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運動場・松潭大駅の駅構造 相対式ホーム2面2線を有する高架駅。 
ニュートン (単位)の名称 1946年、国際度量衡総会 (CGPM) のMKS単位系で、1キログラムの物質に1m/s² の加速度を生じさせる力が単位として認められ、1904年にブリストル大学のデビッド・ロバートソンにより提唱された「ニュートン」の名称が1948年に採用された。これによりニュートンは力の国際単位系 (SI)となった。人名にちなんで名付けられたため「n」ではなく「N」と表記される。ただし「ニュートン」と書き出す場合は「Newton」ではなく「newton」が正しい。
ニュートン (単位)の重量 重量が重力によって2つの物体の間に働く力と定義されているので、ニュートンはまた重量の単位でもある。地球表面において質量1キログラムの物体の重量は約9.81ニュートンである(場所によって10分の数パーセント異なる)。この値が1重量キログラム (kgf) である。
ネットワークアドレスのネットワークアドレスの算出方法 ネットワークアドレスは特定のIPアドレスとそのIPアドレスのサブネットマスクの論理積により求める事ができる。
ファイナルファイト タフの概要 『ファイナルファイト』シリーズの3作目(スーパーファミコン版では4作目)。日本国外版の名称は"Final Fight 3"で、ナンバリング作品の扱いとなっている。2009年12月8日からWiiのバーチャルコンソールで、2014年10月29日からWii Uのバーチャルコンソールで、2016年11月21日からNewニンテンドー3DSのバーチャルコンソールで配信が開始された。使用可能なキャラクターはハガーとガイ、そして女刑事ルシアと謎の青年ディーンが新たに加わり、従来の3人から4人に増加した。システムはダッシュが可能となり、「スーパーメガクラッシュ」と呼ばれる超必殺技が使用でき、さらにはステージに分岐点があるなど前作『ファイナルファイト2』よりも凝っている。また、「AUTO 2P」が導入され、1人プレイでも2人プレイが可能になった。
ファイナルファイト タフの基本システム 十字キーと攻撃ボタンとジャンプボタンを使った操作は基本的に前作までと同じ。アイテム取得の操作も同様。本作ではプレイヤーキャラクターには画面上部にある「体力ゲージ」の他に画面下部に「スーパーメガクラッシュゲージ」が追加された。このゲージが満タンの時に特定のコマンドを入力すると「スーパーメガクラッシュ」が使用可能になる。「スーパーメガクラッシュゲージ」は主に攻撃を敵に当てることで蓄積され、満タンになるまでの間はいかなる状況であっても減少することはない。しかし満タンになった後は「スーパーメガクラッシュ」を発動させる、もしくは一定時間以内に「スーパーメガクラッシュ」を発動しないと初期状態に戻ってしまう。またルシア以外のプレイヤーキャラクターの「スーパーメガクラッシュ」は掴み系であるため、掴みができない敵キャラクターに対しては使用ができない。前作までは無かったシステムとして十字キーを素早く前に2回押すとその方向へ「ランニングダッシュ」が可能。この状態で攻撃ボタンを押すとダッシュ攻撃を行い、ガイとルシアは攻撃ボタンを連打することで連続攻撃を出せる。LボタンまたはRボタンを押した状態で十字キー後を押し続けると「振り向かずに後退」でき、さらにこの状態で十字キーを素早く後に2回押すとその方向へ「バックステップ」ができる。本作では正面から相手を掴めるのみならず、相手の背後に近づいて「後ろ掴み」が可能になった。また、相手を掴んでいる時に攻撃ボタンと十字キー下を同時に押すと掴む方向を変更できる。さらに「後ろ掴み」時に攻撃すると通常の掴み技や投げ技とは違う技を出せる。前作まではプレイヤーキャラクター同士には当たり判定があったが、本作はオプションにてプレイヤーキャラクター同士の当たり判定の有無を選択可能になった。
ファイナルファイト タフのストーリー ハガーたちの活躍によりマッドギアは壊滅して、メトロシティも一見すると平和に見えた。マッドギア規模の組織が無くなったのも事実だが、悪党を統率する存在も無くなり、次第に街が乱れ始めていたのも事実であった。その中でも、最近になって急速に力をつけてきたマッドギアの元下部組織スカルクロスの存在は、再び市民を不安と恐怖に陥れようとした。そんな中ハガーの元に、長年の修行から帰ってきたガイから連絡があった。ハガーとガイが話している最中、突如スカルクロスの一団が留置所を襲撃する。ガイとハガーは連絡に来たルシアと共に、自らスカルクロスの元まで案内するという謎の青年ディーンを連れて、新たな戦いに挑む。
ファイナルファイト タフのスカルクロス 元マッドギアの下部組織。マッドギア壊滅後、本格的にメトロシティで犯罪活動を始める。
マネージュ広場 (モスクワ)の政権の構造 ノガイ・オルダはエディゲの家系を盟主とする部族の連合体であり、エディゲの出身部族であるマンギト部のほかにコンギラト(クングラト)など諸部族が加わっていた。創始者のエディゲはチンギス・ハーンの男系子孫ではなく、そのため当時の慣習によってハーン(ハン)に即位することはなかった。16世紀の前半頃まで、エディゲとその子孫たちはジョチの十三男トカ・テムルの後裔をハンに推戴しており、自身はベグ(ビー)あるいはアミール(エミール)の称号しか名乗らなかったが、彼らはノガイ・オルダの事実上の君主として支配した。また、多くの遊牧政権がそうであるように、次第に創始者エディゲの子孫が枝分かれして小集団の支配者になっていったが、彼らは「アミールの子」を意味するミルザ(ムルザ)という称号を名乗った。
宇都宮彗星 (C/2002 F1)の発見 ノガイ・オルダの遊牧民たちは、他のジョチ・ウルスの遊牧民と同じく、イスラム教を信仰していた。エディゲの後裔たちはそのイスラム信仰をチンギス・ハーンの血を引かないマンギト部の家系と結びつけ、エディゲをアブー・バクルの20代目の子孫とする系譜すら作り出している。クリミア・ハン国やカザフ・ハン国のような周辺の諸政権と異なり、現在では直系の後裔がほとんど残っていないノガイ・オルダであるが、彼らの伝えていたと思われるノガイ・オルダの歴史伝承は、英雄叙事詩の形で離散したノガイ人たちが同化した中央ユーラシア各地のテュルク系諸民族の間で語り継がれ、「ノガイ体系」と呼ばれる叙事詩群として残されている。
馮俊彦の広州恒大 彗星はペガスス座、アンドロメダ座を横断し、発見1ヶ月後の4月下旬には太陽に0.44auまで接近し、4等級まで明るくなり1.5度の尾が伸びた。この頃、彗星はさんかく座近くで太陽の北側に回り北半球で観測できたが、低空に位置していた。同じ時期、3月に近日点を通過した池谷・張彗星も3等級で観測された。近日点通過後はおうし座、オリオン座を南下し、南半球で観測できたが急速に減光していった。
アルファロメオ・2000/2600の2000(1957年-1961年) 2003年から2014年まで長生きに渡り広州恒大でプレーした。2015年2月18日、現役引退を発表した。
真岡警察署の2600(1962年-1968年) ミラノの名門メーカーの威信にかけて、トリノのランチアに対する劣勢を挽回すべく、アルファロメオは2000の直列4気筒エンジンを直列6気筒の2,600 ccに変更し、「2600」として再デビューさせた。デビューは1962年のジュネーブ自動車ショーで、当初のボディバリエーションは2000同様にベルリーナ、スパイダー(2+2化された)、スプリントの3種であった。1965年のフランクフルト自動車ショーでは、ザガートのデザイン・製作による2座席スポーツクーペ、「2600SZ」(Sprint Zagato)が追加された。1900の時代までは、自動車メーカーが供給するシャーシに様々なカロッツェリア が一品製作(フォリ・セリエ)または少数生産のスペシャルボディを架装して市販される例が多く見られたが、2000/2600ではこの伝統はほとんど絶たれ、僅かに2600スプリントをベースとした2+2カブリオレが試作され、カロッツェリア・OSIによる6ライトの4ドア・ベルリーナが少数生産されたに過ぎない。2000と基本的に同じシャシー・ボディを持っていたが、2600では(6気筒エンジンを搭載するためにベルリーナとスパイダーのボンネット高が上げられ、スパイダーとスプリントにはパワーバルジが追加となり、2000の軽快さは損なわれた。そのエンジンは新設計の軽合金シリンダーヘッドを持つDOHC 2,584 ccで、ベルリーナはツインキャブレター130馬力、他は3キャブレターで、スパイダーとスプリントは145馬力、SZは更にチューンされて165馬力であった。1968年に消滅するまでに、2600ベルリーナが2092台、スパイダーは2255台、スプリントは6999台、SZが105台生産された。この生産台数は商業的に成功とは言い難かった。新しい6気筒エンジンは優れた設計であったが、1900と基本的に同一設計のままであったシャシーの前輪荷重を増す結果になり、もともと時代遅れになりかけていた操縦性を悪化させ、ノンパワーのステアリングの操舵力も重くなった。それは特に小型車クラスのアルファロメオ自身の傑作・ジュリア系がアルファロメオの名に恥じない仕上がりであった分、一層顕著であった。スタイリングの面でも、特に魅力に欠けていたベルリーナの販売台数が相変わらず少なかった上、ジュリエッタ・スパイダーを引き伸ばして魅力を希釈化したようなスパイダーも余り好評とは言えなかった。辛うじて2600スプリントのみが、そのスタイリングと4シーターのグラントゥーリスモとしての実用性から、シリーズ中のトップセラーとなった。2600系は1968年・前年にデビューしたジュリアの拡大版である1750系(4気筒1750cc)に交代する形で消滅した。その後アルファロメオの6気筒モデルは長らく作られなかったが、1970年代前半に後継車種の開発がスタート、石油危機などでプロジェクトの進行は難航したものの、1979年になってようやく、V6 ・2500 ccのアルファ6としてこのクラスに再登場した。
マリーゴールド (あいみょんの曲)の解説 真岡警察署(もおかけいさつしょ)は、栃木県警察が管轄する警察署の一つである。
リノール酸の生理学 前作「満月の夜なら」から約3ヶ月半という短いスパンで発表されたシングル。ジャケットアートワークと表題曲「マリーゴールド」のサビ部分を試聴できる50秒弱のティーザー映像“very short movie”のクリエイティブ・ディレクションは前作までと同様、とんだ林蘭が担当。「マリーゴールド」には山田智和が監督を務めたMVが制作され、上海市において2日間かけて撮影された。あいみょんにとってはこれが初の海外撮影だった。第69回NHK紅白歌合戦にて「マリーゴールド」を披露した。2019年7月14日、YouTubeでのMV再生回数が、1億回を突破した。2019年9月7日、ストリーミング再生回数が、1億回を突破した。
中山大学の大学全体 リノール酸は、石鹸や乳化剤などの製造に用いられる。また、肌の保湿や、ニキビなどに対する局所的な抗炎症作用など肌に良い性質を持ち、化粧品にも使われている。
伊東孝之の学部 63の学院と系がある。「学院」も「系」も日本の大学の学部にほぼ相当する。中山大学は、学院や系に相当する、各単科大学の集合体として運営がなされているためである。
旅館龍名館本店の概要 東大で斉藤孝に師事する
実験人形ダミー・オスカーの概要 株式会社龍名館が、経営、運営を行っている宿泊・宴会場施設。創業当時は総2階建てで数寄屋造のものだったが、現在は改装を経てテナントビルを併設し、その中の1階・2階部分を旅館として経営している。客室は全12室で、全室和室となっている。その他に宴会・会議場としての部屋が3室あり、銀杏(いちょう)の間と竹の間は洋室形式、龍(たつ)の間は和・洋両形式対応可能となっている。その他1階には、株式会社龍名館が経営する、和食レストランの「けやき」が営業している。「龍名館」という名は初代・濱田卯兵衛の姉の名の「辰」と、卯兵衛の実家である旅館名倉屋の「名」にちなんだもの。
ジョリーグリーンジャイアントの反響 じゃまおくんは本作の魅力として重要なのは毎回違う洋物ポルノ女優のようなルックスの美女たちで必然的にそそられ、無茶な設定ながらストーリーは奇跡的に破綻せず、しっかり読ませるのが名作と呼ばれるゆえんだが、性描写が結構多いながらあまりにポルノ女優的な美女たちとモンスターのような喘ぎ声に興奮できず、ギャグ漫画扱いしたくなるレベルだと評した。ミドルエッジは二重人格の設定は奇想天外で小池の「キャラを起てろ」という理念や思想がよく伝わってきて、個性的な表現が目立って金属バットで表現された男性器やそれでテーブルを持ち上げたり、振られたフリナガによる言葉遊びで小池らしさが随所に堪能可能で、ハードボイルド・セクシーコミックというよりナンセンスなエロ漫画という方が正しいかもしれないが、二重人格になる経緯や様々な女性と関係を持つことで本来の人格を取り戻して行くストーリーとエロの絶妙な塩梅により人気作品になったと評した。
浅野武夫の経歴 ジョリーグリーンジャイアント (Jolly Green Giant) は、アメリカ合衆国の食品加工会社ゼネラル・ミルズ社(1979年から2001年まではピルズベリー社、1979年以前はグリーン・ジャイアント社)のマスコット。緑色の肌にチュニックと木の葉で出来たブーツを身につけ、いつも笑顔でいる。また、アメリカ軍の救援用ヘリコプター(敵地にて撃墜された航空機搭乗者の救出をミッションとするレスキューチーム専用機)のニックネームでもある。日本では日本たばこ産業(JT)が1998年2月にピルスベリージャパンの食品事業を取得し、ジェイティフーズを販売元として「グリーンジャイアント」ブランドで冷凍野菜食品を販売していた。後にJTグループの事業再編に伴い、販売元をテーブルマーク(旧・加ト吉)へと移して商品展開を続けていたが、2013年3月にJTとゼネラル・ミルズ社との契約が終了したのを受け、日本国内での販売も終了している。
不良行為のアルゴリズム バブルソートで1回スキャンを行うと、最後の要素1個がスキャン範囲中最大であることが分かり次回のスキャン範囲を1狭めることができる。 さらに、このスキャンの最後で連続してm個の要素の交換が行われていなければ そのm個についてはソート済みであることが分かるので、次回のスキャン範囲をm狭めることができる。 この工夫で、後半が殆ど整列済みのデータに対してバブルソートが高速に行えるようになる。シェーカーソートはこれに加え、スキャン方向を毎回反転することにより、スキャン範囲を後方からだけではなく前方からも狭めるようにしたものである。挿入ソートのように、殆ど整列済みのデータに対しては高速に行うことができる。
マサダ製作所の製品 C++言語による実装例を示す。#include <algorithm> // std::swaptemplate<typename T> void shaker_sort(T data[], int num_elements){ int top_index = 0; int bot_index = num_elements - 1; while (true) { int last_swap_index; /* 順方向のスキャン */ last_swap_index = top_index; for (int i = top_index; i < bot_index; i++) { if (data[i] > data[i+1]) { std::swap(data[i], data[i+1]); last_swap_index = i; } } bot_index = last_swap_index; /* 後方のスキャン範囲を狭める */ if (top_index == bot_index) break; /* 逆方向のスキャン */ last_swap_index = bot_index; for (int i = bot_index; i > top_index; i--) { if (data[i] < data[i-1]) { std::swap(data[i], data[i-1]); last_swap_index = i; } } top_index = last_swap_index; /* 前方のスキャン範囲を狭める */ if (top_index == bot_index) break; }}
法明寺 (豊島区)の概要 一般の市場で販売されている製品としては、自動車整備などに使用する各種のジャッキが知られている。
エルヴェ・ド・シャレットの清土鬼子母神堂 清土鬼子母神堂は、文京区目白台にある仏堂。永禄4年(1561年)山村丹右衛門によって掘り出された法明寺の鬼子母神が出現した旧跡。
名古屋市電東郊線の歴史 エルヴェ・ド・シャレット(Hervé de Charette、1938年7月30日 - )は、フランスの官僚、政治家。パリ出身。
松浦厚の経歴 名古屋市電は1922年(大正11年)に、名古屋電気鉄道を名古屋市が買収して成立した。直後の1922年度から1927年度(昭和2年度)にかけて、名古屋市は同社が所有していた特許線の建設に着手し、「第1期建設改良工事」として幹線道路に市電路線を敷設していく。この事業の一環として新設された路線の一つが、この東郊線である。名古屋電気鉄道が中央本線外縁に保有していた特許は東郊線小針 - 高辻 - 牛巻 - 神明町間および下赤島 - 高辻 - 滝子間、千種郡道線北畑 - 滝子 - 牛巻間であり、このうち小針 - 高辻 - 牛巻間および高辻 - 滝子間が東郊線として開通したことになる。東郊線残存区間と千種郡道線は市営化後に申請した特許路線(藤成線・循環東線の一部・八熊東線)に置き換えられ、牛巻 - 神明町間は堀田まで延長したものの、愛知電気鉄道豊橋線(現・名鉄名古屋本線の一部)を越えることができず、堀田 - 神明町間は未成となった。一方で、会社時代の特許になかった鶴舞公園 - 小針間の東郊連絡線が1925年(大正14年)12月23日に開通し、他の市電路線と接続した(東郊連絡線はその後東郊線に編入される)。堀田延長時点では愛電豊橋線に駅は無かったが、名古屋市中心部へのアクセスルートを模索していた愛電は、特急停車駅として市電延伸翌年に堀田駅を設置した。これを受けて、市電の停留場名も1932年(昭和7年)9月27日に堀田駅前に改称している。東郊線は循環東線などと共に最後まで残った市電路線だが、最後まで残ったのは高辻 - 滝子間のみである。これは同区間が熱田線、八熊東線、藤成線と連携して市東部の残存路線と金山駅・金山橋駅とを結ぶ連絡路となっていたためである。一方、先に廃止された鶴舞公園 - 堀田駅前間は同一道路上を走る基幹バス東郊線が1982年(昭和57年)3月28日より営業を開始し、事実上の後継路線として現在も運行を続けている。
ネーピの位置・広がり 学習院初等学科に入学。1884年(明治17年)6月、陸軍予備士官学校に入学。1885年9月、予備士官学校の廃校にともない、退学した。なお、同年8月、明治政府からイギリス留学を許可されていた。自費留学で5年間の滞在予定であった。渡英後、ケンブリッジ大学に入学し、国際法を修める。1893年(明治26年)、ドイツ・イタリア・フランスなどを訪問し、帰国した。1908年(明治41年)、父詮の死去により、家督を相続した。1911年(明治44年)7月、貴族院議員に当選し、3期務めた。『国論の一致』『北海の宝庫』などを著した。昭和初期に株が大暴落し、300万円の巨額な損失を被った。1934年(昭和9年)、71歳で病没。墓所は東京都染井墓地。陞が家督を継いだ。平戸藩第4代藩主松浦鎮信(天祥)が興した武家茶道の流派である鎮信流を継承する石州流鎮信派の家元でもあり、鸞州の号がある。
エブリデイ出版の特徴 エブリデイ出版の語学学習教材は、赤ちゃんが成長して言葉をしゃべりだすプロセスと同様の学習法を用いた学習法と独自開発の2段階スピード学習(特許出願)が特徴である。
近衛杏の来歴・人物 1961年、宝塚音楽学校に入学。1963年、49期生として、宝塚歌劇団に入団。入団時の成績は62人中7位。初舞台公演の演目は星組公演『花詩集-1963年』。1964年12月1日、花組に配属される。その後、月組異動となり、また、花組に戻ってくる。シンガポール・スウェーデン・オランダ等の外国公演にも参加。在団中は小牧正英・大滝愛子・アキコ・カンダ・朱里みさお等に師事。舞踊賞・新人賞等も受賞。1973年11月2日付で、宝塚歌劇団を退団。最終出演公演の演目は花組公演『ラ・ラ・ファンタシーク』。退団後はバレエ講師として活動する。余バレエアカデミー教師課程修了。
名古屋漆器の概要 古紙を幾重にも貼り付け下地を施して漆が塗られ、蒔絵も用いる。宝永年間に飛来一閑によって伝えられたとされており、一閑張が本製品の特徴であるとされる。文庫や小箱といった小物が多く生産されたが、仏壇仏具も作られている。 明治38年に県下では359戸の漆工場が存在した。大正15年に黒田忠譲により硬質漆器が作られ、以降多くは輸出された。その額は大正8年当時で約60万円に達していた。
ソレダメ!〜あなたの常識は非常識!?〜の概要 2014年12月10日に放送された『あなたの日常にある間違った常識!ソレダメ』を改題・レギュラー化したもの。生活に役立つソレマルな情報や、様々な雑学などを紹介する番組。長きに渡って放送された紀行番組『いい旅・夢気分→にっぽん!いい旅』に代わって開始した番組で、この枠でのバラエティ番組は、2000年12月13日 - 2001年9月19日放送の『あっぱれ!日本一』以来13年半振りである。番組は前座番組の『THEカラオケ★バトル』の2時間スペシャルや不定期に特別番組を編成するため、1時間版の放送は2016年8月現在2015年4月22日・7月22日放送分の2回しかない。なお2015年5月27日は、当初通常枠で放送予定であったが、「全仏オープンテニス」中継(錦織圭×トマス・ベルッチ)に差し替えられ休止となった。放送予定だった内容は同年7月22日に代替放送された。2016年3月までは2時間SPを放送する時は、開始から2015年6月までは通常は19:55 - 20:00に編成されている「各局別ミニ番組」を20:10 - 20:14に短縮繰り下げて放送のため一時中断していたが、同年7月からは先述のミニ番組を19:45 - 19:49に短縮繰り上げて放送し一時中断する様に変更した。さらに同年10月からは再度先述のミニ番組を20:10 - 20:14に短縮繰り下げて放送し一時中断するように戻した。2016年4月からは先述のミニ番組が枠移動し、19:55 - 20:00枠のミニ番組が廃止されたため、中断無しで2時間SPを放送している。2015年5月28日現在4回の放送の平均視聴率は7.6%(ビデオリサーチ、関東地区・世帯・リアルタイム。以下略)で、5月6日放送のSPでは9.1%を記録している2015年10月からは20:54のミニ番組を廃止、6分拡大し、21:00までの放送となり、直後番組『水曜エンタ』との接続はステブレレスに変更された。2017年3月8日は番組初の3時間SP(18:55 - 21:57)を放送。2017年10月4日から19時台の『THEカラオケ★バトル』との枠交換により、当番組は18:55 - 19:54に変更された。枠交換後も『カラオケ★バトル』との交互特番は続いていたが、2018年2月28日放送分は20時枠時代の2015年7月22日以来2年7ヶ月ぶり、19時枠では初の1時間放送、続く同年3月7日放送分も1時間放送で、「2週連続1時間放送」は開始以来初となった。なお3月21日放送の2時間SPには『カラオケ★バトル』の司会者・堺正章がゲスト出演した。8月8日はソフトボール中止で2時間SPを放送。
静岡県立三ヶ日高等学校の跡地利用 高校跡地は、三ヶ日町農業協同組合に売却。跡地には2020年10月を目処に柑橘選果場が稼動する予定。
スバル・EZ型エンジンの歴史 2000年、アルシオーネSVXに搭載されていたEG33が生産終了してから約4年のブランクの後、スバルの6気筒エンジンとしては3代目となるEZ30がレガシィランカスター6に搭載されデビューした。EJ型をベースに6気筒化したEG33とは水平対向6気筒エンジンであること以外に共通点は無く、完全新設計のエンジンである。ボアピッチが短く、EG33よりも前後方向に短くなっている。また、バルブ挟み角を大きくすることでシリンダーヘッド高さを抑え、ピストンストロークを80mmまで延ばし、過度なショートストロークエンジンになることを避けた。なお、カムシャフトの駆動方式にスバルとして初めてチェーン式を採用している。最大出力は220ps、最大トルクは29.5kg·mであった。搭載グレードは当初ランカスター6のみだったが、後にツーリングワゴン GT30、B4 RS30などに搭載された。このモデルのみ、シリンダーヘッドにエキゾーストマニホールドを内蔵する。2003年に登場した4代目レガシィ搭載のEZ30では呼称をEZ30-Rとし、吸気AVCSを適用、同時に同じく吸気側の動弁系にダイレクト可変バルブリフト機構を適用した。この構成はポルシェのバリオカム・プラスの構成と同じである。奇しくも互いに水平対向6気筒エンジンへの適用となっている。この動弁系の改良もあり、最大出力は250ps、最大トルクは31.0kg·mになった。また、2004年10月にはスバルの6気筒エンジンとして初めて6MTが組み合わされ、スポーツグレード3.0R spec Bがデビュー。2007年5月までの約2年半の間だけ生産された。2005年にアメリカ市場で発売されたB9トライベッカにも4代目レガシィと同仕様のEZ30が搭載された。しかし、レガシィを大きく上回る重量に対応しきれず、高回転域を多用することになり、燃費も良くなかった。2007年、トライベッカのビッグマイナーチェンジにてEZ36がデビューした。EZ30に対し、ボア・ストロークをともに拡大し、排気量は3,629ccになった。主運動系の組み立て工程を変更し、シリンダブロックのピストンピン用サービスホールを廃止している。一般的な他社製エンジンと同様にピストンとコンロッドを組み立てた上で、これをシリンダブロック内のクランクシャフトに締結する。この作業性確保のため、コンロッド大端部はロッドに対して斜めに分割されている。また、コンロッド大端部は、成型・加工後に破断させるクラッキングコンロッドを採用している。動弁系では、ダイレクト可変バルブリフト機構を廃止、排気側にもAVCSを追加してデュアルAVCSとした。チェーンシステムも大幅に見直しており、サイレントチェーンの採用、リダクション方式採用によるレイアウトの変更などを施している。エンジン冷却系を並列流しとし、ウォーターポンプの駆動トルク低減、冷却効率の向上を果たした。これによって高めの圧縮比(10.5)にしながらも、使用燃料をレギュラー指定とし、かつトライベッカはEZ30モデルよりも燃費を向上している。最大出力は256hp(258ps)、最大トルクは247lb·ft(35.7kg·m)である(カッコ内はいずれも欧州モデル)。2009年、フルモデルチェンジを受け5代目になったレガシィシリーズのアウトバックにEZ36が搭載され、日本国内に初めてEZ36が登場した。トルクピークが若干高回転側に移動したことにより、最大出力は260psへ上昇、最大トルクは34.2kg·mに減少している。EZ30型は、排気量3Lのエンジンとしては意外なほど低回転域のトルクが細く、特にMT車では顕著である。しかし、高回転の伸びは非常に良いとされる。
乗丹坊の1988年以前(最低賃金制度実施前) 最低賃金制度が導入されたのは1953年であり、「勤労基準法」(日本の労働基準法に相当)が制定されたが、実施は1988年まで実施されなかった。そして、韓国の経済が徐々に発展してきた1980年代に入り、実施を求める声が高まり、1986年に「最低賃金法」が制定された。1987年には、実際に毎年の最低賃金額を決める最低賃金委員会が発足し、1988年から最低賃金額が適用されてきた。
道仏訓の選手時代 2000年以降、多様な関係法令の適用により、労働監督官の業務が拡大されてきた。また、労働組合の組織率の低下により、労働者の力が弱まったこともあり、賃金未払いや最低賃金違反等の処理業務等の業務の増加の他、高学歴化、インターネットの普及による労働者の要求の多様化・専門化、更には、違法派遣、社内請負、差別是正といった新たな問題の出現により、監督官業務は量の増加に加え、質的な面でも高度化する傾向にある。しかしながら、それにもかかわらず2010年以降、労働監督官数はほとんど増えていない。
クリスマス・ウィッシュの概要 名審判・二出川延明の発言「俺がルールブックだ!」の際にその場にいた審判でもある。道仏によると、西鉄の三原脩監督が審判控え室にいた二出川に抗議したところ、二出川の後ろでルールブックを手にしていた道仏に、三原が「そのルールブックを開いて、見てくれ」と言うので、二出川が怒って「オレがいうんだから間違いない。早く行け!」と怒鳴り、この「オレがいうんだから間違いない」という言葉が、いつのまにかマスコミに喧伝されて、「俺がルールブックだ」という言葉になったのが真相と話している。道仏と共に二出川と一緒に審判控え室にいた小島多慶男も「あれはそのままに、そっとしておこうよ」と道仏に話していたという。1967年10月17日、東京球場で行われた東京×近鉄26回戦で、大リーグにいたと威張っていたカール・ボレスが、ジャッジに文句をつけ、バットの先で道仏の足を小突いたので、「退場!」と宣告しボレスを二度蹴っ飛ばした。選手を蹴飛ばした球審の第1号で、所謂暴力審判第1号でもある。当時の外国人選手は日本の野球をなめていて、日本で野球をやっているのに、日本の審判にやたら文句を言っていた。道仏はまず外国人選手からマナーを直さなくてはと、日頃から外国人選手に厳しく接していたという。その他、道仏の功績として6回(当時)のグラウンド整備時に審判のトイレ休憩を設けたことがある。それまでは試合中は我慢して小便を漏らすケースがあった。また審判のユニフォームを大きく変更し、それまでは紺の上着にネクタイと紺のズボンの上下だったが、ネクタイを取ってハイネックし、カラーテレビの全盛時代に沿って上下色の違う配色にしたことなどがある。戦後は同郷の石本秀一や門前眞佐人らと国民リーグ・グリーンバーグ~結城ブレーブスに参加した。チームが茨城県結城市に移った時、主将だった濃人渉が世話してくれた結城市の合宿所近くの郵便局の娘に一目惚れ。付き合い始めたが呉服屋だった娘の父親は二人の交際を知って激怒、「野球を商売にしとるような奴に娘はやれん。ましてどこの馬の骨か分からん者に」 仕方なく道仏は遠征先からせっせと手紙を送った。家には送ることが出来なかったが、娘の勤務先が郵便局だったので「郵便局付け」で送れたので便利だった。
岡山駅突き落とし事件のデコレーション 各テーマポートにはさまざまなクリスマスデコレーションを設置。昨年に引き続き、ウォーターフロントパークでは「スノークリスタル・イルミネーション」を実施する。S.S.コロンビア号前に設置される恒例の15mの巨大なクリスマスツリーは、今年は新たに雪化粧をして登場する。2016年に引き続き、ロストリバーデルタには「フィエスタ・デ・ラ・ルース」(スペイン語: Fiesta de la Luz、「光の祭り」の意)としてランタンに光を灯したクリスマスイルミネーションが、ウォーターフロントパークには「スノークリスタル・イルミネーション」を設置。
省令 (イギリス)の概要 2008年3月25日、岡山県岡山市(現在の岡山市北区)のJR西日本・岡山駅のホームで大阪府に住む19歳少年が、帰宅途中の岡山県職員の38歳男性を線路に突き落とした。38歳男性は電車にはねられ、翌3月26日に死亡した。事件直後に鉄道警察隊が駆けつけた時に、少年が犯行を認めたため、逮捕された。また、JR西日本は、発生直後から当駅を通る列車の運転を見合わせた。少年は事件当日朝に家出していたため、両親が同日夜に大阪府警察四條畷警察署に家出人捜索願を出していた。また、少年は、「ホーム下に人を落とせば、電車にはねられて死ぬ。人を殺せば刑務所に行ける。誰でもよかった」と供述した。また刃渡り約12センチの果物ナイフを所持していた。少年は大阪府池田市内の高校に進学。高校時代の少年は成績優秀で、学校推薦で国立大学進学を希望していたが、家庭が学費を払えないことから進学を断念せざるを得なかった。家庭は阪神・淡路大震災で家を失っていた罹災者であり、父は大工であったが不況で大工の仕事が減り、約6年前に派遣社員になった。しかし、15歳上の少年の兄は私立大を卒業しており、少年は進学をあきらめきれず、高校卒業後に自力でお金をためようとしたが勉強時間を確保できるようなバイトが見つからなかった。少年の家族環境は、実父とは親子というよりも友達のような人間関係だったが、実父からの「好きなところに行って鍛えろ」と突き放すような一言が、少年を「殺人しかない」と追い込む絶望的な心境に追い詰めた。事件後に謝罪会見にのぞんだ加害者の父親がジーパン姿に運動靴であったことでこの点について非難する声もあった。少年が県警の調べに「経済的な理由で大学進学をあきらめたことが家出の原因の一つ」と供述している事に、少年の父は「奨学金を探すなど親としてもっと手を尽くしてやればよかった」と後悔の念を語った。岡山地方検察庁による簡易精神鑑定では広汎性発達障害と診断された。2009年6月17日、岡山地方裁判所は、少年に対して懲役5年以上10年以下の不定期刑を言い渡した。現在は佐賀少年刑務所にて服役中。
釣鐘町の地理 イギリスにおける省令(しょうれい、 Ministerial Order)は、大臣によって制定される制定法の一形式である。2013年より前においては、 1992年・1992年競争・役務(公益事業)法(施行第1号)令(Competition and Service (Utilities) Act 1992 (Commencement No. 1) Order 1992)の一例しかなかった。当該省令は、1992年競争・役務(公益事業)法(Competition and Service (Utilities) Act 1992)第56条第(2)項によるものであるが、この規定は、閣内国務大臣(Secretary of State)が命令により(by order)施行日を決定することを認めていた。しかしながら、おそらく起草の際の手抜かりにより、この法律は、当該命令を1946年行政委任立法法 (Statutory Instruments Act 1946) の定める行政委任立法によって発すべき旨を規定しなかった。同様の方法で施行日を定める命令が発せられたことはなかったため、2013年より前は、これが唯一存在する「省令」となった。2013年には、省令はより一般的な立法形式となった。2009年海上および沿岸アクセス法(Marine and Coastal Access Act 2009)に基づき、同年には27件が、2016年にはすでに33件が制定されている。また、2015年には、1991年水道業法(Water Industry Act 1991)202条に基づき、2015年下水事業(情報)(廃止)指示(The Sewerage Undertakers (Information) (Revocation) Direction 2015)が制定されている。
ルンペルシュティルツヒェンの大坂町中時報鐘 大坂町中時報鐘(おおさかまちじゅうじほうしょう)は、重さ3トン、高さ1,9mの鐘である。江戸時代には2時間おきに鐘をつき、時を知らせた。『曽根崎心中』に登場する「暁の鐘」は、この鐘の音とされる。鐘楼はたびたび火災に遭って焼失したが、鐘は残った。明治に入り、市中に時を知らせる役割が号砲に変わると、1870年に撤去された。以後寺や小学校などに預けられ、1926年に大阪府庁舎が新設された際に屋上の鐘楼にかけられた。しかしその後は存在を忘れられ、戦時期の金属回収も免れた。1970年代に郷土史家らによって鐘が「再発見」される。1970年、大阪府有形文化財指定。かつての釣鐘屋敷跡(釣鐘町二丁目)に企業家らが資金を提供して鐘楼を築き、1985年6月10日(時の記念日)をもって鐘を「里帰り」させた。なおこの際、鐘楼部分の土地(17坪)については地主(住友生命)が「大坂町中時報鐘顕彰保存会」に「永代貸与」する協定が結ばれた。なお、釣鐘の所有者は大阪府である。その後土地はマンション用地として転売されたが、無償で貸与する協定は引き継がれた。2015年当時はマンションの一角に鐘楼が所在し、平素は午前8時、正午、日没の3回、コンピュータ制御によって撞木が動き、鐘を鳴らしていた(6月10日と大みそかは手動で鳴らしていた)。しかし、マンションの地主である不動産会社が土地を売却する際に、17坪部分の無償貸出協定がネックとなった。17坪部分の土地を分筆し、それ以外の土地は売却できたものの、17坪についてはこの不動産会社所有のまま残った。不動産会社は、固定資産税の負担が大きいとして、2015年12月以降、保存会および府に対し、協定解除・土地明け渡し(ないしは土地の時価での買い取り)を求め、訴訟となっている。
セクストス・エンペイリコスの影響 『西の善き魔女』や『ワンス・アポン・ア・タイム (テレビドラマ)』に影響をあたえている。
柳営区の地理 『ピュロン主義哲学の概要』の定番となっている版は、出版業者のアンリ・エティエンヌ(Henry Estienne)が1562年にジュネーヴで出版したラテン語訳が付された版である。セクストスの『概要』は16世紀から18世紀にかけてヨーロッパで広く読まれ、なかでもミシェル・ド・モンテーニュやデイヴィッド・ヒュームに深い影響を与えた。また、ピエール・ベールの『歴史批評辞典』(Dictionnaire Historique et Critique)によってもセクストスの思想は世に知られるようになった。ピュロン主義の遺産についてはリチャード・ポプキン(Richard Popkin)の『エラスムスからデカルトまでの懐疑主義の歴史とピュロン主義への道』The History of Skepticism from Erasmus to Descartes and High Road to Pyrrhonismが詳しい。
世界を不幸にするアメリカの戦争経済 イラク戦費3兆ドルの衝撃の歴史 柳営区の旧名は「査畝営」であり、鄭成功がこの地に土地測量の為の軍営を設置したことに由来する。1920年の台湾地方改制の際、この地に柳営庄が設置され台南州新営郡の管轄管轄となり、戦後に台南県柳営郷と改編、2010年12月25日、台南県の台南市編入に伴い柳営区と改編され現在に至っている。「柳営」の地名の由来は当局者による說明に「舊名は女軍の兵營を意味せるものなるを以て、其意を取る」(水越幸一「市郡の區域稱呼其所在地並街庄の稱呼等に就て」『臺灣時報』第十六號、大正九年、一四五頁より引用)とあるが、近音より査畝と査姥、字面より柳眉や柳腰と柳営を混同した可能性が指摘されている。
みにくいアヒルの子 (テレビドラマ)の経歴 1929年に生地の真言宗豊楽寺住職吉岡皎然の養子となり得度。1939年に外務省より北京に留学、1940年には道教の本山・白雲観に入り、終戦まで道教を中心とした宗教遺跡調査・資料収集に務める。その後、智山専門学校を卒業し1947年に立正大学に奉職、助教授を経て、1955年に教授に就任、また日本道教学会の設立・運営に尽力。この間、東北大学、福井大学、東京大学、高野山大学、北海道大学等で教え、初期の道教研究者の一人として活動した。1960年に大正大学で文学博士学位を執る。1975年に大正大学文学部部長に就任。1979年6月19日午前8時10分に脳内出血の為、豊島中央病院で死亡。
笠原宗太の来歴 高校時代は前橋育英と並ぶ、群馬県のサッカーの名門である群馬県立前橋商業高等学校のサッカー部に所属。小さいながらもスピードをいかし、快速フォワードとして他チームに恐れられていた。ユニフォームが白黒のストライプだったこともあり『ゼブラの弾丸』という異名で呼ばれていた。高校卒業後は筑波大学に推薦で進学しサッカー部で活躍した。筑波大学を卒業したのち、大塚製薬を経て、2000年にJ2の水戸ホーリーホックに入団。ポジションをFWからDFにコンバートした。2002年に図南SCに移籍し、同年限りで現役引退。2003年に群馬県立高等学校教員に採用され、群馬県立館林高等学校サッカー部監督に就任。2010年4月より群馬県トップの進学校である群馬県立前橋高等学校に異動し、サッカー部顧問に就任した。2014年には前橋高校サッカー部初の群馬県高校総体優勝を導いた。2017年のインターハイ群馬県予選では準優勝した。2019年度の戦績に期待がかかる。
ロバート・コンクエストの人物・来歴 ウスターシャー生まれ。ウィンチェスター・カレッジ、グルノーブル大学でそれぞれ学士、修士課程を修了。1937年からオックスフォード大学モードリン・カレッジに移るが、同地でイギリス共産党に入党した。同校からソ連史で博士号の学位を取得する。第二次世界大戦開戦後、陸軍に入隊し、1944年から1948年まで連絡将校としてブルガリアに滞在。同地で台頭する共産主義に幻滅したとされる。なお二度目の妻となるタチアーナ(Tatiana)とは同地で出会い、イギリスへの亡命を手助けする。ロンドンへ帰国後、最初の妻と分かれたのち彼女と結婚。しかしタチアーナが統合失調症を罹患したのちに離婚した。帰国後、外務省情報調査部(Information Research Department)に勤務。この組織はイギリスにおける共産主義の浸透阻止と、反共主義の普及浸透を目的としており、その具体的な活動内容は反共的なジャーナリスト、労働組合、その他組織の育成だったとされる("Death of the department that never was" in The Guardian, January 27, 1978)。1956年にこの組織を退職した後、フリーランスの歴史家として著述活動に入る。ソ連史研究者としては『スターリンの恐怖政治』に代表される、1930年代にスターリンが展開した「大粛清」の研究で知られた。またこの大粛清の時期に600万以上の餓死者を発生させたウクライナ大飢饉が、ソ連体制に反抗的なウクライナ人に対するスターリンの抑圧政策の一環であったとする『悲しみの収穫・ウクライナ大飢饉』を1985年に著し、大きな反響を呼んだ。1981年からスタンフォード大学フーバー研究所上級研究員。2005年、米国大統領ジョージ・W・ブッシュにより、米国における文民向けの最高の勲章である大統領自由勲章を授与された。2012年ダン・デイヴィッド賞受賞。
曹福田の概要 直隷省静海県(現在の天津市静海県)出身。遊民出身。静海県・南皮県・慶雲県などで義和団を組織した。1900年、2千人を率いて天津に入り、壇口(義和団の基礎的な単位)を統括する総壇口を設けた。6月18日、八カ国連合軍に占領された老龍頭駅を攻撃し、ロシア軍と交戦した。その後直隷総督裕禄の要請で、6月27日に再び老龍頭駅を攻撃した。7月14日に天津が陥落すると、静海に逃れたが、翌年に捕えられ殺害された。
ベルナール・スティヴェンスの略歴 ベルナール・スティヴェンスはベルリン自由大学、トリニティ・カレッジ (ダブリン)、ルーヴァン・カトリック大学で学んだ。現在、国立科学研究基金(オランダ)の研究員、教授を務める。1993年から1997年まで、国際哲学コレージュ(パリ)のプログラム・ディレクターを務めたほか、アフリカ・アジアの各国にある大学(キンシャサ大学(コンゴ)、復旦大学(中国・上海)、輔仁大学(台湾)、京都大学、東京大学、獨協大学)の客員教授を歴任した。ベルギー現存在分析学校(l'École belge de Daseinsanalyse)のメンバーでもある。ヨーロッパ大陸の現象学と解釈学を知的背景としつつ、多文化間の対話にも関心を持っており、1990年以降は現代の日本哲学の研究に力を入れている。スティヴェンスは京都学派の代表的哲学者である西田幾多郎と和辻哲郎をフランスに紹介した人物でもある。また、『Zen Buddhism Today』、『Les Temps modernes』『Esprit』、『Philosophie』、『Etudes phénoménologiques』、『Revue Philosophique de Louvain』など多くの学術誌への論文掲載実績がある。
ギンツブルグ-ランダウ理論のギンツブルグ-ランダウモデルの飽和 飽和を考えに入れると、第二種の超伝導に対し、ダスグプタ(Dasgupta)とハルペリン(Halperin)が示したように、相転移形は普通の状態では、第二オーダーである。一方、ハルペリン(Halperin)、ルベンスキー(Lubensky)、マ(Ma)が示したように、第一種超伝導は第一オーダーである。
ギンツブルグ-ランダウ理論のギンツブルグ-ランダウ理論に基づく超伝導の分類 ギンツブルグとランダウのもともとの論文では、通常の状態と超伝導の状態の間をとりもつエネルギーに依存する 2つのタイプの超伝導が観察された。ギンツブルグとランダウの理論からの発見で最も重要な理論は、1957年にアレクセイ・アブリコゾフ(Alexei Abrikosov)による発見である。彼は、ギンツブルグ-ランダウ理論を使い、超伝導の合金と薄膜の実験の説明をした。彼は、強い磁場の中の第二種の超伝導を発見し、場は磁束の量子化された六角形の格子状のチューブを貫通する。これを彼に因みアブリコソフの渦(Abrikosov vortices)と言う。
ギンツブルグ-ランダウ理論の弦理論の中のランダウ-ギンツブルグ理論 素粒子物理学では、唯一の古典的真空状態と退化する臨界点(degenerate critical point)のあるポテンシャルエネルギーを持つ場の量子論は、ランダウ-ギンツブルグ理論と呼ばれる。時空の次元が 2 である N=(2,2) 超対称性理論への一般化は、カムラン・ヴァッファとニコラス・ワーナー(Nicholas Warner)の1988年11月の論文で提案され、この一般化はスーパーポテンシャル(superpotential)が退化する臨界点をもつことを意味している。同じ月に、ブライアン・グリーン(Brian Greene)とともに、これらの理論がくりこみ群やカラビ・ヤウ多様体上のシグマモデルと関係づいていると議論した 。また、エドワード・ウィッテン(Edward Witten)は、彼の1993年の論文 の中で、ランダウ-ギンツブルグ理論とカラビ・ヤウ多様体上のシグマモデルは、同じ理論の異なる相(phase)であると議論した。これらのモデルは、後日、ブレーンの構成のようなモノポールをもつ 4次元のゲージ理論の低エネルギー力学として記述することに使われている
大同江の戦いの戦闘までの経過 文禄元年(1592年)5月18日の臨津江の戦いで朝鮮軍が大敗を喫すると平壌城にいた朝鮮王宣祖は平壌から王子を避難させ、敗走してきた金命元・韓応寅・李鎰ら5,6千を収容し、左議政尹斗寿を守城将とし、その配下として都巡察李元翼・平安道巡察使宋慎言・兵使李潤徳らが平壌城の防備を固めた。6月9日、平壌を目指す小西行長ら一番隊は平壌の大同江対岸まで到着すると、柳川調信・僧景轍玄蘇を使って朝鮮軍に降伏を呼び掛けたが、朝鮮軍はこれを拒否した。11日、宣祖は日本軍の総攻撃が間近になると尹斗寿に平壌城を任せて寧辺に逃亡した。朝鮮軍は日本軍が大同江を渡河する前に川を増水させ、日本軍の渡河を妨害しようと雨乞いを催したが効果はなかった。そこで14日、金命元は城から日本軍の様子を見て大同江を渡ることができず油断していると判断すると、夜襲を行って日本軍の機先を制しようと計画し、精兵を寧遠郡守高彦伯と碧団僉使柳璟令に与え実行させた。
大同江の戦いの大同江の戦いと平壌城の陥落 15日夜半に高彦伯と柳璟令は宗義智の陣営を強襲した。不意を突かれた宗軍は義智の部将の杉村智清(すぎむら としきよ)を失い苦戦したが、義智自ら抜刀し敵兵を数人斬るなどして奮戦し、また朝鮮軍も李宣と任旭景が戦死した。宗軍の兵士が起きて集結し始めると敗走を始めた朝鮮軍の背後に救援に駆け付けた小西行長や黒田長政の軍勢が襲いかかった。朝鮮軍は大敗し、敗走する朝鮮兵は溺死するものが相次いだ。黒田軍はこの戦闘で部将黒田正好(黒田次郎兵衛、長政の従弟(伯母・妙寿尼の子))を矢傷が元で失い、長政自身も朝鮮軍の部将の矢で肘を負傷したが、矢を放ったその部将を自ら打ち取り朝鮮兵を数多斬った。敗走した朝鮮兵は王城灘から歩いて平壌城に入った。大同江の渡河に困っていた日本軍はこれを見て徒歩でいける平壌城へのルートを見出すと16日、徒歩で浅瀬の大同江を渡り平壌城を目指した。一方、平壌城の金命元と尹斗寿は夜襲部隊の敗戦を知ると門を開いて兵士と民を避難させ武器は池の中に捨てて、自身らは順安に逃亡した。日本軍は斥候により朝鮮軍が逃亡したことを知ると平壌城を接収し、立札を立て民を安心させ、その一方で城内の兵糧数十余万石を押収した。
大同江の戦いの戦闘後の経過 小西ら一番隊は平壌城を陥落させると、平壌城の改築などを行い進撃を停止した。三番隊の黒田長政は平壌城の改築を終えると担当守備地区である黄海道方面に帰還した。寧辺に逃亡していた朝鮮王宣祖は咸興道の鏡城に避難するつもりであった。しかし李恒雄らは、咸興道に赴けば日本軍が襲ってきた場合逃げ道がないと諫言し、それよりも万一の時に遼東への退路を確保できる義州への避難を進言した。宣祖はそれを容れ、柳成龍らとともに悪路や従者の逃亡など多くの困難を経ながらも、6月21日、義州に逃れ、かねてより援軍の派遣を要請していた明からの援軍を待った。その間に朝鮮の使者李徳馨は救援を明の遼東副総兵祖承訓に求め快諾を得た。祖承訓はただちに軍勢を率いて平壌に向かう。こうして第一次平壌城の戦いが勃発し、豊臣秀吉の死去まで繰り広げられる日本軍と明軍による戦闘の幕開けとなった。
非国民の概要 近現代の日本(とりわけ日清戦争からアジア太平洋戦争に至る時期)において、反国体的・反戦的な活動・言論を行う者や、政府の方針に従わない者などに対して、特定の思想・価値観に基づいて用いられてきた、強い憎悪・非難・侮辱などを含意する表現。もともと日本国籍のない外国人を表す言葉ではない。
非国民の第二次世界大戦前 この用語が用いられた初期の事例としては、日清戦争後、日本主義・ロマン主義に傾倒した小説家の高山樗牛による「非国民的小説を難ず」(1898年4月『太陽』)がある。1904年日露戦争期に「君死にたまふこと勿れ」を詠んだ与謝野晶子やその他の反戦派も「非国民」として侮蔑された。1925年制定の治安維持法に見られるように、戦前日本においては国体または私有財産制を否定するような結社およびそれを支援するような言動が違法化され取り締まりの対象となっており、実質的に思想・信条の自由に大きな制約があった。第二次世界大戦中に、戦争遂行に協力しない・不十分な者、果ては生活に不満を漏らす者などに使用され、他にも不満や欲求の表明を抑圧するような各種標語が唱えられた(例:「日本人ならぜいたくは出来ない筈だ」「欲しがりません勝つまでは」「贅沢は敵だ、まず不服を言いますまい」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」「お前は日本人か、その姿で」など)。戦時体制に順わない者・具体的に反戦を唱える者は近隣住民から「非国民」呼ばわりされ迫害されることもあった。また太平洋戦争期には日本政府も「非国民」という言葉を用いた。例えば内閣の情報局による「家庭防空の手引き:我等は総て国土防衛の戦士」『週報』では、本土空襲があった場合、隣組による消火活動に協力しなかったり(防空法で禁じられた空襲予告地域からの逃亡など)、事前に買いだめをしたりすることなど、つまり自分や自分の家族の安全・生活を戦争遂行のための集団行動よりも優先させるような姿勢を持つことを、「非国民的」などと述べている。
非国民の第二次世界大戦後 戦後は民主化とともに、「非国民」の用語は半ばタブー視された。日本国憲法第19条は「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」として、思想信条の自由を保障している。また法的には22歳以上の日本人が自らの意志で外国籍を取得した場合を除いて、日本国籍を剥奪されることはない。たとえ政府の方針を批判しようが戦争反対を唱えようが、そうした個人の思想・価値観をもって法的制裁を受けることはなくなった。逆に、特定の他人を「非国民」呼ばわりして精神的苦痛を与えた場合、侮辱罪・名誉毀損罪等が問われる可能性がある。戦前の翼賛体制を批判して不敬罪に問われた経験をもつ尾崎行雄(元衆議院議員・1898年-文部大臣・1903年-東京市長・1914年-司法大臣)は、1948年に世界連邦建設同盟(現・世界連邦運動協会)を創設し、肯定的・積極的な意味合いで「非国民たれ」と主張した。今日ネット上では、「(勝敗が国家の存亡や利益に即座に影響しないような)他国との争いがある状況下で自国を応援しない、他国を応援する」・・・例えばスポーツの国際試合で自国の代表を応援しなかったり試合自体を見なかったりする、他国の製品を購入するなどの程度のことをもって「非国民」と呼ぶような、軽い意味で使われることもある。また税法の抜け穴を利用して外国のタックスヘイブンなどで資産運用した者が「非国民」と罵られたこともある。
中靏憲章の略歴 福岡高校、筑波大学を経て、2013年、九州電力キューデンヴォルテクスに加入。同年9月1日に行われたジャパンラグビートップリーグ第1節のNTTドコモレッドハリケーンズ戦に先発出場で公式戦初出場を果たした。2015年、九州電力キューデンヴォルテクスの主将に就任した。
幟の起源 平安時代以来、武士たちは軍容を誇示したり、自軍と敵軍との識別をおこなうために、長い布の短辺に木を通して紐で吊り上げて風になびかせる、丈の高い流れ旗を軍団の象徴として掲げた。時代が下って室町時代になると武家の一族間での争いが増加し、同じ流れ旗と同じ家紋を用いる敵味方の判断に混乱を生じるようになった。このため、布地の長辺の一方と上辺のあわせてふたつの辺を旗竿に結びつけることで流れ旗との識別を容易にした幟が発案され、全国の武家へと徐々に広まっていったとされる。幟はそれまでの流れ旗に置き換わっただけではなく、管理がしやすいことから戦国時代を経て幅広く利用されるようになった。纏と呼ばれる馬印や旗差物などに幟が用いられ、日本における軍旗の一形式となった。
幟の形状 近代までの軍用の幟は、綿もしくは絹の織物を用いた。布の寸法は由来となった流れ旗に準じ、高さを1丈2尺(約3m60cm)、幅を二幅(約76cm)前後が標準的であった。このほか、馬印や纏に用いられる四方(しほう)と呼ばれるほぼ正方形の幟や、四半(しはん)と呼ばれる縦横比が3対2の比率(四方の縦半分ともされる)の幟が定型化する。もっともこれらはあくまで一般的な寸法であり、家によって由緒のある寸法を規定することや、流行に左右されることもあった。また旗竿への留め方によって、乳(ち)と呼ばれる布製の筒によって竿に固定する乳付旗(ちつきばた)と、旗竿への接合部分を袋縫いにして竿に直接縫い付けることによって堅牢性を増した縫含旗(ぬいふくめばた)に区別できる。旗竿は千段巻と呼ばれる紐を巻いた漆塗りの樫材や竹を用い、幟の形態に応じて全体をトの字型あるいはΓ字をにした形状にして布を通した。
國津則彦の人物・経歴 東京都出身。1970年日本大学経済学部経済学科卒業、東武鉄道入社。1998年鉄道事業本部営業部長。2002年取締役鉄道事業本部東上業務部長に昇格。2005年取締役兼東武ビル管理代表取締役社長。2006年東武ビルマネジメント代表取締役社長。2015年東武百貨店代表取締役CEO。2019年東武百貨店代表取締役CEO兼社長
さや侍の制作 主演は演技未経験の一般人の野見隆明。野見はフジテレビ系『働くおっさん人形』および『働くおっさん劇場』にて松本と共演しており、その縁もあって抜擢されたものの、松本の意向により本人には映画の撮影だということも監督が松本であることも知らされず「野見を映像として残すDVDソフトの製作」と偽って台本も渡されないままで撮影され、撮影の合間では共演者は緊張感を持たせるために野見と会話してはいけなかった。
さや侍の上映・成績 全国215スクリーンで公開され、2011年6月11、12日の初日2日間で興収1億2387万200円、動員9万652人になり映画観客動員ランキング(興行通信社調べ)で初登場第8位となった。フランス政府出資の私立文化施設シネマテーク・フランセーズで、大日本人、しんぼるとともに特集上映された。
さや侍のストーリー 伊香藩水位微調役だった野見勘十郎はある出来事がきっかけで脱藩し、賞金首になりながらも娘のたえを連れてあてのない逃避行を続けていた。勘十郎は藩にいた際にある出来事がきっかけで刀を捨て、腰に鞘のみを備えていた。勘十郎親子は多幸藩の追手によってついに捕われてしまう。多幸藩藩主はたいそう変わり者で、勘十郎に対して奇抜な試練を与えた。それは「三十日の業」というもので、母を亡くした悲しみで笑顔を忘れてしまった若君に対し勘十郎が1日1芸を披露し、その間に笑わせることができたら無罪放免、できなければ切腹というものだった。
さや侍の『三十日の業』について 多幸藩では、藩主の意向によりこの藩で捕まった罪人は、若君を笑わせることになっている。一日一芸で30日の間に若君を笑わせなければ切腹、一度でも笑わせることができれば無罪放免となる。芸は、城内の広場で披露することになっていて、若君や城の中の者のみが見物できる。ただし、数日過ぎた頃に評判を聞きつけた町人たちの見物が許されている。芸を披露すると若君(実際には藩主)の判断を仰いで、家老から「切腹を申し付ける!」と毎日告げられる。続けて家来の一人が「残り29日!」などと実際に切腹するまでの残り日数が伝えられる。平吉によるとこれまでに10数人の罪人が『三十日の業』に挑戦しているが、誰一人若君を笑わせた者はいないとのこと。
ごきげん2時の概要 それまで平日14時台で放送されていた『ワイドYOU』の後継番組で、毎日放送の本社機能が千里丘から茶屋町へ移転してから最初に立ち上げられたワイドショーである。司会を務めた笑福亭仁鶴にとっては久しぶりに担当する帯番組だった。
信濃川の地理 千曲川は埼玉県・山梨県・長野県の県境に位置する甲武信ヶ岳の長野県側斜面(南佐久郡川上村)を源流とし、八ヶ岳、関東山地などを源流とする諸河川と合流しつつ佐久盆地(佐久平)、上田盆地(上田平)を北流する。長野盆地(善光寺平)の川中島の北端に該当する場所で、飛騨山脈を源流とし松本盆地(松本平)から北流してきた犀川と合流する。なお合流地点には落合橋(おちあいばし)が架橋されている。この橋はT字型の特殊な形態の橋である。川はその後北東に流れ、新潟県に入って信濃川と名前を変える。信濃川は、十日町盆地を通って越後平野(新潟平野)に出て群馬・新潟県境の谷川岳から流れてきた魚野川と合流、新潟市で日本海に注ぐ。河口は阿賀野川の河口に近く、時代によっては新潟の地で合流して河口を共有していたこともあった。
信濃川の地学的知見 源流域の川上村から佐久市から上田市にかけては、千曲川構造線に沿うようにして北西に流下し千曲市付近で北東方向に約90°方向を変え長野市からは、信濃川断層帯を北東に延長した断層帯域の地質的に弱い所を浸食し流下し、日本海へと向かう。河床勾配の変化を見ると、上流部の佐久地域で 7.3%、上田地域で、5.5%である。しかし、長野市周辺では、0.93%となるが、西大滝ダム付近を変化点としては再び河床勾配は急になり、長野新潟県境付近から下流の十日町付近までは、3.5%の勾配となる。こうした勾配の変化をもたらしている原因は第四紀後期完新世の隆起活動と隆起に伴い形成された断層による物で、隆起としては中野市から飯山市付近の高丘丘陵などが影響を与えて、断層としては立ヶ花付近には長野盆地西縁断層のひとつ長丘断層が河を横切っている、また西大滝ダム付近には重地原断層、北竜湖断層があり、長野新潟県境付近には津南断層がある。
信濃川の為政者達の治水 縄文時代、新潟市を中心とした越後平野の一部は日本海であった。その後、徐々に信濃川や阿賀野川が運搬してきた土砂と、対馬海流が運んできた土砂が越後砂丘を形成し堆積、現在の越後平野を形成したが低湿地で方々に潟が存在し、水捌けの悪い地域であった。又、洪水によって幾度も流路を変えた。1597年(慶長2年)、越後春日山城主上杉景勝の執政で名将と謳われた直江兼続は燕・三条付近の洪水調節を図る為中ノ口川を開削。これが近世信濃川治水史の端緒となる。上杉氏転封後の江戸時代、新発田藩主となった溝口氏は中ノ口付近も領していた為に代々の藩主は河川改修を実施していた。長岡藩第9代藩主の牧野忠精は信濃川の河川改修に特に力を入れた。新川開削の大事業を行い蒲原平野に存在していた3つの潟の悪水を日本海に排水し、蒲原平野の新田開発を成功させた。信濃国・千曲川でも江戸時代を通じて64回の洪水を記録し、犀川との同時洪水ですら11回を記録するという。この間に福島正則や松代藩主・松平忠輝の家老花井氏親子や真田氏歴代が築堤や掘割、河道の付替えなどを度々行った。だが、度重なる治水事業を行っているにも拘らず、信濃川は度々氾濫を繰り返し為政者の頭を悩ませた。こうした中で浮上して来たのが大河津分水路計画である。
信濃川の近代の治水 明治に入り工事が始まった大河津分水は、信濃川の流量を減らすべく、江戸時代より計画されていたもので、信濃川を越後平野中央部で分流し、日本海へ流すものである。1909年(明治42年)に本格的な工事が始まり、1922年(大正11年)通水に成功し、2年後の1924年(大正13年)に完成した。これにより信濃川下流部の川幅が大幅に狭まるなどの影響があった。1918年(大正7年)〜1941年(昭和16年)には、千曲川第1期補修事業が内務省の手によって進められたが、洪水は容赦なく発生し根本的な解決には至らなかった。
信濃川の戦後の治水〜ダムと放水路〜 1948年(昭和23年)からは千曲川第二期補修事業が建設省(現・国土交通省北陸地方整備局)の手によって着手され現在も進行中である。しかし、数年に一度は洪水による被害を流域は受けており、根本的な治水対策としてダムによる洪水調節が図られた。信濃川水系においては建設省直轄事業よりも先に新潟県・長野県による県営ダム事業が推進され、裾花ダム(裾花川)、笠堀ダム(笠堀川)等が建設された。建設省は1960年(昭和35年)に関屋分水路の建設を計画したが、1964年(昭和39年)の新潟地震によって新潟市内が広範囲にわたり浸水したことから鳥屋野潟の排水計画に着手した。この後、黒川放水路が1969年(昭和44年)に完成。関屋分水路は1972年(昭和47年)に通水し、蒲原大堰・中の口川水門も建設が開始された。だが1969年8月の集中豪雨は流域に大きな被害をもたらし、対策として建設省は1974年(昭和49年)、「信濃川水系工事実施基本計画」を改定。この中で多目的ダムの建設を計画し、大町ダム(高瀬川)が1986年(昭和61年)に、三国川ダム(三国川)が1993年(平成5年)に完成した。県営でも大谷ダム(五十嵐川)や破間川ダム(破間川)が新潟県に、奈良井ダム(奈良井川)や奥裾花ダム(裾花川)が長野県に完成した。又、人口が急増している長岡市に上水道を供給するため妙見堰(信濃川)が1990年(平成2年)に完成している。治水整備は進められている一方、その後も水害は繰り返し起こり2004年(平成16年)には平成16年7月新潟・福島豪雨(7・13水害)が三条市・見附市等に被害をもたらした。この様に古来より洪水と治水は「いたちごっこ」の状況で、信濃川の治水の難しさを物語っている。2010年代に入ってもダムの建設は進められ、広神ダム(和田川。2011年竣工)・晒川ダム(晒川。2012年中止)などが挙げられる。
信濃川の日本屈指の水力発電地帯 一方、信濃川は水量が豊富でかつ上流部は関東山地・飛騨山脈・木曽山脈である事から急流であり、水力発電には絶好の適地であった。大正時代には高瀬川の高瀬川発電所が建設されていたが、昭和初期に入ると各地で水路式発電所が建設された。特に、旧・鉄道省(現・JR東日本)は信濃川に大規模水力発電所を建設。信濃川本川に宮中ダムを1938年(昭和13年)に建設、新山本・浅河原調整池や千手・小千谷・新小千谷発電所を建設し首都圏の鉄道運転の為の電力を供給した(詳細は信濃川発電所を参照)。戦後に入ると大規模な揚水発電所が各所に建設された。特に梓川の安曇・水殿発電所や高瀬川の新高瀬川発電所、南相木川の神流川発電所、清津川の奥清津・奥清津第二発電所は日本有数の規模を誇り、首都圏に電力を供給する上での重要性は大きい。
信濃川の公共事業見直しと「脱ダム宣言」 この様に信濃川は治水・利水の為の施設が多く存在する。だが、1990年代以降公共事業見直しの機運が全国的に高まり、利根川・淀川等全国の主要河川においてダムを始めとする河川施設の建設中止が相次いだ。信濃川水系も例外ではなく2002年(平成12年)に信濃川水系では最大規模の総貯水容量を擁する予定であった清津川ダム(清津川。国土交通省北陸地方整備局)が、2003年(平成13年)には戦前から連綿と続き戦後「只見特定地域総合開発計画」でも取り上げられた『只見川水力発電新潟分水案』に基づく「湯之谷揚水発電計画」、その根幹である佐梨川ダム(佐梨川。新潟県)が上池と共に中止となり長年に亘る新潟分水案はここに潰えた。県営ダムでも三用川ダム(三用川。新潟県)が建設中止となっている。又、国土交通省北陸地方整備局(当時は建設省北陸地方建設局)は1981年(昭和56年)の信濃川洪水を機に、1954年(昭和29年)より構想のあった「千曲川上流ダム計画」を南佐久郡南牧村に計画した。これは洪水調節・上水道等を目的とした多目的ダムとして、信濃川本川上流に堤高約80.0m、総貯水容量が約70,000,000tという本格的なダムを建設しようとしたものである。「千曲川上流ダム」が完成すると南牧村を中心に250戸が水没する他、JR小海線が水没する。1984年(昭和59年)に実施計画調査の為の予算が付いたが住民の強硬な反対に遭い、その後地元南牧村を始め南佐久郡5町村が建設推進を撤回して反対に回り、計画が凍結した。その後公共事業見直しの機運の中で計画は再検討され、2002年に「千曲川上流ダム計画」は国土交通省によって白紙撤回となった。こうして日本最長の河川に建設される予定であった唯一の多目的ダムは中止されたが、ダムに代わる治水代替案は確定されていない。2004年(平成14年)に入ると、長野県知事・田中康夫の『脱ダム宣言』によって長野県内に計画中の信濃川水系のダム計画が纏めて中止となった。浅川ダム(浅川)・角間ダム(角間川)・黒沢ダム(黒沢川)・清川ダム(清川)が対象となり、有無を言わさぬ形での中止であった。この宣言には「先進的な思想」・「環境保護を重視した良策」・「公共事業と利権の癒着を抉り出す第一歩」と賞賛する声が多い。その一方で「治水対案が根拠薄弱」・「住民の安全を無視した愚策」との批判もある。代替案である「河道内遊水地」が結局名前を変えたダムであるとの指摘もあり、浅川ダムの様に下流住民の合意を得ずに中止した面もあるため、洪水の多発する信濃川で今後洪水が起こったときに知事がどのような対応を取るのか、注目されていたが、2006年(平成18年)7月の平成18年7月豪雨で天竜川流域が豪雨による被災を受けた。『脱ダム宣言』が直接災害に関係していたわけではないにしろ、治水対策の不備を含め田中県政に対する様々な不満が表面化。県知事選挙に敗北し田中は野に下った。田中に代わり村井仁が知事に就任したが、『脱ダム宣言』については当初は批判的発言を繰り返していたものの就任後は性急なダム建設回帰には慎重な姿勢を示したが、2007年2月河道内遊水池(穴あきダム)を是とする判断が出された。
信濃川の水運 千曲川・信濃川は共に江戸時代から明治時代にかけて川舟による通船が全盛を迎え、流域の物流を担った。河口は古代から蒲原津(かんばらのつ)、沼垂津(ぬったりのつ)、新潟津などの港(新潟三ヵ津)が栄え、特に新潟は江戸時代に大きく発展して日米修好通商条約による開港場のひとつとされた。新潟港には現在もロシア、韓国などとの国際便が就航する。
集合函数の集合函数の分類 集合函数 f に対して以下のような性質を考えることができる。以下、各集合は全体集合 Ω の適当な部分集合族 𝒞 から取るものとする。
読売新聞奨学生過労死事件の事件発生 1990年12月4日の午後3時20分頃、販売店の作業場内で新聞奨学生の男性は嘔吐を伴う体調不良を訴え、そのまま昏倒。救急車で杏林大学病院へ搬送されたが午後9時30分に亡くなった。
読売新聞奨学生過労死事件の提訴・係争へ 遺族は読売新聞側に原因の究明と今後の奨学生に対する条件改善を求めた。当時の読売新聞三角販売局次長は「訴状を読んだ上で誠実に対応したい」という報道へのコメントを残しているが実態が無く、1993年遺族側は東京地裁へ提訴を申し入れた。
読売新聞奨学生過労死事件の和解成立とその後 1999年に読売新聞が遺族に和解金を支払う形で和解が成立。遺族側は「読売新聞側の落ち度が認められ、実質的な社会的責任も認められた事は評価できる」と報道コメントを残している。読売新聞は「当該男性の過労死と業務との因果関係は認めてはいないが、長期化する裁判で原告の気持ちを考え、和解する事で決着をつける形となった」と報道コメントを残した。これにより、過労死裁判は終了した。
読売新聞奨学生過労死事件の雑誌 週刊金曜日にて、記者の黒藪哲哉によって「ある新聞奨学生の死」と題された記事が発表された。新聞奨学生というシステム自体が含有する過酷な労働実態、奴隷労働的システムの指摘、批判を展開した。これにより黒藪哲哉は第3回「週刊金曜日ルポールタージュ大賞」報告文学賞を受賞。
読売新聞奨学生過労死事件の書籍 黒藪哲哉 『新聞ジャーナリズムの「正義」を問う―販売現場からの告発』リム出版新社 (1998年9月) ISBN 978-4898001172
読売新聞奨学生過労死事件のWeb 新聞労連のHPにかつて裁判を紹介するコーナーがあった。和解成立に基き現在は閉鎖されている。
ガス・グリソムの経歴 グリソムはインディアナ州ミッチェルに生まれ、地元のミッチェル高校を卒業。
ガス・グリソムの軍時代 1944年、高校卒業後にアメリカ陸軍航空軍に入隊。終戦により、1945年、パデュー大学に入学、1950年には機械工学の理学士号を取得した。1951年3月、少尉に任官し空軍に復帰、戦闘機に搭乗し始め、朝鮮戦争では第334飛行隊に所属しF-86で100回もの戦闘を経験した。戦後、テキサス州ブライアン空軍基地でジェット機のインストラクターとなった。1955年8月、オハイオ州のライト・パターソン空軍基地にある空軍工科大学で航空工学を専攻した。1956年10月、カリフォルニア州のエドワーズ空軍基地のテストパイロット学校で学び、1957年5月にライト・パターソン空軍基地に戻って戦闘機部門のテストパイロットとなった。
ガス・グリソムの事故 グリソムはアポロ1号の船長となり、アポロ計画最初の有人飛行を実行することになった。しかし1967年1月27日、船内での訓練中、エドワード・ホワイト、ロジャー・チャフィーとともに爆発炎上による事故で亡くなった。この痛ましい事故に関してNASAは即死と発表。しかし、後に公開された事故機には細工されていたと思しきスイッチが見つかり、遺族が事故の調査を開始したところ、グリソムは即死ではなく炎の中で15分以上も生きていたことが検死報告書で判明。彼らは宇宙船のハッチが内側から開かない機構になっていたため脱出できなかったのだが、皮肉にもこれはリバティベル7の水没事故を受けた措置であった。亡骸はアーリントン国立墓地に葬られた。NASAとしてはマーキュリー7の誰かを最初に月面に立たせたいと考えていた。もしグリソムが存命していれば彼がその人物となっていた可能性は高かった。グリソムの生涯飛行時間は4,600時間で、そのうち3,500時間がジェット機によるものである。
東急8500系電車の概要 東急では、1969年(昭和44年)から当時建設していた地下鉄「新玉川線」(現在の田園都市線渋谷駅 - 二子玉川駅間)向け車両として地下線火災対策基準「A-A基準」を満たした8000系を東横線に順次導入した。しかしその後、渋谷駅から都心方面に直通運転を行う予定の半蔵門線への乗り入れにあたって、東急・営団(現在の東京地下鉄)共通の車両規格が作成された。この規格に合致させるため、路線識別用の赤帯の貼付、機器取り扱いの変更、および電動車比率の向上による先頭車の電動車化などのマイナーチェンジを図った8500系を新玉川線・半蔵門線向けとして1975年から導入することになった。1976年(昭和51年)に通勤電車の中で技術的に集大成された車両として、東急としては初めて鉄道友の会ローレル賞を受賞した。本系列は8000系のマイナーチェンジ車両であるため、登場時は8000系の一部として扱われていたが、その後増備が進むにつれて8500系と呼ばれるようになった。現在でも広義の8000系と呼ばれるグループに含まれる。本系列の登場時は新玉川線が未開業であったため、田園都市線(大井町駅 - すずかけ台駅間)や東横線に投入された。新玉川線開業時に8500系の大半の車両は同線へ転籍したが、必要車両数を確保できなかったため、1976年から8000系に前述の車両規格に対応させる改造を施し、本系列の中間に組み込むことにより必要車両数を確保した。なお、この中には8000系の先頭車も存在し、車両間の通り抜けができるように貫通幌が設置された。後に8500系の中間車が増備されると中間に組み込まれていた8000系は東横線などに戻り、1987年(昭和62年)に混成編成は解消した。また、このころは東横線と田園都市・新玉川線の間で車両の融通が頻繁に行われており、新玉川線開業後も8500系は1976年3月から1991年3月まで東横線で使用されていた。1979年(昭和54年)から始まった田園都市線 - 新玉川線 - 半蔵門線の全列車直通運転による運行範囲の拡大や、増発および編成両数の増強に伴い、1991年までに400両が導入され、東急の系列として最大の両数を占めている。また、2003年(平成15年)から開始された田園都市線(2000年に新玉川線を統合) - 半蔵門線 - 東武鉄道伊勢崎線・日光線の3社直通運転により運行範囲が広がった。この直通運転に使用される車両としても最多の在籍数である。2002年(平成14年)の新5000系投入や、2018年(平成30年)の2020系投入等により、8601F - 8612F(8606Fを除く)、8642Fと大井町線用8639F - 8641F が置き換えられ、最盛時は10両編成40本(400両)が田園都市線に集結していたものが、2019年9月現在、10両編成230両まで減少している。なお、所属は全車長津田検車区。
東急8500系電車の車体 前面は8000系より150mm高い高運転台構造となり、正面窓が小さくなったほか、行先表示幕の左側に種別表示幕、右側に運行番号表示幕をそれぞれ設置した。また、半蔵門線乗り入れ規格に基づく路線識別帯として、東急のステンレス車では初めて先頭車の前面に東急のシンボルカラーと警戒色を兼ねた赤帯を入れて登場した。それ以降に登場した同社の車両は先頭車の前面に赤帯が施されるようになった。その後、1988年には他の車両にも先頭車の前面に赤帯が施された。設計当初は小田急9000形電車と酷似したデザインも計画され、模型まで製作された。だが、「切妻以外は考えるな」という東急の方針により、前面が平らな切妻の形状になった。なお、当初は「9000系」が仮の形式称号だった。車体は東急車輛製造が7000系から採用しているオールステンレス車体である。1981年(昭和56年)度分として導入した車両(13次車)からはバッド社の技術を元に東急車輛が独自に開発した軽量ステンレス車体を採用して軽量化を図った。この車両は8631F以降の全車両と8630F以前の一部の中間車にも組み込まれている。
東急8500系電車の主要機器 8000系の電動車 (M) と付随車 (T) の構成(MT比)は6両編成時で4M2T(起動加速度3.2km/h/s)であり、旧新玉川線には対応していたが、半蔵門線の急曲線・急勾配区間において故障した先行列車を救援するには電動車比率を向上させる必要があった。そのため、本系列は5両編成時に4M1T、6両編成時に5M1T、8両編成時に6M2T、10両編成時に8M2Tとし、十分な性能を確保しており、加速性能は高いが、降雨・降雪時などは空転滑走を起こしやすい。電動車比率向上および半蔵門線で使用される誘導無線 (IR) アンテナを設置する中間付随車が必要とされたため、制御車(先頭車)を8000系の付随車(クハ8000形)から本系列では電動車(デハ8500形・デハ8600形)に変更し、中間付随車(サハ8900形)を新たに設定した。中間電動車は8000系のデハ8100形、デハ8200形にそれぞれ相当するデハ8700形と、デハ8800形とした。電動車のうちデハ8500形およびデハ8700形に制御装置を搭載し、対となるように隣接して連結したデハ8600形またはデハ8800形も一緒に制御する。ただし、編成の都合で電動車の両数が奇数となる場合はデハ8500形および8700形が単独で連結された。8000系と同じ界磁チョッパ制御車だが、1989年(平成元年)に計画していた本系列のVVVFインバータ制御への更新および増発用の新型車両導入(2000系)に向けた試作車として、同年に2両(デハ8799・0802号)がVVVFインバータ制御に改造された。その後、1991年度増備車のうち2両はVVVFインバータ制御(量産型)が採用され、8642Fに組み込まれた。8642Fには界磁チョッパ、試作型のVVVFインバータ、量産型のVVVFインバータと1編成で3つの異なる制御装置を搭載している。なお、2003年から本系列の東武線乗り入れが始まったが、8642Fは東武での乗務員教習の手間を少なくするため東武線へは乗り入れない。このため、前面には東武乗り入れ非対応編成であることを示すKマークが貼付されている。電動台車は8000系と同じTS-807形を採用した。また、付随台車は同系列ではパイオニアIII系のTS-708形であったが、ばね下重量の軽減のため、本系列では電動台車をベースとしたTS-815形を採用した。東武乗り入れ非対応の車両の無線アンテナは2本、乗り入れ対応車両は無線アンテナが3本装着されている。
東急8500系電車の種別・行先表示器 種別・行先表示器は、落成当初とは違うものになっている。落成当初は字幕式で日本語表記のみであったが、1990年(平成2年)の半蔵門線水天宮前駅延伸時に水天宮前行のみ英字表記が追加された。また、一部編成で英字併記に変更されている。当時の英字は大文字+小文字で表記された。1994年(平成6年)より8603Fを皮切りにLED式への改造が施工され、先述の英字併記に交換された編成にも施工された。このフォントは当初は明朝体であったが、2003年3月19日の半蔵門線押上開業と東武線乗り入れに伴い表示器のROMを交換した際にフォントを視認性の良いゴシック体へ変更し、同時期に字幕式で残存していた8606F・8607F・8610Fは英字を大文字表記とした新幕へ変更した。また、側面にも英字表記が入るようになった。8616Fは行先表示器が2005年(平成17年)3月26日より、その後8634F - 8636F・8638F - 8641Fが従来の3色LEDからフルカラーLEDに変更されている。ただし、8616F・8634F - 8636Fは3色LEDに戻されている(8616F・8634Fの側面表示を除く)。8606Fは8500系で唯一字幕式行先表示器を装備した編成。この他に8607F・8610Fが字幕式で残存していた。8638F - 8641Fは大井町線用であり、前述した半蔵門線延伸などには関係がなく、ROMの交換を行わなかった。したがって3色LED式行先表示器のフォントは明朝体であった。このうち8640Fと8641Fは前面のみ幕式で、側面はLED式であったが、田園都市線直通急行に対応するため、検査入場した際に前面もLED化して出場した。現在では、大井町線の8500系にはフルカラーLEDが採用されており、同線を走る全車両での各停(青色・緑色)表示化と視認性を向上させたゴシック体への変更が完了している。
東急8500系電車のデハ8700・8800形の車両番号 デハ8700・8800形は、8799・8899号の次が0700-・0800-と変則的な番号が付与されている。これは当時、東急の車両管理システムにおいて4桁で番号が管理され、5桁に対応することは大きな負担になったからである(東急8000系ファミリーの記録2)。
東急8500系電車の編成表 東急8500系電車/編成表を参照。
東急8500系電車の田園都市線への投入 1975年に当時の田園都市線(大井町駅 - すずかけ台駅間)に4両×10本 (8601F - 8610F) が投入された。この時の編成は3M1Tとなっていた(編成表)。翌1976年に増備された編成 (8611F - 8616F) は、サハ8900形に代わりM2車であるデハ8800形が連結された全電動車の4両編成となった。これはサハ8900形に搭載する大容量静止形インバータ (SIV) の開発が間に合わず、補器を搭載したデハ8800形を組み込んだためである(編成表)。その後、同年に実施された田園都市線の5両化に伴い同線で使用された編成は全て5両とされた。この時に増備された一部の中間車は8000系の編成に入っていた(編成表)。なお、5連化された編成は、編成替えなども含めて1977年開業の新玉川線系統とは別の運用に就いていた。1979年8月12日以降の半蔵門線・新玉川線(当時)と田園都市線の運行系統一本化により、現在の大井町線区間にあたる大井町駅 - 二子玉川園駅(現在の二子玉川駅)間には入らなくなり、新玉川線・田園都市線向けに大半の編成が6・8両化され、一部の編成が東横線に移籍した。
東急8500系電車の営団地下鉄への貸出 8500系は1978年から1988年頃まで営団半蔵門線(当時)に貸し出された。外見上の区別がつかないが、車内のドア上にある路線図が営団のメトロネットワークだったことと、車内広告に営団地下鉄の広告が採用されていた。
東急8500系電車の新玉川線への投入 1977年4月7日の新玉川線開業時に東横線から6連11本が転用された。ほとんど地下区間での運用となることから、大半の編成が冷房準備車だった(編成表)。
東急8500系電車の田園都市線と大井町線の予備車共通運用 1986年に投入された8638F+8639F・8640F+8641Fは、田園都市線と大井町線で予備車を共用できるよう5両編成+5両編成で製造され、しばらくの間大井町線でも使用された。そのため、この4編成の乗務員室ドアは普通の編成と違う仕様になっている。大井町線運用には主に8640F+8641Fを充当し、大井町線用方向幕、戸越公園駅・九品仏駅の両駅で使用するドア非扱いスイッチを装備している他、田園都市線のATC化後も東急形ATSを存置した。なお、大井町線運用の他にこどもの国線用7000系ワンマン運転対応車が検査入場した際にもツーマン運転で代走することもあった。
東急8500系電車の東武線直通による廃車開始と大井町線転籍 2003年3月19日には半蔵門線水天宮前駅 - 押上駅間延伸および同線と東武伊勢崎線・日光線の相互直通運転が開始された。田園都市線と半蔵門線は従来から相互直通運転を行っているため、田園都市線所属の8500系は田園都市線から半蔵門線・東武伊勢崎線を介して東武日光線の南栗橋駅まで乗り入れるようになった。また、2006年3月18日からは伊勢崎線の久喜駅まで乗り入れるようになった。この東武線直通に際しては、当初8500系全車に東武線用保安装置の追設で賄う予定だった。しかし、その後バリアフリー対応を推進していく方針となったため、2002年5月2日から2003年2月21日にかけて新型車両の5000系が投入されることとなった。これにより8601F・8602Fが廃車、5両編成+5両編成の8638F+8639F・8640F+8641Fが5両編成ずつに分割の上で大井町線に転籍した。大井町線に転籍した8638F+8639F・8640F+8641Fは8000系の8045F - 8051Fを置き換えた。また、同線転籍時には先頭車の貫通幌と営団ATCを撤去した。パンタグラフは当初、菱形(PT43形)のままだったが、後にシングルアーム化された。田園都市線に引き続き残った車両は、改修費を抑えるため、8603F - 8614FおよびVVVFインバータ制御装置を搭載した8642Fを除いた8615F - 8637Fに東武線直通対応の改修を行い、相互直通運転開始に備えた。その後、5000系6ドア車導入による車両不足を補うため、2004年度には8613Fと8614Fも東武線直通対応とされた。改修対象から外され、東武線直通非対応となった編成は識別のため非常扉に丸囲みの「K」のシールが貼付された。
東急8500系電車の東武線非乗り入れ運用減少と田園都市線 - 大井町線直通急行 2006年3月18日のダイヤ改正からは伊勢崎線久喜駅までも乗り入れが行われるようになった。また、このダイヤ改正から東武線非対応編成は平日の朝ラッシュ時のみの運用となり、日中運用は僅かとなった。しかし、精算運転の絡みで土曜・休日の押上行または清澄白河行として東武線対応編成に代わって運用に入ることもある。その機会は昼間より夜間の方が多く、運転本数は1往復程度だったが、2008年3月28日のダイヤ改正から土曜・休日の東武非乗り入れ編成の運用が復活 (36K - 38K) し、36K・37Kは朝のみで38Kのみ終日運用が組まれていた。なお、2009年6月6日のダイヤ改正以降、土休日ダイヤでの東武線非直通運用は朝のA34Kと、夜のP35Kのみとなっており、終日運用の東武線非直通は平日の44Kのみとなった。大井町線所属の5両編成は、2006年3月18日から土曜・休日の大井町線 - 田園都市線直通急行に使用されるようになった。この直通急行設定に際し、誤乗防止策として、正面の帯色を赤色から赤色→黄色のグラデーションに変更し、同時に貫通扉の帯の下部に大井町線を表す認識ステッカーが貼付された。なお、大井町線内での急行運転は2008年3月28日のダイヤ改正より開始され、大井町線直通急行も全て大井町線の急行用車両である新6000系で運行されるようになった。なお、大井町線所属8500系は8638Fを最後に運用から退いた。
東急8500系電車の更新工事 1997年から2001年にかけて老朽化した車両の車体・車内更新工事が施行されたが、その後は5000系による車両の置き換え計画が発表されたため、経年車も施工されることなく工事は中止された。本系列は、8000系のように編成単位での施工ではなく、編成中で軽量構体化される前の12次車までが対象だった(ただし13次車以降でも8841のみ更新工事が施工されている)。
東急8500系電車の前面スカート装着 東武鉄道への直通営業開始を前にして、2002年末期から2005年度にかけて一部の編成を対象に先頭車前面下部に排障器(スカート)の設置工事が施工された。設置工事の施工時期の違いなどにより、後述のような仕様の変更がみられる。2018年3月現在、スカートが装着されていない編成は8606Fのみである。
東急8500系電車の他鉄道事業者への譲渡 2005年から廃車になった車両の譲渡が行われている。