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谺つり星
『谺つり星』(こだまつりほし)は、三善晃が1996年にサントリーホール開場10周年記念委嘱作品として作曲したチェロ協奏曲である。別題は「チェロ協奏曲第2番」。欧文タイトルは、 Étoile à échos : cello concerto no. 2。演奏時間は約13分。 三善が1995年から作曲した「交響四部作」の第2作目にあたる。堤剛に小編成のオーケストラとのチェロ協奏曲の作曲を薦められていた三善は、独奏チェロの奏する谺がオーケストラの共振を呼び波紋をつくるイメージで作曲した。三善がそれまで声と器楽を複合させた作品において追求していた死と生の関係、あるいは個々の人間存在とそれらの関わりを、独奏楽器とオーケストラの関係やオーケストレーションにおいて追求している。 曲名の由来は、野尻湖に生成している「星つり藻」からきている。傘状の枝に星型の仮根が星を吊っているように見え、三善は人の中にある「谺」がどこかの星に吊らされて揺れている様をたとえた。 1996年10月28日にサントリーホールにおいて、若杉弘指揮NHK交響楽団、堤剛の独奏により初演された。 独奏チェロ、フルート2(ピッコロ持ち替え)、オーボエ2、クラリネット2(1番はEsクラリネット持ち替え)、ファゴット2(2番はコントラファゴット持ち替え)、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、ティンパニ4、サスペンデッド・シンバル、バスドラム、タムタム、サンダーボード、ヴィブラフォン、スレイベル、マラカス、チューブラーベル、トムトム3、スネアドラム、マリンバ、アンティークシンバル、ピアノ、チェレスタ、ハープ、弦五部 スコアは全音楽譜出版社より市販されている。演奏譜は同社よりレンタルされている。 1997年の第45回尾高賞選考会では、『谺つり星』の堂々たる風格が話題となった。 2009年リリースのCD『交響四部作』は、2009年度第47回日本レコード・アカデミー賞を受賞した。 2021年11月5日に広島文化学園HBGホールにおける広島交響楽団第416回定期演奏会で、下野竜也指揮、広島交響楽団、伊東裕独奏で演奏された。下野はこの作品の独奏チェロとオーケストラの関係性について「召集された若者と戦争をもたらした大人たち」と語ったが、その構図が見事に現れたと評されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『谺つり星』(こだまつりほし)は、三善晃が1996年にサントリーホール開場10周年記念委嘱作品として作曲したチェロ協奏曲である。別題は「チェロ協奏曲第2番」。欧文タイトルは、 Étoile à échos : cello concerto no. 2。演奏時間は約13分。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "三善が1995年から作曲した「交響四部作」の第2作目にあたる。堤剛に小編成のオーケストラとのチェロ協奏曲の作曲を薦められていた三善は、独奏チェロの奏する谺がオーケストラの共振を呼び波紋をつくるイメージで作曲した。三善がそれまで声と器楽を複合させた作品において追求していた死と生の関係、あるいは個々の人間存在とそれらの関わりを、独奏楽器とオーケストラの関係やオーケストレーションにおいて追求している。", "title": "作曲の経緯" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "曲名の由来は、野尻湖に生成している「星つり藻」からきている。傘状の枝に星型の仮根が星を吊っているように見え、三善は人の中にある「谺」がどこかの星に吊らされて揺れている様をたとえた。", "title": "作曲の経緯" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1996年10月28日にサントリーホールにおいて、若杉弘指揮NHK交響楽団、堤剛の独奏により初演された。", "title": "初演" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "独奏チェロ、フルート2(ピッコロ持ち替え)、オーボエ2、クラリネット2(1番はEsクラリネット持ち替え)、ファゴット2(2番はコントラファゴット持ち替え)、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、ティンパニ4、サスペンデッド・シンバル、バスドラム、タムタム、サンダーボード、ヴィブラフォン、スレイベル、マラカス、チューブラーベル、トムトム3、スネアドラム、マリンバ、アンティークシンバル、ピアノ、チェレスタ、ハープ、弦五部", "title": "編成" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "スコアは全音楽譜出版社より市販されている。演奏譜は同社よりレンタルされている。", "title": "楽譜" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1997年の第45回尾高賞選考会では、『谺つり星』の堂々たる風格が話題となった。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2009年リリースのCD『交響四部作』は、2009年度第47回日本レコード・アカデミー賞を受賞した。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2021年11月5日に広島文化学園HBGホールにおける広島交響楽団第416回定期演奏会で、下野竜也指揮、広島交響楽団、伊東裕独奏で演奏された。下野はこの作品の独奏チェロとオーケストラの関係性について「召集された若者と戦争をもたらした大人たち」と語ったが、その構図が見事に現れたと評されている。", "title": "評価" } ]
『谺つり星』(こだまつりほし)は、三善晃が1996年にサントリーホール開場10周年記念委嘱作品として作曲したチェロ協奏曲である。別題は「チェロ協奏曲第2番」。欧文タイトルは、 Étoile à échos : cello concerto no. 2。演奏時間は約13分。
{{Portal クラシック音楽}} 『'''谺つり星'''』(こだまつりほし)は、[[三善晃]]が[[1996年]]に[[サントリーホール]]開場10周年記念委嘱作品として作曲した[[チェロ協奏曲]]である。別題は「チェロ協奏曲第2番」。欧文タイトルは、 Étoile à échos : cello concerto no. 2<ref name=":0">{{Cite book|和書 |title=谺つり星〈チェロ協奏曲第2番〉 |date=2009-10-15 |publisher=全音楽譜出版社 |page=3 |author=三善晃 |isbn=978-4-11-899777-3}}</ref>。演奏時間は約13分<ref name=":0" /><ref group="注釈">2000年9月5日サントリーホール、堤剛の演奏は約10分、2001年2月19日ザ・シンフォニーホール、堤剛の演奏は約9分である(CD:三善晃『交響四部作』)。</ref>。 == 作曲の経緯 == 三善が1995年から作曲した「交響四部作」の第2作目にあたる。[[堤剛]]に小編成のオーケストラとのチェロ協奏曲の作曲を薦められていた三善は、独奏チェロの奏する谺がオーケストラの共振を呼び波紋をつくるイメージで作曲した<ref name=":1" />。三善がそれまで声と器楽を複合させた作品において追求していた死と生の関係、あるいは個々の人間存在とそれらの関わりを、独奏楽器とオーケストラの関係やオーケストレーションにおいて追求している<ref>{{Cite book|和書 |title=三善晃の作曲様式-器楽作品と声楽作品の相互流入による様式形成とその意義- |year=2006-2007 |publisher=楢崎洋子 |author=楢崎洋子 |url=https://cir.nii.ac.jp/crid/1040000781980532224}}</ref>。 曲名の由来は、[[野尻湖]]に生成している「[[ホシツリモ|星つり藻]]」からきている。傘状の枝に星型の仮根が星を吊っているように見え、三善は人の中にある「谺」がどこかの星に吊らされて揺れている様をたとえた<ref name=":1">{{Cite book|和書 |title=交響四部作(CD)ライナーノーツ |year=2009 |publisher=日本伝統文化振興財団 |page=6}}</ref>。 == 初演 == [[1996年]][[10月28日]]にサントリーホールにおいて、[[若杉弘]]指揮[[NHK交響楽団]]、[[堤剛]]の独奏により初演された<ref>{{Cite web|和書|title=[サントリーホール10周年記念フェスティバル公演:サントリーホール10周年記念作曲委嘱] サントリーホール 公演アーカイブ |url=https://www.suntory.co.jp/suntoryhall/archive/det.html?data_id=6210 |website=サントリーホール |access-date=2023-09-09}}</ref>。 == 編成 == 独奏[[チェロ]]、[[フルート]]2([[ピッコロ]]持ち替え)、[[オーボエ]]2、[[クラリネット]]2(1番は[[小クラリネット|Esクラリネット]]持ち替え)、[[ファゴット]]2(2番は[[コントラファゴット]]持ち替え)、[[ホルン]]4、[[トランペット]]2、[[トロンボーン]]3、[[ティンパニ]]4、サスペンデッド・[[シンバル]]、[[バスドラム]]、[[タムタム]]、[[サンダーマシーン|サンダーボード]]、[[ヴィブラフォン]]、[[スレイベル]]、[[マラカス]]、[[チューブラーベル]]、[[トムトム]]3、[[スネアドラム]]、[[マリンバ]]、[[アンティークシンバル]]、[[ピアノ]]、[[チェレスタ]]、[[ハープ]]、[[弦楽合奏|弦五部]]<ref name=":0" /> == 構成 == * 単一楽章。 == 楽譜 == スコアは[[全音楽譜出版社]]より市販されている<ref>{{Cite web|和書|title=三善 晃:谺つり星(こだまつりほし)〈チェロ協奏曲第2番〉:全音オンラインショップ |url=http://shop.zen-on.co.jp/p/899777 |website=shop.zen-on.co.jp |access-date=2023-09-09}}</ref>。演奏譜は同社よりレンタルされている<ref>{{Cite web|和書|title=オーケストラ レンタル楽譜カタログ |url=https://www.zen-on.co.jp/rent/score_list_orchestra/ |website=全音楽譜出版社 |access-date=2023-09-09 |language=ja}}</ref>。 == 録音 == * 2008年 カメラータ・トウキョウ CMCD-99036/8 『三善晃の音楽』 [[沼尻竜典]]指揮、[[向山佳絵子]]独奏、[[東京フィルハーモニー交響楽団]](音源は2003年3月20日[[東京オペラシティ]]コンサートホール:タケミツメモリアル録音) * 2009年 [[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクターエンタテインメント]] VZCC-1021/2 『交響四部作』 [[秋山和慶]]指揮、堤剛独奏、[[東京交響楽団]]/[[大阪フィルハーモニー交響楽団]](音源は2000年9月5日サントリーホール録音と、2001年2月19日[[ザ・シンフォニーホール]]録音) == 評価 == 1997年の第45回[[尾高賞]]選考会では、『谺つり星』の堂々たる風格が話題となった<ref>{{Cite journal|author=外山雄三|date=1997-05|title=選考にあたって|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/2259014/1/27|journal=フィルハーモニー|volume=69|issue=5|page=31}}</ref>。 2009年リリースのCD『交響四部作』は、2009年度第47回[[レコード・アカデミー大賞|日本レコード・アカデミー賞]]を受賞した<ref>{{Cite web|和書|title=三善 晃 交響四部作「夏の散乱」「谺つり星」「霧の果実」「焉歌・波摘み」(2枚組) |url=https://s.jtcf.jp/item.php?id=vzcc-1021 |website=日本伝統文化振興財団作品検索 |access-date=2023-09-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://mahdes.cafe.coocan.jp/datareca3.htm |title=音楽之友社レコード・アカデミー賞歴代受賞盤 |access-date=2023-9-9 |publisher=20thBOX}}</ref>。 2021年11月5日に広島文化学園HBGホールにおける[[広島交響楽団]]第416回定期演奏会で、[[下野竜也]]指揮、広島交響楽団、伊東裕独奏で演奏された<ref>{{Cite web|和書|title=第416回定期演奏会 |url=http://hirokyo.or.jp/concert/list/17323.html |website=広島交響楽団 |access-date=2023-09-09 |language=ja}}</ref>。下野はこの作品の独奏チェロとオーケストラの関係性について「召集された若者と戦争をもたらした大人たち」と語ったが、その構図が見事に現れたと評されている<ref>{{Cite web|和書|title=評論|戦争の記憶と音楽〜広島交響楽団による2つの演奏を聞いて〜 |能登原由美 |url=http://mercuredesarts.com/2021/12/14/critique-war-memory-and-music-notohara/ |website=Mercure des Arts |date=2021-12-14 |access-date=2023-09-09 |language=ja}}</ref>。 == 参考文献 == * CD:三善晃『交響四部作』[[日本伝統文化振興財団]] (発売) , ビクターエンタテインメント (販売), 2009, c2009, VZCC-1021/2, ライナーノーツ == 脚注 == === 注釈 === <references group="注釈" /> === 脚注 === {{Reflist}} {{デフォルトソート:こたまつりほし}} [[Category:チェロ協奏曲]] [[Category:三善晃の楽曲]] [[Category:サントリー芸術財団の委嘱作品]]
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ミウコヴィツェ - ヤシェン線
ミウコヴィツェ - ヤシェン線(ポーランド語: Linia kolejowa Miłkovice–Jasień)はドルヌィ・シロンスク県ミウコヴィツェとルブシュ県ヤシェンを結ぶポーランド国鉄の幹線鉄道路線で、現在ジャーリ - ヤシェン間は廃止されている。ミウコヴィツェ - ヴェングリニェツ間は3000 Vの直流で電化されており、全区間はかつてニーダーシュレージエン=マルク鉄道(Niederschlesisch-Märkische Eisenbahn, NME)の本線であった。 1845年1月ベルリン=フランクフルト鉄道会社とNMEが合併した。同年10月1日リークニッツ(現在レグニツァ) - ブンツラウ(現在ボレスワヴィエツ)間はアルンスドルフ(現在ミウコヴィツェ)経由で開通された。1846年9月1日にブンツラウ - フランクフルト(オーデル)間はガッセン(現在ヤシェン)を中間地点として開通された。1852年にNMEは王立プロイセン鉄道の管理局となった。 1875年5月15日新線がアルンスドルフ - ガッセン間に開通されて、コールフルト(現在ヴェングリニェツ)経由の既存鉄道よりおよそ30 km短くなった。特にコールフルト - ガッセン間の重要性は新線の開通で厳しく喪失した。ただし1874年6月にコールフルト - ルーラント間鉄道が開通されて、中部ドイツの鉄道網連結が強化された。 1920年にドイツ国営鉄道は帝国鉄道を継承して、この路線は国営鉄道の鉄道網に組み入れられた。1942年2月3日に軍用列車の兵士用客車内に暖房装置が列車の走行中に爆発した。この事故で20人が死亡して15人が負傷を負った。 第二次世界大戦の終戦後、ラウジッツ・ナイセ川とオーデル川以東はポーランド領となって、この路線はポーランド国鉄により引き受けられた。二番目の線路はヴェングリニェツ - シャーリ間で優先撤去されて、シャーリ - ヤシェン間も単線となった。 1985年12月電車線がレグニツァ - ヴェングリニェツ区間に設備された。 2003年4月ドイツの建設・交通省とポーランドの社会基盤省の間に、ベルリン - ワルシャワ間およびドレスデン - ヴロツワフ間鉄道共同業務および発展に関する協定が締結された。2010年末レグニツァ - ヴェングリニェツ間が改修されて、最高速度が160 km/hに向上したことでその協定は履行された。2010年12月にハンブルク - クラクフ間にユーロシティー系統がこの路線経由で導入されて、2014年12月まで運営された。シャーリ - レグニツァ間の所要時間はおよそ2時間であった。
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ミウコヴィツェ - ヤシェン線はドルヌィ・シロンスク県ミウコヴィツェとルブシュ県ヤシェンを結ぶポーランド国鉄の幹線鉄道路線で、現在ジャーリ - ヤシェン間は廃止されている。ミウコヴィツェ - ヴェングリニェツ間は3000 Vの直流で電化されており、全区間はかつてニーダーシュレージエン=マルク鉄道の本線であった。
{{Infobox 鉄道路線|路線名=ミウコヴィツェ - ヤシェン線|画像=Niederschlesisch-M%C3%A4rkische_Eisenbahn.jpg|画像説明=赤線はベルリン - ヴロツワフ間本線、紫色はミウコヴィツェ - ヤシェン線|現況=部分廃止|国={{POL}}|路線記号=282|開業=1845年10月1日|運営者=ポーランド国鉄|路線距離=124 km|軌間=1435 mm([[標準軌]])|線路数=単線、複線|複線区間=ミウコヴィツェ - ヴェングリニェツ|電化区間=ミウコヴィツェ - ヴェングリニェツ|電化方式=3000 V([[直流電化|直流]])|最大勾配=|最小曲線半径=|保安装置=|最高速度=160 km/h}} {| {{Railway line header}} {{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線||black}} {{BS-table}} {{BS|STR|||[[ヴロツワフ - グーベン線]]}} {{BS2|BS2+l|BS2+r}} {{BS2|BHF|BHF|0.0|ミウコヴィツェ}} {{BS2|STRr|O1=BS2c2|BS2r|||[[ヴロツワフ - グーベン線]]}} {{BS|WBRÜCKE1|||Skora}} {{BS|eABZg+l|||Złotoryja方面}} {{BS|BHF|9.0|ホイヌーフ}} {{BS|eABZgr|||Rokitki方面}} {{BS|SBRÜCKE|||道路94号}} {{BS|HST|15.5|オセトニツァ}} {{BS|SKRZ-Au|||自動車道A4}} {{BS|HST|20.5|オックミアニ}} {{BS|SBRÜCKE|||道路94号}} {{BS|HST|27.7|トマスゾーフ・ボレスワヴィエツキ}} {{BS|WBRÜCKE1|||Bobrzyco}} {{BS|eKRZ|||旧ボレスワヴィエツ市街線}} {{BS|SBRÜCKE|||道路94号}} {{BS|ABZg+r|||ボレスワヴィエツ産業団地連結}} {{BS|BHF|36.0|ボレスワヴェツ}} {{BS|hKRZWae|||ボーブル川 (489 m高架橋)}} {{BS|hKRZWae|||クヴィサ川}} {{BS|ABZg+l|||イェレニャ・グラ - ジャーガン線}} {{BS|BHF|49.1|ゼブジドヴァ}} {{BS|ABZgr|||イェレニャ・グラ - ジャーガン線}} {{BS|SKRZ-Au|||自動車道A4}} {{BS|HST|55.8|ザガイニック}} {{BS|BST|||Węgliniec WG}} {{BS2|BS2+l|BS2+r}} {{BS2|STR|ABZg+l|||ヴェングリニェツ - ルバン線}} {{BS2|DST|BHF|61.5|ヴェングリニェツ}} {{BS2|BS2l|BS2r}} {{BS|ABZgl|||[[ヴェングリニェツ - ロースラウ線|W-R線]]、W-G線}} {{BS|HST|64.5|スタートリンク・ヴェングリニェツェ}} {{BS|HST|70.2|ヤゴジン}} {{BS|BHF|75.3|ルスズーフ}} {{BS|eABZgl|||ゴジュニツァ方面}} {{BS|HST|79.4|オクロングリツァ}} {{BS|STR+GRZq|||↑[[ドルヌィ・シロンスク県]] / [[ルブシュ県]]↓}} {{BS|HST|86.6|イウォヴァ・ジャガニスカ}} {{BS|HST|91.4|コニン・ジャガニスキ}} {{BS|BHF|94.0|ヤンコヴァ・ジャガニスカ}} {{BS|ABZgr|||Zagań方面}} {{BS|HST|97.7|ジャーリ・クニツェ}} {{BS|ABZg+r|||[[ウッチ - フォルスト線]]}} {{BS|BHF|102.4|ジャーリ}} {{BS|ABZgr|||Zielona Góra方面}} {{BS|BHF||シェンゲンボローニャヴァン・ジャールスカ}} {{BS|xABZgl|||[[ウッチ - フォルスト線]]}} {{BS|exHST|116.2|旧リプスク・ジャールスキ}} {{BS|exABZg+r|||[[ヴロツワフ - グーベン線]]}} {{BS|exBHF|123.4|旧ヤシェン}} {{BS|exSTR|||[[ヴロツワフ - グーベン線]]}} |} |} '''ミウコヴィツェ - ヤシェン線'''([[ポーランド語]]: Linia kolejowa Miłkovice–Jasień)は[[ドルヌィ・シロンスク県]]ミウコヴィツェと[[ルブシュ県]]ヤシェンを結ぶ[[ポーランド国鉄]]の幹線鉄道路線で、現在ジャーリ - ヤシェン間は廃止されている。ミウコヴィツェ - ヴェングリニェツ間は3000 Vの[[直流電化|直流]]で電化されており、全区間はかつて[[ニーダーシュレージッシュ-メルキッシュ線|ニーダーシュレージエン=マルク鉄道]](Niederschlesisch-Märkische Eisenbahn, NME)の本線であった。 == 歴史 == {{Main2|鉄道建設の歴史的背景|ニーダーシュレージッシュ-メルキッシュ線}} 1845年1月ベルリン=フランクフルト鉄道会社とNMEが合併した。同年10月1日リークニッツ(現在[[レグニツァ]]) - ブンツラウ(現在ボレスワヴィエツ)間はアルンスドルフ(現在ミウコヴィツェ)経由で開通された<ref>{{Cite news|title=Preußische Eisenbahnen |newspaper=Eisenbahn-Zeitung |date=1845-10-05 |url=https://digipress.digitale-sammlungen.de/view/bsb10049003_00343_u001/1 |language=de |issue=Nr. 40 |page=341}}</ref>。1846年9月1日にブンツラウ - [[フランクフルト (オーダー)|フランクフルト(オーデル)]]間はガッセン(現在ヤシェン)を中間地点として開通された<ref>{{Cite news|title=Preußische Eisenbahnen |newspaper=Eisenbahn-Zeitung |date=1846-09-13 |url=https://digipress.digitale-sammlungen.de/view/bsb10049004_00347_u001/6 |language=de |issue=Nr. 37 |page=324}}</ref>。1852年にNMEは[[プロイセン邦有鉄道|王立プロイセン鉄道]]の管理局となった。 1875年5月15日[[ヴロツワフ - グーベン線|新線]]がアルンスドルフ - ガッセン間に開通されて、コールフルト(現在ヴェングリニェツ)経由の既存鉄道よりおよそ30 km短くなった<ref>{{Cite news|title=Berliner Briefe |newspaper=Zeitung des Vereins Deutscher Eisenbahn-Verwaltungen |date=1875-06-04 |url=https://www.digitale-sammlungen.de/de/view/bsb11305412?page=436,437 |issue=Nr. 43 |language=de |page=414}}</ref>。特にコールフルト - ガッセン間の重要性は新線の開通で厳しく喪失した。ただし1874年6月に[[ヴェングリニェツ - ロースラウ線|コールフルト - ルーラント間鉄道]]が開通されて、中部ドイツの鉄道網連結が強化された<ref>W. Rettig (2010). pp. 11, 113</ref>。 1920年に[[ドイツ国営鉄道]]は帝国鉄道を継承して、この路線は国営鉄道の鉄道網に組み入れられた。1942年2月3日に軍用列車の兵士用客車内に暖房装置が列車の走行中に爆発した。この事故で20人が死亡して15人が負傷を負った<ref>{{cite book|author=Hans Joachim Ritzau |title=Eisenbahn-Katastrophen in Deutschland. Splitter deutscher Geschichte |volume=1 |publisher=Verlag Zeit und Eisenbahn |location=Landsberg-Pürgen |year=1979 |page=130 |language=de}}</ref>。 [[第二次世界大戦]]の終戦後、[[ナイセ川|ラウジッツ・ナイセ川]]と[[オーデル川]]以東はポーランド領となって、この路線は[[ポーランド国鉄]]により引き受けられた。二番目の線路はヴェングリニェツ - シャーリ間で優先撤去されて、シャーリ - ヤシェン間も単線となった<ref name="EisenbahnDreilaendereck032">W. Rettig (2010). p. 32</ref>。 1985年12月電車線がレグニツァ - ヴェングリニェツ区間に設備された<ref name="EisenbahnDreilaendereck032"/>。 2003年4月ドイツの建設・交通省とポーランドの社会基盤省の間に、ベルリン - ワルシャワ間およびドレスデン - ヴロツワフ間鉄道共同業務および発展に関する協定が締結された<ref>{{Cite web |url=http://www.wedebruch.de/gesetze/inter/d_pl300403.htm |title=Abkommen zwischen dem Bundesministerium für Verkehr, Bau- und Wohnungswesen der Bundesrepublik Deutschland und dem Minister für Infrastruktur der Republik Polen über die Zusammenarbeit bei der Weiterentwicklung der Eisenbahnverbindungen Berlin - Warschau (Warszawa) (C-E 20) sowie Dresden - Breslau (Wroclaw) (E 30/C-E 30) |access-date=2023-07-10 |publisher=Matthias Dörfler |language=de}}</ref>。2010年末レグニツァ - ヴェングリニェツ間が改修されて、最高速度が160 km/hに向上したことでその協定は履行された。2010年12月にハンブルク - クラクフ間に[[ユーロシティ|ユーロシティー系統]]がこの路線経由で導入されて、2014年12月まで運営された。シャーリ - レグニツァ間の所要時間はおよそ2時間であった<ref>{{Cite web |url=http://kolejoweluzyce.eu/aktualnosci/najnowsze/316-ostatni-przejazd-ec-wawel-relacja |title=Ostatni przejazd EC Wawel - 13.12.2014 - relacja |access-date=2023-07-10 |publisher=Kolejowe Łużyce |date=2014-12-18 |language=pl |archive-url=https://web.archive.org/web/20170423071231/http://kolejoweluzyce.eu/aktualnosci/najnowsze/316-ostatni-przejazd-ec-wawel-relacja |archive-date=2017-04-23}}</ref>。 == 運行形態 == * 普通列車: ヴロツワフ - レグニツァ - ミウコヴィツェ - ホイヌーフ - オセトニツァ - オックミアニ - トマスゾーフ・ボレスワヴェツキ - ボレスワヴェツ - ゼブジドヴァ - ザガイニック - ヴェングリニェツ。 == 参考文献 == * {{Cite book|title=Preußische Eisenbahngeschichte |year=1982 |publisher=Kohlhammer |author=Wolfgang Klee |series=Kohlhammer-Edition Eisenbahn |language=de |isbn=3-17-007466-0 |location=Stuttgart}} * {{Cite book|title=Eisenbahn im Dreiländereck. Ostsachsen / Niederschlesien / Nordböhmen. Teil 1: Geschichte der Hauptstrecken, Betriebsstellen und Fahrtbeschtribungen |year=2010 |publisher=EK-Verlag |author=Wilfried Rettig |language=de |isbn=978-3-88255-732-9 |location=Freiburg (Breisgau)}} == 外部リンク == {{Commonscat|position=left}} * 路線経路、主要施設、許容速度: [https://www.openrailwaymap.org/?style=standard&lat=51.496&lon=15.485&zoom=9 OpenRailwayMap] == 脚注 == <references /> {{デフォルトソート:みうこういつえやしえんせん}} [[Category:ポーランドの鉄道路線]] [[Category:ドルヌィ・シロンスク県]] [[Category:ルブシュ県]]
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片田舎のおっさん、剣聖になる 〜ただの田舎の剣術師範だったのに、大成した弟子たちが俺を放ってくれない件〜
『片田舎のおっさん、剣聖になる 〜ただの田舎の剣術師範だったのに、大成した弟子たちが俺を放ってくれない件〜』(かたいなかのおっさんけんせいになる ただのいなかのけんじゅつしはんだったのにたいせいしたでしたちがおれをほうってくれないけん)は、佐賀崎しげるによる日本のライトノベル。Webサイト「小説家になろう」にて2020年11月17日より連載されており、書籍はSQEXノベル(スクウェア・エニックス)より発売されている。イラストは鍋島テツヒロ。 片田舎の道場で剣術の師範をしているベリルのもとに、首都で王国騎士団の団長となったかつての教え子・アリューシアが来訪し、ベリルが騎士団の特別指南役に指名されたことを伝える。ベリルは自身に大役が務まるか不安に思っており、騎士団員もベリルの実力に疑問を感じていたが、副団長であるヘンブリッツとの勝負に勝利したことで、周囲にも彼の実力が浸透していく。 魔法師団に入った弟子・フィッセルと再会した夜、フィッセルを襲ったと話す少女と戦闘することになるが、実はそれは噂を聞いてベリルの実力を確かめようとしていた魔法師団長・ルーシーであった。その後、冒険者ギルドの最高ランクである弟子・スレナに頼まれ若手パーティに護衛として同行する。その最中、協力なモンスターに襲われるが、ベリルとスレナの活躍により討伐し、ギルドは騒動となる。 乍藤和樹の作画により、電子雑誌『どこでもヤングチャンピオン』(秋田書店)にて2021年9月号(8月24日発売)より連載中。 2023年5月には、「ピッコマAWARD 2023」のマンガ部門を受賞。また、同年7月末の時点で、電子版を含めたコミックス累計発行部数は300万部を突破している。
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『片田舎のおっさん、剣聖になる 〜ただの田舎の剣術師範だったのに、大成した弟子たちが俺を放ってくれない件〜』は、佐賀崎しげるによる日本のライトノベル。Webサイト「小説家になろう」にて2020年11月17日より連載されており、書籍はSQEXノベル(スクウェア・エニックス)より発売されている。イラストは鍋島テツヒロ。
{{Infobox animanga/Header | タイトル = 片田舎のおっさん、剣聖になる<br />〜ただの田舎の剣術師範だったのに、<br />大成した弟子たちが俺を放ってくれない件〜 | 画像 = | サイズ = | 説明 = | ジャンル = おっさん無自覚系[[ファンタジー]]{{R|mantan20230824}} }} {{Infobox animanga/Novel | タイトル = | 著者 = [[佐賀崎しげる]] | イラスト = [[鍋島テツヒロ]] | 出版社 = [[スクウェア・エニックス]] | 他出版社 = | 掲載誌 = [[小説家になろう]] | レーベル = [[SQEXノベル]] | 開始号 = 2020年11月17日 | 終了号 = | 開始日 = 2021年4月7日 | 終了日 = | 発表期間 = | 巻数 = 既刊6巻(2023年6月現在) | 話数 = | その他 = | インターネット = 1 }} {{Infobox animanga/Manga | タイトル = <!-- 波ダッシュの直前の空白が無いのが正確な表記 --> | 作者 = 佐賀崎しげる・鍋島テツヒロ | 作画 = [[乍藤和樹]] | 出版社 = [[秋田書店]] | 他出版社 = | 掲載誌 = [[どこでもヤングチャンピオン]] | レーベル = [[ヤングチャンピオンコミックス]] | 開始号 = 2021年9月号 | 終了号 = | 開始日 = 2021年8月24日 | 終了日 = | 発表期間 = | 巻数 = 既刊4巻(2023年8月現在) | 話数 = | その他 = | インターネット = }} {{Infobox animanga/Footer | ウィキプロジェクト = [[プロジェクト:ライトノベル|ライトノベル]]・[[プロジェクト:漫画|漫画]] | ウィキポータル = [[Portal:文学|文学]]・[[Portal:漫画|漫画]] }} 『'''片田舎のおっさん、剣聖になる 〜ただの田舎の剣術師範だったのに、大成した弟子たちが俺を放ってくれない件〜'''』(かたいなかのおっさんけんせいになる ただのいなかのけんじゅつしはんだったのにたいせいしたでしたちがおれをほうってくれないけん)は、佐賀崎しげるによる[[日本]]の[[ライトノベル]]。Webサイト「[[小説家になろう]]」にて2020年11月17日より連載されており<ref>{{Cite web|和書|url=https://ncode.syosetu.com/n6895gp/|title=片田舎のおっさん、剣聖になる ~ただの田舎の剣術師範だったのに、大成した弟子たちが俺を放ってくれない件~|website=小説家になろう|date=2023-06-07|accessdate=2023-09-11}}</ref>、書籍は[[SQEXノベル]]([[スクウェア・エニックス]])より発売されている。イラストは[[鍋島テツヒロ]]。 == あらすじ == 片田舎の道場で剣術の師範をしている'''ベリル'''のもとに、首都で王国騎士団の団長となったかつての教え子・'''アリューシア'''が来訪し、ベリルが騎士団の特別指南役に指名されたことを伝える。ベリルは自身に大役が務まるか不安に思っており、騎士団員もベリルの実力に疑問を感じていたが、副団長である'''ヘンブリッツ'''との勝負に勝利したことで、周囲にも彼の実力が浸透していく。 魔法師団に入った弟子・'''フィッセル'''と再会した夜、フィッセルを襲ったと話す少女と戦闘することになるが、実はそれは噂を聞いてベリルの実力を確かめようとしていた魔法師団長・'''ルーシー'''であった。その後、冒険者ギルドの最高ランクである弟子・'''スレナ'''に頼まれ若手パーティに護衛として同行する。その最中、協力なモンスターに襲われるが、ベリルとスレナの活躍により討伐し、ギルドは騒動となる。 == 登場人物 == ; ベリル・ガーデナント : 片田舎の道場で剣術の師範をしている中年。自身のことを「しがないおっさん」と自嘲するがその実力は高く、都では「片田舎の剣聖」と呼ばれる<ref name="sqexnovelofficial">{{Cite web|和書|url=https://magazine.jp.square-enix.com/sqexnovel/series/detail/katainaka/|title=片田舎のおっさん、剣聖になる ~ただの田舎の剣術師範だったのに、大成した弟子たちが俺を放ってくれない件~|website=小説 SQEXノベル|publisher=SQUARE ENIX|accessdate=2023-09-11}}</ref><ref name="ddnavi20221010">{{Cite news|url=https://ddnavi.com/review/1038627/a/|title=片田舎のただのおっさん――のはずが、実は最強の「剣聖」!? 無自覚に生きてきたおっさんの成り上がりが爽快!|newspaper=ダ・ヴィンチWeb|publisher=KADOKAWA|date=2022-10-10|accessdate=2023-09-11}}</ref>。アリューシアに頼まれ騎士団の指南役に就任する{{R|sqexnovelofficial}}。 ; アリューシア・シトラス : ベリルの弟子で、レベリス王国の騎士団長{{R|sqexnovelofficial}}。幼いころからベリルの実力を高く評価し、彼に実力にふさわしい舞台で活躍してもらうことを目標としている。 ; スレナ・リサンデラ : ベリルの弟子で、冒険者ギルド最高ランクの実力者{{R|sqexnovelofficial}}。 ; クルニ・クルーシエル : ベリルの弟子で、騎士団のムードメーカー{{R|sqexnovelofficial}}。 ; ヘンブリッツ・ドラウト : 副団長。 ; フィッセル・ハーベラー : ベリルの弟子で、剣魔法を操る魔法師団のエース{{R|sqexnovelofficial}}。 ; ルーシー・ダイアモンド : フィッセルの魔法の師匠で、魔法師団の団長{{R|sqexnovelofficial}}。 == 書誌情報 == * 佐賀崎しげる(著)・[[鍋島テツヒロ]](イラスト) 『片田舎のおっさん、剣聖になる 〜ただの田舎の剣術師範だったのに、大成した弟子たちが俺を放ってくれない件〜』、既刊6巻(2023年6月7日現在) *# 2021年4月7日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://magazine.jp.square-enix.com/top/comics/detail/9784757571907/|title=片田舎のおっさん、剣聖になる ~ただの田舎の剣術師範だったのに、大成した弟子たちが俺を放ってくれない件~ 1|publisher=SQUARE ENIX|accessdate=2023-09-11}}</ref>、{{ISBN2|978-4-7575-7190-7}} *# 2021年9月7日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://magazine.jp.square-enix.com/top/comics/detail/9784757574625/|title=片田舎のおっさん、剣聖になる ~ただの田舎の剣術師範だったのに、大成した弟子たちが俺を放ってくれない件~ 2|publisher=SQUARE ENIX|accessdate=2023-09-11}}</ref>、{{ISBN2|978-4-7575-7462-5}} *# 2022年2月7日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://magazine.jp.square-enix.com/top/comics/detail/9784757577329/|title=片田舎のおっさん、剣聖になる ~ただの田舎の剣術師範だったのに、大成した弟子たちが俺を放ってくれない件~ 3|publisher=SQUARE ENIX|accessdate=2023-09-11}}</ref>、{{ISBN2|978-4-7575-7732-9}} *# 2022年7月7日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://magazine.jp.square-enix.com/top/comics/detail/9784757580220/|title=片田舎のおっさん、剣聖になる ~ただの田舎の剣術師範だったのに、大成した弟子たちが俺を放ってくれない件~ 4|publisher=SQUARE ENIX|accessdate=2023-09-11}}</ref>、{{ISBN2|978-4-7575-8022-0}} *# 2022年12月7日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://magazine.jp.square-enix.com/top/comics/detail/9784757583009/|title=片田舎のおっさん、剣聖になる ~ただの田舎の剣術師範だったのに、大成した弟子たちが俺を放ってくれない件~ 5|publisher=SQUARE ENIX|accessdate=2023-09-11}}</ref>、{{ISBN2|978-4-7575-8300-9}} *# 2023年6月7日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://magazine.jp.square-enix.com/top/comics/detail/9784757586055/|title=片田舎のおっさん、剣聖になる ~ただの田舎の剣術師範だったのに、大成した弟子たちが俺を放ってくれない件~ 6|publisher=SQUARE ENIX|accessdate=2023-09-11}}</ref>、{{ISBN2|978-4-7575-8605-5}} == 漫画 == 乍藤和樹の作画により、電子雑誌『どこでもヤングチャンピオン』([[秋田書店]])にて2021年9月号(8月24日発売)より連載中<ref>{{Cite news|url=https://ln-news.com/articles/112094|title=『片田舎のおっさん、剣聖になる ~ただの田舎の剣術師範だったのに、大成した弟子たちが俺を放ってくれない件~』のコミカライズ連載がヤングチャンピオン9月号より開始|newspaper=ラノベニュースオンライン|publisher=Days|date=2021-08-24|accessdate=2023-09-11}}</ref>。 2023年5月には、「[[ピッコマAWARD]] 2023」のマンガ部門を受賞<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/526010|title=「ピッコマAWARD 2023」今年の受賞作は?「片田舎のおっさん、剣聖になる」など9作品|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-05-26|accessdate=2023-09-11}}</ref>。また、同年7月末の時点で、電子版を含めたコミックス累計発行部数は300万部を突破している<ref name="mantan20230824">{{Cite news|url=https://mantan-web.jp/article/20230824dog00m200008000c.html|title=片田舎のおっさん、剣聖になる:おっさん無自覚系ファンタジーマンガ 累計300万部突破 最新4巻発売|newspaper=MANTANWEB|publisher=MANTAN|date=2023-08-24|accessdate=2023-09-11}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000424.000040601.html|title=コミックス4巻で早くも累計300万部突破!! 「片田舎のおっさん、剣聖になる~ただの田舎の剣術師範だったのに、大成した弟子たちが俺を放ってくれない件~」最新刊発売!|publisher=秋田書店|date=2023-08-24|accessdate=2023-09-11}}</ref>。 * 佐賀崎しげる・鍋島テツヒロ(原作)、乍藤和樹(漫画) 『片田舎のおっさん、剣聖になる〜ただの田舎の剣術師範だったのに、大成した弟子たちが俺を放ってくれない件〜』 秋田書店〈[[ヤングチャンピオンコミックス]]〉、既刊4巻(2023年8月24日現在) *# 2022年2月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.akitashoten.co.jp/comics/4253306918|title=片田舎のおっさん、剣聖になる~ただの田舎の剣術師範だったのに、大成した弟子たちが俺を放ってくれない件~ 第1巻|publisher=秋田書店|accessdate=2023-09-11}}</ref>、{{ISBN2|978-4-253-30691-1}} *# 2022年6月20日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.akitashoten.co.jp/comics/4253306926|title=片田舎のおっさん、剣聖になる~ただの田舎の剣術師範だったのに、大成した弟子たちが俺を放ってくれない件~ 第2巻|publisher=秋田書店|accessdate=2023-09-11}}</ref>、{{ISBN2|978-4-253-30692-8}} *# 2023年3月20日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.akitashoten.co.jp/comics/4253306934|title=片田舎のおっさん、剣聖になる~ただの田舎の剣術師範だったのに、大成した弟子たちが俺を放ってくれない件~ 第3巻|publisher=秋田書店|accessdate=2023-09-11}}</ref>、{{ISBN2|978-4-253-30693-5}} *# 2023年8月24日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.akitashoten.co.jp/comics/4253306942|title=片田舎のおっさん、剣聖になる~ただの田舎の剣術師範だったのに、大成した弟子たちが俺を放ってくれない件~ 第4巻|publisher=秋田書店|accessdate=2023-09-11}}</ref>、{{ISBN2|978-4-253-30694-2}} == 出典 == {{Reflist}} == 外部リンク == * {{小説家になろう作品|n6895gp}} * [https://magazine.jp.square-enix.com/sqexnovel/series/detail/katainaka/ 片田舎のおっさん、剣聖になる ~ただの田舎の剣術師範だったのに、大成した弟子たちが俺を放ってくれない件~] - 小説 SQEXノベル | SQUARE ENIX {{オリコン週間コミックチャート第1位 2023年|2023年9月4日付}} {{デフォルトソート:かたいなかのおつさんけんせいになるたたのいなかのけんしゆつしはんたつたのにたいせいしたてしたちかおれをほうつてくれないけん}} [[Category:2020年の小説]] [[Category:小説家になろうの小説]] [[Category:SQEXノベル]] [[Category:ハイファンタジー小説]] [[Category:漫画作品 か|たいなかのおつさんけんせいになるたたのいなかのけんしゆつしはんたつたのにたいせいしたてしたちかおれをほうつてくれないけん]] [[Category:2021年の漫画]] [[Category:ヤングチャンピオン]] [[Category:ウェブコミック配信サイト掲載漫画作品]] [[Category:ハイファンタジー漫画]] [[Category:長大な項目名]]
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ジェイク・フォイ
ポール・ジェイコブ・フォイ(Paul Jacob Foy、1990年11月11日 - )は、カナダの俳優です。『サバイバー: 宿命の大統領』のフェリックス・シルバ役や『乗る(英語版)』のタフ・マクマリー役で知られる。
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ポール・ジェイコブ・フォイは、カナダの俳優です。『サバイバー: 宿命の大統領』のフェリックス・シルバ役や『乗る』のタフ・マクマリー役で知られる。
{{ActorActress | 芸名 = Jake Foy | ふりがな = ジェイク・フォイ | 画像ファイル = Jake Foy.jpg | 画像サイズ = | 画像コメント = | 本名 = ポール・ジェイコブ・フォイ<br />Paul Jacob Foy | 別名義 = | 出生地 = | 出身地 = {{CAN}}[[オンタリオ州]][[ナイアガラフォールズ (オンタリオ州)|ナイアガラフォールズ]] | 死没地 = | 国籍 = {{CAN}} | 民族 = | 身長 = | 血液型 = | 生年 = 1990 | 生月 = 11 | 生日 = 1 | 没年 = | 没月 = | 没日 = | 職業 = [[俳優]] | ジャンル = [[映画]]<br />[[テレビドラマ]] | 活動期間 = [[2014年]] - | 活動内容 = | 配偶者 = | 著名な家族 = | 所属劇団 = | 事務所 = | 公式サイト = [https://www.jakefoy.com/ jakefoy.com] | 主な作品 = | アカデミー賞 = | AFI賞 = | 英国アカデミー賞 = | セザール賞 = | エミー賞 = | ジェミニ賞 = | ゴールデングローブ賞 = | ゴールデンラズベリー賞 = | ゴヤ賞 = | グラミー賞 = | ブルーリボン賞 = | ローレンス・オリヴィエ賞 = | 全米映画俳優組合賞 = | トニー賞 = | 日本アカデミー賞 = | その他の賞 = | 備考 = }} '''ポール・ジェイコブ・フォイ'''(Paul Jacob Foy、[[1990年]][[11月11日]] - )は、[[カナダ]]の[[俳優]]です。『[[サバイバー: 宿命の大統領]]』のフェリックス・シルバ役や『{{仮リンク|乗る|en|Ride (American TV series)}}』のタフ・マクマリー役で知られる。<ref>{{cite web|url=https://www.tvinsider.com/people/jake-foy/|title=Jake Foy|publisher=TV Insider|accessdate=2023-09-01|language=en}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.betaseries.com/en/person/73472-jake-foy|title=The series and films of Jake Foy|publisher=BetaSeries|accessdate=2023-09-01|language=en}}</ref> == フィルモグラフィー == * 2015: [[ARROW/アロー]] * 2015: [[マイノリティ・リポート (テレビドラマ)|マイノリティ・リポート]] * 2016: [[スター・トレック BEYOND]] * 2016: [[マードック・ミステリー 〜刑事マードックの捜査ファイル〜]] * 2017: [[REIGN/クイーン・メアリー]] * 2018: {{仮リンク|フランキー・ドレイク・ミステリーズ|en|Frankie Drake Mysteries}} * 2019: {{仮リンク|暗闇で|en|In the Dark (American TV series)}} * 2019: [[サバイバー: 宿命の大統領]] * 2019: [[食べて、飲んで、結婚してください]] * 2020: [[愛の店]] * 2021: [[BATWOMAN/バットウーマン]] * 2021: [[ちょっとした昼ドラ]] * 2022: {{仮リンク|ビリー・ザ・キッド (テレビ番組)|en|Billy the Kid (TV series)|label=ビリー・ザ・キッド}} * 2022: [[クリスマスが若かった頃]] * 2023: {{仮リンク|乗る|en|Ride (American TV series)}} == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://www.jakefoy.com/ jakefoy.com] * {{IMDb name}} {{Normdaten}} {{Actor-stub}} {{DEFAULTSORT:ふおい しえいく}} [[Category:存命人物]] [[Category:1990年生]] [[Category:21世紀カナダの俳優]] [[Category:カナダの俳優]] [[Category:カナダの人物]] [[Category:テレビ俳優]] [[Category:映画俳優]]
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東御堂ひさぎ
東御堂ひさぎ(ひがしみどう ひさぎ)は、日本の漫画家。共同作業をしたことがある山咲まさとによると女性。 当初は脚を描くのが好きだったが次第に乳の描き方にこだわるようになった。
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東御堂ひさぎは、日本の漫画家。共同作業をしたことがある山咲まさとによると女性。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 東御堂ひさぎ | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生地 = {{JPN}} | 国籍 = [[日本]] | 生年 = | 没年 = | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = - | ジャンル = | 代表作 = | 受賞 = | 公式サイト = }} '''東御堂ひさぎ'''(ひがしみどう ひさぎ)は、[[日本]]の[[漫画家]]。共同作業をしたことがある[[山咲まさと]]によると女性<ref>『濡れる温泉女将』のあとがきより</ref>。 == 人物 == 当初は脚を描くのが好きだったが次第に乳の描き方にこだわるようになった<ref>『母蜜』のあとがきより</ref>。 == 作品リスト == * 桃園学園性化学授業放課後ファック * 白衣に秘めた裏カルテ * 快楽事務所関係図 * 母蜜 * 濡れる温泉女将 == 脚注 == <references /> == 関連項目 == * [[日本の成人向け漫画家の一覧]] {{Manga-artist-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ひかしみとうひさき}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:成人向け漫画家]] [[Category:生年未記載]] [[Category:存命人物]]
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比良竜虎
比良竜虎(ひら りゅうこ、1948年 [昭和23年] 5月30日)は、日本の実業家、投資家、慈善活動家。インド国ジャイプル出身。1976年に日本に帰化。ホテルマネージメントインターナショナル株式会社(HMIホテルグループ)代表取締役社長。オーラコーポレーション株式会社代表取締役社長。公益社団法人在日インド商工協会会長。公益財団法人日印協会理事。公益財団法人中村元東方研究所理事。サイヒラインド財団理事長。サティヤ・サイ・セントラル・トラスト理事。1970年代から日本国内の投資と不動産事業に従事する。2023年時点では日本国内31都市において、鉄道・空港・港湾・公共交通などの不動産事業、ホスピタリティ事業、観光プロジェクトなどに投資・経営を行っている。 2023年現在は、日印観光交流促進のため、日本の国土交通省、観光庁、およびインドの観光省の有識者としても積極的に活動している。 国内外で尊敬されているシュリ・サティヤ・サイ・ババの社会奉仕活動に携わっている。 ホテルマネージメントインターナショナル(HMIホテルグループ)とそのグループ企業は、ホテルとリゾートの所有と経営、不動産開発、新しい街の開発、住宅複合施設などの事業を行っている。2023年現在、日本の24の都道府県に45のホテル・旅館を有し、グループ全体で年間約1370万人の宿泊客を迎え入れている。その中には、沖縄県最大のホテルであるリザンシーパークホテル谷茶ベイ(826室)、JR神戸駅に直結した大型複合施設ハーバーランドセンタービル、音楽やスポーツイベントで有名なつま恋リゾート・彩の郷、勝浦と安房鴨川にある三日月シーパークホテルなども含まれる。2020年11月11日付の日経マーケティングジャーナルによれば、HMIホテルグループは、日本で8番目に大きなホテルチェーンである。 2023年2月11日にはインドのウッタル・プラデーシュ州の州都、ラクナウで開催された「UPグローバル投資家サミット2023」において、HMIホテルグループは、ウッタル・プラデーシュ州政府とのホテル開発事業に関する覚書を締結した。 1976年に日本に帰化する際、当時の戸籍には漢字の名前しか登録できなかったので、日本の名前を付ける必要が生じた。滋賀県にあるお寺の住職に相談したところ、比良山地にちなんで「比良竜虎」という名前を授けられた。住職から「竜は日本を象徴し、虎はインドを象徴している。あなたは将来、インドと日本の架け橋となる」との説明があった。
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比良竜虎は、日本の実業家、投資家、慈善活動家。インド国ジャイプル出身。1976年に日本に帰化。ホテルマネージメントインターナショナル株式会社(HMIホテルグループ)代表取締役社長。オーラコーポレーション株式会社代表取締役社長。公益社団法人在日インド商工協会会長。公益財団法人日印協会理事。公益財団法人中村元東方研究所理事。サイヒラインド財団理事長。サティヤ・サイ・セントラル・トラスト理事。1970年代から日本国内の投資と不動産事業に従事する。2023年時点では日本国内31都市において、鉄道・空港・港湾・公共交通などの不動産事業、ホスピタリティ事業、観光プロジェクトなどに投資・経営を行っている。 2023年現在は、日印観光交流促進のため、日本の国土交通省、観光庁、およびインドの観光省の有識者としても積極的に活動している。 国内外で尊敬されているシュリ・サティヤ・サイ・ババの社会奉仕活動に携わっている。
{{Infobox person |image = Official Portrait of Ryuko Hira.jpg |honorific prefix=パドマ シュリ (名誉接頭辞)|ふりがな=ひら りゅうこ|氏名=比良 竜虎|生年月日=1948年 (昭和23年)5月30日|国籍=日本|職業=事業家 投資家 慈悲活動家 HMI ホテルグループ 代表取締役社長|受賞=Padma Shri Award 2022, Pravasia Bharatiya Samman Award 2010|公式サイト=https://hmihotelgroup.com/|著名な実績=ホスピタリティ・観光業、日印関係交流}} {{DEFAULTSORT:ひら りゆうこ}}比良竜虎(ひら りゅうこ、1948年 [昭和23年] 5月30日)は、[[日本]]の[[実業家]]、[[投資家]]、[[フィランソロピー|慈善活動家]]。[[インド]]国[[ジャイプル]]出身。1976年に日本に帰化。[[ホテルマネージメントインターナショナル|ホテルマネージメントインターナショナル株式会社(HMIホテルグループ)]]代表取締役社長。<ref>{{Cite web |title=社長ご挨拶 {{!}} 会社情報 {{!}} ホテルマネージメントインターナショナル株式会社≪公式≫ |url=https://hmihotelgroup.com/corporate/company/greeting.html |website=hmihotelgroup.com |access-date=2023-10-03}}</ref>オーラコーポレーション株式会社代表取締役社長。公益社団法人在日インド商工協会会長。<ref>{{Cite web |title=LEADERSHIP |url=https://www.icij.site/leadership |website=ICIJ |access-date=2023-10-03 |language=ja}}</ref>公益財団法人日印協会理事。<ref>{{Cite web |title=公益財団法人 日印協会 |url=https://www.japan-india.com/ |website=公益財団法人 日印協会 |access-date=2023-10-03 |language=ja}}</ref>[[中村元東方研究所|公益財団法人中村元東方研究所理事]]。サイヒラインド財団理事長。<ref name=":4">{{Cite web |title=SAI HIRA INDIA FOUNDATION, General Incorporated Foundation |url=http://shif.jp/english/index.html |website=shif.jp |access-date=2023-10-03}}</ref>サティヤ・サイ・セントラル・トラスト理事。<ref>{{Cite web |title=SSSCT - Board of Trustees |url=https://www.srisathyasai.org/pages/sai-about-trustees.html |website=www.srisathyasai.org |access-date=2023-10-03}}</ref>1970年代から日本国内の投資と不動産事業に従事する。2023年時点では日本国内31都市において、鉄道・空港・港湾・公共交通などの不動産事業、[[ホスピタリティ産業|ホスピタリティ事業]]、観光プロジェクトなどに投資・経営を行っている。<ref name=":0" /> 2023年現在は、[[日印関係|日印観光交流]]促進のため、日本の[[国土交通省]]、[[観光庁]]、およびインドの観光省の有識者としても積極的に活動している。<ref>{{Citation|洋書|title=G20 Summit Day 2 {{!}} 'Delhi Declaration' Adopted At G20: Decoding Key Takeaways|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=ANWlm3fTnBk|language=ja-JP|access-date=2023-10-03}}</ref> 国内外で尊敬されている[[サティヤ・サイ・ババ|シュリ・サティヤ・サイ・ババ]]の社会奉仕活動に携わっている。<ref name=":1">{{Cite web |title=私の旅 |url=https://www.sairamnews.com/watashinotabi |website=SATHYA SAI RAM NEWS |access-date=2023-10-03 |language=ja}}</ref> == 経歴 == * 曽祖父、セット・ジャガット・ライ(Seth Jagat Rai)は[[イギリス領インド帝国|当時英国領であったインド帝国]][[シンド州]]の州都ハイデラバードシンドで事業を営んでいた。1902年に結ばれた[[日英同盟]]にあった外国企業を日本に誘致するという条項をきっかけに、[[横浜市|横浜]]で日本製絹を海外に[[輸出]]する[[家業]]を始めた。彼らは日印協会や横浜インド商協会の設立にも尽力したが、[[第二次世界大戦]]の戦況悪化に伴い、いったん帰国した。 * 1947年の[[インド・パキスタン分離独立]]に際して、[[ヒンドゥー教|ヒンドゥー教徒]]であった一家は[[インド]]国[[ラージャスターン州|ラージャスタン州]][[ジャイプル]]に移動した。1948年5月に[[ジャイプル]]で一家の末っ子(後の'''比良竜虎''')が誕生し、カマレーシュと名付けられた。その後まもなくして、一家は[[ムンバイ|ボンベイ(現ムンバイ)]]に引っ越した。 * 1952年、[[日本国とインドとの間の平和条約|日印平和条約]]が締結された後、[[横浜市|横浜]]での事業は再開された。 * 1960年代の[[インド]]は[[中印国境紛争]]や[[印パ戦争]]などで戦時下にあったため、[[ムンバイ]]のシニアケンブリッジを卒業したカマレーシュは1966年に[[来日]]し、[[日本]]で家業に加わった。 * 1970年に日本レンタカー(株)石川浩三氏と共同出資でホテルフランチャイズ方式の[[サンルートホテルチェーン|サンルートホテルシステム]]を設立したのをきっかけに、カマレーシュはホテル業に進出した。その後、[[鉄道]]・[[交通]]・[[港湾]]・[[空港]]・[[航空]][[会社]]を含む[[観光|観光インフラ]]の開発にも携わるようになった。 * 当時の[[インド]]国内の諸事情により、カマレーシュは'''比良竜虎'''と改名して1976年に[[日本]]に帰化した。 * 1986年、オーラコーポレーション(株)設立。 * 1991年「ホテルパールシティ神戸」開業。 * 1993年「リザンシーパークホテル谷茶ベイ」開業。 * 1998年、ホテルマネージメントインターナショナル(株)設立。<ref name=":2" /><ref name=":1" /><ref name=":3" /> == ホテルマネージメントインターナショナル株式会社 == [[ホテルマネージメントインターナショナル|ホテルマネージメントインターナショナル(HMIホテルグループ)]]とその[[グループ企業]]は、[[ホテル]]と[[リゾート]]の[[所有権|所有]]と[[経営管理論|経営]]、[[デベロッパー (開発業者)|不動産開発]]、新しい街の開発、[[複合施設|住宅複合施設]]などの事業を行っている。2023年現在、[[日本]]の24の[[都道府県]]に45の[[ホテル]]・[[旅館]]を有し、グループ全体で年間約1370万人の宿泊客を迎え入れている。その中には、[[沖縄県]]最大のホテルであるリザンシーパークホテル谷茶ベイ(826室)、[[JR神戸線|JR神戸駅]]に直結した大型複合施設[[神戸ハーバーランド|ハーバーランドセンタービル]]、音楽やスポーツイベントで有名な[[つま恋リゾート 彩の郷|つま恋リゾート・彩の郷]]、[[勝浦市|勝浦]]と[[安房鴨川駅|安房鴨川]]にある三日月シーパークホテルなども含まれる<ref>{{Cite web |title=ホテルマネージメントインターナショナル株式会社≪公式≫ |url=https://hmihotelgroup.com/corporate/ |website=hmihotelgroup.com |access-date=2023-10-03}}</ref>。2020年11月11日付の[[日経BP|日経マーケティングジャーナル]]によれば、[[ホテルマネージメントインターナショナル|HMIホテルグループ]]は、日本で8番目に大きなホテルチェーンである。<ref>{{Cite journal|date=2020-11-11|journal=Nikkei Marketing Journal}}</ref> 2023年2月11日には[[インド]]の[[ウッタル・プラデーシュ州]]の州都、[[ラクナウ]]で開催された「UPグローバル投資家サミット2023」において、[[ホテルマネージメントインターナショナル|HMIホテルグループ]]は、[[ウッタル・プラデーシュ州]]政府との[[ホテル|ホテル開発事業]]に関する[[覚書]]を締結した。<ref>{{Cite web |title=Japan’s HMI Group to develop 30 hotels in UP, invest ₹7.2k cr in state |url=https://www.hindustantimes.com/cities/others/japans-hmi-group-to-develop-30-hotels-in-u-p-invest-rs-7-2k-cr-in-state-101676133395773.html |website=Hindustan Times |date=2023-02-11 |access-date=2023-10-03 |language=en}}</ref> == 社会奉仕活動 == * 1990年、インドの[[プッタパルティ]]にある[[サティヤ・サイ大学|シュリ・サティヤ・サイ高度専門病院(Sri Sathya Sai Institute of Higher Medical Sciences)]]の建設に尽力した。この病院は1991年にインド国の[[ナラシンハ・ラーオ|ナラシンハ・ラーオ首相]](当時)によって開所式が行われた。<ref name=":2" /> * 1990年代から、毎週、都内の[[ホームレス]]に無償でお弁当を配布するボランティア活動を支援している。<ref name=":1" /> * 1995年の[[阪神・淡路大震災]]においては、水、非常食品、毛布などの支援物資を被災者に届けた。<ref name=":5">{{Cite journal|title=東北地方太平洋沖地震 被災者支援活動報告|journal=Sairam News|volume=April 2011}}</ref> * 2000年に完成した[[インド]]の[[プッタパルティ]]にあるチャイタニヤ・ジョーティ博物館の建設にあたっては、設計段階から尽力した。<ref name=":1" /> * 2009年11月には、[[ダライ・ラマ14世|ダライ・ラマ法王]]日本訪問時に[[平和祈念公園|沖縄県平和記念公園]]での案内役を務めた。 * 2011年の[[東日本大震災]]においては、[[インド大使館]]の協力を得て、水、非常食品、毛布、日用品などの支援物資をいちはやく被災者に届けた。また、当時東北にいたインド人研究者とその家族らの避難と帰国を支援した。交代で被災地を訪れる医師団のために宿泊場所を提供した。<ref name=":5" /> * 2015年11月には[[スズキ (企業)|スズキ株式会社]]の[[鈴木修 (実業家)|鈴木修会長]]率いるインド経済代表団の案内役を務め、インドにおけるスズキの自動車ブランド「[[マルチ・スズキ・インディア|マルチ]]」の語源となった世界最大の[[ハヌマーン|ハヌマーン神像]](マルチ神像)への参拝に同行した。 * 2017年10月に「[[日印関係|日印友好交流年]]」のイベントとして行われた[[歌舞伎|大歌舞伎]]「[[極付印度伝 マハーバーラタ戦記]]」を支援した。 * 2018年には、[[日印関係|日印間]]の相互理解・[[交流]]・[[観光]]・協力及び[[慈善活動]]を推進する事業を実施し、又は、これらの事業を強化・促進することにより、両国民及び国際社会の信頼・親善・福祉の発展に寄与することを目的とする「[http://shif.jp/english/index.html 一般財団法人サイヒラインド財団]」を設立。<ref name=":4" /> * 2019年10月、[[インドの大統領|インド大統領]][[ラーム・ナート・コーヴィンド|ラーム・ナート・コーヴィンド閣下]](当時)と令夫人をつま恋に招き、日本とインドの文化交流を推進するためのプロジェクト「インド文化センター」の起工式を行った。<ref>{{Cite web |title=President Sri Ram nath Kovind Launches “Sri Sathya Sai Sanathana Samskruti” in Japan |url=https://archive.sssmediacentre.org/journals/vol_17/01NOV19/President-Sri-Ram-Nath-Kovind-Sri-Sathya-Sai-Sanathana-Samkruti-in-japan.htm |website=archive.sssmediacentre.org |access-date=2023-10-03}}</ref> * [[インド]]の[[プッタパルティ]]にあるサイ・ヒラ・グローバル・コンベンション・センターの建設に尽力した。この建物は、2023年7月にインドのモディ首相(オンライン出席)とアーンドラ・プラデーシュ州知事アブドゥル・ナジール閣下を迎えて、開所式が執り行われた。<ref>{{Cite web |title=PM inaugurates Sai Hira Global Convention Centre in Puttaparthi, Andhra Pradesh via VC |url=https://www.pmindia.gov.in/en/news_updates/pm-inaugurates-sai-hira-global-convention-centre-in-puttaparthi-andhra-pradesh-via-vc/ |website=www.pmindia.gov.in |access-date=2023-10-03 |language=en}}</ref> == 出版 == * インドに対する正しい認識を広めるため、2023年時点で合計61篇の記事を主要な日本の日刊紙に寄稿し、掲載された。<ref>{{Cite web |title=MEDIA |url=https://www.icij.site/media |website=ICIJ |access-date=2023-10-03 |language=ja}}</ref> * 1974年、日本最初の「[[サンスクリット|サンスクリット語]][[ヒンディー語]]―日本語辞典」を出版するため、13人の日本人学者を支援した。<ref name=":2">{{Cite book |title=Overseas Indians Extraordinaire {{!}} A Who's Who of Select NRIs |publisher=The Indian |pages=132-153}}</ref> * その後、同じ13人の学者たちによる、インドの大叙事詩[[マハーバーラタ]]、[[ヴェーダ]]、[[ウパニシャッド]]、[[シャンカラ・アーチャーリヤ|アーディ・シャンカラーチャーリヤ]]の著作、[[仏教]]、[[シク教]]、[[ヒンドゥー教]]の神々などに関する9冊の書籍の翻訳・出版を支援した。<ref name=":2" /> * 1981年、[[日本放送協会]]に協力して、[[広島平和記念公園]]を訪れるインド人来訪者のための[[ヒンディー語]]音声解説の[[スポンサー]]を務めた。<ref name=":3" /> * 2007年の日印文化協定50周年を記念して、在日インド大使館とサティア・サイ教育協会合同で、上記の13人の学者たちを表彰した。<ref name=":2" /> * 2012年、日印国交樹立60周年を記念して、学研マンガシリーズ「インドのひみつ」の制作・出版を支援。この本は、内閣府による「[[世論調査|外交に関する世論調査]]」で、日本の若年層の大半がインドについて知らないことが判明したため企画された。書店での販売は行わず、日本全国の小学校や公共図書館、合計23,500か所に寄贈され、2012年から2017年までの5年間で、700万人以上の小学生に読まれた。<ref>{{Cite book|和書 |title=インドのひみつ |date=2012-12-20 |year=2012 |publisher=株式会社学研パブリッシング |page=128}}</ref> * 2023年までに110冊以上の[[インド思想]]・[[インド哲学]]・人格形成教育に関する書籍の翻訳・出版を支援した。<ref>{{Cite web |url=https://saibababookstore.com/about |title=Sai Baba Bookstore |access-date=2023-10-03 |publisher=Sri Sathya Sai Publications Japan}}</ref> == 受賞・評価 == * 2010年1月、長年にわたる[[日印関係|日印経済交流]]、[[インドの文化|インド文化]]の促進、友好交流活動を評価され、[[インドの大統領|インド国大統領]][[プラティバ・パティル|プラティバ・パティル閣下]](当時)より、在外インド人に与えられる最高位の勲章である[[:en:Pravasi_Bharatiya_Samman#:~:text=Pravasi Bharatiya Samman (PBS) is,and their country of residence%3B%22|プラヴァシー・バーラーティヤ・サマン]]を授与された。<ref>{{Cite web |title=17th Pravasi Bhartiya Divas 2023 to Be Held at Indore in Next Year |url=https://pbdindia.gov.in/pbsa-awardees-prev |website=pbdindia.gov.in |access-date=2023-09-30}}</ref> * 2018年、日本における最大の単独インド人投資家として[[ジャパンタイムズ|Japan Times]] に紹介された。<ref>{{Cite web |title=As HMI expands, sights set on drawing Indian visitors |url=https://www.japantimes.co.jp/life/2018/04/15/people/hmi-expands-sights-set-drawing-indian-visitors/ |website=The Japan Times |date=2018-04-15 |access-date=2023-09-30 |language=en |first=No |last=Author}}</ref> * 2022年6月、陸運及び観光関係[[沖縄総合事務局|沖縄総合事務局長賞]]を受賞した。<ref>{{Cite news |title=14人と13事業所表彰、総事局3高校も |newspaper=沖縄タイムス |date=2022-06-09}}</ref> * 2022年3月28日、「[[日印関係|インド・日本の友好促進]]に貢献した日本のシニアビジネスリーダー」として、[[インドの大統領|インド大統領]][[ラーム・ナート・コーヴィンド|ラーム・ナート・コーヴィンド閣下]](当時)より、民間功労者に与えられる[[パドマ・シュリー勲章|最高位勲章パドマ・シュリーを]]授与された。<ref name=":0">{{Cite web |title=Japanese hotelier, Ryuko Hira, travel and food writer Madhur Jaffrey among Padma recipients - ET HospitalityWorld |url=https://hospitality.economictimes.indiatimes.com/news/operations/food-and-beverages/japanese-hotelier-ryuko-hira-travel-and-food-writer-madhur-jaffrey-among-padma-recipientsjapanese-hotelier-ryuko-hira-travel-and-food-writer-madhur-jaffrey-among-padma-recipients/89132177 |website=ETHospitalityWorld.com |access-date=2023-09-30 |language=en |last=www.ETHospitalityWorld.com}}</ref> == 名前の由来 == 1976年に日本に帰化する際、当時の[[戸籍]]には漢字の名前しか登録できなかったので、日本の名前を付ける必要が生じた。[[滋賀県]]にある[[寺院|お寺]]の[[住職]]に相談したところ、[[比良山地]]にちなんで「'''比良竜虎'''」という名前を授けられた。[[住職]]から「[[竜]]は日本を象徴し、[[虎]]はインドを象徴している。あなたは将来、インドと日本の架け橋となる」との説明があった。<ref name=":3">{{Cite journal|author=Dr. A.R. Giri|month=10|year=2006|title=Striving for Moral Awakening|journal=People of Indian Origin|volume=2|issue=9|page=24}}</ref><ref name=":1" /><ref>{{Cite journal|author=比良竜虎|year=2009|title=真のインド人とは ー True Indian?|journal=月刊インド|volume=Vol. 106, No. 10|publisher=財団法人日印協会}}</ref> == 脚注 == === 出典 === {{reflist|2}} [[Category:各国の慈善家]] [[Category:存命人物]] [[Category:1948年生]] [[Category:ラージャスターン州出身の人物]]
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島田喜広
島田 喜広(しまだ よしひろ、1960年12月10日 - )は、日本のジャーナリスト、実業家。 富山県生まれ。1984年一橋大学卒業。同年4月、株式会社東京放送(現・株式会社TBSホールディングス)に入社。報道局ニュースカメラマンに配属し、日本航空123便墜落事故、ベルリンの壁崩壊、湾岸戦争を取材。1988年~1993年パリ支局・ロンドン特派員。1993年~ 外信部・社会部記者 ニュース番組のプロデューサー等歴任。2009年TBS報道局ニュースセンター長。2011年TBSインターナショナルプレジデント兼ニューヨーク支局長。2015年TBSテレビ情報制作局長。2018年テレパック代表取締役社長。2019年TBSテレビグループデザイン局担当局長 。2020年TBSテレビ執行役員(JNN北陸担当)、北陸放送常務取締役、新潟放送(現・BSNメディアホールディングス)、チューリップテレビ社外取締役。
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島田 喜広は、日本のジャーナリスト、実業家。
{{Infobox 人物 |氏名=島田 喜広 |ふりがな=しまだ よしひろ |生年月日={{生年月日と年齢|1960|12|10}} |生誕地={{JPN}} [[富山県]] |没年月日= |死没地= |出身校=[[一橋大学]]卒業 |職業=ジャーナリスト<br>実業家(放送局経営者) |活動期間=[[1984年]] - }} ''' 島田 喜広'''(しまだ よしひろ、[[1960年]][[12月10日]]<ref name="ir">[https://irbank.net/E04386/officer?m=島田喜広 北陸放送|役員の状況 - 島田喜広] IR BANK</ref><ref name="f.ir">北陸放送有価証券報告書-第94期 IR BANK</ref> - )は、[[日本]]の[[ジャーナリスト]]、[[実業家]]。 == 略歴・人物 == [[富山県]]生まれ<ref name="syuto">[https://syuto.or.jp/activities/committee1/2023/08/09/6514/ 第61回 リベラルアーツ・カフェVol.6「テレビ報道の過去・現在・未来」] 趣都金澤 2023年8月9日</ref>。[[1984年]][[一橋大学]]卒業。同年4月、株式会社東京放送(現・株式会社[[TBSホールディングス]])に入社{{R|ir|f.ir}}。報道局ニュースカメラマンに配属し、[[日本航空123便墜落事故]]、[[ベルリンの壁崩壊]]、[[湾岸戦争]]を取材。[[1988年]]~[[1993年]]パリ支局・ロンドン特派員。1993年~ 外信部・社会部記者 ニュース番組のプロデューサー等歴任{{R|syuto}}。[[2009年]]TBS報道局ニュースセンター長。[[2011年]]TBSインターナショナルプレジデント兼ニューヨーク支局長。[[2015年]]TBSテレビ情報制作局長。[[2018年]][[テレパック]]代表取締役社長{{R|ir|f.ir|syuto}}。[[2019年]]TBSテレビグループデザイン局担当局長<ref name="sir">[https://irbank.net/E04399/officer?m=島田喜広 9408 新潟放送|役員の状況 - 島田喜広] IR BANK</ref><ref name="b.ir">9408 新潟放送有価証券報告書-第93期 IR BANK</ref> 。[[2020年]]TBSテレビ執行役員(JNN北陸担当)、[[北陸放送]]常務取締役{{R|ir|f.ir|syuto}}、[[新潟放送]](現・[[BSNメディアホールディングス]])、[[チューリップテレビ]]社外取締役{{R|syuto|sir|b.ir}}<ref>[https://www.ohbsn.com/holdings/ir/pdf/20230511_1.pdf 役員等の異動に関するお知らせ 株式会社BSNメディアホールディングス] 新潟放送 2023年5月11日</ref>。 == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{デフォルトソート:しまだ よしひろ}} [[Category:21世紀日本の実業家]] [[Category:北陸放送の人物]] [[Category:新潟放送の人物]] [[Category:チューリップテレビ]] [[Category:TBSの人物]] [[Category:テレパックの人物]] [[Category:一橋大学出身の人物]] [[Category:富山県出身の人物]] [[Category:1960年生]] [[Category:存命人物]]
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テイク・イット・イージー (映画)
『テイク・イット・イージー』は、1986年4月12日に公開された日本映画。『すかんぴんウォーク』『ユー・ガッタ・チャンス』に続く吉川晃司主演×大森一樹監督による「民川裕司3部作」の第3作で完結編。 スター街道半ばの民川裕司(吉川晃司)が、ニューヨーク公演が中止になったことから、北海道に旅に出て地元のボスと対決する。自身の生きる道を見つめ直し、裕司の新たな出発を描くシリーズ完結篇。 1985年秋に製作発表が行われた際のタイトルは『テイク・イット・イージー・三年目の冒険』と告知されていた。 吉川晃司は製作時のインタビューで「『テイク・イット・イージー』で主人公が死んでしまうーでもその次、その後があるんですよね。それが可笑しいと言うか、『すかんぴんウォーク』の最初に戻るんです。精神的には。で、一回転している訳ですよね。何でもいつも一回転しなくちゃいけないと思うんです。デカいものを作って、成功したらまたそれを壊して、新しいものに挑戦するということです。やっぱり大森一樹って人は面白いし、娯楽映画を作るんだ、という人だから、娯楽映画ってムズカしいですよね。マニア向けの映画より。僕、同郷の大林宣彦監督って好きなんです。女の子を撮るとすごくロマンチックな映画作るでしょ。あの人と組んでグチャグチャな映画やったら面白いんじゃないかなあ。まあ『すかんぴんウォーク』から3本並べてみるとバランスのとれた映画ですよね。自分の未来を先行して映画で表現し、それに向かって本当にやってきた感じ。主人公って本当に勇気ある若者っていうか、僕から見てもすごくカッコいいなと思う。自分で演じててコイツには負けたくないと思いながら演じてました。やってていい刺激になりました。今回、黒沢年男さんの演ってる役は『夢を追っていける程、世の中甘くないぜ。もっと大人になれ』というけど、そんなこと解りたくないですよね。最初から解ってたら寂しいし、やってみないと解らないし、本当にのたれ死にするかもしれないけど、オレはやりたいんだという事を、今回の主題歌『MODERN TIME』の歌詞に反映させました」などと述べた。 『タッチ・背番号のないエース』
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『テイク・イット・イージー』は、1986年4月12日に公開された日本映画。『すかんぴんウォーク』『ユー・ガッタ・チャンス』に続く吉川晃司主演×大森一樹監督による「民川裕司3部作」の第3作で完結編。 スター街道半ばの民川裕司(吉川晃司)が、ニューヨーク公演が中止になったことから、北海道に旅に出て地元のボスと対決する。自身の生きる道を見つめ直し、裕司の新たな出発を描くシリーズ完結篇。 1985年秋に製作発表が行われた際のタイトルは『テイク・イット・イージー・三年目の冒険』と告知されていた。
{{Infobox Film | 作品名 = テイク・イット・イージー | 原題 = | 画像 = | 画像サイズ = | 画像解説 = | 監督 = [[大森一樹]] | 企画 =[[渡辺晋]] | 製作 = 岡田裕<br/>[[佐々木史朗 (映画プロデューサー)|佐々木史朗]] | 脚本 = [[丸山昇一]] | ナレーター= | 出演者 = {{ublist|[[吉川晃司]]|[[名取裕子]]|[[黒沢年雄|黒沢年男]]|[[寺尾聰]]|[[つみきみほ]]|[[長門裕之]]|[[戸川京子]]|[[アン・ルイス]]|[[宍戸錠]]}} | 音楽 = [[後藤次利]] | 主題歌 = 吉川晃司「[[MODERN TIME (曲)|MODERN TIME]]」 | 撮影 = 水野尾信正 | 編集 = 井上治 | 製作会社 = {{ublist|[[渡辺プロダクション]]|ニューセンチュリープロデューサーズ}}<ref name="nfaj">{{NFAJ|1485|テイク・イット・イージー}}</ref> | 配給 = [[東宝]] | 公開 = {{flagicon|JPN}} [[1986年]][[4月12日]] | 上映時間 = 108分 | 製作国 = {{JPN}} | 言語 = [[日本語]] | 制作費 = | 興行収入 = | 配給収入 = 9億円<ref>{{Cite journal|和書|title=1986年邦画4社〈封切配収ベスト作品〉|journal=[[キネマ旬報]]|issue=1987年2月下旬号|publisher=[[キネマ旬報社]]|page=130頁}}</ref> | 前作 = [[ユー・ガッタ・チャンス]] | 次作 = }} 『'''テイク・イット・イージー'''』は、[[1986年]][[4月12日]]に公開された[[日本映画]]{{Refnest|group="出典"|{{R|nfaj|thetv|昭和アイドル映画の時代|シティロード8604|innocent|神保町シアター}}}}。『[[すかんぴんウォーク]]』『[[ユー・ガッタ・チャンス]]』に続く[[吉川晃司]]主演×[[大森一樹]]監督による「民川裕司3部作」の第3作で完結編{{Refnest|group="出典"|{{R|nfaj|thetv|昭和アイドル映画の時代|シティロード8604|神保町シアター|秘宝0210|wowow|daily|講座日本映画7}}}}。 スター街道半ばの民川裕司([[吉川晃司]])が、[[ニューヨーク]][[演奏会|公演]]が中止になったことから、[[北海道]]に旅に出て地元のボスと対決する{{Refnest|group="出典"|{{R|昭和アイドル映画の時代|シティロード8604|神保町シアター|シティロード8604_28}}}}。自身の生きる道を見つめ直し、裕司の新たな出発を描く[[シリーズ (作品)|シリーズ]]完結篇{{Refnest|group="出典"|{{R|nfaj|thetv|昭和アイドル映画の時代|シティロード8604|innocent|神保町シアター|講座日本映画7|シティロード8604_28}}}}。 1985年秋に製作発表が行われた際の[[タイトル#題名|タイトル]]は『テイク・イット・イージー・三年目の冒険』と告知されていた{{R|シティロード8511}}。 ==キャスト== * 民川裕司 - [[吉川晃司]] * 氷室麻弓 - [[名取裕子]] * 仲根六郎 - [[上杉祥三]] * 青井森一 - [[黒沢年雄|黒沢年男]] * 池谷浩一 - [[寺尾聰]] * 草野つみき - [[つみきみほ]] * 日野かえで - つみきみほ * 氷室画伯 - [[長門裕之]] * 山田久美 - [[戸川京子]] * 今村健次 - 阿部雅彦 * 野村圭吾 - [[坂井徹]] * 佐原和人 - [[麻生肇]] * 氷室ユミ - 東山美鈴 * 池谷レイ - [[アン・ルイス]] * ディーラーの男 - [[宍戸錠]]{{R|nfaj}} ==スタッフ== * 総指揮 - [[渡辺晋]] * 監督 - [[大森一樹]] * 製作 - 岡田裕 * プロデューサー - 中川好久 * 脚本 - [[丸山昇一]] * 撮影 - 水野尾信正 * 音楽 - [[後藤次利]] * 主題曲 - 吉川晃司「[[MODERN TIME (曲)|MODERN TIME]]」 * 美術 - 金田克美 * 編集 - 井上治 * 照明 - 三荻国明 * 録音 - 中野俊夫 * 助監督 - [[平山秀幸]]{{R|nfaj}} ==製作== 吉川晃司は製作時のインタビューで「『テイク・イット・イージー』で主人公が死んでしまうーでもその次、その後があるんですよね。それが可笑しいと言うか、『すかんぴんウォーク』の最初に戻るんです。精神的には。で、一回転している訳ですよね。何でもいつも一回転しなくちゃいけないと思うんです。デカいものを作って、成功したらまたそれを壊して、新しいものに挑戦するということです。やっぱり大森一樹って人は面白いし、娯楽映画を作るんだ、という人だから、娯楽映画ってムズカしいですよね。マニア向けの映画より。僕、同郷の[[大林宣彦]]監督って好きなんです。女の子を撮るとすごくロマンチックな映画作るでしょ。あの人と組んでグチャグチャな映画やったら面白いんじゃないかなあ。まあ『すかんぴんウォーク』から3本並べてみるとバランスのとれた映画ですよね。自分の未来を先行して映画で表現し、それに向かって本当にやってきた感じ。主人公って本当に勇気ある若者っていうか、僕から見てもすごくカッコいいなと思う。自分で演じててコイツには負けたくないと思いながら演じてました。やってていい刺激になりました。今回、[[黒沢年男]]さんの演ってる役は『夢を追っていける程、世の中甘くないぜ。もっと大人になれ』というけど、そんなこと解りたくないですよね。最初から解ってたら寂しいし、やってみないと解らないし、本当にのたれ死にするかもしれないけど、オレはやりたいんだという事を、今回の[[主題歌]]『[[MODERN TIME (曲)|MODERN TIME]]』の[[歌詞]]に反映させました」などと述べた{{R|シティロード8604}}。 == 同時上映 == 『[[タッチ (漫画)#タッチ 背番号のないエース|タッチ・背番号のないエース]]』{{R|シティロード8604_28}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{reflist|2 |refs= <ref name="nfaj">{{NFAJ|1485|テイク・イット・イージー}}</ref> <ref name="thetv">[https://thetv.jp/program/0000964648/ テイク・イット・イージー]</ref> <ref name="昭和アイドル映画の時代">{{Cite book|和書|author=寺脇研|authorlink=寺脇研|year=2020|title=昭和アイドル映画の時代|series=[[光文社文庫|光文社知恵の森文庫]]|chapter=吉川晃司×大森一樹三部作|publisher=[[光文社]]|isbn=978-4-334-78786-8|pages=504–505}}</ref> <ref name="シティロード8511">{{Cite journal |和書|author = |title = 邦画ニュース |journal = [[シティロード]] |issue = 1985年11月号 |publisher = エコー企画 |page = 30頁 }}</ref> <ref name="シティロード8604">{{Cite journal |和書 |author = |title = キー・ウェイブ27 〔MOVIE〕 吉川晃司インタビュー 3作目の映画がいよいよ公開 |journal = シティロード |issue = 1986年4月号 |publisher = エコー企画 |page = 7頁 }}</ref> <ref name="シティロード8604_28">{{Cite journal |和書 |author = |title = 邦画封切情報 テイク・イット・イージー |journal = シティロード |issue = 1986年4月号 |publisher = エコー企画 |page = 28頁 }}</ref> <ref name="innocent">[https://note.com/innocent_uk/n/n6870db8a62dd テイク・イット・イージーに教わったこと]</ref> <ref name="神保町シアター">[https://www.shogakukan.co.jp/jinbocho-theater/program/kikkawa.html 吉川晃司映画祭 ~"民川裕司三部作"一挙上映~吉川晃司映画祭 ~] - [[神保町シアタービル|神保町シアター]]</ref> <ref name="秘宝0210">{{Cite journal|和書|author=轟夕起夫|authorlink=轟夕起夫|title=Hiho VIP INTERVIEW 吉川晃司|journal=[[映画秘宝]]|issue=2002年10月号|publisher=[[洋泉社]]|pages=76–77頁}}</ref> <ref name="wowow">[https://www.wowow.co.jp/detail/114966 テイク・イット・イージー | 映画 | WOWOWオンライン]</ref> <ref name="daily">{{Cite news|title=吉川晃司 大森監督の訃報に絶句「新しい企画も聞いていた」“三部作”からコンビ|newspaper=[[デイリースポーツ]]|date=2022-11-15|url=https://www.daily.co.jp/gossip/2022/11/16/0015812048.shtml|accessdate=2023年9月11日|publisher=[[神戸新聞社]]|archive-url=https://web.archive.org/web/20221115213701/https://www.daily.co.jp/gossip/2022/11/16/0015812048.shtml|archive-date=2022年11月15日}}</ref> <ref name="講座日本映画7">{{Cite book |和書 |author = 緑川亨 |year = 1988 |title = 日本映画の現在 |chapter = 面白い映画を探せ 文・大森一樹 |series = 講座日本映画7 |publisher = [[岩波書店]] |id = ISBN 4-00-010257-5 |pages = 128-131 }}</ref> }} === 出典(リンク) === {{Reflist|group="出典"}} == 外部リンク == * {{Allcinema title|149745|テイク・イット・イージー}} * {{Kinejun title|17663|テイク・イット・イージー}} {{movie-stub}} {{大森一樹監督作品}} {{DEFAULTSORT:}} [[Category:1986年の映画]] [[Category:日本の青春映画]] [[Category:北海道を舞台とした映画作品]] [[category:大森一樹の監督映画]] [[Category:丸山昇一の脚本映画]]
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GLADIATOR王者一覧
GLADIATOR王者一覧は、日本の総合格闘技団体「GLADIATOR」(新生GLADIATOR)の王座変遷表である。
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GLADIATOR王者一覧は、日本の総合格闘技団体「GLADIATOR」(新生GLADIATOR)の王座変遷表である。
'''GLADIATOR王者一覧'''は、[[日本]]の[[総合格闘技]]団体「[[GLADIATOR]]」(新生GLADIATOR)の王座変遷表である。 == ヘビー級(-120.2kg) == {| class="wikitable" style="font-size: smaller; width: 100%;" |- ! style="width: 6%;"|代 ! style="width: 27%;"|選手名 ! style="width: 27%;"|在位期間 ! style="width: 6%;"|防衛回数 ! style="width: 34%;"|備考 |- |align=center |初 |{{Flagicon|JPN}} 大番高明 |align=center |CMA時代 - 2022年5月1日 |align=center |0 | |- |align=center |2 |{{Flagicon|BRA}} カルリ・ギブレイン |align=center |2022年5月1日 - 現在 |align=center |0 |大番とのタイトルマッチにより獲得 |- |} == ミドル級(-83.9kg) == {| class="wikitable" style="font-size: smaller; width: 100%;" |- ! style="width: 6%;"|代 ! style="width: 27%;"|選手名 ! style="width: 27%;"|在位期間 ! style="width: 6%;"|防衛回数 ! style="width: 34%;"|備考 |- |align=center |初 |{{Flagicon|JPN}} 藤井章太 |align=center |CMA時代 - 現在 |align=center |0 | |- |} == ウェルター級(-77.1kg) == {| class="wikitable" style="font-size: smaller; width: 100%;" |- ! style="width: 6%;"|代 ! style="width: 27%;"|選手名 ! style="width: 27%;"|在位期間 ! style="width: 6%;"|防衛回数 ! style="width: 34%;"|備考 |- |align=center |初 |{{Flagicon|JPN}} [[レッツ豪太]] |align=center |2016年6月19日 - 2018年12月2日 |align=center |2 |中村勇太との王座決定戦により獲得<br>○ ムン・ジュンヒ([[GLADIATOR 002 in OSAKA]])<br>○ チョモランマ1/2([[GLADIATOR × DEMOLITION Vol.2]]) |- |align=center |― | 空位 |align=center |2018年12月2日 - 現在 |align=center | |レッツ豪太の王座返上により空位 |- |} == ライト級(-70.3kg) == {| class="wikitable" style="font-size: smaller; width: 100%;" |- ! style="width: 6%;"|代 ! style="width: 27%;"|選手名 ! style="width: 27%;"|在位期間 ! style="width: 6%;"|防衛回数 ! style="width: 34%;"|備考 |- |align=center |初 |{{Flagicon|JPN}} 濱村健 |align=center |CMA時代 - 2018年1月21日 |align=center |0 | |- |align=center |2 |{{Flagicon|JPN}} [[岸本泰昭]] |align=center |2018年1月21日 - 2019年5月17日 |align=center |0 |濱村健とのタイトルマッチにより獲得 |- |align=center |― | 空位 |align=center |2019年5月17日 - 2019年7月7日 |align=center | |パンクラス参戦に伴う岸本の王座返上により空位 |- |align=center |3 |{{Flagicon|KOR}} キ・ウォンビン |align=center |2019年7月7日 - 2023年6月11日 |align=center |1 |ヴィトー・トファネリとの王座決定戦により獲得<br>○ グスタボ・ウーリッツァー([[GLADIATOR 020 in OSAKA]]) |- |align=center |暫 | rowspan="2" align="left" |{{Flagicon|JPN}} [[佐々木信治]] |align=center |2021年2月7日 - 2023年6月11日 |align=center |0 |[[植田豊]]との暫定王座決定戦により獲得 |- |align=center |4 |align=center |2023年6月11日 - 現在 |align=center |0 |ウォンビンの王座返上により認定 |} == フェザー級(-65.8kg) == {| class="wikitable" style="font-size: smaller; width: 100%;" |- ! style="width: 6%;"|代 ! style="width: 27%;"|選手名 ! style="width: 27%;"|在位期間 ! style="width: 6%;"|防衛回数 ! style="width: 34%;"|備考 |- |align=center |初 |{{Flagicon|JPN}} 大道翔貴 |align=center |CMA時代 - 2018年9月1日 |align=center |1 |○ 手塚基伸([[GLADIATOR 001 in WAKAYAMA]]) |- |align=center |― | 空位 |align=center |2019年9月1日 - 2018年9月2日 |align=center | |大道の計量欠席に伴う王座剥奪により空位 |- |align=center |2 |{{Flagicon|JPN}} MIKE |align=center |2018年9月2日 - 2021年9月26日 |align=center |0 |大道との変則タイトルマッチにより獲得 |- |align=center |3 |{{Flagicon|JPN}} [[原口央]] |align=center |2021年9月26日 - 2022年11月29日 |align=center |0 |MIKEとのタイトルマッチにより獲得 |- |align=center |― | 空位 |align=center |2018年12月2日 - 2023年1月22日 |align=center | |原口のバンタム級転向に伴う王座返上により空位 |- |align=center |4 |{{Flagicon|KOR}} チョ・ソンビン |align=center |2023年1月22日 - 2023年2月17日 |align=center |0 |中川皓貴との王座決定戦により獲得 |- |align=center |― | 空位 |align=center |2023年2月17日 - 2023年9月30日 |align=center | |ソンビンの王座返上に伴い空位 |- |align=center |5 |{{Flagicon|KOR}} パン・ジェヒョク |align=center |2023年9月30日 - 現在 |align=center |0 |ダギースレン・チャグナードルジによる王座決定戦により獲得 |- |} == バンタム級(-61.2kg) == {| class="wikitable" style="font-size: smaller; width: 100%;" |- ! style="width: 6%;"|代 ! style="width: 27%;"|選手名 ! style="width: 27%;"|在位期間 ! style="width: 6%;"|防衛回数 ! style="width: 34%;"|備考 |- |align=center |初 |{{Flagicon|JPN}} 辻川凌平 |align=center |2016年6月19日 - 2017年1月11日 |align=center |0 |ユ・ジェナムとの王座決定戦により獲得 |- |align=center |― | 空位 |align=center |2017年1月11日 - 2017年3月15日 |align=center | |辻川の王座返上により空位 |- |align=center |2 |{{Flagicon|JPN}} 寒川慶一 |align=center |2017年3月15日 - 2017年6月18日 |align=center |0 |バン・グヮンキとの王座決定戦により獲得 |- |align=center |― | 空位 |align=center |2017年6月18日 - 2017年8月13日 |align=center | |寒川の王座返上により空位 |- |align=center |3 |{{Flagicon|JPN}} 角田成建 |align=center |2017年8月13日 - 2018年 |align=center |0 |渡部修斗との王座決定戦により獲得 |- |align=center |― | 空位 |align=center |2018年 - 2018年6月3日 |align=center | |角田の現役引退により空位 |- |align=center |4 |{{Flagicon|JPN}} じゅん |align=center |2018年6月3日 - 2020年1月15日 |align=center |0 |中澤伸悟との王座決定戦により獲得 |- |align=center |― | 空位 |align=center |2020年1月15日 - 2020年2月23日 |align=center | |じゅんの王座返上により空位 |- |align=center |5 |{{Flagicon|JPN}} 竹本啓哉 |align=center |2020年2月23日 - 2021年9月25日 |align=center |1 |神田T-800周一との王座決定戦により獲得<br>〇 [[清水俊一]]([[GLADIATOR 013 in OSAKA]]) |- |align=center |― | 空位 |align=center |2021年9月25日 - 2022年5月1日 |align=center | |竹本の体重超過に伴う王座剥奪により空位 |- |align=center |6 |{{Flagicon|JPN}} 神田T-800周一 |align=center |2022年5月1日 - 2023年6月11日 |align=center |0 |福島啓太との王座決定戦により獲得 |- |align=center |7 |{{Flagicon|MGL}} テムーレン・アルギルマー |align=center |2023年6月11日 - 2023年9月30日 |align=center |0 |神田T-800周一とのタイトルマッチにより獲得 |- |align=center |8 |{{Flagicon|JPN}} 竹本啓哉 |align=center |2023年9月30日 - 現在 |align=center |0 |アルギルマーとのタイトルマッチにより獲得 |- |} == フライ級(-56.7kg) == {| class="wikitable" style="font-size: smaller; width: 100%;" |- ! style="width: 6%;"|代 ! style="width: 27%;"|選手名 ! style="width: 27%;"|在位期間 ! style="width: 6%;"|防衛回数 ! style="width: 34%;"|備考 |- |align=center |初 |{{Flagicon|JPN}} 南出剛 |align=center |2016年6月19日 - 2017年 |align=center |0 |原猛司との王座決定戦により獲得 |- |align=center |― | 空位 |align=center |2017年 - 2017年8月13日 |align=center | |南出のバンタム級転向に伴う王座返上により空位 |- |align=center |2 |{{Flagicon|JPN}} 加マーク納 |align=center |2017年8月13日 - 2018年9月2日 |align=center |0 |[[NavE]]との王座決定戦により獲得 |- |align=center |3 |{{Flagicon|JPN}} [[NavE]] |align=center |2018年9月2日 - 2022年3月26日 |align=center |1 |加マーク納とのタイトルマッチにより獲得<br>○ [[宮城友一]]([[GLADIATOR 015 in OSAKA]]) |- |align=center |4 |{{Flagicon|MGL}} ニャムジャルガル・トウメンデムベレル |align=center |2022年3月26日 - 2023年4月10日 |align=center |0 |[[NavE]]とのタイトルマッチにより獲得 |- |align=center |― | 空位 |align=center |2023年4月10日 - 現在 |align=center | |トウメンデムベレルの王座返上により空位 |- |} == ライトフライ級(-54.4kg) == {| class="wikitable" style="font-size: smaller; width: 100%;" |- ! style="width: 6%;"|代 ! style="width: 27%;"|選手名 ! style="width: 27%;"|在位期間 ! style="width: 6%;"|防衛回数 ! style="width: 34%;"|備考 |- |align=center |初 |{{Flagicon|JPN}} ヤックル真吾 |align=center |2016年6月19日 - 2016年11月23日 |align=center |0 |谷口No-K友康との王座決定戦により獲得 |- |align=center |2 |{{Flagicon|JPN}} 吉村友菊 |align=center |2016年11月23日 - 2018年1月21日 |align=center |0 |ヤックル真吾とのタイトルマッチにより獲得 |- |align=center |暫 | rowspan="2" align="left" |{{Flagicon|JPN}} [[宮城友一]] |align=center |2017年 - 2018年1月21日 |align=center |0 |吉村の試合欠場により宮城を暫定王者に認定 |- |align=center |3 |align=center |2018年1月21日 - 2021年9月27日 |align=center |0 |吉村との王座統一戦により獲得 |- |align=center |― | 空位 |align=center |2021年9月27日 - 現在 |align=center | |宮城がフライ級王座挑戦のための王座返上により空位 |- |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://gladiator-fc.com/ GLADIATOR公式サイト] {{総合格闘技王者}} {{世界の総合格闘技団体}} [[Category:総合格闘技の王者]] [[Category:格闘家一覧]]
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川崎大次郎
川崎 大次郎(かわさき だいじろう、1906年10月26日 - 2000年9月25日)は、日本の実業家、第百生命保険代表取締役会長・社長。 1906年10月26日、川崎金三郎(2代目川崎八右衛門)の次男として東京で生まれる。祖父は、東京川崎財閥創設者の初代川崎八右衛門。兄は川崎守之助 (日本火災保険社長、千葉工業大学第6代理事長)。 立教大学商学部に入学。1925年に米国へ留学し、1929年、米国ケニオン大学卒業。同年、立教大学商学部を卒業。その後、川崎貯蓄銀行に入行。 1949年、第百生命保険常務、1959年、第百生命保険専務を経て、1965年、第百生命保険社長に就任。1973年、第百生命保険会長に就任した。1970年に藍綬褒章、1976年に勲四等旭日小綬章を受章。 1986年、第百生命保険取締役相談役、1987年、第百生命保険相談役。 2000年9月25日、心不全のため死去。
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川崎 大次郎は、日本の実業家、第百生命保険代表取締役会長・社長。
'''川崎 大次郎'''(かわさき だいじろう、[[1906年]][[10月26日]] - [[2000年]][[9月25日]]<ref name="bukko">『現代物故者事典2000~2002』(日外アソシエーツ、2003年)p.191</ref>)は、日本の[[実業家]]、[[第百生命保険]]代表取締役会長・社長<ref name="doc1">吉田勝昭の「私の履歴書」研究 [https://biz-myhistory.com/post_rirekisho/%E5%B7%9D%E5%B4%8E%E5%A4%A7%E6%AC%A1%E9%83%8E/ 『川崎大次郎』]</ref><ref name="doc2">閨閥学 川崎家[https://keibatsugaku.com/kawasaki-2/ 『川崎大次郎』]</ref>。 == 人物・経歴 == [[1906年]]10月26日、川崎金三郎([[川崎八右衛門 (2代目)|2代目川崎八右衛門]])の次男として東京で生まれる。祖父は、[[東京川崎財閥]]創設者の初代[[川崎八右衛門]]<ref name="doc1"/><ref name="doc2"/>。兄は[[川崎守之助]] ([[日本火災保険]]社長、[[千葉工業大学]]第6代理事長)。 [[立教大学]]商学部に入学。1925年に米国へ留学し、1929年、米国[[ケニオン大学]]卒業。同年、立教大学商学部を卒業<ref name="doc1"/><ref>[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/57(S32)1210_150.pdf 立教大学新聞 第150号] 1957年12月10日</ref>。その後、川崎貯蓄銀行に入行<ref name="doc1"/>。 1949年、[[第百生命保険]]常務、1959年、第百生命保険専務を経て、1965年、第百生命保険社長に就任。1973年、第百生命保険会長に就任した<ref name="doc2"/>。1970年に[[藍綬褒章]]、1976年に勲四等[[旭日小綬章]]を受章<ref name="bukko"/>。   1986年、第百生命保険取締役相談役、1987年、第百生命保険相談役<ref name="doc2"/>。 2000年9月25日、心不全のため死去<ref name="bukko"/>。 == 脚注 == {{Reflist}} {{businessperson-stub}} {{DEFAULTSORT:かわさき たいしろう}} [[Category:20世紀日本の実業家]] [[Category:川崎八右衛門家]] [[Category:東京川崎財閥]] [[Category:藍綬褒章受章者]] [[Category:勲四等旭日小綬章受章者]] [[Category:ケニオン大学出身の人物]] [[Category:立教大学出身の人物]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:1906年生]] [[Category:2000年没]]
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鈴木悠仁
鈴木 悠仁(すずき ゆうじん、2004年〈平成16年〉9月5日 - )は、日本の歌手、俳優、タレント、アイドル。ジュニア内男性アイドルグループ・少年忍者のメンバー 。 神奈川県出身。SMILE-UP.(旧ジャニーズ事務所)所属。 2018年6月23日にジャニーズ事務所に入所。少年忍者のメンバーとして活動する。 同期に稲葉通陽、深田竜生、長瀬結星、小田将聖、田村海琉、山井飛翔などがいる。 特技は歌、ギター。趣味はギター、ベース、ドラム、スケボー。
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鈴木 悠仁は、日本の歌手、俳優、タレント、アイドル。ジュニア内男性アイドルグループ・少年忍者のメンバー。 神奈川県出身。SMILE-UP.(旧ジャニーズ事務所)所属。
{{特筆性|date=2023年10月}} {{ActorActress | ふりがな = すずき ゆうじん | 芸名 = 鈴木 悠仁 | 出身地 = {{JPN}}・[[神奈川県]]<ref name="profile">{{Cite web|和書|title=鈴木悠仁 プロフィール|url=https://jr-official.com/s/jr/persons/138?ima=1428|website=ジュニア Official Website|publisher=ジャニーズアイランド| accessdate = 2023-09-05}}</ref> | 生年 = 2004 | 生月 = 9 | 生日 = 5 | 血液型 = [[ABO式血液型|AB型]]<ref name="profile" /> | 身長 = 176 [[センチメートル|cm]]<ref name="profile" /> | 職業 = [[アイドル]]・[[俳優]]・[[歌手]]・[[タレント]] | 活動期間 = [[2018年]][[6月23日]]<ref name="profile" /> - | 事務所 =[[ジャニーズ事務所]](2018年 - 2023年10月16日)<br />[[ジャニーズ事務所#SMILE-UP.|SMILE-UP.]](2023年10月17日 - ) | 公式サイト = [https://jr-official.com/s/jr/persons/138?ima=1428 鈴木悠仁 プロフィール] | 備考 = 少年忍者のメンバー。 }} '''鈴木 悠仁'''(すずき ゆうじん、[[2004年]]〈[[平成]]16年〉[[9月5日]]<ref name="profile" /> - )は、[[日本]]の[[歌手]]、[[俳優]]、[[タレント]]、[[アイドル]]。[[ジャニーズJr.|ジュニア]]内[[アイドル#男性アイドル史|男性アイドルグループ]]・[[ジャニーズJr.#少年忍者|少年忍者]]のメンバー 。 [[神奈川県]]出身<ref name="profile" />。[[ジャニーズ事務所#SMILE-UP.|SMILE-UP.]](旧[[ジャニーズ事務所]])所属<ref>{{Cite web|和書|title=会社概要 {{!}} 株式会社SMILE-UP. |url=https://www.smile-up.inc/company |website=www.smile-up.inc |access-date=2023-10-17 |language=ja}}</ref>。 == 来歴 == 2018年6月23日に[[ジャニーズ事務所]]に入所<ref name="profile" />。[[ジャニーズJr.#少年忍者|少年忍者]]のメンバーとして活動する。 同期に[[稲葉通陽]]、[[深田竜生]]、[[長瀬結星]]、[[小田将聖]]、[[田村海琉]]、山井飛翔などがいる<ref>{{cite video|和書|title=少年忍者【同期会】2018年6月入所7人組で語り尽くした~|date=2023-08-23|url=https://jr-official.com/s/jr/video/106679|publisher=ジャニーズアイランド|accessdate=2023-09-11}}</ref>。 == 人物 == 特技は歌、ギター。趣味はギター、ベース、ドラム、スケボー<ref name="profile" />。 == 出演 == {{Main2|少年忍者としての出演|ジャニーズJr.#少年忍者}} === テレビドラマ === * [[青のSP―学校内警察・嶋田隆平―]](2021年1月12日 - 3月6日、[[関西テレビ放送|関西テレビ]]・[[フジテレビジョン|フジテレビ]]) - 菊池京介 役<ref>{{Cite web|和書| url = https://thetv.jp/news/detail/1011026/p2/| title = 藤原竜也主演「青のSP」生徒役に鈴木梨央、ジャニーズJr.鈴木悠仁、荒木飛羽ら31人が決定|date=2020-11-16| website = WEBザテレビジョン| publisher = KADOKAWA| accessdate = 2023-09-11}}</ref> === 舞台 === * MUSICAL SHOW『日劇前で逢いましょう〜昭和みたいな恋をしよう〜』(2023年10月27日 - 29日、[[COOL JAPAN PARK OSAKA#ホール|COOL JAPAN PARK OSAKA TTホール]] / 11月2日 - 12日、[[サンシャイン劇場]]) - ジン 役<ref>{{Cite web|和書| url = http://spice.eplus.jp/articles/321240| title = 北川拓実(少年忍者/ジャニーズJr.)主演&ミュージカル初出演 懐かしの昭和歌謡と洋楽POPSを歌い踊る、MUSICAL SHOW『日劇前で逢いましょう』上演決定| date = 2023-08-18| website = SPICE| publisher = イープラス| accessdate = 2023-09-11}}</ref> * フォーティンブラス(2024年3月1日 - 18日、[[紀伊國屋ホール]] / 3月23日・24日、[[新神戸オリエンタルシティ#AiiA 2.5 Theater Kobe|AiiA 2.5 Theater Kobe]]) - 岸川和馬 役<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/stage/news/552740|title=「フォーティンブラス」に主演の佐々木大光「先輩方にも負けないように」共演は鈴木悠仁|website=ステージナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-12-12|accessdate=2023-12-12}}</ref> === 映画 === * [[東西ジャニーズJr. ぼくらのサバイバルウォーズ]] (2022年4月1日公開、[[松竹]]) - 竹田 役<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.cinematoday.jp/movie/T0026991 | title = 東西ジャニーズJr. ぼくらのサバイバルウォーズ (2022):あらすじ・キャスト・動画など作品情報| publisher = シネマトゥデイ | accessdate = 2023-09-11}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://www.johnnys-net.jp/page?id=artistTop&artist=21 FAMILY CLUB Official Site > ジュニア] * [https://jr-official.com/s/jr/persons/138?ima=1428 鈴木悠仁 プロフィール] - ジュニア Official Website {{ジャニーズJr.}} {{Idol-stub}} {{DEFAULTSORT:すずき ゆうしん}} [[Category:日本の男優]] [[Category:日本の男性歌手]] [[Category:日本のタレント]] [[Category:ジャニーズJr.]] [[Category:2004年生]] [[Category:存命人物]]
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愛便器 隣の絶倫お姉さん
『愛便器 隣の絶倫お姉さん』は、とんのすけによる日本の成人向け漫画。 工藤は面接の不採用をくらい帰宅したが隣人の東城と鉢合わせをした。 東城とのことで物思いにふけっていたが突如、東城の部屋から物音が聞こえた。心配した工藤は東城の部屋に行くが、そこにはオナニーにふけっていた東城がいた。 東城も突如来た工藤に動揺するが冷静になりエッチの手伝いを頼み、そのまま性行為に及ぶ。 片瀬と坂本は一緒に飲んでいた。 片瀬は酒に酔いすぎてしまい、坂本と一線を越えてしまう。 このことで片瀬は坂本を性的な目でみるようになり、坂本もその気になり様々なプレイを楽しむようになる。 すみれと武治の姉弟がアイスのつまみぐいのことで喧嘩をしていた。 とりあえずは喧嘩が収まったが夜になると、すみれはペットのごとく武治に従順な姿勢をしていた。 二人は実の姉弟でありながら主従プレイをする関係でもあった。 ;父親 土屋は好きな人がおり、その相談を牧村にする。 それにより様々な性体験をすることで垢ぬけて土屋は自信を持つようになった。 しかし、好きになった人である丸山は違う女性と結婚してしまい、悲嘆にくれるが、その間は牧村が世話をするということで一件落着した。 空手部の女子マネージャーである響は「今度の大会で一勝でもしたらオッパイを見せてくれ」と頼まれていた。当然、響は嫌がるがモチベーションを上げるためにも「優勝したら見せてもいい」という条件で承諾した。弱小学校であるので優勝は無理と思ってのことであった。 しかし、やる気を出し過ぎた部員たちは見事に優勝してしまい、響も困惑してしまった。 響も自分の出した条件だから仕方がないと観念してまずは上着を脱いでブラジャー姿になり、部員たちもすぐに興奮する。 ブラジャー姿でも魅力を感じる響の胸に部員たちの興奮は止まらず、そろそろ生乳を見せてほしいとせがみ、響もブラジャーのホックを外す。 ついに響は生乳を見せ、部員たちも歓喜の声を上げる。響も観念して開き直るが自分に近づいてくる部員たちに緊張してしまう 響は部員たちを止めようとするが、その中でも特に自分に近づいてきた部員に乳首を舐められて、吸われてしまう。これには響も感じてしまった。 その部員はすぐに謝り、響も許したものの、相変わらず生乳を見られたことで響は身体が火照ってしまう。しかも部員たちも自分の物をしごいて射精をしようとしているのである。 あまりの興奮と光景に静かになる響に部員たちは「自慰をしてもいいですか」と敢えて許可を頼んだが、茫然としていた響は咄嗟の反応で「うん」といってしまったが、それを肯定の意味で解釈されてしまう。 とりあえず自分で胸を揉んでもらいたいと頼まれ、響もその通りにする。 自分の乳首をなめるなどで響も自慰をするようになり、響はついに自分からパンツも脱いで全裸になり、積極的に股を開いて見せびらかすほどとなる。 約束のことは反故にするから好きにしてくれも構わないと言った響に部員たちは揃って響を愛撫した。 響は絶頂に達し、流石にもう無理と思ったがそれでも部員たちの愛撫を受け入れているのであった。
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『愛便器 隣の絶倫お姉さん』は、とんのすけによる日本の成人向け漫画。
{{性的}} {{Infobox animanga/Header |タイトル=愛便器 隣の絶倫お姉さん |画像= |サイズ= |説明= |ジャンル=[[成人向け漫画]] }} {{Infobox animanga/Manga |タイトル= |作者=[[とんのすけ]] |作画= |出版社=クロエ出版 |他出版= |掲載誌= |レーベル=真激COMICS |発売日=2015年11月6日<ref>[https://www.pixiv.net/artworks/53311840 #オリジナル 11月6日発売単行本表紙 - とんのすけのイラスト - pixiv]</ref> |開始号 |終了号= |開始日= |終了日= |発表期間= |巻数=全1巻 |話数=全10話 }} {{Infobox animanga/Footer |ウィキプロジェクト=[[プロジェクト:漫画|漫画]] |ウィキポータル=[[Portal:漫画|漫画]] }} 『'''愛便器 隣の絶倫お姉さん'''』は、[[とんのすけ]]による[[日本]]の成人向け[[漫画]]。 == 目撃!隣のお姉さん 浴場!隣のお姉さん 禁欲!隣のお姉さん 絶倫!隣のお姉さん == === ストーリー === 工藤は面接の不採用をくらい帰宅したが隣人の東城と鉢合わせをした。 東城とのことで物思いにふけっていたが突如、東城の部屋から物音が聞こえた。心配した工藤は東城の部屋に行くが、そこにはオナニーにふけっていた東城がいた。 東城も突如来た工藤に動揺するが冷静になりエッチの手伝いを頼み、そのまま性行為に及ぶ。 === 登場人物 === ;工藤 :不採用続きの青年<ref>とんのすけ「目撃!隣のお姉さん」『愛便器 隣の絶倫お姉さん』、クロエ出版、2015年11月6日、3頁。</ref>。 ;東城 :工藤の隣人。美人であり<ref>とんのすけ「浴場!隣のお姉さん」『愛便器 隣の絶倫お姉さん』、クロエ出版、2015年11月6日、20頁。</ref>現役の名門女子大生<ref>とんのすけ「目撃!隣のお姉さん」『愛便器 隣の絶倫お姉さん』、クロエ出版、2015年11月6日、4頁。</ref>。工藤からも清楚で大人しいと思われる風貌だが<ref>とんのすけ「目撃!隣のお姉さん」『愛便器 隣の絶倫お姉さん』、クロエ出版、2015年11月6日、15頁。</ref>実態はアナルも開発している変態<ref>とんのすけ「目撃!隣のお姉さん」『愛便器 隣の絶倫お姉さん』、クロエ出版、2015年11月6日、14頁。</ref>。性欲絶倫で体力は工藤以上<ref>とんのすけ「浴場!隣のお姉さん」『愛便器 隣の絶倫お姉さん』、クロエ出版、2015年11月6日、40頁。</ref>。 == 片瀬課長はマゾdoれい == === ストーリー === 片瀬と坂本は一緒に飲んでいた。 片瀬は酒に酔いすぎてしまい、坂本と一線を越えてしまう。 このことで片瀬は坂本を性的な目でみるようになり、坂本もその気になり様々なプレイを楽しむようになる。 === 登場人物 === ;坂本 :片瀬の身体に興味を持っている。念を入れて録音などをして証拠を残す、したたかな一面を持つ<ref>とんのすけ「片瀬課長はマゾdoれい」『愛便器 隣の絶倫お姉さん』、クロエ出版、2015年11月6日、46頁。</ref>。 ;片瀬 :課長。エロすぎるスタイルの身体<ref>とんのすけ「片瀬課長はマゾdoれい」『愛便器 隣の絶倫お姉さん』、クロエ出版、2015年11月6日、42頁。</ref>。酒癖が非常に悪く片瀬課長<ref>とんのすけ「片瀬課長はマゾdoれい」『愛便器 隣の絶倫お姉さん』、クロエ出版、2015年11月6日、43頁。</ref>、これが坂本とのエッチの一因となった。乳首が露出するブラジャーをつけるなど性的な性分<ref>とんのすけ「片瀬課長はマゾdoれい」『愛便器 隣の絶倫お姉さん』、クロエ出版、2015年11月6日、49頁。</ref>。 == 飼う飼うシスター! 続・飼う飼うシスター! == === ストーリー === すみれと武治の姉弟がアイスのつまみぐいのことで喧嘩をしていた。 とりあえずは喧嘩が収まったが夜になると、すみれはペットのごとく武治に従順な姿勢をしていた。 二人は実の姉弟でありながら主従プレイをする関係でもあった。 === 登場人物 === ;武治 :すみれの弟。いつも姉にアイスを食われている。姉曰く、素直で気が弱い<ref>とんのすけ「飼う飼うシスター!」『愛便器 隣の絶倫お姉さん』、クロエ出版、2015年11月6日、76頁。</ref>。コミックインターネットでバイトしている<ref>とんのすけ「続・飼う飼うシスター!」『愛便器 隣の絶倫お姉さん』、クロエ出版、2015年11月6日、96頁。</ref>。 ;すみれ :武治の姉。食い意地が張っており、いつも武治のアイスを食べてしまう<ref>とんのすけ「飼う飼うシスター!」『愛便器 隣の絶倫お姉さん』、クロエ出版、2015年11月6日、68頁。</ref>。意趣返しをくらったら、大きくムキになる子供の一面もある<ref>とんのすけ「飼う飼うシスター!」『愛便器 隣の絶倫お姉さん』、クロエ出版、2015年11月6日、69頁。</ref>。 ;父親 :子供たちの喧嘩に呆れながらも冷静になだめるなど物腰柔らかい。 ;母親。 :アイスを食べられてしまった武治のためにアイスを買う優しい性格<ref>とんのすけ「飼う飼うシスター!」『愛便器 隣の絶倫お姉さん』、クロエ出版、2015年11月6日、82頁。</ref>。 == らぶれくちゃー == === ストーリー === 土屋は好きな人がおり、その相談を牧村にする。 それにより様々な性体験をすることで垢ぬけて土屋は自信を持つようになった。 しかし、好きになった人である丸山は違う女性と結婚してしまい、悲嘆にくれるが、その間は牧村が世話をするということで一件落着した。 === 登場人物 === ;牧村ゆう :生徒。土屋とは小さい頃からの付き合い<ref>とんのすけ「らぶれくちゃー」『愛便器 隣の絶倫お姉さん』、クロエ出版、2015年11月6日、122頁。</ref>。 ;土屋道子 :女教師。地味子と陰口を叩かれている<ref>とんのすけ「らぶれくちゃー」『愛便器 隣の絶倫お姉さん』、クロエ出版、2015年11月6日、120頁。</ref>。処女だったが牧村と初体験を迎える<ref>とんのすけ「らぶれくちゃー」『愛便器 隣の絶倫お姉さん』、クロエ出版、2015年11月6日、125頁。</ref>。 ;丸山 :体育教師。 == 武道×ぶっかけ == === ストーリー === 空手部の女子マネージャーである響は「今度の大会で一勝でもしたらオッパイを見せてくれ」と頼まれていた。当然、響は嫌がるがモチベーションを上げるためにも「優勝したら見せてもいい」という条件で承諾した。弱小学校であるので優勝は無理と思ってのことであった。 しかし、やる気を出し過ぎた部員たちは見事に優勝してしまい、響も困惑してしまった。 響も自分の出した条件だから仕方がないと観念してまずは上着を脱いでブラジャー姿になり、部員たちもすぐに興奮する。 ブラジャー姿でも魅力を感じる響の胸に部員たちの興奮は止まらず、そろそろ生乳を見せてほしいとせがみ、響もブラジャーのホックを外す。 ついに響は生乳を見せ、部員たちも歓喜の声を上げる。響も観念して開き直るが自分に近づいてくる部員たちに緊張してしまう 響は部員たちを止めようとするが、その中でも特に自分に近づいてきた部員に乳首を舐められて、吸われてしまう。これには響も感じてしまった。 その部員はすぐに謝り、響も許したものの、相変わらず生乳を見られたことで響は身体が火照ってしまう。しかも部員たちも自分の物をしごいて射精をしようとしているのである。 あまりの興奮と光景に静かになる響に部員たちは「自慰をしてもいいですか」と敢えて許可を頼んだが、茫然としていた響は咄嗟の反応で「うん」といってしまったが、それを肯定の意味で解釈されてしまう。 とりあえず自分で胸を揉んでもらいたいと頼まれ、響もその通りにする。 自分の乳首をなめるなどで響も自慰をするようになり、響はついに自分からパンツも脱いで全裸になり、積極的に股を開いて見せびらかすほどとなる。 約束のことは反故にするから好きにしてくれも構わないと言った響に部員たちは揃って響を愛撫した。 響は絶頂に達し、流石にもう無理と思ったがそれでも部員たちの愛撫を受け入れているのであった。 === 登場人物 === ;響 :空手部の女子マネージャー。でかいと言われる胸を持つ巨乳<ref>とんのすけ「武道×ぶっかけ」『愛便器 隣の絶倫お姉さん』、クロエ出版、2015年11月6日、148頁。</ref>で自分で乳首をなめることができる<ref>とんのすけ「武道×ぶっかけ」『愛便器 隣の絶倫お姉さん』、クロエ出版、2015年11月6日、154頁。</ref>。条件をクリアした部員たちに潔く胸を見せて、当初は愛撫の条件がなかったのに自分の乳首を吸った部員を咎めることをしないなど優しい性格をしている<ref>とんのすけ「武道×ぶっかけ」『愛便器 隣の絶倫お姉さん』、クロエ出版、2015年11月6日、150頁。</ref>。当初は唖然としながら胸を見せていたが次第に身体が火照るなど、その気になってしまい<ref>とんのすけ「武道×ぶっかけ」『愛便器 隣の絶倫お姉さん』、クロエ出版、2015年11月6日、151頁。</ref>、 ;部員たち :部員一同で響に胸を見せるように頼んだ。 ;たなか :部員の一人。優勝決勝戦で勝利した部員<ref>とんのすけ「武道×ぶっかけ」『愛便器 隣の絶倫お姉さん』、クロエ出版、2015年11月6日、146頁。</ref>。 == 幼馴染とダイエッと! == === 登場人物 === ;忠 :ダイエットに励んでいる。 ;めぐ :忠の幼馴染。 == 書誌情報 == *とんのすけ 『愛便器 隣の絶倫お姉さん』 クロエ出版、全1巻、2015年11月6日発売 == 脚注 == === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 出典 === {{Reflist}} {{Manga-stub}} {{DEFAULTSORT:あいへんきとなりのせつりんおねえさん}} [[Category:漫画作品 あ|いへんきとなりのせつりんおねえさん]] [[Category:成人向け漫画]]
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長嶺 (宮崎市)
長嶺(ながみね)とは、宮崎県宮崎市内の地名。正式には「宮崎市大字長嶺」の表記となる。生目地域自治区に属している。郵便番号は880-2115。 宮崎市の中西部、生目地域自治区に属する。 北を大字富吉、東を浮田、南を大字細江、西を高岡町上倉永と接する。 2023年(令和5年)8月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである。 市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。 宮交グループの運営するバスが営業している。
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長嶺(ながみね)とは、宮崎県宮崎市内の地名。正式には「宮崎市大字長嶺」の表記となる。生目地域自治区に属している。郵便番号は880-2115。
{{Infobox settlement | name = 大字長嶺 | settlement_type = 大字 | image_skyline = | imagesize = | image_caption = | image_map = | map_caption = 大字長嶺の位置 | pushpin_map = Japan Miyazaki | latd = 31 | latm = 55 | lats = 19.0 | latNS = N | longd = 131 | longm = 21 | longs = 21.2 | longEW = E | subdivision_type = [[国の一覧|国]] | subdivision_name = {{JPN}} | subdivision_type1 = [[都道府県]] | subdivision_name1 = [[File:Flag of Miyazaki Prefecture.svg|border|25px]] [[宮崎県]] | subdivision_type2 = [[市町村]] | subdivision_name2 = [[File:Flag of Miyazaki, Miyazaki.svg|border|25px]] [[宮崎市]] | subdivision_type3 = 地区 | subdivision_name3 = [[生目地域自治区]] | established_title1 = | established_date1 = | area_footnotes = <!--- 面積(<ref>) ---> | area_total_km2 = <!--- 面積 ---> | elevation_footnotes = <!--- 標高(<ref>) ---> | elevation_m = <!--- 標高 ---> | population_as_of = [[2023年]]([[令和]]5年)[[8月1日]]現在 | population_footnotes = <ref name="population">{{Cite web|和書|url=https://www.city.miyazaki.miyazaki.jp/city/statistics/population/12314.html|title=地域自治区別・町丁大字別 人口・世帯数 |publisher=宮崎市|language=日本語|accessdate=2023-09-11}}</ref> | population_total = 240 | population_density_km2 = auto | timezone1 = [[日本標準時]] | utc_offset1 = +9 | postal_code_type = [[日本の郵便番号|郵便番号]] | postal_code = 880-2115<ref name="postal">{{Cite web|和書|url=https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?zip=8802115|title=郵便番号|publisher=[[日本郵便]] |accessdate=2023-09-11}}</ref> | area_code = 0985<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/top/tel_number/shigai_list.html|title=市外局番の一覧|publisher=総務省|accessdate=2023-09-11}}</ref> | registration_plate = [[宮崎運輸支局|宮崎]] | footnotes = }} '''長嶺'''(ながみね)とは、[[宮崎県]][[宮崎市]]内の地名。正式には「宮崎市'''大字長嶺'''」の表記となる。[[生目地域自治区]]に属している。郵便番号は880-2115<ref name="postal" />。 == 地理 == 宮崎市の中西部、生目地域自治区に属する。 北を[[富吉 (宮崎市)|大字富吉]]、東を[[浮田 (宮崎市)|浮田]]、南を[[細江 (宮崎市)|大字細江]]、西を[[高岡町上倉永]]と接する。 == 地名の由来 == {{See also|生目地域自治区#地名の由来}} == 歴史 == * [[1889年]]([[明治]]22年)[[5月1日]] - [[町村制]]の施行により、[[宮崎郡]]浮田村・生目村・細江村・長嶺村・跡江村・富吉村・柏原村・小松村の区域をもって生目村が発足。 * [[1963年]]([[昭和]]38年)[[4月1日]] - 宮崎市が生目村を編入。大字長嶺が成立。 * [[2006年]](平成18年)[[1月1日]] - 生目地域自治区に所属となる。 == 世帯数と人口 == 2023年(令和5年)8月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである<ref name="population" />。 {| class="wikitable" ![[町丁]] ![[世帯|世帯数]] ![[人口]] |- |大字長嶺 |131世帯 |240人 |} == 小・中学校の学区 == 市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる<ref>{{Cite web|和書|url=https://ops-jg.d1-law.com/opensearch/SrJbF01/init?jctcd=8A91AC49CB&houcd=H346920100001&no=5&totalCount=20&fromJsp=SrMj |title=宮崎市立小中学校の通学区域に関する規則 |publisher=宮崎市 |accessdate=2023-09-11}}</ref>。 {| class="wikitable" !町名 !小学校 !中学校 |- |大字長嶺 |[[宮崎市立生目小学校]] |[[宮崎市立生目南中学校]] |} == 交通 == === バス === 宮交グループ<ref>宮交グループ http://www.miyakoh.co.jp/ </ref>の運営するバスが営業している。 === 道路 === * [[東九州自動車道]](通過のみ) * 農免道路 長嶺地区 == 施設 == == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 関連項目 == * [[宮崎市の地名]] == 外部リンク == * [https://www.city.miyazaki.miyazaki.jp/ 宮崎市] * [https://geoshape.ex.nii.ac.jp/ka/resource/45/452011560.html 宮崎県宮崎市大字長嶺(452011560) | 国勢調査町丁・字等別境界データセット] {{宮崎市の町・字}} {{DEFAULTSORT:なかみね}} [[Category:宮崎市の町・字]]
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有田 (宮崎市)
有田(ありた)とは、宮崎県宮崎市内の地名。正式には「宮崎市大字有田」の表記となる。生目地域自治区に属している。郵便番号は880-2102。 宮崎市の中西部、生目地域自治区に属する。北を大淀川と面し、本庄川が合流する。 東を大字跡江、南を大字柏原、西を大字富吉と接する。大淀川を挟み、大字大瀬町、大字糸原と接する。 2023年(令和5年)8月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである。 市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。 宮交グループの運営するバスが営業している。
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有田(ありた)とは、宮崎県宮崎市内の地名。正式には「宮崎市大字有田」の表記となる。生目地域自治区に属している。郵便番号は880-2102。
{{Infobox settlement | name = 大字有田 | settlement_type = 大字 | image_skyline = | imagesize = | image_caption = | image_map = | map_caption = 大字有田の位置 | pushpin_map = Japan Miyazaki | latd = 31 | latm = 57 | lats = 03.8 | latNS = N | longd = 131 | longm = 22 | longs = 26.2 | longEW = E | subdivision_type = [[国の一覧|国]] | subdivision_name = {{JPN}} | subdivision_type1 = [[都道府県]] | subdivision_name1 = [[File:Flag of Miyazaki Prefecture.svg|border|25px]] [[宮崎県]] | subdivision_type2 = [[市町村]] | subdivision_name2 = [[File:Flag of Miyazaki, Miyazaki.svg|border|25px]] [[宮崎市]] | subdivision_type3 = 地区 | subdivision_name3 = [[生目地域自治区]] | established_title1 = | established_date1 = | area_footnotes = <!--- 面積(<ref>) ---> | area_total_km2 = <!--- 面積 ---> | elevation_footnotes = <!--- 標高(<ref>) ---> | elevation_m = <!--- 標高 ---> | population_as_of = [[2023年]]([[令和]]5年)[[8月1日]]現在 | population_footnotes = <ref name="population">{{Cite web|和書|url=https://www.city.miyazaki.miyazaki.jp/city/statistics/population/12314.html|title=地域自治区別・町丁大字別 人口・世帯数 |publisher=宮崎市|language=日本語|accessdate=2023-09-11}}</ref> | population_total = 545 | population_density_km2 = auto | timezone1 = [[日本標準時]] | utc_offset1 = +9 | postal_code_type = [[日本の郵便番号|郵便番号]] | postal_code = 880-2102<ref name="postal">{{Cite web|和書|url=https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?zip=8802102|title=郵便番号|publisher=[[日本郵便]] |accessdate=2023-09-11}}</ref> | area_code = 0985<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/top/tel_number/shigai_list.html|title=市外局番の一覧|publisher=総務省|accessdate=2023-09-11}}</ref> | registration_plate = [[宮崎運輸支局|宮崎]] | footnotes = }} '''有田'''(ありた)とは、[[宮崎県]][[宮崎市]]内の地名。正式には「宮崎市'''大字有田'''」の表記となる。[[生目地域自治区]]に属している。郵便番号は880-2102<ref name="postal" />。 == 地理 == 宮崎市の中西部、生目地域自治区に属する。北を[[大淀川]]と面し、[[本庄川]]が合流する。 東を[[跡江|大字跡江]]、南を[[柏原 (宮崎市)|大字柏原]]、西を[[富吉 (宮崎市)|大字富吉]]と接する。大淀川を挟み、[[大瀬町 (宮崎市)|大字大瀬町]]、[[糸原|大字糸原]]と接する。 == 地名の由来 == {{See also|生目地域自治区#地名の由来}} == 歴史 == * [[1889年]]([[明治]]22年)[[5月1日]] - [[町村制]]の施行により、[[宮崎郡]]浮田村・生目村・細江村・長嶺村・跡江村・富吉村・柏原村・小松村の区域をもって生目村が発足。 * [[1963年]]([[昭和]]38年)[[4月1日]] - 宮崎市が生目村を編入。大字有田が成立。 * [[2006年]](平成18年)[[1月1日]] - 生目地域自治区に所属となる。 == 世帯数と人口 == 2023年(令和5年)8月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである<ref name="population" />。 {| class="wikitable" ![[町丁]] ![[世帯|世帯数]] ![[人口]] |- |大字有田 |269世帯 |545人 |} == 小・中学校の学区 == 市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる<ref>{{Cite web|和書|url=https://ops-jg.d1-law.com/opensearch/SrJbF01/init?jctcd=8A91AC49CB&houcd=H346920100001&no=5&totalCount=20&fromJsp=SrMj |title=宮崎市立小中学校の通学区域に関する規則 |publisher=宮崎市 |accessdate=2023-09-11}}</ref>。 {| class="wikitable" !町名 !小学校 !中学校 |- |大字有田 |[[宮崎市立生目小学校]] |[[宮崎市立生目南中学校]] |} == 交通 == === バス === 宮交グループ<ref>宮交グループ http://www.miyakoh.co.jp/ </ref>の運営するバスが営業している。 === 道路 === * [[宮崎県道17号南俣宮崎線]] == 施設 == * [[宮崎市郡医師会病院]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 関連項目 == * [[宮崎市の地名]] == 外部リンク == * [https://www.city.miyazaki.miyazaki.jp/ 宮崎市] * [https://geoshape.ex.nii.ac.jp/ka/resource/45/452011570.html 宮崎県宮崎市大字有田(452011570) | 国勢調査町丁・字等別境界データセット] {{宮崎市の町・字}} {{DEFAULTSORT:ありた}} [[Category:宮崎市の町・字]]
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柏原 (宮崎市)
柏原(かしわばる)とは、宮崎県宮崎市内の地名。正式には「宮崎市大字柏原」の表記となる。生目地域自治区に属している。郵便番号は880-2111。 宮崎市の中西部、生目地域自治区に属する。 北を大字有田、東を大字跡江、南を大字浮田、西を大字富吉と接する。 2023年(令和5年)8月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである。 市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。 宮交グループの運営するバスが営業している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "柏原(かしわばる)とは、宮崎県宮崎市内の地名。正式には「宮崎市大字柏原」の表記となる。生目地域自治区に属している。郵便番号は880-2111。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "宮崎市の中西部、生目地域自治区に属する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "北を大字有田、東を大字跡江、南を大字浮田、西を大字富吉と接する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2023年(令和5年)8月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである。", "title": "世帯数と人口" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。", "title": "小・中学校の学区" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "宮交グループの運営するバスが営業している。", "title": "交通" } ]
柏原(かしわばる)とは、宮崎県宮崎市内の地名。正式には「宮崎市大字柏原」の表記となる。生目地域自治区に属している。郵便番号は880-2111。
{{Infobox settlement | name = 大字柏原 | settlement_type = 大字 | image_skyline = | imagesize = | image_caption = | image_map = | map_caption = 大字柏原の位置 | pushpin_map = Japan Miyazaki | latd = 31 | latm = 56 | lats = 13.7 | latNS = N | longd = 131 | longm = 22 | longs =17.5 | longEW = E | subdivision_type = [[国の一覧|国]] | subdivision_name = {{JPN}} | subdivision_type1 = [[都道府県]] | subdivision_name1 = [[File:Flag of Miyazaki Prefecture.svg|border|25px]] [[宮崎県]] | subdivision_type2 = [[市町村]] | subdivision_name2 = [[File:Flag of Miyazaki, Miyazaki.svg|border|25px]] [[宮崎市]] | subdivision_type3 = 地区 | subdivision_name3 = [[生目地域自治区]] | established_title1 = | established_date1 = | area_footnotes = <!--- 面積(<ref>) ---> | area_total_km2 = <!--- 面積 ---> | elevation_footnotes = <!--- 標高(<ref>) ---> | elevation_m = <!--- 標高 ---> | population_as_of = [[2023年]]([[令和]]5年)[[8月1日]]現在 | population_footnotes = <ref name="population">{{Cite web|和書|url=https://www.city.miyazaki.miyazaki.jp/city/statistics/population/12314.html|title=地域自治区別・町丁大字別 人口・世帯数 |publisher=宮崎市|language=日本語|accessdate=2023-09-11}}</ref> | population_total = 548 | population_density_km2 = auto | timezone1 = [[日本標準時]] | utc_offset1 = +9 | postal_code_type = [[日本の郵便番号|郵便番号]] | postal_code = 880-2111<ref name="postal">{{Cite web|和書|url=https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?zip=8802111|title=郵便番号|publisher=[[日本郵便]] |accessdate=2023-09-11}}</ref> | area_code = 0985<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/top/tel_number/shigai_list.html|title=市外局番の一覧|publisher=総務省|accessdate=2023-09-11}}</ref> | registration_plate = [[宮崎運輸支局|宮崎]] | footnotes = }} '''柏原'''(かしわばる)とは、[[宮崎県]][[宮崎市]]内の地名。正式には「宮崎市'''大字柏原'''」の表記となる。[[生目地域自治区]]に属している。郵便番号は880-2111<ref name="postal" />。 == 地理 == 宮崎市の中西部、生目地域自治区に属する。 北を[[有田 (宮崎市)|大字有田]]、東を[[跡江|大字跡江]]、南を[[浮田 (宮崎市)|大字浮田]]、西を[[富吉 (宮崎市)|大字富吉]]と接する。 == 地名の由来 == {{See also|生目地域自治区#地名の由来}} == 歴史 == * [[1889年]]([[明治]]22年)[[5月1日]] - [[町村制]]の施行により、[[宮崎郡]]浮田村・生目村・細江村・長嶺村・跡江村・富吉村・柏原村・小松村の区域をもって生目村が発足。 * [[1963年]]([[昭和]]38年)[[4月1日]] - 宮崎市が生目村を編入。大字柏原が成立。 * [[2006年]](平成18年)[[1月1日]] - 生目地域自治区に所属となる。 == 世帯数と人口 == 2023年(令和5年)8月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである<ref name="population" />。 {| class="wikitable" ![[町丁]] ![[世帯|世帯数]] ![[人口]] |- |大字柏原 |235世帯 |548人 |} == 小・中学校の学区 == 市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる<ref>{{Cite web|和書|url=https://ops-jg.d1-law.com/opensearch/SrJbF01/init?jctcd=8A91AC49CB&houcd=H346920100001&no=5&totalCount=20&fromJsp=SrMj |title=宮崎市立小中学校の通学区域に関する規則 |publisher=宮崎市 |accessdate=2023-09-11}}</ref>。 {| class="wikitable" !町名 !小学校 !中学校 |- |大字柏原 |[[宮崎市立生目小学校]] |[[宮崎市立生目南中学校]] |} == 交通 == === バス === 宮交グループ<ref>宮交グループ http://www.miyakoh.co.jp/ </ref>の運営するバスが営業している。 === 道路 === * [[国道10号]] == 施設 == == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 関連項目 == * [[宮崎市の地名]] == 外部リンク == * [https://www.city.miyazaki.miyazaki.jp/ 宮崎市] * [https://geoshape.ex.nii.ac.jp/ka/resource/45/452011530.html 宮崎県宮崎市大字柏原(452011530) | 国勢調査町丁・字等別境界データセット] {{宮崎市の町・字}} {{DEFAULTSORT:かしわはる}} [[Category:宮崎市の町・字]]
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カルシウムサプリメント
カルシウムサプリメントはカルシウム塩を含むサプリメントであり、いくつかの形態で使用される。サプリメントによる栄養補給は通常の食事では摂取が不足する場合に必要となる。経口摂取する事によって低カルシウム血症、骨粗鬆症、くる病などの疾患を防ぐことが可能である。また、血中のリンやマグネシウム濃度の増加によりけいれんを伴う低カルシウム血症を発症した場合に、注射によって投与される。 カルシウムは、骨、筋肉、神経にとって特に重要であり、成人は通常、1 日に約 1 gのカルシウムが必要とされる。カルシウムサプリメントの一般的な副作用には、便秘や吐き気などがある。経口摂取で血中カルシウムが高くなるのはまれであるが、食事由来のカルシウムとは異なり、尿路結石のリスクを高める可能性が有る。 カルシウムサプリメントの医療使用は19世紀に始まり、現在では世界保健機関 (WHO) の必須医薬品リストに記載されている。ジェネリック医薬品として入手可能であり、 2020 年には、米国で204番目に多く処方されており、200 万件以上が処方されていた。ビタミンDが配合された製品もあり、2020年にはカルシウムとビタミンDの組み合わせは米国で 215 番目に多く処方されており、200万件以上が処方された。 健康な人の場合、骨密度維持を目的としてにカルシウムを補給する必要はなく、むしろ利点を上回るリスクが伴うともされる。カルシウム摂取量は、男性でも女性でも股関節骨折のリスクと有意な関連性は観察されていない。United States Preventive Services Task Forceは、カルシウムまたはビタミンD を毎日補給しないことを推奨している。 2006年のレビューによるとカルシウムの補給により健康な子供の骨密度がわずかに増加したが、食事による追加のカルシウムの摂取は正当化されていない。 血圧に問題のない成人の場合、毎日 1,000 mg から 1,500 mg のカルシウムを補給すると血圧を適度に下げることができるという十分な証拠があり、適切な血中カルシウム 濃度を維持することが高血圧の予防に役割を果たしている可能性が示唆されている。 米国国立がん研究所はがんのリスクを下げるためにカルシウムサプリメントの使用を推奨していない。カルシウムの補給が大腸の腺腫性ポリープの発症を予防する効果があるかもしれないという弱い証拠があるが、推奨する程度の証拠ではない。 炭酸カルシウム制酸剤/栄養補助食品(タムスなど)を数週間または数か月にわたって過剰摂取すると、高カルシウム血症からミルク・アルカリ症候群、果ては致死性の腎不全に至るまで、様々な症状を引き起こす可能性がある。何が「過剰な」摂取を規定するのかはよくわかっておらず、人によっておそらく大きく異なると考えられている。炭酸カルシウムを1 日あたり10 g以上 (カルシウムとして4 g) 摂取する人はミルクアルカリ症候群を発症するリスクが有るとされており、通常適量で安全と考えられる量とされる炭酸カルシウムを1 日あたり2.5 g (カルシウムとして1 g) しか摂取しない人でもこの症状が報告されている。 一部の研究では、食事またはサプリメントとしてのカルシウムの過剰摂取が心血管系死亡率の増加と関連している可能性が示唆されてている。しかし他の研究ではリスクはないとされ、あるレビューでは、リスクはさらなる研究によってのみ確認できると結論づけられている。 カルシウムのサプリメントは、尿路結石の発生に関与する可能性が示唆されている。 急性のカルシウム中毒はまれであり、カルシウムを直接的に静脈内投与しない限り中毒を起こすことはまず無い。例えば、炭酸カルシウムと塩化カルシウムのラットの経口での半数致死量 (LD ) は、それぞれ 6.45 g/kg、1.4 g/kgである。 カルシウムサプリメントを摂取して4~6時間以内は、チロキシンの吸収を低下させる可能性が有る。カルシウムとチロキシンの両方を摂取する場合に、同時、または、ほぼ同時に摂取すると甲状腺ホルモンの補充が不足し、ひいては甲状腺機能低下症を引き起こすリスクがある可能性が有る。 カルシウムの静脈内投与には、塩化カルシウムとグルコン酸カルシウムが用いられる。口から摂取する製剤としては、酢酸カルシウム、炭酸カルシウム、クエン酸カルシウム、グルコン酸カルシウム、乳酸カルシウム、リン酸カルシウムなどがある。 一部のカルシウムサプリメントにはビタミンDが添加されている。ビタミン D は体内でホルモンに変換され、カルシウムの吸収を担う腸内タンパク質の合成を誘導するため、ビタミン D の適切な摂取が重要である。 米国の栄養補助食品および食品表示の指針では、1 食分の量はミリグラム単位および 1 日の摂取量に対するパーセント (%DV) として表される。この重量は、サプリメントに含まれる化合物のカルシウム部分 (クエン酸カルシウムなど) の重量である。カルシウムの表示指針では、1 日摂取量の 100 % は 1,000 mg であったが、2016 年 5 月に 1,000 ~ 1,300 mg に改訂された。変更前の成人の 1 日摂取量の表と改訂に関する参考資料は、「1 日の摂取基準値」に記載されている。食品およびサプリメント企業には、2018 年 7 月までラベル変更に猶予が設けられた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "カルシウムサプリメントはカルシウム塩を含むサプリメントであり、いくつかの形態で使用される。サプリメントによる栄養補給は通常の食事では摂取が不足する場合に必要となる。経口摂取する事によって低カルシウム血症、骨粗鬆症、くる病などの疾患を防ぐことが可能である。また、血中のリンやマグネシウム濃度の増加によりけいれんを伴う低カルシウム血症を発症した場合に、注射によって投与される。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "カルシウムは、骨、筋肉、神経にとって特に重要であり、成人は通常、1 日に約 1 gのカルシウムが必要とされる。カルシウムサプリメントの一般的な副作用には、便秘や吐き気などがある。経口摂取で血中カルシウムが高くなるのはまれであるが、食事由来のカルシウムとは異なり、尿路結石のリスクを高める可能性が有る。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "カルシウムサプリメントの医療使用は19世紀に始まり、現在では世界保健機関 (WHO) の必須医薬品リストに記載されている。ジェネリック医薬品として入手可能であり、 2020 年には、米国で204番目に多く処方されており、200 万件以上が処方されていた。ビタミンDが配合された製品もあり、2020年にはカルシウムとビタミンDの組み合わせは米国で 215 番目に多く処方されており、200万件以上が処方された。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "健康な人の場合、骨密度維持を目的としてにカルシウムを補給する必要はなく、むしろ利点を上回るリスクが伴うともされる。カルシウム摂取量は、男性でも女性でも股関節骨折のリスクと有意な関連性は観察されていない。United States Preventive Services Task Forceは、カルシウムまたはビタミンD を毎日補給しないことを推奨している。 2006年のレビューによるとカルシウムの補給により健康な子供の骨密度がわずかに増加したが、食事による追加のカルシウムの摂取は正当化されていない。", "title": "健康への影響" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "血圧に問題のない成人の場合、毎日 1,000 mg から 1,500 mg のカルシウムを補給すると血圧を適度に下げることができるという十分な証拠があり、適切な血中カルシウム 濃度を維持することが高血圧の予防に役割を果たしている可能性が示唆されている。", "title": "健康への影響" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "米国国立がん研究所はがんのリスクを下げるためにカルシウムサプリメントの使用を推奨していない。カルシウムの補給が大腸の腺腫性ポリープの発症を予防する効果があるかもしれないという弱い証拠があるが、推奨する程度の証拠ではない。", "title": "健康への影響" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "炭酸カルシウム制酸剤/栄養補助食品(タムスなど)を数週間または数か月にわたって過剰摂取すると、高カルシウム血症からミルク・アルカリ症候群、果ては致死性の腎不全に至るまで、様々な症状を引き起こす可能性がある。何が「過剰な」摂取を規定するのかはよくわかっておらず、人によっておそらく大きく異なると考えられている。炭酸カルシウムを1 日あたり10 g以上 (カルシウムとして4 g) 摂取する人はミルクアルカリ症候群を発症するリスクが有るとされており、通常適量で安全と考えられる量とされる炭酸カルシウムを1 日あたり2.5 g (カルシウムとして1 g) しか摂取しない人でもこの症状が報告されている。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "一部の研究では、食事またはサプリメントとしてのカルシウムの過剰摂取が心血管系死亡率の増加と関連している可能性が示唆されてている。しかし他の研究ではリスクはないとされ、あるレビューでは、リスクはさらなる研究によってのみ確認できると結論づけられている。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "カルシウムのサプリメントは、尿路結石の発生に関与する可能性が示唆されている。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "急性のカルシウム中毒はまれであり、カルシウムを直接的に静脈内投与しない限り中毒を起こすことはまず無い。例えば、炭酸カルシウムと塩化カルシウムのラットの経口での半数致死量 (LD ) は、それぞれ 6.45 g/kg、1.4 g/kgである。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "カルシウムサプリメントを摂取して4~6時間以内は、チロキシンの吸収を低下させる可能性が有る。カルシウムとチロキシンの両方を摂取する場合に、同時、または、ほぼ同時に摂取すると甲状腺ホルモンの補充が不足し、ひいては甲状腺機能低下症を引き起こすリスクがある可能性が有る。", "title": "相互作用" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "カルシウムの静脈内投与には、塩化カルシウムとグルコン酸カルシウムが用いられる。口から摂取する製剤としては、酢酸カルシウム、炭酸カルシウム、クエン酸カルシウム、グルコン酸カルシウム、乳酸カルシウム、リン酸カルシウムなどがある。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "一部のカルシウムサプリメントにはビタミンDが添加されている。ビタミン D は体内でホルモンに変換され、カルシウムの吸収を担う腸内タンパク質の合成を誘導するため、ビタミン D の適切な摂取が重要である。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "米国の栄養補助食品および食品表示の指針では、1 食分の量はミリグラム単位および 1 日の摂取量に対するパーセント (%DV) として表される。この重量は、サプリメントに含まれる化合物のカルシウム部分 (クエン酸カルシウムなど) の重量である。カルシウムの表示指針では、1 日摂取量の 100 % は 1,000 mg であったが、2016 年 5 月に 1,000 ~ 1,300 mg に改訂された。変更前の成人の 1 日摂取量の表と改訂に関する参考資料は、「1 日の摂取基準値」に記載されている。食品およびサプリメント企業には、2018 年 7 月までラベル変更に猶予が設けられた。", "title": "表示" } ]
カルシウムサプリメントはカルシウム塩を含むサプリメントであり、いくつかの形態で使用される。サプリメントによる栄養補給は通常の食事では摂取が不足する場合に必要となる。経口摂取する事によって低カルシウム血症、骨粗鬆症、くる病などの疾患を防ぐことが可能である。また、血中のリンやマグネシウム濃度の増加によりけいれんを伴う低カルシウム血症を発症した場合に、注射によって投与される。 カルシウムは、骨、筋肉、神経にとって特に重要であり、成人は通常、1 日に約 1 gのカルシウムが必要とされる。カルシウムサプリメントの一般的な副作用には、便秘や吐き気などがある。経口摂取で血中カルシウムが高くなるのはまれであるが、食事由来のカルシウムとは異なり、尿路結石のリスクを高める可能性が有る。 カルシウムサプリメントの医療使用は19世紀に始まり、現在では世界保健機関 (WHO) の必須医薬品リストに記載されている。ジェネリック医薬品として入手可能であり、 2020 年には、米国で204番目に多く処方されており、200 万件以上が処方されていた。ビタミンDが配合された製品もあり、2020年にはカルシウムとビタミンDの組み合わせは米国で 215 番目に多く処方されており、200万件以上が処方された。
{{Drugbox|drug_name=|type=<!-- empty -->|IUPAC_name=|image=500 mg calcium supplements with vitamin D.jpg|alt=|caption=カルシウムサプリメント (500 mg) 主成分:[[炭酸カルシウム]] <!-- Clinical data -->|synonyms=|pronounce=|tradename=Alka-Mints, Calcet, Tums, others|Drugs.com={{Drugs.com|monograph|calcium-salts}}|MedlinePlus=|DailyMedID=Calcium|pregnancy_AU=<!-- A/B1/B2/B3/C/D/X -->|pregnancy_AU_comment=|pregnancy_US=A|pregnancy_category=and C|routes_of_administration=by mouth, intravenous|legal_AU=<!-- S2, S3, S4, S5, S6, S7, S8, S9 or Unscheduled-->|legal_AU_comment=|legal_CA=<!-- OTC, Rx-only, Schedule I, II, III, IV, V, VI, VII, VIII -->|legal_DE=<!-- Anlage I, II, III -->|legal_NZ=<!-- Class A, B, C -->|legal_UK=<!-- GSL, P, POM, CD, CD Lic, CD POM, CD No Reg POM, CD (Benz) POM, CD (Anab) POM or CD Inv POM / Class A, B, C -->|legal_US=<!-- OTC/Rx-only/Schedule I, II, III, IV, V -->|legal_UN=<!-- N I, II, III, IV / P I, II, III, IV-->|legal_status=<!-- Free text --> <!-- Pharmacokinetic data -->|bioavailability=|protein_bound=|metabolism=|metabolites=|onset=|elimination_half-life=|duration_of_action=|excretion=<!-- Identifiers -->|CAS_number=543-90-8|UNII_Ref={{fdacite|correct|FDA}}|UNII=95KC50Z1L0|ATCvet=|ATC_prefix=A12|ATC_suffix=AA|PubChem=|DrugBank=|ChemSpiderID=none <!-- Chemical and physical data -->|chemical_formula=|molecular_weight=}}'''カルシウムサプリメント'''は[[カルシウム]]塩を含む[[サプリメント]]であり、いくつかの形態で使用される<ref name="AHFS2017">{{Cite web |title=Calcium Salts |url=https://www.drugs.com/monograph/calcium-salts.html |publisher=The American Society of Health-System Pharmacists |access-date=8 January 2017 |url-status=live |archive-url=https://web.archive.org/web/20170118041341/https://www.drugs.com/monograph/calcium-salts.html |archive-date=18 January 2017}}</ref>。サプリメントによる栄養補給は通常の食事では摂取が不足する場合に必要となる<ref name="WHO2008">{{Cite book |title=WHO Model Formulary 2008 |year=2009 |isbn=9789241547659 |hdl=10665/44053 |author-link=World Health Organization |publisher=World Health Organization |page=497}}</ref><ref name="BNF69">{{Cite book |title=British national formulary : BNF 69 |date=2015 |publisher=British Medical Association |isbn=9780857111562 |pages=694, 703 |edition=69}}</ref>。経口摂取する事によって[[低カルシウム血症]]、[[骨粗鬆症]]、[[くる病]]などの[[疾患]]を防ぐことが可能である<ref name="AHFS2017" />。また、血中の[[リン]]や[[マグネシウム]]濃度の増加によりけいれんを伴う低カルシウム血症を発症した場合に、注射によって投与される<ref name="WHO2008" /><ref name="Ric20153">{{cite book |vauthors=Hamilton R |title=Tarascon Pocket Pharmacopoeia 2015 Deluxe Lab-Coat Edition |date=2015 |publisher=Jones & Bartlett Learning |isbn=9781284057560 |pages=215–216}}</ref>。 カルシウムは、[[骨]]、[[筋肉]]、[[神経]]にとって特に重要であり、成人は通常、1 日に約 1 gのカルシウムが必要とされる'''<ref name="AHFS2017" />'''。カルシウムサプリメントの一般的な副作用には、[[便秘]]や[[吐き気]]などがある'''<ref name="AHFS2017" />'''。経口摂取で血中カルシウムが高くなるのはまれであるが、食事由来のカルシウムとは異なり、[[尿路結石]]のリスクを高める可能性が有る'''<ref name="AHFS2017" />'''。 カルシウムサプリメントの医療使用は19世紀に始まり<ref>{{cite book |vauthors=Tegethoff FW |title=Calcium Carbonate: From the Cretaceous Period into the 21st Century |date=2012 |publisher=Birkhäuser |isbn=9783034882453 |page=308 |url=https://books.google.com/books?id=eSMGCAAAQBAJ&pg=PA308 |language=en |url-status=live |archive-url=https://web.archive.org/web/20170116172603/https://books.google.ca/books?id=eSMGCAAAQBAJ&pg=PA308 |archive-date=16 January 2017}}</ref>、現在では[[世界保健機関]] (WHO) の[[必須医薬品]]リストに記載されている<ref name="WHO21st">{{cite book |vauthors=((World Health Organization)) |title=World Health Organization model list of essential medicines: 21st list 2019 |year=2019 |hdl=10665/325771 |author-link=World Health Organization |publisher=World Health Organization |location=Geneva |id=WHO/MVP/EMP/IAU/2019.06. License: CC BY-NC-SA 3.0 IGO |hdl-access=free}}</ref>。[[後発医薬品|ジェネリック医薬品]]として入手可能であり<ref name="BNF69" />、 2020 年には、米国で204番目に多く処方されており、200 万件以上が処方されていた<ref name="Top 300">{{cite web |title=The Top 300 of 2020 |url=https://clincalc.com/DrugStats/Top300Drugs.aspx |website=ClinCalc |access-date=7 October 2022}}</ref><ref>{{cite web |title=Calcium – Drug Usage Statistics |website=ClinCalc |url=https://clincalc.com/DrugStats/Drugs/Calcium |access-date=7 October 2022}}</ref>。[[ビタミンD]]が配合された製品もあり、2020年にはカルシウムとビタミンDの組み合わせは米国で 215 番目に多く処方されており、200万件以上が処方された<ref name="Top 300" /><ref name="Top 3004">{{cite web |title=The Top 300 of 2020 |url=https://clincalc.com/DrugStats/Top300Drugs.aspx |website=ClinCalc |access-date=7 October 2022}}</ref>。 == 健康への影響 == === 骨の健康維持 === 健康な人の場合、骨密度維持を目的としてにカルシウムを補給する必要はなく、むしろ利点を上回るリスクが伴うともされる<ref>{{cite journal|date=October 2015|title=Calcium supplements: benefits and risks|journal=Journal of Internal Medicine|volume=278|issue=4|pages=354–368|doi=10.1111/joim.12394|pmid=26174589|vauthors=Reid IR, Bristow SM, Bolland MJ|type=Review|s2cid=4679930|doi-access=free}}</ref>。カルシウム摂取量は、男性でも女性でも[[股関節の骨折|股関節骨折]]のリスクと[[有意]]な関連性は観察されていない<ref>{{cite journal|date=December 2007|title=Calcium intake and hip fracture risk in men and women: a meta-analysis of prospective cohort studies and randomized controlled trials|journal=The American Journal of Clinical Nutrition|volume=86|issue=6|pages=1780–1790|doi=10.1093/ajcn/86.5.1780|pmid=18065599|vauthors=Bischoff-Ferrari HA, Dawson-Hughes B, Baron JA, Burckhardt P, Li R, Spiegelman D, Specker B, Orav JE, Wong JB, Staehelin HB, O'Reilly E, Kiel DP, Willett WC|display-authors=6|doi-access=free}}</ref>。United States Preventive Services Task Forceは、カルシウムまたはビタミンD を毎日補給しないことを推奨している<ref>{{cite journal|date=May 2013|title=Vitamin D and calcium supplementation to prevent fractures in adults: U.S. Preventive Services Task Force recommendation statement|journal=Annals of Internal Medicine|volume=158|issue=9|pages=691–696|doi=10.7326/0003-4819-158-9-201305070-00603|pmid=23440163|vauthors=Moyer VA|doi-access=}}</ref>。 2006年のレビューによるとカルシウムの補給により健康な子供の[[骨密度]]がわずかに増加したが、食事による追加のカルシウムの摂取は正当化されていない<ref>{{cite journal|date=April 2006|title=Calcium supplementation for improving bone mineral density in children|journal=The Cochrane Database of Systematic Reviews|volume=2006|issue=2|pages=CD005119|doi=10.1002/14651858.CD005119.pub2|pmc=8865374|pmid=16625624|vauthors=Winzenberg TM, Shaw K, Fryer J, Jones G}}</ref>。 === 心血管への影響 === 血圧に問題のない成人の場合、毎日 1,000 mg から 1,500 mg のカルシウムを補給すると血圧を適度に下げることができるという十分な証拠があり、適切な血中カルシウム 濃度を維持することが高血圧の予防に役割を果たしている可能性が示唆されている<ref>{{cite journal|date=January 2022|title=Calcium supplementation for prevention of primary hypertension|journal=The Cochrane Database of Systematic Reviews|volume=1|issue=1|pages=CD010037|doi=10.1002/14651858.CD010037.pub4|pmc=8748265|pmid=35014026|vauthors=Cormick G, Ciapponi A, Cafferata ML, Cormick MS, Belizán JM|type=Systematic review}}</ref>。 === がん === 米国国立がん研究所はがんのリスクを下げるためにカルシウムサプリメントの使用を推奨していない<ref>{{cite web |title=Calcium and Cancer Prevention: Strengths and Limits of the Evidence |publisher=National Cancer Institute |url=http://www.cancer.gov/cancertopics/factsheet/prevention/calcium |access-date=2 November 2014 |date=4 May 2009 |url-status=live |archive-url=https://web.archive.org/web/20141129043647/http://www.cancer.gov/cancertopics/factsheet/prevention/calcium |archive-date=29 November 2014}}</ref>。カルシウムの補給が大腸の[[腺腫]]性[[ポリープ]]の発症を予防する効果があるかもしれないという弱い証拠があるが、推奨する程度の証拠ではない<ref>{{cite journal|date=January 2008|title=Dietary calcium supplementation for preventing colorectal cancer and adenomatous polyps|journal=The Cochrane Database of Systematic Reviews|volume=2010|issue=1|pages=CD003548|doi=10.1002/14651858.CD003548.pub4|pmc=8719254|pmid=18254022|vauthors=Weingarten MA, Zalmanovici A, Yaphe J|type=Review}}</ref>。 == 副作用 == 炭酸カルシウム制酸剤/栄養補助食品(タムスなど)を数週間または数か月にわたって[[過剰摂取]]すると、高カルシウム血症から[[ミルク・アルカリ症候群]]、果ては致死性の[[腎不全]]に至るまで、様々な症状を引き起こす可能性がある。何が「過剰な」摂取を規定するのかはよくわかっておらず、人によっておそらく大きく異なると考えられている。炭酸カルシウムを1 日あたり10 g以上 (カルシウムとして4 g) 摂取する人はミルクアルカリ症候群を発症するリスクが有るとされており<ref>{{cite journal|date=May 2006|title=Milk-alkali syndrome: a historical review and description of the modern version of the syndrome|journal=The American Journal of the Medical Sciences|volume=331|issue=5|pages=233–242|doi=10.1097/00000441-200605000-00001|pmid=16702792|vauthors=Beall DP, Henslee HB, Webb HR, Scofield RH|s2cid=45802184}}</ref>、通常適量で安全と考えられる量とされる炭酸カルシウムを1 日あたり2.5 g (カルシウムとして1 g) しか摂取しない人でもこの症状が報告されている<ref>{{cite journal|date=2005|title=Calcium carbonate toxicity: the updated milk-alkali syndrome; report of 3 cases and review of the literature|journal=Endocrine Practice|volume=11|issue=4|pages=272–280|doi=10.4158/EP.11.4.272|pmid=16006300|vauthors=Picolos MK, Orlander PR|name-list-style=amp}}</ref>。 一部の研究では、食事またはサプリメントとしてのカルシウムの過剰摂取が心血管系死亡率の増加と関連している可能性が示唆されてている<ref>{{cite journal|date=February 2013|title=Long term calcium intake and rates of all cause and cardiovascular mortality: community based prospective longitudinal cohort study|journal=BMJ|volume=346|pages=f228|doi=10.1136/bmj.f228|pmc=3571949|pmid=23403980|vauthors=Michaëlsson K, Melhus H, Warensjö Lemming E, Wolk A, Byberg L}}</ref><ref>{{cite journal|date=April 2013|title=Dietary and supplemental calcium intake and cardiovascular disease mortality: the National Institutes of Health-AARP diet and health study|journal=JAMA Internal Medicine|volume=173|issue=8|pages=639–646|doi=10.1001/jamainternmed.2013.3283|pmc=3756477|pmid=23381719|vauthors=Xiao Q, Murphy RA, Houston DK, Harris TB, Chow WH, Park Y}}</ref>。しかし他の研究ではリスクはないとされ<ref name="pmid24803331">{{cite journal|date=August 2014|title=Calcium supplement intake and risk of cardiovascular disease in women|journal=Osteoporosis International|volume=25|issue=8|pages=2047–2056|doi=10.1007/s00198-014-2732-3|pmc=4102630|pmid=24803331|vauthors=Paik JM, Curhan GC, Sun Q, Rexrode KM, Manson JE, Rimm EB, Taylor EN}}</ref>、あるレビューでは、リスクはさらなる研究によってのみ確認できると結論づけられている<ref name="pmid26345134">{{cite journal|date=July 2015|title=Calcium Supplements and Cardiovascular Disease: A Review|journal=American Journal of Lifestyle Medicine|volume=9|issue=4|pages=298–307|doi=10.1177/1559827613512593|pmc=4560115|pmid=26345134|vauthors=Waldman T, Sarbaziha R, Merz CN, Shufelt C}}</ref>。 カルシウムのサプリメントは、尿路結石の発生に関与する可能性が示唆されている<ref name="AHFS2017" />。 急性のカルシウム中毒はまれであり、カルシウムを直接的に静脈内投与しない限り中毒を起こすことはまず無い。例えば、炭酸カルシウムと塩化カルシウムのラットの経口での[[半数致死量]] (LD <sup>50</sup> ) は、それぞれ 6.45 g/kg<ref>{{Cite book |vauthors=Lewis RJ |date=1996 |title=Sax's Dangerous Properties of Industrial Materials |url=https://archive.org/details/saxsdangerouspro0000lewi |url-access=registration |edition=9th |publisher=Van Nostrand Reinhold |location=New York, NY |page=635 |isbn=978-0-471-37858-7}}</ref>、1.4&nbsp;g/kgである<ref>{{Cite book |title=ITII. Toxic and Hazardous Industrial Chemicals Safety Manual |publisher=The International Technical Information Institute |date=1988 |location=Tokyo, Japan |page=101}}</ref>。 == 相互作用 == カルシウムサプリメントを摂取して4~6時間以内は、[[チロキシン]]の吸収を低下させる可能性が有る<ref>{{cite journal|date=June 2000|title=Effect of calcium carbonate on the absorption of levothyroxine|journal=JAMA|volume=283|issue=21|pages=2822–2825|doi=10.1001/jama.283.21.2822|pmid=10838651|vauthors=Singh N, Singh PN, Hershman JM|doi-access=}}</ref>。カルシウムとチロキシンの両方を摂取する場合に、同時、または、ほぼ同時に摂取すると[[甲状腺ホルモン]]の補充が不足し、ひいては[[甲状腺機能低下症]]を引き起こすリスクがある可能性が有る<ref name="WeightSupplements">{{Cite web |title=Calcium May Help With Weight Loss |access-date=10 July 2007 |url=http://www.rxalternativemedicine.com/headlines_news.php#headline77 |author=Harding, Anne |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20070703153023/http://www.rxalternativemedicine.com/headlines_news.php#headline77 |archive-date=3 July 2007}}</ref>。 == 種類 == カルシウムの静脈内投与には、塩化カルシウムとグルコン酸カルシウムが用いられる<ref name="AHFS2017" />。口から摂取する製剤としては、酢酸カルシウム、炭酸カルシウム、クエン酸カルシウム、グルコン酸カルシウム、乳酸カルシウム、リン酸カルシウムなどがある<ref name="AHFS2017" />。 * ほとんどの食品と一般的に使用される栄養補助食品からのカルシウムの吸収は同様である<ref name="Weaver">{{Cite book |editor=Barbara A. Bowman |editor2=Robert M. Russell |author=Weaver, C.M. |chapter=29 Calcium |title=Present Knowledge in Nutrition |edition=9th |volume=I |page=377 |publisher=ILSI Press |date=2006 |isbn=978-1-57881-198-4}}</ref>。これは、多くのカルシウムサプリメントメーカーが宣伝資料で主張している内容と矛盾する。 * カルシウムを強化したさまざまな種類のジュースが広く販売されている。 * 炭酸カルシウムは、最も一般的で最も安価なカルシウムサプリメントである。食品と一緒に摂取する必要があり、[[胃酸]]によるpH低下が腸で適切に吸収される上で重要である<ref>{{cite book |vauthors=Remington J |title=Remington: The Science and Practice of Pharmacy |publisher=Lippincott Williams & Wilkins |date=2005 |page=1338 |isbn=978-0-7817-4673-1}}</ref>。いくつかの研究では、炭酸カルシウムからのカルシウムの吸収は牛乳からのカルシウムの吸収と同様であることが示唆されている<ref>{{cite journal|date=October 2005|title=Calcium bioavailability of calcium carbonate fortified soymilk is equivalent to cow's milk in young women|url=http://jn.nutrition.org/content/135/10/2379.full.pdf|journal=The Journal of Nutrition|volume=135|issue=10|pages=2379–2382|doi=10.1093/jn/135.10.2379|pmid=16177199|vauthors=Zhao Y, Martin BR, Weaver CM|url-status=live|doi-access=free|archive-url=https://web.archive.org/web/20170918184611/http://jn.nutrition.org/content/135/10/2379.full.pdf|archive-date=18 September 2017}}</ref><ref>{{cite journal|date=December 2002|title=Relative bioavailability of calcium-rich dietary sources in the elderly|journal=The American Journal of Clinical Nutrition|volume=76|issue=6|pages=1345–1350|doi=10.1093/ajcn/76.6.1345|pmid=12450902|vauthors=Martini L, Wood RJ|name-list-style=amp|doi-access=free}}</ref>。 * [[制酸薬]]には炭酸カルシウムが含まれることが多く、一般的に使用される安価なカルシウムのサプリメントである。 * サンゴカルシウムは、[[化石|化石化]]した[[サンゴ礁]]に由来するカルシウム塩である。サンゴカルシウムは炭酸カルシウムと微量ミネラルで構成されているが、サンゴカルシウムが有するとされる健康上の利点は信頼性に乏しい。 * クエン酸カルシウムは食事なしで摂取でき、無酸症の人やヒスタミン 2 ブロッカーやプロトンポンプ阻害薬を服用している人に最適とされている<ref name="osgknm">{{cite journal|date=June 2007|title=Calcium supplementation in clinical practice: a review of forms, doses, and indications|journal=Nutrition in Clinical Practice|volume=22|issue=3|pages=286–296|doi=10.1177/0115426507022003286|pmid=17507729|vauthors=Straub DA}}</ref>。クエン酸カルシウムには カルシウムが約21 % 含まれており、1,000 mgで210 mgのカルシウムが摂取できる。炭酸カルシウムよりも高価であり、同じ量のカルシウムを得るにはより多く摂取する必要があります。 * [[リン酸カルシウム]]は炭酸カルシウムよりも高価だが、クエン酸カルシウムよりは安価である。微結晶性[[水酸燐灰石|ヒドロキシアパタイト]](MH) は、栄養補助食品として使用されるリン酸カルシウムのいくつかの形態のうちの 1 つでであり、ヒドロキシアパタイトには約40 %のカルシウムが含まれる。 * [[乳酸カルシウム]]は炭酸カルシウムと同様に吸収されるが<ref name="osgknm2">{{cite journal|date=June 2007|title=Calcium supplementation in clinical practice: a review of forms, doses, and indications|journal=Nutrition in Clinical Practice|volume=22|issue=3|pages=286–296|doi=10.1177/0115426507022003286|pmid=17507729|vauthors=Straub DA}}</ref>、より高価である。乳酸カルシウムと[[グルコン酸カルシウム]]は、カルシウムの濃度が低いため、実用的な経口サプリメントとはみなされない<ref name="osgknm" />。 一部のカルシウムサプリメントにはビタミンDが添加されている。ビタミン D は体内でホルモンに変換され、カルシウムの吸収を担う腸内タンパク質の合成を誘導するため、ビタミン D の適切な摂取が重要である<ref>{{Cite book |author=Combs, G |title=The Vitamins |page=[https://archive.org/details/vitaminsfundamen0000comb/page/161 161] |publisher=Academic Press |date=2008 |isbn=978-0-12-183490-6 |url=https://archive.org/details/vitaminsfundamen0000comb/page/161}}</ref>。 == 表示 == 米国の栄養補助食品および食品表示の指針では、1 食分の量はミリグラム単位および 1 日の摂取量に対するパーセント (%DV) として表される。この重量は、サプリメントに含まれる化合物のカルシウム部分 (クエン酸カルシウムなど) の重量である。カルシウムの表示指針では、1 日摂取量の 100 % は 1,000 mg であったが、2016 年 5 月に 1,000 ~ 1,300 mg に改訂された<ref name="Regulations.gov">{{Cite web |title=Regulations.gov |url=https://www.regulations.gov/document/FDA-2012-N-1210-0875 |access-date=18 January 2023 |website=www.regulations.gov}}</ref>。変更前の成人の 1 日摂取量の表と改訂に関する参考資料は、「1 日の摂取基準値」に記載されている。食品およびサプリメント企業には、2018 年 7 月までラベル変更に猶予が設けられた<ref name="Regulations.gov" />。 == 脚注 == <references group="" responsive="1"></references> [[Category:栄養補助食品]] [[Category:医療翻訳プロジェクト]] [[Category:WHOエッセンシャルドラッグ]]
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瀬頭
瀬頭(せがしら)とは、宮崎県宮崎市内の地名。中央東地域自治区に属している。住居表示を行う瀬頭1丁目と瀬頭2丁目、住居表示を行わない瀬頭町で構成される。郵便番号は瀬頭が880-0867、瀬頭町は880-0868。 宮崎市の中央東地域自治区に属する。宮崎県道341号宮崎港宮崎停車場線と日豊本線に挟まれた地域に位置する。宮崎県道11号宮崎島之内線を挟んで南が瀬頭1丁目、北が瀬頭2丁目となる。1丁目の東、日豊本線より東に、旧町表示の瀬頭町がある。 北を老松1丁目、西を別府町・旭2丁目、南を松山2丁目・吾妻町、東を堀川町・永楽町と接する。 地名については2つの説がある。 宮崎市成立後、大字瀬頭から瀬頭町を含めた町が成立し、大字瀬頭が消滅。瀬頭町からも住居表示地域が誕生し、166年には瀬頭1-2丁目が誕生した。 2023年(令和5年)8月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである。 市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。 JR日豊本線が通過する。最寄り駅は宮崎駅。 宮交グループの運営するバスが営業している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "瀬頭(せがしら)とは、宮崎県宮崎市内の地名。中央東地域自治区に属している。住居表示を行う瀬頭1丁目と瀬頭2丁目、住居表示を行わない瀬頭町で構成される。郵便番号は瀬頭が880-0867、瀬頭町は880-0868。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "宮崎市の中央東地域自治区に属する。宮崎県道341号宮崎港宮崎停車場線と日豊本線に挟まれた地域に位置する。宮崎県道11号宮崎島之内線を挟んで南が瀬頭1丁目、北が瀬頭2丁目となる。1丁目の東、日豊本線より東に、旧町表示の瀬頭町がある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "北を老松1丁目、西を別府町・旭2丁目、南を松山2丁目・吾妻町、東を堀川町・永楽町と接する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "地名については2つの説がある。", "title": "地名の由来" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "宮崎市成立後、大字瀬頭から瀬頭町を含めた町が成立し、大字瀬頭が消滅。瀬頭町からも住居表示地域が誕生し、166年には瀬頭1-2丁目が誕生した。", "title": "地名の由来" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2023年(令和5年)8月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである。", "title": "世帯数と人口" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。", "title": "小・中学校の学区" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "JR日豊本線が通過する。最寄り駅は宮崎駅。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "宮交グループの運営するバスが営業している。", "title": "交通" } ]
瀬頭(せがしら)とは、宮崎県宮崎市内の地名。中央東地域自治区に属している。住居表示を行う瀬頭1丁目と瀬頭2丁目、住居表示を行わない瀬頭町で構成される。郵便番号は瀬頭が880-0867、瀬頭町は880-0868。
{{Pathnav|日本|宮崎県|宮崎市|frame=1}}{{Infobox settlement | name = 瀬頭・瀬頭町 | settlement_type = | image_skyline = Miyazaki Shrine Segashira Otabisho 2009.JPG | imagesize = 250px | image_caption = 宮崎神宮瀬頭御旅所 | image_map = | map_caption = 瀬頭の位置 | pushpin_map = Japan Miyazaki | latd = 31 | latm = 54 | lats = 33.8 | latNS = N | longd = 131 | longm = 25 | longs = 49.6 | longEW = E | subdivision_type = [[国の一覧|国]] | subdivision_name = {{JPN}} | subdivision_type1 = [[都道府県]] | subdivision_name1 = [[File:Flag of Miyazaki Prefecture.svg|border|25px]] [[宮崎県]] | subdivision_type2 = [[市町村]] | subdivision_name2 = [[File:Flag of Miyazaki, Miyazaki.svg|border|25px]] [[宮崎市]] | subdivision_type3 = 地区 | subdivision_name3 = [[中央東地域自治区]] | established_title1 = | established_date1 = | area_footnotes = <!--- 面積(<ref>) ---> | area_total_km2 = <!--- 面積 ---> | elevation_footnotes = <!--- 標高(<ref>) ---> | elevation_m = <!--- 標高 ---> | population_as_of = [[2023年]]([[令和]]5年)[[8月1日]]現在 | population_footnotes = <ref name="population">{{Cite web|和書|url=https://www.city.miyazaki.miyazaki.jp/city/statistics/population/12314.html|title=地域自治区別・町丁大字別 人口・世帯数 |publisher=宮崎市|language=日本語|accessdate=2023-09-11}}</ref> | population_total = 1079 | population_density_km2 = auto | timezone1 = [[日本標準時]] | utc_offset1 = +9 | postal_code_type = [[日本の郵便番号|郵便番号]] | postal_code = 880-0867(瀬頭)<ref name="postal1">{{Cite web|和書|url=https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?zip=8800867|title=郵便番号|publisher=[[日本郵便]] |accessdate=2023-09-11}}</ref><br />880-0868(瀬頭町)<ref name="postal2">{{Cite web|和書|url=https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?zip=8800868|title=郵便番号|publisher=[[日本郵便]] |accessdate=2023-09-11}}</ref> | area_code = 0985<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/top/tel_number/shigai_list.html|title=市外局番の一覧|publisher=総務省|accessdate=2023-09-11}}</ref> | registration_plate = [[宮崎運輸支局|宮崎]] | footnotes = }}'''瀬頭'''(せがしら)とは、[[宮崎県]][[宮崎市]]内の地名。[[中央東地域自治区]]に属している。[[住居表示]]を行う'''瀬頭1丁目'''と'''瀬頭2丁目<ref>{{Cite web|和書|title=住居表示地区内の新築届 - 宮崎市 [Miyazaki City] |url=https://www.city.miyazaki.miyazaki.jp/life/house/dwelling/995.html |website=宮崎市[Miyazaki-city] |access-date=2023-09-11 |language=ja}}</ref>'''、住居表示を行わない'''瀬頭町'''で構成される。郵便番号は瀬頭が880-0867<ref name="postal1" />、瀬頭町は880-0868<ref name="postal2" />。 == 地理 == 宮崎市の中央東地域自治区に属する。[[宮崎県道341号宮崎港宮崎停車場線]]と[[日豊本線]]に挟まれた地域に位置する。[[宮崎県道11号宮崎島之内線]]を挟んで南が瀬頭1丁目、北が瀬頭2丁目となる。1丁目の東、日豊本線より東に、旧町表示の瀬頭町がある。 北を[[老松 (宮崎市)|老松]]1丁目、西を[[別府町 (宮崎市)|別府町]]・[[旭 (宮崎市)|旭]]2丁目、南を[[松山 (宮崎市)|松山]]2丁目・[[吾妻町 (宮崎市)|吾妻町]]、東を[[堀川町 (宮崎市)|堀川町]]・[[永楽町 (宮崎市)|永楽町]]と接する。 == 地名の由来 == 地名については2つの説がある<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=大淀川流域 地名いわれ事典 |url=http://www.qsr.mlit.go.jp/miyazaki/html/kasen/iware/index.htm |website=www.qsr.mlit.go.jp |access-date=2023-09-11 |publisher=国土交通省宮崎河川国道事務所}}</ref>。 * [[イザナギ|イザナキノミコト]]が禊をしようとした際に上瀬(かみつせ)は瀬速く、下瀬(しもつせ)は瀬弱く、そのために選んだ中瀬(なかつせ)の始まりということから、瀬頭となったとの説<ref name=":0" />。 * 「瀬」とは浅瀬のことで、歩いて渡れる水量の場所であり、上流で連続する[[川原町 (宮崎市)|川原町]]と比べると低い土地を意味している。この地から下流側が瀬の始まり(頭)ということから、瀬頭と呼ばれた説。 宮崎市成立後、大字瀬頭から瀬頭町を含めた町が成立し、大字瀬頭が消滅。瀬頭町からも住居表示地域が誕生し、166年には瀬頭1-2丁目が誕生した。 == 歴史 == {{節スタブ}} * 1924年 - 宮崎市市制により大字瀬頭が誕生 * 1927年 - 大字瀬頭から[[吾妻町 (宮崎市)|吾妻町]]、瀬頭町、[[高洲町 (宮崎市)|高洲町]]、[[出来島町]]、旧旭通1-3丁目、小島町が成立。大字瀬頭が * 消滅。 * 1949年 - 瀬頭町から[[潮見町 (宮崎市)|潮見町]]が成立。このころ、ほかにも[[永楽町 (宮崎市)|永楽町]]、[[昭和町 (宮崎市)|昭和町]]、[[堀川町 (宮崎市)|堀川町]]、[[前原町 (宮崎市)|前原町]]が成立した。(時期不明。) * 166年 - 瀬頭町・旭通1丁目~3丁目・老松通1丁目~2丁目・鶴来町をもって瀬頭1-2丁目が誕生。 == 世帯数と人口 == 2023年(令和5年)8月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである<ref name="population" />。 {| class="wikitable" ![[町丁]] ![[世帯|世帯数]] ![[人口]] |- |瀬頭1丁目 | style="text-align:right" |259世帯 | style="text-align:right" |502人 |- |瀬頭2丁目 |367世帯 |544人 |- |瀬頭町 |24世帯 |33人 |} == 小・中学校の学区 == 市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる<ref>{{Cite web|和書|url=https://ops-jg.d1-law.com/opensearch/SrJbF01/init?jctcd=8A91AC49CB&houcd=H346920100001&no=5&totalCount=20&fromJsp=SrMj |title=宮崎市立小中学校の通学区域に関する規則 |publisher=宮崎市 |accessdate=2022-11-25}}</ref>。 {| class="wikitable" !町名 !小学校 !中学校 |- |瀬頭・瀬頭町 |[[宮崎市立宮崎小学校]] |[[宮崎市立宮崎中学校]] |} == 交通 == === 鉄道 === JR日豊本線が通過する。最寄り駅は[[宮崎駅]]。 === バス === 宮交グループ<ref>宮交グループ http://www.miyakoh.co.jp/</ref>の運営するバスが営業している。 === 道路 === * [[宮崎県道11号宮崎島之内線]] * [[宮崎県道341号宮崎港宮崎停車場線]] == 施設 == * おぐら瀬頭店 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 関連項目 == * [[宮崎市の地名]] * [[宮崎神宮]] - 瀬頭[[御旅所]]が常設されており、[[宮崎神宮大祭]]の御神幸祭では奇数年に使用される。 == 外部リンク == * [https://www.city.miyazaki.miyazaki.jp/ 宮崎市] * [https://geoshape.ex.nii.ac.jp/ka/resource/45/45201027001.html 宮崎県宮崎市瀬頭一丁目 (45201027001) | 国勢調査町丁・字等別境界データセット] * [https://geoshape.ex.nii.ac.jp/ka/resource/45/45201027002.html 宮崎県宮崎市瀬頭二丁目 (45201027002) | 国勢調査町丁・字等別境界データセット] * [https://geoshape.ex.nii.ac.jp/ka/resource/45/452010260.html 宮崎県宮崎市瀬頭町 (452010260) | 国勢調査町丁・字等別境界データセット] {{宮崎市の町・字}} [[Category:宮崎市の町・字]] {{DEFAULTSORT:せかしら}}
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梅若猶義 (初世)
初世 梅若 猶義(しょせい うめわか なおよし、1911年(明治44年)9月1日 - 1972年(昭和47年)7月5日)は観世流の能楽師。 1911年、初世 梅若万三郎の5男として東京に生まれた。父・万三郎に師事して1915年(大正4年)3月に『鞍馬天狗』での子方で初舞台を踏む。1924年(大正13年)には『皇帝』で初シテを務め、1936年(昭和11年)には『道成寺』を披いた。 この前年頃から関西へと稽古に通うようになり、終戦後に京都に移り、その後大坂に定住した。1946年(昭和21年)、万三郎が死去すると梅猶会を立ち上げて大阪を拠点にしながら東京や名古屋でも活動。父・万三郎譲りと言われるその声調や謡いに加えて華麗な型も評価が高かった。 能楽の一般への普及を図るため照明能や劇場での能公演にも積極的で、1958年(昭和33年)から開催された大阪国際フェスティバルには当初から協力。能のステージで使用する舞台装置の考案や演出などにも携わったほか、度々出演もしている。 1965年(昭和40年)より能楽協会会員。1967年(昭和42年)には国際文化振興会の後援で映画『能―鑑賞と知識』を制作した。 初世 梅若万三郎は実父。二世 梅若万三郎は実兄。次男は五世 梅若吉之丞。五世吉之丞の次男が猶義の名を継いで二世 梅若猶義となっている。
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初世 梅若 猶義は観世流の能楽師。
'''初世 梅若 猶義'''(しょせい うめわか なおよし、[[1911年]]([[明治]]44年)[[9月1日]] - [[1972年]]([[昭和]]47年)[[7月5日]])は[[観世流]]の[[能楽師]]。 == 人物 == 1911年、[[梅若万三郎 (初世)|初世 梅若万三郎]]の5男として東京に生まれた<ref name="daijiten">能楽大事典(2012)、pp.86-87</ref>。父・万三郎に師事して1915年([[大正]]4年)3月に『[[鞍馬天狗 (能)|鞍馬天狗]]』での子方で初舞台を踏む<ref name="daijiten"/>。1924年(大正13年)には『[[皇帝 (能)|皇帝]]』で[[能楽#シテ方|初シテ]]を務め、1936年(昭和11年)には『[[道成寺 (能)|道成寺]]』を披いた<ref name="daijiten"/>。 この前年頃から関西へと稽古に通うようになり、終戦後に京都に移り、その後大坂に定住した<ref name="daijiten"/>。1946年(昭和21年)、万三郎が死去すると梅猶会を立ち上げて大阪を拠点にしながら東京や名古屋でも活動<ref name="daijiten"/>。父・万三郎譲りと言われるその声調や謡いに加えて華麗な型も評価が高かった<ref name="daijiten"/>。 能楽の一般への普及を図るため照明能<ref group="注">舞台照明を演出として使用する能。</ref>や劇場での能公演にも積極的で、1958年(昭和33年)から開催された[[大阪国際フェスティバル]]には当初から協力。能のステージで使用する舞台装置の考案や演出などにも携わったほか<ref name="daijiten"/>、度々出演もしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahizaidan.or.jp/festival/1958-1967/lineup-1962/ |title=1962年のラインナップ |publisher=朝日新聞文化財団 |date= |accessdate=2023-09-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahizaidan.or.jp/festival/1958-1967/lineup-1964/ |title=1964年のラインナップ |publisher=朝日新聞文化財団 |date= |accessdate=2023-09-11}}</ref>。 1965年(昭和40年)より[[能楽協会]]会員<ref name="daijiten"/>。1967年(昭和42年)には[[国際交流基金|国際文化振興会]]の後援で映画『能―鑑賞と知識』を制作した<ref name="daijiten"/>。 == 家族 == [[梅若万三郎 (初世)|初世 梅若万三郎]]は実父。[[梅若万三郎 (2世)|二世 梅若万三郎]]は実兄。次男は[[梅若吉之丞 (5世)|五世 梅若吉之丞]]<ref name="daijiten"/>。五世吉之丞の次男が猶義の名を継いで[[梅若猶義 (2世)|二世 梅若猶義]]となっている<ref name="daijiten"/>。 == 注釈 == {{Reflist|group="注"}} == 脚注 == {{reflist}} == 参考文献 == * [[小林責]]、[[西哲生]]、[[羽田昶]]著、『能楽大事典』、[[筑摩書房]]、2012年1月20日、ISBN 978-4-480-87357-6 {{DEFAULTSORT:うめわか なおよし}} [[Category:能の役者]] [[Category:1911年生]] [[Category:1972年没]]
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ストヤン・デルチェフ
ストヤン・デルチェフ(ブルガリア語: Стоян Делчев, 英語: Stoyan Deltchev, 1959年7月3日 - )は、ブルガリアの体操選手でオリンピック金メダリスト。 1959年ブルガリアプロヴディフ生まれ。 1976年モントリオールオリンピックに出場し、1980年モスクワオリンピックにおいては鉄棒で金メダル、個人総合で銅メダルを獲得した。 アメリカネバダ州リノで自身の体操教室を開いている。
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ストヤン・デルチェフ(ブルガリア語: Стоян Делчев, 英語: Stoyan Deltchev, 1959年7月3日 - )は、ブルガリアの体操選手でオリンピック金メダリスト。 1959年ブルガリアプロヴディフ生まれ。 1976年モントリオールオリンピックに出場し、1980年モスクワオリンピックにおいては鉄棒で金メダル、個人総合で銅メダルを獲得した。 アメリカネバダ州リノで自身の体操教室を開いている。
{{Infobox 体操選手 | 氏名 = ストヤン・デルチェフ<br/>''Stoyan Deltchev'' | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | フルネーム = | 愛称 = | 国籍 = {{BUL}} | 種目 = [[体操競技]] | 所属 = | 生年月日 = {{生年月日と年齢|1959|07|03|yes}} | 生誕地 = [[ブルガリア]][[プロヴディフ]] | 居住地 = アメリカ合衆国[[ネバダ州]][[リノ (ネバダ州)|リノ]] | 没年月日 = | 死没地 = | 身長 = | 体重 = | コーチ = | 引退 = | show-medals = yes | medaltemplates = {{MedalSport|男子[[体操競技]]}} {{MedalCompetition|[[オリンピックの体操競技|オリンピック]]}} {{MedalGold|[[1980年モスクワオリンピック|1980 モスクワ]]|[[1980年モスクワオリンピックの体操競技|鉄棒]]}} {{MedalBronze|1980 モスクワ|個人総合}} {{MedalCompetition|[[世界体操競技選手権|世界選手権]]}} {{MedalBronze | [[1978年世界体操競技選手権|1978 ストラスブール]] | あん馬 }} {{MedalBronze | 1978 ストラスブール | 鉄棒 }} }} '''ストヤン・デルチェフ'''({{lang-bg|Стоян Делчев}}, {{lang-en|Stoyan Deltchev}}, [[1959年]][[7月3日]] - )は、[[ブルガリア]]の[[体操選手]]でオリンピック金メダリスト。 1959年ブルガリア[[プロヴディフ]]生まれ。 [[1976年モントリオールオリンピック]]に出場し、[[1980年モスクワオリンピック]]においては鉄棒で金メダル、個人総合で銅メダルを獲得した<ref>{{Cite web|url=http://databaseolympics.com/games/gamessport.htm?g=20&sp=GYM|title=1980 Summer Olympics – Moscow, Soviet Union – Gymnastics|accessdate=2023-09-11|publisher=databaseOlympics.com|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130119145704/http://databaseolympics.com/games/gamessport.htm?g=20&sp=GYM|archivedate=2013-01-19}}</ref>。 アメリカ[[ネバダ州]][[リノ (ネバダ州)|リノ]]で自身の体操教室を開いている<ref>{{Cite web|url=http://www.deltchevgymnastics.com/|title=Deltchev Gymnastics|accessdate=2023-09-11}}</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連事項 == * [[オリンピックの体操競技・男子メダリスト一覧]] {{オリンピック体操競技}} {{Authority control}} {{DEFAULTSORT:てるちえふ すとやん}} [[Category:1959年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:ブルガリアのオリンピック金メダリスト]] [[Category:体操競技のオリンピックメダリスト]]
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八木村 (広島県)
八木村(やぎむら)は、広島県安佐郡にあった村。現在の広島市安佐南区八木にあたる。
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八木村(やぎむら)は、広島県安佐郡にあった村。現在の広島市安佐南区八木にあたる。
{{日本の町村 (廃止) | 廃止日 = 1955年7月1日 | 廃止理由 = 新設合併 | 廃止詳細 = [[川内村 (広島県)|川内村]]、'''八木村'''、[[緑井村]] → [[佐東町]] | 現在の自治体 = [[広島市]] | よみがな = やぎむら | 自治体名 = 八木村 | 区分 = 村 | 都道府県 = 広島県 | 郡 = [[安佐郡]] | 面積 = | 境界未定 = | 人口 = 2909 | 人口の出典 = [[国勢調査 (日本)|国勢調査]] | 人口の時点 = 1950年 | 隣接自治体 = [[可部町]]、[[高陽町]]、川内村、緑井村、[[安佐町]] | 所在地 = 安佐郡八木村 | 座標 = | 位置画像 = | 特記事項 = }} '''八木村'''(やぎむら{{R|変遷}})は、[[広島県]][[安佐郡]]にあった[[村]]。現在の[[広島市]][[安佐南区]][[八木 (広島市)|八木]]にあたる。 == 地理 == *河川:[[太田川]]、古川{{R|角川}} == 歴史 == *[[1889年]](明治22年)4月1日、[[町村制]]の施行により、[[沼田郡]]八木村が単独で村制施行し、'''八木村'''が発足<ref name=変遷>『市町村名変遷辞典』803頁。</ref><ref name=角川>『角川日本地名大辞典 34 広島県』822頁。</ref>。 *[[1898年]](明治31年)10月1日、郡の統合により[[安佐郡]]に所属{{R|変遷}}{{R|角川}}。 *[[1955年]](昭和30年)7月1日、安佐郡川内村、緑井村と合併し、町制施行し'''[[佐東町]]'''を新設して廃止された{{R|変遷}}{{R|角川}}。 == 産業 == *農業、木履、麻加工業{{R|角川}} == 交通 == === 鉄道 === *[[1909年]](明治42年)可部軽便鉄道(現[[可部線]])横川~上八木間開通{{R|角川}} == 脚注 == {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[角川日本地名大辞典]] 34 広島県 * 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。 == 関連項目 == * [[広島県の廃止市町村一覧]] {{デフォルトソート:やきむら}} [[Category:沼田郡]] [[Category:安佐郡]] [[Category:広島市域の廃止市町村]] [[Category:安佐南区の歴史]] [[Category:1889年設置の日本の市町村]] [[Category:1955年廃止の日本の市町村]]
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ホワイトカーボン
ホワイトカーボン(英:white carbon)
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ホワイトカーボン 沈降シリカのこと。カーボンブラックの代わりにタイヤ等の充填材として用いることから(カーボンは含んでいない)。ホワイトカーボンブラックともいう。 チャオ石のこと。 二酸化炭素吸収材料としてのコンクリートを指す造語。グリーンカーボン、ブルーカーボンになぞらえたもの。
'''ホワイトカーボン'''(英:white carbon) *[[沈降シリカ]]のこと。[[カーボンブラック]]の代わりにタイヤ等の充填材として用いることから([[炭素|カーボン]]は含んでいない)。ホワイトカーボンブラックともいう。 *[[チャオ石]]のこと。 *[[二酸化炭素]]吸収材料としての[[コンクリート]]を指す造語。グリーンカーボン、[[ブルーカーボン]]になぞらえたもの。<ref>[https://www.sankei.com/article/20230306-BTS5QBX24BGBNGDTXHYWL4MTWU/ 鹿島が広げる3色の吸収源 森林から海藻、コンクリートまで 1.5℃の約束を守るために(産経新聞)]</ref> {{reflist}} {{曖昧さ回避}} {{DEFAULTSORT:ほわいとかあほん}}
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緑井村
緑井村(みどりいむら)は、広島県安佐郡にあった村。現在の広島市安佐南区の一部にあたる。 権現山の南に位置していた。南部は古川、安川に沿った沖積低地。
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緑井村(みどりいむら)は、広島県安佐郡にあった村。現在の広島市安佐南区の一部にあたる。
{{日本の町村 (廃止) | 廃止日 = 1955年7月1日 | 廃止理由 = 新設合併 | 廃止詳細 = [[川内村 (広島県)|川内村]]、[[八木村 (広島県)|八木村]]、'''緑井村''' → [[佐東町]] | 現在の自治体 = [[広島市]] | よみがな = みどりいむら | 自治体名 = 緑井村 | 区分 = 村 | 都道府県 = 広島県 | 郡 = [[安佐郡]] | 面積 = | 境界未定 = | 人口 = 2784 | 人口の出典 = [[国勢調査 (日本)|国勢調査]] | 人口の時点 = 1950年 | 隣接自治体 = [[安佐町]]、八木村、川内村、[[安村]] | 所在地 = 安佐郡緑井村 | 座標 = | 位置画像 = | 特記事項 = }} '''緑井村'''(みどりいむら{{R|変遷}})は、[[広島県]][[安佐郡]]にあった[[村]]。現在の[[広島市]][[安佐南区]]の一部にあたる。 == 地理 == 権現山の南に位置していた。南部は古川、安川に沿った沖積低地{{R|角川}}。 == 歴史 == *[[1889年]](明治22年)4月1日、[[町村制]]の施行により、[[沼田郡]]緑井村が単独で村制施行し、'''緑井村'''が発足<ref name=変遷>『市町村名変遷辞典』803頁。</ref><ref name=角川>『角川日本地名大辞典 34 広島県』822頁。</ref>。 *[[1898年]](明治31年)10月1日、郡の統合により[[安佐郡]]に所属{{R|変遷}}{{R|角川}}。 *[[1955年]](昭和30年)7月1日、安佐郡川内村、八木村と合併し、町制施行し'''[[佐東町]]'''を新設して廃止された{{R|変遷}}{{R|角川}}。 == 産業 == *農業、養蚕、畳表{{R|角川}} == 交通 == === 鉄道 === *[[1909年]](明治42年)可部軽便鉄道(現[[可部線]])横川~上八木間開通{{R|角川}} == 脚注 == {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[角川日本地名大辞典]] 34 広島県 * 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。 == 関連項目 == * [[緑井 (広島市)]] * [[広島県の廃止市町村一覧]] {{デフォルトソート:みとりいむら}} [[Category:沼田郡]] [[Category:安佐郡]] [[Category:広島市域の廃止市町村]] [[Category:安佐南区の歴史]] [[Category:1889年設置の日本の市町村]] [[Category:1955年廃止の日本の市町村]]
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タリン・ブラックナイト映画祭
タリン・ブラックナイト映画祭(Tallinn Black Nights Film Festival, エストニア語:Pimedate Ööde Filmifestival)通称PÖFFは、エストニア共和国の首都タリンで1997年から毎年開催されている映画祭。 タリン・ブラックナイト映画祭は、カンヌ国際映画祭、ベルリン国際映画祭、ヴェネツィア国際映画祭他、15の映画祭と並ぶ国際映画製作者連盟(FIAPF)認定の国際コンペティティブ長編映画プログラムを開催する北欧およびバルト三国で唯一の映画祭。75カ国から500本以上の長編および短編映画とアニメーションが上映され、80,000人の観客を動員する(2022年)。 映画祭と同時に開催されるインダストリー@タリン(Industry@Tallinn)とバルト・イベント・コプロダクション・マーケット(Baltic Event Co-Production Market)は、この地域最大のオーディオビジュアル産業の会議及び見本市で、北欧やバルト地域、アジアやアメリカなどの映画関係者が集まり、映画制作や配給、販売などの最新の動向や課題について議論したり、共同制作や資金調達などの機会を探したりする。2022年に760人を超える映画関係者やジャーナリストを受け入れている。 メインプログラムと同時に2つのサブフェスティバルを開催している。 オフシーズンイベントとして、バルト三国唯一のジャンル映画イベントである以下を開催している。 毎年、映画祭には300人以上のボランティアを雇用しており、チケット販売、チケットチェック、代表団のエスコート、インフォメーションデスクなどで働いている。 これまでにPÖFFを訪れた著名な映画監督、俳優、業界関係者は、アキ・カウリスマキ、クシシュトフ・ザヌッシ、オルガ・キュリレンコ、セルゲイ・ロズニツァ、イ・ジュンイク、ヨス・ステリング、ヤン・トロエル、カトリーヌ・ブレイヤ、ロイ・アンダーソン、フリドリック・ソー・フリドリクソン、ニール・ジョーダン、フィリップ・グラス、ルーカス・ムーディソン、マイケル・ナイマン、イエジー・シュトゥール、トム・シリング、ペンエク・ラタナルアン、イザッハ・デ・バンコール、パヴェル・ルンギン、フィオナ・ショー、ロス・パートリッジ、ミカエル・ペルスブラント、その他多数。 1997年に4,500人の動員でスタートしたPÖFFは、当初は主に北欧映画の紹介だったが、 映画祭が成長するにつれ、その規模を飛躍的に拡大し現在、PÖFFは北欧最大の映画祭となっている。2015年の第19回開催では、600本以上の映画(80カ国から250本以上の長編映画を含む)が上映され50カ国から700人以上の認定ゲストやジャーナリストを含む8万人以上の観客に900回以上の上映を実施。 2010年にはタリンで欧州映画賞授賞式が開催され、2015年には欧州委員会との共催で欧州映画フォーラム会議が開催された。 2011年にFIAPF(国際映画製作者連盟)に認定され、2014年にはAリスト映画祭に格上げとなり、北欧で初めて長編映画のコンペティションが行われる世界15大映画祭の一つとなった。 2017年、エストニアが欧州連合の議長国を務めたことを記念して、同映画祭はエストニア文化省と提携し、オーディオビジュアルに関する国際会議「Pictured Futures」を共催した。会議のテーマは「Pictured Futures: Connecting Content, Tech & Policy In Audiovisual Europe」であった。 オフィシャルセレクション部門 新人監督長編部門 “理由ある反抗”長編部門 短編部門 その他 タリン・ブラックナイトの業界プログラムは、 インダストリー@タリン業界サミットとバルト海イベント地域共同制作映画マーケットからなり、北欧とアジア、アメリカ、南米をつなぐことを目的としたプラットフォームで 毎年700人以上の業界ゲストを受け入れている。 ジャスト・フィルム - 若手新人と子供の映画祭。 ジャスト・フィルムは、この地域最大の若手新人映画祭です。この映画祭には、青少年・子供向けプログラム、国際若手新人映画コンペティションプログラム、ECFAコンペティションプログラム、子供の権利プログラム、そしてライフスタイルとスポーツに関するドキュメンタリー(Doc@Just)科学に関するドキュメンタリー(Science360)のプログラムがある。 映画祭は、若い観客のために企画されており、地元の若者で構成される審査員によって最優秀作品が選ばれ、 映画祭のブログには、若い映画評論家たちが毎日映画の批評を投稿しています。 PÖFFショートフィルム PÖFF Shorts - 国際審査員によって審査されるコンペティションプログラムを含む短編・アニメーション映画祭。
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タリン・ブラックナイト映画祭通称PÖFFは、エストニア共和国の首都タリンで1997年から毎年開催されている映画祭。
{{イベントインフォメーション |イベント名称=タリン・ブラックナイト映画祭 |種類=[[映画祭]] |画像= |画像サイズ= |画像説明= |開催時期=11月 |初回開催=[[1997年]] |会場=[[エストニア共和国]] |主催= |共催= |後援= |協賛= |企画制作= |来場者数=約80,000 |最寄駅= |URL=https://poff.ee/ |特記事項=[[国際映画製作者連盟]]認定映画祭のひとつ。 }} '''タリン・ブラックナイト映画祭'''(Tallinn Black Nights Film Festival, エストニア語:Pimedate Ööde Filmifestival)通称'''PÖFF'''は、[[エストニア共和国]]の首都[[タリン]]で1997年から毎年開催されている[[映画祭]]。 == 概要 == タリン・ブラックナイト映画祭は、[[カンヌ国際映画祭]]、[[ベルリン国際映画祭]]、[[ヴェネツィア国際映画祭]]他、15の映画祭と並ぶ[[国際映画製作者連盟]](FIAPF)認定の国際コンペティティブ長編映画プログラムを開催する[[北欧]]および[[バルト三国]]で唯一の映画祭<ref name="POFF1">{{Cite web|url=https://poff.ee/en/about/tallinn-black-nights-film-festival|title=About Tallinn Black Nights Film Festibal |publisher=MTÜ Pimedate Ööde Filmifestival|accessdate=2023-10-16|date=}}</ref>。75カ国から500本以上の長編および短編映画とアニメーションが上映され、80,000人の観客を動員する(2022年)<ref name="POFF1"/>。 映画祭と同時に開催されるインダストリー@タリン(Industry@Tallinn)とバルト・イベント・コプロダクション・マーケット(Baltic Event Co-Production Market)は、この地域最大のオーディオビジュアル産業の会議及び見本市で、北欧やバルト地域、アジアやアメリカなどの映画関係者が集まり、映画制作や配給、販売などの最新の動向や課題について議論したり、共同制作や資金調達などの機会を探したりする。2022年に760人を超える映画関係者やジャーナリストを受け入れている<ref name="POFF2">{{Cite web|url=https://industry.poff.ee/about/about-2|title=About Industry@Tallin |publisher=MTÜ Pimedate Ööde Filmifestival |accessdate=2023-10-16|date=}}</ref>。 メインプログラムと同時に2つのサブフェスティバルを開催している<ref name="POFF1"/>。 * 子供と青少年のための映画祭「Just Film」 * 短編映画とアニメーションに特化した「PÖFF Shorts」 オフシーズンイベントとして、バルト三国唯一のジャンル映画イベントである以下を開催している<ref name="POFF1"/>。 * Haapsalu Horror and Fantasy Film Festival(毎年4月) * Tartu Love Film Festival tARTuFF(毎年8月) * Women's Nights Film Festival in Rapla 毎年、映画祭には300人以上のボランティアを雇用しており、チケット販売、チケットチェック、代表団のエスコート、インフォメーションデスクなどで働いている<ref name="POFF1"/>。 これまでにPÖFFを訪れた著名な[[映画監督]]、[[俳優]]、業界関係者は、[[アキ・カウリスマキ]]、[[クシシュトフ・ザヌッシ]]、[[オルガ・キュリレンコ]]、[[セルゲイ・ロズニツァ]]、[[イ・ジュンイク]]、[[ヨス・ステリング]]、[[ヤン・トロエル]]、[[カトリーヌ・ブレイヤ]]、[[ロイ・アンダーソン]]、[[フリドリック・ソー]]・[[フリドリクソン]]、[[ニール・ジョーダン]]、[[フィリップ・グラス]]、[[ルーカス・ムーディソン]]、[[マイケル・ナイマン]]、[[イエジー・シュトゥール]]、[[トム・シリング]]、[[ペンエク・ラタナルアン]]、[[イザッハ・デ・バンコール]]、[[パヴェル・ルンギン]]、[[フィオナ・ショー]]、[[ロス・パートリッジ]]、[[ミカエル・ペルスブラント]]、その他多数。 == 歴史 == {{出典の明記| date = 2023年9月| section = 1}} 1997年に4,500人の動員でスタートしたPÖFFは、当初は主に北欧映画の紹介だったが、 映画祭が成長するにつれ、その規模を飛躍的に拡大し現在、PÖFFは北欧最大の映画祭となっている。2015年の第19回開催では、600本以上の映画(80カ国から250本以上の長編映画を含む)が上映され50カ国から700人以上の認定ゲストやジャーナリストを含む8万人以上の観客に900回以上の上映を実施。 2010年にはタリンで欧州映画賞授賞式が開催され、2015年には欧州委員会との共催で欧州映画フォーラム会議が開催された。 2011年にFIAPF([[国際映画製作者連盟]])に認定され、2014年にはAリスト映画祭に格上げとなり、北欧で初めて長編映画のコンペティションが行われる世界15大映画祭の一つとなった。 2017年、エストニアが欧州連合の議長国を務めたことを記念して、同映画祭はエストニア文化省と提携し、オーディオビジュアルに関する国際会議「Pictured Futures」を共催した。会議のテーマは「Pictured Futures: Connecting Content, Tech & Policy In Audiovisual Europe」であった。 == 賞 == オフィシャルセレクション部門 * グランプリ * 最優秀監督賞 * 最優秀撮影賞 * 最優秀脚本賞 * 最優秀男優賞 * 最優秀女優賞 * 最優秀音楽賞 * 最優秀美術賞 新人監督長編部門 * 最優秀新人賞 * 審査員特別賞 “理由ある反抗”長編部門 * 最優秀作品賞 短編部門 * 最優秀作品賞 * 最優秀学生作品賞 * 最優秀子供作品賞 その他 * 功労賞 * 観客賞 * 国際映画批評家連盟賞 == グランプリ受賞者 == {| class="wikitable" |+ |- ! 年 !! 作品 !! 原題 !! 監督 !! 国籍 |- | 2004 || シザ || Shiza / Шиза || グルシャット・オマロワ || カザフスタン |- | 2005 || 上海ドリームス || Qīng hóng / 青紅 || [[ワン・シャオシュアイ]] || 中国 |- | 2006 || ダークブルー ほとんどブラック || Azuloscurocasinegro || ダニエル・サンチェス・アレバロ || スペイン |- | 2007 || タクヴァ 神を畏れる男 || Takva || オザー・キジルタン || トルコ |- | 2008 || ハンガー || Hunger || スティーブ・マックイーン || イギリス |- | 2009 || アジャミ || Ajami / عجمي / עג'מי || スカンダー・コプティ || イスラエル |- | 2010 || わが喜び || Schastye moyo / Счастье моё || [[セルゲイ・ロズニツァ]] || ウクライナ |- | 2011 || シンプルライフ || Táo Jiě / 桃姐 || [[アン・ホイ]] || 香港 |- | 2013 || タレットのある家 || Dom s bashenkoy / Дом с башенкой || エヴァ・ネイマン || イタリア |- | 2014 || ルシファー || Lucifer || ガスト・ヴァン・デン・ベルヘ || ベルギー |- | 2015 || 玉座 || Sado / 사도 || [[イ・ジュンイク]] || 韓国 |- | 2016 || 静かなる心 || Lev shaket / לב שקט מאוד || エイタン・アナー || イスラエル |- | 2017 || 夜間事故 || Tunku Kyrsyk || テミルベク・ビルナザロフ || キルギス |- | 2018 || 彷徨える少女 || Niña Errante || ルベン・メンドーサ || コロンビア |- | 2019 || コントラ || コントラ || アンシュル・チャウハン || 日本 |- | 2020 || 恐怖 || Страх || イヴァイロ・フリストフ || ブルガリア |- | 2021 || 親愛なるトーマスへ || Lieber Thomas || アンドレアス・クライナート || ドイツ |- | 2022 || ドライビング・マム || Driving Mum || Hilmar Oddsson || アイスランド |} == 日本からの出品・上映作品 == {| class="wikitable" |+ |- ! 年 !! 部門 !! 作品 !! 監督 |- | 2021 || First Feature Conpetition || 幾多の北 || [[山村浩二]] |- | 2021 || Current Waves || ドライブ・マイ・カー || [[濱口竜介]] |- | 2021 || Offcial Selection || 鬼が笑う || 三野龍一 |- | 2021 || Rebels with a Cause || 未曾有 || [[工藤将亮]] |- | 2021 || Short Live-Action Conpetition || 6 Legs || [[平林勇]] |- | 2021 || Short Animation Competition || 不安な体 || [[水尻自子]] |- | 2022 || Main programme of Kinoff || 代々木 || マックス・ゴロミドフ |- | 2022 || First Feature Competition ||ダブル・ライフ || 余園園 |- | 2022 || Official Selection - Competition || [[近江商人、走る!]] || 三野龍一 |- | 2022 || Midnight Shivers || [[愛してる!]] || [[白石晃士]] |- | 2022 || Midnight Shivers || 怨泊 || [[藤井秀剛]] |- | 2022 || Shorts Animation Competition/Shorts Winners || 半島の鳥 || 和田淳 |- | 2022 || Shorts New Talents Competition: Animation || 喪失の家 || 全振圭 |- | 2022 || Rebels with a Cause Competition || あなたの微笑み || リム・カーワイ |- | 2023 || Official Selection - Competition ||[[Ben-Joe]]~お父さん、抱きしめて欲しかった~ || [[岩松あきら]] |- | 2023 || Official Selection - Competition || White Flag || バトバヤル・チョグソム |- | 2023 || Shorts New Talents Competition: Animation || Tunnel Wandering || リー・ゼハオ |- | 2023 || Shorts New Talents Competition: Animation || Shape of the Elephant || サム・クワ |} == インダストリー@タリン(Industry@Tallinn) == {{出典の明記| date = 2023年9月| section = 1}} タリン・ブラックナイトの業界プログラムは、 インダストリー@タリン業界サミットとバルト海イベント地域共同制作映画マーケットからなり、北欧とアジア、アメリカ、南米をつなぐことを目的としたプラットフォームで 毎年700人以上の業界ゲストを受け入れている。 == サブフェスティバル == {{出典の明記| date = 2023年9月| section = 1}} '''ジャスト・フィルム''' - 若手新人と子供の映画祭。 ジャスト・フィルムは、この地域最大の若手新人映画祭です。この映画祭には、青少年・子供向けプログラム、国際若手新人映画コンペティションプログラム、ECFAコンペティションプログラム、子供の権利プログラム、そしてライフスタイルとスポーツに関するドキュメンタリー(Doc@Just)科学に関するドキュメンタリー(Science360)のプログラムがある。 映画祭は、若い観客のために企画されており、地元の若者で構成される審査員によって最優秀作品が選ばれ、 映画祭のブログには、若い映画評論家たちが毎日映画の批評を投稿しています。 '''PÖFFショートフィルム''' PÖFF Shorts - 国際審査員によって審査されるコンペティションプログラムを含む短編・アニメーション映画祭。 == 出典 == {{Reflist}} == 外部リンク == *[https://poff.ee/ 公式サイト(英語)] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たりん・ぶらっくないとえいがさい}} [[Category:エストニアの映画|祭たりん・ぶらっくないとえいがさい]] [[Category:タリン]] [[Category:ヨーロッパの映画祭]] [[Category:1997年開始のイベント]]
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師戸城
師戸城(もろとじょう)は、千葉県印西市師戸にあった日本の城。 築城年代、城主などについての資料は少ないが、「臼井家由来抜書」によると、鎌倉時代末期には臼井城の支城であり、臼井四天王の1人として師戸四郎が居城していたと伝えられる。このことから、師戸と臼井が密接な関係にあったと推定される。戦国時代になると、原氏の支配するところとなった。 天正18年(1590年)、豊臣勢によってこの城は滅亡し、戦死者を葬ったという野の墓が近くに残されている。 城郭の遺構は、昭和40年代に入って一部破壊されたが、大部分が残っている。雄大な空堀と土塁によって、4つの郭を確認できる。南側には腰郭があって、水神が祀られている。
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師戸城(もろとじょう)は、千葉県印西市師戸にあった日本の城。
{{日本の城郭概要表 | img = 画像:Morotojo.jpg | img_capt = 師戸城 | img_width = 260px | name = 師戸城 | pref = 千葉県 | struct = 平山城 | tower_struct = なし | builders = 不明 | build_y = 不明 | rulers = 師戸四郎 | reject_y = | remains = 土塁、堀 | |latd=35|latm=45|lats=07.2|longd=140|longm=11|longs=00.2 |map=Japan Chiba|map_mark=日本の城跡|map_label=師戸城|map_label_position=top }} '''師戸城'''(もろとじょう)は、[[千葉県]][[印西市]]師戸にあった[[日本の城]]。 == 歴史 == 築城年代、城主などについての資料は少ないが、「臼井家由来抜書」によると、[[鎌倉時代]]末期には[[臼井城]]の支城であり、臼井四天王の1人として師戸四郎が居城していたと伝えられる<ref>府馬清 『房総の古城址めぐり 下総国』 有峰書店 P131</ref>。このことから、師戸と臼井が密接な関係にあったと推定される。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]になると、[[原氏]]の支配するところとなった。 天正18年(1590年)、豊臣勢によってこの城は滅亡し、戦死者を葬ったという野の墓が近くに残されている。 == 構造 == 城郭の遺構は、昭和40年代に入って一部破壊されたが、大部分が残っている。雄大な空堀と土塁によって、4つの郭を確認できる。南側には腰郭があって、水神が祀られている<ref>『日本城郭大系6』 新人物往来社 P94</ref>。 == アクセス == *[[京成本線]] [[京成臼井駅]]から[[大成交通]]バス 師戸または印旛沼公園入口下車 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{デフォルトソート:もろとしよう}} [[Category:千葉県の城]] [[Category:下総国の城]] [[Category:現存しない千葉県の建築物]] [[Category:印西市の建築物|廃もろとしよう]] [[Category:印西市の歴史]]
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東京電機大学総合研究所
東京電機大学総合研究所(とうきょうでんきだいがくそうごうけんきゅうじょ)は、東京電機大学に設置された研究所。 東京電機大学総合研究所は、1981年に全学的な研究機関として設立された。総合研究所は実学を重んじる大学の理念に基づき、社会のニーズと合致した実践的な研究課題に取り組んでいる。 総合研究所は、5つの研究部門、5つのプロジェクト研究所、2つの共同利用施設から構成され、東京電機大学の教員が研究課題に応じて研究に参加し、その成果を地域社会との連携や産学連携を通して、広く社会へ提供していくことを使命としている。 現在の研究部門は、「エネルギー・環境研究部門」、「生命・医工学研究部門」、「情報研究部門」、「基盤工学研究部門」、「基礎科学研究部門」の5部門がある。
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東京電機大学総合研究所(とうきょうでんきだいがくそうごうけんきゅうじょ)は、東京電機大学に設置された研究所。
'''東京電機大学総合研究所'''(とうきょうでんきだいがくそうごうけんきゅうじょ)は、[[東京電機大学]]に設置された研究所。 == 概要 == 東京電機大学総合研究所は、1981年に全学的な研究機関として設立された。総合研究所は実学を重んじる大学の理念に基づき、社会のニーズと合致した実践的な研究課題に取り組んでいる<ref>{{Cite web|和書|title=東京電機大学総合研究所「研究成果発表会」 |url=https://www.dendai.ac.jp/event/20220722-01.html |website=東京電機大学公式サイト |access-date=2023-09-11 |language=ja-JP}}</ref>。 総合研究所は、5つの研究部門、5つのプロジェクト研究所、2つの共同利用施設から構成され、東京電機大学の教員が研究課題に応じて研究に参加し、その成果を地域社会との連携や産学連携を通して、広く社会へ提供していくことを使命としている。 現在の研究部門は、「エネルギー・環境研究部門」、「生命・医工学研究部門」、「情報研究部門」、「基盤工学研究部門」、「基礎科学研究部門」の5部門がある。 == 研究所長 == * 齋藤博之 == 脚注 == <references /> == 外部リンク == * [https://www.dendai.ac.jp/crc/souken/ 東京電機大学総合研究所](公式サイト) {{学校法人東京電機大学}} {{DEFAULTSORT:とうきょうでんきだいがくそうごうけんきゅうじょ}} [[Category:東京電機大学]] [[Category:東京都の研究所]] [[Category:1981年設立の組織]] [[Category:20世紀の日本の設立]] [[Category:日本の私立教育機関の研究所]]
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菅家一比古
菅家 一比古(かんけ いちひこ、1953年〈昭和28年〉6月23日 - 2021年〈令和3年〉)は、日本の古神道家、教育家。 北海道出身。 一般社団法人「美し国」代表を務めて「日本蘇り運動」を展開した。 1979年(昭和54年) - 日本学院(予備校)設立。1982年(昭和57年) - 財団法人民族科学研究所企画室長。 1984年(昭和59年) - 安全問題研究所所長。1985年(昭和60年) - 教育創造研究所所長。 1990年(平成2年) - 中央大学名誉教授中西旭に師事、禊、古神道の指導を受け大自然回帰に目覚める。 2000年(平成12年) - 株式会社ピュア―ライフ設立。 2010年(平成22年) - 一般社団法人美し國代表、日本蘇り運動を展開。関連団体として美し国経営者連盟政経塾、なでしこオピニオンの会、菅家廊下翔塾を展開した。 2021年(令和3年) - 死去
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菅家 一比古は、日本の古神道家、教育家。 北海道出身。 一般社団法人「美し国」代表を務めて「日本蘇り運動」を展開した。
{{複数の問題 |特筆性=2023年9月11日 (月) 11:56 (UTC)|分野=人物 |出典の明記=2023年9月11日 (月) 11:56 (UTC) |独自研究 = 2023-8 |wikify=2023年9月11日 (月) 11:56 (UTC) }} '''菅家 一比古'''(かんけ いちひこ、1953年〈昭和28年〉6月23日 - 2021年〈令和3年〉)は、日本の社会教育家、古神道家<ref>{{Cite web |title=菅家 一比古 (かんけ いちひこ) のセミナー |url=https://www.seminarjyoho.com/teacher_show_117931.html |website=セミナー情報ドットコム |access-date=2023-09-16 |language=ja}}</ref>。一般社団法人「美し国」代表を務めて「日本蘇り運動」を展開した。 == 生涯 == {{出典の明記| date = 2023年9月| section = 1}} {{年譜のみの経歴|date=2023年9月11日 (月) 11:56 (UTC)}} 昭和28年生まれ、北海道釧路市出身。 昭和53年(1979年) 財団法人民族科学研究所企画室長、安全問題研究所所長を務める。昭和58年に東京に予備校、日本学院を設立、学院長に就任した。昭和60年には教育創造研究所を設立し、本格的人間教育、社会教育に乗り出す。この頃から様々な団体で講演を重ねる。また青少年を対象とした「偉人を語る会」を立ち上げた。 平成2年(1990年)には中央大学名誉教授[[中西旭]]氏に出会い師事する。師の導きにより禊を実践し大自然回帰に目覚める。平成3年には和乃会、ルピナスセミナー、新意識青年講座、むすび人間学セミナなどさまざまな勉強会を開催し社会教育家として幅広い活動を展開する。平成12年(2000年) には株式会社ピュア―ライフを創立。平成17年には師、中西旭氏と母、フジ子氏を相次いで亡くし、師の志を受け継ぐことと母から教わった「日本的愛の形」を世に問う決意を固めた<ref>「和のこころを生きる」シリーズ⑤「感受」ガイア出版 4‐5頁</ref>。 平成23年(2010年)には「日本蘇り」を目的とした国民運動「美し国」を立ち上げた。「美し国」の特別顧問には外交評論家の[[加瀬英明]]、副代表にはアルピニストの[[野口健]]らが就任していた。 平成28年には総合人間力の向上とリーダー育成を目的とした菅家廊下翔塾を開講した。平成25年の還暦パーティーには[[呉善花]]や[[神谷宗幣]]らが出席した<ref>参政党 参議院議員 神谷宗幣ブログ 2013年6月22日 https://www.kamiyasohei.jp/2013/06/22/4455/</ref> 。令和元年8月31日にはFMラジオ番組「Radio Leader's」に出演し日本の危機と「美し国」運動について語った<ref>FMラジオ番組「Radio Leader's」一般社団法人 美し国 代表 菅家一比古 様(2019.8.31放送)https://www.youtube.com/watch?v=KPqAB6a-vSo</ref>。 令和3年(2021年)運動半ばにして逝去された。著書に「和のこころを生きる」シリーズ6冊。 == 主な活動 == * 大自然回帰運動 * 日本蘇り運動 * 南伊豆弓ヶ浜禊 * 伊勢神宮参拝と五十鈴川禊 * 靖国神社参拝と奥多摩禊 == 脚注 == <references /> == 関連項目 == * [[古神道]] * [[神道]] * [[禊]] == 参考文献 == * 「新しい時代の波が見えますか?」ガイア出版 2002年9月28日 * 「あなたが光を放つ瞬間」ガイア出版 2003年7月11日 * 「微笑み返し」ガイア出版 2003年11月30日 * 「あなたはいま美しいですか」ガイア出版 2004年7月22日 * 「かなしびのこころ」ガイア出版 2005年7月7日 * 「幸せの扉をひらくとき」ガイア出版 2006年7月7日 * メールマガジン「言霊の華」 * 「美し国・平成三十年 秋号」美し国発行 平成30年10月 == 外部リンク == * https://www.facebook.com/ichihiko.kanke/?locale=ja_JP {{DEFAULTSORT:かんけ いちひこ}} [[Category:21世紀日本の教育者]] [[Category:北海道出身の人物]] [[Category:1953年生]] [[Category:2021年没]]
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ライコニク (路面電車車両)
ライコニク(ポーランド語: Lajkonik)は、ポーランド・クラクフの路面電車であるクラクフ市電(ポーランド語版)で使用されている車両の愛称。スイスのシュタッドラー・レールが製造を手掛けた超低床電車で、2020年から営業運転に投入されている。 2018年、シュタッドラー・レールのポーランドの子会社であるシュタッドラー・ポルスカ(Stadler Polska)は、ソラリスとコンソーシアムを組み、クラクフ市電を運営するクラクフ市交通会社(ポーランド語版)との間に新型路面電車製造に関する契約を結んだ。これは老朽化した旧型電車の置き換えを目的としたもので、この契約に基づいてシュタッドラー・レールが開発したのが「ライコニク」である。 「ライコニク」は、シュタッドラー・レールが世界各地に展開する路面電車・ライトレール向け車両ブランドのタンゴ(ドイツ語版)(Tango)の1形式で、全長33.4 m、幅2.4 mの片運転台式3車体連接車である。前後車体の動力台車、中間車体の付随台車は共に回転軸を有しており、台車上部の床上高さが高くなっているが、スロープを用いることで車内の段差を無くしている。これらの台車は独自のフレーム構造が採用されており、部品の摩耗や走行中の振動が軽減されている。また、充電池を用いて架線から電気が供給されていない状態でも最長3 kmの距離が走行する事が可能となっている。制動装置には回生ブレーキが用いられており、消費電力の削減が図られている。 車内には冷暖房双方に対応した空調装置(HVAC)やUSBポート、安全対策用の監視カメラ、音声やスクリーンを用いた情報案内装置が設置されている。また、前方車体には車椅子用のフリースペースと1人分の折り畳み座席が存在する。名称の由来となった、木馬に乗りタタール人の服や帽子を被る男というモチーフは、車体や座席など各所に描かれている。 2018年、最初に契約が結ばれたのは35両で、その際にオプション分として発注された15両についても翌2019年1月に正式な発注が行われた。これらの契約に基づいた車両は同年からクラクフ市電への納入が始まり、2020年6月18日から営業運転を開始している。 その後、更なる旧型車両、特にバリアフリーに不向きな高床式車両の完全置き換えを目的に、2020年に60両の追加発注が実施された。これらの車両は「ライコニク2(Lajkoniki II)」とも呼ばれ、車内のフリースペースの拡大を始めとした一部の設計変更が行われており、2022年から2023年にかけてクラクフ市電へ納入される事になっている。
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ライコニクは、ポーランド・クラクフの路面電車であるクラクフ市電で使用されている車両の愛称。スイスのシュタッドラー・レールが製造を手掛けた超低床電車で、2020年から営業運転に投入されている。
{{Pathnav|{{仮リンク|タンゴ (鉄道車両)|label=タンゴ|de|Stadler Tango}}|frame=1}} {{鉄道車両 | 車両名 = "ライコニク" | 背景色 = | 文字色 = | 画像 = File:Krakow tramwaj HY844.jpg | 画像幅 = 280px | 画像説明 = "ライコニク"(844)<br />([[2021年]]撮影) | 製造所 = [[シュタッドラー・レール]] | 製造年 = [[2019年]] - [[2023年]] | 製造数 = 110両 | 種車 = | 改造所 = | 改造年 = | 改造数 = | 運用開始 = [[2020年]] | 運用終了 = | 引退 = | 廃車 = | 消滅 = | 運用者 = | 投入先 = {{仮リンク|クラクフ市電|pl|Tramwaje w Krakowie}} | 編成 = [[連接台車|3車体連接車]]、片運転台 | 軸配置 = Bo'2'2'Bo' | 電気方式 = [[直流電化|直流]]600 V<br />([[架空電車線方式]]) | 軌間 = [[標準軌|1,435 mm]] | 営業最高速度 = | 設計最高速度 = 70 km/h | 最高速度 = | 起動加速度 = 1.1 m/s{{sup|2}} | 常用減速度 = | 非常減速度 = | 減速度 = | 定格速度 = | 編成定員 = | 車両定員 = 着席82人<br />立席139人<br />折り畳み座席1人分 | 荷重 = | 車両重量 = | 編成重量 = | 軸重 = | 編成長 = | 全長 = 33,400 mm | 全幅 = 2,400 mm | 全高 = 3,600 mm | 車体長 = | 車体幅 = | 車体高 = | 床面高さ = 370 mm<br />300 mm(乗降扉付近)<br />480 mm(台車上部)<br />(低床率100 %) | 車体 = | 車輪径 = 600 mm | 固定軸距 = 1,800 mm | 台車間距離 = | 動力伝達方式 = | 機関 = | 機関出力 = | 機関出力2 = <!-- 1時間定格 --> | 機関出力3 = <!-- 30分定格 --> | 機関出力4 = <!-- 連続定格 --> | 変速機 = | 変速段 = | 発電機 = | 主電動機 = | 主電動機出力 = | 主電動機出力2 = <!-- 1時間定格 --> | 主電動機出力3 = <!-- 30分定格 --> | 主電動機出力4 = <!-- 連続定格 --> | 端子電圧 = | 搭載数 = | 駆動方式 = | 歯車比 = | 出力 = 675 kw | 編成出力 = | 定格出力 = 420 kw | 引張力 = | 制御方式 = | 定格引張力 = | 制御装置 = | 制動装置 = | 保安装置 = | 備考 = 主要数値は{{r|Kraków_Tram_Roster_Lajkonik_Stadler_0}}{{r|Kraków_Tram_Roster_Lajkonik_0}}{{r|Kraków_Tram_Lajkonik_2019_1}}{{r|Kraków_Tram_Lajkonik_2020_1}}{{r|Kraków_Tram_Lajkonik_2020_2}}{{r|Kraków_Tram_Lajkonik_2020_3}}に基づく。 | 備考全幅 = }} '''ライコニク'''({{lang-pl|Lajkonik}})は、[[ポーランド]]・[[クラクフ]]の[[路面電車]]である'''{{仮リンク|クラクフ市電|pl|Tramwaje w Krakowie}}'''で使用されている[[電車|車両]]の愛称。[[スイス]]の[[シュタッドラー・レール]]が製造を手掛けた[[超低床電車]]で、[[2020年]]から営業運転に投入されている{{r|Kraków_Tram_Roster_Lajkonik_Stadler_0}}{{r|Kraków_Tram_Roster_Lajkonik_0}}{{r|Kraków_Tram_Lajkonik_2019_1}}。 == 概要 == [[2018年]]、[[シュタッドラー・レール]]のポーランドの子会社であるシュタッドラー・ポルスカ(Stadler Polska)は、[[ソラリス (バス)|ソラリス]]とコンソーシアムを組み{{Refnest|group="注釈"|ソラリスの路面電車事業はコンソーシアム締結後にシュタッドラー・ポルスカへ吸収されている。}}、クラクフ市電を運営する{{仮リンク|クラクフ市交通会社|pl|Miejskie Przedsiębiorstwo Komunikacyjne w Krakowie}}との間に新型路面電車製造に関する契約を結んだ。これは老朽化した旧型電車の置き換えを目的としたもので、この契約に基づいてシュタッドラー・レールが開発したのが「ライコニク」である{{r|Kraków_Tram_Roster_Lajkonik_Stadler_0}}{{r|Kraków_Tram_Roster_Lajkonik_0}}{{r|Kraków_Tram_Lajkonik_2019_1}}。 「ライコニク」は、シュタッドラー・レールが世界各地に展開する路面電車・[[ライトレール]]向け車両ブランドの'''{{仮リンク|タンゴ (鉄道車両)|label=タンゴ|de|Stadler Tango}}'''(Tango)の1形式で、全長33.4 m、幅2.4 mの片運転台式[[連接台車|3車体連接車]]である。前後車体の動力台車、中間車体の付随台車は共に回転軸を有しており、台車上部の床上高さが高くなっているが、スロープを用いることで車内の段差を無くしている。これらの台車は独自のフレーム構造が採用されており、部品の摩耗や走行中の振動が軽減されている。また、[[充電池]]を用いて架線から電気が供給されていない状態でも最長3 kmの距離が走行する事が可能となっている。制動装置には[[回生ブレーキ]]が用いられており、消費電力の削減が図られている{{r|Kraków_Tram_Roster_Lajkonik_Stadler_0}}{{r|Kraków_Tram_Roster_Lajkonik_0}}{{r|Kraków_Tram_Lajkonik_2019_1}}{{r|Kraków_Tram_Lajkonik_2020_1}}{{r|Kraków_Tram_Lajkonik_2020_3}}。 車内には冷暖房双方に対応した[[空調|空調装置]](HVAC)やUSBポート、安全対策用の[[監視カメラ]]、音声やスクリーンを用いた情報案内装置が設置されている。また、前方車体には[[車椅子]]用のフリースペースと1人分の折り畳み座席が存在する。名称の由来となった、木馬に乗り[[タタール人]]の服や帽子を被る男というモチーフは、車体や座席など各所に描かれている{{r|Kraków_Tram_Roster_Lajkonik_Stadler_0}}{{r|Kraków_Tram_Lajkonik_2019_1}}。 <gallery widths="700" caption="側面図"> File:Stadler Tango „Lajkonik” Krk.png| </gallery> == 運用 == [[2018年]]、最初に契約が結ばれたのは35両で、その際にオプション分として発注された15両についても翌[[2019年]][[1月]]に正式な発注が行われた。これらの契約に基づいた車両は同年からクラクフ市電への納入が始まり、[[2020年]][[6月18日]]から営業運転を開始している{{r|Kraków_Tram_Roster_Lajkonik_0}}{{r|Kraków_Tram_Lajkonik_2019_1}}{{r|Kraków_Tram_Lajkonik_2020_3}}。 その後、更なる旧型車両、特にバリアフリーに不向きな高床式車両の完全置き換えを目的に、[[2020年]]に60両の追加発注が実施された{{Refnest|group="注釈"|この新型車両発注に関しては[[2019年]]に入札が行われたが、参加したのはシュタッドラー・ポルスカのみであった。}}。これらの車両は「ライコニク2(Lajkoniki II)」とも呼ばれ、車内のフリースペースの拡大を始めとした一部の設計変更が行われており、[[2022年]]から[[2023年]]にかけてクラクフ市電へ納入されている。この全110両の「ライコニク」のうち、80両は{{仮リンク|ノワ・フタ車庫|pl|Nowa Huta (zajezdnia tramwajowa)}}、30両は{{仮リンク|ポドグジェ車庫|pl|Podgórze (zajezdnia tramwajowa)}}に在籍する{{r|Kraków_Tram_Lajkonik_2020_1}}{{r|Kraków_Tram_Lajkonik_2020_2}}{{r|Kraków_Tram_Lajkonik_2020_3}}<ref>{{cite web|url = https://www.mpk.krakow.pl/pl/aktualnosci/news,10093,kolejny-nowy-lajkonik-w-krakowie.html |title = Kolejny nowy Lajkonik w Krakowie |publisher = [[クラクフ市交通会社|Miejskie Przedsiębiorstwo Komunikacyjne S.A. w Krakowie]] |date = 2022-10-14|accessdate = 2023-9-11}}</ref><ref>{{cite web|url = https://www.transport-publiczny.pl/wiadomosci/mpk-krakow-ma-juz-20-nowych-lajkonikow-78243.html |title = MPK Kraków ma już 20 nowych Lajkoników |publisher = Transport Publiczny |date = 2023-5-4|accessdate = 2023-9-11}}</ref><ref>{{cite web|url = https://www.urban-transport-magazine.com/en/mpk-krakow-renew-fleet-with-new-and-used-trams/ |title = MPK Kraków renew fleet with new and used trams |author = Michael Levy|publisher = Urban Transport Magazine |date = 2022-11-29 |accessdate = 2023-9-11}}</ref><ref>{{cite web|url = https://www.cs-dopravak.cz/stadler-dokoncil-dodavku-tramvaji-do-krakova-lajkoniku-je-110/ |title = Stadler dokončil dodávku tramvají do Krakova. Lajkoniků je 110 |author = Libor Hinčica|publisher = Československý Dopravák |date = 2023-10-18 |accessdate = 2023-10-19}}</ref>。 <gallery widths="200"> File:Stadler Tango „Lajkonik” - Kraków Os.Piastów06.jpg|825([[2020年]]撮影) File:Stadler Tango „Lajkonik” - Kraków Nowy Bieżanów05.jpg|826([[2020年]]撮影) File:Krakow tramwaj HY850.jpg|850([[2021年]]撮影) </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{reflist|2 |refs= <ref name="Kraków_Tram_Roster_Lajkonik_Stadler_0">{{cite web|url = https://www.stadlerrail.com/media/pdf/tmpkc0719e.pdf |title = TRAM TANGO KRAKÓW «Lajkonik» Miejskie Przedsiębiorstwo Komunikacyjne SA, Cracow, Poland |publisher = [[シュタッドラー・レール|Stadler Polska Sp. z o.o.]] |accessdate = 2023-9-11}}</ref> <ref name="Kraków_Tram_Roster_Lajkonik_0">{{cite web|url = https://www.mpk.krakow.pl/pl/tramwaje/tabor/wagon-stadler-tango-lajkonik/ |title = Wagon Stadler Tango - Lajkonik |publisher = [[クラクフ市交通会社|Miejskie Przedsiębiorstwo Komunikacyjne S.A. w Krakowie]] |accessdate = 2023-9-11}}</ref> <ref name="Kraków_Tram_Lajkonik_2019_1">{{cite web|url = https://www.urban-transport-magazine.com/en/first-stadler-lajkonik-tram-delivered-to-krakow-tender-for-60-further-trams-under-preparation/ |title = First Stadler “Lajkonik” tram delivered to Krakow – tender for 60 further trams under preparation |publisher = Urban Transport Magazine |date = 2019-12-15 |accessdate = 2023-9-11}}</ref> <ref name="Kraków_Tram_Lajkonik_2020_1">{{cite web|url = https://www.urban-transport-magazine.com/en/stadler-delivers-further-trams-to-cracow-krakow/ |title = Stadler delivers further trams to Cracow/ Kraków |publisher = Urban Transport Magazine |date = 2020-4-30 |accessdate = 2023-9-11}}</ref> <ref name="Kraków_Tram_Lajkonik_2020_2">{{cite web|url = https://www.transport-publiczny.pl/wiadomosci/mpk-krakow-z-ofertami-na-60-tramwajow-62654.html |title = MPK Kraków z jedną ofertą na 60 tramwajów. Tylko Stadler |author = Witold Urbanowicz |publisher = Transport Publiczny |date = 2019-9-17 |accessdate = 2023-9-11}}</ref> <ref name="Kraków_Tram_Lajkonik_2020_3">{{cite web|url = https://www.railwaypro.com/wp/krakow-orders-additional-stadler-lrvs/ |title = Kraków orders additional Stadler LRVs |publisher = RailwayPro |date = 2020-4-30 |accessdate = 2023-9-11}}</ref> }} {{DEFAULTSORT:らいこにくろめんてんしやしやりよう}} [[Category:シュタッドラー製の路面電車車両|たんこらいこにく]] [[Category:ポーランドの路面電車車両]] [[Category:クラクフ市電|車らいこにく]] [[Category:連接式の路面電車車両]] [[Category:2019年製の鉄道車両]]
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ゆのみ
ゆのみ、ユノミ
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ゆのみ、ユノミ ハスカップ(クロミノウグイスカグラ)の果実を指す、北海道胆振地方東部の方言。果実のアイヌ語名に由来。 湯呑茶碗 ⇒ 茶碗
'''ゆのみ'''、'''ユノミ''' * [[ハスカップ]](クロミノウグイスカグラ)の果実を指す、[[北海道]][[胆振総合振興局|胆振地方]]東部の[[方言]]。果実の[[アイヌ語]]名に由来。 * 湯呑茶碗 ⇒ [[茶碗]] {{Aimai}} {{デフォルトソート:ゆのみ}} [[Category:アイヌ語からの借用語]]
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四十にして惑わず
四十にして惑わず(しじゅうにしてまどわず)は、古代中国からの故事成語。 人間とは40歳にもなれば道理というものが明らかとなり、惑うことが無くなるということが意味されている。この故事成語から転じて、不惑が40歳を指す言葉として使われている。 孔子による論語の為政からの言葉。この他の年齢でも、何歳になればどうなるかが示されている。 安田登によれば、孔子の時代には「四十にして惑わず」の中の「惑」という漢字は存在していない。これは口承されたものが時代を経て文字化される際に、たまたま「惑」という漢字が当てはめられたのではないかとしている。孔子の時代には「惑」という漢字は存在していないが「或」という漢字は存在している。この「或」という漢字は区切ることを意味しており、当てはめてみたら「四十にして区切らず」となり、40歳になっても自らはこんな人間であるとして周りに柵を作って区切ろうとせず、もっといろんなことをするべきではないのかということではないかとしている。40歳になって物事に区切りをつけないで判断できるようになったや、40歳で固定観念が無くなったとしていたのかもしれないという説もある。 安達裕哉はこの言葉を持ち出して、人間とは40歳になることで自分というものを分かれるようになるとしている。自分のことが分かっているために惑うことがないとしている。40歳前後が人生の転機であるともしている。 楠木新はこの言葉を持ち出しているが、自らも一緒に仕事をしている人も実際は40歳になっても、この言葉通りにはならず惑いっぱなしであるとしている。この言葉での40歳で惑わなくなるというのは早過ぎて、実際はもっと歳を取ってから惑わなくなるとしている。楠木新によれば孔子は30歳のときは官吏として安定していたが、40歳の時には士官先を求めて苦労していた時期で、52歳になって魯で重要な地位を得ていたとのこと。 江上剛によって書かれた『四十にして惑わず』というタイトルの小説がある。
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四十にして惑わず(しじゅうにしてまどわず)は、古代中国からの故事成語。
'''四十にして惑わず'''(しじゅうにしてまどわず)は、[[古代中国]]からの[[故事成語]]。 == 概要 == [[人間]]とは40歳にもなれば[[道理]]というものが明らかとなり、惑うことが無くなるということが[[意味]]されている<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=四十にして惑わず(しじゅうにしてまどわず)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E5%8D%81%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%A6%E6%83%91%E3%82%8F%E3%81%9A-519236 |website=コトバンク |access-date=2023-09-11 |language=ja |first=故事成語を知る辞典,精選版 |last=日本国語大辞典,デジタル大辞泉}}</ref>。この故事成語から転じて、不惑が40歳を指す言葉として使われている<ref>{{kotobank|不惑}}</ref>。 === 歴史 === ==== 古代中国 ==== [[孔子]]による[[論語]]の為政からの言葉。この他の[[年齢]]でも、何歳になればどうなるかが示されている<ref name=":0" />。 [[安田登]]によれば、孔子の時代には「四十にして惑わず」の中の「惑」という[[漢字]]は存在していない。これは[[口承]]されたものが時代を経て文字化される際に、たまたま「惑」という漢字が当てはめられたのではないかとしている。孔子の時代には「惑」という漢字は存在していないが「或」という漢字は存在している。この「或」という漢字は区切ることを意味しており、当てはめてみたら「四十にして区切らず」となり、40歳になっても自らはこんな人間であるとして周りに柵を作って区切ろうとせず、もっといろんなことをするべきではないのかということではないかとしている<ref>{{Cite web|和書|title=能楽師・安田登さん 自分の可能性広げる三流のススメ |url=https://style.nikkei.com/article/DGXMZO70097150Y1A310C2000000/ |website=日本経済新聞 |date=2021-04-05 |access-date=2023-09-11 |language=ja}}</ref>。40歳になって物事に区切りをつけないで判断できるようになったや、40歳で固定観念が無くなったとしていたのかもしれないという説もある<ref>{{Cite web|和書|title=不惑とは40歳のこと!本当の意味や30歳、50歳を表す言葉についてもご紹介 |url=https://domani.shogakukan.co.jp/617306 |website=Domani |date=2021-12-06 |access-date=2023-09-11 |language=ja}}</ref>。 ==== 現代 ==== 安達裕哉はこの言葉を持ち出して、人間とは40歳になることで自分というものを分かれるようになるとしている。自分のことが分かっているために惑うことがないとしている。40歳前後が人生の転機であるともしている<ref>{{Cite web|和書|title=40才以降を豊かに過ごしたい人が、40才までに考えておくべきこと |url=https://diamond.jp/articles/-/323525 |website=ダイヤモンド・オンライン |date=2023-05-27 |access-date=2023-09-11 |language=ja}}</ref>。 [[楠木新]]はこの言葉を持ち出しているが、自らも一緒に仕事をしている人も実際は40歳になっても、この言葉通りにはならず惑いっぱなしであるとしている。この言葉での40歳で惑わなくなるというのは早過ぎて、実際はもっと歳を取ってから惑わなくなるとしている。楠木新によれば孔子は30歳のときは[[官吏]]として安定していたが、40歳の時には[[士官]]先を求めて苦労していた時期で、52歳になって[[魯]]で重要な地位を得ていたとのこと<ref>{{Cite web|和書|title=「働かないオジサン」は40にして惑いっぱなし |url=https://toyokeizai.net/articles/-/31273 |website=東洋経済オンライン |date=2014-02-26 |access-date=2023-09-11 |language=ja}}</ref>。 [[江上剛]]によって書かれた『四十にして惑わず』というタイトルの[[小説]]がある<ref>{{Cite web|和書|title=光文社文庫 四十にして惑わず~サラリーマン「論語」小説~ |url=https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-08-EK-0519622 |website=紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア |access-date=2023-09-11 |language=ja}}</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} [[Category:孔子]] [[Category:論語]] [[Category:故事成語]] {{DEFAULTSORT:ししゆうにしてまとわす}}
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千屋熊太郎
千屋 熊太郎(ちや くまたろう、1844年〈天保15年〉生 - 1864年〈元治元年〉没)は、江戸時代の土佐藩の医学者であり、尊皇攘夷運動家。高知県の人物。 菅原道真の後裔というサラブレッド型のエリート一族として土佐国に生まれる。千屋金策は成績優秀な兄で千屋寅之助は相当な学力にしっとするほど、千屋菊次郎と千屋富之助と菅野覚兵衛(千屋寅之助)の従兄弟にあたる。大坂へ留学し緒方研堂に医学を師事、故郷に帰国してから開業を果たす。 京の街などを震え上げさせた土佐勤王党を創業したリーダーである武市瑞山の投獄を期に、武市の釈放を求めて、清岡治之助と清岡道之助を中心とした野根山の屯集で、土佐藩に追求に遭難から逮捕される。 1864年(元治元年)9月5日に奈半利川の岸にて斬首という処刑方法で、21歳で生涯を終える。
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千屋 熊太郎は、江戸時代の土佐藩の医学者であり、尊皇攘夷運動家。高知県の人物。
'''千屋 熊太郎'''(ちや くまたろう、[[1844年]]〈天保15年〉 - [[1864年]]〈元治元年〉)は、[[江戸時代]]の[[土佐藩]]の[[医学者]]。[[尊皇攘夷]]運動家。[[高知県]]の人物。 == 概要 == {{出典の明記| date = 2023年9月| section = 1}} [[菅原道真]]の後裔として[[土佐国]]に生まれる。[[千屋金策]]は成績優秀な兄で、寅之助は相当な学力に嫉妬するほどだった。寅之助は千屋菊次郎と千屋富之助と[[菅野覚兵衛]](千屋寅之助)の[[従兄弟]]にあたる<ref>[[佐藤寿良]]・著作『菅野覚兵衛-ある海援隊隊士の生涯-』</ref>。[[大坂]]へ上り、緒方研堂に医学を学び、故郷に帰国してから開業を果たす。 [[土佐勤王党]]の党首[[武市瑞山]]の投獄を期に、武市の釈放を求めた[[清岡治之助]]と[[清岡道之助]]を中心とした[[野根山]]の集まりに参加し、土佐藩に捕縛される。 1864年([[元治]]元年)9月5日、[[奈半利川]]の岸にて[[斬首]]された。享年21歳。 == 脚注 == {{reflist}} == 外部リンク == * [https://kotobank.jp/word/%E5%8D%83%E5%B1%8B%E7%86%8A%E5%A4%AA%E9%83%8E-1091436 千屋熊太郎 コトバンク] {{People-stub}} {{Medical-people-stub}} {{デフォルトソート:ちや くまたろう}} [[Category:江戸時代の医学者]] [[Category:19世紀日本の活動家]] [[Category:土佐藩の人物]] [[Category:幕末の人物]] [[Category:1844年生]] [[Category:1864年没]]
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五嶋孝吉
五嶋 孝吉(ごとう こうきち、1906年3月18日 - )は日本の理学者。 熊本県玉名市生まれ。熊本県立玉名中学校、九州帝国大学臨時教員養成所、大阪帝国大学理学部卒業。 宮崎県立延岡高等女学校、熊本県立八代高等女学校教諭などを経て、奈良女子高等師範学校教諭となる。 昭和24年、私立暁女子短期大学学長、奈良女子大学教授となり、昭和28年に理学部長となる。 昭和35年に3度目の理学部長に就任した。昭和40年に奈良女子大学長に就任した。 また、大阪帝国大学から理学博士号を授与されている。
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五嶋 孝吉は日本の理学者。
{{複数の問題 |特筆性=2023年9月11日 (月) 11:54 (UTC)|分野=人物 |出典の明記=2023年9月11日 (月) 11:54 (UTC) }} '''五嶋 孝吉'''(ごとう こうきち、[[1906年]][[3月18日]] - )は日本の理学者。 == 経歴 == [[熊本県]][[玉名市]]生まれ。[[熊本県立玉名高等学校・附属中学校|熊本県立玉名中学校]]、[[九州帝国大学]]臨時教員養成所、[[大阪帝国大学]]理学部卒業。 [[宮崎県立延岡高等学校|宮崎県立延岡高等女学校]]、[[熊本県立八代中学校・高等学校|熊本県立八代高等女学校]]教諭などを経て、[[奈良女子高等師範学校]]教諭となる。 昭和24年、[[四日市大学短期大学部|私立暁女子短期大学]]学長、[[奈良女子大学]]教授となり、昭和28年に理学部長となる。 昭和35年に3度目の理学部長に就任した。昭和40年に奈良女子大学長に就任した。 また、大阪帝国大学から理学博士号を授与されている。 == 出典 == * 熊本紳士録(1964年版) {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ことう こうきち}} [[Category:奈良女子大学の教員]] [[Category:大阪大学出身の人物]] [[Category:熊本県出身の人物]] [[Category:1906年生]]
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にら豚
にら豚又はニラ豚(にらぶた)は、大分県大分市発祥の郷土料理。ニラを豚肉及びキャベツとともに炒めて醤油味に味付けした炒め料理である。 大分市では1968年(昭和43年)に滝尾地区でニラの栽培が始められた。2023年には栽培面積が約35haまで広がり、日本全国でも有数のニラの産地となっている。 大分市でニラの栽培が始まってから3年後の1971年(昭和46年)に、大分市の中華料理店がこの料理を考案した。当初は賄い料理だったものが、メニューとして客に提供されるようになったという。 ローソン、ジョイフル、やよい軒でも期間限定で発売されている。 2017年にはフンドーキンより「九州ご当地グルメシリーズ」の一環として「にら豚のたれ」が発売された。
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にら豚又はニラ豚(にらぶた)は、大分県大分市発祥の郷土料理。ニラを豚肉及びキャベツとともに炒めて醤油味に味付けした炒め料理である。
{{画像提供依頼|date=2023年9月11日 (月) 12:46 (UTC)|cat=料理|cat2=大分県|cat3=大分市|料理の実物}} '''にら豚'''又は'''ニラ豚'''(にらぶた)は、[[大分県]][[大分市]]発祥の[[郷土料理]]。[[ニラ]]を[[豚肉]]及び[[キャベツ]]とともに炒めて[[醤油]]味に味付けした[[炒め物|炒め料理]]である<ref>{{cite news | title = 夏休みに大分グルメ旅 関さば・関あじからにら豚まで | url = https://www.nikkei.com/article/DGXZZO18950720Y7A710C1000000/ | newspaper = 日本経済新聞 | date = 2017-08-01 }}</ref><ref name="oitacity">{{Cite web|和書| title = にら豚PR大作戦 ~大分発祥の『にら豚』を盛り上げよう!~ | url = https://nira.oitacity.info/ | publisher = 大分市 | accessdate = 2023-09-10 }}</ref>。 == 概要 == 大分市では[[1968年]](昭和43年)に滝尾地区でニラの栽培が始められた。[[2023年]]には栽培面積が約35haまで広がり、日本全国でも有数のニラの産地となっている<ref name="oitacity" /><ref name="norinsuisangyo">{{Cite web|和書| title = 大分市発祥!!「にら豚PR大作戦」を実施しています | url = https://www.city.oita.oita.jp/o158/shigotosangyo/norinsuisangyo/1469515876451.html | publisher = 大分市 | date = 2017-06-27 | accessdate = 2023-09-10 }}</ref><ref name="fujitv-view">{{Cite web|和書| title = 松岡修造「にら豚」調理&実食“2分半の戦い”で大興奮! | work = フジテレビュー!! | url = https://www.fujitv-view.jp/article/post-316093/ | publisher = フジテレビ | date = 2021-06-13 | accessdate = 2023-09-10 }}</ref>。 大分市でニラの栽培が始まってから3年後の[[1971年]](昭和46年)に、大分市の中華料理店がこの料理を考案した<ref name="oitacity" /><ref name="norinsuisangyo" /><ref name="fujitv-view" />。当初は[[賄い料理]]だったものが、メニューとして客に提供されるようになったという<ref>{{Cite web|和書| title = 独自の進化を遂げた九州のソウルフード!大分県のにら豚3選 | url = https://www.walkerplus.com/article/205659/ | publisher = ウォーカープラス | date = 2019-10-19 | accessdate = 2023-09-10 }}</ref>。 [[ローソン]]<ref name="norinsuisangyo" />、[[ジョイフル]]<ref>{{cite news | title = ジョイフル、大分名物「にら豚」を提供 19日から | url = https://www.nikkei.com/article/DGXZQOJC113EW0R10C22A4000000/ | newspaper = 日本経済新聞 | date = 2022-04-13 }}</ref>、[[やよい軒]]<ref>{{Cite web|和書| title = 大分発祥のスタミナメニューをやよい軒風にアレンジ! 食べ応えばつぐん「ニラ豚定食」 | url = https://ascii.jp/elem/000/004/130/4130932/ | publisher = ASCII.jp | date = 2023-03-31 | accessdate = 2023-09-10 }}</ref>でも期間限定で発売されている。 [[2017年]]には[[フンドーキン]]より「九州ご当地グルメシリーズ」の一環として「にら豚のたれ」が発売された<ref>{{Cite web|和書|language=ja|publisher=[[フンドーキン]]|url=https://www.fundokin.co.jp/sp/products/nirabuta.php|work=商品案内|title=にら豚のたれ|accessdate=2023-09-11}}</ref>。 == 調理法 == # ニラ、キャベツ、豚バラ肉各100gを、ニラは長さ4cm、キャベツは太千切り、豚バラ肉は2cm程度に切る。 # 豚バラ肉を炒め、火が通ったらニラ、キャベツを加えて軽く炒める。 # 野菜に火が通ったら、醤油や砂糖等を合わせた調味料を加え、全体を混ぜ合わせる<ref name="oitacity" /><ref>{{Cite web|和書| title = 「ニラ豚」の作り方 | url = https://www.oita-press.co.jp/movie/kyodoryori/2021/07/01 | publisher = [[大分合同新聞社]] | accessdate = 2023-09-10}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist|2}} == 外部リンク == * [https://nira.oitacity.info/ にら豚PR大作戦 ~大分発祥の『にら豚』を盛り上げよう!~] 大分市 {{DEFAULTSORT:にらふた}} [[Category:日本の郷土料理]] [[Category:日本の野菜料理]] [[Category:日本の豚肉料理]] [[Category:ニラ]] [[Category:大分市の食文化]]
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エマーソン・ムナンガグワの政治的立場
エマーソン・ムナンガグワの政治的立場では、エマーソン・ムナンガグワが行った政策や政治的立場について記述する。 ムナンガグワは当初、ジンバブエの独裁者ロバート・ムガベと友人の仲であったが、やがて両者の関係は悪化する。ムガベ政権時、ジンバブエは通貨の価値が暴落、ハイパーインフレを引き起こしインフレ率は天文学的数字を叩き出すなど、ジンバブエの地は荒廃した。また腐敗が横行し、処女との性行為を強要されるフェイクニュースが飛び交いエイズの蔓延がさらに深刻化するなど、経済だけでなく社会全体が歪になりつつあった。 こうした中、ジンバブエ国防軍によるクーデターが発生。ZANU-PFの党首でもあったムガベは党首の座を解任され、無理やりという形でムナンガグワを後継の大統領に選出した。ムガベという一人の独裁者の突然の終焉によって一時期は混乱したが、やがてムナンガグワ側が優勢に。ムガベはシンガポールに亡命し、95歳で死去した。 ムナンガグワはハラレにて「建国の父」としてムガベを称賛。ムガベ派への配慮を見せた上、「新たな民主主義が生まれつつある」とも発言した。しかしながらムナンガグワはムガベ同様の独裁的な統治手法を取る人物であり、「新たな民主主義」が生まれるかは微妙である。 反米・反帝国主義路線を推し出したムガベだが、ムナンガグワも外交政策において反米の姿勢は相変わらずである。2022年のウクライナ侵攻ではロシア側の立場を取り、また称賛も行った。一方、新冷戦における西側諸国との関係を改善したいというムナンガグワの思惑もある。 2023年ロシア・アフリカサミットに出席した。サミットでムナンガグワは、ここでも親露寄りの言動を行いウクライナ侵攻の支持も表明している。 2018年、ブラワヨで演説し民衆からの拍手喝采を呼ぶ中、手榴弾がムナンガグワに投げられ暗殺未遂が発生した。ムナンガグワは無傷で脱出したものの、数人のZANU-PFメンバーが負傷。副大統領であるコンスタンティーノ・チウェンガもこの事件で負傷している。 2019年1月、燃料費の引き上げを宣言。これに対し労働組合や学生などがハラレで非暴力・不服従という形で全国的な抗議に発展した。 国の資源はジンバブエ国防軍によって保護や国有化されるべきと主張している。また反インド主義者でもあり、ジンバブエ政府による広範囲にわたる経済的に誤った管理の中で、ムナンガグワはジンバブエに住むインド人に基本的な品物を買いだめしたとして非難し、彼らの財産を押収すると脅迫した。 2023年9月12日、ムナンガグワは息子と甥を経済副大臣に、観光担当副大臣に任命する新たな閣僚案を提示。権力世襲の疑惑が浮上した。
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エマーソン・ムナンガグワの政治的立場では、エマーソン・ムナンガグワが行った政策や政治的立場について記述する。
'''[[エマーソン・ムナンガグワ]]の政治的立場'''では、エマーソン・ムナンガグワが行った[[政策]]や政治的立場について記述する。 == 2017年のクーデター == ムナンガグワは当初、[[ジンバブエ]]の独裁者[[ロバート・ムガベ]]と友人の仲であったが、やがて両者の関係は悪化する。ムガベ政権時、ジンバブエは[[通貨]]の価値が暴落、[[ハイパーインフレーション|ハイパーインフレ]]を引き起こしインフレ率は[[天文学]]的数字を叩き出すなど、ジンバブエの地は荒廃した。また[[腐敗]]が横行し、[[処女]]との[[性行為]]を強要される[[虚偽報道|フェイクニュース]]が飛び交い[[エイズ]]の蔓延がさらに深刻化するなど、経済だけでなく社会全体が歪になりつつあった。 こうした中、[[ジンバブエ国防軍]]による[[2017年ジンバブエクーデター|クーデター]]が発生。[[:en:ZANU–PF|ZANU-PF]]の党首でもあったムガベは党首の座を解任され、無理やりという形でムナンガグワを後継の大統領に選出した。ムガベという一人の独裁者の突然の終焉によって一時期は混乱したが、やがてムナンガグワ側が優勢に。ムガベは[[シンガポール]]に亡命し、95歳で死去した。 == 大統領(2017~) == ムナンガグワは[[ハラレ]]にて「[[国民の父|建国の父]]」としてムガベを称賛。ムガベ派への配慮を見せた上、「新たな[[民主主義]]が生まれつつある」とも発言した。しかしながらムナンガグワはムガベ同様の[[独裁政治|独裁的な統治手法]]を取る人物であり、「新たな民主主義」が生まれるかは微妙である。 == 外交戦略 == [[反米]]・[[反帝国主義]]路線を推し出したムガベだが、ムナンガグワも外交政策において反米の姿勢は相変わらずである。[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|2022年のウクライナ侵攻]]では[[ロシア]]側の立場を取り、また称賛も行った。一方、[[新冷戦]]における[[西側諸国]]との関係を改善したい<ref>{{Cite journal|date=2018-06-03|title=Russia Seeks to Build Bridges at SPIEF|url=https://doi.org/10.21557/dsp.51413387|journal=Current Digest of the Russian Press, The|volume=70|issue=022|pages=7–10|doi=10.21557/dsp.51413387|issn=2159-3612}}</ref>というムナンガグワの思惑もある。 [[:en:2023_Russia–Africa_Summit|2023年ロシア・アフリカサミット]]に出席した。サミットでムナンガグワは、ここでも[[親露|親露寄り]]の言動を行いウクライナ侵攻の支持も表明している。 == 暗殺未遂 == 2018年、[[ブラワヨ]]で演説し民衆からの拍手喝采を呼ぶ中、[[手榴弾]]がムナンガグワに投げられ[[:en:2018_Bulawayo_bombing|暗殺未遂]]が発生した。ムナンガグワは無傷で脱出したものの、数人のZANU-PFメンバーが負傷。副大統領である[[:en:Constantino_Chiwenga|コンスタンティーノ・チウェンガ]]もこの事件で負傷している。 == 燃料引き上げ == 2019年1月、燃料費の引き上げを宣言。これに対し[[労働組合]]や学生などがハラレで[[非暴力|非暴力・不服従]]という形で[[:en:Zimbabwe_fuel_protests|全国的な抗議]]に発展した。 == 経済政策においての主張 == 国の[[資源]]はジンバブエ国防軍によって保護や[[国有化]]されるべきと主張している<ref>{{Citation|title=Mutable Ethnicity in the Dead Sea Scrolls|last=Palmer|first=Carmen|date=2021-06-25|url=https://doi.org/10.2307/j.ctv1rm25qj.6|publisher=Amsterdam University Press|pages=47–72|access-date=2023-09-11}}</ref>。また[[:en:Anti-Indian_sentiment|反インド]]主義者でもあり、ジンバブエ政府による広範囲にわたる経済的に誤った管理の中で、ムナンガグワはジンバブエに住む[[インド人]]に基本的な品物を[[買い占め|買いだめ]]したとして非難し、彼らの財産を押収すると脅迫した<ref>{{Cite journal|date=2023-07-01|title=Asian Development Outlook July 2023|url=https://doi.org/10.22617/fls230267-3}}</ref>。 == 縁故主義 == 2023年9月12日、ムナンガグワは息子と甥を経済副大臣に、観光担当副大臣に任命する新たな閣僚案を提示。[[世襲政治家|権力世襲]]の疑惑が浮上した。 == 脚注 == <references /> [[Category:ジンバブエの大統領]]
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松井貫一
松井 貫一(まつい かんいち、1891年(明治24年)4月13日 - 1986年(昭和61年)5月2日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 1892年(明治24年)に東京府で生まれた。陸軍士官学校第23期、陸軍大学校第35期卒業。1936年(昭和11年)8月1日に陸軍歩兵大佐進級と同時に第1師団司令部附となり、東京農業大学に配属された。1938年(昭和13年)3月1日に歩兵第103連隊長に就任した。 1939年(昭和14年)5月19日に陸軍少将に進級し、第22歩兵団長(第13軍・第22師団)に着任して日中戦争に出動。杭州周辺を根拠地とし、第3戦区軍を相手に浙東、皖浙作戦などに参加した。1941年(昭和16年)10月に独立混成第10旅団長(第23軍)に転じ、汕頭周辺の守備に任じた。1943年(昭和18年)3月1日に東部軍司令部附となり、4月15日に予備役に編入された。
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松井 貫一は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。
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エーリヒ5世 (ザクセン=ラウエンブルク公)
エーリヒ5世(Erich V., ? - 1435年)は、ザクセン=ラウエンブルク公エーリヒ4世とゾフィー・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルクの息子。エーリヒ5世と弟のヨハン4世は1411/2年に父の跡を継いでザクセン=ラウエンブルク公となり、1414年にヨハン4世が亡くなった後はエーリヒ5世は単独で統治した。 1401年に父のはとこにあたるザクセン=ベルゲドルフ=メルン公エーリヒ3世が死去すると、エーリヒ5世の父エーリヒ4世がエーリヒ3世の公領を相続した。その後、エーリヒ4世は再統合された公領をエーリヒ5世およびその弟ヨハン4世と共同統治した。しかし、メルン領(1359年に買い戻し協定に基づいてリューベックに売却)やベルゲドルフ領、フィーアランデ、ザクセンヴァルトとゲーストハッハトの半分など、エーリヒ3世が所有していた領地の大部分は1370年にリューベックに質入れされていた。 エーリヒ3世は、自身の死後に相続人が債権を返済して償還し、メルンを買い戻す権利を行使するまで、リューベックにこれらの地域を領有する権利を与えており、それらを取り戻すためには合計で26,000リューベックマルクが必要であった。1401年、エーリヒ4世は息子のエーリヒ5世およびヨハン4世の支援を受けて、リューベックが領地を占領する前に、返済することなく質入れされた地域を強制的に占領した。しかしこれをリューベックは黙認した。1411年、エーリヒ5世とその弟ヨハン4世および父エーリヒ4世は、「ベーダーケーザー城とベーダーケーザーのフォークタイに属するラント・ヴルシュテンとレーエの管轄下にあるもの」全てを含むベーダーケーザーのフォークタイとベーダーケーザー城の領地をブレーメン上院に質入れした。管轄下の領地、フォークタイおよび城は、疫病に見舞われ1349年から1350年にかけて没落したベーダーケーザーの騎士らから譲り受けたものであった。 1420年、エーリヒ5世はブランデンブルク選帝侯フリードリヒ1世を攻撃し、リューベックはブランデンブルクを支援する同盟によりハンブルクが加わった。両都市の軍隊は第二の戦線を開き、数週間以内にベルゲドルフ、リーペンブルク城およびエスリンゲン川の料金徴収所(現在のツォレンシュピーカー・フェリー)を征服した。このため、エーリヒ5世は1420年8月23日にペルレンブルクの和約に同意せざるを得なくなり、この和約ではエーリヒ5世、エーリヒ4世およびヨハン4世が1401年に武力で占領したすべての地域をハンブルクとリューベックに取り消し不能の形で譲渡することが定められていた。 ザクセン=ラウエンブルクとザクセン選帝侯領(ザクセン=ヴィッテンベルク)は1296年にザクセン公領が分割したことにより成立したものであったが、1422年にザクセン選帝侯のアスカーニエン家が断絶すると、エーリヒ5世は全ザクセンを自分の手中に再統一することを目指した。特にエーリヒ5世は、ヨハン1世が1285年に亡くなって以来、ザクセン=ラウエンブルクとザクセン=ヴィッテンベルクの間で争われていたザクセン選帝侯の特権を要求していた。しかし、1356年に皇帝カール4世は独占的にザクセン=ヴィッテンベルク公を選帝侯として認めたが、ザクセン=ラウエンブルクも主張を取り下げることはなかった。 しかし、神聖ローマ皇帝ジギスムントはすでにマイセン辺境伯フリードリヒ4世に、軍事的支援に報いるためにザクセン選帝侯位を与える約束をしていた。1425年8月1日、アスカーニエン家のエーリヒ5世の抗議にもかかわらず、ジギスムントはヴェッティン家のフリードリヒ4世にザクセン選帝侯位を与えた。 エーリヒ5世の立場が弱まったため、弟ベルンハルト2世はエーリヒ5世に公領を共同統治とするよう求めた。1426年、エーリヒ5世は最終的に同意し、ベルンハルト2世を共同統治の公爵とし、エーリヒ5世の死後にベルンハルト2世が公領を単独で統治した。 1404年、エーリヒ5世はホルシュタイン=レンズブルク伯ニコラウスの娘でメクレンブルク公アルブレヒト4世の未亡人であったエリーザベト・フォン・ホルシュタイン=レンズブルク(1360年 - 1416年)と結婚した。エーリヒ5世とエリーザベトの間には子供が生まれなかった。 1422年以前に、エーリヒ5世はコンラート9世・フォン・ヴァインスベルクの娘エリーザベト・フォン・ヴァインスベルク(1397年 - 1498年以降)と結婚した。この結婚で生まれた息子ハインリヒは1437年に早世した。このため、エーリヒ5世の死後には弟ベルンハルト2世が跡を継いだ。 ヘンリーは母方の祖父母の元に滞在中に亡くなり、ヴァイカースハイムにある今日のルター派の聖ゲオルク教会に埋葬され、ハインリヒを追悼する墓碑銘が残されている。
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エーリヒ5世は、ザクセン=ラウエンブルク公エーリヒ4世とゾフィー・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルクの息子。エーリヒ5世と弟のヨハン4世は1411/2年に父の跡を継いでザクセン=ラウエンブルク公となり、1414年にヨハン4世が亡くなった後はエーリヒ5世は単独で統治した。
{{基礎情報 皇族・貴族 | 人名 = エーリヒ5世 | 各国語表記 = Erich V. | 家名・爵位 = [[ザクセン=ラウエンブルク]]公 | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | 在位 = [[1411年|1411]]/[[1412年|2年]] - [[1435年]] | 続柄 = | 称号 = | 全名 = | 身位 = | 敬称 = | 出生日 = | 生地 = | 死亡日 = [[1435年]] | 没地 = | 埋葬日 = | 埋葬地 = | 配偶者1 = エリーザベト・フォン・ホルシュタイン=レンズブルク | 配偶者2 = エリーザベト・フォン・ヴァインスベルク | 子女 = ハインリヒ | 家名 = [[アスカーニエン家]] | 父親 = [[ザクセン=ラウエンブルク]]公[[エーリヒ4世 (ザクセン=ラウエンブルク公)|エーリヒ4世]] | 母親 = ゾフィー・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク | 栄典 = | 役職 = | 宗教 = | サイン = }} '''エーリヒ5世'''(Erich V., ? - [[1435年]])は、[[ザクセン=ラウエンブルク]]公[[エーリヒ4世 (ザクセン=ラウエンブルク公)|エーリヒ4世]]とゾフィー・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルクの息子。エーリヒ5世と弟のヨハン4世は1411/2年に父の跡を継いで[[ザクセン=ラウエンブルク]]公となり、1414年にヨハン4世が亡くなった後はエーリヒ5世は単独で統治した。 == 生涯 == 1401年に父のはとこにあたるザクセン=ベルゲドルフ=メルン公エーリヒ3世が死去すると、エーリヒ5世の父エーリヒ4世がエーリヒ3世の公領を相続した。その後、エーリヒ4世は再統合された公領をエーリヒ5世およびその弟ヨハン4世と共同統治した。しかし、メルン領(1359年に買い戻し協定に基づいてリューベックに売却)やベルゲドルフ領、フィーアランデ、ザクセンヴァルトとゲーストハッハトの半分など、エーリヒ3世が所有していた領地の大部分は1370年に[[リューベック]]に質入れされていた{{Sfn|Raiser|1969|p=90}}。 エーリヒ3世は、自身の死後に相続人が債権を返済して償還し、メルンを買い戻す権利を行使するまで、リューベックにこれらの地域を領有する権利を与えており、それらを取り戻すためには合計で26,000リューベックマルクが必要であった。1401年、エーリヒ4世は息子のエーリヒ5世およびヨハン4世の支援を受けて、リューベックが領地を占領する前に、返済することなく質入れされた地域を強制的に占領した。しかしこれをリューベックは黙認した{{Sfn|Raiser|1969|p=137}}。1411年、エーリヒ5世とその弟ヨハン4世および父エーリヒ4世は、「ベーダーケーザー城とベーダーケーザーの[[フォークト (称号)|フォークタイ]]に属するラント・ヴルシュテンと[[ブレーマーハーフェン|レーエ]]の管轄下にあるもの」<ref name="Hucker 1972 13">中低地ドイツ語の原文では「wes zee hebben an gherichte in Vreslande . . . unde an Lee, dat to deme vorscrevenen slote unde voghedie höret」。その後Bernd Ulrich Huckerは「ラントヴュルデンの農村地域開発およびミッテルアルターのミトルム教区とレーエ教区」としている (1972年にオルデンブルクのオルデンブルクで開催されたニーダーザクセン州北部の歴史研究協会の会議での講演として初めて発表された。''Oldenburger Jahrbuch'', vol. 72 (1972), pp. 1—22, here p. 13.)。</ref>全てを含むベーダーケーザーのフォークタイとベーダーケーザー城の領地をブレーメン上院に質入れした。管轄下の領地、フォークタイおよび城は、疫病に見舞われ1349年から1350年にかけて没落したベーダーケーザーの騎士らから譲り受けたものであった<ref name="Hucker 1972 13" />。 1420年、エーリヒ5世は[[ブランデンブルク選帝侯]][[フリードリヒ1世 (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ1世]]を攻撃し、リューベックはブランデンブルクを支援する同盟により[[ハンブルク]]が加わった。両都市の軍隊は第二の戦線を開き、数週間以内にベルゲドルフ、リーペンブルク城およびエスリンゲン川の料金徴収所(現在のツォレンシュピーカー・フェリー)を征服した。このため、エーリヒ5世は1420年8月23日にペルレンブルクの和約に同意せざるを得なくなり、この和約ではエーリヒ5世、エーリヒ4世およびヨハン4世が1401年に武力で占領したすべての地域をハンブルクとリューベックに取り消し不能の形で譲渡することが定められていた<ref>これらの都市は獲得した地域を「バイダーシュテディッシャー・ベジッツ」(二重都市型集合住宅)に変え、代官が4年の任期で統治し、いずれかの都市が交互に職員を配置した。これは1868年まで続き、ハンブルクがリューベックの持ち分を払い戻し、その地域をハンブルク州に統合し、現在のベルゲドルフ自治区の大部分となった。</ref>。 ザクセン=ラウエンブルクとザクセン選帝侯領(ザクセン=ヴィッテンベルク)は1296年にザクセン公領が分割したことにより成立したものであったが、1422年にザクセン選帝侯のアスカーニエン家が断絶すると、エーリヒ5世は全ザクセンを自分の手中に再統一することを目指した。特にエーリヒ5世は、[[ヨハン1世 (ザクセン=ラウエンブルク公)|ヨハン1世]]が1285年に亡くなって以来、ザクセン=ラウエンブルクとザクセン=ヴィッテンベルクの間で争われていたザクセン選帝侯の特権を要求していた。しかし、1356年に皇帝[[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カール4世]]は独占的にザクセン=ヴィッテンベルク公を選帝侯として認めたが、ザクセン=ラウエンブルクも主張を取り下げることはなかった。 しかし、神聖ローマ皇帝[[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジギスムント]]はすでに[[マイセン辺境伯]][[フリードリヒ1世 (ザクセン選帝侯)|フリードリヒ4世]]に、軍事的支援に報いるためにザクセン選帝侯位を与える約束をしていた。1425年8月1日、アスカーニエン家のエーリヒ5世の抗議にもかかわらず、ジギスムントはヴェッティン家のフリードリヒ4世にザクセン選帝侯位を与えた。 エーリヒ5世の立場が弱まったため、弟[[ベルンハルト2世 (ザクセン=ラウエンブルク公)|ベルンハルト2世]]はエーリヒ5世に公領を共同統治とするよう求めた。1426年、エーリヒ5世は最終的に同意し、ベルンハルト2世を共同統治の公爵とし、エーリヒ5世の死後にベルンハルト2世が公領を単独で統治した{{Sfn|Bornefeld|2008|p=377}}。 == 結婚と子女 == [[File:Prinzle 01.jpg|thumb|[[ヴァイカースハイム]]の聖ゲオルク教会にある息子ハインリヒの墓碑]] 1404年、エーリヒ5世は[[シャウエンブルクおよびホルシュタイン伯|ホルシュタイン=レンズブルク伯]][[ニコラウス (ホルシュタイン=レンズブルク伯)|ニコラウス]]の娘で[[メクレンブルク公]][[アルブレヒト4世 (メクレンブルク公)|アルブレヒト4世]]の未亡人であったエリーザベト・フォン・ホルシュタイン=レンズブルク(1360年 - 1416年)と結婚した。エーリヒ5世とエリーザベトの間には子供が生まれなかった。 1422年以前に、エーリヒ5世はコンラート9世・フォン・ヴァインスベルクの娘エリーザベト・フォン・ヴァインスベルク(1397年 - 1498年以降)と結婚した。この結婚で生まれた息子ハインリヒは1437年に早世した。このため、エーリヒ5世の死後には弟ベルンハルト2世が跡を継いだ。 * ハインリヒ(? - 1437年) - 早世 ヘンリーは母方の祖父母の元に滞在中に亡くなり、[[ヴァイカースハイム]]にある今日のルター派の聖ゲオルク教会に埋葬され、ハインリヒを追悼する墓碑銘が残されている{{Sfn|Bornefeld|2008|p=375}}。 == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{cite book|first=Elisabeth |last=Raiser |title=Städtische Territorialpolitik im Mittelalter: eine vergleichende Untersuchung ihrer verschiedenen Formen am Beispiel Lübecks und Zürichs |location=Lübeck and Hamburg |publisher=Matthiesen |year=1969}}, (Historische Studien; 406), simultaneously: Hamburg, Univ., Diss., 1969. * {{cite book|first=Cordula |last=Bornefeld |chapter=Die Herzöge von Sachsen-Lauenburg |title=Die Fürsten des Landes: Herzöge und Grafen von Schleswig, Holstein und Lauenburg |others=[De slevigske hertuger; German], Carsten Porskrog Rasmussen (ed.) on behalf of the Gesellschaft für Schleswig-Holsteinische Geschichte |location=Neumünster |publisher=Wachholtz |year=2008 |pages=373–389 |ISBN=978-3-529-02606-5}} * {{ADB|6|211|212|Erich V., Herzog von Sachsen-Lauenburg|Otto von Heinemann}} * {{NDB|4|588|589|Erich V., Herzog von Sachsen-Lauenburg|Joachim Leuschner}} {{先代次代|[[ザクセン=ラウエンブルク]]公|1411/2年 - 1435年<br><small>(1368年 - 1411年:[[エーリヒ4世 (ザクセン=ラウエンブルク公)|エーリヒ4世]]と共治<br>1401年 - 1412年:ヨハン4世と共治<br>1426年 - 1435年:[[ベルンハルト2世 (ザクセン=ラウエンブルク公)|ベルンハルト2世]]と共治)</small>|[[エーリヒ4世 (ザクセン=ラウエンブルク公)|エーリヒ4世]]|[[ベルンハルト2世 (ザクセン=ラウエンブルク公)|ベルンハルト2世]]}} {{DEFAULTSORT:えりひ5}} [[Category:ザクセン=ラウエンブルク公]] [[Category:ザクセン=ラウエンブルク家]] [[Category:14世紀生]] [[Category:1435年没]]
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横山明 (陸軍軍人)
横山 明(よこやま あきら、1900年(明治33年)12月30日 - 1943年(昭和18年)6月28日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。兵科は騎兵科。 1900年(明治33年)に東京府で生まれた。陸軍士官学校第34期、陸軍大学校第42期卒業。ドイツ駐在を経て、1939年(昭和14年)3月に侍従武官に就任し、1941年(昭和16年)10月に陸軍大佐に進級した。1942年(昭和17年)12月10日に第18師団参謀長(緬甸方面軍・第15軍)に就任し、ミイトキーナに出征した。1943年(昭和18年)6月28日に戦死。同日任陸軍少将。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "横山 明(よこやま あきら、1900年(明治33年)12月30日 - 1943年(昭和18年)6月28日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。兵科は騎兵科。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1900年(明治33年)に東京府で生まれた。陸軍士官学校第34期、陸軍大学校第42期卒業。ドイツ駐在を経て、1939年(昭和14年)3月に侍従武官に就任し、1941年(昭和16年)10月に陸軍大佐に進級した。1942年(昭和17年)12月10日に第18師団参謀長(緬甸方面軍・第15軍)に就任し、ミイトキーナに出征した。1943年(昭和18年)6月28日に戦死。同日任陸軍少将。", "title": "経歴" } ]
横山 明は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。兵科は騎兵科。
{{基礎情報 軍人 | 氏名 = 横山 明 | 各国語表記 = | 生年月日 = [[1900年]][[12月30日]] | 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1900|12|30|1943|6|28}} | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | 渾名 = | 生誕地 = {{JPN}} [[東京府]] | 死没地 = [[File:Flag of Burma (1939–1941, 1945–1948).svg|25px]] [[イギリス統治下のビルマ|イギリス領ビルマ]] | 所属組織 = {{IJARMY}} | 軍歴 = [[1922年]] - [[1943年]] | 最終階級 = [[File:帝國陸軍の階級―肩章―少将.svg|35px]] [[少将|陸軍少将]] | 除隊後 = | 墓所 = | 署名 = }} '''横山 明'''(よこやま あきら、[[1900年]]([[明治]]33年)[[12月30日]]{{sfn|福川|2001|loc=785頁|ref=shokan}} - [[1943年]]([[昭和]]18年)[[6月28日]]{{sfn|福川|2001|loc=785頁|ref=shokan}})は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。[[金鵄勲章|功四級]]{{sfn|外山|1981|loc=456頁|ref=jinji}}。[[兵科]]は[[騎兵科]]{{sfn|福川|2001|loc=785頁|ref=shokan}}。 == 経歴 == [[1900年]](明治33年)に[[東京府]]で生まれた{{sfn|福川|2001|loc=785頁|ref=shokan}}。[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]第34期、[[陸軍大学校]]第42期卒業{{sfn|福川|2001|loc=786頁|ref=shokan}}。ドイツ駐在を経て{{sfn|外山|1981|loc=456頁|ref=jinji}}、[[1939年]](昭和14年)3月に[[侍従武官]]に就任し{{sfn|外山|1981|loc=456頁|ref=jinji}}、[[1941年]](昭和16年)10月に[[大佐|陸軍大佐]]に進級した{{sfn|外山|1981|loc=456頁|ref=jinji}}。[[1942年]](昭和17年)[[12月10日]]に[[第18師団 (日本軍)|第18師団]]参謀長([[緬甸方面軍]]・[[第15軍 (日本軍)|第15軍]])に就任し{{sfn|福川|2001|loc=785頁|ref=shokan}}、[[ミッチーナー|ミイトキーナ]]に出征した{{sfn|福川|2001|loc=785頁|ref=shokan}}{{sfn|福川|2001|loc=786頁|ref=shokan}}。[[1943年]]([[昭和]]18年)[[6月28日]]に戦死{{sfn|外山|1981|loc=456頁|ref=jinji}}{{sfn|福川|2001|loc=786頁|ref=shokan}}。同日任陸軍少将{{sfn|外山|1981|loc=456頁|ref=jinji}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} ==参考文献== * {{Citation|和書|author = 福川秀樹 編著|authorlink = | translator = | title = 日本陸軍将官辞典| publisher = 芙蓉書房出版| series = | volume = | edition = | date = 2001| pages = | url = | doi = | id = | isbn = 4829502738| ncid = |ref = shokan}} * {{Citation|和書|author = 外山操 編|authorlink = | translator = | title = 陸海軍将官人事総覧 陸軍篇| publisher = 芙蓉書房出版| series = | volume = | edition = | date = 1981| pages = | url = | doi = | id = | isbn = 4829500026| ncid = |ref = jinji}} {{DEFAULTSORT:よこやま あきら}} [[Category:大日本帝国陸軍少将]] [[Category:陸軍士官学校 (日本)出身の人物]] [[Category:陸軍大学校出身の人物]] [[Category:功四級金鵄勲章受章者]] [[Category:太平洋戦争の人物]] [[Category:太平洋戦争で戦死した人物]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:1900年生]] [[Category:1943年没]]
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クルーウェラ
クルーウェラ(英: Krewella, 2007年 - )は、アメリカのエレクトロ・ダンス・ミュージックグループである。 メンバーは、Jahan Yousaf(ジャハーン・1989年8月生まれ)とYasmine Yousaf(ヤスミン・1992年2月生まれ)の姉妹デュオとプロデューサーのKristopher “Rain Man” Trindl(クリスもしくはレイン・マン・1987年12月生まれ)の3人から構成されていたが、2014年にクリスが脱退し、現在は2人で活動している。 メンバー3人はみんな同じ高校に通っており、学生のときに会い、クルーウェラを結成。 3人とも「6-8-10」というタトゥーをしているが、これは2010年の6月8日のことで、学校や仕事などの道は捨て3人が音楽に人生の全てを捧げることを決意した日を表している。その後、彼女たちのファーストオリジナルソング「Killin’ It.」によって、カナダのエレクトロ系レーベル「Monstercat」と契約。 2012年6月、クルーウェラはEP『Play Hard』をリリース。セカンド・シングルの 「Alive」は、アメリカのダンス/ミックス・ショーのエアプレイ・チャートで1位を獲得し、アメリカのビルボード・ホット100にもランクインした。その後、クルーウェラの人気はとどまることを知らず、 Ultra Music Festival(ウルトラ・ミュージック・フェスティバル)や Electric Daisy Carnival(エレクトリック・デイジー・カーニバル)をはじめ、数々のフェスに出演し、2014年にはTomorrowland(トゥモローランド)にも出演した。 2014年の1月に、EDMのライフスタイルブランドであるElectric Familyとパートナーを組んで、コラボレーションブレスレットをプロデュースした。この収益の100%は「Dance For Paralysis」に寄付されている。その後、クリスは「グループから脱退させられた」として、Yousafの姉妹を相手に500万ドル(約5億円)の損害賠償請求をした。クリスの言い分によると、「アルコール依存症になり30日間更生施設に入り、その後アルコールやパーティーを避けていた自分を2人は気に食わず、収入も3人で分けるより外部のプロデューサーに曲を作ってもらった方が儲かると考えていた。」と語っているが、2人姉妹はこの主張は違うとし、彼自ら脱退したと述べている。 2014年11月24日、クルーウェラはクリスの脱退後初のシングル「Say Goodbye」をリリースした。このトラックは、メンバーの脱退と姉妹に対する訴訟を反映している。 2015年3月23日、クルーウェラはPegboard Nerdsらがプロデュースした 「Somewhere to Run」をリリースした。その後、この曲はラスベガス観光局の 「Krewellavator」マーケティング・キャンペーンでフィーチャーされた。このスポットはMGMグランド・ラスベガスの実際のエレベーターで撮影された。 クルーウェラは2015年8月15日に『Troll mix Vol.14 - Return of the Trolls』をリリースしたが、そのタイトルは前作に続く時間の空白を意味している。このミックスはクリスの脱退後にリリースされた最初のものである。1時間に及ぶこのミックスには、「Surrender the Throne」と名付けられた姉妹の新曲が収録されている。また、シングル「Somewhere to Run」の新しいリミックスも収録されている。 2015年8月、姉妹がクリスとの訴訟を法廷外で和解したことが発表された。和解の条件は公表されていない。
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クルーウェラは、アメリカのエレクトロ・ダンス・ミュージックグループである。
{{Infobox Musician | Name = クルーウェラ<br/>Krewella | Origin = {{USA}} | Genre = [[エレクトロニック・ダンス・ミュージック|EDM]] | Years_active = 2007- | Label = [[コロムビア・レコード]]、Monstercat、Mixed Kids | URL = [http://krewella.com/ krewella.com] | Current_members = {{plainlist|Jahan Yousaf|Yasmine Yousaf}} | Past_members = Kristopher Trindl | Img = Krewella_Indy500_20120527_1.JPG | Img_capt = 2012年のクルーウェラ }} '''クルーウェラ'''({{lang-en-short|Krewella}}, [[2007年]] - )は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]のエレクトロ・ダンス・ミュージックグループである。 == 概要 == メンバーは、Jahan Yousaf(ジャハーン・1989年8月生まれ)とYasmine Yousaf(ヤスミン・1992年2月生まれ)の姉妹デュオとプロデューサーのKristopher “Rain Man” Trindl(クリスもしくはレイン・マン・1987年12月生まれ)の3人から構成されていたが、2014年にクリスが脱退し、現在は2人で活動している<ref name=":0">{{Cite web |title=EDM界の盛り上げ姉妹!Krewella(クルーウェラ)のぶち上がる曲を紹介! {{!}} MNN |url=http://music-newsnetwork.com/?p=578,%20http://music-newsnetwork.com/?p=578 |website=music-newsnetwork.com |date=2015-07-30 |access-date=2023-09-11 |language=ja}}</ref>。 == キャリア == メンバー3人はみんな同じ高校に通っており、学生のときに会い、クルーウェラを結成。 3人とも「6-8-10」というタトゥーをしているが、これは2010年の6月8日のことで、学校や仕事などの道は捨て3人が音楽に人生の全てを捧げることを決意した日を表している。その後、彼女たちのファーストオリジナルソング「Killin’ It.」によって、カナダのエレクトロ系レーベル「Monstercat」と契約<ref name=":0" />。 2012年6月、クルーウェラはEP『Play Hard』をリリース。セカンド・シングルの 「Alive」は、アメリカのダンス/ミックス・ショーのエアプレイ・チャートで1位を獲得し<ref>{{Cite web |url=http://www.billboard.com/charts/2013-03-09/hot-dance-airplay |title=Dance/Mix Show Airplay |access-date=2023-09-11 |publisher=}}</ref>、アメリカのビルボード・ホット100にもランクインした<ref>{{Cite web |title=Pop Shop Picks: Pistol Annies, Krewella, Betty Who & More |url=https://www.billboard.com/music/music-news/pop-shop-picks-pistol-annies-krewella-betty-who-more-1554983/ |website=Billboard |date=2013-03-29 |access-date=2023-09-11 |language=en-US |first=Billboard |last=Staff}}</ref>。その後、クルーウェラの人気はとどまることを知らず、 Ultra Music Festival(ウルトラ・ミュージック・フェスティバル)や Electric Daisy Carnival(エレクトリック・デイジー・カーニバル)をはじめ、数々のフェスに出演し、2014年には[[トゥモローランド (音楽イベント)|Tomorrowland]](トゥモローランド)にも出演した。 2014年の1月に、EDMのライフスタイルブランドであるElectric Familyとパートナーを組んで、コラボレーションブレスレットをプロデュースした。この収益の100%は「Dance For Paralysis」に寄付されている<ref>{{Cite web |title=DANCE FOR PARALYSIS |url=http://danceforparalysis.org/ |website=danceforparalysis.org |access-date=2023-09-11}}</ref>。その後、クリスは「グループから脱退させられた」として、Yousafの姉妹を相手に500万ドル(約5億円)の損害賠償請求をした<ref>{{Cite web |title=EDM Superstars Krewella Mired In Legal Mess Involving DJ’s Newfound Sobriety (Exclusive) |url=https://www.hollywoodreporter.com/business/business-news/edm-superstars-krewella-mired-legal-736687/ |website=The Hollywood Reporter |date=2014-09-30 |access-date=2023-09-11 |language=en-US |first=Eriq |last=Gardner}}</ref>。クリスの言い分によると、「アルコール依存症になり30日間更生施設に入り、その後アルコールやパーティーを避けていた自分を2人は気に食わず、収入も3人で分けるより外部のプロデューサーに曲を作ってもらった方が儲かると考えていた。」と語っているが、2人姉妹はこの主張は違うとし、彼自ら脱退したと述べている<ref>{{Cite web |title=EDM Superstars Krewella Claim Kris Trindl Was ‘Pretending to DJ,’ Dispute His Sobriety |url=https://www.hollywoodreporter.com/business/business-news/edm-superstars-krewella-claim-kris-751167/ |website=The Hollywood Reporter |date=2014-11-21 |access-date=2023-09-11 |language=en-US |first=Eriq |last=Gardner}}</ref>。 2014年11月24日、クルーウェラはクリスの脱退後初のシングル「Say Goodbye」をリリースした。このトラックは、メンバーの脱退と姉妹に対する訴訟を反映している。 2015年3月23日、クルーウェラはPegboard Nerdsらがプロデュースした 「Somewhere to Run」をリリースした<ref>{{Cite web |title=Krewella Continue Rock Flirtation on New Single ‘Somewhere to Run’ |url=https://www.billboard.com/music/music-news/krewella-new-single-somewhere-to-run-6509476/ |website=Billboard |date=2015-03-23 |access-date=2023-09-11 |language=en-US |first=Matt |last=Medved}}</ref>。その後、この曲はラスベガス観光局の 「Krewellavator」マーケティング・キャンペーンでフィーチャーされた。このスポットはMGMグランド・ラスベガスの実際のエレベーターで撮影された<ref>{{Cite web |title=- YouTube |url=https://www.youtube.com/watch?v=JofqTLUbI6I |website=www.youtube.com |access-date=2023-09-11}}</ref>。 クルーウェラは2015年8月15日に『Troll mix Vol.14 - Return of the Trolls』をリリースしたが、そのタイトルは前作に続く時間の空白を意味している。このミックスはクリスの脱退後にリリースされた最初のものである。1時間に及ぶこのミックスには、「Surrender the Throne」と名付けられた姉妹の新曲が収録されている。また、シングル「Somewhere to Run」の新しいリミックスも収録されている<ref>{{Citation|title=Krewella Troll Mix Vol. 14 - Return of the Trolls|url=https://www.youtube.com/watch?v=YvGcayBQ4Dw|language=ja-JP|access-date=2023-09-11}}</ref>。 2015年8月、姉妹がクリスとの訴訟を法廷外で和解したことが発表された。和解の条件は公表されていない<ref>{{Cite web |title=Krewella Finally Settle Lawsuit With Rain Man, Talk About The Transient Nature of Internet Hate |url=https://www.youredm.com/2015/08/24/krewella-finally-settle-lawsuit-with-rain-man-talk-about-the-transient-nature-of-internet-hate/ |website=Your EDM |date=2015-08-25 |access-date=2023-09-11 |language=en-US |first=Matthew |last=Meadow}}</ref>。 == ディスコグラフィー == === アルバム === {| class="wikitable plainrowheaders" style="text-align:center;" |+ ! rowspan="2" scope="col" style="" | タイトル ! rowspan="2" scope="col" style="" | 詳細 ! colspan="7" scope="col" | チャート最高位 |- ! scope="col" style="width:2.5em;font-size:90%;" | [[Billboard 200|US]]<br><ref name="Billboard200">{{cite magazine|url=https://www.billboard.com/artist/krewella/chart-history/tlp/ |title=Krewella Chart History: Billboard 200 |magazine=Billboard |accessdate=2020-01-09}}</ref> ! scope="col" style="width:2.5em;font-size:90%;" | [[:en:Dance/Electronic_Albums|US<br>Dance]]<br><ref name="billelec">{{cite magazine|url=https://www.billboard.com/artist/krewella/chart-history/elp/ |title=Krewella Chart History: Dance/Electronic Albums |magazine=Billboard |accessdate=2020-01-09}}</ref> ! scope="col" style="width:2.5em;font-size:90%;" | [[ARIA Charts|AUS]]<br><ref name="AUS">Australian chart positions for Krewella: * Top 50 peaks: {{cite web |url=http://www.australian-charts.com/showinterpret.asp?interpret=Krewella |title=Krewella discography |access-date=2023-09-12}} * "Live for the Night" and "Enjoy the Ride": {{cite web |url=http://www.aria.com.au/Issue1262.pdf |archive-url=https://webarchive.nla.gov.au/awa/20140516140000/http://pandora.nla.gov.au/pan/23790/20140517-0000/Issue1262.pdf |url-status=dead |archive-date=2014-05-16 |title=ARIA Report 1262 |access-date=2023-09-12}}{{cbignore|bot=medic}}</ref> ! scope="col" style="width:2.5em;font-size:90%;" | [[:en:Canadian_Albums_Chart|CAN]]<br><ref>{{cite magazine|url=https://www.billboard.com/artist/krewella/chart-history/cna/ |title=Krewella Chart History: Canadian Albums |magazine=Billboard |accessdate=2020-01-09}}</ref> ! scope="col" style="width:2.5em;font-size:90%;" | [[オリコンチャート|JPN]]<br><ref>{{cite web|url=https://www.oricon.co.jp/prof/599296/products/1060622/1/|title=Top of the Shops - アルバムの公式リストは、日本で数週間を販売しました|language=Japanese|publisher=Oricon|accessdate=April 5, 2014}}</ref> ! scope="col" style="width:2.5em;font-size:90%;" | [[:en:Official_New_Zealand_Music_Chart|NZ]]<br><ref>{{cite web|url=https://charts.nz/showinterpret.asp?interpret=Krewella|title=charts.nz – Krewella discography|publisher=Hung Medien|accessdate=June 6, 2017}}</ref> ! scope="col" style="width:2.5em;font-size:90%;" | [[UK Albums Chart|UK]]<br><ref>{{cite web|url=http://www.zobbel.de/cluk/131005cluk.txt|title=CHART: CLUK Update 5.10.2013 (wk39)|publisher=zobbel.de|accessdate=June 6, 2017}}</ref> |- ! scope="row" | ''Get Wet'' | * リリース: 2013年9月24日 * レーベル: コロムビア・レコード * フォーマット: CD、デジタルダウンロード | 8 || 1 || 45 || 14 || 55 || 40 || 179 |- ! scope="row" | ''Zer0'' | * リリース: 2020年1月30日 * レーベル: Mixed Kids Records * フォーマット:デジタルダウンロード, ストリーミング | — || 23 || — || — || — || — || — |- ! scope="row" | ''The Body Never Lies''<ref>{{Cite web |date=March 29, 2022 |author=Dancing Astronaut |title=Krewella get personal on third studio album ''The Body Never Lies'' |url=https://dancingastronaut.com/2022/03/krewella-get-personal-on-3rd-studio-album-the-body-never-lies/ |archive-url=https://web.archive.org/web/20220329145054/https://dancingastronaut.com/2022/03/krewella-get-personal-on-3rd-studio-album-the-body-never-lies/ |archive-date=March 29, 2022 |accessdate=April 8, 2022 |website=Dancing Astronaut}}</ref> | * リリース: 2022年3月4日 * レーベル: Mixed Kids Records * フォーマット: デジタルダウンロード, ストリーミング | — || — || — || — || — || — || — |} === シングル === {| class="wikitable plainrowheaders" style="text-align:center;" |+ ! scope="col" rowspan="2" style="width:20em;"| タイトル ! scope="col" rowspan="2" style="width:1em;"| 年 ! scope="col" colspan="7"| チャート最高位 ! scope="col" rowspan="2" style="width:10em;"| 認定 ! scope="col" rowspan="2" style="width:10em;"| アルバム |- ! scope="col" style="width:2.9em;font-size:90%;"| [[Billboard Hot 100|US]]<br><ref name="Hot 100">{{cite magazine |url=https://www.billboard.com/artist/krewella/chart-history/hsi/ |title=Krewella Chart History: Hot 100 |magazine=Billboard |accessdate=2020-01-09}}</ref> ! scope="col" style="width:2.9em;font-size:90%;"| [[:en:Dance/Electronic_Songs|US Dance]]<br><ref name="auto">{{cite magazine|url=https://www.billboard.com/artist/krewella/chart-history/dan/|title=Krewella – Chart history (Dance/Electronic Songs)|magazine=[[Billboard (magazine)|Billboard]]|accessdate=2020-01-28}}</ref> ! scope="col" style="width:2.9em;font-size:90%;"| [[ARIA Charts|AUS]]<br><ref name="AUS"/> ! scope="col" style="width:2.9em;font-size:90%;"| [[Ultratop|BEL<br/>(WA)<br />Tip]]<br/><ref name="BEL">{{cite web |url=http://www.ultratop.be/fr/showinterpret.asp?interpret=Krewella |title=Discografie Krewella |publisher=Belgium (Wallonia) Charts Portal. Hung Medien |language=Dutch |access-date=2023-09-12}}</ref> ! scope="col" style="width:2.9em;font-size:90%;"| [[Canadian Hot 100|CAN]]<br><ref name="auto1">{{cite magazine|url=https://www.billboard.com/artist/krewella/chart-history/can/|title=Krewella Chart History: Canadian Hot 100|magazine=Billboard|accessdate=January 9, 2020}}</ref> ! scope="col" style="width:2.9em;font-size:90%;"| [[Syndicat National de l'Édition Phonographique|FRA]]<br/><ref name="FRA">{{cite web |url=http://lescharts.com/showinterpret.asp?interpret=Krewella |title=Discographie Krewella |website=lescharts.com |language=French |access-date=2023-09-12}}</ref> ! scope="col" style="width:2.9em;font-size:90%;"| [[シングル・トップ100 (オランダ)|NLD]]<br/><ref name="NLD">{{cite web |url=http://dutchcharts.nl/showinterpret.asp?interpret=Krewella |title=Discografie Krewella |website=dutchcharts.nl |language=Dutch |access-date=2023-09-12}}</ref> |- ! scope="row"| "Life of the Party"<br/><span style="font-size:90%;">(featuring S-Preme)</span><ref>{{Cite web |title=Life of the Party ft. S-Preme, by Krewella featuring S-Preme |url=https://krewella.bandcamp.com/ |access-date=2023-02-25 |website=Krewella |language=en}}</ref> | rowspan="3" | 2011 | — || — || — || — || — || — || — | | rowspan="2" {{N/A|Non-album singles}} |- ! scope="row"| "Strobelights"<ref>{{Cite web |title=Strobelights, by Krewella |url=https://krewella.bandcamp.com/track/strobelights |access-date=2023-02-25 |website=Krewella |language=en}}</ref> | — || — || — || — || — || — || — | |- ! scope="row"| "One Minute"<ref>{{Citation |title=Krewella - One Minute |url=https://www.youtube.com/watch?v=8a_UbXbhB3M |language=en |access-date=2023-02-25}}</ref> | — || — || — || — || — || — || — | | ''Play Hard'' |- ! scope="row"| "Killin' It"<ref>{{cite web|url=https://itunes.apple.com/au/album/killin-it-single/id517325301|title=Killin' It - Single by Krewella on Apple Music|date=9 April 2012 |publisher=[[Apple Inc.]]|accessdate=December 21, 2016}}</ref> | rowspan="3" |2012 | — || — || — || — || — || — || — | | ''Play Hard'' and ''Get Wet'' |- ! scope="row"| "Come & Get It" | — || 41 || — || — || — || — || — | | ''Play Harder'' and ''Get Wet'' |- ! scope="row"| "[[:en:Alive_(Krewella_song)|Alive]]" | 32 || 5 || — || 22 || 50 || 159 || 81 | * [[Recording Industry Association of America|RIAA]]: プラチナ | ''Play Hard'' and ''Get Wet'' |- ! scope="row" |"[[:en:Live_for_the_Night_(Krewella_song)|Live for the Night]]" | rowspan="5" |2013 | 100 || 11 || 87 || — || 96 || — || — | | ''Get Wet'' |- ! scope="row"| "[[:en:Legacy_(Nicky_Romero_and_Krewella_song)|Legacy]]"<br/><span style="font-size:90%;">(with [[Nicky Romero]])</span> | — || — || 44 || — || — || — || — | | rowspan="3" {{N/A|Non-album singles}} |- ! scope="row"| "Party Monster" | — || — || — || — || — || — || — | |- ! scope="row"| "Watercolour"<br/><span style="font-size:90%;">(featuring Evan Duffy)</span> | — || — || — || — || — || — || — | |- ! scope="row"| "[[:en:Enjoy_the_Ride_(Krewella_song)|Enjoy the Ride]]" | — || 29 || 84 || 19 || — || — || — | | ''Get Wet'' |- ! scope="row"| "[[:en:Say_Goodbye_(Krewella_song)|Say Goodbye]]" | 2014 | — || — || — || — || — || — || — | | rowspan="2" {{N/A|Non-album singles}} |- ! scope="row"| "[[:en:Somewhere_to_Run_(song)|Somewhere to Run]]" | 2015 | — || — || — || — || — || — || — | |- ! scope="row"| "Beggars"<br/><span style="font-size:90%;">(with Diskord)</span><ref>{{cite web|url=http://www.youredm.com/2016/04/29/krewella-return-new-single-beggars-ep-announcement/|title=Krewella Return With New Single "Beggars" & EP Announcement|publisher=Your EDM|last=Meadow|first=Matthew|date=April 29, 2016|accessdate=December 21, 2016}}</ref> | rowspan="3"| 2016 | — || 33 || — || — || — || — || — | | rowspan="2"| ''Ammunition'' |- ! scope="row"| "Broken Record"<ref>{{Cite web |date=2016-05-11 |title=Krewella Is Ready To Leave The Past Behind & This New Trap Anthem Proves It [STREAM] |url=https://www.youredm.com/2016/05/11/krewella-drops-broken-record-day-tour-annoucement/ |access-date=2023-02-25 |website=Your EDM |language=en-US}}</ref> | — || — || — || — || — || — || — | |- ! scope="row"| "Team"<ref>{{Cite magazine |last=Bein |first=Kat |date=2016-12-09 |title=Krewella Get on Their King Tip With New Single 'Team:' Watch |url=https://www.billboard.com/music/music-news/krewella-team-video-7616888/ |access-date=2023-02-25 |magazine=Billboard |language=en-US}}</ref> | — || 26 || — || — || — || — || — | | rowspan="3"| ''New World, Pt. 1'' |- ! scope="row"| "Be There"<ref>{{cite web|url=https://itunes.apple.com/us/album/be-there-single/id1233957442|title=Be There – Single by Krewella on Apple Music|work=iTunes Store (US)|date=10 May 2017 |accessdate=June 6, 2017}}</ref> | rowspan="6"| 2017 | — || — || — || — || — || — || — | |- ! scope="row"| "Love Outta Me"<!--<ref name="New World"/>--> | — || — || — || — || — || — || — | |- ! scope="row"| "New World"<ref>{{cite web|url=http://www.youredm.com/2017/09/18/krewella-release-new-single-yellow-claw-new-world/|title=Krewella Drops New Single & Announces 'New World pt.2' EP Out October|publisher=Your EDM|last=Meadow|first=Matthew|date=September 18, 2017|accessdate=September 21, 2017}}</ref><br/><span style="font-size:90%;">(with Yellow Claw featuring Taylor Bennett)</span><ref>{{cite web|url=https://itunes.apple.com/us/album/new-world-feat-taylor-bennett-single/id1282155751|title=New World (feat. Taylor Bennett) - Single by Krewella & Yellow Claw on Apple Music|work=iTunes Store (US)|date=18 September 2017 |accessdate=September 22, 2017}}</ref> | — || 29<br /><ref>{{cite magazine|url=http://www.billboard.com/charts/dance-electronic-songs/2017-10-14|title=Dance/Electronic Songs: October 14, 2017|magazine=Billboard|accessdate=October 3, 2017}}</ref> || — || — || — || — || — | | rowspan="2" {{n/a|Non-album singles}} |- ! scope="row"| "dead af"<ref>{{cite magazine|url=http://www.billboard.com/articles/news/dance/8013836/krewella-dead-af-listen|title=Krewella Celebrates Halloween With Trap Song 'Dead AF': Listen|magazine=Billboard|last=Bein|first=Kat|date=October 24, 2017}}</ref> | — || — || — || — || — || — || — | |- ! scope="row"| "Alarm"<br/><span style="font-size:90%;">(with Lookas)</span><ref>{{cite web|url=https://itunes.apple.com/us/album/alarm-single/1309690112|title=Alarm – Single by Lookas on Apple Music|work=iTunes Store (US)|date=December 2017 |accessdate=January 12, 2018}}</ref> | — || — || — || — || — || — || — | | ''Lucid'' |- ! 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scope="row"| "Ghost"<ref>{{cite web|url=https://music.apple.com/us/album/ghost-single/1481421578 |title= Ghost - Single by Krewella on Apple Music |website=iTunes Store |accessdate=October 25, 2019}}</ref> | — || — || — || — || — || — || — | |- ! scope="row"| "Good on You"<ref>{{Cite magazine |url=https://www.billboard.com/articles/news/dance/8545240/krewella-interview-zero-album-good-on-you |title=Krewella announce ''Zer0'' album: 'We want people to feel like they're part of something big' |last=Bein |first=Kat |date=December 3, 2019 |magazine=Billboard |archive-url=https://web.archive.org/web/20191205104804/https://www.billboard.com/articles/news/dance/8545240/krewella-interview-zero-album-good-on-you |archive-date=December 5, 2019 |accessdate=December 23, 2019}}</ref> | — || — || — || — || — || — || — | |- ! scope="row"| "Greenlights" | rowspan="3" | 2020 | — || 21 || — || — || — || — || — | |- ! scope="row"| "Goddess"<ref>{{Cite web |title=Krewella & Nervo team up for new single, 'Goddess' |url=https://www.youredm.com/2020/05/15/krewella-nervo-team-up-for-new-single-goddess/ |last=Meadow |first=Matthew |date=May 15, 2020 |website=Your EDM |archive-url=https://web.archive.org/web/20200522013106/https://www.youredm.com/2020/05/15/krewella-nervo-team-up-for-new-single-goddess/ |archive-date=May 22, 2020 |accessdate=May 31, 2020}}</ref> <br> | — || — || — || — || — || — || — | | rowspan="2" {{N/A|Non-album singles}} |- ! 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ヒメフォーク
ヒメフォークは和菓子やフルーツ用に日本で考案されたフォーク。日本以外ではほとんど見かけない。 デザートフォーク、ペストリーフォーク(英語版)(ケーキフォーク)より小型のフォークである。日本ではケーキを食する際にもケーキフォークではなくヒメフォークを用いることも多い。 日本で最初に考案されたカトラリーであるとされる。 燕物産(新潟県)八代目の捧吉右衛門が1914年頃にヒメフォークの見本を東京から燕市に持ち帰ったという記録がある。
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{{画像提供依頼|date=2023年9月11日 (月) 12:43 (UTC)|cat=茶道具|他のフォークとのサイズ差が分かる画像}} '''ヒメフォーク'''は[[和菓子]]やフルーツ用に[[日本]]で考案された[[フォーク (食器)|フォーク]]{{R|島田|燕}}。日本以外ではほとんど見かけない{{R|島田}}。 デザートフォーク、{{仮リンク|ペストリーフォーク|en|Pastry fork}}(ケーキフォーク)より小型のフォークである{{R|島田}}。日本ではケーキを食する際にもケーキフォークではなくヒメフォークを用いることも多い{{R|島田}}。 日本で最初に考案された[[カトラリー]]であるとされる{{R|燕}}。 燕物産([[新潟県]])八代目の捧吉右衛門が1914年頃にヒメフォークの見本を東京から[[燕市]]に持ち帰ったという記録がある{{R|燕}}。 == 出典 == {{Reflist|refs= <ref name="島田">{{Cite web|和書|language=ja|publisher=[[中日新聞]]|work=島田枝里のおいしい紅茶のある暮らし|url=https://plus.chunichi.co.jp/blog/shimada/article/301/8188/|title=ティータイムの食器のそろえ方(5) ~ケーキフォーク、サイズは?形は?|date=2018-11-28|author=島田枝里|accessdate=2023-09-11}}</ref> <ref name="燕">{{Cite web|和書|language=ja|publisher=燕物産|url=https://www.tbcljp.com/%E5%95%86%E5%93%81%E7%B4%B9%E4%BB%8B/%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%A7%E7%94%9F%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC/|title=知らなかった、日本で生まれたカトラリー!|accessdate=2023-09-11}}</ref> }} {{Food-stub}} {{DEFAULTSORT:ひめふおおく}} [[Category:食器]] [[Category:テーブルウェア]]
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劉碩
劉碩(りゅう せき、生没年不詳)は、後漢の皇族。平原王。劉石とも。桓帝の弟で、他兄弟に勃海王劉悝や益陽公主などがいる。 父の劉翼は河間王の家系であったが、鄧太后に気に入られ平原王の位を継承した。しかし、121年に太后が死去すると讒言により国が除かれ、蠡吾侯となっていた。その父が亡くなると兄の劉志が蠡吾侯を継いだ。 本初元年(146年)、質帝が大将軍梁冀により殺害されると、劉志が帝位に就けられ(桓帝)、劉碩は都鄉侯、劉悝は蠡吾侯を継承した。建和2年(148年)4月に劉碩は平原王に封じられ、博陵(父の陵墓)に留まり父の祭祀を奉じた。152年、桓帝の生母・孝崇皇后が死去すると喪主を務めた。 劉碩は酒を好み過失が多かったため、桓帝は馬貴人(父の夫人の一人)に平原王の家事を取り仕切るよう命じていた。 劉碩の時代の平原相には史弼、陽球、陳紀、荀爽、劉備、劉琬らが記録に残る。しかし、建安11年(206年)に曹操が斉、北海、阜陵、下邳、常山、甘陵、濟陰、平原の八か国を除いたため廃絶した。
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劉碩は、後漢の皇族。平原王。劉石とも。桓帝の弟で、他兄弟に勃海王劉悝や益陽公主などがいる。
'''劉碩'''(りゅう せき、生没年不詳<ref>桓帝の弟であるため生年は132年以降。</ref>)は、[[後漢]]の[[皇族]]。平原王。'''劉石'''とも。[[桓帝 (漢)|桓帝]]の弟<ref>『後漢書』『章帝八王列傳』にのみ「桓帝の兄」という記述があるが、他の個所は「弟」とあり、『東観漢記』でも「桓帝は蠡吾侯翼の長子である」とする。</ref>で、他兄弟に勃海王[[劉悝]]や益陽公主などがいる。 == 経歴 == 父の[[劉翼 (蠡吾侯)|劉翼]]は河間王の家系であったが、[[鄧綏|鄧太后]]に気に入られ平原王の位を継承した。しかし、[[121年]]に太后が死去すると讒言により国が除かれ、蠡吾侯となっていた。その父が亡くなると兄の劉志が蠡吾侯を継いだ。 [[本初]]元年([[146年]])、[[質帝]]が大将軍[[梁冀]]により殺害されると、劉志が帝位に就けられ(桓帝)、劉碩は都鄉侯、劉悝は蠡吾侯を継承した。建和2年([[148年]])4月<ref>『後漢紀』《後漢孝桓皇帝紀上卷第二十一》</ref>に劉碩は平原王に封じられ、博陵(父の陵墓)に留まり父の祭祀を奉じた。[[152年]]、桓帝の生母・孝崇皇后が死去すると喪主を務めた。 劉碩は酒を好み過失が多かったため、桓帝は馬貴人(父の夫人の一人)に平原王の家事を取り仕切るよう命じていた。 劉碩の時代の平原相には史弼、陽球、[[陳紀]]、[[荀爽]]、[[劉備]]、劉琬らが記録に残る。しかし、建安11年([[206年]])に[[曹操]]が斉、北海、阜陵、下邳、常山、甘陵、濟陰、平原の八か国を除いたため廃絶した。 == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * 『後漢書』孝獻帝紀第九 * 『後漢書』皇后紀第十下 * 『後漢書』章帝八王列傳第四十五 {{DEFAULTSORT:りゆう せき}} [[Category:漢の皇族|せき]]
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タンパ・レッド
タンパ・レッド (出生名ハドソン・ウッドブリッジ、後にハドソン・ウィテカーに改名; 1904年1月8日 – 1981年3月19日)は、米国のブルース・ミュージシャンである。 彼の単音で奏でられる特徴的なスライド・ギターのスタイルとソングライティング、ボトルネック奏法のテクニックはビッグ・ビル・ブルーンジー、ロバート・ナイトホーク、エルモア・ジェームスなど、シカゴ・ブルースのミュージシャンたちに影響を与えている。30年以上に及ぶキャリアの中で、彼はポップス、R&B、ホーカムなどの楽曲もレコーディングしている。彼の最も著名なレコーディングとしては「Anna Lou Blues」、「Black Angel Blues」、「Crying Won't Help You」、「It Hurts Me Too」、「Love Her with a Feeling」などがある。 タンパ・レッドはジョージア州スミスヴィルに生まれた。彼の生年月日については、レッド本人が1900年、1908年など複数の生年を語っていたこともあり、はっきりとしない。彼の死亡証明書に記載された生年月日は1904年1月8日となっている。彼の両親のジョンとエリザベス・ウッドブリッジは、共にレッドがまだ幼い頃に亡くなった。彼はフロリダ州タンパに移住し、叔母と祖母に育てられた。以後彼らの姓ウィテカー (Whittake)を名乗るようになった。彼はタンパ周辺でギターを弾いて活動していた兄のエディーを模倣することでギターの腕を磨いた。レッドはまたピッコロ・ピートと名乗る老齢のストリート・ミュージシャンに影響を受けている。彼はレッドに初めてブルース・ギターを教えた人なのだという。レッドは、この他マ・レイニー、ベッシー・スミス、アイダ・コックスなどの女性ブルース・シンガーたちの初期のレコーディングを聴くことによっても知識を身につけることにつなげている。レッドはマーティン・ウィリアムズとのインタビューで次のように語っている。「あの(1920年の)メイミー・スミスの[クレイジー・ブルース]は一番最初に作られたブルースのレコードのひとつです。私は『音楽のことは知らないけど、あれならプレイできる』そう思いましたよ。」 1925年には、彼は既に自身のスライド・ギターのテクニックを完成させてシカゴに移住。「タンパ・レッド」の芸名を名乗り、ストリート・ミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせた。芸名は、幼少期の故郷タンパの地と彼の肌色の浅さに由来している。彼にとって大きなチャンスが訪れたのはマ・レイニーのサポート・ミュージシャンとして雇われたことだった。シカゴでは、彼はジョージア・トムの名で知られたトーマズ・A・ドーシーと出会った。ドーシーはピアニスト、作曲家、編曲家として成功を収めており、マ・レイニーを始めその時代をけん引する女性ブルース・シンガーと演奏、レコーディングの実績があった。ドーシーは、シカゴのパラマウント・レコードのJ・メイヨー・ウィリアムズにレッドを紹介し、彼が1928年、レッドのレコーディング・セッションの手はずを整えたのだった。 レッドの初レコーディングThrough Train Blues」はヒットとはならなかった。というのも、この曲は当時パラマウント最大のスターだったブラインド・レモン・ジェファーソンの「How Long How Long」のB面という扱いだったからであった。全米の話題となったのは彼の2曲目のレコーディング「It’s Tight Like That」であった。当時ポピュラーだったキャッチ・フレーズ「タイト・ライク・ザット(それはきつい=[厳しい]の意とわいせつな意のダブルミーニングと考えられる)」を元に作られたチャーリー・ジョーダンの曲から拝借する形の内容をレッドとジョージア・トムが演奏しているのをメイヨー・ウィリアムズが耳にし、非常に気に入ってすぐにレコーディングすることになったという。。ホーカムとして知られることとなったみだらでユーモアに満ちたスタイルで演奏されたこの曲は、100万枚を売り上げるヒットとなった。人々がこのレコードを買い求めるためにレコード店の外で並んでいた、とレッドは後になって回想している。この曲の作詞・作曲はレッドとトムの名義となり、彼らはこの曲で得られた約4千ドルのロイヤルティを山分けしたという。 タンパ・レッドの初期のレコーディングの大部分はトムとの共同作業で生まれている。彼らは90曲近くをレコーディングした。ときにはホーカム・ボーイズを名乗り、あるいはフランキー・ジャクソンを加えてタンパ・レッドのホーカム・ジャグ・バンド名義のときもあった。1928年から1929年にかけ、レッドとトムは自らのレコードの制作以外でも、マ・レイニー、マデリン・デイヴィス、リル・ジョンソン、そして女性の物まね芸で知られたフランキー”ハープパイント”ジャクソンなどのレコーディングにも参加した。 1928年、レッドはその年発売となった ナショナル製のスチール・ボディーのリゾネーター・ギターを入手。彼は初めてこのギターをプレイした黒人となった。このギターはアンプリフィケーション(音の電気的な増幅)が一般的になる以前の時代では最も音が大きかった。このことにより、彼はブロック・コードではなく、一弦ずつメロディーを弾く彼のトレードマーク的ボトルネック・スタイルを編み出すことが可能となった。彼のこのスタイルは後のブルース、ロックのギター・ソロの先駆的な役割を果たしたのである。 彼が使用したナショナルのギターは、金箔を施したトライコーンで、1990年代に楽器店の店主でギタリストのランディ・クレメンズによってイリノイ州で発見され、後になってシアトルのエクスピリエンス・ミュージック・プロジェクトに売却された。レッドは「黄金のギターを持つ男」として知られ、1930年代に入ると「ギターの魔術師」との触れ込みで売り出されるようになった。1931年、レッドは「Depression Blues」をレコーディング。この曲には時事的な次の歌詞が含まれていた。「私の苦難を伝えられるのなら、それは私の心に安らぎを与えてくれる。しかし不景気にやられてしまった。お願いだ、誰か助けてくれ。」 レッドとトムのパートナーシップは1932年に終わりを告げたが、彼はセッション・ミュージシャンとして引き続き声がかかり続け、サニー・ボーイ・ウィリアムソンI世、メンフィス・ミニー、ビッグ・メイシオなどを始め大勢のアーティストと仕事をしている。彼は1934年にビクター・レコードと契約をし、1953年までの長きに渡り、同社のアーティストに名を連ねた。彼はシカゴ・ファイヴを結成。彼らはセッション・ミュージシャンの集まりで、後にブルーバード・サウンドとして知られることとなる小編成のジャンプ・ブルースやロックンロールのバンドの先駆けとなる音を生み出した。レッドはビッグ・ビル・ブルーンジーとビッグ・メイシオの友人で共演者でもあった。彼は成功を収め、繁栄もした。彼の家はブルース・コミュニティの中心的存在となり、ミシシッピ・デルタ地域からシカゴにやってくるミュージシャンたちに対し、リハーサルの場やブッキング、宿泊場所を提供した。この頃、南部における農業関連の雇用が少なくなり、一方でブルース音楽の商業的可能性が大きくなっていたのである。 1940年代に入ると、レッドはエレクトリック・ギターをプレイするようになった。1942年、「Let Me Play with Your Poodle」がビルボードが新たに作った「ハーレム・ヒット・パレード」(R&Bチャートの前身)で4位を記録した。「When Things Go Wrong with You (It Hurts Me Too)」もR&Bチャートでのヒットとなり、後にエルモア・ジェームスにカバーされた。 1950年代のブルース・リヴァイヴァルの中で、レッドはサン・ハウスやスキップ・ジェイムズと同様に「再発見」された。彼は最後のレコーディングを1960年に行なっている。 1953年11月21日、レッドの妻のフランセス・ウィテカーが亡くなった。彼女の死はレッドに大きな衝撃を与え、彼はこれを機にアルコール中毒になってしまった。1974年にブルース専門家のジム・オニールがレッドをシカゴのサウスサイドで見つけ出したとき、彼は女性の友人、81歳のエフィ・トルバートと一緒に暮らしていた。レッドの状況は以前と比べて悪く、エレクトリック・ギターがベッドの下に仕舞われたまま、ナショナルのスチール・ギターは盗まれてしまっていた。(1994年に質屋で発見され、最終的にシアトルのエクスピリエンス・ミュージック・プロジェクトに8万5千ドルで売却された。) 1974年12月10日、トルバートが死去。レッドは精神病の問題を起こした過去があったために彼を家に引き取ることを申し出る友人はいなかった。1975年1月までにレッドはシカゴの州立病院に入院した。 レッドは最後の数年をセントラル療養施設で過ごし、1981年3月19日の朝、朝食の際に心臓発作に見舞われて同施設で亡くなった。ジム・オニールが書いた新聞の訃報によると、彼の葬儀はビッグス&ビッグス葬儀所で執り行われ、彼はシカゴ郊外のウィロー・スプリングスのマウント・グレンウッド記念庭園に埋葬された。 レッドは、彼の活躍した時代において最も多くの作品を残したブルースのアーティストのひとりであった。推定では、彼は335曲をSPレコードで残しており、そのうち251曲は1928年から1942年の間にレコーディングされている。これは同時期にレコーディングしたブルース・アーティストとしては最多である。 レッドのシングルの多くはビルボード誌がブルース(およびその他のいわゆる「人種音楽」)の売り上げ動向を追跡し始める1942年10月より前のリリースで、これらに関しては正確な売り上げの記録は残っていない。しかし1942年から1951年の間に、彼は4枚のシングルをR&Bチャートのトップ10に送り込んでいる。 レッドは初期の楽曲の別バージョン(通常はNo. 2、No. 3などとされている)を複数レコーディングしている。楽曲の別バージョンについては、プラス記号で示した。彼はシングルによっては共演者を迎え、ホーカム・ボーイズ、タンパ・レッドのホーカム・ジャグ・バンド、パパ・トゥー・スウィート、その他の名義のクレジットとなっている。 彼はビッグ・メイシオ、サニー・ボーイ・ウィリアムソンI世、メンフィス・ミニー、マ・レイニー、ヴィクトリア・スピヴィーのサイドマンとしてもレコーディングでプレイしている。 レッドはシングル盤を多く残したアーティストではあったが、アルバムは2枚しかなく、いずれもキャリアの後期のものである。没後に様々なコンピレーション・アルバムが複数のレコード会社からリリースとなっているが、その多くは内容が重複している。一部のコンピレーションは、彼の個別のスタイルやオリジナルのレコード・レーベルに特化した編集がなされている。
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タンパ・レッドは、米国のブルース・ミュージシャンである。 彼の単音で奏でられる特徴的なスライド・ギターのスタイルとソングライティング、ボトルネック奏法のテクニックはビッグ・ビル・ブルーンジー、ロバート・ナイトホーク、エルモア・ジェームスなど、シカゴ・ブルースのミュージシャンたちに影響を与えている。30年以上に及ぶキャリアの中で、彼はポップス、R&B、ホーカムなどの楽曲もレコーディングしている。彼の最も著名なレコーディングとしては「Anna Lou Blues」、「Black Angel Blues」、「Crying Won't Help You」、「It Hurts Me Too」、「Love Her with a Feeling」などがある。
{{Infobox Musician <!-- プロジェクト:音楽家を参照 --> |名前 = {{plainlist| * タンパ・レッド * Tampa Red}} |画像 = Tampa-in-beret zpsd4275d4e.webp |画像説明 = タンパ・レッド(1930年代初頭) |画像サイズ = <!-- サイズが幅250ピクセルに満たない場合のみ記入 --> |画像補正 = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --> |背景色 = solo_singer |出生名 = Hudson Woodbridge |別名 = Hudson Whittaker |出生 = {{Plainlist| * {{生年月日と年齢|1904|01|08|no}} * {{USA}} [[ジョージア州]]スミスヴィル}} |死没 = {{Plainlist| * {{死亡年月日と没年齢|1904|01|08|1981|03|19}} * {{USA}} [[イリノイ州]][[シカゴ]]}} |ジャンル = [[ブルース]]、ホーカム | 職業 = {{Hlist-comma|[[ミュージシャン]]|[[歌手]]|[[ソングライター]]}} | 担当楽器 = [[ギター]]、[[カズー]] |活動期間 = [[1920年代]] - [[1960年代]] |レーベル = [[ヴォカリオン・レコード|ヴォカリオン]]、[[ブルーバード・レコード|ブルーバード]]、[[RCAレコード|RCAビクター]] |配偶者 = <!-- 個人のみ --> |著名な家族 = <!-- 個人のみ --> |事務所 = |共同作業者 = |公式サイト = |メンバー = <!-- グループのみ --> |旧メンバー = <!-- グループのみ --> |著名使用楽器 = <!-- 個人のみ --> }} '''タンパ・レッド''' (出生名''ハドソン・ウッドブリッジ''、後に''ハドソン・ウィテカー''に改名; [[1904年]][[1月8日]] – [[1981年]][[3月19日]])は、[[アメリカ合衆国|米国]]のブルース・ミュージシャンである。 彼の単音で奏でられる特徴的な[[スライド・ギター]]のスタイルとソングライティング、ボトルネック奏法のテクニックは[[ビッグ・ビル・ブルーンジー]]、ロバート・ナイトホーク、[[エルモア・ジェームス]]など、[[シカゴ・ブルース]]のミュージシャンたちに影響を与えている<ref name= barlow>Barlow, William (1989年). ''"Looking Up at Down": The Emergence of Blues Culture''. Temple University Press. pp. 304–305. {{ISBN|0-87722-583-4}}.</ref>。30年以上に及ぶキャリアの中で、彼は[[ポップ・ミュージック|ポップス]]、[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]、ホーカムなどの楽曲もレコーディングしている。彼の最も著名なレコーディングとしては「Anna Lou Blues」、「Black Angel Blues」、「Crying Won't Help You」、「It Hurts Me Too」、「Love Her with a Feeling」などがある<ref> {{cite web | last = Pearson | first = Barry Lee | title = Tampa Red: Biography | publisher = Allmusic.com | url = {{AllMusic|class=artist|id=p11503/biography|pure_url=yes}} | access-date = August 19, 2010}} </ref>。 == 来歴 == === 幼少期 === タンパ・レッドは[[ジョージア州]]スミスヴィルに生まれた。彼の生年月日については、レッド本人が1900年、1908年など複数の生年を語っていたこともあり、はっきりとしない。彼の死亡証明書に記載された生年月日は[[1904年]][[1月8日]]となっている<ref name="Tampa Red Biography">{{cite web |last=Brennan |first=Gerald E. |title=Tampa Red Biography |url=https://musicianguide.com/biographies/1608002363/Tampa-Red.html |website=Musician Guide |access-date=October 20, 2022}}</ref>。彼の両親のジョンとエリザベス・ウッドブリッジは、共にレッドがまだ幼い頃に亡くなった。彼は[[フロリダ州]][[タンパ]]に移住し、叔母と祖母に育てられた。以後彼らの姓ウィテカー (Whittake)を名乗るようになった<ref name="russell">{{cite book | first= Tony | last= Russell | year= 1997 | title= The Blues: From Robert Johnson to Robert Cray | publisher=Carlton Books | location= Dubai | pages= 173–174 | isbn= 1-85868-255-X}}</ref>。彼はタンパ周辺でギターを弾いて活動していた兄のエディーを模倣することでギターの腕を磨いた。レッドはまたピッコロ・ピートと名乗る老齢のストリート・ミュージシャンに影響を受けている。彼はレッドに初めてブルース・ギターを教えた人なのだという。レッドは、この他マ・レイニー、[[ベッシー・スミス]]、アイダ・コックスなどの女性ブルース・シンガーたちの初期のレコーディングを聴くことによっても知識を身につけることにつなげている。レッドはマーティン・ウィリアムズとのインタビューで次のように語っている。「あの(1920年の)メイミー・スミスの[クレイジー・ブルース]は一番最初に作られたブルースのレコードのひとつです。私は『音楽のことは知らないけど、あれならプレイできる』そう思いましたよ。」<ref name= barlow/> === キャリア === [[1925年]]には、彼は既に自身のスライド・ギターのテクニックを完成させて[[シカゴ]]に移住。「タンパ・レッド」の芸名を名乗り、ストリート・ミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせた。芸名は、幼少期の故郷タンパの地と彼の肌色の浅さに由来している<ref name="russell"/>。彼にとって大きなチャンスが訪れたのはマ・レイニーのサポート・ミュージシャンとして雇われたことだった。シカゴでは、彼はジョージア・トムの名で知られたトーマズ・A・ドーシーと出会った。ドーシーはピアニスト、作曲家、編曲家として成功を収めており、マ・レイニーを始めその時代をけん引する女性ブルース・シンガーと演奏、レコーディングの実績があった。ドーシーは、シカゴのパラマウント・レコードのJ・メイヨー・ウィリアムズにレッドを紹介し、彼が[[1928年]]、レッドのレコーディング・セッションの手はずを整えたのだった。 レッドの初レコーディングThrough Train Blues」はヒットとはならなかった。というのも、この曲は当時パラマウント最大のスターだった[[ブラインド・レモン・ジェファーソン]]の「How Long How Long」のB面という扱いだったからであった<ref name="russell"/>。全米の話題となったのは彼の2曲目のレコーディング「It’s Tight Like That」であった。当時ポピュラーだったキャッチ・フレーズ「タイト・ライク・ザット(それはきつい=[厳しい]の意とわいせつな意のダブルミーニングと考えられる)」を元に作られたチャーリー・ジョーダンの曲から拝借する形の内容をレッドとジョージア・トムが演奏しているのをメイヨー・ウィリアムズが耳にし、非常に気に入ってすぐにレコーディングすることになったという。<ref name="russell"/>。ホーカムとして知られることとなったみだらでユーモアに満ちたスタイルで演奏されたこの曲は、100万枚を売り上げるヒットとなった。人々がこのレコードを買い求めるためにレコード店の外で並んでいた、とレッドは後になって回想している。この曲の作詞・作曲はレッドとトムの名義となり、彼らはこの曲で得られた約4千ドルのロイヤルティを山分けしたという<ref name="russell"/>。 タンパ・レッドの初期のレコーディングの大部分はトムとの共同作業で生まれている<ref name="russell"/>。彼らは90曲近くをレコーディングした。ときにはホーカム・ボーイズを名乗り、あるいはフランキー・ジャクソンを加えてタンパ・レッドのホーカム・ジャグ・バンド名義のときもあった。[[1928年]]から[[1929年]]にかけ、レッドとトムは自らのレコードの制作以外でも、マ・レイニー、マデリン・デイヴィス、リル・ジョンソン、そして女性の物まね芸で知られたフランキー”ハープパイント”ジャクソンなどのレコーディングにも参加した<ref name="russell"/>。 [[1928年]]、レッドはその年発売となった [[ナショナル・ストリング・インストルメント|ナショナル]]製のスチール・ボディーの[[リゾネーター・ギター]]を入手。彼は初めてこのギターをプレイした黒人となった。このギターはアンプリフィケーション(音の電気的な増幅)が一般的になる以前の時代では最も音が大きかった。このことにより、彼はブロック・コードではなく、一弦ずつメロディーを弾く彼のトレードマーク的ボトルネック・スタイルを編み出すことが可能となった。彼のこのスタイルは後のブルース、ロックのギター・ソロの先駆的な役割を果たしたのである<ref>{{cite web |url= http://nfo.net/usa/t1.html |title=Tampa Red's Hokum Jug Band |first=Murray L. |last=Pfeffer |work=Big Bands Database Plus |publisher=Murray L. Pfeffer |url-status=dead |archive-url= https://web.archive.org/web/20070418011722/http://nfo.net/usa/t1.html |access-date=September 11, 2023 |archive-date=April 18, 2007}}</ref>。 彼が使用したナショナルのギターは、金箔を施したトライコーンで、[[1990年代]]に楽器店の店主でギタリストのランディ・クレメンズによってイリノイ州で発見され、後になって[[シアトル]]のエクスピリエンス・ミュージック・プロジェクトに売却された<ref>Carradini, Stephen (2011). "From Red to Randy". ''Oklahoma Gazette''. April 6, 2011. p. 57</ref>。レッドは「黄金のギターを持つ男」として知られ、[[1930年代]]に入ると「ギターの魔術師」との触れ込みで売り出されるようになった。[[1931年]]、レッドは「Depression Blues」をレコーディング。この曲には時事的な次の歌詞が含まれていた。「私の苦難を伝えられるのなら、それは私の心に安らぎを与えてくれる。しかし不景気にやられてしまった。お願いだ、誰か助けてくれ。」<ref>{{cite book|title=The Devil's Music|author=Giles Oakley|publisher=Da Capo Press|page=[https://archive.org/details/devilsmusichisto00oakl_0/page/149 149]|isbn=978-0-306-80743-5|date=1997|url=https://archive.org/details/devilsmusichisto00oakl_0/page/149}}</ref> レッドとトムのパートナーシップは[[1932年]]に終わりを告げたが、彼はセッション・ミュージシャンとして引き続き声がかかり続け、サニー・ボーイ・ウィリアムソンI世、[[メンフィス・ミニー]]、ビッグ・メイシオなどを始め大勢のアーティストと仕事をしている<ref name="russell"/>。彼は[[1934年]]に[[ビクタートーキングマシン|ビクター・レコード]]と契約をし、[[1953年]]までの長きに渡り、同社のアーティストに名を連ねた。彼はシカゴ・ファイヴを結成<ref name="Devil">{{cite book|title=The Devil's Music|author=Giles Oakley|publisher=Da Capo Press|page=[https://archive.org/details/devilsmusichisto00oakl_0/page/163 163]|isbn=978-0-306-80743-5|date=1997|url=https://archive.org/details/devilsmusichisto00oakl_0/page/163}}</ref>。彼らはセッション・ミュージシャンの集まりで、後にブルーバード・サウンドとして知られることとなる小編成のジャンプ・ブルースや[[ロックンロール]]のバンドの先駆けとなる音を生み出した<ref name="russell"/>。レッドは[[ビッグ・ビル・ブルーンジー]]とビッグ・メイシオの友人で共演者でもあった。彼は成功を収め、繁栄もした。彼の家はブルース・コミュニティの中心的存在となり、ミシシッピ・デルタ地域からシカゴにやってくるミュージシャンたちに対し、リハーサルの場やブッキング、宿泊場所を提供した。この頃、南部における農業関連の雇用が少なくなり、一方でブルース音楽の商業的可能性が大きくなっていたのである<ref>{{cite book|title=The Devil's Music|author=Giles Oakley|publisher=Da Capo Press|page=[https://archive.org/details/devilsmusichisto00oakl_0/page/175 175/6]|isbn=978-0-306-80743-5|date=1997|url=https://archive.org/details/devilsmusichisto00oakl_0/page/175}}</ref>。 [[1940年代]]に入ると、レッドは[[エレクトリック・ギター]]をプレイするようになった。[[1942年]]、「Let Me Play with Your Poodle」が[[ビルボード]]が新たに作った「ハーレム・ヒット・パレード」(R&Bチャートの前身)で4位を記録した<ref name="Devil"/>。「When Things Go Wrong with You (It Hurts Me Too)」もR&Bチャートでのヒットとなり、後に[[エルモア・ジェームス]]にカバーされた。 [[1950年代]]のブルース・リヴァイヴァルの中で、レッドはサン・ハウスやスキップ・ジェイムズと同様に「再発見」された。彼は最後のレコーディングを[[1960年]]に行なっている。 === 後年の日々 === [[1953年]][[11月21日]]、レッドの妻のフランセス・ウィテカーが亡くなった。彼女の死はレッドに大きな衝撃を与え、彼はこれを機にアルコール中毒になってしまった<ref>{{cite book|title=The Rough Guide to the Blues|date=2007|publisher=Rough Guides|author=Nigel Williamson|isbn=978-1843535195}}</ref>。[[1974年]]にブルース専門家のジム・オニールがレッドをシカゴのサウスサイドで見つけ出したとき、彼は女性の友人、81歳のエフィ・トルバートと一緒に暮らしていた。レッドの状況は以前と比べて悪く、エレクトリック・ギターがベッドの下に仕舞われたまま、ナショナルのスチール・ギターは盗まれてしまっていた。(1994年に質屋で発見され、最終的にシアトルのエクスピリエンス・ミュージック・プロジェクトに8万5千ドルで売却された。)<ref name="The Golden Guitar of Tampa Red">{{cite web |last1=Wilson |first1=Gavin |title=Guitar Blog: The Golden Guitar of Tampa Red |url=http://guitarz.blogspot.com/2013/11/the-golden-guitar-of-tampa-red-guest.html |website=Blogspot |date=22 November 2013 |access-date=October 21, 2022}}</ref> [[1974年]][[12月10日]]、トルバートが死去。レッドは精神病の問題を起こした過去があったために彼を家に引き取ることを申し出る友人はいなかった。[[1975年]]1月までにレッドはシカゴの州立病院に入院した。 レッドは最後の数年をセントラル療養施設で過ごし、[[1981年]][[3月19日]]の朝、朝食の際に心臓発作に見舞われて同施設で亡くなった。ジム・オニールが書いた新聞の訃報によると、彼の葬儀はビッグス&ビッグス葬儀所で執り行われ、彼はシカゴ郊外のウィロー・スプリングスのマウント・グレンウッド記念庭園に埋葬された。 == ディスコグラフィー == レッドは、彼の活躍した時代において最も多くの作品を残したブルースのアーティストのひとりであった。推定では、彼は335曲を[[SPレコード]]で残しており<ref name="Herzhaft"> {{Cite book | last = Herzhaft | first = Gerard | title = Encyclopedia of the Blues | publisher = University of Arkansas Press | year = 1992 | page = [https://archive.org/details/encyclopediaofbl00herzh/page/335 335] | url = https://archive.org/details/encyclopediaofbl00herzh/page/335 | isbn = 1-55728-252-8 }} </ref>、そのうち251曲は1928年から1942年の間にレコーディングされている。これは同時期にレコーディングしたブルース・アーティストとしては最多である<ref> {{Cite book | last = Wald | first = Elijah | title = Escaping the Delta: Robert Johnson and the Invention of the Blues | publisher = Harper | year = 2004 | page = 41 | isbn = 978-0-06-052427-2}} </ref>。 レッドのシングルの多くは[[ビルボード]]誌がブルース(およびその他のいわゆる「人種音楽」)の売り上げ動向を追跡し始める[[1942年]]10月より前のリリースで、これらに関しては正確な売り上げの記録は残っていない。しかし[[1942年]]から[[1951年]]の間に、彼は4枚のシングルをR&Bチャートのトップ10に送り込んでいる<ref> {{Cite book | last = Whitburn | first = Joel | title = Top R&B Singles 1942–1988 | publisher = Record Research | year = 1988 | page = [https://archive.org/details/joelwhitburnstop00whit/page/401 401] | url = https://archive.org/details/joelwhitburnstop00whit/page/401 | isbn = 0-89820-068-7 }} </ref>。 === シングル盤 (抜粋) === レッドは初期の楽曲の別バージョン(通常はNo. 2、No. 3などとされている)を複数レコーディングしている。楽曲の別バージョンについては、プラス記号で示した。彼はシングルによっては共演者を迎え、ホーカム・ボーイズ、タンパ・レッドのホーカム・ジャグ・バンド、パパ・トゥー・スウィート、その他の名義のクレジットとなっている。 {| class="wikitable" |- ! style="width:40px;"| 年 ! style="width:260px;"| タイトル ! style="width:120px;"| レーベルとレコード番号 ! style="width:310px;"| 備考 |- | rowspan="2" | [[1928年]] | 「It's Tight Like That」 | [[ヴォカリオン・レコード|Vocalion]] <small>1216</small><sup>+</sup> |ジョージア・トム (トム・ドーシー-piano)との共演 |- | 「How Long, How Long Blues」 | Vocalion <small>1228</small><sup>+</sup> | タンパ・レッドのホーカム・ジャグ・バンド名義 |- | rowspan="3" | [[1929年]] | 「The Duck's Yas-Yas-Yas」 | Vocalion <small>1277</small> | ジョージア・トムとの共演 |- | 「You've Got to Reap What You Sow」 | Vocalion <small>1404</small> | スライド・ギターのインストゥルメンタル |- | 「Corrine Corrina」 | Vocalion <small>1450</small><sup>+</sup> | with Georgia Tom |- | [[1930年]] | 「The Dirty Dozen #2」 | Vocalion <small>1538</small> | |- | [[1931年]] | 「Things 'Bout Coming My Way」 | Vocalion <small>1637</small><sup>+</sup> | |- | [[1932年]] | 「You Can't Get That Stuff No More」 | Vocalion <small>1706</small> | with Georgia Tom |- | rowspan="5" | [[1934年]] | 「Sugar Mama Blues|Sugar Mama Blues No. 1」 | Vocalion <small>2720</small><sup>+</sup> | |- | 「Black Angel Blues」 | Vocalion <small>2753</small> | |- | 「Things 'Bout Comin' My Way」 | Vocalion <small>2774</small> | 「Things 'Bout Coming My Way」のインストゥルメンタル・リメイク |- | 「Denver Blues」 | Vocalion <small>2774</small> | インストゥルメンタル |- | 「Mean Mistreater Blues」 | [[ブルーバード・レコード|Bluebird]] <small>5546</small> | |- | [[1938年]] | 「Love with a Feeling」 | Bluebird <small>7822</small> | with Black Bob Hudson (piano) & unknown bass |- | [[1939年]] | 「Don't Forget It」 | Blulebird <small>8327-B</small> | |- | rowspan="3" | [[1940年]] | 「It Hurts Me Too」 | Bluebird <small>8635</small> | ブラインド・ジョン・デイヴィス (piano), ベースは不明 |- | 「Anna Lou Blues」 | Bluebird <small>8654</small> | ジョージア・トムとの共演、ベースは不明 |- | 「Don't You Lie to Me」 | Bluebird <small>8654</small> | ジョージア・トムとの共演、ベースは不明 |- | [[1942年]] | 「Let Me Play with Your Poodle」 | Bluebird <small>0700</small> | ビッグ・メイシオ(piano)、クリフォード・ジョーンズ(drums)、ビルボードR&Bチャート4位 |- | [[1945年]] | 「Detroit Blues」 | Bluebird <small>0731</small> | コンボ(piano, bass, & drums)、R&B 5位 |- | [[1946年]] | 「Crying Won't Help You」 | [[RCAレコード|RCA Victor]] <small>20-1988</small> | コンボ |- | [[1949年]] | 「When Things Go Wrong with You」 | RCA Victor <small>22-0035</small> | 「It Hurts Me Too」のリメイク、コンボ、R&B #9 |- | [[1950年]] | 「Love Her with a Feeling」 | RCA Victor <small>22-0084</small> | 「Love with a Feeling」のコンボによる再演 |- | rowspan="3" | [[1951年]] | 「Sweet Little Angel」 | RCA Victor <small>22-0107</small> | 「Black Angel Blues」 のコンボによる再演 |- | 「Early in the Morning」 | RCA Victor <small>22-0123</small> | コンボ |- | 「Pretty Baby Blues」 | RCA Victor <small>22-0136</small> | コンボ、R&B 7位 |} 彼はビッグ・メイシオ、サニー・ボーイ・ウィリアムソンI世、[[メンフィス・ミニー]]、マ・レイニー、ヴィクトリア・スピヴィーのサイドマンとしてもレコーディングでプレイしている<ref name="Herzhaft"/>。 === アルバム (抜粋) === レッドはシングル盤を多く残したアーティストではあったが、アルバムは2枚しかなく、いずれもキャリアの後期のものである。没後に様々なコンピレーション・アルバムが複数のレコード会社からリリースとなっているが、その多くは内容が重複している。一部のコンピレーションは、彼の個別のスタイルやオリジナルのレコード・レーベルに特化した編集がなされている。 {| class="wikitable" |- ! style="width:60px;"| 年 ! style="width:300px;"| タイトル ! style="width:120px;"| レーベル ! style="width:270px;"| 備考 |- | rowspan="2" | [[1961年]] | 『Don't Tampa with the Blues』 | Bluesville | [[1960年]]録音 |- | 『Don't Jive Me』 | Bluesville | [[1960年]]録音 |- | [[1974年]] |『Bottleneck Guitar 1928&ndash;1937』 | Yazoo | |- | [[1991年]]&ndash;[[1993年|93年]] | 『Complete Recorded Works in Chronological Order, vols. 1&ndash;15』 | Document | [[1928年]]&ndash;[[1953年|53年]]録音 |- | [[1993年]] | 『Keep Jumping 1944&ndash;1952』 | Wolf | |- | rowspan="3" | [[1994年]] | 『Tampa Red (1928&ndash;1942)』 | Story of the Blues | |- | 『The Guitar Wizard』 | [[レガシー・レコーディングス|Columbia/Legacy]] | [[1928年]]&ndash;[[1934年|34年]]リリースの[[オーケー・レコード|Okeh]] and [[ヴォカリオン・レコード|Vocalion]]音源 |- | 『It Hurts Me Too &ndash; The Essential Recordings』 | Indigo | 複数のレーベル音源、[[1928年]]&ndash;[[1942年|42年]] |- | rowspan="2" | [[1997年]] | 『The Complete Bluebird Recordings 1934&ndash;1936''』 | [[RCAレコード|RCA]] | |- | 『The Bluebird Recordings 1936&ndash;1938』 | RCA | |- | [[2001年]] | 『The Essential』 | Classic Blues | [[1928年]]&ndash;[[1951年|51年]]録音 |- | [[2002年]] | 『Slide Guitar Classics』 | [[Pヴァイン|P-Vine]] | |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 外部リンク == *{{find a Grave|45302214}} *[{{AllMusic|class=artist|id=p11503/biography|pure_url=yes}} AllMusic biography] {{en icon}} *[https://www.georgiaencyclopedia.org/articles/arts-culture/tampa-red-whittaker-1904-1981/ Entry in the New Georgia Encyclopedia] *[https://web.archive.org/web/20141008080714/http://www.nationalguitars.com/admin/history.html National Reso-phonic Guitar History] *[http://www.bluesoterica.com/the-tampa-red-page The TAMPA RED Page (Bluesoterica - Jim O'Neal)] {{en icon}} * [https://adp.library.ucsb.edu/names/106703 Tampa Red recordings] at the [[:en:Discography of American Historical Recordings|Discography of American Historical Recordings]] {{en icon}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たんはれつと}} [[Category:20世紀アメリカ合衆国のギタリスト]] [[Category:ジョージア州の人物]] [[Category:アメリカ合衆国のソングライター]] [[Category:ブルースの殿堂入りの人物]] [[Category:ブルース・ミュージシャン]] [[Category:アフリカ系アメリカ人のミュージシャン]] [[Category:1904年生]] [[Category:1981年没]]
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福木村
福木村(ふくきむら)は、広島県安佐郡にあった村。現在の広島市東区の一部にあたる。 東は呉娑々宇山、西は二ケ城山をそれぞれ主峰とする山塊に挟まれた山間に位置していた 合併旧村名の各一文字を組み合わせたもの。
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福木村(ふくきむら)は、広島県安佐郡にあった村。現在の広島市東区の一部にあたる。
{{日本の町村 (廃止) | 廃止日 = 1956年3月31日 | 廃止理由 = 新設合併 | 廃止詳細 = '''福木村'''、[[安芸郡 (広島県)|安芸郡]][[温品村]] → 安芸郡[[安芸町 (広島県)|安芸町]] | 現在の自治体 = [[広島市]] | よみがな = ふくきむら | 自治体名 = 福木村 | 区分 = 村 | 都道府県 = 広島県 | 郡 = [[安佐郡]] | 面積 = | 境界未定 = | 人口 = 2025 | 人口の出典 = [[国勢調査 (日本)|国勢調査]] | 人口の時点 = 1955年 | 隣接自治体 = [[高陽町]]、安芸郡[[瀬野村]]・[[畑賀村]]・[[府中町]]・温品村 | 所在地 = 安佐郡福木村 | 座標 = | 位置画像 = | 特記事項 = }} '''福木村'''(ふくきむら{{R|変遷}})は、[[広島県]][[安佐郡]]にあった[[村]]。現在の[[広島市]][[東区 (広島市)|東区]]の一部にあたる。 == 地理 == 東は[[呉娑々宇山]]、西は二ケ城山をそれぞれ主峰とする山塊に挟まれた山間に位置していた{{R|角川}} == 歴史 == *[[1889年]](明治22年)4月1日、[[町村制]]の施行により、[[高宮郡]]福田村、馬木村が合併して村制施行し、'''福木村'''が発足<ref name=変遷>『市町村名変遷辞典』683頁。</ref><ref name=角川>『角川日本地名大辞典 34 広島県』623-624頁。</ref>。旧村名を継承した福田、馬木の2大字を編成{{R|角川}}。 *[[1898年]](明治31年)10月1日、郡の統合により[[安佐郡]]に所属{{R|変遷}}{{R|角川}}。 *[[1945年]](昭和20年)[[広島市への原子爆弾投下|広島原爆投下]]後、多くの被災者が避難し、福木国民学校・馬木演習場に収容された{{R|角川}}。 *戦後、演習場跡地に開拓団が入植した{{R|角川}}。 *[[1956年]](昭和31年)3月31日、安芸郡温品村と合併し、町制施行し安芸郡'''[[安芸町 (広島県)|安芸町]]'''を新設して廃止された{{R|変遷}}{{R|角川}}。 === 地名の由来 === 合併旧村名の各一文字を組み合わせたもの{{R|角川}}。 == 産業 == *農業、庭木、造園業、花卉{{R|角川}}。 == 交通 == === 乗合バス === *1923年(大正12年)H・K自動車商会が広島~福田間に乗合バス運行{{R|角川}}。 == 陸軍施設 == *1908年(明治41年)大字馬木の大原に陸軍演習場が設置された{{R|角川}}。 == 脚注 == {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[角川日本地名大辞典]] 34 広島県 * 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。 == 関連項目 == * [[広島県の廃止市町村一覧]] {{デフォルトソート:ふくきむら}} [[Category:高宮郡]] [[Category:安佐郡]] [[Category:広島市域の廃止市町村]] [[Category:広島市東区の歴史]] [[Category:1889年設置の日本の市町村]] [[Category:1956年廃止の日本の市町村]] [[Category:合成地名]]
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妙長寺 (徳島市)
妙長寺(みょうちょうじ)は、徳島県徳島市寺町にある日蓮宗の寺院である。本尊は久遠実成本師釈迦牟尼仏。 境内に祀られている「御睦経王大明神」(おむつきょうだいみょうじん)が有名であり、「お睦さん」(お六さん)の愛称で知られている。 1633年(寛永9年)に創建。かつては非常に繁栄した寺院であり、大正時代には1日に数百人の参拝客でにぎわったとされる。 境内にある「御睦経王大明神」は阿波狸合戦に登場するお六という女狸を祀っており、強運勝利の神様として入学試験や資格試験などに御利益があるといわれ、お睦さん(お六さん)の愛称で地域で親しまれている。 御睦経王大明神の創建年については明らかになっていないが、妙長寺の南側にある別の寺の境内にあった狸の祠を取り払おうとした際に、当時の妙長寺の住職が譲り受けてお祀りしたとする逸話がある。また、かつてこの付近にあった松の木の下に住んでいた狸の頭の名前がお六つで、狸たちの悪行を鎮めるために祀られたとされる説もある。
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妙長寺(みょうちょうじ)は、徳島県徳島市寺町にある日蓮宗の寺院である。本尊は久遠実成本師釈迦牟尼仏。 境内に祀られている「御睦経王大明神」(おむつきょうだいみょうじん)が有名であり、「お睦さん」(お六さん)の愛称で知られている。
{{日本の寺院 |名称 = 妙長寺 |画像 = {{画像募集中|cat=徳島市}} |所在地 = [[徳島県]][[徳島市]][[寺町 (徳島市)|寺町]]105 | 位置 = {{ウィキ座標2段度分秒|34|4|17.3|N|134|32|43.8|E|scale:20000_region:JP-36_type:landmark|display=inline,title}} |山号 = |院号 = |宗派 = [[日蓮宗]] |本尊 = [[久遠実成本師釈迦牟尼仏]] |創建年 = [[1633年]]([[寛永]]9年) |開基 = |正式名 = 妙長寺 |札所等 = 日蓮宗四国七十七ヶ寺 |文化財 = }} '''妙長寺'''(みょうちょうじ)は、[[徳島県]][[徳島市]][[寺町 (徳島市)|寺町]]にある[[日蓮宗]]の[[寺院]]である<ref>{{Cite web|和書|url=https://yaokami.jp/1365062/|title=卍妙長寺|publisher=八百万の神|accessdate=2023-9-11}}</ref>。本尊は[[久遠実成本師釈迦牟尼仏]]。 境内に祀られている「'''御睦経王大明神'''」(おむつきょうだいみょうじん)が有名であり、「お睦さん」(お六さん)の愛称で知られている。 == 歴史 == [[1633年]]([[寛永]]9年)に創建。かつては非常に繁栄した寺院であり、[[大正]]時代には1日に数百人の参拝客でにぎわったとされる<ref>「宗敎と社会生活の諸相」([[1998年]]、[[隆文館]])</ref>。 == 御睦経王大明神 == 境内にある「御睦経王大明神」は[[阿波狸合戦]]に登場するお六という女狸を祀っており、強運勝利の神様として入学試験や資格試験などに御利益があるといわれ、お睦さん(お六さん)の愛称で地域で親しまれている<ref>{{Cite web|和書|url=https://4travel.jp/dm_shisetsu/11350146|title=妙長寺|publisher=フォートラベル|accessdate=2023-9-11}}</ref>。 御睦経王大明神の創建年については明らかになっていないが、妙長寺の南側にある別の寺の境内にあった狸の祠を取り払おうとした際に、当時の妙長寺の住職が譲り受けてお祀りしたとする逸話がある。 また、かつてこの付近にあった松の木の下に住んでいた狸の頭の名前がお六つで、狸たちの悪行を鎮めるために祀られたとされる説もある<ref>{{Cite web|和書|url=https://omairi.club/spots/94994|title=妙長寺|publisher=Omairi|accessdate=2023-9-11}}</ref>。 == 関連項目 == * [[佐藤泰伸]] - 妙長寺住職 * [[阿波狸合戦]] == 交通 == * [[四国旅客鉄道|JR]]「[[徳島駅]]」より徒歩約10分。 * [[徳島自動車道]]「[[徳島インターチェンジ]]」より車で約15分。 == 脚注 == <references /> == 外部リンク == * [https://yaokami.jp/1365062/ 妙長寺] - 八百万の神 {{Buddhism-stub}} {{DEFAULTSORT:みようちようし}} [[Category:徳島市の寺]] [[Category:日蓮宗の寺院]]
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水野桂三
水野 桂三(みずの けいぞう、1897年(明治30年)5月8日 - 1960年(昭和35年)3月28日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功三級。 1897年(明治30年)に東京府で生まれた。陸軍士官学校第30期、陸軍大学校第42期卒業。ソ連駐在を経て、1937年(昭和12年)9月に第18師団参謀(第10軍のち第21軍)に就任し、日中戦争に出動。杭州湾に上陸し、南京攻略戦に参加し、広徳周辺で掃討戦に任じた。ついでバイアス湾に上陸し、広東攻略戦に参加した。1939年(昭和14年)1月19日に陸軍大学校教官に転じ、3月9日に陸軍歩兵大佐に進級した。1941年(昭和16年)3月に陸軍大学校附となり、1943年(昭和18年)8月に陸軍大学校研究部主事に就任した。 1944年(昭和19年)1月に陸軍兵器行政本部附兼陸軍省兵務局附となり、1945年(昭和20年)3月1日に陸軍少将に進級。5月10日に陸軍歩兵学校附を経て、7月1日に東京湾兵団参謀長(第1総軍)に就任し、本土決戦に備えた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "水野 桂三(みずの けいぞう、1897年(明治30年)5月8日 - 1960年(昭和35年)3月28日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功三級。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1897年(明治30年)に東京府で生まれた。陸軍士官学校第30期、陸軍大学校第42期卒業。ソ連駐在を経て、1937年(昭和12年)9月に第18師団参謀(第10軍のち第21軍)に就任し、日中戦争に出動。杭州湾に上陸し、南京攻略戦に参加し、広徳周辺で掃討戦に任じた。ついでバイアス湾に上陸し、広東攻略戦に参加した。1939年(昭和14年)1月19日に陸軍大学校教官に転じ、3月9日に陸軍歩兵大佐に進級した。1941年(昭和16年)3月に陸軍大学校附となり、1943年(昭和18年)8月に陸軍大学校研究部主事に就任した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1944年(昭和19年)1月に陸軍兵器行政本部附兼陸軍省兵務局附となり、1945年(昭和20年)3月1日に陸軍少将に進級。5月10日に陸軍歩兵学校附を経て、7月1日に東京湾兵団参謀長(第1総軍)に就任し、本土決戦に備えた。", "title": "経歴" } ]
水野 桂三は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功三級。
{{基礎情報 軍人 | 氏名 = 水野 桂三 | 各国語表記 = | 生年月日 = [[1897年]][[5月8日]] | 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1897|5|8|1960|3|28}} | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | 渾名 = | 生誕地 = {{JPN}} [[東京府]] | 死没地 = | 所属組織 = {{IJARMY}} | 軍歴 = [[1918年]] - [[1945年]] | 最終階級 = [[File:帝國陸軍の階級―肩章―少将.svg|35px]] [[少将|陸軍少将]] | 除隊後 = | 墓所 = | 署名 = }} '''水野 桂三'''(みずの けいぞう、[[1897年]]([[明治]]30年)[[5月8日]]{{sfn|福川|2001|loc=695頁|ref=shokan}} - [[1960年]]([[昭和]]35年)[[3月28日]]{{sfn|福川|2001|loc=695頁|ref=shokan}})は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。[[金鵄勲章|功三級]]{{sfn|外山|1981|loc=422頁|ref=jinji}}。 == 経歴 == [[1897年]](明治30年)に[[東京府]]で生まれた{{sfn|福川|2001|loc=695頁|ref=shokan}}。[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]第30期、[[陸軍大学校]]第42期卒業{{sfn|福川|2001|loc=695頁|ref=shokan}}。ソ連駐在を経て{{sfn|外山|1981|loc=422頁|ref=jinji}}、[[1937年]](昭和12年)9月に[[第18師団 (日本軍)|第18師団]]参謀([[第10軍 (日本軍)|第10軍]]のち[[第21軍 (日本軍)|第21軍]])に就任し{{sfn|福川|2001|loc=695頁|ref=shokan}}{{sfn|外山|1981|loc=422頁|ref=jinji}}、[[日中戦争]]に出動{{sfn|福川|2001|loc=695頁|ref=shokan}}。[[杭州湾]]に上陸し{{sfn|福川|2001|loc=695頁|ref=shokan}}、[[南京戦|南京攻略戦]]に参加し{{sfn|福川|2001|loc=695頁|ref=shokan}}、[[広徳市|広徳]]周辺で掃討戦に任じた{{sfn|福川|2001|loc=695頁|ref=shokan}}。ついで[[大亜湾|バイアス湾]]に上陸し{{sfn|福川|2001|loc=695頁|ref=shokan}}、[[広東省 (中華民国)|広東]]攻略戦に参加した{{sfn|福川|2001|loc=695頁|ref=shokan}}。[[1939年]](昭和14年)[[1月19日]]に陸軍大学校教官に転じ{{sfn|外山|1981|loc=422頁|ref=jinji}}、[[3月9日]]に[[大佐|陸軍歩兵大佐]]に進級した{{sfn|外山|1981|loc=422頁|ref=jinji}}。[[1941年]](昭和16年)3月に陸軍大学校附となり{{sfn|外山|1981|loc=422頁|ref=jinji}}、[[1943年]](昭和18年)8月に陸軍大学校研究部主事に就任した{{sfn|外山|1981|loc=422頁|ref=jinji}}。 [[1944年]](昭和19年)1月に[[陸軍兵器行政本部]]附兼[[陸軍省#兵務局|陸軍省兵務局]]附となり<ref>{{アジア歴史資料センター|C12120900200|第5号 昭和19年1月11日 陸軍異動通報}}</ref>、[[1945年]](昭和20年)[[3月1日]]に陸軍少将に進級{{sfn|外山|1981|loc=422頁|ref=jinji}}。[[5月10日]]に[[陸軍歩兵学校]]附を経て<ref>{{アジア歴史資料センター|C12120942100|第110号 昭和20年5月11日 陸軍異動通報}}</ref>、[[7月1日]]に[[東京湾兵団]]参謀長([[第1総軍 (日本軍)|第1総軍]])に就任し{{sfn|福川|2001|loc=695頁|ref=shokan}}、[[本土決戦]]に備えた{{sfn|福川|2001|loc=695頁|ref=shokan}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} ==参考文献== * {{Citation|和書|author = 福川秀樹 編著|authorlink = | translator = | title = 日本陸軍将官辞典| publisher = 芙蓉書房出版| series = | volume = | edition = | date = 2001| pages = | url = | doi = | id = | isbn = 4829502738| ncid = |ref = shokan}} * {{Citation|和書|author = 外山操 編|authorlink = | translator = | title = 陸海軍将官人事総覧 陸軍篇| publisher = 芙蓉書房出版| series = | volume = | edition = | date = 1981| pages = | url = | doi = | id = | isbn = 4829500026| ncid = |ref = jinji}} {{DEFAULTSORT:みすの けいそう}} [[Category:大日本帝国陸軍少将]] [[Category:陸軍士官学校 (日本)出身の人物]] [[Category:陸軍大学校出身の人物]] [[Category:陸軍大学校の教員]] [[Category:功三級金鵄勲章受章者]] [[Category:日中戦争の人物]] [[Category:太平洋戦争の人物]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:1897年生]] [[Category:1960年没]]
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2024 WBSC女子野球ワールドカップ A組
2024 WBSC女子ワールドカップ A組(英語:2024 WBSC Women's Baseball World Cup Group A Thunder Bay 2023)は、世界野球ソフトボール連盟(WBSC)が主催する、16歳以上の各国代表女子選手による野球の国際大会「WBSC女子野球ワールドカップ」の第9回大会のオープニングラウンド(グループA)である。2023年8月8日から8月13日までの期間、カナダ・サンダーベイで開催された。 WBSC主催大会の日程変更がなされ、今回の女子ワールドカップはグループラウンドと決勝ラウンドの日程も分けられた。 オーストラリア(BCO)、韓国(BFA)、香港、アメリカ合衆国(COPABE)、カナダ(H)、メキシコの6ヵ国・地域が参加。 カナダ・サンダーベイ、東部夏時間(EDT、UTC−4) 上位3チームが決勝ラウンドに進出。
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2024 WBSC女子ワールドカップ A組は、世界野球ソフトボール連盟(WBSC)が主催する、16歳以上の各国代表女子選手による野球の国際大会「WBSC女子野球ワールドカップ」の第9回大会のオープニングラウンド(グループA)である。2023年8月8日から8月13日までの期間、カナダ・サンダーベイで開催された。
{{Infobox international baseball tournament | 大会名 = Ⅸ 2024 WBSC Women's Baseball World Cup Group A Thunder Bay 2023 | 画像 = | サイズ = | 開催都市 = | 開催国 = CAN | 開催国2 = | 日程 = 2023年8月8日 - 8月13日 | チーム数 = 6 | 連盟数 = 3 | 球場数 = 2 | 前回優勝 = | 前回開催年 = | medal_type = | 優勝 = | 優勝回数 = | 準優勝 = | 3位 = | 4位 = | 試合数 = 15 | 観客数 = 4841 | 最優秀選手 = '''Most Outstanding Player''' <br>{{flagicon|USA}} Hugo, Alexander Renee }} '''2024 WBSC女子野球ワールドカップ A組'''([[英語]]: ''2024 WBSC Women's Baseball World Cup Group A Thunder Bay 2023'')は、[[世界野球ソフトボール連盟]](WBSC)が主催する、16歳以上の各国代表女子選手による[[野球]]の国際大会「[[WBSC女子野球ワールドカップ]]」の[[2024 WBSC女子野球ワールドカップ|第9回大会]]のオープニングラウンド(グループA)である。2023年8月8日から8月13日までの期間、[[カナダ]]・[[サンダーベイ (オンタリオ州)|サンダーベイ]]で開催された。 == 概要 == WBSC主催大会の日程変更がなされ、今回の女子野球ワールドカップはグループラウンドと決勝ラウンドの日程も分けられた<ref>[https://www.wbsc.org/ja/events/2024-ix-womens-baseball-world-cup-finals/news/wbsc-reveals-2021-2029-calendar-for-youth-womens-baseball-world-cups-and-format-change WBSCが2021年から2029年までのユース・女子野球ワールドカップ日程を発表 大会形式] 2021年2月26日 WBSC公式サイト</ref>。 == 出場チーム == オーストラリア([[オセアニア野球連盟|BCO]])、韓国([[アジア野球連盟|BFA]])、香港、[[野球アメリカ合衆国女子代表|アメリカ合衆国]]([[アメリカ大陸野球連盟|COPABE]])、カナダ('''H''')、メキシコの6ヵ国・地域が参加。 == 結果 == カナダ・サンダーベイ、[[東部夏時間]](EDT、[[UTC−4]]) === 8日 === ; GAME 1 {{Baseballbox |date = 11:31 |time = 3:01 |team1 = '''香港 {{flagicon|HKG}} |score = 9 - 8 |boxurl = https://www.wbsc.org/en/events/2023-ix-womens-baseball-world-cup-group-a/schedule-and-results/box-score/122060 |team2 = {{Flagicon|KOR}} 韓国<!-- home --> |stadium = Baseball Central |attendance = 100 }} {{Linescore|style=margin-bottom: 1em; margin-left: 2em |Road={{Flagicon|HKG}} 香港 |RoadAbr={{Flagicon|HKG}} |Home={{Flagicon|KOR}} 韓国 |HomeAbr={{Flagicon|KOR}} |R1=2|R2=0|R3=1|R4=2|R5=0|R6=0|R7=4|RR=9|RH=9|RE=1 |H1=1|H2=3|H3=1|H4=2|H5=0|H6=0|H7=1|HR=8|HH=4|HE=6 |RSP=H.Lau, Y.Kwong, Y.Hung - J.Lau, C,Lui |HSP=M.Park, B.Kim, J.Lee - M.Choi, Y.Kim |WP=Y.Hung|LP=J.Lee|SV= |RoadHR= |HomeHR= }} ---- ; GAME 2 {{Baseballbox |date = 15:30 |time = 2:08 |team1 = オーストラリア {{Flagicon|AUS}} |score = 2 - 3 |boxurl = https://www.wbsc.org/ja/events/2023-ix-womens-baseball-world-cup-group-a/schedule-and-results/box-score/122061 |team2 = {{Flagicon|USA}} アメリカ合衆国<!-- home --> |stadium = Baseball Central |attendance = 250 }} {{Linescore|style=margin-bottom: 1em; margin-left: 2em |Road={{Flagicon|AUS}} オーストラリア |RoadAbr={{Flagicon|AUS}} |Home={{Flagicon|USA}} アメリカ |HomeAbr={{Flagicon|USA}} |R1=0|R2=0|R3=0|R4=0|R5=0|R6=2|R7=0|RR=2|RH=6|RE=1 |H1=0|H2=0|H3=2|H4=0|H5=1|H6=0|H7=X|HR=3|HH=3|HE=3 |RSP=[[:en:Genevieve Beacom|C.Beacom]], A.Steane - M.Heath |HSP=E.Berger, C.Eckert, M.Meidlinger - D.Benites |WP=R.Berger|LP=C.Beacom|SV=M.Meidlinger |RoadHR= |HomeHR= }} ---- ; GAME 3 {{Baseballbox |date = 19:32 |time = 2:00 |team1 = メキシコ {{Flagicon|MEX}} |score = 1 - 9 |boxurl = https://www.wbsc.org/ja/events/2023-ix-womens-baseball-world-cup-group-a/schedule-and-results/box-score/122062 |team2 = '''{{Flagicon|CAN}} カナダ<!-- home --> |stadium = Baseball Central |attendance = 255 }} {{Linescore|style=margin-bottom: 1em; margin-left: 2em |Road={{Flagicon|MEX}} メキシコ |RoadAbr={{Flagicon|MEX}} メキシコ |Home={{Flagicon|CAN}} カナダ |HomeAbr={{Flagicon|CAN}} カナダ |R1=0|R2=0|R3=0|R4=1|R5=0|R6=0|R7=0|RR=1|RH=4|RE=3 |H1=1|H2=0|H3=1|H4=6|H5=0|H6=1|H7=X|HR=9|HH=10|HE=2 |RSP= |HSP= |WP=R.Berger|LP=Del Castillo Alarcon|SV= |RoadHR=|HomeHR= }} ---- === 9日 === ; GAME 4 {{Baseballbox |date = 11:31 |time = 1:54 |team1 = '''アメリカ合衆国 {{Flagicon|USA}} |score = 14 - 0 |boxurl = https://www.wbsc.org/ja/events/2023-ix-womens-baseball-world-cup-group-a/schedule-and-results/box-score/122063 |team2 = {{Flagicon|KOR}} 韓国<!-- home --> |stadium = Baseball Central |attendance = }} {{Linescore|style=margin-bottom: 1em; margin-left: 2em |Road={{Flagicon|USA}} アメリカ |RoadAbr={{Flagicon|USA}} |Home={{Flagicon|KOR}} 韓国 |HomeAbr={{Flagicon|KOR}} |R1=5|R2=1|R3=1|R4=4|R5=3|RR=14|RH=13|RE=0 |H1=0|H2=0|H3=0|H4=0|H5=0|HR=0|HH=3|HE=2 |RSP=J.Baum, C.Eckert, O.Pichardo - D.Benites |HSP=S.Ono, N.Kim, M.Kwak, Y.Lee - Y.Kim |WP=J.Baum|LP=S.Ono|SV= |RoadHR=A.Lansdell|HomeHR= }} ---- ; GAME 5 {{Baseballbox |date = 15:31 |time = 2:53 |team1 = '''メキシコ {{Flagicon|MEX}} |score = 16 - 8 |boxurl = https://www.wbsc.org/ja/events/2023-ix-womens-baseball-world-cup-group-a/schedule-and-results/box-score/122064 |team2 = {{Flagicon|AUS}} オーストラリア<!-- home --> |stadium = Baseball Central |attendance = 200 }} {{Linescore|style=margin-bottom: 1em; margin-left: 2em |Road={{Flagicon|MEX}} メキシコ |RoadAbr={{Flagicon|MEX}} |Home={{Flagicon|AUS}} オーストラリア |HomeAbr={{Flagicon|AUS}} |R1=0|R2=0|R3=5|R4=1|R5=2|R6=0|R7=0|R8=8|RR=16|RH=9|RE=2 |H1=2|H2=0|H3=3|H4=0|H5=0|H6=0|H7=3|H8=0|HR=8|HH=8|HE=5 |RSP=Palma Fuerrero, Valerio Montoya, Aguillera Reyes - Diaz Alfaro |HSP=A.Kelly, M.Tabrett, M.Doty, M.Haggart, M.Erwin - C.Moore |WP=Aguillera Reyes|LP=M.Doty|SV= |RoadHR=Ibarra Muñoz|HomeHR= }} ---- ; GAME 6 {{Baseballbox |date = 19:27 |time = 2:07 |team1 = '''カナダ {{Flagicon|CAN}} |score = 22 - 3 |boxurl = https://www.wbsc.org/ja/events/2023-ix-womens-baseball-world-cup-group-a/schedule-and-results/box-score/122065 |team2 = {{Flagicon|HKG}} 香港<!-- home --> |stadium = Baseball Central |attendance = 410 }} {{Linescore|style=margin-bottom: 1em; margin-left: 2em |Road={{Flagicon|CAN}} カナダ |RoadAbr={{Flagicon|CAN}} |Home={{Flagicon|HKG}} 香港 |HomeAbr={{Flagicon|HKG}} |R1=2|R2=5|R3=3|R4=6|R5=6|RR=22|RH=16|RE=1 |H1=0|H2=0|H3=3|H4=0|H5=0|HR=3|HH=2|HE=3 |RSP=J.Konigshofer, A.Johnson - K.Ross |HSP=D.Mak, S.Choi, L.Chan, W.Lam - C.Lui |WP=J.Konigshofer|LP=D.Mak|SV=A.Johnson |RoadHR=|HomeHR= }} ---- === 10日 === ; GAME 7 {{Baseballbox |date =12:48 |time =2:03 |team1 =韓国 {{Flagicon|KOR}} 韓国 |score =3 - 10 |boxurl =https://www.wbsc.org/ja/events/2023-ix-womens-baseball-world-cup-group-a/schedule-and-results/box-score/122066 |team2 = '''{{Flagicon|AUS}} オーストラリア<!-- home --> |stadium = [[:en:Port Arthur Stadium|Port Arthur Stadium]] |attendance = 124 }} {{Linescore|style=margin-bottom: 1em; margin-left: 2em |Road={{Flagicon|KOR}} 韓国 |RoadAbr={{Flagicon|KOR}} |Home={{Flagicon|AUS}} オーストラリア |HomeAbr={{Flagicon|AUS}} |R1=0|R2=1|R3=0|R4=0|R5=0|R6=0|R7=2|RR=3|RH=5|RE=6 |H1=2|H2=3|H3=0|H4=1|H5=2|H6=2|H7=X|HR=10|HH=9|HE=2 |RSP=S.Choi, J.Lee, N.Kim, M.Kwak - M.Choi, Y.Kim |HSP=C.O'sullivan, L.Cornish, A.Patton - M.Heath |WP=C.O'sullivan|LP=S.Choi|SV= |RoadHR=|HomeHR=T.Geldenhuis }} ---- ; GAME 8 {{Baseballbox |date=16:31 |time=2:07 |team1 = 香港 {{flagicon|HKG}} |score =6 - 16 |boxurl =https://www.wbsc.org/ja/events/2023-ix-womens-baseball-world-cup-group-a/schedule-and-results/box-score/122067 |team2 = '''{{Flagicon|MEX}} メキシコ<!-- home --> |stadium = Port Arthur Stadium |attendance = 145 }} {{Linescore|style=margin-bottom: 1em; margin-left: 2em |Road={{Flagicon|HKG}} 香港 |RoadAbr={{Flagicon|HKG}} |Home={{Flagicon|MEX}} メキシコ |HomeAbr={{Flagicon|MEX}} |R1=0|R2=6|R3=0|R4=0|R5=0|RR=6|RH=5|RE=3 |H1=3|H2=6|H3=0|H4=3|H5=4|HR=16|HH=9|HE=0 |RSP=H.Lau, Y.Kwong, Y.Hung. D.Mak - J.Lau, C.Lui |HSP=Andrade Alcala, Mejia Limon - Diaz Alfaro |WP=Mejia Limon|LP=H.Lau|SV= |RoadHR=|HomeHR=Perez Velazqiez }} ---- ; GAME 9 {{Baseballbox |date=20:30 |time=1:54 |team1 = '''アメリカ合衆国 {{Flagicon|USA}} |score = 23 - 0 |boxurl =https://www.wbsc.org/ja/events/2023-ix-womens-baseball-world-cup-group-a/schedule-and-results/box-score/122068 |team2 = {{Flagicon|CAN}} カナダ<!-- home --> |stadium = Port Arthur Stadium |attendance = 2,000 }} {{Linescore|style=margin-bottom: 1em; margin-left: 2em |Road={{Flagicon|USA}} アメリカ |RoadAbr={{Flagicon|USA}} |Home={{Flagicon|CAN}} カナダ |HomeAbr={{Flagicon|CAN}} |R1=1|R2=2|R3=0|R4=10|R5=10|RR=23|RH=15|RE=1 |H1=0|H2=0|H3=0|H4=0|H5=0|HR=0|HH=0|HE=3 |RSP=J.Albayati - D.Benites, E.Greenwood |HSP=M.Florio, J.LEE, A.Fournier, A.Johnson, E.Baxter - L.Anctil |WP=J.Albayati|LP=M.Florio|SV= |RoadHR=[[:en:Kelsie Whitmore|K.Whitmore]], O.Pichardo|HomeHR= }} ---- === 12日 === ; GAME 13 {{Baseballbox |date=11:31 |time=2:00 |team1 = 香港 {{flagicon|HKG}} |score = 0 - 29 |boxurl=https://www.wbsc.org/ja/events/2023-ix-womens-baseball-world-cup-group-a/schedule-and-results/box-score/122072 |team2 ='''{{Flagicon|USA}} アメリカ合衆国<!-- home --> |stadium = Port Arthur Stadium |attendance = 100 }} {{Linescore|style=margin-bottom: 1em; margin-left: 2em |Road={{Flagicon|HKG}} 香港 |RoadAbr={{Flagicon|HKG}} |Home={{Flagicon|USA}} アメリカ |HomeAbr={{Flagicon|USA}} |R1=0|R2=0|R3=0|R4=0|R5=0|RR=0|RH=0|RE=6 |H1=20|H2=2|H3=0|H4=7|H5=X|HR=29|HH=15|HE=0 |RSP=W.Lam, L.Chan, D.Mak - C.Lui, J.Lai |HSP=K.Whitmore, R.Schaber, N.Ryan |WP=K.Whitmore|LP=W.Lam|SV= |RoadHR=|HomeHR=A.Hugo, J.Baum }} ---- ; GAME 14 {{Baseballbox |date=15:31 |time=1:47 |team1 = 韓国 {{Flagicon|KOR}} |score = 0 - 10 |boxurl=https://www.wbsc.org/ja/events/2023-ix-womens-baseball-world-cup-group-a/schedule-and-results/box-score/122073 |team2 = '''{{Flagicon|MEX}} メキシコ<!-- home --> |stadium = Port Arthur Stadium |attendance = 135 }} {{Linescore|style=margin-bottom: 1em; margin-left: 2em |Road={{Flagicon|KOR}} 韓国 |RoadAbr={{Flagicon|KOR}} |Home={{Flagicon|MEX}} メキシコ |HomeAbr={{Flagicon|MEX}} |R1=0|R2=0|R3=0|R4=0|R5=0|R6=0|RR=0|RH=3|RE=5 |H1=3|H2=1|H3=4|H4=0|H5=0|H6=2|HR=10|HH=11|HE=2 |RSP=M.Park, S.Choi, Y.Lee - Y.Kim, M.Choi |HSP=Del Castiolo Alarcon - Diaz Alfaro |WP=Del Castiolo Alarcon|LP=M.Park|SV= |RoadHR=|HomeHR= }} ---- ; GAME 15 {{Baseballbox |date=19:30 |time=2:59 |team1 = '''カナダ {{Flagicon|CAN}} |score = 11 - 7 |boxurl=https://www.wbsc.org/ja/events/2023-ix-womens-baseball-world-cup-group-a/schedule-and-results/box-score/122074 |team2 = {{Flagicon|AUS}} オーストラリア<!-- home --> |stadium = Port Arthur Stadium |attendance = 458 }} {{Linescore|style=margin-bottom: 1em; margin-left: 2em |Road={{Flagicon|CAN}} カナダ |RoadAbr={{Flagicon|CAN}} |Home={{Flagicon|AUS}} オーストラリア |HomeAbr={{Flagicon|AUS}} |R1=0|R2=0|R3=4|R4=0|R5=0|R6=3|R7=4|RR=11|RH=10|RE=1 |H1=0|H2=0|H3=2|H4=0|H5=5|H6=0|H7=0|HR=7|HH=9|HE=3 |RSP=A.Schroder, R.Padgham - K.Ross |HSP=G.Beacome, A.Steane, C.O'sullivan, L.Cornish, M.Doty, J.Richerdson - M.Heath, C.Moore |WP=R.Padgham|LP=M.Doty|SV= |RoadHR=|HomeHR= }} ---- === 13日 === ; GAME 11 {{Baseballbox |date=11:30 |time=1:53 |team1 = メキシコ {{Flagicon|MEX}} |score = 0 - 2 |boxurl=https://www.wbsc.org/ja/events/2023-ix-womens-baseball-world-cup-group-a/schedule-and-results/box-score/122070 |team2 = '''{{Flagicon|USA}} アメリカ合衆国<!-- home --> |stadium = Port Arthur Stadium |attendance = 98 }} {{Linescore|style=margin-bottom: 1em; margin-left: 2em |Road={{Flagicon|MEX}} メキシコ |RoadAbr={{Flagicon|MEX}} |Home={{Flagicon|USA}} アメリカ合衆国 |HomeAbr={{Flagicon|USA}} |R1=0|R2=0|R3=0|R4=0|R5=0|R6=0|R7=0|RR=0|RH=1|RE=1 |H1=1|H2=0|H3=1|H4=0|H5=0|H6=0|H7=X|HR=2|HH=5|HE=0 |RSP=Palma Guerrero, Valerio Montoya - Diaz Alfaro |HSP=E.Berger, C.Eckert, O.Pichardo, M.Meidlinger |WP=E.Berger|LP=Palma Guerrero|SV=M.Meidlinger |RoadHR=|HomeHR= }} ---- ; GAME 10 {{Baseballbox |date=15:30 |time=2:09 |team1 = '''オーストラリア {{Flagicon|AUS}} |score = 9 - 2 |boxurl=https://www.wbsc.org/ja/events/2023-ix-womens-baseball-world-cup-group-a/schedule-and-results/box-score/122069 |team2 = {{Flagicon|HKG}} 香港<!-- home --> |stadium = Port Arthur Stadium |attendance = 116 }} {{Linescore|style=margin-bottom: 1em; margin-left: 2em |Road={{Flagicon|AUS}} オーストラリア |RoadAbr={{Flagicon|AUS}} |Home={{Flagicon|HKG}} 香港 |HomeAbr={{Flagicon|HKG}} |R1=0|R2=0|R3=0|R4=0|R5=3|R6=0|R7=6|RR=9|RH=10|RE=3 |H1=0|H2=0|H3=2|H4=0|H5=0|H6=0|H7=0|HR=2|HH=3|HE=6 |RSP=M.Erwin, M.Tabrett, A.Patton - C.Moore |HSP=Y.Kwong, Y.Hung, H.Lau, S.Choi - J.Lau, C.Lui |WP=M.Tabrett|LP=Y.Kwong|SV= |RoadHR=|HomeHR= }} ---- ; GAME 12 {{Baseballbox |date=19:30 |time=1:36 |team1 = 韓国 {{Flagicon|KOR}} |score = 0 - 10 |boxurl=https://www.wbsc.org/ja/events/2023-ix-womens-baseball-world-cup-group-a/schedule-and-results/box-score/122071 |team2 = '''{{Flagicon|CAN}} カナダ<!-- home --> |stadium = Port Arthur Stadium |attendance = 300 }} {{Linescore|style=margin-bottom: 1em; margin-left: 2em |Road={{Flagicon|KOR}} 韓国 |RoadAbr={{Flagicon|KOR}} |Home={{Flagicon|CAN}} カナダ |HomeAbr={{Flagicon|CAN}} |R1=0|R2=0|R3=0|R4=0|R5=0|RR=0|RH=1|RE=1 |H1=0|H2=2|H3=2|H4=5|H5=1|HR=10|HH=11|HE=1 |RSP=B.Kim, M.Kwak, J.LEE - M.Choi |HSP=S.Pengelly - L.Anctil |WP=S.Pengelly|LP=B.Kim|SV= |RoadHR=|HomeHR=J.Konigshofer }} == グループ順位 == 上位3チームが決勝ラウンドに進出。 : {| class="wikitable" style="text-align: center;" !順位!!国・地域!!勝数!!敗数!!勝率 |- |style="background-color: #cfc;"|1 | style="text-align: left" |{{Flagicon|USA}} '''アメリカ合衆国''' |5||0||1.000 |- |style="background-color: #cfc;"|2 | style="text-align: left" |{{Flagicon|CAN}} '''カナダ''' |4||1||.800 |- |style="background-color: #cfc;"|3 | style="text-align: left" |{{Flagicon|MEX}} '''メキシコ''' |3||2||.600 |- |4 | style="text-align: left" |{{Flagicon|AUS}} オーストラリア |2||3||.400 |- |5 | style="text-align: left" |{{Flagicon|HKG}} 香港 |1||4||.200 |- |6 | style="text-align: left" |{{Flagicon|KOR}} 韓国 |0||5||.000 |} == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://www.wbsc.org/ja/events/2023-ix-womens-baseball-world-cup-group-a/home 2024 WBSC Women's Baseball World Cup Group A Thunder Bay 2023] - World Baseball Softball Confederation * [https://static.wbsc.org/uploads/federations/0/documents/46c3719a-f199-3cb9-46d2-8838c51928c6.pdf Daily Report #1 - 8/8] * [https://static.wbsc.org/uploads/federations/0/documents/36d191b8-3564-5969-4820-7803ada54090.pdf Daily Report #2 - 8/9] * [https://static.wbsc.org/uploads/federations/0/documents/18aeeeec-4299-073d-9501-da73b9b1f3d0.pdf Daily Report #3 - 8/10] * [https://static.wbsc.org/uploads/federations/0/documents/5e28dda7-bbd9-d11b-0689-8fedab94a843.pdf Daily Report #5 - 8/12] {{WBSC女子野球ワールドカップ}} {{DEFAULTSORT:WBSCしよしやきゆうわあるとかつふ2024 Aくみ}} [[Category:WBSC女子野球ワールドカップ|2024 Aくみ]] [[Category:2023年の野球]] [[Category:カナダ開催の国際野球大会]] [[Category:2023年のカナダのスポーツ]] [[Category:オンタリオ州のスポーツ競技大会]] [[Category:2023年8月]]
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平瀨照成
平瀨 照成(ひらせ てるなり/てるしげ)は、江戸時代中期ごろの武士で、阿波徳島藩蜂須賀家に仕えた。阿波平瀨家の五代目当主で、本姓は源。 照成は、阿波前野氏の浪人である前野大右衛門且親の嫡男に生まれた。初名は大作とされ、父の通称である大右衛門、兄の初名である大蔵に共通する「大」の通字を用いた。後に繁助と改めた。 宝暦9年(1759年)6月23日、嗣子のいなかった平瀨所兵衛有影の婿養嗣子となり、平瀨繁助照成と称した。平瀨氏は源姓を称していた。 明和7年(1770年)正月22日、養父有影が病死すると、同年4月3日には有影の家督を継承する旨に相違ないことを下し置かれ、西岡兵馬組に入れられた。 安永8年(1779年)3月19日、留守中に城山の番を仰せ付けられる。また、同9年(1780年)3月4日には大谷御屋敷の作事奉行も加えて仰せ付けられる。 天明元年(1781年)5月8日、病気につき役儀を免ずるよう願い、同月13日には長江縫殿組に入れられた。同4年(1784年)12月14日、江戸まで付き従うよう仰せ付けられた。 同5年(1785年)6月28日には乗船し、道中では道具の政務を取り仕切った。7月23日には広間の番を仰せ付けられた。翌年の帰国道中も道具の政務を取り仕切った。 同7年(1787年)には他国の使者を饗応し、5月8日には巡見使の饗応もつとめた。しかし同8年(1788年)8月8日に不心得なことがあって不届きとされ、知行70石を召し上げられたうえに、残高230石余りと家屋敷ともに嫡子の角右衛門英長に下し置かれた。 その後、文化3年(1806年)9月3日に病死した。
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平瀨 照成は、江戸時代中期ごろの武士で、阿波徳島藩蜂須賀家に仕えた。阿波平瀨家の五代目当主で、本姓は源。
{{基礎情報 武士 | 氏名 = 平瀨 照成 / 平瀨 孤昌 | 画像 = <!-- 画像ファイル名 --> | 画像サイズ = | 画像説明 = <!-- 画像の説明文 --> | 時代 = [[江戸時代]]中期 | 生誕 = 不詳 | 死没 = [[文化 (元号)|文化]]3年([[1806年]])[[9月3日 (旧暦)|9月3日]] | 改名 = 前野大作→前野繁助→平瀨繁助 | 別名 = 通称:繁助、初名:大作<br/>別名:孤昌 | 諡号 = | 神号 = | 戒名 = | 霊名 = | 墓所 = | 官位 = | 幕府 = [[江戸幕府]] | 主君 = [[蜂須賀氏|蜂須賀家]]・ | 藩 = [[阿波国|阿波]][[徳島藩]] | 氏族 = [[阿波前野氏]]→[[平瀨氏]]の養子となる | 父母 = 父:[[前野且親]]、母:不詳<br/>養父:[[平瀨有影]] | 兄弟 = [[井後義長]]、'''平瀨照成''' | 妻 = 養父有影娘 | 子 = [[根津信清]]室、'''[[平瀨英長]]'''、[[井後義方]]、他女子2人 | 特記事項 = | 花押 = }} '''平瀨 照成'''(ひらせ てるなり/てるしげ)は、江戸時代中期ごろの武士で、[[阿波国|阿波]][[徳島藩]][[蜂須賀氏|蜂須賀家]]に仕えた。阿波[[平瀬氏|平瀨家]]の五代目当主で、本姓は[[源氏|源]]<ref name="A">徳島大学附属図書館蔵『蜂須賀家家臣成立書并系図』</ref>。 == 生涯 == 照成は、[[阿波前野氏]]の[[浪人]]である[[前野且親|前野大右衛門且親]]の嫡男に生まれた<ref name="A"></ref>。初名は'''大作'''とされ、父の通称である大右衛門、兄の初名である大蔵に共通する「大」の通字を用いた<ref name="A"></ref>。後に'''繁助'''と改めた<ref name="A"></ref>。 [[宝暦]]9年([[1759年]])[[6月23日 (旧暦)|6月23日]]、嗣子のいなかった[[平瀨有影|平瀨所兵衛有影]]の婿養嗣子となり、'''平瀨繁助照成'''と称した<ref name="A"></ref>。[[平瀨氏]]は[[源氏|源姓]]を称していた<ref name="A"></ref>。 [[明和]]7年([[1770年]])[[1月22日 (旧暦)|正月22日]]、養父有影が病死すると、同年4月3日には有影の家督を継承する旨に相違ないことを下し置かれ、[[西岡兵馬]]組に入れられた<ref name="A"></ref>。 [[安永]]8年([[1779年]])[[3月19日 (旧暦)|3月19日]]、留守中に城山の番を仰せ付けられる<ref name="A"></ref>。また、同9年([[1780年]])[[3月4日 (旧暦)|3月4日]]には[[大谷御屋敷]]の[[作事奉行]]も加えて仰せ付けられる<ref name="A"></ref>。 [[天明]]元年([[1781年]])[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]、病気につき役儀を免ずるよう願い、同月13日には[[長江縫殿]]組に入れられた<ref name="A"></ref>。同4年([[1784年]])[[12月14日 (旧暦)|12月14日]]、江戸まで付き従うよう仰せ付けられた<ref name="A"></ref>。 同5年([[1785年]])[[6月28日 (旧暦)|6月28日]]には乗船し、道中では道具の政務を取り仕切った<ref name="A"></ref>。[[7月23日 (旧暦)|7月23日]]には広間の番を仰せ付けられた<ref name="A"></ref>。翌年の帰国道中も道具の政務を取り仕切った<ref name="A"></ref>。 同7年([[1787年]])には他国の使者を[[饗応]]し、5月8日には[[巡見使]]の饗応もつとめた<ref name="A"></ref>。しかし同8年([[1788年]])[[8月8日 (旧暦)|8月8日]]に不心得なことがあって不届きとされ、知行70石を召し上げられたうえに、残高230石余りと家屋敷ともに嫡子の[[平瀨英長|角右衛門英長]]に下し置かれた<ref name="A"></ref>。 その後、[[文化 (元号)|文化]]3年([[1806年]])[[9月3日 (旧暦)|9月3日]]に病死した<ref name="A"></ref>。 == 系譜 == * 祖父:[[前野且辰|前野角兵衛且辰]] * 実父:[[前野且親|前野大右衛門且親]] * 養父:[[平瀨有影|平瀨所兵衛有影]] * 妻:養父有影娘 ** 女子:[[根津信清|根津熊之助信清]]室 ** 女子:出奔別離 ** 男子:[[平瀨英長|平瀨角右衛門英長]](平瀨貞之助英昌) ** 女子:言及なし ** 男子:[[井後義方|井後直右衛門義方]](平瀨武蔵、実兄[[井後義長|井後恵三太義長]]養嗣子) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{先代次代|[[阿波国|阿波]][[平瀨氏|平瀨家]]|五代目当主|[[平瀨有影]]|[[平瀨英長]]}} {{DEFAULTSORT:ひらせ てるなり}} [[Category:平瀨氏|てるなり]] [[Category:江戸時代の武士]] [[Category:徳島藩士]] [[Category:阿波国の人物]] [[Category:1806年没]]
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篠原神社 (徳島市)
篠原神社(しのはらじんじゃ)は、徳島県徳島市春日に鎮座する神社である。かつての今切城址であり、「篠原さん」の愛称で親しまれている。 創建年は不詳。かつてこの場所に本丸があった今切城の城主・篠原長秀が1577年(天正5年)に亡くなり、死後に創建されたと伝わる。また隣接している真観寺に今切城の書院址があった。 祭神に今切城主の篠原長秀を祀っているほか、大雀命・素戔嗚命も同時に祀られている。
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篠原神社(しのはらじんじゃ)は、徳島県徳島市春日に鎮座する神社である。かつての今切城址であり、「篠原さん」の愛称で親しまれている。
{{神社 |名称= 篠原神社 |画像= [[ファイル:Shinohara shrine.jpg|300px]] |所在地= [[徳島県]][[徳島市]][[春日 (徳島市)|春日]]2丁目5-10 |祭神= [[篠原長秀|篠原玄蕃]]<br />[[大雀命]]<br />[[素戔嗚命]] |社格= |創建= 不詳 |本殿= |別名= 篠原さん |例祭= |神事= }} '''篠原神社'''(しのはらじんじゃ)は、[[徳島県]][[徳島市]][[春日 (徳島市)|春日]]に鎮座する[[神社]]である<ref>{{Cite web|和書|url=https://yaokami.jp/1360016/|title=篠原神社|publisher=卍八百万の神|accessdate=2023-9-11}}</ref>。かつての[[今切城]]址であり、「篠原さん」の愛称で親しまれている。 == 歴史 == 創建年は不詳。かつてこの場所に本丸があった[[今切城]]の城主・[[篠原長秀]]が[[1577年]]([[天正]]5年)に亡くなり、死後に創建されたと伝わる。また隣接している[[真観寺 (徳島市)|真観寺]]に今切城の書院址があった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.siromegu.com/castle/tokusima/imagire/imagire.htm|title=今切城跡|publisher=城めぐドットコム|accessdate=2023-9-11}}</ref>。 祭神に今切城主の篠原長秀を祀っているほか、[[大雀命]]・[[素戔嗚命]]も同時に祀られている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jinja-net.jp/jinja-all/jsearch3all.php?jinjya=24049|title=篠原神社|publisher=新全国神社検索|accessdate=2023-9-11}}</ref>。 == 祭神 == * [[篠原長秀|篠原玄蕃]] * [[大雀命]] * [[素戔嗚命]] == 交通 == * [[徳島自動車道]]「[[徳島インターチェンジ]]」より車で約10分。 * [[四国旅客鉄道|JR]]「[[徳島駅]]」より車で約5分。 == 脚注 == <references /> == 外部リンク == * [https://yaokami.jp/1360016/ 篠原神社] - 八百万の神 {{shinto-stub}} {{DEFAULTSORT:しのはらしんしや}} [[category:徳島市の神社]]
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心穿孔
心穿孔(読み方:しんせんこう、心室中隔穿孔とも。英語 heart perforation ICD10: I212)とは心臓における右室と左室を分ける筋肉(壁)に穴が開く状態である。 右室と左室に血液の通り道ができるため心機能が低下し、心不全のような症状が出る場合がある。死亡率は20-50%と非常に高く、自然予後は死亡率80%と早急の治療が必要となる疾患である。 先天性心疾患として見られることがあるが、後天性要因として心筋梗塞により血液の循環が滞り壊死することにより穴が開くことがある。 心筋梗塞を発症すると2%の確率で心穿孔になるとされている。心筋梗塞には合併症が多いため治療が難航することがある。 胸痛後に呼吸困難が続く場合心穿孔が疑われる。聴診で心雑音が確認でき、心臓超音波検査で心室中隔(右室と左室を分ける筋肉)からの血流がみられる。心臓カテーテル検査で穴の大きさや血流を確認する場合がある。 基本的には緊急手術で穴をふさぐ手術を行う。人工心肺装置(CPB)を使用し心臓を止めてから治療を行う。治療には開胸を行うため感染症等のリスクがある。さらに心筋梗塞による心穿孔にはほかの部位でもダメージがあるため早急の治療が大切となっていく。
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心穿孔とは心臓における右室と左室を分ける筋肉(壁)に穴が開く状態である。 右室と左室に血液の通り道ができるため心機能が低下し、心不全のような症状が出る場合がある。死亡率は20-50%と非常に高く、自然予後は死亡率80%と早急の治療が必要となる疾患である。
{{単一の出典|date=2023年9月}} '''心穿孔'''(読み方:しんせんこう、心室中隔穿孔とも。英語 ''heart perforation'' ICD10: I212)とは[[心臓]]における[[右心室|右室]]と[[左心室|左室]]を分ける筋肉(壁)に穴が開く状態である。 右室と左室に血液の通り道ができるため心機能が低下し、[[心不全]]のような症状が出る場合がある。死亡率は20-50%と非常に高く、自然予後は死亡率80%と早急の治療が必要となる疾患である。 == 原因 == [[先天性心疾患]]として見られることがあるが、後天性要因として[[心筋梗塞]]により血液の循環が滞り壊死することにより穴が開くことがある。 心筋梗塞を発症すると2%の確率で心穿孔になるとされている。心筋梗塞には[[合併症]]が多いため治療が難航することがある。 == 診断 == 胸痛後に呼吸困難が続く場合心穿孔が疑われる。聴診で[[心雑音]]が確認でき、[[心臓超音波検査]]で[[心室中隔]](右室と左室を分ける筋肉)からの血流がみられる。[[心臓カテーテル検査]]で穴の大きさや血流を確認する場合がある。 == 治療 == 基本的には緊急手術で穴をふさぐ手術を行う。[[人工心肺装置|人工心肺装置(CPB)]]を使用し心臓を止めてから治療を行う。治療には[[開胸術|開胸]]を行うため[[感染症|感染症等]]のリスクがある。さらに心筋梗塞による心穿孔にはほかの部位でもダメージがあるため早急の治療が大切となっていく。 == 出典 == {{参照方法|date=2023年9月|section=1}} * [https://www.tokushukai.or.jp/treatment/heart/shinnshitsu_chukakusenkou.php 徳洲会心臓血管外科の病気心室中隔穿孔] * [[心筋梗塞]] * [[心破裂]] * [[外傷]] * [[心臓血管外科学]] {{心血管疾患}}{{DEFAULTSORT:しんせんこう}} [[Category:循環器病]] [[Category:外傷]] [[Category:心臓外科学]]
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タガソデソウ
タガソデソウ(誰袖草、学名:Cerastium pauciflorum var. amurense)は、ナデシコ科ミミナグサ属の多年草。 根茎は細長く、地中を横走してまばらに分岐する。茎は直立するか斜上して高さ30-50cmになり、上部はまばらに分枝し、短毛と腺毛が生える。葉は対生し、葉身は披針形から卵状披針形で、長さ4-9cm、幅1-2cmになり、先端は鋭突頭、基部に葉柄は無い。茎の基部の葉はへら形になる。葉の両面に伏毛が生え、葉縁に毛が生える。 花期は5-6月。花は白色で径約3cm近くになり、日本産ミミナグサ属植物の中で最大になる。花は茎先に集散花序にまばらに数個つく。花柄は長さ2-5cmになり、腺毛が生える。萼片は5個で楕円形から卵状楕円形になり、長さは4-6mm、先端が円頭になり背面に腺毛が生える。花弁は5個、長楕円状へら形になり、萼片の長さの2.5-3倍の約15mmで、先端は円頭で縁は全縁になり、基部は狭いくさび形になる。雄蕊は10個あり、子房は卵状長楕円体で、上部に花柱が5個ある。果実は円筒状の蒴果で、長さ7-10mmになり、先端に外側に巻き込む10歯の裂片がある。種子は径約1mmのほぼ円形で赤褐色、表面に円筒状の小突起がある。 日本では、本州中部地方の山梨県・長野県・岐阜県に分布し、山地の夏緑林の林縁や林内、やや湿った草地に生育する。世界では、朝鮮半島、中国大陸東北部、ロシア極東地方に分布する。 和名タガソデソウは、「誰袖草」の意。牧野富太郎 (1905) は、『植物学雑誌』第19巻中「たがそでさうノ學名」の中で、「たがそでさうト稱スルみゝなぐさ屬ノ一種ナリ」とし、「某書でこの図を見たことがあり、長い間ひそかに実物を見て精査したいと思っていたところ、最近これを得て初めてその詳細に通ずることができた」旨の記載をしている。 牧野 (1940) は、『牧野日本植物圖鑑』において、和名の由来を「多分」としながらも、「和名誰が袖草ハ多分『古今集』ノ歌ノ「色よりも香こそあはれとおもほゆれ誰袖ふれし宿の梅ぞも」ニ據テ名ケシナラン、卽チ本種ノ花ハ白色ニシテ香氣アルヲ以テナリ」とし、「(梅のように)花は白色で香気があるからである」としている。 種小名(種形容語)pauciflorum は、「少数花の」の、変種名 amurense は、「(シベリア東部の)アムール地方」の意味。 絶滅危惧II類 (VU)(環境省レッドリスト) 都道府県のレッドデータブック、レッドリストの選定は次の通り。 日本に分布するミミナグサ属 Cerastium L. のうち、花が最も大きく径約3cm近くになる。また、他のミミナグサ属植物にように花弁の先端が2裂または多裂しない。果実が萼片より長く突き出ることは他のミミナグサ属植物と同じであるが、果実の先端の裂片は、他の種は10歯が反り返るのに対し、本種のそれは外側に巻き込む。 ナデシコ科ノミノツヅリ属のオオヤマフスマ Arenaria lateriflora L.の別名を、ヒメタガソデソウ(姫誰が袖草)といい、花弁の先端が2裂しない点など感じが似ているが、全体に小型である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "タガソデソウ(誰袖草、学名:Cerastium pauciflorum var. amurense)は、ナデシコ科ミミナグサ属の多年草。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "根茎は細長く、地中を横走してまばらに分岐する。茎は直立するか斜上して高さ30-50cmになり、上部はまばらに分枝し、短毛と腺毛が生える。葉は対生し、葉身は披針形から卵状披針形で、長さ4-9cm、幅1-2cmになり、先端は鋭突頭、基部に葉柄は無い。茎の基部の葉はへら形になる。葉の両面に伏毛が生え、葉縁に毛が生える。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "花期は5-6月。花は白色で径約3cm近くになり、日本産ミミナグサ属植物の中で最大になる。花は茎先に集散花序にまばらに数個つく。花柄は長さ2-5cmになり、腺毛が生える。萼片は5個で楕円形から卵状楕円形になり、長さは4-6mm、先端が円頭になり背面に腺毛が生える。花弁は5個、長楕円状へら形になり、萼片の長さの2.5-3倍の約15mmで、先端は円頭で縁は全縁になり、基部は狭いくさび形になる。雄蕊は10個あり、子房は卵状長楕円体で、上部に花柱が5個ある。果実は円筒状の蒴果で、長さ7-10mmになり、先端に外側に巻き込む10歯の裂片がある。種子は径約1mmのほぼ円形で赤褐色、表面に円筒状の小突起がある。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "日本では、本州中部地方の山梨県・長野県・岐阜県に分布し、山地の夏緑林の林縁や林内、やや湿った草地に生育する。世界では、朝鮮半島、中国大陸東北部、ロシア極東地方に分布する。", "title": "分布と生育環境" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "和名タガソデソウは、「誰袖草」の意。牧野富太郎 (1905) は、『植物学雑誌』第19巻中「たがそでさうノ學名」の中で、「たがそでさうト稱スルみゝなぐさ屬ノ一種ナリ」とし、「某書でこの図を見たことがあり、長い間ひそかに実物を見て精査したいと思っていたところ、最近これを得て初めてその詳細に通ずることができた」旨の記載をしている。", "title": "名前の由来" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "牧野 (1940) は、『牧野日本植物圖鑑』において、和名の由来を「多分」としながらも、「和名誰が袖草ハ多分『古今集』ノ歌ノ「色よりも香こそあはれとおもほゆれ誰袖ふれし宿の梅ぞも」ニ據テ名ケシナラン、卽チ本種ノ花ハ白色ニシテ香氣アルヲ以テナリ」とし、「(梅のように)花は白色で香気があるからである」としている。", "title": "名前の由来" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "種小名(種形容語)pauciflorum は、「少数花の」の、変種名 amurense は、「(シベリア東部の)アムール地方」の意味。", "title": "名前の由来" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "絶滅危惧II類 (VU)(環境省レッドリスト)", "title": "種の保全状況評価" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "都道府県のレッドデータブック、レッドリストの選定は次の通り。", "title": "種の保全状況評価" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "日本に分布するミミナグサ属 Cerastium L. のうち、花が最も大きく径約3cm近くになる。また、他のミミナグサ属植物にように花弁の先端が2裂または多裂しない。果実が萼片より長く突き出ることは他のミミナグサ属植物と同じであるが、果実の先端の裂片は、他の種は10歯が反り返るのに対し、本種のそれは外側に巻き込む。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ナデシコ科ノミノツヅリ属のオオヤマフスマ Arenaria lateriflora L.の別名を、ヒメタガソデソウ(姫誰が袖草)といい、花弁の先端が2裂しない点など感じが似ているが、全体に小型である。", "title": "分類" } ]
タガソデソウは、ナデシコ科ミミナグサ属の多年草。
{{生物分類表 |名称 =タガソデソウ |色 = lightgreen |画像=[[ファイル:Cerastium pauciflorum var. amurense 1.JPG|250px]] |画像キャプション = [[長野県]][[上高地]] 2023年6月上旬 |分類体系 = [[APG IV]] |界 = [[植物界]] {{Sname||Plantae}} |門階級なし = [[被子植物]] {{Sname||Angiosperms}} |綱階級なし = [[真正双子葉類]] {{Sname||Eudicots}} |亜綱階級なし = キク上類 {{Sname|Superasterids}} |目 = [[ナデシコ目]] {{Sname||Caryophyllales}} |科 = [[ナデシコ科]] {{Sname||Caryophyllaceae}} |属 = [[ミミナグサ属]] {{Snamei||Cerastium}} |種 = {{Snamei||Cerastium pauciflorum}} |変種 = '''タガソデソウ'''<br />{{Snamei|C. pauciflorum}} var. {{Snamei|amurense}} |学名 = {{Snamei|Cerastium pauciflorum}} {{AU|Steven}} ex {{AU|Ser.}} var. {{Snamei|amurense}} ({{AU|Regel}}) {{AU|M.Mizush.}} (1963)<ref name="YList1">[http://ylist.info/ylist_detail_display.php?pass=7138 タガソデソウ]「BG Plants 和名-学名インデックス」(YList)</ref> |シノニム = *{{Snamei|Cerastium pauciflorum}} Steven ex Ser. var. {{Snamei|oxalidiflorum}} ({{AU|Makino}}) {{AU|Ohwi}} (1953)<ref name="YList2">[http://ylist.info/ylist_detail_display.php?pass=24548 タガソデソウ(シノニム)]「BG Plants 和名-学名インデックス」(YList)</ref> *{{Snamei|Cerastium oxalidiflorum}} Makino (1905)<ref name="YList2" /> |和名 = タガソデソウ(誰袖草)<ref name="Kadota">『山溪ハンディ図鑑2 山に咲く花(増補改訂新版)』p.261</ref><ref name="Makino">『新分類 牧野日本植物図鑑』p.871</ref> }} {{Commons|Cerastium pauciflorum|タガソデソウ}} {{wikispecies|Cerastium pauciflorum var. amurense|タガソデソウ}} '''タガソデソウ'''(誰袖草、学名:{{Snamei|Cerastium pauciflorum}} var. {{Snamei|amurense}})は、[[ナデシコ科]][[ミミナグサ属]]の[[多年草]]<ref name="Kadota" /><ref name="Makino" /><ref name="H.Ohashi">[[門田裕一]] (2017)「ナデシコ科」『改訂新版 日本の野生植物4』pp.110-111</ref><ref name="Kitamura">『原色日本植物図鑑 草本編II(改訂版)』pp.269-270</ref><ref name="Yahara">三木栄二 (2015)「タガソデソウ」『絶滅危惧植物図鑑 レッドデータプタンツ(増補改訂新版)』p.422</ref>。 == 特徴 == [[根茎]]は細長く、地中を横走してまばらに分岐する。[[茎]]は直立するか斜上して高さ30-50cmになり、上部はまばらに分枝し、短毛と腺毛が生える。[[葉]]は対生し、葉身は披針形から卵状披針形で、長さ4-9cm、幅1-2cmになり、先端は鋭突頭、基部に[[葉柄]]は無い。茎の基部の葉はへら形になる。葉の両面に伏毛が生え、葉縁に毛が生える<ref name="Kadota" /><ref name="Makino" /><ref name="H.Ohashi" /><ref name="Kitamura" /><ref name="Yahara" />。 花期は5-6月。[[花]]は白色で径約3cm近くになり、日本産ミミナグサ属植物の中で最大になる。花は茎先に[[集散花序]]にまばらに数個つく。[[花柄]]は長さ2-5cmになり、腺毛が生える。[[萼]]片は5個で楕円形から卵状楕円形になり、長さは4-6mm、先端が円頭になり背面に腺毛が生える。[[花弁]]は5個、長楕円状へら形になり、萼片の長さの2.5-3倍の約15mmで、先端は円頭で縁は全縁になり、基部は狭いくさび形になる。[[雄蕊]]は10個あり、子房は卵状長楕円体で、上部に[[雌蕊|花柱]]が5個ある。[[果実]]は円筒状の[[蒴果]]で、長さ7-10mmになり、先端に外側に巻き込む10歯の裂片がある。[[種子]]は径約1mmのほぼ円形で赤褐色、表面に円筒状の小突起がある<ref name="Kadota" /><ref name="Makino" /><ref name="H.Ohashi" /><ref name="Kitamura" /><ref name="Yahara" />。 == 分布と生育環境 == 日本では、本州中部地方の[[山梨県]]・[[長野県]]・[[岐阜県]]に分布し、山地の夏緑林の林縁や林内<ref name="H.Ohashi" />、やや湿った草地に生育する<ref name="Kadota" />。世界では、[[朝鮮半島]]、[[中国大陸]]東北部、[[極東ロシア|ロシア極東地方]]に分布する<ref name="H.Ohashi" />。 == 名前の由来 == [[和名]]'''タガソデソウ'''は、「誰袖草」の意<ref name="Kadota" /><ref name="Makino" />。[[牧野富太郎]] (1905) は、『植物学雑誌』第19巻中「たがそでさうノ學名」の中で、「たがそでさうト稱スルみゝなぐさ屬ノ一種ナリ」とし、「某書でこの図を見たことがあり、長い間ひそかに実物を見て精査したいと思っていたところ、最近これを得て初めてその詳細に通ずることができた」旨の記載をしている<ref name="BMT19" />{{Refnest|group=注釈|「たがそでさうト稱スルみゝなぐさ屬ノ一種ナリ 予ハ某書ニ於テ之レガ圖ヲ見 竊ニ之レガ實物ヲ得テ曲ニ精査センコトヲ希フヤ久シ 頃日端ナク之ヲ得テ始メテ其詳細ニ通ズルヲ得タリ 而シテ(後略)」<ref name="BMT19">{{Cite journal|和書|publisher=日本植物学会 |title=雜錄〇たがそでさうノ學名|url=https://doi.org/10.15281/jplantres1887.19.223_187 |author=牧野富太郎 |journal=植物学雑誌 |volume=19 |issue=223 |pages=187-195 (p.188) |year=1905 |doi=10.15281/jplantres1887.19.223_187}}</ref>。}}。 牧野 (1940) は、『牧野日本植物圖鑑』において、和名の由来を「多分」としながらも、「和名誰が袖草ハ多分『[[古今集]]』ノ歌ノ「色よりも香こそあはれとおもほゆれ誰袖ふれし宿の梅ぞも」ニ據テ名ケシナラン、卽チ本種ノ花ハ白色ニシテ香氣アルヲ以テナリ」とし<ref name="hokuryukan">牧野富太郎 (1940)、「[http://www.hokuryukan-ns.co.jp/makino/himg/P595.pdf たがそでさう]」、『牧野日本植物図鑑(初版・増補版)インターネット版』p.594</ref>、「(梅のように)花は白色で香気があるからである<ref name="Makino" />」としている。 [[種小名]](種形容語){{Snamei|pauciflorum}} は、「少数花の」の、変種名 {{Snamei| amurense}} は、「(シベリア東部の)アムール地方」の意味<ref name="Makino2">『新分類 牧野日本植物図鑑』p.1483, 1506</ref>。 == 種の保全状況評価 == {{絶滅危惧II類}} 都道府県のレッドデータブック、レッドリストの選定は次の通り<ref name="RDB">[http://jpnrdb.com/search.php?mode=map&q=06030201315 タガソデソウ]、日本のレッドデータ検索システム、2023年9月11日閲覧</ref>。 * 山梨県-絶滅危惧IA類(CR) * 長野県-準絶滅危惧(NT) * 岐阜県-絶滅危惧I類 == 分類 == 日本に分布する[[ミミナグサ属]] {{Snamei|Cerastium}} L. のうち、花が最も大きく径約3cm近くになる<ref name="H.Ohashi" />。また、他のミミナグサ属植物にように花弁の先端が2裂または多裂しない<ref name="Makino" /><ref name="H.Ohashi" /><ref name="Kitamura" /><ref name="Yahara" />。果実が萼片より長く突き出ることは他のミミナグサ属植物と同じであるが、果実の先端の裂片は、他の種は10歯が反り返るのに対し、本種のそれは外側に巻き込む<ref name="Kitamura" /><ref name="Yahara" />。 ナデシコ科[[ノミノツヅリ属]]の[[オオヤマフスマ]] {{Snamei|Arenaria lateriflora}} L.<ref name="YList3">[http://ylist.info/ylist_detail_display.php?pass=1406 オオヤマフスマ]「BG Plants 和名-学名インデックス」(YList)</ref>の別名を、ヒメタガソデソウ<ref name="YList3" />(姫誰が袖草<ref name="Makino3">『新分類 牧野日本植物図鑑』p.864</ref>)といい、花弁の先端が2裂しない点など感じが似ているが、全体に小型である<ref name="Yahara" />。 == ギャラリー == <gallery mode="nolines" widths="240" heights="240"> ファイル:Cerastium pauciflorum var. amurense 2.JPG|花は白色で径約3cm近くになり、日本産ミミナグサ属植物の中で最大になる。花弁の先端は2裂せず、円頭になる。 ファイル:Cerastium pauciflorum var. amurense 3.JPG|花柄に腺毛が生え、萼片は楕円形から卵状楕円形になり、先端が円頭になり背面に腺毛が生える。花弁は萼片の長さの2.5-3倍になる。 ファイル:Cerastium pauciflorum var. amurense 4.JPG|茎に短毛と腺毛が生える。葉は対生し、葉身は披針形から卵状披針形で、基部に葉柄はない。表面に伏毛が生える。 ファイル:Cerastium pauciflorum var. amurense 5.JPG|葉の裏面にも伏毛が生え、縁に毛が生える。 </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * 北村四郎・村田源著『原色日本植物図鑑 草本編II(改訂版)』、1984年、保育社 * 門田裕一監修、永田芳男写真、畔上能力編『山溪ハンディ図鑑2 山に咲く花(増補改訂新版)』、2013年、山と溪谷社 * 矢原徹一他監修『絶滅危惧植物図鑑 レッドデータプタンツ(増補改訂新版)』、2015年、山と溪谷社 * 牧野富太郎原著、邑田仁・米倉浩司編集『新分類 牧野日本植物図鑑』、2017年、北隆館 * 大橋広好・門田裕一・木原浩他編『改訂新版 日本の野生植物 4』、2017年、平凡社 * [http://ylist.info/index.html 米倉浩司・梶田忠 (2003-)「BG Plants 和名-学名インデックス」(YList)] * [https://www.makino.or.jp/fixed/?page_key=dr_makino-book 牧野日本植物図鑑インターネット版]、高知県牧野記念財団・北隆館 * {{Cite journal|和書|publisher=日本植物学会 |title=雜錄〇たがそでさうノ學名|url=https://doi.org/10.15281/jplantres1887.19.223_187 |author=牧野富太郎 |journal=植物学雑誌 |volume=19 |issue=223 |pages=187-195 (p.188) |year=1905 |doi=10.15281/jplantres1887.19.223_187}} == 外部リンク == * [https://kotobank.jp/word/%E3%82%BF%E3%82%AC%E3%82%BD%E3%83%87%E3%82%BD%E3%82%A6-1558599 タガソデソウ] - [[コトバンク]] * [https://kotobank.jp/word/%E8%AA%B0%E8%A2%96-1360478 誰袖] - コトバンク {{Plant-stub}} {{DEFAULTSORT:たかそてそう}} [[Category:ナデシコ科]]
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篠原神社
篠原神社(しのはらじんじゃ)
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篠原神社(しのはらじんじゃ) 篠原神社 (北杜市) - 山梨県北杜市に鎮座する神社。 篠原神社 (加賀市) - 石川県加賀市に鎮座する神社。 篠原神社 (八百津町) - 岐阜県加茂郡八百津町に鎮座する神社。 篠原神社 (野洲市) - 滋賀県野洲市に鎮座する神社。 篠原神社 (三木市) - 兵庫県三木市に鎮座する神社。 篠原神社 (徳島市) - 徳島県徳島市に鎮座する神社。 篠原神社 (呉市) - 広島県呉市に鎮座する神社。 篠原神社 (安芸高田市) - 広島県安芸高田市に鎮座する神社。 篠原神社 (広川町) - 福岡県八女郡広川町に鎮座する神社。
'''篠原神社'''(しのはらじんじゃ) * [[篠原神社 (北杜市)]] - [[山梨県]][[北杜市]]に鎮座する神社。 * [[篠原神社 (加賀市)]] - [[石川県]][[加賀市]]に鎮座する神社。 * [[篠原神社 (八百津町)]] - [[岐阜県]][[加茂郡]][[八百津町]]に鎮座する神社。 * [[篠原神社 (野洲市)]] - [[滋賀県]][[野洲市]]に鎮座する神社。 * [[篠原神社 (三木市)]] - [[兵庫県]][[三木市]]に鎮座する神社。 * [[篠原神社 (徳島市)]] - [[徳島県]][[徳島市]]に鎮座する神社。 * [[篠原神社 (呉市)]] - [[広島県]][[呉市]]に鎮座する神社。 * [[篠原神社 (安芸高田市)]] - 広島県[[安芸高田市]]に鎮座する神社。 * [[篠原神社 (広川町)]] - [[福岡県]][[八女郡]][[広川町 (福岡県)|広川町]]に鎮座する神社。 {{DEFAULTSORT:しのはらしんしや}} {{aimai}} [[Category:同名の神社]]
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野上村 (広島県)
野上村(のがみむら)は、広島県深安郡にあった村。現在の福山市の一部にあたる。 芦田川下流左岸のデルタ地帯に位置していた。 常興寺山(城山)麓の高台を野上と通称したことよる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "野上村(のがみむら)は、広島県深安郡にあった村。現在の福山市の一部にあたる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "芦田川下流左岸のデルタ地帯に位置していた。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "常興寺山(城山)麓の高台を野上と通称したことよる。", "title": "歴史" } ]
野上村(のがみむら)は、広島県深安郡にあった村。現在の福山市の一部にあたる。
{{日本の町村 (廃止) | 廃止日 = 1913年4月1日 | 廃止理由 = 編入合併 | 廃止詳細 = '''野上村'''、[[三吉村 (広島県)|三吉村]] → [[福山市|福山町]] | 現在の自治体 = [[福山市]] | よみがな = のがみむら | 自治体名 = 野上村 | 区分 = 村 | 都道府県 = 広島県 | 郡 = [[深安郡]] | 面積 = | 境界未定 = | 人口 = 1113 | 人口の出典 = 『角川日本地名大辞典 34 広島県』632頁 | 人口の時点 = 1891年 | 隣接自治体 = 福山町、[[川口村 (広島県)|川口村]]、[[沼隈郡]][[草戸村]] | 所在地 = 深安郡野上村 | 座標 = | 位置画像 = | 特記事項 = }} '''野上村'''(のがみむら)は、[[広島県]][[深安郡]]にあった[[村]]。現在の[[福山市]]の一部にあたる。 == 地理 == [[芦田川]]下流左岸のデルタ地帯に位置していた{{R|角川}}。 == 歴史 == *[[1889年]](明治22年)4月1日、[[町村制]]の施行により、[[深津郡]]野上村が単独で村制施行し、'''野上村'''が発足<ref name=角川>『角川日本地名大辞典 34 広島県』632頁。</ref><ref name=変遷>『市町村名変遷辞典』612頁。</ref>。 *[[1898年]](明治31年)10月1日、郡の統合により[[深安郡]]に所属{{R|角川}}{{R|変遷}}。 *[[1913年]](大正2年)4月1日、深安郡'''[[福山市|福山町]]'''に編入され廃止{{R|角川}}{{R|変遷}}。 === 地名の由来 === 常興寺山(城山)麓の高台を野上と通称したことよる{{R|角川}}。 == 産業 == *農業{{R|角川}} == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * [[角川日本地名大辞典]] 34 広島県 * 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。 == 関連項目 == * [[広島県の廃止市町村一覧]] {{デフォルトソート:のかみむら}} [[Category:深津郡]] [[Category:深安郡]] [[Category:福山市域の廃止市町村]] [[Category:1889年設置の日本の市町村]] [[Category:1913年廃止の日本の市町村]]
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稲宮誠
稲宮 誠(いなみや まこと、1965年5月9日 - )は、愛知県名古屋市出身の俳優。株式会社エム・ケイ・ツー所属。 本名は藤井 直貴(ふじい なおき)。 身長173cm。 特技はアクション、野球、水泳、スキー、ボクシング、名古屋弁。 地元、名古屋の芸能事務所(株)巣山プロダクションに所属。 巣山プロダクション内にある「劇団創造」に参加し演劇活動を始める。 「巣山プロアクションクラブ」にも加入してアクションヒーローショーに出演。当時のヒーローは「超電子バイオマン」「宇宙刑事シャイダー」 巣山プロの同期の仲間達と「劇団台風45号」を旗揚げ。立ち上げメンバー。 東京に活動の拠点を移す。(株)巣山プロダクション東京支社に移動。 ハリウッド映画「ミスター・ベースボール」(1993年公開)のオーディションの際、6ヶ月間の役作りでプロ野球選手に間違われる程の肉体を作り上げ、中日ドラゴンズのキャッチャー・西川拓也役をいとめる。 アクションの技術を磨くため、ジャパンアクションクラブから派生した(株)ナンバーワンプロモーションに所属し、アクション俳優として数々の映画・ビデオ作品に出演。 モデル事務所(株)オフィスマミに移籍し本格的に俳優としての活動を再開。 (株)オフィスマミ俳優部の分社化にともない(株)JFCTに移行。 強面だが実は優しい、強面だが実は気が弱い、強面だが実はオネエ、といった個性的な演技に定評がある。 吉幾三の次女である女優の寿三美と、2021年6月から、YouTube「mimiと稲姉のエンタメ応援チャンネル」を配信している。 2023年6月より、尾張アズーリFMで冠番組「mimiと稲姉のエンタメ応援チャンネル」(毎月第3日曜日)でレギュラー生放送をスタートしている。 以前はヴァーサタイルエンタテイメント、ベストブレーンに所属していた。
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稲宮 誠は、愛知県名古屋市出身の俳優。株式会社エム・ケイ・ツー所属。
'''稲宮 誠'''(いなみや まこと、[[1965年]][[5月9日]] - )は、[[愛知県]][[名古屋市]]出身<ref name="ベストブレーン">[https://web.archive.org/web/20150203132259/http://www.bestbrain.jp/makoto_inamiya.html プロフィール] - ベストブレーン(2015年2月3日アーカイブ分)</ref>の[[俳優]]。株式会社エム・ケイ・ツー所属。 == 人物 == 本名は藤井 直貴(ふじい なおき)<ref name="ヴァーサタイル">[https://web.archive.org/web/20070213171334/http://www.versatileltd.com/inamiya_f.htm プロフィール] - ヴァーサタイルエンタテイメント(2007年2月13日アーカイブ分)</ref>。 身長173cm<ref name="ヴァーサタイル"/>。 特技は[[アクション]]、[[野球]]、[[水泳]]、[[スキー]]、[[ボクシング]]、[[名古屋弁]]<ref name="ヴァーサタイル"/>。 * 1983年 地元、名古屋の芸能事務所(株)巣山プロダクションに所属。 * 1984年 巣山プロダクション内にある「劇団創造」に参加し演劇活動を始める。 「巣山プロアクションクラブ」にも加入してアクションヒーローショーに出演。当時のヒーローは「[[超電子バイオマン]]」「[[宇宙刑事シャイダー]]」 * 1985年 巣山プロの同期の仲間達と「劇団台風45号」を旗揚げ。立ち上げメンバー。 * 1989年 東京に活動の拠点を移す。(株)巣山プロダクション東京支社に移動。 [[ハリウッド映画]]「[[ミスター・ベースボール]]」(1993年公開)のオーディションの際、6ヶ月間の役作りでプロ野球選手に間違われる程の肉体を作り上げ、[[中日ドラゴンズ]]の[[キャッチャー]]・西川拓也役をいとめる。 * 1994年 [[アクション]]の技術を磨くため、[[ジャパンアクションクラブ]]から派生した(株)ナンバーワンプロモーションに所属し、[[アクション俳優]]として数々の映画・ビデオ作品に出演。 * 1996年 モデル事務所(株)オフィスマミに移籍し本格的に俳優としての活動を再開。 * 1998年 (株)オフィスマミ俳優部の分社化にともない(株)JFCTに移行。 強面だが実は優しい、強面だが実は気が弱い、強面だが実はオネエ、といった個性的な演技に定評がある。 [[吉幾三]]の次女である女優の寿三美と、2021年6月から、[[YouTube]]「mimiと稲姉のエンタメ応援チャンネル」を配信している。 2023年6月より、尾張アズーリFMで[[冠番組]]「mimiと稲姉のエンタメ応援チャンネル」(毎月第3日曜日)でレギュラー生放送をスタートしている。 以前はヴァーサタイルエンタテイメント<ref name="ヴァーサタイル"/>、ベストブレーン<ref name="ベストブレーン"/>に所属していた。 == 出演作品 == {{節スタブ}} === テレビドラマ === ==== NHK ==== * [[中学生日記]](1985年) - 暴走族リーダー * [[銀河テレビ小説]]「[[清水みなとストーリー]]」(1985年) - 青年団員・レギュラー出演 * [[シリーズドラマ10]]「[[熱きまなざし]]」(1988年) - 浩一・レギュラー出演 * [[さわやか3組]]第5回「勇気」(1990年) - 町の若者 *[[BS土曜ドラマ]]「[[女にも七人の敵]]」第3回・4回(1995年) - 白河初 * [[水曜ドラマ (NHK)|水曜ドラマシリーズ]] / [[鏡は眠らない]] 第4話「追走」(1997年) - 黒服の男 * [[金曜時代劇]]/[[寺子屋ゆめ指南]]第12回「女であるということ」(1997年) - 寅造 * [[連続テレビ小説]] [[すずらん (テレビドラマ)|すずらん]]第56回・57回(1999年) - やくざ風の男 * [[BS2]] [[新・真夜中の王国]](1999年) - トークゲスト * [[正月時代劇]]/[[蒼天の夢 松蔭と晋作・新世紀への挑戦]](2000年) - 小伝馬町の牢司 * [[連続テレビ小説]]「[[さくら(テレビドラマ)|さくら]]」第100、101話(2002年) * [[大河ドラマ]] [[北条時宗 (NHK大河ドラマ)|北条時宗]]第1回「鎌倉激震」(2001年) - 九条頼経の側近 * [[大河ドラマ]] [[功名が辻 (NHK大河ドラマ)|功名が辻]] 第3話(2006年) - 家臣 * [[特選!時代劇|金曜時代劇]]/[[御宿かわせみ#高島礼子版|御宿かわせみ]] 第三章/ 第3話「牡丹屋敷の人々」(2005年)= 鈴木宗十郎 * [[金曜時代劇]]/[[慶次郎縁側日記#テレビドラマ|慶次郎縁側日記2]] 第4話「佐七の笛」(2005年)- 目付きの悪い男 * [[大河ドラマ]]/[[功名が辻]]第3回「運命の再会」(2005年) - 竹中家家臣 * [[タイムスクープハンター]] [[タイムスクープハンター#シーズン3|シーズン3]] 「過熱!江戸情報戦争」(2011年)- 見物客 * [[タイムスクープハンター#3]]「戦国リスクマネジメント」(2011年) - 住職 * [[タイムスクープハンター#4]]「激熱!鉄火裁判」(2012年) - 和徳 * [[タイムスクープハンター#6]]「恋のヒゲ大作戦」(2014年) - 権左衛門 * [[タイムスクープハンター#6]]「亀の協奏曲」(2014年) - 和善 ==== 日本テレビ ==== * [[刑事貴族#3]]第18話「彼女の疑惑」(1992年) - 島本雄二 * [[西遊記]]第13話(1993年) - 理空の手下 * [[あなたの知らない世界]]/[[誰かが見ている……中古車の怪]](1996年) - 太田真一 * [[火曜サスペンス劇場]] / [[警視庁鑑識班]] 第6作(1998年) - 津田亘 * [[水曜ドラマ (日本テレビ)|水曜ドラマ]] / [[ラストプレゼント 娘と生きる最後の夏]] 第4話(2004年)- カメラマン城田 ==== TBS ==== * [[愛の劇場]] / [[永遠の1/2 (テレビドラマ)|永遠の1/2]] 第6、8話(2000年)安藤浩伸 * [[月曜ドラマスペシャル]]→[[月曜ゴールデン]] ** [[宗像教授シリーズ#テレビドラマ|宗像教授伝奇考]](2000年)- 中西健治 ** [[十津川警部シリーズ (渡瀬恒彦)|西村京太郎サスペンス 十津川警部シリーズ]] *** 第37作「特急あずさ殺人事件」(2006年) - 丸山吾朗 *** 第42作「九州ひなの国殺人ルート」(2009年) - 黒田正則 * [[マリア (テレビドラマ)|マリア]] 第3、6話(2001年)- 刺青のノブ * [[ナショナル劇場]] / [[こちら本池上署]] [[こちら本池上署#第5シリーズ(2005年)|第5シリーズ]] 第2話(2005年)- 梶山稔 ==== フジテレビ ==== * [[La-Cuisine クリスマスSP]]「[[ゴーストスープ]]」(1993年) - ゴースト * [[La-Cuisine]]「[[ラーメン]]」(1993年)青年 * [[美少女H3]]「[[アナタハダアレ?]]」第6話・7話(1999年) - バーのマスター * [[賭事女王]] [[GAMBLE QUEEN]](1999年 - 2000年) - サミー/レギュラー出演 * [[ウソコイ]] 第3話「月下美人 取引」(2001年)- 偽装結婚の元締・ウー * [[金曜エンタテイメント]]→[[金曜プレステージ]] ** [[ハマの静香は事件がお好き]] 第2作(2004年) - 須藤 ** [[山田太一 (脚本家)|山田太一]]ドラマスペシャル「[[星ひとつの夜]]」(2007年)- 刑務官 * [[土曜プレミアム]] / [[硫黄島〜戦場の郵便配達〜]](2006年)- 赤ザル * [[鬼嫁日記#第2期(2007年)|鬼嫁日記 いい湯だな]] 第3話(2007年) - ヤクザ風の男 ==== テレビ朝日 ==== * [[真夏の刑事]]第12話(1992年) - 佐藤昇 * [[はぐれ刑事純情派]]第114話「ガテンギャルの犯罪」(1992年) - 中村信夫 * [[はみだし刑事情熱系]] ** [[はみだし刑事情熱系#PART2(1997年 - 1998年)|PART2]] 第22話(1998年) - 関口俊二 ** [[はみだし刑事情熱系#PART6(2001年 - 2002年)|PART6]] 第12話(2001年) - 田代幹夫 ** [[はみだし刑事情熱系#最終章(2004年)|最終章]] 第4話(2004年) - 三津谷元 * [[木曜ドラマ (テレビ朝日)|木曜ドラマ]] / [[恋の奇跡#テレビドラマ|恋の奇跡]] 第9話(1999年)- バー香のマスター * [[ココだけの話]]第3話「アダルトビデオ」(2001年)- 柏原かおる * [[土曜ワイド劇場]] / 殺人ロケ(2003年)- 朝川秀治 * [[仮面ライダーブレイド]] 第9話「偽りの克服(前編)」(2004年) - ヤクザ<ref <[https://www.kamen-rider-official.com/zukan/characters/1272 チンピラたち | 仮面ライダー図鑑 | 東映]</ref> * [[金曜ナイトドラマ]] / [[特命係長 只野仁 (テレビドラマ)|特命係長 只野仁]] [[特命係長 只野仁 (テレビドラマ)#2ndシーズン(2005年)|2ndシーズン]] 第21話(2005年) - 工藤 ==== テレビ東京 ==== * [[クイズずばり知りたい]](1989年) - クイズ出題レポーター * [[新世紀ワイド時代劇]]/[[宮本武蔵]]第4部(2000年) -無動寺僧兵 * [[Deep Love#第1部『Deep Love 〜アユの物語〜』|Deep Love 〜アユの物語〜]] 第7話(2004年)- 田所 * [[女と愛とミステリー]] / 人情刑事 宮本清四郎(2005年) - 風間健二 ==== TOKYO MX ==== * [[時空警察ヴェッカーシグナ]] 第5、6話(2007年) - 柊際二郎 ==== 名古屋テレビ ==== * [[虹色坂物語]]「名古屋電気王物語」(1993年) -主演 ==== 中京テレビ ==== * [[5時SATマガジン]]/連続ドラマ「つぶぞろいの蜜柑たち」(1985年) - 浩一/主演・レギュラー出演 * スペシャルドラマ「ハートinリトルワールド」(1986年) - ヒロインの彼氏 * [[ヴィヴィアン]](1986年) ==== テレビ愛知 ==== * [[ウォッチマンとくとくテレショップ]](1985年) - 商品紹介レポーター ==== テレビ熊本 ==== * 海軍少将 [[高木惣吉]] 〜すみやかに戦争の終結をはかるべし〜(2001年)- 神大佐 ==== LaLa TV ==== * [[エンドレスアフェア〜終わりなき情事〜]] 第2話(2014年)- 弁護士 === 映画 === * [[遥かなる甲子園#映画版|遥かなる甲子園]](1989年、[[東宝]])- 琉球高校野球部員・船浦 * [[ゴジラvsキングギドラ]](1991年、東宝)- 日本兵 * [[ミスター・ベースボール]](1993年、[[ユニバーサル]]) - 中日ドラゴンズ捕手・西川拓也 * [[クロオビキッズ#3]](1993年、[[コロンビア]]) -スリ・忍者 * [[野獣死すべし (1997年の映画)|野獣死すべし パート1]](1997年、[[大映]])- 仁科 * [[キャッツ・アイ#実写映画|CAT'S EYE キャッツ・アイ]](1997年、東宝)- 苦力 * [[激しい季節 RAIN]](1998年、[[ケイエスエス]]) -刑務所係官 * [[週刊バビロン]](1999年、[[東映]]) - 金山組兄貴分 * [[白痴]](1999年、[[松竹]]) - 白虎 * DOG-FOOD(1999年、スローラーナー) - 保健所の男 * [[菊次郎の夏]](1999年、[[角川ヘラルド・ピクチャーズ|日本ヘラルド映画]]) - ヤクザ * [[WiLD ZERO]](1999年、[[ギャガ]]) - キャプテン * 透視する女(2000年、ギャガ) - 謎の男 * HYSTERIC(2000年、ベンチャーフイルム) - ゲイの男 * [[BROTHER (映画)|BROTHER]](2000年、[[松竹]])- ヤクザ * [[YUMA]](2000年、[[ビジュアルサイドキック]]) - トーワ * [[MSTRBTN]](2000、[[レジェンドピクチャーズ]]) - レストランの客 * [[荒ぶる魂たち]](2002年、大映)- 白根組若頭代行 * プレイボール(2002年、アースライズ)- 西村の舎弟 * [[リターナー]](2002年、東宝)- 商人風の男 * [[凶気の桜]](2002年、[[東映]]) - 柴田十郎 * [[AIKI]](2002年、[[日活]])- 空手道場主 * 金髪スリーデイズ35℃(2003年、スローラーナー) - 亜美の父 * 幸福の鐘(2003年、[[東北新社]])- 拘置所のヤクザ * [[バニットマン]](2022年、[[日本映画学校]]) - 保坂弘明 * [[胸キュンBOMB!]](2003年、[[ビジュアルサイドキック]]) - 体育教師 * [[力道山]](2004年、[[サイダス]]) - 高級クラブの用心棒 * [[深海獣レイゴー]](2005年、[[クロックワークス]])- 郷田艦長 * [[龍が如く 劇場版]](2006年、[[大映]]) - 東城会ヤクザ * [[SILK]](2006年、[[ニューラインシネマ]]) - 村の衛兵 * [[無花果の顔]](2006年、[[アゴラ]]) - 大工の親方 * [[スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ]](2007年、[[ソニー・ピクチャーズ]])- リッチの仲間 * [[HEY JAPANESE! 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カメラマン * [[天馬がゆく 人生マイナス30度]](2009年、[[オールウェイズ]]) - 大沢仁志 * [[悪魔のいけにえ]](2012年、[[オールウェイズ]]) - 大畑明 * [[凍牌 裏レート麻雀闘牌録8]](2013年、[[SPO]]) - 昇心会会長・早川 * [[新・SとM]](2014年、[[オールウェイズ]]) === 舞台 === * 冬のライオン(1984年、劇団創造公演) * デジャヴュⅡ(1986年、劇団創造公演) * MORE THAN THIS(1987年、劇団創造公演) * VERTIGO(1987年、劇団創造公演) * SO WHAT(1993年、劇団創造公演) * ヴェローナ物語(1985年、劇団台風45号公演) * モダンホラー(1985年、劇団台風45号公演) * 猿飛佐助(1986年、劇団台風45号公演) * トロイメライ(1986年、劇団台風45号公演) * ヴェローナ物語(1986年、[[巣山プロ]]公演) * 結婚行進曲(1986年、[[中日劇場]]) * 花のお江戸の伊達男(1987年、[[名鉄ホール]]) * にっぽん音吉物語(1993年、座・ウィークエンド公演) * [[カゴツルベ]](2009年、[[青山劇場]]【東京】/[[NHKホール]]【大阪】) * [[天璋院篤姫]](2010年、[[明治座]]) * 新春・[[戦国鍋]] あんまり近づきすぎると斬られちゃうよ(2011年、[[池袋サンシャイン劇場]]【東京】/[[シアタードラマシティ]]【大阪】) * [[暴れん坊将軍]] 新之助お化け長屋騒動(2011年、[[御園座]]) * 夕べの幽霊今朝の女房(2012年、[[中日劇場]]) * しあわせ地蔵(2012年、[[新歌舞伎座]]) * 岬倫太郎事件簿 黒い未亡人(2013年、[[中日劇場]]) * [[銭形平次]] きよしの平次立志編(2013年、[[明治座]]) * 岬倫太郎事件簿 黒い未亡人(2014年[[中日劇場]]【名古屋】/[[シアター1010]]【東京】/[[イズミシティ21]]【仙台】) * 戦後70年特別企画「[[中日劇場]]開場50周年記念公演『[[南の島に雪が降る#2015年『南の島に雪が降る』(中日劇場)|南の島に雪が降る]]』」(2015年、[[中日劇場]]【名古屋】/[[浅草公会堂]]【東京】/[[キャナルシティ劇場]]【福岡】/[[シアタードラマシティ]]【大阪】) * [[め組の辰五郎]] きよしの大江戸千両纒(2015年、[[明治座]]) * めおと囃子(2015年、[[明治座]]) * [[遠山の金さん]]vs[[女ねずみ小僧]](2016年、[[中日劇場]]) * おばけながや(2016年、[[中日劇場]]) * 人生にわか芝居(2016年、[[中日劇場]]) * [[泥棒と若殿]](2017年[[新歌舞伎座]]) * [[ねずみ小僧]](2017年、[[明治座]]) * [[大人の童話]](2017年、[[中日劇場]]) * [[紺屋と高尾]](2018年、[[明治座]]) * 母をたずねて珍道中 お役者恋の介旅日記(2018年、[[明治座]]) * [[ペコロスの母に会いに行く]](2018年、全国ツアー公演、[[シアターズホーム夢ホール]]【熊本】/[[ももちパレス]]【福岡】/[[アルカス佐世保]]【長崎】/[[グランシップ]]【静岡】/[[サンケイホールブリーゼ]]【大阪】/[[常総市地域交流センター豊田城]]【茨城】/[[四谷区民ホール]]【東京】/[[刈谷市総合文化センター]]【愛知】/[[ウエスタ川越]]【埼玉】/[[国立劇場おきなわ]]【沖縄】) * 母をたずねて珍道中 お役者恋の介旅日記(2019年、[[新歌舞伎座]]) * [[弥次喜多道中 夢と女と旅芝居]](2019年、[[御園座]]) * [[ペコロスの母に会いに行く]](2019年、全国ツアー、[[大田区民プラザ]]【東京】/[[武雄市市民会館]]【佐賀】/[[玉名市民会館]]【熊本】/[[ドリームシップ海のホール]]【山口】/[[上野学園ホール]]【広島】/[[岡山市民会館]]【岡山】/[[民族文化宮大劇院]]【北京】/[[アートピアホール]]【名古屋】/[[小美玉市小川文化センターアピオス]]【茨城】) * フジヤマ「夢の湯」物語(2020年、[[明治座]]) * どたばた任侠伝 時代おくれの竜(2020年、[[御園座]]) * [[限界突破]]の七変化 恋の介旅日記(2020年、[[明治座]]【東京】/[[新歌舞伎座]]【大阪】) * 芸能生活50周年『[[吉幾三]]特別公演 第一部』(2022年、[[明治座]]【東京】/[[御園座]]【名古屋】/[[新歌舞伎座]]【大阪】/[[リンクシティホール青森]]【青森】/[[キャナルシティ劇場]]【福岡】) ==== CM ==== * 沢徳仏壇店「第九編」(1988年) * 静岡[[日産]]「交通ルールを守ろう」(1988年) * [[JR東海]]「なんき」(1988年) * [[サントリー]]「角瓶 和風バー編」(1990年) * [[日産]]「イチロー日本一」(1995年) * [[JRA]]「桜花賞」(1999年) * [[JRA]]「オークス」(1999年) * [[NHK BS]]「ドーモ君」(1999年) * [[コナミ]]「ザ・マエストロムジーク」(2000年) * [[カネボウフーズ]]「のびゅ~ん」(2000年) * [[野村証券]]「金田一耕助 お茶会編」(2000年) * [[NTT]]西日本「マイライン ボクシング編」(2001年) * [[マイクロソフト]]「[[OFFICE XP]]」(2001年) * [[エイベックス]]PARADICE GO! 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ばか面踊り
ばか面踊り(ばかめんおどり)は、千葉県船橋市に伝わる伝統的な舞踊である。 江戸時代に漁師町として栄えていた船橋市では、幕末に戊辰戦争の一つである市川・船橋戦争の戦場となり、その戦火によって町の広範囲で火災が発生した。これによってそれまで漁師町に伝わってきた神輿や山車が全て焼失し、それ以降祭りが行えない時代が続いたとされている。そんな中、明治20年代後半から30年代初めにかけて、疫病の流行や海難事故、不漁などの厄災が次々と発生し、これは厄払いや戦争以来行えなかった祭りの再興の気運となった。1900年(明治33年)、漁師と住民らは厄払い、海上の安全、豊漁を祈願して船橋大神宮・八剱神社に神輿を奉納し、祭りを再興した。その際、神輿の先導役となった若い漁師達が葛西や鷺沼などから招いた演者から習い覚え、厄を払い安全と大漁を願う儀式として夏祭りに奉納したのがばか面踊りである。 「ひょっとこ」、「おかめ」、神獣「天狐」などのお面を着け、お囃子に合わせて滑稽な仕草を交えて踊る。10以上の保存団体が継承しており、船橋市内で毎年行われている「ふなばし市民まつり」の目玉行事としても定着した。
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ばか面踊り(ばかめんおどり)は、千葉県船橋市に伝わる伝統的な舞踊である。
'''ばか面踊り'''(ばかめんおどり)は、[[千葉県]][[船橋市]]に伝わる伝統的な[[舞踊]]である。 == 起源 == [[江戸時代]]に漁師町として栄えていた船橋市では、[[幕末]]に[[戊辰戦争]]の一つである[[市川・船橋戦争]]の戦場となり、その戦火によって町の広範囲で火災が発生した。これによってそれまで漁師町に伝わってきた[[神輿]]や[[山車]]が全て焼失し、それ以降祭りが行えない時代が続いたとされている。そんな中、[[明治]]20年代後半から30年代初めにかけて、疫病の流行や海難事故、不漁などの厄災が次々と発生し、これは厄払いや戦争以来行えなかった祭りの再興の気運となった。[[1900年]](明治33年)、漁師と住民らは厄払い、海上の安全、豊漁を祈願して[[意富比神社|船橋大神宮]]・八剱神社に神輿を奉納し、祭りを再興した。その際、神輿の先導役となった若い漁師達が[[葛西]]や[[鷺沼 (習志野市)|鷺沼]]などから招いた演者から習い覚え、厄を払い安全と大漁を願う儀式として夏祭りに奉納したのがばか面踊りである<ref>[https://www.city.funabashi.lg.jp/gakushu/004/p084394_d/fil/R3_yorimichi.pdf 天海 「湊町ばか面踊り」] - 船橋市</ref><ref>[https://omatsurijapan.com/blog/bakamenn-funabashi/ 千葉県船橋市の郷土芸能「ばか面おどり」とは? 漁師町の船橋の歴史を今に伝える踊り]</ref><ref>[https://funabashi.mypl.net/shop/00000011595/news?d=1653742 船橋の郷土芸能・ばか面おどり 市民まつりのハイライト 本町通りをパレードで喝采!!! 湊町さん12町会さん それぞれにお楽しみ]</ref><ref>[https://ciao2.shinkeisei.co.jp/2017/07/28/10781/ 船橋の郷土芸能『ばか面踊り』!] - 新京成電鉄株式会社</ref><ref>[https://www.funaemon.com/wp-content/uploads/2014/07/e421f3d69e74f78fc10e8d7ae042d1b6.pdf 郷土芸能 「ばか面おどり」] - 船橋市</ref>。 == 概要 == 「[[ひょっとこ]]」、「[[おかめ]]」、神獣「[[天狐]]」などのお面を着け、お[[囃子]]に合わせて滑稽な仕草を交えて踊る。10以上の保存団体が継承しており、船橋市内で毎年行われている「ふなばし市民まつり」の目玉行事としても定着した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chibanippo.co.jp/news/local/465851|title=ばか面おどりにぎやかに 郷土芸能で新春祝う 船橋|publisher=千葉日報|date=2018-01-03|accessdate=2023-09-11}}</ref>。 == 出典 == {{Reflist}} {{pref-stub|pref=千葉県}} {{DEFAULTSORT:はかめんおとり}} [[Category:日本舞踊]] [[Category:船橋市の文化]] [[Category:房総の魅力500選]]
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宮崎県道359号赤谷橋山線
宮崎県道359号赤谷橋山線(みやざきけんどう359ごう あかだにはしやません)は、宮崎県宮崎市を通る一般県道である。 宮崎市高岡町浦之名から宮崎市高岡町高浜に至る。起点、終点ともに国道10号と交差する。 1967年(昭和42年)の認定時は「赤谷浜子線」として認定されたが、高岡バイパスの開通に伴い宮崎市高岡町五町 - 宮崎市高岡町高浜間が国道10号の指定から外れ、同区間が本路線に編入されたことに伴い、路線名が変更された。
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宮崎県道359号赤谷橋山線は、宮崎県宮崎市を通る一般県道である。
{{Infobox road |種別・系統 = [[都道府県道|一般県道]] |アイコン = {{Ja Pref Route Sign|pref=宮崎|number=359|width=100}} |名前 = 宮崎県道359号 赤谷橋山線<br />一般県道 赤谷橋山線 |名前の補足 = |副名 = |副名の補足 = |地図画像 = |総延長 = |実延長 = |制定年 = [[1967年]]([[昭和]]42年) |開通年 = |廃止年 = |起点 = [[宮崎市]][[高岡町浦之名]]【{{Coord|31|57|1.0|N|131|16|0.6|E|region:JP-45|name=県道359号起点}}】 |終点 = 宮崎市[[高岡町高浜]]【{{Coord|31|56|57.8|N|131|19|4.0|E|region:JP-45|name=県道359号終点}}】 |接続する主な道路 = [[ファイル:Japanese National Route Sign 0010.svg|24px]] [[国道10号]]<br />{{Ja Pref Route Sign|number=24|width=25|align=left}} [[宮崎県道24号高鍋高岡線]]{{Clear}}{{Ja Pref Route Sign|number=28|width=25|align=left}} [[宮崎県道28号日南高岡線]]<!--主要地方道以上を記載 --> }} '''宮崎県道359号赤谷橋山線'''(みやざきけんどう359ごう あかだに<ref name="akadani">{{Cite web|和書|url=https://www.city.miyazaki.miyazaki.jp/institution/list/item693/ |title=赤谷橋 |publisher=宮崎市 |accessdate=2023-09-11 }}</ref>はしやません)は、[[宮崎県]][[宮崎市]]を通る[[都道府県道|一般県道]]である。 == 概要 == [[宮崎市]][[高岡町浦之名]]から宮崎市[[高岡町高浜]]に至る。起点、終点ともに[[国道10号]]と交差する。 [[1967年]]([[昭和]]42年)の認定時は「赤谷浜子線」として認定されたが<ref name="nintei">{{Cite web|和書|url=https://en3-jg.d1-law.com/miyazaki-ken/d1w_reiki/H354902500477/H354902500477.html |title=県道路線認定(昭和54年4月13日告示第477号) |publisher=宮崎県法規集([[第一法規]]株式会社) |accessdate=2023-09-11 }}</ref>、高岡バイパスの開通に伴い宮崎市[[高岡町五町]] - 宮崎市高岡町高浜間が国道10号の指定から外れ、同区間が本路線に編入されたことに伴い、路線名が変更された。 === 路線データ === {{座標一覧}} * 起点:[[宮崎市]][[高岡町浦之名]]([[国道10号]]交点) * 終点:宮崎市[[高岡町高浜]](国道10号交点) == 歴史 == * [[1967年]]([[昭和]]42年)[[3月28日]] - 一部区間が「赤谷浜子線」として、宮崎県告示第223号<ref name="nintei" />により路線認定される。当時の路線番号は159。 == 地理 == === 通過する自治体 === * [[宮崎県]] ** [[宮崎市]] === 交差する道路 === {|class="wikitable" style="font-size:small" |- !style="border-bottom:3px solid blue"|交差する道路 !style="border-bottom:3px solid blue" colspan="2"|交差する場所 |- |[[国道10号]] |[[高岡町浦之名]] |起点 |- |[[宮崎県道24号高鍋高岡線]]<br />[[宮崎県道28号日南高岡線]] |[[高岡町五町]] |宮崎市五町交差点 |- |[[宮崎県道351号木脇高岡線]] |[[高岡町高浜]] | |- |国道10号 |高岡町高浜 |終点 |} === 沿線 === * 赤谷橋<ref name="akadani" /> * [[宮崎市役所]]高岡総合支所 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[宮崎県の県道一覧]] {{Road-stub}} {{国道10号}} {{DEFAULTSORT:みやさきけんとう359}} [[Category:宮崎県道|359]]
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Xuite
Xuite(隨意窩)は、中華電信によって設立されたブログサイト、SNS。ブログサービスは、独立した画像プラットフォームで保存されている。2011年に「隨意窩」と改名し、メールボックスや、クラウドデータキャビネットなどのサービスも含まれるようになった。 Xuiteメールボックスは2014年12月1日にサービス終了。Facebook、Yahoo!、Google、MSNからのログインも2020年5月をもって終了した。「Hami+クラウド」も2020年6月をもってサービス終了、Xuiteトラベルも2020年11月をもって削除された。 2023年8月31日をもって全サービスを終了し、すべてのデータが削除された。
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Xuite(隨意窩)は、中華電信によって設立されたブログサイト、SNS。ブログサービスは、独立した画像プラットフォームで保存されている。2011年に「隨意窩」と改名し、メールボックスや、クラウドデータキャビネットなどのサービスも含まれるようになった。 Xuiteメールボックスは2014年12月1日にサービス終了。Facebook、Yahoo!、Google、MSNからのログインも2020年5月をもって終了した。「Hami+クラウド」も2020年6月をもってサービス終了、Xuiteトラベルも2020年11月をもって削除された。 2023年8月31日をもって全サービスを終了し、すべてのデータが削除された。
{{Infobox Website | URL = {{URL|xuite.net}} | name = 隨意窩 Xuite | type = [[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]] | language = [[繁体字]]、[[英語]] | owner = [[中華電信]] | commercial = あり | registration = 任意 | num_users = {{start date and age|2005|||df=no}} | current_status = サービス終了 }}'''Xuite'''(隨意窩)は、[[中華電信]]によって設立された[[ブログ]]サイト、[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]。ブログサービスは、独立した画像プラットフォームで保存されている。2011年に「隨意窩」と改名し、メールボックスや、クラウドデータキャビネットなどのサービスも含まれるようになった<ref>{{Cite web |author=whc5678 |url=https://ithelp.ithome.com.tw/articles/10033905 |title=互動網站 - 中華電信 xuite 部落格 |access-date=2019-07-10 |date=2009-11-07 |publisher=iThome |archive-date=2022-06-13 |archive-url=https://archive.today/20220613013440/https://ithelp.ithome.com.tw/articles/10033905 |language=zh-tw}}</ref>。 Xuiteメールボックスは2014年12月1日にサービス終了。[[Facebook]]、[[Yahoo!]]、[[Google]]、[[MSN]]からのログインも2020年5月をもって終了した。「Hami+クラウド」も2020年6月をもってサービス終了<ref>{{Cite web |author=阿正老師 |url=https://pcrookie.com/?p=3646 |title=中華電信Hami+個人雲即將吹熄燈號!2020年6月底停止服務! |access-date=2020-03-12 |publisher=軟體玩家 |date=2020-01-21 |archive-url=https://archive.today/20220613013751/https://pcrookie.com/?p=3646 |archive-date=2022-06-13 |language=zh-tw}}</ref>、Xuiteトラベルも2020年11月をもって削除された。 2023年8月31日をもって全サービスを終了し、すべてのデータが削除された<ref>{{Cite web |author= |last=Storm.mg |date=2023-04-06 |title=快訊》Xuite隨意窩宣布關站!3階段「備份→刪除所有資料」時程公開 網幫QQ:時代眼淚-風傳媒 |url=https://www.storm.mg/lifestyle/4771634 |access-date=2023-04-06 |website=www.storm.mg |language=zh-TW}}</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} [[Category:2023年廃止のウェブサイト]] [[Category:2005年開設のウェブサイト]] [[Category:台湾のウェブサイト]] [[Category:ブログソフト]]
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ユディトのベツリアへの帰還
『ユディトのベツリアへの帰還』(ユディトのベツリアへのきかん、伊: Il Ritorno di Giuditta a Betulia, 英: The Return of Judith to Bethulia)は、イタリアの盛期ルネサンスの巨匠サンドロ・ボッティチェッリが1469年から1470年ごろに制作した絵画である。テンペラ画。主題は『旧約聖書』「ユディト記」で語られている古代イスラエルの女傑ユディトの伝説から取られている。ボッティチェッリ初期の小品で、対作品『ホロフェルネスの遺骸の発見』(La Scoperta del cadavere di Oloferne)とともに、トスカーナ大公妃ビアンカ・カッペッロの所有した絵画であったことが知られている。現在はフィレンツェのウフィツィ美術館に所蔵されている。またオハイオ州シンシナティのシンシナティ美術館にほぼ同じサイズのヴァリアントが所蔵されている。 「ユディト記」によると、ユディトはベツリア(英語版)に住む美しい未亡人で、唯一神に対する篤い信仰心の持ち主であった。 アッシリアの王ネブカドネザル2世はメディア王国との戦争に勝利したのち、協力しなかったイスラエルをふくむ地中海東岸の諸都市を滅ぼすため、司令官ホロフェルネスに大軍を与えて派遣した。ホロフェルネスは多くの諸都市を攻略したのち、イスラエルに迫り、ベツリアを包囲して水源を絶った。前線となった町の指導者オジアスは降伏を決意したが、ユディトはオジアスと人々を励ました。ユディトは身なりを整えたのち、召使の女を連れてホロフェルネスの陣営に赴き、ホロフェルネスに行軍の道案内を申し出た。美しいユディトは歓迎され、彼女を口説こうとするホロフェルネスの酒宴に呼び出された。しかしホロフェルネスは彼女に魅了されて泥酔してしまった。そこでユディトはホロフェルネスの剣で彼の首を切り離し、遺体をベッドから転がし落とした。そして召使が首を食糧の袋に入れると、彼女とともにベツリアに帰還した。 ユディトは夜明けの明るさのもと、故郷のベツリアへと向かって足早に歩いている。彼女の右手には血に濡れたホロフェルネスの剣が握られており、左手には彼女がイスラエルにもたらす平和の象徴であるオリーブの枝が揺れている。ユディトの背後には召使の女がつき従っている。彼女は頭上に盆を乗せ、その上にホロフェルネスの首が入った袋を置いているが、袋の口が開いているため、鑑賞者はホロフェルネスの首を確認することができる。画面右の背景にはベツリアの城壁があり、城門が開いてアッリシア軍と戦うために進軍するイスラエル軍の様子が描かれている。もう一方の絵画『ホロフェルネスの遺骸の発見』では、ホロフェルネスの首のない遺体がテント内で発見される様子が描かれている。 師であるフィリッポ・リッピがスポレートに移住したのちに制作された作品で、フィリッポ・リッピに加えて、アンドレア・デル・ヴェロッキオや、アントニオ・デル・ポッライオーロおよびピエロ・デル・ポッライオーロの影響が表れている。両作品では特に後の『プリマヴェーラ』(Primavera)の優雅さと線形主義を先取りしたポッライオーロ兄弟の影響が指摘されている。 作品の雰囲気は静けさと穏やかさがあり、夜明けの色彩は明るく、軽やかな衣文表現は光の中に溶け込んでいる。ボッティチェッリは作品の中で一瞬の静と動を絶妙なバランスで表現している。すなわちユディトは前方に歩を進める中で一瞬動きを止めて、鑑賞者のほうに身体の向きを変えている。そこにはわずかなメランコリックと、それ以上に自らを勝利者として誇示する姿がある。 小型の作品にもかかわらず、その描写は細密画のように繊細かつ微細である。これはカッソーネ(英語版)のような家具を装飾するために用いたものではなく、普段大切にしまわれ、特別な機会に間近で眺めたり、知人に見せるために使用することを目的としたことによると考えられている。 板絵はわずかに反っており、表面はやや磨耗しているように見えるが、保存状態は良好である。 制作経緯や初期の来歴は不明であるものの、すでに16世紀後半の史料に対作品『ホロフェルネスの遺骸の発見』とともに確認することができる。1584年に詩人・美術評論家のラファエロ・ボルギーニ(イタリア語版)は著書『絵画と彫刻の休息』(Il Riposo)の中で両作品について言及しており、それによると当時絵画を所有していたのは彫刻家・美術収集家のロドルフォ・シリガッティ(イタリア語版)であり、彼は絵画をヴェネツィア貴族のカッペッロ家(イタリア語版)の出身で、トスカーナ大公フランチェスコ1世・デ・メディチと結婚したビアンカ・カッペッロに献上したという。そのころビアンカ・カッペッロは「古い絵画や彫刻がはめこまれていた書斎を飾りつけようとしており、まさにこのボッティチェッリの小品が、他の作品と並べて飾るのに適していた」というのが献上した理由であった。当時、両作品は二連画として彫刻と金箔が施されたクルミ材の額縁に収められていた。1587年にビアンカが死去すると、絵画は翌1588年に息子のアントニオ・デ・メディチ(英語版)に相続され、メディチオ・ディ・サン・マルコ小邸宅(英語版)のコレクションに加わった。1633年にウィツィ宮殿に収蔵されたのち、背中合わせの形に額装された。現在、両作品は分離され、額装されていない状態のままガラスケースの中で展示されている。 オハイオ州のシンシナティ美術館にほぼ同時代のヴァリアント『ホロフェルネスの頭を持つユディト』(The Judith with the Head of Holofernes)が所蔵されている。サイズもほぼ同じであるが、高さ29.2センチ、横幅21.6センチと、シンシナティ版のほうがわずかに小さい。絵画の保存状態などの理由からボッティチェッリの真筆性がしばしば疑問視されているが、近年の調査によりボッティチェッリを思わせる下絵の存在が明らかとなったほか、損傷を受けていない箇所は1460年代後半から1470年代初頭のボッティチェリ作品との比較にも堪えうることが指摘されている。
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『ユディトのベツリアへの帰還』は、イタリアの盛期ルネサンスの巨匠サンドロ・ボッティチェッリが1469年から1470年ごろに制作した絵画である。テンペラ画。主題は『旧約聖書』「ユディト記」で語られている古代イスラエルの女傑ユディトの伝説から取られている。ボッティチェッリ初期の小品で、対作品『ホロフェルネスの遺骸の発見』とともに、トスカーナ大公妃ビアンカ・カッペッロの所有した絵画であったことが知られている。現在はフィレンツェのウフィツィ美術館に所蔵されている。またオハイオ州シンシナティのシンシナティ美術館にほぼ同じサイズのヴァリアントが所蔵されている。
{{Infobox 絵画作品 | image_file = Sandro Botticelli, Ritorno di Giuditta dal campo nemico - Rückkehr der Judith nach Bethulia - The Return of Judith to Bethulia.jpg | image_size = 350px | title = ユディトのベツリアへの帰還 | other_language_1 = [[イタリア語]] | other_title_1 = Il Ritorno di Giuditta a Betulia | other_language_2 = [[英語]] | other_title_2 = The Return of Judith to Bethulia | artist = サンドロ・ボッティチェッリ | year = 1469年-1470年ごろ | type = [[テンペラ]]、板 | height = 31 | width = 25 | city = [[フィレンツェ]] | museum = [[ウフィツィ美術館]] }} 『'''ユディトのベツリアへの帰還'''』(ユディトのベツリアへのきかん、{{lang-it-short|Il Ritorno di Giuditta a Betulia}}, {{lang-en-short|The Return of Judith to Bethulia}})は、[[イタリア]]の[[盛期ルネサンス]]の巨匠[[サンドロ・ボッティチェッリ]]が1469年から1470年ごろに制作した絵画である。[[テンペラ画]]。主題は『[[旧約聖書]]』「[[ユディト記]]」で語られている古代[[イスラエル]]の女傑[[ユディト]]の伝説から取られている。ボッティチェッリ初期の小品で、対作品『[[ホロフェルネスの遺骸の発見]]』({{it|La Scoperta del cadavere di Oloferne}})とともに、[[トスカーナ大公国|トスカーナ大公妃]][[ビアンカ・カッペッロ]]の所有した絵画であったことが知られている。現在は[[フィレンツェ]]の[[ウフィツィ美術館]]に所蔵されている<ref name=KM699>『西洋絵画作品名辞典』p.699。</ref><ref>ブルーノ・サンティ 1994年、p.12。</ref><ref name=IR7071>『イタリア・ルネサンス 都市と宮廷の文化展』p.70-71。</ref><ref name=UFg>{{cite web|title=Giuditta e la sua ancella tornano a Betulia |accessdate=2023/09/11 |url=https://catalogo.uffizi.it/it/29/ricerca/detailiccd/1185226/ |publisher=[[ウフィツィ美術館]]公式サイト}}</ref><ref name=UFo>{{cite web|title=scoperta del cadavere di Oloferne |accessdate=2023/09/11 |url=https://catalogo.uffizi.it/it/29/ricerca/detailiccd/1185227/ |publisher=ウフィツィ美術館公式サイト}}</ref><ref>{{cite web|title=Giuditta e la sua ancella tornano a Betulia |accessdate=2023/09/11 |url=https://catalogo.beniculturali.it/detail/HistoricOrArtisticProperty/0900188555 |publisher=イタリア文化財総合目録公式サイト}}</ref><ref>{{cite web|title=scoperta del cadavere di Oloferne |accessdate=2023/09/11 |url=https://catalogo.beniculturali.it/detail/HistoricOrArtisticProperty/0900188556 |publisher=イタリア文化財総合目録公式サイト}}</ref><ref name=CTV>{{cite web|title=Botticelli |accessdate=2023/09/11 |url=https://cavallinitoveronese.co.uk/general/view_artist/46 |publisher=Cavallini to Veronese}}</ref>。また[[オハイオ州]][[シンシナティ]]の[[シンシナティ美術館]]にほぼ同じサイズのヴァリアントが所蔵されている<ref>{{cite web|title=Judith with the Head of Holofernes |accessdate=2023/09/11 |url=https://www.cincinnatiartmuseum.org/art/explore-the-collection?id=22938448 |publisher=[[シンシナティ美術館]]公式サイト}}</ref><ref name=G>{{cite web|title=Judith with the Head of Holofernes |accessdate=2023/09/11 |url=https://artsandculture.google.com/asset/judith-with-the-head-of-holofernes-sandro-botticelli-italian-b-1444-1445-d-1510/3gHTY8E9svnblw?hl=en |publisher=[[Google アートプロジェクト|Google Arts & Culture]]}}</ref>。 == 主題 == 「ユディト記」によると、ユディトは{{ill|ベツリア|en|Bethulia}}に住む美しい未亡人で、[[唯一神]]に対する篤い信仰心の持ち主であった。 [[アッシリア]]の王[[ネブカドネザル2世]]は[[メディア王国]]との戦争に勝利したのち、協力しなかったイスラエルをふくむ地中海東岸の諸都市を滅ぼすため、司令官[[ホロフェルネス]]に大軍を与えて派遣した。ホロフェルネスは多くの諸都市を攻略したのち、イスラエルに迫り、ベツリアを包囲して水源を絶った。前線となった町の指導者オジアスは降伏を決意したが、ユディトはオジアスと人々を励ました。ユディトは身なりを整えたのち、召使の女を連れて[[ホロフェルネス]]の陣営に赴き、ホロフェルネスに行軍の道案内を申し出た。美しいユディトは歓迎され、彼女を口説こうとするホロフェルネスの酒宴に呼び出された。しかしホロフェルネスは彼女に魅了されて泥酔してしまった。そこでユディトはホロフェルネスの剣で彼の首を切り離し、遺体をベッドから転がし落とした。そして召使が首を食糧の袋に入れると、彼女とともにベツリアに帰還した<ref>『旧約聖書外典(上)』p.131-153「ユディト記」。</ref><ref>『西洋美術解読事典』p.349-350「ユディット」。</ref>。 == 作品 == [[File:Sandro Botticelli - La scoperta del cadavere di Oloferne e Il ritorno di Giuditta - Google Art Project.jpg|thumb|対作品『[[ホロフェルネスの遺骸の発見]]』。ウフィツィ美術館所蔵。]] [[File:Sandro Botticelli - Judith met het hoofd van Holofernes.jpg|thumb|晩年の『ホロフェルネスの頭を持つユディト』。1500年から1510年ごろ。[[アムステルダム国立美術館]]所蔵。]] ユディトは夜明けの明るさのもと、故郷のベツリアへと向かって足早に歩いている。彼女の右手には血に濡れたホロフェルネスの剣が握られており、左手には彼女がイスラエルにもたらす平和の象徴である[[オリーブ]]の枝が揺れている<ref name=IR7071 /><ref name=BD1516>バルバラ・ダイムリング 2001年、p.15-16。</ref>。ユディトの背後には召使の女がつき従っている。彼女は頭上に盆を乗せ、その上にホロフェルネスの首が入った袋を置いているが、袋の口が開いているため、鑑賞者はホロフェルネスの首を確認することができる<ref name=IR7071 /><ref name=CTV />。画面右の背景にはベツリアの城壁があり、城門が開いてアッリシア軍と戦うために進軍するイスラエル軍の様子が描かれている<ref name=CTV />。もう一方の絵画『ホロフェルネスの遺骸の発見』では、ホロフェルネスの首のない遺体がテント内で発見される様子が描かれている<ref name=IR7071 /><ref name=CTV />。 師である[[フィリッポ・リッピ]]が[[スポレート]]に移住したのちに制作された作品で、フィリッポ・リッピに加えて、[[アンドレア・デル・ヴェロッキオ]]や、[[アントニオ・デル・ポッライオーロ]]および[[ピエロ・デル・ポッライオーロ]]の影響が表れている<ref name=BD1516 /><ref>ブルーノ・サンティ 1994年、p.6。</ref>。両作品では特に後の『[[プリマヴェーラ]]』({{it|Primavera}})の優雅さと線形主義を先取りしたポッライオーロ兄弟の影響が指摘されている<ref name=UFg /><ref name=UFo />。 作品の雰囲気は静けさと穏やかさがあり、夜明けの色彩は明るく、軽やかな衣文表現は光の中に溶け込んでいる<ref name=BS10>ブルーノ・サンティ 1994年、p.10。</ref>。ボッティチェッリは作品の中で一瞬の静と動を絶妙なバランスで表現している。すなわちユディトは前方に歩を進める中で一瞬動きを止めて、鑑賞者のほうに身体の向きを変えている。そこにはわずかなメランコリックと、それ以上に自らを勝利者として誇示する姿がある<ref name=BD1516 />。 小型の作品にもかかわらず、その描写は細密画のように繊細かつ微細である<ref name=BD1516 /><ref name=BS10 />。これは{{ill|カッソーネ|en|Cassone}}のような家具を装飾するために用いたものではなく、普段大切にしまわれ、特別な機会に間近で眺めたり、知人に見せるために使用することを目的としたことによると考えられている<ref name=BD1516 /><ref name=CTV />。 板絵はわずかに反っており、表面はやや磨耗しているように見えるが、保存状態は良好である<ref name=CTV />。 == 来歴 == 制作経緯や初期の来歴は不明であるものの、すでに16世紀後半の史料に対作品『ホロフェルネスの遺骸の発見』とともに確認することができる。1584年に詩人・美術評論家の{{ill|ラファエロ・ボルギーニ|it|Raffaello Borghini}}は著書『絵画と彫刻の休息』({{it|Il Riposo}})の中で両作品について言及しており、それによると当時絵画を所有していたのは彫刻家・美術収集家の{{ill|リドルフォ・シリガッティ|it|Ridolfo Sirigatti|label=ロドルフォ・シリガッティ}}であり、彼は絵画を[[ヴェネツィア]]貴族の{{ill|カッペッロ家|it|Cappello (famiglia)}}の出身で、トスカーナ大公[[フランチェスコ1世・デ・メディチ]]と結婚したビアンカ・カッペッロに献上したという<ref name=IR7071 /><ref name=KM699 /><ref name=CTV />。そのころビアンカ・カッペッロは「古い絵画や彫刻がはめこまれていた書斎を飾りつけようとしており、まさにこのボッティチェッリの小品が、他の作品と並べて飾るのに適していた」というのが献上した理由であった。当時、両作品は二連画として彫刻と金箔が施された[[クルミ|クルミ材]]の額縁に収められていた<ref name=IR7071 />。1587年にビアンカが死去すると、絵画は翌1588年に息子の{{ill|アントニオ・デ・メディチ|en|Antonio de' Medici}}に相続され、{{ill|メディチオ・ディ・サン・マルコ小邸宅|en|Casino Mediceo di San Marco}}のコレクションに加わった。1633年にウィツィ宮殿に収蔵されたのち、背中合わせの形に額装された<ref name=IR7071 />。現在、両作品は分離され、額装されていない状態のままガラスケースの中で展示されている<ref name=CTV />。 == シンシナティ版 == オハイオ州のシンシナティ美術館にほぼ同時代のヴァリアント『ホロフェルネスの頭を持つユディト』({{en|The Judith with the Head of Holofernes}})が所蔵されている。サイズもほぼ同じであるが、高さ29.2センチ、横幅21.6センチと、シンシナティ版のほうがわずかに小さい。絵画の保存状態などの理由からボッティチェッリの真筆性がしばしば疑問視されているが、近年の調査によりボッティチェッリを思わせる下絵の存在が明らかとなったほか、損傷を受けていない箇所は1460年代後半から1470年代初頭のボッティチェリ作品との比較にも堪えうることが指摘されている<ref name=G />。 == ギャラリー == ; シンシナティ美術館のバージョン <gallery widths="150px" heights="180px" perrow="3" style="font-size:smaller"> Sandro Botticelli - Judith with the Head of Holofernes - Google Art Project.jpg| Sandro botticelli, giuditta con la testa di oloferne, sul retro una composizione araldica con cervi e scimmia, 1470 ca. 01.jpg| Sandro botticelli, giuditta con la testa di oloferne, sul retro una composizione araldica con cervi e scimmia, 1470 ca. 02.jpg| </gallery> == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * 『西洋絵画作品名辞典』[[黒江光彦]]監修、[[三省堂]](1994年) * ジェイムズ・ホール『西洋美術解読事典』[[高階秀爾]]監修、[[河出書房新社]](1988年) * 『[[旧約聖書]][[外典]](上)』[[関根正雄]]編「[[ユディト書]](抄)」新見宏訳、[[講談社文芸文庫]](1998年) * バルバラ・ダイムリング『ボッティチェッリ(ニューベーシック・アートシリーズ)』 [[タッシェン]](2001年) * ブルーノ・サンティ『ボッティチェッリ イタリア・ルネサンスの巨匠たち14』関根秀一訳、[[東京書籍]](1994年) * 『イタリア・ルネサンス 都市と宮廷の文化展』アントーニオ・バオルッチ、高梨光正、[[日本経済新聞社]](2001年) == 外部リンク == {{Commonscat|Judith and Holofernes (Botticelli,Uffizi)}} * [https://catalogo.uffizi.it/it/29/ricerca/detailiccd/1185226/ ウフィツィ美術館公式サイト, サンドロ・ボッティチェッリ『ベツリアに帰還するユディトと侍女』] * [https://www.cincinnatiartmuseum.org/art/explore-the-collection?id=22938448 シンシナティ美術館公式サイト, サンドロ・ボッティチェッリ『ホロフェルネスの頭を持つユディト』] {{サンドロ・ボッティチェッリ}} {{DEFAULTSORT:ゆていとのへつりあへのきかん}} [[Category:サンドロ・ボッティチェリの作品]] [[Category:1470年代の絵画]] [[Category:ユディトを描いた絵画]] [[Category:ウフィツィ美術館所蔵の絵画]]
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吉備津神社 (徳島市)
吉備津神社(きびつじんじゃ)は、徳島県徳島市春日に鎮座する神社である。 境内にある狸を祀った「芋の宮大明神」で知られている。 創建年は不詳。江戸時代に蜂須賀家政の家臣でこの地の庄屋であった鳥野七郎左衛門が鳥の森(現在の徳島ゴルフ倶楽部付近)に赴いた際にこの地の守り神として岡山県の吉備津神社の分神を祀ったことに始まる。同地に鎮座する大将軍神社と合わせて「吉備津大将軍神社」とも称される。 1920年(大正9年)3月に吉野川改修工事に伴い現在地に移転した。また境内には「芋の宮大明神」があり、かつて鳥の森の芋畑を荒らしていた狸を祀っている。
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吉備津神社(きびつじんじゃ)は、徳島県徳島市春日に鎮座する神社である。 境内にある狸を祀った「芋の宮大明神」で知られている。
{{神社 |名称= 吉備津神社 |画像= {{画像募集中|cat=徳島市}} |所在地= [[徳島県]][[徳島市]][[春日 (徳島市)|春日]]1丁目2-8 |位置 = {{coord|34|05|33.1|N|134|32|12.1|E|display=inline,title}} |祭神= [[彦五十狭芹彦命]] |社格= |創建= 不詳 |本殿= |別名= |例祭= [[7月25日]] |神事= }} '''吉備津神社'''(きびつじんじゃ)は、[[徳島県]][[徳島市]][[春日 (徳島市)|春日]]に鎮座する[[神社]]である<ref>{{Cite web|和書|url=https://yaokami.jp/1360010/|title=吉備津神社|publisher=卍八百万の神|accessdate=2023-9-11}}</ref>。 境内にある[[狸]]を祀った「'''芋の宮大明神'''」で知られている。 == 歴史 == 創建年は不詳。[[江戸時代]]に[[蜂須賀家政]]の家臣でこの地の庄屋であった鳥野七郎左衛門が鳥の森(現在の[[徳島ゴルフ倶楽部]]付近)に赴いた際にこの地の守り神として[[岡山県]]の[[吉備津神社]]の分神を祀ったことに始まる。同地に鎮座する大将軍神社と合わせて「吉備津大将軍神社」とも称される<ref>『[[角川日本地名大辞典]] 36 徳島県』([[1986年]] ISBN 4040013603)</ref>。 [[1920年]]([[大正]]9年)3月に[[吉野川 (代表的なトピック)|吉野川]]改修工事に伴い現在地に移転した。また境内には「芋の宮大明神」があり、かつて鳥の森の芋畑を荒らしていた狸を祀っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://jinja-bukkaku.net/detail.htm?jbId=110975|title=吉備津神社|publisher=神社がいいね・お寺がいいね|accessdate=2023-9-11}}</ref>。 == 境内社 == * 芋の宮大明神 == 祭神 == * [[彦五十狭芹彦命]] == 交通 == * [[徳島自動車道]]「[[徳島インターチェンジ]]」より車で約10分。 * [[四国旅客鉄道|JR]]「[[徳島駅]]」より車で約5分。 == 脚注 == <references /> == 外部リンク == * [https://yaokami.jp/1360010/ 吉備津神社] - 八百万の神 {{shinto-stub}} {{DEFAULTSORT:きひつしんしや}} [[category:徳島市の神社]]
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源顕重
源 顕重(みなもと の あきしげ、生没年不詳)は、平安時代後期の貴族。村上源氏、権大納言・源雅俊の子。官位は正四位下・神祇伯。 白河院政期前期の寛治8年(1094年)叙爵(従五位下)し、嘉保3年(1096年)侍従に任官する。左兵衛権佐を経て、康和4年(1102年)右近衛少将、康和6年(1104年)正月に左近衛少将と武官を歴任し、この間の康和5年(1103年)には備前権介を兼ねた。しかし、康和6年(1104年)11月に従四位下に叙せられると、少将を解かれてしまう。この頃、前斎院(令子内親王)の乳母子の女房(藤原為房の娘)を顕重が奪い取ったために、堀河天皇の不興を買ってしまう事件があり、これよって少将を解任された可能性が指摘されている。以降、長きに亘り備前(権)介のみを帯びた。 のち、鳥羽院政期中期までに正四位下・神祇伯に叙任され、鳥羽院政期末ごろまで10年以上に亘って神祇伯を務めた。またこの間の康治2年(1143年)伊勢権守を兼ねている。 『尊卑分脈』による。
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源 顕重は、平安時代後期の貴族。村上源氏、権大納言・源雅俊の子。官位は正四位下・神祇伯。
'''源 顕重'''(みなもと の あきしげ、生没年不詳)は、[[平安時代]]後期の[[貴族]]。[[村上源氏]]、[[大納言|権大納言]]・[[源雅俊]]の子。[[官位]]は[[正四位|正四位下]]・[[神祇伯]]。 == 経歴 == [[白河天皇|白河院政期]]前期の[[寛治]]8年([[1094年]])[[叙爵]]([[従五位|従五位下]])し、[[嘉保]]3年([[1096年]])[[侍従]]に[[任官]]する。[[兵衛府|左兵衛権佐]]を経て、[[康和]]4年([[1102年]])[[近衛府|右近衛少将]]、康和6年([[1104年]])正月に左近衛少将と武官を歴任し、この間の康和5年([[1103年]])には[[備前国#国司|備前権介]]を兼ねた。しかし、康和6年([[1104年]])11月に[[従四位|従四位下]]に叙せられると、少将を解かれてしまう。この頃、前[[斎院]]([[令子内親王]])の乳母子の女房([[藤原為房]]の娘)を顕重が奪い取ったために、[[堀河天皇]]の不興を買ってしまう事件があり<ref>『中右記』長治元年正月17日条</ref>、これよって少将を解任された可能性が指摘されている<ref>竹鼻[1984: 167]</ref>。以降、長きに亘り備前(権)介のみを帯びた<ref>『大鏡』村上の源氏 第七 武蔵野の草</ref>。 のち、[[鳥羽天皇|鳥羽院政期]]中期までに[[正四位|正四位下]]・[[神祇伯]]に叙任され、鳥羽院政期末ごろまで10年以上に亘って神祇伯を務めた。またこの間の[[康治]]2年([[1143年]])[[伊勢国#国司|伊勢権守]]を兼ねている。 == 官歴 == *[[寛治]]8年([[1094年]])正月5日:[[従五位|従五位下]]([[祐子内親王]]御給)<ref name="cyk">『中右記』</ref> *[[嘉保]]3年([[1096年]])正月24日:[[侍従]]<ref name="cyk" /> *[[永長]]2年([[1097年]])正月30日:見[[兵衛府|左兵衛権佐]]<ref name="cyk" /> *時期不詳:[[正五位下]]<ref name="knb">『近衛府補任』</ref> *[[康和]]4年([[1102年]])正月23日:[[近衛府|右近衛少将]]<ref name="dr">『殿暦』</ref> *康和5年([[1103年]])2月30日:兼[[備前国#国司|備前権介]]<ref name="knb" /> *康和6年([[1104年]])正月28日:左近衛少将<ref name="knb" />。11月11日:[[従四位|従四位下]]?、止少将?<ref name="knb" />。11月22日:還昇<ref name="cyk" /> *[[永久 (元号)|永久]]3年([[1115年]])11月14日:見備前介<ref name="dr" /> *[[大治]]4年([[1129年]]) 7月15日:見前備前介<ref>『長秋記』</ref> *[[康治]]元年([[1142年]]) 11月12日:見[[神祇伯]][[正四位|正四位下]]<ref name="hcs">『本朝世紀』</ref> *康治2年([[1143年]]) 正月27日:兼[[伊勢国#国司|伊勢権守]]<ref name="hcs" /> *[[久寿]]2年([[1155年]]) 10月:見神祇伯<ref>『台記』</ref> == 系譜 == 『[[尊卑分脈]]』による。 *父:[[源雅俊]] *母:高階業子([[高階為家]]の娘) *妻:[[藤原季仲]]の娘 **男子:源顕教 *生母不詳の子女 **男子:源実憲 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == *竹鼻績『今鏡 (下)』[[講談社]]〈[[講談社学術文庫]]〉、1984年 *市川久編『近衛府補任 第二』[[続群書類従完成会]]、1992年 *宮崎康充編『国司補任 第五』続群書類従完成会、1990年 *『尊卑分脈 第二篇』[[吉川弘文館]]、1987年 {{DEFAULTSORT:みなもと の あきしけ}} [[Category:村上源氏|あきしけ]] [[Category:平安時代後期の貴族]] [[Category:律令神祇官人]] [[Category:正四位下受位者]] [[Category:11世紀生]] [[Category:12世紀没]]
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吉備津神社 (曖昧さ回避)
吉備津神社(きびつじんじゃ)
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吉備津神社(きびつじんじゃ) 吉備津神社 - 岡山県岡山市に鎮座する神社。 吉備津神社 (茨城町) - 茨城県東茨城郡茨城町に鎮座する神社。 吉備津神社 (山添村) - 奈良県山辺郡山添村に鎮座する神社。 吉備津神社 (姫路市) - 兵庫県姫路市に鎮座する神社。 吉備津神社 (矢掛町) - 岡山県小田郡矢掛町に鎮座する神社。 吉備津神社 (広島市) - 広島県広島市に鎮座する神社。 吉備津神社 (福山市) - 広島県福山市に鎮座する神社。 吉備津神社 (神石高原町) - 広島県神石郡神石高原町に鎮座する神社。 吉備津神社 (徳島市) - 徳島県徳島市に鎮座する神社。
'''吉備津神社'''(きびつじんじゃ) * [[吉備津神社]] - [[岡山県]][[岡山市]]に鎮座する神社。 * [[吉備津神社 (茨城町)]] - [[茨城県]][[東茨城郡]][[茨城町]]に鎮座する神社。 * [[吉備津神社 (山添村)]] - [[奈良県]][[山辺郡]][[山添村]]に鎮座する神社。 * [[吉備津神社 (姫路市)]] - [[兵庫県]][[姫路市]]に鎮座する神社。 * [[吉備津神社 (矢掛町)]] - [[岡山県]][[小田郡]][[矢掛町]]に鎮座する神社。 * [[吉備津神社 (広島市)]] - [[広島県]][[広島市]]に鎮座する神社。 * [[吉備津神社 (福山市)]] - [[広島県]][[福山市]]に鎮座する神社。 * [[吉備津神社 (神石高原町)]] - [[広島県]][[神石郡]][[神石高原町]]に鎮座する神社。 * [[吉備津神社 (徳島市)]] - [[徳島県]][[徳島市]]に鎮座する神社。 {{DEFAULTSORT:きひつしんしやんさく}} {{aimai}} [[Category:同名の神社]]
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長谷川正治 (実業家)
長谷川 正治(はせがわ まさはる、1935年8月1日 - )は、日本の経営者。大京社長を務めた。 兵庫県出身。1958年に東京大学法学部を卒業し、同年に三和銀行に入行。1975年6月に取締役に就任し、1987年12月に常務、1990年6月に専務を経て、1993年6月に副頭取に就任し、1997年6月には大京社長に就任。2004年6月に顧問に就任。
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長谷川 正治は、日本の経営者。大京社長を務めた。
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廃墟の街
「廃墟の街」(はいきょのまち、原題: Desolation Row)もしくは「デソレーション・ロウ」はアメリカ合衆国のシンガーソングライター、ボブ・ディランによって1965年に書かれたアコースティック・ギター主体の楽曲。8月4日にレコーディングされ、ディラン6枚目のスタジオ・アルバム、追憶のハイウェイ 61 に最終曲として収録された。11分に及ぶその長さと、荒廃した都市部を印象させる深淵かつ哲学的な歌詞で知られる。 「廃墟の街」は人気、評価共に高い楽曲であり、ディラン最高傑作と見做されることも少なくない。 アルバムに収録されたバージョンではアコースティックだが、初めにレコーディングされたときはエレクトリック調だった。ファースト・テイクは1965年、7月29日晩のセッションで録音され、エレキ・ベースはハーヴィー・ブルックス、エレキ・ギターはアル・クーパーだった。エレキ・バージョンはノー・ディレクション・ホーム:ザ・サウンドトラックに収録された。 8月2日、ディランはさらに5テイクを追加で録音 。追憶のハイウェイ 61に収録されたバージョンは、8月4日、ニューヨークのコロンビア・レコードのスタジオで行われたオーバー・ダビングセッションでレコーディングされた。偶然ニューヨークにいたナッシュビルのギタリスト、チャーリー・マッコイがプロデューサーのボブ・ジョンストンに誘われる形で即興のアコースティック・ギター・パートを、ラス・サバカスがベース・ギターを担当した 。特に、マッコイのギターについて、メトロポリタン美術館出版部門の編集長であった著作家マーク・ポリゾッティは「ディランによる地平的な歌詞と催眠的なメロディが広大なキャンバスを描き出しているが、それに陰影を与えたのはマッコイである。」と述べ、マッコイの貢献を評価している 。8月に録音されたアウトテイクは、2015年にThe Bootleg Series Vol. 12: The Cutting Edge 1965–1966 に収録されてリリースされた。 1965年、12月3日にサン・フランシスコで行われたテレビ記者会見で「『廃墟の街』はどこにあるのか?」と尋ねられたディランは、「そうだな、メキシコの国境を越えたところがそういう場所だ。コカ・コーラ工場があることで有名な。」と返した 。最初のレコーディングでエレキ・ギターを弾いたアル・クーパーは、「廃墟の街」を、「売春宿、いかがわしいバー、ポルノ・スーパーマーケットがはびこり、改修もできず、救済も不可能な地域」であるマンハッタン8番街の一帯を指していると示唆した。 ポリゾッティは、曲名についてジャック・ケルアックの『デソレーション・エンジェルス (英: Desolation Angels)』とジョン・スタインベックの『キャナリー・ロウ (原題: Cannery Row)』 の双方から採られたのではないか、と述べている。 ローリング・ストーンズ誌の創刊者ヤン・ウェナーが、1969年にディランにアレン・ギンズバーグの影響を訊ねたときには、ディランは「ある時期には、彼の影響を受けたと自分でもそう思う。その時期が......『破滅の街』を書いたときみたいなニューヨーク風の時期だったんだ。そのときには、書いた曲が全て街の曲になったね。ギンズバーグの詩は街の詩だ。街のような響きの詩なんだ」と答えた。 曲の南西部風のアコースティック・ギター・バッキングと折衷主義的な雰囲気から、ポリゾッティは『廃墟の街』を「究極のカウボーイ・ソング。60年代アメリカという恐ろしい領域の『Home On The Range』」と称した。 最後から二番目のヴァースは「皆が叫んでいるーー『お前はどっちの側なんだ?!』と。 (英: Everybody’s shouting, “Which side are you on?!")」であるが、ここでの「皆 (英: Everybody)」はタイタニックの乗客であり、「Which Side Are You On?」とはフローレンス・リースが1931年に書いた組合支持の歌である。この部分から、ロバート・シェルトンは「単純な政治的コミットメント」を訴えることがこの曲の目的の一つであると主張した。彼によれば、「タイタニックのどちら側に乗ったとしても、どっちにせよ結果は変わらない」からだという。 2001年、『ラヴ・アンド・セフト』リリース前日、9月10日のUSAトゥデイによるインタビューの中で、ディランは「この曲は、徹頭徹尾、ミンストレル・ソングだ」と断言した。そして「子供の頃、カーニバルでブラックフェイスのミンストレル・ショーを見たんだが、それがマートル・コービンを見たのと同じくらい、自分に影響を与えたんだ」と続けて語った。 曲は「絞首刑の絵葉書が売られている (英: they're selling postcards of the hanging)」「サーカスが街に来た (英: the circus is in town)」という客観的な記述で始まる。ポリゾッティなどの批評家は、この部分について1920年にダルースで発生したリンチ事件との関連を指摘している。巡行サーカスで雇われていた3人の黒人男性が、白人女性を強姦したという噂によって数千人の白人によってリンチされ、「絞首刑」に処されたという事件であるが、このリンチの写真はポストカードとして実際に発売されていた。ダルースはディランの生誕地であり、当時8歳だったディランの父アブラム・ジマーマンは事件時現場から2ブロック程離れた近所に住んでいた。そして後になってアブラム・ジマーマンはこの事件のあらましを我が子ディランに語っていたという。これらエピソードから、ディランがこの事件に影響を受けて歌詞を書いたのではないかとポリゾッティらは結論付けた。 「廃墟の街」はそれまでのディラン作品の中で最も野心的であると評されてきた。ボブ・ディラン研究で知られる著作家クリントン・ハイリンは、タム・リンやマティ・グローヴスのような伝統的なフォーク・バラードの長さと、古典的なバラードの旋律を用いて書かれているが、しかし直線的な物語の筋はないと述べている。 1965年、デイリーテレグラフ紙で『追憶のハイウェイ 61』をレビューしたイギリスの詩人フィリップ・ラーキンは、この曲を「魅惑的な曲調と、おそらく不完全ではあるが神秘的な言葉」を持つ「マラソン」であると評した。アンディ・ギルは、「歴史的人物(アインシュタイン、ネロ)、聖書上の人物(ノア、カインとアベル)、フィクションの人物(オフィーリア、ロミオ、シンデレラ)、文学史的人物(エリオット、エズラ・パウンド)、そして上記のカテゴリーに当てはまらない人物(ドクター・フィルスと怪しい看護婦)など、大勢のアイコニックな人物が登場し、フェデリコ・フェリーニ風のグロテスクで奇怪なパレードの形をとる、11分にも及ぶエントロピーの叙事詩」であると述べた。 音楽史家ニコラス・シャフナーによれば、1966年にローリング・ストーンズが「ゴーイン・ホーム」をリリースするまでは、「廃墟の街」は最長のポップ・ミュージックの曲であった。 ローリング・ストーン誌は、ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング500において、この曲を83位に選出した。2020年、ガーディアン誌とGQ誌はボブ・ディランの最も偉大な50曲のリストで、この曲をそれぞれ5位と3位にランクインさせた。 1969年にワイト島フェスティバルにディランは出演したが、1970年のイベントではフェンスが取り壊される前に60万人のチケットのないファンが使用した丘の中腹エリアがディランに因んで「Desolation Row」と名付けられた。 1965年のエレキ・ギターを弾いて波紋を呼んだニューポート・フォーク・フェスティバルの後の、8月28日、ニューヨークのクイーンズ区のフォレスト・ヒルズ・テニス・スタジアムでの公演で「廃墟の街」は初めて演奏された。この曲はディランがエレクトリック・バンドを迎える前に演奏したアコースティック・セットの一つとして披露された。当時のこの演奏について、音楽評論家のロバート・シェルトンは「この曲は、ディラン氏の音楽的ロールシャッハの新たなる一つであり、幅広く様々な解釈が可能である......この曲は 『不条理のフォーク・ソング 』として最もよく特徴づけられるであろう。」と述べた。曲中のごちゃごちゃとしたイメージと、ひっきりなしにカフカ的な登場をする歴史的人物は、当初は笑いを以て迎えられた。 ライブ・バージョンは『MTVアンプラグド』(1995年、録音は1994年11月)、『ロイヤル・アルバート・ホール』(1998年、録音は1966年5月)、『The 1966 Live Recordings』(2016年ボックス・セット、複数の録音日があり、1つのコンサートはアルバム『The Real Royal Albert Hall 1966 Concert』として別途リリース)および『Live 1962-1966: Rare Performances From The Copyright Collections』(2018年、録音は1966年4月)に収録されている。なお、この曲は2012年11月19日のライブでも演奏されたほか、ディランの現在のツアーのセットリストに含まれていることもよくあり、2017年5月4日にもボーンマスで演奏された。 グレイトフル・デッドは1980年代半ばから「廃墟の街」をライブで演奏していた。「廃墟の街」の一節から名前が付けられたライブ・アルバム、『Postcards of the Hanging』に収録され、これは2002年にリリースされた。このアルバムには、1990年3月24日、ニューヨーク州アルバニーのニッカーボッカー・アリーナでの録音が収録されている。この曲は、グレイトフル・デッドのセットリストでは 「D-Row 」と略されることが多かった。 クリス・スミザーは2003年のアルバム『Train Home』でこの曲をカバーし、ボニー・レイットがヴォーカルとスライド・ギターで参加している。また、ロビン・ヒッチコックもアルバム『Robyn Sings』でこの曲をレコーディングしている。 オールド97'sのボーカル、レット・ミラーは新曲「Champaign, Illinois」のために「廃墟の街」のメロディーを借用した。この曲はディランの許可を得て録音され、オールド97'sの2010年のアルバム『The Grande Theatre, Volume One』に収録された。作曲のクレジットはディランとミラー。 イタリアのシンガーソングライター、ファブリツィオ・デ・アンドレとフランチェスコ・デ・グレゴリは、「廃墟の街」のイタリア語訳である「Via della Povertà」を書き、1974年のアルバム『Canzoni』に収録した。 ローラ・ブラニガンの1985年のシングル 「Spanish Eddie 」は、サビの部分でこの曲に触れている。"The night Spanish Eddie cashed it in / they were playingin' "Desolation Row" on radio"(スパニッシュ・エディが現金化した夜/ラジオで 「廃墟の街」が流れていた)。 「廃墟の街」という言葉は、ジョジョの奇妙な冒険第六部ストーンオーシャンの中で、ディオが語る、天国へ行くための14の言葉の中に含まれている。 アラン・ムーアとデイヴ・ギボンズによる『ウォッチメン』第1章のエンディングで、曲の一節である「At midnight, all the agents and the superhuman crew, go out and round up everyone that knows more than they do」が引用されている。シリーズ全集の序文で、デイヴ・ギボンズは「それはボブ・ディランから始まった」と語り、第1章で引用された歌詞は「いつかウォッチメンに火をつける火種」だったと述べている。 ザ・ウォー・オン・ドラッグスの5枚目のアルバム『I Don't Live Here Anymore』のタイトル曲には、「Like when we went to see Bob Dylan/ We danced to "Desolation Row"」という歌詞がある。
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「廃墟の街」もしくは「デソレーション・ロウ」はアメリカ合衆国のシンガーソングライター、ボブ・ディランによって1965年に書かれたアコースティック・ギター主体の楽曲。8月4日にレコーディングされ、ディラン6枚目のスタジオ・アルバム、追憶のハイウェイ 61 に最終曲として収録された。11分に及ぶその長さと、荒廃した都市部を印象させる深淵かつ哲学的な歌詞で知られる。 「廃墟の街」は人気、評価共に高い楽曲であり、ディラン最高傑作と見做されることも少なくない。
{{Infobox Song | Name = 廃墟の街 | Artist = [[ボブ・ディラン]] | Album = [[追憶のハイウェイ 61]] | English_title = Desolation Row | Released = 1965年8月30日 | Recorded = 1965年8月4日 | Genre = [[フォーク・ロック]]<ref>{{Cite web |last=Erlewine |first=Stephen Thomas |title=Highway 61 Revisited review |url=https://www.allmusic.com/album/highway-61-revisited-mw0000189730%7C |access-date=2019-07-14 |website=AllMusic }}{{Dead link|date=September 2023 |bot=InternetArchiveBot |fix-attempted=yes }}</ref> | Length = 11分21秒 | Label = [[コロンビア・レコード|コロンビア]] | Writer = [[ボブ・ディラン]] | Composer = [[ボブ・ディラン]] | Producer = [[ボブ・ディラン]] | Misc = }} 「'''廃墟の街'''」(はいきょのまち、原題: '''''Desolation Row''''')もしくは「デソレーション・ロウ」はアメリカ合衆国のシンガーソングライター、[[ボブ・ディラン]]によって1965年に書かれたアコースティック・ギター主体の楽曲。8月4日にレコーディングされ、ディラン6枚目のスタジオ・アルバム、[[追憶のハイウェイ 61]] に最終曲として収録された。11分に及ぶその長さと、荒廃した都市部を印象させる深淵かつ哲学的な歌詞で知られる。 「廃墟の街」は人気、評価共に高い楽曲であり、ディラン最高傑作と見做されることも少なくない<ref>{{Cite web |author=Franzon |first=Henrik |title=Acclaimed Music - Desolation Row |url=http://www.acclaimedmusic.net/Current/S2499.htm |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20160322013716/http://www.acclaimedmusic.net/Current/S2499.htm |archive-date=March 22, 2016 |access-date=October 26, 2016 |publisher=Acclaimed Music}}</ref>。 == レコーディング == アルバムに収録されたバージョンではアコースティックだが、初めにレコーディングされたときはエレクトリック調で、ファースト・テイクは1965年、7月29日晩のセッションで録音され、エレキ・ベースは[[ハーヴィー・ブルックス]]、エレキ・ギターは[[アル・クーパー]]だった。エレキ・バージョンは[[ノー・ディレクション・ホーム:ザ・サウンドトラック]]に収録された<ref>{{Harvnb|Gorodetsky|2005}}</ref>。 8月2日、ディランはさらに5テイクを追加で録音<ref>{{Cite web |author=Bjorner, Olof |date=2010-11-17 |title=Columbia Recording Studios, 2nd August, 1965 |url=http://www.bjorner.com/DSN00785%20(65).htm#DSN01090 |access-date=2011-02-14 |publisher=Bjorner's still on the road |archive-date=2020-11-22 |archive-url=https://web.archive.org/web/20201122082827/http://www.bjorner.com/DSN00785%20%2865%29.htm#DSN01090 |url-status=live}}</ref> 。追憶のハイウェイ 61に収録されたバージョンは、8月4日、ニューヨークのコロンビア・レコードのスタジオで行われたオーバー・ダビングセッションでレコーディングされた。偶然ニューヨークにいた[[ナッシュビル]]のギタリスト、チャーリー・マッコイがプロデューサーのボブ・ジョンストンに誘われる形で即興のアコースティック・ギター・パートを、ラス・サバカスがベース・ギターを担当した<ref name="Polizzotti141">{{Harvnb|Polizzotti|2006|pp=141–142}}</ref><ref>{{Cite web |author=Bjorner, Olof |date=2010-11-17 |title=Columbia Recording Studios, 4th August, 1965 |url=http://www.bjorner.com/DSN00785%20(65).htm#DSN01100 |access-date=2011-02-14 |publisher=Bjorner's still on the road |archive-date=2020-11-22 |archive-url=https://web.archive.org/web/20201122082827/http://www.bjorner.com/DSN00785%20%2865%29.htm#DSN01100 |url-status=live}}</ref> 。特に、マッコイのギターについて、メトロポリタン美術館出版部門の編集長であった著作家マーク・ポリゾッティは「ディランによる地平的な歌詞と催眠的なメロディが広大なキャンバスを描き出しているが、それに陰影を与えたのはマッコイである。」と述べ、マッコイの貢献を評価している<ref name="Polizzotti141" /> 。8月に録音されたアウトテイクは、2015年に''The Bootleg Series Vol. 12: The Cutting Edge 1965–1966'' に収録されてリリースされた<ref>{{Cite web |title=Bob Dylan – The Cutting Edge 1965–1966: The Bootleg Series Vol. 12 |url=http://www.bobdylan.com/us/news/bob-dylan-cutting-edge-1965-1966-bootleg-series-vol-12 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20160207000434/http://www.bobdylan.com/us/news/bob-dylan-cutting-edge-1965-1966-bootleg-series-vol-12 |archive-date=2016-02-07 |access-date=2015-11-22}}</ref>。 == 解釈 == 1965年、12月3日にサン・フランシスコで行われたテレビ記者会見で「『廃墟の街』はどこにあるのか?」と尋ねられたディランは、「そうだな、メキシコの国境を越えたところがそういう場所だ。コカ・コーラ工場があることで有名な。」と返した<ref>{{Harvnb|Cott|2006|p=72}}</ref> 。最初のレコーディングでエレキ・ギターを弾いたアル・クーパーは、「廃墟の街」を、「売春宿、いかがわしいバー、ポルノ・スーパーマーケットがはびこり、改修もできず、救済も不可能な地域」であるマンハッタン8番街の一帯を指していると示唆した<ref name="Polizzotti133">{{Harvnb|Polizzotti|2006|p=133}}</ref>。 ポリゾッティは、曲名について[[ジャック・ケルアック]]の『デソレーション・エンジェルス (英: ''Desolation Angels'')』と[[ジョン・スタインベック]]の『キャナリー・ロウ (原題: ''Cannery Row)''』 の双方から採られたのではないか、と述べている<ref name="Polizzotti1332">{{harvnb|Polizzotti|2006|p=133}}</ref>。 ローリング・ストーンズ誌の創刊者ヤン・ウェナーが、1969年にディランに[[アレン・ギンズバーグ]]の影響を訊ねたときには、ディランは「ある時期には、彼の影響を受けたと自分でもそう思う。その時期が……『破滅の街』を書いたときみたいなニューヨーク風の時期だったんだ。そのときには、書いた曲が全て街の曲になったね。ギンズバーグの詩は街の詩だ。街のような響きの詩なんだ」と答えた。 曲の[[南西部領土 (アメリカ合衆国)|南西部]]風のアコースティック・ギター・バッキングと折衷主義的な雰囲気から、ポリゾッティは『廃墟の街』を「究極のカウボーイ・ソング。60年代アメリカという恐ろしい領域の『''[[峠の我が家|Home On The Range]]''』」と称した<ref name="Polizzotti139">{{Harvnb|Polizzotti|2006|pp=139–141}}</ref>。 最後から二番目のヴァースは「皆が叫んでいるーー『お前はどっちの側なんだ?!』と。 (英: Everybody’s shouting, “Which side are you on?!")」であるが、ここでの「皆 (英: Everybody)」はタイタニックの乗客であり、「Which Side Are You On?」とはフローレンス・リースが1931年に書いた組合支持の歌である。この部分から、ロバート・シェルトンは「単純な政治的コミットメント」を訴えることがこの曲の目的の一つであると主張した。彼によれば、「タイタニックのどちら側に乗ったとしても、どっちにせよ結果は変わらない」からだという<ref>{{Harvnb|Shelton|1986|p=283}}</ref>。 2001年、『[[ラヴ・アンド・セフト]]』リリース前日、9月10日の[[USAトゥデイ]]によるインタビューの中で、ディランは「この曲は、徹頭徹尾、[[ミンストレル]]・ソングだ」と断言した。そして「子供の頃、カーニバルで[[ブラックフェイス]]の[[ミンストレル・ショー]]を見たんだが、それがマートル・コービンを見たのと同じくらい、自分に影響を与えたんだ」と続けて語った<ref>{{Cite web |author=Gunderson |first=Edna |date=2001-10-09 |title=Dylan is positively on top of his game |url=https://www.usatoday.com/life/music/2001-09-10-bob-dylan.htm#more |access-date=2011-03-02 |website=USA Today |archive-date=2009-04-04 |archive-url=https://web.archive.org/web/20090404091821/http://www.usatoday.com/life/music/2001-09-10-bob-dylan.htm#more |url-status=live}}</ref>。 曲は「絞首刑の絵葉書が売られている (英: they're selling postcards of the hanging)」「サーカスが街に来た (英: the circus is in town)」という客観的な記述で始まる。ポリゾッティなどの批評家は、この部分について1920年に[[ダルースリンチ事件|ダルースで発生したリンチ事件]]との関連を指摘している<ref>{{Cite news |last=Pisarro |first=Marcelo |date=2020-06-19 |title=Bob Dylan y el rescate de una vieja historia de racismo |language=es |newspaper=La Nación |url=https://www.lanacion.com.ar/opinion/dylan-y-el-rescate-de-una-vieja-historia-de-racismoel-pasado-en-una-cancion-nid2381897 |access-date=2020-06-20 |archive-date=2020-11-22 |archive-url=https://web.archive.org/web/20201122084622/https://www.lanacion.com.ar/opinion/dylan-y-el-rescate-de-una-vieja-historia-de-racismoel-pasado-en-una-cancion-nid2381897}}</ref>。巡行サーカスで雇われていた3人の黒人男性が、白人女性を強姦したという噂によって数千人の白人によってリンチされ、「絞首刑」に処されたという事件であるが、このリンチの写真はポストカードとして実際に発売されていた<ref>{{Harvnb|Polizzotti|2006|pp=134–135}}</ref>。[[ダルース (ミネソタ州)|ダルース]]はディランの生誕地であり、当時8歳だったディランの父アブラム・ジマーマンは事件時現場から2ブロック程離れた近所に住んでいた。そして後になってアブラム・ジマーマンはこの事件のあらましを我が子ディランに語っていたという。これらエピソードから、ディランがこの事件に影響を受けて歌詞を書いたのではないかとポリゾッティらは結論付けた。 == 評価 == 「廃墟の街」はそれまでのディラン作品の中で最も野心的であると評されてきた。ボブ・ディラン研究で知られる著作家クリントン・ハイリンは、[[タム・リン]]や[[マティ・グローヴス]]のような伝統的なフォーク・バラードの長さと、古典的なバラードの旋律を用いて書かれているが、しかし直線的な物語の筋はないと述べている<ref>{{Harvnb|Heylin|2009|p=248}}</ref>。 1965年、[[デイリーテレグラフ]]紙で『追憶のハイウェイ 61』をレビューしたイギリスの詩人[[フィリップ・ラーキン]]は、この曲を「魅惑的な曲調と、おそらく不完全ではあるが神秘的な言葉」を持つ「マラソン」であると評した<ref>{{Harvnb|Larkin|1985|p=151}}</ref>。アンディ・ギルは、「歴史的人物([[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]、[[ネロ]])、聖書上の人物([[ノア (聖書)|ノア]]、[[カインとアベル]])、フィクションの人物([[オフィーリア]]、[[ロミオとジュリエット|ロミオ]]、[[シンデレラ]])、文学史的人物([[T・S・エリオット|エリオット]]、[[エズラ・パウンド]])、そして上記のカテゴリーに当てはまらない人物(ドクター・フィルスと怪しい看護婦)など、大勢のアイコニックな人物が登場し、[[フェデリコ・フェリーニ]]風のグロテスクで奇怪なパレードの形をとる、11分にも及ぶ[[エントロピー]]の叙事詩」であると述べた<ref>{{Harvnb|Gill|1999|p=89}}</ref>。 音楽史家ニコラス・シャフナーによれば、1966年にローリング・ストーンズが「[[ゴーイン・ホーム]]」をリリースするまでは、「廃墟の街」は最長のポップ・ミュージックの曲であった<ref>{{Cite book |last=Schaffner |first=Nicholas |title=The British Invasion: From the First Wave to the New Wave |publisher=[[McGraw-Hill]] |year=1982 |isbn=0070550891 |page=69 |author-link=Nicholas Schaffner}}</ref>。 ''ローリング・ストーン誌は、ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・グレイテスト・ソン''グ500において、この曲を83位に選出した。2020年、ガーディアン誌とGQ誌はボブ・ディランの最も偉大な50曲のリストで、この曲をそれぞれ5位と3位にランクインさせた<ref>{{Cite web |author=Petridis |first=Alexis |date=April 9, 2020 |title=Bob Dylan's 50 greatest songs – ranked! |url=https://www.theguardian.com/music/2020/apr/09/bob-dylans-50-greatest-songs-ranked |access-date=April 17, 2022 |website=[[The Guardian]] |archive-date=April 9, 2020 |archive-url=https://web.archive.org/web/20200409235447/https://www.theguardian.com/music/2020/apr/09/bob-dylans-50-greatest-songs-ranked |url-status=live}}</ref><ref>{{Cite web |author=Burton |first=Charlie |date=June 15, 2020 |title=The 50 best Bob Dylan songs of all time |url=https://www.gq-magazine.co.uk/culture/article/bob-dylan-songs |access-date=April 17, 2022 |website=[[GQ]] |archive-date=April 12, 2022 |archive-url=https://web.archive.org/web/20220412100112/https://www.gq-magazine.co.uk/culture/article/bob-dylan-songs |url-status=live}}</ref>。 1969年にワイト島フェスティバルにディランは出演したが、1970年のイベントではフェンスが取り壊される前に60万人のチケットのないファンが使用した丘の中腹エリアがディランに因んで「Desolation Row」と名付けられた。 == ライブ・パフォーマンス == 1965年のエレキ・ギターを弾いて波紋を呼んだニューポート・フォーク・フェスティバルの後の、8月28日、ニューヨークのクイーンズ区のフォレスト・ヒルズ・テニス・スタジアムでの公演で「廃墟の街」は初めて演奏された。この曲はディランがエレクトリック・バンドを迎える前に演奏したアコースティック・セットの一つとして披露された。当時のこの演奏について、音楽評論家のロバート・シェルトンは「この曲は、ディラン氏の音楽的ロールシャッハの新たなる一つであり、幅広く様々な解釈が可能である……この曲は 『不条理のフォーク・ソング 』として最もよく特徴づけられるであろう。」と述べた。曲中のごちゃごちゃとしたイメージと、ひっきりなしにカフカ的な登場をする歴史的人物は、当初は笑いを以て迎えられた。 ライブ・バージョンは『MTVアンプラグド』(1995年、録音は1994年11月)、『ロイヤル・アルバート・ホール』(1998年、録音は1966年5月)、『The 1966 Live Recordings』(2016年ボックス・セット、複数の録音日があり、1つのコンサートはアルバム『The Real Royal Albert Hall 1966 Concert』として別途リリース)および『Live 1962-1966: ''Rare Performances From The Copyright Collections''』(2018年、録音は1966年4月)に収録されている。なお、この曲は2012年11月19日のライブでも演奏されたほか、ディランの現在のツアーのセットリストに含まれていることもよくあり、2017年5月4日にもボーンマスで演奏された<ref>{{Cite web |date=November 19, 2012 |title=Philadelphia, PA – Wells Fargo Center |website=The Official Bob Dylan Site |url=http://www.bobdylan.com/us/tour/2012-11-19-wells-fargo-center |access-date=July 25, 2013 |archive-date=August 4, 2013 |archive-url=https://web.archive.org/web/20130804162654/http://www.bobdylan.com/us/tour/2012-11-19-wells-fargo-center |url-status=live}}</ref>。 == その他 == === カバー・バージョン === グレイトフル・デッドは1980年代半ばから「廃墟の街」をライブで演奏していた<ref>{{Cite web |title=Grateful Dead Desolation Row |url=https://www.dead.net/song/desolation-row |website=Grateful Dead |access-date=2019-11-20 |archive-date=2019-06-02 |archive-url=https://web.archive.org/web/20190602190421/https://www.dead.net/song/desolation-row |url-status=live}}</ref>。「廃墟の街」の一節から名前が付けられたライブ・アルバム、『Postcards of the Hanging』に収録され、これは2002年にリリースされた。このアルバムには、1990年3月24日、ニューヨーク州アルバニーのニッカーボッカー・アリーナでの録音が収録されている。この曲は、グレイトフル・デッドのセットリストでは 「D-Row 」と略されることが多かった<ref>{{Cite web |title=Grateful Dead Greatest Stories Ever Told - "Desolation Row" |url=https://www.dead.net/features/greatest-stories-ever-told/greatest-stories-ever-told-desolation-row |access-date=2021-01-05 |website=Grateful Dead |language=en |archive-date=2021-01-17 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210117061022/https://www.dead.net/features/greatest-stories-ever-told/greatest-stories-ever-told-desolation-row |url-status=live}}</ref>。 クリス・スミザーは2003年のアルバム『Train Home』でこの曲をカバーし、[[ボニー・レイット]]がヴォーカルとスライド・ギターで参加している<ref>{{Cite web |author=Choates |first=Rick |year=2003 |title=Chris Smither's Long Train Home |url=http://www.northernexpress.com/editorial/music.asp?id=174 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20070217113701/http://www.northernexpress.com/editorial/music.asp?id=174 |archive-date=2007-02-17 |access-date=2009-01-01 |publisher=Northern Express}}</ref>。また、ロビン・ヒッチコックもアルバム『Robyn Sings』でこの曲をレコーディングしている<ref>{{Cite web |author=Downing |first=Brian |title=Robin Sings: Review |url=http://allmusic.com/album/robyn-sings-r614586 |access-date=2011-03-02 |website=Allmusic |archive-date=2011-01-29 |archive-url=https://web.archive.org/web/20110129031304/http://www.allmusic.com/album/robyn-sings-r614586 |url-status=live}}</ref>。 [[オールド97'S|オールド97's]]のボーカル、レット・ミラーは新曲「Champaign, Illinois」のために「廃墟の街」のメロディーを借用した。この曲はディランの許可を得て録音され、オールド97'sの2010年のアルバム『The Grande Theatre, Volume One』に収録された。作曲のクレジットはディランとミラー<ref>{{Cite web |author=Ferguson |first=Jon |date=2010-09-09 |title=Old 97s' Rhett Miller found unexpected inspiration in 'Desolation Row' |url=http://articles.lancasteronline.com/local/4/287485 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20101105235208/http://articles.lancasteronline.com/local/4/287485 |archive-date=2010-11-05 |access-date=2010-09-18 |website=Lancasteronline.com}}</ref>。 イタリアのシンガーソングライター、ファブリツィオ・デ・アンドレとフランチェスコ・デ・グレゴリは、「廃墟の街」のイタリア語訳である「Via della Povertà」を書き、1974年のアルバム『Canzoni』に収録した。 === 大衆文化への影響 === [[ローラ・ブラニガン]]の1985年のシングル 「Spanish Eddie 」は、サビの部分でこの曲に触れている。"The night Spanish Eddie cashed it in / they were playingin' "Desolation Row" on radio"(スパニッシュ・エディが現金化した夜/ラジオで 「廃墟の街」が流れていた)<ref>{{Cite web |title=Laura Branigan – Spanish Eddie |url=https://genius.com/Laura-branigan-spanish-eddie-lyrics |access-date=2022-01-23 |archive-date=2022-01-23 |archive-url=https://web.archive.org/web/20220123221823/https://genius.com/Laura-branigan-spanish-eddie-lyrics |url-status=live}}</ref>。 「廃墟の街」という言葉は、[[ジョジョの奇妙な冒険]]第六部[[ストーンオーシャン]]の中で、ディオが語る、天国へ行くための14の言葉の中に含まれている。 [[アラン・ムーア]]とデイヴ・ギボンズによる『[[ウォッチメン]]』第1章のエンディングで、曲の一節である「At midnight, all the agents and the superhuman crew, go out and round up everyone that knows more than they do」が引用されている<ref>{{Cite web |title=Bob Dylan comic book references |date=24 May 2022 |url=https://www.cbr.com/bob-dylan-comic-book-references-81/ |access-date=11 October 2022 |archive-date=11 October 2022 |archive-url=https://web.archive.org/web/20221011175920/https://www.cbr.com/bob-dylan-comic-book-references-81/ |url-status=live}}</ref>。シリーズ全集の序文で、デイヴ・ギボンズは「それはボブ・ディランから始まった」と語り、第1章で引用された歌詞は「いつかウォッチメンに火をつける火種」だったと述べている<ref>{{Cite book |last=Moore |first=Alan |url=https://www.worldcat.org/oclc/73994755 |title=Watchmen |date=2005 |others=Dave Gibbons, John Higgins |isbn=978-0-930289-23-2 |location=New York |oclc=73994755}}</ref>。 ザ・ウォー・オン・ドラッグスの5枚目のアルバム『I Don't Live Here Anymore』のタイトル曲には、「Like when we went to see Bob Dylan/ We danced to "Desolation Row''"」という歌詞がある''<ref>{{Cite web |url=https://genius.com/The-war-on-drugs-i-dont-live-here-anymore-lyrics |title=The War on Drugs (Ft. Lucius) – I Don't Live Here Anymore |access-date=2022-11-29 |archive-date=2022-11-29 |archive-url=https://web.archive.org/web/20221129130008/https://genius.com/The-war-on-drugs-i-dont-live-here-anymore-lyrics |url-status=live}}</ref>。 == 脚注 == === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == {{refbegin}} * {{Citation|title=Dylan on Dylan: The Essential Interviews|year=2006|publisher=Hodder & Stoughton|editor-last=Cott|editor-first=Jonathan|isbn=0-340-92312-1}} * {{Cite book |last=Gill |first=Andy |title=Classic Bob Dylan: My Back Pages |publisher=Carlton |year=1999 |isbn=1-85868-599-0}} * {{Cite AV media notes|first=Eddie|last=Gorodetsky|year=2005|publisher=Columbia Records|location=New York|title=No Direction Home: The Soundtrack—The Bootleg Series Volume 7|others=Bob Dylan|type=booklet}} * {{Citation|title=Bob Dylan: Behind the Shades Revisited|last=Heylin|first=Clinton|year=2000|publisher=Perennial Currents|isbn=0-06-052569-X}} * {{Citation|title=Revolution In The Air: The Songs of Bob Dylan, Volume One: 1957–73|last=Heylin|first=Clinton|year=2009|publisher=Constable|isbn=978-1-55652-843-9}} * {{Cite book |last=Larkin |first=Philip |title=All What Jazz |publisher=Faber and Faber |year=1985 |isbn=0-571-13476-9}} * {{Cite book |last=Polizzotti |first=Mark |title=Highway 61 Revisited |publisher=Continuum |year=2006 |isbn=0-8264-1775-2}} * {{Cite book |last=Shelton |first=Robert |title=No Direction Home: The Life and Music of Bob Dylan |publisher=Ballantine |year=1986 |isbn=0-345-34721-8}} {{refend}} == 外部リンク == * [http://www.bobdylan.com/us/songs/desolation-row "Desolation Row", complete song lyrics] * [https://www.rollingstone.com/music/lists/the-500-greatest-songs-of-all-time-20110407/bob-dylan-desolation-row-20110526 ''Rolling Stone'' article on "Desolation Row" as the 187th Greatest Song of All Time] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20121211110958/https://www.rollingstone.com/music/lists/the-500-greatest-songs-of-all-time-20110407/bob-dylan-desolation-row-20110526|date=2012-12-11}} [[Category:ロック・バラード]] [[Category:フォーク・バラード]] [[Category:ボブ・ジョンストンがプロデュースした楽曲]] [[Category:ボブ・ディランの楽曲]] [[Category:ボブ・ディランが作詞作曲した楽曲]] [[Category:1965年の楽曲]]
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山崎治平
山崎 治平(やまざき じへい、1946年6月30日 - )は、日本の経営者。大京社長を務めた。 京都府出身。1971年に京都大学理学部数学学科を卒業し、同年に三和銀行に入行。1998年6月に取締役に就任し、2001年3月に常務、2002年5月にUFJ銀行専務を経て、2004年6月には大京社長に就任。2005年6月に会長に就任。
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山崎 治平は、日本の経営者。大京社長を務めた。
'''山崎 治平'''(やまざき じへい、[[1946年]][[6月30日]] - )は、日本の[[経営者]]。[[大京]]社長を務めた。 == 経歴 == [[京都府]]出身{{sfn|人事興信所|2009|loc=や101頁|ref=jinji-45-ge}}。[[1971年]]に[[京都大学]]理学部数学学科を卒業し、同年に[[三和銀行]]に入行{{sfn|人事興信所|2009|loc=や101頁|ref=jinji-45-ge}}。[[1998年]]6月に取締役に就任し、[[2001年]]3月に常務、[[2002年]]5月に[[UFJ銀行]]専務を経て、[[2004年]]6月には[[大京]]社長に就任{{sfn|人事興信所|2009|loc=や101頁|ref=jinji-45-ge}}<ref>2004年 5月18日 日本経済新聞 朝刊 p15</ref>。[[2005年]]6月に会長に就任{{sfn|人事興信所|2009|loc=や101頁|ref=jinji-45-ge}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Citation|和書|author = 人事興信所 編|title = 人事興信録 第45版 下|publisher = 人事興信所|series = |volume = |edition = |date = 2009|pages = |url = |ref = jinji-45-ge}} {{Normdaten}} {{先代次代|大京社長|2004年 - 2005年|[[長谷川正治 (実業家)|長谷川正治]]|[[田代正明]]}} {{デフォルトソート:やまさき しへい}} [[Category:21世紀日本の実業家]] [[Category:日本の銀行家]] [[Category:三菱UFJフィナンシャル・グループの人物]] [[Category:オリックスグループの人物]] [[Category:京都大学出身の人物]] [[Category:京都府出身の人物]] [[Category:1946年生]] [[Category:存命人物]]
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アプリボット
株式会社アプリボット(英: Applibot, Inc.)は、日本のコンピュータゲーム開発会社。モバイル向けゲームアプリの開発・運営を主業務とする。サイバーエージェントの100%子会社。 2010年7月7日、サイバーエージェントがスマートフォン向けアプリ事業の強化を目的に完全子会社として設立。主にスマートフォン向けゲームアプリの開発・運営・配信を行っている。 2016年10月3日、声優・アニメに特化したメディア「Nizista(ニジスタ)」をオープン。2016年11月1日付でアプリボットの100%子会社として株式会社ニジスタを設立。2023年5月1日付で吸収合併した。 2019年2月、クリエイティブスタジオ「SSS by applibot」の設立を発表。イラストレーターの米山舞、7ZEL、BUNBUNらが所属する。 2021年2月22日より、ディアステージと協業でアイドルプロジェクトGive&Giveを始動。2022年2月28日をもって活動休止。
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株式会社アプリボットは、日本のコンピュータゲーム開発会社。モバイル向けゲームアプリの開発・運営を主業務とする。サイバーエージェントの100%子会社。 2010年7月7日、サイバーエージェントがスマートフォン向けアプリ事業の強化を目的に完全子会社として設立。主にスマートフォン向けゲームアプリの開発・運営・配信を行っている。
{{Pathnav|サイバーエージェント|frame=1}} {{基礎情報 会社 |社名 = 株式会社アプリボット |英文社名 = Applibot, Inc. |ロゴ = |画像 = |画像説明 = |種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] |市場情報 = |略称 = |国籍 = {{JPN}} |本社郵便番号 = 150-0042 |本社所在地 = [[東京都]][[渋谷区]][[宇田川町]]40番1号<br />Abema Towers |本社緯度度 = |本社経度度 = |本社地図国コード = JP-13 |本店郵便番号 = |本店所在地 = |設立 = [[2010年]][[7月7日]] |業種 = |統一金融機関コード = |SWIFTコード = |事業内容 = |代表者 = 代表取締役社長 [[浮田光樹]] |資本金 = |発行済株式総数 = |従業員数 = |決算期 = |主要株主 = 株式会社[[サイバーエージェント]] 100% |外部リンク = |特記事項 = }} '''株式会社アプリボット'''({{Lang-en-short|Applibot, Inc.}})は、日本のコンピュータゲーム開発会社。モバイル向けゲームアプリの開発・運営を主業務とする。[[サイバーエージェント]]の100%子会社。 2010年7月7日、[[サイバーエージェント]]が[[スマートフォン]]向けアプリ事業の強化を目的に完全子会社として設立<ref>{{Wayback |url=http://www.cyberagent.co.jp/news/press/2010/0707_1.html |title=スマートフォン向けアプリケーション会社 株式会社アプリボットの設立について|date= 20101206010240}}</ref>。主にスマートフォン向けゲームアプリの開発・運営・配信を行っている。 == 開発タイトル == {|class="sortable wikitable" style="font-size:small;" !配信日 !作品名 !プラットフォーム !配信元 !備考 |- |2011年10月 || 東京ギャング || iOS || アプリボット || |- |2012年2月 || rowspan="2" | [[不良道 〜ギャングロード〜]] || iOS || rowspan="2" | アプリボット || rowspan="2" | 2016年8月19日 サービス終了<ref>[https://gamebiz.jp/news/167530 アプリボット、『不良道~ギャングロード~』のサービスを終了…App Store売上ランキングでも首位を獲得した実績 | gamebiz]</ref> |- |2012年12月 || Android |- |2012年7月 || レジェンド オブ モンスターズ || iOS || アプリボット || 2015年11月 [[マイネット|マイネットゲームス]]に移管{{R|mynet}} |- |2012年8月 || Monster Maestro || iOS || アプリボット || 海外向けのみ |- |2012年11月 || GALAXY SAGA || iOS || アプリボット || 海外向けのみ |- |2013年8月14日 || rowspan="2" | カオスドライヴ<br />→リバースドライヴ || iOS || rowspan="2" | アプリボット || rowspan="2" | 2015年8月 リニューアル、改題<br />2015年11月 マイネットゲームスに移管{{R|mynet}}<br />2017年10月10日 サービス終了<ref>[https://gamebiz.jp/news/195229 マイネット、『リバースドライヴ』のサービスを2017年10月10日をもって終了 | ]</ref> |- |2014年1月7日 || Android |- |2014年1月 || rowspan="2" | ジョーカー〜ギャングロード〜 || iOS || rowspan="2" | アプリボット || rowspan="2" | 2022年6月24日 マイネットゲームスに移管<ref>[https://gamebiz.jp/news/350941 マイネットゲームス、アプリボットより「ジョーカー~ギャングロード~」の配信権を取得 6月24日から運営開始 | gamebiz]</ref> |- |2014年7月16日 || Android |- |2014年5月9日 || rowspan="2" | 大乱闘RPG ガーディアンハンター || iOS || rowspan="2" | アプリボット || rowspan="2" | 2015年3月 サービス終了<ref>[https://gamebiz.jp/news/141884 アプリボット、フル3Dアクションゲーム『大乱闘RPG ガーディアンハンター』のサービスを終了 | gamebiz]</ref> |- |2014年8月1日 || Android |- |2014年7月 || 星くず対戦クラッシュパレード || iOS || アプリボット || 2014年11月4日 サービス終了<ref>[https://gamebiz.jp/news/134870 アプリボット、『星くず大戦クラッシュパレード』を11月4日にサービス終了…事前登録中のAndroid版はサービス提供中止に | gamebiz]</ref> |- |2014年8月15日 || [[グリモア〜私立グリモワール魔法学園〜]]<br />→グリモアA~私立グリモワール魔法学園~ || iOS/Android || アプリボット || 2019年4月1日 リニューアル、改題<ref>[https://www.applibot.co.jp/news/20190401130019/ 株式会社アプリボット | ニュース]</ref><br />2020年11月30日 サービス終了<ref>[https://gamebiz.jp/news/277634 アプリボット、『グリモアA~私立グリモワール魔法学園~』のサービスを2020年11月30日をもって終了 オフライン版アプリの配信を予定 | gamebiz]</ref> |- |2014年10月10日 || スゴロクモンスターズ || iOS/Android || アプリボット || [[アプシィ]]が開発<ref>[https://appci.jp/works/ 実績紹介 | アプシィ株式会社【appci】]</ref><br />2015年6月30日 サービス終了<ref>[https://gamebiz.jp/news/145305 アプリボット、ボードゲーム『スゴロクモンスターズ』を6月30日にサービス終了 | gamebiz]</ref> |- |2017年8月 || 神式一閃 カムライトライブ || iOS/Android || アプリボット || 2020年6月 マイネットに移管<ref name="mynet">[https://www.mynet.co.jp/corporate/history 沿革|株式会社マイネット]</ref> |- |2018年1月 || グリメロ~グリモワールメロディプロジェクト~ || iOS/Android || アプリボット || 配信終了 |- |2018年2月 || リトルチャンピオンズ || iOS/Android || アプリボット || 2019年1月7日 サービス終了<ref>[https://gamebiz.jp/news/224356 アプリボット、『リトルチャンピオンズ』のサービスを2019年1月7日をもって終了 | gamebiz]</ref> |- |2019年10月21日 || SEVEN's CODE―セブンスコード― || iOS/Android || アプリボット || [[UNLIMITED STUDiO]]との共同開発<br />2022年6月30日 サービス終了<ref>[https://gamebiz.jp/news/349546 アプリボット、『セブンスコード』のサービスを2022年6月30日をもって終了 | gamebiz]</ref> |- |2019年10月25日 || rowspan="2" | BLADE XLORD―ブレイドエクスロード― || iOS/Android || rowspan="2" | アプリボット || rowspan="2" | 2021年 マイネットゲームスに移管<br />2022年7月29日 サービス終了<ref>[https://dengekionline.com/articles/135910/ 騎士の誇りを胸に。アプリ『ブレイドエクスロード』サービス終了 - 電撃オンライン]</ref> |- |2020年4月21日 || PC(DMM GAMES) |- |2019年11月 || 劇場推理 人狼狂(グルイ) || iOS/Android、ブラウザ || アプリボット || [[CyberZ]]との共同開発<br />2020年6月15日 サービス終了<ref>[https://www.4gamer.net/games/486/G048631/20200518061/ 「劇場推理 人狼狂(グルイ)」のサービスが6月15日に終了。有償アイテムの販売は6月1日15:00まで] - 4gamer.net</ref> |- |2021年2月18日 || [[ニーア リィンカーネーション]] || iOS/Android || [[スクウェア・エニックス]] || |- |2023年9月7日 || [[ファイナルファンタジーVII エバークライシス]] || iOS/Android || [[スクウェア・エニックス]] || |} *出典:公式サイト[https://www.applibot.co.jp/about/] == その他の事業 == 2016年10月3日、声優・アニメに特化したメディア「Nizista(ニジスタ)」をオープン。2016年11月1日付でアプリボットの100%子会社として株式会社ニジスタを設立<ref>[https://www.applibot.co.jp/news/20161101150000/ 株式会社ニジスタ設立のお知らせ] - 株式会社アプリボット</ref>。2023年5月1日付で吸収合併した<ref>[https://gamebiz.jp/news/366436 CAグループのアプリボット、子会社のニジスタを5月1日付で吸収合併 | gamebiz]</ref>。 2019年2月、クリエイティブスタジオ「SSS by applibot」の設立を発表。イラストレーターの[[米山舞]]、[[7ZEL]]、[[BUNBUN (イラストレーター)|BUNBUN]]らが所属する<ref>[https://www.4gamer.net/games/999/G999905/20190219017/ アプリボットがクリエイティブスタジオ「SSS by applibot」を設立。アニメ,映画のデザイン制作に参入] - 4gamer.net</ref><ref>[https://app.famitsu.com/20190308_1422458/ アプリボットの新スタジオ“SSS by applibot”が目指すものとは?マネージャーの高木正文氏に訊く | ファミ通App【スマホゲーム情報サイト】]</ref>。 2021年2月22日より、[[ディアステージ]]と協業でアイドルプロジェクト[[Give&Give]]を始動<ref>[https://gamebiz.jp/news/289476 アプリボット、ディアステージと「グローバルで戦えるアイドル」を目指すアイドルプロジェクト「Give&Give」を始動 | gamebiz]</ref>。2022年2月28日をもって活動休止。 == 出典 == {{reflist}} == 外部リンク == * {{Official|1=https://www.applibot.co.jp/|name=株式会社アプリボット}} {{Company-stub}} {{Video-game-stub}} {{サイバーエージェント}} {{デフォルトソート:あふりほつと}} [[Category:サイバーエージェント]] [[Category:日本のコンピュータゲームメーカー・ブランド]] [[Category:オンラインゲーム運営元]] [[Category:渋谷区の企業]] [[Category:2010年設立の企業]]
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ゆとなみ社
株式会社ゆとなみ社(ゆとなみしゃ)は、日本の京都府京都市にある企業。「銭湯を日本から消さない」をモットーに、公衆浴場(銭湯)の継業とコンサルティングを主な業務とする。 2023年現在、運営する銭湯は京都・サウナの梅湯をはじめとして、日本全国に8軒。 2015年、湊三次郎が、銭湯が次々と廃業する現状を憂い、廃業となったサウナの梅湯を引き継ぎ経営者となる。当時20代の若者だった三次郎が銭湯を引き継いだ件は話題を呼び、雑誌やテレビなどさまざまなメディアで取り上げられた。 開業当初の赤字運営を改善後、滋賀県の都湯を皮切りに、地方銭湯の再建モデルを目指しつつ、休廃業した銭湯を次々に継業した。 2019年、湊三次郎が個人事業主としての屋号を梅湯からゆとなみ社に変更。2022年にはゆとなみ社を法人化した。 2023年11月、京都新聞が京都府と滋賀県にゆかりがあり、顕著な功績を上げた個人や団体に贈る「京都新聞大賞」を受賞した。 梅湯開業当初は月20万円の赤字で、トラブルの連続する経営を三次郎がワンオペで対応するという厳しい状況であったが、施設の改装(番台式からフロント式への変更など)、燃料を薪に変更する、営業時間の延長と朝風呂の実施、浴室へのシャンプー・ボディソープの設置、音楽ライブの開催などの経営改善をして、2019年の時点でスタッフ約20名、年商3000万円までに成長させた。また厄介な常連を出入禁止にするなどの対応も行った。 継業する銭湯は老朽化が激しく修繕が必要になるが、ゆとなみ社ではこれを極力自力で行い、費用は自費とともにクラウドファンディングの活用もしている。 このほか、基本的な接客を大切にすることや、話題提供のためスタッフの日常などを書いた「梅湯新聞」を浴室に掲示、SNSによる情報の発信、メディア取材を積極的に受けるなど情報発信に力を入れている。三次郎によれば、これらは”ほとんどおカネのかからない努力”を中心に”おカネがかかる努力”を並行し、「考えられることはすべて」やった結果だという。 またアーティストもデザインに関わるオリジナルグッズの販売や、クリエイター集団の参加するイベント「Get'湯!」への参加など、若年層取り込みのためにファッション性を重視し、銭湯を通したカルチャーシーン作りもヴィジョンにある。 梅湯開業以後には若者層を中心とした銭湯・サウナブームが起こっており、サウナを目的とした顧客も取り込んでいるが、三次郎は銭湯に自然に生まれるコミュニケーションの場を大事にしたいとしている。 以下のリストは開業日順。 湊 三次郎(みなと さんじろう、1990年 - )は、ゆとなみ社の代表取締役であり創業者。静岡県浜松市生まれ。銭湯文化のPRを担い、メディアなどでは銭湯活動家を名乗る。本名・湊 雄祐(みなと ゆうすけ)。「三次郎」の活動名は曽祖父の名にちなむ。 京都外国語大学ブラジルポルトガル語学科卒業。在学中、近所の銭湯に通いはじめたのをきっかけに銭湯に傾倒し、「サウナの梅湯」でもアルバイトを経験した。卒業後アパレル会社に就職するが、仕事を面白く感じられず退職を決めたころに梅湯の経営を任され銭湯業界に入り、個人事業主を経て何件もの老朽化銭湯の復活を実現する現在に至る。 実弟でお笑い芸人の湊 研雄(みなと けんゆう)もゆとなみ社スタッフかつ同社取締役であり、十條湯の営業委託などを担当した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "株式会社ゆとなみ社(ゆとなみしゃ)は、日本の京都府京都市にある企業。「銭湯を日本から消さない」をモットーに、公衆浴場(銭湯)の継業とコンサルティングを主な業務とする。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "2023年現在、運営する銭湯は京都・サウナの梅湯をはじめとして、日本全国に8軒。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "2015年、湊三次郎が、銭湯が次々と廃業する現状を憂い、廃業となったサウナの梅湯を引き継ぎ経営者となる。当時20代の若者だった三次郎が銭湯を引き継いだ件は話題を呼び、雑誌やテレビなどさまざまなメディアで取り上げられた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "開業当初の赤字運営を改善後、滋賀県の都湯を皮切りに、地方銭湯の再建モデルを目指しつつ、休廃業した銭湯を次々に継業した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2019年、湊三次郎が個人事業主としての屋号を梅湯からゆとなみ社に変更。2022年にはゆとなみ社を法人化した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2023年11月、京都新聞が京都府と滋賀県にゆかりがあり、顕著な功績を上げた個人や団体に贈る「京都新聞大賞」を受賞した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "梅湯開業当初は月20万円の赤字で、トラブルの連続する経営を三次郎がワンオペで対応するという厳しい状況であったが、施設の改装(番台式からフロント式への変更など)、燃料を薪に変更する、営業時間の延長と朝風呂の実施、浴室へのシャンプー・ボディソープの設置、音楽ライブの開催などの経営改善をして、2019年の時点でスタッフ約20名、年商3000万円までに成長させた。また厄介な常連を出入禁止にするなどの対応も行った。", "title": "特色" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "継業する銭湯は老朽化が激しく修繕が必要になるが、ゆとなみ社ではこれを極力自力で行い、費用は自費とともにクラウドファンディングの活用もしている。", "title": "特色" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "このほか、基本的な接客を大切にすることや、話題提供のためスタッフの日常などを書いた「梅湯新聞」を浴室に掲示、SNSによる情報の発信、メディア取材を積極的に受けるなど情報発信に力を入れている。三次郎によれば、これらは”ほとんどおカネのかからない努力”を中心に”おカネがかかる努力”を並行し、「考えられることはすべて」やった結果だという。", "title": "特色" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "またアーティストもデザインに関わるオリジナルグッズの販売や、クリエイター集団の参加するイベント「Get'湯!」への参加など、若年層取り込みのためにファッション性を重視し、銭湯を通したカルチャーシーン作りもヴィジョンにある。", "title": "特色" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "梅湯開業以後には若者層を中心とした銭湯・サウナブームが起こっており、サウナを目的とした顧客も取り込んでいるが、三次郎は銭湯に自然に生まれるコミュニケーションの場を大事にしたいとしている。", "title": "特色" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "以下のリストは開業日順。", "title": "運営する銭湯一覧" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "湊 三次郎(みなと さんじろう、1990年 - )は、ゆとなみ社の代表取締役であり創業者。静岡県浜松市生まれ。銭湯文化のPRを担い、メディアなどでは銭湯活動家を名乗る。本名・湊 雄祐(みなと ゆうすけ)。「三次郎」の活動名は曽祖父の名にちなむ。", "title": "創業者・湊三次郎" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "京都外国語大学ブラジルポルトガル語学科卒業。在学中、近所の銭湯に通いはじめたのをきっかけに銭湯に傾倒し、「サウナの梅湯」でもアルバイトを経験した。卒業後アパレル会社に就職するが、仕事を面白く感じられず退職を決めたころに梅湯の経営を任され銭湯業界に入り、個人事業主を経て何件もの老朽化銭湯の復活を実現する現在に至る。", "title": "創業者・湊三次郎" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "実弟でお笑い芸人の湊 研雄(みなと けんゆう)もゆとなみ社スタッフかつ同社取締役であり、十條湯の営業委託などを担当した。", "title": "創業者・湊三次郎" } ]
株式会社ゆとなみ社(ゆとなみしゃ)は、日本の京都府京都市にある企業。「銭湯を日本から消さない」をモットーに、公衆浴場(銭湯)の継業とコンサルティングを主な業務とする。 2023年現在、運営する銭湯は京都・サウナの梅湯をはじめとして、日本全国に8軒。
{{転送|梅湯|講談師|宝井梅湯}} {{基礎情報 会社 |社名 = 株式会社ゆとなみ社 |英文社名 = |ロゴ = |画像 = |画像説明 = |種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] |機関設計 = |市場情報 = |略称 = |国籍 = {{JPN}} |本社郵便番号 = 600-8115 |本社所在地 = [[京都府]][[京都市]][[下京区]][[木屋町通]]上ノ口上る岩滝町175 |本社緯度度 = |本社緯度分 = |本社緯度秒 = |本社N(北緯)及びS(南緯) = |本社経度度 = |本社経度分 = |本社経度秒 = |本社E(東経)及びW(西経) = |座標右上表示 = Yes |本社地図国コード = |本店郵便番号 = |本店所在地 = |本店緯度度 = |本店緯度分 = |本店緯度秒 = |本店N(北緯)及びS(南緯) = |本店経度度 = |本店経度分 = |本店経度秒 = |本店E(東経)及びW(西経) = |本店地図国コード = |設立 = [[2022年]][[1月7日]] |業種 = サービス業 |法人番号 = 6130001070833 |統一金融機関コード = |SWIFTコード = |事業内容 = 銭湯業務、銭湯経営コンサルティング業務など |代表者 = [[#創業者・湊三次郎|湊雄祐]] |資本金 = 100万円(2023年11月現在)<ref name="about">[https://yutonamisha.com/about/ ゆとなみ社について]、ゆとなみ社、2023年11月26日閲覧。</ref> |発行済株式総数 = |売上高 = |営業利益 = |経常利益 = |純利益 = |純資産 = |総資産 = |従業員数 = 50人(2023年11月現在)<ref name="about" /> |支店舗数 = |決算期 = |会計監査人 = |所有者 = |主要株主 = |主要部門 = |主要子会社 = |関係する人物 = |外部リンク = {{Official website|https://yutonamisha.com }} |特記事項 = 2015年、個人事業主として梅湯開業 }} '''株式会社ゆとなみ社'''(ゆとなみしゃ)は、日本の[[京都府]][[京都市]]にある企業。「[[銭湯]]を日本から消さない」を[[標語|モットー]]に<ref name="bplus" />、[[公衆浴場]](銭湯)の[[事業承継|継業]]と[[コンサルティング]]を主な業務とする。 2023年現在、運営する銭湯は京都・'''サウナの梅湯'''をはじめとして、日本全国に8軒<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.kyoto.jp/sangyo-sien/company/yutonamisya.html |title=株式会社ゆとなみ社(京都企業紹介) |publisher=京都府 |date=2023-07-21 |accessdate=2023-09-12}}</ref>。 == 沿革 == [[2015年]]、湊三次郎が、銭湯が次々と廃業する現状を憂い、廃業となったサウナの梅湯を引き継ぎ経営者となる<ref name="goka2021813a">{{Cite web|和書|author=[[五箇公貴]] |url=https://bunshun.jp/articles/-/47784 |title=「ヤクザ風呂と地元で呼ばれていた」 24歳のアパレル職が、京都「梅湯」経営者に“転職”したワケ |website=[[文春オンライン]] |publisher=[[文藝春秋]] |date=2021-08-13 |accessdate=2023-09-24 }}</ref>。当時20代の若者だった三次郎が銭湯を引き継いだ件は話題を呼び、雑誌やテレビなどさまざまなメディアで取り上げられた<ref name="kyotokan">{{Cite web|和書|url=https://www.kyotokan.jp/pickup/pickup-1584/ |title=京都暮らしプラス・ワン ♯06ゆとなみ社・湊 三次郎さん |website=京都館 |publisher=京都市産業観光局クリエイティブ産業振興室 |accessdate=2023-09-15}}</ref>。 開業当初の[[黒字と赤字|赤字]]運営を改善後、[[滋賀県]]の都湯を皮切りに、地方銭湯の再建モデルを目指しつつ、休廃業した銭湯を次々に継業した<ref name="goka2023813b">{{Cite web|和書|author=五箇公貴 |url=https://bunshun.jp/articles/-/47785 |title=東京・京都で7軒の銭湯展開「僕が1年目苦しんだことは味わってほしくない」 マニアの兄弟が目指す“サウナ並み”の未来 |website=文春オンライン |publisher=文藝春秋 |date=2021-08-13 |accessdate=2023-09-12 }}</ref>。 [[2019年]]、湊三次郎が[[個人事業主]]としての屋号を梅湯から'''ゆとなみ社'''に変更<ref>{{Cite web|和書|author=湊三次郎 |url=https://note.com/sanjiro3710/n/n18a3c0e801cc |title=ゆとなみ社とは!? |website=[[Note (配信サイト)|note]] |publisher=[[Note (企業)]] |date=2019-09-11 |accessdate=2023-09-12}}</ref>。[[2022年]]にはゆとなみ社を[[法人成り|法人化]]した<ref name="bplus">{{Cite web|和書|url=https://www.business-plus.net/business/columnist/b-plus/sentou/220330_tp0054.html |title=復活する銭湯 vol.5銭湯継業の専門集団ゆとなみ社を率いる、湊三次郎氏 |website=B-Plus |publisher=国際情報マネジメント有限会社 |date=2023-03-30 |accessdate=2023-09-08}}</ref>。 2023年11月、[[京都新聞]]が京都府と滋賀県にゆかりがあり、顕著な功績を上げた個人や団体に贈る「京都新聞大賞」を受賞した<ref name="kyoto20231128">{{Cite news |和書 |title=地域の人に感動と勇気 京都新聞大賞 2氏1団体に贈呈 |newspaper=京都新聞 |date=2023-11-28 |author=佐々木千奈 |publisher=京都新聞社 |page=1 }}</ref>。 == 特色 == 梅湯開業当初は月20万円の赤字で、トラブルの連続する経営を三次郎が[[ワンオペ]]で対応するという厳しい状況であったが、施設の改装(番台式からフロント式への変更など)<ref>{{Cite web|和書|author= |url=https://aomonohanto.com/?p=1230 |title=湊三次郎率いるゆとなみ社が豊橋市の銭湯・人蔘湯を再生、4月末にリニューアルオープン目指す |website=aoもの |publisher=aoもの |accessdate=2023-09-12}}</ref>、燃料を[[薪]]に変更する、営業時間の延長と[[朝湯|朝風呂]]の実施、浴室への[[シャンプー]]・[[ボディソープ]]の設置、音楽ライブの開催などの経営改善をして、2019年の時点でスタッフ約20名、年商3000万円までに成長させた<ref name="sanjiro2019913">{{Cite web|和書|author=湊三次郎 |url=https://note.com/sanjiro3710/n/nd5bd6339c403 |title=湊三次郎の年収、結婚、学歴!ゆとなみ社の年収は?|website=[[Note (配信サイト)|note]] |publisher=[[Note (企業)]] |date=2019-09-13 |accessdate=2023-09-12}}</ref>。また厄介な常連を出入禁止にするなどの対応も行った<ref name="goka2021813a" />。 継業する銭湯は老朽化が激しく修繕が必要になるが、ゆとなみ社ではこれを極力自力で行い<ref name="matsumoto2022624" />、費用は自費とともに[[クラウドファンディング]]の活用もしている<ref name="bplus" />。 このほか、基本的な接客を大切にすることや<ref name="bplus" />、話題提供のためスタッフの日常などを書いた「梅湯新聞」を浴室に掲示、[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]による情報の発信{{efn|2023年現在、ゆとなみ社運営の全ての銭湯で[[Twitter]](現X)と[[Instagram]]による情報発信を行っている<ref>[https://yutonamisha.com/sento/ 銭湯紹介]、ゆとなみ社、2023年11月26日閲覧。</ref>。}}、メディア取材を積極的に受けるなど情報発信に力を入れている<ref name="goka2021813a" /><ref name="sanjiro2019913" />。三次郎によれば、これらは”ほとんどおカネのかからない努力”を中心に”おカネがかかる努力”を並行し、「考えられることはすべて」やった結果だという<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.constnews.com/?p=59421 |title=街・町・まち物語(24) 売上げを3倍!老舗の銭湯を復活させた若者=湊 三次郎さん |website=建設ニュース |publisher=株式会社建設ニュース |date=2018-11-16 |accessdate=2023-09-15}}</ref>。 またアーティストもデザインに関わるオリジナルグッズの販売や、クリエイター集団の参加するイベント「Get'湯!」への参加など、若年層取り込みのためにファッション性を重視し、銭湯を通したカルチャーシーン作りもヴィジョンにある<ref name="cinra2023713">{{Cite web|和書|author=島貫泰介 |url=https://www.cinra.net/article/202307-umeyu_kwtnkclsp |title=ゆとなみ社・湊三次郎が語る、梅湯継業からの8年間。サウナブームの後押しを受けた銭湯の現在地 |website=CINRA |publisher=CINRA Inc. |date=2023-07-13 |accessdate=2023-09-15}}</ref>。 梅湯開業以後には若者層を中心とした銭湯・[[サウナ]]ブームが起こっており、サウナを目的とした顧客も取り込んでいるが、三次郎は銭湯に自然に生まれるコミュニケーションの場を大事にしたいとしている<ref name="cinra2023713" />。 == 運営する銭湯一覧 == 以下のリストは開業日順。 ; サウナの梅湯(サウナのうめゆ) : 所在地:京都府京都市[[下京区]]木屋町通上ノ口上る岩滝町175 : 2015年5月開業。2018年以降、[[ゲストハウス]]などの再開発が進んだ[[京都の元学区|菊浜エリア]](旧[[五条楽園]])に所在。 : 2階には[[入れ墨|タトゥー]]スタジオの[[テナント]]が入店している<ref name="goka2021813a" />。 : 2021年現在、1日平均250人が来店する<ref name="goka2021813a" />人気銭湯となり、京都観光の目的として梅湯を訪れる人々も現れている<ref name="kyotokan" /><ref name="cinra2023713" />。 : 前述のとおり梅湯の所在する土地はかつて[[花街]]であり、[[暴力団]]事務所が隣にある地域であったが<ref name="goka2021813a" />{{efn|2019年まで、京都市下京区木屋町通上ノ口上ルには指定暴力団・七代目[[会津小鉄会]]の本部事務所が存在した。2017年以降、京都市の指導により事務所の使用が禁止され、2019年には移転、2021年には土地が不動産業者に売却されて同会の所有ではなくなり、建物も解体された<ref>{{Cite news |和書 |title=指定暴力団・会津小鉄会の元本部、売却され解体へ 京都中心部、不動産会社が購入 |newspaper=京都新聞 |date=2021-05-13 |url=https://www.kyoto-np.co.jp/articles/amp/563470 |access-date=2023-09-24 |publisher=京都新聞社 }}</ref>。この跡地を取得して再開発を計画したのが山内財団である<ref>{{Cite news |和書 |title=京都の暴力団跡地を任天堂創業家が取得 「発祥地」整備、風評リスクも |newspaper=京都新聞 |date=2023-01-01 |author=岸本鉄平 |author2=柿木拓洋 |url=https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/948041 |access-date=2023-09-24 |publisher=京都新聞社 |page= }}</ref>。}}、「京都五条 菊浜エリア活性化プロジェクト」を推進する山内財団と[[山内溥#親族|Yamauchi-No.10 Family Office]]([[任天堂]]創業家)は、それらの撤退後の土地を取得して再開発を進めており、2022年、梅湯に隣接して「利用者が長居してくつろげる場所」を建設する予定とのコメントをし、イメージを発表している<ref>{{Cite news |和書 |title=任天堂創業家 旧本社付近を開発 |newspaper=[[日経MJ]] |date=2022-05-20 |publisher=[[日本経済新聞社]] |page=7 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=Yamauchi-No.10 Family Office |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000006.000071768.html |title=京都五条 菊浜エリア活性化プロジェクトについて |website=[[PR TIMES]] |publisher=PR TIMES |date=2022-05-13 |accessdate=2023-09-15}}</ref>。 ; 源湯(みなもとゆ) : 所在地:京都府京都市[[上京区]]北町580-6 : 2019年7月19日開業<ref name="sanjiro202399">{{Cite web|和書|author=湊三次郎 |url=https://note.com/sanjiro3710/n/n56f0c7c47526 |title=怒涛の3軒継業した夏 |website=note |publisher=note |date=2023-09-09 |accessdate=2023-09-14 }}</ref><ref name="matsumoto2022624">{{Cite web|和書|author=[[松本康治]] |url=https://www.asahi.com/and/article/20220624/419568241/ |title=ニッポン銭湯風土記:レトロ銭湯、手探りルネサンス 挑む若者 京都「源湯」 |website=&travel |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |date=2022-06-24 |accessdate=2023-09-08}}</ref>。[[大将軍 (京都市)|大将軍]]エリアにあり、元は[[1928年]]創業だった銭湯を引き継いだ[[レトロ]]銭湯と称される<ref name="matsumoto2022624" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://kyoto-iju.com/column/ba_14 |title=古さもまるごと愛おしい「ただいま」と言いたくなるほど心地いい銭湯『源湯』 |website=京都移住計画 |publisher=株式会社ツナグム |date=2020-10-26 |accessdate=2023-09-12}}</ref>。20[[畳 (単位)|畳]]の[[和室]]休憩スペースがあり、各種イベントが行われるほか、2階はテナントとして古書店やギャラリーが入店している<ref name="matsumoto2022624" />。 : アニメ作品『[[四畳半タイムマシンブルース]]』に登場する銭湯・オアシスのモデルである<ref>{{Cite web|和書|url=https://yojohan-timemachine.asmik-ace.co.jp/news/?p=233 |title=聖地・京都とのコラボを大発表!! |website=『四畳半タイムマシンブルース』公式サイト |publisher=[[アスミック・エース]] |date=2022-09-07 |accessdate=2023-09-12}}</ref>。 ; 容輝湯(ようきゆ) : 所在地:滋賀県[[大津市]][[石山 (滋賀県)|栄町]]17−10 : 2019年7月開業<ref name="sanjiro202399" />。JR[[石山駅]]近く。 ; 人参湯(にんじんゆ) : 所在地:[[愛知県]][[豊橋市]]神明町47 : 2021年4月開業<ref name="sanjiro202399" />。元は1950年開業の銭湯であったが、老朽化などで2020年9月に閉店したものを借り受け復活させた<ref name="yomiuri2021614">{{Cite news |和書 |title=減り続ける銭湯を救え!「無理な商売」自覚しながら老朽6軒を経営 |newspaper=[[読売新聞オンライン]] |date=2021-06-14 |author=崎長敬志 |url=https://www.yomiuri.co.jp/economy/20210613-OYT1T50118/ |accessdate=2023-09-12}}</ref>。 ; みやの湯(みやのゆ) : 所在地:[[大阪府]][[門真市]]宮野町13−10 : 2021年4月開業<ref name="sanjiro202399" />。 ; 一乃湯(いちのゆ) : {{Main|一乃湯 (三重県)}} : 所在地:[[三重県]][[伊賀市]]上野西日南町1762 : 2023年7月開業<ref name="sanjiro202399" />。1950年創業の銭湯で、改装等は行わず先代から運営を引き継ぐ形での継業<ref name="sanjiro202399" />。先代による「一乃湯ワンダーランド構想」の理念実現も目指している<ref name="sanjiro202399" />。 : 建物は[[登録有形文化財]]となっている。 ; 鴨川湯(かもがわゆ) : 所在地:京都府京都市[[左京区]][[下鴨]]上川原町56 : 2023年7月開業<ref name="sanjiro202399" />。営業再開にあたり、クラウドファンディングを活用した<ref name="sanjiro2023721">{{Cite web|和書|author=湊三次郎 |url=https://note.com/sanjiro3710/n/n5b843ef9e6cf |title=鴨川湯と湊河湯のクラファン |website=note |publisher=note |date=2023-07-21 |accessdate=2023-09-12}}</ref>。 ; 湊河湯(みなとがわゆ) : 所在地:[[兵庫県]][[神戸市]][[兵庫区]]東山町2-3-5 : 元は1949年に開業した、東山商店街に近い銭湯。2022年12月からの長期休業後、ゆとなみ社が継業。2023年8月11日より営業再開<ref>{{Cite news |和書 |title=阪神大震災で住民支えた老舗銭湯 「湊河湯」が営業再開 神戸 |newspaper=[[毎日新聞]] |date=2023-08-11 |author=佐藤賢二郎 |url=https://mainichi.jp/articles/20230811/k00/00m/040/200000c |access-date=2023-09-12}}</ref>。鴨川湯同様に、クラウドファンディングを活用した<ref name="sanjiro2023721" />。 ; パール湯(パールゆ) : 所在地:大阪府[[大阪市]][[東成区]][[中本 (大阪市)|中本]]3-10-15 : 2023年12月22日現在営業中、2024年1月8日より休業し、ゆとなみ社としては2023年3月開業予定<ref name="pearlyu">{{Cite web|和書|author=湊三次郎 |url=https://note.com/sanjiro3710/n/na62fade4b511 |title=パール湯の事業継承について |website=note |publisher=note |date=2023-07-21 |accessdate=2023-12-12}}</ref>。通称:'''パール温泉'''(店の看板はこの名称)<ref>[https://osaka268.com/sento/%e3%83%91%e3%83%bc%e3%83%ab%e6%b9%af/ パール湯【東成区】]、大阪銭湯(大阪府公衆浴場業生活衛生同業組合)、2023年12月22日閲覧。</ref>。[[大阪市高速電気軌道|大阪メトロ]][[緑橋駅]]近く。家族経営の銭湯だったが設備や人手不足などの問題があり、ゆとなみ社に相談し事業継承となった<ref name="pearlyu" />。経営者は同社社員となってそのまま店長を継続し、リニューアルにあたってサウナなどの老朽化施設を復活させる予定<ref name="pearlyu" />。 === 関連する銭湯 === ; 都湯(みやこゆ) : 所在地:滋賀県大津市馬場3-12-21 : 2018年11月<ref name="sanjiro202399" />、2号店として元梅湯スタッフが継業した<ref name="goka2023813b" />。2021年以降はゆとなみ社から独立して経営中<ref name="bplus" />。 : JR[[膳所駅]]および[[京阪膳所駅]]近く。 : [[スケラッコ]]による銭湯を舞台とした漫画『みゃーこ湯のトタンくん』([[ミシマ社]])のモデルである<ref>{{Cite news |和書 |title=スケラッコ新作は銭湯ネコマンガ「みゃーこ湯のトタンくん」、原画展も開催 |newspaper=[[ナタリー (ニュースサイト)|コミックナタリー]] |date=2021-12-10 |url=https://natalie.mu/comic/news/457046 |access-date=2023-09-12 |publisher=ナターシャ }}</ref>。 ; 十條湯(じゅうじょうゆ) : 所在地:[[東京都]][[北区 (東京都)|北区]][[十条仲原]]1丁目14-2 : 営業委託という形でゆとなみ社スタッフが出向している<ref name="goka2023813b" />。喫茶スペースが併設されていたのを生かし、「喫茶深海」としてリニューアルし「売り」のひとつとした<ref name="goka2023813b" />。 == 創業者・湊三次郎 == '''湊 三次郎'''(みなと さんじろう、[[1990年]] - )は、ゆとなみ社の[[代表取締役]]であり創業者。[[静岡県]][[浜松市]]生まれ。銭湯文化のPRを担い、メディアなどでは'''銭湯活動家'''を名乗る。本名・'''湊 雄祐'''(みなと ゆうすけ)<ref name="sanjiro2019913" />。「三次郎」の活動名は曽祖父の名にちなむ<ref name="yomiuri2021614" />。 [[京都外国語大学]]ブラジルポルトガル語学科卒業<ref name="sanjiro2019913" />。在学中、近所の銭湯に通いはじめたのをきっかけに銭湯に傾倒し、「サウナの梅湯」でもアルバイトを経験した。卒業後[[アパレル産業|アパレル]]会社に就職するが、仕事を面白く感じられず退職を決めたころに梅湯の経営を任され銭湯業界に入り、個人事業主を経て何件もの老朽化銭湯の復活を実現する現在に至る<ref name="bplus" />。 実弟でお笑い芸人の'''湊 研雄'''(みなと けんゆう)もゆとなみ社スタッフかつ同社取締役であり<ref name="kyoto20231128" />、十條湯の営業委託などを担当した<ref name="goka2023813b" />。 === メディア出演 === * [[サ道2021]] 第6話「青春の面影にととのう」(2021年9月11日、テレビ東京)<ref>{{Cite web |author=[[大山くまお]] |url=https://cinema.ne.jp/article/detail/47334 |title=「サ道2021」第6話レビュー:そうだ、京都の銭湯サウナに行こう(コロナが落ち着いたら)(※ストーリーネタバレあり) |website=CINEMAS+ |publisher=フォンテーン、[[ギークピクチュアズ]] |language=ja |date=2021-08-14 |accessdate=2023-11-02}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{Reflist|20em}} == 外部リンク == * ゆとなみ社公式 ** [https://yutonamisha.com ゆとなみ社] * 独立/提携銭湯 ** [https://miyakoyu.jp/ 都湯-ZEZE-] ** [https://www.1010.or.jp/map/item/item-cnt-578 十條湯] - 東京銭湯(東京都浴場組合) * 湊三次郎 ** {{note.com|sanjiro3710|湊三次郎}} ** {{Twitter|37sanjiro10|湊 三次郎}} {{リダイレクトの所属カテゴリ | redirect1 = 湊三次郎 | 1-1 = 日本の企業創立者 | 1-2 = 京都外国語大学出身の人物 | 1-3 = 浜松市出身の人物 | 1-4 = 1990年生 | 1-5 = 存命人物 }} {{DEFAULTSORT:ゆとなみしや}} [[Category:銭湯]] [[Category:サウナ]] [[Category:下京区の企業]] [[Category:2022年設立の企業]]
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4,826,934
そっちにいかないで
『そっちにいかないで』は、戸田真琴による自伝的私小説。 文筆家・映画監督であり、2023年1月にAV女優業を引退した戸田真琴による、初の自伝的私小説。自伝ではなく、小説という形を取ったのは、事実に限らず、自分から見た景色を書きたかったことによる。 3編の時系列の間は意図的に飛ばしており、短編3本が並ぶような構成になっている。例として第一章はAV以前の話、第二章はデビュー後の話であり、主人公の大きな転換になったであろう「なぜAV女優になったのか」は記述していない。著者の戸田は、言葉で説明すると足りない気がしたと解説している。 同年7月のジュンク堂文芸部門週間ランキング1位を獲得。
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『そっちにいかないで』は、戸田真琴による自伝的私小説。
{{基礎情報 書籍 |title = そっちにいかないで |orig_title = |image = |image_size = |image_caption = |author = [[戸田真琴]] |translator = <!-- 訳者 --> |illustrator = <!-- イラスト --> |published = [[2023年]][[5月27日]] |publisher = [[太田出版]] |genre = [[私小説]] |country = {{JPN}} |language = [[日本語]] |type = <!-- 形態 --> |pages = 240 |preceded_by = <!-- 前作 --> |followed_by = <!-- 次作 --> |website = <!-- 公式サイト --> |id = |portal1 = |portal2 = |portal3 = |portal4 = |portal5 = |portal6 = |portal7 = |portal8 = |portal9 = |portal10 = }} 『'''そっちにいかないで'''』は、[[戸田真琴]]による[[自伝的小説|自伝的私小説]]。 == 解説 == 文筆家・映画監督であり、2023年1月に[[AV女優]]業を引退した戸田真琴による、初の自伝的私小説<ref>{{Cite web|和書|title=文筆家/元AV女優 戸田真琴、私小説を刊行 幼少期から引退まで書き下ろす |url=https://kai-you.net/article/86619 |website=KAI-YOU.net {{!}} POP is Here . |date=2023-04-27 |access-date=2023-09-11 |language=ja}}</ref>。自伝ではなく、小説という形を取ったのは、事実に限らず、自分から見た景色を書きたかったことによる。 3編の時系列の間は意図的に飛ばしており、短編3本が並ぶような構成になっている。例として第一章はAV以前の話、第二章はデビュー後の話であり、主人公の大きな転換になったであろう「なぜAV女優になったのか」は記述していない<ref name=":0">{{Cite web |title=AV出演は自傷行為でもあり救いでもあった 峰なゆか×戸田真琴対談(前半) {{!}} 日刊SPA! {{!}} ページ 3 |url=https://nikkan-spa.jp/1956487 |website=日刊SPA! |date=2023-11-14 |access-date=2023-11-23 |language=ja}}</ref>。著者の戸田は、言葉で説明すると足りない気がしたと解説している<ref name=":0" />。 同年7月の[[ジュンク堂書店|ジュンク堂]]文芸部門週間ランキング1位を獲得<ref>{{Cite web|和書| date=2023.7.9 | url=https://blancquest.com/post-2339/ | title=『そっちにいかないで』TBS「王様のブランチ」にて紹介!| publisher=blancquest| accessdate=2023/09/12}}</ref>。 == あらすじ == ;第一章 ゆうれいに恋 :田崎ももは宗教に熱心な母と父、姉のゆきちゃんという普通の家庭に育った。はずだった。家には観音開きの仏壇があり、中に掛け軸があった。その周辺を家族は「[[勤行]]」からとって、ゴン様と呼んでいた<ref>{{Cite web|和書| date=2023.5.24 | url=https://qjweb.jp/column/86430/ | title=毒親との生活、はじめての恋…“わたし”がAVデビューするまでに見た世界(戸田真琴『そっちにいかないで』/第1回)| publisher=qjweb| accessdate=2023/09/12}}</ref>。いつしか家族は機能不全となり<ref>{{Cite web|和書| date=2023/05/27 | url=https://qjweb.jp/column/86430/ | title=「母親が下着を買ってくれず、ずっと子ども用」「婚前交渉禁止だった」元AV女優が語る、“機能不全家庭”で育った苦悩| publisher=文春オンライン| accessdate=2023/09/12}}</ref>、ももは自分がどうしたいかを考えなくなり、常にいい人でワガママじゃない人になることだけを考えていた。姉の白い太ももは大きな音とともに切り刻まれ赤い線が引かれていた。お姉ちゃんが痛いと私の心も痛い。いつしか私は相談相手「はるか」を心の中に作っていた。 ;第二章 セカンド19 :ももは大学で映像技術論を学んでいた。友人に処女だったということがばれたこともあり、誰にもばれずに経験してしまいたいと、[[AV事務所]]の門を叩く。20歳をすぎた実年齢より19歳のほうが売れるからと、人生2度目の19歳を経験することになる。芸名は[[娼婦]]だったという[[マグダラのマリア]]から、マリアがいいと言ったら反対され、いくつかの候補の中から多数決で「戸田真琴」と決まった。戸田は静岡の厳格な家庭で育った文芸学科に通い、映画研究サークルに通っているという設定がつけられた。片思いの恋に破れ、狭い世界から抜け出すためにAVデビューしたというストーリーだ。プロデューサーの作った設定は見事で、自分のことを美化してしまえば、その設定に乗ることはたやすいような気がした<ref>{{Cite web|和書| date=2023.5.29 | url=https://qjweb.jp/column/86430/ | title=AVデビューと引退、毒親との生活…「あたたかい地獄」から、“わたし”はどう帰還したのか(戸田真琴『そっちにいかないで』/第2回)| publisher=qjweb| accessdate=2023/09/12}}</ref>。AV女優になったことを勇気があると称える人がいるが、わたしは勇敢だったのではない。自分自身をゴミくずのように扱う才能があっただけだった<ref>{{Cite web|和書|title=「こいつはセクシー女優だと見下してほしかった」戸田真琴が語る、デビューの理由と引退の真相 |url=https://nikkan-spa.jp/1918225 |website=日刊SPA! |date=2023-06-08 |access-date=2023-09-11 |language=ja |last=安田理央}}</ref>。 ;第三章 君はすべてが正しい :あの職業にだけはなったらだめよ、という世間の視線を浴びながら、AV女優はみんなきれいで、性格もよく、周りにも好かれていて、得た金銭で自分磨きをする。みな生々しく、傷つきながらも、拍子抜けするほどのとことん磨き上げられた[[ファム・ファタール|ファム・ファタル]]だ。仲間意識も強くある。私は下北沢で、あるメーカーが起こしたデータ流出の話をする。AV女優を初めて6年、このことを知ったときに初めて憤りを覚え、メーカーの移籍と1年後の引退の決意をした。さかのぼること2年前、映画をつくりませんか何度目かの誘いをもらい、大学で一人で撮った映像と同じやり方で60分の映画を撮った。引退を決意したそのタイミングで、その映画が初めてまとまった期間、映画館で上映できることになった。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://www.ohtabooks.com/publish/2023/05/25173548.html そっちにいかないで] {{Movie-stub}} {{DEFAULTSORT:そつちにいかないで}} [[Category:日本の自伝・回顧録]] [[Category:2023年の書籍]] [[Category:アダルトビデオを題材とした作品]] [[Category:機能不全家族を題材とした作品]] [[Category:太田出版の出版物]]
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鵼の碑
『鵼の碑』(ぬえのいしぶみ)は、京極夏彦による日本の推理小説。2023年9月14日発売。「百鬼夜行シリーズ」17年ぶりの書き下ろし長編。 2006年『邪魅の雫』以来、シリーズ17年ぶりの書き下ろし長編となる。 2012年『百鬼夜行 陽』には、本作の前日譚にあたる短編「墓の火」「蛇帯」が収録されている。 2019年『今昔百鬼拾遺 鬼』には、本作の事件と同時期に起きた事件が描かれており、本作の事件への言及がある。 本作は「蛇」「虎」「貍」「猴」「鵺」の5パートからなり、各パートに過去作のエッセンスが割り振られている。また宮部みゆき曰く「百鬼夜行版アベンジャーズ」と言えるほどに過去作の登場人物が多く登場する。 「巷説百物語シリーズ」「書楼弔堂シリーズ」との繋がりを示唆する要素もある。 舞台は高度経済成長期前夜、昭和29年(1954年)2月の日光。劇作家はメイドから忌まわしい過去を告白される。探偵助手は失踪者の捜索を依頼される。刑事は消えた死体を追う。学僧は妖光に翻弄される。女が死者の声を聞く。公安が暗躍する。古書肆が古文書の鑑定に訪れる。 「百鬼夜行シリーズ」は、1994年の第一作『姑獲鳥の夏』から1998年『塗仏の宴 宴の始末』まで、約3ヶ月間隔で刊行していた。しかし作者の多忙などにより刊行ペースが延び始め、『鵼の碑』は2006年『邪魅の雫』巻末でタイトルが発表されて以来、17年間にわたり発売日未定となっていた。 発売日未定の間も、作者は本作の執筆と構想を続けていた。2023年5月、4年間務めた日本推理作家協会代表理事を退任したのを機に、約3ヶ月本腰を入れて執筆。同年7月31日、発売日が発表された。2023年は作者デビュー30周年(すなわち『姑獲鳥の夏』30周年)でもあった。 発売日が発表されると、SNS等でファンから驚きと喜びの声があがった。過去作と同様、頁数の多さによる本の厚さ、重さも話題になった。紀伊國屋書店全店では本作のためのブックカバーが用意された。広告として、東京メトロやJR西日本では車内広告、朝日新聞では全面広告が掲載された。 2008年には、版元の講談社での新企画開始に伴い、『鵼の碑』から版元を別の出版社へ移籍すること、講談社ノベルス版の増刷を中止することなどが告知されていた。しかし最終的に、講談社ノベルス版と同社単行本の同時発売となった。
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『鵼の碑』(ぬえのいしぶみ)は、京極夏彦による日本の推理小説。2023年9月14日発売。「百鬼夜行シリーズ」17年ぶりの書き下ろし長編。
{{基礎情報 書籍|title=鵼の碑|orig_title=|image=|image_size=|image_caption=|author=[[京極夏彦]]|translator=|illustrator=|published=2023年9月14日|publisher=[[講談社]]|genre=[[推理小説]]|country={{JPN}}|language=[[日本語]]|type=[[講談社ノベルス]]([[新書判]])<br/>[[単行本]]<br/>[[電子書籍]]|pages=講談社ノベルス版: 832ページ<br/>単行本版: 1,280ページ|preceded_by=『[[邪魅の雫]]』|id=|followed_by=『[[幽谷響の家]]』<ref>講談社ノベルス版発売時の帯</ref>}} {{Portal 文学}} 『'''鵼の碑'''』(ぬえのいしぶみ<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=夢じゃないよね?百鬼夜行シリーズの17年ぶりの新作『鵼の碑(ぬえのいしぶみ)』が2023年9月14日に発売決定 |url=https://youpouch.com/2023/08/03/1010228/ |website=Pouch[ポーチ] |date=2023-08-03 |access-date=2023-09-11 |language=ja |publisher=[[ソシオコーポレーション]]}}</ref>)は、[[京極夏彦]]による[[日本]]の[[推理小説]]。[[2023年]][[9月14日]]発売<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=京極夏彦「百鬼夜行」シリーズ、17年ぶりの新作が9・14発売へ - 新文化オンライン |url=https://www.shinbunka.co.jp/archives/5881 |date=2023-09-07 |access-date=2023-09-09 |language=ja |publisher=[[新文化通信社]]}}</ref>。「[[百鬼夜行シリーズ]]」17年ぶりの[[書き下ろし]][[長編小説|長編]]<ref name=":1" />。 == 過去作との繋がり == [[2006年]]『[[邪魅の雫]]』以来、シリーズ17年ぶりの書き下ろし長編となる<ref name=":1" />。 [[2012年]]『[[百鬼夜行――陽|百鬼夜行 陽]]』には、本作の[[前日譚]]にあたる短編「墓の火」「蛇帯」が収録されている{{Sfn|朝宮|2023a|p=32f}}。 [[2019年]]『[[今昔百鬼拾遺 (小説シリーズ)|今昔百鬼拾遺 鬼]]』には、本作の事件と同時期に起きた事件が描かれており、本作の事件への言及がある{{Sfn|朝宮|2023b|p=39}}。 本作は「[[蛇]]」「[[虎]]」「[[タヌキ|貍]]」「[[猿|猨]]」「[[鵺]]」の5パートからなり、各パートに過去作のエッセンスが割り振られている{{Sfn|朝宮|2023a|p=32f}}。また[[宮部みゆき]]曰く「百鬼夜行版[[アベンジャーズ (マーベル・コミック)|アベンジャーズ]]」と言えるほどに過去作の登場人物が多く登場する{{Sfn|朝宮|2023b|p=39}}。 「[[巷説百物語シリーズ]]」「[[書楼弔堂シリーズ]]」との繋がりを示唆する要素もある<ref>{{Cite web|和書|title=京極夏彦、17年ぶり百鬼夜行シリーズ『鵼の碑』は破格の作品だーーじわじわと不安を持続させる832頁 |url=https://realsound.jp/book/2023/09/post-1435956.html |website=Real Sound|リアルサウンド ブック |date=2023-09-20 |access-date=2023-09-27 |language=ja |author=[[円堂都司昭]]}}</ref>。 == あらすじ == 舞台は[[高度経済成長期]]前夜{{Sfn|朝宮|2023a|p=32f}}、[[昭和]]29年([[1954年]])2月の[[日光市|日光]]{{Sfn|朝宮|2023b|p=39}}。劇作家はメイドから忌まわしい過去を告白される{{Sfn|朝宮|2023a|p=32f}}。探偵助手は失踪者の捜索を依頼される{{Sfn|朝宮|2023a|p=32f}}。刑事は消えた死体を追う<ref name=":0" />。学僧は妖光に翻弄される<ref name=":0" />。女が死者の声を聞く<ref name=":0" />。公安が暗躍する<ref name=":0" />。古書肆が古文書の鑑定に訪れる<ref name=":0" />。 == 登場人物 == {{See also|百鬼夜行シリーズ#主な登場人物|百鬼夜行――陽}}<!-- 仁礼のモデルは久禮旦雄 --> === 語り手 === ; 久住 加壽夫(くずみ かずお) : 「蛇」の章の語り手。榎木津兄弟の母方の祖父である今出川翁が後援する劇団付きの[[脚本家]]。故郷は北国の雪国。 : [[日光市|日光]]へは前年の初夏に訪れて以来二度目の来訪。今出川翁の指示で[[能楽]]の『[[鵺#鵺に関する文化|鵼]]』を題材に採った新作を執筆中で、10日ばかり前から日光榎木津ホテルに逗留して仕事を続けている。 : 前回の宿泊時も自室を担当した登和子から明朗さが失われていることが気になって事情を問い但し、彼女から幼少期に父親を殺害していたことを思い出したと云う告白を受ける。旅舎に居辛くなって外出した時に[[憾満ヶ淵]]で関口に出会い、彼と言葉を交わすうちに好感を抱いて登和子の秘密に関して相談し、2人でその事件について調べ始める。 ; 御厨 冨美(みくりや ふみ) : 「虎」の章の語り手。寒川薬局に勤務する[[薬剤師]]で、30歳前の戦争未亡人。住居は[[五反田]]。 : 生い立ちはかなり不幸で、継母に虐待されて家を追い出され、結婚して子供ができた途端に旦那は徴兵されて戦死、幼い我が子も[[東京大空襲]]で逃げ惑っている間に[[栄養失調]]で亡くしている。戦後、露頭に迷っていた所を秀巳に助けられ、彼の全面的な援助を受けて薬学の専門学校女子部に入学、[[1949年|昭和24年]]から始まった[[薬剤師国家試験|国家試験]]に合格して、[[姑獲鳥の夏#用語|久遠寺医院]]が廃業する直前の[[1952年|昭和27年]]から寒川薬局に勤めている。 : 生来、楽天的な性格で、怪しい予感に対して無頓着に振る舞う傾向がある。話下手で要点を要領良く他人に伝えることが苦手。結婚などの局面で真面目になれない性質で、秀巳から求婚を受けていたものの、返事を有耶無耶にしていた。 : 1月に失踪した秀巳から1箇月以上も何の連絡がないことから、[[塗仏の宴 宴の始末#登場人物|黒川玉枝]]に紹介された薔薇十字探偵社へ雇い主の捜索を依頼。秀巳だけでなく、彼と縁のある笹村市雄もまた消息不明だと判明したことで、日光へ調査に赴く益田に同行することを決める。 ; 木場 修太郎(きば しゅうたろう) : 「貍」の章の語り手。[[警視庁]][[麻布警察署|麻布署]]刑事課捜査一係の刑事。元は警視庁本庁に配属されていたが、ほぼ毎月のように問題を起こし、[[塗仏の宴 宴の始末|6月の伊豆での事件]]の際に起こした服務規定違反のために麻布署に異動させられた。 : 退官した元相棒の長門のために私的に催した壮行会の席で、20年前の[[1934年|昭和9年]]に[[芝東照宮]]の裏手で起きたという未解決殺人事件の話を聞き、詳しい話を上司の近野に質問する。そして近野から同時期に起きた未解決の放火殺人事件との関連性を教えられ、有給休暇を取らされて放火殺人の遺族が引き取られた日光へと向かう。到着後、郷島が追っていた登和子と出会ったことで、成り行きで彼女の過去の殺人についても調べることにする。 ; 築山 公宣(つきやま こうせん) : 「猨」の章の語り手。学僧を自称し、縁あって某寺院に拾われて宝物殿で[[学芸員]]紛いのことをしている。 : 信仰し、修行し、布教し、救済することを僧侶としての理想の在り方と考えており、短期間ではあるが[[延暦寺]]で修行した経験もあるが、実家の寺が経営破綻して廃寺になり、信仰では借財は返せず、社会と切れた真の意味での出家も出来ず、夢が潰えた時に挫折して真の意味での信仰を見失ってしまう。僧として修行し、教義も学んでいるが、寺を持たないために檀家と向き合ったことがなく、己の信仰が衆生を救う具体的なイメージをいまだ持ち得ていない。戦中は当たり障りのない善行の在り方や[[不殺生戒]]を説いたせいで、厭戦思想だと謂われて非国民と罵られたことがある。 : 中禅寺とは戦後に知り合い、当時教師だった彼に、東京で迷妄の徒に関わり難渋していたのを救われて以来の友人。 : 昨年より[[輪王寺]]に委託され、[[文化財保護法]]制定に端を発する山内整備で偶然護法天堂の裏手土中から発見された[[長持]]に入っていた、7つの倹飩箱に収められていた[[古文書]]と[[仏典|経典]]の整理と調査をしており、協力者として中禅寺と仁礼を呼び寄せる。ある日の仕事帰りに不審な行動をしている秀巳と出会い、旧尾巳村で行われていた研究に関する推論を聞く。 ; 緑川 佳乃(みどりかわ かの) : 「鵺」の章の語り手。地方の大学の[[医学部]]基礎医学科研究室に助手として勤務する[[医師]]。人間相手に命の遣り取りをして生殺与奪の権を握るのが嫌だと、臨床ではなく基礎医学を専門として研究に携わる。中禅寺・関口・榎木津は女学校時代の知人。[[雛人形]]のように華奢で綺麗な女性で、30代半ばながら小柄で顔の造りが稚く禿のように前髪を切り揃えているので少女のように見える。独身。 : 20年以上音信不通のままだった大叔父の猪史郎が昭和28年の夏に死亡し、無縁仏として処理される寸前で連絡を受ける。年度末の繁忙期を避けて遺骨を引き取りに日光を訪問、生前に大叔父が運営していた旧尾巳村の診療所を訪れる。その際に10年以上ぶりに関口と再会し、整理中だった当時のカルテから桜田家の診療記録と登和子の記憶に差異を認める。 === シリーズレギュラー === ; 関口 巽(せきぐち たつみ) : 不運な小説家。 : 中禅寺と榎木津のご相伴に与って無償で日光榎木津ホテルに逗留中。新作を執筆することもなく、憾満ヶ淵で[[憾満ヶ淵#化地蔵|並地蔵]]の数を数えていた所で久住に声を掛けられ、彼がホテルの担当メイドの登和子から聞いた殺人について相談を受ける。今回もまた半ば望んで面倒ごとに巻き込まれ、榎木津から逃げる意味もあって久住と共に事件を調べ始める。 ; 中禅寺 秋彦(ちゅうぜんじ あきひこ) : 中野の古書店「京極堂」の店主。 : 築山から協力を頼まれて輪王寺で古文書古記録の調査を行っており、3つ目の倹飩箱の中から日本最古とされる天海蔵収蔵の『新刻出像官板大字西遊記』よりも古い『[[西遊記]]』の写本らしき古文書を発見する。輪王寺の僧や[[日光東照宮|東照宮]]の神職とも交流があり、国宝や重要文化財の閲覧が容易に許されるほどに信用されている。 ; 益田 龍一(ますだ りゅういち) : 薔薇十字探偵社の主任探偵。 : 日光へ旅行中の榎木津に代わって御厨から秀巳の捜索依頼を請ける。調査の過程で秀巳が最近市雄と交流し、同時期に日光に滞在していたことを突き止め、桐山勘作なる人物を捜索すべく御厨と共に日光へ向かう。 ; 鳥口 守彦(とりぐち もりひこ) : 三流カストリ雑誌の記者。 : 益田に頼まれて20年前に死亡した秀巳と市雄の親について調査を行い、生前の笹村伴輔が記事にしようとしていたのが[[理化学研究所]]の[[原子爆弾]]研究に関わるものではないかと考える。また、寒川英輔の研究についても調べ、[[日光国立公園|日光山國立公園]]選定委員會の案内人だったと云う桐山老人の存在に辿り着く。 ; 榎木津 礼次郎(えのきづ れいじろう) : 薔薇十字探偵社の探偵長。他人の記憶が視える特殊な体質を持つ。 : 仕事で輪王寺に呼ばれた中禅寺に同行して日光へ旅行中。基本的に[[テニス|庭球]]をして寝ているだけで、いつも通りに関口を苛めるだけでなく、彼と一緒にいた久住にも目を付けて遊びに誘う。だが、丑松の記憶を視たことで今回の事件の真相を「[[じゃんけん|ジャンケン]]のようなもの」と見破り、個々の事件が解決しないのはあいこが繰り返されている状況だからだと語る。 ; 青木 文蔵(あおき ぶんぞう) : 警視庁本庁刑事部刑事課の刑事で、木場の後輩。木場と同じく伊豆の一件で小石川署管轄の交番に異動していたが、前年のうちに本庁に復帰している。 === 日光榎木津ホテル === ; 榎木津 総一郎(えのきづ そういちろう) : 日光榎木津ホテルのオーナー。礼次郎の兄。 : 倫子の素性を調べにホテルに来た木場に応対し、寛永堂経由で仏像の売り込みをかけてきた市雄から頼まれて彼女を雇ったことを話す。 ; 桜田 登和子(さくらだ とわこ) : 日光榎木津ホテルに勤めるメイド。[[1932年|昭和7年]]生まれの22歳。2人の父親と母親を亡くし、病気と痴呆を患う祖母は駅近くの小橋病院に入院中で、仕事のため2人の異父弟妹は遠縁の寛永堂に預けている。 : 一寸慎重過ぎるきらいがあって人より少し時間は掛かるが、仕事は丁寧。だが、重度の[[:en: Ophidiophobia|蛇恐怖症]]を患っており、にょろにょろしているものなら縄や紐でも凡て蛇に見えてしまうので、帯も締められず腰紐も結べない。そのために和装が出来ず、紐が少ない洋装で仕事が出来るメイドとして働いている。 : 以前は要領は悪いが明るく生真面目そうな印象だったが、蛇恐怖症になった理由を知ろうと記憶を辿ったところ、倫子が持っていた[[ボルネオール|龍脳]]の匂い袋の記憶が契機となって「帯だと思って蛇を摑んでしまったような記憶」を取り戻し、6歳の時に首を吊って死んだと思い込んでいた実父を実際は母親が絞殺していて、それを自分がを手伝ったことまで思い出す。16年間も犯罪行為を忘れて生きて来たことへの罪悪感から明朗さを失っている。<!-- : 罪悪感に耐えかねて寛永堂の裏で首を縊ろうとしていたところを市雄に助けられ、寛永堂の頼みで田貫屋に預けられたものの、再び滝から飛び降り自殺を図ったところを郷島に助けられたが、彼が実父の調査をしていると知って宿へ逃亡、偶然居合わせた木場と話すうちに記憶に幾つも不自然な点があることに気付く。さらに、本人に記憶はなかったが、実父が死ぬ3日前に[[ヤマカガシ|山楝蛇]]に何度も噛まれて快復まで1箇月以上掛かる重傷を負っていて、殺人を犯したと思っていた日には酷く衰弱して意識が朦朧としており、物理的にも犯行は不可能だったと判明する。--> ; 奈美木 セツ(なみき セツ) : 日光榎木津ホテルに勤めるメイド。過去に二度、榎木津や中禅寺が関わった事件に巻き込まれて失職しており、日光榎木津ホテルに再就職する。 : 少々お節介で詮索好きと云う点を大目に見れば、寧ろ親しみ易くて気の良い働き者なのだが、兎に角お喋りで、その上に極めて勤勉かつ懸命にしていても粗忽で色々と雑な性分。関口の部屋の担当なのだが、いつも直したシーツが皺になっている。新人の倫子より僅かに勤務歴は長いが、彼女の方が仕事が出来るために未だに新米扱いを受けている。 : 関口の部屋の担当者。登和子について調べる久住達に、恐怖症を治すには原因を突き止める必要があると助言したことを語る。 ; 笹村 倫子(ささむら みちこ) : 日光榎木津ホテルの新人メイド。非常に要領が良く、非の打ち所のない人物で、採用されてまだ数箇月だが、既にセツより仕事が出来る。両親は死去しており、12歳も年齢の離れた兄が一人いる。 : 日光榎木津ホテルへ仏像を納品している兄の紹介で、昭和28年の秋からホテルに採用されて働いている。 === 寒川薬局 === ; 寒川 秀巳(さむかわ ひでみ) : 寒川薬局の店主で薬剤師。独身で40歳過ぎくらい。非常に常識的、且つ理性的な人物。 : 若い頃は薬学で身を立てようとしていたが、父が残した莫大な借金を返済するために相続した全財産を処分し、ほぼ無一文となっても苦学生として学業を修めたものの、経済的な理由から研究者の道を諦め、さらに戦争に追い討ちをかけられて、結局薬屋に落ち着いた。 : 昭和28年9月に1箇月の休暇を取って20年ぶりに父が死んだ日光の山中を訪れ、事故現場の崖で燃える碑を発見。10月になる前には東京に戻るが、薬局の仕事には戻らず自室に籠り切りになり、12月に「父は虎の尾を踏んだのかもしれない」という言葉を残して失踪してしまう。<!-- : その後、碑が光る理由を探る道を選び、[[神戸市|神戸]]で[[ガイガー=ミュラー計数管]]を入手して日光へ戻り、各所で放射線量を測定するために不審な行動をしていて源助に捕まったところで築山と出会う。--> ; 可児 卓男(かに たくお) : 寒川薬局の経理と在庫管理の担当者。年齢は45、6歳だが、体格が貧弱で押しが弱い性格なので30歳そこそこにしか見えず、最近生やした顎髭も付け髭をした子供のように見える。10歳以上年下の寺尾にいつもやり込められている。[[キリスト教徒|クリスチャン]]。善良な一市民を自称するが、何かと陰謀輪を口にする癖があり、戦中は活動家扱いされて特高警察に拘束されたことがある。 ; 寺尾 美樹子(てらお みきこ) : 寒川薬局の薬剤師。御厨と同じく戦争未亡人。未だ30歳前だが、40歳過ぎに見える。悪気はないが口が悪く、何でもズケズケと云う。[[法華宗]]。 === 古文書鑑定の関係者 === ; 仁礼 将雄(にれ まさお) : 築山の大学の後輩。専攻は古代の社会制度史で、現在は築山が師事していた[[歴史学|史学]]科教授の助手をしている。機知に富み人当たりも良い青年ではあるが、勉学研究に人生を賭しているようなところがあり、朴念仁でこそないが、酒も飲まず夜遊びにも行かない。古文書古記録以外に[[赤本 (少年向け本)|赤本漫画]]や[[少女小説]]も収集し、[[歌劇]]や[[活動写真|活動]]の鑑賞も趣味とする。 : 中中の秀才で、古文書の扱いにも慣れているので、小峯荘に宿泊しながら1箇月間の期限付きで築山と中禅寺の仕事を手伝う。 ; 安田(やすだ) : 築山たちが作業場にしている輪王寺の建物の管理や雑用全般を任されている初老の婦人。13年前に肝臓を患って死別した酒好きの夫は、源助や嘉助、勲と遊び回っていた鼻抓み者だった。息子夫婦は東京大空襲で亡くなり、孫も戦死して天涯孤独の身の上で、寺務職から温情を受けて暮らしている。 : 10日ほど前から溝や軒下や地べたを拝む怪しい男が付近に出没していることを不気味に思い、呪われているのではないかと疑って寝付きが悪くなっている。 === 20年前の事件関係者 === ; 笹村 市雄(ささむら いちお) : [[下谷]]在住の[[仏師]]。近所でも愛想の良い好人物と評判。[[能面#種類|能の小面]]のような顔立ちで、白木綿を宝冠巻きにして、背中に[[梵字]]を一文字染め付けた白い羽織を着ている。 : 20年前に両親を殺害され、生まれたばかりの妹と共に生家の[[多西村]]から日光の桐山老人の許へと引き取られ、電気も電話も通っていないような山中で育つ。戦後、仏師になってからも山で暮らしながら月に一度ほど寛永堂へと通う暮らしを続けていたが、3年ばかり前に下谷の一軒家に引っ越してきた。 : [[仏壇]]に収める程度の大きさから、より小さい[[念持仏]]など、小さな仏像の作製を得意としている。腕も良くて仕事も順調だったようで、僧侶や老人が下谷へ引っ切りなしに依頼に来ていて、家にいる限りは鑿の音がしない日はなかったと云う。寛永堂の伝手で日光榎木津ホテルとも取引きがあり、日光三山に因んだ[[阿弥陀如来]]、[[馬頭観音]]、[[千手観音]]を納品しており、その仕事が評価されて憾満ヶ淵に因んだ[[不動明王]]像を製作中。平均すると2箇月に一度、仏像を1体仕上げる度に、3日から1週間ほど家を空け、勉強も兼ねて関東近郊の神社仏閣を廻っていた。また、年に数回は日光を訪れ、田貫屋に連泊して山を巡っている。 : 両親の死に関わっている可能性があった寒川英輔の墓参りをした際に秀巳と出会う。昭和28年9月から日光の方へ旅行しているらしく、年が明けてもまだ下谷には戻っていない。秀巳の失踪や20年前の遺体消失に関する情報を知っている可能性があり、益田と木場が探している。 ; 寒川 英輔(さむかわ えいすけ) : 寒川秀巳の父で[[植物学|植物学者]]。故人。専門は[[植物病理学]]で、[[帝国大学農科大学|帝國大學農科大學]]の植物病理学講座で[[白井光太郎]]から指導を受け、主に[[土壌]]や[[水]]の成分、[[細菌]]、[[放射線]]といった環境が植物に与える影響について研究していた。大学には勤務していなかったが、代代の資産家だったことに加え、人徳があり学績への評価も高かったために多くの者から資金提供を受けており、就労することなく研究が出来ていた。在野の碩学として学会誌などには能く論文発表されていたが、名を成す前に死亡した。 : 20年前、日光一帯が国立公園に指定される際の事前調査団の一員として日光に派遣されていたが、昭和9年6月25日の午前中に日光山中で暮らす者でも入らない魔所の崖から転落死。他に外傷はなく事故そのものには不審点はなかったが、同日の正午に通報があった後で何者かが一旦遺体を持ち出し、事故から1日近く経った26日の午前4時30分頃、何者かの手で事故現場から30分も離れていない村外れの診療所に遺体が運び込まれた。 ; 笹村 伴輔(ささむら ともすけ) : [[大新聞と小新聞|小新聞]]「一白新報」の記者。故人。[[1919年|大正8年]]に新聞社を引き継ぎ、体制批判的な記事を多く載せるようになったため、特高警察に目を付けられていた。[[多西村]]に居住。 : [[共産主義]]活動家からの情報提供で、事件の直前まで[[理化学研究所]]に関する大きな事件を追いかけていたが、昭和9年6月25日の事件で心臓を一突きにされて殺害され、妻と共に死体を焼かれてしまう。 : 両親に当たる与次郎・小夜夫婦は『[[後巷説百物語]]』に登場。 ; 笹村 澄代(ささむら すみよ) : 伴輔の妻。栃木県[[上都賀郡]]出身。珠代(たまよ)と云う妹が居る。昭和9年の事件で、腹を刃物で刺されて殺害される。 ; 桐山 勘作(きりやま かんさく) : 日光山中で暮らす日光派の[[マタギ]]。20年前に日光山國立公園選定準備調査団の案内人を務めた。生前の笹村夫妻から子供達を預かり、彼らが成長するまで育てていた。また、診療を受けたことはないが、猪史郎とは10年ほど前から交友があり、診療所を訪れた佳乃を見かけ、彼を偲んで声を掛ける。 : 20年前の事件や寒川秀巳の失踪に関わる人物として、益田と木場が所在を探している。 === その他日光の住民 === ; 田端 勲(たばた いさお) : 登和子の実父で妙子の最初の夫。[[漆器|漆塗り]]職人で、妻の父の孝治(こうじ)が師匠だった。故人。[[1938年|昭和13年]]3月6日に納屋で首を吊って自殺したとされるが、登和子が思い出した記憶によれば、妻と娘の手で締め殺されたと云う。 : 初めのうちは真面目だったが、仕事が雑で腕は悪かったので寛永堂との取引きを打ち切られ、開戦の10年ほど前から徐々に仕事が減っていたために貧乏で、死ぬ1、2年前からは全く仕事を為ていなかった。喰うに困って世を拗ねて、浮気して女に溺れたとされ、登和子の記憶では、娘が愛人の存在を妻に話してしまったことで、仕事もせずに酒ばかり呑むようになるばかりか娘に暴力を振るうようになり、怒った妻が娘に手伝わせて酔ったところを博多帯で締め殺したとされる。<!--だが、その時の隣の仏間で寝ていた祖母の記憶がないことや抵抗された記憶がないこと、犯罪を手伝わせたことへの謝罪がなかったことなど、辻褄の合わない事実が幾つも浮かび上がる。 : また、佳乃が診療所に残された記録を閲覧したところ、自殺ですらなく、[[心膜炎#慢性収縮性心膜炎|慢性収縮性心膜炎]]が直接の死因だが、消化管症候群に[[脱毛]]や皮膚の[[紅斑]]と云った[[低線量被曝問題|低線量被曝]]で見られる所見も認められ、心膜炎も[[放射線障害|放射線障碍性]]が疑われた。--> ; 桜田 妙子(さくらだ たえこ) : 登和子の母親。故人。旧姓は浅田。昭和27年11月に[[甲状腺腫|結節性甲状腺腫]]を患って死亡している。 : 登和子の記憶によれば、16年前に浮気がばれて娘にまで暴力を振るうようになった勲に耐えかね、6歳の登和子に博多帯の端を持たせて夫を絞殺したと云う。 ; 桜田 裕一(さくらだ ゆういち) : 登和子の継父。故人。真面目だったが影が薄く、病弱で徴兵検査にも落ちている。[[1944年|昭和19年]]9月に[[脳卒中|脳血管障碍が原因の卒中]]で死去している。 ; 徳山 丑松(とくやま うしまつ) : 尾巳集落に奥に住む平膳の漆塗り職人。50絡みの日焼けした男。妻の滋子(しげこ)との間に昌夫(まさお)と忠夫(ただお)と云う息子が2人いるが、漆塗りの仕事が先細りのため、[[足利市|足利]]で砂防工事の仕事をしている。 : 登和子の実家が近所にあり、桜田家の祖母が入院した際には息子2人と大八車で病院まで連れて行かせた。 ; 田上 祥治(たのうえ しょうじ) : 商人宿「田貫屋」の主人。妻は前年に死去し、子供は東京で暮らしていて、手が足りている訳ではないが女中も雇っていないので、一人で宿を切り盛りしている。自分のことはぺらぺら喋るが、伝言が苦手な性質で、正しく伝えようと云う重圧で緊張して体が傾いてしまう癖がある。 ; 小峯 源助(こみね げんすけ) : 民宿「小峯荘」の主人。70歳くらい。大津から代々百姓をしていた小峯家に婿養子に入るが、子供はできないまま30年ほど前に妻とは死別。戦前から無駄に広い家に工事人や行商人を偶に泊めており、元々畠仕事が嫌で百姓が苦手だったこともあって、5、6年前に旅館業法が出来たのを契機に簡易宿所として申請した。若い頃は酒飲みのろくでなしで、鼻抓み者たちと連んでいたが、後述の契機で生活を改める。 : 信心は薄く、妻の墓参りにも行かなければ、東照宮へは50年間で2、3回しか参拝していない。庚申講に馴染みはあるが、日吉大社の氏子と云う訳でもない。しかし、以前目撃した光る猿を山王権現の神使だと信じ込み、以降猿を追い払うことが出来なくなり、庭も台所も荒らされているが、玄関の下駄箱の上には三猿の置物を置いている。神使の猿を撃ち殺した嘉助が数箇月もせず死亡したのを教訓に自堕落な生活を改め、部屋の改装や料理の勉強などをしてみたが、宣伝をしていないので客はあまり来ない。 ; 石山 嘉助(いしやま かすけ) : 日光の大工。故人。博打好きのろくでなしで、朋輩組の仕事もせずに自堕落に暮らしており、兄貴分の云うことも聞かない破落戸だった。鉄砲撃ちの免状か何かを持っていて、家を荒らす猿を撃っていた。だが、昭和12年の9月頃に大根を齧った光る猿を鉄砲で撃ち殺し、それから僅か数箇月で泥酔した上で用水路の溝に転落して死亡したことから、一部では神使を殺した祟りだと噂される。 ; 浅田 兵吉(あさだ へいきち) : 仏具屋「寛永堂」の主人。温厚を絵に描いたような、小太りで丸顔の30代半ばの男。若く見えるが自分より齢上で体型の似た妻の多恵(たえ)と2人暮らし。昭和28年に死去した先代で父の悟朗(ごろう)は妙子の従兄弟にあたる。一人息子は戦中に死亡、兄と弟は戦死して、父母も戦後に相次いで亡くなっている。 : 現在は遠縁の登和子から頼まれて、彼女の幼い弟妹を預かっている。 ; 緑川 猪史郎(みどりかわ いしろう) : 佳乃の大叔父で、旧尾巳村の山中にある診療所を営んでいた町医者。故人。出身は[[青森県]]。生涯独身で、兄も甥も早くに亡くしているため、家族や血縁は佳乃だけとなっていた。佳乃の幼い頃は年に数度顔を見せていたが、20年以上も音信不通になっていた。 : 早くに故郷を出て、元々は[[理化学研究所]]に在籍していたが、職場の人間が進めている研究が日本や世界のためにならないと学問的な見解から相容れず、研究所を辞め、立ち退いた腕の悪い野鍛冶の小屋を流用して診療所を営んでいた。一種の裏切り行為だったために元の場所には戻れず、他の道も閉ざされてしまい、戦中は番人のように診療所で何かを守っていたが、戦後は何の意味もないものになったため惰性で診療所に留まっていた。昭和28年の夏前に死去するも、佳乃に情報が伝わったのは秋になってからだった。 === 警察関係者 === ; 長門 五十次(ながと いそじ) : 元[[警視庁]]本庁刑事部刑事課の刑事。警視庁に奉職して40年のベテランだったが、昭和29年2月半ばの[[警察法|警察制度改正要綱]]採択に合わせて司法警察官を退職。木場は刑事人生最後の相棒で、お目付け役を任されていた。妻とは17年前に死別して、以降は独身。 : 木場達が催した自身の壮行会の席で、己が遺体に対して最初に念仏を唱えた、昭和9年6月に[[芝公園]]で発生した不可解な未解決殺人事件について木場に語り、その頃からの知り合いで木場の今の上司である近野に自発的に話を聞きに行くよう誘導する。 ; 伊庭 銀四郎(いば ぎんしろう) : 元警察官。戦前は[[長野県警察]]に奉職していたが、開戦を機に一旦退職し、戦後になって東京警視庁に再雇用され、[[1951年|昭和26年]]に退職した。現役時代は目筋の良さと目付きの悪さ、睨み付けて自白わせるのが巧みだったことから、「眼力の伊庭銀」の二つ名で呼ばれていた。 : 前年に[[陰摩羅鬼の瑕|長野県警時代に解決できなかった事件]]に再び関わり、その際に人違いから木場と知遇を得た。現役時代の同僚だった長門が遂に退職すると云うことで、壮行会に参加する。 ; 長谷川(はせがわ) : 麻布署捜査一係の刑事。痩せぎすなのにいつも大きめの背広を着て、亜米利加の歌手のように油をつけて髪を後ろに撫で付けている。木場からは特に意味もなく「ゲジ」と呼ばれている。 ; 近野 諭(ちかの さとし) : 警視庁麻布署刑事課捜査一係の係長。五分刈りの胡麻塩頭で、50歳は超えているが、頑丈そうで図体が大きく、鍛えているので若く見え、柔道や空手の有段者なので見た目通りに強い。若い頃は相当な跳ねっ返りだったらしく、ただの叩き上げではない苦労人だとされている。強盗犯一筋。20数年前は[[愛宕警察署|芝愛宕署]]に配属されていた。 : 昭和9年の芝公園の事件で一番最初に現着して本庁を呼ぶよう指示した警察官。死体が消えた後も独自に徹底的に喰い付き、消えた死体のうち2体は多西村で焼死体として発見された笹村夫妻のものではないかと推論を立てるが、事件に深入りしたせいで[[高尾山]]の方の駐在所に4年間も左遷された。その縁で長門とは毎年[[年賀状]]を遣り取りする程度の仲が続いている。 : 木場のことは買っていて、暴走癖に対して小言は云うものの、解雇せずほぼ野放しにしている。長門から聞いた20年前の芝公園の事件について聞きに来た木場に、特高警察の命令で処分される前に鑑識からくすねていた現場写真を渡し、彼に強引に有給休暇を取らせ、笹村夫妻の遺児が引き取られたと云う日光へ行って捜査するよう命令する。 ; 植野(うえの) : [[日光駅]]前交番勤務の巡査。27、8歳。太い黒縁の眼鏡を掛けた僧のような印象の青年。後々操作に役に立つかもと云う配慮で、交番を訪れた人々の話の中で事件性のありそうなものは個人的に帳面に付けている。 : 秀巳を探す益田と御厨に、昭和28年9月9日に交番に訪れた桐山勘作の居場所を知らないかと尋ねられたこと、同年12月30日に再訪して桐山老人を見つけたことを報告され、事故の捜査をした警官を探しに日光署に向かったことを伝える。 ; 木暮 元太郎(こぐれ げんたろう) : [[栃木県警察]][[日光警察署|日光署]]の元刑事。明治生まれで70歳過ぎの強面の老人で、短く刈り込まれた頭髪は真っ白だが、太い眉毛は黒黒としていて、声も低く嗄れているものの張りがある。[[小来川村]]在住。 : 自宅には祝日でもないのに[[日本の国旗|日の丸]]を掲げ、門柱の代わりに立てられた石の柱には[[八紘一宇|八綋爲宇]]と彫り付けられているので、周囲からは[[右翼|右翼思想]]の持ち主や[[国粋主義|国粋主義者]]と思われているが、戦前は兎も角、現在は戦争行為には反対の立場を取っていて、祖父の代から筋金入りの[[尊皇攘夷|尊皇攘夷主義者]]だと自認している。<!--祖父は[[遠国奉行|日光奉行]]新庄右近将監の命で[[鳥羽・伏見の戦い|鳥羽伏見の戦い]]で敗走した幕府方の敗残兵や脱走兵の日光入りを阻止する役目に就いていた。--> : 20年前に寒川英輔の死亡事故を扱った警察官。昭和29年1月4日に秀巳の訪問を受け、遺体を通報から1日後に診療所へ運んだのが特高警察だと疑っていること、昭和8年から旧尾巳村で理化学研究所が原子力関連の研究を行っていた可能性があることなどを語り、後日自宅を訪問して来た益田と御厨にも同様の話をする。 ; 郷嶋 郡治(さとじま ぐんじ) : [[公安調査庁]]の調査官で元[[警視庁公安部|公安]]刑事。かつては[[内務省 (日本)|内務省]]の特務機関に所属して[[陸軍中野学校]]の創立にも関わった。刑事時代は「[[サソリ|蠍]]」と謂われ、腕利きとして知られていた。 : 組織として解体された軍や内務省が残した危険物を密かに捜して処分する職務に就いている。日光山中の旧尾巳村の転居エリアを探っており、田端勲に関する情報を得ようと自殺未遂を繰り返す実娘の登和子を追跡している時に木場と再会。その後、村で診療所を開いていた緑川猪史郎の唯一の親族で姪孫に当たる佳乃に接触する。 === その他 === ; 今出川 広彬(いまでがわ ひろあきら) : 榎木津兄弟の母方の祖父。[[1930年|昭和5年]]までは[[宮内省]]で[[宮内庁侍従職|侍従職事務主管]]を務め、退職後は[[鎌倉]]に隠居して在野で[[演劇の歴史|演劇史]]の研究をしている。戦前は主に[[演劇改良運動]]の研究をしていたが、戦後は[[猿楽]]から[[能]][[狂言]]、[[歌舞伎]]、[[新派]]、[[少女歌劇]]から[[大衆演劇]]、地下演劇まで視野を広げている。[[現代劇|現代演劇]]にも造詣が深く、殊更小劇団には執心しており、好意的に紹介するのみならず、援助も惜しまないことで有名。 : 久住の劇団の後援もしており、彼に能「鵼」を題材にした新作を書くよう指示する。 == 用語 == ; 寒川薬局(さむかわやっきょく) : [[雑司ヶ谷]]にある院外処方[[薬局]]。元元[[姑獲鳥の夏#用語|久遠寺医院]]が経営する薬局だったが、久遠寺医院の規模縮小に伴って経営を分離、独立。暫くは専属だったが、戦後になって久遠寺医院がほぼ[[産婦人科学|産科]]に特化したことで廃業寸前となっていた所を、薬剤師として勤めていた寒川秀巳が買い取り、近隣に出来た総合病院と提携して現在に至る。現在は店主に加えて2名の薬剤師と1名の経理係が勤務している。 ; 一白新報(いっぱくしんぽう) : 明治時代に[[後巷説百物語#主な登場人物|笹村与次郎]]が興した[[大新聞と小新聞|小新聞]]。1、2人の社員と共に細々と発行していたため、発行部数も少ない。誌名は[[巷説百物語シリーズ#主な登場人物|創設者の妻の養父]]が晩年に名乗っていた雅号に因んでいる。創刊時は主に諸国の怪談奇談を載せる大衆娯楽紙で、割にちゃんと取材して掲載していたが、[[1919年|大正8年]]に息子の伴輔が嗣いで主筆になってからは体制批判的な記事の割合が増えていた。 : 政権に批判的な記事を載せていたせいで[[特別高等警察|特高警察]]から目を付けられていたらしい。20年前には理化学研究所に纏わる記事を書こうとしていた。 ; 日光榎木津ホテル(にっこうえのきづホテル) : 榎木津総一郎が[[1950年|昭和25年]]に日光で開業したホテル。造作は云うまでもなく洋風なのだが、意匠は和風で、[[傘|番傘]]や[[扇子|絵扇]]、古めかしい書画、[[壺]]、[[仏像]]、[[衝立]]などが飾られ、要所要所には花が生けられている。そのため、和洋折衷と云うより和装の洋館のような印象で、日本人の目には異国風に感じられてしまう。客室棟と食堂やロビーのある棟は、深沙王堂前の[[神橋]]を模した橋で結ばれる。 ; 小峯荘(こみねそう) : 日光で小峯源助が営む民宿。元々は百姓をしていた源助の妻の実家で、旅館業法が出来て直ぐに申請を行っているが、それ以前から工事人や行商人を偶に泊めていた。 ; 田貫屋(たぬきや) : 日光で田上祥治が営む商人宿。元経営者の祖父が田上貫三郎(たのうえ かんざぶろう)で、その通称が田貫(タノカン)だったことに由来しているので、店舗名は「たのかんや」が正しい。創業は明治。主人によれば日光で一番廉い宿だと云う。 ; 寛永堂(かんえいどう) : [[日光駅]]前の大通りにある古い[[仏具]]屋。[[明治維新|ご一新]]前から営業している老舗。浅田家の本家が経営者で、主人夫妻以外は戦争を経て死亡しているが、遠縁である尾巳村の桜田家の他、今市にも分家がいる。 ; 尾巳村(おみむら) : 日光の町外れにある集落。以前は桜田家より奥にも30から40戸ほどの家があったが、[[1933年|昭和8年]]に1坪5000円という高額で土地が買い上げられて全世帯が転出。元々他所から移り住んだ者が多かったので地方の習俗も徹底されておらず、行政区分が変更になった訳でもないので残った地域が隣村に編入されることもなく、その後何回かの町村合併のために村の組織も明確には形成されず、その結果、共同体としての付き合いはおざなりになって相互扶助関係も希薄になっている。また、集落の奥には寺のような大きな屋敷があり、大昔に一家皆殺しが起きたと云う噂もあった。 : 転出があったエリアでは緑川猪史郎が営む診療所のみが機能していたが、昭和28年夏に医師が死亡して閉鎖された。廃村になった当初は何十人もの人足が来て、寺のような大きな屋敷を拠点に作業を行っていたが、実際にどのような事業が行われていたかは近隣住民でも知らなかった。 ; 芝公園の死体消失事件 : 昭和9年6月に[[芝公園]]で発生した未解決殺人事件。発端は[[芝東照宮]]の裏手に男性2人、女性1人の遺体が川の字になって並べられていたと云うもの。年配の方の男は鈍器らしき凶器で頭を割られたのか頭蓋骨と頸椎を骨折していた形跡があり、もう片方の男は心臓を一突き、女は腹部を刺されていたのか血痕が残っていたとされる。見た限りでは所持品もなく、また、年配の男だけは妙に体が汚れていて、髪に草や木が付いていた。だが、現場から[[愛宕警察署|芝愛宕署]]へ運び出された筈の死体が盗まれて行方不明となり、死体検案が不可能となったために身元の確認も死因の特定も出来ず、捜査員の誰も遺体搬送係に扮していた死体泥棒の顔を覚えていなかったことで死体を見つけることも出来ず、殺人事件自体が処置なしで無効状態になったまま時効を迎えた。 : 事件に関わった近野は遺体を持ち去ったのは[[特別高等警察|特高警察]]だと考えており、第一発見者のバタ屋が腰を抜かして喚き散らし野次馬が集まったせいですぐに死体を運び出せなかったと推測している。事件関係者は大戦を経てほとんど死亡したか雲隠れしており、当事者で所在が判っているのは長門と近野程度。 ; 多西村の強盗放火殺人 : 昭和9年6月25日の夜中、[[多西村]]で発生した強盗放火殺人事件。被害者は一白新報の記者だった笹村伴輔・澄代夫妻で、伴輔は心臓、澄代は腹部を刺された後で遺体を焼かれていた。事件は未解決で時効を迎えたが、近野は芝公園から盗まれた遺体が笹村夫妻のものではないかと疑っている。<!-- ; 旭日爆弾開発計画(きょくじつばくだんかいはつけいかく) : [[1932年|昭和7年]]より行われていた原子爆弾の製造計画。[[内務省]]の山辺忠継が発案者で、[[大日本帝国陸軍|帝国陸軍]][[大佐]]の堂島静鎮が計画を後押しした。計画は徹底的に隠された完全な隠密進行で、帝国陸軍の中でも最高機密、内務省でも山辺機関の数名を除いて知る者は居なかった。[[足尾銅山]]が近く近隣住民の健康被害を鉱毒の影響として誤魔化せる日光の旧尾巳村の土地を高額で買い取り、人工放射性物質を生成するための[[サイクロトロン]]を設置した。 : 軍部には表向き原子爆弾の国産が目的と云っていたが、山辺の目的は放射性物質が人体に与える悪影響を示して核開発を止めることにあり、サイクロトロンはフェイクの張りぼてで、人体への悪影響に関するデータも捏造されたものであり、云うなれば壮大な詐欺であった。集められたのも核開発に強く反対する研究者やそれを支える職人達で、[[仁科芳雄]]博士のサイクロトロンが完成しそうになった頃からは[[ラジウム]]を含む[[蓄光|夜光塗料]]を使って誤魔化し続けていた。しかし仁科博士がラジウムの生成に成功した後はこっそり原爆を作るだけの処になり、時局の悪化に伴い人員の交代も行われなくなり、核開発阻止と云う本来の目的も諦められ、スポンサーも次々に援助を打ち切り、開戦に合わせて誰にも知られないまま計画は放棄された。--> == 刊行背景 == 「[[百鬼夜行シリーズ]]」は、[[1994年]]の第一作『[[姑獲鳥の夏]]』から[[1998年]]『[[塗仏の宴 宴の始末]]』まで、約3ヶ月間隔で刊行していた{{Sfn|朝宮|2023a|p=32f}}。しかし作者の多忙などにより刊行ペースが延び始め{{Sfn|朝宮|2023a|p=32f}}、『鵼の碑』は[[2006年]]『[[邪魅の雫]]』巻末でタイトルが発表されて以来、17年間にわたり発売日未定となっていた<ref name=":02">{{Cite web|和書|title=京極夏彦 新作書き下ろし『鵼の碑』(「百鬼夜行」シリーズ)が講談社から9月14日発売! |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000005340.000001719.html |website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES |date=2023-07-31 |access-date=2023-08-01}}</ref>。 発売日未定の間も、作者は本作の執筆と構想を続けていた{{Sfn|朝宮|2023a|p=32f}}。[[2023年]]5月、4年間務めた[[日本推理作家協会]]代表理事を退任したのを機に、約3ヶ月本腰を入れて執筆{{Sfn|朝宮|2023a|p=32f}}。同年7月31日、発売日が発表された<ref name=":02" />。2023年は作者デビュー30周年(すなわち『姑獲鳥の夏』30周年)でもあった<ref name=":02" />。 発売日が発表されると、[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]等で[[ファン]]から驚きと喜びの声があがった<ref name=":0" />。過去作と同様、頁数の多さによる本の厚さ、重さも話題になった<ref>{{Cite web|和書|title=京極夏彦最新作『鵼の碑』が1280p、6.5cm、1.2kgともはや武器。「この世には不思議なことなど何もないのだよ、関口君」 |url=https://dengekionline.com/articles/200113 |website=電撃オンライン |date=2023-08-31 |access-date=2023-09-09 |language=ja}}</ref>。[[紀伊國屋書店]]全店では本作のための[[ブックカバー]]が用意された<ref name=":1" />。[[広告]]として、[[東京メトロ]]や[[JR西日本]]では[[車内広告]]、[[朝日新聞]]では[[新聞広告|全面広告]]が掲載された<ref name=":1" />。 [[2008年]]には、版元の[[講談社]]での新企画開始に伴い、『鵼の碑』から版元を別の出版社へ移籍すること、講談社ノベルス版の増刷を中止することなどが告知されていた<ref>{{Cite web|和書|title=週刊大極宮バックナンバー 第364号 |url=https://osawa-office.co.jp/weekly_bn/364.html |website=osawa-office.co.jp |access-date=2023-09-15 |publisher=大沢オフィス-公式ホームページ-}}</ref>。しかし最終的に、講談社ノベルス版と同社単行本の同時発売となった<ref name=":03">{{Cite web|和書|title=京極夏彦 新作書き下ろし『鵼の碑』(「百鬼夜行」シリーズ)が講談社から9月14日発売! |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000005340.000001719.html |website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES |date=2023-07-31 |access-date=2023-08-01}}</ref>。 == 書誌情報 == * [[単行本]]版: [[講談社]]、2023年9月14日発売、{{ISBN2|9784065330722}} * [[新書]]版: 講談社〈[[講談社ノベルス]]〉、2023年9月14日発売、{{ISBN2|9784065150450}} * [[電子書籍]]版: 講談社〈電子百鬼夜行〉、2023年9月14日発売、{{ASIN|B0CG5853SR}} == 脚注 == {{Reflist|30em}} == 参考文献 == *{{Citation|和書|title=京極夏彦ロングインタビュー|last=朝宮|first=運河|year=2023a|url=https://ddnavi.com/interview/1175766/a/|journal=[[ダ・ヴィンチ (雑誌)|ダ・ヴィンチ]] 2023年10月号|publisher=[[KADOKAWA]]}} *{{Citation|和書|title=スペシャル対談1 京極夏彦×宮部みゆき|last=朝宮|first=運河|year=2023b|url=https://ddnavi.com/interview/1176862/a/|journal=[[ダ・ヴィンチ (雑誌)|ダ・ヴィンチ]] 2023年10月号|publisher=[[KADOKAWA]]}} == 関連項目 == {{div col|3}} * [[鵺]]、[[虎鶫]]、[[三猿]]、[[獏]]、[[狛犬]]、[[兕]]、[[蛇帯]]、[[墓の火]] * [[日光国立公園]]、[[日光金谷ホテル]] * [[日光東照宮]]、[[輪王寺]]、[[憾満ヶ淵]]、[[裏見滝]] * [[芝東照宮]] * [[天海]]、[[勝道]]、[[左甚五郎]]、[[郡虎彦]] * [[山王一実神道]]、[[権現]]、[[神仏分離]]、[[山岳信仰]] * [[日光山縁起]] * [[マタギ]]、[[サンカ]] * [[西遊記の成立史]] * [[中禅寺湖]] * [[足尾鉱毒事件]]、[[谷中村]] * [[カスリーン台風]] * [[特高警察]]、[[公安警察]]、[[公安調査庁]] * [[田母沢御用邸]] * [[理化学研究所]]、[[理研コンツェルン]] * [[原子力]]、[[仁科芳雄]]、[[アインシュタイン]] * [[ニ号研究]] * [[サイクロトロン]] * [[チェレンコフ光]] * [[ラジウム・ガールズ]] * [[ガイガー=ミュラー計数管]] * [[過誤記憶]] * [[陰謀論]] * [[以津真天]] {{div col end}} {{百鬼夜行シリーズ}} {{Normdaten}} {{Lit-stub}} {{DEFAULTSORT:ぬえのいしふみ}} [[Category:百鬼夜行シリーズ]] [[Category:2023年の小説]] [[Category:栃木県を舞台とした小説]]
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松岡えみり
松岡 えみり(まつおか えみり、2004年8月11日 - )は、日本の女優、タレント、ファッションモデル。 特技はバドミントン・テニス(3年)、ピアノ(5年)。 2022年広告3年生でPopteen×109の選抜モデルオーディションに参加したが落選。 現在JJモデルオーディション2023ファイナリスト。 みゆはんMUSIC MV『劣等生ルーザーマン』
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松岡 えみりは、日本の女優、タレント、ファッションモデル。
{{特筆性|人物|date=2023年9月11日 (月) 20:40 (UTC)}} {{ActorActress | 芸名 = 松岡 えみり | ふりがな = まつおか えみり | 画像ファイル = | 画像サイズ = 254×254 | 画像コメント = 松岡えみりの画像 WEBサイトより | 本名 = | 別名義 = えみちゅん | 出生地 = | 出身地 = {{JPN}}・[[東京都]] | 死没地 = | 国籍 = <!--「出生地」から推定できないときだけ --> | 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です --> | 身長 = 163cm | 血液型 = | 生年 =2004 | 生月 = 08 | 生日 = 11 | 没年 = | 没月 = | 没日 = | 職業 = [[俳優#性別での分類|女優]] [[タレント]] | ジャンル = | 活動期間 = | 活動内容 = | 配偶者 = | 著名な家族 = <!-- 『著名活動をしている人物』で記事対象の家族として公開されている人物がいる場合に記載。単にメディアで紹介された新生児の名前などは書かないように注意。 --> | 事務所 = | 公式サイト = [https://irving.co.jp/talents/emiri-matsuoka/ アービング芸能プロダクション プロフィール] | 主な作品 = <!-- 誰もが認める代表作品を記述 -->'''雑誌'''<br />『[[popteen]]』 | アカデミー賞 = | AFI賞 = | 英国アカデミー賞 = | セザール賞 = | エミー賞 = | ジェミニ賞 = | ゴールデングローブ賞 = | ゴールデンラズベリー賞 = | ゴヤ賞 = | グラミー賞 = | ブルーリボン賞 = | ローレンス・オリヴィエ賞 = | 全米映画俳優組合賞 = | トニー賞 = | 日本アカデミー賞 = | その他の賞 = | 備考 = }} '''松岡 えみり'''(まつおか えみり、[[2004年]][[8月11日]] - )は、[[日本]]の[[俳優#性別での分類|女優]]、[[タレント]]、[[ファッションモデル]]<ref name="irving">{{Cite web|和書|url=https://irving.co.jp/news/talents/emiri-matsuoka/ |title=松岡えみり|publisherアービング |accessdate=2023-09-12}}</ref><ref name="talentdatabank">{{Cite web|和書|url=https://www.talent-databank.co.jp/search/profile/2000096863 |title=タレントデータバンク|publisher=タレントデータバンク |accessdate=2023-09-12 }}</ref>。 ==人物== 特技はバドミントン・テニス(3年)、ピアノ(5年)<ref name="talentdatabank">{{Cite web|和書|url=https://www.talent-databank.co.jp/search/profile/2000096863 |title=タレントデータバンク|publisher=タレントデータバンク |accessdate=2023-09-12 }}</ref>。 2022年広告3年生でPopteen×109の選抜モデルオーディションに参加したが落選<ref name="showroom">{{Cite web|和書|url=https://www.showroom-live.com/room/profile?room_id=417763 |title=えみりの部屋|publisher=SHOWROOM |accessdate=2023-09-12 }}</ref>。 現在JJモデルオーディション2023ファイナリスト<ref name="instagram">{{Cite web|和書|url=https://www.instagram.com/emm.__17/ |title=松岡えみりInstagram |publisher=Instagram |accessdate=2023-09-12 }}</ref>。 ==出演== ===雑誌=== *webマガジン『J!NS「AH.H」』 (2019) <ref name="talentdatabank">{{Cite web|和書|url=https://www.talent-databank.co.jp/search/profile/2000096863 |title=タレントデータバンク|publisher=タレントデータバンク |accessdate=2023-09-12 }}</ref> *nanamica women’s 2022 SS LOOK(2022)<ref name="nanamica">{{Cite web|url=https://www.nanamica.com/look/nanamica_ss_2022_w/ |title= nanamica |publisher=nanamica |accessdate=2023-09-12 }}</ref> *Popteen(2022)<ref name="popteen">{{Cite web|url=https://www.loveteen.jp/ |title= Popteen|publisher=popteen|accessdate=2023-09-12 }}</ref> *無印良品LOOKBOOK(2022)<ref name="irving">{{Cite web|和書|url=https://irving.co.jp/news/talents/emiri-matsuoka/ |title=松岡えみり|publisherアービング |accessdate=2023-09-12}}</ref> ===その他=== みゆはんMUSIC MV『劣等生ルーザーマン』<ref name="mewhan">{{Cite web|url=https://mewhan.jp/contents/661476|title= mewhan|publisher=mewhan|accessdate=2023-09-12 }}</ref> == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == *[https://www.instagram.com/emm.__17/ 公式インスタグラム] *[https://irving.co.jp/news/talents/emiri-matsuoka/ 所属事務所 公式プロフィール] *[https://www.talent-databank.co.jp/search/profile/2000096863 タレントデータバンク] {{DEFAULTSORT:まつおか えみり}} [[Category:日本のファッションモデル]] [[Category:21世紀日本の女優]] [[Category:日本のタレント]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:2004年生]] [[Category:存命人物]]
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月山京香
月山 京香(つきやま きょうか、2000年8月16日 - )は、日本のタレント、ファッションモデル。 『月山 京香』は芸名ではなく本名である。 趣味と特技はどこでも寝れること、歌を歌うこと。好きなアイドルは大野智(嵐)と前田敦子。 小学生の頃、母に「ファッションモデルやキッズモデルの仕事をしてみないか」と勧められ、そこから芸能活動を開始し、中学生になってから3年半ほどはアイドル活動をしていた。 初めての雑誌出演はまぶたのタイプ別のメイク企画で「一重のモデル」として声がかかったこと。また、初の女優デビューはNetflix「First Love 初恋」であった。 美髪と一重まぶたを武器に主に「一重モデル」として様々なファッション雑誌で活躍をしている。
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月山 京香は、日本のタレント、ファッションモデル。
{{特筆性|人物|date=2023年9月11日 (月) 20:42 (UTC)}} {{ファンサイト的|date=2023年9月11日 (月) 20:42 (UTC)}} {{女性アイドル | アイドル名 = 月山 京香 | ふりがな = つきやま きょうか | 画像ファイル = | 画像コメント = | 別名義 = | 愛称 = | 生年 = 2000 | 生月 = 8 | 生日 = 16 | 没年 = | 没月 = | 没日 = | 出身地 = {{JPN}}・[[大阪府]] | 死没地 = | 血液型 = | 瞳の色 = | 毛髪の色 = 黒 | 時点 = | 身長 = 172 | 体重 = | バスト = 78 | ウエスト = 58 | ヒップ = 83 | カップ = | 身体備考 = | デビュー = | ジャンル = [[タレント]] 、[[ファッションモデル]] | 所属グループ = | 活動期間 = | 著名な家族 = | 活動備考 = | 他の活動 = [[俳優|女優]] | 事務所 = [[アービング (芸能プロダクション)|アービング]] | 音楽レーベル = | 公式サイト = | 主な出演作 = <!-- 主演映画・主演テレビドラマなど。脇役の場合、大ヒットした作品で重要な役割であった、またはその出演功績を認められたもの。例えば、日本アカデミー賞優秀助演女優賞を受賞したような役の作品を3作程度まで記載。多い場合は出演欄にリンクするなど羅列にならないように注意。 --> | 主な楽曲 = <!-- 複数の二次情報源によってこの人物の代表的な曲として認められる楽曲を、出典を明記した上で3曲程度まで記載可能 --> | 受賞歴 = }} '''月山 京香'''(つきやま きょうか、[[2000年]][[8月16日]] - )は、[[日本]]の[[タレント]]、[[ファッションモデル]]。<ref name="irving">{{Cite web|和書|url= https://irving.co.jp/talents/kyoka-tsukiyama/ |title=アービング芸能プロダクション 月山京香プロフィール|publisherアービング |accessdate=2023-09-12}}</ref><ref name="InterFM">{{Cite web|和書|url= https://www.interfm.co.jp/dj/dj-detail/653 |title=InterFM 月山京香|publisher=InterFM |accessdate=2023-09-12 }}</ref> ==人物== 『月山 京香』は芸名ではなく本名である<ref name="twitter">{{Cite web|和書|url= https://twitter.com/kyoka_moon816 |title=月山京香公式Twitter|publisher=twitter|accessdate=2023-09-12 }}</ref>。 趣味と特技はどこでも寝れること、歌を歌うこと。好きなアイドルは[[大野智]](嵐)と[[前田敦子]]<ref name="avexnet">{{Cite web|和書|url=http://m.avexnet.jp/html/idols/is/i_o_tsukiyama.html |title=Avexnet月山京香|publisher=avex|accessdate=2023-09-12 }}</ref>。 ==来歴== 小学生の頃、母に「ファッションモデルやキッズモデルの仕事をしてみないか」と勧められ、そこから芸能活動を開始し、中学生になってから3年半ほどはアイドル活動をしていた。 初めての雑誌出演はまぶたのタイプ別のメイク企画で「一重のモデル」として声がかかったこと。<ref name="eaidem">{{Cite web|和書|url= https://www.e-aidem.com/ch/listen/entry/2023/04/19/103000|title=eaidem月山京香 |publisher=eaidem|accessdate=2023-09-12 }}</ref>また、初の女優デビューはNetflix「First Love 初恋」であった。<ref name="irving">{{Cite web|和書|url= https://irving.co.jp/talents/kyoka-tsukiyama/ |title=アービング芸能プロダクション 月山京香プロフィール|publisherアービング |accessdate=2023-09-12}}</ref><ref name="InterFM">{{Cite web|和書|url= https://www.interfm.co.jp/dj/dj-detail/653 |title=InterFM 月山京香|publisher=InterFM |accessdate=2023-09-12 }}</ref> 美髪と一重まぶたを武器に主に「一重モデル」として様々なファッション雑誌で活躍をしている<ref name="irving">{{Cite web|和書|url= https://irving.co.jp/talents/kyoka-tsukiyama/ |title=アービング芸能プロダクション 月山京香プロフィール|publisherアービング |accessdate=2023-09-12}}</ref><ref name="InterFM">{{Cite web|和書|url= https://www.interfm.co.jp/dj/dj-detail/653 |title=InterFM 月山京香|publisher=InterFM |accessdate=2023-09-12 }}</ref><ref name="eaidem">{{Cite web|和書|url= https://www.e-aidem.com/ch/listen/entry/2023/04/19/103000|title=eaidem月山京香 |publisher=eaidem|accessdate=2023-09-12 }}</ref><ref name="nonno">{{Cite web|和書|url= https://nonno.hpplus.jp/word/%E6%9C%88%E5%B1%B1%E4%BA%AC%E9%A6%99|title=nonnno月山京香 |publisher=nonno|accessdate=2023-09-12 }}</ref>。 ==出演== ===雑誌=== *with, エル・ジャポン *BAILA *MAQUIA *mini,美的 *NON-NO *VOCE <ref name="irving">{{Cite web|和書|url= https://irving.co.jp/talents/kyoka-tsukiyama/ |title=アービング芸能プロダクション 月山京香プロフィール|publisherアービング |accessdate=2023-09-12}}</ref> ===広告=== *shuuemura,POLA *GU×OREO,KDDI <ref name="irving">{{Cite web|和書|url= https://irving.co.jp/talents/kyoka-tsukiyama/ |title=アービング芸能プロダクション 月山京香プロフィール|publisherアービング |accessdate=2023-09-12}}</ref> == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == *[https://irving.co.jp/talents/kyoka-tsukiyama/ 所属事務所 公式プロフィール] *[https://www.vip-times.co.jp/?talent_id=W20-0315&r 日本タレント名鑑 プロフィール] *[https://thetv.jp/person/2000055647/ ザテレビジョン プロフィール] *[http://m.avexnet.jp/html/idols/is/i_o_tsukiyama.html Avex Portal プロフィール] *[https://nonno.hpplus.jp/word/%E6%9C%88%E5%B1%B1%E4%BA%AC%E9%A6%99 non-no web プロフィール] *[https://www.interfm.co.jp/dj/dj-detail/653 InterFM プロフィール] *[https://twitter.com/kyoka_moon816 公式TWITTER] *[https://www.instagram.com/i_am_kyoka_yade/ 公式インスタグラム] {{DEFAULTSORT:つきやま きようか}} [[Category:日本のファッションモデル]] [[Category:日本のタレント]] [[Category:大阪府出身の人物]] [[Category:2000年生]] [[Category:存命人物]]
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山科朝則
山科 朝則(やましな とものり、1966年8月1日 - )は、日本の政治家。山形県新庄市長(1期)。元山形県議会議員(3期)。 山形県新庄市出身。日本大学農獣医学部食品経済学科卒業。 青果会社役員を経て、2007年に山形県議会議員選挙に立候補するが、落選。2011年の山形県議会議員選挙で初当選し、3期務める。 2015年6月よりJA新庄市会長を務める。2017年の山形県知事選挙では、非自民勢力が支援する現職の吉村美栄子を支援したため、当時所属していた自民党会派を離脱した。2018年6月には、全国農業者農政運動組織連盟が実施した、翌年の第25回参議院議員通常選挙の組織内候補を選ぶ予備選挙に立候補したが、現職の山田俊男に敗れた。 2023年9月10日投開票の新庄市長選挙に吉村美栄子知事の支援を受けて立候補し、5期目を目指した現職の山尾順紀、新人で自民党が推薦するもがみ物産協会前社長の津藤真知子との三つ巴を制して初当選した。 当日有権者数:28,037人(男性13,367人、女性14,670人)。投票率:68.57%(前回比+6.3pts)。 得票数は山科:9,545票、津藤:5,649票、山尾:3,916票だった。 2023年の市長選では、2023年10月に移転・開院する県立新庄病院を核にした地域医療の充実や、2024年4月に開学する東北農林専門職大学と小中学校との教育連携や産学連携を訴え、支持を広げた。 また、市長選で争点となった東北中央自動車道・新庄インターチェンジ付近への「道の駅構想」については新たな賑わいの拠点として官民一体で前向きに進めるとの考えを示した。
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山科 朝則は、日本の政治家。山形県新庄市長(1期)。元山形県議会議員(3期)。
{{政治家 | 人名 = 山科 朝則 | 各国語表記 = やましな とものり | 画像 = <!-- 画像ファイル名 --> | 画像説明 = | 国略称 = {{JPN}} | 生年月日 = {{生年月日と年齢|1966|8|1}} | 出生地 = {{JPN}}・[[山形県]][[新庄市]] | 没年月日 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}} --> | 死没地 = | 出身校 = [[日本大学農獣医学部]] | 前職 = 青果会社役員 | 現職 = | 所属政党 = ([[無所属]]→)<br />([[自由民主党 (日本)|自由民主党]]→)<br />無所属 | 称号・勲章 = | 配偶者 = | 子女 = | 親族(政治家) = | サイン = | ウェブサイト = https://yama-tomo.sakura.ne.jp/wp/ | サイトタイトル = 山科とものりオフィシャルサイト | 職名 = [[ファイル:Flag of Shinjō, Yamagata.svg|25px|新庄市旗]] [[山形県]][[新庄市|新庄市長]] | 当選回数 = 1回 | 就任日 = [[2023年]][[9月30日]] | 退任日 = 現職 | 国旗2 = 山形県 | 職名2 = [[山形県議会]]議員 | 選挙区2 = 新庄市選挙区 | 当選回数2 = 3回 | 就任日2 = [[2011年]] | 退任日2 = 2023年 }} '''山科 朝則'''(やましな とものり、[[1966年]][[8月1日]]<ref>[https://www.jimin.jp/election/results/local_2015/candidate/yamagata/ 山形県 当選者一覧 自由民主党]</ref> - )は、日本の政治家。[[山形県]][[新庄市]]長(1期)。元[[山形県議会]]議員(3期)。 == 略歴 == [[山形県]][[新庄市]]出身。[[日本大学農獣医学部]]食品経済学科卒業<ref name="prof">[https://yama-tomo.sakura.ne.jp/wp/?page_id=17 山科とものりオフィシャルサイト プロフィール]</ref>。 青果会社役員を経て、[[2007年]]に[[山形県議会議員]]選挙に立候補するが、落選<ref>[https://www.asahi.com/senkyo2007t/kaihyo/E06.html]</ref>。[[2011年]]の山形県議会議員選挙で初当選し、3期務める<ref name="nhk20230911">{{Cite news |title=新庄市長選挙 新人の山科朝則氏が初当選|newspaper=NHK NEWS WEB|date=2023-09-11|url=https://www3.nhk.or.jp/lnews/yamagata/20230911/6020018501.html|accessdate=2023-09-17}}</ref>。 [[2015年]]6月より[[農業協同組合|JA]]新庄市会長を務める<ref>{{Cite news |title=【JA人事】JA新庄市(山形県)新会長に山科朝則氏|newspaper=JAcom|date=2015-06-29|url=https://www.jacom.or.jp/jinji/2015/150629-27469.php|accessdate=2023-09-17}}</ref>。[[2017年]]の山形県知事選挙では、[[非自民]]勢力が支援する現職の[[吉村美栄子]]を支援したため、当時所属していた[[自由民主党 (日本)|自民党]]会派を離脱した<ref>{{Cite news |title=県議選 村山市区、現新一騎打ちの公算 新庄市区、前回に続き無投票か /山形|newspaper=毎日新聞|date=2019-03-16|url=https://mainichi.jp/articles/20190316/ddl/k06/010/132000c|accessdate=2023-09-17}}</ref>。[[2018年]]6月には、[[全国農業者農政運動組織連盟]]が実施した、翌年の[[第25回参議院議員通常選挙]]の組織内候補を選ぶ予備選挙に立候補したが、現職の[[山田俊男]]に敗れた<ref>{{Cite news |title=山田俊男氏が推薦候補に 農政連|newspaper=JAcom|date=2018-06-07|url=https://www.jacom.or.jp/nousei/news/2018/06/180607-35441.php|accessdate=2023-09-17}}</ref>。 [[2023年]]9月10日投開票の新庄市長選挙に吉村美栄子知事の支援を受けて立候補<ref name="mainichi20230912">{{Cite news |title=新庄市長選 山科氏初当選 現職5選阻む /山形|newspaper=毎日新聞|date=2023-09-12|url=https://mainichi.jp/articles/20230912/ddl/k06/010/058000c|accessdate=2023-09-17}}</ref>し、5期目を目指した現職の[[山尾順紀]]、新人で自民党が推薦するもがみ物産協会前社長の津藤真知子<ref>{{Cite news |title=新庄市長選 推定投票率29.56%(午後6時現在)|newspaper=NHK NEWS WEB|date=2023-09-10|url=https://www3.nhk.or.jp/lnews/yamagata/20230910/6020018492.html|accessdate=2023-09-17}}</ref>との三つ巴を制して初当選した<ref name="nhk20230911" />。 当日有権者数:28,037人(男性13,367人、女性14,670人)。投票率:68.57%(前回比+6.3pts)。 得票数は山科:9,545票、津藤:5,649票、山尾:3,916票だった<ref>{{Cite web|和書|title=令和5年9月10日執行 新庄市長選挙結果 - 新庄市 |url=https://www.city.shinjo.yamagata.jp/s020/020/20230905163018.html |website=www.city.shinjo.yamagata.jp |access-date=2023-09-11}}</ref>。 == 政策・市政 == 2023年の市長選では、2023年10月に移転・開院する[[山形県立新庄病院|県立新庄病院]]を核にした地域医療の充実や、[[2024年]]4月に開学する[[東北農林専門職大学]]と小中学校との教育連携や産学連携を訴え、支持を広げた<ref name="mainichi20230912" /><ref name="sankei20230911">{{Cite news |title=山形・新庄市長に山科氏が初当選 「道の駅」推進派|newspaper=産経新聞|date=2023-09-11|url=https://www.sankei.com/article/20230910-5ETLSXU44RLXPNXLQXRXAUASCY/|accessdate=2023-09-17}}</ref>。 また、市長選で争点となった[[東北中央自動車道]]・[[新庄インターチェンジ]]付近への「道の駅構想」については新たな賑わいの拠点として官民一体で前向きに進めるとの考えを示した<ref>{{Cite web|和書|title=吉村知事が支援の前山形県議 山科氏が新庄市長選で初当選 投票率は6ポイント上昇 - YBC 山形放送 |url=https://www.ybc.co.jp/news/?news_id=news1192pk4dycop9c6hmbt |website=YBC 山形放送 - 山形放送(YBC)のホームページ。テレビ、ラジオの番組情報や、山形県内の最新ニュースなどを詳しく紹介。 |date=2022-03-29 |access-date=2023-09-11 |language=ja}}</ref><ref name="sankei20230911" />。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連リンク == * [https://yama-tomo.sakura.ne.jp/wp/ 山科とものりオフィシャルサイト] * [https://www.facebook.com/yamashina.tomonori.kensei/?locale=ja_JP 山科朝則 山朝健政會] - Facebook * [https://www.facebook.com/p/%E5%B1%B1%E7%A7%91-%E6%9C%9D%E5%89%87-100007754828612/?locale=ja_JP 山科朝則 (山科朝則後援会)] - Facebook * [https://www.city.shinjo.yamagata.jp/li/050/index.html 市長の部屋] {{新庄市長}} {{山形県の市町村長}} {{DEFAULTSORT:やましな とものり}} [[Category:新庄市長]] [[Category:山形県議会議員]] [[Category:自由民主党の人物]] [[Category:日本の農業協同組合の人物]] [[Category:日本大学出身の人物]] [[Category:山形県出身の人物]] [[Category:1966年生]] [[Category:存命人物]]
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ニューヨーク・アート・カルテット
ニューヨーク・アート・カルテット(New York Art Quartet、NYAQ)は、1964年にニューヨークで結成されたフリー・ジャズ・アンサンブルで、元々はサックス奏者のジョン・チカイ、トロンボーン奏者のラズウェル・ラッド、ドラマーのミルフォード・グレイヴス、ベーシストのルイス・ウォレルで構成されていた。その後、ウォレルの代わりに、レジー・ワークマン、フィン・ヴォン・エイベン、ハロルド・ドッドソン、エディ・ゴメス、スティーヴ・スワロウ、ブエル・ネイドリンガーを含む他のベーシストが参加した。All About Jazzの評論家クリフォード・アレンは、このグループが「アンダーグラウンドのフリー・ジャズにおいて、最もパワフルな音楽の一部を切り出した」と書いた。 1962年11月、チカイは、その年の初めにヘルシンキ・ジャズ・フェスティバルで出会ったアーチー・シェップとビル・ディクソンの勧めで、母国デンマークからニューヨークへ移住した。ニューヨークに到着すると、チカイはシェップやラズウェル・ラッドらを含むディクソンのグループで演奏を始め、ドン・チェリーや他のさまざまなミュージシャンとも共演した。1963年の夏までに、チカイ、シェップ、チェリーはベーシストのドン・ムーア、ドラマーのJ・C・モーゼスとともにニューヨーク・コンテンポラリー・ファイヴを結成し、ラッドはシェップとともにディクソンと演奏を続けた。ラッドによれば、新しいカルテットを結成するというアイデアはチカイから生まれ、2人は映画監督マイケル・スノウのロフト・スペースでムーアとモーゼスとともに演奏を始めたという。やがてモーゼスが自身の役割に対する相互の不満の結果として脱退し、ラッドとチカイはすぐにサックス奏者のジュゼッピ・ローガンからドラマーのミルフォード・グレイヴスを紹介された。チカイはこう回想している。「これはとても嬉しい驚きでしたが、それ以上に、ポリリズムによる同じリズムの統一感、あるいは同じ激しさと音楽性の感覚を持ったニューヨークの若いミュージシャンたちの音楽を聴いたことがなかったため、グレイヴスはラッドと私を単純に困惑させたのです」。グレイヴスは「結局、30分も一緒に演奏して、ラッドとチカイを驚かせた。彼らは即座に後のニューヨーク・アート・カルテットに加わるよう誘った」。グレイヴスは後に、グループへの参加への誘いは「私の精神的および創造的可能性の進化段階が制限なく表現される必要があったときに」来たと述べた。しかし、チカイが「ベーシストのドン・ムーアは、この魔術師のようなパーカッショニストをとても怖がり、そんなことは真実ではないし、あり得ないと判断して、我々との演奏を拒否したのです」と回想しているように、グループは彼の代わりにベーシストのルイス・ウォレルを迎え入れた。 1964年7月、チカイとラッドは、マイケル・スノウ監督による映画のサウンドトラック・アルバム『ニューヨーク・アイ・アンド・イアー・コントロール』を録音するために、アルバート・アイラー、ドン・チェリー、ゲイリー・ピーコック、サニー・マレイからなるアイラーのカルテットに短期間参加した。その秋、ニューヨーク・アート・カルテットは自らを「ジョン・チカイ・カルテット」と名乗り、ビル・ディクソン主催の「ジャズの十月革命」に参加してデビュー・コンサートを行った。11月、NYAQは、ESPディスクのジャズ・アーティストのオリジナル・ラインナップの一部として最初のアルバムをレコーディングし、その1か月後、ディクソン主催のフェスティバル「フォー・デイズ・イン・ディセンバー」に「ラズウェル・ラッド=ジョン・チカイ・カルテット」として出演し、ジャドソン・ホールにてサン・ラの対バンとして演奏した。グループのセカンド・アルバム『モホーク』は、ベースにレジー・ワークマンを迎えて1965年7月に録音され(ウォレルは1964年12月にグループを脱退)、フォンタナ・レーベルからリリースされた。1965年の秋、チカイはコペンハーゲン、イェーテボリ(スウェーデン)、ヒルフェルスム(オランダ)、そしてアムステルダム(オーネット・コールマンのグループの前座を務めた)におけるNYAQの公演日程を調整し、フィン・ヴォン・エイベンがベースを担当し、ルイス・モホロがドラムを演奏した。オリジナルのミュージシャンとのスケジュール問題の結果であった。このツアーの録音はアルバム『ラズウェル・ラッド=ジョン・チカイ (Roswell Rudd)』として、ラッドの同意なしで1971年にリリースされ、2010年になってアルバム『Old Stuff』に収録された。グループは1966年2月に解散し、チカイはデンマークへと帰国した。 1999年6月13日、ベースのワークマンとともにNYAQはベル・アトランティック・ジャズ・フェスティバルでのパフォーマンスのために再集結し、ソニック・ユースの前座を務めた。35年前のデビュー・アルバムに「Black Dada Nihilismus」という詩が収録されていたアミリ・バラカも登場した。グループは翌日、アルバム『35thリユニオン』をレコーディング。2000年になり、彼らはパリ・バンリュー・ブルース・フェスティバルで演奏し、続いて2001年にはリスボア・フェスティバルでもパフォーマンスを行った。チカイの死後、2013年にトリプル・ポイント・レコードは『Call It Art』というタイトルで、156ページのコーヒーテーブル・ブックやその他の付録とともに、限定版の5枚組LPボックス・セットをリリースした。 チカイによれば、NYAQの最もユニークな側面の1つは、「演奏される音楽のポリフォニックな部分、つまりニューオーリンズ・ジャズやクラシック音楽にも存在する集合的な演奏スタイル全体です。私たちの音楽のポリフォニックな側面は、他の人がコンテンポラリー・ジャズでやっていることと比べて、まったく新しいことです」。デヴィッド・トゥープは、このグループの特徴的なサウンドを「意図的に不規則で、陰気なテーマがけいれんを起こしながら転がり出し、音符が白昼夢に迷ったかのように遠ざかっていき、完全な崩壊が永遠に差し迫っているように見えるほどオープンな音楽」と表現した。チカイは『モホーク』へのライナーノーツのなかで次のように書いている。「私たちの音楽で重要なことは、ジャズがどう聞こえるべきかという先入観を持たずに聴いてもらうことでした。それが『音楽』として聴かれ、それが唯一のラベルとなるようにしよう!と」。 ニューヨーク・アート・カルテットに関するドキュメンタリー『The Breath Courses Through Us』が、アラン・ロス監督によって2013年に公開された。
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ニューヨーク・アート・カルテットは、1964年にニューヨークで結成されたフリー・ジャズ・アンサンブルで、元々はサックス奏者のジョン・チカイ、トロンボーン奏者のラズウェル・ラッド、ドラマーのミルフォード・グレイヴス、ベーシストのルイス・ウォレルで構成されていた。その後、ウォレルの代わりに、レジー・ワークマン、フィン・ヴォン・エイベン、ハロルド・ドッドソン、エディ・ゴメス、スティーヴ・スワロウ、ブエル・ネイドリンガーを含む他のベーシストが参加した。All About Jazzの評論家クリフォード・アレンは、このグループが「アンダーグラウンドのフリー・ジャズにおいて、最もパワフルな音楽の一部を切り出した」と書いた。 1962年11月、チカイは、その年の初めにヘルシンキ・ジャズ・フェスティバルで出会ったアーチー・シェップとビル・ディクソンの勧めで、母国デンマークからニューヨークへ移住した。ニューヨークに到着すると、チカイはシェップやラズウェル・ラッドらを含むディクソンのグループで演奏を始め、ドン・チェリーや他のさまざまなミュージシャンとも共演した。1963年の夏までに、チカイ、シェップ、チェリーはベーシストのドン・ムーア、ドラマーのJ・C・モーゼスとともにニューヨーク・コンテンポラリー・ファイヴを結成し、ラッドはシェップとともにディクソンと演奏を続けた。ラッドによれば、新しいカルテットを結成するというアイデアはチカイから生まれ、2人は映画監督マイケル・スノウのロフト・スペースでムーアとモーゼスとともに演奏を始めたという。やがてモーゼスが自身の役割に対する相互の不満の結果として脱退し、ラッドとチカイはすぐにサックス奏者のジュゼッピ・ローガンからドラマーのミルフォード・グレイヴスを紹介された。チカイはこう回想している。「これはとても嬉しい驚きでしたが、それ以上に、ポリリズムによる同じリズムの統一感、あるいは同じ激しさと音楽性の感覚を持ったニューヨークの若いミュージシャンたちの音楽を聴いたことがなかったため、グレイヴスはラッドと私を単純に困惑させたのです」。グレイヴスは「結局、30分も一緒に演奏して、ラッドとチカイを驚かせた。彼らは即座に後のニューヨーク・アート・カルテットに加わるよう誘った」。グレイヴスは後に、グループへの参加への誘いは「私の精神的および創造的可能性の進化段階が制限なく表現される必要があったときに」来たと述べた。しかし、チカイが「ベーシストのドン・ムーアは、この魔術師のようなパーカッショニストをとても怖がり、そんなことは真実ではないし、あり得ないと判断して、我々との演奏を拒否したのです」と回想しているように、グループは彼の代わりにベーシストのルイス・ウォレルを迎え入れた。 1964年7月、チカイとラッドは、マイケル・スノウ監督による映画のサウンドトラック・アルバム『ニューヨーク・アイ・アンド・イアー・コントロール』を録音するために、アルバート・アイラー、ドン・チェリー、ゲイリー・ピーコック、サニー・マレイからなるアイラーのカルテットに短期間参加した。その秋、ニューヨーク・アート・カルテットは自らを「ジョン・チカイ・カルテット」と名乗り、ビル・ディクソン主催の「ジャズの十月革命」に参加してデビュー・コンサートを行った。11月、NYAQは、ESPディスクのジャズ・アーティストのオリジナル・ラインナップの一部として最初のアルバムをレコーディングし、その1か月後、ディクソン主催のフェスティバル「フォー・デイズ・イン・ディセンバー」に「ラズウェル・ラッド=ジョン・チカイ・カルテット」として出演し、ジャドソン・ホールにてサン・ラの対バンとして演奏した。グループのセカンド・アルバム『モホーク』は、ベースにレジー・ワークマンを迎えて1965年7月に録音され(ウォレルは1964年12月にグループを脱退)、フォンタナ・レーベルからリリースされた。1965年の秋、チカイはコペンハーゲン、イェーテボリ(スウェーデン)、ヒルフェルスム(オランダ)、そしてアムステルダム(オーネット・コールマンのグループの前座を務めた)におけるNYAQの公演日程を調整し、フィン・ヴォン・エイベンがベースを担当し、ルイス・モホロがドラムを演奏した。オリジナルのミュージシャンとのスケジュール問題の結果であった。このツアーの録音はアルバム『ラズウェル・ラッド=ジョン・チカイ』として、ラッドの同意なしで1971年にリリースされ、2010年になってアルバム『Old Stuff』に収録された。グループは1966年2月に解散し、チカイはデンマークへと帰国した。 1999年6月13日、ベースのワークマンとともにNYAQはベル・アトランティック・ジャズ・フェスティバルでのパフォーマンスのために再集結し、ソニック・ユースの前座を務めた。35年前のデビュー・アルバムに「Black Dada Nihilismus」という詩が収録されていたアミリ・バラカも登場した。グループは翌日、アルバム『35thリユニオン』をレコーディング。2000年になり、彼らはパリ・バンリュー・ブルース・フェスティバルで演奏し、続いて2001年にはリスボア・フェスティバルでもパフォーマンスを行った。チカイの死後、2013年にトリプル・ポイント・レコードは『Call It Art』というタイトルで、156ページのコーヒーテーブル・ブックやその他の付録とともに、限定版の5枚組LPボックス・セットをリリースした。 チカイによれば、NYAQの最もユニークな側面の1つは、「演奏される音楽のポリフォニックな部分、つまりニューオーリンズ・ジャズやクラシック音楽にも存在する集合的な演奏スタイル全体です。私たちの音楽のポリフォニックな側面は、他の人がコンテンポラリー・ジャズでやっていることと比べて、まったく新しいことです」。デヴィッド・トゥープは、このグループの特徴的なサウンドを「意図的に不規則で、陰気なテーマがけいれんを起こしながら転がり出し、音符が白昼夢に迷ったかのように遠ざかっていき、完全な崩壊が永遠に差し迫っているように見えるほどオープンな音楽」と表現した。チカイは『モホーク』へのライナーノーツのなかで次のように書いている。「私たちの音楽で重要なことは、ジャズがどう聞こえるべきかという先入観を持たずに聴いてもらうことでした。それが『音楽』として聴かれ、それが唯一のラベルとなるようにしよう!と」。 ニューヨーク・アート・カルテットに関するドキュメンタリー『The Breath Courses Through Us』が、アラン・ロス監督によって2013年に公開された。
{{Infobox Musician <!--プロジェクト:音楽家を参照--> |Name = ニューヨーク・アート・カルテット<br />New York Art Quartet |Img = |Img_capt = |Img_size = |Landscape = |Background = group_or_band |Alias = |Origin = {{USA}} |Genre = [[フリー・ジャズ]] |Years_active = |Label = |Associated_acts = |URL = |Current_members = |Past_members = [[ジョン・チカイ]]<br />[[ラズウェル・ラッド]]<br />[[ミルフォード・グレイヴス]]<br />ルイス・ウォレル<br />[[レジー・ワークマン]]<br />フィン・ヴォン・エイベン }} '''ニューヨーク・アート・カルテット'''('''New York Art Quartet'''、NYAQ)は、1964年に[[ニューヨーク]]で結成された[[フリー・ジャズ]]・アンサンブルで、元々はサックス奏者の[[ジョン・チカイ]]、トロンボーン奏者の[[ラズウェル・ラッド]]、ドラマーの[[ミルフォード・グレイヴス]]、ベーシストのルイス・ウォレルで構成されていた<ref name="tchicai_mohawk">{{cite web |url=https://johntchicai.com/linernotes-mohawk/ |title=linernotes Mohawk |last=Tchicai |first=John |website=johntchicai.com |access-date=July 27, 2020}}</ref>。その後、ウォレルの代わりに、[[レジー・ワークマン]]、フィン・ヴォン・エイベン、ハロルド・ドッドソン、[[エディ・ゴメス]]、[[スティーヴ・スワロウ]]、[[ブエル・ネイドリンガー]]を含む他のベーシストが参加した<ref name="tchicai_mohawk" />。[[All About 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last=Toop|first=David|authorlink=:en:David Toop | title=Into the Maelstrom: Music, Improvisation and the Dream of Freedom Before 1970 | publisher=[[:en:Bloomsbury Publishing|Bloomsbury]] | year=2016 | pages=270–271 }}</ref>。ラッドによれば、新しいカルテットを結成するというアイデアはチカイから生まれ<ref>{{cite journal |last=Rudd |first=Roswell |date=December 2012 |title=John Tchicai 1936-2012 |journal=New York City Jazz Record |issue=128 |pages=14 |url=http://www.nycjazzrecord.com/issues/tnycjr201212.pdf}}</ref>、2人は映画監督マイケル・スノウのロフト・スペースでムーアとモーゼスとともに演奏を始めたという<ref name="toop" />。やがてモーゼスが自身の役割に対する相互の不満の結果として脱退し<ref name="tchicai_interview" />、ラッドとチカイはすぐにサックス奏者の[[ジュゼッピ・ローガン]]からドラマーの[[ミルフォード・グレイヴス]]を紹介された。チカイはこう回想している。「これはとても嬉しい驚きでしたが、それ以上に、ポリリズムによる同じリズムの統一感、あるいは同じ激しさと音楽性の感覚を持ったニューヨークの若いミュージシャンたちの音楽を聴いたことがなかったため、グレイヴスはラッドと私を単純に困惑させたのです」<ref name="tchicai_mohawk" />。グレイヴスは「結局、30分も一緒に演奏して、ラッドとチカイを驚かせた。彼らは即座に後のニューヨーク・アート・カルテットに加わるよう誘った」<ref>{{cite magazine |last=Licht |first=Alan |date=March 2018 |title=Listen To Your Heart |url=https://static1.squarespace.com/static/5bbae881d74562ac18fdfcc6/t/5c109eec40ec9a552f43f374/1544593141126/THE+WIRE+Magazine+-+Issue+409.pdf |magazine=[[:en:The Wire (magazine)|The Wire]] |pages=35 |access-date=May 18, 2020}}</ref>。グレイヴスは後に、グループへの参加への誘いは「私の精神的および創造的可能性の進化段階が制限なく表現される必要があったときに」来たと述べた<ref name="tchicai_nyaq">{{cite web |url=https://johntchicai.com/new-york-art-quartet |title=New York Art Quartet |website=johntchicai.com |access-date=July 27, 2020}}</ref>。しかし、チカイが「ベーシストのドン・ムーアは、この魔術師のようなパーカッショニストをとても怖がり、そんなことは真実ではないし、あり得ないと判断して、我々との演奏を拒否したのです」と回想しているように、グループは彼の代わりにベーシストのルイス・ウォレルを迎え入れた<ref name="tchicai_mohawk" />。 1964年7月、チカイとラッドは、マイケル・スノウ監督による映画のサウンドトラック・アルバム『ニューヨーク・アイ・アンド・イアー・コントロール』を録音するために、[[アルバート・アイラー]]、ドン・チェリー、[[ゲイリー・ピーコック]]、[[サニー・マレイ]]からなるアイラーのカルテットに短期間参加した<ref>{{cite book | last=Weiss | first=Jason | title =Always in Trouble: An Oral History of ESP-Disk, the Most Outrageous Record Label in America | publisher=Wesleyan University Press | year = 2012 | 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| title =Always in Trouble: An Oral History of ESP-Disk, the Most Outrageous Record Label in America | publisher=Wesleyan University Press | year = 2012 | pages=27 }}</ref>、その1か月後、ディクソン主催のフェスティバル「フォー・デイズ・イン・ディセンバー」に「ラズウェル・ラッド=ジョン・チカイ・カルテット」として出演し、ジャドソン・ホールにて[[サン・ラ]]の対バンとして演奏した<ref>{{cite web |url=https://www.nytimes.com/1964/12/26/archives/jazz-composers-schedule-4days-in-december-fete.html |title=Jazz Composers Schedule '4 Days in December' Fete |date=December 26, 1964 |website=nytimes.com |access-date=July 28, 2020}}</ref><ref>{{cite book | last=Weiss | first=Jason | title =Always in Trouble: An Oral History of ESP-Disk, the Most Outrageous Record Label in America | publisher=Wesleyan University Press | year = 2012 | pages=161 }}</ref>。グループのセカンド・アルバム『モホーク』は、ベースにレジー・ワークマンを迎えて1965年7月に録音され(ウォレルは1964年12月にグループを脱退<ref name="tchicai_mohawk" />)、[[フォンタナ・レコード|フォンタナ]]・レーベルからリリースされた<ref>{{cite web |url=https://www.discogs.com/The-New-York-Art-Quartet-Mohawk/release/15101137 |title=New York Art 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2020}}</ref>。グループは1966年2月に解散し<ref name="nyt_davis" />、チカイはデンマークへと帰国した<ref>{{cite web |url=https://johntchicai.com/john-tchicai-biography/ |title=John Tchicai Biography |website=johntchicai.com |access-date=July 27, 2020}}</ref>。 1999年6月13日、ベースのワークマンとともにNYAQはベル・アトランティック・ジャズ・フェスティバルでのパフォーマンスのために再集結し、[[ソニック・ユース]]の前座を務めた。35年前のデビュー・アルバムに「Black Dada Nihilismus」という詩が収録されていた[[アミリ・バラカ]]も登場した<ref>{{cite web |url=https://variety.com/1999/music/reviews/sonic-youth-new-york-art-quartet-1117499903/ |title=Sonic Youth/New York Art Quartet |last=Sprague |first=David |date=June 16, 1999 |website=[[Variety (magazine)|Variety]] |access-date=May 18, 2020}}</ref>。グループは翌日、アルバム『35thリユニオン』をレコーディング<ref name="nyt_davis" /><ref>{{cite web |url=https://www.discogs.com/New-York-Art-Quartet-35th-Reunion/release/1641503 |title=New York Art Quartet – 35th Reunion |website=discogs.com |access-date=July 28, 2020}}</ref>。2000年になり、彼らはパリ・バンリュー・ブルース・フェスティバルで演奏し、続いて2001年にはリスボア・フェスティバルでもパフォーマンスを行った<ref name="tchicai_nyaq" />。チカイの死後、2013年に<ref>{{cite news|first=John|last=Fordham|url=https://www.theguardian.com/music/2012/oct/11/john-tchicai|title=John Tchicai obituary|date=11 October 2012|work=[[The Guardian]]|accessdate=2020-07-28}}</ref>トリプル・ポイント・レコードは『Call It Art』というタイトルで、156ページのコーヒーテーブル・ブックやその他の付録とともに、限定版の5枚組LPボックス・セットをリリースした<ref>{{cite web |url=https://www.discogs.com/New-York-Art-Quartet-Call-It-Art/release/4493927 |title=New York Art Quartet – Call It Art |website=discogs.com |access-date=July 28, 2020}}</ref><ref name="west">{{cite web |url=https://jazztimes.com/reviews/albums/new-york-art-quartet-call-it-art-new-york-art-quartet-1964-1965/ |title=New York Art Quartet: Call it Art: New York Art Quartet 1964-1965 |last=West |first=Michael |date=June 25, 2013| website=jazztimes.com |access-date=July 28, 2020}}</ref>。 チカイによれば、NYAQの最もユニークな側面の1つは、「演奏される音楽のポリフォニックな部分、つまり[[ニューオーリンズ・ジャズ]]や[[クラシック音楽]]にも存在する集合的な演奏スタイル全体です。私たちの音楽のポリフォニックな側面は、他の人が[[コンテンポラリー・ジャズ]]でやっていることと比べて、まったく新しいことです」<ref name="tchicai_interview" />。[[デヴィッド・トゥープ]]は、このグループの特徴的なサウンドを「意図的に不規則で、陰気なテーマがけいれんを起こしながら転がり出し、音符が白昼夢に迷ったかのように遠ざかっていき、完全な崩壊が永遠に差し迫っているように見えるほどオープンな音楽」と表現した<ref>{{cite book | last=Toop|first=David|authorlink=:en:David Toop | title=Into the Maelstrom: Music, Improvisation and the Dream of Freedom Before 1970 | publisher=[[:en:Bloomsbury Publishing|Bloomsbury]] | year=2016 | pages=271–272 }}</ref>。チカイは『モホーク』へのライナーノーツのなかで次のように書いている。「私たちの音楽で重要なことは、ジャズがどう聞こえるべきかという先入観を持たずに聴いてもらうことでした。それが『音楽』として聴かれ、それが唯一のラベルとなるようにしよう!と」<ref name="tchicai_mohawk" />。 ニューヨーク・アート・カルテットに関する[[ドキュメンタリー]]『[http://thebreathcoursesthroughus.com/ The Breath Courses Through Us]』が、アラン・ロス監督によって2013年に公開された。 == ディスコグラフィ == === スタジオ・アルバム === *『ニューヨーク・アート・カルテット』 - ''New York Art Quartet'' (1965年、ESP-Disk) *『モホーク』 - ''Mohawk'' (1965年、Fontana) *『35thリユニオン』 - ''35th Reunion'' (2000年、DIW) * ''Old Stuff'' (2010年、Cuneiform) * ''Call It Art'' (2013年、Triple Point): contains five LPs (four hours) of previously unreleased material and a 150-plus-page coffee-table book<ref name="west" /> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Discogs artist|760254-New-York-Art-Quartet}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:にゆうよおくああとかるてつと}} [[Category:アメリカ合衆国のジャズ・バンド]] [[Category:ESPディスクのアーティスト]]
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元勝寺 (徳島市)
元勝寺(がんしょうじ)は、徳島県徳島市寺町にある真宗大谷派の寺院である。山号は明王山。本尊は阿弥陀如来。 1522年(大永2年)、明念によって創建された。開基した明念は近江国の出身で、本名の山崎若狭守元勝からとって元勝寺と名付けたとされる。 かつては蔵本村(現在の徳島市蔵本町)にあったが、慶長年間(1596年-1615年)に現在地に移転した。また現在の本堂は1697年(昭和42年)に建てられたものである。
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元勝寺(がんしょうじ)は、徳島県徳島市寺町にある真宗大谷派の寺院である。山号は明王山。本尊は阿弥陀如来。
{{日本の寺院 |名称 = 元勝寺 |画像 = {{画像募集中|cat=徳島市}} |所在地 = [[徳島県]][[徳島市]][[寺町 (徳島市)|寺町]]98 |山号 = 明王山 |院号 = |宗派 = [[真宗大谷派]] |本尊 = [[阿弥陀如来]] |創建年 = [[1522年]]([[大永]]2年) |開基 = 明念 |正式名 = 明王山 元勝寺 |札所等 = |文化財 = }} '''元勝寺'''(がんしょうじ)は、[[徳島県]][[徳島市]][[寺町 (徳島市)|寺町]]にある[[真宗大谷派]]の[[寺院]]である。山号は明王山。本尊は[[阿弥陀如来]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://yaokami.jp/1365057/|title=卍元勝寺|publisher=八百万の神|accessdate=2023-9-12}}</ref>。 == 歴史 == [[1522年]]([[大永]]2年)、明念によって創建された。開基した明念は[[近江国]]の出身で、本名の山崎若狭守元勝からとって元勝寺と名付けたとされる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jalan.net/kankou/spt_guide000000205318/|title=元勝寺|publisher=じゃらん|accessdate=2023-9-12}}</ref>。 かつては蔵本村(現在の[[徳島市]][[蔵本町]])にあったが、[[慶長]]年間([[1596年]]-[[1615年]])に現在地に移転した。また現在の本堂は[[1697年]]([[昭和]]42年)に建てられたものである<ref>{{Cite web|和書|url=https://4travel.jp/dm_shisetsu/11350095|title=元勝寺|publisher=フォートラベル|accessdate=2023-9-12}}</ref>。 == 交通 == * [[四国旅客鉄道|JR]]「[[徳島駅]]」より徒歩約10分。 * [[徳島自動車道]]「[[徳島インターチェンジ]]」より車で約15分。 == 脚注 == <references /> == 外部リンク == * [https://www.jalan.net/kankou/spt_guide000000205318/ 元勝寺] - じゃらん * [https://yaokami.jp/1365057/ 元勝寺] - 八百万の神 {{Buddhism-stub}} {{DEFAULTSORT:かんしようし}} [[Category:徳島市の寺]] [[Category:真宗大谷派の寺院]]
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元勝寺
元勝寺(がんしょうじ)
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元勝寺(がんしょうじ) 元勝寺 (羽曳野市) – 大阪府羽曳野市蔵之内にある浄土真宗本願寺派の寺院。五明山。 元勝寺 (徳島市) – 徳島県徳島市寺町にある真宗大谷派の寺院。明王山。 元勝寺 (由布市) – 大分県由布市湯布院町塚原にある浄土真宗本願寺派の寺院。佛光山。もと天台宗の元勝院安楽寺。
'''元勝寺'''(がんしょうじ) * [[元勝寺 (羽曳野市)]] – [[大阪府]][[羽曳野市]][[蔵之内]]にある浄土真宗本願寺派の寺院。五明山。 * [[元勝寺 (徳島市)]] – [[徳島県]][[徳島市]]寺町にある真宗大谷派の寺院。明王山。 * [[元勝寺 (由布市)]] – [[大分県]][[由布市]][[湯布院町]][[湯布院町塚原|塚原]]にある浄土真宗本願寺派の寺院。佛光山。もと天台宗の元勝院安楽寺。 {{DEFAULTSORT:かんしようし}} {{aimai}} [[Category:同名の寺]]
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網谷道弘
網谷 道弘(あみたに みちひろ)は、日本の神職。明治神宮権宮司、近江神宮宮司。 大学卒業後企業に就職した。結婚時、仲人になった明治神宮の宮司に「君みたいな人が神主になるといいんだよね」と言われたことが引っ掛かり、4年ほどのちに神職になることを決め、國學院大學に学んだ。 昭和60年(1985年)、明治神宮に奉職し、平成元年(1989年)に権禰宜に就任、平成19年(2007年)に禰宜に昇任した。 平成21年(2009年)9月27日、小石川大神宮秋季例祭に、明治神宮中島精太郎宮司の代理(来賓)として参列した。 平成22年(2010年)3月7日、小石川大神宮春季例祭に、中島宮司の代理(来賓)として参列した。 平成23年(2011年)、同宮権宮司に就任した。 平成24年(2012年)12月5日、笠間稲荷神社を正式参拝した。また、この年の8月3日・4日に開催された比叡山宗教サミット25周年記念「世界宗教者平和の祈りの集い」の実行委員には権宮司として名を連ねた。 平成29年(2017年)7月9日、平成の富士塚復興開山式が斎行され、これに参列した。9月6日、髙瀬神社を参拝した。 平成30年(2018年)9月4日、明治神宮崇敬会理事長として髙瀬神社を再び参拝した。10月13日、國學院大學合気道部の創部60周年記念祝賀会では乾杯の音頭を取った。11月27日、天皇陛下御即位奉祝委員会事務総長に就任した。 平成31年(2019年)1月29日、「明治の日」総決起集会が開催され、明治神宮崇敬会理事長(来賓)として出席した。 令和2年(2020年)1月2日、大宮八幡宮を参拝した。12月31日、天皇陛下御即位奉祝委員会事務総長の任期を終えた。 令和3年(2021年)4月1日、社務所担当権宮司九条道成が宮司に就任したことに伴い、道弘は兼任していた崇敬会理事長を辞して同日付で社務所担当権宮司に転じた。6月23日、世界宗教者平和会議日本委員会第22回評議員会が開催され、理事に就任した。同年、日本文化藝術財団評議員となっている。 令和4年(2022年)3月31日、権宮司を依願免職。6月21日、世界宗教者平和会議日本委員会第24回評議員会が開催され、その中で道弘の理事退任が承認された。同年中に、福岡県の大根地神社禰宜に転じた。 令和5年(2023年)7月1日、近江神宮宮司に就任した。前宮司の佐藤久忠に誘われての就任だという。就任直後の7日は燃水祭が斎行され、道弘が宮司として資源の安定供給を祈願した。
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網谷 道弘は、日本の神職。明治神宮権宮司、近江神宮宮司。
{{基礎情報 神職 | 氏名 = 網谷 道弘 | 画像 = <!-- 画像ファイル名 --> | 画像サイズ = | 画像説明 = <!-- 画像の説明文 --> | 時代 = [[昭和|昭和時代]] - 現在 | 生誕 = | 死没 = | 改名 = | 別名 = | 諡号 = | 神号 = | 戒名 = | 墓所 = | 官位 = | 勲章 = | 階位 = | 身分 = | 主君 = [[昭和天皇]]→[[明仁|太上天皇]]→[[徳仁|今上天皇]] | 氏族 = | 父母 = | 兄弟 = | 配偶者 = あり | 子供 = | 親戚 = | 奉職神社 = [[明治神宮]]→[[大根地神社]]→[[近江神宮]] | 特筆事項 = | 花押 = | サイン = }} '''網谷 道弘'''(あみたに みちひろ)は、[[日本]]の[[神職]]。[[明治神宮]][[権宮司]]、[[近江神宮]][[宮司]]。 == 生涯 == 大学卒業後企業に就職した{{Refnest|group="*"|name="京都新聞20230829"|{{Cite news|url=https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/1093407|title=「君みたいな人が神主になるといいんだよね」会社員から滋賀・近江神宮の宮司に|date=2023-08-29|accessdate=2023-09-12|newspaper=『京都新聞』|publisher=京都新聞社|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230829125911/https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/1093407|archivedate=2023-08-29}}}}。結婚時、仲人になった明治神宮の宮司に「君みたいな人が神主になるといいんだよね」と言われたことが引っ掛かり、4年ほどのちに神職になることを決め、[[國學院大學]]に学んだ{{Refnest|group="*"|name="京都新聞20230829"}}。 昭和60年([[1985年]])、[[明治神宮]]に奉職し、[[平成]]元年([[1989年]])に権禰宜に就任、平成19年([[2007年]])に禰宜に昇任した{{Sfn|『神社新報』令和5年7月10日|p=2|loc=「本庁辞令」}}。 平成21年([[2009年]])[[9月27日]]、[[小石川大神宮]]秋季例祭に、明治神宮[[中島精太郎]]宮司の代理(来賓)として参列した{{Sfn|『奉公会時報』平成21年秋季号|p=1|loc=「創立43年小石川大神宮秋季大祭」}}。 平成22年([[2010年]])[[3月7日]]、小石川大神宮春季例祭に、中島宮司の代理(来賓)として参列した{{Sfn|『奉公会時報』平成22年春季号|p=1|loc=「創立44年小石川大神宮春季大祭」}}。 平成23年([[2011年]])、同宮権宮司に就任した{{Sfn|『神社新報』令和5年7月10日|p=2|loc=「本庁辞令」}}。 平成24年([[2012年]])[[12月5日]]、[[笠間稲荷神社]]を正式参拝した{{Sfn|『胡桃』第30号|p=12|loc=「笠間稲荷神社日誌」}}。また、この年の[[8月3日]]・[[8月4日|4日]]に開催された比叡山宗教サミット25周年記念「世界宗教者平和の祈りの集い」の実行委員には権宮司として名を連ねた{{Sfn|『世界宗教者平和の祈りの集い』|p=95}}。 平成29年([[2017年]])[[7月9日]]、平成の富士塚復興開山式が斎行され、これに参列した{{Refnest|group="*"|{{Cite web|和書|url=https://www.fusokyo.org/news/%E6%9D%BE%E5%8E%9F%E3%81%AE%E3%81%8A%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E3%81%95%E3%82%93%E3%80%8C%E5%B9%B3%E6%88%90%E3%81%AE%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%A1%9A%E3%80%8D%E5%BE%A9%E8%88%88%E9%96%8B%E5%B1%B1%E5%BC%8F%E3%82%92/|title=松原のお富士さん「平成の富士塚」復興開山式を斎行しました|website=神道扶桑教:お知らせ|publisher=神道扶桑教大教庁|date=2017-07-09|accessdate=2023-09-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210414082944/https://www.fusokyo.org/news/%E6%9D%BE%E5%8E%9F%E3%81%AE%E3%81%8A%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E3%81%95%E3%82%93%E3%80%8C%E5%B9%B3%E6%88%90%E3%81%AE%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%A1%9A%E3%80%8D%E5%BE%A9%E8%88%88%E9%96%8B%E5%B1%B1%E5%BC%8F%E3%82%92/|archivedate=2021-04-14}}}}。[[9月6日]]、[[高瀬神社|髙瀬神社]]を参拝した{{Sfn|『越中一宮』第56号|p=9|loc=「団体参拝日誌抄」}}。 平成30年([[2018年]])[[9月4日]]、明治神宮崇敬会理事長として髙瀬神社を再び参拝した{{Sfn|『越中一宮』第61号|p=10|loc=「団体参拝日誌抄」}}。[[10月13日]]、國學院大學合気道部の創部60周年記念祝賀会では乾杯の音頭を取った{{Sfn|『合気道新聞』平成30年11月10日|p=1|loc=「60周年:國學院」}}。[[11月27日]]、天皇陛下御即位奉祝委員会事務総長に就任した{{Refnest|group="*"|name="役員名簿"|{{Cite web|和書|url=https://www.houshuku.org/30th/houshuku/yakuin.html|title=役員名簿|accessdate=2023-09-12|publisher=天皇陛下御即位奉祝委員会|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230901024631/https://www.houshuku.org/30th/houshuku/yakuin.html|archivedate=2023-09-01}}}}。 平成31年([[2019年]])[[1月29日]]、「[[明治の日]]」総決起集会が開催され、明治神宮崇敬会理事長(来賓)として出席した{{Refnest|group="*"|{{Cite web|和書|url=https://meijinohi.com/?p=1077|title=「明治の日」実現に向けて大いなる一歩 議員連盟とともに総決起集会!|publisher=「明治の日」推進協議会|accessdate=2023-09-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200921071000/https://meijinohi.com/?p=1077|archivedate=2020-09-21}}}}。 [[令和]]2年([[2020年]])[[1月2日]]、[[大宮八幡宮 (杉並区)|大宮八幡宮]]を参拝した{{Sfn|『大宮』第117号|p=4|loc=「新春社頭往来」}}。[[12月31日]]、天皇陛下御即位奉祝委員会事務総長の任期を終えた{{Refnest|group="*"|name="役員名簿"}}。 令和3年([[2021年]])[[4月1日]]、社務所担当権宮司[[九条道成]]が宮司に就任したことに伴い、道弘は兼任していた崇敬会理事長を辞して同日付で社務所担当権宮司に転じた{{Sfn|『代々木』令和3年夏号|p=22|loc=「社務所・崇敬会だより」}}。[[6月23日]]、[[世界宗教者平和会議日本委員会]]第22回評議員会が開催され、理事に就任した{{Refnest|group="*"|{{Cite news|url=https://shimbun.kosei-shuppan.co.jp/news/49518/|title=WCRP創設50周年記念式典の概要決まる 日本委が第22回評議員会後に記者会見|date=2021-07-01|newspaper=『佼成新聞DIGITAL』|publisher=佼成出版社|accessdate=2023-09-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210802000250/https://shimbun.kosei-shuppan.co.jp/news/49518/|archivedate=2021-08-02}}}}。同年、[[日本文化藝術財団]]評議員となっている{{Refnest|group="*"|{{Cite web|和書|url=http://www.jp-artsfdn.org/profile/?id=2021101|title=プロフィール:網谷道弘|accessdate=2023-09-12|publisher=日本文化藝術財団|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230901030309/http://www.jp-artsfdn.org/profile/?id=2021101|archivedate=2023-09-01}}}}。 令和4年([[2022年]])[[3月31日]]、権宮司を依願免職{{Sfn|『神社新報』令和4年4月11日|p=2|loc=「本庁辞令」}}。[[6月21日]]、世界宗教者平和会議日本委員会第24回評議員会が開催され、その中で道弘の理事退任が承認された{{Refnest|group="*"|{{Cite news|url=https://shimbun.kosei-shuppan.co.jp/news/57115/|title=WCRP日本委 第24回評議員会 昨年度事業報告など承認|date=2022-06-30|newspaper=『佼成新聞DIGITAL』|publisher=佼成出版社|accessdate=2023-09-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220715054537/https://shimbun.kosei-shuppan.co.jp/news/57115/|archivedate=2022-07-15}}}}。同年中に、[[福岡県]]の[[大根地神社]]禰宜に転じた{{Sfn|『神社新報』令和5年7月10日|p=2|loc=「本庁辞令」}}。 令和5年([[2023年]])[[7月1日]]、[[近江神宮]][[宮司]]に就任した{{Sfn|『神社新報』令和5年7月10日|p=2|loc=「本庁辞令」}}。前宮司の[[佐藤久忠]]に誘われての就任だという{{Refnest|group="*"|name="京都新聞20230829"}}。就任直後の[[7月7日|7日]]は[[燃水祭]]が斎行され、道弘が宮司として資源の安定供給を祈願した{{Refnest|group="*"|{{Cite news|url=https://www.yomiuri.co.jp/local/shiga/news/20230707-OYTNT50235/|title=滋賀:石油の恩恵に感謝|date=2023-07-08|accessdate=2023-09-12|newspaper=『読売新聞オンライン』|publisher=読売新聞社|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230711135221/https://www.yomiuri.co.jp/local/shiga/news/20230707-OYTNT50235/|archivedate=2023-07-11}}}}。 == 著作 == === 寄稿 === * {{Cite journal|和書|title=祖国病むが故に陛下病めり|journal=祖国と青年|number=111|publisher=日本協議会|pages=22-23|issn=0387-9437}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--=== 注釈 === {{Notelist}}--> === 書籍出典 === {{Reflist|2}} === ウェブ出典 === {{Reflist|group="*"}} == 参考文献 == === 神社社報 === * {{Cite journal|和書|journal=奉公会時報|volume=第375号(平成21年秋季号)|publisher=佐佐木奉公会|year=2009|ref={{SfnRef|『奉公会時報』平成21年秋季号}}}} * {{Cite journal|和書|journal=奉公会時報|volume=第377号(平成22年春季号)|publisher=佐佐木奉公会|year=2010|ref={{SfnRef|『奉公会時報』平成22年春季号}}}} * {{Cite journal|和書|journal=胡桃|volume=第30号|publisher=笠間稲荷神社|date=2012-12|ref={{SfnRef|『胡桃』第30号}}}} * {{Cite journal|和書|journal=越中一宮|volume=第56号|publisher=髙瀬神社社務所|date=2018-01-01|ref={{SfnRef|『越中一宮』第56号}}}} * {{Cite journal|和書|journal=越中一宮|volume=第61号|publisher=髙瀬神社社務所|date=2019-04-01|ref={{SfnRef|『越中一宮』第61号}}}} * {{Cite journal|和書|journal=大宮|volume=第117号(令和2年わかば祭り号)|publisher=大宮八幡宮社務所|date=2020-05-01|ref={{SfnRef|『大宮』第117号}}}} * {{Cite journal|和書|journal=代々木|volume=第525号(令和3年夏号)|publisher=明治神宮社務所|date=2021-07-01|ref={{SfnRef|『代々木』令和3年夏号}}}} === 新聞記事 === * {{Cite journal|和書|journal=合気道新聞|date=2018-11-10|publisher=[[合気会]]|ref={{SfnRef|『合気道新聞』平成30年11月10日}}}} * {{Cite journal|和書|journal=[[神社新報]]|date=2022-04-11|publisher=神社新報社|ref={{SfnRef|『神社新報』令和4年4月11日}}}} * {{Cite journal|和書|journal=神社新報|date=2023-07-10|publisher=神社新報社|ref={{SfnRef|『神社新報』令和5年7月18日}}}} === その他 === * {{Cite journal|和書|journal=比叡山宗教サミット25周年記念 世界宗教者平和の祈りの集い|publisher=比叡山宗教サミット25周年記念「世界宗教者平和の祈りの集い」実行委員会|date=2012-11-20|ref={{SfnRef|『世界宗教者平和の祈りの集い』}}}} {{近江神宮宮司|第4代、2023年 - 現任}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あみたに みちひろ}} [[Category:昭和時代戦後の神職]] [[Category:平成時代の神職]] [[Category:令和時代の神職]] [[Category:明治神宮|人あみたに みちひろ]] [[Category:近江神宮|人あみたに みちひろ]] [[Category:國學院大學出身の人物]] [[Category:生年不明]] [[Category:存命人物]]
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興部川
興部川(おこっぺがわ)は、北海道北東部のオホーツク総合振興局管内を流れオホーツク海に注ぐ二級河川である。カラフトマスの捕獲採卵河川となっており、放流事業が行われている。また、ヤマメの資源保護水面にもなっており、禁漁期間が設けられている。 北海道オホーツク総合振興局紋別郡興部町と西興部村の境界にあるポロヌプリ岳北方に源を発し、南に流れた後、天北峠付近の西興部村内で東に転じ、ほぼ国道239号に沿って興部町内を貫流しオホーツク海に注ぐ。流域面積のうち9割が山地となっており、上流部の赤岩の滝は北海道地質百選に選定されている。 アイヌ語のオウコッペ「川尻の合流するところ」に由来し、かって当川が藻興部川と河口付近で合流していたところから名付けられたと言われている。。
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興部川(おこっぺがわ)は、北海道北東部のオホーツク総合振興局管内を流れオホーツク海に注ぐ二級河川である。カラフトマスの捕獲採卵河川となっており、放流事業が行われている。また、ヤマメの資源保護水面にもなっており、禁漁期間が設けられている。
{{Infobox 河川 |名称=興部川 |画像= |画像説明= |水系等級=[[二級水系]] |水系=興部川 |種別=[[二級河川]] |延長=53.6<ref name=okoppe>[https://www.pref.hokkaido.lg.jp/fs/5/2/6/6/9/4/6/_/%E8%88%88%E9%83%A8%E5%B7%9D%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E6%96%B9%E9%87%9D%E6%B2%B3%E5%B7%9D%E6%95%B4%E5%82%99%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E6%96%B9%E9%87%9D(%E5%B9%B3%E6%88%9014%E5%B9%B43%E6%9C%885%E6%97%A5%E5%90%8C%E6%84%8F).pdf 興部川水系河川整備基本方針(北海道)]</ref> |標高=870 |流量=3.58 <!--平均低水流量値--> <ref name=okoppe /> |観測所=興部水位観測所 |流域面積=308.3<ref name=okoppe /> |水源=[[ポロヌプリ岳]]北方<ref name=okoppe /><br />([[西興部村]]、[[興部町]]) |河口=[[オホーツク海]]([[興部町]]) |流域=[[北海道]][[オホーツク総合振興局]]管内 |脚注= |出典= }} '''興部川'''(おこっぺがわ)は、[[北海道]]北東部の[[オホーツク総合振興局]]管内を流れ[[オホーツク海]]に注ぐ[[二級河川]]である。[[カラフトマス]]の捕獲採卵河川となっており、放流事業が行われている<ref> {{Cite web|和書|url=http://okhotsk-salmon.or.jp/pdf/houryuu_seika.pdf |title=令和5年度 北見管内のサケ・マスふ化放流・捕獲採卵事業体制 |publisher=北見管内さけ・ます増殖事業協会 |accessdate=2023-09-09 }}</ref>。また、[[ヤマメ]]の資源保護水面にもなっており、禁漁期間が設けられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.hokkaido.lg.jp/fs/8/2/1/5/6/5/8/_/P24~P25.pdf |title=北海道漁業調整規則等による区域、期間等の制限一覧 |publisher=北海道 |accessdate=2023-09-09 }}</ref>。 == 地理 == 北海道[[オホーツク総合振興局]][[紋別郡]][[興部町]]と[[西興部村]]の境界にある[[ポロヌプリ岳]]北方に源を発し、南に流れた後、[[天北峠]]付近の西興部村内で東に転じ、ほぼ[[国道239号]]に沿って興部町内を貫流し[[オホーツク海]]に注ぐ。流域面積のうち9割が[[山地]]となっており、上流部の[[赤岩の滝]]は[[北海道地質百選]]に選定されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.geosites-hokkaido.org/geosites/site0452.html |title=北海道地質百選「興部川 赤岩の滝」 |publisher=日本地質学会北海道支部 北海道地質百選検討グループ 事務局 |accessdate=2023-09-09 }}</ref>。 ==名称の由来== [[アイヌ語]]のオウコッペ「川尻の合流するところ」に由来し、かって当川が[[藻興部川]]と河口付近で合流していたところから名付けられたと言われている。<ref name=okoppe />。 == 流域の自治体 == ; 北海道 : オホーツク総合振興局 - 紋別郡西興部村、興部町 == 主な支流 == * 奥興部川 * 札滑川 * 澱粉の沢川 * 忍路子川 * ペンケ川 * 班渓川 * 宇津川 == 利水 == * 水道用水 * 養魚用水 * 工業用水 == 主な橋梁 == * 上興橋 - [[国道239号]] * 七江橋 - 国道239号 * 六興橋 - 国道239号 * 落合橋 - 国道239号 * 五興橋 - 国道239号 * 新興橋 - 国道239号 * 新喜興橋 - 国道239号 * 友喜橋 - 国道239号 * 山興橋 - 国道239号 * 二興橋 - 国道239号 * 興部橋 - [[国道238号]] == 関連項目 == * [[黒岩の滝(北海道)|黒岩の滝]] * [[ヒメギフチョウ]] * [[エゾサンショウウオ]] == 脚注 == {{Reflist}} {{北海道の二級水系}} {{DEFAULTSORT:おこつへかわ}} {{Japan-geo-stub}} {{River-stub}} [[Category:北海道の河川]] [[Category:北海道の二級河川]]
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心臓神経症
心臓神経症(しんぞうしんけいしょう 英:cardiac neurosis)とは心臓に異常は見られないが胸痛、息苦しさ、動悸を生じる精神疾患の一種である。さらに不安感や集中力が落ちるなどの精神的症状もみられることがある。 先ほども述べた通り心臓には異常がないため心電図、心エコー、胸部レントゲンを撮っても異常が見られない。 動悸や胸痛などにより自分は本当は心臓病なのでないかと不安になる心気症(病気不安症)のような精神状態になる場合がある。 ストレス等による自律神経の乱れにより発症するため心身症と同じような分類とされている。 先ほども述べた通り精神疾患の一種のため認知療法や症状が強い場合は薬物療法が使用されることがある。 ストレスが原因の場合は生活習慣の改善で回復することがある。 動悸の身体症状が強い場合はベータ容体遮断薬などを使用し交感神経の作用を抑える場合がある。
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心臓神経症とは心臓に異常は見られないが胸痛、息苦しさ、動悸を生じる精神疾患の一種である。さらに不安感や集中力が落ちるなどの精神的症状もみられることがある。
{{単一の出典|date=2023年9月}} '''心臓神経症'''(しんぞうしんけいしょう 英:''cardiac neurosis'')とは心臓に異常は見られないが[[胸痛]]、息苦しさ、[[動悸]]を生じる[[精神障害|精神疾患]]の一種である。さらに不安感や集中力が落ちるなどの精神的症状もみられることがある。 == 特徴 == {{出典の明記| date = 2023年9月| section = 1}} 先ほども述べた通り心臓には異常がないため[[心電図]]、[[心臓超音波検査|心エコー]]、[[X線撮影|胸部レントゲン]]を撮っても異常が見られない。 動悸や胸痛などにより自分は本当は[[心臓病]]なのでないかと不安になる[[病気不安症|心気症(病気不安症)]]のような精神状態になる場合がある。 [[ストレス (生体)|ストレス]]等による[[自律神経系|自律神経]]の乱れにより発症するため心身症と同じような分類とされている。 == 治療 == {{出典の明記| date = 2023年9月| section = 1}} 先ほども述べた通り精神疾患の一種のため[[認知療法]]や症状が強い場合は[[薬物治療|薬物療法]]が使用されることがある。 ストレスが原因の場合は[[生活習慣]]の改善で回復することがある。 動悸の身体症状が強い場合は[[交感神経β受容体遮断薬|ベータ容体遮断薬]]などを使用し[[交感神経系|交感神経]]の作用を抑える場合がある。 == 出典 == {{参照方法|date=2023年9月|section=1}} * [https://motoyama-inomataclinic.jp/blog/list/cardiac_neurosis/ いのまたクリニック循環器内科ー心臓神経症] {{DEFAULTSORT:しんそうしんけいしよう}} [[Category:心臓]] [[Category:神経症性・ストレス関連及び身体表現性障害]]
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馬と鹿 (寓話)
「馬と鹿」(うまとしか)または「馬と猪」は、イソップ寓話の一篇。ペリー・インデックス269番。一時的な怒りの衝動から起こした行動の代償として自由を失うことを戒める。 この話はアリストテレス『弁論術』において、ヒメラの人々が僭主パラリスを選んだことを非難してステシコロスが語った話として載せている。それによると、馬が独占してきた放牧地に入りこんできた鹿に復讐しようとして人間に助けを求めた。人間が出した「馬に馬銜をつけ、自分が槍を持って馬の背に乗る」という条件に同意した馬は、復讐するかわりに人間の奴隷になってしまった。 同じ話はホラティウス『書簡詩』1.10.34-38にも見える。 ギリシア語散文版のイソップ寓話では鹿が猪に変えられているが趣旨は同じである。猪が草を踏み水を濁らせることに怒った馬は猟師の助けを借りて猪を退治するが、猟師はそのまま馬を飼葉桶に繋いでしまう。 1世紀のパエドルスによるラテン語韻文の寓話集では第4巻第4話に収録されている。馬がいつも水を飲む浅瀬で猪が水浴びして水を汚してしまったことから争いとなり、馬は人間の男に援助を求めて猪を殺すが、男は馬に手綱をつける。 上記のように古いイソップ寓話では馬と猪になっているが、後世にはアリストテレスと同様に馬と鹿になっているのが普通である。15世紀のシュタインヘーヴェル版でも「馬と鹿と猟師」になっている。 17世紀のラ・フォンテーヌの寓話詩では第4巻第13話「鹿に復讐しようとした馬」 (fr:Le Cheval s'étant voulu venger du cerf) として見える。馬と鹿が争ったとき、足の速い鹿を馬は掴まえることができず、人間に助けを求めた。人間は馬に馬銜を噛ませてその背に乗り、鹿を捕えた後も馬を解放せず使役した。馬は後悔したが遅かった。 英語では17世紀のレストレンジ (Roger L'Estrange) に「馬と猪」「馬と牡鹿」の両方が載せられている。19世紀のトマス・ジェームズ(1848年)やファイラー・タウンゼント(1867年)、20世紀のヴァーノン・ジョーンズ(1912年)はいずれも「馬と牡鹿」(The Horse and the Stag)を収録している。 日本ではジェームズ版を翻訳した渡部温『通俗伊蘇普物語』に「馬と鹿の話」が見えている。タウンゼント版にもとづいた福沢英之助『訓蒙話草』に「馬ト鹿ノ話」、上田万年『新訳伊蘇普物語』に「馬と鹿」、巌谷小波『イソップお伽噺』に「馬と鹿」、ジョーンズにもとづく楠山正雄『イソップ物語』に「馬と鹿」の題でそれぞれ載せている。
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「馬と鹿」(うまとしか)または「馬と猪」は、イソップ寓話の一篇。ペリー・インデックス269番。一時的な怒りの衝動から起こした行動の代償として自由を失うことを戒める。
[[File:Le Mire-Oudry-La Fontaine - Le Cheval s'étant voulu venger du cerf.jpg|thumb|ラ・フォンテーヌ寓話の挿絵。[[ジャン=バティスト・ウードリー]]画]] 「'''馬と鹿'''」(うまとしか)または「'''馬と猪'''」は、[[イソップ寓話]]の一篇。[[ペリー・インデックス]]269番。一時的な怒りの衝動から起こした行動の代償として自由を失うことを戒める。 == 概要 == この話は[[アリストテレス]]『[[弁論術 (アリストテレス)|弁論術]]』において、[[ヒメラ]]の人々が[[僭主]][[ファラリス|パラリス]]を選んだことを非難して[[ステシコロス]]が語った話として載せている{{sfn|小堀|2001|pp=56-58}}{{sfn|中務|1996|pp=114-116}}。それによると、馬が独占してきた放牧地に入りこんできた鹿に復讐しようとして人間に助けを求めた。人間が出した「馬に馬銜をつけ、自分が槍を持って馬の背に乗る」という条件に同意した馬は、復讐するかわりに人間の奴隷になってしまった。 同じ話は[[ホラティウス]]『書簡詩』1.10.34-38にも見える<ref>{{wikisourcelang-inline|la|Epistulae (Horatius)/Liber I#Epistula X}}</ref>。 ギリシア語散文版のイソップ寓話では鹿が猪に変えられているが趣旨は同じである。猪が草を踏み水を濁らせることに怒った馬は猟師の助けを借りて猪を退治するが、猟師はそのまま馬を飼葉桶に繋いでしまう{{sfn|中務|1999|pp=204-205}}。 1世紀の[[パエドルス]]による[[ラテン語]]韻文の寓話集では第4巻第4話に収録されている。馬がいつも水を飲む浅瀬で猪が水浴びして水を汚してしまったことから争いとなり、馬は人間の男に援助を求めて猪を殺すが、男は馬に手綱をつける{{sfn|パエドルス/バブリオス|1998|pp=87-88}}。 上記のように古いイソップ寓話では馬と猪になっているが、後世にはアリストテレスと同様に馬と鹿になっているのが普通である。15世紀のシュタインヘーヴェル版でも「馬と鹿と猟師」になっている<ref>{{citation|url=https://mateo.uni-mannheim.de/desbillons/esop/seite130.html|chapter=De equo cervo et venatore|title=Esopi appologi|year=1501|location=Basel|page=130}}</ref>。 17世紀の[[ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ|ラ・フォンテーヌ]]の寓話詩では第4巻第13話「鹿に復讐しようとした馬」{{enlink|Le Cheval s'étant voulu venger du cerf||fr}}として見える。馬と鹿が争ったとき、足の速い鹿を馬は掴まえることができず、人間に助けを求めた。人間は馬に馬銜を噛ませてその背に乗り、鹿を捕えた後も馬を解放せず使役した。馬は後悔したが遅かった。 英語では17世紀のレストレンジ{{enlink|Roger L'Estrange}}に「馬と猪」「馬と牡鹿」の両方が載せられている。19世紀のトマス・ジェームズ(1848年)やファイラー・タウンゼント(1867年)、20世紀のヴァーノン・ジョーンズ(1912年)はいずれも「馬と牡鹿」(''The Horse and the Stag'')を収録している。 日本ではジェームズ版を翻訳した[[渡部温]]『[[通俗伊蘇普物語]]』に「馬と鹿の話」が見えている<ref>{{cite book|和書|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/895207/1/20|chapter=第百五十三 馬と鹿の話|title=通俗伊蘇普物語|author=トマス・ゼームス|translator=[[渡部温]]|year=1872|volume=4}}</ref>。タウンゼント版にもとづいた福沢英之助『訓蒙話草』に「馬ト鹿ノ話」<ref>{{cite book|和書|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1168171/1/7|chapter=馬ト鹿ノ話|translator=福沢英之助|title=訓蒙話草|volume=下|year=1873}}</ref>、[[上田万年]]『新訳伊蘇普物語』に「馬と鹿」<ref>{{cite book|和書|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/896979/1/219|chapter=第百卅七 馬と鹿|title=新訳伊蘇普物語|others=[[上田万年]]解説、[[梶田半古]]画|year=1907|publisher=鍾美堂|pages=166-169}}</ref>、[[巌谷小波]]『イソップお伽噺』に「馬と鹿」<ref>{{cite book|和書|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1169898/1/189|chapter=一二四 復讐(馬と鹿、海豚と飛魚)|pages=332-333|title=イソップお伽噺|others=[[巌谷小波]]訳述|publisher=三立社|year=1911}}</ref>、ジョーンズにもとづく[[楠山正雄]]『イソップ物語』に「馬と鹿」<ref>{{cite book|和書|chapter=37 馬と鹿|title=イソップ物語|translator=[[楠山正雄]]|publisher=[[冨山房]]|year=1916|page=50}}</ref>の題でそれぞれ載せている。 == 脚注 == {{reflist}} == 参考文献 == * {{cite book|和書|author=パエドルス|author2=バブリオス|translator=岩谷智・西村賀子|title=イソップ風寓話集|series=叢書アレクサンドリア図書館|publisher=[[国文社]]|year=1998|isbn=4772004041|ref={{sfnref|パエドルス/バブリオス|1998}}}} * {{cite book|和書|author=小堀桂一郎|authorlink=小堀桂一郎|title=イソップ寓話 その伝承と変容|year=2001|origyear=1978|publisher=[[講談社学術文庫]]|isbn=4061594958|ref={{sfnref|小堀|2001}}}} * {{cite book|和書|author=中務哲郎|authorlink=中務哲郎|title=イソップ寓話の世界|year=1996|publisher=[[ちくま新書]]|isbn=4480056637|ref={{sfnref|中務|1996}}}} * {{cite book|和書|translator=[[中務哲郎]]|title=イソップ寓話集|year=1999|publisher=[[岩波文庫]]|isbn=400321031X|ref={{sfnref|中務|1999}}}} == 外部リンク == * {{wikisourcelang-inline|el|Αισώπου Μύθοι/Συς άγριος και ίππος και κυνηγέτης}} * {{wikisourcelang-inline|la|Fabulae (Phaedrus)/Liber IV#IV. Equus et aper.}} {{イソップ寓話}} {{DEFAULTSORT:うまとしか}} [[Category:イソップ寓話]] [[Category:馬を題材にした作品]]
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アナウンサーたちの戦争
『アナウンサーたちの戦争』(アナウンサーたちのせんそう)は2023年8月14日にNHK総合の『NHKスペシャル』枠にて放送されたテレビドラマ。太平洋戦争中でのNHKアナウンサーたちの活動を事実を元にドラマ化した。 第二次世界大戦(太平洋戦争)では、武器を持って戦う前線の戦士たちを後方支援するもうひとつの戦いがあった。ラジオ放送による「電波戦」。ナチスドイツが行うプロパガンダを手本に「声の力」で戦意高揚や国威発揚を図り、時には虚偽の情報を発信して敵を攪乱させる。行うのは、NHKの前身である社団法人日本放送協会とそのアナウンサーたち。戦時中の彼らの活動を、取材して得られた事実を元にドラマ化し、放送と戦争の関わりを描いた。 日本放送協会のアナウンサーである和田信賢と館野守男は、太平洋戦争の開戦を告げる真珠湾攻撃の速報に携わり、その後も大本営から発表される日本軍の勝利を力強く放送して、国威の発揚を図る。同僚のアナウンサーたちも日本国外に派遣され、現地の日本化を進める。しかし戦況の悪化につれ、大本営の発表を疑問視する和田と、自分たちを国家の宣伝者と認める館野は、次第に衝突し始める。和田は出陣学徒を送り出す実況を任されることに苦悩し、妻の実枝子に叱咤される。館野も戦線の最前線で、戦争の現実を目にする。やがて和田たちは戦争終結に向けて動き出すが、彼らにも銃口が迫る。
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『アナウンサーたちの戦争』(アナウンサーたちのせんそう)は2023年8月14日にNHK総合の『NHKスペシャル』枠にて放送されたテレビドラマ。太平洋戦争中でのNHKアナウンサーたちの活動を事実を元にドラマ化した。
{{基礎情報 テレビ番組 |番組名 = アナウンサーたちの戦争 |画像 = |画像説明 = |ジャンル = [[歴史]]<br />[[テレビドラマ|ドラマ]] |放送時間 = 22:00 - 23:29 |放送分 = 89 |放送枠 = NHKスペシャル |放送期間 = {{flagicon|JPN}}:[[2023年]][[8月14日]] |放送回数 = 1 |放送国 = {{flagicon|JPN}}([[日本放送協会|NHK]]) |制作局 = NHK |企画 = |監督 = |演出 = 一木正恵 |原作 = |脚本 = [[倉光泰子]] |音楽 = 堤裕介 |制作統括 = 新延明 |出演者 =[[森田剛]]<br />[[橋本愛 (1996年生)|橋本愛]]<br />[[高良健吾]]<br />[[浜野謙太]]<br />[[大東駿介]]<br />[[藤原さくら]]<br />[[中島歩]]<br />[[渋川清彦]]<br />[[水上恒司]]<br />[[降谷建志]]<br />[[古舘寛治]]<br />[[眞島秀和]]<br />[[小日向文世]]<br />[[安田顕]] |ナレーター = [[橋本愛 (1996年生)|橋本愛]] |字幕 = [[文字多重放送]] |データ放送 = |OPテーマ = |EDテーマ = |時代設定 = [[1941年]]{{R|ナタリー20230629}} - [[1945年]]{{R|NHKアーカイブス_アナウンサーたちの戦争}} |外部リンク =https://www.nhk.or.jp/archives/bangumi/special/anasen/ |外部リンク名 = アナウンサーたちの戦争 |特記事項 = }} 『'''アナウンサーたちの戦争'''』(アナウンサーたちのせんそう)は2023年8月14日に[[日本放送協会|NHK総合]]の『[[NHKスペシャル]]』枠にて放送された[[テレビドラマ]]。[[太平洋戦争]]中でのNHKアナウンサーたちの活動を事実を元にドラマ化した。 == 概要 == [[第二次世界大戦]]([[太平洋戦争]])では、武器を持って戦う前線の戦士たちを後方支援するもうひとつの戦いがあった。ラジオ放送による「電波戦」。ナチスドイツが行うプロパガンダを手本に「声の力」で戦意高揚や国威発揚を図り、時には虚偽の情報を発信して敵を攪乱させる。行うのは、NHKの前身である社団法人日本放送協会とそのアナウンサーたち{{R|読売新聞20230813m_p20}}。戦時中の彼らの活動を、取材して得られた事実を元にドラマ化し、放送と戦争の関わりを描いた。 == あらすじ == 日本放送協会のアナウンサーである和田信賢と館野守男は、太平洋戦争の開戦を告げる[[真珠湾攻撃]]の速報に携わり、その後も[[大本営]]から発表される日本軍の勝利を力強く放送して、国威の発揚を図る{{R|読売新聞20230813m_p20}}。同僚のアナウンサーたちも日本国外に派遣され、現地の日本化を進める{{R|NHK20230809}}。しかし戦況の悪化につれ、大本営の発表を疑問視する和田と、自分たちを国家の宣伝者と認める館野は、次第に衝突し始める{{R|NHK20230809}}。和田は出陣学徒を送り出す実況を任されることに苦悩し、妻の実枝子に叱咤される{{R|iza20230621}}。館野も戦線の最前線で、戦争の現実を目にする{{R|iza20230621}}。やがて和田たちは戦争終結に向けて動き出すが、彼らにも銃口が迫る{{R|ステラ20230706}}。 == キャスト == === 日本放送協会アナウンサー === ; [[和田信賢]] : 演 - [[森田剛]]<ref name="chart">{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/archives/bangumi/special/anasen/#cast|title=キャスト(相関図)|website=アナウンサーたちの戦争 |work=[[日本放送協会]]|accessdate=2023-09-11}}</ref> : 戦前から全国的人気があった伝説のアナウンサー。 ; 和田実枝子 : 演 - [[橋本愛 (1996年生)|橋本愛]]<ref name="chart"/> : 女性アナウンサーの草分け。旧姓は大島。才媛の誉れ高かったが、開戦翌年に和田信賢との結婚を機に退職し、信賢の仕事を支えた。 ; 館野守男 : 演 - [[高良健吾]]<ref name="chart"/> : 開戦臨時ニュースを読み一躍名をあげた若手アナ。インパール作戦に従軍し戦争の悲惨な現実を知り、姿勢が一変する。 ; [[今福祝]] : 演 - [[浜野謙太]]<ref name="chart"/> : 1938年(昭和13年)入局。開戦時、長笠原アナと秘密裏にベトナムに派遣され、偽ニュースで敵軍を攪乱する謀略放送を実施。 ; [[志村正順]] : 演 - [[大東駿介]]<ref name="chart"/> : 1936年(昭和11年)入局。出陣学徒壮行会では、担当の信賢の不調で直前に急きょ実況を交代した。 ; 赤沼ツヤ : 演 - [[藤原さくら]]<ref name="chart"/> : 学生時代は実枝子と同級生、入局も1939年(昭和14年)の同期だった女性アナウンサー。 ; 川添照夫 : 演 - [[中島歩]]<ref name="chart"/> : 1937年(昭和12年)入局。アナウンサーの多くが戦争をあおる情熱的なアナウンス調になる中、「宣伝・情熱は危険だ」と勇気ある苦言を呈した。 ; 長笠原栄風 : 演 - [[渋川清彦]]<ref name="chart"/> : 1929年(昭和4年)、集金係として入局。米良の個人指導を受け4年後アナウンサーに。潜水艇からの中継などアイデアマンとして頭角を現す。 ; 中村茂 : 演 - [[遠山俊也]]<ref name="chart"/> : 大正14年に入局。[[二・二六事件]]では「兵に告ぐ」の名放送で投降を勧告した。 ; チャーリー吉井 : 演 - [[降谷建志]]<ref name="chart"/> : ハワイ生まれの日系アメリカ人2世。1935年(昭和10年)、日本放送協会が国際放送を開始するにあたって英語アナウンサーとして来日した。 ; [[松内則三]] : 演 - [[古舘寛治]]<ref name="chart"/> : ラジオ放送開始の大正14年入局。野球や相撲など日本のスポーツ実況放送の原型を作る。 ; 米良忠麿 : 演 - [[安田顕]]<ref name="chart"/> : 1931年(昭和6年)に入局した和田信賢の先輩アナ。開戦後に派遣されたマニラ局ではナンバー2として局長を支えた。 === マニラ放送局職員 === ; 青山正信 : 演 - [[古屋呂敏]]<ref name="chart"/> : 台湾放送協会から比島放送管理局に派遣され、米良総務部長の下で庶務・経理業務を続けた。 ; 深尾重正 : 演 - [[水間ロン]]<ref name="chart"/> : マニラ局放送部職員として番組制作を行い、米良ともに最後までマニラにとどまり放送を続けた。 === 放送技術 === ; 保木玲子 : 演 - [[石川恋]]<ref name="chart"/> : 1943年(昭和18年)、女子技術員第一期生40人の一人として入局。終戦の8月15日早朝、降伏を拒む反乱軍が放送局を占拠した時、銃を持つ軍人たちと対峙する。 === 情報局 === ; [[下村宏]] : 演 - [[小日向文世]]<ref name="chart"/> : 1945年(昭和20年)4月、[[情報局]]五代目総裁に就任。[[ポツダム宣言]]受諾を働きかけ、天皇の「[[玉音放送]]」を実現させた。 ; 水本吉郎 : 演 - [[忍成修吾]]<ref name="chart"/> : 情報局の第二部第三課長(放送担当課長)としてラジオ放送の指導監督を行い、国家の宣伝機関としての役割を求めた。 ; 並河亮 : 演 - [[眞島秀和]]<ref name="chart"/> : 海外放送を担当していた日本放送協会番組制作のホープ。情報局発足にあたって、放送局とのパイプ役を求められ、情報局情報官として出向。 === 出陣学徒 === ; 朝倉寿喜 : 演 - [[水上恒司]]<ref name="chart"/> : 早稲田大学生。野球部主将。1943年(昭和18年)10月、神宮外苑の出陣学徒壮行会で送られ、終戦の年、特攻隊員として飛び立つ。 ; 上山 : 演 - [[熊沢学]]<ref>[https://twitter.com/GAKU_kumazawa/status/1684048453293445120 熊沢学] - Twitter 2023年7月26日</ref> : 早稲田大学生。野球部。 === その他 === ; 米良鶴子 : 演 - [[河井青葉]]<ref name="chart"/> : 米良の妻。米良のマニラ局赴任後は留守宅で5人の子供を育てる。 ; 軍人 : 演 - [[松本哲也 (劇作家)|松本哲也]]<ref>[http://www.fathers.jp/matsumoto.html 松本哲也] - FATHER'S CORPORATION</ref>、[[沖原一生]]<ref>[http://ykoffice.la.coocan.jp/actor/okihara/profile.html 沖原一生] - Y.K.OFFICE</ref>、今井英二<ref name="Tweet1689167527979667456">[https://twitter.com/infogleanmedia/status/1689167527979667456 グリーンメディア] - Twitter 2023年8月9日</ref>、[[嶺豪一]]<ref>[https://birdlabel.net/member/detail.html?id=20 嶺豪一] - BIRD LABEL</ref> : ; 畑中少佐 : 演 - [[中崎敏 (俳優)|中崎敏]]<ref>[http://www.esartist.jp/artist/artist/haya_nakazaki.html 中崎敏] - esArtist</ref> : ; 少尉 : 演 - 片山幸人<ref>{{Cite web2|url=https://www.sanin-chuo.co.jp/articles/-/432779|title=松江出身 片山幸人さん 戦時中アナウンサー 描くドラマの少尉役 14日NHK|website=山陰中央新報デジタル|publisher=山陰中央新報社|date=2023-08-12|accessdate=2023-09-11}}</ref> : 玉音放送を阻止すべく、放送局を占拠に動く。 ; 遺族たち : 演 - [[辻本みず希]](役名:喫茶店の女)<ref>[https://www.instagram.com/p/Cv4LpbZrv_C/ 辻本みず希] - Instagram 2023年8月13日</ref>、[[楠美聖寿]] : 招魂祭の放送実況のために和田信賢が取材する遺族たち。 ; 捕虜 : 演 - ペルシ : ; 弘、実 : 演 - 二ノ宮陸登、山田海人<ref>{{Cite web2|url=https://www.himawari.net/media/118460.html|title=山田海人 NHKスペシャル「アナウンサーたちの戦争 」に出演!|website=出演情報|publisher=劇団ひまわり|date=2023-08-14|accessdate=2023-09-11}}</ref> : ; 赤沼の娘 : 演 - 永尾柚乃<ref>[https://www.instagram.com/p/Cv4MUBePBcf/ 永尾柚乃 (Yuno Nagao)] - Instagram 2023年8月13日</ref> : [[東京大空襲]]に見舞われる。 ; 役名不祥 : 演 - 羽鳥名美子<ref>[https://chikyu-gi.com/actor/hatorinamiko 羽鳥名美子] - 株式会社地球儀</ref>、辻川慶治<ref name="Tweet1689167527979667456"/>、[[長谷川ほまれ]] : == スタッフ == * 脚本 - [[倉光泰子]] * 音楽 - 堤裕介 * 語り - [[橋本愛 (1996年生)|橋本愛]] * プロデューサー - 菊江賢治、幸清志郎、[[城谷厚司]] * ディレクター - 網秀一郎、大久保圭祐 * 演出 - 一木正恵 * 制作統括 - 新延明 * 制作・著作 - NHK == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist|20em|refs= <ref name="読売新聞20230813m_p20">{{Cite news|title=試写室|newspaper=読売新聞|edition=北海道朝刊|date=2023-8-13|author=辻本芳孝|page=20|language=ja}}</ref> <ref name="iza20230621">{{Cite web|和書|url=https://www.iza.ne.jp/article/20230621-L5W2OIYFKRBHZFXXWSSOT3HENU/ |title=森田剛主演「NHKスペシャル アナウンサーたちの戦争」プロパガンダにかかわった人々の苦悩を描く 橋本愛、高良健吾共演|accessdate=2023-8-12|date=2023-6-21|website=[[iza]]|publisher=[[産業経済新聞社]]}}</ref> <ref name="NHKアーカイブス_アナウンサーたちの戦争">{{Cite web|和書|url=https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0011149 |title=スタッフが語る「アナウンサーたちの戦争」|accessdate=2023-8-12|website=[[NHKアーカイブス]]|publisher=[[日本放送協会]]}}</ref> <ref name="NHK20230809">{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20230831032019/https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=39534 |title=【会見動画】森田 剛ら出演者が作品にかけた思いとは?|accessdate=2023-8-12|date=2023-8-9|website=[[NHKオンライン]]|publisher=日本放送協会}}</ref> <ref name="ステラ20230706">{{Cite web|和書|url=https://steranet.jp/articles/-/2052 |title=森田剛が、伝説のアナウンサーを演じる! 戦時中のアナウンサーの知られざる活動をドラマ化|accessdate=2023-8-12|date=2023-7-6|website=[[NHKウイークリーステラ|ステラnet]]|publisher=[[日本放送協会]]}}</ref> <ref name="ナタリー20230629">{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/news/530671 |title=森田剛、橋本愛、高良健吾安田顕らが戦時中のアナウンサーを演じるドラマ放送|accessdate=2023-8-12|date=2023-6-29|website=[[ナタリー (ニュースサイト)|映画ナタリー]]|publisher=ナターシャ}}</ref> }} == 外部リンク == * [https://www.nhk.or.jp/archives/bangumi/special/anasen/ アナウンサーたちの戦争] {{DEFAULTSORT:あなうんさあたちのせんそう}} [[Category:NHKスペシャル]] [[Category:NHK総合テレビジョンのスペシャルドラマ]] [[Category:2023年のテレビドラマ]] [[Category:太平洋戦争を題材としたテレビドラマ]] [[Category:戦時中・終戦直後の日本を舞台としたテレビドラマ]] [[Category:実際の出来事に基づいたドラマ作品]] [[Category:ラジオ放送を題材としたテレビドラマ]] [[Category:報道機関を舞台とした作品]]
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明田一久
明田 一久(あけた かずひさ、1971年 - )は、日本の彫刻家。 1971年、群馬県高崎市生まれ。高崎市在住。アトリエは同県前橋市内にある。 1995年大阪芸術大学美術学科彫刻コースを卒業し、1997年に大阪芸術大学専攻科美術彫刻を修了した。 大阪芸術大学在学中に、実習で石を彫った際には手作業で石を四角にする作業も思いどおりにできないありさまで、卒業後は素材として使うことはできないという感想を抱いた。そのため、在学中は苦手な石を扱うべく、金属と石の選択で石を選択した。ところが、扱いづらいぶん面白いとも感じるようになってくる。卒業制作では人体を彫ってたが失敗してしまい、人体以外の作品にする必要が出てきてしまう。悩んだ末に幼稚園の頃に好きで図工の時間のモチーフにもしていたペンギンの形を作る。このペンギンから作風が変わり、ペンギンをモチーフにして作った「南極島シリーズ」という代表作ができあがることになった。 作品のコンセプトとして、彫刻に直接触れてもらい思わず吹き出すような作品を作ることを心掛けている。ギャグを交えながら面白いタイトルを考えたり、自分の趣味や興味があることを作品の中に取り入れることで、作品の面白さを倍増させることを心掛ける。 他個人蔵多数(順不同)
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明田 一久は、日本の彫刻家。
{{複数の問題 |特筆性=2023年9月11日 (月) 20:49 (UTC)|分野=人物 |wikify=2023年9月11日 (月) 20:49 (UTC) }} '''明田 一久'''(あけた かずひさ、[[1971年]]<ref name="ecru">「[https://ecru-no-mori.jp/artist/kazuhisa_aketa/ 明田 一久 / Kazuhisa AKETA]」GALLERY エクリュの森</ref> - )は、[[日本]]の[[彫刻家]]{{R|石}}。 == 略歴 == 1971年、[[群馬県]][[高崎市]]生まれ<ref name="ecru"/>。高崎市在住。アトリエは同県[[前橋市]]内にある<ref>「[https://instagram.com/kazuhisa_aketa?igshid=MWZjMTM2ODFkZg== 明田 一久 (@kazuhisa_aketa)]」Instagram</ref>。 1995年[[大阪芸術大学]]美術学科彫刻コースを卒業し<ref name="ecru"/>、1997年に大阪芸術大学専攻科美術彫刻を修了した<ref name="ecru"/>。 [[大阪芸術大学]]在学中に、実習で石を彫った際には手作業で石を四角にする作業も思いどおりにできないありさまで、卒業後は素材として使うことはできないという感想を抱いた{{R|石}}。そのため、在学中は苦手な石を扱うべく、金属と石の選択で石を選択した{{R|石}}。ところが、扱いづらいぶん面白いとも感じるようになってくる{{R|石}}。卒業制作では人体を彫ってたが失敗してしまい、人体以外の作品にする必要が出てきてしまう{{R|石}}。悩んだ末に幼稚園の頃に好きで図工の時間のモチーフにもしていた[[ペンギン]]の形を作る。このペンギンから作風が変わり、ペンギンをモチーフにして作った「南極島シリーズ」という代表作ができあがることになった{{R|石}}。 == 作品 == 作品のコンセプトとして、彫刻に直接触れてもらい思わず吹き出すような作品を作ることを心掛けている{{R|石}}。ギャグを交えながら面白いタイトルを考えたり、自分の趣味や興味があることを作品の中に取り入れることで、作品の面白さを倍増させることを心掛ける{{R|石}}。 == 賞歴 == {{出典の明記|section=1|date=2023年9月11日 (月) 21:22 (UTC)}} * 2000 日向現代彫刻展 日向市民大賞 * 2005 第6回桜の森コンクール 優秀賞 * 2006 第18回富嶽ビエンナーレ 佳作賞 * 2008 第3回りんごアートコンテスト 優秀賞 * 2008 第59回群馬県美術展覧会 高崎市教育長賞 * 2009 第60回群馬県美術展覧会 県議会議長賞 * 2010 第61回群馬県美術展覧会 県議会議長賞 * 2012 第5回小江戸川越トリエンナーレ 優秀賞 * 2012 第77回高崎市民美術展覧会 群馬県教育長賞 * 2012 第63回群馬県美術展覧会 上毛新聞社賞 * 2013 ART FOR CHILDREN AWARD 2013 オーディエンス賞 * 2017 第28回吉野工芸の里フェスタ アート&クラフトin御仏供杉 奨励賞  * 2018 第23回中国ハルビン国際雪像彫刻大会 最佳技巧賞(グループ受賞) == パブリックコレクション及び収蔵作品 == {{出典の明記|section=1|date=2023年9月11日 (月) 21:22 (UTC)}} * 笠間芸術の森公園(茨城県笠間市) * 神戸市灘区敏馬神社(兵庫県) * 宮崎県日向市 * 高崎市立浜尻小学校(群馬県) * 群馬県館林市 * ホテルベラヴィータ(群馬県沼田市) * 秋田県井川町 * 新潟県十日町市 * 渋川市美術館・桑原巨守彫刻美術館(群馬県) * 協同組合川越バンテアン(埼玉県) * キャピタルウッズ株式会社(群馬県高崎市) * えがおのはなさくみんなのほいくえん(宮城県加美郡) * 湯元四萬舘(群馬県中之条町四万) * 宮崎県児湯郡高鍋町 * 株式会社ヤマト(群馬県前橋市) * 藤本ぽかぽか整体院(宮崎県児湯郡) * 株式会社共和コーポレーション(長野県長野市) * 社会福祉法人新生会(群馬県高崎市) * 社会福祉法人前橋あそか会(群馬県前橋市) 他個人蔵多数(順不同) == 出典 == {{Reflist|refs= <ref name="石">{{Cite web|和書|language=ja|publisher=日本石材工業新聞|url=https://www.ishimaga.com/4021|title=彫刻家に聞く「石の魅力とは」vol.27(明田一久氏)|accessdate=2023-09-12}}</ref> }} == 外部サイト == *[http://ak19-45.raindrop.jp/ 公式ホームページ] {{Artist-stub}} {{DEFAULTSORT:あけた かすひさ}} [[Category:日本の彫刻家]] [[Category:21世紀日本の彫刻家]] [[Category:男性彫刻家]] [[Category:群馬県出身の人物]] [[Category:大阪芸術大学出身の人物]] [[Category:存命人物]]
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狛江町立狛江第一中学校
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東京電機大学システムデザイン工学部
東京電機大学システムデザイン工学部(とうきょうでんきだいがくしすてむでざいんこうがくぶ)は、東京電機大学に設置されている学部の一つ。 キャンパスは、東京千住キャンパス。 東京電機大学システムデザイン工学部は、2017年(平成29年)に設立された。情報化社会の基盤となる「情報システム工学」とものづくりを支える「デザイン工学」、この2つの技術を縦横無尽に駆使して新たな価値を生み出すことができる技術者、実業家の育成を目指している。 大学1年から、手と頭を使う実践的カリキュラムを導入し、学生たちは実際に手を動かす演習、実験、ワークショップを経験する。早期からプログラミングとものづくりを体感することで、ものづくりの喜びや創意工夫する力を養成する。 情報システム工学科では、ビッグデータ・超高速ネットワークの時代に対応できるように、「ネットワーク・コンピュータ」、「データサイエンス」、「プログラミング」分野に関する最先端の知識と技術を学んでいく。情報通信の理論的な基盤である情報伝送理論、符号化理論、暗号理論、暗号、認証方式といったセキュリティの基本から最新のネットワークの技術も学んでいく。 デザイン工学科では、製品を作ること、その製品を作るうえで、どんなアイデアが必要か、その製品はどんな意味があるのか、それで何をするか、その製品を使う人が何を感じるか、その先の社会的な意味や意義はどんなものか、を広く含んだ「デザイン力」を学んでいく。そして、人の感性や行動を理解したうえで、工学の知識と技術を駆使してグローバルな環境で「モノ・サービス・空間」を具現化できる実践力を身につけていく。 システムデザイン工学部
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東京電機大学システムデザイン工学部(とうきょうでんきだいがくしすてむでざいんこうがくぶ)は、東京電機大学に設置されている学部の一つ。 キャンパスは、東京千住キャンパス。
{{子記事|東京電機大学}} '''東京電機大学システムデザイン工学部'''(とうきょうでんきだいがくしすてむでざいんこうがくぶ)は、[[東京電機大学]]に設置されている学部の一つ。 キャンパスは、東京千住キャンパス。 == 概要 == 東京電機大学システムデザイン工学部は、2017年(平成29年)に設立された。情報化社会の基盤となる「情報システム工学」とものづくりを支える「デザイン工学」、この2つの技術を縦横無尽に駆使して新たな価値を生み出すことができる技術者、実業家の育成を目指している<ref>{{Cite web|和書|title=システムデザイン工学部について |url=https://www.dendai.ac.jp/about/undergraduate/system_design/outline/index.html |website=東京電機大学公式サイト |access-date=2023-09-11 |language=ja-JP}}</ref>。 大学1年から、手と頭を使う実践的カリキュラムを導入し、学生たちは実際に手を動かす演習、実験、ワークショップを経験する。早期からプログラミングとものづくりを体感することで、ものづくりの喜びや創意工夫する力を養成する。 情報システム工学科では、ビッグデータ・超高速ネットワークの時代に対応できるように、「ネットワーク・コンピュータ」、「データサイエンス」、「プログラミング」分野に関する最先端の知識と技術を学んでいく。情報通信の理論的な基盤である情報伝送理論、符号化理論、暗号理論、暗号、認証方式といったセキュリティの基本から最新のネットワークの技術も学んでいく。 デザイン工学科では、製品を作ること、その製品を作るうえで、どんなアイデアが必要か、その製品はどんな意味があるのか、それで何をするか、その製品を使う人が何を感じるか、その先の社会的な意味や意義はどんなものか、を広く含んだ「デザイン力」を学んでいく。そして、人の感性や行動を理解したうえで、工学の知識と技術を駆使してグローバルな環境で「モノ・サービス・空間」を具現化できる実践力を身につけていく。 == 沿革 == * 1949年(昭和24年) - 東京電機大学設立。工学部第一部(電気工学科、電気通信工学科)設置。 * 1952年(昭和27年) - 工学部第二部開設。電気工学科設置。 * 1993年(平成{{0}}5年) - 工学部の電気通信工学科を情報通信工学科に名称変更。 * 2000年(平成12年) - 理工学部に情報社会学科、生命工学科を設置。 * 2001年(平成13年) - 千葉ニュータウンキャンパスに情報環境学部(情報環境工学科、情報環境デザイン学科)を開設。 * 2006年(平成18年) - 情報環境学部を2学科から1学科に統合し、情報環境学科に変更。。 * 2012年(平成24年) - 東京千住キャンパスが開校。 * 2017年(平成29年) - 情報環境学部の募集停止。システムデザイン工学部(情報システム工学科、デザイン工学科)を設置。 == 組織 == '''[[システムデザイン工学部]]''' * 情報システム工学科 * デザイン工学科 == 学部長 == * 前田英作 == 脚注 == <references /> == 関連項目 == * [[システムデザイン工学科]] * [[デザイン工学部]] * [[デザイン工学科]] == 外部リンク == * [https://www.dendai.ac.jp/about/undergraduate/system_design/ 東京電機大学システムデザイン工学部](外部リンク) {{DEFAULTSORT:とうきようてんきたいかくしすてむてさいんこうかくふ}} [[Category:東京電機大学|しすてむてさいんこうかくふ]] [[Category:日本の工業系教育機関]] [[Category:技術系の高等教育機関]] [[Category:情報教育機関]] [[Category:各大学の学部]] [[Category:学校記事]]
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割り戻し (彫刻)
割り戻し(わりもどし)は彫刻における技法の1つ。 素材となる原石の原形を残したまま複数に再構成を行う技法である。原石を分割し、それぞれを別々に加工してから再び接着する。 和泉俊昭が御影石を使った「割り戻し」を考案し、後の彫刻制作に大きな影響を与えたとされる。
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割り戻し(わりもどし)は彫刻における技法の1つ。 素材となる原石の原形を残したまま複数に再構成を行う技法である。原石を分割し、それぞれを別々に加工してから再び接着する。 和泉俊昭が御影石を使った「割り戻し」を考案し、後の彫刻制作に大きな影響を与えたとされる。
'''割り戻し'''(わりもどし)は[[彫刻]]における技法の1つ。 素材となる原石の原形を残したまま複数に再構成を行う技法である{{R|和泉}}。原石を分割し、それぞれを別々に加工してから再び接着する{{R|藤井}}。 [[和泉俊昭]]が[[御影石]]を使った「割り戻し」を考案し{{R|和泉}}、後の彫刻制作に大きな影響を与えたとされる<ref>{{Cite web|和書|language=ja|website=[[名古屋大学]]教養教育院|url=https://www.ilas.nagoya-u.ac.jp/clas/programs/84.php|title= 和泉俊昭展「REPRODUCE ── PRESENT」|year=2007|accessdate=2023-09-12}}</ref>。 == 出典 == {{Reflist|refs= <ref name="和泉">{{Cite web|和書|language=ja|format=PDF|website=[[愛知県]]|url=https://www.pref.aichi.jp/uploaded/attachment/221955.pdf|title=平成19年度 - 受賞区分:文化賞(個人)|work=芸術文化選奨|accessdate=2023-09-12}}</ref> <ref name="藤井">{{Cite journal|和書|journal=東京造形大学研究報別冊|issue=17|volume=1-154|date=2021-03-31|publisher=[[東京造形大学]]|title=八王子の彫刻|author=藤井匡|NAID=120007037503|issn=13456849|crid=1573105977461646464}}</ref> }} {{Art-stub}} {{DEFAULTSORT:わりもとし}} [[Category:石彫]]
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尺骨茎状突起
尺骨茎状突起(しゃっこつけいじょうとっき)は、前腕の尺骨遠位端に見られる骨の突起である。 尺骨茎状突起は、尺骨の内側・背側から突出しており、尺骨頭のわずか下に位置する。三角線維軟骨の頂点が付着するための窪みと、尺側手根伸筋の腱を通す背側の浅い溝により、尺骨頭と突起は分離されている。 突起の長さは一様でなく、2ミリメートルから6ミリメートルの間である。 尺骨茎状突起の丸みを帯びた先端は、内側手根側副靭帯(英語版)を通じて手首に接続している。突起の基部には、掌側(英語版)・背側橈尺靭帯(英語版)が付着している。 橈骨遠位端骨折に伴う尺骨茎状突起の骨折は、ほとんどの場合で治療を必要としない。主な例外としては、橈骨と尺骨の間の遠位橈尺関節(英語版)(DRUJ)が不安定な場合が挙げられる。DRUJが不安定な場合は、突起に対する独自の治療が求められることがある。 突起が過度に長いと、尺骨茎状突起衝突症候群と呼ばれる、手首の三角骨との痛みを伴う接触が発生する可能性がある。この症候群と診断するには、放射線医学の知見が用いられる。保存的療法(英語版)ではトリアムシノロンの注射を行う一方で、外科的療法では切除術で突起を短くする。 手首を副木で固定する際は、圧迫による虚血を防ぐために、突起の位置を考慮に入れなければならない。
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尺骨茎状突起(しゃっこつけいじょうとっき)は、前腕の尺骨遠位端に見られる骨の突起である。
{{Infobox Bone | Width = 250 | 名称 = 尺骨茎状突起 | 英語 = ulnar styloid process | ラテン語 = processus styloideus ulnae | 略号 = | マップ = | マップ脚注 = | 画像 = Processusstyloideusradii.png | 脚注 = 正面から見た左前腕の骨(画像左下の右下矢印の先が尺骨茎状突起) | 画像2 = Human arm bones diagram-ja.svg | 脚注2 = ヒトの腕の骨のダイアグラム | 上位構造 = | 体系 = | 構成要素 = | 起点 = | 挿入 = | 関節 = | 前駆体 = | AnatomographyPartsID = | DA = | MeshName = | グレイの解剖学 = | グレイの解剖学_段落 = }} '''尺骨茎状突起'''(しゃっこつけいじょうとっき)は、[[前腕]]の[[尺骨]][[解剖学における方向の表現#部分ごとの表現|遠位端]]に見られる骨の突起である<ref name="Ombregt">{{Cite book |author=Ludwig Ombregt |title=A System of Orthopaedic Medicine |edition=第3版 |year=2013 |publisher={{仮リンク|チャーチル・リビングストーン|en|Churchill Livingstone}} |language=en |isbn=978-0-7020-3145-8 |doi=10.1016/b978-0-7020-3145-8.00023-5 |url=https://www.sciencedirect.com/book/9780702031458/a-system-of-orthopaedic-medicine |accessdate=2020-12-12 |pages=333–349.e3 |chapter=23 - Disorders of the wrist |chapterurl=https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/B9780702031458000235}}</ref>。 == 構造 == 尺骨茎状突起は、[[尺骨]]の[[解剖学における方向の表現#原則|内側]]・背側から突出しており、尺骨頭のわずか下に位置する。三角線維軟骨の頂点が付着するための窪みと、[[尺側手根伸筋]]の[[腱]]を通す背側の浅い溝により、尺骨頭と突起は分離されている。 突起の長さは一様でなく、2ミリメートルから6ミリメートルの間である{{R|Ombregt}}。 == 機能 == 尺骨茎状突起の丸みを帯びた先端は、{{仮リンク|内側手根側副靭帯|en|Ulnar carpal collateral ligament}}を通じて[[手首]]に接続している。突起の基部には、{{仮リンク|掌側橈尺靭帯|label=掌側|en|Palmar radioulnar ligament}}・{{仮リンク|背側橈尺靭帯|en|Dorsal radioulnar ligament}}が付着している<ref>{{Cite book |author=David J. Slutsky |author2=A. Lee Osterman |author3=Douglas A. Campbell |title=Fractures and Injuries of the Distal Radius and Carpus |year=2009 |publisher={{仮リンク|サウンダース (インプリント)|label=サウンダース|en|Saunders (imprint)}} |language=en |isbn=978-1-4160-4083-5 |doi=10.1016/b978-1-4160-4083-5.00030-5 |url=https://www.sciencedirect.com/book/9781416040835/fractures-and-injuries-of-the-distal-radius-and-carpus |accessdate=2020-12-12 |pages=297–307 |chapter=CHAPTER 28 - Ulnar Head and Styloid Fractures |chapterurl=https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/B9781416040835000305}}</ref>。 == 臨床的意義 == [[橈骨遠位端骨折]]に伴う尺骨茎状突起の骨折は、ほとんどの場合で治療を必要としない。主な例外としては、[[橈骨]]と[[尺骨]]の間の{{仮リンク|遠位橈尺関節|en|Distal radioulnar articulation}}(DRUJ)が不安定な場合が挙げられる。DRUJが不安定な場合は、突起に対する独自の治療が求められることがある。 突起が過度に長いと、尺骨茎状突起衝突症候群と呼ばれる、[[手首]]の[[三角骨]]との痛みを伴う接触が発生する可能性がある{{R|Ombregt}}。この症候群と診断するには、[[放射線医学]]の知見が用いられる{{R|Ombregt}}。{{仮リンク|保存的療法|en|Conservative management|preserve=1}}では[[トリアムシノロン]]の[[注射]]を行う一方で、[[外科的療法]]では切除術で突起を短くする{{R|Ombregt}}。 手首を[[副木]]で固定する際は、圧迫による[[虚血]]を防ぐために、突起の位置を考慮に入れなければならない<ref>{{Cite book |editor=Elaine Ewing Fess, Karan S. Gettle, Cynthia A. Philips, J. Robin Janson |title=Hand and Upper Extremity Splinting |edition=第3版 |year=2005 |publisher=[[モスビー (出版社)|モスビー]] |language=en |isbn=978-0-8016-7522-5 |doi=10.1016/b978-080167522-5.50015-0 |url=https://www.sciencedirect.com/book/9780801675225/hand-and-upper-extremity-splinting |accessdate= 2020-12-12 |pages=252–277 |chapter=CHAPTER 10 - Principles of Fit |chapterurl=https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/B9780801675225500150}}</ref><ref>{{Cite book |editor=Elaine Ewing Fess, Karan S. Gettle, Cynthia A. Philips, J. Robin Janson |title=Hand and Upper Extremity Splinting |edition=第3版 |year=2005 |publisher=[[モスビー (出版社)|モスビー]] |language=en |isbn=978-0-8016-7522-5 |doi=10.1016/b978-080167522-5.50025-3 |url=https://www.sciencedirect.com/book/9780801675225/hand-and-upper-extremity-splinting |accessdate= 2020-12-12 |pages=539–574 |chapter=CHAPTER 20 - Analysis of Splints |chapterurl=https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/B9780801675225500253}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Gray's}} {{Reflist}} {{Medical-stub}} {{DEFAULTSORT:しやつこつけいしようとつき}} [[Category:解剖学]] [[Category:骨]]
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民間警備隊 (ザイール)
民間警備隊(Fr:Garde civile zaïroise)は、かつてザイールに存在した警察組織。モブツ・セセ・セコ体制を支援するために創設され、周辺諸国との紛争や内戦において実践投入された。 1984年に創設され、主に西ドイツやエジプトで訓練やトレーニングを受けていた。国境警備、違法な交通とテロとの戦い、そして治安の回復などを目的として、様々な面で民間警備隊は徴用されていた。 1987年、モブツの妻のいとこの夫であるクパマ・バラモト・カタが陸軍大将に昇進。民間警備隊は完全にモブツに忠実な部隊となった。1990~1995年にかけて、部隊の一定数が追放されるなど「更なるモブツ化」が進んだが、これはカタンガトラと呼ばれる、カタンガへの回帰を目指す人々がいたとされる。カタンガトラは完全に追放され、バラモトが指揮する民間警備隊は、1996年当時の時点で26,000人の兵で構成されていたとされ、予算はザイール軍(FAZ)の4倍に相当した。 第一次コンゴ戦争に参加したのち敗退を喫し、1997年末に解散した。
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民間警備隊は、かつてザイールに存在した警察組織。モブツ・セセ・セコ体制を支援するために創設され、周辺諸国との紛争や内戦において実践投入された。
{{Infobox 国軍|名前=民間警備隊|国=[[ザイール共和国]]|各国語表記=Garde civile zaïroise|画像=[[File:Parade pour la remise des brevets commando à la premiere promotion de la Garde Civile à Kota-Koli 02.jpg|240px]]|画像説明=1985年の訓練。[[コタコリ軍事基地]]にて。|創設=[[1984年]]|解散=[[1997年]]末|本部=[[キンシャサ]]|最高司令官=クパマ・バラモト・カタ|国外活動=国境警備、諸外国からのテロ抑制など|国内活動=[[第一次コンゴ戦争]]}} '''民間警備隊'''([[フランス語|Fr]]:Garde civile zaïroise)は、かつて[[ザイール]]に存在した[[警察|警察組織]]。[[モブツ・セセ・セコ]]体制を支援するために創設され、周辺諸国との[[紛争]]や[[内戦]]において実践投入された。  == 歴史 == 1984年に創設され<ref>{{Citation|title=Loi no 84-1285 du 31 décembre 1984 portant réforme des relations entre l’État et les établissements d’enseignement agricole privés et modifiant la loi no 85-579 du 9 juillet 1984 portant rénovation de l’enseignement agricole public|date=2021-08-27|url=https://doi.org/10.3917/edagri.lebla.2021.01.0179|publisher=Éducagri éditions|pages=179–185|access-date=2023-09-11}}</ref>、主に[[西ドイツ]]や[[エジプト]]で訓練やトレーニングを受けていた。[[国境警備隊|国境警備]]、違法な交通と[[テロリズム|テロ]]との戦い、そして[[治安]]の回復などを目的として、様々な面で民間警備隊は徴用されていた<ref>Kisangani & Bobb 2010, pp. 350–351.</ref>。 1987年、モブツの妻のいとこの夫である[[:en:Kpama_Baramoto_Kata|クパマ・バラモト・カタ]]が陸軍大将に昇進<ref name=":0">Kennes 1998, p. 11.</ref>。民間警備隊は完全にモブツに忠実な部隊となった。1990~1995年にかけて、部隊の一定数が追放されるなど「更なるモブツ化」が進んだが、これは[[:en:Katangese_Tigers|カタンガトラ]]と呼ばれる、[[カタンガ州|カタンガ]]への回帰を目指す人々がいたとされる<ref>Kennes 1998, p. 13.</ref>。カタンガトラは完全に追放され、バラモトが指揮する民間警備隊は、1996年当時の時点で26,000人の兵で構成されていたとされ、予算は[[コンゴ民主共和国軍#%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%83%AB%E6%99%82%E4%BB%A3|ザイール軍]](FAZ)の4倍に相当した<ref name=":0" />。 [[第一次コンゴ戦争]]に参加したのち敗退を喫し、1997年末に解散した<ref>{{Cite journal|last=Kimoni|first=Glorieux Bikyeombe|last2=Kisenge|first2=Faustin Kasereka|last3=Longombe|first3=Ahuka Ona|date=2020-12-30|title=Epidemiological and Clinical Characteristics of Goiter Operated Patients in Kisangani (Democratic Republic of Congo)|url=https://doi.org/10.31254/jmr.2020.6609|journal=The Journal of Medical Research|volume=6|issue=6|pages=299–301|doi=10.31254/jmr.2020.6609|issn=2395-7565}}</ref>。 == 参考文献 == <references /> [[Category:モブツ・セセ・セコ]] [[Category:ザイール]] [[Category:第一次コンゴ戦争]]
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モンゴルのラーンナー侵攻
モンゴルのラーンナー侵攻(モンゴルのラーンナーしんこう)では、同時代の漢文史料上では八百媳婦国と称されていたラーンナー王国をはじめ、現在の雲南省南部からタイ王国北部にかけて存在したタイ系諸勢力に侵攻したモンゴル軍が引き起こした諸戦闘について解説する。 1253年から1254年にかけて大理国を征服したモンゴル帝国はタイ系諸勢力と接するようになったが、この方面へのモンゴル軍の進出は低調で、大元ウルスを立てたクビライの治世中には小規模な遠征軍が散発的に送り込まれるに過ぎなかった。オルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)の治世の1301年には最大規模の遠征軍がラーンナーに送り込まれたものの「10人中7,8人が倒れる」大失敗に終わり、以後モンゴル軍によるラーンナー方面への大規模な軍事侵攻は見られなくなった。14世紀に入るとラーンナー王によるモンゴル皇帝への朝貢が始まり、これが明朝にまで引き継がれることとなる。 かつては「モンゴル軍による東南アジア諸国侵攻」が13世紀における「タイ系諸勢力の南下と国家樹立を促した」とする史観が通説とされていたが、近年では両者を結びつける史料的根拠に乏しいことが指摘され、モンゴルとタイ系諸勢力の関係は見直されつつある。 13世紀に至るまで、現在タイ王国が支配する領域の大部分はカンボジアのアンコール朝の間接支配下にあったが、13世紀に入るとラヴォ王国・スコータイ王朝などのタイ系民族による諸国家が次々と建設された。ラーンナー王国もまたこのような流れの中で建国され、一般的にマンラーイ王がピン川上流のウィエンクムカーム(現在のチエンマイ南部)に遷都したことを以てラーンナーの成立とする。東南アジア史研究の大家であるジョルジュ・セデス以来、これらタイ系諸民族の南下と国家樹立はモンゴル軍の東南アジア侵攻と結びつけて考えられており、特にラーンナー王国についてはモンゴル軍の雲南・大理遠征を切っ掛けに建国されたと説明されてきた。しかし近年の研究ではモンゴル軍の侵攻とタイ系諸民族の南下を直接結びつける史料は存在しないことが指摘され、ジョルジュ・セデスの学説は現在では比定されている。ただし、建国間もないタイ系諸勢力は政情が不安定であり、八百媳婦国=ラーンナー王国や車里=シップソーンパンナー王国の内乱がこの方面へのモンゴル軍の侵攻を誘発することとなった。 一方、モンゴルの側では大理国の征服に伴ってタイ系諸勢力と接するようになったものの、そもそも大理国の征服自体が南宋国を包囲する大戦略の一環として行われたものであり、1270年代に至るまで東南アジア諸国に対する関心は薄かった。しかし1283年に南宋が事実上滅亡するとモンゴル帝国は次なる進出先として東南アジア諸国に積極的に進出するようになり、特に1278年にはクビライ・カアンの命により南海諸国(=東南アジア諸国)に対して大々的に使者が派遣された。このような流れの中でラーンナー方面にも散発的にモンゴル軍は進出したものの、他の東南アジア諸国同様に過酷な気候に悩まされ、さしたる成果もなく撤退に追い込まれた。クビライの後を継いだオルジェイトゥ・カアンは1301年に最大規模の遠征軍をラーンナーに送り込んだが、後述するように「世祖(クビライ)に比べ今上(オルジェイトゥ・カアン)は武功がない」こと、すなわち内政的な要因から遠征が決められている。 1253年に大理国を征服したモンゴル帝国はビルマのパガン朝・ヴェトナムの大越国陳朝・タイ系諸国家と接するようになったが、1259年のモンケ・カアンの急死もあってこの方面への進出は遅々として進まなかった。そもそも旧大理国の領域全体が1253年の時点で全てモンゴルに服属していたわけではなく、後に開南州・威遠州と呼ばれた雲南南部地域は大理国時代から「金歯蛮(『東方見聞録』ではザルダンダンと呼ばれる)」や「白夷蛮」と呼ばれたタイ系勢力によって支配されており、1262年(中統3年)に至ってようやくモンゴル軍に服属したと伝えられる。 また、1274年(至元11年)より雲南行省に赴任したサイイド・アジャッルは1276年(至元13年)12月に「阿僰諸部蛮」を招論して降らせることに成功し、この地は元江府(後に元江路と改名)と名付けられ、ここに至って初めてモンゴルは現在のタイ王国に属する地域に至る道を確保することに成功した。1276年(至元13年)は奇しくもモンゴル軍が南宋国の首都臨安を陥落させて事実上これを滅ぼした年でもあり、この翌年からモンゴルは大々的に南海諸国(東南アジア諸国)への進出を開始するようになった。 とりわけ、至元15年(1278年)8月30日(辛巳)には泉州に行省が設けられ、ソゲドゥ・蒲寿庚らに以下の通り全国招諭が命じられた。 この全国招諭の対象は主に海洋に面した諸国であったが、これにあわせて雲南から周辺諸国への進出も活発化することとなる。 どのような経緯からモンゴルがラーンナー王国(当時の漢文史料上では「八百媳婦国」)と接触するに至ったかは記録がないが、普洱市瀾滄県に残る摩崖石刻によって1282年(至元19年)冬にモンゴル軍は初めてラーンナーに対して出兵したことが判明している。しかしほぼ同時期にモンゴル軍の大部隊がビルマ方面に侵攻しており(バモーの戦い)、恐らくは小部隊であったラーンナー遠征軍は何ら見るべき戦果なく普耳一帯まで退却したようである。 1284年(至元21年)7月には騰越・永昌・羅必丹(羅必甸)といった雲南西南部一帯で金歯(ザルダンダン)が叛乱を起こしたため、四川方面のタンマチ(辺境鎮戍軍)司令官であったイェスデルをはじめ都元帥マングタイやボロト・カダらが叛乱鎮圧のためタンマチ兵1千とともに派遣された。マングタイはまず羅必丹(現タイ北部)の都城を攻略することを決め、ボロト・カダは遊兵を率いて先行したが、洪水(「江水暴溢」)に道を阻まれたため配下の兵を率いて水の流れをせき止めることでようやく渡河に成功した。ボロト・カダは城から僅か300歩しか離れていない場所に陣営を築き、それから7日後に全軍が集結したため総攻撃を開始し、ボロト・カダ率いる部隊が真っ先に城壁を踏破したことで羅必甸の都城は陥落した。この後、マングタイ率いる部隊はビルマ遠征中の宗王シャンウダルと合流し、「金歯道(ザルダンダンの支配するルート)」を抜けて雲南に帰還したと伝えられる。 「洪水を乗り越えた」との記録から羅必甸攻略は夏〜秋頃のことであったと見られるが、更にここからボロト・カダ率いる部隊は何らかの理由で八百媳婦国まで遠征することとなり、恐らくは同年末冬頃にシップソーンパンナー王国(当時の漢文史料上では「車里」。タイ・ルー族によって構成される国家)に入った。ここでも諸王ココの命を受けたボロト・カダが300騎を率いて先行し車里の酋長に降伏勧告を行ったが受け入れられなかった。そこで車里に対しても攻撃が行われ、都鎮撫が戦死するなど苦戦を強いられたが、ボロト・カダが北門を破壊し進入したことで城は陥落した。これによって車里=シップソーンパンナー王国は遂に平定されたと伝えられるが、恐らくは同時期にビルマ侵攻に兵力が割かれていたこともあって、モンゴル軍はこの時も結局ラーンナーまで兵を進めることはなかったようである。 1280年代、モンゴルはチャンパー遠征(1282年〜1283年)、第二次・三次ヴェトナム遠征(〜1288年)、ビルマ遠征(〜1287年)と、東南アジア諸国に対して大規模な軍事得遠征を繰り返したがいずれも失敗に終わり、1289年(至元26年)には小康状態が訪れていた。このような中で、1290年(至元27年)7月には車里(シップソーンパンナー)が再度モンゴルに内附し、未だモンゴルに服属しない八百媳婦に軍を派遣するよう要請した。これを受けてか、クビライは1292年(至元29年)8月に雲南行省のマングトゥルミシュ(忙兀禿児迷失)らに対して八百媳婦を征服するよう命じた。同年12月に進発したマングトゥルミシュらはまず車里の地に至り、この地に「木来府」を置いてバイバク(布伯)をダルガチに任じ現地の民を登用したとされる。しかし、この後本来の遠征先であった八百媳婦にまで進出したのかどうかについては全く記録がない。 一方、『ケントゥン(Kengtung)年代記』によると、 1291年(ビルマ暦653年)頃にマンラーイ王の子息の一人で、ケントゥンに冊封されたナムトゥアム(Namthum『元史』中では「南通」と表記される)が朝貢を要求する使者を拒絶したところ、侵攻を受けたという。敵軍は河川から水を引いて水攻めにしようとするも、ナムトゥアムが祭礼を行うことで大雨が降り出し、逆に氾濫した水流に大打撃を受けた包囲軍はMuang leam(『元史』の「木来」、現代の勐海県を指すと見られる)まで退却したとされる。これらの記述はそのまま史実とみなすことはできないが、時期から見て1291-1292年頃にケントゥンに踏み込んだモンゴル軍が現地軍に撃退された事実を反映しているのではないかと考えられる。 ここで視点をラーンナー側に転じると、グンヤーン国の王子として生まれたマンラーイは1262年に新首都チエンラーイに遷都し、また1292年にはハリプンチャイ王国を併合することによって勢力を拡大した。その後、マンラーイは1296年にチェンマイを建設したとされ、これが一般的にラーンナー王朝の成立と考えられている。このようにラーンナー王朝の建国者として名高いマンラーイ王について、タイ語史料にモンゴルとの関係について全く言及がないことは注目に値する。ただし、『チェンマイ年代記』のマンラーイ王にまつわる伝承の中には「ムアン・ケーオ(Mueang Kaeo)の王がマンラーイの下を訪れてレガリアをもたらし、中国の国王がそうするようにマンラーイ王の即位式を執り行った」との記述がある。これに関連して、『元史』などの漢文史料では1297年に「八百媳婦が叛乱した」との記述があり、この記述は1297年以前に「八百媳婦(ラーンナー)が大元ウルスに降っていた」ことを示唆する。謝信業は『チェンマイ年代記』と『元史』の記述を比較して、恐らく「マンラーイ王の即位式を執り行ったケーオの王」は大元ウルスの支配下にあったタイ族の土官で、この土官が大元ウルスの意を受けて八百媳婦を招諭した史実が誤った形で『チェンマイ年代記』に採録されたのではないか、と推測した。 しかしいずれにせよマンラーイ王とモンゴルの接触を明記した史書は存在せず、マンラーイ王時代の両国の関係は不明な点が多い。一方、大元ウルス朝廷は1293年(至元30年)正月に金歯(ザルダンダン)に使者を派遣し、同年11月には木朶甸総管府を、翌年10月には孟愛軍民総管府をそれぞれ設置している。この2つの総管府は車里周辺とみられ、大元ウルス朝廷は車里(シップソーンパンナー)に対しては13世紀末までには間違いなく統制を強めていた。ところが、1294年(至元31年)1月にクビライが亡くなったことによってモンゴルの外交方針は大きく転換することとなる。 クビライの死後、大元ウルスではオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)が即位し、それまでの積極的拡張主義は改められたが、1296年の末頃から急速にラーンナー状勢が悪化する。1296年(元貞2年)11月、車里の渾弄は兵を興してビルマの要塞13箇所を占領し、また八百媳婦と組んで倒龍を攻めようとしたため、雲南行省が兵を派遣した。同年12月、雲南行省は朝廷に対して「『大車里(大徹里)』 は八百媳婦と長年対立関係にあるが、大車里の胡念が既にモンゴルに降ったため、今度は『小車里(小徹里)』が八百媳婦と争った。そこで胡念は弟の胡倫を派遣して大元ウルスの官署を設置するよう乞うてきた」ことを報告し、これを受けて車里には「徹里軍民総管府」が設置された。一連の経緯から、この時の戦乱が大・小車里(シップソーンパンナー)・八百媳婦(ラーンナー)・緬甸(ビルマ)の4ヶ国を巻き込む大規模なものであったこと、一方で車里のみは完全に雲南行省の掌握下にあったことが推察される。なお、この戦乱がどのような経緯で起こったかは不明であるが、あるいはモンゴル軍の進出によってこの方面が緊張状態にあったことが一因ではないかとも考えられている。 1297年(大徳元年)、八百媳婦国は小車里の胡弄なる人物とともに車里の胡倫を攻め、ついでビルマ(緬国)にも侵攻したことが車里によって急ぎ報告されたため、大元ウルス朝廷は雲南行省に2,3千の兵を率いてこれを救うよう命じた。更に、同年9月には朝廷は八百媳婦による車里攻撃がやまないことを理由に、エセン・ブカ(也先不花)を派遣したが効果は上がらず、「時が経っても解決しない(経時不下)」状態にあった。この頃、「前緬王」に引き入れられた八百媳婦国の軍団がビルマ各地の甘当・散当・只麻剌・班羅諸城を攻撃したことは『元朝征緬録』にも記載がある。なお、『チェンマイ年代記』などにもマンラーイ王がビルマのパガン朝の内乱に介入してハンターワディー(Hamsavati=ペグー王朝を指す)にまで進出したとの記録があるが、時期は1297年をやや遡った1290年前後のこととされている。 1298年(大徳2年)3月、八百媳婦と車里の戦乱は激しさをましてモンゴル側が使者を出しても耳を貸さず、八百媳婦国は小車里の胡弄とともに5万の兵で以て夢胡龍甸の土官や大車里の漢綱(先述の胡念の子)と抗争を繰り広げた。更に、八百媳婦は配下の部曲に命じて10万の兵でもって雲南行省管下の蒙樣などにも侵攻したため、ここに至り雲南行省は2万の兵の出動を本国に要請するに至った。また、1299年(大徳3年)にはビルマのパガン朝が再度モンゴルに反旗を翻しているが、これもまたラーンナーに影響を受けたためと考えられる。 このような情勢を受けて、大元ウルス朝廷の中でもにわかにラーンナー出兵論が主張されるようになり、1300年(大徳4年)には当時「雲南王」であったスンシャン(松山)がラーンナーへの出兵を要請した。これを受けて朝廷ではラーンナーへの出兵を巡って激論が交わされ、出兵を主張する雲南行省左丞の劉深は「世祖(クビライ)は神武で以て海内を統一し、その功は万世に語り継がれるものでありますが、今上は帝位を継いだものの未だ武功を立てて偉業を示していません。西南夷には未だモンゴルに服属していない八百媳婦国があるため、これを征服することを請います」と述べた。一方、出兵に反対する中書左丞相のハルガスンは「遥か遠方でなおかつ険阻な地域を兵で以て征するのは困難であり、使者を派遣して投降を促すべきである」と述べたものの、結局は劉深の意見が採用されて八百媳婦国への大規模侵攻が行われることとなった。 この頃、雲南行省直属の軍団はビルマ方面に振り分けられていたため、この遠征では湖広・江西・河南・陝西・江浙の5省から2万人が新たに徴発され、劉深・カラダイ(合剌帯)・鄭祐らがこの遠征軍を率いることとなった。これと同時に、雲南行省に対しても兵10名に対して馬5匹を供給し、不足分は牛で補うよう命じられている。年が明けて1301年(大徳5年)1月日(庚戌)には遠征軍に鈔92,000鍵が支給され、また同月日(丁亥)には遠征軍を管轄する「万戸府」が2つ設置された。この二つの万戸府には計4名の万戸(万人隊長)が置かれ、四川・雲南からは囚人が微発されて兵に充てられることとなった。 こうして始まったラーンナー(八百媳婦)侵攻は多大な負担が周辺住民に課され、労役のため微発された民は数十万人が亡くなったとされる。そのため同年4月には改めて雲南軍から兵を微発して遠征軍に充てられることになり、5月には雲南内で新たにラーンナー遠征のため2千人を徴発することになったため、遠征軍維持への負担は雲南全域に降りかかることとなった。 これに対して雲南南部の土官は反発を強め、5月には雲南士官の宋隆濟が水東・水西・羅鬼の諸蛮を率いて蜂起したが、決起の際には「官軍は汝らを徴発し、髪を剪定して入墨をして兵にする。男は死ぬために戦陣に赴き、妻子は虜囚となる」と呼びかけて支持を集めたという。宋隆濟は6月には猫・狫・紫江の諸蛮4千を率いて楊黄寨を攻め、更に東進して貴州を攻撃するに至った。これを受けて梁王は雲南行省の平章幢兀児・参政不蘭奚らに反乱軍討伐を命じている。この結果、本来はラーンナー遠征のために送り込まれたはずの張弘綱が宋隆濟の叛乱鎮圧に向かい、そこで戦死する結果に終わっている。また一方で、雲南西南の金歯は「八百媳婦と互いに助け合い」「税賦を収めず、官史を殺害した」ことが報じられたため、8月には金歯に対しても討伐軍を派遣することになった。 このような情勢を受けて朝廷では再び遠征反対論が持ち上がったが、右丞相オルジェイは劉深と同様に「江南の地(=南宋国)は世祖(=クビライ)によって尽く征服されました。陛下がこの戦役で成功しなければ、武功が無かったと後世で見なされるでしょう(江南之地尽世祖所取、陛下不興此役、則無功可見於後世)」と述べ遠征の続行を認めたとされる。廷臣たちはオルジェイの権勢を慮って敢えて反対の意見を述べる者はおらず、董士選のみが不興を蒙るのを覚悟で遠征反対の意見を表明したものの、予想通りオルジェイトゥ・カアンは怒って董士選の進言を取り上げなかった。これだけの犠牲を払って出発した遠征軍であったが、北方から来た将兵は現地の風土に順応できず、戦わずして10人中7,8人が倒れる有様であった。このように、モンゴル兵にとって過酷な気候のラーンナーを郭貫は「炎瘴万里不毛之地」と表現し、この遠征を「国に益なし(無益於国)」と評している。更に「論征西南夷事」によると遠征軍は食料不足にも悩まされて人肉相食む惨状に陥り、最終的には南軍の攻撃を受けて敗走し「1千里余を放棄した」という。 1302年(大徳6年)に敗報が朝廷にもたらされると、ようやくオルジェイトゥ・カアンも遠征の失敗を認め、「董二哥(董士選)の言が正しかった」と述べて遠征をやめさせたという。2月日にはまず遠征軍の司令官であった劉深が罷免されて符印・駅券を没収された。その後、遠征軍は撤退して雲南で起こった叛乱の鎮圧に充てるよう指示されている。 1303年(大徳7年)には朝廷で政変が勃発し、ラーンナー遠征を主導してきたオルジェイらが失脚して、遠征反対を主張していたハルガスンが右丞相に抜擢されることとなった。同年3月には遠征軍の首脳部であった劉深・カラダイ・鄭祐らが「八百媳婦への遠征で軍を失った」ことを理由に誅殺され、同時に雲南征緬分省も廃止となった。これ以後、『元史』等の漢文史料では数年にわたって八百媳婦に言及されることがなくなり、ラーンナー遠征は全く放棄されたようである。1301年のラーンナー侵攻失敗は、この方面に対する強圧的な武力制圧方針を転換させる大きな転機となり、結果的には雲南南部〜タイ北部の情勢安定化をもたらすこととなる。 オルジェイトゥ・カアンの没後、クルク・カアン(武宗カイシャン)の治世の1309年(至大2年)11月には雲南行省より大車里・小車里が乱を起こした事が報ぜられたため、朝廷は右丞の算只児威を派遣した。ところが、算只児威は現地で賄賂として金・銀を各3錠を受け取ったことで油断したところ、弓弩の斉射を受けて敗退し撤退に追い込まれた。1310年(至大3年)1月にも算只児威を派遣して八百媳婦を招諭させているが、事態は落着していない。 1311年(至大4年)1月にはクルク・カアンが急死してブヤント・カアン(仁宗アユルバルワダ)が即位し、同年5月には車里と八百媳婦が手を組んで攻撃を仕掛けてきたため、雲南王と右丞アグタイに命じてこれを討伐させている。しかし、『招捕総録』によると同年中には雲南の土官が各地で叛乱を起こし蜂起したため、討伐の効果は上がらなかったようである。 1311年(皇慶元年)8月には再び雲南王及び雲南行省右丞アグタイ率いる軍団に八百媳婦蛮を討伐するよう命じられたが、趙世延らが「たとえラーンナーを征服したとしてもこれ以上兵や将官を失ってしまえば、国家にとっての損失はより大きくなる」と反対したことにより実施には至らなかったとされる。なお、同年はマンラーイ王が死去したとされる年でもあり、これによってその息子クン・カーム(チャイソンクラーム)王が新たに即位している。国王の代替わりが影響したためか、同年9月に八百媳婦側は大元に訓象・宝物を献上しており、これがラーンナーからモンゴルに対する初めての朝貢となった。これを受けて、ブヤント・カアンは同年9月に「八百媳婦蛮・大・小徹里蛮への征戦をやめ、璽書でもってこれを招論する」ことを宣言した。同年中には車里も内附しており、雲南南部~タイ北部の情勢は急速に安定に向かいつつあった。 1312年(皇慶2年)には雲南行省が「胡知事」という人物を使者としてラーンナーに派遣し、これを受けてラーンナー側は乃愛らを大元ウルスに派遣した。大元ウルス側はこれを「八百媳婦の出降」と見なし(後述するようにこれは誤解であった)、そこで重ねて難甸ダルガチのファフルッディーン(法忽剌丁)を派遣して八百媳婦の支配する乃愛・乃温・官哀・官吾・恰尼・哀当・吾化児・阿吾・阿散・阿哀といった諸地域を招論しようとした。そして、1314年(延祐元年)正月にラーンナーに到着したファフルッディーンとラーンナー王との間で交わされた交渉を、『招捕総録」は以下のように伝えている。 2月13日に渾乞溢の息子南通(ナムトゥアム/Nam Thuan)が来見し、これに対して使者らは「[雲南]行省は先に汝らを招くために胡知事らを派遣した。汝らはそこで乃愛らを派遣して出降した。そのため聖旨により我らが派遣され汝ら父子を招いたのだ」と述べた。これに対し南通は「我らは降ったつもりはない。 胡知事は朝廷(モンゴル帝国)は地は広く軍は多いと説いたが故に、我らは家中の者を遣わして胡知事とともに見聞させたに過ぎない」と回答した。翌日、南通は乃要を派遣して「胡知事が来た時、我らに衣服と鞍馬を与えてくれた。今汝らも所有する馬を尽く献上せよ」と伝えさせた。 3月17日、ファフルッディーンらは国王の拠る「合二寨(恐らくチェンラーイを指す)」に至り、クン・カーム王に謁見して詔を宜した。翌日、渾乞濫王は使者に息子の南通を護送し国境地帯を視察させるよう命じ、ファフルッディーンらは当初これを拒否しようとしたが、渾乞濫王が「もしこのまま土地を見させなければ、帰国した後に復命することは何もないだろう」と脅したためやむなく承諾した。しかしファフルッディーンらと南通らが孟范に至った所で比要(パヤオ王国/Phayao)が南通の叔父である力乞倫(クン・クア/Khun khura)が組んで攻撃を仕掛けたとの報が届いたため、南通はファフルッディーンらに自らを助けるよう要求した。そこで大元ウルスの使者たちはナムトゥアムとともに木丙山まで至ったところで敵軍を撃退し、パヤオは大元ウルスの使者が来ていることを知ると遂に退散した。ナムトゥアム一行が孟范に至った所で使者達は帰国することを望んだが、ナムトゥアムは「今や天は熱く水は漲ろうとしている。秋に涼しくなってから帰るとよい」と述べて使者たちを引き留めた。 以上の『招捕総録』の記述と連動する記録がラーンナー側にもあり、『チェンマイ年代記』等によるとマンラーイ王の死後に即位したクン・カーム(チャイソンカーム)王は長子のセーンプーにチェンマイを治めさせ、自らはチェンラーイを拠点としていたとされる。しかし、セーンプーがチェンマイに入ってから1年後にムンナーイの領主であるクン・カームの弟クン・クアが挙兵し、セーンプーからチェンマイを奪って王位に就いた。これを受けてクン・カームはセーンプーの弟ナムトゥアムにチェンマイの奪還を命じ、これに成功したナムトゥアムは事前の約束通り王位に就いた。しかし、それから2年目にナムトゥアムの不忠が発覚したため、ナムトゥアムはチャイントン(ケントゥン)に移されてセーンプーが再度チェンマイで王位に就いたという。モンゴル側とラーンナー側の史料の記述を総合すると、1311年に入ってマンラーイ王が死去した後にラーンナー国内ではクン・カーム(渾乞溢)とその弟クン・クア(力乞倫)の間で王位を巡る内紛が勃発したが、モンゴルの助力を得たナムトゥアム(南通)によってクン・クア(力乞倫)は敗れた。武功によってナムトゥアムは一時的に王位を得るも、後に失脚してケントゥンに移されたが、それまでの経緯からラーンナーを代表してモンゴルへの朝貢を主導するようになったのだと考えられる。『招捕総録』の記述と連動するように、1315年(延祐2年)には八百媳婦から使者が派遣され、馴象2頭が献上された記録が残されている。 しかしこうして始まったモンゴルとの国交は1316年(延祐3年)に車里で叛乱が起こったことで一時絶たれてしまった。『招捕総録』によると、1316年(延祐3年)に車里の兀竹魯は阿尼必礙寨の阿白出麻を攻撃して焼き払い、また罕旺とその弟の胡念・愛俄らは銀沙羅甸兀里鹽井部曰女具落索を攻撃してその財物を略奪した。この時も大元ウルス朝廷は使者を派遣して降伏を促した所、白衣の阿愛は偽って己の子を差し出し、引き続き略奪を続けた。その後、愛俄が死ぬと、その一族の罕塞昭愛刺構木力夢兀仲ら5人が後継者の地位を巡って内乱を起こし、火頭郭力を派遣した所、象牙等を齎して投降したという。このように、1310年代後半から起こった車里の内乱は約10年に渡ってモンゴル・ラーンナー間の交渉を滞らせたが、この間にラーンナー側の史料によると1327年(ビルマ暦689年)にクン・カーム王が死去しその息子セーンプー王への代替わりが行われていた。これによってモンゴル・ラーンナーの関係は1320年代末から新たな段階に入ることとなる。 1325年(泰定2年)、10年近くに渡って内乱を続けてきた大・小車里が再度内附し、7月には車里総官府が設置された。これによって交通が確保されたためか、翌1326年(泰定3年)5・7月にはナムトゥアム(招南道/Cao nam Thuan)がその息子招三らを派遣して訓象・方物を献上し、ここにラーンナーからモンゴルへの朝貢は復活した。1327年(泰定4年)1月には八百媳婦のナムトゥアム(南通)が再び朝貢を行い、これを受けて7月には再びモンゴルの側からラーンナーに使者を派遣し、そして大元ウルス朝廷は同年閏9月に蒙慶宣慰司都元帥・木安府(kengthun 東部の Mong Ngom)・孟傑府(kengthun 南部の Mong Khok)を設置し、同知烏撒を宣慰司事に、ナムトゥアムを宣慰司都元帥に、その子招三斤を知木安府に、甥の混盆を知孟傑府に、それぞれ任命した。この時大元ウルスに使者を派遣した「招南道」はラーンナー史料に見える「ナムトゥアム」に他ならず、「蒙慶」はナムトゥアムが領地とするケントゥンの古称「Mueng khuen」の音写で、木安府・孟傑府もケントゥン周辺の地名と見られる。 1328年(致和元年)は大元ウルスで天暦の内乱が勃発した時期であるが、八百媳婦は同年中の5月と11月の2度に渡って「哀牢」なる人物を使者として派遣している。しかし、1328年に派遣された「哀牢」はそれまでの記録に見られない名前であり、黎道綱は1327年にラーンナー王の代替わりが起こっていることを踏まえ、1328年以降に使者を派遣したのは既にナムトゥアムではなく新王のセーンプーではないかと推測している。1329年(天暦2年)2月にも八百媳婦は周辺諸族とともに朝貢を行っているが、同年末には天暦の内乱に連動したバイクの乱が雲南で勃発しており、一時期両国の折衝は絶たれた。 「天暦の内乱」終結からしばらく経った1331年(至順2年)6月20日、「八百等処宣慰司都元帥府」がラーンナーに設置され、土官の昭練(セーンプー)が「宣慰使都元帥」に任命された。またこれと連動して臨安元江等処宣慰司兼管軍万戸府、孟定路と孟肙路には軍民総管府(従三品)、者線・蒙慶甸・銀沙羅等甸には軍民府(従四品)、孟併・孟広・者樣等甸には軍民長官司(従五品)が、それぞれラーンナーの領域内に設置されている。なお、1331年5月には麓川(現在の徳宏タイ族チンポー族自治州一帯)に、1338年(後至元4年)には老告(現在のラオス)に、それぞれ軍民総管府が設置されており、1330年代にはラーンナーのみならずエーヤワディー川からメコン川に至るタイ族諸政権にモンゴルの影響力が浸透していたようである。 また、1341年(至正元年)12月には車里の寒賽刀らが叛乱を起こし、これによって再び大元ウルスと八百媳婦を繋ぐ道は一時的に閉ざされた。そのためか1342年(至正2年)4月には蒙慶宜慰司が廃止されたが、1346年(至正6年)12月1日には「八百等処宣慰司都元帥府」が再設置され、土官の韓部(パーユー/phayu)が「父の爵位を承襲した」とされる。この時の宣慰司都元帥府再設置についてはムアン・マオ(中国語版)(Möng Mao/麓川)の情勢が関係していたと考えられ、『雲南機務抄黄』によると、おおよそ1343年(至正3年)頃に麓川が瀾滄江沿岸の遠干府・威遠府を占領するという事件があったという。八百媳婦や車里もまた麓川の侵攻の対象となっていたがために、韓部(=パーユー)は大元ウルスの後ろ盾を得る必要が生じ、「八百等処宣慰司都元帥府」が再設置されるに至ったと見られる。 しかし至正10年代頃から大元ウルスでは紅巾の乱が勃発し、支配力を低下させた大元ウルスとラーンナーの通行関係は途切れた。紅巾の乱の首領の一人から成りあがった朱元璋は1368年(至正28年/洪武元年)初頭に明朝を建国し、同年8月に大都を陥落させたため、中国史上ではこれを以て「元朝の滅亡」とする。しかし、実際には1368年以降も各地でモンゴル系の勢力が健在であり、明朝が梁王バツァラワルミの支配する雲南を征服したのは1381年(洪武14年)末のことであった。翌1382年(洪武15年)3月、明朝によって雲南布政司とこれに属する52府・63州・54県が設置されたが、その中にラーンナーに属する孟傑・木按・孟絹・蒙慶といった地名が見られる。そして1388年(洪武21年)8月には初めて八百媳婦国が明朝に対して朝貢を行い、これより八百媳婦=ラーンナーと明朝の外交が始まることとなる。 モンゴルのラーンナー侵攻がもたらした影響として、まず最初に挙げられるのは、この遠征を通じてモンゴルの支配体制が雲南南部地区まで浸透したことである。『元史』地理志が述べるように、雲南南部地区は大理国時代から諸民族が半ば自立する状態にあり、モンゴルが大理国を滅ぼした後も状況は変わらなかった。ラーンナー遠征は惨憺たる結果に終わり、重い軍事負担が雲南内部での叛乱を引き起こしもしたが、長期的な視点で見れば後方基地となった雲南南部地区での支配体制の確立をもたらしたと評されている。 また、この遠征がもたらしたもう一つの影響として、メコン川を通じた中国大陸と東南アジア諸国との交流が活発化したことが挙げられる。ラーンナーはメコン川の中流域に位置してメコン川交易の要衝に当たり、雲南方面から東南アジア諸国に入る玄関口という側面を有していた。ラーンナー遠征は中国-雲南-ラーンナー-東南アジア諸国という交易ルートを活発化させたと考えられ、1338年に八百が設置された7年後に現在のラオスに位置すると見られる「老告」に軍民総管府が設置されたことは、その最たる例と言える。 中国人研究者の謝信業はモンゴルのラーンナー侵攻を総括して、モンゴルの対ラーンナー政策は「征討(征服・討伐)」「招討(招論・討伐)」「招撫(招諭・安撫)」の3段階に分けられると指摘した。クビライは「海内海外諸国を臣属させる」という目的の下、他の東南アジア諸国同様にラーンナーにも遠征軍を派遣し、このようにラーンナーを征討対象と見る傾向はオルジェイトゥ・カアンの治世まで引き継がれた。しかし、オルジェイトゥ・カアンの時代にラーンナーへの遠征軍が大敗を喫するとモンゴルは軍事的にラーンナーを征服する意欲を失った。一方で1330年代に入るとラーンナー内部で内乱が生じ、ラーンナーの王族たちは自らの立場を有利とするためにモンゴルとの交流を求め、モンゴル側は要求に応えて援軍を派遣すると同時に官位を授けた。両国の関係はセーンプー王の時代にラーンナーの内紛が収まり、大元ウルスが「八百等処宣慰司都元帥府」を設置したことで安定化した。 ジョルジュ・セデスはパーリ語史書『ジナカーラマーリー(Jinakālamāli)』などに「1287年にチェンラーイの王マンラーイ、パヤオの王ガムムアン、スコータイの王ラームカムヘーンという三つのタイ人国家の首長が同盟を結んだ」という記述があることを紹介し、また「1287年」がモンゴル軍がパガンを占領した年であることからこれをモンゴル軍の脅威に対抗するための同盟であると論じた。セデスが提唱したこの学説は東南アジア史の通説として定着し、チエンマイ県旧庁舎前にはこの「三王の同盟」を描いた銅像が築かれるに至っている。 しかし、日本人研究者の飯島明子はそもそも『ジナカーラマーリー』は16世紀前半に成立した史書であって史料的価値は低く、また原テキストには「朋友たる三王、Mamrāya,Purachādana,Rocarāja」としかなくこれを「マンラーイ・ガムムアン・ラームカムヘーン」と読むのはセデスの解釈に過ぎない、と指摘した。また、セデスは1581年に製作されたとみられる「チェンマン寺刻文」に「1298年のチエンマイ建設にパニャー・マンラーイ・チャオとパニャー・ガムムアン、パニャー・ルアンの三人が参画した」旨の記述があることも「三王の同盟」の傍証であると論じているが、これは『ジナカーラマーリー』よりも更に成立が遅く、やはり13世紀末の歴史を知る上での良好な史料とは言いがたい。 更に、『ジナカーラマーリー』よりも成立が古い『ムーラサーサナー』には「チエンマイ建設に三王が協力した」旨の記述がないことも、三王にまつわる伝承が後世になって成立したことを裏付ける。結局の所、「マンラーイ・ガムムアン・ラームカムヘーンら三王の同盟」は史実とは認めがたく、「16世紀当時に『三王の同盟』にまつわる伝承が存在した」という以上のことはいえないのが現状である。 なお、チエンマイとパヤオには「クン・チュアン」という共通の英雄的祖先にまつわる伝承があり、年代記上でも「父祖の代(cen pu)よりの朋友関係」「同一の家(huean diaw)」といった表現がなされる。このような同族意識はチエンマイとパヤオに留まるものではなく、ベトナム北部に比定されるケーオ・プラカンの王がマンラーイに対して「ともにチュアンの血を引く両者は同じ一族である」と述べたという伝承や、シップソーンパンナーの初代王が「チュアン」に通ずる「パヤー・チュン」と呼ばれていたことなどが知られている。このように、チエンマイとパヤオを初めとして北方のタイ系諸勢力には同族意識があり、このような意識が「三王の同盟」伝承の背景にあったと推測される。 また、セデスがラームカムヘーンに比定した「パニャー・ルアン」も特定の歴史上の人物というよりは神話・伝説上の人物と見るべきで、「チュアン」と同様に13世紀を遡る時代に起源を有する集合的シンボルと見なすべきであると考えられている。 上述したようにモンゴル軍の現タイ王国の領域への軍事侵攻はタイ北部に留まったが、一方でタイ中部・タイ南部のタイ湾に面する諸勢力とは海上交易路を通じて交渉があった。13世紀頃の漢文史料上に現れるタイ湾に面する諸勢力としては、「必察不里(ペッチャブリー)」「真里富(スパンブリー)」「蘇門傍(スパンブリー)」「羅斛(ロッブリー)」「暹(シャム)」などが知られている。この中で最も重要なのが「暹」で、 かつてはこれをスコータイ朝と見なしてきたが、現在では後のアユタヤ朝に連なる勢力と見なすのが主流である。『宋史』陳宜中伝によると、陳宜中は南宋復興のため占城にまで至るも、1282年(至元19年)にモンゴル軍が占城まで侵攻してきたために「暹」まで更に逃れ、その地で客死したとされる。これは「暹」に関する記録の中でも最初期のものであるが、この記述から1280年代には中国大陸~チャンパー~暹を繋ぐ海洋交易路が確立していたこと、暹には既に華人移住者が存在していたことが読み取れる。また一方で、モンゴル側にも同年に暹国に何子志という使者を派遣したが占城国に拘束されてしまったとの記録があり、この時既に「暹」の存在を認識して外交接触を始めていたことが分かる。 この頃のタイ湾情勢を窺える貴重な史料が『大徳南海志』(1304年成立)で、当時の東南アジア諸国を以下のように記している。 羅斛(ロッブリー)国。 暹(シャム)国は上水(ナコーンサワン)・速孤底(スコータイ)を管する。 単馬令(ターンブラリンガ)国は小西洋日囉亭・達刺希・崧古囉・凌牙蘇家・沙里・仏囉官・吉蘭丹・晏頭・丁伽蘆・迫嘉・朋亨・口蘭丹を管する。 これを宋代に編纂された『諸番志』(1225年成立)の記述と比較すると、真臘国の属国であった羅斛国、三仏斉の属国であった単国がそれぞれ強国に成長し、この2つの大国に挟まれる位置に「暹国」という新興国が登場したことが読み取れる。一方、アンコール朝のジャヤヴァルマン7世が建造したクメール寺院がマレー半島の付け根辺りに現存しており、13世紀初頭まではタイ湾北部一帯がアンコール朝の支配下にあったこと、13世紀半ば以後からタイ系諸勢力が自立を始めたことが確認される。 『元史』には羅斛国がタイ湾諸国の中でいち早く1289年(至元26年)・1291年(至元28年)に朝貢を行ったことが記録されており、この頃既にアンコール朝から独立していたことを裏付ける。これに遅れて1292年(至元29年) 10月に初めての派遣した朝貢使が広州に到着し、これを受けてモンゴル朝廷は1293年(至元30年)4月に逼国に対して招論使を派遣した。そして、1294年(至元31年)6月にはペッチャブリー国のカムラテンが使者を派遣したのに対して、モンゴル側は同年7月に「暹国主、カムラテンに来朝するよう招論した」との記録があり、これによってこの時期の「暹」はペッチャブリーに位置していたことが確認される。なお、『元史』暹伝の冒頭には「1295年(元貞元年)に国が派遣した使者がモンゴル側からの使者と入れ違いになって到着した」旨の記述があるが、この入れ違いになったモンゴル側の使者とはまさしく1294年7月に派遣された使者のことと考えられる。 更に『元史』暹伝は続けて、モンゴル朝廷に至った国からの朝貢使は急ぎ帰国させられ、「人は古くからマレーと敵対していたが、今では皆元に服属したのであるから、マレーを攻撃してはならない」との命を本国に持ち帰ったと記述する。この記述から、新興国である暹国は南下してマレー半島まで進出し、マレー人と敵対関係にあったようである。なお、1293年にモンゴル海軍がジャワ島へ侵攻する途上でマレーに対しても使者が派遣しており、この招論に応じたマレーが派遣した使者が1294年に到着したとの記録がある。モンゴルが暹国=ペッチャブリーに対してマレーへの侵攻をやめるよう要求したのは、まさにこの時マレーがモンゴルに使者を派遣すると同時に国の侵攻に歯止めをかけるよう求めたためと考えられる。 クビライが亡くなりオルジェイトゥ・カアンが即位して以後も暹国を始め東南アジア諸国から相次いで使者が派遣されたが、とりわけ1299年(大徳3年)には多くの国から使者が訪れた。この年、暹国=ペッチャブリーの「世子」も使者を派遣して「父が与えられたを同様に賜りたい」と申し出ており、この頃カムラテンが亡くなってその息子が跡を継いだようである。しかしモンゴル側は丞相のハルガスンが「馬を下賜することで近隣への侵攻に用いられることを恐れる」と進言したことによって国の要求を拒絶しており、これもまた同年に使者を派遣しているマレーの働きかけによるものであったと考えられる。しかしマレーはこの1299年と1301年を除いてモンゴルに朝貢した記録がなく、モンゴルに対しての外交交渉は卓越していたが、全体としては暹国に劣勢であったようである。 ところが、暹国からの朝貢は1323年(至治3年)を最後に途切れ、代わってジャワからの来貢が盛んとなり、1320年代から1330年代にかけてマジャパヒト王国が東南アジアの海上交易の覇権を握ったようである。汪大淵の『島夷志略』(1349年成立)にはこれを裏付ける記述があり、「近年(1340年代頃か)」に暹国は70余りの船でシンガポールに侵攻したが、ジャワの使節が近づいているのを聞くとすぐに逃げ出してしまったという。そして、同じく『島夷志略』によると、「至正己丑(1349)夏5月」に暹国は羅斛国に降伏したとされる。これに対応するように、タイ語の諸史料では1351年にスパンブリーとロッブリーが統合することで「アユタヤーの基礎が置かれた」とされる。すなわち、何らかの理由で拠点をペッチャブリーからスパンブリーに移していた暹国は1349年に羅斛国に征服され、暹国を併合した羅斛国によって改めて1351年に暹羅斛=アユタヤ朝が建国されたこととなる。 以上みてきたモンゴルとタイ湾諸勢力との関係をまとめると以下のようになる。タイ湾沿岸部は13世紀初頭までアンコール朝の間接支配下にあったが、13世紀半ばよりペッチャブリー・スパンブリー・ロッブリーといったタイ系諸勢力が一斉に成立した。その内最も勢いがあったのが「暹国」で、マレー半島にまで南下してマレー人を脅かしたが、マレー人は13世紀末に東南アジアに進出しつつあったモンゴル軍の勢威を利用して暹国に対抗しようとした。一方、これと並行して暹国もモンゴルに使者を派遣しており、この時の支配者が「ペッチャブリーのカムラテン」であったことから、この頃の暹暹はペッチャブリーに位置していたことがわかる。1300年代から1310年代にかけて暹国は積極的にモンゴルに来朝し海上交易路の覇権を握っていたようであるが、1320年代に入るとジャワ島のマジャパヒト王国がこれに取って代わり暹国とモンゴルの交流は途切れる。そして1349年に暹国(スパンブリー)が羅斛国(ロッブリー)に征服されることで新たなタイ系国家アユタヤ朝=暹羅が成立し、1368年には中国大陸でも元明交代が起こることでタイ史は新たな段階に入ることとなる。 系図の基本形とアルファベット転写はパヤオの「スワンナマハーウィハーン寺刻文」に拠った。太字は最古のラーンナー史料であるランプーンの「プラユーン寺刻文」に見える王名。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "モンゴルのラーンナー侵攻(モンゴルのラーンナーしんこう)では、同時代の漢文史料上では八百媳婦国と称されていたラーンナー王国をはじめ、現在の雲南省南部からタイ王国北部にかけて存在したタイ系諸勢力に侵攻したモンゴル軍が引き起こした諸戦闘について解説する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1253年から1254年にかけて大理国を征服したモンゴル帝国はタイ系諸勢力と接するようになったが、この方面へのモンゴル軍の進出は低調で、大元ウルスを立てたクビライの治世中には小規模な遠征軍が散発的に送り込まれるに過ぎなかった。オルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)の治世の1301年には最大規模の遠征軍がラーンナーに送り込まれたものの「10人中7,8人が倒れる」大失敗に終わり、以後モンゴル軍によるラーンナー方面への大規模な軍事侵攻は見られなくなった。14世紀に入るとラーンナー王によるモンゴル皇帝への朝貢が始まり、これが明朝にまで引き継がれることとなる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "かつては「モンゴル軍による東南アジア諸国侵攻」が13世紀における「タイ系諸勢力の南下と国家樹立を促した」とする史観が通説とされていたが、近年では両者を結びつける史料的根拠に乏しいことが指摘され、モンゴルとタイ系諸勢力の関係は見直されつつある。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "13世紀に至るまで、現在タイ王国が支配する領域の大部分はカンボジアのアンコール朝の間接支配下にあったが、13世紀に入るとラヴォ王国・スコータイ王朝などのタイ系民族による諸国家が次々と建設された。ラーンナー王国もまたこのような流れの中で建国され、一般的にマンラーイ王がピン川上流のウィエンクムカーム(現在のチエンマイ南部)に遷都したことを以てラーンナーの成立とする。東南アジア史研究の大家であるジョルジュ・セデス以来、これらタイ系諸民族の南下と国家樹立はモンゴル軍の東南アジア侵攻と結びつけて考えられており、特にラーンナー王国についてはモンゴル軍の雲南・大理遠征を切っ掛けに建国されたと説明されてきた。しかし近年の研究ではモンゴル軍の侵攻とタイ系諸民族の南下を直接結びつける史料は存在しないことが指摘され、ジョルジュ・セデスの学説は現在では比定されている。ただし、建国間もないタイ系諸勢力は政情が不安定であり、八百媳婦国=ラーンナー王国や車里=シップソーンパンナー王国の内乱がこの方面へのモンゴル軍の侵攻を誘発することとなった。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "一方、モンゴルの側では大理国の征服に伴ってタイ系諸勢力と接するようになったものの、そもそも大理国の征服自体が南宋国を包囲する大戦略の一環として行われたものであり、1270年代に至るまで東南アジア諸国に対する関心は薄かった。しかし1283年に南宋が事実上滅亡するとモンゴル帝国は次なる進出先として東南アジア諸国に積極的に進出するようになり、特に1278年にはクビライ・カアンの命により南海諸国(=東南アジア諸国)に対して大々的に使者が派遣された。このような流れの中でラーンナー方面にも散発的にモンゴル軍は進出したものの、他の東南アジア諸国同様に過酷な気候に悩まされ、さしたる成果もなく撤退に追い込まれた。クビライの後を継いだオルジェイトゥ・カアンは1301年に最大規模の遠征軍をラーンナーに送り込んだが、後述するように「世祖(クビライ)に比べ今上(オルジェイトゥ・カアン)は武功がない」こと、すなわち内政的な要因から遠征が決められている。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1253年に大理国を征服したモンゴル帝国はビルマのパガン朝・ヴェトナムの大越国陳朝・タイ系諸国家と接するようになったが、1259年のモンケ・カアンの急死もあってこの方面への進出は遅々として進まなかった。そもそも旧大理国の領域全体が1253年の時点で全てモンゴルに服属していたわけではなく、後に開南州・威遠州と呼ばれた雲南南部地域は大理国時代から「金歯蛮(『東方見聞録』ではザルダンダンと呼ばれる)」や「白夷蛮」と呼ばれたタイ系勢力によって支配されており、1262年(中統3年)に至ってようやくモンゴル軍に服属したと伝えられる。", "title": "モンゴル軍のラーンナー侵攻" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "また、1274年(至元11年)より雲南行省に赴任したサイイド・アジャッルは1276年(至元13年)12月に「阿僰諸部蛮」を招論して降らせることに成功し、この地は元江府(後に元江路と改名)と名付けられ、ここに至って初めてモンゴルは現在のタイ王国に属する地域に至る道を確保することに成功した。1276年(至元13年)は奇しくもモンゴル軍が南宋国の首都臨安を陥落させて事実上これを滅ぼした年でもあり、この翌年からモンゴルは大々的に南海諸国(東南アジア諸国)への進出を開始するようになった。", "title": "モンゴル軍のラーンナー侵攻" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "とりわけ、至元15年(1278年)8月30日(辛巳)には泉州に行省が設けられ、ソゲドゥ・蒲寿庚らに以下の通り全国招諭が命じられた。", "title": "モンゴル軍のラーンナー侵攻" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "この全国招諭の対象は主に海洋に面した諸国であったが、これにあわせて雲南から周辺諸国への進出も活発化することとなる。", "title": "モンゴル軍のラーンナー侵攻" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "どのような経緯からモンゴルがラーンナー王国(当時の漢文史料上では「八百媳婦国」)と接触するに至ったかは記録がないが、普洱市瀾滄県に残る摩崖石刻によって1282年(至元19年)冬にモンゴル軍は初めてラーンナーに対して出兵したことが判明している。しかしほぼ同時期にモンゴル軍の大部隊がビルマ方面に侵攻しており(バモーの戦い)、恐らくは小部隊であったラーンナー遠征軍は何ら見るべき戦果なく普耳一帯まで退却したようである。", "title": "モンゴル軍のラーンナー侵攻" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1284年(至元21年)7月には騰越・永昌・羅必丹(羅必甸)といった雲南西南部一帯で金歯(ザルダンダン)が叛乱を起こしたため、四川方面のタンマチ(辺境鎮戍軍)司令官であったイェスデルをはじめ都元帥マングタイやボロト・カダらが叛乱鎮圧のためタンマチ兵1千とともに派遣された。マングタイはまず羅必丹(現タイ北部)の都城を攻略することを決め、ボロト・カダは遊兵を率いて先行したが、洪水(「江水暴溢」)に道を阻まれたため配下の兵を率いて水の流れをせき止めることでようやく渡河に成功した。ボロト・カダは城から僅か300歩しか離れていない場所に陣営を築き、それから7日後に全軍が集結したため総攻撃を開始し、ボロト・カダ率いる部隊が真っ先に城壁を踏破したことで羅必甸の都城は陥落した。この後、マングタイ率いる部隊はビルマ遠征中の宗王シャンウダルと合流し、「金歯道(ザルダンダンの支配するルート)」を抜けて雲南に帰還したと伝えられる。", "title": "モンゴル軍のラーンナー侵攻" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "「洪水を乗り越えた」との記録から羅必甸攻略は夏〜秋頃のことであったと見られるが、更にここからボロト・カダ率いる部隊は何らかの理由で八百媳婦国まで遠征することとなり、恐らくは同年末冬頃にシップソーンパンナー王国(当時の漢文史料上では「車里」。タイ・ルー族によって構成される国家)に入った。ここでも諸王ココの命を受けたボロト・カダが300騎を率いて先行し車里の酋長に降伏勧告を行ったが受け入れられなかった。そこで車里に対しても攻撃が行われ、都鎮撫が戦死するなど苦戦を強いられたが、ボロト・カダが北門を破壊し進入したことで城は陥落した。これによって車里=シップソーンパンナー王国は遂に平定されたと伝えられるが、恐らくは同時期にビルマ侵攻に兵力が割かれていたこともあって、モンゴル軍はこの時も結局ラーンナーまで兵を進めることはなかったようである。", "title": "モンゴル軍のラーンナー侵攻" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1280年代、モンゴルはチャンパー遠征(1282年〜1283年)、第二次・三次ヴェトナム遠征(〜1288年)、ビルマ遠征(〜1287年)と、東南アジア諸国に対して大規模な軍事得遠征を繰り返したがいずれも失敗に終わり、1289年(至元26年)には小康状態が訪れていた。このような中で、1290年(至元27年)7月には車里(シップソーンパンナー)が再度モンゴルに内附し、未だモンゴルに服属しない八百媳婦に軍を派遣するよう要請した。これを受けてか、クビライは1292年(至元29年)8月に雲南行省のマングトゥルミシュ(忙兀禿児迷失)らに対して八百媳婦を征服するよう命じた。同年12月に進発したマングトゥルミシュらはまず車里の地に至り、この地に「木来府」を置いてバイバク(布伯)をダルガチに任じ現地の民を登用したとされる。しかし、この後本来の遠征先であった八百媳婦にまで進出したのかどうかについては全く記録がない。", "title": "モンゴル軍のラーンナー侵攻" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "一方、『ケントゥン(Kengtung)年代記』によると、 1291年(ビルマ暦653年)頃にマンラーイ王の子息の一人で、ケントゥンに冊封されたナムトゥアム(Namthum『元史』中では「南通」と表記される)が朝貢を要求する使者を拒絶したところ、侵攻を受けたという。敵軍は河川から水を引いて水攻めにしようとするも、ナムトゥアムが祭礼を行うことで大雨が降り出し、逆に氾濫した水流に大打撃を受けた包囲軍はMuang leam(『元史』の「木来」、現代の勐海県を指すと見られる)まで退却したとされる。これらの記述はそのまま史実とみなすことはできないが、時期から見て1291-1292年頃にケントゥンに踏み込んだモンゴル軍が現地軍に撃退された事実を反映しているのではないかと考えられる。", "title": "モンゴル軍のラーンナー侵攻" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ここで視点をラーンナー側に転じると、グンヤーン国の王子として生まれたマンラーイは1262年に新首都チエンラーイに遷都し、また1292年にはハリプンチャイ王国を併合することによって勢力を拡大した。その後、マンラーイは1296年にチェンマイを建設したとされ、これが一般的にラーンナー王朝の成立と考えられている。このようにラーンナー王朝の建国者として名高いマンラーイ王について、タイ語史料にモンゴルとの関係について全く言及がないことは注目に値する。ただし、『チェンマイ年代記』のマンラーイ王にまつわる伝承の中には「ムアン・ケーオ(Mueang Kaeo)の王がマンラーイの下を訪れてレガリアをもたらし、中国の国王がそうするようにマンラーイ王の即位式を執り行った」との記述がある。これに関連して、『元史』などの漢文史料では1297年に「八百媳婦が叛乱した」との記述があり、この記述は1297年以前に「八百媳婦(ラーンナー)が大元ウルスに降っていた」ことを示唆する。謝信業は『チェンマイ年代記』と『元史』の記述を比較して、恐らく「マンラーイ王の即位式を執り行ったケーオの王」は大元ウルスの支配下にあったタイ族の土官で、この土官が大元ウルスの意を受けて八百媳婦を招諭した史実が誤った形で『チェンマイ年代記』に採録されたのではないか、と推測した。", "title": "モンゴル軍のラーンナー侵攻" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "しかしいずれにせよマンラーイ王とモンゴルの接触を明記した史書は存在せず、マンラーイ王時代の両国の関係は不明な点が多い。一方、大元ウルス朝廷は1293年(至元30年)正月に金歯(ザルダンダン)に使者を派遣し、同年11月には木朶甸総管府を、翌年10月には孟愛軍民総管府をそれぞれ設置している。この2つの総管府は車里周辺とみられ、大元ウルス朝廷は車里(シップソーンパンナー)に対しては13世紀末までには間違いなく統制を強めていた。ところが、1294年(至元31年)1月にクビライが亡くなったことによってモンゴルの外交方針は大きく転換することとなる。", "title": "モンゴル軍のラーンナー侵攻" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "クビライの死後、大元ウルスではオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)が即位し、それまでの積極的拡張主義は改められたが、1296年の末頃から急速にラーンナー状勢が悪化する。1296年(元貞2年)11月、車里の渾弄は兵を興してビルマの要塞13箇所を占領し、また八百媳婦と組んで倒龍を攻めようとしたため、雲南行省が兵を派遣した。同年12月、雲南行省は朝廷に対して「『大車里(大徹里)』 は八百媳婦と長年対立関係にあるが、大車里の胡念が既にモンゴルに降ったため、今度は『小車里(小徹里)』が八百媳婦と争った。そこで胡念は弟の胡倫を派遣して大元ウルスの官署を設置するよう乞うてきた」ことを報告し、これを受けて車里には「徹里軍民総管府」が設置された。一連の経緯から、この時の戦乱が大・小車里(シップソーンパンナー)・八百媳婦(ラーンナー)・緬甸(ビルマ)の4ヶ国を巻き込む大規模なものであったこと、一方で車里のみは完全に雲南行省の掌握下にあったことが推察される。なお、この戦乱がどのような経緯で起こったかは不明であるが、あるいはモンゴル軍の進出によってこの方面が緊張状態にあったことが一因ではないかとも考えられている。", "title": "モンゴル軍のラーンナー侵攻" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1297年(大徳元年)、八百媳婦国は小車里の胡弄なる人物とともに車里の胡倫を攻め、ついでビルマ(緬国)にも侵攻したことが車里によって急ぎ報告されたため、大元ウルス朝廷は雲南行省に2,3千の兵を率いてこれを救うよう命じた。更に、同年9月には朝廷は八百媳婦による車里攻撃がやまないことを理由に、エセン・ブカ(也先不花)を派遣したが効果は上がらず、「時が経っても解決しない(経時不下)」状態にあった。この頃、「前緬王」に引き入れられた八百媳婦国の軍団がビルマ各地の甘当・散当・只麻剌・班羅諸城を攻撃したことは『元朝征緬録』にも記載がある。なお、『チェンマイ年代記』などにもマンラーイ王がビルマのパガン朝の内乱に介入してハンターワディー(Hamsavati=ペグー王朝を指す)にまで進出したとの記録があるが、時期は1297年をやや遡った1290年前後のこととされている。", "title": "モンゴル軍のラーンナー侵攻" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1298年(大徳2年)3月、八百媳婦と車里の戦乱は激しさをましてモンゴル側が使者を出しても耳を貸さず、八百媳婦国は小車里の胡弄とともに5万の兵で以て夢胡龍甸の土官や大車里の漢綱(先述の胡念の子)と抗争を繰り広げた。更に、八百媳婦は配下の部曲に命じて10万の兵でもって雲南行省管下の蒙樣などにも侵攻したため、ここに至り雲南行省は2万の兵の出動を本国に要請するに至った。また、1299年(大徳3年)にはビルマのパガン朝が再度モンゴルに反旗を翻しているが、これもまたラーンナーに影響を受けたためと考えられる。", "title": "モンゴル軍のラーンナー侵攻" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "このような情勢を受けて、大元ウルス朝廷の中でもにわかにラーンナー出兵論が主張されるようになり、1300年(大徳4年)には当時「雲南王」であったスンシャン(松山)がラーンナーへの出兵を要請した。これを受けて朝廷ではラーンナーへの出兵を巡って激論が交わされ、出兵を主張する雲南行省左丞の劉深は「世祖(クビライ)は神武で以て海内を統一し、その功は万世に語り継がれるものでありますが、今上は帝位を継いだものの未だ武功を立てて偉業を示していません。西南夷には未だモンゴルに服属していない八百媳婦国があるため、これを征服することを請います」と述べた。一方、出兵に反対する中書左丞相のハルガスンは「遥か遠方でなおかつ険阻な地域を兵で以て征するのは困難であり、使者を派遣して投降を促すべきである」と述べたものの、結局は劉深の意見が採用されて八百媳婦国への大規模侵攻が行われることとなった。", "title": "モンゴル軍のラーンナー侵攻" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "この頃、雲南行省直属の軍団はビルマ方面に振り分けられていたため、この遠征では湖広・江西・河南・陝西・江浙の5省から2万人が新たに徴発され、劉深・カラダイ(合剌帯)・鄭祐らがこの遠征軍を率いることとなった。これと同時に、雲南行省に対しても兵10名に対して馬5匹を供給し、不足分は牛で補うよう命じられている。年が明けて1301年(大徳5年)1月日(庚戌)には遠征軍に鈔92,000鍵が支給され、また同月日(丁亥)には遠征軍を管轄する「万戸府」が2つ設置された。この二つの万戸府には計4名の万戸(万人隊長)が置かれ、四川・雲南からは囚人が微発されて兵に充てられることとなった。", "title": "モンゴル軍のラーンナー侵攻" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "こうして始まったラーンナー(八百媳婦)侵攻は多大な負担が周辺住民に課され、労役のため微発された民は数十万人が亡くなったとされる。そのため同年4月には改めて雲南軍から兵を微発して遠征軍に充てられることになり、5月には雲南内で新たにラーンナー遠征のため2千人を徴発することになったため、遠征軍維持への負担は雲南全域に降りかかることとなった。", "title": "モンゴル軍のラーンナー侵攻" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "これに対して雲南南部の土官は反発を強め、5月には雲南士官の宋隆濟が水東・水西・羅鬼の諸蛮を率いて蜂起したが、決起の際には「官軍は汝らを徴発し、髪を剪定して入墨をして兵にする。男は死ぬために戦陣に赴き、妻子は虜囚となる」と呼びかけて支持を集めたという。宋隆濟は6月には猫・狫・紫江の諸蛮4千を率いて楊黄寨を攻め、更に東進して貴州を攻撃するに至った。これを受けて梁王は雲南行省の平章幢兀児・参政不蘭奚らに反乱軍討伐を命じている。この結果、本来はラーンナー遠征のために送り込まれたはずの張弘綱が宋隆濟の叛乱鎮圧に向かい、そこで戦死する結果に終わっている。また一方で、雲南西南の金歯は「八百媳婦と互いに助け合い」「税賦を収めず、官史を殺害した」ことが報じられたため、8月には金歯に対しても討伐軍を派遣することになった。", "title": "モンゴル軍のラーンナー侵攻" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "このような情勢を受けて朝廷では再び遠征反対論が持ち上がったが、右丞相オルジェイは劉深と同様に「江南の地(=南宋国)は世祖(=クビライ)によって尽く征服されました。陛下がこの戦役で成功しなければ、武功が無かったと後世で見なされるでしょう(江南之地尽世祖所取、陛下不興此役、則無功可見於後世)」と述べ遠征の続行を認めたとされる。廷臣たちはオルジェイの権勢を慮って敢えて反対の意見を述べる者はおらず、董士選のみが不興を蒙るのを覚悟で遠征反対の意見を表明したものの、予想通りオルジェイトゥ・カアンは怒って董士選の進言を取り上げなかった。これだけの犠牲を払って出発した遠征軍であったが、北方から来た将兵は現地の風土に順応できず、戦わずして10人中7,8人が倒れる有様であった。このように、モンゴル兵にとって過酷な気候のラーンナーを郭貫は「炎瘴万里不毛之地」と表現し、この遠征を「国に益なし(無益於国)」と評している。更に「論征西南夷事」によると遠征軍は食料不足にも悩まされて人肉相食む惨状に陥り、最終的には南軍の攻撃を受けて敗走し「1千里余を放棄した」という。", "title": "モンゴル軍のラーンナー侵攻" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1302年(大徳6年)に敗報が朝廷にもたらされると、ようやくオルジェイトゥ・カアンも遠征の失敗を認め、「董二哥(董士選)の言が正しかった」と述べて遠征をやめさせたという。2月日にはまず遠征軍の司令官であった劉深が罷免されて符印・駅券を没収された。その後、遠征軍は撤退して雲南で起こった叛乱の鎮圧に充てるよう指示されている。", "title": "モンゴル軍のラーンナー侵攻" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1303年(大徳7年)には朝廷で政変が勃発し、ラーンナー遠征を主導してきたオルジェイらが失脚して、遠征反対を主張していたハルガスンが右丞相に抜擢されることとなった。同年3月には遠征軍の首脳部であった劉深・カラダイ・鄭祐らが「八百媳婦への遠征で軍を失った」ことを理由に誅殺され、同時に雲南征緬分省も廃止となった。これ以後、『元史』等の漢文史料では数年にわたって八百媳婦に言及されることがなくなり、ラーンナー遠征は全く放棄されたようである。1301年のラーンナー侵攻失敗は、この方面に対する強圧的な武力制圧方針を転換させる大きな転機となり、結果的には雲南南部〜タイ北部の情勢安定化をもたらすこととなる。", "title": "モンゴル軍のラーンナー侵攻" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "オルジェイトゥ・カアンの没後、クルク・カアン(武宗カイシャン)の治世の1309年(至大2年)11月には雲南行省より大車里・小車里が乱を起こした事が報ぜられたため、朝廷は右丞の算只児威を派遣した。ところが、算只児威は現地で賄賂として金・銀を各3錠を受け取ったことで油断したところ、弓弩の斉射を受けて敗退し撤退に追い込まれた。1310年(至大3年)1月にも算只児威を派遣して八百媳婦を招諭させているが、事態は落着していない。", "title": "モンゴル軍のラーンナー侵攻" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1311年(至大4年)1月にはクルク・カアンが急死してブヤント・カアン(仁宗アユルバルワダ)が即位し、同年5月には車里と八百媳婦が手を組んで攻撃を仕掛けてきたため、雲南王と右丞アグタイに命じてこれを討伐させている。しかし、『招捕総録』によると同年中には雲南の土官が各地で叛乱を起こし蜂起したため、討伐の効果は上がらなかったようである。", "title": "モンゴル軍のラーンナー侵攻" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1311年(皇慶元年)8月には再び雲南王及び雲南行省右丞アグタイ率いる軍団に八百媳婦蛮を討伐するよう命じられたが、趙世延らが「たとえラーンナーを征服したとしてもこれ以上兵や将官を失ってしまえば、国家にとっての損失はより大きくなる」と反対したことにより実施には至らなかったとされる。なお、同年はマンラーイ王が死去したとされる年でもあり、これによってその息子クン・カーム(チャイソンクラーム)王が新たに即位している。国王の代替わりが影響したためか、同年9月に八百媳婦側は大元に訓象・宝物を献上しており、これがラーンナーからモンゴルに対する初めての朝貢となった。これを受けて、ブヤント・カアンは同年9月に「八百媳婦蛮・大・小徹里蛮への征戦をやめ、璽書でもってこれを招論する」ことを宣言した。同年中には車里も内附しており、雲南南部~タイ北部の情勢は急速に安定に向かいつつあった。", "title": "モンゴル軍のラーンナー侵攻" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1312年(皇慶2年)には雲南行省が「胡知事」という人物を使者としてラーンナーに派遣し、これを受けてラーンナー側は乃愛らを大元ウルスに派遣した。大元ウルス側はこれを「八百媳婦の出降」と見なし(後述するようにこれは誤解であった)、そこで重ねて難甸ダルガチのファフルッディーン(法忽剌丁)を派遣して八百媳婦の支配する乃愛・乃温・官哀・官吾・恰尼・哀当・吾化児・阿吾・阿散・阿哀といった諸地域を招論しようとした。そして、1314年(延祐元年)正月にラーンナーに到着したファフルッディーンとラーンナー王との間で交わされた交渉を、『招捕総録」は以下のように伝えている。", "title": "モンゴル軍のラーンナー侵攻" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2月13日に渾乞溢の息子南通(ナムトゥアム/Nam Thuan)が来見し、これに対して使者らは「[雲南]行省は先に汝らを招くために胡知事らを派遣した。汝らはそこで乃愛らを派遣して出降した。そのため聖旨により我らが派遣され汝ら父子を招いたのだ」と述べた。これに対し南通は「我らは降ったつもりはない。 胡知事は朝廷(モンゴル帝国)は地は広く軍は多いと説いたが故に、我らは家中の者を遣わして胡知事とともに見聞させたに過ぎない」と回答した。翌日、南通は乃要を派遣して「胡知事が来た時、我らに衣服と鞍馬を与えてくれた。今汝らも所有する馬を尽く献上せよ」と伝えさせた。 3月17日、ファフルッディーンらは国王の拠る「合二寨(恐らくチェンラーイを指す)」に至り、クン・カーム王に謁見して詔を宜した。翌日、渾乞濫王は使者に息子の南通を護送し国境地帯を視察させるよう命じ、ファフルッディーンらは当初これを拒否しようとしたが、渾乞濫王が「もしこのまま土地を見させなければ、帰国した後に復命することは何もないだろう」と脅したためやむなく承諾した。しかしファフルッディーンらと南通らが孟范に至った所で比要(パヤオ王国/Phayao)が南通の叔父である力乞倫(クン・クア/Khun khura)が組んで攻撃を仕掛けたとの報が届いたため、南通はファフルッディーンらに自らを助けるよう要求した。そこで大元ウルスの使者たちはナムトゥアムとともに木丙山まで至ったところで敵軍を撃退し、パヤオは大元ウルスの使者が来ていることを知ると遂に退散した。ナムトゥアム一行が孟范に至った所で使者達は帰国することを望んだが、ナムトゥアムは「今や天は熱く水は漲ろうとしている。秋に涼しくなってから帰るとよい」と述べて使者たちを引き留めた。", "title": "モンゴル軍のラーンナー侵攻" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "以上の『招捕総録』の記述と連動する記録がラーンナー側にもあり、『チェンマイ年代記』等によるとマンラーイ王の死後に即位したクン・カーム(チャイソンカーム)王は長子のセーンプーにチェンマイを治めさせ、自らはチェンラーイを拠点としていたとされる。しかし、セーンプーがチェンマイに入ってから1年後にムンナーイの領主であるクン・カームの弟クン・クアが挙兵し、セーンプーからチェンマイを奪って王位に就いた。これを受けてクン・カームはセーンプーの弟ナムトゥアムにチェンマイの奪還を命じ、これに成功したナムトゥアムは事前の約束通り王位に就いた。しかし、それから2年目にナムトゥアムの不忠が発覚したため、ナムトゥアムはチャイントン(ケントゥン)に移されてセーンプーが再度チェンマイで王位に就いたという。モンゴル側とラーンナー側の史料の記述を総合すると、1311年に入ってマンラーイ王が死去した後にラーンナー国内ではクン・カーム(渾乞溢)とその弟クン・クア(力乞倫)の間で王位を巡る内紛が勃発したが、モンゴルの助力を得たナムトゥアム(南通)によってクン・クア(力乞倫)は敗れた。武功によってナムトゥアムは一時的に王位を得るも、後に失脚してケントゥンに移されたが、それまでの経緯からラーンナーを代表してモンゴルへの朝貢を主導するようになったのだと考えられる。『招捕総録』の記述と連動するように、1315年(延祐2年)には八百媳婦から使者が派遣され、馴象2頭が献上された記録が残されている。", "title": "モンゴル軍のラーンナー侵攻" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "しかしこうして始まったモンゴルとの国交は1316年(延祐3年)に車里で叛乱が起こったことで一時絶たれてしまった。『招捕総録』によると、1316年(延祐3年)に車里の兀竹魯は阿尼必礙寨の阿白出麻を攻撃して焼き払い、また罕旺とその弟の胡念・愛俄らは銀沙羅甸兀里鹽井部曰女具落索を攻撃してその財物を略奪した。この時も大元ウルス朝廷は使者を派遣して降伏を促した所、白衣の阿愛は偽って己の子を差し出し、引き続き略奪を続けた。その後、愛俄が死ぬと、その一族の罕塞昭愛刺構木力夢兀仲ら5人が後継者の地位を巡って内乱を起こし、火頭郭力を派遣した所、象牙等を齎して投降したという。このように、1310年代後半から起こった車里の内乱は約10年に渡ってモンゴル・ラーンナー間の交渉を滞らせたが、この間にラーンナー側の史料によると1327年(ビルマ暦689年)にクン・カーム王が死去しその息子セーンプー王への代替わりが行われていた。これによってモンゴル・ラーンナーの関係は1320年代末から新たな段階に入ることとなる。", "title": "モンゴル軍のラーンナー侵攻" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1325年(泰定2年)、10年近くに渡って内乱を続けてきた大・小車里が再度内附し、7月には車里総官府が設置された。これによって交通が確保されたためか、翌1326年(泰定3年)5・7月にはナムトゥアム(招南道/Cao nam Thuan)がその息子招三らを派遣して訓象・方物を献上し、ここにラーンナーからモンゴルへの朝貢は復活した。1327年(泰定4年)1月には八百媳婦のナムトゥアム(南通)が再び朝貢を行い、これを受けて7月には再びモンゴルの側からラーンナーに使者を派遣し、そして大元ウルス朝廷は同年閏9月に蒙慶宣慰司都元帥・木安府(kengthun 東部の Mong Ngom)・孟傑府(kengthun 南部の Mong Khok)を設置し、同知烏撒を宣慰司事に、ナムトゥアムを宣慰司都元帥に、その子招三斤を知木安府に、甥の混盆を知孟傑府に、それぞれ任命した。この時大元ウルスに使者を派遣した「招南道」はラーンナー史料に見える「ナムトゥアム」に他ならず、「蒙慶」はナムトゥアムが領地とするケントゥンの古称「Mueng khuen」の音写で、木安府・孟傑府もケントゥン周辺の地名と見られる。", "title": "モンゴル軍のラーンナー侵攻" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1328年(致和元年)は大元ウルスで天暦の内乱が勃発した時期であるが、八百媳婦は同年中の5月と11月の2度に渡って「哀牢」なる人物を使者として派遣している。しかし、1328年に派遣された「哀牢」はそれまでの記録に見られない名前であり、黎道綱は1327年にラーンナー王の代替わりが起こっていることを踏まえ、1328年以降に使者を派遣したのは既にナムトゥアムではなく新王のセーンプーではないかと推測している。1329年(天暦2年)2月にも八百媳婦は周辺諸族とともに朝貢を行っているが、同年末には天暦の内乱に連動したバイクの乱が雲南で勃発しており、一時期両国の折衝は絶たれた。", "title": "モンゴル軍のラーンナー侵攻" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "「天暦の内乱」終結からしばらく経った1331年(至順2年)6月20日、「八百等処宣慰司都元帥府」がラーンナーに設置され、土官の昭練(セーンプー)が「宣慰使都元帥」に任命された。またこれと連動して臨安元江等処宣慰司兼管軍万戸府、孟定路と孟肙路には軍民総管府(従三品)、者線・蒙慶甸・銀沙羅等甸には軍民府(従四品)、孟併・孟広・者樣等甸には軍民長官司(従五品)が、それぞれラーンナーの領域内に設置されている。なお、1331年5月には麓川(現在の徳宏タイ族チンポー族自治州一帯)に、1338年(後至元4年)には老告(現在のラオス)に、それぞれ軍民総管府が設置されており、1330年代にはラーンナーのみならずエーヤワディー川からメコン川に至るタイ族諸政権にモンゴルの影響力が浸透していたようである。", "title": "モンゴル軍のラーンナー侵攻" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "また、1341年(至正元年)12月には車里の寒賽刀らが叛乱を起こし、これによって再び大元ウルスと八百媳婦を繋ぐ道は一時的に閉ざされた。そのためか1342年(至正2年)4月には蒙慶宜慰司が廃止されたが、1346年(至正6年)12月1日には「八百等処宣慰司都元帥府」が再設置され、土官の韓部(パーユー/phayu)が「父の爵位を承襲した」とされる。この時の宣慰司都元帥府再設置についてはムアン・マオ(中国語版)(Möng Mao/麓川)の情勢が関係していたと考えられ、『雲南機務抄黄』によると、おおよそ1343年(至正3年)頃に麓川が瀾滄江沿岸の遠干府・威遠府を占領するという事件があったという。八百媳婦や車里もまた麓川の侵攻の対象となっていたがために、韓部(=パーユー)は大元ウルスの後ろ盾を得る必要が生じ、「八百等処宣慰司都元帥府」が再設置されるに至ったと見られる。", "title": "モンゴル軍のラーンナー侵攻" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "しかし至正10年代頃から大元ウルスでは紅巾の乱が勃発し、支配力を低下させた大元ウルスとラーンナーの通行関係は途切れた。紅巾の乱の首領の一人から成りあがった朱元璋は1368年(至正28年/洪武元年)初頭に明朝を建国し、同年8月に大都を陥落させたため、中国史上ではこれを以て「元朝の滅亡」とする。しかし、実際には1368年以降も各地でモンゴル系の勢力が健在であり、明朝が梁王バツァラワルミの支配する雲南を征服したのは1381年(洪武14年)末のことであった。翌1382年(洪武15年)3月、明朝によって雲南布政司とこれに属する52府・63州・54県が設置されたが、その中にラーンナーに属する孟傑・木按・孟絹・蒙慶といった地名が見られる。そして1388年(洪武21年)8月には初めて八百媳婦国が明朝に対して朝貢を行い、これより八百媳婦=ラーンナーと明朝の外交が始まることとなる。", "title": "モンゴル軍のラーンナー侵攻" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "モンゴルのラーンナー侵攻がもたらした影響として、まず最初に挙げられるのは、この遠征を通じてモンゴルの支配体制が雲南南部地区まで浸透したことである。『元史』地理志が述べるように、雲南南部地区は大理国時代から諸民族が半ば自立する状態にあり、モンゴルが大理国を滅ぼした後も状況は変わらなかった。ラーンナー遠征は惨憺たる結果に終わり、重い軍事負担が雲南内部での叛乱を引き起こしもしたが、長期的な視点で見れば後方基地となった雲南南部地区での支配体制の確立をもたらしたと評されている。", "title": "モンゴル軍のラーンナー侵攻" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "また、この遠征がもたらしたもう一つの影響として、メコン川を通じた中国大陸と東南アジア諸国との交流が活発化したことが挙げられる。ラーンナーはメコン川の中流域に位置してメコン川交易の要衝に当たり、雲南方面から東南アジア諸国に入る玄関口という側面を有していた。ラーンナー遠征は中国-雲南-ラーンナー-東南アジア諸国という交易ルートを活発化させたと考えられ、1338年に八百が設置された7年後に現在のラオスに位置すると見られる「老告」に軍民総管府が設置されたことは、その最たる例と言える。", "title": "モンゴル軍のラーンナー侵攻" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "中国人研究者の謝信業はモンゴルのラーンナー侵攻を総括して、モンゴルの対ラーンナー政策は「征討(征服・討伐)」「招討(招論・討伐)」「招撫(招諭・安撫)」の3段階に分けられると指摘した。クビライは「海内海外諸国を臣属させる」という目的の下、他の東南アジア諸国同様にラーンナーにも遠征軍を派遣し、このようにラーンナーを征討対象と見る傾向はオルジェイトゥ・カアンの治世まで引き継がれた。しかし、オルジェイトゥ・カアンの時代にラーンナーへの遠征軍が大敗を喫するとモンゴルは軍事的にラーンナーを征服する意欲を失った。一方で1330年代に入るとラーンナー内部で内乱が生じ、ラーンナーの王族たちは自らの立場を有利とするためにモンゴルとの交流を求め、モンゴル側は要求に応えて援軍を派遣すると同時に官位を授けた。両国の関係はセーンプー王の時代にラーンナーの内紛が収まり、大元ウルスが「八百等処宣慰司都元帥府」を設置したことで安定化した。", "title": "モンゴル軍のラーンナー侵攻" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ジョルジュ・セデスはパーリ語史書『ジナカーラマーリー(Jinakālamāli)』などに「1287年にチェンラーイの王マンラーイ、パヤオの王ガムムアン、スコータイの王ラームカムヘーンという三つのタイ人国家の首長が同盟を結んだ」という記述があることを紹介し、また「1287年」がモンゴル軍がパガンを占領した年であることからこれをモンゴル軍の脅威に対抗するための同盟であると論じた。セデスが提唱したこの学説は東南アジア史の通説として定着し、チエンマイ県旧庁舎前にはこの「三王の同盟」を描いた銅像が築かれるに至っている。", "title": "ラーンナー側の伝承" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "しかし、日本人研究者の飯島明子はそもそも『ジナカーラマーリー』は16世紀前半に成立した史書であって史料的価値は低く、また原テキストには「朋友たる三王、Mamrāya,Purachādana,Rocarāja」としかなくこれを「マンラーイ・ガムムアン・ラームカムヘーン」と読むのはセデスの解釈に過ぎない、と指摘した。また、セデスは1581年に製作されたとみられる「チェンマン寺刻文」に「1298年のチエンマイ建設にパニャー・マンラーイ・チャオとパニャー・ガムムアン、パニャー・ルアンの三人が参画した」旨の記述があることも「三王の同盟」の傍証であると論じているが、これは『ジナカーラマーリー』よりも更に成立が遅く、やはり13世紀末の歴史を知る上での良好な史料とは言いがたい。", "title": "ラーンナー側の伝承" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "更に、『ジナカーラマーリー』よりも成立が古い『ムーラサーサナー』には「チエンマイ建設に三王が協力した」旨の記述がないことも、三王にまつわる伝承が後世になって成立したことを裏付ける。結局の所、「マンラーイ・ガムムアン・ラームカムヘーンら三王の同盟」は史実とは認めがたく、「16世紀当時に『三王の同盟』にまつわる伝承が存在した」という以上のことはいえないのが現状である。", "title": "ラーンナー側の伝承" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "なお、チエンマイとパヤオには「クン・チュアン」という共通の英雄的祖先にまつわる伝承があり、年代記上でも「父祖の代(cen pu)よりの朋友関係」「同一の家(huean diaw)」といった表現がなされる。このような同族意識はチエンマイとパヤオに留まるものではなく、ベトナム北部に比定されるケーオ・プラカンの王がマンラーイに対して「ともにチュアンの血を引く両者は同じ一族である」と述べたという伝承や、シップソーンパンナーの初代王が「チュアン」に通ずる「パヤー・チュン」と呼ばれていたことなどが知られている。このように、チエンマイとパヤオを初めとして北方のタイ系諸勢力には同族意識があり、このような意識が「三王の同盟」伝承の背景にあったと推測される。", "title": "ラーンナー側の伝承" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "また、セデスがラームカムヘーンに比定した「パニャー・ルアン」も特定の歴史上の人物というよりは神話・伝説上の人物と見るべきで、「チュアン」と同様に13世紀を遡る時代に起源を有する集合的シンボルと見なすべきであると考えられている。", "title": "ラーンナー側の伝承" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "上述したようにモンゴル軍の現タイ王国の領域への軍事侵攻はタイ北部に留まったが、一方でタイ中部・タイ南部のタイ湾に面する諸勢力とは海上交易路を通じて交渉があった。13世紀頃の漢文史料上に現れるタイ湾に面する諸勢力としては、「必察不里(ペッチャブリー)」「真里富(スパンブリー)」「蘇門傍(スパンブリー)」「羅斛(ロッブリー)」「暹(シャム)」などが知られている。この中で最も重要なのが「暹」で、 かつてはこれをスコータイ朝と見なしてきたが、現在では後のアユタヤ朝に連なる勢力と見なすのが主流である。『宋史』陳宜中伝によると、陳宜中は南宋復興のため占城にまで至るも、1282年(至元19年)にモンゴル軍が占城まで侵攻してきたために「暹」まで更に逃れ、その地で客死したとされる。これは「暹」に関する記録の中でも最初期のものであるが、この記述から1280年代には中国大陸~チャンパー~暹を繋ぐ海洋交易路が確立していたこと、暹には既に華人移住者が存在していたことが読み取れる。また一方で、モンゴル側にも同年に暹国に何子志という使者を派遣したが占城国に拘束されてしまったとの記録があり、この時既に「暹」の存在を認識して外交接触を始めていたことが分かる。", "title": "モンゴルとタイ湾諸勢力との関係" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "この頃のタイ湾情勢を窺える貴重な史料が『大徳南海志』(1304年成立)で、当時の東南アジア諸国を以下のように記している。", "title": "モンゴルとタイ湾諸勢力との関係" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "羅斛(ロッブリー)国。 暹(シャム)国は上水(ナコーンサワン)・速孤底(スコータイ)を管する。 単馬令(ターンブラリンガ)国は小西洋日囉亭・達刺希・崧古囉・凌牙蘇家・沙里・仏囉官・吉蘭丹・晏頭・丁伽蘆・迫嘉・朋亨・口蘭丹を管する。", "title": "モンゴルとタイ湾諸勢力との関係" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "これを宋代に編纂された『諸番志』(1225年成立)の記述と比較すると、真臘国の属国であった羅斛国、三仏斉の属国であった単国がそれぞれ強国に成長し、この2つの大国に挟まれる位置に「暹国」という新興国が登場したことが読み取れる。一方、アンコール朝のジャヤヴァルマン7世が建造したクメール寺院がマレー半島の付け根辺りに現存しており、13世紀初頭まではタイ湾北部一帯がアンコール朝の支配下にあったこと、13世紀半ば以後からタイ系諸勢力が自立を始めたことが確認される。", "title": "モンゴルとタイ湾諸勢力との関係" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "『元史』には羅斛国がタイ湾諸国の中でいち早く1289年(至元26年)・1291年(至元28年)に朝貢を行ったことが記録されており、この頃既にアンコール朝から独立していたことを裏付ける。これに遅れて1292年(至元29年) 10月に初めての派遣した朝貢使が広州に到着し、これを受けてモンゴル朝廷は1293年(至元30年)4月に逼国に対して招論使を派遣した。そして、1294年(至元31年)6月にはペッチャブリー国のカムラテンが使者を派遣したのに対して、モンゴル側は同年7月に「暹国主、カムラテンに来朝するよう招論した」との記録があり、これによってこの時期の「暹」はペッチャブリーに位置していたことが確認される。なお、『元史』暹伝の冒頭には「1295年(元貞元年)に国が派遣した使者がモンゴル側からの使者と入れ違いになって到着した」旨の記述があるが、この入れ違いになったモンゴル側の使者とはまさしく1294年7月に派遣された使者のことと考えられる。", "title": "モンゴルとタイ湾諸勢力との関係" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "更に『元史』暹伝は続けて、モンゴル朝廷に至った国からの朝貢使は急ぎ帰国させられ、「人は古くからマレーと敵対していたが、今では皆元に服属したのであるから、マレーを攻撃してはならない」との命を本国に持ち帰ったと記述する。この記述から、新興国である暹国は南下してマレー半島まで進出し、マレー人と敵対関係にあったようである。なお、1293年にモンゴル海軍がジャワ島へ侵攻する途上でマレーに対しても使者が派遣しており、この招論に応じたマレーが派遣した使者が1294年に到着したとの記録がある。モンゴルが暹国=ペッチャブリーに対してマレーへの侵攻をやめるよう要求したのは、まさにこの時マレーがモンゴルに使者を派遣すると同時に国の侵攻に歯止めをかけるよう求めたためと考えられる。", "title": "モンゴルとタイ湾諸勢力との関係" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "クビライが亡くなりオルジェイトゥ・カアンが即位して以後も暹国を始め東南アジア諸国から相次いで使者が派遣されたが、とりわけ1299年(大徳3年)には多くの国から使者が訪れた。この年、暹国=ペッチャブリーの「世子」も使者を派遣して「父が与えられたを同様に賜りたい」と申し出ており、この頃カムラテンが亡くなってその息子が跡を継いだようである。しかしモンゴル側は丞相のハルガスンが「馬を下賜することで近隣への侵攻に用いられることを恐れる」と進言したことによって国の要求を拒絶しており、これもまた同年に使者を派遣しているマレーの働きかけによるものであったと考えられる。しかしマレーはこの1299年と1301年を除いてモンゴルに朝貢した記録がなく、モンゴルに対しての外交交渉は卓越していたが、全体としては暹国に劣勢であったようである。", "title": "モンゴルとタイ湾諸勢力との関係" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ところが、暹国からの朝貢は1323年(至治3年)を最後に途切れ、代わってジャワからの来貢が盛んとなり、1320年代から1330年代にかけてマジャパヒト王国が東南アジアの海上交易の覇権を握ったようである。汪大淵の『島夷志略』(1349年成立)にはこれを裏付ける記述があり、「近年(1340年代頃か)」に暹国は70余りの船でシンガポールに侵攻したが、ジャワの使節が近づいているのを聞くとすぐに逃げ出してしまったという。そして、同じく『島夷志略』によると、「至正己丑(1349)夏5月」に暹国は羅斛国に降伏したとされる。これに対応するように、タイ語の諸史料では1351年にスパンブリーとロッブリーが統合することで「アユタヤーの基礎が置かれた」とされる。すなわち、何らかの理由で拠点をペッチャブリーからスパンブリーに移していた暹国は1349年に羅斛国に征服され、暹国を併合した羅斛国によって改めて1351年に暹羅斛=アユタヤ朝が建国されたこととなる。", "title": "モンゴルとタイ湾諸勢力との関係" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "以上みてきたモンゴルとタイ湾諸勢力との関係をまとめると以下のようになる。タイ湾沿岸部は13世紀初頭までアンコール朝の間接支配下にあったが、13世紀半ばよりペッチャブリー・スパンブリー・ロッブリーといったタイ系諸勢力が一斉に成立した。その内最も勢いがあったのが「暹国」で、マレー半島にまで南下してマレー人を脅かしたが、マレー人は13世紀末に東南アジアに進出しつつあったモンゴル軍の勢威を利用して暹国に対抗しようとした。一方、これと並行して暹国もモンゴルに使者を派遣しており、この時の支配者が「ペッチャブリーのカムラテン」であったことから、この頃の暹暹はペッチャブリーに位置していたことがわかる。1300年代から1310年代にかけて暹国は積極的にモンゴルに来朝し海上交易路の覇権を握っていたようであるが、1320年代に入るとジャワ島のマジャパヒト王国がこれに取って代わり暹国とモンゴルの交流は途切れる。そして1349年に暹国(スパンブリー)が羅斛国(ロッブリー)に征服されることで新たなタイ系国家アユタヤ朝=暹羅が成立し、1368年には中国大陸でも元明交代が起こることでタイ史は新たな段階に入ることとなる。", "title": "モンゴルとタイ湾諸勢力との関係" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "系図の基本形とアルファベット転写はパヤオの「スワンナマハーウィハーン寺刻文」に拠った。太字は最古のラーンナー史料であるランプーンの「プラユーン寺刻文」に見える王名。", "title": "漢文史料上から見るラーンナー王統" } ]
モンゴルのラーンナー侵攻(モンゴルのラーンナーしんこう)では、同時代の漢文史料上では八百媳婦国と称されていたラーンナー王国をはじめ、現在の雲南省南部からタイ王国北部にかけて存在したタイ系諸勢力に侵攻したモンゴル軍が引き起こした諸戦闘について解説する。 1253年から1254年にかけて大理国を征服したモンゴル帝国はタイ系諸勢力と接するようになったが、この方面へのモンゴル軍の進出は低調で、大元ウルスを立てたクビライの治世中には小規模な遠征軍が散発的に送り込まれるに過ぎなかった。オルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)の治世の1301年には最大規模の遠征軍がラーンナーに送り込まれたものの「10人中7,8人が倒れる」大失敗に終わり、以後モンゴル軍によるラーンナー方面への大規模な軍事侵攻は見られなくなった。14世紀に入るとラーンナー王によるモンゴル皇帝への朝貢が始まり、これが明朝にまで引き継がれることとなる。 かつては「モンゴル軍による東南アジア諸国侵攻」が13世紀における「タイ系諸勢力の南下と国家樹立を促した」とする史観が通説とされていたが、近年では両者を結びつける史料的根拠に乏しいことが指摘され、モンゴルとタイ系諸勢力の関係は見直されつつある。
[[File:Southeast Asian history - 13th century.png|thumb|300px|13世紀の東南アジア諸国。[[ジョルジュ・セデス]]はラーンナー(青色,Lan Na)・パヤオ(水色,Phayao)・スコータイ(濃青,Sukhothai)の3国はモンゴルの侵攻に対抗するために同盟を締結していたと提唱したが、現在では疑わしいと考えられている。]] '''モンゴルのラーンナー侵攻'''(モンゴルのラーンナーしんこう)では、同時代の漢文史料上では'''八百媳婦国'''と称されていた[[ラーンナー|ラーンナー王国]]をはじめ、現在の[[雲南省]]南部から[[タイ王国]]北部にかけて存在した[[タイ系|タイ系諸勢力]]に侵攻したモンゴル軍が引き起こした諸戦闘について解説する。 [[1253年]]から[[1254年]]にかけて[[大理国]]を征服した[[モンゴル帝国]]はタイ系諸勢力と接するようになったが、この方面へのモンゴル軍の進出は低調で、[[大元ウルス]]を立てた[[クビライ]]の治世中には小規模な遠征軍が散発的に送り込まれるに過ぎなかった。[[テムル|オルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)]]の治世の[[1301年]]には最大規模の遠征軍がラーンナーに送り込まれたものの「10人中7,8人が倒れる」大失敗に終わり、以後モンゴル軍によるラーンナー方面への大規模な軍事侵攻は見られなくなった。14世紀に入るとラーンナー王によるモンゴル皇帝への朝貢が始まり、これが[[明朝]]にまで引き継がれることとなる。 かつては「モンゴル軍による東南アジア諸国侵攻」が13世紀における「タイ系諸勢力の南下と国家樹立を促した」とする史観が通説とされていたが、近年では両者を結びつける史料的根拠に乏しいことが指摘され、モンゴルとタイ系諸勢力の関係は見直されつつある。 == 背景 == 13世紀に至るまで、現在[[タイ王国]]が支配する領域の大部分は[[カンボジア]]の[[アンコール朝]]の間接支配下にあったが、13世紀に入ると[[ラヴォ王国]]・[[スコータイ王朝]]などのタイ系民族による諸国家が次々と建設された。ラーンナー王国もまたこのような流れの中で建国され、一般的にマンラーイ王がピン川上流のウィエンクムカーム(現在のチエンマイ南部)に遷都したことを以てラーンナーの成立とする。東南アジア史研究の大家である[[ジョルジュ・セデス]]以来、これらタイ系諸民族の南下と国家樹立はモンゴル軍の東南アジア侵攻と結びつけて考えられており、特にラーンナー王国についてはモンゴル軍の雲南・大理遠征を切っ掛けに建国されたと説明されてきた。しかし近年の研究ではモンゴル軍の侵攻とタイ系諸民族の南下を直接結びつける史料は存在しないことが指摘され、ジョルジュ・セデスの学説は現在では比定されている。ただし、建国間もないタイ系諸勢力は政情が不安定であり、八百媳婦国=ラーンナー王国や車里=シップソーンパンナー王国の内乱がこの方面へのモンゴル軍の侵攻を誘発することとなった。 一方、モンゴルの側では大理国の征服に伴ってタイ系諸勢力と接するようになったものの、そもそも大理国の征服自体が南宋国を包囲する大戦略の一環として行われたものであり、1270年代に至るまで東南アジア諸国に対する関心は薄かった。しかし1283年に南宋が事実上滅亡するとモンゴル帝国は次なる進出先として東南アジア諸国に積極的に進出するようになり、特に1278年にはクビライ・カアンの命により南海諸国(=東南アジア諸国)に対して大々的に使者が派遣された。このような流れの中でラーンナー方面にも散発的にモンゴル軍は進出したものの、他の東南アジア諸国同様に過酷な気候に悩まされ、さしたる成果もなく撤退に追い込まれた。クビライの後を継いだオルジェイトゥ・カアンは1301年に最大規模の遠征軍をラーンナーに送り込んだが、後述するように「世祖(クビライ)に比べ今上(オルジェイトゥ・カアン)は武功がない」こと、すなわち内政的な要因から遠征が決められている。 == モンゴル軍のラーンナー侵攻 == === 現雲南省内のタイ系諸族征討 === [[File:Ethnic minorities areas in Yunnan-zh.png|thumb|250px|現代における雲南省の少数民族分布図。最南部の[[シーサンパンナ・タイ族自治州|シップソーンパンナー・タイ族自治州]]を中心に多数のタイ族が居住している。]] 1253年、大理国を征服したモンゴル帝国はビルマのパガン朝・ヴェトナムの大越国陳朝・タイ系諸国家と接するようになったが、1259年のモンケ・カアンの急死もあってこの方面への進出は遅々として進まなかった{{sfn|謝|2022|p=59}}{{sfn|喜田|1974|p=73}}。そもそも旧大理国の領域全体が1253年の時点で全てモンゴルに服属していたわけではなく、後に開南州・威遠州と呼ばれた雲南南部地域は大理国時代から「金歯蛮(『[[東方見聞録]]』ではザルダンダンと呼ばれる)」や「白夷蛮」と呼ばれたタイ系勢力によって支配されており、[[中統]]3年([[1262年]])に至ってようやくモンゴル軍に服属したと伝えられる{{sfn|謝|2022|p=59}}<ref>『元史』巻61志13地理志4雲南諸路行中書省,「開南州、下。……至蒙氏興、立銀生府、後為金歯・白蛮所陷、移府治於威楚、開南遂為生蛮所拠。自南詔至段氏、皆為徼外荒僻之地。元中統三年平之、以所部隸威楚万戸。至元十二年、改為開南州。威遠州、下。……至蒙氏興、開威楚為郡、而州境始通。其後金歯・白夷蛮酋阿只步等奪其地。中統三年征之、悉降。至元十二年、立開南州及威遠州、隸威楚路」</ref>。 また、[[至元 (元世祖)|至元]]11年([[1274年]])より雲南行省に赴任した[[サイイド・アジャッル]]は至元13年(1276年)12月に「阿僰諸部蛮」を招論して降らせることに成功し<ref>『元史』巻61志13地理志4雲南諸路行中書省,「元江路、下。……憲宗四年内附、七年復叛、率諸部築城以拒命。至元十三年、遙立元江府以羈縻之」</ref>、この地は元江府(後に元江路と改名)と名付けられ<ref>『元史』巻9世祖本紀6,「[至元十三年十二月]丁卯、改雲南蘿葡甸為元江府路」</ref>、ここに至って初めてモンゴルは現在のタイ王国に属する地域に至る道を確保することに成功した{{sfn|謝|2022|p=59}}{{sfn|喜田|1974|p=74}}。至元13年(1276年)は奇しくもモンゴル軍が南宋国の首都臨安を陥落させて事実上これを滅ぼした年でもあり、この翌年からモンゴルは大々的に南海諸国(東南アジア諸国)への進出を開始するようになった{{sfn|謝|2022|p=59}}。 とりわけ、至元15年([[1278年]])8月30日(辛巳)には[[泉州市|泉州]]に行省が設けられ、[[ソゲドゥ (ジャライル部)|ソゲドゥ]]・[[蒲寿庚]]らに以下の通り全国招諭が命じられた<ref>『元史』巻129列伝16唆都伝,「十五年……進参知政事、行省福州。徴入見、帝以江南既定、将有事於海外、陞左丞、行省泉州、招諭南夷諸国」</ref>。 {{Quotation|訳文:東南の島嶼にある諸蕃国は、みな慕義の心をもっているので、蕃舶諸人によって朕の意を宣布すべきである。誠に能く来朝するならば、朕はこれを手厚く礼遇し、その往来や互市は、各々の望むままに従わせよう。<br> 原文:詔行中書省唆都・蒲寿庚等曰『諸蕃国列居東南島嶼者、皆有慕義之心、可因蕃舶諸人宣布朕意。誠能来朝、朕将寵礼之。其往来互巿、各従所欲』。|クビライ・カアン|『元史』巻10世祖本紀7,至元十五年八月辛巳条{{sfn|向|2013|p=73}}}} この全国招諭の対象は主に海洋に面した諸国であったが、これにあわせて雲南から周辺諸国への進出も活発化することとなる{{sfn|謝|2022|p=59}}。 === 1280年代の出兵 === [[File:Jinghongcity.jpg|250px|thumb|right|現在のシップソーンパンナー・タイ族自治州のチエンフン([[景洪市]])]] どのような経緯からモンゴルがラーンナー王国(当時の漢文史料上では「八百媳婦国」)と接触するに至ったかは記録がないが、[[普洱市]][[瀾滄県]]に残る摩崖石刻によって至元19年([[1282年]])冬にモンゴル軍は初めてラーンナーに対して出兵したことが判明している{{sfn|謝|2022|p=60}}。しかしほぼ同時期にモンゴル軍の大部隊がビルマ方面に侵攻しており([[バモーの戦い]])、恐らくは小部隊であったラーンナー遠征軍は何ら見るべき戦果なく普耳一帯まで退却したようである{{sfn|謝|2022|p=60}}。 至元21年([[1284年]])7月には騰越・永昌・羅必丹(羅必甸)といった雲南西南部一帯で金歯(ザルダンダン)が叛乱を起こしたため、四川方面の[[タンマチ|タンマチ(辺境鎮戍軍)]]司令官であった[[イェスデル (サルジウト部)|イェスデル]]をはじめ都元帥[[耶律忙古帯|マングタイ]]や[[ボロト・カダ]]らが叛乱鎮圧のためタンマチ兵1千とともに派遣された{{sfn|謝|2022|p=60}}{{sfn|松田|1993|p=38}}<ref>『元史』巻13世祖本紀10,「[至元二十一年]秋七月丁丑朔……雲南省臣言『騰越・永昌・羅必丹民心攜貳、宜令也速帯児或汪総帥将兵討之』。制曰『可』」</ref>。マングタイはまず羅必丹(現タイ北部)の都城を攻略することを決め、ボロト・カダは遊兵を率いて先行したが、洪水(「江水暴溢」)に道を阻まれたため配下の兵を率いて水の流れをせき止めることでようやく渡河に成功した{{sfn|謝|2022|p=60}}{{sfn|松田|1993|p=37}}。ボロト・カダは城から僅か300歩しか離れていない場所に陣営を築き、それから7日後に全軍が集結したため総攻撃を開始し、ボロト・カダ率いる部隊が真っ先に城壁を踏破したことで羅必甸の都城は陥落した{{sfn|謝|2022|p=60}}{{sfn|松田|1993|p=37}}。この後、マングタイ率いる部隊はビルマ遠征中の宗王シャンウダルと合流し、「金歯道(ザルダンダンの支配するルート)」を抜けて雲南に帰還したと伝えられる{{sfn|松田|1993|p=38}}<ref>『元史』巻149列伝36耶律禿花伝,「忙古帯、宝童之子也。……従攻羅必甸、至雲南、詔以其衆入緬、迎雲南王。金歯・白衣・答奔諸蛮、往往伏険要為備、忙古帯奮撃破之、凡十餘戦、至緬境、開金歯道、奉王以還、遷副都元帥」</ref>。 「洪水を乗り越えた」との記録から羅必甸攻略は夏〜秋頃のことであったと見られるが、更にここからボロト・カダ率いる部隊は何らかの理由で八百媳婦国まで遠征することとなり、恐らくは同年末冬頃にシップソーンパンナー王国(当時の漢文史料上では「車里」。タイ・ルー族によって構成される国家{{sfn|喜田|1974|p=80}})に入った。ここでも諸王ココの命を受けたボロト・カダが300騎を率いて先行し車里の酋長に降伏勧告を行ったが受け入れられなかった。そこで車里に対しても攻撃が行われ、都鎮撫が戦死するなど苦戦を強いられたが、ボロト・カダが北門を破壊し進入したことで城は陥落した。これによって車里=シップソーンパンナー王国は遂に平定されたと伝えられるが、恐らくは同時期にビルマ侵攻に兵力が割かれていたこともあって、モンゴル軍はこの時も結局ラーンナーまで兵を進めることはなかったようである{{sfn|謝|2022|p=60}}<ref>『元史』巻132列伝19歩魯合荅伝,「二十一年、命統蒙古探馬赤軍千人従征金歯蛮、平之。都元帥蒙古歹征羅必甸、歩魯合荅率游兵先行、江水暴溢、率衆泅水而渡、去城三百歩而営。居七日、諸軍会城下、乃進攻之、歩魯合荅先登、抜其城、遂屠之。又従征八百媳婦国、至車厘、車厘者、其酋長所居也。諸王闊闊命歩魯合荅将游騎三百往招之降、不聴、進兵攻之、都鎮撫侯正死焉。歩魯合荅毀其北門木、遂入其寨、其地悉平。賜金虎符、授懐遠大将軍・雲南万戸府達魯花赤、卒」</ref>。 === 1290年代の侵攻 === [[File:King Mangrai Monument อนุสาวรีย์พ่อขุนมังราย ห้าแยกพ่อขุนฯ (October 2021) - img 06.jpg|250px|thumb|right|マンラーイ王の銅像]] [[1280年代]]、モンゴルは[[モンゴルのチャンパー侵攻|チャンパー遠征]](1282年〜1283年)、第二次・三次ヴェトナム遠征(〜1288年)、ビルマ遠征(〜1287年)と、東南アジア諸国に対して大規模な軍事得遠征を繰り返したがいずれも失敗に終わり、1289年(至元26年)には小康状態が訪れていた{{sfn|謝|2022|p=60}}。このような中で、至元27年(1290年)7月には車里(シップソーンパンナー)が再度モンゴルに内附し<ref>『元史』巻16世祖本紀13,「[至元二十七年秋七月]丙寅、雲南闍力白衣甸酋長凡十一甸内附」</ref>、未だモンゴルに服属しない八百媳婦に軍を派遣するよう要請した{{sfn|謝|2022|p=60}}。これを受けてか、クビライは至元29年(1292年)8月に雲南行省のマングトゥルミシュ(忙兀禿児迷失)らに対して八百媳婦を征服するよう命じた{{sfn|謝|2022|p=60}}{{sfn|喜田|1974|p=74}}<ref>『元史』巻17世祖本紀14,「[至元二十九年八月]戊午……。詔不敦・忙兀魯迷失以軍征八百媳婦国」</ref>。同年12月に進発したマングトゥルミシュらはまず車里の地に至り、この地に「木来府」を置いてバイバク(布伯)を[[ダルガチ]]に任じ現地の民を登用したとされる{{sfn|喜田|1974|p=74}}<ref>『元史』巻17世祖本紀14,「[至元二十九年]十二月庚寅、中書省臣言『皇孫晋王甘麻剌昔鎮雲南、給梁王印、今進封晋王、請給晋王印。北安王府尉也里古帯・司馬荒兀、並為晋王中尉、仍命不只答魯帯・狄琮並為司馬。金歯適当忙兀禿児迷失出征軍馬之衝、資其芻糧、立為木来府』」</ref><ref>『元史』巻61志13地理志4雲南諸路行中書省,「木来軍民府。至元二十九年、雲南省言『新附金歯適当忙兀禿児迷失出征軍馬之衝、資其芻糧、擬立為木来路』。中書省奏置散府、以布伯為達魯花赤、用其土人馬列知府事」</ref>。しかし、この後本来の遠征先であった八百媳婦にまで進出したのかどうかについては全く記録がない{{sfn|謝|2022|p=61}}。 一方、『ケントゥン(Kengtung)年代記』によると、 1291年([[ビルマ暦]]653年)頃にマンラーイ王の子息の一人で、[[チャイントン|ケントゥン]]に冊封されたナムトゥアム(Namthum『元史』中では「南通」と表記される)が朝貢を要求する使者を拒絶したところ、侵攻を受けたという{{sfn|謝|2022|p=61}}。敵軍は河川から水を引いて水攻めにしようとするも、ナムトゥアムが祭礼を行うことで大雨が降り出し、逆に氾濫した水流に大打撃を受けた包囲軍はMuang leam(『元史』の「木来」、現代の[[勐海県]]を指すと見られる)まで退却したとされる{{sfn|謝|2022|p=61}}。これらの記述はそのまま史実とみなすことはできないが、時期から見て1291-1292年頃にケントゥンに踏み込んだモンゴル軍が現地軍に撃退された事実を反映しているのではないかと考えられる{{sfn|謝|2022|p=61}}。 ここで視点をラーンナー側に転じると、グンヤーン国の王子として生まれたマンラーイは1262年に新首都[[チエンラーイ]]に遷都し、また1292年には[[ハリプンチャイ王国]]を併合することによって勢力を拡大した。その後、マンラーイは1296年にチェンマイを建設したとされ、これが一般的にラーンナー王朝の成立と考えられている。このようにラーンナー王朝の建国者として名高いマンラーイ王について、タイ語史料にモンゴルとの関係について全く言及がないことは注目に値する{{sfn|謝|2022|p=61}}。ただし、『チェンマイ年代記』のマンラーイ王にまつわる伝承の中には「ムアン・ケーオ(Mueang Kaeo)の王がマンラーイの下を訪れて[[レガリア]]をもたらし、中国の国王がそうするようにマンラーイ王の即位式を執り行った」との記述がある{{sfn|謝|2022|p=61}}。これに関連して、『元史』などの漢文史料では1297年に「八百媳婦が叛乱した」との記述があり、この記述は1297年以前に「八百媳婦(ラーンナー)が大元ウルスに降っていた」ことを示唆する{{sfn|謝|2022|p=61}}。謝信業は『チェンマイ年代記』と『元史』の記述を比較して、恐らく「マンラーイ王の即位式を執り行ったケーオの王」は大元ウルスの支配下にあったタイ族の土官で、この土官が大元ウルスの意を受けて八百媳婦を招諭した史実が誤った形で『チェンマイ年代記』に採録されたのではないか、と推測した{{sfn|謝|2022|p=61}}。 しかしいずれにせよマンラーイ王とモンゴルの接触を明記した史書は存在せず、マンラーイ王時代の両国の関係は不明な点が多い{{sfn|謝|2022|p=61}}。一方、大元ウルス朝廷は至元30年(1293年)正月に金歯(ザルダンダン)に使者を派遣し<ref>『元史』巻17世祖本紀14,「[至元]三十年春正月壬戌、詔遣使招諭漆頭・金歯蛮」</ref>、同年11月には木朶甸総管府を<ref>『元史』巻17世祖本紀14,[至元三十年十一月]戊辰、以金歯木朶甸戸口増、立下路総管府、給其為長者雙珠虎符」</ref>、翌年10月には孟愛軍民総管府を<ref>『元史』巻18成宗本紀1,「[至元三十一年冬十月]乙未……金歯新附孟愛甸酋長遣其子来朝、即其地立軍民総管府」</ref>それぞれ設置している{{sfn|喜田|1974|p=75}}。この2つの総管府は車里周辺とみられ{{sfn|喜田|1974|p=75}}、大元ウルス朝廷は車里(シップソーンパンナー)に対しては13世紀末までには間違いなく統制を強めていた{{sfn|謝|2022|p=61}}。ところが、至元31年(1294年)1月にクビライが亡くなったことによってモンゴルの外交方針は大きく転換することとなる{{sfn|謝|2022|p=61}}。 === 13世紀末の戦乱 === [[File:Burma c. 1310.PNG|250px|thumb|right|1310年頃のビルマ周辺図。末期のパガン朝はシャン人勢力(Shan states)と内戦状態にあり、パガン朝側はシャン人との戦いのためにラーンナー軍をビルマに引き入れたと『元朝征緬録』は伝える。]] クビライの死後、大元ウルスではオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)が即位し、それまでの積極的拡張主義は改められたが、[[元貞]]2年([[1296年]])の末頃から急速にラーンナー状勢が悪化する{{sfn|謝|2022|p=62}}。同年11月、車里の渾弄は兵を興してビルマの要塞13箇所を占領し、また八百媳婦と組んで倒龍を攻めようとしたため、雲南行省が兵を派遣した{{sfn|謝|2022|p=62}}{{sfn|喜田|1974|p=75}}<ref>『招捕総録』雲南条,「[元貞二年]十一月、車里蛮渾弄興兵、占奪甸寨十又三所、結構八百媳婦蛮、欲攻倒龍等、雲南省遣兵招捕」</ref>。12月、雲南行省は朝廷に対して「『大車里(大徹里)』 は八百媳婦と長年対立関係にあるが、大車里の胡念が既にモンゴルに降ったため、今度は『小車里(小徹里)』が八百媳婦と争った。そこで胡念は弟の胡倫を派遣して大元ウルスの官署を設置するよう乞うてきた」ことを報告し、これを受けて車里には「徹里軍民総管府」が設置された{{sfn|謝|2022|p=62}}{{sfn|喜田|1974|p=75}}<ref>『元史』巻19成宗本紀2,「[元貞二年]十二月戊戌、立徹里軍民総管府。雲南行省臣言『大徹里地与八百媳婦犬牙相錯、今大徹里胡念已降、小徹里復占扼地利、多相殺掠。胡念遣其弟胡倫乞別置一司、択通習蛮夷情状者為之帥、招其来附、以為進取之地』。詔復立蒙樣剛等甸軍民官」</ref>。一連の経緯から、この時の戦乱が大・小車里(シップソーンパンナー)・八百媳婦(ラーンナー)・緬甸(ビルマ)の4ヶ国を巻き込む大規模なものであったこと、一方で車里のみは完全に雲南行省の掌握下にあったことが推察される{{sfn|喜田|1974|p=75}}。なお、この戦乱がどのような経緯で起こったかは不明であるが、あるいはモンゴル軍の進出によってこの方面が緊張状態にあったことが一因ではないかとも考えられている{{sfn|喜田|1974|p=76}}。 [[大徳 (元)|大徳]]元年([[1297年]])、八百媳婦国は小車里の胡弄なる人物とともに車里の胡倫を攻め、ついでビルマ(緬国)にも侵攻したことが車里によって急ぎ報告されたため、大元ウルス朝廷は雲南行省に2,3千の兵を率いてこれを救うよう命じた{{sfn|謝|2022|p=62}}<ref>『招捕総録』八百媳婦条,「大徳元年、八百媳婦国与胡弄攻胡倫、又侵緬国。車里告急、命雲南省以二千或三千人往救」</ref>。更に、同年9月には朝廷は八百媳婦による車里攻撃がやまないことを理由に、[[エセン・ブカ (ケレイト部)|エセン・ブカ]](也先不花)を派遣したが効果は上がらず<ref>『元史』巻19成宗本紀2,「[大徳元年八月]甲子、八百媳婦叛、寇徹里、遣也先不花将兵討之」</ref>、「時が経っても解決しない(経時不下)」状態にあった{{sfn|謝|2022|p=62}}{{sfn|喜田|1974|p=77}}。この頃、「前緬王」に引き入れられた八百媳婦国の軍団がビルマ各地の甘当・散当・只麻剌・班羅諸城を攻撃したことは『[[元朝征緬録]]』にも記載がある{{sfn|謝|2022|p=62}}<ref>『元朝征緬録』,「[大徳二年]六月、管竹思加至太公城、緬人阿只不伽闌等来言『旧緬王帖滅的実行刼奪於尔、今已去位。鄒聶為王、遣我輩召尔、議遣人赴朝』。管竹思加至蒲甘、鄒聶曰『帖滅的引'''八百媳婦'''軍破我甘当・散当・只麻剌・班羅等城、又刼奪尔登籠国人物。尔等回朝、不知其故、必加兵於我。今帖滅的已廃、特差大頭目密得力・信者・章者思力三人、奉貢入朝』。又移文雲南省、称『木連城土官阿散哥也、皇帝命佩大牌子、為官人。初実無罪,前緬王欲殺之。聖旨令安治僧民、前緬王却通叛人'''八百媳婦'''、引兵来、壞甘当・散当・只麻剌・班羅四族百姓、又刼奪登籠国貢物。是故阿散哥也・阿剌者僧吉藍・僧哥速等廃前緬王、令我爲王』。行省以聞」</ref>。なお、『チェンマイ年代記』などにもマンラーイ王がビルマのパガン朝の内乱に介入して[[ハンターワディー]](Hamsavati=[[ペグー王朝]]を指す)にまで進出したとの記録があるが、時期は1297年をやや遡った1290年前後のこととされている{{sfn|謝|2022|p=62}}。 大徳2年([[1298年]])3月、八百媳婦と車里の戦乱は激しさをましてモンゴル側が使者を出しても耳を貸さず<ref>『招捕総録』車里条,「大徳二年三月、小車里結八百媳婦為乱、経時不下、数遣使奉詔招之、不聴」</ref>、八百媳婦国は小車里の胡弄とともに5万の兵で以て夢胡龍甸の土官や大車里の漢綱(先述の胡念の子)と抗争を繰り広げた{{sfn|謝|2022|p=62}}。更に、八百媳婦は配下の部曲に命じて10万の兵でもって雲南行省管下の蒙樣などにも侵攻したため、ここに至り雲南行省は2万の兵の出動を本国に要請するに至った{{sfn|謝|2022|p=62}}{{sfn|喜田|1974|p=77}}<ref>『招捕総録』八百媳婦条,「[大徳]二年、与八百媳婦国為小車裏胡弄所誘、以兵五万与夢胡龍甸土官及大車里胡念之子漢綱争地相殺、又令其部曲混乾以十万人侵蒙樣等、雲南省乞以二万人征之」</ref>。また、[[1299年]](大徳3年)にはビルマのパガン朝が再度モンゴルに反旗を翻しているが、これもまたラーンナーに影響を受けたためと考えられる{{sfn|謝|2022|p=62}}。 === 14世紀初頭の侵攻 === このような情勢を受けて、大元ウルス朝廷の中でもにわかにラーンナー出兵論が主張されるようになり、大徳4年([[1300年]])には当時「雲南王」であった[[スンシャン]](松山)がラーンナーへの出兵を要請した{{sfn|謝|2022|p=62}}。これを受けて朝廷ではラーンナーへの出兵を巡って激論が交わされ、出兵を主張する雲南行省左丞の劉深は「世祖(クビライ)は神武で以て海内を統一し、その功は万世に語り継がれるものでありますが、今上は帝位を継いだものの未だ武功を立てて偉業を示していません。西南夷には未だモンゴルに服属していない八百媳婦国があるため、これを征服することを請います」と述べた{{sfn|謝|2022|p=62}}<ref name="genshi136">『元史』巻136列伝23哈剌哈孫伝,「五年、同列有以雲南行省左丞劉深計倡議曰『世祖以神武一海内、功蓋万世。今上嗣大歴服、未有武功以彰休烈、西南夷有八百媳婦国未奉正朔、請往征之』。哈剌哈孫曰『山嶠小夷、遼絶万里、可諭之使来、不足以煩中国』。不聴、竟発兵二万、命深将以往。道出湖広、民疲於餽餉。及次順元、深脅蛇節求金三千両・馬三千匹。蛇節因民不堪、挙兵囲深於窮谷、首尾不能相救。事聞、遣平章劉国傑往援、擒蛇節、斬軍中、然士卒存者纔十一二、転餉者亦如之、訖無成功。帝始悔不用其言。会赦、有司議釈深罪。哈剌哈孫曰『徼名首釁、喪師辱国、非常罪比、不誅無以謝天下』。奏誅之」</ref>。一方、出兵に反対する中書左丞相のハルガスンは「遥か遠方でなおかつ険阻な地域を兵で以て征するのは困難であり、使者を派遣して投降を促すべきである」と述べたものの、結局は劉深の意見が採用されて八百媳婦国への大規模侵攻が行われることとなった{{sfn|謝|2022|p=62}}<ref name="genshi136"/>。 この頃、雲南行省直属の軍団はビルマ方面に振り分けられていたため、この遠征では湖広・江西・河南・陝西・江浙の5省から2万人が新たに徴発され、劉深・カラダイ(合剌帯)・鄭祐らがこの遠征軍を率いることとなった{{sfn|謝|2022|p=63}}<ref name="souroku1">『招捕総録』八百媳婦条,「[大徳]四年、梁王上言請自討賊、朝議調湖広・江西・河南・陝西・江浙五省軍二万人、命前荊湖占城行省左丞劉深等率以征。既而道経順元、土官宋隆濟作乱、道路不通、官軍死傷、深領軍回、不果徵」</ref>。これと同時に、雲南行省に対しても兵10名に対して馬5匹を供給し、不足分は牛で補うよう命じられている{{sfn|喜田|1974|p=77-78}}<ref>『元史』巻20成宗本紀3,「[大徳四年十二月]癸巳……遣劉深・合剌帯・鄭祐将兵二万人征八百媳婦、仍敕雲南省每軍十人給馬五匹、不足則補之以牛」</ref>。年が明けて大徳5年([[1301年]])正月15日(庚戌)には遠征軍に鈔92,000鍵が支給され<ref>『元史』巻20成宗本紀3,「[大徳五年春正月]庚戌、給征八百媳婦軍鈔、総計九万二千餘錠」</ref>、また2月23日(丁亥)には遠征軍を管轄する「万戸府」が2つ設置された{{sfn|喜田|1974|p=77-78}}<ref>『元史』巻20成宗本紀3,「[大徳五年二月]丁亥、立征八百媳婦万戸府二、設万戸四員、発四川・雲南囚徒従軍」</ref>。この二つの万戸府には計4名の万戸(万人隊長)が置かれ、四川・雲南からは囚人が微発されて兵に充てられることとなった{{sfn|喜田|1974|p=77-78}}。 こうして始まったラーンナー(八百媳婦)侵攻は多大な負担が周辺住民に課され、労役のため微発された民は数十万人が亡くなったとされる{{sfn|謝|2022|p=63}}<ref name="genshi156">『元史』巻156列伝43董士選伝,「時丞相完沢用劉深言、出師征八百媳婦国、遠冒煙瘴、及至未戦、士卒死者十已七八。駆民転粟餉軍、谿谷之間不容舟車、必負擔以達。一夫致粟八斗、率数人佐之、凡数十日乃至。由是民死者亦数十万、中外騒然。而完沢説帝『江南之地尽世祖所取、陛下不興此役、則無功可見於後世』。帝入其言、用兵意甚堅、故無敢諫者。士選率同列言之、奏事殿中畢、同列皆起、士選乃独言『今劉深出師、以有用之民而取無用之地。就令当取、亦必遣使諭之、諭之不従、然後聚糧選兵、視時而動。豈得軽用一人妄言、而致百万生霊於死地』。帝色変、士n選猶明辨不止、侍従皆為之戦慄、帝曰『事已成、卿勿復言』。士選曰『以言受罪、臣之所当。他日以不言罪臣、臣死何益』。帝麾之起、左右擁之以出。未数月、帝聞師敗績、慨然曰『董二哥之言験矣、吾愧之』。因賜上尊以旌直言、始為罷兵、誅劉深等。世祖嘗呼文炳曰董大哥、故帝以二哥呼士選」</ref>。そのため同年4月には改めて雲南軍から兵を微発して遠征軍に充てられることになり<ref>『元史』巻20成宗本紀3,「[大徳五年夏四月]壬午……調雲南軍征八百媳婦」</ref>、5月には雲南内で新たにラーンナー遠征のため2千人を徴発することになったため<ref>『元史』巻20成宗本紀3,「[大徳五年五月]丙寅、詔雲南行省自願征八百媳婦者二千人、人給貝子六十索」</ref>、遠征軍維持への負担は雲南全域に降りかかることとなった{{sfn|喜田|1974|p=77-78}}。 これに対して雲南南部の土官は反発を強め、5月には雲南士官の宋隆濟が水東・水西・羅鬼の諸蛮を率いて蜂起したが<ref>『元史』巻63地理志6湖広等処行中書省,「貴州、下。……大徳六年、雲南行省右丞劉深征八百媳婦、至貴州科夫、致宋隆濟等糾合諸蛮為乱、水東・水西・羅鬼諸蛮皆叛、劉深伏誅」</ref>、決起の際には「官軍は汝らを徴発し、髪を剪定して入墨をして兵にする。男は死ぬために戦陣に赴き、妻子は虜囚となる」と呼びかけて支持を集めたという{{sfn|喜田|1974|p=77-78}}<ref>『元史』巻20成宗本紀3,「[大徳五年五月]壬戌、雲南土官宋隆濟叛。時劉深將兵由順元入雲南、雲南右丞月忽難調民供餽、隆濟因紿其衆曰『官軍徵発汝等、将尽剪髮黥面為兵、身死行陣、妻子為虜』。衆惑其言、遂叛」</ref>。宋隆濟は6月には猫・狫・紫江の諸蛮4千を率いて楊黄寨を攻め、更に東進して貴州を攻撃するに至った{{sfn|喜田|1974|p=77-78}}。これを受けて梁王は雲南行省の平章幢兀児・参政不蘭奚らに反乱軍討伐を命じている<ref>『元史』巻20成宗本紀3,「[大徳五年六月]丙戌、宋隆濟率猫・狫・紫江諸蛮四千人攻楊黄寨、殺掠甚衆。……壬辰、宋隆濟攻貴州、知州張懐徳戦死。梁王遣雲南行省平章幢兀児・参政不蘭奚将兵禦之、殺賊酋撒月、斬首五百級」</ref><ref>『元史』巻20成宗本紀3,「[大徳五年秋七月]癸丑……命雲南省分蒙古射士征八百媳婦」</ref>。この結果、本来はラーンナー遠征のために送り込まれたはずの[[張弘綱]]が宋隆濟の叛乱鎮圧に向かい、そこで戦死する結果に終わっている<ref>『元史』巻165列伝52張弘綱伝,「弘綱字憲臣……従右丞劉深徵八百媳婦国、師次八番、与叛蛮宋隆濟等力戦而没」</ref>。また一方で、雲南西南の金歯は「八百媳婦と互いに助け合い」「税賦を収めず、官史を殺害した」ことが報じられたため、8月には金歯に対しても討伐軍を派遣することになった{{sfn|謝|2022|p=63}}{{sfn|喜田|1974|p=77-78}}<ref>『元史』巻20成宗本紀3,「[大徳五年秋八月]甲戌、遣薛超兀而等将兵征金歯諸国、時征緬師還、為金歯所遮、士多戦死。又接連八百媳婦諸蛮、相效不輸税賦、賊殺官吏、故皆征之」</ref>。 このような情勢を受けて朝廷では再び遠征反対論が持ち上がったが、右丞相オルジェイは劉深と同様に「江南の地(=南宋国)は世祖(=クビライ)によって尽く征服されました。陛下がこの戦役で成功しなければ、武功が無かったと後世で見なされるでしょう(江南之地尽世祖所取、陛下不興此役、則無功可見於後世)」と述べ遠征の続行を認めたとされる{{sfn|謝|2022|p=63}}<ref name="genshi156"/>。廷臣たちはオルジェイの権勢を慮って敢えて反対の意見を述べる者はおらず、[[董士選]]のみが不興を蒙るのを覚悟で遠征反対の意見を表明したものの、予想通りオルジェイトゥ・カアンは怒って董士選の進言を取り上げなかった<ref name="genshi156"/>。これだけの犠牲を払って出発した遠征軍であったが、北方から来た将兵は現地の風土に順応できず、戦わずして10人中7,8人が倒れる有様であった{{sfn|謝|2022|p=63}}。このように、モンゴル兵にとって過酷な気候のラーンナーを[[郭貫]]は「炎瘴万里不毛之地」と表現し、この遠征を「国に益なし(無益於国)」と評している<ref>『元史』巻174列伝61郭貫伝,「郭貫、字安道、保定人。……大徳初、遷湖北道、言『今四省軍馬、以数万計、徵八百媳婦国、深入為炎瘴万里不毛之地、無益於国』」</ref>。更に「論征西南夷事」によると遠征軍は食料不足にも悩まされて人肉相食む惨状に陥り、最終的には南軍の攻撃を受けて敗走し「1千里余を放棄した」という{{sfn|謝|2022|p=63}}。 大徳6年([[1302年]])に敗報が朝廷にもたらされると、ようやくオルジェイトゥ・カアンも遠征の失敗を認め、「董二哥(董士選)の言が正しかった」と述べて遠征をやめさせたという<ref name="genshi156"/>。2月日にはまず遠征軍の司令官であった劉深が罷免されて符印・駅券を没収された{{sfn|喜田|1974|p=78}}<ref>『元史』巻20成宗本紀3,「[大徳六年二月]丙戌……罷征八百媳婦右丞劉深等官、收其符印・駅券」</ref>。その後、遠征軍は撤退して雲南で起こった叛乱の鎮圧に充てるよう指示されている{{sfn|謝|2022|p=63}}。 大徳7年([[1303年]])には朝廷で政変が勃発し、ラーンナー遠征を主導してきたオルジェイらが失脚して、遠征反対を主張していたハルガスンが右丞相に抜擢されることとなった。同年3月には遠征軍の首脳部であった劉深・カラダイ・鄭祐らが「八百媳婦への遠征で軍を失った」ことを理由に誅殺され、同時に雲南征緬分省も廃止となった{{sfn|喜田|1974|p=78}}<ref>『元史』巻21成宗本紀4,「[大徳七年三月]乙巳、以征八百媳婦喪師、誅劉深、笞合剌帯・鄭祐、罷雲南征緬分省」</ref>。これ以後、『元史』等の漢文史料では数年にわたって八百媳婦に言及されることがなくなり、ラーンナー遠征は全く放棄されたようである{{sfn|喜田|1974|p=78}}。1301年のラーンナー侵攻失敗は、この方面に対する強圧的な武力制圧方針を転換させる大きな転機となり、結果的には雲南南部〜タイ北部の情勢安定化をもたらすこととなる{{sfn|謝|2022|p=63}}。 === 朝貢関係の確立 === [[File:Shan States-Map.png|250px|thumb|right|現ミャンマー国内のシャン人勢力圏。ナムトゥアムが領地としたとされるケントゥン一帯は水色で示される。]] オルジェイトゥ・カアンの没後、[[カイシャン|クルク・カアン(武宗カイシャン)]]の治世の[[至大]]2年([[1309年]])11月には雲南行省より大車里・小車里が乱を起こした事が報ぜられたため、朝廷は右丞の算只児威を派遣した{{sfn|謝|2022|p=64}}。ところが、算只児威は現地で賄賂として金・銀を各3錠を受け取ったことで油断したところ、弓弩の斉射を受けて敗退し撤退に追い込まれた{{sfn|喜田|1974|p=78}}{{sfn|謝|2022|p=64}}<ref>『元史』巻23武宗本紀2,「[至大二年三月]十一月庚辰朔……雲南行省言『八百媳婦・大徹里・小徹里作乱、威遠州谷保奪拠木羅甸、詔遣本省右丞算只児威往招諭之、仍令威楚道軍千五百人護送入境。而算只児威受谷保賂金銀各三錠、復進兵攻劫、谷保弓弩乱発、遂以敗還。匪惟敗事、反傷我人、惟陛下裁度』。帝曰『大事也、其速擇使復賫璽書往招諭、算只児威雖遇赦、可厳鞫之』」</ref>。至大3年([[1310年]])1月にも算只児威を派遣して八百媳婦を招諭させているが、事態は落着していない{{sfn|喜田|1974|p=79}}<ref>『元史』巻23武宗本紀2,「[至大三年春正月]壬寅、詔諭八百媳婦、遣雲南行省右丞算只児威招撫之」</ref>。 至大4年([[1311年]])1月、クルク・カアンが急死して[[アユルバルワダ|ブヤント・カアン(仁宗アユルバルワダ)]]が即位し、同年5月には車里と八百媳婦が手を組んで攻撃を仕掛けてきたため、雲南王と右丞アグタイに命じてこれを討伐させている{{sfn|喜田|1974|p=79}}{{sfn|謝|2022|p=64}}<ref>『元史』巻24仁宗本紀1,「[至大四年五月]癸酉、八百媳婦蛮与大・小徹里蛮寇辺、命雲南王及右丞阿忽台以兵討之」</ref>。しかし、『招捕総録』によると同年中には雲南の土官が各地で叛乱を起こし蜂起したため、討伐の効果は上がらなかったようである{{sfn|謝|2022|p=64}}<ref>『招捕総録』八百媳婦条,「至大四年、雲南省上言、八百媳婦・大小車里作乱、蒲蛮阿婁銀僭平章都元帥、七十城門土官緬察、犯臨安・建水、普定路土官的謀害遷調官吏、似此蜂起、数年不息、乞進討、朝廷命齎詔招之」</ref>。 [[皇慶 (元)|皇慶]]元年([[1311年]])8月、再び雲南王及び雲南行省右丞アグタイ率いる軍団に八百媳婦蛮を討伐するよう命じられたが{{sfn|喜田|1974|p=79}}<ref>『元史』巻24仁宗本紀1,「[皇慶元年八月]辛卯、敕雲南省右丞阿忽台等、領蒙古軍従雲南王討八百媳婦蛮」</ref>、[[趙世延]]らが「たとえラーンナーを征服したとしてもこれ以上兵や将官を失ってしまえば、国家にとっての損失はより大きくなる」と反対したことにより実施には至らなかったとされる{{sfn|謝|2022|p=64}}<ref>『元史』巻180列伝67趙世延伝,「[至大]四年、升中奉大夫・陝西行台侍御史。先是、八百媳婦為辺患、右丞劉深往討之、兵敗而還、坐罪棄市。及是、右丞阿忽台当継行、世延言『蛮夷事在羈縻、而重煩天討、致軍旅亡失、誅戮省臣、藉使尽得其地、何補於国。今窮兵黷武、實傷聖治。朝廷第当選重臣知治体者、付以辺寄、兵宜止勿用』。事聞、枢密院臣以為用兵国家大事、不宜以一人之言為興輟。世延聞之、章再上、事卒罷」</ref>。なお、同年はマンラーイ王が死去したとされる年でもあり、これによってその息子クン・カーム([[チャイソンクラーム]])王が新たに即位している{{sfn|黎|1955|p=38}}。国王の代替わりが影響したためか、同年9月に八百媳婦側は大元に訓象・宝物を献上しており<ref>『元史』巻24仁宗本紀1,「[皇慶元年二月]己卯……八百媳婦来献馴象二」</ref>、これがラーンナーからモンゴルに対する初めての朝貢となった{{sfn|喜田|1974|p=79}}。これを受けて、ブヤント・カアンは同年9月に「八百媳婦蛮・大・小徹里蛮への征戦をやめ、璽書でもってこれを招論する」ことを宣言した{{sfn|謝|2022|p=64}}{{sfn|黎|1955|p=38}}{{sfn|喜田|1974|p=79}}<ref>『元史』巻24仁宗本紀1,「[皇慶元年九月]戊戌、罷征八百媳婦蛮・大・小徹里蛮、以璽書招諭之。辛丑……八百媳婦・大・小徹里蛮献馴象及方物」</ref>。同年中には車里も内附しており、雲南南部~タイ北部の情勢は急速に安定に向かいつつあった{{sfn|謝|2022|p=65}}。 皇慶2年([[1312年]])、雲南行省が「胡知事」という人物を使者としてラーンナーに派遣し、これを受けてラーンナー側は乃愛らを大元ウルスに派遣した{{sfn|謝|2022|p=64}}。大元ウルス側はこれを「八百媳婦の出降」と見なし(後述するようにこれは誤解であった)、そこで重ねて難甸ダルガチのファフルッディーン(法忽剌丁)を派遣して八百媳婦の支配する乃愛・乃温・官哀・官吾・恰尼・哀当・吾化児・阿吾・阿散・阿哀といった諸地域を招論しようとした{{sfn|謝|2022|p=64}}。そして、[[延祐]]元年([[1314年]])正月にラーンナーに到着したファフルッディーンとラーンナー王との間で交わされた交渉を、『招捕総録」は以下のように伝えている。 {{Quotation|延祐元年(1314年)正月、使者らが木肯に至ると、現地の酋長'''渾乞溢(クン・カーム/Khun Khram)'''とその妻南貢弄は配下の乃愛らを派遣した。乃愛らは柵を立てて使者を包囲し、来訪の理由を問うた。使者らは「聖旨を齎すのに、何を説明することがあるというのか」と述べ、敢えて聖旨の内容は述べずに渾乞溢の回答を待つことにしたため、乃要は渾乞溢の下に帰還して報告を行った。これに対し、南貢弄は「使臣は何故我らに告げるべきことを説明しないのか。 使者は我らの城塞に至った所で留めて帰らせよ」と述べたが、 ファフルッディーンはこれに従えないと回答したという。<br> 2月13日に渾乞溢の息'''子南通(ナムトゥアム/Nam Thuan)'''が来見し、これに対して使者らは「[雲南]行省は先に汝らを招くために胡知事らを派遣した。汝らはそこで乃愛らを派遣して出降した。そのため聖旨により我らが派遣され汝ら父子を招いたのだ」と述べた。これに対し南通は「我らは降ったつもりはない。 胡知事は朝廷(モンゴル帝国)は地は広く軍は多いと説いたが故に、我らは家中の者を遣わして胡知事とともに見聞させたに過ぎない」と回答した。翌日、南通は乃要を派遣して「胡知事が来た時、我らに衣服と鞍馬を与えてくれた。今汝らも所有する馬を尽く献上せよ」と伝えさせた。<br> 3月17日、ファフルッディーンらは国王の拠る「合二寨(恐らくチェンラーイを指す){{efn|黎道綱は『招捕総録』とラーンナー側の史料の比較により、渾乞溢(クン・カーム)の拠る「合二寨」はチェンラーイを指すだろうと推定した。その上で、タイ人はR音をH音で発音することがあることから、「合二(HAI)」はチェンラーイの「RAI」の部分を誤って聞き取ったものであろう、と述べる{{sfn|黎|1995|p=39}}。}}」に至り、クン・カーム王に謁見して詔を宜した。翌日、渾乞濫王は使者に息子の南通を護送し国境地帯を視察させるよう命じ、ファフルッディーンらは当初これを拒否しようとしたが、渾乞濫王が「もしこのまま土地を見させなければ、帰国した後に復命することは何もないだろう」と脅したためやむなく承諾した。しかしファフルッディーンらと南通らが孟范に至った所で'''比要([[パヤオ王国]]/Phayao)'''が南通の叔父である'''力乞倫(クン・クア/Khun khura)'''が組んで攻撃を仕掛けたとの報が届いたため、南通はファフルッディーンらに自らを助けるよう要求した。そこで大元ウルスの使者たちはナムトゥアムとともに木丙山まで至ったところで敵軍を撃退し、パヤオは大元ウルスの使者が来ていることを知ると遂に退散した。ナムトゥアム一行が孟范に至った所で使者達は帰国することを望んだが、ナムトゥアムは「今や天は熱く水は漲ろうとしている。秋に涼しくなってから帰るとよい」と述べて使者たちを引き留めた。<br> 8月に至ってようやく使者達は帰ることを許された。9月8日にクン・カームの下まで至ると、クン・カームは手ずから「白夷」と書いた奏章を使者たちに渡し、また大元ウルス朝廷に献上する象2頭を委ね、また配下の渾乞漏・渾八剌我・董賽・愛章闌の者達にも使者に随行するよう命じた。……|佚名|『招捕総録』八百媳婦条<ref>『招捕総録』八百媳婦条,「皇慶二年、雲南省命■〈礙,角代石〉難甸達魯花赤法忽剌丁等、領元招出八百媳婦部曲、乃愛・乃温・官哀・官吾・恰尼・哀当・吾化児・阿吾・阿散・阿哀等往其地。延佑元年正月、至其境木肯寨、其蛮酋渾乞濫・妻南貢弄使火頭乃要弄来迎、詔至寨、立柵、囲使者、問来故、答之、又曰『齎来聖旨、有何説』。使者言、未開読、不敢言、俟見渾乞濫言之、乃要還報。既又来、致南貢弄之言曰『使臣有何説可告我、前此使者止至我寨即回』。法忽剌丁等不可。二月十三曰、渾乞濫子南通来見、使者言『行省先遣胡知事招爾等、爾等遣乃愛等出降、故聖旨令遣我輩来招爾父子』。南通曰『我等非降也、胡知事言爾朝廷地闊軍多、故使家中一二人、従胡知事往観之耳』。明曰、南通遣乃要来言『胡知事来時、与我衣服鞍馬、今爾等所有馬可尽牽来』。言訖、一時牽去。明曰、又来取去衣服。既而、渾乞濫遣南忿来曰『可令使臣来見我』。三月十七曰、法忽剌丁等至合二寨、与渾乞濫相見、宣詔。明曰、渾乞濫令使者送其子南通、往孟范甸把辺可就観我地境。使者不従曰『若不観我地土、帰朝何以復命』。使者従之。至孟范、別有生蛮比要与南通叔父力乞倫来侵、南通言使者『不可不助我』。使者従南通、至木丙山拒敵、比要聞有詔使、遂退還。至孟范、使者欲返、南通曰『天熱水漲、秋涼令爾回』。八月終始得出。九月四曰至渾乞濫寨、渾乞濫手書『白夷』字奏章、献二象、令其部曲渾乞漏・渾八剌我・董賽・愛章闌等、隨使者赴闕」</ref>}} 以上の『招捕総録』の記述と連動する記録がラーンナー側にもあり、『チェンマイ年代記』等によるとマンラーイ王の死後に即位したクン・カーム(チャイソンカーム)王は長子のセーンプーにチェンマイを治めさせ、自らはチェンラーイを拠点としていたとされる{{sfn|飯島|2001|p=267}}{{sfn|飯島|2020|p=106}}{{sfn|黎|1995|p=38-39}}。しかし、セーンプーがチェンマイに入ってから1年後にムンナーイの領主であるクン・カームの弟クン・クアが挙兵し、セーンプーからチェンマイを奪って王位に就いた{{sfn|飯島|2001|p=267-268}}{{sfn|飯島|2020|p=106}}{{sfn|黎|1995|p=39}}。これを受けてクン・カームはセーンプーの弟ナムトゥアムにチェンマイの奪還を命じ、これに成功したナムトゥアムは事前の約束通り王位に就いた{{sfn|飯島|2001|p=268}}。しかし、それから2年目にナムトゥアムの不忠が発覚したため、ナムトゥアムはチャイントン(ケントゥン)に移されてセーンプーが再度チェンマイで王位に就いたという{{sfn|飯島|2001|p=268}}。モンゴル側とラーンナー側の史料の記述を総合すると、1311年に入ってマンラーイ王が死去した後にラーンナー国内ではクン・カーム(渾乞溢)とその弟クン・クア(力乞倫)の間で王位を巡る内紛が勃発したが、モンゴルの助力を得たナムトゥアム(南通)によってクン・クア(力乞倫)は敗れた。武功によってナムトゥアムは一時的に王位を得るも、後に失脚してケントゥンに移されたが、それまでの経緯からラーンナーを代表してモンゴルへの朝貢を主導するようになったのだと考えられる{{sfn|謝|2022|p=66}}。『招捕総録』の記述と連動するように、延祐2年([[1315年]])には八百媳婦から使者が派遣され、馴象2頭が献上された記録が残されている<ref>『元史』巻25仁宗本紀2,「[延祐二年冬十月]癸卯、八百媳婦蛮遣使献馴象二、賜以幣帛」</ref>。 しかしこうして始まったモンゴルとの国交は延祐3年([[1316年]])に車里で叛乱が起こったことで一時絶たれてしまった。『招捕総録』によると、延祐3年(1316年)に車里の兀竹魯は阿尼必礙寨の阿白出麻を攻撃して焼き払い、また罕旺とその弟の胡念・愛俄らは銀沙羅甸兀里鹽井部曰女具落索を攻撃してその財物を略奪した。この時も大元ウルス朝廷は使者を派遣して降伏を促した所、白衣の阿愛は偽って己の子を差し出し、引き続き略奪を続けた。その後、愛俄が死ぬと、その一族の罕塞昭愛刺構木力夢兀仲ら5人が後継者の地位を巡って内乱を起こし、火頭郭力を派遣した所、象牙等を齎して投降したという<ref>『招捕総録』車里条,「延佑三年、車里兀竹魯、侵阿尼必礙寨阿白出麻燒劫。又罕旺及其弟胡念・弟愛俄等、侵銀沙羅甸兀里鹽井部曰女具落索等甸劫民財、嚇取官所征差発、遣使招降、遣白衣阿愛詐為己子出官、劫掠如故。既而、愛俄死、其兄弟子姪、罕塞昭愛刺構木力夢兀仲等五人、分党争愛俄位、相殺久之、遣火頭郭力看、齎象牙一・金信答一来降」</ref>。このように、[[1310年代]]後半から起こった車里の内乱は約10年に渡ってモンゴル・ラーンナー間の交渉を滞らせたが、この間にラーンナー側の史料によると1327年(ビルマ暦689年)にクン・カーム王が死去しその息子セーンプー王への代替わりが行われていた。これによってモンゴル・ラーンナーの関係は1320年代末から新たな段階に入ることとなる{{sfn|謝|2022|p=66}}。 === 宣慰司都元帥府の設置 === [[File:Topography of northern Thailand.png|400px|thumb|right|モンゴル軍の侵攻した、[[タイ北部]]の地形図。この頃のラーンナーは、東北のチェンラーイ(Chiang Rai)と、西南のチェンマイ(Chiang Mai)という二つの地区に分けられていたと見られる。]] [[泰定 (元)|泰定]]2年([[1325年]])、10年近くに渡って内乱を続けてきた大・小車里が再度内附し、7月には車里総官府が設置された{{sfn|喜田|1974|p=79}}。これによって交通が確保されたためか、翌泰定3年([[1326年]])5・7月にはナムトゥアム(招南道/Cao nam Thuan)がその息子招三らを派遣して訓象・方物を献上し<ref>『元史』巻30泰定帝本紀2,「[泰定三年五月]甲寅、八百媳婦蛮招南道遣其子招三聴奉方物来朝」</ref><ref>『元史』巻30泰定帝本紀2,「[泰定三年秋七月]己未……八百媳婦蛮招南通遣使来献馴象方物」</ref>、ここにラーンナーからモンゴルへの朝貢は復活した{{sfn|謝|2022|p=66}}{{sfn|喜田|1974|p=79}}{{sfn|唐|2017|p=18}}。泰定4年([[1327年]])1月には八百媳婦のナムトゥアム(南通)が再び朝貢を行い<ref>『元史』巻30泰定帝本紀2,「[泰定四年春正月]庚寅、八百媳婦蛮酋招南通来献方物」</ref>、これを受けて7月には再びモンゴルの側からラーンナーに使者を派遣し<ref>『元史』巻30泰定帝本紀2,「[泰定四年秋七月]戊午、謀粘路土官賽丘羅招諭八百媳婦蛮招三斤来降、銀沙羅土官散怯遮殺賽丘羅、敕雲南王遣人諭之」</ref>、そして大元ウルス朝廷は同年閏9月に[[蒙慶宣慰司都元帥]]・木安府(kengthun 東部の Mong Ngom)・孟傑府(kengthun 南部の Mong Khok)を設置し、同知烏撒を宣慰司事に、ナムトゥアムを宣慰司都元帥に、その子招三斤を知木安府に、甥の混盆を知孟傑府に、それぞれ任命した{{sfn|謝|2022|p=67}}{{sfn|喜田|1974|p=79}}<ref>『元史』巻30泰定帝本紀2,「[泰定四年]閏月甲午、八百媳婦蛮請官守、置蒙慶宣慰司都元帥府及木安・孟傑二府于其地、以同知烏撒宣慰司事你出公・土官招南通並為宣慰司都元帥、招諭人米徳為同知宣慰司事副元帥、南通之子招三斤知木安府、姪混盆知孟傑府、仍賜鈔・幣各有差」</ref>。この時大元ウルスに使者を派遣した「招南道」はラーンナー史料に見える「ナムトゥアム」に他ならず、「蒙慶」はナムトゥアムが領地とするケントゥンの古称「Mueng khuen」の音写で、木安府・孟傑府もケントゥン周辺の地名と見られる{{sfn|黎|1995|p=40}}{{efn|ただし、唐立は木安府は現在の[[チエンコーン郡]](chiang khong)、孟傑府は現在のFaangのMoeng caesakと解釈する説を挙げている{{sfn|唐|2017|p=18}}。}}。 [[致和]]元年([[1328年]])は大元ウルスで[[天暦の内乱]]が勃発した時期であるが、八百媳婦は同年中の5月<ref>『元史』巻30泰定帝本紀2,「[致和元年五月]己巳、八百媳婦蛮遣子哀招献馴象」</ref>と11月<ref>『元史』巻32文宗本紀1,「[致和元年十一月]癸酉、八百媳婦国使者昭哀、雲南威楚路土官胒放等、九十九寨土官必也姑等、各以方物来貢」</ref>の2度に渡って「哀牢」なる人物を使者として派遣している{{sfn|謝|2022|p=67}}。しかし、1328年に派遣された「哀牢」はそれまでの記録に見られない名前であり、黎道綱は1327年にラーンナー王の代替わりが起こっていることを踏まえ、1328年以降に使者を派遣したのは既にナムトゥアムではなく新王のセーンプーではないかと推測している{{sfn|黎|1995|p=40}}。[[天暦 (元)|天暦]]2年([[1329年]])2月にも八百媳婦は周辺諸族とともに朝貢を行っているが<ref>『元史』巻33文宗本紀2,「[天曆二年二月]辛丑……雲南行省蒙通蒙算甸土官阿三木、開南土官哀放、八百媳婦・金歯・九十九洞・銀沙羅甸、咸来貢方物」</ref>、同年末には天暦の内乱に連動した[[ダシュマン (カルルク部)#次男ヒンドゥ|バイクの乱]]が雲南で勃発しており、一時期両国の折衝は絶たれた{{sfn|謝|2022|p=67}}。 「天暦の内乱」終結からしばらく経った[[至順]]2年([[1331年]])6月20日、「[[八百等処宣慰司都元帥府]]」がラーンナーに設置され、土官の昭練(セーンプー)が「宣慰使都元帥」に任命された{{sfn|謝|2022|p=67}}{{sfn|飯島|2020|p=142}}<ref>『元史』巻35文宗本紀4,「[至順二年五月]己丑、置八百等処宣慰司都元帥府、以土官昭練為宣慰使都元帥。又置臨安元江等処宣慰司兼管軍万戸府。孟定路・孟肙路並為軍民総管府、秩従三品。者線・蒙慶甸・銀沙羅等甸並為軍民府、秩従四品。孟併・孟広・者樣等甸並設軍民長官司、秩従五品」</ref>。またこれと連動して臨安元江等処宣慰司兼管軍万戸府、孟定路と孟肙路には軍民総管府(従三品)、者線・蒙慶甸・銀沙羅等甸には軍民府(従四品)、孟併・孟広・者樣等甸には軍民長官司(従五品)が、それぞれラーンナーの領域内に設置されている{{sfn|謝|2022|p=67}}。なお、同年8月には麓川(現在の[[徳宏タイ族チンポー族自治州]]一帯)に<ref>『元史』巻34文宗本紀3,「[至順元年八月]癸巳……置麓川路軍民總管府」</ref>、[[至元 (元順帝)|後至元]]4年([[1338年]])には老告(現在の[[ラオス]])に<ref>『元史』巻39順帝本紀2,「[至元四年八月]甲申、雲南老告土官八那遣姪那賽賫象馬来朝、為立老告軍民総管府」</ref>、それぞれ軍民総管府が設置されており、1330年代にはラーンナーのみならずエーヤワディー川からメコン川に至るタイ族諸政権にモンゴルの影響力が浸透していたようである{{sfn|唐|2017|p=19}}。 === 元明交替とラーンナー王国 === また、[[至正]]元年([[1341年]])12月には車里の寒賽刀らが叛乱を起こし、これによって再び大元ウルスと八百媳婦を繋ぐ道は一時的に閉ざされた{{sfn|謝|2022|p=68}}<ref>『元史』巻40順帝本紀3,「[至正元年十二月]壬戌、雲南車里寒賽刀等反、詔雲南行省平章政事脱脱木児討平之」</ref>。そのためか至正2年([[1342年]])4月には蒙慶宜慰司が廃止されたが、至正6年([[1346年]])12月1日には「八百等処宣慰司都元帥府」が再設置され、土官の韓部(パーユー/phayu)が「父の爵位を承襲した」とされる{{sfn|謝|2022|p=67}}{{sfn|飯島|2020|p=142}}<ref>『元史』巻41順帝本紀4,「[至正六年十二月]甲午……復立八百宣慰司、以土官韓部襲其父爵」</ref>。この時の宣慰司都元帥府再設置については{{仮リンク|ムアン・マオ|zh|孟卯}}(Möng Mao/麓川)の情勢が関係していたと考えられ、『雲南機務抄黄』によると、おおよそ至正3年([[1343年]])頃に麓川が[[瀾滄江]]沿岸の遠干府・威遠府を占領するという事件があったという{{sfn|謝|2022|p=68}}。八百媳婦や車里もまた麓川の侵攻の対象となっていたがために、韓部(=パーユー)は大元ウルスの後ろ盾を得る必要が生じ、「八百等処宣慰司都元帥府」が再設置されるに至ったと見られる{{sfn|謝|2022|p=68}}。 しかし至正10年代頃から大元ウルスでは[[紅巾の乱]]が勃発し、支配力を低下させた大元ウルスとラーンナーの通行関係は途切れた{{sfn|謝|2022|p=68}}。紅巾の乱の首領の一人から成りあがった[[朱元璋]]は1368年(至正28年/[[洪武]]元年)初頭に明朝を建国し、同年8月に大都を陥落させたため、中国史上ではこれを以て「元朝の滅亡」とする。しかし、実際には1368年以降も各地でモンゴル系の勢力が健在であり、明朝が梁王[[バツァラワルミ]]の支配する雲南を征服したのは洪武14年([[1381年]])末のことであった{{sfn|謝|2022|p=68}}。翌洪武15年([[1382年]])3月、明朝によって[[雲南布政司]]とこれに属する52府・63州・54県が設置されたが、その中にラーンナーに属する孟傑・木按・孟絹・蒙慶といった地名が見られる{{sfn|謝|2022|p=68}}<ref>『太祖実録』巻143洪武十五年三月己未(十日)条,「更置雲南布政司所属府州県。為府五十有二大理・永昌・姚安・楚雄・武定・臨安・騰衝・普安・仁徳・澂江・広西・元江・和泥・柔遠・芒施・鎮康・南甸・麓川・鎮西・平緬・麗江・北勝・曲靖・烏撒・芒部・烏蒙・東川・建昌・徳昌・会川・栢興・普定・雲遠・徹里・'''孟傑'''・'''木按'''・蒙憐・蒙萊・木孕・孟愛・通西・木来・木連・木邦・孟定・謀粘・蒙光・孟隆・'''孟絹'''・太公・'''蒙慶'''・木蘭。州六十有三……」</ref>。そして洪武21年([[1388年]])8月には初めて八百媳婦国が明朝に対して朝貢を行い<ref>『太祖実録』巻193洪武二十一年八月丙辰(十五日)条,「八百媳婦国遣人入貢方物」</ref>、これより八百媳婦=ラーンナーと明朝の外交が始まることとなる。 === 影響 === モンゴルのラーンナー侵攻がもたらした影響として、まず最初に挙げられるのは、この遠征を通じてモンゴルの支配体制が雲南南部地区まで浸透したことである{{sfn|謝|2022|p=70}}。『元史』地理志が述べるように、雲南南部地区は大理国時代から諸民族が半ば自立する状態にあり、モンゴルが大理国を滅ぼした後も状況は変わらなかった{{sfn|謝|2022|p=70}}。ラーンナー遠征は惨憺たる結果に終わり、重い軍事負担が雲南内部での叛乱を引き起こしもしたが、長期的な視点で見れば後方基地となった雲南南部地区での支配体制の確立をもたらしたと評されている{{sfn|謝|2022|p=70}}。 また、この遠征がもたらしたもう一つの影響として、メコン川を通じた中国大陸と東南アジア諸国との交流が活発化したことが挙げられる{{sfn|謝|2022|p=70}}。ラーンナーはメコン川の中流域に位置してメコン川交易の要衝に当たり、雲南方面から東南アジア諸国に入る玄関口という側面を有していた{{sfn|謝|2022|p=70}}。ラーンナー遠征は中国-雲南-ラーンナー-東南アジア諸国という交易ルートを活発化させたと考えられ、1338年に八百が設置された7年後に現在のラオスに位置すると見られる「老告」に軍民総管府が設置されたことは、その最たる例と言える{{sfn|謝|2022|p=70}}。 中国人研究者の謝信業はモンゴルのラーンナー侵攻を総括して、モンゴルの対ラーンナー政策は「征討(征服・討伐)」「招討(招論・討伐)」「招撫(招諭・安撫)」の3段階に分けられると指摘した{{sfn|謝|2022|p=69}}。クビライは「海内海外諸国を臣属させる」という目的の下、他の東南アジア諸国同様にラーンナーにも遠征軍を派遣し、このようにラーンナーを征討対象と見る傾向はオルジェイトゥ・カアンの治世まで引き継がれた{{sfn|謝|2022|p=69}}。しかし、オルジェイトゥ・カアンの時代にラーンナーへの遠征軍が大敗を喫するとモンゴルは軍事的にラーンナーを征服する意欲を失った{{sfn|謝|2022|p=69}}。一方で1330年代に入るとラーンナー内部で内乱が生じ、ラーンナーの王族たちは自らの立場を有利とするためにモンゴルとの交流を求め、モンゴル側は要求に応えて援軍を派遣すると同時に官位を授けた{{sfn|謝|2022|p=69}}。両国の関係はセーンプー王の時代にラーンナーの内紛が収まり、大元ウルスが「八百等処宣慰司都元帥府」を設置したことで安定化した{{sfn|謝|2022|p=69}}。 == ラーンナー側の伝承 == [[Image:3 kings monument.JPG|thumb|200px|マンラーイ(中央)、ガムムアン(左)、ラームカムヘーン(右)による「三王の同盟」を描いた銅像]] ジョルジュ・セデスは[[パーリ語]]史書『ジナカーラマーリー(Jinakālamāli)』などに「1287年にチェンラーイの王マンラーイ、パヤオの王ガムムアン、スコータイの王ラームカムヘーンという三つのタイ人国家の首長が同盟を結んだ」という記述があることを紹介し、また「1287年」がモンゴル軍が[[パガンの戦い|パガンを占領した]]年であることからこれをモンゴル軍の脅威に対抗するための同盟であると論じた{{sfn|飯島|2001|p=259}}{{sfn|飯島|2020|p=90}}。セデスが提唱したこの学説は東南アジア史の通説として定着し、[[チエンマイ県]]旧庁舎前にはこの「三王の同盟」を描いた銅像が築かれるに至っている{{sfn|飯島|1998|p=105-106}}。 しかし、日本人研究者の飯島明子はそもそも『ジナカーラマーリー』は16世紀前半に成立した史書であって史料的価値は低く、また原テキストには「朋友たる三王、Mamrāya,Purachādana,Rocarāja」としかなくこれを「マンラーイ・ガムムアン・ラームカムヘーン」と読むのはセデスの解釈に過ぎない、と指摘した{{sfn|飯島|2001|p=261}}{{sfn|飯島|2020|p=91}}。また、セデスは1581年に製作されたとみられる「チェンマン寺刻文」に「1298年のチエンマイ建設にパニャー・マンラーイ・チャオとパニャー・ガムムアン、パニャー・ルアンの三人が参画した」旨の記述があることも「三王の同盟」の傍証であると論じているが、これは『ジナカーラマーリー』よりも更に成立が遅く、やはり13世紀末の歴史を知る上での良好な史料とは言いがたい{{sfn|飯島|2001|p=261}}{{sfn|飯島|2020|p=91}}。 更に、『ジナカーラマーリー』よりも成立が古い『ムーラサーサナー』には「チエンマイ建設に三王が協力した」旨の記述がないことも、三王にまつわる伝承が後世になって成立したことを裏付ける{{sfn|飯島|2020|p=92}}。結局の所、「マンラーイ・ガムムアン・ラームカムヘーンら三王の同盟」は史実とは認めがたく、「16世紀当時に『三王の同盟』にまつわる伝承が存在した」という以上のことはいえないのが現状である{{sfn|飯島|2001|p=261}}{{sfn|飯島|2020|p=91}}。 なお、チエンマイとパヤオには「クン・チュアン」という共通の英雄的祖先にまつわる伝承があり、年代記上でも「父祖の代(cen pu)よりの朋友関係」「同一の家(huean diaw)」といった表現がなされる{{sfn|飯島|2001|p=263}}{{sfn|飯島|2020|p=92}}。このような同族意識はチエンマイとパヤオに留まるものではなく、ベトナム北部に比定されるケーオ・プラカンの王がマンラーイに対して「ともにチュアンの血を引く両者は同じ一族である」と述べたという伝承や、[[シップソーンパンナー]]の初代王が「チュアン」に通ずる「パヤー・チュン」と呼ばれていたことなどが知られている{{sfn|飯島|2001|p=263}}{{sfn|飯島|2020|p=92}}。このように、チエンマイとパヤオを初めとして北方のタイ系諸勢力には同族意識があり、このような意識が「三王の同盟」伝承の背景にあったと推測される{{sfn|飯島|2001|p=264}}{{sfn|飯島|2020|p=93}}。 また、セデスがラームカムヘーンに比定した「パニャー・ルアン」も特定の歴史上の人物というよりは神話・伝説上の人物と見るべきで、「チュアン」と同様に13世紀を遡る時代に起源を有する集合的シンボルと見なすべきであると考えられている{{sfn|飯島|2001|p=263-264}}{{sfn|飯島|2020|p=93}}。 == モンゴルとタイ湾諸勢力との関係 == [[Image:Map-of-southeast-asia 1300 CE.png|thumb|300px|1300年前後の東南アジア諸国。紫色のラーンナー(八百媳婦)、橙色のスコータイ(速孤底)、灰色のパヤオ(比要)、水色のロッブリー(羅斛)がタイ系民族による国家であった。]] === 13世紀におけるタイ湾諸勢力の独立 === 上述したようにモンゴル軍の現タイ王国の領域への軍事侵攻は[[タイ北部]]に留まったが、一方で[[タイ中部]]・[[タイ南部]]のタイ湾に面する諸勢力とは海上交易路を通じて交渉があった。13世紀頃の漢文史料上に現れるタイ湾に面する諸勢力としては、「必察不里(ペッチャブリー)」「真里富(スパンブリー)」「蘇門傍(スパンブリー)」「羅斛(ロッブリー)」「暹(シャム)」などが知られている{{sfn|石井|2020|p=152}}。この中で最も重要なのが「暹」で、 かつてはこれをスコータイ朝と見なしてきたが、現在では後のアユタヤ朝に連なる勢力と見なすのが主流である{{sfn|石井|2020|p=155-156}}{{sfn|石井|2001|p=235}}。『宋史』陳宜中伝によると、陳宜中は南宋復興のため占城にまで至るも、至元19年(1282年)にモンゴル軍が占城まで侵攻してきたために「暹」まで更に逃れ、その地で客死したとされる<ref>『宋史』巻418列伝177陳宜中伝,「陳宜中、字与権、永嘉人也。……井澳之敗、宜中欲奉王走占城、乃先如占城諭意、度事不可為、遂不反。二王累使召之、終不至。至元十九年、大軍伐占城、宜中走暹、後没於暹」</ref>{{sfn|深見|2013|p=74}}{{sfn|石井|2020|p=156}}{{sfn|石井|2001|p=234}}。これは「暹」に関する記録の中でも最初期のものであるが、この記述から1280年代には中国大陸~チャンパー~暹を繋ぐ海洋交易路が確立していたこと、暹には既に華人移住者が存在していたことが読み取れる{{sfn|石井|2020|p=156}}。また一方で、モンゴル側にも同年に暹国に何子志という使者を派遣したが占城国に拘束されてしまったとの記録があり<ref>『元史』巻12世祖本紀9,「[至元十九年六月]己亥、命何子志為管軍万戸、使暹国」</ref><ref>『元史』巻210列伝97外夷3占城伝,「[至元]十九年……既而其子補的專国、負固弗服、万戸何子志・千戸皇甫傑使暹国、宣慰使尤永賢・亞闌等使馬八児国、舟経占城、皆被執、故遣兵征之」</ref>、この時既に「暹」の存在を認識して外交接触を始めていたことが分かる{{sfn|深見|2013|p=73-74}}。 この頃のタイ湾情勢を窺える貴重な史料が『大徳南海志』(1304年成立)で、当時の東南アジア諸国を以下のように記している{{sfn|深見|2013|p=75}}。 {{Quotation|真臘国は真里富·登流眉·蒲甘·茸里を管する。 羅斛(ロッブリー)国。 <br>暹(シャム)国は上水(ナコーンサワン)・速孤底(スコータイ)を管する。 <br>単馬令(ターンブラリンガ)国は小西洋日囉亭・達刺希・崧古囉・凌牙蘇家・沙里・仏囉官・吉蘭丹・晏頭・丁伽蘆・迫嘉・朋亨・口蘭丹を管する。 ※ただし真里高は羅斛よりも更に西方に位置し、真臘国がこの頃真里高を管轄していたというのは古い情報に基づく誤った情報であると考えられる{{sfn|深見|2013|p=76}}|陳大震|『大徳南海志』}} これを宋代に編纂された『諸番志』(1225年成立)の記述と比較すると、真臘国の属国であった羅斛国、三仏斉の属国であった単国がそれぞれ強国に成長し、この2つの大国に挟まれる位置に「暹国」という新興国が登場したことが読み取れる{{sfn|深見|2013|p=76}}{{sfn|石井|2020|p=153}}。一方、アンコール朝の[[ジャヤヴァルマン7世]]が建造したクメール寺院がマレー半島の付け根辺りに現存しており、13世紀初頭まではタイ湾北部一帯がアンコール朝の支配下にあったこと、13世紀半ば以後からタイ系諸勢力が自立を始めたことが確認される{{sfn|深見|2013|p=73}}。 === 13世紀後半のモンゴル-タイ湾諸勢力関係 === 『元史』には羅斛国がタイ湾諸国の中でいち早く至元26年(1289年)・至元28年(1291年)に朝貢を行ったことが記録されており、この頃既にアンコール朝から独立していたことを裏付ける{{sfn|深見|2013|p=77}}。これに遅れて至元29年(1292年)110月に初めての派遣した朝貢使が広州に到着し、これを受けてモンゴル朝廷は至元30年(1293年)4月に逼国に対して招論使を派遣した{{sfn|深見|2013|p=77}}。そして、至元31年(1294年)6月にはペッチャブリー国のカムラテンが使者を派遣したのに対して、モンゴル側は同年7月に「暹国主、カムラテンに来朝するよう招論した」との記録があり、これによってこの時期の「暹」はペッチャブリーに位置していたことが確認される{{sfn|深見|2013|p=78}}。なお、『元史』暹伝の冒頭には「元貞元年(1295年)に国が派遣した使者がモンゴル側からの使者と入れ違いになって到着した」旨の記述があるが<ref>『元史』巻210列伝97外夷3暹伝,「暹国、当成宗元貞元年、進金字表、欲朝廷遣使至其国。比其表至、已先遣使、蓋彼未之知也。賜来使素金符佩之、使急追詔使同往。以暹人与麻里予児旧相讎殺、至是皆帰順、有旨諭暹人『勿傷麻里予児、以踐爾言』。大徳三年、暹国主上言、其父在位時、朝廷嘗賜鞍轡・白馬及金縷衣、乞循旧例以賜。帝以丞相完沢答剌罕言『彼小国而賜以馬、恐其鄰忻都輩譏議朝廷』、仍賜金縷衣、不賜以馬」</ref>、この入れ違いになったモンゴル側の使者とはまさしく1294年7月に派遣された使者のことと考えられる{{sfn|深見|2013|p=78}}。 更に『元史』暹伝は続けて、モンゴル朝廷に至った国からの朝貢使は急ぎ帰国させられ、「人は古くからマレーと敵対していたが、今では皆元に服属したのであるから、マレーを攻撃してはならない」との命を本国に持ち帰ったと記述する{{sfn|深見|2013|p=79}}{{sfn|石井|2001|p=233}}。この記述から、新興国である暹国は南下してマレー半島まで進出し、マレー人と敵対関係にあったようである{{sfn|深見|2013|p=79}}{{sfn|石井|2020|p=156}}。なお、1293年にモンゴル海軍がジャワ島へ侵攻する途上でマレーに対しても使者が派遣しており、この招論に応じたマレーが派遣した使者が1294年に到着したとの記録がある{{sfn|深見|2013|p=79}}。モンゴルが暹国=ペッチャブリーに対してマレーへの侵攻をやめるよう要求したのは、まさにこの時マレーがモンゴルに使者を派遣すると同時に国の侵攻に歯止めをかけるよう求めたためと考えられる{{sfn|深見|2013|p=79}}。 === 14世紀前半のモンゴル-タイ湾諸勢力関係 === クビライが亡くなりオルジェイトゥ・カアンが即位して以後も暹国を始め東南アジア諸国から相次いで使者が派遣されたが、とりわけ大徳3年(1299年)には多くの国から使者が訪れた。この年、暹国=ペッチャブリーの「世子」も使者を派遣して「父が与えられたを同様に[[タイの歴史|賜りたい]]」と申し出ており、この頃カムラテンが亡くなってその息子が跡を継いだようである{{sfn|深見|2013|p=84}}。しかしモンゴル側は丞相のハルガスンが「馬を下賜することで近隣への侵攻に用いられることを恐れる」と進言したことによって国の要求を拒絶しており、これもまた同年に使者を派遣しているマレーの働きかけによるものであったと考えられる{{sfn|深見|2013|p=84}}。しかしマレーはこの1299年と1301年を除いてモンゴルに朝貢した記録がなく、モンゴルに対しての外交交渉は卓越していたが、全体としては暹国に劣勢であったようである{{sfn|深見|2013|p=84}}。 ところが、暹国からの朝貢は[[至治 (元)|至治]]3年([[1323年]])を最後に途切れ、代わって[[ジャワ]]からの来貢が盛んとなり、1320年代から1330年代にかけてマジャパヒト王国が東南アジアの海上交易の覇権を握ったようである{{sfn|深見|2013|p=84}}。汪大淵の『[[島夷志略]]』(1349年成立)にはこれを裏付ける記述があり、「近年(1340年代頃か)」に暹国は70余りの船でシンガポールに侵攻したが、ジャワの使節が近づいているのを聞くとすぐに逃げ出してしまったという{{sfn|深見|2013|p=85}}{{sfn|石井|2020|p=156}}。そして、同じく『島夷志略』によると、至正己丑(1349)夏5月に暹国は羅斛国に降伏したとされる{{sfn|深見|2013|p=85}}{{sfn|石井|2020|p=157}}{{sfn|石井|2001|p=237}}。これに対応するように、タイ語の諸史料では1351年にスパンブリーとロッブリーが統合することで「アユタヤーの基礎が置かれた」とされる{{sfn|深見|2013|p=86}}{{sfn|石井|2020|p=158}}<ref>『島夷誌略』暹条,「白新門台入港、外山崎嶇、内嶺深邃。土瘠、不宜耕種、穀米歲仰羅斛。気候不正。俗尚侵掠。每他国乱、輒駕百十艘以沙糊満載、舍生而往、務在必取。近年以七十餘艘来侵單馬錫、攻打城池、一月不下。本処閉関而守、不敢与争。遇爪哇使臣経過、暹人聞之乃遁、遂掠昔里而帰。至正己丑夏五月、降於羅斛。凡人死、則灌水銀以養其身。男女衣著与羅斛同。仍以𧴩子権銭使用。地産蘇木・花錫・大風子・象牙・翠羽。貿易之貨、用硝珠・水銀・靑布・銅鐵之属」</ref>。すなわち、何らかの理由で拠点をペッチャブリーからスパンブリーに移していた暹国は1349年に羅斛国に征服され、暹国を併合した羅斛国によって改めて1351年に暹羅斛=アユタヤ朝が建国されたこととなる{{sfn|深見|2013|p=86}}。 以上みてきたモンゴルと[[タイランド湾|タイ湾諸勢]]力との関係をまとめると以下のようになる。タイ湾沿岸部は13世紀初頭までアンコール朝の間接支配下にあったが、13世紀半ばよりペッチャブリー・スパンブリー・ロッブリーといったタイ系諸勢力が一斉に成立した。その内最も勢いがあったのが「暹国」で、マレー半島にまで南下してマレー人を脅かしたが、マレー人は13世紀末に東南アジアに進出しつつあったモンゴル軍の勢威を利用して暹国に対抗しようとした。一方、これと並行して暹国もモンゴルに使者を派遣しており、この時の支配者が「ペッチャブリーのカムラテン」であったことから、この頃の暹暹はペッチャブリーに位置していたことがわかる。1300年代から1310年代にかけて暹国は積極的にモンゴルに来朝し海上交易路の覇権を握っていたようであるが、1320年代に入るとジャワ島のマジャパヒト王国がこれに取って代わり暹国とモンゴルの交流は途切れる。そして1349年に暹国(スパンブリー)が羅斛国(ロッブリー)に征服されることで新たなタイ系国家アユタヤ朝=暹羅が成立し、1368年には中国大陸でも元明交代が起こることでタイ史は新たな段階に入ることとなる。 == 漢文史料上から見るラーンナー王統 == {{familytree/start|style=font-size:80%;}} {{familytree | | | | | |MR|MR='''[[マンラーイ]]'''/Mangrai}} {{familytree | | | | | | |)|-|-|-|-|-|-|-|.|}} {{familytree | | | | | |KRM| | | | | |KHR|KRM=[[チャイソンクラーム|クン・カーム]]/Khun Khram<br>「蛮酋」渾乞溢|KHR=クン・クア/Khun Khura<br>「南通叔父」力乞倫}} {{familytree | | | | | | |)|-|-|-|-|-|-|-|.|}} {{familytree | | | | | |SPH| | | | | |NMT|SPH=セーンプー/Saen Phu<br>「八百等処宣慰使都元帥」昭練|NMT=ナムトゥアム/Nam Thuan<br>「渾乞濫子」南通}} {{familytree | | | | | | |!|}} 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杉山正明『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』講談社現代新書、講談社、2014年(初版1996年)杉山2014B * 向正樹「モンゴル・シーパワーの構造と変遷」『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会、2013年 * 渡辺佳成「モンゴルの東南アジア侵攻と『タイ人』の台頭」『モンゴル帝国と海域世界:12-14世紀』岩波書店〈岩波講座世界歴史 10〉、2023年 * C.M.ドーソン著/佐口透訳『モンゴル帝国史 3巻』平凡社、1971年 * 謝信業「元朝経略八百媳婦国政策転変及影響」『中国辺疆史地研究』第3期、2022年 * 唐立「元代八百媳婦宣慰司使是否漢族」『遵義師範学院学報』第1期、2017年 * 黎道綱「八百媳婦請屬元廷考」『東南亜南亜研究』第1期、1995年 {{モンゴル帝国の対外戦争}} {{DEFAULTSORT:もんこるのらあんなあしんこう}} [[Category:モンゴル帝国の戦闘]] [[Category:タイの歴史]] [[Category:元朝の国際関係]]
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第43回ASEAN首脳会合
第43回ASEAN首脳会合(英: 43rd ASEAN Summit)は、2023年9月5日から9月7日まで開催されたASEAN首脳会合(英語版)。この年の議長国はインドネシアで同年2回目の開催となる。開催地は同国の首都・ジャカルタ。2021年のクーデター(2021年ミャンマークーデター)により軍主体の暫定政府による統治が続くミャンマーの情勢に関する議論や、中国政府が同年8月下旬に発表した新しい国土地図に関する議論を含む南シナ海の情勢についての議論がなされたほか、日中韓の3国を交えて行う「ASEANプラス3」の会談や東アジアサミット(EAS)なども併せて行われた。なお、前月に就任したばかりのカンボジアのフン・マネット首相にとっては初の国際舞台となった。 東南アジアで問題となっている2021年にクーデター(2021年ミャンマークーデター)が起こったミャンマーの情勢、及び中国を含めた南シナ海の領土や権益に関する問題(英語版)を中心に議論が行われた。 開会前日(9月4日)には加盟国の外相による会合も開かれたが、そこでもアウンサンスーチーへの恩赦や、駐ミャンマー東ティモール臨時代理大使の国外追放処分などのミャンマー情勢に関する内容を中心に協議したとみられている。軍事政権(ミャンマー連邦共和国暫定政府)による統治がなおも続いているミャンマーは引き続き招待されず、ミャンマーが担当となるはずであった2026年の議長国は27年に議長国となる予定だったフィリピンが担当することになった。会期最終日の9月7日に現地で会見をしたアントニオ・グテーレス国連事務総長は政情不安が続く同国の情勢について、「民主化に向けた政治的な解決を希望する」と述べた。 南シナ海に関しては、首脳会談の前月に中国(中華人民共和国)が公表した「2023年版標準地図」にて係争地やASEAN加盟国を含む他国の排他的経済水域(EEZ)と重なる水域が一方的な主張に基づき中国領とされていた件を受けて、各国が抗議の意思を表明していたが、5日の会談での議長声明(翌6日公表)には地図について触れた文言は盛り込まれず、「信頼関係の構築が重要だ」と訴えて紛争回避のための「行動規範」を早期に策定することを目指すとするにとどめた。 日中韓の代表を交えて行った「ASEAN+3」には日本から岸田文雄内閣総理大臣、韓国から尹錫悦大統領、中国から李強国務院総理(首相)が参加した。日本との会談では相互の関係を「包括的戦略的パートナーシップ」に格上げする共同声明が採択された。また、中国とは南シナ海問題についての議論がなされたとの報道がある。会談中には、岸田総理と李首相の2人が福島第一原子力発電所の処理水放出や、それに対する中国の対応をめぐって応酬になった。一連の会談の一部にはアメリカ合衆国からカマラ・ハリス副大統領も参加し、7日の会談では「東シナ海と南シナ海での航行と飛行の自由は尊重されるべきで、争いは国際法に基づいて平和的に解決されなければならない」と中国を牽制しながら、ロシアのウクライナ侵攻に対する非難も行った。 会談開催時の首脳の一覧。国名下の日付は首脳の就任日を示している。 議長国(2023年)
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第43回ASEAN首脳会合は、2023年9月5日から9月7日まで開催されたASEAN首脳会合。この年の議長国はインドネシアで同年2回目の開催となる。開催地は同国の首都・ジャカルタ。2021年のクーデター(2021年ミャンマークーデター)により軍主体の暫定政府による統治が続くミャンマーの情勢に関する議論や、中国政府が同年8月下旬に発表した新しい国土地図に関する議論を含む南シナ海の情勢についての議論がなされたほか、日中韓の3国を交えて行う「ASEANプラス3」の会談や東アジアサミット(EAS)なども併せて行われた。なお、前月に就任したばかりのカンボジアのフン・マネット首相にとっては初の国際舞台となった。
{{Infobox summit meeting|summit_name=第43回ASEAN首脳会合|other_titles= |alt         =  260px|country={{IDN}}|follows=[[第42回ASEAN首脳会合]]|precedes=[[第44回ASEAN首脳会合]]|date=[[2023年]][[9月9日]] - [[9月10日]]|venues      =Pragati Maidan|cities      =  [[ニューデリー]]|website=http://www.asean.org/|motto=}}'''第43回ASEAN首脳会合'''([[英語|英]]: 43rd ASEAN Summit)は、[[2023年]][[9月5日]]から[[9月7日]]まで<ref>{{Cite web|和書|title=南シナ海、ウクライナで応酬 「平和と繁栄に大きな責任」―インドネシア大統領強調・東アジアサミット |url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023090700914&g=int |website=時事ドットコム |access-date=2023-09-09 |language=ja}}</ref>開催された{{仮リンク|ASEAN首脳会合|en|ASEAN Summit}}。この年の議長国は[[インドネシア]]<ref>{{Cite web |title=ASEAN Chairmanship |url=https://asean.org/category/chairmanship/ |website=Association of Southeast Asian Nations |access-date=2023-09-12 |archive-url=https://web.archive.org/web/20230911222547/https://asean.org/category/chairmanship/ |archive-date=2023-9-12}}</ref>で同年2回目の開催となる。開催地は同国の首都・[[ジャカルタ]]<ref name=":4">{{Cite web|和書|title=ミャンマー、中国新地図問題など協議 26年の議長国はフィリピンに―ASEAN首脳会議 |url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023090500767&g=int |website=時事ドットコム |access-date=2023-09-05 |language=ja}}</ref>。[[2021年]]の[[クーデター]]([[2021年ミャンマークーデター]])により[[ミャンマー軍|軍]]主体の[[ミャンマー連邦共和国暫定政府|暫定政府]]による統治が続く[[ミャンマー]]の情勢に関する議論や、中国政府が同年8月下旬に発表した新しい国土地図に関する議論を含む[[南シナ海]]の情勢についての議論がなされた<ref name=":4" />ほか、日中韓の3国を交えて行う「ASEANプラス3」の会談<ref>{{Cite web|和書|title=首相「中国は突出行動」 処理水巡る輸入停止批判 |url=https://www.47news.jp/9824022.html |website=47NEWS |access-date=2023-09-07 |language=ja}}</ref>や[[東アジアサミット]](EAS)<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=南シナ海、ウクライナで応酬 「平和と繁栄に大きな責任」―インドネシア大統領強調・東アジアサミット |url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023090700914&g=int |website=時事ドットコム |access-date=2023-09-09 |language=ja}}</ref>なども併せて行われた。なお、前月に就任した<ref name=":6">{{Cite web|和書|title=カンボジアでフン・マネット新政権発足 父フン・セン氏が「院政」 |url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023082200160&g=int |website=時事ドットコム |access-date=2023-08-28 |language=ja}}</ref>ばかりのカンボジアの[[フン・マネット]]首相にとっては初の国際舞台となった<ref>{{Cite web|和書|title=カンボジア新首相が外交デビュー 親中路線を踏襲―ASEAN会議 |url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023090700152&g=int |website=時事ドットコム |access-date=2023-09-08 |language=ja}}</ref>。 == 概要 == 東南アジアで問題となっている2021年に[[クーデター]]([[2021年ミャンマークーデター]])が起こったミャンマーの情勢、及び中国を含めた[[南シナ海]]の領土や権益に関する{{仮リンク|南シナ海の領土問題|en|Territorial disputes in the South China Sea|label=問題}}を中心に議論が行われた。 開会前日(9月4日)には加盟国の外相による会合も開かれたが、そこでも[[アウンサンスーチー]]への恩赦や、駐ミャンマー東ティモール臨時代理大使の国外追放処分などのミャンマー情勢に関する内容を中心に協議したとみられている<ref name=":7">{{Cite web|和書|title=ミャンマー情勢など協議 インドネシアでASEAN外相会議 |url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023090400829&g=int |website=時事ドットコム |access-date=2023-09-11 |language=ja}}</ref>。軍事政権([[ミャンマー連邦共和国暫定政府]])による統治がなおも続いているミャンマーは引き続き招待されず、ミャンマーが担当となるはずであった2026年の議長国は27年に議長国となる予定だったフィリピンが担当することになった<ref name=":4" />。会期最終日の9月7日に現地で会見をした[[アントニオ・グテーレス]]国連事務総長は政情不安が続く同国の情勢について、「民主化に向けた政治的な解決を希望する」と述べた<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=ミャンマー問題解決に期待 ASEAN新方式で国連総長 |url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023090700985&g=int |website=時事ドットコム |access-date=2023-09-09 |language=ja}}</ref>。 南シナ海に関しては、首脳会談の前月に中国(中華人民共和国)が公表した「2023年版標準地図」にて係争地やASEAN加盟国を含む他国の[[排他的経済水域]](EEZ)と重なる水域が一方的な主張に基づき中国領とされていた件を受けて、各国が抗議の意思を表明していた<ref name=":8">{{Cite web|和書|title=マレーシア、中国官製地図に抗議 南シナ海の領有権問題で |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3479298 |website=AFPBB News |date=2023-08-31 |access-date=2023-09-11 |language=ja}}</ref>が、5日の会談での議長声明(翌6日公表)には地図について触れた文言は盛り込まれず、「信頼関係の構築が重要だ」と訴えて紛争回避のための「行動規範」を早期に策定することを目指すとするにとどめた<ref name=":5">{{Cite web|和書|title=中国新地図に触れず 南シナ海問題でASEAN議長声明 |url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023090601125&g=int |website=時事ドットコム |access-date=2023-09-07 |language=ja}}</ref>。 日中韓の代表を交えて行った「ASEAN+3」には日本から[[岸田文雄]]内閣総理大臣、韓国から[[尹錫悦]]大統領、中国から[[李強 (政治家)|李強]]国務院総理(首相)が参加した<ref name=":9">{{Cite web|和書|title=日本とASEAN、協力格上げ 中国念頭、海洋連携を強化 |url=https://www.47news.jp/9824402.html |website=47NEWS |access-date=2023-09-07 |language=ja}}</ref><ref name=":10">{{Cite web|和書|title=首相「中国は突出行動」 処理水巡る輸入停止批判 |url=https://www.47news.jp/9824022.html |website=47NEWS |access-date=2023-09-07 |language=ja}}</ref>。日本との会談では相互の関係を「[[包括的戦略的パートナーシップ]]」に格上げする共同声明が採択された<ref name=":9" />。また、中国とは南シナ海問題についての議論がなされたとの報道がある<ref>{{Cite web|和書|title=ASEANと中国が首脳会議 南シナ海問題も協議 |url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023090600143&g=int |website=時事ドットコム |access-date=2023-09-07 |language=ja}}</ref>。会談中には、岸田総理と李首相の2人が[[福島第一原子力発電所]]の処理水放出や、それに対する中国の対応をめぐって応酬になった<ref name=":10" />。一連の会談の一部にはアメリカ合衆国から[[カマラ・ハリス]]副大統領も参加し<ref name=":11">{{Cite web|和書|title=大国は「新たな冷戦に反対を」 中国首相 ASEANプラス3で |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3480413 |website=AFPBB News |date=2023-09-06 |access-date=2023-09-07 |language=ja}}</ref>、7日の会談では「[[東シナ海]]と南シナ海での航行と飛行の自由は尊重されるべきで、争いは[[国際法]]に基づいて平和的に解決されなければならない」と中国を牽制しながら、ロシアの[[ウクライナ侵攻 (2022年)|ウクライナ侵攻]]に対する非難も行った<ref name=":0" />。 == 首脳一覧 == 会談開催時の首脳の一覧。国名下の日付は首脳の就任日を示している。 {{big|{{legend2|#9afc97|議長国(2023年)|border=1px solid #AAAAAA}}}} {| class="wikitable" style="text-align: center; line-height:16px;" !加盟国 !首脳 !加盟国 !首脳 !加盟国 !首脳 |- style="height: 15em;" |'''[[東南アジア諸国連合]]'''<small>{{dts|2023|1|9|format=dmy}}就任</small> |[[ファイル:Kao_Kim_Hourn2023.jpg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:Kao_Kim_Hourn2023.jpg|150x150ピクセル]]<br>{{仮リンク|東南アジア諸国連合事務総長|en|Secretary-General of ASEAN}}<br>'''[[カオ・キム・ホルン]]'''<br>(<small>[[ファイル:Flag_of_Cambodia.svg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:Flag_of_Cambodia.svg|境界|30x30ピクセル]] [[カンボジア]])</small> |{{Flagicon|Brunei|size=x75px}}<br>'''[[ブルネイ・ダルサラーム国]]'''<br><small>{{dts|1984|1|7|format=dmy}}即位</small> |[[ファイル:Sergio_Mattarella_met_with_Hassanal_Bolkiah_ahead_of_2021_G20_Summit_(2)_(cropped).jpg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:Sergio_Mattarella_met_with_Hassanal_Bolkiah_ahead_of_2021_G20_Summit_(2)_(cropped).jpg|150x150ピクセル]]<br>[[ブルネイの国王|スルタン]]<br>'''[[ハサナル・ボルキア]]'''<br><small>([[ボルキア家]])</small> |{{Flagicon|Cambodia|size=x75px}}<br>'''[[カンボジア王国]]'''<br><small>{{dts|2023|8|22|format=dmy}}就任</small><ref name=":6" /> |[[ファイル:Hun_Manet_2023.jpg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:Hun_Manet_2023.jpg|150x150ピクセル]]<br>[[カンボジアの首相|首相]]<br>'''[[フン・マネット]]''' <br><small>([[カンボジア人民党]])</small> |- | style="background:#9afc97;" |{{Flagicon|Indonesia|state|size=x75px}}<br>'''[[インドネシア共和国]]'''<br><small>{{dts|2014|10|20|format=dmy}}就任</small> | style="background:#9afc97;" |[[ファイル:Joko_Widodo_2019_official_portrait_(cropped).jpg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:Joko_Widodo_2019_official_portrait_(cropped).jpg|150x150ピクセル]]<br>[[インドネシアの大統領|大統領]]<br>'''[[ジョコ・ウィドド]]'''<br><small>([[インドネシア民主党]])</small> |{{Flagicon|Laos|size=x75px}}<br>'''[[ラオス人民民主共和国]]'''<br><small>{{dts|2022|12|30|format=dmy}}就任</small> |[[ファイル:DPM_Sonexay_Siphandone.jpg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:DPM_Sonexay_Siphandone.jpg|150x150ピクセル]]<br>[[ラオスの首相|首相]]<br>'''[[ソーンサイ・シーパンドーン]]'''<br><small>([[ラオス人民革命党]])</small> |{{Flagicon|Malaysia|size=x75px}}<br>'''[[マレーシア]]'''<br><small>{{dts|2022|11|24|format=dmy}}就任</small><ref>{{Cite web|和書|title=マレーシア首相にアンワル氏が就任 連立政権樹立へ |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM214EE0R21C22A1000000/ |website=日本経済新聞 |date=2022-11-24 |access-date=2023-09-09 |language=ja}}</ref> |[[ファイル:Anwar_Ibrahim_09012023_(cropped).jpg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:Anwar_Ibrahim_09012023_(cropped).jpg|150x150ピクセル]]<br>[[マレーシアの首相|首相]]<br>'''[[アンワル・イブラヒム]]'''<br><small>({{仮リンク|パカタン・ハラパン|en|Pakatan Harapan}} - [[人民正義党]])</small> |- style="height: 15em;" |{{Flagicon|Myanmar|size=x75px}}<br>'''[[ミャンマー連邦共和国]]'''<br><small>[[2021年ミャンマークーデター|2021年2月2日]]就任</small><br><small>(ただし今会談には招待されず</small><ref name=":4" /><small>)</small> |[[ファイル:Мин_Аун_Хлайн_в_Татарстане_04_(25-06-2021)_(cropped_2).jpg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:%D0%9C%D0%B8%D0%BD_%D0%90%D1%83%D0%BD_%D0%A5%D0%BB%D0%B0%D0%B9%D0%BD_%D0%B2_%D0%A2%D0%B0%D1%82%D0%B0%D1%80%D1%81%D1%82%D0%B0%D0%BD%D0%B5_04_(25-06-2021)_(cropped_2).jpg|150x150ピクセル]]<br>[[ミャンマーの首相|首相]]<br>'''[[ミン・アウン・フライン]]'''<br><small>([[ミャンマー軍]])</small> |{{Flagicon|Philippines|size=x75px}}<br>'''[[フィリピン共和国]]'''<br><small>{{dts|2022|6|30|format=dmy}}就任</small> |[[ファイル:Ferdinand_R._Marcos_Jr_(cropped_portrait).jpg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:Ferdinand_R._Marcos_Jr_(cropped_portrait).jpg|150x150ピクセル]]<br>[[フィリピンの大統領|大統領]]<br>[[ボンボン・マルコス|'''フェルディナンド・ロムアルデス・マルコス・ジュニア''']]<br><small>{{仮リンク|フィリピン連邦党|en|Partido Federal ng Pilipinas}}</small> |{{Flagicon|Singapore|size=x75px}}<br>'''[[シンガポール共和国]]'''<br><small>{{dts|2004|8|12|format=dmy}}就任</small> |[[ファイル:Lee_Hsien_Loong_2022.jpg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:Lee_Hsien_Loong_2022.jpg|150x150ピクセル]]<br>[[シンガポールの首相|首相]]<br>'''[[リー・シェンロン]]'''<br><small>([[人民行動党]])</small> |- style="height: 15em;" |{{Flagicon|Thailand|size=x75px}}<br>'''[[タイ王国]]'''<br><small>{{dts|2023|8|22|format=dmy}}就任</small><ref>{{Cite web|和書|title=タイ新首相にセター氏 親軍政党と「大連立」政権―タクシン氏帰国、禁錮8年 |url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023082200693&g=int |website=時事ドットコム |access-date=2023-9-10 |language=ja}}</ref> |[[ファイル:Srettha_Thavisin_20230822_(cropped).jpg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:Srettha_Thavisin_20230822_(cropped).jpg|150x150ピクセル]]<br>[[タイの首相|首相]]<br>'''[[セーター・タウィーシン]]'''<br><small>([[タイ貢献党]])</small> |{{Flagicon|Vietnam|size=x75px}}<br>'''[[ベトナム社会主義共和国]]'''<br><small>{{dts|2021|4|5|format=dmy}}就任</small><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2021040500679&g=int |title=ベトナム新首相にチン氏 対日友好議連会長 |access-date=2023-9-9 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210405101933/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021040500679&g=int |archive-date=2021-4-5 |publisher=時事ドットコム}}</ref> |[[ファイル:Pham_Minh_Chinh_2021.jpg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:Pham_Minh_Chinh_2021.jpg|150x150ピクセル]]<br>[[ベトナムの首相|首相]]<br>'''[[ファム・ミン・チン]]'''<br><small>([[ベトナム共産党]])</small> |} == タイムライン == {{See also|2021年ミャンマークーデター|南シナ海#領土・権益問題}} === 会談前 === ==== 8月30日 ==== * [[マレーシア外務省]]が、中国が公表した「2023年版標準地図」で、[[ボルネオ島]](Borneo Island、カリマンタン島とも)のマレーシアの[[サバ州]]・[[サラワク州|サワラク州]]沿岸の[[排他的経済水域]](EEZ)と重なる水域が一方的な主張に基づき中国領とされていることを受け、「中国の領有権主張は認めない」とし[[南シナ海]]における領有権問題は「複雑かつ微妙」だとしながら、国際法に基づき「対話を通じて平和裏に、かつ合理的な形で取り扱う」必要があると主張し抗議の意思を表明<ref name=":8" />。 ==== 9月1日 ==== * 中国外務省([[中華人民共和国外交部]])がASEAN関連首脳会議に出席するため[[李強 (政治家)|李強]]首相が同月5~8日にインドネシアを訪れると発表<ref>{{Cite web|和書|title=中国首相、ASEAN出席へ G20は不明 |url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023090101025&g=int |website=時事ドットコム |access-date=2023-09-10 |language=ja}}</ref>。[[中華人民共和国主席|国家主席]]の[[習近平]]はASEAN首脳会談のみならず、初回より参加していた同月のG20サミット([[第18回20か国・地域首脳会合]])も初めて欠席している<ref>{{Cite web|和書|title=中国の習主席、初のG20欠席 李首相が代理出席 |url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023090400711&g=int |website=時事ドットコム |access-date=2023-09-10 |language=ja}}</ref>。 ==== 9月4日 ==== * 加盟国の外相による会議がジャカルタで開幕<ref name=":7" />。政情不安が続く[[ミャンマー]]の民主化指導者[[アウンサンスーチー]]氏を減刑した恩赦や、駐ミャンマー[[東ティモール]]臨時代理大使の国外追放処分になどについて各国外相らが意見を交わしたとみられ、インドネシアのルトノ([[ルトノ・マルスディ]])外相は「この地域は多くの困難な状況に直面しているが、ASEANが屈することはない」「ASEANが地域の平和や安定、繁栄に貢献できるのか、人々の目がわれわれに注がれている」「平和的かつ永続的な解決を保証できたときに、ASEANは前に進むことができる」と強調した<ref name=":7" />。 === 会期中 === ==== 9月5日 ==== * 首脳会議が開幕。前日の外相会議での議論も踏まえ、政情不安が続く[[ミャンマー]]問題などを協議したほか、中国政府が8月下旬に発表した新しい国土地図についても一部のASEAN加盟国は領海が中国領とされていると反発しており、意見を交換したとされる<ref name=":4" />。議長国インドネシアの[[ジョコ・ウィドド|ジョコ]]大統領は、ミャンマー問題について「暴力の即時停止などを求めたASEANとミャンマー国軍の5項目の合意事項の履行が基本路線だ」と強調し、議長国として今年初めから70人の関係者と接触してきたと明らかにした<ref name=":4" />。なお2026年の議長国は、ミャンマーに代わり2027年に議長国となる予定だったフィリピンに決まった<ref name=":4" />。 ==== 9月6日 ==== * 5日に開かれた首脳会議の議長声明が発表される<ref name=":5" />。[[南シナ海]]問題では中国政府が大半を自国の領海とした新地図には触れず「信頼関係の構築が重要だ」と訴えるに留め、紛争回避のための「行動規範」を早期に策定することを目指すとした<ref name=":5" />。 * 日本・韓国・中国(中華人民共和国)との会合(ASEANプラス3)が開かれる。日韓からは首脳が参加したが、中国からは[[国務院総理]](首相に相当)の[[李強 (政治家)|李強]]が参加した。 ** 日本との会合では相互の関係を「[[包括的戦略的パートナーシップ]]」に格上げする共同声明が採択される<ref name=":9" />。[[岸田文雄]]首相は、会議で東・南シナ海で覇権主義的な動きを強める中国を念頭に「世界のどこであっても力による一方的な現状変更の試みを許してはならない」と強調し、海洋分野での連携強化を訴えたほか、北朝鮮の核・ミサイル開発への深刻な懸念を表明するとともに拉致問題解決への協力を要請した<ref name=":9" />。また、ミャンマー情勢への懸念を共有した<ref name=":9" />。 ** 会談の冒頭で李強首相は、「誤解や利害の相違、あるいは外部からの干渉によって、国家間に意見の対立や論争が生じるかもしれない」とした上で、「相違を制御不能としないために今肝要なのは、一方の側につくことに反対し、ブロック同士の対立に反対し、新たな冷戦に反対することだ」と述べた<ref name=":11" />。 ** 尹大統領は「国際社会の平和を害する北朝鮮([[朝鮮民主主義人民共和国]])との軍事協力の試みは直ちに中断しなければならない」と述べたほか、「南シナ海の平和と安定がインド太平洋地域の繁栄に必要だ」と語り、[[海洋安全保障]]の協力を強化していく考えも示した<ref>{{Cite web|和書|title=北朝鮮との軍事協力中断を ASEANで訴え―韓国大統領 |url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023090601003&g=int |website=時事ドットコム |access-date=2023-09-07 |language=ja}}</ref>。 ==== 9月7日 ==== * 日本のほか、米国やロシア・中国などもメンバーとなっている[[東アジアサミット]](EAS)がジャカルタで開催される<ref name=":0" />。ジョコ([[ジョコ・ウィドド]])大統領は総括記者会見で「各国のリーダーはこの地域に平和と安定、繁栄をもたらす大きな責任がある」と強調し、首脳らに対立解消に向けて努力するよう訴えた<ref name=":0" />。米国のハリス([[カマラ・ハリス]])副大統領は「東シナ海と南シナ海での航行と飛行の自由は尊重されるべきで、争いは国際法に基づいて平和的に解決されなければならない」と中国をけん制し、ロシアの[[ウクライナ侵攻 (2022年)|ウクライナ侵攻]]も非難した<ref name=":0" />。また、中国の[[李強 (政治家)|李強]]首相は[[南シナ海]]での紛争を避けるための「行動規範」の策定をASEANと共に「積極的に推進している」と説明し、その上で「域外国には交渉努力を十分に尊重することを期待する」と述べて米国を念頭に問題に介入しないよう求めた<ref name=":0" />。 ** EASの後、岸田総理はジョコ大統領及びカンボジアの[[フン・マネット]]首相と会談し、最後にASEAN関連首脳会議等についての会見を行った<ref>{{Cite web|和書|title=令和5年9月7日 ASEAN関連首脳会議及び各国との首脳会談 -2日目- |url=https://www.kantei.go.jp/jp/101_kishida/actions/202309/07asean.html |website=首相官邸ホームページ |access-date=2023-09-11 |language=ja}}</ref>。 * 国連([[国際連合]])の[[アントニオ・グテーレス|グテレス]][[国際連合事務総長|事務総長]]が[[ジャカルタ]]の会場で記者会見<ref name=":1" />。政情不安が続く[[ミャンマー]]問題について「ASEANの新たな対応方法で、解決への道筋が付くことを期待している」「来年は議長国ラオスだけでなく、今年の議長国インドネシア、2025年のマレーシアも加わり、[[トロイカ体制]]で臨むことになる。民主化に向けた政治的な解決を希望する」と語った<ref name=":1" />。 * [[オーストラリア]]の[[アンソニー・アルバニージー|アルバニージー]]首相が中国の[[李強 (政治家)|李強]]首相とジャカルタで会談<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=豪首相「年内に訪中」 ワイン貿易再開、李氏に促す |url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023090701057&g=int |website=時事ドットコム |access-date=2023-09-09 |language=ja}}</ref>。李氏は「両国関係をさらに改善させ、協力したい」と述べ訪中を招請したのに対し、アルバニージー氏は「招待に感謝する。年内の互いに合意できる時期に訪問したい」と応じた。またアルバニージーは中国が8月に豪産[[大麦]]の輸入制限を解除したことについて「両国にとって良いことだ」と評価し、さらに「進展が続くことを望んでいる」と述べ、制限が続く[[ワイン]]や海産物などの貿易を速やかに再開するよう促した<ref name=":2" />。 * 韓国の[[尹錫悦]]大統領がジャカルタで中国の[[李強 (政治家)|李強]]首相と会談<ref name=":3">{{Cite web|和書|title=日中韓首脳会談へ協力確認 李首相に北朝鮮問題対応促す―尹大統領 |url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023090701214&g=int |website=時事ドットコム |access-date=2023-09-09 |language=ja}}</ref>。尹氏は中国が北朝鮮の核問題で国連安保理常任理事国として役割を果たすよう促したほか、聯合ニュースによると[[日中韓首脳会談]]について「早期に韓国で開催できるよう協力してほしい」と呼び掛け、これに対し李氏は「積極的に対応する」と述べたという<ref name=":3" />。 * ハリス米副大統領がジャカルタにて[[北朝鮮]]による[[ウクライナ侵攻 (2022年)|ウクライナ侵攻]]を続ける[[ロシア]]への軍事支援について「弾薬を供給するという考えは大きな間違いだ。ロシアにとっても北朝鮮にとっても、孤立を深めることになると確信している」と語った<ref>{{Cite news|和書 |title=北朝鮮がロシアに軍事支援提供なら「大きな間違い」=米副大統領 |url=https://jp.reuters.com/world/ukraine/GD6ZFBO64VP47COLM6FZSTQFJU-2023-09-07/ |work=ロイター通信 |date=2023-09-07 |access-date=2023-09-09 |language=ja}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[第18回20か国・地域首脳会合]] - 同月9・10日にインドで開催された「G20サミット」。 * [[2023年のインドネシア]] * {{仮リンク|南シナ海の領土問題|en|Territorial disputes in the South China Sea}} == 外部リンク == * [https://www.kantei.go.jp/jp/101_kishida/statement/2023/0907kaiken.html 首相官邸ホームページによる岸田首相の「ASEAN関連首脳会議等についての会見」の要旨] {{DEFAULTSORT:ASEANしゆのうかいこう43}} [[Category:東南アジア諸国連合|しゆのうかいこう43]] [[Category:外交会議]] [[Category:2023年の国際関係]] [[Category:2023年のインドネシア]] [[Category:ジャカルタの歴史]] [[Category:2023年9月]] [[Category:南シナ海]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC43%E5%9B%9EASEAN%E9%A6%96%E8%84%B3%E4%BC%9A%E5%90%88
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斉藤広宣
斉藤 広宣(さいとう ひろのぶ、1967年 - )は、日本のソフトテニス選手。千葉県出身。 匝瑳高校3年時、石川インターハイで準優勝。 明治大学3年時から北本とペアを組み学生タイトル4冠(関東学生、インカレ、関東学生インドア、全日本学生インドア)に東京インドアも優勝し、連続5冠獲得で、全日本トップクラスに躍り出る。 1990年アジア競技大会日本代表予選で優勝し国際大会初代表。以後11年連続11回代表に選出される。選手引退後は男女の代表監督を歴任。 ポジションは前衛。天才的なタッチの良さを生かした華麗なプレーが身上。 ※出典
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斉藤 広宣は、日本のソフトテニス選手。千葉県出身。
{{テニス選手 | 選手名(日本語) = 斉藤 広宣 | 競技 = | 写真 = Hironobu_SAITO(soft-tennis).jpg | 写真サイズ = 250px | 写真のコメント = 1998 HIROSHIMA | 選手名(英語) = Hironobu SAITO | フルネーム(英語名) = Hironobu SAITO | 愛称 = | 国籍 = {{JPN}} | 出身地 = [[千葉県]][[横芝町]] | 居住地 = | 誕生日 = {{生年月日と年齢|1967|9|14}} <!-- 亡くなった場合はこちらを使用。{{生年月日と年齢|生年|月|日|no}} --> | 没年日 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|生年|月|日|没年|月|日}} --> | 死没地 = | 身長 = | 体重 = | 利き手 = 右 | バックハンド = | 殿堂入り = | デビュー年 = | 引退年 = | ツアー通算 = | シングルス = | ダブルス = | 生涯通算成績 = | シングルス通算 = | ダブルス通算 = | 生涯獲得賞金 = | 全豪オープン = | 全仏オープン = | ウィンブルドン = | 全米オープン = | 優勝回数 = | 全豪オープンダブルス = | 全仏オープンダブルス = | ウィンブルドンダブルス = | 全米オープンダブルス = | ダブルス優勝回数 = | 全豪オープン混合ダブルス = | 全仏オープン混合ダブルス = | ウィンブルドン混合ダブルス = | 全米オープン混合ダブルス = | 混合ダブルス優勝回数 = | デビスカップ = | フェドカップ = | ホップマンカップ = | ATPカップ = | シングルス最高 = | ダブルス最高 = <!-- メダルを獲得した場合は下記に記入。 --> | medaltemplates = {{MedalCompetition|[[世界ソフトテニス選手権]]}} {{MedalGold |1995 |ダブルス}} {{MedalGold |1995 |国別対抗}} {{MedalBronze |1991 |国別対抗}} {{MedalCompetition|[[アジア競技大会]]}} {{MedalBronze | 1994 |国別対抗}} {{MedalBronze | 1998 |国別対抗}} {{MedalCompetition|[[アジアソフトテニス選手権]]}} {{MedalGold|1996 |ダブルス}} {{MedalGold|1992 |国別対抗}} {{MedalBronze|1996 |国別対抗}} {{MedalBronze|2000 |ダブルス}} {{MedalCompetition|[[アジアソフトテニス選手権]]}} {{MedalBronze|1997 |ダブルス}} | 更新日時 = 2023年9月2日 }} '''斉藤 広宣'''(さいとう ひろのぶ、[[1967年]] - )は、日本の[[ソフトテニス]]選手。[[千葉県]]出身。 == 来歴 == [[千葉県立匝瑳高等学校|匝瑳高校]]3年時、石川インターハイで準優勝。 [[明治大学]]3年時から北本とペアを組み学生タイトル4冠(関東学生、インカレ、関東学生インドア、全日本学生インドア)に東京インドアも優勝し、連続5冠獲得で、全日本トップクラスに躍り出る。 1990年アジア競技大会日本代表予選で優勝し国際大会初代表。以後11年連続11回代表に選出される。選手引退後は男女の代表監督を歴任。 == プレースタイル == ポジションは前衛。天才的なタッチの良さを生かした華麗なプレーが身上。 == 国際大会代表歴 == ※出典<ref>日本ソフトテニス連盟機關誌 及びベースボールマガジン社発行 月刊『軟式テニス』(現ソフトテニスマガジン)</ref> ; アジア競技大会(1990) : 団体三位 ; 第9回世界ソフトテニス選手権(1991) : 団体三位 ダブルス二回戦敗退([[神崎公宏]]・斉藤広宣) ; 第2回アジアソフトテニス選手権(1992) :団体優勝 ダブルス四位([[北本英幸]]・斉藤広宣) ; アジア競技大会(1994) : 団体三位 ダブルスベスト8([[北本英幸]]・斉藤広宣) ; 第10回世界ソフトテニス選手権(1995) : ダブルス優勝、団体優勝 ; 第3回アジアソフトテニス選手権(1996) :ダブルス優勝 団体三位 ; 第二回東アジア競技大会(1998) : ダブルス三位 ; アジア競技大会(1998) :団体三位  ダブルスベスト8([[北本英幸]]・斉藤広宣) ; 第11回世界ソフトテニス選手権 :団体三位  ダブルスベスト8([[室谷哲也]]・斉藤広宣) ; 第4回アジアソフトテニス選手権(2000) :ダブルス三位 == 主な戦績 == *1989 三笠宮杯全日本学生選手権(インカレ) 優勝(北本・斉藤) *1989 全日本ソフトテニス選手権大会 ベスト8(北本・斉藤) *1990 総理大臣杯全日本学生インドア 優勝(北本・斉藤) *1990 東京インドア 優勝(北本・斉藤) *1991 全日本ソフトテニス選手権大会 優勝(北本・斉藤) *1992 全日本ソフトテニス選手権大会 ベスト8(北本・斉藤) *1993 東京インドア 優勝(北本・斉藤) *1993 全日本ソフトテニス選手権大会 優勝(北本・斉藤) *1994 東京インドア 優勝(北本・斉藤) *1994 全日本ソフトテニス選手権大会 優勝(北本・斉藤) *1995 全日本インドア 優勝(北本・斉藤) *1994 東日本ソフトテニス選手権大会 優勝(北本・斉藤) *1995 全日本ソフトテニス選手権大会 ベスト8(北本・斉藤) *1996 東京インドア 優勝(北本・斉藤) *1997 東日本ソフトテニス選手権大会 優勝(北本・斉藤) *1998 東京インドア 優勝(北本・斉藤) *1998 全日本インドア 優勝(北本・斉藤) *1998 東日本ソフトテニス選手権大会 優勝(北本・斉藤) *1999 東日本ソフトテニス選手権大会 優勝(北本・斉藤) *2000 全日本ソフトテニス選手権大会 優勝(北本・斉藤) *2002 全日本ソフトテニス選手権大会 準優勝(北本・斉藤) *2003 全日本ソフトテニス選手権大会 ベスト4(北本・斉藤) == 脚注 == {{Reflist}} {{DEFAULTSORT:さいとう ひろのふ}} [[category:アジア競技大会ソフトテニス日本代表選手]] [[Category:日本の男子ソフトテニス選手]] [[Category:千葉県立匝瑳高等学校出身の人物]] [[Category:明治大学出身の人物]] [[Category:千葉県出身の人物]] [[Category:1967年生]] [[Category:存命人物]]
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三吉村 (広島県)
三吉村(みよしむら)は、広島県深安郡にあった村。現在の福山市の一部にあたる。 芦田川の下流域に位置していた。 当地で野上、吉津、深津の3か村の端が接し、その端を合わせて一村としたことによる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "三吉村(みよしむら)は、広島県深安郡にあった村。現在の福山市の一部にあたる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "芦田川の下流域に位置していた。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "当地で野上、吉津、深津の3か村の端が接し、その端を合わせて一村としたことによる。", "title": "歴史" } ]
三吉村(みよしむら)は、広島県深安郡にあった村。現在の福山市の一部にあたる。
{{日本の町村 (廃止) | 廃止日 = 1913年4月1日 | 廃止理由 = 編入合併 | 廃止詳細 = [[野上村 (広島県)|野上村]]、'''三吉村''' → [[福山市|福山町]] | 現在の自治体 = [[福山市]] | よみがな = みよしむら | 自治体名 = 三吉村 | 区分 = 村 | 都道府県 = 広島県 | 郡 = [[深安郡]] | 面積 = | 境界未定 = | 人口 = 1206 | 人口の出典 = 『角川日本地名大辞典 34 広島県』796頁 | 人口の時点 = 1891年 | 隣接自治体 = [[吉津村 (広島県)|吉津村]]、[[深津村]]、福山町 | 所在地 = 深安郡三吉村 | 座標 = | 位置画像 = | 特記事項 = }} '''三吉村'''(みよしむら)は、[[広島県]][[深安郡]]にあった[[村]]。現在の[[福山市]]の一部にあたる。 == 地理 == [[芦田川]]の下流域に位置していた{{R|角川}}。 == 歴史 == *[[1889年]](明治22年)4月1日、[[町村制]]の施行により、[[深津郡]]三吉村が単独で村制施行し、'''三吉村'''が発足<ref name=角川>『角川日本地名大辞典 34 広島県』796頁。</ref><ref name=変遷>『市町村名変遷辞典』781頁。</ref>。 *[[1898年]](明治31年)10月1日、郡の統合により[[深安郡]]に所属{{R|角川}}{{R|変遷}}。 *[[1913年]](大正2年)4月1日、深安郡'''[[福山市|福山町]]'''に編入され廃止{{R|角川}}{{R|変遷}}。 === 地名の由来 === 当地で野上、吉津、深津の3か村の端が接し、その端を合わせて一村としたことによる{{R|角川}}。 == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * [[角川日本地名大辞典]] 34 広島県 * 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。 == 関連項目 == * [[広島県の廃止市町村一覧]] {{デフォルトソート:みよしむら}} [[Category:深津郡]] [[Category:深安郡]] [[Category:福山市域の廃止市町村]] [[Category:1889年設置の日本の市町村]] [[Category:1913年廃止の日本の市町村]]
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東京電機大学工学部
東京電機大学工学部(どうきょうでんきだいがくこうがくぶ)は東京電機大学が設置する工学部。 東京電機大学大学院工学研究科(どうきょうでんきだいがくだいがくいんこうがくけんきゅうか)は、東京電機大学が設置する工学研究科。 キャンパスは、東京千住キャンパス。 東京電機大学工学部は、1949年(昭和24年)、 東京電機大学の設立の時、誕生した。 工学部の教育では、「手厚いサポートのある基礎教育」、「充実した実験、実習、ワークショップ」、「幅広い専門科目と資格関連科目」の3つに力を入れている。また、新入生の不安を解消する為に、「入学前教育(数学・英語)」をはじめ、「学習サポートセンター」での支援や「東京電機大学で学ぶ」「アカデミックスキルズ」などを用意している。 東京電機大学工学部は、電気電子工学科、電子システム工学科、応用化学科、機械工学科、先端機械工学科、情報通信工学科の6学科がある。 東京電機大学総合研究所 先端工学研究所 東京千住キャンパス 所在地:東京都足立区千住旭町5
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東京電機大学工学部(どうきょうでんきだいがくこうがくぶ)は東京電機大学が設置する工学部。 東京電機大学大学院工学研究科(どうきょうでんきだいがくだいがくいんこうがくけんきゅうか)は、東京電機大学が設置する工学研究科。 キャンパスは、東京千住キャンパス。
{{pathnav|[[東京電機大学]]|frame=1}} [[File:Tokyo denki university may 2014.jpg|thumb|280px|right|東京千住キャンパス]] '''東京電機大学工学部'''(どうきょうでんきだいがくこうがくぶ)は[[東京電機大学]]が設置する[[工学部]]。 '''東京電機大学大学院工学研究科'''(どうきょうでんきだいがくだいがくいんこうがくけんきゅうか)は、東京電機大学が設置する[[工学研究科]]。 キャンパスは、東京千住キャンパス。 == 概要 == 東京電機大学工学部は、1949年(昭和24年)、 東京電機大学の設立の時、誕生した。 工学部の教育では、「手厚いサポートのある基礎教育」、「充実した実験、実習、ワークショップ」、「幅広い専門科目と資格関連科目」の3つに力を入れている<ref>{{Cite web|和書|title=工学部について |url=https://www.dendai.ac.jp/about/undergraduate/kougaku/outline/index.html |website=東京電機大学公式サイト |access-date=2023-09-11 |language=ja-JP}}</ref>。また、新入生の不安を解消する為に、「入学前教育(数学・英語)」をはじめ、「学習サポートセンター」での支援や「東京電機大学で学ぶ」「アカデミックスキルズ」などを用意している。 東京電機大学工学部は、電気電子工学科、電子システム工学科、応用化学科、機械工学科、先端機械工学科、情報通信工学科の6学科がある。 == 沿革 == [[File:TDU-Tokyo-Senju-2012060301.jpg|thumb|250px|right|東京千住キャンパス入り口]] * 1949年(昭和24年) - 東京電機大学設立。工学部第一部(電気工学科、電気通信工学科)設置。 * 1952年(昭和27年) - 工学部第二部開設。電気工学科設置。 * 1958年(昭和33年) - 大学院工学研究科開設。電気工学専攻修士課程(夜間大学院)を設置。 * 1960年(昭和35年) - 工学部第一部に電子工学科を設置。 * 1961年(昭和36年) - 工学部第一部に応用理化学科、機械工学科を設置。 * 1962年(昭和37年) - 大学院工学研究科に電気工学専攻博士課程を開設。 * 1965年(昭和40年) - 工学部第一部に建築学科、精密機械工学科を設置。 * 1975年(昭和50年) - 大学院工学研究科に電気工学専攻修士課程を開設(昼間)。 * 1993年(平成{{0}}5年) - 工学部の電気通信工学科を情報通信工学科に名称変更。 * 2002年(平成14年) - 工学部第一部に情報メディア学科を設置。 * 2004年(平成16年) - 大学院情報環境学研究科修士課程(情報環境工学、情報環境デザイン学専攻)開設。超電導応用研究所を先端工学研究所に改称。 * 2006年(平成18年) - 大学院博士後期課程を先端科学技術研究科(8専攻)に変更。 * 2007年(平成19年) - 工学部第一部を改編し、工学部(電気電子工学科、環境化学科、機械工学科、情報通信工学科)、未来科学部(建築学科、情報メディア学科、ロボット・メカトロニクス学科)開設。 * 2008年(平成20年) - 工学部第二部の電気工学科、電子工学科を改編し、電気電子工学科を設置。 * 2009年(平成21年) - 大学院未来科学研究科修士課程(建築学、情報メディア学、ロボット・メカトロニクス学専攻)開設。 * 2012年(平成24年) - 東京千住キャンパスが開校。 * 2017年(平成29年) - 工学部の環境化学科を応用化学科に名称変更。 == 学部・学科 == * '''[[工学部]]''' ** 電気電子工学科 ** 電子システム工学科 ** 応用化学科 ** 機械工学科 ** 先端機械工学科 ** 情報通信工学科 == 大学院 == * '''[[工学研究科]]''' ** 電気電子工学専攻 ** 電子システム工学専攻 ** 物質工学専攻 ** 機械工学専攻 ** 先端機械工学専攻 ** 情報通信工学専攻 == 関連組織 == [[東京電機大学総合研究所]]<br> 先端工学研究所 == 学部長 == * 工学部長・工学研究科委員長:吉田 俊哉<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.dendai.ac.jp/about/tdu/vice-president/ |title=副学長・学部長等 役職者|date=2023-04-01|accessdate=2023-09-13 }}</ref> == 著名な出身者 == {{See|東京電機大学の人物一覧}} == 交通アクセス == '''東京千住キャンパス''' 所在地:[[東京都]][[足立区]][[千住旭町]]5 * [[北千住駅]]東口徒歩1分 * [[牛田駅 (東京都)|牛田駅]]・[[京成関屋駅]]徒歩7分 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://www.dendai.ac.jp/about/undergraduate/kougaku/ 東京電機大学工学部](公式サイト) {{DEFAULTSORT:とうきようてんきたいかくこうかくふ}} [[Category:東京電機大学|こうかくふ]] [[Category:各大学の学部]] [[Category:日本の工業系教育機関]] [[Category:技術系の高等教育機関]] [[Category:学校記事]]
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モブツ主義
モブツ主義は、モブツ・セセ・セコの政策や主張をイデオロギーとして表したものである。コンゴ(ザイール)の独裁者となったモブツは、ザイール化政策を始めとする産業や企業の国有化を行い、白人やその他諸外国人が掌握していた経営権をザイール人に置換するなど保護主義的なナショナリズムを取った。 1967年に行われた「ンセレ宣言」と呼ばれる演説でモブツ主義を確立した。モブツ主義では特定の民族や地域を偏重する事は否定し、代わりにコンゴの全国民、全民族、全地域が「ザイール人」という一塊で団結し、そして近代化を得るべきという試みであった。 モブツ主義においては「革命」と「ナショナリズム」が尊重される。「資本主義と共産主義、両方の否定」を明確とする第三の位置も標榜しており、モブツ主義は右派・左派どちらでもない事から「ファシズム」とも批判されていた(政権側が「ファシズム」や「ファシズム国家」とは提言していないが、実態はファシズムと瓜二つという状態の政権を「熱帯ファシズム」(トロピカル・ファシズム)と呼ぶ場合がある)。 1971年、国名をザイール川に因んだ「ザイール」に変更すると、「ザイール・ナショナリズム」の下に産業国有化、また全国民に自分の名前をコンゴ風・現地風の名前に変更するよう呼びかけ、モブツ自身も「ジョゼフ=デジレ・モブツ」から「モブツ・セセ・セコ・クク・ンベンドゥ・ワ・ザ・バンガ」に変更している。またこういったナショナリズムの扇動を背景に一党制を敷き、ザイール憲法を発布してMPRによる完全な独裁体制を完成させた。国内ではナショナリズム的政策を行ったが、外交政策ではモブツは明確に西側寄りであり、アメリカや元宗主国ベルギーから財政支援を取り付けたものの、モブツは財政支援で得た資金を不正に流用し自らの懐に入れていた。 1997年の第一次コンゴ戦争でザイールは崩壊した物の、その後の混乱や第二次コンゴ紛争、また東部での紛争によってモブツやザイールへのノスタルジーを実感した一部の国民はモブツを支持しており、モブツの息子、ンザンガ・モブツはモブツ主義民主連合という政党を結成して支持を集めた。
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モブツ主義は、モブツ・セセ・セコの政策や主張をイデオロギーとして表したものである。コンゴ(ザイール)の独裁者となったモブツは、ザイール化政策を始めとする産業や企業の国有化を行い、白人やその他諸外国人が掌握していた経営権をザイール人に置換するなど保護主義的なナショナリズムを取った。
[[ファイル:Flag of Zaire (1971–1997).svg|サムネイル|229x229ピクセル|ザイールの[[コンゴ民主共和国の国旗|国旗]]。]] '''モブツ主義'''は、[[モブツ・セセ・セコ]]の政策や主張を[[イデオロギー]]として表したものである。[[コンゴ民主共和国|コンゴ]]([[ザイール]])の[[独裁者]]となったモブツは、[[:en:Authenticité_(Zaire)|ザイール化政策]]を始めとする産業や企業の[[国有化]]を行い、[[白人]]やその他諸外国人が掌握していた経営権をザイール人に置換するなど[[保護貿易|保護主義]]的な[[ナショナリズム]]を取った。 == 概要 == 1967年に行われた「[[:en:Manifesto_of_N'sele|ンセレ宣言]]」と呼ばれる演説でモブツ主義を確立した。モブツ主義では特定の[[部族|民族]]や[[地域主義|地域]]を偏重する事は否定し、代わりにコンゴの全国民、全民族、全地域が「ザイール人」という一塊で団結し、そして[[近代化]]を得るべきという試みであった。 モブツ主義においては「[[革命]]」と「ナショナリズム」が尊重される<ref>Young, Crawford; Turner, Thomas. ''The Rise and Decline of the Zairian State''. University of Wisconsin Press, 1985. Pp. 210.</ref>。「[[資本主義]]と[[共産主義]]、両方の否定」を明確とする[[第三の位置]]も標榜しており、モブツ主義は[[右翼|右派]]・[[左翼|左派]]どちらでもない事から「[[ファシズム]]」とも批判されていた(政権側が「ファシズム」や「ファシズム国家」とは提言していないが、実態はファシズムと瓜二つという状態の政権を「[[:en:Tropical_fascism|熱帯ファシズム]]」(トロピカル・ファシズム)と呼ぶ場合がある)。 == 実践 == 1971年、国名を[[コンゴ川|ザイール川]]に因んだ「ザイール」に変更すると、「ザイール・ナショナリズム」の下に産業国有化、また全国民に自分の名前をコンゴ風・現地風の名前に変更するよう呼びかけ、モブツ自身も「ジョゼフ=デジレ・モブツ」から「モブツ・セセ・セコ・クク・ンベンドゥ・ワ・ザ・バンガ」に変更している。またこういったナショナリズムの扇動を背景に[[一党制]]を敷き<ref>{{Cite journal|last=Whitaker|first=Jennifer Seymour|last2=Young|first2=Crawford|last3=Turner|first3=Thomas|date=1985|title=The Rise and Decline of the Zairian State|url=https://doi.org/10.2307/20042662|journal=Foreign Affairs|volume=64|issue=2|pages=384|doi=10.2307/20042662|issn=0015-7120}}</ref>、[[:en:Constitution_of_Zaire|ザイール憲法]]を発布して[[:en:Popular_Movement_of_the_Revolution|MPR]]による完全な独裁体制を完成させた。国内ではナショナリズム的政策を行ったが、[[:en:Foreign_policy_of_the_Mobutu_Sese_Seko_administration#Togo|外交政策]]ではモブツは明確に[[西側諸国|西側]]寄りであり、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]や元宗主国[[ベルギー]]から財政支援を取り付けたものの、モブツは財政支援で得た資金を不正に流用し自らの懐に入れていた。 == 新モブツ主義 == 1997年の[[第一次コンゴ戦争]]でザイールは崩壊した物の、その後の混乱や[[第二次コンゴ戦争|第二次コンゴ紛争]]、また[[:en:History_of_the_Democratic_Republic_of_the_Congo#Continued_conflicts|東部での紛争]]によってモブツやザイールへの[[ノスタルジア|ノスタルジー]]を実感した一部の国民はモブツを支持しており、モブツの息子、[[ンザンガ・モブツ]]は[[:en:Union_of_Mobutuist_Democrats|モブツ主義民主連合]]という政党を結成して支持を集めた。 == 参考文献 == <references /> == 関連項目 == * [[:en:Patrice_Lumumba#Political_impact|ルムンバ主義]]ーコンゴ独立の父である[[パトリス・ルムンバ]]のイデオロギー。 [[Category:モブツ・セセ・セコ]] [[Category:ザイール]] [[Category:イデオロギー]]
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インドの内閣一覧
インドの内閣一覧(インドのないかくいちらん)は、1947年の独立以降のインド政府の歴代内閣の一覧である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "インドの内閣一覧(インドのないかくいちらん)は、1947年の独立以降のインド政府の歴代内閣の一覧である。", "title": null } ]
インドの内閣一覧(インドのないかくいちらん)は、1947年の独立以降のインド政府の歴代内閣の一覧である。
'''インドの内閣一覧'''(インドのないかくいちらん)は、1947年の[[インド・パキスタン分離独立|独立]]以降のインド政府の歴代内閣の一覧である。 ==歴代内閣の一覧== {| class="wikitable plainrowheaders sortable" |- ! scope="col" | 内閣 ! scope="col" | 発足日 ! scope="col" | 総選挙 ! scope="col" | 政権与党 ! scope="col" | 首相 <!-- Place new entries right below this line, new entries should be at the bottom of the below list--> |- ! scope="row" | [[インド暫定政府]] | {{dts|2 September 1946}} |rowspan="2" style="text-align:center"| [[1945年インド総選挙|1945]] |rowspan="10" | [[インド国民会議]] |rowspan="5" | [[ジャワハルラール・ネルー]] |- ! scope="row" | [[第1次ネルー内閣]] | {{dts|15 August 1947}} |- !scope="row" | [[第2次ネルー内閣]] | {{dts|15 April 1952}} | style="text-align:center"| [[インド総選挙 (1951-52)|1951-52]] |- ! scope="row" | [[第3次ネルー内閣]] | {{dts|4 April 1957}} | style="text-align:center"| [[1957年インド総選挙|1957]] |- ! scope="row" | [[第4次ネルー内閣]] | {{dts|2 April 1962}} | style="text-align:center"| [[1962年インド総選挙|1962]] |- ! scope="row" | [[第1次ナンダー内閣]] | {{dts|27 May 1964}} | style="text-align:center"| - | [[グルザーリーラール・ナンダー]] |- ! scope="row" | [[シャーストリー内閣]] | {{dts|9 June 1964}} | style="text-align:center"| - | [[ラール・バハードゥル・シャーストリー]] |- ! scope="row" | [[第2次ナンダー内閣]] | {{dts|11 January 1966}} | style="text-align:center"| - | [[グルザーリーラール・ナンダー]] |- ! scope="row" | [[第1次インディラ・ガンディー内閣]] | {{dts|24 January 1966}} | style="text-align:center"| - |rowspan="2" | [[インディラ・ガンディー]] |- ! scope="row" | [[第2次インディラ・ガンディー内閣]] | {{dts|16 March 1971}} | style="text-align:center"| [[1971年インド総選挙|1971]] |- ! scope="row" | [[モラルジー・デーサーイー内閣]] | {{dts|24 March 1977}} | style="text-align:center"| [[1977年インド総選挙|1977]] | [[ジャナタ党]] | [[モラルジー・デーサーイー]] |- ! scope="row" | [[チョードリー・チャラン・シン内閣]] | {{dts|28 July 1979}} | style="text-align:center"| - | ジャナタ党 | [[チョードリー・チャラン・シン]] |- ! scope="row" | [[第3次インディラ・ガンディー内閣]] | {{dts|14 January 1980}} | style="text-align:center"| [[1980年インド総選挙|1980]] |rowspan="2" | [[インド国民会議]] | [[インディラ・ガンディー]] |- ! scope="row" | [[ラジーヴ・ガンディー内閣]] | {{dts|31 October 1984}} | style="text-align:center"| [[1984年インド総選挙|1984]] | [[ラジーヴ・ガンディー]] |- ! scope="row" | [[ヴィシュワナート・プラタープ・シン内閣]] | {{dts|2 December 1989}} | style="text-align:center"| [[1989年インド総選挙|1989]] | [[ジャナタ・ダル]] | [[ヴィシュワナート・プラタープ・シン]] |- ! scope="row" | [[チャンドラ・シェーカル内閣]] | {{dts|10 November 1990}} | style="text-align:center"| - | ジャナタ・ダル | [[チャンドラ・シェーカル]] |- ! scope="row" | [[ナラシンハ・ラーオ内閣]] | {{dts|21 June 1991}} | style="text-align:center"| [[1991年インド総選挙|1991]] | [[インド国民会議]] | [[ナラシンハ・ラーオ]] |- ! scope="row" | [[第1次ヴァージペーイー内閣]] | {{dts|16 May 1996}} |rowspan="2" style="text-align:center"| [[1996年インド総選挙|1996]] | [[インド人民党]] | [[アタル・ビハーリー・ヴァージペーイー]] |- ! scope="row" | [[デーヴェー・ガウダ内閣]] | {{dts|1 June 1996}} |rowspan="2" | [[ジャナタ・ダル]] | [[デーヴェー・ガウダ]] |- ! scope="row" | [[グジュラール内閣]] | {{dts|21 April 1997}} | style="text-align:center"| - | [[インドラ・クマール・グジュラール]] |- ! scope="row" | [[第2次ヴァージペーイー内閣]] | {{dts|19 March 1998}} | style="text-align:center"| [[1998年インド総選挙|1998]] |rowspan="2" | [[インド人民党]] |rowspan="2" | [[アタル・ビハーリー・ヴァージペーイー]] |- ! scope="row" | [[第3次ヴァージペーイー内閣]] | {{dts|13 October 1999}} | style="text-align:center"| [[1999年インド総選挙|1999]] |- ! scope="row" | [[第1次マンモハン・シン内閣]] | {{dts|22 May 2004}} | style="text-align:center"| [[2004年インド総選挙|2004]] |rowspan="2" | [[インド国民会議]] |rowspan="2" | [[マンモハン・シン]] |- ! scope="row" | [[第2次マンモハン・シン内閣]] | {{dts|22 May 2009}} | style="text-align:center"| [[2009年インド総選挙|2009]] |- ! scope="row" | [[第1次モディ内閣]] | {{dts|26 May 2014}} | style="text-align:center"| [[2014年インド総選挙|2014]] |rowspan="2" | [[インド人民党]] |rowspan="2" | [[ナレンドラ・モディ]] |- ! scope="row" | [[第2次モディ内閣]] | {{dts|30 May 2019}} | style="text-align:center"| [[2019年インド総選挙|2019]] |- |} ==参考文献== *{{cite web | url=http://infoelection.com/infoelection/index.php/home/10-latest/107-list-of-pm.pdf | title=Indian ministerial lists (1947–present) | publisher=Leadtech | work=Infoelection.com | date=22 July 2014 | accessdate=10 December 2014 | url-status=dead | archiveurl=https://web.archive.org/web/20140610025731/http://infoelection.com/infoelection/index.php/home/10-latest/107-list-of-pm.pdf | archivedate=10 June 2014 | df=dmy-all }} [https://mysaara.org/hindi-current-affairs/indias-first-cabinet-ministers/ India’s First Cabinet Ministers भारत के पहले कैबिनेट मंत्री] ==関連項目== *[[インドの歴代首相]] {{インドの内閣}} {{デフォルトソート:いんとのないかくいちらん}} [[Category:政治関連の一覧]] [[Category:インドの内閣| ]] [[Category:インド関連一覧]]
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阿武隈橋
阿武隈橋(あぶくまはし)は、福島県郡山市にある道路橋である。
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阿武隈橋(あぶくまはし)は、福島県郡山市にある道路橋である。
'''阿武隈橋'''(あぶくまはし)は、[[福島県]][[郡山市]]にある道路橋である。 == 概要 == * 全長:181.24m * 幅員:6.8m * 竣工:[[1968年]] * 形式:3径間PC[[桁橋]] * 施工:[[]]<ref>[https://www.city.koriyama.lg.jp/uploaded/attachment/55928.pdf 郡山市橋梁 寿命化修繕計画] - 郡山市</ref> : 郡山市北部にて[[一級水系]][[阿武隈川]]と渡り、一級[[市町村道|市道]]土棚高倉線を通す。東詰は郡山市[[西田町鬼生田]]字川前、西詰は[[日和田町高倉]]字山王前、字下前田、字須賀に位置する。橋上は上下対向2車線で、歩道は設置されていない。両端には[[御影石]]製の親柱が設置されている。左岸側には[[国土交通省]]により設置された河川監視用のライブカメラが設置されている。かつて萱沼の渡しという[[渡し舟|渡船場]]が設置されていた場所であり、1998年度から2000年度に架け実施された阿武隈川平成の大改修による堤防工事の完成を記念し、橋の左岸側に渡し場跡を示す石碑が建立された。 == 周辺 == * 山王神社 == 隣の橋 == * 阿武隈川 : [[小和滝橋]] - [[鬼生田橋]] - '''阿武隈橋''' - [[平成大橋 (福島県)|平成大橋]] - [[上ノ橋 (福島県)|上ノ橋]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{阿武隈川の橋}} {{デフォルトソート:あふくまはし}} [[Category:郡山市の橋]] [[Category:阿武隈川の橋]]
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メローニ
メローニ
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メローニ
'''メローニ''' == Meloni == * [[クリストファー・メローニ]] - アメリカの俳優。 * [[ジョルジャ・メローニ]] - イタリアの政治家。首相を務める。 * [[ロベルト・メローニ]] - イタリアの柔道選手。 == 他の綴り == * [[マセドニオ・メローニ]] (Melloni) - イタリアの物理学者。 * [[ルー・メローニ]] (Merloni) - アメリカの野球選手。日本でも活動した。 {{人名の曖昧さ回避}} {{DEFAULTSORT:めろおに}} [[Category:イタリア語の姓]]
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デニス・ミラー・バンカー
デニス・ミラー・バンカー(Dennis Miller Bunker、1861年11月6日 - 1890年12月28日)は、アメリカ合衆国の画家である。フランスで印象派のスタイルを学び、ボストンの美術学校で教えたが、29歳で亡くなった。 ニューヨークで水運会社の重役の息子に生まれた。母方の叔父に挿絵画家のソル・エイティンゲ・ジュニア(Sol Eytinge Jr.)がいる。17歳になった1878年からウィリアム・メリット・チェイス(1849-1916)に学んだ。チェイスはこの頃ヨーロッパでの修行を終えて帰国し、アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークで教え始めていた。チェイスの推薦を得て、1881年からパリ国立高等美術学校でジャン=レオン・ジェロームのもとへ留学しフランスではアメリカ人学生とブルターニュでも活動し、1884年の暮れまで、ヨーロッパに滞在し、ニューヨークに戻った。 1885年に米国芸術家協会(Society of American Artists)の会員になり、ジェームズ・キャロル・ベックウィズの推薦でボストンの私立のカウルズ美術学校(Cowles School of Art)の講師となり、ボストンに住むようになった。バンカーは1889年まで美術学校で教えた。ボストンでは肖像画も描いた。 バンカーは1886年に美術品収集家となり、美術館を創立するイザベラ・スチュワート・ガードナー(1840-1924)と知り合い、交流し、支援を受けた。ウィリアム・マクレガー・パクストン(William McGregor Paxton: 1869-1941) といった画家に影響を与えたとされる。 1890年に、ボストンで初めて印象派の風景画の展示会を開いた。メトロポリタン美術館でウィリアム・メリット・チェイスの後任として教えるというオファーを受け、その冬に引き継ぐ予定だった。6月にニューハンプシャー州のコーニッシュの芸術家村を訪れるなどした。10月2日にボストンで結婚式を挙げ、夫婦でニューヨークに移った。妻の家でクリスマスを祝うためにボストンに戻った時、病気になり12月28日に急死した。29歳であった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "デニス・ミラー・バンカー(Dennis Miller Bunker、1861年11月6日 - 1890年12月28日)は、アメリカ合衆国の画家である。フランスで印象派のスタイルを学び、ボストンの美術学校で教えたが、29歳で亡くなった。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ニューヨークで水運会社の重役の息子に生まれた。母方の叔父に挿絵画家のソル・エイティンゲ・ジュニア(Sol Eytinge Jr.)がいる。17歳になった1878年からウィリアム・メリット・チェイス(1849-1916)に学んだ。チェイスはこの頃ヨーロッパでの修行を終えて帰国し、アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークで教え始めていた。チェイスの推薦を得て、1881年からパリ国立高等美術学校でジャン=レオン・ジェロームのもとへ留学しフランスではアメリカ人学生とブルターニュでも活動し、1884年の暮れまで、ヨーロッパに滞在し、ニューヨークに戻った。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1885年に米国芸術家協会(Society of American Artists)の会員になり、ジェームズ・キャロル・ベックウィズの推薦でボストンの私立のカウルズ美術学校(Cowles School of Art)の講師となり、ボストンに住むようになった。バンカーは1889年まで美術学校で教えた。ボストンでは肖像画も描いた。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "バンカーは1886年に美術品収集家となり、美術館を創立するイザベラ・スチュワート・ガードナー(1840-1924)と知り合い、交流し、支援を受けた。ウィリアム・マクレガー・パクストン(William McGregor Paxton: 1869-1941) といった画家に影響を与えたとされる。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1890年に、ボストンで初めて印象派の風景画の展示会を開いた。メトロポリタン美術館でウィリアム・メリット・チェイスの後任として教えるというオファーを受け、その冬に引き継ぐ予定だった。6月にニューハンプシャー州のコーニッシュの芸術家村を訪れるなどした。10月2日にボストンで結婚式を挙げ、夫婦でニューヨークに移った。妻の家でクリスマスを祝うためにボストンに戻った時、病気になり12月28日に急死した。29歳であった。", "title": "略歴" } ]
デニス・ミラー・バンカーは、アメリカ合衆国の画家である。フランスで印象派のスタイルを学び、ボストンの美術学校で教えたが、29歳で亡くなった。
{{Infobox 芸術家 | bgcolour = #6495ED | name = デニス・ミラー・バンカー<br>Dennis Miller Bunker | image = File:Chicago art inst singer sargent bunker.JPG | imagesize = 240px | caption = [[ジョン・シンガー・サージェント]]が描いた、写生するデニス・ミラー・バンカー(1888) | birthdate = {{birth date|1861|11|6}} | location = [[ニューヨーク]] | deathdate = {{death date and age|1890|12|28|1861|11|6}} | deathplace = [[ボストン]] | field = | training = | movement = | works = | patrons = | influenced by = | influenced = | awards = }} '''デニス・ミラー・バンカー'''(Dennis Miller Bunker、[[1861年]][[11月6日]] - [[1890年]][[12月28日]])は、[[アメリカ合衆国]]の画家である。フランスで[[印象派]]のスタイルを学び、ボストンの美術学校で教えたが、29歳で亡くなった。 == 略歴 == [[ニューヨーク]]で水運会社の重役の息子に生まれた。母方の叔父に挿絵画家のソル・エイティンゲ・ジュニア(Sol Eytinge Jr.)がいる。17歳になった1878年から[[ウィリアム・メリット・チェイス]](1849-1916)に学んだ。チェイスはこの頃ヨーロッパでの修行を終えて帰国し、[[アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨーク]]で教え始めていた。チェイスの推薦を得て、1881年から[[パリ国立高等美術学校]]で[[ジャン=レオン・ジェローム]]のもとへ留学しフランスではアメリカ人学生と[[ブルターニュ]]でも活動し、1884年の暮れまで、ヨーロッパに滞在し、ニューヨークに戻った。 1885年に米国芸術家協会(Society of American Artists)の会員になり、[[ジェームズ・キャロル・ベックウィズ]]の推薦で[[ボストン]]の私立のカウルズ美術学校(Cowles School of Art)の講師となり、ボストンに住むようになった。バンカーは1889年まで美術学校で教えた。ボストンでは肖像画も描いた。 バンカーは1886年に美術品収集家となり、美術館を創立する[[イザベラ・スチュワート・ガードナー]](1840-1924)と知り合い、交流し、支援を受けた。[[ウィリアム・マクレガー・パクストン]](William McGregor Paxton: 1869-1941) といった画家に影響を与えたとされる。 1890年に、ボストンで初めて印象派の風景画の展示会を開いた。[[メトロポリタン美術館]]でウィリアム・メリット・チェイスの後任として教えるというオファーを受け、その冬に引き継ぐ予定だった。6月に[[ニューハンプシャー州]]の[[:en:Cornish, New Hampshire|コーニッシュ]]の芸術家村を訪れるなどした。10月2日にボストンで結婚式を挙げ、夫婦でニューヨークに移った。妻の家でクリスマスを祝うためにボストンに戻った時、病気になり12月28日に急死した。29歳であった。 ==作品== <gallery mode="nolines" widths="200" heights="150" style="font-size:smaller"> File:Dennis Miller Bunker - The Station.jpg|駅 (1886/1889) File:Dennis Miller Bunker - Meadow Lands.jpg|草原 (1890) <br> [[ボストン美術館]] File:Dennis Miller Bunker - In the Greenhouse.jpg|温室の中 、個人蔵 File:Dennis Miller Bunker - On the Banks of the Oise.jpg|オワーズ川のほとり (1883) </gallery> <gallery mode="nolines" widths="190" heights="190" style="font-size:smaller"> File:Dennis Miller Bunker - Loeffler's Violin - 1982.89 - New Britain Museum of American Art.jpg|Loeffler's Violin (1889)<br> New Britain Museum of American Art File:Dennis Miller Bunker - Isabella Stewart Gardner - P33e6 - Isabella Stewart Gardner Museum.jpg|[[イザベラ・スチュワート・ガードナー]]の肖像画 <br> [[イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館]] File:Portrait de Kenneth R Cranford par Dennis Miller Bunker 1884.jpg|Kenneth Rylance Cranford(画家)の肖像画 (1884) File:Eleanor Hardy Bunker MET ap93.20.jpg|妻Eleanor Hardy Bunkerの肖像画 (1890) <br> [[メトロポリタン美術館]] </gallery> == 参考文献 == * Robert H. Ives Gammell: Dennis Miller Bunker, Coward-McCann, New York 1953 * Erica E. Hirshler (Hrsg.): Dennis Miller Bunker, American impressionist. Exhibition, Museum of fine arts, Boston, Massachusetts 1994, ISBN 0-87846-422-0 {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はんかあ てにすみらあ}} [[Category:19世紀アメリカ合衆国の画家]] [[Category:アメリカ合衆国の印象派画家]] [[Category:ニューヨーク市出身の人物]] [[Category:1861年生]] [[Category:1890年没]]
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多摩川いかだレース
狛江古代カップ多摩川いかだレース(こまえこだいカップたまがわいかだレース)は、東京都狛江市で毎年夏に開催されているイベント。 主催および運営は、狛江市役所市民生活部地域活性課。会場は多摩川緑地公園グラウンド。 1990年に狛江市制施行20周年記念行事として、開催された。優勝チームには、狛江で初めて出土した和泉式土器をモチーフにした陶器製の「狛江古代カップ」が贈呈される。
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狛江古代カップ多摩川いかだレース(こまえこだいカップたまがわいかだレース)は、東京都狛江市で毎年夏に開催されているイベント。 主催および運営は、狛江市役所市民生活部地域活性課。会場は多摩川緑地公園グラウンド。 1990年に狛江市制施行20周年記念行事として、開催された。優勝チームには、狛江で初めて出土した和泉式土器をモチーフにした陶器製の「狛江古代カップ」が贈呈される。
{{加筆|実施状況や歴史について。『新狛江市史 通史編』938頁等に記載があります。|date=2023年10月}} {{基礎情報 恒例行事 |name = 狛江古代カップ<br>多摩川いかだレース |first = 1990 |organizer = 狛江市市民生活部地域活性課 |website = [https://komae-ikadarace.ever.jp/index.html 公式サイト] |frequency = 年1回 |location = [[東京都]][[狛江市]][[猪方]] |venue = 多摩川緑地公園グラウンド |image=File:Tamagawa Ikada Race.jpg}} '''狛江古代カップ多摩川いかだレース'''(こまえこだいカップたまがわいかだレース)は、[[東京都]][[狛江市]]で毎年夏に開催されているイベント。 主催および運営は、狛江市役所市民生活部地域活性課。会場は多摩川緑地公園グラウンド。 [[1990年]]に狛江市制施行20周年記念行事として開催された。優勝チームには、狛江で初めて出土した[[和泉式土器]]をモチーフにした[[陶器]]製の「狛江古代カップ」が贈呈される<ref>{{Cite web |url=https://komae-ikadarace.ever.jp/about.html |title=レースについて |access-date=2023-09-12 |publisher=狛江古代カップ多摩川いかだレース実行委員会}}</ref>。 == 実施要項 == {{Empty section|date=2023年10月}} == 歴史 == {{Empty section|date=2023年10月}} == 結果 == {{Empty section|date=2023年10月}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://komae-ikadarace.ever.jp/index.html 公式ウェブサイト] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たまかわいかたれえす}} [[Category:東京都の行事・イベント]] [[Category:1990年開始のイベント]] [[Category:狛江市の文化]]
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4,827,021
マリナフェスティバル
マリナフェスティバルは、西宮市立総合教育センター付属西宮浜義務教育学校で毎年9月下旬に開催されている運動会。 2023年のプログラムは以下。
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マリナフェスティバルは、西宮市立総合教育センター付属西宮浜義務教育学校で毎年9月下旬に開催されている運動会。
'''マリナフェスティバル'''は、[[西宮市立総合教育センター付属西宮浜義務教育学校]]で毎年9月下旬に開催されている運動会。 == 概要 == == プログラム == 2023年のプログラムは以下。 {| class="wikitable" |+ !番号 !タイトル !参加学年 !'''備考''' |- |1 |ラジオ体操 |全学年 | |- |2 | | | |- |3 | | | |- |4 | | | |- |5 | | | |- |6 | | | |- |7 | | | |- |8 | | | |- |9 | | | |- |10 | | | |- |11 | | | |- |12 | | | |- |13 | | | |- |14 | | | |- |15 | | | |- |16 | | | |- |17 | | | |- |18 | | | |- |19 | | | |- |20 | | | |}
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ヘンリー・ホーフト
ヘンリー・ホーフト(Henri Hooft、1969年5月21日 - )は、オランダの格闘技トレーナー、元キックボクサー。キルクリフFCの創設者兼ヘッドトレーナー。元ブラックジリアンズのヘッドトレーナー。 15歳で格闘技に興味を持ち、兄と一緒にフルコンタクト空手のトレーニングを始め、後にキックボクシングに転向した。18歳の時にロブ・カーマンから誘いを受けトレーニングのためにタイへ行きムエタイに出会った。 ホーフトはトレーナーをしながらプロデビューし、オランダのキックボクシングとムエタイの長所を組み合わせて独自のファイティングシステムを作り上げた。日本でも試合を行っており1999年12月5日のK-1 GRAND PRIX '99でステファン・レコと対戦し、後ろ回し蹴りでKO負けしている。 2004年、ピーター・アーツのスパーリングパートナー兼トレーナーとしてチーム・アーツに加わり、アムステルダムのコップス・ジムでヤン・プラスの下でトレーニングを行った。2007年に現役を引退し、トレーナーに転身した。 2011年、タイロン・スポーンに誘われアメリカ合衆国フロリダ州のブラックジリアンズで打撃コーチに就いた。 2017年、ブラックジリアンズから独立し、自身のジム「コンバット・クラブ」を設立。後に「ハードノックス365」、「サンフォードMMA」(現キルクリフFC)を設立した。
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ヘンリー・ホーフトは、オランダの格闘技トレーナー、元キックボクサー。キルクリフFCの創設者兼ヘッドトレーナー。元ブラックジリアンズのヘッドトレーナー。
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内田尚孝
内田 尚孝(うちだ なおたか)は、日本の歴史学者。専門は近現代日中関係史、中国外交。同志社大学教授。 1995年和歌山大学大学院教育学研究科教科教育専攻修了、修士(教育学)。1996年外務省在上海日本国総領事館専門調査員。2002年神戸大学大学院文化学研究科社会文化専攻修了、博士(学術)。同年淑徳大学国際コミュニケーション学部専任講師。2005年淑徳大学国際コミュニケーション学部助教授。2007年淑徳大学国際コミュニケーション学部准教授。2011年同志社大学グローバル・コミュニケーション学部准教授。2012年日本現代中国学会理事。2014年同志社大学グローバル・コミュニケーション学部教授。専門は中国近現代史、近現代日中関係史、中国外交。
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内田 尚孝は、日本の歴史学者。専門は近現代日中関係史、中国外交。同志社大学教授。
'''内田 尚孝'''(うちだ なおたか)は、[[日本]]の[[歴史学者]]。専門は[[近現代]][[日中関係史]]、[[中国]][[外交]]。[[同志社大学]]教授。 == 人物・経歴 == 1995年[[和歌山大学]][[大学院]][[教育学研究科]]教科教育専攻修了、[[修士(教育学)]]<ref name="dd"/>。1996年[[外務省]][[在上海日本国総領事館]][[専門調査員]]<ref>[https://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/licsxp-opac/WOpacMsgNewListToTifTilDetailAction.do?tilcod=1000610237579 華北事変の研究  塘沽停戦協定と華北危機下の日中関係一九三二〜一九三五年]静岡県立中央図書館</ref>。2002年[[神戸大学大学院文化学研究科]]社会文化専攻修了、[[博士(学術)]]。同年[[淑徳大学]]国際コミュニケーション学部専任講師。2005年淑徳大学国際コミュニケーション学部助教授。2007年淑徳大学国際コミュニケーション学部准教授。2011年[[同志社大学]]グローバル・コミュニケーション学部准教授<ref name="dd"/>。2012年[[日本現代中国学会]][[理事]]<ref>[http://www.genchugakkai.com/staff2013-2014.html 日本現代中国学会役員体制(2012-2014年度)]日本現代中国学会</ref>。2014年同志社大学グローバル・コミュニケーション学部教授<ref name="dd">[https://kendb.doshisha.ac.jp/profile/ja.4e2806808413d529.html 内田 尚孝 ウチダ ナオタカ グローバル・コミュニケーション学部グローバル・コミュニケーション学科 教授]MF Researcher Database English 研究者データベース</ref>。専門は中国近現代史、[[近現代]][[日中関係史]]、[[中国]][[外交]]<ref>[https://globalcommunications.doshisha.ac.jp/course/teacher/ 内田 尚孝ウチダ ナオタカ 教授 専門分野 中国近現代史、近現代日中関係史、中国外交]同志社大が鵜</ref>。 == 著作 == *『華北事変の研究 : 塘沽停戦協定と華北危機下の日中関係一九三二~一九三五年』[[汲古書院]] 2006年 === 共著 === *『概説近現代中国政治史』[[ミネルヴァ書房]] 2012年 *『開門!中国語』[[朝日出版社]] 2012年 *『文法力を鍛える中国語ライティング 1』朝日出版社 2021年 *『文法力を鍛える中国語ライティング 2』朝日出版社 2022年 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:うちだ なおたか}} [[Category:21世紀日本の歴史家]] [[Category:中国近現代史の歴史学者]] [[Category:日中関係史学者]] [[Category:博士(学術)取得者]] [[Category:修士(教育学)取得者]] [[Category:同志社大学の教員]] [[Category:淑徳大学の教員]] [[Category:神戸大学出身の人物]] [[Category:和歌山大学出身の人物]]
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MMAファクトリー
MMAファクトリー(英: MMA Factory)は、フランス・パリに拠点を置く総合格闘技ジム。代表はフェルナンド・ロペス。 2013年にフェルナンド・ロペスがビジネスパートナーとパリの12区に格闘技ジム「クロスファイト」を設立し、すぐに名称を「MMAファクトリー」に変更した。その後、2018年には600人を超える生徒と18人のスタッフを抱えるフランスで一番大きな格闘技ジムに拡大した。
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MMAファクトリーは、フランス・パリに拠点を置く総合格闘技ジム。代表はフェルナンド・ロペス。
'''MMAファクトリー'''({{Lang-en-short|MMA Factory}})は、[[フランス]]・[[パリ]]に拠点を置く[[総合格闘技]]ジム。代表は[[フェルナンド・ロペス]]。 == 概要 == 2013年に[[フェルナンド・ロペス]]がビジネスパートナーとパリの[[12区 (パリ)|12区]]に格闘技ジム「クロスファイト」を設立し、すぐに名称を「MMAファクトリー」に変更した。その後、2018年には600人を超える生徒と18人のスタッフを抱えるフランスで一番大きな格闘技ジムに拡大した<ref>[https://bloodyelbow.com/2018/01/18/feature-fernand-lopez-and-the-factory-behind-francis-ngannou-cameroon-past-mma-ufc-interview/ Fernand Lopez and the Factory behind Francis Ngannou]Bloody Elbow 2018年1月18日</ref>。 == コーチングスタッフ == * [[フェルナンド・ロペス]] - ヘッドコーチ == 主な所属選手 == * [[シリル・ガーヌ]](UFC世界ヘビー級暫定王者) * [[イオン・クテラバ]] * [[ナッソーディン・イマボフ]] * [[ジェロム・レ・バンナ]] * [[ソクジュ]] * テイラー・ラピルス * ヴェロニカ・ハーディー * [[クリスチャン・ムプンボ]] == 元所属選手 == * [[フランシス・ガヌー]](UFC世界ヘビー級王者) == 脚注 == {{reflist}} {{脚注ヘルプ}} == 外部リンク == * [https://www.mma-factory.fr/ MMAファクトリー公式サイト] * {{Instagram|mma_factory_paris}} * {{Twitter|mmafactory_fr}} * [https://www.tapology.com/gyms/649-crossfight-paris TAPOLOGY ジムデータ] {{DEFAULTSORT:えむえむええふあくとりい}} [[Category:総合格闘技のジム]]
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肝属地方風水害
肝属地方風水害(きもつきちほうふうすいがい)は、昭和13年(1938年)10月に鹿児島県で発生した台風が要因の水害。肝属半島(大隅半島)の肝属川で発生。「肝属水害」、「肝属川水害」と呼ばれることもある。 1938年10月8日、フィリピン東方にて台風が発生した。14日の午後6時、屋久島西方の海上を通過。15日の午前2時ごろ、台風の中心が屋久島に到達。15日の午前6時に種子島東岸から東北東へ通過。台風は16日に八丈島の西方にて消滅した。 屋久島雨量観測所の記録では、最低気圧が15日午前2時の730.2mmHg(973.52hPa)、最強風速が午前3時の毎秒33メートルであった。 10月14日から15日の間に屋久島、種子島を通過した際、時速10キロメートルから15キロメートルの速度であった。14日夜の一晩の間に400ミリメートルを超える豪雨が短時間に局地に集中したことが問題となり、大隅半島の南部は24時間雨量が400ミリを超えた。鹿屋観測所では1日雨量が389ミリメートル、高山観測所では1日雨量が400ミリメートルを記録した。肝属川水系の10か所の堤防が決壊するなど、甚大な被害が発生した。特に被害が大きかったのは、高山町、姶良村、内之浦町であった。鹿児島大学によると死者310人、行方不明者125人で計435人、重傷者629人の被害者が出た。しかし国土交通省によると死者304人、行方不明者131人、負傷者628人とされている。鹿児島大学によると流出全壊の家屋が1,969棟、半壊が1,397棟、浸水家屋が10,568棟を記録し、国土交通省によると流出及び半壊家屋が1,532戸、浸水家屋が5,067戸とされている。被害総額は当時で約3,600万円にのぼり、そのうち農業関係が約2,000万円を占めた。 錦江町の田代小学校では、裏山の土砂崩れにより木造校舎が破壊。2人の教職員が死亡した。鹿屋市吾平町では浸水し、救難本部に遺体が収容された。 一番犠牲者が多かったのは肝付町高山地区であった。鹿児島大学の名誉教授の岩松暉によると、高山地区では「山が崩れて土石流となって下流に押し寄せて増水して氾濫した」という。平成には「被害を伝える石碑」、「高山川水害史碑」が建設された。石碑の碑文によると、10月14日から15日にかけ、高山町では総雨量が420ミリの大雨により山津波が発生し、死者が118人、行方不明者が53人、重傷者が253人の被害が出た。大水害洪水が潮のように押し寄せたために防ぐことができず、浸水した家屋は満水となったため、屋根の上に避難したが、下流に押し流された人もいたといった様子であった。 10月15日朝、県庁に被害の情報が伝達したが、詳細はよくわかっていなかった。しかし前代未聞らしいということにより、県庁に救援救護本部、鹿屋町に出先本部を設置。県立鹿児島病院や県医師会をメンバーに、救療隊が結成された。同日、海上班が警察船「旭櫻」で内之浦へ派遣され、救療隊も同行した。陸上班は鹿屋へと派遣された。事態の判明後、20日に鹿児島の歩兵第45連隊、21日には熊本工兵隊と、軍隊が出動することとなった。財源は国庫補助、県の復旧復興事業費、全国から集められた義援金で賄われた。 水害の前年の昭和12年より国による河川改修が開始されていたが、水害後に本格化された。河川改修では、蛇行していた肝属川の直線化や堤防作りなどを行った。大隅河川国道事務所によると、同規模の豪雨が発生しても氾濫にはいたらないとみているが、2018年の台風24号では支流が一時氾濫危険水位を上回るなど、想定を超える事態はありうるという。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "肝属地方風水害(きもつきちほうふうすいがい)は、昭和13年(1938年)10月に鹿児島県で発生した台風が要因の水害。肝属半島(大隅半島)の肝属川で発生。「肝属水害」、「肝属川水害」と呼ばれることもある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1938年10月8日、フィリピン東方にて台風が発生した。14日の午後6時、屋久島西方の海上を通過。15日の午前2時ごろ、台風の中心が屋久島に到達。15日の午前6時に種子島東岸から東北東へ通過。台風は16日に八丈島の西方にて消滅した。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "屋久島雨量観測所の記録では、最低気圧が15日午前2時の730.2mmHg(973.52hPa)、最強風速が午前3時の毎秒33メートルであった。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "10月14日から15日の間に屋久島、種子島を通過した際、時速10キロメートルから15キロメートルの速度であった。14日夜の一晩の間に400ミリメートルを超える豪雨が短時間に局地に集中したことが問題となり、大隅半島の南部は24時間雨量が400ミリを超えた。鹿屋観測所では1日雨量が389ミリメートル、高山観測所では1日雨量が400ミリメートルを記録した。肝属川水系の10か所の堤防が決壊するなど、甚大な被害が発生した。特に被害が大きかったのは、高山町、姶良村、内之浦町であった。鹿児島大学によると死者310人、行方不明者125人で計435人、重傷者629人の被害者が出た。しかし国土交通省によると死者304人、行方不明者131人、負傷者628人とされている。鹿児島大学によると流出全壊の家屋が1,969棟、半壊が1,397棟、浸水家屋が10,568棟を記録し、国土交通省によると流出及び半壊家屋が1,532戸、浸水家屋が5,067戸とされている。被害総額は当時で約3,600万円にのぼり、そのうち農業関係が約2,000万円を占めた。", "title": "被害" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "錦江町の田代小学校では、裏山の土砂崩れにより木造校舎が破壊。2人の教職員が死亡した。鹿屋市吾平町では浸水し、救難本部に遺体が収容された。", "title": "被害" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "一番犠牲者が多かったのは肝付町高山地区であった。鹿児島大学の名誉教授の岩松暉によると、高山地区では「山が崩れて土石流となって下流に押し寄せて増水して氾濫した」という。平成には「被害を伝える石碑」、「高山川水害史碑」が建設された。石碑の碑文によると、10月14日から15日にかけ、高山町では総雨量が420ミリの大雨により山津波が発生し、死者が118人、行方不明者が53人、重傷者が253人の被害が出た。大水害洪水が潮のように押し寄せたために防ぐことができず、浸水した家屋は満水となったため、屋根の上に避難したが、下流に押し流された人もいたといった様子であった。", "title": "被害" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "10月15日朝、県庁に被害の情報が伝達したが、詳細はよくわかっていなかった。しかし前代未聞らしいということにより、県庁に救援救護本部、鹿屋町に出先本部を設置。県立鹿児島病院や県医師会をメンバーに、救療隊が結成された。同日、海上班が警察船「旭櫻」で内之浦へ派遣され、救療隊も同行した。陸上班は鹿屋へと派遣された。事態の判明後、20日に鹿児島の歩兵第45連隊、21日には熊本工兵隊と、軍隊が出動することとなった。財源は国庫補助、県の復旧復興事業費、全国から集められた義援金で賄われた。", "title": "復興活動" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "水害の前年の昭和12年より国による河川改修が開始されていたが、水害後に本格化された。河川改修では、蛇行していた肝属川の直線化や堤防作りなどを行った。大隅河川国道事務所によると、同規模の豪雨が発生しても氾濫にはいたらないとみているが、2018年の台風24号では支流が一時氾濫危険水位を上回るなど、想定を超える事態はありうるという。", "title": "復興活動" } ]
肝属地方風水害(きもつきちほうふうすいがい)は、昭和13年(1938年)10月に鹿児島県で発生した台風が要因の水害。肝属半島(大隅半島)の肝属川で発生。「肝属水害」、「肝属川水害」と呼ばれることもある。
{{風水害 | title = | namesub = 肝属川水害 | image = | imagesize = | caption = | dates = 1938年10月14日-10月15日 | datee = | country = 日本 | area = [[鹿児島県]] | factor = | rainfalla = 高山観測所 | rainfalld = 400 | hrainfalla = | hrainfalld = | dead = (国土交通省)304人<br />または(鹿児島大学)310 | missing = (国土交通省)131人<br />または(鹿児島大学)125 | injured = (国土交通省)628人<br />または(鹿児島大学)629 | zenkai = (国土交通省)1,532棟<br />または(鹿児島大学)1,969 | hankai = 1,397 | sonkai = | humeisonkai = | yukaue = | yukast = | sinsui = (国土交通省)5,067棟<br />または(鹿児島大学)10,568 | hijuka = | higaigaku = 約3,600万 | higaiyear = | act = | data = [[鹿児島大学]]{{R|kagoshima}}、[[国土交通省]]{{R|suigai}}、高山川水害史碑<ref name="kagoshima.koyama">{{Cite web|和書|url=https://www.sci.kagoshima-u.ac.jp/oyo/advanced/site/koyama_monument.html|title=高山川水害史碑|website=かだいおうち|publisher=鹿児島大学|accessdate=2023-09-12}}</ref> }} '''肝属地方風水害'''(きもつきちほうふうすいがい)は<ref>{{Harvnb|鹿児島|1940}}</ref>、[[昭和13年]]([[1938年]])10月に[[鹿児島県]]で発生した台風が要因の[[水害]]{{R|kagoshima}}<ref name="suigai">{{Cite web|和書|url=https://www.qsr.mlit.go.jp/n-kawa/r_kimotsuki/suigai.html|title=肝属川における水害の記憶|publisher=国土交通省九州地方整備局河川部|accessdate=2023-09-12}}</ref>。肝属半島([[大隅半島]])の[[肝属川]]で発生<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/大隅半島-39307|title=大隅半島|website=コトバンク|publisher=DIGITALIO|accessdate=2023-09-12}}</ref>{{R|mbc}}。「肝属水害」{{R|mbc}}、「肝属川水害」と呼ばれることもある{{R|kagoshima}}。 == 経過 == 1938年10月8日、フィリピン東方にて台風が発生した<ref name="kagoshima">{{Cite web|和書|url=https://www.sci.kagoshima-u.ac.jp/oyo/advanced/disaster/1938.html|title=昭和13年肝属地方風水害|website=かだいおうち|publisher=鹿児島大学|accessdate=2023-09-12}}</ref>。14日の午後6時、[[屋久島]]西方の海上を通過{{R|kagoshima}}。15日の午前2時ごろ、台風の中心が屋久島に到達{{R|kagoshima}}。15日の午前6時に[[種子島]]東岸から東北東へ通過{{R|kagoshima}}。台風は16日に[[八丈島]]の西方にて消滅した{{R|kagoshima}}。 屋久島雨量観測所の記録では、最低気圧が15日午前2時の730.2mmHg(973.52hPa)、最強風速が午前3時の毎秒33メートルであった{{R|kagoshima}}。 == 被害 == 10月14日から15日の間に[[屋久島]]、[[種子島]]を通過した際、時速10キロメートルから15キロメートルの速度であった{{R|kagoshima}}。14日夜の一晩の間に400ミリメートルを超える豪雨が短時間に局地に集中したことが問題となり{{R|kagoshima}}、大隅半島の南部は24時間雨量が400ミリを超えた{{R|mbc}}。鹿屋観測所では1日雨量が389ミリメートル、高山観測所では1日雨量が400ミリメートルを記録した{{R|suigai}}。[[肝属川]]水系の10か所の堤防が決壊するなど、甚大な被害が発生した{{R|mbc|kagoshima}}。特に被害が大きかったのは、[[高山町 (鹿児島県)|高山町]]、[[姶良村]]、[[内之浦町]]であった{{R|kagoshima}}。[[鹿児島大学]]によると死者310人、行方不明者125人で計435人、重傷者629人の被害者が出た{{R|kagoshima}}。しかし国土交通省によると死者304人、行方不明者131人、負傷者628人とされている{{R|suigai}}。鹿児島大学によると流出全壊の家屋が1,969棟、半壊が1,397棟、浸水家屋が10,568棟を記録し{{R|kagoshima}}、国土交通省によると流出及び半壊家屋が1,532戸、浸水家屋が5,067戸とされている{{R|suigai}}。被害総額は当時で約3,600万円にのぼり、そのうち農業関係が約2,000万円を占めた{{R|kagoshima}}。 錦江町の田代小学校では、裏山の土砂崩れにより木造校舎が破壊{{R|mbc}}。2人の教職員が死亡した{{R|mbc}}。[[鹿屋市]][[吾平町]]では浸水し、救難本部に遺体が収容された{{R|mbc}}。 === 肝付町高山地区 === 一番犠牲者が多かったのは[[肝付町]]高山地区であった<ref name="mbc">{{Cite web|和書|url=https://blogs.mbc.co.jp/bousai/cat_chiiki/1212/|title=歴史を教訓に 肝属水害|website=MBC防災スイッチ|publisher=南日本放送|date=2018-11-15|accessdate=2023-09-12}}</ref>。[[鹿児島大学]]の名誉教授の岩松暉によると、高山地区では「山が崩れて土石流となって下流に押し寄せて増水して氾濫した」という{{R|mbc}}。平成には「被害を伝える石碑」、「高山川水害史碑」が建設された{{R|mbc|kagoshima.koyama}}。石碑の碑文によると、10月14日から15日にかけ、高山町では総雨量が420ミリの大雨により山津波が発生し、死者が118人、行方不明者が53人、重傷者が253人の被害が出た{{R|kagoshima.koyama}}。大水害洪水が潮のように押し寄せたために防ぐことができず、浸水した家屋は満水となったため、屋根の上に避難したが、下流に押し流された人もいたといった様子であった{{R|kagoshima.koyama}}。 == 復興活動 == 10月15日朝、県庁に被害の情報が伝達したが、詳細はよくわかっていなかった{{R|kagoshima}}。しかし前代未聞らしいということにより、県庁に救援救護本部、鹿屋町に出先本部を設置{{R|kagoshima}}。県立鹿児島病院や県医師会をメンバーに、救療隊が結成された{{R|kagoshima}}。同日、海上班が警察船「旭櫻」で[[内之浦]]へ派遣され、救療隊も同行した{{R|kagoshima}}。陸上班は[[鹿屋]]へと派遣された{{R|kagoshima}}。事態の判明後、20日に鹿児島の歩兵第45連隊、21日には熊本工兵隊と、軍隊が出動することとなった{{R|kagoshima}}。財源は国庫補助、県の復旧復興事業費、全国から集められた義援金で賄われた{{R|kagoshima}}。 水害の前年の昭和12年より国による河川改修が開始されていたが、水害後に本格化された{{R|kagoshima}}。河川改修では、蛇行していた[[肝属川]]の直線化や堤防作りなどを行った{{R|mbc}}。大隅河川国道事務所によると、同規模の豪雨が発生しても氾濫にはいたらないとみているが、2018年の台風24号では支流が一時氾濫危険水位を上回るなど、想定を超える事態はありうるという{{R|mbc}}。 == 出典 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|author=鹿児島県|title=昭和十三年肝屬地方風水害誌|date=1940-01|ncid=BN14455751|ref={{SfnRef|鹿児島|1940}}}} {{Disaster-stub}} {{Commonscat-inline}} {{Pref-stub|pref=鹿児島県}} {{デフォルトソート:きもつきちほうふうすいかい}} [[Category:1938年10月]] [[Category:鹿児島県の歴史]] [[Category:肝属川水系]] [[Category:大隅半島]] [[Category:1938年の日本における災害]] [[Category:日本の土砂災害]] [[Category:日本の洪水]]
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1986-87シーズン SSCナポリ
1986-87シーズン SSCナポリは、ナポリの1986-87シーズンの成績と所属選手を詳述する。 このシーズンの移籍市場でダニエル・ベルトーニを放出、この年のワールドカップで決勝点を決めたホルヘ・ブルチャガの獲得に動いたが、移籍交渉がまとまらずに獲得出来ずに終わった。フェルナンド・デ・ナポリ、アンドレア・カルネヴァーレらを補強したに留まった。 リーグ第24節で優勝を争っていたユヴェントスに2-1で勝利、1987年5月10日のフィオレンティーナ戦を1-1で引き分け勝ち点1を獲得、この結果、初のセリエA優勝が決定した。2位のユヴェントスとは勝ち点3の差での優勝であった。更にコッパ・イタリア決勝でもアタランタを破って優勝を果たした。 注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。 ナポリ v アタランタ アタランタ v ナポリ 2戦合計4-0でナポリ優勝
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "1986-87シーズン SSCナポリは、ナポリの1986-87シーズンの成績と所属選手を詳述する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "このシーズンの移籍市場でダニエル・ベルトーニを放出、この年のワールドカップで決勝点を決めたホルヘ・ブルチャガの獲得に動いたが、移籍交渉がまとまらずに獲得出来ずに終わった。フェルナンド・デ・ナポリ、アンドレア・カルネヴァーレらを補強したに留まった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "リーグ第24節で優勝を争っていたユヴェントスに2-1で勝利、1987年5月10日のフィオレンティーナ戦を1-1で引き分け勝ち点1を獲得、この結果、初のセリエA優勝が決定した。2位のユヴェントスとは勝ち点3の差での優勝であった。更にコッパ・イタリア決勝でもアタランタを破って優勝を果たした。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。", "title": "所属選手" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "", "title": "所属選手" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ナポリ v アタランタ", "title": "コッパ・イタリア決勝" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "アタランタ v ナポリ", "title": "コッパ・イタリア決勝" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2戦合計4-0でナポリ優勝", "title": "コッパ・イタリア決勝" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "", "title": "コッパ・イタリア決勝" } ]
1986-87シーズン SSCナポリは、ナポリの1986-87シーズンの成績と所属選手を詳述する。
{{Pathnav|SSCナポリ|frame=1}} {{Infobox football club season | クラブ = [[SSCナポリ|ナポリ]] | シーズン = [[セリエA (サッカー) 1986-1987|1986-87]] | 代表者 = {{Flagicon|ITA}} コツラード・フェルラィーノ | 監督 = {{Flagicon|ITA}} [[オッタヴィオ・ビアンキ]] | スタジアム = [[スタディオ・ディエゴ・アルマンド・マラドーナ|スタディオ・サン・パオロ]] | リーグ = [[セリエA (サッカー)|セリエA]] | リーグ成績 = 1位 優勝 | カップ1 = [[コッパ・イタリア]] | カップ成績1 = 優勝 | カップ2 = [[UEFAカップ]] | カップ成績2 = 1回戦 | リーグ最多得点者 = [[ディエゴ・マラドーナ]] 10得点 | シーズン最多得点者 = [[ディエゴ・マラドーナ]] 17得点 | 最多観客動員 = | 最少観客動員 = | 平均観客動員 = | 最大差勝利試合 = | 最大差敗戦試合 = | 前シーズン = [[1985-86シーズン SSCナポリ|1985-86]] | 次シーズン = [[1987-88シーズン SSCナポリ|1987-88]] }} '''1986-87シーズン SSCナポリ'''は、[[SSCナポリ|ナポリ]]の1986-87シーズンの成績と所属選手を詳述する。 == 概要 == このシーズンの移籍市場で[[ダニエル・ベルトーニ]]を放出、この年の[[1986 FIFAワールドカップ|ワールドカップ]]で決勝点を決めた[[ホルヘ・ブルチャガ]]の獲得に動いたが、移籍交渉がまとまらずに獲得出来ずに終わった<ref>{{cite web|url=https://www.ouest-france.fr/sport/football/fc-nantes/fc-nantes-les-souvenirs-de-jorge-burruchaga-suaudeau-ma-donne-envie-dentrainer-65b17fd2-d243-11ed-96ad-1942048996da|title=FC Nantes. Les souvenirs de Jorge Burruchaga : « Suaudeau m’a donné envie d’entraîner »|website=OUEST France|date=2023-4-9|accessdate=2023-9-12}}</ref>。[[フェルナンド・デ・ナポリ]]、[[アンドレア・カルネヴァーレ]]らを補強したに留まった。 リーグ第24節で優勝を争っていた[[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]に2-1で勝利、1987年5月10日の[[ACFフィオレンティーナ|フィオレンティーナ]]戦を1-1で引き分け勝ち点1を獲得、この結果、初のセリエA優勝が決定した<ref>{{cite web|url=https://tg24.sky.it/sport/approfondimenti/maradona-napoli#00|title= Maradona e il Napoli: gol, scudetti e momenti memorabili. FOTO|website=SKY|dte=2020-11-25|accessdate=2023-9-12}}</ref>。2位のユヴェントスとは勝ち点3の差での優勝であった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.goal.com/jp/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9/%E5%BC%B1%E8%80%85%E3%81%AE%E5%A5%87%E8%B7%A1%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%81%8C%E8%B5%B7%E3%81%93%E3%81%97%E3%81%9F%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%AB%E5%8D%97%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%88%9D%E3%81%AE%E6%A0%84%E8%AA%89%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%82%BB%E3%83%AA%E3%82%A8a%E5%88%B6%E8%A6%87%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AA%E7%B7%A8/vd8j4tenjqfa1bvmxnn8mkp9o|title=弱者の奇跡:マラドーナが起こしたミラクル。南イタリア初の栄誉だったセリエA制覇/ナポリ編|website=GOAL|date=2020-5-6|accessdate=2023-9-12}}</ref>。更に[[コッパ・イタリア]]決勝でも[[アタランタBC|アタランタ]]を破って優勝を果たした<ref>{{cite web|url=https://sport.sky.it/calcio/2020/11/25/maradona-napoli-storia#00|title=Maradona e il Napoli, una storia piena di successi|website=SKY|date-2020-11-25|accessdate=2023-9-12}}</ref>。 == 所属選手 == *<ref>{{cite web|url=https://www.transfermarkt.co.uk/ssc-neapel/startseite/verein/6195/saison_id/1986|title=napoli 1986/87|website=Transfermarkt|accessdate=2023-9-12}}</ref> {{fs start}} {{fs player|no=|pos=GK|nat=ITA|name={{仮リンク|クラウディオ・ガレッラ|en|Claudio Garella}}}} {{fs player|no=|pos=GK|nat=ITA|name={{仮リンク|ラファエーレ・ディ・フスコ|en|Raffaele Di Fusco}}}} {{fs player|no=|pos=DF|nat=ITA|name={{仮リンク|アレッサンドロ・レニカ|en|Alessandro Renica}}}} {{fs player|no=|pos=DF|nat=ITA|name=[[チロ・フェラーラ]]}} {{fs player|no=|pos=DF|nat=ITA|name={{仮リンク|ジュゼッペ・・ブルスコロッティ|en|Giuseppe Bruscolotti}}}} {{fs player|no=|pos=DF|nat=ITA|name={{仮リンク|モレノ・フェッラーリオ|en|Moreno Ferrario}}}} {{fs player|no=|pos=DF|nat=ITA|name=[[アントニオ・カラナンテ]]}} {{fs player|no=|pos=DF|nat=ITA|name=[[ライモンド・マリーノ]]}} {{fs player|no=|pos=DF|nat=ITA|name=[[ジュゼッペ・ヴォルペチーナ]]}} {{fs player|no=|pos=DF|nat=ITA|name=[[テバルド・ビリアレディ]]}} {{fs player|no=|pos=DF|nat=ITA|name=[[マッシモ・フィラルディ]]}} {{fs mid}} {{fs player|no=|pos=MF|nat=ITA|name=[[サルバトーレ・バーニ]]}} {{fs 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<!--Update team results here and then (if needed) positions above.--> |win_NAP=15|draw_NAP=12|loss_NAP=3|gf_NAP=41|ga_NAP=21<!-- Napoli --> |win_JUV=14|draw_JUV=11|loss_JUV=5|gf_JUV=42|ga_JUV=27<!-- Juventus --> |win_INT=15|draw_INT=8|loss_INT=7|gf_INT=32|ga_INT=17<!-- Internazionale --> |win_VER=12|draw_VER=12|loss_VER=6|gf_VER=36|ga_VER=25<!-- Hellas Verona --> |win_MIL=13|draw_MIL=9|loss_MIL=8|gf_MIL=31|ga_MIL=21<!-- Milan --> |win_SAM=13|draw_SAM=9|loss_SAM=8|gf_SAM=37|ga_SAM=21<!-- Sampdoria --> |win_ROM=12|draw_ROM=9|loss_ROM=9|gf_ROM=37|ga_ROM=31<!-- Roma --> |win_AVE=9|draw_AVE=12|loss_AVE=9|gf_AVE=31|ga_AVE=38<!-- Avellino --> |win_COM=5|draw_COM=16|loss_COM=9|gf_COM=16|ga_COM=20<!-- Como --> |win_FIO=8|draw_FIO=10|loss_FIO=12|gf_FIO=30|ga_FIO=35<!-- Fiorentina --> |win_TOR=8|draw_TOR=10|loss_TOR=12|gf_TOR=26|ga_TOR=32<!-- Torino --> |win_ASC=7|draw_ASC=10|loss_ASC=13|gf_ASC=18|ga_ASC=33<!-- Ascoli --> |win_EMP=8|draw_EMP=7|loss_EMP=15|gf_EMP=13|ga_EMP=33<!-- Empoli --> 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グレッグ・ジャクソン
グレッグ・ジャクソン(Greg Jackson、1974年 - )は、アメリカ合衆国の総合格闘技トレーナー。ジャクソン・ウィンクMMAの創設者兼ヘッドトレーナー。 ワシントンD.C.のレスリング一家に生まれ、3歳の時ニューメキシコ州アルバカーキへ移住した。 ジャクソンは治安の悪い地域で育ち、そのため身を守るために格闘技を学び始めた。 1992 年、リオグランデ高校卒業後、ジャクソンはキャッチレスリングとムエタイの初歩的なテクニックと基本的な柔道の技を組み合わせた独自の格闘技であるガイドージュツ(ストリートの日本語訳「街頭」から来ている)を創設した。 2000年、正式に総合格闘技ジムとなった。 2007年、長年の友人であり打撃コーチのマイク・ウィンケルジョンとチームを組み、ジムの名称をジャクソン・ウィンクMMAに変更した。
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グレッグ・ジャクソンは、アメリカ合衆国の総合格闘技トレーナー。ジャクソン・ウィンクMMAの創設者兼ヘッドトレーナー。
{{Infobox martial artist | name = グレッグ・ジャクソン | image = GregJackson.png | image_size = 150px | caption = グレッグ・ジャクソン (2010年) | birth_name = グレゴリー・ジャクソン | birth_date = {{birth year and age|1974}} | birth_place = {{USA}}<br />[[ワシントンD.C.]] | children = | other_names = | residence = {{USA}}<br />[[ニューメキシコ州]][[アルバカーキ]] | nationality = {{USA}} | height = | weight_lb = | weight_class = | reach_in = | stance = | style = | fighting_out_of = | team = | rank = | wrestling = | years_active = | occupation = | university = | spouse = | relatives = | students = | club = | school = | url = | boxrec = | sherdog = | footnotes = | updated = }} '''グレッグ・ジャクソン'''(Greg Jackson、[[1974年]] - )は、[[アメリカ合衆国]]の[[総合格闘技]]トレーナー。[[ジャクソン・ウィンクMMA]]の創設者兼ヘッドトレーナー<ref>Rumours are that he may be training Zack "The Assassin" Stiles, 16 year old, in the future. [http://www.sherdog.com/news/news/Coaches-Honored-with-JacksonWinkeljohn-Day-22292 Coaches Honored with ‘Jackson/Winkeljohn Dat’], Sherdog Retrieved October 15, 2014</ref>。 == 来歴 == [[ワシントンD.C.]]の[[アマチュアレスリング|レスリング]]一家に生まれ、3歳の時[[ニューメキシコ州]][[アルバカーキ]]へ移住した。 ジャクソンは治安の悪い地域で育ち、そのため身を守るために格闘技を学び始めた。 1992 年、リオグランデ高校卒業後、ジャクソンは[[キャッチ・アズ・キャッチ・キャン|キャッチレスリング]]と[[ムエタイ]]の初歩的なテクニックと基本的な[[柔道]]の技を組み合わせた独自の格闘技である'''ガイドージュツ'''(ストリートの日本語訳「街頭」から来ている)を創設した。 2000年、正式に総合格闘技ジムとなった。 2007年、長年の友人であり打撃コーチのマイク・ウィンケルジョンとチームを組み、ジムの名称を[[ジャクソン・ウィンクMMA]]に変更した。 == 表彰 == * [[World MMA Awards]] ** コーチ・オブ・ザ・イヤー(2009年、2010年、2011年) ** ジム・オブ・ザ・イヤー(2009年、2015年)<ref>{{cite web|url=http://www.onlineawards.co.uk/fightersonly/2009Winners.asp |title=Fighters Only World Mixed Martial Arts Awards 2010 - 2009 Winners |publisher=Onlineawards.co.uk |access-date=2014-01-21}}</ref> == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[World MMA Awards]] == 外部リンク == * {{Instagram|jacksonwink_mma}} * {{Twitter|JacksonWinkMMA}} * [https://www.jacksonwink.com/ ジャクソン・ウィンクMMA公式サイト] {{DEFAULTSORT:しやくそん くれつく}} [[Category:総合格闘技のトレーナー]] [[Category:アルバカーキ出身の人物]] [[Category:1974年生]] [[Category:存命人物]]
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