|ドイツ卓球連盟|de|Deutscher Tischtennis-Bund}} (DTTB)
*{{仮リンク|スウェーデン卓球協会|sv|Svenska Bordtennisförbundet}} (SBTF)
*{{仮リンク|フランス卓球連盟|fr|Fédération française de tennis de table}} (FFTT)
*[[日本卓球協会]] (JTTA)
**[[関東学生卓球連盟]]
**[[全国専門学校卓球連盟]]
*{{仮リンク|USAテーブル・テニス|en|USA Table Tennis}} (USATT)
*{{仮リンク|中国卓球協会|en|Chinese Table Tennis Association}}
*[[中華民国卓球協会]]<ref name=":34" />
*{{仮リンク|大韓卓球協会|ko|대한탁구협회}} (KTTA)
*[[日本オリンピック委員会]] (JOC)
**[[JOCエリートアカデミー]]
==== 上記機構等による賞・段級制度 ====
{{See also|#タイトルホルダー}}
*[[ITTFスターアワード]]
*[[世界卓球殿堂]]
*[[ITTF世界ランキング]]
*[[段級位制 (卓球)|段級位制]]
=== 各国代表 ===
*[[卓球日本代表]]
**[[卓球ジュニア日本代表]]
**[[卓球ホープス日本代表]]
*{{仮リンク|卓球中国代表|en|China national table tennis team|label=中国代表}}
*{{仮リンク|卓球ドイツ代表|de|Deutsche Tischtennisnationalmannschaft|label=ドイツ代表}}
*{{仮リンク|卓球フランス代表|de|Französische Tischtennisnationalmannschaft|label=フランス代表}}
*{{仮リンク|卓球スウェーデン代表|de|Schwedische Tischtennisnationalmannschaft|label=スウェーデン代表}}
*{{仮リンク|卓球オーストリア代表|de|Österreichische Tischtennisnationalmannschaft|label=オーストリア代表}}
*{{仮リンク|卓球ポルトガル代表|de|Portugiesische Tischtennisnationalmannschaft|label=ポルトガル代表}}
*{{仮リンク|卓球ベラルーシ代表|de|Weißrussische Tischtennisnationalmannschaft|label=ベラルーシ代表}}
== 主要な大会・リーグ戦機構 ==
=== 主要な国際大会 ===
*[[オリンピックの卓球競技|'''夏季オリンピック 卓球競技''']] - 4年に1度開催される[[夏季オリンピック]]の正式種目([[1988年ソウルオリンピックの卓球競技|1988年ソウル大会]]より)。以下のITTF及びWTTの主催大会と同様に、オリンピック競技も[[ITTF世界ランキング]]のポイント(RP)付与の対象試合であり、優勝者のPRは2,000点である<ref group="注釈">シングルスのポイント例である。金メダリストへの2,000点の他は、銀メダリストには1,400点、銅メダリストには700点等が与えられる。</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.ittf.com/wp-content/uploads/2021/01/2021-ITTF-Table-Tennis-World-Ranking-Regulation-20210120.pdf |title=2021 ITTF Table Tennis World Ranking Regulation |access-date=2023-07-16 |publisher=[[国際卓球連盟]]}}</ref>。
**[[ユースオリンピックの卓球競技|ユースオリンピック 卓球競技]] - 2010年に始まった4年に1度開催される18歳以下のオリンピック。
**[[アジア競技大会卓球競技|アジア競技大会 卓球競技]] - 1958年の{{仮リンク|1958年アジア競技大会における卓球競技|label=東京大会|en|Table tennis at the 1958 Asian Games}}から正式種目になった。
**[[アジアユースゲームズ|アジアユースゲームズ 卓球競技]] - 2009年に始まった4年に1度開催されるアジアの18歳以下の国際大会。翌年開催のユースオリンピックのアジア予選も兼ねている。
*'''ITTFによる主な主催大会'''
{| class="wikitable"
|+
!大会名
!優勝者の[[ITTF世界ランキング|RP]]<ref name=":0" group="注釈">2022年~2023年時点のシングルス部門の例。</ref>
!備考
|-
|'''[[世界卓球選手権]]'''
|2,000点<ref>{{Cite web |title=World Table Tennis |url=https://worldtabletennis.com/eventInfo?selectedTab=Event%20Info&eventTab=Ranking%20Points%20and%20Prize%20Money%20Breakdown&eventId=2660 |website=worldtabletennis.com |access-date=2023-07-16}}</ref>
|1926年初開催の世界大会。現在は奇数年に個人戦、偶数年に団体戦が交互開催される
|-
|[[ワールドカップ (卓球)|ワールドカップ]]
|
|1980年初開催の国際大会(毎年開催)。2021年よりWTT主催大会へ移行
|-
|[[ITTFワールドツアーグランドファイナル|ワールドツアーグランドファイナル]]
|
|以下のワールドツアーの一年を締めくくる大会。2021年よりWTT主催大会へ移行
|-
|[[ITTFワールドツアー|ワールドツアー]]
|
|1996年初開催の国際オープン大会(毎年開催)。2021年よりWTT主催大会へ移行
|-
|[[荻村杯国際卓球選手権大会]] (ジャパンオープン)
|
|1989年に始まった毎年開催のワールドツアーのひとつ
|-
|[[世界ユース卓球選手権大会]]
|
|2003年に始まった毎年開催される18歳以下の国際大会
|-
|[[世界ベテラン卓球選手権]]
|
|[[国際スウェースリング・クラブ]]<ref>{{Cite web |title=Home |url=https://swaythlingclub.com/ |website=SWAYTHLING CLUB INTERNATIONAL |date=2023-07-02 |access-date=2023-07-17 |language=en-US}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=全日本卓球前年度優勝の及川瑞基、自らを語る |url=https://jtta.or.jp/news/4759 |website=公益財団法人日本卓球協会 |access-date=2023-07-17 |language=ja |last=公益財団法人日本卓球協会}}</ref>による40歳以上の国際大会
|}
*'''WTTによる主な主催大会'''<ref>{{Cite web|和書|title=【WTT】そもそもWTTをよくわからない人に。今さらですが、説明しましょう |url=https://world-tt.com/blog/news/archives/76507 |website=卓球ポータルサイト {{!}} 卓球王国WEB |date=2023-03-19 |access-date=2023-07-16 |language=ja}}</ref>
{| class="wikitable"
|+
!大会名
!優勝賞金<ref name=":0" group="注釈" />
!優勝者の[[ITTF世界ランキング|RP]]<ref name=":0" group="注釈" />
!備考
|-
|[[ワールドテーブルテニス#グランドスマッシュ|'''WTTグランドスマッシュ''']]
|100,000 [[アメリカ合衆国ドル|USD]]<ref name=":29">{{Cite web |title=World Table Tennis |url=https://worldtabletennis.com/eventInfo?selectedTab=Event%20Info&eventTab=Ranking%20Points%20and%20Prize%20Money%20Breakdown&eventId=2629 |website=worldtabletennis.com |access-date=2023-07-16}}</ref>
|2,000点<ref name=":29" />
|ランキングポイントでITTFの世界卓球選手権と並ぶメジャー大会
|-
|[[ワールドテーブルテニス#WTTカップ・ファイナル|'''WTTカップファイナル''']]
|55,000 USD<ref name=":30">{{Cite web |title=World Table Tennis |url=https://worldtabletennis.com/eventInfo?selectedTab=Event%20Info&eventTab=Ranking%20Points%20and%20Prize%20Money%20Breakdown&eventId=2627 |website=worldtabletennis.com |access-date=2023-07-16}}</ref>
|1,500点<ref name=":30" />
|ITTFワールドツアーグランドファイナルに相当する大会。
|-
|[[ワールドテーブルテニス#WTTチャンピオン|WTTチャンピオン]]
|35,000 USD<ref name=":31">{{Cite web |title=World Table Tennis |url=https://worldtabletennis.com/eventInfo?selectedTab=Event%20Info&eventTab=Ranking%20Points%20and%20Prize%20Money%20Breakdown&eventId=2728 |website=worldtabletennis.com |access-date=2023-07-16}}</ref>
|1,000点<ref name=":31" />
|ITTFワールドツアーに相当する大会。
|-
|[[ワールドテーブルテニス#WTTスターコンテンダー|WTTスターコンテンダー]]
|10,000 USD<ref name=":32">{{Cite web |title=World Table Tennis |url=https://worldtabletennis.com/eventInfo?selectedTab=Event%20Info&eventTab=Ranking%20Points%20and%20Prize%20Money%20Breakdown&eventId=2694 |website=worldtabletennis.com |access-date=2023-07-16}}</ref>
|600点<ref name=":32" />
|ITTFワールドツアーに相当する大会。
|-
|[[ワールドテーブルテニス#WTTコンテンダー|WTTコンテンダー]]
|5,000 USD<ref name=":33">{{Cite web |title=World Table Tennis |url=https://worldtabletennis.com/eventInfo?selectedTab=Event%20Info&eventTab=Ranking%20Points%20and%20Prize%20Money%20Breakdown&eventId=2721 |website=worldtabletennis.com |access-date=2023-07-16}}</ref>
|400点<ref name=":33" />
|ITTFワールドツアーに相当する大会。
|}
*地域ごとの国際卓球機構による主な主催大会
**[[アジア卓球選手権]] - 1952年に始まり隔年開催されるTTFA主催のアジアの国際大会。1972年よりATTUによる主催に移行した。<ref group="注釈">アジアカップとは別の大会。</ref>
**[[アジアカップ (卓球)|アジアカップ]] - 1983年に始まり毎年開催されるATTU主催のアジアの国際大会。本大会3位までの選手が同年開催の[[ワールドカップ (卓球)|ワールドカップ]]出場権を獲得していた。
***[[アジアジュニア卓球選手権]] - 1964年に始まった毎年開催されるATTU主催のアジアの18歳以下の国際大会。
***[[アジアカデット卓球選手権]] - 1986年に始まった毎年開催されるATTU主催のアジアの15歳以下の国際大会。
***[[東アジアホープス卓球選手権]] - 1992年に始まった毎年開催される東アジアの12歳以下の国際大会。
**[[ヨーロッパ卓球選手権]] - ETTU主催で、ヨーロッパの選手を対象に個人戦と団体戦を行っている。<ref group="注釈">ヨーロッパチャンピオンズリーグとは異なる。</ref>
**[[ヨーロッパトップ16]] - ETTU主催のヨーロッパの選手を対象にした国際大会。当初は12人による「ヨーロッパトップ12」という大会であったが、現在は16人による大会となっている。
*[[ユニバーシアード卓球競技|ユニバーシアード 卓球競技]] - [[ユニバーシアード]]の夏季大会において2001年から競技種目となっている。
=== 主なリーグ戦機構 ===
*メジャーリーグテーブルテニス(MLTT)
*[[Tリーグ (卓球)|Tリーグ]]
*[[日本卓球リーグ]] (JTTL)
**[[日本卓球リーグ#ビッグトーナメント(BT)|ビックトーナメント]] (BT)
*[[中国卓球スーパーリーグ]] (CTTSL)
*[[ヨーロッパチャンピオンズリーグ (卓球)|ヨーロッパチャンピオンズリーグ]] (ECL) - ヨーロッパの各リーグの上位クラブによる国際大会。
*{{仮リンク|ETTUカップ|en|ETTU Cup}} - ヨーロッパの各リーグのクラブの国際大会<ref group="注釈">[[サッカー]]競技における[[UEFAヨーロッパリーグ|ヨーロッパリーグ]]に近い位置付けの卓球大会である。</ref>
*[[卓球ブンデスリーガ|ドイツ・ブンデスリーガ]]
*メジャーリーグテーブルテニス(MLTT)
=== 各国の大会 ===
*[[全日本卓球選手権大会]]
*{{仮リンク|ドイツ卓球選手権|de|Deutsche Tischtennis-Meisterschaft|label=ドイツ選手権}}
*{{仮リンク|フランス卓球選手権|fr|Championnat de France de tennis de table|label=フランス選手権}}
*{{仮リンク|オランダ卓球選手権|de|Niederländische Tischtennis-Meisterschaft|label=オランダ選手権}}
*{{仮リンク|ポーランド卓球選手権|pl|Mistrzostwa Polski w tenisie stołowym|label=ポーランド選手権}}
*{{仮リンク|イギリス卓球選手権|en|English National Table Tennis Championships|label=イギリス選手権}}
*{{仮リンク|ロシア卓球選手権|ru|Чемпионат России по настольному теннису|label=ロシア選手権}}
*{{仮リンク|フィンランド卓球選手権|fi|Pöytätenniksen Suomen-mestaruuskilpailut|label=フィンランド選手権}}
*{{仮リンク|トルコ卓球選手権|tr|Türkiye Masatenisi Şampiyonası|label=トルコ選手権}}
*{{仮リンク|スウェーデン卓球選手権|sv|Svenska mästerskapen i bordtennis|label=スウェーデン選手権}}
==== 主要な日本の大会 ====
*荻村杯国際卓球選手権大会 (ジャパンオープン) ⇒[[#主要な国際大会]]
*全日本卓球選手権大会
**[[全日本卓球選手権大会#一般の部|一般の部]]
**[[全日本卓球選手権大会#ジュニアの部|ジュニアの部]]
**[[カデットの部]]
**[[全日本卓球選手権大会ホープス・カブ・バンビの部|ホープス・カブ・バンビの部]]
**[[全日本卓球選手権大会マスターズの部|マスターズの部]]
*[[ジャパントップ12卓球大会]]
*[[東京卓球選手権大会]]
*[[全日本社会人卓球選手権]]
*[[全日本実業団卓球選手権大会]]
*[[全日本大学対抗卓球選手権]]
*[[全日本学生卓球選手権大会]]
*[[全日本学生選抜卓球選手権大会]]
*[[全国高等学校卓球選手権大会]]
*[[全国高等学校選抜卓球大会]]
*[[四国高等学校卓球選手権大会]]
*[[全国中学校卓球大会]]
*[[全国中学選抜卓球大会]]
*[[全国ホープス卓球大会]]
*[[全国ホープス選抜卓球大会]]
*[[全国レディース卓球大会]]
===== その他の大会 =====
*[[国民体育大会]]
*[[全国健康福祉祭]](ねんりんピック)
*[[全国青年大会]]
*[[全国スポーツ祭典]]
*[[スリッパ温泉卓球大会]]
== 商業組織・メディア ==
=== 卓球用具メーカー ===
{| class="wikitable"
|+
!企業名
!主な展開[[ブランド]]名
!備考
|-
|[[タマス]]
|Butterfly(バタフライ)
|[[日本]]の企業
|-
|[[日本卓球]]
|Nittaku(ニッタク)
|日本の企業
|-
|[[VICTAS]]
|VICTAS(ヴィクタス)、TSP(ティーエスピー)<ref group="注釈"> 2020年10月から「TSP」と「VICTAS」がブランド統合しており「VICTAS」ブランドのみとなっている</ref>
|日本の企業。旧社名は「ヤマト卓球株式会社」であった
|-
|[[ヤサカ (卓球用品)|ヤサカ]]
|Yasaka(ヤサカ)
|日本の企業
|-
|[[アームストロング (卓球)|アームストロング]]
|Armstrong(アームストロング)
|日本の企業
|-
|[[三英]]
|SAN-EI(サンエイ)
|主に左記ブランドの卓球台を製造
|-
|[[上海紅双喜]]
|紅双喜 DHS(こうそうきディーエイチエス)
|[[中華人民共和国|中国]]の企業
|-
|[[XIOM]]
|XIOM(エクシオン)
|[[大韓民国|韓国]]の企業
|-
|{{仮リンク|スティガ|en|Stiga}}
|STIGA(スティガ)
|[[スウェーデン]]の企業
|-
|{{仮リンク|ドニック|de|DONIC}}
|DONIC(ドニック)
|[[ドイツ]]の企業
|-
|{{仮リンク|ティバー|de|Tibhar}}
|THIBHAR(ティバー)
|ドイツの企業
|-
|Schöler&Micke
|andro(アンドロ)
|{{仮リンク|エベルハルト・シェラー|de|Eberhard Schöler}}と{{仮リンク|ヴィルフリート・ミッケ|de|Wilfried Micke}}によるドイツの企業
|-
|[[ジュウイック]]
|JUIC(ジュウイック)
|日本の企業
|-
|{{仮リンク|コルニヨー|fr|Cornilleau}}
|cornilleau(コニヨール、コルニヨー)
|[[フランス]]の企業
|-
|[[ESNドイツ卓球テクノロジー]]
|※自社ブランドなし
|ドイツの企業。各社向けのラバーを開発・製造([[OEM]])している。<ref>{{Cite web |title=Table Tennis {{!}} ESN Deutsche Tischtennis Technologie GmbH |url=https://www.esn-tt.de/en/company/table-tennis |website=www.esn-tt.de |access-date=2023-07-09 |language=en}}</ref>
|}
=== 卓球メディア ===
*[[卓球王国]]
*[[卓球レポート]]
*[[ラリーズ]]
*[[卓球ナビ]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 国際卓球連盟 (ITTF) ハンドブック 第50版 (2022年)
* 日本卓球協会 「日本卓球ルール2023 (令和5年版)」 2023年6月1日改定
== 関連項目==
=== 映画 ===
*[[卓球温泉]]
*[[燃えよ!ピンポン]]
*[[ミックス。]]
*[[フォレスト・ガンプ/一期一会]]
=== テレビ ===
*[[パリス卓球 チームヒルトン]]
*[[卓球ジャパン!|卓球ジャパン]]
*FAKE MOTION 卓球の王将
*FAKE MOTION たったひとつの願い
=== 漫画 ===
*[[卓球戦隊ぴんぽん5]]
*[[行け!稲中卓球部]]
*[[ピンポン (漫画)|ピンポン]]
*[[必殺卓球人]]
*[[卓球社長]]
*[[恋はオン・エア!|卓球少女]]
*[[ラバーズ7]]
*[[卓球Dash!!]]
*[[Doubles!]]
*[[P2! - let's Play Pingpong! -]]
*[[ねこみみぴんぐす]]
*[[タッコク!!!]]
*[[灼熱の卓球娘]]
*[[卓上のアゲハ]]
*[[少年ラケット]]
*[[スリースター (漫画)|スリースター]]
=== 小説 ===
*[[卓球場シリーズ]]
*[[フォレスト・ガンプ (小説)|フォレスト・ガンプ]]
=== ゲーム ===
*[[ピンポンぱんつ! -湯河原学園美少女☆温泉卓球部-]]
*[[コナミのピンポン]]
*[[おきらくシリーズ#おきらくピンポンWii|おきらくピンポンWii]]
*[[対戦たっきゅう]]
*[[ライジンピンポン]]
*[[ポン (ゲーム)|ポン]]
== 外部リンク ==
{{sisterlinks|commons=Category:Table tennis}}
* [https://www.ittf.com/ 国際卓球連盟(ITTF)] {{en icon}}
* [https://www.attu.org/ アジア卓球連合(ATTU)] {{en icon}}
* [https://jtta.or.jp/ 公益財団法人日本卓球協会]
* [https://www.jttl.gr.jp/ 日本卓球リーグ実業団連盟]
* [https://www.kanto-sttf.jp/ 関東学生卓球連盟]
* [https://www.scit.ac.jp/sentakuren/zenkoku/ 全国専門学校卓球連盟]
* [https://www.joc.or.jp/ 日本オリンピック委員会(JOC)]
* [https://www.joc.or.jp/training/ntc/eliteacademy.html JOCエリートアカデミー]
* {{サイエンスチャンネル
|番組番号=B980601
|動画番号=b010601084
|動画タイトル=卓球ラケットができるまで
|中身の概要=株式会社タマスでの卓球ラケットの製造工程を紹介
|時間=14分
|製作年度=2001年
}}
* {{サイエンスチャンネル
|番組番号=B980601
|動画番号=b030601130
|動画タイトル=ピンポン球ができるまで
|中身の概要=日本卓球株式会社古河工場でのピンポン球の製造工程を紹介
|時間=14分
|製作年度=2003年
}}
* [https://www.youtube.com/watch?v=3HmCkRrTL9A THE MAKING(130)ピンポン球ができるまで] SCIENCE CHANNEL(JST)
{{国際卓球}}
{{日本の卓球}}
{{オリンピック卓球競技}}
{{世界卓球選手権}}
{{アジア競技大会の卓球}}
{{球技}}
{{スポーツ一覧}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:たつきゆう}}
[[Category:卓球|*]]
[[Category:オリンピック競技]]
[[Category:ラケットスポーツ]] | 2003-05-28T15:38:26Z | 2023-12-17T11:24:57Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%93%E7%90%83 |
9,494 | 中国の歴史 | 中国の歴史(ちゅうごくのれきし)、あるいは中国史(ちゅうごくし)の対象は、中国大陸の地域史であり、漢民族を中心に様々な異民族に加え、現在の中華人民共和国に至るまでの歴史である。中国の黄河文明は古代の世界四大文明の一つに数えられ、また、黄河文明よりもさらにさかのぼる長江文明が存在した。以降、現代までの中国の歴史を記す。
中国の歴史においては、政治的統一による平和の時代と、国家崩壊および戦争の時代が交互に繰り返された。最近のものは国共内戦(1927年–1949年)である。ときおり中国は遊牧民による支配を受け、最終的にそのほとんどは漢民族の文化に同化された。複数の王朝と戦国武将が支配する時代において、中華王朝は中国大陸の一部または全部を支配してきた。
歴代の王朝は、皇帝が広大な領土を直接支配することを可能にする官僚制度を発展させてきた。紀元前206年から西暦1912年までは、日常的な統治業務は士大夫と呼ばれる特別なエリートによって処理された。その官僚は科挙によって慎重に選考された。最後の王朝である清は、1912年の中華民国建国によって滅亡した。
中国に現れた最初期の人類としては、元謀原人や藍田原人、そして北京原人が主である。
中国大陸では、古くから文明が発達した。中国文明と呼ばれるものは、大きく分けて黄河文明と長江文明の2つがある。黄河文明は、畑作が中心、長江文明は稲作が中心であった。黄河文明が、歴史時代の殷(商)や周などにつながっていき、中国大陸の歴史の中軸となった。長江文明は次第に、中央集権国家を創出した黄河文明に同化吸収されていった。
長江文明は稲作発祥地として中国の発展の基盤となった。
黄河文明は、その後の中国の歴史の主軸となる。
遼河文明は黄河文明にも大きな影響と与えたとされる。
盤古、女媧、伏羲、蒼頡、顓頊
神農(炎帝)、蚩尤、黄帝、蒼頡
嚳 堯 舜 四凶(渾沌 饕餮 窮奇 檮杌) 四罪(共工 鯀 驩兜 三苗)
羿 禹 鯀 益 羿によって退治されたという悪獣たち(窫窳、鑿歯、九嬰、大風、修蛇、封豨)
史記では伝説と目される三皇五帝の時代に続き、最初の王朝国家として夏朝が創始されたとされる。しかし、その実在性については議論が存在する。
殷(代表的な遺跡殷墟が有名であるため日本では一般に殷と呼ばれるが、商の地が殷王朝の故郷とされており、商が自称であるという説もあるため、中国では商と呼ぶほうが一般的である。殷商とも呼ぶ。)が実在の確認されている最古の王朝である。殷では、王が占いによって政治を行っていた(神権政治)。殷は以前は山東で興ったとされたが、近年は河北付近に興ったとする見方が有力で、黄河文明で生まれた村のうち強大になり発展した都市国家の盟主であった と考えられる。
紀元前11世紀頃に殷を滅ぼした周は、各地の有力者や王族を諸侯として封建制をおこなった。しかし、周王朝は徐々に弱体化し、異民族に攻められ、紀元前770年には成周へ遷都した。その後、史記周本紀によれば犬戎の侵入により西周が滅び、洛陽に東周が再興されるが、平勢隆郎の検討によれば幽王が殺害されたあと短期間携王が西、平王が東に並立し、紀元前759年平王が携王を滅ぼしたと考えられる。平王のもとで周は洛陽にあり、西周の故地には秦が入る。これ以降を春秋時代と呼ぶ。春秋時代には、周王朝の権威はまだ残っていたが、紀元前403年から始まるとされる戦国時代には、周王朝の権威は無視されるようになる。
春秋戦国時代は、諸侯が争う戦乱の時代であった。
春秋時代は都市国家の盟主どうしの戦いだった。しかし春秋末期最強の都市国家晋が三分割されたころから様子が変わる。その当時の晋の有力な家臣六家が相争い、最初力が抜きん出ていた智氏が弱小な趙氏を攻めたものの、趙氏が農村を経済的ではなく封建的によく支配し城を守りきり、疲弊した智氏を魏氏、韓氏が攻め滅ぼしたことで最終的に晋は趙、魏、韓の三氏に分割され滅亡した。このこともあってそれまで人口多くてもせいぜい5万人程度だった都市国家が富国強兵に努め、商工業が発達し、貨幣も使用し始めやがて領土国家に変貌しその国都となった旧都市国家は30万人規模の都市に変貌する。また鉄器が普及したことも相まって、農業生産も増大した。
また、このような戦乱の世をどのように過ごすべきかという思想がさまざまな人たちによって作られた。このような思想を説いた人たちを諸子百家(陰陽家、儒家、墨家、法家、名家、道家、兵家等が代表的)という。
晋の分裂以後を一般に戦国時代という。
現在の陝西省あたりにあった秦は、戦国時代に着々と勢力を伸ばした。勢力を伸ばした背景には、厳格な法律で人々を統治しようとする法家の思想を採用して、富国強兵に努めたことにあった。秦王政は、他の6つの列強を次々と滅ぼし、紀元前221年には史上はじめての中国統一を成し遂げた。秦王政は、自らの偉業をたたえ、王を超える称号として皇帝を用い、自ら始皇帝と名乗った。
始皇帝は、法家の李斯を登用し、中央集権化を推し進めた。このとき、中央から派遣した役人が全国の各地方を支配する郡県制が施行された。また、文字・貨幣・度量衡の統一も行われた。さらに、当時モンゴル高原に勢力をもっていた遊牧民族の匈奴を防ぐために万里の長城を建設させた。さらに、軍隊を派遣して、匈奴の南下を抑えた。また、嶺南地方(現在の広東省)にも軍を派遣し、この地にいた百越諸族を制圧した。しかし、このような中央集権化や土木事業・軍事作戦は人々に多大な負担を与えた。さらに、宦官であった趙高が始皇帝の側近として力を強め、紀元前210年に始皇帝が死ぬと、趙高は暴政をはじめたため、翌年には陳勝・呉広の乱という農民反乱がおきた。反乱軍は破竹の勢いで各地を次々に制圧し、かつての戦国時代、李牧擁する5カ国の合従軍さえも絶対に抜けなかった函谷関が抜かれる。この乱に刺激され各地で反乱がおき、項羽と劉邦の挙兵後、劉邦が都であった咸陽を占領し、ついに秦は紀元前206年に滅びた。
秦の滅亡後、項羽と劉邦が覇権を争った(楚漢戦争)。当初、項羽有利であったが、韓信が、劉邦側に寝返ったことを機に、劉邦が主導権を握るようになった。そして、紀元前202年の垓下の戦いで項羽は自害し、劉邦は天下を統一した。
劉邦は、始皇帝が急速な中央集権化を推し進めて失敗したことから、一部の地域には親戚や臣下を王として治めさせ、ほかの地域を中央が直接管理できるようにした。これを郡国制という。しかし、紀元前154年には、各地の王が中央に対して呉楚七国の乱と呼ばれる反乱を起こした。この反乱は鎮圧され、結果として、中央集権化が進んだ。紀元前141年に即位した武帝は、国内の安定もあり、対外発展を推し進めた。武帝は匈奴を撃退し、シルクロードを通じた西方との貿易を直接行えるようにした。また、朝鮮半島北部、ベトナム北中部にも侵攻した。漢四郡などこれらの地域はその後も強く中国文化の影響を受けることとなった。また、武帝は董仲舒の意見を聞いて、儒教を統治の基本とした。これ以降、中国の王朝は基本的に儒教を統治の基本としていく。
一方で文帝の頃より貨幣経済が広汎に浸透しており、度重なる軍事行動と相まって、農民の生活を苦しめた。漢の宮廷では貨幣の浸透が農民に不利益であることがしばしば論じられており、農民の救済策が検討され、富商を中心に増税をおこなうなど大土地所有を抑制しようと努力した。また儒教の国教化に関連して儒教の教義論争がしばしば宮廷の重大問題とされるようになった。ちなみに、このころイエス・キリストが生まれ、以降は紀元後となる。
8年には、王莽が皇帝の位を奪って漢を滅ぼし、新を建てた。王莽は当初儒教主義的な徳治政治をおこなったが、相次ぐ貨幣の改鋳や頻繁な地名、官名の変更など理想主義的で恣意的な政策をおこなったため徐々に民心を失い、辺境異民族が頻繁に侵入し、赤眉の乱など漢の復興を求める反乱が起き、内乱状態に陥った(新末後漢初)。その中で新は更始帝により滅ぼされる。
その後漢の皇族の血を引く劉秀によって漢王朝が復興された。この劉秀が建てた漢を後漢という。王朝初期には雲南に進出し、また班超によって西域経営がおこなわれ、シルクロードをおさえた。初期の後漢王朝は豪族連合的な政権であったが、章帝の時代までは中央集権化につとめ、安定した政治が行われた。しかし安帝時代以後外戚や宦官の権力の増大と官僚の党派対立に悩まされるようになった。
黄巾の乱以降、隋が589年に中国を再統一するまで、一時期を除いて中国は分裂を続けた。この隋の再統一までの分裂の時代を魏晋南北朝時代という。また、この時期には日本や朝鮮など中国周辺の諸民族が独自の国家を形成し始めた時期でもある。
魏晋南北朝表も参照。
後漢末期の184年には、黄巾の乱と呼ばれる農民反乱が起き、黄巾の乱が鎮圧されたあと、都では董卓が暴政を始め、豪族が各地に独自政権を立てた。中でも有力であったのが、後漢王朝の皇帝を擁していた曹操である。しかし、中国統一を目指していた曹操は、208年に赤壁の戦いで、江南の豪族孫権に敗れた。結局、曹操の死後、220年に曹操の子 曹丕が後漢の皇帝から皇帝の位を譲られ、魏を建国した。このことにより後漢は滅亡し、漢王朝は完全に滅びた。これに対し、221年には現在の四川省に割拠し、漢王朝の復興を唱えていた劉備が皇帝となり、蜀漢を建国した。江南の孫権も229年に皇帝と称し、呉を建国した。この蜀、魏、呉の三国が鼎立した時代を三国時代という。
三国の中で、もっとも有力であったのは魏であった。魏は後漢の半分以上の領土を継承したが、戦乱で荒廃した地域に積極的な屯田をおこない、支配地域の国力の回復につとめた。魏では官吏登用法として、九品官人法 がおこなわれた。
三国時代は基本的に魏と呉・蜀同盟との争いを軸としてしばしば交戦したが、魏で重鎮であった司馬懿がクーデターを起こし、司馬一族が魏の国内の権力を掌握した(高平陵の変)。その後、蜀が263年に魏に滅ぼされた(蜀漢の滅亡)。司馬懿の死後、息子の司馬師、司馬昭が後を継ぎ、司馬昭が晋王となる。そして265年、司馬昭の息子である司馬炎が魏の皇帝である元帝より禅譲をうけ、皇帝として即位し魏は滅亡する。そして司馬炎は新たな王朝として西晋を興した。その後、司馬炎は呉に20万の大軍を送り、呉を滅ぼした(呉の滅亡)。これにより三国時代は終結し、晋が中国統一を果たした。
だがその後司馬炎は急に堕落し政務を顧みなくなり、その死後帝位をめぐって各地の皇族が戦争を起こした (八王の乱)。
この時、五胡と呼ばれる異民族を軍隊として用いたため、これらの民族が非常に強い力を持つようになった。316年には、五胡の1つである匈奴の劉淵が晋を滅ぼし、漢(その後前趙)を建てた永嘉の乱)。これ以降、中国の北方は、五胡の建てた国々が支配し、南方は江南に避難した晋王朝(南に移ったあとの晋を東晋という)が支配した。この時期は、戦乱を憎み、宗教に頼る向きがあった。代表的な宗教が仏教と道教であり、この2つの宗教は時には激しく対立することがあった。 439年の北魏による華北統一により南北朝時代へと移る。
江南を中心とする中国の南方では、異民族を恐れて、中国の北方から人々が多く移住してきた。これらの人々によって、江南の開発が進んだ。それに伴い、貴族が大土地所有を行うということが一般的になり、貴族が国の政治を左右した。一部の貴族の権力は、しばしば皇帝権力よりも強かった。これらの貴族階層の者により散文、書画等の六朝文化と呼ばれる文化が発展した。東晋滅亡後、宋・斉・梁・陳という4つの王朝が江南地方を支配したが、貴族が強い力を握ることは変わらなかった。梁の武帝は仏教の保護に努めた。
華北を統一し、五胡十六国時代を終わらせた北魏は471年に即位した孝文帝によって漢化政策を推し進めた。また、土地を国家が民衆に割り振る均田制を始め、律令制の基礎付けをした。しかし、このような漢化政策に反対するものがいたこともあり、北魏は、西魏と東魏に分裂した。西魏は北周へと、東魏は北斉へと王朝が交代した。577年には北周が北斉を滅ぼしたが、581年に、隋が北周にとって代わった。589年に、隋は陳を滅ぼし、中国統一を達成した。
隋唐史とは、隋王朝と唐王朝の歴史のことだが、6世紀末から10世紀初にかけての中国大陸を中心とする東アジア地域史を、隋唐史と呼ぶこと自体に、隋や唐という王朝を自明の存在としてしまう罠がしかけられている。易姓革命による王朝交替をしめす隋(楊隋)や唐(李唐)の名称を用いることによって、華北の黄土に拠点をおく政権が、中国大陸全体を支配する揺るぎのない政権である印象が生まれ、内外の政治情勢のなかで、政権の正統性の構築をめざしてもがき続けた、可変的で流動性に富んだ側面がみえにくくなる。軍閥内の権力闘争を勝ち抜いて、楊堅が隋王朝を建国した際、政権の正統化作業に多大な労力を割いたことは、アーサー・F・ライトが明らかにしている。宮崎市定は、隋王朝が、権力基盤が不安定ななかで政治運営に苦心する状況を叙述した。唐建国が、隋末に勃発した各地の軍閥同士の大規模な戦闘と、突厥や南匈奴などが中原に影響力を及ぼす複雑な内外情勢のなかで挙行され、隋末の政治状況が唐建国後にも影響を与えたことは、氣賀澤保規や石見清裕が明らかにしている。唐王朝は、建国後も政権内で権力闘争が続き、武則天が皇帝となり周王朝を建国した時点で一旦断絶し、唐という統一王朝が10世紀初まで継続して存続した訳ではない。後の歴史家が、女帝である武則天による周王朝の建国を認めなかったに過ぎず、安禄山政権の燕王朝や、朱泚政権の秦王朝・漢王朝、黄巣政権の斉王朝などが長安を都に建国したことによって、唐王朝は、繰り返し正統性を否定されている。隋唐という名称こそが、自らの存在を固定し正統化しようとする隋唐の政権担当者たちが、同時代と後代の歴史家を抱き込もうとした文化的仕掛けである。中国の伝統的正統史観を相対化するための戦略として、普遍的な時代区分の名称を用いて、隋唐期を「中国中世後期」と称したり、杉山正明のように、北魏の前身の代国から隋唐王朝までの国家を、政権統治者層が一貫して鮮卑拓跋である点に注目し、「拓跋国家」と名づける考えもある。歴史叙述が異なる価値観のせめぎあう場であることを認め、6世紀末から10世紀初にかけての中国大陸を中心とする東アジア地域史を、隋唐史と呼ぶことの政治性を自覚すべきである。隋唐王朝の存在を自明の前提として、そこから遡る歴史叙述とは別に、何もないところから隋や唐という王朝名を自称する政権が強引に構築されてゆく、政治権力の生成過程を分析する方法を模索すべきであり、唐太宗が勅撰した『晋書』の思想性を分析する礪波護、武田幸男、安田二郎、『周書』を分析する前島佳孝、『貞観氏族志(中国語版)』を分析する山下将司の研究により、唐太宗政権が、歴史書の編纂を用いて、支配の正統化の獲得にもがく様が明らかになっている。唐太宗時に編纂がはじまり高宗時に完成した『隋書』経籍志序文および目録部分に、精緻な考証を施した興膳宏、川合康三も唐初の政治文化を把握する示唆を与えてくれる。
隋の文帝は、均田制・租庸調制・府兵制などを進め、中央集権化を目指した。また同時に九品中正法を廃止し、試験によって実力を測る科挙を採用した。しかし、文帝の後を継いだ煬帝は江南・華北を結ぶ大運河を建設したり、度重なる遠征を行ったために財政が逼迫し、民衆の負担が増大した。三回目の高句麗遠征に合わせて農民反乱が起き、618年に隋は滅亡した。日本の聖徳太子から遣隋使(小野妹子)が送られた。
隋に代わって、中国を支配したのが、唐である。唐は基本的に隋の支配システムを受け継ぎ、626年に即位した太宗は租庸調制を整備し、律令制を完成させた。唐の都の長安は、当時世界最大級の都市であり、各国の商人などが集まった。長安は、西方にはシルクロードによってイスラム帝国や東ローマ帝国などと結ばれ、ゾロアスター教・景教・マニ教をはじめとする各地の宗教が流入した。また、文化史上も唐時代の詩は最高のものとされる。
唐太宗の死後着々と力を付けた太宗とその子の高宗の皇后武則天はついに690年政権を簒奪し、中国史上唯一の女皇帝に即位し、国号を周とした。
712年に玄宗は唐を再興させて国内の安定を目指したが、すでに律令制は制度疲労を起こしていた。また、周辺諸民族の統治に失敗したため、辺境に強大な軍事力を持った節度使を置く必要がでてきた。節度使は軍権以外にも、後に民政権・財政権も持ち始め、755年には、節度使の安禄山たちが安史の乱と呼ばれる反乱を起こした。この反乱は郭子儀や僕固懐恩、ウイグル帝国の太子の葉護らの活躍で何とか鎮圧されたが、反乱軍の投降者の勢力を無視できず、投降者を節度使に任じたことなどからさらに各地で土地の私有(荘園)が進み、土地の国有を前提とする均田制が行えなくなっていった。結局政府は土地の私有を認めざるを得なくなり、律令制度は崩壊した。875年から884年には黄巣の乱と呼ばれる農民反乱がおき、唐王朝の権威は失墜し、各地の節度使はますます権力を強め、907年には節度使の1人である朱全忠が唐を滅ぼした。
唐の滅亡後、各地で節度使があい争った。この時代を五代十国時代という。この戦乱を静めたのが、960年に皇帝となって宋を建国した趙匡胤である。ただし、宋が完全に中国統一を達成したのは趙匡胤の死後の976年である。
唐の滅亡後、各地で節度使が争った。この時代を五代十国時代という。この戦乱を静めたのが、960年に皇帝となって宋を建国した趙匡胤である。ただし、宋が完全に中国統一を達成したのは趙匡胤の死後の976年である。
北宋初の皇帝趙匡胤は、節度使が強い権力をもっていたことで戦乱が起きていたことを考え、軍隊は文官が率いるという文治主義をとっ た。また、これらの文官は、科挙によって登用された。宋からは、科挙の最終試験は皇帝自らが行うものとされ、科挙で登用された官吏と皇帝の結びつきは深まった。また、多くの国家機関を皇帝直属のものとし、中央集権・皇帝権力強化を進めた。科挙を受験した人々は大体が、地主層であった。これらの地主層を士大夫と呼び、のちの清代まで、この層が皇帝権力を支え、官吏を輩出し続けた。
唐は、その強大な力によって、周辺諸民族を影響下においていたが、唐の衰退によってこれらの諸民族は自立し、独自文化を発達させた。また、宋は文治主義を採用していたため、戦いに不慣れな文官が軍隊を統制したので、軍事力が弱く、周辺諸民族との戦いにも負け続けた。なかでも、契丹族の遼・タングート族の西夏は、中国本土にも侵入し、宋を圧迫した。これらの民族は、魏晋南北朝時代の五胡と違い、中国文化を唯一絶対なものとせず、独自文化を保持し続けた。このような王朝を征服王朝という。後代の元や清も征服王朝であり、以降、中国文化はこれらの周辺諸民族の影響を強く受けるようになった。
文化的には、経済発展に伴って庶民文化が発達した。また、士大夫の中では新しい学問をもとめる動きが出て、儒教の一派として朱子学が生まれた。
1127年には、金の圧迫を受け、宋は、江南に移った。これ以前の宋を北宋、以降を南宋という。南宋時代には、江南の経済が急速に発展した。また、すでに唐代の終わりから、陸上の東西交易は衰退していたが、この時期には、ムスリム商人を中心とした海上の東西交易が発達した。当時の宋の特産品であった陶磁器から、この交易路は陶磁の道と呼ばれる。南宋の首都にして海上貿易の中心港だった杭州は経済都市として栄え、元時代に中国を訪れたマルコ・ポーロは杭州を「世界一繁栄し、世界一豊かな都市」と評している。
13世紀初頭にモンゴル高原で、成吉思汗(チンギス・カン)が、モンゴルの諸部族を統一し、ユーラシア大陸各地へと、征服運動を開始した。モンゴルは、東ヨーロッパ、ロシア、小アジア、メソポタミア、ペルシャ、アフガニスタン、西蔵(チベット)にいたる広大な領域を支配し、この帝国はモンゴル帝国(蒙古帝国)と呼ばれる。
モンゴル帝国は各地に王族や漢人有力者を分封した。モンゴル帝国の5代目の君主(ハーン)にクビライ(忽必烈)が即位すると、これに反発する者たちが、反乱を起こした。結局、モンゴル帝国西部に対する大ハーン直轄支配は消滅し、大ハーンの政権は中国に軸足を置くようになった。もっとも、西方が離反しても、帝国としての緩やかな連合は保たれ、ユーラシアには平和が訪れていた。
1271年にクビライは元を国号として中国支配をすすめた。当時、黄河が南流し、山東半島の南に流れていたため、漢民族は北方民族の攻勢を防げなかった。華北は満洲系の女真族による金が、南部を南宋が支配していたが、金は1234年、南宋は1279年にモンゴル帝国に滅ぼされた。
元朝の中国支配は伝統的な中国王朝とは大きく異なっていた。モンゴル人は中国の伝統的な統治機構を採用せず、遊牧民の政治の仕組みを中国に移入したからである。元の支配階級の人々は、すでに西方の優れた文化に触れていたため、中国文化を無批判に取り入れることはなかった。それは政治においても同様だったのである。
それに伴い、伝統的な統治機構を担ってきた、儒教的な教養を身に付けた士大夫層は冷遇され、政権から遠ざけられた。そのため、彼らは曲や小説などの娯楽性の強い文学作品の執筆に携わった。この時代の曲は元曲と呼ばれ、中国文学史上重要なものとされる。また、モンゴル帝国がユーラシア大陸を広く支配したために、この時期は東西交易が前代に増して盛んになった。
元朝は、宮廷費用などを浪費しており、そのため塩の専売策や紙幣の濫発で収入を増やそうとした。しかし、これは経済を混乱させるだけであった。
モンゴル人の統治の下、庶民の生活は困窮していたため、各地で反乱が発生した。中でも最大規模のものは1351年に勃発した皇漢起義であった。紅巾党の中から頭角をあらわした朱元璋は、1368年に南京で皇帝に即位して明を建国した。同年、朱元璋は元朝の国都の大都を陥落させ、元の政府はモンゴル高原へと撤退した。撤退後の元朝のことを北元といい、明と北元はしばしば争った。明側は1388年に北元は滅んだと称しているが、実質的にはその後も両者の争いは続いた。
洪武帝(朱元璋)の死後、孫の建文帝が即位したが、洪武帝の四男である朱棣が反乱(靖難の変)を起こし、朱棣が永楽帝として皇帝になった。永楽帝は、モンゴルを攻撃するなど、積極的に対外進出を進めた。また、鄭和を南洋に派遣して、諸国に朝貢を求めた。この時の船が近年の研究によって長さ170m余、幅50m余という巨艦で、その約70年後の大航海時代の船の5倍から10倍近い船であったことが分かっている。
また、永楽帝によって現在に至るまで世界最大の宮殿である紫禁城が北京に築かれた。
永楽帝の死後、財政事情もあって、明は海禁政策をとり、貿易を著しく制限することとなる。このとき永楽帝を引き継いで、鄭和のようにずっと積極的に海外へ進出していれば、ヨーロッパのアジア・アフリカ支配も実現しなかっただろうと多くの歴史家は推測する。その後、モンゴルが再び勢力を強めはじめ、1449年には皇帝がモンゴルの捕虜になるという事件(土木の変)まで起きた。また、この頃に陽明学が出来る。
明代の後期には、メキシコや日本から大量の銀が中国に流入し、貨幣として基本的に銀が使われるようになった。そのため、政府も一条鞭法と呼ばれる税を銀で払わせる税法を始めた。また、清朝に入ると、人頭税を廃止し土地課税のみとする地丁銀制が始まった。また明清両代ともに商品経済が盛んになり、農業生産も向上した。中国南部沿岸には、倭寇と呼ばれる海上の無法者たちが襲撃を重ねていた。これは、海禁政策で貿易が自由にできなくなっていたためである。倭寇とモンゴルを併称して「北虜南倭」というが、北虜南倭は明を強く苦しめた。
また、皇帝による贅沢や多額の軍事費用の負担は民衆に重税となって圧し掛かってきた。これに対し、各地で反乱がおき、その中で頭角をあらわした李自成が1644年に明を滅ぼした。
その後、明の皇帝一族と遺臣によって南明が華中・華南で立てられたが、華北から南進してきた清朝によって短期間で滅ぼされた。南明の滅亡後も鄭成功が台湾で東寧王国を建てて清朝に抵抗したが、こちらも短命に終わった。
17世紀初頭には、満洲でヌルハチが満洲族を統一した。その子のホンタイジは満洲と蒙古を征服し、1636年には蒙古人から元朝の玉璽を譲られ、清朝を建国した。李自成が明を滅ぼすと、清朝の軍隊は万里の長城を越えて中国本土へ進出し、李自成の軍隊を打ち破り旧明の遺臣を取り込みながら中国全土を支配下に置いた。
17世紀後半から18世紀にかけて、康熙帝・雍正帝・乾隆帝という3人の賢帝の下で、清朝の支配領域は中国本土と中国東北地方・モンゴルのほかに、台湾・東トルキスタン・チベットにまで及んだ。
この清の支配領域が大幅に広がった時期は、『四庫全書』の編纂など文化事業も盛んになった。しかし、これは学者をこのような事業に動員して、異民族支配に反抗する暇をなくそうとした面もあった。
18世紀が終わるまでには、清とヨーロッパとの貿易はイギリスがほぼ独占していた。但し、当時イギリスの物産で中国に売れるものはほとんどなく、逆に中国の安いお茶はイギリスの労働者階級を中心に大きな需要があったこともあり、イギリスは貿易赤字に苦しんだ。そこで、イギリスは麻薬であるアヘンを中国に輸出し始めた。結果、イギリスは大幅な貿易黒字に転じ、中国にはアヘン中毒者が蔓延した。この蔓延を重く見た清朝政府は、1839年に林則徐に命じてアヘン貿易を取り締まらせた。しかし、これに反発したイギリス政府は清に対して翌1840年宣戦布告した。アヘン戦争と呼ばれるこの戦争では、工業化をとげ、近代兵器を持っていたイギリス軍が勝利した。これ以降、イギリスを初めとするヨーロッパの列強は清に対し、治外法権の承認、関税自主権の喪失、片務的最恵国待遇の承認、開港、租借地の設置といった不平等条約を締結させ、中国の半植民地化が進んだ。また、不平等条約締結の過程で清は、外満洲やトルキスタン、香港島・九龍半島、マカオ等の自国支配地域を列強に割譲させられた。
国内的には、太平天国の乱などの反乱もしばしば起きた。これに対し、同治帝(在位1861年 - 1875年)の治世の下で、ヨーロッパの技術の取り入れ(洋務運動)が行われた。
1894年から翌1895年にかけて清と日本との間で行われた日清戦争にも清は敗退した。これは洋務運動の失敗を意味するものであった。この戦争の結果、伊藤博文・陸奥宗光の日本と李鴻章を代表とする清朝との間で下関条約が結ばれ、清は台湾を日本へ割譲した他、李氏朝鮮の独立を認めた。これにより、中国の歴代王朝が長年続けてきた冊封体制が崩壊した。
その後、清朝は改革を進めようとしたものの、沿岸地域を租借地とされるなどのイギリス・フランス・ロシア・ドイツ・アメリカ合衆国・日本による半植民地化の動きは止まらなかった。
1911年10月の武昌での軍隊蜂起をきっかけに辛亥革命が起こり、華中、華南を中心とした各省が清からの独立を宣言した。11月袁世凱が清国内閣総理大臣に就任し、革命軍の鎮圧にあたった。12月革命軍側が、南京を占領する。同月、清国政府と独立各省との間に停戦が成立した。翌1912年1月1日、革命派の首領の孫文によって南京で中華民国臨時政府の樹立が宣言され、孫文は臨時大総統に就任した。これにより、中国は北京の清国政府と南京の中華民国政府の南北両政府並立状態となる。清国政府の袁世凱及び南京政府の臨時参議院の意向により、北京にいた清朝皇帝・溥儀(宣統帝)は2月12日に退位し、清朝と共に中華王朝は終焉した。3月10日には、南京政府の合意の元で袁世凱が臨時大総統に就任した。
辛亥革命により清国が消滅すると、その旧領を巡って中華民国(中国)と西蔵(チベット)・外蒙古(モンゴル)・新疆(東トルキスタン)の各勢力の間で対立が発生した。
中華民国は、清の継承国として滅亡時点の旧清領全域の領有権を主張した。これに対して、西蔵・外蒙古・新疆は、自分たちは清朝の皇帝に服属していたのであって中国という国家に帰属するものではなく、服属先の清帝退位後は中国と対等の国家であると主張してそれぞれ自領域の独立を目指す動きを強めた。
チベットの独立運動
当時のチベットの中心地だったポタラ宮では、ダライ・ラマを補佐していたパンチェン・ラマが親中的であったために、イギリスに接近するダライ・ラマに反発し、1925年に中国へ亡命した。1933年にダライ・ラマ13世が死去すると、中国の統治下にあったチベット東北部のアムド地方(青海省)で生まれたダライ・ラマ14世の即位式典に国民政府の使節団が列席したが、式典が終了した後も蒙蔵委員会駐蔵弁事処を自称してラサに留まった。1936年には、長征中の中国共産党の紅軍がカム地方東部(西康省)に滞留中、同地のチベット人に「チベット人民共和国」(博巴人民共和国)を組織させたが、紅軍の退出とともに、ほどなく消滅した。
モンゴルの独立成功
1913年、モンゴルではボグド・ハーンによって、チベットではダライ・ラマ13世よって中国からの独立が宣言され、両者はモンゴル・チベット相互承認条約を締結する等国際的承認を求め、これを認めない中華民国とは戦火を交えた。この状況は、モンゴル域への勢力浸透をはかるロシア、チベット域への進出をねらうイギリスの介入を許し、モンゴルについては蒙・露・中華民国でキャフタ協定を調印・批准して一応の解決ができた。だが、チベットについては、西・英がシムラ条約を調印・批准したものの中華民国調印を拒否した為に問題の解決には至らなかった。
この問題は最終的に、モンゴルについては外蒙古部分のみの独立を1946年に国民政府が承認することによって、チベットについては1951年締結の十七ヶ条協定によってチベットの独立否定とチベット人の自治権確保をガンデンポタンと中華人民共和国が確認した事によって、一応の決着をみた。
東トルキスタンの動乱
東トルキスタン(新疆)では、19世紀中に統治機構の中国化が達成されていた。即ち、旗人の3将軍による軍政と地元ムスリムによるベク官人制に代わり、新疆省を頂点として省内を府、州、県に行政区画した各地方に漢人科挙官僚を派遣して統治する体制である。そのため、辛亥革命時、東トルキスタンでは地元ムスリムがチベットやモンゴルと歩調をあわせて自身の独立国家を形成しようとする動きはみられず、新疆省の当局者達は速やかに新共和国へ合流する姿勢を示した。
この地では、楊増新が自立的な政権を維持し、またソビエト連邦と独自に難民や貿易の問題について交渉した。楊増新の暗殺後は金樹仁が実権が握ったが、彼は重税を課して腐敗した政治を行った為、1931年には大規模な内乱状態に陥った。その後金樹仁の部下であった盛世才が実権を握るようになり、彼はソ連に倣った政策を打ち出して徐々に権力を強化した。一方で、ウイグル人が主体となって1933年~1934年と1944年~1946年に東トルキスタン共和国の独立が宣言されたが、いずれも新疆省内の一部地域を支配するに止まった。
中華民国成立後、1913年2月に国会議員選挙が実施され国民党が圧勝した。3月、議会からの圧力を警戒した袁世凱は国民党の宋教仁を暗殺した。袁世凱は進歩党を組織し国会内での勢力拡大を図り、議会主義的な国民党の勢力削減を企てた。国民党の急進派はこれに反発し、第二革命を起こしたが鎮圧された。1913年10月に袁は正式な大総統となり、更に11月には国民党を非合法化し、解散を命じた。1914年1月には国会を廃止、5月1日には立法府の権限を弱め大総統の権力を大幅に強化した中華民国約法を公布した。
袁は列強から多額の借款を借り受けて積極的な軍備強化・経済政策に着手した。当初列強の袁政権に対する期待は高かった。しかしこのような外国依存の財政は、後に列強による中国の半植民地化をますます進めることにもなった。第一次世界大戦が始まると、新規借款の望みがなくなったため、袁は財政的に行き詰まった。また同時期に日本が中国での権益拡大に積極的に動いた。
1915年5月9日に、袁が大隈重信内閣の21ヶ条要求を受けたことは大きな外交的失敗と見られ、同日は国恥記念日とされ袁の外交姿勢は激しく非難された。袁は独裁を強化する事でこの危機を乗り越えようとし、立憲君主制的な皇帝制度へ移行し、自身が皇帝となる事を望んだ。日本も立憲君主制には当初賛成していたようだが、中国国内で帝制反対運動が激化すると反対に転じ外交圧力をかけた。12月に袁世凱は中華帝国皇帝となるが、同月中に帝制に反対する蔡鍔、李烈鈞、唐継尭が下野し雲南省は独立を宣言して北京政府に反旗を翻した(護国戦争)。
1916年3月に袁は中華帝国を廃止し、1916年に袁は失意のうちに没した。第二代大総統に副総統の黎元洪が就任し、副総統に馮国璋を、4月には段祺瑞を国務総理に任命した。
段祺瑞は当初国会 の国民党議員などと提携し、調整的な政策をとっていた。しかし、第一次世界戦に対独参戦しようとした為、徐々に国会と対立した。段は日本の援助の下に強硬な政策を断行した。1917年8月14日に段は第一次世界大戦へ対独参戦し、同時に軍備を拡張して国内の統一を進めた。鉄道や通信等の業界を背景とする利権集団に支えられた段は、1918年には国会議員改定選挙を強行した。国民党はこれに激しく対立し、南方の地方軍とともに孫文を首班とする広東軍政府をつくった。
5月に段は日本と日中軍事協定 を結んだが、寺内正毅内閣失脚後に日本の外交方針が転回すると急速に没落した。段の安徽派と対立関係にあった直隷派の馮国璋は徐世昌を大総統に推薦し、段もこれを受け入れた。これにより親日的な安徽派は徐々に影響力を失い、1919年5月4日には山東半島での主権回復と反日を訴えるデモ行進が始まった。これを五・四運動と言う。なお、山東半島は1922年に返還された。1920年7月の安直戦争で直隷派に敗れたことで段は失脚し、奉直戦争を経て張作霖が北京政府の実権を掌握した。
袁世凱により国民党が非合法化された後、孫文は1914年7月に中華革命党を東京で結成した。1919年には拠点を上海に移し、中国国民党と改称した。1921年には上海で中国共産党が成立した。これらの政党は1918年のロシア革命の影響を受けており、議会政党というよりも明確な計画性と組織性を備えた革命政党を目指した。1924年に国民党は第一回全国大会を行い、党の組織を改編するとともに共産党との合同(第一次国共合作)を打ち出した。孫文はこの頃全く機能していなかった国会に代わって国内の団体代表による国民会議を提唱し、これに呼応した馮国璋により北京に迎えられた。1925年には国民会議促成会が開かれたが、この会期中に孫文は没した。7月には広東軍政府で機構再編が進み、中華民国国民政府の成立が宣言された。一方で1924年6月には蔣介石を校長として黄埔軍官学校が設立された。1925年4月に国民革命軍が正式に発足され、国民党は蔣介石を指導者として軍事的な革命路線を推し進めることとなった。
1926年7月に蔣介石は広州から北伐を開始したが9月にイギリス軍によって万県市街が砲撃される事件が起きた(万県事件)。1927年1月には武漢に政府を移し、武漢国民政府と呼ばれるようになった。この武漢国民政府では当初国民党左派と共産党が優位にあったが、同年3月に南京事件が発生すると諸外国と緊張状態に陥った蔣介石は4月12日上海クーデターを起こしてこれらを弾圧し、4月18日には反共を前面に打ち出した南京国民政府を別個に成立させた(寧漢分裂)。南京国民政府は主に上海系の資本家(浙江財閥)に支えられ、北京・武漢・南京に3つの政権が鼎立することになったが、9月ごろから武漢政府も反共に転じ、南京政府に吸収された。
1928年6月には南京政府の国民革命軍が北京政府を打倒し、東北軍閥の張作霖が奉天近郊で日本の関東軍により爆殺された(張作霖爆殺事件)。これを受け、12月に息子の張学良も南京政府を承認(易幟)したことから、国民政府によって中国の政権は再び統合された。
西欧諸国は慈善事業も兼ねて、中国に様々なインフラストラクチャー投資を行っており、大学などの教育機関219、医療機関96、図書館9、博物館6、及び天文台1、孤児院等福祉施設55、また上海競馬倶楽部など国際レクリエーション施設が欧米諸国によって設立されていた。日本企業と米国企業の合弁会社による満鉄総合病院もあった。
国民政府においては基本的に国民党の一党独裁の立場が貫かれた。しかし一般党員の数は50万人以下であったとされており、人口が4億を超えると推測されていた中国国民の中ではかなり少数であった(そもそも大多数の国民が「国民」として登録されておらず、更に文盲の者も多かった)。その為、支配基盤が完全とは程遠く、土地税を中心として地方政権の財源を確保する国地画分政策が実施され、かつての軍閥による割拠的傾向がいまだに強い地方勢力に配慮するようなこともなされた。
1929年にはソ連軍が内満洲に侵攻し(中ソ紛争)、ハバロフスク議定書が結ばれるとソビエト連邦の影響力が強まった。1930年代前半には国民政府に叛旗を翻す形で地方政権が樹立される例が多くなり、軍事衝突なども起きた。1930年に閻錫山と汪兆銘が中心となった北平政府や、1931年に孫科らが設立した広州政府等である。
但し此のような軍事的緊張は国民政府の中央軍を掌握していた蔣介石の立場をより強固にすることにもなった。蔣介石は経済政策 でも手腕を発揮して影響力を増し、中国は南京国民政府の樹立から日中戦争勃発までの間に黄金の十年(中国語版)と呼ばれる発展期を迎えた。
張作霖が関東軍に爆殺された後を継いだ張学良は国民革命を支持しており、自身の支配していた満洲を国民政府へ合流させた(易幟)。この為に反日運動が満洲にも広がったが、日本は日露戦争以降に獲得した内満洲における権益を維持しようとしていた為にこれに大きく反発した。1931年9月、満洲事変が起こると、関東軍は日本政府(当時、若槻禮次郎首相・第二次若槻内閣)の意向を無視して大規模な武力行動を行い、内満洲を占領した。しかし、列強はこれを傍観する姿勢をとったので、日本政府はこの行動を追認した。
満洲事変を受け、中国政府は日本の内満洲占領を国際連盟に提訴し、1932年3月に国際連盟からリットン調査団が派遣された。関東軍は同時期に満洲国を樹立して内満洲の中国からの分離を進めたが、1933年2月に国際連盟の総会で付議され成立した最終報告書では、日本の内満洲における特殊権益を確認した上で九カ国条約の原則に基づき内満洲は中国に帰属すると認定された。ただし、日本が最終報告書の成立を不服として国際連盟を脱退した為に関東軍は内満洲の占領を解かず、日本の内満洲における軍事行動は1933年5月に日中間で停戦協定(塘沽協定)が結ばるまで続いた。
その後、1934年には満洲国は帝制に移行した。
1931年に瑞金で中華ソビエト共和国を樹立していた中国共産党は満洲国建国時に日本へ宣戦布告していたが、国民党との抗争(国共内戦)に忙しく、中国国民で一致して日本の侵攻に立ち向かうことはできなかった。1934年には瑞金が国民党の攻勢により陥落し、打撃を受けた中国共産党は長征と称して西部に移動し、組織の再編をはかった。長征の結果、中国共産党は延安に拠点を移した。
満洲事変で内満洲をほぼ制圧した日本軍は、列強の注目を内満洲からそらす事を目的の一つとして1932年1月に第一次上海事変を起こした。事変は5月に上海停戦協定を調印して終結したが、調印直前に上海天長節爆弾事件が発生した。
1937年には、盧溝橋事件、第二次上海事変や中華民国軍による通州事件などにより在留邦人やその守備隊が攻撃されたことから、日本軍は中国本土に在留邦人保護のために部隊を派遣した。これにより中華民国と全面戦争に入った(日中戦争、当時の日本側呼称:支那事変)。これに対し、蔣介石は当初日本との戦いよりも中国共産党との戦いを優先していたが、西安事件により、二つの政党が協力して日本と戦闘を交えることになった(第二次国共合作)。
しかし、日中戦争は当初日本軍優位に進み、日本軍は多数の都市を占領したが、各拠点支配はできても広大な中国において大陸面での支配はできず、これを利用した国民党軍・共産党軍ともに各地でゲリラ戦を行い日本軍を苦しめ、戦線を膠着させた。日本は汪兆銘ら国民党左派を懐柔し、南京国民政府を樹立させたが、国内外ともに支持は得られなかった。また、南京事件が起こった。加えて1941年12月、日本はアメリカやイギリス(連合国)とも戦端を開いたが(太平洋戦争・大東亜戦争)、一方で中国で多くの戦力を釘付けにされるなど、苦しい状況に落ち込まされた。国民党政府は連合国側に所属し、アメリカやイギリスなどから豊富な援助を受ける事となった(援蔣ルート)。
1945年8月、日本政府のポツダム宣言の受諾とともに日本軍が降伏することで対日戦争は終結した(日本の降伏)。また、8月14日には中ソ友好同盟条約を締結する。国民党政府は連合国の1国として大きな地位を占めていたこともあり、戦勝国として有利な立場を有することとなり、日本だけでなくヨーロッパ諸国も香港やマカオを除く租界を返還するなど、中国の半植民地化は終わりを見せた。
日本との戦争が終結すると国民党と共産党との対立が激化して再び国共内戦が始まった。
アメリカからの支援が減少した国民党に対して、ソビエト連邦からの支援を受けていた中国共産党が勝利し、1949年10月1日に中国共産党主席毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言した。内戦に敗れた国民党率いる中華民国政府は台湾島に撤退し、現在に至るまで大陸を統治する中国共産党率いる中華人民共和国と「中国を代表する正統な政府」の地位を争っている。
1950年にソビエト連邦と中ソ友好同盟相互援助条約を締結した。これは、日本およびその同盟国(主に、アメリカを指す)との戦争を想定してなされたものである。この条約でソ連が租借していた大連、旅順が返還され、ソ連の経済援助の下で復興を目指すこととなった。条約の締結により、中国の軍事上の対ソ依存は強くなった。この時代の中華人民共和国をソ連のアメリカに対する緩衝国家あるいは衛星国家とみなすことも可能である。しかし、徐々にデタント政策へと転回し始めていたソ連の対外政策は、中国共産党政府の中華民国(台湾実効統治政府)に対する強硬政策と明らかに矛盾していた。
1954年より社会主義化が進み、中国人民政治協商会議に代わって全国人民代表大会(全人代)が成立、農業生産合作社が組織された。
ソ連のヨシフ・スターリンの死後、1956年に フルシチョフによって「スターリン批判」が行われると、東欧の社会主義国(東側諸国)に動揺がはしった。中国共産党政府も共産圏にある国としてこの問題への対処を迫られ、この年初めて開催された党全国代表大会では、「毛沢東思想」という文言が党規約から消えた。そして、2ヶ月に渡り「百花斉放、百家争鳴」と称して中国民主党などの「ブルジョワ政党」の政治参加が試みられた。しかし、ブルジョワ政党が中国共産党政府による一党独裁に対して激しい批判を噴出させたため、逆に共産党による反右派闘争を惹起し、一党支配体制は強められた。
1958年に、毛沢東共産党主席は大躍進政策を開始し、人民公社化を推進した。当初はかなりの効果をあげたかに見えた人民公社であったが、党幹部を意識した誇大報告の存在、極端な労働平均化などの問題が開始3ヶ月にしてすでに報告されていた。毛沢東はこのような報告を右派的な日和見主義であり、過渡的な問題に過ぎないと見ていたため、反対意見を封殺したが、あまりに急速な人民公社化は都市人口の異様な増大など深刻な問題を引き起こしていた。
1959年と1960年には、大躍進政策の失敗と天災が重なり、大規模な飢饉が中国を襲い、少なくとも2000万人(『岩波現代中国事典』によれば3000万人。2000万から2億人以上との説もある)と言われる餓死者を出し(中華人民共和国大飢饉)大躍進政策も失敗に終わった。1960年代初頭には人民公社の縮小がおこなわれ、毛沢東自身が自己批判をおこなうなど、一見調整的な時期に入ったように思われた。劉少奇国家主席が第2次5ヶ年計画の失敗を人民公社による分権的傾向にあると指摘し、中央集権を目指した政治改革、個人経営を一部認めるなど官僚主義的な経済調整をおこなった。
一方でこの年、中国は台湾海峡で台湾(中華民国)に対して大規模な軍事行動を起こし、アメリカ軍の介入を招いた。フルシチョフは中国共産党政府の強硬な姿勢を非難し、また自国がアメリカとの全面戦争に引きずり込まれないように努力した。ソ連はワルシャワ条約機構の東アジア版ともいうべき中ソの共同防衛体制を提案したが、中国共産党政府はソ連の対外政策への不信からこれを断った。その後、1959年6月ソ連は中ソ協定を一方的に破棄した。1960年には経済技術援助条約も打ち切られ、この年の中国のGNP(国民総生産)は1%も下落した。
但し、党組織の中央集権化と個人経営に懐疑的であった毛沢東はこれを修正主義に陥るものであると見ていた。1963年に毛沢東は「社会主義教育運動」を提唱し、下部構造である「農村の基層組織の3分の1」は地主やブルジョワ分子によって簒奪されていると述べた。これは、劉少奇ら「実権派」を暗に批判するものであった。また、この頃の毛沢東は「文芸整風」運動と称して学術界、芸術界の刷新を計画していたことも、のちの文化大革命の伏線となった。1964年に中国は核実験に成功し、軍事的な自立化に大きな一歩を踏み出した。一方で、1965年にアメリカによる北爆が始まりベトナム戦争が本格化すると、軍事的緊張も高まった。
1965年、中華人民共和国はCONEFOに加盟した。
チベットでは独立運動が高まったが、政府はこれを運動家に対する拷問など暴力によって弾圧した。このため多数の難民がインドへ流入した。
1966年に毛沢東は文化大革命を提唱した。毛沢東の指示によって中央文化革命小組が設置され、北京の青少年によって革命に賛同する組織である紅衛兵が結成された。毛沢東は「造反有理」(反動派に対する謀反には道理がある)という言葉でこの運動を支持したので、紅衛兵は各地で組織されるようになった。
毛沢東は文革の目的をブルジョワ的反動主義者と「実権派」であるとし、劉少奇国家主席とその支持者を攻撃対象とした。毛沢東は林彪共産党副主席の掌握する軍を背景として劉少奇を失脚させた。しかし、文化大革命は政治だけにとどまることがなく、広く社会や文化一般にも批判の矛先が向けられ、反革命派とされた文化人をつるし上げたり、反動的とされた文物が破壊されたりした。
1966年の末頃から武力的な闘争が本格化し、地方では党組織と紅衛兵との間で武力を伴った激しい権力闘争がおこなわれた。毛沢東は秩序維持の目的から軍を介入させたが、軍は毛沢東の意向を汲んで紅衛兵などの中国共産党左派に加担した。中央では周恩来首相らと文革小組の間で権力闘争がおこなわれた。1967年の後半になると、毛沢東は内乱状態になった国内を鎮めるために軍を紅衛兵運動の基盤であった学校や工場に駐屯させた。
この時期軍の影響力は極端に増大し、それに伴って林彪が急速に台頭した。1969年には中ソ国境の珍宝島で両国の軍事衝突があり(中ソ国境紛争)、軍事的緊張が高まったこともこれを推進した。同年採択された党規約で林彪は毛沢東の後継者であると定められた。
文化大革命は後期になると国内の権力闘争や内乱状態を引き起こしたが、最終的に文化大革命は1976年の毛沢東死去で終結した。文化大革命では各地で文化財破壊や大量の殺戮が行われ、その犠牲者の合計数は数百万人とも言われている。また学生たちが下放され農村で働くなど、生産現場や教育現場は混乱すると、特に産業育成や高等教育などで長いブランクをもたらした。
一方この時期、ソ連に敵対する中国共産党政府は、同じくソ連と敵対する日本やアメリカなどからの外交的承認を受け、この結果、1971年に国際連合安全保障理事会の常任理事国の地位も台湾島に敗走した中華民国政府(国民党政権)に変わって手にするなど、国際政治での存在感を高めつつあった。
毛沢東の死後、一旦華国鋒が権力を継承したが、1978年12月第11期三中全会で鄧小平が政権を掌握した。鄧小平は、政治体制は共産党一党独裁を堅持しつつ、資本主義経済導入などの改革開放政策をとり、近代化を推進した(社会主義市場経済、鄧小平理論)。この結果、香港ほか日米欧など西側諸国の外資の流入が開始され、中国経済は離陸を始めた。
1990年代には、江沢民政権のもとで、鄧小平路線に従い、経済の改革開放が進み、特に安価な人件費を活かした工場誘致で「世界の工場」と呼ばれるほど経済は急成長した。なお、1997年にイギリスから香港が、1999年にポルトガルからマカオが、それぞれ中華人民共和国に返還され、一国二制度の下、植民地時代に整備された経済的、法的インフラを引き継ぎ、中華人民共和国の経済の大きな推進役となっている。
人口、面積ともに世界的な規模を有することから、アメリカの証券会社であるゴールドマンサックスは、「中華人民共和国は2050年に世界最大の経済大国になる」と予想するなど、現在、中国経済の動向は良くも悪くも注目されているが、低賃金による大量生産を売り物にしてきた経済成長は賃金上昇・東南アジア諸国やインドの追い上げなどで限界に達しており(特に中国最大の「売り」であった衣類生産は、中国より更に安価な賃金で済む ベトナム、カンボジア、バングラデシュ、インド、スリランカに工場を移設する動きが出始めている)、産業の高度化や高付加価値化などの難題に迫られている。
また、各種経済統計も中国政府発表のそれは信憑性が乏しいと諸外国から指摘されている。各省など地方も独自の産業振興策に走り、中国共産党中央政府に対して経済統計の水増し発表や災害などの情報隠蔽を行うなど、統計や発表の信憑性不足に拍車をかけている。
1989年には北京で、1980年代の改革開放政策を推進しながら失脚していた胡耀邦元総書記の死を悼み、民主化を要求する学生や市民の百万人規模のデモ(天安門事件)が起きたが、これは、政府により武力鎮圧された。その一連の民主化運動の犠牲者数は、中国共産党政府の報告と諸外国の調査との意見の違いがあるが、数百人から数万人に上るといわれている。しかし、中国共産党政府はこの事件に関しては国内での正確な報道を許さず、事件後の国外からの非難についても虐殺の正当化に終始している。
この事件以降も、中国政府は情報や政策の透明化、民主化や法整備の充実などの国際市場が要求する近代化と、市民による暴動や国家分裂につながる事態を避ける為、内外の報道機関やインターネットに統制を加え(中国のネット検閲)、反政府活動家に対する弾圧を加えるなどの前近代的な動きとの間で揺れている。
冷戦崩壊後に、複数政党による選挙や言論の自由などの民主主義化を達成した中華民国(台湾)と違い、いまだに中国共産党政府による一党独裁から脱却できない中華人民共和国には多数の問題が山積している。
一党独裁の弊害により、官僚の腐敗が深刻化している。改革開放によりイデオロギーが退潮した結果、幹部はひたすら金儲けに走るようになった。共産党幹部が自身の所持している工場で人民を奴隷同様に扱い労働に従事させるといった事例もあった。
これらのことより、中国共産党の一党独裁による言論統制や、急激な経済発展に伴う貧富の格差・地域格差の拡大、官僚の腐敗など国内のひずみを放置し続ければ、いずれ内部崩壊を起こして再度混乱状態に陥り、かつてのソ連と同様に中華人民共和国という国家体制そのものが解体、消滅するという意見も多い。引退した中国の核心的ブレーンや複数の共産党幹部は「動乱は必ず起こる。そう遠くない将来にだ」と発言したとされ、体制内の人間たちも現在の中国に危機感を抱いていることが明らかとなった。
その後、胡錦濤政権(2002年 - 2012年)、習近平政権(2012年 -)と続いている。
また、中国は国際連合安全保障理事会(国連安保理)の常任理事国の権利を保持する大国で、さらに経済成長が著しいため、体制が崩壊しなければ超級大国(華夷秩序の復活)として君臨すると思われる。
中国は人権問題に関してアメリカと対立している。近年では大国復活への道を歩むロシアと再び関係強化を強め、さらにベネズエラ、イランとも友好的であり、さらに人権弾圧国家とされる北朝鮮、ミャンマー、スーダン、ジンバブエを支援し、アメリカからの経済制裁中のキューバとは貿易は密接になっている。
中国は欧米から経済制裁を受けている国や反米路線をとっている国に「敵の敵は味方」の理屈で支援して友好を深めている。これは中国が友好国を増やすための覇権主義だと思われるが、逆に国連安保理の常任理事国である中国が後ろ盾になる事が反米国家のメリットになる。そして近年イスラム教テロリストが中国製の武器を使用している事が明らかになり、第三国から横流しした疑惑がある。
また、中国は2008年以降の世界同時不況下においても軍事費の増大はとどまるところを知らず、一党独裁を見直す気配もない。ただし米中関係は経済的には非常に密接であり、中国はアメリカ国債最大の保有国でもあるため、ロシアと違い露骨な反米でない。
新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)では漢化政策の進展によって、漢民族が同地域へ大量に流入する一方、少数派のウイグル人は生活が厳しく、都市を中心として就職などに有利な中国語教育の充実によりウイグル語が廃れるなどの民族的なマイノリティ問題が発生している。またタクラマカン砂漠の石油資源利用や新疆南北の経済格差が広がっているなど、中国共産党政府の経済政策に対する批判も根強い。1997年には新疆ウイグル自治区で大規模な暴動が起きた。海外で東トルキスタン独立運動がおこなわれている一方国内でもウイグル人活動家の処刑などが行われている。ウイグル人の間でも、民族自治における権限拡大という現実主義的な主張もあらわれている。たとえば中国語教育を受けたウイグル人が中国共産党組織に参加する、新疆での中国共産党政府の経済政策に積極的に参加するといった事例も見られる。
チベット自治区では歴史的なチベットの主権を主張するダライ・ラマの亡命政権が海外に存在し、中国共産党政府が不法な領土占拠をしていると訴えるとともに独立運動が継続されている。中国共産党政府はこれを武力で弾圧し続け、独立運動家への拷問などを行ない、経済的に不利なチベット人の生活も困窮したために、多数の難民が隣国のインドに流入した。2008年3月14日には、チベット自治区ラサで、中国政府に対する僧侶や市民の抗議行動が激化し、中心部の商店街から出火、武装警察などが鎮圧に当たり多数の死傷者が出た。1989年に戒厳令が敷かれた時の騒乱以来最大の規模となった。外国メディアだけでなく中国の国営メディア新華社通信も報じた。北京オリンピックに向けた時期に、チベット問題を国際世論に訴えようとするチベット独立派の意図が背景にあるとされる。中国政府は、翌15日から外国人と一般の中国人の自治区入りを禁じる措置をとるとした。チベット亡命政府によると確認されただけで死者は少なくとも80人はいると発表された。それと同時に世界各国の中国大使館前でも中国政府への抗議活動が繰り広げられた。
敵対している中華民国との間にも経済的な交流が進み、両国の首都である北京-台北間に直行便が就航するまでになっている。2008年12月には「三通」が実現した。
また、三通により犬猿の仲とも言える中台関係は密接となり、例えば、台湾人が本土就職し100万人も中国に在住したり、さらに多数の香港人が職を求めて本土に移住するといった現象も起きている。
中華民国(台湾)、中華人民共和国(中国大陸)、香港、マカオ、シンガポール、マレーシアなどの華人社会を『大中華圏』と評している。
以下のデータは主に楊学通「計画生育是我国人口史発展的必然」(1980年)による。
殷・周の時代は封建制度 によって一定の直轄地以外は間接的に統治された。
中国最初の統一王朝である秦は全国を郡とその下級単位である県に分ける郡県制度によって征服地を統治した。前漢初期においては、郡以上に広域な自治を認められた行政単位である国が一部の功臣や皇族のために設置された。
しかし徐々に国の行政権限が回収されるとともに、推恩政策によって国の細分化が進められ、国は郡県と等しいものとなり、後漢時代には実質郡県制度そのままとなっていた。
前漢時代に広域な監察制度としての刺史制度が始められると全国を13州 に分けた。これはいまだ行政的なものではない と考えられている。後漢の後の魏王朝では官僚登用制度としての九品官人法が249年に司馬懿によって州単位でおこなわれるように適用されたので、行政単位として郡以上に広域な州が現実的な行政単位として確立したと考えられている。しかし、軍政面と官吏登用面のほかにどれほど地方行政に貢献したか はあまり明確ではない。
都督制は軍府による広域行政制度の略称。魏晋時代の晋には、都督府などの軍府の重要性が高まった。
五胡十六国および南北朝時代になると、中国内部で複数の王朝が割拠し軍事的な緊張が高まったことから、とくに南朝において重要性が増した。これは本来特定の行政機関を持たなかったと思われる刺史に対して、軍事的に重要な地域の刺史に例外的に複数の州を統括できる行政権を与えたものであった。長官である府主(府の長官は一般的にさまざまな将軍号を帯び、呼称は一定ではないため便宜的に府主とする)は属僚の選定に対して大幅な裁量権が与えられており、そのため地方で自治的な支配を及ぼすことが出来た。
また南朝では西晋末期から官吏登用において州は形骸化しており、吏部尚書によって官制における中央集権化が進行している。したがって中正官も単なる地方官吏に過ぎなくなり、広域行政単位としての州は官吏登用の面からは重要性が低下したが、地方行政単位としてはより実際性を帯びた。この時代、州は一般に細分化傾向にあり、南北朝前期には中国全土で50-60州、南北朝末期に至ると中国全土で300州以上になり、ひとつの州がわずか2郡、ひとつの郡はわずか2-3県しか含まないという有様であった。
南朝では都督制度が発達していたころ、北魏では州鎮制度が発達した。
北魏では征服地にまず軍事的性格の強い鎮を置き、鎮は一般の平民と区別され軍籍に登録された鎮民を隷属させて支配した。鎮は徐々に州に改められたようであるが、北部辺境などでは鎮がずっと維持された。583年に隋の文帝が郡を廃止。州県二級の行政制度を開始した。この際従来の軍府制度 にあった漢代地方制度的な旧州刺史系統の地方官は廃止され、軍府系統の地方官に統一されたと考えられている。595年には形骸化していた中正官も最終的に廃止されたという指摘もされている。
またこれにより府主の属官任命権が著しく制限され、中央集権化がはかられた。唐では辺境を中心に広域な州鎮的軍府である総管府が置かれたが徐々に廃止され、刺史制度に基づいた地方軍的軍府、それに中央軍に対する吏部の人事権が強化・一元化され、軍事制度の中央集権化が完成された。特定の州に折衝府が置かれ、自営農民を中心として府兵が組織され常備地方軍 とされた。唐では州の上に10の道も設置されたが、これは監察区域で行政単位ではないと考えられている。
この制度は初めて、軍事力のみに地域を管理するではなく、国全体の法律や文官も地方に浸透された。また、日本の奈良時代の制度に影響を与えた。
中国大陸の諸王朝は前近代まで基本的に東アジアでの優越的な地位を主張し、外交的には大国として近隣諸国を従属的に扱う「冊封体制」が主流であった。
漢朝には南越、閩越、衛氏朝鮮などが漢の宗主権下にあったと考えられ、これらの国々は漢の冊封体制下にあったと考えられている。前漢武帝の時にこれらの諸国は征服され郡県に編入された。
このことは漢の冊封が必ずしも永続的な冊封秩序を形成することを意図したものではなく、機会さえあれば実効支配を及ぼそうとしていたことを示す。
また匈奴は基本的には冊封体制に組み込まれず、匈奴の単于と中国王朝の皇帝は原則的には対等であった。大秦(ローマ帝国のことを指すとされる)や大月氏などとの外交関係は冊封を前提とされていない。
魏晋南北朝には、中国王朝が分立する事態になったので、冊封体制は変質し実効支配を意図しない名目的な傾向が強くなったと考えられている。朝鮮半島では高句麗をはじめとして中小国家が分立する状態があらわれ、日本列島の古代国家 も半島の紛争に介入するようになったために、半島の紛争での外交的優位を得るため、これらの国々は積極的に中国王朝の冊封を求めた。
しかし、高句麗が北朝の実効支配には頑強に抵抗しているように、あくまで名目的関係にとどめようという努力がなされており、南越と閩越の紛争においておこなわれたような中国王朝の主導による紛争解決などは期待されていないという見方が主流である。
再び中国大陸を統一した隋朝の時代は東アジアの冊封体制がもっとも典型的となったという見方が主流である。隋は高句麗がみだりに突厥と通交し、辺境を侵したことからこれを討伐しようとしたが、遠征に失敗した。
唐は、新羅と連合(唐・新羅の同盟)し、高句麗・百済を滅亡させ、朝鮮半島を州県支配しようとしたが、新羅の抵抗にあい(唐・新羅戦争)、朝鮮半島から撤退したため、願いは叶わなかった。
したがって、隋・唐の冊封は実効支配とは無関係に形成されるようになった。唐の冊封体制の下では、律令的な政治体制・仏教的な文化が共有された。
一方、突厥や西域諸国が服属すると、それらの地域に対する支配は直接支配としての州県、外交支配としての冊封とは異なった羈縻政策 が行われた。
アッバース朝とタラス河畔の戦いが起きた。これにより紙の技術が西の世界へと伝わった。
北宋は燕雲十六州をめぐって遼と紛争が起き、賠償金として大量の絹と銀を払った。北宋は金と同盟を組み、金が遼を滅ぼした後、金は北宋を圧迫し、南に追いやった(南宋)。モンゴル帝国が金、西夏、大理を滅ぼしついには南宋を滅ぼした。金も元も銅銭を禁じたため、大量の銅銭が日本に流入した。日本と元の間には民間レベルで貿易が活発に行われていた。元は大越の遠征に失敗したことで日本への三度目の攻撃が中止された。
モンゴルを草原に駆逐した明朝は冊封体制を採用、また、海岸部を暴れる倭寇の対策として海禁政策を採用した。南朝の懐良親王や足利幕府の足利義満に対し倭寇の取り締まりを要求している。南北朝を統一した足利義満は自ら「日本国王臣源道義」と名乗り、冊封体制に入り、勘合貿易を開始した。勘合貿易は足利幕府の手から次第に堺の豪商と手を組んだ細川氏、博多の豪商と手を組んだ大内氏に実権が移り、1523年には寧波の乱により大内氏が貿易を独占、陶晴賢が大内義隆を1551年に殺害するまで続いた。
永楽帝は宦官の鄭和を南海に派遣した。鄭和の船団は東南アジアから東アフリカ沿岸までに進出し、キリンなどの珍品を中国にもたらした。永楽帝はまた、モンゴル討伐の遠征を行っているが征服には至らなかった。永楽帝没後、明は対外拡張路線を縮小した。1449年の土木の変でエセン・ハーンが正統帝を捕縛するに至り、明は北方の侵略に苦しむようになった。また、海岸部でも倭寇が攻勢を強めており、対策に苦慮するようになった(北虜南倭)。
豊臣秀吉の朝鮮出兵に対して、李氏朝鮮を支持し介入することになるが国を傾けることとなり、女真族のヌルハチにサルホの戦いで負けると国の頽勢は一気に進んだ。 | [
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"text": "中国の歴史(ちゅうごくのれきし)、あるいは中国史(ちゅうごくし)の対象は、中国大陸の地域史であり、漢民族を中心に様々な異民族に加え、現在の中華人民共和国に至るまでの歴史である。中国の黄河文明は古代の世界四大文明の一つに数えられ、また、黄河文明よりもさらにさかのぼる長江文明が存在した。以降、現代までの中国の歴史を記す。",
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"text": "中国の歴史においては、政治的統一による平和の時代と、国家崩壊および戦争の時代が交互に繰り返された。最近のものは国共内戦(1927年–1949年)である。ときおり中国は遊牧民による支配を受け、最終的にそのほとんどは漢民族の文化に同化された。複数の王朝と戦国武将が支配する時代において、中華王朝は中国大陸の一部または全部を支配してきた。",
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"text": "歴代の王朝は、皇帝が広大な領土を直接支配することを可能にする官僚制度を発展させてきた。紀元前206年から西暦1912年までは、日常的な統治業務は士大夫と呼ばれる特別なエリートによって処理された。その官僚は科挙によって慎重に選考された。最後の王朝である清は、1912年の中華民国建国によって滅亡した。",
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"text": "羿 禹 鯀 益 羿によって退治されたという悪獣たち(窫窳、鑿歯、九嬰、大風、修蛇、封豨)",
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"text": "殷(代表的な遺跡殷墟が有名であるため日本では一般に殷と呼ばれるが、商の地が殷王朝の故郷とされており、商が自称であるという説もあるため、中国では商と呼ぶほうが一般的である。殷商とも呼ぶ。)が実在の確認されている最古の王朝である。殷では、王が占いによって政治を行っていた(神権政治)。殷は以前は山東で興ったとされたが、近年は河北付近に興ったとする見方が有力で、黄河文明で生まれた村のうち強大になり発展した都市国家の盟主であった と考えられる。",
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"text": "紀元前11世紀頃に殷を滅ぼした周は、各地の有力者や王族を諸侯として封建制をおこなった。しかし、周王朝は徐々に弱体化し、異民族に攻められ、紀元前770年には成周へ遷都した。その後、史記周本紀によれば犬戎の侵入により西周が滅び、洛陽に東周が再興されるが、平勢隆郎の検討によれば幽王が殺害されたあと短期間携王が西、平王が東に並立し、紀元前759年平王が携王を滅ぼしたと考えられる。平王のもとで周は洛陽にあり、西周の故地には秦が入る。これ以降を春秋時代と呼ぶ。春秋時代には、周王朝の権威はまだ残っていたが、紀元前403年から始まるとされる戦国時代には、周王朝の権威は無視されるようになる。",
"title": "先秦時代"
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"text": "春秋戦国時代は、諸侯が争う戦乱の時代であった。",
"title": "先秦時代"
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"text": "春秋時代は都市国家の盟主どうしの戦いだった。しかし春秋末期最強の都市国家晋が三分割されたころから様子が変わる。その当時の晋の有力な家臣六家が相争い、最初力が抜きん出ていた智氏が弱小な趙氏を攻めたものの、趙氏が農村を経済的ではなく封建的によく支配し城を守りきり、疲弊した智氏を魏氏、韓氏が攻め滅ぼしたことで最終的に晋は趙、魏、韓の三氏に分割され滅亡した。このこともあってそれまで人口多くてもせいぜい5万人程度だった都市国家が富国強兵に努め、商工業が発達し、貨幣も使用し始めやがて領土国家に変貌しその国都となった旧都市国家は30万人規模の都市に変貌する。また鉄器が普及したことも相まって、農業生産も増大した。",
"title": "先秦時代"
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"text": "また、このような戦乱の世をどのように過ごすべきかという思想がさまざまな人たちによって作られた。このような思想を説いた人たちを諸子百家(陰陽家、儒家、墨家、法家、名家、道家、兵家等が代表的)という。",
"title": "先秦時代"
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"text": "晋の分裂以後を一般に戦国時代という。",
"title": "先秦時代"
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"text": "現在の陝西省あたりにあった秦は、戦国時代に着々と勢力を伸ばした。勢力を伸ばした背景には、厳格な法律で人々を統治しようとする法家の思想を採用して、富国強兵に努めたことにあった。秦王政は、他の6つの列強を次々と滅ぼし、紀元前221年には史上はじめての中国統一を成し遂げた。秦王政は、自らの偉業をたたえ、王を超える称号として皇帝を用い、自ら始皇帝と名乗った。",
"title": "秦漢帝国"
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"text": "始皇帝は、法家の李斯を登用し、中央集権化を推し進めた。このとき、中央から派遣した役人が全国の各地方を支配する郡県制が施行された。また、文字・貨幣・度量衡の統一も行われた。さらに、当時モンゴル高原に勢力をもっていた遊牧民族の匈奴を防ぐために万里の長城を建設させた。さらに、軍隊を派遣して、匈奴の南下を抑えた。また、嶺南地方(現在の広東省)にも軍を派遣し、この地にいた百越諸族を制圧した。しかし、このような中央集権化や土木事業・軍事作戦は人々に多大な負担を与えた。さらに、宦官であった趙高が始皇帝の側近として力を強め、紀元前210年に始皇帝が死ぬと、趙高は暴政をはじめたため、翌年には陳勝・呉広の乱という農民反乱がおきた。反乱軍は破竹の勢いで各地を次々に制圧し、かつての戦国時代、李牧擁する5カ国の合従軍さえも絶対に抜けなかった函谷関が抜かれる。この乱に刺激され各地で反乱がおき、項羽と劉邦の挙兵後、劉邦が都であった咸陽を占領し、ついに秦は紀元前206年に滅びた。",
"title": "秦漢帝国"
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"text": "秦の滅亡後、項羽と劉邦が覇権を争った(楚漢戦争)。当初、項羽有利であったが、韓信が、劉邦側に寝返ったことを機に、劉邦が主導権を握るようになった。そして、紀元前202年の垓下の戦いで項羽は自害し、劉邦は天下を統一した。",
"title": "秦漢帝国"
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"text": "劉邦は、始皇帝が急速な中央集権化を推し進めて失敗したことから、一部の地域には親戚や臣下を王として治めさせ、ほかの地域を中央が直接管理できるようにした。これを郡国制という。しかし、紀元前154年には、各地の王が中央に対して呉楚七国の乱と呼ばれる反乱を起こした。この反乱は鎮圧され、結果として、中央集権化が進んだ。紀元前141年に即位した武帝は、国内の安定もあり、対外発展を推し進めた。武帝は匈奴を撃退し、シルクロードを通じた西方との貿易を直接行えるようにした。また、朝鮮半島北部、ベトナム北中部にも侵攻した。漢四郡などこれらの地域はその後も強く中国文化の影響を受けることとなった。また、武帝は董仲舒の意見を聞いて、儒教を統治の基本とした。これ以降、中国の王朝は基本的に儒教を統治の基本としていく。",
"title": "秦漢帝国"
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"text": "一方で文帝の頃より貨幣経済が広汎に浸透しており、度重なる軍事行動と相まって、農民の生活を苦しめた。漢の宮廷では貨幣の浸透が農民に不利益であることがしばしば論じられており、農民の救済策が検討され、富商を中心に増税をおこなうなど大土地所有を抑制しようと努力した。また儒教の国教化に関連して儒教の教義論争がしばしば宮廷の重大問題とされるようになった。ちなみに、このころイエス・キリストが生まれ、以降は紀元後となる。",
"title": "秦漢帝国"
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"text": "8年には、王莽が皇帝の位を奪って漢を滅ぼし、新を建てた。王莽は当初儒教主義的な徳治政治をおこなったが、相次ぐ貨幣の改鋳や頻繁な地名、官名の変更など理想主義的で恣意的な政策をおこなったため徐々に民心を失い、辺境異民族が頻繁に侵入し、赤眉の乱など漢の復興を求める反乱が起き、内乱状態に陥った(新末後漢初)。その中で新は更始帝により滅ぼされる。",
"title": "秦漢帝国"
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"text": "その後漢の皇族の血を引く劉秀によって漢王朝が復興された。この劉秀が建てた漢を後漢という。王朝初期には雲南に進出し、また班超によって西域経営がおこなわれ、シルクロードをおさえた。初期の後漢王朝は豪族連合的な政権であったが、章帝の時代までは中央集権化につとめ、安定した政治が行われた。しかし安帝時代以後外戚や宦官の権力の増大と官僚の党派対立に悩まされるようになった。",
"title": "秦漢帝国"
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"text": "黄巾の乱以降、隋が589年に中国を再統一するまで、一時期を除いて中国は分裂を続けた。この隋の再統一までの分裂の時代を魏晋南北朝時代という。また、この時期には日本や朝鮮など中国周辺の諸民族が独自の国家を形成し始めた時期でもある。",
"title": "魏晋南北朝時代"
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{
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"text": "魏晋南北朝表も参照。",
"title": "魏晋南北朝時代"
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"text": "後漢末期の184年には、黄巾の乱と呼ばれる農民反乱が起き、黄巾の乱が鎮圧されたあと、都では董卓が暴政を始め、豪族が各地に独自政権を立てた。中でも有力であったのが、後漢王朝の皇帝を擁していた曹操である。しかし、中国統一を目指していた曹操は、208年に赤壁の戦いで、江南の豪族孫権に敗れた。結局、曹操の死後、220年に曹操の子 曹丕が後漢の皇帝から皇帝の位を譲られ、魏を建国した。このことにより後漢は滅亡し、漢王朝は完全に滅びた。これに対し、221年には現在の四川省に割拠し、漢王朝の復興を唱えていた劉備が皇帝となり、蜀漢を建国した。江南の孫権も229年に皇帝と称し、呉を建国した。この蜀、魏、呉の三国が鼎立した時代を三国時代という。",
"title": "魏晋南北朝時代"
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{
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"text": "三国の中で、もっとも有力であったのは魏であった。魏は後漢の半分以上の領土を継承したが、戦乱で荒廃した地域に積極的な屯田をおこない、支配地域の国力の回復につとめた。魏では官吏登用法として、九品官人法 がおこなわれた。",
"title": "魏晋南北朝時代"
},
{
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"text": "三国時代は基本的に魏と呉・蜀同盟との争いを軸としてしばしば交戦したが、魏で重鎮であった司馬懿がクーデターを起こし、司馬一族が魏の国内の権力を掌握した(高平陵の変)。その後、蜀が263年に魏に滅ぼされた(蜀漢の滅亡)。司馬懿の死後、息子の司馬師、司馬昭が後を継ぎ、司馬昭が晋王となる。そして265年、司馬昭の息子である司馬炎が魏の皇帝である元帝より禅譲をうけ、皇帝として即位し魏は滅亡する。そして司馬炎は新たな王朝として西晋を興した。その後、司馬炎は呉に20万の大軍を送り、呉を滅ぼした(呉の滅亡)。これにより三国時代は終結し、晋が中国統一を果たした。",
"title": "魏晋南北朝時代"
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{
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"text": "だがその後司馬炎は急に堕落し政務を顧みなくなり、その死後帝位をめぐって各地の皇族が戦争を起こした (八王の乱)。",
"title": "魏晋南北朝時代"
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{
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"text": "この時、五胡と呼ばれる異民族を軍隊として用いたため、これらの民族が非常に強い力を持つようになった。316年には、五胡の1つである匈奴の劉淵が晋を滅ぼし、漢(その後前趙)を建てた永嘉の乱)。これ以降、中国の北方は、五胡の建てた国々が支配し、南方は江南に避難した晋王朝(南に移ったあとの晋を東晋という)が支配した。この時期は、戦乱を憎み、宗教に頼る向きがあった。代表的な宗教が仏教と道教であり、この2つの宗教は時には激しく対立することがあった。 439年の北魏による華北統一により南北朝時代へと移る。",
"title": "魏晋南北朝時代"
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{
"paragraph_id": 33,
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"text": "江南を中心とする中国の南方では、異民族を恐れて、中国の北方から人々が多く移住してきた。これらの人々によって、江南の開発が進んだ。それに伴い、貴族が大土地所有を行うということが一般的になり、貴族が国の政治を左右した。一部の貴族の権力は、しばしば皇帝権力よりも強かった。これらの貴族階層の者により散文、書画等の六朝文化と呼ばれる文化が発展した。東晋滅亡後、宋・斉・梁・陳という4つの王朝が江南地方を支配したが、貴族が強い力を握ることは変わらなかった。梁の武帝は仏教の保護に努めた。",
"title": "魏晋南北朝時代"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "華北を統一し、五胡十六国時代を終わらせた北魏は471年に即位した孝文帝によって漢化政策を推し進めた。また、土地を国家が民衆に割り振る均田制を始め、律令制の基礎付けをした。しかし、このような漢化政策に反対するものがいたこともあり、北魏は、西魏と東魏に分裂した。西魏は北周へと、東魏は北斉へと王朝が交代した。577年には北周が北斉を滅ぼしたが、581年に、隋が北周にとって代わった。589年に、隋は陳を滅ぼし、中国統一を達成した。",
"title": "魏晋南北朝時代"
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{
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"text": "隋唐史とは、隋王朝と唐王朝の歴史のことだが、6世紀末から10世紀初にかけての中国大陸を中心とする東アジア地域史を、隋唐史と呼ぶこと自体に、隋や唐という王朝を自明の存在としてしまう罠がしかけられている。易姓革命による王朝交替をしめす隋(楊隋)や唐(李唐)の名称を用いることによって、華北の黄土に拠点をおく政権が、中国大陸全体を支配する揺るぎのない政権である印象が生まれ、内外の政治情勢のなかで、政権の正統性の構築をめざしてもがき続けた、可変的で流動性に富んだ側面がみえにくくなる。軍閥内の権力闘争を勝ち抜いて、楊堅が隋王朝を建国した際、政権の正統化作業に多大な労力を割いたことは、アーサー・F・ライトが明らかにしている。宮崎市定は、隋王朝が、権力基盤が不安定ななかで政治運営に苦心する状況を叙述した。唐建国が、隋末に勃発した各地の軍閥同士の大規模な戦闘と、突厥や南匈奴などが中原に影響力を及ぼす複雑な内外情勢のなかで挙行され、隋末の政治状況が唐建国後にも影響を与えたことは、氣賀澤保規や石見清裕が明らかにしている。唐王朝は、建国後も政権内で権力闘争が続き、武則天が皇帝となり周王朝を建国した時点で一旦断絶し、唐という統一王朝が10世紀初まで継続して存続した訳ではない。後の歴史家が、女帝である武則天による周王朝の建国を認めなかったに過ぎず、安禄山政権の燕王朝や、朱泚政権の秦王朝・漢王朝、黄巣政権の斉王朝などが長安を都に建国したことによって、唐王朝は、繰り返し正統性を否定されている。隋唐という名称こそが、自らの存在を固定し正統化しようとする隋唐の政権担当者たちが、同時代と後代の歴史家を抱き込もうとした文化的仕掛けである。中国の伝統的正統史観を相対化するための戦略として、普遍的な時代区分の名称を用いて、隋唐期を「中国中世後期」と称したり、杉山正明のように、北魏の前身の代国から隋唐王朝までの国家を、政権統治者層が一貫して鮮卑拓跋である点に注目し、「拓跋国家」と名づける考えもある。歴史叙述が異なる価値観のせめぎあう場であることを認め、6世紀末から10世紀初にかけての中国大陸を中心とする東アジア地域史を、隋唐史と呼ぶことの政治性を自覚すべきである。隋唐王朝の存在を自明の前提として、そこから遡る歴史叙述とは別に、何もないところから隋や唐という王朝名を自称する政権が強引に構築されてゆく、政治権力の生成過程を分析する方法を模索すべきであり、唐太宗が勅撰した『晋書』の思想性を分析する礪波護、武田幸男、安田二郎、『周書』を分析する前島佳孝、『貞観氏族志(中国語版)』を分析する山下将司の研究により、唐太宗政権が、歴史書の編纂を用いて、支配の正統化の獲得にもがく様が明らかになっている。唐太宗時に編纂がはじまり高宗時に完成した『隋書』経籍志序文および目録部分に、精緻な考証を施した興膳宏、川合康三も唐初の政治文化を把握する示唆を与えてくれる。",
"title": "隋唐帝国"
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{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "隋の文帝は、均田制・租庸調制・府兵制などを進め、中央集権化を目指した。また同時に九品中正法を廃止し、試験によって実力を測る科挙を採用した。しかし、文帝の後を継いだ煬帝は江南・華北を結ぶ大運河を建設したり、度重なる遠征を行ったために財政が逼迫し、民衆の負担が増大した。三回目の高句麗遠征に合わせて農民反乱が起き、618年に隋は滅亡した。日本の聖徳太子から遣隋使(小野妹子)が送られた。",
"title": "隋唐帝国"
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{
"paragraph_id": 37,
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"text": "隋に代わって、中国を支配したのが、唐である。唐は基本的に隋の支配システムを受け継ぎ、626年に即位した太宗は租庸調制を整備し、律令制を完成させた。唐の都の長安は、当時世界最大級の都市であり、各国の商人などが集まった。長安は、西方にはシルクロードによってイスラム帝国や東ローマ帝国などと結ばれ、ゾロアスター教・景教・マニ教をはじめとする各地の宗教が流入した。また、文化史上も唐時代の詩は最高のものとされる。",
"title": "隋唐帝国"
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{
"paragraph_id": 38,
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"text": "唐太宗の死後着々と力を付けた太宗とその子の高宗の皇后武則天はついに690年政権を簒奪し、中国史上唯一の女皇帝に即位し、国号を周とした。",
"title": "隋唐帝国"
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{
"paragraph_id": 39,
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"text": "712年に玄宗は唐を再興させて国内の安定を目指したが、すでに律令制は制度疲労を起こしていた。また、周辺諸民族の統治に失敗したため、辺境に強大な軍事力を持った節度使を置く必要がでてきた。節度使は軍権以外にも、後に民政権・財政権も持ち始め、755年には、節度使の安禄山たちが安史の乱と呼ばれる反乱を起こした。この反乱は郭子儀や僕固懐恩、ウイグル帝国の太子の葉護らの活躍で何とか鎮圧されたが、反乱軍の投降者の勢力を無視できず、投降者を節度使に任じたことなどからさらに各地で土地の私有(荘園)が進み、土地の国有を前提とする均田制が行えなくなっていった。結局政府は土地の私有を認めざるを得なくなり、律令制度は崩壊した。875年から884年には黄巣の乱と呼ばれる農民反乱がおき、唐王朝の権威は失墜し、各地の節度使はますます権力を強め、907年には節度使の1人である朱全忠が唐を滅ぼした。",
"title": "隋唐帝国"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "唐の滅亡後、各地で節度使があい争った。この時代を五代十国時代という。この戦乱を静めたのが、960年に皇帝となって宋を建国した趙匡胤である。ただし、宋が完全に中国統一を達成したのは趙匡胤の死後の976年である。",
"title": "隋唐帝国"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "唐の滅亡後、各地で節度使が争った。この時代を五代十国時代という。この戦乱を静めたのが、960年に皇帝となって宋を建国した趙匡胤である。ただし、宋が完全に中国統一を達成したのは趙匡胤の死後の976年である。",
"title": "宋元帝国"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "北宋初の皇帝趙匡胤は、節度使が強い権力をもっていたことで戦乱が起きていたことを考え、軍隊は文官が率いるという文治主義をとっ た。また、これらの文官は、科挙によって登用された。宋からは、科挙の最終試験は皇帝自らが行うものとされ、科挙で登用された官吏と皇帝の結びつきは深まった。また、多くの国家機関を皇帝直属のものとし、中央集権・皇帝権力強化を進めた。科挙を受験した人々は大体が、地主層であった。これらの地主層を士大夫と呼び、のちの清代まで、この層が皇帝権力を支え、官吏を輩出し続けた。",
"title": "宋元帝国"
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{
"paragraph_id": 43,
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"text": "唐は、その強大な力によって、周辺諸民族を影響下においていたが、唐の衰退によってこれらの諸民族は自立し、独自文化を発達させた。また、宋は文治主義を採用していたため、戦いに不慣れな文官が軍隊を統制したので、軍事力が弱く、周辺諸民族との戦いにも負け続けた。なかでも、契丹族の遼・タングート族の西夏は、中国本土にも侵入し、宋を圧迫した。これらの民族は、魏晋南北朝時代の五胡と違い、中国文化を唯一絶対なものとせず、独自文化を保持し続けた。このような王朝を征服王朝という。後代の元や清も征服王朝であり、以降、中国文化はこれらの周辺諸民族の影響を強く受けるようになった。",
"title": "宋元帝国"
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{
"paragraph_id": 44,
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"text": "文化的には、経済発展に伴って庶民文化が発達した。また、士大夫の中では新しい学問をもとめる動きが出て、儒教の一派として朱子学が生まれた。",
"title": "宋元帝国"
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{
"paragraph_id": 45,
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"text": "1127年には、金の圧迫を受け、宋は、江南に移った。これ以前の宋を北宋、以降を南宋という。南宋時代には、江南の経済が急速に発展した。また、すでに唐代の終わりから、陸上の東西交易は衰退していたが、この時期には、ムスリム商人を中心とした海上の東西交易が発達した。当時の宋の特産品であった陶磁器から、この交易路は陶磁の道と呼ばれる。南宋の首都にして海上貿易の中心港だった杭州は経済都市として栄え、元時代に中国を訪れたマルコ・ポーロは杭州を「世界一繁栄し、世界一豊かな都市」と評している。",
"title": "宋元帝国"
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{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "13世紀初頭にモンゴル高原で、成吉思汗(チンギス・カン)が、モンゴルの諸部族を統一し、ユーラシア大陸各地へと、征服運動を開始した。モンゴルは、東ヨーロッパ、ロシア、小アジア、メソポタミア、ペルシャ、アフガニスタン、西蔵(チベット)にいたる広大な領域を支配し、この帝国はモンゴル帝国(蒙古帝国)と呼ばれる。",
"title": "宋元帝国"
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{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "モンゴル帝国は各地に王族や漢人有力者を分封した。モンゴル帝国の5代目の君主(ハーン)にクビライ(忽必烈)が即位すると、これに反発する者たちが、反乱を起こした。結局、モンゴル帝国西部に対する大ハーン直轄支配は消滅し、大ハーンの政権は中国に軸足を置くようになった。もっとも、西方が離反しても、帝国としての緩やかな連合は保たれ、ユーラシアには平和が訪れていた。",
"title": "宋元帝国"
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{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "1271年にクビライは元を国号として中国支配をすすめた。当時、黄河が南流し、山東半島の南に流れていたため、漢民族は北方民族の攻勢を防げなかった。華北は満洲系の女真族による金が、南部を南宋が支配していたが、金は1234年、南宋は1279年にモンゴル帝国に滅ぼされた。",
"title": "宋元帝国"
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{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "元朝の中国支配は伝統的な中国王朝とは大きく異なっていた。モンゴル人は中国の伝統的な統治機構を採用せず、遊牧民の政治の仕組みを中国に移入したからである。元の支配階級の人々は、すでに西方の優れた文化に触れていたため、中国文化を無批判に取り入れることはなかった。それは政治においても同様だったのである。",
"title": "宋元帝国"
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{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "それに伴い、伝統的な統治機構を担ってきた、儒教的な教養を身に付けた士大夫層は冷遇され、政権から遠ざけられた。そのため、彼らは曲や小説などの娯楽性の強い文学作品の執筆に携わった。この時代の曲は元曲と呼ばれ、中国文学史上重要なものとされる。また、モンゴル帝国がユーラシア大陸を広く支配したために、この時期は東西交易が前代に増して盛んになった。",
"title": "宋元帝国"
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{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "元朝は、宮廷費用などを浪費しており、そのため塩の専売策や紙幣の濫発で収入を増やそうとした。しかし、これは経済を混乱させるだけであった。",
"title": "宋元帝国"
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{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "モンゴル人の統治の下、庶民の生活は困窮していたため、各地で反乱が発生した。中でも最大規模のものは1351年に勃発した皇漢起義であった。紅巾党の中から頭角をあらわした朱元璋は、1368年に南京で皇帝に即位して明を建国した。同年、朱元璋は元朝の国都の大都を陥落させ、元の政府はモンゴル高原へと撤退した。撤退後の元朝のことを北元といい、明と北元はしばしば争った。明側は1388年に北元は滅んだと称しているが、実質的にはその後も両者の争いは続いた。",
"title": "明清帝国"
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{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "洪武帝(朱元璋)の死後、孫の建文帝が即位したが、洪武帝の四男である朱棣が反乱(靖難の変)を起こし、朱棣が永楽帝として皇帝になった。永楽帝は、モンゴルを攻撃するなど、積極的に対外進出を進めた。また、鄭和を南洋に派遣して、諸国に朝貢を求めた。この時の船が近年の研究によって長さ170m余、幅50m余という巨艦で、その約70年後の大航海時代の船の5倍から10倍近い船であったことが分かっている。",
"title": "明清帝国"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "また、永楽帝によって現在に至るまで世界最大の宮殿である紫禁城が北京に築かれた。",
"title": "明清帝国"
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{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "永楽帝の死後、財政事情もあって、明は海禁政策をとり、貿易を著しく制限することとなる。このとき永楽帝を引き継いで、鄭和のようにずっと積極的に海外へ進出していれば、ヨーロッパのアジア・アフリカ支配も実現しなかっただろうと多くの歴史家は推測する。その後、モンゴルが再び勢力を強めはじめ、1449年には皇帝がモンゴルの捕虜になるという事件(土木の変)まで起きた。また、この頃に陽明学が出来る。",
"title": "明清帝国"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "明代の後期には、メキシコや日本から大量の銀が中国に流入し、貨幣として基本的に銀が使われるようになった。そのため、政府も一条鞭法と呼ばれる税を銀で払わせる税法を始めた。また、清朝に入ると、人頭税を廃止し土地課税のみとする地丁銀制が始まった。また明清両代ともに商品経済が盛んになり、農業生産も向上した。中国南部沿岸には、倭寇と呼ばれる海上の無法者たちが襲撃を重ねていた。これは、海禁政策で貿易が自由にできなくなっていたためである。倭寇とモンゴルを併称して「北虜南倭」というが、北虜南倭は明を強く苦しめた。",
"title": "明清帝国"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "また、皇帝による贅沢や多額の軍事費用の負担は民衆に重税となって圧し掛かってきた。これに対し、各地で反乱がおき、その中で頭角をあらわした李自成が1644年に明を滅ぼした。",
"title": "明清帝国"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "その後、明の皇帝一族と遺臣によって南明が華中・華南で立てられたが、華北から南進してきた清朝によって短期間で滅ぼされた。南明の滅亡後も鄭成功が台湾で東寧王国を建てて清朝に抵抗したが、こちらも短命に終わった。",
"title": "明清帝国"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "17世紀初頭には、満洲でヌルハチが満洲族を統一した。その子のホンタイジは満洲と蒙古を征服し、1636年には蒙古人から元朝の玉璽を譲られ、清朝を建国した。李自成が明を滅ぼすと、清朝の軍隊は万里の長城を越えて中国本土へ進出し、李自成の軍隊を打ち破り旧明の遺臣を取り込みながら中国全土を支配下に置いた。",
"title": "明清帝国"
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{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "17世紀後半から18世紀にかけて、康熙帝・雍正帝・乾隆帝という3人の賢帝の下で、清朝の支配領域は中国本土と中国東北地方・モンゴルのほかに、台湾・東トルキスタン・チベットにまで及んだ。",
"title": "明清帝国"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "この清の支配領域が大幅に広がった時期は、『四庫全書』の編纂など文化事業も盛んになった。しかし、これは学者をこのような事業に動員して、異民族支配に反抗する暇をなくそうとした面もあった。",
"title": "明清帝国"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "18世紀が終わるまでには、清とヨーロッパとの貿易はイギリスがほぼ独占していた。但し、当時イギリスの物産で中国に売れるものはほとんどなく、逆に中国の安いお茶はイギリスの労働者階級を中心に大きな需要があったこともあり、イギリスは貿易赤字に苦しんだ。そこで、イギリスは麻薬であるアヘンを中国に輸出し始めた。結果、イギリスは大幅な貿易黒字に転じ、中国にはアヘン中毒者が蔓延した。この蔓延を重く見た清朝政府は、1839年に林則徐に命じてアヘン貿易を取り締まらせた。しかし、これに反発したイギリス政府は清に対して翌1840年宣戦布告した。アヘン戦争と呼ばれるこの戦争では、工業化をとげ、近代兵器を持っていたイギリス軍が勝利した。これ以降、イギリスを初めとするヨーロッパの列強は清に対し、治外法権の承認、関税自主権の喪失、片務的最恵国待遇の承認、開港、租借地の設置といった不平等条約を締結させ、中国の半植民地化が進んだ。また、不平等条約締結の過程で清は、外満洲やトルキスタン、香港島・九龍半島、マカオ等の自国支配地域を列強に割譲させられた。",
"title": "明清帝国"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "国内的には、太平天国の乱などの反乱もしばしば起きた。これに対し、同治帝(在位1861年 - 1875年)の治世の下で、ヨーロッパの技術の取り入れ(洋務運動)が行われた。",
"title": "明清帝国"
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"paragraph_id": 64,
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"text": "1894年から翌1895年にかけて清と日本との間で行われた日清戦争にも清は敗退した。これは洋務運動の失敗を意味するものであった。この戦争の結果、伊藤博文・陸奥宗光の日本と李鴻章を代表とする清朝との間で下関条約が結ばれ、清は台湾を日本へ割譲した他、李氏朝鮮の独立を認めた。これにより、中国の歴代王朝が長年続けてきた冊封体制が崩壊した。",
"title": "明清帝国"
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{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "その後、清朝は改革を進めようとしたものの、沿岸地域を租借地とされるなどのイギリス・フランス・ロシア・ドイツ・アメリカ合衆国・日本による半植民地化の動きは止まらなかった。",
"title": "明清帝国"
},
{
"paragraph_id": 66,
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"text": "1911年10月の武昌での軍隊蜂起をきっかけに辛亥革命が起こり、華中、華南を中心とした各省が清からの独立を宣言した。11月袁世凱が清国内閣総理大臣に就任し、革命軍の鎮圧にあたった。12月革命軍側が、南京を占領する。同月、清国政府と独立各省との間に停戦が成立した。翌1912年1月1日、革命派の首領の孫文によって南京で中華民国臨時政府の樹立が宣言され、孫文は臨時大総統に就任した。これにより、中国は北京の清国政府と南京の中華民国政府の南北両政府並立状態となる。清国政府の袁世凱及び南京政府の臨時参議院の意向により、北京にいた清朝皇帝・溥儀(宣統帝)は2月12日に退位し、清朝と共に中華王朝は終焉した。3月10日には、南京政府の合意の元で袁世凱が臨時大総統に就任した。",
"title": "中華民国"
},
{
"paragraph_id": 67,
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"text": "辛亥革命により清国が消滅すると、その旧領を巡って中華民国(中国)と西蔵(チベット)・外蒙古(モンゴル)・新疆(東トルキスタン)の各勢力の間で対立が発生した。",
"title": "中華民国"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "中華民国は、清の継承国として滅亡時点の旧清領全域の領有権を主張した。これに対して、西蔵・外蒙古・新疆は、自分たちは清朝の皇帝に服属していたのであって中国という国家に帰属するものではなく、服属先の清帝退位後は中国と対等の国家であると主張してそれぞれ自領域の独立を目指す動きを強めた。",
"title": "中華民国"
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{
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"tag": "p",
"text": "チベットの独立運動",
"title": "中華民国"
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"paragraph_id": 70,
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"text": "当時のチベットの中心地だったポタラ宮では、ダライ・ラマを補佐していたパンチェン・ラマが親中的であったために、イギリスに接近するダライ・ラマに反発し、1925年に中国へ亡命した。1933年にダライ・ラマ13世が死去すると、中国の統治下にあったチベット東北部のアムド地方(青海省)で生まれたダライ・ラマ14世の即位式典に国民政府の使節団が列席したが、式典が終了した後も蒙蔵委員会駐蔵弁事処を自称してラサに留まった。1936年には、長征中の中国共産党の紅軍がカム地方東部(西康省)に滞留中、同地のチベット人に「チベット人民共和国」(博巴人民共和国)を組織させたが、紅軍の退出とともに、ほどなく消滅した。",
"title": "中華民国"
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"text": "モンゴルの独立成功",
"title": "中華民国"
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{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "1913年、モンゴルではボグド・ハーンによって、チベットではダライ・ラマ13世よって中国からの独立が宣言され、両者はモンゴル・チベット相互承認条約を締結する等国際的承認を求め、これを認めない中華民国とは戦火を交えた。この状況は、モンゴル域への勢力浸透をはかるロシア、チベット域への進出をねらうイギリスの介入を許し、モンゴルについては蒙・露・中華民国でキャフタ協定を調印・批准して一応の解決ができた。だが、チベットについては、西・英がシムラ条約を調印・批准したものの中華民国調印を拒否した為に問題の解決には至らなかった。",
"title": "中華民国"
},
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"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "この問題は最終的に、モンゴルについては外蒙古部分のみの独立を1946年に国民政府が承認することによって、チベットについては1951年締結の十七ヶ条協定によってチベットの独立否定とチベット人の自治権確保をガンデンポタンと中華人民共和国が確認した事によって、一応の決着をみた。",
"title": "中華民国"
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"text": "東トルキスタンの動乱",
"title": "中華民国"
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{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "東トルキスタン(新疆)では、19世紀中に統治機構の中国化が達成されていた。即ち、旗人の3将軍による軍政と地元ムスリムによるベク官人制に代わり、新疆省を頂点として省内を府、州、県に行政区画した各地方に漢人科挙官僚を派遣して統治する体制である。そのため、辛亥革命時、東トルキスタンでは地元ムスリムがチベットやモンゴルと歩調をあわせて自身の独立国家を形成しようとする動きはみられず、新疆省の当局者達は速やかに新共和国へ合流する姿勢を示した。",
"title": "中華民国"
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"paragraph_id": 76,
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"text": "この地では、楊増新が自立的な政権を維持し、またソビエト連邦と独自に難民や貿易の問題について交渉した。楊増新の暗殺後は金樹仁が実権が握ったが、彼は重税を課して腐敗した政治を行った為、1931年には大規模な内乱状態に陥った。その後金樹仁の部下であった盛世才が実権を握るようになり、彼はソ連に倣った政策を打ち出して徐々に権力を強化した。一方で、ウイグル人が主体となって1933年~1934年と1944年~1946年に東トルキスタン共和国の独立が宣言されたが、いずれも新疆省内の一部地域を支配するに止まった。",
"title": "中華民国"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "中華民国成立後、1913年2月に国会議員選挙が実施され国民党が圧勝した。3月、議会からの圧力を警戒した袁世凱は国民党の宋教仁を暗殺した。袁世凱は進歩党を組織し国会内での勢力拡大を図り、議会主義的な国民党の勢力削減を企てた。国民党の急進派はこれに反発し、第二革命を起こしたが鎮圧された。1913年10月に袁は正式な大総統となり、更に11月には国民党を非合法化し、解散を命じた。1914年1月には国会を廃止、5月1日には立法府の権限を弱め大総統の権力を大幅に強化した中華民国約法を公布した。",
"title": "中華民国"
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"paragraph_id": 78,
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"text": "袁は列強から多額の借款を借り受けて積極的な軍備強化・経済政策に着手した。当初列強の袁政権に対する期待は高かった。しかしこのような外国依存の財政は、後に列強による中国の半植民地化をますます進めることにもなった。第一次世界大戦が始まると、新規借款の望みがなくなったため、袁は財政的に行き詰まった。また同時期に日本が中国での権益拡大に積極的に動いた。",
"title": "中華民国"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "1915年5月9日に、袁が大隈重信内閣の21ヶ条要求を受けたことは大きな外交的失敗と見られ、同日は国恥記念日とされ袁の外交姿勢は激しく非難された。袁は独裁を強化する事でこの危機を乗り越えようとし、立憲君主制的な皇帝制度へ移行し、自身が皇帝となる事を望んだ。日本も立憲君主制には当初賛成していたようだが、中国国内で帝制反対運動が激化すると反対に転じ外交圧力をかけた。12月に袁世凱は中華帝国皇帝となるが、同月中に帝制に反対する蔡鍔、李烈鈞、唐継尭が下野し雲南省は独立を宣言して北京政府に反旗を翻した(護国戦争)。",
"title": "中華民国"
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{
"paragraph_id": 80,
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"text": "1916年3月に袁は中華帝国を廃止し、1916年に袁は失意のうちに没した。第二代大総統に副総統の黎元洪が就任し、副総統に馮国璋を、4月には段祺瑞を国務総理に任命した。",
"title": "中華民国"
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{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "段祺瑞は当初国会 の国民党議員などと提携し、調整的な政策をとっていた。しかし、第一次世界戦に対独参戦しようとした為、徐々に国会と対立した。段は日本の援助の下に強硬な政策を断行した。1917年8月14日に段は第一次世界大戦へ対独参戦し、同時に軍備を拡張して国内の統一を進めた。鉄道や通信等の業界を背景とする利権集団に支えられた段は、1918年には国会議員改定選挙を強行した。国民党はこれに激しく対立し、南方の地方軍とともに孫文を首班とする広東軍政府をつくった。",
"title": "中華民国"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "5月に段は日本と日中軍事協定 を結んだが、寺内正毅内閣失脚後に日本の外交方針が転回すると急速に没落した。段の安徽派と対立関係にあった直隷派の馮国璋は徐世昌を大総統に推薦し、段もこれを受け入れた。これにより親日的な安徽派は徐々に影響力を失い、1919年5月4日には山東半島での主権回復と反日を訴えるデモ行進が始まった。これを五・四運動と言う。なお、山東半島は1922年に返還された。1920年7月の安直戦争で直隷派に敗れたことで段は失脚し、奉直戦争を経て張作霖が北京政府の実権を掌握した。",
"title": "中華民国"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "袁世凱により国民党が非合法化された後、孫文は1914年7月に中華革命党を東京で結成した。1919年には拠点を上海に移し、中国国民党と改称した。1921年には上海で中国共産党が成立した。これらの政党は1918年のロシア革命の影響を受けており、議会政党というよりも明確な計画性と組織性を備えた革命政党を目指した。1924年に国民党は第一回全国大会を行い、党の組織を改編するとともに共産党との合同(第一次国共合作)を打ち出した。孫文はこの頃全く機能していなかった国会に代わって国内の団体代表による国民会議を提唱し、これに呼応した馮国璋により北京に迎えられた。1925年には国民会議促成会が開かれたが、この会期中に孫文は没した。7月には広東軍政府で機構再編が進み、中華民国国民政府の成立が宣言された。一方で1924年6月には蔣介石を校長として黄埔軍官学校が設立された。1925年4月に国民革命軍が正式に発足され、国民党は蔣介石を指導者として軍事的な革命路線を推し進めることとなった。",
"title": "中華民国"
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{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "1926年7月に蔣介石は広州から北伐を開始したが9月にイギリス軍によって万県市街が砲撃される事件が起きた(万県事件)。1927年1月には武漢に政府を移し、武漢国民政府と呼ばれるようになった。この武漢国民政府では当初国民党左派と共産党が優位にあったが、同年3月に南京事件が発生すると諸外国と緊張状態に陥った蔣介石は4月12日上海クーデターを起こしてこれらを弾圧し、4月18日には反共を前面に打ち出した南京国民政府を別個に成立させた(寧漢分裂)。南京国民政府は主に上海系の資本家(浙江財閥)に支えられ、北京・武漢・南京に3つの政権が鼎立することになったが、9月ごろから武漢政府も反共に転じ、南京政府に吸収された。",
"title": "中華民国"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "1928年6月には南京政府の国民革命軍が北京政府を打倒し、東北軍閥の張作霖が奉天近郊で日本の関東軍により爆殺された(張作霖爆殺事件)。これを受け、12月に息子の張学良も南京政府を承認(易幟)したことから、国民政府によって中国の政権は再び統合された。",
"title": "中華民国"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "西欧諸国は慈善事業も兼ねて、中国に様々なインフラストラクチャー投資を行っており、大学などの教育機関219、医療機関96、図書館9、博物館6、及び天文台1、孤児院等福祉施設55、また上海競馬倶楽部など国際レクリエーション施設が欧米諸国によって設立されていた。日本企業と米国企業の合弁会社による満鉄総合病院もあった。",
"title": "中華民国"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "国民政府においては基本的に国民党の一党独裁の立場が貫かれた。しかし一般党員の数は50万人以下であったとされており、人口が4億を超えると推測されていた中国国民の中ではかなり少数であった(そもそも大多数の国民が「国民」として登録されておらず、更に文盲の者も多かった)。その為、支配基盤が完全とは程遠く、土地税を中心として地方政権の財源を確保する国地画分政策が実施され、かつての軍閥による割拠的傾向がいまだに強い地方勢力に配慮するようなこともなされた。",
"title": "中華民国"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "1929年にはソ連軍が内満洲に侵攻し(中ソ紛争)、ハバロフスク議定書が結ばれるとソビエト連邦の影響力が強まった。1930年代前半には国民政府に叛旗を翻す形で地方政権が樹立される例が多くなり、軍事衝突なども起きた。1930年に閻錫山と汪兆銘が中心となった北平政府や、1931年に孫科らが設立した広州政府等である。",
"title": "中華民国"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "但し此のような軍事的緊張は国民政府の中央軍を掌握していた蔣介石の立場をより強固にすることにもなった。蔣介石は経済政策 でも手腕を発揮して影響力を増し、中国は南京国民政府の樹立から日中戦争勃発までの間に黄金の十年(中国語版)と呼ばれる発展期を迎えた。",
"title": "中華民国"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "張作霖が関東軍に爆殺された後を継いだ張学良は国民革命を支持しており、自身の支配していた満洲を国民政府へ合流させた(易幟)。この為に反日運動が満洲にも広がったが、日本は日露戦争以降に獲得した内満洲における権益を維持しようとしていた為にこれに大きく反発した。1931年9月、満洲事変が起こると、関東軍は日本政府(当時、若槻禮次郎首相・第二次若槻内閣)の意向を無視して大規模な武力行動を行い、内満洲を占領した。しかし、列強はこれを傍観する姿勢をとったので、日本政府はこの行動を追認した。",
"title": "中華民国"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "満洲事変を受け、中国政府は日本の内満洲占領を国際連盟に提訴し、1932年3月に国際連盟からリットン調査団が派遣された。関東軍は同時期に満洲国を樹立して内満洲の中国からの分離を進めたが、1933年2月に国際連盟の総会で付議され成立した最終報告書では、日本の内満洲における特殊権益を確認した上で九カ国条約の原則に基づき内満洲は中国に帰属すると認定された。ただし、日本が最終報告書の成立を不服として国際連盟を脱退した為に関東軍は内満洲の占領を解かず、日本の内満洲における軍事行動は1933年5月に日中間で停戦協定(塘沽協定)が結ばるまで続いた。",
"title": "中華民国"
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{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "その後、1934年には満洲国は帝制に移行した。",
"title": "中華民国"
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{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "1931年に瑞金で中華ソビエト共和国を樹立していた中国共産党は満洲国建国時に日本へ宣戦布告していたが、国民党との抗争(国共内戦)に忙しく、中国国民で一致して日本の侵攻に立ち向かうことはできなかった。1934年には瑞金が国民党の攻勢により陥落し、打撃を受けた中国共産党は長征と称して西部に移動し、組織の再編をはかった。長征の結果、中国共産党は延安に拠点を移した。",
"title": "中華民国"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "満洲事変で内満洲をほぼ制圧した日本軍は、列強の注目を内満洲からそらす事を目的の一つとして1932年1月に第一次上海事変を起こした。事変は5月に上海停戦協定を調印して終結したが、調印直前に上海天長節爆弾事件が発生した。",
"title": "中華民国"
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{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "1937年には、盧溝橋事件、第二次上海事変や中華民国軍による通州事件などにより在留邦人やその守備隊が攻撃されたことから、日本軍は中国本土に在留邦人保護のために部隊を派遣した。これにより中華民国と全面戦争に入った(日中戦争、当時の日本側呼称:支那事変)。これに対し、蔣介石は当初日本との戦いよりも中国共産党との戦いを優先していたが、西安事件により、二つの政党が協力して日本と戦闘を交えることになった(第二次国共合作)。",
"title": "中華民国"
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{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "しかし、日中戦争は当初日本軍優位に進み、日本軍は多数の都市を占領したが、各拠点支配はできても広大な中国において大陸面での支配はできず、これを利用した国民党軍・共産党軍ともに各地でゲリラ戦を行い日本軍を苦しめ、戦線を膠着させた。日本は汪兆銘ら国民党左派を懐柔し、南京国民政府を樹立させたが、国内外ともに支持は得られなかった。また、南京事件が起こった。加えて1941年12月、日本はアメリカやイギリス(連合国)とも戦端を開いたが(太平洋戦争・大東亜戦争)、一方で中国で多くの戦力を釘付けにされるなど、苦しい状況に落ち込まされた。国民党政府は連合国側に所属し、アメリカやイギリスなどから豊富な援助を受ける事となった(援蔣ルート)。",
"title": "中華民国"
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{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "1945年8月、日本政府のポツダム宣言の受諾とともに日本軍が降伏することで対日戦争は終結した(日本の降伏)。また、8月14日には中ソ友好同盟条約を締結する。国民党政府は連合国の1国として大きな地位を占めていたこともあり、戦勝国として有利な立場を有することとなり、日本だけでなくヨーロッパ諸国も香港やマカオを除く租界を返還するなど、中国の半植民地化は終わりを見せた。",
"title": "中華民国"
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{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "日本との戦争が終結すると国民党と共産党との対立が激化して再び国共内戦が始まった。",
"title": "中華民国"
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{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "アメリカからの支援が減少した国民党に対して、ソビエト連邦からの支援を受けていた中国共産党が勝利し、1949年10月1日に中国共産党主席毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言した。内戦に敗れた国民党率いる中華民国政府は台湾島に撤退し、現在に至るまで大陸を統治する中国共産党率いる中華人民共和国と「中国を代表する正統な政府」の地位を争っている。",
"title": "中華人民共和国と中華民国の並立"
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"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "1950年にソビエト連邦と中ソ友好同盟相互援助条約を締結した。これは、日本およびその同盟国(主に、アメリカを指す)との戦争を想定してなされたものである。この条約でソ連が租借していた大連、旅順が返還され、ソ連の経済援助の下で復興を目指すこととなった。条約の締結により、中国の軍事上の対ソ依存は強くなった。この時代の中華人民共和国をソ連のアメリカに対する緩衝国家あるいは衛星国家とみなすことも可能である。しかし、徐々にデタント政策へと転回し始めていたソ連の対外政策は、中国共産党政府の中華民国(台湾実効統治政府)に対する強硬政策と明らかに矛盾していた。",
"title": "中華人民共和国と中華民国の並立"
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"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "1954年より社会主義化が進み、中国人民政治協商会議に代わって全国人民代表大会(全人代)が成立、農業生産合作社が組織された。",
"title": "中華人民共和国と中華民国の並立"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "ソ連のヨシフ・スターリンの死後、1956年に フルシチョフによって「スターリン批判」が行われると、東欧の社会主義国(東側諸国)に動揺がはしった。中国共産党政府も共産圏にある国としてこの問題への対処を迫られ、この年初めて開催された党全国代表大会では、「毛沢東思想」という文言が党規約から消えた。そして、2ヶ月に渡り「百花斉放、百家争鳴」と称して中国民主党などの「ブルジョワ政党」の政治参加が試みられた。しかし、ブルジョワ政党が中国共産党政府による一党独裁に対して激しい批判を噴出させたため、逆に共産党による反右派闘争を惹起し、一党支配体制は強められた。",
"title": "中華人民共和国と中華民国の並立"
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{
"paragraph_id": 103,
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"text": "1958年に、毛沢東共産党主席は大躍進政策を開始し、人民公社化を推進した。当初はかなりの効果をあげたかに見えた人民公社であったが、党幹部を意識した誇大報告の存在、極端な労働平均化などの問題が開始3ヶ月にしてすでに報告されていた。毛沢東はこのような報告を右派的な日和見主義であり、過渡的な問題に過ぎないと見ていたため、反対意見を封殺したが、あまりに急速な人民公社化は都市人口の異様な増大など深刻な問題を引き起こしていた。",
"title": "中華人民共和国と中華民国の並立"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "1959年と1960年には、大躍進政策の失敗と天災が重なり、大規模な飢饉が中国を襲い、少なくとも2000万人(『岩波現代中国事典』によれば3000万人。2000万から2億人以上との説もある)と言われる餓死者を出し(中華人民共和国大飢饉)大躍進政策も失敗に終わった。1960年代初頭には人民公社の縮小がおこなわれ、毛沢東自身が自己批判をおこなうなど、一見調整的な時期に入ったように思われた。劉少奇国家主席が第2次5ヶ年計画の失敗を人民公社による分権的傾向にあると指摘し、中央集権を目指した政治改革、個人経営を一部認めるなど官僚主義的な経済調整をおこなった。",
"title": "中華人民共和国と中華民国の並立"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "一方でこの年、中国は台湾海峡で台湾(中華民国)に対して大規模な軍事行動を起こし、アメリカ軍の介入を招いた。フルシチョフは中国共産党政府の強硬な姿勢を非難し、また自国がアメリカとの全面戦争に引きずり込まれないように努力した。ソ連はワルシャワ条約機構の東アジア版ともいうべき中ソの共同防衛体制を提案したが、中国共産党政府はソ連の対外政策への不信からこれを断った。その後、1959年6月ソ連は中ソ協定を一方的に破棄した。1960年には経済技術援助条約も打ち切られ、この年の中国のGNP(国民総生産)は1%も下落した。",
"title": "中華人民共和国と中華民国の並立"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "但し、党組織の中央集権化と個人経営に懐疑的であった毛沢東はこれを修正主義に陥るものであると見ていた。1963年に毛沢東は「社会主義教育運動」を提唱し、下部構造である「農村の基層組織の3分の1」は地主やブルジョワ分子によって簒奪されていると述べた。これは、劉少奇ら「実権派」を暗に批判するものであった。また、この頃の毛沢東は「文芸整風」運動と称して学術界、芸術界の刷新を計画していたことも、のちの文化大革命の伏線となった。1964年に中国は核実験に成功し、軍事的な自立化に大きな一歩を踏み出した。一方で、1965年にアメリカによる北爆が始まりベトナム戦争が本格化すると、軍事的緊張も高まった。",
"title": "中華人民共和国と中華民国の並立"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "1965年、中華人民共和国はCONEFOに加盟した。",
"title": "中華人民共和国と中華民国の並立"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "チベットでは独立運動が高まったが、政府はこれを運動家に対する拷問など暴力によって弾圧した。このため多数の難民がインドへ流入した。",
"title": "中華人民共和国と中華民国の並立"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "1966年に毛沢東は文化大革命を提唱した。毛沢東の指示によって中央文化革命小組が設置され、北京の青少年によって革命に賛同する組織である紅衛兵が結成された。毛沢東は「造反有理」(反動派に対する謀反には道理がある)という言葉でこの運動を支持したので、紅衛兵は各地で組織されるようになった。",
"title": "中華人民共和国と中華民国の並立"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "毛沢東は文革の目的をブルジョワ的反動主義者と「実権派」であるとし、劉少奇国家主席とその支持者を攻撃対象とした。毛沢東は林彪共産党副主席の掌握する軍を背景として劉少奇を失脚させた。しかし、文化大革命は政治だけにとどまることがなく、広く社会や文化一般にも批判の矛先が向けられ、反革命派とされた文化人をつるし上げたり、反動的とされた文物が破壊されたりした。",
"title": "中華人民共和国と中華民国の並立"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "1966年の末頃から武力的な闘争が本格化し、地方では党組織と紅衛兵との間で武力を伴った激しい権力闘争がおこなわれた。毛沢東は秩序維持の目的から軍を介入させたが、軍は毛沢東の意向を汲んで紅衛兵などの中国共産党左派に加担した。中央では周恩来首相らと文革小組の間で権力闘争がおこなわれた。1967年の後半になると、毛沢東は内乱状態になった国内を鎮めるために軍を紅衛兵運動の基盤であった学校や工場に駐屯させた。",
"title": "中華人民共和国と中華民国の並立"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "この時期軍の影響力は極端に増大し、それに伴って林彪が急速に台頭した。1969年には中ソ国境の珍宝島で両国の軍事衝突があり(中ソ国境紛争)、軍事的緊張が高まったこともこれを推進した。同年採択された党規約で林彪は毛沢東の後継者であると定められた。",
"title": "中華人民共和国と中華民国の並立"
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{
"paragraph_id": 113,
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"text": "文化大革命は後期になると国内の権力闘争や内乱状態を引き起こしたが、最終的に文化大革命は1976年の毛沢東死去で終結した。文化大革命では各地で文化財破壊や大量の殺戮が行われ、その犠牲者の合計数は数百万人とも言われている。また学生たちが下放され農村で働くなど、生産現場や教育現場は混乱すると、特に産業育成や高等教育などで長いブランクをもたらした。",
"title": "中華人民共和国と中華民国の並立"
},
{
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"text": "一方この時期、ソ連に敵対する中国共産党政府は、同じくソ連と敵対する日本やアメリカなどからの外交的承認を受け、この結果、1971年に国際連合安全保障理事会の常任理事国の地位も台湾島に敗走した中華民国政府(国民党政権)に変わって手にするなど、国際政治での存在感を高めつつあった。",
"title": "中華人民共和国と中華民国の並立"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "毛沢東の死後、一旦華国鋒が権力を継承したが、1978年12月第11期三中全会で鄧小平が政権を掌握した。鄧小平は、政治体制は共産党一党独裁を堅持しつつ、資本主義経済導入などの改革開放政策をとり、近代化を推進した(社会主義市場経済、鄧小平理論)。この結果、香港ほか日米欧など西側諸国の外資の流入が開始され、中国経済は離陸を始めた。",
"title": "中華人民共和国と中華民国の並立"
},
{
"paragraph_id": 116,
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"text": "1990年代には、江沢民政権のもとで、鄧小平路線に従い、経済の改革開放が進み、特に安価な人件費を活かした工場誘致で「世界の工場」と呼ばれるほど経済は急成長した。なお、1997年にイギリスから香港が、1999年にポルトガルからマカオが、それぞれ中華人民共和国に返還され、一国二制度の下、植民地時代に整備された経済的、法的インフラを引き継ぎ、中華人民共和国の経済の大きな推進役となっている。",
"title": "中華人民共和国と中華民国の並立"
},
{
"paragraph_id": 117,
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"text": "人口、面積ともに世界的な規模を有することから、アメリカの証券会社であるゴールドマンサックスは、「中華人民共和国は2050年に世界最大の経済大国になる」と予想するなど、現在、中国経済の動向は良くも悪くも注目されているが、低賃金による大量生産を売り物にしてきた経済成長は賃金上昇・東南アジア諸国やインドの追い上げなどで限界に達しており(特に中国最大の「売り」であった衣類生産は、中国より更に安価な賃金で済む ベトナム、カンボジア、バングラデシュ、インド、スリランカに工場を移設する動きが出始めている)、産業の高度化や高付加価値化などの難題に迫られている。",
"title": "中華人民共和国と中華民国の並立"
},
{
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"tag": "p",
"text": "また、各種経済統計も中国政府発表のそれは信憑性が乏しいと諸外国から指摘されている。各省など地方も独自の産業振興策に走り、中国共産党中央政府に対して経済統計の水増し発表や災害などの情報隠蔽を行うなど、統計や発表の信憑性不足に拍車をかけている。",
"title": "中華人民共和国と中華民国の並立"
},
{
"paragraph_id": 119,
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"text": "1989年には北京で、1980年代の改革開放政策を推進しながら失脚していた胡耀邦元総書記の死を悼み、民主化を要求する学生や市民の百万人規模のデモ(天安門事件)が起きたが、これは、政府により武力鎮圧された。その一連の民主化運動の犠牲者数は、中国共産党政府の報告と諸外国の調査との意見の違いがあるが、数百人から数万人に上るといわれている。しかし、中国共産党政府はこの事件に関しては国内での正確な報道を許さず、事件後の国外からの非難についても虐殺の正当化に終始している。",
"title": "中華人民共和国と中華民国の並立"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "この事件以降も、中国政府は情報や政策の透明化、民主化や法整備の充実などの国際市場が要求する近代化と、市民による暴動や国家分裂につながる事態を避ける為、内外の報道機関やインターネットに統制を加え(中国のネット検閲)、反政府活動家に対する弾圧を加えるなどの前近代的な動きとの間で揺れている。",
"title": "中華人民共和国と中華民国の並立"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "冷戦崩壊後に、複数政党による選挙や言論の自由などの民主主義化を達成した中華民国(台湾)と違い、いまだに中国共産党政府による一党独裁から脱却できない中華人民共和国には多数の問題が山積している。",
"title": "中華人民共和国と中華民国の並立"
},
{
"paragraph_id": 122,
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"text": "一党独裁の弊害により、官僚の腐敗が深刻化している。改革開放によりイデオロギーが退潮した結果、幹部はひたすら金儲けに走るようになった。共産党幹部が自身の所持している工場で人民を奴隷同様に扱い労働に従事させるといった事例もあった。",
"title": "中華人民共和国と中華民国の並立"
},
{
"paragraph_id": 123,
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"text": "これらのことより、中国共産党の一党独裁による言論統制や、急激な経済発展に伴う貧富の格差・地域格差の拡大、官僚の腐敗など国内のひずみを放置し続ければ、いずれ内部崩壊を起こして再度混乱状態に陥り、かつてのソ連と同様に中華人民共和国という国家体制そのものが解体、消滅するという意見も多い。引退した中国の核心的ブレーンや複数の共産党幹部は「動乱は必ず起こる。そう遠くない将来にだ」と発言したとされ、体制内の人間たちも現在の中国に危機感を抱いていることが明らかとなった。",
"title": "中華人民共和国と中華民国の並立"
},
{
"paragraph_id": 124,
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"text": "その後、胡錦濤政権(2002年 - 2012年)、習近平政権(2012年 -)と続いている。",
"title": "中華人民共和国と中華民国の並立"
},
{
"paragraph_id": 125,
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"text": "また、中国は国際連合安全保障理事会(国連安保理)の常任理事国の権利を保持する大国で、さらに経済成長が著しいため、体制が崩壊しなければ超級大国(華夷秩序の復活)として君臨すると思われる。",
"title": "中華人民共和国と中華民国の並立"
},
{
"paragraph_id": 126,
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"text": "中国は人権問題に関してアメリカと対立している。近年では大国復活への道を歩むロシアと再び関係強化を強め、さらにベネズエラ、イランとも友好的であり、さらに人権弾圧国家とされる北朝鮮、ミャンマー、スーダン、ジンバブエを支援し、アメリカからの経済制裁中のキューバとは貿易は密接になっている。",
"title": "中華人民共和国と中華民国の並立"
},
{
"paragraph_id": 127,
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"text": "中国は欧米から経済制裁を受けている国や反米路線をとっている国に「敵の敵は味方」の理屈で支援して友好を深めている。これは中国が友好国を増やすための覇権主義だと思われるが、逆に国連安保理の常任理事国である中国が後ろ盾になる事が反米国家のメリットになる。そして近年イスラム教テロリストが中国製の武器を使用している事が明らかになり、第三国から横流しした疑惑がある。",
"title": "中華人民共和国と中華民国の並立"
},
{
"paragraph_id": 128,
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"text": "また、中国は2008年以降の世界同時不況下においても軍事費の増大はとどまるところを知らず、一党独裁を見直す気配もない。ただし米中関係は経済的には非常に密接であり、中国はアメリカ国債最大の保有国でもあるため、ロシアと違い露骨な反米でない。",
"title": "中華人民共和国と中華民国の並立"
},
{
"paragraph_id": 129,
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"text": "新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)では漢化政策の進展によって、漢民族が同地域へ大量に流入する一方、少数派のウイグル人は生活が厳しく、都市を中心として就職などに有利な中国語教育の充実によりウイグル語が廃れるなどの民族的なマイノリティ問題が発生している。またタクラマカン砂漠の石油資源利用や新疆南北の経済格差が広がっているなど、中国共産党政府の経済政策に対する批判も根強い。1997年には新疆ウイグル自治区で大規模な暴動が起きた。海外で東トルキスタン独立運動がおこなわれている一方国内でもウイグル人活動家の処刑などが行われている。ウイグル人の間でも、民族自治における権限拡大という現実主義的な主張もあらわれている。たとえば中国語教育を受けたウイグル人が中国共産党組織に参加する、新疆での中国共産党政府の経済政策に積極的に参加するといった事例も見られる。",
"title": "中華人民共和国と中華民国の並立"
},
{
"paragraph_id": 130,
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"text": "チベット自治区では歴史的なチベットの主権を主張するダライ・ラマの亡命政権が海外に存在し、中国共産党政府が不法な領土占拠をしていると訴えるとともに独立運動が継続されている。中国共産党政府はこれを武力で弾圧し続け、独立運動家への拷問などを行ない、経済的に不利なチベット人の生活も困窮したために、多数の難民が隣国のインドに流入した。2008年3月14日には、チベット自治区ラサで、中国政府に対する僧侶や市民の抗議行動が激化し、中心部の商店街から出火、武装警察などが鎮圧に当たり多数の死傷者が出た。1989年に戒厳令が敷かれた時の騒乱以来最大の規模となった。外国メディアだけでなく中国の国営メディア新華社通信も報じた。北京オリンピックに向けた時期に、チベット問題を国際世論に訴えようとするチベット独立派の意図が背景にあるとされる。中国政府は、翌15日から外国人と一般の中国人の自治区入りを禁じる措置をとるとした。チベット亡命政府によると確認されただけで死者は少なくとも80人はいると発表された。それと同時に世界各国の中国大使館前でも中国政府への抗議活動が繰り広げられた。",
"title": "中華人民共和国と中華民国の並立"
},
{
"paragraph_id": 131,
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"text": "敵対している中華民国との間にも経済的な交流が進み、両国の首都である北京-台北間に直行便が就航するまでになっている。2008年12月には「三通」が実現した。",
"title": "中華人民共和国と中華民国の並立"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "また、三通により犬猿の仲とも言える中台関係は密接となり、例えば、台湾人が本土就職し100万人も中国に在住したり、さらに多数の香港人が職を求めて本土に移住するといった現象も起きている。",
"title": "中華人民共和国と中華民国の並立"
},
{
"paragraph_id": 133,
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"text": "中華民国(台湾)、中華人民共和国(中国大陸)、香港、マカオ、シンガポール、マレーシアなどの華人社会を『大中華圏』と評している。",
"title": "中華人民共和国と中華民国の並立"
},
{
"paragraph_id": 134,
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"text": "以下のデータは主に楊学通「計画生育是我国人口史発展的必然」(1980年)による。",
"title": "歴朝歴代の人口変遷"
},
{
"paragraph_id": 135,
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"text": "殷・周の時代は封建制度 によって一定の直轄地以外は間接的に統治された。",
"title": "地方行政制度"
},
{
"paragraph_id": 136,
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"text": "中国最初の統一王朝である秦は全国を郡とその下級単位である県に分ける郡県制度によって征服地を統治した。前漢初期においては、郡以上に広域な自治を認められた行政単位である国が一部の功臣や皇族のために設置された。",
"title": "地方行政制度"
},
{
"paragraph_id": 137,
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"text": "しかし徐々に国の行政権限が回収されるとともに、推恩政策によって国の細分化が進められ、国は郡県と等しいものとなり、後漢時代には実質郡県制度そのままとなっていた。",
"title": "地方行政制度"
},
{
"paragraph_id": 138,
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"text": "前漢時代に広域な監察制度としての刺史制度が始められると全国を13州 に分けた。これはいまだ行政的なものではない と考えられている。後漢の後の魏王朝では官僚登用制度としての九品官人法が249年に司馬懿によって州単位でおこなわれるように適用されたので、行政単位として郡以上に広域な州が現実的な行政単位として確立したと考えられている。しかし、軍政面と官吏登用面のほかにどれほど地方行政に貢献したか はあまり明確ではない。",
"title": "地方行政制度"
},
{
"paragraph_id": 139,
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"text": "都督制は軍府による広域行政制度の略称。魏晋時代の晋には、都督府などの軍府の重要性が高まった。",
"title": "地方行政制度"
},
{
"paragraph_id": 140,
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"text": "五胡十六国および南北朝時代になると、中国内部で複数の王朝が割拠し軍事的な緊張が高まったことから、とくに南朝において重要性が増した。これは本来特定の行政機関を持たなかったと思われる刺史に対して、軍事的に重要な地域の刺史に例外的に複数の州を統括できる行政権を与えたものであった。長官である府主(府の長官は一般的にさまざまな将軍号を帯び、呼称は一定ではないため便宜的に府主とする)は属僚の選定に対して大幅な裁量権が与えられており、そのため地方で自治的な支配を及ぼすことが出来た。",
"title": "地方行政制度"
},
{
"paragraph_id": 141,
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"text": "また南朝では西晋末期から官吏登用において州は形骸化しており、吏部尚書によって官制における中央集権化が進行している。したがって中正官も単なる地方官吏に過ぎなくなり、広域行政単位としての州は官吏登用の面からは重要性が低下したが、地方行政単位としてはより実際性を帯びた。この時代、州は一般に細分化傾向にあり、南北朝前期には中国全土で50-60州、南北朝末期に至ると中国全土で300州以上になり、ひとつの州がわずか2郡、ひとつの郡はわずか2-3県しか含まないという有様であった。",
"title": "地方行政制度"
},
{
"paragraph_id": 142,
"tag": "p",
"text": "南朝では都督制度が発達していたころ、北魏では州鎮制度が発達した。",
"title": "地方行政制度"
},
{
"paragraph_id": 143,
"tag": "p",
"text": "北魏では征服地にまず軍事的性格の強い鎮を置き、鎮は一般の平民と区別され軍籍に登録された鎮民を隷属させて支配した。鎮は徐々に州に改められたようであるが、北部辺境などでは鎮がずっと維持された。583年に隋の文帝が郡を廃止。州県二級の行政制度を開始した。この際従来の軍府制度 にあった漢代地方制度的な旧州刺史系統の地方官は廃止され、軍府系統の地方官に統一されたと考えられている。595年には形骸化していた中正官も最終的に廃止されたという指摘もされている。",
"title": "地方行政制度"
},
{
"paragraph_id": 144,
"tag": "p",
"text": "またこれにより府主の属官任命権が著しく制限され、中央集権化がはかられた。唐では辺境を中心に広域な州鎮的軍府である総管府が置かれたが徐々に廃止され、刺史制度に基づいた地方軍的軍府、それに中央軍に対する吏部の人事権が強化・一元化され、軍事制度の中央集権化が完成された。特定の州に折衝府が置かれ、自営農民を中心として府兵が組織され常備地方軍 とされた。唐では州の上に10の道も設置されたが、これは監察区域で行政単位ではないと考えられている。",
"title": "地方行政制度"
},
{
"paragraph_id": 145,
"tag": "p",
"text": "この制度は初めて、軍事力のみに地域を管理するではなく、国全体の法律や文官も地方に浸透された。また、日本の奈良時代の制度に影響を与えた。",
"title": "地方行政制度"
},
{
"paragraph_id": 146,
"tag": "p",
"text": "中国大陸の諸王朝は前近代まで基本的に東アジアでの優越的な地位を主張し、外交的には大国として近隣諸国を従属的に扱う「冊封体制」が主流であった。",
"title": "強勢の大国外交"
},
{
"paragraph_id": 147,
"tag": "p",
"text": "漢朝には南越、閩越、衛氏朝鮮などが漢の宗主権下にあったと考えられ、これらの国々は漢の冊封体制下にあったと考えられている。前漢武帝の時にこれらの諸国は征服され郡県に編入された。",
"title": "強勢の大国外交"
},
{
"paragraph_id": 148,
"tag": "p",
"text": "このことは漢の冊封が必ずしも永続的な冊封秩序を形成することを意図したものではなく、機会さえあれば実効支配を及ぼそうとしていたことを示す。",
"title": "強勢の大国外交"
},
{
"paragraph_id": 149,
"tag": "p",
"text": "また匈奴は基本的には冊封体制に組み込まれず、匈奴の単于と中国王朝の皇帝は原則的には対等であった。大秦(ローマ帝国のことを指すとされる)や大月氏などとの外交関係は冊封を前提とされていない。",
"title": "強勢の大国外交"
},
{
"paragraph_id": 150,
"tag": "p",
"text": "魏晋南北朝には、中国王朝が分立する事態になったので、冊封体制は変質し実効支配を意図しない名目的な傾向が強くなったと考えられている。朝鮮半島では高句麗をはじめとして中小国家が分立する状態があらわれ、日本列島の古代国家 も半島の紛争に介入するようになったために、半島の紛争での外交的優位を得るため、これらの国々は積極的に中国王朝の冊封を求めた。",
"title": "強勢の大国外交"
},
{
"paragraph_id": 151,
"tag": "p",
"text": "しかし、高句麗が北朝の実効支配には頑強に抵抗しているように、あくまで名目的関係にとどめようという努力がなされており、南越と閩越の紛争においておこなわれたような中国王朝の主導による紛争解決などは期待されていないという見方が主流である。",
"title": "強勢の大国外交"
},
{
"paragraph_id": 152,
"tag": "p",
"text": "再び中国大陸を統一した隋朝の時代は東アジアの冊封体制がもっとも典型的となったという見方が主流である。隋は高句麗がみだりに突厥と通交し、辺境を侵したことからこれを討伐しようとしたが、遠征に失敗した。",
"title": "強勢の大国外交"
},
{
"paragraph_id": 153,
"tag": "p",
"text": "唐は、新羅と連合(唐・新羅の同盟)し、高句麗・百済を滅亡させ、朝鮮半島を州県支配しようとしたが、新羅の抵抗にあい(唐・新羅戦争)、朝鮮半島から撤退したため、願いは叶わなかった。",
"title": "強勢の大国外交"
},
{
"paragraph_id": 154,
"tag": "p",
"text": "したがって、隋・唐の冊封は実効支配とは無関係に形成されるようになった。唐の冊封体制の下では、律令的な政治体制・仏教的な文化が共有された。",
"title": "強勢の大国外交"
},
{
"paragraph_id": 155,
"tag": "p",
"text": "一方、突厥や西域諸国が服属すると、それらの地域に対する支配は直接支配としての州県、外交支配としての冊封とは異なった羈縻政策 が行われた。",
"title": "強勢の大国外交"
},
{
"paragraph_id": 156,
"tag": "p",
"text": "アッバース朝とタラス河畔の戦いが起きた。これにより紙の技術が西の世界へと伝わった。",
"title": "強勢の大国外交"
},
{
"paragraph_id": 157,
"tag": "p",
"text": "北宋は燕雲十六州をめぐって遼と紛争が起き、賠償金として大量の絹と銀を払った。北宋は金と同盟を組み、金が遼を滅ぼした後、金は北宋を圧迫し、南に追いやった(南宋)。モンゴル帝国が金、西夏、大理を滅ぼしついには南宋を滅ぼした。金も元も銅銭を禁じたため、大量の銅銭が日本に流入した。日本と元の間には民間レベルで貿易が活発に行われていた。元は大越の遠征に失敗したことで日本への三度目の攻撃が中止された。",
"title": "強勢の大国外交"
},
{
"paragraph_id": 158,
"tag": "p",
"text": "モンゴルを草原に駆逐した明朝は冊封体制を採用、また、海岸部を暴れる倭寇の対策として海禁政策を採用した。南朝の懐良親王や足利幕府の足利義満に対し倭寇の取り締まりを要求している。南北朝を統一した足利義満は自ら「日本国王臣源道義」と名乗り、冊封体制に入り、勘合貿易を開始した。勘合貿易は足利幕府の手から次第に堺の豪商と手を組んだ細川氏、博多の豪商と手を組んだ大内氏に実権が移り、1523年には寧波の乱により大内氏が貿易を独占、陶晴賢が大内義隆を1551年に殺害するまで続いた。",
"title": "強勢の大国外交"
},
{
"paragraph_id": 159,
"tag": "p",
"text": "永楽帝は宦官の鄭和を南海に派遣した。鄭和の船団は東南アジアから東アフリカ沿岸までに進出し、キリンなどの珍品を中国にもたらした。永楽帝はまた、モンゴル討伐の遠征を行っているが征服には至らなかった。永楽帝没後、明は対外拡張路線を縮小した。1449年の土木の変でエセン・ハーンが正統帝を捕縛するに至り、明は北方の侵略に苦しむようになった。また、海岸部でも倭寇が攻勢を強めており、対策に苦慮するようになった(北虜南倭)。",
"title": "強勢の大国外交"
},
{
"paragraph_id": 160,
"tag": "p",
"text": "豊臣秀吉の朝鮮出兵に対して、李氏朝鮮を支持し介入することになるが国を傾けることとなり、女真族のヌルハチにサルホの戦いで負けると国の頽勢は一気に進んだ。",
"title": "強勢の大国外交"
}
] | 中国の歴史(ちゅうごくのれきし)、あるいは中国史(ちゅうごくし)の対象は、中国大陸の地域史であり、漢民族を中心に様々な異民族に加え、現在の中華人民共和国に至るまでの歴史である。中国の黄河文明は古代の世界四大文明の一つに数えられ、また、黄河文明よりもさらにさかのぼる長江文明が存在した。以降、現代までの中国の歴史を記す。 中国の歴史においては、政治的統一による平和の時代と、国家崩壊および戦争の時代が交互に繰り返された。最近のものは国共内戦(1927年–1949年)である。ときおり中国は遊牧民による支配を受け、最終的にそのほとんどは漢民族の文化に同化された。複数の王朝と戦国武将が支配する時代において、中華王朝は中国大陸の一部または全部を支配してきた。 歴代の王朝は、皇帝が広大な領土を直接支配することを可能にする官僚制度を発展させてきた。紀元前206年から西暦1912年までは、日常的な統治業務は士大夫と呼ばれる特別なエリートによって処理された。その官僚は科挙によって慎重に選考された。最後の王朝である清は、1912年の中華民国建国によって滅亡した。 | {{Otheruses||その他の用法|中国の歴史 (曖昧さ回避)}}
{{Redirect|中国史|[[ケンブリッジ大学出版局]]の書籍|ケンブリッジ中国史}}
{{未検証|date=2018年3月}}
{{ウィキポータルリンク|歴史学/東洋史}}{{ウィキポータルリンク|中国}}{{中国の歴史}}
'''中国の歴史'''(ちゅうごくのれきし)、あるいは'''中国史'''(ちゅうごくし)の対象は、[[中国大陸]]の[[地域史]]であり、[[漢民族]]を中心に様々な[[異民族]]に加え、現在の[[中華人民共和国]]に至るまでの[[歴史]]である。[[中国]]の[[黄河文明]]は古代の[[世界四大文明]]の一つに数えられ、また、[[黄河文明]]よりもさらにさかのぼる[[長江文明]]が存在した。以降、現代までの中国の歴史を記す。
中国の歴史においては、政治的統一による[[平和]]の時代と、国家崩壊および[[戦争]]の時代が交互に繰り返された。最近のものは[[国共内戦]]([[1927年]]–[[1949年]])である。ときおり中国は[[遊牧民]]による支配を受け、最終的にそのほとんどは[[漢民族]]の[[文化]]に同化された。複数の王朝と[[戦国武将]]が支配する時代において、[[中華王朝]]は[[中国大陸]]の一部または全部を支配してきた。
歴代の王朝は、[[皇帝 (中国)|皇帝]]が広大な[[領土]]を直接支配することを可能にする[[官僚制度]]を発展させてきた。[[紀元前206年]]から西暦[[1912年]]までは、日常的な統治業務は[[士大夫]]と呼ばれる特別な[[エリート]]によって処理された。その官僚は[[科挙]]によって慎重に選考された。最後の王朝である[[清]]は、[[1912年]]の[[中華民国]]建国によって滅亡した。
{{TOC limit|4}}
== 王朝・政権の変遷 ==
{{main|中国の歴代王朝一覧}}
[[ファイル:中國(中華人民共和國)地圖.png|サムネイル|250x250ピクセル|'''今の中国、 {{PRC}}地図 [ 一般名:中国大陸また北京当局 ] 。''']]
* [[先史時代]]
** [[長江文明]]
** [[黄河文明]]
** [[遼河文明]]
* [[中国神話|神話伝説時代]]([[盤古]]・[[女媧]]・[[伏羲]]と[[三皇五帝]])
* [[夏 (三代)|夏]]([[紀元前2070年]]頃 - [[紀元前1600年]]頃)
* [[殷]](商、商朝とも。[[商人]]の語源<ref group="†">白川静は、商には賞の意があり、代償・償贖のために賞が行なわれるようになり、のちにそのことが形式化して、商行為を意味するものとなったものと思われる、としている。</ref>)(紀元前1600年頃 - [[紀元前12世紀]]・[[紀元前11世紀]]ごろ)
* [[周]](紀元前12世紀・紀元前11世紀ごろ - [[紀元前256年]])…[[殷]]を滅ぼし、周(西周)建国。克殷の年代については諸説あり、はっきりしない。
** [[春秋時代]]([[紀元前770年]] - [[紀元前403年]])…紀元前453年晋が韓魏趙に分割された時点、または紀元前403年韓魏趙が諸侯に列した時点をもって春秋時代の終わり、戦国時代の始まりとする。
** [[戦国時代 (中国)|戦国時代]](紀元前403年 - [[紀元前221年]])…[[晋 (春秋)|晋]]が[[韓 (戦国)|韓]]・[[趙 (戦国)|趙]]・[[魏 (戦国)|魏]]に分裂し、戦国時代突入。
* [[秦]](紀元前221年 - [[紀元前207年]])…秦王・政([[始皇帝]])が六国を滅ぼし[[中国統一|中華統一]]。
* [[漢]]
** [[前漢]](西漢、[[紀元前206年]] - [[8年]])…[[秦]]滅亡後、楚の[[項羽]]との[[楚漢戦争]]に勝ち、[[劉邦]](高祖)が建国。
** [[新]]([[8年]] - [[23年]])…[[外戚]]の[[王莽]]が[[皇帝]]から帝位を[[簒奪]]後、建国。
** [[後漢]](東漢、[[25年]] - [[220年]])…前漢の[[景帝 (漢)|景帝]]の子孫の劉秀([[光武帝]])が[[新末後漢初]]の動乱を勝ち抜き、漢を再興。
* [[三国時代 (中国)|三国時代]]([[220年]] - [[280年]])
** [[蜀漢|蜀]]、[[魏 (三国)|魏]]、[[呉 (三国)|呉]]…[[曹操]]の子 [[曹丕]](文帝)が[[献帝 (漢)|献帝]]から[[禅譲]]を受け即位すると、蜀の[[劉備]](昭烈帝)も漢皇帝を名乗り即位、呉の[[孫権]](大帝)も即位し、三国時代に入る。
* [[晋 (王朝)|晋]]([[265年]] - [[420年]])
** [[西晋]]([[265年]] - [[316年]])…晋王[[司馬炎]](武帝)が[[魏 (三国)|魏]]の[[曹奐|元帝]]より[[禅譲]]を受け即位し建国。だが、異民族[[五胡]]の侵入により衰退。異民族の[[前趙|漢]]に滅ぼされた。
** [[東晋]]([[317年]] - [[420年]])…皇族の生き残りの一人の[[琅邪王]]・[[元帝 (東晋)|司馬睿]]は[[江南]]に逃れ、[[建康 (都城)|建康]]で即位([[元帝 (東晋)|元帝]])。これを中原の晋と区別して東晋という。
** [[五胡十六国時代]]([[304年]] - [[439年]])
* [[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]([[439年]] - [[589年]])
** [[北魏]]、[[東魏]]、[[西魏]]、[[北斉]]、[[北周]]
** [[宋 (南朝)|宋]]、[[斉 (南朝)|斉]]、[[梁 (南朝)|梁]]、[[陳 (南朝)|陳]]
* [[隋]]([[581年]] - [[618年]])
* [[唐]]([[618年]] - [[907年]])
** [[武則天|武周]]
* [[五代十国時代]](907年 - [[960年]])[[ファイル:中國(中華民國)地圖.png|サムネイル|'''今の中国、 {{ROC}}地図 [ 一般名:台湾またチャイニーズタイペイ ] 。''']]
** [[後梁]]、[[後唐]]、[[後晋]]、[[後漢 (五代)|後漢]]、[[後周]]……五代(中原を中心とする国)
** [[呉 (十国)|呉]]、[[南唐]]・[[閩]]・[[呉越]]・[[荊南]]・[[楚 (十国)|楚]]・[[南漢]]・[[前蜀]]・[[後蜀 (十国)|後蜀]]・[[北漢]]……十国(中華東西南北に拠る勢力)
**
* [[宋 (王朝)|宋]]
** [[北宋]]([[960年]] - [[1127年]])
** [[南宋]]([[1127年]] - [[1279年]])
** [[遼]]、[[西夏]]、[[金 (王朝)|金]]
* [[元 (王朝)|元]]([[1271年]] - [[1368年]])
* [[明]]([[1368年]] - [[1644年]])
** [[南明]]
* [[清]]([[1616年]] - [[1912年]])([[1616年]] - [[1636年]]は[[後金]]、それ以前はマンジュ国)
** [[太平天国の乱|太平天国]]、[[満洲国]]
* [[中華民国の歴史|中華民国]]([[1912年]] -[[現在]] )
* [[中華人民共和国の歴史|中華人民共和国]]([[1949年]] - [[現在]])
== 先史時代 ==
=== 先史人類史 ===
中国に現れた最初期の[[人類]]としては、[[元謀原人]]や[[藍田原人]]、そして[[北京原人]]が主である。
=== 文明の萌芽 ===
{{seealso|中国の新石器文化の一覧}}
[[中国大陸]]では、古くから[[文明]]が発達した。中国文明と呼ばれるものは、大きく分けて[[黄河文明]]と[[長江文明]]の2つがある。黄河文明は、[[畑作]]が中心、長江文明は[[稲作]]が中心であった。黄河文明が、歴史時代の殷(商)や周などにつながっていき、[[中国大陸]]の歴史の中軸となった。長江文明は次第に、[[中央集権]]国家を創出した黄河文明に同化吸収されていった。
==== 長江文明 ====
[[画像:Xiling-Gorge-west-of-Maoping-4976.jpg|thumb|300x300px|母なる長江]]
長江文明は[[稲作]]発祥地として中国の発展の基盤となった。
<!--夏王朝の始祖とされる禹が南方出身であるとされるため、長江流域に夏王朝が存在したのではないかという説<ref group="†">浙江省紹興市郊外にある陵墓が禹のものであるとされ、戦国時代同地を支配していた越王[[勾践]]が禹の子孫を標榜していること、夏の[[桀]]王が『史記』鄭玄注などで淮河と長江の中間にある南巣で死んだとしていることなどによる。</ref>もある。-->
* [[玉蟾岩遺跡]]…[[湖南省]](長江中流)。紀元前14000年? - [[紀元前12000年]]?の稲モミが見つかっているが、栽培したものかは確定できない。
* [[仙人洞・吊桶環遺跡]]…[[江西省]](長江中流)。[[紀元前12000年]]ごろ?の栽培した稲が見つかっており、それまで他から伝播してきたと考えられていた中国の農耕が中国独自でかつ最も古いものの一つだと確かめられた。
* [[彭頭山文化]]…湖南省(長江中流)。[[紀元前7000年]]? - [[紀元前5000年]]?。散播農法が行われており、中国における最古の水稲とされる。
* [[大渓文化]]…[[四川省]](長江上流)。紀元前4500年? - 紀元前3300年?。彩文紅陶(紋様を付けた紅い土器)が特徴で、後期には黒陶・灰陶が登場。[[灌漑農法]]が確立され、住居地が水の補給のための水辺から大規模に農耕を行う事の出来る平野部へ移動した。
* [[屈家嶺文化]]…[[湖北省]]。紀元前3000年? - 紀元前2500年?。大渓文化を引き継いで、ろくろを使用した[[黒陶]]が特徴。河南地方の黄河文明にも影響を与えたと考えられる。
* [[石家河文化]]…屈家嶺文化から発展し、[[湖北省]][[天門県]]石家河に大規模な都城を作った紀元前2500年頃を境として屈家嶺と区別する。この都城は南北1.3 km、東西1.1kmという大きさで、上述の黄河流域の部族と抗争したのはこの頃と考えられる。
* [[河姆渡文化]] …紀元前5000年? - 紀元前4000年?下流域では最古の稲作。狩猟や漁労も合わせて行われ、ブタの家畜化なども行われた。
* [[良渚文化]]…[[浙江省]](銭塘江流域)。紀元前3260年? - 紀元前2200年?(以前は文化形態から大汶口文化中期ごろにはじまったとされていたが、1977年出土木材の年輪分析で改められた)[[青銅器]]以前の文明。多数の[[ヒスイ|玉器]]の他に、[[絹]]が出土している。分業や階層化も行われたと見られ、殉死者を伴う墓が発見されている。黄河文明の山東龍山文化とは相互に関係があったと見られ、同時期に衰退したことは何らかの共通の原因があると見られている。
* [[三星堆遺跡]]…紀元前2600年? - 紀元前850年?。大量の青銅器が出土し、前述の他に目が飛び出た仮面・縦目の仮面・黄金の杖などがあり、また子安貝や象牙なども集められており、権力の階層があったことがうかがい知れる。青銅器については原始的な部分が無いままに高度な[[青銅器]]を作っているため他の地域、おそらくは黄河流域からの技術の流入と考えられる。長江文明と同じく文字は発見されていないが、「巴蜀文字」と呼ばれる文字らしきものがあり、一部にこれを[[インダス文字]]と結びつける説もある。
==== 黄河文明 ====
[[画像:Longshan eggshell thin cup.jpg|thumb|龍山文化時代の高杯。1976年[[山東省]]出土]]
[[黄河文明]]は、その後の中国の歴史の主軸となる。
* [[裴李崗文化]]…紀元前7000?~紀元前5000?。一般的な「[[新石器時代]]」のはじまり。定住し、農業も行われていた。河南省(黄河中流)。[[土器]]は赤褐色
* [[老官台文化]]…紀元前6000?~紀元前5000?。土器作りや粟作りが行われていた。[[陝西省]](黄河上流)。土器は赤色。
* [[北辛文化]]…紀元前6000?~紀元前5000?。土器は黄褐色。山東省(黄河下流)
* [[磁山文化]]…紀元前6000?~紀元前5000?。土器は赤褐色。河北省(黄河下流)
* [[仰韶文化]]…紀元前4800?~紀元前2500?。前期黄河文明における最大の文化。陝西省から河南省にかけて存在。このころは母系社会で、農村の階層化も始まった。文化後期になると、社会の階層化、分業化が進んだ。土器は赤色。
* [[後岡文化]]…紀元前5000?~紀元前4000?。北辛文化が発展。河南省。
* [[大汶口文化]]…紀元前4300?~紀元前2400?。土器は前期は赤色(彩陶)、後期は黒色(黒陶)。なお、この区分は[[黄河]]文明全体に見られる。山東省。
* [[馬家窯文化]]…紀元前3100?~紀元前2700?。彩陶中心。仰韶文化が西へ伝播し発展した。甘粛省。
* [[龍山文化]]…紀元前2500?~紀元前2000?。大汶口文化から発展。後期黄河文明最大の文化。土器は黒色(黒陶)。山東省。
* [[喇家遺跡]]…紀元前2000年頃の遺跡。水害で埋まり、麺類や楽器などが発見された。[[青海省]]。
* [[二里頭文化]]…紀元前2000?~紀元前1600?。遺跡の中心部には二つの宮殿がある。河南省。
==== 遼河文明 ====
[[遼河文明]]は[[黄河文明]]にも大きな影響と与えたとされる。
* [[興隆窪文化]]…[[内モンゴル自治区]][[赤峰市]]([[遼河]]流域)。紀元前6200年頃-紀元前5400年頃の遺跡。土器や環濠集落が見つかり、[[龍]]をかたどった中国でも最も初期の玉製品が発見されている。
* [[新楽遺跡]]…遼寧省(遼河流域)。紀元前5200年?ごろの定住集落。[[母系社会]]が定着し、農業も行われていた。
* [[趙宝溝文化]] …紀元前5400年頃-紀元前4500年頃
* [[紅山文化]]…内モンゴル自治区赤峰市(遼河流域)。紀元前4700年頃-紀元前2900年頃の農業遺跡。龍をかたどった玉器や、大規模な祭祀遺跡を建設した。
* [[夏家店下層文化]] …紀元前2000年頃-紀元前1500年頃
* [[夏家店上層文化]] …紀元前1100年頃-紀元前500年頃
=== 神話伝説の時代 ===
==== [[天地開闢 (中国神話)|天地伊始・開天闢地]] ====
[[盤古]]、[[女媧]]、[[伏羲]]、[[蒼頡]]、[[顓頊]]
==== 黄炎蚩尤 ====
[[神農]]([[炎帝]])、[[蚩尤]]、[[黄帝]]、[[蒼頡]]
==== 堯舜時代 ====
[[嚳]] [[堯]] [[舜]]
[[四凶]]([[渾沌]] [[饕餮]] [[窮奇]] [[檮杌]]) [[四罪]]([[共工]] [[鯀]] [[驩兜]] [[三苗]])
==== 羿禹時代 ====
[[羿]] [[禹]] [[鯀]] [[益 (中国神話)|益]]
羿によって退治されたという悪獣たち([[窫窳]]、[[鑿歯]]、[[九嬰]]、[[大風]]、[[修蛇]]、[[封豨]])
== 先秦時代 ==
=== 夏(公天下から家天下へ) ===
{{main|夏 (三代)}}
史記では[[伝説]]と目される[[三皇五帝]]の時代に続き、最初の王朝国家として夏朝が創始されたとされる。しかし、その実在性については議論が存在する。
=== 殷・商(漢字の始まり) ===
{{main|殷}}
殷(代表的な遺跡[[殷墟]]が有名であるため日本では一般に殷と呼ばれるが、商の地が殷王朝の故郷とされており、商が自称であるという説もあるため、中国では商と呼ぶほうが一般的である。殷商とも呼ぶ。)が実在の確認されている最古の王朝である。殷では、王が占いによって政治を行っていた([[神権政治]])。殷は以前は山東で興ったとされたが、近年は河北付近に興ったとする見方が有力で、黄河文明で生まれた村のうち強大になり発展した都市国家の盟主であった<ref group="†">ただし殷を北西から侵入してきた遊牧民族による征服王朝だとする説もある。これは偃師二里頭遺跡では青銅器が現地生産されているのに対し、殷時代の青銅器は主に蜀方面で生産されていたことが確認されていることによる。</ref> と考えられる。
=== 西周 ===
{{main|[[西周 (王朝)|西周]]}}
[[紀元前11世紀]]頃に殷を滅ぼした周は、各地の有力者や王族を諸侯として[[封建制]]をおこなった。しかし、周王朝は徐々に弱体化し、異民族に攻められ、[[紀元前770年]]には成周へ遷都した。その後、史記周本紀によれば犬戎の侵入により西周が滅び、洛陽に東周が再興されるが、[[平勢隆郎]]の検討によれば幽王が殺害されたあと短期間携王が西、平王が東に並立し、紀元前759年平王が携王を滅ぼしたと考えられる。平王のもとで周は洛陽にあり、西周の故地には秦が入る。これ以降を[[春秋時代]]と呼ぶ。春秋時代には、周王朝の権威はまだ残っていたが、[[紀元前403年]]から始まるとされる[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]には、周王朝の権威は無視されるようになる。
=== 東周 ===
{{main|東周}}
[[画像:Confucius 02.png|thumb|300x300px|諸子百家の一、孔子]]
[[春秋戦国時代]]は、諸侯が争う戦乱の時代であった。
==== 春秋時代 ====
{{main|春秋時代}}
'''春秋時代'''は'''都市国家'''の盟主どうしの戦いだった。しかし春秋末期最強の都市国家[[晋 (春秋)|晋]]が三分割されたころから様子が変わる。その当時の晋の有力な家臣六家が相争い、最初力が抜きん出ていた智氏が弱小な趙氏を攻めたものの、趙氏が農村を経済的ではなく封建的によく支配し城を守りきり、疲弊した智氏を魏氏、韓氏が攻め滅ぼしたことで最終的に晋は[[趙 (戦国)|趙]]、[[魏 (戦国)|魏]]、[[韓 (戦国)|韓]]の三氏に分割され滅亡した。このこともあってそれまで人口多くてもせいぜい5万人程度だった都市国家が富国強兵に努め、商工業が発達し、[[貨幣]]も使用し始めやがて'''領土国家'''に変貌しその国都となった旧都市国家は30万人規模の都市に変貌する。また[[鉄器]]が普及したことも相まって、農業生産も増大した。
===== 諸子百家 =====
また、このような戦乱の世をどのように過ごすべきかという思想がさまざまな人たちによって作られた。このような思想を説いた人たちを[[諸子百家]]([[陰陽家]]、[[儒家]]、[[墨家]]、[[法家]]、[[名家 (諸子百家)|名家]]、[[道家]]、[[兵家]]等が代表的)という。
==== 戦国時代 ====
{{main|戦国時代 (中国)}}
晋の分裂以後を一般に'''戦国時代'''という。
== 秦漢帝国 ==
=== 秦 ===
{{main|秦}}
[[画像:Qinshihuang.jpg|thumb|left|始皇帝]]
現在の[[陝西省]]あたりにあった[[秦]]は、戦国時代に着々と勢力を伸ばした。勢力を伸ばした背景には、厳格な法律で人々を統治しようとする[[法家]]の思想を採用して、富国強兵に努めたことにあった。[[始皇帝|秦王政]]は、他の6つの列強を次々と滅ぼし、[[紀元前221年]]には史上はじめての[[中国統一]]を成し遂げた。秦王政は、自らの偉業をたたえ、王を超える称号として[[皇帝]]を用い、自ら'''始皇帝'''と名乗った。
[[画像:Guerriers Xian.jpg|thumb|300x300px|兵馬俑]]
始皇帝は、法家の[[李斯]]を登用し、中央集権化を推し進めた。このとき、中央から派遣した役人が全国の各地方を支配する[[郡県制]]が施行された。また、文字・貨幣・[[度量衡]]の統一も行われた。さらに、当時[[モンゴル高原]]に勢力をもっていた[[遊牧民族]]の[[匈奴]]を防ぐために[[万里の長城]]を建設させた。さらに、軍隊を派遣して、匈奴の南下を抑えた。また、[[嶺南 (中国)|嶺南]]地方(現在の広東省)にも軍を派遣し、この地にいた[[百越]]諸族を制圧した。しかし、このような中央集権化や土木事業・軍事作戦は人々に多大な負担を与えた。さらに、[[宦官]]であった[[趙高]]が始皇帝の側近として力を強め、[[紀元前210年]]に始皇帝が死ぬと、趙高は暴政をはじめたため、翌年には[[陳勝・呉広の乱]]という農民反乱がおきた。反乱軍は破竹の勢いで各地を次々に制圧し、かつての戦国時代、[[李牧]]擁する5カ国の合従軍さえも絶対に抜けなかった函谷関が抜かれる。この乱に刺激され各地で反乱がおき、[[項羽]]と[[劉邦]]の挙兵後、[[劉邦]]が都であった[[咸陽]]を占領し、ついに秦は[[紀元前206年]]に滅びた。
=== 楚漢戦争 ===
[[画像:Paper 450x450.jpg|thumb|right|後漢時代に改良された、紙]]
秦の滅亡後、[[項羽]]と[[劉邦]]が覇権を争った([[楚漢戦争]])。当初、項羽有利であったが、[[韓信]]が、劉邦側に寝返ったことを機に、劉邦が主導権を握るようになった。そして、[[紀元前202年]]の[[垓下の戦い]]で項羽は自害し、劉邦は天下を統一した。
=== 前漢 ===
{{main|前漢}}
[[File:Silk-Road course.jpg|310px|right|thumb|シルクロード図]]
劉邦は、始皇帝が急速な中央集権化を推し進めて失敗したことから、一部の地域には親戚や臣下を王として治めさせ、ほかの地域を中央が直接管理できるようにした。これを[[郡国制]]という。しかし、[[紀元前154年]]には、各地の王が中央に対して[[呉楚七国の乱]]と呼ばれる反乱を起こした。この反乱は鎮圧され、結果として、中央集権化が進んだ。[[紀元前141年]]に即位した[[武帝 (漢)|武帝]]は、国内の安定もあり、対外発展を推し進めた。武帝は匈奴を撃退し、[[シルクロード]]を通じた西方との貿易を直接行えるようにした。また、[[朝鮮半島]]北部、[[ベトナム]]北中部にも侵攻した。[[漢四郡]]などこれらの地域はその後も強く中国文化の影響を受けることとなった。また、武帝は[[董仲舒]]の意見を聞いて、[[儒教]]を統治の基本とした。これ以降、中国の王朝は基本的に儒教を統治の基本としていく。
一方で文帝の頃より貨幣経済が広汎に浸透しており、度重なる軍事行動と相まって、農民の生活を苦しめた。漢の宮廷では貨幣の浸透が農民に不利益であることがしばしば論じられており、農民の救済策が検討され、富商を中心に増税をおこなうなど大土地所有を抑制しようと努力した。また儒教の国教化に関連して儒教の教義論争がしばしば宮廷の重大問題とされるようになった。ちなみに、このころ[[イエス・キリスト]]が生まれ、以降は[[紀元後]]となる。
=== 新 ===
[[8年]]には、[[王莽]]が皇帝の位を奪って漢を滅ぼし、[[新]]を建てた。王莽は当初儒教主義的な徳治政治をおこなったが、相次ぐ貨幣の改鋳や頻繁な地名、官名の変更など理想主義的で恣意的な政策をおこなったため徐々に民心を失い、辺境異民族が頻繁に侵入し、[[赤眉の乱]]など漢の復興を求める反乱が起き、内乱状態に陥った([[新末後漢初]])。その中で新は[[更始帝]]により滅ぼされる。
=== 後漢 ===
{{main|後漢}}
その後漢の皇族の血を引く[[光武帝|劉秀]]によって漢王朝が復興された。この劉秀が建てた漢を[[後漢]]という。王朝初期には雲南に進出し、また[[班超]]によって西域経営がおこなわれ、シルクロードをおさえた。初期の後漢王朝は豪族連合的な政権であったが、[[章帝 (漢)|章帝]]の時代までは中央集権化につとめ、安定した政治が行われた。しかし[[安帝 (漢)|安帝]]時代以後[[外戚]]や[[宦官]]の権力の増大と[[官僚]]の党派対立に悩まされるようになった。
== 魏晋南北朝時代 ==
{{main|魏晋南北朝時代}}
黄巾の乱以降、[[隋]]が[[589年]]に中国を再統一するまで、一時期を除いて中国は分裂を続けた。この隋の再統一までの分裂の時代を魏晋南北朝時代という。また、この時期には[[日本]]や[[朝鮮]]など中国周辺の諸民族が独自の国家を形成し始めた時期でもある。
[[魏晋南北朝表]]も参照。
=== 三国時代 ===
{{main|三国時代 (中国)|蜀漢|魏 (三国) |呉 (三国)}}
[[画像:Chibi.jpg|thumb|300x300px|三国決戦の地、赤壁]]
後漢末期の[[184年]]には、[[黄巾の乱]]と呼ばれる農民反乱が起き、黄巾の乱が鎮圧されたあと、都では[[董卓]]が暴政を始め、豪族が各地に独自政権を立てた。中でも有力であったのが、[[後漢]]王朝の皇帝を擁していた[[曹操]]である。しかし、中国統一を目指していた曹操は、[[208年]]に[[赤壁の戦い]]で、江南の豪族[[孫権]]に敗れた。結局、曹操の死後、[[220年]]に曹操の子 [[曹丕]]が[[後漢]]の[[皇帝]]から[[皇帝]]の位を譲られ、[[魏 (三国)|魏]]を建国した。このことにより[[後漢]]は滅亡し、漢王朝は完全に滅びた。これに対し、[[221年]]には現在の[[四川省]]に割拠し、漢王朝の復興を唱えていた[[劉備]]が皇帝となり、[[蜀漢]]を建国した。江南の孫権も[[229年]]に皇帝と称し、[[呉 (三国)|呉]]を建国した。この蜀、魏、呉の三国が鼎立した時代を[[三国時代 (中国)|三国時代]]という。
三国の中で、もっとも有力であったのは魏であった。魏は後漢の半分以上の領土を継承したが、戦乱で荒廃した地域に積極的な屯田をおこない、支配地域の国力の回復につとめた。魏では官吏登用法として、[[九品官人法]] がおこなわれた。
=== 西晋 ===
三国時代は基本的に魏と呉・蜀同盟との争いを軸としてしばしば交戦したが、魏で重鎮であった[[司馬懿]]がクーデターを起こし、司馬一族が魏の国内の権力を掌握した([[高平陵の変]])。その後、蜀が[[263年]]に魏に滅ぼされた([[蜀漢の滅亡]])。司馬懿の死後、息子の[[司馬師]]、[[司馬昭]]が後を継ぎ、司馬昭が晋王となる。そして[[265年]]、司馬昭の息子である[[司馬炎]]が魏の皇帝である[[元帝]]より禅譲をうけ、皇帝として即位し魏は滅亡する。そして司馬炎は新たな王朝として[[西晋]]を興した。その後、司馬炎は呉に20万の大軍を送り、呉を滅ぼした([[呉の滅亡 (三国)|呉の滅亡]])。これにより三国時代は終結し、晋が中国統一を果たした。
だがその後司馬炎は急に堕落し政務を顧みなくなり、その死後帝位をめぐって各地の皇族が戦争を起こした
([[八王の乱]])。
===五胡十六国時代 ===
{{main|五胡十六国時代}}
この時、[[五胡]]と呼ばれる異民族を軍隊として用いたため、これらの民族が非常に強い力を持つようになった。[[316年]]には、五胡の1つである匈奴の[[劉淵]]が晋を滅ぼし、漢(その後前趙)を建てた[[永嘉の乱]])。これ以降、中国の北方は、五胡の建てた国々が支配し、南方は江南に避難した晋王朝(南に移ったあとの晋を[[東晋]]という)が支配した。この時期は、戦乱を憎み、宗教に頼る向きがあった。代表的な宗教が[[仏教]]と[[道教]]であり、この2つの宗教は時には激しく対立することがあった。
[[439年]]の[[北魏]]による華北統一により南北朝時代へと移る。
=== 南北朝時代 ===
==== 東晋と南朝 ====
江南を中心とする中国の南方では、異民族を恐れて、中国の北方から人々が多く移住してきた。これらの人々によって、江南の開発が進んだ。それに伴い、貴族が大土地所有を行うということが一般的になり、貴族が国の政治を左右した。一部の貴族の権力は、しばしば皇帝権力よりも強かった。これらの貴族階層の者により散文、書画等の六朝文化と呼ばれる文化が発展した。[[東晋]]滅亡後、[[宋 (南朝)|宋]]・[[斉 (南朝)|斉]]・[[梁 (南朝)|梁]]・[[陳 (南朝)|陳]]という4つの王朝が江南地方を支配したが、貴族が強い力を握ることは変わらなかった。梁の武帝は仏教の保護に努めた。
==== 北朝 ====
華北を統一し、五胡十六国時代を終わらせた[[北魏]]は[[471年]]に即位した[[孝文帝 (北魏)|孝文帝]]によって漢化政策を推し進めた。また、土地を国家が民衆に割り振る[[均田制]]を始め、[[律令制]]の基礎付けをした。しかし、このような漢化政策に反対するものがいたこともあり、北魏は、[[西魏]]と[[東魏]]に分裂した。西魏は[[北周]]へと、東魏は[[北斉]]へと王朝が交代した。[[577年]]には[[北周]]が[[北斉]]を滅ぼしたが、[[581年]]に、隋が[[北周]]にとって代わった。[[589年]]に、隋は[[陳 (南朝)|陳]]を滅ぼし、[[中国統一]]を達成した。
== 隋唐帝国 ==
{{main|隋|唐}}
隋唐史とは、隋王朝と唐王朝の歴史のことだが、[[6世紀|6世紀末]]から[[10世紀|10世紀初]]にかけての[[中国大陸]]を中心とする東アジア地域史を、隋唐史と呼ぶこと自体に、隋や唐という王朝を自明の存在としてしまう罠がしかけられている。[[易姓革命]]による王朝交替をしめす隋(楊隋)や唐(李唐)の名称を用いることによって、[[華北]]の[[黄土]]に拠点をおく政権が、中国大陸全体を支配する揺るぎのない政権である印象が生まれ、内外の政治情勢のなかで、政権の正統性の構築をめざしてもがき続けた、可変的で流動性に富んだ側面がみえにくくなる<ref name="中国歴史研究入門"/>。[[軍閥|軍閥内]]の権力闘争を勝ち抜いて、[[楊堅]]が隋王朝を建国した際、政権の正統化作業に多大な労力を割いたことは、[[アーサー・F・ライト]]が明らかにしている<ref name="中国歴史研究入門"/>。[[宮崎市定]]は、隋王朝が、権力基盤が不安定ななかで政治運営に苦心する状況を叙述した。唐建国が、隋末に勃発した各地の軍閥同士の大規模な戦闘と、[[突厥]]や[[南匈奴]]などが中原に影響力を及ぼす複雑な内外情勢のなかで挙行され、隋末の政治状況が唐建国後にも影響を与えたことは、[[氣賀澤保規]]や[[石見清裕]]が明らかにしている。唐王朝は、建国後も政権内で権力闘争が続き、[[武則天]]が皇帝となり[[武周|周王朝]]を建国した時点で一旦断絶し、唐という統一王朝が10世紀初まで継続して存続した訳ではない<ref name="中国歴史研究入門"/>。後の歴史家が、[[女帝]]である武則天による周王朝の建国を認めなかったに過ぎず、[[安禄山|安禄山政権]]の[[燕 (安史の乱)|燕王朝]]や、[[朱泚|朱泚政権]]の[[唐|秦王朝]]・[[唐|漢王朝]]、[[黄巣|黄巣政権]]の斉王朝などが[[長安]]を都に建国したことによって、唐王朝は、繰り返し正統性を否定されている。隋唐という名称こそが、自らの存在を固定し正統化しようとする隋唐の政権担当者たちが、同時代と後代の歴史家を抱き込もうとした文化的仕掛けである。中国の伝統的正統史観を相対化するための戦略として、普遍的な時代区分の名称を用いて、隋唐期を「中国中世後期」と称したり、[[杉山正明]]のように、[[北魏]]の前身の[[代 (五胡十六国)|代国]]から隋唐王朝までの国家を、政権統治者層が一貫して[[鮮卑]][[拓跋部|拓跋]]である点に注目し、「拓跋国家」と名づける考えもある。歴史叙述が異なる価値観のせめぎあう場であることを認め、6世紀末から10世紀初にかけての中国大陸を中心とする東アジア地域史を、隋唐史と呼ぶことの政治性を自覚すべきである<ref name="中国歴史研究入門"/>。隋唐王朝の存在を自明の前提として、そこから遡る歴史叙述とは別に、何もないところから隋や唐という王朝名を自称する政権が強引に構築されてゆく、政治権力の生成過程を分析する方法を模索すべきであり、[[太宗 (唐)|唐太宗]]が勅撰した『[[晋書]]』の思想性を分析する[[礪波護]]、[[武田幸男]]、安田二郎、『[[周書]]』を分析する[[前島佳孝]]、『{{仮リンク|貞観氏族志|zh|氏族志}}』を分析する[[山下将司]]の研究により、唐太宗政権が、歴史書の編纂を用いて、支配の正統化の獲得にもがく様が明らかになっている。唐太宗時に編纂がはじまり高宗時に完成した『[[隋書]]』経籍志序文および目録部分に、精緻な考証を施した[[興膳宏]]、[[川合康三]]も唐初の政治文化を把握する示唆を与えてくれる<ref name="中国歴史研究入門">{{Cite book|和書|editor=[[礪波護]]・[[岸本美緒]]・[[杉山正明]]|title=中国歴史研究入門|series=|publisher=[[名古屋大学出版会]]|date=2006-01-10|isbn=481580527X|page=100-101}}</ref>。
=== 隋 ===
[[隋]]の[[楊堅|文帝]]は、均田制・[[租庸調制]]・[[府兵制]]などを進め、中央集権化を目指した。また同時に九品中正法を廃止し、試験によって実力を測る[[科挙]]を採用した。しかし、文帝の後を継いだ[[煬帝]]は江南・華北を結ぶ[[大運河]]を建設したり、度重なる遠征を行ったために財政が逼迫し、民衆の負担が増大した。三回目の[[高句麗]]遠征に合わせて農民反乱が起き、[[618年]]に隋は滅亡した。日本の[[聖徳太子]]から[[遣隋使]]([[小野妹子]])が送られた。
=== 唐 ===
[[画像:Da yan ta.jpg|thumb|left|当時世界最大の都市だった長安のシンボルタワー・大雁塔]]
==== 初唐 ====
隋に代わって、中国を支配したのが、[[唐]]である。唐は基本的に隋の支配システムを受け継ぎ、[[626年]]に即位した[[李世民|太宗]]は[[租庸調#中国大陸の租庸調|租庸調制]]を整備し、律令制を完成させた。唐の都の[[長安]]は、当時世界最大級の都市であり、各国の商人などが集まった。長安は、西方には[[シルクロード]]によって[[イスラム帝国]]や[[東ローマ帝国]]などと結ばれ、[[ゾロアスター教]]・[[景教]]・[[マニ教]]をはじめとする各地の宗教が流入した。また、文化史上も唐時代の[[漢詩|詩]]は最高のものとされる。
==== 武周 ====
唐太宗の死後着々と力を付けた太宗とその子の[[高宗 (唐)|高宗]]の皇后[[武則天]]はついに[[690年]]政権を簒奪し、中国史上唯一の女皇帝に即位し、国号を[[武周|周]]とした。
==== 盛唐から晩唐へ ====
[[712年]]に[[玄宗 (唐)|玄宗]]は唐を再興させて国内の安定を目指したが、すでに律令制は制度疲労を起こしていた。また、周辺諸民族の統治に失敗したため、辺境に強大な軍事力を持った[[藩鎮|節度使]]を置く必要がでてきた。節度使は軍権以外にも、後に民政権・財政権も持ち始め、[[755年]]には、節度使の[[安禄山]]たちが[[安史の乱]]と呼ばれる反乱を起こした。この反乱は[[郭子儀]]や[[僕固懐恩]]、[[ウイグル帝国]]の太子の[[葉護太子|葉護]]らの活躍で何とか鎮圧されたが、反乱軍の投降者の勢力を無視できず、投降者を節度使に任じたことなどからさらに各地で土地の私有([[荘園]])が進み、土地の国有を前提とする均田制が行えなくなっていった。結局政府は土地の私有を認めざるを得なくなり、律令制度は崩壊した。[[875年]]から[[884年]]には[[黄巣の乱]]と呼ばれる農民反乱がおき、唐王朝の権威は失墜し、各地の節度使はますます権力を強め、[[907年]]には節度使の1人である[[朱全忠]]が唐を滅ぼした。
=== 五代十国 ===
唐の滅亡後、各地で節度使があい争った。この時代を[[五代十国時代]]という。この戦乱を静めたのが、[[960年]]に皇帝となって[[北宋|宋]]を建国した[[趙匡胤]]である。ただし、宋が完全に[[中国統一]]を達成したのは趙匡胤の死後の[[976年]]である。
== 宋元帝国 ==
{{main|宋 (王朝)|北宋|南宋|元 (王朝)}}
=== 五代十国時代 ===
唐の滅亡後、各地で節度使が争った。この時代を[[五代十国時代]]という。この戦乱を静めたのが、[[960年]]に皇帝となって[[北宋|宋]]を建国した[[趙匡胤]]である。ただし、宋が完全に[[中国統一]]を達成したのは趙匡胤の死後の[[976年]]である。
=== 北宋 ===
[[画像:West Lake.JPG|thumb|left|300x300px|杭州]]
北宋初の皇帝[[趙匡胤]]は、節度使が強い権力をもっていたことで戦乱が起きていたことを考え、軍隊は文官が率いるという文治主義をとっ
た。また、これらの文官は、[[科挙]]によって登用された。宋からは、科挙の最終試験は皇帝自らが行うものとされ、科挙で登用された官吏と皇帝の結びつきは深まった。また、多くの国家機関を皇帝直属のものとし、[[中央集権]]・皇帝権力強化を進めた。科挙を受験した人々は大体が、地主層であった。これらの地主層を[[士大夫]]と呼び、のちの[[清]]代まで、この層が皇帝権力を支え、官吏を輩出し続けた。
=== 遼・西夏 ===
唐は、その強大な力によって、周辺諸民族を影響下においていたが、唐の衰退によってこれらの諸民族は自立し、独自文化を発達させた。また、宋は文治主義を採用していたため、戦いに不慣れな文官が軍隊を統制したので、軍事力が弱く、周辺諸民族との戦いにも負け続けた。なかでも、[[契丹|契丹族]]の[[遼]]・[[タングート|タングート族]]の[[西夏]]は、[[中国本土]]にも侵入し、宋を圧迫した。これらの民族は、[[魏晋南北朝時代]]の[[五胡]]と違い、中国文化を唯一絶対なものとせず、独自文化を保持し続けた。このような王朝を[[征服王朝]]という。後代の[[元 (王朝)|元]]や[[清]]も征服王朝であり、以降、中国文化はこれらの周辺諸民族の影響を強く受けるようになった。
==== 庶民文化の発達と程朱理学 ====
文化的には、[[経済発展]]に伴って庶民文化が発達した。また、士大夫の中では新しい学問をもとめる動きが出て、儒教の一派として[[朱子学]]が生まれた。
=== 金・南宋 ===
[[1127年]]には、金の圧迫を受け、宋は、江南に移った。これ以前の宋を[[北宋]]、以降を[[南宋]]という。南宋時代には、江南の経済が急速に発展した。また、すでに唐代の終わりから、陸上の東西交易は衰退していたが、この時期には、ムスリム商人を中心とした海上の東西交易が発達した。当時の宋の特産品であった[[陶磁器]]から、この交易路は[[陶磁の道]]と呼ばれる。南宋の首都にして海上貿易の中心港だった[[杭州市|杭州]]は経済都市として栄え、元時代に中国を訪れた[[マルコ・ポーロ]]は杭州を「世界一繁栄し、世界一豊かな都市」と評している。
=== モンゴル帝国 ===
[[ファイル:YuanEmperorAlbumKhubilaiPortrait.jpg|thumb|フビライ=ハン]]
[[13世紀]]初頭に[[モンゴル高原]]で、成吉思汗([[チンギス・カン]])が、モンゴルの諸部族を統一し、[[ユーラシア大陸]]各地へと、征服運動を開始した。[[モンゴル民族|モンゴル]]は、[[東ヨーロッパ]]、[[ロシア]]、[[小アジア]]、[[メソポタミア]]、[[ペルシャ]]、[[アフガニスタン]]、西蔵([[チベット]])にいたる広大な領域を支配し、この帝国は[[モンゴル帝国]](蒙古帝国)と呼ばれる。
モンゴル帝国は各地に王族や[[漢人]]有力者を分封した。モンゴル帝国の5代目の君主([[ハーン]])に[[クビライ]](忽必烈)が即位すると、これに反発する者たちが、反乱を起こした。結局、モンゴル帝国西部に対する大ハーン直轄支配は消滅し、大ハーンの政権は[[中国]]に軸足を置くようになった。もっとも、西方が離反しても、[[帝国]]としての緩やかな連合は保たれ、ユーラシアには平和が訪れていた。
=== 元 ===
[[1271年]]にクビライは[[元 (王朝)|元]]を[[国号]]として中国支配をすすめた。当時、[[黄河]]が南流し、[[山東半島]]の南に流れていたため、[[漢民族]]は北方民族の攻勢を防げなかった。[[華北]]は[[満洲民族|満洲]]系の[[女真族]]による[[金 (王朝)|金]]が、南部を[[南宋]]が支配していたが、金は[[1234年]]、[[南宋]]は[[1279年]]にモンゴル帝国に滅ぼされた。
元朝の中国支配は伝統的な中国王朝とは大きく異なっていた。モンゴル人は中国の伝統的な統治機構を採用せず、遊牧民の政治の仕組みを中国に移入したからである。元の支配階級の人々は、すでに西方の優れた文化に触れていたため、中国文化を無批判に取り入れることはなかった。それは政治においても同様だったのである。
それに伴い、伝統的な統治機構を担ってきた、儒教的な教養を身に付けた士大夫層は冷遇され、政権から遠ざけられた。そのため、彼らは曲や小説などの娯楽性の強い文学作品の執筆に携わった。この時代の曲は[[元曲]]と呼ばれ、中国文学史上重要なものとされる。また、モンゴル帝国がユーラシア大陸を広く支配したために、この時期は東西交易が前代に増して盛んになった。
元朝は、宮廷費用などを浪費しており、そのため塩の専売策や紙幣の濫発で収入を増やそうとした。しかし、これは経済を混乱させるだけであった。
== 明清帝国 ==
{{main|明|清}}
=== 明 ===
==== 漢民族の復興 ====
モンゴル人の統治の下、庶民の生活は困窮していたため、各地で反乱が発生した。中でも最大規模のものは[[1351年]]に勃発した皇漢起義であった。紅巾党の中から頭角をあらわした[[朱元璋]]は、[[1368年]]に[[南京市|南京]]で皇帝に即位して[[明]]を建国した。同年、朱元璋は元朝の国都の[[大都]]を陥落させ、元の政府はモンゴル高原へと撤退した。撤退後の元朝のことを[[北元]]といい、明と北元はしばしば争った。明側は[[1388年]]に北元は滅んだと称しているが、実質的にはその後も両者の争いは続いた。
==== 鄭和の大航海 ====
[[画像:ZhengHeShips.gif|thumb|鄭和の南海大遠征の時の巨艦・「宝船」]]
[[洪武帝]](朱元璋)の死後、孫の[[建文帝]]が即位したが、洪武帝の四男である[[永楽帝|朱棣]]が反乱([[靖難の変]])を起こし、朱棣が永楽帝として皇帝になった。永楽帝は、モンゴルを攻撃するなど、積極的に対外進出を進めた。また、[[鄭和]]を南洋に派遣して、諸国に[[朝貢]]を求めた。この時の船が近年の研究によって長さ170m余、幅50m余という巨艦で、その約70年後の[[大航海時代]]の船の5倍から10倍近い船であったことが分かっている。
また、永楽帝によって現在に至るまで世界最大の宮殿である[[紫禁城]]が北京に築かれた。[[File:Taihe Palace in twilight.JPG|thumb|left|300x300px|紫禁城の中心・太和殿]]
永楽帝の死後、財政事情もあって、明は海禁政策をとり、貿易を著しく制限することとなる。このとき永楽帝を引き継いで、鄭和のようにずっと積極的に海外へ進出していれば、ヨーロッパのアジア・アフリカ支配も実現しなかっただろうと多くの歴史家は推測する。その後、モンゴルが再び勢力を強めはじめ、[[1449年]]には皇帝がモンゴルの捕虜になるという事件([[土木の変]])まで起きた。また、この頃に[[陽明学]]が出来る。
==== 銀経済の発展と北虜南倭 ====
明代の後期には、[[メキシコ]]や[[日本]]から大量の[[銀]]が中国に流入し、貨幣として基本的に銀が使われるようになった。そのため、政府も[[一条鞭法]]と呼ばれる税を銀で払わせる税法を始めた。また、清朝に入ると、人頭税を廃止し土地課税のみとする[[地丁銀制]]が始まった。また明清両代ともに商品経済が盛んになり、農業生産も向上した。中国南部沿岸には、[[倭寇]]と呼ばれる海上の無法者たちが襲撃を重ねていた。これは、海禁政策で貿易が自由にできなくなっていたためである。倭寇とモンゴルを併称して「北虜南倭」というが、北虜南倭は明を強く苦しめた。
==== 明の滅亡 ====
また、皇帝による贅沢や多額の軍事費用の負担は民衆に重税となって圧し掛かってきた。これに対し、各地で反乱がおき、その中で頭角をあらわした[[李自成]]が[[1644年]]に明を滅ぼした。
その後、明の皇帝一族と遺臣によって[[南明]]が[[華中]]・[[華南]]で立てられたが、[[華北]]から南進してきた[[清朝]]によって短期間で滅ぼされた。南明の滅亡後も[[鄭成功]]が[[台湾]]で[[鄭氏政権 (台湾)|東寧王国]]を建てて清朝に抵抗したが、こちらも短命に終わった。
=== 清 ===
==== 満洲族の起源と中華支配 ====
[[17世紀]]初頭には、[[満洲]]で[[ヌルハチ]]が[[満洲族]]を統一した。その子の[[ホンタイジ]]は満洲と[[内モンゴル自治区|蒙古]]を征服し、[[1636年]]には[[蒙古人]]から元朝の玉璽を譲られ、[[清朝]]を建国した。李自成が明を滅ぼすと、清朝の軍隊は[[万里の長城]]を越えて[[中国本土]]へ進出し、李自成の軍隊を打ち破り旧明の遺臣を取り込みながら中国全土を支配下に置いた。
==== 康乾盛世 ====
[[ファイル:ChineseSoldierByWilliamAlexander1793.JPG|代替文=|サムネイル|217x217ピクセル|清の[[銃士]]]]
[[17世紀]]後半から[[18世紀]]にかけて、[[康熙帝]]・[[雍正帝]]・[[乾隆帝]]という3人の賢帝の下で、清朝の支配領域は[[中国本土]]と中国東北地方・モンゴルのほかに、[[台湾]]・[[東トルキスタン]]・[[チベット]]にまで及んだ。
この清の支配領域が大幅に広がった時期は、『[[四庫全書]]』の編纂など文化事業も盛んになった。しかし、これは学者をこのような事業に動員して、異民族支配に反抗する暇をなくそうとした面もあった。
==== アヘン戦争と中国半植民地化の危機 ====
[[Image:china_imperialism_cartoon.jpg|thumb|right|フランス人が描いた中国半植民地化の[[風刺]]画。[[フランス]]、[[イギリス]]、[[ロシア]]、[[ドイツ]]、[[日本]]が中国を分割している。]]
[[18世紀]]が終わるまでには、清とヨーロッパとの貿易は[[イギリス]]がほぼ[[独占]]していた。但し、当時イギリスの物産で中国に売れるものはほとんどなく、逆に中国の安い[[お茶]]はイギリスの[[労働者階級]]を中心に大きな需要があったこともあり、イギリスは[[貿易赤字]]に苦しんだ。そこで、イギリスは[[麻薬]]である[[アヘン]]を中国に輸出し始めた。結果、イギリスは大幅な貿易黒字に転じ、中国にはアヘン[[薬物依存症|中毒者]]が蔓延した。この蔓延を重く見た清朝政府は、[[1839年]]に[[林則徐]]に命じてアヘン貿易を取り締まらせた。しかし、これに反発したイギリス政府は清に対して翌[[1840年]]宣戦布告した。[[アヘン戦争]]と呼ばれるこの戦争では、[[工業化]]をとげ、近代兵器を持っていたイギリス軍が勝利した。これ以降、イギリスを初めとする[[ヨーロッパ]]の[[列強]]は清に対し、[[治外法権]]の承認、[[関税自主権]]の喪失、片務的[[最恵国待遇]]の承認、[[開港]]、[[租借地]]の設置といった[[不平等条約]]を締結させ、中国の半[[植民地]]化が進んだ。また、[[不平等条約]]締結の過程で清は、[[外満洲]]や[[トルキスタン]]、[[香港島]]・[[九龍半島]]、[[マカオ]]等の自国支配地域を列強に割譲させられた。
国内的には、[[太平天国の乱]]などの反乱もしばしば起きた。これに対し、[[同治帝]](在位[[1861年]] - [[1875年]])の治世の下で、ヨーロッパの技術の取り入れ([[洋務運動]])が行われた。
==== 日清戦争と光緒新政 ====
[[1894年]]から翌[[1895年]]にかけて清と[[大日本帝国|日本]]との間で行われた[[日清戦争]]にも清は敗退した。これは洋務運動の失敗を意味するものであった。この戦争の結果、[[伊藤博文]]・[[陸奥宗光]]の日本と[[李鴻章]]を代表とする清朝との間で[[下関条約]]が結ばれ、清は[[台湾]]を日本へ割譲した他、[[李氏朝鮮]]の[[独立]]を認めた。これにより、中国の歴代王朝が長年続けてきた[[冊封体制]]が崩壊した。
その後、清朝は改革を進めようとしたものの、沿岸地域を[[租借]]地とされるなどのイギリス・[[フランス]]・[[ロシア帝国|ロシア]]・[[ドイツ]]・[[アメリカ合衆国]]・日本による半植民地化の動きは止まらなかった。
== 中華民国 ==
{{main|中華民国の歴史}}
=== 辛亥革命 ===
[[1911年]]10月の[[武昌]]での軍隊蜂起をきっかけに[[辛亥革命]]が起こり、[[華中]]、[[華南]]を中心とした各省が[[清]]からの独立を宣言した。11月[[袁世凱]]が清国[[内閣総理大臣 (清朝)|内閣総理大臣]]に就任し、革命軍の鎮圧にあたった。12月革命軍側が、[[南京市|南京]]を占領する。同月、清国政府と独立各省との間に停戦が成立した。翌[[1912年]][[1月1日]]、革命派の首領の[[孫文]]によって南京で[[中華民国 (1912年-1949年)|中華民国]][[中華民国臨時政府 (1912年-1913年)|臨時政府]]の樹立が宣言され、孫文は[[中華民国大総統|臨時大総統]]に就任した。これにより、中国は[[北京市|北京]]の清国政府と南京の中華民国政府の南北両政府並立状態となる。清国政府の袁世凱及び南京政府の[[臨時参議院]]の意向により、北京にいた清朝[[皇帝 (中国)|皇帝]]・[[愛新覚羅溥儀|溥儀]](宣統帝)は[[2月12日]]に[[宣統帝退位詔書|退位]]し、清朝と共に[[中華帝国|中華王朝]]は終焉した。[[3月10日]]には、南京政府の合意の元で袁世凱が臨時大総統に就任した。
==== 少数民族の動向 ====
辛亥革命により清国が消滅すると、その旧領を巡って中華民国(中国)と西蔵([[チベット]])・外蒙古([[モンゴル]])・新疆([[東トルキスタン]])の各勢力の間で対立が発生した。
中華民国は、清の[[継承国]]として滅亡時点の旧清領全域の[[領有権]]を主張した。これに対して、西蔵・外蒙古・新疆は、自分たちは[[中国帝王一覧|清朝の皇帝]]に服属していたのであって中国という国家に帰属するものではなく、服属先の清帝退位後は中国と対等の国家であると主張してそれぞれ自領域の独立を目指す動きを強めた。
'''チベットの独立運動'''
当時のチベットの中心地だった[[ポタラ宮]]では、[[ダライ・ラマ]]を補佐していた[[パンチェン・ラマ]]が[[親中]]的であったために、[[イギリス]]に接近するダライ・ラマに反発し、[[1925年]]に中国へ[[亡命]]した。[[1933年]]に[[ダライ・ラマ13世]]が死去すると、中国の統治下にあったチベット東北部の[[アムド]]地方([[青海省]])で生まれた[[ダライ・ラマ14世]]の即位式典に[[国民政府]]の使節団が列席したが、式典が終了した後も[[蒙蔵委員会]]駐蔵弁事処を自称して[[ラサ]]に留まった。[[1936年]]には、[[長征]]中の[[中国共産党]]の[[紅軍]]が[[カム地方]]東部([[西康省]])に滞留中、同地の[[チベット人]]に「チベット人民共和国」(博巴人民共和国)を組織させたが、紅軍の退出とともに、ほどなく消滅した。
'''モンゴルの独立成功'''
[[1913年]]、モンゴルでは[[ボグド・ハーン]]によって、チベットでは[[ダライ・ラマ13世]]よって中国からの独立が宣言され、両者は[[モンゴル・チベット相互承認条約]]を締結する等国際的承認を求め、これを認めない中華民国とは戦火を交えた。この状況は、モンゴル域への勢力浸透をはかる[[ロシア]]、チベット域への進出をねらうイギリスの介入を許し、モンゴルについては蒙・露・中華民国で[[キャフタ条約 (1915年)|キャフタ協定]]を調印・批准して一応の解決ができた。だが、チベットについては、西・英が[[シムラ条約]]を調印・批准したものの中華民国調印を拒否した為に問題の解決には至らなかった。
この問題は最終的に、モンゴルについては[[外蒙古]]部分のみの独立を[[1946年]]に国民政府が承認することによって、チベットについては[[1951年]]締結の[[十七ヶ条協定]]によってチベットの独立否定と[[チベット人]]の[[自治権]]確保を[[ガンデンポタン]]と[[中華人民共和国]]が確認した事によって、一応の決着をみた。
'''東トルキスタンの動乱'''
東トルキスタン(新疆)では、[[19世紀]]中に統治機構の中国化が達成されていた。即ち、[[旗人]]の3将軍による軍政と地元[[ムスリム]]によるベク官人制に代わり、[[新疆省]]を頂点として省内を府、州、県に行政区画した各地方に[[漢人]][[科挙]][[官僚]]を派遣して統治する体制である。そのため、辛亥革命時、東トルキスタンでは地元ムスリムがチベットやモンゴルと歩調をあわせて自身の独立国家を形成しようとする動きはみられず、新疆省の当局者達は速やかに新共和国へ合流する姿勢を示した。
この地では、[[楊増新]]が自立的な政権を維持し、また[[ソビエト連邦]]と独自に[[難民]]や[[貿易]]の問題について交渉した。楊増新の暗殺後は[[金樹仁]]が実権が握ったが、彼は重税を課して腐敗した政治を行った為、[[1931年]]には大規模な[[内乱]]状態に陥った。その後金樹仁の部下であった[[盛世才]]が実権を握るようになり、彼はソ連に倣った政策を打ち出して徐々に権力を強化した。一方で、[[ウイグル人]]が主体となって[[1933年]]~[[1934年]]と[[1944年]]~[[1946年]]に[[東トルキスタン共和国]]の独立が宣言されたが、いずれも新疆省内の一部地域を支配するに止まった。
=== 袁世凱の台頭と帝制運動 ===
[[画像:Yuan Shi-Kai.jpg|thumb|袁世凱]]
[[中華民国]]成立後、[[1913年]]2月に国会議員選挙が実施され国民党が圧勝した。3月、議会からの圧力を警戒した袁世凱は国民党の[[宋教仁]]を暗殺した。袁世凱は進歩党を組織し国会内での勢力拡大を図り、[[議会主義]]的な国民党の勢力削減を企てた。国民党の急進派はこれに反発し、[[辛亥革命|第二革命]]を起こしたが鎮圧された。[[1913年]]10月に袁は正式な大総統となり、更に11月には国民党を非合法化し、解散を命じた。[[1914年]]1月には国会を廃止、5月1日には[[立法府]]の権限を弱め大総統の権力を大幅に強化した中華民国約法を公布した。
袁は列強から多額の[[借款]]を借り受けて積極的な[[軍備]]強化・経済政策に着手した。当初列強の袁政権に対する期待は高かった。しかしこのような外国依存の財政は、後に列強による中国の半植民地化をますます進めることにもなった。[[第一次世界大戦]]が始まると、新規借款の望みがなくなったため、袁は財政的に行き詰まった。また同時期に[[日本]]が中国での権益拡大に積極的に動いた。
[[1915年]][[5月9日]]に、袁が[[大隈重信]]内閣の[[対華21ヶ条要求|21ヶ条要求]]を受けたことは大きな外交的失敗と見られ、同日は国恥記念日とされ袁の外交姿勢は激しく非難された。袁は[[独裁]]を強化する事でこの危機を乗り越えようとし、[[立憲君主制]]的な[[皇帝]]制度へ移行し、自身が皇帝となる事を望んだ。日本も立憲君主制には当初賛成していたようだが、中国国内で帝制反対運動が激化すると反対に転じ外交圧力をかけた。12月に袁世凱は[[中華帝国 (1915年-1916年)|中華帝国]]皇帝となるが、同月中に帝制に反対する[[蔡鍔]]、[[李烈鈞]]、[[唐継尭]]が下野し[[雲南省]]は独立を宣言して[[北京政府]]に反旗を翻した([[護国戦争]])。
[[1916年]]3月に袁は中華帝国を廃止し、[[1916年]]に袁は失意のうちに没した。第二代大総統に副総統の[[黎元洪]]が就任し、副総統に[[馮国璋]]を、4月には[[段祺瑞]]を[[中華民国の首相|国務総理]]に任命した。
=== 袁世凱死後の政局 ===
段祺瑞は当初国会<ref group="†">1916年8月に復活された。</ref> の国民党議員などと提携し、調整的な政策をとっていた。しかし、第一次世界戦に対独参戦しようとした為、徐々に国会と対立した。段は日本の援助の下に強硬な政策を断行した。[[1917年]][[8月14日]]に段は第一次世界大戦へ対独参戦し、同時に軍備を拡張して国内の統一を進めた。[[鉄道]]や[[通信]]等の業界を背景とする利権集団に支えられた段は、[[1918年]]には国会議員改定選挙を強行した。国民党はこれに激しく対立し、南方の地方軍とともに孫文を首班とする[[広東軍政府]]をつくった。
5月に段は日本と日中軍事協定<ref group="†">これは[[ロシア革命]]に対する[[シベリア出兵]]において日中両軍が協力するという秘密条約である。</ref> を結んだが、[[寺内正毅]]内閣失脚後に日本の外交方針が転回すると急速に没落した。段の[[安徽派]]と対立関係にあった[[直隷派]]の[[馮国璋]]は[[徐世昌]]を大総統に推薦し、段もこれを受け入れた。これにより[[親日]]的な安徽派は徐々に影響力を失い、[[1919年]][[5月4日]]には[[山東半島]]での[[主権]]回復と[[反日]]を訴える[[デモ活動|デモ行進]]が始まった。これを[[五・四運動]]と言う。なお、山東半島は[[1922年]]に返還された。[[1920年]]7月の[[安直戦争]]で直隷派に敗れたことで段は失脚し、[[奉直戦争]]を経て[[張作霖]]が北京政府の実権を掌握した。[[画像:Sun Yat-sen 2.jpg|thumb|300x300px|革命家・孫文]]
=== 国民革命の蜂起 ===
[[ファイル:Nikolayevsk Incident-1.jpg|300px|thumb|[[尼港事件]]で[[中国軍]]の支援を受けた[[赤軍]]の攻撃により焼け落ちた日本領事館(1920年)]]
袁世凱により国民党が非合法化された後、[[孫文]]は[[1914年]]7月に[[中華革命党]]を東京で結成した。[[1919年]]には拠点を[[上海市|上海]]に移し、[[中国国民党]]と改称した。[[1921年]]には上海で[[中国共産党]]が成立した。これらの政党は[[1918年]]の[[ロシア革命]]の影響を受けており、議会政党というよりも明確な計画性と組織性を備えた革命政党を目指した。[[1924年]]に国民党は第一回全国大会を行い、党の組織を改編するとともに共産党との合同(第一次[[国共合作]])を打ち出した。孫文はこの頃全く機能していなかった国会に代わって国内の団体代表による国民会議を提唱し、これに呼応した馮国璋により北京に迎えられた。[[1925年]]には国民会議促成会が開かれたが、この会期中に孫文は没した。7月には広東軍政府で機構再編が進み、中華民国[[国民政府]]の成立が宣言された。一方で[[1924年]]6月には[[蔣介石]]を校長として[[黄埔軍官学校]]が設立された。[[1925年]]4月に[[国民革命軍]]が正式に発足され、国民党は蔣介石を指導者として軍事的な革命路線を推し進めることとなった。
[[1926年]]7月に蔣介石は[[広州市|広州]]から[[北伐 (中国国民党)|北伐]]を開始したが9月に[[イギリス軍]]によって万県市街が砲撃される事件が起きた([[万県事件]])。[[1927年]]1月には[[武漢市|武漢]]に政府を移し、[[武漢国民政府]]と呼ばれるようになった。この武漢国民政府では当初国民党左派と共産党が優位にあったが、同年3月に[[南京事件 (1927年)|南京事件]]が発生すると諸外国と緊張状態に陥った蔣介石は4月12日[[上海クーデター]]を起こしてこれらを弾圧し、4月18日には[[反共]]を前面に打ち出した[[蔣介石政権|南京国民政府]]を別個に成立させた([[寧漢分裂]])。南京国民政府は主に上海系の[[資本家]]([[浙江財閥]])に支えられ、[[北京政府|北京]]・武漢・南京に3つの政権が鼎立することになったが、9月ごろから武漢政府も反共に転じ、南京政府に吸収された。
[[1928年]]6月には南京政府の国民革命軍が[[北京政府]]を打倒し、[[奉天派|東北軍閥]]の[[張作霖]]が[[奉天]]近郊で[[日本]]の[[関東軍]]により爆殺された([[張作霖爆殺事件]])。これを受け、12月に息子の[[張学良]]も南京政府を承認([[易幟]])したことから、国民政府によって中国の政権は再び統合された。
西欧諸国は慈善事業も兼ねて、中国に様々な[[インフラストラクチャー]]投資を行っており、[[大学]]などの[[教育機関]]219、[[医療機関]]96、[[図書館]]9、[[博物館]]6、及び[[天文台]]1、[[孤児院]]等福祉施設55、また[[上海レースクラブ|上海競馬倶楽部]]など国際レクリエーション施設が欧米諸国によって設立されていた{{sfn|外務省|1929}}。日本企業と米国企業の[[フラー建築|合弁会社]]による[[満鉄総合病院]]もあった。
=== 国民党の独裁と統一への道 ===
[[Image:Chiang Kai-shek 1926.jpg|thumb|300x300px|蔣介石]]
[[国民政府]]においては基本的に国民党の[[一党独裁]]の立場が貫かれた。しかし一般党員の数は50万人以下であったとされており、人口が4億を超えると推測されていた中国国民の中ではかなり少数であった(そもそも大多数の国民が「[[国民]]」として登録されておらず、更に[[文盲]]の者も多かった)。その為、支配基盤が完全とは程遠く、土地税を中心として地方政権の財源を確保する国地画分政策が実施され、[[軍閥時代|かつての軍閥]]による割拠的傾向がいまだに強い地方勢力に配慮するようなこともなされた。
[[1929年]]には[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]が[[内満洲]]に侵攻し([[中ソ紛争]])、[[ハバロフスク議定書]]が結ばれると[[ソビエト連邦]]の影響力が強まった。[[1930年代]]前半には国民政府に叛旗を翻す形で地方政権が樹立される例が多くなり、軍事衝突なども起きた。[[1930年]]に[[閻錫山]]と[[汪兆銘]]が中心となった北平政府や、[[1931年]]に[[孫科]]らが設立した広州政府等である。
但し此のような軍事的緊張は国民政府の中央軍を掌握していた蔣介石の立場をより強固にすることにもなった。蔣介石は[[経済政策]]<ref group="†">[[1928年]]〜[[1930年]]に各国と交渉して[[関税自主権]]を回復し、[[関税]]を引き上げ、塩税と統一消費税を規定して財源を確保した。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]と[[イギリス]]の[[銀行]]資本に「[[法幣]]」という[[紙幣]]を使用させ、[[秤量貨幣]]であった[[銀両]]を廃止した。更に[[アメリカ合衆国連邦政府|アメリカ政府]]に[[銀]]を売却して[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]を[[外為]]資金として貯蓄した。これにより国際的な銀価格の中国の国内経済に対する影響が大幅に緩和された。このような経済政策を積極的に推進したのは国民政府財政部長の[[宋子文]]で、彼は孫文の妻[[宋慶齢]]の弟で、妹は後に蔣介石と結婚した[[宋美齢]]であった。</ref> でも手腕を発揮して影響力を増し、中国は南京国民政府の樹立から[[日中戦争]]勃発までの間に{{仮リンク|黄金の十年|zh|黃金十年 (中華民國)}}と呼ばれる発展期を迎えた。
=== 満洲国の成立 ===
[[ファイル:Puyi-colorized.jpg|左|サムネイル|大満洲帝国皇帝[[愛新覚羅溥儀]]]]
[[張作霖]]が[[関東軍]]に爆殺された後を継いだ[[張学良]]は国民革命を支持しており、自身の支配していた[[満洲]]を[[国民政府]]へ合流させた([[易幟]])。この為に[[反日]]運動が満洲にも広がったが、日本は[[日露戦争]]以降に獲得した内満洲における権益を維持しようとしていた為にこれに大きく反発した。[[1931年]]9月、[[満洲事変]]が起こると、関東軍は日本政府(当時、[[若槻禮次郎]][[内閣総理大臣|首相]]・[[第二次若槻内閣]])の意向を無視して大規模な武力行動を行い、内満洲を[[占領]]した。しかし、列強はこれを傍観する姿勢をとったので、日本政府はこの行動を追認した。
満洲事変を受け、中国政府は日本の内満洲占領を[[国際連盟]]に提訴し、[[1932年]]3月に国際連盟から[[リットン調査団]]が派遣された。関東軍は同時期に[[満洲国]]を樹立して内満洲の中国からの分離を進めたが、[[1933年]]2月に国際連盟の総会で付議され成立した最終報告書では、日本の内満洲における特殊権益を確認した上で[[九カ国条約]]の原則に基づき内満洲は中国に帰属すると認定された。ただし、日本が最終報告書の成立を不服として[[国際連盟#日本の貢献と脱退まで|国際連盟を脱退]]した為に関東軍は内満洲の占領を解かず、日本の内満洲における軍事行動は[[1933年]]5月に日中間で停戦協定([[塘沽協定]])が結ばるまで続いた。
その後、[[1934年]]には満洲国は帝制に移行した。
=== 日中対立の激化 ===
[[1931年]]に[[瑞金]]で[[中華ソビエト共和国]]を樹立していた[[中国共産党]]は満洲国建国時に日本へ[[宣戦布告]]していたが、国民党との抗争([[国共内戦]])に忙しく、中国国民で一致して日本の侵攻に立ち向かうことはできなかった。[[1934年]]には瑞金が国民党の攻勢により陥落し、打撃を受けた中国共産党は[[長征]]と称して西部に移動し、組織の再編をはかった。長征の結果、中国共産党は[[延安]]に拠点を移した。
満洲事変で内満洲をほぼ制圧した[[日本軍]]は、列強の注目を内満洲からそらす事を目的の一つとして[[1932年]]1月に[[第一次上海事変]]を起こした。事変は5月に[[上海停戦協定]]を調印して終結したが、調印直前に[[上海天長節爆弾事件]]が発生した。
=== 日中戦争 ===
[[1937年]]には、[[盧溝橋事件]]、[[第二次上海事変]]や中華民国軍による[[通州事件]]などにより在留邦人やその守備隊が攻撃されたことから、日本軍は[[中国本土]]に在留邦人保護のために部隊を派遣した。これにより中華民国と全面戦争に入った([[日中戦争]]、当時の日本側呼称:[[支那事変]])。これに対し、蔣介石は当初日本との戦いよりも中国共産党との戦いを優先していたが、[[西安事件]]により、二つの政党が協力して日本と戦闘を交えることになった([[第二次国共合作]])。
[[Image:Cairo conference.jpg|thumb|300x300px|[[カイロ会談]]に出席した[[蔣介石]]と[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[フランクリン・ルーズベルト]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]、[[イギリス]]の[[ウィンストン・チャーチル]][[イギリスの首相|首相]]]]
しかし、日中戦争は当初日本軍優位に進み、日本軍は多数の都市を占領したが、各拠点支配はできても広大な中国において大陸面での支配はできず、これを利用した国民党軍・共産党軍ともに各地でゲリラ戦を行い日本軍を苦しめ、戦線を膠着させた。日本は[[汪兆銘]]ら国民党左派を懐柔し、[[汪兆銘政権|南京国民政府]]を樹立させたが、国内外ともに支持は得られなかった。また、[[南京事件]]が起こった。加えて[[1941年]]12月、日本は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]や[[イギリス]]([[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]])とも戦端を開いたが([[太平洋戦争]]・[[大東亜戦争]])、一方で中国で多くの戦力を釘付けにされるなど、苦しい状況に落ち込まされた。国民党政府は連合国側に所属し、アメリカやイギリスなどから豊富な援助を受ける事となった([[援蔣ルート]])。
[[1945年]]8月、日本政府の[[ポツダム宣言]]の受諾とともに日本軍が降伏することで対日戦争は終結した([[日本の降伏]])。また、8月14日には[[中ソ友好同盟条約]]を締結する。国民党政府は[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の1国として大きな地位を占めていたこともあり、戦勝国として有利な立場を有することとなり、日本だけでなく[[ヨーロッパ]]諸国も[[香港]]や[[マカオ]]を除く[[租界]]を返還するなど、中国の半植民地化は終わりを見せた。
[[日中戦争|日本との戦争]]が終結すると[[中国国民党|国民党]]と[[中国共産党|共産党]]との対立が激化して再び[[国共内戦]]が始まった。
== 中華人民共和国と中華民国の並立 ==
{{main|中華人民共和国の歴史|台湾の歴史#中華民国統治時代(1945年 - 現在)}}
=== 中華人民共和国の成立 ===
アメリカからの支援が減少した国民党に対して、[[ソビエト連邦]]からの支援を受けていた中国共産党が勝利し、[[1949年]][[10月1日]]に[[中国共産党中央委員会主席|中国共産党主席]][[毛沢東]]が[[中華人民共和国]]の成立を宣言した。内戦に敗れた国民党率いる中華民国政府は[[台湾島]]に撤退し、現在に至るまで大陸を統治する[[中国共産党]]率いる中華人民共和国と「中国を代表する正統な政府」の地位を争っている。
=== 社会主義化と冷戦下での共産側への参加 ===
[[ファイル:Mao Proclaiming New China.JPG|thumb|「建国宣言」を行なう毛沢東]]
[[1950年]]に[[ソビエト連邦]]と[[中ソ友好同盟相互援助条約]]を締結した。これは、[[日本]]およびその同盟国(主に、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]を指す)との戦争を想定してなされたものである。この条約でソ連が租借していた大連、旅順が返還され、ソ連の経済援助の下で復興を目指すこととなった。条約の締結により、中国の軍事上の対ソ依存は強くなった。この時代の中華人民共和国をソ連のアメリカに対する[[緩衝国|緩衝国家]]あるいは[[衛星国|衛星国家]]とみなすことも可能である。しかし、徐々にデタント政策へと転回し始めていたソ連の対外政策は、中国共産党政府の中華民国(台湾実効統治政府)に対する強硬政策と明らかに矛盾していた。
[[1954年]]より[[社会主義]]化が進み、[[中国人民政治協商会議]]に代わって[[全国人民代表大会]](全人代)が成立、農業生産合作社が組織された。
=== 反動粛清 ===
ソ連の[[ヨシフ・スターリン]]の死後、[[1956年]]に [[ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフ]]によって「[[スターリン批判]]」が行われると、[[東ヨーロッパ|東欧]]の[[社会主義国]]([[東側諸国]])に動揺がはしった。中国共産党政府も[[東側諸国|共産圏にある国]]としてこの問題への対処を迫られ、この年初めて開催された党全国代表大会では、「[[毛沢東思想]]」という文言が党規約から消えた。そして、2ヶ月に渡り「百花斉放、百家争鳴」と称して[[中国民主党]]などの「[[ブルジョワ]]政党」の政治参加が試みられた。しかし、ブルジョワ政党が中国共産党政府による一党独裁に対して激しい批判を噴出させたため、逆に共産党による[[反右派闘争]]を惹起し、一党支配体制は強められた。
=== 大躍進政策 ===
[[1958年]]に、[[毛沢東]]共産党主席は[[大躍進政策]]を開始し、[[人民公社]]化を推進した。当初はかなりの効果をあげたかに見えた人民公社であったが、党幹部を意識した誇大報告の存在、極端な労働平均化などの問題が開始3ヶ月にしてすでに報告されていた。毛沢東はこのような報告を右派的な日和見主義であり、過渡的な問題に過ぎないと見ていたため、反対意見を封殺したが、あまりに急速な人民公社化は都市人口の異様な増大など深刻な問題を引き起こしていた。
[[1959年]]と[[1960年]]には、[[大躍進政策]]の失敗と天災が重なり、大規模な飢饉が中国を襲い、少なくとも2000万人(『岩波現代中国事典』によれば3000万人。2000万から2億人以上との説もある)と言われる餓死者を出し([[中華人民共和国大飢饉]])大躍進政策も失敗に終わった。[[1960年代]]初頭には人民公社の縮小がおこなわれ、毛沢東自身が自己批判をおこなうなど、一見調整的な時期に入ったように思われた。[[劉少奇]]国家主席が第2次5ヶ年計画の失敗を人民公社による分権的傾向にあると指摘し、中央集権を目指した政治改革、個人経営を一部認めるなど官僚主義的な経済調整をおこなった。
=== 中ソ論戦と対ソ自立化 ===
一方でこの年、中国は[[台湾海峡]]で台湾([[中華民国]])に対して大規模な軍事行動を起こし、[[アメリカ軍]]の介入を招いた。フルシチョフは中国共産党政府の強硬な姿勢を非難し、また自国がアメリカとの全面戦争に引きずり込まれないように努力した。ソ連は[[ワルシャワ条約機構]]の東アジア版ともいうべき中ソの共同防衛体制を提案したが、中国共産党政府はソ連の対外政策への不信からこれを断った。その後、[[1959年]]6月ソ連は中ソ協定を一方的に破棄した。[[1960年]]には経済技術援助条約も打ち切られ、この年の中国のGNP(国民総生産)は1%も下落した。
但し、党組織の中央集権化と個人経営に懐疑的であった毛沢東はこれを修正主義に陥るものであると見ていた。[[1963年]]に毛沢東は「社会主義教育運動」を提唱し、下部構造である「農村の基層組織の3分の1」は地主やブルジョワ分子によって簒奪されていると述べた。これは、劉少奇ら「実権派」を暗に批判するものであった。また、この頃の毛沢東は「文芸整風」運動と称して学術界、芸術界の刷新を計画していたことも、のちの文化大革命の伏線となった。[[1964年]]に中国は核実験に成功し、軍事的な自立化に大きな一歩を踏み出した。一方で、[[1965年]]にアメリカによる北爆が始まり[[ベトナム戦争]]が本格化すると、軍事的緊張も高まった。
[[1965年]]、中華人民共和国は[[CONEFO]]に加盟した。
チベットでは独立運動が高まったが、政府はこれを運動家に対する拷問など暴力によって弾圧した。このため多数の[[難民]]がインドへ流入した。
=== 文化大革命 ===
=== 前期 ===
[[画像:BeijingTiananmenSquare.jpg|thumb|300x300px|天安門広場は中華人民共和国時代にも多くの歴史の舞台となった]]
[[1966年]]に毛沢東は[[文化大革命]]を提唱した。毛沢東の指示によって中央文化革命小組が設置され、北京の青少年によって革命に賛同する組織である[[紅衛兵]]が結成された。毛沢東は「造反有理」(反動派に対する謀反には道理がある)という言葉でこの運動を支持したので、紅衛兵は各地で組織されるようになった。
毛沢東は文革の目的をブルジョワ的反動主義者と「実権派」であるとし、劉少奇国家主席とその支持者を攻撃対象とした。毛沢東は[[林彪]]共産党副主席の掌握する軍を背景として劉少奇を失脚させた。しかし、文化大革命は政治だけにとどまることがなく、広く社会や文化一般にも批判の矛先が向けられ、反革命派とされた文化人をつるし上げたり、[[文化浄化|反動的とされた文物が破壊されたりした。]]
[[1966年]]の末頃から武力的な闘争が本格化し、地方では党組織と紅衛兵との間で武力を伴った激しい権力闘争がおこなわれた。毛沢東は秩序維持の目的から軍を介入させたが、軍は毛沢東の意向を汲んで紅衛兵などの中国共産党左派に加担した。中央では[[周恩来]]首相らと文革小組の間で権力闘争がおこなわれた。[[1967年]]の後半になると、毛沢東は内乱状態になった国内を鎮めるために軍を紅衛兵運動の基盤であった学校や工場に駐屯させた。
この時期軍の影響力は極端に増大し、それに伴って林彪が急速に台頭した。[[1969年]]には中ソ国境の[[珍宝島]]で両国の軍事衝突があり([[中ソ国境紛争]])、軍事的緊張が高まったこともこれを推進した。同年採択された党規約で林彪は毛沢東の後継者であると定められた。
=== 後期 ===
文化大革命は後期になると国内の権力闘争や内乱状態を引き起こしたが、最終的に文化大革命は[[1976年]]の毛沢東死去で終結した。文化大革命では各地で文化財破壊や大量の殺戮が行われ、その犠牲者の合計数は数百万人とも言われている。また学生たちが下放され農村で働くなど、生産現場や教育現場は混乱すると、特に産業育成や高等教育などで長いブランクをもたらした。
一方この時期、ソ連に敵対する中国共産党政府は、同じくソ連と敵対する日本やアメリカなどからの外交的承認を受け、この結果、[[1971年]]に[[国際連合安全保障理事会]]の[[国際連合安全保障理事会#常任理事国|常任理事国]]の地位も台湾島に敗走した中華民国政府(国民党政権)に変わって手にするなど、国際政治での存在感を高めつつあった。
=== 改革開放以後(1980年~2010年) ===
[[画像:Fromvictoriapeakatnight.jpg|thumb|300x300px|返還された[[香港]]は「[[一国二制度]]」の下で[[中華人民共和国の経済|中国経済]]の牽引都市になっている]]
[[毛沢東]]の死後、一旦[[華国鋒]]が権力を継承したが、[[1978年]][[12月]][[第11期三中全会]]で[[鄧小平]]が政権を掌握した。鄧小平は、政治体制は共産党[[一党独裁]]を堅持しつつ、[[資本主義]]経済導入などの[[改革開放]]政策をとり、近代化を推進した([[社会主義市場経済]]、[[鄧小平理論]])。この結果、[[香港]]ほか日米欧など[[西側諸国]]の外資の流入が開始され、中国経済は離陸を始めた。
[[1990年代]]には、[[江沢民]]政権のもとで、鄧小平路線に従い、経済の改革開放が進み、特に安価な人件費を活かした工場誘致で「世界の工場」と呼ばれるほど経済は急成長した。なお、[[1997年]]に[[イギリス]]から[[香港]]が、[[1999年]]に[[ポルトガル]]から[[マカオ]]が、それぞれ中華人民共和国に返還され、[[一国二制度]]の下、植民地時代に整備された経済的、法的インフラを引き継ぎ、中華人民共和国の経済の大きな推進役となっている。
人口、面積ともに世界的な規模を有することから、アメリカの証券会社である[[ゴールドマンサックス]]は、「中華人民共和国は[[2050年]]に世界最大の経済大国になる」と予想するなど、現在、中国経済の動向は良くも悪くも注目されているが、低賃金による大量生産を売り物にしてきた経済成長は賃金上昇・[[東南アジア]]諸国や[[インド]]の追い上げなどで限界に達しており(特に中国最大の「売り」であった衣類生産は、中国より更に安価な賃金で済む [[ベトナム]]、[[カンボジア]]、[[バングラデシュ]]、[[インド]]、[[スリランカ]]に工場を移設する動きが出始めている)、産業の高度化や高付加価値化などの難題に迫られている。
また、各種経済統計も中国政府発表のそれは信憑性が乏しいと諸外国から指摘されている。各省など地方も独自の産業振興策に走り、中国共産党中央政府に対して経済統計の水増し発表や災害などの情報隠蔽を行うなど、統計や発表の信憑性不足に拍車をかけている。
==== 天安門事件 ====
[[1989年]]には北京で、[[1980年代]]の改革開放政策を推進しながら失脚していた[[胡耀邦]]元総書記の死を悼み、民主化を要求する学生や市民の百万人規模のデモ([[六四天安門事件|天安門事件]])が起きたが、これは、政府により武力鎮圧された。その一連の民主化運動の犠牲者数は、中国共産党政府の報告と諸外国の調査との意見の違いがあるが、数百人から数万人に上るといわれている。しかし、中国共産党政府はこの事件に関しては国内での正確な報道を許さず、事件後の国外からの非難についても虐殺の正当化に終始している。
この事件以降も、中国政府は情報や政策の透明化、民主化や法整備の充実などの国際市場が要求する近代化と、市民による暴動や国家分裂につながる事態を避ける為、内外の報道機関や[[インターネット]]に統制を加え([[中国のネット検閲]])、反政府活動家に対する弾圧を加えるなどの前近代的な動きとの間で揺れている。
==== 一党独裁の中国特色社会主義 ====
[[冷戦]]崩壊後に、[[複数政党制|複数政党]]による選挙や[[言論の自由]]などの[[民主主義]]化を達成した中華民国(台湾)と違い、いまだに[[中国共産党]]政府による[[一党独裁制|一党独裁]]から脱却できない中華人民共和国には多数の問題が山積している。
一党独裁の弊害により、官僚の腐敗が深刻化している。[[改革開放]]によりイデオロギーが退潮した結果、幹部はひたすら金儲けに走るようになった。共産党幹部が自身の所持している工場で人民を[[奴隷]]同様に扱い[[労働]]に従事させるといった事例もあった。
これらのことより、中国共産党の一党独裁による言論統制や、急激な経済発展に伴う貧富の格差・地域格差の拡大、官僚の腐敗など国内のひずみを放置し続ければ、いずれ内部崩壊を起こして再度混乱状態に陥り、かつてのソ連と同様に中華人民共和国という国家体制そのものが解体、消滅するという意見も多い<ref>{{Cite news|author=|date=2009-09-25|title=歴史見た天安門のドラマ|publisher=[[時事通信社|時事通信]]|newspaper=|url=https://www.jiji.com/jc/v2?id=20090925china_foundation_60th_06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200426002509/https://www.jiji.com/jc/v2?id=20090925china_foundation_60th_06|archivedate=2020-04-26}}</ref>。引退した中国の核心的ブレーンや複数の共産党幹部は「動乱は必ず起こる。そう遠くない将来にだ」と発言したとされ、体制内の人間たちも現在の中国に危機感を抱いていることが明らかとなった<ref>{{Cite news|author=|date=2010-03-30|title=【日々是世界 国際情勢分析】中国「動乱の可能性」体制内部からの警告|publisher=|newspaper=[[MSN産経ニュース]]|url=http://sankei.jp.msn.com/world/china/100330/chn1003300813000-n1.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100401085121/http://sankei.jp.msn.com/world/china/100330/chn1003300813000-n1.htm|archivedate=2010-04-01}}</ref>。
=== 中華人民共和国の現状(2010年以降) ===
その後、[[胡錦濤]]政権([[2002年]] - [[2012年]])、[[習近平]]政権(2012年 -)と続いている。
また、中国は[[国際連合]][[国際連合安全保障理事会|安全保障理事会]](国連安保理)の[[国際連合安全保障理事会#常任理事国|常任理事国]]の権利を保持する大国で、さらに経済成長が著しいため、体制が崩壊しなければ[[超大国|超級大国]]([[華夷秩序]]の復活)として君臨すると思われる。
==== 人権問題 ====
{{main|中国の人権問題}}
中国は人権問題に関してアメリカと対立している。近年では大国復活への道を歩む[[ロシア]]と再び関係強化を強め、さらに[[ベネズエラ]]、[[イラン]]とも友好的であり、さらに人権弾圧国家とされる[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]、[[ミャンマー]]、[[スーダン]]、[[ジンバブエ]]を支援し、アメリカからの経済制裁中の[[キューバ]]とは[[貿易]]は密接になっている。
中国は欧米から経済制裁を受けている国や反米路線をとっている国に「敵の敵は味方」の理屈で支援して友好を深めている。これは中国が友好国を増やすための覇権主義だと思われるが、逆に[[国際連合安全保障理事会|国連安保理]]の[[国際連合安全保障理事会常任理事国|常任理事国]]である中国が後ろ盾になる事が反米国家のメリットになる。そして近年[[イスラム教]][[テロリスト]]が中国製の武器を使用している事が明らかになり、第三国から横流しした疑惑がある。
また、中国は[[2008年]]以降の[[世界同時不況]]下においても軍事費の増大はとどまるところを知らず、一党独裁を見直す気配もない。ただし[[米中関係]]は経済的には非常に密接であり、中国はアメリカ国債最大の保有国でもあるため、ロシアと違い露骨な[[反米]]でない。
==== 少数民族の自立 ====
{{main|チベット問題|チベット独立運動|東トルキスタン独立運動|内モンゴル独立運動}}
{{see also|中国の少数民族}}
[[新疆ウイグル自治区]]([[東トルキスタン]])では[[漢化政策]]の進展によって、漢民族が同地域へ大量に流入する一方、少数派の[[ウイグル人]]は生活が厳しく、都市を中心として就職などに有利な[[中国語]]教育の充実によりウイグル語が廃れるなどの民族的なマイノリティ問題が発生している。また[[タクラマカン砂漠]]の石油資源利用や新疆南北の経済格差が広がっているなど、[[中国共産党]]政府の経済政策に対する批判も根強い。[[1997年]]には新疆ウイグル自治区で大規模な暴動が起きた。海外で[[東トルキスタン独立運動]]がおこなわれている一方国内でもウイグル人活動家の処刑などが行われている。[[ウイグル人]]の間でも、民族自治における権限拡大という現実主義的な主張もあらわれている。たとえば中国語教育を受けたウイグル人が中国共産党組織に参加する、新疆での中国共産党政府の経済政策に積極的に参加するといった事例も見られる。
[[チベット自治区]]では歴史的なチベットの主権を主張する[[ダライ・ラマ14世|ダライ・ラマ]]の亡命政権が海外に存在し、中国共産党政府が不法な領土占拠をしていると訴えるとともに独立運動が継続されている。中国共産党政府はこれを武力で弾圧し続け、独立運動家への拷問などを行ない、経済的に不利なチベット人の生活も困窮したために、多数の[[難民]]が隣国の[[インド]]に流入した。2008年3月14日には、チベット自治区[[ラサ]]で、中国政府に対する僧侶や市民の抗議行動が激化し、中心部の商店街から出火、武装警察などが鎮圧に当たり多数の死傷者が出た。1989年に戒厳令が敷かれた時の騒乱以来最大の規模となった。外国メディアだけでなく中国の国営メディア[[新華社通信]]も報じた。[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]に向けた時期に、チベット問題を国際世論に訴えようとするチベット独立派の意図が背景にあるとされる。中国政府は、翌15日から外国人と一般の中国人の自治区入りを禁じる措置をとるとした。[[チベット亡命政府]]によると確認されただけで死者は少なくとも80人はいると発表された。それと同時に世界各国の中国大使館前でも中国政府への抗議活動が繰り広げられた。
==== 台湾問題 ====
{{See also|台湾問題|中台関係}}
敵対している中華民国との間にも経済的な交流が進み、両国の首都である北京-[[台北市|台北]]間に直行便が就航するまでになっている。[[2008年]][[12月]]には「[[三通]]」が実現した。
また、三通により犬猿の仲とも言える中台関係は密接となり、例えば、台湾人が本土就職し100万人も中国に在住したり、さらに多数の香港人が職を求めて本土に移住するといった現象も起きている。
[[中華民国]]([[台湾]])、[[中華人民共和国]]([[中国大陸]])、[[香港]]、[[マカオ]]、[[シンガポール]]、[[マレーシア]]などの華人社会を『大中華圏』と評している。
== 歴朝歴代の人口変遷 ==
以下のデータは主に楊学通「計画生育是我国人口史発展的必然」(1980年)による。
{| border="1"
!時代 !! 年代 !! 戸数 !! 人口 !! 資料出所
|-
|(夏) || [[禹]](前2205年とされる) || || 13,553,923 || 『[[帝王世紀]]』
|-
|秦 || || || 20,000,000? ||
|-
|前漢 || [[平帝 (漢)|平帝]][[元始 (漢)|元始]]2年([[2年]]) || 12,233,062 || 59,594,978 || 『[[漢書]]』地理志
|-
|新 || || || 20,000,000? ||
|-
|後漢 || [[順帝 (漢)|順帝]][[建康 (漢)|建康]]元年([[144年]]) || 9,946,919 || 49,730,550 || 『[[冊府元亀]]』
|-
|晋 || [[司馬炎|武帝]][[太康 (晋)|太康]]元年([[280年]]) || 2,459,804 || 16,163,863 || 『[[晋書]]』食貨志
|-
|隋 || [[煬帝]][[大業]]2年([[606年]]) || 8,907,536 || 46,019,056 || 『[[隋書]]』地理志・食貨志
|-
|唐 || [[玄宗 (唐)|玄宗]][[天宝 (唐)|天宝]]14年([[755年]]) || 8,914,709 || 52,919,309 || 『[[通志]]』
|-
|宋 || [[神宗 (宋)|神宗]][[元豊 (宋)|元豊]]3年([[1080年]]) || 14,852,684 || 33,303,889 || 『[[宋史]]』地理志
|-
|金 || [[章宗 (金)|章宗]][[明昌 (金)|明昌]]6年([[1195年]]) || 7,223,400 || 48,490,400 || 『[[金史]]』食貨志
|-
|元 || [[クビライ|世祖]][[至元 (元世祖)|至元]]27年([[1290年]]) || 13,196,206 || 58,834,711 || 『[[元史]]』地理志
|-
|明 || [[万暦帝|神宗]][[万暦]]6年([[1570年]]) || 10,621,436 || 60,692,850 || 『[[続文献通考]]』
|-
| rowspan="6" |清 || 清初([[1644年]]) || || 45,000,000 ||
|-
|[[康熙帝|聖祖]][[康熙]]50年([[1711年]]) || || 100,000,000以上 ||
|-
|[[乾隆帝|高宗]][[乾隆]]27年([[1762年]]) || || 200,000,000以上 ||
|-
|高宗乾隆55年([[1790年]]) || || 300,000,000以上 ||
|-
|[[嘉慶帝|仁宗]][[嘉慶 (清)|嘉慶]]17年([[1812年]]) || || 333,700,560 || 『[[東華録]]』
|-
|[[道光帝|宣宗]][[道光]]14年([[1834年]]) || || 400,000,000以上 ||
|-
|中華民国 || 民国36年([[1947年]]) || || 455,590,000 || 『統計提要』
|-
|中華人民共和国 || [[1995年]] || || 1,211,210,000 || 『[[中国統計年鑑]]』
|}
== 地方行政制度 ==
=== 古代から前近代まで ===
==== 封建制(殷・周、前1600年頃〜前221年) ====
殷・周の時代は封建制度<ref group="†">封建制度は殷代から実施されてはいるが、殷代封建制についてはあまり明確なことはいまだに分かってはいない。
殷では封建が実施されている地域と、方国と呼ばれる外様あるいは異民族の国家の存在が知られ、殷を方国の連盟の盟主であり、封建された国々は殷の同族国家であるとする説もあるが詳しいことは分かってはいない。
周では一定の城市を基準とした邑に基づいた封建制が広汎におこなわれたと考えられているが、この邑制国家の実態も不明である。邑をポリス的な都市国家とみる見方から、邑と周辺農地である鄙が一緒になって(これを邑土という)、貴族による大土地所有であるとする見方もある。
明らかであるのは邑を支配した貴族が長子相続を根幹とした血族共同体を構築していたということで、このような共同体に基づいた支配形態を[[宗法]]制度という。宗法制度については殷代にさかのぼる見方もあるが、広汎に行われたのは春秋あるいは戦国時代であったとす行われたる説もある。周の封建制を宗法制度の延長にあるものと捉え、封建儀礼を宗族への加盟儀礼の延長として捉える見方もある。</ref> によって一定の直轄地以外は間接的に統治された。
==== 郡県制(秦・漢、前221年〜249年) ====
中国最初の統一王朝である秦は全国を郡とその下級単位である県に分ける郡県制度によって征服地を統治した。前漢初期においては、郡以上に広域な自治を認められた行政単位である国が一部の功臣や皇族のために設置された。
しかし徐々に国の行政権限が回収されるとともに、推恩政策によって国の細分化が進められ、国は郡県と等しいものとなり、後漢時代には実質郡県制度そのままとなっていた。
前漢時代に広域な監察制度としての刺史制度が始められると全国を13州<ref group="†">中国古来より中国世界を9つの地方に分ける考え方が漠然と存在した。中国王朝の支配領域を「九州」といい、それがすなわち「天下」であった。ただし九州の概念は後漢時代にいたるまでははっきりしたものではなく一様でない。</ref> に分けた。これはいまだ行政的なものではない<ref group="†">前漢成帝のときに州の監察権が御史中丞へ移行され、刺史が行政官となったという見方もあるが、後漢末期に刺史に軍事権が認められると、広域行政単位としての州はにわかに現実化したとみる見方もある。</ref> と考えられている。後漢の後の魏王朝では官僚登用制度としての九品官人法が[[249年]]に[[司馬懿]]によって州単位でおこなわれるように適用されたので、行政単位として郡以上に広域な州が現実的な行政単位として確立したと考えられている。しかし、軍政面と官吏登用面のほかにどれほど地方行政に貢献したか<ref group="†">このころの州を行政単位ではなく、軍管区のような概念上の管理単位であるとする見方も強い。</ref> はあまり明確ではない。
==== 都督制(魏、晋、249年〜583年) ====
都督制は軍府による広域行政制度の略称。魏晋時代の晋には、都督府などの軍府の重要性が高まった。
五胡十六国および南北朝時代になると、中国内部で複数の王朝が割拠し軍事的な緊張が高まったことから、とくに南朝において重要性が増した。これは本来特定の行政機関を持たなかったと思われる刺史に対して、軍事的に重要な地域の刺史に例外的に複数の州を統括できる行政権を与えたものであった。長官である府主(府の長官は一般的にさまざまな将軍号を帯び、呼称は一定ではないため便宜的に府主とする)は属僚の選定に対して大幅な裁量権が与えられており、そのため地方で自治的な支配を及ぼすことが出来た。
また南朝では西晋末期から官吏登用において州は形骸化しており、吏部尚書によって官制における中央集権化が進行している。したがって中正官も単なる地方官吏に過ぎなくなり、広域行政単位としての州は官吏登用の面からは重要性が低下したが、地方行政単位としてはより実際性を帯びた。この時代、州は一般に細分化傾向にあり、南北朝前期には中国全土で50-60州、南北朝末期に至ると中国全土で300州以上になり、ひとつの州がわずか2郡、ひとつの郡はわずか2-3県しか含まないという有様であった。
==== 州鎮制(北魏、隋、唐、583年〜1276年) ====
南朝では都督制度が発達していたころ、北魏では州鎮制度が発達した。
北魏では征服地にまず軍事的性格の強い鎮を置き、鎮は一般の平民と区別され軍籍に登録された鎮民を隷属させて支配した。鎮は徐々に州に改められたようであるが、北部辺境などでは鎮がずっと維持された。[[583年]]に隋の文帝が郡を廃止。州県二級の行政制度を開始した。この際従来の軍府制度<ref group="†">北周の宇文護が創始した二十四軍制をもっていわゆる府兵制の成立と見做す見方があるがこれについては詳しいことはわからない。</ref> にあった漢代地方制度的な旧州刺史系統の地方官は廃止され、軍府系統の地方官に統一されたと考えられている。[[595年]]には形骸化していた中正官も最終的に廃止されたという指摘もされている。
またこれにより府主の属官任命権が著しく制限され、中央集権化がはかられた。唐では辺境を中心に広域な州鎮的軍府である総管府が置かれたが徐々に廃止され、刺史制度に基づいた地方軍的軍府、それに中央軍に対する吏部の人事権が強化・一元化され、軍事制度の中央集権化が完成された。特定の州に折衝府が置かれ、自営農民を中心として府兵が組織され常備地方軍<ref group="†">折衝府の置かれた州と非設置州では当然差異があったのであるが、唐代はほかに募兵に基づく行軍制度もおこなわれており、大規模な対外戦争の際にはおもに折衝府非設置州を中心として兵が集められた。唐後期にはこの募兵制が常態化することで節度使制度がおこなわれるようになった。</ref> とされた。唐では州の上に10の道も設置されたが、これは監察区域で行政単位ではないと考えられている。
==== 律令制度(隋、唐) ====
この制度は初めて、軍事力のみに地域を管理するではなく、国全体の法律や文官も地方に浸透された。また、日本の[[奈良時代]]の制度に影響を与えた。
==== 強幹弱枝制度(宋) ====
{{節スタブ}}
==== 行省制(元・明・清) ====
{{節スタブ}}
=== 近代から現在まで ===
==== 行政区分(中華民国、1912年〜1949年) ====
{{main|南京臨時政府の行政区分|北京政府の行政区分|南京国民政府の行政区分|汪兆銘政権の行政区分}}
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==== 行政区分(中華民国、1949年〜現在) ====
{{main|台湾の行政区分}}
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==== 行政区分(中華人民共和国、1949年〜現在) ====
{{main|中華人民共和国の行政区分}}
{{節スタブ}}
== 祭祀・礼楽・律令・封建 ==
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== 強勢の大国外交 ==
中国大陸の諸王朝は前近代まで基本的に[[東アジア]]での優越的な地位を主張し、外交的には大国として近隣諸国を従属的に扱う「[[冊封体制]]」が主流であった。
=== 夏===
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=== 殷 ===
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=== 周 ===
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=== 秦 ===
{{節スタブ}}
=== 漢 ===
漢朝には[[南越国|南越]]、[[閩越]]、[[衛氏朝鮮]]などが漢の宗主権下にあったと考えられ、これらの国々は漢の冊封体制下にあったと考えられている。前漢武帝の時にこれらの諸国は征服され郡県に編入された。
このことは漢の冊封が必ずしも永続的な冊封秩序を形成することを意図したものではなく、機会さえあれば実効支配を及ぼそうとしていたことを示す。
また匈奴は基本的には冊封体制に組み込まれず、匈奴の単于と中国王朝の皇帝は原則的には対等であった。大秦([[ローマ帝国]]のことを指すとされる)や大月氏などとの外交関係は冊封を前提とされていない。
=== 魏晋南北朝 ===
魏晋南北朝には、中国王朝が分立する事態になったので、冊封体制は変質し実効支配を意図しない名目的な傾向が強くなったと考えられている。朝鮮半島では高句麗をはじめとして中小国家が分立する状態があらわれ、日本列島の古代国家<ref group="†">なお、史書からうかがえる外交記録と日本国内での銅鏡など出土品に記載された年号の問題などから、日本の古代王朝は特に南朝との外交関係を重視していたという見方が主流であるが、北朝との通交事実を明らかにしようという研究は続けられている。</ref> も半島の紛争に介入するようになったために、半島の紛争での外交的優位を得るため、これらの国々は積極的に中国王朝の冊封を求めた。
しかし、高句麗が北朝の実効支配には頑強に抵抗しているように、あくまで名目的関係にとどめようという努力がなされており、南越と閩越の紛争においておこなわれたような中国王朝の主導による紛争解決などは期待されていないという見方が主流である。
=== 隋 ===
再び中国大陸を統一した隋朝の時代は東アジアの冊封体制がもっとも典型的となったという見方が主流である。隋は高句麗がみだりに突厥と通交し、辺境を侵したことからこれを討伐しようとしたが、遠征に失敗した。
=== 唐 ===
唐は、新羅と連合([[唐・新羅の同盟]])し、高句麗・百済を滅亡させ、朝鮮半島を州県支配しようとしたが、新羅の抵抗にあい([[唐・新羅戦争]])、朝鮮半島から撤退したため、願いは叶わなかった。
したがって、隋・唐の冊封は実効支配とは無関係に形成されるようになった。唐の冊封体制の下では、律令的な政治体制・仏教的な文化が共有された。
一方、突厥や西域諸国が服属すると、それらの地域に対する支配は直接支配としての州県、外交支配としての冊封とは異なった[[羈縻政策]]<ref group="†">これは都護府を通じて服属民族を部族別に自治権を与えて間接支配するもので、羈縻政策がおこなわれた地域では現地民の国家は否定された。このことは、羈縻州の住民が自発的に中国王朝の文化を受け入れることを阻害したと考えられており、羈縻政策のおこなわれた地域では冊封のおこなわれた地域とは異なり、漢字や律令などの文化の共有は行われず、唐の支配が後退すると、唐の文化もこの地域では衰退することになった。冊封された国々で唐の支配が後退したあとも漢字文化が存続したことと対照的である。</ref> が行われた。
[[アッバース朝]]と[[タラス河畔の戦い]]が起きた。これにより紙の技術が西の世界へと伝わった。
=== 元 ===
{{main|元寇|日元貿易}}
{{節スタブ}}
北宋は[[燕雲十六州]]をめぐって[[遼]]と紛争が起き、賠償金として大量の絹と銀を払った。北宋は金と同盟を組み、金が[[遼]]を滅ぼした後、金は北宋を圧迫し、南に追いやった(南宋)。モンゴル帝国が金、[[西夏]]、[[大理国|大理]]を滅ぼしついには南宋を滅ぼした。金も元も銅銭を禁じたため、大量の銅銭が日本に流入した。日本と元の間には民間レベルで貿易が活発に行われていた。元は[[大越]]の遠征に失敗したことで日本への三度目の攻撃が中止された。
=== 明 ===
{{main|倭寇|日明貿易|鄭和|土木の変|文禄・慶長の役|サルホの戦い}}
モンゴルを草原に駆逐した明朝は冊封体制を採用、また、海岸部を暴れる[[倭寇]]の対策として海禁政策を採用した。南朝の[[懐良親王]]や足利幕府の[[足利義満]]に対し倭寇の取り締まりを要求している。南北朝を統一した足利義満は自ら「日本国王臣源道義」と名乗り、冊封体制に入り、[[日明貿易|勘合貿易]]を開始した。勘合貿易は足利幕府の手から次第に堺の豪商と手を組んだ細川氏、博多の豪商と手を組んだ大内氏に実権が移り、[[1523年]]には[[寧波の乱]]により大内氏が貿易を独占、[[陶晴賢]]が[[大内義隆]]を[[1551年]]に殺害するまで続いた。
永楽帝は宦官の[[鄭和]]を南海に派遣した。鄭和の船団は[[東南アジア]]から[[東アフリカ]]沿岸までに進出し、[[キリン]]などの珍品を中国にもたらした。永楽帝はまた、モンゴル討伐の遠征を行っているが征服には至らなかった。永楽帝没後、明は対外拡張路線を縮小した。[[1449年]]の[[土木の変]]で[[エセン・ハーン]]が[[正統帝]]を捕縛するに至り、明は北方の侵略に苦しむようになった。また、海岸部でも倭寇が攻勢を強めており、対策に苦慮するようになった(北虜南倭)。
[[豊臣秀吉]]の[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]に対して、[[李氏朝鮮]]を支持し介入することになるが国を傾けることとなり、[[女真族]]の[[ヌルハチ]]に[[サルホの戦い]]で負けると国の頽勢は一気に進んだ。
=== 清 ===
{{main|ネルチンスク条約|理藩院|雍正のチベット分割|キャフタ条約 (1727年)|改土帰流|アヘン戦争|アロー戦争|日清戦争|義和団事変}}
{{節スタブ}}
=== 中華民国 ===
{{main|{{仮リンク|台湾の国際関係|en|Foreign relations of Taiwan}}}}
{{see also|w:Timeline of diplomatic relations of the Republic of China}}
=== 中華人民共和国 ===
{{main|中華人民共和国の国際関係|{{仮リンク|中華人民共和国の国際関係史|en|History of foreign relations of the People's Republic of China}}}}
{{節スタブ}}
== 関連項目 ==
{{Wikibooks|中国史|中国史}}
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* [[中華人民共和国]]
* [[中華民国]]
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* [[農書#中国|中国の農書]]
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* [[中国学]]
* [[中国化]]
* [[百年国恥]](百年耻辱)
* [[中国の世紀]]
}}
== 脚注 ==
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;注釈
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;出典
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=== 参考文献 ===
* {{Cite book| 和書| author =外務省| authorlink =外務省| year =1929| url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1273067/1/290 | title =欧米人ノ支那ニ於ケル主ナル文化事業| journal =| volume =| issue =| page =| pages =| publisher =外務省| location =| issn =| doi =| naid =| pmid =| id =| format =| accessdate =| quote =|ref=harv}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|History of China}}
* [http://www.allchinainfo.com/map/china-history-maps 中国歴史地図]
* {{Wikiatlas|Chinese History}} {{en icon}}
{{Category 中国の歴史}}
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[[Category:中国|*れきし]]
[[Category:中国の歴史|*]] | 2003-05-28T17:26:52Z | 2023-12-17T13:21:02Z | false | false | false | [
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