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大阪府立住吉高等学校の英語合宿 国際文化科の1年生が3月に2泊3日で英語学習のための合宿を国内で行う。国内で海外ホームステイをしているような体験をするのが目的で、原則日本語禁止。英語でディベートなど母語話者と一緒に英語に関した学習を行う。 |
大阪府立住吉高等学校の新入生歓迎会 体育館に新入生が集められ、先輩たちから歓迎を受ける。自治会が主導で開催し、教師の干渉は一切ない。歓迎とあるが、その実態はクラブの勧誘、及びその存在を認識してもらう場となっている。ファッション部、ダンス部などはもちろんのこと、体操部、ラグビー部などの運動部も壇上で何らかの芸を披露する。 |
大阪府立住吉高等学校の駅伝大会 毎年12月に開催されていた。雨天中止。希望する運動部及び文化部が参加し、近くにある万代池を各クラブが周回していた。(2017年度より実施見合せ) |
大阪府立住吉高等学校の校歌 住吉高校に校歌は存在しないが、代わりに“生徒歌”と“住高四季”と呼ばれる歌が存在する。生徒歌は作詞:自治会選、作曲:寺本節生。通常校歌を使用するような場面では生徒歌を使用する。住吉高校四季は作詞:眉村卓、作曲:小谷智勢子。なお旧制住吉中学校時代の校歌は存在する。歌詞はすべて住吉高校の公式サイトで公開されている。 |
エリダヌス座イータ星の概要 準バリウム星とされる。典型的なバリウム星は主に白色矮星を伴星に持つが、この星には伴星は見つかっていない。レッドクランプに分類され、中心核ではヘリウム核融合で炭素と酸素が生成されており、周囲を水素核融合の殻が取り巻いている。 |
エリダヌス座イータ星の名称 η Eridani(略称はη Eri)。固有名アザー (Azha)は、アラビア語で「ダチョウの巣」を意味する udḥīy al-naʿām を由来としている。これは、ζ星、ρ²星、ρ³星、τ1~5星、くじら座ε星、π星によるアステリズムの名前であったものがη星の名前とされたものである。2016年9月12日に国際天文学連合の恒星の命名に関するワーキンググループ (Working Group on Star Names, WGSN) は、Azha をエリダヌス座η星の固有名として正式に承認した。 |
山口政二の経歴 埼玉県比企郡小見野村(現在の川島町)に山口喜一郎の二男として生まれる。1910年7月に第一高等学校大学予科を、1914年に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。朝鮮総督府試補、同事務官、陸軍省御用掛、青島守備軍民政部事務官を歴任した後、弁護士を開業した。1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に埼玉県第3区から立候補し、当選した。無所属であったが、1924年5月30日に中正倶楽部設立に参加し、同年10月23日に立憲政友会に移るも、1925年6月1日には新正倶楽部設立に参加した。「国民生活ノ安定」を訴え、治安維持法反対、婦人参政権を含む普通選挙法制定などを主張した。幼時に木から落ちて左目を傷つけていたため、一高時代は独眼竜野次将軍とあだ名された。次男は、歴史家の山口啓二。 |
報道ドラマ 生きろ 〜戦場に残した伝言〜の沿革 2002年10月17日、当時の規定であった会社設立の際の資本金300万円を、EXILEの初期メンバー6人が50万円ずつ出資し「エグザイルエンタテイメント有限会社」を設立。リーダーのHIROが代表取締役社長を務めていた。2003年9月18日、上記の事務所と、HIROの友人である森雅貴らが経営していたモデル事務所「株式会社スリーポイント」が合併し「株式会社LDH」を設立。HIROが代表取締役社長、森が代表取締役副社長に就任。以降、芸能事務所以外の事業も展開した。2017年1月1日、「株式会社LDH JAPAN」に商号変更し、森が代表取締役CEOに就任。海外拠点なども新設された。 |
朝鮮半島南部の前方後円形墳の概要 朝鮮半島西南部の栄山江流域では、日本列島に特徴的な前方後円形(円形の主丘に方形の突出部が付いた鍵穴形)の墳形を持つ10数基の古墳の存在が知られる。これらは5世紀後半から6世紀前半(朝鮮半島の三国時代、日本の古墳時代中期-後期)の築造とされ、3世紀中頃から7世紀前半頃にわたって展開した日本列島の前方後円墳の手法を基にしたと見られることから、当時の日本列島と朝鮮半島の政治的・経済的・文化的状況を表す事例として注目される。古墳の構造は、前方後円形という概形こそ各古墳で共通するものの、墳形の寸法や外表施設・埋葬施設の点では個々で相違し画一的ではない。発掘調査では、外表施設として一部の古墳に周堀・段築・葺石・埴輪・木製品が存在することや、埋葬施設として一部に九州系横穴式石室の要素が存在することが判明し、これらは日本列島の前方後円墳とも共通する。しかしそれら墳丘・施設は列島のものの模倣に近く、また副葬品には倭(日本)系・百済系・大加耶系の文物が混在する点で、特定地域に限らず様々な地域との交渉を反映した多義的な様相が認められている。前方後円形墳の分布する栄山江流域は、文献史学的には史料が乏しく当時の情勢が不明な地域になるが、考古学的には当時の倭・百済・加耶のいずれとも異なる独自の在地系勢力(馬韓残存勢力)が存在した地域とされる。そしてこの在地勢力が百済の支配下に入る時期(6世紀中頃)の前段階において、在地系の高塚古墳と列島系の前方後円形墳の2つの墓制が展開した。しかし栄山江流域は日本列島と連続する地域ではないほか、一帯では列島からの大量移住の形跡もなく、各前方後円形墳自体も1世代のみで築造を終焉するため、このような列島系の墳形が築造された背景は依然詳らかでない。現在も、被葬者としては在地首長説・倭系百済官人説・倭人説の3説に大きく分かれて議論が続くトピックになる。 |
朝鮮半島南部の前方後円形墳の背景 朝鮮半島では、4世紀後半から高句麗が南下政策を採り、475年に百済の漢山城(漢城:ソウル特別市)が高句麗によって陥落する。これを受けて百済は都を475年に熊津(忠清南道公州市)、さらに538年に泗沘(忠清南道扶餘郡)に遷した。前方後円形墳が営まれた5世紀後半から6世紀前半という期間は、百済がこの熊津に都を置いた時期に概ね相当する。この間に百済は勢力回復のため半島南部を志向し、上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁を512年に(『日本書紀』ではヤマト王権による任那四県の割譲と記述)、516年までに己汶、522年までに帯沙(多沙津)を領有する。栄山江流域に限定した場合、文献史学的には史料に乏しいためこの期間の実態は明らかでない。今日の2000年代以降の歴史教科書においても、この地域を日本側では加耶諸国の領域に、韓国側は百済の領域に含めており日韓両国で見解に相違が存在する。この相違は『日本書紀』神功皇后49年(369年?)3月条での加羅七国平定伝説ならびに朝鮮半島南部を支配したという組織(いわゆる任那日本府)の真の主体についての見解の違いに起因するものであったが、この地域の考古学的な実態解明が進んだことによって日本・百済のいずれの直轄的支配も見直されつつある。考古学的には、栄山江流域は原三国時代(馬韓・弁韓・辰韓)の馬韓諸国の1つで、三国時代にも百済に併合されるまで倭(日本)・百済・加耶のいずれにも属さない在地勢力(馬韓残存勢力、一説に慕韓)であったと考えられるようになってきている。そして5世紀後半から6世紀前半に在地系の高塚古墳や列島系の前方後円形墳が築造されたのち、6世紀中頃には百済系の陵山里古墳群型石室が営まれ馬韓勢力のうちで最も遅く百済の支配下に入ったものとされる。なお、512年に百済が領有したという上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁を栄山江流域に比定する説がある。日本列島では、3世紀中頃に前方後円墳が発生し、この「前方後円形」を首長墓の基本規格とする政治体制いわゆる「前方後円墳体制」が漸次形成された。4世紀半ばからは大陸王朝が弱体化し、列島・半島それぞれで中央集権化が進むが、その過程で、列島では5世紀に入ると巨大前方後円墳が創出され、5世紀後半の雄略大王(雄略天皇)の頃には前方後円墳の分布域は最大を迎える。6世紀前半の継体大王(継体天皇)の頃には半島との交流が特に活発化するが、この間、ヤマト王権は半島への政治的影響力を強め、半島においても前方後円形墳が造営されるに至る。ただし、6世紀後半までは列島での対半島外交は一元化されておらず、ヤマト王権のほか葛城・吉備・筑紫など各地方豪族によって多元的外交が行われたとされる。そのうち筑紫勢力(九州勢力)については、半島の九州系横穴式石室の展開との関係がうかがわれ、磐井の乱(527年-528年(または530年-531年))を契機とした筑紫勢力の衰退との関連を推察する説もある。 |
朝鮮半島南部の前方後円形墳の研究史 朝鮮半島の前方後円形墳に関する研究は、古くは戦前に日本の谷井済一・有光教一らによって存在可能性が指摘されたことに遡る。戦後に至り、1972年に韓国の黄龍潭・尹世英らにより松鶴洞の古墳について前方後円墳の可能性が指摘され、再び認識されるようになった。本格的に注目を浴びるようになったのは1983年で、韓国の姜仁求によって慶尚南道固城の松鶴洞1号墳を初めとする慶尚道・全羅道・京畿道の古墳36基で前方後円形の可能性が指摘された。1980年代後半から古墳の測量調査が進み、さらに1990年代からは発掘調査も開始され、前方後円形の古墳が存在することは確実となった。現在では上記10数基が前方後円形として認められ、考古学的に全容が明らかになりつつある。これらの前方後円形墳は、発見当初は韓国側において日本列島の前方後円墳の起源になる古墳として注目されていた。しかしその後の調査によって築造年代が5世紀中頃以降であることが明らかとなり、逆に列島から導入された文化であることが確実とされている。ただし具体的な経緯に関しては明らかとなっておらず、被葬者の比定は在地首長説・倭系百済官人説・倭人説の3説に大きく分かれ、現在も活発な議論が続いている。 |
ルミネスのゲーム内容 『テトリス』を祖とする、いわゆる落ち物パズルの一種である。次々に画面上方から落下してくる暗色と明色の2色からなる正方形のブロックを、同じ色のブロックで2×2ブロック以上のサイズの四角形(長方形または正方形)を作成することが目的。ただし、テトリスなどと違い、四角形を作成しただけでは消えず、画面上を左から右へと一定時間ごとにスライドしていく「タイムライン」が通過して初めて消えるようになっている。そしてタイムラインが一周する間に一定以上のブロックを消すと、通常よりも高得点が得られる。ブロックを次々と消していき、プレイ時間を持続させることでゲームが進行し、ブロックを消せずに画面上部までブロックが積みあがるとゲームオーバーとなる。本シリーズで特徴的なのは、ステージごとにBGM兼効果音・ブロック・背景をセットにした「スキン」が個別に用意されていることである。ゲームの進行に合わせてプレイヤーはいくつものスキンのもとでプレイすることになる。さらに水口氏の提唱する「シネスタシア理論」は本作にも適用されており、プレイによってBGMと効果音による音楽が構成され、ゲームプレイの視覚とシンクロしていく様を楽しむ事ができ、ユーザーはまるで曲を演奏しているかのような錯覚を得る事が出来る。 |
ルミネスの反響 『ルミネス』は日本だけでなく韓国や欧米でも発売されているが、2005年10月には全世界での累計出荷台数が50万本を突破した。また、同年12月には、アメリカの大手ネットワーク放送局Spike TVが主催している「Spike TV Video Game Awards 2005」において、"BEST HANDHELD GAME"(ベスト携帯ゲーム賞)を受賞した。 |
ルミネスの移植、関連作品 携帯電話向けゲームとして、auのBREWアプリ、NTTドコモのiアプリ、ソフトバンクモバイルのS!アプリ向けに開発された「ルミネスモバイル」が配信されている。2011年9月より、Androidスマートフォン向けにGMOゲームセンターから『ルミネス Touch Fusion for Gゲー』が配信されていた。(GMOゲームセンターは2018年2月にサービス終了) |
冠嶺神社の由緒 由緒によれば、景行天皇の時代に日本武尊が東夷征伐の勅命を受けて奥州にやってきた。その時、地主神である猿田彦命より霊示があり、皇御孫尊(天津彦火邇邇芸命)を勧請して17日間祭祀を行った。陣を引いた山は四方を川に囲まれており、日本武尊は地の利を生かして夷賊を倒して無事平定を進めることができたという。地主神である猿田彦命は道祖神であり、道陸神とも呼ばれていた。冠嶺神社が勧請された山は、道陸神の霊験があった山のため「道陸神山(現在の堂六神山)」と名付けられたという。道陸神山の南麓に天の真名井の水をもって「真野の池」という水場を設け冠嶺神の御手洗とした。真野川の名前はこの「真野の池」にちなむと伝わる。また、真野川の上流には「立石」という奇石があり、猿田彦命が降臨し鎮座した場所だと伝わる。冷泉天皇の時代である永承年間には鳳輦を持って天下泰平を祈る儀式が行われるなどしたが、その後康平年間に至る13年の間に前九年の役など戦乱が起きたため、神領社地は没収・荒廃し小祠が建つのみとなった。後堀河天皇の御代、氏子の志願によって社殿を里に立て、寛喜2年(1230年)4月8日に道陸神山から現在の鎮座地へ御神体を遷座した。その後、氏子の要望により苕野神社(浪江町の苕野神社の分霊社である飯舘村の綿津見神社)から「八龍大明神」と呼ばれる闇淤加美神を相殿神として合祀した。そのため社号を八龍神祠とし、郡民から「八龍大明神」と呼ばれるようになったという。それ以降、三柱の祭神を奉斎するようになり、浜下りの神事も行われるようになったという。記述によると、浜下りの神事は7月7日に神輿を出御し、夜に角川原地区の熊木明神社に安置。明朝に現在の南海老地区の浜に降りて、天下泰平・武運長久・五穀豊穣・万民安全などを祈願し、祭典が終わると還幸したという。現在の祭神のうちの一柱である少彦名命は、文政2年(1819年)の郡内式内社調査により八龍神祠が冠嶺神社の論社とされ、文政8年(1825年)に冠嶺神社へ改称した後に原町区信田沢の冠嶺神社から合祀されたと思われる。 |
冠嶺神社の由緒 創建不詳であるが、時代の流れとともに衰微し、小さな祠しか残されていなかったという。さらに、往古に起きた野火のために社殿は焼失し、その後、祠を建てて祀った。宝永から正徳(1704年-1715年)の頃、祠官であった大田九太夫の家が絶えたため、羽黒派修験である山覚院が代わりに祭祀を行った。天明年間から住民が減り、文化年間には村里も社殿も悉く荒れ果てたという。当地の農夫が御神体を民家の小祠へと遷座し、これを隠し、長年に渡り本山派修験の大学院が祀ったという。時が経ち、この農家も絶えてしまったため、冠嶺神が村の小祠に祀られたということも忘れ去られてしまっていた。他の村から佐藤氏という者がやってきて、冠嶺神を祀っていた農家の屋敷へ住み始めた。佐藤氏は農業を営みながら、坂嶺の山にある小祠を修理して祀っていた。文化12(1815年)乙亥年、相馬藩主である相馬益胤は、祠官社家と渡部美綱という者に行方郡内の式内社八座を調査し特定するよう命じた。その結果、多珂神社・鹿島御子神社・御刀神社・押雄神社・高座神社・日祭神社は特定したが、冠嶺神社と益多嶺神社はどの神社のことなのか不明だったため特定することができなかった。文政2(1819年)己卯年、再び調査命令が下される。郡官は「村に冠嶺の神を祀る小祠がある」という話を聞き調査を行うが、不審に思った村人は冠嶺神社の鎮座を否定したため、ますます冠嶺神社は歴史から忘れられてしまった。安政年間になり、二宮尊徳や二宮家が相馬へもたらした農業復興策である「興国安民法」のおかげで、相馬藩の財政再建や荒廃した農村の復興が進んだ。万延元年(1860年)庚申年の春、冠嶺神社の宮祠復興が命じられ、会津の名工である匠人の上杉主殿頭が社殿造営を行った。冠嶺神社には原町区信田沢と鹿島区上栃窪の二社の他に、鹿島区北海老に鎮座する鶏足(けいそく)神社も冠嶺神社であると称していたが、原町区信田沢の冠嶺神社のみが往古から「冠嶺神社」と称し、神体も千年以上の歴史があるものとされたため、当社が冠嶺神社の本社であるとされた。 |
ノーザン・ブールバード駅の出口 改札は各ホーム西端にあり、出口はノーザン・ブールバードとブロードウェイ交差点(南行ホームから北西、北行ホームから南東)にある。改札はホーム横にあり、南行ホーム側のみ終日駅員が配置されているが、ホーム間の改札内連絡通路は設けられていない。改札横に1か所ずつ地上への階段がある。両ホーム東端の出口は現在は立入禁止になっている。 IND方式で"56th Street"と左矢印の看板が駅名標の下にある。 |
三上富三郎の経歴 1937年神戸商業大学を卒業し、同年松下電器産業に入社する。松下電器で経理部長・総務部長を務めた後、1949年に日本ゴム商業改善協会に勤務した。1955年、明治大学商学部講師となる。助教授(1957年)を経て1961年に教授に就任。1963年「卸売および卸売業経営の研究」で明治大学より商学博士号を取得。1984年に定年を迎え、名誉教授となる。学者としては平井泰太郎に師事した。恵泉裏道路対策協議会会長を務め、後年は道路行政に関して世田谷区を相手とした訴訟をおこなった。 |
今井善衛の略歴・人物 1931年、東京府立第一中学校卒業、第一高等学校を経て、1937年、東京帝国大学法学部政治学科卒業、商工省入省。入省同期に、佐橋滋、松村敬一(経企事務次官、通商局長、繊維局長)、樋詰誠明(大丸副社長、中小企業庁長官)、川瀬健治(東京通産局長)など。佐橋、今井、樋詰で「昭和12年入省組の3羽烏」と呼ばれていた。外務省出向(在米国大使館)、通商局通商政策課長、大臣官房総務課長、中小企業庁振興部長などを経て、1958年8月5日、繊維局長に就任。1959年2月、日米綿製品交渉のため、今井・牛場信彦外務省経済局長・ヘンリー・カーンズ米商務次官補らの三者間で意見交渉を持つ。12月、繊維原料である羊毛・原綿輸入の自由化を言明し、綿花の輸入割当を骨子とした繊維工業設備臨時措置法(1956年9月成立)を改正した。のちに池田勇人通産大臣時の、佐藤栄作の“資金源”のひとつを絶つこの自由化措置が、今井が最終的に事務次官の座に座ることになるとしても、佐橋との次官最終レース緒戦で佐藤栄作通産大臣によって特許庁長官に出されるのを決定的にしたといわれている。 1961年2月3日、通商局長に就任。香港綿製品などの対米輸出割合が伸びる中、牛場信彦外務審議官、関守三郎外務省経済局長、今井通商局長、松村敬一繊維局長らで引き続いて、日米綿製品5ヵ年協定(1957年 ~ )に基づき自主規制を敢えて続行した。1961年7月13日、1963年4月からの自由化目標を半年繰り上げると発言し波紋を広げた。また、GATTによるIMF八条国移行勧告を延期させるため、自由化率を引き上げ、利率の大きい石油・石炭を自由化品目に組み入れた(合わせた自由化率は65% → 93%に)。1962年7月、特許庁長官に棚上げされたが、福田一通産大臣の下、1963年7月23日から通産事務次官に就任する。当時の福田一大臣の通産人事への介入により、スポンサー無き経済統制法案・特振法で鳴らす同期の統制派の代表格かつ省内主流となっていた佐橋滋を押しのける恰好で特許庁長官から横滑りした。理由として、居丈高な佐橋よりも人当たりのいい今井が、“サービス官庁の時代”に適った人物だったと喧伝されたが、佐橋が特振法の成立を急ぐあまり、佐藤栄作に近づきすぎたのが池田派や党人派の逆鱗に触れ、大野派の福田が次官人事に断を下したとされている。 これは当時の松尾金蔵次官、渡辺弥栄司官房長(1962年7月10日まで。官房付を経て、1965年4月1日から貿易振興局長、同年6月から通商局長、のち弁護士。1939年入省)ら事務方の了承を得ずに行われたことから、省内の「佐橋連隊」らの動揺もあり、巻き返しが策されたりしたが、同年7月21日に今井次官が内定した。次官内定までに20日間要した。のち、佐橋滋に1964年10月23日にて次官の座を譲る。退官後の1965年9月、日本石油化学常務に。1970年12月、同社社長として日本石油化学が最大株主の古河化学が経営困難に陥ったことから全株式を譲り受け、吸収合併した。入省当初から通産官僚(商工官僚)のホープとして、本流ラインだけを歩み、常にライバルの佐橋に一歩リードしていた。こうした経歴からか、今井に対しては、頭が切れるから、そのため先が見えすぎて、部下に任せず、部下にとっては多少煙たい一面を持っていたと評されている。 佐橋に対して、今井はいわば「国際派」、「通商派」あるいは「自主調整派」とされ、早期の市場の自由化を唱えた。現在では自動車産業などの驚異的発展からみても今井に先見の明があったとも評価されている。城山三郎・「官僚たちの夏」にて風越(佐橋滋)と同期で次官を争う玉木のモデル。生前、この作品に関する取材などは一切断っていたという。以後、日本石油化学社長・顧問。1996年4月、脳梗塞で永眠。経団連会長であった今井敬は弟にあたる。甥に経産官僚の今井尚哉(安倍晋三内閣総理大臣政務秘書官)。妻は山崎種二の娘。間に1男2女がおり、長男は元山下汽船社長・山下太郎の孫娘と結婚している。囲碁が趣味で、父親はアマ日本一にもなった。善衛は1985年頃石田芳夫との初手合わせの3子置きの真剣勝負で勝ち「アマチュア七段格」と言われた。その後代々木上原にある石田の道場に通う。。 |
劇場版ポケットモンスター ダイヤモンド&パール 幻影の覇者 ゾロアークの概要 『ダイヤモンド&パール』完結編。当初発表されたタイトルは『幻影の覇者Z』であり、本作で初公表となるポケモン・ゾロアークの名は伏せられていた。また、2002年『水の都の護神 ラティアスとラティオス』から今作までの9年間に渡って続いていた「劇場版で(後に正式タイトルに組み込まれる)主役となるポケモンはそれまでゲーム版で公開されていなかった初登場のポケモン」という慣例が今作で一旦途切れたが、2012年の『キュレムVS聖剣士 ケルディオ』で2年ぶりに慣例が復活した。アニメ版『ダイヤモンド&パール』で唯一、発売前の新作『ブラック・ホワイト』のポケモンが登場した作品で、昨年発売された『ポケットモンスター ハートゴールド・ソウルシルバー』のポケモンと大きく絡む。前作『アルセウス 超克の時空へ』のエンディング後の予告には、ホウオウとルギアが、予告CMにはカイオーガが登場したが、いずれも本編には登場しない。本作の舞台のモデルはオランダとベルギー。時系列はDPの171話から179話までである。『劇場版 ポケットモンスターミュウツーの逆襲』から12年間出演してきたタケシはアニメ版でポケモンドクターを目指すため降板しており最後の映画出演となった。陣内孝則と塚本高史が共演するのは4作目となるが、アニメ映画としては初となる。公開から約数か月後にポッチャマを演じる小桜エツ子が「小桜エツコ」と改名され、小桜が「小桜エツ子」の芸名で出演する映画は当作品が最後となった。BGMに『結晶塔の帝王 ENTEI』、『セレビィ 時を超えた遭遇』の楽曲アレンジが一部使用されている。また、随所にこれまでの劇場作品を彷彿とさせるような描写が散りばめられている。そして、『七夜の願い星 ジラーチ』(2003年)以来久々にロケット団が「いい感じ」と言う場面があり、この台詞で物語が締めくくられるのは『セレビィ 時を超えた遭遇』(2001年)以来となる。エンディングではシンジやノゾミ、ジュンなどの、サトシとヒカリのライバルキャラクターやシンオウ地方のジムリーダー、四天王・チャンピオン、フロンティアブレーンのクロツグがパートナーのポケモン達と共に登場している。各映画館で「『劇場版ポケットモンスター ダイヤモンド&パール 幻影の覇者 ゾロアーク』は、テレビ番組の映像基準とは異なる手法で製作いたしました。ごくまれに光が原因で体に異常を感じる体質の方がおられます。過去に光が原因で体に異常を感じた経験のある方は、ご覧になる前に医師にご相談ください。ピカチュウプロジェクト」という観賞の際の注意が促された。全国369スクリーンで公開され、2010年7月10,11日初日2日間で興収6億2,947万1,700円、動員は60万602人になり映画観客動員ランキング(興行通信社調べ)で初登場第2位となった。また、ぴあ初日満足度ランキング(ぴあ映画生活調べ)でも第4位になっている。公開第4週には動員200万人を突破している。2010年8月12日の公開34日目には動員302万人興収31億円記録し、『ミュウツーの逆襲』からの映画13作のシリーズ累計観客動員が5555万人突破している。最終興収は41.6億円になり2010年度興行収入邦画第5位となっている。本作品では、プロモーション協力に、テレビシリーズのネット局に加え、関連番組『ポケモン☆サンデー』のみを放送していたサンテレビジョン(独立UHF放送局・兵庫県)も参加している。 |
劇場版ポケットモンスター ダイヤモンド&パール 幻影の覇者 ゾロアークの前売り券・配布ポケモン 本作の劇場版の前売り券の引換え券でもらえるポケモンは色違いのエンテイ・ライコウ・スイクンのうちの一匹である。覚えている技は3体とも通常では覚えられない技のみである。また、この3体の内どれでも1体を『ブラック・ホワイト』に転送すると、野生のゾロアークと戦闘するイベントを発生させられる。また、映画館ではワイヤレス通信でセレビィが配布された。このセレビィは『ハートゴールド・ソウルシルバー』上でロケット団のサカキに関するイベントを発生させる鍵となる。また、後の『ブラック・ホワイト』に転送すると、ゾロアと出会い仲間にするイベントを発生させられる。なお、これらのイベントは1つのカートリッジにつき1回しか発生せず、一度これらのイベントを発生させてしまったポケモンを別のカートリッジに送ってもこれらのイベントを再び発生させることはできない。 |
劇場版ポケットモンスター ダイヤモンド&パール 幻影の覇者 ゾロアークのコミカライズ 『月刊コロコロコミック』で漫画版が2010年6月号から8月号にかけて掲載された。単行本も発売されている。作画担当の井上桃太は後に同雑誌にて『黒き英雄 ゼクロム』〜『神速のゲノセクト』のコミカライズも担当した。 |
ケヴィン・ラザーニャのクラブ ユース時代にはACキエーヴォ・ヴェローナに4年間所属。2010年、ロンバルディア州リーグ(イタリア7部リーグ相当)のゴヴァノレーゼ・カルチョでトップチームデビューを果たし、その後アマチュアクラブのチェレーア・カルチョ、ACエステに移籍した。2014年6月、セリエBのカルピFCへ移籍した。加入1年目の2014-15シーズンには30試合5得点を記録しクラブのセリエA昇格に貢献。2015年8月23日のUCサンプドリア戦でセリエA初出場し、2016年1月24日のインテルナツィオナーレ・ミラノ戦でセリエA初得点を挙げた。2015-16シーズンは途中出場が大半ながらも36試合に出場し5得点を記録したがチームはセリエBへ降格した。2017年1月14日、セリエAのウディネーゼ・カルチョへ完全移籍。移籍金は450万ユーロ。2016-17シーズン終了まではカルピFCへレンタルで残留しセリエBで14得点を挙げ、ウディネーゼへ合流した2017-18シーズンにはポジションを掴みセリエAで12得点をマークした。2018年10月9日、ウディネーゼとの契約を2023年まで延長した。 |
ケヴィン・ラザーニャの代表 2018年10月、負傷離脱したシモーネ・ザザの代役としてイタリア代表監督に初招集され、10月14日に行われたUEFAネーションズリーグのポーランド戦で代表デビューを果たした。 |
竹下恵の来歴 鹿児島県出身。上智大学経済学部卒業。ベイネットワークサービス、ノーテルネットワークで企業向け研修講師を務めた後に独立し、いけりり★ネットワークサービスを設立、代表取締役社長に就任。富士電機総設、レッドハットジャパン、CSK、マカフィー、ボーランド等の企業向け研修講師を務める。また、パケットキャプチャ技術を中心に解析、調査業務、キャプチャ製品の代理店業務を行っており、Wireshark2.x系の日本語化を執り行っている。Wiresharkの開発者会議「SharkFest」では、第1回開催から毎年欠かさず参加するとともに、カリフォルニア大学バークレー校での「SharkFest2012」からはパケットキャプチャやトラブルシューティングに関する講演を行っている。 |
アジア競技大会セーリング競技の生涯 ヤン・オルブラフトはポーランド王太子として、コペルズティンの戦い(1487年)でタタールに対し華々しい勝利を収めた。1490年、ハンガリーの貴族階級はラコーシュの議会においてヤンをハンガリー王と宣言したが、この決定は兄のボヘミア王ウラースロー2世によって退けられ、ウラースロー2世がハンガリー王に即位した。1492年、父の死によりポーランド王位を継承した。一方、弟アレクサンデルのリトアニア大公位継承に伴い同君連合が一時的に解消されたことで、ポーランド国家財政は著しい損害を受けたため、地方の下級貴族(シュラフタ)の牙城であるセイミクのような地方議会の激しい敵意を招き、補助金を国王による彼らへの追従姿勢によって捻出する傾向が強まった。ヤン1世はオスマン帝国に対峙するキリスト教世界の覇者としての地位を望み、時代状況は彼の野心に味方していた。兄ウラースロー2世はハンガリーとボヘミアの国王として中欧に大きな影響力を振るっており、ライバルの神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世が1492年にモスクワ大公イヴァン3世と結んだ同盟に匹敵する同盟体制の構築を目論んでいた。ヤン1世本人もモルダヴィア公国を属国としていたために、トルコ人による攻撃の脅威にさらされていた。1494年にレヴォチャで結ばれた盟約では、ヤン1世、ウラースロー2世兄弟及びブランデンブルク選帝侯ヨハン・ツィーツェロの3人の君主が対トルコ遠征に関する詳細を詰め、ヤン1世の支援を仰ごうとしていたモルダヴィアのホスポダル・シュテファン3世もこの会談に協力した。1496年、戦役のためにヤン1世は大きな代償を払いつつポーランド内から80000人の兵士をかき集めたが、軍事計画はシュテファン3世のモルダヴィア軍によるガリツィアへの突然の侵攻によって瓦解した。モルダヴィアがポーランドと敵対した理由は、ヤン1世が末弟のジグムントにモルダヴィア公位を与える野心をかぎつけた為と言われる。敵対したモルダヴィアとポーランドは戦争に突入し、モルダヴィア領内に入ったポーランド軍は首都スチャヴァの包囲に失敗した後、コズミン森の戦いで決定的な敗退を喫した。この敗戦の原因の1つは、従軍したシュラフタ達の不服従による指揮系統の乱れにあったとし、ポーランド帰国後にヤン1世は数百人のシュラフタの所領を没収している。ただし、国王は治世末期には人気を回復している。ドイツ騎士団の新総長となったフリードリヒ・フォン・ザクセン (en) がポーランド王への忠誠を拒むと、ヤン1世は彼に無理やり服従を強要した。騎士団に更なる迫害を加えようとしたヤン1世の決意は、1501年に自身が急死したことで挫折した。子供が無かったため、王位はアレクサンデルが継承、ポーランドとリトアニアは再び同君連合となった。 |
渡邊課の経歴 株式会社コンセント内のラボラトリーチームとして発足。デザイン分野における新規技術の活用を模索する中で3Dプリンタでの出力による3Dデータの活用をきっかけに、VR映像に着目。2013年にVRゴーグルハコスコの普及活動を通じて、THETAを利用した映像制作に取り組む。その後、Go pro6台を利用した映像制作を行う中で、日本ではまだ事例が少ない水中撮影を水中写真家の古賀学と行い、「水中ニーソキューブ」を発表、写真集「月刊水中ニーソ」の発刊にあわせた展示を行う。YouTubeやFacebookでの360度映像対応を受け、WEBでの映像発表を軸にMusic Videoや、ドローンなど特殊な機材を利用した撮影など、これまでに50本を超える全天球映像を発表。2016年現在はプラネタリウム投影や劇場用4DXを用いた映像のプレゼンテーションにも挑戦している。 |
渡邊課のMusic Video Hello Sleepwalkers - アキレスと亀Hello Sleepwalkers - ハーメルンはどのようにして笛を吹くのかGRAZIE4 - 君にありがとうGRAZIE3 - おゆおゆおふろVampillia - you should go firstAwesome City Club - Lullaby for TOKYO CITY |
渡邊課のライブ映像 快速東京BDM2015(デデマウスと水曜日のカンパネラ) - 妖怪地獄音頭 |
世界選手権自転車競技大会ロードレース1997の経歴 福島県立会津高等学校、中央大学法学部を卒業。 八田貞義衆議院議員の秘書や中央大学経済学部教授を歴任し、1987年(昭和62年)の会津若松市長選挙で初当選を果たす。 1991年(平成3年)の市長選で、山内日出夫に敗北。現在は、財団法人白虎隊記念館の理事長を務める。 |
トワイライト・サーガの概要 短編の連作形式によって10作品が発表され、全2巻にまとめられている。作者の別シリーズ『グイン・サーガ』の何千年後の未来を舞台とした物語であるが、実際に執筆されたのは本シリーズのほうが先であるという。闇王国パロスの美貌の王子ゼフィールと、それに付き従う草原の国トルースの戦士ヴァン・カルスの2人が、ともに流浪の旅を続ける中で出会ったさまざまな怪異を中心として描いた物語であり、『グイン・サーガ』と比較すると極めて魔道色の強い物語となっている。第1作「カローンの蜘蛛」の初出は『S-Fマガジン』1982年12月臨時増刊号。本作は、作者がまだデビュー前の1974年に『S-Fマガジン』主催で開催された「第四回S-Fマガジンコンテスト」へ応募して落選した作品である。本作以外にも、作者は1972年から1973年にかけて、本シリーズに属する作品を書き続けていたという。その後、早川書房に保管されていた第1作を雑誌に掲載するにあたり、その時点で書かれていた全シリーズ作品のタイトルを記したところ、ファンから刊行への要望が多く寄せられたため、1983年および1984年に光風社出版から、未発表のシリーズ作品も含めて刊行に至ったものである。刊行決定前には「迷路島」までの9作品しか書かれていなかったが、第2巻『カナンの試練』の発行に際して第10作「死者の珠」が新たに執筆された。光風社出版から単行本として刊行された後、1986年に角川文庫から刊行された。表紙は天野喜孝が担当しており、1巻では主人公・ゼフィール王子の正面からの顔が、2巻では横顔が描かれている。文庫版『カナンの試練』あとがきによれば、第3巻の表紙ではゼフィール王子の後ろ姿が描かれ、それと同時に驚くべき真相が明らかになる予定である、とのことであった。しかし第3巻は刊行されず、作者の死去により未完となった。 |
トワイライト・サーガのグイン・サーガとの関係 時代が異なるゆえ、共通して登場する人物などはないが、ヤヌス(ジェイナス)、ドール、ヤーン、モスなどの神々や、パロス、トルース、アグラーヤなどの国々の名前には、共通するものが多くみられる。また、第1話「カローンの蜘蛛」に登場するパロスの偉大皇帝コルラ・タルスは、吸血皇帝コルラ・サーンの父であるが、グイン・サーガ正伝第3巻『ノスフェラスの戦い』冒頭に収められた小文「混沌の時代」の中には「吸血皇帝コルラ・タルス」の名前が見られ、なんらかの関連をうかがわせる。さらに、グイン・サーガ正伝44巻『炎のアルセイス』の中で、主人公のグインが語る幻視の中に、「カローンの蜘蛛」の一場面を思わせるものが登場する。 |
アンチェインブレイズ エクシヴの概要 フリューのダンジョン探索型RPGシリーズ『アンチェインブレイズ』の第2作で、2011年にリリースされた『アンチェインブレイズ レクス』の続編。本作でもキャラクターデザイナーに各界のイラストレーター・漫画家が起用されているが、起用デザイナーは森沢晴行を除き前作からメンバーが一新されている。モンスターを仲間(フォロワー)にできる「アンチェイン」や、スキルマップによるキャラクター育成などシステム面は前作『レクス』のものをほぼ踏襲している。本作からの新たなシステムとして、2人のパーティーキャラクター(マスター)で行う特殊攻撃「アルティメットバースト」やフォロワーとのコミュニケーション要素が加わった。 |
学生三代記のマキノ・ジュニアの苦難と明るさ 本作が製作される2年前、1928年(昭和3年)の4月、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎ら若手スターを中心とした俳優50数名が総退社する事件が起きた(日本映画プロダクション連盟の項を参照)が、その苦境を『浪人街 第一話 美しき獲物』に代表される、「監督マキノ正博、脚本山上伊太郎、撮影三木稔」の青春トリオ作品により、新スターの発掘で乗り切ったマキノ・プロダクションは、その翌年の1929年(昭和4年)7月5日、同社を率い、「大将」と慕われた牧野省三の死去により、かつての神話的なまでの求心力を失いつつあった。牧野の没後50日を迎えた同年9月、東亜キネマ等持院撮影所長だった小笹正人を所長に迎え、牧野の長男・マキノ正博を中心とした新体制が発表された(マキノ・プロダクション#牧野省三の没後の項を参照)。南光明、谷崎十郎、根岸東一郎、河津清三郎といった『浪人街』以来の新スターや、当時まだ21歳であったマキノ正博と同世代の若い監督の名が列挙されているが、経営的には困窮の時期を迎えていた。明けて1930年(昭和5年)の春に製作され、「マキノ超特作映画」と銘打ち、同年4月10日に「新宿劇場」を皮切りに公開されたのが、本作全3作である。『学生三代記 天保時代』には、根岸東一郎が主演、マキノ登六、新見映郎といった先代牧野の時代から同社の主演・助演をつとめてきた俳優が出演、『学生三代記 明治時代』には、南光明が主演、沢村国太郎、マキノ智子といったマキノ家筋の俳優のほか、2年前に退社、インディペンデント系の「中根龍太郎喜劇プロダクション」を興して失敗し、その後は松竹にいたが牧野の没後に同社に戻ってきた中根龍太郎が出演している。『学生三代記 昭和時代』では、津村博、河津清三郎といった主演・助演級の俳優が、オムニバスでつぎつぎに主演している。また、『学生三代記 明治時代』、『学生三代記 昭和時代』のオリジナル脚本は、マキノ傘下の勝見庸太郎プロダクション専属、当時24歳の若手脚本家・八田尚之が起用されている。なお、本作公開の1930年暮れには、同社は賃金未払いが起き、ストライキが起き、翌1931年(昭和6年)1月には製作が再開されるが、俳優の流出は防げず、同年4月末で作品のリリースが止まり、同年10月には解散することとなった。 |
学生三代記の発見と復元 2006年(平成18年)冬、東京の非営利活動法人映画保存協会が、個人宅からオムニバス『学生三代記 昭和時代』全8話のうち、「下宿の巻」および「野球の巻」の計15分程度の家庭用普及版「マキノ・グラフ」の16ミリポジプリントを発掘した。同協会は、京都の立命館大学アートリサーチセンターで「マキノプロジェクト」を主宰する冨田美香助教授の協力を得て、国立近代美術館フィルムセンターとIMAGICAによって、2007年(平成19年)、同作のHDテレシネによる復元と国による所蔵がなされた。復元を経た『学生三代記 昭和時代 下宿の巻・野球の巻』は、2008年(平成20年)3月、フィルムセンター大ホールで上映された。また、同作は、1956年(昭和31年)12月31日以前に製作された作品のため、著作権の保護期間は終了しており(commons:Template:PD-Japan-oldphoto/ja参照)、同協会によって編集された、同作の20秒ほどの抜粋映像をYouTubeで試聴することが可能となっている(#外部リンク)。 |
KEIRINグランプリ09の競走内容 伏見の後位から海老根が大外を伸びて、最後は武田と並んでゴールした。 |
保科善四郎の略歴 宮城県伊具郡北郷村(現・角田市)出身。旧制宮城県角田中学校より海軍兵学校第41期入校。席次は入校時120名中40番、卒業時118名中28番。海軍大学校卒業。 |
スリム・スミスの死因 スリム・スミスの死には謎が多く、一般的な1973年死亡説以外にも、前年の1972年にはもう死んでいたという説がある。死因はロイ・シャーリーと共有していた家の窓ガラスを、鍵を持っていなかったためか、機嫌が悪かったためか、何らかの理由で素手で割り、ガラスが刺さって出血多量で死んだという説、毒入りのマリファナを吸ったという説、精神障害をわずらい、療養所で自殺したという説などがある。 |
加持祈祷の概要 「加持」とはadhisthanaの訳で手印・真言呪・観想などの方法で加護を衆生に与えること、「祈祷」とは呪文を唱えて神仏に祈ることを意味する。従って、本来は祈祷は加持を得るための手段の1つに過ぎないが、混同されて用いられることが多い。真言密教においては、手に印契を結び鈷を用いて、護摩をたき、真言(マントラ)を口唱して仏の加護を求める。祈祷を行う儀式である修法(しゅうほう)には大きく分けて息災・増益・敬愛・調伏の4つの体系があり、これにより除災招福などの現世利益を期待した。日本ではこうした加持祈祷は仏教伝来以後日本古来の呪法と結びつきながらしばしば行われ、聖徳太子が父用明天皇のために法隆寺を建立したこと、天武天皇が皇后鸕野皇女(後の持統天皇)のために薬師寺の建立を行ったことも加持祈祷の一環であったとされる。また、鎮護国家の思想とも結びついて「金光明経」や「仁王経」の読経が盛んに行われた。だが、加持祈祷が広く行われるようになったのは密教伝来以後の平安時代以後のことである。密教においては加持は仏の大悲大智が衆生に加わり(加)、衆生がこれを受け取ること(持)と解し、行者が手印を結び、口から真言を発し、心に本尊を観ずれば、行者の三業を清浄にして即身成仏が可能になるという「三密加持」説が唱えられ、また効験を得るために特定の陀羅尼・印契を修して念じる呪法を祈祷と捉え積極的に行った。更に陰陽道の発達によってその要素を取り込みながら日本独自の加持祈祷が成立することになる。平安時代中期には皇室から庶民に至るまで、国家の大事から日常の些事まで全て加持祈祷によって解決しようとする風潮が高まった。天皇個人のための祈祷を行う護持僧が、延暦寺・園城寺・東寺などの密教の大寺院の高僧から選任されたほか、国家・宮中行事として宮中で正月に開催される後七日御修法をはじめ、御斎会・仁王会・維摩会の南都三大会、興福寺法華会・法勝寺大乗会・円宗寺最勝会の北京三大会などが開かれ、この他にも天災・疫病・出産など様々な名目で各種の祈祷(請雨法・孔雀王法・仏眼法・尊星法・七仏薬師法・愛染王法・北斗法・普賢延命法など)が行われた。本来は願主が修法を行う寺院に赴くのが正しいが、実際には僧侶が願主の邸宅などに赴いて修法を行ったり、願主の代理としてその衣服を遣わしたりすることもあった。なお、陰陽師の呪法も仏僧の加持祈祷と目的が重複することが多く、陰陽師が占いで神気を見た場合には仏僧は修法を辞退して陰陽師に任せる場合もあった。万寿2年(1025年)、藤原道長の娘・藤原嬉子が重態になった際に陰陽師が道長に神気が見えると告げ、僧侶も修法を辞退したにも関わらず、道長は藤原顕光の怨霊を恐れて強引に修法を行わせ、その結果嬉子が死亡したと藤原実資はこれを非難している(『小右記』万寿2年8月5日条)。これは当時、病気を引き起こす祟りの起因によって僧侶に依頼するか陰陽師に依頼するかが異なるという観念に基づくものであった。鎌倉仏教においても、曹洞宗や日蓮宗などで民衆の取り込みのために加持祈祷と救済活動を組み合わせた活動が行われた。また、陰陽道ともども加持祈祷と医療知識が組み合わさって、民間医療的な活動が行われる場合もあった。一方、浄土真宗や日蓮正宗では念仏や題目を重視するので行っていない。 |
大船の地理 鎌倉市の北西部に位置し、北は横浜市(栄区・戸塚区)、西は藤沢市と隣接する。鎌倉市の中心部(いわゆる「鎌倉」)と市外を結ぶ交通の要衝である。周辺では大船駅付近の市街地が最も低く、その周囲を小高い丘陵に囲まれている。低地部分には柏尾川が丘陵を避ける形で蛇行しつつ南北に流れ、大船周辺で複数の河川(小袋谷川、砂押川、いたち川など)が合流する。このことから、かつては頻繁に水害を起こしていた。柏尾川に並行して東海道線が走り、大船駅からは小袋谷川に沿って横須賀線が走る。また、大船駅からはモノレールも走っている。大船は古来から各地から鎌倉に向かって伸びる街道が合流する場所であり、現在も複数の県道が通っているが、県道同士の交差・合流はほとんどが平面交差であり、鉄道も東海道線・横須賀線で複数の踏切交差を行っていることから地域内各所で渋滞が発生する。 |
大船の地価 住宅地の地価は、2017年(平成29年)1月1日の公示地価によれば、大船2-7-26の地点で31万8000円/m²となっている。 |
大船の歴史 もとは鎌倉郡小坂村(柏尾川東側、ほぼ現在の大船地域)といい、1933年に大船町となってまもなく玉縄村(柏尾川西側)を合併した。1948年に鎌倉市に編入。もともと大船駅周辺は柏尾川の氾濫原であり、近世までこの地区の中心は玉縄地区側にあったが、1888年に大船駅が開業すると駅の東側が開発され商業地として発展した。関東大震災直前、大船駅東側で田園調布を真似た「大船田園都市計画」が立てられたがその後中止になった。この付近には大船競馬場があったが、その跡地に1936年、松竹の撮影所が蒲田から移り(松竹大船撮影所)、数々の名画がここで作られた。また俳優や映画関係者が付近に住んだことから人気が出て開発が進められた。鉄道開業から戦後にかけて三菱電機、資生堂、また大船駅そばの栄区内にある芝浦メカトロニクス、三井東圧化学(現在は廃止、大規模マンションであるガーデンアソシエになった)などの工場が造られ工業地帯ともなった。戦前には横須賀線、神奈川県道23号原宿六ツ浦線など海軍の施策により作られた交通網に関連して、横須賀海軍工廠深沢分工場(深沢地区。戦後は国鉄大船工場になる)、第一海軍燃料廠(横浜市栄区)など、海軍関連の施設が作られた。戦後は1960年代頃から東京・横浜のベッドタウンとして丘陵地帯にも住宅が開発され人口が増加した。1995年、松竹大船撮影所の一部にテーマパーク「鎌倉シネマワールド」が開設されたが1998年に閉鎖され、撮影所自体も2000年に閉鎖され鎌倉女子大学大船キャンパスになった。 |
大船の大船の由来・範囲 古来湿地帯に丘が点在する地域であり、語源としては大きな船が入ったため「大船」、また粟を積んだ船が出入りしたため「粟船」(大船五丁目にある常楽寺の山号が粟船山[ぞくせんざん]でその裏の丘が[あわふねやま]と呼ばれる)から転じた、あるいは丘の形が船のような形をしていたから、などの説がある。大船と呼ばれる地域については上記の正式地名のほか、鎌倉市の行政区分ではより広く鎌倉市北西部の大船駅東側から山ノ内(北鎌倉駅周辺)などを含めて大船地域とよぶ。西に隣接する玉縄地区も含む旧大船町の範囲全体(現在の大船警察署管内)を大船と呼ぶこともある。さらに大船駅は隣接する横浜市栄区笠間にもかかっていることから通称としてはこのあたりも大船と呼ぶことがあり、栄区のより広い範囲についても根岸線開業以前は大船と呼ぶことがあった(根岸線本郷台駅の計画段階の仮称は「新大船駅」であり、横浜栄共済病院も「大船共済病院」から改称された)。 |
大船の施設 大船駅周辺施設については大船駅#駅周辺も参照のこと |
大船の大船音頭 大船音頭は、大船を唄いこんだ音頭。松竹撮影所が大船に移転した1936年以後に、松竹関係者により作成されたと言われる。その後、演技されなくなり、歌詞や振り付けも不明になっていた。しかし、2007年に歌詞が発見されたため、町おこしの一環として、新たな振り付けで復興が検討されている。 |
キ8 (航空機)の概要 1930年代欧米の各国では単発・複座戦闘機の開発が盛んに行われていたが、これに刺激を受けた中島では自主的に単発・複座戦闘機を開発することにした。昭和9年から10年にかけて5機の試作機が完成し、陸軍ではキ8の名称を与えテストすることにした。キ8は全金属製の単葉・固定脚機で、主翼は逆ガル式になっていた。また、風防、エンジンカウリングについては複数のタイプの物が装着され試験された。陸軍によるテストにおいては一般飛行性能は九一式戦闘機と同等とされたが、安定性不良や機体各部の不具合が指摘された。また、試験中に垂直尾翼の破壊事故を起こしたため、試作5号機は垂直尾翼に背鰭を付けて対処するなど、実用化に向けては改善点が多く残っていた。さらに、陸軍内においては単発・複座戦闘機に対する運用方針が固まっておらず、仮に本機を採用したとしても運用の機会が無い状態であった。結局キ8は不採用となり、試作機5機の製造で終わった。その後試作機は連絡用に利用された。 |
第5次西成暴動の事件の発端 1966年5月28日午後9時35分頃、あいりん地区内の碁会所で火事が発生した。しかし大阪市消防局の消防車が駆け付けるのが遅かったため、「(ドヤ街の住人だからって)馬鹿にするな」と騒ぎ始め、消防隊員にくってかかった。そして消防隊員が彼らを排除したことから騒ぎが大きくなり始めた。 |
第5次西成暴動の事件の概要 午後10時頃、大阪府警察西成警察署は、群衆を火事現場から立ち退かせようとした。すると群衆は500m先のパチンコ店前に移動し、日頃の鬱憤晴らしのためにそのパチンコ店に投石し始め、窓ガラスやネオンが叩き割られた。その間に警察官が襲われ、拳銃が奪われた。午後1時20分頃から雨が降り始めたため、ようやく群衆は解散した。翌日5月29日は、雨天にもかかわらず午後あたりから群衆が集まり始め、前日に襲撃したパチンコ店とその隣のパチンコ店にも投石を開始、午後7時になると大阪府道尼崎平野線にも群衆があふれ出し、市バスに投石するなどした。5月30日も日雇い労働者は騒いでいたが、この日を境に次第に平穏を取り戻していった。 |
スノータイヤの構造 スノータイヤは一般的に、ノーマルタイヤやオールテレーンタイヤとは異なるゴム組成物を用いて製造される。スノータイヤのゴムは氷点下などの低温でもしなやかさを失わず、雪をトレッド内部に掻き込むように路面に食いつくことでノーマルタイヤよりも優れたトラクション性能を発揮する。現在の日本では使用が禁止されているが、地域によってはスノータイヤの氷上グリップ性能を補助する為に金属製のスタッド(スパイク)をトレッド面に打ち込んだスパイクタイヤの使用が認められている国も存在する。 |
ウェルズ襲撃の歴史的背景 ウェルズは、ニューイングランド北東部にある入植地で、ヌーベルフランスからの侵略から早く立ち直った集落だった。その他にも、1607年と早い時期に入植が始まったポプハムや、1628年に入植が始まったペジェプスコット(現メイン州ブランズウィック)といった集落も、同じメイン植民地の北部にあったが、わずかな砦と駐屯隊があるのみで、あとは放置されていた。1675年のフィリップ王戦争開始と共に、インディアンが、これらの、初期に開拓された集落の多くを攻撃して破壊したためであった。ヌーベルフランスは、自国領とみなしていた地域に、ニューイングランドが侵略して来るのに腹を立て、アベナキ族を使ってイングランド系集落に妨害を加えさせた。 |
ウェルズ襲撃の1691年の襲撃 ウィリアム王戦争の時期、ウェルズには80の民家と丸太小屋が、ポストロードに沿って立ち並んでおり、1691年の6月9日、族長のモクサスに率いられた200人のインディアンたちがこの集落を襲ったが、民兵大尉のジェームズ・コンヴァースと民兵隊は、砦にいた副官ジョセフ・ストアラーの駐屯隊を守りきった。別の族長であるマドカワンドは、翌年もここに来て、犬をけしかけてコンヴァースを追い出してやると脅しをかけた。インディアンたちはその場から退却し、ヌーベルフランスまで戻る途中、ヨークカウンティのネディック岬沖の船に侵入して乗員の大部分を殺し、またその地域の村落を焼いた。 |
ウェルズ襲撃の1692年の襲撃 それから1年が過ぎた頃、おびえた様子の傷ついた牛たちが、牧場から街中へと突如走り込んできた。これは明らかに、インディアンたちが攻撃を仕掛ける前ぶれであり、そのため住民たちは避難を始めた。1692年6月10日、ラ・ブロニェリーに率いられた400人のインディアンと数名のフランス人部隊がウェルズに進軍してきた。フランス軍は、コンヴァースがストアラーの駐屯部隊にいるものだと思っていた。しかしコンヴァースは、15人の民兵と、町の住民の大部分と共に、数日続いた包囲攻撃に抵抗した。フランス軍は、集落と、小さな船着場とをかわるがわる攻撃した。その船着場には、駐屯部隊のサミュエル・ストアラーとジェームズ・グーチ、そして14人の兵が、2隻のスループ船とシャロップとで援軍に駆けつけていた。インディアンたちは船めがけて火のついた矢を放ったが、イングランド艦の乗員に消し止められた。インディアンたちはまた、荷車の後ろに、分厚い板を壁状に垂直にくくりつけ、干潮時にイングランド艦めがけてそれを転がした。ラ・ブロニェリーと26人のフランス兵、インディアンは、板の後ろの部分にあれやこれやと物を入れて敵軍の方に転がしたが、一番近いイングランド艦まで50フィート(15.2メートル)ほどのところで、荷車は干潟に車がめり込んで動かなくなった。荷車を引き揚げようと苦闘していたラ・ブロニェリーは、その場で頭を撃ち抜かれた。残りの者は走って逃げたが、銃弾が雨あられと飛び交う中で倒れる者もいた。次にフランスとインディアンの連合軍は、引火性の塗料を塗った、およそ18平方フィート(1.67平方メートル)から20平方フィート(1.86平方メートル)のいかだを下流へと引っ張った。干潮のため、敵艦に火がつくのを期待してのことだった。しかし風向きが変わって、いかだは反対の方向へと流れた。インディアンたちは弾薬が底をついて退却したが、その際に教会と数件の空き家を焼き、見つけられるだけの牛を撃ち殺した。戦闘が始まる際に、砦に船を集めようとしていて捕えられたジョン・ダイアモンドを拷問にかけて殺した。彼らはまた、ラ・ブロニェリーを含む味方の遺体をもそのままにして立ち去った。少人数で多勢の相手に勝ったコンヴァースはこれで名を上げ、出世した。ストアラーの駐屯隊を記念したストアラー公園に、花崗岩でできたコンヴァースの記念碑がある。 |
ウェルズ襲撃の1703年の襲撃 アン女王戦争中の1703年8月10日、この集落は再び襲撃に遭い、39人の住民が殺され、あるいは拉致された。また多くの住民が負傷した。前回の襲撃の後に再建された民家や納屋は、またも焼かれてしまった。アン女王戦争中の、メインにおける最後のアベナキ族による攻撃は、またしてもウェルズで起こった。インディアンたちは結婚式のパーティーを襲い、3人を殺し、そして、短期間だが1人を捕虜とした。1713年のポーツマス条約で、インディアンとイングランド系住民の間に和平がもたらされたが、長くは続かなかった。1722年、インディアンたちの敵対心の温床となっていた、ノリッジウォックのアベナキ族の村から、また入植者たちへの襲撃が行われた。そして1724年8月23日のラル神父戦争で、208人から成るマサチューセッツ湾直轄植民地の民兵隊が、ケネベック川を上ってノリッジウォックを壊滅状態にした。この地域の治安はかなり回復され、1745年のルイブールの戦いの後には、インディアンの襲撃は鳴りを潜めた。 |
ペトロールズの概要 メンバーは長岡亮介、三浦淳悟、そして河村俊秀の3人。英国で「ガソリン」を意味するバンド名は、クルマ好きの長岡が命名した。結成のきっかけは、もともと色々な場でギターを弾いていた長岡が、純粋に楽しくやりたいことを追及できる場所を作ろうと思ったことから。以前からブラック・ミュージックも好きで、普通のロックではない、他にない音楽をやりたかった長岡が、ちゃんと話せる人とバンドを組もうと、ヒップホップのバンドをやっていた三浦と高校時代からの付き合いの河村を誘って結成。3人編成にしたのは単純にそれが格好いいと思ったからというのと、バンドとしての振り幅が大きいと思ったから。人数が増えるとそれだけ最小限の人数が大きくなってなかなか融通が利かないが、トリオなら大きくも小さくもなれるため。オフィシャルサイトのイラストはロンドン在住のイラストレーターで、長岡が中学の頃に組み、その後も活動を継続する「ししゃも」というバンドにコーラスとして参加していたYuko Mによるもの。 |
ペトロールズの楽曲制作 曲やアレンジの組み立て方は、長岡が大まかなデモを持ち込んでそれをスタジオで合わせ、アレンジが落ち着くまでライヴを重ねて完成させるというもの。CDは単なる記録でしかないと思っており、できた当初の感じから楽曲が変化して行くのを楽しむ。活動を続ける内に音数がどんどん少なくなり、出来た間を楽器ではなくコーラスで埋めるというスタイルがより鮮明になった。歌詞は日本語にこだわっている。きっかけは、ロンドンに語学留学していた頃、音楽業界関係者がよく来るパブでバイトしていた長岡の知人が面白い音楽を探していたOASISのエージェントにロックっぽい音楽をやっている日本人として彼のことを伝えたところ、『英語の音楽はもう飽きてるし、新しい音楽に出会いたいからすごく興味がある』と言われたこと。あとからそれを聞かされた長岡が「そもそもは本場を見るような感覚でイギリスに行ったが、現地の人がそういうことを言っているなら、自分は日本人だからこそできる音楽を作ればいいんだ」と気が楽になり、日本人は英語にコンプレックスを抱くことなく日本語で表現し、日本人として日本の音楽を日本から発信したほうがいいと考えを改めたため。 |
ペトロールズの略歴 2005年2月5日、長岡が三浦と河村を誘い結成。同年10月15日に下北沢ガレージで初ライブ。以後も下北沢ガレージを拠点として活動。2007年4月1日、下北沢ガレージ創立13周年記念に、「激走 亮介街道」と銘打ったライブイベントを開催。ライブ会場で限定ミニアルバム『仮免(かりめん)』をリリース。2008年2月17日にフィルムコンサート「ペトロールズ初音源収録曲選考会」を開催し、3月24日に初の公式音源『MUSIC FOUND BY HDR-HC3』をリリース。12月31日にミニアルバム『EVE2009』をリリース。2010年11月26日から初のツアー「第1スティント」を敢行。26日の東京・六本木を皮切りに5日間で広島、福岡、大阪を回る。2015年2月14日からツアー「go Apex」敢行。14日の名古屋、梅田、渋谷の3ヶ所を回る。8月12日に結成10年目にして初の全国販売となる1stアルバム『Renaissance』をリリースし、全国11カ所のツアー「Renaissance」を敢行。その後は10月にかけてワンマンツアー「Our first "conventional" tour "Renaissance"」を実施する。2016年9月よりライブツアー「On The Road Again Again」を開催。2017年は2月から3月にかけて全国ツアー「BASE-12」を行う。3月22日にトリビュートアルバム『WHERE, WHO, WHAT IS PETROLZ?』がリリースされる。 |
桜井安右衛門の経歴 東京府出身。桜井常次郎の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1922年、東京帝国大学経済学部を卒業。同年11月、高等試験行政科試験に合格。農商務省を経て内務省に入省し社会局属となり労働行政畑を歴任。1938年、厚生省大臣官房文書課長となる。1942年1月、栃木県知事に就任。戦時下の対応に尽力。1943年7月、初代東京都民政局長に転じた。1945年に退官し、その後、公職追放となった。戦後は、健康保険組合理事長、ILO東京支局長、中央労働協会長、東京ヘレン・ケラー協会理事長などを務めた。 |
ツェンダップ・ベラの概要 ベラの設計は、イタリアの「パリラ・グレーハウンド」(Parilla Greyhound)という名でも知られる「パリラ・レヴリエール」(Parilla Levriere)の影響を強く受けていた。全体的な外観と共にファン無しでもエンジンの冷却ができるようにスクーター本体の中心線に沿った特徴ある導風トンネルの構造も類似していた。1953年の発売時にベラは146 ccの2ストローク 単気筒エンジン、12インチのタイヤ、6Vの電装品、キックスターターとundamped テレスコピックフォークを備えていた。燃料タンクは座席に下に据え付けられていた。サバーバネット(Suburbanette)と呼ばれるベラの中の1モデルが1953年から1954年にかけてアメリカ合衆国向けに生産された。サバーバネットは通常のベラからエンジンを覆っているボディパネルを取り外したものであった。370台のサバーバネットが販売された。10 hp (7.5 kW)の出力を発生する197 ccエンジン版は1954年5月から販売された。後にフロントサスペンションはテレスコピックフォーク式からフォークの左側にのみ緩衝装置を備えるアールズフォーク式へと変更された。後期型のベラは2つの6Vバッテリーから供給される12Vの電装品を装備し、セルモーターも備えるようになった。ベラは、イギリスにはアンバサダー・モーターサイクル社(Ambassador Motorcycles)、アメリカ合衆国にはインターナショナル・モーターサイクル社(International Motorcycle Company)により輸入された。エンジン排気量150 ccから200 ccまでの約13万台のベラが販売された。 |
福島翔太郎の来歴 桐蔭横浜大学を経て、2016年よりサウルコス福井へ加入した。2017年、ヴァンラーレ八戸FCへ移籍したが、同年7月14日付で退団。7月27日、自身のTwitterで現役引退を発表した。 |
橘真央の略歴 2004年にAVデビュー。主に企画系の作品に出演した。レズもの作品の出演も多かった。2005年7月、『橘真央のレズバージン千人斬り』(ハンドメイドヒョジン)で監督デビューを果たした。2006年に引退した。 |
日本の元首の内閣元首説・内閣総理大臣元首説 長野和夫によれば「国民主権下では、国家を代表する資格をもつ国家機関の長で、国内的にも一定の統治権行使の権限をもつ首相が元首であるべきとの意見が学者の間では強い」。芦部信喜によれば、天皇は君主・元首であるかどうかが争われている。元首の要件で特に重要なのは、外国に対して国家を代表する権能(条約締結や、大使・公使の委任状を発受する権能)である。しかし天皇は外交関係では、七条五号・八号・九号の「承認」・「接受」という形式的・儀礼的行為しか憲法で認められていない。よって伝統的な概念によれば、日本国の元首は内閣または内閣総理大臣となる(多数説)。しかし、そうした形式的・儀礼的行為を行う機関をも元首と呼んで差し支えないという説もある。日本では、元首という概念自体が何らかの実質的権限を含むと一般に考えられてきたので「天皇を元首と解すると、承認ないし接受の意味が実質化し、拡大するおそれがあるところに、問題がある」とされる。 |
日本の元首の天皇非元首説 天皇は元首ではないという考え方は、天皇は政治上の権能を有さず、また外交上条約の締結などの権限を行使していないことを理由とするものである。宮沢俊義、鵜飼信成、芦部信喜などがこの立場である。ベン=アミー・シロニーの学説では、「現代の日本皇帝の公的地位は、同様に君臨すれども統治せぬイギリス君主の公的地位よりも低い」のであり、「日本皇帝は内閣の承認の下で、一種の元首における儀礼的権能を行うが、元首でさえない」となっている。 |
日本の元首の天皇元首説(またはそれに類似する説) 天皇は形式的な権限しか有していないが、外国の大使、公使の信任状が天皇を名宛人とし、またその信任状を天皇が受理するなど実務上はあたかも天皇に実質的な権限があるが如き取り扱いがされており、また、元首は独任制の機関であって内閣を元首とすることには無理があるから、天皇を元首と解することは可能であるとする。伊藤正己らがこの立場にある。 |
日本の元首の元首不在説 清宮四郎は、前述のように天皇は「君主」とは言いうるが、元首的な役割が内閣と天皇に分割されているため、日本国に「元首」はいないとする。また小林直樹は、天皇は元首ではなく「準元首」とする説を唱えている。 |
日本の元首の百科事典等の記述(天皇非元首説) 『国史大辞典』では、法律制度上、象徴天皇は君主でも元首でもなく、神の子孫としての神聖な権威は消滅したとされている。『法律用語辞典(第4版)』は、象徴天皇と元首天皇は異なるとしている。『日本大百科全書』で安田浩は「象徴天皇には、通常の立憲君主のもっている政治上の外形的権限およびそれに基づく危機に際しての介入権限も与えられておらず、その点では君主とも元首ともいいえない存在となった」と述べている。一方、田中浩は同書で「最近では、対外的に国家を儀礼的に代表する権限をもつだけで十分とし、国家の名目的・儀礼的な象徴の地位にある者を元首的性格をもつ者とみる考え方も出てきた。この場合には天皇が元首であるということになろう」としている。安田浩は「天皇の「元首」化の動きとその批判」の節で、「天皇の特殊な権威を強調すればするほど、日本は民主主義の基準からはずれた国家ではないのか、との疑念が生じることは避けられない。象徴天皇制のいっそうの権威化が進むか否か、その岐路が、問題となりつつあると考えられる」としている。 |
日本の元首の内閣による過去の言及 内閣法制局は、「要するに元首の定義いかんに帰する問題である」「かつてのように元首とは内治、外交のすべてを通じて国を代表し行政権を掌握をしている、そういう存在であるという定義によりますならば、現行憲法のもとにおきましては天皇は元首ではないということになろう」「今日では、実質的な国家統治の大権を持たれなくても国家におけるいわゆるヘッドの地位にある者を元首と見るなどのそういう見解もあるわけでありまして、このような定義によりますならば、天皇は国の象徴であり、さらにごく一部ではございますが外交関係において国を代表する面を持っておられるわけでありますから、現行憲法のもとにおきましてもそういうような考え方をもとにして元首であるというふうに言っても差し支えない」「天皇は限定された意味における元首である」としており、要するに、天皇を元首と呼びうるかは定義によるとしている。 |
日本の電気式気動車の機械式気動車の問題 日本の気動車は、1920年代に登場して以来、ローカル線の小規模輸送を中心に使用されてきた。このため、複数車輛の連結運転に必要とされる総括制御(リモートコントロール)技術はそれほど必要とされず、変速装置には総括制御不能だが構造が簡易で済む「機械式」が用いられた。機械式気動車で2両編成以上を組む場合は、各車両に運転士を一人ずつ乗せ、先頭車運転士が鳴らす汽笛やブザーに合わせて、後続車運転士が変速やスロットル操作を行っていた。タイミングを合わせるのが大変難しいため、3両編成程度が実用の限界だった。このような運転方法では高速運転も輸送力のある長大編成運転も困難であるし、1両ごとに運転士が一人ずつ必要になるため、気動車本来のメリットである合理化にも逆行するものであった。 |
日本の電気式気動車の戦前の電気式気動車 エンジンで発電機を回し、その電力でモーターを駆動して走行する「電気式(発電式)」気動車・ディーゼル機関車は、欧米で1920年代から登場し、高速列車の分野でも成績を収めていた(ドイツのフリーゲンダー・ハンブルガーなど)。この方式は基本的にエンジンの回転数調節だけで速度調節ができ、総括制御も簡単だった。欧米での成功に刺激されて、第二次世界大戦前の日本でも以下のような試みが行われている。 |
日本の電気式気動車の鉄道省キハニ36450形 鉄道省が1930年(昭和5年)にキハニ36450・キハニ36451の2両を試作した20m級の大型ガソリンカーで、日本初の電気式気動車である。1920年代にアメリカの鉄道に出現していた、「ガス・エレクトリック」もしくは「ドゥードゥルバグ」と呼ばれた電気式ガソリンカーを国鉄流に模したものであった(ただし、ドゥードゥルバグは機械式気動車の場合もある)。片側の運転台直後を機関室として、その床上に艦船向けの発電用エンジンを転用した池貝製作所製の直列6気筒、排気量24.376l、連続定格出力200HP/1250rpmのガソリンエンジンを搭載して、芝浦製作所製の135kW/750Vの発電機を直結駆動、その発生電力で、客室側の2軸ボギー台車(TR14類似のこの形式専用のもの)に装備した三菱電機製 80kW/600VのMT26モーター2個を駆動するシステムである。機関室側の付随台車は3軸ボギー式(TR72類似の専用のもの)で5kW電動機での強制通風ラジエーターを屋上装備するなど、極めて独特な外見の車両であった。機械室には暖房用に小型ボイラーを据え付け、荷重1tの荷物室を持つなどフル装備であった。キハニ36450が日本車輌製造で、キハニ36451が川崎車輛でそれぞれ製造され、1931年から東海道・北陸線の彦根-長浜間区間列車として運転を開始し、これにあわせて、この区間内に2両編成分の長さのホームを持つ坂田と田村の2駅が新設された。また、1936年には木造電車改造の制御車(キクハ16800形)と編成を組み、総括制御を実現している。本形式は故障こそ少なかったものの、電気式であることによる重量増に加え、製作費を抑える関係で車体に客車用の部品を流用したり、外板厚も当時の電車と同じ2.6mmとしたため、自重が49.1t、運転整備重量が50tときわめて重いものとなっていた。結果、性能は平坦線では75km/h(キクハ牽引で68km/h)、12.5‰の勾配で40km/h(同26km/h)と(キハニ5000の平坦線での55km/hよりは高いものの)十分といえるものではなく、重軸重(付随台車で10.159 - 10.439t)であったこともあり、ローカル線での使用という本来の目的を達することはできなかった。結局、鉄道省は一時電気式をやめ、機械式の軽量ガソリンカー(キハ41000形など)の開発に重点を置くようになる。本形式は電車に改造される計画もあったが、太平洋戦争中に走行休止となり、動力系を撤去して国鉄工場職員の短距離通勤輸送の客車代用や大井工場事務室代用に用いられた時期もあったが1949年に廃車、のち解体された。なお、2軸台車が北陸鉄道ED301に、モーターが東武鉄道日光軌道線ED611に転用された。 |
日本の電気式気動車の満鉄ジテ1形 日本の資本・技術によって運営されていた南満洲鉄道(満鉄)が、1935年に名古屋の日本車輌製造本店で製作した電気式流線型ディーゼル列車である。ジテは編成中の手荷物重油動車の形式であるが、編成を指した通称としても用いられている。同社はこれ以前から主として機械式の気動車を導入しており、電気式気動車としては1931年に重油動車ジハ1形2両と監査用ガソリン動車スペキ1形1両を自社工場において製作・使用した実績があった。編成一端の手荷物重油動車床上に中速型の500HP級ディーゼル発電機を搭載し、編成の両端台車に駆動用モーターを装架したもので総括制御可能、客車は連接構造であった。ジテ1+ロハフ1+ハフ1+ハフセ1の4両で編成され、合計6編成が製造された。4編成はスイス・スルザー (Sulzer) 社の6VL25型予燃焼室式エンジン、2編成は新潟鐵工所のK6D型直噴式エンジンを搭載した。カタログスペックはほぼ同等だったが、新潟製は約3割重量が重く、スルザーの方が実際の成績も良かったようである。総重量に比して低出力ではあったが、平坦で駅間距離の長い満鉄線では致命的な問題とはならなかった。大連近郊の近距離・中距離普通列車に用いられた。設計時よりハフセを省いて2編成を連結する配慮(この運用法の場合はジテの従台車をハフセの動力台車と交換して出力を維持した)がされており、1943年にはこの編成でノンストップ高速試験運転を行って奉天 - 新京間 (304.8km) を2時間58分で走破した。本形式は中華人民共和国成立後、他の満鉄動車とともに電車に改造されて撫順炭鉱の通勤列車に転用された。 |
日本の電気式気動車の相模鉄道キハ1000形 日本の私鉄史上唯一の電気式気動車であり、戦前の私鉄では数少なかったディーゼル動車の一つである。現在のJR相模線を経営していた当時の相模鉄道が汽車製造会社東京支店との共同で1935年に開発した。側面から見ると「完全な台形」の奇抜な形状を持つ13m級2ドアの小型気動車で、床下にはドイツ・ユンカース社の水平型120HPディーゼルエンジン(5-4TV形、2ストロークユニフロータイプ)を搭載。342V・70kWの発電機を駆動し、発生電力で永久直列に配線された52kW主電動機2個を駆動した(電装部品は東洋電機製造製)。総括制御可能である。ユニークなのは抵抗器を車載して強力な発電ブレーキを常用していたことで、なおかつその廃熱を車内暖房にも利用するというアイデアを日本で初採用している。この抵抗器暖房のアイデアは1950年代に一部私鉄電車で再び用いられたが(当の相鉄でも試用された)、発熱量の調整が難しく、すぐに廃れた。この形式は小形軽量化構造の車体で自重17.5tと大きさの割に高出力で俊足でもあり、非常に優秀な成績を上げた。キハ4両のほか1938年に付随車サハ1100形1両も増備され、2 - 3両編成を組んで鉄道省横浜線八王子駅へ乗り入れた実績もある。旧・相模鉄道は1944年に運輸通信省により戦時買収を受け、国鉄相模線となるがキハ4両は買収対象にならず、前年の1943年に合併していた旧・神中鉄道(現在の相鉄本線)の区間へ転属した。サハについては書類上省籍を得ているが実車はキハ同様転属したとされる。戦中・戦後の混乱期に直流600V電化区間用の電車に改造されたが、時期は諸説ある。東京急行電鉄経営委託期間に同線の架線電圧が全線直流1,500Vに昇圧されたが、主電動機の結線が永久直列との構造から昇圧不可能な本車は、当時直流600V電化であった東横線に転属した。新車割当の代替供出として1948年に日立電鉄(2005年廃止)に譲渡され、改装を受けつつ長く使用されたが、1997年までに廃車となった。 |
日本の電気式気動車の鉄道省キハ43000形 鉄道省が、アメリカやドイツの電気式気動車による高速列車に刺激を受け、1937年にキハ43000形キハ43000・キハ43001、キサハ43500形キサハ43500の合計3両を試作した流線型気動車。メーカーは神戸の川崎車輌である。流麗な車体形状の3両編成で、水平シリンダー形の240PSディーゼルエンジン「DMF31H形」を床下搭載した20m級車のキハ43000形が、17m級付随車のキサハ43500形を挟み込む構成である。エンジンは新潟鐵工所、池貝鐵工所、三菱重工業が各1台製造したうちからキハに各1台を搭載し、交換して試験を行った。キハにはキハニ36450形と同様のMT26を主電動機として一方の台車に2基ずつ吊り掛け駆動方式で装架・駆動していた。鉄道省では幹線の都市間連絡列車に用いることを想定していたといわれる。本形式は総括制御可能であるのみならず、常に3両編成で運転することを前提に設計されていた。小型の自動式重油ボイラーをキサハ43500に搭載し、3両すべての暖房をまかなう構造だったのである。またキサハには、国鉄の制式気動車としては初設置となるトイレも設けられていた。意欲作であったが、当時としては大型のエンジンに部品破損などのトラブルが頻出して十分な成績を収められず、量産はされなかった。ほどなく戦時体制下に入り、燃料供給にも問題が生じたため、走行休止となった。本形式は1945年、浜松工場で米軍機の爆撃により被災し、キハ43000形2両が復旧しないまま廃車された。キサハ43500形のみ電車・気動車の付随車として戦後も飯田線・関西線で使用されたが、1960年代に廃車された。このように太平洋戦争以前、まとまった両数の電気式気動車を営業運転に供したのは、南満洲鉄道と相模鉄道だけであった。1938年以降の戦時体制下では燃料不足によって気動車そのものの運行が困難となり、電気式気動車の開発も十分な成果を見ないままに頓挫した。しかしこの間にもディーゼルエンジンの研究は進められており、1935年から開発が行われた鉄道省の気動車用150ps級ディーゼルエンジンは、1942年に設計を完了している。このエンジンは、のちにDMH17形と呼ばれることになる。 |
日本の電気式気動車の国鉄における戦後の展開 戦後も燃料事情の悪さから気動車の活用はままならなかったが、これが改善された1950年以降、戦前の気動車の再生措置や、新規の気動車製造が、本格的に開始される。だがこれらはすべて機械式気動車であった。日本国有鉄道は1950年に80系電車を開発して東海道本線に投入、従来機関車牽引の客車列車が主力であった中・長距離列車の分野について、電車で代替できることを証明した。電車に代表される動力分散方式は、加減速性能や線路への悪影響の少なさで、機関車方式より有利であり、80系電車は戦後の国鉄近代化の尖兵となった。しかし、当時の日本では鉄道の電化区間自体が少なく、多くの路線は主要幹線も含め、維持と運行に経費のかかる蒸気機関車がほとんどすべての列車を牽引していた。このような非電化路線の近代化には、ディーゼル動力の採用が不可欠だった。蒸気機関車を排除してディーゼル動力に切り替える「無煙化」は、乗客・乗員や沿線への煙害を無くすとともに、列車速度の向上、エネルギー効率の改善、保守・点検の効率化等、鉄道の抜本的な体質改善に寄与するものである。だが1950年代初頭の日本では、鉄道用ディーゼルエンジン技術が十分な発達を見ていなかった。ことに大型蒸気機関車を代替できるような大型ディーゼル機関車の開発は、大出力エンジンの開発困難によって阻害されており、本格的な大出力機関車は1960年代まで出現しなかった。相前後して、1936年から1940年にかけて試験途上に在った気動車用液体式変速機の実用化開発が1951年以降台上試験から再開され、同年からキハ42500形に搭載しての実用化試験が開始されていた。液体式のレイアウト自体は機械式気動車の変速機のみをトルクコンバータ動力伝達に置き換えたような構造である。絶対的な動力伝達効率は電気式に劣るものの、低出力車の場合は電気式より低コストかつ軽量に仕上がり、総合的には効率が良い。総括制御についても、戦前の鉄道省時代、既に液体式変速機開発と並行して専用の電磁遠隔制御システムが開発されており、この面での障害もなかった。このため、国鉄工作局動力車課の技術陣は液体式を戦後形気動車システムの本命と考えて開発を進めており、実用化目標を1952年中と計画していたが、実際には計画どおりに行かず、1951年から1952年にかけての試験でトラブルが続いており、速やかに量産化して実用投入できる状態になかった。一方で気動車用のディーゼルエンジンとしては、DMH17形 (150ps/1500rpm) が1951年より量産され、機械式気動車に搭載されて好成績を収めていた。既に使えるエンジンがあるという情勢下、国鉄上層部では、総括制御可能な編成運転のできる気動車の早急な実用化を、気動車開発陣に強く要求した。やむなく動力車課では、液体式が使用可能になるまでの「当座の実用になる総括制御気動車」として、DMH17系エンジンを利用し、開発が比較的容易な電気式気動車、それも比較的簡略なシステムのモデルを先行製作することを決定した。その産物がキハ44000形気動車である。当時の開発担当者であった北畠顕正は晩年のインタビューで44000形の開発について「電気式を実用化させようとは思っていなかった」「総括制御気動車を求める上層部へのポーズのために作った車両」とまで語っている。かつて日本の気動車の歴史では、1950年代初頭の時点で国鉄によって電気式と液体式が比較され、液体式の優位性が実証されたためこちらが採用された、という理解が為されてきたが、北畠証言が事実であれば、国鉄は戦後の総括制御気動車開発の再開時点で、既に電気式気動車の将来性に見切りを付けていたと解するべきであろう。 |
日本の電気式気動車の試作車 電気式気動車の試作車として1952年にキハ44000 - キハ44003の4両が製作された。1両では営業運転できない片運転台車であり、2両以上で総括制御を行うことを前提とした設計である。 |
日本の電気式気動車の外観 片運転台、ステップ付片開き3扉構成の20m級鋼製車である。非電化区間における80系電車的なスタンスで設計されただけに、正面形状は80系電車に酷似した2枚窓の「湘南形」であるが、運転台直後ドアのステップから前面全周までスカートもどきに外板が回り込んでおり、この「顎」から連結器やジャンパ栓が飛び出していて、やや面長な容貌であった。のちにこれらの初期試作車4両は「顎」の部分を切り落としている。軽量化のため、車幅は通常の国鉄車両より20cm近く狭い2.6m級で、屋根も浅い。これはそれ以前の気動車と同様で、軽量化技術が未発達だった時期のやむを得ない重量削減策であった。側窓は同時期の80系電車に類似した1段上昇式で、窓下にはウインドウシル(補強帯)が通されている。 |
日本の電気式気動車の車内設備 車内は車幅が狭いためあまりゆとりはなかった。座席は軽量化のため、華奢な骨組みにビニール生地を張った粗末なもので、座り心地は良くなかったという。また暖房装置も戦前形気動車同様に、ヒートエクスチェンジャーによる排気ガスの廃熱を利用した簡易なもので、十分な暖房性能は得られなかった。 |
日本の電気式気動車の台車 台車は新開発の軽量台車であるDT18である。プレスした鋼板部材を溶接して組み立てる近代的な構造で、軸ばねも先進的なウイングばねであった。しかし、本来十分な柔らかさが必要な枕ばねに、軽量化・単純化のため防震ゴムブロックを採用した。そのあまりの硬さに、乗り心地は惨憺たるものとなった。特に軸ばねの機能が殺されてしまう両抱き式の基礎ブレーキが作動した際の振動はすさまじかったという。このゴムブロックによる枕ばねは、後続の液体式気動車用台車であるDT19でも無批判に踏襲され、欠陥もそのまま引き継がれてしまった。 |
日本の電気式気動車の動力装置・駆動装置 車体中央にはステップや戸袋を持つ中央扉があり、強度面で不利なため、車体中央から運転台側に寄った床下に重量のある発電セットを搭載している。DMH17A ディーゼルエンジン (150ps/1500rpm) で直結したDM42直流発電機(300V・100kW)を駆動し、発生した電力で後位側台車に架装したMT45主電動機(端子電圧300V/定格出力45kW)2基を駆動した。このMT45は、日本初の量産型カルダン駆動方式主電動機である(直角カルダン駆動方式)。当時カルダン駆動電車は、私鉄各社でも開発途上であり、「『電車』ですらない」キハ44000形への採用は、通常では考えられない異例の措置であった。この背景には、試作車としての技術試験の意味合いと、軽量化の一手段としての面があったと推定される。なお、国鉄はその後の在来線電車では中空軸平行カルダン駆動を標準とし、標準軌間の新幹線ではWN駆動方式を採用したので、直角カルダン方式に対応する国鉄制式モーターはMT45が唯一である。制御システムはドイツで考案された「ゲブス式」と呼ばれる、複巻界磁回路による比較的簡易化されたシステムで、ドイツのフリーゲンダー・ハンブルガー用気動車などでも採用されていた。エンジン回転は、力行時1,500rpmの最大連続定格、アイドリング時500rpmでそれぞれ一定とし、高速走行時には主電動機の弱め界磁制御も行う。これら一切は電磁弁で遠隔操作が可能であるため、総括制御が実現された。なお、キハ44000形とその派生形の電気式気動車、そして同時並行で開発された液体式試作車キハ44500形は、在来の機械式気動車同様に排気ガスがすべて床下排気方式で、古い形態を残している。また連結器も、キハ17形以降で標準となる小型の密着自動式ではなく、軽量型ではあったが並形の自動連結器であった。もっとも、これは日本製鋼所による一連の密着自動連結器開発が未成の時期の計画であったことによるもので、過渡期の車両らしい特徴である。 |
日本の電気式気動車の増備形 キハ44000形試作車は房総東西線等で試験運転され、一定の成績を収めた。この結果をもとに、翌1953年、キハ44004 - キハ44014の11両が増備された。基本は試作形に準じているが、鈍重な印象を与える「顎」が廃され、同時に側窓が当時のバスで流行していた「バス窓」となった。これは上段窓をH断面のゴムで支持した固定式とし、下段を上昇式とした、2段窓の一種である。採光と車体強度確保両立の一手段であるが、キハ44000形の場合は強度確保よりも当時の流行に合わせたという感が強い。結果、デザインは大いに軽快になった。キハ44000形は当初、主に房総地区の路線で2・4両編成を組んで普通列車に使用された。 |
日本の電気式気動車の国鉄キハ44100形・キハ44200形 キハ44000形増備形の兄弟形式と言うべきグループである。1953年(昭和28年)に3両編成5本15両が製造された。キハ44100形・キハ44200形の外観・性能は、44000形増備車と共通のバス窓タイプだが、中央扉を廃して2扉車となっており、3扉構造のキハ44000形よりも車体強度と重量の面で有利になっている。なお、2扉・バス窓という形態は、後の45000系液体式気動車に引き継がれている。中央扉に付随するステップと戸袋が廃されたことで台枠の切り欠きも不要となり、強度や艤装上の制約が減ったことを活かし、キハ44000形ではエンジンと発電機を運転台側扉と中央扉間の床下にずらして搭載していたのに対し、キハ44100形・キハ44200形では前後ボギー台車の中間に配置して、重量バランスを改善している。キハ44200形は基本的にキハ44100形と同形だが運転台の無い中間車に便所を設置しており、水タンクは通路をはさんだ反対側の床上配置とした。キハ44100+キハ44200+キハ44100という、Mc-M-Mcの3両固定編成を組み、登場当初、鹿児島本線の門司港駅 - 久留米駅間で主に快速列車に用いられた。 |
日本の電気式気動車の電気式気動車のその後 電気式は総括制御が容易という長所はあったが、低出力エンジンと効率の低い直流発電機の組み合わせでは、十分な性能は期待できなかった。これは150psで30t超級のキハ44000系にも当てはまる弱点であった。急勾配にも弱く、当初重点配備された房総地区においては、房総東線(現・外房線)大網駅 - 土気駅間の上り勾配において時速が 10 キロメートルを下回り、多客時には自然に停車してしまうことすらあったという。また中央から遠く離れた非電化地域で、地元の国鉄工場に電車技術に関するノウハウのなかった九州では、キハ44100形・キハ44200形の主電動機など電装系のメンテナンスに難渋をきたすという、意外な面からの障害もあった。エンジンやモーターの出力が低かったこともあるが、キハ44000系グループ自体、開発陣にとっては「液体式実用化までのつなぎの形式」として政策的理由から急造した存在に過ぎず、開発過程自体が消極的であったことも、芳しからざる成績の背景であったとも言える。一方、本命たる液体式変速機開発での変速機油漏れやクラッチ滑りなどの問題は1952年中に解決し、1952年12月には既に戦前に開発済みであった液体式気動車用総括制御システムを用いて、試作変速機を装備したキハ42500形での2両連結運転試験が成功していた。こうして1953年3月、キハ44000系の後を追うように、キハ44000形増備車と同スタイルの液体式試作気動車キハ44500形が竣工、試運転に供され、実用水準に達したことが実証された。その結果を受け、1953年後半からはキハ45000系(のちのキハ10系)が液体式気動車の量産形式として大量に増備されるに至った。少数派となったキハ44000系電気式気動車は、のち液体式化されるなどして以下のような経緯をたどり、最終的にはキハ10系液体式気動車の傍系グループに吸収されることになる。これらの液体式化改造の際に、台車をDT19に換装したものと、DT18からモーターをおろし、逆転器を装備して流用したものとがある。またエンジンも、DMH17B (160ps) かDMH17C (180ps) となり、連結器も密着自動式に交換された。 |
日本の電気式気動車のキハ44000形(15両) 1957年4月の気動車形式称号改正によりキハ09形(初代)キハ09 1 - キハ09 15となるが、同年から翌1958年にかけて液体式化され、運転台側の車体半分を郵便室・荷物室とした合造車に改造して、キハユニ15形キハユニ15 1- キハユニ15 15となった。1、4、11、14の4両は、後に運転台側を貫通型に改造している。 |
日本の電気式気動車のキハ44200形(5両) 1956年から1957年にかけて中間車のまま液体式化された。1957年4月の称号改正でキハ19形キハ19 1 - キハ19 5となった。1964年には常磐線の荷物輸送に充当する目的で、キハ19 1・キハ19 3 - キハ19 5が片運転台全室荷物車のキニ16形キニ16 1 - キニ16 4に改造された。しかし、電化路線で列車密度の高い常磐線では、停車頻度の多い荷物列車運用へ充当するには、非力なDMH17C 180ps級エンジンを1基搭載するのみの、この時期に一般的であった仕様の気動車では明らかに性能不足であった。そこで、4両は直ちに2エンジン搭載のキニ55形が改造・投入されて本形式は運用を外れ、翌1965年には4両すべてが郵便荷物合造車のキユニ19形キユニ19 1 - キユニ19 4に再々改造されて、房総地区に転用された。唯1両残ったキハ19 2は、1966年にキニ19形キニ19 1に改造され、四国で使用された。キニ16形とは、後位側への事務室新設などの差異がある。これらの元電気式気動車30両は、1970年代に入ると老朽廃車が始まり、1980年までにすべて廃車された。 |
日本の電気式気動車のMAハイブリッド駆動システムの試験 2007年10月、北海道旅客鉄道(JR北海道)はモーターアシスト方式ハイブリッド気動車の試作車として、同社のキハ160形気動車を改造した。このハイブリッド駆動システムの根幹を成すのは電子制御によるデュアルクラッチトランスミッションであり、その意味ではこれは機械式気動車の復権とも言える。一方で構造としては機械式や液体式気動車と同様に推進軸と最終減速機が残るため純粋な電気式気動車とは言えず、駆動系の適切なメンテナンスが必要になるほか、推進軸の脱落による事故のリスクも残る。長時間の駅停車時や低速走行時にはエンジンを停止させ、蓄電池での発進後、45 km/h でエンジンが始動する。エンジン始動後の力行は、モーターとエンジン両方の動力によって行い、惰行中はエンジンでモーターを回して発電、制動時はエンジンを止めてアシストモーターによって回生、それぞれ発生した電力を蓄電池に充電する。サービス電源は蓄電池から供給され、容量が低下した場合は自動的にエンジンが始動し充電を行う。こちらも、今までの気動車では不可能であった「走行エネルギーの回収・再利用」を実現している。また既存の液体式気動車をモータアシスト方式ハイブリッド気動車に改造することも可能であり、実際当該試作車も既存気動車を改造したものであった。JR北海道のモータアシスト方式ハイブリッド気動車試作車は、2007年11月から2009年1月ごろまで営業線での試験運転を行った。試作車で開発された技術を取り入れた車両としてJR北海道キハ285系が製作された。しかしJR北海道管内で不祥事が続発する中で「現状としては、『安全対策』と『新幹線の開業準備』に限られた『人』『時間』『資金』等を優先的に投入する必要がある」と判断、「コストとメンテナンスの両面から過大な仕様であること」「速度向上よりも安全対策を優先すること」「従来形式での車両形式の統一によって、予備車共通化による全体両数の抑制と機器共通化によるメンテナンス性の向上が図られること」として、試作車落成直前の2014年9月10日に開発の中止が発表された。 |
日本の電気式気動車のディーゼル・エレクトリック方式への方針変更 モータアシスト方式を断念したJR北海道では方針を転換し、既存の液体式一般型気動車の置き換えにあたってはJR東日本で導入される電気式気動車(GV-E400形)と同型の試作車(量産先行車)となるH100形(車両愛称:DECMO)を製作し、走行試験等による冬期の検証を2年行った上で2019年度以降に量産車の製造に入る予定となっている。これらのGV-E400形・H100形はディーゼル・エレクトリック方式を基本としつつ大容量蓄電池を取り除いた構成とされる。 |
日本の電気式気動車のJR西日本 西日本旅客鉄道(JR西日本)はマイルドハイブリッド方式の試験として、キハ122系気動車を試験的に改造した。また、2017年春に運行を開始した「TWILIGHT EXPRESS 瑞風」(87系気動車)でシリーズハイブリッド方式が採用されている。 |
日本の電気式気動車のJR東海 2017年6月、東海旅客鉄道(JR東海)ではキハ85系気動車の置き換え用となる特急用新型気動車においてシリーズハイブリッド方式を採用することが発表された。2019年末に量産先行車を落成、長期試験後の2022年度に量産車を投入する計画となっている。 |
日本の電気式気動車のJR九州 2018年1月、九州旅客鉄道(JR九州)が「(非電化区間における)次世代車両」として蓄電池搭載型ディーゼル・エレクトリック車両YC1系を導入することが発表された。2018年6月に川崎重工兵庫工場で試作編成が落成、納入されている。 |
ベイシティ (ミシガン州)の歴史 ベイ郡の中で後にベイシティとなる場所に最初に入った開拓者はレオン・トロンブルだと考えられている。1831年、サギノー川の東岸に丸太小屋を建てた。町としては1837年に設立され、1865年に法人化された。1834年、ジョン・B・トルーデルが、現在の17番通りとブロードウェイの角に丸太小屋を建てた。トルーデルは後に、その住宅から川沿いに北へ、現在のインダストリアル・ブラウンホイストとなっている場所まで土地を購入し、ベイ郡となった地域では最初の恒久的住人になった。ベイシティが郡内最大の町となり、郡庁舎が置かれた。郡の機関と関連部署の大半がこの町にある。ベイシティはエセックスビル市、およびバンゴー、フランケンラスト、ハンプトン、メリット、モニター、ポーツマスの各タウンシップ(郡区)と境を接している。ベイシティは当初「ローワーサギノー」と呼ばれており、サギノー郡の領域内にあった。1846年6月4日、ハプトンあるいはハンプトンという郵便局が開局した。ベイ郡が設立された1857年にその中に入った。町の名前をベイシティに変えたのがこの時だった。郵便局も1858年3月22日にベイシティと名称を変えた。サギノーは1819年に開拓されて、この地域では最初の白人開拓地になったが、その近くでは水深が浅かったために大型船が航行するのは難しかった。このために船舶輸送にたよる産業の成長のためには、より水深の深いローワーサギノーが適していると考えた初期開拓者の多くが移ってきた。1860年までにベイしティは人口約2,000人、幾つかの工場や多くの小企業が操業する賑やかな町になっていた。1865年、ベイシティが市として法人化された。この時期に木材の伐採、製材、造船で多くの職が生まれ、急速な経済成長が起きた。サギノー川に木材を浮かせて製材所や工場まで運ぶ便利な手段として使った地域の初期産業は、その結果として大きな資産を手に入れた。この時代に建てられた邸宅の多くは、州や連邦政府によって歴史的記念物に指定されている。1873年、ベイシティのパイオニア、チャールズ・C・フィッツヒュー・ジュニアとその妻ジェインが、ワシントン・アベニュー、サギノー・アベニュー、9番通り、10番通りに区切られた土地を購入して家を建てた。そこは後に市役所が建てられる場所になった。フィッツヒューはベイ郡内の土地25,000エーカー (100 km²) 以上についてのエージェントとして、大規模に荒野や農地を取り扱った。この時期、ワシントン・アベニューは住宅の開発が進んだ通りだった。サギノー川に近いウォーター通りに沿って企業が集中した。時代が進んで、企業はワシントン・アベニューにも拡張し始めた。1891年、フィッツヒューは、「市役所と事務所の建設に使われ、その他の目的では使わない」という条項で、8,500ドルで土地をベイシティ市に売却した。1905年までベイシティ市はサギノー川の東岸に限られていたが、この年ウェストベイシティが併合された。19世紀後半、市内には製材所や造船所など現在は閉鎖された工場が幾つかあった。1975年12月31日に操業を止めたデフォー造船会社はアメリカ海軍とオーストラリア海軍のために、護衛駆逐艦、誘導ミサイル駆逐艦、巡視艇を建造した。この海軍に関わる強い歴史遺産を維持するために、サギノーバレー海軍艦船博物館が海軍海上システムコマンドに働きかけ、USSエドソンを博物館船として持ってきた。2012年8月7日にエセックスビルの暫定母港に落ち着くことになった。他にも市の産業史で重要なのがインダストリアル・ブラウンホイストであり、大型クレーンを建設したことで知られている。 |
ベイシティ (ミシガン州)の市の歴史で重要な出来事 1990年9月、タンカーのMVジュピターが、トータル・ペトロリアム・ターミナルでガソリンを陸揚げしていた。通りかかった貨物船のバッファローがかなりの速度で移動し、その作った航跡のためにジュピターを桟橋から解き放ってしまった。火災と爆発が続き、1人の男が溺れた。その後かなりの法廷闘争が行われ、バッファロー所有者に不利な裁定が下ったが、控訴された。控訴裁判所の裁定は下級審の判断を支持し、バッファローの過剰な速度に対して責任の50%、ドックの運営者は腐った木製杭について責任の25%、ジュピターはその積荷に対する不適切な作業について25%の責任があるとした。2009年1月、ベイシティが全額所有する電力会社ベイシティ電灯電力が、マービン・シャーの家に受電を制限する「リミッター」を取り付けた。シャーは93歳の契約者であり、1,000ドルを超える未払い額があった。ベイシティ電灯電力はリミッターを付けることで顧客に未収金を集めるという意思表示をした。市の職員はシャーの家を訪ねることができず、その後シャーは既に小切手を作っていたがそれを郵送できていなかったことが判明した。シャーはそれから数日後に低体温症で死亡した。その死の翌日、ベイシティ電灯電力は全ての世帯からリミッターを取り外した。後にシャーはその遺産をベイ地域医療センターに遺贈したことが分かった。家族の推計では、その額は50万ドルを超えるとされていた。2010年10月12日、建設から113年を経た歴史ある市役所で、屋根裏の火事でスプリンクラーを2時間近く作動させ、少なからぬ損傷を受けた。損傷の大半はスプリンクラーからの水によるものだった。火事は160万ドルを掛けた屋根工事の最中に起きた。調査の結果、出火場所で労働者がグラインダーを使ってボルトを切断しており、その火花が火事に繋がったと判断された。現場にきた消防士は、近付きがたい場所だったので、5時間近くも火と戦うことになった 。 |
ベイシティ (ミシガン州)の地理 アメリカ合衆国国勢調査局に拠れば、郡域全面積は11.21平方マイル (29.03 km²)であり、このうち陸地10.17平方マイル (26.34 km²)、水域は1.04平方マイル (2.69 km²)で水域率は9.27%である。人口は減る傾向にあるが、ヒューロン湖の沿岸ではアメリカ合衆国で最大の都市のままである。次点はポートヒューロンである。五大湖の他の4湖では最大の都市がシカゴ、トロント、クリーブランド、サンダーベイであり、それらに比べるとかなり小さい。サギノー市やミッドランド市と共に「トリ・シティーズ」地域を形成し、フリント/トリシティーズ地域に属している。やはりフリント/トリシティーズ地域に入る「ミシガン州の親指」地域に入っているとも見られる。 |
ベイシティ (ミシガン州)の橋 4つの近代的跳ね橋が、ベイシティを東西に分けるサギノー川に架かっている。1938年に開通したラファイエット・アベニュー橋はミシガン州道13号線と同84号線を通している。ベテランズ記念橋は1957年の開通であり、ミシガン州道25号線が通っている。インディペンデンス橋は1973年に開通し、トルーマン・パークウェイが通り、1893年に建設されたベリンダ通り橋に代わった。リバティ橋は1990年に開通し、西岸のバーモント通りと東岸のウッドサイド・アベニューを繋いでいる。 |
ベイシティ (ミシガン州)の気候 ベイシティは湿潤大陸性気候(ケッペンの気候区分"Dfb")にある。暑く湿度の高い夏と、寒く時には厳寒になる冬というように、温度差が大きいのが特徴である。 |
ベイシティ (ミシガン州)の市政府 ベイシティは市政委員会・マネジャー方式の政府を採用している。4年間任期で選出される市長は市政委員会を主宰し、その他の委員を指名する権限があり、その場合には市政委員会の承認を得ることになっている。市政員は9人であり、小選挙区から選出される。任期は4年間である。2年毎に4人または5人が改選される。市政の日々の管理は、市政委員会が選んだマネジャーによって行われる。 |
ベイシティ (ミシガン州)の経済 ミシガン・シュガー社がベイシティを本拠にしている。 |
ベイシティ (ミシガン州)の文化 ベイシティは、夏の間に行われる多くの祭や祝典で中央ミシガンでも知られている。その中には、リバー・ロアー(川での大騒ぎ)、セントスタンのポーランド祭、ベイシティ花火大会、リバー・オブ・タイム生きている歴史再現がある。これら行事の多くはサギノー川の片岸あるいは両岸で行われ、東岸のウィノナ公園や西岸の大きなベテランズ記念公園で行われることが多い。ベイ郡歴史博物館がワシントン・アベニューにあり、巡視艇水夫協会の記録保管所に指定され、また地域の歴史に関する多くの展示物もある。過去の数年間で著しく拡張されてきた。歴史ある市役所に隣接するワシントン・アベニューの元武器庫に入っている。ベイ郡図書館システムには市内にある2つの公共図書館が入っている。スコットランドのバンドであるベイ・シティ・ローラーズは、地図に向かって無作為に投げられたダートが刺さった場所として、ベイシティの名前を採ったものである。マドンナはベイシティで生まれており、全国放送のテレビ番組で「ミシガン北部の嫌なちっちゃな町」とベイシティのことを語っていた。ベイシティの市旗は青地に市のロゴが入ったものである。当初のデザインからは変わってきた。 |
ベイシティ (ミシガン州)の伝承と民話 地元民の間では、ベイシティの水際を度々訪れた悪名高い木樵ファビアン・"サギノー・ジョー"・フルニエに基づいて、仮想の木樵ポール・バニアンの話が作られたとされている。 |
ベイシティ (ミシガン州)の教育 ベイシティ公共教育学区が小学校8校、中学校2校、高校3校を管轄している。バンゴー・タウンシップ教育学区が小学校3校、中学校1校、高校1校を運営している。エセックスビル・ハンプトン公共教育学区が小学校3校、中学校1校、高校1校を運営している。ベイエリア・カトリック学校が小学校4校、中学校1校、高校1校を運営している。ベイ・アレナック・コミュニティ高校がチャーター・オールターナティブ中等学校を運営しているモザイカ教育 Inc.がチャータースクールのベイ郡公立学校アカデミーを運営し、幼稚園から8年生までを教えている。 |
ベイシティ (ミシガン州)のメディア 市内の主要新聞は「ベイシティ・タイムズ」である。ベイシティはフリント・サギノー・ベイシティ・テレビ市場に入っており、またサギノー・ベイシティ・ミッドランド・ラジオ市場に属している。 |
義経紀の作品解説 小畑健がキャラクターデザインを担当。綺麗で魅力的なキャラクターや画像で話題になった。時代設定は源義経が活躍した平安時代末期から鎌倉時代初期。主人公の義経を操作しながら、仲間と共に魔物や平家と戦い、平安京や平泉、壇ノ浦などを舞台に、様々な剣術を駆使しながら平家滅亡を目指す。 |
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