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4,873,883
カタリーナ・ファン・エフモント
生涯
カタリーナは1497年に亡くなり、ゲルデルンの教会に埋葬され、現在でもカタリーナの墓は残されている。
[ "1497年" ]
[ 8329 ]
[ 13868 ]
4,873,884
ダッフィー&フレンズのワンダフル・フレンドシップ
null
『ダッフィー&フレンズのワンダフル・フレンドシップ』 (Duffy & Friends Wonderful Friendship) とは、東京ディズニーシーで開催されているショー。
[ "ダッフィー", "東京ディズニーシー" ]
[ 277341, 341746 ]
[ 744511, 943186 ]
4,873,884
ダッフィー&フレンズのワンダフル・フレンドシップ
概要
ケープコッド・クックオフで開催されていた『マイ・フレンド・ダッフィー』が2020年2月29日に終演となり、その後を継いで、2023年7月4日より公演開始した。
[ "東京ディズニーシーのレストランの一覧", "マイ・フレンド・ダッフィー", "2020年", "2023年" ]
[ 194977, 650499, 7867, 7869 ]
[ 484929, 2007554, 13129, 13131 ]
4,873,884
ダッフィー&フレンズのワンダフル・フレンドシップ
ストーリー
ダッフィー&フレンズは、それぞれの得意なことを活かした自分たちだけのパーティーを開くことにしました。お絵描きをしたり、パーティーの飾りを作ったりして準備を進めますが、途中で思わぬトラブルがおきてしまいます。しかし、一人一人の個性が合わさった楽しいアイデアで乗り越え、7人だからこその特別なパーティーが出来上がります。
[ "ダッフィー" ]
[ 277341 ]
[ 744511 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
null
四代目鶴澤清六(つるさわ せいろく、明治22年(1889年)2月7日 - 昭和35年(1960年)5月8日)は、義太夫節三味線。本名:佐藤(桜井)正哉。東京市四谷区塩町出身。七代目竹本綱太夫(三代目竹本津太夫)の名跡養子。定紋は源氏車。重要無形文化財保持者(人間国宝)。位階は勲三等旭日中綬章(没後追贈)
[ "鶴澤清六", "明治", "1889年", "昭和", "1960年", "義太夫節", "四谷本塩町", "竹本津太夫", "養子縁組", "家紋", "人間国宝", "位階", "旭日章" ]
[ 514063, 1126, 2962, 1115, 1226, 10214, 304745, 513912, 80163, 33000, 32847, 39219, 66709 ]
[ 1549874, 1803, 4654, 1789, 1934, 16878, 829572, 1549468, 161269, 60026, 59707, 71286, 130719 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
家族
高祖父:初代鶴澤清六(初代鶴澤徳太郎であり、鶴澤きくの父)、鶴澤ます(初代清六妻)
[ "鶴澤清六" ]
[ 514063 ]
[ 1549874 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
家族
曾祖母:鶴澤きく(初代清六の娘、初代新左衛門の妻、七代目綱太夫の伴侶)
[]
[]
[]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
家族
曾祖父:初代豊澤新左衛門(鶴澤きくの最初の夫)、七代目竹本綱太夫(鶴澤きくの伴侶)※養父でもある
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[]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
家族
祖母:鶴澤あい(初代新左衛門と鶴澤きくの娘、二代目團平の妻。後に三代目大隅太夫の妻)
[]
[]
[]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
家族
祖父:二代目豊澤團平(おあいの最初の夫)、三代目竹本大隅太夫(おあいの二番目夫)
[ "竹本大隅太夫" ]
[ 546389 ]
[ 1654422 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
家族
義母:鶴澤とく(二代目團平とおあいの娘)※鶴澤きく・七代目綱太夫に引き取られ娘として育てられる
[]
[]
[]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
家族
養父:七代目竹本綱太夫(鶴澤きくの伴侶)※曾祖父でもある
[]
[]
[]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
家族
妻:鶴澤とくの娘。静(『一の糸』の茜のモデル)
[ "一の糸" ]
[ 792874 ]
[ 2524833 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
家族
義弟:二代目鶴澤道八(妻が静の妹)
[ "鶴澤道八" ]
[ 1236347 ]
[ 4249449 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
家族
甥:鶴澤清治(静の妹の子。義弟二代目道八の養子)
[ "鶴澤清治" ]
[ 388579 ]
[ 1090227 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
家族
甥孫:六代目竹本織太夫、鶴澤清馗(義弟二代目道八の孫)
[ "竹本織太夫 (6代目)" ]
[ 1223726 ]
[ 4203857 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
入門~堀江座退座
明治35年(1902年)6月初代鶴澤友松(初代鶴澤道八)に入門し、鶴澤政二郎(まさじろう)を名乗る。
[ "明治", "1902年", "鶴澤道八" ]
[ 1126, 1604, 1236347 ]
[ 1803, 2503, 4249449 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
入門~堀江座退座
『道八芸談』に入門時のエピソードが記載されている。「東京では築地二丁目に家を一軒借りて、一座の谷路太夫の女房が台所をしてくれ、皆一緒に住んでいました。今の清六は政治郎といってこのときに私のところへ来て、大阪へ連れて帰ったのです。もう一人友太郎というのも一緒に連れて帰りましたが、これは芸はよく、教えなくても具合など勝手に弾ける質でしたが、途中で辛抱出来ず、横須賀へ行って稽古屋になり其後死にました。政治郎の方は手が強張って中々弾けませんでしたが、私の家のいろいろな用事をさせている中でも朱の本など見て勉強を怠らなかった甲斐あって今日までになったのです。」しかし、師友松はこの年を最後に芝居から退き、因講からも抜けてしまい、芝居に復すのは大正13年(1924年)のこととなるため、政二郎は芝居に出るため、師もと元を離れ、明治39年(1906年)市の側堀江座に出座する。
[ "稽古屋", "大正", "1924年", "明治", "1906年" ]
[ 452258, 1128, 1625, 1126, 1596 ]
[ 1309301, 1805, 2529, 1803, 2494 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
入門~堀江座退座
山川静夫『人の情けの盃を』に、師のもとを離れ、堀江座に入る際の様子が収録されている。「清六は十二の時母親に死別した。祖母が将来を心配し、芸を身につけさせようと道八のところへ入門させ、二年ほど内弟子をしていたが、雑用のみにあけくれて、さっぱり稽古はしてもらえない。道八自身も舞台は休演がちである。この調子では、毎月食費から小づかいまで送ってくれる、年老いた祖母の存命中に舞台出演することもむずかしいと、清六は気が気でならなかった。清六は、寒中の深夜に井戸水をかぶり神に祈りつづけた。そして、とうとう道八に懇願した。「お師匠ハンが舞台にお出にならないのなら、せめて私だけでも舞台へ出していただいて修業させていただくわけにはいきませんか」しかし道八は許さなかった。「そんなことはいまは出来ん。そのうちに女中がきたら舞台へ出したる」また二ヵ月が経過した。となりの氷屋夫婦が清六にひどく同情してくれ、「なあ、これやったら師匠の家でいつまで辛抱したかてどうにもならん、早よう、出やはったほうがええ」とすすめるので、その夜のうちに荷物を夫婦にあずけて、翌朝五時に師匠の家をとび出した。それから堀江座での必死の修業がはじまった。清六の才能をみこんで、いろいろな師匠が、「どうや、わしの弟子にならんか?」と誘ったが、「いえいえ、私は道八師匠のところから無断で飛び出した男です。うれしゅうはございますが、どなたとなたというより皆さん全部を師匠と思って修業させていただきます」と不利を承知でことわったという。」
[ "山川静夫" ]
[ 102254 ]
[ 216538 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
入門~堀江座退座
以降も堀江座に出座する。明治40年(1907年)5月堀江座の番付より、鶴の字が変わり、書体も中太へ(現在の半沢)。明治42年(1909年)1月で堀江座を退座。これは20歳となり、兵役となったためである。ため、
[ "明治", "1907年", "1909年" ]
[ 1126, 1608, 1610 ]
[ 1803, 2507, 2510 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
鶴澤清六家への跡取りへ
明治45年=大正元年(1912年)7月23日養父七代目綱太夫が没しているため、七代目綱太夫の曾孫であるおとくの娘と結婚、七代目綱太夫の名跡養子となり、鶴澤清六家に入り、鶴澤清六家の後継者となったのは、この堀江座を退座していた期間となる
[ "明治", "大正", "1912年", "養子縁組", "鶴澤清六" ]
[ 1126, 1128, 1615, 80163, 514063 ]
[ 1803, 1805, 2515, 161269, 1549874 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
鶴澤清六家への跡取りへ
この婚姻により、初代鶴澤清六、初代豊澤新左衛門、七代目竹本綱太夫(三代目竹本津太夫)、二代目豊澤團平、三代目竹本大隅太夫と姻戚関係を持つことになった。
[ "鶴澤清六", "竹本津太夫", "竹本大隅太夫" ]
[ 514063, 513912, 546389 ]
[ 1549874, 1549468, 1654422 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
鶴澤清六家への跡取りへ
「御内儀(七代目竹本綱太夫(三代目竹本津太夫)は、さいしよに初代の新左衛門さんに嫁づいてられたんですが、新左衛門さんが歿くなつてから津太夫(ししよう)と御一緒になられたんです。奇麗な方でした。--新左衛門さんとの仲に出来た娘さんのおあいさんといふのが、九市さん後に三代団平)に嫁づき、その後九市さんと別れて大隅さん当時初代春子太夫のおかみさんになつたんです。おあいさんと九市さんのあひだに出来たおとくさんといふ娘さんを、津太夫(ししよう)の家へ引取つて、可愛がつて一緒に暮らしてられました。......今の四代清六君の歿くなつた細君は、このおとくさんの娘だつたんです」
[ "竹本津太夫" ]
[ 513912 ]
[ 1549468 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
鶴澤清六家への跡取りへ
政二郎から見て、上述の通り義母となる二代目團平とおあいの娘であるおとくは、祖父母である鶴澤きく・七代目綱太夫に引き取られ、娘として育てられたため、鶴澤きくは政二郎のことを「孫婿」と表現している。また、同様に三代目清六の高弟である二代目清八も「今の四代目清六さんの御内儀さんは法善寺津太夫さんのお孫さんです」と語っている。
[]
[]
[]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
鶴澤清六家への跡取りへ
また、明治36年(1903年)に系統外ながらも、三代目鶴澤清六を襲名した三代目叶は、二代目鶴澤清七の前名であり、四代目清七が後に襲名した鶴澤勝次郎を名跡の三代目の襲名を望むも叶わなかったため、鶴澤きくから、鶴澤清六の三代目を一代限りで襲名することを求められた際のエピソードに、「三世叶より三世鶴澤清六に改名してゐた。叶の名前と清六の名前には余り深い芸の系統はないのである。この清六の叶は、三世鶴澤勝次郎と名のりたかったが、それが或る事情に依って思ふ様に運ばない。むしゃくしゃして、或る日、法善寺津太夫(※三代目竹本津太夫=七代目竹本綱太夫)の家に行くと、このお内儀さん(※鶴澤きく。初代鶴澤清六娘)が、そんなら私の家にある 清六の名を継いで貰へぬか、そんなら継ぎませうと言ふ様な訳で極く偶然の機会に叶から清六になったのである」「清六といふ名をあんたに磨いて貰ひたい。そしてあんたに門人もあるが、この名はあんた一代でこちらへ返してほしい。こちらの孫娘に三味線弾きを貰ふて四代目を継がしたいから」と、鶴澤きくが「四代目は孫婿をもらって襲名させる」と語っており、政二郎の初代友松への入門が明治35年(1902年)を考えると、鶴澤きくが三代目叶に三代目清六を貸した際には、まだ後継者(=孫娘の「おとくの娘」の婿 ※本来は曾孫娘であることは前述の通り)は決まっておらず、五代目徳太郎から四代目清六を襲名させる優秀な三味線弾きを求めており、そのお眼鏡に政二郎が適ったという時系列となる。
[ "明治", "1903年", "鶴澤清六", "鶴澤清七", "竹本津太夫", "1902年" ]
[ 1126, 1605, 514063, 566536, 513912, 1604 ]
[ 1803, 2504, 1549874, 1720471, 1549468, 2503 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
鶴澤清六家への跡取りへ
この観点からみると、後に相三味線となる二代目豊竹古靱太夫(山城少掾)の『豊竹山城少掾聞書』にある「今の清六君は四代目になりまずが、私と同じ東京生れで、こないだ歿くなった道八さんの門人です。はじめ政治郎といっておりましが、初代清六さんの家を繼ぐことになって五代目徳太郎になり、その後私の合三味線になるについて清六を襲名したのでした」は、「初代清六さんの家を繼ぐことになって五代目徳太郎になり」の部分は正しいが、鶴澤きくの発言にあるように、清六家を継ぎ、四代目清六になるために、前名の五代目徳太郎を襲名したのであるから、「その後私の合三味線になるについて清六を襲名したのでした」の部分は誤りとなる。しかし、四代目清六の襲名は古靱太夫の相三味線となったのと同時であるため、その意味では正しい。
[ "豊竹山城少掾" ]
[ 231394 ]
[ 599036 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
五代目鶴澤徳太郎襲名
大正元年(1912年)9月近松座『本朝廿四孝』「信玄館(十種香)より奥庭狐火の段 切」で三代目竹本伊達太夫後の六代目竹本土佐太夫(天下茶屋)を弾き政二郎改五代目鶴澤徳太郎を襲名。当時23歳。三味線欄外に「政二郎改五代目鶴澤徳太郎」とある。堀江座の後継である近松座に復帰し、五代目徳太郎を襲名し、いきなり三代目伊達太夫を弾いたのであるから、序列が明確になる三味線欄に位置付けることが難しかった。奥庭狐火のツレ弾きを近松座の三味線のトップであった二代目豊澤團平が勤めた。
[ "大正", "1912年", "本朝廿四孝", "竹本土佐太夫" ]
[ 1128, 1615, 1159966, 546042 ]
[ 1805, 2515, 3978920, 1653403 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
五代目鶴澤徳太郎襲名
当時の劇評は、「伊達の糸を綱太夫の嗣子になった鶴澤政二郎が徳太郎と改名して弾くが弱年に似ぬ腕の冴は将来を思はしめる。」(毎日新聞)「十種香より奥庭狐火伊達の畑の物で頭から悪いと云ふにあらず、三味の徳太郎は大躰の筋が能いから餘り屑も出さず殊に團平が引立ツレ弾に出て居るから少しも間劣り無く伊達太夫相當の三味線である。「八百八狐付添て」で人形と倶に白地の衣裳に引抜く、床では兎に角伊達の美聲に徳太郎と團平のツレ弾き、道具は目の醒る計り美麗なり。」(浄瑠璃雑誌)と徳太郎の手腕を讃えている。
[ "浄瑠璃" ]
[ 20880 ]
[ 36273 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
五代目鶴澤徳太郎襲名
「綱太夫の嗣子になった」とあるように、「おとくの娘」の夫となり、七代目竹本綱太夫(三代目竹本津太夫)の名跡養子となっている。ツレ弾きを勤めた二代目團平から見れば五代目徳太郎は孫婿にあたり、三代目竹本大隅太夫からみても義理の孫婿にあたる。三代目竹本伊達太夫(後の六代目竹本土佐太夫)は三代目竹本大隅太夫の弟子である。また、養父七代目竹本綱太夫が得意とした「沼津」も同月の狂言に選ばれる等、一家一門で鶴澤清六家の新たな跡取りの門出を祝している。(親戚関係の詳細は前述の通り。また初代清六の親族欄を参照)
[ "竹本津太夫", "養子縁組", "竹本大隅太夫", "竹本土佐太夫", "鶴澤清六" ]
[ 513912, 80163, 546389, 546042, 514063 ]
[ 1549468, 161269, 1654422, 1653403, 1549874 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
五代目鶴澤徳太郎襲名
以降も三代目伊達太夫を弾く。三代目伊達太夫は後の六代目竹本土佐太夫で、師友松が長く弾いていた。
[ "竹本土佐太夫" ]
[ 546042 ]
[ 1653403 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
五代目鶴澤徳太郎襲名
翌大正2年(1913年)9月で近松座を退座。伊達太夫の巡業に従う。大正3年(1914年)1月御霊文楽座に入座。近松座同様、欄外となる。翌2月伊達太夫も文楽座に入るが、相三味線は豊澤猿治郎となっている(番付も太夫付)。同年5月8日より3日間、三代目清六の故郷である静岡にて、清六父母追善興行が静岡入道館で行われた。「古靱、静(四代目大隅太夫、三代目清六甥)、光、つばめ(八代目綱太夫)、い、清六、徳太郎、芳之助(五代目弥三郎、三代目清六養子)、浅造(四代目重造、三代目清六門弟)」と、『義太夫年表大正篇』にある。
[ "大正", "1913年", "1914年", "義太夫節" ]
[ 1128, 1616, 1617, 10214 ]
[ 1805, 2517, 2519, 16878 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
五代目鶴澤徳太郎襲名
同年9月御霊文楽座花勇改五代目鶴澤勇造の久々の出座と、京都より六代目竹澤團六(後の六代目鶴澤寛治)の文楽座入座があり、三味線欄外に、花勇改鶴澤勇造、鶴澤徳太郎、竹澤團六が右から並んだ。大正4年(1915年)1月まで3人が三味線欄外に並んでいたが、2月より解消。徳太郎は上7枚目となる。同年3月御霊文楽座『義経千本桜』「嵯峨庵室の段 切」を語っていた二代目古靱太夫を三代目清六の代役で弾く(3月5日、6日)本役では「大物ヶ浦 渡海屋の段 中」で静太夫を弾く。大正5年(1916年)4月御霊文楽座の番付より本澤となる。三味線欄の下5枚目。この頃、静太夫や五代目錣太夫や七代目駒太夫を弾いている。
[ "鶴澤寛治", "大正", "1915年", "義経千本桜", "豊竹山城少掾", "1916年" ]
[ 520276, 1128, 1618, 246377, 231394, 1619 ]
[ 1571453, 1805, 2520, 648616, 599036, 2521 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
五代目鶴澤徳太郎襲名
大正6年(1917年)2月御霊文楽座にて初代古靱太夫四十回忌のため『芦屋道満大内鑑』が上演され、徳太郎は「蘭菊の段」で三代目清六のツレ弾きを勤める。大正8年(1919年)9月下3枚目に上る。大正11年(1922年)7月6日~11日に御霊文楽座で行われた第1回向上会で静太夫の『菅原伝授手習鑑』「松王首実検の段(寺子屋の段)」を弾く。当時の劇評に「靜太夫の寺兒屋の段、大まかな節廻しに間づらい所もあったが何しろ大成功だ。大隅太夫の襲名迄には間もあるまい、今暫らくの辛抱だ。糸の徳太郎もよく此人を助けて大々的成功裡に演了せしめた、靜の成功は確に徳太郎の健腕に俟っ虚が多かった。」とある。
[ "大正", "1917年", "豊竹山城少掾", "芦屋道満大内鑑", "1919年", "1922年", "菅原伝授手習鑑", "首実検", "暫" ]
[ 1128, 1593, 231394, 1075914, 465927, 1623, 209273, 76884, 193723 ]
[ 1805, 2491, 599036, 3674736, 1359273, 2527, 528153, 153628, 480982 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
四代目鶴澤清六襲名
大正12年(1923年)10月文楽座『仮名手本忠臣蔵』「六段目 勘平住家の段」で二代目豊竹古靱太夫を弾き、 四代目鶴澤清六を襲名。番付上は古靱太夫の太夫付となっている。同年1月に三代目清六が没し、古靱太夫の相三味線は二代目豊澤新左衛門となっていたが、五代目徳太郎が相三味線となるにあたり、四代目鶴澤清六を襲名した。番付の口上に「此度鶴澤徳太郎儀御贔屓様方のお勧めに預り四代目鶴澤清六を襲名仕り今後共芸道相励み度き所存に有之候次第何卒併せて御引立の程伏してお願ひ申上」とある。以降、昭和24年(1949年)まで二代目古靱太夫の相三味線を勤める。当時の劇評に、「この古靭の絃を四代を襲名の徳太郎の清六が弾いたお目見得で未だ何の将色も見えなかつたが達者に綺麗に弾いた」「静の口上ありて古靭四代目清六。懸命に語るので聞應へせり。糸も此分ならば勤まらう。」とある。
[ "大正", "1923年", "仮名手本忠臣蔵", "豊竹山城少掾", "鶴澤清六", "芸道", "昭和", "1949年" ]
[ 1128, 1624, 141330, 231394, 514063, 91287, 1115, 1653 ]
[ 1805, 2528, 328287, 599036, 1549874, 189574, 1789, 2558 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
四代目鶴澤清六襲名
この襲名に付き、「清六襲名ですが、私は元来先年亡くなられた道八師の弟子で初め政二郎といひ、それから徳太郎になつて、文楽へ入つてからは錣太夫(五代目)を弾いて居りました。すると三代目清六師が亡くなられた翌年の大正十二年三月頃でしたか、文楽の勘定場の中村仙助が私の所へ来て、當時今の山城さんの古靱さんが清六師に逝かれてから、新左衛門(二代目)さんが弾いてゐられましたのを、両雄並び立たずといふのか、又新左衛門さんだけの人には自分の流儀があつて、古靱さんがすべて清六師通りに弾いてほしいといふのに、一寸さうはいかない事があつてどうもしつくりいかない。そこで文楽としても新左衛門さんだけの人にけちをつけたくないから、今の中に別れさせて、その代りに貴方に弾かしたいといふのです。私は一応師匠の道八に相談してからといつて帰しました。と二、三日たつてから又仙助が来て、古靱を弾くについては名人の四代目清六を襲名してくれとの事で、これも即答はせず道八師に相談致しました。すると師匠は反対はせず、新左衛門にきずをつけずにお前が代るならいゝだらうといふので襲名を決心いたしましたが、私が三十六歳の時でした。」と清六が語っている。また、この清六襲名を機に、「折角売出しの古靱さんにすまぬと思」い、素人弟子の稽古を山城少掾との相三味線を解消するまで断り続けた。
[ "大正", "豊竹山城少掾" ]
[ 1128, 231394 ]
[ 1805, 599036 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
四代目鶴澤清六襲名
豊竹古靱太夫と鶴澤清六は初代同士の縁であり(初代清六は古靭太夫の師匠の初代靭太夫の相三味線でもある)、三代目清六に弾いてもらうこととなった、津太夫が継げなくなった津葉芽太夫に古靱太夫名跡を預かっていた四代目徳太郎(八代目三二)が「清六さんに弾いて貰ふのやつたら、古靱を襲名したらどうや」と二代目古靱太夫を譲られた経緯もあり、古靱太夫と鶴澤清六は縁の深い名跡同士であるが、そもそも、二代目古靱太夫は三代目津太夫(七代目綱太夫)の後継者であり(本来は津太夫となる予定だった)、竹本綱太夫名跡を預かる当時の竹本綱太夫家の当主であるが、四代目鶴澤清六は七代目綱太夫の曾孫婿にして名跡養子であることから、芸脈の面での七代目綱太夫の後継者と、血脈の面での七代目綱太夫の後継者の相三味線となった。
[ "鶴澤清六", "芽", "豊竹山城少掾", "養子縁組" ]
[ 514063, 110859, 231394, 80163 ]
[ 1549874, 240234, 599036, 161269 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
四代目鶴澤清六襲名
この襲名披露の『仮名手本忠臣蔵』は9月に幕が開く予定であったが、同年9月1日に発生した関東大震災の影響で、開幕が10月にずれ込んだ。出身地が東京である清六は、東京へのご贔屓への襲名の挨拶状と配り物(上等の家庭用石鹸)を8月28日、29日に東京に向けて鉄道便で送付したが、関東大震災によりその挨拶状と配り物が「殆ど全滅」した。「當時の私が貧乏の中を無理算段して送つたそんな挨拶状や景品が、殆ど全滅ですし、おまけに文楽の方も震災の餘波で、いつ初日があくや分らん。とうとう一月遊んでしまつて、十月になつてやつと初日があいたわけで、東京へは又新規まき直しに挨拶をしなければならず、いゝ名を襲名したといひ條、えらい損害で閉口致しました。」と語っている。
[ "仮名手本忠臣蔵", "関東大震災", "石鹸" ]
[ 141330, 392356, 13336 ]
[ 328287, 1101901, 22217 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
四代目鶴澤清六襲名
三宅周太郎はこの襲名披露にご贔屓から清六に送られた白い繻子の引き幕が思い出に残ったと語っている。
[ "三宅周太郎", "繻子織" ]
[ 457975, 90068 ]
[ 1329455, 185779 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
戦前~戦後
大正13年(1924年)9月御霊文楽座の三代目伊達太夫改六代目竹本土佐太夫襲名披露興行で、紋下の竹本津太夫が休演した。津太夫の相三味線に当時因講を抜けていた清六の師匠の初代友松を迎えるにあたり、弟子の清六が間に入り話をまとめたが、因講から抜けていた件が問題となり、両名が休演し、翌10月の芝居に友松事初代鶴澤道八として出座した経緯があった。無論、道八も津太夫の太夫付であり、古靱太夫付の清六と併せて、師弟で太夫付となった。
[ "大正", "1924年", "竹本津太夫", "鶴澤道八", "豊竹山城少掾" ]
[ 1128, 1625, 513912, 1236347, 231394 ]
[ 1805, 2529, 1549468, 4249449, 599036 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
戦前~戦後
大正14年(1925年)10月御霊文楽座で『摂州合邦辻』「合邦住家の段 切」で古靱太夫を弾く。『義太夫年表大正篇』に「摂州合邦辻は阪地に於て暫くその上演が禁止されたりしたが此度解禁となりたるものなり」とある。
[ "大正", "1925年", "摂州合邦辻", "豊竹山城少掾", "義太夫節" ]
[ 1128, 1626, 276153, 231394, 10214 ]
[ 1805, 2530, 740644, 599036, 16878 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
戦前~戦後
大正15年=昭和元年(1926年)3月御霊文楽座『仮名手本忠臣蔵』では古靱太夫が番付上七段目の平右衛門ひと役であったため、八段目の道行の二枚目を弾くことになり、清六の名は三味線欄の欄外で雨ざらしとなった(実際は、古靱太夫は休演)。「尤も古靭の出られぬ事は病氣で致方もないとはいふものヽ、出られぬ事を承知して番組に載せるとは客を欺くに當る。番組編成後に出られぬ様になったといふのか。然らば古靭の三味線清六を何故雨曝しにしたか。恐らく立派な癖明は出來まい。古靭の温厚に附込んで一種の侮辱を加へたものと推測する」と当時の劇評にある。翌4月同座で古靱太夫は復帰し、『勧進帳』の弁慶を語ったが、シンを六代目友治郎が弾き、清六は2枚目だったため、前月と同様に三味線欄外の雨ざらしとなった。5月同座『菅原伝授手習鑑』「丞相名残の段」で古靱太夫の太夫付に戻った。11月同座『天網島時雨炬燵』「紙屋内の段 切」を勤めるも29日午前11時よりの火災で御霊文楽座が焼失する。翌昭和2年(1927年)1月道頓堀弁天座で興行を再開した。
[ "大正", "昭和", "1926年", "仮名手本忠臣蔵", "豊竹山城少掾", "七段目", "勧進帳", "菅原伝授手習鑑", "丞相", "炬燵", "1927年" ]
[ 1128, 1115, 1627, 141330, 231394, 293860, 83802, 209273, 20123, 13492, 1628 ]
[ 1805, 1789, 2531, 328287, 599036, 795191, 170379, 528153, 34911, 22503, 2532 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
戦前~戦後
昭和5年(1930年)四ツ橋文楽座の杮落し公演で、古靱太夫が『平家女護島』「鬼界ヶ島の段」を復活させる。これにあたり、前年12月に東京の豊澤松太郎師匠に稽古を受けたが、清六が病中であったため、師の初代道八がその稽古に付き添い、公演も中日迄道八が代役をすることになった。『道八芸談』の「出勤のおぼえ」では「清六病気のため古靱太夫の「平家女護島二段目切」を一週間代役にて弾く」とある。
[ "昭和", "1930年", "こけら落とし", "豊竹山城少掾", "平家女護島" ]
[ 1115, 1631, 70739, 231394, 386342 ]
[ 1789, 2535, 139977, 599036, 1082539 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
戦前~戦後
戦時中は茨城県疎開していたものの、文楽の再開の知らせを聞き、三味線を二挺背負い、大阪に駆け付けた。「昭和二十年三月十三日の、大阪の空襲で、文楽座が炎上した。(略)そんな中で、こんなことで負けていられるか、と、朝日会館で文楽の幕をあけた。二十年の七月であった。(略)その噂を、風のたよりに聞いて、茨城県の下妻からまた奥へ一里という、赤須のおかいこ部屋にかくれていた。鶴澤清六(四代目)などは、ぼろぼろの洋服を着て、その背に、大事な三味線を、二挺背負って、焼きただれた東京へたどり着き、それからまた、はるばる、東海道と、不自由なのりものを、のりつぎ、のりつぎ、大阪の朝日会館に着くと、二日目から、ひさしぶりに、古靱大夫の三味線を弾いた」と安藤鶴夫が記している。
[ "茨城県", "疎開", "昭和", "鶴澤清六", "安藤鶴夫" ]
[ 287011, 108763, 1115, 514063, 129438 ]
[ 774349, 234526, 1789, 1549874, 294532 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
戦前~戦後
昭和22年(1947年)2月四ツ橋文楽座にて『菅原伝授手習鑑』「道明寺」が初代豊竹古靱太夫 初代鶴澤清六 七十年忌追福芸題として上演され、「相丞名残の段 切」を古靱太夫と勤めた。「此度先代古靱太夫及び初代鶴澤清六の七十年忌追善を兼ねて其の追憶の狂言を加えて其面影を偲ぶ事と相成り申候次第にて」と番付の口上にある。同年3月27日12時半より御殿場秩父宮邸にて掾位授与式が営まれ、豊竹古靱太夫が秩父宮より山城少橡藤原重房の掾位と紋を賜り、御前演奏として、『菅原伝授手習鑑』「道明寺の段のうち相丞名残りの場」を演奏した。
[ "昭和", "1947年", "菅原伝授手習鑑", "鶴澤清六", "豊竹山城少掾", "其面影" ]
[ 1115, 1650, 209273, 514063, 231394, 367553 ]
[ 1789, 2555, 528153, 1549874, 599036, 1022133 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
戦前~戦後
同年6月14日四ツ橋文楽座にて天覧の栄誉に浴し、『恋女房染分手綱』「重の井子別れの段 切」で山城少掾を弾く。終演後、一座代表として豊竹山城少掾、鶴澤清六、吉田文五郎がお言葉を賜る。同年12月26日、昭和二十二年度大阪府、大阪市主催の芸術祭賞を豊竹山城少掾、鶴澤清六、吉田文五郎が天覧の『恋女房染分手綱』「重の井子別れの段」で受賞。
[ "豊竹山城少掾", "鶴澤清六", "吉田文五郎", "昭和", "大阪府", "大阪市", "芸術祭 (文化庁)" ]
[ 231394, 514063, 252757, 1115, 160159, 185183, 386213 ]
[ 599036, 1549874, 668568, 1789, 382164, 453369, 1082037 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
戦前~戦後
昭和24年(1949年)1月大阪日本橋松坂会館にて文楽座因会の第1回公演が行われる。「文楽座因会設立趣意の創立同人」に名を連ねている。役場は、此の処櫓下豊竹山城少掾 三味線鶴澤清六 人形玉手御前 吉田文五郎顔合せにて相勤めますと角書きされた「摂州合邦辻 合邦住家の段 切」。以降、四ツ橋文楽座での興行にても、山城少掾、清六、文五郎が勤める旨の角書きがある。
[ "昭和", "1949年", "豊竹山城少掾", "鶴澤清六", "吉田文五郎", "摂州合邦辻" ]
[ 1115, 1653, 231394, 514063, 252757, 276153 ]
[ 1789, 2558, 599036, 1549874, 668568, 740644 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
豊竹山城少掾との決別と文楽座退座
同年10月3日、東京帝国劇場にて『菅原伝授手習鑑』「寺子屋の段 切」を山城少掾と勤めていたが、27年間の相三味線を解消する声明を発表した。山川静夫『人の情けの盃に』に、妻の佐藤静の談として、その際の様子が収録されている。「その日、清六は静の前で、発行されたばかりの茶谷半次郎著『山城少掾聞書』を読んでいた。と、何が癇にさわったのか、突然顔色をかえて、「もう山城とは絶縁する!」と言い出した。静はびっくりして、「どうなさったんです?そんな急に」「この本に書いてあることが許せん!」清六は手をふるわせながら女房に本をわたした。内容は山城少掾の芸談である。」その本は、この年の夏に刊行された『山城少掾聞書』で、清六の癇に障った内容は、「鬼界ヶ島の段」の下記の記述によるとされている。
[ "帝国劇場", "菅原伝授手習鑑", "豊竹山城少掾", "山川静夫" ]
[ 87882, 209273, 231394, 102254 ]
[ 180448, 528153, 599036, 216538 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
豊竹山城少掾との決別と文楽座退座
「道八さんに弾いて貰つて関心しましたのは――松太郎さんに稽古していただいているあいだは、差向かいの稽古なのと、こつちも憶えるほうに気を奪われていて、さほどに感じなかつたんですが、道八さんの三味線を聴いていると、〽俊寛が身に白雪の、つもるを冬、きゆるを夏、風の景色を暦にて、春ぞ秋ぞと手を折れば、凡日かずも三年の、言問ふ物は奥津波、いそ山颪浜千鳥――の「おきィつなアみ」というところの、ツト、ツト、ツーン......というだけの手ですが、そこを弾かれると、いかにもドドドーン、と波が打寄せてくるように感じられるんです。なんにしても道八さんの三味線は、粘り気のつよい三味線でしたからね......。仲日ごろから、道八さんに稽古して貰つた清六君が替りました。「鬼界ケ島」の稽古中、こないだの七代目の吉兵衛さんが知つていると聞いて、一度行つて聴かして貰いましたが、四十年しまい込んで、語り崩してないだけに、松太郎さんのとちつとも違つたところがないのに感心しました」
[ "庵点" ]
[ 173611 ]
[ 419737 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
豊竹山城少掾との決別と文楽座退座
同公演の三の替りの『芦屋道満大内鑑』「葛の葉子別れの段 切」までを勤め、文楽座を退座する。この「葛の葉子別れ」が同年の芸術祭文部大臣賞を受賞した。
[ "芦屋道満大内鑑", "葛の葉" ]
[ 1075914, 108262 ]
[ 3674736, 232848 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
豊竹山城少掾との決別と文楽座退座
大阪毎日新聞の11月5日付に「『清六』ついに東京へ 少掾との仲直り望み絶ゆ(略)清六は近く恩師故鶴澤道八の五周忌法要を済ませた上来る十日に京都烏丸今出川の自邸を引き払い、東京永住のため出発」とあり、赤坂山王下(当時の千代田区永田町二丁目七七)へ清六は引っ越した。山城少掾の相三味線は門弟八代目綱太夫の相三味線であった十代目弥七が勤め、後に三代目清六の門弟である四代目清二郎が初代鶴澤藤蔵を襲名した上で勤めることとなる。昭和25年(1950年)芸術院賞を受賞。
[ "大阪毎日新聞", "鶴澤道八", "赤坂 (東京都港区)", "千代田区", "豊竹山城少掾", "鶴澤藤蔵", "昭和", "1950年" ]
[ 74534, 1236347, 43218, 5047, 231394, 719950, 1115, 1655 ]
[ 148404, 4249449, 78747, 7937, 599036, 2257213, 1789, 2560 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
文楽座復帰~死去
2年6ヵ月のブランクを経て、昭和27年(1952年)5月、豊竹松太夫(後の三代目竹本春子太夫)の相三味線として文楽座に復帰。「鶴澤清六復帰出演」と題されている。『壺阪観音霊験記』「沢市内より御寺まで」で豊竹松太夫を弾いた。ツレは門弟の初代鶴澤清友と豊澤新三郎。鶴澤清六の上には三味線とあり、三味線格となっている。以降、松太夫を弾く。
[ "昭和", "1952年", "鶴澤清六" ]
[ 1115, 1657, 514063 ]
[ 1789, 2562, 1549874 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
文楽座復帰~死去
昭和28年(1953年)第五回毎日演劇賞音楽賞を受賞。同年3月四ツ橋文楽座『本朝廿四孝』「奥庭狐火の段」が評価され、第2回因協会賞を受賞。同年3月27日神戸繊維会館で「鶴澤道八追善」と銘打たれた興行があるが、清六は松太夫の野崎村を弾き、追善狂言の「小鍛冶」には出演していない。津太夫寛治郎他の出演。昭和29年(1954年)3月四ツ橋文楽座、三和会を脱した四代目伊達太夫を弾く。松太夫の役場も弾いており、2人の太夫を弾いた。同年5月四ツ橋文楽座『仮名手本忠臣蔵』「旅路の花婿(落人)」を鶴澤清六作曲 山村若振付 釘町久磨治装置にて上演。4月26日付の大阪毎日新聞に「清元から文楽座の義太夫に作曲したものにはすでに『かさね』があるが、今度の『勘平の道行』はもともと義太夫から清元に移ったものだけに、今度の作曲は義太夫への逆輸入になるところに問題がある。作曲者の清六氏は「義太夫の作曲は個人的にはしていますが舞台にのせるのはこれがはじめてです。清元の歌詞をアレンジして、人形でも動きのあるように工夫をこらしました』と語っている」とある。同年6月の新橋演舞場にても鶴澤清六作曲 山村若振付『落人』が上演されている。
[ "昭和", "1953年", "本朝廿四孝", "鶴澤道八", "寛治", "1954年", "仮名手本忠臣蔵", "鶴澤清六", "大阪毎日新聞", "清元節", "義太夫節", "新橋演舞場" ]
[ 1115, 1658, 1159966, 1236347, 75941, 1468, 141330, 514063, 74534, 117159, 10214, 124735 ]
[ 1789, 2563, 3978920, 4249449, 151476, 2271, 328287, 1549874, 148404, 260083, 16878, 280880 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
文楽座復帰~死去
昭和30年(1955年)1月四ツ橋文楽座にて再び四代目伊達太夫と松太夫の両人を弾く。そのため、松太夫の「重の井」、一座総出演「寿式三番叟」、伊達太夫の「曲輪文章」、松太夫の「尼ヶ崎 前」の四場を弾いた。その「寿式三番叟」で門弟にて自身の甥(妻の妹の息子、義弟初代清友の養子)である鶴澤清治が初舞台を踏む。同年2月15日、豊竹山城少掾、八代目竹本綱太夫、六代目竹本住太夫と共に、重要無形文化財保持者の個人指定(いわゆる人間国宝)の第一次指定を受ける。
[ "昭和", "1955年", "曲輪", "鶴澤清治", "豊竹山城少掾", "人間国宝" ]
[ 1115, 1230, 210010, 388579, 231394, 32847 ]
[ 1789, 1938, 530331, 1090227, 599036, 59707 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
文楽座復帰~死去
同年道頓堀文楽座開場記念狂言『延喜帝』の作曲をする。「平田都作 鶴澤清六作曲 井上八千代振付 前田青祁美術考証並に装置」とある。同年12月28日の開場式で上演され、翌1月からの杮落し公演でも上演。同芝居で門弟にして兄弟弟子(初代道八門弟)、義兄弟(妻が姉妹)の初代鶴澤清友が自身の前名である鶴澤徳太郎の六代目を襲名している。昭和31年(1956年)5月道頓堀文楽座にて鶴澤清六作曲の『葵の祭』(源氏物語より)が上演される。「平田都原作 丁東詞庵脚色 鶴澤清六作曲 山村若振付 吉川観方美術考証 松田種次装置」とある。同年8月道頓堀文楽座にて鶴澤清六作曲「湖の火」より『雪狐々姿湖』が上演される。「高見順原作 有吉佐和子脚色演出 鶴澤清六作曲 二世西川鯉三郎振付 大塚克三装置」とある。この『雪狐々姿湖』の作曲で昭和31年度人形浄瑠璃因協会賞を受賞している。昭和32年(1957年)5月道頓堀文楽座にて鶴澤清六作曲『狐と笛吹』が上演される。「北条秀司作 鷲谷樗風脚色 鶴澤清六作曲 楳茂都陸平振付 大塚克三装置」とある。大阪朝日新聞の5月13日付の記事に「終盤に人形遣いが白衣を着用、浄瑠璃も両床に分ける」とある。同年7月25日、吉田難波掾、八代目綱太夫、四代目清六らが東横堀川から天神祭の船乗込みを行い、桜宮公園前仮舞台で三番斐を奉納と、翌26日の大阪日経新聞の記事にある。
[ "醍醐天皇", "鶴澤清六", "井上八千代", "こけら落とし", "昭和", "1956年", "吉川観方", "高見順", "有吉佐和子", "文楽", "1957年", "北条秀司", "楳茂都流", "浄瑠璃", "東横堀川", "天神祭" ]
[ 46343, 514063, 37712, 70739, 1115, 1659, 786913, 136497, 20265, 30684, 1231, 382173, 491791, 20880, 398422, 57930 ]
[ 84703, 1549874, 68683, 139977, 1789, 2564, 2502475, 314626, 35210, 55405, 1939, 1069492, 1466456, 36273, 1121497, 110699 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
文楽座復帰~死去
同年8月26日道頓堀文楽座の「ニッポンの宝」の撮影に参加。アメリカ人の日本文化理解を促進するためのアメリカ大使館制作の総天然色映画で、仮名手本忠臣蔵 八段目を撮影した。同年11月道頓堀文楽座にて鶴澤清六作曲『おはん』が上演。「宇野千代原作(中央公論版) 大西利夫脚色 鶴澤清六作曲 大塚克三装置」とある。昭和33年(1958年)1月30日第7回人形浄瑠璃因協会賞を松太夫と共に受賞。長局の段の演奏が評価された。昭和34年(1959年)12月9日「竹本綱大夫の文楽座次期櫓下就任に反対していた鶴澤清六は、病気を理由に一月以降の文楽座興行への出演を拒否する旨松竹に申し入れる」と大阪毎日新聞12月10日の新聞にある。
[ "日本", "カラー映画", "仮名手本忠臣蔵", "鶴澤清六", "おはん", "宇野千代", "大西利夫", "昭和", "1958年", "文楽", "1959年", "松竹", "大阪毎日新聞" ]
[ 1384029, 414212, 141330, 514063, 714216, 166045, 1270149, 1115, 1228, 30684, 1227, 33857, 74534 ]
[ 4821051, 1178304, 328287, 1549874, 2237446, 397689, 4395718, 1789, 1936, 55405, 1935, 61589, 148404 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
文楽座復帰~死去
以降の経緯は、以下の通り。昭和35年(1960年)「一月二十日、鶴澤清六の反対により竹本綱大夫の紋下就任が頓挫していたため、全員一致を望む松竹大谷会長は紋下問題を白紙に戻すとした。二十一日、引退を表明して休演中の鶴澤清六は大野伴睦らの斡旋で因会に復帰することになる。二十二日、紋下問題で人格を批判されたとし、竹本綱大夫は竹澤弥七と共に文楽座支配人を通じて二月東京公演不参加を申し入れる。二月四日、鶴澤清六が紋下問題で竹本綱大夫の感情を害したことに対して遺憾の意を表明したため、竹本綱大夫は大谷会長の斡旋もあり、二月の東京公演の出演を了承」
[ "昭和", "1960年", "鶴澤清六", "松竹", "大野伴睦" ]
[ 1115, 1226, 514063, 33857, 49132 ]
[ 1789, 1934, 1549874, 61589, 90999 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
文楽座復帰~死去
同年4月24日初日道頓堀文楽座では昼の部『壇浦兜軍記』「阿古屋琴責の段」、夜の部『伽羅先代萩』「御殿の段」を勤めていたが(5月1日より昼夜入れ替え)、5月6日昼の部の「御殿の段」のみ出演し、夜の部の阿古屋を休演。代役に義弟の六代目徳太郎。翌7日休演、8日に逝去する。戒名は至藝院釋正緻居士。墓所は高野山奥之院。
[ "伽羅先代萩", "戒名" ]
[ 565653, 98981 ]
[ 1717798, 208688 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
叙勲
没後、勲三等旭日中綬章を受章しているが、これは後援会長であった電気化学工業社長の野村与曽市が当時の第二次岸改造内閣や大野伴睦副総裁ら自民党幹部に働きかけたものであるとインタビューで明かしている。
[ "旭日章", "デンカ", "第2次岸内閣 (改造)", "大野伴睦", "自由民主党 (日本)" ]
[ 66709, 147733, 180214, 49132, 1384025 ]
[ 130719, 346816, 437708, 90999, 4821042 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
叙勲
「野田 そこで、今度はあなたの個人的なことを伺いますが、鶴澤清六さんの後援会長をやつておられたということですね。ところで清六さんが勲三等をもらつたというのですが芸能関係では珍しいことですね。
[ "鶴澤清六", "勲等" ]
[ 514063, 104094 ]
[ 1549874, 220901 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
叙勲
野村 そうですね。事の起こりは山城が引退したでしょう。座頭の紋下は大体上席の太夫です。それで大谷氏が綱太夫に白羽を向けたわけだ。ところがああいう社会というものは非常にやかましい因習というものがある。それを大谷氏が多田という支配人を清六氏のところに使にやつて実は今度綱太夫を紋下にすることになつたと通告した。清六氏にしてみると子供みたいなものだから、なんだい、あんな未熟なものをというわけだ。僕はあとでいうたのだけれども、大谷氏がかりにそういうことをワンマンできめたにしても、ああいう社会だから使いにきた人が、"そうしたいうと思うがお師匠さんどうでもか"というように相談するようにしたらよかつたのだ。それで私は坂内(義雄)氏と二人で大谷氏のところに行つて、"今、文楽が凋落しているときに、清六みたいな名人を手放したら文楽のために困るじやないか、あなた何のために文化勲章もらつたか、あなたは文楽の愛好者というので追放ものがれた。そういう歴史を忘れたか"(笑声)とやつたのだ。また忙しいときにわざわざ大野(伴睦)さんが大谷氏のところに行つて、文楽の育成発展のために、この問題をうまくさばかなければいかん、だから綱太夫を紋下にすることはよろしいが同時に清六を入れなさい、できれば文五郎も入れよ。三人入れなさい。そういつたので、大谷氏がまいつちやつて承知しました。清六氏はもう出ないといつたのだけども今回のことは水に流して、綱太夫の紋下もやめ、清六もなかつたことにしてもらいたいということで、清六氏も五月の大阪公演にでました。そこでポツクリ参つちやつた。五月八日に亡くなつたのです。早速賞勲局に行つたのですが、大体菊五郎でも吉右衛門でも、四等、六等と格が低いのですね。清六は団平以来の名人です。勲三等旭日なんとかいうのをやれとやつたのですが、賞勲局ではそんな例がないというので、とてもだめだというのです。それで大野さんのとこに行つて、福田総務長官を呼んでもらつて調べたのです。松田文部大臣がちようどその前に工業クラブで、ああいつた芸能人を呼んでお茶の会をやつている。大いに芸能人を持ち上げておつたので、文部大臣は肩をいからせて、大体代議士にはすぐ三等、二等とやるのに、芸能人は非常に悪い。過去において例がなければ新しく作ればいいというので、大野副総裁、川島幹事長、石井総務会長の三役が賛成し、益谷副総理も賛成して、それで三等にきまつたのです」
[ "賞勲局", "勲等", "福田篤泰", "松田竹千代", "大野伴睦", "川島正次郎", "石井光次郎", "益谷秀次" ]
[ 236898, 104094, 195337, 99933, 49132, 71307, 143674, 87538 ]
[ 617653, 220901, 486084, 210963, 90999, 141195, 335222, 179617 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
墓所
墓所は高野山奥之院の御廟橋を越えた西側で、奥之院の建物の近く。隣に妻静の実家である五十川に家の墓がある。
[]
[]
[]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
受賞歴
昭和22年(1947年)大阪府、大阪市主催芸術祭賞を受賞
[ "昭和", "1947年", "大阪府", "大阪市", "芸術祭 (文化庁)" ]
[ 1115, 1650, 160159, 185183, 386213 ]
[ 1789, 2555, 382164, 453369, 1082037 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
受賞歴
昭和24年(1949年)芸術祭文部大臣賞を受賞
[ "昭和", "1949年" ]
[ 1115, 1653 ]
[ 1789, 2558 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
受賞歴
昭和25年(1950年)芸術院賞を受賞
[ "昭和", "1950年" ]
[ 1115, 1655 ]
[ 1789, 2560 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
受賞歴
昭和28年(1953年)第5回毎日演劇賞音楽賞、第2回人形浄瑠璃因協会賞を受賞
[ "昭和", "1953年", "文楽" ]
[ 1115, 1658, 30684 ]
[ 1789, 2563, 55405 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
受賞歴
昭和30年(1955年)重要無形文化財保持者の個人指定(いわゆる人間国宝)の第一次指定を受ける
[ "昭和", "1955年", "人間国宝" ]
[ 1115, 1230, 32847 ]
[ 1789, 1938, 59707 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
受賞歴
昭和31年(1956年)人形浄瑠璃因協会賞を受賞
[ "昭和", "1956年", "文楽" ]
[ 1115, 1659, 30684 ]
[ 1789, 2564, 55405 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
受賞歴
昭和33年(1958年)第7回人形浄瑠璃因協会賞を受賞
[ "昭和", "1958年", "文楽" ]
[ 1115, 1228, 30684 ]
[ 1789, 1936, 55405 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
受賞歴
昭和35年(1960年)没後、勲三等旭日中綬章を受章
[ "昭和", "1960年", "旭日章" ]
[ 1115, 1226, 66709 ]
[ 1789, 1934, 130719 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
『一の糸』
有吉佐和子『一の糸』で描かれる"露沢清太郎"のモデルで、「おとくの娘」と死別した後は静(『一の糸』の"茜"のモデル)と再婚した。静の妹と結婚したのが、弟子の六代目鶴澤徳太郎(後の二代目鶴澤道八)である。また、甥(義弟二代目鶴澤道八の息子)の鶴澤清治が『一の糸』の舞台化に際し、脚本・演出・音楽を手掛けている。その際のパンフレットのインタビューに「私の恩師であり、「一の糸」の徳兵衛のモデルである清六師匠と、茜こと静夫人とは私が生れた時より深い関わりのあるお二方でございます。私は夫人のことを「東京おばちゃん」と呼び、母は「ママさん」と呼んでいました。小学校の入学祝いはランドセル、中学の時は腕時計を、私の注文を細かく聞いて、お二方で選んで贈って下さいました。昭和三十年当時は赤坂山王下の立派な家にお住まいでした。私も東京公演の時など何度か泊めていただき、夕食後は「銀座の千疋屋でチョコレートパフェーを食べよう」と言って、ハイヤーで出かけたりもしました。当時それが大層ハイカラで贅沢に感じ、今でも鮮明に記憶に残っています。また、不思議な縁と申しましょうか、「一の糸」で唯一なぜか実名で登場します箏の師匠、今井慶松は、家内の祖父にあたります。生前の静夫人から、慶松先生に連れ弾きをしてもらって箏の会に出たという自慢話をよく聞かされました。ですから私が文楽で箏を弾く時などは、色々注意を受けたものでした。さて、清六師匠は私にとって神の如き存在でございます。数々の名盤を聞くにつけ、その物凄さに、ただただひれ伏すばかりです。私のもう一方の恩師である竹澤彌七師匠が、清六師匠のレコードのリニューアル盤の監修をされた時「わしも随分生で聞かしてもろてきたけど、これ程、凄いとはなァ」としみじみ仰っていました。彌七師匠をしてこう言わしめる三味線。正にひと撥ずつ命を削って音を出されているように私には聞こえます。この師の至芸を有吉先生は「一の糸」で見事に表現されています。しかしこの様な音を生で再現する事は到底、不可能でございますので、何卒皆様方におかれましては寛容なるお心をもちまして、お聞き下さいますよう伏して御願い申し上げます。有吉先生には、昭和三十一年に先生の書かれた新作文楽「雪狐々姿湖」で私が胡弓を擦らせていただき、それ以来よく目を掛けていただきました。二十二、三年以前になりますが、有吉先生と私が静夫人のお宅におじゃましました時、つい話が長びいてしまい、先生が出席しなければならない大使館のパーティーに遅れそうになり、普段着につっかけサンダルという出で立ちで招待状も持たずに並みいる盛装の人々の中へ堂々と入って行かれました。私はその時、先生に「あなたエスコートしなさい」と言われて有無を言わさず連れて行かれました。多くの著名人に私を紹介されましたが、本当に冷汗ものでした。」と答えている。
[ "有吉佐和子", "一の糸", "鶴澤道八", "鶴澤清治", "ランドセル", "腕時計", "昭和", "赤坂 (東京都港区)", "千疋屋", "箏", "今井慶松", "竹沢弥七", "胡弓" ]
[ 20265, 792874, 1236347, 388579, 87509, 48320, 1115, 43218, 224926, 20868, 716614, 513902, 20875 ]
[ 35210, 2524833, 4249449, 1090227, 179552, 89128, 1789, 78747, 576757, 36255, 2245871, 1549420, 36262 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
鶴源
四代目清六が法善寺境内で大正末年から経営していた天婦羅屋。銀座(築地)にも支店があった。店名の鶴源は養父母の本名から名づけられている。鶴は養母鶴澤きく、源は養父七代目綱太夫(三代目津太夫)の本名櫻井源助。清六からは祖父師匠にあたる二代目鶴澤勝七(初代鶴澤道八の師匠)が経営していた芝居茶屋に、養父母であたる七代目綱太夫(三代目津太夫)と初代鶴澤きく(初代鶴澤清六の娘)夫妻が入り、鶴澤きくが芝居茶屋を経営していた(山城少掾「法善寺で茶見世をしてられた師匠(津太夫)の家は、以前二代目鶴澤勝七さんがやつてられたあとへ這入られたんだと聞いてゐます」)。その芝居茶屋が、カフェーリスボンとなり、その後に天婦羅屋の鶴源となった。宇野浩二は「今の鶴源(てんぷらや)の附近には、文楽の津太夫、同じく三味線弾きの勝七が内職に掛茶屋を出してゐた」と記しているが、茶屋の付近ではなく、その店そのものである。
[ "大正", "天ぷら", "鶴澤道八", "芝居茶屋", "鶴澤清六", "豊竹山城少掾", "宇野浩二" ]
[ 1128, 115621, 1236347, 533489, 514063, 231394, 228026 ]
[ 1805, 254520, 4249449, 1615702, 1549874, 599036, 587335 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
鶴源
開業の年月は明らかではないものの、大阪市編『明治大正大阪史』によれば、「天麩羅屋 元来大阪で唯天麩羅といふときにはハンペンを油で揚げたものを称し、魚類に衣を掛け油で揚げたものは特に東京天麩羅といひ、御霊筋の梅月と太左衛門橋の魚喜とが名高かつた。その後大正末になつては鶴源(法善寺内)・てん寅(横堀)なども美味を賞せられ」と、大正末の開業であるとする。これは喜多村緑郎の大正14年(1925年)の日記「鶴源で天麩羅を食つて皆一同のむ」(12月29日)や、志賀直哉の『奈良日誌』内「(大正15年(1926年)1月)六日/午後より大阪、鶴源夜食」の記述からも裏付けられる。大正12年(1923年)10月に五代目徳太郎から四代目鶴澤清六を襲名しており、その襲名の前後に鶴源を開業させたこととなる。
[ "大阪市", "明治", "大正", "天ぷら", "半片", "魚類", "魚喜", "1925年", "志賀直哉", "1926年", "1923年", "鶴澤清六" ]
[ 185183, 1126, 1128, 115621, 64345, 1957, 298249, 1626, 36236, 1627, 1624, 514063 ]
[ 453369, 1803, 1805, 254520, 125550, 3063, 809169, 2530, 66051, 2531, 2528, 1549874 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
鶴源
昭和5年(1930年)刊行の日比繁治郎著『道頓堀通』には「純粋の日本料理として、相当な老舗をもつてゐる店では前記のひし富、法善寺境内のみどり、鶴源、二鶴、竹林寺東のうろこ、中筋の日柄喜」「天ぷらでは東京風の濃厚な点に王者の位置を占めてゐるのが鶴源」と記述があり、同年の雑誌『民謡音楽』4月号には尾上香詩「法善寺、極楽小路」の歌詞に「ほんに名高いの食道楽さ/鶴源升辨丹吾」とあり、「二鶴、鶴源、正辨丹吾、みどりの料理等浪速きつての名高い食道楽です」と註がつけられている。同様に同年刊行食満南北著『上方色町通』にも「二鶴、鶴源其他大小、いろいろの旨いものを食はすうちもあり」とあるため、大正末に開業してから数年で鶴源は天婦羅屋の名店に登り詰めている。
[ "昭和", "1930年", "日本料理", "天ぷら", "民謡", "食満南北", "大正" ]
[ 1115, 1631, 3476, 115621, 3976, 616652, 1128 ]
[ 1789, 2535, 5388, 254520, 6198, 1890020, 1805 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
鶴源
昭和7年(1932年)刊行酒井真人, 岸本水府著『三都盛り場風景』には「鶴源は天ぷらで名高く、また日本航空飛行会社(註:日本航空輸送か)と特約して土佐沖の鮮魚を飛行機で運んで来て食はせるのが自慢になつてゐる」とあり、後述の築地支店に明石鯛を空輸するというアイデアは既に戦前の開業当初から行われていたことがわかる。同年の谷崎潤一郎の「私の見た大阪及び大阪人」の冒頭に「銀座に道頓堀のカフエ街が出現して大阪式経営法で客を呼んだり、法善寺横丁の「鶴源」がその裏通りに開業すると云ふ時勢になつては、東京人が上方に対してケチな反感を抱いても追つ付かなくなつてしまつたが」と記しており、同年には既に東京に鶴源が進出していた。
[ "昭和", "1932年", "岸本水府", "天ぷら", "日本航空", "日本航空輸送", "谷崎潤一郎", "法善寺" ]
[ 1115, 1634, 401080, 115621, 39650, 430354, 41370, 229903 ]
[ 1789, 2538, 1129887, 254520, 72021, 1234127, 74996, 593936 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
鶴源
宮本又次が「法善寺界隈由来記」で簡単に解説するところによれば、「鶴源は天婦羅屋、大阪風の衣のややあついテンプラ、主人は文楽の三味線引きの鶴澤清六。酒は菊正。梅月や天寅に比敵する一流店であった」。また、長谷川幸延は著書『笑説法善寺の人々』や『味の芸談』において、鶴源をとりあげており、天婦羅を揚げる清六の「うちは天婦羅だす。酒のみはるのやったら、よその店でどうぞ」という言葉や鶴源に初代喜多村緑郎が通っていたことを記している。
[ "宮本又次", "天ぷら", "鶴澤清六", "長谷川幸延", "喜多村緑郎 (初代)" ]
[ 420367, 115621, 514063, 629600, 157154 ]
[ 1200295, 254520, 1549874, 1936390, 373302 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
鶴源
「お多福のすぐ西隣は、天婦羅が看板の「鶴源」である。こういう小路に天婦羅一本で店を出すだけあって、一流の味であった。それだけに、この店では天婦羅はいくらでももとめに応じるが、酒は二本(正一合だったが)しか出さず「うちは天婦羅だす。酒のみはるのやったら、よその店でどうぞ」と、だれにでも二本以上は出さないという、見識を持つオヤジであった。この鶴源の店は、もと文楽座の竹本津太夫の家であった。ここに住んでいたので、俗に法善寺の津太夫といわれた名人で、山城少掾の師匠でもあった人だ。その津太夫に娘があり、婿に迎えたのが、これも三味線の名手で鶴沢清六。山城少掾とは古靱太夫時代の相三味線で、これをリードして大成させた人である。これがまた面白い趣味があって、天婦羅をあげることが得意であった。それがこうじて商売となり、養家を改造してここに鶴源ののれんを吊った。鶴源の鶴は鶴沢の一字をつけたのだろう。が、源の字はなぜか、今はもう、つまびらかではない(註:鶴は養母鶴澤きくから、源は養父七代目綱太夫(三代目津太夫)の本名櫻井源助から。養父母の名前から名付けられている)。そんな清六が、七三でわけた頭髪の、額をテラテラ光らせて「酒のむのやったら、よその店でたのみます」と、長いアゲ箸をあやつって、蝦や穴子をあげていたのが目にうかぶ。(略)この鶴源、酒は菊正の一本ヤリ。ビールを注文すると「天婦羅に、ビールでっか」さも、わが意を得ないという面持ちで渋々出すという、清六自身の三味線のように、皮肉なものであった。鶴源はのちに、東京の築地へ支店を出した。天婦羅屋で逆に東京に店を出したのは、鶴源がはじめてではないか。その意気や壮すべしだ。が、壮とばかりにはしていられなかった。マグロと天婦羅。こればかりは、なんと大阪人がいおうとも「東京には勝てん」と、鶴源もみとめたか、売りものを鯛に代えた。そして、明石鯛の活けものを、飛行機ではこんで、イキのいいところを客に出して人気を獲得した。なだ万の武原はんは近所なので(註:武原はんは木挽町のなだ万の女将をしていた)、これに対して上方料理の粋である精進ものの味で立ち向かったという。そのために湯葉は千丸屋、生麩は麩嘉と、京ものの材料に粋をこらしたという。(略)法善寺の鶴源は、清六の死後いつか酒場になったと記憶する。これも、ここで洋風の店の出来たはじめではなかったか」
[ "天ぷら", "竹本津太夫", "豊竹山城少掾", "なだ万", "武原はん", "麩" ]
[ 115621, 513912, 231394, 669199, 313501, 76866 ]
[ 254520, 1549468, 599036, 2071497, 856221, 153595 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
鶴源
「鶴源の天婦羅――。これは、このまま川向うの宗右衛門町へ店を出しても、十分一流で通るだけの味と風格を持っていた。殊に、ここの穴子はやや大ぶりでありながら、その揚がり加減の軽さは素晴らしく、まずしい私の食歴であるが、御霊さんの裏の天寅と、こことに止めをさした。どちらも大阪流の、衣のやや厚手のそれであるが、格別のうまさであった。当時は、今のような味も色も薄いお座敷天婦羅風のようなものは、笠屋町の福増がやりはじめたのが、私の口に入ったはじめで、それもずっと後であったと記憶する。しかし、ここは勘定が少し張る。当時の私の小遣では、そう度々は行けなかった。が、面白い事に、ここではどんな客にも銚子は二本以上出さなかった。もう一本というと、親父は笑って手を振りながら「それくらいで、恰度よろしい......」といった。天婦羅を食わせる店で、酔いたかったらよそで飲んでくれという気風であったらしい。親父は文楽の三味線の名手、鶴沢清六。酒は菊正であった。が、この店は喜多村緑郎と行くと、又べつであった。ネタは特に吟味したし、酒もいと目をつけずに出した。喜多村がこの店を愛したのか、清六の方で贔屓だったのか、今は忘れた。喜多村が、座談の名人である事は、定評がある。何しろ、芝居がすんでからだから、彼が胡坐をかいてウヰスキーの角壜を引きつけ、足の裏を叩いて興至ると、東の白むことなど珍しくない。実に、聴くものをして飽かせなかった。必ず「話は、簡単なんだがね」と前おきするが、ちっとも簡単なことではありはしない。微に入り細をうがつ。まさか鶴源で徹夜というわけには行かなかったが、一時、二時は平気であった」
[ "天ぷら", "宗右衛門町" ]
[ 115621, 362424 ]
[ 254520, 1004999 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
鶴源
喜多村緑郎が鶴源を贔屓にしていた事は『喜多村緑郎日記』に何度も鶴源が言及されているからも読みとれる。「野沢(註:英一)が来たので、一緒に、帰途、鶴源で飯を食つて」(大正14年5月18日)「雪岡(註:光次郎)と、鶴源にてめしをくつて戻る」(同7月6日)「帰途、雪岡をつれて鶴源で飯をくつて戻つた」(同7月22日)「今夜は、一番目の稽古なので、何んだか、このせつのみつゞけたので、飲まないと淋しい気がして、野沢をつれて、鶴源へいつた。あとから武村もよんだ。一時半迄そこでのんで、自動車で帰宅した」(同11月25日)、「鶴源で天麩羅を食つて皆一同のむ」(同12月29日)「午後八時頃自動車で、鶴源へ天ぷらを食ひに出かけて」(大正15年9月5日)「夜、花月へいつて落語を聞いて、鶴源で飯を食つて帰る」(同12月2日)「瀬戸(註:英一)が、田中の宿へ来る。鶴源から度々電話をかけてゐたが、たまらなくなつてやつて来る。そこで役割の事を話し合つて、三人でまた鶴源でいつて呑んで瀬戸と一緒に戻る」(同12月17日)「帰途妻と鶴源でめしを食つて心斎橋筋を歩いてもどる」(昭和4年6月2日)「役を了へて、雪岡をつれて鶴源で飯をくつて、成瀬バーへよつて一人戻る」(同6月4日)「役を了へて鶴源からとりよせて飯をくつてから、小堀(註:誠)と放送局へゆく」(同6月10日)
[ "大正", "天ぷら", "昭和" ]
[ 1128, 115621, 1115 ]
[ 1805, 254520, 1789 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
鶴源
直木三十五も鶴源を贔屓にしており、「大阪の腰掛の店では、矢張り「天寅」と「鶴源」とが一番よく行くところであらう。「鶴源」は場所がいゝ」と鶴源を一番よくいく店であると紹介している。一方で、「例へば「鶴源」は、十種類の料理で、年中大して変りがない」と清六の職人気質の経営方針を評している。「空腹を感じ「鶴源」へ食事をしに行く。(略)鶴源二圓五十銭」と普段使いしている様子も読みとれる。
[ "直木三十五" ]
[ 3262 ]
[ 5044 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
鶴源
昭和17年(1942年)電気協会の「電氣普及の思出と将来を語る」という対談に「(註:ガスではなく、電気・電熱を家庭用に応用する研究で)失敗した方は天麩羅に応用した場合であります、千日前法善寺境内鶴源の例ですが、小さい場所に土のかまどを使用してをられたところに電熱を応用したのでありますが、御承知のやうに天ぷらの油は火を切りますとすぐさめなければいけない、それが予熱の為めに逆に熱くなるものですから油がこげるのですネ、又ニクロム線が切断した時に、電話がかゝつて来てすぐ行きましても、部分品の関係などで修繕が即日出来ず、その翌日もなほらぬとふ場合があつたものですから、営業に支障を起こしてこの方面はうまくゆかなかつた」と大阪市電(大阪市営電気供給事業)の永井七郎氏は回顧している。詳しい経緯は不明であるものの、ガスではなく電熱を利用して天ぷらを揚げようとする試みが鶴源で行われていた。
[ "昭和", "1942年", "天ぷら", "千日前", "かまど", "ニクロム", "大阪市電", "大阪市営電気供給事業" ]
[ 1115, 1646, 115621, 140254, 16203, 16093, 128167, 1078607 ]
[ 1789, 2551, 254520, 325228, 26832, 26676, 290792, 3690560 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
鶴源
片岡鉄兵のプロレタリア文学『無明』の作中で東京の芸者である清香が「上方に行つたら、(略)おいしい物をうんと食べませうよ。神戸では、牛肉が食べたいわ、大阪では鶴源にね」と発しており、鶴源の評判は東京へも聞こえていた。
[ "片岡鉄兵", "プロレタリア文学", "牛肉" ]
[ 118632, 62392, 240150 ]
[ 264432, 120899, 628574 ]
4,873,893
鶴澤清六(4代目)
鶴源
門弟にして義弟である二代目鶴澤道八(初代清友・六代目徳太郎)は12歳で出身地の岡山から出てきて清六に入門した当時、鶴源の天丼を岡持ちで配達としていたと、道八の孫である六代目竹本織太夫が自身の著書『文楽のすゝめ』で明らかにしている。
[ "鶴澤道八", "天丼", "岡持ち", "竹本織太夫 (6代目)" ]
[ 1236347, 34027, 444053, 1223726 ]
[ 4249449, 61851, 1281789, 4203857 ]
4,873,898
第22回世界卓球選手権
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第22回世界卓球選手権(だい22かいせかいたっきゅうせんしゅけん)は、1955年4月16日から4月24日までオランダのユトレヒトで開催された世界卓球選手権である。
[ "世界卓球選手権", "1955年" ]
[ 114515, 1230 ]
[ 251336, 1938 ]
4,873,900
全保連
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全保連株式会社(ぜんほれんかぶしきがいしゃ)は、沖縄県那覇市に沖縄本社、東京都新宿区に東京本社を置く家賃債務保証会社。
[ "全保連", "沖縄県", "那覇市", "東京都", "新宿区", "家賃保証会社" ]
[ 1398917, 165, 17674, 287014, 5134, 607994 ]
[ 4873900, 379, 29373, 774362, 8073, 1861394 ]
4,873,900
全保連
概要
独立系家賃債務保証会社で2023年現在業界最大手。家賃債務保証の他に専門学校の学費補償の事業も行う。2023年10月に東京証券取引所スタンダード市場に上場。
[ "家賃保証会社", "2023年", "東京証券取引所" ]
[ 607994, 7869, 185527 ]
[ 1861394, 13131, 454489 ]
4,873,901
麻布高校野次事件
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麻布高校野次事件(あざぶこうこうやじじけん)は、高校野球の試合において観客席から問題のある野次が行われたという事件。
[ "麻布中学校・高等学校" ]
[ 576682 ]
[ 1755099 ]
4,873,901
麻布高校野次事件
概要
1978年の全国高校野球選手権大会東東京予選に出場していた麻布中学校・高等学校の応援席からは、麻布高校の対戦相手である高校の偏差値や大学進学実績が劣るということを内容とした野次が行われていた。特に試合において麻布高校が不利になった時には、対戦相手の選手や応援席に対して下品で多くの野次が浴びせられた。これは単に高校野球の試合中に行われた野次という問題のみならず、現代の日本の教育において存在している問題の表れであるとまで批評された。
[ "1978年", "全国高等学校野球選手権東東京大会", "麻布中学校・高等学校", "日本" ]
[ 641550, 314321, 576682, 1384029 ]
[ 1976938, 858921, 1755099, 4821051 ]
4,873,901
麻布高校野次事件
概要
この事件ではマスコミによって麻布高校の生徒が間違っているように報道されたことに対して、麻布高校の校内新聞で生徒による論稿が掲載される。ここでのある生徒による寄稿は、あの野次こそが麻布らしさの発露である。そして野次とは野球の応援には必要不可欠なものであり、野球の応援から野次が無くなり鳴物を鳴らすのみの応援をしなければならなくなることを否定する。そして野次というのものは野次以上のことは無く、野次が行われたことにより試合を左右させるようなものではないため、あの野次には問題は無いと主張。対して別の生徒の寄稿は、あの場で野次が行われたのは野球の試合という独特な雰囲気だったからこそ、その雰囲気につられて野次を行ってしまったのであろうと見るが、このことは言ってはいけないことを言ってしまっていると野次が行われたことを否定するというものであった。別の生徒の寄稿では、試合で野次を行っているのは麻布高校の生徒だけではないというのに、マスコミには麻布高校の野次だけが報道されていることを否定するものであった。
[ "麻布中学校・高等学校" ]
[ 576682 ]
[ 1755099 ]
4,873,901
麻布高校野次事件
概要
高杉晋吾は麻布高校の応援席で野次を行っていた人は、野球を見に行っていたというよりも野次でストレスを発散しに行っていたのではないのかと見る。そして麻布高校からの野次からは、受験勉強を強いられている少年の悲鳴を聞き取ることができるのではないのかとしている。この事件では麻布高校の生徒の野次は加害者の叫びであるようにされているものの、実は被害者の叫びということにもなるのではないのかとしている。
[ "高杉晋吾", "麻布中学校・高等学校" ]
[ 802417, 576682 ]
[ 2560814, 1755099 ]
4,873,904
タンナトリカブト
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タンナトリカブト(耽羅鳥兜、学名:Aconitum japonicum subsp. napiforme)は、キンポウゲ科トリカブト属の疑似一年草、有毒植物。ヤマトリカブト A. japonicum subsp. japonicum を分類上の基本種とする亜種群の一つ。別名、サンインヤマトリカブト。
[ "タンナトリカブト", "学名", "キンポウゲ科", "トリカブト", "有毒植物", "ヤマトリカブト", "亜種" ]
[ 1398919, 655724, 107260, 26803, 9059, 142262, 44536 ]
[ 4873904, 2025639, 229717, 47177, 15020, 331037, 81063 ]
4,873,904
タンナトリカブト
null
ヤマトリカブトを基本種とする亜種群は、北海道の道南地方から本州、四国、九州まで、国外では朝鮮半島、中国大陸東北部に分布するが、本亜種は本州の近畿地方西部以西、中国地方、四国、九州、朝鮮半島、中国大陸東北部に分布し、低地や山地の林縁、林内などに生育する。花柄と上萼片に屈毛が生え、葉身が五角形から五角形状円形で3全裂、まれに3深裂し、花序がふつう散房状になるのが特徴。
[ "ヤマトリカブト", "亜種", "北海道", "道南", "本州", "朝鮮半島", "近畿地方", "中国地方", "萼", "葉身", "花序" ]
[ 142262, 44536, 184, 102597, 3859, 9986, 662350, 2801, 196733, 208353, 18747 ]
[ 331037, 81063, 436, 217410, 6021, 16498, 2047703, 4406, 489709, 525020, 31490 ]
4,873,904
タンナトリカブト
特徴
地下の塊茎は径1-2cmになる。茎はやや直立するか斜上し、高さは15-150cmになり、変異の幅が広く、茎の上部には屈毛が生える。茎の中部につく葉の葉身は五角形から五角形状円形で、長さ4-14cm、幅4.5-16cmになり、3全裂からまれに3深裂し、裂片はさらに羽裂し、終裂片は披針形になるか、卵形の粗い鋸歯縁になる。
[ "葉身" ]
[ 208353 ]
[ 525020 ]
4,873,904
タンナトリカブト
特徴
花期は9-11月。花序は長さ4.5-9cmの散房状、総状または円錐状になり、2-8個ほどの花がつく。 花柄は長さ3-7cmになり、全体に屈毛が密生する。花は長さ30-45mmになり、濃青紫色から菫色、ときに白花もある。花弁にみえるのは萼片で、外面に屈毛が生え、上萼片1個、側萼片2個、下萼片2個の5個で構成される。かぶと状になる上萼片は僧帽形で前方の嘴は長くとがるか、または背の高い円錐形となり前方の嘴は短い。花弁は上萼片の中にかくれて見えないが、柄、舷部、蜜を分泌する距、唇部で構成される。1対あり、距は細く長く180度以下に屈曲する。雄蕊は無毛、雌蕊は3-5個あり、ふつう無毛でときに屈毛が生える。果実は長さ8-13mmの袋果になり、直立する。染色体数2n=32の4倍体種である。
[ "花序", "菫色", "花冠", "萼", "雄蕊", "雌蕊", "果実", "袋果", "染色体" ]
[ 18747, 483599, 235618, 196733, 214538, 177818, 2378, 199010, 3239 ]
[ 31490, 1434342, 613191, 489709, 544510, 430928, 3719, 496094, 5003 ]
4,873,904
タンナトリカブト
分布と生育環境
本州の近畿地方西部以西、中国地方、四国、九州、朝鮮半島、中国大陸東北部に分布し、低地や山地の林縁、林内などに生育する。中国地方、四国、九州では最もふつうに見られるトリカブト属であるが、ヤマトリカブトの5つの亜種群の中では少ない亜種である。
[ "本州", "近畿地方", "中国地方", "朝鮮半島", "トリカブト", "ヤマトリカブト", "亜種" ]
[ 3859, 662350, 2801, 9986, 26803, 142262, 44536 ]
[ 6021, 2047703, 4406, 16498, 47177, 331037, 81063 ]
4,873,904
タンナトリカブト
名前の由来
和名タンナトリカブトは、「耽羅鳥兜」の意。タイプ標本は韓国の済州島で採集された。「耽羅(たんな)」は済州島の古い呼び名である。
[ "和名", "タンナトリカブト", "タイプ (分類学)", "済州島" ]
[ 26802, 1398919, 172356, 54242 ]
[ 47175, 4873904, 416208, 102269 ]
4,873,904
タンナトリカブト
名前の由来
シノニムにあげた学名では、サンインヤマトリカブト、ヒロハノタンナトリカブト、ウンゼントリカブトの名称がある。
[ "シノニム", "学名" ]
[ 174050, 655724 ]
[ 420868, 2025639 ]
4,873,904
タンナトリカブト
名前の由来
亜種名 napiforme は、「カブラ形の」「扁球の」の意味。
[ "亜種", "扁球" ]
[ 44536, 555148 ]
[ 81063, 1678758 ]
4,873,904
タンナトリカブト
分類
タンナトリカブトおよび分類上の基本種ヤマトリカブト A. japonicum とその亜種群は、トリカブト属トリカブト亜属 Subgenus Aconitum のうち、花弁の舷部が距に向かって膨大するキヨミトリカブト節 Section Euchylodea に属し、同節のうち、花はふつう花序の上から下に向かって開花するヤマトリカブト列 Series Japonica に分類される。ヤマトリカブト列に属する日本に分布するの種のうち、温帯に生育する種(高山植物でない種)としては、ヤマトリカブトの他、ヤサカブシ A. nikaii、コウライブシ A. jaluense(亜種にセンウズモドキ subsp. iwatekense がある)、ウゼントリカブト A. okuyamae、オンタケブシ Aconitum metajaponicum、 カワチブシ A. grossedentatum が属する。ヤマトリカブトとその亜種群、ヤサカブシは、花柄と上萼片に屈毛がが生えること。ウゼントリカブトとオンタケブシは、葉が腎円形で3浅裂-中裂し、花柄と上萼片に開出毛と腺毛が生え、上萼片の嘴は短いこと。コウライブシは、葉が五角形で3全裂-深裂し、花柄と上萼片に開出毛と腺毛が生え、上萼片の嘴は長いこと。カワチブシの花柄と上萼片は無毛であることが異なる。なお、オンタケブシは分布が限られ極まれな種であり、ヤサカブシは山口県にのみ分布する種である。
[ "タンナトリカブト", "ヤマトリカブト", "亜種", "トリカブト", "花冠", "花序", "日本", "温帯", "高山植物", "センウズモドキ", "ウゼントリカブト", "萼", "山口県" ]
[ 1398919, 142262, 44536, 26803, 235618, 18747, 1384029, 11562, 103023, 1306562, 1305610, 196733, 186 ]
[ 4873904, 331037, 81063, 47177, 613191, 31490, 4821051, 19222, 218436, 4523688, 4520202, 489709, 446 ]
4,873,904
タンナトリカブト
ヤマトリカブト類の分類
共通することは、花柄と上萼片に屈毛が生えること。
[ "萼" ]
[ 196733 ]
[ 489709 ]
4,873,909
ミートキュート ~最高の日を何度でも~
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『ミートキュート ~最高の日を何度でも~』(原題:Meet Cute)は2022年に配信されたアメリカ合衆国のロマンティック・コメディ映画。女性側視点でのタイムループラブコメディ。
[ "2022年", "ロマンティック・コメディ" ]
[ 7829, 316561 ]
[ 13073, 866018 ]