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佐賀県
佐賀県は、地域区分局に当たる郵便局が県内に存在しない唯一の都道府県である。県内全域を指す郵便番号84(上2桁)の地域区分局は、福岡県の久留米東郵便局となっている。 震度4以上の記録が残っている地震の回数は、92年間でわずか7回と日本一地震が少ない県でもある。 一般的に佐賀の県民性として、「いひゅうもん(異風者)」あるいは「ふうけもん(風変者)」という言葉が代表的に使われることが多い。両者とも変わり者、頑固、融通が利かないといったニュアンスがある。ただし、現代の佐賀弁では「ふうけもん」は馬鹿者といった否定的な意味が強いので、あまりそぐわない。また、特に男性に関してしばしば葉隠の武士道精神とも結び付けられ、上下関係やしきたりを重んじる、几帳面、まじめとされる場合がある。また「佐賀んもんの通ったあとにはぺんぺん草も生えん(佐賀の人が通った後にはぺんぺん草も生えない)」などと揶揄・自嘲される場合があるが、佐賀藩時代の厳しい財政下で大名家(鍋島家)自らの倹約から受け継がれた主に藩士の倹約家気質がさまざまな形で受け止められ、当時の言い回しが現代まで残ったものである。 佐賀藩に当たる県東部-南部では佐賀弁が話され、同じ藩域だった長崎県諫早地方では似た言い回しが多い。唐津藩に当たる県北西部では唐津弁、対馬藩飛び地に当たる鳥栖市東部・基山町では田代弁が話される。 サッカー バレーボール バスケットボール ハンドボール ソフトボール男子西日本リーグ 九州サッカーリーグ 佐賀魂(佐賀市・社会人野球) 唐津市・東松浦郡は、虹の松原、屋形石の七ツ釜の海食洞、リアス式海岸、クジラのように急峻にせり出す形状の島々など、玄界灘・唐津湾に面した海沿いの自然景勝地として知られ、海水浴やサーフィン、ダイビングといったマリンスポーツなどが盛んである。鏡山や丘陵地帯・海岸部の棚田などの自然景勝が見られるほか、丘の上に建つ唐津城、名護屋城跡(博物館)などの文化財が観光地となっている。11月上旬には日本三大くんちの一つである唐津くんち(唐津市)、6月上旬には呼子大綱引(唐津市呼子町)が行われるほか、呼子の朝市も有名である。
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佐賀県
伊万里湾も同様に、湾口部のいろは島やリアス式海岸が特徴的な景観で、海水浴地でもある。10月下旬には伊万里トンテントン祭りが行われる。伊万里市・有田町・武雄市の黒髪山周辺は奇岩のなす地形や豊富な植物、各種伝説などで知られる。有田町を中心とした地域には有田焼(伊万里焼)、唐津市・伊万里市・武雄市を中心とした地域に唐津焼の、それぞれ古い窯跡や現存する窯元が数多く分布していて陶磁器にまつわる名所が多い。九州陶磁文化館、有田陶磁美術館、有田ポーセリンパークなどの文化施設もあるほか、ゴールデンウィークには有田陶器市が開かれ多数の客で賑わう。 日本三大美肌の湯である嬉野温泉(嬉野市)は湯豆腐や嬉野茶でも有名で、武雄温泉(武雄市)は、楼門と武雄温泉新館が国の重要文化財に指定されており、それぞれ趣の異なった温泉街として賑わう。 一方で、県庁所在地の佐賀市は平坦な田園地帯の中にあり、城下町時代の名残のある込み入った街路や水路網などの景観が特徴的である。江戸-明治期の建物が残る佐賀市歴史民俗館、佐賀城跡と佐賀城本丸歴史館、佐嘉神社、反射炉跡などの歴史遺産が点在する。10月下旬から11月上旬には、佐賀インターナショナルバルーンフェスタが開かれ、熱気球が舞う光景が広がるほか、8月には佐賀城下栄の国まつりが開催される。 県南部一帯には泥質干潟の有明海が広がり、玄界灘や伊万里湾とは大きく異なった景観となる。ムツゴロウ、シオマネキなどの希少生物や、紅葉のように変化するシチメンソウなどが見られる。また5月ごろには鹿島ガタリンピック(鹿島市)が開催される。 県北部の北山ダム(佐賀市三瀬村)は避暑地となっており、どんぐり村などが観光地として整備されている。嘉瀬川を下って行くと古湯温泉や熊の川温泉(ともに佐賀市富士町)、川上峡などのスポットが点在する。 吉野ヶ里遺跡(吉野ヶ里町・神埼市)は、一部で発掘を継続しながら国営吉野ヶ里歴史公園として復元整備されている。 城跡・特別史跡 寺社 主な文化施設・観光施設 その他 重要伝統的建造物群保存地区 ユネスコ世界遺産 国宝 史跡 特別名勝 名勝
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滋賀県
滋賀県(しがけん)は、日本の近畿地方に位置する県。県庁所在地は大津市。かつての近江国に相当するが、1876年から1881年までは若狭国および越前国敦賀郡(嶺南)も含んでいた。 令制国の近江国(江州)と完全に一致する。県名は大津が属していた郡名「滋賀郡」から採用された。「滋賀」の発音は、共通語では「し」にアクセントを置く(頭高型アクセント)が、地元では「が」にアクセントを置く(尾高型アクセント)ことが多い。 「近江」が「近つ淡海」に由来し、現在も滋賀県が「湖国」と呼ばれるように、県の面積の6分の1を占める琵琶湖は県のシンボルである。産業用水、飲用水の源、観光資源としてその存在は大きく、地域性も琵琶湖を挟んで異なる。琵琶湖があるために内陸県で唯一漁港を持ち、その数も20港と多い。水運交易が盛んだった中世や近世には若狭湾と上方を繋ぐ中継地として、大津や堅田など内水系の重要港湾が数多く発展した。東海道・東山道(中山道)・北陸道が合流する陸上交通の要衝であり、「近江を制する者は天下を制す」としてたびたび戦乱の舞台となった。 交通利便の良さは人材の流出をもたらし、戦前まで滋賀県は流入人口よりも流出人口の方が多かった。中世から近代にかけては多くの出身者が近江商人として大坂や江戸など全国各地に進出し、「琵琶湖の鮎は外に出て大きくなる」という諺まで生まれた。太平洋戦争後、高速道路の整備やトラック流通の興隆に伴って交通利便のよさが再認識され、流通拠点や工場・研究開発施設が相次いで進出。近年はJR西日本の看板列車である新快速の拡大に伴って、琵琶湖線(東海道本線)沿いの大津市や草津市といった湖南地域は、京都市や大阪市といった大都市のベッドタウン・衛星都市としても注目されるようになり、首都圏以外の地方では数少ない人口増加県へと転じた。なお、開発が進むのは京都や大阪に近い南部であり、北部とは経済格差が起こっている。南部では新興住宅地が広がり、南草津駅などの駅前にはマンションが林立するなど賑わいがある一方で、北部や西部は田園風景が広がり、地域によって人口動態の開きが大きい。ただ人口が停滞している湖北・湖東地域であっても地域再生の議論や実践が活発である。また、滋賀県は西日本有数の工業県でもあり、県内総生産の48%を第二次産業が占める(全国1位)。
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滋賀県
滋賀県は近畿地方に分類され、文化的・経済的に関西2府7県の一つとして京都・大阪との結び付きが強い。特に隣接する京都とは「京滋」と呼ばれるほど古くから密接なつながりを持ち、県庁所在地である大津市と京都市は隣接している。県南部を中心に京都府・大阪府に通勤通学する、いわゆる「滋賀府民」も多い。 また、地理的な立ち位置から中部地方との交流も盛んである。近畿圏整備法で定める「近畿圏」と中部圏開発整備法で定める「中部圏」の両方に含まれ、滋賀県知事は近畿ブロック知事会と中部圏知事会議の両方に出席している(福井県と三重県も同様)。また福井県・岐阜県・三重県とともに「日本まんなか共和国」を設立し、知事サミットや文化交流事業などを行っている。愛知万博では中部8県とともに「中部千年共生村」を共同出展した。北部は近畿・中京・北陸の交点であり、工場や物流センターの設置計画が進む。なお、NHK名古屋放送局で制作する東海3県(愛知県・岐阜県・三重県)向けの天気予報には常時滋賀県の予報が表示される。また、かつてテレビ東京系列で放送され滋賀のびわ湖放送でも放送された「メガTONニュースTODAY」の最後の天気予報 では、少なくとも1985年10月以降は、全国の天気予報の後各地の天気を報じる際「滋賀・東海地方」の区分で報じられ、次の「近畿・せとうち地方」には京都府・奈良県以西のみが表示されていた。 高度成長期に水質汚染の被害を受けた琵琶湖があることから、県民や行政の環境への意識が高く、また環境関連企業や人材が集積していることから全国でも屈指の「環境先進県」として知られている。 本県は琵琶湖及びそれを取り囲む山々(比叡山・比良山系・伊吹山・鈴鹿山系)を有し、早くから都が置かれ、古代・中世から交通における重要拠点であったことから日本史上の関わりが極めて強く、県全土にわたり自然・歴史・文化的資源が豊富に存在する(後述)。 周囲を山脈・山地が取り囲み、中央部に琵琶湖と近江盆地が広がる。面積は全国で10番目に狭い。面積の半分以上は山地、およそ6分の1は琵琶湖が占めており、可住地面積は大阪府よりも狭い。
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滋賀県
周囲を山脈・山地が取り囲み、中央部に琵琶湖と近江盆地が広がる。面積は全国で10番目に狭い。面積の半分以上は山地、およそ6分の1は琵琶湖が占めており、可住地面積は大阪府よりも狭い。 全域が内陸性気候であるが、北部は北陸・山陰型の日本海側気候、南部は太平洋側気候および瀬戸内海式気候を併せ持つ。 他の地域のように日本海側気候と太平洋側気候の境目に山地があるわけではなく、湖岸に広がる同一の平地のなかで漸次的に気候が変化していくのが大きな特徴である。しかし、琵琶湖があるため他の盆地と比較すると、夏の暑さと冬の寒さは幾分穏やかである。湖西・湖北は大部分が特別豪雪地帯や豪雪地帯に指定されており、特に旧余呉町は近畿以西唯一にして日本最南端の特別豪雪地帯となっている。 伊吹山では昭和2年2月14日に11.82メートルの積雪を観測した。これは正式に観測された積雪量としては世界記録である。滋賀県の主な豪雪地帯は県西部の朽木村、県北西部のマキノ在原、県最北部の余呉町、県北東部の米原甲津原の4地域に分けられる。 なかでも長浜市余呉町旧片岡村・丹生村では高い数値の降雪が記録されている。町の最北端に位置する中河内で1981年の五六豪雪時に6メートル55センチを記録した。特に積雪の多かったとされる1936年には、いずれも公式の気象観測施設によるものではないが、尾羽梨で7メートル30センチ、中河内で7メートル20センチを記録した。『日本残酷物語 第4部 保障なき社会』(平凡社、1960年)には、丹生北部の雪の惨状として「この辺りでは雪が平年で20尺 (約6メートル)多い年は30尺(約9メートル)は積もる。この年の大雪では30尺以上積もった。その場所と言うのが奥川並の集落のようである。」との記載がある。また比良山地東麓では比良おろしという北西の局地風があり、3月下旬に吹くものは「比良八講荒れじまい」と呼ばれ、春の訪れを告げる風物詩となっている。 総面積に対する自然公園面積の割合が37.6 %で(平均14.5 %)であり、2007年(平成19年)時点で第1位である。
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滋賀県
総面積に対する自然公園面積の割合が37.6 %で(平均14.5 %)であり、2007年(平成19年)時点で第1位である。 以下の13市3郡6町がある(町はすべて「ちょう」と読む)。また、村は2005年に消滅している。江戸時代には江南(現在の湖南)・江西(現在の湖西)・江東(現在の湖東・湖北)に3区分されていたが、明治時代以降、琵琶湖を中心に湖南(こなん)・湖東(ことう)・湖北(こほく)・湖西(こせい)に4区分するのが一般的となった。この4区分以外に区分される場合があり、例えば2017年時点で滋賀県では大津地域、南部地域、甲賀地域、東近江地域、湖東地域、湖北地域、高島地域の7地域に区分がされている。各々に属する自治体は以下の通り。なお、郡は1878年(明治11年)の浅井郡の東西分割と1897年(明治30年)の西浅井郡の伊香郡編入以外は、大宝律令以来の郡名と区画が昭和の大合併期までほぼ踏襲されていた。 ※人口は2023年10月1日現在 ※太字の自治体は県事務所(合同庁舎)所在地 畿内に隣接する交通の要衝であり平野部も多く、天智天皇のころには大津に都が置かれるなど、古くから開発が進んだ。京都市と事実上の双子都市を形成している大津市や、大津の伝統的な衛星都市であった草津市をはじめ、現在では通勤・通学圏として京阪との繋がりが強く、いわゆる「滋賀府民」の多い地域となっている。甲賀は、県境を挟んで接する三重県伊賀地域と並んで忍者(傭兵)と製薬の町として知られる。甲賀市信楽は古代に短期間ながら紫香楽宮が置かれた地であり、中世以降は信楽焼の産地として長い歴史を持つ。 湖南地方とともに平野部が大きく開けており、穀倉地帯や交通の要衝として栄え、肉牛の飼育が盛ん。近江商人を最も多く輩出した地域でもある。 京阪から最も遠い地方であり、関西文化圏の東端であるとともに北陸地方や東海地方との緩衝地帯である。近代には養蚕業が盛んであったが、現在では湖南地方や湖東地方に比べて宅地やオフィスの開発や工場進出が遅れている(いわゆる「南北格差」)。しかし、そのために伝統的な文化や景観が保たれている。
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滋賀県
京阪から最も遠い地方であり、関西文化圏の東端であるとともに北陸地方や東海地方との緩衝地帯である。近代には養蚕業が盛んであったが、現在では湖南地方や湖東地方に比べて宅地やオフィスの開発や工場進出が遅れている(いわゆる「南北格差」)。しかし、そのために伝統的な文化や景観が保たれている。 畿内と若狭湾・北陸地方を結ぶ街道筋で、湖南地方とともに京都との繋がりが強い。近代に幹線交通網から外れたため、開発から取り残されていた。安曇川扇状地と石田川扇状地を除いて平野部が少なく、琵琶湖近くまで山地が迫る自然豊かな地方である。歴史・文化的には大津市北部も湖西に含まれる。 合併により2004年(平成16年)以降に廃止になった自治体は下記の通りである。 滋賀県はその地理的特性から、奈良・京・大坂への物資や人材の供給源および中継地、あるいは畿内と東国・北国とを結ぶ要衝として発展し、日本の中央史に大きく関わってきた。 白洲正子は随筆『近江山河抄』の中で「近江は日本の楽屋裏」と評した。また歴史学者の今谷明は著書『近江から日本史を読み直す』の中で「近江の歴史を書くことは、日本通史を著すのと同じこと」と語り、近江の歴史的価値と重要性を奈良・京と同等かそれ以上に高く評価している。 弥生時代から多くの渡来人が入植し、都に近いために早い時期から開発が進められた。 伝承の時代ではあるが、記紀の記事によれば、第12代景行天皇、第13代成務天皇、第14代仲哀天皇が志賀高穴穂宮(大津市)で天下を治めたとあり、古代から政治的に重要な地域であったことを示唆している。 国造が分立した時代には、滋賀県は淡海国造と安国造の領域であった。その他、犬上県主や息長氏、蒲生稲置、三上祝など有力豪族が多く存在した。 古墳時代の5世紀中葉に現皇室の直系の皇祖に当たる継体天皇が近江で生誕し、仁徳朝の25代目武烈天皇が断絶したため、507年に第26代天皇として即位している。飛鳥時代には近江大津宮(天智天皇)、奈良時代には紫香楽宮(聖武天皇)や保良宮(淳仁天皇)が置かれた。壬申の乱や藤原仲麻呂の乱といった戦乱の舞台となることがたびたびあった。
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滋賀県
古墳時代の5世紀中葉に現皇室の直系の皇祖に当たる継体天皇が近江で生誕し、仁徳朝の25代目武烈天皇が断絶したため、507年に第26代天皇として即位している。飛鳥時代には近江大津宮(天智天皇)、奈良時代には紫香楽宮(聖武天皇)や保良宮(淳仁天皇)が置かれた。壬申の乱や藤原仲麻呂の乱といった戦乱の舞台となることがたびたびあった。 奈良時代に藤原仲麻呂が編纂した藤原氏の「家伝」には、「近江国は宇宙(あめのした)に名の有る地なり。地広くして人衆(おお)くして、国富み家給(そな)う。」 と書かれており、古代近江は琵琶湖の淡水を介在し、広い平野に多くの人達が住んでおり、豊かな地であった。 近江は延喜式内社の総数が近畿圏では、大和に次いで2番目、全国でも大和、伊勢、出雲に次いで4番目に多く、古代から近江は日本の重要な地位を担っていたといえる。(近江国の式内社一覧) 平安時代初期に近江出身の僧最澄は比叡山に延暦寺を開創した。延暦寺は数々の名僧を輩出し、現代に続く日本の仏教文化を大きく発展させた。 平安中期より佐々木氏が近江に起こった。佐々木氏は源頼朝が関東地方で勃興するとこれに積極的に加わり、近江一国の守護職を得た。以降、六角氏や京極氏に分かれながら、佐々木一族は戦国時代に至るまで近江国を支配した。南北朝期にはばさら大名で有名な佐々木道誉(高氏)が出て京極家の勢威を伸ばした。 本願寺蓮如の大布教が始まると、大津付近は一向宗色が強くなった。このため、これを喜ばない比叡山がたびたび攻撃を仕掛けた。比叡山東麓の坂本は一向宗の堅田と経済的にも対立していたことから、両者の抗争は頻繁であった。この後に蓮如は大津に一向宗拠点を構えた。 戦国時代に入ると、北部に浅井氏が台頭する。形の上で京極氏を奉じた浅井氏は南部を領する六角氏と抗争する。織田信長と結んだ浅井長政に至って六角氏を駆逐するが、後に将軍の信長包囲網に加わって信長に抵抗、小谷城の戦いにより、1573年(天正元年)に滅んだ。
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滋賀県
戦国時代に入ると、北部に浅井氏が台頭する。形の上で京極氏を奉じた浅井氏は南部を領する六角氏と抗争する。織田信長と結んだ浅井長政に至って六角氏を駆逐するが、後に将軍の信長包囲網に加わって信長に抵抗、小谷城の戦いにより、1573年(天正元年)に滅んだ。 近江国を支配圏に入れた信長は、根拠地として近江盆地に安土城を築城する。信長の死後は畿内を地盤とする羽柴秀吉と、越前国北の庄を地盤とする柴田勝家の係争地となり、北部で行われた賤ヶ岳の戦いにおける秀吉の勝利で決着がつけられた。秀吉は初めての領地が長浜であった関係で、多数の近江国住民を主に事務方として登用した。石田三成はその1人である。また秀吉の甥豊臣秀次は八幡山城およびその城下町を築き、琵琶湖につながる運河八幡堀を整備し、商業を振興させた。 その他、近江からは蒲生氏郷・藤堂高虎・大谷吉継など数々の名武将を輩出した。戦国時代から江戸時代にかけての甲賀郡では甲賀流忍者が活動していた。 徳川家康は、徳川氏における精鋭軍を率いる井伊氏を関ヶ原に近い彦根に入封させて西国の抑えとし、北部の大部分は彦根藩の領土となった。まとまった大藩は彦根藩のみであり、その他は膳所藩、水口藩、大溝藩、西大路藩、宮川藩、山上藩、三上藩といった小藩、交代寄合の最上家の大森陣屋、交代寄合の朽木家の朽木陣屋、さらに他国の諸藩領や天領などが入り交じり、江戸時代の近江国の領地区分は複雑な様相を呈していた。江戸時代初期には将軍上洛用御殿が水口城、永原御殿、伊庭御殿、柏原御殿とあったが、3代将軍家光以降は上洛が途切れ御殿が次第に老朽化して、廃れていった。 文化面において特筆すべきは、江戸初期の人物で近江聖人とも称された儒教学者中江藤樹が活躍し、日本の陽明学を発展させた。松尾芭蕉(義仲寺に眠る)は近江を旧里と呼ぶほど好んで訪れ俳諧を高めたとともに、近江蕉門と呼ばれる数多くの門人を輩出した。 また江戸時代には、鎌倉時代から続く商工業が飛躍的に発達し、犬上・愛知・神崎・蒲生・高島の各郡、特に八幡・日野・五個荘などから近江商人を多く輩出した。一部の商人は幕末から明治維新の混乱で没落したものの、近代以降も多くの近江商人が活躍し、今日に至る日本経済の発展に寄与した。
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滋賀県
また江戸時代には、鎌倉時代から続く商工業が飛躍的に発達し、犬上・愛知・神崎・蒲生・高島の各郡、特に八幡・日野・五個荘などから近江商人を多く輩出した。一部の商人は幕末から明治維新の混乱で没落したものの、近代以降も多くの近江商人が活躍し、今日に至る日本経済の発展に寄与した。 明治維新により幕府領・旗本領に大津県が設置された後、廃藩置県によって各藩は各県に移行し、1871年11月22日、新たな大津県(滋賀郡・蒲生郡以南)と長浜県(高島郡・神崎郡以北)に統合された。翌1872年1月19日に大津県が滋賀県に、2月27日に長浜県が犬上県にそれぞれ改称され、9月28日に両県が合併し、近江国、並びに現在と領域を同じくする新たな滋賀県が成立した。その後、1876年8月21日から1881年2月7日までの4年半には、現在の福井県嶺南地方(敦賀市以西)を編入した。この間、滋賀県は若狭湾に面していたことになる。敦賀市以西を分離する際、地元では反対運動がおこり、時の滋賀県令、籠手田安定が1881年2月、反対文書(若狭・越前四郡離脱に対する建議書)を、太政大臣三条実美と内務卿松方正義宛に送った。本庁舎は大津に置かれたが、南西に偏在しているため、近江国最大の城下町であった彦根も候補に上がっていた。1891年と1936年の2度、大津から彦根への本庁舎移転運動が起こったことがある。 京都や大阪に近いながらも自然豊かで地価も比較的安いため、京都・大阪の通勤通学圏として住宅需要が高く、住宅開発が活発である。交通利便性の向上を下地にしたモノづくり拠点の整備や商業施設の開業・増設が続き、地方にあって人口増加が続いてきた。2020年に実施した国勢調査によると滋賀県の人口増加率は+0.05 %で、47都道府県の中で第8位。近畿地方では滋賀県だけが増加した。草津市の+4.86%、守山市の+4.23 %、栗東市の+3.10%は全国の市町村トップ100に入っている。
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滋賀県
国立社会保障・人口問題研究所の将来推計(2018年3月公表)によると、2015年〜2045年の人口指数(2015年時点の人口を100としたときの2045年の人口)は89.4になり、全国的には東京都・沖縄県・愛知県・神奈川県・埼玉県に次いで減少率が緩やかになると見込まれている。特に草津市、守山市、栗東市の3市は2015年〜2045年の人口指数が105を超える高水準である。 湖南地方で人口増加する自治体が多い一方、県北部や郡部では人口減少率の大きな地域もあり二極化が進んでいる。2020年国勢調査によると甲良町では9.62%、高島市では7.29%の人口減となった。 地方公共団体コードごとに市町村を以下に列挙する。現在、19市町(13市6町)がある。法定人口は2020年(令和2年)10月1日実施の国勢調査の値、推計人口は2023年10月1日の値。人口密度は推計人口 / 面積で算出したもの。 歴代知事(公選)を以下に抜粋 衆議院の小選挙区が4。参議院では、全県で1区を構成。 滋賀県は、日本有数の消費地である京都・大阪を支える農業県であった。滋賀県内の農業は稲作中心で、県内の耕地面積のほとんどを水田が占めている(2011年の水田率国内第2位)。滋賀県で生産された米は「江州米」または「近江米」として知られる。戦後の第2次産業・第3次産業の発展に伴い、県内の農家の多くは兼業農家であり、2010年の副業農家率は国内第3位である。また滋賀県は日本茶発祥の地とされ、江戸時代には政所茶が宇治茶と並ぶブランド茶として名を馳せ、現在も甲賀市土山町(土山茶。県内最大の栽培面積・生産量)と信楽町朝宮(「朝宮茶」。日本五大銘茶のひとつ)を中心に栽培が行われている。その他、第1次産業においては、琵琶湖における漁業(アユ・ビワマス・セタシジミなど)、湖東地方を中心とする近江牛の生産などが盛んである。 現在は西日本有数の工業県であり、2010年の工業生産出荷額は6兆5,741億円に達する。県内総生産に占める第二次産業・製造業の割合は40%を超え、全国1位である。主要な工業生産品には近世からの伝統産業である日野・甲賀地方の医薬品(特に置き薬)があり、2011年の医薬品生産額は2,506億円(全国11位、シェア3.6 %)となっている。また滋賀県内には既述の医薬品を含め主に9つの地場産業が存在する。
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現在は西日本有数の工業県であり、2010年の工業生産出荷額は6兆5,741億円に達する。県内総生産に占める第二次産業・製造業の割合は40%を超え、全国1位である。主要な工業生産品には近世からの伝統産業である日野・甲賀地方の医薬品(特に置き薬)があり、2011年の医薬品生産額は2,506億円(全国11位、シェア3.6 %)となっている。また滋賀県内には既述の医薬品を含め主に9つの地場産業が存在する。 「環境先進県」としても知られており、県内には新エネ・省エネ・蓄電池・水処理・バイオなどの環境関連企業・技術・人材・教育機関が集積している他、「医工連携」プロジェクトによる医療・健康機器分野の成長が期待されている。また第3次産業を主体に、県内の就業者数は一貫して増加している。 2012年の滋賀県の GDP(県内総生産)は、人口で上回る鹿児島県・熊本県のそれよりも大きい。一人当たりの県民所得(県民経済計算)についても2013年度で第4位となっており、全国トップクラスとなっている。 今後の中期経済成長率については民間シンクタンクによれば、「堅調な人口動態と若年人口比率の高さ」・「京阪神と名古屋の中間経済圏としての立地と交通利便性」・「産業集積度や産学官連携推進」などにより、全国上位と予測されている。 また厚生労働省の報告書「平成27年版 労働経済の分析」によると、2012年時点における滋賀県の有業者数あたりの専門職人材(研究者・技術者・医師・会計士・教員などの専門的職業従業者)比率は、東京都・神奈川県・京都府に次ぐ高さとなっており、当県に専門的・技術的職業の人材が集積している。完全失業率は全国平均未満 であり、比較的堅実である。 滋賀県内の第3次産業活動については、県庁所在地である大津市や人口が密集している草津市を中心とした湖南地域にやや偏っている。またびわ湖環境ビジネスメッセや滋賀ビジネスパートナーといった経済イベントが開催されているほか、滋賀経済同好会では近江商人の哲学・精神を守り、広げていく活動が行われている。 他多数。
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滋賀県
滋賀県内の第3次産業活動については、県庁所在地である大津市や人口が密集している草津市を中心とした湖南地域にやや偏っている。またびわ湖環境ビジネスメッセや滋賀ビジネスパートナーといった経済イベントが開催されているほか、滋賀経済同好会では近江商人の哲学・精神を守り、広げていく活動が行われている。 他多数。 現在は県内に空港は存在しない。戦前・戦中には大日本帝国陸軍用の八日市飛行場が存在。また戦後には日野町周辺にびわこ空港を作る構想があった。県周辺の主な空港は以下の通り。県内と各空港を直接つなぐ公共交通機関は関西空港駅と草津駅および野洲駅を結ぶ特急列車「はるか」のみである。2021年現在リムジンバスなどの運行はない。 信楽高原鐵道を除いて電化されており、すべてのJR路線が幹線である。 一般路線バスを運行する事業者 主要な国道や県道でも高規格化整備が遅れており、至る所で渋滞が発生している。特に国道1号と国道8号は県内において依然、片側1車線区間が多く、交通集中のため慢性的に渋滞が発生する。 大津港や竹生島港を中心に琵琶湖汽船(京阪グループ)とオーミマリン(近江鉄道グループの近江トラベル運営)が観光遊覧船を開設しているほか、近江八幡市の沖島と堀切新港を結ぶ通船や沖島と長命寺港を結ぶ渡し船が存在する。以下、琵琶湖汽船とオーミマリンによる定期観光航路を挙げる。 滋賀県で登録された自動車ナンバープレートは全て「滋賀」で、守山市の滋賀運輸支局で交付される。他府県民から「ゲジナン」や「ゲジゲジ」、または「イナズマナンバー」と揶揄されることがあるが、これは「滋」の「幺幺」の部分から連想されたものである。野洲市出身の西川貴教の呼びかけで2009年(平成21年)より草津市で開催されている大型野外音楽ライブ「イナズマロックフェス」の「イナズマ」は、ナンバープレートの俗称から命名された。 滋賀県域を放送対象地域とする放送局の親局は、地上デジタルテレビは大津市の宇佐山、FMラジオは湖南市の十二坊で分かれている。また京都府との1府1県を放送対象地域とするKBS京都のFM補完中継局の送信所は府県境である比叡山に置かれている。 県域放送局
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滋賀県
滋賀県域を放送対象地域とする放送局の親局は、地上デジタルテレビは大津市の宇佐山、FMラジオは湖南市の十二坊で分かれている。また京都府との1府1県を放送対象地域とするKBS京都のFM補完中継局の送信所は府県境である比叡山に置かれている。 県域放送局 テレビ放送について、当県は放送対象地域としての「近畿広域圏(大阪府大阪市に本局を置き、近畿地方全域を放送エリアとする在阪準キー局)」に含まれており、このうち毎日放送・朝日放送テレビ・関西テレビ・読売テレビについては県内に中継局が置局されている。また地域によっては比叡山にあるKBS京都中継局からのスピルオーバーによる京都放送の視聴が可能である(KBS京都の公式の電波到達範囲図)。 AMラジオについては在阪、在名各局とも受信可能。 FMラジオについては京都のエフエム京都のほか、大阪のエフエム大阪、FM802も一部では聴取可能である。またNHK京都・大阪も聴取可能である。 2013年(平成25年)時点で13の大学・短期大学が立地しており、特に人口あたりの大学生数は京都府・東京都に次ぐ全国3位に位置している。小学校では京都府とともにランリック(ランリュック)がよく普及している。また児童の交通安全のための飛び出し坊やの設置が多く、飛び出し坊や愛好家のみうらじゅんからも注目されている。滋賀県独自の教育事業として、小学校5年生などを対象に琵琶湖上で行われる滋賀県立びわ湖フローティングスクール(平成24年内閣総理大臣賞の第5回海洋立国推進功労者表彰を受賞)がある。 国立 公立 私立 私立 私立 京都・大阪の文化圏に属し、とりわけ京都方面からの影響が大きい。岐阜県関ケ原町から滋賀県米原市にかけては東西文化の境界線をなす(アホかタワケか、雑煮が丸餅か角餅かなど)。湖北地方は北陸や東海の文化との緩衝地帯でもあり、例えば雑煮の味付けが北陸風の澄まし汁だったり(湖北地方以外は味噌仕立てが主流)、東海3県のブロック紙である中日新聞が広く配達されていたりする(米原市では6割強のシェアを占める)。
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滋賀県
私立 京都・大阪の文化圏に属し、とりわけ京都方面からの影響が大きい。岐阜県関ケ原町から滋賀県米原市にかけては東西文化の境界線をなす(アホかタワケか、雑煮が丸餅か角餅かなど)。湖北地方は北陸や東海の文化との緩衝地帯でもあり、例えば雑煮の味付けが北陸風の澄まし汁だったり(湖北地方以外は味噌仕立てが主流)、東海3県のブロック紙である中日新聞が広く配達されていたりする(米原市では6割強のシェアを占める)。 『角川日本地名大辞典』では「温和で、一徹ではなく、計数に明るく利害に敏感で、蓄財に長じている。文にたけるが武はそれほどでもない。」「地味で着実、おとなしく粘り強く努力する。」としている。社寺(滋賀県には浄土真宗門徒が多い)を中心とする伝統的な地縁社会であることから、保守的・閉鎖的であるとの指摘もある。祖父江孝男は、滋賀県の県民性イメージは近江商人に関するステレオタイプから生み出された部分が大きいとしている。 滋賀県内で話される方言は近畿方言(いわゆる関西弁)に分類され、京言葉と共通する特徴が多い。近世の近江国は、中央に琵琶湖がある地理的要因と小藩が乱立する政治的要因によって国内の交流が制限された一方、街道の発達によって地域それぞれに周辺諸国(美濃や若狭など)と交流を持っていたため、狭い面積でありながら細かな地域差があり、特に湖北地方の方言は独自性が強い。滋賀県の方言の特徴としては、第三者待遇表現の多用や、「そ」で始まる指示語のハ行音化(例:それ→ほれ)、終助詞「ほん」(湖東・湖北)などが挙げられる。
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滋賀県
滋賀県では突出して盛んなスポーツはなく、2008年(平成20年)にBリーグ(当時bjリーグ)の滋賀レイクスターズが設立されるまでは滋賀県に本拠地を置くプロスポーツチームは存在しなかった。2017年より滋賀ユナイテッドベースボールクラブが独立リーグのベースボール・チャレンジ・リーグに参戦した(2022年は滋賀GOブラックスの名称で日本海オセアンリーグに所属し、2023年は活動休止、2024年以降の所属リーグ未発表)。高校野球でも近畿勢で唯一優勝経験がない(日本の高校野球#近畿参照)。一方で近年サッカーのレベルが向上しており、2005年(平成17年)に滋賀県立野洲高等学校が全国高等学校サッカー選手権大会で優勝を果たしている。滋賀県本拠地のサッカークラブとして、日本フットボールリーグ(JFL)に、Jリーグ参入を目指すMIOびわこ滋賀(本拠:草津市)が存在する。他に、栗東市には日本中央競馬会の栗東トレーニングセンターが所在する。 琵琶湖には海津大崎など数々の景勝地があり、とりわけ近江八景は近世より日本有数の名勝として知られた。さらに、彦根藩士・森川許六選の「風俗文選」(1706年(宝永3年)に刊行された)の「湖水賦」の項には近江の名所旧跡が詳細に述べられている。 近年でも琵琶湖八景が設定され、景観の良さで内外に知られている。また歴史上早くに都が置かれ、中世から近世において交通における重要拠点であったことや、太平洋戦争の戦災や戦後の乱開発も比較的少なかったことなどから、社寺・城郭・伝統的景観などの歴史的観光資源が豊かである。それらの自然・文化・風土の奥深さに、古くは松尾芭蕉が、近代でも司馬遼太郎や白洲正子らが魅せられ、滋賀の地を深く愛した。
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滋賀県
近年でも琵琶湖八景が設定され、景観の良さで内外に知られている。また歴史上早くに都が置かれ、中世から近世において交通における重要拠点であったことや、太平洋戦争の戦災や戦後の乱開発も比較的少なかったことなどから、社寺・城郭・伝統的景観などの歴史的観光資源が豊かである。それらの自然・文化・風土の奥深さに、古くは松尾芭蕉が、近代でも司馬遼太郎や白洲正子らが魅せられ、滋賀の地を深く愛した。 主な観光地としては、全国的にも有名な長浜・彦根・近江八幡・信楽のほか、世界遺産(文化遺産)である比叡山延暦寺をはじめとする多数の寺院や史跡、湖国随一の規模と歴史を持つおごと温泉などが存在する。また、琵琶湖およびその周辺の自然環境では釣り・ボート・ヨット・ミシガンクルーズ・スキー・登山・キャンプ・琵琶湖一周自転車ツーリング(通称ビワイチ)などのアウトドア・レジャーが盛んであり、自然・歴史・文化など多方面にわたって観光資源が極めて豊富なことから、京阪神・中京圏・北陸圏などから多数の観光客が訪れている。なお、滋賀県の年間延べ観光客数は2011年に過去最多の4,735万人となった。 近年、琵琶湖以外の自然環境では里山や田園、カバタなどがグリーンツーリズム・エコツーリズムの観点から見直されつつある。その他特筆すべき文化施設やイベントとして、西日本最大級のオペラ拠点であるびわ湖ホールがあるほか、野外型大型ロックフェスの『イナズマロックフェス』や彦根市のゆるキャラ「ひこにゃん」ブームに端を発した『ゆるキャラグランプリ』、伝統の大津祭、日本三大山車祭の一つ長浜曳山祭、ラ・フォル・ジュルネびわ湖、鳥人間コンテスト、びわ湖大花火大会などの開催があり、これらの催事にも県外から多くの人が訪れる。 グルメでは最高級和牛ブランドの一つ近江牛を筆頭に、近江米・鮒寿司・鮎屋の鮎巻・比叡ゆば・鴨料理・うばがもち・赤こんにゃく・焼き鯖そうめんといった伝統食のほか、クラブハリエのバームクーヘンが人気である。さらに近年では、湖国ブラックや近江ちゃんぽん、その他新鋭の個人ラーメン店が競い合い、滋賀ご当地ラーメンとして内外で盛り上がりを見せている。
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滋賀県
グルメでは最高級和牛ブランドの一つ近江牛を筆頭に、近江米・鮒寿司・鮎屋の鮎巻・比叡ゆば・鴨料理・うばがもち・赤こんにゃく・焼き鯖そうめんといった伝統食のほか、クラブハリエのバームクーヘンが人気である。さらに近年では、湖国ブラックや近江ちゃんぽん、その他新鋭の個人ラーメン店が競い合い、滋賀ご当地ラーメンとして内外で盛り上がりを見せている。 上述の「ビワイチ」(琵琶湖一周の愛称)が自転車愛好家を中心に認知度が高いことにより、近年、琵琶湖及びその周辺に点在する豊富な自然・歴史・文化的資源を周遊・体験する観光企画ブランド「ビワイチの旅」が県内外へ発信されておりナショナルサイクルルートに認定された。 滋賀県では2012年9月現在、1件の世界遺産(文化遺産)、55件の国宝、806件の重要文化財が指定されている。 国宝の指定件数は京都府・東京都・奈良県・大阪府に次ぐ5位、重要文化財の指定件数は東京都・京都府・奈良県に次ぐ4位で、特に国宝建築物22件は、奈良県(64件)・京都府(48件)に次ぐ3位に位置しており、4位の兵庫県(11件)以下を離している。 近年多数の歴史的文化財や史跡・優れた景観を生かして、映画やドラマのロケ地として積極的に誘致活動が行われている。 友好都市は以下の通り。 出身者以外で滋賀県にゆかりのある人物としては、大津宮を開いた天智天皇、粟津(現在の大津市)で斃れた源義仲、義仲が眠る大津市の義仲寺を墓所とした松尾芭蕉、大津市の園城寺で受戒し法明院を墓所としたアーネスト・フェノロサ、近江八幡を活動拠点とし県内にも多くの名建築を残したウィリアム・メレル・ヴォーリズなどがいる。 1876年から1881年までの間、滋賀県だった旧若狭国および旧越前国敦賀郡(嶺南)の出身者に関しては、「Category:福井県出身の人物」、「福井県出身の人物一覧」を参照。
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静岡県
静岡県(しずおかけん)は、日本の中部地方に位置する県。県庁所在地は静岡市。 直線距離にて県域の東西が155km、南北に118kmと全国13番目に広大な県域を保ち、全国10位の約360万人の人口を有する。旧令制国の伊豆国のほとんどと、駿河国、遠江国の凡そ3国に相当する県である。地域によって住民の意識、方言、文化面に大きな違いが見られる。北側は広大な南アルプス、南側には駿河湾、遠州灘に面する。23市10区12町の自治体があり、村はない。 約20万の事業所を抱え、全国4位の製造品出荷額を有するなど、東海工業地域に属する全国有数の工業県でもあり、ホンダの発祥地でスズキ、ヤマハ発動機の本社がある他、オートバイ、ピアノ、プラモデルの輸出量では日本一を誇る。また、全国一の水揚げ額を有する焼津漁港や、静岡茶が有名であるなど、第一次産業も盛んであり、東西の交通網や港湾を利用した6次産業化も進んでいる。 政令指定都市である静岡市と浜松市、そして施行時特例市である沼津市と富士市を有し、人口10万人以上の都市が10市あるなど、平野部を中心に人口が分散傾向にあり、首位都市(プライメイトシティ)は存在しない。 また、富士山、富士山本宮浅間大社、韮山反射炉、三保の松原などの世界遺産や、世界ジオパークの一つである伊豆半島ジオパーク、熱海温泉、三嶋大社、久能山東照宮、登呂遺跡、大井川鐵道など多くの観光資源を有し、年間約1.5億人の観光客が訪れる 『静岡県 市区町村の役所・役場及び東西南北端点の経度緯度(世界測地系)』(国土地理院)によると静岡県の広袤は以下の通り。また、『我が国の人口重心 -平成27年国勢調査結果から-』(総務省)による人口重心 も併記する。
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静岡県
『静岡県 市区町村の役所・役場及び東西南北端点の経度緯度(世界測地系)』(国土地理院)によると静岡県の広袤は以下の通り。また、『我が国の人口重心 -平成27年国勢調査結果から-』(総務省)による人口重心 も併記する。 県総面積の64%が非可住の森林で構成されており、僅かな平野部に人口の大半が集積し高密度な都市を形成している。 北部には標高3,000mを越える峰もある赤石山脈の山々がそびえ、一級水系の大井川や安倍川の源流となる。東部には第四紀火山が多く、富士山や、箱根山、伊豆東部火山群が現在でも活動しており、すでに活動を終えた天城山や達磨火山などの数々の大型火山が伊豆半島の大地を造り上げた。この伊豆半島は、本州の中で唯一フィリピン海プレート上にあり、プレート境界である駿河トラフの延長線上に富士山が形成されている。南西部には台地や平野が多くなる。県の中央には糸魚川静岡構造線が南北に走り、安倍川がその南端に当たる。したがって、地質構造はこの安倍川を境にして県の東西で全く異なる。静岡県の形は金魚に例えられることがあり、この場合、西部を頭、東部を尾に見立てる。 大半の地域が太平洋側気候であるが、北部の山間部は中央高地式気候で標高差が大きいため地域による寒暖の差が激しい。冬の平野部や沿岸部は黒潮の影響で本州の中でも非常に温暖であり、寒気の影響を受けにくいために放射冷却によって朝晩は氷点下まで下がることがあっても、日中は10°Cを超えることがほとんどである。特に伊豆地方の沿岸部では氷点下まで下がることはなく、雪が降ることもほとんどないなど、南九州並みに温暖な気候である。一方、旧井川村と旧水窪町などの赤石山脈に接する北部山間部は中央高地式気候の影響も受けており、冬は雪が多く豪雪地帯である。また、東部内陸部の御殿場市などでも南岸低気圧によりかなりの積雪をもたらし、東北地方並みのかなり厳しい冷え込みになることが多い。そのほか、裾野市にあるスキー場「スノータウンイエティ」は20年連続で日本一早いオープンを飾っている。夏は、天竜地域など西部内陸ではかなりの酷暑となるが、それ以外の地域ではそれほどの酷暑とはならず、東部や伊豆地方を中心に比較的冷涼である。
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静岡県
ケッペンの気候区分によると県域の大部分は温暖湿潤気候ではあるが、富士山は最暖月の平均気温が6°Cしかなく、寒帯地域のツンドラ気候に相当している。 夏から秋にかけては台風の影響を受ける。1951年(昭和26年)以降の台風上陸数は鹿児島県、高知県、和歌山県に次いで4番目に多い県である。 名目上の行政区分で、東日本、中部地方、東海地方、広域関東圏などに区分されている。また、名古屋圏や関東地方からも独立した地域として、「静岡(県)地方」とされるケースも存在する。しかし、糸魚川静岡構造線を挟んで東側と西側に広い面積を占めているため、行政やその他諸々の区分では、西日本に分類される場合もあり、またこれらとは違う区分に属することもある。 企業・団体によってエリア区分はそれぞれ異なる。 企業・団体のエリア区分は、それぞれの監督官庁のエリア区分を反映している物が多いが、基本的に静岡県が地域分類される場合、大まかに分けて次の4分類のいずれかが見られる。 静岡県を巡る道州制の区割り案について、地方制度調査会は、9道州案では中部州、11道州案や13道州案では東海州に含まれるとしている。また、国土交通省の広域地方計画では、静岡県は中部圏に含まれるとしている。ただ東部では国政への発言力増大のため、静岡県東部政令指定都市構想が出されるなど動きが活発であり、今後の動向が注目される。 静岡県は、富士川と牧之原台地を境として、東部、中部、西部の3地域に区分される。東部はさらに狭義の東部と伊豆に分けられることもある。ただ富士川より西にあり中部であった旧富士川町が2008年(平成20年)11月の富士市に編入されたことで富士川による境は実質なくなってしまい、県庁による地域区分でも必ずしも川が境界線とは限らない場合がある。 静岡県内には以下の23市5郡12町がある。村は旧龍山村が浜松市と合併したことにより2005年(平成17年)6月30日をもって消滅した。 「町」の読み方は、森町のみ「まち」で、その他は「ちょう」。
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静岡県
静岡県内には以下の23市5郡12町がある。村は旧龍山村が浜松市と合併したことにより2005年(平成17年)6月30日をもって消滅した。 「町」の読み方は、森町のみ「まち」で、その他は「ちょう」。 旧駿河国のうち富士川以東、および伊豆諸島を除いた旧伊豆国に相当する。市外局番は0544、0545、055または055Cであり、郵便番号は41から始まる。自動車のナンバープレートはかつては全域で「沼津」であったが、2006年(平成18年)10月から伊豆地域(上記「伊豆」エリア)でご当地ナンバーの「伊豆」が、2008年(平成20年)11月からは富士市、富士宮市、御殿場市、裾野市、小山町で「富士山」が導入されてからは、新規で沼津ナンバーを配布しているのは、沼津市と駿東郡清水町、長泉町のみである。 旧駿河国のうち富士川以西と、旧遠江国のうち牧之原台地以東(現・牧之原市および榛原郡域)に相当する。市外局番は054または054Cであり、郵便番号は42から始まる。自動車のナンバープレートは「静岡」である。 現榛原郡域を除く旧遠江国に相当する。現在は、「遠州」と言われている。市外局番は053または053Cであり、郵便番号は43から始まる。自動車のナンバープレートは「浜松」である。 ただし例外がある。 浜松市南部、湖西市を西遠として、浜松市北部を北遠、磐田市、袋井市、掛川市南西部、森町を中遠、掛川市、菊川市、御前崎市を東遠、中遠と東遠を合わせて中東遠と区分することがある。 ※各地域ごとの歴史は「伊豆国」「駿河国」「遠江国」を参照すること。 静岡という名称は、1869年から1871年まで存在した静岡藩に由来する。
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静岡県
ただし例外がある。 浜松市南部、湖西市を西遠として、浜松市北部を北遠、磐田市、袋井市、掛川市南西部、森町を中遠、掛川市、菊川市、御前崎市を東遠、中遠と東遠を合わせて中東遠と区分することがある。 ※各地域ごとの歴史は「伊豆国」「駿河国」「遠江国」を参照すること。 静岡という名称は、1869年から1871年まで存在した静岡藩に由来する。 「静岡」の名称の決定は版籍奉還に際して行われた。現在の静岡県庁周辺を指していた「府中」という名称が特定の地名を指しておらず紛らわしいこと、読みが同じ「不忠」を想起させることを理由に明治政府から改名が要請された。それにより藩庁で改名について議論され、1868年に府中藩が明治政府に「静岡」「静」「静城」の3つの案を上申し、明治政府が「静岡」を採用した。この「シズオカ」という名称のうち「シズ」は賤機山に由来するとされており、名称の決定に際して賤機山にちなんだ「賤ヶ丘」としていったんは決まったが藩学校頭取であった向山黄村の提案で、「賤」の字を「静」に改めたとされる。なお静岡市政90周年に際して建てられた「静岡の由来」という碑が静岡市役所前に設置されている。 1960年(昭和35年)から1962年(昭和37年)に静岡県西部の浜北市根堅(現浜松市浜北区根堅)において人骨が発見されたが、2002年(平成14年)9月になって旧石器時代の約1万4000年前に生息していた浜北人の人骨であると、科学的な測定法で確認された。浜北人骨は20歳代の女性で身長143cmと考えられている。人骨の発見以来、県内での調査例が増加し、今では200カ所近くに達している。場所は、天竜川左岸の磐田原台地西端一帯、沼津市の背後の愛鷹山南麓、箱根山西麓の3カ所に密集している。
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静岡県
縄文時代の遺跡総数は約2000カ所を超える。縄文草創期の遺跡は少ないが、伊豆の国市三福の仲道A遺跡で土器が出土している。早期になると撚糸文(よりいともん)や押型文(おしがたもん)の土器が集落跡から出土している。その後(約7000〜8000年前)愛鷹山南麓から箱根山西麓・伊豆半島にかけて集落が急増し、県中部にかけても広がっていく。縄文前期には、遺跡数が減少するが、前期末から中期・後期前半までになると、遺跡数も増加し、県内の縄文最盛期を迎える。東部では集落遺跡・住居の形と構造・土器・土偶・石棒・石斧などの様相が類似・発達した文化が伊豆半島から掛川市付近まで広がっている。それに対して、西部の遠江平野では、近畿・瀬戸内地域の土器が流入し、伊那谷系の土器なども分布し、東部とは様相を異にしている。また、矢尻として多く使用された石鏃の原料の石材も県内西部の天竜川付近までは、畿内の二上山産出のサヌカイトや下呂石などが大量に使用されているのに対し、東部では八ヶ岳や神津島の黒曜石が主流である。遠隔地との交易・交流が盛んに行われていたことが分かる。縄文後期後半になると遺跡数が、東部では激減し、中・西部では緩減する。一方では儀式用の石器が普及し出す。 1958年(昭和33年)から1960年(昭和35年)、静岡県西部の三ヶ日町只木(現浜松市北区三ヶ日町只木)で、約7500〜9500年前に生息の三ヶ日人の住んでいた遺跡が発見されている。また、約4000〜6000年前のものとされる全国的に見ても大規模な集落跡である千居遺跡が静岡県東部の上条地区(現富士宮市)で確認されている。 弥生時代の遺跡としては、静岡市駿河区登呂で、弥生時代の水田、住居跡などが発見されている(登呂遺跡)。 古くには六つの国造が設置された他、浜名県主の存在も見られる。
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静岡県
弥生時代の遺跡としては、静岡市駿河区登呂で、弥生時代の水田、住居跡などが発見されている(登呂遺跡)。 古くには六つの国造が設置された他、浜名県主の存在も見られる。 中央から派遣された国司が政務を司る政庁は、国府に置かれ、国衙と呼ばれた。まず、遠江国府は磐田市御殿二宮遺跡が、駿河国府は静岡市駿府城東南地区が候補地としてあがっているが、伊豆国府は三島市内にその候補地を見出していない。その土地の国造や新興の有力者が就任した郡司の郡衙は郡家とも呼ばれた。官衙遺跡では、浜松市の伊場遺跡群(伊場遺跡・城山遺跡・梶子遺跡・梶子北遺跡・三永遺跡・鳥居松遺跡・九反田遺跡・中村遺跡)が発掘されている。これらの遺跡は敷知郡家および関連官衙(館・厨)や栗原駅家など地方官衙が複合する遺跡と考えられている。また、これらの遺跡は、出土する木簡から天武朝に溯る事が分かり、柱立建物が13〜14棟、絵馬・墨書土器が検出されている。このほか、藤枝市御子ヶ谷遺跡(国の史跡)と秋合遺跡は駿河国志太郡家遺跡と考えられ、袋井市坂尻遺跡(佐野郡家ヵ)、藤枝市郡(こおり)遺跡(益頭(さしず)郡家ヵ)などの郡衙遺跡の存在が明らかになってきている。 記紀においては、ヤマトタケルが蝦夷征伐に赴いた時、駿河国でだまし討ちに遭う。その時に草薙剣で草を薙ぎ払って難を逃れたというヤマトタケル伝承が記されており、その地を「草薙」と呼んだ。また、賊を焼き払った野原を「焼津」と呼んだという。 律令制で中央集権国家が形成されるに従って、現在の静岡県内に有った国造は、伊豆国、駿河国、遠江国という3つの令制国に合併・再編された。 律令制下には、遠江国には白輪官牧()があり、その後荘園化し白羽荘と称した。故地は御前崎西方の砂丘地帯から北方の牧之原台地におよぶと推定される。駿河国には岡野(大野)・蘇弥奈の2官牧がある。前者は愛鷹山の東南麓、現沼津市の大岡・金岡・愛鷹を中心とする地域に存在し、後に大岡牧、あるいは大岡荘と呼ばれる荘園になった。後者の位置は明確でないが、現静岡市街地の西北、安倍川と藁科川とに囲まれた牧ヶ谷から美和の内牧に至る一帯の山地と思われる。伊豆国では、官牧の存在が明確ではないが、現伊豆市修善寺町に牧之郷という地名がある。後にこれらの地域に武士団が簇生した。
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伊豆国は畿内から遠いために、流刑地の一つとされていた。一方で、駿河国には藤原南家の末裔(まつえい)の多くが住み着き、土着したようである。 遠江国の国分僧寺は磐田市中央町に、国分尼寺はその北にあったことが確かめられている。駿河国分僧寺は静岡市大谷の片山廃寺がその有力候補とされており、国分尼寺は不明である。伊豆国分僧寺は三島市泉町に、国分尼寺は三島市南町にあった。 平治元年(1159年)、平清盛に敗退した源義朝は東国に敗退する最中に謀殺され、義朝三男の源頼朝は平家方に捕らえられるが助命され、伊豆国韮山(伊豆の国市)に流刑された。豆駿遠三国はいずれも平家の勢力圏であったが、頼朝は伊豆において在庁官人北条氏の庶流北条時政の娘政子を室として婿になり、伊豆の反平家方の武士たちから支持を受けると治承4年(1180年)には以仁王の平家討伐令旨に応じて挙兵する(治承・寿永の乱)。 治承・寿永の乱は豆駿遠三国のみならず相模国や甲斐国など東国圏から西国にかけて展開するが、三国内における平家勢は治承4年8月23日に相模石橋山の戦い(小田原市)において頼朝勢を撃退するが、8月25日には駿河目代橘遠茂の軍勢が富士山麓において甲斐源氏の勢力に敗退し(波志田山合戦)、甲斐源氏の勢力と安房へ逃れた頼朝が三浦氏の後援を得て勢力を挽回すると反平家勢は再び三国方面へ侵攻し、平家勢は10月14日には富士山麓における鉢田の戦いにおいて敗退し、さらに10月20日の富士川の戦いにおいて大敗し、三国は頼朝や甲斐源氏の勢力圏となった。 頼朝が鎌倉幕府を開府すると三国の所領も恩賞として御家人に安堵された。伊豆は北条氏が守護となったが、治承・寿永の乱においては特に甲斐源氏の功績が大きく、駿河は武田信義、遠江は安田義定が守護となったが、頼朝は甲斐源氏の粛清を行い、三国は北条氏の影響下に置かれた。建久4年(1193年)5月28日には富士の巻狩が行われ、5月28日には曾我兄弟の仇討ちが発生する。 鎌倉幕府におて源氏将軍が途絶すると北条氏は執権として幕政を主導する執権政治を開始し、三国は北条氏の所領における中心となる。承久3年の承久の乱において三国の武士は幕府勢の主力である東海道軍に加わり活躍し、乱の平定後に三国の御家人は西国にも恩賞を獲得し、勢力を拡大した。
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静岡県
鎌倉幕府におて源氏将軍が途絶すると北条氏は執権として幕政を主導する執権政治を開始し、三国は北条氏の所領における中心となる。承久3年の承久の乱において三国の武士は幕府勢の主力である東海道軍に加わり活躍し、乱の平定後に三国の御家人は西国にも恩賞を獲得し、勢力を拡大した。 頼朝や北条氏は寺社を振興し、三国においても頼朝の信仰した伊豆山神社や北条氏の氏寺である願成就院など幕府にゆかりのある寺院が分布している。三国においては天台宗・真言宗の旧仏教の影響が強かったが、鎌倉新仏教においても臨済宗の高僧である円爾(聖一国師)や南浦紹明(大応国師)は駿河の出身で三国でも臨済寺院が分布しており、日蓮宗の宗祖である日蓮は伊豆において布教を行っており、日蓮が甲斐国南部の身延(身延町)に草庵を構え信仰の拠点となると駿河・伊豆においても門徒が拡大し、日興は大石寺(富士宮市)・北山本門寺(富士宮市)など岳南地方において日蓮宗の拠点寺院を建立した。 南北朝時代に入ると、今川氏が守護大名として駿河国府中(駿府)に入った。14世紀後半に入ると今川氏は遠江国の守護職も兼ねて勢力を伸長する。 戦国期には今川氏親は伊勢宗瑞(北条早雲)らの力によって一族の抗争を終わらせ、戦国大名への道を歩んだ。また、応仁の乱の後に、散逸した貴族達が多く逗留した。一方の北条早雲は、伊豆国の堀越公方を攻め滅ぼし、それを足がかりに関東の支配へ乗り出す。その後、今川氏と(早雲の息子である)氏綱(後北条氏)の主従関係が崩れ、富士川以東の地域をめぐって争いが生まれる(河東の乱)。 駿府は今川領国の中心として繁栄し、今川義元は後北条氏との争いを収束させると、甲斐の武田氏、相模後北条氏と三国同盟を形成し駿河国、遠江国、三河国の3国を支配した。永禄3年(1560年)、尾張国の織田信長との桶狭間の戦いにおいて当主義元が敗死し今川氏真に当主交代すると三河においては松平元康(徳川家康)が独立するなど今川領国は動揺する。外交関係においても武田氏と手切となり、永禄11年(1568年)に武田信玄と徳川家康が協調して今川領国へ侵攻し、今川氏は相模後北条氏の支援を得るが領国は崩壊した。
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その後は武田信玄と徳川家康は今川領国の割譲を巡り対立し、さらに徳川氏と協調し武田氏に敵対する後北条氏や越後上杉氏、徳川氏と同盟関係にありつつ武田氏とも友好的関係を持ち将軍義昭を擁する尾張の織田信長など旧今川領国を巡る情勢は複雑に推移するが、元亀年間に武田氏は駿河を確保すると、後北条氏との同盟も回復する。その後、武田氏は矛先を遠江・三河方面に向け家康や信長と対決し畿内情勢にも影響を及ぼしたが(西上作戦)、元亀4年には信玄が死去し事態はいったん収束する。 信玄の死後、信長は畿内において政権を確立し家康も岡崎から浜松に拠を移し勢力を回復し、武田氏では勝頼に当主交代すると再侵攻を繰り返すが、天正3年の三河において織田・徳川勢が武田勢に致命的打撃を与えた長篠の戦いと、天正9年の高天神城陥落を契機に駿遠二国における武田氏の勢力は後退し、天正10年(1582年)に武田氏は織田・徳川勢により滅ぼされた。 同年、本能寺の変において信長が横死し旧武田領国が空域化すると家康は本国の三河・遠江のみならず武田遺領である甲斐・信濃国・駿河を確保し(天正壬午の乱)、5国を支配し東国における一大勢力に成長した。 豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼすと、1590年には家康は駿府から江戸に移され、代わって駿府には中村一氏が入り、遠江国には掛川に山内一豊や堀尾吉晴が入り、それぞれ織田家の家臣が入った。 1603年、徳川家康が江戸幕府を開くと後継者の徳川秀忠に将軍職を譲り、家康は駿府において大御所政治を敷いた。江戸時代の伊豆国、駿河国、遠江国の3国(以下「豆駿遠三国」と略称)には、幕府直轄領や譜代大名の藩領、旗本領が入り組んでおり、伊豆国には韮山の代官江川太郎左衛門、駿河国には沼津藩の水野出羽守、田中藩の本田紀伊守、小島藩の瀧脇丹後守、遠江国には相良藩の田沼玄蕃頭、横須賀藩の西尾主計頭、浜松藩の井上河内守、掛川藩の太田惣次郎、堀江藩の大澤右京大夫といった具合に領主支配は複雑に変遷している。 近世には江戸日本橋から京都に至る東海道の宿場が整備されるが、豆駿遠三国には53の宿場のうち22宿が存在し、各地に宿場町が成立した。東海道は西国諸大名の参勤交代や朝鮮通信使・琉球使節も通行し、新居関所(今切関所)は箱根関所と並ぶ重要な関所として知られ、大井川では川越制度が整えられ、大井川徒歩が行われた。
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近世には江戸日本橋から京都に至る東海道の宿場が整備されるが、豆駿遠三国には53の宿場のうち22宿が存在し、各地に宿場町が成立した。東海道は西国諸大名の参勤交代や朝鮮通信使・琉球使節も通行し、新居関所(今切関所)は箱根関所と並ぶ重要な関所として知られ、大井川では川越制度が整えられ、大井川徒歩が行われた。 近世には新田開発が行われ米麦や畑作物の生産が増大したほか、茶や椎茸、山葵などの特産物の生産も行われる。また、伊豆や駿河では金銀山での採掘が行われたほか、豆駿遠三国では林業が行われ幕府の御林も設置されていた。 近世後期には天命の大飢饉、天保の大飢饉などに際して豆駿遠三国でも凶作や飢饉の被害を受け、強訴や打ちこわし、百姓一揆が発生しており、明和元年(1764年)の駿河小島藩の惣百姓一揆、天明3年(1783年)の駿河御厨一揆、天明6年の遠江笠井・二俣騒動、文化13年の蓑着騒動などが発生している。 文化面では国学を創始した確立した荷田春満の弟子に浜松諏訪神社大祝杉浦国頭がおり、国頭は江戸において春満に学び、春満の姪を妻に迎え浜松で私塾を開き多くの門弟を育てた。そのなかには伊庭村の賀茂明神神職の賀茂真淵がおり、真淵は春満に国学の学問的手法を確立し、地元出身者を含む多くの門弟を育て、豆駿遠三国では春満・真淵との関わりから遠州国学が発達する。 幕末には嘉永6年(1853年)にアメリカ艦隊司令長官マシュー・ペリーが日本との通商を求めて来航し、翌嘉永7年1月には下田・函館両港が開港する。下田にはアメリカ領事タウンゼント・ハリスが駐在し、安政5年に日米修好通商条約が締結されるまで、玉泉寺はアメリカ総領事館として機能した。また、嘉永6年にはロシアのプチャーチン艦隊も日本との通商を求めて来航し、同年11月1日には下田において幕府側全権と交渉を行っている。嘉永7年11月4日には安政東海地震が発生しプチャーチン艦隊のディアナ号は沈没し、日本側では韮山代官江川英龍が主導し、戸田港において代船ヘダ号の造船を行っている。
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江戸幕府が倒されて明治維新が起こると、1868年5月には、駿河国の天領・沼津藩・田中藩・小島藩・交代寄合の榊原家の久能陣屋、諸旗本領、遠江国の相良藩・横須賀藩・掛川藩・浜松藩・交代寄合の近藤家の気賀陣屋、諸旗本領が合併されて、静岡藩(70万石)が設置され、徳川将軍家の徳川家達が入った。同年6月、伊豆国(旧韮山代官領)の地域に韮山県が成立した。同年9月、旧堀江陣屋(5600石、申告1万6石。今の浜松市舘山寺地区)が堀江藩に昇格した。そして、1869年には、駿府は静岡に改名された。 1871年8月29日の廃藩置県では、静岡藩は静岡県に置き換わり、堀江藩が堀江県に置き換わった。同年12月31日には、当時の静岡県は分割され、駿河国部分が静岡県となり、遠江国部分は浜松県となった。堀江県は浜松県に編入された。韮山県は、荻野山中県や小田原県と合併して、足柄県となった。 しかし、1876年(明治9年)4月18日には足柄県が分割され、相模国部分は神奈川県に編入され、伊豆国部分は静岡県に編入された。そして、同年8月21日になると、浜松県が廃止されて静岡県に編入された。1878年(明治11年)には、伊豆諸島が東京府(現在の東京都)に編入された。 このように、伊豆国、駿河国、遠江国の3国が、1876年(明治9年)に行われた県の合併によって、現在の静岡県となった。 静岡県の人口は2007年12月の379万7,333人をピークに減り続けており、2022年2月には人口が360万人を下回った。 地域別に見ると特に伊豆半島地域の減少が激しいが、政令指定都市である静岡市や浜松市も人口減少に悩まされており、就職や進学に伴い東京圏に多くの若者が流出している。人口減少を背景に県内では空き家が増え続けているため、静岡県は空き家への引っ越しに補助を2022年度に設ける方針を固めた。 川勝平太知事は360万人割れを受け、「今こそ東京一極集中の時代から地方活躍の静岡時代へと転換を図るチャンスと捉え、魅力あふれる地域を創生し、人口減少の克服に向けて全力で取り組む」とコメントしている。 人口減少が続けば鉄道や小売、自動車販売といった経済活動にも影響を及ぼすため、静岡鉄道のような民間企業も県内への移住事業を本格化させている。 総務省が定義する大都市圏として、静岡・浜松大都市圏及び関東大都市圏を有する。
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人口減少が続けば鉄道や小売、自動車販売といった経済活動にも影響を及ぼすため、静岡鉄道のような民間企業も県内への移住事業を本格化させている。 総務省が定義する大都市圏として、静岡・浜松大都市圏及び関東大都市圏を有する。 都市雇用圏では、以下の都市圏を有する。 静岡県は、「住んでよし、働いてよし、訪れてよし」の「富国有徳の日本の理想郷」を創るための施策に取り組んでいる。「富国有徳」は、前知事石川嘉延の県政キャッチコピー「富国有徳――しずおかの挑戦」にも現れるが、これは現知事川勝平太の著した『富国有徳論』(1995) の思想に賛同したもの。 国際コメ年の2004年から、「コメの購入量・購入金額」日本一である静岡市で「お米日本一コンテストinしずおか」を毎年開催している。主催者「全国お米まつりinしずおか実行委員会」は静岡県庁こめ室内に置かれている。 衆議院の小選挙区が8。参議院では、全県で1区を構成し、定数4人・改選数2人の二人区である。 静岡県のイメージキャラクターは「ふじっぴー」(2003年(平成15年)開催 NEW!!わかふじ国体マスコットキャラクター)である。 2017年(平成29年)度の県内総生産は名目17兆2770億円であり、全世界の2/3の国々のGDPを上回り、ギリシャやニュージーランドなど一部の先進国と匹敵する規模を持つ。 ※本社を置く企業は「Category:静岡県の企業」を参照すること。 トヨタグループの創始者である豊田佐吉の生誕の地であり、ホンダの発祥地、スズキ、ヤマハやカワイといった企業の本社所在地であることから第二次産業が発達している。製造品出荷額は大阪府とほぼ同等の17兆1540億円(2019年度)であり、愛知県、神奈川県に次ぐ国内3位である。 静岡市や浜松市など県内大都市(政令市)を中心に多くの企業が事業所を置いている。 また、静岡茶やみかんに代表される農業やマグロ・カツオ・桜エビなどで有名な漁業、富士山・伊豆半島・赤石山脈(南アルプス)・浜名湖などの観光などのサービス業も盛んである。 静岡県の指定金融機関は静岡銀行で、また静岡市・浜松市ほか県内の主な市も静岡銀行を指定金融機関としているが(静岡市は清水銀行との輪番制)、伊豆地方を中心にスルガ銀行を指定金融機関とする市もみられる。
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また、静岡茶やみかんに代表される農業やマグロ・カツオ・桜エビなどで有名な漁業、富士山・伊豆半島・赤石山脈(南アルプス)・浜名湖などの観光などのサービス業も盛んである。 静岡県の指定金融機関は静岡銀行で、また静岡市・浜松市ほか県内の主な市も静岡銀行を指定金融機関としているが(静岡市は清水銀行との輪番制)、伊豆地方を中心にスルガ銀行を指定金融機関とする市もみられる。 富士川を境に県の東部のみ50Hz(ヘルツ=東京電力パワーグリッドが送配電)。その他は60Hz(中部電力パワーグリッドが送配電)。新潟県の佐渡島、糸魚川市の一部や長野県の一部で電源周波数が県の大半と異にする地域があるものの、同一都道府県内で電源周波数が東西に大きく二分されるのは本県のみであるため、電気の分野では富士川がよく知られている。 浜松市北部の佐久間ダム近傍に、東西の電力を相互に融通するための電源開発送変電ネットワーク佐久間周波数変換所が、静岡市清水区の中部電力パワーグリッド東清水変電所内に同様の目的の東清水周波数変換装置(FC; frequency converter)がある。 静岡県内では、静岡ガス系やTOKAI系、中部ガス系、サイサン系を中心として、複数の業者が地域を分けてガス事業を行っている。静岡県内の主な一般ガス事業者は次の通り。 東海道の沿線として、古くから関東地方と近畿地方とを結ぶ大動脈が整備されてきた。特に浜名湖畔は、首都圏(東京・鎌倉)と畿内(大阪・京都・奈良)から等距離に位置している。 ※ 伊東線全線と東海道本線(在来線)熱海駅は東日本旅客鉄道(JR東日本)の管轄。ほかのJR線は東海旅客鉄道(JR東海)の管轄。 静岡県は第三セクター鉄道を除いた中小私鉄事業者が最も多く、遠州鉄道や静岡鉄道は遠鉄グループ、静鉄グループを形成し、中小私鉄でトップの売上高である。 このように東西に東海道新幹線などの幹線級の鉄道が敷かれており三大都市圏を結ぶ大動脈として整備されており、全国で5番目の規模を有する静岡・浜松大都市圏及び東海工業地域の輸送の要であるが、通過点としての役割も強く、三大都市圏に匹敵する程の流通はない。現に一日12万人程の利用がある東海道新幹線静岡県内区間ですら最速達の『のぞみ』と準速達の『ひかり』の約半数は県内の全駅を通過している現状もある。
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このように東西に東海道新幹線などの幹線級の鉄道が敷かれており三大都市圏を結ぶ大動脈として整備されており、全国で5番目の規模を有する静岡・浜松大都市圏及び東海工業地域の輸送の要であるが、通過点としての役割も強く、三大都市圏に匹敵する程の流通はない。現に一日12万人程の利用がある東海道新幹線静岡県内区間ですら最速達の『のぞみ』と準速達の『ひかり』の約半数は県内の全駅を通過している現状もある。 静岡県内のJR線は全線電化されている。私鉄も非電化路線は天竜浜名湖線と大井川鉄道井川線(但しアプト式区間は電化)のみである。 このほか、2027年開通予定の中央新幹線が山梨県駅と長野県駅の間で静岡市葵区北部を通過するが、赤石山脈内の大井川源流部を南アルプス隧道として通過し、駅の設置予定はない。 ※ このほかの詳細は「静岡県の県道一覧」「中部地方の道路一覧」を参照のこと これらのほかに、地方港湾や漁港などがある。 賀茂地域教育振興センター 平成29年4月3日開所。賀茂地域教育振興センターは、静東教育事務所参事1名、賀茂地区5町指導主事3名、下田市指導主事1名、県幼児教育アドバイザー1名の計6名で構成されている。 各学校を訪問し、教科指導、生徒指導などに関して賀茂地域の教育の質の維持・向上を図る取組を推進する組織。 県内初のモデル事業として県幼児教育アドバイザーを配置し、幼稚園・保育所・認定こども園を卒業する幼児が、スムーズに小学校生活に溶け込めるための調整役も務める。 静岡県では、平成29年2月に「賀茂地域教育振興方針」を作成。5年後、10年後の賀茂地域のあるべき教育の姿を見据え、このセンターの整備を足がかりに、方針の施策を推進する。 賀茂地域教育振興センターの具体的な活動内容などは、「静岡新聞@S」や静岡県教育委員会広報誌「Eジャーナル189号・193号」で紹介されている。 入学希望者に対し県内の高等教育機関が不足しているため、県内の高校生は県外に進学する者が比較的多い。県内に企業の本社が多いこともあって、Uターン、Iターン就職者が比較的多い。 6年制課程または専門職大学院としては、医学部が浜松医科大学、薬学部が静岡県立大学、法科大学院が静岡大学にそれぞれ存在する。
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入学希望者に対し県内の高等教育機関が不足しているため、県内の高校生は県外に進学する者が比較的多い。県内に企業の本社が多いこともあって、Uターン、Iターン就職者が比較的多い。 6年制課程または専門職大学院としては、医学部が浜松医科大学、薬学部が静岡県立大学、法科大学院が静岡大学にそれぞれ存在する。 なお、東海大学が1955年に本部を東京都に移転した後、常葉学園大学が1980年に開学するまで、静岡県内に本部を置く4年制私立大学は存在しなかった。 静岡県には沼津工業高等専門学校がある。 下田高、韮山高、沼津東高、富士高、清水東高、静岡高、静岡東高、静岡市立高、藤枝東高、榛原高、掛川西高、磐田南高、浜松北高、浜松西高、浜松市立高等学校がある。 私立高校についても、浜松日体高、日大三島高、東海大翔洋高などの大学付属高や、静岡雙葉高、不二聖心女子学院高などの中高一貫女子校、中高一貫男子校である静岡聖光学院高といった特色のある高校が存在する。 伝統的に公立小・中学校が義務教育の中心を担っており、地域の公立小中学校への進学者が多い。 近年は国立・私立校の人気が高まっている。学校側も、特に私立校においては少子化時代の生徒確保を意識して高校に小・中学校を併設する動きが出ている。教育内容についても、例えば小学生の英語教育で全国的に有名な加藤学園暁秀初等学校など、公立とは異なる特色ある教育を行っている。 静岡県の地上デジタルテレビ・FMラジオの県域放送の親局は静岡市清水区の日本平デジタルタワーに集約されているが、SBSラジオ補完FM局のメイン送信所は焼津市の高草山に設置された。 郷土料理 県内には自治体・商工会議所・企業または任意団体などが地域ごとにフィルム・コミッションを組織し、各地域での映像作品制作の支援が行われているが、これらの団体および撮影地に関する情報提供や撮影手配の支援など行う「静岡フィルムコミッションnet」が県により組織されている。この取り組みは、地域を題材とした映像作品が発信されることにより、県内各地の広報および地域活性化や観光振興に繋げるためのものである。 以下のリストは発表年順での記載である。
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島根県
島根県(しまねけん)は、日本の中国地方(山陰地方)にある県。県庁所在地は松江市。 本州西部に位置し、山陰地方の西側を占める。離島の隠岐諸島や竹島なども含む。 旧令制国における出雲国・石見国・隠岐国の3国に相当する。現在でも県内の地域分類として出雲地方・石見地方・隠岐地方の3区分が用いられることがある。 島根県の名称の由来は、県庁の置かれた松江城が、かつて旧島根郡(嶋根郡)に属していたためとされる。「嶋根」の名は、古代の『出雲国風土記』において八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)が命名したと伝えられる。 1871年(明治4年)7月の廃藩置県の直後には旧松江藩の領地に『松江県』が設置された。その4ヶ月後、同年11月に松江県は周辺の他県と合併して改称し、ここに『島根県』が成立した。 この改称の理由については、「明治維新において松江藩が倒幕に消極的であったため」と伝えられている。 尚、松江城下町(現在の松江市)は松江城が立地する島根郡(大橋川以北。橋北)だけでなく、意宇郡(大橋川以南。橋南)にもまたがる。 国土地理院の全国都道府県市区町村別面積調によると、島根県の面積は6708.26平方キロメートルである。北東方向から西南方向へかけて、細長い形に広がった県である。 国土地理院地理情報 によると島根県の東西南北それぞれの端は以下の位置で、東西の長さは155.45 km、南北の長さは326.52kmである。 県内全域が日本海側気候であるが、日本海側気候の地域としては最西南端にあるため比較的温和な気候で沿岸部に豪雪地帯はない。しかし年間を通じて湿度が高く、降雨回数も多い。曇り・雨の日が晴れの日より多い。
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国土地理院地理情報 によると島根県の東西南北それぞれの端は以下の位置で、東西の長さは155.45 km、南北の長さは326.52kmである。 県内全域が日本海側気候であるが、日本海側気候の地域としては最西南端にあるため比較的温和な気候で沿岸部に豪雪地帯はない。しかし年間を通じて湿度が高く、降雨回数も多い。曇り・雨の日が晴れの日より多い。 松江市や出雲市など東部の沿岸部は、西部に比べると冬期の平均気温が低いものの、松江市の1月平均気温は4.3°Cと、京都市や太平洋側の大都市である愛知県名古屋市とほとんど同じで、比較的温暖である。出雲市より松江市と東へいくほど雪が多いが、松江市の年降雪量は89cmと、鳥取県の米子市の133cmと比べると少なくなっている。年に1,2回、15 cm - 30cm程度のまとまった積雪があるものの、最低気温が比較的高いこともあり数日で溶けることがほとんどで、根雪となった年は非常に少ない(松江市の根雪は1961年以降で2011年/1984年/1977年/1963年の4回のみ)。しかしながら、大陸に近いために数年に一度の猛烈な寒気団に覆われると、沿岸部でも日中の気温が氷点下の真冬日になることもある。夏は熱帯夜も数日あるが、山陽地方の沿岸部と比べると暑さは穏やかである。 浜田市、大田市、益田市、江津市など県西部の沿岸部においては冬期の気温は比較的高めで1月の平均気温は約5.0 - 6.0°Cと東京都心や大阪市とほとんど同じで、温暖である。日本海側気候から九州型太平洋側気候への遷移地帯に属し、冬期の降水は雨が多く、積雪しても数センチメートル程度にとどまることが多く、大雪となることは少ない。梅雨末期に梅雨前線の影響で大雨となることがあり、過去にも山陰豪雨(1983年)や2013年の豪雨で被害を受けた地域がある。夏は熱帯夜も数日あるが、山陽地方の沿岸部と比べると暑さは穏やかである。
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内陸部は1月平均気温が0.0 - 3.0°C程と寒さが厳しく、飯南町赤名(-13.5度、2012/2/19)、弥栄(-16.3度、2012/2/19)、瑞穂(-15.2度、2012/2/19)、六日市(-13.4度、1981/2/28)などでは氷点下15°C程度まで冷え込んだことがある。 西部の津和野町と吉賀町を除いて全域が豪雪地帯に指定されており、標高の高い地域では1m程度の積雪に達する年もある。夏の夜は涼しく、熱帯夜となることはほとんどない。 県下には8市・5郡・10町・1村がある。 島根県では、町は川本町のみ「まち」で、それ以外は全て「ちょう」、村は「むら」と読む。 旧出雲国の区域(ただし出雲市の一部、飯南町の一部は旧石見国) 旧石見国の区域(ただし大田市の一部は旧出雲国) 旧隠岐国の区域 島根県の人口は、県民歌『薄紫の山脈』の歌詞に「九十万の県民の......」とあるように、1950年代には90万人を超えていた。1955年(昭和30年)には約93万人に達した。 しかし、以後は減少傾向が続き2014年(平成26年)には70万人を割った。翌2015年(平成27年)の第20回国勢調査では69万4,352人と記録された。 1920年(大正9年)の第1回国勢調査では71万4,712人であったため、第1回調査に対する人口の増減率では全国の都道府県で本県が最下位となった。また第1回調査での人口を以後の調査で下回った、全国で最初の都道府県となった(太平洋戦争による大規模な疎開の発生によって第6回調査(昭和20年)のみ一時的に急減した東京都を除く)。 地域別に見ると、出雲地域は1950年代から2020年代にかけて50万人前後のほぼ横ばいで推移しているのに対し、石見地域と隠岐地域はそれぞれ38万人から18万人、4万人から2万人と半減しており、二大都市である松江市・出雲市への集積が進んでいる。 日本の都道府県人口としては、隣接する鳥取県に次ぎ全国で2番目に少ない。また政令指定都市の中で最少の静岡市よりも少ない。人口密度は、西日本では高知県に次いで低い。
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日本の都道府県人口としては、隣接する鳥取県に次ぎ全国で2番目に少ない。また政令指定都市の中で最少の静岡市よりも少ない。人口密度は、西日本では高知県に次いで低い。 島根県の『県民ホットライン』には、県民が考える人口減少の要因として「はっきり言って魅力がない」「働ける職場がない」「医療・福祉が十分でない」「人間関係が保守的で変化を拒む気風は煩わしいから嫌だと思われている」などの意見が2015年までに寄せられた。 県はそれらの意見に対し、解決策として「県内産業の振興と雇用の確保」「企業誘致の推進と観光振興」「売れる農林水産品づくり」「県外からのUターン・Iターン対策」の4つを提唱した。 2018年(平成30年)の合計特殊出生率は1.74で、沖縄県に次いで全国2位。自然増減率は-0.71%で全国41位、社会増減率は+0.01%の転入超過で全国14位だった。 衆議院の小選挙区が2。参議院では、島根県選挙区として全県で1区を構成していたが、2016年の第24回参議院議員通常選挙より鳥取県選挙区と合区され、鳥取県とともに1区を構成する合同選挙区が創設された。 全国的な流れと同様に島根県においても農業の衰退が進んでおり、島根県の総農家数・耕地面積・農業生産額も年々低下している。農業生産額の割合では、米が全生産額の33.3%で最も多く、野菜が16.2%、乳用牛が13.7%、肉用牛が13.6%を占めている。特産品としては米(仁多米、きぬむすめなど)、ブドウ、西条柿、牛肉、メロンなどがある。付加価値が高く、観光との相乗効果が見込める薬草やハーブの栽培にも力を入れている。 日本海に面しているため漁業が盛んに行われており、総漁獲量(2011年)は15万3,000トン で中国・四国地方で最も漁獲量の多い県である。 2010年の調査では、ベニズワイガニの漁獲量が5,163トンで全国1位、ブリ類の漁獲量が17,963トンと全国1位、アジ類の漁獲量が33,432トンで全国2位を誇っている。 また、宍道湖などで採れるしじみは、2014年(平成26年)には3622トンで4年ぶりに日本一の漁獲高となった。
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2010年の調査では、ベニズワイガニの漁獲量が5,163トンで全国1位、ブリ類の漁獲量が17,963トンと全国1位、アジ類の漁獲量が33,432トンで全国2位を誇っている。 また、宍道湖などで採れるしじみは、2014年(平成26年)には3622トンで4年ぶりに日本一の漁獲高となった。 島根県では、建設事業者数は4,657社で全事業者数の約12%、従業員数でも32,723人と全産業の従業員数の約11%を占めている。全国では、建設業の全産業に占める事業所数は9.7%・従業員数は6.9% となっており全国と比べても島根県でも建設業が占める割合が大きくなっている。 特に公共工事の比率は66.94%と高知県に次いで全国2位 と高く建設業において公共事業が大きな役割を担っている。しかし近年の国や県・市町村の財政難などから公共事業は減少しており、建設業を取り巻く環境は厳しくなっている。 島根県の製造品出荷額等は9,840億円(2010年) であり鉄鋼が1,578億円(2010年) と最も高い割合を占めている。江戸時代から明治時代にかけてたたら製鉄が栄え、古くからの鉄鋼技術を背景に島根県では鉄鋼産業が盛んに行われておりプロテリアル(旧・日立金属)や東洋製鉄、NTN鋳造など鉄鋼関連の企業が多数集積している。この他、情報通信機械が1,565億円、電子部品・デバイスが1,295億円と続いている。 情報通信機械の分野では出雲市に本社を置く島根富士通がノートパソコンの生産拠点を構えており、出雲市の本社工場では年間200万台のノートパソコンが生産されている。 製造業出荷額等は2010年の統計データでは、島根富士通や島根島津・出雲村田製作所などが本社・工場を構える斐川町(当時)が2,634億円 と県内の市町村でトップとなっている。なお、斐川町は2011年に出雲市と合併しており、2010年時点の統計では、出雲市が3,818億円が製造業出荷額等でトップとなっている。 島根県の小売業の年間商品販売額は1999年の約8,463億4,700万円、事業所数は1994年の12,018事業所、従業員数は2002年の50,546人をピークにそれぞれ年々減少傾向にある。2009年現在では、年間商品販売額は約7317億5,300万円事業所数は8,952事業所、従業員数は45,628人となっている。
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島根県
島根県の小売業の年間商品販売額は1999年の約8,463億4,700万円、事業所数は1994年の12,018事業所、従業員数は2002年の50,546人をピークにそれぞれ年々減少傾向にある。2009年現在では、年間商品販売額は約7317億5,300万円事業所数は8,952事業所、従業員数は45,628人となっている。 百貨店(日本百貨店協会に加入している店舗)は一畑百貨店松江店(松江市)のみである。 大型スーパーでは、イオンモールなどのイオングループ複数社や、広島県のイズミなどが島根県内で総合スーパー(GMS)やショッピングセンターなどを展開している。出店が進む一方で、競争が激化し2000年代にはマイカル(現:イオンリテール)の浜田サティ (現在のゆめマート浜田)や出雲サティ、ジャスコ(現:イオンリテール)の浜田店(現在はトライアルが出店)や平田店(現在はショッピングセンターViVAが出店)などが閉店している。 地場スーパーには、みしまや、ふくしま、フーズマーケット ホック、グッディー、キヌヤといった店舗がある。 島根県の観光入込客延べ数は、年間33,158千人(2015年) となっている。観光入込客延べ数変動の要因は尾道松江線の全線開通や松江城が国宝に指定されたこととなっている。 市町村別の上位では、出雲市が12,495,489人と最も多く、次いで松江市が 10,061,918人、浜田市が 1,825,247人となっている。観光施設では、出雲大社が607万6千人と最も多くの観光客を集めている。 県外からの観光客入り込み割合は、広島県が22.9%、近畿地方が18.7%、関東地方が13.1%となっている。中国地方4県の合計では、県外観光客入込客数全体の5割近くを占める。 島根県の観光客による観光消費額は1,367億円(平成27年度)と推定されており、観光消費額が県内に及ぼす経済波及効果は1,634億億円と推定されている。 島根県警察本部の管轄にある。2005年(平成17年)4月1日に再編が行われ、以下の12警察署が置かれている。 第八管区海上保安本部の管轄にある。 県内一帯で普通列車の本数は毎時1本以下となっており、県内における営業列車の運用は臨時列車を除きすべて当日中に終了する(=日付越えの運用は行われていない)。
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島根県
島根県警察本部の管轄にある。2005年(平成17年)4月1日に再編が行われ、以下の12警察署が置かれている。 第八管区海上保安本部の管轄にある。 県内一帯で普通列車の本数は毎時1本以下となっており、県内における営業列車の運用は臨時列車を除きすべて当日中に終了する(=日付越えの運用は行われていない)。 島根県内を運行する路線バス事業者(リムジンバス、デマンドバス、自治体バスを除く)。 なお、島根県内に本部を置く私立大学・短期大学はない。かつては島根中央女子短期大学が存在した。他都道府県に本部を置く大学のキャンパスはある。 島根県は平地が少なく起伏に富んだ地形の地域が多い。そのため、テレビやラジオの受信環境は必ずしも安定しているとは言えない。そのため、共聴設備やケーブルテレビ経由での受信が必須となる地域も多い。また、朝鮮半島に近いこともあって韓国などの電波との混信も少なくなかったが、地上デジタルテレビ放送やケーブルテレビ網の整備、FM補完中継局の開始とともに解消されつつある。
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徳島県
徳島県(とくしまけん)は、日本の四国地方に位置する県。県庁所在地は徳島市。 四国の東部に位置する。県北部は粟が多く収穫されたことから「粟国」(あわのくに)、県南部は「長国」(ながのくに)であったが、後に統合され、令制国では阿波国(あわのくに)と呼ばれていた。大鳴門橋・明石海峡大橋や南海フェリーなどで関西との結びつきが強い。そのため県として近畿地方の影響を強く受けており、経済や方言(阿波弁)の面で顕著である。 吉野川や那賀川、四国山地、讃岐山脈、紀伊水道をはじめとする自然が多く残っており、鳴門の渦潮や祖谷渓、大歩危・小歩危、阿波土柱などの観光資源や、江戸時代より約400年の伝統がある阿波踊りなどの文化を有する。産業では農作物(すだち、にんじん、鳴門金時など)と畜産(阿波牛、阿波ポーク、阿波尾鶏)、化学工業が盛んである。 県北部を横断する吉野川は、四国山地と讃岐山脈の間を縫うように流れ、紀伊水道に流れ注ぐ。また、吉野川に沿うようにして徳島平野を形成している。吉野川の流れるラインは、中央構造線とほぼ一致している。県西や県南西は険しい山々が連なる。 豊かな自然と先進的な技術に支えられる一方で、少子高齢化や若者の都市部への流出に伴う著しい人口減少や、近い将来起こると予測される南海トラフ巨大地震などの課題も抱える。県の人口は2000年以降想定を上回る急激なペースで減少しており、2023年4月に70万人を下回った。また、明石海峡大橋の開通後は買い物客の神戸・大阪への流出も激しく、2020年に徳島市にあった徳島そごうが閉店したことで、山形県とともに一時的に県内に百貨店が存在しない県となった(その後跡地には高松三越が出店)。なお、徳島市中央市街地郊外にゆめタウン徳島(藍住町)やイオンモール徳島(徳島市南末広町)が進出し、ドーナツ化現象が顕著に見られている。
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徳島県
北部の徳島平野と県南部阿南市のある那賀川平野を除いては全体的に山地の多い地形で、特に徳島平野以南に峙える四国山地は西日本でも有数の険しい山岳地帯となっており、県総面積の約75%を森林が占めている。この山々は昔から現在に至るまで四国内の物流や交流の大きな障害となって来た。その一方で、山間部からは吉野川、勝浦川、那賀川など、水量の豊富な河川が多数流れ出しており、豊かな水資源をもたらしてくれている。河川が少なく水不足に陥りやすい隣の香川県とは対照的であるが、逆に治水に長年悩まされている。また那賀川下流域ではほぼ毎夏、工業用水などの渇水が深刻化している。なお徳島県内で最長の河川は吉野川(徳島県側延長109km※)ではなく那賀川(延長125km)である(※総延長194kmから高知県側85km を引き算出)。 国土地理院地理情報 によると徳島県の東西南北それぞれの端は以下の位置で、東西の長さは107.37 km、南北の長さは79.03kmである。 一般的にどの地域も温暖で、夏季と秋季は多雨となり冬季の降水量や降雪量は少ない。概ね徳島平野以北は瀬戸内海式気候、四国山地以南は太平洋側気候に属する。 徳島平野に当たる地域は典型的な海洋性気候で、年中温暖で放射冷却が起きにくく氷点下まで下がることは稀である。日照時間が全国でも指折りの多い地域である。徳島市や吉野川市のある吉野川以南の地域は瀬戸内海式気候に属するが、梅雨、秋雨、台風やそれに伴う太平洋からの湿った気流の影響を夏から秋に受けやすいため、一般的な瀬戸内海式気候とはやや異なる。鳴門市や阿波市付近の吉野川以北に当たる地域は典型的な瀬戸内海式気候となっており、温暖少雨である。山間部(勝浦郡付近)は県南部の気候に近く朝晩は冷え込み、平野部に比べると降水量も多く、南海型太平洋側気候に属する。 全域が内陸性の気候で、朝晩は放射冷却が起きやすく日較差も大きい。冬は季節風の風上側となることや南岸低気圧の影響で雪も県北東部に比べると降雪・積雪しやすく、山間部では路面凍結も多い。徳島平野に当たる平野部は典型的な瀬戸内海式気候で隣の香川県や愛媛県の気候に近い。四国山地である山間部(祖谷地方など)では太平洋側気候に当たり、降水量が多く県南部や高知県の気候に近い。
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徳島県
全域が内陸性の気候で、朝晩は放射冷却が起きやすく日較差も大きい。冬は季節風の風上側となることや南岸低気圧の影響で雪も県北東部に比べると降雪・積雪しやすく、山間部では路面凍結も多い。徳島平野に当たる平野部は典型的な瀬戸内海式気候で隣の香川県や愛媛県の気候に近い。四国山地である山間部(祖谷地方など)では太平洋側気候に当たり、降水量が多く県南部や高知県の気候に近い。 全域が典型的な南海型太平洋側気候であり、沿岸部は年中温暖で日照時間も多い地域であるが、山がちである為に県北東部に比べて日較差が大きい。また、四国山地に当たる山間部は台風や梅雨、秋雨の季節には記録的な降水量になることが多いなど、日本で最も降水量が多い地域の一つである。高知県と和歌山県に距離が近いため「台風銀座」の一角に位置し、この地域を通過した台風は紀伊水道から大阪湾に向かうことが多いため、近畿地方に被害を与えることが多い。 以下の8市8郡15町1村がある。徳島県の構成町村は、町はすべて「ちょう」、村は「そん」と読む。かつて現在の美馬市に存在した脇町は、唯一の例外として、「まち」と読んでいた。 県庁所在地かつ県内で人口最多の徳島市は将来的な中核市移行の構想を有しているものの、2022年時点では徳島県は全国で唯一政令指定都市・中核市・特例市・保健所政令市・計量特定市のいずれも持たない都道府県となっている。 地域としては東部と南部、西部に分かれる。愛媛県における東予・中予・南予、香川県における東讃・中讃・西讃のような地域の呼称は一般的ではなく、「東部」・「南部」・「西部」と呼ぶ。中央地区を除いて人口密集地の東部のみを「東部」と呼ぶこともある。名西郡以西を「西部」と呼ぶこともある。 北部は香川県との繋がりがあるが、県都・徳島市から西へ離れるにつれて徳島県の影響力が弱まり、相対的に香川県の影響力が強まる傾向にある。県内地域間の人口移動は東部への移動が大半で西部や南部への人口移動は少なく、西部・南部間の移動は皆無に近い状況である。 徳島県の出先機関である南部総合県民局と西部総合県民局についても関連を示した。
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徳島県
北部は香川県との繋がりがあるが、県都・徳島市から西へ離れるにつれて徳島県の影響力が弱まり、相対的に香川県の影響力が強まる傾向にある。県内地域間の人口移動は東部への移動が大半で西部や南部への人口移動は少なく、西部・南部間の移動は皆無に近い状況である。 徳島県の出先機関である南部総合県民局と西部総合県民局についても関連を示した。 県内では京阪神との繋がりが最も深い地域であり、近畿圏の一部として扱われる場合もある。その一方で四国他県や中国地方との繋がりは浅く、言葉や方言なども含め、ほぼ完全な近畿志向の地域となっている。政経両面において、近畿の一員として扱われることも珍しくない。大阪市の民放各局(読売テレビを除く)のニュース番組では正確を期するため、「近畿と徳島」という表現がなされている。 2市を中央地区とする区分もある。ほぼ完全に徳島都市圏に組み込まれている。 沿岸部の他、内陸部でも在阪民放のテレビが視聴できるため、関西志向が強い。その一方で県内では道路整備が比較的遅れている地域である。 総面積の約33%を占める。県の北東部とは異なり、近畿地方に加えて香川県・愛媛県をはじめとする四国他県や中国地方(特に瀬戸内海側)との交流が盛んで、さらに2000年以降は松山自動車道の開通により、それまでの高松市に加え、愛媛県四国中央市や新居浜市のショッピングセンターなどにもしばしば買い物へ出掛けるようになった。そのため、同じ県内でも北東部在住の県民と北西部在住の県民とでは交流面での感覚が異なっている。 瀬戸大橋開通後は、山陽地方の岡山市などへ気軽にアクセスできるようになっている。 県都から離れた中山間地のため、かつては権力者の力が末端まで及ばず、権力者の支配への抗争が多発していた。山岳武士が権力者の主導する改宗に反抗したり、6つの山村を中心に百姓一揆が連鎖発生したりして大きな動きとなった。 別子銅山、土佐藩の参勤交代道、借耕牛や金毘羅宮参拝などを通じた他県との交流も知られている。 約2万年前の遺物と推定できる国府型ナイフ形石器 が、徳島県域でも49遺跡から見つかっている。戦国時代には、三好郡を拠点にしていた三好氏が、東四国から山城国までの八国を支配した。豊臣秀吉の四国平定により、阿波国は蜂須賀氏が封ぜられ、その統治は明治維新まで続いた。
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徳島県
別子銅山、土佐藩の参勤交代道、借耕牛や金毘羅宮参拝などを通じた他県との交流も知られている。 約2万年前の遺物と推定できる国府型ナイフ形石器 が、徳島県域でも49遺跡から見つかっている。戦国時代には、三好郡を拠点にしていた三好氏が、東四国から山城国までの八国を支配した。豊臣秀吉の四国平定により、阿波国は蜂須賀氏が封ぜられ、その統治は明治維新まで続いた。 元々、徳島市は名東郡に属する都市だったので、廃藩置県の第一次府県統合(明治4年(1871年))当時の徳島県は、名東県という名称であった。当初の名東県は、現在の徳島県に当たる旧阿波国の外に、旧淡路国(淡路島)も範囲とされた。さらに、1873年(明治6年)2月20日には香川県も編入した。 しかし、第二次府県統合により、1875年(明治8年)9月5日に旧讃岐国部分が香川県として分立再置県され、明治3年(1870年)の庚午事変(稲田騒動)で敵対した淡路国が1876年(明治9年)8月21日に兵庫県に編入され、阿波国部分は高知県に編入された。 この後の1880年(明治13年)3月2日に、旧名東県が高知県から分離されて、現在の徳島県が発足した。 なお、宮武外骨の説では、徳島藩は当初「曖昧藩」だったから、徳島藩の首府であった徳島市の所在する名東郡から名前を取って「名東県」となったということになる。しかし、復活の際に、なぜ都市名を取った「徳島県」に変更されたのかは定かではない。 徳島県の人口は2023年10月時点で69.5万人であり、全国44位。人口が70万人を下回る県は本県と高知県、島根県、鳥取県だけである。 明治時代初期、当時の衣服の染料として用いられていた藍の栽培によって全国屈指の人口の規模を記録したこともあったが、間もなく訪れた産業革命での綿織物、次いで化学繊維の台頭によってその需要は著しく低下し、明治から昭和にかけての人口増加の時期に他の都道府県に大きく後れを取った。 人口のピークは1956年の87万人余りで、それから半世紀後の2007年に80万人を割り込んだ。2023年4月1日の推計で70万人を割り込み、およそ1世紀ぶりに60万人台となった。
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徳島県
人口のピークは1956年の87万人余りで、それから半世紀後の2007年に80万人を割り込んだ。2023年4月1日の推計で70万人を割り込み、およそ1世紀ぶりに60万人台となった。 徳島県の合計特殊出生率は2019年の時点で1.46であり、人口の維持に必要な2.07までは程遠く、人口の自然減に歯止めがかかっていない。また、大鳴門橋と明石海峡大橋の開通、高松自動車道の開業でストロー効果によって大学進学や就職を機に近畿地方や首都圏、さらには他の四国各県に人口が流出し社会減ともなっている。 市町村別でみると、徳島市中心地の地価高騰に伴い、ドーナツ化現象が顕著に起こっている。車で徳島市中心部に30分程度で通勤でき、かつ子育て支援政策に乗り出した藍住町や北島町などに人口が流入し、四国でも数少ない人口増加の地域となっている。徳島市西方の石井町も、鉄道が中心部を走るアクセスの良さから人口が流入し、社会増となった時期もあった。また、山間部の神山町も、IT企業誘致や現役世代重視の政策の影響で2019年から社会増となっている。一方、核都市である徳島市、鳴門市、阿南市は減少を続けている。また、県西や県南は減り続けており、存続が危ぶまれる、または消滅した集落も多くある。 地方債残高 衆議院の小選挙区が2だが、2012年衆院選以前は3であった。参議院では、徳島県選挙区として全県で1区を構成していたが、2016年の第24回参議院議員通常選挙より高知県選挙区と合区され、高知県とともに1区を構成する合同選挙区が創設された。 徳島県によると、県民総生産(名目)は2018年で3兆1733億円であり、経済成長率は1.3%である。名目GDPは全国43位と低調であるが、一人当たりで換算すると431万円で全国14位と健闘している。県平均での産業別のGDPの割合は、第1次産業が2.0%,第2次産業が34.4%,第3次産業が62.9%となっている。
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徳島県
徳島県によると、県民総生産(名目)は2018年で3兆1733億円であり、経済成長率は1.3%である。名目GDPは全国43位と低調であるが、一人当たりで換算すると431万円で全国14位と健闘している。県平均での産業別のGDPの割合は、第1次産業が2.0%,第2次産業が34.4%,第3次産業が62.9%となっている。 製造出荷額は、2019年で1兆9081億円で全国39位であり、2018年において最も出荷額等が多い業種は、化学工業の5,632億円(製造業全体の30.4%)。次いで多いのは、電子部品・デバイス・電子回路製造業(4,419億円、23.8%)、食料品製造業(1,437億円、7.8%)、パルプ・紙・紙加工品製造業(1,206億円、6.5%)となっている。徳島市をはじめとした県東一帯は国から新産業都市の指定を受けている地域であり、徳島県が比較的工業県の傾向が大きいのはこれによる影響も大きい。徳島県で作られた製品の多くは、神戸淡路鳴門自動車道を通って京阪神へ輸出される。 東京商工リサーチの調査で、都道府県別の人口に対する社長の「輩出率」が2017年より首位。理由として、阿波商人の気質や関西圏との交流の深さが挙げられている。 徳島県は中心都市を徳島市とし、三好市や海陽町など一部の地域を除いてほぼすべての市町村で徳島都市圏を形成している。徳島都市圏は四国では高松都市圏に次いで人口が多い。 河口付近では野菜の生産が盛んであり、主に京阪神方面へと出荷されている。徳島県の食料自給率は、2016年の時点でカロリーベースで43%、生産額ベースで131%である。 酪農が盛んに行われており、吉野川市鴨島町には「牛島」(うしのしま。酪農が地名の由来)という名称の地域もある。 最近は酪農経営・乳牛数共に全盛期の4分の1に落ち込んでいる反面、徳島市における牛乳消費量は都道府県庁所在地の中では最も高い。 現在は県内唯一の牛乳メーカーである日本酪農協同(毎日牛乳)の徳島工場が徳島市内にある。またかつては、名西郡石井町に森永乳業の徳島工場(2011年(平成23年)9月30日に閉鎖)が、吉野川市(旧:麻植郡鴨島町)に旧明治乳業(現:株式会社明治)の徳島工場があった。 近年、県内のベンチャーが、人口爆発に伴うタンパク源の供給を目的に、コオロギの養殖に取り組んでいる。
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徳島県
現在は県内唯一の牛乳メーカーである日本酪農協同(毎日牛乳)の徳島工場が徳島市内にある。またかつては、名西郡石井町に森永乳業の徳島工場(2011年(平成23年)9月30日に閉鎖)が、吉野川市(旧:麻植郡鴨島町)に旧明治乳業(現:株式会社明治)の徳島工場があった。 近年、県内のベンチャーが、人口爆発に伴うタンパク源の供給を目的に、コオロギの養殖に取り組んでいる。 県南西部の那賀郡には豊かな森林地帯があり、那賀町の旧那賀町や旧木沢村、旧木頭村を中心に行われているが、高齢化により後継者不足やそれに伴う森林の手入れの問題に悩まされている。県は若手の林業従事者育成のため、那賀高校に森林クリエイト科を設置した。また、菌床栽培を含む生シイタケの生産量は日本一である。 徳島県の交通事故死者数は、2018年で人口10万人当たり4.17人で全国34位、2019年で人口10万人当たり5.57人で全国ワースト1位となったが、2020年は全国25位となった。しかし、全国平均は超えている。徳島県では交通マナーの悪さが社会問題になっており、警察は街中での呼びかけだけでなく、学校や職場での啓発活動が行われている。 最大の駅徳島駅の1日の乗降者数平均は2019年で16258人であり、四国では高松駅に次いで2位である。県内の路線はすべて赤字である。利用者の大半は徳島市中心部への通勤・通学であるため、徳島市から離れている県南や県西では、人口の少ないこともあり利用者はかなり少ない。平均通過人員で計算すると、徳島線では、徳島駅から18.9kmの地点にある途中主要駅鴨島駅までの利用者数が全体の63%、牟岐線では、徳島駅から24.5kmの地点にある途中主要駅阿南駅までの利用者数が83.4%を占めている。徳島駅を発着する特急列車は、高徳線で徳島駅と高松駅(1日に数本岡山駅と直通)を結ぶうずしお、徳島線で徳島駅と阿波池田駅を結ぶ剣山、牟岐線で徳島駅と牟岐駅を結ぶむろとがある。徳島県とつながりの深い京阪神に鉄道で行くためには、高松駅と岡山駅を経由する必要がある。
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徳島県
ホームが面する線路の数が最も多いのは、県庁所在地の徳島駅(3面4線)ではなく、県西の阿波池田駅(3面5線)である。高架駅舎は、佐古駅、海部駅、宍喰駅の3駅が存在する。橋上駅舎は、阿南駅のみである。全国47都道府県で唯一、電化区間が全く存在せず、歴史的にも存在したことがない。そのため徳島県には「電車」が一切走っていない。また、複線区間も存在しない。なお、2018年夏以降は、47都道府県で唯一自動改札機設置駅が存在せず、歴史上存在したこともない都道府県であり、それに伴い2020年7月現在、日本で唯一鉄道施設内において交通系ICカード全国相互利用サービスが一切使えない(簡易チャージ機も存在しない)県である。日中の普通列車の本数は徳島市近郊区間 で毎時2本程度、それ以遠では毎時1本足らずとなっている。また、県内における営業列車の運用は臨時列車を除きすべて当日中に終了する(=日付越えの運用は行われていない)。 現在、徳島県には新幹線は通っていない。ただ、四国新幹線と四国横断新幹線が構想として存在する。香川県と岡山県の間に架かっている瀬戸大橋は、既に新幹線規格で建設され、また鉄道が通っているため、これを利用し岡山駅 - 宇多津駅 - 高知駅を結ぶ四国横断新幹線は、費用面からも現実的な路線として構想されている。これを基軸とする場合、徳島県には岡山駅と高知駅の間を結ぶ途中駅として阿波池田駅、宇多津駅から高松方面に伸びた路線を延長して徳島市内に駅がそれぞれ設けられる構想となっている。 しかし、徳島県にとっては、岡山駅経由で本州に出ることよりも、大鳴門橋と淡路島を経由して本州に直接出ることの方が重要である。そのため、徳島県としては、新大阪駅から淡路島を通り、徳島県、香川県、愛媛県、最終的には豊予海峡を通って大分県に通じる四国新幹線の建設に前向きである。この四国新幹線は、四国の人口密集地域を通るため、収益がある程度は見込まれているが、明石海峡大橋が建設された際に鉄道構想を放棄したため(大鳴門橋は新幹線規格で建設)、紀淡海峡または明石海峡に海底トンネルを建設する必要がある。 国立 私立 私立 私立 国立 私立
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徳島県
国立 私立 私立 私立 国立 私立 テレビ草創期から、徳島県のテレビ放送は長年にわたってNHKと四国放送の2局3波である。デジタルテレビ・県域FM局・四国放送ラジオのFM補完放送のメイン中継局はいずれも眉山に置かれている。四国放送は通常時終夜放送を実施している。 テレビ黎明期の1959年にNHK徳島放送局と四国放送がテレビ放送を開始して以降、県内の放送局は開局していない。その為、電波の海上伝搬を利用して近畿広域圏のテレビ局の視聴者が県内に多数存在する。しかしアナログ放送からデジタル放送への移行にあたって、近畿圏の局が視聴不能となる地域が続出する事が判明。その為、県は国の援助を得て県内のケーブルテレビ局加入促進策を打ち出した。 ケーブルテレビの世帯普及率は2020年3月末時点で90.5%に達しており、全都道府県で1位である。四国放送が加盟する日本テレビ系列以外の局の関西圏などからの受信に用いられている。 日本アマチュア無線連盟 (JARL) を免許人とするアマチュア無線用中継局が県内各所に設置されている。徳島県のレピータは南部の JR5VR を除き、都市・集落が多くある吉野川周辺設置されている特徴がある。 徳島県内で話される方言は徳島弁(阿波弁)と呼ばれる。四国方言に分類されるが、特に県東部で、近畿方言の影響を強く受けている。 姉妹自治体・提携自治体は、以下の通り。 近年は映画ロケの誘致に力を入れており、有名なものでは『男はつらいよ 寅次郎かもめ歌』や『虹をつかむ男』、『バルトの楽園』の舞台となった。
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栃木県
栃木県(とちぎけん)は、日本の関東地方に位置する県。県庁所在地は宇都宮市。 県北部に日光国立公園があり、観光地・保養地の日光や那須が知られる。 関東地方北部の北関東に位置する県で、人口は約192.3万人(2021年現在)。境界部に海岸線を有しない内陸県である。県内の地域区分は概ね県中部の宇都宮市・鹿沼市・真岡市から県南部の小山市や栃木市、県南西部両毛線沿線の佐野市・足利市など茨城・群馬両県と繋がりが深い県南と那須野が原に広がる那須塩原市や観光地那須町、県北西部を占める日光市を中心とする県北に分類される。 地勢は、北部から北西部にかけて奥羽山脈、日光連山、足尾山地が連なり、標高1500m - 2500m程の急峻な山岳が連なっている。これらの山々から流れ出る鬼怒川、那珂川、渡良瀬川など諸河川が関東平野の北端を形成し、更に北に進むと那須野が原に至り、県北の町並みが広がる。 県土のほぼ中央に宇都宮市が立地し、人口は県全体の4分の1に当たる約50万人が集中している。人口10万人以上の市として、県南の小山・栃木・足利・佐野の各市、県北の那須塩原市があり、宇都宮線・両毛線の沿線に人口の多い市が連なっている。そのほか、地域の行政中心地として、鹿沼・真岡・大田原・矢板の各市がある。 産業は、農業、工業、商業、観光業のバランスがとれ、それぞれ盛んである。 農業は、平野部が米や麦の産地、那須野が原などの高原部(那須高原)が酪農地、畜産地となっているほか、いちごやかんぴょうなどの特産物も生産されている。 工業は、東北自動車道・国道4号と北関東自動車道・国道50号を軸とする地域に、北関東工業地域、及び、関東内陸工業地域(本県の場合は両者の定義に当てはまる)が広がり、第二次世界大戦中に軍需産業が集積した宇都宮市では、機械工業や金属工業、食品・飲料工業が、真岡市、上三川町、芳賀町では自動車関連産業(日産自動車系、本田技研工業系)が、那須塩原市、大田原市ではタイヤ製造や精密機械工業(医療機器、写真用レンズ製造)がそれぞれ発達している。また、県南では、食品・飲料工業や機械工業、益子焼の生産、機械・自動車部品などの中小規模の工場が広く立地するほか、伝統的に繊維産業が盛んである(結城紬、足利銘仙)。 商業は、宇都宮市における小売業が発達し、ほか工業地域では卸売業も盛んである。
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栃木県
商業は、宇都宮市における小売業が発達し、ほか工業地域では卸売業も盛んである。 観光業は、日光・鬼怒川エリアや、那須・塩原エリアで盛んである。日光市の鬼怒川温泉、川治温泉、湯西川温泉、日光湯元温泉、那須町、那須塩原市の那須温泉郷、塩原温泉郷などは、飛鳥時代や奈良時代からの古い歴史を持つ名湯。東照宮・日光二荒山神社・輪王寺の二社一寺で構成される世界遺産、日光の社寺。いろは坂に華厳滝、中禅寺湖や戦場ヶ原など、風光明媚な奥日光の景勝地。自然豊かで、別荘地・牧場・温泉地が広がり、那須岳、殺生石、皇室の御用邸などもある那須高原。これらの地域は日光国立公園の指定地域内にあり、自然保護などの施策も執られている。日光市の一部には尾瀬国立公園に指定された地域も存在する。 明治時代には「栃木」の表記に揺れがあった。「栃」は「櫔」(lì)を簡略化したと考えられ、「櫔木」の表記もあった。また、1871年の廃藩置県の後は「橡木」の表記が使われる例もあったが、「杤木」の表記が主であった。旁の「万」は、下側を「力」とつくる例もあった。1881年(明治14年)ごろより、「栃木」の表記が見られるが、旁は「櫔」に従って「厂」の中に「万」が主である。「厂」の中の「万」の部分は下側を「力」とつくる例や「丂」とつくる例もあった。「厂」の1画目を右から書く字形が生まれたのは昭和中期以降である。なお、中国語の文書で「櫪」や「枥」を使う例もみられるが、主に飼い葉桶を意味する字であり、誤りである。 茨城県や群馬県と共に北関東を構成する。 人口は、約192万人で全国第19位(本県に近い人口規模の県としては、岐阜県の約197万人、群馬県の約192万人、福島県の約181万人、岡山県の約187万人などが挙げることができる)。面積は6,408.28kmで全国第20位(関東地方最大の面積)、東西約84km・南北約98km。県庁所在地の宇都宮市は、東京から約100km、JR東北新幹線で約50分強の位置にあり、中核市の指定を受けている。 地形的には東部の八溝山地、北部から西部にかけての那須連山・下野山地(高原山・日光連山・帝釈山地)・足尾山地の山岳地帯と、県中央部の那珂川・鬼怒川・渡良瀬川の沿岸平野部の3地域に大別される。 東部の八溝山地は標高600 - 1,000mの阿武隈高地に続く比較的なだらかな山地が連なる。
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地形的には東部の八溝山地、北部から西部にかけての那須連山・下野山地(高原山・日光連山・帝釈山地)・足尾山地の山岳地帯と、県中央部の那珂川・鬼怒川・渡良瀬川の沿岸平野部の3地域に大別される。 東部の八溝山地は標高600 - 1,000mの阿武隈高地に続く比較的なだらかな山地が連なる。 北部から西部にかけての山岳地帯は日光国立公園、尾瀬国立公園(帝釈山、田代山湿原周辺)に指定されており、日光・鬼怒川・川治・塩原・那須などの観光地がある。北部には奥羽山脈(那須火山帯)に連なる那須連山・高原・男体・日光白根山などの諸火山がある。日光連山他の険しい山岳地帯は、標高2,000m以上の山脈が関東の北限を形成し、瀑布や湖沼が点在している。また、諸河川の源にもなっており、鬼怒川は中央部を、渡良瀬川は群馬県との県境を流れ利根川に合流し、那珂川は八溝地域から東折し茨城県に入り、ともに太平洋に注いでいる。 南部・東部は、そのほとんどが関東平野の一端で、首都圏の一角として市街化が進んでいる。 群馬県や茨城県、福島県の隣接自治体と深いつながりを持つ県内市町がある一方で、埼玉県との隣接に関しては、渡良瀬遊水地により飛地になっている栃木市藤岡町下宮地区とのみ、自動車用道路で往来可能である。事実上、自動車や鉄道で埼玉県に入る場合、群馬県か茨城県を経由しなければならない。栃木県と埼玉県を結ぶ主要幹線の国道4号、東北本線、東北新幹線は茨城県、同じく東北自動車道、東武伊勢崎線、東武日光線は群馬県を経由して埼玉県に入る。 なお、この地区は全国でもまれな、栃木県・群馬県・埼玉県の3県境が田畑の中に存在し、看板が設置されている。
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なお、この地区は全国でもまれな、栃木県・群馬県・埼玉県の3県境が田畑の中に存在し、看板が設置されている。 中南部地域は関東平野の中北部に立地し、南端部には渡良瀬川と思川、利根川、また田川と鬼怒川のそれぞれ合流点があり、茨城県、群馬県、埼玉県と境界を接している。一方、県北西部地域は奥羽山脈の南端部に位置し、山岳地域となっている。北東部は低山地で那珂川が縦断して開析が進んだ八溝山地とともに茨城県境を形成している。北西部は関東地方屈指の山岳地帯であり、標高2,000メートル以上の山並みが続き群馬県および福島県との境界を形成している。特に日光連山は標高2,300メートル以上の峻険な独立峰を複数有し、空気の澄んだ日には関東南部からも遠望できる。この日光連山と八溝山地の北部接点付近に立地する那須岳は関東の最北端であり、福島県との境を成す。 気候は太平洋側気候を呈し、山間部では冬季の降雪、また平地部では同じく冬季の乾燥と夏季の雷を特徴とする。全県で夏季多雨多湿、冬季少雨乾燥を呈し、年間降水量は山間部で多く奥日光では2,000mmを超すが、平地部では少なく県南部では1,200mm程度である。 以下は栃木県庁による3地域区分である。広域行政では10圏域に区分される。 以下は環境森林事務所などによる4地域区分である。宇都宮地区が県東地域に含まれる。 以下は観光動態調査などによる5地域区分である。塩谷地区北部が那須地域に、塩谷地区南部と南那須地区が県央地域に含まれる。 以下は農業振興事務所・教育事務所などによる7地域区分である。塩谷地区と南那須地区が同一の管轄区域となる。 以下は昭和前期までの旧郡市・旧地方事務所による8地域区分である。 以下は土木事務所などによる9地域区分である。 以下の14市5郡11町がある。町はすべて「まち」と読む。栃木県内に村は無い。ただし、平成の大合併以前には“村”があり、その時はすべて「むら」と読んでいた。 都市雇用圏(10%通勤圏)の変遷 歴史的には古墳時代、毛野川(けぬのかわ)(現在の鬼怒川)流域一帯には「毛野国」が成立し、これを上下に分かって「下毛野国(しもつけぬのくに)」「下野国(しもつけのくに)」が成立し、唐名では「野州(やしゅう)」と称する。現在でも「下野(しもつけ)」の呼称が広く使われている。
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都市雇用圏(10%通勤圏)の変遷 歴史的には古墳時代、毛野川(けぬのかわ)(現在の鬼怒川)流域一帯には「毛野国」が成立し、これを上下に分かって「下毛野国(しもつけぬのくに)」「下野国(しもつけのくに)」が成立し、唐名では「野州(やしゅう)」と称する。現在でも「下野(しもつけ)」の呼称が広く使われている。 近世には豊臣政権による仕置が行われ、壬生氏、小山氏ら中世以来の氏族は領地を没収されるが、宇都宮氏や大関・大田原両氏の那須衆は豊臣政権に臣従し旧領を安堵されたほか、鎌倉公方の名跡を継ぐ喜連川氏や成田氏などが領地を得た。天正18年(1590年)には徳川家康が関東に移封され、下野は豊臣系大名と徳川領国の接点に位置する。なお、豊臣政権下での1597年(慶長2年)には宇都宮氏が改易されている。 豊臣秀吉没後の豊臣政権では五大老の家康と五大老の上杉景勝、五奉行の石田三成が対立し、慶長5年5月に家康は景勝討伐のため会津出兵を行う。三成は家康の出兵中に上方において挙兵し、家康は小山において上片へ引き返し、関ヶ原の戦いにおいて三成方を撃破する。家康が江戸に徳川幕府を開くと、中世以来の有力豪族は相次いで下野から姿を消し、県域は幕府直轄領や旗本領に細分化され、徳川家の譜代大名や旗本が支配するようになった。 江戸時代の幕藩体制においては宇都宮藩、壬生藩、烏山藩、黒羽藩、大田原藩、佐野藩、足利藩、吹上藩、高徳藩、喜連川藩の諸藩が成立し、福原家の佐久山陣屋、芦野家の芦野陣屋、那須家の福原陣屋、大田原家の森田陣屋など交代寄合の陣屋による領内統治が行われた。 下野国は江戸から奥州へ向かう結節点に位置し、近世には日光道中や奥州街道、壬生通りなど街道や脇往還、が整備され、小山宿や今市宿などの宿駅も整備された。また、利根川水系の渡良瀬川や思川、鬼怒川などの河川交通網も整備され、河岸が設置され舟運が行われた。 日光(日光市)は幕府の聖地として、東照宮をはじめとする華麗な建物が作られ、特別に保護・崇敬された。 近世期には日光山麓をはじめ各地で新田開発・用水開削が進むが、それに伴い秣場を巡る争論や水論も発生した。
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日光(日光市)は幕府の聖地として、東照宮をはじめとする華麗な建物が作られ、特別に保護・崇敬された。 近世期には日光山麓をはじめ各地で新田開発・用水開削が進むが、それに伴い秣場を巡る争論や水論も発生した。 江戸時代後期に入ると、いまの栃木県域は、地域社会の著しい疲弊・荒廃と、急激な人口減少に見舞われることになる。人口推計によれば、江戸中期の享保6年(1721年)から、江戸後期の天保5年(1834年)までの約1世紀の間に、下野国の総人口は、約56万人から、61.1%の約32万人まで減少し、1世紀で約4割の人口減少という、事実上の人口崩壊状態となっている。同時期、日本の総人口は、度重なる飢饉にもかかわらず、約10%の伸び(110.3%)を見せており、とりわけ飢饉が深刻であったとされる、東北太平洋側の陸奥国でも、1.5割弱の人口減少(86.1%)に抑えていることから考えても、江戸後期における、下野国の際立った荒廃ぶりがうかがえる。 このような状態の中で、二宮尊徳は農村のたて直しを図るため、桜町(現在の真岡市旧二宮町)の旗本領の復興につとめ、以後各地で報徳仕法と呼ばれる改革事業を実施した。 県人口は、1,933,146人(2020年(令和2年)国勢調査)で、都道府県で19位(都道府県の人口一覧)である。国勢調査最大人口は、2005年(平成17年)の2,016,631人であり、都道府県で20位であった。 2020年(令和2年)の国勢調査で人口順位が上位100位内の市は、宇都宮(27位)の1市であった(都道府県庁所在地と政令指定都市の人口順位)。各年の国勢調査で人口順位が上位100位内に入ったことのある市町は、宇都宮(最高位:2010年(平成22年)・2015年・2020年(令和2年)27位)・足利(最高位:1965年(昭和40年)88位)・足尾(最高位:1920年(大正9年)98位)の2市1町であった。(いずれの順位も、東京特別区部を1都市として扱いランキングに含めた場合の順位。)
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栃木県の都市は、主に北部山岳地域から流れ出る鬼怒川、那珂川、渡良瀬川などの諸河川が太平洋に向かう流路帯の沖積平野と河岸段丘部に発達している。県域のほぼ中央に位置する宇都宮市は、北西部の山地部と中南部の平野部から成り、市街地はこの山地部と平野部の境界部に形成されている。 このほか、渡良瀬川、田川、鬼怒川、那珂川、思川などの河川中流域には、それぞれ足利市、下野市、真岡市、那須烏山市、鹿沼市、栃木市、小山市といった中規模都市が発達している。 2010年(平成22年)国勢調査による栃木県の人口密度は、1平方キロメートルあたり313.29人である。 人口密度が1平方キロメートルあたり1,000人以上の市は宇都宮市のみで、可住地人口密度が1平方キロメートルあたり1,500人以上の市は宇都宮・足利の2市である。 第1回国勢調査が実施された1920年(大正9年)の県人口は約104万人であり、47道府県中25位であった。人口3万人以上の市町村は宇都宮・足利・足尾の3市町であった。 2000年(平成12年)国勢調査での県人口は約200万人であり、47都道府県中20位。人口3万人以上の市町村は宇都宮・足利・栃木・佐野・鹿沼・今市・小山・真岡・大田原・矢板・黒磯・河内・壬生・西那須野の14市町であった。 下表には、栃木県内の全ての市とその中心市街を構成する旧町(宇都宮・足利・栃木・佐野・鹿沼・日光・今市・小山・真岡・大田原・矢板・黒磯/那須塩原・氏家/さくら・烏山/那須烏山・石橋/下野)、人口3万人以上の町とその旧町村(上三川・古里/河内・足尾・壬生・阿久津/高根沢・芦野/那須・西那須野・田沼)の計23市町村の国勢調査人口の変遷を記載した。 2010年(平成22年)国勢調査による栃木県内のDID(人口集中地区)は、15市町22地区あり、人口5万人以上のDIDは宇都宮市I・足利市・小山市Iの3地区であった。 衆議院の小選挙区が5。参議院では、全県で1区を構成。 2008年(平成20年)度の県民総生産は7兆9901億円である。国のGDPと比較しても、過半数の国よりも大きな規模を有している。主要産業は、宇都宮市のほか上三川町、小山市、大田原市、真岡市、栃木市、足利市、鹿沼市、矢板市などに代表される内陸型近代工業で、これらは北関東工業地域の一部を形成している。
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衆議院の小選挙区が5。参議院では、全県で1区を構成。 2008年(平成20年)度の県民総生産は7兆9901億円である。国のGDPと比較しても、過半数の国よりも大きな規模を有している。主要産業は、宇都宮市のほか上三川町、小山市、大田原市、真岡市、栃木市、足利市、鹿沼市、矢板市などに代表される内陸型近代工業で、これらは北関東工業地域の一部を形成している。 農業も盛んであり、県北から流出する河川の豊かな水を利用した産業地帯で、米作が盛んなほか飲料工業も発達している。那須塩原市や大田原市、宇都宮市は国内有数の米産地となっているほか、那須塩原市では酪農も盛んであり、国内生乳生産量は北海道に次いで高い。ほか、真岡市や鹿沼市などを中心にいちごの栽培が盛んであり、壬生町や鹿沼市のかんぴょうとともに県の特産品となっている。 商業は宇都宮市で盛んで、栃木県内年間商品販売額の約半分が宇都宮市で占められており、栃木県内第一の商業都市となっている。観光産業も盛んで、日光市や那須塩原市、足利市の歴史・自然遺産(日光の社寺、足尾銅山跡、足利学校跡、中禅寺湖、華厳滝、鬼怒川温泉、那須岳、那須高原、塩原温泉など)、宇都宮市の餃子やカクテル、ジャズ、茂木町のモビリティリゾートもてぎ、栃木市の蔵の街なども観光資源となっている。 県庁所在地の宇都宮市は全国屈指の米産地であるほか、栃木県の年間製品販売額の約半分を占め、工業生産額も栃木県内市町村最大となっており、栃木県内最大の農商工業都市となっている。 なお、かんぴょうは栃木県が99%を生産し、残りは茨城県が生産している。 栃木県のほぼ中心を南北に東京と東北地方を結ぶJR東北新幹線、JR宇都宮線(東北本線)、東北自動車道、国道4号が南北に走る。 また宇都宮を中心にして放射線状に栃木県内各地へと路線が伸びている。宇都宮を基準にして各方向への主要路線は次の通り。 このほかに東西を結ぶ路線は、県南部では茨城県、群馬県両県間を結ぶ北関東自動車道やJR両毛線、JR水戸線、国道50号など。県北部では、国道400号などがある。南北方向には、県東部では国道294号など。県西部には東京から直通する鉄道路線の東武日光線、東武鬼怒川線、野岩鉄道会津鬼怒川線が走る。 栃木県内に空港は存在しない。最寄りの空港は成田国際空港(千葉県成田市)・東京国際空港(東京都)など。
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このほかに東西を結ぶ路線は、県南部では茨城県、群馬県両県間を結ぶ北関東自動車道やJR両毛線、JR水戸線、国道50号など。県北部では、国道400号などがある。南北方向には、県東部では国道294号など。県西部には東京から直通する鉄道路線の東武日光線、東武鬼怒川線、野岩鉄道会津鬼怒川線が走る。 栃木県内に空港は存在しない。最寄りの空港は成田国際空港(千葉県成田市)・東京国際空港(東京都)など。 那珂川町、上三川町、塩谷町を除く全自治体に鉄道駅が存在する。県内の鉄道路線の総運行距離(重複除く)は418.5 kmで、117駅ある。2019年度の1日あたりの平均輸送人員は17.6万人で、最盛期(1995年)から2割減少している。〔〕は、路線ごとの栃木県内区間の運行距離、駅数、平均輸送人員(2019年度)。 栃木県内の民間路線バス(民間委託のコミュニティバスを含む)の総走行キロは2,635.3万 km、2019年度の1日あたりの平均輸送人員は51,408人で、最盛期(1969年)から87%減少している。〔〕は、事業者ごとの栃木県内区間の走行キロ、平均輸送人員(2019年度)。 放送対象地域は関東広域圏に属する。栃木県域放送のとちぎテレビ・NHK宇都宮放送局のほかに、NHK放送センター(教育テレビ)と在京キー局5局(日本テレビ・テレビ朝日・TBS・テレビ東京・フジテレビ)が栃木県内全域が放送区域になっている。県中部以南の関東平野では放送対象地域外のNHK東京総合テレビ(JOAK-DTV)が受信エリアのめやすとなっている。また、とちぎテレビのみならずNHK・キー局ともに栃木県内各地に中継局を置いている。 ※関東広域放送を行っているJRN系列のTBSラジオ、NRN系列の文化放送・ニッポン放送も放送対象地域になっている。 ※本県はradikoの基本サービスで聴取できる局数が全国の都道府県で一番多い18局ある。
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栃木県
※関東広域放送を行っているJRN系列のTBSラジオ、NRN系列の文化放送・ニッポン放送も放送対象地域になっている。 ※本県はradikoの基本サービスで聴取できる局数が全国の都道府県で一番多い18局ある。 1994年(平成6年)、栃木市の栃木コミュニティ放送に免許が交付されたことがあるが(JOZZ3AA-FM:FM蔵の街)、経済的な問題もあり免許を取り下げたため、コミュニティ放送局は2015年10月までない状態が20年近く続き、新規の開局の機運はなく、全国で唯一コミュニティ放送の無い都道府県「空白県」であったが、2015年(平成27年)1月27日、栃木ケーブルテレビ(運営・ケーブルテレビ株式会社)が運営するとちぎシティエフエム(JOZZ3CB-FM)に予備免許が交付され、栃木県にもコミュニティ放送が開局の見通しとなった。 栃木県には120以上のゴルフ場があり、平成期までは国内ツアーが各地で行われていた。ゴルフブームは終わったものの、現在でも高齢者の人気スポーツとして、都心に近い栃木市や佐野市には多くの他県から来場者がある。栃木県のゴルフ場は山岳コースが多く、関東平野にある河川敷や平坦なコースと違い変化がある。料金面でも魅力があり、自然の中でプレイが楽しめる。 ゆるきゃら・ご当地キャラ 栃木県名誉県民の称号は、2001年(平成13年)12月27日に制定された栃木県名誉県民条例(平成13年12月27日栃木県条例第42号)に基づき、「社会の発展に卓絶した功績があり、県民が郷土の誇りとしてひとしく敬愛する者」へ贈られる(条例第1条)。対象者は「栃木県内に居住し、又は居住していた者で、産業経済の発展、保健医療の向上、福祉の増進又は学術、文化若しくはスポーツの振興に貢献したもの」であり、栃木県知事が栃木県議会の同意を得て選定することが定められている(条例第2条)。名誉県民に選定された者には、栃木県名誉県民称号記および記念品が贈呈される(条例第3条)。
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鳥取県
鳥取県(とっとりけん)は、日本の中国地方にある県である。県庁所在地は鳥取市。 日本海側にあり、山陰地方の東側を占める。面積は約3,507平方キロメートルと全国で7番目に小さく、人口は約55万人で最も少ない。基礎自治体は4市14町1村で、市の数も最も少ない。 国土地理院の全国都道府県市区町村別面積調によると、鳥取県の面積は3507.13平方キロメートルである。 国土地理院地理情報によると、鳥取県の東西南北それぞれの端は以下の位置で東西の長さは125.41キロメートル、南北の長さは61.79キロメートルである。 県内ほぼ全域が日本海側気候で、全域が豪雪地帯対策特別措置法に基づく豪雪地帯に指定されている。(県内全域の豪雪地帯は国内最西端。ただし、特別豪雪地帯は指定されていない。) 春と秋は好天の日が多く、夏は南風によるフェーン現象で猛暑日となることもあるが、平野部でも熱帯夜は少ない。 冬は曇りや雨、雪の日が多いが、平野部の1月平均気温は4°C台と東京郊外や愛知県名古屋市、京都市と同じくらいであり、冷え込みは厳しくない。米子市などの西部沿岸部は平年の最深積雪は20センチメートル程度と比較的雪は少ないが、東へ行くほど降雪/積雪量は多くなり、鳥取市では中心部でも平年で40センチメートル以上の最深積雪を観測する。東部では、JPCZ(日本海寒帯気団収束帯)の影響を受けやすい鳥取市や岩美町などの沿岸部のほうが智頭町などの内陸部よりも降雪量が多くなることがある。 特に大山周辺の内陸山地は山陰一の豪雪地帯となっており、冷え込みも厳しく−15°C以下にまで下がることもある。 県域は、かつての因幡国、伯耆国に相当し、4市・5郡・14町・1村がある(町は全て「ちょう」、村は「そん」と読む。)。現在は、東部・中部・西部の3つに区分するのが一般的で、県庁所在地の鳥取市を中心とする東部は旧因幡国、倉吉市を中心とする中部と米子市や境港市を中心とする西部は旧伯耆国。旧因幡の東部に対して、同じ伯耆であった西部と中部を総称して中・西部と二区分にすることもある。また、全国的に行われている市町村合併による新規市制の発足において、新しい名称の市が誕生しなかった数少ない都道府県(他に神奈川県、大阪府、山形県、宮崎県)である。
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鳥取県
鳥取平野を中心とする旧因幡国の区域に相当し、鳥取砂丘や白兎海岸などの景勝地がある。県庁所在地で県唯一の中核市である鳥取市は、液晶工場などが立地する工業都市でもある。 面積:1,518.22km、 推計人口:217,912人、 人口密度:143.5人/km 旧伯耆国の東部、倉吉平野を中心とする区域。白壁土蔵群で知られる倉吉市を中心とし、三朝温泉、はわい温泉、東郷温泉といった温泉地も多い。 面積:780.43km、 推計人口:95,066人、 人口密度:121.8人/km かつての伯耆国西部、米子平野や日野川流域を含む地域。中国地方最高峰で日本百名山の一つ・大山(1,729m)があり、古来から西隣である島根県の旧出雲国地域との結びつきが強い。 面積:1,208.48km、 推計人口:224,020人、 人口密度:185.4人/km 府県予報区は「鳥取県」。一次予報区分は2区分、「市町村等をまとめた地域」は5区分。二次予報区分は鳥取市以外は市町村単位で、鳥取市のみ北部・南部の2つに分かれている。 「鳥取」の語は、『古事記』『日本書紀』の垂仁天皇に「鳥取造(ととりのみやつこ)」や「鳥取部(ととりべ)」が見える。 『古事記』には、大和朝廷が諸国に鳥を捕らえさせ、これを税として納めるように命じていたという一節があり、当時、沼や沢の多い湿地帯であった鳥取平野で水辺に集まる鳥などを捕らえて暮らしていた狩猟民族が、大和国(現・奈良県)に政権ができてからその支配体系に組み込まれ、「鳥取部」として従属するようになり、そこからこの地が「鳥取」と呼ばれるようになったとされる。 『日本書紀』垂仁天皇二十三年九月から十一月の条にかけて「鳥取」の起源説話が見える。誉津別王子(ほむつわけのみこ)が成人しても言葉が喋れないことを天皇が憂いていた時、大空を白鳥が飛んでいるのを見つけ「是何物ぞ」と発した。天皇、喜びて、その鳥の捕獲を命じた。天湯河板挙(あまのゆかわたな)が鳥を追い続け各地を巡り、ついに出雲の地(現在の島根県安来地方だという説が有力)で捕獲に成功した。この功績から「鳥取造」の称号(姓=かばね)を拝命した。『古事記』にも同類の説話が見えるが、結末が違っている。
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鳥取県
『和名類聚抄』の因幡国邑美(おうみ)郡の五郷の一つに鳥取がある。この郷名は、上述の垂仁天皇の王子である本牟智和気御子(ほむちわけみこ)のために設置された鳥取部に由来する。この辺り一帯が沼地で、全国の白鳥伝説との関連が取り上げられている。文書のうえでは、天慶3年(940年)の因幡国高草郡東大寺領高庭庄坪付注進状(東南院文書)に「主張鳥取高俊」(郡司と推定)の署名が初見である。 山陰道:因幡国・伯耆国 大山裾野丘陵から後期旧石器時代の黒曜石製と安山岩製のナイフ形石器や削器、彫器・掻器が見つかっている。今から約2万3千年前以降のものと推測される。また、旧石器時代終わりごろの黒曜石製細石刃と呼ばれる石器が発見されている。このように遺物は少数ながら発見されているが、県内からは人が生活した遺跡はまだ発見されていない。 山名氏の領国であったが、戦国時代末期には毛利輝元と織田信長の係争地となり、信長配下の羽柴秀吉が鳥取城を攻略。配下の宮部継潤が城代を経て正式に鳥取城主となる。伯耆国においては羽柴・毛利氏の和睦により、東部は羽柴氏傘下となった南条元続が、西部は毛利方の吉川氏が所領を安堵された。 因幡国では関ヶ原の戦いで敗れた西軍方であった宮部長熈、垣屋恒総、木下重堅が改易され、代わって亀井茲矩、池田長吉、山崎家盛の3大名が統治した。関ヶ原の戦い以前から鹿野城主であった亀井氏に関しては加増、それ以外の大名は転封された。 伯耆国においても吉川広家(吉川元春の三男)、南条元忠(元続の子)が西軍方として改易・転封処分となり、中村忠一が入部した。慶長14年(1609年)に中村忠一が急死すると、その翌年には加藤貞泰、市橋長勝、関一政の3大名に分割された。この時、河村郡・久米郡は江戸幕府天領(直轄領)となり、山田直時・伊丹康勝が代官として派遣された。また、慶長19年(1614年)には里見忠義が倉吉に配流され、久米郡の一部4,000石が与えられた。 その後、元和4年(1618年)、池田光政が鳥取城に入部し、因伯2国からなる鳥取藩が成立した。このほか、鹿奴藩・若桜藩の2つの新田藩があった。
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鳥取県
その後、元和4年(1618年)、池田光政が鳥取城に入部し、因伯2国からなる鳥取藩が成立した。このほか、鹿奴藩・若桜藩の2つの新田藩があった。 伯耆国汗入郡の大山寺は僧・豪円の活躍によって慶長15年(1610年)、徳川秀忠より寺領3,000石が認められた。この大山寺領は西伯耆一帯に散在し、18ヵ村が大山寺本坊西楽院の管掌下に置かれた。大山寺は鳥取藩士とは別の大山侍と呼ばれる武士を登用し、寺領支配に携わらせた。 全国の都道府県で最も人口が少ない。また全国のどの政令指定都市よりも少なく、千葉県船橋市や埼玉県川口市、鹿児島市などよりも少ない。2021年3月には、県の人口が戦後初めて55万人を割り込んだ。 県外からの移住者は年間2,000人程度で、休暇(バケーション)を楽しみやすい土地で仕事(ワーク)をしてもらう「ワーケーション」を掲げるなどして移住者誘致を図っている。人口密度は全国37位で、鹿児島県・長野県のそれと近い。 一方、1人の女性が生涯に産む子どもの数の平均値である合計特殊出生率は21世紀以降、人口置換水準には届かないものの一貫して全国平均を上回っており、特に2010年代以降は沖縄県、南部九州各県、隣接する島根県などと共に全国トップクラスである。2022年には日本全体の出生数が前年比で約5%減少した中、鳥取県は全国唯一の増加した県となった。 鳥取県の行政機関は、鳥取県庁のほか、地方機関として総合事務所などが置かれている。なお、鳥取市・岩美町・若桜町・智頭町・八頭町については本庁が担当する。伯耆町(旧溝口町)は2005年(平成17年)4月1日に日野総合事務所から西部総合事務所へ、鳥取市(河原町・用瀬町・佐治町)は2007年(平成19年)4月1日に八頭総合事務所から東部総合事務所へ、それぞれ移管された。2013年(平成25年)4月1日に東部・八頭の各総合事務所が本庁に集約、日野総合事務所が西部総合事務所日野振興センターとなった。2014年(平成26年)4月1日に県税部門の一部の業務が特定の県税事務所に集約された。2018年(平成30年)4月1日の鳥取市の中核市移行に伴い、東部福祉保健事務所・東部生活環境事務所が鳥取市に移譲され、鳥取市保健所となった(管轄区域は変更なし。岩美町・若桜町・智頭町・八頭町についても、鳥取県からの事務委託により鳥取市に移譲)。 地方債の残高
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地方債の残高 衆議院の小選挙区が2区ある。参議院では鳥取県選挙区として全県で1区を構成していたが、2016年の第24回参議院議員通常選挙より島根県選挙区と合区され、鳥取県・島根県選挙区となり島根県とともに1区を構成する合同選挙区が創設された。 人口が日本国内で一番少ない県であるため、県内総生産(名目GDP)も2008年4月から2009年3月までのベース(平成20年度の統計)で1兆9927億円と47都道府県では最も小さく、世界の中では国内総生産 (GDP) のランクが90位程度の国と同程度である。なお、これを一人当たりで見ると和歌山県・岩手県のそれに近い。また、一人当たり県民所得は230.4万円であり、全国平均の83.7%である。これは、熊本県・鹿児島県のそれに近い。 ちなみに、鳥取県はスターバックスが未出店である唯一の県だったが、2015年5月23日に同店の鳥取県1号店が鳥取市の鳥取駅南口付近に開業した。これにより、スターバックスは47都道府県全てに店舗を構えることになった。その後、イオンモール鳥取北内にも出店している。 農作物ではスイカ(西瓜)、らっきょう、二十世紀梨など全国的に有名。米や野菜、果物などもバランスよく生産されている。砂丘らっきょう、大山ブロッコリー、こおげ花御所柿、大栄西瓜は地理的表示(GI)登録されている。 海産物では松葉ガニが名産で、「五輝星」(いつきぼし)という県認定ブランド蟹がある。 農業生産額の割合は野菜が全生産額の28.4%で最も多く、米が19.5%、鶏(鶏卵・ブロイラー)が13.6%、乳用牛が10.5%、果実9.4%を占めている。 鳥取県警察本部の管轄にある。2005年(平成17年)4月1日に再編が行われ、以下の9警察署が置かれている。 おおむね、兵庫県境~島根県境までの海岸線に沿った旧山陰道のルートに沿って走る幹線(鉄道の山陰本線や国道9号線)が県内主要都市(もしくはその付近)を通り、鳥取・米子・倉吉の各都市近辺から中国山地・山陽方面へルートが分岐する構造になっている。 県内一帯で普通列車の本数は米子市近郊の一部区間を除いて毎時1本以下となっており、県内における営業列車の運用は臨時列車を除きすべて当日中に終了する(=日付越えの運用は行われていない)。 ()のないものは県内のみを走る路線。
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県内一帯で普通列車の本数は米子市近郊の一部区間を除いて毎時1本以下となっており、県内における営業列車の運用は臨時列車を除きすべて当日中に終了する(=日付越えの運用は行われていない)。 ()のないものは県内のみを走る路線。 日ノ丸自動車、日本交通の2社があり、県内の路線バスや県内各都市と県外を結ぶ高速バスを運行。 どんぐりコロコロは米子第一交通の運行、はまるーぷバスは共立メンテナンスの運行、他3つは日本交通・日ノ丸自動車の共同運行。 鳥取県は、全国で最もバスの利用者が少ない。 島根県の松江市内に松江道路が開通した1998年(平成10年)4月17日以降、鳥取県は長らく「日本で唯一都道府県庁所在都市に高速道路がない県」であったが、2004年(平成16年)11月1日に山陰自動車道青谷インターチェンジのある青谷町を編入合併したため、解消された。 国立 公立 私立 私立 私立 国立 鳥取県・島根県の県域民放各局は互いの県に乗り入れて放送を実施している。詳しくは、「電波相互乗り入れ#乗り入れの経緯とその後」の項目を参照されたい。局名の後の( )内は局所在地。 ※山陰地方には、 ANN(テレビ朝日)系列局やTXN(テレビ東京)系列局などがないため、ケーブルテレビ経由で県外の系列局を視聴する形となっている。なお、テレビ朝日系に関しては、キー局のテレビ朝日が取材拠点としてテレビ朝日米子支局・テレビ朝日鳥取支局を置いている。 鳥取県の方言は、東部・中部と西部で大きく異なる。東部(因幡)の因州弁・中部(東伯耆)の倉吉弁は、兵庫県の北部の但馬弁と共通した特徴を持ち、東山陰方言に分類されている。一方で、西部(西伯耆)の方言は島根県の東部の出雲弁と共通した特徴を持ち、雲伯方言に分類されている。 鳥取商工会議所青年部が提唱し、2017年から使用している。夜間に人工の明かりが少なく、どの市町村からでも天の川が見えることや、鳥取市が星の見えやすさ日本一となったこと、また県が以前から使っている「蟹取県」にちなむ。 これにちなんだブランド米「星空舞」の販売が2019年に始まった。 小惑星(4720) Tottoriは鳥取に因んで命名された。
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長崎県
長崎県(ながさきけん)は、日本の九州地方に位置する県。県庁所在地は長崎市。 五島列島、壱岐島、対馬など数多くの島嶼を含み、47都道府県中最も島が多いことで知られる。また、多島であるうえにリアス式海岸を多く擁することから海岸線の長さは47都道府県中第2位となっている(※「地形」節にて詳説)。 「長崎」という地名の由来は、次のように長崎氏よりといわれている。長崎氏は桓武平氏千葉流(九州千葉氏)の流れを汲む氏族であり、長崎県の名の由来になったことで知られる。現在の長崎県庁舎付近の長い御崎に館を構え、長崎港界隈の深堀から時津までの広い範囲を領していた九州千葉氏の一族が、九州長崎氏を名乗ったことを起源とする説と、代々伊豆国田方郡長崎村を領し、その地名を苗字として、鎌倉の執権である北條氏の筆頭御内人である桓武平氏長崎氏の一人が九州に流れ(九州長崎氏)、長崎湾の奥を領して地侍になったと長崎甚左衛門純景がその系図で主張している説がある。少なくとも長崎小太郎重綱なる人物が、鎌倉初期の嘉禎3年(1237年)ごろには、長埼浦の地頭職を知行する御家人であったことが判明しており、南北朝期以降、長崎氏は桜馬場城(鶴城)に拠り、次第に勢力を拡大していった。 また、その他にも俗説として「訛り」に基づく言い伝えがある。地元では野母崎半島を「長い岬」と称していたが、長崎弁では「長か岬(ながか・みさき)」となり、さらにこれが「なんか・みさき」と転訛し、この語が約まって「長崎」になった、というものである。 東に佐賀県と隣接する他は、周囲を海に囲まれている。2023年発表の国土地理院の調査によると、対馬、壱岐、五島列島などの島嶼が1479あり、その数は日本一である。また、海岸線の長さは4137キロメートル (km) であり、北海道(北方領土を含む)に次ぐ2位(実質日本1位)。面積が北海道の約20分の1である長崎県の海岸線がこれほど長大であるのは、島嶼が非常に多いことに加え、リアス式海岸で海岸線が複雑に入り組んでいるためである。この地形的特徴により、長崎県全域に83箇所の港湾が点在しており、その数は国内の7.4%に及ぶ。なお、長崎県内には海岸線からの距離が15 km以上の地点はない。
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南西方向から暖流の対馬海流が流入してくるため、全般的には気候は温暖で寒暖差も小さい。しかし大陸に近いために寒波の影響を受けやすく、平年を大きく下回るほどに寒さが厳しくなることもあり、真冬日が観測されることもある。冬場は東シナ海側を中心に曇りがちの天気になることが多く、時雨や雪を降らせることがある。積雪することは少ないが、すぐ西側は東シナ海なので季節風(モンスーン)の風向によっては、雪雲が遮られずに供給されることにより大雪となることがある。特に2001年(平成13年)1月16日には長崎市で約14cmの積雪を観測し、過去に約15cmの積雪が5回もあり、2016年(平成28年)1月24日には約17cmの積雪を記録し、県内各地で大雪となった。しかし、九州地方最北端の対馬では朝鮮半島のすぐ南側に位置するため、東シナ海で発生した雪雲は朝鮮半島に遮られる上、朝鮮半島との海上区間はわずか50km程と極端に短いため雪雲は発達せず、降雪日は多いものの積雪することは稀である。 生物的見地から見ると、各地の海岸に見られるアコウなどの亜熱帯性植物は温暖な気候を反映している。他にも大陸に近いためツシマヤマネコやムツゴロウなどの大陸系遺存種が多いこと、各地の離島で多くの亜種・変種が確認されていることなども特徴である。 島原半島は活火山地帯で温泉が多いが、1990年(平成2年) - 1995年(平成7年)の雲仙・普賢岳の噴火は島原市と深江町を中心に大きな被害をもたらした。また、東シナ海に突き出しているため、台風の上陸数も多く、長崎県に限らず、日本列島に大災害をもたらした台風9号(1970年、長崎市)、台風17号(1976年、長崎市)、台風17号(1991年、長崎市)、台風19号(1991年、佐世保市)、台風18号(2004年、長崎市)、台風14号(2005年、諫早市)、台風13号(2006年、佐世保市)などの台風が上陸している。
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長崎県による地域区分 では、長崎地域、県北地域 、県央地域、島原地域、五島地域、壱岐地域 、対馬地域の7つの地域に分けられる。自治体は13市4郡8町がある。「町」の読みは、すべて「ちょう」。2000年(平成12年)の段階では79もの市町村があったが、平成の大合併で2010年(平成22年)4月までに21市町となっている。村は2005年(平成17年)10月1日の大島村の合併に伴って消滅している。 カラー: 長崎半島と西彼杵半島及びその周辺の島々で構成されており、複雑な海岸線をはじめ豊かな自然と美しい景観に恵まれ、西海国立公園及び野母半島県立公園など3つの県立自然公園が指定されている。 鉄道の終着駅や五島列島への海の玄関口である長崎港、長崎空港への海路を結ぶ時津港、県内外の各都市を結ぶ九州横断自動車道を有する県内外の交流において重要な交通結節地域である。 海外との交流の歴史から生まれた、旧グラバー住宅や端島炭坑(軍艦島)などの「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」と、大浦天主堂や外海の出津集落などの「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の2つの世界遺産を有し、さらに、世界・日本新三大夜景に認定された「長崎市の夜景」や、海外との交流によって生まれた出島などの歴史ある優れた観光資源に恵まれている。 製造業においては、船舶製造・修理のほか発電プラントなどの大型機械などを生産する大手事業所があり、周辺には関連する工場や企業が多く集積しているとともに、環境・海洋エネルギー分野への取組が行われている。農業では、温州みかんや、全国一の産出額を占めるビワなどの果樹や養豚の生産が盛んで、水産業では、水揚げの拠点として新長崎漁港が立地し、多くの魚介類が集荷されている中、中国など東アジア向け鮮魚などの出荷も伸びている。また漁港の背後地には水産加工団地や行政・大学の研究機関が立地し、生産・流通・加工・研究・教育にわたる水産基地が形成されている。 カラー:
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カラー: 日本本土の最西端に位置している。西は宇久島、小値賀島から東は伊万里湾に至るまでの海域に数多くの島嶼が点在し、陸地には多くの山岳、丘陵が起伏して海岸線まで迫り、平坦地の少ない複雑な地形を形成している。そのような地理的特性から、西海国立公園や玄海国定公園、大村湾県立公園や北松県立公園などに指定され、九十九島に代表される風光明媚で豊かな自然、中山間地域の棚田など美しい景観に恵まれている。 朝鮮半島や中国大陸に近く、古くから大陸との交易が行われており、遣隋使や遣唐使の寄港地としても知られている。さらに松浦水軍の本拠地として海上交通により一体的に結ばれてきた歴史や元寇の歴史、西洋貿易港として栄えた歴史、日本遺産に認定された佐世保鎮守府が設置され、海軍の街として繁栄してきた多様な歴史がある。 特色ある産業として、造船業、自動車産業などの製造業や日本遺産に認定された三川内焼や波佐見焼といった伝統的な陶磁器産業があり、また近年、航空機関連や情報通信、オフィス系企業など新たな産業分野の発展が期待されている。 カラー: 長崎県のほぼ中央に位置し、橘湾、大村湾、諫早湾と、それぞれ特性の異なる3つの海に囲まれている。轟の滝など優れた渓谷美を有する多良岳県立公園などがあり、多良山系などを源とする長崎県唯一の一級河川本明川水系など、豊かな自然環境に恵まれている。 長崎県立総合運動公園、シーハットおおむらや、スポーツパークいさはやなど、各種スポーツ施設が充実しており、また、近年は本明川下流域が、競技用ボートの練習場などとして利用されている。これらは、県の中央部に位置していることから大会などでの活用も図られます。 製造業の工業団地が集積し、総生産額は、県全体の2割強、うち製造業は4割強のシェアを占め、半導体関連産業などの企業が進出している。 カラー: 有明海、橘湾に囲まれた自然豊かな半島であり、日本で最初の国立公園である雲仙天草国立公園や、島原半島県立公園に指定されているほか、国内第1号の世界ジオパークにも認定されている。 雲仙、小浜、島原と泉質の異なる3つの温泉、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産である「原城跡」や、島原城をはじめとする歴史・文化遺産、豊かな農林水産物など、魅力ある観光資源に恵まれ、県内有数の観光地となっている。
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雲仙、小浜、島原と泉質の異なる3つの温泉、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産である「原城跡」や、島原城をはじめとする歴史・文化遺産、豊かな農林水産物など、魅力ある観光資源に恵まれ、県内有数の観光地となっている。 農業産出額が県全体の4割を超える長崎県を代表する農業地帯であり、野菜や畜産をはじめ、果樹、花きなど、恵まれた気候・土壌条件を活かして、多様な産地が形成されている。また、特用林産物である菌床しいたけの生産も盛んな地域である。 カラー: 九州の最西端に位置し、比較的平坦な福江島を除いて起伏が多く、島々の海岸線は溶岩海岸や砂浜、リアス海岸と変化に富んでおり、海と山が織りなす美しい自然景観は一部が西海国立公園に指定されている。 世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」や日本遺産「国境の島 壱岐・対馬・五島 ~古代からの架け橋~」をはじめとする数多くの歴史・文化遺産に恵まれており、観光産業は基幹産業の一つとなっている。 海洋再生可能エネルギー導入の先進地域として、浮体式洋上風力発電の事業化及び潮流発電の実用化に向けた取組や、メンテナンスサービスなどの関連産業の育成、発電施設を観光資源としたインフラツアーが推進されている。 カラー: 島内最高峰の岳ノ辻をはじめ、奇岩や白砂青松の砂浜など変化に富んだ海岸線が壱岐対馬国定公園に指定されている。特に辰の島など周辺海域はサンゴ類が生育するなど優れた海中景観を有することで海域公園地区に指定されている。 福岡県と対馬市の中間地点で玄界灘に面し、福岡市博多港から芦辺港まで北西67km(ジェットフォイルで約1時間)の位置にあり、福岡都市圏との結びつきが強い地理的な特徴がある。 壱岐にはいくつもの美しい海水浴場があり、県内外から多くの海水浴客が訪れます。古くから大陸文化の中継地として重要な役割を果たし、「国境の島 壱岐・対馬・五島 ~古代からの架け橋~」として日本遺産に認定されるなどの豊かな歴史もあり、観光資源が豊富である。近年は日本のモンサンミッシェルと呼ばれる小島神社など、島内に数多く点在する神社がパワースポットとして新たな観光資源となっている。
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壱岐にはいくつもの美しい海水浴場があり、県内外から多くの海水浴客が訪れます。古くから大陸文化の中継地として重要な役割を果たし、「国境の島 壱岐・対馬・五島 ~古代からの架け橋~」として日本遺産に認定されるなどの豊かな歴史もあり、観光資源が豊富である。近年は日本のモンサンミッシェルと呼ばれる小島神社など、島内に数多く点在する神社がパワースポットとして新たな観光資源となっている。 壱岐地域の第1次産業は、他地域に比べて割合が高く、農業産出額(H30:約70億円)の過半を占める肉用牛は「壱岐牛」として地域団体商標にも登録されるなど子牛繁殖、肥育とともに重要な作目となっている。県内第2位の平野面積を誇る深江田原を中心とした水稲、麦、大豆などの土地利用型作物やアスパラガス、いちごなどの施設園芸農業、葉たばこなども盛んである。 カラー: 全島の89%が森林で占められており、龍良山など全国屈指の原生的な照葉樹林が国指定天然記念物及び壱岐対馬国定公園に指定されている。また、複雑に入り組んだリアス海岸や断崖絶壁が特徴的な浅茅湾一帯も国定公園に指定されている。野生生物では、国の希少野生動植物及び天然記念物に指定されているツシマヤマネコをはじめ、対馬でしか見ることのできない生物や大陸からの流れをくむ生物が数多く生息・生育しており、生物多様性の豊かさを物語っている。 対馬では、第1次産業の就業人口の割合が19.9%となっており、長崎県の7.7%、全国の4.0%と比べて高くなっている。中でも、漁業は15.5%となっており、第1次産業でも大きな割合を占めている。一方、就業者数は、第1次、第2次産業の従事者が減少し、第3次産業の従事者が増加している。 長崎県内には、対馬を除く地域において市町村下の地名の末尾に付する独特の単位が複数存在する。壱岐島では農村集落で「触(ふれ)」、漁村集落で「浦(うら)」、壱岐を除く旧平戸藩領では「免(めん)」、旧大村藩領および五島列島では「郷(ごう)」、旧佐賀藩領および旧島原藩領では「名(みょう)」が付く。 これらの単位の中には市町村合併などで町名の変更があった際に削除されるものも多いが、現在も市町村下の行政区画単位として一部の地域で使われ続けている。 人口は2023年11月1日現在。
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人口は2023年11月1日現在。 古くは肥前国(佐賀県と、壱岐・対馬を除く長崎県全域)、対馬国、壱岐国に分かれていたが、肥前の国府は佐賀県の佐賀市(旧大和町)にあった。 現在の佐世保市に当たる地域からは、福井洞窟や泉福寺洞窟などの遺跡が見つかっており、いずれも日本の史跡となっている。また、旧国見町(現在の雲仙市)には、百花台遺跡群があり、約3万年前に人々が生活した跡や使われていた道具が見つかっている。2003年(平成15年)12月には、平戸市入口遺跡で10万年前の土層から旧石器が見つかり、古くから人が居住していた可能性が考えられる。 縄文時代の遺跡として有名なのが、南島原市(旧南高来郡北有馬町)の原山支石墓群である。そのほか、有喜貝塚、佐賀貝塚、白浜貝塚などが発見されている。 弥生時代の遺跡としては、『魏志倭人伝』に登場する「一支国」と見られる原の辻遺跡は現在の壱岐市芦辺町、石田町にあり、日本の特別史跡に指定されている。また里田原遺跡が発見されており、当時の農業技術を知る上で重要なものの1つである。またこのほか、弥生時代の鉄剣が出土した富の原遺跡(大村市)、塔の首遺跡、日本最古のネコの骨が出土したカラカミ遺跡(壱岐市)などがある。 県内の古墳の数は500を超え、その大半は壱岐に存在し壱岐古墳群として日本の史跡に指定されている。古墳時代初期の古墳としては、対馬市の出居塚古墳、根曽古墳群がある。後期に入ると、大規模な古墳が多くなる。その代表としては壱岐市の鬼の窟古墳があり、これは県内最大の円墳である。このほかには双六古墳(これは県内最大の前方後円墳である)、矢立山古墳群、曲崎古墳群がある。 倭国が朝鮮半島での白村江の戦いに敗れたため、664年に対馬・壱岐などに防人や烽(とぶひ)を置き、唐や新羅からの侵攻に備えた。667年には対馬に金田城が築かれた。 小野妹子をはじめとする遣隋使や遣唐使は、日本の最西北である壱岐や対馬、五島を経由し、朝鮮半島や中国に渡っていた。五島列島は遣唐使南路の出発地として有名である。万葉集には関連した歌が数多く残されている。日本最後の寄港地であった、現在の三井楽町柏崎には、空海の「辞本涯の碑」が建てられている。
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小野妹子をはじめとする遣隋使や遣唐使は、日本の最西北である壱岐や対馬、五島を経由し、朝鮮半島や中国に渡っていた。五島列島は遣唐使南路の出発地として有名である。万葉集には関連した歌が数多く残されている。日本最後の寄港地であった、現在の三井楽町柏崎には、空海の「辞本涯の碑」が建てられている。 12世紀のはじめに入ると、平家の西日本への進出が進み、肥前国の松浦党や九州の武士の多くは平家方につき、松浦党は壇ノ浦の戦いにおいても平家方の水軍として戦った。 中世には松浦党などの海賊衆(水軍)が興り、対馬を含め各地が倭寇の根拠地となった。 1274年(文永11年)(文永の役)、1281年(弘安4年)(弘安の役)の元寇では対馬、壱岐、鷹島に元・高麗軍が襲来したが、「神風」(大型台風)が九州を襲い元軍が退却したのはこれらの島々が破壊しつくされた後であり、これらの島々に神風の恩恵は全く無かった。 室町時代に入り、1419年には応永の外寇、1507年には五島で玉之浦納の反乱が起こっている。 1550年には、ポルトガル船が平戸に来航した。これを知ったフランシスコ・ザビエルは鹿児島を出発し平戸を訪れ、布教を開始した。貿易都市となった平戸であったが、1561年に起きた宮ノ前事件によりポルトガル船は横瀬浦港(現在の西海市)に入港するようになった。ところが2年後の1563年、横瀬浦は武雄領主後藤貴明の焼き討ちに合い、壊滅。ポルトガル船は再び平戸に戻った。しかし、イエズス会の宣教師コスメ・デ・トーレスの意向により、今度は大村領の福田浦(現在の長崎市)に入港することになった。この間、大村純忠はキリスト教の洗礼を受け、初のキリシタン大名となっている。1567年には、ポルトガル船が有馬領の口之津港に入港し、後にセミナリヨが建てられるなど、有馬は九州におけるキリスト教布教の拠点となっていった。大村純忠の兄である有馬義貞も口之津で洗礼を受けている。大村純忠は、ポルトガル貿易を自分の領地で行えるよう働きかけを行い、1571年に貿易港が口之津から長崎に移された。1580年には長崎をイエズス会に寄進した。1582年には天正遣欧少年使節が長崎港を出発し、スペイン、イタリア、ポルトガルを訪問した。
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1588年、豊臣秀吉が長崎などを直轄地とした。2年後には天正遣欧少年使節が長崎に戻り、秀吉に謁見している。1592年には文禄・慶長の役により、松浦鎮信、有馬晴信、大村喜前、宗義智らが朝鮮に出兵している。南蛮貿易を継続させたい意向もあり、強硬な禁教は行っていなかった秀吉であったが、すでにバテレン追放令が出されており、1597年には長崎西坂でカトリック信者26人が処刑されている。二十六聖人という。 17世紀にはいるとオランダ東インド会社、イギリス東インド会社が相継いで平戸に商館を開設している。江戸時代の長崎県は佐賀藩、島原藩(島原半島)、大村藩(彼杵地方)、平戸藩(松浦半島・平戸島・壱岐)、平戸新田藩、福江藩(五島列島)、対馬府中藩(対馬)、佐賀藩家老の諫早陣屋、交代寄合の五島家の富江陣屋、天領(長崎)に分かれる。江戸幕府の鎖国方針により、ポルトガル人は長崎から追放され、1641年にオランダ商館が出島に移った。中国商船の長崎来航も認められており、長崎は鎖国下の日本では数少ない国際貿易港となった。また、対馬藩は幕府から李氏朝鮮との国交の実務を委任される傍ら朝鮮との貿易を公認され、釜山に倭館を置いてこれらの業務を行っていた。このように、今の長崎県域には、鎖国時にも幕府公認で海外へ開かれていた港が2箇所存在した。なお、鎖国下における江戸幕府公認の国際貿易港は上記2港のみである。 1637年島原の乱が起こった土地だけに江戸期を通じて隠れキリシタンが多く存在した(壱岐・対馬を除く)。現在でも、人口に対するキリスト教信者の割合が日本の他地域と比べて多い地域 となっている。しかし、第二次世界大戦中に投下された原子爆弾は教会(浦上教会)のすぐ近くに落ち、原爆落下当日は教会で8月15日の聖母の被昇天の祝日に向けて「ゆるしの秘跡」が行われていた為、司祭をはじめ教会内にいた信徒全員が死亡し、その他にも多数の信徒が犠牲になったことなどから、信仰に悩みを持ったままの人や棄教した人も多く存在する。2013年現在でも、爆心地跡には教会の残骸が一部だけ保存されている。
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長崎県
幕末の長崎港開港によって各国商船が来航し、長崎は国際貿易港として更に発展を遂げる事となった。それまでは遠国奉行首座たる長崎奉行が治めていた長崎であったが、「鳥羽・伏見の戦い」に於ける幕府軍敗戦の報を聞いた長崎奉行河津祐邦は慶応4年(1868年)1月15日早朝に長崎を船で脱出。これを受けて、長崎詰めの各藩藩士や長崎の地役人達の間に協議が行われ、政府から責任者が派遣されるまでの間の暫定協議体として「長崎会議所」の設置が決定され、長崎奉行所西役所がその役所とされた。 江戸幕府崩壊後の慶応4年(1868年)2月2日には澤宣嘉を総督に長崎裁判所が、5月4日には沢を府知事に長崎府が設置され、肥前国松浦郡5村・彼杵郡6村・高来郡5村、筑後国三池郡12村、肥後国天草郡89村の幕府領および肥後国松浦郡の旗本領5村を管轄。明治2年(1869年)6月20日にはこれが長崎県へと改められ、旧肥前国域は明治4年(1871年)の第1次府県統合の際に長崎県と伊万里県(現佐賀県)とに分立した。その後、佐賀県の統廃合の影響で徐々に長崎県の県域は拡大し、1874年(明治7年)の佐賀の乱後には、政府による懲罰によって佐賀県全域が長崎県に併合されることとなる。1883年(明治16年)、佐賀県の復県によって10の郡が長崎県より分離し、おおよその現在の長崎県が成立した。 なお、天草諸島は一時、富岡県(のち天草県に改称)に移管されたのち、いったん長崎府に復帰し、第1次府県統合で八代県(現・熊本県)に移管された。 佐世保は日本海軍の大規模な軍港となり、長崎では戦艦武蔵が建造されるなど造船が発達した。第二次世界大戦末期、1945年(昭和20年)6月29日(未明)に佐世保大空襲があり、1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分 (JST) 米国陸軍爆撃機B-29ボックスカーによって長崎市に原子爆弾が投下され、広島市とともに原爆被災地となった。 1948年(昭和23年)9月10日、県内に集中豪雨。佐世保市で402mmを記録した。同じく豪雨に襲われた佐賀県と合わせて死者166人、行方不明者67人。数日後にはアイオン台風が県内を襲い、さらに死者数が増加した。
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長崎県
1948年(昭和23年)9月10日、県内に集中豪雨。佐世保市で402mmを記録した。同じく豪雨に襲われた佐賀県と合わせて死者166人、行方不明者67人。数日後にはアイオン台風が県内を襲い、さらに死者数が増加した。 1960年の約176万人をピークに人口減少が続いており、特に1990年代以降に減少ペースを上げている。特に長崎県は離島を多く抱えているが、そのいずれも同じ長崎県内の他都市よりも福岡市との関係が深く、そちらへの流出が多いことが県全体の減少率を上げている要因となっている。 全国的に各都道府県内の最大都市への人口集積が進む傾向の中、長崎県は数少ない例外的な存在であり、県庁所在地の長崎市(2010年代以降年間1%近いペースで人口が減少しており、全国の県庁所在都市の中でも青森県青森市と共に特に人口減少が著しい)よりも大村市や諫早市の方が人口成長率が高い。 五島、壱岐、対馬には県の出先機関として支庁を設置していたが、2003年(平成15年)に地方局に再編された後、2009年(平成21年)からは本土と同様の振興局となっている。 平成20年度(2008年 - 2009年)の県内総生産は4兆3109億円である。これは世界の過半数の国の国内総生産 (GDP) よりも規模が大きい。県民所得は3兆1070億円であり、一人当たり県民所得は215.7万円である。 県庁所在地長崎市は歴史を誇る港湾都市で、観光客が多い。戦艦武蔵を建造した造船の町でもある。 県第2の市である佐世保市は昔からの軍港があり、現在も海上自衛隊や米第7艦隊の基地があるほか、陸上自衛隊も駐屯している。また、南部にはヨーロッパの町並みを模した観光施設ハウステンボスがあり、韓国や台湾からの観光客も多い。 その他の地域もかつては炭鉱、底曳き網などの漁業基地、宝石サンゴ漁などにより繁栄したが、1970年代ごろからそれらの産業が徐々に振るわなくなり、過疎化が進んだ。2000年代となっても過疎化は進行中で、産業の振興が重要課題となっている。 県内唯一の株式上場企業であった十八銀行が、2019年3月27日に東京証券取引所第一部・福岡証券取引所本則市場の上場を廃止したことに伴い、長崎県は株式上場企業が一社もない唯一の都道府県となった。なお、リンガーハット(東証プライム上場)は登記上の本店は長崎市であるが、本社機能は東京都にある。
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長崎県
県内唯一の株式上場企業であった十八銀行が、2019年3月27日に東京証券取引所第一部・福岡証券取引所本則市場の上場を廃止したことに伴い、長崎県は株式上場企業が一社もない唯一の都道府県となった。なお、リンガーハット(東証プライム上場)は登記上の本店は長崎市であるが、本社機能は東京都にある。 なお、壱岐・対馬地区は経済圏としては長崎や佐世保ではなく福岡に属する。 2010年11月30日、産学官関係団体の連携を強化し、産学官の研究開発などを推進することにより、持続的・発展的にイノベーションを創出するシステムを構築し、科学技術による産業振興及び県民生活の向上に寄与することを目的として、長崎“新生”産学官連携コンソーシアム(通称NRC:Nagasaki Renaissance Consortium)が設立された。会長は長崎県知事、副会長は長崎大学長。 国内外の路線に就航する大手航空会社や格安航空会社の他に、県が設立した第三セクターの航空会社をルーツとするオリエンタルエアブリッジが離島と本土を結んでいる。 長崎県内で旅客輸送を行っている鉄道・軌道は以下の通り。 国立(1大学) 公立(1大学) 私立(6大学) 私立(1大学) 私立(2大学) 国立 県立 国立 長崎県を放送対象地域とするデジタルテレビ・FMラジオの親局・およびNBCラジオのFM補完放送のメイン中継局は、いずれも稲佐山に置かれている。 開局順に表記。(チャンネルは地上デジタル放送のもの) 長崎県名誉県民の称号は、1980年(昭和55年)10月13日に制定された長崎県名誉県民条例(長崎県条例第28号)に基づき、「社会・文化の興隆に著しい功績がある者」へ贈られる(条例第1条)。対象者は「公共の福祉の増進又は学術、技芸の進展に寄与し、もって県民の生活及び文化に貢献し、その功績が卓絶して」おり、「県民が郷土の誇りとして、ひとしく尊敬」し、「本県(長崎県)に居住している者又は居住していた者」であり(条例第2条)、長崎県知事が長崎県議会の同意を得て選定することが定められる(条例第3条)。名誉県民に選定された者には、顕彰状や記念品の金盃も併せて贈られるほか(条例第4条)、知事が定める礼遇や特典を受けられる(条例第5条)。
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長野県
長野県(ながのけん)は、日本の中部地方に位置する県。県庁所在地は長野市。 令制国名の信濃国にちなみ、信州とも呼ばれている。海に面していない内陸県であり、日本アルプスを始め大規模な山岳地があるため可住地面積率は低い。キャッチフレーズはしあわせ信州。 現在の長野県の県域は、令制国の信濃国にほぼ相当する。そのため現在の長野県も「信州」(しんしゅう)と呼ばれることが多く、特に観光ガイドでは「信州」と呼ぶ。古代では科野(しなの)と書いた。 古くから東山道、中山道が横断し、東日本と西日本を繋ぐ交通の要所であったことから、信州へ通ずる道や旅路のことを信濃路・木曽路と呼んだ。現在でも風光明媚な古道や山間の宿場町の遺構などが各地に残存している。丘陵や山脈がそびえ立ち旅行者の通行を困難にさせたことから、旅行者の安全を守る道祖神の遺跡も多く点在する。 前述のように丘陵や山脈が多く自然条件の厳しい地域であった一方で、明治以後は鉄道などの開通により三大都市圏からのアクセスが良好になったことから、近代以降は軽井沢や上高地を筆頭とした高原リゾート・山岳リゾートが多いことでも知られる。「日本三大外国人避暑地」に数えられた軽井沢と野尻湖を筆頭に、日本アルプス、菅平高原、白馬村など、在留欧米人に余暇活動の拠点として見出された歴史を持つ場所は多い。また諏訪盆地(東洋のスイス)、下栗の里(日本のチロル)、国道299号(メルヘン街道)など欧米に関連した別名を持つ地域も多数あり、長野県の山岳は他面では欧米の山岳風景を思わせ異国情緒を感じさせる地域にもなっている。 日本の都道府県のなかでトップクラスの長寿の県として知られ、2020年現在、都道府県別健康寿命では男女共に1位であった。 長野県は本州の中部に位置しており、周囲8県に隣接し、東西約128キロメートル、南北約220キロメートルと、東西に短く南北に長い県域である。県内の南半分は太平洋側に近く、南信州地域の多くは東京よりも南であり、県の最北端は那須塩原市やいわき市とほぼ同緯度である。長野県の面積は13,562.23平方キロメートルであり、これは南関東1都3県の面積の合計に近く、日本の都道府県では、北海道、岩手県、福島県に次いで4位の面積を持っている。
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長野県
本県は群馬県・埼玉県・山梨県・静岡県・愛知県・岐阜県・富山県・新潟県と8つの県と隣接し、隣接都道府県数8は、47都道府県で最多である。ただし、これらの県とは陸続きでありながら、その間の交通によっては往来が必ずしも簡単ではない場合がある。例えば、埼玉県と県境が接している長さは10キロメートル程度しかなく、川上村道192号梓山線のみでしか直接的な行き来ができない。また、富山県とは陸続きで接しているものの、3,000メートル級の北アルプスが立ちふさがっており、地形的に険しく、また非常に山奥であるため空路か関電トンネル電気バスでしか往来ができず、一般人は自家用車両による往来は不可能である。これ以外に車両が往来できない県境として群馬と福島との県境が挙げられる。また、地形的な問題などで飯田市と静岡県静岡市、松本市と下諏訪町、王滝村と大桑村など陸続きでありながら往来できない市町村が多数ある。 県境を越える事が地形的に難しい理由として、長野県は中央部を高地が占める山地型の地形ではなく、むしろ北西の県境の飛騨山脈、南東の県境の赤石山脈の標高が高く、間の幾つかの盆地(伊那谷、松本盆地、佐久盆地、長野盆地など)を中心とした地域である点が挙げられる。県境付近の山々は「日本の屋根」とも呼ばれ、標高2,000メートルから3,000メートル級の高山が連なっている。ただ、長野県の中央部も平坦というわけではなく、内部にも山岳が多数見られる、急峻で複雑な地形である。これは日本列島が新期造山帯であること以外に、長野県付近が、北アメリカプレートとユーラシアプレートとのプレート境界に近い事と無関係ではない。なお、本州を縦断する糸魚川静岡構造線(糸静線)が県下を南北に走り、糸静線の東側は第三紀層が分布している。糸静線沿線の諏訪湖からは中央構造線が南に走っている。このようなこともあり、善光寺地震を始め、多数の地震を経験してきた。また、長野県内には活火山も複数存在する。
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長野県
自然地理学の分野では、長野県付近は中部地方の中央高地として分類される。内陸県で本州の中では降水量の少ない地域もあるものの、本州が日本海と太平洋とに挟まれており、さらに、長野県の急峻な地形と相まって河川を維持するのに充分な降水はあり、県内には数多の水源を擁する。県内には大小多数の河川が見られ、それぞれの河川が山々を侵食した地形も多数見られる。長野県に流域を持つ一級河川としては、信濃川水系・天竜川水系・木曽川水系・姫川水系・矢作川水系・富士川水系・関川水系・利根川水系がある。なお、県内には太平洋と日本海の分水嶺が存在している。例えば、天竜川(南信、諏訪湖を水源とし伊那谷を通る)、木曽川(中信)は南下して太平洋へ注ぐ。また例えば、千曲川(東信、北信)、犀川(中信)は長野市で合流して北上し、県境を越えて信濃川と名称を変えて日本海へ注ぐ。姫川(中信)も日本海へと流れている。 なお、県下の最大人口を誇る都市は長野市の38万7146人であり、最大面積の自治体は松本市の978.77平方キロメートル、最大人口密度の自治体は岡谷市の620.27(人/平方キロメートル)、最大昼間人口比は軽井沢町の117.8%であった。 土地利用としては、長野市、須坂市および上高井郡小布施町、松本市、塩尻市の4都市計画区域で区域区分による市街化調整区域が設定されている。 盆地・谷 山地 山 峠 川 湖沼 長野県は内陸に位置するため、おおむね内陸性気候で、標高の高い地域もあるため中央高地式気候と言われる。ただし、北信地方の大半と、中信地方・東信地方の一部は日本海側気候の特色を併せ持つ。逆に、中信地方の一部と南信地方は太平洋側気候の特色を併せ持つ。また、長野県の各都市は標高が異なり、さらに山脈や盆地の形状などの影響で、気候に修飾を受けるため、気候に違いが見られる。 ただ、全体的に冬の冷え込みは日本の同緯度付近の内陸県と比べると厳しい。中でも、軽井沢、信濃町、志賀高原、菅平高原、八ヶ岳山麓、開田高原、野辺山高原、上高地などの標高が高い地域は、ケッペンの気候区分では亜寒帯湿潤気候(Df)であり、通年で北海道並みの気候である。また特に標高の高い場所では北極圏並みの寒さの地域もある。
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長野県
ただ、全体的に冬の冷え込みは日本の同緯度付近の内陸県と比べると厳しい。中でも、軽井沢、信濃町、志賀高原、菅平高原、八ヶ岳山麓、開田高原、野辺山高原、上高地などの標高が高い地域は、ケッペンの気候区分では亜寒帯湿潤気候(Df)であり、通年で北海道並みの気候である。また特に標高の高い場所では北極圏並みの寒さの地域もある。 夏は、長野市や松本市などの盆地部においては日中の気温は東京とほとんど変わらず、時には猛暑日も観測されるものの、朝晩は涼しく、熱帯夜が観測される日はほぼ皆無に等しい。 降水量も地域差が大きく、東信地方から北信地方にかけては年間900ミリメートル前後と少ないが、中信地方から南信地方にかけては年間1,500ミリメートルに達する。 降雪に関しては、北信地方、中信地方、東信地方の一部地域は、豪雪地帯または特別豪雪地帯である。県の南北で降雪条件が異なる。長野県には「上雪(かみゆき)」「下雪(しもゆき)」と言われる雪の降り方がある。「上雪(かみゆき)」は、普段ならば雨の降るはずが、南岸低気圧が通過することによって、気温が低下して雪となる現象で、低気圧に近い中・南信や東信で降雪量が多くなる。「下雪(しもゆき)」は冬の強い季節風の吹き出しによって降る雪のことで、長野県の北部の雪の降り方で、西高東低の日本付近における冬型の気圧配置の場合に降雪し易い、いわゆる日本海型の降雪である。なお、南信地方の伊那谷は、飯田市の旧南信濃村地域を除き雪は少ないものの、寒暖の差が激しい。 地方気象台による警報・注意報は、原則として各市町村ごとに発表される。ただし、松本市は「松本」および「乗鞍上高地」、塩尻市は「塩尻」および「楢川」に別けて発表される。 長野県は、日本のほぼ中央に位置しているが、東西の分類では中部電力など一部の企業や団体で西日本に分類されることもあり、文化的・歴史的・人口の比率・面積の比率からして東日本に分類されることもある。地方の分類では中部地方、甲信地方、信越地方、甲信越地方、北信越地方などがある。 県による区分では地方事務所の管轄に準じて10地域に細分化される。 (人口は2023年11月1日現在) 都市雇用圏(10%通勤圏、中心都市DIDが1万人以上)の変遷 北信(北信、長野) 東信(佐久、上田) 中信(松本、木曽、北アルプス)
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長野県
県による区分では地方事務所の管轄に準じて10地域に細分化される。 (人口は2023年11月1日現在) 都市雇用圏(10%通勤圏、中心都市DIDが1万人以上)の変遷 北信(北信、長野) 東信(佐久、上田) 中信(松本、木曽、北アルプス) 平成の市町村大合併は、他県ほど実施されず、中小自治体が櫛比する。ただし、広域連合制度が県内全市町村で活用されており、一部事務組合による広域行政も活発である。2005年(平成17年)には長野県から岐阜県中津川市へ越県合併の事例もあった。 明治の大合併の際にも合併件数は少なかったが、これは地租改正の時期に小規模な村の合併が進んだことが理由である。地租改正でできた広大な村に通し番号で地番を振ったため、県内では地番が5桁になることも珍しくない。また、町村名の次に番地が来る住所も多い。 北信(北信地域、長野地域)、東信(佐久地域、上田地域)、中信(松本地域、木曽地域、北アルプス地域)、南信(上伊那地域、南信州地域、諏訪地域)の4地域は、自然地理や歴史や交通などの各面で、特徴がまったく異なっている。 これは、「信濃の国」(県歌)における「松本、伊那、佐久、善光寺」の4区分にも象徴されている。大まかに分けると、北信、東信、中信、南信は、それぞれ長野県の北部、東部、西部、南部の地域となっており、北信と南信を除いて4地域は互いに接している。 北陸新幹線・信越本線・飯山線・小海線や国道18号・上信越自動車道の沿線である北信と東信は、千曲川流域でおもに中山道と北国街道沿線にあたる。 北信は、新潟県・群馬県に接しており、戦国時代には村上氏・武田氏・織田氏・上杉氏の支配圏に置かれてきた。善光寺街道沿いであった経緯や北陸新幹線・上信越自動車道で接続していることから、新潟県、群馬県、東京とのつながりが深い。 近年では、首都圏からの観光客も多く訪れている。また、中信とは長野自動車道・篠ノ井線により接続している。北信は長野盆地を中心とした地域であり、新潟県に近いことから、海水浴で日本海へ行く者も多い。
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長野県
近年では、首都圏からの観光客も多く訪れている。また、中信とは長野自動車道・篠ノ井線により接続している。北信は長野盆地を中心とした地域であり、新潟県に近いことから、海水浴で日本海へ行く者も多い。 一方の東信は、群馬県・埼玉県・山梨県に接しており、戦国時代には武田氏・織田氏・徳川氏・北条氏・真田氏の支配権に置かれてきた。中山道と北国街道の合流点であった歴史的経緯や北信と同様に北陸新幹線・上信越自動車道で接続していることから、浅間山や碓氷峠を越えた群馬県、東京との交流も深い。 また、野辺山高原を経由する国道141号・小海線によりつながる山梨県との交流も深い。山梨県との間には現在、中部横断自動車道が整備中である。三国峠 (長野県・埼玉県)を経由して、埼玉県とも接しているが、道路事情が悪いため物流はほとんどない。道路で雁坂峠の国道140号が開通する前には、碓氷峠 - 東信 - 山梨県 - 静岡県大井川以東のルートが、国道16号圏内を経由せずに関東地方内を迂回する最短ルートとなっていたために、関東志向がもっとも強い地域になっている。 これらに対して、中央本線・飯田線・大糸線や中央自動車道・長野自動車道の沿線である中信と南信は、中山道、甲州街道、千国(ちくに)街道(糸魚川街道、松本街道)、北国西街道、三州街道沿線にあたる。 中信は、新潟県・富山県・岐阜県に接しており、戦国時代には小笠原氏・仁科氏・木曾氏を経て、武田氏・織田氏の支配権に置かれてきた。中山道、甲州街道、千国街道(糸魚川街道、松本街道)、三州街道の沿線であったことから、新潟県、岐阜県、山梨県、愛知県、東京都との交流が深い。 北国西街道沿線には長野自動車道が整備されており、長野地域と接続している。中信地域の北部に位置する北アルプス地域は、飛騨山脈のすぐ東側に位置しており、登山・スキーなどの観光が盛んで、日本最大規模の八方尾根スキー場や、栂池高原スキー場があり、長野オリンピックの会場にもなった。観光の面では、関東地方からだけでなく関西地方からの観光客も多い。
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北国西街道沿線には長野自動車道が整備されており、長野地域と接続している。中信地域の北部に位置する北アルプス地域は、飛騨山脈のすぐ東側に位置しており、登山・スキーなどの観光が盛んで、日本最大規模の八方尾根スキー場や、栂池高原スキー場があり、長野オリンピックの会場にもなった。観光の面では、関東地方からだけでなく関西地方からの観光客も多い。 また、国道147号・国道148号を経由してつながる新潟県との交流もあり、山岳観光ルートの立山黒部アルペンルートにより富山県とも接している。また、中信地域の中部に位置する松本地域(中信)は、諏訪地域(南信)とともに中山道と甲州街道の沿線として発展した地域で、山梨県、東京都、岐阜県(東濃、飛騨)との交流が深い。中信地域の南部に位置する木曽地域(中信)は、広域の名古屋圏(中京圏)であり、歴史的に中世以前は美濃国に属し江戸時代には尾張藩領であったことや、国道19号(中山道)を通して、岐阜県・愛知県と接続しているため、経済や文化の面でつながりが深い。 一方、南信は、山梨県、静岡県、愛知県に接しており、戦国時代には諏訪氏・武田氏・織田氏・徳川氏の支配圏に置かれてきた。中山道、甲州街道、三州街道の沿線であったことから、山梨県、東京都、静岡県、愛知県との交流が深い。諏訪地域は、松本地域(中信)とともに中山道と甲州街道の沿線として発展した地域で、山梨県、東京都、岐阜県(東濃)との交流が深い。 また、南信州地域(南信)は、広域の名古屋圏(中京圏)であり、中央自動車道・国道153号(三州街道、足助街道)を通して、岐阜県東濃地方、愛知県名古屋・尾張・西三河地方、さらには三重県と接続しているため、経済や文化の面でつながりが深い。 さらに、南信州地域では、静岡県・愛知県東三河地方とも隣接しているが、道路事情が悪いため、物流が発達していない。現在、三遠南信自動車道(飯田市 - 浜松市)を建設中であるが、全通するかは未定である。また、JR飯田線、国道151号線で、新城市・豊川市を経て豊橋市に出られる。 水系は、北信・中信(松本地域、北アルプス地域)・東信(一部を除く)が日本海側水系に属するのに対して、南信・中信(木曽地域)・東信(佐久市・立科町・南牧村の一部)は太平洋側水系に属している。
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水系は、北信・中信(松本地域、北アルプス地域)・東信(一部を除く)が日本海側水系に属するのに対して、南信・中信(木曽地域)・東信(佐久市・立科町・南牧村の一部)は太平洋側水系に属している。 一般に、南信州地域、木曽地域は名古屋志向が強く、その他の地域は東京志向が強い。近世以前は中山道沿いという面で信濃国全体でまとまりがあったが、明治時代に東京が首都になり交通が整備されると、 という3地域に区分できるようになった。 ただし長野新幹線開通により北アルプス地域の住民の多くはバスで長野駅まで行き新幹線利用に代わってきている。 長野県域では旧石器時代の遺跡がいくつか発掘調査されている。その中の野尻湖遺跡群(立ヶ鼻遺跡)から人類が活躍していたことを示す槍状木器・骨器・剥片石器などの遺物が発見されている。この遺跡はナウマンゾウやオオツノシカなどの大型哺乳動物を解体したキルサイトと推定されている。時期は約2万5000年前から3万年前のものである。全国で発見されている斧形石器の約4分の1にあたる239点を出土し、刃の部分を砥石で研磨したものが多く、世界でももっとも古い磨製石器と言われている。そのほか、この時代の遺跡としては仲町(信濃町)・日向林B(信濃町)・石子原(飯田市)遺跡が発見されている。 2000年代の前半に竹佐中原(たけさなかはら)遺跡(飯田市)が発掘・調査されている。この遺跡の石器集中地点4か所から石器を含む800点あまりの旧石器時代の遺物が出土した。この石器包含層の自然科学分析(火山灰分析、植物珪酸体分析、炭素14年代測定、光ルミネッセンス年代測定など)が行われ「3万年より古く5万年より新しい」という結果が出た。今までは、日本列島に人々が居住し始めたのは後期旧石器時代の約3万年前以降であると考えられていたが、この遺跡の発掘調査で中期旧石器時代の終わりごろ(3万年前から5万年前)には本県に人々が生活を始めていたことが証明された。 2万年前以降では剥片石器を特徴とする石器群が県内各地から発見されるようになる。後期旧石器時代が終わるころには日本で最初の細石刃が矢出川遺跡(南牧村)で見つかっている。
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2万年前以降では剥片石器を特徴とする石器群が県内各地から発見されるようになる。後期旧石器時代が終わるころには日本で最初の細石刃が矢出川遺跡(南牧村)で見つかっている。 有史以前、県内には縄文時代の遺跡が多数分布し、この時代の中心地のひとつであった。茅野市で発掘された土偶は2体が国宝とされている。また小県郡長和町の和田峠は日本における黒曜石の代表的な産地であり、諏訪郡原村の阿久遺跡は最古級の環状集石とされている。 続く弥生文化は、まず東海地方から長野県南西部へと伝わり、その後、日本海側の北陸地方から北部へと伝わったと考えられている。この2ルートでの波及が原因かは不明であるが、中野市の柳沢遺跡からは、東日本では唯一となる一緒に埋納された銅鐸と銅戈が出土している(銅鐸と銅戈が一緒に出土したのは日本全国でも数例しかなく、また大阪湾型と九州型の銅戈が混在していることもきわめて稀なケース)。 長野県は県歌「信濃の国」において「松本、伊那、佐久、善光寺」と歌われる4つの盆地に、上田盆地と諏訪盆地を含めた6か所に人口の大半が居住する。それぞれの盆地において、一つないしは二つの中規模都市が盆地とその周辺の山間部全体の核としての役割を果たしており、県内における増減率の地域差は比較的小さい。ただし全体が町村で占められる山間部の木曽地域は人口減が激しい他、最大都市長野市を中心とする北信地方、第二都市松本市を中心とする中信地方、第三都市上田市・第四都市佐久市のある東信地方と比べて、南信地方はやや減少率が高い。 などの計43団体に県が出資または出捐している(2009年〈平成21年〉4月現在)。 田中県政については独善・独裁的という見方もある一方で、それまでの長野県政の悪弊(たとえば、県議会の多数を占める自民党が、少数会派の意見を無視して乱開発などを進めていく手法)を打破したという点では評価する向きもあり、賛否は分かれる。 村井県政は田中県政と比較して、「閉ざされた県政」「県政の後戻り」などと批判される一方で、議会や県職員との対立を避ける姿勢(全国のほとんどの都道府県知事がこうしている(いわゆる「オール与党」体制))を評価する向きもあり、田中県政同様に賛否は分かれている。 本社を置く企業についてはCategory:長野県の企業を参照。
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村井県政は田中県政と比較して、「閉ざされた県政」「県政の後戻り」などと批判される一方で、議会や県職員との対立を避ける姿勢(全国のほとんどの都道府県知事がこうしている(いわゆる「オール与党」体制))を評価する向きもあり、田中県政同様に賛否は分かれている。 本社を置く企業についてはCategory:長野県の企業を参照。 首都圏や中京圏といった消費地に近いことや高原の気候を活かした高品質の葉物野菜の生産が盛んである。レタス、セロリ、ハクサイなどは全国有数の産地となっている。寒冷地のためかつては熱帯原産の植物であるイネの生産には不向きで、ソバの栽培が盛んであったため県内には蕎麦食文化が色濃く残っている。昭和以降は品種改良や育苗によってイネの栽培が可能となり、大河川に面する佐久市、松本市、伊那市などを中心に稲作が行われている。現在の主力品種はコシヒカリ。明治以降は果樹の栽培も盛んになり、特にリンゴとブドウは全国的にも有名、品種改良も盛んに行われ県内生まれの品種も複数存在する。 かつては養蚕が盛んだったためにクワもよく栽培されていた。クワはカイコの餌となるだけでなく、実は食用にでき生糸を採るために繭ごと茹でられたカイコの蛹も貴重なたんぱく源として食用や家畜や養魚の飼料とされた。
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かつては養蚕が盛んだったためにクワもよく栽培されていた。クワはカイコの餌となるだけでなく、実は食用にでき生糸を採るために繭ごと茹でられたカイコの蛹も貴重なたんぱく源として食用や家畜や養魚の飼料とされた。 林業は全国的には特にカラマツの生産で有名。カラマツは主たる原産地が長野県であり浅間山周辺や八ヶ岳に天然分布している。昭和以降本県から種を持ち出し北海道や東北地方各県で大規模に植林されており、県内においても主力樹種として各地で植栽が続けられている。他にも南信の天竜川沿いはスギのブランドである天竜杉の産地であるし、木曽地域はヒノキの名産地としても知られる。アカマツは特にブランド化されていないものの、面積としては多いためマツタケの発生も多く全国一の生産量を誇る。2000年以降アカマツに致死性の伝染病であるマツ材線虫病(松くい虫)が県内に侵入しアカマツが枯死する被害が拡大しており生態系やマツタケの生産に影響が懸念されている。長野県はマツタケに限らずキノコが好きな人が多いことで有名で、カラマツ林に生えるハナイグチは方言名でリコボウ、ジコボウなどと呼ばれ秋の味覚として親しまれている。この2種に限らず秋になると産直やスーパーに栽培法が確立していない菌根性キノコの天然採取品が出回る。栽培可能なキノコではエノキタケとブナシメジの生産が全国一である。 内陸県である長野では淡水魚を食べる文化があり養魚施設も県内に多数ある。魚種としてはかつてはコイがよく知られており、前述のようにカイコの蛹を粉砕したものを餌とすることもあった。昭和以降はコイに変わりサケ科淡水魚が注目され、品種改良や養殖技術の研究が続けられてきた。ニジマスとブラウントラウトを掛け合わせた三倍体の「信州サーモン」を開発、県の水産試験場が完全養殖に成功させたことから和名に「信濃」が入るシナノユキマス(原産はポーランド)などがある。
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工業は明治期から昭和期は生糸産業が盛んだった。精密機械(かつては時計や光学機器が主体であったが、1980年代以降情報通信機械器具、電子部品・デバイスなどに変化している)は諏訪地域を中心に精密機械や電子産業が盛んであり、高地で気候が類似し、高級ブランド時計の本場であるスイスになぞらえ、「東洋のスイス」の異名を取ったこともある。 食品関係では、日本酒、ワイン、シードル、ペリーや味噌の醸造、ウイスキー作りに必要なモルトウイスキーやグレーンウイスキーの蒸溜、飲料をはじめとする食料品製造業が盛んである。法令系の企業が集積し、地方としては出版、印刷が多いことも特徴である。 第1次産業 第2次産業 第3次産業 プライム上場 スタンダード上場 グロース上場 現在、13の消防本部がある。 中部電力をはじめ、東京電力リニューアブルパワー、東北電力、関西電力、電源開発などの水力発電所がある。 県企業局による発電事業として14の発電所があり、伊那市に南信発電管理事務所、長野市に北信発電管理事務所が設置されている。 送配電は長野県の全域が中部電力パワーグリッド(本社は名古屋市)の送配電区域である。60Hzの電源周波数の区域が大半を占めるものの、小諸市高峰高原、大町市の一部、小谷村の一部、松本市奈川、松本市安曇の一部、安曇野市穂高の中房温泉、飯山市の一部、栄村の一部などでは50Hzとの混在区域がある。 長野県内の都市ガス事業はこれまで長野県営によるものと、東京ガスによるものが規模の大きなものとされてきたが、2006年(平成18年)に長野県営のガス事業(長野県企業局)が民営化され、新たに設立された長野都市ガスに事業が移管された。その後、2006年(平成18年)7月1日をもって、東京ガスが長野県内で行っていた事業(同社長野支社の業務も含む)がすべて長野都市ガスに統合された。長野都市ガスは東京ガスグループに属している。 上記も含め、長野県内の主な都市ガス供給業者は下記の通り。 それ以外の水道事業は各市町村の当該部課や、水道局(地方公営企業)および水道企業団(一部事務組合)などが供給している。 長野県は古くから、中山道、北国街道、甲州街道など、国内を東西南北を結ぶ交通の交差点に位置し、その流れから現在においても主要幹線交通が交わる。
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上記も含め、長野県内の主な都市ガス供給業者は下記の通り。 それ以外の水道事業は各市町村の当該部課や、水道局(地方公営企業)および水道企業団(一部事務組合)などが供給している。 長野県は古くから、中山道、北国街道、甲州街道など、国内を東西南北を結ぶ交通の交差点に位置し、その流れから現在においても主要幹線交通が交わる。 また、広く山国の長野県において、県内各地を結ぶ交通網は重要な機能を担っている。関東地方や近畿地方からの距離があり、広大な面積を持つ県であるため、全国で唯一JR本州3社すべての管轄路線が存在している。特に伊那谷と木曽郡は、首都圏(東京)と畿内(大阪・京都)から等距離に位置している。 1990年代前半の高速道路(中央自動車道・長野自動車道・上信越自動車道)や新幹線(北陸新幹線)が開通する前まで、地理的事情などによる他県や首都圏・中京圏などへのアクセスのしづらさから「陸の孤島」と呼ばれていた。 また、以下のご当地ナンバーが2025年に導入予定 なお、上田市、松川町、喬木村は、市町村内において独自のデザインナンバープレートを採用している。 長野県は、旧国鉄の線路がJR本州3社に分割された唯一の都道府県である。これは、県内に長野鉄道管理局が設置されていたものの、同管理局は長野県内全域を管轄していた訳ではなく、県内でも飯田線は全線が静岡鉄道管理局の、大糸線の南小谷駅以北が金沢鉄道管理局管内だった名残である。おもに東日本旅客鉄道(JR東日本)が北信・東信・中信(木曽地域と北アルプス地域北部を除く)地方および諏訪地域を、東海旅客鉄道(JR東海)が南信(諏訪地域を除く)、木曽地方を管轄している。また、西日本旅客鉄道(JR西日本)は南小谷駅以北の大糸線非電化区間を管轄している。普通列車の本数は長野・松本両市のごくごく近郊の区間 および東信地域 を除いて毎時1本以下である。 内陸県で唯一、空港を有する。 長野県は以前は教育に熱心で「教育県」と呼ばれていたが、日本の教育システムが偏差値重視教育へシフトするにつれ、次第に長野県の「教育県」イメージは薄れていった。
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内陸県で唯一、空港を有する。 長野県は以前は教育に熱心で「教育県」と呼ばれていたが、日本の教育システムが偏差値重視教育へシフトするにつれ、次第に長野県の「教育県」イメージは薄れていった。 2002年(平成14年)度より田中県政下において、公立小学校の30人規模学級が進められ、2005年(平成17年)度には、小学校1 - 4年生の4学年にまたがる完全30人学級が、全額県の費用負担により全国で初めて実現した。また小学校5、6年生に関しては、市町村と共同で行われている。 本県の中学校では、宿泊日程の高山登山行事が伝統となっている。詳細については「学校登山」を参照。長期休みに関しては、長野県の気候の関係による「寒中休み」も一部の学校で実施されているが、冬休みや夏休みなどの長期休業が短いため、ほかの都道府県よりも年間休日数が少なく、その分登校日が多くなっている。 長野県の県立高校の正式名称は、高等学校設置条例(昭和39年12月28日長野県条例第64号)第2条により「長野県○○高等学校」となっており、「長野県立○○高等学校」といった「県立」の名称は用いない。これは北海道、宮城県と同様である。1920年に旧制の県立学校の名称から「立」の字を削除するとした「県令第38号」が出された時に遡及するものであり、長野県の場合、学制改革当時は組合立や町村立の高校であっても県立と区別せず、「長野県○○高等学校」を名乗っていた例があり、市町村立や組合立の高校が順次県立に移管されていった経緯がある。 四年制大学進学者のうち、県内大学への進学率は1987年には8.0%(全国ワースト2) であったが、1990年代以降、四年制大学の開学が相次ぎ、2013年には16.4%(全国ワースト5) まで改善している。 国立 公立 私立 私立 私立 国立 その他教育機関 本県の周囲には飛騨山脈と呼ばれ「日本の屋根」とも呼ばれ、標高2,000メートルから3,000メートル級の高山が連なっている。みすずかる信濃の国の美しく厳しい自然の中でたくさんのことを学び、登山の素晴らしさを存分に感じ、「また山に登りたい」という気持ちになってほしいと願って、ほとんどの中学校で集団登山を行なっており、多くの子どもたちが登山を初めて経験する場となっている。
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私立 国立 その他教育機関 本県の周囲には飛騨山脈と呼ばれ「日本の屋根」とも呼ばれ、標高2,000メートルから3,000メートル級の高山が連なっている。みすずかる信濃の国の美しく厳しい自然の中でたくさんのことを学び、登山の素晴らしさを存分に感じ、「また山に登りたい」という気持ちになってほしいと願って、ほとんどの中学校で集団登山を行なっており、多くの子どもたちが登山を初めて経験する場となっている。 本県においても親の意識の変化で学校を取り巻く環境も変わってきたが、明治時代以来、中学生の学校登山を実施している 。しかし、2004年以降医師の付き添い同行が廃止されるなどにより実施校が減少しているとの報告がある。 県外からも東京都文京区に所在し、1873年に師範学校の付属小学校として設立された筑波大学附属小学校の6年生全員が清里高原「若桐寮」に、仲間と協力することの大切さや困難に挑む力を育むものとして八ヶ岳に親しむ清里合宿に毎年訪れている。大人は引率者として見守るだけグループに分かれて自由行動。どこで何をするかはグループ内で考えさせることを行っている。 日本新聞協会によれば、2007年上半期の購読部数は信濃毎日新聞(約48万)、読売新聞(約6.9万)、朝日新聞(約6.1万)、中日新聞(約4.8万)、日本経済新聞(約3.4万)の順であった。 都市名表記なしの場合はすべて長野市に本局・本社を置く。 長野県で民放テレビの4局目が開局したのは1991年である。190万人以上の人口を抱えていた22都道府県で、民放テレビ4局目が開局したのは長野県が最後だった。それ以降もテレビ東京・TXN系列局は存在しないが、ケーブルテレビによる区域外再放送で在京キー局のテレビ東京(下伊那地域ではテレビ愛知)が視聴可能である。なお、関東・甲信越地方では唯一すべての民放テレビ局で終夜放送は災害・特番を除いて一切行われていない。 長野県の地上波テレビ・FMラジオの県域放送の親局及びSBCラジオのFM補完中継局のメイン送信所は、いずれも美ヶ原に設けられている。また、2007年に全民放局の本社が長野市内に集結した。
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長野県の地上波テレビ・FMラジオの県域放送の親局及びSBCラジオのFM補完中継局のメイン送信所は、いずれも美ヶ原に設けられている。また、2007年に全民放局の本社が長野市内に集結した。 長野県内のケーブルテレビ局の数は、日本の都道府県の平均よりも多く、加入者も県内全世帯の半数を超え、局数も20局以上存在する。これは県内に山地が多く、難視聴地域も多数存在していたために発達したと考えられる。 しかし、ケーブルテレビが発達して間もない時期は、局数が少なかった。そのために、難視聴地域解消という目的以外にも、県内外の情報格差是正を目的に県内主要ケーブルテレビ各局は、長野県域民放局の再送信に加え、在京民放キー局(下伊那地域の一部では在名民放基幹局)の再送信(いわゆる区域外再放送)を実施した。この区域外再放送は、県内に民放が4局開局して情報格差が是正されてからも長く続いたが、2011年の地上デジタル放送完全移行により、基本的にデジタル放送では、区域外再放送を中止する方針が出されたことを受け、テレビ東京分および南信地区における在名局受けの地域を除き2014年7月24日を以って廃止された。 みすずかるは、長野県人が、一人でもいると歌いだす歌である。長野県の名勝を一巡した歌である。デューク エイセスが、歌っていた。長野県に伝わる民謡は木曽節である。全国に知られる木曽踊りは、木曽義仲の供養のために行われ、鎧兜の姿で松明行列の後に、木曽節に合わせて踊ったのが始まりと云われていて、風情のある民謡として慕われている。。 木曽のナァー なかのりさん 木曽のおんたけ ナンチャラホーイ 夏でも寒い ヨイヨイヨイ 袷ナァー なかのりさん 袷やりたや ナンチャラホーイ 足袋そえて ヨイヨイヨイ 心ナァー なかのりさん 心細いよ ナンチャラホーイ 木曽路の旅は ヨイヨイヨイ 笠にナァー なかのりさん 笠に木の葉が ナンチャラホーイ 舞いかかる ヨイヨイヨイ 木曽のナァー なかのりさん 木曽の名木 ナンチャラホーイ ひのきにさわら ヨイヨイヨイ ねずにナァー なかのりさん ねずにあすひに ナンチャラホーイ こうやまき ヨイヨイヨイ 三里ナァー なかのりさん 三里笹山 ナンチャラホーイ 二里松林 ヨイヨイヨイ 嫁ごナァー なかのりさん 嫁ごよくきた ナンチャラホーイ 五里の道 ヨイヨイヨイ
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木曽のナァー なかのりさん 木曽の名木 ナンチャラホーイ ひのきにさわら ヨイヨイヨイ ねずにナァー なかのりさん ねずにあすひに ナンチャラホーイ こうやまき ヨイヨイヨイ 三里ナァー なかのりさん 三里笹山 ナンチャラホーイ 二里松林 ヨイヨイヨイ 嫁ごナァー なかのりさん 嫁ごよくきた ナンチャラホーイ 五里の道 ヨイヨイヨイ 木曽のナァー なかのりさん 木曽の山寺 ナンチャラホーイ 今鳴る鐘は ヨイヨイヨイ 昔ナァー なかのりさん 昔ながらの ナンチャラホーイ 初夜の鐘 ヨイヨイヨイ 木曽のナァー なかのりさん 木曽の名所は ナンチャラーホイ 棧寝覚 ヨイヨイヨイ 山でナァー なかのりさん 山で高いのは ナンチャラホーイ 御嶽山 ヨイヨイヨイ 踊ナァー なかのりさん 踊ましょでえ ナンチャラホーイ 踊らせましょぞ ヨイヨイヨイ 月のナァー なかのりさん 月の山端に ナンチャラホーイ かぎるまで ヨイヨイヨイ 木曽でナァー なかのりさん 木曽で生まれた ナンチャラホーイ なかのりさんは ヨイヨイヨイ 可愛ナァー なかのりさん 可愛がられて ナンチャラホーイ みやこまで ヨイヨイヨイ 長野県は沖縄県と同様に、公営競技場および投票券場外発売場が1つもない県である。そのため、テレビなどではローカルで「レースガイド」が放送されることは滅多にない(しかし、NBSにおいてフジテレビ系列日曜午後の競馬番組(みんなのKEIBA)・フジテレビ系列日曜未明の競馬番組(うまズキッ!)の中央競馬関連番組はネットしている)。また隣県の競馬・競輪・競艇場などのローカルCMが県内民放各局で流れる。 長野県県民栄誉賞は、2015年(平成27年)に創設された賞で、県表彰規則では「個人又は団体で、広く県民に敬愛され、県の名を高めるとともに、県民に明るい希望を与えることに特に顕著な功績があったもの」を対象にしている。
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新潟県
新潟県(にいがたけん)は、日本の中部地方に位置する県。県庁所在地は新潟市。 本州の中北部に位置し、北東から南西へ細長い領域を持つ。離島の佐渡島・粟島も擁する。日本有数の米所として知られる。 面積は約12,584 kmで、47都道府県のうち第5位。海岸線の長さは約634.0 kmである。 人口は約210万人で、47都道府県のうち第15位(2019年推計値時点)。詳細は「#人口」節で後述。 日本の地域区分では中部地方あるいはより細分して北陸地方(北陸4県)として扱われることがある。一方、行政機関の地方支分部局では、財務省では関東財務局、経済産業省では関東経済産業局、農林水産省外局の林野庁では関東森林管理局、厚生労働省では関東信越厚生局、環境省では関東地方環境事務所の管轄区域である。これに対して農林水産省では北陸農政局、国土交通省では北陸地方整備局や北陸信越運輸局の管轄区域である。なお、水力発電の歴史的経緯から、電力やそれに付随する経済分野では東北地方と一括りに扱われることもある(詳細は東北地方#東北電力と「東北7県」を参照)。 関東甲信越(広域関東圏)や信越地方と呼ばれるように、関東地方や隣接する長野県との関係性が深い。早い時期から上越新幹線や関越自動車道などのインフラが整えられ、大都市の中では東京とのつながりが大きい。 県内は地理的観点から、一般に次の上越地方・中越地方・下越地方・佐渡地方の4地域に大きく区分される。 詳細は「#地域」節で後述。 主な都市として、人口の上位3市は次の通り。これらは各地方の最大都市でもある。 ほか、人口の多い順に、新発田市・三条市・柏崎市・燕市・村上市・南魚沼市・佐渡市・十日町市などがある(人口5万以上のもの。2021年1月1日時点)。 詳細は「#都市」節で後述。 県名は、県庁所在地である新潟市に由来する。 古代には、越国(こしのくに)の領土であった。 五畿七道においては北陸道のうち東半分を占め、令制国(旧国)における越後国(えちごのくに)と佐渡国(さどのくに)の2国の全域に相当する。この国名を合わせて越佐(えっさ)と呼称することもある。
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新潟県
詳細は「#都市」節で後述。 県名は、県庁所在地である新潟市に由来する。 古代には、越国(こしのくに)の領土であった。 五畿七道においては北陸道のうち東半分を占め、令制国(旧国)における越後国(えちごのくに)と佐渡国(さどのくに)の2国の全域に相当する。この国名を合わせて越佐(えっさ)と呼称することもある。 明治維新と廃藩置県の直後には、現在の新潟県にあたる領域には13個もの藩や県が並立していた。のちに統合を経て、1876年(明治9年)までに新潟県(旧)と柏崎県と相川県との3県が合併することで、ほぼ現在の新潟県と等しい区域となった。 そして1886年(明治19年)に福島県から東蒲原郡が新潟県へと移管されたことで、現在の新潟県の形が成立した。 詳細は「#歴史」節を参照。 県章は「新」の字を崩した物を中央上に置いて、その周りを「ガタ」を丸く図案化したもので囲んだものである。また、県章とは別にシンボルマークも制定されている。 以下の5県と隣接する。 北西は日本海に面する。北東から南西までは朝日山地・越後山脈・頸城山塊などの山々に囲まれ、他県との県境を形成する。 越後山脈から流れる信濃川や阿賀野川の流域(県の中北部)に、越後平野が広がる。信濃川は日本で最も長い河川である。越後平野は日本で二番目に広い沖積平野であり、日本海沿岸の平野としては最大である。 また頸城山塊の焼山から流れる関川の流域(県の西部)には、高田平野が広がる。 県内全域が日本海側気候に属し、豪雪地帯(一部特別豪雪地帯)の指定を受ける。冬季は日照時間が短く、曇天の日が多いが、晩春から初秋にかけての日照時間は太平洋側の地域と比較して長く、好天の日が多い。 下越地方を流れる阿賀野川を境として、西側では気候・風土が北陸地方型、東側では東北地方型とされる。 山間部の降雪量や積雪量は世界的に見ても有数と言え、津南町や十日町市、魚沼市などでは市街地でも積雪深の平年値が2 mを超えるほか、十日町市松之山では4 mを超える積雪深もしばしば観測される。また、上越市板倉区の柄山集落では1927年2月に818 cmの積雪深があったとされ、これは人里での最高記録とも言われる。一方、沿岸部の積雪は比較的少なく、沿岸部に市街地がある新潟市中央区や柏崎市の中心部では1月でも積雪深0〜数cmの日が続く年もある(詳細は新潟市の地理#雪を参照)
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夏季の気温は高く、多くの地域で最暖月の平均気温が24~26 °Cの範囲に入り、2度前後緯度が低い関東地方に近い水準である。台風シーズンにはフェーン現象の影響を受け、時に異常とも思える高温を観測することがある。2020年9月3日には三条市や胎内市において9月として国内最高となる40°C超えの気温を観測したほか、2019年8月15日には糸魚川市や佐渡市相川など県内の複数地点で最低気温が30°Cを下回らず、日本国内における最低気温の最高を記録することとなった。 佐渡島では、海洋の影響をより強く受ける。相川の最寒月平均気温は4.0°Cであり、新潟県本土側に比較して温暖と言える(本土の寺泊は2.6°C)。最暖月平均気温は25~26°C程度と本土側と同水準であるが、海洋性気候の影響を強く受けるため気温の日較差は小さく、最高気温の平均値は30°Cを下回る。 気象庁所管では東京管区気象台の下に新潟地方気象台があり、北陸4県を統括する予報中枢官署となっている。季節予報などでは「北陸地方」または「北陸東部」として扱われる。 県内の地域区分として、上越地方、中越地方、下越地方、佐渡地方の4つへの分け方が浸透している。新聞、テレビ、県広報バックナンバーなどで使用されているほか、新潟県内の小学校社会科参考資料として使用されることもある。 天気予報もこの4地域単位で報道され、気象警報・注意報はさらに細部化された14の地域 ごとに発表される。 この他、新潟県内では、一般に、中越地方と下越地方の境界付近に位置する三条市・燕市周辺を県央地域、中越地方の南魚沼市、小千谷市や十日町市周辺を魚沼地域、下越地方の阿賀野川以北を阿賀北や県北と呼ぶこともある。 県内には2000年(平成12年)の段階では、112の市町村があった(当時北海道、長野県に次ぎ全国3位)。しかし平成の大合併により、2010年(平成22年)4月までに30市町村となっている。 郡部については、岩船郡が2村を有する他は、全てが1町村のみの状態になっている。 以下の20市9郡6町4村がある。町はすべて「まち」、村はすべて「むら」と読む。
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県内には2000年(平成12年)の段階では、112の市町村があった(当時北海道、長野県に次ぎ全国3位)。しかし平成の大合併により、2010年(平成22年)4月までに30市町村となっている。 郡部については、岩船郡が2村を有する他は、全てが1町村のみの状態になっている。 以下の20市9郡6町4村がある。町はすべて「まち」、村はすべて「むら」と読む。 1969年策定の新全国総合開発計画(新全総)を発端とする広域生活圏(広域市町村圏)が、新潟県内では14圏域(当初は12圏域)設定され、広域行政単位となっていた。平成の大合併以降は圏内一市となる例が出現したため、9つの広域行政圏と5つの市という内訳になったが、連携中枢都市圏構想・定住自立圏構想など新制度の登場などもあり、多くが解散した(圏内一市の場合、圏名は斜体 )。 新潟県は、かつて人口が日本で最も多い道府県であった。本県の範囲がおおむね現在と等しくなった1874年(明治7年)から1896年(明治29年)までの23年間にわたって、本県の人口は統計上約140万人から170万人で推移し、そのうち8年間を除いた15年間において全国の道府県で最多の住民を擁した。 具体的には、1874年に新潟県(当時の管轄は下越のみ)が柏崎県(管轄は上越・中越)を併合して、越後国のほぼ全域を管轄したのち、さらに1876年に相川県(佐渡島の全域)を併合した。この3年間において本県は人口が最多であった。 ただし、翌1877年(明治10年)から1881年までの5年間にかけては、石川県が富山県の全域および福井県の嶺北地方を併合した「大石川県」となっていた ため、1位の座は石川県に譲った。 その後、石川県から福井県・富山県が相次いで独立し、石川県の人口が小さくなったことで、1882年(明治15年)から1883年(明治16年)にかけて新潟県が最多となった。 ただ、翌1884年(明治17年)から1886年(明治19年)までの3年間には、大阪府が奈良県の全域を併合していた ため、1位は大阪府に譲った。なお、この1886年に東蒲原郡(現在の阿賀町)が福島県から新潟県へと移管されたことで、本県の範囲は現在と等しくなった。
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