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馬乗りのその他の意味 元々の意味では乗馬あるいは騎手のことを指し、より一般的には相手の体の上に両足を開いて乗り、股間の下に相手を下敷きにする姿勢をすべて馬乗りという。たとえば総合格闘技におけるマウントポジションは、柔道の縦四方固は馬乗りの姿勢である。性交体位においてはこの形を騎乗位という。
ミンデン (戦列艦)の経歴 米英戦争においてミンデンはチェサピーク湾に展開していた。フランシス・スコット・キーがマクヘンリー砦の防衛という名のを書き上げたのはミンデンの艦上だったという証言があるがこれには異論もある。この詩は後にアメリカ合衆国の国歌になった。1816年にアルジェ砲撃に参加した。またジャワやオーストラリアにおいても活動した。ミンデンは1842年から香港で病院船として使用されていた。これは台風で破壊された海軍病院の代替である。主にマラリア患者を収容していたが、1857年にアリゲーターと交代し1861年に香港で売却、解体された。香港にはミンデンにちなむ名前の街路が2つある。
輪栽式農業の来歴・人物 1975年5月場所に「宮古島」の四股名で初土俵を踏む。そののち、「飛鳥王」を経て「勇鵬」の四股名で幕下に定着するが、1991年9月場所を最後に現役を引退した。生涯戦歴は348勝331敗であった。なお、「勇鵬」の四股名がUFOと係っているため、珍名の力士としても名が通っていた。入門時より大鵬親方からの信頼がとても厚く、引退後は世話人として協会に残って支え続けた。本場所中であった2013年1月19日に大鵬が急逝した際は、当日の朝食を終えた大鵬から「何で来ないんだ?」と電話があり、そのあと容態が急変し帰らぬ人となる。同年5月には、入門以来ずっと大鵬の付け人のような存在になり続け、また、家族同様に過ごした約38年間の思い出を振り返りながら、その逸話の数々をまとめた『人間大鵬幸喜のいい話』をベースボール・マガジン社から上梓した。その中で友鵬は、「厳しくもあり、優しくもあり、こだわりもたくさんあった。人間味あふれる素顔をお伝えしたいと思いました。僕はオヤジの弟子で幸せでした」と記している。大鵬亡き後は、同年7月場所に新十両昇進となった大砂嵐の指導に力を注ぎ、その様子がスポーツ紙でたびたび報道されるようになる。大砂嵐は十両を2場所で通過し同年11月場所に新入幕を果たすが、友鵬は大砂嵐のために「幕内定着養成ギブス」と命名した斬新な稽古法を考案する。性格的に素直である大砂嵐に対しては、稽古以外にも力士としての立ち居振る舞いのしかたなど、大鵬から叩き込まれてきた教えの継承に努めた。取組相手によっては悪役にされてしまう外国出身力士であっても、言動に十分気をつけるなど礼儀を重んじることで、大相撲ファンに愛されるよう言い聞かせている。その一方で、内外から苦情が殺到し師匠の大嶽親方から禁止令の出たかち上げに関しては、勝つための武器として容認していた。長年の経験で習得したちゃんこの味付けでは定評があり、角界一と言われた。沖縄県に属する離島では、初の大相撲巡業となった「大相撲宮古島場所」の開催にあたって、その実現に寄与した地元出身の元力士・世話人として、2008年12月16日に宮古島市の同場所実行委員長から感謝状が贈られている。2017年9月8日、稽古後に倒れて意識不明となり、同日7時、虚血性心不全のため都内の自宅で死去。60歳没。同月10日から本場所中となっていたため、現役の親方衆・力士たちは11日の通夜で友鵬との別れとなった。この通夜には元横綱3代目若乃花の花田虎上や、元関脇高見山の渡辺大五郎らが弔問に訪れている。12日の葬儀では八角理事長や一門の貴乃花親方も弔問客を迎え、出棺後の挨拶で大嶽親方は「でも残されたボクは、きつかったこと、つらかったこと、誰と話せばいいの? バカ! 友鵬! 大鵬さんと会ってんのかよ!」と嗚咽した。同じ世話人である錦風真悟は友鵬の死去に際し、自身が現役の頃は地方場所の入り口であいさつの声が小さいと怒鳴られるなど、厳しくて怖いイメージの人物であったと語る一方、世話人になってからは「錦、たくさん仕事覚えろよー。おれが楽するから(笑)」と冗談交じりで笑顔で言ってくれたことも振り返っている。そんな錦風は「相撲の師匠は尾車親方ですが、世話人の師匠は友鵬さんです。友鵬さんの弟子になります」と慕うほどであった。同年12月14日の沖縄・宮古島巡業最終日に親交のあった勧進元の提案で友鵬の追悼コーナーが設けられ、友鵬を題材にした相撲甚句を勢が歌った。同日、都内では落語を愛した友鵬のため桂米二、笑福亭銀瓶、桂ひろば、桂佐ん吉が寄席を行っており、追悼甚句を大至が歌っている。
森田実 (捕手)の来歴・人物 金足農業高では、小野和幸とバッテリーを組む。高校卒業後、三井造船千葉に入社するが1年半で退社し、読売ジャイアンツの入団テストを受け合格。しかし、社会人野球に登録されたことのある選手で高卒の場合は3年間はプロ入りできない規定のため、入団には至らずに帰郷。翌年も再びテストを受けて合格し、1983年オフにドラフト外で読売ジャイアンツに入団。しかし、一軍公式戦への出場が無いまま1989年に退団。
ヤング・ボーイ (河合奈保子の曲)の解説 このシングル盤には、通常盤「AK-707」(レコード番号)の他にも、ピクチャー盤「AE-209」が存在する。B面の「青い視線」とともに、ファースト・アルバム『LOVE』に収録されている(但し「青い視線」はシングル盤と異なる曲バージョンで録音)。TBSテレビ『ザ・ベストテン』へ、第10位に自身初のランクインを果たし、西城秀樹と共に愛媛県・道後温泉から中継で歌唱披露した。1980年大晦日放送の『第22回日本レコード大賞』では、岩崎良美・田原俊彦・松田聖子・松村和子とともに新人賞を獲得した。
浅生憲章の人物 同大学出身の先輩久世光彦と共に、主に向田邦子作品を手がけたドラマ制作のプロデューサーである。たびたび、向田邦子の著作物の中に登場するTBSの若いディレクターとは、彼のことである。久世光彦にモノを申して出世をしたのは、彼だけであり、局内のみならず業界内では『異端児』扱いであった。また、ドラマだけでなく、音楽番組も制作しており、いかなる作品においても、独自のこだわりを貫き通す制作者であった。
市川鰕十郎 (5代目)の来歴 グエッラのバレーボールキャリアは、13歳の時に入団したクラブ(EC Banespa)ユースチームで始まった。1996/97シーズンにはトップチームに昇格し、ブラジルスーパーリーガでデビューし、プロ生活の第一歩を踏み出した。EC Banespaには通算5年在籍し、最終年の2001年にはポーランドで開催された男子ジュニア世界選手権を優勝で飾った。2006年にはブラジルシニア代表に選出され、ワールドリーグ予選ラウンドの数試合に出場し、代表デビューを果たしている。2006/07シーズンと2007/08シーズンはCimed Florianopolisと契約し、2007年のブラジルカップにおいて初の個人タイトルとなるベストスコアラーに輝いた。2008/09シーズンはグエッラにとって初の外国チームとなる、ギリシャA1リーグのAris Saloniccoでプレーした。2009/10シーズンは、イタリアセリエA2のNMV Castellana(本拠地・カステッラーナ・グロッテ)と契約したが、2シーズン目となる2010/11シーズンには力及ばずセリエA2から降格となった。2011/12シーズンはアルゼンチンA1リーグのCiudad de Bolivarと契約し、ベストスコアラーなどを受賞する。2012/13シーズンは同じアルゼンチンのUPCNサンファンと契約し、南米クラブ選手権ではMVPに輝いた。同年のアルゼンチンリーグではベストスコアラーを受賞している。2013年11月に日本で開催されたワールドグランドチャンピオンズカップでは、ブラジル代表として参加し、金メダル獲得に貢献した。2013/14シーズンは久々に祖国のSESI-SPサンパウロでプレーし、ブラジルカップ決勝進出などに貢献している。2014年9月11日、サントリーサンバーズはグエッラの入団を発表した。
銀河間星の発見 恒星は銀河の中だけに存在するという常識は、1997年に銀河間星の発見によって打ち破られた。最初に発見されたのは、おとめ座銀河団の中にあるもので、現在では1兆個以上が存在すると推測されている。
銀河間星の形成 銀河間星の形成過程は現在でも分かっていないが、最も広く信じられている仮説では、2つかそれ以上の銀河の衝突が恒星を銀河間空間に放り出すというものである。別の仮説では、これらの恒星は、超大質量ブラックホールによって銀河から弾き出されたものだと予測している。
銀河間星の観測の歴史 1997年、ハッブル宇宙望遠鏡は、おとめ座銀河団に多数の銀河間星を発見した。1990年代末には、ろ座銀河団にもいくつかの銀河間星が発見された。
銀河間星の質量 これらの恒星の正確な質量は分かっていないが、おとめ座銀河団全体の質量の10%程度を占めていると推測されている。この予測は、これらの恒星の質量の合計は、おとめ座銀河団を構成する2500のどの銀河よりも大きいことを意味する。
鶴崎修功の人物・来歴 鳥取県出身。父は、鳥取大学農学部教授で、動物分類学が専門の鶴崎展巨。高校2年時に同級生とともに数学コンテストに出場し、県内1位を獲得。2016年10月19日放送のTBSのクイズ番組「東大王2016」に出演し、テレビクイズ番組初出場ながら初優勝という快挙を成し遂げた。その功績を受けて、2017年4月30日よりTBS「東大王」に伊沢拓司や水上颯、鈴木光とともに東大王チームとしてレギュラー出演している。知能指数は165。この数値は、TV番組を観て実施したテストを自己採点にて判定した結果である。中学・高校ともに卓球部に所属していた。
アルフレッド・ラッセル・ウォレスの生涯 1823年にウェールズのモンマスシャー州ウスク近郊に生まれる。父トマス・ベア・ウォレスは法務官で社会的地位は低くなかったが、生活はまずしかった。母メリー・アン・グリーネルはハートフォードの中流階級の出身であった。トマス・ウォレスはスコットランド出身で、他の多くのスコットランドのウォレス家と同じようにウィリアム・ウォレスとの繋がりを主張した。5歳の時に家族はロンドン北部ハートフォードに移住した。ウォレスは生物学の専門教育を受けたことのない在野の研究者であった。ハートフォードで小学校に通ったが、家計の問題から卒業する前の1836年に見習い工だった兄ジョンのいるロンドンへ移住した。その後、長兄ウィリアムのもとで見習い測量士となった。ロンドンでは職工学校で本を読み、講義に参加し、トマス・ペインやロバート・オウエンのような急進的な社会改革思想に出会った。1837年にウィリアムとともにロンドンを離れ、キングトン、西イングランド、ウェールズを転々としたが、1843年に仕事の行き詰まりのために兄と別れた。この初期の頻繁な移住は現代でウォレスの国籍(ウェールズ人かイングランド人か)について論争を起こした。短い失業の後レスターの学校で講師として雇われた。そこでスケッチ、測量、地図作成を教えた。ウォレスはレスター図書館で多くの時間を費やした。トマス・マルサスの『人口論』を読み、ある日、若きアマチュアの昆虫学者ヘンリー・ベイツと出会った。ベイツはわずか19歳で動物学雑誌にカブトムシに関する論文を発表していた。二人はすぐに友人となり、ウォレスは昆虫採集を始めた。この出会いをウォレスは「図書館で誰かに紹介されたと思う」と後に回想した。1845年にウィリアムが死ぬと講師を辞めたが、ウォレスとジョンには新たなビジネスを始める力はなかった。2ヶ月後にNeathで鉄道工事の土木技師として雇われた。仕事の舞台は田園地方だったので、仕事の合間に昆虫採集への情熱を満足させることができた。ウォレスはジョンを説得し新しい建築測量会社を始めた。Neathの職工学校のデザインなどいくつかの仕事を成功させた。学校の創設者ウィリアム・ジェヴォンズはウォレスに感心し、学校で科学と工学を教えるよう説得した。1846年秋にウォレスとジョンはNeathの近くに小さな家を買い、母と妹を呼んで一緒に暮らし始めた(父は1843年に死去していた)。この時期に彼はベイツと頻繁に文通し、匿名(ローバート・チェンバース)の進化に関する論文『創造の自然史の痕跡』やダーウィンの『ビーグル号航海記』、チャールズ・ライエルの『地質学原理』などを読みあさった。
アルフレッド・ラッセル・ウォレスの探検旅行 アレキサンダー・フォン・フンボルト、ダーウィン、ウィリアム・ヘンリー・エドワーズなど初期の探検博物学者の手記に触発され、ウォレスはベイツを誘い海外で博物学の調査を行うことを決心した。二人は1848年にブラジルへ出発した。彼らの目的はアマゾンの熱帯雨林で昆虫や他の動物の標本を集め、イギリスに戻ってからコレクターに売ることであった。また彼らは種の変化の証拠を集めることを望んだ。ブラジルではベレン近郊で数ヶ月間ともに収集活動したあと、別れて内陸に旅立ち標本採集を続けた。二人は何度か調査結果を知らせあうために会った。1849年には短い間、若い探検家・植物学者リチャード・スプルースとウォレスの弟ハーバートともに活動した。ハーバートはすぐに採集探検家の道を諦めた(二年後にブラジルで病死した)が、スプルースはベイツのように10年以上も南アメリカで探検を続けることになる。ウォレスはネグロ川を四年間調査し、標本を集め、出会った民族や言語、地理、動植物相をノートに記した。1852年7月にヘレン号でイギリスへの帰途に就いた。出発から28日後に船の貨物から出火し、ウォレスのコレクションは全て失われた。日記とほんのわずかなスケッチだけが手元に残った。ウォレスと船員は10日間ボートで漂流した後、他の帆船に救助された。イギリスへ戻った後、標本の保険金で18ヶ月を送った。この期間中、探検のメモを失っていたにもかかわらず6つの論文と2つの本を執筆したが、本の売れ行きは悪かった。またダーウィンを含む多くの博物学者と人脈を築いた。1854年から1862年まで、現在のマレーシアとインドネシアを探検し標本を集めた。スンダ列島のバリ島とロンボク島の狭い海峡の間に、大きく異なる二つの動物相が隣接していることを発見した彼の観察は、生物地理学の分布境界線の提案に繋がった。この線はのちにトマス・ハクスリーによってウォレス線と名付けられた。マレー諸島では12万5千以上の標本を集め、うち8万が甲虫であった。そのうち1000以上が新種として記載された。この時期の発見で現在でも有名なのは樹上棲の滑空するカエルRhacophorus nigropalmatusであり、「和名ワラストビガエル:ウォレスのトビガエル」として知られている。この探検の間に進化と自然選択に関する洞察を行った。彼の研究と探検の記録は1869年に『マレー諸島』として発表された。これは19世紀の科学調査記録としてもっとも人気のある一冊となり、出版社は1920年代まで増刷を繰り返した。ダーウィンやライエルのような科学者からだけではなく小説家ジョセフ・コンラッドのような科学者以外からも称賛された。コンラッドは「お気に入りの枕元のおとも」と呼び、小説(例えば『ロード・ジム』)の情報源として用いた。
アルフレッド・ラッセル・ウォレスの帰国と結婚 1862年にウォレスはイギリスに帰国し姉ファニーとその夫トーマスと供に暮らし始めた。旅行のコレクションを整理しロンドン動物学会のような会合で探検と発見について多くの発表を行った。同年暮れにダーウィンの自宅を訪ねた。ダーウィンを通してチャールズ・ライエルとハーバート・スペンサーとも友人となった。1860年代を通してウォレスは自然選択説を擁護する論文を書き、講義を行った。彼はまた様々な話題についてダーウィンと文通した。その中には性選択、警告色、自然選択が交雑と種の多様性に果たす役割などが含まれる。1865年に心霊主義に関する調査を始めた。1864年に若い女性への一年間の求婚の末、婚約にたどり着いた。しかしその婚約は破棄された。ウォレスの自伝ではミス・Lと呼び、ひどく狼狽したことだけが記されている。1866年にアニー・ミッテンと結婚した。アニーはコケ学者ウィリアム・ミッテンの娘で、ブラジルで友人となったリチャード・スプルースの紹介で知り合った。1872年にエセックスに借りた土地にコンクリート造りの家を建て、1876年まで過ごした。ウォレスには三人の子どもがいた。ハーバート(1867-1874)、バイオレット(1869-1945)、ウィリアム(1871-1951)である。1860年代と1870年代にはウォレス家の家計は危機的状況にあった。マレー諸島の標本の売り上げはかなりの額になり、代理人は慎重に投資に用いたが、帰国後のウォレスは大部分を鉄道と鉱山へ投資して浪費し『マレー諸島』の収入に頼るしかなかった。友人の口添えにもかかわらず博物館の理事のような終身の有給職につくことができなかった。1872年から1876年の間に政府のために25の論文を書き、ダーウィンやライエルらの著作の編集を手伝うことでも現金収入を得たが、1876年には出版社から500ポンドの前借りをしなければならないほど困窮していた。ウォレスの科学への貢献と彼の困難な状況をよく知っていたダーウィンは長い間、強く政府へ年金支給を働きかけた。1881年に200ポンドの年金が支払われることになり財政状況は安定した。
アルフレッド・ラッセル・ウォレスの社会活動 ジョン・スチュアート・ミルはウォレスが『マレー諸島』の中で行ったイギリスの社会批判に感心した。ミルはウォレスに私的な国土改革委員会に加わるよう要請したが、委員会は1873年のミルの死後解散した。1873年から1879年まで政治と社会に関する著述はわずかであった。1879年、56歳の時に本格的に貿易政策と農地改革の議論へ参加した。当時のイギリス社会でしばしば濫用された裕福な地主の力を弱めるために、土地は国有化され多数の人々の利益となるように貸し出されなければならないと考えた。1881年に新設された土地国有化委員会の最初の会長に選ばれた。翌年、『土地国有化』を出版した。彼はまた労働者に与えるネガティブな影響のために自由貿易政策を批判した。1889年にエドワード・ベラミーの『かえりみれば』を読み、自分は社会主義者であると宣言した。これらの思想は19世紀の多くの進化思想家によって支持された社会ダーウィニズムと優生学への反対を導いた。彼は誰かの適不適を決定するのに現代社会があまりにも不公正で歪んでいると考えた。1898年には金や銀の基盤を持たない純貨幣システムを支持する論文を書いた。この論文は経済学者アービング・フィッシャーに影響を与え、フィッシャーは1920年の著書『ドルの安定』をウォレスに捧げている。そのほかにも幅広い話題、例えば女性参政権への支持、軍国主義の無益さと危険性について論じている。彼は残りの人生を通して社会改革を訴え続けなければならないと確信していた。『民主主義の反乱』は死のわずか一週間前に出版された。社会活動をするかたわら、科学的な研究も止めることはなかった。1886年11月にはアメリカ合衆国へ10ヶ月にわたる講演旅行へ旅立った。講演の大部分は進化と自然選択説に関するものだったが、生物地理学や心霊主義、社会経済改革にも触れた。この旅行の間、前年にカリフォルニアに移住した兄ジョンと再会した。さらにコロラドに一週間滞在し、氷河がヨーロッパとアジア、北アメリカの植物相の類似をどのように説明できるかの証拠を集めるためにアメリカの植物学者アリス・イーストウッドをガイドとしてロッキー山脈の植物相を調査した。これは1891年に『イギリスとアメリカの花』として出版された。また多くのアメリカの博物学者、自然科学者と会い彼らのコレクションを観察した。アメリカ旅行で得た情報と講義の記録を元に1898年に『ダーウィニズム』を出版した。
アルフレッド・ラッセル・ウォレスの死 1913年11月7日に、10年前に建ててオールド・オーチャードと呼んでいた自宅で死去した。90歳であった。彼の死は多くの新聞で報道された。ニューヨーク・タイムズは「挑戦的な研究によって世紀の思想を変革し発展させたダーウィン、ハクスリー、スペンサー、ライエル、オーウェンらを含む偉大な知識人グループの最後の巨人」と呼んだ。友人の一部はウェストミンスター寺院に埋葬されるよう提案したが、夫人はウォレスの意思を汲み、ブロードストーンの小さな墓地に葬られた。イギリスの科学者はウォレスのレリーフをウェストミンスター寺院のダーウィンの墓の隣に置くための委員会を作り、レリーフは1915年11月1日に公開された。
アルフレッド・ラッセル・ウォレスの自然選択説の公表 ウォレスは一度、短い間ダーウィンにあったことがあり文通相手の一人となっていた。ダーウィンは彼からの情報を自分の理論の補強に用いていた。ウォレスのダーウィン宛の最初の手紙は失われているが、ウォレスは自分宛の手紙を慎重に保存していた。1857年5月1日の最初の手紙では1855年のサラワク論文と10月10日付のウォレスの手紙にコメントしていた。ダーウィンは二人が類似した結論に達していること、自分の説は発表まであと二年はかかりそうだと告げていた。1857年12月22日付の第二の手紙でダーウィンは生物の分布についてウォレスが理論を作ったことがどれほど嬉しいかを述べ、「熟慮がなければ素晴らしいオリジナルな観察もありません」と付け加えると同時に「私はあなたよりずっと先に進んでいると思います」と述べた。ウォレスはこの問題のダーウィンの意見を信じ、1858年2月に書いた小論『変種がもとの型から限りなく遠ざかる傾向について』を同封し、ダーウィンがそれをチェックして価値があると思われたらライエルに渡して欲しいと頼んだ。ダーウィンは1858年6月18日にその原稿を受け取った。ウォレスの小論はダーウィンの用語「自然選択」を使用しなかったが、環境圧力によってある種は近縁種から異なっていくという進化のメカニズムはほとんど同じものであった。ダーウィンは原稿をライエルに送り、手紙を添えてこう述べた。「これほどの偶然の一致をみたことがありません。もしウォレスが私の1842年の概要を持っていたとしても、これより良い要約を作ることができなかったでしょう!彼の用語さえ私の章の見出しにあります......彼は私に公表して欲しいとは言わないけれど、しかし、もちろん私はすぐに手紙を書いてどんな雑誌にでも発表すると言うつもりです」ダーウィンは息子の病気で困憊しており、この問題をライエルとフッカーに委ねた。彼らはウォレスの論文をダーウィンの先取権を示す未発表の著作と一緒に共同発表することに決めた。ウォレスの原稿は1858年7月1日のロンドン・リンネ学会で、1847年にダーウィンがフッカーに個人的に明かした小論と1857年にエイサ・グレイに宛てて書いた手紙とともに発表された。ウォレスは後にこの処置を知らされたが、満足して受け入れた。彼は軽んじられたり無視されていなかった。ダーウィンの社会的、科学的地位はウォレスより遥かに高く、ダーウィンなしで進化に関するウォレスの意見がまじめに採り上げられることはありそうになかった。ライエルとフッカーの処置はウォレスを共同発見者の地位に引き上げただけでなく、ウォレスをイギリス科学界の最高レベルの一員とした。この発表の直後の反応は薄かった。翌1859年3月にリンネ学会の会長は前年には何の大発見もなかったと述べた。しかし同年11月の『種の起源』の出版によって重要性は明らかとなった。ウォレスはイギリスに帰国しダーウィンと会った。彼らは生涯友人でありつづけた。この二人の関係は長い間幾人かの研究家によって疑われてきた。1980年代には二つの本が、ダーウィンがカギとなるアイディアをウォレスから盗んで理論を完成させたと主張した。この主張は多くの研究者によって検討され、信用できないと結論づけられた。種の起源の出版後、ウォレスはそのもっとも忠実な支持者の一人となった。ダーウィンは『種の起源』でミツバチの六角形の巣がどのようにして自然選択で進化しうるかを論じたが、ダブリン大学の地質学教授はこれを鋭く批判した。1863年にウォレスはこの批判に厳しく反論する短い論文を書きダーウィンを喜ばせた。1867年にはアーガイル公ジョージ・キャンベルによって書かれた自然選択説批判に反論した。1870年のイギリス学術会議の会合の後、ダーウィンに「博物学をよく知っている反対者はおらず、我々がしたような良い議論も行われていない」と不平を漏らした。
アルフレッド・ラッセル・ウォレスの警告色と性選択 1867年にダーウィンは、一部のイモムシが目立つ体色を進化させていることについて自身の見解をウォレスに話した。ダーウィンは性選択が多くの動物の体色を説明できると考えていたが、それがイモムシには当てはめられないことを分かっていた。ウォレスはベイツと彼が素晴らしい色彩を持つ蝶の多くが独特の匂いと味を持つことに気付いたと答えた。そして鳥類と昆虫を研究していたジョン・ジェンナー・ウィアーから、鳥が一部の白い蛾は不味いと気付いておりそれらを捕食しないと聞いたことも伝えた。「すなわち、白い蛾は夕暮れ時には日中の派手なイモムシと同じくらい目立つのです」。ウォレスはイモムシの派手な色は捕食者への警告として自然選択を通して進化が可能であると思われる、と返事を書いた。ダーウィンはこの考えに感心した。ウォレスはそれ以降の昆虫学会の会合で警告色に関するどんな証拠も求めた。1869年にウィアーはウォレスのアイディアを支持する明るい体色のイモムシに関する実験と観察のデータを発表した。警告色は、ウォレスが動物の体色の進化へ行った多くの貢献のうちもっとも大きな一つである。そしてこれは性選択に関してダーウィンとウォレスの不一致の一部でもあった。1878年の著書では多くの動植物の色について幅広く論じ、ダーウィンが性選択の結果であると考えたいくつかのケースに関して代替理論を提示した。1889年の『ダーウィニズム』ではこの問題を詳細に再検討している。
アルフレッド・ラッセル・ウォレスのウォレス効果 1889年の『ダーウィニズム』でウォレスは自然選択について説明した。その中で、自然選択が二つの変種の交雑の障害となることで生殖的隔離を促すという仮説を提唱した。これは新たな種の誕生に関与するかも知れない。このアイディアは現在ではウォレス効果として知られている。彼は1868年という早い時点で、ダーウィンへの私信で自然選択が種分化に果たす役割について述べていたが、具体的な研究を進めなかった。今日の進化生物学でもこの問題の研究は続けられており、コンピューターシミュレーションと観察によって有効性が支持されている。
アルフレッド・ラッセル・ウォレスのヒトの進化と目的論 1864年に『人種の起源と自然選択の理論から導かれる人間の古さ』を発表し、自然選択説・進化理論を人類に適用した。ウォレスは精神組織が発達した知性の高いゲルマン人種のような優等人種は増加する一方で、劣等人種は逐次消滅してきたとし、人間の進化は有色人種の消滅まで続くとした。ダーウィンはこの問題についてまだ述べていなかったが、トマス・ハクスリーはすでに『自然の中の人間の位置』を発表していた。それからまもなくウォレスは心霊主義者となった。同時期に彼は数学能力、芸術能力、音楽の才能、抽象的な思考、ウィットやユーモアは自然選択では説明できないと主張した。そして結局、「目に見えない宇宙の魂」が人の歴史に少なくとも三回干渉したと主張した。一度目は無機物から生命の誕生、二度目は動物への意識の導入、三度目は人類の高い精神能力の発生であった。またウォレスは宇宙の存在意義が人類の霊性の進歩であると信じた。この視点はダーウィンから激しく拒絶された。一部の史家は自然選択が人の意識の発達の説明に十分でなかったというウォレスの信念が直接心霊主義の受容を引き起こしたと考えたが、他のウォレス研究家は同意せず、この領域に自然選択を適用するつもりは最初から無かったのだと主張した。ウォレスのアイディアに対する他の博物学者の反応は様々だった。ライエルはダーウィンの立場よりもウォレスの立場に近かった。しかし他の人々、ハクスリー、フッカーらはウォレスを批判した。ある科学史家はウォレスの視点が、進化は目的論的ではなく、人間中心的でもないという二つの重要な点で新興のダーウィン主義的哲学と対立したと指摘した。
アルフレッド・ラッセル・ウォレスの進化理論史におけるウォレスの位置 進化学史ではほとんどの場合、ウォレスはダーウィンに自説を発表させる「刺激」となったと言及されるだけであった。実際には、ウォレスはダーウィンとは異なる進化観を発展させており、彼は当時の多くの人々(特にダーウィン自身)から無視することのできない指導的な進化理論家の一人と見なされていた。ある科学史家はダーウィンとウォレスが情報を交換し合って互いの考えを刺激し合ったと指摘した。ウォレスはダーウィンの『人間の由来』でもっとも頻繁に引用されているが、しばしば強く同意できないと述べられている。しかしウォレスは残りの生涯を通して自然選択説の猛烈な支持者のままであった。1880年までに生物の進化は科学界に広く受け入れられていた。しかし自然選択を進化の主要な原動力と考えていた主要な生物学者はウォレスとアウグスト・ヴァイスマン、ランケスター、ポールトン、ゴルトンなどごく少数であった。1889年に『ダーウィニズム』を出版し、自然選択に向けられる科学的な批判に応えた。
アルフレッド・ラッセル・ウォレスの心霊主義 1861年に義兄に宛てて、人類の多数にとってある種の宗教は必要であると書いた。ウォレスはまた骨相学を強く信じており、若い頃から催眠術にも関心を持っていた。レスターの学校では生徒たちを使って実験を行った。彼はまず催眠術の実験から始めた。これは論争の的であった。ジョン・エリオットストンのような初期の催眠術の実験者は医学界と科学界から厳しく批判された。ウォレスの催眠術に関する経験は後年の心霊主義の調査に引き継がれた。1865年に姉ファニーと供に心霊主義の調査を始めた。まず文献を調査し、その後交霊会で観察した現象をテストしようと試みた。そしてそれらは自然的な現象であるという信念を受け入れた。残りの人生の間、少なくともいくつかの交霊会での現象は本物だったと確信したままだった。たとえ多くの詐欺の告発が行われても、トリックの証拠が提出されても、彼にとって問題ではなかった。歴史家と伝記作家はいったい何がウォレスに心霊主義を受け入れさせたかで意見が一致していない。ある伝記作家は婚約者に婚約を破棄された時に受けた衝撃を示唆した。他の研究者はそれに対して、物質界と非物質界、自然界と人間社会のあらゆる現象に対して科学的で合理的な説明を見つけたいというウォレスの願望を強調することを好む。心霊主義は完全に唯物論的で機械論的な科学にさらされており、英国国教会のような伝統的な教義を受け入れがたいと感じていた教養あるビクトリア朝時代の人々の心に響いた。しかしウォレスの視点を深く追求した何人かの研究家は、これはウォレスの科学や哲学の問題ではなく、宗教に関する問題だったと強調した。心霊主義と関係した19世紀の知識人には若い頃のウォレスが憧れた社会改革者ロバート・オウエンや、物理学者ウィリアム・クルックス、ジョン・ウィリアム・ストラット、数学者オーガスタス・ド・モルガン、スコットランドの出版業者ロバート・チェンバースなどがいた。ウォレスの心霊主義の公然とした支持と、心霊主義に向けられた詐欺の告発に対する擁護は1870年代に彼の科学的な評判を傷つけた。以前は親しいであった同僚の科学者たち、例えばベイツ、ハクスリー、ダーウィンとの間は緊迫し、彼らはウォレスがあまりに信じやすいと感じた。他の人々、生理学者ウィリアム・カーペンターや動物学者レイ・ランケスターはこの問題に関して公然とウォレスの敵対者となった。ウォレスと他の心霊主義擁護の科学者(特にウィリアム・クルックス)は書籍や新聞から広い批判を受けた。特に医学雑誌ランセットは彼らを痛烈に批判した。1879年にダーウィンがウォレスへの年金交付のために博物学者から賛同を得ようとしたとき、ジョセフ・フッカーは次のように述べた。ウォレスはかなり立場を失った。心霊主義への執着だけでなく、イギリス学術会議の彼のセッションの会合の意見に反してわざと開いた心霊主義に関する会議のためにも。彼は好ましくないやり方でそれを行ったと言われている。それが理事会に引き起こした憤りの声を私はよく覚えている。フッカーは最終的には請願を支持することに同意した。
アルフレッド・ラッセル・ウォレスの生物地理学 1872年にダーウィン、フィリップ・スレーター、アルフレッド・ニュートンといった友人たちをせきたて動物の地理的分布の研究を開始した。最初はほとんど前進することができなかった。動物の分類法は非常に多く、しかも流動的であった。分類学に関する新しい研究を出版した後、1874年から本格的に調査を始めた。スレーターが発展させた鳥類の分類システム(種の分布を記述するために地球を6つの地理区に分けていた)を拡張し、ほ乳類、爬虫類、昆虫を分類し、現在でも用いられている動物地理区の基盤を作った。そしてそれぞれの動物地理区の中で現在と過去に動物の分布に影響を与えたと思われるあらゆる要因について議論した。たとえば陸橋の形成と消失(例えば現在南北アメリカを繋いでいるもの)や氷河の増大などである。彼は山の高さや海の深さ、地域の植物の特徴など動物の分布に影響を及ぼしたと思われる要因を記した地図を作った。また既知の動物の属と科をまとめてそれらの地理的分布をリストにした。旅行者がどんな動物がどこで見つかるかを学びやすくするためにテキストが整理された。その結果、1876年に二巻本の大著『動物の地理的分布』が出版され、これはその後80年にわたって動物地理学の権威あるテキストとなった1880年にはその続編となる『島の生命』を出版し、島の動植物について詳述した。ウォレスは島を異なる三つのタイプに分類した。大洋島はガラパゴス諸島やハワイ諸島などである。これは中央海嶺にできており、過去にどこかの大陸に属したことはない。そのような島は地上棲ほ乳類と爬虫類の欠如が特徴である。渡り鳥と人間によって持ち込まれる生物を例外として、その島に住む生物は小動物の偶然の到達とそれ以降の進化の結果である。次に大陸島をグレートブリテン島のように現在でも大陸の一部であるとみなせる場合と、マダガスカル島のように最近になって大陸から分かれた島に区別し、その違いが動植物相にどのような影響を与えるか議論した。そして隔離がどのように進化に影響を及ぼすかと、結果的にそれがどのように動物の種類を維持することになるのかについて述べた。また気候の変化、特に氷河期が島の動植物相に与える影響についても論じた。『島の生命』は出版時に非常に重要な研究と見なされ、科学界での広い議論を引き起こした。
アルフレッド・ラッセル・ウォレスの平らな地球裁判 1870年にジョン・ハンプテンという名の地球平面説の支持者が、水を用いて地球が凸型に湾曲していることを示せた人に500ポンド支払うという雑誌広告を掲載した。資金難に苦しんでいたウォレスはこの挑戦に興味をそそられた。彼は運河に沿って6マイル離れた位置に二つの物体を設置した。それらは水面から同じ高さの位置に固定された。その二つの物体の延長線上の橋に望遠鏡を取り付けた。望遠鏡を覗くと一方はもう一方よりも高く見えた。これは地球の湾曲を示していた。雑誌の編集者はウォレスの勝利を宣言したが、ハンプテンはそれに従うことを拒み、ウォレスを告発した。ハンプテンは数年にわたる攻撃キャンペーンを開始した。結局、複数の名誉毀損訴訟にウォレスは勝ったが、掛け金以上の訴訟費用と不毛な論争は長い間ウォレスを苦しめた。
アルフレッド・ラッセル・ウォレスの予防接種反対 1880年代初頭に天然痘の予防接種義務化についての議論に参加した。ウォレスは当初これを個人の自由の問題と見なした。しかし予防接種の反対者によって提示された統計のいくつかを見たあと、予防接種の有効性を疑い始めた。当時、病原体説はまだ新奇で一般的に認められてはいなかった。さらに誰も予防接種が働く理由を説明するヒトの免疫系の知識を持っていなかった。ウォレスは研究を調査し、予防接種の支持者が疑わしい統計データを使用したいくつかのケースを発見した。常に権威に疑いの目を向けていたウォレスは天然痘の発生率の低下は公衆衛生の改善が原因だと確信するようになった。また医者にはワクチン接種によって得られる利益があると感じた。さらにウォレスと他の反対者はワクチンの接種がしばしばずさんな不衛生な方法で行われ危険を引き起こすと指摘した。1890年には問題を調査していた王立委員会でその証拠を示した。委員会がウォレスが提出した資料を調査したとき、疑わしい統計を含む問題が発見された。ランセット誌はウォレスと他の反対活動家が統計データを選別的に利用し、彼らの立場に都合が悪い大量のデータを無視したと述べた。委員会は安全性を高めるよう手順を変更し、また接種を拒否した人へ厳しく対処しないと方針を少し変えたが、予防接種が効果的で義務化されたままでなければならないと判断した。1898年にウォレスは委員会の調査を非難するパンフレットを書いた。ランセットはそれに応酬し、委員会に提出したのと同じ誤りを多く含んでいると述べた。
アルフレッド・ラッセル・ウォレスの火星の運河 1907年に短い本『火星は生存可能か?』を出版しパーシヴァル・ローウェルによって提唱された火星の運河説を批判した。これによってイギリス科学界でも火星の環境に関する議論は論ずるに値すると認識されるようになった。自分自身の数ヶ月の研究と他の専門家からの意見を参考に、火星の気候と大気の状況の科学的な分析を行った。とりわけ大気のスペクトル分析が水蒸気の存在の兆候を示さないと指摘した。またローウェルの分析には深刻な問題があり、特に地表の温度を非常に過大評価しており、低い気圧は液体の水の存在を不可能にしていると指摘した。彼の人間中心的な哲学、宇宙に存在する人類は我々だけであると信じたいというウォレスの想いがこの話題に興味を引かせた。
アルフレッド・ラッセル・ウォレスの死後の評価 著述活動の結果、死の時点でウォレスは長期にわたって活躍した科学者、社会運動家として広く知られていた。ジャーナリストは様々な問題における彼の視点を報道した。多くの名誉博士号を受け、ロンドン王立協会会員、コプリ・メダル受賞者、メリット勲章受章者でもあった。とりわけ自然選択説の共同発見、生物地理学への貢献は彼を突出した重要人物とした。彼は疑う余地無く19世紀でもっとも偉大な博物学者・探検家のひとりであった。にもかかわらず、彼の名声は死後急速に薄らぎ、長い間科学史においてさほど重要ではない人物として扱われていた。多くの原因が推測されている。謙虚さ、ダーウィンの名を立てすぎたこと、自分の評判に気を留めず人気のない説を擁護する意欲、型にはまらない彼のアイディアへの科学界の不人気などである。近年、いくつかの伝記の発表と著作の復刊、ウォレス研究に関するウェブサイトの公開によって再び名前が知られるようになった。
アルフレッド・ラッセル・ウォレスの受賞歴 現在では進化学者に送られる最高の賞と見なされるダーウィン・メダルの最初の受賞者である(1890年)。1868年には王立協会からロイヤルメダル、1892年には王立地理学会からファウンダーズメダル、1908年にはコプリ・メダルを受賞した。同年、英王室からメリット勲章を受け、ロンドン・リンネ学会からは自然選択説発表50年を記念して創設されたダーウィン=ウォレス・メダルの唯一のゴールドメダルを受賞した。1893年に王立協会会員に選出された。ロンドン昆虫学会の会長、英国学術協会の人類学部長・生物学部長などを歴任した。1898年にロンドンで行われた国際心霊学会議の議長を務めた。月と火星に彼の名を冠したクレーターがある。2005年には彼を記念した研究施設がサラワクに開設された。
アルフレッド・ラッセル・ウォレスの著書 ウォレスは非常に多作であった。2002年にウォレスの著作を分析した科学史家マイケル・シャーマーによれば、22冊の本と747篇の小論を書き、そのうち508が科学的なもので、うち191がネイチャー誌に発表された。747の小論のうち29%が博物学と生物地理学、27%が進化理論、25%が社会評論、12%が人類学、7%が心霊主義に関するものであった。
イースIIIの概要 赤毛の剣士アドル・クリスティンが主人公の冒険ファンタジー。『I』・『II』におけるイースの冒険から3年ほど後の物語で、ドギの故郷フェルガナ地方において、この地に伝わる魔王ガルバランの謎に迫る。原典とされるアドルの冒険日誌は『フェルガナ冒険記』。前作までとは大きく異なり、アクション要素を前面に押し出した横スクロールARPGとなった。発売当初の販売タイトルは『WANDERERS FROM Ys』(イースからの放浪者)と外伝的な物であり、なおかつ『Ys-III』の文字を含んでいない。これは本作が『I』・『II』の舞台である「古代王国イース」とは直接関係がなく、システムも大きく変わっているために続編というよりは外伝に近いことによる。ただし、『Ys-III』は副題としてオープニング中には表示されており、通称としてもよく使われていた。その後、PCエンジン (PCE) CD-ROM²への移植の際に、メインタイトルを『イースIII』に変えられて以降は全ての移植作品で『イースIII』が主題となっており、機種によっては元々の主題『ワンダラーズフロムイース』を副題としている。なお、移植のベースが大きく二系統あるものの、作品としては同じものであり、タイトルと内容との間に相関関係はない。なお、2005年にファルコムよりWindows向けに販売された『イース -フェルガナの誓い- (F)』は、『VI』のシステムを使って『III』をリメイクした作品である。
イースIIIの開発スタッフ オリジナルの開発スタッフは公表されていない。『III』発売のわずか3ヶ月前に『I』・『II』の開発スタッフが中心となりクインテットが設立されている事から、非公開の理由は開発スタッフの多くが発売を待たずしてファルコムを離れたためと推測されている。なおPC-8801版のメインプログラムに関しては橋本昌哉が開発し、発売を待たずにファルコムを退社。X68000版に関してはPC-9801版の開発を担当した桶谷正剛がプログラムしている。MSX2版ではエンディングに匿名の隠しスタッフ・ロールがあるほか、オープニング(シナリオ)ディスク内に隠しメッセージとして製作者の名前が書き込まれている。オリジナル・サウンドトラックではFalcom Sound Team J.D.K.および石川三恵子名義での作曲となっている。
イースIIIのストーリー 赤毛の剣士アドルは相棒ドギとの冒険旅行の最中、ドギの故郷フェルガナの悪い噂を耳にする。不安を胸にフェルガナを訪れてみると凶暴化している魔物達。どうやらこの地に伝説として伝わる魔王ガルバランが関係している様だが……。
イースIIIのゲームシステム 前作とは大きく変わり、サイドビューのアクションRPGとなり、移動・アイテム使用の他に、攻撃・ジャンプの操作が加わるなどアクション的要素が強くなった。RPG的要素は前作までとほぼ同じではあるが、MPがなくなり、相当するステータスとしてRINGが加わった。サブ画面は『I』と同じくSTATUS画面、INVENTORY画面の2種類でそれぞれの表示にボタンがあてがわれている。ステージ制となっており、何度でも同じステージを訪れる事は出来るが、条件を満たさなければ新たなステージに進む事は出来ない。新たなステージに進む条件を満たすとアラーム音のような効果音が鳴る。拠点となるレドモンドの街をでるとマップ画面が表示され、自分の訪れたいステージを選択する形となっている。どのステージでも外に出ると必ず街に戻され、ステージからステージへの移動は出来ない。
イースIIIの難易度設定 本作ではゲーム開始時にEASY・NORMAL・HARDの3種類からゲーム難易度を選択できる。
イースIIIの画面構成 画面下部に表示されるステータスのレイアウトが若干変わったが基本的には前作を踏襲。現在のMP / 最大MPに代わりRINGの現在値が表示されるようになった。従って『III』で画面下部に表示されるステータス情報は現在のHP / 最大HP、現在のRING、取得経験値、ゴールドの各数値と、プレーヤーと敵のHPをしめす棒グラフとなった。グラフは前作同様現在の残りHPが黄色、ダメージを受けた分のHPが赤で示される。サブ画面としてステータス画面、アイテム画面を開いて見る事ができ、サブ画面表示中はゲームにポーズがかかる。PS2版では敵のHPグラフが廃止され、次のレベルアップ経験値、現在装備しているアイテムとリングのアイコンが追加されている。
イースIIIの回復 HPは街の中および、各ステージのエントランス部分で自動的に回復していく。本作ではHP回復可能な場所であれば立ち止まる必要はない。また「HEAL RING」を装備することによってダンジョン内でも1HPあたり1RING消費する事によって徐々に回復する事が出来、ITEMの「薬草」を使用する事によって瞬時に全回復する事が出来る。その他ボスを倒すと全快する。MPに相当するRINGの回復はショップでGOLDを払うことで全快する他、敵を1匹倒す毎に1回復する。またアイテム「プロシアの秘薬」でも50程回復。
イースIIIのアイテム アイテム一覧を示すインベントリー画面は『I』とほぼ同じである。インベントリー画面左側がEQUIPMENTとして装備品一覧になっており、装備もしくは使用するアイテムはITEMとして装備品の一つになった。装備品以外のアイテム画面右側に表示され、その中で彫像だけはSTATUSとして別個に分類されている。前作までとは異なりボス戦中でもインベントリー画面を開く事が出来、またITEMを使用する事が出来る。
イースIIIのセーブ ボス戦の音楽がかかっている場所ではセーブが出来ない。それ以外であればどこでもセーブする事ができる。MD版では裏技を使用すればボス戦の画面でもセーブが可能。
イースIIIの機種間の差 ラストボスの強さの違いから、オリジナルのPC-8801版をベースとした物と、X68000版をベースとした物の2種類に大別する事が出来る。なおグラフィック・BGMといった演出部分はそれぞれの機種の性能に合わせた変更が見られる為特筆すべき変更点のみを挙げる。
イースIIIのメディアミックス作品 『I』・『II』に比較すると少ないながら、CD等の音楽メディア、小説、ゲームブックと『III』も様々な形でメディアミックス展開されている。
宮川左近ショーの来歴・人物 既に浪曲師として大看板を張っていた宮川左近だったが、松竹芸能の勝忠男と長谷川幸延が三波春夫の歌謡浪曲やタイヘイトリオの浪漫ショウ路線に刺激を受け、更にローオンレコードの加藤精一のひと声もあり、歌謡浪曲ショウ転向を決意。1958年に巡業先で4人で仮結成し、実戦を重ねて翌年神戸松竹座のトリで正式デビュー。翌年メンバー中最高齢の和夫が去り、更に翌年一夫も脱退して、妻と友人で『大中小』という浪曲漫才を始めたため、ギターの助っ人を呼んでいたが、一夫は間もなく復帰し、以降、左近・照夫・一夫の三人で固定する。「♪毎度 皆様 お馴染みの お聞き下さる 一節は 流れも清き 宮川の 水に漂う 左近ショウ…」で始まるテーマソングは広く知られて、左近の語る『姿三四郎』『無法松』『宮本武蔵』『瞼の母』『桃中軒雲右衛門』といった名調子に、各々ピンでも唸れる上声・胴間声の二人が絶妙の「間」で絡む、バランスとノリの良さは子供達にまで真似される人気を誇った。音楽的評価も高く、憂歌団やCharらとも競演歴がある。左近の声・節とともに、照夫の三味線速弾きも絶品で、ひとしきり見事な爪弾きを聴かせた後、「いやー、なんで私ってこんな巧いんかしら」と頬に手を当てて女形風に振舞ったり、また左近が節のサワリ(佳境)を唸っている合間に、一夫がスタンドマイクの前面に出て、珍妙な顔をしながら懸命にギターを掻き鳴らして邪魔をし、そこから扇子の奪い合い・叩き合いに発展するなど、細かい定番ギャグでも笑いを取った。左近と照夫の芸の上の喧嘩が絶えなかったと言われたが、過度の飲酒が元で健康を害していた左近が体調を崩し1984年に一度浪曲大会で復帰したこともあったが1985年にマネージャーなどで裏方で頑張っていた妻が亡くなり再び失意になり体調を崩し1986年に死去し、トリオは消滅。照夫は弟子・光夫とのコンビ『暁照夫・光夫』で三味線漫才を続ける一方、一夫は『おもろない節』と称して歌謡曲の世界に入った後、現役時代から手掛けていたミナミの飲食店の経営に専念していたが、映画『水の女』(2002年)に浪曲好きの銭湯経営者役で出演し、久方振りに表舞台に顔を見せた。落語家の二代目笑福亭松之助は一時期、芸人仲間を従えて『寺川右近ショウ』というパロディをやっていた事がある。他にも桂吉朝(左近役)・桂都丸(現在の桂塩鯛、一夫役)・桂む雀(照夫役)が「平成紅梅亭」(読売テレビ)でパロディをやった。2015年には照夫の弟子である光雄(師匠と共に2013年改名、左近役)・あきら(一夫役)・明夫(照夫役)が道頓堀角座開場2周年興行や師匠の追悼興行でパロディを披露した。
ジム・ハインズの経歴 アーカンソー州デュマースで生まれ、カリフォルニア州オークランドで育った。1964年に高校を卒業したが、走力が陸上競技のコーチに見出されるまでは野球に熱中した。1968年にカリフォルニア州サクラメントで行われた全米選手権の100mで史上初めて10秒の壁を破る9秒9(手動計時)を記録した(電動計時では10秒03)。この大会ではほかに10秒14を出したロニー・レイ・スミスと、準決勝で10秒10を記録したチャールズ・エドワード・グリーンも9秒9の世界新記録(当時)と公式に認められている。テキサス州ヒューストンにあるテキサスサザン大学に入学し大学の陸上部に所属することになった。同年のメキシコシティオリンピックを前に、アメリカでは黒人の権利向上を訴える運動に加え、IOCがアパルトヘイトを続ける南アフリカ共和国のオリンピック参加を認めたことに対して(結局参加は認められなくなるが)、黒人選手たちによるボイコット運動といった緊張した状況の中にあった。メキシコシティオリンピックの100mでハインズは決勝に進出し、見事金メダルを獲得する。金メダルのタイムは9秒95と認定され、人類初の電動計時による9秒台の達成という歴史的なレースとなった(手動計時では9秒9)。またこの決勝レースは、オリンピック史上初めてすべて黒人選手による決勝レースであった。4×100mリレーにも出場。このレースでも世界新記録を樹立している。オリンピックで出した100mでの9秒95という記録は、1983年にカルヴィン・スミスが破るまで(9秒93)、15年間世界記録であり続けた。1968年のAFLのマイアミ・ドルフィンズにドラフト6巡目で指名されて入団したがアメリカンフットボール選手としての能力を欠き、練習生としてそのシーズンを過ごし翌1969年にようやく10試合に出場した。しかしパスキャッチわずか2回で23ヤード獲得、ラン1回で7ヤード、キックオフリターン1回22ヤードの成績しか残せなかった。1970年にはカンザスシティ・チーフスに移り1試合に出場しただけで選手生活にピリオドを打った。
古史通の影響と価値 林羅山らの儒者は当時、倭人の祖は古代中国の呉の王である太白の子孫と考えていた。また『釈日本紀』の卜部兼方や一条兼良といった神道の立場の学者は、神は万物の宇宙の根源であり、高天原は虚空にあるとしている。これに対し、言葉の音訓から日神が立たれた土地は日立国で常陸という表記になり、高天原の高は旧事紀で高国と記述あり、即ち常陸国多珂郡であるという。高天原とは私記には師説上天をいふ也按ずるに虚空をいふべしと見えたり後人の諸説これに同じ此等の説皆是今字によりて其義を釋(トキ)し所也凡我國の古書を讀には古語によりてその義を解(ト)くべし今字によりて其義を釋くべからず高の字讀で多珂(タカ)といふは古にいふ所の高(タカノ)國に見えしところなり多珂(タカノ)國常陸國風土記に即チ今ノ常陸ノ國多珂ノ郡の地是也天の字古事記に讀ンで阿麻(アマ)といふと注しき上古の俗に阿麻といひしは海也阿毎(アメ)といひしは天也天亦稱して阿麻ともいふは其語音の轉ぜしなり原の字讀ンで播羅(ハラ)といふ上古之俗に播羅(ハラ)といひしは上也されば古語に多訶阿麻能播羅(タカアマノハラ)といひしは多珂海上之(ノ)地といふがごとしまた、言葉の音訓以外にも常陸国には「高天(タカアマノ)浦」や「高天ノ原」という地名が実在していたことも傍証にあげている。古語に播羅(ハラ)といふは上也とはたとへば日本紀に川上の字を讀ンで箇播羅(カハラ)といふがごとし今も常陸ノ國海上に高天(タカアマノ)浦高天ノ原等の名ある地現存せり白石の没後、本書も忘れられていた感があったが、祭祀や神話を宗教的よりも現実の人間の歴史として解釈しようとしたことが注目され、水戸藩の文庫に収められて太宰春台・伊勢貞丈・三浦梅園に多大な影響を与えた。
万葉 (フェリー)の概要 従来、長崎~五島航路に就航していたフェリー福江、フェリーながさきが就航から32年が経過した老朽船であり、代替が必要とされていたことから、国の「社会資本整備総合交付金」を原資とする長崎県の「離島地域交流促進基盤強化事業」による補助を受け、僚船の椿とともに建造された。同時に補助金相当額が就航航路全般の運賃値下げのための原資として活用されている。本船の就航により航海時間が従来船から25分短縮され、3時間となった。
万葉 (フェリー)の船体 船体中央部のエントランスの両舷に車両甲板からの階段と乗船口、右舷側中央部に案内所が設けられており、船首側にバリアフリー客室、2等指定客室(4室)、トイレ、船尾側に2等客室が配置されている。バリアフリー客室は椅子席、それ以外の客室はじゅうたん敷きとなっている。2等客室8区画のうち2区画は女性専用区画となっており、女性トイレには授乳室が設置された。車両甲板と客室の間のエレベーターなどバリアフリー対応の仕様となっている。車両甲板は船首バウバイザーおよび船尾ランプが設置されている。
万葉 (フェリー)の旅客フェリー万葉船体傾斜 2011年11月18日、8時5分ごろ、福江港から奈良尾港へ向けて航行中、福江島の北東で波高約4~5メートルの高波を受け、船体が左舷に約27度傾斜した。この事故により、船内で投げ出された旅客3人が負傷、搭載していたトラック10台と乗用車2台が接触するなどして損傷する被害が発生、本船も車両甲板内の左舷機関室の扉が曲損するなどの損傷を受けた。事故後、ビルジキール増設、固定バラスト積載の措置がとられた。
Dachinco!の沿革 2004年10月10日に世界初の就活SNS「Dachinco!」がオープン。 その後、2005年3月に株式会社営業が、設立された。設立登記直後の2005年4月に二代目の運営委員に引き継がれ、それ以降は大学生の就職活動支援サイトと、就職イベントの運営を主な活動としていた。2006年当時は、日本国内の就活サイトの中で第6位規模のページビューを記録した時期もある。2009年2月に四代目の運営委員が独立し、新団体「就活支援学生団体 就活バリュー」が立ち上げられた。現在、旧Dachinco!ウェブサイトの更新は止まっており、新団体の立ち上げたウェブサイトにコンテンツは受け継がれている。
ネパールコクワガタの形態 体長:オス45.0~78.2mm メス39.1~47.9mmコクワガタの和名が付く種では最大種。オスメスともに黒色で、強い光沢がある。メスの頭部中央にある突起、通称「ドルクスこぶ」は一つである。
ネパールコクワガタの飼育 性成熟に半年程度かかるが、白枯れの産卵木で採卵が可能である。 その際、メスは朽ち木内に潜り込む習性があるので大きな朽ち木の方が有利である。 幼虫はマットでも菌床でも育つが、菌床の方が大きくなりやすい。 幼虫の管理温度は18~23度程度でよく成長する。
SYO-ZAKUの概要 1989年、ヤマハ音楽振興会主催のTEENS' MUSIC FESTIVAL '89での優勝をきっかけにロックバンド「ALEF-GALD」のリーダー兼ボーカリストとしてデビュー。活動期間3年で解散するが、その7年後「A.G.SwitchBlade」を結成。自身を「SYO-ZAKU」と名乗る。翌年、バンド名を「A.Z.SwitchBlade」に改名され現在に至る。2011年から始まった「浪速伝説トライオー」では主題歌・エンディングテーマの歌唱、挿入歌の制作、ラストボス怪人の声優、カメオ出演など多岐にわたって携わっている。大阪ドロット一座ではPaniCrewのKASSANとユニットを組み、2013年から旗揚げメンバーとして活躍する。代表曲は、『Let's Go! トライオー』、『God knows...』、『そんなんちゃうねん』など。
沈浚の経歴 斉の散騎常侍の沈憲の孫にあたる。若くして博学で、才幹があり、山陰県・呉県・建康県の県令を歴任して、有能で知られた。入朝して中書郎・尚書左丞となった。548年(太清2年)、侯景が反乱を起こして建康に迫ると、沈浚は御史中丞に転じた。やがて梁の諸侯の援軍がやってきたため、侯景は講和を求めた。549年(太清3年)、講和が成立したが、ときに建康城内に疫病が発生したことを侯景が知ると、軍を撤退させようとしなかった。皇太子蕭綱が沈浚を侯景のところに使者として派遣すると、侯景は撤退の意志を示さず、刃を膝に横たえて沈浚を脅そうとした。沈浚は「どうして逆臣の刀をおそれようか」といって退出した。侯景は「これ真の司直なり」と評しつつ、ひそかに恨みを抱いた。侯景が張嵊を撃破すると、沈浚の身柄を求めた。沈浚は捕らえられて殺害された。
佐野好昭の経歴 宮城県大崎市田尻町に生まれる。宮城県古川高等学校を経て、1983年東北大学法学部卒。大学卒業後宮城県庁入り。企画、財政、人事の各部門を歴任し、環境生活部長を経て、2017年から総務部長を務めた。2018年、宮城県庁を退職し、宮城県副知事及び、株式会社ベガルタ仙台取締役に就任。王城寺原演習場対策協議会会長も兼務し、2019年には在日米軍の実弾砲撃訓練に際し、防衛省の伊藤茂樹東北防衛局長に対し、訓練の住民への公開を求めるなどした。
高麗町の地理 鹿児島市の中央部、甲突川の中流域に位置している。町域の北方には加治屋町、南方には荒田、東方には下荒田、新屋敷町、西方には上之園町がそれぞれ接している。東端部には鹿児島県道20号鹿児島加世田線が南北に通っており、県道20号線上には鹿児島市電谷山線が通っている。町域内には二中通電停、武之橋電停が所在している。また、2015年4月30日までは鹿児島市交通局及び鹿児島市交通局の電車車庫が所在していた。町域の北部には鹿児島女子短期大学、南日本放送が所在しており、南部には鹿児島市立甲南中学校が所在している。甲南中学校の校門付近には三方限出身名士顕彰碑があり、1935年(昭和10年)に三方限(現在の上之園町、上荒田町、高麗町)出身の江戸末期から明治初期にかけて活躍した48人を称え建立された。
高麗町の地価 住宅地の地価は、2014年(平成26年)1月1日の公示地価によれば、高麗町14-25の地点で22万1000円/m²となっている。
高麗町の歴史 明治初期より鹿児島府下のうちであった。1889年(明治22年)に市制が施行されたのに伴い、鹿児島城下47町及び近在3村より鹿児島市が成立し、それまでの高麗町は鹿児島市の町名「高麗町」となった。1971年(昭和46年)には高麗町の一部が荒田一丁目及び荒田二丁目となった。
カパルチャルシュの概要 1455年から1461年にかけ、当時のオスマン帝国皇帝のメフメト2世の命により建設された。16世紀のスレイマン大帝の時代に大幅に拡張され、1894年の地震で損傷したが修復されて現在に至る。広さ30,700平方メートルで、66の街路、4000の店舗がある。宝石類、陶器、香辛料、絨毯類を扱う業者が、業種ごとに同じ街路に集中して出店している。近年までバザール内に5つのモスクが存在したが、現在は2つのみが残っている。
蘇州日本人学校の概要 1997年4月12日に設立された蘇州日本人補習授業校が起源とされ(当時の在籍者7名)、2005年4月14日より蘇州日本人学校という現在の名称となっている。小学部、中学部で構成されており、総生徒数は転校が多いため安定していないが300人〜450人ぐらいとなっている。
吾亦紅 (曲)の概要 母を亡くした杉本が深く落胆している時に杉本の母と文通していたちあき哲也が「吾亦紅」を作詞。ちあきに杉本が「『吾亦紅』は何と読むのか?」と質問すると、ちあきは「われもこう」と回答。ちあきの詞に杉本が曲を付けて自ら歌っている。「吾亦紅」(われもこう)で2007年「第58回NHK紅白歌合戦」に初出場。58歳8ヶ月での初出場は、日本人男性ソロ歌手としては最年長記録(当時)になる。これをきっかけに、すぎもとの歌手・作曲家としての認知を広げた曲。2007年2月21日に発売。初回発売枚数はわずか258枚。しかしながら、北海道・STVラジオで話題となり、同3月開催のミニライブでは曲を聴いた観客が号泣、徐々に人気を博していった。杉本は「『吾亦紅』を眼を開けて歌うと客が泣いているのが見えて俺も泣けてくるので常に眼を閉じて歌っている」と述べている。同年12月24日付のオリコン総合チャートで登場34週目にして7位を記録し、初のTOP10入りを果たした。紅白出場後その注目度は一気に高まり、総合チャートでも2位に記録を更新、演歌・歌謡チャートでは15週連続首位を記録するなど、記録的なヒットとなる。オリジナル盤はすぎもとの写真が使われているジャケットでメロ譜のないものだったが、後に発売されたものは風景写真に差し替えメロ譜が付けられている。収録曲や品番に違いはない。
中国茶の中国茶 中国では「茶」は「茶 ちゃ chá」とも「茗 めい míng」とも呼ばれる。唐代に陸羽が著した『茶経』によれば、神農の時代からお茶が飲まれてきたと言われている。漢の時代に書かれた詩にお茶を表す文字が見られ、それが最古の文献と言われている。当時は、嗜好品というよりも薬としての役割が強く、次第に羹のような食べ物としても利用されるようになった。茶の飲用は魏晋南北朝時代に今日の四川省の辺りで始まり、次第に周辺地域に広がった。隋・唐代には、お茶を火にかけ煮出す方法や、抹茶、煎茶など、さまざまな楽しみ方がされ、同時に茶器の原型といわれるものが多数考案された。唐代には喫茶の風習が北方民族に広まり、茶と馬を交換する茶馬交易が始まるなど、茶は重要な産物として扱われるようになった。宋代に入って、お茶の新しい製法が次々に考案され、茶の種類が大幅に増えた。この時代、闘茶などの遊びも考案された。お茶が主要な輸出品となった。明代に入り、朱元璋が1391年(洪武24年)に福建省において団茶の製造禁止を発令し、中国の喫茶法に変化が生じた。固形茶が廃れ、散茶をお湯に浸して抽出する泡茶法が主流となる。それに応じて茶器のなかでも点茶器が廃れ、茶壺など泡茶器の重要さが増した。清代、茶器が現在使われている茶器とほぼ同じ物になった。
中国茶の茶芸 もともと中国には、日本のようなお点前はなく、茶芸は台湾で大手茶問屋の社員だった蔡榮章(現「陸羽茶学研究所所長」)が1970年代後半ごろ日本の茶道を参考に創始したものである。大手茶問屋の茶葉消費促進策で、この問屋が設立した「陸羽茶芸中心」がお茶の知識や淹れ方の技能を問う「泡茶師」の資格試験も実施している。それが、経済成長下の中国大陸に入り、やがて韓国にも広がっていった。明代から清代の初めにかけて、福建省の南部で生まれたとされるウーロン茶の飲み方「工夫茶」が原型になってはいるものの、当時の記録にお茶の入れ方、動作については触れられておらず、もっと手順が簡単だったと見られる。現在の茶芸の茶巾をたたむという所作は、日本の茶道の影響の表れであるといえる。基本的には「日本の茶文化とは、客をもてなす事。中国は美味しいお茶を楽しむ事」と認識される。
中国茶の中国茶の種類 前述したように中国茶は茶葉の発酵の仕方、および製造方法によって大別して6種類に分けられ、これを六大茶類と呼ぶ。発酵の進行度合いにより、水色(淹れた茶の色の意)が濃くなり、味も濃厚なものとなる。本項では発酵度の低い順にそれぞれを記述し、代表的なものを挙げる。
中国茶の緑茶 中国茶の緑茶は茶葉を摘み取ったあとに加熱処理を行ない酸化発酵を止めた茶、無発酵茶である。加熱の際に茶葉を蒸さずに釜炒りする方法が主流である(日本茶の緑茶は蒸す方法が主流であるが、釜炒り茶も一部に存在する)。中国においても、緑茶はもっともポピュラーな茶であり、中国本土で消費される中国茶全体の消費量の7〜8割が緑茶である。なお基本的には無発酵だが、雲峰などの一部の緑茶では、ダージリンの春摘み茶や烏龍茶や紅茶で行われる萎凋(わずかな発酵)を施すものもある。近年(2008年)、ダージリンのファーストフラッシュは萎凋を長く取り、後の発酵工程で発酵しきらない緑色の強い茶葉が好まれている。このような市場の要望に対する中国茶側からのアプローチは、緑茶で萎凋させる事だろう。
中国茶の白茶 白茶は茶葉の若葉、もしくは芽を選んで摘み、これらをわずかに発酵(萎凋)をさせたところでとろ火にて乾燥させたお茶。揉みこむ工程がないため、発酵はゆっくり進む。その若葉の産毛が白く見えるところから白茶と呼ばれている。一芯一葉で摘まれることがほとんどであり、白茶には高級品が多い。
中国茶の黄茶 黄茶は茶葉の芽を摘み、緑茶とは異なるゆっくりとした加熱処理によって酵素による酸化発酵を行ってから、悶黄と呼ばれる熟成工程を経たお茶。茶葉と水色が淡い黄色であるために黄茶と呼ばれる。製造量は年に数百キロにすぎず、六大茶類の中でももっとも貴重品。
中国茶の青茶 青茶はある程度発酵を進ませてから加熱処理を行った茶。半発酵茶とも。ただし、お茶の種類によって発酵度合は20〜80%と大きく異なる。茶葉が発酵過程で銀青色になるため「青茶」と呼ばれる。烏龍茶は、青茶の分類に含まれる。よく揉みこまれているため、茶葉のひとつひとつが球状、もしくは曲がりくねった棒状になっている。烏龍茶と呼ばれる理由は、色が烏のように黒く、揉みこまれた茶葉の形状が竜の姿に似ているからともいわれる。
中国茶の紅茶 紅茶は茶葉を乾燥させ、徹底的に揉みこむことによって酸化発酵を最後まで行わせたお茶。紅茶と呼ばれるのは、茶碗に淹れたお茶の水色が赤くなるからである。中国で製造される紅茶は茶葉の種類により製法の違いがあり、煙で燻したかのような香りがすることもある。実際に松葉等で燻す正山小種は、紅茶名「ラプサンスーチョン」としてイギリスでも有名である。
中国茶の黒茶 黒茶は緑茶と同じように加熱処理を行ってから、更に後発酵させたお茶で、産地や製法の違いで多くの種類がある。黒茶の一つであるプーアル茶には、天然の状態で発酵を促す「生茶」と、コウジカビによる後発酵を行わせた「熟茶」とがある。いわゆる六大茶類の中で唯一、微生物による発酵が施されたお茶である。他のお茶とは異なり、新鮮なものではなく長期に亘って発酵させたものが珍重される。保存期間は通常は2年から30年、長いものでは百年以上にもおよび、ワイン並みのビンテージものが存在する。後発酵を行うため、独特の風味がある。日本でもよく知られるプーアル茶がこの黒茶の代表格である。
中国茶のその他の中国茶 これら六大茶類に花弁の香りを緑茶に移した花茶(はなちゃ)をあわせて七大茶とする分類がポピュラーである。なお、この他に茶外茶と呼ばれる分類がある。多くの茶葉などをブレンドし、好みで氷砂糖を加える八宝茶や、木の根などを使用して茶葉を使わない漢方茶の類などもこの茶外茶に分類される。
中国茶のティーバッグ 最近はその利便性が受けて中国茶のティーバッグも少なからず売られている。ただし、紅茶のティーバッグで用いられるダストティーに比べると、中国茶は茶葉が大きく開くために通常のものよりもテトラバッグのほうが向いている。
中国茶の聞き茶(闘茶) 闘茶とは、何人かで何種類かの茶を飲み、その銘柄を当てる遊び。日本では「闘茶」のほか、聞き茶、歌舞伎茶、当て茶などとも言われる(日本語では、「香りを聞く」という表現がある。→香道)。
中国茶の香り 上述の記載で香りを大事にする旨の記載があるとおり、中国茶の香りには魅力があり、「清香」「甜香」等の表現をされる。中国茶は製造工程で多くの手法を用いて、魅力的な香りを出す工夫を行っている。中国茶は、食品の香り付けにも使用される。 四川料理の「樟茶鴨」、庶民的な食品である「茶鶏蛋」など、お茶の香りを料理に移す手法を用いる料理も少なくない。洋風では、紅茶をクッキーやケーキの香り付けに使う例もある。台湾では、梅の砂糖煮に紅茶の葉を加え、香りをつけたものもある。
アフリカネイションズカップ2012の開催方式 16チームを4チームずつの4組に分け、各組で1順の総当たり戦を実施。各組上位2チーム、計8チームがノックアウト方式の決勝トーナメントに進出した。なお、グループリーグの試合は、グループAとBが赤道ギニアにて、CとDがガボンにて行われた。
アフリカネイションズカップ2012のグループリーグ 勝点が並んだチームについては、当該チーム間の直接対戦の戦績を、グループ全試合での得失点差・総得点よりも優先して順位をつける。
UTC+3の概要 CMキャラクターは宮崎美子。1981年2月に発売された「ベルーガ」に続くヤマハの本格スクーター第2弾、ベルーガより小型で、パッソーラの上という位置づけで、主に女性層をメインターゲットとして開発された。前後10インチサイズのタイヤを採用し、フロントサスペンションは乗り心地を重視してボトムリンク方式とした。車両重量は乾燥で55kg(デラックス)。また、セルスターターが全グレードに標準装備された。搭載されるエンジンは、最高出力3.6psを発揮する空冷2サイクル単気筒。駆動方式はパッソル系のオイルバス式チェーンドライブではなくVベルトによるオートマチックを採用していた。 グレードは「デラックス」と「スーパーデラックス」の2種類。当時のメーカー希望小売価格は、デラックスが129,800円、スーパーデラックスが138,000円であった。1984年1月にはニューサリアン(CA50ED)が発売される。レッグシールドとフロントフェンダーが一体化され、全体がプロテクトモールにより保護された。エンジンは最高出力 5.0PSになる。メーカー希望小売価格は、138,000円であった。
天龍製鋸のスティール・パートナーズによるTOB 2002年より、アメリカの投資ファンドであるスティール・パートナーズが天龍製鋸への投資を開始した。2007年5月24日より、同ファンドによる株式公開買付けが行われたが、天龍製鋸取締役会はこれに反対の意向を示した。公開買付期間終了日の同年7月4日までの応募は、議決権の約2.69%にあたる143,000株にとどまった。同ファンドは、今後も天龍製鋸への投資を継続したいとしている。しかし、同法人から2010年(平成22年)12月21日に大量保有報告書(変更報告書)の写しの送付があり(報告義務発生日 2010年(平成22年)12月14日)、所有株が0%となり主要株主の異動が発生したことを確認された。
ジャケス・デ・ヴェルトの生涯 おそらくアントウェルペン近郊のヴェールト(Weert)の出身で、まだ子供の時にイタリアに移り住んだらしい。ナポリのマリア・ディ・カルドナ礼拝堂の聖歌隊で歌ったのち、フェラーラのエステ家の宮廷でチプリアーノ・デ・ローレに師事した(1550年頃~1555年)。その後にノヴェッラーラ、マントヴァ、パルマの宮廷音楽家を歴任した。1565年にマントヴァのゴンザーガ家の宮廷に仕え、サンタ・バルバラ礼拝堂の聖歌隊長に就任、最晩年(1592年)までその地位を守る。後任はジョヴァンニ・ジャコモ・ガストルディだった。私生活は波瀾続きで、妻は病弱の彼を見捨てて貴族に走り(その後に政治的陰謀に加担したかどで処刑されている)、フェラーラ宮廷歌手のタルクィニーア・モルツァとの恋愛は、悲劇的な幕切れとなった。
ジャケス・デ・ヴェルトの音楽作品とその影響 ヴェルトは、230曲のマドリガーレとその他の世俗音楽(1558年~1608年に16巻が出版)のほか、対位法の熟練ぶりをうかがわせる150曲以上の宗教曲(モテットや聖歌など)を遺した。様式的に見ると、ヴェルトは当時としては最も進歩的なマドリガーレ作曲家であった。1580年代になると、ルッツァスコ・ルッツァスキやルーカ・マレンツィオらと並んで、かつてない表現力と、情緒的に濃密な様式を主導する一人となり、この様式はいずれクラウディオ・モンテヴェルディやジェズアルドによって頂点を極めることになる。ヴェルトはマドリガーレにホモフォニーのテクスチュアを用いる傾向にあったが、それ一本槍というわけではなかった。ポリフォニーの楽句が刺激的な対比として出現するからである。ヴェルトは最晩年の1590年代において、新しいコンチェルタート様式を試みるようになり、複数の声部が掛け合いを演ずるようになる。ヴェルトはチプリアーノ・デ・ローレとクラウディオ・モンテヴェルディの間に位置する世代の代表的な作曲家であり、モンテヴェルディはマントヴァ時代にヴェルトの許で演奏家として勤め、少なからぬ感化をこうむったことを認めている。
松本三和夫の経歴 1981年、東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学、1982年、城西大学専任講師、1985年、助教授、1993年、東京大学社会学博士。1995年、城西大学教授、1996年、東京大学大学院人文社会系研究科助教授(社会学)、2003年、教授。2007年12月15日、歴代の学部ゼミ生20数名による松本ゼミ総会が開催された。2018年定年退任、名誉教授。
ヴィクナの基礎情報 ヴィクナ市は1869年7月1日、ナーロイからヴィクテン市 (Vikten) として分立した。当時の人口は1749年であった。1881年1月1日、フォスネスの一部地域(人口:61人)が市に移管された。市名は後にヴィクナに改称された。
ヴィクナの市名 市を構成するインネル=ヴィクナ (Inner-Vikna) 、メロム=ヴィクナ (Mellom-Vikna) 、イッテル=ヴィクナ (Ytter-Vikna) の三島にちなむ。これら島名はいずれも、「入り江」を意味する vik に由来する(いずれの島にも無数の入り江がある)。
ヴィクナの紋章 現在の紋章は1988年5月13日に制定された。いまも市内の重要な収入源であるサケ漁と養殖業を表し、青地に3匹のサケが描かれている。
ヴィクナの地理 ヴィクナ市はヌール・トロンデラーグ県北西沖のノルウェー海に浮かぶ、大小6000余りの群島からなる。ロフォーテン諸島以南では最大のサケの産卵場である。主な島は本土から近い順にインネル=ヴィクナ、メロム=ヴィクナ、そして最西端のイッテル=ヴィクナの三つである。中心となる村落はインネル=ヴィクナ島東岸のレールヴィク村で、本土とナーロイスンデット海峡で向かい合っている。市内にはギェスリンゲーネ灯台、グリンナ灯台、ナーロイスン灯台、ヌールドイヤン灯台など、多くの灯台が置かれている。1962年10月21日、沿岸急行船(フッティルーテン)の Sanct Svithun 号が操舵ミスでヌールドイヤンに座礁。船体は沈没し、41名の命が失われた。ヌールドイヤンには2002年、追悼のメンヒルが建立された。
ヴィクナの経済 市民の主な収入源は漁業、養殖業、公共サービス、農業である。レールヴィクには、過去数世紀の沿岸部における生活様式を紹介するヌールヴァイ博物館がある。電力は大部分が、ガシュタード西部のメロム=ヴィクナ島にあるヴィクナ風力発電所から供給されている。
ヴィクナの交通 レールヴィクにフッティルーテンが停泊するほか、ナーロイスン橋経由で県道770号が市内と本土および欧州ルートE6号を結んでいる。レールヴィクの南にはレールヴィク空港が置かれている。ヴィクナとナーロイは、人口1万人ほどの共同労働圏を形成している。
福知山オフレールステーションの概要 全長442m。ネビュラ級は惑星連邦旗艦のギャラクシー級をベースにした簡易量産型の艦級であり、ギャラクシー級の円盤部にドーサルネックを省略して機関部とワープナセルをつないだコンパクトな艦姿をしている。ただしネビュラ級の円盤部の上部にはギャラクシー級にはないセンサードームおよび大型コンテナが設置されており、独自の高い汎用性を持たせている。コンパクトなデザインとなっているため、シールド形状やワープフィールド展開に無駄がなく、探査・科学調査・戦術任務と幅広い活躍を見せる。円盤部上部のコンテナ部は三角型ユニットを搭載しているタイプ(U.S.S.サザーランド、U.S.S.ホンシュウ、U.S.S.ファラガット等)や、小型のワープナセルを搭載しているタイプ(U.S.S.メルボルン)、丸い小型円盤部を搭載している物(U.S.S.フェニックス)などが確認されている。設定上は大型カーゴ、超長距離センサー、大量の光子魚雷および発射管の装備があげられており、幅広い改造に対応可能な部分であると思われる。元々の設計的考え方はコンスティテューション級をベースにした簡易量産型であるミランダ級にあると思われる。ギャラクシー級のワープナセルが上向きに付けられているのに対し、ネビュラ級は同じ機関を用いて下向きになっている。これはコンスティテューション級のワープナセルが上向きに付けられているのに対し、ミランダ級のワープナセルが下向きになっている事と一致する。ただ、登録番号がギャラクシー級1番艦「U.S.S.ギャラクシーNCC-70637」より「U.S.S.ネビュラNCC-60602」のほうがかなり若いため、ネビュラ級はギャラクシー級の試作的な艦級であるとも考えられる。
BOOM BOOMの概要 毎週土曜日に放送されていた若者向けの音楽バラエティ番組で、沖縄アクターズスクールとライジングプロダクション(現:ヴィジョンファクトリー)が制作協力をしていた。沖縄アクターズスクール所属のアイドルグループB.B.WAVESなどが出演して歌やダンスなどのミニライブを展開していたほか、スクールのレッスンドキュメントや、最新のCD発売情報とイベント情報なども放送し、沖縄在住の10代を中心とする若い年代層に絶大な人気を誇った。なお、この番組には当時10代前半だった山田優もレギュラー出演していた。1997年にサガテレビが本番組のネットを開始して以来、他のフジテレビ系列局や独立UHF局も番組をネットするようになった。他のOTV製作番組は、『郷土劇場』のような長寿番組であっても普段沖縄県外の民放テレビ局でネットされることはなく、あってもCSチャンネルのみでの放送なので、いくつかの民放テレビ局で放送された本番組は非常に珍しいケースと言える。
ワンス・アポン・ア・タイム (テレビドラマ)の概要 本作のタイトルに使われている「once upon a time」というフレーズは「むかし、ある時」という意味で、日本語の昔話の冒頭における「むかし、むかし」という常套句に相当する。本作は、現代のアメリカ合衆国メイン州の小さな海辺の街ストーリーブルック( Storybrooke )を舞台に、自分たちの素性を忘れて暮らしているおとぎ話のキャラクターたちを描く。登場するのは『白雪姫』『赤ずきん』『ピノッキオの冒険』などのキャラクターたちで、彼らは元々、魔法の森( the Enchanted Forest )の住人だった。しかし、悪い女王レジーナ(ラナ・パリーヤ)がルンペルシュティルツキン(ロバート・カーライル)から伝授された呪いの魔法を用い、白雪姫たちを魔法もハッピーエンドもない恐ろしい世界、すなわち現実世界に転送してしまったという設定である。ウォルト・ディズニー・カンパニー傘下のABCスタジオが製作し、やはりディズニー傘下のABC系列で放送されており、ディズニープリンセス、白馬の王子、フェアリー、魔法のランプ、お菓子の家などが実写で登場し、特撮やCG合成も駆使されている。『ピノッキオの冒険』(『ピノキオの冒険』)のジミニー・クリケット、『白雪姫』の7人の小人の名前などは、ディズニー版に準拠している。白雪姫が剣を振るったり妊娠したりするなど、本作独自の設定もあるが、ディズニーのブランド・イメージ管理部門から苦情は出ていないという。その他、『不思議の国のアリス』や『フランケンシュタイン』の要素も含まれている。女性キャラクターが強いという特徴もある。各エピソードは、特定のキャラクターに焦点を当て、現実世界における物語と、おとぎの世界(魔法の森)におけるフラッシュバック・ストーリーが『LOST』のように交互に展開し、現実世界におけるバックストーリー(エマの過去など)も随所に挿入されている。さらに第2シーズンでは、レジーナの呪いの影響を免れた者たちの、おとぎの世界におけるその後の物語や、おとぎの世界と現実世界のクロスオーバーも描かれる。また、レジーナや白雪姫らとは異なる世界から現実世界に来た者たちもいることが明らかになる。本作のショーランナーを務めるアダム・ホロウィッツとエドワード・キッツィスは『フェリシティの青春』『LOST』の脚本陣にいた。本作を立ち上げる際、J・J・エイブラムス、カールトン・キューズ、デイモン・リンデロフと頻繁に連絡を取り、ショーランナーとしてのノウハウを教示してもらったという。特にリンデロフは、クレジットはされていないが企画に大きく貢献している。なお、本作には『LOST』に関わる引喩やアイテムもしばしば登場する。ディズニー作品や『LOST』へのオマージュについてはen:Once Upon a Time (TV series)#Cultural referencesを参照。
ワンス・アポン・ア・タイム (テレビドラマ)の日本 日本では2013年9月19日よりNHK BSプレミアムで放送開始。中川翔子が歌唱する日本版独自のエンディングテーマ「Once Upon a Time -キボウノウタ-」が使用された。また、本編の放送開始に先駆け、中川と関根勤が出演する特別番組「魔法の国のミステリー 『ワンス・アポン・ア・タイム』の秘密」がNHK BSプレミアムで9月12日、総合テレビで9月16日に放送された。さらに、日本語版では『ワンスの扉』というミニ番組が第1話から第5話までのドラマ本編の前後に挿入され、速水もこみちがワンスの案内人として解説を行った。YouTubeの Sony Music (Japan) 公式チャンネルではダイジェスト映像も公開されている。BS局のDlifeで2014年10月1日から第一シーズンが放送された。DlifeではNHKで放送された二カ国版に加え、英語音声の字幕版も別番組として放送された。2016年2月から第二シーズンが放送される。なお、スペシャル・サポーターでもある中川翔子は、本作を「こんなに盛りだくさんでギュウギュウ詰めな、楽しみてんこ盛りな作品というのは、10年に一度の大彗星レベル」のドラマだと評している。シーズン5以降のNHK、Dlife含むテレビ放送は未定だが、Amazon primeなどの配信では字幕版が視聴可能で、2018年上半期の内に吹き替え音声も収録したDVD-BOXが発売されている。
ワンス・アポン・ア・タイム (テレビドラマ)の第1シーズンのあらすじ おとぎの世界の魔法の森。悪い女王が白雪姫とプリンス・チャーミングの結婚式に現れ、「皆に呪いをかけてやるわ。ハッピーエンドはあたしだけのものになるのよ」と宣言する。やがて、呪いの魔法が発動し、ほとんどの者は現実世界に飛ばされ、普通の人間として暮らすようになる。28年後。マサチューセッツ州ボストン。孤児として育ったエマ・スワンは誕生日を1人で祝っていた。そこに、10年前に生んだ自分の息子だと名乗るヘンリー少年が訪れる。ヘンリーは大きな絵本を見せ、そこに書かれている”おとぎ話”は実際の出来事だと主張する。自分の養母は悪い女王で、魔法の森の住人たちに呪いをかけ、この世界のストーリーブルックという街に飛ばして本来の記憶も奪ったというのである。ヘンリーの学校のメアリー・マーガレット・ブランチャード先生は実は白雪姫、病院で昏睡している身元不明患者の正体はプリンス・チャーミングであり、その娘であるエマこそ、呪いを解くことができる救世主らしい。そんな話を信じられるわけがないが、エマはともかく、ヘンリーをメイン州ストーリーブルックの養母のもとに送り届ける。街の時計台の針が8:15を指したままずっと止まっているが、ヘンリーによると、それはストーリーブルックの住人たちが時間の流れから隔離されているためであり、彼らは街を離れることさえできないという。エマはすぐにボストンに帰るつもりでいたが、養母レジーナとの関係がギクシャクしているヘンリーに「1週間だけいてほしい」と懇願され、ホテルにチェックインする。すると、時計台の針が動き出し、コオロギが鳴き始め、レジーナの庭で赤々と実っていたリンゴが腐り出す。エマの存在が呪いの効果を弱らせているのである。レジーナはストーリーブルックの町長として君臨しており、ほとんど誰も逆らえない。悪い女王として白雪姫を目の敵にしていたように、ストーリーブルックでもメアリー・マーガレットを陥れようと謀る。レジーナが唯一苦手としているのは街一番の金持ち、ミスター・ゴールドである。ゴールドはおとぎの世界ではルンペルシュティルツキン、別名”闇の王”として知られていた悪の大魔法使いで、呪いの魔法を編み出した張本人だった。彼は、おとぎの世界でも現実世界でもさまざまな取引を行い、大きな代償を要求する。やがて、新しい保安官として街に根を下ろすことになったエマは、次第にヘンリーやメアリー・マーガレットとの絆を深めるとともに、”おとぎ話”が真実だと信じざるを得ない出来事を次々と体験・目撃するようになる。そして、ついに呪いが解かれ、住民たちの記憶が回復する。
ワンス・アポン・ア・タイム (テレビドラマ)の第2シーズンのあらすじ 呪いが解かれるとともに、ストーリーブルックでは魔法が使えるようになる。エマとメアリー・マーガレットは、おとぎの世界に飛ばされてオーロラ姫やムーランとともに旅をする。現実世界へのポータルを開くため、巨人の国で魔法の豆を入手するが、大魔女コーラとフック船長に奪われてしまう。しかし、ヘンリーのために良い母親になろうと努力するレジーナの協力により、別のポータルを通ってストーリブルックに戻ることに成功する。大魔女コーラはレジーナの母で、おとぎの世界では仲違いしており、一度はレジーナによって不思議の国に追放されていた。だが、そこでハートの女王となったコーラは、レジーナが刺客として送ったフックを逆に丸め込み、魔法の森に戻ってその一部を凍結させ、レジーナの呪いを回避していたのである。そして今、魔法の豆とフックの帆船を使い、ストーリーブルックに乗り込むことにしたのだった。おとぎの国からコーラとともにやって来たフックは、ゴールドを殺そうと付け狙う。ゴールドことルンペルシュティルツキンこそ、彼の左手を奪った”ワニ”だからである。ゴールドはニューヨークに行き、呪い発動以前に現実世界に来ていた息子ベイと再会する。しかも、ベイはエマのかつての恋人ニール、すなわちヘンリーの実父だったことがわかる。ストーリーブルックは本来、おとぎの世界から来た者(エマ含む)とヘンリー以外には見えなかったが、呪いが解けたことにより誰でも入り込めるようになった。そして、魔法を悪しき物と看做す外界者たちがフックを雇い、レジーナが保険として持っていたリセット装置を奪って起動させ、ストーリーブルックを消滅させようと謀る。しかし、ストーリーブルックの消滅とともにおとぎの世界から来た者たちも全員消滅することになると悟ったフックは心変わりし、街の消滅を防ぐためにエマたちに協力する。「自分たちが消滅したら、ヘンリーは孤児になってしまう」という思いから、それまで対立していたエマとレジーナが力を合わせ、ストーリーブルックの消滅をどうにか回避する。だが、そのいざこざの最中にニールは瀕死の重傷を負ったままおとぎの世界に飛ばされ、またヘンリーもネバーランドに連れ去られてしまう。ヘンリーを救うため、エマ、白雪姫、チャーミング、レジーナ、そしてゴールドは、フック船長の帆船”ジョリー・ロジャー”号で出発する。
ワンス・アポン・ア・タイム (テレビドラマ)の第3シーズンのあらすじ 第2シーズンに登場した、ストーリーブルックを消滅させようとする外界者のボスはピーター・パン(ロビー・ケイ)であった。彼は自身の命のため、「真に信ずるものの心臓」を手に入れようとしてヘンリー・ミルズを誘拐したのだった。さらにこのピーター・パンはルンペルシュティルツキンの父親であったことが判明し、息子を捨てることで若さを手に入れたのだった。エマ、白雪、チャーミング、レジーナ、ルンペルシュティルツキンはヘンリー救出のためネバーランドへ向かい、人魚のアリエルや、妖精のティンカー・ベルの力を借りながらピーター・パンを追い詰め、ヘンリーを助け出す。しかしピーター・パンは封じ込められる直前の一瞬を利用してヘンリーと入れ替わり、ストーリーブルックに新たな呪いをかけようとする。ピーター・パンが生き残っていることを知ったルンペルシュティルツキンは捨て身の行動で、ピーター・パンと自らまでも死に追いやる。しかしピーター・パンの呪いは消えておらず、この呪いを防ぐために、レジーナがかけた元の呪いを解くこととなる。元の呪いの影響を受けていないエマ、ヘンリーがニューヨークへと逃れた後、呪いを解き住人たちは魔法の森へと戻った。1年後、魔法やストーリーブルックの存在を忘れたエマとヘンリーはニューヨークで生活していた。そこへ突然フック船長が、両親の危機だと言いながら訪問する。エマはフック船長の記憶もなくしているので、最初は追い返そうとするが、フック船長が記憶を取り戻す薬をエマに飲ませたため、エマはストーリーブルックに帰ることを決意する。そこでは住民たちがエマと別れてからの1年間の記憶を失い、さらに白雪姫は妊娠をしていた。過去の出来事を探っていくうちに、これらの出来事には西の悪い魔女ことゼリーナ(レベッカ・メイダー)が深く関わっていることが明らかとなる。彼女はニールを利用してルンペルシュティルツキンを生き返らせて手下につけ、妹であるレジーナを恨み過去を変えようと企んでいた。そして白雪や悪い女王が西の魔女ゼリーナを倒すために呪いをつくりだしたが、ゼリーナに記憶を失う魔法を呪いにかけたため、住人たちは皆記憶を失っていたのだった。ゼリーナが過去へのポータルを完成させた時、レジーナは善の力を使って姉のゼリーナを倒す。しかしゼリーナはこの時死なずに過去へのポータルを開き、エマとフック船長がこれに巻き込まれ、過去である白雪姫とチャーミング王子の初対面の場面に移動してしまう。この時、両親の出会いを邪魔してしまったため、歴史を直すために奮闘する。ルンペルシュティルツキンの助けを借りながら、無事歴史を元通りにしたが、その際ロビン・フッドの妻であるマリアンと、壺に閉じ込められていたエルサをストーリーブルックに持ち帰ってしまう。
ワンス・アポン・ア・タイム (テレビドラマ)の第4シーズンのあらすじ 前シーズンのタイムトラベルの影響でエルサが過去の魔法の森から現在のストーリーブルックにやってくる。エルサは妹のアナをメインキャラクターとともに探していく中で、過去のアナと魔法の森の住民の何人かが会っていたことが明らかになる。さらにストーリーブルックには、エルサの過去を知る雪の女王イングリッドが住んでいた。しかし雪の女王の存在をエルサは覚えていなかった。イングリッドは、妹に裏切られたことがトラウマで、自分と同じような人を探して「家族」になろうとしていたのだった。彼女はエマを家族にするため、魔法使いの弟子の協力を借りて現実世界を訪れ、愛する人の一番悪いところしか見えなくなる「割れ鏡の魔法」を作り上げた。しかしエルサのペンダントの魔法によって呼びだされたアナとクリストフと共に海岸に流れ着いた、イングリッドの妹であるゲルダの手紙を読んで心変わりしたイングリッドは、自らを死に追いやることで魔法の効力を消した。その頃ルンペルシュティルツキンは、ゼリーナに操られたことがトラウマとなっており、フック船長を利用して短剣の呪縛から逃れようとしていた。過去に魔法使いの弟子から奪った帽子を利用し、妖精たちを吸い込んだ。しかしまだ力が必要なため、エマの力を得ようとするが、儀式を行おうとした直前でベルたちに止められ、ルンペルシュティルツキンはストーリーブルックから追い出される。そこでルンペルシュティルツキンはクルエラ、マレフィセント、アースラの協力を得て、おとぎの本の作者を探し、ヒーローとヴィランズの立場を逆転させようとした。レジーナはヘンリーと共に同じくおとぎ話の本の作者を探し、ハッピーエンドを得ようとしていた。作者のアイザックは本のページの中に閉じ込められており、作者を解放すると様々な人がそれぞれの思惑を持って作者を追う。最終的に作者はルンペルシュティルツキンの要求を飲み、自身がヒーローとなる物語を書かせる。作者が物語を書き終わると、ヘンリーを除く住人が消え、アイザックはベストセラー作家になっていた。ヘンリーは物語の世界に入り、囚われていたエマと共に物語を元に戻す。アイザックは作者でなくなり、ヘンリーが新たに作者になるが、ヘンリーはそれを放棄する。元の世界に戻ると、ルンペルシュティルツキンの心が闇に覆われようとしていた。そして闇の力は暴走し、エマの体内に入り込んでしまった。
ワンス・アポン・ア・タイム (テレビドラマ)の第5シーズンのあらすじ 第5シーズンは2015年5月7日に制作発表され、2015年9月27日に放送開始した。2パートで構成されており、前半を2015年9月から12月、後半を2016年3月から5月まで放送した。第5シーズンではすべてを破壊してしまうような闇の力からエマを解放するべくソーサラー・マーリンを探しにキャメロットを訪れることになる。とある目的のためアーサー王は、エクスカリバーで光と闇のバランスを永久に変えようとした。望まぬ結果によりキャラクターたちはやり残した魂たちがいるハデスに支配された冥界に行くこととなる。また、レジーナを悪い女王の分離やジキルとハイドの出現により光と闇の戦争へと進んでいくのであった。
ワンス・アポン・ア・タイム (テレビドラマ)の第6シーズンのあらすじ 第6シーズンは2016年3月3日に制作発表され、2016年9月25日に放送開始した。キャラクター達はハイドや悪い女王たちの脅威に脅かされたり、エマは救世主としての数奇な運命によりアラジンについて知っていくことになる。光と闇の戦争はついにブラックフェアリーが出現したことにより最終決戦を迎え、さらなる呪いがストーリーブルックを襲う。
ワンス・アポン・ア・タイム (テレビドラマ)の第7シーズンのあらすじ 2017年5月シリーズがシーズン7の22話へ継続することが発表されると同時に、リブートの形を取ることが発表された。新しい物語は数年後のシアトルで繰り広げられる。ルーシーがおとぎ話の本と共に父親であるヘンリーを見つけるところからスタートする。
ワンス・アポン・ア・タイム (テレビドラマ)の原案・企画 アダム・ホロウィッツとエドワード・キッツィスが本作の基本設定を思いついたのは『フェリシティの青春』の仕事をしていた頃またはその直後だが、テレビネットワークへの売り込みは失敗に終わり、『LOST』の終了まで保留となった。ホロウィッツとキッツィスは『LOST』での経験から、物語に大切なのは視点だと学び、視聴者に感情移入してもらうためにどうすべきかを模索し、キャラクターが自分の過去を乗り越える様を描くべきだと判断した。すなわち、単に「呪いを解く」というより、各キャラクターの成長や、彼らがストーリーブルックに来る過程で失ったり奪われたりしたものを描く物語が作られることになった。おとぎ話のキャラクターといえども、普通の人間としての感情や生活を持つ。『LOST』の共同クリエイター、デイモン・リンデロフがコンサルタント(公式クレジット無し)として本作の設定作りに参加しており、その貢献度の高さからホロウィッツとキッツィスに「godfather」と呼ばれている。なお、ホロウィッツとキッツィスは他作品も含めて共同脚本としてクレジットされているが、実際、大学2年生の時から常に同じ部屋でアイデアを出し合いながら書いているという。
ワンス・アポン・ア・タイム (テレビドラマ)の構成・テーマ 視聴者がすでに知っている物語との差別化を明確にするため、パイロット版(第1話)は『白雪姫』の結末から始めることになった。エピソード構成のテンプレートとして作られたパイロット版に従い、その後の各エピソードには『LOST』と同様のフラッシュバックが挿入され、キャラクターたちが失ったものや、おとぎの世界と現実世界の類似点が描かれる。パイロット版にはゼペット、ピノキオ、グランピーなど、多くのキャラクターが同時に登場するシーンがある。ホロウィッツは「本作のストーリー作りにおける楽しみの1つは、さまざまなキャラクターたちを如何にこれまで見られなかった形で共演させるかを考えること」と語っている。『LOST』との比較・類似点について、ホロウィッツとキッツィスは全く異なる番組を目指していると述べている。例えば、『LOST』の中心的テーマが「贖罪」であったのに対し、本作のそれは「希望」だという。また、『LOST』では「父性」に焦点が当てられていたのと対照的に、本作では「家族」や「母性」が強調されている。さらに、女性に関しては、いわゆる”damsel in distress”ではなく強い女性キャラクターが描かれている。
ワンス・アポン・ア・タイム (テレビドラマ)の類似作品 おとぎ話の登場人物が現実世界に現れるという設定はこれが初めてではない。例えば、ABC系列で1987年から1988年にかけて放送された短命のシットコム『The Charmings』では、白雪姫とプリンス・チャーミングが現代にタイムトラベルする。また、2007年にはディズニーの自己パロディ映画『魔法にかけられて』も公開された。特に、ビル・ウィリンガム作のアクション・ファンタジー・コミック『Fables』との類似性が同作のファンたちによって指摘され、物議をかもした。『Fables』では、おとぎ話の世界から追放されたキャラクターたちが現代のニューヨークを舞台に活躍する。実は同作のテレビ化は過去に2度検討されており、その2つめはABCによるものだった(2008年)。本作の脚本家たちは当初、関連性を否定し、その後、「少しだけ読んだことがあったかもしれない」と認めながらも、「同じ遊び場における異なる物語」と説明した。この件について尋ねられたビル・ウィリンガムは、おとぎ話を題材とする作品は以前からあり、似たような企画が同時進行していたとしても不思議ではなく、『Once Upon a Time』は『Fables』の盗作と呼べるほど類似していないと答えた。また、本作の脚本家が最初に関連を完全否定したのは『Fables』を読んだことを本当に覚えていなかったためか、あるいは訴訟を恐れてのことだったのかもしれないと述べている。おとぎ話のキャラクターが登場する現代ドラマでは、やはり2011年に放送開始となった『GRIMM/グリム』もある。
ワンス・アポン・ア・タイム (テレビドラマ)の第2シーズンのキャスティング 第2シーズンに向け、ルビー(赤ずきん)役のミーガン・オリーおよびベル役のエミリー・デ・レイヴィンが、それぞれレギュラー・キャストに昇格することが発表された。また、サラ・ボルジャー演じるオーロラ姫と、ジェイミー・チャン演じるムーラン、そしてジュリアン・モリス演じるフィリップ王子、コリン・オドナヒュー演じるフック船長、マイケル・レイモンド=ジェームズ演じるニール(ベイルファイア)が、新たに脇役として加わった。2012年2月、ジャンカルロ・エスポジート(魔法の鏡 / シドニー・グラス 役)がNBC系列の新番組パイロット『レボリューション』に出演するという発表があった。同5月に放送された本作の第1シーズン最終話では、シドニー・グラスが閉鎖病棟入りしたことが示唆されている。結局、エスポジートは『レボリューション』への出演を優先することになり、本作の第2シーズンには出演していないが、総集編特番『Once Upon a Time: Magic Is Coming』ではナレーターを務めた。2012年10月、オドナヒューが第2シーズン第14話よりレギュラー・キャストに昇格すると発表された。