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青い眼が欲しいのストーリー 1941年、ロレイン (オハイオ州)に暮らす「私」の家に、ピコーラという11歳の黒人の少女がやってきた。ピコーラの父親のチョリー・ブリードラヴ、母親のポーリーンらは皆一概に「醜かった」。やがてピコーラは周囲の偏見、いじめ、家庭内暴力などの荒んだ環境は、自分が美しくあれば、眼が青ければもっと違ったろうと考えるようになる。ピコーラは一生懸命、毎晩祈った。熱心に祈り続け一年経ってその願いがかなえられなくともめげずに祈り続けた。けれどもその願いは叶わず、酷いいじめは続いた。かつてチョリーとポーリーンはお互いに愛し合っていた。ポーリーンは世の中にこれほど多くの笑いが存在する事を知らなかったほどだった。結婚した後、二人の間は周囲の偏見に抗する気持ちの行き違いから険悪になっていった。しかし、ポーリーンの妊娠によって二人は結婚直後の様に戻った。長男出産後、ピコーラを身籠った時、ポーリーンは生まれてくる娘を愛しく感じていたのだ。チョリーは母親に棄てられた子供だった。やっと探し出した父親は博打に溺れていた。絶望の中でポーリーンに出会い結婚したが、家族への責任や、一定で変化の無い繰り返しの重圧に絶望した。しかし、子供の出現が彼に大きな感情の変化をもたらした。けれども、彼は親から育ててもらわなかったので子供の扱いが分からなかった。ある土曜日の午後、酔っ払った中、台所にいるピコーラを見た。ある日、ソープヘッドという老人のもとへピコーラは尋ねた。「ひょっとしたらあれをやってくれることができるんじゃないかしら」と考えて。老人はこの願いを聞いた時、絶望した。そして老人は毒の入った餌をピコーラに渡し、犬にそれを与えるよう指示した。「この犬がフシギな振る舞いをしたら、お前の願いは叶えられるだろう。」果たして犬は苦しんだ末に死んだ。私は、ピコーラが実父との子供を身籠った事を聞いた。その頃、ピコーラは空想の中に居た。ピコーラの「友達」は、ピコーラに「あなたの眼はずっと誰よりも青いのよ」と囁いている。 |
ゾウゲカモメの分布 グリーンランドや北極圏の島嶼で繁殖し、冬はやや南下して越冬する。北半球で繁殖する鳥類の中で、最も高緯度の地域で繁殖する種の内の一種である。日本ではきわめてまれな迷鳥として、北海道、青森県、千葉県でのわずかな観察記録があるのみ。 |
ゾウゲカモメの形態 全長約43cm、翼開長約110cm。体形はややずんぐりとしており、足が短く見える。成鳥夏羽は全身が白く、嘴は青灰色で先端が黄色、足は黒色である。冬羽では、嘴の色がやや淡くなる。幼鳥は、眼から前の顔面がやや黒っぽく、翼に黒い斑が散在する。雌雄同色である。 |
ゾウゲカモメの生態 非繁殖期は、海岸や外洋に生息する。食性は主に動物食。魚類のほか死肉や海獣の排泄物、海鳥の雛などを食べる。繁殖形態は卵生。繁殖期は7-8月で、海岸等に草や海藻を敷いて営巣する。中規模のコロニーを形成する。飛翔時は他のカモメ類に比べてゆっくりはばたいているように見える。鳴き声は、キューイ、クリーなど。 |
高尾通の地理 南東は五毛通、南で僅かに薬師通に接し、西は城の下通、北から北東は箕岡通。東から順に一~四丁目がある。 |
高尾通の由来 『神戸の町名』によれば高尾は高い尾根の事であり、五毛村・上野村ともに字名としていたという。摩耶ケーブル駅(箕岡通)の旧名「高尾駅」は上野村の分で、五毛村の方には摩耶山への旧道があり、文安4年(1447年)の「摩耶十八丁」の丁石があったが、摩耶ケーブルの前へ移されている。旧字名の仏元(ほとけのもと)は摩耶山天上寺が最初に建ったところだという。 |
高尾通の人口統計 平成17年国勢調査(2005年10月1日現在)での世帯数388、人口1,042、うち男性564人、女性478人 。 |
アリーヴァ・トレインズ・ウェールズのメカニズム 一般的に、地面に対して水平方向に発達する層状の雲(乱層雲など)に比べて、地面に対して垂直方向に発達する積雲や積乱雲の方が、激しい雨(驟雨)をもたらす。これには、積雲や積乱雲の内部の対流(積雲対流)が関係している。積雲や積乱雲がもくもくと発達して急激に雲頂の高さを増すことからも分かるように、積雲対流中の上昇流の速度は他の循環による上昇流に比べて桁違いに大きく、これによって雲中で雨粒や氷晶の急激な発達が起こり、激しい雨となる。 |
ファイト!! with MAYU☆夏SELECTIONの背景 以下、日本における過去の顕著な集中豪雨被害を挙げる。 |
ラインハルト・シューリンクの批評 CDジャーナルは、「オリジナル/ベストの両面を通し、“前向きな元気パワー”を与えてくれる」と評した。 |
天円地方の来歴・人物 徳島県出身。旧制徳島中学(現・徳島県立城南高等学校)、日本法律学校(現・日本大学)、東京法学院(現・中央大学)卒業。高知地方裁判所の判事、二六新報の編集および社長職を経て政界入り。1932年、衆議院議長に就任。1937年、内閣参議に就任。1939年、阿部内閣で厚生大臣に就任。1940年、第2次近衛内閣で拓務大臣に就任。1944年12月3日死去。 |
ロマンス娘のあらすじ ルミ子達は仲良しの3人娘。町内の夏祭りの盆踊りでは雨に降られる騒ぎも起きた。 詰襟学生服のボーイフレンドの3人は今度の自転車旅行の足りない費用を捻出出来ないと情けない顔をしたため3人は呆れ果てる。そこで一発奮起してデパートでアルバイトするが失敗や騒ぎを起こしてばかりだ。 ある日、ふとした親切からデパートの社長に気に入られ豪邸の自宅に招待される。 そこへ社長の生き別れの子と称した少年を連れた怪しい男が現れる。 実は3人娘の一人の父で道楽の果てに離婚して町を飛び出していたが謝礼金詐欺を企もうと久しぶりに戻って来たのだ。 本当は親子の名乗りを上げたいのだが・・・。 |
エレクトロトレンの歴史 1951年、マドリッド郊外のアルカラ・デ・エナーレスにて、ゴンサーレス家の家族経営による鉄道模型店として出発した。1951年から1954年まではOスケール製品を生産した。1954年以降はHOスケール製品を主に生産する。2001年6月、ホーンビィのスロットカー製品「スケーレックストリック」をスペイン国内で販売する契約を交わした。スペイン国内では、スケーレックストリックブランドのスロットカーはEXIN社から発売されており、ホーンビィでは「スーパースロット」ブランドを使用していた。エレクトロトレンによる発売以降「スーパースロット」はそれまでの3倍を売り上げた 。2003年のエレクトロトレンの売り上げは300万ユーロで、純利益は80万ユーロ、同年12月31日時点での総資産は190万ユーロであった。2004年4月、ホーンビィにより750万ユーロにて買収され、Hornby España, S.A.が設立された。創業者の子供のパブロ・ゴンサーレス(Pablo Gonzalez)とアルムデナ・ゴンサーレス(Almudena Gonzalez)は、そのまま会社に残り日々の業務に当たることになった。 |
エレクトロトレンの製品 スペイン国鉄の車両を主に生産する。スペイン国鉄の軌間は1668mmの広軌であるが、同社製品は1435mmの標準軌仕様となっている。スペイン国鉄以外に、フランス国鉄やヨーロッパ各国の車両も生産する。ホーンビィによる買収後は、かつて他社で生産されていたスペイン国鉄車両を、エレクトロトレンブランドにて発売する。かつてはドイツのメルクリンの線路に対応する製品を生産していたため、古い製品ではメルクリンシステムと互換性がある。架空電車線方式の車両は架線集電が可能である。 |
ラジオマガジン プレイランド・シガの物理的性質 1845年10月にハインドによって最初に観測され、1852年から1855年のシュミットによる観測によって変光が指摘された。ミラ型変光星に分類され、427.07日の周期で5.5等から11.7等の間を変光する。また、この周期とは別に、約40年の長い周期を持つと考えられている。恒星進化論では、漸近巨星分枝 (AGB) と呼ばれる段階にあり、恒星大気中に酸素より炭素を多く含む「炭素星」に分類される。これは、ヘリウム殻での核融合で生じた炭素が対流によって表面に運ばれる「汲み上げ (dredge up)」が繰り返された結果、酸素が炭素と結び付いて一酸化炭素 (CO) となることで消費されて炭素が卓越するに至った、と考えられている。汲み上げられた炭素から生じたCO、CH、CN、C₂などの分子が可視光の青の成分を強く吸収するため、炭素星は普通の低温度星(スペクトル型K~M)よりもさらに深い赤色を帯びて見える。発見者のハインドはこの星の赤い色を「黒い視野に落とされた一滴の血のよう (like a drop of blood on a black field)」と表現している。質量は定かではないが、炭素星は太陽質量の2.5 - 5倍の質量を持つものが多く、主系列星の段階にあった頃はB型主系列星であったと推測される。 |
ヘル・ノーのチーム結成の背景 オーバー・ザ・リミットで行われたWWE王座戦でCMパンクに敗れたダニエル・ブライアンは、パンクがブライアンをフォールしたすぐ後にタップしたことを理由に、ノー・ウェイ・アウトでの再戦を要求した。PPVが迫る中、5月18日のSmackDownではパンク対ケイン戦が、ブライアンが実況席につく中行われた。その試合にブライアンは乱入し、パイプ椅子でケインを攻撃、パンクに罪を着せケインがパンクを攻撃するように仕向けた。5月21日のRAWでブライアンはケインと対戦し、パンクの仕返しによって今度はブライアンがケインに狙われるよう追い込まれた。以後、ケインは自分が利用されたことから、ブライアンとパンクの両者を無差別に攻撃の対象とした。この間、3人と、ブライアンにふられて情緒不安定になっていたAJの恋愛アングルが進行。6月1日のSmackDownで行われたパンク対ケインのWWE王座戦にはブライアンが乱入し両者を強襲したが、ケインはブライアンとパンクにチョークスラムを浴びせた。これを受けて、GMのジョン・ロウリネイティスは、ノー・ウェイ・アウトにおいて、パンク対ブライアン、ケインのトリプルスレットマッチのWWE王座戦を行うことを決定。その王座戦でパンクはケインをフォールして勝利を収めた。その後、マネー・イン・ザ・バンクの王座戦でも敗れたダニエル・ブライアンは、7月16日のRAWでAJにプロポーズし、翌週のRAW1000回特番で結婚式をあげることを決定した。しかし、結婚式の最中、AJはブライアンを拒否し、ビンス・マクマホンから受けたRAWのGM就任の誘いを選んだ。ブライアンは式の飾りを破壊するほどに激怒したが、その後、CMパンクやザ・ロック、ゲストのチャーリー・シーンにまで馬鹿にされ、自信過剰だったブライアンの性格は、短気で神経質なものへと変容した。ブライアンは7月30日のRAWでシェイマスにストリートファイト戦で敗れた後、AJから婚約中に彼女を精神病院に入れようをしていたことに対する復讐として、心理検査を受けるよう命令された。検査の途中、ケインが自身をブライアンのセラピストだとして襲撃したこと受け、8月6日のRAWでAJはブライアンとケインをサマースラムで対戦させることを決定。試合はブライアンがロールアップで勝利したが、激怒したケインはバックステージで暴れまわった。 |
ヘル・ノーのタッグチーム王者として(2012年9月~2013年4月) サマースラム戦の後、ケインはブライアンとの再戦を要求してますます暴力的になり、ブライアンはファンが"Yes"チャントを繰り返すことに耐え切れず、試合やインタビュー中に怒りを爆発させるようになった。ブライアンとケインの問題を解決するため、AJは2人をDr.シェルビーのアンガーマネジメントクラス(日本語字幕では「怒り抑制セラピー」)に参加させ、その後"Hug it Out"(ハグしてわだかまりをなくす)を行うように命じた。Dr.シェルビーとAJは2人を、タッグチーム王座戦の第一挑戦者を決定するためとしてプライムタイム・プレイヤーズ (タイタス・オニール&ダレン・ヤング)と対戦させることを決定。9月10日のRAWで敵対する者同士の2人は小競り合いや内紛をしながらも、結果的に勝利し、王座戦の第一挑戦者に内定した。さらにはナイト・オブ・チャンピオンズにて王者であるコフィ・キングストン&Rトゥルースにも勝利し、タッグチーム王者となった。ブライアンとケインはRAWにて前王者からの再戦にも勝利することに成功。翌週のRAWではファンからの投票によってヘル・ノーがタッグチーム名として決定した。2012年10月28日のヘル・イン・ア・セルでヘル・ノーはローデス・スカラーズ (コーディ・ローデス&ダミアン・サンドウ)に反則裁定で敗れたものの、王座は保持した。10月29日のRAWで、ダニエル・ブライアンとケインはチームフォーリーのメンバーに選ばれ、サバイバー・シリーズの伝統であるチーム・エリミネーション・マッチでチームジグラー と対峙することとなった。また、2人はWWE Main Eventでローデス・スカラーズからの再度の挑戦も退けた。12月3日のRAWで、ミズTVにCMパンクが参加する中、ザ・シールドに襲われていたライバックの手助けをしたことで、ベビーフェイスとヒールの中間というキャラクターを確立した。騒乱のなか、パンクは膝を負傷。ライバックはTLCにて彼の持つ王座にTLC戦で挑戦するはずだったが、ビンス・マクマホンによって、TLCにてチームヘル・ノーと組んでザ・シールドとTLC戦を行うことが決定されたものの、敗北した。その後もローデス・スカラーズと抗争を続け、結局のところ王座戦では3戦全て防衛。他にもNXTでジョニー・カーティス&マイケル・マクギリカティ、RAWで3MBから王座防衛。ロイヤルランブルやエリミネーション・チェンバーではブライアンがケインを裏切って脱落させ(ようとし)たり、その後のRAWやスマックダウンでプライムタイム・プレイヤーズ戦で目隠しや片腕縛りの状態で試合を行ってからの仲間割れなど、喧嘩の種も多いが大きな仲たがいは起こさず、続くプライムタイムとの普通の試合では平常通りの勝利を挙げた。レッスルマニアではドルフ・ジグラー&ビッグ・E・ラングストンから王座防衛。 |
ヘル・ノーのタッグ王座崩御(2013年4月~) シールドとの抗争が再発し、ジ・アンダーテイカーまでも巻き込み戦いをつづけたが劣勢が続き、最後は5月のエクストリーム・ルールズでセス・ロリンズ&ロマン・レインズとのタッグ王座戦に敗れ、さらに再戦でも取得ならず。ランディ・オートンが抗争に巻き込まれ、更なる戦いを繰り広げ、結果的にブライアン&オートンが6月ペイバックでのタッグ王座戦を行うことに決まった。それによりブライアンはヘル・ノーの解散を示唆。結果王座取得もならず、さらに確執を深め、最後は自然消滅のような形で終了する結果となった。ただし、7月の日本公演ではシールドとの戦いにシェイマスやシナと組み6人タッグ戦をつつがなく行い、勝利している。 |
ヘル・ノーのタッグ再結成(2018年6月~) 2018年6月26日、SmackDown Liveにてダニエル・ブライアン vs ハーパーの試合中にハーパーのパートナーであるローワンが介入して反則裁定になるが、尚も攻撃を続ける両者に対してケインが入場口より登場。協力してブラジオン・ブラザーズを追い払い抱擁を交わす。GMであるペイジが現れ、2013年以来となるチーム・ヘル・ノーの再結成と同時に7月15日に開催するExtreme Rules 2018でWWEスマックダウンタッグ王座を保持するブラジオン・ブラザーズとの王座戦を行う事を発表された。7月15日、Extreme Rules 2018にてWWEスマックダウンタッグ王座を保持するブラジオン・ブラザーズ(ハーパー & ローワン)に挑戦。試合前にケインが襲撃を受けた為にブライアンが一人で試合に挑む事になり苦戦。中盤にケインが助けに駆けつけるも左脚を痛めた状態であり試合を覆す事ができず、最後にブライアンがローワンのスピンキックから合体技を決められ敗戦した。 |
TAO (Do As Infinityの曲)の内容 表題曲は、ツアー『Do As Infinity LIVE TOUR 2005 〜NEED YOUR LOVE〜』の最終日である日本武道館公演で、未発表の新曲として披露された。「TAO」とは中国語で「道」という意味がある。ラストアルバムである『NEED YOUR LOVE』よりも後に発売されているため、オリジナルアルバムには収録されていない。「TAO」は、ナムコのPlayStation 2用ソフト『テイルズ オブ レジェンディア』オープニングテーマ。カップリング曲の「aurora」はアルバム未収録曲。DAIはこのシングル発売から2ヵ月後の9月13日に解散を発表し、デビューから丁度6年目となった9月29日に解散。解散後の11月25日には日本武道館でのラストライブ「Do As Infinity -final-」を行った(解散後のため、厳密には再結成ライブとなった)。尚、D.A.I.は再結成後に発売された次作にあたる21stシングル「∞1」以降から、2019年発売の13thアルバム『Do As Infinity』までは、楽曲制作に一切関わっていない。解散に関するコメントの中でメインコンポーザーである長尾大がDAI最後の楽曲「Trust」があることを明らかにしたが、本作がラストシングルになった。なお、「Trust」はデモ音源のみが公式サイトで公開されており、試聴することができた(現在はページが閉鎖された為試聴不可)。2014年3月19日に、デジタルEP「Do As Infinity "tales of" パッケージ」の1曲として、「believe in you」とともに配信された。アレンジ・ボーカルともシングル音源と同じである。 |
坂口弘の学生運動 千葉県富津市出身。中学1年の時に父親を病気で亡くす。子供の頃は日本共産党の動向に関心を持ち、60年安保においては民主社会党を支持していた。千葉県立木更津高等学校卒業後、1965年4月に東京水産大学水産学部増殖学科(現東京海洋大学海洋科学部)に入学、水泳部に所属する。同部に所属していた川島豪に近づくためだった。当時4年生で自治会で後援会費闘争を行っていた川島を慕うようになる。その後、日韓条約反対闘争に参加し初めての集会とデモを経験。更にこの年の夏に課外実習で水産労働者の劣悪な労働状態に接し、労働運動に人生を捧げようと決意する。1966年4月、同年水産大学を卒業した川島が元社学同ML派幹部のM・Kと共に労働運動を重視した「警鐘」グループを結成すると、大学を中退し「警鐘」に加わることを望むが、川島の指示で大学に残り自治会活動を続けることになる(「警鐘」は学生をやめ労働者になることを加盟の条件にしていた)。しかし、一刻も早く労働運動に加わりたいとの思いから坂口の大学での活動は滞りがちになり、後に川島の後輩であることから自治会の委員長に就任するもほとんど活動を行わず、結局1967年6月に大学を中退する。 |
坂口弘の左翼運動に参加 大学中退後、大田区の印刷工場に就職し、「警鐘」に加盟すると共に労働運動に従事する。この時代に川島豪によって、「警鐘」メンバーの永田洋子と一度「お見合い」をさせられたが、双方とも即座に断った。1968年3月、「警鐘」が日本共産党を除名された親中国派の結成した日本共産党左派神奈川県委員会(神奈川左派)に合流すると、坂口も神奈川左派の党員となり(但し、川島に自治会委員長時代に自治会活動をほとんどしていなかったことを咎められ、党員に承認されるのが他の「警鐘」メンバーよりも遅れた)、1969年4月に川島、M・Kらによって日本共産党(革命左派)神奈川県委員会(京浜安保共闘)が立ち上げられるとこれに加わる。同年9月の愛知揆一外務大臣のソ連、アメリカ訪問阻止の羽田空港突入闘争に隊長として参加、海を泳ぎ滑走路に入り火炎瓶を投げ逮捕されるも保釈で出獄。求刑で懲役7年が出たことに動揺し、京浜安保共闘にも加わっていた永田洋子だったら7年待ってくれるとの想いで永田に求婚して事実婚となる。 |
坂口弘の大量殺人 その後上赤塚交番襲撃事件の立案、真岡銃砲店襲撃事件を機に地下に潜伏。革左人民革命軍と赤軍派中央軍を合体した統合司令部を設置し、統一赤軍を結成。印旛沼事件で元同志2人を殺害。統一赤軍から名称変更した連合赤軍に参加し、森恒夫や永田に次ぐナンバー3となる。12人の同志を殺害した山岳ベース事件に関与。事件中、総括を求められたメンバーへの総括援助として、上赤塚交番襲撃事件において同志一人を射殺した警官の役になり、彼と殴り合いをした(そのメンバーはその後縛り上げられ、山岳ベース事件最初の死亡者となる)。山岳ベース事件においては死者続出の総括に疑問を持ち、そのことを永田に告げたり、総括を続ける森の殺害を思い立ったりもした。このため、他のメンバーであれば自身が総括にかけられても当然の状況であったという。にもかかわらず坂口が総括にかけられなかったのは、森が坂口(と永田)を革命左派幹部として特別視していたからだとされる。森と永田の下山中には留守役を任されていた。この間に坂口はメンバー1人を総括にかけた。しかし、この総括はそれまでの暴力的なものとは異なり、簡単な言葉のやりとりのみだった。坂口が「警察が来たらどうするか?」と問いかけたのに対しそのメンバーが「銃を持って戦う」と宣言したため総括できたと判断、束縛を解くなどこのメンバーを助けようとした。しかしその後、坂東國男が再びこのメンバーを縛り、その後は坂東が監視していたため助けることができず、妙義山ベースで衰弱死した。やがて3人もの脱走者が出たため密告を恐れてベースを移動する。1972年2月(山岳ベースで最後の死者が出た直後)、山岳ベースから接触のため永田と森の東京の潜伏先に赴いた折に永田から「森と夫婦になることにした」と離婚を告げられた。森は逮捕される直前、坂口を「緊縛されたメンバーの縄を勝手に解いた」「(そのメンバーが死んだ際)その死を悲しそうに伝えた」として問題視しており、山岳ベース事件では森と永田が逮捕されずにメンバーと合流していれば、ナンバー3であった坂口弘が次の総括対象者だった(森と永田の結婚も、ナンバー2である永田が総括対象者と結婚しているのはおかしいという理論に基づいていた)。移動の途中で仲間の逮捕者を出す一方、下山して逮捕された森と永田を欠いた中で仲間4人とともに2月19日あさま山荘に真っ先に侵入し、管理人の妻を人質に取るあさま山荘事件を起こす。坂口はあさま山荘事件では総大将格となり、2月22日に警察の包囲を突破して山荘に侵入しようとした民間人に発砲(民間人は3月1日死亡)、2月28日に36歳の報道関係者に発砲して重傷を負わせ、山荘の厨房で鉄パイプ爆弾を爆発させ、5人の機動隊員に重傷を負わせるが、夜には逮捕された。この間、坂口の母親が現場に駆けつけ、「(人質の)○○さんの奥さん、申し訳ありません。奥さんを返してください。代わりが欲しいのなら私がいきますから」「十時に電話するから奥さんの声だけでも聞かせておくれ。奥さんをベランダに出して家族の皆さんに姿を見せてあげておくれ」とマイクで切々と訴えかけた。坂口は無反応であったが、呼びかけを聞いていた警察広報班の機動隊員はもらい泣きで記録ができなくなったという。なお、この母親は坂口の死刑確定後も面会の為に毎月時間をかけて拘置所に通い、被害者や遺族に謝罪して回りながら息子の助命運動を続けていたが、2008年に他界している。 |
坂口弘の逮捕 逮捕後は武装革命の必要性を疑問視し始め、特に「同志殺し」については反省を見せるなど勾留中の態度は優良だった。殺人16件、傷害致死1件、殺人未遂17件で起訴される。1975年の日本赤軍によるクアラルンプール事件の際には釈放リストに名前が挙がったが、死刑を免れる可能性があったのにも関わらず釈放を拒否した(同じ連合赤軍幹部として連合赤軍事件に関与した坂東國男は日本赤軍への参加に同意し、釈放・出国している)。「私の闘争の場は法廷」「もはや暴力革命を志す時期ではない。」と主張した。犯人グループは坂口の出国拒否声明に関しては検察の圧力を疑っており、坂口と電話での直接の言質を求めた。しかし、後に裁判ではこの行動が情状として認められなかった云々を著書に書いている。 |
坂口弘の死刑判決 第一審・東京地方裁判所(中野武男裁判長)で1982年6月18日に死刑判決を受け、東京高等裁判所に控訴するも1986年9月26日に同高裁(山本茂裁判長)で控訴棄却(死刑判決支持)の判決を受けた。1993年2月19日、最高裁判所(坂上寿夫裁判長)で上告棄却の判決を受けた。その後判決訂正の申し立てをするが、3月9日に棄却決定がなされたことで死刑が確定した。最高裁判決はあさま山荘事件発生日からちょうど21年であった。17人殺人(司法の認定としては16人殺人と1人傷害致死)は死刑囚としては当時の戦後最悪の数字であり、オウム真理教事件で27人殺人(司法認定は26人殺人と1人逮捕監禁致死)を犯した麻原彰晃の死刑判決が2006年9月に確定するまで破られなかった。2019年現在、坂口は死刑囚として東京拘置所に収監されている。坂口の死刑が執行されていないのは、共犯者である坂東國男が国外逃亡して裁判が終了していないためとされている。1990年代に、獄中で短歌を作って朝日新聞の「朝日歌壇」に投稿した時期もあり、その作品の一部が『坂口弘 歌稿』(朝日新聞社)にまとめられている。また、一連の連合赤軍事件の記録を当事者として後世に残すため、『あさま山荘1972』<上・下・続>(彩流社)を著した(下巻についてはいったん完成し、確定判決の直前に出版社宛てに郵送した原稿が行方不明となり、再度書き直している)。1995年にオウム真理教事件が発生すると、連合赤軍事件との類似点が指摘された。麻原彰晃の初公判に際し、1996年4月24日の朝日新聞夕刊で地下鉄サリン事件の実行犯として指名手配されて当時逃亡中だった小池泰男(1996年12月逮捕)らにあてた手記が掲載された。再審請求していたが、2006年11月28日に東京地方裁判所が棄却する決定をした。弁護人は即時抗告したが、2012年3月5日、東京高等裁判所は再審請求を棄却した。3月8日、弁護人はさらに最高裁判所へ特別抗告したが、2013年6月24日に棄却された。 |
坂口弘の身体的特徴 身長180センチ程度。心臓に持病がある。 |
坂口弘の坂口弘を演じた人物 映画『光の雨』においては彼をモデルにした幹部「玉井潔」を池内万作が演じている(厳密には劇中劇の役)。一方、関係者の大半を実名で描いた映画『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』ではARATAが坂口の役を演じた。 |
大相模調節池の概要 埼玉県越谷市が推進する地区整備事業の越谷レイクタウン事業の一環として施工され、「新しく水との共存文化を創造する都市」をスローガンに、事業区画のほぼ中央に39.5haという広さの水害対策を視野に入れた調節池(調節容量120万立方メートル)として建設された。地域住民の憩いの場として池の一部を開放し、自由に利用できるようになっている。調節池の総事業費は347億円であり、導排水路の総事業費は93億円である。2014年(平成26年)10月19日に竣工した。 |
大相模調節池の効果 元荒川流域は比較的低地が多く、特に越谷市は水路に囲まれ水郷として知られる半面、洪水に多く悩まされてきた経緯がある。そのためニュータウンの建設にあたり、洪水時に元荒川から導水し、貯水する巨大な調節池を建設する計画が推進された。面積は約40ha、深さ最大約5mの貯水池が完成し、120万立方メートル(東京ドームと同程度)の水を受け入れることが可能となった。完成翌年の2015年9月に台風18号による平成27年9月関東・東北豪雨が発生し、埼玉県内で最も被害を受けた越谷市内では近年最多の床上浸水が175棟、床下浸水が584棟に上った。調節池より北側の地区に集中しており、河川の排水機能が追い付かず、せんげん台駅周辺など場所によっては1m近い水深になった。市内いたるところで冠水が発生したものの、その際越谷レイクタウンでは、周辺より嵩上げされた地盤であることや、容量いっぱいまで貯水したことによって浸水被害はなかった。また、調節池より下流域での浸水被害は少なく、被害軽減の効果が実証された。以下は台風18号の大雨によって満水になった大相模調節池。 |
学園祭学園のディスコグラフィ ※順位はオリコンランキング最高位。 |
浙江理工大学の付帯施設 学校には病院、店、図書館、展示ホール、レストラン、体育館、スタジアム、屋内プール、バスケットボール、バレーボール、サッカーなどが可能な室外のグラウンドなどの付帯施設がある。 |
さやま交通の概要 貸切バス事業参入は1998年と比較的歴史の浅い事業者である。WILLER GROUPとは旧西日本ツアーズ時代から同社主催の高速ツアーバスを受託運行するなど関わりが深く、専用車両を多数保有。「新高速バス制度」施行時には合弁会社「WILLER EXPRESS関西」を設立し、以後も主要運行会社の一翼を担っている。 |
さやま交通の車両 保有車両はWILLER EXPRESS専用車と一部車両を除き、白一色に社名ロゴ入りとシンプルなデザインを採用。かつてはネオプラン車を多数導入しSTAR EXPRESS→WILLER EXPRESS運行に供していたが、順次国産車に代替された。また、WILLER EXPRESS専用車として大宇自動車製車両を保有していた時期もある。また余談ではあるがWILLER EXPRESSでは既に引退したスリーパーシート車が1台残っておりWILLER EXPRESS東海→WILLER EXPRESS東北を経て日野セレガの床下仮眠室と車内トイレ装備のレアな車両が大阪さやま交通に配属している。また2019年内には相互運行のボーテ車が引退すると思われる。 |
鹿沼健介の人物 調布市立第五中学校、早稲田大学高等学院を経て早稲田大学卒業後、1996年入局。 |
久山宗彦の略歴 京都府生まれ。1963年上智大学文学部ドイツ哲学科卒、1967年東北大学大学院宗教学博士課程満期退学。1969年国立音楽大学講師、1971年法政大学教養部助教授、1976-1978年カイロ大学文学部日本学科客員教授。1979年法政大学教授を経て、1983年星美学園短期大学理事、1997-2001年学長。カリタス女子短期大学学長も務めた。のち群馬医療福祉大学特任教授。元「イラクの子どもたちを救う会」代表。 |
XP-46 (航空機)の概要 1939年にカーチス社は、アメリカ陸軍航空隊に P-40の後継機として、新たに開発されたアリソンV-1710-39エンジン搭載した機体を提案した。結果9月29日に2機の発注を受け、最大速度660km/hを志向した。この機体は、陸軍航空隊より発注を受け、XP-46Aの名称が与えられた。シリアルNoは40-3053~54。1941年2月15日に初飛行を行っている。しかし軍の要求により自動防漏タンクや防弾装備を追加設計させられたが為に予定重量をオーバーし所定の計画値をクリアできなかった。自動前縁スラットや翼内に8丁の機銃を搭載していたのが特徴的である。試験の結果、P-40を凌駕出来ず、特にP-40Dは同じくV-1710-39エンジンを搭載していたこともあって、採用に至らなかった。 |
ブラッド (バンド)の略歴 1992年にシアトルで結成。メンバーは当初バンド名をShameにしようとしたが、すでにブラッド・ウィルソンというミュージシャンが在籍する同名のバンドが存在していたため、そのミュージシャンのファーストネームをバンド名に冠し、デビューアルバムのタイトルを『Shame』とした。『Shame』は1993年4月にエピック・レコードよりリリースされた。1997年6月に2ndアルバム『Interiors』をリリースし、より洗練されたサウンドを展開した。その後アメリカ国内の他にとカナダ、オーストラリア、ニュージーランドでツアーを行った。同年にベーシストのジェレミー・トバックが脱退し、新しくマイク・バーグが加入。2002年8月に3rdアルバム『Welcome to Discovery Park』をインディー・レーベルのレッドライン・レコードよりリリース。翌年には新作のレコーディングを開始し、2005年にバーグが脱退し、2008年にキース・ロウが新しく加入。2010年8月に4枚目のアルバム『Best Friends?』をリリースし、同年に新メンバーのハッピー・チッチェスターが加入。2012年4月に5枚目の最新作『United We Stand』をリリースした。 |
ミサゴの分布 極地を除くほぼ全世界に分布する。ユーラシア大陸と北アメリカ大陸の亜寒帯から温帯地域とオーストラリアの沿岸部で繁殖し、北方の個体はアフリカ大陸中部以南と南アメリカに渡って越冬する。日本では留鳥として全国に分布するが、北日本では冬季に少なく、南西諸島では夏に少ない。西日本では冬季普通に見られる鳥だったが、近年やや数が減少している。北海道ではほとんどの個体が夏鳥として渡来している。 |
ミサゴの形態 全長54–64cm。翼開張150–180cm。体重1.2–2kg。雄雌ほぼ同じ色彩で、背中と翼の上面は黒褐色、腹部と翼の下面は白色で、顔も白く、眼を通って首に達する太い黒褐色の線が走る。後頭部に小さな冠羽がある。嘴は黒く、脚は青灰色。タカ科と区別される特徴として、spicule と呼ばれる足の外側にある魚を捕らえるための棘、反転する第1趾(猛禽類ではミサゴだけである)、鼻孔の弁、密生し油で耐水された羽毛があげられる。 |
ミサゴの生態 主に海岸に生息するが、内陸部の湖沼、広い河川、河口等にも生息する。水面をゆっくりと低空飛行し獲物を探す。春・秋の渡りの季節には長野県などの内陸部を移動する個体が観察される。単独かつがいで生活する。食性は肉食性で主に魚類を食べるが、爬虫類、鳥類、貝類を食べることもある。獲物を見つけると素早く翼を羽ばたかせて空中に静止するホバリング飛行を行った後に急降下し、水面近くで脚を伸ばし両足で獲物を捕らえる。和名の由来は様々な説があり水を探るが転じたとする説や、獲物を捕らえる時の水音が由来とする説(西日本では水面に突入する音から、本種のことを「ビシャ」、または「ビシャゴ」と呼んでいる地域がある)等がある。5–7月に水辺の岩や樹上に木の枝を組んだ巣を作り、2–3個の卵を産む。抱卵日数は約35日。抱卵は主にメスが行い、オスはメスに獲物を運ぶ。雛は孵化後、52–53日で巣立ちし、その後1-2か月後に親から独立する。成熟するのに3年かかる。 |
ミサゴの系統と分類 単型のミサゴ科を作り、姉妹群はタカ科 Accipitridae である。合わせてタカ上科 Accipitroidea とすることもある。タカ科に含めることもあり、それでも単系統性からは問題ない。しかし、形態、核型、遺伝子距離、化石記録の古さから、科レベルに相当する差異があるとされる。タカ科に含める場合、ミサゴ亜科 Pandioninae とし、タカ科の2つまたはより多くの亜科の1つとする。ミサゴ属には1種 P. haliaetus (Linnaeus, 1758) のみを置く説と、P. cristatus (Vieillot, 1816) を分離する説とがある。P. cristatus はスラウェシ島以東のオーストラリア区に分布する。P. haliaetus より小型で、渡りはしない。 |
ミサゴの古代日本 日本において、ミサゴは魚を捕るタカとして古来より知られ、『日本書紀』では覚賀鳥と記されているほか、『太平記』、『看聞日記』、『古今著聞集』など、様々な文献で記述が確認できる。 |
ミサゴのミサゴ鮨 『本草綱目啓蒙』において、ミサゴは捕らえた魚を貯蔵し、漁が出来ない際にそれを食すという習性が掲載され、貯蔵された魚が自然発酵(腐敗でもある)することによりミサゴ鮨となると伝えられていた。ミサゴ鮨については『甲子夜話』(松浦静山)、『椿説弓張月』(曲亭馬琴)※追記 『[味]』(秋山徳蔵著)などにも登場する。ミサゴが食べ残した魚に尿をかけて岩の凹みに貯蔵したことにより発酵し、尿の塩分と酸味によってうまみが増した魚を人間が食したのが寿司の起源であると伝承される。そのため、「みさご鮨」の屋号を持つ寿司屋は全国に少なからず点在している。また『広辞苑』にも「みさごすし」の項目があり、解説がある。この逸話に対して反論者もいる。動物研究家實吉達郎は自著『動物故事物語』において、ミサゴにそのような習性もなければ十分な魚を確保する能力もないとし、この話を否定している。なお、類似した伝説としては、サルがサルナシなどの果実を巣穴に貯めて「製造した」猿酒や養老の滝がある。 |
ミサゴの文学 冬の季語である。 |
尾本彰の経歴・人物 1972年4月、東京大学工学部原子力工学科卒業。同年5月、東京電力株式会社入社。1991年7月、原子力建設部原子力計画課長。2000年3月、東京大学工学博士取得。2000年6月、原子力技術部長兼技術開発本部副本部長。2004年1月、国際原子力機関(IAEA)原子力局原子力発電部長。2009年11月、東京電力顧問。東京大学大学院工学系研究科原子力国際専攻特任教授。2010年1月-2013年3月7日、内閣府原子力委員会委員(非常勤)。 |
阿蘇惟将の生涯 永正17年(1520年)、阿蘇惟豊の子として誕生。天文10年(1541年)、阿蘇氏家臣の御船城主・御船房行が薩摩国の島津氏に通じて父・惟豊に反旗を翻した際、父の命を受け惟将は討伐軍の大将として甲斐宗運の補佐もあり、木倉原の戦いで御船方に勝利し益城郡御船城を攻略、房行を自刃に追い込んだ。永禄2年(1559年)、父・惟豊が死去したために家督を継ぐ。この頃の阿蘇氏は、島津氏や肥前国の龍造寺氏らの圧迫を受けて苦しんでいたが、惟将は甲斐宗運を重用して豊後国の大友氏らと手を結んで、独立の維持を図ったという。その後も他の勢力と巧みに手を結びながら、独立を終生維持した。天正11年(1583年)、死去。家督は弟・惟種が継いだ。 |
渡辺岳夫の略歴・評価 作曲家である渡辺浦人の長男として生まれ、武蔵高等学校、武蔵大学経済学部を卒業した。23歳の時にフランス・パリへ留学してクラシックを学び、スコラ・カントルム音楽院卒業。その後ラジオ東京(現・東京放送ホールディングス)へ入社し、演出部でテレビドラマの制作をするうちに音楽に対する想いが強くなり、同社を退社して音楽家に転身した。様々なジャンルの作曲を手がけており、特に時代劇やアニメーション作品で印象に残る曲を残している。時代劇や現代劇においては、それまで使われる事のなかったチェンバロなどの楽器を多用し、クラシック音楽をベースとした独特なメロディラインで構成された曲を数多く作曲した。またアニメ作品の主題歌・BGMの分野では、『巨人の星』、『アタックNo.1』、『天才バカボン』、『キューティーハニー』、『アルプスの少女ハイジ』、『魔女っ子メグちゃん』、『フランダースの犬』、『キャンディ・キャンディ』、『あらいぐまラスカル』、『機動戦士ガンダム』等の日本アニメ史上に残るヒット作品の音楽を手掛け、楽曲もヒットした。一方で、『サラブレッド・マーチ』のような、元々は会議用に依頼され作曲したものや、舞台作品のBGMも数多く作曲したほか、自ら舞台の演出も行うなど、晩年まで精力的な創作活動を行っていた。『魔女っ子メグちゃん』、『あばれはっちゃく』にはタンゴが使われている。『新選組血風録』や『巨人の星』の臨場感のある曲や、『白い巨塔』と『機動戦士ガンダム』『非情のライセンス』『無敵超人ザンボット3』の哀愁を帯びたBGMなどを作曲した。作曲する際には、必ず作品の脚本を読み、作品のイメージを把握した上で作曲を開始し、録音の際に歌手や演奏者への助言を与えた。またED曲は哀愁を帯びた曲が多く、「永遠にアムロ」「元祖天才バカボンの春」「夜霧のハニー」「宇宙の星よ永遠に」などがある。時代劇では、『新選組血風録』や『燃えよ剣』『俺は用心棒』シリーズ、『大奥』(1968年)から始まる3部作や『眠狂四郎』に、『子連れ狼』などの作品を担当。その一方で作詞も数多く手がけ映画主題歌『緋牡丹博徒』(1968年)は主演の藤純子人気も相まって大ヒットした。裏番組の仕事を掛け持ちした際には、夫人の旧姓を用いて大塩 潤という名義も併用した。1989年(平成元年)6月2日、腎不全により死去。56歳没。没後、1998年度のJASRAC賞では『アタックNo.1BGM』で国際賞を受賞。2004年に倖田來未が『キューティーハニー』(佐藤江梨子主演)の主題歌をカヴァーしてヒットさせ、更にSugarのメンバーとして活動していたayumiがカヴァーし、韓国でも同様にヒットした。2008年、東京国際アニメフェア2008にて第4回功労賞を受賞した。静岡県伊豆地方の稲取にある、この地方独特の雛祭りの「つるし雛」を展示するギャラリー「雛の館」には、夫人の出身地の縁で、渡辺岳夫寄贈の雛人形一式が展示されている。 |
カシデート・ウェータヤーウォンのクラブ 2011年、ムアントン・ユナイテッドFCのトップチームに昇格した。 |
そうだ 京都、行こう。の概要 本キャンペーンは、1993年、平安遷都1200年記念事業に合わせる形で開始された。取り上げる場所は主に京都市内であるが、時折京都市外の京都府の各市町村も取り上げている。桜や紅葉など、季節ごとの京都の魅力を紹介しており、本キャンペーンで取り上げられた寺社に観光客が多くつめかけるなど、その影響力は大きい。開始当時のクリエイティブ・ディレクターは佐々木宏であり、以後10年に渡って本キャンペーンの広告の制作を手掛けた。また、開始当初から、キャンペーンで使用されるキャッチコピーは太田恵美、キャンペーンで取り上げる観光地の撮影は高崎勝二がそれぞれ担当している。 |
そうだ 京都、行こう。のテレビCM 本キャンペーンのテレビCMでは、長塚京三によるナレーションが流れる中、京都の観光地を撮影した映像が流れる。また、CMのBGMには「私のお気に入り」が使用されており、CMの雰囲気に合わせて曲調が変えられている。本キャンペーンのクリエイティブ・ディレクターを務めた佐々木によると、クライアントから「京都だから絵葉書でいい」と言われたことを受けて、CMにタレントを出演させず、「世界一の絵葉書」を作るという発想に至ったという。2016年10月現在、24年間で77カ所・93本のテレビCMが撮影・放送された。2018年10月25年間ナレーションを務めた長塚京三の卒業が発表された。CMは今後も継続され、二代目ナレーターには柄本佑が就任する。 |
そうだ 京都、行こう。のKYOTO・CLUB キャンペーンが始まった1993年から10年間、会員制の「KYOTO・CLUB」が運営されていた。入会すると提携先で提示することで割引サービスが受けられる会員証と年間パスポートが送付されたほか、東海道新幹線と京都市内のホテルを組み合わせた特典ツアーの斡旋などが行われた。 |
そうだ 京都、行こう。のそうだ 京都は、今だ。 本キャンペーンの新シリーズとして、2016年から「そうだ 京都は、今だ。」が開始された。このシリーズでは、京都の文化や芸術に焦点を当て、期間限定で公開される文化財について、ポスターなどを駆使して紹介する。また、テレビCMも制作されており、小林聡美がナレーションを務め、編曲は川井憲次が担当している。 |
板倉啓壱の解説 ミンガスは自主レーベル『デビュー・レコード』を主宰していたが、経営が困難となり、バンド・リーダーとしてアトランティック・レコードと契約。そして、同社での第一弾となる本作をレコーディング。マイルス・デイヴィスから紹介されたアルト・サックス奏者ジャッキー・マクリーン等、強力なメンバーを集めたクインテットで制作した。ベーシストとしては既に名の通っていたミンガスだが、本作の発表により、作曲家/バンド・リーダーとしての才能も広く知れ渡った。「直立猿人」は、ミンガス自身の説明によれば、「Evolution(進化)」「Superiority Complex(優越感)」「Decline(衰退)」「Destruction(滅亡)」の4部構成の組曲。人類の文明社会を風刺しているとも取れる曲で、ジャズに文学的要素を持ち込んだ曲として、高く評価された。巧みに計算されたテーマ部分と、破壊的な即興演奏が、激しいコントラストを織り成す。「霧深き日」は、ジョージ・ガーシュウィン作曲のスタンダード・ナンバーだが、本作では、サックスがクラクションのような音を出すなど、前衛的なアレンジが施されている。マイルス・デイヴィスは、1990年のインタビューで、自分も「霧深き日」をレコーディングしようとしたが、ミンガスの演奏が素晴らしかったため、レパートリーにするのをやめたと述懐している。レコードA面では先進的な作曲・アレンジが目立つが、B面では、ジャッキーが活躍する「ジャッキーの肖像」や、15分近い大作「ラヴ・チャント」で、親しみやすい曲作りも見せている。 |
栃木県道229号今市停車場線の概要 日光市市街地(旧今市市)の玄関口の一つであるJR今市駅と日光街道・例幣使街道を連絡する道路。かつてはセンターラインの無い1.5車線の細い道路であったが、1993年(平成5年)より市が進める駅間JR今市土地区画整理事業に基づく今市地区の区画整理により、現在は整備された2車線の道路となっている。 |
妾馬のあらすじ 発端は省かれることもあり、その場合は八五郎と大家の会話でこれまでの出来事を説明する。行列の駕籠にて、とある長屋の前を通りがかった大名・赤井御門守が、長屋口にて見かけたお鶴を見初めた。御門守にはそれまでに世継ぎが居ないこともあり、お鶴を側室にと言う。御門守の意を受けた家来がすぐに長屋を訪れ、大家に話をつけた。お鶴は十七歳、母親と兄の八五郎の三人暮らしである。大家がお鶴の母にこの一件を話して聞かせると、お鶴を出世させてやれると大いに喜び、また、兄の八五郎のほうも、お屋敷奉公が決まれば百両は支度金が頂けると聞き、浮かれている。最終的に八五郎は二百両を貰いうけ、お鶴はめでたくお屋敷へ上がることとなる。お鶴は間もなく世継ぎたる男子を出産し、にわかに「お鶴の方さま」と呼ばれる出世を遂げる。ある日、御門守がお鶴の願いを聞き入れ、八五郎が屋敷に呼ばれることとなった。一方、その頃八五郎は支度金を遊びで使い果たしており、決まりが悪くなり友人の家を泊まり歩いていた。大家は八五郎を見つけ出し、着物も全て貸し与え、御前へ出たら言葉を丁寧にしろ、などとアドバイスをして送り出した。屋敷に着いたのち、八五郎は赤井家側用人の三太夫に御前まで案内される。お鶴を伴って現れた御門守に対し、とってつけたような仰々しい言葉遣いをする八五郎であるが、御門守は「無礼講であるから朋友に申すごとく申せ」と勧める。これを聞き、八五郎はいつもの如く傍若無人に振舞う。カリカリする三太夫に対し、御門守は「面白い奴」と気に入る。杯を重ねるうち、したたかに酔った八五郎はそこで初めてお鶴がそこに居ることに気付く。立派になったお鶴を目にし、母がお鶴を見れば「婆ァ、喜んで泣きゃあがるだろう」と感極まり涙をこぼす。八五郎は御門守に「お鶴を末永くかわいがってやっておくんなさい」としたのち、しんみりしたところで景気直しだと都々逸を唸り出す。八五郎を気に入った御門守は彼を侍に取り立てる。まさに、「鶴の一声」。 |
妾馬の概要 ごく普通の生活を送っていた町人が何かのきっかけで偉い人と対面することとなってしまい、作法その他もろもろが分からず誰かに聞きに行くというくだりは『粗忽の使者』や『松曳き』等にも登場している。いずれの噺でも、アドバイスしてくれた人に言われた通りの言葉遣いをしてしまった結果、かえって言葉遣いが変になってしまい、しゃべっている当人にも意味不明な会話になってしまう。お殿様との会話シーンでは、アドバイザーに「言葉の頭に『お』の字をつけ、語尾には『奉る』を付けろ」といわれた八五郎が自分の名前に『お』の字をつけた挙句、お世取り(後継者)の意味がわからず鳥の一種か何かだと思い込んでしまうなど笑いどころが実に多い。この噺にはまだ続きがあるが、全部演じると一時間以上もかかり、その後半部分は省かれることが多い。標題に出てくる「馬」は後半部分に出てくる。前段だけで演じられるときは『八五郎出世』と題されることもある。前段の眼目は大詰めで、酔った八五郎の長台詞のうちにその場の光景、その場にいない母親の姿などをありあり浮かび上がらせる腕が演者には求められる。 |
妾馬の圓生の「八五郎出世」 6代目三遊亭圓生は、この演目で、「古典落語は単に笑わすのじゃなくて泣かすことも大事なのだ。」ということを悟り、新しい芸の境地を開拓したと述懐している。終戦後、満洲から帰国した圓生は落語研究会でこの噺を演じて絶賛を博した。 |
ギルステインのストーリー 西暦2088年。大企業ヤシロ・アコロジーの支配するオリエント地区から脱走を試みた少女サビは、ヤシロ・アコロジーが開発した生物兵器ギルステインに襲われてしまう。しかし、そんなサビを救ったのは同じギルステインのカオスだった。いぶかしむサビに、カオスと行動を共にする「アナグラ」のメンバーが理由を答えた。かつてヤシロ・アコロジーの「カドケウス・プロジェクト」に参加していたカオスは、プロジェクトの阻止を試みた結果、プロジェクトの実験体としてギルステインに改造されてしまったという。獣の心に侵食される恐怖を感じ、心を閉ざしていたカオスは、サビとの出会いをきっかけに徐々に心を開いていく。数日後。サビは行方不明になっていた父スアド博士が、ヤシロ・アコロジーに捕まっていることを知り単身ヤシロ・アコロジーに乗り込もうとする。「時期尚早」と引き止める「アナグラ」のメンバーたちの中で、カオスはサビと共にヤシロ・アコロジーに乗り込むことを決意し、それに触発された「アナグラ」も武装蜂起を決断する。「アナグラ」の援護を得た二人は、ヤシロ・アコロジーに向かう。同じ頃、ヤシロ・アコロジーの社員でカオスの恋人だったレイメイは、ギルステインの正体がカオスだと知り解毒剤を持ち出そうとするが、カオスを追い落としたリーに射殺される。しかし、レイメイにカドケウス・ウイルスを注入されたリーはギルステインに変貌し、カオスと一騎討ちの末殺される。カオスはレイメイから渡された解毒剤で人間に戻るが、もう一体のギルステインと対峙するため再びカドケウス・ウイルスを注入しギルステインになるが、ムデムからギルステインがスアド博士だと聞かされ、残り一つとなった解毒剤を使いスアド博士を人間に戻す。スアド博士と共にムデムと対峙したカオスは、ムデムに洗脳されたサビに撃たれてしまう。サビに手を出せずにいたカオスだったが、彼と過ごした時の記憶を思い出したサビが洗脳から解放され、人間の潜在能力に驚愕したムデムはスアド博士に射殺される。同じ頃、「アナグラ」の蜂起によってヤシロ・アコロジーが制圧され、本部ビルが崩壊する。脱出に成功したカオスたちは「アナグラ」のメンバーと合流し、ヤシロ・アコロジーの支配が終わったことを喜び合う。 |
首都高速2号目黒線の概要 都心環状線以外の高速道路と接続しない路線であるため、首都高速の路線の中では交通量が少なく、渋滞も滅多に発生しない。また本路線は下り方向へ利用可能な出入口が存在しないため、本路線区間内のみの利用はできない。終点側は、第二京浜に接続する戸越出入口と、中原街道に接続する荏原出入口に枝分かれする形となっているが、正式な終点は戸越出入口とされている。全線に渡り土曜夜10時から日曜朝7時まで、大型貨物自動車の通行は禁止されている。これは2号線全域が週末の大型貨物乗入規制の基準である環七通りより内側にあり、かつ終点の戸越出入口・荏原出入口も規制区域内のため。東京都市計画審議会の高速道路調査特別委員会は、1968年までに2号線の延伸計画として、第三京浜道路 (国道466号)と接続する路線について審議を行っており、地域高規格道路の候補路線にも指定されているが、現時点で延伸方向を含めた具体的な計画は決定していない。 |
首都高速2号目黒線の路線番号 2 |
浜谷哲の来歴・人物 1973年3月に専修大学経済学部を卒業。同年4月に青森銀行へ入行。同行の人事部長、常務取締役、(代表取締役)専務取締役などを経て、2011年4月に取締役頭取に就任。また、一般財団法人青森地域社会研究所の理事長、青森放送の(社外)取締役なども務める。2016年度に次期中期経営計画が始まることや、新計画の策定と実行を新体制で推進することが最適であるとして、会長に退いた。 |
小笠原貞信 (政治家)の特徴 音楽再生を強く打ち出した携帯電話で、スライド式を採用した。音楽は着うたフルのほか、SonicStageからATRAC3ファイルを転送して楽しむこともでき、付属のマイク付リモコンで音楽プレーヤーを操作することも可能である。本機はメモリースティックPRO Duoにも対応しているが、当時の著作権保護技術MagicGateは128MBまでしか対応していなかったため、本機はメモリースティックPRO Duoからのオーディオ再生には対応しない。そのため、SonicStageからATRAC3ファイルを転送して楽しむには、128MB以下のMGメモリースティックDuoを使う必要がある。音楽再生機能以外にもCMOSでありながら、高画質な2メガピクセルカメラ(スライドレンズカバー付き)や、FMラジオなども搭載したハイエンドモデルである。スライド式端末ではあるが、その開閉と連動した機能はない。本端末は、のちのウォークマンケータイ W42Sの源流になったといえる。なお、この機種以後同社のau向け端末からジョグダイヤルが廃止されたが、W53Sで「+JOG」の形で復活した。ちなみに、オレンジとホワイトの二色はauのロゴマークをモチーフにされたものと思われる。 |
マシモンの概要 マシモンはその由来も語源もはっきりしない。本来マシモンと呼ばれていたのはサンティアゴ・アティトランのものだけで、他の地域では別の名前で呼ばれていた。16世紀にメソアメリカを支配したスペイン人は先住民にキリスト教を強制したが、スペイン人司祭の数は不足し、17世紀になると先住民の信徒どうしの互助組織であるコフラディアが広まっていった。サンティアゴ・アティトランではとくにスペイン人の支配があまり行き届かず、宣教師は村に常駐しなかったため、伝統的な信仰形態が残った。マシモンは聖十字架のコフラディアが世話する。ツトゥヒル語では「古代の祖父」を意味するリラッハ・マムの名で呼ばれる。これはかつてのワイェブ(ハアブの不吉とされる5日間)の祭儀のバカブ神のユカタン名と同じであり、死と再生を司るバカブ神の基本的な特徴と機能を持つ。その一方でキリスト教などの影響も見られる。言い伝えによると、マシモンはフランシスコ・ソフエルという人物によって地域社会の道徳を守ることを強制する目的で作られたとされる。また、マリア・バツバル(マリア・カステジャーナとも)という妻がある。しかし本来の目的を逸脱し、自然の不安定性の人格化になっている。マシモンは人々に病気や死をもたらしたり、トウモロコシを枯れさせたり、洪水や嵐を起こすとされる。サンティアゴ・アティトランのマシモンは木製の仮面像で、頭以外の胴体はわらと木組みだけからなり、かかしに似ている。1950年代までは全身像は聖週間や祭日のみに見られ、それ以外は頭のみだった。サンティアゴ・アティトランでは復活祭に先立つ聖週間にマシモン関係の行事が行われる。月曜にマシモンは解体されて衣が洗われ、人々はその死を嘆く。火曜に再生が祝われ、水曜に礼拝堂に安置される。聖金曜日には死んだキリストの行列の後ろにマシモンが加わり、キリストを追いぬいて走ってコフラディアに戻る。マシモンが先住民の姿をしているのに対して、サンシモンはラディーノの服装を身につけている。聖シモンの日である10月28日に儀礼を行う。マシモンにくらべるとマヤ神話との関連性は低い。マシモンはイスカリオテのユダに由来するフダスとも関係があるとされるが、フダスの扱いは地方によって大きく異なる扱いを受けている。メキシコのチアパス州アマテナンゴではフダスは悪魔とされ、トウモロコシの成長を妨げるとされる。また先住民を虐げるラディーノと同一視される。 |
パースエイダーズのその後の説得者 グループはフィラデルフィアのカーラ・レーベル(CBS配給)でプロデューサーのロバートCurington、ノーマン・ハリスと1976年にアルバム『イッツ・オール・アバウト・ラブ』を録音。『アイニードラブ』はR&Bヒットだった。後に、リードシンガーのダグラス·スコットを中心に1981年にブランズウィック·レコードでシングルを一枚出した。グループは4枚のアルバムを1970年代に発表した。元メンバーが去り、新しいメンバーが入り、PersuadersのR&B遺産はヴィンセント(ヴィンス)バラード、シルベスター(ジェイ)ジョーンズ、Tmarvinウィリアムズとキース(ソウル)シモンズの新しいラインアップで21世紀も歌い継がれている。名前Persuadersは法的に登録された商標です。 |
ミッドランド・M16の開発 M16は完全に新しいマシンではあるが、ジョーダン・EJ15の開発から得られた情報がM16の製造に生かされていると言え、メカニカル面、空力面、など、様々な面に大きな進歩を見る事が出来る。 |
ブラヒム・ディアスのマラガCF 1999年にモロッコ人の父とスペイン人の母との間にマラガで生まれる。6歳からサッカーを始めると2006年に地元最大のクラブであるマラガCFのカンテラに入団、その後、U-12の全国大会の最優秀選手に選出され、”マラガのメッシ”として国内の複数のクラブから注目を集める。2010年、FCバルセロナはディアスと家族をバルセロナに招待するなど、代理人(ジョゼップ・グアルディオラの実兄、ペレ・グアルディオラ)を通じて獲得に動いたが、マラガの要求する高額な移籍金の前に交渉は破談に終わった。 |
ブラヒム・ディアスのマンチェスター・シティ 転機となったのは2013年、元マラガ監督のマヌエル・ペレグリーニがマンチェスター・シティFCの監督に就任。マラガ監督時代からディアスを高く評価していたペレグリーニはクラブに獲得を推薦、同年12月に5年半契約・移籍金35万ユーロでマンチェスター・シティのユースチームに移籍。2016-17シーズンに16歳でトップチームに昇格。2016年9月のEFLカップでのスウォンジー・シティAFC戦でプロデビュー。2017年11月20日のUEFAチャンピオンズリーググループリーグの対フェイエノールト戦では、試合終了間際にラヒーム・スターリングとの交代出場でCLデビュー。2018年1月20日のプレミアリーグの対ニューカッスル・ユナイテッドFC戦で、レロイ・サネとの交代出場でトップリーグデビューを果たした。しかしその後はトップチームの分厚い選手層に阻まれて出場機会を得られず、2018-2019シーズンも前半戦はカップ戦のみわずか4試合の出場に留まり、クラブは2019年で満了となる現行契約の延長オファーを提示していたが、ディアス本人は移籍を志願する。 |
ブラヒム・ディアスのレアル・マドリード 2019年1月6日、母国スペインのレアル・マドリード移籍が発表された。契約期間は6年半で移籍金は推定1700万ユーロ+ボーナス800万ユーロ(最大で約30億円)。1月9日のコパ・デル・レイベスト16の対CDレガネス戦に途中出場、公式戦デビューを飾った。 |
ブラヒム・ディアスの代表経歴 2016年から、各ユース世代のスペイン代表に随時招集されている。 |
アルミンド・トゥエ・ナ・バンニャの経歴 2004年からスポルティングCPのユースチームに所属し、2011年にトップチームに昇格した。2013年2月16日、ジル・ビセンテFC戦でプロ初ゴールを記録した。2013年9月4日、トルコのガラタサライASへの移籍が発表された。9月13日、アンタルヤスポル戦で移籍後初出場を果たした。2017年6月14日、RBライプツィヒに移籍した。2019年6月28日、PSVアイントホーフェンと5年契約を締結した。 |
アルミンド・トゥエ・ナ・バンニャの代表歴 ポルトガル代表として2012年にUEFA U-19欧州選手権に出場し、2013 FIFA U-20ワールドカップでは5得点を記録した。 |
アレクセイ・スピリドノフの経歴 スピリドノフは、1970年のヨーロッパジュニア選手権で2位となり、3年後の1973年のユニバーシアードでも、同じソ連のワレンティン・ディミトリチェンコに次いで2位、さらに同年のソビエト選手権でも2位となっている。このときの優勝者はアナトリー・ボンダルチュクであった。1974年のソビエト選手権でもディミトリチェンコに次いで2位となるが、同年のヨーロッパ選手権では74m20と、2位の東ドイツのヨッヘン・ザフゼに20cmの差をつけて、初のメジャータイトルを獲得した。ヨーロッパチャンピオンとなったわずか4日後、スピロドノフは、ミュンヘンにおいて76m66の世界新記録を樹立。東ドイツのラインハルト・タイマーの記録を6cm更新した。この記録は、翌年5月に西ドイツのカール=ハンス・リームに破られた。1975年、スピリドノフはソビエト選手権で前年に続き、ディミトリチェンコに次いで2位となる。同年のローマで開催されたユニバーシアードでは、西ドイツのヴァルター・シュミット、そして同じソ連で後に大スローワーとなるユーリ・セディフを抑え優勝を果たす。スピリドノフは、1976年に自己ベストを78m62まで伸ばすが、この時すでにソビエト記録はセディフが78m86まで伸ばしていた。さらに、この年のソビエト選手権でもセディフがボンダルチュク、スピリドノフを抑え優勝。スピリドノフは7月のモントリオールオリンピックへの出場を果たす。モントリオールでは、スピリドノフが1投目に75m74のオリンピック新記録を投げトップに立つ。しかし、セディフが2投目に77m52を投げ、スピリドノフは2位に転落。スピリドノフは最終投てきで76m08とベストを更新したが、セディフの前に銀メダルに終わった。3位にボンダルチュクが入り、ソ連が表彰台を独占した。また、4位から8位まで東西ドイツの選手が続いた。スピリドノフは、1978年、再びソビエト選手権で3位となるが、同年のヨーロッパ選手権には出場しなかった。 |
GENの略歴 1988年結成。翌1989年2月25日、平成名物TV三宅裕司のいかすバンド天国に出場(演奏曲は『気取ってんじゃねぇよ』)。チャレンジャーとして正キングになったばかりの初代キングSLUT&SLASH BANDに挑み、番組史上初のキングを打倒したチャレンジャーの栄冠とともに2代目イカ天キングを勝ち取った。勝利した際には踊って喜びを表現した。ボーカルの源学はじめ、視聴者人気は非常に高く番組にはファンレターが多数寄せられた。翌週3月4日、「2人のセレナーデ」を演奏曲としてFLYING KIDSを迎え撃ったもののイカ天キング防衛はならなかった。このときの勝負は3対2と接戦で、相原勇は「いい勝負だった」とコメントし、GENはFLYING KIDSと握手して去っていった。1990年5月21日にビクターインビテーション(ビクターエンタテインメント)からシングル『バラ色の人生』を発売しメジャーデビュー。以後ビクターからは1992年の解散までにシングル5枚、アルバム3枚をリリース。ボーカルの源学は解散後間もなくしてソロデビュー、1995年からはアーティスト名をGenに改め、ソロ活動の他、お笑いコンビ・2丁拳銃のシングル曲のプロデュースなど楽曲提供、CM曲などの音楽製作も行う。現在は出身地の金沢市に戻り、実家の保育園で園長となり子ども達に歌を歌うなどする傍ら、音楽活動を続けている。最近では、2008年7月に、石川テレビ放送(フジテレビ系列)のキャラクター「石川さん」のテーマ曲として発表された「石川サンバ」の作曲を担当したり、自身の新バンド「Gen & Smiley's!」のリーダーとしても活躍している。同バンドは、2011年7月30、31両日に行われた石川テレビ主催の「石川さんカーニバル」にも連日出演し、最終日のステージではトリをつとめた。2012年10月からHONDA N-ONEのナレーションを担当している。2018年6月20日、11年ぶりの2枚組アルバム「Singin' and Smilin'」を発売。2013年11月1日に下北沢CLUB251で行われた「Gen & Beautiful Boys」にソロのGENとしてだけでなくオリジナルメンバーの4人のGENとしても出演。また、ドラムの中島よしのぶは2004年からナカジマノブ名義で人間椅子のドラマーとして活動している。 |
GENのディスコグラフィー 特に注記の無いものは全てビクターインビテーション(ビクターエンタテインメント)から発売 |
オラン・キャッセルの経歴 キャッセルは、バージニア州の高校を卒業後ヒューストン大学に進学。1957年に全米選手権の200mで優勝を果たす。大学では400mを中心に活躍。1962年の軍人世界選手権では400mと4×400mリレーで金メダル。4×100mリレーで銀メダルを獲得。翌1963年のパンアメリカン競技大会では、4×100mと4×400mの両リレー種目で金メダル、200mで銀メダル、100mでは6位という成績を残した。1964年の東京オリンピックでは、400mと4×400mリレーに出場。400mは準決勝で敗退したものの、リレーでは第1走者を務め、マイケル・ララビー、ユリス・ウィリアムズ、ヘンリー・カーとともに、3分00秒7の世界新記録で金メダルを獲得した。キャッセルは、1965年の全米選手権の400mで優勝。しかし、その後競技から引退し、全米体育協会に就職。1970年から1980年までは協会の役員となった。また、1976年から1986年までは国際陸連の副会長も務めた。 |
1924年ウィンブルドン選手権の解説 前作『mirror☆ge』から1年10ヶ月ぶりのリリースとなる。 シングル「THE LIGHTS OF HEROES」「KINGS」に加え、音楽劇「蒼穹のファフナー」の主題歌や、「K」関連の楽曲も数曲収録、「So sweet memories」「This is my wish」を除く10曲がタイアップ楽曲である。初回盤と通常盤に2タイプリリースされており、初回盤は24Pブックレット・angelaロゴ入り特製ホイッスル『零号機』が付加されている他、クリアケース付デジパック仕様になっている。 |
ジョージ・B・フィールドの概要 激変星は、白色矮星の主星と晩期を迎えた主系列星の伴星による連星系で、伴星はそのロシュ・ローブを超えて膨張しており、ロシュ・ローブから溢れ出た物質は降着円盤を形成しながら主星へと落ち込んでいる。矮新星は激変星の分類の一つで、数日から数週間続く2~5等級のアウトバーストを起こす。おおぐま座SU型矮新星は、軌道周期が1~2時間程度の矮新星で、通常のアウトバーストとスーパーアウトバーストの2種類の増光を示し、スーパーアウトバースト時の光度曲線中にはスーパーハンプと呼ばれる微小な光度変動が見られる。矮新星 (UGWZ、WZ Sge) は、さらにおおぐま座SU型矮新星の中でもほとんどスーパーアウトバーストだけが起こる矮新星の分類である。1977年に日本の天文学者古畑正秋によって振幅の大きなアウトバーストが観測されたのを皮切りに研究が進められた。1996年から1997年にかけては主たるアウトバーストと同程度の再増光が6回も観測され、「再増光の王様」と呼ばれた。2018年10月にはドイツのアマチュア天文家Patrick Schmeerにより22年ぶりにアウトバーストが観測された。 |
タルタルソースの歴史と語源 タルタルソースとその名は19世紀の料理本から見られる。名前はフランス語の sauce tartare から派生した。tartareは、ユーラシアのステップから来てウクライナとロシアの一部を占領したタタール(ダッタン)族(フランス語の古い綴りではTartare)にちなむ。語源についてはそれ以上のことは分かっていない。19世紀の人が何かを「タルタル」と名付けることで意味しようとしたことは、1861年のイサベラ・ビートンの著書「The Book of Household Management」のレシピ番号481番にある「タルタル・マスタード」に見ることができよう。タルタルマスタードは、西洋わさびのビネガー、カイエン、および普通のマスタードで作られる。彼女のレシピの503番「レムラード、またはフレンチ・サラダドレッシング」では、タラゴンを使った製法が記されているが、これは40年の後にオギュスト・エスコフィエによって標準化されることになる、または今日で言うところのレムラードであると辛うじて同定できる。しかし、彼女は「グリーンレムラード」のレシピで使うタラゴンはタタール地方が原産地であると説明している。ツァーリ時代のロシアでは、ロシア領土のうちシベリアの南のアジアは(特に異国風の雰囲気を意図した場合には)しばしばタタール地方と呼ばれた。ソース・タルタルはいわゆるロシア産タラゴンの原産地にちなんで名付けられた、タラゴンマヨネーズの記述的用語であったのかもしれない。しかし実際にはロシア産タラゴンが料理の目的で使われることはめったになかった。1903年、オーギュスト・エスコフィエはソース・レムラードのレシピを記した(レシピ番号130)。これはマスタードとアンチョビ・エッセンスの両方を使うものであったが、彼はこの本の残りの部分ではもっぱらソース・タルタルという用語のみを用いた。これはオーストリアや、ボヘミアのような旧オーストリア領においては一般的な用法であって、ソース・レムラードとソース・タルタルはレストランのメニューでは同義語である。ドイツ語の辞書 "Langenscheidt, Maxi-Woerterbuch Englisch, 120.000 Phrases of 2002" ではタルタルソースはレムラードソースであると定義している。1890年頃から1914年に第一次世界大戦の勃発するまでの間の、オートキュイジーヌの黎明期において、細かく刻んだ牛フィレ肉をタルタルソースでドレッシングしたものを「ブフ・タルターレ Boeuf Tartare」またはタルタルステーキとして出されていた。戦間期から今日まで、タルタルステーキは、タルタルソースの中の具と合わせて出すのが流行だった。 |
符号間干渉の多重伝送 符号間干渉の原因のひとつに多重伝送がある。これは送信機からの無線信号が複数の異なる経路で受信機に届くことを指す。その原因は電波の反射/屈折、大気ダクトや電離層の反射などがある。これらの経路は全て長さが異なるため(また、電波の速度を遅くする現象もあるため)、信号は様々なタイミングで受信されることになる。これによって符号を表す信号が前後で重なって干渉が発生し、符号を正しく検出できなくなる。さらに、多重伝送は信号の振幅と位相を歪め、受信信号の妨げとなる。 |
符号間干渉の帯域制限のある伝送路 もう1つの符号間干渉の原因は、帯域が制限された伝送路(すなわち、ある遮断周波数以上の周波数特性がゼロの伝送路)で信号を転送することである。このような伝送路で信号を送ると、遮断周波数以上の周波数成分が除去され、遮断周波数未満の周波数成分もある程度の減衰を生じる。これは言わば信号がフィルタ回路経由で受信されるようなもので、パルスの波形が変わってしまう。左図にあるように、もともと矩形のパルスだった信号が帯域制限によって大きく変化する。この影響は特定の符号の範囲内で収まるものではなく、それ以降の符号列にも影響を与える。メッセージをこのような伝送路経由で送ると、個々の符号のパルスの変形した波形が相互に干渉してしまう。多重伝送とは異なり、帯域制限伝送路は無線だけでなく有線通信にも存在する。帯域が制限されるのは、複数の信号を同じ領域/ケーブルで転送するためであり、そのために全帯域幅の一部だけが各系に割り当てられる。無線では電磁スペクトルの一部が転送に割り当てられる(例えば、FM放送では一般に 87.5MHz から 108MHz が割り当てられる。日本では 76MHz から 90MHz)。この割り当ては各国政府が行うのが一般的で、アメリカ合衆国では連邦通信委員会(FCC)が管轄する。光ファイバーなどの有線では、割り当てはケーブルの所有者が決定する。帯域制限は媒体の物理的性質による場合もある。例えばケーブルには一般に遮断周波数があり、それ以上の周波数の信号は転送できない。帯域制限のある伝送路上でデータを転送する通信システムは、帯域制限による干渉を防ぐためにパルスシェーピングを実装するのが一般的である。伝送路の周波数応答が平坦でシェーピングフィルタの帯域が有限であれば、符号間干渉が全くない状態で通信できる。事前に伝送路の応答特性が分からないことが多いため、任意の周波数応答に対応できるよう適応イコライザを用いる。 |
符号間干渉のアイパターン上の現象 アイパターンとは、実際の信号のサンプルをシンボルクロックをトリガにして多数重ね合わせ、信号の特徴をグラフィカルに提示するものである。下図の左側は、1 を 振幅 -1 で表し 0 を振幅 +1 で表しているバイナリデジタル変調(PSK)システムのアイパターンである。現在のサンプリング時刻は画像の真ん中であり、その1つ前と1つ後のサンプリング時刻が画像の端にある。あるサンプリング時刻から次のサンプリング時刻への遷移(1 から 0、1 から 1 など)が図から明確に読み取れる。ノイズマージンとは、受信側で誤りを生じるノイズのしきい値である。ノイズマージンとは同じサンプリング時点での信号と振幅 0 の差異であり、言い換えればサンプリング時点で信号の振幅が振幅 0 からどれだけ遠いかである。信号が正しく解釈されるには、0 から 1 への遷移と 1 から 0 への遷移といった2つの時点の間のいずれかの時点でサンプリングが行われなければならない。従って、1 と 0 の振幅がはっきり離れていれば誤りが発生する可能性は小さくなり、受信側でサンプリング時点のタイミングがどうなっていても問題なくなる。同じシステムで符号間干渉が発生しているときのアイパターンを下図の右側で示す。遅延し歪みを伴った信号を受信するため、信号遷移の定義が失われている。ノイズマージンが小さくなり、信号を正しくサンプリングできる時点も狭まる。このため、全体として性能が悪化する(すなわち、符号誤り率が増大する)。 |
深津武馬の経歴 1989年 東京大学理学部動物学教室卒業。 1991年 東京大学大学院理学系研究科動物学専攻修士課程修了。 1994年 東京大学大学院理学系研究科動物学専攻博士課程修了、博士(理学)。 1995年 通商産業省工業技術院生命工学工業技術研究所生物反応工学部生物化学工学研究室、研究員。 2001年 産業技術総合研究所生物遺伝子資源研究部門生物資源情報基盤研究グループ、主任研究員。 2004年 産業技術総合研究所生物機能工学研究部門 生物共生相互作用研究グループ、研究グループ長。 2013年 産業技術総合研究所生物プロセス研究部門、 首席研究員(兼)生物共生進化機構研究グループ長。 2017年 産業技術総合研究所生物プロセス研究部門、 首席研究員。 2005年 東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻、教授(客員)。 2011年 筑波大学大学院生命環境科学系、教授(連携大学院)。 2013年 東京大学大学院理学系研究科生物科学専攻、教授(兼任)。2019年 ERATO深津共生進化機構プロジェクト、研究総括 |
深津武馬の主な業績 兵隊アブラムシが放出する体液で巣を修復する仕組みを解明(2019)トンボ由来の紫外線反射物質を同定(2019)セミの共生菌は冬虫夏草由来(2018)ハムシは共生細菌の酵素の助けで葉を消化(2017)ゾウムシが硬いのは共生細菌によることを解明(2017)共生細菌が宿主昆虫をメスだけにするしくみを解明(2016)環境細菌から進化する共生細菌(2016)昆虫の共生のための細胞がどのようにできるかを解明(2015)トンボは異なる光環境ごとに光センサーを使い分けている(2015)クヌギカメムシの共生細菌入り卵塊ゼリーの機能を解明(2014)トコジラミの生存を支える共生細菌ボルバキアのビタミンB7合成能力(2014)コナカイガラムシの代謝経路を構築する複雑な共生システムを発見(2013)昆虫と細菌との共生におけるポリエステルの新たな機能(2013)昆虫が植物の性質を改変し、究極の「巣ごもり」生活を実現(2012)アカトンボがどうして赤くなるのかを解明(2012)害虫に殺虫剤抵抗性を持たせる共生細菌を発見(2012)昆虫の体色を変化させる共生細菌を発見(2010)トコジラミに必須栄養素を供給する細胞内共生細菌ボルバキアの発見(2010)昆虫による植物組織の修復・再生現象の発見(2009)共生細菌による昆虫の害虫化の発見(2007)兵隊アブラムシの攻撃毒プロテアーゼ(2004)昆虫の植物適応が共生細菌で変わる(2004)共生微生物から宿主昆虫へのゲノム水平転移の発見(2002) |
深津武馬の著書 『寄生~その生態と進化~』『内部共生がもたらす進化』二河成男 編著「生物の進化と多様化の科学」放送大学教育振興会(2017) ISBN 978-4595317484『共生により昆虫はどのように進化してきたのか?』長谷部光泰 編「進化の謎をゲノムで解く」学研メディカル秀潤社(2015) ISBN 978-4780909227『【対話】共生』共著 慶應義塾大学出版会(2013) ISBN 978-4766420029『細菌によって変わる虫たち』茂木健一郎/日経サイエンス編集部 編著「茂木健一郎の科学の興奮」日経サイエンス社(2011) ISBN 978-4532520649『共生と生物進化』立花隆/自然科学研究機構 編著「生物の生存戦略:われわれ地球生物ファミリーはいかにしてここにかくあるのか」クバプロ(2008) ISBN 978-4878050961『昆虫と微生物の内部共生ー宿主の生理,生態,生殖,進化における重要性とは?』松本忠夫、長谷川真理子 編「シリーズ21世紀の動物科学(日本動物学会監修)11.生態と環境」培風館(2007) ISBN 978-4563082918「共生」の本質』高等学校 新訂国語総合 現代文編(文部科学省検定済教科書)第一学習社(2007) ISBN 978-4804003023『分類と系統進化』石川統 編「アブラムシの生物学」東京大学出版会(2000) ISBN 978-4130602099 |
深津武馬の翻訳書 『生物がつくる<体外>構造―延長された表現型の生理学』監訳(Turner S. J. "The Extended Organism: The Physiology of Animal-Built Structures")みすず書房(2007) ISBN 978-4622072584『ウォーレス現代生物学(下)』共訳(Wallace R.A. 他 "Biosphere, the Realm of Life")東京化学同人(1992) ISBN 978-4807903443『ウォーレス現代生物学(上)』共訳(Wallace R.A. 他 "Biosphere, the Realm of Life")東京化学同人(1991) ISBN 978-4807903436 |
深津武馬の受賞 木村資生記念学術賞(2014)日本進化学会学会賞(2014)日本応用動物昆虫学会学会賞(2011)日本動物学会賞(2010)産業技術総合研究所理事長賞(2008)日本学術振興会賞(2007)日本動物学会奨励賞(2004)日本進化学会研究奨励賞(2002) |
観応の擾乱の足利直義派と高師直派の対立 初期の足利政権においては、足利家の家宰的役割を担い主従制という私的な支配関係を束ねた執事高師直が軍事指揮権を持つ将軍足利尊氏を補佐する一方で、尊氏の弟足利直義が専ら政務(訴訟・公権的な支配関係)を担当する二元的な体制を執っていた。なお、尊氏には高師直を筆頭に守護家の庶子や京都周辺の新興御家人が、直義には司法官僚・守護家の嫡子・地方の豪族がついており、概ね前者が革新派、後者が保守派と見られる。訴訟を担う直義は、荘園や経済的権益を武士に押領された領主(公家や寺社)の訴訟を扱うことが多かった。直義は鎌倉時代の執権政治を理想とし、引付衆など裁判制度の充実や従来からの制度・秩序の維持を指向し、裁定機能の一部を朝廷に残したため、有力御家人とともに公家・寺社の既存の権益を保護する性格を帯びることになった。これに対し、幕府に与した武士の多くは天皇家や公家の権威を軽んじ、自らの武力によって利権を獲ようとする性向があり、師直はこのような武士団を統率して南朝方との戦いを遂行していた。それぞれの立場の違いから、必然的に両者は対立するようになっていく。また、師直は将軍尊氏の執事として将軍の権威強化に努めたが、それは師直自身の発言力の強化にもつながるものであった。この対立は師直と直義のような次元では政治思想的な対立という面もあったが、守護以下の諸武士にあっては対立する武士が師直方につけば自分は直義方につくといった具合で、つまるところ戦乱によって発生した領地や権益を巡る争いで師直、直義、尊氏、直冬、そして南朝といった旗頭になる存在を求めただけという傾向が概して強く、今川範国や細川顕氏の例に見られるように、自己の都合でもって短期間の内に所属する党派を転々とすることもしばしばであった。更に両者の対立の背景には足利尊氏の家督継承の経緯と外戚上杉氏の問題もあったとされる。元々、尊氏の父貞氏は、嫡男であった高義に家督を譲って家宰の高師重(師直の父)に補佐させていたが、高義の死によって改めて異母弟の尊氏が後継者になった。ところが、家宰として尊氏を補佐しようとする高氏と長年庶子扱いされてきた尊氏兄弟を支えてきた上杉氏の間で対立が生じ、尊氏が家宰である高氏を政務の中心として置いた一方、直義は脇に追いやられた上杉氏に同情的であった。特に延元3年/暦応元年(1338年)に明確な理由がないまま上杉重能が出仕停止の処分を受け、同じく上杉憲顕が関東執事(後の関東管領)を高師冬(師直の従兄弟)に交替させられ、重能の代わりに上洛を命じられた事が、上杉氏及び直義の高氏への反感を高めたと考えられている。南北朝時代の初期に楠木正成・北畠顕家・新田義貞ら南朝方の武将が相次いで敗死し、高師直・師泰兄弟らの戦功は目覚ましかったが、延元4年/暦応2年(1339年)に後醍醐天皇が没して後の畿内は比較的平穏な状態となったため師直は活躍の場を失い、直義の法・裁判による政道が推進されるようになる。しかし、師直が率いていた武士たちが秩序を軽んじて狼藉する事件が多く発生し、興国2年/暦応4年(1341年)に塩冶高貞が直義派の桃井直常・山名時氏らに討たれ、翌興国3年/康永元年(1342年)に土岐頼遠が北朝光厳上皇に狼藉を働いた罪により直義の裁断で斬首されるなどした。こうした裁定に不満をもつ武士たちは師直を立て、直義はなおも権威と制度の安寧にこだわった。両派の間はますます険悪になりつつあった。正平2年/貞和3年(1347年)に入ると、南朝の楠木正行が京都奪還を目指して蜂起して京はにわかに不穏となった。まず9月に直義派の細川顕氏・畠山国清が派遣されてこれを討とうとするも敗北を喫し、11月に山名時氏が増援されたが京都に敗走してしまった。代わって起用された高師直・師泰兄弟は、翌正平3年/貞和4年(1348年)1月5日の四條畷の戦いで正行を討ち取り南朝軍を撃破、勢いに乗じて南朝の本拠地吉野を陥落させ、後村上天皇ら南朝方は吉野の奥の賀名生(奈良県五條市)へ落ち延びた。この結果、政権内で直義の発言力が低下する一方、師直の勢力が増大、両派の対立に一層の拍車がかかった。政権成立後のこの頃、将軍尊氏は後醍醐天皇に背いたことを悔やんで仏教にはまり込み、ほぼ隠居状態にあった。 |
観応の擾乱の直義の排除 そうした中、貞和5年(南朝正平4年、1349年)閏6月、直義は側近の上杉重能や畠山直宗、禅僧妙吉らの進言を容れて、師直の悪行の数々を挙げてこれを糾弾、その執事職を免じることを尊氏に迫りこれを成し遂げた。そして直義はこれを機に師直の徹底的排除に乗り出す。『太平記』にはこの時、直義方による師直の暗殺未遂騒動まであったことが記されているが、直義はさらに光厳上皇に師直追討の院宣の渙発を奏請してまで師直を討とうとしている。同年8月12日、師直は河内から軍勢を率いて上洛した師泰と合流して、直義を一気に追い落とす逆クーデターを仕掛け成功する。意表を衝かれた直義は翌13日に尊氏の屋敷に逃げ込み、これで危機を脱するかに見えた。しかし師直方の軍勢は、そこが将軍御所であろうとまったく意に介さずこれを包囲した上で、君側の奸臣として上杉重能と畠山直宗の身柄引き渡しを要求した。直義にとってこの両名を失うことは両腕をもがれるようなものなのでこれを許さなかったが、それならばと師直は包囲網を固めて兵糧攻めの構えを見せる。すったもんだの末に禅僧夢窓疎石が仲介に奔走し、ここに重能・直宗を配流とすること、そして直義は出家して幕政からは退くことの2条件のもとに師直は包囲を解くことに同意、ここに創業間もない足利幕府の屋台骨を揺るがせた政変もひとまず終息に向かった。直義に替わって幕府の政務統括者となったのは、鎌倉を治めていた尊氏の嫡男・義詮だった。そしてこの義詮の帰洛と入れ替わりに鎌倉に下向したのは、新たに初代鎌倉公方として関東の統治を任された義詮の弟・基氏だった。基氏には実務者として上杉憲顕をつけ、これを関東執事に還任してその輔佐にあたらせた。しかし憲顕は他でもない重能の兄である。師直はこれを警戒して、関東執事の定員を2名に増員した上で高師冬をこれに還任して目付にした。この一連の政変を通じてその立場が判然としないのが、師直と直義の間にあって終始揺れ動いた尊氏である。その動静をめぐっては、局外中立を貫いていたとする説、優柔不断で日和見をしていたとする説、そもそも尊氏は直義方を排除するために師直と示し合わせていたとする説など、さまざまな解釈がある。いずれにしてもこの一件は、それまでは曲がりなりにも協調路線を取っていた尊氏と直義がついにその袂を分かつ発端となった。同年11月に義詮が入京。12月8日、直義は出家して恵源と号した。ところが早くもその月の内に上杉重能と畠山直宗が配流先で師直配下の者に暗殺されるという事件が出来する。ここに師直と直義の間の緊張は再び高まった。 |
観応の擾乱の足利直冬の台頭、直義派の決起 この年の4月に長門探題に任命されて備後に滞在していた直冬は、事件を知って義父の直義に味方するために中国地方の兵を集めて上洛しようとしたが、尊氏は師直に討伐令を出したため九州に敗走し(9月)、今度は九州で地盤を固め始めた。尊氏方は出家と上洛を命じるが従わなかったため、再度討伐令を出した。直冬は拡大させた勢力を背景に大宰府の少弐頼尚と組み、南朝方とも協調路線をとって対抗した。翌正平5年/貞和6年(1350年)、北朝は「貞和」から「観応」に改元。この頃各地で南朝方の武家が直冬を立てて挙兵する。10月28日、西で拡大する直冬の勢力が容易ならざるものと見た尊氏は自ら追討のために出陣、備前まで進んだ。しかし、この直前の10月26日に直義は京都を出奔していた。直義は大和に入り、11月20日に畠山国清に迎えられて河内石川城に入城、師直・師泰兄弟討伐を呼びかけ国清、桃井直常、石塔頼房、細川顕氏、吉良貞氏、山名時氏、斯波高経らを味方に付けて決起した。これが擾乱の始まりである。関東では12月に関東執事を務めていた上杉憲顕と高師冬の2名が争い、憲顕が師冬を駆逐して執事職を独占する。直義方のこうした動きに直冬討伐どころではなくなり、尊氏は同月に備後から軍を返し、高兄弟も加わる。北朝の光厳上皇による直義追討令が出されると、12月に直義は一転してそれまで敵対していた南朝方に降り、対抗姿勢を見せた。 |
観応の擾乱の高一族の滅亡 正平6年/観応2年(1351年)1月、直義軍は京都に進撃。留守を預かる足利義詮は備前の尊氏の下に落ち延びた。2月、尊氏軍は京都を目指すが、播磨光明寺城での光明寺合戦及び2月17日の摂津打出浜の戦いで直義軍に相次いで敗北する。南朝方を含む直義の優勢を前に、尊氏は寵童饗庭氏直を代理人に立てて直義との和議を図った。この交渉において尊氏は表向きは師直の出家(助命)を条件として挙げていた。しかしながら実際には氏直には直義に"師直の殺害を許可する"旨を伝えるようにという密命を伝えていた。2月20日、和議は成立するも、果して2月26日、高兄弟は摂津から京都への護送中に、待ち受けていた直義派の上杉能憲(憲顕の息子、師直に殺害された上杉重能の養子で、仇討ちという形になる)の軍勢により、摂津武庫川(兵庫県伊丹市)で一族と共に謀殺(殺害)される。長年の政敵を排した直義は義詮の補佐として政務に復帰、九州の直冬は九州探題に任じられた。 |
観応の擾乱の直義と尊氏の対立 高兄弟を失っていったんは平穏が戻ったものの、政権内部では直義派と反直義派との対立構造は存在したままで、それぞれの武将が独自の行動を取り、両派の衝突が避けられない状況になっていった。高一族滅亡から半年も立たないうちに、尊氏は直義派の一掃を図るため、戦果の恩賞や処罰を自派に有利に進め、またの武将の処罰や自派の武将への恩賞を優先した。謁見に訪れた直義派の細川顕氏を太刀で脅して強引に自派へ取り込むなど直義派の懐柔も図った。一方戦役の武功に準じた報酬や裁定を挙げられない直義の政治は武士たちに受け入れられず、これも直義派から武将が離反する原因となるなど、徐々に形勢は尊氏方に移っていった。南朝へ帰順を示した直義は、北朝との和議を交渉したが不調に終わる。調停を担った南朝方の楠木正儀は、このときの固陋な南朝方の態度に怒りを覚え、今南方を攻めるなら自分はそれに呼応するとまで口走ったとされている。3月30日直義派の事務方の武将である斎藤利泰が何者か(刺客)に暗殺(殺害)され、5月4日には直義派の最強硬派である桃井直常が襲撃され辛くも危機を脱するという事件が発生した。尊氏は、近江の佐々木道誉と播磨の赤松則祐らが南朝と通じて尊氏から離反したことにして、7月28日に尊氏は近江へ、義詮は播磨へそれぞれ出兵することで東西から直義を挟撃する体制を整えた。8月1日、事態を悟った直義は桃井、斯波、山名をはじめ自派の武将を伴って京都を脱出し、自派の地盤である北陸・信濃を経て鎌倉へ逃亡した。この陰謀については道誉が首謀者であるとの説がある。このとき直義は光厳上皇には比叡山に逃れるよう勧めているが、受け入れられなかった。 |
観応の擾乱の成立 京から直義派を排除したものの、直義は関東・北陸・山陰を抑え、西国では直冬が勢力を伸ばしていた。尊氏は直義と南朝の分断を図るため、佐々木道誉らの進言を受けて今度は南朝からの直義・直冬追討の綸旨を要請するため、南朝に和議を提案した。南朝方は、北朝方にある三種の神器を渡し、政権を返上することなどを条件とした。明らかに北朝に不利な条件だったが、観応2年(1351年)10月24日尊氏は条件を容れて南朝に降伏し綸旨を得た。この和睦に従って南朝の勅使が入京し、11月7日北朝の崇光天皇や皇太子直仁親王は廃され、関白二条良基らも更迭された。また元号も北朝の観応2年が廃されて南朝の正平6年に統一された。これを正平一統(しょうへいいっとう)と呼ぶ。12月23日には南朝方が神器を回収した。実質的にこれは北朝方の南朝側への無条件降伏となった。尊氏は義詮に具体的な交渉を任せたが、南朝方は、北朝方によって任じられた天台座主始め寺社の要職を更迭して南朝方の者を据えることや、建武の新政において公家や寺社に与えるため没収された地頭職を足利政権が旧主に返還したことの取り消しなどを求め、北朝方と対立する。義詮は譲歩の確認のために尊氏と連絡し、万一の際の退路を確保するなど紛糾した。一方尊氏は直義追討のために出陣、12月の薩埵峠の戦いや相模国早川尻の戦いなどで直義方を破り、翌正平7年(観応3年、1352年)1月には鎌倉に追い込んで降伏させた。その後浄妙寺 (鎌倉市)境内の延福寺に幽閉された直義は2月26日に急死した。公には病没とされたが、この日は高師直の1周忌にあたり、『太平記』は尊氏による毒殺であると記している。 |
観応の擾乱の破談 南朝方はこの和議を受けて増長する。後醍醐天皇の側近北畠親房を中心に、京都と鎌倉から北朝と足利勢力の一掃を画策した。まず閏2月6日に南朝は尊氏の征夷大将軍を解き、これに替えて宗良親王を任じる。すると新田義興・脇屋義治・北条時行らが宗良親王を奉じて挙兵し鎌倉に進軍した。鎌倉の尊氏は一旦武蔵国まで引いたため、同18日には南朝方が一時的に鎌倉を奪回した。しかし尊氏は武蔵国の各地緒戦で勝利し、3月までに新田義宗は越後、宗良親王は信濃に落ち延び、鎌倉は再び尊氏が占領した(武蔵野合戦)。一方閏2月19日には北畠親房の指揮下、楠木正儀・千種顕経・北畠顕能・山名時氏を始めとする南朝方が京都に進軍、七条大宮付近で義詮・細川顕氏らの軍勢と戦い、翌日には義詮を近江に駆逐して入京した。24日には准后宣下を蒙った北畠親房が17年ぶりに京都に帰還、続いて北朝の光厳・光明・崇光の3上皇と皇太子直仁親王を南朝方本拠の賀名生へ移した。後村上天皇は行宮を賀名生から河内国東条(河南町)、摂津国住吉(大阪市住吉区)、さらに山城国男山八幡(京都府八幡市の石清水八幡宮)へと移して京をうかがった。義詮は、近江の佐々木道誉、四国の細川顕氏、美濃の土岐頼康、播磨の赤松氏らに加え、足利直義派だった山名時氏や斯波高経らの与力も得て布陣を整え、3月15日には京へ押し返してこれを奪還、さらに21日には男山八幡に後村上天皇を包囲し兵糧攻めにした。この包囲戦は2か月にもおよぶ長期戦となり、飢えに苦しんだ南朝方は5月11日に後村上天皇が側近を伴い脱出、男山八幡は陥落した(八幡の戦い)。こうした事態を受けて尊氏と義詮は相次いで3月までに観応の元号復活を宣言、ここに正平一統はわずか4か月あまりで瓦解した。 |
観応の擾乱の北朝の再擁立 尊氏が南朝に降った時に南朝が要求した条件に、皇位は南朝に任せるという項目があったため、北朝の皇位の正統性は弱められる結果となった。京都は奪回したものの、治天の君だった光厳上皇、天皇を退位した直後の崇光上皇、皇太子直仁親王は依然として南朝にあり、さらに後醍醐天皇が偽器であると主張していた北朝の三種の神器までもが南朝に接収されたため、北朝は治天・天皇・皇太子・神器不在の事態に陥った。また武家にとっても尊氏が征夷大将軍を解任されたため、政権自体が法的根拠を失ってしまう状況になった。最終的な政治裁可を下しうる治天・天皇の不在がこのまま続けば、京都の諸勢力(公家・武家・守護)らの政治執行がすべて遅滞することになる。幕府と北朝は深刻な政治的危機に直面することになったのである。事態を憂慮した道誉、元関白の二条良基らは勧修寺経顕や尊氏と相計って、光厳・光明の生母広義門院に治天の君となることを要請し、困難な折衝の上ようやく受諾を取り付けた。広義門院が伝国詔宣を行うこととなり、崇光上皇の弟・弥仁が8月17日践祚、9月25日後光厳天皇として即位した。9月27日、北朝は正平統一はなされなかったとして従来の観応からの改元を行い、文和元年とした。良基は神器なしの新天皇即位に躊躇する公家に対して「尊氏が剣(草薙剣)となり、良基が璽(八尺瓊勾玉)となる。何ぞ不可ならん」と啖呵を切ったと言われている(『続本朝通鑑』)が、当時、過去に後白河法皇が後鳥羽天皇を即位させた例にあるように、即位に当たって神器の存在は必ずしも要件とはなっておらず、治天による伝国詔宣により即位が可能であるとする観念が存在していた。南朝方が治天を含む皇族を拉致したのはそのためだが、北朝方はその盲点を衝くかたちで女院を治天にするという苦肉の策でこの危機を乗り切ったのである。だが、この一連の流れは正平一統と相まって、後に北朝でなく南朝に皇統の正統性を認める原因の1つとなり、幕府と北朝の権威は大幅に低下した。 |
観応の擾乱の時氏離反と道誉の伸長 南朝との戦において一時は旧直義派との協力関係を構築できたかに見えた尊氏・義詮派だったが、正平8年/文和2年(1353年)には道誉と山名時氏・師義父子が所領問題で対立し、時氏が再び将軍側から離反するという事態を招く。時氏は出雲に侵攻し道誉の部将吉田厳覚を打ち破り出雲を制圧、そのまま南朝の楠木正儀と連合し6月、京都に突入する。義詮は正平一統破談の後に天皇を奪われ足利政権崩壊の危機を招いた経験から、まず天皇の避難を最優先に行なった。天皇を山門に避難させると、自らは京都に残り京都の防衛を試みたが結局打ち破られ天皇共々東へ落ち延びることになった。この中で道誉の息子佐々木秀綱が戦死、義詮は美濃にまで落ち延びる。義詮は独力での京都奪還を諦め尊氏に救援を求める。尊氏が鎌倉から上京すると時氏らは京都を放棄し撤退、足利方は京都を回復した。元来道誉は佐々木家庶流として武家方の事務官僚として恩賞の沙汰などを取り扱っていた。しかしながら天皇不在という緊急事態の解決や、南朝との戦において功績を示した。よってこの頃から義詮第一の側近としてその存在感は著しく大きなものとなった。彼は事実上の武家方の最高権力者となり政権の舵取りをするようになる。しかしながら彼にはトラブルメーカー的な側面も大きかった。これ以後道誉と対立した武将が武家方から離反もしくは放逐され南朝方に帰順するという政変・戦が繰り返されることになる。 |
観応の擾乱の直冬蜂起 近畿、関東において上記のような争いが続く間、九州では直冬が猛勢を誇っていた。もともと九州では尊氏が北畠顕家に敗れて落ち延び、その後上京した際に一色範氏(道猷)を九州探題として残していたが、道猷が在地の守護層と厳しく対立していた上、後醍醐天皇が自身の息子懐良親王を征西大将軍として派遣し、懐良親王は菊池武光を指揮下に入れ勢力を伸長させていた。このような複雑な情勢の中で、国人層は恩賞を求め右往左往していた。直冬は九州へ到来するやいなや文章を多数発給し新たな主のもと勢力の伸長を目指す国人層から一定の支持を得た。尊氏は師直らと図り一色派の守護に直冬討伐令を出す。直冬は尊氏と対立する身でありながら、尊氏の実子という自らの立場を利用し勢力を伸ばしていた。一方で尊氏からは直冬討伐の令が発令されるという事態に対して直冬は「これは師直の陰謀である」と宣伝するという対応を取った。直冬は尊氏の本心が奈辺にあるのか一番よく分かっていたであろうが、直冬には尊氏の実子という立場以外この時頼るものはなかった。尊氏の直冬への憎悪自体常軌を逸した一種のパラノイアのようなものであり、遠く離れた九州の武士達には理解が及ばず、「尊氏の実子直冬が、逆賊師直を討伐すべく九州で兵を集めている」という直冬が提示した分かりやすい大義名分は次第に支持を集めていった。直冬の勢力伸長に対して、在地の守護の筆頭であった少弐頼尚は道猷を打ち破る為の旗頭として直冬に注目する。こうして正平5年/貞和6年(1350年)に直冬と頼尚は連合し、道猷を打ち破り博多を奪う。しかしながら正平7年/観応3年(1352年)に直義が死亡すると直冬の勢力は一気に崩壊、諸武士の離反が相次ぐ中で頼尚だけは最後まで直冬を支え続けたが結局直冬は九州から逃亡する。この際、直冬は九州を統治することではなくあくまで上京し尊氏・義詮を殺害することを目的としていたから、中国地方へ対する政治工作を活発に行なっており、直冬派が九州で崩壊した後も直冬は中国地方、特に長門と石見では勢力を保っていた。正平9年/文和3年(1354年)5月には、桃井直常、山名時氏、大内弘世ら旧直義派の武将を糾合すると直冬は石見から上京を開始する。正平10年/文和4年(1355年)1月には南朝と結んで京都を奪還する。しかし神南の戦いで主力の一角山名勢が道誉、則祐を指揮下に入れる義詮に徹底的に打ち破られ崩壊する。直冬は東寺に拠って戦闘を継続したが、義詮は奮戦し徐々に追い詰められてゆく。そして最後には尊氏が自ら率いる軍が東寺に突撃し直冬は撃破され敗走した。尊氏は東寺の本陣に突入したあと自ら首実検をして直冬を討ち取れたか確認しており、尊氏の直冬への憎悪の程が推察される。直冬勢は結局このまま完全に崩壊し、直冬は西国で以後20年以上逼塞することになり、消息は明確でない。なお、大内弘世と山名時氏は正平18年/貞治2年(1363年)には幕府に帰順している。なお尊氏はこの一連の戦闘の間に受けた矢傷が原因となり4年後の正平13年/延文3年(1358年)に戦病死している。 |
フランス革命の省察の沿革 1789年11月、バークはメス県知事の息子で、パリの高等法院に籍を持つフランス人青年シャルル=ジャン=フランソワ・デュポンから手紙を受け取る。革命側の国民議会の支持者となっていたデュポンは、かつて父と共にバークを訪ねたことがあり、それ以来バークを自由の闘士として尊敬していた。そのため、自由の名に値するフランス革命と新しい祖国のため働いていることに対して手紙を求めたのである。これに対してバークがしたためた長文の手紙が、のちの『フランス革命の省察』(以下『省察』)の骨子となる。1790年1月にバークが第2の返信をしたためている時、ユニテリアン牧師リチャード・プライスのロンドンの革命協会(ここでの「革命」はほぼ100年前の「名誉革命」を指す)における説教『祖国愛について』を読み憤激し、同年11月の『省察』の出版に至る。この経緯は本書の副題『 - その事件(フランス革命)に関するロンドンのある協会の行為について。パリの紳士に送ろうと意図した手紙において』(and on the Proceedings in Certain Societies in London Relative to that Event. In a letter intended to have been sent to a gentleman in Paris.) に現れている。 |
フランス革命の省察の概略 上述した誕生の経緯から、『省察』は私的書簡という形式で書かれており、冒頭において「名誉革命」の本質を明らかにしつつ、プライスへの攻撃がなされている。ここでバークはプライスの「名誉革命において、民衆は統治者を選ぶ権利を手にした」という主張に対し、権利章典を引きつつ名誉革命においてイギリスは世襲的王位継承を選択したと主張し、「フランスにおける革命」(フランス革命は現在では the French Revolution である。なおバークが本書で大文字で "Revolution" と書くとき、常に名誉革命を指している)との違いを強調している。残りの大部分はフランス革命への批判、そして革命が今後どのような経過を辿るかの予測である。『省察』には、「時効の憲法」などバーク哲学の主要概念が述べられており、文明社会・法の支配・伝統・慣習・相続・世襲制度・偏見、教会などの中間組織、私有財産権の擁護が主張されており、それらを破壊するフランス革命への非難がなされている。また理性主義・平等主義・民主主義などへの反駁もなされている。後半では革命が今後たどるであろう経緯を予測しており、終わりの部分では、「最終的落着を見る前にフランスは火と血によって浄化されるべき転生を通り抜けなければならない」と述べられている。トマス・ペインは、この本に反駁する形で『人間の権利』(Rights of Man) を著した。 |
超原子の概要 例えば、ナトリウム原子は気体状態で冷却されると、原子の魔法数(2, 8, 20, 40, 58 または 82)を選択的に含み自然にクラスターへと凝縮する。これらの魔法数の最初の2つは、s軌道およびp軌道をそれぞれ満たすのに必要な電子の数として認識できる。超原子のクラスター中の自由電子は、個々の原子が単独で存在するよりもクラスターなど原子の全集団によって定義される新しい一組の軌道を占有することが示唆される。球形でない、または異なる原子を含んだ(ドープされた)クラスターは、閉殻を形成する電子の数のばらつきを示す。このポテンシャルは正電荷の原子核の形態によって定義される。このような新しい電子数の計数スキームを持つ超原子は、電子が閉殻を形成するように化学的振る舞いを示す傾向がある。それゆえ、全電子殻より1つだけ電子が多い超原子はアルカリ金属のようにその電子をすぐに放出しやすく、全電子殻より1つだけ電子が少ない超原子はハロゲンのように大きな電子親和性を持つ。 |
超原子のアルミニウムクラスター 特定のアルミニウムクラスターは超原子の性質を持つ。これらのアルミニウムクラスターは、ヘリウムガス中に陰イオン (Alₙ–、n = 1,2,3...) として生成され、ヨウ素を含んだ気体と反応する。質量分析器で分析すると、この反応の主要な生成物の1つはAl₁₃I–に変化する。余剰な電子を持つ13アルミニウム原子のクラスターは、同じ気体の流れの中に導入されたとき酸素と反応しないようである。各原子がその価電子を3つ自由化すると仮定すると、これは40の電子が存在することを意味する。この電子数は上述のナトリウムの魔法数の一つであり、この数は希ガスの反映であることを暗示する。アルミニウムクラスター内の付加的な電子はヨウ素原子からちょうど反対に位置することが計算によって示される。それゆえ、このクラスターはヨウ素より高い電子親和性を持つはずであり、このためアルミニウムクラスターは超ハロゲン (英語: superhalogen) と呼ばれる。Al₁₃I–イオン内のクラスターを構成する要素は、ヨウ素イオンか臭素原子に類似する。関連するAl₁₃I₂–クラスターは三ヨウ化物イオンに似た化学的な振る舞いをすることが期待される。同様に、魔法数より2多い、42電子のAl₁₄クラスターは、典型的に+2の原子価状態に適応するアルカリ土類金属の性質を示すように見える。これは少なくとも3つのヨウ素原子がAl₁₄–クラスター、Al₁₄I₃–に引きつけられているときにのみ起こることが知られている。陰イオンクラスターは総計43の遍歴電子(あちこち巡回する電子)を持つが、3つのヨウ素原子はそれぞれ遍歴電子の1つを取り除きジェリウム (en) 殻内の40の電子を保持する。2つの原子間の相互作用はレナード-ジョーンズ・ポテンシャルによって良く近似できるため、不活性気体原子の原子クラスターをコンピュータ・シミュレーションによって研究することは、特に簡単で信頼できる。他の方法についても利用可能であり、魔法数が13, 19, 23, 26, 29, 32, 34, 43, 46, 49, 55などの超原子についての計算方法が確立されている。 |
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