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イラン
2. 私立男子中学校で行われた科学発表会 研究発表を行うにあたって、発表内容を全て暗記し、一人一人の訪問者に対して口頭で説明を行うという方法がとられていた。もし、このような発表会が日本であった場合に第一に考えられる方法は発表内容を全て大きな紙に書き壁に貼ることであっただろう。イランにおいて、研究内容を紙に書いて壁に貼るという習慣がないわけではない。しかし、そういった研究発表はあくまで個人的に行われるものであり、学校全体やグループを形成して行われるものではない。研究発表はあくまでも口頭で行われるのが普通である。 3. イランにおける小学校一年生向けのペルシア語の教科書 そこでは、文字教育よりも音声教育が優先していることがわかる。一年生の教科書の最初の数ページには、文字ではなく、絵だけが描かれている。最初の授業において教師はいきなりアルファベットの学習を始めることはない。授業の最初に教師は絵を見ながらペルシア語で絵に合わせた物語を語り、正しいペルシア語の発音の仕方などを教える。 イラク・アフガニスタン及びパキスタンとの国境地帯並びにシスタン・バルチスタン州の一部の地域を除き、治安状況は首都のテヘランを含めて概ね平穏に推移しているが、2020年1月3日アメリカによるイラン革命ガード高官の殺害を端緒とする米・イラン関係の緊張状態が続いており、不測の事態が発生する恐れを孕んでいる。 またイラン国内において犯罪件数等に関する統計は公表されていないが、各種報道に照らすと一般犯罪は慢性的に発生しているものと見られている。 国家法執行司令部(英語版)が主体となっている。 この組織はかつて存在していたイラン国家憲兵隊(英語版)という警察組織を前身としている。 1979年のイラン・イスラム革命後、シャリーアに基づく政治体制が導入されたこともあり、同性愛者・非ムスリムの人権状況は大きく低下した。
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国家法執行司令部(英語版)が主体となっている。 この組織はかつて存在していたイラン国家憲兵隊(英語版)という警察組織を前身としている。 1979年のイラン・イスラム革命後、シャリーアに基づく政治体制が導入されたこともあり、同性愛者・非ムスリムの人権状況は大きく低下した。 憲法では公式にシーア派イスラムの十二イマーム派を国教としており、他のイスラムの宗派に対しては“完全なる尊重”(12条)が謳われている。一方非ムスリムに関しては、ゾロアスター教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒のみが公認された異教徒として一定の権利保障を受けているが、シャリーアにおけるイスラムの絶対的優越の原則に基づき、憲法では宗教による差別は容認されている。バハイ教徒や無神論者・不可知論者はその存在を認められておらず、信仰が露呈した場合は死刑もありうる。また非ムスリム男性がムスリム女性と婚外交渉を行った場合は死刑なのに対し、ムスリム男性が同様の行為を行った場合は「鞭打ち百回」であるなど、刑法にも差別規定が存在する。イスラムからの離脱も禁止であり、死刑に処される。2004年にはレイプ被害を受けた16歳の少女が死刑(絞首刑)に処された。なお加害者は鞭打ちの刑で済んだ。 女性に対してはヒジャーブが強制されており、行動・性行為・恋愛などの自由も著しく制限されており、道徳警察による服装の取締りが行われている。イラン革命前では欧米風の装束が男女ともに着用されていたが、現在では見られない。同性愛者に対しては共和国憲法で正式に「ソドミー罪」を設けており、発覚した場合は死刑である。 またイランの刑罰においてもシャリーアに基づくハッド刑の中には、人体切断や石打ちなど残虐な刑罰が含まれており、さらに未成年者への死刑も行われている。 イランにおけるこれらの状況は、世界の多数の国の議会・政府、国際機関、NGOや隣国のイラク国民からも人権侵害を指摘され、人権侵害の解消を求められている。
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またイランの刑罰においてもシャリーアに基づくハッド刑の中には、人体切断や石打ちなど残虐な刑罰が含まれており、さらに未成年者への死刑も行われている。 イランにおけるこれらの状況は、世界の多数の国の議会・政府、国際機関、NGOや隣国のイラク国民からも人権侵害を指摘され、人権侵害の解消を求められている。 しかし、近年ではイラン人男性がヒジャブを着用し始める動きが表れ出している。これは、イランの活動家であるマシュー・アリネジャード(Masih Alinejad)が「女性に対するヒジャーブ強制を傍観している訳にはいかない」とし、「イラン国内における疑わしい状況に注意を向けよう」という趣旨の元でユーモアを交える形でアクションを起こしているものだとして報道されている。 イランで最初に出た新聞は、Mirza Saleh Shiraziを編集長とする、アフタル紙である。これは1833年に創刊された。1851年には官報としてVagha-ye Ettafaghiheh(臨時報という意味)が出ていることから、イランの新聞の歴史は古いことがわかる。1906年に憲法が発布され、民間新聞紙の発行もようやく多くなったが、そのなかで有力なものは、Soor-e Israfili, Iran-e Now, Islah, Barq, Watanなどでイラン社会の改革に大きく寄与した。だが言論の自由はなお強く抑圧されていたため、多くの新聞は海外で発行されていた。例えばHikmat(エジプト)・Qanun(ロンドン)・Hablul-Matin(カルカッタ)・Sorayya(エジプト)・Murra Nasruddin(チフリス)・Irshad(バクー)などである。
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第二次世界大戦中の1941年に連合国軍隊がイランに進駐、新聞の自由が大いに強調されたが、モサッデグ首相が失脚した1953年から、再び新聞への統制が強化された。1955年に成立した新聞法によれば、新聞雑誌の発行には内務省の許可を得なければならない。発行者は30歳以上のイラン人で、少なくとも3ヶ月以上続刊できるだけの資力を持っていなければならない。官公吏は芸術、文芸に関するもののほか、新聞雑誌を刊行することはできない。許可期間は6ヶ月で、各新聞は6ヶ月ごとに許可を更新する必要がある。反乱、放火、殺人を先導したり、軍事機密をもらしたりした場合のほか、反イスラーム的な記事を載せたり、王室を侮辱する記事を掲載した場合は、それぞれ6ヶ月以上2年以下の禁固刑に処せられる。また、宗教・民族の少数者を差別した記事を載せた場合の罰則もある。さらに厚生省が医薬の広告を厳重に監視している点も、イランの特色である。 通信社は1937年に外務省が設立したパールス通信があり、現在も政府管轄下にある。 新聞には朝刊紙と夕刊紙が存在し、朝刊紙で発行部数が多いのは『ハムシャフリー』であり、『イーラーン』、『ジャーメ・ジャム』、『アフバール』などが続き、夕刊紙で有力なのは『ケイハーン』、『エッテラーアート』などである。 エッテラーアート イランではメジャーな新聞。刊行されている新聞のなかで最も歴史が古い。1871年創刊。エッテラーアートとは、ニュースの意味である。 このエッテラーアートの英語版としてみなされているのが、1935年に創刊の『The Tehran Jounal』である。 ケイハーン ケイハーンは大空または世界の意で、世界報ということろである。1943年に創刊された。エッテラーアートよりは野党よりの傾向がある。 その他にもテヘラン市役所で出版されているハムシャフリー、テヘランに本拠を置く英字新聞『テヘラン・タイムズ』等がある。 イランにおけるラジオの導入は1940年に設立されたテヘラン・ラジオに遡り、テレビの導入は1958年に始まった。イラン革命後、現在の放送メディアは国営放送のイラン・イスラム共和国放送 (IRIB) に一元化されている。
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その他にもテヘラン市役所で出版されているハムシャフリー、テヘランに本拠を置く英字新聞『テヘラン・タイムズ』等がある。 イランにおけるラジオの導入は1940年に設立されたテヘラン・ラジオに遡り、テレビの導入は1958年に始まった。イラン革命後、現在の放送メディアは国営放送のイラン・イスラム共和国放送 (IRIB) に一元化されている。 イランでは全メディアが当局による直接・間接の支配を受けており、文化イスラーム指導省の承認が必要である。インターネットも例外ではないが、若年層のあいだで情報へのアクセス、自己表現の手段として爆発的な人気を呼び、イランは2005年現在、世界第4位のブロガー人口を持つ。 また海外メディアの国内取材も制限されており、2010年にイギリスBBCの自動車番組トップ・ギアのスペシャル企画で、出演者とスタッフが入国しようとした際は、ニュース番組ではないにもかかわらずBBCという理由で拒否されたシーンが放送されている。 イランは文化、すなわち美術、音楽、建築、詩、哲学、思想、伝承などの長い歴史がある。イラン文明が数千年の歴史の波乱を乗り越えて今日まで連綿として続いてきたことは、まさしくイラン文化の賜物であった、と多くのイラン人が考えている。 イランのイスラーム化以降は、イスラームの信仰や戒律が文化全般に影響を及ぼしている。イスラームのシーア派を国教とするイラン革命後の現体制下では特にそれが強まり、法的な規制を伴っている。例えば書籍を販売するには、イスラムの価値観に合っているかが審査される。 米料理が多く食べられる。また、カスピ海やペルシャ湾から獲れる海鮮、鳥・羊・牛などの他、駱駝等も用いる肉料理、野菜料理など、種類も豊富である。最もポピュラーなのは魚・肉などを串焼きにするキャバーブである。野菜料理は煮込むものが多い。ペルシア料理研究家のナジュミーイェ・バートマーングリージー(Najmieh Batmanglij)は、自著『New Food of Life』で「イラン料理はペルシア絨緞同様に、色彩豊かでかつ複雑である。他の中東料理と共通する部分は多いが、もっとも洗練され、創意に富むといわれる」と述べている。 イラン革命以前は飲酒が盛んであり、現在でも密かに飲まれている。
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イラン革命以前は飲酒が盛んであり、現在でも密かに飲まれている。 ペルシア文学は高く評価される。ペルシア語は2500年にわたって用いられ、文学史上に明瞭な足跡を残している。イランにおいては詩作が古代から現在まで盛んであり続け、中世の『ライラとマジュヌーン』のニザーミー、『ハーフェズ詩集』のハーフィズ、『ルバイヤート』のウマル・ハイヤーム、『シャー・ナーメ』のフィルダウスィー、『精神的マスナヴィー』のジャラール・ウッディーン・ルーミーらのように、イラン詩人らの詩美は世界的に注目を浴びた。 20世紀に入ると、ペルシア新体詩をも乗り越え、ノーベル文学賞候補ともなったアフマド・シャームルーや、イラン初の女流詩人パルヴィーン・エーテサーミー、同じく女流詩人であり、口語詩の創造を追求したフォルーグ・ファッロフザードのような詩人が現れた。 小説においても20世紀には生前評価を得ることはできなかったものの、『生き埋め』(1930年)、『盲目の梟』(1936年)などの傑作を残したサーデグ・ヘダーヤトが現れた。 イスラーム化以後、イラン世界ではイスラーム哲学が発達した。11世紀には中世哲学に強い影響を及ぼしたイブン・スィーナー(ラテン語ではアウィケンナ)や哲学者にしてスーフィーでもあったガザーリーが、17世紀には超越論的神智学を創始したモッラー・サドラーが活動した。 クラシック音楽においては新ロマン主義音楽作曲家として『ペルセポリス交響曲』などイラン文化を題材とした作品を書いたアンドレ・オッセンや、指揮者であり、ペルシャ国際フィルハーモニー管弦楽団を創設したアレクサンダー・ラハバリらの名が特筆される。 ポピュラー音楽に於いてはイラン・ポップと総称されるジャンルが存在する。ロックは禁止されているが、テヘランのロック・バンド Ahoora のアルバムはアメリカやヨーロッパでも発売されている。その他には、127、Hypernova、Angband、Kiosk、The_Yellow_Dogs_Band などのバンドや、Mohsen Namjoo、Agah Bahari、Kavus Torabi らのミュージシャンも国内外で広く活動をしている。
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イラン映画は過去25年間に国際的に300の賞を受賞し、全世界的に評価されている。イランにおいて初の映画館が創設されたのは1904年と早く、イラン人によって初めて製作されたトーキー映画はアルダシール・イーラーニーによる『ロルの娘』(1932年)だった。イラン革命以前のモハンマド・レザー・パフラヴィーの治世下ではハリウッド映画やインド映画が流入した一方で、『ジュヌーベ・シャフル』(1958年)で白色革命下の矛盾を描いたファッルーフ・ガッファリーや、『牛』(1969年)でヴェネツィア国際映画祭作品賞を受賞したダールユーシュ・メフルジューイーのような社会派の映画人が活動した。 現代の著名な映画監督としては、『友だちのうちはどこ?』(1987年)、『ホームワーク』(1989年)のアッバース・キヤーロスタミー(アッバス・キアロスタミ)や、『サイレンス』(1998年)のモフセン・マフマルバーフ、『駆ける少年』のアミール・ナーデリー、『風の絨毯』のキャマール・タブリーズィー、『ハーフェズ ペルシャの詩』(2007年)のアボルファズル・ジャリリなどの名が挙げられる。アスガル・ファルハーディー監督の映画『別離』(2011年)は、ベルリン国際映画祭の金熊賞とアカデミー賞の外国語作品賞を受賞した。 イランにおける服飾文化はいくつかの王朝時代や歴史毎に異なる面を持つ。現在のイラン地域で織物が登場した際の正確な年代や日付は2023年現在でもまだ判明されていない状態であるが、紀元前の文明の出現と一致する可能性が高いことが示唆されている。 イランの建築は、様々な伝統と歴史から、構造および芸術における観点の両方で非常に深い多様性を示している。同国において伝統的なペルシャ建築は継続性を維持するもの、近代的な建築は革新を追求するものとして区分けされている。 イラン国内には数多くの史跡が存在し、積極的にユネスコの世界遺産への登録が行われている。 2014年6月の時点でイランのUNESCO世界遺産登録物件は17件に達し、その全てが文化遺産である。括弧内は登録年。 イラン暦の元日にあたる春分の日に祝われる新年(ノウルーズ)の祝祭は2009年にユネスコの無形文化遺産に登録されている。
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イラン国内には数多くの史跡が存在し、積極的にユネスコの世界遺産への登録が行われている。 2014年6月の時点でイランのUNESCO世界遺産登録物件は17件に達し、その全てが文化遺産である。括弧内は登録年。 イラン暦の元日にあたる春分の日に祝われる新年(ノウルーズ)の祝祭は2009年にユネスコの無形文化遺産に登録されている。 イラン国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、1970年にサッカーリーグのペルシアン・ガルフ・プロリーグが創設された。イランサッカー協会(FFIRI)によって構成されるサッカーイラン代表は、これまでFIFAワールドカップには6度出場しているが、いずれもグループリーグ敗退となっている。しかしAFCアジアカップでは、最多優勝の日本代表に次いで3度の優勝を飾っている。イランの国民的英雄として知られるアリ・ダエイは「ペルシアン・タワー」の異名を持ち、1993年から2006年にかけて国際Aマッチに149試合出場し、ポルトガル代表のクリスティアーノ・ロナウドに次ぐ109得点をあげている。 イランは、夏季オリンピックにはガージャール朝時代の1900年パリ大会で1人の選手により初出場しており、その後の空白期を経て1948年のロンドン大会から復帰した。冬季オリンピックには1956年コルチナ・ダンペッツオ大会で初出場を果たした。イランの国技はレスリングでありアジア屈指の強豪国として知られており、2012年ロンドン大会では金メダル3個を含む計6個のメダルを獲得した他、2021年東京大会までで獲得した全76個のメダルのうち47個をレスリングが占めている。
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チュニジア
チュニジア共和国(チュニジアきょうわこく、アラビア語: الجمهورية التونسية)、通称チュニジアは、北アフリカのマグリブに位置する共和制国家。西にアルジェリア、南東にリビアと国境を接し、北と東は地中海に面する。地中海対岸の北東・東にはイタリア領土のパンテッレリーア島やランペドゥーザ島、シチリア島がある。地中海の島国マルタとも近い。首都はチュニス。 アフリカ世界と地中海世界とアラブ世界の一員であり、アフリカ連合とアラブ連盟と地中海連合、アラブ・マグレブ連合に加盟している。 同国は歴史上、最も早く「アフリカ」と呼ばれ、アフリカ大陸の名前の由来にもなった地域である。 正式名称は、الجمهورية التونسية(ラテン文字転写 : al-Jumhūrīya at-Tūnisīya、片仮名転写 : アル・ジュムフーリーヤ・ッ・トゥーニスィーヤ)。通称は、تونس(Tūnis)。 日本語の表記は、チュニジア共和国。通称、チュニジア。テュニジアと表記されることもある。漢字表記は、突尼斯。 アラビア語名のتونس(Tūnis、トゥーニス) は、首都チュニスのアラビア語名と同じで、正式名称は「チュニスを都とする共和国」といったような意味合いである。トゥーニスやチュニスの語源は紀元前4世紀にチュニスの地に存在した古代都市トゥネス(Thunes)で、英語名など欧米諸言語や日本語の国名チュニジアは、トゥネスが転訛した Tunus に地名語尾の -ia を付してつくられ、オスマン帝国による呼称に倣ったものである。 古代にはフェニキア人が交易拠点としてこの地に移住し、紀元前814年ごろにはカルタゴ(前814年 - 前146年)が建国され、地中海貿易で繁栄した。しかしイタリアからの新興勢力ローマとシチリア島の覇権を巡って紀元前264年から第一次ポエニ戦争を戦った後、第二次ポエニ戦争ではローマを滅亡寸前にまで追いやったハンニバル・バルカ将軍の活躍もありながらスキピオ・アフリカヌスによって本国が攻略され、第三次ポエニ戦争で完全敗北し、紀元前146年に滅亡した。
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チュニジア
現在のチュニジアとリビアはローマ支配下のアフリカ属州(前146年 - 439年)となった。ローマ支配下では優良な属州としてローマ化が進みキリスト教も伝来した。ローマ帝国の東西分裂以後は、西ローマ帝国の管区(Diocese of Africa、314年 - 432年)になるが、ゲルマン系ヴァンダル人が439年に侵入。カルタゴにヴァンダル王国(439年 - 534年)が建国された。ヴァンダル王国は海運で繁栄したものの、534年には東ローマ帝国に滅ぼされ、東ローマ帝国に組み入れられた(Praetorian prefecture of Africa、534年 - 590年)。7世紀にはイスラム教のもとに糾合したアラブ人が東方から侵入し、土着のベルベル人の女王カーヒナ(英語版)と東ローマ帝国の連合軍を破り(カルタゴの戦い (698年)(英語版))、北アフリカをイスラム世界に編入した。 ウマイヤ朝イフリキーヤ(665年 - 744年)、フィリッドイフリキーヤ(745年 - 757年)、ハワーリジュイフリキーヤ(757年 - 761年)、アッバース朝イフリキーヤ(761年 - 800年)と属領に位置づけられていたチュニジアに、アッバース朝のカリフに臣従する形でカイラワーンのアグラブ朝(800年 - 909年)が成立し、アグラブ朝の衰退後は反アッバース朝を掲げたイスマーイール派のファーティマ朝(909年 - 1171年)がこの地で興り、アグラブ朝を滅ぼした。ファーティマ朝の衰退後、カイラワーンにはズィール朝(983年 - 1148年)が栄えた。その後モロッコ方面から勢力を伸ばしたムワッヒド朝(1130年 - 1269年)の支配に置かれた後に、1229年にチュニスにハフス朝(1229年 - 1574年)が成立した。ハフス朝は西はアルジェから東はトリポリにまで至る領土を統治し、『歴史序説』を著したイブン・ハルドゥーンなどが活躍した。しかし、ハフス朝は徐々に衰退し、16世紀初頭にオスマン帝国の支配から逃れるためにスペインの属国になった(チュニス征服 (1535年))。
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ハフス朝は1574年にオスマン帝国によって滅ぼされオスマン領チュニス地方(英語版)(1574年 - 1705年)として併合された。オスマン帝国時代の初期には「パシャ」と呼ばれる軍司令官が派遣されてきたが、ヨーロッパ列強による侵略でオスマン帝国の弱体化が進むと、チュニスの「ベイ」はイスタンブールのオスマン政府から独立した統治を行うようになり、1705年にはフサイン朝チュニス君侯国(1705年 - 1881年)がチュニジアに成立した。 フサイン朝はフランス支配を挟んで252年間にわたり統治を行った。1837年に即位したアフメド・ベイ(英語版)時代に始められた西欧よりの政策と富国強兵策によって、チュニジアは近代化=西欧化政策を採った。ハイルディーン・パシャ(英語版)などの活躍により1861年には憲法(チュニジアの憲法(英語版))が制定され、サドク・ベイ(英語版)はイスラーム世界およびアフリカ世界初の立憲君主となった。しかし、保守派の抵抗によって1864年に憲法は停止され、近代化=西欧化政策は挫折した。1869年には西欧化政策の負担によって財政は破綻した。 1878年のベルリン会議でフランスの宗主権が列国に認められると、フランスによるチュニジア侵攻が行われ、1881年のバルドー条約(英語版)、1883年のラ・マルサ協定(英語版、フランス語版)でフランスの保護領フランス領チュニジア(1881年 - 1956年)となった。この結果、ベイは名目のみの君主となり、事実上の統治はフランス人総監が行い、さらに政府および地方自治の要職もフランス人が占めた。 1907年にはチュニジア独立を目的とする結社「青年チュニジア党」が創設され、1920年には「憲政党(英語版)」に発展し、チュニジア人の市民権の承認、憲法制定、チュニジア人の政治参加を求める運動を展開する。 第二次世界大戦では北アフリカ戦線の一部となり、イタリアに近いため枢軸国が最後まで拠点とした。
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1907年にはチュニジア独立を目的とする結社「青年チュニジア党」が創設され、1920年には「憲政党(英語版)」に発展し、チュニジア人の市民権の承認、憲法制定、チュニジア人の政治参加を求める運動を展開する。 第二次世界大戦では北アフリカ戦線の一部となり、イタリアに近いため枢軸国が最後まで拠点とした。 ハビーブ・ブルギーバの「新憲政党(英語版)」はチュニジアの完全独立を要求した。このようなチュニジアの民族運動の高まりを受けてフランス政府は戦後の1956年、ベイのムハンマド8世アル・アミーン(英語版)を国王にする条件で独立を受け入れた。初代首相にはブルギーバが選ばれ、チュニジア王国(1956年 - 1957年)が成立し、独立を達成した。しかし、翌1957年には王制を廃止。大統領制を採る「チュニジア共和国」が成立した。首相から横滑りで大統領となったブルギーバは1959年に憲法を制定し、社会主義政策を採るが、1970年代には自由主義に路線を変更した。しかし長期政権の中、ゼネストと食糧危機など社会不安が高まり、1987年には無血クーデターが起こり、ベン=アリー首相が大統領に就任し、ブルギーバ政権は終焉した。 1991年の湾岸危機ではイラクのサッダーム・フセイン政権を支持し、アラブ人の連帯を唱えた。1990年代には隣国アルジェリアでイスラーム主義組織によるテロが繰り広げられ、内戦に発展したため(アルジェリア内戦)、イスラーム主義組織は厳しく弾圧された。 現在では、イスラーム諸国のなかでは比較的穏健なソフトイスラムに属する国であり、中東と西洋のパイプ役を果たしている。観光地としても発達し、アフリカの国の中では良好な経済状態である。一方で若者の失業率は30%前後と高く、国民の不満は後述するジャスミン革命などにつながった。 2010年末に始まった退陣要求デモが全土に拡大する中、2011年1月14日に国外に脱出したベン=アリー大統領の後任としてまずモハメッド・ガンヌーシ首相が暫定大統領への就任を宣言、翌1月15日に憲法評議会は規定に基づき下院議長のフアド・メバザを暫定大統領に任命。この一連の事件はジャスミン革命と呼ばれる。この革命を発端に、政変活動が中東・北アフリカ地域に瞬く間に広がる(アラブの春)も、他国ではことごとく失敗し(アラブの冬)、チュニジアは唯一の成功例となった。
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2011年10月23日、革命後初の選挙(定数217)が行われた。穏健派の「ナフダ」が第1党に進出した。4割の得票で89議席、CPRが29議席、エタカトルが20議席を獲得した。今回は33の選挙区ごとに政党の候補者リストに投票する比例代表選挙であった。参加政党数は80を超え、立候補者数も1万1千人と多かった。 11月19日制憲議会選挙で第1党になったアンナハダ(ナフダ)と二つの世俗政党が政権協議した結果、ハマディ・ジェバリ(アンナハダ)を次期首相に選出することで合意したと第2党の共和国のための会議(共和国会議、CPR)当局者が明らかにした。また、次期大統領にはモンセフ・マルズーキ(CPR党首)、議会議長に第3党の「労働・自由民主フォーラム」(FDTL、通称エタカトル)のムスタファ・ベンジャアファルが就任する。22日に選挙後初の議会が開かれ、主要人事が承認された。 2013年2月、野党党首暗殺事件の責任を取り、ジェバリ首相が辞任。マルズーキ大統領は3月アリー・ラライエド(英語版)内相に組閣要請した。7月にはラライエドもまた繰り返される世俗派野党党首暗殺を受け、混乱収集のために12月をめどに総選挙を行うと表明。 2014年1月26日、制憲議会は新憲法案を賛成多数で承認し、27日にマルズーキ大統領が署名した。 2019年10月に就任したカイス・サイード大統領は、経済低迷や新型コロナウイルス感染症拡大への国民の不満を背景に、2021年7月25日に議会の停止と首相解任を発表した。2022年2月には、司法の独立のためにジャスミン革命後に設立された最高司法評議会を解散させて暫定司法評議会を置いて裁判官の解任権を得たと主張し、同年6月1日に裁判官57人を「腐敗し、テロリストを擁護している」という理由で解任した。サイード政権は、2014年憲法に代えて大統領権限を強化する憲法改正案を発表して同年7月25日の国民投票では94.5%の賛成(暫定結果)を得たが、イスラム主義勢力と世俗派を含めて投票ボイコット運動が展開されたこともあって投票率は30%強にとどまり、欧州連合(EU)は投票率の低さとジャスミン革命以来の民主主義の維持を注視していることを表明した。なお首相には、2021年10月、アラブ・マグリブ・チュニジアのすべてで初の女性首相であるナジュラ・ブデンが就任している。
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チュニジアの政体は共和制、大統領制を採用する立憲国家である。現行憲法は1959年6月1日に公布(1988年7月12日および2002年5月26日改正)されたもの。 国家元首である大統領は、国民の直接選挙により選出される。任期は5年。再選制限は無い。憲法により大統領は行政の最高責任者とされ、首相・閣僚・各県の知事の任免権、チュニジア軍の最高指揮権、非常事態宣言の発令権など強大な権力を与えられている。首相および閣僚評議会(内閣に相当)は大統領の補佐機関に過ぎない。 立法府は一院制の人民議会のみで構成されている。定数は217議席で、議員の任期は5年。 2011年のジャスミン革命以前は、2002年の憲法改正により新設された上院と、従来立法府として存在してきた代議院(下院に相当)の両院制で構成されていた。上院の定数は126議席で、うち85議席は地方議会による間接選挙により選出され、41議席は大統領による任命制である。代議院は定数189議席で、全議席が国民の直接選挙により選出される。議員の任期は上院が6年、代議院が5年である。 チュニジアでは1988年の憲法改正で複数政党制が認められたが、2011年の政権崩壊まで与党立憲民主連合(RDC)が事実上、チュニジア政治を担っていた。RDCは1988年まで社会主義憲政党(PSD)という名称で一党支配を行っており、複数政党制承認後にRDCと改称した後もチュニジアの支配政党であり続け、2011年まで一度も政権交代は成されていなかった。政権崩壊後の選挙でアンナハダが与党になった。野党で比較的有力なものには民主社会運動(MDS)と人民統一党(PUP)がある。他に非合法化されたチュニジア共産党の流れを組むエッタジディード(変革)運動があったが、同党は他勢力と統合し「社会民主の道運動」(アル・マサール)になっている。 過去にもイスラーム主義政党も存在したが、共産党と同様に結党が禁じられていた。 司法権は最高裁判所が担っている。
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過去にもイスラーム主義政党も存在したが、共産党と同様に結党が禁じられていた。 司法権は最高裁判所が担っている。 独立直後から暫くはフランス軍のビゼルト基地問題や、アルジェリア戦争への対応を巡ってフランスと対決する姿勢で接したが、1970年代以降は親フランス、親西側政策が続いている。1980年代に入るとアラブ連盟の本部がエジプトの首都カイロからチュニスに移転し、事務局長にチュニジア人が選ばれ、1990年代のエジプトの連盟復帰までアラブ諸国の盟主にもなった。初代大統領ブルギーバはセネガルの初代大統領サンゴールらと共にフランコフォニー国際組織の設立に尽力した。 1974年1月にチュニジア国内の親アラブ派の意向によってリビアと合邦が宣言され、アラブ・イスラム共和国の成立が宣言されたが、この連合はすぐに崩壊した。その後、リビアはチュニジアと対立し、1980年のガフサ事件ではリビアで訓練を受けたチュニジア人反政府勢力がガフサの街を襲撃し、多くの被害を出した。1985年にはリビア軍がチュニジアとの国境付近に集結し、チュニジアを威嚇した。 パレスチナ問題を巡っては、チュニジアは僅かながら第三次中東戦争と第四次中東戦争にアラブ側で派兵した。1982年にパレスチナ解放機構(PLO)の本部がチュニスに移転。1985年にはPLOと対立するイスラエルの空軍による爆撃を受けた(木の脚作戦)。オスロ合意後の1994年にパレスチナに再移転した。チュニジアにはパレスチナ人難民はごく僅かしか流入しなかった。チュニジアはイスラエルを国家承認しているが、関係は決して良好とは言えず、ガザ紛争 (2008年-2009年)においてはイスラエルを非難している。 在留日本人数 - 136名(2018年10月,在留邦人統計) 在日チュニジア人数 - 907名(2019年12月,在留外国人統計) チュニジア軍は陸軍、海軍、空軍の三軍から構成され、総人員は約35,000人である。三軍の他にも内務省指揮下の国家警備隊と沿岸警備隊が存在する。成人男子には選抜徴兵制が敷かれている。 兵器体系はかつて中国から購入した哨戒艇などを除いて殆ど西側に準じている。
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在留日本人数 - 136名(2018年10月,在留邦人統計) 在日チュニジア人数 - 907名(2019年12月,在留外国人統計) チュニジア軍は陸軍、海軍、空軍の三軍から構成され、総人員は約35,000人である。三軍の他にも内務省指揮下の国家警備隊と沿岸警備隊が存在する。成人男子には選抜徴兵制が敷かれている。 兵器体系はかつて中国から購入した哨戒艇などを除いて殆ど西側に準じている。 国土は、北端から南端までが約850キロメートル、東の沿岸から西方の国境まで約250キロメートルと細長く、南北に伸び、南端は先の細いとがった形である。東はリビア、西はアルジェリアに隣接する。北岸、東岸は地中海に面する。 国土は北部のテル地域と中部のステップ地域、南部のテル地域の3つに大きく分けられる。北部地中海沿岸にはテル山地があり、その谷間を北東にメジェルダ川が流れている。メジェルダ川流域のメジェルダ平野は国内で最も肥沃な穀倉地帯になっている。東側の地中海に面した海岸線は約1300キロメートルにわたる。北からチュニス湾、ハンマメット湾、ガベス湾と並び、良港も多い。この沿岸部に古くから定住民が集住した。その南には、アルジェリアから続くアトラス山脈中の国内最高峰であるシャンビ山(1,544m)以東がドルサル山地となっている。ドルサル山地は地中海からの湿気を遮るため、ドルサル山地より南はガベス湾までステップ気候になっていて、西部の標高400m〜800mの地域をステップ高原、東部の標高400m以下の地をステップ平原と呼ぶ。ステップ高原の南には平方5000kmのジェリド湖(塩湖)がある。この塩湖の北にある町メトラーウィやその西のルダイフでは19世紀の末からリン鉱石の採掘が開始され、現在ではその産出量は世界第5位で、チュニジアの主要な輸出品ともなっている。 ガベス湾の沖にはジェルバ島が存在する。南半分はサハラ砂漠になっており、マトマタから南東にダール丘陵がリビアまで続く。ダール丘陵から東には標高200m以下のジェファラ平野が広がる。この砂漠は風によって絶えず景色が変化する砂砂漠(エルグ)、ごつごつした石や砂利と乾燥に強い植物がわずかにみられる礫砂漠、または植生のない岩肌がむき出しになっている岩石砂漠が広がっており、砂砂漠は一部であり、大部分は礫砂漠と岩石砂漠で占められている。
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ケッペンの気候区分によると、北部の地中海沿岸部は地中海性気候となり、地中海沿岸を南に行くとスファックス付近からステップ気候になる。さらに南のサハラ砂漠は砂漠気候となる。春から夏にかけてサハラ砂漠から北にシロッコと呼ばれる熱風が吹き出す。北部では冬に雪が降ることがある。チュニスの年間降水量は470mm前後だが、北部のビゼルトでは1,000mmを超える。 チュニジアには24のウィラーヤ(県)(アラビア語表記:ولاية)に分かれている。各県の県知事は大統領による任命制。 2000年代からチュニジアは経済の自由化と民営化のさなか、自らが輸出指向の国であることに気づいており、1990年代初期から平均5%の国内総生産(GDP)成長でありながらも、政治的に結びついたエリートが恩恵を受ける汚職に苦しんだ。チュニジアには様々な産業があり、農業や工業、石油製品から、観光にまで及ぶ。2008年ではGDPは410億ドル(公式為替レート)もしくは820億ドル(購買力平価)であった。農業分野はGDPの11.6%、工業は25.7%、サービス業は62.8%を占める。工業分野は主に衣類と履物類の製造や自動車部品と電子機器の生産からなる。チュニジアは過去10年間で平均5%の成長を成し遂げたが、特に若年層の高い失業率に苦しんでいる。 チュニジアは2009年には、世界経済フォーラムによってアフリカにおいて最も競争力のある経済と位置づけられた。全世界でも40位であった。チュニジアはエアバスやヒューレットパッカードなどの多くの国際企業の誘致に成功した 。 観光は2009年にはGDPの7%と37万人分の雇用を占めていた。 変わらず欧州連合(EU)諸国がチュニジアの最大の貿易パートナーであり、現在チュニジアの輸入の72.5%、チュニジアの輸出の75%を占めている。チュニジアは地中海沿岸でヨーロッパ連合の最も確固とした貿易パートナーの一つであり、EUの30番目に大きい貿易パートナーに位置づけている。チュニジアは1995年7月に、EUとヨーロッパ連合連合協定(英語版)を締結した最初の地中海の国である。ただし、効力が生じる日の前に、チュニジアは両地域間の貿易で関税を撤廃し始めた。チュニジアは2008年に工業製品への関税撤廃を完了し、そのためEUとの自由貿易圏に入った、最初の地中海沿岸の国になった。
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チュニス・スポーツ・シティ(英語版)はチュニスで建設されている完全なスポーツ都市である。集合住宅に加え多くのスポーツ施設からなるこの都市は50億ドル(約500億円)かけてUAEのBukhatirグループによって建設される。チュニス・ファイナンシャル・ハーバーは30億ドル(約300億円)の開発利益を見込むプロジェクトにおいてチュニス湾にある北アフリカで初めてのオフショア金融センターになる。チュニス・テレコム・シティはチュニスにおけるITハブを作成する30億ドル(約300億円)規模のプロジェクトである。 チュニジア経済には小麦とオリーブを中核とする歴史のある農業、原油とリン鉱石に基づく鉱業、農産物と鉱物の加工によって成り立つ工業という三つの柱がある。そのため他のアフリカ諸国より工業基盤は発達しており、1人当たりのGDPは約4000ドルでありモロッコやアルジェリアと共にアジアの新興国とほぼ同じレベルである。急速な成長を見せているのは欧州諸国の被服製造の下請け産業である。貿易依存度は輸出34.4%、輸入45.2%と高く、狭い国内市場ではなく、フランス、イタリアを中心としたEU諸国との貿易の占める比率が高い。2003年時点の輸出額80億ドル、輸入額109億ドルの差額を埋めるのが、24億ドルという観光収入である。国際的には中所得国であり、アフリカ開発銀行(ADB)の本部が置かれている。 フランスやリビアに出稼ぎしているチュニジア人労働者からの送金も大きな外貨収入源となっている。 アトラス山脈の東端となる国の北側を除けば国土の大半はサハラ砂漠が占めるものの、農地の占める割合が国土の31.7%に達している。ヨーロッパに比べて早い収穫期を生かした小麦の栽培と輸出、乾燥気候にあったオリーブと野菜栽培が農業の要である。食糧自給率は100%を超えている。
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フランスやリビアに出稼ぎしているチュニジア人労働者からの送金も大きな外貨収入源となっている。 アトラス山脈の東端となる国の北側を除けば国土の大半はサハラ砂漠が占めるものの、農地の占める割合が国土の31.7%に達している。ヨーロッパに比べて早い収穫期を生かした小麦の栽培と輸出、乾燥気候にあったオリーブと野菜栽培が農業の要である。食糧自給率は100%を超えている。 北部は小麦栽培と畜産が盛ん。ヒツジを主要な家畜とする畜産業は北部に集中するが、農業に占める比率は中部、南部の方が高い。2005年時点の生産高を見ると、世界第5位のオリーブ(70万トン、世界シェア4.8%)、世界第10位のグレープフルーツ(7.2万トン、2.0%)が目を引く。ナツメヤシ(13万トン、1.8%)、らくだ23万頭(1.2%)といった乾燥気候を生かした産物・家畜も見られる。主要穀物では小麦(136万トン)が北部で、大麦(44万トン)は主に南部で生産されている。生産量ではトマト(92万トン)も目立つ。 チュニジア鉱業の中核は、世界第5位のリン鉱石(リン酸カルシウム、240万トン、5.4%)、主な鉱山は国土の中央部、ガフサ近郊にある。油田は1964年にイタリア資本によって発見され、南部のボルマ近郊の油田開発が進んでいる。一方、リビア国境に近いガベス湾の油田はあまり進んでいない。2004年時点の採掘量は、原油317万トン、天然ガス82千兆ジュールである。エネルギー自給率も100%を超えている。このほか、亜鉛、銀、鉄、鉛を採掘している。これはプレート移動によって形成された褶曲山脈であるアトラス山脈に由来する。全体的な鉱業の様相はアトラス山脈西端に位置する国モロッコとよく似ている。 チュニジア工業は農業生産物の加工に基づく食品工業、鉱物採取と連動した化学工業、加工貿易を支える機械工業と繊維業からなる。食品工業は、6000万本にも及ぶオリーブから採取したオリーブ油と、加工野菜(缶詰)が中心である。オリーブ油の生産高は世界第4位(15万トン、6.4%)だ。化学工業は主として肥料生産とその派生品からなる。世界第3位のリン酸(63万トン、3.7%)、同第6位の硫酸(486万トン、4.8%)、同第7位のリン酸肥料(97万トン、2.9%)である。主な工業都市は首都チュニス。
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輸出に占める工業製品の比率が81%、輸入に占める工業製品の比率が77.8%であるため、加工貿易が盛んに見える。これは、繊維産業と機械産業によるものだ。輸出を品目別に見ると、衣料37.0%、電気機械11.9%、原油5.4%、化学肥料4.7%、織物3.7%である。一方、輸入は、繊維14.7%、電気機械11.9%、機械類10.7%、自動車6.9%、衣料5.3%である。食料品が輸出に占める割合は7.6%、輸入では9.0%。主な貿易相手国はEC諸国、特に旧宗主国であったフランスと支配を受けたイタリアである。輸出入ともこの2国が約5割の比率を占める。金額別では輸出相手国が、フランス、イタリア、ドイツ、隣国リビア、ベルギー、輸入相手国がフランス、イタリア、ドイツ、スペイン、ベルギーである。 A1、A2、A3、A4の4つが主要路線となっている。また、一部区間はトランスアフリカンハイウェイ(英語版)の一部分となっている。 北部を中心に、チュニジア鉄道が敷設されている。 首都チュニスにはチュニス・カルタゴ国際空港があるほか、ヨーロッパではリゾート地として知られるエンフィダ(英語版)にはエンフィダ=ハンマメット国際空港が、ジェルバ島にはジェルバ=ザルジス国際空港があり、いずれの空港も主として周辺国やヨーロッパの都市と結ばれている。 イスラーム国だが世俗的な国家であり、独立と同年の1956年、ブルギーバ初代大統領の「国家フェミニズム」の下で制定された家族法によって、トルコと同様に一夫多妻制や公共の場でのスカーフやヴェールの着用は禁止されている。続くベン・アリー大統領もフェミニズム政策を踏襲し、1993年には婚姻後の夫婦共有財産も個別財産として選択可能となった。家族法制定から現在まで女性の社会進出が著しく、アラブ世界で最も女性の地位が高い国となっている。イスラム世界では珍しく、チュニジアは中絶が法律で認められている国である。1956年の独立時から2007年までの人口増加が約2.3倍である。 住民はアラブ人が98%である。チュニジアの先住民はベルベル人やフェニキア人だったが、7世紀のアラブによる征服以降、住民の混血とアラブ化が進んだため、民族的にはほとんど分けることが出来ない。残りはヨーロッパ人が1%、ベルベル語を話すベルベル人、ユダヤ人、黒人などその他が1%である。
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住民はアラブ人が98%である。チュニジアの先住民はベルベル人やフェニキア人だったが、7世紀のアラブによる征服以降、住民の混血とアラブ化が進んだため、民族的にはほとんど分けることが出来ない。残りはヨーロッパ人が1%、ベルベル語を話すベルベル人、ユダヤ人、黒人などその他が1%である。 アラビア語が公用語であるが、独立前はフランスの保護下にあったことからフランス語も広く普及しており、教育、政府、メディア、ビジネスなどで使われるなど準公用語的な地位となっている。教授言語はフランス語とアラビア語の両方となっており、大多数の国民がフランス語を話すことが可能である。アラビア語チュニジア方言はマルタ語に近い。また、ごく少数ながらベルベル語の一つであるシェルハも話されている。 イスラームが国教であり、国民の98%はスンナ派で、僅かながらイバード派の信徒も存在する。その他、ユダヤ教、キリスト教(主にカトリック、ギリシャ正教、プロテスタント)。イスラームも比較的戒律は緩やかで、女性もヴェールをかぶらず西洋的なファッションが多く見られる。1980年代にイスラーム主義の興隆と共にヴェールの着用も復古したが、1990年代に隣国アルジェリアでイスラーム主義者と軍部の間で内戦が勃発すると、イスラーム主義は急速に衰退し、ヴェールの着用も衰退した。 チュニジア南部のジェルバ島はユダヤ人居住区の飛び地となっており、島のエル・グリーバ・シナゴーグは世界で最も古いシナゴーグの内の一つである。 6歳から16歳までの初等教育と前期中等教育が無償の義務教育期間となっており、その後4年間の後期中等教育を経て高等教育への道が開ける。チュニジアの児童は家庭でアラビア語チュニジア方言を学んだ後、学校で6歳から正則アラビア語の読み書きを、8歳からフランス語の読み書きを、12歳から英語を教わる。2004年のセンサスによれば、15歳以上の国民の識字率は74.3%(男性:83.4% 女性:65.3%)である。 主な高等教育機関としては、ザイトゥーナ大学(737年)、チュニス大学(1960年)、カルタゴ大学(1988年)、エル・マナール大学(2000年)などが挙げられる。名門リセ(高校)としてはサディーキ校(1875年)も挙げられる。
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主な高等教育機関としては、ザイトゥーナ大学(737年)、チュニス大学(1960年)、カルタゴ大学(1988年)、エル・マナール大学(2000年)などが挙げられる。名門リセ(高校)としてはサディーキ校(1875年)も挙げられる。 2021年03月25日時点で日本国外務省は「チュニジアの一般的な治安は比較的安定していますが、デモ隊と治安部隊との衝突、テロ事件の発生、テロ組織の摘発等が散見されますので、治安情勢には十分注意してください。近年では、凶器を使った強盗事件やひったくり事件等、日本人が犯罪の被害に遭うケースもみられます。特に、外国人旅行者は標的となりやすいので、所持品(多額の現金、デジタルカメラ、スマートフォン、旅券等)の管理には十分な注意が必要です。」としている。 代表的なチュニジア料理としてはクスクス(粒状のパスタ)、ブリック、ラブレビなどが挙げられる。チュニジアはイスラーム国であるが、ワインの生産国でもある。チュニジア・ワインにはフランスワインの影響によりロゼワインも多い。マツの実入りのミントティーがあり、オレンジ、ゼラニウムなどの花の蒸留水フラワーウォーターはコーヒー、菓子に入れる。 大多数のチュニジア人の母語はアラビア語である。。現代の代表的なチュニジア出身の作家としては、アルベール・メンミ、アブデルワハブ・メデブ、ムスタファ・トゥリリなどが挙げられる。 中世において「イスラーム世界最大の学者」と呼ばれるチュニス出身のイブン・ハルドゥーンは『歴史序説』を著わした。ハルドゥーンは『歴史序説』にてアサビーヤ(集団における人間の連帯意識)を軸に文明の発達や没落を体系化し、独自の歴史法則理論を打ち立てた。ハルドゥーンは労働が富を生産するとの概念を、18世紀に労働価値説を唱えたアダム・スミスに先んじて説くなど天才的な学者であった。 チュニジアは映画制作の盛んな国ではないが、チュニジア出身の映像作家としては『チュニジアの少年』(1990年)のフェリッド・ブーゲディールや、『ある歌い女の思い出』(1994年)のムフィーダ・トゥラートリなどの名が挙げられる。 1966年から二年に一度、カルタゴ映画祭が開催されている。 15世紀にスペイン人が移民した後にアンダルシアから輸入された音楽の一種である「マルーフ」で最もよく知られている。
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チュニジアは映画制作の盛んな国ではないが、チュニジア出身の映像作家としては『チュニジアの少年』(1990年)のフェリッド・ブーゲディールや、『ある歌い女の思い出』(1994年)のムフィーダ・トゥラートリなどの名が挙げられる。 1966年から二年に一度、カルタゴ映画祭が開催されている。 15世紀にスペイン人が移民した後にアンダルシアから輸入された音楽の一種である「マルーフ」で最もよく知られている。 チュニジア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が7件、自然遺産が1件存在する。 1907年よりアマチュアリーグが開催されており、1921年にフランスサッカー連盟(FFF)と提携しプロリーグのチュニジア・リーグが創設された。名門クラブのエスペランス・チュニスが同リーグを支配しており、7連覇を含むリーグ最多31度の優勝を達成している。また、エトワール・サヘルが "FIFAクラブワールドカップ2007" で4位の成績を収めている。サッカーチュニジア代表はFIFAワールドカップには6度出場しているものの、いずれもグループリーグ敗退となっている。アフリカネイションズカップでは、自国開催となった2004年大会で初優勝を果たした。 チュニジアの国技はサッカーであり、圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。サッカー以外では陸上競技が盛んで、モハメド・ガムーディが1968年のメキシコシティー五輪・男子5000mで、金メダルなどメダル4個を獲得した。また、競泳ではウサマ・メルーリが2008年の北京五輪・男子1500m自由形で、アハメド・ハフナウィが2021年の東京五輪・男子400m自由形で、それぞれ金メダルを獲得している。
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トルコ共和国(トルコきょうわこく、トルコ語: Türkiye Cumhuriyeti)、通称トルコは、西アジアに位置するアナトリア半島(小アジア)と東ヨーロッパに位置するバルカン半島東南端の東トラキア地方を領有する共和制国家。首都はアナトリア中央部のアンカラ。 アジアとヨーロッパの2つの大州にまたがる。北は黒海とマルマラ海、西と南は地中海(西はエーゲ海)に面する。陸上国境は、西でブルガリア、ギリシャと、東でジョージア(グルジア)、アルメニア、アゼルバイジャン、イラン、イラク、シリアと接する。 トルコはチューリップを国花と定めている。チューリップは元々、パミール高原、ヒンドゥークシュ山脈、天山山脈を原産地としているが、中央アジアからのテュルク系民族の移住によってアナトリアへ持ち込まれ栽培された。 その後のトルコ地域でチューリップは品種改良を経て、数多くの園芸種を生み出されるなど国民的なものとして扱われ、今日に至るまで象徴的な植物となっている。 ハイイロオオカミはトルコにおいて神聖かつ国民的な動物として特別視されている。トルコ人の国民的象徴である理由は、トルコ人が「自分たちはオオカミの子孫である」という伝承を信じている点にある。 ケマル・アタテュルクによって国の象徴の一つと宣言され、現今も多くの場所でハイイロオオカミをモチーフにしたロゴなどが使用されている。一例として共和国発足から最初の数年間、紙幣にはハイイロオオカミの絵が印刷されていた点が挙げられる。 トルコは赤と白の2色をナショナルカラーとしている。代表的なものには国旗が挙げられる。また、宝石の一種のターコイズはトルコ文化の一部であると同時に、トルコの象徴色の1つと考えられている。更にこの3色は現在、様々な分野で頻繁に使用されている。
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トルコは赤と白の2色をナショナルカラーとしている。代表的なものには国旗が挙げられる。また、宝石の一種のターコイズはトルコ文化の一部であると同時に、トルコの象徴色の1つと考えられている。更にこの3色は現在、様々な分野で頻繁に使用されている。 トルコ語による正式国名は、Türkiye Cumhuriyeti [ˈtyɾ.ci.jɛ dʒum.ˈhuː.ri.jɛ.ti] ( 音声ファイル)(テュルキイェ・ジュムフーリイェティ)、通称 Türkiye(テュルキイェ、テュルキエ、トゥルキエ)である。2022年以降の公式の英語表記は Republic of Türkiye、通称 Türkiye。日本語名のトルコは、ポルトガル語で「トルコ人(男性単数)」もしくは「トルコの(形容詞男性単数)」を意味する turco に由来する。国名の漢字表記は土耳古、略称は土。 英語など諸外国語では、トルコ共和国の前身であるオスマン帝国の時代から、Turkey、Turquie など、「トルコ人の国」を意味する名でこの国家を呼んできたが、元来多民族国家であったオスマン帝国の側では「オスマン国家」などの名称が国名として用いられており、自己をトルコ人の国家と認識することはなかった。 Türk(テュルク)は、アナトリアへの移住以前、中央アジアで暮らしていたトルコ人が、モンゴル高原を中心とする遊牧帝国、突厥を築いた6世紀ごろには既に使われていた民族名だが、語源には諸説ある。現在のトルコ共和国では一般に、突厥の建国をもって「トルコの建国」と考えられている。 2021年12月4日、トルコ政府は英語表記を Turkey(ターキー) から Türkiye へ変更することを決定した。またドイツ語(Türkei)、フランス語(Turquie)などの外名も同様の変更を行うとしている。これについてエルドアン大統領は「Türkiye はトルコの国民、文化、価値観を最も表した言葉である」と述べた。国際的認知度を高めるためトルコ製を表す「Made in Turkey」は「Made in Türkiye」として輸出される。2022年1月、国際連合へ国名変更の通達を行う計画が報じられ、国連のグテーレス事務総長宛ての書簡でチャヴシュオール外相が正式に変更を通報し、2022年6月1日にこの通報が受理された 。
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英語の Turkey は国名のほかに鳥類で食用としても振る舞われる七面鳥(ターキー)、英語圏の俗語で「失敗する」「愚かな人」といった意味を持つ。そのため反イスラム・反トルコ主義者はしばしトルコを七面鳥に例えて攻撃した。国名の英語表記をトルコ語名と同じにすることで英語話者の混乱を避け、更に国家のブランドを維持する思惑があると言われている。 アナトリアには旧石器時代(1万1000年から60万年前)からの遺跡が存在する。紀元前2000年末ごろから鉄を作る技術が中近東世界に広がった。この地域が鉄器時代に入ったと考えられる。 国土の大半を占めるアジア側のアナトリア半島(小アジア)と最大の都市であるヨーロッパ側のイスタンブールは、古代からヒッタイト、フリュギア、リディア、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)など様々な民族・文明が栄えた地である。 一方、北アジアではトルコ(テュルク)系民族として突厥が552年にモンゴル系民族の支配から独立した。現在のトルコ共和国ではこれをもって最初の建国とみなしている。その後、東西に分裂し、中央アジアのアラル海東岸に割拠した西突厥の部族の一つから部族長トゥグリル・ベグが出て西進を始め、ボハラ地方を部族で占領しセルジューク朝を成立させた。さらに西進して1055年バグダッドに入城、アッバース朝のカリフよりスルタンに指名された。事実上アッバース朝に変わってセルジューク朝がメソポタミアの支配者となる。しかし、東アジアで覇権争いに敗れた契丹系の西遼が中央アジアに移動し、父祖の土地を占領すると、これと争い大敗して急激に衰退。のちにモンゴル帝国のフラグによる侵攻を受けて滅亡する。また中央アジアのトルコ系部族集団は、さらにウイグル系民族に圧迫されてイラン(ペルシャ)北部、カスピ海東岸の隅地に逃亡して歴史の記録から消える。
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11世紀に、トルコ系のイスラム王朝、セルジューク朝の一派がアナトリアに立てたルーム・セルジューク朝の支配下で、ムスリム(イスラム教徒)のトルコ人が流入するようになり、土着の諸民族と対立・混交しつつ次第に定着していった。これら群小トルコ系君侯国はチンギスハーンの孫フラグのバグダッド占領、イルハーン帝国成立後もアナトリア西端に割拠して生き残り、その一つから発展したオスマン朝は、15世紀にビザンツ帝国を滅ぼしてイスタンブールを都とし、東はアゼルバイジャンから西はモロッコまで、北はウクライナから南はイエメンまで支配する大帝国を打ち立てる。モンゴル系のティムールにアンゴラ(アンカラ)の戦いで敗れ一時滅亡するが、アナトリア南部の険によって抵抗し命脈を保った一族が、ティムールの死後にオスマン朝を復興した。 19世紀、衰退を示し始めたオスマン帝国の各地ではナショナリズムが勃興して諸民族が次々と独立し、欧州列強がこれに介入した(東方問題)。帝国はオスマン債務管理局を通して列強に財政主権を握られ、第一次世界大戦で敗北した。こうしてオスマン帝国は英仏伊、ギリシャなどの占領下に置かれ、完全に解体された。中でもギリシャは、自国民居住地の併合を目指してアナトリア内陸部深くまで進攻した(希土戦争 (1919年-1922年))。また、東部ではアルメニア国家が建設されようとしていた。これらに対してトルコ人ら(旧帝国軍人や旧勢力、進歩派の人)は1919年5月、国土・国民の安全と独立を訴えて武装抵抗運動を起こした(トルコ独立戦争)。1920年4月、アンカラに抵抗政権を樹立したムスタファ・ケマル(アタテュルク)の下に結集して戦い、1922年9月、現在の領土を勝ち取った。1923年、アンカラ政権はローザンヌ条約を締結して共和制を宣言した。1924年、オスマン帝国のカリフをイスタンブールから追放し、西洋化による近代化を目指してトルコ共和国を建国。イスラム法(シャリーア)は国法としての地位を喪失。大陸法の影響を受けただけでなく、アメリカ合衆国などからの直接投資も受け入れることになった。
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第二次世界大戦では中立を維持したが、末期の1945年になり連合国の勝利が確定的になると、その圧力により2月23日にナチス・ドイツと大日本帝国に対して宣戦布告した。第二次世界大戦後は、ソ連に南接するため、反共の防波堤として西側世界に迎えられ、1952年には北大西洋条約機構(NATO)に、また1961年には経済協力開発機構(OECD)に加盟した。NATOとOECD加盟の間は西側陣営内で経済戦争が起こっていた(セカンダリー・バンキング)。1956年ごろ、ユーロバンクの資金調達先となったため外貨準備を著しく減らした。これを輸出で補うため単位作付面積あたりの綿花収穫量を急速に伸ばしたが、ソ連が既に1944年から輸出量を世界で最も急ピッチに増産していた。1952年に暴落した価格で南米諸国とも競争するも、機関化する1980年代まで外貨準備を十分に確保することができなかった。 国父アタテュルク以来、イスラムの復活を望む人々などの国内の反体制的な勢力を強権的に政治から排除しつつ、西洋化に邁進してきた(ヨーロッパ評議会への加盟、死刑制度の廃止、経済市場の開放と機関化)。その最終目標である欧州連合(EU)への加盟にはクルド問題やキプロス問題、ヨーロッパ諸国の反トルコ・イスラム感情などが障害となっている。 トルコ側もEU加盟よりは、レジェップ・タイイップ・エルドアン政権下の2010年代から2020年代にかけて、国内での反対派弾圧やイスラム回帰(アヤソフィアのモスク化など)、オスマン帝国旧領やその周辺に対するトルコの影響力拡大(新オスマン主義)を優先している。シリア内戦、リビア内戦、2020年ナゴルノ・カラバフ紛争に対しては派兵や傭兵の派遣、武器供与により介入している(「新オスマン主義」も参照)。 特にアルメニアとはナゴルノ・カラバフ紛争以外にも、アルメニア人虐殺への存否を含む見解の相違や、アララト山の領有権問題を抱え、緊張した関係が続いている。アルメニアの民族派は東南部を西アルメニアだと主張して返還を求めている。 2013年、MIKTAに加盟した。
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特にアルメニアとはナゴルノ・カラバフ紛争以外にも、アルメニア人虐殺への存否を含む見解の相違や、アララト山の領有権問題を抱え、緊張した関係が続いている。アルメニアの民族派は東南部を西アルメニアだと主張して返還を求めている。 2013年、MIKTAに加盟した。 1982年に定められた憲法では、世俗主義が標榜されている。三権はほとんど完全に分立しており、憲法の目的(世俗主義ほか)を達成するためにそれぞれの役割を果たすことが期待されている。このことが、世俗派と宗教的保守派との対立を助長し、その対決が終息しない遠因ともなっている。立法府として一院制のトルコ大国民議会(Türkiye Büyük Millet Meclisi、定数600名、任期5年)がある。行政は議会によって選出される国家元首の大統領(任期7年)が務めるが、首相の権限が強い議院内閣制に基づくものであった。司法府は、下級審である司法裁判所、刑事裁判所、および控訴審である高等控訴院、憲法裁判所で構成され、通常司法と軍事司法に分離されている。司法は政党の解党判断、党員の政治活動禁止といった政治的な事項についても判断できる。 その後、2007年の憲法改正(英語版)により大統領は国民投票により選出されることとなり、また任期も7年から5年へと短縮された。2010年の憲法改正(英語版)を経たのち、2017年の憲法改正(英語版)では大統領権限が強化され、議院内閣制を廃止することが定められている。
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その後、2007年の憲法改正(英語版)により大統領は国民投票により選出されることとなり、また任期も7年から5年へと短縮された。2010年の憲法改正(英語版)を経たのち、2017年の憲法改正(英語版)では大統領権限が強化され、議院内閣制を廃止することが定められている。 政治は多党制の政党政治を基本としているが、政党の離合集散が激しく、議会の選挙は小党乱立を防ぐため、10%以上の得票率を獲得できなかった政党には議席がまったく配分されない独特の方式をとっている。この制度のため、2002年の総選挙では、選挙前に中道右派・イスラム派が結集して結党された公正発展党(AKP)と、野党で中道左派系・世俗主義派の共和人民党(CHP)の2党が地すべり的な勝利を収め、議席のほとんどを占めている。2007年7月22日に実施された総選挙では、公正発展党が前回を12ポイントを上回る総得票率47%を獲得して圧勝した。共和人民党が議席を減らし、112議席を獲得。極右の民族主義者行動党(MHP)が得票率14.3%と最低得票率10%以上の票を獲得し71議席を獲得、結果的に公正発展党は340議席となり、前回より12議席を減らすこととなった。独立候補は最低得票率の制限がなく、クルド系候補など27議席を獲得した。
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ムスタファ・ケマル・アタテュルク以来強行的に西欧化を押し進めてきたが、その歴史においてケマルをはじめ、政治家を数多く輩出した軍が政治における重要なファクターとなることがあり、政治や経済の混乱に対してしばしば圧力をかけている。1960年に軍は最初のクーデターを起こしたが、その後、参謀総長と陸海空の三軍および内務省ジャンダルマ(憲兵隊)の司令官をメンバーに含む国家安全保障会議(Milli Güvenlik Kurulu)が設置され、国政上の問題に対して内閣に圧力をかける実質上の政府の上位機関と化しているが、このような軍部の政治介入は、国民の軍に対する高い信頼に支えられていると言われる。1980年の二度目のクーデター以降、特にイスラム派政党の勢力伸張に対して、軍は「ケマリズム」あるいは「アタテュルク主義」と呼ばれるアタテュルクの敷いた西欧化路線の護持を望む世俗主義派の擁護者としての性格を前面に打ち出している。軍は1997年にイスラム派の福祉党主導の連立政権を崩壊に追い込み、2007年には公正発展党による同党副党首の大統領選擁立に対して懸念を表明したが、この政治介入により国際的な非難を浴びた。8月29日には、議会での3回の投票を経てアブドゥラー・ギュル外相が初のイスラム系大統領として選出された。この結果、もはや以前のように軍が安易に政治に介入できる環境ではなくなり、世俗派と宗教的保守派の対立はもっと社会の内部に籠ったものとなってきている(エルゲネコン捜査)。 2009年3月29日、自治体の首長や議員を選ぶ選挙が行われた。イスラム系与党の公正発展党(AKP)が世俗派野党の共和人民党などを押さえ勝利した。
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2009年3月29日、自治体の首長や議員を選ぶ選挙が行われた。イスラム系与党の公正発展党(AKP)が世俗派野党の共和人民党などを押さえ勝利した。 2010年9月12日には、与党・公正発展党(AKP)が提起した憲法改定案の是非を問う国民投票が実施された。現憲法は1980年のクーデター後の1982年に制定されたもので、軍や司法当局に大幅な権限を与え、国民の民主的権利を制限するといわれてきた。この憲法改定案は民主主義を求める国民の声や欧州連合(EU)加盟の条件整備などを踏まえ、司法や軍の政治介入を押さえ、国会や大統領の権限を強めることなど26項目を提起している。国民投票の結果、憲法改正案は58%の支持で承認された。投票率は73%であった。エルドアン首相は民主主義の勝利だと宣言した(AFP電)。また、国民投票結果について「発達した民主主義と法治国家に向け、トルコは歴史的な一線を乗り越えた」と評価した。欧米諸国はこの改憲国民投票結果を歓迎している。欧州連合(EU)の執行機関欧州委員会は、加盟に向けての一歩だと讃えた。 2014年8月28日にエルドアン首相は大統領に就任し、アフメト・ダウトオール外相が首相となったが、2016年5月22日にはビナリ・ユルドゥルムが新たな首相に就任した。 その後、2017年に大統領権限の強化と首相職の廃止を盛り込んだ憲法改正案が可決され、2018年7月9日に首相職は廃止された。 外交面では北大西洋条約機構(NATO)加盟国である。また、NATO加盟国としては唯一、非欧米軍事同盟である上海協力機構の対話パートナーであり、中露との軍事協力も行うなど、もはや西側一辺倒の外交路線ではなくなっている。 政府の公式見解では自国をヨーロッパの国としており、現代では経済的・政治的にヨーロッパの一員として参加しつつあり、ヘルシンキ宣言に署名している。2002年に政権についた公正発展党は、イスラム系を中心とする政党ながら軍との距離を慎重に保って人権問題を改善する改革を進めてきた。2004年には一連の改革が一応の評価を受け、条件つきではあるものの欧州委員会によって2005年10月からの欧州連合への加盟交渉の開始が勧告された。現在、国内世論と戦いながら加盟申請中である。なお、加盟基準であるコペンハーゲン基準については現在議論が行われている。
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国土の96%がアジアのアナトリア半島にあり、人口でもアジア側が9割弱を占める。 1890年(明治23年)に、現在の和歌山県東牟婁郡串本町沖で発生したエルトゥールル号遭難事件で日本の対応が評価されたことなどから、両国の友好関係が築かれている。 日本には多くのトルコ友好協会があり、交流が積極的に行われている。 <トルコ政府系団体> <トルコ政府連携協会> 隣国のギリシャとは緊張関係が続いている。古くはギリシャ人国家であった東ローマ帝国が現在のトルコにあたる地域を支配していたが、やがてオスマン帝国がそれを滅ぼし支配下に置いた。その後、19世紀初頭に列強の後押しでギリシャが独立し、「大ギリシャ主義」を掲げて衰退の進むオスマン帝国からの領土奪回を目論んだ。バルカン戦争、第一次世界大戦後に領土をめぐる希土戦争が起こり、ギリシャとトルコの住民交換で解決された。しかし、当時イギリスの植民地だったキプロス島の帰属は決められなかったため、キプロス独立後にキプロスと、トルコのみが国家の承認をしている北キプロスに分裂した。 隣国のアルメニア共和国とは緊張関係が続いている。アルメニアの民族派がヴァン県など東南部をアルメニア人の奪われた土地だと主張している。 一部のアルメニア人の反トルコ主義や西アルメニアの返還の主張にはトルコの保守層の警戒感を招いている。元々、アルメニア王国との国境は時代により大きく変化しており、国民国家の概念が成立する前から対立が続いていた。またトルコはイスラーム信者が多く、キリスト教を国教にしているアルメニアとは宗教対立の側面もある。ナゴルノ・カラバフ問題に対しては同じくアルメニアと対立するイスラーム国家のアゼルバイジャンの立場に立つ(2020年ナゴルノ・カラバフ紛争など)。 MIKTA(ミクタ)は、メキシコ(Mexico)、インドネシア(Indonesia)、大韓民国(Republic of Korea)、トルコ(Turkey)、オーストラリア(Australia)の5か国によるパートナーシップである。
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MIKTA(ミクタ)は、メキシコ(Mexico)、インドネシア(Indonesia)、大韓民国(Republic of Korea)、トルコ(Turkey)、オーストラリア(Australia)の5か国によるパートナーシップである。 軍事組織として、陸軍、海軍、空軍で組織されるトルコ軍 (Türk Silahlı Kuvvetleri) と内務省に所属するジャンダルマ(憲兵隊、Jandarma)、沿岸警備隊 (Sahil Güvenlik) が置かれている。兵役は男子に対してのみ課せられている。学歴が高卒以下の場合は兵役期間が15か月であり、大卒以上の場合は将校として12か月か、二等兵として6か月を選択できるようになっている。国外に連続して3年以上居住している場合、3週間の軍事訓練と約5,000ユーロの支払いで兵役免除になる。なお兵役期間終了後は41歳まで予備役となる。2011年末には金銭を納めることで兵役を免除可能となり、事実上良心的兵役拒否を合法化した。兵員定数はないが、三軍あわせておおむね約38万人程度の兵員数である。また、ジャンダルマと沿岸警備隊は戦時にはそれぞれ陸軍・海軍の指揮下に入ることとされている。ただし、ジャンダルマについては、平時から陸軍と共同で治安作戦などを行っている。 指揮権は平時には大統領に、戦時には参謀総長(Genelkurmay Başkanı)に属すると憲法に明示されており、戦時においては文民統制は存在しない。また、首相および国防大臣には軍に対する指揮権・監督権は存在しない。ただし、軍は歴史的にも、また現在においても極めて政治的な行動をとる軍隊であり、また、国防予算の15%程度が議会のコントロール下にない軍基金・国防産業基金などからの歳入であるなど、平時においても軍に対する文民統制には疑問も多い。この結果、軍はいわば「第四権」といった性格を持ち、世俗主義や内政の安定を支える大きな政治的・社会的影響力を発揮してきた。 1960年と1980年にはクーデターで軍事政権を樹立したこともある。近年はエルドアン政権の権限強化とそれに対するクーデター失敗、経済発展に伴う社会の成熟・多様化により、軍部の影響力は以前より低下している。
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1960年と1980年にはクーデターで軍事政権を樹立したこともある。近年はエルドアン政権の権限強化とそれに対するクーデター失敗、経済発展に伴う社会の成熟・多様化により、軍部の影響力は以前より低下している。 軍事同盟としては1952年以降は北大西洋条約機構(NATO)に加盟し、1992年以降は西欧同盟(WEU)に準加盟している。また、1979年それ自体が崩壊するまで中央条約機構(CENTO)加盟国でもあった。2国間同盟としては1996年、イスラエルと軍事協力協定および軍事産業協力協定を締結しており、1998年からは実際にアメリカ合衆国、イスラエルとともに3国で共同軍事演習「アナトリアの鷲(英語版)」が行われた。 NATO加盟国としては唯一、非欧米国家グループである上海協力機構の対話パートナーにもなっており、2015年にはエルドアン大統領によって正規加盟が要請された。軍事装備は西側のものだけではなく、中華人民共和国の協力で弾道ミサイルのJ-600Tユルドゥルム(英語版)や多連装ロケットシステムのT-300カシルガ(英語版)を導入しており、NATOのミサイル防衛を揺るがすHQ-9やS-400のような地対空ミサイルも中国やロシアから購入する動きも見せた。2010年にはアメリカやイスラエルと行ってきた「アナトリアの鷲」演習を中国と実施し、中国と初めて合同軍事演習を行ったNATO加盟国となった。 2019年にはロシアの地対空ミサイルS-400を搬入。アメリカ政府はロシアへの軍事機密漏洩を警戒して、F-35戦闘機国際共同開発からトルコを排除した。 南東部においてはクルディスタン労働者党(PKK)との戦闘状態が長年続いている。南隣にあるイラクとシリアに対しても、国境をまたいで活動するPKKやイスラム国など反トルコ勢力への攻撃と、親トルコ派勢力の支援を目的に、派兵や越境空爆をしばしば行っている。 2016年には、ペルシャ湾岸のカタールの基地を利用する協定を締結した。
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南東部においてはクルディスタン労働者党(PKK)との戦闘状態が長年続いている。南隣にあるイラクとシリアに対しても、国境をまたいで活動するPKKやイスラム国など反トルコ勢力への攻撃と、親トルコ派勢力の支援を目的に、派兵や越境空爆をしばしば行っている。 2016年には、ペルシャ湾岸のカタールの基地を利用する協定を締結した。 有力な軍需産業を有していて各種兵器の開発と輸出を積極的に行っている。一例を挙げれば、政府系企業の航空宇宙産業(TAI)や民営のバイカル防衛が軍用無人航空機バイラクタル TB2を開発・製造しており、シリア内戦やリビア内戦に投入されたほか、2022年ロシアのウクライナ侵攻にも投入され目覚ましい戦果を上げており、複数の国が輸入している(「2020年ナゴルノ・カラバフ紛争#戦術」「#工業」も参照)。 国土はヨーロッパとアジアにまたがり、北の黒海と南のエーゲ海・地中海をつなぐボスポラス海峡-マルマラ海-ダーダネルス海峡によって隔てられる。面積は日本の2倍で、北緯35度から43度、東経25度から45度に位置し、東西1,600キロメートル、南北800キロメートルに及ぶ。アナトリア半島は中央に広大な高原と海沿いの狭小な平地からなり、高原の東部はチグリス川・ユーフラテス川の源流である。東部イラン国境近くにはヴァン湖とアララト山(国内最高峰で休火山、標高5,137メートル)がある。 国内に多くの断層を持つ地震国であり、近年では、1999年のイズミット地震でマルマラ海沿岸の人口密集地が、2023年ではトルコ・シリア地震でトルコ南部が大規模な被害を受けた。なお、他の地震国の多くと同様、国内に数多くの温泉が存在し、中にはヒエラポリス-パムッカレなど世界遺産の中に存在するものもある。 中近東という位置や地中海やエーゲ海からくる印象から、一般に温暖な印象であるが、沿岸地域を除くと冬は寒冷な国である。エーゲ海や地中海の沿岸地方は温暖で、ケッペンの気候区分では地中海性気候に属し、夏は乾燥していて暑く、冬は温暖な気候で保養地となっている。 イスタンブールのあるマルマラ海周辺やヨーロッパトルコ地域は地中海性気候と温暖湿潤気候の中間に属し、夏は他地域よりは涼しく、冬は比較的寒くなり雪も降る。 黒海沿岸地方は温暖湿潤気候に属し、年間を通じトルコ降水量が最多である。深い緑に覆われている。
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イスタンブールのあるマルマラ海周辺やヨーロッパトルコ地域は地中海性気候と温暖湿潤気候の中間に属し、夏は他地域よりは涼しく、冬は比較的寒くなり雪も降る。 黒海沿岸地方は温暖湿潤気候に属し、年間を通じトルコ降水量が最多である。深い緑に覆われている。 国土の大半を占める内陸部は大陸性気候で寒暖の差が激しく乾燥しており、アンカラなどの中部アナトリア地方はステップ気候や高地地中海性気候に属する。夏は乾燥していて非常に暑くなるが、冬季は積雪も多く、気温が−20°C以下になることも珍しくない。 東部アナトリア地方は亜寒帯に属し、冬は非常に寒さが厳しく、東部の標高1,500mを超えるような高原地帯では1月の平均気温は−10°Cを下回る。標高1,757mにあるエルズルムでは気温がしばしば−30°Cを下回り、−40°Cに達することもある酷寒地である。 ヴァン県のチャルディラーン(Çaldıran)では、1990年1月9日に国内最低となる−46.4°Cを記録している。高温記録としては1993年8月14日にシリア国境に近いマルディン県のコジャテプ(Kocatepe)で48.8°Cを記録している。 地方行政制度はオスマン帝国の州県制をベースとしてフランスに範をとり、全土を県(il)と呼ばれる地方行政区画に区分している。1999年以降の県の総数は81である。各県には中央政府の代理者として知事(vali)が置かれ、県の行政機関(valilik)を統括する。県行政の最高権限は4年任期で民選される県議会が担い、県知事は県議会の決定に従って職務を遂行する。 県の下には民選の首長を有する行政機関(belediye)をもった市(şehir)があり、郡の下には自治体行政機関のある市・町(belde)と、人口2000人未満で自治体権限の弱い村(köy)がある。イスタンブール、アンカラなどの大都市(büyük şehir)は、市の中に特別区に相当する自治体とその行政機関(belediye)を複数持ち、都市全体を市自治体(büyük şehir belediyesi)が統括する。 都市人口率は2015年時点で 約73.4%であり、世界平均(約55%、2018年)より約18ポイント高く、都市への人口集中が進んでいるといえる。
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都市人口率は2015年時点で 約73.4%であり、世界平均(約55%、2018年)より約18ポイント高く、都市への人口集中が進んでいるといえる。 トルコ三大都市圏として、 2大陸にまたがるメガシティであるイスタンブール、 首都のアンカラ、 国内最大港湾都市のイズミル が挙げられる。 そのほか、人口が300万人を超える都市(日本でいえば、横浜市と同規模)としては、ブルサがある。 また同200万人(日本でいえば、名古屋市と同規模)を超える都市は、アンタルヤ、アダナ、コンヤ、シャンルウルファ、ガズィアンテプ、コジャエリがある。 更に、同150万人以上(日本でいえば、神戸市と同規模)を超える都市は、メルスィン、ディヤルバクル、ハタイである。 このうち、アナトリア高原など山岳部に位置する都市は、アンカラ、ガズィアンテプ、コンヤ、ディヤルバクルである。 国の東部には小規模な都市が目立ち、特に東北部、または黒海沿岸には都市への人口の集中があまり見られない。その背景には、南東部などの後進地域の若年層が雇用機会を求めて、イスタンブール、アンカラ、イズミル、ブルサ、アンタルヤといった西部大都市へ移動していることがあり、地域格差の拡大につながる社会問題となっている。 IMFによると、2018年の国内総生産(GDP)は約7,700億ドル(約85兆円)で、世界第19位である。1人あたりのGDPは9,405ドル(2018年)で、世界平均(1万4,836ドル、2018年)の約63%程であり、カザフスタンとほぼ同じである。産業は近代化が進められた工業・商業と、伝統的な農業からなり、農業人口が国全体の労働者のおよそ18.4%(2016年)を占める。漁業は沿岸部では比較的盛んであるが、エーゲ海ではギリシャ領の島々が本土のすぐ近くに点在しているため、領海・排他的経済水域や公海上の漁獲量をめぐる国際問題が起きることもある。
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工業は軽工業が中心で、繊維・衣類分野の輸出大国である。近年では、世界の大手自動車メーカーと国内の大手財閥との合弁事業が大きな柱となっており、ヨーロッパ向け自動車輸出が有力な外貨獲得源になっている。具体的には、国内最大の財閥であるサバンジュ財閥と日本のトヨタ自動車、国内2位の財閥であるコチ財閥とイタリアのフィアット、国内4位の財閥であるオヤック財閥とフランスのルノーが挙げられる。また、コチ財閥のアルチェリッキ・ベコ、ゾルル財閥のヴェステルなど、家電・エレクトロニクス部門の成長も期待されている。工業化が進んでいるのは北西部のマルマラ海沿岸地域が中心である。また、アナドルグループ傘下のアナドル自動車では、日本のいすゞ自動車、ホンダとの合弁事業も行なわれている。 ヨーロッパ、中東、アフリカの結節点という輸出における地理的優位さもあり、製造業の生産能力や技術力は向上している。上記以外にもアパレルのLC Waikiki、軍事関連のアセルサンといった有力メーカーが育っている。新型コロナウイルス感染症が世界に広がった2020年、トルコは約140カ国にマスク、人工呼吸器、防護服といった衛生・医療物資を送った。 経常収支が赤字であるため、ロシア連邦を含むヨーロッパ諸国などから訪れる観光客は、貴重な外貨収入源となっている。外国人観光客数は2014年のピークで3,683万人。その後、シリア内戦に誘発された相次ぐテロ事件やロシア軍爆撃機撃墜事件(2015年)、2016年トルコクーデター未遂事件が起きたため、2016年は約2,500万人に減ったものの、2017年以降は回復している。2021年5月時点、新型コロナウイルス感染症の世界的流行下でもトルコは観光客を受け入れており、国民に課せられている外出制限も観光客には適用されていない。 空路のほか、クルーズ客船も利用されている。エーゲ海沿岸地域やイスタンブール、内陸のカッパドキアなどが観光地として人気が高い。 地中海に面する西部と首都アンカラ周辺地域以外では農業の比重が大きい。特に東部では、地主制がよく温存されているなど経済近代化の立ち遅れが目立ち、農村部の貧困や地域間の経済格差が大きな問題となっている。
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空路のほか、クルーズ客船も利用されている。エーゲ海沿岸地域やイスタンブール、内陸のカッパドキアなどが観光地として人気が高い。 地中海に面する西部と首都アンカラ周辺地域以外では農業の比重が大きい。特に東部では、地主制がよく温存されているなど経済近代化の立ち遅れが目立ち、農村部の貧困や地域間の経済格差が大きな問題となっている。 国土は鉱物資源に恵まれている。有機鉱物資源では石炭の埋蔵量が多い。2002年の時点では亜炭・褐炭の採掘量が6,348万トンに達した。これは世界シェアの7.0%であり、世界第6位に位置する。しかしながら高品位な石炭の生産量はこの20分の1過ぎない。原油(252万トン)と天然ガス(12千兆ジュール)も採掘されている。 金属鉱物資源では、世界第2位の産出量の(200万トン、世界シェア17.9%)マグネシウムをはじめ、アンチモン、金、鉄、銅、鉛、ボーキサイトなどの鉱物を産出する。 しかしながら、石炭は火力発電など燃料として国内で消費し、マグネシウムの国際価格が低迷していることから、同国の輸出に占める鉱物資源の割合は低く、4%程度(2002年時点)に過ぎない。 石油・天然ガスについては黒海で開発を進め、2002年の段階から生産を始めていたが、近年石油は100億バレル、ガスは1兆5千億立方メートルと莫大な埋蔵量であることが分かった。これにより2023年から40年間にわたって、国内消費分を賄うことができるようになるとの見通しである。 1990年代の後半から経済は低調で、政府は巨額の債務を抱え、国民は急速なインフレーションに悩まされていた。歴代の政権はインフレの自主的な抑制に失敗し、2000年からIMFの改革プログラムを受けるに至るが、同年末に金融危機を起こした。この結果、トルコリラの下落から国内消費が急激に落ち込んだ。 2002年以後は若干持ち直し、実質GNP成長率は5%以上に復調、さらに同年末に成立した公正発展党単独安定政権の下でインフレの拡大はおおよそ沈静化した。2005年1月1日には100万トルコリラ(TL)を1新トルコリラ(YTL)とする新通貨を発行し、実質的なデノミネーションが行われた。なお2009年より、新トルコリラは再び「トルコリラ」という名称に変更されている。
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2002年以後は若干持ち直し、実質GNP成長率は5%以上に復調、さらに同年末に成立した公正発展党単独安定政権の下でインフレの拡大はおおよそ沈静化した。2005年1月1日には100万トルコリラ(TL)を1新トルコリラ(YTL)とする新通貨を発行し、実質的なデノミネーションが行われた。なお2009年より、新トルコリラは再び「トルコリラ」という名称に変更されている。 近年のGDP成長率は2010年9.2%、2011年8.5%、2012年2.2%となっている。 貿易は慢性的に赤字が続いている。2003年時点では輸出466億ドルに対し、輸入656億ドルであった。ただし、サービス収支、たとえば観光による収入(90億ドル、2002年)、所得収支、たとえば海外の出稼ぎからの送金などが多額に上るため、経常収支はほぼバランスが取れている。 輸出・輸入とも過半数を工業製品が占める。世界第2位の生産量を占める毛織物のほか、毛糸、綿糸、綿織物、化学繊維などの生産量がいずれも世界の上位10位に含まれる、厚みのある繊維産業が輸出に貢献している。衣料品を輸出し、機械類を輸入するという構造である。 輸出品目では工業製品が 83.2%を占め、ついで食料品9.9%、原材料・燃料5.0%である。工業製品では衣類21.1%、繊維・織物 11.1%、自動車10.5%、電気機械8.6%が主力であり、鉄鋼も輸出している。輸出相手国はヨーロッパ圏が主力であり、ドイツ 15.8%、アメリカ合衆国7.9%、イギリス7.8%、イタリア6.8%、フランス6.0%の順である。日本に対する最大の輸出品目はマグロ(21.7%)、ついで衣料品である。 輸入品目でも工業製品が65.9%に達する。ついで原材料・燃料21.3%、食料品4.0%である。品目別では機械類13.4%、電気機械9.2%、自動車7.7%、原油6.9%、繊維・織物5.0%である。輸入相手国も欧州が中心で、ドイツ13.6%、イタリア7.9%、ロシア7.9%、フランス6.0%、イギリス5.0%の順である。日本からの最大の輸入品目は乗用車(12.1%)、ついで自動車用部品である。
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輸入品目でも工業製品が65.9%に達する。ついで原材料・燃料21.3%、食料品4.0%である。品目別では機械類13.4%、電気機械9.2%、自動車7.7%、原油6.9%、繊維・織物5.0%である。輸入相手国も欧州が中心で、ドイツ13.6%、イタリア7.9%、ロシア7.9%、フランス6.0%、イギリス5.0%の順である。日本からの最大の輸入品目は乗用車(12.1%)、ついで自動車用部品である。 交通の中心となっているのは、旅客・貨物ともに陸上の道路交通である。鉄道は国鉄(TCDD)が存在し、1万940キロメートルの路線を保有・運営しているが、きわめて便が少なく不便である。また、駅舎、路線、その他設備は整備が不十分で老朽化が進んでいる。2004年には国鉄は最高時速160キロメートルの新型車両を導入したが、7月にその新型車両が脱線事故を起こし39名の死者を出した。これは、路線整備が不十分なまま新型車両を見切り発車的に導入したことが原因といわれている。この事故は国鉄の信頼性を一層低下させ、鉄道乗客数は激減している。その後、路線の新設や改良に巨額の投資をし始め、2007年4月23日、エスキシェヒール - アンカラ間にて初のトルコ高速鉄道(最高時速250キロメートル)が開通した。その後も、アンカラ-コンヤ間でも完成するなど、各地で高速鉄道建設が進められ近代化が図られている。 政府は道路整備を重視しており、国内の道路網は2004年時点で6万3,220キロメートルに及んでいる。また、イスタンブールとアンカラを結ぶ高速道路(Otoyol)も完成間近となった。貨物輸送はもちろん、短距離・長距離を問わず旅客輸送の中心もバスによる陸上輸送が中心で、大都市・地方都市を問わず都市には必ず「オトガル」と呼ばれる長距離バスターミナル(Otogal/Terminal)が存在し、非常に多くのバス会社が多数の路線を運行している。また、世俗主義国家であるとはいえイスラム教国であるため、これらのバスでは親子や夫婦などを除き男女の相席をさせることはまずない。
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いまだ雇用所得が低いことや、高額の自動車特別消費税(1,600cc未満37%、1,600cc以上60%、2,000cc以上84%)、非常に高価なガソリン価格(2008年時点で1リットル当たり3.15YTL(約280円)程度)のために、自家用車の普及はあまり進んでいない。また、農村部においては現在でも人的移動や農作物の運搬のためにトラクターや馬を用いることはごく普通である。農村部や地方都市において露天バザールが開催される日には、アンカラやイスタンブールとはかけ離れたこれらの光景をよく目にすることができる。 トルコの科学技術の歴史は前身のオスマン帝国時代から続いている。トルコでの研究開発活動は、近年大幅な飛躍を遂げている面が強く、2021年時点でのグローバル・イノベーション・インデックス(英語版)においては41位にランクされ、2011年の65位から大幅に順位を上げている。 現代においては科学技術研究評議会(TÜBİTAK)によって技術開発などを中心的に計画されており、大学や研究機関が責任を負う立場を担っている。 国土の位置するバルカン半島やアナトリア半島は、古来より多くの民族が頻繁に往来した要衝の地であり、複雑で重層的な混血と混住の歴史を繰り返してきた。現在のトルコ共和国が成立する過程にも、これらの地域事情が色濃く反映されている。
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現代においては科学技術研究評議会(TÜBİTAK)によって技術開発などを中心的に計画されており、大学や研究機関が責任を負う立場を担っている。 国土の位置するバルカン半島やアナトリア半島は、古来より多くの民族が頻繁に往来した要衝の地であり、複雑で重層的な混血と混住の歴史を繰り返してきた。現在のトルコ共和国が成立する過程にも、これらの地域事情が色濃く反映されている。 前身である多言語、多宗教国家のオスマン帝国では、このような地域事情を汲み取って「ゆるやかな統治」を目指して統治を行い、信仰の自由を大幅に認めていたため、住民にオスマン帝国民という意識はほとんどなかった。各自の信奉するイスラム教や東方教会のキリスト教(ギリシア正教、アルメニア正教、シリア正教)といった宗教に分かれ、さらに言語ごとに細かいグループに分かれて宗教・言語のエスニック・グループの集団が存在し、イスラム教徒ではトルコ語、クルド語、アルバニア系といった母語グループに分かれていた。この集団が、長らく人々のアイデンティティ形成と維持に主導的な役割を果たしてきたといえる。このため、国民国家としての現共和国成立に伴い、国内における民族意識(ナショナリズム)の醸成が急務となっていたが、国内最大多数派であるトルコ人ですら、何をもってトルコ人と定義するのかを画一的に判断することが非常に困難であった。このことは、1830年のギリシャ独立以降、隣国ギリシャとの間でバルカン半島とアナトリア半島をめぐり領土紛争の勃発する要因となり、1922年に紛争の抜本的解決を目的に締結されたローザンヌ条約と住民交換協定では、国内に住む正教会信者のトルコ語話者は「ギリシャ人」、逆にギリシャ国内に住むイスラム教徒のギリシャ語話者は「トルコ人」と規定され、それぞれの宗教が多数派を形成する国々への出国を余儀なくされている。
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こうした経緯もあり、長年国内の民族構成に関する正確な調査が実施されず、政府は、国内に居住するトルコ国民を一体として取り扱い、国民はすべてトルコ語を母語とする均質な「トルコ人」であるという建前を取っていた。これが新生トルコを国際的に認知したローザンヌ条約におけるトルコ人の定義であると同時に、トルコにおける少数民族とは非イスラム教のギリシャ人、アルメニア人、ユダヤ人の三民族であることを定義した。しかしながら、実際には共和国成立以前から東部を中心にクルド人をはじめ多くの少数民族が居住する現状を否定することができず、現在では、民族的にトルコ人ではない、あるいはトルコ語を母語としない国民も国内に一定割合存在することを認めてはいるものの、それらが少数民族とは認知していない。 少数派の民族としては、クルド人、アラブ人、ラズ人、グルジア人、ギリシャ人、アルメニア人、ヘムシン人、ザザ人、ガガウズ人、ポマク人、アゼリー人などが共和国成立以前から東部を中心に居住しており、バルカン半島や黒海の対岸からアナトリアに流入したアルバニア人、ボシュニャク人、チェルケス人、アブハズ人、クリミア・タタール人、チェチェン人、オセット人も少なくない。特に、クルド人はトルコ人に次ぐ多数派を構成しており、その数は1,400万から1,950万人といわれている。かつて政府は国内にクルド人は存在しないとの立場から、クルド語での放送・出版を禁止する一方、「山岳トルコ人」なる呼称を用いるなど、差別的に扱っていた。しかしながら、現在では少数民族の存在を認める政府の立場から、山岳トルコ人という呼称は用いられることがない。実際問題として長年の同化政策の結果、今や言語がほぼ唯一の民族性のシンボルとなっている。2004年にはクルド語での放送・出版も公に解禁され、旧民主党(DEP : 共和人民党から分離した民主党(DP)とは別組織)レイラ・ザーナ党首の釈放と同日に、国営放送であるTRTの第3チャンネル(TRT3)においてクルド語放送が行われた。2008年末には24時間クルド語放送を行うためTRTに第6チャンネルが開設され、2009年1月から本放送を開始した。
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なお、クルド人はいわゆる北部南東アナトリア地域(南東アナトリア地域)にのみ偏在しているわけではなく、地域により格差はあるものの、国内の81県全域にある程度のまとまりを持った社会集団として分布している。実際、クルド系政党民主国民党(DEHAP)は全域で政治活動を展開し、総選挙において一定の影響力を保持している。1960年以降、全国的な農村部から都市への移住が増加したことに伴いクルド人も都市部への移住が進み、現在はクルド人の都市居住者と農村部居住者との割合が大幅に変化しているとみられる。ある推計によると、1990年以降最も多数のクルド人が存在するのは、南東アナトリア6県のいずれでもなく、イスタンブール県であるとの結果も存在する。各都市のクルド人は、その多くが所得水準の低い宗教的にも敬虔なイスラム教徒であるといわれており、昨今の都市部における大衆政党として草の根活動を行ってきたイスラム系政党躍進の一因と結びつける見方も存在する。 公用語のトルコ語のほか、クルド語(クルマンジー)、ザザキ語(ディムリ語、キルマンジュキ語)、チェルケス語派(英語版)(カバルド語、アディゲ語)、アゼルバイジャン語(南アゼルバイジャン語)、アラビア語(北メソポタミア・アラビア語(英語版)、アラビア語イラク方言)、バルカン・ガガウズ・トルコ語、ブルガリア語、ギリシア語(ギリシア語ポントス方言)、アルメニア語、カルトヴェリ語派(グルジア語、ラズ語)などが話されている。 1934年に「創姓法」が制定され、全ての国民に姓を持つことが義務づけられたため、上流階級は他のアラブ諸国と同じように先祖の名前や出自に由来する「家名」を姓とし、庶民は父の名、あだ名、居住地名、職業名や、縁起のいい言葉を選んで姓をつけている。婚姻の際は、以前は夫婦同姓のみが認められていたが、2001年の法改正により女性の複合姓が認められ、さらに2014年に最高裁において、婚前の姓のみを名乗ることを認めないことは憲法違反との判決が下され、完全な夫婦別姓も選択可能となったことで、選択的夫婦別姓制度が実現している。
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宗教構成は、宗教の帰属が身分証明書の記載事項でもあることからかなり正確な調査結果が存在する。それによると、人口の99%以上がムスリム(イスラム教徒)である。一方、各宗派に関しては、身分証明書にその記載事項がないことから、宗教のように詳細な宗派区分の把握ができておらず不明な点も多い。その結果、一般的にはムスリムを信奉する国民の大半はスンナ派に属するといわれているが、一方で同じイスラム教の中でマイノリティであるアレヴィー派の信奉者が国内にも相当数存在しているとの主張もあり、一説には20%を超えるとも言われている。 そのほかの宗教には東方正教会、アルメニア使徒教会、ユダヤ教、カトリック、プロテスタントなどが挙げられるが、オスマン帝国末期から現共和国成立までに至る少数民族排除の歴史的経緯から、いずれもごく少数にとどまる。 一方で、東方正教会の精神的指導者かつ第一人者であるコンスタンディヌーポリ総主教はイスタンブールに居住しており、正教徒がごく少数しか存在しないトルコに東方正教会の中心地がある状況が生み出されている。国内にある東方正教会の神品を養成するための「ハルキ神学校」は1971年から政府命令によって閉鎖されており、東方正教会への政府からの圧迫の一つとなっている。 義務教育機関として、8年制の初等教育学校(ilk öğretim okulu)が置かれ、そのほか4年制(2004年9月入学以降、それ以前は3年制)の高等学校(lise)、大学(üniversite)などが置かれている。ほかに就学前教育機関として幼稚園(anaokulu)なども存在する。初等教育学校を含めてほぼ全ての学校が国立だが、私立学校も存在する。ただし、私立学校の1か月間の学費は、給食費・施設費などを含めて一般労働者の月収とほぼ同等で、極めて高価である。 公立高校・公立大学への入学にはそれぞれLGS・ÖSSの受験を必要とし、成績順で入学校を決定する。受験競争は存在し、高校入試・大学入試のために塾(dershane)に通うことも珍しくない。
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公立高校・公立大学への入学にはそれぞれLGS・ÖSSの受験を必要とし、成績順で入学校を決定する。受験競争は存在し、高校入試・大学入試のために塾(dershane)に通うことも珍しくない。 教員数・教室数はともに十分な数には達しておらず、初等教育学校は午前・午後の二部制である。また学校設備も不十分で、体育館・プールなどは公立学校にはまず存在しない。特に大都市の学校では運動場は狭くコンクリート張りで、バスケットボールやフットサルが精一杯である(地方においては芝生のサッカー場などを持つ学校も多い)。また、図書館も存在しないか、あっても不十分である。学校設備の問題に関しては国も認識し、世界銀行からの融資を受けるなどして改善を図っているが、厳しい財政事情もあって改善が進んでいない。 2004年現在、男子児童の就学率は統計上ほぼ100%に到達したが、女子児童の非就学者は政府発表で65万人程度存在し、政府は「さあ、女の子たちを学校へ(Hadi Kızlar Okula)」キャンペーンを展開するなどその解消に努めている。しかし、女子非就学者の問題には経済事情に加え、男女共学のうえ、いまだ保守的なイスラムを奉ずる地域ではヘッドスカーフ着用禁止の初等教育学校に通わせることを宗教的な観点から問題視する親が存在するという事情もあり、女子非修学者の減少はやや頭打ちの状態である。 イスラム教の教えに基づいた創造論が学校などで公然と教育されており、進化論への検閲行為などの問題が生じている。また、クルド語を教育することはおろか、教育機関などでの「公的な場」で使用することさえ法律で禁止されており、これに違反した場合は国家反逆罪などで起訴される。実際に投獄された一般のクルド人も多い。
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イスラム教の教えに基づいた創造論が学校などで公然と教育されており、進化論への検閲行為などの問題が生じている。また、クルド語を教育することはおろか、教育機関などでの「公的な場」で使用することさえ法律で禁止されており、これに違反した場合は国家反逆罪などで起訴される。実際に投獄された一般のクルド人も多い。 2022年の世界平和度指数の安全・安心(Safety & Security)部門で163カ国中138位ぐらいとロシアより下位に位置し、不安定さが目立つだけでなく、かなり危険な状況にあるトルコの治安状況を、日本人は知らないのである。2007年以降、同国警察が犯罪統計を公表していないために詳細な件数は不明であるものの、日本と比べると一般犯罪(特に窃盗事件)や凶悪犯罪(殺人、強盗)は数多く発生している方で、置き引きやスリ、ぼったくり、詐欺(主に恋愛を利用したものや格安を謳うツアー、乗車料金やクレジットカードに絡むもの)、性犯罪、偽警察官による犯罪も散見されている。 トルコにおける法執行は、トルコ軍の指揮下に置かれる憲兵「ジャンダルマ」や警察総局をはじめとして、内務省(英語版)の下で行動するいくつかの省庁ならび公的機関によって行なわれている。 他人の権利の尊重や情報の自由な流れなどの基本的人権に基づく2020年積極的平和指数は、163カ国中88位と先進国を下回り、世界的には平均程度だが、66位の中国を下回っている。 政治的な理由でネット検閲が行われている。2014年には裁判所の命令がなくてもウェブサイトを遮断したり、インターネットを通じて個人の閲覧記録を収集したりすることを首相に認める法律(インターネット法に関する5641改正法)が可決されている。
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政治的な理由でネット検閲が行われている。2014年には裁判所の命令がなくてもウェブサイトを遮断したり、インターネットを通じて個人の閲覧記録を収集したりすることを首相に認める法律(インターネット法に関する5641改正法)が可決されている。 そのため、YouTubeなどGoogle関連を含む約3,700の外部サイトへのアクセスは政府によってブロックされており、反政府運動の抑え込みや言論統制を理由にFacebookやTwitterなどソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)も度々ブロックされている。2017年4月29日、政府は国内からのウィキペディアへの通信を遮断したと発表。運輸海事通信省(英語版)はウィキペディアに政府がテロ組織と連携しているような記事が書かれていることを非難し、「トルコに対して中傷作戦を展開する情報源の一部になっている」と主張している。当局はウィキペディアに対して削除を要請したが、ウィキペディア側は拒否したという。ウィキペディア側が要請に応じた場合、遮断解除を行うとしている。 国土は、ヒッタイト、古代ギリシア、ローマ帝国、イスラームなど様々な文明が栄えた地であり、諸文化の混交が文化の基層となっている。これらの人々が残した数多くの文化遺産、遺跡、歴史的建築が残っており、世界遺産に登録されたものも9件に及ぶ(詳しくは「トルコの世界遺産」を参照)。伝統的な文化はこのような基層文化にトルコ人が中央アジアからもたらした要素を加えて、東ヨーロッパから西アジアの諸国と相互に影響を受け合いながら発展してきた。また、トルコの文化はヨーロッパの芸術文化や被服文化にも影響を及ぼしており、特に16世紀から18世紀の間はオスマン帝国勢力の隆盛時にその文化が多大な影響を擁している。この現象はターケリー(英語版)と呼ばれている。
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近現代のオスマン帝国、トルコは、ちょうど日本の文明開化と同じように、西洋文明を積極的に取り入れてきたが、それとともにトルコ文学、演劇、音楽などの近代芸術は、言文一致運動や言語の純化運動、社会運動などと結びついて独自の歴史を歩んできた。こうした近代化の一方で、歴史遺産の保全に関しては立ち遅れも見られる。無形文化財ではオスマン古典音楽の演奏者は著しく減少し、また剣術、弓術などいくつかの伝統的な技芸は既に失われた。有形の遺跡もオスマン帝国時代以来のイスラム以前の建築物に対する無関心は現在も少なからず残っており、多くの遺跡が長らく管理者すら置かれず事実上、放置されてきた。近年は、いくつかの有名な古代ギリシャやローマ帝国時代の遺跡やイスラム時代の建築が観光化されて管理が行き届くようになったが、依然として多くの遺跡は風化の危機にさらされている。このような状況に対する懸念も表明されているが、その保全対策は財政事情もありほとんど全く手つかずの状態である。 トルコ料理は伝統的に世界三大料理の一つとされ、ギリシャ料理やシリア地方の料理(レバノン料理など)とよく似通っている。またイスラム教国ではあるが飲酒は自由に行われており、ブドウから作られアニスで香りがつけられたラクが有名である。ワインやビールの国産銘柄も多数ある。コーヒー粉末と砂糖を入れた小さな容器を火にかけて煮出すトルココーヒーはユネスコの無形文化遺産に登録された。 伝統的なトルコ音楽の一つ、オスマン古典音楽はアラブ音楽との関係が深く、現代のアラブ古典音楽で演奏される楽曲の多くはオスマン帝国の帝都イスタンブールに暮らした作曲家が残したものである。 オスマン帝国とトルコ共和国で行われてきた伝統的な軍楽メフテルは多くの国に脅威と衝撃を与え、音楽家は着想を得ていくつものトルコ行進曲を製作した。 トルコの演劇文化は、幾千年も前の時代から続いている。その起源については様々な見解があり、多くの学者はトルコの民俗劇場がフリギアやヒッタイト文明のような初期のアナトリア文明の民間伝承に関連していると主張している。一方で、一部の学者からはウラル・アルタイ地域で実践されていた人道的な儀式から発展したものであるという説が唱えられている。 同国において民俗劇場は田舎に点在する何千もの村の中で何世紀にも亘って存続されて来ている面を持つ。
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同国において民俗劇場は田舎に点在する何千もの村の中で何世紀にも亘って存続されて来ている面を持つ。 トルコにおける映画製作活動は、第二次世界大戦後から劇的に増加して行く形で高まった。最近ではアラブ世界、そして米国でもその存在が認知されるほどに成長を見せている。 トルコの芸術文化は、同国の前身であるオスマン帝国のものを源流としている。 トルコにおける伝統衣装は、オスマン帝国時代の服飾文化に大きく影響されている面を持つ。またトルコの民俗服は、アナトリア半島地域とその周辺の様々な地域文化の類似点や歴史的な共有があり、トルコ国内の各地域の服飾はその人々の性質を反映する傾向が強いことも明らかとなっている。 建築は、イランとギリシャ双方の影響を受け、独自の壮麗なモスクやメドレセなどの建築文化が花開いた。その最盛期を担ったのがミマール・スィナンであり、スレイマン・ジャミィなどに当時の文化を垣間見ることができる。 俗に「トルコ風呂」などと呼ばれている公衆浴場文化(本国においては性風俗店の意味はなく、伝統的浴場の意である)は、中東地域に広く見られるハンマーム(ハマム)の伝統に連なる。逆に、中東やアラブの後宮として理解されているハレムとは実はトルコ語の語彙であり、多くの宮女を抱えたオスマン帝国の宮廷のイメージが、オリエンタリズム的な幻想に乗って伝えられたものであった。 国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が11件、複合遺産が2件存在する。 トルコ国内ではサッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。国内には18のプロクラブが参加するスュペル・リグを頂点に、2部リーグ、3部リーグ、さらにその下部には地域リーグが置かれ、プロ・アマ合わせれば膨大な数のクラブが存在する。また、サッカークラブの多くは総合スポーツクラブの一部であり、バスケットボールやバレーボールなど他種目のスポーツチームを同じクラブが抱えることも多い。
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トルコ国内ではサッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。国内には18のプロクラブが参加するスュペル・リグを頂点に、2部リーグ、3部リーグ、さらにその下部には地域リーグが置かれ、プロ・アマ合わせれば膨大な数のクラブが存在する。また、サッカークラブの多くは総合スポーツクラブの一部であり、バスケットボールやバレーボールなど他種目のスポーツチームを同じクラブが抱えることも多い。 トルコサッカー連盟(TFF)は欧州サッカー連盟(UEFA)に加盟しており、スュペル・リグ上位クラブはUEFAチャンピオンズリーグやUEFAヨーロッパリーグに参加可能である。中でもイスタンブールのフェネルバフチェ、ガラタサライ、ベシクタシュと、トラブゾンのトラブゾンスポルは4大クラブと呼ばれ、テレビや新聞などの報道量もほかに比べ非常に多い。これらのクラブは実力的にも上位にあるため、UEFA主催のリーグに参加することも多い。UEFA主催のリーグに参加するクラブは半ばトルコ代表として扱われることもあり、これらの強豪は地域にかかわらず全国的に人気がある。なお、フェネルバフチェ・ガラタサライ・ベシクタシュの3クラブはイスタンブール証券取引所に上場する上場企業でもある。 サッカートルコ代表は、2002年に行われた日韓W杯で3位の成績を収めるなど健闘した。この大会では開催国の日本と韓国に勝利しており、同一大会で2つの開催国に勝利するという珍しい記録を達成した。また、同大会で優勝したブラジルには2度敗北している。さらに、2005年にはイスタンブールのアタテュルク・オリンピヤト・スタドゥで、UEFAチャンピオンズリーグ 2004-05 決勝が行われ「イスタンブールの奇跡」が起こった。 サッカー以外のプロスポーツとしては、バスケットボールとバレーボールのプロリーグが存在する。特にバスケットボールは、NBAでのトルコ人選手の活躍や2010年に世界選手権が開催されたこともあり、近年人気が上昇している。また、2005年から2011年まではF1トルコGPが開催されており、WRCのラリー・オブ・ターキーとあわせてモータースポーツにおける発展も期待される。
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サッカー以外のプロスポーツとしては、バスケットボールとバレーボールのプロリーグが存在する。特にバスケットボールは、NBAでのトルコ人選手の活躍や2010年に世界選手権が開催されたこともあり、近年人気が上昇している。また、2005年から2011年まではF1トルコGPが開催されており、WRCのラリー・オブ・ターキーとあわせてモータースポーツにおける発展も期待される。 650年以上の歴史を持つ伝統の格闘技としてヤールギュレシ(オイルレスリング)があり、トルコの国技となっている。アマチュアスポーツとしては、レスリングや重量挙げなどの人気が高い。また、トルコ人の気風を反映してか柔道や空手道の道場も多い。競馬や競走馬の生産も行われており、日本産馬ではディヴァインライトがトルコで種牡馬として供用されている。チュルク系民族の伝統的な騎馬により争われる競技「ジリット」は、主にトルコ東部の民間に残っている。
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ロシア連邦(ロシアれんぽう、ロシア語: Российская Федерация)、通称ロシア(ロシア語: Россия)は、ユーラシア大陸北部に位置する連邦共和制国家である。首都はモスクワ市。 国土は旧ロシア帝国およびソビエト連邦の大半を引き継いでおり、ヨーロッパからシベリア・極東に及ぶ。面積は17,090,000 km(平方キロメートル)以上と世界最大である。 ロシアは国際連合安全保障理事会常任理事国であり、旧ソビエト連邦構成共和国でつくる独立国家共同体(CIS)の指導国であるだけでなく、G20、アジア太平洋経済協力(APEC)、上海協力機構、ユーラシア経済共同体、欧州安全保障協力機構、世界貿易機関(WTO)などの加盟国である。かつてG8加盟国であったが、2014年3月にクリミアの併合を強行したことでG8の参加資格を停止された。 核拡散防止条約により核兵器の保有を認められた5つの公式核保有国の1つであり、世界最大の大量破壊兵器保有国(英語版)である。国防費は2010年以降増加の一途を辿っている。常備軍のロシア連邦軍は地上軍・海軍・航空宇宙軍の3軍の他、戦略ロケット軍と空挺軍の2つの独立兵科で構成されている。運用面では地理的に分割された軍管区に権限が委譲されており、それぞれに統合戦略コマンドが設置されて3軍と通常兵器部隊を指揮している(戦略核兵器部隊は指揮権外)。現役軍人は約90万人であるが、2022年ロシアのウクライナ侵攻に伴う大量の戦死傷・捕虜や動員で変動しており、さらにロシア政府は2026年にかけて軍の定員を150万人へ増やす計画を進めている。 政治体制は、ソビエト連邦の崩壊に前後してソビエト共産党による一党独裁制が放棄されて複数政党制に基づく選挙が行われるようになったが、2003年以降は事実上ウラジーミル・プーチン大統領率いる与党「統一ロシア」の一党優位政党制になっている。複数政党制や選挙は一応存在するが、選挙から反体制派候補を排除するなどプーチン体制に有利な政治制度が構築されており、政治的意思を表明する機会に乏しい。「法の独裁」による統治を目指す強権的体質が内外から批判されており、エコノミスト誌傘下の研究所エコノミスト・インテリジェンス・ユニットによる民主主義指数は、世界134位と下位で「独裁政治体制」に分類されている(2019年度)。
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言論の自由に関しても、国境なき記者団による世界報道自由度ランキングは149位と下位である(2020年度)。特に、2022年のウクライナ侵攻以降は「広範囲に検閲を行うなどしてニュースや情報を完全に支配している」と非難されており2022年は155位、2023年は164位と大幅に順位を落としている。 領土や軍事力に比べてロシアの経済は国際的地位が低いものの、2014年時点の名目GDPは世界第9位(発展途上国に有利になる購買力平価では世界第6位)であった。鉱物及びエネルギー資源は世界最大の埋蔵量であり、世界最大の原油生産国(英語版)および世界最大の天然ガス生産国(英語版)の一つである。しかし資源依存の経済体質であるため、原油安の時期は経済が停滞する。加えて2014年にクリミア併合を強行したことにより欧米から経済制裁を受けて更なる打撃を受けている。2022年にはウクライナへ侵攻したことでSWIFTからの排除など更なる経済制裁を受けている。 2023年時点ではロシアは世界第2位の仮想通貨のマイニング大国であり、またブロックチェーン技術を使用した国際決済の推進や新たな機関を設立する計画を進めている。 人口はロシア連邦国家統計庁によれば1億4680万人(2017年時点。ソ連時代の1990年には2億8862万人だった)であり、世界第9位、ヨーロッパで最も多い人口である。最大の民族はロシア人だが、ウクライナ人やベラルーシ人やトルコ系のウズベク人、またシベリアや極東の少数民族なども存在し、合計で100以上の民族がある。公用語はロシア語だが、少数民族の言語も存在する。宗教はキリスト教徒が人口の60%を占め、その大半がロシア正教会の信者である。イスラム教徒も人口の8%ほどおり、仏教徒も存在する。
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地理としてはロシアの国境は、北西から南東へ、ノルウェー、フィンランド、エストニア、ラトビア、ともにカリーニングラード州と隣接するリトアニアおよびポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、ジョージア、アゼルバイジャン、カザフスタン、中華人民共和国、モンゴル国、朝鮮民主主義人民共和国と接する。海上境界線としては、日本とはオホーツク海・宗谷海峡・根室海峡・珸瑤瑁水道、アメリカ合衆国アラスカ州とはベーリング海峡を挟んで向かい合う。ロシアの国土面積は17,075,400 kmで世界最大であり、地球上の居住地域の8分の1を占める。国土が北アジア全体および東ヨーロッパの大部分に広がることに伴い、ロシアは11の標準時を有し、広範な環境および地形を包含する(英語版)。 ロシアの歴史は、3世紀から8世紀までの間にヨーロッパで認識され始めた東スラヴ人の歴史に始まる。9世紀、ヴァリャーグの戦士の精鋭およびその子孫により設立・統治され、キエフ大公国の中世国家が誕生した。988年、東ローマ帝国からキリスト教正教会を導入し、次の千年紀のロシア文化(英語版)を特徴づける東ローマ帝国およびスラブ人の文化の統合が始まった。キエフ大公国は最終的に多くの国に分裂し、13世紀には領土の大部分がモンゴルに侵略され、遊牧国家ジョチ・ウルスの属国になり、ロシアが西洋から隔絶される原因となった(タタールのくびき)。モスクワ大公国は次第に周辺のロシアの公国を再統合し、キエフ大公国の文化的・政治的な遺産を支配するようになった。クリコヴォの戦いでジョチ・ウルスを破った後、ジョチ・ウルスは衰退し、イヴァン3世(イヴァン大帝)の時代に独立した。東ロシアのほとんどがモスクワ大公国に服した。16世紀中ごろにイヴァン4世(イヴァン雷帝)がモスクワ帝国を建設した。ピョートル大帝は、ロシア人がバルト海に行く道を確保し、1703年にバルト海に面するサンクトペテルブルクを建設した。1712年にサンクトペテルブルクはロシアの首都になり、1721年にロシアは帝国になった。周辺諸国の併合などを繰り返し、史上第3位の領土を持つ帝国となり、版図はポーランドから、北アメリカ大陸北西部(ロシア領アメリカ、後にアメリカ合衆国へ売却)まで広がった。
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1917年のロシア革命の後、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国がソビエト連邦最大かつ指導的な構成国となった。スターリン時代には大粛清で国民を弾圧する一方で、工業化と軍拡、周辺国の侵略(バルト諸国占領やフィンランドに対する冬戦争)を進めた。第二次世界大戦ではナチス・ドイツの先制攻撃を受けた後に反撃に転じ(独ソ戦)、連合国の勝利に決定的な役割を果たした。こうして世界初の憲法上の社会主義共和国および、戦後はアメリカ合衆国と並ぶ超大国となった。アメリカやその同盟国とは冷戦で激しく対立したが、ソビエト連邦の宇宙開発は初期においてアメリカを凌駕し、世界初の人工衛星および世界初の有人宇宙飛行を含む20世紀のもっとも重要な複数の技術的偉業(英語版)を経験した。やがてソ連共産党による一党独裁の弊害が噴出するようになり、1991年にソビエト連邦の崩壊に至った。 新たにロシア連邦を国名とし、ロシアも同等の国名とされた(1992年の憲法改正により)。ロシアの国旗は革命前の白・青・赤の3色旗に戻り、国際連合における地位などは基本的に旧ソ連を引き継いでいる(安全保障理事会常任理事国など)。2022年2月24日にはウクライナに「特別軍事作戦」と言う名の軍事侵攻を始めた。その軍事侵攻で、現在ウクライナのドネツク州、ルハンシク州、ザポリージャ州、ヘルソン州の一部、クリミア半島全域を支配している。この事については「2022年ロシアのウクライナ侵攻」を参照。 ロシア連邦には国家を代表する象徴が多く存在している。これらの象徴の中には、嘗ての帝政時代やソビエト連邦時代などの歴史的背景から残っているものもあれば、更に古い起源を持つものも含まれている。 ロシアはヒマワリとカミツレの2種類を自国の国花に指定している。これはソ連時代から引き継がれているものである。 ロシアの国石はガーネットである。これは帝政時代から由来するもので、当時ウラル山脈から産出されていたロードライト・ガーネットを国の象徴と定めていた点にある。 ロシアの国獣はユーラシアヒグマ(英語版)である。この理由の一つとしては、ユーラシアヒグマの生息数が最も多いのがロシアであり、現在においてウラル山脈東部やシベリア地域の森林地帯でその存在の個体群を確認出来る点にある。
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ロシアの国石はガーネットである。これは帝政時代から由来するもので、当時ウラル山脈から産出されていたロードライト・ガーネットを国の象徴と定めていた点にある。 ロシアの国獣はユーラシアヒグマ(英語版)である。この理由の一つとしては、ユーラシアヒグマの生息数が最も多いのがロシアであり、現在においてウラル山脈東部やシベリア地域の森林地帯でその存在の個体群を確認出来る点にある。 ロシアは自国旗の配色として用いる、白、青、赤の3色をナショナルカラーに定めている。これは汎スラヴ色に基づいており、同国にとってその3色は民族的な観念や概念だけに止まらず、歴史上、切っても切り離せない重要なものとなっている。二次色としては緑を使用しており、緑は国内の各方面で広域に使用される配色となっている。 ロシア連邦(Российская Федерация、ラテン文字転写: Rossíjskaja Federátsija など、発音:ラッスィーイスカヤ・フィディラーツィヤ、IPA: [rɐˈsjijskəjə fjɪdjɪˈratsɨjə] 発音)。ロシア語では略号のРФ(RF)も使われる。英語表記は Russian Federation 。 ロシア連邦憲法第1条第2項でロシア連邦とロシア(Россия、Rossíja、ラッスィーヤ、[rɐˈsjijə] 発音)は同じ意味(同等の扱い)としており、ロシア語においてもロシア連邦の意味でロシアが使われることもある。 ロシアの国名は、現代のロシア北西部とウクライナ、ベラルーシにあたるルーシという国家のギリシャ語名Ῥωςから派生したῬωσσία(現代ギリシャ語ではΡωσία)。この名は、ルーシの北東の辺境地に起こったモスクワ大公国がルーシ北東地域を統合し、“ルーシの遺産の争い”をめぐってリトアニア大公国と対立していた16世紀のイヴァン4世(雷帝)のころに使われ始め、自称に留まったロシア・ツァーリ国を経て、18世紀初頭のピョートル1世(大帝)がロシア皇帝(インペラートル)と称したことにより対外的にも正式の国名となっている。
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ルーシのギリシャ語風名称としてのロシア(正確には「ローシア」)という語はかつてのルーシの諸地域を指し、ルーシ北西部を「大ロシア(ロシア語版、英語版)」、現在の西ウクライナあるいは中・南部ウクライナを「小ロシア」と呼んだ。ベラルーシも「白ロシア」という意味である。しかし、小国の乱立したルーシ地域では早くからウクライナやベラルーシの人々とロシアの人々との間には異なった民族意識が醸成されていった。結果、これらの国々はロシア帝国の崩壊後に別々の国家を樹立し、再統合されたソ連邦下でも別々の共和国とされ、ソ連邦の解体に際しては別々に独立することとなった。別の観点から言うと、ロシアはキエフ・ルーシ時代、その大公権に属するモスクワ公国という小さな一部分に過ぎなかったが、ジョチ・ウルスの時代に征服者モンゴルとうまく協調したこと(税金を進んでモンゴルに納めたことなど)や、隣国を破って旧キエフ・ルーシの東側領土の大半を影響下に収めたこと、帝政時代の極東への進出と拡張により大国となった。その権力の正統性を説明するため、モスクワは東ローマ帝国からローマ帝国の威信も受け継いだという学説も考案された。こうしたことから、モスクワ大公国は「偉大なルーシ」の権力を継ぐ国家であると自称するようになり、なおかつヨーロッパ国家の一員であるという考えから、公式にギリシャ風の「ロシア」を国号として用いるようになった。 前はよりロシア語名に近いロシヤと書かれることが少なくなかったが、1980年代ごろからギリシャ語風の(つまり他のヨーロッパ諸国の名称に合わせた)ロシアという表記が完全に主流となった。現代日本語の漢字表記は露西亜で、略称は露。江戸時代にはオロシャ、をろしやとも呼ばれた。これは、中国語の「俄羅斯」およびモンゴル語のОрос(オロス)に近い呼び名である。日本の江戸時代から戦前にかけては魯西亜(魯西亞)という表記が主流で、1855年に江戸幕府とロシア帝国の間の最初の条約は「日本国魯西亜国通好条約」という名称になった。この漢字表記について1877年(明治10年)にロシア領事館から「魯は魯鈍(愚かなこと・様子)を連想させる」との抗議を受けた明治政府は、ロシア側の希望を受け入れ表記を露西亜(露西亞)とした。 キリスト教化前のロシア
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キリスト教化前のロシア 国家や文化、言語の変遷において「ロシア人」の祖となる人々は、北東ルーシと呼ばれる地域に古くから居住していたとされる。その地に暮らした東スラヴ系の諸部族はフィン人と隣接しており、交易や同化などを通して言語や文化においてお互いに大きな影響を与えたとされる。ロシア人にはフィン・ウゴル系民族に多いとされるるY染色体遺伝子であるハプログループN系統もある程度見られる。 古代ギリシャの作家プロコピオスは、スラブ人(スクラヴ人(英語版)とアント人)は、王を持たない民主的な体制で、彼らが犠牲を捧げる「稲妻の創造主」(ペルーン)という単一の神を信じる野蛮人であるとした。また、非常に背が高く丈夫な体を持ち、髪色は金髪ではないが完全な暗色でもないとした。 スラヴ人には独自の文化と神話があった。世界は、自然の法則を支配する天の神々と、人々の習慣や行動を支配する地下の(クトニオスの)神々という、2つの反対の力によって支配されていると信じられていた。 5世紀の初めに、スラブの部族は極東ロシアの領土に移動し、この地域を支配し始めた。同時に、スラブの部族は地理的に西部(ヨーロッパに残っている)と東部に分かれた。 9世紀の北東ルーシには、ノルマン人ではないかと推測されている民族集団「ヴァリャーグ」が進出しており、交易や略奪、やがては入植を行った。862年にはヴァリャーグの長リューリクが大ノヴゴロドの公となり、町は東ローマ帝国との貿易拠点として発展した。後代に書かれた『原初年代記』には、リューリクの一族が東スラヴ人の居住地域に支配を広げていったと記録される。9世紀後半にヴァリャーグはドニエプル地方に拠点を移した。そのため、それから13世紀にかけてのルーシの中心は、現在はウクライナの首都となっているキエフであり、現在のロシアの中心である北東ルーシはむしろ辺境化し、モスクワの街もまだ歴史には登場していなかった。ヴァリャーグの支配者層を含めてスラヴ化したキエフ大公国は、9世紀に東ローマ帝国から東西教会分裂以後に正教会となる東方のキリスト教とギリシャ文化を受容し、独特の文化を育んだが、13世紀初頭にモンゴル人による侵入で2世紀にわたってジョチ・ウルスの支配下に入った。その混乱の中で、それまでキエフにあった府主教座はウラジーミル・ザレースキイへ移された。
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数多くいるルーシ諸公の1人に過ぎなかったモスクワ公は、モンゴル支配下でルーシ諸公がハンに納める貢納を取りまとめる役を請け負うことで次第に実力をつけ、15世紀にジョチ・ウルスの支配を実質的に脱してルーシの統一を押し進めた。府主教座もモスクワへ遷座した。国家は独立性の高い大公国となった。のち、モスクワ大公はイヴァン3世のときツァーリ(皇帝)の称号を名乗り、その支配領域はロシア・ツァーリ国と自称するようになった。16世紀にイヴァン4世(雷帝)が近代化と皇帝集権化、シベリア進出などの領土拡大を進めたが、彼の死後はその専制政治を嫌っていた大貴族の抗争で国内が大混乱(動乱時代)に陥った。モスクワ大公国の主要貴族(ボヤーレ)たちはツァーリの宮廷の権威を認めず、士族民主主義の確立していたポーランド・リトアニア共和国を慕った。この民主派のボヤーレたちはポーランド・リトアニア共和国とモスクワ大公国との連邦構想さえ打ち立て、ツァーリ専制を嫌っていた農民や商人をまとめ上げ、さらには共和国軍をモスクワ領内に招き入れてツァーリ派と戦い、共和国軍とともにモスクワを占領した。一方、ツァーリ派の貴族や商人たちは政商ストロガノフ家の援助でニジニ・ノヴゴロドにおいて義勇軍を組織した。義勇軍側は、モスクワ政策を巡ってローマ・カトリック主義のポーランド国王兼リトアニア大公が信教自由主義のポーランド・リトアニア共和国議会と激しく対立していたことを絶好の機会とし、「反ローマ・カトリック闘争」の形で急速に数を増した。そして1612年、ドミートリー・ポジャールスキーとクジマ・ミーニンの指揮の下、モスクワ市内のクレムリンに駐屯していた共和国軍の治安部隊を包囲攻撃、11月1日して撃破、モスクワを解放した。この、民主派に対するツァーリ派、およびローマ・カトリックに対するロシア正教会の勝利は、21世紀現在でも国民の祝日となっている(11月4日)。ここで中世ロシアは終わり、ロマノフ朝の成立とともに近代ロシアが始まることになる。
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1613年にロマノフ朝が成立すると、大貴族と農奴制に支えられ、封建色の強い帝国の発展が始まった。17世紀末から18世紀初頭にかけて、ピョートル1世(大帝)は急速な西欧化・近代化政策と、新首都サンクトペテルブルクの建設(1703年)、大北方戦争(1700年 - 1721年)での勝利などによってロシア帝国の絶対主義体制の基盤を固めた。彼の時代から正式に皇帝(インペラートル)の称号を使用し、西欧諸国からも認められた。1762年に即位したエカチェリーナ2世はオスマン帝国との露土戦争(1768年 - 1774年と1787年 - 1792年)に勝利するとともに、ポーランド分割に参加し、欧州での影響力を増加させた。彼女の治世においてロシアはウクライナとクリミア・ハン国を併合し、名実ともに「帝国」となった。また、大黒屋光太夫が彼女に謁見したことにより、アダム・ラクスマンが日本に派遣(詳細は「北槎聞略」参照)され日露関係が実質的に始まった。彼女の時代に農奴制が固定化されていった。 アレクサンドル1世の治世において1803年に勃発したナポレオン戦争に参戦し、1812年にはナポレオン・ボナパルト指揮のフランス帝国軍に侵攻されたが、大損害を負いながらもこれを撃退(1812年ロシア戦役)。戦後はポーランド立憲王国やフィンランド大公国を支配して、神聖同盟の一員としてウィーン体制を維持する欧州の大国となった。国内でのデカブリストの乱やポーランド反乱などの自由主義・分離主義運動は厳しく弾圧された。 1831年に始まるエジプト・トルコ戦争以降は、ロシアの南下政策を阻むイギリスとの対立が激化し、中央アジア、アフガニスタン、ガージャール朝ペルシア(現・イラン)を巡って、露英両国の駆け引きが続いた(グレート・ゲーム)。1853年に勃発したクリミア戦争ではイギリス・フランス連合軍に敗北し、帝国の工業や政治、軍事全般の後進性が明確になった。1861年に皇帝アレクサンドル2世は農奴解放令を発布し、近代的改革への道を開いたが、農村改革や工業化のテンポは遅く、ナロードニキによる農村啓蒙運動も政府の弾圧を受けた。政治的自由化の遅れへの不満は過激なアナキズム(無政府主義)やテロリズムを横行させ、無政府主義者による皇帝暗殺にまで発展した。
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ロシアのシベリア征服が進み、中国大陸を支配する清や日本との接点が生じた。清とはネルチンスク条約(1689年)おとびキャフタ条約 (1727年)により境界を定めていたが、清の弱体化によりロシアは極東でも南下政策をとった。アイグン条約(1858年)によりアムール川北岸を奪い、さらにアロー戦争の講和(北京条約)を仲介した見返りに日本海に面する沿海州を獲得し、ウラジオストクを建設した。 19世紀末期には、ロシアはそれまでのドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国との三帝同盟からフランス第三共和国との露仏同盟に外交の軸足を移し、汎スラヴ主義によるバルカン半島での南下を極東での南下政策と平行させた。フランス資本の参加により極東へのシベリア鉄道の建設が行われている。20世紀初頭になると極東への関心を強め、満州や朝鮮に手を伸ばそうとしたが、日本と衝突して1904年の日露戦争となった。1905年に血の日曜日事件など一連の革命騒動が発生し、ポーツマス条約を結んで敗れると、戦後の1907年にロシアはイギリスと英露協商、日本と日露協約を締結し、三国協商に立ってドイツやオーストリアと対立した。国内ではドゥーマ(国会)の開設やピョートル・ストルイピンによる改革が行われたが、皇帝ニコライ2世の消極的姿勢もあって改革は頓挫し、帝国の弱体化は急速に進行した。その中で、都市部の労働者を中心に社会主義運動が高揚した。
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1914年にオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子らがセルビア人に暗殺されると(サラエボ事件)、同じスラブ系国家であるセルビアを支援してオーストリア=ハンガリー帝国およびその同盟国であるドイツと対立して互いに軍を動員し、第一次世界大戦が勃発。ロシアは連合国の一員として中央同盟国(ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国)と開戦したが、敗北を重ねて領土奥深くまで侵攻された(東部戦線 (第一次世界大戦))。第一次世界大戦中の1917年2月に起こったロシア革命でロマノフ王朝は倒された。革命後、旧帝国領土には数多の国家が乱立し、シベリア出兵などで諸外国の干渉軍も加わって激しいロシア内戦となった。1917年11月7日には十月革命でソビエト政権が樹立され、そのトップとなったウラジーミル・レーニンは中央同盟国とブレスト=リトフスク条約を結び大戦から離脱した後、赤軍を率いてロシア内戦に勝利し、1922年の年の瀬には共産党による一党独裁国家ソビエト社会主義共和国連邦を建国した。旧ロシア帝国領の大部分を引き継いだ構成4共和国(その後15まで増加)のうち、ロシア人が多数派を占める大部分の地域はロシア・ソビエト連邦社会主義共和国(ロシア共和国)となった。ソビエト連邦とロシア共和国の首都がサンクトペテルブルクからモスクワへと約200年ぶりに復され、同時にサンクトペテルブルクはレニングラードに改称された。ロシア共和国内に居住する少数民族については、その人口数などに応じて自治共和国、自治州、民族管区などが設定され、事実上ロシア共和国とは異なる統治体制をとった。 ソビエト体制でのロシア共和国は他の連邦加盟共和国と同格とされたが、面積・人口とも他の共和国を圧倒していたロシアでは、事実上連邦政府と一体となった統治が行われた。ソ連共産党内に「ロシア共産党」は連邦崩壊直前の1990年まで創設されず、第二次世界大戦後の国際連合でもウクライナ共和国や白ロシア共和国(現在のベラルーシ)と異なり単独での加盟が認められなかった。
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ソビエト体制でのロシア共和国は他の連邦加盟共和国と同格とされたが、面積・人口とも他の共和国を圧倒していたロシアでは、事実上連邦政府と一体となった統治が行われた。ソ連共産党内に「ロシア共産党」は連邦崩壊直前の1990年まで創設されず、第二次世界大戦後の国際連合でもウクライナ共和国や白ロシア共和国(現在のベラルーシ)と異なり単独での加盟が認められなかった。 1930年代の世界恐慌で多くの資本主義国が不況に苦しむ中、ソビエト連邦はその影響を受けず、レーニンの後を継いだスターリンによる独裁的な主導の下で農業集団化と重工業化が断行され、高い経済成長を達成した。しかし、その実態は農民からの強制的な収奪に基づく閉鎖的な工業化であった。農村からの収奪の結果、ウクライナやロシア南西部では大飢饉が発生した。その歪みはやがて政治的な大粛清と強制収容所の拡大など恐怖に基づく支配をもたらす事態へとつながった(第二次世界大戦後に再び飢饉(ソビエト連邦における飢饉 (1946年-1947年)(ロシア語版、英語版))が起こる)。
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1939年9月の第二次世界大戦勃発直前に一時ナチス・ドイツとモロトフ・リッベントロップ協定を結んで協調し、ポーランド第二共和国をソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄して侵攻し、ポーランドを占領、冬戦争でフィンランドにも圧迫を加え、1939年12月の理事会において国際連盟から除名された。1940年にはバルト諸国占領によりソビエト連邦へ併合し、さらにルーマニアからベッサラビア地方を割譲させた。1941年6月には独ソ不可侵条約を一方的に破棄したナチス・ドイツのヒトラーに突如攻め込まれて西部の広大な地域を占領され(バルバロッサ作戦)、危険な状況に陥った。しかし、1942年初頭に首都モスクワ防衛に成功した後、英米をはじめとする連合国の助力もあってスターリングラード攻防戦およびクルスクの戦いを境に、1943年後半には反攻に転じて独ソ戦の主導権を握り最終的には大戦に勝利した。さらにポーランド東半、ドイツ、ルーマニア、フィンランド、チェコスロバキアの一部などを併合し、西に大きく領土を広げた。極東方面では、1945年8月、日本に日ソ中立条約の不延長を通告して参戦。満州国やサハリン南部、千島列島、朝鮮北部に侵攻して占領した。戦後は新領土内の非ロシア人の住民を追放し、ロシア人などを入植させる国内移住政策が進められた。特にエストニアやラトビアなどではロシア人の比率が急増し、ソビエト連邦解体後の民族問題の原因となった。旧ドイツ領のカリーニングラード州でもロシア人の比率が急増して8割以上を占めるようになった。1946年には旧ドイツ領の東プロイセンの北部をカリーニングラード州、日本に侵攻して占領したサハリン島南部(南樺太)とクリル列島(千島列島、歯舞群島・色丹島を含む)全域を南サハリン州として編入した(南サハリン州は1947年にサハリン州に吸収)。一方、1954年には黒海沿岸のクリミア半島(クリミア州)がウクライナに移管され、ロシア共和国の領土は2014年のクリミア半島編入以前のロシア連邦にあたる領域になった。
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日本はサンフランシスコ講和条約で一部領土を放棄したものの、千島列島南部の北方領土の返還を要求。それ以外の千島列島及び南樺太はロシア領土ではなく帰属未定地であると主張している。ロシア(当時はソ連)はサンフランシスコ講和条約に調印していない。なお、日本はユジノサハリンスクに在ユジノサハリンスク日本国総領事館を設置している。外務省によれば、当総領事館が位置しているユジノサハリンスク市(旧豊原市)をはじめとした南樺太は、サンフランシスコ平和条約によりその全ての権利・権限及び請求権を放棄したため、以降ソビエト連邦及びこれを承継したロシアが継続的に現実の支配を及ぼしており、これに対してロシア以外のいかなる国家の政府も領有権の主張を行っていないことなどを踏まえ、千島列島及び南樺太を含む地域を管轄地域とする在ユジノサハリンスク日本国総領事館を設置したものであるとしている。
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戦後、ソ連は強大なソ連軍の軍事力を背景に1949年の北大西洋条約機構(NATO)結成に対抗して1955年にワルシャワ条約機構(WTO)を結成し、東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなどの東欧諸国を衛星国として東側諸国の盟主となり、自国と同様の人民民主主義体制を強要して世界の2大超大国の一つとしてアメリカ合衆国を盟主とする西側諸国と冷戦を繰り広げた。しかし、既に1948年にはバルカン半島にてチトー主義下のユーゴスラビア社会主義連邦共和国がソ連から離反しており、1956年に共産党第一書記ニキータ・フルシチョフによるスターリン批判が行われた後は自由主義陣営との平和共存路線を進めたが、このスターリン批判により衛星国であったハンガリー人民共和国でハンガリー動乱が発生し、さらに自由主義国との妥協を批判する毛沢東が率いていた中華人民共和国や毛沢東思想に共鳴するアルバニア人民共和国の離反を招くなど、新スターリン主義によるソ連の指導性は揺らいだ(中ソ対立)。1965年に共産党書記長レオニード・ブレジネフが主導権を握ったあと、ベトナム戦争にてアメリカ合衆国と戦うホー・チ・ミン率いる北ベトナムを支援したが、ブレジネフ在任中の1968年には衛星国であったチェコスロバキア社会主義共和国で「プラハの春」が始まり、翌1969年にはかねてから対立していた中華人民共和国と珍宝島・ダマンスキー島を巡って中ソ国境紛争を戦うなど、共産圏におけるソ連の指導性はさらに揺らぎ、1970年代に入ると計画経済の破綻などから次第にソ連型社会主義の矛盾が露呈していった。1979年から1989年にかけてアフガニスタンを侵略した。この際ソ連軍がアフガニスタンの大統領官邸を急襲し、最高指導者ハフィーズッラー・アミーンと警護隊を殺害するというテロ行為(嵐333号作戦)を行っている。1985年にソ連の指導者となったミハイル・ゴルバチョフは冷戦を終結させる一方、ソ連を延命させるためペレストロイカとグラスノスチを掲げて改革に取り組んだものの、却って各地で民族主義が噴出し、共産党内の対立が激化した。
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党内抗争に敗れた改革派のボリス・エリツィンはソ連体制内で機能が形骸化していたロシア・ソビエト連邦社会主義共和国を自らの権力基盤として活用し、1990年に最高会議(ロシア語版)議長となると、同年6月12日にロシア共和国と改称して主権宣言を行い、翌年にはロシア共和国大統領に就任した。1991年8月のクーデターではエリツィンが鎮圧に活躍し、連邦を構成していた共和国はそろって連邦を脱退していった。同年12月25日にはソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、翌日12月26日にソビエト連邦は崩壊した。 1991年12月26日のソビエト連邦崩壊により、ロシア共和国が連邦から離脱してロシア連邦として成立し、エリツィンが初代ロシア連邦大統領に就任した。また、ソビエト連邦崩壊により世界規模のアメリカの覇権が成立し、当時はこれを「歴史の終わり」と見る向きも現れた。 ロシア連邦は、旧ソ連構成国の連合体である独立国家共同体(CIS/СНГ)加盟国の一つとなった。ロシア連邦は、ソビエト連邦が有していた国際的な権利(安全保障理事会常任理事国など)・国際法上の関係を基本的に継承し、大国としての影響力を保持した。 国名は1992年5月、ロシア連邦条約によって現在のロシア連邦と最終確定した(ロシア連邦への国名変更は、ソビエト連邦大統領ゴルバチョフ辞任の当日である1991年12月25日、当時のロシア最高会議決議による)。 エリツィン政権下では市場経済の導入が進められたが、急激な移行によってロシア経済は混乱し、長期的な低迷を招いた。その一方で、この時期には「オリガルヒ」と呼ばれる新興財閥が台頭し、政治的にも大きな影響力を持つようになった。 ソ連政府は国民にあまねく賃貸住宅を配分していたが、それらを建設するだけで巨額の財政負担となっており、財政再建中のロシア連邦がリフォームすることなどかなわず、無償で住民が物件を取得できるようになり急激な私有化を進めた。私有化されていないものは地方自治体への譲渡が進み、人口減少社会となるなか、若者向けに低家賃で貸し出した。
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ソ連政府は国民にあまねく賃貸住宅を配分していたが、それらを建設するだけで巨額の財政負担となっており、財政再建中のロシア連邦がリフォームすることなどかなわず、無償で住民が物件を取得できるようになり急激な私有化を進めた。私有化されていないものは地方自治体への譲渡が進み、人口減少社会となるなか、若者向けに低家賃で貸し出した。 1993年には新憲法制定をめぐって激しい政治抗争(10月政変)が起こったものの、同年12月12日には国民投票によってロシア連邦憲法が制定された。1994年から1996年にかけて、ロシア連邦からの独立を目指すチェチェン独立派武装勢力と、それを阻止しようとするロシア連邦軍との間で第一次チェチェン紛争が発生し、一般市民を巻き込んで10万人以上が犠牲になった。1997年5月に和平に向けてハサヴユルト協定が調印され、5年間の停戦が合意された。ところが1999年8月、チェチェン独立派勢力(チェチェン・イチケリア共和国など)と、ロシア人およびロシアへの残留を希望するチェチェン共和国のチェチェン人勢力との間で第二次チェチェン紛争が発生した。1999年夏からイスラム急進派の排除という名目のもとにロシア軍は全面的な攻勢に出ている。同年8月にロシアの首相に就任したウラジーミル・プーチンらがこの強硬策を推進した。 1996年11月、ロシアは第一回だけで10億ドルのユーロ債を起債した。それまでの累積ユーロ債発行額は160億ドルほどに達した。 1999年12月8日、当時の大統領エリツィンとベラルーシの大統領アレクサンドル・ルカシェンコとの間で、将来の両国の政治・経済・軍事などの各分野での統合を目指すロシア・ベラルーシ連合国家創設条約が調印された。しかし、その後、後継大統領に就任したウラジーミル・プーチンが、ベラルーシのロシアへの事実上の吸収合併を示唆する発言を繰り返すようになってからは、これに反発するベラルーシ側との対立により、両国の統合は停滞した。2022年ロシアのウクライナ侵攻にルカシェンコは協力しているが、ベラルーシ共和国軍の参戦は回避している。
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1999年12月31日、当時の大統領エリツィンが任期を半年余り残して突然辞任した。首相のウラジーミル・プーチンが大統領代行に就任し、2000年3月の大統領選挙に圧勝して大統領に就任した。「法の独裁」による統治をめざす強権的体質が内外から批判される一方、安定した経済成長により国民の高い支持率を維持し、2004年にも再選された。 2003年、ミハイル・ホドルコフスキーが脱税などの罪で逮捕・起訴され、ユコスの社長を辞任した。シブネフチとの合併が取り消されるなどして株価が乱高下し、内部者取引が横行した。2005年にロシアの住宅私有化率は63パーセントに達し、国際的な不動産価格の下落へつながっていった。2007年、ホドルコフスキーを除くユコス株主らはロシア政府がユコスを破綻させたとしてハーグの常設仲裁裁判所へ提訴した。2010年6月26日、政府側のロスネフチに賠償命令が出た。7月27日には内部者取引と株価操作を取り締まる法案が可決された。これは翌年から施行された。2014年7月、ユコス破綻事件で政府は19億ユーロの賠償金支払いを命じられていたが、12月に欧州人権裁判所が政府の上訴を棄却した。2016年4月、ハーグ地区裁判所が、ロシア政府に株主らへ500億ドルの賠償金支払いを命じた常設仲裁裁判所の判決を棄却した。 政権初期にチェチェン共和国への軍事作戦を再開するとともに周辺各共和国への締めつけも図った。チェチェン独立派を支持するサウジアラビアなどアメリカに友好的な湾岸のスンニ派諸国との関係悪化を招いた。これらの過程において報道管制を強化し、反政府的な報道機関やジャーナリストは強い圧力をかけられた。対外的には、上海協力機構を通じて中華人民共和国やイランとの関係を強化し、また中央アジア各国とはエネルギー開発の面での協力を強めた。ウクライナで親西側政権ができると、天然ガス供給停止措置をとることで圧力をかけ、間接的にドイツやフランスへの自国の影響力を誇示した。
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また、プーチンの大統領就任当初はアメリカ同時多発テロ事件以降の対テロ戦争という目的から蜜月と言われたアメリカとの関係も、イラク戦争やイラン核開発疑惑といった諸問題を扱う中で悪化、また米国が主導する旧ソ連各地のカラー革命などロシアの裏庭地域へのアメリカによる露骨な政治介入、アメリカの反ロシアネオコン勢力が中心となって行った東ヨーロッパのミサイル防衛構想、ソ連崩壊時に北大西洋条約機構(NATO)は東方へ拡大しないとしたゴルバチョフと当時のアメリカ大統領ブッシュの取り決めが破られ、実際にはNATOの東方拡大が進んだなどの理由により、関係は冷却化した。一方で、首脳同士の懇談は頻繁であり、かつての冷戦とは違った様相である。プーチンが行った事業はいずれも西側諸国から強圧的であるとの批判が多いものの、結果的にはロシアの国際的地位を向上させた。これにはプーチン政権発足後から続くエネルギー価格の急騰により、対外債務に苦しんでいたロシアが一転して巨額の外貨準備国となり、世界経済での影響力を急速に回復したことも寄与している。2007年には2014年の冬季オリンピックを南部のソチで開催するソチオリンピックの招致に成功した。 2008年5月、側近のドミートリー・メドヴェージェフが大統領に就任したが、プーチンも首相として引き続き残留した。同年、メドヴェージェフ政権下で南オセチア問題を原因とする南オセチア紛争が発生。これはソ連崩壊後、初めての対外軍事行動となっている。これらの行動から国際政治での多極主義を唱えて、ロシアが新たな一極となろうとしていると思われる。事実、「アメリカの裏庭」であるベネズエラ、エクアドルなどの反米的な中南米諸国との関係を強化している(逆にアメリカは「ロシアの裏庭」であるウクライナ、ジョージア(グルジア)などとの関係を強化している)。このように、冷戦終結後の一極主義の維持を目指すアメリカ側と対立する「新冷戦」の開始をもいとわないとも見られ、緊張状態が続いている。 2014年ウクライナ騒乱により、財政援助を目的にロシアとの関係を強化していた同国の大統領ヴィクトル・ヤヌコーヴィチが解任されるとロシアのプーチン大統領は反発し、オレクサンドル・トゥルチノフ大統領代行の暫定政権を承認しなかった。
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2014年ウクライナ騒乱により、財政援助を目的にロシアとの関係を強化していた同国の大統領ヴィクトル・ヤヌコーヴィチが解任されるとロシアのプーチン大統領は反発し、オレクサンドル・トゥルチノフ大統領代行の暫定政権を承認しなかった。 2月後半から、以前からクリミア半島に駐留していたロシア軍部隊によって、1954年までロシア領で親ロシアの住民が多いクリミア自治共和国・セヴァストポリ特別市を掌握した。 クリミア自治共和国とセヴァストポリは、3月16日にウクライナからの独立とロシアへの編入を問う住民投票を実施し、その結果を受けて翌3月17日に両者はクリミア共和国として独立し、ロシアへの編入を求める決議を採択した。 翌3月18日、プーチンはクリミア共和国の要請に応じ、編入に関する条約に署名して事実上クリミア半島を併合した。アメリカ合衆国、欧州連合、そして日本などの諸外国政府はクリミアの独立とロシアへの編入は無効であるとし、ロシアとの間で対立が続いている(2014年クリミア危機)。この経緯によってロシアはG8の参加資格を停止され、欧米諸国がロシアに経済制裁を科した。 2011年から始まったシリア内戦では反体制派を支援する欧米に対し、中東での影響力を維持したいロシアがイランと共にバッシャール・アル=アサド政権に対して軍事的・経済的に援助を行っていることで欧米諸国と代理戦争に近い様相となり、対立を深めている。2015年9月30日にはロシア連邦軍がアサド政権を支援する直接的な軍事介入を開始(ロシア連邦航空宇宙軍によるシリア空爆)。これ以降、膠着状態だった戦況はアサド政権側に大きく傾いたことに加え、アサド政権とクルド人勢力の双方を支援していることから両者の仲介や、当初はアサド政権打倒を目指し欧米と協調して反体制派を支援していたトルコがクルド人勢力への対応で欧米と対立するに伴いシリア戦後処理へのトルコの引き込み、さらにエジプトやイラク、イスラエルといった親米国家であるもののアサド政権打倒後のシリアの安定に懐疑的な近隣国にも接近しつつあり、シリア内戦の収束に向けて主導的な役割を発揮し、中東での確固たる地位を築いている。
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プーチンによる外交は、アメリカの大統領バラク・オバマを差し置いて世界的な影響力を持ち、クリミア半島併合以降はとりわけ国民の支持も手厚くなっている。一方、2013年以降に原油価格の暴落が続いたことで、天然資源に依存した脆弱な経済体制が浮き彫りとなり、深刻な経済的困窮を招いている。 2015年、ロシア空軍はトルコ及びシリア付近を領空侵犯したため、トルコ空軍に撃墜された(ロシア軍爆撃機撃墜事件)。 現在、一部の欧米諸国はロシアへの経済制裁の解除及び緩和をし始めているが、アメリカを中心とする西側の欧米主要国はいまだにそういった様相を見せておらず、原油価格の上昇も当分は見込めないことから、ロシアは経済的に長い停滞期間が続いている。 西側諸国から孤立しつつある一方、上海協力機構を中心に非欧米諸国との結びつきを強めることで国際社会での存在感を見せつけている。 2016年12月、アメリカで親ロシア派と公言していたドナルド・トランプ政権への政権交代があったものの、アメリカ国内でロシアへの敵対感情が高まっているため、弱腰外交と捉えられるような親露外交は回避し、米露間の関係が修復する兆しは一向にない。2016年アメリカ合衆国大統領選挙におけるロシアの干渉や、ウクライナ紛争を巡るミンスク和平合意の不履行による報復措置がとられたり、ロシアが条約に違反したとして中距離核戦力全廃条約から撤退したりするなど、両国間の溝は深まるばかりである。 2021年1月、アメリカで反ロシア派と公言しているジョー・バイデン政権への政権交代があり、今後も米露関係修復の見込みはないと考えられている。 2022年2月、プーチンはウクライナ東部の反政府組織が建国したドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国を国家として承認し、ウクライナに宣戦を布告。親ロシア勢力の保護を名目にウクライナ国内に侵攻し、交戦状態に入った(2022年ウクライナ侵攻)ことにより、アメリカを中心とする国際社会から厳しい経済制裁をうけることとなり、西側諸国との対立は深まり、新冷戦と呼べる状況に陥っている。
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2022年2月、プーチンはウクライナ東部の反政府組織が建国したドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国を国家として承認し、ウクライナに宣戦を布告。親ロシア勢力の保護を名目にウクライナ国内に侵攻し、交戦状態に入った(2022年ウクライナ侵攻)ことにより、アメリカを中心とする国際社会から厳しい経済制裁をうけることとなり、西側諸国との対立は深まり、新冷戦と呼べる状況に陥っている。 ウクライナ侵攻以降、ロシア領内が何者かに攻撃される事件が発生。中でもウクライナと隣接するロシアのベルゴロド州はウクライナ軍からと思われる攻撃を受け、民家359軒と一般車両112台が破壊された。また、ウクライナ侵攻後、ロシア国内の軍事施設、ショッピングセンター、工事などが突如爆発する事件が頻発している。 また、ロシアと国境を接するフィンランドと、バルト海対岸のスウェーデンがNATO加盟を申請した。 ウクライナ侵攻中、ロシア国内は度重なるドローン攻撃や謎の火災が続出した。ウクライナ側は否定しているが、ロシアはウクライナと断定している。3月にはトゥーラ州がウクライナ軍によるドローン攻撃を受けたと発表した。 2023年4月にはフィンランドがNATOに加盟したため、31ヶ国体制となった。NATOが東欧だけでなく、北欧まで拡大したこと、NATOとロシアの国境が2600キロ以上に広がったこと、ロシアを軍事的に追い詰めることに対して、ロシア政府はアメリカに対して激しく反発した。 同月には、ウクライナの子供を連れ去った疑いがあるため、 国際裁判所はプーチン大統領の指名手配と逮捕状を出した。 5月3日にはプーチン大統領暗殺を狙った攻撃型のドローンがクレムリンに侵入し、ロシア軍のレーダーで無力化、クレムリンの一部の屋根が炎上した 。ロシア政府はウクライナ軍事による攻撃と見られると発表したものの、ウクライナ側は関与を否定した。 5月23日、ウクライナ領内から自由ロシア軍団(パルチザン)と名乗る組織がロシア領内のベルゴロド州及びクルスク州へ侵攻し、ドローン攻撃や破壊活動が行われ、ロシア軍と大規模な地上戦が繰り広げられた。 また、ロシアはウクライナによる直接的な攻撃と断定したが、ウクライナ側は関与を否定した。攻撃によってベルゴロド州内で民間人の負傷者と死者が発生した。
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5月23日、ウクライナ領内から自由ロシア軍団(パルチザン)と名乗る組織がロシア領内のベルゴロド州及びクルスク州へ侵攻し、ドローン攻撃や破壊活動が行われ、ロシア軍と大規模な地上戦が繰り広げられた。 また、ロシアはウクライナによる直接的な攻撃と断定したが、ウクライナ側は関与を否定した。攻撃によってベルゴロド州内で民間人の負傷者と死者が発生した。 アメリカ合衆国は「ロシア領内への攻撃及び侵攻は奨励しない。」と発言したものの、ミラー報道官は「戦い方はウクライナ自身が決めるべき」とし、直接的なロシア領内への攻撃の批判や拒否は避けた。 5月30日、首都モスクワは複数のドローン攻撃を受け、住宅などへの被害と民間人の負傷者が発生した。ロシア政府はウクライナ軍によるテロ行為と断定したが、ウクライナ側は完全否定した。 度重なるロシア領内への攻撃に沈黙を続けていたプーチン大統領はモスクワ攻撃を受け、始めて声明を出し、ウクライナ政府に対して強い言葉で不満と批判を繰り返した。 6月2日にはスモレンスク州の燃料施設が、西部クルスク州でも、ビルなどの民間施設が、西部ブリャンスク州内の村がウクライナ軍と思わられる組織に攻撃を受けた。 2022年後半から、ウクライナ侵攻や他の紛争地域でロシア軍などと行動してきたロシアの民間軍事会社ワグネル・グループとロシア国防省(ロシア連邦政府)との関係が急激に悪化した。 ワグネル・グループの創設者であり、ワグネル兵のリーダー格であるエフゲニー・プリゴジンは、ロシア国防省のセルゲイ・ショイグ、ワレリー・ゲラシモフのウクライナ侵攻における無能さを連日批判した。 プリゴジンはプーチン大統領のシェフと言われるほどの友好関係があったものの、ワグネルの拠点をロシア軍が攻撃し、多数の死者が発生したことにより、2023年6月には異例のプーチン批判を行った。 翌日、プリゴジンは攻撃されたことに対して、報復宣言をし、ロシア連邦政府に対して武装蜂起を発表、ロシア軍への攻撃を開始。ヴォロネジ州やロストフ州の各地で銃声や黒煙、ロシアの石油施設の爆破、ロシア国防省の司令部やロシア領内の空港なども戦車や重装備の兵士を使い軍事的に占拠、プリゴジンはモスクワへの進軍を行なった。
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翌日、プリゴジンは攻撃されたことに対して、報復宣言をし、ロシア連邦政府に対して武装蜂起を発表、ロシア軍への攻撃を開始。ヴォロネジ州やロストフ州の各地で銃声や黒煙、ロシアの石油施設の爆破、ロシア国防省の司令部やロシア領内の空港なども戦車や重装備の兵士を使い軍事的に占拠、プリゴジンはモスクワへの進軍を行なった。 プーチン大統領は、ワグネル・グループとプリゴジンを裏切り者と批判した。ワグネルによるモスクワ進軍が、想定以上に早く、ロシア領内の各地でワグネル兵とロシア軍との地上戦も実際に行われたことから、同日にはモスクワ市内は外出禁止令を発令し、モスクワ内でのロシア軍とワグネル兵との戦闘に準備を行った。 国政では連邦制、共和制、半大統領制をとっている。国家元首であるロシア連邦大統領がおり、三権である は分立している。 ロシア連邦大統領は国家元首で、国民の直接選挙で選ばれる。ソ連崩壊に伴う独立・独立国家共同体(CIS)への加盟構成以降、大統領の任期は4年であったが、2008年の憲法改正によって6年となった。 国家元首である大統領は行政には含まれないが、行政に対して強大な指導力を発揮する。大統領は議会(ロシア連邦議会:上院に相当する連邦院および下院に相当する国家院)の信任を要する首相を含むロシア連邦政府の要職の指名権・任命権と、議会の同意なしに政令(大統領令(英語版))を発布する権限を保持し、ロシア連邦軍とロシア連邦安全保障会議の長を兼ねる。 第2次プーチン政権が発足してから「プーチンなきロシア」を叫ぶ市民のデモが開催されるなど反プーチン運動が活発化している。そのためこれらの運動の封じ込めの一環として、「宗教信者の感情を害した者に禁錮刑と罰金を科す法律」「未成年者への同性愛の宣伝行為に罰金を科すことを定めた法律」が2013年に、「好ましからざる外国組織のロシアでの活動を禁じる法律」が2015年にそれぞれ成立し、政府の統制が強化されている。
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ロシア連邦議会(Федеральное Собрание Российской Федерации, Federal'noe Sobranie Rossijskoj Federatsii)は二院制で、各連邦構成主体の行政府と立法府の代表1人ずつからなり、上院に相当する連邦院(連邦会議、Совет Федерации, Sovet Federatsii 、定員178名)と、下院に相当する国家院(国家会議、Государственная Дума, Gosudarstvennaja Duma 、定員450名)からなる。下院議員は任期4年で、小選挙区制と比例代表制により半数ずつ選出される仕組みであったが、2005年4月23日完全比例代表制に移行する選挙制度改正が下院を通過した。また、5パーセント条項が7パーセント条項へと議席を獲得するためのハードルが上げられ、ウラジーミル・プーチン政権、シロヴィキに有利な選挙戦が展開された。また、大統領と同様に2008年に任期が5年に延長された。 ロシアの司法には、最高位にロシア憲法裁判所(英語版)、ロシア最高裁判所、ロシア最高仲裁裁判所(英語版)がある。その下にロシア地方裁判所(英語版)、地域裁判所がある。裁判は大陸法型である。行政府からの訴追は司法省が担当する。1996年に陪審制を連邦各地に順次導入することを決定、2010年までにすべての地域で導入された。 以前から死刑の執行を停止していたが、2009年11月19日に、憲法裁判所は死刑の廃止を規定している欧州人権条約を批准するまでは死刑の執行を停止するという命令を出した。この憲法裁判所の命令で、ロシアの死刑制度は事実上廃止された。2010年1月15日、ロシア下院は、欧州人権条約第14追加議定書を賛成多数で批准し、名目上も死刑が廃止された。 複数政党制を採用しており与党統一ロシアが圧倒的多数を占めており、他にも野党として極右のロシア自由民主党や極左のロシア連邦共産党などをはじめ様々なリベラル派や中道派、民族主義・愛国主義、社会主義・共産主義を活動理念に掲げる政党が存在する。しかし、これらの政党はいずれもプーチン政権に従順な「体制内野党」とされており、野党としての機能は喪失しているという指摘がある。
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複数政党制を採用しており与党統一ロシアが圧倒的多数を占めており、他にも野党として極右のロシア自由民主党や極左のロシア連邦共産党などをはじめ様々なリベラル派や中道派、民族主義・愛国主義、社会主義・共産主義を活動理念に掲げる政党が存在する。しかし、これらの政党はいずれもプーチン政権に従順な「体制内野党」とされており、野党としての機能は喪失しているという指摘がある。 ロシア連邦政府は1990年代まで続いたソビエト連邦の正式な後継政権で、国際連合では安全保障理事会の常任理事国5か国の一つでもあり、その他国際組織でソ連の持ち分を引き継いでいる。国際関係は多面的であり、世界の191か国と関係を持ち、大使館を144か所置いている。国際関係の方針は大統領が決め、具体的には外務省が執行する。 かつての「超大国」を引き継いではいるが、現在の多極体制へ移行した世界の中でその立場は専門家の間で様々に議論されており、列強ではあるが「潜在的な超大国」扱いである。 ロシアは「中東カルテット」のひとつで、北朝鮮問題では「六者会合」に参加している。欧州安全保障協力機構(OSCE)、アジア太平洋経済協力(APEC)の一員である。1997年には「人権と基本的自由の保護のための条約」を批准している。ロシア連邦の発足当初は米国とも北大西洋条約機構(NATO)とも友好的であったが、現在は様々な分野で対立が顕著である。 21世紀になってからは、豊富な原油や天然ガスなどエネルギー資源を梃子に、特に欧州と中央アジアに対し、急速に影響力を拡大している。ソ連崩壊後の弱体性から比較すると相当影響力を取り戻したといえ、豊富な資金力を背景に軍備の更新を進めており、ロシア政府との協議なしに、ソ連の衛星国だった東欧諸国へのミサイル防衛基地の展開を進めている米国やNATOとの緊張状態は高まりつつある(新冷戦)。 前述の通り、2022年2月に始まったウクライナ侵攻が、擁護する一部の国を除き世界各国から強烈な批判を招き、多くの国・組織から経済・金融などの制裁を受けることとなり、国際的に孤立状態となっている。 ロシアが欧米から批判されている問題の一部に、同国における人権問題、自由でないメディア、LGBT禁止問題、ノビチョクなどがある。
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前述の通り、2022年2月に始まったウクライナ侵攻が、擁護する一部の国を除き世界各国から強烈な批判を招き、多くの国・組織から経済・金融などの制裁を受けることとなり、国際的に孤立状態となっている。 ロシアが欧米から批判されている問題の一部に、同国における人権問題、自由でないメディア、LGBT禁止問題、ノビチョクなどがある。 2022年にロシアとウクライナとの間で軍事的緊張が高まり、ロシアがウクライナへ侵攻を開始した。これにより外交関係は断絶した。 南アフリカ共和国はソ連と公式の外交関係を結んでいたことから後継国のロシアと深い関係性を持っており、1992年2月28日付で完全な外交関係を樹立している。南アフリカはBRICsの1国として加盟。 キューバとはソ連時代から緊密な協力関係を築いており、ソ連崩壊以降も外交関係を維持している。ロシアが2014年3月にウクライナ領クリミア半島の併合を宣言した際、キューバは同半島をロシアの一部として承認している。 ロシアはブラジルと、宇宙・軍事技術をはじめ、電気通信などの分野でパートナーシップを結んでいる。ブラジルはBRICsのメンバーでもある。
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キューバとはソ連時代から緊密な協力関係を築いており、ソ連崩壊以降も外交関係を維持している。ロシアが2014年3月にウクライナ領クリミア半島の併合を宣言した際、キューバは同半島をロシアの一部として承認している。 ロシアはブラジルと、宇宙・軍事技術をはじめ、電気通信などの分野でパートナーシップを結んでいる。ブラジルはBRICsのメンバーでもある。 2022年2月に発生したロシア連邦軍によるウクライナ侵攻に伴い、台湾も対ロシア半導体輸出規制を表明、台湾からロシアおよびベラルーシへ輸出できる半導体は性能に制限が設けられ、PS2のCPU『Emotion Engine』(動作周波数150MHz・演算能力6.2GFLOPS)を下回る性能「動作周波数25MHz・演算能力5GFLOPS」低級・低性能の西暦2000年の技術水準の骨董品級CPUしか許可されなくなった(西暦2000年の技術水準の骨董品級CPUしか許可されなくなった理由:ロシア連邦にて2022年前半時点で完全自国内大量生産可能な半導体は『半導体素子製造の材料であるシリコンウェハー製造技術は“300mm(12インチ)”サイズで2011年水準 /半導体微細加工技術は“65nmプロセス・ルール”で2007年水準』、65nmプロセス半導体技術を基盤とした“汎用用途・65nmプロセス半導体・4コアCPU『Elbrus-4S』(総トランジスタ数:9億8600万個 / 動作周波数800MHz×4コア / 総合演算能力25GFLOPS:演算能力6.25GFLOPS×4コア)”完全自国内大量生産可能レベルの半導体製造技術水準で停滞しているため)。 ※台湾の半導体輸出規制案件に関しては中華民国・行政院・経済部 2022年5月6日公式発表『Types of strategic high-tech commodities, specific strategic high-tech commodities and exportation to restricted regions』及び中華民国・行政院・経済部・国際貿易局 2022年4月6日公式発表『MOEA Announces Expansion of Export Controls on Russia』を参照した。
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両国の間では経済的な交流がいくつかあるが、過去のシベリア抑留・北方領土問題・それに起因する漁民銃撃と拿捕事件、資源問題(サハリン2)なども生じており、その関係はあまり良くない。その上でロシア人の日本に対する信頼は、アメリカやイギリスに対する信頼よりも高いという調査結果がある。 なおロシア連邦領内では、2021年4月26日“ロシア連邦・北西連邦管区・レニングラード州・州都サンクトペテルブルク・クラスノグヴァルデイスキー地方裁判所”公式見解による“ロシア連邦法第242条『ポルノグラフィーの違法頒布』/ロシア連邦行政違反法典第6.17条『児童の健康および発育に有害な影響を与える情報からの児童の保護に関する連邦法』”の規定を破る行為に抵触する日本の漫画・アニメは『公序良俗に反する』として規制されている。 ※余談であるが、ベルギー王国ブリュッセル市内にて2007年9月28日に(日本の有名漫画作品に影響された)バラバラ殺人事件(通称:『Manga Murder』)が発生、この事件以降は残酷な描写が多い日本の漫画・アニメは(欧米諸国では)『基本的に子供の視聴に適さず大人のみ視聴可』となった。 2017年のイギリスBBCの調査によると、ロシア人は日本に対して好意的な見方をしているが、日本の内閣府の日本国民の対ロシアの世論調査(2022年)によればロシアに「親しみを感じる」とする者の割合は13.1%(「親しみを感じる」1.3%および「どちらかというと親しみを感じる」11.8%)に留まり、「親しみを感じない」とする者の割合は86.4%(「どちらかというと親しみを感じない」48.9%および「親しみを感じない」37.4%)に達している。この数値は中国(「親しみを感じる」20.6%、「親しみを感じない」79.0%)をも下回っている。
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※なお、2023年7月度のロシア連邦領内労働者給与水準における一人当たりの平均月収は789.893ドル(2023年11月13日時点の為替レートで約11万9,882円)であり、2023年9月度の日本国内労働者給与水準における一人当たりの平均月収1889.168ドル(2023年11月13日時点の為替レートで約28万6,753円)の約42%の収入であり、生活費などを考慮すると、ロシア人が稼ぐために日本に来る理由はない(注記:ロシア及び日本の労働者給与水準における一人当たりの平均月収に関しては“CEIC Global Database”調べを参照した)。 中華人民共和国とは2001年に中露善隣友好協力条約を結び、東シベリア・太平洋石油パイプラインの支線も大慶油田へ引いている。傍らで上海協力機構やBRICsでの関係も深めており、良好な間柄となっている。 インドとは大幅な防衛・戦略上の関係(India–Russia military relations)を結んでおり、インドはロシア連邦製兵器の最大の顧客である。 ロシアとサウジアラビアの両国は「石油超大国」と呼ばれており、世界の原油生産の約4分の1を占めている。 ロシア連邦軍にはロシア陸軍、海軍、航空宇宙軍の3軍種があり、これとは別に独立兵科として、戦略核兵器を運用する戦略ロケット軍と、空挺軍がある。 2017年には約100万人が軍に属しており、これは世界で第5位である。これに加えて約250万人の予備役(在郷軍人)がおり、動員可能総数は約2,500万人に上るともいわれている。18才から27才の国民男子は全て1年間の兵役義務がある。 ロシアは世界で最大の核兵器(Russia and weapons of mass destruction)を所有し、世界2位の規模の弾道ミサイル潜水艦(Ballistic missile submarine)部隊や戦略爆撃機部隊がある。
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ロシアは世界で最大の核兵器(Russia and weapons of mass destruction)を所有し、世界2位の規模の弾道ミサイル潜水艦(Ballistic missile submarine)部隊や戦略爆撃機部隊がある。 2018年にウラジーミル・プーチンが年次教書演説で紹介し、2021年ごろから配備を開始した大陸間弾道ミサイル(ICBM)「サルマト」は、10発でアメリカの全国民を殺害する威力があるといわれる。射程距離は1万1000km超、最大16個の核弾頭が搭載可能なMIRV式で、最大速度はマッハ20の極超音速であるため、アメリカや日本のミサイル防衛網は無力化される。このサルマトには、極超音速滑空体「アバンガルド」が搭載され、高度100kmほどの高度を、探知しにくい軌道をマッハ20で飛行する。ロシアには1985年に、敵国からの核攻撃を想定し、確実に報復攻撃を行えるようにするための「死の手」と呼ばれる核報復システムが稼働しており、幾度も改良を重ね、運用開始当初は人間が発射ボタンを押す必要があったが、現在はAIが司令部の非常事態を認識し、核使用の判断を下すシステムとなっている。 2023年12月現在、『クズネツォフ・NK-36ST:モジュラー設計式ガスタービン型発動機』(定格最大出力25メガワット/エンジン寿命10万時間)を搭載した(高度1500キロメートルの衛星軌道上の軍事衛星を無効化できる)移動車両型5メガワット級高出力レーザー兵器システム『ペレスヴェート』を6基保有している。なお、レーザー発振方式には“ロシア科学アカデミー分光研究所開発・ロシア連邦Avesta Project社製造”の“Ybファイバーレーザー(電気⇒光変換効率:30パーセント)”を採用している ロシアでは軍需産業が盛んである。軍事関係の世界的な供給者としては、2001年には世界の30パーセントを占め、80か国へ輸出しており、世界でも上位にあった。ストックホルム国際平和研究所の調査では、2010 - 2014年には世界第2位の輸出国で、2005 - 2009年に比して37パーセントの増加を示した。ロシアは56か国および東部ウクライナの反乱部隊へ武器を供給した。 ロシアには正規軍以外で、以下の準軍事組織が存在する。
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ロシアには正規軍以外で、以下の準軍事組織が存在する。 ロシアはソ連時代からの伝統として特殊部隊(スペツナズ)を重視しており、軍所属以外に後述する情報機関も以下の実戦部隊を擁している。 民間軍事会社(PMC)が複数設立され、ロシアのその周辺のほか中東、アフリカに傭兵として派遣されている。ワグネル・グループが最も有名であり、オープン・ソース・インテリジェンス(OSINT)企業「モルファー」が把握したPMCは、ロシア国防省系や連邦保安庁系、国有企業・富豪が設立した会社を含め37あり、ウクライナの英字新聞『キーウ・ポスト』によると、そのうち25社がウクライナ侵攻に参加している。PMCはロシアの法律には本来反するが、戦死者に対してロシア政府が責任を負う必要がないといった利点から、全社が政府と関係を保って活動しているとみられる。 現在、連邦保安庁(FSB)と対外情報庁(SVR)がサイバー攻撃への防衛などを始めとして、国内の防諜・情報機関や治安組織としての役割を担っている。 他には連邦警護庁、参謀本部情報総局(GRU)、参謀本部軍事測量局が存在しており、連邦の安全保障になくてはならない重要部署として機能している。 世界最大の面積を持つロシアは、ユーラシア大陸の北部にバルト海沿岸から太平洋まで東西に伸びる広大な国土を持つ。その面積は日本の約45倍、アメリカの約1.7倍にも達し、南米大陸全体の大きさに匹敵する(正確には南米大陸の方が約76万km2(日本の本州の約3倍程度)大きい)。 国土の北辺は北極圏に入り人口も希薄だが、南辺に近づくと地理的に多様となり人口も多くなる。ヨーロッパ部(ヨーロッパロシア)とアジア部(シベリア)の大部分は広大な平原で、南部のステップから北は広大な針葉林の森であるタイガがその大部分を占めている。さらに高緯度になると、樹木が生育しないツンドラ地帯となる。黒海とカスピ海の間の南の国境にはヨーロッパ最高峰(カフカス地方をヨーロッパに含めた場合)のエリブルース山を含むカフカース山脈があり、ヨーロッパとアジアの境界にはウラル山脈がある。 面積を見るとヨーロッパ部よりアジア部の方が広大であるが、国土の西端に当たるヨーロッパ部に人口や大都市、工業地帯、農業地帯が集中していること、さらにスラブ文化のつながりから、ロシアをヨーロッパに帰属させる分類が一般的である。
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面積を見るとヨーロッパ部よりアジア部の方が広大であるが、国土の西端に当たるヨーロッパ部に人口や大都市、工業地帯、農業地帯が集中していること、さらにスラブ文化のつながりから、ロシアをヨーロッパに帰属させる分類が一般的である。 国土を囲む海域には北極海の一部であるバレンツ海、白海、カラ海、ラプテフ海、東シベリア海と、太平洋の一部であるベーリング海、オホーツク海、日本海、そして西のバルト海と西南の黒海があり、海岸線は3万7,000kmに及ぶ。これらの海に浮かぶロシア領の主要な島には、ゼムリャフランツァヨシファ、ノヴァヤゼムリャ(米国を越える史上最大規模の核実験が行われた)、セヴェルナヤ・ゼムリャ諸島、ノヴォシビルスク諸島、ウランゲル島、サハリン(樺太)、そして日本との領土問題を抱えるクリル諸島(千島列島)がある。特に北極海に面した地域をはじめ、冬季は北極寒波の影響が強いため厳寒であり、氷点下を下回る日が長く続く。 ロシア領内の主要な川にはヨーロッパ部のドン川、大型で良質のチョウザメが多数生息するヴォルガ川、カマ川、オカ川、アジア部のオビ川、エニセイ川、レナ川、サケ類の漁獲で有名なアムール川などの大河が挙げられる。これらの下流域は日本で大河とされる最上川、北上川や四万十川よりも川幅が広く、いずれもセントローレンス川下流域に近い川幅がある。また、アジア部の大河はアムール川を除いて南から北へ流れ、北極海へ注ぐ。ブリヤート共和国のバイカル湖は世界一古く水深の深い湖として有名な構造湖である。このほか、ソ連時代の水力ダム建設によって生まれた大規模な人造湖が存在する。 ロシアには基本的に大陸性気候が卓越する。すなわち気温の年較差が大きい。ケッペンの気候区分に従うと、亜寒帯(冷帯)(D) に分類される地域が大半を占める。西部は大西洋の影響を受けるものの、東に進むにしたがって大陸性気候の特徴がはっきりしてくる。冬はシベリア付近で放射冷却のために気温が著しく下がり、優勢なシベリア高気圧が形成される。北半球で最も寒い地域で、寒極と呼ばれる(たとえば−71.2 °C〔オイミャコン〕、−66.7 °C〔ベルホヤンスク〕)。しかしながら夏季には最高気温が30 °Cを超える。 典型的な植生は北極海沿岸がツンドラ、南に下るにしたがって針葉樹林のタイガ、混交林、プレーリー、ステップに移行していく。
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典型的な植生は北極海沿岸がツンドラ、南に下るにしたがって針葉樹林のタイガ、混交林、プレーリー、ステップに移行していく。 右図はロシアを中心とした地域にケッペンの気候区分を適用したものである。以下、気候区分にしたがって特徴と地域区分を示す。 ロシア連邦は、89の連邦構成主体と呼ばれる地方行政体からなる連邦国家である。連邦構成主体としては、48の「州」(область oblast')、9の「地方」(край kraj)、3の「市」(連邦市、город федерального значения gorod federal'nogo znacheniya)、24の「共和国」(республика respublika)、1の「自治州」(автономная область avtonomnaja oblast')、4の「自治管区」(автономный округ avtonomnyj okrug)がある。ただし、このうち6つの連邦構成主体(ドネツク人民共和国、ルガンスク人民共和国、ザポロージェ州、ヘルソン州、クリミア共和国、セヴァストポリ連邦市)はウクライナと帰属係争中である。 プーチン政権は、連邦政府の地方への影響力拡大を図り、連邦構成主体とは別に、2000年5月13日に全土を7つに分けた連邦管区を設置した。2010年に北カフカース連邦管区が新設され、現在は8つの連邦管区が存在する。なお、このほか2014年から2016年にかけてはクリミア連邦管区が存在した。連邦管区には連邦大統領の代理人としての大統領全権代表が派遣され、連邦構成主体を監督している。 さらに、2004年12月に地方自治体の首長を選挙制で選ぶ方式から、大統領が指名して地方議会が承認するという方式に転換した。事実上の官選化となるこの措置に対し、欧米諸国ではプーチン政権による強権支配が民主主義を脅かすという批判が生じた。 地方自治体の首長(共和国首長・州知事など)や地方議会の選挙は毎年9月第2日曜日に行われており、直近では2023年9月10日に執行された(ロシア語版)。
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さらに、2004年12月に地方自治体の首長を選挙制で選ぶ方式から、大統領が指名して地方議会が承認するという方式に転換した。事実上の官選化となるこの措置に対し、欧米諸国ではプーチン政権による強権支配が民主主義を脅かすという批判が生じた。 地方自治体の首長(共和国首長・州知事など)や地方議会の選挙は毎年9月第2日曜日に行われており、直近では2023年9月10日に執行された(ロシア語版)。 ロシアには人口100万人を超える都市が15(2021年時点)ある。最大の都市は首都モスクワ(1,260万人〔2021年〕)である。続くサンクトペテルブルク(545万人〔2021年〕)との2都市が規模としては飛び抜けて大きく、独立したロシア連邦の構成主体(連邦市)としてほかの州や連邦内の共和国と同格となる。ウラル山脈東山麓のエカテリンブルク、チェリャビンスク、シベリアのオムスク、ノヴォシビルスクを除く都市はすべてウラル山脈よりも西側、すなわちヨーロッパロシアに位置する。一方、厳しい気候条件のために長らく人口希薄地域だった極東部や北極海沿岸地域でも19世紀以降に鉄道・港湾整備や鉱業開発などに伴う都市建設が進み、ハバロフスクやウラジオストクは50万人を超える人口を持つ。 ロシアは、ブラジル・中国・インド・南アフリカとともに「BRICS」と呼ばれる新興経済国群の一つに挙げられている。 IMFによると、2021年のロシアのGDPは1兆5800億ドルであり、世界第11位である。一方、1人あたりのGDPは1万1,163ドルで首都モスクワと地方の格差もあり、ロシア全体では先進国より低い水準である。中村逸郎は、GDPの約70パーセントを国民の1パーセントである富裕層が持っているとしている。 ソ連解体後、ボリス・エリツィン大統領の主導のもと市場経済化が進められたが、このために却って急速なインフレーションを招き、1990年代半ばには経済的に落ち込んだ。その後、成長に転じつつあったが1997年のアジア通貨危機の影響を受けて1998年に財政危機を招き、再び落ち込んだ。2014年のクリミア併合による欧米からの経済制裁と石油価格の下落により、経済は低迷している。
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ソ連解体後、ボリス・エリツィン大統領の主導のもと市場経済化が進められたが、このために却って急速なインフレーションを招き、1990年代半ばには経済的に落ち込んだ。その後、成長に転じつつあったが1997年のアジア通貨危機の影響を受けて1998年に財政危機を招き、再び落ち込んだ。2014年のクリミア併合による欧米からの経済制裁と石油価格の下落により、経済は低迷している。 2019年現在、ロシアはアメリカとサウジアラビアに次ぐ世界第3位の原油生産国であり、同時にサウジアラビアに次ぐ世界第2位の原油輸出国である。2003年以来の原油価格上昇によって貿易収支が改善し、市場経済転換後の長い経済停滞を脱し、急速な景気回復が見られた。豊富な地下資源を武器に石油の価格が高いときに成長が続く。その石油産業への依存の重さや自由化の恩恵に与った者(オリガルヒ、新富裕層、体制転換の混乱で成り上がった新ロシア人(ロシア語版)に代表される)とそうでない者の貧富の格差の拡大、チェチェン独立派武装勢力によるテロのリスクなど、不安定要因もいくつかは見られる。石油価格が高かった2000年にはGDP成長率が10パーセントを越える一方、インフレーションも抑制され、好調が続いた。一人当たり名目GDPも、1999年には1,334ドルに過ぎなかったのが、2006年には6,879ドルと5倍強の増加を見せた。しかし、輸出の6割以上を原油や天然ガスなどの鉱物資源に頼る経済構造となっている、いわゆるモノカルチャー経済である。モーリー・ロバートソンは「石油の値段が世界的に右肩上がりのときはお金がどんどん入ってくるが、原油が安くなるとあっという間に貧乏に転落するという図式」と説明している。
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農産物の自給自足にも力を入れており、ロシアは世界における「最大の小麦輸出国」ならびに「米の栽培の北限地」として知られている。米国農務省は、2016年度・2017年度(2016年7月 - 2017年6月)のロシアによる小麦輸出量の推定量を50万トン引き上げ、記録的な2,500万トンとしている。なお、2015年度・2016年度に米国(2,120万トン)とカナダ(2,250万トン)を抜いて世界の主要輸出国となっている。2014年、同国での米生産量は113万8,000トン(うち90パーセントがクラスノダール地方での栽培)で生産量は記録的に高いものとなっている。加えて、米の栽培効率は1ヘクタールあたり7,100キロで、ヨーロッパにおいて米を生産する国で知られるスペイン、イタリアに比較しても多いものとなっているうえ、アジア諸国より多い。同国の米はウズベキスタン、タジキスタン、トルクメニスタン、トルコにも輸出されている。 米国農務省による2021-22年度推計では、ロシアの小麦は生産量が過去最多の8600万トン、輸出量は4000万トンで世界一を維持する見通しである。ソ連時代は大量の穀物を輸入していたが、平坦な国土に農地が広がっており、ロシア経済の安定化に伴い農機や肥料の投入増、畜産の効率向上による飼料に使う小麦の節約で、生産性や輸出余力が高まった。欧米の経済生産による通貨ルーブルの下落も輸出競争力を高めているが、パン価格の上昇に国民が不満を抱くと輸出関税などで国外への出荷を抑えようとする政策も採られている。 ウクライナ侵攻に伴う経済制裁発動中のロシアでは、「外国製品⇒国産製品」への代替があらゆる分野で実施されており、レモネードも例外ではない。 2022年6月12日営業開始のロシアのハンバーガー・ショップ『フクースナ・イ・トーチカ』においては『前身である旧マクドナルド店舗時代から地元食材率85パーセント』であり、同店舗内の『インタラクティブ・デジタルサイネージ端末』を利用して商品注文・テイクアウトした後、旧マクドナルド店舗時代と同じ味に調整された(一般労働者の昼飯代と同価格帯の)ハンバーガー類の飲食が可能である。なお『従業員の雇用契約書成立時点から原則2年間は不当な理由での従業員の解雇は労働法違反』となっているl。
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ロシア連邦の海岸線は、カナダ、グリーンランド、インドネシアの海岸線に次いで世界4位の長さとなっている。ロシアの漁業の排他的経済水域(EEZ)は760万平方キロメートルで、内陸のカスピ海と200万本以上の河川を加え、3つの海洋と12ヶ所の海への航路が含まれている。 ロシア連邦極東連邦管区沿海地方ナジェジジンスコエ地区に所属する『ナジェジジンスコエ地区・先進経済特区“Nadezhdinskaya Advanced Special Economic Zone (ASEZ)”』はロシア連邦領内最大規模の“スケソウダラ水産加工工場”の拠点である 。 ※2019年10月1日に『欧州委員会』(EC:European Commission) が『家電製品部品在庫保証期間:最低10年』保証明示義務化を採択 、同条約を批准した(欧州最貧国家群でも完全自国生産可能な)“東欧製格安二級品家電製品群”も「低価格と高品質の両立」を既に達成できている事が明らかとなった。 2022年5月12日にロシア連邦領内に公布された政令第855号にて、『Euro(European emission standards)-0』なる独自のEU圏内統一排出ガス規制を制定した。『ヨーロッパ各国で製造された電子工学部品を多数使用するABS(アンチロック・ブレーキ・システム)及びESP(Electronic Stability Program)・エアバッグなどの安全システムを不要とし、標準搭載の安全システムは2点式シートベルト(Two point seat belt)及び3点式シートベルト(Three point seat belt)に限る』とし、完全に国内で生産可能な1988年レベルの技術のみで構築された新車生産・販売が許可されるようになった。
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航空機製造はロシアの重要な産業部門であり、約355,300人が雇用されている。航空機産業はロシアにおいて最も科学集約的なハイテク分野の1つであり、数多くのプロフェッショナルたる人材を雇用している。ロシアの航空機産業は、MiG-29やSu-30などの国際競争力のある軍用機のポートフォリオを提供している一方、スホーイ・スーパージェット100などの新しい開発計画が民間航空機部門の運命を復活させることが期待されている。2009年、ユナイテッド・エアクラフトに属する企業は、15機の民間モデルを含む95機の新しい固定翼機を顧客に納入した。さらに、業界は141機以上のヘリコプターを生産している。軍用機部門の生産と金額は他の防衛産業部門をはるかに上回り、航空機製品は国の武器輸出の半分以上を占めている。
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2023年8月12日、『統一航空機製造会社』(United Aircraft Corporation)所属の技術主任の説明によると「外国の潜在的な顧客の要望に応じて、ロシア連邦国内でモスボール保管している300機以上のロシア連邦国内規格型『MiG-29 ファルクラム』をマルチロール戦闘機『MiG-35 スーパー・ファルクラム』に大幅近代化改修して、1機当たり10億ルーブル(2023年12月12日時点の為替レートで“アメリカドルで1094万ドル/日本円で15億9820万円”)の低価格で輸出可能である」との事。また、AESAレーダーへの更新を行った海外向け輸出型『MiG-35 スーパー・ファルクラム』に搭載される“デジタル電子制御式『Klimov RD-33MKM』アフターバーナー付ターボファンエンジン”の双発推力は、アフターバーナー使用時には9.5トン(93kN)×2基(合計推力19トンで機体最大荷重は10Gに達する)。『ファゾトロン(NIIR)』開発の“輸出型Zhuk-AE(FGA-35)・AESAレーダー(Xバンド周波数/シリコン製パワー半導体素子×1016個)”標準装備となっている。なお、オプション装備として“ロシア連邦国内規格型Zhuk-AME(FGA-50)・AESAレーダー(Xバンド周波数/ガリウム砒素製パワー半導体素子×1148個)換装”及び“推力偏向ノズル(TVC)装備”も可能。将来的には(既に開発完了で後は量産するだけの状態まで移行している)アフターバーナー使用時には単発推力11.5トン(112.78kN)を誇る“デジタル電子制御式『Klimov VK-10M』アフターバーナー付ターボファンエンジン換装”も可能。さらに技術主任の説明によれば、「『MiG-35』の『IMA(Integrated Modular Avionics:統合モジュラーアビオニクス)』は機体に搭載された複数のセンサーの情報を統合、機体からおよそ130km離れた遠距離に位置するステルス戦闘機『F-22 ラプター』を捕捉可能であり、更にパイロットに音声会話型エキスパートシステム『Rita』が最適化された情報を音声にて説明する」とのこと。 ロシアの宇宙産業は100社以上の企業で構成され、25万人が雇用されている。
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ロシアの宇宙産業は100社以上の企業で構成され、25万人が雇用されている。 2008年頃に台湾・TSMC社と共同で22nmプロセス以降の微細加工技術の実用量産化を研究していたモスクワの半導体露光装置(ステッパー)メーカー『Mapper LLC』にて、2023年現時点では一品一様・試験的少量生産状態である“汎用用途・16nmプロセス半導体・16コアCPU『Elbrus-16S』(総トランジスタ数:120億個 / 動作周波数2GHz×16コア / 総合演算能力750GFLOPS:演算能力46.875GFLOPS×16コア)” / “汎用用途・16nmプロセス半導体・24コアCPU『ROBODEUS processor』(CPUコア×8+DSPコア×16)” / “汎用用途・16nmプロセス半導体・48コアCPU『Baikal-S Processor』(BE-S1000)”の完全国内製量産技術確立に尽力している。
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※ロシア連邦共和国内の半導体技術は(十年)一昔前の『枯れたプロセス・ルール』である『90nm/65nmプロセス・ルール』レガシー半導体(『legacy』とは『過去に築かれた技術的遺産・遺物』の意味)の完全自国生産レベルには到達しており、外国からのCPU供給が全面停止してもロシア連邦共和国内の(自社で設計と製造の両方を手がける製造拠点を構える)半導体製造会社『Mikron』社等の半導体製造施設において(スマート家電等の『IoT:Internet of Things』端末に搭載可能な)実用アプリケーション・ソフトウェア稼働及び産業機械用途組み込み型制御コンピューターなどには十分な性能の『半導体:産業界のライ麦粉』の完成品たるCPUが代替生産にて維持可能である。2023年10月時点でロシア連邦共和国の半導体チップの量産製造技術はリバースエンジニアリング技術の積極的活用により“汎用用途・40nmプロセス半導体・2コアCPU『ELIOT low-power microcontroller』” / “汎用用途・40nmプロセス半導体・6コアCPU『Microprocessor 1892VM14Ya』』(CPUコア×2+DSPコア×2+GPUコア×1+VPUコア×1)”完全国内製量産化に到達、2030年度までに14nmプロセスルールの半導体チップの完全国内製量産化を目指している。 ロシアの軍産複合体は、基本として十月革命後の国家近代化を確実にしたソ連時代のものから引き継がれている。ロシアの国営企業であるロソボロネクスポルト(ロシア語版、英語版、フランス語版)の代行企業によって販売されているSu-27などの製造兵器は、輸出で大きな成功を収めている。 ロシアにとって軍需(防衛)産業はソ連時代から重要な地位を占めており、今後も積極的に輸出拡大を続けるとしている。輸出額は2011年は100億ドルを超え、2012年には150億ドルを超えるとされ順調に推移している。民間転用も積極的に行っており、宇宙・航空・情報通信産業など多岐にわたる。しかし、政治的な理由で輸出ができなくなるなど不安定な要素も含んでいる。しかし、ロシアを含め世界の軍事費は今後も増え続けるとされ、軍需産業は今後も拡大を続けるとされている。
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IT市場は、ロシア経済における最も動的な分野の1つとなっている。ロシアのソフトウェア輸出は、2000年のわずか1億 2,000万ドルから2010 年の33億ドルまで増加している。 フィンランドのJolla Mobile社とライセンス契約を締結、同社の『Sailfish OS』をベースに開発された派生型OS『Aurora(Sailfish Mobile OS RUS)』をロシア国産の携帯端末向けOSの標準規格とする方針を実施している。 ロシアはもっとも鉱物資源が豊富な国の一つである。産出量が世界シェア10位以内となる資源だけで20種類に及ぶ(以下の統計数値は経済産業調査会『鉱業便覧 平成14年版』による2002年時点のもの)。 有機鉱物資源では、天然ガス(2,1807千兆ジュール、21.9パーセント、2位)、原油(3.5億トン、10.3パーセント、2位)、燃料に用いられる亜炭(8,668万トン、9.5パーセント、4位)、石炭(1.6億トン、4.4パーセント、6位)の採掘量が多い。原油と天然ガスの産出量は1位の国(サウジアラビアと米国)との差が小さく、いずれも2ポイント未満の差にとどまる。このため、統計年度によっては1位となることもある。 これらの有機鉱物資源のうち、国内で消費される比率が高いのが石炭と亜炭(88パーセント)と天然ガス(69パーセント)である。一方、原油の国内消費比率は29パーセントと低く、主に輸出されている。ロシアの原油輸出量は世界第2位(1億6,211万トン、2001年)である。 ロシアはエネルギー資源ならびに天然資源が豊富な国家である。天然ガス埋蔵量は世界最大(確認埋蔵量の18%)で、石炭埋蔵量は世界第2位となっている。天然ガス生産国では世界第2位、石油生産国では第3位、石炭生産国では第6位、そして原子力発電生産国としては第4位である。 石油とガスは2017年に連邦予算の36%を占めた。2016年にはヨーロッパの天然ガス輸入の70%以上がロシアから輸入され、原油輸入の3分の1以上もロシアから輸入された。逆に、ロシアの原油輸出のほぼ60%、天然ガス輸出の75%以上はヨーロッパ向けであった。 ロシアのエネルギー部門は自国経済において支配的な位置を占めており、同時に世界最大規模の部門の1つとして認知されている。
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石油とガスは2017年に連邦予算の36%を占めた。2016年にはヨーロッパの天然ガス輸入の70%以上がロシアから輸入され、原油輸入の3分の1以上もロシアから輸入された。逆に、ロシアの原油輸出のほぼ60%、天然ガス輸出の75%以上はヨーロッパ向けであった。 ロシアのエネルギー部門は自国経済において支配的な位置を占めており、同時に世界最大規模の部門の1つとして認知されている。 ロシアは世界有数の観光地として知られている。観光スポットが各地にあり、海外から多くの観光客が訪れている。その中で最も代表的なものとして知られているのは、世界遺産に登録されているサンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群や赤の広場である。 ロシア経済に占める貿易の割合は急拡大している。1992年時点では、国民総生産3,978億ドルに対し、輸出が381億ドル、輸入が350億ドルであった。2003年には、国民総生産4,885億ドルに対し輸出は1,260億ドル、輸入524億ドルに増加しており、輸出の伸びが著しい。これは原油および、石油関連の生産・輸出拡大によるものである。ロシアの貿易構造は1992年から2003年までの約10年間で大きく変化してきた。1992年時点ではソ連を構成していた諸国に対する貿易が、輸出で7割、輸入で5割を占め経済ブロックを形成していた。品目では機械と原油、化学工業製品を輸出し、建設機械と軽工業品、食料を輸入していた。ところが、2003年時点では輸出入とも相手国が分散する。原油,石油製品を輸出し、機械、自動車を輸入している。つまり、機械工業の落ち込みと原油輸出の大幅な伸びが特徴と言える。
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1992年時点の輸出品の品目別の比率は、United Nations Statistical Yearbook 2003などによると建築機械(35.0%)、天然ガスを含む原油(14.7%)、化学品(10.6%)、軽工業品(8.1%)、鉄鋼(6.9%)。同輸入品は、建築機械(36.2%)、軽工業品(20.4%)、食料(16.7%)、化学品(7.5%)、鉄鋼(5.0%)。2003年時点の輸出品の品目別の比率は、原油 (27.6%)、石油ガス (13.0%)、石油製品 (10.4%)、鉄鋼 (6.1%)、アルミニウム(2.6%)である。2003年時点の貿易相手国は輸出相手国が順に、オランダ(6.2%)、中国、ベラルーシ、ドイツ、ウクライナ、輸入相手国が順にドイツ(14.1%)、ベラルーシ、ウクライナ、中国、アメリカとなっている。 日本との貿易は順調に拡大している。日本からの輸入額は15億ドルから45億ドルへ、輸出額は28億ドルから62億ドルに伸びている。品目は輸入を中心に変化した。日本への輸出の変化を見ると、1992年時点は魚介類、木材の2品目で5割弱を占め、アルミニウム(アルミニウム合金を含む)、石炭、白金が続いた。これが2003年になるとアルミニウム(アルミニウム合金を含む、22.4%)、魚介類、石炭、木材、原油となった。輸入は、機械類(26.7%)、鉄鋼、電気機械、自動車、プラスチックであったものが、乗用車(62.1%)、建設機械(6.4%)、映像機器、通信機器、バスに変わった。品目が自動車に集中したことになる。 ロシア鉄道のシベリア鉄道などをはじめとする客車での運転スタイルが基本。 エレクトリーチカーなど例外もある。 ロシア鉄道の運行するシベリア鉄道を7日間かけて全線走破する特急ロシア号(ウエラジオストク駅→ヤロフラススキー駅) 同じくロシア鉄道の運行する特急オケアン(太洋) 号(ウエラジオストク駅→ハバロフスク駅) などが有名である。 2023年11月1日、高バイパス比ターボファンジェット『PS-90A3M』(単発推力:17500kgf)を4発搭載した大型ワイドボディ旅客機『Il-96-400M』の初飛行に成功、2030年度までに高バイパス比ギヤードターボファンジェット『PD-35』(単発推力:35000kgf)を2発搭載した双発機に改修予定。
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2023年11月1日、高バイパス比ターボファンジェット『PS-90A3M』(単発推力:17500kgf)を4発搭載した大型ワイドボディ旅客機『Il-96-400M』の初飛行に成功、2030年度までに高バイパス比ギヤードターボファンジェット『PD-35』(単発推力:35000kgf)を2発搭載した双発機に改修予定。 ロシアの科学技術は、ピョートル大帝がロシア科学アカデミーとサンクトペテルブルク大学を設立し、博学者ミハイル・ロモノーソフがモスクワ大学を設立した啓蒙時代から急速に発展した。 19世紀から20世紀にかけて、ロシアは多くの著名な科学者を輩出しており、物理学、天文学、数学、コンピューティング、化学、生物学、地質学、地理学などの学系分野に重要な貢献を果たしている。 元素周期表のドミトリ・メンデレーエフ、近年ではポアンカレ予想のグリゴリー・ペレルマンなどが著名である。 なお、ロシアにおいて発明家や技術者の存在は、電気工学、造船、航空宇宙、兵器、通信、IT、核技術、宇宙技術などに幅広く影響を及ぼしている。 20世紀のロシアの人口動態は、第一次大戦・干渉戦争期そして第二次世界大戦期と2度にわたって激減したが、その後は回復傾向にあった。しかし、1992年以降再び人口減少が続き、1992年で最大1億4,800万人いた人口が、2050年には1億1,000万人程度まで減少すると見られている。原因には、出生率の低下や男性の平均寿命がきわめて短くなっていることがある。ロシアの男性の平均寿命は1987年以降短くなる傾向にあり、世界銀行の統計によると1994年には57.6歳まで低下した。その後回復し、2017年時点では67.5歳である。女性は、1993年に71.2歳まで低下したが、2017年には77.6歳と上昇、男女差は10歳ときわめて大きいままである。ちなみに2008年、OECD諸国の平均は男性77.2歳、女性82.8歳と男女差は6歳程度である。続いていた人口減少は2012年に止まり、2014年のクリミア併合で人口増加に転じたが2016年の減少に戻り2020年は約51万人の減少となった。また、出生率も2015年には1.78をピークに上昇したが、2018年時点では1.5人程である。
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