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シンクレアジョセフ孝ノ助
シンクレア ジョセフ 孝ノ助(シンクレア ジョセフ こうのすけ、2001年6月12日 - )は、埼玉県吉川市出身のプロ野球選手(投手・育成選手)。埼玉西武ライオンズ所属。 日本人の母とカナダ人の父を持ち、埼玉県吉川市で生まれたが、生後まもなくカナダへ戻った。小学校2年生のときに1年間だけ日本で生活し、その際に『吉川ストーム』で野球を始め、再びカナダへ戻ってからはリトルリーグでプレー。2014年のリトルリーグ世界選手権ではカナダ代表に選出されていた。ポジションはずっと投手であった。 ジョンオリバー高校(英語版)卒業後はアメリカのコチス短大(英語版)、メアリー大学(英語版)でプレー。アメリカでの4年間ではMLB4球団のスカウトが視察に訪れるも、視察日に限って上手くアピールできなかった。卒業が近づき、野球を続けるか就職するか悩んだが、「野球を諦めきれなかったんです。日本で野球をやってみたいし、NPBに今一番近い球団じゃないかなって知り合いの方が言ってくれたので」と2023年5月19日に四国アイランドリーグplus・徳島インディゴソックスへの入団が発表された。 選手公示された5月26日時点では練習生で、6月2日に契約選手となった。前期最終戦となった6月7日の香川オリーブガイナーズ戦がプロ初登板となり、2回1失点(自責点0)であった。後期は10試合に登板し、この年は11試合の登板で1勝0敗、27イニングを投げて防御率0.67という成績を残した。 10月26日に開催されたドラフト会議にて、埼玉西武ライオンズから育成1位指名を受けた。11月14日に支度金350万円・年俸400万円(金額はいずれも推定)で仮契約を結んだ。 持ち球は最速151km/hのストレート、ツーシーム、スライダー、スプリット。 ツーシームとスライダーは横変化が大きく、「ツーシームとスライダーは日本ではそんなに見ないと思います」と本人も自信を持つ。ストレートもシュート方向への変化が平均より大きく、ゴロを量産する左腕である。 出典は四国アイランドリーグplusデータサイト。
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シンクレア ジョセフ 孝ノ助は、埼玉県吉川市出身のプロ野球選手(投手・育成選手)。埼玉西武ライオンズ所属。
{{Infobox baseball player | 選手名 = シンクレア ジョセフ 孝ノ助 | 所属球団 = 埼玉西武ライオンズ | 背番号 = 125 | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | 国籍 = {{JPN}} | 出身地 = [[埼玉県]][[吉川市]] | 生年月日 = {{生年月日と年齢|2001|6|12}} | 身長 = 193 | 体重 = 94 | 利き腕 = 左 | 打席 = 右 | 守備位置 = [[投手]] | プロ入り年度 = NPB / {{NPBドラフト|2023}} | ドラフト順位 = 育成選手ドラフト1位 | 初出場 = | 最終出場 = | 年俸 = 400万円(2024年) | 経歴 = * {{仮リンク|ジョンオリバー高校|en|John Oliver Secondary School}} * {{仮リンク|コチス短大|en|Cochise College}} * {{仮リンク|メアリー大学|en|University of Mary}} * [[徳島インディゴソックス]] (2023) * [[埼玉西武ライオンズ]] (2024 - ) }} '''シンクレア ジョセフ 孝ノ助'''(シンクレア ジョセフ こうのすけ、[[2001年]][[6月12日]] - )は、[[埼玉県]][[吉川市]]出身の[[プロ野球選手]]([[投手]]・[[育成選手制度 (日本プロ野球)|育成選手]])。[[埼玉西武ライオンズ]]所属。 == 経歴 == === プロ入り前 === 日本人の母とカナダ人の父を持ち、[[埼玉県]][[吉川市]]で生まれたが<ref name="spaia20231114">{{Cite web |url=https://spaia.jp/column/baseball/npb/24417 |title=【西武】四国IL徳島の宮澤太成、シンクレア・ジョセフ・孝ノ助、谷口朝陽の3選手が入団内諾 |publisher=SPAIA |date=2023-11-14 |accessdate=2023-11-15}}</ref>、生後まもなくカナダへ戻った。小学校2年生のときに1年間だけ日本で生活し、その際に『吉川ストーム』で野球を始め、再びカナダへ戻ってからはリトルリーグでプレー<ref name="fullcount20231022">{{Cite web |url=https://full-count.jp/2023/10/22/post1459898/ |title=メジャーも注目、“逆輸入”左腕がドラフトへ 防御率0点台…「日本で見ない」独特の軌道 |publisher=Full-Count |date=2023-10-22 |accessdate=2023-11-15}}</ref>。{{by|2014年}}のリトルリーグ世界選手権ではカナダ代表に選出されていた<ref name="sportsnavi20231028">{{Cite news |url=https://sports.yahoo.co.jp/official/detail/2023102400067-spnaviow |author=徳島インディゴソックス |title=【西武育成1位】「シンクレア」を知るにはまずこれを読め! |newspaper=Sports navi |date=2023-10-28 |accessdate=2023-11-15}}</ref>。ポジションはずっと投手であった<ref name="number20231022">{{Cite web |url=https://number.bunshun.jp/articles/-/859306?page=4 |title=1年で140キロ台→159キロ腕や巨人・増田の弟…ドラフト候補だらけの上に「162キロ謎のドミニカ剛腕」も!〈独立L最強・徳島が推す6人〉 |publisher=Number Web |date=2023-10-22 |accessdate=2023-11-15}}</ref>。 {{仮リンク|ジョンオリバー高校|en|John Oliver Secondary School}}卒業後はアメリカの{{仮リンク|コチス短大|en|Cochise College}}、{{仮リンク|メアリー大学|en|University of Mary}}でプレー{{R|sportsnavi20231028}}。アメリカでの4年間では[[メジャーリーグベースボール|MLB]]4球団のスカウトが視察に訪れるも、視察日に限って上手くアピールできなかった{{R|fullcount20231022}}。卒業が近づき、野球を続けるか就職するか悩んだが、「野球を諦めきれなかったんです。日本で野球をやってみたいし、[[日本野球機構|NPB]]に今一番近い球団じゃないかなって知り合いの方が言ってくれたので{{R|fullcount20231022}}」と{{by|2023年}}5月19日に[[四国アイランドリーグplus]]・[[徳島インディゴソックス]]への入団が発表された<ref>{{Cite web |url=https://www.iblj.co.jp/news/18025/ |title=徳島IS 新入団選手のお知らせ |publisher=四国アイランドリーグplus 公式サイト |date=2023-05-19 |accessdate=2023-11-15}}</ref>。 === 四国IL・徳島時代 === 選手公示された5月26日時点では練習生で<ref>[https://www.iblj.co.jp/news/18037/ 5月26日(金) 選手登録・抹消公示] - 四国アイランドリーグplusニュースリリース(2023年5月26日、ページに添付されたPDFファイルを参照)2023年11月26日閲覧。</ref>、6月2日に契約選手となった<ref>[https://www.iblj.co.jp/news/18060/ 6月2日(金) 選手登録・抹消公示] - 四国アイランドリーグplusニュースリリース(2023年6月2日)2023年11月26日閲覧。</ref>{{Efn|2023年はこの後、6月28日 - 7月5日と7月12日 - 19日にも練習生に変更(登録抹消)されている<ref>[https://www.iblj.co.jp/news/18129/ 6月28日(水) 選手登録・抹消公示] - 四国アイランドリーグplusニュースリリース(2023年6月28日)2023年11月26日閲覧。</ref><ref>[https://www.iblj.co.jp/news/18143/ 7月5日(水) 選手登録・抹消公示] - 四国アイランドリーグplusニュースリリース(2023年7月5日)2023年11月26日閲覧。</ref><ref>[https://www.iblj.co.jp/news/18160/ 7月12日(水) 選手登録・抹消公示] - 四国アイランドリーグplusニュースリリース(2023年7月12日)2023年11月26日閲覧。</ref><ref>[https://www.iblj.co.jp/news/18181/ 7月19日(水) 選手登録・抹消公示] - 四国アイランドリーグplusニュースリリース(2023年7月19日)2023年11月26日閲覧。</ref>。}}。前期最終戦となった6月7日の[[香川オリーブガイナーズ]]戦<ref>{{Cite news |url=https://www.shikoku-np.co.jp/sports/iblj/20230608000156 |title=四国ILplus=香川、前期最終戦飾る 徳島に4―0 |newspaper=四国新聞 |date=2023-06-08 |accessdate=2023-11-15}}</ref>がプロ初登板となり、2回1失点(自責点0)であった<ref name="ilds">{{Cite web |url=https://data.iblj.co.jp/players/2110007/2023 |title=選手データ シンクレア |publisher=四国アイランドリーグplus データサイト |date= |accessdate=2023-11-15}}</ref>。後期は10試合に登板し、この年は11試合の登板で1勝0敗、27イニングを投げて防御率0.67という成績を残した<ref name="indigo20231026">{{Cite web |url=https://indigo-socks.com/news/team/5985/ |title=2023NPBドラフト会議 指名選手のお知らせ |publisher=徳島インディゴソックスOfficial Site |date=2023-10-26 |accessdate=2023-11-15}}</ref>。 10月26日に開催された[[2023年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト会議]]にて、[[埼玉西武ライオンズ]]から育成1位指名を受けた{{R|indigo20231026}}。11月14日に支度金350万円・年俸400万円(金額はいずれも推定)で仮契約を結んだ<ref>{{Cite web |url=https://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/20231114/8020019017.html |title=西武から指名の徳島インディゴソックス3選手が仮契約 |publisher=NHK |date=2023-11-14 |accessdate=2023-11-15}}</ref>。 == 選手としての特徴 == 持ち球は最速151km/hの[[速球|ストレート]]、[[速球#ツーシーム・ファストボール|ツーシーム]]、[[スライダー (球種)|スライダー]]、[[フォークボール#スプリットフィンガード・ファストボール|スプリット]]{{R|number20231022}}。 ツーシームとスライダーは横変化が大きく{{R|sportsnavi20231028}}、「ツーシームとスライダーは日本ではそんなに見ないと思います」と本人も自信を持つ{{R|fullcount20231022}}。ストレートもシュート方向への変化が平均より大きく{{R|sportsnavi20231028}}、ゴロを量産する左腕である{{R|spaia20231114}}。 == 詳細情報 == === 独立リーグでの投手成績 === 出典は四国アイランドリーグplusデータサイト<ref name="ilds"/>。 {|{{投手成績|リーグ=四国アイランドリーグplus}} |- |style="text-align: center;"|{{by2|2023}} |rowspan="1" style="text-align: center; white-space:nowrap;"|[[徳島インディゴソックス|徳島]] |11||0||0||0||0||1||0||0||1||1.000||108||27.0||18||1||8||-||3||21||0||0||3||2||0.67||0.96 |- !colspan="2"|通算:1年 |11||0||0||0||0||1||0||0||1||1.000||108||27.0||18||1||8||-||3||21||0||0||3||2||0.67||0.96 |} === 背番号 === * '''47''' (2023年) * '''125'''(2024年 - ) === 登録名 === * '''シンクレア'''(2023年)<ref>{{Cite web|和書|url=https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/2023092500001-spnavi?p=2|title=一芸に秀でた独立リーグのドラフト候補投手たち 「剛速球or高身長or若さ」が指名されるための必要条件|author=金沢慧|date=2023-09-26|work=スポーツナビ|page=2|accessdate=2023-12-04}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[埼玉県出身の人物一覧]] * [[徳島インディゴソックスの選手一覧]] * [[埼玉西武ライオンズの選手一覧]] == 外部リンク == {{埼玉西武ライオンズの選手・スタッフ}} {{埼玉西武ライオンズ2023年ドラフト指名選手}} {{デフォルトソート:しんくれあ しよせふ こうのすけ}} [[Category:日本の野球選手]] [[Category:徳島インディゴソックスの選手]] [[Category:埼玉西武ライオンズの育成選手]] [[Category:カナダ系日本人のスポーツ選手]] [[Category:埼玉県出身の人物]] [[Category:2001年生]] [[Category:存命人物]]
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ロリス型下目
ロリス型下目(ロリスがたかもく、Lorisiformes)は、哺乳綱霊長目曲鼻亜目に分類される下目。ロリス下目(ロリスかもく)ともいう。キツネザル型下目に含めてロリス上科(ロリスじょうか、Lorisoidea)とされることもある。夜行性の樹上性哺乳類であり、アジアとアフリカに分布するロリス科と、アフリカに分布するガラゴ科が含まれる。 上行咽頭動脈の形態が類似するコビトキツネザル科を本下目に含める説もあるが、分子系統学的研究からは単系統性が支持されていない。以下の科をロリス亜科Lorisinae・ガラゴ亜科Galaginaeとしてロリス科にまとめる説もある。一方でロリス科のうちアジアのロリス亜科とアフリカのPerodicticinae亜科の分岐年代が古いことから、これらの亜科がそれぞれ独立した科となる可能性が示唆されている。 以下の分類は、Groves (2005) に従う。
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ロリス型下目(ロリスがたかもく、Lorisiformes)は、哺乳綱霊長目曲鼻亜目に分類される下目。ロリス下目(ロリスかもく)ともいう。キツネザル型下目に含めてロリス上科(ロリスじょうか、Lorisoidea)とされることもある。夜行性の樹上性哺乳類であり、アジアとアフリカに分布するロリス科と、アフリカに分布するガラゴ科が含まれる。
{{生物分類表 |省略 = 哺乳綱 |名称 = ロリス型下目 |画像=[[ファイル:Sri Lankan Slender Loris 1.jpg|250px|アカスレンダーロリス]] |画像キャプション = '''アカスレンダーロリス''' ''Loris tardigradus'' |目 = [[霊長目]] [[w:Primate|Primates]] |亜目 = [[曲鼻亜目]] [[w:Strepsirrhini|Strepsirrhini]] |下目 = '''ロリス型下目''' [[w:Lorisoidea|Lorisiformes]] |学名 = Lorisiformes Gregory, 1915<ref name="groves">[[コリン・グローヴズ|Colin P. Groves]], “[http://www.departments.bucknell.edu/biology/resources/msw3/browse.asp?id=12100100 Order Primates],” In: Don E. Wilson & DeeAnn M. Reeder (eds.), ''Mammal Species of the World'', (3rd ed.), Volume 1, Johns Hopkins University Press, 2005, Pages 111–184.</ref><ref name="iwamoto">岩本光雄「[https://doi.org/10.2354/psj.5.129 サルの分類名(その8:原猿)]」『霊長類研究』第5巻 2号、日本霊長類学会、1989年、129–141頁。</ref> |和名 = ロリス型下目<ref name="kawada_et_al">[[川田伸一郎]]・岩佐真宏・福井大・新宅勇太・天野雅男・下稲葉さやか・樽創・姉崎智子・[[横畑泰志]] 「[https://doi.org/10.11238/mammalianscience.58.S1 世界哺乳類標準和名目録]」『[[哺乳類科学]]』第58巻 別冊、[[日本哺乳類学会]]、2018年、1–53頁。</ref> | 下位分類名 = [[科 (分類学)|科]] | 下位分類 = * [[ガラゴ科]] [[w:Galago|Galagidae]] * [[ロリス科]] [[w:Lorisidae|Lorisidae]] }} '''ロリス型下目'''(ロリスがたかもく、Lorisiformes)は、[[哺乳類|哺乳綱]][[霊長目]][[曲鼻亜目]]に分類される[[目 (分類学)|下目]]。'''ロリス下目'''(ロリスかもく)ともいう<ref name="iwamoto" /><ref name="jmc">[http://www.j-monkey.jp/index.html 日本モンキーセンター]霊長類和名編纂ワーキンググループ 「[http://www.j-monkey.jp/publication/specieslist/JMC-PrimateSpeciesList-Nov2018.pdf 日本モンキーセンター 霊長類和名リスト 2018年11月版]」(公開日2018年12月16日・2023年11月15日閲覧)</ref>。[[キツネザル型下目]]に含めて'''ロリス上科'''(ロリスじょうか、Lorisoidea)とされることもある<ref name="iwamoto" /><ref name="aimi_koyama">相見滿・小山直樹「[https://doi.org/10.2354/psj.22.97 キツネザル類はどのように分類されてきたか]」『霊長類研究』第22巻 2号、日本霊長類学会、2006年、97–116頁。</ref>。夜行性の樹上性哺乳類であり、アジアとアフリカに分布する[[ロリス科]]と、アフリカに分布する[[ガラゴ科]]が含まれる<ref name="groves" /><ref name="iwamoto" /><ref name="jmc" />。 == 分類 == [[上行咽頭動脈]]の形態が類似する[[コビトキツネザル科]]を本下目に含める説もあるが<ref name="iwamoto" />、分子系統学的研究からは単系統性が支持されていない<ref name="aimi_koyama" />。以下の科をロリス亜科Lorisinae・ガラゴ亜科Galaginaeとしてロリス科にまとめる説もある<ref name="iwamoto" />。一方でロリス科のうちアジアのロリス亜科とアフリカのPerodicticinae亜科の分岐年代が古いことから、これらの亜科がそれぞれ独立した科となる可能性が示唆されている<ref name="pozzi_et_al">Luca Pozzi, K. Anne-Isola Nekaris, Andrew Perkin, Simon K. Bearder, Elizabeth R. Pimley, Helga Schulze, Ulrike Streicher, Tilo Nadler, Andrew Kitchener, Hans Zischler, Dietmar Zinner & Christian Roos, “[https://doi.org/10.1111/zoj.12286 Remarkable ancient divergences amongst neglected lorisiform primates],” ''Zoological Journal of the Linnean Society'', Volume 175, Issue 3, Linnean Society of London, 2015, Pages 661–674.</ref>。 以下の分類は、Groves (2005) に従う<ref name="groves" />。 * [[ガラゴ科]] [[w:Galago|Galagidae]] * [[ロリス科]] [[w:Lorisidae|Lorisidae]] == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Lorisiformes|ロリス型下目}} {{Species|Lorisoidea|ロリス上科}} {{Animal-stub}} {{デフォルトソート:ろりすかたかもく}} [[Category:曲鼻亜目]]
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各年の死亡一覧
各年の死亡一覧
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各年の死亡一覧
'''各年の死亡一覧''' {{訃報記事/各月}} {{訃報記事}} == 2020年代 == === 2023年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 2023年1月]] * [[訃報 2023年2月]] * [[訃報 2023年3月]] * [[訃報 2023年4月]] * [[訃報 2023年5月]] * [[訃報 2023年6月]] * [[訃報 2023年7月]] * [[訃報 2023年8月]] * [[訃報 2023年9月]] * [[訃報 2023年10月]] * [[訃報 2023年11月]] * [[訃報 2023年12月]] }} === 2022年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 2022年1月]] * [[訃報 2022年2月]] * [[訃報 2022年3月]] * [[訃報 2022年4月]] * [[訃報 2022年5月]] * [[訃報 2022年6月]] * [[訃報 2022年7月]] * [[訃報 2022年8月]] * [[訃報 2022年9月]] * [[訃報 2022年10月]] * [[訃報 2022年11月]] * [[訃報 2022年12月]] }} === 2021年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 2021年1月]] * [[訃報 2021年2月]] * [[訃報 2021年3月]] * [[訃報 2021年4月]] * [[訃報 2021年5月]] * [[訃報 2021年6月]] * [[訃報 2021年7月]] * [[訃報 2021年8月]] * [[訃報 2021年9月]] * [[訃報 2021年10月]] * [[訃報 2021年11月]] * [[訃報 2021年12月]] }} === 2020年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 2020年1月]] * [[訃報 2020年2月]] * [[訃報 2020年3月]] * [[訃報 2020年4月]] * [[訃報 2020年5月]] * [[訃報 2020年6月]] * [[訃報 2020年7月]] * [[訃報 2020年8月]] * [[訃報 2020年9月]] * [[訃報 2020年10月]] * [[訃報 2020年11月]] * [[訃報 2020年12月]] }} == 2010年代 == === 2019年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 2019年1月]] * [[訃報 2019年2月]] * [[訃報 2019年3月]] * [[訃報 2019年4月]] * [[訃報 2019年5月]] * [[訃報 2019年6月]] * [[訃報 2019年7月]] * [[訃報 2019年8月]] * [[訃報 2019年9月]] * [[訃報 2019年10月]] * [[訃報 2019年11月]] * [[訃報 2019年12月]] }} === 2018年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 2018年1月]] * [[訃報 2018年2月]] * [[訃報 2018年3月]] * [[訃報 2018年4月]] * [[訃報 2018年5月]] * [[訃報 2018年6月]] * [[訃報 2018年7月]] * [[訃報 2018年8月]] * [[訃報 2018年9月]] * [[訃報 2018年10月]] * [[訃報 2018年11月]] * [[訃報 2018年12月]] }} === 2017年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 2017年1月]] * [[訃報 2017年2月]] * [[訃報 2017年3月]] * [[訃報 2017年4月]] * [[訃報 2017年5月]] * [[訃報 2017年6月]] * [[訃報 2017年7月]] * [[訃報 2017年8月]] * [[訃報 2017年9月]] * [[訃報 2017年10月]] * [[訃報 2017年11月]] * [[訃報 2017年12月]] }} === 2016年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 2016年1月]] * [[訃報 2016年2月]] * [[訃報 2016年3月]] * [[訃報 2016年4月]] * [[訃報 2016年5月]] * [[訃報 2016年6月]] * [[訃報 2016年7月]] * [[訃報 2016年8月]] * [[訃報 2016年9月]] * [[訃報 2016年10月]] * [[訃報 2016年11月]] * [[訃報 2016年12月]] }} === 2015年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 2015年1月]] * [[訃報 2015年2月]] * [[訃報 2015年3月]] * [[訃報 2015年4月]] * [[訃報 2015年5月]] * [[訃報 2015年6月]] * [[訃報 2015年7月]] * [[訃報 2015年8月]] * [[訃報 2015年9月]] * [[訃報 2015年10月]] * [[訃報 2015年11月]] * [[訃報 2015年12月]] }} === 2014年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 2014年1月]] * [[訃報 2014年2月]] * [[訃報 2014年3月]] * [[訃報 2014年4月]] * [[訃報 2014年5月]] * [[訃報 2014年6月]] * [[訃報 2014年7月]] * [[訃報 2014年8月]] * [[訃報 2014年9月]] * [[訃報 2014年10月]] * [[訃報 2014年11月]] * [[訃報 2014年12月]] }} === 2013年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 2013年1月]] * [[訃報 2013年2月]] * [[訃報 2013年3月]] * [[訃報 2013年4月]] * [[訃報 2013年5月]] * [[訃報 2013年6月]] * [[訃報 2013年7月]] * [[訃報 2013年8月]] * [[訃報 2013年9月]] * [[訃報 2013年10月]] * [[訃報 2013年11月]] * [[訃報 2013年12月]] }} === 2012年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 2012年1月]] * [[訃報 2012年2月]] * [[訃報 2012年3月]] * [[訃報 2012年4月]] * [[訃報 2012年5月]] * [[訃報 2012年6月]] * [[訃報 2012年7月]] * [[訃報 2012年8月]] * [[訃報 2012年9月]] * [[訃報 2012年10月]] * [[訃報 2012年11月]] * [[訃報 2012年12月]] }} === 2011年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 2011年1月]] * [[訃報 2011年2月]] * [[訃報 2011年3月]] * [[訃報 2011年4月]] * [[訃報 2011年5月]] * [[訃報 2011年6月]] * [[訃報 2011年7月]] * [[訃報 2011年8月]] * [[訃報 2011年9月]] * [[訃報 2011年10月]] * [[訃報 2011年11月]] * [[訃報 2011年12月]] }} === 2010年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 2010年1月]] * [[訃報 2010年2月]] * [[訃報 2010年3月]] * [[訃報 2010年4月]] * [[訃報 2010年5月]] * [[訃報 2010年6月]] * [[訃報 2010年7月]] * [[訃報 2010年8月]] * [[訃報 2010年9月]] * [[訃報 2010年10月]] * [[訃報 2010年11月]] * [[訃報 2010年12月]] }} == 2000年代 == === 2009年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 2009年1月]] * [[訃報 2009年2月]] * [[訃報 2009年3月]] * [[訃報 2009年4月]] * [[訃報 2009年5月]] * [[訃報 2009年6月]] * [[訃報 2009年7月]] * [[訃報 2009年8月]] * [[訃報 2009年9月]] * [[訃報 2009年10月]] * [[訃報 2009年11月]] * [[訃報 2009年12月]] }} === 2008年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 2008年1月]] * [[訃報 2008年2月]] * [[訃報 2008年3月]] * [[訃報 2008年4月]] * [[訃報 2008年5月]] * [[訃報 2008年6月]] * [[訃報 2008年7月]] * [[訃報 2008年8月]] * [[訃報 2008年9月]] * [[訃報 2008年10月]] * [[訃報 2008年11月]] * [[訃報 2008年12月]] }} === 2007年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 2007年1月]] * [[訃報 2007年2月]] * [[訃報 2007年3月]] * [[訃報 2007年4月]] * [[訃報 2007年5月]] * [[訃報 2007年6月]] * [[訃報 2007年7月]] * [[訃報 2007年8月]] * [[訃報 2007年9月]] * [[訃報 2007年10月]] * [[訃報 2007年11月]] * [[訃報 2007年12月]] }} === 2006年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 2006年1月]] * [[訃報 2006年2月]] * [[訃報 2006年3月]] * [[訃報 2006年4月]] * [[訃報 2006年5月]] * [[訃報 2006年6月]] * [[訃報 2006年7月]] * [[訃報 2006年8月]] * [[訃報 2006年9月]] * [[訃報 2006年10月]] * [[訃報 2006年11月]] * [[訃報 2006年12月]] }} === 2005年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 2005年1月]] * [[訃報 2005年2月]] * [[訃報 2005年3月]] * [[訃報 2005年4月]] * [[訃報 2005年5月]] * [[訃報 2005年6月]] * [[訃報 2005年7月]] * [[訃報 2005年8月]] * [[訃報 2005年9月]] * [[訃報 2005年10月]] * [[訃報 2005年11月]] * [[訃報 2005年12月]] }} === 2004年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 2004年1月]] * [[訃報 2004年2月]] * [[訃報 2004年3月]] * [[訃報 2004年4月]] * [[訃報 2004年5月]] * [[訃報 2004年6月]] * [[訃報 2004年7月]] * [[訃報 2004年8月]] * [[訃報 2004年9月]] * [[訃報 2004年10月]] * [[訃報 2004年11月]] * [[訃報 2004年12月]] }} === 2003年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 2003年1月]] * [[訃報 2003年2月]] * [[訃報 2003年3月]] * [[訃報 2003年4月]] * [[訃報 2003年5月]] * [[訃報 2003年6月]] * [[訃報 2003年7月]] * [[訃報 2003年8月]] * [[訃報 2003年9月]] * [[訃報 2003年10月]] * [[訃報 2003年11月]] * [[訃報 2003年12月]] }} === 2002年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 2002年1月]] * [[訃報 2002年2月]] * [[訃報 2002年3月]] * [[訃報 2002年4月]] * [[訃報 2002年5月]] * [[訃報 2002年6月]] * [[訃報 2002年7月]] * [[訃報 2002年8月]] * [[訃報 2002年9月]] * [[訃報 2002年10月]] * [[訃報 2002年11月]] * [[訃報 2002年12月]] }} === 2001年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 2001年1月]] * [[訃報 2001年2月]] * [[訃報 2001年3月]] * [[訃報 2001年4月]] * [[訃報 2001年5月]] * [[訃報 2001年6月]] * [[訃報 2001年7月]] * [[訃報 2001年8月]] * [[訃報 2001年9月]] * [[訃報 2001年10月]] * [[訃報 2001年11月]] * [[訃報 2001年12月]] }} === 2000年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 2000年1月]] * [[訃報 2000年2月]] * [[訃報 2000年3月]] * [[訃報 2000年4月]] * [[訃報 2000年5月]] * [[訃報 2000年6月]] * [[訃報 2000年7月]] * [[訃報 2000年8月]] * [[訃報 2000年9月]] * [[訃報 2000年10月]] * [[訃報 2000年11月]] * [[訃報 2000年12月]] }} == 1990年代 == === 1999年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 1999年1月]] * [[訃報 1999年2月]] * [[訃報 1999年3月]] * [[訃報 1999年4月]] * [[訃報 1999年5月]] * [[訃報 1999年6月]] * [[訃報 1999年7月]] * [[訃報 1999年8月]] * [[訃報 1999年9月]] * [[訃報 1999年10月]] * [[訃報 1999年11月]] * [[訃報 1999年12月]] }} === 1998年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 1998年1月]] * [[訃報 1998年2月]] * [[訃報 1998年3月]] * [[訃報 1998年4月]] * [[訃報 1998年5月]] * [[訃報 1998年6月]] * [[訃報 1998年7月]] * [[訃報 1998年8月]] * [[訃報 1998年9月]] * [[訃報 1998年10月]] * [[訃報 1998年11月]] * [[訃報 1998年12月]] }} === 1997年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 1997年1月]] * [[訃報 1997年2月]] * [[訃報 1997年3月]] * [[訃報 1997年4月]] * [[訃報 1997年5月]] * [[訃報 1997年6月]] * [[訃報 1997年7月]] * [[訃報 1997年8月]] * [[訃報 1997年9月]] * [[訃報 1997年10月]] * [[訃報 1997年11月]] * [[訃報 1997年12月]] }} === 1996年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 1996年1月]] * [[訃報 1996年2月]] * [[訃報 1996年3月]] * [[訃報 1996年4月]] * [[訃報 1996年5月]] * [[訃報 1996年6月]] * [[訃報 1996年7月]] * [[訃報 1996年8月]] * [[訃報 1996年9月]] * [[訃報 1996年10月]] * [[訃報 1996年11月]] * [[訃報 1996年12月]] }} === 1995年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 1995年1月]] * [[訃報 1995年2月]] * [[訃報 1995年3月]] * [[訃報 1995年4月]] * [[訃報 1995年5月]] * [[訃報 1995年6月]] * [[訃報 1995年7月]] * [[訃報 1995年8月]] * [[訃報 1995年9月]] * [[訃報 1995年10月]] * [[訃報 1995年11月]] * [[訃報 1995年12月]] }} === 1994年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 1994年1月]] * [[訃報 1994年2月]] * [[訃報 1994年3月]] * [[訃報 1994年4月]] * [[訃報 1994年5月]] * [[訃報 1994年6月]] * [[訃報 1994年7月]] * [[訃報 1994年8月]] * [[訃報 1994年9月]] * [[訃報 1994年10月]] * [[訃報 1994年11月]] * [[訃報 1994年12月]] }} === 1993年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 1993年1月]] * [[訃報 1993年2月]] * [[訃報 1993年3月]] * [[訃報 1993年4月]] * [[訃報 1993年5月]] * [[訃報 1993年6月]] * [[訃報 1993年7月]] * [[訃報 1993年8月]] * [[訃報 1993年9月]] * [[訃報 1993年10月]] * [[訃報 1993年11月]] * [[訃報 1993年12月]] }} === 1992年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 1992年1月]] * [[訃報 1992年2月]] * [[訃報 1992年3月]] * [[訃報 1992年4月]] * [[訃報 1992年5月]] * [[訃報 1992年6月]] * [[訃報 1992年7月]] * [[訃報 1992年8月]] * [[訃報 1992年9月]] * [[訃報 1992年10月]] * [[訃報 1992年11月]] * [[訃報 1992年12月]] }} === 1991年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 1991年1月]] * [[訃報 1991年2月]] * [[訃報 1991年3月]] * [[訃報 1991年4月]] * [[訃報 1991年5月]] * [[訃報 1991年6月]] * [[訃報 1991年7月]] * [[訃報 1991年8月]] * [[訃報 1991年9月]] * [[訃報 1991年10月]] * [[訃報 1991年11月]] * [[訃報 1991年12月]] }} === 1990年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 1990年1月]] * [[訃報 1990年2月]] * [[訃報 1990年3月]] * [[訃報 1990年4月]] * [[訃報 1990年5月]] * [[訃報 1990年6月]] * [[訃報 1990年7月]] * [[訃報 1990年8月]] * [[訃報 1990年9月]] * [[訃報 1990年10月]] * [[訃報 1990年11月]] * [[訃報 1990年12月]] }} == 1980年代 == === 1989年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 1989年1月]] * [[訃報 1989年2月]] * [[訃報 1989年3月]] * [[訃報 1989年4月]] * [[訃報 1989年5月]] * [[訃報 1989年6月]] * [[訃報 1989年7月]] * [[訃報 1989年8月]] * [[訃報 1989年9月]] * [[訃報 1989年10月]] * [[訃報 1989年11月]] * [[訃報 1989年12月]] }} === 1988年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 1988年1月]] * [[訃報 1988年2月]] * [[訃報 1988年3月]] * [[訃報 1988年4月]] * [[訃報 1988年5月]] * [[訃報 1988年6月]] * [[訃報 1988年7月]] * [[訃報 1988年8月]] * [[訃報 1988年9月]] * [[訃報 1988年10月]] * [[訃報 1988年11月]] * [[訃報 1988年12月]] }} === 1987年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 1987年1月]] * [[訃報 1987年2月]] * [[訃報 1987年3月]] * [[訃報 1987年4月]] * [[訃報 1987年5月]] * [[訃報 1987年6月]] * [[訃報 1987年7月]] * [[訃報 1987年8月]] * [[訃報 1987年9月]] * [[訃報 1987年10月]] * [[訃報 1987年11月]] * [[訃報 1987年12月]] }} === 1986年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 1986年1月]] * [[訃報 1986年2月]] * [[訃報 1986年3月]] * [[訃報 1986年4月]] * [[訃報 1986年5月]] * [[訃報 1986年6月]] * [[訃報 1986年7月]] * [[訃報 1986年8月]] * [[訃報 1986年9月]] * [[訃報 1986年10月]] * [[訃報 1986年11月]] * [[訃報 1986年12月]] }} === 1985年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 1985年1月]] * [[訃報 1985年2月]] * [[訃報 1985年3月]] * [[訃報 1985年4月]] * [[訃報 1985年5月]] * [[訃報 1985年6月]] * [[訃報 1985年7月]] * [[訃報 1985年8月]] * [[訃報 1985年9月]] * [[訃報 1985年10月]] * [[訃報 1985年11月]] * [[訃報 1985年12月]] }} === 1984年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 1984年1月]] * [[訃報 1984年2月]] * [[訃報 1984年3月]] * [[訃報 1984年4月]] * [[訃報 1984年5月]] * [[訃報 1984年6月]] * [[訃報 1984年7月]] * [[訃報 1984年8月]] * [[訃報 1984年9月]] * [[訃報 1984年10月]] * [[訃報 1984年11月]] * [[訃報 1984年12月]] }} === 1983年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 1983年1月]] * [[訃報 1983年2月]] * [[訃報 1983年3月]] * [[訃報 1983年4月]] * [[訃報 1983年5月]] * [[訃報 1983年6月]] * [[訃報 1983年7月]] * [[訃報 1983年8月]] * [[訃報 1983年9月]] * [[訃報 1983年10月]] * [[訃報 1983年11月]] * [[訃報 1983年12月]] }} === 1982年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 1982年1月]] * [[訃報 1982年2月]] * [[訃報 1982年3月]] * [[訃報 1982年4月]] * [[訃報 1982年5月]] * [[訃報 1982年6月]] * [[訃報 1982年7月]] * [[訃報 1982年8月]] * [[訃報 1982年9月]] * [[訃報 1982年10月]] * [[訃報 1982年11月]] * [[訃報 1982年12月]] }} === 1981年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 1981年1月]] * [[訃報 1981年2月]] * [[訃報 1981年3月]] * [[訃報 1981年4月]] * [[訃報 1981年5月]] * [[訃報 1981年6月]] * [[訃報 1981年7月]] * [[訃報 1981年8月]] * [[訃報 1981年9月]] * [[訃報 1981年10月]] * [[訃報 1981年11月]] * [[訃報 1981年12月]] }} === 1980年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 1980年1月]] * [[訃報 1980年2月]] * [[訃報 1980年3月]] * [[訃報 1980年4月]] * [[訃報 1980年5月]] * [[訃報 1980年6月]] * [[訃報 1980年7月]] * [[訃報 1980年8月]] * [[訃報 1980年9月]] * [[訃報 1980年10月]] * [[訃報 1980年11月]] * [[訃報 1980年12月]] }} == 1970年代 == === 1979年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 1979年1月]] * [[訃報 1979年2月]] * [[訃報 1979年3月]] * [[訃報 1979年4月]] * [[訃報 1979年5月]] * [[訃報 1979年6月]] * [[訃報 1979年7月]] * [[訃報 1979年8月]] * [[訃報 1979年9月]] * [[訃報 1979年10月]] * [[訃報 1979年11月]] * [[訃報 1979年12月]] }} === 1978年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 1978年1月]] * [[訃報 1978年2月]] * [[訃報 1978年3月]] * [[訃報 1978年4月]] * [[訃報 1978年5月]] * [[訃報 1978年6月]] * [[訃報 1978年7月]] * [[訃報 1978年8月]] * [[訃報 1978年9月]] * [[訃報 1978年10月]] * [[訃報 1978年11月]] * [[訃報 1978年12月]] }} === 1977年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 1977年1月]] * [[訃報 1977年2月]] * [[訃報 1977年3月]] * [[訃報 1977年4月]] * [[訃報 1977年5月]] * [[訃報 1977年6月]] * [[訃報 1977年7月]] * [[訃報 1977年8月]] * [[訃報 1977年9月]] * [[訃報 1977年10月]] * [[訃報 1977年11月]] * [[訃報 1977年12月]] }} === 1976年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 1976年1月]] * [[訃報 1976年2月]] * [[訃報 1976年3月]] * [[訃報 1976年4月]] * [[訃報 1976年5月]] * [[訃報 1976年6月]] * [[訃報 1976年7月]] * [[訃報 1976年8月]] * [[訃報 1976年9月]] * [[訃報 1976年10月]] * [[訃報 1976年11月]] * [[訃報 1976年12月]] }} === 1975年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 1975年1月]] * [[訃報 1975年2月]] * [[訃報 1975年3月]] * [[訃報 1975年4月]] * [[訃報 1975年5月]] * [[訃報 1975年6月]] * [[訃報 1975年7月]] * [[訃報 1975年8月]] * [[訃報 1975年9月]] * [[訃報 1975年10月]] * [[訃報 1975年11月]] * [[訃報 1975年12月]] }} === 1974年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 1974年1月]] * [[訃報 1974年2月]] * [[訃報 1974年3月]] * [[訃報 1974年4月]] * [[訃報 1974年5月]] * [[訃報 1974年6月]] * [[訃報 1974年7月]] * [[訃報 1974年8月]] * [[訃報 1974年9月]] * [[訃報 1974年10月]] * [[訃報 1974年11月]] * [[訃報 1974年12月]] }} === 1973年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 1973年1月]] * [[訃報 1973年2月]] * [[訃報 1973年3月]] * [[訃報 1973年4月]] * [[訃報 1973年5月]] * [[訃報 1973年6月]] * [[訃報 1973年7月]] * [[訃報 1973年8月]] * [[訃報 1973年9月]] * [[訃報 1973年10月]] * [[訃報 1973年11月]] * [[訃報 1973年12月]] }} === 1972年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 1972年1月]] * [[訃報 1972年2月]] * [[訃報 1972年3月]] * [[訃報 1972年4月]] * [[訃報 1972年5月]] * [[訃報 1972年6月]] * [[訃報 1972年7月]] * [[訃報 1972年8月]] * [[訃報 1972年9月]] * [[訃報 1972年10月]] * [[訃報 1972年11月]] * [[訃報 1972年12月]] }} === 1971年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 1971年1月]] * [[訃報 1971年2月]] * [[訃報 1971年3月]] * [[訃報 1971年4月]] * [[訃報 1971年5月]] * [[訃報 1971年6月]] * [[訃報 1971年7月]] * [[訃報 1971年8月]] * [[訃報 1971年9月]] * [[訃報 1971年10月]] * [[訃報 1971年11月]] * [[訃報 1971年12月]] }} === 1970年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 1970年1月]] * [[訃報 1970年2月]] * [[訃報 1970年3月]] * [[訃報 1970年4月]] * [[訃報 1970年5月]] * [[訃報 1970年6月]] * [[訃報 1970年7月]] * [[訃報 1970年8月]] * [[訃報 1970年9月]] * [[訃報 1970年10月]] * [[訃報 1970年11月]] * [[訃報 1970年12月]] }} == 1960年代 == === 1969年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 1969年1月]] * [[訃報 1969年2月]] * [[訃報 1969年3月]] * [[訃報 1969年4月]] * [[訃報 1969年5月]] * [[訃報 1969年6月]] * [[訃報 1969年7月]] * [[訃報 1969年8月]] * [[訃報 1969年9月]] * [[訃報 1969年10月]] * [[訃報 1969年11月]] * [[訃報 1969年12月]] }} === 1968年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 1968年1月]] * [[訃報 1968年2月]] * [[訃報 1968年3月]] * [[訃報 1968年4月]] * [[訃報 1968年5月]] * [[訃報 1968年6月]] * [[訃報 1968年7月]] * [[訃報 1968年8月]] * [[訃報 1968年9月]] * [[訃報 1968年10月]] * [[訃報 1968年11月]] * [[訃報 1968年12月]] }} === 1967年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 1967年1月]] * [[訃報 1967年2月]] * [[訃報 1967年3月]] * [[訃報 1967年4月]] * [[訃報 1967年5月]] * [[訃報 1967年6月]] * [[訃報 1967年7月]] * [[訃報 1967年8月]] * [[訃報 1967年9月]] * [[訃報 1967年10月]] * [[訃報 1967年11月]] * [[訃報 1967年12月]] }} === 1966年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 1966年1月]] * [[訃報 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[[訃報 1962年4月]] * [[訃報 1962年5月]] * [[訃報 1962年6月]] * [[訃報 1962年7月]] * [[訃報 1962年8月]] * [[訃報 1962年9月]] * [[訃報 1962年10月]] * [[訃報 1962年11月]] * [[訃報 1962年12月]] }} === 1961年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 1961年1月]] * [[訃報 1961年2月]] * [[訃報 1961年3月]] * [[訃報 1961年4月]] * [[訃報 1961年5月]] * [[訃報 1961年6月]] * [[訃報 1961年7月]] * [[訃報 1961年8月]] * [[訃報 1961年9月]] * [[訃報 1961年10月]] * [[訃報 1961年11月]] * [[訃報 1961年12月]] }} === 1960年 === {{Columns-list|4| * [[訃報 1960年1月]] * [[訃報 1960年2月]] * [[訃報 1960年3月]] * [[訃報 1960年4月]] * [[訃報 1960年5月]] * [[訃報 1960年6月]] * [[訃報 1960年7月]] * [[訃報 1960年8月]] * [[訃報 1960年9月]] * [[訃報 1960年10月]] * [[訃報 1960年11月]] * [[訃報 1960年12月]] }} == 関連項目 == * [[死亡記事]] * [[年の一覧]] [[Category:年|しほういちらん]] [[Category:訃報|*]]
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木瀬翔太
木瀬 翔太(きせ しょうた、2005年4月5日 - )は、京都府亀岡市出身のプロ野球選手(投手・育成選手)。埼玉西武ライオンズ所属。 5歳のときに野球を始め、亀岡市立大井小学校では『大井カープス』に所属し、捕手としてプレー。亀岡市立大成中学校では軟式野球部と軟式の『南丹ベースボールクラブ』に所属し、投手としてプレーした。 北嵯峨高校へ進学すると、1年春から背番号18でベンチ入り。2年春に背番号10を付け、2年秋からはエースを務めた。3年夏の府大会では4回戦で立命館に敗れた。甲子園出場経験はなし。 2023年10月26日に開催されたドラフト会議にて、埼玉西武ライオンズから育成5位指名を受けた。11月14日に支度金350万円・年俸280万円で入団に合意した。 最速146km/hのストレート、2種類のスライダー、チェンジアップ、ツーシームを投じる。
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木瀬 翔太は、京都府亀岡市出身のプロ野球選手(投手・育成選手)。埼玉西武ライオンズ所属。
{{Infobox baseball player | 選手名 = 木瀬 翔太 | 所属球団 = 埼玉西武ライオンズ | 背番号 = 131 | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | 国籍 = {{JPN}} | 出身地 = [[京都府]][[亀岡市]] | 生年月日 = {{生年月日と年齢|2005|4|5}} | 身長 = 185 | 体重 = 82 | 利き腕 = 右 | 打席 = 右 | 守備位置 = [[投手]] | プロ入り年度 = {{NPBドラフト|2023}} | ドラフト順位 = 育成ドラフト5位 | 初出場 = | 最終出場 = | 年俸 = 280万円(2024年) | 経歴 = * [[京都府立北嵯峨高等学校|北嵯峨高等学校]] * [[埼玉西武ライオンズ]] (2024 - ) }} '''木瀬 翔太'''(きせ しょうた、[[2005年]][[4月5日]] - )は、[[京都府]][[亀岡市]]出身の[[プロ野球選手]]([[投手]]・[[育成選手制度 (日本プロ野球)|育成選手]])。[[埼玉西武ライオンズ]]所属。 == 経歴 == === プロ入り前 === 5歳のときに野球を始め、[[亀岡市立大井小学校]]では『大井カープス』に所属し<ref name="sponichi20230719">{{Cite web |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2023/07/19/kiji/20230718s00001002732000c.html |title=北嵯峨の最速146キロ右腕・木瀬翔太、1失点完投「要所を締められた」 |publisher=Sponichi Annex |date=2023-07-19 |accessdate=2023-11-15}}</ref>、捕手としてプレー<ref name="nikkan20230719">{{Cite web |url=https://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/202307190000096.html |title=北嵯峨のプロ注目右腕・木瀬翔太、今夏初先発161球熱投勝利「やってきたことを信じる」/京都 |publisher=日刊スポーツ |date=2023-07-19 |accessdate=2023-11-15}}</ref>。[[亀岡市立大成中学校]]では軟式野球部と軟式の『南丹ベースボールクラブ』に所属し、投手としてプレーした{{R|nikkan20230719}}。 [[京都府立北嵯峨高等学校|北嵯峨高校]]へ進学すると、1年春から背番号18でベンチ入り{{R|sponichi20230719}}。2年春に背番号10を付け{{R|nikkan20230719}}、2年秋からはエースを務めた{{R|sponichi20230719}}。3年夏の[[全国高等学校野球選手権京都大会|府大会]]では4回戦で[[立命館中学校・高等学校|立命館]]に敗れた<ref>{{Cite web |url=https://www.chunichi.co.jp/article/732603 |title=プロ注目186cm右腕コールド敗退に涙…161球から中2日で救援登板3失点の北嵯峨・木瀬翔太「申し訳ない」【高校野球京都】 |publisher=中日スポーツ |date=2023-07-20 |accessdate=2023-11-15}}</ref>。甲子園出場経験はなし。 '''{{by|2023年}}'''10月26日に開催された[[2023年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト会議]]にて、[[埼玉西武ライオンズ]]から育成5位指名を受けた<ref>{{Cite web |url=https://www.seibulions.jp/news/detail/202300351919.html |title=2023年「プロ野球ドラフト会議」全指名選手 |publisher=埼玉西武ライオンズ |date=2023-10-26 |accessdate=2023-11-15}}</ref>。11月14日に支度金350万円・年俸280万円で入団に合意した<ref>{{Cite web |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202311140000950.html |title=【西武】育成5位・木瀬翔太が入団合意「楽しい気持ちと不安な気持ちが」「憧れは山本由伸投手」 |publisher=日刊スポーツ |date=2023-11-14 |accessdate=2023-11-15}}</ref>。 == 選手としての特徴 == 最速146km/hの[[速球|ストレート]]{{R|sponichi20230719}}、2種類の[[スライダー (球種)|スライダー]]、[[チェンジアップ]]、[[速球#ツーシーム・ファストボール|ツーシーム]]を投じる{{R|nikkan20230719}}。 == 詳細情報 == === 背番号 === * '''131'''(2024年 - ) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[京都府出身の人物一覧]] * [[埼玉西武ライオンズの選手一覧]] == 外部リンク == {{埼玉西武ライオンズの選手・スタッフ}} {{埼玉西武ライオンズ2023年ドラフト指名選手}} {{デフォルトソート:きせ しようた}} [[Category:日本の野球選手]] [[Category:京都府立北嵯峨高等学校出身の人物]] [[Category:埼玉西武ライオンズの育成選手]] [[Category:京都府出身の人物]] [[Category:2005年生]] [[Category:存命人物]]
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Chromebook Pixel (クロームブック ピクセル)とは、かつてGoogleが開発していたラップトップコンピュータ。Google Pixelブランドとしては初の製品であり、2013年に初の機種が発売された後、2015年に新モデルが登場した。 Chromebookのハイエンドモデルと位置付けられており、シリーズ全ての機種で、OSとしてChromeOSがプリインストールされている。Pixelbook登場以前は、唯一のGoogle純正のChromebookであ離、また、当時展開していたNexusブランドの製品とは異なり、開発も販売もGoogleが担当した。また、組み立ては中国で行われた。Nexusシリーズとは異なり、Chromebook Pixelの製造下請け業者は開示されていない。 2018年8月、セキュリティアップデートの配信が停止され、事実上、サポート終了した。 Chromebook Pixelを名前を冠したモデルには、それぞれ異なる4機種が存在する。 本項目では、全ての機種において共通する特徴を述べる。 基本的に全機種が同じ外観となっている。 Wiredが「微妙に丸みを帯びたエッジを持つアルミニウムの厳格な長方形のブロック」と説明したデザインを特徴とし、蓋にはカラーライトバーがつけられた。 アスペクト比が3:2の、12.85インチディスプレイを採用した。The Vergeはそれを評価し、以下のように述べた。 しかし、幅と同じくらい高い、Pixelの3:2ディスプレイは、なぜ誰もこれをやろうと思いつかなかったのか疑問に思う。12.85インチのディスプレイは標準的な13インチの画面ほど広くなく、見ている映画の上下にレターボックスが表示されるが、代わりにウェブページを読む際に、より縦長な画面で見られる。ウェブページはOS全体で構成されているので、一般的でないアスペクト比にするのも、おそらくGoogleにとっては簡単に決められただろうが、すべてのラップトップが3:2の画面になればとおもう。もちろん、そんなことは起こらないので、それが、私がPixelを欲しくなる、唯一のきっかけになっている。 全ての機種がChromeOSをプリインストールして出荷された。 他のChromebookと同じように、Chromebook Pixelでも、ChromeOSに加えて、UbuntuやAndroidを含む他のOSを実行でき、より多くのオフラインで使えるアプリをサポートする。 最初の機種として、Chromebook Pixel (2013)が2013年2月21日に発売され、すぐに出荷が開始された。また、LTEワイヤレス通信と2倍のストレージ容量を備えた新モデルも、同年4月12日から発売され、わずかに高価に設定された。 当時のラップトップコンピュータの中では、最も高いピクセル密度を持つタッチスクリーン、Intel Core i5の前モデルよりも高速なCPU、32GBのSSDを搭載していた。 2015年に登場した新モデルでは、独自のDC電源コネクタやMini DisplayPortを、本体の両側に1つずつ配置された、2つのUSB-Cポートからの給電に置き換え、低価格化を行なった。 また、キーボードの最上列が標準的なキーに変更され、バッテリー寿命は公称12時間に増加した。これにあわせて、Core i7プロセッサを搭載した上位機種、LS(「Ludicrous Speed」)モデルが登場した。 Chromebook Pixel (2015)からは、2016年のChromeOSの更新により、Androidアプリの動作に対応した。 当時、ChromeとAndroidを担当していた、エンジニアリング担当シニアバイスプレジデント、サンダー・ピチャイは、ハイエンドのPixelモデルの背後にある目標は「境界を押し広げ、何かプレミアムなものを構築すること」であると述べた。Googleのエンジニアは2年前に「labor of love(愛の労働)」プロジェクトに着手し、「可能な限り最高の価格で可能な限り最高のコンピュータを設計したいのであれば、何ができるか」と自問してきた。 2015年初頭、Googleの幹部は「Chromebook Pixelは開発中のプラットフォームだ。このモデルは本当に概念実証のものだ。多くは作らない。本当に作らない。」と、Chromebook Pixelの販売動向が遅いことに関して認めつつ、「新しいChromebook Pixelが発売される」とも付け加えた。 その言葉通り、アップグレードされたChromebook Pixel (2015)が、同年3月11日に発表され、これに伴ってChromebook Pixel (2013)はすぐに廃止された。 2016年8月に全モデルが生産終了した。2017年10月4日には後継となるPixelbookが発表された。 2013年の発売以来、Chromebook Pixelは高度な技術メディアの注目を集め、同様の価格のWindows PCやMacBook Airとすぐに比較された。 Linuxを開発したリーナス・トーバルズは、ChromeOSからFedora 18に置き換えて使用していた。トーバルズは画面を賞賛していたものの、ChromeOSそのものは、より動作の遅いデバイスに適していると感じており、評価しなかった。 Forbesは、Chromebook Pixelを同様の価格のMacBookと比較して不利だとしている。レビュアーは、Chromebook Pixelは高価格ながら、機能面において、ChromeOSによって引き起こされる明確な制限があると指摘した。 CNETのレビューは、Chromebook Pixelの高性能さを評価した一方、WebベースのChrome OSは、ほとんどのタスクをオンラインでないと実行できず、また、Webアプリでは、特にビデオなどのメディア中心の活動のために、ほとんどのWindowsやMacで動作するソフトウェアと比較対象にならない点を挙げた。 同様に、PCMagは「本質的には、Chromebook Pixelは華麗な画面を持つシンクライアントノートブックである」と述べた。 Engadgetは、特にGoogleにとって初挑戦のラップトップとしては特に、ビルド品質や細部へのこだわりがあることに感銘を受けたとしつつ、発売段階でもトップエンドのラップトップと匹敵する価格は、OSの限界を考慮すると高価すぎるとした。 ZDNetのレビューでは、バッテリー寿命の短さ、熱、ファンの騒音が批判された。Chromebook Pixelは性能が足りても、タッチ最適化されたアプリが不足しており、従来のデスクトップアプリがOSの関係で使えないため、ニーズによっては使える部分が制限される可能性があると述べまた。 The Vergeのレビュアーは、仕上げ品質と高い性能に感銘を受けたものの、Photoshopの画像編集やEvernoteなどの生産性ツールなどのソフトウェア機能が欠けており、作業にはChromebook Pixelではなく、MacBookへまた使うようになったとしている。 RegisterとPC Worldは、Chromebook Pixelをコンセプトモデルであると捉え、ハードウェアメーカーに、より機能豊富なデバイスを生産させるために作られたデバイスだと述べた。 BBCのインタビューを受けたとき、CCSインサイトアナリストのジェフ・ブレイバーは、「Chromebookは他のデバイスとの関連性に苦労している」と述べ、主にコンテンツ消費に使用されるタブレットと、より機能的なPCの間で立ち往生している。PixelによってChromebookの見通しが変わることはないが、Googleは、より広範なポートフォリオにハロー効果をもたらすフラッグシップモデルにさせようと考えている。」と分析した。
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Chromebook Pixelとは、かつてGoogleが開発していたラップトップコンピュータ。Google Pixelブランドとしては初の製品であり、2013年に初の機種が発売された後、2015年に新モデルが登場した。
{{混同|Pixelbook}} {{Information appliance | 名称 = Chromebook Pixel | 種別 = [[Chromebook]] | ロゴ = | 画像 = [[File:Chromebook Pixel (WiFi) open.JPG|180px]] | 発売日 = {{Start date and age|2013|02|21}} | キャプション = Chromebook Pixel (2013)の本体 | os = [[Google Chrome OS|Chrome OS]] | プロセッサ = [[Intel]] [[Core i5]]-3427U (2013) Intel Core i5-5200U (2015) Intel [[Core i7]]-5500U (2015 LS) | ストレージ = 32 GB [[ソリッドステートドライブ|SSD]] (2013 and 2015)<br> 64&nbsp;GB [[ソリッドステートドライブ|SSD]] (2015 LS) | メモリ = 4&nbsp;GB [[DDR3]] [[RAM]] | display = {{convert|12.85|in|abbr=on}}, 2,560 × 1,700 resolution | graphics = [[Intel HD Graphics]] 4000 (2013)<br> Intel HD Graphics 5500 (2015) | manufacturer = [[Google]] | 次世代ハード = [[Pixelbook]] | ウェブサイト = {{URL|https://pixel.google.com/chromebook-pixel/}} | 販売終了日 = {{Start date and age|2017|03|01}}<ref>{{cite news|last1=Ferreira|first1=Bruno|title=Google puts a halt on Pixel-branded 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|url=https://www.droid-life.com/2018/08/27/googles-original-chromebook-pixel-has-reached-its-end-of-life-for-automatic-updates/ |website=droidlife |date=27 August 2018 |access-date=7 November 2019}}</ref>。 === 機種 === Chromebook Pixelを名前を冠したモデルには、それぞれ異なる4機種が存在する。 {| class="wikitable" border="1" style="text-align: center" |+技術仕様の比較 ! colspan="2" |機種 ! style="width:20%;" |2013, [[Wi-Fi]]<ref name="Google specs">{{Cite web |url=https://www.google.com/intl/en/chrome/devices/chromebook-pixel/#pixel-specs |title=Google Inc - Full Specs |access-date=2013-02-21}}</ref> ! style="width:20%;" |2013, [[Long Term Evolution|LTE]]<ref name="Google specs" /> ! style="width:20%;" |2015<ref name="Google 2015 specs">{{Cite web |url=https://www.google.com/chromebook/pixel/ |title=Chromebook Pixel |access-date=2015-03-11}}</ref> ! style="width:20%;" |2015, LS<ref name="Google 2015 specs" /> |- ! rowspan="2" |発売 |発売日 |2013年2月 |2013年4月<ref>{{Cite web |url=http://chrome.blogspot.com/2013/02/the-chromebook-pixel-for-whats-next.html |title=The Chromebook Pixel, for what's next |publisher=chrome.blogspot.com |access-date=2013-02-21}}</ref> |2015年3月 |2015年3月 |- |価格 |1299米ドル |1449米ドル |999米ドル |1299米ドル |- ! rowspan="2" |寸法 |サイズ | colspan="2" |{{Convert|297.7|×|224.6|×|16.2|mm|abbr=on}} | colspan="2" |{{Convert|297.7|×|224.55|×|15.3|mm|abbr=on}} |- |重さ | colspan="2" |{{Convert|1.52|kg|lbs}} | colspan="2" |{{Convert|1.5|kg|lbs}} |- ! rowspan="2" |プロセッサ |[[CPU]] | colspan="2" |Intel Core i5-3427U (dual-core 1.8GHz) |Intel Core i5-5200U (dual-core 2.2GHz) |Intel Core i7-5500U (dual-core 2.4GHz) |- |[[Graphics Processing Unit|GPU]] | colspan="2" |[[Intel HD Graphics]] 4000 (CPU内蔵) | colspan="2" |[[Intel HD Graphics]] 5500 (CPU内蔵) |- ! colspan="2" |メモリ | colspan="2" |4GB [[DDR3 SDRAM|DDR3]] [[Random Access Memory|RAM]] |8GB [[DDR3 SDRAM|DDR3]] [[Random Access Memory|RAM]] |16GB [[DDR3 SDRAM|DDR3]] [[Random Access Memory|RAM]] |- ! colspan="2" |ストレージ |32GB [[ソリッドステートドライブ|SSD]] |64GB [[ソリッドステートドライブ|SSD]] |32GB [[ソリッドステートドライブ|SSD]] |64GB [[ソリッドステートドライブ|SSD]] |- ! rowspan="3" |スクリーン |サイズ | colspan="4" |{{Convert|12.85|in|abbr=on}} |- |解像度 | colspan="4" |2,560 × 1,700 (239 [[ppi]]) |- |特徴 | colspan="4" |アスペクト比:[[画面アスペクト比|3:2]] 輝度:400 [[カンデラ毎平方メートル|ニト]] 視野角:178° [[マルチタッチ|Multi-touch]] [[ゴリラガラス|Gorilla Glass]] |- ! colspan="2" |Webカメラ | colspan="4" |720p HD(内蔵) |- ! colspan="2" |キーボード | colspan="4" |バックライト付きキーボード |- ! colspan="2" |タッチパッド | colspan="4" |クリック可能、エッチングガラス |- ! colspan="2" |音声 | colspan="4" |[[フォーンプラグ|3.5mmイヤホンジャック]] 内蔵マイク3つ 内蔵DSP(ノイズ軽減用) ステレオスピーカー |- ! colspan="2" |端子 | colspan="2" |[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB 2.0]]×2 [[DisplayPort|Mini DisplayPort]] [[SDメモリーカード|SD]]/[[マルチメディアカード|MMC]]カードリーダー | colspan="2" |[[USB 3.0|USB 3.1]] [[USB Type-C|Type-C]]×2 (5Gbps データ転送、電源、映像出力) [[USB 3.0]] (Type-A) ×2 [[SDメモリーカード|SD]]/[[マルチメディアカード|MMC]]カードリーダー |- ! rowspan="3" |無線接続 |WiFi | colspan="2" |[[IEEE 802.11|802.11a]]/b/g/n 2.4/5 GHz 2×2 [[MIMO]] | colspan="2" |[[IEEE 802.11|802.11a]]/b/g/n/ac<br />2.4/5 GHz 2×2 [[MIMO]] |- |Bluetooth | colspan="2" |[[Bluetooth|Bluetooth 3.0]] | colspan="2" |[[Bluetooth|Bluetooth 4.0]] |- |WAN | - |[[Long Term Evolution|LTE]]モデム | colspan="2" | - |- ! colspan="2" |バッテリー | colspan="2" |59[[キロワット時|Wh]] (5時間) | colspan="2" |72Wh<ref name="Google 2015 detailed specs">{{Cite web |url=https://support.google.com/chromebook/answer/6164568?hl=en |title=Chromebook Pixel (2015) Specifications |publisher=Google Inc. |access-date=2015-04-08 |archive-date=26 September 2015 |archive-url=https://web.archive.org/web/20150926171858/https://support.google.com/chromebook/answer/6164568?hl=en |url-status=dead}}</ref> (平均的なユーザーは12時間使用)<ref name="Google 2015 detailed specs" /> |- ! colspan="2" |その他 | colspan="2" |3年間の1TB [[Google ドライブ|Google Drive]]ストレージ 12 sessions [[Gogo Inflight Internet|GoGo Internet]] 100MB/月 free from [[ベライゾン・ワイヤレス|Verizon]] (アメリカ、LTEのみ) | colspan="2" |3年間の1TB [[Google ドライブ|Google Drive]]ストレージ 12 sessions [[Gogo Inflight Internet|GoGo Internet]] |} == 特徴 == 本項目では、全ての機種において共通する特徴を述べる。 === デザイン === {{multiple image|title=Chromebook Pixelの外観|align=right|direction=horizontal|total_width=350px|image1=Google Chromebook Pixel (2013), light bar.jpg|caption1=蓋の上部にある4色のライトバーは、Googleのロゴと同じ色で光る|image2=Google Chromebook Pixel (2013), hinge detail.jpg|caption2=ディスプレイヒンジの外側にエッチングされた「Chrome」の文字}} 基本的に全機種が同じ外観となっている。 [[WIRED (雑誌)|Wired]]が「微妙に丸みを帯びたエッジを持つアルミニウムの厳格な長方形のブロック<ref name="Wired: Pixel2">{{Cite web |title=Google Debuts Pixel, a Premium Touchscreen Chromebook |first=Nathan |author=Olivarez-Giles |url=https://www.wired.com/gadgetlab/2013/02/chromebook-pixel |access-date=22 February 2013 |date=February 21, 2013}}</ref>」と説明したデザインを特徴とし、蓋にはカラーライトバーがつけられた<ref>{{Cite web |title=Google Chromebook Pixel - Lightbar |url=https://www.google.com/intl/en_us/chrome/devices/chromebook-pixel/#tap#lightbar |publisher=Google Inc. |access-date=2023-11-15}}</ref><ref name="The Verge review2">{{Cite news |last=Pierce |first=David |title=Chromebook Pixel review: Google's first Chrome OS device combines high tech and high fashion |url=https://www.theverge.com/2013/2/25/4023830/google-chromebook-pixel-review |access-date=25 February 2013 |newspaper=The Verge |date=February 25, 2013}}</ref>。 === ディスプレイ === [[アスペクト比]]が3:2の、12.85インチディスプレイを採用した。[[ザ・ヴァージ|The Verge]]はそれを評価し、以下のように述べた。<blockquote> しかし、幅と同じくらい高い、Pixelの3:2ディスプレイは、なぜ誰もこれをやろうと思いつかなかったのか疑問に思う。12.85インチのディスプレイは標準的な13インチの画面ほど広くなく、見ている映画の上下にレターボックスが表示されるが、代わりにウェブページを読む際に、より縦長な画面で見られる。ウェブページはOS全体で構成されているので、一般的でないアスペクト比にするのも、おそらくGoogleにとっては簡単に決められただろうが、すべてのラップトップが3:2の画面になればとおもう。もちろん、そんなことは起こらないので、それが、私がPixelを欲しくなる、唯一のきっかけになっている<ref name="The Verge review">{{Cite news |last=Pierce |first=David |title=Chromebook Pixel review: Google's first Chrome OS device combines high tech and high fashion |url=https://www.theverge.com/2013/2/25/4023830/google-chromebook-pixel-review |access-date=25 February 2013 |newspaper=The Verge |date=February 25, 2013}}</ref>。 </blockquote> === OS === 全ての機種がChromeOSをプリインストールして出荷された。 他のChromebookと同じように、Chromebook Pixelでも、ChromeOSに加えて、[[Ubuntu]]や[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]を含む他の[[オペレーティングシステム|OS]]を実行でき、より多くの[[オフライン]]で使える[[アプリケーションソフトウェア|アプリ]]をサポートする<ref>{{Cite news |url=http://www.zdnet.com/chromebook-pixel-run-ubuntu-alongside-chrome-os-7000012381/ |title=Chromebook Pixel: Run Ubuntu alongside Chrome OS |last=Kendrick |first=James |date=March 11, 2013 |newspaper=ZDNet}}</ref>。 == Chromebook Pixel (2013) == [[ファイル:Google_Chromebook_Pixel.jpg|右|サムネイル|Chromebook Pixel (2013)]]{{multiple image|title=Chromebook Pixel (2013)の端子類|align=right|direction=vertical|image1=Google Chromebook Pixel (2013), left side and ports.jpg|caption1=左側:L–R: power、[[Mini DisplayPort]]、[[USB 2.0]]×2、3.5mm イヤホンジャック|image2=Google Chromebook Pixel (2013), right side and ports.jpg|caption2=右側:[[Secure Digital|SD]]/[[MultiMediaCard|MMC]]カードリーダー}}最初の機種として、Chromebook Pixel (2013)が[[2013年]][[2月21日]]に発売され、すぐに出荷が開始された<ref>{{Cite news |url=https://www.androidpolice.com/2013/02/21/google-unveils-the-1300-chromebook-pixel-that-doesnt-run-photoshop-steam-or-anything-else-you-care-about/ |title=Google Unveils The $1,300 Chromebook Pixel That Doesn't Run Photoshop, Steam, Or Much Else You Care About |last=Ravenscraft, Eric |date=February 21, 2013 |newspaper=Android Police |access-date=18 March 2021}}</ref>。また、[[Long Term Evolution|LTEワイヤレス通信]]と2倍のストレージ容量を備えた新モデルも、同年[[4月12日]]から発売され、わずかに高価に設定された。<ref name="Digital Trends: Pixel LTEs ship2">{{Cite news |last=Sin |first=Gloria |title=Pre-Ordered Chromebook Pixel LTEs Should Arrive Today |url=http://www.digitaltrends.com/computing/here-comes-the-chromebook-pixel-lte-pre-orders-should-be-arriving-today/ |access-date=16 April 2013 |newspaper=Digital Trends |date=April 12, 2013}}</ref> 当時のラップトップコンピュータの中では、最も高い[[Ppi|ピクセル密度]]を持つタッチスクリーン<ref name="USA Today2">{{Cite news |last=Martin |first=Scott |title=Google unleashes touch-based Chromebook |url=https://www.usatoday.com/story/tech/2013/02/21/apple-google-microsoft-chromebook-pixel/1936285/ |newspaper=USA Today |date=February 21, 2013}}</ref>、Intel Core i5の前モデルよりも高速な[[CPU]]、32GBの[[ソリッドステートドライブ|SSD]]を搭載していた。 == Chromebook Pixel (2015) == 2015年に登場した新モデルでは、独自のDC電源コネクタや[[DisplayPort|Mini DisplayPort]]を、本体の両側に1つずつ配置された、2つの[[USB Type-C|USB-C]]ポートからの給電に置き換え、低価格化を行なった。 また、キーボードの最上列が標準的なキーに変更され、バッテリー寿命は公称12時間に増加した<ref name="AP-2015" /><ref name="Verge-15">{{Cite web |url=https://www.theverge.com/2015/3/11/8190513/chromebook-pixel-2015-review |title=Chromebook Pixel (2015) Review |author=Bohn, Dieter |date=March 11, 2015 |website=The Verge |access-date=18 March 2021}}</ref>。これにあわせて、Core i7プロセッサを搭載した上位機種、LS(「Ludicrous Speed」)モデルが登場した<ref name="Verge-15" />。 Chromebook Pixel (2015)からは、[[2016年]]のChromeOSの更新により、Androidアプリの動作に対応した<ref>{{Cite news |url=https://www.androidpolice.com/2016/06/18/google-says-that-android-apps-will-come-to-the-chromebook-pixel-2015-and-acer-r11-soon-in-another-developer-release/ |title=Google says that Android apps will come to the Chromebook Pixel 2015 and Acer R11 'soon' in another developer release |last=Crider, Michael |date=June 18, 2016 |newspaper=Android Police |access-date=18 March 2021}}</ref><ref>{{Cite news |url=https://9to5google.com/2016/09/27/chromebook-pixel-android-apps-play-store/ |title=Android apps now available on the Stable Channel for the Chromebook Pixel (2015) |last=Li, Abner |date=September 27, 2016 |newspaper=9 to 5 Google |access-date=18 March 2021}}</ref>。 == 歴史 == 当時、[[Google Chrome|Chrome]]と[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]を担当していた、エンジニアリング担当シニアバイスプレジデント、[[サンダー・ピチャイ]]は、ハイエンドのPixelモデルの背後にある目標は「境界を押し広げ、何かプレミアムなものを構築すること」であると述べた。Googleのエンジニアは2年前に「labor of love(愛の労働)」プロジェクトに着手し、「可能な限り最高の価格で可能な限り最高のコンピュータを設計したいのであれば、何ができるか」と自問してきた<ref name="Shankland21Feb13">{{Cite news |url=http://news.cnet.com/8301-1023_3-57570520-93/googles-chromebook-pixel-elevates-chrome-os-ambitions/ |title=Google's Chromebook Pixel elevates Chrome OS ambitions |access-date=24 February 2013 |last=Shankland |first=Stephen |date=21 February 2013 |newspaper=[[CNET]]}}</ref>。 [[2015年]]初頭、Googleの幹部は「Chromebook Pixelは開発中のプラットフォームだ。このモデルは本当に[[概念実証]]のものだ。多くは作らない。本当に作らない。」と、Chromebook Pixelの販売動向が遅いことに関して認めつつ、「新しいChromebook Pixelが発売される」とも付け加えた<ref>{{Cite news |url=https://www.theverge.com/2015/2/23/8097283/chromebook-pixel-2-coming-soon-maybe |title=Google reportedly has a new Chromebook Pixel coming 'soon' |last=Byford, Sam |date=February 23, 2015 |newspaper=The Verge |access-date=18 March 2021}}</ref>。 その言葉通り、アップグレードされたChromebook Pixel (2015)が、同年[[3月11日]]に発表され<ref name="AP-2015">{{Cite news |url=https://www.androidpolice.com/2015/03/11/google-refreshes-its-chromebook-pixel-for-2015-with-a-12-hour-battery-life-core-i5-for-999-core-i7-for-1299/ |title=Google Refreshes Its Chromebook Pixel For 2015 With A 12-Hour Battery Life And USB Type C Charger: Core i5 For $999, Core i7 For $1299 |last=Crider, Michael |date=March 11, 2015 |newspaper=Android Police |access-date=18 March 2021}}</ref>、これに伴ってChromebook Pixel (2013)はすぐに廃止された<ref>{{Cite news |url=https://www.androidpolice.com/2015/03/11/nexus-5-chromebook-pixel-no-longer-available-for-sale-on-google-play/ |title=Nexus 5, 1st Gen Chromebook Pixel No Longer Available For Sale On Google Play [Updated] |last=King Jr., Bertel |date=March 11, 2015 |newspaper=Android Police |access-date=18 March 2021}}</ref>。 [[2016年]][[8月]]に全モデルが生産終了した<ref>{{Cite news |url=https://www.theverge.com/circuitbreaker/2016/8/30/12708718/google-sold-out-pixel-2-chromebook |title=Pour one out, Google discontinued its 2015 Chromebook Pixel |newspaper=The Verge |access-date=2017-12-25}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://venturebeat.com/2016/08/29/chromebook-pixel-2-discontinued/ |title=Google discontinues the Chromebook Pixel 2 {{!}} VentureBeat |website=venturebeat.com |date=30 August 2016 |language=en-US |access-date=2017-12-25}}</ref>。[[2017年]][[10月4日]]には後継となる[[Pixelbook]]が発表された<ref>{{Cite news |url=https://www.theverge.com/2017/10/4/16405214/google-pixelbook-laptop-photos-video-hands-on-pen |title=Google's Pixelbook is a stunning $1,000 laptop |newspaper=The Verge |access-date=2017-12-25}}</ref>。 == 評価 == 2013年の発売以来、Chromebook Pixelは高度な技術メディアの注目を集め、同様の価格の[[Microsoft Windows|Windows PC]]や[[MacBook Air]]とすぐに比較された。 [[Linux]]を開発した[[リーナス・トーバルズ]]は、ChromeOSから[[Fedora|Fedora 18]]に置き換えて使用していた。トーバルズは画面を賞賛していたものの、ChromeOSそのものは、より動作の遅いデバイスに適していると感じており、評価しなかった<ref name="ZDNet Torvalds">{{Cite news |last=Vaughan-Nichols |first=Steven J. |title=Chromebook's biggest fan: Linus Torvalds |url=http://www.zdnet.com/chromebooks-biggest-fan-linus-torvalds-7000012842/ |access-date=21 March 2013 |newspaper=ZDNet |date=March 19, 2013}}</ref>。 [[フォーブス (雑誌)|Forbes]]は、Chromebook Pixelを同様の価格のMacBookと比較して不利だとしている。レビュアーは、Chromebook Pixelは高価格ながら、機能面において、ChromeOSによって引き起こされる明確な制限があると指摘した<ref>{{Cite web |url=https://www.forbes.com/sites/jeanbaptiste/2013/02/22/google-chromebook-pixel-laptop-a-1300-web-browser/ |title=Google Chromebook Pixel Laptop: a $1,300 Web Browser! |author=Jean-Baptist |date=February 22, 2013 |website=Forbes |access-date=April 10, 2014}}</ref>。 [[CNET]]のレビューは、Chromebook Pixelの高性能さを評価した一方、WebベースのChrome OSは、ほとんどのタスクをオンラインでないと実行できず、また、Webアプリでは、特にビデオなどのメディア中心の活動のために、ほとんどのWindowsやMacで動作するソフトウェアと比較対象にならない点を挙げた<ref>{{Cite web |url=https://www.cnet.com/products/google-chromebook-pixel/ |title=Brilliant touch screen, hefty price |author=Seth Rosenblatt |date=February 21, 2013 |publisher=CNET |access-date=April 10, 2014}}</ref>。 同様に、PCMagは「本質的には、Chromebook Pixelは華麗な画面を持つ[[シンクライアント]][[ラップトップパソコン|ノートブック]]である」と述べた<ref>{{Cite web |url=https://www.pcmag.com/article2/0,2817,2416245,00.asp |title=Google Chromebook Pixel (64GB, LTE) |author=Joel Santo Domingo |date=March 5, 2013 |publisher=PC Mag |access-date=April 10, 2014}}</ref>。 Engadgetは、特にGoogleにとって初挑戦のラップトップとしては特に、ビルド品質や細部へのこだわりがあることに感銘を受けたとしつつ、発売段階でもトップエンドのラップトップと匹敵する価格は、OSの限界を考慮すると高価すぎるとした<ref>{{Cite web |url=https://www.engadget.com/2013/02/25/chromebook-pixel-review/ |title=Chromebook Pixel review: another impractical marvel from Google |author=Tim Stevens |date=February 25, 2014 |publisher=engadget |access-date=April 10, 2014}}</ref>。 ZDNetのレビューでは、バッテリー寿命の短さ、熱、ファンの騒音が批判された。Chromebook Pixelは性能が足りても、タッチ最適化されたアプリが不足しており、従来のデスクトップアプリがOSの関係で使えないため、ニーズによっては使える部分が制限される可能性があると述べまた<ref>{{Cite web |url=http://www.zdnet.com/google-chromebook-pixel-review-7000013538/ |title=Google Chromebook Pixel review |author=Ben Woods |date=April 9, 2013 |publisher=ZDNet |access-date=April 10, 2014}}</ref>。 [[ザ・ヴァージ|The Verge]]のレビュアーは、仕上げ品質と高い性能に感銘を受けたものの、[[Adobe Photoshop|Photoshop]]の画像編集や[[Evernote]]などの生産性ツールなどのソフトウェア機能が欠けており、作業にはChromebook Pixelではなく、MacBookへまた使うようになったとしている<ref name="The Verge review">{{Cite news |last=Pierce |first=David |title=Chromebook Pixel review: Google's first Chrome OS device combines high tech and high fashion |url=https://www.theverge.com/2013/2/25/4023830/google-chromebook-pixel-review |access-date=25 February 2013 |newspaper=The Verge |date=February 25, 2013}}</ref>。 [[Register]]と[[PC World]]は、Chromebook Pixelをコンセプトモデルであると捉え、ハードウェアメーカーに、より機能豊富なデバイスを生産させるために作られたデバイスだと述べた<ref name="PCWord: Why Google bothered">{{Cite news |last=Newman |first=Jared |title=Why Google bothered to make the Chromebook Pixel |url=http://www.pcworld.com/article/2029034/why-google-bothered-to-make-the-chromebook-pixel.html |access-date=22 February 2013 |newspaper=PCWorld |date=February 22, 2013}}</ref>。 [[英国放送協会|BBC]]のインタビューを受けたとき、CCSインサイトアナリストのジェフ・ブレイバーは、「Chromebookは他のデバイスとの関連性に苦労している」と述べ、主にコンテンツ消費に使用されるタブレットと、より機能的なPCの間で立ち往生している。PixelによってChromebookの見通しが変わることはないが、Googleは、より広範なポートフォリオに[[ハロー効果]]をもたらすフラッグシップモデルにさせようと考えている。」と分析した<ref name="BBC 2013-02-21">{{Cite web |url=https://www.bbc.co.uk/news/technology-21534382 |title=BBC News - Google unveils its first touchscreen Chromebook Pixel |publisher=BBC |date=2013-02-21 |access-date=2013-02-21}}</ref>。 == 関連項目 == * [[Pixelbook]] * [[Google Pixel]] * [[Google Nexus]] * [[Google Store]] == 脚注 == ===出典=== {{Reflist|30em}} == 外部リンク == * {{Official website|https://pixel.google.com/chromebook-pixel/}} {{Google Pixel}} [[Category:Googleのハードウェア]] [[Category:パーソナルコンピュータ (製品)]]
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ゼフィーロ
ゼフィーロ(ゼフィロ、ゼッフィロ、ゼッフィーロ; イタリア語: Zeffiro, Zefiro)
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ゼフィーロ ギリシア神話の風神(アネモイ)の1柱で、西風を司るゼピュロスのイタリア語名。 ゼピュロスに由来するイタリア語の男性名。 ゼッフィーロ・フリアッシ - イタリアのサッカー選手。1950 FIFAワールドカップのサッカーイタリア代表。 ゼピュロスに由来するイタリア海軍の艦名。 ゼフィーロ (コルベット) - 両シチリア王国海軍(後のイタリア王国海軍)の帆走コルベット。 ゼフィーロ (駆逐艦・初代) - イタリア王国海軍のネンボ級駆逐艦。 ゼフィーロ (駆逐艦) - イタリア王国海軍のトゥルビネ級駆逐艦。 ゼッフィーロ (フリゲート) - イタリア海軍のマエストラーレ級フリゲート。 ゼフィーロ (ロケット) - ヴェガロケットに使われているロケットエンジン。アヴィオ製。 ボンバルディア・ゼフィロ - ボンバルディア・トランスポーテーションが開発した高速鉄道車両。 ゼッフィーロ (競走馬) - 日本の競走馬。
'''ゼフィーロ'''('''ゼフィロ'''、'''ゼッフィロ'''、'''ゼッフィーロ'''; {{lang-it|Zeffiro, Zefiro}}) * ギリシア神話の風神([[アネモイ]])の1柱で、西風を司る'''[[ゼピュロス]]'''のイタリア語名。 * ゼピュロスに由来するイタリア語の男性名。 ** '''{{仮リンク|ゼッフィーロ・フリアッシ|en|Zeffiro Furiassi}}''' - イタリアのサッカー選手。[[1950 FIFAワールドカップ]]の[[サッカーイタリア代表]]。 * ゼピュロスに由来するイタリア海軍の艦名。 ** '''{{仮リンク|ゼフィーロ (コルベット)|it|Zeffiro (corvetta)}}''' - 両シチリア王国海軍(後のイタリア王国海軍)の帆走コルベット。 ** '''{{仮リンク|ゼフィーロ (駆逐艦・初代)|it|Zeffiro (cacciatorpediniere 1905)}}''' - イタリア王国海軍の{{仮リンク|ネンボ級駆逐艦|en|Nembo-class destroyer}}。 ** '''[[ゼフィーロ (駆逐艦)]]''' - イタリア王国海軍の[[トゥルビネ級駆逐艦]]。 ** '''[[ゼッフィーロ (フリゲート)]]''' - イタリア海軍の[[マエストラーレ級フリゲート]]。 * '''{{仮リンク|ゼフィーロ (ロケット)|en|Zefiro (rocket stage)}}''' - [[ヴェガロケット]]に使われているロケットエンジン。[[アヴィオ]]製。 * '''[[ボンバルディア・ゼフィロ]]''' - [[ボンバルディア・トランスポーテーション]]が開発した高速鉄道車両。 * '''[[ゼッフィーロ (競走馬)]]''' - 日本の競走馬。 == 関連項目 == * [[ゼフィロス]]、[[ゼフュロス]]({{lang-el|Ζέφυρος}} の別表記) * [[ゼファー]]({{lang-en|Zephyr}}) * [[ゼフィール]]({{lang-fr|Zéphyr}}、{{lang-ru|Зефи́р}}) * [[セフィーロ]]({{lang-es|Céfiro}}、スペイン語の発音としては「セーフィロ」の方が近い) {{デフォルトソート:せふいいろ}} {{aimai}} [[Category:イタリア語の語句]] [[Category:同名の船]]
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山岳民族 (タイ)
タイ王国において、山岳民族(タイ語: ชาวดอย, ชาวเขา, [tɕhāːw.dɔ̄ːj, tɕhāːw.khǎw]; 北タイ語: จาวดอย, คนดอย, [t͡ɕāːw.dɔ̄ːj, xōn.dɔ̄ːj])は、北部及び西部(英語版)の山地に住む様々な民族集団を包括した呼称として用いられている。 1959年に タイ内務省に山岳民族福祉委員会が設置されると、アカ(英語版)・フモン・イウミエン・ティン(英語版)・カレン・クム(英語版)・ラフ・リス・ルア(英語版)の9民族が「山岳民族」に指定された。後に、カチン・シャン・パラウン・ムラブリ(英語版)も山岳民族と見做されるようになった。 山岳民族の伝統的な生活様式は、焼畑農業による自給自足を主としたもので、定住地は持たず、資源が尽きる度に新たな土地へと移住する暮らしを送っていた。しかし、焼畑が環境破壊をもたらすという俗信や、国境地帯の安全保障に対する懸念、人口問題などを背景に、タイ政府は山岳民族の強制的な定住化を推し進めた。これに伴い、山岳民族の村落を訪問するカルチャー・ツーリズムを収入源とする者が増加した。
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タイ王国において、山岳民族は、北部及び西部の山地に住む様々な民族集団を包括した呼称として用いられている。 1959年に タイ内務省に山岳民族福祉委員会が設置されると、アカ・フモン・イウミエン・ティン・カレン・クム・ラフ・リス・ルアの9民族が「山岳民族」に指定された。後に、カチン・シャン・パラウン・ムラブリも山岳民族と見做されるようになった。 山岳民族の伝統的な生活様式は、焼畑農業による自給自足を主としたもので、定住地は持たず、資源が尽きる度に新たな土地へと移住する暮らしを送っていた。しかし、焼畑が環境破壊をもたらすという俗信や、国境地帯の安全保障に対する懸念、人口問題などを背景に、タイ政府は山岳民族の強制的な定住化を推し進めた。これに伴い、山岳民族の村落を訪問するカルチャー・ツーリズムを収入源とする者が増加した。
[[タイ王国]]において、<strong>山岳民族</strong>(さんがくみんぞく、{{lang-th|ชาวดอย, ชาวเขา}}, {{IPA-th|tɕʰāːw.dɔ̄ːj, tɕʰāːw.kʰǎw|}}; [[北タイ語]]: จาวดอย, คนดอย, {{IPA|t͡ɕāːw.dɔ̄ːj, xōn.dɔ̄ːj|}})<ref name=dictionary>[http://www.thai-language.com/id/226017 English-Thai dictionary entry for "hill tribe"]</ref><ref>{{cite book|last1=Tumsorn|first1=Maneewan|last2=Chansiriyotin|first2=Supaporn|title=Northern-Central Thai Dictionary (Rev Ed)|date=1986|publisher=Peace Corps/Thailand|location=Thailand|url=http://www.livelingua.com/peace-corps/Thai/Northern-Central%20Thai%20Dictionary.pdf|access-date=5 June 2014|language=en, th}}</ref>は、[[タイ北部|北部]]及び{{仮リンク|タイ西部|en|Western Thailand|label=西部}}の山地に住む様々な[[民族|民族集団]]を包括した呼称として用いられている。 {{仮リンク|アカ人|en|Akha People|label=アカ}}や[[モン族 (Hmong)|フモン]]のような非[[タイ・カダイ語族|タイ]]系民族が、[[中国西南部]]・[[ミャンマー]]・[[ラオス]]からタイに移住し始めたのは、20世紀初頭頃のことである{{sfn|勘田|2016|p=17}}。1959年に[[内務省 (タイ)|タイ内務省]]に山岳民族福祉委員会が設置された際、「山岳民族」と認定されたのは、{{仮リンク|アカ人|en|Akha People|label=アカ}}・[[モン族 (Hmong)|フモン]]・[[ヤオ族|イウミエン]]・{{仮リンク|ティン人|en|Mal People|label=ティン}}・[[カレン人|カレン]]・{{仮リンク|クム人|en|Khmu People|label=クム}}・[[ラフ族|ラフ]]・[[リス族|リス]]・{{仮リンク|ルア人|en|Lua People|label=ルア}}の9民族である{{sfn | Morton | Baird | 2019 | p=12}}。これら9民族に[[シャン人|シャン]]・[[カチン族|カチン]]・[[トーアン族|パラウン]]・{{仮リンク|ムラブリ人|en|Mlabri People|label=ムラブリ}}を加えた集団の2004年時点の人口は、1,034,351人と推計されている{{sfn | Morton | Baird | 2019 | p=12}}。 山岳民族の伝統的な生活様式は、[[焼畑農業]]による自給自足を主としたもので、定住地は持たず、資源が尽きる度に新たな土地へと移住する暮らしを送っていた<ref name=Highlanders-Intro>{{cite book|last=Geddes|first=W. R.|title=Highlanders of Thailand|year=1983|publisher=Oxford University Press|location=Kuala Lumpur|editor=John McKinnon and Wanat Bhruksasri|chapter=Introduction}}</ref>。しかし、焼畑が環境破壊をもたらすという俗信や、国境地帯の安全保障に対する懸念、人口問題などを背景に、タイ政府は山岳民族の強制的な定住化を推し進めた<ref name=Highlanders-Intro>{{cite book|last=Geddes|first=W. R.|title=Highlanders of Thailand|year=1983|publisher=Oxford University Press|location=Kuala Lumpur|editor=John McKinnon and Wanat Bhruksasri|chapter=Introduction}}</ref>。山岳民族の人々はかつて換金作物として[[アヘン]]を生産していたが、当局によるケシ栽培の規制後は、観光も重要な収入源となった<ref>{{Cite web|url=https://www.alienadv.com/activityDetails/1204/Trekking-with-Hill-Tribes-in-North-Thailand/|title=Trekking with Hill Tribes in North Thailand|website=www.alienadv.com|access-date=2016-06-02}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://travel.cnn.com/bangkok/life/gallery-thailands-longneck-women-controversial-tourist-attraction-154136/|title=Gallery: Thailand's 'longneck' women, a controversial tourist attraction {{!}} CNN Travel|website=travel.cnn.com|access-date=2016-06-02}}</ref>{{sfn|片山|2006|p=129}}。 [[File:Akha Dress.JPG|thumb|伝統衣装を着たアカの女性、タイ北部にて]] [[File:Lisu.jpg|thumb|リスの女性たち, タイ北部にて]] [[File:Hmong New Year Girls.JPG|thumb|新年を祝うフモンの女性たち]] [[File:Thailand Hill Tribes.jpg|thumb|カレンの女性と子供]] [[File:Akha Funeral3.JPG|thumb|アカの祈祷師]] ==関連項目== *[[タイの民族一覧]] *[[チェンマイ山岳民族博物館]] *[[ゾミア]] *{{仮リンク|タイの言語|en|Languages of Thailand}} **[[チベット・ビルマ語派]] ***[[ロロ諸語]] ***[[カレン諸語]] **[[ミャオ・ヤオ語族]] **[[オーストロアジア語族]] * {{仮リンク|タイのキリスト教|en|Christianity in Thailand}} ==脚注== {{reflist}} ==参考文献== * {{cite journal | last=片山 | first=隆裕| title=タイにおける山岳少数民族ツーリズム-歴史的経緯,影響,そして持続可能な観光開発の試み- | journal=西南学院大学国際文化論集 | volume=21 | issue=1 | year=2006 | url=http://repository.seinan-gu.ac.jp/handle/123456789/368 | pages=113–146}} *{{cite thesis |last= 勘田, |first=義治 |date=2016 |title=タイ・ビルマ国境山岳地帯におけるキリスト教受容の一事例 : チェンラーイのアカ族におけるキリスト教共同体形成過程とその変化|publisher=関東学院大学 |url=https://ci.nii.ac.jp/naid/500001013795 |degree=博士 |access-date=15 November 2023}} * {{cite journal | last=Morton | first=Micah F. | last2=Baird | first2=Ian G. | title=From Hill tribes to Indigenous Peoples: The localisation of a global movement in Thailand | journal=Journal of Southeast Asian Studies | publisher=Cambridge University Press (CUP) | volume=50 | issue=1 | year=2019 | issn=0022-4634 | doi=10.1017/s0022463419000031 | pages=7–31}} {{DEFAULTSORT:さんかくみんそく}} [[Category:タイの民族]] [[Category:中国の民族]] [[Category:ベトナムの民族]] [[Category:ミャンマーの民族]] [[Category:ラオスの民族]]
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ウルトラRAM
ウルトラRAM(英: UltraRAM)はブランド名および開発中のストレージ・デバイス技術である。ランカスター大学物理学部および工学部がウォーリック大学物理学部との協力により不揮発性メモリ技術における改善を提唱する論文をAdvanced Electronic Materials 誌に共同発表した。それはハード(ディスク)ドライブのようにデータを保持できること意味する「(フラッシュのような)データストレージ・メモリーの不揮発性と(DRAMのような)速さ、エネルギー効率、そしてワーキングメモリーの耐久性の組み合わせる」メモリー・ストレージ技術として言及されている。ランカスター(大)チームが作動原理をデモするために実際にいくつかの基礎実験を披露する一方で、ウルトラRAMは現時点では大概相変わらず理論上(の存在)に留まっている。ランカスター大の研究者いわく、「品質を改善し、製造プロセスを微調整し、そしてウルトラRAMデバイスを実装およびスケールするためのさらなる作業が進行中である」とのこと。 2023年にウルトラRAMをさらに開発するためにQuInAsカンパニーが設立された。 ウルトラRAMはチャージ(充電)ベースのメモリであり、そこでは論理状態がFG(浮遊ゲート)での電子の有無によって決定される。FGはAl2O3絶縁体によって制御ゲート(CG)から、そしてInAs / AlSb TBRTヘテロ構造から成る配下のチャネルからも電気的に分離される。 FGにおける電子の充足((NANDフラッシュみたく)真偽値0を定義する)は配下にあるn型InAsチャネルにてキャリアを使い果たし、その伝導率を減らす。結果、FGの充電状態および(それゆえに) メモリの論理状態は、ソース(S)とドレン(D)の接点の間に電圧が印加されたときチャネルを通過する電流を計測する事によって非破壊的に読み出される。メモリの最後のコンポーネントは種々の操作のためにゲート・スタックに渡って電圧を垂直方向に印加することを可能にするInAsバック=ゲート(BG)である。 本メモリを支える目新しさはTBRT (トリプル・バリア共鳴トンネル) 構造であり、それは(単層バリアとは異なり)たった±2.5Vの印加により電気的高抵抗性状態から高伝導性状態に切り替えられることにある。これはAlSbバリアとInAs QW(量子井戸)層の厚さを注意深く設計することによって実現される。メモリが保持状態にあるとき(すなわち)デバイスに電圧が印加されていない場合、TBRT QWにおける電子基底状態は互いにずれており、 そして、それはInAs FGとチャネル層の電子密度をエネルギー的に300K以上はるかに上回っている。実際、不揮発性は共鳴トンネル構造のために異常に高いエネルギーで存在するQWの基底状態によって強化される。これは極薄QWsとInAsにおける非常に低い電子有効質量との組み合わせによるものである。この状態では、TBRTはFGに出入りする電子移動を妨げる巨大なバリアを提供する。しかしながら、デバイス全体に適切なバイアスを印加することは、(プログラム操作中の)チャネルもしくは(消去操作中の)FGにおける電子状態に従事し協調するTBRT QWの基底状態のような伝導帯を傾ける。これはTBRT領域を横切って共鳴トンネリングの本質的に高速な量子力学的プロセスによって意図した方向に迅速に電子が移動することを可能にする。DRAMと比して低電圧しか要しないのとデバイスの単位面積あたりの静電容量が低いため、10 Jの超低論理状態切り替えエネルギーが20nm平面図法サイズのウルトラRAMメモリについては予測されており、これはDRAMとフラッシュよりもそれぞれ2桁と3桁の低さである。しかしながら、この超低切り替えエネルギーはnmスケール・デバイスを製造することによって実現できる前に、μmスケール・デバイスの基礎的物性を最初に理解し最適化する必要がある。GaAsサブストレートで成長させたウルトラRAMの試作品は以前、10秒の不揮発性保持および10回のプログラム=消去サイクルの実験限界(デバイス(の寿命)限界ではない)を明示していた。 充電されたFGは真偽値「0」として、そして充電切れは真偽値「1」として定義される。プログラムと消去サイクル(それぞれがFGの充電と放電である)はCGで±2.55V以内(≤)の電圧パルスを使用する。 サブμm平面図法サイズのInAsチャネル・トランジスタおよび100 mV/dec未満のサブスレッショルド変動(subthreshold swing)が以前に実証されている。したがって、ランカスター(大)チームが設計したデバイスの閾値電圧窓が350mVであるため、ノーマリー=オフ・チャネルの実装に伴い(真偽値)0/1しかないウルトラRAMの電流比を3ディケード倍に改善することが期待される。チャネルの注意深い修正を通じた0/1比のそのような改善は、メモリアレイを奇抜な高密度RAMアーキテクチャにより構築されることを可能にするだろう。 シリコン・デバイスにおけるウルトラRAMは実際に以前の技術の権化であるGaAs化合物半導体ウェハー上でアウトパフォームしており、少なくとも(推定)1000年間のデータ保管時間、(デバイスサイズにおいて)高速スイッチング速度を、そして(フラッシュよりも100〜1000倍優れている)少なくとも1000万(回)のプログラム=消去サイクリングの耐久性を実証している。この作業を主導しているランカスター大学物理学部のManus Hayne教授いわく、「シリコン上のウルトラRAMは我々の研究にとっては大いなる前進であり、大きな結晶格子の不一致という超重要な材料の課題および、元素から化合物半導体への変化および(それに伴う)熱収縮の違いという課題を克服する。」と言った。 2023年8月11日、それ(QuInAs)は第17回フラッシュメモリ・サミット(FMS '23)で「最(優秀)革新的フラッシュメモリ・スタートアップ」賞に勝った。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ウルトラRAM(英: UltraRAM)はブランド名および開発中のストレージ・デバイス技術である。ランカスター大学物理学部および工学部がウォーリック大学物理学部との協力により不揮発性メモリ技術における改善を提唱する論文をAdvanced Electronic Materials 誌に共同発表した。それはハード(ディスク)ドライブのようにデータを保持できること意味する「(フラッシュのような)データストレージ・メモリーの不揮発性と(DRAMのような)速さ、エネルギー効率、そしてワーキングメモリーの耐久性の組み合わせる」メモリー・ストレージ技術として言及されている。ランカスター(大)チームが作動原理をデモするために実際にいくつかの基礎実験を披露する一方で、ウルトラRAMは現時点では大概相変わらず理論上(の存在)に留まっている。ランカスター大の研究者いわく、「品質を改善し、製造プロセスを微調整し、そしてウルトラRAMデバイスを実装およびスケールするためのさらなる作業が進行中である」とのこと。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "2023年にウルトラRAMをさらに開発するためにQuInAsカンパニーが設立された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ウルトラRAMはチャージ(充電)ベースのメモリであり、そこでは論理状態がFG(浮遊ゲート)での電子の有無によって決定される。FGはAl2O3絶縁体によって制御ゲート(CG)から、そしてInAs / AlSb TBRTヘテロ構造から成る配下のチャネルからも電気的に分離される。", "title": "メモリのコンセプト" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "FGにおける電子の充足((NANDフラッシュみたく)真偽値0を定義する)は配下にあるn型InAsチャネルにてキャリアを使い果たし、その伝導率を減らす。結果、FGの充電状態および(それゆえに) メモリの論理状態は、ソース(S)とドレン(D)の接点の間に電圧が印加されたときチャネルを通過する電流を計測する事によって非破壊的に読み出される。メモリの最後のコンポーネントは種々の操作のためにゲート・スタックに渡って電圧を垂直方向に印加することを可能にするInAsバック=ゲート(BG)である。", "title": "メモリのコンセプト" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "本メモリを支える目新しさはTBRT (トリプル・バリア共鳴トンネル) 構造であり、それは(単層バリアとは異なり)たった±2.5Vの印加により電気的高抵抗性状態から高伝導性状態に切り替えられることにある。これはAlSbバリアとInAs QW(量子井戸)層の厚さを注意深く設計することによって実現される。メモリが保持状態にあるとき(すなわち)デバイスに電圧が印加されていない場合、TBRT QWにおける電子基底状態は互いにずれており、 そして、それはInAs FGとチャネル層の電子密度をエネルギー的に300K以上はるかに上回っている。実際、不揮発性は共鳴トンネル構造のために異常に高いエネルギーで存在するQWの基底状態によって強化される。これは極薄QWsとInAsにおける非常に低い電子有効質量との組み合わせによるものである。この状態では、TBRTはFGに出入りする電子移動を妨げる巨大なバリアを提供する。しかしながら、デバイス全体に適切なバイアスを印加することは、(プログラム操作中の)チャネルもしくは(消去操作中の)FGにおける電子状態に従事し協調するTBRT QWの基底状態のような伝導帯を傾ける。これはTBRT領域を横切って共鳴トンネリングの本質的に高速な量子力学的プロセスによって意図した方向に迅速に電子が移動することを可能にする。DRAMと比して低電圧しか要しないのとデバイスの単位面積あたりの静電容量が低いため、10 Jの超低論理状態切り替えエネルギーが20nm平面図法サイズのウルトラRAMメモリについては予測されており、これはDRAMとフラッシュよりもそれぞれ2桁と3桁の低さである。しかしながら、この超低切り替えエネルギーはnmスケール・デバイスを製造することによって実現できる前に、μmスケール・デバイスの基礎的物性を最初に理解し最適化する必要がある。GaAsサブストレートで成長させたウルトラRAMの試作品は以前、10秒の不揮発性保持および10回のプログラム=消去サイクルの実験限界(デバイス(の寿命)限界ではない)を明示していた。", "title": "メモリのコンセプト" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "充電されたFGは真偽値「0」として、そして充電切れは真偽値「1」として定義される。プログラムと消去サイクル(それぞれがFGの充電と放電である)はCGで±2.55V以内(≤)の電圧パルスを使用する。", "title": "動作(原理)" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "サブμm平面図法サイズのInAsチャネル・トランジスタおよび100 mV/dec未満のサブスレッショルド変動(subthreshold swing)が以前に実証されている。したがって、ランカスター(大)チームが設計したデバイスの閾値電圧窓が350mVであるため、ノーマリー=オフ・チャネルの実装に伴い(真偽値)0/1しかないウルトラRAMの電流比を3ディケード倍に改善することが期待される。チャネルの注意深い修正を通じた0/1比のそのような改善は、メモリアレイを奇抜な高密度RAMアーキテクチャにより構築されることを可能にするだろう。", "title": "動作(原理)" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "シリコン・デバイスにおけるウルトラRAMは実際に以前の技術の権化であるGaAs化合物半導体ウェハー上でアウトパフォームしており、少なくとも(推定)1000年間のデータ保管時間、(デバイスサイズにおいて)高速スイッチング速度を、そして(フラッシュよりも100〜1000倍優れている)少なくとも1000万(回)のプログラム=消去サイクリングの耐久性を実証している。この作業を主導しているランカスター大学物理学部のManus Hayne教授いわく、「シリコン上のウルトラRAMは我々の研究にとっては大いなる前進であり、大きな結晶格子の不一致という超重要な材料の課題および、元素から化合物半導体への変化および(それに伴う)熱収縮の違いという課題を克服する。」と言った。", "title": "大義" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2023年8月11日、それ(QuInAs)は第17回フラッシュメモリ・サミット(FMS '23)で「最(優秀)革新的フラッシュメモリ・スタートアップ」賞に勝った。", "title": "称賛" } ]
ウルトラRAMはブランド名および開発中のストレージ・デバイス技術である。ランカスター大学物理学部および工学部がウォーリック大学物理学部との協力により不揮発性メモリ技術における改善を提唱する論文をAdvanced Electronic Materials 誌に共同発表した。それはハード(ディスク)ドライブのようにデータを保持できること意味する「(フラッシュのような)データストレージ・メモリーの不揮発性と(DRAMのような)速さ、エネルギー効率、そしてワーキングメモリーの耐久性の組み合わせる」メモリー・ストレージ技術として言及されている。ランカスター(大)チームが作動原理をデモするために実際にいくつかの基礎実験を披露する一方で、ウルトラRAMは現時点では大概相変わらず理論上(の存在)に留まっている。ランカスター大の研究者いわく、「品質を改善し、製造プロセスを微調整し、そしてウルトラRAMデバイスを実装およびスケールするためのさらなる作業が進行中である」とのこと。
{{Technical|date=April 2022}} [[File:Schematic_cross-section_of_a_device_with_corresponding_material_layers..png|thumb|対応する材料層によって色分けされたデバイスの図解断面図。 (画像クレジット: ランカスター大学)]] '''ウルトラRAM'''(英: UltraRAM)は[[ブランド名]]および開発中の[[記憶装置|ストレージ・デバイス]]技術である。[[ランカスター大学]]物理学部および工学部が[[ウォーリック大学]]物理学部との協力により不揮発性メモリ技術における改善を提唱する論文<ref name=":0">{{Cite journal|last1=Hodgson|first1=Peter D.|last2=Lane|first2=Dominic|last3=Carrington|first3=Peter J.|last4=Delli|first4=Evangelia|last5=Beanland|first5=Richard|last6=Hayne|first6=Manus|date=2022-01-05|title=ULTRARAM: A Low-Energy, High-Endurance, Compound-Semiconductor Memory on Silicon|url=https://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1002/aelm.202101103|journal=Advanced Electronic Materials|volume=8|issue=4|pages=2101103|language=en|doi=10.1002/aelm.202101103|issn=2199-160X|s2cid=248070399|doi-access=free}}</ref>を''[https://onlinelibrary.wiley.com/journal/2199160x Advanced Electronic Materials]'' 誌に共同発表した。それはハード(ディスク)ドライブのようにデータを保持できること意味する「(フラッシュのような)データストレージ・メモリーの[[不揮発性メモリ|不揮発性]]と([[Dynamic random-access memory|DRAM]]のような)速さ、エネルギー効率、そしてワーキングメモリーの耐久性の組み合わせる」メモリー・ストレージ技術として言及されている<ref name=":1">{{Cite web |title=Mass production of revolutionary computer memory moves closer with ULTRARAM on silicon wafers for the first time |url=https://www.sciencedaily.com/releases/2022/01/220106143222.htm |access-date=2022-04-08 |website=ScienceDaily |language=en}}</ref>。ランカスター(大)チームが作動原理をデモするために実際にいくつかの基礎実験を披露する一方で、ウルトラRAMは現時点では大概相変わらず理論上(の存在)に留まっている<ref>{{Cite web |title='UltraRAM' breakthrough could merge storage and RAM into one component |url=https://www.pcworld.com/article/564354/new-breakthrough-could-combine-storage-and-ram-into-a-single-component.html |access-date=2022-04-08 |website=PCWorld |language=en-US}}</ref>。ランカスター大の研究者いわく、「品質を改善し、製造プロセスを微調整し、そしてウルトラRAMデバイスを実装およびスケールするためのさらなる作業が進行中である」とのこと<ref>{{Cite web |author1=Mark Tyson |date=2022-01-10 |title=UltraRAM Breakthrough Brings New Memory and Storage Tech to Silicon |url=https://www.tomshardware.com/news/ultraram-implemented-in-silicon-for-first-time |access-date=2022-04-08 |website=Tom's Hardware |language=en}}</ref>。 == 歴史 == 2023年にウルトラRAMをさらに開発するためにQuInAsカンパニーが設立された<ref>{{Cite web |author1=Mark Tyson |date=2023-09-26 |title=UltraRAM Demos Prototype Chip, Secures Funding to Validate Commercial Potential |url=https://www.tomshardware.com/news/ultraram-demos-prototype-chip-secures-funding-to-validate-commercial-potential |access-date=2023-09-26 |website=Tom's Hardware |language=en}}</ref>。 == メモリのコンセプト == ウルトラRAMはチャージ(充電)ベースのメモリであり、そこでは[[論理回路|論理]]状態がFG(浮遊ゲート)での[[電子]]の有無によって決定される。FGは[[酸化アルミニウム|Al<sub>2</sub>O<sub>3</sub>]]絶縁体によって制御ゲート(CG)から、そして[[ヒ化インジウム|InAs]] / [[アンチモン化アルミニウム|AlSb]] TBRT[[ヘテロ接合 (半導体)|ヘテロ構造]]から成る配下のチャネルからも電気的に分離される。 FGにおける電子の充足((NANDフラッシュみたく)真偽値0を定義する)は配下にあるn型InAsチャネルにてキャリアを使い果たし、その伝導率を減らす。結果、FGの充電状態および(それゆえに) メモリの論理状態は、ソース(S)とドレン(D)の接点の間に電圧が印加されたときチャネルを通過する電流を計測する事によって非破壊的に読み出される。メモリの最後のコンポーネントは種々の操作のためにゲート・スタックに渡って電圧を垂直方向に印加することを可能にするInAsバック=ゲート(BG)である。 本メモリを支える目新しさはTBRT (トリプル・バリア[[共鳴トンネルダイオード|共鳴トンネル]]) 構造であり、それは(単層バリアとは異なり)たった±2.5Vの印加により電気的高抵抗性状態から高伝導性状態に切り替えられることにある。これはAlSbバリアとInAs QW([[量子井戸]])層の厚さを注意深く設計することによって実現される。メモリが保持状態にあるとき(すなわち)デバイスに電圧が印加されていない場合、TBRT QWにおける電子基底状態は互いにずれており、 そして、それはInAs FGとチャネル層の電子密度をエネルギー的に300K以上はるかに上回っている。実際、不揮発性は共鳴トンネル構造のために異常に高いエネルギーで存在するQWの基底状態によって強化される。これは極薄QWsとInAsにおける非常に低い電子有効質量との組み合わせによるものである。この状態では、TBRTはFGに出入りする電子移動を妨げる巨大なバリアを提供する。しかしながら、デバイス全体に適切なバイアスを印加することは、(プログラム操作中の)チャネルもしくは(消去操作中の)FGにおける電子状態に従事し協調するTBRT QWの基底状態のような[[伝導帯]]を傾ける。これはTBRT領域を横切って共鳴トンネリングの本質的に高速な量子力学的プロセスによって意図した方向に迅速に電子が移動することを可能にする。DRAMと比して低電圧しか要しないのとデバイスの単位面積あたりの[[静電容量]]が低いため、10<sup>−17</sup> Jの超低論理状態切り替えエネルギーが20nm平面図法サイズのウルトラRAMメモリについては予測されており、これはDRAMとフラッシュよりもそれぞれ2桁と3桁の低さである。しかしながら、この超低切り替えエネルギーはnmスケール・デバイスを製造することによって実現できる前に、μmスケール・デバイスの基礎的物性を最初に理解し最適化する必要がある。[[ヒ化ガリウム|GaAs]]サブストレートで成長させたウルトラRAMの試作品は以前、10<sup>5</sup>秒の不揮発性保持および10<sup>6</sup>回の[[w:program-erase_cycles|プログラム=消去サイクル]]の実験限界(デバイス(の寿命)限界ではない)を明示していた<ref name=":0" />。 == 動作(原理) == [[File:Retention_and_endurance_characteristics.png|thumb|保持(性)と耐久性の特性。a)20μm ゲート長セルのデータ保持(性)。 b)対数スケールでプロットした24時間以上保持(時)のS-D電流差異(∆''I''S-D)。c)20μmゲート長セルの1秒間あたりの連続プログラム=読込=消去=読込サイクリング(5msパルス)のデータ耐久性。d)10<sup>7</sup>サイクル以上の延長耐久性テスト。e)オシロスコープのトレースがパルス列のセクションにおいて印加されたゲートバイアスを示している。]] 充電されたFGは真偽値「0」として、そして充電切れは真偽値「1」として定義される。プログラムと消去サイクル(それぞれがFGの充電と放電である)はCGで±2.55V以内(≤)の[[電圧]]パルスを使用する。 サブμm平面図法サイズのInAsチャネル・[[トランジスタ]]および100 mV/dec未満のサブスレッショルド変動(subthreshold swing)が以前に実証されている<ref>{{Cite book |last1=Chang |first1=S. W. |last2=Li |first2=Xu |last3=Oxland |first3=R. |last4=Wang |first4=S. W. |last5=Wang |first5=C. H. |last6=Contreras-Guerrero |first6=R. |last7=Bhuwalka |first7=K. K. |last8=Doornbos |first8=G. |last9=Vasen |first9=T. |last10=Holland |first10=M. C. |last11=Vellianitis |first11=G. |title=2013 IEEE International Electron Devices Meeting |chapter=InAs N-MOSFETs with record performance of I<sub>on</sub> = 600 μA/μm at I<sub>off</sub> = 100 nA/μm (V<sub>d</sub> = 0.5 V) |date=30 January 2014 |chapter-url=https://ieeexplore.ieee.org/document/6724639 |pages=16.1.1–16.1.4 |doi=10.1109/IEDM.2013.6724639|isbn=978-1-4799-2306-9 |s2cid=10847457 }}</ref>。したがって、ランカスター(大)チームが設計したデバイスの[[閾値電圧]]窓が350mVであるため、ノーマリー=オフ・チャネルの実装に伴い(真偽値)0/1しかないウルトラRAMの電流比を3[[ディケード (単位)|ディケード倍]]に改善することが期待される。チャネルの注意深い修正を通じた0/1比のそのような改善は、メモリアレイを奇抜な高密度[[Random-access memory|RAM]]アーキテクチャにより構築されることを可能にするだろう<ref name=":0" />。 == 大義 == シリコン・デバイスにおけるウルトラRAMは実際に以前の技術の権化であるGaAs化合物半導体ウェハー上でアウトパフォームしており、少なくとも(推定)1000年間のデータ保管時間、(デバイスサイズにおいて)高速スイッチング速度を、そして(フラッシュよりも100〜1000倍優れている)少なくとも1000万(回)のプログラム=消去サイクリングの耐久性を実証している。この作業を主導しているランカスター大学物理学部のManus Hayne教授いわく、「シリコン上のウルトラRAMは我々の研究にとっては大いなる前進であり、大きな[[結晶構造|結晶格子]]の不一致という超重要な材料の課題および、元素から化合物半導体への変化および(それに伴う)熱収縮の違いという課題を克服する。」<ref name=":1" />と言った。 == 称賛 == 2023年8月11日、それ(QuInAs)は第17回フラッシュメモリ・サミット(FMS '23)で「最(優秀)革新的フラッシュメモリ・[[スタートアップ企業|スタートアップ]]」賞に勝った<ref name=FMS2023>{{cite web |url=https://kalkinemedia.com/news/world-news/flash-memory-summit-announces-2023-best-of-show-award-winners |title=Flash Memory Summit Announces 2023 Best of Show Award Winners |author=<!--Staff writer(s); no by-line.--> |date=2023-08-12 |website=kalkinemedia.com |publisher= |accessdate=2023-09-28}}</ref>。 ==関連項目== {{div col|colwidth=18em}} * [[浮遊ゲートMOSFET]] * [[w:Charge trap flash]] * [[Dynamic random-access memory]] * [[ユニバーサル・メモリ]]{{div col end}} == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == {{refbegin}} *{{cite web |last=Nasser |first=Hussein |date=19 Jan 2022 |title=Is ULTRARAM a game changer? |website=[[YouTube]] |url=https://www.youtube.com/watch?v=N8goWkeBu1w}} {{refend}} * Promotion video: https://www.youtube.com/watch?v=iz-sYyfojw4 {{Memory types}}{{新技術|topics=yes|infocom=yes}} <!--- Categories ---> {{DEFAULTSORT:うるとらRAM}} [[Category:情報ストレージ]]
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ヴワディスワフ・コシニャク=カミシュ
ヴワディスワフ・マルチン・コシニャク=カミシュ(ポーランド語: Władysław Marcin Kosiniak-Kamysz、1981年8月10日 - )は、ポーランドの政治家。 ポーランド共和国下院議員、ポーランド農民党の党首。2023年より国防大臣兼副首相を務めている。
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ヴワディスワフ・マルチン・コシニャク=カミシュは、ポーランドの政治家。 ポーランド共和国下院議員、ポーランド農民党の党首。2023年より国防大臣兼副首相を務めている。
{{Expand language|langcode=pl|langcode2=en|date=2023年11月}} {{Uncategorized|date=2023年11月}}{{Infobox officeholder |name=ヴワディスワフ・コシニャク=カミシュ |native_name=Władysław Kosiniak-Kamysz |image=Władysław_Kosiniak-Kamysz,_Poseł_na_Sejm_RP,_Prezes_Polskiego_Stronnictwa_Ludowego.jpg |office=[[国防省 (ポーランド)|国防大臣]] |term_start=2023年12月13日 |premier=[[ドナルド・トゥスク]] |predecessor={{ill2|マリュシュ・ブワシュチャク|en|Mariusz Błaszczak}} |office1=[[ポーランド共和国下院|ポーランド共和国下院議員]] |term_start1=2023年11月13日 |birth_name=ヴワディスワフ・マルチン・コシニャク=カミシュ |birth_date={{birth date and age|1981|08|10|df=y}} |birth_place={{POL1952}}、[[クラクフ]] |party=[[ポーランド農民党]] |spouse=アグニェシュカ・コシニャク=カミシュ(Agnieszka Kosiniak-Kamysz)(2009年-2016年)<br> パウリナ・ヴォヤス(Paulina Wojas)(2019年-) |children=2人 |office2=家族・労働・社会政策省 |term_start2=2011年11月18日 |term_end2=2015年11月16日 |premier2=[[ドナルド・トゥスク]]<br> [[エヴァ・コパチ]] |premier1=[[マテウシュ・モラヴィエツキ]]<br/>[[ドナルド・トゥスク]] |education=[[ヤギェウォ大学]] |signature=Władysław_Kosiniak-Kamysz_signature.jpg |constituency1=15 – タルヌフ}} '''ヴワディスワフ・マルチン・コシニャク=カミシュ'''({{lang-pl|Władysław Marcin Kosiniak-Kamysz}}、[[1981年]][[8月10日]] - )は、[[ポーランド]]の[[政治家]]。 [[ポーランド共和国下院|ポーランド共和国下院議員]]、[[ポーランド農民党]]の[[党首]]。2023年より国防大臣兼副首相を務めている<ref>{{cite web |url =https://notesfrompoland.com/2023/12/12/incoming-polish-pm-tusk-presents-cabinet-and-programme-ahead-of-confidence-vote/|title = Incoming Polish PM Tusk presents cabinet and programme ahead of confidence vote |publisher = Notes from Poland|date =2023-12-13| access-date=2023-12-14}}</ref>。 == 選挙結果 == {| class="wikitable" |+ !選挙 !政党 !機関 !選挙区 !結果 |- |[[ポーランドの地方自治#2010年選挙|2010]] |ヤツェク・マイフロフスキの選挙管理委員会 |第6期[[クラクフ]]市議会 |3区 | style=" background:pink;" |763 (2.04%)✗ |- |[[2014年欧州議会議員選挙 (ポーランド)|2014]] | style="background: #2AD499;" |[[ポーランド農民党]] |第8期[[欧州議会]] |9区(ジェシュフ) | style=" background:pink;" |12,667 (3.18%)✗ |- |[[2015年ポーランド議会選挙|2015]] | style="background: #2AD499;" |ポーランド農民党 |第8期[[ポーランド共和国下院|下院]] |15区(タルヌフ) | style=" background:palegreen;" |12,171 (4.17%)✓ |- |[[2019年ポーランド議会選挙|2019]] | style="background: #2AD499;" |ポーランド農民党 |第9期下院 |15区(タルヌフ) | style=" background:palegreen;" |33,784 (9.73%)✓ |- |[[2020年度ポーランド大統領選挙|2020]] | style="background: #2AD499;" |ポーランド農民党 |[[ポーランドの大統領一覧|ポーランド共和国大統領]] | - | style=" background:pink;" |459,365 (2.36%)✗ |- |[[2023年ポーランド議会選挙|2023]] | style="background: #2AD499;" |[[第3の道(ポーランド)|第3の道]]([[ポーランド農民党]]) |第10期下院 |15区(タルヌフ) | style=" background:palegreen;" |50,139 (12.42%)✓<ref>{{Cite web |title=Wybory do Sejmu i Senatu Rzeczypospolitej Polskiej w 2023 r. |url=https://wybory.gov.pl/sejmsenat2023/pl/sejm/kandydat/29624/15/2746494 |website=wybory.gov.pl |access-date=2023-11-15 |language=pl}}</ref> |} == 脚注 == <references />{{Authority control}} [[Category:21世紀ポーランドの政治家]]
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刺客 (ティツィアーノ)
『刺客』(しきゃく、伊: Il Bravo, 独: Der Bravo, 英: The Bravo)は、イタリアのルネサンス期のヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノ・ヴェチェッリオが1515年から1520年ごろに制作した絵画である。油彩。たがいの頭部を接近させ、しばしば表情やそのやり取りが謎めいている2人または3人の半身像を描いた、1510年代の数多くのヴェネツィア絵画の1つで、それらのほとんどは、主題のよく分からないであるジョルジョネスク様式あるいはトローニー(英語版)の作品であるが、この作品群には、様式の点で本作品とよく似ており、イエス・キリストを主要人物として描いた『貢の銭』(La moneta del tributo)や、男性の正体はともかく女性の正体は明らかな『ルクレティアと夫』(Lucrezia e suo marito)も含まれている。過去にはジョルジョーネやパルマ・イル・ヴェッキオに帰属されていた。初代ハミルトン公爵ジェイムズ・ハミルトン、バイエルン大公レオポルト・ヴィルヘルム・フォン・エスターライヒのコレクションを経て、現在はウィーンの美術史美術館に所蔵されている。 暗い背景の前に2人の男性が鑑賞者に対して背中を向けながら前後に並んでいる。画面奥の人物は、右手で肩をたたいて彼を急に振り向かせる手前の人物を、怪訝な表情で振り向きながら肩越しに見ている。手前の人物は鎧を着込んでおり、背中に回した彼の左手は柄だけが見える短剣か剣を隠していることが鑑賞者には明らかであり、攻撃が差し迫っていることを示唆している。画面奥の人物は蔓の葉で作った花輪を頭に被り、金髪をなびかせた青年であるが、彼もまた武器に右手を伸ばし、中央下にかすかに見える柄を握りしめていることから分かる。手前の人物は画面奥の人物を見つめているため、鑑賞者はその表情をうかがうことは困難である。 17世紀以降、本作品は一般的に単に「刺客」を意味する作品として知られるようになったが、描かれたシーンを神話や歴史のエピソードから特定することも試みられてきた。そのうちの有力な説の1つは、バロック期の伝記作家カルロ・リドルフィによるもので、それによるとプルタルコスが「マリウス伝」で言及しているカイウス・ルシウスがトレボニウスを攻撃する場面であるという。もう1つはエウリピデスの『バッコスの信女』で言及されている、ギリシア神話のテーバイ王ペンテウスによるディオニュソス、あるいはディオニュソスの信者アコイテスを逮捕した場面とするものである。この説は画面奥の男性がブドウの葉の花輪を被っている理由を説明することができる。X線撮影を用いた科学的調査から、画面右の手前の人物がかつて頭部に王冠を被っていたことが判明した。 帰属については、ダフィット・テニールスの縮小複製をもとにした『テアトル・ピクトリウム(英語版)』(Theatrum Pictorium)のエッチングではジョルジョーネの作品と見なされている。絵画はイタリアの美術史家ロベルト・ロンギ(英語版)によってティツィアーノに帰属されたが、ジョン・スティア(英語版)はパルマ・イル・ヴェッキオに帰属した。 絵画はおそらく1526年に、ヴェネツィアの貴族ズアナントニオ・ヴェニエール(Zuanantonio Venier)のコレクションに収蔵されていた。当時、ズアナントニオ・ヴェニエールが所有する絵画の1つは「ティツィアーノによる、たがいに攻撃している2人の半身像」と表現されていた。1636年に初代ハミルトン公爵ジェイムズ・ハミルトンに売却され、ロンドンに持ち込まれた。ハミルトン公爵の購入品のほとんどはバルトロメオ・デッラ・ナーヴェ(英語版)のコレクションに由来するのものであった。そのため、デッラ・ナーヴェはこのときまでに本作品を入手し、その膨大なコレクションの中に加えていたと考えられる。清教徒革命でハミルトン公爵が処刑されたのち、絵画は1659年までにオーストリアのバイエルン大公レオポルト・ヴィルヘルムによって購入された。コレクションは後にハプスブルク帝国のコレクションの一部となり、その後、美術史美術館に収蔵された。 『刺客』は、ダフィット・テニールスによって、大公レオポルト・ヴィルヘルムのコレクションの展示風景を描いた何点かの絵画作品に描かれた。また大公のコレクションをカタログ化した『テアトル・ピクトリウム』の表紙に『ヴィオランテ』(Violante)とともに描かれ、カタログにもエッチングによる複製画が掲載された。これらのことから、絵画がバイエルン大公レオポルト・ヴィルヘルムのキャビネットにあった当時、非常に人気がある作品であったことはまちがいない。油彩による複製も何点か知られており、そのうちの1つはロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館に所蔵されている。
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『刺客』は、イタリアのルネサンス期のヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノ・ヴェチェッリオが1515年から1520年ごろに制作した絵画である。油彩。たがいの頭部を接近させ、しばしば表情やそのやり取りが謎めいている2人または3人の半身像を描いた、1510年代の数多くのヴェネツィア絵画の1つで、それらのほとんどは、主題のよく分からないであるジョルジョネスク様式あるいはトローニーの作品であるが、この作品群には、様式の点で本作品とよく似ており、イエス・キリストを主要人物として描いた『貢の銭』や、男性の正体はともかく女性の正体は明らかな『ルクレティアと夫』も含まれている。過去にはジョルジョーネやパルマ・イル・ヴェッキオに帰属されていた。初代ハミルトン公爵ジェイムズ・ハミルトン、バイエルン大公レオポルト・ヴィルヘルム・フォン・エスターライヒのコレクションを経て、現在はウィーンの美術史美術館に所蔵されている。
{{Infobox 絵画作品 | image_file = Tiziano Vecellio, gen. Tizian, , Kunsthistorisches Museum Wien - Der Bravo - GG 64 - Kunsthistorisches Museum.jpg | image_size = 300px | title = 刺客 | other_language_1 = [[イタリア語]] | other_title_1 = Il Bravo | other_language_2 = [[英語]] | other_title_2 = The Bravo | artist = [[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ]] | year = 1515年-1520年ごろ<ref name=K>{{cite web|title=Der Bravo |accessdate=2023/11/15 |url=https://www.khm.at/objektdb/detail/1935/ |publisher=[[美術史美術館]]公式サイト}}</ref> | type = [[油彩]]、[[キャンバス]] | height = 77 | width = 66.5 | city = [[ウィーン]] | museum = [[美術史美術館]] }} 『'''刺客'''』(しきゃく、{{lang-it-short|Il Bravo}}, {{lang-de-short|Der Bravo}}, {{lang-en-short|The Bravo}})は、[[イタリア]]の[[ルネサンス]]期の[[ヴェネツィア派]]の巨匠[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ]]が1515年から1520年ごろに制作した絵画である。[[油彩]]。たがいの頭部を接近させ、しばしば表情やそのやり取りが謎めいている2人または3人の半身像を描いた、1510年代の数多くのヴェネツィア絵画の1つで、それらのほとんどは、主題のよく分からないであるジョルジョネスク様式あるいは{{ill|トローニー|en|Tronie}}の作品であるが、この作品群には、様式の点で本作品とよく似ており、[[イエス・キリスト]]を主要人物として描いた『[[貢の銭 (ティツィアーノ)|貢の銭]]』({{it|La moneta del tributo}})や<ref name=J98>Jaffé, p.98.</ref>、男性の正体はともかく女性の正体は明らかな『[[ルクレティアと夫]]』({{it|Lucrezia e suo marito}})も含まれている<ref>Steer, p.114-116.</ref>。過去には[[ジョルジョーネ]]や[[パルマ・イル・ヴェッキオ]]に帰属されていた。初代[[ハミルトン公爵]][[ジェイムズ・ハミルトン (初代ハミルトン公爵)|ジェイムズ・ハミルトン]]、[[バイエルン大公]][[レオポルト・ヴィルヘルム・フォン・エスターライヒ]]のコレクションを経て、現在は[[ウィーン]]の[[美術史美術館]]に所蔵されている<ref name=K /><ref name=CTV>{{cite web|title=Titian |accessdate=2023/11/15 |url=http://cavallinitoveronese.co.uk/general/view_artist/66 |publisher=Cavallini to Veronese}}</ref><ref name=WGA>{{cite web|title=The Bravo |accessdate=2023/11/15 |url=https://www.wga.hu/frames-e.html?/html/t/tiziano/08/06bravo.html |publisher=Web Gallery of Art}}</ref>。 == 作品 == [[File:Titian - The Tribute Money - Google Art Project (715452).jpg|thumb|240px|ティツィアーノの『[[貢の銭 (ティツィアーノ)|貢の銭]]』。1516年。[[アルテ・マイスター絵画館]]所蔵。]] 暗い背景の前に2人の男性が鑑賞者に対して背中を向けながら前後に並んでいる。画面奥の人物は、右手で肩をたたいて彼を急に振り向かせる手前の人物を、怪訝な表情で振り向きながら肩越しに見ている。手前の人物は鎧を着込んでおり、背中に回した彼の左手は柄だけが見える短剣か剣を隠していることが鑑賞者には明らかであり、攻撃が差し迫っていることを示唆している。画面奥の人物は蔓の葉で作った花輪を頭に被り、金髪をなびかせた青年であるが、彼もまた武器に右手を伸ばし、中央下にかすかに見える柄を握りしめていることから分かる。手前の人物は画面奥の人物を見つめているため、鑑賞者はその表情をうかがうことは困難である。 17世紀以降、本作品は一般的に単に「[[刺客]]」を意味する作品として知られるようになったが<ref name=CTV />、描かれたシーンを神話や歴史のエピソードから特定することも試みられてきた。そのうちの有力な説の1つは、[[バロック]]期の伝記作家[[カルロ・リドルフィ]]によるもので、それによると[[プルタルコス]]が「[[ガイウス・マリウス|マリウス]]伝」で言及しているカイウス・ルシウスがトレボニウスを攻撃する場面であるという<ref name=K /><ref name=CTV /><ref name=AV>{{cite web|title=Il Bravo |accessdate=2023/11/15 |url=https://collections.vam.ac.uk/item/O132190/il-bravo-oil-painting-titian/iil-bravoi-oil-painting-titian/ |publisher=[[ヴィクトリア&アルバート博物館]]公式サイト}}</ref>。もう1つは[[エウリピデス]]の『[[バッコスの信女]]』で言及されている、[[ギリシア神話]]の[[テーバイ]]王[[ペンテウス]]による[[ディオニュソス]]<ref name=K /><ref name=CTV /><ref name=WGA /><ref name=AV />、あるいはディオニュソスの信者アコイテスを逮捕した場面とするものである。この説は画面奥の男性がブドウの葉の花輪を被っている理由を説明することができる<ref name=J98 />。[[X線撮影]]を用いた科学的調査から、画面右の手前の人物がかつて頭部に王冠を被っていたことが判明した。 帰属については、[[ダフィット・テニールス (子)|ダフィット・テニールス]]の縮小複製をもとにした『{{ill|テアトル・ピクトリウム|en|Theatrum Pictorium}}』({{la|Theatrum Pictorium}})の[[エッチング]]ではジョルジョーネの作品と見なされている<ref name=TP23>Theatrum Pictorium, Cat no.23.</ref>。絵画はイタリアの[[美術史家]]{{ill|ロベルト・ロンギ|en|Roberto Longhi}}によってティツィアーノに帰属されたが、{{ill|ジョン・スティア (美術史家)|en|John Steer (art historian)|label=ジョン・スティア}}はパルマ・イル・ヴェッキオに帰属した<ref>Steer, p.115-116.</ref>。 == 来歴 == 絵画はおそらく1526年に、[[ヴェネツィア]]の貴族ズアナントニオ・ヴェニエール({{it|Zuanantonio Venier}})のコレクションに収蔵されていた。当時、ズアナントニオ・ヴェニエールが所有する絵画の1つは「ティツィアーノによる、たがいに攻撃している2人の半身像」と表現されていた<ref name=CTV /><ref name=J98 />。1636年に初代ハミルトン公爵ジェイムズ・ハミルトンに売却され、[[ロンドン]]に持ち込まれた。ハミルトン公爵の購入品のほとんどは{{ill|バルトロメオ・デッラ・ナーヴェ|en|Bartolomeo della Nave}}のコレクションに由来するのものであった。そのため、デッラ・ナーヴェはこのときまでに本作品を入手し、その膨大なコレクションの中に加えていたと考えられる。[[清教徒革命]]でハミルトン公爵が処刑されたのち、絵画は1659年までに[[オーストリア]]のバイエルン大公レオポルト・ヴィルヘルムによって購入された。コレクションは後に[[ハプスブルク帝国]]のコレクションの一部となり、その後、美術史美術館に収蔵された<ref name=CTV />。 == 複製 == 『刺客』は、ダフィット・テニールスによって、大公レオポルト・ヴィルヘルムのコレクションの展示風景を描いた何点かの絵画作品に描かれた。また大公のコレクションをカタログ化した『テアトル・ピクトリウム』の表紙に『[[ヴィオランテ (ティツィアーノ)|ヴィオランテ]]』({{it|Violante}})とともに描かれ、カタログにも[[エッチング]]による複製画が掲載された。これらのことから、絵画がバイエルン大公レオポルト・ヴィルヘルムのキャビネットにあった当時、非常に人気がある作品であったことはまちがいない。油彩による複製も何点か知られており、そのうちの1つはロンドンの[[ヴィクトリア&アルバート博物館]]に所蔵されている<ref name=AV />。 == ギャラリー == ; 関連作品 <gallery widths="190px" heights="220px" perrow="3" style="font-size:smaller"> Tiziano Vecellio, gen. Tizian, , Kunsthistorisches Museum Wien - Violante - GG 65 - Kunsthistorisches Museum.jpg|『[[ヴィオランテ (ティツィアーノ)|ヴィオランテ]]』1510年から1515年ごろ [[美術史美術館]]所蔵 Attributed to Titian (c. 1488-Venice 1576) - The Lovers - RCIN 403928 - Royal Collection.jpg|『[[恋人たち (ティツィアーノ)|恋人たち]]』1510年ごろ [[ロイヤル・コレクション]]所蔵 Tiziano, tarquinio e lucrezia.jpg|『[[ルクレティアと夫]]』1515年ごろ 美術史美術館所蔵 </gallery> ; 大公レオポルト・ヴィルヘルム時代に制作された複製 <gallery widths="160px" heights="160px" perrow="4" style="font-size:smaller"> Arolsen Klebeband 13 095.jpg|『テアトル・ピクトリウム』のためのエッチング。ここではジョルジョーネに帰属されている<ref name=TP23 />。 David Teniers the Younger - modello for Theatrum Pictorium 1673.jpg|[[ダフィット・テニールス (子)|ダフィット・テニールス]]『テアトル・ピクトリウムのための扉絵』個人蔵 David Teniers d. J. 008.jpg|ダフィット・テニールス『ブリュッセルの画廊における大公レオポルト・ヴィルヘルム』美術史美術館所蔵 Gallery of Archduke Leopold Wilhelm in Brussels - Petworth House.jpg|ダフィット・テニールス『ブリュッセルの画廊における大公レオポルト・ヴィルヘルム』{{ill|ペトワース・ハウス|en|Petworth House}}所蔵 </gallery> == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * イアン・G・ケネディー『ティツィアーノ』[[Taschen]](2009年) * Jaffé, David (ed), ''Titian'', The National Gallery Company/Yale, London 2003, {{ISBN|1 857099036}}, #12 in catalogue * {{ill|ジョン・スティア (美術史家)|en|John Steer (art historian)|label=Steer, John}}, ''Venetian painting: A concise history'', 1970, London: Thames and Hudson (World of Art), {{ISBN|0500201013}} * {{cite book|first= Francesco |last=Valcanover|title=L'opera completa di Tiziano|publisher=Rizzoli|location=Milan|year=1969|language=it}} * [[ダフィット・テニールス (子)|Teniers, David]], ''[https://archive.org/details/gri_33125009347911/page/n54/mode/1up?view=theater Theatrum Pictorium]''. == 外部リンク == {{Commonscat|Bravo by Titian (Kunsthistorisches Museum)}} * [https://www.khm.at/objektdb/detail/1935/ 美術史美術館公式サイト, ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『刺客』] {{ティツィアーノ・ヴェチェッリオ}} {{DEFAULTSORT:しきやく}} [[Category:ティツィアーノ・ヴェチェッリオの作品]] [[Category:1510年代の絵画]] [[Category:ギリシア神話を題材とした絵画]] [[Category:古代ローマを題材とした作品]] [[Category:美術史美術館の所蔵品]]
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宮國凌空
宮國 凌空(みやぐに りく、2005年8月7日 - )は、沖縄県宜野湾市出身のプロ野球選手(投手・育成選手)。オリックス・バファローズ所属。 小学校1年生のときに『宜野湾ベースボールキッズ』で野球を始め、宜野湾市立宜野湾中学校では硬式野球の『宜野湾ポニーズ』に所属し、2年時にはポニーリーグ日本代表に選出された。中学2年時までは内野手であったが、3年生からは一塁手を務めながら、本格的に投手としての練習を始めた。 東邦高校に進学すると、1年夏に投手へ転向し、1年秋から背番号1を付けた。2年秋は県大会と東海大会で優勝を果たして明治神宮大会に出場し、センバツ出場も確実にしたが、県大会期間中から右肩痛を発症しており、2年冬はノースロー調整。ほぼぶっつけ本番であったという春のセンバツでは2試合に先発し、計11イニングを7失点であった。3年夏は右手を負傷したこともあり、県大会4回戦では登板機会がなく、星城に敗れた。 2023年10月26日に開催されたドラフト会議にて、オリックス・バファローズから育成3位指名を受けた。11月15日に支度金300万円・年俸240万円(金額はいずれも推定)で仮契約を結んだ。 リリースへと移行する前に、左手を大きく高く突き上げる独特な投球フォームが特徴。 持ち球は最速149km/hのストレート、スライダー、カーブ、フォーク、スプリット、ツーシーム。スピードで押すだけでなく、緩急も自在に操れる投球術が強みである。
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宮國 凌空は、沖縄県宜野湾市出身のプロ野球選手(投手・育成選手)。オリックス・バファローズ所属。
{{Infobox baseball player |選手名 = 宮國 凌空 |所属球団 = オリックス・バファローズ |背番号 = 043 | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = |国籍 = {{JPN}} |出身地 = [[沖縄県]][[宜野湾市]] |生年月日 = {{生年月日と年齢|2005|8|7}} |没年月日 = |身長 = 176 |体重 = 78 |利き腕 = 右 |打席 = 右 |守備位置 = [[投手]] |プロ入り年度 = {{NPBドラフト|2023}} |ドラフト順位 = 育成選手ドラフト3位 |初出場 = |最終出場 = |年俸 = 240万円(2024年) |経歴 = * [[東邦高等学校]] * [[オリックス・バファローズ]](2024 - ) }} '''宮國 凌空'''(みやぐに りく、[[2005年]][[8月7日]] - )は、[[沖縄県]][[宜野湾市]]出身の[[プロ野球選手]]([[投手]]・[[育成選手制度 (日本プロ野球)|育成選手]])。[[オリックス・バファローズ]]所属。 == 経歴 == === プロ入り前 === 小学校1年生のときに『宜野湾ベースボールキッズ』で野球を始め<ref name="sponichi20230502">{{Cite web |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2023/05/02/kiji/20230501s00001002606000c.html |title=【スポニチ潜入(3)東邦・宮国凌空投手】球質にこだわり「真っすぐの強さ」追い求める最速149キロ右腕 |publisher=Sponichi Annex |date=2023-05-02 |accessdate=2023-11-15}}</ref>、[[宜野湾市立宜野湾中学校]]では硬式野球の『宜野湾ポニーズ』に所属し、2年時にはポニーリーグ日本代表に選出された<ref name="chunichi20231005">{{Cite web |url=https://www.chunichi.co.jp/article/783095 |title=東邦・宮国凌空がプロ志望届を提出へ 最速149キロ右腕、右肩痛から復調【高校野球】 |publisher=中日スポーツ |date=2023-10-05 |accessdate=2023-11-15}}</ref>。中学2年時までは内野手であったが、3年生からは一塁手を務めながら、本格的に投手としての練習を始めた<ref name="mainichi20230301">{{Cite web |url=https://mainichi.jp/articles/20230301/ddl/k23/050/144000c |title=部員紹介 宮国凌空投手(2年) 球速149キロ もっと強くなる /愛知 |publisher=毎日新聞 |date=2023-03-01 |accessdate=2023-11-15}}</ref>。 [[東邦高等学校|東邦高校]]に進学すると、1年夏に投手へ転向し<ref>{{Cite web |url=https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1681752.html |title=宜野湾中出身の宮國 名門・東邦(愛知)のエースとしてセンバツ初登板 149キロ直球に多彩な変化球 |publisher=琉球新報 |date=2023-03-22 |accessdate=2023-11-15}}</ref>、1年秋から背番号1を付けた{{R|sponichi20230502}}。2年秋は県大会と[[秋季東海地区高等学校野球大会|東海大会]]で優勝{{R|chunichi20231005}}を果たして[[第53回明治神宮野球大会|明治神宮大会]]に出場し{{R|sponichi20230502}}、[[第95回記念選抜高等学校野球大会|センバツ]]出場も確実にしたが、県大会期間中から右肩痛を発症しており、2年冬はノースロー調整{{R|chunichi20231005}}。ほぼぶっつけ本番であったという春のセンバツ{{R|sponichi20230502}}では2試合に先発し、計11イニングを7失点であった{{R|chunichi20231005}}。3年夏は右手を負傷したこともあり<ref>{{Cite web |url=https://www.chunichi.co.jp/article/800251 |title=オリックス育成3位の東邦高校・宮国凌空、育成から日本シリーズへ…目標はまず「支配下」 |publisher=中日スポーツ |date=2023-11-01 |accessdate=2023-11-15}}</ref>、[[全国高等学校野球選手権愛知大会|県大会]]4回戦では登板機会がなく、[[星城中学校・高等学校|星城]]に敗れた<ref>{{Cite web |url=http://www.hb-nippon.com/2023/07/008-4/ |title=星城がセンバツ16強・東邦に勝利 東邦は春夏連続甲子園ならず |publisher=高校野球ドットコム |date=2023-07-21 |accessdate=2023-11-15}}</ref>。 '''{{by|2023年}}'''10月26日に開催された[[2023年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト会議]]にて、[[オリックス・バファローズ]]から育成3位指名を受けた<ref>{{Cite web |url=https://www3.nhk.or.jp/lnews/okinawa/20231026/5090025441.html |title=宜野湾出身の宮國投手 オリックスから育成3位で指名 |publisher=NHK |date=2023-10-26 |accessdate=2023-11-15}}</ref>。11月15日に支度金300万円・年俸240万円(金額はいずれも推定)で仮契約を結んだ<ref>{{Cite web |url=https://www.chunichi.co.jp/article/807172 |title=東邦高・宮国凌空がオリックスと仮契約「基礎体力を上げてしっかりアピールを」 |publisher=中日スポーツ |date=2023-11-15 |accessdate=2023-11-15}}</ref>。 == 選手としての特徴 == リリースへと移行する前に、左手を大きく高く突き上げる独特な投球フォームが特徴{{R|sponichi20230502}}。 持ち球は最速149km/hの[[速球|ストレート]]{{R|chunichi20231005}}、[[スライダー (球種)|スライダー]]、[[カーブ (球種)|カーブ]]、[[フォークボール|フォーク]]、[[フォークボール#スプリットフィンガード・ファストボール|スプリット]]、[[速球#ツーシーム・ファストボール|ツーシーム]]{{R|sponichi20230502}}。スピードで押すだけでなく、緩急も自在に操れる投球術が強みである{{R|mainichi20230301}}。 == 詳細情報 == === 背番号 === * '''043'''(2024年 - ) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[沖縄県出身の人物一覧]] * [[オリックス・バファローズの選手一覧]] == 外部リンク == {{オリックス・バファローズの選手・スタッフ}} {{オリックス・バファローズ2023年ドラフト指名選手}} {{デフォルトソート:みやくに りく}} [[Category:日本の野球選手]] [[Category:オリックス・バファローズの育成選手]] [[Category:東邦高等学校出身の野球選手]] [[Category:沖縄県出身の人物]] [[Category:2005年生]] [[Category:存命人物]]
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大石晴子
大石晴子(おおいしはるこ)は日本のシンガーソングライター。大阪府生まれ、横浜市育ち。ソウル・ミュージックに影響を受けている。 中学生でGRAPEVINEの熱狂的なリスナーになり、強く影響を受ける。他に、キリンジ、清竜人、TRICERATOPSなども聴いていた。また、通っていた中高一貫校で讃美歌を歌う。その後は早稲田大学のソウル・ミュージックサークルに所属。ミニー・リパートンやコリーヌ・ベイリー・レイの影響を受ける。2018年にりんご音楽祭に出演後、2019年に配信シングル「怒らないでね」でデビュー。その後、2019年8月にEP『賛美』をリリース。2020年からは、ユニット「TATEANAS」でも活動。2022年4月には、ソロ1stフルアルバム『脈光』をリリースした。アルバムのリリース後には土岐麻子がコメントを寄せるなど、大きな反響があった。 ラジオを聴くこと、お笑いが好き。 兄はラッパーのRYUKI。アルバム『脈光』の収録曲「手の届く」では共演している。
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大石晴子(おおいしはるこ)は日本のシンガーソングライター。大阪府生まれ、横浜市育ち。ソウル・ミュージックに影響を受けている。
{{Infobox Musician |名前 = 大石晴子 |画像 = <!-- 画像ファイル名 --> |画像説明 = <!-- 画像の説明文 --> |画像サイズ = <!-- サイズが幅250ピクセルに満たない場合のみ記入 --> |画像補正 = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --> |背景色 = singer |出生名 = |別名 = |出生 = <!-- 個人のみ --><!-- {{生年月日と年齢|XXXX|XX|XX}} 出生地が出身地と異なる場合、生年月日の後に記入 -->{{JPN}}・[[大阪府]] |出身地 = {{JPN}}・[[神奈川県]][[横浜市]] |死没 = <!-- 個人のみ --><!-- {{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}} --> |学歴 = <!-- 個人のみ --> |ジャンル = [[ソウル・ミュージック]]<ref>[https://ototoy.jp/news/96364 SSW大石晴子が両A面シングル『ランプ/巡り』を配信限定リリース] OTOTOY 2023年11月19日閲覧。</ref><br />[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]<ref name="TURN">[https://turntokyo.com/reviews/ooishi-haruko-myakko/ 命をもって脈うつ歌] TURN 2023年11月15日閲覧。</ref><br />[[ネオソウル]]<ref name="TURN"/> |職業 = [[シンガーソングライター]] |担当楽器 = <!-- 個人のみ --> |活動期間 = 2018 - |レーベル = |配偶者 = <!-- 個人のみ --> |著名な家族 = RYUKI(兄) |事務所 = |共同作業者 = |公式サイト = https://www.oishiharuko.com/ |著名使用楽器 = <!-- 個人のみ --> }} '''大石晴子'''(おおいしはるこ)は日本の[[シンガーソングライター]]<ref name="SENSA">[https://sensa.jp/interview/20220429-oh.html 人から人へ、過去から未来へ。点と点でつなぐ音楽「大石晴子」-Highlighter Vol.130-] SENSA 2023年11月15日閲覧。</ref>。[[大阪府]]生まれ、[[横浜市]]育ち<ref name="ANTENNA">[https://antenna-mag.com/post-32422/ 日常に散らばった、ささやかな幸せを愛でるー大石晴子 1st EP『賛美』インタビュー] ANTENNA 2023年11月15日閲覧。</ref>。[[ソウル・ミュージック]]に影響を受けている<ref name="ANTENNA"/>。 == 経歴 == 中学生で[[GRAPEVINE]]の熱狂的なリスナーになり、強く影響を受ける<ref name="ANTENNA"/>。他に、[[キリンジ]]、[[清竜人]]、[[TRICERATOPS]]なども聴いていた<ref name="ANTENNA"/>。また、通っていた[[中高一貫校]]で[[讃美歌]]を歌う<ref name="ANTENNA"/>。その後は[[早稲田大学]]のソウル・ミュージックサークルに所属<ref name="ANTENNA"/>。[[ミニー・リパートン]]や[[コリーヌ・ベイリー・レイ]]の影響を受ける<ref name="ANTENNA"/><ref name="SENSA"/>。2018年に[[りんご音楽祭]]に出演後、2019年に配信シングル「怒らないでね」でデビュー<ref name="UROROS">[http://uroros.net/newrelease/97096/ 大石晴子、1st EP『賛美』8月7日に発売決定。暮らしに祝福を捧げる花束のような作品に] UROROS 2023年11月15日閲覧。</ref>。その後、2019年8月にEP『賛美』をリリース<ref name="UROROS"/>。2020年からは、ユニット「TATEANAS」でも活動<ref name="おやすみの国へ">[https://antenna-mag.com/post-54090/ TATEANASが『NHK北の縄文プロジェクト』キャンペーンソング“おやすみの国へ”を配信リリース] ANTENNA 2023年11月16日閲覧。</ref>。2022年4月には、ソロ1stフルアルバム『脈光』をリリースした<ref name="TURN"/>。アルバムのリリース後には[[土岐麻子]]がコメントを寄せる<ref>[https://natalie.mu/music/news/475593 大石晴子が小さな光を掬い取った1stアルバム「脈光」リリース、土岐麻子らがコメント] 音楽ナタリー 2023年11月15日閲覧。</ref>など、大きな反響があった<ref name="TURN"/>。 == ディスコグラフィ == === アルバム === {| class="wikitable" style="text-align:center" |- ! &nbsp; !! 発売日 !! タイトル !! 規格品番 |- | 1st | [[2022年]][[4月27日]] ! 脈光 | TYNK-002 |} === EP === {| class="wikitable" style="text-align:center" |- ! &nbsp; !! 発売日 !! タイトル !! 規格品番 |- |- | 1st | [[2019年]][[8月7日]] ! 賛美 | TYNK-001 |} === シングル === {| class="wikitable" style="text-align:center" |- ! &nbsp; !! 発売日 !! タイトル !! 規格品番 !! |- |- | 1st | [[2019年]][[5月1日]] ! 怒らないでね | | 配信のみ |- |- | 2nd | [[2020年]][[4月8日]] ! ランプ/巡り | | 配信のみ |- | 3rd | [[2020年]][[8月29日]] ! 怒らないでね/食卓 | KMKN54 | 7インチアナログ盤 |- | 4th | [[2022年]][[3月2日]] ! 発音 | | 配信のみ |- | 5th | [[2022年]][[4月6日]] ! さなぎ | | 配信のみ |} === 参加作品 === *[[s**t kingz]]「足取り feat.大石晴子」(2020年) *TATEANAS「縄文人に相談だ / 君と土偶と海岸で」(2020年) *TATEANAS「おやすみの国へ」(2021年) - [[日本放送協会|NHK]]「北の縄文プロジェクト」キャンペーンソング<ref name="おやすみの国へ"/> == 人物 == ラジオを聴くこと、お笑いが好き<ref name="SENSA"/>。 == 家族 == 兄はラッパーのRYUKI<ref name="全曲解説">[https://antenna-mag.com/post-58699/?pagenum=2 『脈光』全曲解説] ANTENNA 2023年11月16日閲覧。</ref>。アルバム『脈光』の収録曲「手の届く」では共演している<ref name="全曲解説"/>。 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == *[https://www.oishiharuko.com/ 公式サイト] {{デフォルトソート:おおいし はるこ}} [[Category:日本の女性シンガーソングライター]] [[Category:日本のR&B・ミュージシャン]] [[Category:早稲田大学出身の人物]] [[Category:大阪府出身の人物]] [[Category:横浜市出身の人物]] [[Category:存命人物]]
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ふっかつのじゅもん
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テレビゲームにデータをセーブできなかった時代に入力することで途中からプレイできるようにできていた文字列。ドラゴンクエストXI 過ぎ去りし時を求めてのようにデータをセーブできる時代にも設けているソフトは存在した。 sumikaの曲。片岡健太が作詞と作曲をした。
* [[テレビゲーム]]にデータをセーブできなかった時代に入力することで途中からプレイできるようにできていた文字列。[[ドラゴンクエストXI 過ぎ去りし時を求めて]]のようにデータをセーブできる時代にも設けているソフトは存在した<ref>{{Cite web |title=ファミコン世代「うわああああ!」 最新作「ドラクエXI」では“ふっかつのじゅもん”がまさかの復活 |url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1704/11/news110.html |website=ねとらぼ |access-date=2023-11-15 |language=ja}}</ref>。 * [[sumika]]の曲。[[片岡健太]]が[[作詞]]と[[作曲]]をした<ref>{{Cite web |title=「ふっかつのじゅもん/sumika」の歌詞 って「イイネ!」 |url=https://www.uta-net.com/song/249995/ |website=www.uta-net.com |access-date=2023-11-15 |language=ja}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{Aimai}}
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指大辞
指大辞(しだいじ、英語: augmentative)は、拡大辞、増大辞とも呼ばれ、大きいものを表すために名詞に加えられる接辞をいう。 指大辞は指小辞と逆に、並はずれて大きい、強い、激しいことを意味する。そこから感嘆・賛美の意味や、逆に非難・否認の情緒的表現としても使われる。とくにロマンス語やスラブ語で発達している。 イタリア語では接尾辞「-one」が使用される。 ポルトガル語では接尾辞「-ão」が使用される。 スペイン語では接尾辞「-on」(女性は-ona)が使用される。 フランス語では接尾辞「-on」が付くものがあるが(例:médaillon メダリオン/大きなメダル)指小辞の場合も多い(例:chaton 子猫)。violonは「小さなヴィオールつまりヴァイオリン」でイタリア語のvioloneとは逆。 ロシア語の指大辞接尾辞には「-ище」(女性は-ища)、および「-ина」の2種類がある。 バントゥー諸語の名詞クラスが指大辞的な意味を持つ場合がある。例:スワヒリ語 jitu(巨人)< mtu(人)。 エスペラントでは接尾辞「-eg-」を指大辞として使用する。
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指大辞は、拡大辞、増大辞とも呼ばれ、大きいものを表すために名詞に加えられる接辞をいう。
'''指大辞'''(しだいじ、{{lang-en|augmentative}})は、'''拡大辞'''、'''増大辞'''とも呼ばれ、大きいものを表すために名詞に加えられる[[接辞]]をいう。 == 概要 == 指大辞は[[指小辞]]と逆に、並はずれて大きい、強い、激しいことを意味する。そこから感嘆・賛美の意味や、逆に非難・否認の情緒的表現としても使われる{{r|gendai}}。とくに[[ロマンス語]]や[[スラブ語]]で発達している{{r|gendai}}。 == 言語例 == === ロマンス諸語 === [[イタリア語]]では接尾辞「[[wikt:en:-one#Italian|-one]]」が使用される。 * [[wikt:en:omone|omone]](大男、立派な男)< [[wikt:en:omo|omo]](男、[[wikt:en:uomo|uomo]]の別形) * [[wikt:en:librone|librone]](大きな本)< [[wikt:en:libro|libro]](本) * [[wikt:en:milione#Italian|milione]](百万)< [[wikt:en:mille|mille]](千) * [[wikt:en:trombone#Italian|trombone]]([[トロンボーン]])< [[wikt:en:tromba|tromba]](ラッパ) * [[wikt:en:violone#Italian|violone]]([[ヴィオローネ]])< [[wikt:en:viola#Italian|viola]]([[ヴィオラ・ダ・ガンバ属|ヴィオール]]) [[ポルトガル語]]では接尾辞「[[wikt:en:-ão|-ão]]」が使用される。 * [[wikt:en:livrão|livrão]](大きな本) < [[wikt:en:livro#Portuguese|livro]](本) [[スペイン語]]では接尾辞「[[wikt:en:-on#Spanish|-on]]」(女性は-ona)が使用される。 * [[wikt:en:mujerona|mujerona]](大女、太った女) < [[wikt:en:mujer#Spanish|mujer]](女) [[フランス語]]では接尾辞「[[wikt:on:-on#French|-on]]」が付くものがあるが(例:[[wikt:en:médaillon|médaillon]] メダリオン/大きなメダル)[[指小辞]]の場合も多い(例:[[wikt:chaton|chaton]] 子猫)。[[wikt:en:violon|violon]]は「小さな[[ヴィオール]]つまり[[ヴァイオリン]]」でイタリア語のvioloneとは逆。 === スラブ諸語 === [[ロシア語]]の指大辞接尾辞には「{{ru|[[wikt:en:-ище|-ище]]}}」(女性は{{ru|-ища}})、および「{{ru|[[wikt:en:-ина#Russian|-ина]]}}」の2種類がある{{r|igeta|page=118-119}}。 * {{ru|домина}}(大きな家)< {{ru|[[wikt:en:дом#Russian|дом]]}}(家) * {{ru|голосище}}(太く重々しい声)< {{ru|[[wikt:en:голос|голос]]}}(声) * {{ru|[[wikt:en:книжища|книжища]]}}(大きな本)< {{ru|[[wikt:en:книга#Russian|книга]]}}(本) === その他 === [[バントゥー諸語]]の[[名詞クラス]]が指大辞的な意味を持つ場合がある。例:[[スワヒリ語]] [[wikt:en:jitu#Swahili|jitu]](巨人)< [[wikt:en:mtu|mtu]](人)。 [[エスペラント]]では接尾辞「[[wikt:en:-eg-|-eg-]]」を指大辞として使用する<ref>[[wikibooks:エスペラント/文法/接尾辞]]</ref>。 == 脚注 == {{reflist|refs= <ref name="gendai">{{cite book|和書|chapter=指大辞|title=[[言語学大辞典]]|volume=第6巻 術語編|publisher=[[三省堂]]|year=1996|isbn=4385152187|pages=650-651}}</ref> <ref name="igeta">{{cite book|和書|author=井桁貞敏|authorlink=井桁貞敏|title=標準ロシア語文法|year=1961|publisher=[[三省堂]]}}</ref> }} {{DEFAULTSORT:したいし}} [[Category:接辞]]
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松戸思奈
松戸 思奈(まつど しな、1973年10月27日 - )は、日本の元競泳選手。岩手県出身。1992年バルセロナオリンピック日本代表。 常盤木学園高等学校、東北学院大学出身。 1992年バルセロナオリンピック選考会では100m自由形で4位に入り、日本代表に選出された。バルセロナオリンピック本大会では50m自由形と400mフリーリレーに出場し、ともに予選敗退となった。
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松戸 思奈は、日本の元競泳選手。岩手県出身。1992年バルセロナオリンピック日本代表。
{{Infobox Swimmer | 氏名 = 松戸思奈 | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | フルネーム = 松戸思奈 | 国籍 = {{JPN}} | 泳法 = [[自由形]] | 所属 = セントラル仙台 | collegeteam = [[東北学院大学]] | 生年月日 = {{生年月日と年齢|1973|10|27}} | 生誕地 = [[岩手県]] | 身長 = 173cm | 体重 = | medaltemplates = {{MedalSport|[[競泳]]女子}} {{MedalCountry | {{JPN}} }} |show-medals=Yes }} '''松戸 思奈'''(まつど しな、[[1973年]][[10月27日]] - )は、日本の元[[競泳選手]]。[[岩手県]]出身。[[1992年バルセロナオリンピック]]日本代表。 == 経歴 == [[常盤木学園高等学校]]<ref>[https://swim.or.jp/assets/files/pdf/pages/swim/winners/highschool/2023/freestyle/20230824w_100fr.pdf 日本高等学校選手権 歴代選手権獲得者 女子 100m自由形]</ref>、[[東北学院大学]]出身<ref>日本水泳連盟『月刊水泳』190号、3頁</ref>。 [[第68回日本選手権水泳競技大会|1992年バルセロナオリンピック選考会]]では100m自由形で4位に入り、日本代表に選出された<ref>日本水泳連盟『月刊水泳』191号、15-16頁</ref>。[[1992年バルセロナオリンピックの競泳競技|バルセロナオリンピック本大会]]では50m自由形と400mフリーリレーに出場し、ともに予選敗退となった<ref>日本水泳連盟『月刊水泳』193号、5-9頁</ref>。 == 関連項目 == * [[1992年バルセロナオリンピックの日本選手団#競泳|1992年バルセロナオリンピックの日本選手団]] == 脚注 == {{Reflist}} ==外部リンク== *{{Sports links}} {{1992年バルセロナオリンピック 競泳日本代表}} {{デフォルトソート:まつと しな}} [[Category:日本の女子競泳選手]] [[Category:競泳日本代表選手]] [[Category:オリンピック競泳日本代表選手]] [[Category:自由形の選手]] [[Category:東北学院大学出身の人物]] [[Category:常盤木学園高等学校出身の人物]] [[Category:岩手県出身のスポーツ選手]] [[Category:1973年生]] [[Category:存命人物]]
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植木 (黒部市)
植木(うえき)は、富山県黒部市の地名。郵便番号は938-0014。黒部川扇状地の西部の中心的地域に位置する。地名の由来は、当地にある木樹社から来ている。 1889年に大布施村が発足した際は、当村の吉沢庄元宅に村役場を設置し、 1892年に小学校敷地内に役場を建設するまで運用されていた。 1940年の桜井町発足の際に、植木、植木新田、植木又新の3村が統合された。 かつては旧北陸街道に沿ったが街村で、米や蔬菜作りが主であったが、黒部市の発展と共に著しく宅地化し、人口が急増した。 市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。 かつては黒部市立図書館も同地に所在していた(2023年にくろべ市民交流センター内に移転)。
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植木(うえき)は、富山県黒部市の地名。郵便番号は938-0014。黒部川扇状地の西部の中心的地域に位置する。地名の由来は、当地にある木樹社から来ている。
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頂天〜itadaki〜
頂天〜itadaki〜(いただき)は、プロレスリングBASARAが主催するシングルマッチ。2016年~17年はリーグ戦、2018年以降はトーナメント方式で実施されている。
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頂天〜itadaki〜(いただき)は、プロレスリングBASARAが主催するシングルマッチ。2016年~17年はリーグ戦、2018年以降はトーナメント方式で実施されている。
'''頂天〜itadaki〜'''(いただき)は、[[プロレスリングBASARA]]が主催するシングルマッチ<ref>[https://basarapw.com/itadaki2023/ 頂天~itadaki~2023] - プロレスリング BASARA</ref>。2016年~17年は[[リーグ戦]]、2018年以降は[[トーナメント方式]]で実施されている。 == 第1回大会 == ; 内容 : 2ブロックに分かれたリーグ戦を2016年5月1日板橋グリーンホール大会から開催し勝ち抜いた各ブロック1位が2016年6月24日の新宿FACE大会での決勝戦に進出する。公式戦は30分一本勝負。優勝決定戦は時間無制限一本勝負 ; 参加者10名 * '''Aブロック''' ** [[木高イサミ]]<3勝1敗6点>:Aブロック1位 ※準優勝 ** [[関根龍一]]<2勝2敗4点> ** [[久保佑允]]<2勝2敗4点> ** [[SAGAT]]<1勝3敗2点> ** [[中津良太]]<2勝2敗4点> * '''Bブロック''' ** [[トランザム★ヒロシ|福田洋]]<3勝1敗6点>:Bブロック1位 ※優勝 ** [[FUMA]]<2勝1敗1分4点> ** [[塚本拓海]]<2勝1敗1分4点> ** [[風戸大智]]<2勝2敗4点> ** [[竜剛馬]]<0勝4敗0点> == 第2回大会 == ; 内容 : 2ブロックに分かれたリーグ戦を2017年5月4日豊中大会から開催し勝ち抜いた各ブロック1位が2017年7月5日の新宿FACE大会での決勝戦に進出する。公式戦は30分一本勝負。代表者決定戦、優勝決定戦は時間無制限一本勝負。 Bブロックのトランザム★ヒロシとFUMAが同点となったため7月5日新宿大会でブロック代表者決定戦を行った。 ; 参加者12名 * '''Aブロック''' ** [[河上隆一|トランザム★リュウイチ]]<5勝0敗10点>:Aブロック1位 ※優勝 ** 関根龍一<4勝1敗8点> ** 久保佑允<3勝2敗6点> ** [[風戸大智|ベストストレッチマンV3]]<1勝4敗2点> ** 塚本拓海<2勝3敗4点> ** [[中野貴人]]<0勝5敗0点> * '''Bブロック''' ** [[トランザム★ヒロシ]]<3勝1敗1分7点> ** FUMA<3勝1敗1分7点>:Bブロック1位 ※準優勝 ** SAGAT<2勝3敗4点> **木高イサミ<3勝2敗6点> ** 竜剛馬<0勝5敗0点> ** 中津良太<3勝2敗6点> == 第3回大会 == ; 内容 : 本年よりトーナメント方式となり2018年5月23日新木場大会から開催し勝ち残った選手2名が2018年7月12日の新宿FACE大会での決勝戦に進出する。全戦時間無制限一本勝負。優勝した中津は2018年9月21日後楽園ホール大会で[[谷嵜なおき]]が持つ[[ユニオンMAX王座]]に挑戦。 ; 参加者16名 ** トランザム★ヒロシ ** [[瀧澤晃頼]] ** 竜剛馬 ** [[阿部史典]] ** [[原学]] ** 中野貴人 ** [[ヤス・ウラノ]] ** SAGAT ** FUMA  ※準優勝 ** 風戸大智 ** 久保佑允 ** 塚本拓海 ** 中津良太 ※優勝 ** [[藤田ミノル]] ** 関根龍一 **木高イサミ == 第4回大会 == ; 内容 : 2019年5月29日新木場大会から開催し勝ち残った選手2名が2019年7月7日の[[KFC Hall|両国KFCホール]]大会での決勝戦に進出する。全戦時間無制限一本勝負。優勝したイサミが7月24日新木場大会の全プロデュース権を藤田に譲渡した。 ; 参加者16名 ** トランザム★ヒロシ ** 中野貴人 ** 久保佑允 ** 中津良太  ** [[下村大樹]] **木高イサミ ※優勝 ** 塚本拓海 ** [[ツトム・オースギ]] ** 阿部史典 ** 藤田ミノル ※準優勝 ** FUMA ** 風戸大智 ** [[神野聖人]] ** ヤス・ウラノ ** SAGAT ** 関根龍一 == 第5回大会 == ; 内容 : [[ダブプロレス]]との合同開催。2020年7月19日新木場大会の昼夜興行で1・2回戦を開催し勝ち残った選手4名が2020年7月26日のダブプロレス[[アゼリア大正]]大会での準決勝・決勝戦に進出する。1・2回戦、準決勝は20分一本勝負、決勝戦は60分一本勝負。 ; 参加者16名 ** 阿部史典 ** [["brother"YASSHI]] ** 中津良太 ※優勝 ** [[レイパロマ]] ** 塚本拓海 ** [[グンソ]] **SAGAT ** [[木下亨平]] ** 下村大樹 ** [[内田祥一]] ** FUMA ** [[カブキキッド]] ** 関根龍一 ** [[谷嵜なおき]] ※準優勝 ** 木高イサミ ** [[近野剣心]] == 第6回大会 == ; 内容 : 2021年5月18日新木場大会から開催し勝ち残った選手2名が2021年7月7日の新宿FACE大会での決勝戦に進出する。1回戦はすべて10分一本勝負の2カウントルール 2回戦以降は時間無制限一本勝負の3カウントルール 引き分けは両者敗退 ; 参加者16名 ** 神野聖人 ** 藤田ミノル ※優勝 ** 木高イサミ  ** 久保祐允 ** 中津良太 ** 下村大樹 **FUMA ** [[佐藤孝亮]] ** 風戸大智 ** ヤス・ウラノ ** SAGAT ※準優勝 ** 中野貴人 ** 阿部史典  ** [[野村卓矢]] ** 塚本拓海 ** トランザム★ヒロシ == 第7回大会 == ; 内容 : 2022年10月11日新木場大会から開催し勝ち残った選手2名が2022年11月8日の新木場大会での決勝戦に進出する。1回戦はすべて10分一本勝負の2カウントルール 2回戦以降は時間無制限一本勝負の3カウントルール 引き分けは両者敗退 ; 参加者16名 ** FUMA ** 下村大樹  ** 中津良太  ** ヤス・ウラノ ※準優勝 ** トランザム★ヒロシ ** 藤田ミノル ** 木高イサミ ** [[ヘラクレス千賀|バナナ千賀]] ** ツトム・オースギ ** [[薄井鉄央|リル・クラーケン]] ** SAGAT  ** 中野貴人 ** 阿部史典 ※優勝 ** 風戸大智 ** 塚本拓海 ** 神野聖人 == 第8回大会 == ; 内容 : 2023年5月23日新木場大会から開催し勝ち残った選手2名が2023年6月27日の新木場大会での決勝戦に進出する。すべて30分一本勝負の3カウントルール 引き分けは両者敗退 ; 参加者16名 ** SAGAT  ※優勝 ** リル・クラーケン ** トランザム★ヒロシ ** [[井坂レオ]] ** 下村大樹 ** 風戸大智 ** 木高イサミ ** [[旭志織]] ** 中野貴人 ** 藤田ミノル ** 中津良太 ※準優勝 ** [[吉野達彦]] ** FUMA ** 阿部史典  ** 塚本拓海 ** ヤス・ウラノ  == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://basarapw.com/itadaki2023/ 頂天~itadaki~2023] - プロレスリング BASARA {{プロレスリングBASARA}} {{DEFAULTSORT:いたたき}} [[Category:プロレスリングBASARA]] [[Category:プロレスのトーナメント戦]] [[Category:プロレスのリーグ戦]]
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全身麻酔の歴史
全身麻酔の歴史(ぜんしんますいのれきし)では、世界の歴史において全身麻酔に関わる事物がどのような発展を遂げてきたかについて概説する。 歴史時代を通じて、全身麻酔状態を作り出す試みは、古代のシュメール人、バビロニア人、アッシリア人、エジプト人、インド人、中国人の著作にまで遡ることができる。ルネサンス期には解剖学や手術手技が大きく進歩したにもかかわらず、手術は、それに伴う痛みのため、最後の手段の治療法のままであった。しかし、18世紀後半から19世紀初頭にかけての科学的発見により、近代的な麻酔技術の開発への道が開かれた。 19世紀後半には、2つの大きな進歩が近代的な外科手術への移行を可能にした。すなわち、病気の病原体説の結果として無菌操作が開発・応用され、合併症と死亡率が低下したことと、薬理学と生理学の進歩によって全身麻酔と疼痛管理が開発されたことである。20世紀に入ると、全身麻酔の安全性と有効性は、気管挿管と高度な気道確保をルーチンに行い、モニタリングを行い、特性が改善された新しい麻酔薬の登場により、さらに向上した。 日本語の「麻酔」は、英語の "anesthesia" やドイツ語の "Anästhesie" に対する訳語である。初出は杉田成卿『済生備考』(1850年)とされる。 『ヒポクラテス全集(英語版)』『ティマイオス』などの古代ギリシア語文献には、ἀναισθησίᾱ(anaisthēsíā、無感覚)という用語があり、ἀν- (an-、「無し」)と αἴσθησις (aisthēsis、「感覚」)に由来する。 1679年、オランダの医師ステファン・ブランカールトがラテン語の"anaisthesia"を用いたギリシャ・ラテン語医学辞典(Lexicon medicum graeco-latinum)を出版した。1684年、「身体の辞書(A Physical Dictionary)」という題名で英訳が出版され、anaisthesiaは「麻痺患者や泥酔者のような感覚の欠如」と定義された。その後、この言葉やanæsthesiaのような綴りの変化は、医学文献で「無感覚」を意味するようになった。 1846年、アメリカの作家・医学者のオリバー・ウェンデル・ホームズ・シニアは書簡の中で、ある薬剤によって誘発される状態をanesthesia、薬剤そのものをanestheticという用語として提案した。ホームズは、医学文献におけるanesthesiaの以前の用法が、特に「触れるもの」に対する「無感覚」を意味するものであったことから、このように考えたのである。 全身麻酔の最初の試みは、おそらく先史時代に投与された薬草療法であろう。アルコールは最も古くから知られている鎮静剤で、数千年前の古代メソポタミアで用いられていた。 アヘンの有効成分はモルヒネであり、現在でもオピオイド鎮痛薬として用いられている。シュメール人は、紀元前3400年頃にはメソポタミア下流でケシを栽培し、アヘンを収穫していたと言われているが、これには異論がある。現在までに発見されているケシに関する最も古い証言は、紀元前3千年紀の終わりに小さな白い粘土板に楔形文字で刻まれたものである。この石版は1954年、ニップルでの発掘調査で発見され、現在ペンシルベニア大学考古学人類学博物館に保管されている。サミュエル・ノア・クレイマー(英語版)とマーティン・リーヴによって解読され、現存する最古の薬局方とされている。この時代のシュメール語の石版には"hul gil"という表意文字が刻まれており、「喜びの植物」と訳されて、アヘンを意味するという説がある。gilという言葉は、世界のある地域では今でもアヘンに用いられている。シュメールの女神ニダバ(英語版)は、しばしば肩からケシが生えている姿で描かれている。紀元前2225年頃、シュメール領域はバビロニア帝国の一部となった。アヘンとその多幸感に関する知識と用い方はバビロニア人に伝わり、バビロニア人は帝国を東のペルシャ、西のエジプトへと拡大した。これにより、アヘンに関する知見はこれらの文明にまで広がっている。イギリスの考古学者で楔形文字学者のレジナルド・キャンベル・トンプソン(英語版)は、アヘンは紀元前7世紀にはアッシリア人に知られていたと書いている。紀元前650年頃のアッシリアの石版に刻まれた「アッシリアの草本誌(Herbal)(英語版)」の中に、"Arat Pa Pa"という言葉が出てくる。トンプソンによれば、この用語はケシの汁のアッシリア語名であり、ラテン語のケシ属(papaver)の語源である可能性があるという。 古代エジプト人は、おそらくマンドレイクの果実から抽出したエキスを含む、原始的な鎮痛剤と鎮静剤だけでなく、外科器具もいくつか持っていた。アヘンに似た製剤を手術に用いたことは、第18王朝時代に書かれたエジプトの医学パピルス(英語版)、エーベルス・パピルスに記録されている。しかし、古代エジプトでアヘンそのものが知られていたかどうかは疑問である。 ギリシャ神話の神ヒュプノス(眠り)、ニュクス(夜)、タナトス(死)は、しばしばケシを手にした姿で描かれていた。 古代インドと中国にアヘンが伝来する以前、これらの文明は大麻の香とトリカブトを他に先駆けて用いていた。紀元前400年頃、インド亜大陸のアーユルヴェーダ医学と外科手術に関する書物『スシュルタ・サンヒター(英語版)』では、麻酔のためにワインと大麻の香を用いることが提唱されている。紀元8世紀までには、アラブの商人がインドと中国にアヘンを持ち込んだ。アヘンからモルヒネが単離されるにはここから2500年を待つことになる。 扁鵲(紀元前300年頃)は中国の伝説的な内科医であり外科医で、外科手技に全身麻酔を用いたと伝えられている。『韓非子』(紀元前250年頃)『史記』(紀元前100年頃)『列子』(紀元300年頃)には、扁鵲が 魯公扈と趙齊嬰という二人の男に毒物を飲ませ、三日間意識を失わせ、その間に胃瘻を造ったことが記されている。 華佗は紀元2世紀の中国の外科医。『三国志』(紀元270年頃)と『後漢書』(紀元430年頃)によると、華佗は酒と麻沸散と呼ばれる薬草抽出物の混合物を用いて開発した処方で全身麻酔下の手術を行ったという。華陀は、壊死した腸の部分切除(英語版)のような大きな手術にも麻沸散を用いたと伝えられている。手術の前に、彼はおそらく酒に溶かした麻酔薬を経口投与し、意識消失(英語版)と不完全ながらな筋弛緩状態を引き起こした。 麻沸散の正確な組成は、華陀の臨床知識のすべてと同様、死の直前に原稿を焼却した際に失われてしまった。『三国志』にも『後漢書』にも麻酔薬の組成は記されていない。儒教の教えでは身体は神聖なものとされ、手術は身体を切り刻む行為と考えられていたため、古代中国では手術は強く禁じられていた。そのため、華陀が全身麻酔に成功したと伝えられているにもかかわらず、古代中国における外科手術は彼の死とともに終焉を迎えた。 麻沸散という名前は、麻(「大麻、麻、しびれる、うずく」の意)、沸(「沸騰する、泡立つ」の意)、散(「砕く、散らばる」の意、「粉末状の薬」の意)を組み合わせたものである。従って、麻沸散という言葉からは大麻を含むものと推測されてきたが、これに関しては当時の中国大陸には中枢神経作用のある大麻が伝来していなかったことから異論もある。多くの中国学者や中国医学の研究者が、華陀の麻沸散の成分を推測しているが、正確な成分はいまだに不明である。彼の処方には、以下の組み合わせが含まれていたと考えられている。 また、この薬にはハシシ、バングー、商陸、アヘンも含まれていた可能性があると指摘する者もいる。アメリカの中国学者ヴィクター・メアは、麻沸散は「モルヒネ」に関連するインド・ヨーロッパ語の転写であろうとした。華陀は鍼による手術時の鎮痛を発見したのであり、麻沸散は彼の麻酔法とは無関係か、あるいは単に補助的なものであったと考える研究者もいる。多くの医師が歴史的記録に基づいて同じ処方を再現しようと試みているが、華陀のものと同じ臨床効果を達成した医師はいない。いずれにせよ、華陀の処方は大手術には効果がなかったようである。 古代から麻酔薬として用いられてきた他の物質には、ビャクシンやコカの抽出物がある。華佗の学統は途絶えたが、およそ2000年後に同じ東洋の医師、華岡青洲が麻酔薬を開発し、青洲はそれに華佗の処方と同じ、麻沸散と命名することになる。 フェルドウスィー(940-1020)はアッバース朝カリフ時代に生きたペルシアの詩人である。彼の民族叙事詩である『シャー・ナーメ』の中で、フェルドウスィーはヒロイン、ルダバ(英語版)に施された帝王切開を描写している。この手術には、ゾロアスター教の司祭が用意した特別なワインが麻酔薬として用いられた。 1020年頃、ペルシアのイブン・スィーナー(980-1037)は『医学典範(英語版)』の中で、外科手術の際に患者の鼻の下に置く、芳香剤と麻薬が染み込んだスポンジである「催眠スポンジ」について述べている。アヘンは10世紀から13世紀にかけて、小アジアからヨーロッパ各地に伝わった。 イギリスでは西暦1200年から1500年にかけて、ドウェール(dwale)(英語版)と呼ばれる薬が麻酔薬として用いられた。このアルコールベースの混合物には、胆汁、アヘン、レタス、ブリオニア(bryony、多年生のつる植物)(英語版)、ヒヨス、ドクニンジン、酢が含まれていた。外科医は、酢と塩を頬骨にこすりつけることで患者を覚醒させた。シェイクスピアの『ハムレット』やジョン・キーツの詩『ナイチンゲールへの頌歌(英語版)』など、多くの文学作品にドウェールの記録が見られる。13世紀には、未熟なクワ、亜麻、マンドラゴラの葉、ツタ、レタスの種子、スイバ、ヒヨスの毒汁にスポンジを浸した「睡眠スポンジ」が初めて処方された。処理および/または貯蔵後、スポンジを加熱して蒸気を吸入すると麻酔効果が得られる。 後に最初の有効な吸入麻酔薬として用いられることになるジエチルエーテルは、錬金術師のラモン・リュイが、1275年に発見したとされている。パラケルススとして知られるアウレオルス・テオフラストス・ボンバストゥス・フォン・ホーエンハイム(1493-1541)は、1525年頃にジエチルエーテルの鎮痛作用を発見した。1540年、ヴァレリウス・コルドゥスによって初めて合成され、彼はその薬理作用のいくつかに注目した。彼はこれをオレウム・デュルチェ・ヴィトリオリ(oleum dulce vitrioli)と呼んだが、これはエタノールと硫酸の混合物(当時はビトリオール(vitriol)油として知られていた)を蒸留することによって合成されるという事実を反映した名前である。ドイツ生まれの化学者アウグスト・ジークムント・フロベニウス(August Sigmund Frobenius)(英語版)は1730年、この物質にスピリトゥス・ヴィニ・エーテリウス(Spiritus Vini Æthereus)という名前を付けた。 ジョセフ・プリーストリー(1733~1804)は、亜酸化窒素、一酸化窒素、アンモニア、塩化水素、そして(カール・ヴィルヘルム・シェーレ、アントワーヌ・ラヴォアジエとともに)酸素を発見したイギリスの数学者である。1775年から、プリーストリーは6巻からなる『異なる種類の気体に関する実験と観察(Experiments and Observations on Different Kinds of Air)(英語版)』を出版した。これに記述された気体や他の気体に関する最近の発見は、ヨーロッパの科学界に大きな関心を呼び起こした。トーマス・ベドーズ(1760-1808)はイギリスの哲学者、医師、医学部教官で、年上の同僚プリーストリー同様、バーミンガムのルナー・ソサエティのメンバーでもあった。この新しい科学をさらに発展させ、これまで治療不可能と考えられていた病気(喘息や結核など)の治療法を提供することを視野に入れ、ベドーズは1798年、ブリストルのクリフトン(英語版)にあるダウリー・スクエア(英語版)に、吸入ガス療法のための気体研究所(Pneumatic Institution)(英語版)を設立した。ベドーズは、化学者であり物理学者でもあったハンフリー・デービー(1778-1829)を研究所の管理責任者として雇い、技術者のジェームズ・ワット(1736-1819)をガスの製造に協力させた。エラズマス・ダーウィンやジョサイア・ウェッジウッドといったルナー・ソサエティの他のメンバーもまた、研究所に積極的に関わっていた。 気体研究所での研究の過程で、デービーは亜酸化窒素に麻酔作用があることを発見した。亜酸化窒素のことを「笑気ガス」と呼ぶようになったデービーは、翌年、現在では古典的な論文となった『主に亜酸化窒素または脱フロギストン空気とその呼吸に関する化学的・哲学的研究』(Researches, chemical and philosophical–chiefly concerning nitrous oxide or dephlogisticated nitrous air, and its respiration)の中で、自分の研究成果を発表した。デービーは医師ではなかったので、手術中に亜酸化窒素を投与したことはなかった。しかし、彼は亜酸化窒素の鎮痛効果と手術中の痛みを和らげる潜在的な利点を最初に記録した人物である。 近代医学の始まりとともに、医療において麻酔が実用化されるパラダイムを構築する舞台が整った。 琉球王国首里出身の高嶺徳明は、1689年に琉球(現在の沖縄)で全身麻酔を行ったと伝えられている。彼は1690年に薩摩の医師たちに、1714年には琉球の医師たちにその知識を伝えた。 大坂の華岡青洲(1760-1835)は江戸時代の外科医で、漢方医学の知識と蘭学で学んだ西洋の外科技術を備えていた。1785年頃から、花岡は華陀の麻沸散に似た薬理作用を持つ処方を再び作り出す探求に乗り出した。何年にもわたる研究と実験の末、彼はついに通仙散(別名麻沸散)と名付けた処方を開発した。華陀の処方と同様、この処方は以下の数種類の植物から抽出したエキスで構成されていた。 通仙散の有効成分は、スコポラミン、ヒヨスチアミン、アトロピン、アコニチン、アンゲリコトキシン(英語版)である。十分な量を摂取すると、通仙散は全身麻酔と骨格筋の麻痺状態をもたらす。花岡の親友であった中川修亭(1773-1850)は、1796年に『麻薬考』という小冊子を書いた。原本は1867年の火事で失われてしまったが、この冊子には華岡の全身麻酔研究の現状が記されていた。 1804年10月13日、華岡は通仙散を全身麻酔薬として用いて、藍屋勘という60歳の女性の乳癌の乳房部分切除(英語版)を行った。これは一般に、全身麻酔で行われた手術の最初の確実な記録と見なされている。華岡はその後も、悪性腫瘍の切除、膀胱結石の摘出、四肢の切断など、通仙散を用いた多くの手術を行った。1835年に亡くなるまでに、華岡は150例以上の乳癌手術を行った。 ドイツの薬剤師、フリードリヒ・ゼルチュルナー(1783~1841)は1804年にアヘンからモルヒネを初めて単離した。彼はこれをギリシャ神話の夢の神モルフェウスにちなんでモルフィウムと命名した。1817年に今日用いられている名称、モルヒネ(morphine)に改名したのは、フランスの化学者、ゲイ・リュサックである。 イギリスの医師、ヘンリー・ヒル・ヒックマン(Henry Hill Hickman)(英語版)(1800-1830)は1820年代に麻酔薬として二酸化炭素を用いる実験を行った。彼は動物を二酸化炭素で窒息寸前まで効果的に失神させ、その後四肢の一本を切断して、その効果を調べた。1824年、ヒックマンは研究の結果を『仮死状態に関するレター:人体に対する外科手術の有用性を確認する目的で』という短報にして王立協会に提出した。これに対して1826年、ランセット(Lancet)誌に 『外科的詐欺』と題する論文が掲載され、彼の研究は無慈悲な批判を受けた。ヒックマンは4年後、30歳で亡くなった。亡くなった当時は評価されなかったが、その後、彼の研究は肯定的に再評価され、現在では英国王立医学会によって彼の名を冠した賞とメダルが創設され、麻酔科学上の貢献者に授与されている。 1830年代後半になると、ハンフリー・デービーの実験はアメリカ北東部の学界で広く知られるようになった。放浪する講談師たちは、「エーテル遊び」と呼ばれる大衆集会を開き、観衆のある者達にジエチルエーテルや亜酸化窒素を吸入させ、これらの薬剤の精神に作用する特性を実証するとともに、見物人に多くの娯楽を提供した。このようなイベントに参加し、エーテルがこのように用いられるのを目撃した著名人が4人いる。ウィリアム・エドワード・クラーク(英語版)(1819-1898)、クロウフォード・ロング (1815-1878)、ホーレス・ウェルズ(1815-1848)、そして ウィリアム・T・G・モートン(1819-1868)である。後年、彼らのある者は、エーテルの麻酔への応用の発明を巡って争うことになり、最初にエーテル麻酔を行ったのが誰か、後世にも議論が起こることになる。 1839年、ニューヨーク州ロチェスターの大学に通っていたクラスメートのクラークとモートンは、定期的にエーテル騒ぎに参加していたようだ。1842年1月、バークシャー医科大学(現ロバートラーナー医科大学)(英語版)の医学生になっていたクラークが、一女性にエーテルを投与し、その間に抜歯が行われた。こうして彼は、外科的手技を容易にするために吸入麻酔薬を投与した最初の人物となった。クラークは自分の功績をほとんど評価していなかったようで、この技術を発表することも、それ以上追求することもしなかった。実際、この出来事はクラークの伝記にさえ記されていない。 クロウフォード・ロングは、19世紀半ばにジョージア州ジェファーソン市(英語版)で開業していた医師であり薬剤師であった。1830年代後半、ペンシルベニア大学医学大学院の学生だった彼は、当時流行していたエーテル遊びを観察し、おそらく参加していた。このような集まりでロングは、何人かの参加者にたんこぶやあざができても、その後、彼らが何が起こったのかまったく覚えていないのを観察した。彼は、ジエチルエーテルが亜酸化窒素と同様の薬理効果をもたらすと仮定した。1842年3月30日、彼は、ジェームズ・ヴェナブルという男の首から腫瘍を摘出するために、ジエチルエーテルを吸入させた。ロングはその後、ヴェナブルから2つ目の腫瘍を摘出したが、その際もエーテル麻酔をかけた。さらに彼は、四肢の切断や出産のための全身麻酔薬としてエーテルを使用した。しかし、ロングはその経験を1849年まで発表しなかった。その結果、彼自身が受けるべき名誉の多くを失うことになった。 1844年12月10日、ガードナー・コルトン(Gardner Quincy Colton)(英語版)はコネチカット州ハートフォードで亜酸化窒素の公開デモンストレーションを行った。参加者の一人が亜酸化窒素の影響下、気づかない間に足に大きな怪我を負った。その日、会場にいたコネチカット州の歯科医ホーレス・ウェルズは、亜酸化窒素のこの明らかな鎮痛効果の重要性をすぐに察知した。翌日、ウェルズはコルトンが投与した亜酸化窒素の影響下で、痛みのない抜歯を受けた。ウェルズはそれから亜酸化窒素を患者に投与するようになり、その後数週間にわたって数回の抜歯を成功させた。 ウィリアム・T・G・モートンもニューイングランドの歯科医で、ウェルズの元教え子であり、その時から当時までウェルズの仕事仲間だった。彼はまた、ウィリアム・エドワード・クラークと面識があり、同級生でもあった(2人はニューヨーク州ロチェスターの大学院で一緒だった)。モートンは、著名な外科医ジョン・コリンズ・ウォーレン(John Collins Warren)(英語版)と共同で、ウェルズがマサチューセッツ総合病院で亜酸化窒素全身麻酔下での抜歯技術を実演できるよう手配した。だが、1845年1月20日に行われたこのデモンストレーションは、患者が手術の最中に痛みで泣き叫んだため失敗に終わった。 1846年9月30日、モートンは抜歯のため、ボストンの音楽教師エベン・フロストにジエチルエーテルを投与した。その2週間後、モートンはマサチューセッツ総合病院で、今日エーテルドーム(英語版)として知られている場所で、全身麻酔薬としてジエチルエーテルを用いることを初めて公に実証した。1846年10月16日、ジョン・コリンズ・ウォーレンは、地元の印刷業者エドワード・ギルバート・アボット(Edward Gilbert Abbott)(英語版)の首から腫瘍を摘出した。手技が終わると、ウォーレンは 「諸君、これは決してインチキではない 」と言ったと伝えられている。この出来事のニュースは瞬く間に世界中を駆け巡った。その年の12月には、スコットランドの外科医ロバート・リストンが最初の四肢切断手術を行った。モートンはその直後に自分の経験を発表した。その後、ハーバード大学のチャールズ・トーマス・ジャクソン(Charles Thomas Jackson)(英語版)教授(1805-1880)は、モートンが自分のアイデアを盗んだと主張したが、モートンはこれに同意せず、生涯にわたる論争が始まった。長い間、モートンは西半球における全身麻酔の先駆者と信じられていたが、実のところ、彼の実演はクロウフォード・ロングの最初の経験から4年後であった。ロングはその後、当時ジョージア州選出の合衆国上院議員であったウィリアム・クロスビー・ドーソン(William Crosby Dawson)(英語版)(1798-1856)に、合衆国上院の議場でエーテル麻酔を最初に行ったのは自分であると主張させてくれるよう、請願した。 1847年、スコットランドのエジンバラの産科医ジェームス・ヤング・シンプソン(1811-1870)が、クロロホルムを全身麻酔薬として初めて人間に用いた(ロバート・モーティマー・グラバー(Robert Mortimer Glover)(英語版)は1842年にこの可能性について書いていたが、犬にしか用いていなかった)。その後、ヨーロッパではクロロホルム麻酔の使用が急速に拡大した。クロロホルムは20世紀初頭、米国で麻酔薬としてエーテルに取って代わり始めた。しかし、クロロホルムは、その肝毒性と心毒性、特に致命的な不整脈を引き起こす傾向が明らかになると、またすぐにエーテルに取って代わられた。実際のところは、主要な麻酔ガスとしてクロロホルムを用いるかエーテルを用いるかは、国や地域によって異なっていた。たとえば、イギリスとアメリカ南部はクロロホルムにこだわり、アメリカ北部はエーテルに戻った。ジョン・スノウはすぐに、エーテルとクロロホルムという新しい麻酔ガスを扱う最も経験豊富な英国人医師となり、事実上、英国初の麻酔科医となった。入念な臨床記録を通じて、彼はやがてロンドン医学界のエリートたちに、クロロホルム麻酔が出産において正当な位置を占めることを納得させることができた。こうして1853年、ヴィクトリア女王の侍女たちは、ジョン・スノウを女王の8人目の子供の出産の麻酔に招いた。エーテルとクロロホルムの麻酔が始まってから20世紀に至るまで、標準的な麻酔薬の投与方法は開放点滴法、であった。つまり、マスクを患者の口に当て、その中に布を入れて、患者が自然に呼吸する状態で揮発性の液体をマスクに滴下した。後に安全な気管チューブが開発されると、この方法は変わった。ロンドンの医療は独特の社会的環境であったため、19世紀末には麻酔が独自の専門分野となったが、英国の他の地域や世界のほとんどの地域では、麻酔は外科医の権限下にあり、外科医はその仕事を下級医師や看護師に任せていた。アメリカで麻酔科が独立部門となるには1936年まで待たねばならなかった オーストリアの外交官カール・フォン・シェルツァー(Karl von Scherzer)(英語版)がペルーから十分な量のコカの葉を持ち帰った後、1860年にアルバート・ニーマン(Albert Niemann)(英語版)がコカインを単離し、これが最初の局所麻酔薬となった。 1871年、ドイツの外科医フリードリヒ・トレンデレンブルク(Friedrich Trendelenburg)(英語版)(1844~1924年)が、全身麻酔を目的とした待機的気管切開を初めて成功させたという論文を発表した。 1880年には、スコットランドの外科医ウィリアム・メイスウェン(William Macewen)(英語版)(1848-1924)が、声門浮腫のある患者に呼吸を可能にするために、気管切開の代替として、またクロロホルムを用いた全身麻酔の際に、気管挿管を用いたことを報告している。1895年4月23日、ドイツのアルフレッド・キルシュタイン(Alfred Kirstein, 1863-1922)が声帯の直接可視化(喉頭展開)を初めて報告するまで、それまでの声門と喉頭の観察(マヌエル・ガルシア(Manuel García)(英語版)、ヴィルヘルム・ハック(Wilhelm Hack)、メイスウェンなど)はすべて、鏡を用いた間接観察で行われていた。キルシュタインはこの目的のために改造した食道鏡(オートスコープと命名された)を用いて、ベルリンで最初の直接喉頭展開を行った。皇帝フリードリヒ3世(1831-1888)の死が、キルシュタインがオートスコープを開発する動機となった可能性があるとされる。 20世紀には、気管切開、内視鏡、気管挿管といった手技が、めったに行われないものから、麻酔、集中治療、救急医療、消化器病学、呼吸器病学、外科の診療に不可欠な要素へと変貌を遂げた。 1902年、ドイツの化学者、エミール・フィッシャー(Hermann Emil Fischer, 1852-1919)とジョセフ・フォン・メリング(Joseph von Mering)(英語版)(1849-1908)は、ジエチルバルビツール酸が効果的な睡眠薬であることを発見した。バルビタールまたはベロナール(バイエル薬品が命名した商品名)とも呼ばれるこの新薬は、商業的に販売された最初のバルビツール酸となり、1903年から1950年代半ばまで不眠症の治療薬として用いられた。しかし、この系統の薬剤から、今日でも用いられている短時間作用性麻酔薬チオペンタールが開発されるのには30年以上待たねばならなかった。1913年まで、口腔および顎顔面外科手術は、マスク吸入麻酔、局所麻酔薬の粘膜への表面麻酔、直腸麻酔、または静脈麻酔によって行われていた。これらの麻酔法は有効ではあったが、気道の閉塞から守ることはできず、血液や粘液が気管や気管支に吸引される危険に患者をさらすものであった。1913年、シュバリエ・ジャクソン(Chevalier Jackson)(英語版)(1865-1958)が、気管挿管の手段として直接喉頭展開を行って高い成功率を報告した最初の人物である。ジャクソンは、キルシュタインが用いた操作者側の光源ではなく、器具の患者側の先端に光源を持つ新しい喉頭鏡のブレードを導入した。この新しいブレードには、気管チューブや気管支鏡を通すスペースを確保するために、操作者がスライドできる部品が組み込まれていた。 また1913年には、ヘンリー・H・ジェインウェイ(Henry H. Janeway)(英語版)(1873-1921)が、最近開発した喉頭鏡を用いて達成した結果を発表した。ニューヨークのベルビュー病院(Bellevue Hospital)(英語版)で開業していた麻酔科医のジェインウェイは、揮発性麻酔薬を直接気管内に送気(英語版)すれば、耳鼻咽喉科手術の条件が改善されると考えていた。そこで彼は、気管挿管専用の喉頭鏡を開発した。ジャクソンの器具と同様、ジェインウェイの装置にも遠位光源が組み込まれていた。しかし、ユニークな点は、ハンドルに電池が内蔵されていること、挿管中に気管チューブを口腔咽頭の正中線に維持するためにブレードの中央に切り欠きがあること、チューブを声門に導くためにブレードの先端がわずかにカーブしていることであった。この設計が成功したことで、その後、他の種類の手術にも用いられるようになった。こうしてジェインウェイは、麻酔科診療における直接喉頭展開と気管挿管の普及に貢献した。 1928年、アーサー・アーネスト・ゲデル(Arthur Ernest Guedel)(英語版)は、カフ付き気管内チューブを臨床に導入した。このチューブは、自発呼吸を完全に抑制する深い麻酔を可能にする一方、麻酔科医が制御する陽圧換気によって麻酔ガスと酸素を患者に供給するものであった。わずか3年後、ジョセフ・W・ゲイル(Joseph W. Gale)が、麻酔科医が一度に片方の肺だけを人工呼吸できる技術、すなわち分離肺換気を開発した。これによって、それまで胸郭が大気に開放されているために胸腔内の陰圧が失われ、患者の呼気によって手術最中の肺が膨らんでしまうペンデルフト(Pendelluft)現象(英語版)に悩まされていた胸部外科手術が発展することになった。やがて1980年代初頭には、透明プラスチック製のダブルルーメンチューブが登場した。フレキシブルな光ファイバー気管支鏡を用いてこのチューブを適切な位置に留置し、麻酔科医が片方の肺を選択的に換気しながら、手術する側の肺の気管支を遮断し、安静術野の提供が可能となった。現代麻酔科学に不可欠なのは麻酔器である。初期の装置のひとつであるカッパーケテルは、ウィスコンシン大学のルシアン・E・モリス(Lucien E. Morris)によって開発された。 最初の静脈麻酔薬であるチオペンタールナトリウムは、アボット・ラボラトリーズのアーネスト・ボルワイラー(Ernest H. Volwiler)(英語版)(1893-1992)とドナリー・L・タバーン(Donalee L. Tabern, 1900-1974)によって1934年に合成された。この薬は1934年3月8日、ラルフ・M・ウォーターズ(Ralph M. Waters)(英語版)がその特性を調査するために初めてヒトに用いたが、その特性は短時間の麻酔作用であり、鎮痛作用は驚くほど少なかった。その3ヵ月後、ジョン・サイラス・ランディ(John Silas Lundy)(英語版)がアボットラボラトリーズの依頼を受け、メイヨークリニックでチオペンタールの臨床試験を開始した。ヴォルワイラーとタバーンはチオペンタールの発見により、1939年に米国特許第2,153,729号を取得し、1986年に全米発明家殿堂に名を連ねた。 1939年、アトロピンの代用となる合成薬の探索は、偶然にもモルヒネとは全く異なる構造を持つ最初のオピオイドであるメペリジンの発見へと結実した。続いて1947年には、モルヒネと薬理学的特性が類似するものの、構造的に無関係な化合物であるメサドンが広く用いられるようになった。 第一次世界大戦後、気管内麻酔法の分野でさらなる進歩があった。中でもイヴァン・マギル(Ivan Magill)(英語版)(1888-1986)の功績は大きかった。イギリスのシドカップ(Sidcup)(英語版)の顔面・顎外傷専門のクイーンズ病院(Queen's Hospital for Facial and Jaw Injuries)(英語版)で、形成外科医のハロルド・ギリーズ(Harold Gillies)(英語版)(1882-1960)、麻酔医のE.スタンレー・ロウボサム(E. Stanley Rowbotham、1890-1979)と共に働いていたマギルは、意識下盲目的盲経鼻気管挿管の手技を開発した。マギルは、角度のついた新型の鉗子(マギル鉗子(英語版))も考案した。これは、マギルが報告した当初の手技とほとんど変わらない方法で、経鼻気管挿管を容易にするために現在も用いられている。マギルが発明したその他の器具には、マギル喉頭鏡のブレードや、揮発性麻酔薬を投与するためのいくつかの器具がある。気管チューブの弯曲(Magill curve)もマギルにちなんで命名されたものである。 最初の病院内の麻酔科は、ヘンリー・ビーチャー(Henry Beecher)(英語版)(1904–1976)の指導の下、1936年にマサチューセッツ総合病院に設立された。しかし、外科で訓練を受けたビーチャーに麻酔の経験はなかった。 筋弛緩剤クラーレは当初、精神疾患への電気けいれん療法に伴う合併症の痙攣を軽減するために用いられたが、1940年代にE.M.パッパー( E.M. Papper)とスチュアート・カレン(Stuart Cullen)がスクイブ社(ブリストル・マイヤーズ・スクイブ社の前身)製の製剤を用いてニューヨークのベルビュー病院(英語版)の手術室で用いるようになった。この神経筋遮断薬によって横隔膜の完全麻痺が可能となり、陽圧換気による人工呼吸器による調節呼吸が可能となった。陽圧換気が一般的に使われるようになったのは、1950年代のポリオの流行がきっかけであり、特にデンマークでは1952年に大流行し、麻酔科学から集中治療医学が誕生する契機となった。当初、麻酔科医は必要な場合を除き、人工呼吸器を手術室に持ち込むことをためらっており、1960年代までは標準的な手術室設備にはならなかった。 ロバート・マッキントッシュ(Robert Macintosh)(英語版)(1897-1989)は、1943年に新しい曲型喉頭鏡のブレードを発表し、気管挿管の技術を大きく進歩させた。マッキントッシュ型ブレードは、今日でも気管挿管に最も広く用いられている喉頭鏡のブレードである。1949年、マッキントッシュは気管内挿管を容易にするため、天然ゴム製の尿道カテーテルを気管挿管時のガイド(イントロデューサー)として用いた症例報告を発表した(ガムエラスティックブジーの原型)。マッキントッシュの報告に触発されたヘックス・ヴェン(P. Hex Venn)が、このコンセプトに基づく気管チューブイントロデューサーの開発に着手した。ヴェンのデザインは1973年3月に採用され、Eschmann気管チューブイントロデューサーとして後に知られるようになったものが、その年の後半に生産が開始された。ヴェンの設計の素材は、ポリエステル糸で織られたチューブの芯と外側の天然樹脂層の2層になっている点で、ガムエラスティックブジーとは異なっていた。これにより、剛性は増したが、柔軟性と気管チューブを操作するための滑らかな表面は維持された。その他の違いとしては、長さ(新型イントロデューサーは60cmで、ガムエラスティックブジーよりはるかに長い)と、先端が35度湾曲しており、口腔・咽頭内の障害物を避けて使用できることが挙げられる。 100年以上の間、吸入麻酔薬の主流は1930年代に導入されたシクロプロパンとエーテルのままであった。これらはいずれも引火しやすかった。1956年には、引火性がないという大きな利点を持つハロタンが導入された。これにより、手術室火災のリスクが減少した。1960年代には、まれにではあるが、ハロタンに不整脈や肝毒性といった重大な副作用が出たため、ハロゲン化エーテル(英語版)がハロタンに取って代わった。最初の2種類のハロゲン化エーテルはメトキシフルランとエンフルランであった。これらは更に1980年代から1990年代にかけて、現在の標準であるイソフルラン、セボフルラン、デスフルランに取って代わられたが、オーストラリアではメトキシフルランがペンスロックス(Penthrox)として病院前麻酔に用いられている。 ハロタンは、発展途上国の多くで依然用いられている。 20世紀後半には、多くの新しい静脈麻酔薬やオピオイドが開発され、臨床で用いられるようになった。ヤンセンファーマの創設者であるポール・ヤンセン(Paul Janssen)(英語版)(1926-2003)は、80種類以上の医薬化合物を開発したことで知られている。ヤンセンはハロペリドール(1958年)とドロペリドール(1961年)に始まるブチロフェノン系の抗精神病薬のほとんどすべてを合成した。これらの抗精神病薬は急速に麻酔の実践に組み込まれた。 1960年、ヤンセンの研究チームは、ピペリジノン(piperidinone)(英語版)誘導体の最初のオピオイドであるフェンタニルを合成した。フェンタニルに続いて、スフェンタニル(英語版)(1974年)、アルフェンタニル(英語版)(1976年)、カルフェンタニル(1976年)、ロフェンタニル(英語版)(1980年)が開発された。ヤンセンらのチームは、強力な静脈麻酔薬であるエトミデート(1964年)も開発した。 気管挿管にファイバー内視鏡を用いるというコンセプトは、1967年にイギリスの麻酔科医ピーター・マーフィー(Peter Murphy)によって導入された。1980年代半ばまでに、軟性のファイバー気管支鏡は、呼吸器科や麻酔科の分野では欠くことのできない器械となった。 21世紀の情報化時代において、気管挿管の技術と理論は進歩した。CMOSアクティブ・ピクセル・センサ(APS)などのデジタル技術を採用したビデオ喉頭鏡がいくつかのメーカーから開発され、気管挿管時に声門が画面で確認できるようになっている。ビデオ喉頭鏡グライドスコープはその一例である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "全身麻酔の歴史(ぜんしんますいのれきし)では、世界の歴史において全身麻酔に関わる事物がどのような発展を遂げてきたかについて概説する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "歴史時代を通じて、全身麻酔状態を作り出す試みは、古代のシュメール人、バビロニア人、アッシリア人、エジプト人、インド人、中国人の著作にまで遡ることができる。ルネサンス期には解剖学や手術手技が大きく進歩したにもかかわらず、手術は、それに伴う痛みのため、最後の手段の治療法のままであった。しかし、18世紀後半から19世紀初頭にかけての科学的発見により、近代的な麻酔技術の開発への道が開かれた。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "19世紀後半には、2つの大きな進歩が近代的な外科手術への移行を可能にした。すなわち、病気の病原体説の結果として無菌操作が開発・応用され、合併症と死亡率が低下したことと、薬理学と生理学の進歩によって全身麻酔と疼痛管理が開発されたことである。20世紀に入ると、全身麻酔の安全性と有効性は、気管挿管と高度な気道確保をルーチンに行い、モニタリングを行い、特性が改善された新しい麻酔薬の登場により、さらに向上した。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "日本語の「麻酔」は、英語の \"anesthesia\" やドイツ語の \"Anästhesie\" に対する訳語である。初出は杉田成卿『済生備考』(1850年)とされる。", "title": "麻酔の語源" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "『ヒポクラテス全集(英語版)』『ティマイオス』などの古代ギリシア語文献には、ἀναισθησίᾱ(anaisthēsíā、無感覚)という用語があり、ἀν- (an-、「無し」)と αἴσθησις (aisthēsis、「感覚」)に由来する。", "title": "麻酔の語源" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1679年、オランダの医師ステファン・ブランカールトがラテン語の\"anaisthesia\"を用いたギリシャ・ラテン語医学辞典(Lexicon medicum graeco-latinum)を出版した。1684年、「身体の辞書(A Physical Dictionary)」という題名で英訳が出版され、anaisthesiaは「麻痺患者や泥酔者のような感覚の欠如」と定義された。その後、この言葉やanæsthesiaのような綴りの変化は、医学文献で「無感覚」を意味するようになった。", "title": "麻酔の語源" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1846年、アメリカの作家・医学者のオリバー・ウェンデル・ホームズ・シニアは書簡の中で、ある薬剤によって誘発される状態をanesthesia、薬剤そのものをanestheticという用語として提案した。ホームズは、医学文献におけるanesthesiaの以前の用法が、特に「触れるもの」に対する「無感覚」を意味するものであったことから、このように考えたのである。", "title": "麻酔の語源" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "全身麻酔の最初の試みは、おそらく先史時代に投与された薬草療法であろう。アルコールは最も古くから知られている鎮静剤で、数千年前の古代メソポタミアで用いられていた。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "アヘンの有効成分はモルヒネであり、現在でもオピオイド鎮痛薬として用いられている。シュメール人は、紀元前3400年頃にはメソポタミア下流でケシを栽培し、アヘンを収穫していたと言われているが、これには異論がある。現在までに発見されているケシに関する最も古い証言は、紀元前3千年紀の終わりに小さな白い粘土板に楔形文字で刻まれたものである。この石版は1954年、ニップルでの発掘調査で発見され、現在ペンシルベニア大学考古学人類学博物館に保管されている。サミュエル・ノア・クレイマー(英語版)とマーティン・リーヴによって解読され、現存する最古の薬局方とされている。この時代のシュメール語の石版には\"hul gil\"という表意文字が刻まれており、「喜びの植物」と訳されて、アヘンを意味するという説がある。gilという言葉は、世界のある地域では今でもアヘンに用いられている。シュメールの女神ニダバ(英語版)は、しばしば肩からケシが生えている姿で描かれている。紀元前2225年頃、シュメール領域はバビロニア帝国の一部となった。アヘンとその多幸感に関する知識と用い方はバビロニア人に伝わり、バビロニア人は帝国を東のペルシャ、西のエジプトへと拡大した。これにより、アヘンに関する知見はこれらの文明にまで広がっている。イギリスの考古学者で楔形文字学者のレジナルド・キャンベル・トンプソン(英語版)は、アヘンは紀元前7世紀にはアッシリア人に知られていたと書いている。紀元前650年頃のアッシリアの石版に刻まれた「アッシリアの草本誌(Herbal)(英語版)」の中に、\"Arat Pa Pa\"という言葉が出てくる。トンプソンによれば、この用語はケシの汁のアッシリア語名であり、ラテン語のケシ属(papaver)の語源である可能性があるという。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "古代エジプト人は、おそらくマンドレイクの果実から抽出したエキスを含む、原始的な鎮痛剤と鎮静剤だけでなく、外科器具もいくつか持っていた。アヘンに似た製剤を手術に用いたことは、第18王朝時代に書かれたエジプトの医学パピルス(英語版)、エーベルス・パピルスに記録されている。しかし、古代エジプトでアヘンそのものが知られていたかどうかは疑問である。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ギリシャ神話の神ヒュプノス(眠り)、ニュクス(夜)、タナトス(死)は、しばしばケシを手にした姿で描かれていた。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "古代インドと中国にアヘンが伝来する以前、これらの文明は大麻の香とトリカブトを他に先駆けて用いていた。紀元前400年頃、インド亜大陸のアーユルヴェーダ医学と外科手術に関する書物『スシュルタ・サンヒター(英語版)』では、麻酔のためにワインと大麻の香を用いることが提唱されている。紀元8世紀までには、アラブの商人がインドと中国にアヘンを持ち込んだ。アヘンからモルヒネが単離されるにはここから2500年を待つことになる。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "扁鵲(紀元前300年頃)は中国の伝説的な内科医であり外科医で、外科手技に全身麻酔を用いたと伝えられている。『韓非子』(紀元前250年頃)『史記』(紀元前100年頃)『列子』(紀元300年頃)には、扁鵲が 魯公扈と趙齊嬰という二人の男に毒物を飲ませ、三日間意識を失わせ、その間に胃瘻を造ったことが記されている。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "華佗は紀元2世紀の中国の外科医。『三国志』(紀元270年頃)と『後漢書』(紀元430年頃)によると、華佗は酒と麻沸散と呼ばれる薬草抽出物の混合物を用いて開発した処方で全身麻酔下の手術を行ったという。華陀は、壊死した腸の部分切除(英語版)のような大きな手術にも麻沸散を用いたと伝えられている。手術の前に、彼はおそらく酒に溶かした麻酔薬を経口投与し、意識消失(英語版)と不完全ながらな筋弛緩状態を引き起こした。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "麻沸散の正確な組成は、華陀の臨床知識のすべてと同様、死の直前に原稿を焼却した際に失われてしまった。『三国志』にも『後漢書』にも麻酔薬の組成は記されていない。儒教の教えでは身体は神聖なものとされ、手術は身体を切り刻む行為と考えられていたため、古代中国では手術は強く禁じられていた。そのため、華陀が全身麻酔に成功したと伝えられているにもかかわらず、古代中国における外科手術は彼の死とともに終焉を迎えた。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "麻沸散という名前は、麻(「大麻、麻、しびれる、うずく」の意)、沸(「沸騰する、泡立つ」の意)、散(「砕く、散らばる」の意、「粉末状の薬」の意)を組み合わせたものである。従って、麻沸散という言葉からは大麻を含むものと推測されてきたが、これに関しては当時の中国大陸には中枢神経作用のある大麻が伝来していなかったことから異論もある。多くの中国学者や中国医学の研究者が、華陀の麻沸散の成分を推測しているが、正確な成分はいまだに不明である。彼の処方には、以下の組み合わせが含まれていたと考えられている。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "また、この薬にはハシシ、バングー、商陸、アヘンも含まれていた可能性があると指摘する者もいる。アメリカの中国学者ヴィクター・メアは、麻沸散は「モルヒネ」に関連するインド・ヨーロッパ語の転写であろうとした。華陀は鍼による手術時の鎮痛を発見したのであり、麻沸散は彼の麻酔法とは無関係か、あるいは単に補助的なものであったと考える研究者もいる。多くの医師が歴史的記録に基づいて同じ処方を再現しようと試みているが、華陀のものと同じ臨床効果を達成した医師はいない。いずれにせよ、華陀の処方は大手術には効果がなかったようである。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "古代から麻酔薬として用いられてきた他の物質には、ビャクシンやコカの抽出物がある。華佗の学統は途絶えたが、およそ2000年後に同じ東洋の医師、華岡青洲が麻酔薬を開発し、青洲はそれに華佗の処方と同じ、麻沸散と命名することになる。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "フェルドウスィー(940-1020)はアッバース朝カリフ時代に生きたペルシアの詩人である。彼の民族叙事詩である『シャー・ナーメ』の中で、フェルドウスィーはヒロイン、ルダバ(英語版)に施された帝王切開を描写している。この手術には、ゾロアスター教の司祭が用意した特別なワインが麻酔薬として用いられた。", "title": "中世・ルネサンス期" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1020年頃、ペルシアのイブン・スィーナー(980-1037)は『医学典範(英語版)』の中で、外科手術の際に患者の鼻の下に置く、芳香剤と麻薬が染み込んだスポンジである「催眠スポンジ」について述べている。アヘンは10世紀から13世紀にかけて、小アジアからヨーロッパ各地に伝わった。", "title": "中世・ルネサンス期" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "イギリスでは西暦1200年から1500年にかけて、ドウェール(dwale)(英語版)と呼ばれる薬が麻酔薬として用いられた。このアルコールベースの混合物には、胆汁、アヘン、レタス、ブリオニア(bryony、多年生のつる植物)(英語版)、ヒヨス、ドクニンジン、酢が含まれていた。外科医は、酢と塩を頬骨にこすりつけることで患者を覚醒させた。シェイクスピアの『ハムレット』やジョン・キーツの詩『ナイチンゲールへの頌歌(英語版)』など、多くの文学作品にドウェールの記録が見られる。13世紀には、未熟なクワ、亜麻、マンドラゴラの葉、ツタ、レタスの種子、スイバ、ヒヨスの毒汁にスポンジを浸した「睡眠スポンジ」が初めて処方された。処理および/または貯蔵後、スポンジを加熱して蒸気を吸入すると麻酔効果が得られる。", "title": "中世・ルネサンス期" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "後に最初の有効な吸入麻酔薬として用いられることになるジエチルエーテルは、錬金術師のラモン・リュイが、1275年に発見したとされている。パラケルススとして知られるアウレオルス・テオフラストス・ボンバストゥス・フォン・ホーエンハイム(1493-1541)は、1525年頃にジエチルエーテルの鎮痛作用を発見した。1540年、ヴァレリウス・コルドゥスによって初めて合成され、彼はその薬理作用のいくつかに注目した。彼はこれをオレウム・デュルチェ・ヴィトリオリ(oleum dulce vitrioli)と呼んだが、これはエタノールと硫酸の混合物(当時はビトリオール(vitriol)油として知られていた)を蒸留することによって合成されるという事実を反映した名前である。ドイツ生まれの化学者アウグスト・ジークムント・フロベニウス(August Sigmund Frobenius)(英語版)は1730年、この物質にスピリトゥス・ヴィニ・エーテリウス(Spiritus Vini Æthereus)という名前を付けた。", "title": "中世・ルネサンス期" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ジョセフ・プリーストリー(1733~1804)は、亜酸化窒素、一酸化窒素、アンモニア、塩化水素、そして(カール・ヴィルヘルム・シェーレ、アントワーヌ・ラヴォアジエとともに)酸素を発見したイギリスの数学者である。1775年から、プリーストリーは6巻からなる『異なる種類の気体に関する実験と観察(Experiments and Observations on Different Kinds of Air)(英語版)』を出版した。これに記述された気体や他の気体に関する最近の発見は、ヨーロッパの科学界に大きな関心を呼び起こした。トーマス・ベドーズ(1760-1808)はイギリスの哲学者、医師、医学部教官で、年上の同僚プリーストリー同様、バーミンガムのルナー・ソサエティのメンバーでもあった。この新しい科学をさらに発展させ、これまで治療不可能と考えられていた病気(喘息や結核など)の治療法を提供することを視野に入れ、ベドーズは1798年、ブリストルのクリフトン(英語版)にあるダウリー・スクエア(英語版)に、吸入ガス療法のための気体研究所(Pneumatic Institution)(英語版)を設立した。ベドーズは、化学者であり物理学者でもあったハンフリー・デービー(1778-1829)を研究所の管理責任者として雇い、技術者のジェームズ・ワット(1736-1819)をガスの製造に協力させた。エラズマス・ダーウィンやジョサイア・ウェッジウッドといったルナー・ソサエティの他のメンバーもまた、研究所に積極的に関わっていた。", "title": "18世紀" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "気体研究所での研究の過程で、デービーは亜酸化窒素に麻酔作用があることを発見した。亜酸化窒素のことを「笑気ガス」と呼ぶようになったデービーは、翌年、現在では古典的な論文となった『主に亜酸化窒素または脱フロギストン空気とその呼吸に関する化学的・哲学的研究』(Researches, chemical and philosophical–chiefly concerning nitrous oxide or dephlogisticated nitrous air, and its respiration)の中で、自分の研究成果を発表した。デービーは医師ではなかったので、手術中に亜酸化窒素を投与したことはなかった。しかし、彼は亜酸化窒素の鎮痛効果と手術中の痛みを和らげる潜在的な利点を最初に記録した人物である。", "title": "18世紀" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "近代医学の始まりとともに、医療において麻酔が実用化されるパラダイムを構築する舞台が整った。", "title": "18世紀" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "琉球王国首里出身の高嶺徳明は、1689年に琉球(現在の沖縄)で全身麻酔を行ったと伝えられている。彼は1690年に薩摩の医師たちに、1714年には琉球の医師たちにその知識を伝えた。", "title": "19世紀" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "大坂の華岡青洲(1760-1835)は江戸時代の外科医で、漢方医学の知識と蘭学で学んだ西洋の外科技術を備えていた。1785年頃から、花岡は華陀の麻沸散に似た薬理作用を持つ処方を再び作り出す探求に乗り出した。何年にもわたる研究と実験の末、彼はついに通仙散(別名麻沸散)と名付けた処方を開発した。華陀の処方と同様、この処方は以下の数種類の植物から抽出したエキスで構成されていた。", "title": "19世紀" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "通仙散の有効成分は、スコポラミン、ヒヨスチアミン、アトロピン、アコニチン、アンゲリコトキシン(英語版)である。十分な量を摂取すると、通仙散は全身麻酔と骨格筋の麻痺状態をもたらす。花岡の親友であった中川修亭(1773-1850)は、1796年に『麻薬考』という小冊子を書いた。原本は1867年の火事で失われてしまったが、この冊子には華岡の全身麻酔研究の現状が記されていた。", "title": "19世紀" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1804年10月13日、華岡は通仙散を全身麻酔薬として用いて、藍屋勘という60歳の女性の乳癌の乳房部分切除(英語版)を行った。これは一般に、全身麻酔で行われた手術の最初の確実な記録と見なされている。華岡はその後も、悪性腫瘍の切除、膀胱結石の摘出、四肢の切断など、通仙散を用いた多くの手術を行った。1835年に亡くなるまでに、華岡は150例以上の乳癌手術を行った。", "title": "19世紀" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ドイツの薬剤師、フリードリヒ・ゼルチュルナー(1783~1841)は1804年にアヘンからモルヒネを初めて単離した。彼はこれをギリシャ神話の夢の神モルフェウスにちなんでモルフィウムと命名した。1817年に今日用いられている名称、モルヒネ(morphine)に改名したのは、フランスの化学者、ゲイ・リュサックである。", "title": "19世紀" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "イギリスの医師、ヘンリー・ヒル・ヒックマン(Henry Hill Hickman)(英語版)(1800-1830)は1820年代に麻酔薬として二酸化炭素を用いる実験を行った。彼は動物を二酸化炭素で窒息寸前まで効果的に失神させ、その後四肢の一本を切断して、その効果を調べた。1824年、ヒックマンは研究の結果を『仮死状態に関するレター:人体に対する外科手術の有用性を確認する目的で』という短報にして王立協会に提出した。これに対して1826年、ランセット(Lancet)誌に 『外科的詐欺』と題する論文が掲載され、彼の研究は無慈悲な批判を受けた。ヒックマンは4年後、30歳で亡くなった。亡くなった当時は評価されなかったが、その後、彼の研究は肯定的に再評価され、現在では英国王立医学会によって彼の名を冠した賞とメダルが創設され、麻酔科学上の貢献者に授与されている。", "title": "19世紀" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1830年代後半になると、ハンフリー・デービーの実験はアメリカ北東部の学界で広く知られるようになった。放浪する講談師たちは、「エーテル遊び」と呼ばれる大衆集会を開き、観衆のある者達にジエチルエーテルや亜酸化窒素を吸入させ、これらの薬剤の精神に作用する特性を実証するとともに、見物人に多くの娯楽を提供した。このようなイベントに参加し、エーテルがこのように用いられるのを目撃した著名人が4人いる。ウィリアム・エドワード・クラーク(英語版)(1819-1898)、クロウフォード・ロング (1815-1878)、ホーレス・ウェルズ(1815-1848)、そして ウィリアム・T・G・モートン(1819-1868)である。後年、彼らのある者は、エーテルの麻酔への応用の発明を巡って争うことになり、最初にエーテル麻酔を行ったのが誰か、後世にも議論が起こることになる。", "title": "19世紀" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1839年、ニューヨーク州ロチェスターの大学に通っていたクラスメートのクラークとモートンは、定期的にエーテル騒ぎに参加していたようだ。1842年1月、バークシャー医科大学(現ロバートラーナー医科大学)(英語版)の医学生になっていたクラークが、一女性にエーテルを投与し、その間に抜歯が行われた。こうして彼は、外科的手技を容易にするために吸入麻酔薬を投与した最初の人物となった。クラークは自分の功績をほとんど評価していなかったようで、この技術を発表することも、それ以上追求することもしなかった。実際、この出来事はクラークの伝記にさえ記されていない。", "title": "19世紀" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "クロウフォード・ロングは、19世紀半ばにジョージア州ジェファーソン市(英語版)で開業していた医師であり薬剤師であった。1830年代後半、ペンシルベニア大学医学大学院の学生だった彼は、当時流行していたエーテル遊びを観察し、おそらく参加していた。このような集まりでロングは、何人かの参加者にたんこぶやあざができても、その後、彼らが何が起こったのかまったく覚えていないのを観察した。彼は、ジエチルエーテルが亜酸化窒素と同様の薬理効果をもたらすと仮定した。1842年3月30日、彼は、ジェームズ・ヴェナブルという男の首から腫瘍を摘出するために、ジエチルエーテルを吸入させた。ロングはその後、ヴェナブルから2つ目の腫瘍を摘出したが、その際もエーテル麻酔をかけた。さらに彼は、四肢の切断や出産のための全身麻酔薬としてエーテルを使用した。しかし、ロングはその経験を1849年まで発表しなかった。その結果、彼自身が受けるべき名誉の多くを失うことになった。", "title": "19世紀" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1844年12月10日、ガードナー・コルトン(Gardner Quincy Colton)(英語版)はコネチカット州ハートフォードで亜酸化窒素の公開デモンストレーションを行った。参加者の一人が亜酸化窒素の影響下、気づかない間に足に大きな怪我を負った。その日、会場にいたコネチカット州の歯科医ホーレス・ウェルズは、亜酸化窒素のこの明らかな鎮痛効果の重要性をすぐに察知した。翌日、ウェルズはコルトンが投与した亜酸化窒素の影響下で、痛みのない抜歯を受けた。ウェルズはそれから亜酸化窒素を患者に投与するようになり、その後数週間にわたって数回の抜歯を成功させた。", "title": "19世紀" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ウィリアム・T・G・モートンもニューイングランドの歯科医で、ウェルズの元教え子であり、その時から当時までウェルズの仕事仲間だった。彼はまた、ウィリアム・エドワード・クラークと面識があり、同級生でもあった(2人はニューヨーク州ロチェスターの大学院で一緒だった)。モートンは、著名な外科医ジョン・コリンズ・ウォーレン(John Collins Warren)(英語版)と共同で、ウェルズがマサチューセッツ総合病院で亜酸化窒素全身麻酔下での抜歯技術を実演できるよう手配した。だが、1845年1月20日に行われたこのデモンストレーションは、患者が手術の最中に痛みで泣き叫んだため失敗に終わった。", "title": "19世紀" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1846年9月30日、モートンは抜歯のため、ボストンの音楽教師エベン・フロストにジエチルエーテルを投与した。その2週間後、モートンはマサチューセッツ総合病院で、今日エーテルドーム(英語版)として知られている場所で、全身麻酔薬としてジエチルエーテルを用いることを初めて公に実証した。1846年10月16日、ジョン・コリンズ・ウォーレンは、地元の印刷業者エドワード・ギルバート・アボット(Edward Gilbert Abbott)(英語版)の首から腫瘍を摘出した。手技が終わると、ウォーレンは 「諸君、これは決してインチキではない 」と言ったと伝えられている。この出来事のニュースは瞬く間に世界中を駆け巡った。その年の12月には、スコットランドの外科医ロバート・リストンが最初の四肢切断手術を行った。モートンはその直後に自分の経験を発表した。その後、ハーバード大学のチャールズ・トーマス・ジャクソン(Charles Thomas Jackson)(英語版)教授(1805-1880)は、モートンが自分のアイデアを盗んだと主張したが、モートンはこれに同意せず、生涯にわたる論争が始まった。長い間、モートンは西半球における全身麻酔の先駆者と信じられていたが、実のところ、彼の実演はクロウフォード・ロングの最初の経験から4年後であった。ロングはその後、当時ジョージア州選出の合衆国上院議員であったウィリアム・クロスビー・ドーソン(William Crosby Dawson)(英語版)(1798-1856)に、合衆国上院の議場でエーテル麻酔を最初に行ったのは自分であると主張させてくれるよう、請願した。", "title": "19世紀" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1847年、スコットランドのエジンバラの産科医ジェームス・ヤング・シンプソン(1811-1870)が、クロロホルムを全身麻酔薬として初めて人間に用いた(ロバート・モーティマー・グラバー(Robert Mortimer Glover)(英語版)は1842年にこの可能性について書いていたが、犬にしか用いていなかった)。その後、ヨーロッパではクロロホルム麻酔の使用が急速に拡大した。クロロホルムは20世紀初頭、米国で麻酔薬としてエーテルに取って代わり始めた。しかし、クロロホルムは、その肝毒性と心毒性、特に致命的な不整脈を引き起こす傾向が明らかになると、またすぐにエーテルに取って代わられた。実際のところは、主要な麻酔ガスとしてクロロホルムを用いるかエーテルを用いるかは、国や地域によって異なっていた。たとえば、イギリスとアメリカ南部はクロロホルムにこだわり、アメリカ北部はエーテルに戻った。ジョン・スノウはすぐに、エーテルとクロロホルムという新しい麻酔ガスを扱う最も経験豊富な英国人医師となり、事実上、英国初の麻酔科医となった。入念な臨床記録を通じて、彼はやがてロンドン医学界のエリートたちに、クロロホルム麻酔が出産において正当な位置を占めることを納得させることができた。こうして1853年、ヴィクトリア女王の侍女たちは、ジョン・スノウを女王の8人目の子供の出産の麻酔に招いた。エーテルとクロロホルムの麻酔が始まってから20世紀に至るまで、標準的な麻酔薬の投与方法は開放点滴法、であった。つまり、マスクを患者の口に当て、その中に布を入れて、患者が自然に呼吸する状態で揮発性の液体をマスクに滴下した。後に安全な気管チューブが開発されると、この方法は変わった。ロンドンの医療は独特の社会的環境であったため、19世紀末には麻酔が独自の専門分野となったが、英国の他の地域や世界のほとんどの地域では、麻酔は外科医の権限下にあり、外科医はその仕事を下級医師や看護師に任せていた。アメリカで麻酔科が独立部門となるには1936年まで待たねばならなかった", "title": "19世紀" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "オーストリアの外交官カール・フォン・シェルツァー(Karl von Scherzer)(英語版)がペルーから十分な量のコカの葉を持ち帰った後、1860年にアルバート・ニーマン(Albert Niemann)(英語版)がコカインを単離し、これが最初の局所麻酔薬となった。", "title": "19世紀" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1871年、ドイツの外科医フリードリヒ・トレンデレンブルク(Friedrich Trendelenburg)(英語版)(1844~1924年)が、全身麻酔を目的とした待機的気管切開を初めて成功させたという論文を発表した。", "title": "19世紀" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1880年には、スコットランドの外科医ウィリアム・メイスウェン(William Macewen)(英語版)(1848-1924)が、声門浮腫のある患者に呼吸を可能にするために、気管切開の代替として、またクロロホルムを用いた全身麻酔の際に、気管挿管を用いたことを報告している。1895年4月23日、ドイツのアルフレッド・キルシュタイン(Alfred Kirstein, 1863-1922)が声帯の直接可視化(喉頭展開)を初めて報告するまで、それまでの声門と喉頭の観察(マヌエル・ガルシア(Manuel García)(英語版)、ヴィルヘルム・ハック(Wilhelm Hack)、メイスウェンなど)はすべて、鏡を用いた間接観察で行われていた。キルシュタインはこの目的のために改造した食道鏡(オートスコープと命名された)を用いて、ベルリンで最初の直接喉頭展開を行った。皇帝フリードリヒ3世(1831-1888)の死が、キルシュタインがオートスコープを開発する動機となった可能性があるとされる。", "title": "19世紀" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "20世紀には、気管切開、内視鏡、気管挿管といった手技が、めったに行われないものから、麻酔、集中治療、救急医療、消化器病学、呼吸器病学、外科の診療に不可欠な要素へと変貌を遂げた。", "title": "20世紀" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1902年、ドイツの化学者、エミール・フィッシャー(Hermann Emil Fischer, 1852-1919)とジョセフ・フォン・メリング(Joseph von Mering)(英語版)(1849-1908)は、ジエチルバルビツール酸が効果的な睡眠薬であることを発見した。バルビタールまたはベロナール(バイエル薬品が命名した商品名)とも呼ばれるこの新薬は、商業的に販売された最初のバルビツール酸となり、1903年から1950年代半ばまで不眠症の治療薬として用いられた。しかし、この系統の薬剤から、今日でも用いられている短時間作用性麻酔薬チオペンタールが開発されるのには30年以上待たねばならなかった。1913年まで、口腔および顎顔面外科手術は、マスク吸入麻酔、局所麻酔薬の粘膜への表面麻酔、直腸麻酔、または静脈麻酔によって行われていた。これらの麻酔法は有効ではあったが、気道の閉塞から守ることはできず、血液や粘液が気管や気管支に吸引される危険に患者をさらすものであった。1913年、シュバリエ・ジャクソン(Chevalier Jackson)(英語版)(1865-1958)が、気管挿管の手段として直接喉頭展開を行って高い成功率を報告した最初の人物である。ジャクソンは、キルシュタインが用いた操作者側の光源ではなく、器具の患者側の先端に光源を持つ新しい喉頭鏡のブレードを導入した。この新しいブレードには、気管チューブや気管支鏡を通すスペースを確保するために、操作者がスライドできる部品が組み込まれていた。", "title": "20世紀" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "また1913年には、ヘンリー・H・ジェインウェイ(Henry H. Janeway)(英語版)(1873-1921)が、最近開発した喉頭鏡を用いて達成した結果を発表した。ニューヨークのベルビュー病院(Bellevue Hospital)(英語版)で開業していた麻酔科医のジェインウェイは、揮発性麻酔薬を直接気管内に送気(英語版)すれば、耳鼻咽喉科手術の条件が改善されると考えていた。そこで彼は、気管挿管専用の喉頭鏡を開発した。ジャクソンの器具と同様、ジェインウェイの装置にも遠位光源が組み込まれていた。しかし、ユニークな点は、ハンドルに電池が内蔵されていること、挿管中に気管チューブを口腔咽頭の正中線に維持するためにブレードの中央に切り欠きがあること、チューブを声門に導くためにブレードの先端がわずかにカーブしていることであった。この設計が成功したことで、その後、他の種類の手術にも用いられるようになった。こうしてジェインウェイは、麻酔科診療における直接喉頭展開と気管挿管の普及に貢献した。", "title": "20世紀" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1928年、アーサー・アーネスト・ゲデル(Arthur Ernest Guedel)(英語版)は、カフ付き気管内チューブを臨床に導入した。このチューブは、自発呼吸を完全に抑制する深い麻酔を可能にする一方、麻酔科医が制御する陽圧換気によって麻酔ガスと酸素を患者に供給するものであった。わずか3年後、ジョセフ・W・ゲイル(Joseph W. Gale)が、麻酔科医が一度に片方の肺だけを人工呼吸できる技術、すなわち分離肺換気を開発した。これによって、それまで胸郭が大気に開放されているために胸腔内の陰圧が失われ、患者の呼気によって手術最中の肺が膨らんでしまうペンデルフト(Pendelluft)現象(英語版)に悩まされていた胸部外科手術が発展することになった。やがて1980年代初頭には、透明プラスチック製のダブルルーメンチューブが登場した。フレキシブルな光ファイバー気管支鏡を用いてこのチューブを適切な位置に留置し、麻酔科医が片方の肺を選択的に換気しながら、手術する側の肺の気管支を遮断し、安静術野の提供が可能となった。現代麻酔科学に不可欠なのは麻酔器である。初期の装置のひとつであるカッパーケテルは、ウィスコンシン大学のルシアン・E・モリス(Lucien E. Morris)によって開発された。", "title": "20世紀" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "最初の静脈麻酔薬であるチオペンタールナトリウムは、アボット・ラボラトリーズのアーネスト・ボルワイラー(Ernest H. Volwiler)(英語版)(1893-1992)とドナリー・L・タバーン(Donalee L. Tabern, 1900-1974)によって1934年に合成された。この薬は1934年3月8日、ラルフ・M・ウォーターズ(Ralph M. Waters)(英語版)がその特性を調査するために初めてヒトに用いたが、その特性は短時間の麻酔作用であり、鎮痛作用は驚くほど少なかった。その3ヵ月後、ジョン・サイラス・ランディ(John Silas Lundy)(英語版)がアボットラボラトリーズの依頼を受け、メイヨークリニックでチオペンタールの臨床試験を開始した。ヴォルワイラーとタバーンはチオペンタールの発見により、1939年に米国特許第2,153,729号を取得し、1986年に全米発明家殿堂に名を連ねた。", "title": "20世紀" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1939年、アトロピンの代用となる合成薬の探索は、偶然にもモルヒネとは全く異なる構造を持つ最初のオピオイドであるメペリジンの発見へと結実した。続いて1947年には、モルヒネと薬理学的特性が類似するものの、構造的に無関係な化合物であるメサドンが広く用いられるようになった。", "title": "20世紀" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦後、気管内麻酔法の分野でさらなる進歩があった。中でもイヴァン・マギル(Ivan Magill)(英語版)(1888-1986)の功績は大きかった。イギリスのシドカップ(Sidcup)(英語版)の顔面・顎外傷専門のクイーンズ病院(Queen's Hospital for Facial and Jaw Injuries)(英語版)で、形成外科医のハロルド・ギリーズ(Harold Gillies)(英語版)(1882-1960)、麻酔医のE.スタンレー・ロウボサム(E. Stanley Rowbotham、1890-1979)と共に働いていたマギルは、意識下盲目的盲経鼻気管挿管の手技を開発した。マギルは、角度のついた新型の鉗子(マギル鉗子(英語版))も考案した。これは、マギルが報告した当初の手技とほとんど変わらない方法で、経鼻気管挿管を容易にするために現在も用いられている。マギルが発明したその他の器具には、マギル喉頭鏡のブレードや、揮発性麻酔薬を投与するためのいくつかの器具がある。気管チューブの弯曲(Magill curve)もマギルにちなんで命名されたものである。", "title": "20世紀" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "最初の病院内の麻酔科は、ヘンリー・ビーチャー(Henry Beecher)(英語版)(1904–1976)の指導の下、1936年にマサチューセッツ総合病院に設立された。しかし、外科で訓練を受けたビーチャーに麻酔の経験はなかった。", "title": "20世紀" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "筋弛緩剤クラーレは当初、精神疾患への電気けいれん療法に伴う合併症の痙攣を軽減するために用いられたが、1940年代にE.M.パッパー( E.M. Papper)とスチュアート・カレン(Stuart Cullen)がスクイブ社(ブリストル・マイヤーズ・スクイブ社の前身)製の製剤を用いてニューヨークのベルビュー病院(英語版)の手術室で用いるようになった。この神経筋遮断薬によって横隔膜の完全麻痺が可能となり、陽圧換気による人工呼吸器による調節呼吸が可能となった。陽圧換気が一般的に使われるようになったのは、1950年代のポリオの流行がきっかけであり、特にデンマークでは1952年に大流行し、麻酔科学から集中治療医学が誕生する契機となった。当初、麻酔科医は必要な場合を除き、人工呼吸器を手術室に持ち込むことをためらっており、1960年代までは標準的な手術室設備にはならなかった。", "title": "20世紀" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "ロバート・マッキントッシュ(Robert Macintosh)(英語版)(1897-1989)は、1943年に新しい曲型喉頭鏡のブレードを発表し、気管挿管の技術を大きく進歩させた。マッキントッシュ型ブレードは、今日でも気管挿管に最も広く用いられている喉頭鏡のブレードである。1949年、マッキントッシュは気管内挿管を容易にするため、天然ゴム製の尿道カテーテルを気管挿管時のガイド(イントロデューサー)として用いた症例報告を発表した(ガムエラスティックブジーの原型)。マッキントッシュの報告に触発されたヘックス・ヴェン(P. Hex Venn)が、このコンセプトに基づく気管チューブイントロデューサーの開発に着手した。ヴェンのデザインは1973年3月に採用され、Eschmann気管チューブイントロデューサーとして後に知られるようになったものが、その年の後半に生産が開始された。ヴェンの設計の素材は、ポリエステル糸で織られたチューブの芯と外側の天然樹脂層の2層になっている点で、ガムエラスティックブジーとは異なっていた。これにより、剛性は増したが、柔軟性と気管チューブを操作するための滑らかな表面は維持された。その他の違いとしては、長さ(新型イントロデューサーは60cmで、ガムエラスティックブジーよりはるかに長い)と、先端が35度湾曲しており、口腔・咽頭内の障害物を避けて使用できることが挙げられる。", "title": "20世紀" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "100年以上の間、吸入麻酔薬の主流は1930年代に導入されたシクロプロパンとエーテルのままであった。これらはいずれも引火しやすかった。1956年には、引火性がないという大きな利点を持つハロタンが導入された。これにより、手術室火災のリスクが減少した。1960年代には、まれにではあるが、ハロタンに不整脈や肝毒性といった重大な副作用が出たため、ハロゲン化エーテル(英語版)がハロタンに取って代わった。最初の2種類のハロゲン化エーテルはメトキシフルランとエンフルランであった。これらは更に1980年代から1990年代にかけて、現在の標準であるイソフルラン、セボフルラン、デスフルランに取って代わられたが、オーストラリアではメトキシフルランがペンスロックス(Penthrox)として病院前麻酔に用いられている。 ハロタンは、発展途上国の多くで依然用いられている。", "title": "20世紀" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "20世紀後半には、多くの新しい静脈麻酔薬やオピオイドが開発され、臨床で用いられるようになった。ヤンセンファーマの創設者であるポール・ヤンセン(Paul Janssen)(英語版)(1926-2003)は、80種類以上の医薬化合物を開発したことで知られている。ヤンセンはハロペリドール(1958年)とドロペリドール(1961年)に始まるブチロフェノン系の抗精神病薬のほとんどすべてを合成した。これらの抗精神病薬は急速に麻酔の実践に組み込まれた。", "title": "20世紀" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "1960年、ヤンセンの研究チームは、ピペリジノン(piperidinone)(英語版)誘導体の最初のオピオイドであるフェンタニルを合成した。フェンタニルに続いて、スフェンタニル(英語版)(1974年)、アルフェンタニル(英語版)(1976年)、カルフェンタニル(1976年)、ロフェンタニル(英語版)(1980年)が開発された。ヤンセンらのチームは、強力な静脈麻酔薬であるエトミデート(1964年)も開発した。", "title": "20世紀" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "気管挿管にファイバー内視鏡を用いるというコンセプトは、1967年にイギリスの麻酔科医ピーター・マーフィー(Peter Murphy)によって導入された。1980年代半ばまでに、軟性のファイバー気管支鏡は、呼吸器科や麻酔科の分野では欠くことのできない器械となった。", "title": "20世紀" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "21世紀の情報化時代において、気管挿管の技術と理論は進歩した。CMOSアクティブ・ピクセル・センサ(APS)などのデジタル技術を採用したビデオ喉頭鏡がいくつかのメーカーから開発され、気管挿管時に声門が画面で確認できるようになっている。ビデオ喉頭鏡グライドスコープはその一例である。", "title": "21世紀" } ]
全身麻酔の歴史(ぜんしんますいのれきし)では、世界の歴史において全身麻酔に関わる事物がどのような発展を遂げてきたかについて概説する。 歴史時代を通じて、全身麻酔状態を作り出す試みは、古代のシュメール人、バビロニア人、アッシリア人、エジプト人、インド人、中国人の著作にまで遡ることができる。ルネサンス期には解剖学や手術手技が大きく進歩したにもかかわらず、手術は、それに伴う痛みのため、最後の手段の治療法のままであった。しかし、18世紀後半から19世紀初頭にかけての科学的発見により、近代的な麻酔技術の開発への道が開かれた。 19世紀後半には、2つの大きな進歩が近代的な外科手術への移行を可能にした。すなわち、病気の病原体説の結果として無菌操作が開発・応用され、合併症と死亡率が低下したことと、薬理学と生理学の進歩によって全身麻酔と疼痛管理が開発されたことである。20世紀に入ると、全身麻酔の安全性と有効性は、気管挿管と高度な気道確保をルーチンに行い、モニタリングを行い、特性が改善された新しい麻酔薬の登場により、さらに向上した。
'''全身麻酔の歴史'''(ぜんしんますいのれきし)では、[[世界の歴史]]において[[全身麻酔]]に関わる事物がどのような発展を遂げてきたかについて概説する。[[ファイル:Southworth & Hawes - First etherized operation (re-enactment).jpg|thumb|1846年10月16日、[[ボストン]]の[[マサチューセッツ総合病院]]の{{仮リンク|エーテルドーム|en|Ether Dome|redirect=1}}で行われた、[[ウィリアム・T・G・モートン]]による[[全身麻酔]]の最初の公開デモンストレーションの再現。{{仮リンク|ジョン・ウォーレン (外科医)|en|John Collins Warren|label=外科医ジョン・ウォーレン|redirect=1}}と{{仮リンク|ヘンリー・ビゲロー|en|Henry Jacob Bigelow|redirect=1}}も、{{仮リンク|サウスワース&ホーズ|en|Southworth & Hawes|redirect=1}}によるこの[[ダゲレオタイプ]]に写されている。]] [[ファイル:Mghbullfinch.jpg|サムネイル|{{仮リンク|ブルフィンチビル|en|Massachusetts General Hospital, Bulfinch Building|label=マサチューセッツ総合病院のブルフィンチビル|redirect=1}} に{{仮リンク|エーテルドーム|en|Ether Dome|redirect=1}}はある。]] [[歴史時代]]を通じて、全身麻酔状態を作り出す試みは、古代の[[シュメール人]]、[[古代バビロニア|バビロニア人]]、[[アッシリア人]]、[[古代エジプト医学|エジプト人]]、[[古代インド|インド人]]、[[中国の歴史|中国人]]の著作にまで遡ることができる。[[ルネサンス期]]には[[解剖学]]や[[外科学|手術手技]]が大きく進歩したにもかかわらず、手術は、それに伴う痛みのため、最後の手段の治療法のままであった。しかし、18世紀後半から19世紀初頭にかけての科学的発見により、近代的な麻酔技術の開発への道が開かれた。 19世紀後半には、2つの大きな進歩が近代的な外科手術への移行を可能にした。すなわち、[[病気の病原体説]]の結果として[[無菌操作]]が開発・応用され、[[合併症]]と[[死亡率]]が低下したことと、[[薬理学]]と[[生理学]]の進歩によって[[全身麻酔]]と[[疼痛管理]]が開発されたことである。20世紀に入ると、全身麻酔の安全性と有効性は、[[気管挿管]]と[[高度な気道確保]]を[[ルーチン]]に行い、[[モニタリング (医学)|モニタリング]]を行い、特性が改善された新しい麻酔薬の登場により、さらに向上した。 ==麻酔の語源== === 麻酔 === 日本語の「[[麻酔]]」は、英語の "anesthesia" やドイツ語の "Anästhesie" に対する訳語である。初出は[[杉田成卿]]『済生備考』(1850年)とされる<ref name=":1">{{Cite web|和書 |url=http://jsmh.umin.jp/journal/29-2/219-220.pdf |title=「麻酔」の語史学的研究 |access-date=2023-12-25 |author=松木明知 |archive-date=2023-02-08 |archive-url=https://web.archive.org/web/20220302112015/http://jsmh.umin.jp/journal/29-2/219-220.pdf}}</ref>。これは、全身麻酔の先駆者である、[[華岡青洲]]の没後であり、青洲は自らの著述で「麻酔」という言葉を使っていない<ref name=":1" />。中国語でも同様に「麻醉」と記載される<ref>{{Cite web |url=https://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/iryou/kokusai/setsumeisiryo/dl/cn31.pdf |title=麻酔に関する説明書 2018 年 3 月版(中文/中国語) |access-date=2023-12-25 |publisher=[[厚生労働省]]}}</ref>が、日本での初出より前には用例が確認されておらず、「麻酔」が中国で日本より先に造語された可能性は低いとされる<ref name=":1" />。 === anesthesia === 『{{仮リンク|ヒポクラテス全集|en|Hippocratic Corpus|redirect=1}}』『[[ティマイオス]]』などの[[古代ギリシア語]]文献には、{{Wikt-lang|grc|ἀναισθησίᾱ|italic=no}}(''anaisthēsíā''、無感覚)という用語があり、ἀν- (an-、「無し」)と αἴσθησις (''aisthēsis''、「[[感覚]]」)に由来する<ref name="haridas">{{Cite journal |last1=Haridas |first1=Rajesh P. |title=Earliest English Definitions of <i>Anaisthesia</i> and <i>Anaesthesia</i> |journal=Anesthesiology |volume=127 |issue=5 |date=1 November 2017 |pages=747–753 |pmid=28654424 |s2cid=33004661 |doi=10.1097/ALN.0000000000001764}}</ref><ref>{{LSJ|a)naisqhsi/a|ἀναισθησία|ref}}</ref>。 1679年、オランダの医師[[ステフェン・ブランカールト|ステファン・ブランカールト]]がラテン語の"anaisthesia"を用いたギリシャ・ラテン語医学辞典(Lexicon medicum graeco-latinum)を出版した。1684年、「身体の辞書(A Physical Dictionary)」という題名で英訳が出版され、anaisthesiaは「麻痺患者や泥酔者のような感覚の欠如」と定義された。その後、この言葉やanæsthesiaのような綴りの変化は、医学文献で「無感覚」を意味するようになった{{R|haridas}}。 1846年、アメリカの作家・医学者の[[オリバー・ウェンデル・ホームズ・シニア]]は書簡の中で、ある薬剤によって誘発される状態をanesthesia、薬剤そのものをanestheticという用語として提案した。ホームズは、医学文献におけるanesthesiaの以前の用法が、特に「触れるもの」に対する「無感覚」を意味するものであったことから、このように考えたのである{{R|haridas}}<ref name="Small1962">{{Cite book |last=Small |first=MR |title=Oliver Wendell Holmes |page=55 |publisher=Twayne Publishers |location=New York |year=1962 |isbn=978-0-8084-0237-4 |oclc=273508 |quote=In a letter to dentist [[ウィリアム・T・G・モートン|William T. G. Morton]], Holmes wrote: "Everybody wants to have a hand in a great discovery. All I will do is to give a hint or two as to names—or the name—to be applied to the state produced and the agent. The state should, I think, be called 'Anaesthesia.' This signifies insensibility—more particularly&nbsp;... to objects of touch."}}</ref><ref>{{Cite journal |last1=Haridas |first1=R. P. |title=The etymology and Use of the Word 'Anaesthesia': Oliver Wendell Holmes' Letter to W. T. G. Morton |journal=Anaesthesia and Intensive Care |volume=44 |date=July 2016 |pages=38–44 |pmid=27456290 |doi=10.1177/0310057X1604401S07 |doi-access=free}}</ref>。 ==古代== 全身麻酔の最初の試みは、おそらく[[先史時代]]に投与された[[本草学|薬草療法]]であろう。[[エタノール|アルコール]]は最も古くから知られている[[鎮静薬|鎮静剤]]で、数千年前の[[古代メソポタミア]]で用いられていた<ref name="Powell1996">{{Cite book |title=The Origins and Ancient History of Wine |series=Food and Nutrition in History and Anthropology |edition=1 |volume=11 |chapter=9: Wine and the vine in ancient Mesopotamia: the cuneiform evidence |pages=96–124 |author=Powell MA |veditors=McGovern PE, Fleming SJ, Katz SH |publisher=Taylor & Francis |location=Amsterdam |year=2004 |isbn=9780203392836 |issn=0275-5769 |chapter-url=https://books.google.com/books?id=aXX2UcT_yw8C&q=Wine+and+the+vine+in+ancient+Mesopotamia:+the+cuneiform+evidence&pg=PA97 |access-date=2010-09-15}}</ref>。 ===アヘン=== [[ファイル:Illustration Papaver somniferum0.jpg|thumb|upright|[[ケシ]](Papaver somniferum)]] アヘンの有効成分は[[モルヒネ]]であり、現在でも[[オピオイド鎮痛薬]]として用いられている<ref>{{Cite web |url=https://www.uptodate.com/contents/perioperative-uses-of-intravenous-opioids-specific-agents?topicRef=94536&source=see_link |title=Perioperative uses of intravenous opioids: Specific agents |access-date=2023-12-17 |publisher=UpToDate}}</ref>。シュメール人は、紀元前3400年頃にはメソポタミア下流で[[ケシ]]を栽培し、[[アヘン]]を収穫していたと言われているが<ref name="Neligan1927">{{Cite journal|last1=Evans|first1=TC|year=1928|title=The opium question, with special reference to Persia (book review)|url=http://www.tropicalmedandhygienejrnl.net/article/S0035-9203(28)90031-0/abstract|journal=Transactions of the Royal Society of Tropical Medicine and Hygiene|volume=21|issue=4|pages=339–340|doi=10.1016/S0035-9203(28)90031-0|access-date=2010-09-18|quote=The earliest known mention of the poppy is in the language of the Sumerians, a non-Semitic people who descended from the uplands of Central Asia into Southern Mesopotamia....}}{{リンク切れ|date=November 2018|bot=InternetArchiveBot|fix-attempted=yes}}</ref><ref name="Booth1996">{{Cite book |title=Opium: A History |chapter=The discovery of dreams |author=Booth M |publisher=Simon & Schuster, Ltd. |location=London |year=1996 |isbn=978-0-312-20667-3 |page=[https://archive.org/details/opiumhistory00boot/page/15 15] |chapter-url=https://books.google.com/books?id=8XHV8JAoAi4C&q=Opium:+A+History |url=https://archive.org/details/opiumhistory00boot/page/15 |access-date=2010-09-18}}</ref>、これには異論がある<ref name="Krikorian1975">{{Cite journal|last=Krikorian|first=AD|date=March 1975|title=Were the opium poppy and opium known in the ancient Near East?|journal=Journal of the History of Biology|volume=8|issue=1|pages=95–114|doi=10.1007/BF00129597|pmid=11609871|s2cid=23899398}}</ref>。現在までに発見されているケシに関する最も古い証言は、紀元前3千年紀の終わりに小さな白い粘土板に[[楔形文字]]で刻まれたものである。この石版は1954年、[[ニップル]]での発掘調査で発見され、現在[[ペンシルベニア大学考古学人類学博物館]]に保管されている。{{仮リンク|サミュエル・ノア・クレイマー|en|Samuel Noah Kramer|redirect=1}}とマーティン・リーヴによって解読され、現存する最古の[[薬局方]]とされている<ref name="Kramer1954">{{Cite journal|last1=Kramer|first1=SN|author-link=|date=March 1954|title=First pharmacopeia in man's recorded history|journal=American Journal of Pharmacy and the Sciences Supporting Public Health|volume=126|issue=3|pages=76–84|issn=0002-9467|pmid=13148318}}</ref><ref name="Kramer1988">{{Cite book |title=History Begins at Sumer: Thirty-Nine Firsts in Recorded History |edition=3 |vauthors=Kramer SN, Tanaka H |author-link=Samuel Noah Kramer |publisher=University of Pennsylvania Press |location=Philadelphia |date=March 1988 |isbn=978-0-8122-1276-1 |url=https://archive.org/details/humansideofjapan00tana}}</ref>。この時代のシュメール語の石版には"hul gil"という[[表意文字]]が刻まれており、「喜びの植物」と訳されて、アヘンを意味するという説がある<ref name="Terry1928">{{Cite book |title=The Opium Problem |chapter=II: Development of the problem |page=54 |vauthors=Terry CE, Pellens M |publisher=Bureau of Social Hygiene |location=New York |year=1928 |chapter-url=https://books.google.com/books?id=mlhCAAAAIAAJ&q=%22The+Opium+Problem%22+Terry |access-date=2010-09-18}}</ref><ref name="Sonnedecker1962">{{Cite journal|author=Sonnedecker G|year=1962|title=Emergence of the Concept of Opiate Addiction|journal=Journal Mondial de Pharmacie|volume=3|pages=275–290|issn=0021-8405}}</ref>。gilという言葉は、世界のある地域では今でもアヘンに用いられている<ref name="Anslinger1953">{{Cite book |title=The Traffic in Narcotics |chapter=The pattern of man's use of narcotic drugs |page=1 |vauthors=Anslinger HJ, Tompkins WF |author-link=Harry J. Anslinger |publisher=Funk and Wagnalls |location=New York |year=1953 |isbn=978-0-405-13567-5 |chapter-url=https://books.google.com/books?id=5U4PGMlFkacC&q=%22The+Traffic+in+Narcotics%22 |access-date=2010-09-18}}</ref>。シュメールの女神{{仮リンク|ニダバ|en|Nidaba|redirect=1}}は、しばしば肩からケシが生えている姿で描かれている。紀元前2225年頃、シュメール領域は[[バビロニア帝国]]の一部となった。アヘンとその多幸感に関する知識と用い方はバビロニア人に伝わり、バビロニア人は帝国を東の[[ペルシア|ペルシャ]]、西の[[エジプト]]へと拡大した。これにより、アヘンに関する知見はこれらの文明にまで広がっている<ref name="Anslinger1953"/>。イギリスの[[考古学者]]で楔形文字学者の{{仮リンク|レジナルド・キャンベル・トンプソン|en|Reginald Campbell Thompson|redirect=1}}は、アヘンは紀元前7世紀にはアッシリア人に知られていたと書いている<ref name="Thomson1924">{{Cite journal|author=Thompson RC|author-link=|date=July 1926|title=The Assyrian herbal: a monograph on the Assyrian vegetable drugs|journal=Isis|volume=8|number=3|pages=506–508|doi=10.1086/358424|jstor=223920|quote=Thompson reinforces his view with the following quotation from a cuneiform tablet: 'Early in the morning old women, boys, and girls collect the juice, scraping it off the notches (of the poppy-capsule) with a small iron blade, and place it within a clay receptacle.'}}</ref>。紀元前650年頃のアッシリアの石版に刻まれた「アッシリアの''{{仮リンク|草本誌|en|Herbal|label=草本誌(Herbal)|redirect=1}}''」の中に、"Arat Pa Pa"という言葉が出てくる。トンプソンによれば、この用語はケシの汁のアッシリア語名であり、ラテン語の[[ケシ属]](papaver)の[[語源学|語源]]である可能性があるという<ref name="Terry1928"/>。 古代エジプト人は、おそらく[[マンドレイク]]の果実から抽出したエキスを含む、原始的な鎮痛剤と鎮静剤だけでなく<ref name="Sullivan1996">{{Cite journal|last=Sullivan|first=R|date=August 1996|title=The identity and work of the ancient Egyptian surgeon|journal=Journal of the Royal Society of Medicine|volume=89|issue=8|pages=467–73|doi=10.1177/014107689608900813|pmc=1295891|pmid=8795503}}</ref>、外科器具<ref name="Ebers1889">{{Cite book|和書 |title=Papyrus Ebers |edition=1 |volume=2 |author=Ludwig Christian Stern |editor=Ebers G |editor-link=:en:Georg Ebers |publisher=Bei S. Hirzel |location=Leipzig |language=de |year=1889 |oclc=14785083 |url=https://archive.org/details/papyrusebersdie00ebergoog |access-date=2010-09-18}}</ref><ref name="Pahor1992I">{{Cite journal|last=Pahor|first=AL|date=August 1992|title=Ear, nose and throat in ancient Egypt: Part I|journal=The Journal of Laryngology & Otology|volume=106|issue=8|pages=677–87|doi=10.1017/S0022215100120560|pmid=1402355|s2cid=35712860}}</ref>もいくつか持っていた。アヘンに似た製剤を手術に用いたことは、[[エジプト第18王朝|第18王朝]]時代に書かれた{{仮リンク|エジプトの医学パピルス|en|Egyptian medical papyri|redirect=1}}、[[エーベルス・パピルス]]に記録されている<ref name="Anslinger1953" /><ref name="Ebbell1937">{{Cite book |title=The Papyrus Ebers: The greatest Egyptian medical document |author=Ebbell B |publisher=Levin & Munksgaard |location=Copenhagen |year=1937 |df=dmy-all |url=http://www.macalester.edu/~cuffel/ebers.htm |access-date=2010-09-18 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20050226100008/http://www.macalester.edu/~cuffel/ebers.htm |archive-date=26 February 2005}}</ref><ref name="Ebers1889" />。しかし、古代エジプトでアヘンそのものが知られていたかどうかは疑問である<ref name="Bisset1994">{{Cite journal|date=January 1994|title=Was opium known in 18th Dynasty ancient Egypt? An examination of materials from the tomb of the chief royal architect Kha|journal=Journal of Ethnopharmacology|volume=41|issue=1–2|pages=99–114|doi=10.1016/0378-8741(94)90064-7|pmid=8170167|vauthors=Bisset NG, Bruhn JG, Curto S, Halmsted B, Nymen U, Zink MH}}</ref>。 ギリシャ神話の神[[ヒュプノス]](眠り)、[[ニュクス]](夜)、[[タナトス]](死)は、しばしばケシを手にした姿で描かれていた<ref name="Kritikos1967-3">{{Cite journal|year=1967|title=The history of the poppy and of opium and their expansion in antiquity in the eastern Mediterranean area|url=http://unosek.org/unodc/en/data-and-analysis/bulletin/bulletin_1967-01-01_3_page004.html|journal=Bulletin on Narcotics|volume=19|issue=3|pages=17–38|issn=0007-523X|vauthors=Kritikos PG, Papadaki SP|access-date=2010-09-18|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20110728144432/http://unosek.org/unodc/en/data-and-analysis/bulletin/bulletin_1967-01-01_3_page004.html|archive-date=2011-07-28}}</ref>。 [[古代インド]]と中国にアヘンが伝来する以前、これらの文明は[[大麻]]の[[香]]と[[トリカブト]]を他に先駆けて用いていた。紀元前400年頃、[[インド亜大陸]]の[[アーユルヴェーダ]]医学と外科手術に関する書物『{{仮リンク|スシュルタ・サンヒター|en|Sushruta Samhita|redirect=1}}』では、麻酔のためにワインと大麻の香を用いることが提唱されている<ref name="Sushruta">{{Cite book|和書 |author=Sushruta |author-link=:en:Sushruta Samhita |title=Sushruta Samhita, Volume1: Sutrasthanam |editor=Kaviraj Kunja Lal Bhishagratna |chapter=Introduction |publisher=Kaviraj Kunja Lal Bhishagratna |location=Calcutta |year=1907 |pages=iv |chapter-url=https://archive.org/details/englishtranslati01susruoft |title-link=Sushruta Samhita |access-date=2010-09-13}}</ref>。紀元8世紀までには、アラブの商人がインド<ref name="Dwarakanath1965">{{Cite journal|author=Dwarakanath SC|year=1965|title=Use of opium and cannabis in the traditional systems of medicine in India|url=http://unosek.org/unodc/en/data-and-analysis/bulletin/bulletin_1965-01-01_1_page004.html|journal=Bulletin on Narcotics|volume=17|issue=1|pages=15–9|issn=0007-523X|access-date=2010-09-27|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20110728145435/http://unosek.org/unodc/en/data-and-analysis/bulletin/bulletin_1965-01-01_1_page004.html|archive-date=2011-07-28}}</ref>と中国<ref name="Fort1965">{{Cite journal|author=Fort J|year=1965|title=Giver of delight or Liberator of sin: Drug use and "addiction" in Asia|url=http://unosek.org/unodc/en/data-and-analysis/bulletin/bulletin_1965-01-01_3_page002.html|journal=Bulletin on Narcotics|volume=17|issue=3|pages=1–11|issn=0007-523X|access-date=2010-09-27|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20110728145444/http://unosek.org/unodc/en/data-and-analysis/bulletin/bulletin_1965-01-01_3_page002.html|archive-date=2011-07-28}}</ref>にアヘンを持ち込んだ。アヘンからモルヒネが単離されるにはここから2500年を待つことになる<ref name="Meyer2004" />。 === 古代中国 === [[ファイル:HuaTuo.jpg|thumb|left|upright|[[華佗]]。紀元2世紀頃の中国の外科医。]] [[扁鵲]](紀元前300年頃)は中国の伝説的な[[内科医]]であり[[外科医]]で、外科手技に[[全身麻酔]]を用いたと伝えられている。『[[韓非子]]』(紀元前250年頃)『[[史記]]』(紀元前100年頃)『[[列子]]』(紀元300年頃)には、扁鵲が 魯公扈と趙齊嬰という二人の男に毒物を飲ませ、三日間意識を失わせ、その間に[[胃瘻]]を造ったことが記されている<ref name="Gordon1949">{{Cite book |title=Medicine throughout Antiquity |edition=1 |pages=358, 379, 385, 387 |author=Gordon BL |publisher=F.A. Davis Company |location=Philadelphia |year=1949 |isbn=9780598609977 |oclc=1574261 |url=https://books.google.com/books?id=BDprAAAAMAAJ&q=%22Medicine+throughout+Antiquity%22 |access-date=2010-09-14 |quote=Pien Chiao (ca. 300 BC) used general anesthesia for surgical procedures. It is recorded that he gave two men, named "Lu" and "Chao", a toxic drink which rendered them unconscious for three days, during which time he performed a gastrotomy upon them}}</ref><ref name="Giles1912">{{Cite book|和書 |title=Taoist teachings from the book of Lieh-Tzŭ, translated from the Chinese, with introduction and notes, by Lionel Giles (Wisdom of the East series) |author=Giles L (transl.) |author-link= |publisher=John Murray |location=London |year=1912 |url=http://www.sacred-texts.com/tao/tt/index.htm |access-date=2010-09-14}}</ref><ref name="Salguero2009">{{Cite journal|last1=Salguero|first1=CP|date=February 2009|title=The Buddhist medicine king in literary context: reconsidering an early medieval example of Indian influence on Chinese medicine and surgery|journal=History of Religions|volume=48|issue=3|pages=183–210|doi=10.1086/598230|issn=0018-2710|s2cid=162211011}}</ref>。 [[華佗]]は紀元2世紀の中国の外科医。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』(紀元270年頃)と『[[後漢書]]』(紀元430年頃)によると、華佗は酒と[[通仙散|麻沸散]]と呼ばれる[[エキス|薬草抽出物]]の混合物を用いて開発した処方で全身麻酔下の手術を行ったという<ref name="Chu2004">{{Cite journal|author=Chu NS|date=December 2004|title=Legendary Hwa Tuo's surgery under general anesthesia in the second century China|url=http://www.neuro.org.tw/magz/doc/13-4p211.pdf|journal=Acta Neurologica Taiwanica|volume=13|issue=4|pages=211–6|language=zh|issn=1028-768X|pmid=15666698|access-date=2010-09-18|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20120226221336/http://www.neuro.org.tw/magz/doc/13-4p211.pdf|archive-date=26 February 2012}}</ref>。華陀は、壊死した[[腸]]の{{仮リンク|部分切除|en|segmental resection|redirect=1}}のような大きな手術にも麻沸散を用いたと伝えられている<ref name="Chu2004" /><ref name="Giles1948">{{Cite book|和書 |title=A Gallery of Chinese immortals: selected biographies, translated from Chinese sources by Lionel Giles (Wisdom of the East series) |edition=1 |author=Giles L (transl.) |author-link= |editor=Cranmer-Byng JL |publisher=John Murray |location=London |year=1948 |url=http://www.angelfire.com/in4/alchemy2084/giles.html |access-date=2010-09-14 |quote=The well-attested fact that Hua T'o made use of an anaesthetic for surgical operations over 1,600 years before Sir James Simpson certainly places him to our eyes on a pinnacle of fame....}}</ref><ref name="Giles1897">{{Cite book|和書 |title=A Chinese Biographical Dictionary |pages=323–4, 762–3 |author=Giles HA |author-link=:en:Herbert Giles |publisher=Bernard Quaritch |location=London |year=1898 |isbn=9780896440104 |url=https://books.google.com/books?id=BxH0PqdGTVUC&q=%22A+Chinese+Biographical+Dictionary%22 |access-date=2010-09-14 |quote=If a disease seemed beyond the reach of needles and cautery, he operated, giving his patients a dose of hashish which rendered them unconscious.}}</ref>。手術の前に、彼はおそらく酒に溶かした麻酔薬を[[経口投与]]し、{{仮リンク|意識消失|en|unconsciousness|redirect=1}}と不完全ながらな[[筋弛緩]]状態を引き起こした<ref name="Chu2004" />。 麻沸散の正確な組成は、華陀の臨床知識のすべてと同様、死の直前に原稿を焼却した際に失われてしまった<ref name="Chen2008">{{Cite journal|author=Chen J|date=August 2008|title=A Brief Biography of Hua Tuo|url=https://acupuncturetoday.com/article/31781-a-brief-biography-of-hua-tuo|journal=Acupuncture Today|volume=9|issue=8|issn=1526-7784}}</ref>。『三国志』にも『後漢書』にも麻酔薬の組成は記されていない。[[儒教]]の教えでは身体は[[神聖]]なものとされ、手術は身体を切り刻む行為と考えられていたため、[[古代中国]]では手術は強く禁じられていた<ref name="Chu2004" />。そのため、華陀が全身麻酔に成功したと伝えられているにもかかわらず、古代中国における外科手術は彼の死とともに終焉を迎えた<ref name="Chu2004" />。 麻沸散という名前は、[[麻]](「大麻、麻、しびれる、うずく」の意)、沸(「[[沸騰]]する、泡立つ」の意)、散(「砕く、散らばる」の意、「粉末状の薬」の意)を組み合わせたものである。従って、麻沸散という言葉からは大麻を含むものと推測されてきたが、これに関しては当時の中国大陸には中枢神経作用のある[[大麻]]が伝来していなかったことから異論もある<ref name=":3">{{Cite journal|和書|author=松木明知|authorlink=松木明知|year=1985|title=麻酔科学史研究最近の知見(23)一 華佗の麻酔法と大麻の分布に関連して一|journal=麻酔|volume=34|pages=375-379}}</ref>。多くの[[中国学者]]や[[中国医学]]の研究者が、華陀の麻沸散の成分を推測しているが、正確な成分はいまだに不明である。彼の処方には、以下の組み合わせが含まれていたと考えられている<ref name="Chu2004" /><ref name="Chen2008" /><ref name="Wang1999">{{Cite book |title=History and Development of Traditional Chinese Medicine |volume=1 |chapter=Well-known medical scientists: Hua Tuo |pages=88–93 |author1=Wang Z |author2=Ping C |editor=Ping C |publisher=Science Press |location=Beijing |year=1999 |isbn=978-7-03-006567-4 |chapter-url=https://books.google.com/books?id=F5qDqKBsrLwC&q=History+and+Development+of+Traditional+Chinese+Medicine |access-date=2010-09-13}}</ref><ref name="Fu2002">{{Cite journal|author=Fu LK|date=August 2002|title=Hua Tuo, the Chinese god of surgery|url=http://grande.nal.usda.gov/ibids/index.php?mode2=detail&therow=708782|journal=Journal of Medical Biography|volume=10|issue=3|pages=160–6|doi=10.1177/096777200201000310|pmid=12114950|s2cid=31655903|access-date=2010-09-13|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20090719234737/http://grande.nal.usda.gov/ibids/index.php?mode2=detail|archive-date=19 July 2009}}</ref>。 * [[ビャクシ|白芷]](ビャクシ) * 草烏([[トリカブト]]) * [[川芎]]({{仮リンク|Ligusticum wallichii|en|Ligusticum wallichii|label=Ligusticum wallichii}}) * [[トウキ|当帰]]({{仮リンク|カラトウキ|en|Angelica sinensis|label=カラトウキ(Angelica sinensis)|redirect=1}}) * [[烏頭]]([[ハナトリカブト]]の[[根茎]]) * [[シロバナヨウシュチョウセンアサガオ]] * {{仮リンク|Mandragora officinarum|en|Mandragora officinarum|label=Mandragora officinarum}}([[マンドレイク]]の一種) * [[ツツジ]]の花 * [[ジャスミン]]の根 また、この薬には[[ハシシ]]<ref name="Giles1897"/>、[[バングー]]<ref name="Giles1948"/>、[[ヤマゴボウ|商陸]]<ref name="Gordon1949" />、[[アヘン]]<ref name="Veith1972">{{Cite book |title=Huang Ti Nei Ching Su Wen: The Yellow Emperor's Classic of Internal Medicine |title-link=Huangdi Neijing |page=[https://archive.org/details/huangtineichings00huan/page/265 265] |translator=Ilza Veith |publisher=University of California Press |location=Berkeley, Los Angeles |year=1972 |isbn=978-0-520-02158-7}}</ref>も含まれていた可能性があると指摘する者もいる。アメリカの中国学者[[ヴィクター・メア]]は、麻沸散は「モルヒネ」に関連する[[インド・ヨーロッパ語学|インド・ヨーロッパ語]]の転写であろうとした<ref name="Mair2000">{{Cite book|和書 |title=The shorter Columbia anthology of traditional Chinese literature |volume=Part III: Prose |chapter=The Biography of Hua-t'o from the History of the Three Kingdoms |pages=441–9 |author=Ch'en S |editor=Mair VH |publisher=Columbia University Press |location=New York |year=2000 |isbn=978-0-231-11998-6 |editor-link=:en:Victor H. Mair |chapter-url=https://books.google.com/books?id=y0Pxz1L9I4EC&pg=PA441 |access-date=2010-09-13}}</ref>。華陀は[[鍼]]による手術時の鎮痛を発見したのであり、麻沸散は彼の麻酔法とは無関係か、あるいは単に補助的なものであったと考える研究者もいる<ref name="Lu2002">{{Cite book |title=Celestial lancets: a history and rationale of acupuncture and moxa |chapter=Acupuncture and major surgery |pages=218–30 |author1=Lu GD |author2=Needham J |publisher=RoutledgeCurzon |location=London |year=2002 |isbn=978-0-7007-1458-2 |chapter-url=https://books.google.com/books?id=0-0tdqBr58cC&q=Celestial+Lancets:+A+History+and+Rationale+of+Acupuncture+and+Moxa |access-date=2010-09-13}}</ref>。多くの医師が歴史的記録に基づいて同じ処方を再現しようと試みているが、華陀のものと同じ臨床効果を達成した医師はいない。いずれにせよ、華陀の処方は大手術には効果がなかったようである<ref name="Mair2000"/><ref name="Wai2004">{{Cite journal|last=Wai|first=FK|year=2004|title=On Hua Tuo's Position in the History of Chinese Medicine|journal=The American Journal of Chinese Medicine|volume=32|issue=2|pages=313–20|doi=10.1142/S0192415X04001965|pmid=15315268}}</ref>。 古代から麻酔薬として用いられてきた他の物質には、[[ビャクシン属|ビャクシン]]や[[コカ]]の抽出物がある<ref name="Carroll">{{Cite book |chapter=Coca: the plant and its use |author=Carroll E. |title=Cocaine: 1977 |editor=Robert C. Petersen |editor2=Richard C. Stillman |year=1997 |publisher=United States Department of Health, Education, and Welfare, Public Health Service, Alcohol, Drug Abuse, and Mental Health Administration |page=35 |df=dmy-all |access-date=2014-11-03 |chapter-url=http://www.documentacion.edex.es/docs/1101PETcoc.pdf#page=44 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20141104080215/http://www.documentacion.edex.es/docs/1101PETcoc.pdf#page=44#page=44 |archive-date=4 November 2014}}</ref><ref name="Peterson">{{Cite book |chapter=History of Cocaine |author=Peterson, RC |title=Cocaine: 1977 |editor=Robert C. Petersen |editor2=Richard C. Stillman |year=1997 |publisher=United States Department of Health, Education, and Welfare, Public Health Service, Alcohol, Drug Abuse, and Mental Health Administration |pages=17–32 |df=dmy-all |chapter-url=http://www.documentacion.edex.es/docs/1101PETcoc.pdf#page=36 |access-date=2010-09-16 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20141104080215/http://www.documentacion.edex.es/docs/1101PETcoc.pdf#page=36#page=36 |archive-date=4 November 2014}}</ref><ref name="Rivera">{{Cite journal|author=Rivera MA|date=December 2005|title=Antiquity of coca-leaf chewing in the south central Andes: a 3,000 year archaeological record of coca-leaf chewing from northern Chile|journal=Journal of Psychoactive Drugs|volume=37|issue=4|pages=455–8|doi=10.1080/02791072.2005.10399820|pmid=16480174|author2=Aufderheide AC|author3=Cartmell LW|author4=Torres CM|author5=Langsjoen O|s2cid=28661721}}</ref>。華佗の学統は途絶えたが、およそ2000年後に同じ東洋の医師、[[華岡青洲]]が麻酔薬を開発し、青洲はそれに華佗の処方と同じ、麻沸散と命名することになる{{Sfn|Maltby|2016|pp=115-116}}。 ==中世・ルネサンス期== [[フェルドウスィー]](940-1020)は[[アッバース朝]]カリフ時代に生きた[[ペルシア]]の[[詩人]]である。彼の[[民族叙事詩]]である『[[シャー・ナーメ]]』の中で、フェルドウスィーはヒロイン、{{仮リンク|ルダバ|en|Rudaba|redirect=1}}に施された[[帝王切開]]を描写している。この手術には、[[ゾロアスター教]]の司祭が用意した特別なワインが麻酔薬として用いられた<ref name="Gordon1949"/>。 1020年頃、[[ペルシア]]の[[イブン・スィーナー]](980-1037)は『''{{仮リンク|医学典範|en|The Canon of Medicine|redirect=1}}''』の中で、外科手術の際に患者の鼻の下に置く、[[芳香剤]]と[[麻薬]]が染み込んだ[[スポンジ]]である「催眠スポンジ」について述べている<ref name="Skinner2008">{{Cite encyclopedia |last=Skinner |first=P |encyclopedia=The Gale Encyclopedia of Alternative Medicine |editor=Laurie J. Fundukian |title=Unani-tibbi |publisher=Gale |location=Farmington Hills, Michigan |edition=3rd |year=2008 |isbn=978-1-4144-4872-5 |url=http://findarticles.com/p/articles/mi_g2603/is_0007/ai_2603000716/ |access-date=2010-09-13}}</ref><ref name="Ajram1992">{{Cite book |title=Miracle of Islamic Science |edition=1 |pages=Appendix B |author=Ajram K |publisher=Knowledge House Publishers |location=Vernon Hills, IL |year=1992 |isbn=978-0-911119-43-5 |url=https://books.google.com/books?id=IcjaAAAAMAAJ&q=%22Miracle+of+Islamic+Science%22 |access-date=2010-09-18}}</ref><ref name="Hunke1969">{{Cite book|和書 |title=Allahs Sonne über dem Abendland: unser arabisches Erbe |edition=2 |pages=279–80 |author=Hunke S |author-link=:en:Sigrid Hunke |publisher=Deutsche Verlags-Anstalt |location=Stuttgart |language=de |year=1960 |isbn=978-3-596-23543-8 |url=https://books.google.com/books?id=wlIuAAAAIAAJ&q=%22Allahs+Sonne+%C3%BCber+dem+Abendland:+unser+arabisches+Erbe%22 |access-date=2010-09-13 |quote=The science of medicine has gained a great and extremely important discovery and that is the use of general anaesthetics for surgical operations, and how unique, efficient, and merciful for those who tried it the Muslim anaesthetic was. It was quite different from the drinks the Indians, Romans and Greeks were forcing their patients to have for relief of pain. There had been some allegations to credit this discovery to an Italian or to an Alexandrian, but the truth is and history proves that, the art of using the anaesthetic sponge is a pure Muslim technique, which was not known before. The sponge used to be dipped and left in a mixture prepared from cannabis, opium, hyoscyamus, and a plant called Zoan.}}</ref>。アヘンは10世紀から13世紀にかけて、小アジアからヨーロッパ各地に伝わった<ref name="Kritikos1967-2">{{Cite journal|year=1967|title=The History of the Poppy and of Opium and Their Expansion in Antiquity in the Eastern Mediterranean Area|journal=Bulletin on Narcotics|volume=19|issue=4|pages=5–10|issn=0007-523X|vauthors=Kritikos PG, Papadaki SP}}</ref>。 イギリスでは西暦1200年から1500年にかけて、{{仮リンク|ドウェール|en|dwale (anaesthetic)|label=ドウェール(dwale)|redirect=1}}と呼ばれる薬が麻酔薬として用いられた<ref name="ncbi.nlm.nih.gov">{{Cite journal |last=Carter |first=Anthony J. |title=Dwale: an anaesthetic from old England |journal=[[ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル|BMJ]] |volume=319 |issue=7225 |date=18 December 1999 |pages=1623–1626 |pmc=1127089 |pmid=10600971 |doi=10.1136/bmj.319.7225.1623}}</ref>。このアルコールベースの混合物には、[[胆汁]]、[[アヘン]]、[[レタス]]、{{仮リンク|ブリオニア|en|bryony|label=ブリオニア(bryony、多年生のつる植物)|redirect=1}}、[[ヒヨス]]、[[ドクニンジン]]、[[酢]]が含まれていた<ref name="ncbi.nlm.nih.gov" />。外科医は、酢と塩を頬骨にこすりつけることで患者を覚醒させた<ref name="ncbi.nlm.nih.gov" />。[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]の『[[ハムレット]]』や[[ジョン・キーツ]]の詩『{{仮リンク|ナイチンゲールへの頌歌|en|Ode to a Nightingale|redirect=1}}』など、多くの文学作品にドウェールの記録が見られる<ref name="ncbi.nlm.nih.gov" />。13世紀には、未熟な[[クワ]]、[[アマ (植物)|亜麻]]、[[マンドレイク|マンドラゴラ]]の葉、[[ツタ]]、[[レタス]]の種子、[[スイバ属|スイバ]]、[[ヒヨス]]の毒汁にスポンジを浸した「睡眠スポンジ」が初めて処方された。処理および/または貯蔵後、スポンジを加熱して蒸気を吸入すると麻酔効果が得られる{{要出典|date=February 2015}}。 後に最初の有効な[[吸入麻酔薬]]として用いられることになる[[ジエチルエーテル]]は、[[錬金術師]]の[[ラモン・リュイ]]が、1275年に発見したとされている<ref name="ncbi.nlm.nih.gov" />。[[パラケルスス]]として知られるアウレオルス・テオフラストス・ボンバストゥス・フォン・ホーエンハイム(1493-1541)は、1525年頃にジエチルエーテルの鎮痛作用を発見した<ref name="Gravenstein1965">{{Cite journal|author=Gravenstein JS|date=November–December 1965|title=Paracelsus and his contributions to anesthesia|journal=Anesthesiology|volume=26|issue=6|pages=805–11|doi=10.1097/00000542-196511000-00016|pmid=5320896|doi-access=free}}</ref>。1540年、[[ヴァレリウス・コルドゥス]]によって初めて合成され、彼はその薬理作用のいくつかに注目した{{要出典|date=September 2010}}。彼はこれをオレウム・デュルチェ・ヴィトリオリ(oleum dulce vitrioli)と呼んだが、これはエタノールと[[硫酸]]の混合物(当時はビトリオール(vitriol)油として知られていた)を蒸留することによって合成されるという事実を反映した名前である。ドイツ生まれの化学者{{仮リンク|アウグスト・ジークムント・フロベニウス|en|August Sigmund Frobenius|label=アウグスト・ジークムント・フロベニウス(August Sigmund Frobenius)}}は1730年、この物質にスピリトゥス・ヴィニ・エーテリウス(Spiritus Vini Æthereus)という名前を付けた<ref name="Frobenius1730">{{Cite journal|last=Frobenius|first=AS|author-link=:en:August Sigmund Frobenius|date=1 January 1729|title=An Account of a Spiritus Vini Æthereus, Together with Several Experiments Tried Therewith|journal=Philosophical Transactions|volume=36|issue=413|pages=283–9|doi=10.1098/rstl.1729.0045|s2cid=186207852}}</ref><ref name="Mortimer1741">{{Cite journal|last1=Mortimer|first1=C|last2=Mortimer|first2=C.|date=1 January 1739|title=Abstracts of the Original Papers Communicated to the Royal Society by Sigismond Augustus Frobenius, M. D. concerning His Spiritus Vini Aethereus: Collected by C. Mortimer, M. D. Secr. R. S|journal=Philosophical Transactions|volume=41|issue=461|pages=864–70|bibcode=1739RSPT...41..864F|doi=10.1098/rstl.1739.0161|doi-access=free}}</ref>。 ==18世紀== [[ファイル:Royal Institution - Humphry Davy.jpg|thumb|left|[[王立研究所]]の講義を描いた[[ジェームズ・ギルレイ]]による風刺漫画。ふいごを持つハンフリー・デービーと右端でそれを見守る[[ベンジャミン・トンプソン]]。]] [[ジョゼフ・プリーストリー|ジョセフ・プリーストリー]](1733~1804)は、[[亜酸化窒素]]、[[一酸化窒素]]、[[アンモニア]]、[[塩化水素]]、そして([[カール・ヴィルヘルム・シェーレ]]、[[アントワーヌ・ラヴォアジエ]]とともに)[[酸素]]を発見したイギリスの数学者である。1775年から、プリーストリーは6巻からなる『''{{仮リンク|異なる種類の気体に関する実験と観察|en|Experiments and Observations on Different Kinds of Air|label=異なる種類の気体に関する実験と観察(Experiments and Observations on Different Kinds of Air)|redirect=1}}''』を出版した<ref name="Priestley1775">{{Cite book|和書 |title=Experiments and Observations on Different Kinds of Air |edition=2 |volume=1 |pages=[https://archive.org/details/experimentsobser01prie/page/108 108]–29, 203–29 |author=Priestley J |author-link=ジョゼフ・プリーストリー |publisher=J. Johnson |location=London |year=1775 |url=https://archive.org/details/experimentsobser01prie |access-date=2010-09-13}}</ref>。これに記述された[[気体]]や他の気体に関する最近の発見は、ヨーロッパの科学界に大きな関心を呼び起こした。[[トーマス・ベドーズ]](1760-1808)はイギリスの[[哲学者]]、医師、医学部教官で、年上の同僚プリーストリー同様、[[バーミンガム]]の[[ルナー・ソサエティ]]のメンバーでもあった。この新しい科学をさらに発展させ、これまで治療不可能と考えられていた病気([[気管支喘息|喘息]]や[[結核]]など)の治療法を提供することを視野に入れ、ベドーズは1798年、{{仮リンク|クリフトン (ブリストル)|en|Clifton, Bristol|label=ブリストルのクリフトン}}にある{{仮リンク|ダウリー・スクエア|en|Dowry Square|redirect=1}}に、吸入ガス療法のための''{{仮リンク|気体研究所|en|Pneumatic Institution|label=気体研究所(Pneumatic Institution)|redirect=1}}''を設立した<ref name="Levere1977">{{Cite journal|last=Levere|first=TH|date=July 1977|title=Dr. Thomas Beddoes and the establishment of his Pneumatic Institution: a tale of three presidents|journal=Notes and Records of the Royal Society|volume=32|issue=1|pages=41–9|doi=10.1098/rsnr.1977.0005|jstor=531764|pmid=11615622|s2cid=27322059}}</ref>。ベドーズは、[[化学者]]であり物理学者でもあった[[ハンフリー・デービー]](1778-1829)を研究所の管理責任者として雇い、[[技術者]]の[[ジェームズ・ワット]](1736-1819)をガスの製造に協力させた。[[エラズマス・ダーウィン]]や[[ジョサイア・ウェッジウッド]]といったルナー・ソサエティの他のメンバーもまた、研究所に積極的に関わっていた。 気体研究所での研究の過程で、デービーは亜酸化窒素に麻酔作用があることを発見した<ref name="Sneader2005">{{Cite book |title=Drug discovery: a history |chapter=Chapter 8: Systematic medicine |pages=78–9 |author=Sneader W |publisher=John Wiley and Sons |location=Chichester, England |year=2005 |isbn=978-0-471-89980-8 |chapter-url=https://books.google.com/books?id=mYQxRY9umjcC&q=Drug+Discovery+history |access-date=2010-09-13}}</ref>。亜酸化窒素のことを「笑気ガス」と呼ぶようになったデービーは、翌年、現在では古典的な論文となった『主に亜酸化窒素または脱[[フロギストン説|フロギストン]]空気とその呼吸に関する化学的・哲学的研究』(Researches, chemical and philosophical–chiefly concerning nitrous oxide or dephlogisticated nitrous air, and its respiration)の中で、自分の研究成果を発表した。デービーは医師ではなかったので、手術中に亜酸化窒素を投与したことはなかった。しかし、彼は亜酸化窒素の鎮痛効果と手術中の痛みを和らげる潜在的な利点を最初に記録した人物である<ref name="Davy1800">{{Cite book|和書 |author=Davy H |author-link=ハンフリー・デービー |title=Researches, chemical and philosophical–chiefly concerning nitrous oxide or dephlogisticated nitrous air, and its respiration |year=1800 |publisher=Biggs and Cottle |location=Bristol |url=https://books.google.com/books?id=jhUAAAAAQAAJ&q=Researches,+chemical+and+philosophical |access-date=2010-09-18}}</ref>。 {{Quote|「亜酸化窒素は、その広範な作用において、肉体的な痛みを破壊することができるようであるので、おそらく、大量に血液が流出することのない外科手術の際に、有利に用いることができるであろう。」}} 近代医学の始まりとともに、医療において麻酔が実用化されるパラダイムを構築する舞台が整った<ref name="Snow2005">{{Cite book |last=Snow |first=Stephanie |title=Operations without pain: the practice and science of anaesthesia in Victorian Britain |publisher=[[シュプリンガー・サイエンス・アンド・ビジネス・メディア|Springer-Verlag]] |date=2005 |isbn=978-0-333-71492-8}}</ref>。 ==19世紀== ===琉球・日本=== [[琉球王国]][[首里]]出身の[[高嶺徳明]]は、1689年に琉球(現在の沖縄)で[[全身麻酔]]を行ったと伝えられている。彼は1690年に[[薩摩藩|薩摩]]の医師たちに、1714年には琉球の医師たちにその知識を伝えた<ref>Arashiro Toshiaki, ''Ryukyu-Okinawa Rekishi Jinbutusuden OkinawaJijishuppan'', 12006. pp. 66–68</ref>。 [[ファイル:HanaokaSeishu.gif|thumb|upright|[[華岡青洲]]、18-19世紀の日本の[[外科医]]]] [[大坂]]の[[華岡青洲]](1760-1835)は[[江戸時代]]の外科医で、[[漢方医学]]の知識と[[蘭学]]で学んだ西洋の外科技術を備えていた。1785年頃から、花岡は華陀の麻沸散に似た薬理作用を持つ処方を再び作り出す探求に乗り出した<ref name="Izuo2004">{{Cite journal|last=Izuo|first=M|date=November 2004|title=Medical history: Seishū Hanaoka and his success in breast cancer surgery under general anesthesia two hundred years ago|journal=Breast Cancer|volume=11|issue=4|pages=319–24|doi=10.1007/BF02968037|pmid=15604985|s2cid=43428862}}</ref>。何年にもわたる研究と実験の末、彼はついに通仙散(別名麻沸散)と名付けた処方を開発した。華陀の処方と同様、この処方は以下の数種類の植物から抽出したエキスで構成されていた<ref name="Ogata1973">{{Cite journal|author=Ogata T|date=November 1973|title=Seishu Hanaoka and his anaesthesiology and surgery|journal=Anaesthesia|volume=28|issue=6|pages=645–52|doi=10.1111/j.1365-2044.1973.tb00549.x|pmid=4586362|s2cid=31352880}}</ref><ref name="Hyodo1992">{{Cite book |title=The Pain Clinic IV: proceedings of the fourth international symposium |chapter=Doctor S. Hanaoka, the world's-first success in providing general anesthesia |pages=3–12 |author=Hyodo M |veditors=Hyodo M, Oyama T, Swerdlow M |publisher=VSP |location=Utrecht, Netherlands |year=1992 |isbn=978-90-6764-147-0 |chapter-url=https://books.google.com/books?id=ljBTn8HBBjcC&q=%22Doctor%20S.%20Hanaoka%2C%20the%20World's-First%20Success%20in%20Providing%20General%20Anesthesia%22&pg=PA3 |access-date=2010-09-13}}</ref><ref name="BLTC">{{Cite web |title=Chosen-asagao and the recipe for Hanaoka's anesthetic 'tsusensan' |author=van D., JH |publisher=BLTC Research |location=Brighton, UK |year=2010 |url=https://www.general-anaesthesia.com/images/chosen-asagao.html |access-date=2010-09-13}}</ref>。 * 白芷 二分 * 草烏 二分 * [[半夏]] 二分 * [[高麗人参]] 二分 * [[テンナンショウ属|天南星]] 一分 * [[チョウセンアサガオ|朝鮮朝顔]] 八分 通仙散の有効成分は、[[スコポラミン]]、[[ヒヨスチアミン]]、[[アトロピン]]、[[アコニチン]]、{{仮リンク|アンゲリコトキシン|en|angelicotoxin}}である。十分な量を摂取すると、通仙散は全身麻酔と[[骨格筋]]の麻痺状態をもたらす<ref name="BLTC" />。花岡の親友であった中川修亭(1773-1850)は、1796年に『麻薬考』という小冊子を書いた。原本は1867年の火事で失われてしまったが、この冊子には華岡の全身麻酔研究の現状が記されていた<ref name="Matsuki1999">{{Cite journal|和書|author=松木明知|author-link=松木明知|year=1999|date=December 1999|title=中川修亭の『麻薬考』の書誌学的研究 4種の写本の検討|url=http://sciencelinks.jp/j-east/article/200004/000020000400A0121859.php|journal=日本医史学雑誌|volume=45|issue=4|pages=585–99|language=ja|issn=0549-3323|pmid=11624281|access-date=2010-09-13|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20120313120037/http://sciencelinks.jp/j-east/article/200004/000020000400A0121859.php|archive-date=13 March 2012}}</ref>。 1804年10月13日、華岡は通仙散を[[全身麻酔薬]]として用いて、藍屋勘という60歳の女性の[[乳癌]]の{{仮リンク|乳房切除|en|mastectomy|label=乳房部分切除|redirect=1}}を行った。これは一般に、全身麻酔で行われた手術の最初の確実な記録と見なされている<ref name="Izuo2004" /><ref name="Hyodo1992" /><ref name="Perrin1979">{{Cite book|和書 |title=Giving up the gun: Japan's reversion to the sword, 1543–1879 |author=Perrin, N |author-link=:en:Noel Perrin |publisher=David R. Godine |location=Boston |year=1979 |page=[https://archive.org/details/givingupgun00noel/page/86 86] |isbn=978-0-87923-773-8 |url=https://archive.org/details/givingupgun00noel |access-date=2010-09-13 |url-access=registration}}</ref><ref name="Matsuki2000">{{Cite journal|author=Matsuki A|date=September 2000|title=New studies on the history of anesthesiology—a new study on Seishū Hanaoka's "Nyugan Ckiken Roku" (a surgical experience with breast cancer)|url=http://www.biomedsearch.com/nih/New-studies-history-anesthesiology-new/11025965.html|journal=Masui|volume=49|issue=9|pages=1038–43|issn=0021-4892|pmid=11025965|access-date=2010-09-13}}</ref><ref>{{Cite web |title=医学・医療の電子コンテンツ配信サービス |url=https://webview.isho.jp/journal/detail/abs/10.11477/mf.1408101987 |website=医書ジェーピー |access-date=2023-12-17 |doi=10.11477/mf.1408101987}}</ref>。華岡はその後も、[[悪性腫瘍]]の切除、[[膀胱結石]]の摘出、四肢の[[切断 (医学)|切断]]など、通仙散を用いた多くの手術を行った。1835年に亡くなるまでに、華岡は150例以上の乳癌手術を行った<ref name="Izuo2004" /><ref name="Matsuki2000" /><ref name="Tominaga1994">{{Cite journal|last=Tominaga|first=T|date=30 December 1994|title=Presidential address: Newly established Japanese breast cancer society and the future|journal=Breast Cancer|volume=1|issue=2|pages=69–78|doi=10.1007/BF02967035|pmid=11091513|s2cid=27050128}}</ref><ref name="Matsuki2002">{{Cite journal|author=Matsuki A|date=March 2002|title=A Study on Seishu Hanaoka's Nyugan Seimei Roku (Scroll of Diseases): A Name List of Breast Cancer Patients|url=http://sciencelinks.jp/j-east/article/200215/000020021502A0339356.php|journal=Nihon Ishigaku Zasshi|volume=48|issue=1|pages=53–65|language=ja|issn=0549-3323|pmid=12152628|access-date=2010-09-13|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20120313120047/http://sciencelinks.jp/j-east/article/200215/000020021502A0339356.php|archive-date=13 March 2012}}</ref>。 ===欧米=== [[ファイル:Colton Gardner Q.jpg|thumb|upright|{{仮リンク|ガードナー・クインシー・コルトン|en|Gardner Quincy Colton|redirect=1}}、19世紀アメリカの[[歯科医師|歯科医]]。 ]] [[ファイル:Wells Horace.jpg|thumb|upright|[[ホーレス・ウェルズ]]、19世紀アメリカの歯科医。[[笑気麻酔|亜酸化窒素による全身麻酔下]]での[[抜歯]]を成功させたが、公開実験には失敗した。 ]] [[ファイル:CrawfordLong.jpg|thumb|upright|[[クロウフォード・ロング]]、19世紀アメリカの医師。エーテル麻酔の実質的先駆者だが、発表が遅れたために、後世の栄誉は[[ウィリアム・T・G・モートン|モートン]]の手に渡った。 ]] [[ファイル:WilliamMorton.jpg|thumb|upright|[[ウィリアム・T・G・モートン]]、19世紀アメリカの歯科医 ]] ドイツの薬剤師、[[フリードリヒ・ゼルチュルナー]](1783~1841)は1804年にアヘンから[[モルヒネ]]を初めて単離した<ref name="Meyer2004">{{Cite web |last=Meyer |first=K |title=Dem Morphin auf der Spur |language=de |work=Pharmazeutischen Zeitung |publisher=GOVI-Verlag |date=2004 |url=http://www.pharmazeutische-zeitung.de/index.php?id=26551 |access-date=2012-06-12}}</ref>。彼はこれをギリシャ神話の夢の神[[モルフェウス]]にちなんでモルフィウムと命名した<ref name="Clay2013">{{cite book |vauthors=Mosher CJ |title=Drugs and Drug Policy: The Control of Consciousness Alteration |date=2013 |publisher=SAGE Publications |isbn=978-1-4833-2188-2 |page=123 |url=https://books.google.com/books?id=2UQXBAAAQBAJ&pg=PA123 |url-status=live |archive-url=https://web.archive.org/web/20170908135509/https://books.google.com/books?id=2UQXBAAAQBAJ&pg=PA123 |archive-date=8 September 2017 |df=dmy-all}}</ref><ref>Sertürner coined the term ''morphium'' in: Sertuerner (1817) [https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=uc1.b4433519;view=1up;seq=74 "Ueber das Morphium, eine neue salzfähige Grundlage, und die Mekonsäure, als Hauptbestandtheile des Opiums"] (On morphine, a new salifiable [i.e., precipitable], fundamental substance, and meconic acid, as principal components of opium), ''Annalen der Physik'', '''55''' : 56–89. It was Gay-Lussac, a French chemist and editor of ''Annales de Chimie et de Physique'', who coined the word ''morphine'' in a French translation of Sertuener's original German article: Sertuener (1817) [https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=nyp.33433062742444;view=1up;seq=29 "Analyse de l'opium: De la morphine et de l'acide méconique, considérés comme parties essentielles de l'opium"] (Analysis of opium: On morphine and on meconic acid, considered as essential constituents of opium), ''Annales de Chimie et de Physique'', 2nd series, '''5''' : 21–42. From p. 22: ''" ... car il a pris pour cette substance, que j'appelle ''morphine'' (''morphium''), ce qui n'en était qu'une combinaison avec ''l'acide de l'opium''."'' ( ... for he [i.e., French chemist and pharmacist Charles Derosne (1780–1846)] took as that substance [i.e., the active ingredient in opium], which I call "morphine" (or ''morphium''), what was only a compound of it with ''acid of opium''.)</ref>。1817年に今日用いられている名称、モルヒネ(morphine)に改名したのは、フランスの[[化学者]]、[[ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサック|ゲイ・リュサック]]である<ref>{{cite journal|author=Sertuerner, F.W.|year=1817|title=De la morphine et de l’acide meconique, consideres comme parties essentielles de l’opium.|url=https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k6568603v/f27|journal=Annales de Chimie et de Physique|volume=5|pages=21–42|lang=fr}}</ref>。 イギリスの医師、{{仮リンク|Henry Hill Hickman|en|Henry Hill Hickman|label=ヘンリー・ヒル・ヒックマン(Henry Hill Hickman)|redirect=1}}(1800-1830)は1820年代に麻酔薬として[[二酸化炭素]]を用いる実験を行った。彼は動物を二酸化炭素で窒息寸前まで効果的に失神させ、その後四肢の一本を切断して、その効果を調べた。1824年、ヒックマンは研究の結果を『仮死状態に関するレター:人体に対する外科手術の有用性を確認する目的で』という[[短報]]にして[[王立協会]]に提出した。これに対して1826年、[[ランセット]](Lancet)誌に 『外科的詐欺』と題する論文が掲載され、彼の研究は無慈悲な批判を受けた。ヒックマンは4年後、30歳で亡くなった。亡くなった当時は評価されなかったが、その後、彼の研究は肯定的に再評価され、現在では英国王立医学会によって彼の名を冠した賞とメダルが創設され、麻酔科学上の貢献者に授与されている<ref>{{Cite web |title=Hickman Medal |url=https://www.woodlibrarymuseum.org/museum/hickman-medal/ |website=Wood Library-Museum of Anesthesiology |access-date=2023-12-11 |language=en-US}}</ref>。 1830年代後半になると、ハンフリー・デービーの実験はアメリカ北東部の学界で広く知られるようになった。放浪する講談師たちは、「エーテル遊び」{{Sfn|松木明知|1998|p=5}}と呼ばれる大衆集会を開き、観衆のある者達にジエチルエーテルや亜酸化窒素を吸入させ、これらの薬剤の精神に作用する特性を実証するとともに、見物人に多くの娯楽を提供した<ref name="Desai2007">{{Cite journal|year=2007|title=The Discovery of Modern Anaesthesia–Contributions of Davy, Clarke, Long, Wells, and Morton|url=https://journals.lww.com/ijaweb/fulltext/2007/51060/the_discovery_of_modern_anaesthesia_contributions.3.aspx|journal=Indian Journal of Anaesthesia|volume=51|issue=6|pages=472–8|issn=0019-5049|vauthors=Desai SP, Desai MS, Pandav CS}}</ref>。このようなイベントに参加し、エーテルがこのように用いられるのを目撃した著名人が4人いる。{{仮リンク|ウィリアム・エドワード・クラーク|en|William Edward Clarkeh}}(1819-1898)、[[クロウフォード・ロング]] (1815-1878)、[[ホーレス・ウェルズ]](1815-1848)、そして [[ウィリアム・T・G・モートン]](1819-1868)である。後年、彼らのある者は、エーテルの麻酔への応用の発明を巡って争うことになり{{Sfn|松木明知|1998|p=|pp=12,16}}、最初にエーテル麻酔を行ったのが誰か、後世にも議論が起こることになる。 1839年、ニューヨーク州ロチェスターの大学に通っていたクラスメートのクラークとモートンは、定期的にエーテル騒ぎに参加していたようだ<ref name="Sims1877">{{Cite journal|author=Sims JM|author-link=:en:J. Marion Sims|year=1877|title=The Discovery of Anaesthesia|journal=Virginia Medical Monthly|volume=4|issue=2|pages=81–100}}</ref><ref name="Lyman1881">{{Cite book |title=Artificial anaesthesia and anaesthetics |chapter=History of anaesthesia |page=6 |author=Lyman HM |year=1881 |publisher=William Wood and Company |location=New York |chapter-url=https://books.google.com/books?id=xNEIAQAAIAAJ&q=Artificial%20anaesthesia%20and%20anaesthetics&pg=PA68 |access-date=2010-09-13}}</ref><ref name="Lyman1886">{{Cite journal|author=Lyman HM|date=September 1886|title=The discovery of anesthesia|url=https://books.google.com/books?id=bkYVAAAAYAAJ&q=%22The%20Discovery%20of%20Anaesthesia%22%20Virginia%20Medical%20Monthly&pg=PA369|journal=Virginia Medical Monthly|volume=13|issue=6|pages=369–92|access-date=2010-09-13}}</ref><ref name="Richmond1950">{{Cite journal|author=Richmond PA|year=1950|title=Was William E. Clarke of Rochester the first American to use ether for surgical anesthesia?|journal=Genesee County Scrapbook of the Rochester Historical Society|volume=1|pages=11–3}}</ref>。1842年1月、{{仮リンク|ロバートラーナー医科大学|en|University of Vermont College of Medicine|label=バークシャー医科大学(現ロバートラーナー医科大学)}}の医学生になっていたクラークが、一女性にエーテルを投与し、その間に抜歯が行われた<ref name="Lyman1881" />。こうして彼は、外科的手技を容易にするために吸入麻酔薬を投与した最初の人物となった。クラークは自分の功績をほとんど評価していなかったようで、この技術を発表することも、それ以上追求することもしなかった。実際、この出来事はクラークの伝記にさえ記されていない<ref name="Stone1898">{{Cite book |title=Biography of Eminent American Physicians and Surgeons |edition=2 |page=89 |author=Stone RF |editor=Stone RF |publisher=CE Hollenbeck |location=Indianapolis |year=1898 |url=https://archive.org/stream/biographyofemine00stonuoft#page/n1/mode/2up |access-date=2010-09-13}}</ref>。 クロウフォード・ロングは、19世紀半ばに{{仮リンク|ジョージア州ジェファーソン市|en|Jefferson, Georgia|redirect=1}}で開業していた医師であり薬剤師であった。1830年代後半、[[ペンシルベニア大学 医学大学院|ペンシルベニア大学医学大学院]]の学生だった彼は、当時流行していたエーテル遊びを観察し、おそらく参加していた。このような集まりでロングは、何人かの参加者に[[たんこぶ]]や[[内出血|あざ]]ができても、その後、彼らが何が起こったのかまったく覚えていないのを観察した。彼は、ジエチルエーテルが亜酸化窒素と同様の薬理効果をもたらすと仮定した。1842年3月30日、彼は、ジェームズ・ヴェナブルという男の首から腫瘍を摘出するために、ジエチルエーテルを吸入させた<ref name="Long1849">{{Cite journal|author=Long CW|author-link=クロウフォード・ロング|date=December 1849|title=An account of the first use of Sulphuric Ether by Inhalation as an Anaesthetic in Surgical Operations|url=http://journals.lww.com/surveyanesthesiology/Citation/1991/12000/An_Account_of_the_First_Use_of_Sulphuric_Ether_by.49.aspx|journal=Southern Medical and Surgical Journal|volume=5|pages=705–13}} reprinted in {{Cite journal|last1=Long|first1=C. W.|date=December 1991|title=An account of the first use of Sulphuric Ether by Inhalation as an Anaesthetic in Surgical Operations|journal=Survey of Anesthesiology|volume=35|issue=6|page=375|doi=10.1097/00132586-199112000-00049}}</ref>。ロングはその後、ヴェナブルから2つ目の腫瘍を摘出したが、その際もエーテル麻酔をかけた。さらに彼は、四肢の切断や[[出産]]のための全身麻酔薬としてエーテルを使用した。しかし、ロングはその経験を1849年まで発表しなかった。その結果、彼自身が受けるべき名誉の多くを失うことになった<ref name="Long1849" />。 1844年12月10日、{{仮リンク|ガードナー・コルトン|en|Gardner Quincy Colton|label=ガードナー・コルトン(Gardner Quincy Colton)|redirect=1}}は[[コネチカット州]][[ハートフォード (コネチカット州)|ハートフォード]]で亜酸化窒素の公開デモンストレーションを行った。参加者の一人が亜酸化窒素の影響下、気づかない間に足に大きな怪我を負った。その日、会場にいたコネチカット州の歯科医ホーレス・ウェルズは、亜酸化窒素のこの明らかな鎮痛効果の重要性をすぐに察知した。翌日、ウェルズはコルトンが投与した亜酸化窒素の影響下で、痛みのない抜歯を受けた。ウェルズはそれから亜酸化窒素を患者に投与するようになり、その後数週間にわたって数回の抜歯を成功させた。 ウィリアム・T・G・モートンも[[ニューイングランド]]の歯科医で、ウェルズの元教え子であり、その時から当時までウェルズの仕事仲間だった。彼はまた、ウィリアム・エドワード・クラークと面識があり、同級生でもあった(2人はニューヨーク州ロチェスターの大学院で一緒だった)。モートンは、著名な外科医{{仮リンク|ジョン・コリンズ・ウォーレン|en|John Collins Warren|label=ジョン・コリンズ・ウォーレン(John Collins Warren)|redirect=1}}と共同で、ウェルズが[[マサチューセッツ総合病院]]で[[笑気麻酔|亜酸化窒素全身麻酔]]下での抜歯技術を実演できるよう手配した。だが、1845年1月20日に行われたこのデモンストレーションは、患者が手術の最中に痛みで泣き叫んだため失敗に終わった<ref name="Wells1847">{{Cite book|和書 |last=Wells |first=H |author-link=ホーレス・ウェルズ |title=A History of the Discovery of the Application of Nitrous Oxide Gas, Ether, and Other Vapors to Surgical Operations |year=1847 |publisher=J. Gaylord Wells |location=Hartford |url=https://archive.org/details/66950830R.nlm.nih.gov |access-date=2010-09-13 |quote=Horace Wells.}}</ref>。 1846年9月30日、モートンは抜歯のため、[[ボストン]]の音楽教師エベン・フロストにジエチルエーテルを投与した。その2週間後、モートンはマサチューセッツ総合病院で、今日{{仮リンク|エーテルドーム|en|Ether Dome|redirect=1}}として知られている場所で、全身麻酔薬としてジエチルエーテルを用いることを初めて公に実証した<ref name="Morton1847">{{Cite book|和書 |first=WTG |last=Morton |author-link=ウィリアム・T・G・モートン |year=1847 |title=Remarks on the Proper Mode of Administering Sulphuric Ether by Inhalation |location=Boston |publisher=Button and Wentworth |oclc=14825070 |url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/books/bookres.fcgi/history/pdf_morton.pdf |access-date=2010-09-13}}</ref>。1846年10月16日、ジョン・コリンズ・ウォーレンは、地元の印刷業者{{仮リンク|エドワード・ギルバート・アボット|en|Edward Gilbert Abbott|label=エドワード・ギルバート・アボット(Edward Gilbert Abbott)|redirect=1}}の首から腫瘍を摘出した。手技が終わると、ウォーレンは 「諸君、これは決してインチキではない 」と言ったと伝えられている。この出来事のニュースは瞬く間に世界中を駆け巡った<ref name="Fenster2001">{{Cite book |last=Fenster |first=JM |title=Ether Day: The Strange Tale of America's Greatest Medical Discovery and the Haunted Men Who Made It |place=New York |publisher=[[ハーパーコリンズ|HarperCollins]] |year=2001 |isbn=978-0-06-019523-6 |url=https://archive.org/details/etherdaystranget00fens}}</ref>。その年の12月には、[[スコットランド]]の外科医[[ロバート・リストン]]が最初の[[切断 (医学)|四肢切断]]手術を行った。モートンはその直後に自分の経験を発表した<ref name="Morton1847" />。その後、ハーバード大学の{{仮リンク|チャールズ・トーマス・ジャクソン|en|Charles Thomas Jackson|label=チャールズ・トーマス・ジャクソン(Charles Thomas Jackson)|redirect=1}}教授(1805-1880)は、モートンが自分のアイデアを盗んだと主張した<ref name="Jackson1861">{{Cite book|和書 |author=Jackson CT |author-link=:en:Charles Thomas Jackson |title=A Manual of Etherization: Containing Directions for the Employment of Ether |year=1861 |publisher=J.B. Mansfield |location=Boston |url=https://books.google.com/books?id=LiEJAAAAIAAJ |access-date=2010-09-13}}</ref>が、モートンはこれに同意せず、生涯にわたる論争が始まった<ref name="Fenster2001" />。長い間、モートンは西半球における全身麻酔の先駆者と信じられていたが、実のところ、彼の実演はクロウフォード・ロングの最初の経験から4年後であった。ロングはその後、当時ジョージア州選出の合衆国上院議員であった{{仮リンク|ウィリアム・クロスビー・ドーソン|en|William Crosby Dawson|label=ウィリアム・クロスビー・ドーソン(William Crosby Dawson)|redirect=1}}(1798-1856)に、[[合衆国上院]]の議場でエーテル麻酔を最初に行ったのは自分であると主張させてくれるよう、請願した<ref name="Northen1910">{{Cite book |title=Men of Mark in Georgia: A Complete and Elaborate History of the State from Its Settlement to the Present Time, Chiefly Told in Biographies and Autobiographies of the Most Eminent Men of Each Period of Georgia's Progress and Development |author=Northen WJ |author2=Graves JT |year=1910 |publisher=A.B. Caldwell |location=Atlanta, Georgia |pages=[https://archive.org/details/menofmarkingeorg02nort/page/131 131]–136 |volume=2 |url=https://archive.org/details/menofmarkingeorg02nort}}</ref>。<gallery> ファイル:Simpson James Young sitting.jpg|イギリスの産科医、[[ジェームズ・シンプソン]] ファイル:Dr. John Snow.jpg|英国の公衆衛生学者・麻酔科医、[[ジョン・スノウ (医師)|ジョン・スノウ]] ファイル:Queen Victoria -Golden Jubilee -3a cropped.JPG|[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]] </gallery>1847年、スコットランドの[[エディンバラ|エジンバラ]]の[[産科医]][[ジェームズ・シンプソン|ジェームス・ヤング・シンプソン]](1811-1870)が、クロロホルムを全身麻酔薬として初めて人間に用いた({{仮リンク|ロバート・モーティマー・グラバー|en|Robert Mortimer Glover|label=ロバート・モーティマー・グラバー(Robert Mortimer Glover)|redirect=1}}は1842年にこの可能性について書いていたが、犬にしか用いていなかった)。その後、ヨーロッパではクロロホルム麻酔の使用が急速に拡大した。クロロホルムは20世紀初頭、米国で麻酔薬としてエーテルに取って代わり始めた。しかし、クロロホルムは、その[[肝毒性]]と[[心毒性]]、特に致命的な[[不整脈]]を引き起こす傾向が明らかになると、またすぐにエーテルに取って代わられた。実際のところは、主要な麻酔ガスとしてクロロホルムを用いるかエーテルを用いるかは、国や地域によって異なっていた。たとえば、イギリスとアメリカ南部はクロロホルムにこだわり、アメリカ北部はエーテルに戻った<ref name="Snow2005" />。[[ジョン・スノウ (医師)|ジョン・スノウ]]はすぐに、エーテルとクロロホルムという新しい麻酔ガスを扱う最も経験豊富な英国人医師となり、事実上、英国初の[[麻酔科医]]となった。入念な臨床記録を通じて、彼はやがてロンドン医学界のエリートたちに、クロロホルム麻酔が出産において正当な位置を占めることを納得させることができた。こうして1853年、[[ヴィクトリア女王]]の侍女たちは、ジョン・スノウを女王の8人目の子供の出産の麻酔に招いた<ref name="Caton2000">{{Cite journal|last1=Caton|first1=D|date=2000|title=John Snow's practice of obstetric anesthesia|journal=Anesthesiology: The Journal of the American Society of Anesthesiologists|volume=92|issue=1|pages=247–52|doi=10.1097/00000542-200001000-00037|pmid=10638922|s2cid=8117674|doi-access=free}}</ref>。エーテルとクロロホルムの麻酔が始まってから20世紀に至るまで、標準的な麻酔薬の[[投与方法]]は[[開放点滴法]]、であった。つまり、マスクを患者の口に当て、その中に布を入れて、患者が自然に呼吸する状態で揮発性の液体をマスクに滴下した。後に安全な気管チューブが開発されると、この方法は変わった<ref name="Brodsky2007">{{Cite journal|last1=Brodsky|first1=J|last2=Lemmens|first2=H|date=2007|title=The history of anesthesia for thoracic surgery|journal=Minerva Anestesiologica|volume=73|issue=10|pages=513–24|pmid=17380101}}</ref>。ロンドンの医療は独特の社会的環境であったため、19世紀末には麻酔が独自の専門分野となったが、英国の他の地域や世界のほとんどの地域では、麻酔は外科医の権限下にあり、外科医はその仕事を下級医師や看護師に任せていた<ref name="Snow2005" />。アメリカで麻酔科が独立部門となるには1936年まで待たねばならなかった<ref name=":0" /> オーストリアの外交官{{仮リンク|Karl von Scherzer|en|Karl von Scherzer|label=カール・フォン・シェルツァー(Karl von Scherzer)|redirect=1}}が[[ペルー]]から十分な量の[[コカ]]の葉を持ち帰った後、1860年に{{仮リンク|Albert Niemann (chemist)|en|Albert Niemann (chemist)|label=アルバート・ニーマン(Albert Niemann)|redirect=1}}が[[コカイン]]を単離し<ref name="Niemann1860">{{Cite journal|last1=Niemann|first1=A|date=1860|title=Uber eine Neue Organische Base in den Cocablättern [thesis]|place=Göttingen|title-link=On a New Organic Base in the Coca Leaves}}</ref>、これが最初の[[局所麻酔薬]]となった<ref name="Wawersik1991">{{Cite journal|last=Wawersik|first=J|date=May–June 1991|title=History of anesthesia in Germany|url=http://www.general-anaesthesia.com/german.htm|journal=Journal of Clinical Anesthesia|volume=3|issue=3|pages=235–244|doi=10.1016/0952-8180(91)90167-L|pmid=1878238|access-date=2010-09-13}}</ref><ref name="Bain1964">{{Cite journal|last1=Bain|first1=JA|last2=Spoerel|first2=WE|date=November 1964|title=Observation on the use of cuffed tracheostomy tubes (with particular reference to the James tube)|journal=Canadian Anaesthetists' Society Journal|volume=11|issue=6|pages=598–608|doi=10.1007/BF03004104|pmid=14232175|doi-access=free}}</ref><ref name="Reutsch2001">{{Cite journal|last1=Reutsch|first1=Y|last2=Boni|first2=T|last3=Borgeat|first3=A|date=2001|title=From cocaine to ropivacaine: the history of local anesthetic drugs|journal=Current Topics in Medicinal Chemistry|volume=1|issue=3|pages=175–182|doi=10.2174/1568026013395335|pmid=11895133}}</ref>。 {{Main|局所麻酔#歴史|脊髄幹麻酔の歴史|神経ブロック#歴史}} 1871年、ドイツの外科医{{仮リンク|フリードリヒ・トレンデレンブルク|en|Friedrich Trendelenburg|label=フリードリヒ・トレンデレンブルク(Friedrich Trendelenburg)|redirect=1}}(1844~1924年)が、全身麻酔を目的とした[[待機的手術|待機的]]気管切開を初めて成功させたという論文を発表した<ref name="Trendelenburg1871">{{Cite journal|last=Trendelenburg|first=F|author-link=|year=1871|title=Beiträge zu den Operationen an den Luftwegen|journal=Archiv für Klinische Chirurgie|volume=12|pages=112–33|language=de|trans-title=Contributions to airways surgery}}</ref><ref name="Hargrave1934">{{Cite journal|last=Hargrave|first=R|date=June 1934|title=Endotracheal Anæsthesia in Surgery of the Head and Neck|journal=[[カナディアン・メディカル・アソシエーション・ジャーナル|Canadian Medical Association Journal]]|volume=30|issue=6|pages=633–7|pmc=403396|pmid=20319535}}</ref>。 1880年には、スコットランドの外科医{{仮リンク|ウィリアム・メイスウェン|en|William Macewen|label=ウィリアム・メイスウェン(William Macewen)|redirect=1}}(1848-1924)が、[[声門浮腫]]のある患者に呼吸を可能にするために、[[気管切開]]の代替として、また[[クロロホルム]]を用いた全身麻酔の際に、気管挿管を用いたことを報告している<ref name="Macewen18800724">{{Cite journal|last=Macewen|first=W|date=July 1880|title=General Observations on the Introduction of Tracheal Tubes by the Mouth, Instead of Performing Tracheotomy or Laryngotomy|journal=British Medical Journal|volume=2|issue=1021|pages=122–4|doi=10.1136/bmj.2.1021.122|pmc=2241154|pmid=20749630}}</ref><ref name="Macewen18800731">{{Cite journal|last=Macewen|first=W|author-link=|date=July 1880|title=Clinical Observations on the Introduction of Tracheal Tubes by the Mouth, Instead of Performing Tracheotomy or Laryngotomy|journal=[[ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル|British Medical Journal]]|volume=2|issue=1022|pages=163–5|doi=10.1136/bmj.2.1022.163|pmc=2241109|pmid=20749636}}</ref><ref name="Macmillan2010">{{Cite journal|last=Macmillan|first=M|date=May 2010|title=William Macewen [1848–1924]|journal=Journal of Neurology|volume=257|issue=5|pages=858–9|doi=10.1007/s00415-010-5524-5|pmid=20306068|doi-access=free}}</ref>。1895年4月23日、ドイツのアルフレッド・キルシュタイン(Alfred Kirstein, 1863-1922)が声帯の[[喉頭展開|直接可視化]](喉頭展開)を初めて報告するまで、それまでの声門と喉頭の観察({{仮リンク|マヌエル・ガルシア|en|Manuel Patricio Rodríguez García|label=マヌエル・ガルシア(Manuel García)|redirect=1}}<ref name="Garcia1855">{{Cite journal|last=García|first=M|author-link=:en:Manuel Patricio Rodríguez García|date=24 May 1855 <!-- date on page 380-->|title=Observations on the Human Voice|url=https://books.google.com/books?id=o6PYNM7RNwkC&pg=PA399|journal=Proceedings of the Royal Society of London|volume=7|issue=60|pages=399–410|bibcode=1854RSPS....7..399G|doi=10.1098/rspl.1854.0094|pmc=5180321|pmid=30163547|access-date=2010-09-13}}</ref>、ヴィルヘルム・ハック(Wilhelm Hack)<ref name="Hack1878-sammlung">{{Cite journal|last=Hack|first=W|year=1878|title=Über die mechanische Behandlung der Larynxstenosen|journal=Sammlung Klinischer Vorträge|volume=152|pages=52–75|language=de|trans-title=On the mechanical treatment of laryngeal stenosis}}</ref><ref name="Hack1878-uber">{{Cite journal|last=Hack|first=W|date=March 1878|title=Über einen fall endolaryngealer exstirpation eines polypen der vorderen commissur während der inspirationspause|url=https://books.google.com/books?id=VkzlAAAAMAAJ&pg=PA135|journal=Berliner Klinische Wochenschrift|pages=135–7|language=de|access-date=2010-09-13}}</ref>、メイスウェンなど)はすべて、鏡を用いた間接観察で行われていた。キルシュタインはこの目的のために改造した食道鏡(オートスコープと命名された)を用いて、ベルリンで最初の直接喉頭展開を行った<ref name="Hirsch1986">{{Cite journal|last1=Hirsch|first1=NP|last2=Smith|first2=GB|last3=Hirsch|first3=PO|date=January 1986|title=Alfred Kirstein. Pioneer of direct laryngoscopy|journal=Anaesthesia|volume=41|issue=1|pages=42–5|doi=10.1111/j.1365-2044.1986.tb12702.x|pmid=3511764|s2cid=12259652|doi-access=free}}</ref>。皇帝[[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ3世]](1831-1888)の死<ref name="Mackenzie1888">{{Cite book|和書 |first=M |last=Mackenzie |author-link= |title=The case of Emperor Frederick III.: full official reports by the German physicians and by Sir Morell Mackenzie |publisher=Edgar S. Werner |location=New York |year=1888 |page=276 |url=https://books.google.com/books?id=G2DTAAAAMAAJ&pg=PA276 |access-date=2010-09-13}}</ref>が、キルシュタインがオートスコープを開発する動機となった可能性があるとされる<ref name="Burkle2004">{{Cite journal|last1=Burkle|first1=CM|last2=Zepeda|first2=FA|last3=Bacon|first3=DR|last4=Rose|first4=SH|date=April 2004|title=A Historical Perspective on Use of the Laryngoscope as a Tool in Anesthesiology|journal=Anesthesiology|volume=100|issue=4|pages=1003–6|doi=10.1097/00000542-200404000-00034|pmid=15087639|s2cid=36279277|doi-access=free}}</ref>。 ==20世紀== [[ファイル:Hermann Emil Fischer c1895.jpg|thumb|upright|[[エミール・フィッシャー|ヘルマン・エミール・フィッシャー]]、ドイツの化学者]] 20世紀には、[[気管切開]]、[[内視鏡]]、[[気管挿管]]といった[[手技]]が、めったに行われないものから、麻酔、[[集中治療医学|集中治療]]、[[救急医療]]、消化器病学、呼吸器病学、[[外科学|外科]]の診療に不可欠な要素へと変貌を遂げた。 1902年、ドイツの化学者、[[エミール・フィッシャー]](Hermann Emil Fischer, 1852-1919)と{{仮リンク|ジョセフ・フォン・メリング|en|Joseph von Mering|label=ジョセフ・フォン・メリング(Joseph von Mering)|redirect=1}}(1849-1908)は、[[バルビツール酸|ジエチルバルビツール酸]]が効果的な[[睡眠薬]]であることを発見した<ref name="Fischer1903">{{Cite journal|author1=Fischer EH|date=March 1903|title=Ueber eine neue Klasse von Schlafmitteln|url=https://books.google.com/books?id=NV0DAAAAYAAJ&q=%22Therapie+der+Gegenwart%22+1903|journal=Die Therapie der Gegenwart|volume=5|pages=97–101|language=de|author2=Mering J|author-link1=Hermann Emil Fischer|access-date=2010-09-13}}</ref>。[[バルビタール]]またはベロナール([[バイエル (企業)|バイエル薬品]]が命名した商品名)とも呼ばれるこの新薬は、商業的に販売された最初の[[バルビツール酸]]となり、1903年から1950年代半ばまで[[不眠症]]の治療薬として用いられた。しかし、この系統の薬剤から、今日でも用いられている短時間作用性麻酔薬[[チオペンタール]]が開発されるのには30年以上待たねばならなかった<ref name="Tabern1935">{{Cite journal|last1=Tabern|first1=DL|last2=Volwiler|first2=EH|date=October 1935|title=Sulfur-containing barbiturate hypnotics|journal=Journal of the American Chemical Society|volume=57|issue=10|pages=1961–3|doi=10.1021/ja01313a062|author-link2=Ernest H. Volwiler}}</ref>。1913年まで、[[口腔外科|口腔]]および[[顎顔面外科]]手術は、[[マスク麻酔|マスク吸入麻酔]]、[[局所麻酔薬]]の粘膜への[[表面麻酔]]、[[直腸麻酔]]、または[[静脈麻酔]]によって行われていた。これらの麻酔法は有効ではあったが、[[気道閉塞|気道の閉塞]]から守ることはできず、[[血液]]や[[粘液]]が[[気管|気管や気管支]]に吸引される危険に患者をさらすものであった。1913年、{{仮リンク|シュバリエ・ジャクソン|en|Chevalier Jackson|label=シュバリエ・ジャクソン(Chevalier Jackson)|redirect=1}}(1865-1958)が、[[気管挿管]]の手段として直接[[喉頭展開]]を行って高い成功率を報告した最初の人物である<ref name="Jackson1913">{{Cite journal|last=Jackson|first=C|year=1913|title=The technique of insertion of intratracheal insufflation tubes|journal=Surgery, Gynecology & Obstetrics|volume=17|pages=507–9}} Reprinted in {{Cite journal|last1=Jackson|first1=Chevalier|date=May 1996|title=The technique of insertion of intratracheal insufflation tubes|journal=Pediatric Anesthesia|volume=6|issue=3|page=230|doi=10.1111/j.1460-9592.1996.tb00434.x|s2cid=72582327}}</ref>。ジャクソンは、キルシュタインが用いた操作者側の光源ではなく、器具の患者側の先端に光源を持つ新しい[[喉頭鏡]]のブレードを導入した<ref name="Zeitels1998">{{Cite journal|last1=Zeitels|first1=S|date=March 1998|title=Chevalier Jackson's contributions to direct laryngoscopy|journal=Journal of Voice|volume=12|issue=1|pages=1–6|doi=10.1016/S0892-1997(98)80069-6|pmid=9619973}}</ref>。この新しいブレードには、[[気管チューブ]]や[[気管支鏡]]を通すスペースを確保するために、操作者がスライドできる部品が組み込まれていた<ref name="Jackson1922">{{Cite book |last=Jackson |first=C |title=A manual of peroral endoscopy and laryngeal surgery |chapter=I: Instrumentarium |publisher=W.B. Saunders |location=Philadelphia |year=1922 |pages=17–52 |chapter-url=http://mybebook.com/download_free_ebook/jackson-chevalier-1865-1958_ebooks/bronchoscopy-and-esophagoscopya-manual-of-peroral-endoscopy-and-laryngeal-surgery/ebook13336.pdf |isbn=978-1-4326-6305-6 |access-date=2010-09-13}}</ref>。 また1913年には、{{仮リンク|ヘンリー・H・ジェインウェイ|en|Henry H. Janeway|label=ヘンリー・H・ジェインウェイ(Henry H. Janeway)|redirect=1}}(1873-1921)が、最近開発した[[喉頭鏡]]を用いて達成した結果を発表した<ref name="Janeway1913">{{Cite journal|last=Janeway|first=HH|date=November 1913|title=Intra-tracheal anesthesia from the standpoint of the nose, throat and oral surgeon with a description of a new instrument for catheterizing the trachea|url=https://zenodo.org/record/1448738|journal=The Laryngoscope|volume=23|issue=11|pages=1082–90|doi=10.1288/00005537-191311000-00009|s2cid=71549386}}</ref>。[[ニューヨーク]]の{{仮リンク|ベルビュー病院|en|Bellevue Hospital Center|label=ベルビュー病院(Bellevue Hospital)|redirect=1}}で開業していた[[麻酔科医]]のジェインウェイは、[[揮発性麻酔薬|揮発性麻酔]]薬を直接気管内に{{仮リンク|送気 (医学)|en|insufflation (medicine)|label=送気}}すれば、[[耳鼻咽喉科学|耳鼻咽喉科]]手術の条件が改善されると考えていた。そこで彼は、[[気管挿管]]専用の喉頭鏡を開発した。ジャクソンの器具と同様、ジェインウェイの装置にも遠位光源が組み込まれていた。しかし、ユニークな点は、ハンドルに[[電池]]が内蔵されていること、挿管中に気管チューブを[[口腔咽頭]]の正中線に維持するためにブレードの中央に切り欠きがあること、チューブを声門に導くためにブレードの先端がわずかにカーブしていることであった。この設計が成功したことで、その後、他の種類の手術にも用いられるようになった。こうしてジェインウェイは、麻酔科診療における直接喉頭展開と気管挿管の普及に貢献した<ref name="Burkle2004" />。<gallery> ファイル:Endotracheal Tube (2).JPG|カフ付き[[気管チューブ]] ファイル:Endotracheal Tube.png|気管チューブ留置のイラスト ファイル:Carlens.jpg|[[ダブルルーメン気管支チューブ]]。主として[[呼吸器外科学|呼吸器外科]]手術に用いられ、手術側の肺を[[換気 (医学)|換気]]せずに手術側と反対側の肺だけを換気できる。 </gallery>1928年、{{仮リンク|アーサー・アーネスト・ゲデル|en|Arthur Ernest Guedel|label=アーサー・アーネスト・ゲデル(Arthur Ernest Guedel)|redirect=1}}は、カフ付き気管内チューブを臨床に導入した。このチューブは、[[自発呼吸]]を完全に抑制する深い麻酔を可能にする一方、麻酔科医が制御する[[陽圧換気]]によって麻酔ガスと酸素を患者に供給するものであった<ref name="Guedel928">{{Cite journal|last1=Guedel|first1=A|last2=Waters|first2=R|date=1928|title=A new intratracheal catheter|journal=Anesthesia and Analgesia|volume=7|issue=4|pages=238–239|doi=10.1213/00000539-192801000-00089}}</ref>。わずか3年後、ジョセフ・W・ゲイル(Joseph W. Gale)が、麻酔科医が一度に片方の肺だけを人工呼吸できる技術、すなわち[[分離肺換気]]を開発した<ref name="Gale1932">{{Cite journal|last1=Gale|first1=J|last2=Waters|first2=R|date=1932|title=Closed endobronchial anesthesia in thoracic surgery: preliminary report|journal=Anesthesia and Analgesia|volume=11|issue=6|pages=283–288|doi=10.1213/00000539-193201000-00049}}</ref>。これによって、それまで胸郭が大気に開放されているために胸腔内の陰圧が失われ、患者の呼気によって手術最中の肺が膨らんでしまう{{仮リンク|ペンデルフト現象|en|Pendelluft|label=ペンデルフト(Pendelluft)現象|redirect=1}}に悩まされていた胸部外科手術が発展することになった<ref name="Greenblatt2014">{{Cite journal|last1=Greenblatt|first1=E|last2=Butler|first2=J|last3=Venegas|first3=J|last4=Winkler|first4=T|date=2014|title=Pendelluft in the bronchial tree|journal=American Journal of Physiology. Heart and Circulatory Physiology|volume=117|issue=9|pages=979–988|doi=10.1152/japplphysiol.00466.2014|pmc=4217048|pmid=25170072}}</ref>。やがて1980年代初頭には、透明プラスチック製の[[ダブルルーメンチューブ]]が登場した。フレキシブルな光ファイバー[[気管支鏡]]を用いてこのチューブを適切な位置に留置し、麻酔科医が片方の肺を選択的に換気しながら、手術する側の肺の気管支を遮断し、安静[[術野]]の提供が可能となった<ref name="Brodsky2007" />。現代麻酔科学に不可欠なのは[[麻酔器]]である。初期の装置のひとつであるカッパーケテルは、ウィスコンシン大学のルシアン・E・モリス(Lucien E. Morris)によって開発された<ref name="Morris1952">{{Cite journal|last1=Morris|first1=L|date=1952|title=A new vaporizer for liquid anesthetic agents|journal=Anesthesiology: The Journal of the American Society of Anesthesiologists|volume=13|issue=6|pages=587–593|doi=10.1097/00000542-195211000-00003|pmid=12986220|s2cid=26847436}}</ref><ref name="Morris2006">{{Cite journal|last1=Morris|first1=L|date=2006|title=Copper kettle revisited|journal=Anesthesiology: The Journal of the American Society of Anesthesiologists|volume=104|issue=4|pages=881–884|doi=10.1097/00000542-200604000-00034|pmid=16571985|s2cid=72593495|doi-access=free}}</ref>。 [[ファイル:Sodium thiopental.svg|サムネイル|[[チオペンタールナトリウム]]の[[構造式]]。]] 最初の[[静脈麻酔薬]]である[[チオペンタールナトリウム]]は、[[アボット・ラボラトリーズ]]の{{仮リンク|アーネスト・ボルワイラー|en|Ernest H. Volwiler|label=アーネスト・ボルワイラー(Ernest H. Volwiler)|redirect=1}}(1893-1992)とドナリー・L・タバーン([[Donalee L. Tabern]], 1900-1974)によって1934年に合成された<ref name="Tabern1935" />。この薬は1934年3月8日、{{仮リンク|ラルフ・M・ウォーターズ|en|Ralph M. Waters|label=ラルフ・M・ウォーターズ(Ralph M. Waters)|redirect=1}}がその特性を調査するために初めてヒトに用いたが、その特性は短時間の麻酔作用であり、鎮痛作用は驚くほど少なかった。その3ヵ月後、{{仮リンク|ジョン・サイラス・ランディ|en|John Silas Lundy|label=ジョン・サイラス・ランディ(John Silas Lundy)}}がアボットラボラトリーズの依頼を受け、[[メイヨー・クリニック|メイヨークリニック]]でチオペンタールの臨床試験を開始した。ヴォルワイラーとタバーンはチオペンタールの発見により、1939年に米国特許第2,153,729号を取得し、1986年に[[全米発明家殿堂]]に名を連ねた。 1939年、[[アトロピン]]の代用となる合成薬の探索は、偶然にもモルヒネとは全く異なる構造を持つ最初のオピオイドである[[メペリジン]]の発見へと結実した<ref name="Eisleb1939">Eisleb, 0. & Schaumann, 0. (1939) ''Deutsche Medizinische Wochenschrift'' '''65''', 967–968.</ref>。続いて1947年には、モルヒネと薬理学的特性が類似するものの、構造的に無関係な化合物である[[メサドン]]が広く用いられるようになった<ref name="Scott1946">{{Cite journal|author=Scott C. C., Chen K. K.|year=1946|title=The action of 1,1-diphenyl-1 (Dimethylaminoisopropyl) butanone-2, a potent analgesic agent|journal=Journal of Pharmacology and Experimental Therapeutics|volume=87|pages=63–71|pmid=20986681}}</ref>。 [[ファイル:Magill forceps open.jpg|サムネイル|[[マギル鉗子]]]] [[第一次世界大戦]]後、[[気管内麻酔法]]の分野でさらなる進歩があった。中でも{{仮リンク|イヴァン・マギル|en|Ivan Magill|label=イヴァン・マギル(Ivan Magill)|redirect=1}}(1888-1986)の功績は大きかった。イギリスの{{仮リンク|シドカップ|en|Sidcup|label=シドカップ(Sidcup)|redirect=1}}の{{仮リンク|フロッグナルハウス|en|Frognal House|label=顔面・顎外傷専門のクイーンズ病院(Queen's Hospital for Facial and Jaw Injuries)|redirect=1}}で、[[形成外科学|形成外科医]]の{{仮リンク|ハロルド・ギリーズ|en|Harold Gillies|label=ハロルド・ギリーズ(Harold Gillies)|redirect=1}}(1882-1960)、麻酔医のE.スタンレー・ロウボサム(E. Stanley Rowbotham、1890-1979)と共に働いていたマギルは、意識下盲目的盲経鼻気管挿管の[[手技]]を開発した<ref name="Rowbotham1921">{{Cite journal|last1=Rowbotham|first1=ES|last2=Magill|first2=I|year=1921|title=Anæsthetics in the Plastic Surgery of the Face and Jaws|journal=Proceedings of the Royal Society of Medicine|volume=14|issue=Sect Anaesth|pages=17–27|doi=10.1177/003591572101401402|pmc=2152821|pmid=19981941}}</ref><ref name="Magill1923-provision">{{Cite journal|last=Magill|first=I|author-link=:en:Ivan Magill|date=14 July 1923|title=The provision for expiration in endotracheal insufflations anaesthesia|journal=[[ランセット|The Lancet]]|volume=202|issue=5211|pages=68–9|doi=10.1016/S0140-6736(01)37756-5}}</ref><ref name="Magill1928">{{Cite journal|last=Magill|first=I|date=December 1928|title=Endotracheal Anæsthesia|journal=Proceedings of the Royal Society of Medicine|volume=22|issue=2|pages=85–8|pmc=2101959|pmid=19986772}}</ref><ref name="Magill1930">{{Cite journal|last=Magill|first=I|date=November 1930|title=Technique in Endotracheal Anaesthesia|journal=British Medical Journal|volume=2|issue=1243|pages=817–9|doi=10.1136/bmj.2.1243.817-a|pmc=2451624|pmid=20775829}}</ref><ref name="Thomas1978">{{Cite journal|last=Thomas|first=KB|date=July–August 1978|title=Sir Ivan Whiteside Magill, KCVO, DSc, MB, BCh, BAO, FRCS, FFARCS (Hon), FFARCSI (Hon), DA. A review of his publications and other references to his life and work|journal=Anaesthesia|volume=33|issue=7|pages=628–34|doi=10.1111/j.1365-2044.1978.tb08426.x|pmid=356665|s2cid=28730699|doi-access=free}}</ref><ref name="Mclachlan2008">{{Cite journal|last=McLachlan|first=G|date=September 2008|title=Sir Ivan Magill KCVO, DSc, MB, BCh, BAO, FRCS, FFARCS (Hon), FFARCSI (Hon), DA, (1888–1986)|journal=Ulster Medical Journal|volume=77|issue=3|pages=146–52|pmc=2604469|pmid=18956794}}</ref>。マギルは、角度のついた新型の[[鉗子]]({{仮リンク|マギル鉗子|en|Magill forceps|redirect=1}})も考案した<ref name="Magill1920">{{Cite journal|last=Magill|first=I|date=October 1920|title=Appliances and Preparations|journal=British Medical Journal|volume=2|issue=3122|page=670|doi=10.1136/bmj.2.571.670|pmc=2338485|pmid=20770050}}</ref>。これは、マギルが報告した当初の手技とほとんど変わらない方法で、経鼻気管挿管を容易にするために現在も用いられている<ref name="Magill1920" />。マギルが発明したその他の器具には、マギル喉頭鏡のブレード<ref name="Magill1926">{{Cite journal|last=Magill|first=I|date=6 March 1926|title=An improved laryngoscope for anaesthetists|journal=The Lancet|volume=207|issue=5349|page=500|doi=10.1016/S0140-6736(01)17109-6}}</ref>や、揮発性麻酔薬を投与するためのいくつかの器具がある<ref name="Magill1921-portable">{{Cite journal|last=Magill|first=I|date=30 April 1921|title=A Portable Apparatus for Tracheal Insufflation Anaesthesia|journal=The Lancet|volume=197|issue=5096|page=918|doi=10.1016/S0140-6736(00)55592-5}}</ref><ref name="Magill1921-warming">{{Cite journal|last=Magill|first=I|date=11 June 1921|title=Warming Ether Vapour for Inhalation|url=https://zenodo.org/record/2511612|journal=The Lancet|volume=197|issue=5102|page=1270|doi=10.1016/S0140-6736(01)24908-3}}</ref><ref name="Magill1923-apparatus">{{Cite journal|last=Magill|first=I|date=4 August 1923|title=An apparatus for the administration of nitrous oxide, oxygen, and ether|journal=The Lancet|volume=202|issue=5214|page=228|doi=10.1016/S0140-6736(01)22460-X}}</ref>。気管チューブの弯曲(Magill curve)もマギルにちなんで命名されたものである。 最初の病院内の麻酔科は、{{仮リンク|ヘンリー・ビーチャー|en|Henry K. Beecher|label=ヘンリー・ビーチャー(Henry Beecher)|redirect=1}}(1904–1976)の指導の下、1936年に[[マサチューセッツ総合病院]]に設立された。しかし、外科で訓練を受けたビーチャーに麻酔の経験はなかった<ref name=":0">{{Cite journal |last1=Gravenstein |first1=Joachim |title=Henry K. Beecher: The Introduction of Anesthesia into the University |journal=Anesthesiology |volume=88 |issue=1 |date=January 1998 |pages=245–253 |pmid=9447878 |s2cid=5944101 |doi=10.1097/00000542-199801000-00033 |url=https://pubs.asahq.org/anesthesiology/article/88/1/245/36479/Henry-K-Beecher-The-Introduction-of-Anesthesia|doi-access=free }}</ref>。 [[筋弛緩剤]][[クラーレ]]は当初、精神疾患への[[電気けいれん療法]]に伴う[[合併症]]の[[痙攣]]を軽減するために用いられたが、1940年代にE.M.パッパー( E.M. Papper)とスチュアート・カレン(Stuart Cullen)がスクイブ社([[ブリストル・マイヤーズ スクイブ|ブリストル・マイヤーズ・スクイブ]]社の前身)製の製剤を用いてニューヨークの{{仮リンク|ベルビュー病院|en|Bellevue Hospital|redirect=1}}の[[手術室]]で用いるようになった<ref name="Betcher1977">{{Cite journal|last1=Betcher|first1=A|date=1977|title=The civilizing of curare: a history of its development and introduction into anesthesiology|journal=Anesthesia & Analgesia|volume=56|issue=2|pages=305–319|doi=10.1213/00000539-197703000-00032|pmid=322548|doi-access=free}}</ref>。この[[神経筋遮断薬]]によって[[横隔膜]]の完全麻痺が可能となり、[[陽圧換気]]による[[人工呼吸器]]による調節呼吸が可能となった<ref name="Brodsky2007" />。陽圧換気が一般的に使われるようになったのは、1950年代の[[急性灰白髄炎|ポリオ]]の流行がきっかけであり、特にデンマークでは1952年に[[アウトブレイク|大流行]]し、麻酔科学から[[集中治療医学]]が誕生する契機となった。当初、麻酔科医は必要な場合を除き、人工呼吸器を手術室に持ち込むことをためらっており、1960年代までは標準的な手術室設備にはならなかった<ref name="Brodsky2007" />。 {{Seealso|人工呼吸#歴史|人工呼吸器#歴史}}<gallery> ファイル:Macintosh cropped.jpg|イギリスの[[麻酔科学|麻酔科学者]]ロバート・マッキントッシュ。夫人と共に。 ファイル:Macintosh Blades.jpg|マッキントッシュ型[[喉頭鏡]]とそのブレード </gallery> {{仮リンク|ロバート・マッキントッシュ|en|Robert Macintosh|label=ロバート・マッキントッシュ(Robert Macintosh)|redirect=1}}(1897-1989)は、1943年に新しい曲型[[喉頭鏡]]のブレードを発表し、気管挿管の技術を大きく進歩させた<ref name="Macintosh1943">{{Cite journal|last=Macintosh|first=RR|author-link=|date=13 February 1943|title=A new laryngoscope|journal=The Lancet|volume=241|issue=6233|page=205|doi=10.1016/S0140-6736(00)89390-3}}</ref>。マッキントッシュ型ブレードは、今日でも気管挿管に最も広く用いられている喉頭鏡のブレードである<ref name="Scott2009">{{Cite journal|last1=Scott|first1=J|last2=Baker|first2=PA|date=July 2009|title=How did the Macintosh laryngoscope become so popular?|journal=Pediatric Anesthesia|volume=19|issue=Suppl 1|pages=24–9|doi=10.1111/j.1460-9592.2009.03026.x|pmid=19572841|s2cid=6345531|doi-access=free}}</ref>。1949年、マッキントッシュは気管内挿管を容易にするため、[[天然ゴム]]製の[[尿道カテーテル]]を気管挿管時のガイド([[イントロデューサー]])として用いた症例報告を発表した(ガムエラスティックブジーの原型)<ref name="Macintosh1949">{{Cite journal|last=Macintosh|first=RR|date=1 January 1949|title=Marxist Genetics|journal=British Medical Journal|volume=1|issue=4591|pages=26–28|doi=10.1136/bmj.1.4591.26-b|pmc=2049235}}</ref>。マッキントッシュの報告に触発されたヘックス・ヴェン(P. Hex Venn)が、このコンセプトに基づく気管チューブイントロデューサーの開発に着手した。ヴェンのデザインは1973年3月に採用され、Eschmann気管チューブイントロデューサーとして後に知られるようになったものが、その年の後半に生産が開始された<ref name="Venn1993">{{Cite journal|last=Venn|first=PH|date=March 1993|title=The gum elastic bougie|journal=Anaesthesia|volume=48|issue=3|pages=274–5|doi=10.1111/j.1365-2044.1993.tb06936.X|s2cid=56666422|doi-access=free}}</ref>。ヴェンの設計の素材は、[[ポリエステル]]糸で織られたチューブの芯と外側の[[天然樹脂]]層の2層になっている点で、[[ガムエラスティックブジー]]とは異なっていた。これにより、剛性は増したが、柔軟性と気管チューブを操作するための滑らかな表面は維持された。その他の違いとしては、長さ(新型イントロデューサーは60cmで、ガムエラスティックブジーよりはるかに長い)と、先端が35度湾曲しており、口腔・咽頭内の障害物を避けて使用できることが挙げられる<ref name="Viswanathan1992">{{Cite journal|last1=Viswanathan|first1=S|last2=Campbell|first2=C|last3=Wood|first3=DG|last4=Riopelle|first4=JM|last5=Naraghi|first5=M|date=November–December 1992|title=The Eschmann Tracheal Tube Introducer. (Gum elastic bougie)|journal=Anesthesiology Review|volume=19|issue=6|pages=29–34|pmid=10148170}}</ref><ref name="Henderson2003">{{Cite journal|last=Henderson|first=JJ|date=January 2003|title=Development of the 'gum-elastic bougie'|journal=Anaesthesia|volume=58|issue=1|pages=103–4|doi=10.1046/j.1365-2044.2003.296828.x|pmid=12492697|s2cid=34113322|doi-access=free}}</ref>。 <gallery> ファイル:Diethyl ether.svg|ジエチルエーテル ファイル:Cyclopropane Structural Formula V1.svg|[[シクロプロパン]] ファイル:Halothane.svg|[[ハロタン]] ファイル:Methoxyflurane.svg|[[メトキシフルラン]] ファイル:Enflurane.svg|[[エンフルラン]] ファイル:Isoflurane.svg|[[イソフルラン]] ファイル:Sevoflurane.svg|セボフルラン ファイル:(RS)-Desfluran Structural Formula V1.svg|[[デスフルラン]] </gallery> 100年以上の間、[[吸入麻酔薬]]の主流は1930年代に導入された[[シクロプロパン]]とエーテルのままであった。これらはいずれも引火しやすかった。1956年には、引火性がないという大きな利点を持つ[[ハロタン]]が導入された<ref name="Raventos1956">{{Cite journal|last1=Raventos|first1=J|last2=Goodall|first2=R|date=1956|title=The Action of Fluothane-A New Volatile Anaesthetic|journal=British Journal of Pharmacology and Chemotherapy|volume=11|issue=4|pages=394–410|doi=10.1111/j.1476-5381.1956.tb00007.x|pmc=1510559|pmid=13383118}}</ref>。これにより、手術室[[火災]]のリスクが減少した。1960年代には、まれにではあるが、ハロタンに不整脈や肝毒性といった重大な副作用が出たため、{{仮リンク|ハロゲン化エーテル|en|halogenated ether|redirect=1}}がハロタンに取って代わった。最初の2種類のハロゲン化エーテルは[[メトキシフルラン]]と[[エンフルラン]]であった。これらは更に1980年代から1990年代にかけて、現在の標準である[[イソフルラン]]、[[セボフルラン]]、[[デスフルラン]]に取って代わられたが、オーストラリアではメトキシフルランがペンスロックス(Penthrox)として病院前麻酔に用いられている。 ハロタンは、発展途上国の多くで依然用いられている<ref>{{Cite journal|last=Mahboobi|first=N.|last2=Esmaeili|first2=S.|last3=Safari|first3=S.|last4=Habibollahi|first4=P.|last5=Dabbagh|first5=A.|last6=Alavian|first6=S. M.|date=2012-02|title=Halothane: how should it be used in a developing country?|url=https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/22571093/|journal=Eastern Mediterranean Health Journal = La Revue De Sante De La Mediterranee Orientale = Al-Majallah Al-Sihhiyah Li-Sharq Al-Mutawassit|volume=18|issue=2|pages=159–164|doi=10.26719/2012.18.2.159|issn=1020-3397|pmid=22571093}}</ref>。<gallery> ファイル:Beerse Statue Paul Janssen 070225 (cropped).JPG|ベルギーにある[[ポール・ヤンセン]]の像 ファイル:Haloperidol.svg|ハロペリドール ファイル:Droperidol.svg|ドロペリドール ファイル:Fentanyl.svg|フェンタニル ファイル:Etomidate skeletal.svg|エトミデート ファイル:Bronchoskopie Bronchoalveoläre Lavage.jpg|[[気管支鏡|ファイバー気管支鏡]]を操作する医師 </gallery>20世紀後半には、多くの新しい[[静脈麻酔薬]]や[[オピオイド]]が開発され、臨床で用いられるようになった。[[ヤンセン ファーマ|ヤンセンファーマ]]の創設者である{{仮リンク|ポール・ヤンセン|en|Paul Janssen|label=ポール・ヤンセン(Paul Janssen)|redirect=1}}(1926-2003)は、80種類以上の医薬化合物を開発したことで知られている<ref name="Stanley2008">{{Cite journal|last1=Stanley|first1=TH|last2=Egan|first2=TD|last3=Van Aken|first3=H|date=February 2008|title=A Tribute to Dr. Paul A. J. Janssen: Entrepreneur Extraordinaire, Innovative Scientist, and Significant Contributor to Anesthesiology|journal=Anesthesia & Analgesia|volume=106|issue=2|pages=451–62|doi=10.1213/ane.0b013e3181605add|pmid=18227300|s2cid=20490363|doi-access=free}}</ref>。ヤンセンは[[ハロペリドール]](1958年)と[[ドロペリドール]](1961年)<ref name="Janssen1963d">{{Cite journal|last1=Janssen|first1=PA|last2=Niemegeers|first2=CJ|last3=Schellekens|first3=KH|last4=Verbruggen|first4=FJ|last5=Van Nueten|first5=JM|date=March 1963|title=The pharmacology of dehydrobenzperidol, a new potent and short acting neuroleptic agent chemically related to Haloperidol|journal=Arzneimittel-Forschung|volume=13|pages=205–11|pmid=13957425}}</ref>に始まる[[ブチロフェノン]]系の[[抗精神病薬]]のほとんどすべてを合成した。これらの抗精神病薬は急速に麻酔の実践に組み込まれた<ref name="Castro1959">{{Cite journal|year=1959|title=Anesthésie sans barbituriques: la neuroleptanalgésie|journal=Anesthésie, Analgésie, Réanimation|volume=16|pages=1022–56|language=fr|issn=0003-3014|vauthors=de Castro J, Mundeleer P}}</ref><ref name="Nilsson1961">{{Cite journal|year=1961|title=Neurolept-analgesia: an alternative to general anesthesia|journal=Acta Anaesthesiologica Scandinavica|volume=5|issue=2|pages=73–84|doi=10.1111/j.1399-6576.1961.tb00085.x|issn=0001-5172|pmid=13729171|vauthors=Nilsson E, Janssen PA|s2cid=44479255}}</ref><ref name="Aubry1966">{{Cite journal|last1=Aubry|first1=U|last2=Carignan|first2=G|last3=Chare-Tee|first3=D|last4=Keeri-Szanto|first4=M|last5=Lavallee|first5=JP|date=May 1966|title=Neuroleptanalgesia with fentanyl-droperidol: An appreciation based on more than 1000 anaesthetics for major surgery|journal=Canadian Anaesthetists' Society Journal|volume=13|issue=3|pages=263–71|doi=10.1007/BF03003549|pmid=5961929|doi-access=free}}</ref><ref name="Corrsen1966">{{Cite journal|last1=Corssen|first1=G|last2=Domino|first2=EF|last3=Sweet|first3=RB|date=November–December 1964|title=Neuroleptanalgesia and Anesthesia|journal=Anesthesia & Analgesia|volume=43|issue=6|pages=748–63|doi=10.1213/00000539-196411000-00028|pmid=14230731|s2cid=30419023|doi-access=free}}</ref><ref name="Reyes1969">{{Cite journal|date=September 1969|title=Neuroleptanalgesia and anesthesia: Experiences in 60 poor risk geriatric patients|journal=South Dakota Journal of Medicine|volume=22|issue=9|pages=31–3|pmid=5259472|vauthors=Reyes JC, Wier GT, Moss NH, Romero JB, Hill R}}</ref>。 {{Main|神経遮断麻酔}} 1960年、ヤンセンの研究チームは、{{仮リンク|N-フェネチル-4-ピペリジノン|en|N-Phenethyl-4-piperidinone|label=ピペリジノン(piperidinone)|redirect=1}}誘導体の最初のオピオイドである[[フェンタニル]]を合成した<ref name="Janssen1960f">{{Cite journal|last1=J.|first1=PA|last2=Eddy|first2=NB|date=February 1960|title=Compounds Related to Pethidine--IV. New General Chemical Methods of Increasing the Analgesic Activity of Pethidine|journal=Journal of Medicinal Chemistry|volume=2|issue=1|pages=31–45|doi=10.1021/jm50008a003|pmid=14406754}}</ref><ref name="Janssen1963f">{{Cite journal|last1=Janssen|first1=PA|last2=Niemegeers|first2=CJ|last3=Dony|first3=JG|year=1963|title=The inhibitory effect of fentanyl and other morphine-like analgesics on the warm water induced tail withdrawal reflex in rats|url=http://garfield.library.upenn.edu/classics1991/A1991GA09000001.pdf|journal=Arzneimittel-Forschung|volume=13|pages=502–7|pmid=13957426}}</ref>。フェンタニルに続いて、{{仮リンク|スフェンタニル|en|sufentanil|redirect=1}}(1974年)<ref name="Niemegeers1976">{{Cite journal|last1=Niemegeers|first1=CJ|last2=Schellekens|first2=KH|last3=Van Bever|first3=WF|last4=Janssen|first4=PA|year=1976|title=Sufentanil, a very potent and extremely safe intravenous morphine-like compound in mice, rats and 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Record|volume=103|issue=4|pages=64–8|doi=10.1136/vr.103.4.64|pmid=685103|s2cid=36314586}}</ref>、{{仮リンク|ロフェンタニル|en|lofentanil|redirect=1}}(1980年)<ref name="Laduron1982">{{Cite journal|last1=Laduron|first1=P|last2=Janssen|first2=PF|date=August 1982|title=Axoplasmic transport and possible recycling of opiate receptors labelled with 3H-lofentanil|journal=Life Sciences|volume=31|issue=5|pages=457–62|doi=10.1016/0024-3205(82)90331-9|pmid=6182434}}</ref>が開発された。ヤンセンらのチームは、強力な静脈麻酔薬である[[エトミデート]](1964年)も開発した<ref name="Morgan1975">{{Cite journal|last1=Morgan|first1=M|last2=Lumley|first2=Jean|last3=Whitwam|first3=J.G.|date=26 April 1975|title=Etomidate, a New Water-Soluble Non-barbiturate Intravenous Induction Agent|journal=The Lancet|volume=305|issue=7913|pages=955–6|doi=10.1016/S0140-6736(75)92011-5|pmid=48126|s2cid=205992130}}</ref>。 気管挿管に[[ファイバースコープ|ファイバー内視鏡]]を用いるというコンセプトは、1967年にイギリスの麻酔科医ピーター・マーフィー(Peter Murphy)によって導入された<ref name="Murphy1967">{{Cite journal|last=Murphy|first=P|date=July 1967|title=A fibre-optic endoscope used for nasal intubation|journal={{仮リンク|Anaesthesia|en|Anaesthesia (journal)|label=Anaesthesia}}|volume=22|issue=3|pages=489–91|doi=10.1111/j.1365-2044.1967.tb02771.x|pmid=4951601|s2cid=33586314|doi-access=free}}</ref>。1980年代半ばまでに、軟性のファイバー気管支鏡は、[[呼吸器科]]や麻酔科の分野では欠くことのできない器械となった<ref name="Doenicke1973">{{Cite journal|date=August 1973|title=[Cerebral function under etomidate, a new non-barbiturate i.v. hypnotic]|url=http://tematicas.es/salud/articulo/hirnfunktion-und-toleranzbreite-nach-etomidate-einem-neuen-barbituratfreien-i-v-applizierbaren-hypnoticum/|journal=Der Anaesthesist|volume=22|issue=8|pages=353–66|language=de|issn=0003-2417|pmid=4584133|vauthors=Doenicke A, Kugler J, Penzel G, Laub M, Kalmar L, Kilian I, Bezecny H|access-date=2010-09-27|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20110720143625/http://tematicas.es/salud/articulo/hirnfunktion-und-toleranzbreite-nach-etomidate-einem-neuen-barbituratfreien-i-v-applizierbaren-hypnoticum/|archive-date=20 July 2011}}</ref><ref name="Wheeler2007">{{Cite book |editor-last=Benumof |editor-first=JL |author=Wheeler M and Ovassapian A |title=Benumof's Airway Management: Principles and Practice |chapter=Chapter 18: Fiberoptic endoscopy-aided technique |page=423 |publisher=Mosby-Elsevier |location=Philadelphia |edition=2nd |year=2007 |isbn=978-0-323-02233-0 |chapter-url=https://books.google.com/books?id=uUVYjVUexKUC |access-date=2010-09-13}}</ref>。 ==21世紀== [[ファイル:Maquet Flow-I anesthesia machine.jpg|thumb|upright|現代の[[麻酔器]]。この麻酔器は{{仮リンク|マッケ|en|Maquet|label=マッケ(Maquet)社}}の "Flow-I "モデル。]] 21世紀の[[情報化時代]]において、[[気管挿管]]の技術と理論は進歩した。[[CMOS]]アクティブ・ピクセル・センサ(APS)などの[[デジタル技術]]を採用した[[ビデオ喉頭鏡]]がいくつかのメーカーから開発され、気管挿管時に[[声門]]が画面で確認できるようになっている。ビデオ喉頭鏡グライドスコープはその一例である<ref name="Agro2003">{{Cite journal|last1=Agrò|first1=F|last2=Barzoi|first2=G|last3=Montecchia|first3=F|date=May 2003|title=Tracheal intubation using a Macintosh laryngoscope or a GlideScope in 15 patients with cervical spine immobilization|journal=British Journal of Anaesthesia|volume=90|issue=5|pages=705–6|doi=10.1093/bja/aeg560|pmid=12697606|doi-access=free}}</ref><ref name="Cooper2005">{{Cite journal|last1=Cooper|first1=RM|last2=Pacey|first2=JA|last3=Bishop|first3=MJ|last4=McCluskey|first4=SA|date=February 2005|title=Early clinical experience with a new videolaryngoscope (GlideScope) in 728 patients|journal=Canadian Journal of Anesthesia|volume=52|issue=2|pages=191–8|doi=10.1007/BF03027728|pmid=15684262|doi-access=free}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|colwidth=30em}} == 参考文献 == * {{Citebook|和書 |title=麻酔の歴史 150年の軌跡 |year=1998 |publisher=克誠堂出版 |ref=harv |author=松木明知 |isbn=4-7719-0201-1 |author-link=松井明知}} * {{Citebook|和書 |title=麻酔の偉人たち |year=2016 |publisher=総合医学社 |ref=harv |last=Maltby |translator=菊地博達、岩瀬良範 |first=J.Roger |isbn=9784883786411}} ==関連文献== * {{Cite journal |last=Goldsmith |first=WM |title=Trepanation and the 'CatlinMark' |jstor=275576 |journal=American Antiquity |volume=10 |issue=4 |pages=348–52 |year=1945 |s2cid=163518652 |doi=10.2307/275576 |url=https://scholarworks.uni.edu/pias/vol49/iss1/106}} * {{Cite journal |last=Guerra Doce |first=E |title=Evidencias del consumo de drogas en Europa durante la Prehistoria |language=es |journal=Trastornos Adictivos |volume=8 |issue=1 |pages=53–61 |year=2006 |doi=10.1016/S1575-0973(06)75106-6 |url=http://db.doyma.es/cgi-bin/wdbcgi.exe/doyma/mrevista.fulltext?pident=13087278 |access-date=2010-11-14 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20080515210321/http://db.doyma.es/cgi-bin/wdbcgi.exe/doyma/mrevista.fulltext?pident=13087278 |archive-date=15 May 2008}} * {{Cite book |last=Gurlt |first=EJ |author-link=:en:Ernst Julius Gurlt |title=Geschichte der Chirurgie und ihrer Ausübung |volume=1 |chapter=VI: Volkschirurgie in Japan in alter und neuerer |page=83 |publisher=Verlag von August Hirschwald |location=Berlin |language=de |year=1898 |chapter-url=https://archive.org/details/geschichtederchi01gurl |access-date=2010-11-14|和書}} * {{Cite journal |last=Hrdlicka |first=A |title=Trepanation among prehistoric people, especially in America |journal=Ciba Foundation Symposium |volume=1 |issue=6 |pages=170–7 |year=1939}} * {{Cite journal |last=Matsuki |first=A |title=A brief history of the biographical study of Seishu Hanaoka |journal=Nihon Ishigaku Zasshi |volume=51 |issue=3 |pages=355–84 |year=2005 |language=ja |issn=0549-3323 |pmid=16450478 |url=http://medical-journals.healia.com/doc/16450478/A-brief-history-of-biographical-Seishu-Hanaoka |access-date=2010-11-14}} * {{Cite journal |last=Matsuki |first=A |title=Why did Hanaoka's Method of Anesthesia Decay Rapidly at the End of the Edo Period? |journal=Nihon Ishigaku Zasshi |volume=52 |issue=1 |pages=40–1 |year=2006 |language=ja |issn=0549-3323}} * {{Cite journal |last=Ruffer |first=MA |title=Studies in paleopathology. Some recent researches on prehistoric trephining |journal=Journal of Pathology and Bacteriology |volume=22 |pages=90–104 |year=1918 |doi=10.1002/path.1700220109 |url=https://zenodo.org/record/1427748}} * {{Cite book |title=Smithsonian Annual Report of the Board of Regents, 1957 |chapter=Stone Age skull surgery. A general review with emphasis on the New World |pages=469–91 |last=Stewart |first=TD |year=1958}} * Arashiro Toshiaki, ''Ryukyu-Okinawa Rekishi Jinbutsuden'', Okinawajijishuppan, 2006 p66 {{ISBN2|978-4-903042-04-6}} * "Reevaluation of surgical achievements by Tokumei Takamine". Matsuki A. Masui. November 2000; '''49'''(11):1285-9. Japanese.{{Full citation needed|date=November 2016|reason=journal is missing}} * "The secret anesthetic used in the repair of a hare-lip performed by Tokumei Takamine in Ryukyu". Matsuki A. ''Nippon Ishigaku Zasshi''. October 1985 '''31'''(4):463-89. Japanese. ==関連項目== {{ウィキポータルリンク|歴史|}} * {{仮リンク|ヘンリー・E・G・ボイル|en|Henry Edmund Gaskin Boyle|label=ヘンリー・E・G・ボイル(Henry Edmund Gaskin Boyle)|redirect=1}} - 初期の[[麻酔器]]を開発した麻酔科医 * {{仮リンク|ウォルター・チャニング (医師)|en|Walter Channing (physician)|redirect=1|label=ウォルター・チャニング(Walter Channing)}} - アメリカの[[産科麻酔科学]]の先駆者 * {{仮リンク|ジョセフ・トーマス・クローバー|en|Joseph Thomas Clover|redirect=1|label=ジョセフ・トーマス・クローバー(Joseph Thomas Clover)}} - 19世紀イギリスの麻酔科医 <!--{{Columns-list|colwidth=30em|}} --> ==外部リンク== * [http://www.woodlibrarymuseum.org ウッド・ライブラリー-麻酔博物館(英語)] - 麻酔科学における最も包括的な教育的、科学的なアーカイブのリソース。 * [http://www.chm.bris.ac.uk/motm/chloroform/chloroformh.htm 「クロロホルム」分子レベルのライフセーバー] - クロロホルムに関する興味深い事実を伝えるブリストル大学の記事。 * [https://web.archive.org/web/20040515001721/http://www.anzca.edu.au/publications/profdocs/profstandards/PS18_2000.htm オーストラリア・ニュージーランド麻酔科医協会のモニター基準(英語、2002-01-25、アーカイブ)] * [https://web.archive.org/web/20051219095333/http://www.rcoa.ac.uk/index.asp?PageID=69 英国王立麻酔科学会の患者向けサイト(英語、アーカイブ日付20051219)] * {{Citeweb |url=http://archive.nlm.nih.gov/proj/ttp/flash/hanaoka/hanaoka.html |title=華岡青洲が残した図譜の復元資料 |access-date=2010-07-28 |archive-url=https://web.archive.org/web/20100728085207/http://archive.nlm.nih.gov/proj/ttp/flash/hanaoka/hanaoka.html |archive-date=2010-07-08 |publisher=[[アメリカ国立医学図書館]]}} * {{Citeweb |url=http://www-user.uni-bremen.de/~d02q/index.html |title=麻酔の歴史 |access-date=2012-11-14 |language=de |archive-url=https://web.archive.org/web/20121114204957/http://www-user.uni-bremen.de/~d02q/index.html |archive-date=2012-11-14}} * {{Citeweb |url=http://www.katedraanest.cm-uj.krakow.pl/download/downloads/Anestezja.ppt |title=Anesthesia as a specialty - Past, present and future(邦訳: 専門科としての麻酔科 -過去・現在・未来) |access-date=2011-07-05 |publisher=Prof. Janusz Andres (Head of the Chair and Department) |archive-url=https://web.archive.org/web/20110705163744/http://www.katedraanest.cm-uj.krakow.pl/download/downloads/Anestezja.ppt |archive-date=2011-07-05 |language=en}}<!-- Much can be derived from this source after adding proper references --> {{医学史}} {{麻酔}}{{デフォルトソート:せんしんますいのれきし}} [[Category:全身麻酔薬|れきし]] [[Category:創薬]] [[Category:医療の歴史]] <!-- [[en:History of general anesthesia]] Wikipedia 翻訳支援ツール Ver1.32、[[:en:Special:Permalink/1183906395|英語版ウィキペディア History of general anesthesia(2023年11月7日 6:08:24(UTC))版]]の翻訳より作成。なお、導入部・概要は出典がなく、本文を適切に要約していないので書き換えている。 -->
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中冨博隆
中冨 博隆(なかとみ ひろたか、1937年2月6日 - 2021年8月16日)は、日本の経営者。久光製薬社長、会長を務めた。 佐賀県出身。1962年に慶應義塾大学法学部法律学科を卒業し、1966年に久光製薬に入社。1975年4月に取締役に就任し、1979年5月に常務を経て、1981年5月に社長に就任。2015年5月には社長を息子の中冨一栄に譲り、自身は会長に就任。日本赤十字社理事、慶應義塾大学評議員も務めた。 2019年5月に旭日小綬章を受章。 2021年8月16日老衰のために死去。84歳没。
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中冨 博隆は、日本の経営者。久光製薬社長、会長を務めた。
'''中冨 博隆'''(なかとみ ひろたか、[[1937年]][[2月6日]] - [[2021年]][[8月16日]])は、日本の[[経営者]]。[[久光製薬]]社長、会長を務めた。 == 経歴 == [[佐賀県]]出身{{sfn|人事興信所|2009|loc=な69頁|ref=jinji-45-ge}}。[[1962年]]に[[慶應義塾大学]]法学部法律学科を卒業し、[[1966年]]に[[久光製薬]]に入社{{sfn|人事興信所|2009|loc=な69頁|ref=jinji-45-ge}}。[[1975年]]4月に取締役に就任し、[[1979年]]5月に常務を経て、[[1981年]]5月に社長に就任{{sfn|人事興信所|2009|loc=な69頁|ref=jinji-45-ge}}。[[2015年]]5月には社長を息子の中冨一栄に譲り、自身は会長に就任<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ27IIB_X20C15A3TJ1000/ 久光製薬、34年ぶり社長交代 中冨副社長が昇格]2015年 3月27日 日本経済新聞</ref>。[[日本赤十字社]]理事、慶應義塾大学評議員も務めた{{sfn|人事興信所|2009|loc=な69頁|ref=jinji-45-ge}}。 [[2019年]]5月に[[旭日章|旭日小綬章]]を受章<ref>2019年 5月21日 日本経済新聞 朝刊 p32</ref>。 [[2021年]][[8月16日]][[老衰]]のために死去<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE180R00Y1A810C2000000/ 中冨博隆氏が死去 元久光製薬社長]2021年 8月18日 日本経済新聞</ref>。{{没年齢|1937|2|6|2021|8|16}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Citation|和書|author = 人事興信所 編|title = 人事興信録 第45版 下|publisher = 人事興信所|series = |volume = |edition = |date = 2009|pages = |url = |ref = jinji-45-ge}} {{Normdaten}} {{久光製薬社長}} {{デフォルトソート:なかとみ ひろたか}} [[Category:20世紀日本の実業家]] [[Category:21世紀日本の実業家]] [[Category:久光製薬|人]] [[Category:旭日小綬章受章者]] [[Category:慶應義塾大学出身の人物]] [[Category:佐賀県出身の人物]] [[Category:1937年生]] [[Category:2021年没]]
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ときめく恋と青春
『ときめく恋と青春』は、2024年1月24日にavex traxから発売される予定の超ときめき♡宣伝部のアルバム。 超ときめき♡宣伝部が2024年1月24日にリリースする予定のアルバムで、グループの活動テーマである「ときめく恋と青春」がアルバムのタイトルとなっている。 (超ときめき♡宣伝部:辻野かなみ、杏ジュリア、坂井仁香、小泉遥香、菅田愛貴、吉川ひより) mu-moショップ限定超恋盤、mu-moショップ限定超青春盤、恋盤[TYPE-A]、青春盤[TYPE-B]、通常盤[TYPE-C]、超宣伝盤[TYPE-D]の6形態で発売される。
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『ときめく恋と青春』は、2024年1月24日にavex traxから発売される予定の超ときめき♡宣伝部のアルバム。
{{JIS2004|説明=[[ハート (シンボル)|ハートマーク]]}} {{出典の明記|date=2023年11月15日 (水) 15:20 (UTC)|ソートキー=音ときめくこいとせいしゆん}} {{Infobox Album | Name = ときめく恋と青春 | Type = [[スタジオ・アルバム]] | Artist = [[超ときめき♡宣伝部]] | Cover = | Released = [[2024年]][[1月24日]] | Length = | Label = [[avex trax]] | Producer = | Reviews = | Chart position = | Certification = | Last album = [[ハートギュッと!]]<br />(2022年) | This album = '''ときめく恋と青春'''<br />(2024年) | Next album = | Misc = {{Singles | Name = ときめく恋と青春 | Type = スタジオ・アルバム | single 1 = [[STAR]] | single 1 date = 2022年11月9日 | single 2 = [[LOVEイヤイヤ期]] | single 2 date = 2023年5月10日 | single 3 = [[かわいいメモリアル]] | single 3 date = 2023年9月27日 {{External music video|1=[https://m.youtube.com/watch?v=iwnSWdF82G4 「STAR」Music Video]<br /> [https://m.youtube.com/watch?v=vBv4pH-9Oc0 「LOVEイヤイヤ期」Music Video]<br />[https://m.youtube.com/watch?v=WdnmA5tv2cA 「かわいいメモリアル」Music Video(みなと商事コインランドリーver.)]<br />[https://m.youtube.com/watch?v=7iNu6AJA2lA 「かわいいメモリアル」Music Video]<br 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超青春盤フォトブック(「超ときめき♡宣伝本部」会員の方限定でメンバーランダム直筆サイン入り) * 超青春盤セルカトレカ(6枚セット) * 応募抽選特典シリアルコード(3枚) * 超青春デザインバスタオル(サイズ:約W1450×H800mm予定) * ときめき♡スクエアステッカー(サイズ:約52mm×52mm予定、超恋盤・超青春盤共に共通7種デザインからランダム1枚) * ときめき♡オリジナルデザイン配送BOXにてお届け(超恋盤・超青春盤共に共通デザインの配送BOX) |- | 恋盤[TYPE-A] | CD+2DVD<br>AVCD-63549/B~C | * CD * ときめき♡春の晴れ舞台2023 - 2023.4.9(日)at 日比谷野外大音楽堂(前編) * ときめき♡春の晴れ舞台2023 - 2023.4.9(日)at 日比谷野外大音楽堂(後編) 初回限定封入特典 * 4cut photo seat(全6種類中1種ランダム封入) * ステッカーシート 恋ver. (1枚) * ロゴステッカー(1枚、恋盤・青春盤共通デザイン) * 応募抽選特典シリアルコード(1枚) |- | 青春盤[TYPE-B] | CD+2DVD<br>AVCD-63550/B~C | * CD * SELECTION OF 超ときめき♡宣伝部のハートロックオンホールTOUR 2023 - 2023.7.16(日)at NHK大阪ホール(前編) * SELECTION OF 超ときめき♡宣伝部のハートロックオンホールTOUR 2023 - 2023.7.16(日)at NHK大阪ホール(後編) 初回限定封入特典 * ID photo seat(全6種類中1種ランダム封入) * ステッカーシート 青春ver. (1枚) * ロゴステッカー(1枚、恋盤・青春盤共通デザイン) * 応募抽選特典シリアルコード(1枚) |- | 通常盤[TYPE-C] | CD<br>AVCD-63551 | 初回限定封入特典 * インスタントカメラ風トレーディングカード(全6種類中1種ランダム封入) * 応募抽選特典シリアルコード(1枚) |- | 超宣伝盤[TYPE-D] | CD<br>AVCD-63552 | 初回限定封入特典 * 応募抽選特典シリアルコード(1枚) |} == 発売記念イベント・コラボキャンペーン == == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == {{超ときめき♡宣伝部}} {{Album-stub}} {{DEFAULTSORT:ときめくこいとせいしゆん}} [[Category:超ときめき♡宣伝部]] [[Category:2024年のアルバム]]
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2024年パリオリンピックのサモア選手団
2024年パリオリンピックのサモア選手団は、2024年7月26日から8月11日までフランスのパリで開催予定の2024年パリオリンピックのサモア選手団の名簿。 以下の種目の出場資格を獲得している。
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2024年パリオリンピックのサモア選手団は、2024年7月26日から8月11日までフランスのパリで開催予定の2024年パリオリンピックのサモア選手団の名簿。
{{予定されているスポーツイベント|sport=オリンピック}} {{Infobox オリンピックサモア選手団 | オリンピック名 = 2024年パリオリンピック | 人員 =<!-- 選手 人 --> | 旗手 = | 主将 = | メダル順位 = | 金メダル = | 銀メダル = | 銅メダル = | 合計 = }} '''2024年パリオリンピックのサモア選手団'''は、[[2024年]][[7月26日]]から[[8月11日]]まで[[フランス]]の[[パリ]]で開催予定の[[2024年パリオリンピック]]の[[サモア]]選手団の名簿。 <!-- == 選手団 == * 人員: 選手 人 * 開会式旗手: [[]] --> == 種目別選手・スタッフ名簿及び成績 == === [[画像:Rugby pictogram.svg|30px]] 7人制ラグビー === 以下の種目の<!--選手が-->出場資格を獲得している<ref>{{cite news|first=Patrick|last=Burke|title=Football and rugby sevens to begin Paris 2024 competition on July 24|url=https://www.insidethegames.biz/articles/1126168/paris-2024-schedule-revealed|publisher=Inside the Games|date=25 July 2022|accessdate=18 February 2023}}</ref><ref>{{cite news |title=Samoa and Fiji secure Olympic qualification in Brisbane |url=https://www.world.rugby/news/892766/samoa-y-fiji-aseguran-su-ticket-olimpico-en-olympic-qualification-in-brisbane |publisher=[[ワールドラグビー]] |date=12 November 2023 |accessdate=15 November 2023}}</ref><ref>{{cite news |first=Brisin Manu |last=Retzlaff-Lima |title=History: Manu Samoa 7s Qualify for Paris Olympics - Samoa Global News |url=https://samoaglobalnews.com/history-manu-samoa-7s-qualify-for-paris-olympics7/ |publisher=Samoa Global News |date=12 November 2023 |accessdate=15 November 2023}}</ref>。 * 男子 == 脚注 == {{Reflist}} {{2024年パリオリンピックの選手団}} [[Category:オリンピックのサモア選手団|S2024]] [[Category:2024年パリオリンピックの選手団|さもあ]] [[Category:2024年のサモア|はりおりんひつくのせんしゆたん]]
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エドモンド・ペリー (初代リムリック伯爵)
初代リムリック伯爵エドモンド・ヘンリー・ペリー(英語: Edmond Henry Pery, 1st Earl of Limerick PC (Ire) FSA、1758年1月8日 – 1844年12月7日)は、アイルランド王国出身の貴族、政治家。トーリー党に属し、アイルランド庶民院議員(在任:1786年 – 1794年)、アイルランド貴族代表議員(在任:1801年 – 1844年)を務めた。 初代グレントワース男爵ウィリアム・セシル・ペリーと1人目の妻ジェーン(Jane、1792年6月20日没、ジョン・ミンチン・ウォルコットの娘)の息子として、1758年1月8日に生まれた。初代ペリー子爵エドマンド・ペリー(英語版)の甥にあたる。 1773年4月16日にダブリン大学トリニティ・カレッジに入学したが、学位は修得しなかった。1775年12月よりリンカーン法曹院に進学、1777年から1779年まで大陸ヨーロッパ(フランス、イタリア、ドイツ)を旅した。 1786年から1794年までリムリック・シティ選挙区(英語版)の代表としてアイルランド庶民院議員を務めた。1794年7月4日に父が死去すると、グレントワース男爵位を継承、1795年1月22日にアイルランド貴族院議員に就任した。アイルランドのプロテスタント支配(英語版)を支持し、1795年にKeeper of the signet and privy sealに任命され、1797年にclerk of the crown and hanaperに転じた(1806年まで在任)。1797年6月29日、アイルランド枢密院(英語版)の枢密顧問官に任命された。しかし横柄、高慢な態度で才能もあまりなかったため、広く尊敬されるような人物ではなかった。影響力があったのはペリー家がリムリック県に影響力を有し、自身が影響力のある政治家初代ペリー子爵エドマンド・ペリー(英語版)の相続人によるところが大きい。 1798年アイルランド反乱(英語版)では自腹で竜騎兵1個連隊を招集した。反乱の余波で1799年に合同法が議論されると、伯父にあたる初代ペリー子爵エドマンド・ペリー(英語版)が反対したにもかかわらず、エドモンド・ペリーは初代クレア伯爵ジョン・フィッツギボン(英語版)とともにアイルランド貴族院で合同支持の論陣を張った。合同を支持した功績で1800年12月29日にアイルランド貴族であるリムリック市におけるリムリック子爵に叙され、さらに1800年合同法により成立した連合王国議会で最初のアイルランド貴族代表議員28名のうちの1名に選ばれた。このとき、伯爵への昇叙の確約も確保している。 合同以降は政界で大きな役割を果たすことがなかったが、カトリック解放をめぐる譲歩には常に反対した。1803年1月1日、アイルランド貴族であるリムリック伯爵に叙された。リムリック県選挙区(英語版)(2人区)への影響力は維持し、選挙で度々クレア伯爵と対立した。リムリック・シティ選挙区(英語版)(合同以降は1人区)にも影響力を有したものの、合同反対で勢力が後退したジョン・プレンダーガスト=スミス(のち初代ゴート子爵)と1802年より議員を務めていた甥チャールズ・ヴェレカー(のち第2代ゴート子爵)が勢力を盛り返し、1808年にはリムリック伯爵の勢力を超えた。リムリック伯爵は1812年と1818年の総選挙で議席の奪回に失敗したものの、1820年の総選挙では選挙申立を経て娘婿トマス・スプリング・ライス(英語版)が当選している。 1804年4月12日にロンドン考古協会フェローに選出されたが、会費を支払ったことはなかった。 1815年8月11日、連合王国貴族であるクレア県におけるスタックポール・コートのフォックスフォード男爵に叙された。 晩年はバークシャーのサウス・ヒル・パーク(英語版)地所で過ごすことが多く、アイルランドで過ごすことは少なかった。1844年12月7日にサウス・ヒル・パークで死去、23日にリムリック大聖堂(英語版)に埋葬された。地元のリムリック県ではすこぶる不人気により、死去を喜ぶ群衆が葬儀に集まり、棺桶を川に投げ捨てられそうになった。息子に先立たれたため孫ウィリアム・テニソンが爵位を継承した。 1783年1月29日、メアリー・アリス・オームズビー(Mary Alice Ormsby、1763年ごろ – 1850年6月13日、ヘンリー・オームズビーの娘)と結婚、4男8女をもうけた。
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初代リムリック伯爵エドモンド・ヘンリー・ペリーは、アイルランド王国出身の貴族、政治家。トーリー党に属し、アイルランド庶民院議員、アイルランド貴族代表議員を務めた。
[[File:Edmond Henry Pery, 1st Earl of Limerick.jpg|thumb|right|初代リムリック伯爵の肖像画({{仮リンク|ジョージ・ドー|en|George Dawe}}作)に基づく[[点刻]]。]] 初代[[リムリック伯爵]]'''エドモンド・ヘンリー・ペリー'''({{lang-en|Edmond Henry Pery, 1st Earl of Limerick}} {{post-nominals|country=GBR|PCi|FSA}}、[[1758年]][[1月8日]] – [[1844年]][[12月7日]])は、[[アイルランド王国]]出身の貴族、政治家。[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]に属し、{{仮リンク|アイルランド庶民院|en|Irish House of Commons}}議員(在任:1786年 – 1794年)、アイルランド[[貴族代表議員]](在任:1801年 – 1844年)を務めた<ref name="Cokayne" />。 == 生涯 == [[ウィリアム・ペリー (初代グレントワース男爵)|初代グレントワース男爵ウィリアム・セシル・ペリー]]と1人目の妻ジェーン({{lang|en|Jane}}、1792年6月20日没、ジョン・ミンチン・ウォルコットの娘<ref>{{Cite book2|language=en|editor1-last=Cokayne|editor1-first=George Edward|editor1-link=ジョージ・エドワード・コケイン|editor2-last=Gibbs|editor2-first=Vicary|editor2-link=ヴィカリー・ギブス (セント・オールバンズ選挙区の庶民院議員)|editor3-last=Doubleday|editor3-first=H. 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1811年7月11日、{{仮リンク|トマス・スプリング・ライス (初代ブランドンのモントイーグル男爵)|en|Thomas Spring Rice, 1st Baron Monteagle of Brandon|label=初代ブランドンのモントイーグル男爵トマス・スプリング・ライス}}と結婚<ref name="Burke1925" /> *ルーシー(1788年3月13日 – 1845年12月23日) - 1816年3月16日、ローランド・スタンディッシュ({{lang|en|Rowland Standish}}、1843年4月26日没)と結婚<ref name="Burke1925" /> *ヘンリー・ハートストング({{lang|en|Henry Hartstonge}}、1789年5月26日 – 1834年8月7日) - 1808年5月11日、アナベラ・テニソン・エドワーズ({{lang|en|Annabella Tenison Edwards}}、1791年 – 1868年9月17日、テニソン・エドワーズの娘)と結婚、子供あり<ref name="Cokayne" />。[[ウィリアム・ペリー (第2代リムリック伯爵)|第2代リムリック伯爵ウィリアム・ペリー]]の父<ref name="Cokayne" /> *ウィリアム・セシル(1791年2月16日 – 1813年8月31日) - [[サン・セバスティアン包囲戦]]で戦死<ref name="Lodge1872" /> *フランシス・セリナ(1795年7月30日 – 1855年6月11日) - 1819年8月3日、[[カルダー準男爵|第5代準男爵サー・ヘンリー・ロッダー・カルダー]](1868年8月13日没)と結婚<ref name="Lodge1872" /> *エドモンド・セクステン({{lang|en|Edmond Sexten}}、1797年2月7日 – 1860年12月31日) - 1825年2月14日、エリザベス・シャーロット・コケイン({{lang|en|Elizabeth Charlotte Cockayne}}、1799年ごろ – 1883年4月21日、ウィリアム・コケイン閣下の娘)と結婚、子供あり<ref name="Lodge1872" /><ref name="Burke1925" /> *ルイーザ(1798年4月2日 – 1852年8月6日) - 1825年7月28日、[[ポール準男爵|第3代準男爵サー・ピーター・ヴァン・ノッテン=ポール]]と結婚<ref name="Lodge1872" />、子供あり<ref name="Burke1925" /> *セシル・ジェーン(1801年9月28日 – 1888年4月24日) - 1828年3月18日、ジョン・レオポルド・ファーディナンド・カジミール・デ・ラ・フェルド({{lang|en|John Leopold Ferdinand Casimir de la Feld}}、1866年9月5日没<!--イギリス人。ハプスブルク帝国の伯爵とする主張はジョン・ホレス・ラウンドが1904年に否定した-->)と結婚<ref name="Lodge1872" /><ref name="Burke1925" /> *キャロライン・アリシア・ダイアナ(1803年1月16日 – 1890年12月11日) - 1832年2月16日、ジョージ・レイク・ラッセル({{lang|en|George Lake Russell}}、1802年6月19日 – 1878年、第2代準男爵サー・ヘンリー・ラッセルの息子)と結婚<ref name="Lodge1872" /><ref name="Burke1925" /> *アルビニア・シャーロット(1804年10月11日 – 1805年9月24日<ref name="Lodge1872" />) == 出典 == {{Reflist}} == 外部リンク == *{{Hansard-contribs|mr-edmund-pery|Mr Edmund Pery}} *{{NPG name}} *{{UK National Archives ID}} {{S-start}} {{S-par|ie}} {{S-bef|before=[[ジョン・プレンダーガスト=スミス (初代ゴート子爵)|ジョン・プレンダーガスト=スミス]]|before2={{仮リンク|トマス・スミス (リムリック選出の庶民院議員)|en|Thomas Smyth (Limerick MP)|label=トマス・スミス}}}} {{S-ttl|title={{仮リンク|アイルランド庶民院|en|Irish House of Commons|label=庶民院}}議員({{仮リンク|リムリック・シティ選挙区 (アイルランド王国)|en|Limerick City (Parliament of Ireland constituency)|label=リムリック・シティ選挙区}}選出)|years=1786年 – 1794年|with=[[ジョン・プレンダーガスト=スミス (初代ゴート子爵)|ジョン・プレンダーガスト=スミス]]}} {{S-aft|after=[[ジョン・プレンダーガスト=スミス (初代ゴート子爵)|ジョン・プレンダーガスト=スミス]]|after2=[[チャールズ・ヴェレカー (第2代ゴート子爵)|チャールズ・ヴェレカー]]}} {{S-reg|ie}} {{S-new|rows=2|creation}} {{S-ttl|title=[[リムリック伯爵]]|years=1803年 – 1844年}} {{S-aft|rows=3|after=[[ウィリアム・ペリー (第2代リムリック伯爵)|ウィリアム・テニソン・ペリー]]}} {{S-ttl|title=[[リムリック子爵]]|years=1800年 – 1844年}} {{S-bef|before=[[ウィリアム・ペリー (初代グレントワース男爵)|ウィリアム・ペリー]]}} {{S-ttl|title=[[グレントワース男爵]]|years=1794年 – 1844年}} {{S-reg|uk}} {{S-new|creation}} {{S-ttl|title=[[フォックスフォード男爵]]|years=1815年 – 1844年}} {{S-aft|after=[[ウィリアム・ペリー (第2代リムリック伯爵)|ウィリアム・テニソン・ペリー]]}} {{S-end}} {{Authority control}} {{DEFAULTSORT:りむりつく01}} [[Category:アイルランド貴族の伯爵]] [[Category:リムリック県選出のアイルランド庶民院議員]] [[Category:アイルランド貴族院議員]] [[Category:アイルランド貴族代表議員]] [[Category:アイルランドの枢密顧問官]] [[Category:ロンドン考古協会フェロー]] [[Category:イギリス・トーリー党の政治家]] [[Category:ダブリン大学トリニティ・カレッジ出身の人物]] [[Category:リンカーン法曹院出身の人物]] [[Category:1758年生]] [[Category:1844年没]]
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2024年パリオリンピックのチャド選手団
2024年パリオリンピックのチャド選手団は、2024年7月26日から8月11日までフランスのパリで開催予定の2024年パリオリンピックのチャド選手団の名簿。 以下の選手が出場資格を獲得している。
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2024年パリオリンピックのチャド選手団は、2024年7月26日から8月11日までフランスのパリで開催予定の2024年パリオリンピックのチャド選手団の名簿。
{{予定されているスポーツイベント|sport=オリンピック}} {{Infobox オリンピックチャド選手団 | オリンピック名 = 2024年パリオリンピック | 人員 = <!-- 選手 人 --> | 旗手 = | 主将 = | メダル順位 = | 金メダル = | 銀メダル = | 銅メダル = | 合計 = }} '''2024年パリオリンピックのチャド選手団'''は、[[2024年]][[7月26日]]から[[8月11日]]まで[[フランス]]の[[パリ]]で開催予定の[[2024年パリオリンピック]]の[[チャド]]選手団の名簿。 <!-- == 選手団 == * 人員: 選手 人 * 開会式旗手: [[]] --> == 種目別選手・スタッフ名簿及び成績 == === [[画像:Archery pictogram.svg|30px]] アーチェリー === 以下の選手が出場資格を獲得している<ref>{{cite news |title=Qualification System – Games of the XXXIII Olympiad – ''Archery'' |url=https://stillmed.olympics.com/media/Documents/Olympic-Games/Paris-2024/Paris2024-QS-Archery.pdf |publisher=[[世界アーチェリー連盟]] |accessdate=23 December 2022}}</ref><ref>{{cite news |last=Nabeul |first=Tunisia |title=African Championships: Cote d'Ivoire and Chad shooting for Paris places |url=https://www.worldarchery.sport/news/201452/african-championships-cote-divoire-and-chad-shooting-paris-places |publisher=[[国際オリンピック委員会]] |date=10 November 2023 |accessdate=16 November 2023}}</ref>。 *(男子個人)- 1名出場予定 *(女子個人)- 1名出場予定 *(混合団体)- 2名出場予定 == 脚注 == {{Reflist}} {{2024年パリオリンピックの選手団}} [[Category:オリンピックのチャド選手団|S2024]] [[Category:2024年パリオリンピックの選手団|ちやと]] [[Category:2024年のチャド|はりおりんひつくのせんしゆたん]]
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ダルブー導関数
ダルブー導関数(英: Darboux derivative)とは、リー群に値を取る関数に対する導関数概念であり、(意味のある)「微分積分学の基本定理」の概念を定式化できる。 以下本項では特に断りがない限り、単に「関数」、「多様体」等といった場合はすべてC級のものをあらわすとする。 文献を参考にダルブー導関数を定義する動機を述べる。実数体上の関数 f : R → R {\displaystyle f~:~\mathbb {R} \to \mathbb {R} } の導関数 f ′ {\displaystyle f'} はfそれ自身と同じく R {\displaystyle \mathbb {R} } から R {\displaystyle \mathbb {R} } への関数なので、 f ′ {\displaystyle f'} からfを求める問題、すなわち 与えられた関数 g : R → R {\displaystyle g~:~\mathbb {R} \to \mathbb {R} } に対し、 f ′ = g {\displaystyle f'=g} となる関数 f : R → R {\displaystyle f~:~\mathbb {R} \to \mathbb {R} } を求めよ という問題は意味を持ち、微分積分学の基本定理を使って解を求める事ができる。 それに対し、多様体から多様体への写像 f : M → N {\displaystyle f~:~M\to N} に対し、導関数 f ∗ : T M → T N {\displaystyle f_{*}~:~TM\to TN} からfを求める問題は自明なものになってしまう。 なぜなら f ∗ {\displaystyle f_{*}} の定義式の中にfそれ自身の情報が「埋め込まれて」おり、接ベクトル v P ∈ T P M {\displaystyle v_{P}\in T_{P}M} の f ∗ {\displaystyle f_{*}} による像 f ∗ ( v P ) {\displaystyle f_{*}(v_{P})} は T f ( P ) N {\displaystyle T_{f(P)}N} の元であるので、 f ∗ ( v P ) {\displaystyle f_{*}(v_{P})} がどの点の接ベクトルなのかを調べる事でPの像 f ( P ) {\displaystyle f(P)} が再現できてしまうからである。 実数体上の関数 f : R → R {\displaystyle f~:~\mathbb {R} \to \mathbb {R} } に対してこの問題が意味を持つのは f ∗ : T M → T N {\displaystyle f_{*}~:~TM\to TN} によるvPの像 f ∗ ( v P ) {\displaystyle f_{*}(v_{P})} を原点 0 ∈ R {\displaystyle 0\in \mathbb {R} } まで移動したものを導関数 f ′ {\displaystyle f'} としているので、fそれ自身の情報が消し去られているからである。 ダルブー導関数は、fの値域がリー群である場合に、実数体の場合と同様 f ∗ {\displaystyle f_{*}} の像を単位元 e ∈ G {\displaystyle e\in G} まで移動する事で、 f ∗ {\displaystyle f_{*}} に埋め込まれているfの情報を消し去った導関数概念である。すなわち、 を多様体Mからリー群Gへの写像とするとき、fの導関数 f ∗ : T M → T G {\displaystyle f_{*}~:~TM\to TG} による像にGの元をかける事で f ∗ {\displaystyle f_{*}} の像が単位元eにおける接ベクトル空間 T e G {\displaystyle T_{e}G} (これはGのリー代数 g {\displaystyle {\mathfrak {g}}} に等しい)に移動したものを と書き、fのダルブー導関数と呼ぶ。ダルブー導関数では f ∗ ( v P ) {\displaystyle f_{*}(v_{P})} を g = T e G {\displaystyle {\mathfrak {g}}=T_{e}G} に移動する事でfの情報を消し去っているので、 与えられた ω : M → g {\displaystyle \omega ~:~M\to {\mathfrak {g}}} に対し、 ω f = ω {\displaystyle \omega _{f}=\omega } となる関数 f : M → G {\displaystyle f~:~M\to G} を求めよ という問題は非自明である。Mとωが十分性質がよければ上記の問題は解を持つ事が知られており、これはダルブー導関数に対する「微分積分学の基本定理」であると解釈できる。 ダルブー導関数について述べるための準備として、モーレー・カルタン形式を導入する。 定義 (モーレー・カルタン形式) ― Gをリー群とし、 g {\displaystyle {\mathfrak {g}}} をそのリー代数とするとき、Gの各点gに対しG上の g {\displaystyle {\mathfrak {g}}} 値1-形式 ω G g {\displaystyle \omega ^{G}{}_{g}} を により定義し、ωgをGのgにおけるモーレー・カルタン形式という。 ここで L g − 1 ∗ {\displaystyle L_{g^{-1}}{}_{*}} は群の左作用 L g − 1 : h ∈ G ↦ g − 1 h {\displaystyle L_{g^{-1}}~:~h\in G~~\mapsto g^{-1}h} が誘導する写像である。 モーレー・カルタン形式は以下を満たす: 定理 ― ここで [ ⋅ , ⋅ ] {\displaystyle [\cdot ,\cdot ]} は g {\displaystyle {\mathfrak {g}}} 上のリー括弧であり、 g {\displaystyle {\mathfrak {g}}} -値1-形式α、βに対し、 [ α , β ] ( X , Y ) := [ α ( X ) , β ( Y ) ] − [ α ( Y ) , β ( X ) ] {\displaystyle [\alpha ,\beta ](X,Y):=[\alpha (X),\beta (Y)]-[\alpha (Y),\beta (X)]} である。 上記の2式のうち下のものをモーレー・カルタンの方程式(英: Maurer-Cartan equation)、もしくはリー群Gの構造方程式(英: structure equation)という。 本節ではダルブー導関数を具体的に定式化する。 すでに述べたように f : M → G {\displaystyle f~:~M\to G} のダルブー導関数とは、 f ∗ : T M → T G {\displaystyle f_{*}~:~TM\to TG} の像を群の元をかけることで g = T e G {\displaystyle {\mathfrak {g}}=T_{e}G} まで移動したものである。具体的には P ∈ M {\displaystyle P\in M} 、 v P ∈ T P M {\displaystyle v_{P}\in T_{P}M} に対し、 f ∗ ( v P ) {\displaystyle f_{*}(v_{P})} は T f ( P ) G {\displaystyle T_{f(P)}G} の元なので、 f ( P ) − 1 {\displaystyle f(P)^{-1}} を左からかける演算 L f ( P ) − 1 {\displaystyle L_{f(P)^{-1}}} の導関数 L f ( P ) − 1 ∗ {\displaystyle L_{f(P)^{-1}}{}_{*}} を作用させた がfのダルブー導関数である。この事実とモーレー・カルタン形式の定義を照らし合わせる事で、ダルブー導関数を以下のように定式化できる事がわかる: 定義 (ダルブー導関数) ― f : M → G {\displaystyle f~:~M\to G} の(左)ダルブー導関数(英: (left) Darboux derivative)とはM上の g {\displaystyle {\mathfrak {g}}} -値1-形式 の事である。 モーレー・カルタン形式が構造方程式を満たすことから、以下が成立する事がわかる: 定理 ― ダルブー導関数は以下を満たす: 本節の目標はωをダルブー導関数に持つ関数が存在する条件を記述する事である。 そのための準備として、まず「発展」という概念と「モノドロミー」という概念を定義する。 fの定義域が区間 I = [ a , b ] {\displaystyle I=[a,b]} の場合は、「微分積分学の基本定理」が成り立つ: 定理 ― ωを区間 I = [ a , b ] {\displaystyle I=[a,b]} 上の g {\displaystyle {\mathfrak {g}}} -値1-形式とし、gをGの元とする。このとき、関数 f : I → G {\displaystyle f~:~I\to G} で を満たすものが一意に存在する。 上記の定理を多様体M上の曲線に対して用いる事で以下の定義が得られる: 定理・定義 (曲線の発展) ― ωを多様体M上の g {\displaystyle {\mathfrak {g}}} -値1-形式とし、 c : [ a , b ] → M {\displaystyle c~:~[a,b]\to M} をM上の曲線とし、gをGの元とし、 c ∗ ( ω ) {\displaystyle c^{*}(\omega )} をωのcによる [ a , b ] {\displaystyle [a,b]} への引き戻しとする。このとき、 c ~ : I → G {\displaystyle {\tilde {c}}~:~I\to G} で を満たすものが存在する。 c ~ {\displaystyle {\tilde {c}}} をgからのcに沿ったωの発展(英: development of ω along c starting at g)という。 ωが構造方程式を満たせば、発展の終点はホモトピー不変である: 定理 ― ωを多様体M上の g {\displaystyle {\mathfrak {g}}} -値1-形式で を満たすものとする。さらに c 0 , c 1 : [ a , b ] → M {\displaystyle c_{0},c_{1}~:~[a,b]\to M} をM上の2つの曲線でc0の始点、終点がそれぞれc1の始点、終点に一致するものとし、さらにgを元Gの元とする。 このとき、c0とc1が(始点と終点を固定した)ホモトープであれば、c0のgからの発展 c ~ 0 : I → G {\displaystyle {\tilde {c}}_{0}~:~I\to G} の終点とc1のgからの発展 c ~ 1 : I → G {\displaystyle {\tilde {c}}_{1}~:~I\to G} の終点は等しい。 よってMの点P0におけるMの基本群 π 1 ( M , P 0 ) {\displaystyle \pi _{1}(M,P_{0})} を考えると、 [ c ] ∈ π 1 ( M , P 0 ) {\displaystyle [c]\in \pi _{1}(M,P_{0})} にcの発展 c ~ {\displaystyle {\tilde {c}}} の終点 ∈ G {\displaystyle \in G} を対応させる写像は代表元cの取り方によらずwell-definedである。 定理・定義 (モノドロミー) ― 記号を上述のように取るとき、写像 は準同型になる。 Φ ω {\displaystyle \Phi _{\omega }} をωのモノドロミー表現(英: monodromy representation)といい、Gの部分群 Φ ω ( π 1 ( M , P 0 ) ) ⊂ G {\displaystyle \Phi _{\omega }(\pi _{1}(M,P_{0}))\subset G} をモノドロミー群(英: monodromy group)もしくは周期群(英: period group)という。 モノドロミーを用いると、ωをダルブー導関数に持つ関数が存在する必要十分条件を特徴づける事ができる: 定理 (微分積分学の基本定理(英: Fundamental theorem of calculus)) ― Gをリー群とし、 g {\displaystyle {\mathfrak {g}}} をGのリー代数とし、Mを多様体とし、ωをM上の g {\displaystyle {\mathfrak {g}}} -値1-形式とする。このとき、ダルブー導関数 ω f {\displaystyle \omega _{f}} がωと一致する関数 f : M → G {\displaystyle f~:~M\to G} が存在する必要十分条件は、以下の2条件が成立する事である: 定理 (解の実質的な一意性) ― 記号を上の定理と同様に取る。このとき、ダルブー導関数 ω f {\displaystyle \omega _{f}} がωと一致する関数2つが存在すれば、それらの関数f1、f2は、ある g ∈ G {\displaystyle g\in G} が存在して を満たす。
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を対応させる写像は代表元cの取り方によらずwell-definedである。", "title": "微分積分学の基本定理" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "定理・定義 (モノドロミー) ― 記号を上述のように取るとき、写像", "title": "微分積分学の基本定理" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "は準同型になる。 Φ ω {\\displaystyle \\Phi _{\\omega }} をωのモノドロミー表現(英: monodromy representation)といい、Gの部分群 Φ ω ( π 1 ( M , P 0 ) ) ⊂ G {\\displaystyle \\Phi _{\\omega }(\\pi _{1}(M,P_{0}))\\subset G} をモノドロミー群(英: monodromy group)もしくは周期群(英: period group)という。", "title": "微分積分学の基本定理" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "モノドロミーを用いると、ωをダルブー導関数に持つ関数が存在する必要十分条件を特徴づける事ができる:", "title": "微分積分学の基本定理" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "定理 (微分積分学の基本定理(英: Fundamental theorem of calculus)) ― Gをリー群とし、 g {\\displaystyle {\\mathfrak {g}}} をGのリー代数とし、Mを多様体とし、ωをM上の g {\\displaystyle {\\mathfrak {g}}} -値1-形式とする。このとき、ダルブー導関数 ω f {\\displaystyle \\omega _{f}} がωと一致する関数 f : M → G {\\displaystyle f~:~M\\to G} が存在する必要十分条件は、以下の2条件が成立する事である:", "title": "微分積分学の基本定理" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "定理 (解の実質的な一意性) ― 記号を上の定理と同様に取る。このとき、ダルブー導関数 ω f {\\displaystyle \\omega _{f}} がωと一致する関数2つが存在すれば、それらの関数f1、f2は、ある g ∈ G {\\displaystyle g\\in G} が存在して", "title": "微分積分学の基本定理" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "を満たす。", "title": "微分積分学の基本定理" } ]
ダルブー導関数とは、リー群に値を取る関数に対する導関数概念であり、(意味のある)「微分積分学の基本定理」の概念を定式化できる。 以下本項では特に断りがない限り、単に「関数」、「多様体」等といった場合はすべてC∞級のものをあらわすとする。
{{Pathnavbox| * {{Pathnav|[[数学]]|[[幾何学]]、[[群論]]|[[リー群]]}} * {{Pathnav|[[数学]]|[[解析学]]|[[微分積分学の基本定理]]}}}} '''ダルブー導関数'''{{Refnest|ダルブー導関数を説明した日本語の文献が見つからなかったので、本項の専門用語はいずれも本項執筆者が暫定的に訳したものである。|group=注}}({{Lang-en-short|Darboux derivative}})とは、[[リー群]]に値を取る関数に対する[[導関数]]概念であり、(意味のある)「[[微分積分学の基本定理]]」の概念を定式化できる。 以下本項では特に断りがない限り、単に「関数」、「多様体」等といった場合はすべて{{Mvar|C{{sup|∞}}}}級のものをあらわすとする。 == 動機 == 文献<ref>[[#Sharpe]] p.115.</ref>を参考にダルブー導関数を定義する動機を述べる。実数体上の関数<math>f~:~\mathbb{R} \to \mathbb{R}</math>の導関数<math>f'</math>は{{Mvar|f}}それ自身と同じく<math>\mathbb{R}</math>から<math>\mathbb{R}</math>への関数なので、<math>f'</math>から{{Mvar|f}}を求める問題、すなわち<blockquote>与えられた関数<math>g ~:~ \mathbb{R} \to \mathbb{R}</math>に対し、<math>f'=g</math>となる関数<math>f~:~\mathbb{R} \to \mathbb{R}</math>を求めよ</blockquote>という問題は意味を持ち、[[微分積分学の基本定理]]を使って解を求める事ができる。 それに対し、[[多様体]]から多様体への写像<math>f~:~M \to N </math>に対し、導関数<math>f_*~:~TM \to TN</math>から{{Mvar|f}}を求める問題は自明なものになってしまう。 なぜなら<math>f_*</math>の定義式の中に{{Mvar|f}}それ自身の情報が「埋め込まれて」おり、接ベクトル<math>v_P \in T_PM</math>の<math>f_*</math>による像<math>f_*(v_P)</math>は<math>T_{f(P)}N</math>の元であるので、<math>f_*(v_P)</math>がどの点の接ベクトルなのかを調べる事で{{Mvar|P}}の像<math>f(P)</math>が再現できてしまうからである。 実数体上の関数<math>f~:~\mathbb{R} \to \mathbb{R}</math>に対してこの問題が意味を持つのは<math>f_*~:~TM \to TN</math>による{{mvar|v{{sub|P}}}}の像<math>f_*(v_P)</math>を原点<math>0 \in \mathbb{R}</math>まで移動したものを導関数<math>f'</math>としているので、{{Mvar|f}}それ自身の情報が消し去られているからである。 ダルブー導関数は、{{Mvar|f}}の値域がリー群である場合に、実数体の場合と同様<math>f_*</math>の像を単位元<math>e \in G</math>まで移動する事で、<math>f_*</math>に埋め込まれている{{Mvar|f}}の情報を消し去った導関数概念である。すなわち、 : <math>f~:~ M \to G</math> を多様体{{Mvar|M}}からリー群{{Mvar|G}}への写像とするとき、{{Mvar|f}}の導関数<math>f_*~:~ TM \to TG</math>による像に{{Mvar|G}}の元をかける事で<math>f_*</math>の像が単位元{{Mvar|e}}における接ベクトル空間<math>T_eG</math>(これは{{Mvar|G}}の[[リー代数]]<math>\mathfrak{g}</math>に等しい)に移動したものを : <math>\omega_f~:~ TM \to \mathfrak{g} </math> と書き、{{Mvar|f}}の'''ダルブー導関数'''と呼ぶ。ダルブー導関数では<math>f_*(v_P)</math>を<math>\mathfrak{g}=T_eG</math>に移動する事で{{Mvar|f}}の情報を消し去っているので、<blockquote>与えられた<math>\omega ~:~ M \to \mathfrak{g}</math>に対し、<math>\omega_f = \omega</math>となる関数<math>f~:~ M \to G</math>を求めよ</blockquote>という問題は非自明である。{{Mvar|M}}と{{Mvar|ω}}が十分性質がよければ上記の問題は解を持つ事が知られており、これはダルブー導関数に対する「微分積分学の基本定理」であると解釈できる。 == 準備 == ダルブー導関数について述べるための準備として、モーレー・カルタン形式を導入する。{{math theorem|定義|{{mvar|G}}をリー群とし、<math>\mathfrak{g}</math>をそのリー代数とするとき、{{mvar|G}}の各点{{mvar|g}}に対し{{mvar|G}}上の<math>\mathfrak{g}</math>値1-形式<math>\omega^G{}_g</math>を : <math>\omega^G{}_g~:v\in ~T_gG \mapsto L_{g^{-1}}{}_*(v) \in \mathfrak{g}</math> により定義し、{{mvar|ω{{sup|G}}{{sub|g}}}}を{{mvar|G}}の{{mvar|g}}における'''モーレー・カルタン形式'''という。 ここで<math>L_{g^{-1}}{}_*</math>は群の左作用<math>L_{g^{-1}}~:~h\in G~~ \mapsto g^{-1}h</math>が誘導する写像である。|note=[[モーレー・カルタン形式]]}}モーレー・カルタン形式は以下を満たす<ref name="Tu198">[[#Tu]] p.198.</ref>:{{math theorem|定理|  * <math>(R_g)^*\omega^G = \mathrm{Ad}(g^{-1})\omega^G</math> * <math>d\omega^G + {1 \over 2}[\omega^G,\omega^G]=0 </math>}}ここで<math>[\cdot,\cdot]</math>は<math>\mathfrak{g}</math>上のリー括弧であり、<math>\mathfrak{g}</math>-値1-形式{{Mvar|α}}、{{Mvar|β}}に対し、<math>[\alpha,\beta](X,Y) := [\alpha(X),\beta(Y)]-[\alpha(Y),\beta(X)]</math>である。 上記の2式のうち下のものを'''モーレー・カルタンの方程式'''{{refn|{{cite web|url=https://www.math.tsukuba.ac.jp/~tasaki/lecture/ln1997/cho97.pdf|accessdate=2023/06/27|title=中央大学大学院理工学研究科 数学特別講義第三 微分形式の可積分性|page=50}}}}({{lang-en-short|Maurer-Cartan equation}})、もしくはリー群{{mvar|G}}の'''構造方程式'''{{refn|[[#小林]] p.59.}}({{lang-en-short|structure equation}})という。 == 定義 == 本節ではダルブー導関数を具体的に定式化する。 すでに述べたように<math>f~:~ M \to G</math>のダルブー導関数とは、<math>f_*~:~ TM \to TG</math>の像を群の元をかけることで<math>\mathfrak{g}=T_eG</math>まで移動したものである。具体的には<math>P \in M</math>、<math>v_P \in T_PM</math>に対し、<math>f_*(v_P)</math>は<math>T_{f(P)}G </math>の元なので、<math>f(P)^{-1}</math>を左からかける演算<math>L_{f(P)^{-1}}</math>の導関数<math>L_{f(P)^{-1}}{}_* </math>を作用させた : <math>\omega_f|_P :=L_{f(P)^{-1}}{}_*(f_*(v_P)) </math> が{{Mvar|f}}のダルブー導関数である。この事実とモーレー・カルタン形式の定義を照らし合わせる事で、ダルブー導関数を以下のように定式化できる事がわかる: {{math theorem|定義| <math>f~:~ M \to G</math>の'''(左)ダルブー導関数'''({{Lang-en-short|(left) Darboux derivative}})とは{{Mvar|M}}上の<math>\mathfrak{g}</math>-値[[微分形式|1-形式]] : <math>\omega_f :=f^*(\omega^G) </math> の事である<ref name=Sharpe115>[[#Sharpe]] p.115.</ref>。 |note=ダルブー導関数}} モーレー・カルタン形式が構造方程式を満たすことから、以下が成立する事がわかる: {{math theorem|定理|ダルブー導関数は以下を満たす<ref name=Sharpe115 />: : <math>d\omega_f + {1\over 2}[\omega_f,\omega_f]=0</math> }} == 微分積分学の基本定理{{Anchors|微分積分学の基本定理の章}} == 本節の目標は{{mvar|ω}}をダルブー導関数に持つ関数が存在する条件を記述する事である。 そのための準備として、まず「発展」という概念と「モノドロミー」という概念を定義する。 === 発展 === {{Mvar|f}}の定義域が区間<math>I=[a,b]</math>の場合は、「微分積分学の基本定理」が成り立つ: {{math theorem|定理|{{mvar|ω}}を区間<math>I=[a,b]</math>上の<math>\mathfrak{g}</math>-値1-形式とし、{{mvar|g}}を{{mvar|G}}の元とする。このとき、関数<math>f~:~I \to G</math>で :<math>\omega_f =\omega</math>、<math>f(a) = g </math> を満たすものが一意に存在する<ref name="Sharpe119">[[#Sharpe]] pp.119-120.</ref>。 }} 上記の定理を多様体{{mvar|M}}上の曲線に対して用いる事で以下の定義が得られる: {{math theorem|定理・定義|{{mvar|ω}}を多様体{{mvar|M}}上の<math>\mathfrak{g}</math>-値1-形式とし、<math>c~:~[a,b] \to M</math>を{{mvar|M}}上の曲線とし、{{mvar|g}}を{{mvar|G}}の元とし、<math>c^*(\omega)</math>を{{mvar|ω}}の{{mvar|c}}による<math>[a,b]</math>への引き戻しとする。このとき、<math>\tilde{c}~:~I \to G</math>で : <math>\omega_{\tilde{c}} =c^*(\omega)</math>、<math>\tilde{c}(a) = g </math> を満たすものが存在する。 <math>\tilde{c}</math>を{{mvar|g}}からの{{mvar|c}}に沿った{{mvar|ω}}の'''発展'''({{lang-en-short|development of {{mvar|ω}} along {{mvar|c}} starting at {{mvar|g}}}})という<ref name="Sharpe119" />。 |note=曲線の発展}} === モノドロミー === {{Mvar|ω}}が構造方程式を満たせば、発展の終点は[[ホモトピー]]不変である: {{math theorem|定理|{{mvar|ω}}を多様体{{mvar|M}}上の<math>\mathfrak{g}</math>-値1-形式で : <math>d\omega+{1\over 2}[\omega,\omega]=0</math> を満たすものとする。さらに<math>c_0, c_1~:~[a,b] \to M</math>を{{mvar|M}}上の2つの曲線で{{mvar|c{{sub|0}}}}の始点、終点がそれぞれ{{mvar|c{{sub|1}}}}の始点、終点に一致するものとし、さらに{{mvar|g}}を元{{mvar|G}}の元とする。 このとき、{{mvar|c{{sub|0}}}}と{{mvar|c{{sub|1}}}}が(始点と終点を固定した)[[ホモトピー|ホモトープ]]であれば、{{mvar|c{{sub|0}}}}の{{mvar|g}}からの発展<math>\tilde{c}_0~:~I \to G</math>の終点と{{mvar|c{{sub|1}}}}の{{mvar|g}}からの発展<math>\tilde{c}_1~:~I \to G</math>の終点は等しい<ref name="Sharpe121">[[#Sharpe]] p.121-123.</ref>。 }} よって{{mvar|M}}の点{{mvar|P{{sub|0}}}}における{{mvar|M}}の[[基本群]]<math>\pi_1(M,P_0)</math>を考えると、<math>[c] \in \pi_1(M,P_0)</math>に{{mvar|c}}の発展<math>\tilde{c}</math>の終点<math>\in G</math>を対応させる写像は代表元{{mvar|c}}の取り方によらず[[well-defined]]である。 {{math theorem|定理・定義|記号を上述のように取るとき、写像 : <math> \Phi_{\omega}~:~[c] \in \pi_1(M,P_0) \mapsto ( </math>単位元{{mvar|e}}からの<math>c</math>の発展<math>\tilde{c}</math>の終点)<math>\in G</math> は準同型になる。<math> \Phi_{\omega}</math>を{{mvar|ω}}の'''モノドロミー表現'''({{lang-en-short|monodromy representation}})といい、{{mvar|G}}の部分群<math>\Phi_{\omega}(\pi_1(M,P_0)) \subset G</math>を'''モノドロミー群'''({{lang-en-short|monodromy group}})もしくは'''周期群'''({{lang-en-short|period group}})という<ref name="Sharpe121" />。 |note=モノドロミー}} === 定理の記述 === モノドロミーを用いると、{{mvar|ω}}をダルブー導関数に持つ関数が存在する必要十分条件を特徴づける事ができる: {{math theorem|定理|{{mvar|G}}をリー群とし、<math>\mathfrak{g}</math>を{{mvar|G}}のリー代数とし、{{mvar|M}}を多様体とし、{{mvar|ω}}を{{mvar|M}}上の<math>\mathfrak{g}</math>-値1-形式とする。このとき、ダルブー導関数<math>\omega_f</math>が{{mvar|ω}}と一致する関数<math>f~:~M \to G</math>が存在する必要十分条件は、以下の2条件が成立する事である<ref name="Sharpe121" />: * <math>d\omega+{1\over 2}[\omega,\omega]=0</math> * モノドロミー群<math>\Phi_{\omega}(\pi_1(M,P_0)) \subset G</math>は単位元のみからなる群<math>\{e\}</math>である。 |note=微分積分学の基本定理({{lang-en-short|Fundamental theorem of calculus}}<ref name="Sharpe121" />)}} {{math theorem|定理|記号を上の定理と同様に取る。このとき、ダルブー導関数<math>\omega_f</math>が{{mvar|ω}}と一致する関数2つが存在すれば、それらの関数{{mvar|f{{sub|1}}}}、{{mvar|f{{sub|2}}}}は、ある<math>g \in G</math>が存在して :<math>\forall P \in M ~:~f_1(P)=gf_2(P)</math> を満たす<ref name="Sharpe121" />。 |note=解の実質的な一意性}} == 脚注 == === 出典 === {{reflist|20em}} === 注釈 === {{reflist|30em|group="注"}} == 参考文献 == * {{Cite book|洋書 |title=Differential Geometry: Cartan's Generalization of Klein's Erlangen Program |publisher=Sprinver |date=1997/6/12 |author=Richard Sharpe |ref=Sharpe |series=Graduate Texts in Mathematics |volume=166 |isbn=978-0387947327}} * {{Cite book|洋書 |title=Differential Geometry: Connections, Curvature, and Characteristic Classes |date=2017/6/15 |publisher=[[シュプリンガー・サイエンス・アンド・ビジネス・メディア|Springer]] |author=[[:en:Loring W. Tu|Loring W. Tu]] |series=[[Graduate Texts in Mathematics]] |volume=275 |isbn=978-3319550824 |ref=Tu}} * {{Cite book|和書 |title=接続の微分幾何とゲージ理論 |date=1989/5/15 |publisher=[[裳華房]] |author=[[小林昭七]] |isbn=978-4785310585 |ref=小林}} {{DEFAULTSORT:たるふーとうかんすう}} [[Category:数学に関する記事]] [[Category:リー群論]] [[Category:微分法]] [[Category:微分積分学]] [[Category:数学のエポニム]]
2023-11-15T14:46:47Z
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アル・シファ病院
アル・シファ病院(アル・シファびょういん、アラビア語: مستشفى الشفاء, Mustashfā al-Shifāʾ, ムスタシュファー・アッ=シファー、英語:Al-Shifa Hospital)は、パレスチナ自治区ガザ地区にある主要な総合病院で救急と外科を持つ。 700床を有する地域最大の病院で、運営はガザ地区を実効支配するイスラム組織ハマースの政治部門のガザ保健省が担う。国境なき医師団(MSF)も活動する。 2023年11月時点の病院長は、ハマースの報道官を兼ねるムハンマド・アブ・サルミヤ(アラビア語:محمد أبو سلمية、文語アラビア語発音:Muḥammad Abū Salmīya ないしは Salmīyah, ムハンマド・アブー・サルミーヤ、英字表記例:Muhammad Abu Salmiya、Mohammad Abu Salmiya等)医師で、約1500人の職員を擁する。 アラビア語発音はアッ=シファーだが、日本のメディアではアル・シファとの表記が一般的である。 アル・シファ病院はイギリスがパレスチナから撤退する2年前の1946年のイギリス委任統治時代に建設された。 1948年からは約20年近くエジプトの占領下に置かれた。 1967年にはイスラエルがガザ地区を占領し、その後に起きた紛争は、時に病院の敷地内に及ぶことがあった。 1994年には前年のオスロ合意に伴いガザ地区は限定的な自治権を得たため、病院の屋上にパレスチナの旗が掲揚され、当時パレスチナ解放機構(PLO)執行委員会議長のヤセル・アラファトが敬礼をした。 2023年11月現在、ガザ地区には、複雑症例や重症の患者を多数受け入れ、治療できる医療施設は他にない。2023年パレスチナ・イスラエル戦争ではイスラエルによる容赦のない攻撃を受け壊滅的な状況に陥り、多数の死傷者を出した。同年11月10日には電力を喪失。救急車も出動できず、絶え間ない砲撃により患者や医療スタッフは避難できない状況となった。10月7日以降、負傷者は多数にのぼり、大多数は重篤な状態にあり複雑な手術や数週間から数か月にわたる持続的な治療を必要とする患者である。MSFスタッフは、病院から逃げようとした人びとがイスラエル軍により銃撃されているのを目撃した。 MSFは、イスラエル軍による同病院に残る民間人への攻撃を強く非難した。 同病院は、数千人の民間人の避難先ともなっていたが、ムハンマド・アブ・サルミヤ院長は、夜間に繰り返し攻撃にさらされ、数時間にわたり停電となったと証言。未熟児2人が攻撃により死亡したほか、電源の喪失により、乳児の多くが死亡した。 イスラエルは、病院への攻撃の根拠として、ハマースがガザの複数の病院の地下にトンネルや防空壕を造り、民間人を人間の盾にしていると非難したが、ハマース側はこれを否定している。また、シファ病院で勤務していたノルウェー人のマッズ・ギルバート医師は、イスラエル軍の攻撃で「酸素吸入装置が壊れたため、39人の乳児が保育器から出された」「3人が死亡した」と病院内で働く友人から聞かされ、けが人の多くにウジ虫が発生し、病院は殺された人でいっぱいになっている実情を語った。ギルバート医師は、ハマースの司令部が病院地下にあるとするイスラエルの主張を一蹴し、「これはイスラエル側のプロパガンダ=嘘だ。私はシファ病院で2006年から勤務し、2006年、2009年、2012年、2014年の爆撃中も働いていた。一度も司令部があるという兆候を目にしたことはない。軍用車も兵士も実効支配する軍政府幹部も見たことはない。行動規制もなくどこでも歩き回ることができた。写真もビデオも好きなように撮ることができた。どんなドアも開けられたし写真撮影を規制された場所もない。もしそんな想像上の施設があるならば何か兆候が見られたと思う。『そこには入るな』『そこで写真を撮るな』と言われたり。だからネタニヤフ氏にこう問いただしたい。証拠を見せなさい。エビデンスを示しなさい」と語った。 国際連合(UN)の国際連合人道問題調整事務所(OCHA)によると、11月10日現在、ガザの36病院のうち約20か所がもはや機能してないとしている。MSFは「シファ病院内の民間人は、イスラエル軍に死刑執行を宣告されたようなものだ」と例えた。 11月14日には、病院長は、病院施設内には遺体が散乱しており、遺体安置所には電気が来ていない。イスラエル軍が施設を包囲する中、179人の遺体は中庭に一緒に埋葬されたと述べた。 11月15日には、イスラエル軍はシファ病院内でイスラム組織ハマースに対する作戦を実行していると発表、病院内に突入し、ハマースの全戦闘員に投降を呼びかけた。 11月16日、国境なき医師団のスタッフとして、シファ病院で活動していたことのある白根麻衣子は、同病院にはハマースの拠点などは全くなく、敷地内で戦闘が準備されている場所という感覚は感じたことが一度もない。また、ハマースの戦闘員らが出入りした噂すらも聞いたことがなく純然たる医療施設であったとTBSニュースで証言した。番組内での須賀川拓によると、「例えばレントゲン技師など特別な技術を持っている人が、ハマースに悪用され、戦争に加担しているというような事例はないのか?」との質問にも、全く考えられないと答えた。須賀川は、イスラエル側の言うハマースの1300本全長500kmのトンネルに関し、それらは元となる証拠もなく、イスラエルが病院を占領する行為は彼らは戦略上必要としているが、人質の救出作戦の名目でパレスチナ全体への報復だと解説した。 また、日本国はシファ病院への攻撃について、イスラエルの行動が全体として国際法と完全に整合的であるとの法的評価は行っていないとする立場を取った。 11月19日、イスラエル軍IDFはX(旧Twitter)でハマースが病院地下に軍事拠点を設置した証拠として新たに竪穴10メートルから横へ55メートル続いたトンネルの動画をノンストップ動画で公開した。 イスラエル軍はトンネル入り口はシファ病院敷地内の小屋があった場所の下で見つかったと主張。かつてより、病院地下には広大なハマースの指令部などが存在するとCGを作成しプロパガンダを繰り返していたものの、実際に発見されたのは深さ10m全長55mの細いトンネルと鋼鉄の防爆ドアに過ぎなかった。IDFは「こういったドアは、ハマースが司令部や地下資産にイスラエル軍侵入阻止の目的で使用する」と声明で述べ、ドアの先になにがあるかは引き続き調査中とした。一方、ハマース側は、「地下トンネルはガザ内では道路に沿ってトンネルが伸びており、我々はそれを隠していない」とする声明を発表。 同日には更にイスラエル軍IDFは ネパール国籍とタイ国籍の人質2名が10月7日にシファ病院内へ連行された模様だとする動画を公開した。 11月20日、イスラエルのバラック元首相がCNNに対し、今から40年から50年前にイスラエルの建築業者によってシファ病院の地下に掩蔽壕(えんぺいごう)が建造されたと発言。キャスターが思わず「失言ですか?」と聞き返す場面があったが、バラックは掩蔽壕の存在は何年も前から知られており、それをハマースが司令部として流用していたことは明白だと述べた。40年以上前に建設された掩蔽壕にハマースが独自の増築を施しているかなどや、明らかな軍事目的の使用の痕跡立証が今後の課題となる。この時点でイスラエル軍は、他にも多くのトンネルや地下室を公開しているが、そこにいるとされる240人の人質は、1人も発見されなかった。 11月22日、イスラエル軍IDFは3日前の19日に公開されたパレスチナ自治区ガザのシファ病院にある地下トンネル内で発見された防爆ドアの先の様子を報道陣に公開した。また、トンネル入り口付近の病院上空からトンネル奥までのノンストップ動画を軍のX(旧Twitter)上で公開した。2mほどの高さの狭いトンネルの中にはタイル張りのトイレと洗面台など近代的な浴室設備が完備され、エアコン付きの会議に使用可能な広さの部屋やキッチンもあった。電線は地上の病院と繋がっており、地下トンネルにある電気機器用の電力は病院の電力を拝借していたとしている。 トンネル構造はアーチ状のコンクリートが天井に敷き詰められた形状で、ハマースが2021年にTBSの須賀川記者の取材に対し公開しているトンネル構造と合致している。 また、BBC等ほかのメディアにも同様にハマースが自前で建造したと主張するトンネルの動画や画像が多数公開されており、今回シファ病院地下で発見されたトンネルと同様の構造であることが確認できる。
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アル・シファ病院は、パレスチナ自治区ガザ地区にある主要な総合病院で救急と外科を持つ。 700床を有する地域最大の病院で、運営はガザ地区を実効支配するイスラム組織ハマースの政治部門のガザ保健省が担う。国境なき医師団(MSF)も活動する。 2023年11月時点の病院長は、ハマースの報道官を兼ねるムハンマド・アブ・サルミヤ医師で、約1500人の職員を擁する。 アラビア語発音はアッ=シファーだが、日本のメディアではアル・シファとの表記が一般的である。
{{Infobox hospital | Name = アル・シファ病院 | Org/Group = <!-- optional --> | Image = Damage in Gaza Strip during the October 2023 - 35.jpg | Caption =2023年10月11日のアル・シファ病院 | map_type = | latitude = | longitude = | Logo = File:Logo of the Palestinian Ministry of Health.png | Location = [[パレスチナ自治区]] | Region = [[ガザ県]] | State = <!-- optional UK: England, Wales, Scotland, Northern Ireland. US: The US State --> | Country = [[ガザ市|ガザ]] | Coordinates = {{Coord|31|31|27|N|34|26|39|E|type:landmark|display=inline,title}} | HealthCare = 内科、外科、小児科、眼科、産科、婦人科 | Speciality = <!-- if devoted to a speciality, i.e. not if has broad spectrum of specialities --> | Standards = <!-- optional if no national standards --> | Emergency = <!-- UK/IR/HK/SG: Yes/No, CA/US: I/II/III for Trauma certification level --> | Affiliation = <!-- Medical School and University affiliations (medical or paramedical) --> | Beds =700床+ | Founded = 1946年 | Closed = <!-- optional --> |healthcare=[[ガザ保健省]]}} [[File:SoI-War 23-10-27 IDF 07-02.jpg|thumb|260px|right|アル・シファ病院空撮映像]] [[File:Damage in Gaza Strip during the October 2023 - 41.jpg|thumb|260px|right|負傷し治療を待つ子供たち]] '''アル・シファ病院'''(アル・シファびょういん、{{lang-ar|مستشفى الشفاء}}, Mustashfā al-Shifāʾ, ムスタシュファー・アッ=シファー<ref group="注">アラビア語会話での実際の発音はつなげ読みや同化のためmustashfa-sh-shifāʾ(ムスタシュファ・ッ=シファー(ッ))となっている。</ref>、英語:Al-Shifa Hospital)は、[[パレスチナ自治区]][[ガザ地区]]にある主要な[[総合病院]]で[[救急]]と[[外科]]を持つ。 700床を有する地域最大の[[病院]]で、運営はガザ地区を実効支配するイスラム組織[[ハマース]]の政治部門の[[:en:Gaza_Health_Ministry|ガザ保健省]]が担う<ref>{{Cite news |title=Can we trust casualty figures from the Hamas-run Gaza health ministry? |url=https://www.theguardian.com/world/2023/oct/26/can-we-trust-casualty-figures-from-the-hamas-run-gaza-health-ministry |work=The Guardian |date=2023-10-27 |access-date=2023-11-18 |issn=0261-3077 |language=en-GB |first=Chris |last=McGreal}}</ref><ref name=":1">{{Cite web |title=Gaza Strip Hospitals. A History of Israeli Targeting |url=https://www.tellerreport.com/life/2023-11-16-gaza-strip-hospitals--a-history-of-israeli-targeting.Hk-Dd077Ep.html |website=www.tellerreport.com |access-date=2023-11-18 |language=en}}</ref><ref>{{Cite web |title=What is Gaza's Ministry of Health and how does it calculate the war's death toll? |url=https://apnews.com/article/israel-hamas-war-gaza-health-ministry-health-death-toll-59470820308b31f1faf73c703400b033 |website=AP News |date=2023-10-26 |access-date=2023-11-18 |language=en}}</ref>。[[国境なき医師団]](MSF)も活動する<ref name="msf">{{Cite web|date=2023年11月12日|url=https://www.msf.or.jp/news/press/detail/pse20231112st.html|title=ガザ:患者と医療スタッフは病院から動けない──病院攻撃を今すぐ中止せよ|publisher=国境なき医師団|accessdate=2023-11-15}}</ref>。 [[2023年]]11月時点の病院長は、ハマースの報道官を兼ねる[[ムハンマド・アブ・サルミヤ]](アラビア語:<span lang="ar" dir="rtl">محمد أبو سلمية</span>、文語アラビア語発音:Muḥammad Abū Salmīya ないしは Salmīyah, ムハンマド・アブー・サルミーヤ、英字表記例:Muhammad Abu Salmiya、Mohammad Abu Salmiya等<ref group="注">アラビア語圏では家名部分がサルミーヤではなく元々の語形と思われるスィルミーヤとしてアブー・スィルミーヤと発音されることもあり、英語記事で対応する表記はAbu Silmiyya、Abu Silmiya、Abu Silmiyahとなっている。</ref>)医師で、約1500人の職員を擁する<ref name=":1" /><ref>{{Cite news |title=As Gaza Hospitals Collapse, Medical Workers Face the Hardest Choices |url=https://www.nytimes.com/2023/11/06/world/middleeast/gaza-hospitals-israel-war.html |work=The New York Times |date=2023-11-06 |access-date=2023-11-18 |issn=0362-4331 |language=en-US |first=Ameera |last=Harouda |first2=Maria |last2=Abi-Habib |first3=Abu Bakr |last3=Bashir}}</ref>。 アラビア語発音はアッ=シファーだが、日本のメディアではアル・シファとの表記が一般的である。 == 概要 == アル・シファ病院は[[イギリス]]が[[パレスチナ]]から撤退する2年前の[[1946年]]の[[イギリス]]委任統治時代に建設された<ref name=":0">{{Cite news |title=Factbox-Gaza's Al Shifa Hospital becomes latest battleground |url=https://jp.reuters.com/article/israel-palestinians-gaza-hospital-idCAKBN3251DR |work=Reuters |date=2023-11-10 |access-date=2023-11-18 |language=ja}}</ref>。 [[1948年]]からは約20年近く[[エジプト]]の[[占領]]下に置かれた<ref name=":0" />。 [[1967年]]には[[イスラエル]]がガザ地区を占領し、その後に起きた紛争は、時に病院の敷地内に及ぶことがあった<ref name=":0" />。 [[1994年]]には前年の[[オスロ合意]]に伴いガザ地区は限定的な[[自治権]]を得たため、病院の屋上に[[パレスチナの旗]]が掲揚され、当時[[パレスチナ解放機構]](PLO)執行委員会議長の[[ヤセル・アラファト]]が敬礼をした<ref name=":0" /><ref>{{Cite news |title=Oslo Accords: 30 years of lost Palestinian hopes |url=https://www.bbc.com/news/world-middle-east-66751704 |work=BBC News |date=2023-09-12 |access-date=2023-11-18 |language=en-GB}}</ref>。 2023年11月現在、ガザ地区には、複雑症例や[[重症]]の患者を多数受け入れ、治療できる医療施設は他にない。[[2023年パレスチナ・イスラエル戦争]]では[[イスラエル]]による容赦のない攻撃を受け壊滅的な状況に陥り、多数の死傷者を出した。同年11月10日には[[電力]]を喪失。[[救急車]]も出動できず、絶え間ない砲撃により患者や医療スタッフは避難できない状況となった。10月7日以降、負傷者は多数にのぼり、大多数は重篤な状態にあり複雑な[[手術]]や数週間から数か月にわたる持続的な治療を必要とする患者である。MSFスタッフは、病院から逃げようとした人びとが[[イスラエル軍]]により銃撃されているのを目撃した。 MSFは、イスラエル軍による同病院に残る民間人への攻撃を強く非難した<ref name="msf" />。 [[File:Damage in Gaza Strip during the October 2023 - 36.jpg|thumb|260px|right|病院の床で治療を受ける負傷患者]] 同病院は、数千人の[[民間人]]の避難先ともなっていたが、ムハンマド・アブ・サルミヤ院長は、夜間に繰り返し攻撃にさらされ、数時間にわたり[[停電]]となったと証言。[[未熟児]]2人が攻撃により死亡したほか、電源の喪失により、乳児の多くが死亡した<ref name="afpbb">{{Cite web|date=|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3490896|title=イスラエルが「死刑執行」宣告の訴えも 数千人退避のガザ最大病院|publisher=AFPBB NEWS|accessdate=2023-11-15}}</ref>。 イスラエルは、病院への攻撃の根拠として、[[ハマース]]がガザの複数の病院の地下に[[トンネル]]や[[防空壕]]を造り、民間人を[[人間の盾]]にしていると非難したが、ハマース側はこれを否定している<ref name="afpbb"/>。また、シファ病院で勤務していた[[ノルウェー人]]の[[マッズ・ギルバート]]医師は、イスラエル軍の攻撃で「[[酸素吸入|酸素吸入装置]]が壊れたため、39人の乳児が[[保育器]]から出された」「3人が死亡した」と病院内で働く友人から聞かされ、けが人の多くに[[蛆|ウジ虫]]が発生し、病院は殺された人でいっぱいになっている実情を語った。ギルバート医師は、ハマースの司令部が病院地下にあるとするイスラエルの主張を一蹴し、「これはイスラエル側の[[プロパガンダ]]=嘘だ。私はシファ病院で2006年から勤務し、2006年、2009年、2012年、2014年の爆撃中も働いていた。一度も司令部があるという兆候を目にしたことはない。軍用車も[[兵士]]も実効支配する軍政府幹部も見たことはない。行動規制もなくどこでも歩き回ることができた。写真もビデオも好きなように撮ることができた。どんなドアも開けられたし写真撮影を規制された場所もない。もしそんな想像上の施設があるならば何か兆候が見られたと思う。『そこには入るな』『そこで写真を撮るな』と言われたり。だからネタニヤフ氏にこう問いただしたい。証拠を見せなさい。エビデンスを示しなさい」と語った<ref name="ANN">{{Cite web|date=2023/11/13|url=https://www.youtube.com/watch?v=tfpTMspzBoA|title=「患者襲うスナイパーも」ガザの病院“包囲”院内の惨状「地下にハマス」関係者は否定(2023年11月12日)|publisher=ANNnewsCH|accessdate=2023-11-15}}</ref>。 [[国際連合]](UN)の[[国際連合人道問題調整事務所]](OCHA)によると、11月10日現在、ガザの36病院のうち約20か所がもはや機能してないとしている。MSFは「シファ病院内の民間人は、イスラエル軍に[[死刑]]執行を宣告されたようなものだ」と例えた<ref name="afpbb"/>。 11月14日には、病院長は、病院施設内には[[遺体]]が散乱しており、[[遺体安置所]]には[[電気]]が来ていない。イスラエル軍が施設を包囲する中、179人の遺体は中庭に一緒に埋葬されたと述べた<ref name="aljazeera">{{Cite web|date=|url=https://www.aljazeera.com/news/2023/11/14/gazas-al-shifa-hospital-forced-to-bury-dead-patients-in-mass-grave|title=Gaza’s al-Shifa Hospital forced to bury dead patients in ‘mass grave’|publisher=ALJAZEERA|accessdate=2023-11-17}}</ref>。 11月15日には、イスラエル軍はシファ病院内でイスラム組織ハマースに対する[[作戦]]を実行していると発表、病院内に突入し、ハマースの全戦闘員に投降を呼びかけた<ref>{{Cite web |author=Nidal Al-Mughrabi |url=https://jp.reuters.com/world/mideast/ZF4BENWSOFOZJJAOKSAYS24FHU-2023-11-15/ |title=イスラエル軍、ガザ最大シファ病院に突入 ハマスに投降呼びかけ |publisher=[[ロイター]] |date=2023-11-15 |accessdate=2023-11-15}}</ref>。 11月16日、[[国境なき医師団]]のスタッフとして、シファ病院で活動していたことのある[[白根麻衣子]]は、同病院にはハマースの拠点などは全くなく、敷地内で戦闘が準備されている場所という感覚は感じたことが一度もない。また、ハマースの戦闘員らが出入りした噂すらも聞いたことがなく純然たる[[医療施設]]であったと[[TBS]][[ニュース]]で証言した。番組内での[[須賀川拓]]によると、「例えば[[レントゲン技師]]など特別な技術を持っている人が、ハマースに悪用され、戦争に加担しているというような事例はないのか?」との質問にも、全く考えられないと答えた。須賀川は、イスラエル側の言うハマースの1300本全長500㎞のトンネルに関し、それらは元となる証拠もなく、イスラエルが病院を占領する行為は彼らは戦略上必要としているが、人質の救出作戦の名目でパレスチナ全体への報復だと解説した<ref name="zYe6q">{{Cite web|date=|url=https://www.youtube.com/watch?v=zYe6qM7-e10|title=「専門病棟が標的になった」イスラエル軍がガザ最大病院への軍事作戦を実行 ハマスの拠点主張も、病院に何度も行っていた日本人は「噂にも聞いたことがない」|publisher=TBS NEWS DIG|accessdate=2023-11-18}}</ref>。 また、[[日本国]]はシファ病院への攻撃について、イスラエルの行動が全体として[[国際法]]と完全に整合的であるとの法的評価は行っていないとする立場を取った<ref name="zYe6q"/>。 11月19日、イスラエル軍IDFは[[Twitter|X(旧Twitter)]]でハマースが病院地下に軍事拠点を設置した証拠として新たに竪穴10メートルから横へ55メートル続いた[[トンネル]]の動画をノンストップ動画で公開した<ref>{{Cite web |title=ハマスの「テロ・トンネル」とする映像、イスラエルが公開 ガザ病院の地下 |url=https://www.bbc.com/japanese/video-67470856 |website=BBCニュース |date=2023-11-20 |access-date=2023-11-21 |language=ja}}</ref>。 イスラエル軍はトンネル入り口はシファ病院敷地内の小屋があった場所の下で見つかったと主張。かつてより、病院地下には広大なハマースの指令部などが存在すると[[CG]]を作成し[[プロパガンダ]]を繰り返していたものの、実際に発見されたのは深さ10ⅿ全長55ⅿの細いトンネルと[[鋼鉄]]の防爆ドアに過ぎなかった。IDFは「こういったドアは、ハマースが司令部や地下資産にイスラエル軍侵入阻止の目的で使用する」と声明で述べ、ドアの先になにがあるかは引き続き調査中とした。一方、ハマース側は、「地下トンネルはガザ内では道路に沿ってトンネルが伸びており、我々はそれを隠していない」とする声明を発表<ref name="DIG">{{Cite web|date=|url=https://www.youtube.com/watch?v=Xt8xi1iriNk|title=「病院は“死の領域”と化し絶望的な状況」ガザのシファ病院 イスラエル側が映像を相次いで公開|TBS NEWS DIG|publisher= TBS NEWS DIG Powered by JNN |accessdate=2023-11-23}}</ref>。 同日には更にイスラエル軍IDFは [[ネパール]]国籍と[[タイ王国|タイ]]国籍の人質2名が10月7日にシファ病院内へ連行された模様だとする動画を公開した<ref name="DIG"/><ref>{{Cite news |title=イスラエル、シファ病院地下で55メートルのトンネル発見と発表 |url=https://jp.reuters.com/world/security/N6XUM722ORLE5HMUE4YWTISSPE-2023-11-19/ |work=Reuters |date=2023-11-19 |access-date=2023-11-21 |language=ja}}</ref>。 11月20日、イスラエルの[[エフード・バラック|バラック]]元首相が[[CNN]]に対し、今から40年から50年前にイスラエルの建築業者によってシファ病院の地下に[[掩蔽壕]](えんぺいごう)が建造されたと発言。キャスターが思わず「失言ですか?」と聞き返す場面があったが、バラックは掩蔽壕の存在は何年も前から知られており、それをハマースが司令部として流用していたことは明白だと述べた。40年以上前に建設された掩蔽壕にハマースが独自の増築を施しているかなどや、明らかな[[軍事]]目的の使用の痕跡立証が今後の課題となる<ref>{{Cite web |title=ハマス、過去にイスラエルが作った掩蔽壕を使用 イスラエル元首相 |url=https://www.cnn.co.jp/world/35211779.html |website=CNN.co.jp |access-date=2023-11-23 |language=ja}}</ref><ref name="khb">{{Cite web|date=2023-11-23|url=https://www.khb-tv.co.jp/news/15065211|title=イスラエル軍が映像で主張「病院地下に司令室」戦闘続くガザ 休止はいつ?khb-tv|accessdate=2023-11-24}}</ref>。この時点でイスラエル軍は、他にも多くのトンネルや地下室を公開しているが、そこにいるとされる240人の人質は、1人も発見されなかった<ref name="khb"/>。 11月22日、イスラエル軍IDFは3日前の19日に公開されたパレスチナ自治区ガザのシファ病院にある地下トンネル内で発見された防爆ドアの先の様子を報道陣に公開した<ref>{{Cite news |title=イスラエル、シファ病院の地下トンネル公開 エアコン付き部屋も |url=https://jp.reuters.com/world/security/72E6SUOFKBJUXOLPDYHUUAKWUM-2023-11-22/ |work=Reuters |date=2023-11-22 |access-date=2023-11-23 |language=ja |first=Ronen |last=Zvulun}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://news.ntv.co.jp/category/international/f223c0ad177b47838e992d3c85c7b032 |title=シファ病院敷地内・地下トンネルの新たな映像を公開 ハマス拠点か |work=[[日本ニュースネットワーク|日テレNEWS]] |date=2023-11-23 |access-date=2023-11-23}}</ref>。また、トンネル入り口付近の病院上空からトンネル奥までのノンストップ動画を軍のX(旧Twitter)上で公開した<ref>{{Cite web |title=https://twitter.com/IDF/status/1727476410803953868 |url=https://twitter.com/IDF/status/1727476410803953868 |website=X (formerly Twitter) |access-date=2023-11-23 |language=ja}}</ref>。2mほどの高さの狭いトンネルの中にはタイル張りの[[トイレ]]と[[洗面台]]など近代的な浴室設備が完備され、[[エアコン]]付きの会議に使用可能な広さの部屋や[[キッチン]]もあった。[[電線]]は地上の病院と繋がっており、地下トンネルにある電気機器用の電力は病院の電力を拝借していたとしている。 トンネル構造は[[アーチ]]状の[[コンクリート]]が天井に敷き詰められた形状で、ハマースが[[2021年]]にTBSの須賀川記者の取材に対し公開しているトンネル構造と合致している。<ref>{{Cite web |title=【独占取材】ガザ過激派の地下トンネル、真っ暗な道を行く 空にはイスラエルのドローンが |url=https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/20177 |website=TBS NEWS DIG |date=2021-10-20 |access-date=2023-11-23 |language=ja}}</ref> また、BBC等ほかのメディアにも同様にハマースが自前で建造したと主張するトンネルの動画や画像が多数公開されており、今回シファ病院地下で発見されたトンネルと同様の構造であることが確認できる<ref>{{Cite news |title=Israel targets Hamas’s labyrinth of tunnels under Gaza |url=https://www.bbc.com/news/world-middle-east-67097124 |date=2023-10-13 |access-date=2023-11-23 |language=en-GB}}</ref>。 <gallery caption="戦時下のアル・シファ病院" mode="packed" height="180"> File:Damage in Gaza Strip during the October 2023 - 40.jpg|病院へ運ばれる負傷者 File:Damage in Gaza Strip during the October 2023 - 34.jpg|病院内へ運び込まれる負傷した子供 File:Damage in Gaza Strip during the October 2023 - 45.jpg|治療を受ける子供 </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <div class="references-small"><references group="注"/></div> === 出典 === <div class= "references-small">{{reflist|2}}</div> <!-- == 参考文献 == * --> == 関連項目 == * [[パレスチナ問題]] * {{ill2|パレスチナ国内の病院|en|List of hospitals in the State of Palestine}} * [[ガザの戦い]] * [[聖書に登場する地名一覧]] * [[侵略戦争]] * [[人道的介入]] * [[国際刑事裁判所]] (ICC) * [[戦争犯罪]] * [[国際法]] * [[国際人道法]] * [[トランスヒューマニズム]] * [[強制隔離]] * [[民族浄化]] * [[インディアン戦争]] * [[海外領土・自治領の一覧]] * [[ジェノサイド]] * [[ジェノサイドの10段階]] * [[ポグロム]] * [[ロヒンギャ]] == 外部リンク == {{commonscat|Al-Shifa Medical Complex|アル・シファ病院}} {{DEFAULTSORT:あるしふあひよういん}} [[Category:ガザの医療機関]] [[Category:ガザ地区の建築物]]
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プレリュード (ファイナルファンタジーシリーズの曲)
プレリュードは、植松伸夫が作曲したファイナルファンタジーシリーズの音楽。 1987年のスクウェアはヒット作も金も無く、経営難だった。いよいよ解散かなと思われていた頃に、最後の夢であり最後の1作であったファイナルファンタジーがまぐれでヒットした。このファイナルファンタジーに『プレリュード』が用いられていた。ファイナルファンタジーをカセットに記録する直前のタイミングで任天堂にどうしてもここに音を入れてくれと言われて作曲していた。ゲームを立ち上げたときに流れる音を入れてくれと言われていた。いきなりやってきて作ってくれと言われて、乱暴だなと思いながら30分ほどで作った。これが後の時代の人々の心にも残る音楽となった。 2014年にはトヨタ自動車から発売されているアクアのCMソングに採用された。演奏しているのはニコニコ動画で人気ピアニストのまらしぃ。 2014年にはケイ・エム・ピーより『プレリュード』を様々なピアノアレンジにした楽譜が発売される。 2019年9月12日にはプレリュードばかりを集めた音楽CDが発売される。1987年から最新作までの音楽と、CDで初めて公開されるアレンジも収録される。
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プレリュードは、植松伸夫が作曲したファイナルファンタジーシリーズの音楽。
'''プレリュード'''は、[[植松伸夫]]が作曲した[[ファイナルファンタジーシリーズ]]の[[音楽]]<ref>{{Cite web |title=PP1091 ピアノピース プレリュード/Prelude 「FINAL FANTASY」シリーズより/植松伸夫 {{!}} ヤマハの楽譜通販サイト Sheet Music Store |url=https://sheetmusic.jp.yamaha.com/products/4533248028391 |website=Sheet Music Store |access-date=2023-11-15 |language=ja}}</ref>。 == 概要 == [[1987年]]の[[スクウェア (ゲーム会社)|スクウェア]]はヒット作も金も無く、経営難だった。いよいよ[[解散]]かなと思われていた頃に、最後の夢であり最後の1作であった[[ファイナルファンタジー]]がまぐれでヒットした。このファイナルファンタジーに『プレリュード』が用いられていた。ファイナルファンタジーを[[カセット]]に[[記録]]する直前のタイミングで[[任天堂]]にどうしてもここに音を入れてくれと言われて作曲していた。ゲームを立ち上げたときに流れる音を入れてくれと言われていた。いきなりやってきて作ってくれと言われて、[[乱暴]]だなと思いながら30分ほどで作った。これが後の時代の人々の[[心]]にも残る音楽となった<ref>{{Cite web |title=FINAL FANTSYの楽曲で知られる世界をまたにかける作曲家『エンタメの今に切り込む新企画【ザ・プロデューサーズ】第十七回・植松伸夫氏』 {{!}} SPICE - エンタメ特化型情報メディア スパイス |url=https://spice.eplus.jp/articles/109931 |website=SPICE(スパイス)|エンタメ特化型情報メディア スパイス |access-date=2023-11-15 |language=ja}}</ref>。 [[2014年]]には[[トヨタ自動車]]から発売されている[[アクア]]の[[CMソング]]に採用された。[[演奏]]しているのは[[ニコニコ動画]]で人気[[ピアニスト]]の[[まらしぃ]]<ref>{{Cite web |title=トヨタのCMに「ファイナルファンタジー」曲 演奏はニコニコピアニストまらしぃさん【動画あり】 |url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1406/21/news013.html |website=ねとらぼ |access-date=2023-11-15 |language=ja}}</ref>。 2014年にはケイ・エム・ピーより『プレリュード』を様々なピアノアレンジにした[[楽譜]]が発売される<ref>{{Cite web |title=オフィシャルピアノピース(ファイナルファンタジーシリーズ)より プレリュード {{!}} ヤマハの楽譜通販サイト Sheet Music Store |url=https://sheetmusic.jp.yamaha.com/products/4513870038777 |website=Sheet Music Store |access-date=2023-11-15 |language=ja}}</ref>。 [[2019年]][[9月12日]]にはプレリュードばかりを集めた[[音楽CD]]が発売される。[[1987年]]から最新作までの音楽と、CDで初めて公開される[[アレンジ]]も収録される<ref>{{Cite web |title=FINAL FANTASY The Preludes since 1987 {{!}} LINE UP {{!}} SQUARE ENIX MUSIC {{!}} SQUARE ENIX |url=https://www.jp.square-enix.com/music/lineup/item/SQEX-10740.html |website=スクウェア・エニックス 商品・サービス情報 {{!}} SQUARE ENIX |access-date=2023-11-15 |language=ja |first=SQUARE ENIX CO |last=LTD}}</ref>。 == 脚注 == {{Reflist|2}} {{DEFAULTSORT:ふれりゆうと}} [[Category:ファイナルファンタジーの音楽]] [[Category:植松伸夫が制作した楽曲]] [[Category:1987年の楽曲]] [[Category:楽曲 ふ]]
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牛踏町
牛踏町(うしぶみちょう)は、愛知県稲沢市の地名。 稲沢市南部に位置する。東・北は附島町、西は福島町、南は北麻績町・込野町に接する。 国勢調査による人口および世帯数の推移。
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牛踏町(うしぶみちょう)は、愛知県稲沢市の地名。
{{Pathnav|日本|愛知県|稲沢市|'''牛踏町'''|hide=1|frame=1}} {{Infobox settlement | name = 牛踏町 | settlement_type = [[町丁]] | image_skyline = <!--- 関連する画像ファイル ---> | imagesize = 270px | image_caption = <!--- 画像の説明 ---> | image_map = | map_caption = 牛踏町の位置 | pushpin_map = Japan Aichi | latd = 35 | latm = 13 | lats = 4.15 | latNS = N | longd = 136 | longm = 46 | longs = 54.08 | longEW = E | subdivision_type = [[国の一覧|国]] | subdivision_name = {{JPN}} | subdivision_type1 = [[都道府県]] | subdivision_name1 = {{Flag|愛知県}} | subdivision_type2 = [[市町村]] | subdivision_name2 = [[File:Flag of Inazawa, Aichi.svg|border|25px]][[稲沢市]] | established_title1 = 町名制定 | established_date1 = | area_footnotes = <ref group=WEB name="area">{{Cite web|url=https://toukei-labo.com/2010/?tdfk=23&city=23220|title=愛知県稲沢市の町丁・字一覧|publisher=人口統計ラボ|language=日本語|accessdate=2023-05-05}}</ref> | area_total_km2 = 0.09488337 | elevation_footnotes = <!--- 標高(<ref group=WEB>) ---> | elevation_m = <!--- 標高 ---> | population_as_of= 2020年(令和2年)10月1日現在 | population_footnotes = {{R|group=WEB|R2国勢調査}} | population_total = 33 | population_density_km2 = auto | timezone1 = [[日本標準時]] | utc_offset1 = +9 | postal_code_type = [[郵便番号]] | postal_code = 492-8443<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?pref=23&city=1232200&cmp=1&mode=list&addr=|title=愛知県稲沢市の郵便番号一覧|publisher=日本郵便|accessdate=2023-11-11}}</ref> | area_code = 0587<ref group=WEB name=areacode>{{Cite web|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000141817.pdf|format=PDF||title=市外局番の一覧|publisher=総務省|date=2022-03-01|accessdate=2022-03-22}}</ref> | registration_plate = [[愛知運輸支局|尾張小牧]] | footnotes = }} '''牛踏町'''(うしぶみちょう)は、[[愛知県]][[稲沢市]]の地名。 == 地理 == 稲沢市南部に位置する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1591}}。東・北は[[附島町]]、西は[[福島町 (稲沢市)|福島町]]、南は[[北麻績町]]・[[込野町]]に接する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1591}}。 === 学区 === == 歴史 == === 町名の由来 === === 人口の変遷 === [[国勢調査]]による人口および世帯数の推移。 {| class="wikitable" |- |1995年(平成7年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000023630251&fileKind=1|format=CSV|title=平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-03-28|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref> |style="text-align:right"|12世帯<br>55人||<div style="width:1.2px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:5.5px;height:10px;background:#9999ff"></div> |- |2000年(平成12年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025137780&fileKind=1|format=CSV|title=平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-05-30|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref> |style="text-align:right"|12世帯<br>55人||<div style="width:1.2px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:5.5px;height:10px;background:#9999ff"></div> |- |2005年(平成17年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025514226&fileKind=1|format=CSV|title=平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-06-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref> |style="text-align:right"|12世帯<br>49人||<div style="width:1.2px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:4.9px;height:10px;background:#9999ff"></div> |- |2010年(平成22年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000012671534&fileKind=1|format=CSV|title=平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 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キャロル・イェーガー
キャロル・アン・イェーガー(1960年1月26日 - 1994年7月18日)は、史上最も体重の重い女性であり、史上最も太った人の一人であったアメリカ人女性。 イェーガーは、非外科的な方法で最も短期間に体重を減らした(3ヶ月で236kg) Bizarre誌によれば、彼女の幅は1.5メートル以上あったと推定されるという。 しかし、この計測値はイェーガーの医療チームや家族によって確認されていない。しかし、亡くなる直前、彼女は幅121.9cmの特注の玄関ドアを通り抜けることができた。 公表されたレポートでは、彼女のピーク時の体重は727kgとされている。 イェーガーは、「近親者」から性的虐待を受けたことをきっかけに、子どもの頃に摂食障害を発症したと話している。 しかし、その後のインタビューでは、彼女のひどい肥満には他の要因もあったと答えている。 しかし同時に、彼女は通常の食事量以上のものを食べていることを否定した。 彼女は人生の大半をアメリカのミシガン州ビーチャー、フリント近郊のマウント・モリス・タウンシップで過ごし、晩年は医療関係者、友人、娘のヘザーと息子のスティーブン・ビショップ、その他の家族に看取られ、毎日多くの家族が訪ねてきた。 しかし、結局、彼女は老人ホームに移った。 ジェリー・スプリンガー・ショーにも出演し、ダイエットのプロたちからも注目された。 1993年1月、体重512kgでハーリー・メディカル・センターに入院。 細菌感染による蜂巣炎と免疫不全を患っていた。 彼女は3ヵ月間入院し、1200キロカロリーの食事制限を受け、その間に236キロの減量に成功した。 しかし、そのほとんどは体液(リンパ液など)であったと考えられている。(重度の肥満者は浮腫に悩まされることが多く、体液が取り込まれたり放出されたりして体重が急激に変動することがある)。イェーガーは他にも、呼吸困難、危険なほど高い血糖値、心臓や他の臓器への負担など、肥満に関連した多くの健康問題に苦しんでいた。 多くの重度肥満患者に見られるように、イェーガーは立つことも歩くこともできなかった。 なぜなら、彼女の筋力は彼女を支えるには十分ではなかったからだ。ビーチャー消防署のベニー・ザッパ署長によると、イェーガーは2年間で13回も入院したという。 救急隊員をサポートするために、2つの消防署から15人から20人もの消防士が、リレー方式でイェーガーを救急車まで運ぶ必要があった。家の中にいるチームが玄関から外にいる別のチームに、そのチームが救急車の中にいる別のチームに彼女を渡し、救急車まで運んだ。 イェーガーは1994年7月18日、フリントで亡くなった。死の少し前、イェーガーの最新のボーイフレンドであったラリー・マクスウェルは、彼女の家族から "金儲けの可能性を求めてメディアの注目を集める日和見主義者 "と評され、 彼女の友人フェリシア・ホワイトと結婚した。 マクスウェルは、イェーガー名義の寄付は20ドルだけだと言っていた。 しかし、数多くのトークショー、新聞、ラジオ局、その他国内外のメディアが、インタビューや写真などと引き換えに、彼女に現金やその他の贈り物を提供したと報じられている。 食育教育者のリチャード・シモンズは、"イェーガーの話がマクスウェルらによってタブロイド紙やテレビメディアに盛んに売り込まれたことに腹を立てている "と話している。 イェーガーの死亡診断書には、死因として腎不全が挙げられているが、実際には病的肥満と多臓器不全が一因として挙げられている。 イェーガーは非公開で埋葬され、約90人の友人や家族が追悼式に参列した。
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キャロル・アン・イェーガーは、史上最も体重の重い女性であり、史上最も太った人の一人であったアメリカ人女性。
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タラート・パシャ暗殺事件
タラート・パシャ暗殺事件(タラート・パシャあんさつじけん、英: Assassination of Talaat Pasha)は、1921年3月15日にアルメニア人学生ソゴモン・テフリリアン(英語版)がベルリンで、元オスマン帝国大宰相でアルメニア人虐殺の主な立案者であったタラート・パシャを殺害した暗殺事件である。裁判でテフリリアンは「私は人を殺したが、殺人者ではない。」と主張し、陪審団は無罪判決を言い渡した。 テフリリアンはオスマン帝国のエルズィンジャン出身だが、戦前にセルビアに移住した。ロシア軍のアルメニア人義勇軍(英語版)に所属し、ジェノサイドで家族のほとんどを失った。復讐を決意した彼は、オスマン帝国の秘密警察に協力したハルチウン・ムグルディチアンをコンスタンチノープルで暗殺した。テフリリアンは、アルメニア革命連盟が秘密裏に実施したネメシス作戦(英語版)に参加し、以前に暗殺に成功しているためタラート暗殺の任務に選ばれた。タラートはすでにオスマン帝国の軍法会議(英語版)で有罪判決を受け、死刑を宣告されていたが、ドイツ政府の許可を得てベルリンに住んでいた。多くの著名なドイツ人がタラートの葬儀に参列し、ドイツ外務省は 「偉大な政治家と忠実な友人に捧ぐ」という花輪を送った。 テフリリアンの裁判は1921年6月2日から6月3日にかけて開かれ、弁護側の戦略は、タラートをアルメニア人虐殺の罪で裁判にかけることであった。大虐殺に関する広範な証拠が審理され、ステファン・アイリグ(英語版)によれば「20世紀で最も壮大な裁判のひとつ」となったという。テフリリアンは、自分は単独犯であり、殺害は計画的なものではなかったと主張し、ジェノサイドを生き延び、家族の死を目撃したという、劇的で現実的な、しかし真実味のないストーリーを語った。海外メディアはこの裁判を広く報道し、アルメニア人虐殺の事実が注目され、認識されるようになった。テフリリアンの無罪判決は、ほとんど好意的な反応をもたらした。 歴史家のアルプ・イェン氏は、この関係を「タラート・テフリリアン・コンプレックス」と呼んでいる。タラートはドイツに埋葬されたが、1943年に彼の遺骨はトルコに移され、国葬(英語版)を行った。ポーランド系ユダヤ人の弁護士ラファエル・レムキン(英語版)は、ニュースでこの裁判を知り、国際法におけるジェノサイドの罪を概念化するきっかけとなった。 統一と進歩委員会の指導者であったタラート・パシャは、第一次世界大戦中、オスマン帝国最後の有力な大宰相であった。アルメニア人虐殺の主な立案者とみなされたタラート、1915年、アルメニア人人口(英語版)のほぼ全員をシリア砂漠に追放し、一掃するよう命じた。エルズルムから追放された4万人のアルメニア人のうち、デリゾールに到達したのは200人に満たなかったと推定されている。タラートが意図したよりも多くのアルメニア人が生き残ると、1916年に第二波の虐殺を命じた。タラートはこの大虐殺で約115万人のアルメニア人が消えたと推定した。1918年、タラートはジャーナリストのムヒッティン・ビルゲン(トルコ語版)に、「アルメニア人強制送還の際に適用された厳しさの全責任は私にある。」と述べ、「私は自分の行いを絶対に後悔していない。」と語った。 アメリカ大使ヘンリー・モーゲンソウがタラートに対して残虐行為を中止するよう説得しようとしたとき、アルメニア人の大部分が既に死亡しているため再考はしないと述べて遮り、「トルコ人とアルメニア人の憎しみは今、非常に激しくなっている。そうしなければ、彼らは復讐を企てるだろう。」と語った。トルコの作家ハリデ・エディプ・アドゥヴァルに、アルメニア人の絶滅はトルコの国益を増進させるために正当化されたものであり、「私は自分のしたことのために死ぬ覚悟はできている。」ともタラートは語った。1915年8月、アルメニア人虐殺を知った統一と進歩委員会の元財務大臣メフメト・カビッド(英語版)は、タラートはアルメニア人に暗殺されると予言した。 第一次世界大戦中、ドイツ帝国はオスマン帝国の同盟国であった。ハンス・フォン・ヴァンゲンハイム(英語版)大使は、過敏な地域からのアルメニア人の限定的な排除を承認した。オスマン帝国が同盟国の行動による風評被害を食い止めるため、これをはるかに超える行動をとったとき、ドイツの代表は時折外交的な抗議を行った。ドイツはジェノサイドに関する情報を検閲し、ジェノサイドを否定し(英語版)、アルメニア人がオスマン帝国を後ろから刺したと非難するプロパガンダキャンペーンを行った。ドイツの不作為は、大量虐殺の責任はドイツにもある(英語版)という非難を招き、それはドイツの戦争責任(英語版)をめぐる議論と絡んでいった。 1918年10月30日のムドロス休戦協定締結の後、入念な準備を行い、タラートは統一と進歩委員会の指導者(エンヴェル・パシャ、ジェマル・パシャ、バハエッディン・シャキル(英語版)、ナズム・ベイ(英語版)、オスマン・ベドリ、セマル・アズミ(英語版))とともに、11月1日から11月2日にかけての夜、ドイツの魚雷艇でコンスタンティノープルから逃亡した。ジェマルを除けば、全員が大量虐殺の主犯であった。彼らは罪の処罰を逃れ、抵抗運動を組織するために去った。ドイツの外相ヴィルヘルム・ゾルフはコンスタンチノープルの大使館にタラートを援助するよう指示し、「タラートは我々に忠誠を尽くしており、我が国は引き続き彼に対して寛容である。」とし、オスマン・トルコ政府からの身柄引き渡しの要請を拒否した。 11月10日にベルリンに到着したタラートは、アレクサンダー広場のホテルとポツダムのバーベルスベルクの療養所に滞在した後、現在のエルンスト・ロイター広場(英語版)にあたるハーデンベルク通り(ドイツ語版)4番地の9部屋のアパートに移った。タラートはアパートの隣にオリエンタル・クラブを設立し、ムスリムや、連合国に反対するヨーロッパ人が集った。外務省は、フランクフルター・ツァイトゥング紙の元コンスタンチノープル特派員パウル・ヴァイツ(ドイツ語版)を使って、このアパートでの出来事を監視した。ドイツ社会民主党の首相フリードリヒ・エーベルトの法令により、タラートの在住は合法化された。1920年、タラートの妻ヘイリエが加わった。ドイツ政府は、タラートの名前がアルメニア人殺し屋リストの筆頭に挙げられているという情報を入手し、メクレンブルクにある元オスマン帝国参謀総長フリッツ・ブロンサルト・フォン・シェレンドルフ(英語版)所有の人里離れた屋敷に滞在するよう提案した。タラートは、政治的扇動を続けるには首都のネットワークが必要だったため、これを拒否した。統一と進歩委員会主導の抵抗運動は、やがてトルコ革命へとつながっていった。タラートは当初、トルコの政治家ムスタファ・ケマルを傀儡として使おうと考え、ベルリンからトルコの将軍たちに直接命令を下した。 タラートは亡命当初から影響力のあるドイツ人の友人を持っており、海外ではトルコ民族主義運動(英語版)の代表として見られていたため、時間の経過とともに地位を獲得していった。アリ・サリー・ベイの名で偽造パスポートを使い、イギリスとオスマン帝国から指名手配されていたにもかかわらず、ヨーロッパを自由に旅行した。多くのドイツ紙がベルリンでの彼の存在を疑い、1920年3月にドイツ政府転覆を企てたカップ一揆が失敗した後の記者会見でタラートは演説した。多くのドイツ人、特に極右勢力はトルコを無実と見なし、セーヴル条約をヴェルサイユ条約と比較し、ドイツとトルコの間に「運命共同体」が存在すると考えた。タラートは回顧録を書いたが、その主な内容は大量虐殺を命じた自分の決定を擁護し、統一と進歩委員会の罪を免除するものであった。1919年7月5日、タラートと統一と進歩委員会の他の亡命者たちは、オスマン帝国の特別軍事法(英語版)によって、「帝国のアルメニア人の虐殺と絶滅」の罪で有罪判決を受け、欠席裁判で死刑を宣告された。 大虐殺の加害者を裁く者が他にいないことが明らかになると、アルメニア革命連盟は、アルメン・ガロ(英語版)、シャハン・ナタリー(英語版)、アーロン・サチャクリアンを指導者とし、「ネメシス作戦(英語版)」を秘密裏に実施した。共謀者たちは、暗殺の対象となる100人の大量虐殺実行犯のリストを作成し、タラートはそのリストの筆頭だった。ジェノサイドを生き延びたり、家族を失ったりした若者を中心に、暗殺を実行する志願者には事欠かなかった。ネメシスの工作員は、ターゲットの身元を確認せずに暗殺を実行することはなく、誤って罪のない人を殺さないように注意した。 これらの志願兵の一人は、エルズルム・ヴィライエト(英語版)のエルズィンジャン出身のソゴモン・テフリリアン(英語版)であった。戦争勃発時、テフリリアンはセルビアにいた。反アルメニア的な残虐行為について聞いた後、彼はロシア軍のアルメニア人義勇軍(英語版)に参加した。部隊が西に進むと、ジェノサイドの余波を発見した。家族が殺されたことを知ったテフリリアンは、復讐を誓った。回想録には、ジェノサイドで亡くなった85人の家族が記されている。テフリリアンは、現在心的外傷後ストレス障害と呼ばれているものに起因すると思われる、定期的な失神発作やその他の神経系障害に悩まされていた。 終戦後、テフリリアンはコンスタンティノープルに赴き、オスマン帝国の秘密警察に勤務し、1915年4月24日に国外追放されたアルメニア人知識人(英語版)のリスト作成に貢献したハルチウン・ムグディティチアンを暗殺した。この殺害により、ネメシスの工作員はタラート・パシャの暗殺を彼に託すことを確信した。1920年半ば、ネメシス組織はテフリリアンに渡米費を支払い、ガロは彼に、主要な実行犯に対して宣告された死刑判決が執行されていないこと、殺人犯が亡命先から反アルメニア活動を続けていることを説明した。その年の秋、トルコの民族主義運動がアルメニアに侵攻した。テフリリアンは、ネメシスが行方を追っていた統一と進歩委員会の指導者7人の写真を受け取り、ヨーロッパに出発し、まずパリに向かった。ジュネーブで機械工学の学生としてベルリン行きのビザを取得し、12月2日に出発した。 暗殺を企てる共謀者たちは、アルメニア共和国副領事リバリット・ナザリアントの邸宅で会合を持った。テフリリアンは12月中旬に腸チフスで倒れた後も、この会合に出席していた。彼はシャキルの追跡中に倒れ、1週間休養を余儀なくされたほどであった。ダシュナク中央委員会は、他の犯人を排除してタラートに焦点を当てるよう命じた。2月末、共謀者たちは、タラートがローマに向かうためにベルリン動物園駅から出発するのを発見し、タラートの居場所を突き止めた。ヴァハン・ザカリアンツは宿を探している男を装って調査し、タラートがハーデンベルク通り4番地に住んでいることを突き止めた。身元を確認するため、テフリリアンは向かいのハーデンベルク通り37番地にペンションを借り、タラートのアパートに出入りする人々を観察した。ナタリーからの命令はこうだった。「国家第一の殺人者の頭蓋骨を爆破しても、逃げようとはするな。死体の上に足を置いてそこに立ち、警察に投降しなさい。警察が来てあなたに手錠をかけるだろう。」 雨の降る火曜日(1921年3月15日)午前10時45分頃、タラートは手袋を買いにアパートを出た。テフリリアンは反対方向からタラートに近づき、彼を認識し、通りを横切り、背後から詰め寄り、人通りの多い街角のハーデンベルク通り27番地の外で彼のうなじを至近距離から撃ち、即死させた。弾丸は脊髄を貫通し、タラートの左目の上から出て脳を破壊した。タラートは前のめりに倒れ、血の海に横たわった。テフリリアンは最初、死体の上に立っていたが、野次馬が叫ぶと、自分の指示を忘れて逃げ出した。暗殺に使った口径9ミリのパラベラム・ピストルを捨て、ファサネン通りを通って逃走し、そこで店員のニコラウス・ジェッセンに逮捕された。群衆の中にいた人々は彼をひどく殴り、テフリリアンは片言のドイツ語で「大丈夫だ。私は外国人で、彼は外国人だ!」と叫んだ。その直後、彼は警察に「私は犯人ではない、彼が犯人だ。」と言った。 警察は遺体を封鎖した。同じ統一と進歩委員会の亡命者ナズム・ベイがまもなく現場に到着し、ハーデンベルク通り4番地にあるタラートのアパートに向かった。午前11時30分、タラートとしばしば会っていた外務省職員で親トルコ活動家のエルンスト・イェック(英語版)も到着した。シャキルも暗殺を知り、警察のために遺体の身元を確認した。イェックとナズムは暗殺現場に戻った。イェックは外務省職員としての権限を行使して遺体を引き渡すよう警察を説得しようとしたが、殺人課が到着する前に警察はそれを拒否した。イェックは、「トルコのビスマルク」を通行人が見とれるような状態で外に置いておくわけにはいかないと訴えた。結局、彼らは遺体を運ぶ許可を得て、赤十字の車でシャルロッテンブルク(英語版)の霊安室に送られた。暗殺の直後、シャキルとナズムは警察の保護を受けた。他の統一と進歩委員会亡命者たちは、次は自分たちになるのではないかと心配していた。 当初、タラートの友人たちはアナトリアでの埋葬を望んでいたが、コンスタンティノープルのオスマン帝国政府もアンカラのトルコ民族主義運動も遺体を望まなかった。第一次世界大戦の最悪の犯罪者とされる人物と関係を持つことは、政治的な責任となるからだ。タラートの葬儀にはヘイリエとオリエンタル・クラブからの招待状が送られ、3月19日、参列者の多い中、旧聖マティウス墓地(英語版)に埋葬された。午前11時、トルコ大使館のイマーム、シュクリ・ベイによる礼拝がタラートのアパートで行われた。その後、大行列が棺を従えてマティウスに向かい、そこでタラートは埋葬された。 元外相のリヒャルト・フォン・キュールマン(英語版)やアルトゥール・ツィンメルマン、元ドイツ銀行頭取、元バグダード鉄道局長、戦時中にオスマン帝国に従軍した軍人数名、亡命したヴィルヘルム2世の代理として参列したアウグスト・フォン・プラテン・ハレルミュンデ(英語版)など、多くの著名なドイツ人が弔問した。ドイツ外務省からは、「偉大な政治家と忠実な友人に捧ぐ 」と書かれたリボンのついた花輪が送られた。シャキルはかろうじて平静を保っていたが、オスマン帝国国旗(英語版)で覆われた棺が墓に下ろされる間、弔辞を読んだ。彼は、暗殺は「イスラム諸国に対する帝国主義政治の結果」であると主張した。 4月下旬、ドイツ人民党の国民的リベラル派の政治家グスタフ・シュトレーゼマンが、タラートを称える公的な記念式典を提案した。ドイツ・トルコ協会(ドイツ語版)はこれを断った。シュトレーゼマンはジェノサイドをよく知っており、少なくとも100万人のアルメニア人が殺されたと信じていた。タラアトの遺品はベルリン公安局長のワイスマンの手に渡り、彼の手記はシャキルに渡され、出版された。 警察の捜査が始まった当初、テフリリアンにはトルコ語を話せる通訳が用意されていたが、彼はトルコ語を話すことを拒否した。3月16日、警察はネメシス作戦に参加していたアルメニア人通訳ケヴォルク・カルースティアンを採用した。テフリリアンは、復讐心からタラートを殺害し、ドイツに来る前にその行為を計画していたことを認めたが、警察には単独犯であると語った。彼の裁判では、テフリリアンは暗殺が計画的なものであったことを否定した。通訳は、テフリリアンの負傷によって行動不能になったという理由で、尋問調書への署名を拒否していた。予備捜査は3月21日までに終了した。 ダシュナクツチウンは、彼の弁護のために10万から30万マルクを集めたが、そのほとんどはアルメニア系アメリカ人からだった。ザカリアンツは裁判の間、テフリリアンの言葉をドイツ語に翻訳し、請求書の支払い、弁護の組織化、アメリカのダシュナク中央委員会の指示をテフリリアンに伝えることに関与した。カールスティアンはドイツ語からアルメニア語に通訳した。アドルフ・フォン・ゴードン、ヨハネス・ヴェルタウアー(ドイツ語版)、テオドール・ニーマイヤー(ドイツ語版)の3人のドイツ人弁護士は、それぞれ75,000マルクの報酬を得て、テフリリアンの弁護を担当した。彼らの卓越性により、裁判の宣伝効果はさらに高まった。州検察官はゴルニック、裁判官はエーリッヒ・レンベルクであり、12人の陪審員がこの事件を審理した。 裁判は6月2日から6月3日にかけてモアビート刑事裁判所(英語版)で開かれた。法廷は完全に満席だった。ドイツに住む多くのアルメニア人が裁判を傍聴し、タラートの妻を含むトルコ人も傍聴した。ドイツ国内外の新聞記者も出席した。『デイリー・テレグラフ』紙、『シカゴ・デイリー・ニュース(英語版)』紙、『フィラデルフィア・パブリック・レジャー(英語版)』紙など多くの新聞社が記者証を要求した。歴史家のステファン・アイリグ(英語版)によれば、「20世紀で最も壮大な裁判のひとつ」であった。 弁護側の戦略は、テフリリアンの家族と、彼が死を命じた他の100万人のアルメニア人の殺害容疑で、タラート・パシャを裁判にかけることだった。ナタリーはこれを、アルメニア人の大義を宣伝する機会と考えた。彼は、テフリリアンがドイツの法律に従って有罪判決を受ける可能性は高いが、恩赦を得られることを望んでいると考えていた。ヴェルタウアーはもっと楽観的で、暗殺の数日後、依頼人の無罪を勝ち取ることを確信していると発表した。プロテスタントの宣教師で活動家のヨハネス・レプシウス(英語版)は、1896年以来、アルメニア人の殺害(英語版)に反対を表明しており、タラートに対する裁判の提訴に取り組んだ。社会民主党機関紙『フォアヴェルツ(英語版)』が指摘するように、彼らの戦略は成功した。「現実には、被告席に座っていたのは血に染まったタラート・パシャの影であり、真の罪状は、生きて残された数少ない犠牲者の一人である彼の処刑ではなく、おぞましいアルメニア人の恐怖であった。」 無罪の可能性を最大化するために、弁護側はテフリリアンを国民全体の復讐者ではなく、孤独な自警団員として紹介した。ドイツ警察はテフリリアンの仲間を探したが、見つからなかった。弁護側は、タラートがテフリアンの母親を死に至らしめたことを証明することで、テフリリアンとタラトの関係を作り上げようとした。弁護側の主張は、タラートの犯罪の重大さとともに、テフリリアンの精神的外傷状態にも基づいておりドイツの刑法51条の一時的心神喪失の法律に従って、彼の行為に責任を負わせない可能性があった。 対照的に、ドイツ検察側の主な目的は、審理を非政治化し、ジェノサイドにおけるドイツの役割についての議論を避けることであった。裁判は弁護側が要求した3日間ではなく、わずか1日半で行われ、弁護側が呼んだ15人の証人のうち6人は審理されなかった。検察側は暴露を最小限にするため、裁判を「カメラ内(英語版)」で審理することを申請したが、外務省は、秘密主義がドイツの評判を向上させないことを恐れ、この解決策を拒否した。歴史家のキャロライン・ディーン(英語版)は、裁判を早く終わらせ、戦時中のドイツの行動を肯定的に描こうとした結果、「テフリリアンを正義のために殺人者を銃殺せざるを得なかった悲劇的な人間の良心の象徴に図らずも変えてしまった。」と書いている。 アイリグや他の歴史家たちは、検事の戦略には深い欠陥があり、検事の無能さ、あるいは有罪を勝ち取る動機の欠如を物語っていると主張している。ゴルニックは、オスマン帝国内の出来事は暗殺とは無関係であると主張し、大量虐殺に関する証拠の提出を避けようとした。いったん証拠が提出されると、彼はタラートがアルメニア人の残虐行為に関与したことを否定し、最終的にはタラートが送った命令を正当化せざるを得なかった。裁判の前、反アルメニア的な『ドイツ・オールゲマイネ・ツァイトゥング(英語版)』紙を支配していたハンス・フマン(英語版)は、検事局に激しく働きかけた。彼はタラート・パシャの手記を入手することができたが、検察官はそれを裁判で証拠採用しなかった。ゴルニックはフマンのロビー活動に嫌気がさし、おそらく被告に同調したのではないかとアイリグは推測している。裁判後、ゴルニックは『ドイツ・オールゲマイネ・ツァイトゥング』の編集委員(英語版)に任命された。 裁判は、裁判長がテフリリアンに大虐殺について多くの質問をするところから始まったが、この質問は、裁判長が大虐殺とそれに関するトルコ語やドイツ語の語りについて知識があることを明らかにした。裁判長はテフリリアンに、ジェノサイドの際に目撃したことを語るよう求めた。テフリリアンによると、戦争勃発後、エルジンジャンではほとんどのアルメニア人男性が軍隊に徴兵(英語版)された。1915年初頭、何人かのアルメニア人コミュニティの指導者が逮捕され、彼らの虐殺の報告が街に届いた。1915年6月、一般追放令が出され、武装した憲兵が市内のアルメニア人に家を捨てさせ、財産を残させた。街を離れるや否や、憲兵隊は犠牲者を射殺し、貴重品を略奪し始めた。テフリリアンは「憲兵の一人が私の妹を連れ去った」と言ったが、「この暗黒の日のことを再び話すくらいなら、今死んだほうがましだ」と、それ以上話を続けなかった。裁判官に促されると、彼は母親と兄が殺されるのを目撃し、その後意識を失い、兄の死体の下で目覚めたことを思い出した。彼は二度と妹に合うことはなかった。この後、テフリリアンは数人のクルド人の家に身を寄せ、他の生存者とともにペルシアに逃れたという。 テフリリアンは、虐殺を扇動した責任は誰にあるのか、アダナ虐殺(英語版)などの歴史的前例について質問された。それから初めて、裁判官は計画殺人の罪を読み上げた。有罪かどうかと問われたテフリリアンは、当初は暗殺の実行を認めていたにもかかわらず、「ノー」と答えた。彼は「良心の呵責はないので自分が有罪だとは思っていない。私は人を殺しましたが、殺人者ではありません。」と説明した。テフリリアンはタラート殺害計画を否定したが、殺害の2週間前に厳格を見たと述べた。「虐殺の映像が何度も何度も目の前に現れた。私は母の亡骸を見た。この死体は立ち上がり、私のところに来て言った『タラートがここにいるのを見たのに、まったく無関心なのか?お前はもう私の息子ではない!』。」このとき、彼は「突然目覚めて、タラートを殺す決心をした。」と言った。さらなる尋問の後、彼はタラートがベルリンにいることを知らなかったと否定し、オスマン・トルコの高官を殺す計画はなかったと繰り返した。裁判官は検察官のさらなる追及の後、「彼(テフリリアン)の決意に変化があった」と述べ、テフリリアンを支持した。 この証言は虚偽であった。テフリリアンは家族が殺されたとき、実際にはロシア軍のアルメニア人志願兵とともに戦っていた。歴史家のロルフ・ホスフェルド(英語版)は、テフリリアンは「非常に手入れされていた」と述べ、彼の証言は信憑性が高いと言う。歴史家のテッサ・ホフマン(英語版)は、テフリリアンの証言は虚偽ではあるが、「彼の同胞の集団的運命の極めて典型的で本質的な要素」を含んでいたと言う。検察側は証言の真偽を争わなかったため、真実が明らかになったのは数十年後のことだった。裁判中、テフリリアンがアルメニア人革命グループに属していたかどうか、あるいは陰謀の一環として暗殺を行ったかどうかを問われることはなかった。もし暗殺が計画的な陰謀の一環であったことを法廷が知っていたら、テフリアンは無罪にならなかっただろうとホスフェルドは主張する。 裁判所は、暗殺とその直後の目撃者である警察官と検視官、そしてテフリリアンの2人の女主人から話を聞いた後、ベルリンでテフリリアンと交流のあったアルメニア人に証言を求めた。これらの証人はアルメニア人虐殺に関する情報を提供した。レボン・エフティアンは法廷で、ジェノサイドの間、彼の家族はエルズルムにいて、両親は殺されたが、他の親戚はなんとか逃げ延びたと語った。テフリアンの通訳ザカリアンツもその日のうちに証言し、1890年代のハミディイェ虐殺で父、母、祖父、兄弟、叔父を失ったと述べた。ベルリンのアルメニア人タバコ職人であるテルジバシアン氏は、ジェノサイドの際にエルズルムにいた友人や親戚はすべて殺されたと証言した。 タバコ屋の妻クリスティーン・テルジバシアンは、暗殺のことは何も知らないと言った。弁護側は彼女にアルメニア人虐殺についての証言を求め、裁判官はこれを認めた。彼女もまたエルズルム出身で、21人の親戚のうち生き残ったのは3人だけだったという。彼女は、アルメニア人は500家族からなる4つのグループに分かれて、エルズルムからエルズィンジャンに向かって強制退去させられたと言った。彼らは先に殺された他のアルメニア人の死体の上を歩かなければならなかった。彼女は、エルジンジャンに到着した後、男性は他の強制送還者から引き離され、一緒に縛られて川に投げ込まれたと証言した。彼女は、残りの男たちはマラティヤの上の山で斧で殺され、水に投げ込まれたと説明した。 その後、「憲兵隊がやってきて、最も美しい女性や少女を選び出し」、拒否した者は「銃剣で突き刺され、足を引き裂かれた」とテルジバシアンは回想した。殺人鬼らは妊婦を切り裂き、子供を殺したという。これは法廷に大きな波紋を呼んだ。彼女は、自分の兄が殺され、母親もすぐに死んだと述べた。彼女がトルコ人の一人との結婚を拒んだとき、「彼は私の子供を奪って捨てた」。さらに悲惨な詳細を語った後、真実は彼女が語る以上にひどいものだったと彼女は言った。「エンヴェル・パシャの命令で起こったことで、兵士たちは強制連行された人々にひざまずかせ、『パシャ万歳!』と叫ばせたのです。」弁護側は、エルズィンジャンにいた2人のドイツ人看護婦を含む他の目撃者が彼女の証言を裏付けていると述べた。したがって、ゴードンは、テフリリアンの証言も「根底から真実」であると主張した。 前回の証言の信憑性について、2人の専門家証人の聴取が行われ、検事も聴取に同意した。レプシウスは、強制送還はタラート・パシャを含む「青年トルコ委員会」によって命じられたと証言した。レプシウスはアルメニア人の強制送還に関するタラートからの文書の原本から「強制送還の目的地は無である」(Das Verschickungsziel ist das Nichts)を引用し、これが実際にどのように行われたかについて詳細を述べた。。レプシウスは、「予防措置」という公式の口実にもかかわらず、「権威ある人物は、これがアルメニア民族の消滅に関わるものであることを、非公式に公然と認めていた」と指摘した。レプシウスは、彼が編集した外務省の文書集『ドイツとアルメニア』について言及し、裁判所が聞いたような同様の証言がさらに何百も存在すると述べ、全体で100万人のアルメニア人が殺害されたと推定した。 ドイツのオットー・リーマン・フォン・ザンデルス将軍は、統一と進歩委員会政府がアルメニア人の強制送還を命じたことを認めたが、強制送還の言い訳と正当化も行い、それは軍事的必要性(英語版)と「軍の最高権威」の助言のために起こったと主張した。彼は、これらの高級軍人たちのほとんどがドイツ人であったことは認めなかった。他の証人とは異なり、リーマン・フォン・サンデルスは、タラートが大量虐殺の個人的責任者であるかどうかはわからないと述べた。 次に証言したのは、4月24日に強制送還された一人で、イギリスのマンチェスターから来たアルメニア人司祭グリゴリス・バラキアン(英語版)だった。バラキアン司祭は、アンカラで彼の護送隊のほとんどが殴り殺されたことを語った。「正式名称は 『国外追放』でしたが、実際は組織的な殲滅政策でした。」と彼は述べ、こう説明した。 シュクリは、ハミディイェ虐殺のときとは異なり、今回はオスマン帝国が「証人がいかなる法廷にも出廷させない」ように措置を講じたと説明した。砂漠で餓死してしまうからこそ、バラキアンには自由に話すことができたという。シュクリは、4万人のアルメニア人を棍棒で殴り殺すよう命じたと言った。しばらくして、ゴードンが割って入り、バラキアンにタラートからの電報について尋ねた。バラキアンは、キリキアのオスマニエ副知事アサフ・ベイに送られた電報を見たことがあると言った。「アルメニア人のうち何人がすでに死亡し、何人がまだ生存しているか、速やかに電報で知らせてください。内務大臣、タラート。」アサフはバラキアンに、「何を待っているのか。"直ちに"虐殺を始めろ!」と述べた。バラキアンは、バグダード鉄道で働くドイツ人に命を救われたと語った。彼は、アルメニア人は正しくタラートに虐殺の責任を負わせたと述べた。 弁護側は、アルメニア人ジャーナリスト、アラム・アンドニアン(英語版)が収集したタラート・パシャの電報(英語版)数通を証拠として読み上げ、大量虐殺におけるタラートの罪を証明しようとした。アンドニアンは証言の準備をしてベルリンにやってきて、現在は紛失している電報の原本を何通か持参した。弁護側は、アレッポの元ドイツ領事ヴァルター・レスラー(ドイツ語版)に証言を求めたが、タラートが「アルメニア人の絶滅を望み、組織的に実行した」と信じていると証言すると告げたため、外務省の上司はこれを阻止した。外務省は、レスラーが大量虐殺に関するドイツの知識と加担を暴露するのではないかと心配したのである。弁護団の要請で、レスラーはアンドニアンの電報を調査し、本物である可能性が高いと結論づけた。検察官は、テフリリアンがタラトに責任を負わせたことに疑いはないという理由で異議を唱えたので、アンドニアンは証言せず、彼の電報は証拠採用されなかった。結局、弁護側は、タラートの有罪に関するさらなる証拠の提出要求を取り下げた。このときすでに、陪審員たちはテフリリアンの有罪よりもタラートの有罪に集中していた。 タラートの電報は、『ニューヨーク・タイムズ』紙などの報道で取り上げられた。召喚されながら聴取されなかった他の証人には、ブロンサルト・フォン・シェレンドルフ、兵士のエルンスト・パラキン(ドイツ語版)とフランツ・カール・エンドレス(ドイツ語版)、衛生兵のアルミン・T・ヴェグナー(英語版)、エルズルムの副領事として虐殺を目撃したマックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー=リヒターなどがいた。 5人の専門家証人が、テフリリアンの精神状態と、それがドイツの法律に従って彼の行動の刑事責任を免責するかどうかについて証言した。全員が、彼が1915年に経験したことのために、定期的に「てんかん」の発作に苦しんでいることに同意した。アイリグによると、どの医師もテフリリアンの状態を明確に理解していなかったが、彼らの理解は、後の心的外傷後ストレス障害という病気に似ていた。ロバート・ストーマー医師が最初に証言し、彼の意見では、テフリリアンの犯行は計画的な殺人であり、彼の精神状態に起因するものではないと述べた。フーゴー・リープマン(英語版)によると、テフリリアンは1915年に目撃したことが原因で「精神病質者」になっており、したがって自分の行動に完全な責任はなかった。神経学者であり教授であったリヒャルト・カッシーラー(英語版)は、「感情の乱れが彼の症状の根本原因」であり、「影響てんかん」が彼の人格を完全に変えてしまったと証言している。エドマンド・フォースターは、戦争中のトラウマ体験が新たな病態を引き起こすことはなく、すでに存在していた病態を顕在化させたに過ぎないが、テフリリアンの行動には責任がないことに同意した。最後の専門家であるブルーノ・ハーケも「影響てんかん」と診断し、テフリリアンが自分の意志で行動を起こした可能性を完全に否定した。 初日にすべての証人の尋問が行われた。2日目の午前9時15分、裁判官は陪審員に向かって、次の質問に答える必要があると述べた。「第一に、被告ソゴモン・テフリリアンは、1921年3月15日、シャルロッテンブルクで、計画的に、他の人間であるタラート・パシャを殺害したことについて有罪であるか。第二に、被告人は反省してこの殺人を実行したか。 第三に、軽減すべき事情があるか。」 ゴルニックは短い最終弁論のみ行なった。裁判記録では弁護側の35ページに対し、彼の演説は6ページであった。ゴルニックは、テフリリアンは計画的殺人罪(過失致死罪は刑が軽い)であると主張し、死刑を求刑した。ゴルニックは、政治的憎悪と怨嗟がこの犯罪を完全に説明すると主張した。テフリリアンは、オスマン帝国からベルリンに移動し、目的の被害者の向かいに部屋を借り、タラートを注意深く観察し、最終的に殺害するという、かなり前から殺害を計画していた。彼はリマン・フォン・サンダースの証拠を強調し、彼がレプシウスよりも信頼できると主張し、ドイツの将軍が実際に語ったことを歪曲した。ドイツの敗戦に関する「背後の一突き」に訴えながら、ゴルニックは、アルメニア人の「離反」は、彼らが「連合国と共謀し、戦況が許す限りすぐにトルコ人を背後から刺し、彼らの独立を達成しようと決心した」ために実行されたと主張した。虐殺におけるタラートの責任を証明する証拠は何もないと主張した彼は、裁判で提出された文書の信頼性と、タラートに死刑を宣告した法廷の客観性に疑問を呈した。演説の最後には、タラート・パシャの愛国心と名誉を強調した。 弁護人のうち、ゴードンが最初に発言し、ゴルニックを「タラート・パシャの弁護人」だと非難した。彼は、タラートと大量虐殺の実行を結びつける証拠、特に電報を支持した。彼は、100万人のアルメニア人に対するこのような大規模な絶滅は、中央政府の調整なしには起こり得なかったと主張した。さらに、弁護側は、ドイツの判例法における「熟慮」とは、殺人の決定がなされた時点のことであり、その他の準備を除いたものであると指摘した。計画された行為であっても、その実行の瞬間に熟慮がなければ、殺人にはならないと主張した。 ヴェルタウアーは、タラートは「軍国主義内閣」に所属していたと述べている。「軍国主義者」とは、正義に反対し、「軍事的必要性」と「調和」させることができない場合には法律を無視する者であると定義している。ヴェルタウアーは、連合国によるラインラント占領(英語版)とボリシェヴィキもまた「軍国主義」政権であると宣言した。彼は、これらの「軍国主義者」と、ウィリアム・テルになぞらえた高貴な人物であるテフリリアンとの間に劇的な対照を描いた。「テルが(暴君アルブレヒト)ゲスラーに矢を射たとしたら、世界中の陪審員の中で、どの陪審員がテルを断罪したであろうか。この法廷で語られたこと以上に人道的な行為があるだろうか。」弁護側は、テフリリアンの行為は強制的なものであったと主張するとともに、正当なものであったと主張した。 検察側も弁護側も、大量虐殺時のドイツとトルコの行動の違いを強調した。ヴェルタウアーは、タラートはドイツ政府に知られることなくベルリンに住んでいたと主張した。ニーマイヤーは、免責されれば、ドイツが大量虐殺の責任を負っているという「世界が私たちに対して抱いている誤解に終止符が打たれるだろう」と述べた。 最終弁論が終わった後、裁判官はテフリリアンに何か付け加えることはないかと尋ねたが、彼はそれを断った。陪審員は1時間審議した後、テフリリアンがタラートを故意に殺したとして有罪かどうかという質問に対し、「いいえ」の一言で答えた。全会一致の評決で、検察側が控訴する可能性はなくなった。聴衆は拍手喝采に包まれた。訴訟費用306,484マルクは国庫が負担した。ゴルニックは、無罪判決は一時的な心神喪失に基づいていると述べた。アイリグは「陪審は必ずしも『一時的な心神喪失』を理由にテフリリアンを無罪としたわけではない」と述べ、弁護側はテフリリアンの行為の医学的側面よりもむしろ政治的側面に重点を置いていたと指摘している。 無罪判決後、テフリアンはドイツから追放された。バラキアンと共にマンチェスターに行き、その後「サロ・メリキアン」という偽名でアメリカに渡り、そこで『ハイレニク(英語版)』編集委員会は彼を称えた。その後も体調を崩し、ストレス障害の治療が必要だった。彼はセルビアのベオグラードに定住し、1950年までそこで暮らした。世界中の多くのアルメニア人が購入した裁判の記録は、テフリリアンの弁護費用を回収し、ネメシス作戦の資金を調達するために販売された。 暗殺と裁判は国際的に広く報道され、ジェノサイドの事実に注目と認識をもたらした。同時代の人々は、この裁判がテフリリアン個人の罪よりもアルメニア人大量虐殺に関するものであると理解した。報道は、ジェノサイドの犠牲となったアルメニア人に対する国民の同情と、法と秩序(英語版)の価値との間の緊張を反映していた。『ニューヨーク・タイムズ』紙は、陪審がジレンマに直面していると指摘した。無罪を宣告することは、アルメニア人の残虐行為を非難することになるが、同時に超法規的殺人を認めることにもなる。「このジレンマから逃れることはできない。すべての暗殺者は処罰されるべきだが、この暗殺者は処罰されるべきではない。そして、そこにいるのだ。」無罪判決に対する反応は全体的に好意的だった。 この暗殺事件は、事件当日のドイツの多くの新聞の見出しを飾ったが、ほとんどの報道はタラートへの同情的なものだった。翌日、ドイツのほとんどの新聞が暗殺を報じ、多くの新聞が追悼記事を掲載した。報道の典型的な例は『フォッシェ・ツァイトゥング(英語版)』であり、同紙は「(アルメニア人の)到達可能な部族をすべて絶滅」させようとしたタラートの役割を認めつつも、大量虐殺を正当化するいくつかの理由を述べた。他の新聞は、タラートはアルメニア人の復讐の対象としては間違っていたと指摘した。『ドイツ・オールゲマイネ・ツァイトゥング』紙は、テフリリアンが行ったような裏切りや殺人が「真のアルメニア人のやり方」であると主張し、反アルメニアキャンペーンを展開した。当初、暗殺者に同情的だった唯一の新聞は、『フライハイト(英語版)』であった。 裁判の報道はその後1ヵ月にわたって広まり、1933年にナチスが政権を掌握するまで、テフリリアンの功績は政治的な議論の場で取り上げられ続けた。裁判の後、ドイツの新聞は、政治的なスペクトルを超えて、大量虐殺の現実を受け入れた。ほとんどの新聞がレプシウスとテフリリアンの証言を大々的に引用した。無罪判決に対するドイツの反応はさまざまで、アルメニア人や普遍的人権に同情的な人々の間ではおおむね好意的であった。平和主義雑誌『ディ・ヴェルトビューネ(英語版)』に寄稿したジャーナリストのエーミール・ルートヴィヒは、「国家社会が国際秩序の保護者として組織されたときにのみ、いかなるアルメニア人殺人者も処罰されずに残ることはないだろう。なぜなら、いかなるトルコのパシャも、国民を砂漠に送る権利はないからだ。」裁判の数ヵ月後、ウェグナーはその全記録を出版した。彼は序文で、テフリリアンの「民族のために自らを犠牲にする英雄的な覚悟」を賞賛し、これを机上で大量虐殺を命令するのに必要な勇気の欠如と対比させた。 反アルメニア的な傾向のあるナショナリスト側の意見では、反アルメニア的な記事を多く掲載し、判決を「司法スキャンダル」と呼んだフマンの『ドイツ・オールゲマイネ・ツァイトゥング』に続き、多くの新聞がジェノサイドの否定から正当化に転じた。民族主義的な新聞によって広く受け入れられた大量絶滅を正当化する論拠は、アルメニア人の想定される人種的特徴に基づいており、人種的反ユダヤ主義(英語版)の理論と容易に結びついた。1926年、ナチスの思想家アルフレート・ローゼンベルクは、テフリリアンの無罪判決を歓迎したのは「ユダヤ人新聞」だけだと主張した。彼はまた、「アルメニア人は、ドイツに対するユダヤ人と同様に、トルコ人に対するスパイ活動を主導した。」と主張し、タラートの彼らに対する行動を正当化した。 タラートの暗殺後、アンカラの新聞は彼を偉大な革命家、改革者として賞賛し、トルコの民族主義者たちはドイツ領事に、彼は「彼らの希望であり偶像」であり続けたと語った。イェニ・ギュン(トルコ語版)は「我々の偉大な愛国者は祖国のために死んだ。タラートはトルコが生んだ最も偉大な人物であり続けるだろう。」と述べた。コンスタンティノープルでは、彼の死に対する反応は様々であった。一部の者はタラートに敬意を表したが、リベラルな日刊紙『アレムダール(トルコ語版)』は、タラートは自分のコインで返済され、「彼の死は彼の行いの償いである」とコメントした。『ハキミエト・イ・ミリエ(英語版)』は、テフリリアンはイギリスが彼を送ったと自白したと主張した。多くの記事は、タラートの貧しい始まりから権力の高みへの道のりを強調し、彼の反アルメニア政策を擁護した。イスタンブールの新聞『イェニ・シャーク』は1921年にタラートの回想録を連載した。コンスタンティノープルで発行された彼の新聞で、アルメニア人社会主義者ディクラン・ザヴェン(アルメニア語版)は、「自国の真の利益を認識しているトルコ人は、この元大臣を優秀な政治家に数えないだろう」と期待を表明した。1922年、アンカラ政府はタラートの有罪判決を取り消し、その2年後、アルメニア人虐殺の中心的加害者であるタラートとシャキルの家族に年金を与える法律を可決した。タラートの家族は、没収されたアルメニア人の財産(英語版)から得られる他の補償金も受け取った。 歴史家のハンス=ルーカス・キーザー(英語版)は、「暗殺は、復讐を求める被害者と、反抗的な否定に凝り固まった加害者という病んだ関係を永続させた。」と述べている。タラートとテフリリアンはともに、それぞれの側から英雄視されている。アルプ・イェネンはこの関係を「タラート・テフリリアン・コンプレックス」と呼んでいる。 トルコではテロリストとみなされていたテフリリアンだが、アルメニア人にとって英雄となった(英語版)。1950年代、トルコの諜報員はカサブランカでテフリリアンを追跡し、命を脅かしたため、アメリカに移住せざるを得なかった。この動きによって、テフリリアンは離散したアルメニア人から注目されるようになったが、彼の息子によれば、彼は暗殺における自分の役割について話したがらなかったという。彼の死後、カリフォルニア州フレズノのアララト墓地(英語版)に記念碑が建てられた。アルメニア共和国からの国家的な後援もあるが、テフリリアンの記憶は主に離散したアルメニア人によって分散的に広められている。これとは対照的に、トルコのタラート記念は国家主導で行われている。。1943年、トルコ政府の要請により、タラートは掘り起こされ、1909年のオスマン・トルコの反乱(英語版)を防いで命を落とした人々に捧げられたイスタンブールの自由の記念碑(英語版)で国葬(英語版)が行われた。タラートが暗殺されたときに着ていたシャツは、イスタンブール軍事博物館(英語版)に展示されている。2020年現在、トルコやその他の国々の多くのモスク、学校、宅地開発、通りにはタラートの名前が付けられている。 2005年以来、暗殺現場に記念碑を建立し、3月15日に彼の墓で記念式典を行おうとするベルリンのトルコ人による試みがあった。2006年3月、トルコの民族主義団体は暗殺を記念し、「大虐殺の嘘」に抗議する目的でベルリンで2つの集会を開催した。ドイツの政治家たちはこの行進を批判し、参加者は少なかった。2007年、トルコ系アルメニア人ジャーナリスト、フラント・ディンクがトルコの超国家主義者によって白昼堂々と暗殺された。ディンク殺害とタラート殺害の関連性は複数の著者によって指摘されている。 1944年にジェノサイドという言葉を作ったことで知られるポーランド系ユダヤ人の法学生ラファエル・レムキン(英語版)は、アルメニア人大虐殺とタラート暗殺について読んだことが、戦争犯罪に興味を持つきっかけになったと後に語っている。レムキンは教授のユリウス・マカレヴィッチに、なぜタラートはドイツで罪を裁かれないのかと尋ねた。彼は、国民主権とは政府が自国民を集団で殺すことができるということであり、介入することは間違っているというマカレヴィッチに強く反対した。レムキンは、暗殺は正当であると結論づけたが、自警団の正義が行き過ぎることを懸念し、大量虐殺を処罰するための法的枠組みをを考案しようとし、その結果ジェノサイド条約が生まれた。 1926年にショロム・シュワルツバルト(英語版)がウクライナの反ユダヤ主義者シモン・ペトリューラを暗殺したことを擁護する人々は、テフリリアンの裁判を引き合いに出し、その後、フランスの裁判所は彼を無罪とした。ディーンによれば、テフリリアンとシュワルツバールの裁判は、「西ヨーロッパで初めて、民族間の暴力や国家主導の集団残虐行為の被害者が正義を求めた大規模な裁判」であった。ハンナ・アーレントは『エルサレムのアイヒマン』の中で、この2つの裁判を、後にイスラエルの諜報員がホロコースト実行犯アドルフ・アイヒマンを誘拐し、裁判を受けるためにイスラエルに連れてきたアイヒマン裁判と対比している。彼女は、どちらの復讐者も、自国民に対して行われた罰せられない犯罪を世間に知らしめるために、法廷に立つ日を求めたと指摘した。1936年2月にスイスのナチス党員ヴィルヘルム・グストロフを暗殺したユダヤ人ダヴィッド・フランクフルターを弁護したスイスの弁護士オイゲン・クルティ(ドイツ語版)は、テフリリアンの行為を引き合いに出した。クルティは、ナチス・ドイツにおけるユダヤ人迫害をアルメニア人虐殺になぞらえた。ドイツからの圧力により、フランクフルターは有罪判決を受けた。 後にニュルンベルク裁判の検事となるロバート・ケンプナー(英語版)は、テフリリアン裁判を傍聴し、「政府によって行われた重大な人権侵害、とりわけ大量虐殺は、外国によって争われる可能性があり、(そのような外国の介入は)許されない干渉には当たらない」と認識された法史上初の機会であったと考えていた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "タラート・パシャ暗殺事件(タラート・パシャあんさつじけん、英: Assassination of Talaat Pasha)は、1921年3月15日にアルメニア人学生ソゴモン・テフリリアン(英語版)がベルリンで、元オスマン帝国大宰相でアルメニア人虐殺の主な立案者であったタラート・パシャを殺害した暗殺事件である。裁判でテフリリアンは「私は人を殺したが、殺人者ではない。」と主張し、陪審団は無罪判決を言い渡した。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "テフリリアンはオスマン帝国のエルズィンジャン出身だが、戦前にセルビアに移住した。ロシア軍のアルメニア人義勇軍(英語版)に所属し、ジェノサイドで家族のほとんどを失った。復讐を決意した彼は、オスマン帝国の秘密警察に協力したハルチウン・ムグルディチアンをコンスタンチノープルで暗殺した。テフリリアンは、アルメニア革命連盟が秘密裏に実施したネメシス作戦(英語版)に参加し、以前に暗殺に成功しているためタラート暗殺の任務に選ばれた。タラートはすでにオスマン帝国の軍法会議(英語版)で有罪判決を受け、死刑を宣告されていたが、ドイツ政府の許可を得てベルリンに住んでいた。多くの著名なドイツ人がタラートの葬儀に参列し、ドイツ外務省は 「偉大な政治家と忠実な友人に捧ぐ」という花輪を送った。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "テフリリアンの裁判は1921年6月2日から6月3日にかけて開かれ、弁護側の戦略は、タラートをアルメニア人虐殺の罪で裁判にかけることであった。大虐殺に関する広範な証拠が審理され、ステファン・アイリグ(英語版)によれば「20世紀で最も壮大な裁判のひとつ」となったという。テフリリアンは、自分は単独犯であり、殺害は計画的なものではなかったと主張し、ジェノサイドを生き延び、家族の死を目撃したという、劇的で現実的な、しかし真実味のないストーリーを語った。海外メディアはこの裁判を広く報道し、アルメニア人虐殺の事実が注目され、認識されるようになった。テフリリアンの無罪判決は、ほとんど好意的な反応をもたらした。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "歴史家のアルプ・イェン氏は、この関係を「タラート・テフリリアン・コンプレックス」と呼んでいる。タラートはドイツに埋葬されたが、1943年に彼の遺骨はトルコに移され、国葬(英語版)を行った。ポーランド系ユダヤ人の弁護士ラファエル・レムキン(英語版)は、ニュースでこの裁判を知り、国際法におけるジェノサイドの罪を概念化するきっかけとなった。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "統一と進歩委員会の指導者であったタラート・パシャは、第一次世界大戦中、オスマン帝国最後の有力な大宰相であった。アルメニア人虐殺の主な立案者とみなされたタラート、1915年、アルメニア人人口(英語版)のほぼ全員をシリア砂漠に追放し、一掃するよう命じた。エルズルムから追放された4万人のアルメニア人のうち、デリゾールに到達したのは200人に満たなかったと推定されている。タラートが意図したよりも多くのアルメニア人が生き残ると、1916年に第二波の虐殺を命じた。タラートはこの大虐殺で約115万人のアルメニア人が消えたと推定した。1918年、タラートはジャーナリストのムヒッティン・ビルゲン(トルコ語版)に、「アルメニア人強制送還の際に適用された厳しさの全責任は私にある。」と述べ、「私は自分の行いを絶対に後悔していない。」と語った。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "アメリカ大使ヘンリー・モーゲンソウがタラートに対して残虐行為を中止するよう説得しようとしたとき、アルメニア人の大部分が既に死亡しているため再考はしないと述べて遮り、「トルコ人とアルメニア人の憎しみは今、非常に激しくなっている。そうしなければ、彼らは復讐を企てるだろう。」と語った。トルコの作家ハリデ・エディプ・アドゥヴァルに、アルメニア人の絶滅はトルコの国益を増進させるために正当化されたものであり、「私は自分のしたことのために死ぬ覚悟はできている。」ともタラートは語った。1915年8月、アルメニア人虐殺を知った統一と進歩委員会の元財務大臣メフメト・カビッド(英語版)は、タラートはアルメニア人に暗殺されると予言した。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦中、ドイツ帝国はオスマン帝国の同盟国であった。ハンス・フォン・ヴァンゲンハイム(英語版)大使は、過敏な地域からのアルメニア人の限定的な排除を承認した。オスマン帝国が同盟国の行動による風評被害を食い止めるため、これをはるかに超える行動をとったとき、ドイツの代表は時折外交的な抗議を行った。ドイツはジェノサイドに関する情報を検閲し、ジェノサイドを否定し(英語版)、アルメニア人がオスマン帝国を後ろから刺したと非難するプロパガンダキャンペーンを行った。ドイツの不作為は、大量虐殺の責任はドイツにもある(英語版)という非難を招き、それはドイツの戦争責任(英語版)をめぐる議論と絡んでいった。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1918年10月30日のムドロス休戦協定締結の後、入念な準備を行い、タラートは統一と進歩委員会の指導者(エンヴェル・パシャ、ジェマル・パシャ、バハエッディン・シャキル(英語版)、ナズム・ベイ(英語版)、オスマン・ベドリ、セマル・アズミ(英語版))とともに、11月1日から11月2日にかけての夜、ドイツの魚雷艇でコンスタンティノープルから逃亡した。ジェマルを除けば、全員が大量虐殺の主犯であった。彼らは罪の処罰を逃れ、抵抗運動を組織するために去った。ドイツの外相ヴィルヘルム・ゾルフはコンスタンチノープルの大使館にタラートを援助するよう指示し、「タラートは我々に忠誠を尽くしており、我が国は引き続き彼に対して寛容である。」とし、オスマン・トルコ政府からの身柄引き渡しの要請を拒否した。", "title": "タラート・パシャのベルリンへの亡命" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "11月10日にベルリンに到着したタラートは、アレクサンダー広場のホテルとポツダムのバーベルスベルクの療養所に滞在した後、現在のエルンスト・ロイター広場(英語版)にあたるハーデンベルク通り(ドイツ語版)4番地の9部屋のアパートに移った。タラートはアパートの隣にオリエンタル・クラブを設立し、ムスリムや、連合国に反対するヨーロッパ人が集った。外務省は、フランクフルター・ツァイトゥング紙の元コンスタンチノープル特派員パウル・ヴァイツ(ドイツ語版)を使って、このアパートでの出来事を監視した。ドイツ社会民主党の首相フリードリヒ・エーベルトの法令により、タラートの在住は合法化された。1920年、タラートの妻ヘイリエが加わった。ドイツ政府は、タラートの名前がアルメニア人殺し屋リストの筆頭に挙げられているという情報を入手し、メクレンブルクにある元オスマン帝国参謀総長フリッツ・ブロンサルト・フォン・シェレンドルフ(英語版)所有の人里離れた屋敷に滞在するよう提案した。タラートは、政治的扇動を続けるには首都のネットワークが必要だったため、これを拒否した。統一と進歩委員会主導の抵抗運動は、やがてトルコ革命へとつながっていった。タラートは当初、トルコの政治家ムスタファ・ケマルを傀儡として使おうと考え、ベルリンからトルコの将軍たちに直接命令を下した。", "title": "タラート・パシャのベルリンへの亡命" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "タラートは亡命当初から影響力のあるドイツ人の友人を持っており、海外ではトルコ民族主義運動(英語版)の代表として見られていたため、時間の経過とともに地位を獲得していった。アリ・サリー・ベイの名で偽造パスポートを使い、イギリスとオスマン帝国から指名手配されていたにもかかわらず、ヨーロッパを自由に旅行した。多くのドイツ紙がベルリンでの彼の存在を疑い、1920年3月にドイツ政府転覆を企てたカップ一揆が失敗した後の記者会見でタラートは演説した。多くのドイツ人、特に極右勢力はトルコを無実と見なし、セーヴル条約をヴェルサイユ条約と比較し、ドイツとトルコの間に「運命共同体」が存在すると考えた。タラートは回顧録を書いたが、その主な内容は大量虐殺を命じた自分の決定を擁護し、統一と進歩委員会の罪を免除するものであった。1919年7月5日、タラートと統一と進歩委員会の他の亡命者たちは、オスマン帝国の特別軍事法(英語版)によって、「帝国のアルメニア人の虐殺と絶滅」の罪で有罪判決を受け、欠席裁判で死刑を宣告された。", "title": "タラート・パシャのベルリンへの亡命" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "大虐殺の加害者を裁く者が他にいないことが明らかになると、アルメニア革命連盟は、アルメン・ガロ(英語版)、シャハン・ナタリー(英語版)、アーロン・サチャクリアンを指導者とし、「ネメシス作戦(英語版)」を秘密裏に実施した。共謀者たちは、暗殺の対象となる100人の大量虐殺実行犯のリストを作成し、タラートはそのリストの筆頭だった。ジェノサイドを生き延びたり、家族を失ったりした若者を中心に、暗殺を実行する志願者には事欠かなかった。ネメシスの工作員は、ターゲットの身元を確認せずに暗殺を実行することはなく、誤って罪のない人を殺さないように注意した。", "title": "ネメシス作戦" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "これらの志願兵の一人は、エルズルム・ヴィライエト(英語版)のエルズィンジャン出身のソゴモン・テフリリアン(英語版)であった。戦争勃発時、テフリリアンはセルビアにいた。反アルメニア的な残虐行為について聞いた後、彼はロシア軍のアルメニア人義勇軍(英語版)に参加した。部隊が西に進むと、ジェノサイドの余波を発見した。家族が殺されたことを知ったテフリリアンは、復讐を誓った。回想録には、ジェノサイドで亡くなった85人の家族が記されている。テフリリアンは、現在心的外傷後ストレス障害と呼ばれているものに起因すると思われる、定期的な失神発作やその他の神経系障害に悩まされていた。", "title": "ネメシス作戦" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "終戦後、テフリリアンはコンスタンティノープルに赴き、オスマン帝国の秘密警察に勤務し、1915年4月24日に国外追放されたアルメニア人知識人(英語版)のリスト作成に貢献したハルチウン・ムグディティチアンを暗殺した。この殺害により、ネメシスの工作員はタラート・パシャの暗殺を彼に託すことを確信した。1920年半ば、ネメシス組織はテフリリアンに渡米費を支払い、ガロは彼に、主要な実行犯に対して宣告された死刑判決が執行されていないこと、殺人犯が亡命先から反アルメニア活動を続けていることを説明した。その年の秋、トルコの民族主義運動がアルメニアに侵攻した。テフリリアンは、ネメシスが行方を追っていた統一と進歩委員会の指導者7人の写真を受け取り、ヨーロッパに出発し、まずパリに向かった。ジュネーブで機械工学の学生としてベルリン行きのビザを取得し、12月2日に出発した。", "title": "ネメシス作戦" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "暗殺を企てる共謀者たちは、アルメニア共和国副領事リバリット・ナザリアントの邸宅で会合を持った。テフリリアンは12月中旬に腸チフスで倒れた後も、この会合に出席していた。彼はシャキルの追跡中に倒れ、1週間休養を余儀なくされたほどであった。ダシュナク中央委員会は、他の犯人を排除してタラートに焦点を当てるよう命じた。2月末、共謀者たちは、タラートがローマに向かうためにベルリン動物園駅から出発するのを発見し、タラートの居場所を突き止めた。ヴァハン・ザカリアンツは宿を探している男を装って調査し、タラートがハーデンベルク通り4番地に住んでいることを突き止めた。身元を確認するため、テフリリアンは向かいのハーデンベルク通り37番地にペンションを借り、タラートのアパートに出入りする人々を観察した。ナタリーからの命令はこうだった。「国家第一の殺人者の頭蓋骨を爆破しても、逃げようとはするな。死体の上に足を置いてそこに立ち、警察に投降しなさい。警察が来てあなたに手錠をかけるだろう。」", "title": "ネメシス作戦" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "雨の降る火曜日(1921年3月15日)午前10時45分頃、タラートは手袋を買いにアパートを出た。テフリリアンは反対方向からタラートに近づき、彼を認識し、通りを横切り、背後から詰め寄り、人通りの多い街角のハーデンベルク通り27番地の外で彼のうなじを至近距離から撃ち、即死させた。弾丸は脊髄を貫通し、タラートの左目の上から出て脳を破壊した。タラートは前のめりに倒れ、血の海に横たわった。テフリリアンは最初、死体の上に立っていたが、野次馬が叫ぶと、自分の指示を忘れて逃げ出した。暗殺に使った口径9ミリのパラベラム・ピストルを捨て、ファサネン通りを通って逃走し、そこで店員のニコラウス・ジェッセンに逮捕された。群衆の中にいた人々は彼をひどく殴り、テフリリアンは片言のドイツ語で「大丈夫だ。私は外国人で、彼は外国人だ!」と叫んだ。その直後、彼は警察に「私は犯人ではない、彼が犯人だ。」と言った。", "title": "暗殺" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "警察は遺体を封鎖した。同じ統一と進歩委員会の亡命者ナズム・ベイがまもなく現場に到着し、ハーデンベルク通り4番地にあるタラートのアパートに向かった。午前11時30分、タラートとしばしば会っていた外務省職員で親トルコ活動家のエルンスト・イェック(英語版)も到着した。シャキルも暗殺を知り、警察のために遺体の身元を確認した。イェックとナズムは暗殺現場に戻った。イェックは外務省職員としての権限を行使して遺体を引き渡すよう警察を説得しようとしたが、殺人課が到着する前に警察はそれを拒否した。イェックは、「トルコのビスマルク」を通行人が見とれるような状態で外に置いておくわけにはいかないと訴えた。結局、彼らは遺体を運ぶ許可を得て、赤十字の車でシャルロッテンブルク(英語版)の霊安室に送られた。暗殺の直後、シャキルとナズムは警察の保護を受けた。他の統一と進歩委員会亡命者たちは、次は自分たちになるのではないかと心配していた。", "title": "暗殺" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "当初、タラートの友人たちはアナトリアでの埋葬を望んでいたが、コンスタンティノープルのオスマン帝国政府もアンカラのトルコ民族主義運動も遺体を望まなかった。第一次世界大戦の最悪の犯罪者とされる人物と関係を持つことは、政治的な責任となるからだ。タラートの葬儀にはヘイリエとオリエンタル・クラブからの招待状が送られ、3月19日、参列者の多い中、旧聖マティウス墓地(英語版)に埋葬された。午前11時、トルコ大使館のイマーム、シュクリ・ベイによる礼拝がタラートのアパートで行われた。その後、大行列が棺を従えてマティウスに向かい、そこでタラートは埋葬された。", "title": "葬儀" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "元外相のリヒャルト・フォン・キュールマン(英語版)やアルトゥール・ツィンメルマン、元ドイツ銀行頭取、元バグダード鉄道局長、戦時中にオスマン帝国に従軍した軍人数名、亡命したヴィルヘルム2世の代理として参列したアウグスト・フォン・プラテン・ハレルミュンデ(英語版)など、多くの著名なドイツ人が弔問した。ドイツ外務省からは、「偉大な政治家と忠実な友人に捧ぐ 」と書かれたリボンのついた花輪が送られた。シャキルはかろうじて平静を保っていたが、オスマン帝国国旗(英語版)で覆われた棺が墓に下ろされる間、弔辞を読んだ。彼は、暗殺は「イスラム諸国に対する帝国主義政治の結果」であると主張した。", "title": "葬儀" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "4月下旬、ドイツ人民党の国民的リベラル派の政治家グスタフ・シュトレーゼマンが、タラートを称える公的な記念式典を提案した。ドイツ・トルコ協会(ドイツ語版)はこれを断った。シュトレーゼマンはジェノサイドをよく知っており、少なくとも100万人のアルメニア人が殺されたと信じていた。タラアトの遺品はベルリン公安局長のワイスマンの手に渡り、彼の手記はシャキルに渡され、出版された。", "title": "葬儀" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "警察の捜査が始まった当初、テフリリアンにはトルコ語を話せる通訳が用意されていたが、彼はトルコ語を話すことを拒否した。3月16日、警察はネメシス作戦に参加していたアルメニア人通訳ケヴォルク・カルースティアンを採用した。テフリリアンは、復讐心からタラートを殺害し、ドイツに来る前にその行為を計画していたことを認めたが、警察には単独犯であると語った。彼の裁判では、テフリリアンは暗殺が計画的なものであったことを否定した。通訳は、テフリリアンの負傷によって行動不能になったという理由で、尋問調書への署名を拒否していた。予備捜査は3月21日までに終了した。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ダシュナクツチウンは、彼の弁護のために10万から30万マルクを集めたが、そのほとんどはアルメニア系アメリカ人からだった。ザカリアンツは裁判の間、テフリリアンの言葉をドイツ語に翻訳し、請求書の支払い、弁護の組織化、アメリカのダシュナク中央委員会の指示をテフリリアンに伝えることに関与した。カールスティアンはドイツ語からアルメニア語に通訳した。アドルフ・フォン・ゴードン、ヨハネス・ヴェルタウアー(ドイツ語版)、テオドール・ニーマイヤー(ドイツ語版)の3人のドイツ人弁護士は、それぞれ75,000マルクの報酬を得て、テフリリアンの弁護を担当した。彼らの卓越性により、裁判の宣伝効果はさらに高まった。州検察官はゴルニック、裁判官はエーリッヒ・レンベルクであり、12人の陪審員がこの事件を審理した。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "裁判は6月2日から6月3日にかけてモアビート刑事裁判所(英語版)で開かれた。法廷は完全に満席だった。ドイツに住む多くのアルメニア人が裁判を傍聴し、タラートの妻を含むトルコ人も傍聴した。ドイツ国内外の新聞記者も出席した。『デイリー・テレグラフ』紙、『シカゴ・デイリー・ニュース(英語版)』紙、『フィラデルフィア・パブリック・レジャー(英語版)』紙など多くの新聞社が記者証を要求した。歴史家のステファン・アイリグ(英語版)によれば、「20世紀で最も壮大な裁判のひとつ」であった。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "弁護側の戦略は、テフリリアンの家族と、彼が死を命じた他の100万人のアルメニア人の殺害容疑で、タラート・パシャを裁判にかけることだった。ナタリーはこれを、アルメニア人の大義を宣伝する機会と考えた。彼は、テフリリアンがドイツの法律に従って有罪判決を受ける可能性は高いが、恩赦を得られることを望んでいると考えていた。ヴェルタウアーはもっと楽観的で、暗殺の数日後、依頼人の無罪を勝ち取ることを確信していると発表した。プロテスタントの宣教師で活動家のヨハネス・レプシウス(英語版)は、1896年以来、アルメニア人の殺害(英語版)に反対を表明しており、タラートに対する裁判の提訴に取り組んだ。社会民主党機関紙『フォアヴェルツ(英語版)』が指摘するように、彼らの戦略は成功した。「現実には、被告席に座っていたのは血に染まったタラート・パシャの影であり、真の罪状は、生きて残された数少ない犠牲者の一人である彼の処刑ではなく、おぞましいアルメニア人の恐怖であった。」", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "無罪の可能性を最大化するために、弁護側はテフリリアンを国民全体の復讐者ではなく、孤独な自警団員として紹介した。ドイツ警察はテフリリアンの仲間を探したが、見つからなかった。弁護側は、タラートがテフリアンの母親を死に至らしめたことを証明することで、テフリリアンとタラトの関係を作り上げようとした。弁護側の主張は、タラートの犯罪の重大さとともに、テフリリアンの精神的外傷状態にも基づいておりドイツの刑法51条の一時的心神喪失の法律に従って、彼の行為に責任を負わせない可能性があった。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "対照的に、ドイツ検察側の主な目的は、審理を非政治化し、ジェノサイドにおけるドイツの役割についての議論を避けることであった。裁判は弁護側が要求した3日間ではなく、わずか1日半で行われ、弁護側が呼んだ15人の証人のうち6人は審理されなかった。検察側は暴露を最小限にするため、裁判を「カメラ内(英語版)」で審理することを申請したが、外務省は、秘密主義がドイツの評判を向上させないことを恐れ、この解決策を拒否した。歴史家のキャロライン・ディーン(英語版)は、裁判を早く終わらせ、戦時中のドイツの行動を肯定的に描こうとした結果、「テフリリアンを正義のために殺人者を銃殺せざるを得なかった悲劇的な人間の良心の象徴に図らずも変えてしまった。」と書いている。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "アイリグや他の歴史家たちは、検事の戦略には深い欠陥があり、検事の無能さ、あるいは有罪を勝ち取る動機の欠如を物語っていると主張している。ゴルニックは、オスマン帝国内の出来事は暗殺とは無関係であると主張し、大量虐殺に関する証拠の提出を避けようとした。いったん証拠が提出されると、彼はタラートがアルメニア人の残虐行為に関与したことを否定し、最終的にはタラートが送った命令を正当化せざるを得なかった。裁判の前、反アルメニア的な『ドイツ・オールゲマイネ・ツァイトゥング(英語版)』紙を支配していたハンス・フマン(英語版)は、検事局に激しく働きかけた。彼はタラート・パシャの手記を入手することができたが、検察官はそれを裁判で証拠採用しなかった。ゴルニックはフマンのロビー活動に嫌気がさし、おそらく被告に同調したのではないかとアイリグは推測している。裁判後、ゴルニックは『ドイツ・オールゲマイネ・ツァイトゥング』の編集委員(英語版)に任命された。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "裁判は、裁判長がテフリリアンに大虐殺について多くの質問をするところから始まったが、この質問は、裁判長が大虐殺とそれに関するトルコ語やドイツ語の語りについて知識があることを明らかにした。裁判長はテフリリアンに、ジェノサイドの際に目撃したことを語るよう求めた。テフリリアンによると、戦争勃発後、エルジンジャンではほとんどのアルメニア人男性が軍隊に徴兵(英語版)された。1915年初頭、何人かのアルメニア人コミュニティの指導者が逮捕され、彼らの虐殺の報告が街に届いた。1915年6月、一般追放令が出され、武装した憲兵が市内のアルメニア人に家を捨てさせ、財産を残させた。街を離れるや否や、憲兵隊は犠牲者を射殺し、貴重品を略奪し始めた。テフリリアンは「憲兵の一人が私の妹を連れ去った」と言ったが、「この暗黒の日のことを再び話すくらいなら、今死んだほうがましだ」と、それ以上話を続けなかった。裁判官に促されると、彼は母親と兄が殺されるのを目撃し、その後意識を失い、兄の死体の下で目覚めたことを思い出した。彼は二度と妹に合うことはなかった。この後、テフリリアンは数人のクルド人の家に身を寄せ、他の生存者とともにペルシアに逃れたという。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "テフリリアンは、虐殺を扇動した責任は誰にあるのか、アダナ虐殺(英語版)などの歴史的前例について質問された。それから初めて、裁判官は計画殺人の罪を読み上げた。有罪かどうかと問われたテフリリアンは、当初は暗殺の実行を認めていたにもかかわらず、「ノー」と答えた。彼は「良心の呵責はないので自分が有罪だとは思っていない。私は人を殺しましたが、殺人者ではありません。」と説明した。テフリリアンはタラート殺害計画を否定したが、殺害の2週間前に厳格を見たと述べた。「虐殺の映像が何度も何度も目の前に現れた。私は母の亡骸を見た。この死体は立ち上がり、私のところに来て言った『タラートがここにいるのを見たのに、まったく無関心なのか?お前はもう私の息子ではない!』。」このとき、彼は「突然目覚めて、タラートを殺す決心をした。」と言った。さらなる尋問の後、彼はタラートがベルリンにいることを知らなかったと否定し、オスマン・トルコの高官を殺す計画はなかったと繰り返した。裁判官は検察官のさらなる追及の後、「彼(テフリリアン)の決意に変化があった」と述べ、テフリリアンを支持した。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "この証言は虚偽であった。テフリリアンは家族が殺されたとき、実際にはロシア軍のアルメニア人志願兵とともに戦っていた。歴史家のロルフ・ホスフェルド(英語版)は、テフリリアンは「非常に手入れされていた」と述べ、彼の証言は信憑性が高いと言う。歴史家のテッサ・ホフマン(英語版)は、テフリリアンの証言は虚偽ではあるが、「彼の同胞の集団的運命の極めて典型的で本質的な要素」を含んでいたと言う。検察側は証言の真偽を争わなかったため、真実が明らかになったのは数十年後のことだった。裁判中、テフリリアンがアルメニア人革命グループに属していたかどうか、あるいは陰謀の一環として暗殺を行ったかどうかを問われることはなかった。もし暗殺が計画的な陰謀の一環であったことを法廷が知っていたら、テフリアンは無罪にならなかっただろうとホスフェルドは主張する。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "裁判所は、暗殺とその直後の目撃者である警察官と検視官、そしてテフリリアンの2人の女主人から話を聞いた後、ベルリンでテフリリアンと交流のあったアルメニア人に証言を求めた。これらの証人はアルメニア人虐殺に関する情報を提供した。レボン・エフティアンは法廷で、ジェノサイドの間、彼の家族はエルズルムにいて、両親は殺されたが、他の親戚はなんとか逃げ延びたと語った。テフリアンの通訳ザカリアンツもその日のうちに証言し、1890年代のハミディイェ虐殺で父、母、祖父、兄弟、叔父を失ったと述べた。ベルリンのアルメニア人タバコ職人であるテルジバシアン氏は、ジェノサイドの際にエルズルムにいた友人や親戚はすべて殺されたと証言した。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "タバコ屋の妻クリスティーン・テルジバシアンは、暗殺のことは何も知らないと言った。弁護側は彼女にアルメニア人虐殺についての証言を求め、裁判官はこれを認めた。彼女もまたエルズルム出身で、21人の親戚のうち生き残ったのは3人だけだったという。彼女は、アルメニア人は500家族からなる4つのグループに分かれて、エルズルムからエルズィンジャンに向かって強制退去させられたと言った。彼らは先に殺された他のアルメニア人の死体の上を歩かなければならなかった。彼女は、エルジンジャンに到着した後、男性は他の強制送還者から引き離され、一緒に縛られて川に投げ込まれたと証言した。彼女は、残りの男たちはマラティヤの上の山で斧で殺され、水に投げ込まれたと説明した。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "その後、「憲兵隊がやってきて、最も美しい女性や少女を選び出し」、拒否した者は「銃剣で突き刺され、足を引き裂かれた」とテルジバシアンは回想した。殺人鬼らは妊婦を切り裂き、子供を殺したという。これは法廷に大きな波紋を呼んだ。彼女は、自分の兄が殺され、母親もすぐに死んだと述べた。彼女がトルコ人の一人との結婚を拒んだとき、「彼は私の子供を奪って捨てた」。さらに悲惨な詳細を語った後、真実は彼女が語る以上にひどいものだったと彼女は言った。「エンヴェル・パシャの命令で起こったことで、兵士たちは強制連行された人々にひざまずかせ、『パシャ万歳!』と叫ばせたのです。」弁護側は、エルズィンジャンにいた2人のドイツ人看護婦を含む他の目撃者が彼女の証言を裏付けていると述べた。したがって、ゴードンは、テフリリアンの証言も「根底から真実」であると主張した。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "前回の証言の信憑性について、2人の専門家証人の聴取が行われ、検事も聴取に同意した。レプシウスは、強制送還はタラート・パシャを含む「青年トルコ委員会」によって命じられたと証言した。レプシウスはアルメニア人の強制送還に関するタラートからの文書の原本から「強制送還の目的地は無である」(Das Verschickungsziel ist das Nichts)を引用し、これが実際にどのように行われたかについて詳細を述べた。。レプシウスは、「予防措置」という公式の口実にもかかわらず、「権威ある人物は、これがアルメニア民族の消滅に関わるものであることを、非公式に公然と認めていた」と指摘した。レプシウスは、彼が編集した外務省の文書集『ドイツとアルメニア』について言及し、裁判所が聞いたような同様の証言がさらに何百も存在すると述べ、全体で100万人のアルメニア人が殺害されたと推定した。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ドイツのオットー・リーマン・フォン・ザンデルス将軍は、統一と進歩委員会政府がアルメニア人の強制送還を命じたことを認めたが、強制送還の言い訳と正当化も行い、それは軍事的必要性(英語版)と「軍の最高権威」の助言のために起こったと主張した。彼は、これらの高級軍人たちのほとんどがドイツ人であったことは認めなかった。他の証人とは異なり、リーマン・フォン・サンデルスは、タラートが大量虐殺の個人的責任者であるかどうかはわからないと述べた。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "次に証言したのは、4月24日に強制送還された一人で、イギリスのマンチェスターから来たアルメニア人司祭グリゴリス・バラキアン(英語版)だった。バラキアン司祭は、アンカラで彼の護送隊のほとんどが殴り殺されたことを語った。「正式名称は 『国外追放』でしたが、実際は組織的な殲滅政策でした。」と彼は述べ、こう説明した。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "シュクリは、ハミディイェ虐殺のときとは異なり、今回はオスマン帝国が「証人がいかなる法廷にも出廷させない」ように措置を講じたと説明した。砂漠で餓死してしまうからこそ、バラキアンには自由に話すことができたという。シュクリは、4万人のアルメニア人を棍棒で殴り殺すよう命じたと言った。しばらくして、ゴードンが割って入り、バラキアンにタラートからの電報について尋ねた。バラキアンは、キリキアのオスマニエ副知事アサフ・ベイに送られた電報を見たことがあると言った。「アルメニア人のうち何人がすでに死亡し、何人がまだ生存しているか、速やかに電報で知らせてください。内務大臣、タラート。」アサフはバラキアンに、「何を待っているのか。\"直ちに\"虐殺を始めろ!」と述べた。バラキアンは、バグダード鉄道で働くドイツ人に命を救われたと語った。彼は、アルメニア人は正しくタラートに虐殺の責任を負わせたと述べた。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "弁護側は、アルメニア人ジャーナリスト、アラム・アンドニアン(英語版)が収集したタラート・パシャの電報(英語版)数通を証拠として読み上げ、大量虐殺におけるタラートの罪を証明しようとした。アンドニアンは証言の準備をしてベルリンにやってきて、現在は紛失している電報の原本を何通か持参した。弁護側は、アレッポの元ドイツ領事ヴァルター・レスラー(ドイツ語版)に証言を求めたが、タラートが「アルメニア人の絶滅を望み、組織的に実行した」と信じていると証言すると告げたため、外務省の上司はこれを阻止した。外務省は、レスラーが大量虐殺に関するドイツの知識と加担を暴露するのではないかと心配したのである。弁護団の要請で、レスラーはアンドニアンの電報を調査し、本物である可能性が高いと結論づけた。検察官は、テフリリアンがタラトに責任を負わせたことに疑いはないという理由で異議を唱えたので、アンドニアンは証言せず、彼の電報は証拠採用されなかった。結局、弁護側は、タラートの有罪に関するさらなる証拠の提出要求を取り下げた。このときすでに、陪審員たちはテフリリアンの有罪よりもタラートの有罪に集中していた。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "タラートの電報は、『ニューヨーク・タイムズ』紙などの報道で取り上げられた。召喚されながら聴取されなかった他の証人には、ブロンサルト・フォン・シェレンドルフ、兵士のエルンスト・パラキン(ドイツ語版)とフランツ・カール・エンドレス(ドイツ語版)、衛生兵のアルミン・T・ヴェグナー(英語版)、エルズルムの副領事として虐殺を目撃したマックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー=リヒターなどがいた。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "5人の専門家証人が、テフリリアンの精神状態と、それがドイツの法律に従って彼の行動の刑事責任を免責するかどうかについて証言した。全員が、彼が1915年に経験したことのために、定期的に「てんかん」の発作に苦しんでいることに同意した。アイリグによると、どの医師もテフリリアンの状態を明確に理解していなかったが、彼らの理解は、後の心的外傷後ストレス障害という病気に似ていた。ロバート・ストーマー医師が最初に証言し、彼の意見では、テフリリアンの犯行は計画的な殺人であり、彼の精神状態に起因するものではないと述べた。フーゴー・リープマン(英語版)によると、テフリリアンは1915年に目撃したことが原因で「精神病質者」になっており、したがって自分の行動に完全な責任はなかった。神経学者であり教授であったリヒャルト・カッシーラー(英語版)は、「感情の乱れが彼の症状の根本原因」であり、「影響てんかん」が彼の人格を完全に変えてしまったと証言している。エドマンド・フォースターは、戦争中のトラウマ体験が新たな病態を引き起こすことはなく、すでに存在していた病態を顕在化させたに過ぎないが、テフリリアンの行動には責任がないことに同意した。最後の専門家であるブルーノ・ハーケも「影響てんかん」と診断し、テフリリアンが自分の意志で行動を起こした可能性を完全に否定した。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "初日にすべての証人の尋問が行われた。2日目の午前9時15分、裁判官は陪審員に向かって、次の質問に答える必要があると述べた。「第一に、被告ソゴモン・テフリリアンは、1921年3月15日、シャルロッテンブルクで、計画的に、他の人間であるタラート・パシャを殺害したことについて有罪であるか。第二に、被告人は反省してこの殺人を実行したか。 第三に、軽減すべき事情があるか。」", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ゴルニックは短い最終弁論のみ行なった。裁判記録では弁護側の35ページに対し、彼の演説は6ページであった。ゴルニックは、テフリリアンは計画的殺人罪(過失致死罪は刑が軽い)であると主張し、死刑を求刑した。ゴルニックは、政治的憎悪と怨嗟がこの犯罪を完全に説明すると主張した。テフリリアンは、オスマン帝国からベルリンに移動し、目的の被害者の向かいに部屋を借り、タラートを注意深く観察し、最終的に殺害するという、かなり前から殺害を計画していた。彼はリマン・フォン・サンダースの証拠を強調し、彼がレプシウスよりも信頼できると主張し、ドイツの将軍が実際に語ったことを歪曲した。ドイツの敗戦に関する「背後の一突き」に訴えながら、ゴルニックは、アルメニア人の「離反」は、彼らが「連合国と共謀し、戦況が許す限りすぐにトルコ人を背後から刺し、彼らの独立を達成しようと決心した」ために実行されたと主張した。虐殺におけるタラートの責任を証明する証拠は何もないと主張した彼は、裁判で提出された文書の信頼性と、タラートに死刑を宣告した法廷の客観性に疑問を呈した。演説の最後には、タラート・パシャの愛国心と名誉を強調した。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "弁護人のうち、ゴードンが最初に発言し、ゴルニックを「タラート・パシャの弁護人」だと非難した。彼は、タラートと大量虐殺の実行を結びつける証拠、特に電報を支持した。彼は、100万人のアルメニア人に対するこのような大規模な絶滅は、中央政府の調整なしには起こり得なかったと主張した。さらに、弁護側は、ドイツの判例法における「熟慮」とは、殺人の決定がなされた時点のことであり、その他の準備を除いたものであると指摘した。計画された行為であっても、その実行の瞬間に熟慮がなければ、殺人にはならないと主張した。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ヴェルタウアーは、タラートは「軍国主義内閣」に所属していたと述べている。「軍国主義者」とは、正義に反対し、「軍事的必要性」と「調和」させることができない場合には法律を無視する者であると定義している。ヴェルタウアーは、連合国によるラインラント占領(英語版)とボリシェヴィキもまた「軍国主義」政権であると宣言した。彼は、これらの「軍国主義者」と、ウィリアム・テルになぞらえた高貴な人物であるテフリリアンとの間に劇的な対照を描いた。「テルが(暴君アルブレヒト)ゲスラーに矢を射たとしたら、世界中の陪審員の中で、どの陪審員がテルを断罪したであろうか。この法廷で語られたこと以上に人道的な行為があるだろうか。」弁護側は、テフリリアンの行為は強制的なものであったと主張するとともに、正当なものであったと主張した。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "検察側も弁護側も、大量虐殺時のドイツとトルコの行動の違いを強調した。ヴェルタウアーは、タラートはドイツ政府に知られることなくベルリンに住んでいたと主張した。ニーマイヤーは、免責されれば、ドイツが大量虐殺の責任を負っているという「世界が私たちに対して抱いている誤解に終止符が打たれるだろう」と述べた。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "最終弁論が終わった後、裁判官はテフリリアンに何か付け加えることはないかと尋ねたが、彼はそれを断った。陪審員は1時間審議した後、テフリリアンがタラートを故意に殺したとして有罪かどうかという質問に対し、「いいえ」の一言で答えた。全会一致の評決で、検察側が控訴する可能性はなくなった。聴衆は拍手喝采に包まれた。訴訟費用306,484マルクは国庫が負担した。ゴルニックは、無罪判決は一時的な心神喪失に基づいていると述べた。アイリグは「陪審は必ずしも『一時的な心神喪失』を理由にテフリリアンを無罪としたわけではない」と述べ、弁護側はテフリリアンの行為の医学的側面よりもむしろ政治的側面に重点を置いていたと指摘している。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "無罪判決後、テフリアンはドイツから追放された。バラキアンと共にマンチェスターに行き、その後「サロ・メリキアン」という偽名でアメリカに渡り、そこで『ハイレニク(英語版)』編集委員会は彼を称えた。その後も体調を崩し、ストレス障害の治療が必要だった。彼はセルビアのベオグラードに定住し、1950年までそこで暮らした。世界中の多くのアルメニア人が購入した裁判の記録は、テフリリアンの弁護費用を回収し、ネメシス作戦の資金を調達するために販売された。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "暗殺と裁判は国際的に広く報道され、ジェノサイドの事実に注目と認識をもたらした。同時代の人々は、この裁判がテフリリアン個人の罪よりもアルメニア人大量虐殺に関するものであると理解した。報道は、ジェノサイドの犠牲となったアルメニア人に対する国民の同情と、法と秩序(英語版)の価値との間の緊張を反映していた。『ニューヨーク・タイムズ』紙は、陪審がジレンマに直面していると指摘した。無罪を宣告することは、アルメニア人の残虐行為を非難することになるが、同時に超法規的殺人を認めることにもなる。「このジレンマから逃れることはできない。すべての暗殺者は処罰されるべきだが、この暗殺者は処罰されるべきではない。そして、そこにいるのだ。」無罪判決に対する反応は全体的に好意的だった。", "title": "報道" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "この暗殺事件は、事件当日のドイツの多くの新聞の見出しを飾ったが、ほとんどの報道はタラートへの同情的なものだった。翌日、ドイツのほとんどの新聞が暗殺を報じ、多くの新聞が追悼記事を掲載した。報道の典型的な例は『フォッシェ・ツァイトゥング(英語版)』であり、同紙は「(アルメニア人の)到達可能な部族をすべて絶滅」させようとしたタラートの役割を認めつつも、大量虐殺を正当化するいくつかの理由を述べた。他の新聞は、タラートはアルメニア人の復讐の対象としては間違っていたと指摘した。『ドイツ・オールゲマイネ・ツァイトゥング』紙は、テフリリアンが行ったような裏切りや殺人が「真のアルメニア人のやり方」であると主張し、反アルメニアキャンペーンを展開した。当初、暗殺者に同情的だった唯一の新聞は、『フライハイト(英語版)』であった。", "title": "報道" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "裁判の報道はその後1ヵ月にわたって広まり、1933年にナチスが政権を掌握するまで、テフリリアンの功績は政治的な議論の場で取り上げられ続けた。裁判の後、ドイツの新聞は、政治的なスペクトルを超えて、大量虐殺の現実を受け入れた。ほとんどの新聞がレプシウスとテフリリアンの証言を大々的に引用した。無罪判決に対するドイツの反応はさまざまで、アルメニア人や普遍的人権に同情的な人々の間ではおおむね好意的であった。平和主義雑誌『ディ・ヴェルトビューネ(英語版)』に寄稿したジャーナリストのエーミール・ルートヴィヒは、「国家社会が国際秩序の保護者として組織されたときにのみ、いかなるアルメニア人殺人者も処罰されずに残ることはないだろう。なぜなら、いかなるトルコのパシャも、国民を砂漠に送る権利はないからだ。」裁判の数ヵ月後、ウェグナーはその全記録を出版した。彼は序文で、テフリリアンの「民族のために自らを犠牲にする英雄的な覚悟」を賞賛し、これを机上で大量虐殺を命令するのに必要な勇気の欠如と対比させた。", "title": "報道" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "反アルメニア的な傾向のあるナショナリスト側の意見では、反アルメニア的な記事を多く掲載し、判決を「司法スキャンダル」と呼んだフマンの『ドイツ・オールゲマイネ・ツァイトゥング』に続き、多くの新聞がジェノサイドの否定から正当化に転じた。民族主義的な新聞によって広く受け入れられた大量絶滅を正当化する論拠は、アルメニア人の想定される人種的特徴に基づいており、人種的反ユダヤ主義(英語版)の理論と容易に結びついた。1926年、ナチスの思想家アルフレート・ローゼンベルクは、テフリリアンの無罪判決を歓迎したのは「ユダヤ人新聞」だけだと主張した。彼はまた、「アルメニア人は、ドイツに対するユダヤ人と同様に、トルコ人に対するスパイ活動を主導した。」と主張し、タラートの彼らに対する行動を正当化した。", "title": "報道" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "タラートの暗殺後、アンカラの新聞は彼を偉大な革命家、改革者として賞賛し、トルコの民族主義者たちはドイツ領事に、彼は「彼らの希望であり偶像」であり続けたと語った。イェニ・ギュン(トルコ語版)は「我々の偉大な愛国者は祖国のために死んだ。タラートはトルコが生んだ最も偉大な人物であり続けるだろう。」と述べた。コンスタンティノープルでは、彼の死に対する反応は様々であった。一部の者はタラートに敬意を表したが、リベラルな日刊紙『アレムダール(トルコ語版)』は、タラートは自分のコインで返済され、「彼の死は彼の行いの償いである」とコメントした。『ハキミエト・イ・ミリエ(英語版)』は、テフリリアンはイギリスが彼を送ったと自白したと主張した。多くの記事は、タラートの貧しい始まりから権力の高みへの道のりを強調し、彼の反アルメニア政策を擁護した。イスタンブールの新聞『イェニ・シャーク』は1921年にタラートの回想録を連載した。コンスタンティノープルで発行された彼の新聞で、アルメニア人社会主義者ディクラン・ザヴェン(アルメニア語版)は、「自国の真の利益を認識しているトルコ人は、この元大臣を優秀な政治家に数えないだろう」と期待を表明した。1922年、アンカラ政府はタラートの有罪判決を取り消し、その2年後、アルメニア人虐殺の中心的加害者であるタラートとシャキルの家族に年金を与える法律を可決した。タラートの家族は、没収されたアルメニア人の財産(英語版)から得られる他の補償金も受け取った。", "title": "報道" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "歴史家のハンス=ルーカス・キーザー(英語版)は、「暗殺は、復讐を求める被害者と、反抗的な否定に凝り固まった加害者という病んだ関係を永続させた。」と述べている。タラートとテフリリアンはともに、それぞれの側から英雄視されている。アルプ・イェネンはこの関係を「タラート・テフリリアン・コンプレックス」と呼んでいる。", "title": "遺産" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "トルコではテロリストとみなされていたテフリリアンだが、アルメニア人にとって英雄となった(英語版)。1950年代、トルコの諜報員はカサブランカでテフリリアンを追跡し、命を脅かしたため、アメリカに移住せざるを得なかった。この動きによって、テフリリアンは離散したアルメニア人から注目されるようになったが、彼の息子によれば、彼は暗殺における自分の役割について話したがらなかったという。彼の死後、カリフォルニア州フレズノのアララト墓地(英語版)に記念碑が建てられた。アルメニア共和国からの国家的な後援もあるが、テフリリアンの記憶は主に離散したアルメニア人によって分散的に広められている。これとは対照的に、トルコのタラート記念は国家主導で行われている。。1943年、トルコ政府の要請により、タラートは掘り起こされ、1909年のオスマン・トルコの反乱(英語版)を防いで命を落とした人々に捧げられたイスタンブールの自由の記念碑(英語版)で国葬(英語版)が行われた。タラートが暗殺されたときに着ていたシャツは、イスタンブール軍事博物館(英語版)に展示されている。2020年現在、トルコやその他の国々の多くのモスク、学校、宅地開発、通りにはタラートの名前が付けられている。", "title": "遺産" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "2005年以来、暗殺現場に記念碑を建立し、3月15日に彼の墓で記念式典を行おうとするベルリンのトルコ人による試みがあった。2006年3月、トルコの民族主義団体は暗殺を記念し、「大虐殺の嘘」に抗議する目的でベルリンで2つの集会を開催した。ドイツの政治家たちはこの行進を批判し、参加者は少なかった。2007年、トルコ系アルメニア人ジャーナリスト、フラント・ディンクがトルコの超国家主義者によって白昼堂々と暗殺された。ディンク殺害とタラート殺害の関連性は複数の著者によって指摘されている。", "title": "遺産" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "1944年にジェノサイドという言葉を作ったことで知られるポーランド系ユダヤ人の法学生ラファエル・レムキン(英語版)は、アルメニア人大虐殺とタラート暗殺について読んだことが、戦争犯罪に興味を持つきっかけになったと後に語っている。レムキンは教授のユリウス・マカレヴィッチに、なぜタラートはドイツで罪を裁かれないのかと尋ねた。彼は、国民主権とは政府が自国民を集団で殺すことができるということであり、介入することは間違っているというマカレヴィッチに強く反対した。レムキンは、暗殺は正当であると結論づけたが、自警団の正義が行き過ぎることを懸念し、大量虐殺を処罰するための法的枠組みをを考案しようとし、その結果ジェノサイド条約が生まれた。", "title": "遺産" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "1926年にショロム・シュワルツバルト(英語版)がウクライナの反ユダヤ主義者シモン・ペトリューラを暗殺したことを擁護する人々は、テフリリアンの裁判を引き合いに出し、その後、フランスの裁判所は彼を無罪とした。ディーンによれば、テフリリアンとシュワルツバールの裁判は、「西ヨーロッパで初めて、民族間の暴力や国家主導の集団残虐行為の被害者が正義を求めた大規模な裁判」であった。ハンナ・アーレントは『エルサレムのアイヒマン』の中で、この2つの裁判を、後にイスラエルの諜報員がホロコースト実行犯アドルフ・アイヒマンを誘拐し、裁判を受けるためにイスラエルに連れてきたアイヒマン裁判と対比している。彼女は、どちらの復讐者も、自国民に対して行われた罰せられない犯罪を世間に知らしめるために、法廷に立つ日を求めたと指摘した。1936年2月にスイスのナチス党員ヴィルヘルム・グストロフを暗殺したユダヤ人ダヴィッド・フランクフルターを弁護したスイスの弁護士オイゲン・クルティ(ドイツ語版)は、テフリリアンの行為を引き合いに出した。クルティは、ナチス・ドイツにおけるユダヤ人迫害をアルメニア人虐殺になぞらえた。ドイツからの圧力により、フランクフルターは有罪判決を受けた。", "title": "遺産" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "後にニュルンベルク裁判の検事となるロバート・ケンプナー(英語版)は、テフリリアン裁判を傍聴し、「政府によって行われた重大な人権侵害、とりわけ大量虐殺は、外国によって争われる可能性があり、(そのような外国の介入は)許されない干渉には当たらない」と認識された法史上初の機会であったと考えていた。", "title": "遺産" } ]
タラート・パシャ暗殺事件は、1921年3月15日にアルメニア人学生ソゴモン・テフリリアンがベルリンで、元オスマン帝国大宰相でアルメニア人虐殺の主な立案者であったタラート・パシャを殺害した暗殺事件である。裁判でテフリリアンは「私は人を殺したが、殺人者ではない。」と主張し、陪審団は無罪判決を言い渡した。 テフリリアンはオスマン帝国のエルズィンジャン出身だが、戦前にセルビアに移住した。ロシア軍のアルメニア人義勇軍に所属し、ジェノサイドで家族のほとんどを失った。復讐を決意した彼は、オスマン帝国の秘密警察に協力したハルチウン・ムグルディチアンをコンスタンチノープルで暗殺した。テフリリアンは、アルメニア革命連盟が秘密裏に実施したネメシス作戦に参加し、以前に暗殺に成功しているためタラート暗殺の任務に選ばれた。タラートはすでにオスマン帝国の軍法会議で有罪判決を受け、死刑を宣告されていたが、ドイツ政府の許可を得てベルリンに住んでいた。多くの著名なドイツ人がタラートの葬儀に参列し、ドイツ外務省は 「偉大な政治家と忠実な友人に捧ぐ」という花輪を送った。 テフリリアンの裁判は1921年6月2日から6月3日にかけて開かれ、弁護側の戦略は、タラートをアルメニア人虐殺の罪で裁判にかけることであった。大虐殺に関する広範な証拠が審理され、ステファン・アイリグによれば「20世紀で最も壮大な裁判のひとつ」となったという。テフリリアンは、自分は単独犯であり、殺害は計画的なものではなかったと主張し、ジェノサイドを生き延び、家族の死を目撃したという、劇的で現実的な、しかし真実味のないストーリーを語った。海外メディアはこの裁判を広く報道し、アルメニア人虐殺の事実が注目され、認識されるようになった。テフリリアンの無罪判決は、ほとんど好意的な反応をもたらした。 歴史家のアルプ・イェン氏は、この関係を「タラート・テフリリアン・コンプレックス」と呼んでいる。タラートはドイツに埋葬されたが、1943年に彼の遺骨はトルコに移され、国葬を行った。ポーランド系ユダヤ人の弁護士ラファエル・レムキンは、ニュースでこの裁判を知り、国際法におけるジェノサイドの罪を概念化するきっかけとなった。
{{Infobox 事件・事故 | 名称 = タラート・パシャ暗殺事件 | 正式名称 = | 画像 = Trial of Talat Pasha.jpg | 脚注 = 公判中の法廷(1921年6月) | 場所 = {{DEU1919}},[[File:Flagge Preußen - Provinz Brandenburg.svg|25px]] [[:en:Province of Brandenburg|ブランデンブルク州]]<br/>[[ベルリン]],{{仮リンク|ベルリン=シャルロッテンブルク|en|Charlottenburg|label=シャルロッテンブルク}} | 緯度度 = |緯度分 = |緯度秒 = | 経度度 = |経度分 = |経度秒 = | 標的 = | 日付 = [[1921年]][[3月15日]] | 概要 = [[暗殺|暗殺事件]] | 死亡 = [[タラート・パシャ]] | 犯人 = {{仮リンク|ソゴモン・テフリリアン|en|Soghomon Tehlirian}} | 動機 = [[アルメニア人虐殺]]への復讐 | 刑事訴訟 = 無罪判決 | 地図 = {{Infobox mapframe|id=Q105987834}} | 地図の説明 = }} '''タラート・パシャ暗殺事件'''(タラート・パシャあんさつじけん、{{lang-en-short|Assassination of Talaat Pasha}})は、[[1921年]][[3月15日]]に[[アルメニア人]]学生{{仮リンク|ソゴモン・テフリリアン|en|Soghomon Tehlirian}}が[[ベルリン]]で、元[[オスマン帝国]][[大宰相]]で[[アルメニア人虐殺]]の主な立案者であった[[タラート・パシャ]]を殺害した[[暗殺|暗殺事件]]である。裁判でテフリリアンは「私は人を殺したが、殺人者ではない。」と主張し{{sfn|Dean|2019|p=41}}、陪審団は無罪判決を言い渡した。 テフリリアンはオスマン帝国の[[エルズィンジャン]]出身だが、戦前に[[セルビア王国 (近代)|セルビア]]に移住した。[[ロシア帝国陸軍|ロシア軍]]の{{仮リンク|アルメニア人義勇軍|en|Armenian volunteer 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Pasha|label=国葬}}を行った。ポーランド系[[ユダヤ人]]の弁護士{{仮リンク|ラファエル・レムキン|en|Raphael Lemkin}}は、ニュースでこの裁判を知り、[[国際法]]におけるジェノサイドの罪を概念化するきっかけとなった。 ==背景== {{see also|アルメニア人虐殺}} [[File: Ambassador Morgenthau's Story p314.jpg|thumb|alt=Photograph of the bodies of dozens of Armenians in a field|道路脇の[[アルメニア人]]の死体、 強制送還ルートでよく見かける光景だった{{sfn|Akçam|2018|p=158}}。]] [[統一と進歩委員会]]の指導者であった[[タラート・パシャ]]は、[[第一次世界大戦]]中、[[オスマン帝国]]最後の有力な[[大宰相]]であった。[[アルメニア人虐殺]]の主な立案者とみなされたタラート{{sfnm|1a1=Dadrian|1a2=Akçam|1y=2011|1p=23|2a1=Kieser|2y=2018|2p=xi}}、[[1915年]]、{{仮リンク|オスマン帝国のアルメニア人|en|Armenians in the Ottoman Empire|label=アルメニア人人口}}のほぼ全員を[[シリア砂漠]]に追放し、一掃するよう命じた{{sfnm|1a1=Üngör|1y=2012|1p=54|2a1=Göçek|2y=2015|2p=151|3a1=Kieser|3y=2018|3pp=234–235}}。[[エルズルム]]から追放された4万人のアルメニア人のうち、[[デリゾール]]に到達したのは200人に満たなかったと推定されている{{sfn|Üngör|2012|p=53}}。タラートが意図したよりも多くのアルメニア人が生き残ると、[[1916年]]に第二波の虐殺を命じた{{sfnm|1a1=Kieser|1y=2018|1p=374|2a1=Suny|2y=2015|2pp=325–326}}。タラートはこの大虐殺で約115万人のアルメニア人が消えたと推定した{{sfn|Hofmann|2020|p=74}}。[[1918年]]、タラートはジャーナリストの{{仮リンク|ムヒッティン・ビルゲン|tr|Muhittin Birgen}}に、「アルメニア人強制送還の際に適用された厳しさの全責任は私にある。」と述べ、「私は自分の行いを絶対に後悔していない。」と語った{{sfn|Akçam|2008|p=111}}。 アメリカ大使[[ヘンリー・モーゲンソウ (外交官)|ヘンリー・モーゲンソウ]]がタラートに対して残虐行為を中止するよう説得しようとしたとき、アルメニア人の大部分が既に死亡しているため再考はしないと述べて遮り、「[[トルコ人]]と[[アルメニア人]]の憎しみは今、非常に激しくなっている。そうしなければ、彼らは復讐を企てるだろう。」と語った{{sfnm|1a1=Suny|1y=2015|1p=269|2a1=Hofmann|2y=2020|2p=75}}。トルコの作家[[ハリデ・エディプ・アドゥヴァル]]に、アルメニア人の絶滅はトルコの国益を増進させるために正当化されたものであり、「私は自分のしたことのために死ぬ覚悟はできている。」ともタラートは語った{{sfn|Hofmann|2020|p=76}}。1915年8月、アルメニア人虐殺を知った統一と進歩委員会の元財務大臣{{仮リンク|メフメト・カビッド|en|Mehmed Cavid}}は、タラートはアルメニア人に暗殺されると予言した{{sfnm|1a1=Kieser|1y=2018|1p=320|2a1=Ozavci|2y=2019|2pp=194, 215}}。 第一次世界大戦中、[[ドイツ帝国]]はオスマン帝国の[[中央同盟国|同盟国]]であった。{{仮リンク|ハンス・フォン・ヴァンゲンハイム|en|Hans von Wangenheim}}大使は、過敏な地域からのアルメニア人の限定的な排除を承認した{{sfnm|1a1=Suny|1y=2015|1pp=298–299|2a1=Kieser|2y=2018|2pp=20–21}}。オスマン帝国が同盟国の行動による[[風評被害]]を食い止めるため、これをはるかに超える行動をとったとき、ドイツの代表は時折外交的な抗議を行った{{sfn|Ihrig|2016|pp=132–133}}。ドイツはジェノサイドに関する情報を検閲し{{sfnm|1a1=Suny|1y=2015|1p=303|2a1=Ihrig|2y=2016|2p=189}}、{{仮リンク|アルメニア人虐殺否定|en|Armenian genocide denial|label=ジェノサイドを否定し}}、アルメニア人がオスマン帝国を後ろから刺したと非難する[[プロパガンダ]]キャンペーンを行った{{sfnm|1a1=Ihrig|1y=2016|1p=189|2a1=Kieser|2y=2018|2p=21}}。ドイツの不作為は{{sfn|Suny|2015|p=298}}、{{仮リンク|ドイツとアルメニア人虐殺|en|Germany and the Armenian genocide|label=大量虐殺の責任はドイツにもある}}という非難を招き、それは{{仮リンク|戦争責任の問題|en|War guilt question|label=ドイツの戦争責任}}をめぐる議論と絡んでいった{{sfnm|1a1=Kieser|1y=2010|2a1=Ihrig|2y=2016|2pp=194–195}}。 ==タラート・パシャのベルリンへの亡命== [[File:Talat Pasha cropped.jpg|thumb|left|upright=0.8|alt=Photographic portrait of Talaat Pasha |[[タラート・パシャ]]]] [[1918年]][[10月30日]]の[[ムドロス休戦協定]]締結の後、入念な準備を行い、タラートは統一と進歩委員会の指導者([[エンヴェル・パシャ]]、[[ジェマル・パシャ]]、{{仮リンク|バハエッディン・シャキル|en|Bahaeddin Şakir}}、{{仮リンク|ナズム・ベイ|en|Doctor Nazım}}、オスマン・ベドリ、{{仮リンク|セマル・アズミ|en|Cemal Azmi}})とともに、[[11月1日]]から[[11月2日]]にかけての夜、ドイツの魚雷艇で[[コンスタンティノープル]]から逃亡した。ジェマルを除けば、全員が大量虐殺の主犯であった。彼らは罪の処罰を逃れ、抵抗運動を組織するために去った{{sfnm|1a1=Dadrian|1a2=Akçam|1y=2011|1p=24|2a1=Yenen|2y=2020|2p=74}}。[[ヴァイマル共和制|ドイツ]]の外相[[ヴィルヘルム・ゾルフ]]はコンスタンチノープルの大使館にタラートを援助するよう指示し、「タラートは我々に忠誠を尽くしており、我が国は引き続き彼に対して寛容である。」とし、オスマン・トルコ政府からの身柄引き渡しの要請を拒否した{{sfnm|1a1=Hofmann|1y=2020|1p=75|2a1=Kieser|2y=2018|2p=382|3a1=Hosfeld|3y=2005|3pp=11–12}}。 [[11月10日]]に[[ベルリン]]に到着したタラートは、[[アレクサンダー広場]]のホテルと[[ポツダム]]の[[バーベルスベルク]]の[[サナトリウム|療養所]]に滞在した後{{sfn|Hosfeld|2005|pp=12–13}}、現在の{{仮リンク|エルンスト・ロイター広場|en|Ernst-Reuter-Platz}}にあたる{{仮リンク|ハーデンベルク通り|de|Hardenbergstraße}}4番地の9部屋のアパートに移った{{sfnm|1a1=Kieser|1y=2018|1p=382|2a1=Hofmann|2y=2020|2pp=74–75|3a1=Hosfeld|3a2=Petrossian|3y=2020|3p=1}}。タラートはアパートの隣にオリエンタル・クラブを設立し、[[ムスリム]]や、[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]に反対するヨーロッパ人が集った{{sfn|Kieser|2018|p=385}}。外務省は、[[フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング|フランクフルター・ツァイトゥング]]紙の元コンスタンチノープル特派員{{仮リンク|パウル・ヴァイツ|de|Paul Weitz (Journalist)}}を使って、このアパートでの出来事を監視した{{sfn|Hosfeld|2005|p=16}}。[[ドイツ社会民主党]]の[[ドイツ国首相|首相]][[フリードリヒ・エーベルト]]の法令により、タラートの在住は合法化された。[[1920年]]、タラートの妻ヘイリエが加わった{{sfn|Kieser|2018|p=382}}。ドイツ政府は、タラートの名前がアルメニア人殺し屋リストの筆頭に挙げられているという情報を入手し、[[メクレンブルク]]にある元オスマン帝国参謀総長{{仮リンク|フリッツ・ブロンサルト・フォン・シェレンドルフ|en|Fritz Bronsart von Schellendorf}}所有の人里離れた屋敷に滞在するよう提案した。タラートは、政治的扇動を続けるには首都のネットワークが必要だったため、これを拒否した{{sfnm|1a1=Hofmann|1y=2020|1p=75|2a1=Hosfeld|2y=2005|2p=12}}。統一と進歩委員会主導の抵抗運動は、やがて[[トルコ革命]]へとつながっていった{{sfn|Kieser|2018|p=319}}。タラートは当初、トルコの政治家[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]を傀儡として使おうと考え、ベルリンからトルコの将軍たちに直接命令を下した{{sfn|Hosfeld|2005|p=16}}。 タラートは亡命当初から影響力のあるドイツ人の友人を持っており、海外では{{仮リンク|トルコ民族主義運動|en|Turkish National Movement}}の代表として見られていたため、時間の経過とともに地位を獲得していった。アリ・サリー・ベイの名で[[偽造パスポート]]を使い、[[イギリス]]とオスマン帝国から指名手配されていたにもかかわらず、[[ヨーロッパ]]を自由に旅行した{{sfnm|1a1=Hofmann|1y=2020|1p=75|2a1=Kieser|2y=2018|2p=385|3a1=Hosfeld|3y=2005|3p=15}}。多くのドイツ紙がベルリンでの彼の存在を疑い、1920年3月にドイツ政府転覆を企てた[[カップ一揆]]が失敗した後の記者会見でタラートは演説した{{Sfnm|1a1=Hosfeld|1a2=Petrossian|1y=2020|1p=1|2a1=Ihrig|2y=2016|2p=227}}。多くのドイツ人、特に極右勢力はトルコを無実と見なし、[[セーヴル条約]]を[[ヴェルサイユ条約]]と比較し、ドイツとトルコの間に「運命共同体」が存在すると考えた{{sfn|Kieser|2018|pp=386–387}}。タラートは回顧録を書いたが、その主な内容は大量虐殺を命じた自分の決定を擁護し、統一と進歩委員会の罪を免除するものであった{{sfn|Göçek|2015|pp=251–252, 257}}。1919年[[7月5日]]、タラートと統一と進歩委員会の他の亡命者たちは、{{仮リンク|イスタンブール裁判(1919年 - 1920年)|en|Istanbul trials of 1919–1920|label=オスマン帝国の特別軍事法}}によって、「帝国のアルメニア人の虐殺と絶滅」の罪で有罪判決を受け、[[欠席裁判]]で死刑を宣告された{{sfnm|1a1=Hofmann|1y=2020|1p=75|2a1=Kieser|2y=2018|2p=385|3a1=Hosfeld|3a2=Petrossian|3y=2020|3p=2}}。 ==ネメシス作戦== [[File:Russian soldiers Sheykhalan 1915.jpg|thumb|upright=1.1|alt=Photograph of two Russian soldiers in a ruined village looking at skeletal remains|[[ムシュ]]近郊の旧アルメニア人村シェイカラン(現在のエイルメチ)で撮影された[[ロシア帝国陸軍|ロシア兵]](1915年)<ref>{{Cite book |last=Naimark |first=Norman |title=Genocide: A World History |page=74 |year=2017 |publisher=[[Oxford University Press]] |url=https://books.google.com/books?id=GYhNEAAAQBAJ&pg=PA74 }}</ref>]] [[File:Soghomon, Sahak, and Misaq Tehlirian as volunteers in the Russian army.jpg|thumb|alt=Photograph of three brothers posing with their rifles – volunteers in the Russian army|ロシア軍に志願したソゴモン(右)、サハク、ミサク・テフリリアン兄弟]] 大虐殺の加害者を裁く者が他にいないことが明らかになると{{sfnm|1a1=MacCurdy|1y=2015|1p=172|2a1=Hofmann|2y=2020|2p=77}}、[[アルメニア革命連盟]]は、{{仮リンク|アルメン・ガロ|en|Armen Garo}}、{{仮リンク|シャハン・ナタリー|en|Shahan Natalie}}、アーロン・サチャクリアンを指導者とし、「{{仮リンク|ネメシス作戦|en|Operation Nemesis}}」を秘密裏に実施した{{sfn|Göçek|2015|p=266}}。共謀者たちは、暗殺の対象となる100人の大量虐殺実行犯のリストを作成し、タラートはそのリストの筆頭だった{{sfnm|1a1=MacCurdy|1y=2015|1pp=167, 194|2a1=Kieser|2y=2018|2p=404}}。ジェノサイドを生き延びたり、家族を失ったりした若者を中心に、暗殺を実行する志願者には事欠かなかった{{sfn|MacCurdy|2015|pp=172–173}}。ネメシスの工作員は、ターゲットの身元を確認せずに暗殺を実行することはなく、誤って罪のない人を殺さないように注意した{{sfn|MacCurdy|2015|pp=175, 201–202}}。 これらの志願兵の一人は、{{仮リンク|エルズルム・ヴィライエト|en|Erzurum vilayet}}の[[エルズィンジャン]]出身の{{仮リンク|ソゴモン・テフリリアン|en|Soghomon Tehlirian}}であった{{sfnm|1a1=MacCurdy|1y=2015|1pp=172–173|2a1=Jacobs|2y=2019|2p=33}}。戦争勃発時、テフリリアンは[[セルビア王国 (近代)|セルビア]]にいた{{sfn|Jacobs|2019|p=36}}。反アルメニア的な残虐行為について聞いた後、彼は[[ロシア帝国陸軍|ロシア軍]]の{{仮リンク|アルメニア人義勇軍|en|Armenian volunteer units}}に参加した。部隊が西に進むと、ジェノサイドの余波を発見した。家族が殺されたことを知ったテフリリアンは、復讐を誓った{{sfn|MacCurdy|2015|pp=173–174, 186}}。回想録には、ジェノサイドで亡くなった85人の家族が記されている{{sfn|Hofmann|2020|p=82}}。テフリリアンは、現在[[心的外傷後ストレス障害]]と呼ばれているものに起因すると思われる、定期的な失神発作やその他の神経系障害に悩まされていた{{sfnm|1a1=Dean|1y=2019|1p=40|2a1=MacCurdy|2y=2015|2pp=174, 272}}。 終戦後、テフリリアンはコンスタンティノープルに赴き、オスマン帝国の秘密警察に勤務し、{{仮リンク|アルメニア知識人の国外追放 (1915年4月24日)|en|Deportation of Armenian intellectuals on 24 April 1915|label=1915年4月24日に国外追放されたアルメニア人知識人}}のリスト作成に貢献したハルチウン・ムグディティチアンを暗殺した。この殺害により、ネメシスの工作員はタラート・パシャの暗殺を彼に託すことを確信した{{sfnm|1a1=Hofmann|1y=2020|1p=77|2a1=MacCurdy|2y=2015|2pp=177, 186}}。1920年半ば、ネメシス組織はテフリリアンに渡米費を支払い、ガロは彼に、主要な実行犯に対して宣告された死刑判決が執行されていないこと、殺人犯が亡命先から反アルメニア活動を続けていることを説明した。その年の秋、[[アルメニア・トルコ戦争|トルコの民族主義運動がアルメニアに侵攻した]]。テフリリアンは、ネメシスが行方を追っていた統一と進歩委員会の指導者7人の写真を受け取り、ヨーロッパに出発し、まず[[パリ]]に向かった。[[ジュネーブ]]で機械工学の学生としてベルリン行きのビザを取得し、[[12月2日]]に出発した{{sfn|MacCurdy|2015|pp=187–188}}。 暗殺を企てる共謀者たちは、[[アルメニア第一共和国|アルメニア共和国]]副領事リバリット・ナザリアントの邸宅で会合を持った。テフリリアンは12月中旬に[[腸チフス]]で倒れた後も、この会合に出席していた{{sfn|MacCurdy|2015|pp=187–188}}。彼はシャキルの追跡中に倒れ、1週間休養を余儀なくされたほどであった。ダシュナク中央委員会は、他の犯人を排除してタラートに焦点を当てるよう命じた{{sfn|MacCurdy|2015|pp=189–190}}。2月末、共謀者たちは、タラートが[[ローマ]]に向かうために[[ベルリン動物園駅]]から出発するのを発見し、タラートの居場所を突き止めた。ヴァハン・ザカリアンツは宿を探している男を装って調査し、タラートがハーデンベルク通り4番地に住んでいることを突き止めた{{sfnm|1a1=MacCurdy|1y=2015|1pp=189–190|2a1=Hosfeld|2y=2005|2p=23}}。身元を確認するため、テフリリアンは向かいのハーデンベルク通り37番地に[[ペンション]]を借り、タラートのアパートに出入りする人々を観察した。ナタリーからの命令はこうだった。「国家第一の殺人者の頭蓋骨を爆破しても、逃げようとはするな。死体の上に足を置いてそこに立ち、警察に投降しなさい。警察が来てあなたに手錠をかけるだろう。」{{sfnm|1a1=MacCurdy|1y=2015|1pp=189–190|2a1=Hofmann|2y=2020|2p=81}} ==暗殺== [[File:Berlin Hardenbergstraße 008309.jpg|thumb|暗殺現場となったハーデンベルク通り27番地の前の街路]] 雨の降る火曜日([[1921年]][[3月15日]])午前10時45分頃、タラートは手袋を買いにアパートを出た。テフリリアンは反対方向からタラートに近づき、彼を認識し、通りを横切り、背後から詰め寄り、人通りの多い街角のハーデンベルク通り27番地の外で彼のうなじを至近距離から撃ち、即死させた{{sfnm|1a1=Ihrig|1y=2016|1p=226|2a1=Kieser|2y=2018|2p=403|3a1=Bogosian|3y=2015|3p=12}}。弾丸は[[脊髄]]を貫通し、タラートの左目の上から出て脳を破壊した{{sfnm|1a1=Bogosian|1y=2015|1p=12|2a1=Hosfeld|2y=2005|2p=7}}。タラートは前のめりに倒れ、血の海に横たわった{{sfn|Suny|2015|p=344}}。テフリリアンは最初、死体の上に立っていたが、野次馬が叫ぶと、自分の指示を忘れて逃げ出した{{sfn|Bogosian|2015|p=13}}。暗殺に使った[[9x19mmパラベラム弾|口径9ミリ]]の[[ルガーP08|パラベラム・ピストル]]を捨て、ファサネン通りを通って逃走し、そこで店員のニコラウス・ジェッセンに逮捕された。群衆の中にいた人々は彼をひどく殴り、テフリリアンは片言のドイツ語で「大丈夫だ。私は外国人で、彼は外国人だ!」と叫んだ{{sfnm|1a1=Ihrig|1y=2016|1p=226|2a1=Hosfeld|2y=2005|2p=7|3a1=Suny|3y=2015|3p=344}}。その直後、彼は警察に「私は犯人ではない、彼が犯人だ。」と言った{{sfnm|1a1=Ihrig|1y=2016|1p=226|2a1=Hosfeld|2y=2005|2p=8}}。 警察は遺体を封鎖した。同じ統一と進歩委員会の亡命者ナズム・ベイがまもなく現場に到着し、ハーデンベルク通り4番地にあるタラートのアパートに向かった。午前11時30分、タラートとしばしば会っていた外務省職員で親トルコ活動家の{{仮リンク|エルンスト・イェック|en|Ernst Jäckh}}も到着した{{sfn|Kieser|2018|p=404}}。シャキルも暗殺を知り、警察のために遺体の身元を確認した{{sfn|Suny|2015|p=344}}。イェックとナズムは暗殺現場に戻った。イェックは外務省職員としての権限を行使して遺体を引き渡すよう警察を説得しようとしたが、殺人課が到着する前に警察はそれを拒否した。イェックは、「トルコの[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]」を通行人が見とれるような状態で外に置いておくわけにはいかないと訴えた{{sfnm|1a1=Kieser|1y=2018|1p=404|2a1=Hosfeld|2y=2005|2pp=8–9}}。結局、彼らは遺体を運ぶ許可を得て、[[ドイツ赤十字社|赤十字]]の車で{{仮リンク|ベルリン=シャルロッテンブルク|en|Charlottenburg|label=シャルロッテンブルク}}の霊安室に送られた{{sfn|Hosfeld|2005|p=9}}。暗殺の直後、シャキルとナズムは警察の保護を受けた{{sfn|Hosfeld|2005|p=9}}。他の統一と進歩委員会亡命者たちは、次は自分たちになるのではないかと心配していた{{sfn|Göçek|2015|p=334}}。 ==葬儀== [[File:Berlin - Şehitlik Moschee - 6.jpg|thumb|ベルリンの{{仮リンク|シェヒトリク・モスク|en|Şehitlik Mosque}}の墓地にあるアルメニア人虐殺実行犯{{仮リンク|バハエッディン・シャキル|en|Bahaeddin Şakir}}と{{仮リンク|セマル・アズミ|en|Cemal Azmi}}を祀る墓(手前左){{sfn|Hofmann|2020|p=88}}。どちらも[[1922年]]にネメシスの工作員によって暗殺された{{sfnm|1a1=Hofmann|1y=2020|1p=88|2a1=Suny|2y=2015|2p=346}}。]] 当初、タラートの友人たちは[[アナトリア半島|アナトリア]]での埋葬を望んでいたが、コンスタンティノープルのオスマン帝国政府もアンカラのトルコ民族主義運動も遺体を望まなかった。第一次世界大戦の最悪の犯罪者とされる人物と関係を持つことは、政治的な責任となるからだ{{sfn|Hosfeld|2005|p=10}}。タラートの葬儀にはヘイリエとオリエンタル・クラブからの招待状が送られ、3月19日、参列者の多い中、{{仮リンク|旧聖マティウス墓地|en|Alter St.-Matthäus-Kirchhof}}に埋葬された{{sfnm|1a1=Hosfeld|1y=2005|1p=9|2a1=Kieser|2y=2018|2p=405}}。午前11時、トルコ大使館の[[イマーム]]、シュクリ・ベイによる礼拝がタラートのアパートで行われた。その後、大行列が棺を従えてマティウスに向かい、そこでタラートは埋葬された{{sfn|Hosfeld|2005|p=9}}。 元外相の{{仮リンク|リヒャルト・フォン・キュールマン|en|Richard von Kühlmann}}や[[アルトゥール・ツィンメルマン]]、元[[ドイツ銀行]]頭取、元[[バグダード鉄道]]局長、戦時中にオスマン帝国に従軍した軍人数名、亡命した[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の代理として参列した{{仮リンク|アウグスト・フォン・プラテン・ハレルミュンデ|en|August von Platen-Hallermünde}}など、多くの著名なドイツ人が弔問した{{sfn|Hosfeld|2005|p=10}}。ドイツ外務省からは、「偉大な政治家と忠実な友人に捧ぐ 」と書かれたリボンのついた花輪が送られた{{sfnm|1a1=Ihrig|1y=2016|1p=232|2a1=Hosfeld|2y=2005|2p=10}}。シャキルはかろうじて平静を保っていたが、{{仮リンク|オスマン帝国国旗|en|Flags of the Ottoman Empire}}で覆われた棺が墓に下ろされる間、弔辞を読んだ{{sfn|Hosfeld|2005|p=10}}。彼は、暗殺は「[[イスラム世界|イスラム諸国]]に対する[[帝国主義]]政治の結果」であると主張した{{sfn|Kieser|2018|p=405}}。 4月下旬、[[ドイツ人民党]]の国民的リベラル派の政治家[[グスタフ・シュトレーゼマン]]が、タラートを称える公的な記念式典を提案した{{sfnm|1a1=Kieser|1y=2018|1p=407|2a1=Ihrig|2y=2016|2p=268}}。{{仮リンク|ドイツ・トルコ協会|de|Deutsch-Türkische Vereinigung}}はこれを断った{{sfn|Ihrig|2016|p=268}}。シュトレーゼマンはジェノサイドをよく知っており、少なくとも100万人のアルメニア人が殺されたと信じていた{{sfn|Ihrig|2016|p=269}}。タラアトの遺品はベルリン公安局長のワイスマンの手に渡り、彼の手記はシャキルに渡され、出版された{{sfn|Dadrian|Akçam|2011|p=155}}。 ==裁判== [[File:MoabitTurmstraße Kriminalgericht.jpg|thumb|テフリリアンが裁判にかけられた{{仮リンク|モアビート刑事裁判所|en|Moabit Criminal Court|label=裁判所}}]] 警察の捜査が始まった当初、テフリリアンには[[トルコ語]]を話せる通訳が用意されていたが、彼はトルコ語を話すことを拒否した。[[3月16日]]、警察はネメシス作戦に参加していたアルメニア人通訳ケヴォルク・カルースティアンを採用した{{sfn| Petrossian|2020|p=94}}。テフリリアンは、復讐心からタラートを殺害し、ドイツに来る前にその行為を計画していたことを認めたが、警察には単独犯であると語った{{sfnm|1a1=Dean|1y=2019|1p=40|2a1=Petrossian|2y=2020|2pp=94, 96}}。彼の裁判では、テフリリアンは暗殺が計画的なものであったことを否定した。通訳は、テフリリアンの負傷によって行動不能になったという理由で、尋問調書への署名を拒否していた{{sfn| Petrossian|2020|pp=94, 96}}。予備捜査は[[3月21日]]までに終了した{{sfn|Hofmann|2020|p=78}}。 ダシュナクツチウンは、彼の弁護のために10万から30万[[パピエルマルク|マルク]]を集めたが、そのほとんどは[[アルメニア系アメリカ人]]からだった{{sfnm|1a1=Hofmann|1y=2020|1p=82|2a1=MacCurdy|2y=2015|2p=266|3a1=Hosfeld|3a2=Petrossian|3y=2020|3p=6}}。ザカリアンツは裁判の間、テフリリアンの言葉をドイツ語に翻訳し、請求書の支払い、弁護の組織化、アメリカのダシュナク中央委員会の指示をテフリリアンに伝えることに関与した{{sfnm|1a1=MacCurdy|1y=2015|1p=271|2a1=Petrossian|2y=2020|2p=95}}。カールスティアンはドイツ語からアルメニア語に通訳した{{sfn|Petrossian|2020|p=95}}。アドルフ・フォン・ゴードン、{{仮リンク|ヨハネス・ヴェルタウアー|de|Johannes Werthauer}}、{{仮リンク|テオドール・ニーマイヤー|de|Theodor Niemeyer}}の3人の[[ドイツ人]]弁護士は、それぞれ75,000マルクの報酬を得て、テフリリアンの弁護を担当した{{sfnm|1a1=Petrossian|1y=2020|1p=95|2a1=Hofmann|2y=2020|2p=79}}。彼らの卓越性により、裁判の宣伝効果はさらに高まった{{sfn|Dean|2019|p=41}}。州検察官はゴルニック{{sfn|Hofmann|2020|p=80}}、裁判官はエーリッヒ・レンベルクであり、12人の陪審員がこの事件を審理した{{sfnm|1a1=Dean|1y=2019|1p=41|2a1=Garibian|2y=2018|2p=221}}。 裁判は6月2日から6月3日にかけて{{仮リンク|モアビート刑事裁判所|en|Moabit Criminal Court}}で開かれた{{sfnm|1a1=Hosfeld|1y=2005|1pp=18–19|2a1=Hosfeld|2a2=Petrossian|2y=2020|2p=3-4}}。法廷は完全に満席だった。ドイツに住む多くのアルメニア人が裁判を傍聴し、タラートの妻を含むトルコ人も傍聴した{{sfnm|1a1=Hofmann|1y=2020|1p=82|2a1=Hosfeld|2y=2005|2p=20}}。ドイツ国内外の新聞記者も出席した。『[[デイリー・テレグラフ]]』紙、『{{仮リンク|シカゴ・デイリー・ニュース|en|Chicago Daily News}}』紙、『{{仮リンク|パブリック・レジャー(フィラデルフィア)|en|Public Ledger (Philadelphia)|label=フィラデルフィア・パブリック・レジャー}}』紙など多くの新聞社が記者証を要求した{{sfn|Ihrig|2016|p=264}}。歴史家の{{仮リンク|ステファン・アイリグ|en|Stefan Ihrig}}によれば、「20世紀で最も壮大な裁判のひとつ」であった{{sfn|Ihrig|2016|p=235}}。 ===弁護と起訴の戦略=== [[File:Soghomon Tehlirian 1921.jpg|thumb|{{仮リンク|ソゴモン・テフリリアン|en|Soghomon Tehlirian}}([[1921年]])]] 弁護側の戦略は、テフリリアンの家族と、彼が死を命じた他の100万人のアルメニア人の殺害容疑で、タラート・パシャを裁判にかけることだった{{sfn|MacCurdy|2015|p=266}}。ナタリーはこれを、アルメニア人の大義を宣伝する機会と考えた{{sfn|MacCurdy|2015|p=267}}。彼は、テフリリアンがドイツの法律に従って有罪判決を受ける可能性は高いが、[[恩赦]]を得られることを望んでいると考えていた。ヴェルタウアーはもっと楽観的で、暗殺の数日後、依頼人の無罪を勝ち取ることを確信していると発表した{{Sfn|Hosfeld|Petrossian|2020|p=7}}。[[プロテスタント]]の宣教師で活動家の{{仮リンク|ヨハネス・レプシウス|en|Johannes Lepsius}}は、[[1896年]]以来、{{仮リンク|ハミディイェ虐殺|en|Hamidian massacres|label=アルメニア人の殺害}}に反対を表明しており、タラートに対する裁判の提訴に取り組んだ{{sfn|Hosfeld|2005|p=18}}。社会民主党機関紙『{{仮リンク|フォアヴェルツ (ドイツ社会民主党)|en|Vorwärts|label=フォアヴェルツ}}』が指摘するように、彼らの戦略は成功した。「現実には、被告席に座っていたのは血に染まったタラート・パシャの影であり、真の罪状は、生きて残された数少ない犠牲者の一人である彼の処刑ではなく、おぞましいアルメニア人の恐怖であった。」{{sfn|Ihrig|2016|p=235}} 無罪の可能性を最大化するために、弁護側はテフリリアンを国民全体の復讐者ではなく、孤独な自警団員として紹介した{{sfn|MacCurdy|2015|p=266}}。ドイツ警察はテフリリアンの仲間を探したが、見つからなかった{{sfn|MacCurdy|2015|p=267}}。弁護側は、タラートがテフリアンの母親を死に至らしめたことを証明することで、テフリリアンとタラトの関係を作り上げようとした{{sfn|Petrossian|2020|p=95}}。弁護側の主張は、タラートの犯罪の重大さとともに、テフリリアンの精神的外傷状態にも基づいており[[刑法典 (ドイツ)|ドイツの刑法]]51条の一時的[[心神喪失]]の法律に従って、彼の行為に責任を負わせない可能性があった{{sfnm|1a1=Hofmann|1y=2020|1p=78|2a1=MacCurdy|2y=2015|2p=266}}。 対照的に、ドイツ検察側の主な目的は、審理を非政治化し{{sfn| Petrossian|2020|p=95}}、ジェノサイドにおけるドイツの役割についての議論を避けることであった{{sfn|Hosfeld|2005|p=17}}。裁判は弁護側が要求した3日間ではなく、わずか1日半で行われ、弁護側が呼んだ15人の証人のうち6人は審理されなかった{{sfnm|1a1=Hofmann|1y=2020|1p=78|2a1=Hosfeld|2y=2005|2p=17}}。検察側は暴露を最小限にするため、裁判を「{{仮リンク|カメラ内|en|In camera}}」で審理することを申請したが、外務省は、秘密主義がドイツの評判を向上させないことを恐れ、この解決策を拒否した{{sfn|Hofmann|2020|p=79}}。歴史家の{{仮リンク|キャロライン・ディーン|en|Carolyn Dean}}は、裁判を早く終わらせ、戦時中のドイツの行動を肯定的に描こうとした結果、「テフリリアンを正義のために殺人者を銃殺せざるを得なかった悲劇的な人間の良心の象徴に図らずも変えてしまった。」と書いている{{sfn|Dean|2019|p=45}}。 アイリグや他の歴史家たちは、検事の戦略には深い欠陥があり、検事の無能さ、あるいは有罪を勝ち取る動機の欠如を物語っていると主張している{{sfnm|1a1=Ihrig|1y=2016|1pp=257, 262|2a1=MacCurdy|2y=2015|2pp=278, 290}}。ゴルニックは、オスマン帝国内の出来事は暗殺とは無関係であると主張し、大量虐殺に関する証拠の提出を避けようとした。いったん証拠が提出されると、彼はタラートがアルメニア人の残虐行為に関与したことを否定し、最終的にはタラートが送った命令を正当化せざるを得なかった{{sfn| Petrossian|2020|p=95}}。裁判の前、反アルメニア的な『{{仮リンク|ドイツ・オールゲマイネ・ツァイトゥング|en|Deutsche Allgemeine Zeitung}}』紙を支配していた{{仮リンク|ハンス・フマン|en|Hans Humann}}は、検事局に激しく働きかけた{{sfn|Ihrig|2016|p=254}}。彼はタラート・パシャの手記を入手することができたが、検察官はそれを裁判で証拠採用しなかった。ゴルニックはフマンのロビー活動に嫌気がさし、おそらく被告に同調したのではないかとアイリグは推測している{{sfn|Ihrig|2016|p=283}}。裁判後、ゴルニックは『ドイツ・オールゲマイネ・ツァイトゥング』の{{仮リンク|編集委員会|en|Editorial board|label=編集委員}}に任命された{{sfn|Ihrig|2016|p=272}}。 ===テフリリアンの証言=== [[File:Ambassador Morgenthau's Story p435b.jpg|thumb|[[エルズィンジャン]]でのアルメニア人虐殺の結果]] 裁判は、裁判長がテフリリアンに大虐殺について多くの質問をするところから始まったが、この質問は、裁判長が大虐殺とそれに関するトルコ語やドイツ語の語りについて知識があることを明らかにした。裁判長はテフリリアンに、ジェノサイドの際に目撃したことを語るよう求めた{{sfnm|1a1=Dean|1y=2019|1p=41|2a1=Ihrig|2y=2016|2pp=235–236}}。テフリリアンによると、戦争勃発後、エルジンジャンではほとんどのアルメニア人男性が軍隊に{{仮リンク|オスマン帝国における徴兵制|en|Conscription in the Ottoman Empire|label=徴兵}}された。1915年初頭、何人かのアルメニア人コミュニティの指導者が逮捕され、彼らの虐殺の報告が街に届いた。1915年6月、一般追放令が出され、武装した[[国家憲兵|憲兵]]が市内のアルメニア人に家を捨てさせ、財産を残させた。街を離れるや否や、憲兵隊は犠牲者を射殺し、貴重品を略奪し始めた{{sfn|Ihrig|2016|p=236}}。テフリリアンは「憲兵の一人が私の妹を連れ去った」と言ったが、「この暗黒の日のことを再び話すくらいなら、今死んだほうがましだ」と、それ以上話を続けなかった{{sfn|Ihrig|2016|pp=236–237}}。裁判官に促されると、彼は母親と兄が殺されるのを目撃し、その後意識を失い、兄の死体の下で目覚めたことを思い出した。彼は二度と妹に合うことはなかった{{sfn|Ihrig|2016|pp=237–238}}。この後、テフリリアンは数人の[[クルド人]]の家に身を寄せ、他の生存者とともに[[ガージャール朝|ペルシア]]に逃れたという{{sfn|Ihrig|2016|pp=238–239}}。 テフリリアンは、虐殺を扇動した責任は誰にあるのか、{{仮リンク|アダナ虐殺|en|Adana massacre}}などの歴史的前例について質問された。それから初めて、裁判官は計画殺人の罪を読み上げた。有罪かどうかと問われたテフリリアンは、当初は暗殺の実行を認めていたにもかかわらず、「ノー」と答えた{{sfn|Ihrig|2016|pp=235, 239}}。彼は「良心の呵責はないので自分が有罪だとは思っていない。私は人を殺しましたが、殺人者ではありません。」と説明した{{sfnm|1a1=Dean|1y=2019|1p=41|2a1=Ihrig|2y=2016|2p=239}}。テフリリアンはタラート殺害計画を否定したが、殺害の2週間前に厳格を見たと述べた。「虐殺の映像が何度も何度も目の前に現れた。私は母の亡骸を見た。この死体は立ち上がり、私のところに来て言った『タラートがここにいるのを見たのに、まったく無関心なのか?お前はもう私の息子ではない!』。」{{sfnm|1a1=Ihrig|1y=2016|1p=239|2a1=Dean|2y=2019|2pp=41–42}}このとき、彼は「突然目覚めて、タラートを殺す決心をした。」と言った{{sfn|Ihrig|2016|p=239}}。さらなる尋問の後、彼はタラートがベルリンにいることを知らなかったと否定し、オスマン・トルコの高官を殺す計画はなかったと繰り返した{{sfn|Dean|2019|p=42}}。裁判官は検察官のさらなる追及の後、「彼(テフリリアン)の決意に変化があった」と述べ、テフリリアンを支持した{{sfn|Ihrig|2016|p=239}}。 この証言は虚偽であった。テフリリアンは家族が殺されたとき、実際にはロシア軍のアルメニア人志願兵とともに戦っていた{{sfnm|1a1=Hofmann|1y=2020|1p=82|2a1=Ihrig|2y=2016|2p=263|3a1=Hosfeld|3y=2013|3p=12}}。歴史家の{{仮リンク|ロルフ・ホスフェルド|en|Rolf Hosfeld}}は、テフリリアンは「非常に手入れされていた」と述べ、彼の証言は信憑性が高いと言う{{sfn|Hosfeld|2013|p=12}}。歴史家の{{仮リンク|テッサ・ホフマン|en|Tessa Hofmann}}は、テフリリアンの証言は虚偽ではあるが、「彼の同胞の集団的運命の極めて典型的で本質的な要素」を含んでいたと言う{{sfn|Hofmann|2020|p=82}}。検察側は証言の真偽を争わなかったため、真実が明らかになったのは数十年後のことだった{{sfnm|1a1=Jacobs|1y=2019|1p=36|2a1=Petrossian|2y=2020|2p=94|3a1=Ihrig|3y=2016|3p=263}}。裁判中、テフリリアンがアルメニア人革命グループに属していたかどうか、あるいは陰謀の一環として暗殺を行ったかどうかを問われることはなかった。{{sfn|Bogosian|2015|p=202}}もし暗殺が計画的な陰謀の一環であったことを法廷が知っていたら、テフリアンは無罪にならなかっただろうとホスフェルドは主張する{{sfn|Hosfeld|2013|p=12}}。 ===ジェノサイドに関する他の証言=== 裁判所は、暗殺とその直後の目撃者である警察官と検視官、そしてテフリリアンの2人の女主人から話を聞いた後、ベルリンでテフリリアンと交流のあったアルメニア人に証言を求めた。これらの証人はアルメニア人虐殺に関する情報を提供した。レボン・エフティアンは法廷で、ジェノサイドの間、彼の家族はエルズルムにいて、両親は殺されたが、他の親戚はなんとか逃げ延びたと語った。テフリアンの通訳ザカリアンツもその日のうちに証言し、1890年代の[[ハミディイェ]]虐殺で父、母、祖父、兄弟、叔父を失ったと述べた。ベルリンのアルメニア人タバコ職人であるテルジバシアン氏は、ジェノサイドの際にエルズルムにいた友人や親戚はすべて殺されたと証言した{{sfn|Ihrig|2016|pp=240–241}}。 ====クリスティーン・テルジバシアンの証言==== [[File:Armenian deportations in Erzurum by Victor Pietschmann 03.jpg|thumb|[[エルズルム]]の追放されたアルメニア人({{仮リンク|ヴィクトル・ピエッチマン|en|Viktor Pietschmann}}撮影)]] タバコ屋の妻クリスティーン・テルジバシアンは、暗殺のことは何も知らないと言った。弁護側は彼女にアルメニア人虐殺についての証言を求め、裁判官はこれを認めた。彼女もまたエルズルム出身で、21人の親戚のうち生き残ったのは3人だけだったという{{sfn|Ihrig|2016|p=241}}。彼女は、アルメニア人は500家族からなる4つのグループに分かれて、エルズルムからエルズィンジャンに向かって強制退去させられたと言った。彼らは先に殺された他のアルメニア人の死体の上を歩かなければならなかった。彼女は、エルジンジャンに到着した後、男性は他の強制送還者から引き離され、一緒に縛られて川に投げ込まれたと証言した{{sfnm|1a1=Ihrig|1y=2016|1pp=241–242|2a1=Dean|2y=2019|2p=43}}。彼女は、残りの男たちは[[マラティヤ]]の上の山で斧で殺され、水に投げ込まれたと説明した{{sfnm|1a1=Dean|1y=2019|1p=43|2a1=Ihrig|2y=2016|2p=242}}。 その後、「憲兵隊がやってきて、最も美しい女性や少女を選び出し」、拒否した者は「銃剣で突き刺され、足を引き裂かれた」とテルジバシアンは回想した。殺人鬼らは妊婦を切り裂き、子供を殺したという。これは法廷に大きな波紋を呼んだ。彼女は、自分の兄が殺され、母親もすぐに死んだと述べた。彼女がトルコ人の一人との結婚を拒んだとき、「彼は私の子供を奪って捨てた」。さらに悲惨な詳細を語った後、真実は彼女が語る以上にひどいものだったと彼女は言った{{sfnm|1a1=Dean|1y=2019|1p=43|2a1=Ihrig|2y=2016|2pp=242–243}}。「エンヴェル・パシャの命令で起こったことで、兵士たちは強制連行された人々にひざまずかせ、『パシャ万歳!』と叫ばせたのです。」{{sfn|Ihrig|2016|p=243}}弁護側は、エルズィンジャンにいた2人のドイツ人看護婦を含む他の目撃者が彼女の証言を裏付けていると述べた。したがって、ゴードンは、テフリリアンの証言も「根底から真実」であると主張した{{sfn|Ihrig|2016|p=243}}。 ====専門家による証言==== 前回の証言の信憑性について、2人の専門家証人の聴取が行われ、検事も聴取に同意した{{sfnm|1a1=Ihrig|1y=2016|1p=244|2a1=Petrossian|2y=2020|2p=96}}。レプシウスは、強制送還はタラート・パシャを含む「青年トルコ委員会」によって命じられたと証言した{{sfn|Ihrig|2016|p=244}}。レプシウスはアルメニア人の強制送還に関するタラートからの文書の原本から「強制送還の目的地は無である」(Das Verschickungsziel ist das Nichts)を引用し、これが実際にどのように行われたかについて詳細を述べた。{{sfnm|1a1=Ihrig|1y=2016|1p=244|2a1=Petrossian|2y=2020|2p=96}}。レプシウスは、「予防措置」という公式の口実にもかかわらず、「権威ある人物は、これがアルメニア民族の消滅に関わるものであることを、非公式に公然と認めていた」と指摘した{{sfn|Ihrig|2016|p=244}}。レプシウスは、彼が編集した外務省の文書集『ドイツとアルメニア』について言及し、裁判所が聞いたような同様の証言がさらに何百も存在すると述べ、全体で100万人のアルメニア人が殺害されたと推定した{{sfn|Ihrig|2016|pp=244–245}}。 ドイツの[[オットー・リーマン・フォン・ザンデルス]]将軍は、統一と進歩委員会政府がアルメニア人の強制送還を命じたことを認めたが、強制送還の言い訳と正当化も行い、それは{{仮リンク|軍事的必要性|en|Military necessity}}と「軍の最高権威」の助言のために起こったと主張した。彼は、これらの高級軍人たちのほとんどがドイツ人であったことは認めなかった{{sfn|Ihrig|2016|pp=246–247}}。他の証人とは異なり、リーマン・フォン・サンデルスは、タラートが大量虐殺の個人的責任者であるかどうかはわからないと述べた{{sfnm|1a1=Petrossian|1y=2020|1p=96|2a1=Ihrig|2y=2016|2p=247}}。 ====グリゴリス・バラキアンの証言==== [[File:Talat Pasha cable of 29 August 1915.png|thumb|[[1915年]][[8月29日]]、タラート・パシャが送った電報。「{{仮リンク|六つのヴィライェト|en|Six Vilayets|label=東部諸州}}の{{仮リンク|アルメニア人問題|en|Armenian question}}は 解決された。これ以上の残虐行為で国家と政府を汚す必要はない。」]] 次に証言したのは、[[4月24日]]に強制送還された一人で、[[イギリス]]の[[マンチェスター]]から来たアルメニア人司祭{{仮リンク|グリゴリス・バラキアン|en|Grigoris Balakian}}だった。バラキアン司祭は、[[アンカラ]]で彼の護送隊のほとんどが殴り殺されたことを語った。「正式名称は 『国外追放』でしたが、実際は組織的な殲滅政策でした。」と彼は述べ、こう説明した{{sfn|Ihrig|2016|p=248}}。 {{quote|町から4時間ほどで[[ヨズガト]]に着くと、谷間で何百人もの髪の長い女性や少女の頭を見た。私たちの護衛の憲兵隊長はシュクリという名前だった。私は彼に言った。「殺されたのは男だけだと思っていた。」いや、彼は言った。「もし男だけを殺して女や少女を殺さなければ、50年後にはまた数百万人のアルメニア人がいることになる。だから、国内外を問わず、きっぱりと決着をつけるために、女子供たちを抹殺しなければならない。」{{sfn|MacCurdy|2015|p=266}}}} シュクリは、ハミディイェ虐殺のときとは異なり、今回はオスマン帝国が「証人がいかなる法廷にも出廷させない」ように措置を講じたと説明した。砂漠で餓死してしまうからこそ、バラキアンには自由に話すことができたという{{sfn|Ihrig|2016|p=248}}。シュクリは、4万人のアルメニア人を棍棒で殴り殺すよう命じたと言った。しばらくして、ゴードンが割って入り、バラキアンにタラートからの電報について尋ねた。バラキアンは、キリキアの[[オスマニエ]]副知事アサフ・ベイに送られた電報を見たことがあると言った。「アルメニア人のうち何人がすでに死亡し、何人がまだ生存しているか、速やかに電報で知らせてください。内務大臣、タラート。」{{sfn|Ihrig|2016|pp=248–249}}アサフはバラキアンに、「何を待っているのか。"直ちに"虐殺を始めろ!」と述べた{{sfn|Ihrig|2016|p=249}}。バラキアンは、バグダード鉄道で働くドイツ人に命を救われたと語った。彼は、アルメニア人は正しくタラートに虐殺の責任を負わせたと述べた{{sfn|Ihrig|2016|p=250}}。 ====聴取されなかった証人と証拠==== 弁護側は、アルメニア人ジャーナリスト、{{仮リンク|アラム・アンドニアン|en|Aram Andonian}}が収集した{{仮リンク|ナイム・ベイの回顧録|en|The Memoirs of Naim Bey|label=タラート・パシャの電報}}数通を証拠として読み上げ、大量虐殺におけるタラートの罪を証明しようとした{{sfnm|1a1=Ihrig|1y=2016|1p=250|2a1=Mouradian|2y=2015|2pp=256–257}}。アンドニアンは証言の準備をしてベルリンにやってきて、現在は紛失している電報の原本を何通か持参した{{sfn|Akçam|2018|pp=43–45}}。弁護側は、[[アレッポ]]の元ドイツ領事{{仮リンク|ヴァルター・レスラー|de|Walter Rößler}}に証言を求めたが、タラートが「アルメニア人の絶滅を望み、組織的に実行した」と信じていると証言すると告げたため、外務省の上司はこれを阻止した{{sfnm|1a1=Ihrig|1y=2016|1pp=262–263|2a1=Hosfeld|2y=2013|2pp=10–11}}。外務省は、レスラーが大量虐殺に関するドイツの知識と加担を暴露するのではないかと心配したのである{{sfn|Dean|2019|p=40}}。弁護団の要請で、レスラーはアンドニアンの電報を調査し、本物である可能性が高いと結論づけた{{sfn|Akçam|2018|pp=44, 231–232}}。検察官は、テフリリアンがタラトに責任を負わせたことに疑いはないという理由で異議を唱えたので、アンドニアンは証言せず、彼の電報は証拠採用されなかった。結局、弁護側は、タラートの有罪に関するさらなる証拠の提出要求を取り下げた{{sfn|Ihrig|2016|pp=250–251}}。このときすでに、陪審員たちはテフリリアンの有罪よりもタラートの有罪に集中していた{{sfnm|1a1=Dean|1y=2019|1p=37|2a1=Ihrig|2y=2016|2p=251}}。 タラートの電報は、『[[ニューヨーク・タイムズ]]』紙などの報道で取り上げられた{{Sfn|Hosfeld|Petrossian|2020|pp=9-10}}。召喚されながら聴取されなかった他の証人には、ブロンサルト・フォン・シェレンドルフ、兵士の{{仮リンク|エルンスト・パラキン|de|Ernst Paraquin}}と{{仮リンク|フランツ・カール・エンドレス|de|Franz Carl Endres}}、衛生兵の{{仮リンク|アルミン・T・ヴェグナー|en|Armin T. Wegner}}、エルズルムの副領事として虐殺を目撃した[[マックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー=リヒター]]などがいた{{sfn|Ihrig|2016|p=262}}。 ===精神状態=== 5人の専門家証人が、テフリリアンの精神状態と、それがドイツの法律に従って彼の行動の刑事責任を免責するかどうかについて証言した{{sfn|Hofmann|2020|p=80}}。全員が、彼が1915年に経験したことのために、定期的に「てんかん」の発作に苦しんでいることに同意した{{sfn|Garibian|2018|p=226}}。アイリグによると、どの医師もテフリリアンの状態を明確に理解していなかったが、彼らの理解は、後の心的外傷後ストレス障害という病気に似ていた{{sfn|Ihrig|2016|p=251}}。ロバート・ストーマー医師が最初に証言し、彼の意見では、テフリリアンの犯行は計画的な殺人であり、彼の精神状態に起因するものではないと述べた{{sfnm|1a1=Ihrig|1y=2016|1p=251|2a1=Garibian|2y=2018|2p=226}}。{{仮リンク|フーゴー・リープマン|en|Hugo Liepmann}}によると、テフリリアンは1915年に目撃したことが原因で「精神病質者」になっており、したがって自分の行動に完全な責任はなかった{{sfn|Ihrig|2016|pp=251–252}}。神経学者であり教授であった{{仮リンク|リヒャルト・カッシーラー|en|Richard Cassirer}}は、「感情の乱れが彼の症状の根本原因」であり、「影響てんかん」が彼の人格を完全に変えてしまったと証言している{{sfnm|1a1=MacCurdy|1y=2015|1p=191|2a1=Ihrig|2y=2016|2p=252}}。エドマンド・フォースターは、戦争中のトラウマ体験が新たな病態を引き起こすことはなく、すでに存在していた病態を顕在化させたに過ぎないが、テフリリアンの行動には責任がないことに同意した{{sfn|Ihrig|2016|p=252}}。最後の専門家であるブルーノ・ハーケも「影響てんかん」と診断し、テフリリアンが自分の意志で行動を起こした可能性を完全に否定した{{sfn|Ihrig|2016|pp=252–253}}。 ===最終弁論=== 初日にすべての証人の尋問が行われた。2日目の午前9時15分、裁判官は陪審員に向かって、次の質問に答える必要があると述べた。「第一に、被告ソゴモン・テフリリアンは、1921年3月15日、シャルロッテンブルクで、計画的に、他の人間であるタラート・パシャを殺害したことについて有罪であるか。第二に、被告人は反省してこの殺人を実行したか。 第三に、軽減すべき事情があるか。」{{sfn|Ihrig|2016|p=253}} ゴルニックは短い最終弁論のみ行なった。裁判記録では弁護側の35ページに対し、彼の演説は6ページであった{{sfn|Ihrig|2016|p=253}}。ゴルニックは、テフリリアンは計画的殺人罪([[過失致死傷罪|過失致死罪]]は刑が軽い)であると主張し、[[死刑]]を求刑した。ゴルニックは、政治的憎悪と怨嗟がこの犯罪を完全に説明すると主張した。テフリリアンは、オスマン帝国からベルリンに移動し、目的の被害者の向かいに部屋を借り、タラートを注意深く観察し、最終的に殺害するという、かなり前から殺害を計画していた{{sfn| Petrossian|2020|p=97}}。彼はリマン・フォン・サンダースの証拠を強調し、彼がレプシウスよりも信頼できると主張し、ドイツの将軍が実際に語ったことを歪曲した{{sfn|Ihrig|2016|p=255}}。ドイツの敗戦に関する「[[背後の一突き]]」に訴えながら、ゴルニックは、アルメニア人の「離反」は、彼らが「連合国と共謀し、戦況が許す限りすぐにトルコ人を背後から刺し、彼らの独立を達成しようと決心した」ために実行されたと主張した{{sfn|Ihrig|2016|pp=255–256}}。虐殺におけるタラートの責任を証明する証拠は何もないと主張した彼は、裁判で提出された文書の信頼性と、タラートに死刑を宣告した法廷の客観性に疑問を呈した{{sfn|Petrossian|2020|p=97}}。演説の最後には、タラート・パシャの愛国心と名誉を強調した{{sfn|Ihrig|2016|p=257}}。 弁護人のうち、ゴードンが最初に発言し、ゴルニックを「タラート・パシャの弁護人」だと非難した{{sfn|Ihrig|2016|p=257}}。彼は、タラートと大量虐殺の実行を結びつける証拠、特に電報を支持した。彼は、100万人のアルメニア人に対するこのような大規模な絶滅は、中央政府の調整なしには起こり得なかったと主張した{{sfnm|1a1=Ihrig|1y=2016|1p=257|2a1=Petrossian|2y=2020|2p=98}}。さらに、弁護側は、ドイツの[[判例|判例法]]における「熟慮」とは、殺人の決定がなされた時点のことであり、その他の準備を除いたものであると指摘した。計画された行為であっても、その実行の瞬間に熟慮がなければ、殺人にはならないと主張した{{sfn|Petrossian|2020|p=98}}。 ヴェルタウアーは、タラートは「[[軍国主義]]内閣」に所属していたと述べている{{sfnm|1a1=Dean|1y=2019|1p=44|2a1=Ihrig|2y=2016|2p=259}}。「軍国主義者」とは、正義に反対し、「軍事的必要性」と「調和」させることができない場合には法律を無視する者であると定義している{{sfn|Ihrig|2016|pp=259–260}}。ヴェルタウアーは、連合国による{{仮リンク|ラインラント占領|en|Occupation of the Rhineland}}と[[ボリシェヴィキ]]もまた「軍国主義」政権であると宣言した{{sfnm|1a1=Dean|1y=2019|1p=44|2a1=Ihrig|2y=2016|2p=260}}。彼は、これらの「軍国主義者」と、[[ウィリアム・テル]]になぞらえた高貴な人物であるテフリリアンとの間に劇的な対照を描いた。「テルが(暴君アルブレヒト)[[ヘルマン・ゲスラー|ゲスラー]]に矢を射たとしたら、世界中の陪審員の中で、どの陪審員がテルを断罪したであろうか。この法廷で語られたこと以上に人道的な行為があるだろうか。」{{sfn|Dean|2019|p=44}}弁護側は、テフリリアンの行為は強制的なものであったと主張するとともに、正当なものであったと主張した{{sfn|Dean|2019|p=47}}。 検察側も弁護側も、大量虐殺時のドイツとトルコの行動の違いを強調した。ヴェルタウアーは、タラートはドイツ政府に知られることなくベルリンに住んでいたと主張した{{sfn|Dean|2019|p=42}}。ニーマイヤーは、免責されれば、ドイツが大量虐殺の責任を負っているという「世界が私たちに対して抱いている誤解に終止符が打たれるだろう」と述べた{{sfn|Dean|2019|p=46}}。 ===判決=== [[File:Soghomon Tehlirian's release from prison.jpg|thumb|ソゴモン・テフリリアンの釈放]] 最終弁論が終わった後、裁判官はテフリリアンに何か付け加えることはないかと尋ねたが、彼はそれを断った{{sfn|Dean|2019|p=45}}。陪審員は1時間審議した後、テフリリアンがタラートを故意に殺したとして有罪かどうかという質問に対し、「いいえ」の一言で答えた{{sfnm|1a1=Hofmann|1y=2020|1p=81|2a1=Ihrig|2y=2016|2p=262}}。全会一致の評決で、検察側が控訴する可能性はなくなった{{sfn|Hosfeld|2005|p=27}}。聴衆は拍手喝采に包まれた{{sfnm|1a1=Ihrig|1y=2016|1p=262|2a1=MacCurdy|2y=2015|2p=278}}。訴訟費用306,484マルクは国庫が負担した{{sfnm|1a1=Jacobs|1y=2019|1p=36|2a1=Petrossian|2y=2020|2p=95}}。ゴルニックは、無罪判決は一時的な心神喪失に基づいていると述べた{{sfn|Hofmann|2020|p=81}}。アイリグは「陪審は必ずしも『一時的な心神喪失』を理由にテフリリアンを無罪としたわけではない」と述べ、弁護側はテフリリアンの行為の医学的側面よりもむしろ政治的側面に重点を置いていたと指摘している{{sfn|Ihrig|2016|p=262}}。 無罪判決後、テフリアンはドイツから追放された{{sfn|Hofmann|2020|p=67}}。バラキアンと共にマンチェスターに行き、その後「サロ・メリキアン」という偽名でアメリカに渡り、そこで『{{仮リンク|ハイレニク|en|Hairenik}}』編集委員会は彼を称えた。その後も体調を崩し、ストレス障害の治療が必要だった{{sfn|MacCurdy|2015|pp=301–302}}。彼はセルビアの[[ベオグラード]]に定住し、[[1950年]]までそこで暮らした{{sfn|Hofmann|2020|p=77}}。世界中の多くのアルメニア人が購入した裁判の記録は、テフリリアンの弁護費用を回収し、ネメシス作戦の資金を調達するために販売された{{sfn|MacCurdy|2015|p=291}}。 ==報道== [[File:Talat Pasha trial in the New York Times (headline).jpg|thumb|『[[ニューヨーク・タイムズ]]』紙での裁判の報道]] 暗殺と裁判は国際的に広く報道され{{sfnm|1a1=Irvin-Erickson|1y=2016|1p=36|2a1=Hofmann|2y=2016|2p=94}}、ジェノサイドの事実に注目と認識をもたらした{{sfnm|1a1=Suny|1y=2015|1p=346|2a1=Dean|2y=2019|2p=34}}。同時代の人々は、この裁判がテフリリアン個人の罪よりもアルメニア人大量虐殺に関するものであると理解した{{sfn|Dean|2019|p=35}}。報道は、ジェノサイドの犠牲となったアルメニア人に対する国民の同情と、{{仮リンク|法と秩序|en|Law and order (politics)}}の価値との間の緊張を反映していた。『ニューヨーク・タイムズ』紙は、陪審がジレンマに直面していると指摘した。無罪を宣告することは、アルメニア人の残虐行為を非難することになるが、同時に超法規的殺人を認めることにもなる。「このジレンマから逃れることはできない。すべての暗殺者は処罰されるべきだが、この暗殺者は処罰されるべきではない。そして、そこにいるのだ。」{{sfn|Dean|2019|p=36}}無罪判決に対する反応は全体的に好意的だった{{sfn|Hofmann|2016|p=94}}。 ===ドイツ=== [[File:Ein Zeugnis für Talaat Pasha.png|thumb|ブロンサルト・フォン・シェレンドルフによる『{{仮リンク|ドイツ・オールゲマイネ・ツァイトゥング|en|Deutsche Allgemeine Zeitung}}』紙での「タラート・パシャへの賛辞」。[[1915年]]の侵略者はアルメニア人であったと主張{{sfn|Ihrig|2016|pp=277–279}}。]] この暗殺事件は、事件当日のドイツの多くの新聞の見出しを飾ったが、ほとんどの報道はタラートへの同情的なものだった{{sfn|Ihrig|2016|p=227}}。翌日、ドイツのほとんどの新聞が暗殺を報じ、多くの新聞が追悼記事を掲載した。報道の典型的な例は『{{仮リンク|フォッシェ・ツァイトゥング|en|Vossische Zeitung}}』であり、同紙は「(アルメニア人の)到達可能な部族をすべて絶滅」させようとしたタラートの役割を認めつつも、大量虐殺を正当化するいくつかの理由を述べた{{sfn|Ihrig|2016|p=228}}。他の新聞は、タラートはアルメニア人の復讐の対象としては間違っていたと指摘した{{sfn|Ihrig|2016|pp=228–229}}。『ドイツ・オールゲマイネ・ツァイトゥング』紙は、テフリリアンが行ったような裏切りや殺人が「真のアルメニア人のやり方」であると主張し、反アルメニアキャンペーンを展開した{{sfnm|1a1=Hosfeld|1y=2005|1p=11|2a1=Ihrig|2y=2016|2pp=229–231|3a1=Hofmann|3y=2016|3p=95}}。当初、暗殺者に同情的だった唯一の新聞は、『{{仮リンク|フライハイト|en|Die Freiheit (1918)}}』であった{{sfn|Ihrig|2016|p=231}}。 裁判の報道はその後1ヵ月にわたって広まり、[[1933年]]に[[ナチ党の権力掌握|ナチスが政権を掌握する]]まで、テフリリアンの功績は政治的な議論の場で取り上げられ続けた{{sfn|Ihrig|2016|pp=271–272}}。裁判の後、ドイツの新聞は、政治的なスペクトルを超えて、大量虐殺の現実を受け入れた{{sfn|Ihrig|2016|p=293}}。ほとんどの新聞がレプシウスとテフリリアンの証言を大々的に引用した{{sfn|Ihrig|2016|p=265}}。無罪判決に対するドイツの反応はさまざまで、アルメニア人や普遍的[[人権]]に同情的な人々の間ではおおむね好意的であった{{sfnm|1a1=Ihrig|1y=2016|1p=264|2a1=Kieser|2y=2018|2p=408}}。平和主義雑誌『{{仮リンク|ディ・ヴェルトビューネ|en|Die Weltbühne}}』に寄稿したジャーナリストの[[エーミール・ルートヴィヒ]]は、「国家社会が国際秩序の保護者として組織されたときにのみ、いかなるアルメニア人殺人者も処罰されずに残ることはないだろう。なぜなら、いかなるトルコのパシャも、国民を砂漠に送る権利はないからだ。」{{sfnm|1a1=Ihrig|1y=2016|1p=268|2a1=Kieser|2y=2018|2p=408}}裁判の数ヵ月後、ウェグナーはその全記録を出版した。彼は序文で、テフリリアンの「民族のために自らを犠牲にする英雄的な覚悟」を賞賛し、これを机上で大量虐殺を命令するのに必要な勇気の欠如と対比させた{{sfnm|1a1=Garibian|1y=2018|1p=221|2a1=Gruner|2y=2012|2p=11}}。 反アルメニア的な傾向のあるナショナリスト側の意見では、反アルメニア的な記事を多く掲載し{{sfn|Ihrig|2016|pp=272–273, 293}}、判決を「司法スキャンダル」と呼んだフマンの『ドイツ・オールゲマイネ・ツァイトゥング』に続き{{sfn|Hofmann|2016|p=95}}、多くの新聞がジェノサイドの否定から正当化に転じた。民族主義的な新聞によって広く受け入れられた大量絶滅を正当化する論拠{{sfn|Ihrig|2016|p=356}}は、[[アルメノイド|アルメニア人の想定される人種的特徴]]に基づいており、{{仮リンク|人種的反ユダヤ主義|en|Racial antisemitism}}の理論と容易に結びついた{{sfn|Ihrig|2016|pp=293–294}}。[[1926年]]、[[国民社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]の思想家[[アルフレート・ローゼンベルク]]は、テフリリアンの無罪判決を歓迎したのは「ユダヤ人新聞」だけだと主張した{{sfn|Ihrig|2016|p=296}}。彼はまた、「アルメニア人は、ドイツに対するユダヤ人と同様に、トルコ人に対するスパイ活動を主導した。」と主張し、タラートの彼らに対する行動を正当化した{{sfn|Hofmann|2020|p=86}}。 ===オスマン帝国=== タラートの暗殺後、アンカラの新聞は彼を偉大な革命家、改革者として賞賛し、トルコの民族主義者たちはドイツ領事に、彼は「彼らの希望であり偶像」であり続けたと語った{{sfn|Hosfeld|2005|p=10}}。{{仮リンク|イェニ・ギュン|tr|Yeni Gün}}は「我々の偉大な愛国者は祖国のために死んだ。タラートはトルコが生んだ最も偉大な人物であり続けるだろう。」と述べた{{sfn|Bogosian|2015|p=202}}。コンスタンティノープルでは、彼の死に対する反応は様々であった。一部の者はタラートに敬意を表した{{sfn|Kieser|2018|p=406}}が、リベラルな日刊紙『{{仮リンク|アレムダール|tr|Alemdar (gazete)}}』は、タラートは自分のコインで返済され、「彼の死は彼の行いの償いである」とコメントした{{sfn|Hosfeld|2005|p=11}}。『{{仮リンク|ハキミエト・イ・ミリエ|en|Hakimiyet-i Milliye}}』は、テフリリアンはイギリスが彼を送ったと自白したと主張した<ref>{{cite news |last1=Sarıhan |first1=Zeki |title=Talat Paşa'nın katli: Türkiye basınında nasıl karşılandı? |url=https://www.indyturk.com/node/146526/t%C3%BCrkiyeden-sesler/talat-pa%C5%9Fa%E2%80%99n%C4%B1n-katli-t%C3%BCrkiye-bas%C4%B1n%C4%B1nda-nas%C4%B1l-kar%C5%9F%C4%B1land%C4%B1 |access-date=28 March 2021 |work=Independent Türkçe |date=15 March 2020 |language=tr |archive-date=30 April 2021 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210430134543/https://www.indyturk.com/node/146526/t%C3%BCrkiyeden-sesler/talat-pa%C5%9Fa%E2%80%99n%C4%B1n-katli-t%C3%BCrkiye-bas%C4%B1n%C4%B1nda-nas%C4%B1l-kar%C5%9F%C4%B1land%C4%B1 |url-status=live }}</ref>。多くの記事は、タラートの貧しい始まりから権力の高みへの道のりを強調し、彼の反アルメニア政策を擁護した{{sfn|Kieser|2018|p=406}}。イスタンブールの新聞『イェニ・シャーク』は1921年にタラートの回想録を連載した{{sfn|Adak|2007|p=166}}。コンスタンティノープルで発行された彼の新聞で、アルメニア人社会主義者{{仮リンク|ディクラン・ザヴェン|hy|Զավեն Տիգրան}}は、「自国の真の利益を認識しているトルコ人は、この元大臣を優秀な政治家に数えないだろう」と期待を表明した{{sfn|Kieser|2018|pp=407, 426}}。[[1922年]]、[[アンカラ政府]]はタラートの有罪判決を取り消し{{sfn|Petrossian|2020|pp=99–100}}、その2年後、アルメニア人虐殺の中心的加害者であるタラートとシャキルの家族に年金を与える法律を可決した。タラートの家族は、{{仮リンク|トルコにおけるアルメニア人財産の没収|en|Confiscation of Armenian properties in Turkey|label=没収されたアルメニア人の財産}}から得られる他の補償金も受け取った{{sfn|Dadrian|Akçam|2011|p=105}}。 ==遺産== {{see also|:en:Armenian genocide denial}} {{multiple image | total_width = 350 | image1 = Soghomon Tehlirian Gyumri bust2020 (cropped).jpg | alt1 = Bust of Soghomon Tehlirian | image2 = Talaat Pasha grave.jpg | alt2 = Photograph of the Monument of Liberty, Istanbul where Talaat was buried in 1943 | footer = アルメニアの[[ギュムリ]]にあるテフリリアンの胸像(左)。タラートは[[1943年]]、国民的英雄として{{仮リンク|イスタンブールの自由の記念碑|en|Monument of Liberty, Istanbul}}に埋葬された。{{sfn|Kieser|2018|p=419}} }} 歴史家の{{仮リンク|ハンス=ルーカス・キーザー|en|Hans-Lukas Kieser}}は、「暗殺は、復讐を求める被害者と、反抗的な否定に凝り固まった加害者という病んだ関係を永続させた。」と述べている{{sfn|Kieser|2018|p=408}}。タラートとテフリリアンはともに、それぞれの側から英雄視されている。アルプ・イェネンはこの関係を「タラート・テフリリアン・コンプレックス」と呼んでいる{{sfn|Yenen|2022|pp=2–3}}。 トルコではテロリストとみなされていたテフリリアンだが{{sfn|Jacobs|2019|p=36}}、{{仮リンク|アルメニアのナショナリズム|en|Armenian nationalism|label=アルメニア人にとって英雄となった}}{{sfn|Suny|2015|p=344}}。1950年代、トルコの諜報員は[[カサブランカ]]でテフリリアンを追跡し、命を脅かしたため、[[アメリカ]]に移住せざるを得なかった{{sfnm|1a1=Hofmann|1y=2020|1p=77|2a1=MacCurdy|2y=2015|2pp=275–280}}。この動きによって、テフリリアンは離散したアルメニア人から注目されるようになったが、彼の息子によれば、彼は暗殺における自分の役割について話したがらなかったという。彼の死後、[[カリフォルニア州]][[フレズノ]]の{{仮リンク|アララト墓地|en|Ararat Cemetery}}に記念碑が建てられた{{sfn|Yenen|2022|p=20}}。アルメニア共和国からの国家的な後援もあるが、テフリリアンの記憶は主に離散したアルメニア人によって分散的に広められている。これとは対照的に、トルコのタラート記念は国家主導で行われている。{{sfn|Yenen|2022|p=3}}。[[1943年]]、トルコ政府の要請により、タラートは掘り起こされ、[[1909年]]の{{仮リンク|3月31日事件|en|31 March incident|label=オスマン・トルコの反乱}}を防いで命を落とした人々に捧げられた{{仮リンク|イスタンブールの自由の記念碑|en|Monument of Liberty, Istanbul}}で{{仮リンク|タラート・パシャの国葬|en|State funeral of Talaat Pasha|label=国葬}}が行われた{{sfn|Kieser|2018|p=419}}。タラートが暗殺されたときに着ていたシャツは、{{仮リンク|イスタンブール軍事博物館|en|Istanbul Military Museum}}に展示されている{{sfn|Garibian|2018|p=234}}。{{as of|2020|lc=yes}}、トルコやその他の国々の多くのモスク、学校、宅地開発、通りにはタラートの名前が付けられている{{sfnm|1a1=Hofmann|1y=2020|1p=76|2a1=Garibian|2y=2018|2p=234}}。 [[2005年]]以来、暗殺現場に記念碑を建立し{{sfn|Hofmann|2020|p=88}}、[[3月15日]]に彼の墓で記念式典を行おうとするベルリンのトルコ人による試みがあった{{sfn|Yenen|2022|p=24}}。[[2006年]]3月、トルコの民族主義団体は暗殺を記念し、「大虐殺の嘘」に抗議する目的でベルリンで2つの集会を開催した。ドイツの政治家たちはこの行進を批判し、参加者は少なかった{{sfnm|1a1=Fleck|1y=2014|1pp=268–270|2a1=von Bieberstein|2y=2017|2p=259}}。[[2007年]]、トルコ系アルメニア人ジャーナリスト、[[フラント・ディンク]]がトルコの超国家主義者によって白昼堂々と暗殺された。ディンク殺害とタラート殺害の関連性は複数の著者によって指摘されている{{sfn|Yenen|2022|p=23}}。 ===国際法=== [[1944年]]にジェノサイドという言葉を作ったことで知られる{{sfnm|1a1=Ihrig|1y=2016|1p=371|2a1=Garibian|2y=2018|2p=232}}ポーランド系ユダヤ人の法学生{{仮リンク|ラファエル・レムキン|en|Raphael Lemkin}}は、アルメニア人大虐殺とタラート暗殺について読んだことが、戦争犯罪に興味を持つきっかけになったと後に語っている{{sfn|Hosfeld|2013|p=13}}。レムキンは教授のユリウス・マカレヴィッチに、なぜタラートはドイツで罪を裁かれないのかと尋ねた。彼は、[[国民国家|国民主権]]とは政府が自国民を集団で殺すことができるということであり、介入することは間違っているというマカレヴィッチに強く反対した{{sfn|Irvin-Erickson|2016|p=36}}。レムキンは、暗殺は正当であると結論づけたが、[[自警団]]の正義が行き過ぎることを懸念し、大量虐殺を処罰するための法的枠組みをを考案しようとし、その結果[[ジェノサイド条約]]が生まれた{{sfnm|1a1=Jacobs|1y=2019|1p=33|2a1=Ihrig|2y=2016|2p=371}}。 [[1926年]]に{{仮リンク|ショロム・シュワルツバルト|en|Sholem Schwarzbard}}が[[ウクライナ]]の[[反ユダヤ主義|反ユダヤ主義者]][[シモン・ペトリューラ]]を暗殺したことを擁護する人々は、テフリリアンの裁判を引き合いに出し、その後、[[シュワルツバルト裁判|フランスの裁判所]]は彼を無罪とした{{sfnm|1a1=Jacobs|1y=2019|1p=33|2a1=Engel|2y=2016|2p=176}}。ディーンによれば、テフリリアンとシュワルツバールの裁判は、「西ヨーロッパで初めて、民族間の暴力や国家主導の集団残虐行為の被害者が正義を求めた大規模な裁判」であった{{sfn|Dean|2019|p=28}}。[[ハンナ・アーレント]]は『[[エルサレムのアイヒマン]]』の中で、この2つの裁判を、後にイスラエルの諜報員が[[ホロコースト]]実行犯[[アドルフ・アイヒマン]]を誘拐し、裁判を受けるためにイスラエルに連れてきた[[アドルフ・アイヒマン#アイヒマン裁判|アイヒマン裁判]]と対比している。彼女は、どちらの復讐者も、自国民に対して行われた罰せられない犯罪を世間に知らしめるために、法廷に立つ日を求めたと指摘した{{sfnm|1a1=Dean|1y=2019|1p=33|2a1=Garibian|2y=2018|2p=234}}。[[1936年]]2月に[[スイス]]のナチス党員[[ヴィルヘルム・グストロフ]]を暗殺したユダヤ人[[ダヴィッド・フランクフルター]]を弁護したスイスの弁護士{{仮リンク|オイゲン・クルティ|de|Eugen Curti}}は、テフリリアンの行為を引き合いに出した。クルティは、[[ナチス・ドイツ]]におけるユダヤ人迫害をアルメニア人虐殺になぞらえた。ドイツからの圧力により、フランクフルターは有罪判決を受けた{{sfn|Gruner|2012|p=19}}。 後に[[ニュルンベルク裁判]]の検事となる{{仮リンク|ロバート・ケンプナー|en|Robert Kempner}}は、テフリリアン裁判を傍聴し、「政府によって行われた重大な人権侵害、とりわけ大量虐殺は、外国によって争われる可能性があり、(そのような外国の介入は)許されない干渉には当たらない」と認識された法史上初の機会であったと考えていた{{sfn|Hosfeld|2005|pp=20, 28}}。 ==脚注== <references /> ==参考文献== ===書籍=== {{refbegin|indent=yes}} * {{cite book |last1=Akçam |first1=Taner|author=Taner Akcam |title=Killing Orders: Talat Pasha's Telegrams and the Armenian Genocide|title-link=Killing Orders |date=2018 |publisher=Palgrave Macmillan |isbn=978-3-319-69787-1 |language=en}} * {{cite book |last1=Bogosian |first1=Eric|author=Eric Bogosian |title=Operation Nemesis: The Assassination Plot that Avenged the Armenian Genocide |date=2015 |publisher=Little, Brown|isbn=978-0-316-29201-6 |language=en}} * {{cite book |last1=Dadrian |first1=Vahakn N. |last2=Akçam |first2=Taner |author=Vahakn Dadrian |title=Judgment At Istanbul: The Armenian Genocide Trials |date=2011 |publisher=Berghahn Books |isbn=978-0-85745-286-3 |language=en}} * {{cite book |last1=Dean |first1=Carolyn J.|author=Carolyn Dean |title=The Moral Witness: Trials and Testimony after Genocide |date=2019 |publisher=Cornell University Press |isbn=978-1-5017-3509-7 |language=en}} * {{cite book |last1=Engel |first1=David|author=David Engel (historian) |title=The Assassination of Symon Petliura and the Trial of Scholem Schwarzbard 1926–1927: A Selection of Documents |date=2016 |publisher=Vandenhoeck & Ruprecht |isbn=978-3-647-31027-5 |language=en}} * {{cite book |last1=Fleck |first1=André |title=Machtfaktor Diaspora?: Armenische Interessenvertretung in Deutschland |date=2014 |publisher=LIT Verlag |isbn=978-3-643-12762-4 |language=de|trans-title=Diaspora Power Broker? Representation of Armenian Interests in Germany}} * {{cite book |last1=Göçek |first1=Fatma Müge |author=Fatma Müge Göçek |title=Denial of Violence: Ottoman Past, Turkish Present and Collective Violence Against the Armenians, 1789–2009 |date=2015 |publisher=Oxford University Press |isbn=978-0-19-933420-9 |title-link=Denial of Violence}} * {{cite book |last1=Hosfeld |first1=Rolf |author1=Rolf Hosfeld |title=Operation Nemesis: Die Türkei, Deutschland und der Völkermord an den Armeniern |date=2005 |publisher=Kiepenheuer & Witsch |isbn=978-3-462-03468-4 |url=http://lib.ysu.am/open_books/305333.pdf |language=de |trans-title=Operation Nemesis: Turkey, Germany, and the Armenian Genocide |access-date=2021-03-17 |archive-date=2019-11-22 |archive-url=https://web.archive.org/web/20191122180021/http://lib.ysu.am/open_books/305333.pdf |url-status=live }} * {{cite book|last=Ihrig|first=Stefan|author=Stefan Ihrig|date=2016|title=Justifying Genocide: Germany and the Armenians from Bismarck to Hitler|title-link=Justifying Genocide|publisher=Harvard University Press|isbn=978-0-674-50479-0}} * {{cite book |last1=Irvin-Erickson |first1=Douglas |title=Raphael Lemkin and the Concept of Genocide |date=2016 |publisher=University of Pennsylvania Press |isbn=978-0-8122-9341-8 |language=en}} * {{cite book |last1=Kieser |first1=Hans-Lukas |author=Hans-Lukas Kieser |title=Talaat Pasha: Father of Modern Turkey, Architect of Genocide |date=2018 |publisher=Princeton University Press |isbn=978-1-4008-8963-1 }} * {{cite book |last1=MacCurdy |first1=Marian Mesrobian |title=Sacred Justice: The Voices and Legacy of the Armenian Operation Nemesis |date=2015 |publisher=Routledge |isbn=978-1-351-49218-8 |language=en}} * {{cite book |last1=Suny |first1=Ronald Grigor |author=Ronald Grigor Suny |title="They Can Live in the Desert but Nowhere Else": A History of the Armenian Genocide |title-link=They Can Live in the Desert but Nowhere Else |date=2015 |publisher=Princeton University Press |isbn=978-1-4008-6558-1 }} {{refend}} ===章=== {{refbegin|indent=yes}} * {{cite book|last=Adak|first= Hülya |date=2007|chapter= Identifying the "Internal Tumors" of World War I: Talat Paşa's hatıraları [Talat Paşa's Memoirs], or the Travels of a Unionist Apologia into History|title= Raueme Des Selbst: Selbstzeugnisforschung Transkulturell|publisher= Böhlau Verlag| pages= 151–169|isbn=978-3-412-23406-5}} * {{cite book |last1=Hofmann |first1=Tessa |author=Tessa Hofmann |title=Mass Media and the Genocide of the Armenians: One Hundred Years of Uncertain Representation |date=2016 |publisher=Palgrave Macmillan UK |isbn=978-1-137-56402-3 |pages=85–109 |language=en |chapter=From Silence to Re-remembrance: The Response of German Media to Massacres and Genocide against the Ottoman Armenians}} * {{cite book |last1=Hosfeld |first1=Rolf|chapter=Ein Völkermordprozess wider Willen|trans-chapter=An Unintended Genocide Trial|title= Johannes Lepsius–Eine deutsche Ausnahme: Der Völkermord an den 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|archive-url=https://web.archive.org/web/20201213120747/https://www.routledgehandbooks.com/doi/10.4324/9780203837443.ch3 |url-status=live|pages=30–44 }} * {{cite book|first=Ozan |last=Ozavci |title=The End of the Ottomans: The Genocide of 1915 and the Politics of Turkish Nationalism |chapter=Honour and Shame: The Diaries of a Unionist and the “Armenian Question” |date=2019 |publisher=Bloomsbury Publishing |isbn=978-1-78673-604-8 |language=en|pages=193–220}} * {{cite book |last=Üngör |first=Uğur Ümit |author=Uğur Ümit Üngör |title=Holocaust and Other Genocides |date=2012 |publisher=NIOD Institute for War, Holocaust and Genocide Studies / Amsterdam University Press |isbn=978-90-4851-528-8 |pages=45–72 |url=https://www.niod.nl/sites/niod.nl/files/Holocaust%20and%20other%20genocides.pdf |language=en |chapter=The Armenian Genocide, 1915 |access-date=2021-03-23 |archive-date=2020-11-12 |archive-url=https://web.archive.org/web/20201112015537/https://www.niod.nl/sites/niod.nl/files/Holocaust%20and%20other%20genocides.pdf |url-status=live }} * {{cite book |last1=von Bieberstein |first1=Alice |title=Replicating Atonement: Foreign Models in the Commemoration of Atrocities |date=2017 |publisher=Springer International Publishing |isbn=978-3-319-65027-2 |pages=237–265 |language=en |chapter=Memorial Miracle: Inspiring Vergangenheitsbewältigung Between Berlin and Istanbul}} * {{cite book |last1=Yenen |first1=Alp |title=Türkisch-Deutsche Beziehungen.: Perspektiven aus Vergangenheit und Gegenwart. |date=2020 |publisher=Walter de Gruyter GmbH & Co KG |isbn=978-3-11-220875-5 |language=en |chapter=The Exile Activities of the Unionists in Berlin (1918–1922)|pages=71–94}} {{refend}} ====学術論文==== {{refbegin|indent=yes}} * {{cite journal |last1=Akçam |first1=Taner |title=Guenter Lewy's The Armenian Massacres in Ottoman Turkey |journal=Genocide Studies and Prevention |date=2008 |volume=3 |issue=1 |pages=111–145 |doi=10.3138/gsp.3.1.111 |url=https://scholarcommons.usf.edu/cgi/viewcontent.cgi?article=1185&context=gsp |archive-date=11 January 2021 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210111135236/https://scholarcommons.usf.edu/cgi/viewcontent.cgi?article=1185&context=gsp |url-status=live }} * {{cite journal |last1=Garibian |first1=Sévane |title="Commanded by my Mother's Corpse": Talaat Pasha, or the Revenge Assassination of a Condemned Man |journal=Journal of Genocide Research |date=2018 |volume=20 |issue=2 |pages=220–235 |doi=10.1080/14623528.2018.1459160 }} * {{cite journal |last1=Gruner |first1=Wolf |author=Wolf Gruner |title="Peregrinations into the Void?" German Jews and their Knowledge about the Armenian Genocide during the Third Reich |journal=Central European History |date=2012 |volume=45 |issue=1 |pages=1–26 |jstor=41410719 |issn=0008-9389|doi=10.1017/S0008938911000963}} * {{cite journal |last1=Hofmann |first1=Tessa |author=Tessa Hofmann |title=A Hundred Years Ago: The Assassination of Mehmet Talaat (15 March 1921) and the Berlin Criminal Proceedings against Soghomon Tehlirian (2/3 June 1921): Background, Context, Effect |journal=International Journal of Armenian Genocide Studies |date=2020 |volume=5 |issue=1 |pages=67–90 |doi=10.51442/ijags.0009 |url=https://agmipublications.asnet.am/wp-content/uploads/2021/03/IJAGS_Vol._5_N1_67-89.pdf |issn=1829-4405 |archive-date=21 March 2021 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210321091928/https://agmipublications.asnet.am/wp-content/uploads/2021/03/IJAGS_Vol._5_N1_67-89.pdf |url-status=live |doi-access=free }} * {{cite web |last1=Hosfeld |first1=Rolf |author=Rolf Hosfeld |last2=Petrossian |first2=Gurgen |title=Tehlirjan, Soghomon |date=August 2020 |url=http://www.lexikon-der-politischen-strafprozesse.de/glossar/tehlirjan-soghomon/ |website=Lexikon der Politischen Strafprozesse|access-date=24 March 2021 |language=de-DE |archive-date=23 January 2021 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210123170902/http://www.lexikon-der-politischen-strafprozesse.de/glossar/tehlirjan-soghomon/ |url-status=live |pp=1–13 }} * {{cite journal |last1=Jacobs |first1=Steven Leonard |title=The Complicated Cases of Soghomon Tehlirian and Sholem Schwartzbard and Their Influences on Raphaël Lemkin's Thinking About Genocide |journal=Genocide Studies and Prevention |date=2019 |volume=13 |issue=1 |pages=33–41 |doi=10.5038/1911-9933.13.1.1594 |url=https://scholarcommons.usf.edu/gsp/vol13/iss1/7/ |issn=1911-0359 |doi-access=free }} * {{cite journal |last1=Mouradian |first1=Claire |author=Claire Mouradian |title=Le télégramme, outil de génocide: le cas arménien |journal=Revue d'Histoire de la Shoah |date=2015 |volume=202 |issue=1 |pages=507–535 |doi=10.3917/rhsho.202.0507 |url=https://www.cairn.info/revue-revue-d-histoire-de-la-shoah-2015-1-page-507.htm |language=fr |trans-title=The Telegram as a Tool of Genocide: the Armenian Case |archive-date=16 May 2019 |archive-url=https://web.archive.org/web/20190516091717/https://www.cairn.info/revue-revue-d-histoire-de-la-shoah-2015-1-page-507.htm |url-status=live }} * {{cite journal |last1=Petrossian |first1=Gurgen |title=Ein Strafverfahren als Ausgangspunkt der Entwicklung des Völkermordsbegriffes |journal=Journal der Juristischen Zeitgeschichte |date=2020 |volume=14 |issue=3 |pages=93–100 |doi=10.1515/jjzg-2020-0033 |trans-title=A Criminal Case as the Starting Point for the Development of the Concept of Genocide}} *{{cite journal |last1=Yenen |first1=Alp |title=The Talat-Tehlirian Complex: Contentious Narratives of Martyrdom and Revenge in Post-Conflict Societies |journal=Comparative Studies in Society and History |date=2022 |pages=1–28|url=https://www.cambridge.org/core/journals/comparative-studies-in-society-and-history/article/talattehlirian-complex-contentious-narratives-of-martyrdom-and-revenge-in-postconflict-societies/152D0D8351F37E6952BECD0AEEB5E56B |doi=10.1017/S0010417522000019 |language=en |issn=0010-4175|doi-access=free }} {{refend}} ==さらに読む== *{{cite journal|first=Robert|last=Kempner|author=Robert Kempner|title=Vor 60 Jahren vor einem deutschen Schwurgericht. Der Völkermord an den Armeniern|journal=Recht und Politik|volume= 3 |date=1980|pages=162–169}} *{{cite journal |last1=Parla |first1=Ayşe |title=Hamlet after Genocide: The Haunting of Soghomon Tehlirian and Empirical Fabulation |journal=Comparative Studies in Society and History |date=2023 |pages=1–25 |doi=10.1017/S0010417522000573 |url=https://www.cambridge.org/core/journals/comparative-studies-in-society-and-history/article/abs/hamlet-after-genocide-the-haunting-of-soghomon-tehlirian-and-empirical-fabulation/C74510469C96118BB67B34C47F5D3088 |language=en |issn=0010-4175}} * [https://portal.dnb.de/bookviewer/view/1124866795#page/n0/mode/1up 裁判記録] {{in lang|de}} ** [http://www.armenianhouse.org/wegner/docs-en/talaat-1.html 英語版] * [https://soundcloud.com/ahvalnews/prof-kieser-given-the-crimes Podcast about the assassination] Hans-Lukas Kieser {{DEFAULTSORT:たらあとはしやあんさつしけん}} [[Category:1921年3月]] [[Category:1921年のドイツ]] [[Category:アルメニア人虐殺]] [[Category:暗殺]] [[Category:ドイツの殺人事件]] [[Category:ベルリンの歴史]]
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ヴェノム3
『ヴェノム3(仮題)』(原題:Untitled_Venom:_Let_There_Be_Carnage_sequel) は、マーベル・コミックスのキャラクター「ヴェノム」をベースにした、2024年のアメリカ合衆国のスーパーヒーロー映画。 『ヴェノム』(2018年)、『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』(2021年)の続編であり、「ソニーズ・スパイダーマン・ユニバース」(SSU)の6作目。監督・脚本はケリー・マーセル(英語版)が務め、トム・ハーディが出演する。コロンビア ピクチャーズとマーベルが共同で製作し、ソニー・ピクチャーズが配給する。2024年11月8日に米公開予定。
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{{Expand English|date=2023年11月}} {{公開前の映画|date=2023年12月}}{{Infobox Film | 作品名 = ヴェノム 3(仮題) | 原題 = ''Venom 3'' | 監督 = {{仮リンク|ケリー・マーセル|en|Kelly Marcel}} | 脚本 = ケリー・マーセル | 原作 = {{仮リンク|デイビッド・ミッチェリニー|en|David Michelinie}}<br />[[トッド・マクファーレン]]<br />『[[ヴェノム (マーベル・コミック)|ヴェノム]]』 | 出演者 = [[トム・ハーディ]] | 製作 = [[アヴィ・アラッド]]<br />{{仮リンク|マット・トルマック|en|Matt Tolmach}}<br />[[エイミー・パスカル]]<br />ケリー・マーセル<br />トム・ハーディ | 撮影 = {{仮リンク|ファビアン・ワグナー|en|Fabian Wagner}} | 製作会社 = [[コロンビア・ピクチャーズ]] | 配給 = [[ソニー・ピクチャーズ]] | 上映時間 = {{Flagicon|USA}}[[2024年]][[11月8日]] | 製作国 = {{USA}} | 言語 = 英語 | 前作 = [[ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ]] }} 『'''ヴェノム3(仮題)'''』(原題:''Untitled_Venom:_Let_There_Be_Carnage_sequel'') は、[[マーベル・コミック|マーベル・コミックス]]のキャラクター「[[ヴェノム (マーベル・コミック)|ヴェノム]]」をベースにした、[[2024年]]の[[アメリカ合衆国]]の[[スーパーヒーロー映画]]。 『[[ヴェノム (映画)|ヴェノム]]』(2018年)、『[[ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ|ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ]]』(2021年)の続編であり、「[[ソニーズ・スパイダーマン・ユニバース]]」(SSU)の6作目。監督・脚本は[[ケリー・マーセル]](英語版)が務め、[[トム・ハーディ]]が出演する。[[コロンビア ピクチャーズ]]と[[マーベル・エンターテインメント|マーベル]]が共同で製作し、[[ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント|ソニー・ピクチャーズ]]が配給する。2024年11月8日に米公開予定<ref>{{Cite web |title=『ヴェノム3』2024年11月に公開延期|シネマトゥデイ |url=https://www.cinematoday.jp/news/N0139917 |website=シネマトゥデイ |date=2023-11-09 |access-date=2023-11-15 |language=ja}}</ref>。 == あらすじ == {{要あらすじ}} == キャスト == ;[[ヴェノム (マーベル・コミック)|エディ・ブロック / ヴェノム]] :演 - [[トム・ハーディ]] :ヴェノムの宿主である敏腕記者。 == 出典 == <references /> * {{IMDb title}} {{Marvel Comics films}}{{Authority control}} {{Portal bar|映画}} {{DEFAULTSORT:うえのむ}} [[Category:マーベル・コミックの映画作品]] [[Category:アメリカ合衆国のスーパーヒーロー映画]] [[Category:2024年の映画]] [[Category:コロンビア映画の作品]]
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大矢青山町
大矢青山町(おおやあおやまちょう)は、愛知県稲沢市の地名。 稲沢市南部に位置する。西は込野町、南は大矢浄土寺町に接する。
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大矢江西町
大矢江西町(おおやえにしちょう)は、愛知県稲沢市の地名。 稲沢市南部に位置する。東は大矢町、南は大矢浄土寺町に接する。
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大矢江西町(おおやえにしちょう)は、愛知県稲沢市の地名。
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フランシス・ニーダム (初代キルモリー伯爵)
初代キルモリー伯爵フランシス・ニーダム(英語: Francis Needham, 1st Earl of Kilmorey、1748年4月5日 – 1832年11月21日)は、アイルランド王国出身の貴族、軍人、政治家。1798年アイルランド反乱(英語版)で政府軍を率いてアイルランドを転戦したが、ビネガー・ヒルの戦い(英語版)で到着が遅れたため反乱軍の包囲殲滅に失敗したことで知られる。本国では1806年から1818年まで庶民院議員を務めた。 第10代キルモリー子爵ジョン・ニーダムと妻アン(Anne、旧姓ハールストン(Hurleston)、1708年ごろ – 1786年8月9日、ジョン・ハールストンの娘)の息子として、1748年4月5日に生まれた。長兄トマスは1773年に生涯未婚のまま死去しており、次兄ロバートが家督を継承して第11代キルモリー子爵となった。 1762年12月17日、イギリス陸軍に入隊して、コルネット(英語版)(騎兵少尉)として第18竜騎兵連隊(英語版)に配属された。1765年に第1竜騎兵連隊(英語版)に転じ、1771年4月1日に中尉に昇進した。1774年5月、第17竜騎兵連隊(英語版)の大尉に昇進した。アメリカ独立戦争では連隊とともにアメリカに渡ってニューヨーク・ニュージャージー方面作戦、バージニア戦役に参戦、1781年7月7日に第76歩兵連隊(英語版)の少佐に昇進した。1781年のヨークタウンの戦いで捕虜になり、1783年の終戦に伴い半給となった。直後に第80歩兵連隊(英語版)への辞令を購入し、同年に第104歩兵連隊(英語版)の中佐に昇進、さらにグレナディアガーズに転じた。1793年12月21日に国王ジョージ3世のエー=ド=カン(英語版)(副官)に任命され、同時に大佐に昇進した。1794年よりフランス革命戦争のフランドル戦役(英語版)に参戦したほか、1795年のフランス侵攻(英語版)ではキブロン湾とユー島への遠征に加わった、1795年2月27日に少将に昇進した。同年4月よりアイルランドでの本部勤務となった。 1798年アイルランド反乱(英語版)では1798年6月9日のアークローの戦い(英語版)で政府軍を率いて戦ったことが知られる。この戦闘において、ニーダムは自軍1,600人をアークローの町の東側と西側に配置して、その間にある主要道路にユナイテッド・アイリッシュメン(英語版)反乱軍が通ると砲火を浴びせられるようにした。実際に5千から9千とされる反乱軍がその道路を通り、ニーダム軍の右翼を攻撃しようとしたが、ニーダム軍がぶどう弾を使用するなど火力で上回ったこともあり、数時間にわたる激戦の末反乱軍は撃退された。この戦いでニーダムは反乱軍によるダブリンへの進撃を阻止した。 同じく1798年6月のビネガー・ヒルの戦い(英語版)ではジェラード・レイク(英語版)将軍が5個中隊を派遣して、ビネガー・ヒル(英語版)で野営している反乱軍を包囲した。ニーダムはそのうちの1個中隊を率いて包囲に加わる予定だったが、到着が遅れたため包囲網に穴が開き、反乱軍の撤退を許してしまった。この出来事でニーダムは同僚の間でthe late General Needhamというあだ名がつけられることとなった。 直後にウィックロー峠(英語版)での戦闘でも到着が遅れており、第2代シャノン伯爵リチャード・ボイルは「このニーダムという奴はいつも遅刻ばかり」と親族への手紙で愚痴を漏らした。さらにビネガー・ヒルでわざと敵軍を見逃したと噂されるに至り、ニーダムは自軍が長い行軍で疲れたと弁護した。また『オックスフォード英国人名事典』によれば、ウィックロー峠での戦闘では歩兵が遅れたものの、騎兵を先に派遣して間に合わせたという。 ニーダム自身は以降も昇進を続け、1802年に中将に昇進、1810年に第86歩兵連隊(英語版)隊長に就任、1812年に大将に昇進した。 1806年イギリス総選挙でニューリー選挙区(英語版)から出馬した。キルモリー子爵家はニューリーとその周辺に多くの領地を所有していたが、不在地主だったため影響力が若干減退し、ダウンシャー侯爵家も無視できない勢力となっていた。実際に1802年の総選挙ではダウンシャー侯爵夫人メアリー・ヒルが現職議員ジョン・ムーア(英語版)への支持を取り下げたことでその対立候補アイザック・コリー(英語版)が当選した。しかし1806年の総選挙までにニーダムが時折ニューリー近くに泊まるようになり、影響力を取り戻したほか、政権交代でグレンヴィル内閣が成立したなど情勢が変わった。これによりダウンシャー侯爵夫人は内閣の黙認のもとコリーと協議して、侯爵夫人がニューリーでコリーを支持し、コリーが落選した場合はほかの選挙区で当選させることとし、その代償としてコリーは侯爵夫人の政敵カースルレー子爵との繋がりを断ち、キルモリー子爵家と対立するうとした。こうして、カトリック解放に賛成するコリーがダウンシャー侯爵夫人と内閣の支持を得て、カトリック解放に反対するニーダムと一騎討ちする形となり、結果はニーダム142票、コリー121票でキルモリー子爵家の勢力の強さが証明される形となった。ただし、莫大な選挙費を費やした結果でもあった。 1807年イギリス総選挙では再び政権交代があり、第2次ポートランド公爵内閣の支持を受けたニーダムは168票対コリー121票で再選した。1812年イギリス総選挙では相次ぐ政権交代においてニーダムが常に政府を支持したことにカトリック信者が不満を感じ、親カトリックのホイッグ党員ジョン・フィルポット・カラン(英語版)を候補に出した。カランはダウンシャー侯爵夫人から支持されたが、コリーは自身が三たび選ばれなかったことに不満を感じてニーダム支持に転じた。結果としては内閣とコリーの支持を受けたニーダムが353票対148票で再選した。カランはカトリック陣営の分裂を敗因として挙げたが、いずれにせよキルモリー子爵家の影響力は決定的であり、1818年イギリス総選挙とニーダムの爵位継承に伴う1819年の補欠選挙ではニーダム自身と長男がそれぞれ無投票で当選した。 庶民院ではおおむね政府を支持したが、カトリック解放については選挙活動のときと違い、賛成票を投じた採決と反対票を投じた採決が存在した。演説の記録は1816年6月の1回だけだった。1818年11月30日に兄ロバートが死去すると、キルモリー子爵位を継承した。 1822年1月12日、アイルランド貴族であるキルモリー伯爵とダウン県におけるニューリー=モーン子爵に叙された。叙爵を記念して、シュロップシャーのアダーリー(英語版)の教区教会にあるキルモリー礼拝堂を修復した(ニーダム家が15世紀より所有していたシャヴィントン・ホール(Shavington Hall)はアダーリーにあった)。以降はアイルランド貴族代表議員への選出を目指したが実現しなかった。 1832年11月21日にシャヴィントン・ホールで死去、アダーリー(英語版)で埋葬された。息子フランシス・ジャック(英語版)が爵位を継承した。 ニーダムの手紙はイギリス国立公文書館とアイルランド国立公文書館(英語版)に現存する。 陸軍での部下と領地での借地人の間で人気があった。 1787年2月20日、アン・フィッシャー(Anne Fisher、1816年10月29日没、トマス・フィッシャーの娘)と結婚、2男8女をもうけた。
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初代キルモリー伯爵フランシス・ニーダムは、アイルランド王国出身の貴族、軍人、政治家。1798年アイルランド反乱で政府軍を率いてアイルランドを転戦したが、ビネガー・ヒルの戦いで到着が遅れたため反乱軍の包囲殲滅に失敗したことで知られる。本国では1806年から1818年まで庶民院議員を務めた。
初代[[キルモリー伯爵]]'''フランシス・ニーダム'''({{lang-en|Francis Needham, 1st Earl of Kilmorey}}、[[1748年]][[4月5日]] – [[1832年]][[11月21日]])は、[[アイルランド王国]]出身の貴族、軍人、政治家。{{仮リンク|アイルランド反乱 (1798年)|en|Irish Rebellion of 1798|label=1798年アイルランド反乱}}で政府軍を率いてアイルランドを転戦したが、{{仮リンク|ビネガー・ヒルの戦い|en|Battle of Vinegar Hill}}で到着が遅れたため反乱軍の包囲殲滅に失敗したことで知られる<ref name="ODNB" />。本国では1806年から1818年まで[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員を務めた<ref name="HOP" />。 == 生涯 == === アイルランド反乱以前 === [[ジョン・ニーダム (第10代キルモリー子爵)|第10代キルモリー子爵ジョン・ニーダム]]と妻アン({{lang|en|Anne}}、旧姓ハールストン({{lang|en|Hurleston}})、1708年ごろ – 1786年8月9日、ジョン・ハールストンの娘)の息子として、1748年4月5日に生まれた<ref name="Cokayne">{{Cite book2|volume=7 |date=1929 |editor-last=Cokayne |editor-first=George Edward |editor-link=ジョージ・エドワード・コケイン |editor-last2=Doubleday |editor-first2=H. A. |editor-last3=Howard de Walden |editor-first3=Thomas |editor-link3=トマス・スコット=エリス (第8代ハワード・デ・ウォルデン男爵) |title=The Complete Peerage, or a history of the House of lords and all its members from the earliest times, volume VII: Husee to Lincolnshire |edition=2nd |url=https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.210885/page/n272 |publisher=The St. Catherine Press |place=London |language=en |pages=262–263 }}</ref>。長兄トマスは1773年に生涯未婚のまま死去しており、次兄[[ロバート・ニーダム (第11代キルモリー子爵)|ロバート]]が家督を継承して第11代[[キルモリー子爵]]となった<ref name="DNB" />。 1762年12月17日、[[イギリス陸軍]]に入隊して、{{仮リンク|コルネット (軍階)|en|Cornet (rank)|label=コルネット}}(騎兵少尉)として{{仮リンク|第17ランサーズ連隊|en|17th Lancers|label=第18竜騎兵連隊}}に配属された<ref name="ODNB">{{Cite ODNB|id=19873|title=Needham, Francis Jack, first earl of Kilmorey|date=3 January 2008|orig-date=23 September 2004|last=Blackstock|first=A. F.}}</ref><ref name="DNB">{{Cite DNB|wstitle=Needham, Francis Jack|volume=40|page=156|last=Hamilton|first=Thomas|author-link=トマス・ハミルトン (大学職員)}}</ref>。1765年に{{仮リンク|第1王立竜騎兵連隊|en|1st The Royal Dragoons|label=第1竜騎兵連隊}}に転じ<ref name="HOP">{{HistoryofParliament|1790|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1790-1820/member/needham-hon-francis-1748-1832|title=NEEDHAM, Hon. Francis (1748-1832), of Mourne Park, nr. Newry, co. Down.|last=Jupp|first=P. J.|access-date=16 November 2023}}</ref>、1771年4月1日に中尉に昇進した<ref>{{London Gazette|issue=11133|page=1|date=6 April 1771}}</ref>。1774年5月、{{仮リンク|第17ランサーズ連隊|en|17th Lancers|label=第17竜騎兵連隊}}の大尉に昇進した<ref name="ODNB" />。[[アメリカ独立戦争]]では連隊とともにアメリカに渡って[[ニューヨーク・ニュージャージー方面作戦]]、[[南部戦線 (アメリカ独立戦争)|バージニア戦役]]に参戦<ref name="ODNB" /><ref name="DIB">{{Cite encyclopedia|language=en|url=https://www.dib.ie/biography/needham-francis-jack-a6145|title=Needham, Francis Jack|encyclopedia=[[アイルランド人名事典|Dictionary of Irish Biography]]|last=Murphy|first=David|publisher=Cambridge University Press|location=United Kingdom|date=October 2009|editor-last=McGuire|editor-first=James|editor2-last=Quinn|editor2-first=James|doi=10.3318/dib.006145.v1}}</ref>、1781年7月7日に{{仮リンク|第76歩兵連隊 (マクドナルズ・ハイランダーズ)|en|76th Regiment of Foot (MacDonald's Highlanders)|label=第76歩兵連隊}}の少佐に昇進した<ref>{{London Gazette|issue=12204|page=3|date=3 July 1781}}</ref>。1781年の[[ヨークタウンの戦い]]で捕虜になり、1783年の終戦に伴い[[半給]]となった<ref name="DNB" />。直後に{{仮リンク|第80歩兵連隊 (ロイヤル・エディンバラ・ボランティアーズ)|en|80th Regiment of Foot (Royal Edinburgh Volunteers)|label=第80歩兵連隊}}への辞令を購入し、同年に{{仮リンク|第104歩兵連隊 (1782年)|en|104th Regiment of Foot (1782)|label=第104歩兵連隊}}の中佐に昇進、さらに[[グレナディアガーズ]]に転じた<ref name="DNB" /><ref>{{London Gazette|issue=12419|page=2|date=1 March 1783}}</ref><ref>{{London Gazette|issue=12420|page=1|date=4 March 1783}}</ref>。1793年12月21日に国王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]の{{仮リンク|エー=ド=カン|en|Aide-de-camp}}(副官)に任命され<ref>{{London Gazette|issue=13604|page=1129|date=17 December 1793}}</ref>、同時に大佐に昇進した<ref name="HOP" />。1794年より[[フランス革命戦争]]の{{仮リンク|フランドル戦役|en|Low Countries theatre of the War of the First Coalition}}に参戦したほか、1795年の{{仮リンク|フランス侵攻 (1795年)|en|Invasion of France (1795)|label=フランス侵攻}}では[[キブロン湾]]と[[ユー島]]への遠征に加わった<ref name="DIB" />、1795年2月27日に少将に昇進した<ref>{{London Gazette|issue=13755|page=187|date=24 February 1795}}</ref>。同年4月よりアイルランドでの本部勤務となった<ref name="DIB" />。 === 1798年アイルランド反乱 === {{仮リンク|アイルランド反乱 (1798年)|en|Irish Rebellion of 1798|label=1798年アイルランド反乱}}では1798年6月9日の{{仮リンク|アークローの戦い|en|Battle of Arklow}}で政府軍を率いて戦ったことが知られる<ref name="DNB" />。この戦闘において、ニーダムは自軍1,600人をアークローの町の東側と西側に配置して、その間にある主要道路に{{仮リンク|ユナイテッド・アイリッシュメン協会|en|Society of United Irishmen|label=ユナイテッド・アイリッシュメン}}反乱軍が通ると砲火を浴びせられるようにした<ref name="DIB" />。実際に5千から9千とされる反乱軍がその道路を通り、ニーダム軍の右翼を攻撃しようとしたが、ニーダム軍が[[ぶどう弾]]を使用するなど火力で上回ったこともあり、数時間にわたる激戦の末反乱軍は撃退された<ref name="ODNB" /><ref name="DIB" />。この戦いでニーダムは反乱軍による[[ダブリン]]への進撃を阻止した<ref name="DNB" />。 同じく1798年6月の{{仮リンク|ビネガー・ヒルの戦い|en|Battle of Vinegar Hill}}では{{仮リンク|ジェラード・レイク (初代レイク子爵)|en|Gerard Lake, 1st Viscount Lake|label=ジェラード・レイク}}将軍が5個中隊を派遣して、{{仮リンク|エニスコーシー|en|Enniscorthy|label=ビネガー・ヒル}}で野営している反乱軍を包囲した<ref name="DNB" />。ニーダムはそのうちの1個中隊を率いて包囲に加わる予定だったが、到着が遅れたため包囲網に穴が開き、反乱軍の撤退を許してしまった<ref name="DNB" />。この出来事でニーダムは同僚の間で{{lang|en|the late General Needham}}<ref group="注釈">late(遅れた)とthe late(故)をかけた洒落で「遅れたニーダム将軍」と「故ニーダム将軍」のダブルミーニング。</ref>というあだ名がつけられることとなった<ref name="DIB" />。 直後に{{仮リンク|ウィックロー峠|en|Wicklow Gap}}での戦闘でも到着が遅れており、[[リチャード・ボイル (第2代シャノン伯爵)|第2代シャノン伯爵リチャード・ボイル]]は「このニーダムという奴はいつも遅刻ばかり」と親族への手紙で愚痴を漏らした<ref name="ODNB" />。さらにビネガー・ヒルでわざと敵軍を見逃したと噂されるに至り、ニーダムは自軍が長い行軍で疲れたと弁護した<ref name="ODNB" />。また『[[オックスフォード英国人名事典]]』によれば、ウィックロー峠での戦闘では歩兵が遅れたものの、騎兵を先に派遣して間に合わせたという<ref name="ODNB" />。 ニーダム自身は以降も昇進を続け、1802年に中将に昇進<ref name="HOP" />、1810年に{{仮リンク|第86(ロイヤル・カウンティ・ダウン)歩兵連隊|en|86th (Royal County Down) Regiment of Foot|label=第86歩兵連隊}}隊長に就任、1812年に大将に昇進した<ref name="DNB" />。 === 政界において === [[1806年イギリス総選挙]]で{{仮リンク|ニューリー選挙区 (連合王国議会)|en|Newry (UK Parliament constituency)|label=ニューリー選挙区}}から出馬した<ref name="HOPNewry">{{HistoryofParliament|1790|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1790-1820/constituencies/newry|title=Newry|last=Jupp|first=P. J.|access-date=16 November 2023}}</ref>。キルモリー子爵家はニューリーとその周辺に多くの領地を所有していたが、不在地主だったため影響力が若干減退し、[[ダウンシャー侯爵]]家も無視できない勢力となっていた<ref name="HOPNewry" />。実際に[[1802年イギリス総選挙|1802年の総選挙]]では[[メアリー・ヒル (ダウンシャー侯爵夫人)|ダウンシャー侯爵夫人メアリー・ヒル]]が現職議員{{仮リンク|ジョン・ムーア (1756-1834)|en|John Moore (1756–1834)|label=ジョン・ムーア}}への支持を取り下げたことでその対立候補{{仮リンク|アイザック・コリー|en|Isaac Corry}}が当選した<ref name="HOPNewry" />。しかし1806年の総選挙までにニーダムが時折ニューリー近くに泊まるようになり、影響力を取り戻したほか、政権交代で[[ウィリアム・グレンヴィル (初代グレンヴィル男爵)|グレンヴィル]]内閣が成立したなど情勢が変わった<ref name="HOPNewry" />。これによりダウンシャー侯爵夫人は内閣の黙認のもとコリーと協議して、侯爵夫人がニューリーでコリーを支持し、コリーが落選した場合はほかの選挙区で当選させることとし、その代償としてコリーは侯爵夫人の政敵[[ロバート・ステュアート (カースルレー子爵)|カースルレー子爵]]との繋がりを断ち、キルモリー子爵家と対立するうとした<ref name="HOPNewry" />。こうして、カトリック解放に賛成するコリーがダウンシャー侯爵夫人と内閣の支持を得て、カトリック解放に反対するニーダムと一騎討ちする形となり、結果はニーダム142票、コリー121票でキルモリー子爵家の勢力の強さが証明される形となった<ref name="HOPNewry" />。ただし、莫大な選挙費を費やした結果でもあった<ref name="ODNB" />。 [[1807年イギリス総選挙]]では再び政権交代があり、[[第2次ポートランド公爵内閣]]の支持を受けたニーダムは168票対コリー121票で再選した<ref name="HOPNewry" />。[[1812年イギリス総選挙]]では相次ぐ政権交代においてニーダムが常に政府を支持したことにカトリック信者が不満を感じ、親カトリックの[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]員{{仮リンク|ジョン・フィルポット・カラン|en|John Philpot Curran}}を候補に出した<ref name="HOPNewry" />。カランはダウンシャー侯爵夫人から支持されたが、コリーは自身が三たび選ばれなかったことに不満を感じてニーダム支持に転じた<ref name="HOPNewry" />。結果としては内閣とコリーの支持を受けたニーダムが353票対148票で再選した<ref name="HOPNewry" />。カランはカトリック陣営の分裂を敗因として挙げたが、いずれにせよキルモリー子爵家の影響力は決定的であり、[[1818年イギリス総選挙]]とニーダムの爵位継承に伴う1819年の補欠選挙ではニーダム自身と長男がそれぞれ無投票で当選した<ref name="HOPNewry" />。 [[庶民院 (イギリス)|庶民院]]ではおおむね政府を支持したが、カトリック解放については選挙活動のときと違い、賛成票を投じた採決と反対票を投じた採決が存在した<ref name="HOP" />。演説の記録は1816年6月の1回だけだった<ref name="HOP" />。1818年11月30日に兄[[ロバート・ニーダム (第11代キルモリー子爵)|ロバート]]が死去すると、[[キルモリー子爵]]位を継承した<ref name="Cokayne" />。 1822年1月12日、[[アイルランド貴族]]である'''キルモリー伯爵'''と[[ダウン県]]における'''ニューリー=モーン子爵'''に叙された<ref name="Cokayne" />。叙爵を記念して、[[シュロップシャー]]の{{仮リンク|アダーリー|en|Adderley}}の教区教会にあるキルモリー礼拝堂を修復した(ニーダム家が15世紀より所有していたシャヴィントン・ホール({{lang|en|Shavington Hall}})はアダーリーにあった)<ref name="DNB" />。以降はアイルランド[[貴族代表議員]]への選出を目指したが実現しなかった<ref name="HOP" />。 === 死去 === 1832年11月21日にシャヴィントン・ホールで死去、{{仮リンク|アダーリー|en|Adderley}}で埋葬された<ref name="Cokayne" />。息子{{仮リンク|フランシス・ニーダム (第2代キルモリー伯爵)|en|Francis Needham, 2nd Earl of Kilmorey|label=フランシス・ジャック}}が爵位を継承した<ref name="Cokayne" />。 ニーダムの手紙は[[イギリス国立公文書館]]と{{仮リンク|アイルランド国立公文書館|en|National Archives of Ireland}}に現存する<ref name="DIB" />。 == 人物 == 陸軍での部下と領地での借地人の間で人気があった<ref name="ODNB" />。 == 家族 == 1787年2月20日、アン・フィッシャー({{lang|en|Anne Fisher}}、1816年10月29日没、トマス・フィッシャーの娘)と結婚<ref name="Cokayne" />、2男8女をもうけた<ref name="Lodge1892">{{Cite book2|language=en|editor-last=Lodge|editor-first=Edmund|editor-link=エドマンド・ロッジ|title=The Peerage and Baronetage of the British Empire as at Present Existing|edition=61st|date=1892|location=London|publisher=Saunders and Otley|page=360|url=https://books.google.com/books?id=1yQwAAAAYAAJ&pg=PA360}}</ref>。 *{{仮リンク|フランシス・ニーダム (第2代キルモリー伯爵)|en|Francis Needham, 2nd Earl of Kilmorey|label=フランシス・ジャック}}(1787年12月12日 – 1880年6月20日) - 第2代キルモリー伯爵<ref name="Cokayne" /> *フランシス・マーガレッタ・アン(1789年2月8日 – 1789年3月17日<ref name="Lodge1892" />) *アンナ・マリア・エリザベス(1790年3月23日 – 1866年5月29日) - 1816年6月20日、ヘンリー・コケイン=カスト閣下({{lang|en|Hon. Henry Cokayne-Cust}}、1780年9月28日 – 1861年5月19日、[[ブラウンロー・カスト (初代ブラウンロー男爵)|初代ブラウンロー男爵ブラウンロー・カスト]]の息子)と結婚、子供あり<ref name="Lodge1892" /><ref>{{Cite book2|language=en|editor-last=Butler|editor-first=Alfred T.|title=A Genealogical and Heraldic History of the Peerage and Baronetage, The Privy Council, and Knightage|edition=83rd|year=1925|location=London|publisher=Burke's Peerage Limited|pages=367–368}}</ref> *アミーリア(1791年 – 1860年12月25日<ref name="Lodge1892" />) *フランシス・エリザベス(1792年7月2日 – 1890年11月22日) - 1825年6月16日、ジョージ・ポウェル・ヒギンソン({{lang|en|George Powell Higginson}}、1866年4月19日没)と結婚<ref name="Lodge1892" /> *セリナ(1794年7月5日 – 1876年1月10日) - 1817年7月5日、オーランド・ヘンリー・ブリッジマン閣下({{lang|en|Hon. Orlando Henry Bridgeman}}、1794年5月6日 – 1827年8月28日、[[オーランド・ブリッジマン (初代ブラッドフォード伯爵)|初代ブラッドフォード伯爵オーランド・ブリッジマン]]の息子)と結婚、子供あり<ref name="Lodge1892" /><ref>{{Cite book2|editor1-last=Burke|editor1-first=Sir Bernard|editor1-link=バーナード・バーク|editor2-last=Burke|editor2-first=Ashworth P.|title=A Genealogical and Heraldic History of the Peerage and Baronetage, the Privy Council, Knightage and Companionage|edition=77th|year=1915|location=London|publisher=Harrison & Sons|pages=294–295|language=en|url=https://archive.org/details/b3136410x/page/294}}</ref> *ジョージアナ(1795年9月6日 – 1888年12月1日<ref name="Lodge1892" />) - 生涯未婚<ref name="Burke1925">{{Cite book2|language=en|editor-last=Butler|editor-first=Alfred T.|title=A Genealogical and Heraldic History of the Peerage and Baronetage, The Privy Council, and Knightage|edition=83rd|year=1925|location=London|publisher=Burke's Peerage Limited|page=1306}}</ref> *アリシア・メアリー(1796年12月5日 – 1885年1月31日) - 1836年7月6日、サミュエル・エリス・ブリストー({{lang|en|Samuel Ellis Bristowe}}、1855年没)と結婚<ref name="Lodge1892" /> *フランシス・ヘンリー・ウィリアム(1799年3月15日 – 1868年3月24日<ref name="Lodge1892" />) *メイベラ・ジョセフィーン({{lang|en|Mabella Josephine}}、1801年11月22日<ref name="Lodge1892" /> – 1899年11月16日<ref name="Burke1925" />) - 1822年2月12日、{{仮リンク|ジョン・ヘンリー・ノックス|en|John Henry Knox|label=ジョン・ヘンリー・ノックス}}閣下(1788年7月26日 – 1872年8月27日、[[トマス・ノックス (初代ランファーリー伯爵)|初代ランファーリー伯爵トマス・ノックス]]の息子)と結婚、子供あり<ref>{{HistoryofParliament|1820|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1820-1832/member/knox-hon-john-1788-1872|title=KNOX, Hon. John Henry (1788-1872).|last=Farrell|first=Stephen|access-date=16 November 2023}}</ref> == 注釈 == {{Reflist|group=注釈}} == 出典 == {{Reflist}} == 外部リンク == *{{Hansard-contribs|mr-francis-needham|Mr Francis Needham}} *{{UK National Archives ID}} {{S-start}} {{S-par|uk1801}} {{S-bef|before={{仮リンク|アイザック・コリー|en|Isaac Corry}}}} {{S-ttl|title=[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員({{仮リンク|ニューリー選挙区 (連合王国議会)|en|Newry (UK Parliament constituency)|label=ニューリー選挙区}}選出)|years=[[1806年イギリス総選挙|1806年]] – 1818年}} {{S-aft|after={{仮リンク|フランシス・ニーダム (第2代キルモリー伯爵)|en|Francis Needham, 2nd Earl of Kilmorey|label=フランシス・ニーダム閣下}}}} {{S-mil}} {{S-bef|before={{仮リンク|チャールズ・ロックハート=ロス (第7代準男爵)|en|Sir Charles Lockhart-Ross, 7th Baronet|label=サー・チャールズ・ロックハート=ロス準男爵}}}} {{S-ttl|title={{仮リンク|第86(ロイヤル・カウンティ・ダウン)歩兵連隊|en|86th (Royal County Down) Regiment of Foot|label=第86歩兵連隊}}隊長|years=1810年 – 1832年}} {{S-aft|after={{仮リンク|ウィリアム・ハリス (第2代ハリス男爵)|en|William Harris, 2nd Baron Harris|label=ハリス男爵}}}} {{S-reg|ie}} {{S-new|creation}} {{S-ttl|title=[[キルモリー伯爵]]|years=1822年 – 1832年}} {{S-aft|rows=2|after={{仮リンク|フランシス・ニーダム (第2代キルモリー伯爵)|en|Francis Needham, 2nd Earl of Kilmorey|label=フランシス・ジャック・ニーダム}}}} {{S-bef|before=[[ロバート・ニーダム (第11代キルモリー子爵)|ロバート・ニーダム]]}} {{S-ttl|title=[[キルモリー子爵]]|years=1818年 – 1832年}} {{S-end}} {{Authority control}} {{DEFAULTSORT:きるもりい01}} [[Category:アイルランド貴族の伯爵]] [[Category:ダウン県選出のイギリス庶民院議員 (1801年-1922年)]] [[Category:イギリスの軍人]] [[Category:アメリカ独立戦争の人物]] [[Category:フランス革命戦争の人物]] [[Category:1798年アイルランド反乱の人物]]
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益子陶芸村
益子陶芸村(ましことうげいむら)とは、栃木県芳賀郡益子町にある益子焼の陶器民芸品複合共同販売店である。 「益子焼窯元共販センター」を設立し社長も務めた成井藤夫が発案し創立された。 1977年(昭和52年)、「益子焼窯元共販センター」を創設し社長も務めていた成井藤夫が益子焼窯元共販株式会社を退社し、一陶芸家に戻り作陶活動を再開した。 そしてその翌年の1978年(昭和53年)11月1日、共販センターとは全く異なる「あくまで自分自身の好みの」陶器や民芸品を集めた、益子焼販売施設となる「益子陶芸村」を設立した。 益子町内に新しく開通したバイパス通り沿いの、当時はまだ移築されていなかった「旧濱田庄司邸」や「益子参考館」の近くという立地条件も合わせて店舗が建てられた。 創設された当時は「益子陶芸村」に開店した8店舗の内の1店舗は10軒の窯元による共同経営であり、他の7店舗は益子町の民芸店が小売店を出店。共同店舗方式の株式会社として経営が始まった。 そして成井藤夫自らの窯元である「藤夫窯」や、弟である成井恒雄の窯の焼き物などの益子焼のみならず、全国各地の「焼き物」や民芸品も揃えて販売し、特に益子焼は窯元の商品が手に入ることを売りとして、益子焼窯元共販センターや塚本製陶所と肩を並べるべく、益子焼作家の個展や、春と秋の益子焼のバーゲンセールも開催され、これが後の「益子陶器市」へと繋がっていった。 「益子陶芸村」には様々な「益子焼販売店」や関連店舗、そして全国各地からの民芸品を扱う多彩な店が開かれていた。 以下が創設初期の1980年(昭和55年)に営業していた店舗である。 他にも古美術品や版画の即売所であり、濱田庄司の作品も置かれていたギャラリーや、優れた作家の作品の展示場であった記念館も設けられていた。 その後も陶芸作家の作品を販売した「益子物産」、「クラフトK」、「木漏れ日(相玄窯)」、「RIMIX NOISE」、アジアン雑貨輸入販売店「ALESS」など、様々な店舗が入れ替わりながら「暮らしの中にある陶器器のあり方」を提案しながら、「陶芸村」としての独自の民芸品販売店舗を展開していた。 1991年(平成3年)に成井藤夫が逝去した後は、その妻であるスミ子が2代目社長に就任した。 そして布製品のコーディネートを客から募集したり、茶房喫茶「絵留」で「歌声喫茶」を開催したり、スミ子社長自ら育てたアジサイ24種を展示し人気投票を行うなど様々な企画を発案し実行した。 その一方で窯元と相談しながら新たな益子焼の商品を提供する「益子焼の提案型ショップ」となる「Yスペース」を開設するなど、バブル経済が崩壊した後の「村の方向付け」の舵取りを行った。 そして「Modern Loft」や「ABURAYA」などのアンティークショップや、コーヒーショップ「1・1/2(いちとにぶんのいち)」のような「陶器専門店ではない店舗」が開店。 その一方で「益子陶器市」に積極的に参加し、数多くの陶芸家の作家テントが開かれていた。 現在は益子焼の窯元の高齢化に伴い「ALESS」、「Modern Loft」、「1・1/2」を残して古くからの店舗は閉店し、特に益子焼専門販売店は全て閉店した。 そして現在「新製品としての益子焼」を販売している店舗は、専門店としては成井窯のアウトレット販売や成井恒雄の弟子たちの作陶作品の販売、そして成井恒雄の作陶作品を展示している(但し成井恒雄作品は展示のみの非売品なので注意)「野の花の道」の一店舗のみとなっており、他には数少ない店舗が本業の傍らに新製品の益子焼を販売している。 現在の「益子陶芸村」は、益子焼にこだわらない、新しい時代のニーズに合わせた新しい店舗を次々に開店させている。
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益子陶芸村(ましことうげいむら)とは、栃木県芳賀郡益子町にある益子焼の陶器民芸品複合共同販売店である。 「益子焼窯元共販センター」を設立し社長も務めた成井藤夫が発案し創立された。
{{商業施設 |名称 = 益子陶芸村 |外国語名称 = Mashiko Pottery Village |画像 = |画像説明 = |地図 = |郵便番号 = 〒321-4217 |所在地 = 栃木県芳賀郡益子町益子3435−1 |開業日 =[[1978年]](昭和53年)[[11月1日]]<ref name=MashikoTougeiMura_ShimotsukeShinbun_Koukoku_1978_10_30>「下野新聞」1978年(昭和53年)10月30日 6面【広告】「益子焼ショッピングタウン」「益子陶芸村 11/1 OPEN」「益子町 益子バイパス益子参考館 西沿い」「成井企画・代表者 成井藤夫」</ref> |店舗数 = 11 |中核店舗 =ALESS(アジアン雑貨店)<ref>{{Googlemap|ALESS}} - ALESS</ref> |営業時間 =店舗により異なる |駐車台数 =約10 |最寄駅 =[[真岡鐵道]][[益子駅]] 徒歩30分/タクシー5分 |最寄バス停 = [[関東自動車]]路線バス「益子駅前」行き「[[益子参考館]]入口」下車 徒歩5分 |最寄IC = [[東北自動車道]]経由 [[北関東自動車道]] [[真岡インターチェンジ|真岡IC]] 益子まで25分<br>[[常磐自動車道]]経由 北関東自動車道 [[桜川筑西インターチェンジ|桜川筑西IC]] 益子まで30分 |外部リンク =[https://instagram.com/mashiko_tougeimura.official?igshid=OGQ5ZDc2ODk2ZA== 公式Instagram] }} '''益子陶芸村'''(ましことうげいむら){{sfn|真尾栄|1997|p=62-64}}<ref name=MashikoTougeiMura_ShimotsukeShinbun_2003_8_19>「下野新聞」2003年(平成15年)8月19日付 10面「輝け商店」「作り手と使い手結ぶ」「益子陶芸村」「益子町益子」「成井スミ子さん(66)」</ref>とは、[[栃木県]][[芳賀郡]][[益子町]]にある[[益子焼]]の陶器民芸品複合共同販売店である<ref name=MashikoTougeiMura_ShimotsukeShinbun_1978_08_22>「下野新聞」1978年(昭和53年)8月22日 6面「焼き物の里に新しい波」「今秋、益子陶芸村がオープン」</ref>{{sfn|近藤京嗣,栃木県の民藝|1987|p=49}}。 「[[益子焼窯元共販センター]]」を設立し社長も務めた[[成井藤夫]]が発案し創立された<ref name=MashikoTougeiMura_ShimotsukeShinbun_1978_08_22/>{{sfn|近藤京嗣,栃木県の民藝|1987|p=49}}{{sfn|真尾栄|1997|p=62-64}}。 == 沿革 == === 成り立ち === [[1977年]]([[昭和52年]])、「[[益子焼窯元共販センター]]」を創設し社長も務めていた[[成井藤夫]]が{{sfn|真尾栄|1997|p=62}}益子焼窯元共販株式会社を退社し、一陶芸家に戻り作陶活動を再開した<ref name=MashikoTougeiMura_ShimotsukeShinbun_1978_08_22/>{{sfn|下野新聞社|1984|p=27}}{{sfn|近藤京嗣,栃木県の民藝|1987|p=49}}。 そしてその翌年の[[1978年]]([[昭和53年]])[[11月1日]]、共販センターとは全く異なる「あくまで自分自身の好みの」陶器や民芸品を集めた{{sfn|倉本秀清,益子探訪|1992|164,175-176}}、益子焼販売施設となる「益子陶芸村」を設立した{{sfn|近藤京嗣,栃木県の民藝|1987|p=49}}{{sfn|真尾栄|1997|p=62}}<ref name=NaruiFujio_Fuhou_ZasshiMingei>[{{NDLDC|7932240/37}} 『民藝』 (464)「成井 藤夫氏」P71 - 国立国会図書館デジタルコレクション]、2023年4月10日、国会図書館デジタルコレクション デジタル化資料個人送信サービスにて閲覧。</ref>{{sfn|下野新聞社|1984|p=27}}{{sfn|下野新聞社|1984|p=138}}{{sfn|倉本|1992|p=165,176}}<ref 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name=MashikoTougeiMura_ShimotsukeShinbun_1978_08_22/>、これが後の「[[益子陶器市]]」へと繋がっていった<ref name=MashikoTougeiMura_MashikoToukiIchi_2013_11>{{Cite web | url= http://www8.plala.or.jp/kuruma2325/masikotouki.html | title= 2013年11月 益子陶器市|益子陶芸村 | website= 水柿モータース | date= 2013-11 | accessdate=2023-11-16}}</ref><ref name=MashikoTougeiMura_MashikoToukiIchi_2014_11>{{Cite web | url= http://www8.plala.or.jp/kuruma2325/access1.html | title= 2014年11月 益子陶器市|益子陶芸村 | website= 水柿モータース | date= 2014-11 | accessdate=2023-11-16}}:一部、画像データが破損している。</ref>。 === 「益子焼販売村」として === 「益子陶芸村」には様々な「益子焼販売店」や関連店舗、そして全国各地からの[[民藝|民芸品]]を扱う多彩な店が開かれていた。 以下が創設初期の[[1980年]](昭和55年){{sfn|無尽蔵|1980|p=102-103}}に営業していた店舗である。 ;益子焼商事本店{{sfn|真尾栄|1997|p=64}}<ref name=MashikoTougeiMura_MashikoToukiIchi_2013_11/> :益子で作陶されている益子焼の全てを品揃えしている益子焼販売専門店。2階には[[島岡達三]]の作品が陳列されていた{{sfn|無尽蔵|1980|p=102-103}}<ref name=MashikoTougeiMura_ShimotsukeShinbun_2003_8_19/>。 ;炎の国{{sfn|真尾栄|1997|p=62,64}}{{sfn|真尾栄|1997|p=99}} :全国の陶芸店に入選した作家の作品を陳列販売。2階には若手作家の作品が陳列販売されていた{{sfn|無尽蔵|1980|p=102-103}}{{sfn|真尾栄|1997|p=99}}。 ;無燼蔵しのはら{{sfn|真尾栄|1997|p=62,64}}{{sfn|真尾栄|1997|p=99}} :城内坂通りにある「益子焼しのはら」の支店{{sfn|真尾栄|1997|p=99}}。益子焼の作家作品や窯元作品を取り揃え、「益子藍染」製品も扱っていた{{sfn|無尽蔵|1980|p=102-103}}。 ;火裏紅(かりこう){{sfn|真尾栄|1997|p=62,64}}{{sfn|真尾栄|1997|p=99}}{{sfn|交通新聞社,やきものの里・窯元めぐり|2002|p=28}} :将来ある若手作家の作品を陳列販売{{sfn|無尽蔵|1980|p=102-103}}。 ;かまど{{sfn|真尾栄|1997|p=62,64}} :日常的に使われる実用的な陶器製食器を置き{{sfn|真尾栄|1997|p=99}}、全国のレストランや食事処で用いられていた商品を販売。2階には若手作家の陳列販売も{{sfn|無尽蔵|1980|p=102-103}}。 ;ユタカクラフト :益子の竹製民芸品や日本各地の郷土玩具や民芸品のみならず、世界各地の民芸品も販売{{sfn|無尽蔵|1980|p=102-103}}。 ;糸車 :手織り、草木染め、刺し子、キルト、パッチワークなど布製品を扱う{{sfn|無尽蔵|1980|p=102-103}}。 ;益子の里 :秘伝のタレを使った鉄板焼きの食事処{{sfn|無尽蔵|1980|p=102-103}}。 ;民芸茶房「絵留」{{sfn|真尾栄|1997|p=64}}{{sfn|真尾栄|1997|p=99}}<ref name=MashikoTougeiMura_ShimotsukeShinbun_2003_8_19/><ref name=MashikoTougeiMura_MashikoToukiIchi_2013_11/>{{sfn|交通新聞社,やきものの里・窯元めぐり|2002|p=28}} :益子焼や民芸品でコーヒーを提供している茶房喫茶店{{sfn|無尽蔵|1980|p=102-103}}{{sfn|交通新聞社,やきものの里・窯元めぐり|2002|p=28}}。益子焼の陶芸家でもある藤原郁三による陶板作品が飾られている{{sfn|藤原郁三,陶|1992|p=47}}。 他にも古美術品や版画の即売所であり、[[濱田庄司]]の作品も置かれていたギャラリーや{{sfn|無尽蔵|1980|p=102-103}}{{sfn|真尾栄|1997|p=99}}、優れた作家の作品の展示場であった記念館も設けられていた{{sfn|無尽蔵|1980|p=102-103}}。 その後も陶芸作家の作品を販売した「益子物産」<ref name=MashikoTougeiMura_ShimotsukeShinbun_2003_8_19/>、「クラフトK」<ref name=MashikoTougeiMura_MashikoToukiIchi_2013_11/><ref name=MashikoTougeiMura_MashikoToukiIchi_2014_11/>、「木漏れ日(相玄窯)」<ref name=MashikoTougeiMura_MashikoToukiIchi_2013_11/><ref name=MashikoTougeiMura_MashikoToukiIchi_2014_11/>、「RIMIX NOISE」{{sfn|真尾栄|1997|p=64}}、アジアン雑貨輸入販売店「ALESS」{{sfn|真尾栄|1997|p=64}}<ref name=MashikoTougeiMura_ShimotsukeShinbun_2003_8_19/><ref name=MashikoTougeiMura_MashikoToukiIchi_2013_11/><ref name=MashikoTougeiMura_MashikoToukiIchi_2014_11/>など、様々な店舗が入れ替わりながら「暮らしの中にある陶器器のあり方」を提案しながら{{sfn|真尾栄|1997|p=62}}、「陶芸村」としての独自の民芸品販売店舗を展開していた{{sfn|真尾栄|1997|p=99}}。 === 2代目社長・成井スミ子 === [[1991年]](平成3年)に[[成井藤夫]]が逝去した後は、その妻であるスミ子が2代目社長に就任した<ref name=MashikoTougeiMura_ShimotsukeShinbun_2003_8_19/>。 そして布製品のコーディネートを客から募集したり、茶房喫茶「絵留」で「歌声喫茶」を開催したり<ref>「下野新聞」2010年(平成22年)5月25日付 21面「29、30日に「歌声喫茶」」「益子陶芸村」</ref>、スミ子社長自ら育てたアジサイ24種を展示し人気投票を行うなど様々な企画を発案し実行した<ref name=MashikoTougeiMura_ShimotsukeShinbun_2003_8_19/>。 その一方で窯元と相談しながら新たな益子焼の商品を提供する「益子焼の提案型ショップ」となる「Yスペース」を開設するなど、[[バブル経済]]が崩壊した後の「村の方向付け」の舵取りを行った<ref name=MashikoTougeiMura_ShimotsukeShinbun_2003_8_19/>。 そして「Modern Loft」や「ABURAYA」などのアンティークショップや<ref name=MashikoTougeiMura_MashikoToukiIchi_2013_11/><ref name=MashikoTougeiMura_MashikoToukiIchi_2014_11/>、コーヒーショップ「1・1/2(いちとにぶんのいち)」<ref name=MashikoTougeiMura_MashikoToukiIchi_2013_11/><ref name=MashikoTougeiMura_MashikoToukiIchi_2014_11/>のような「陶器専門店ではない店舗」が開店。 その一方で「益子陶器市」に積極的に参加し、数多くの陶芸家の作家テントが開かれていた<ref name=MashikoTougeiMura_MashikoToukiIchi_2013_11/><ref name=MashikoTougeiMura_MashikoToukiIchi_2014_11/>。 === 現在 === 現在は益子焼の窯元の高齢化に伴い「ALESS」、「Modern Loft」、「1・1/2」を残して古くからの店舗は閉店し、特に益子焼専門販売店は全て閉店した。 そして現在「新製品としての益子焼」を販売している店舗は、専門店としては[[成井窯]]のアウトレット販売や[[成井恒雄]]の弟子たちの作陶作品の販売、そして成井恒雄の作陶作品を展示している(但し成井恒雄作品は展示のみの非売品なので注意)「野の花の道」<ref>[https://g.co/kgs/i2NU8T 益子焼 うつわギャラリー 野の花の道 - Googleマップ]</ref>の一店舗のみとなっており、他には数少ない店舗が本業の傍らに新製品の益子焼を販売している<ref> {{Cite instagram|user=tane_ehon |author=たね書房 |postid=CexUFvrpenC |title=…作家さんによる手仕事のお品物もございます。… |date=2022-11-15 |access-date=2023-11-16}}</ref><ref>{{Cite web | url= https://avantgalde1-1-2.jimdofree.com/exhibition-news-event/ | title= 展示会やイベントのお知らせ | website= cafe&art space 1 1/2 イチトニブンノイチ | date= | accessdate=2023-11-16}}</ref>。 現在の「益子陶芸村」は、益子焼にこだわらない、新しい時代のニーズに合わせた新しい店舗を次々に開店させている<ref> {{Cite instagram|user=mashiko_tougeimura.official |author=【公式】益子陶芸村 |postid=ChmAlnspUUU |title=…若い人たちのニーズに合ったお洒落なお店が数多く点在し… |date=2022-08-23 |access-date=2023-11-16}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{cite book|和書|author=株式会社無尽蔵|title=益子の陶工 土に生きる人々の語らい|date=1980-12-20|page=59|id={{NDLbooks|R100000002-I000001494363-00}}|ref={{sfnref|無尽蔵|1980}}}} * {{cite book|和書|author=下野新聞社|title=陶源境ましこ 益子の陶工 人と作品|date=1984-09-27|pages=26-27,138|NCID=BN1293471X|id={{NDLbooks|R100000001-I076416373-00}}|ref={{sfnref|下野新聞社|1984}}}} * {{cite book|和書|author=近藤京嗣|title=栃木県の民藝|publisher=ふろんてぃあ出版文化事業部|date=1987-11-20|series=Namazu books|pages=49|NCID=BN12936431 |id={{NDLbooks|R100000002-I000001932067-00}}|isbn=|ref={{sfnref|近藤京嗣,栃木県の民藝|1987}}}} * {{cite book|和書|author=倉本秀清|title=益子探訪 -益子の陶芸家に学ぶ-|publisher=株式会社 光芸出版|date=1992-07-05|series=|page=164,175-176|isbn=4-7694-0097-7|ref={{sfnref|倉本秀清,益子探訪|1992}}}} * {{cite book|和書|author=藤原郁三|title=陶 藤原郁三|publisher=京都書院|date=1992-7-25|series=Toh 陶 Vol.23|page=47|ISBN=9784763687234|NCID=|id=|ref={{sfnref|藤原郁三,陶|1992}}}} * {{cite book|和書|author=真尾栄|title=益子・笠間やきもの紀行|publisher=主婦と生活社|date=1997-9-16|series=|page=62-64,99|isbn=4-391-12067-4|ref={{sfnref|真尾栄|1997}}}}:表紙にP64に載っている「益子陶芸村」の概略図イラストが部分的に用いられている。 * {{cite book|和書|author=|editor=|title=やきものの里・窯元めぐり[全国版]|publisher=株式会社交通新聞社|date=2002-8-10|series= 持ち歩き旅の手帖 日本の旅シリーズ|page=28|ISBN=9784330714028|NCID=|id=|ref={{sfnref|交通新聞社,やきものの里・窯元めぐり|2002}}}}:「陶芸村」として紹介されている。 == 外部リンク == * {{Googlemap|益子陶芸村}} - 益子陶芸村 * {{Instagram|mashiko_tougeimura.official|【公式】益子陶芸村}} {{デフォルトソート:ましことうけいむら}} [[Category:日本の陶芸]] [[Category:栃木県]] [[Category:益子町]] [[Category:益子町の歴史]] [[Category:益子町の建築物]]
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デルニエアンプルール
デルニエアンプルール (Dernier Empereur、1990年2月5日 - 不明) は、アメリカ合衆国で生産され、フランスとアメリカで調教された競走馬・種牡馬である。 1992年、フランス・サンクルー競馬場の2歳戦でティエリ・ジャルネを鞍上にデビューし、勝利する。次走はシェーヌ賞(英語版)に1番人気で出走するが2着に敗れた。 1993年、リュパン賞を見越して、同じコースで行われるスレーヌ賞に出走し、5着。本番のリュパン賞では3着であった。次走はシルヴァン・ギヨ(英語版)を鞍上にジョッケクルブ賞に出走するが、前2走を勝利していたエルナンドに敗れ2着となった。次走のパリ大賞では1番人気に推されるが、4着に敗れた。8月14日のギヨームドルナーノ賞にて重賞初勝利を挙げた。9月12日のニエル賞ではエルナンドと4度目の対戦となったが、2着に敗れた。10月には初の古馬相手の対戦の場としてイギリスのチャンピオンステークスに出走した。レースでは先行して粘り込み、3着に入った。この後アメリカに渡りブリーダーズカップターフに転戦するが、大きく離された12着に敗れた。 1994年はマイル路線に挑戦し、ミュゲ賞(英語版)からイスパーン賞に出走するが、どちらも5着。約3か月の休養の後、復帰戦のHastings賞ではRed Bishopの3着に敗れるが、次走ラ・クープ・ド・メゾンラフィット(英語版)ではRed Bishopに勝利。10月には前年に続いてチャンピオンステークスに出走する。レースでは前年とは異なり最後方に控え、先行集団の脚が鈍る中、鋭い脚で差し切って1着となり、G1初勝利を挙げた。次走はブリーダーズカップクラシックに出走し、最下位に敗れる。 1995年、ラ・クープ・ド・メゾンラフィットまでは前年と同じローテーションで出走する。10月にはアメリカに遠征し2戦するが、それぞれ4着、7着であった。 1996年に、アメリカのベン・セシル厩舎に移籍する。移籍5戦目、デルマー競馬場のエスコンディドハンデキャップ(英語版)でアメリカでの初勝利を挙げると、次走は同じコースで行われるデルマーインビテーショナルハンデキャップ(英語版)に出走し、ここでも勝利した。9月にはカナディアンインターナショナルステークスに出走するが、重馬場に苦しみ5着となった。帰国後初戦のカールトンF.バークハンデキャップ(英語版)では1着となった。この後ジャパンカップへの出走を予定していたが、調教中に骨折し、現役引退が決定された。 引退後はフランスで種牡馬入りし、後にアイルランドに輸出された。シャトル種牡馬としてニュージーランドでも活動していた。父としては成功しなかったが、母の父として障害重賞馬を複数頭輩出した。2004年生まれが最終世代となった。 以下の内容は、Equibase、France Galopの内容に基づく。
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デルニエアンプルール は、アメリカ合衆国で生産され、フランスとアメリカで調教された競走馬・種牡馬である。
{{競走馬 |画 = |説 = |名 = デルニエアンプルール |時 = 1992年 - 1996年 |原語 = |英 = Dernier Empereur |種 = [[サラブレッド]] |性 = [[牡馬|牡]] |色 = [[栗毛]]<ref name="ex00">{{Cite web |url=https://www.equibase.com/profiles/Results.cfm?type=Horse&refno=1271095&registry=T&rbt=TB#completeStats |title=Dernier Empereur (KY) |accessdate=2023-11-16 |publisher=Equibase}}</ref> |斑 = |生 = [[1990年]][[2月5日]]<ref name="ex00"></ref> |死 = |登 = |抹 = |父 = [[:en:Trempolino|Trempolino]]<ref name="ex00"></ref> |母 = Dear Colleen<ref name="ex00"></ref> |母父 = [[インリアリティ|In Reality]]<ref name="ex00"></ref> |国 = {{USA}} |産 = Mayland's Stud Company, Ltd.<ref name="ex00"></ref> |育 = |主 = Paul de Moussac<br>[[ゲイリー・タナカ|Gary A. Tanaka]] |調 = [[アンドレ・ファーブル|André Fabre]]<br>Ben D. A. Cecil |助 = |厩 = |装 = |績 = 30戦8勝 <ref name="ex00"></ref> |金 = 1,152,425ドル(換算)<ref name="ex00"></ref><br> アメリカ:730,340ドル<br> フランス:337,294フラン<br> イギリス:202,855ポンド |WTRR = |冠 = |medaltemplates = {{MedalGI|[[チャンピオンステークス|チャンピオンS]]|1994年}} {{MedalGII|[[ギヨームドルナノ賞|ギヨームドルナーノ賞]]|1993年}} {{MedalGII|[[:en:Del Mar Handicap|デルマー招待H]]|1996年}} {{MedalGII|[[:en:Carleton F. Burke Handicap|カールトンF.バークH]]|1996年}} {{MedalGIII|[[:en:La Coupe de Maisons-Laffitte|LCメゾンラフィット]]|1994年}} }} '''デルニエアンプルール''' (''Dernier Empereur''、[[1990年]][[2月5日]] - 不明) は、[[アメリカ合衆国]]で生産され、[[フランス]]とアメリカで調教された[[競走馬]]・[[種牡馬]]である。 == 経歴 == 1992年、フランス・[[サンクルー競馬場]]の2歳戦で[[ティエリ・ジャルネ]]を鞍上にデビューし、勝利する。次走は{{仮リンク|シェーヌ賞|en|Prix des Chênes}}に1番人気で出走するが2着に敗れた。<br> <br> 1993年、[[リュパン賞]]を見越して、同じコースで行われるスレーヌ賞に出走し、5着。本番のリュパン賞では3着であった。次走は{{仮リンク|シルヴァン・ギヨ|en|Sylvain Guillot}}を鞍上に[[ジョッケクルブ賞]]に出走するが、前2走を勝利していた[[エルナンド (競走馬)|エルナンド]]に敗れ2着となった。次走の[[パリ大賞]]では1番人気に推されるが、4着に敗れた。8月14日の[[ギヨームドルナノ賞|ギヨームドルナーノ賞]]にて重賞初勝利を挙げた。<ref group="注釈">これ以降のフランス所属時代の勝利はすべてギヨが騎乗時のものである。</ref>9月12日の[[ニエル賞]]ではエルナンドと4度目の対戦となったが、2着に敗れた。10月には初の古馬相手の対戦の場として[[イギリス]]の[[チャンピオンステークス]]に出走した。レースでは先行して粘り込み、3着に入った。この後アメリカに渡り[[ブリーダーズカップターフ]]に転戦するが、大きく離された12着に敗れた。<br> <br> 1994年はマイル路線に挑戦し、{{仮リンク|ミュゲ賞|en|Prix du Muguet}}から[[イスパーン賞]]に出走するが、どちらも5着。約3か月の休養の後、復帰戦のHastings賞ではRed Bishopの3着に敗れるが、次走{{仮リンク|ラ・クープ・ド・メゾンラフィット|en|La Coupe de Maisons-Laffitte}}ではRed Bishopに勝利。10月には前年に続いてチャンピオンステークスに出走する。レースでは前年とは異なり最後方に控え、先行集団の脚が鈍る中、鋭い脚で差し切って1着となり、G1初勝利を挙げた。次走は[[ブリーダーズカップクラシック]]に出走し、最下位に敗れる。<br> 1995年、ラ・クープ・ド・メゾンラフィットまでは前年と同じローテーションで出走する。10月にはアメリカに遠征し2戦するが、それぞれ4着、7着であった。<br> <br> 1996年に、アメリカの[[ベン・セシル]]厩舎に移籍する。移籍5戦目、[[デルマー競馬場]]の{{仮リンク|エスコンディドハンデキャップ|en|Cougar II Stakes}}でアメリカでの初勝利を挙げると、次走は同じコースで行われる{{仮リンク|デルマーインビテーショナルハンデキャップ|en|Del Mar Handicap}}に出走し、ここでも勝利した。9月には[[カナディアンインターナショナルステークス]]に出走するが、重馬場に苦しみ5着となった。帰国後初戦の{{仮リンク|カールトンF.バークハンデキャップ|en|Carleton F. Burke Handicap}}では1着となった。この後[[ジャパンカップ]]への出走を予定していたが、調教中に骨折し、現役引退が決定された。 == 種牡馬成績 == 引退後はフランスで種牡馬入りし、後に[[アイルランド]]に輸出された。[[シャトル種牡馬]]として[[ニュージーランド]]でも活動していた。父としては成功しなかったが、母の父として障害重賞馬を複数頭輩出した。2004年生まれが最終世代となった。<ref>{{Cite web |url=https://www.racingpost.com/profile/horse/72974/dernier-empereur/progeny-dams-sire |title=Dernier Empereur - Progeny Dam's Sire |publisher=Racing Post |accessdate=2023-11-16}}</ref> === 母の父として === * Moises Has (父Martaline) - 2020年ルノー・デュ・ヴィヴィエ賞 * Mount Ida (父[[イェーツ (競走馬)|Yeats]]) - 2020年Kerry Group Irish EBF Mares Novice Chase、2022年John and Chich Fowler Memorial EBF Mares Chase * Sizing Tennessee (父Robin Des Champs) - 2018年Ladbrokes Trophy == 競走成績 == 以下の内容は、Equibase<ref name="ex00"></ref>、France Galop<ref>{{Cite web|url=https://www.france-galop.com/fr/cheval/NnlCWWNFTXc2dFRSK09pbDZKOHpsQT09 |title=Dernier Empereur USA |accessdate=2023-11-16 |publisher=France Galop}}</ref>の内容に基づく。 {| style="border-collapse:collapse; font-size:90%; text-align:center; white-space:nowrap" !年月日!!競馬場!!競走名!!格!!頭数!!枠番!!人気!!着順!!騎手!!斤量[kg]!!距離(馬場)!!タイム!!着差!!勝ち馬/(2着馬) |- |1992.10.12 |[[サンクルー競馬場|サンクルー]] |Zariba賞 | |20 |20 | |{{0}}{{Color|darkred|1着}} |[[ティエリ・ジャルネ|T.ジャルネ]] |58 |芝1500m(重) |{{0|R}}1:37.3 |{{Nowiki|-}}3/4身 |(Sabrixander) |- |{{0|0000.}}11.18 |[[エヴリ競馬場|エヴリ]] |[[:en:Prix des Chênes|シェーヌ賞]] |GIII |6 |2 |1 |{{0}}{{Color|darkblue|2着}} |T.ジャルネ |56 |芝1600m(重) | |{{0|-}}1身 |Dancienne |- |1993.{{0}}5.{{0}}2 |[[パリロンシャン競馬場|パリロンシャン]] |スレーヌ賞 |L |5 |1 | |{{0}}5着 |T.ジャルネ |58 |芝2100m(不良) | |{{0|-}}12身 |[[エルナンド (競走馬)|Hernando]] |- |{{0|0000.}}{{0}}5.16 |パリロンシャン |[[リュパン賞]] |GI |5 |2 |3 |{{0}}{{Color|darkgreen|3着}} |T.ジャルネ |58 |芝2100m(良) | |{{0|-}}3身 |Hernando |- |{{0|0000.}}{{0}}6.{{0}}6 |[[シャンティイ競馬場|シャンティイ]] |[[ジョッケクルブ賞]] |GI |11 |6 |7 |{{0}}{{Color|darkblue|2着}} |[[:en:Sylvain Guillot|S.ギヨ]] |58 |芝2400m(良) | |{{0|-}}2 1/2身 |Hernando |- |{{0|0000.}}{{0}}6.27 |パリロンシャン |[[パリ大賞]] |GI |9 |6 |1 |{{0}}4着 |T.ジャルネ |58 |芝2000m(堅良) | |{{0|-}}1身 |Fort Wood |- |{{0|0000.}}{{0}}8.14 |[[ドーヴィル競馬場|ドーヴィル]] |[[ギヨームドルナノ賞|ギヨームドルナーノ賞]] |GII |6 |7 | |{{0}}{{Color|darkred|1着}} |S.ギヨ |56 |芝2000m(良) |{{0|R}}2:07.0 |{{Nowiki|-}}2 1/2身 |(Fastness) |- |{{0|0000.}}{{0}}9.12 |パリロンシャン |[[ニエル賞]] |GII |5 |2 |2 |{{0}}{{Color|darkblue|2着}} |S.ギヨ |58 |芝2400m(重) | |{{0|-}}1 1/2身 |[[ハトゥーフ|Hatoof]] |- |{{0|0000.}}10.16 |[[ニューマーケット競馬場|ニューマーケット]] |[[チャンピオンステークス|チャンピオンS]] |GI |12 |9 |4 |{{0}}{{Color|darkgreen|3着}} |T.ジャルネ |56 |芝10F(良) | |{{0|-}}3身 |Hernando |- |{{0|0000.}}11.{{0}}6 |[[サンタアニタ競馬場|サンタアニタ]] |[[BCターフ]] |GI |14 |7 |12 |{{0}}12着 |T.ジャルネ |55.5 |芝12F(堅良) | |{{0|-}}13身 |[[コタシャーン|Kotashaan]] |- |1994.{{0}}5.{{0}}6 |サンクルー |[[:en:Prix du Muguet|ミュゲ賞]] |GIII |7 |4 |1 |{{0}}5着 |T.ジャルネ |58 |芝1600m(良) | |{{0|-}}4 1/2身 |Zabar |- |{{0|0000.}}{{0}}5.29 |パリロンシャン |[[イスパーン賞]] |GI |7 |1 |5 |{{0}}5着 |T.ジャルネ |58 |芝1850m(良) | |{{0|-}}3身 |[[ビッグストーン|Bigstone]] |- |{{0|0000.}}{{0}}8.23 |ドーヴィル |Hastings賞 | |6 |1 | |{{0}}{{color|darkgreen|3着}} |T.ジャルネ |56 |芝2000m(良) | |{{0|-}}クビ |Red Bishop |- |{{0|0000.}}{{0}}9.15 |[[メゾンラフィット競馬場|メゾンラフィット]] |[[:en:La Coupe de Maisons-Laffitte|LCメゾンラフィット]] |GIII |7 |7 |4 |{{0}}{{Color|darkred|1着}} |S.ギヨ |56 |芝2000m(不良) |{{0|R}}2:04.1 |{{Nowiki|-}}1 1/2身 |(Red Bishop) |- |{{0|0000.}}10.15 |ニューマーケット |チャンピオンS |GI |8 |2 |5 |{{0}}{{Color|darkred|1着}} |S.ギヨ |59 |芝10F(良) |{{0|R}}2:05.65 |{{0|-}}ハナ |([[グランドロッジ (競走馬)|Grand Lodge]]) |- |{{0|0000.}}11.{{0}}5 |[[チャーチルダウンズ競馬場|チャーチルダウンズ]] |[[BCクラシック]] |GI |14 |7 |13 |{{0}}14着 |S.ギヨ |57 |ダ10F(速) | |{{0|-}}29 1/4身 |[[:en:Concern (horse)|Concern]] |- |1995.{{0}}5.{{0}}1 |サンクルー |ミュゲ賞 |GII |8 |5 |4 |{{0}}7着 |S.ギヨ |59 |芝1600m(不良) | |{{0|-}}19身 |Green Tune |- |{{0|0000.}}{{0}}5.28 |パリロンシャン |イスパーン賞 |GI |9 |3 |3 |{{0}}7着 |T.ジャルネ |58 |芝1850m(良) | |{{0|-}}5 1/2身 |Green Tune |- |{{0|0000.}}{{0}}8.21 |[[:fr:Hippodrome de Bellerive|ヴィシー]] |Jurietti賞 | |8 |5 |1 |{{0}}{{Color|darkred|1着}} |S.ギヨ |55 |芝2000m(良) |{{0|R}}2:04.8 |{{0|-}}ハナ |(Astair) |- |{{0|0000.}}{{0}}9.16 |メゾンラフィット |LCメゾンラフィット |GIII |6 |2 |1 |{{0}}{{Color|darkblue|2着}} |T.ジャルネ |56 |芝2000m(重) | |{{0|-}}3身 |Gunboat Diplomacy |- |{{0|0000.}}10.{{0}}7 |[[ベルモントパーク競馬場|ベルモントパーク]] |[[ジョッキークラブゴールドカップ|ジョッキークラブGC]] |GI |7 |3 |5 |{{0}}4着 |[[ホセ・サントス|J.サントス]] |57 |ダ10F(速) | |{{0|-}}1 1/4身 |[[シガー (競走馬)|Cigar]] |- |{{0|0000.}}10.28 |ベルモントパーク |[[:en:Stuyvesant Handicap|スタイヴァサントH]] |GIII |7 |3 |2 |{{0}}7着 |T.ジャルネ |52 |ダ9F(重) | |{{0|-}}38身 |Silver Fox |- |1996.{{0}}5.12 |[[ハリウッドパーク競馬場|ハリウッドパーク]] |[[:en:Last Tycoon Stakes|イングルウッドH]] |GIII |5 |3 |4 |{{0}}4着 |[[エディー・デラフーセイ|E.デラフーセイ]] |53 |芝8.5F(堅良) | |{{0|-}}1 1/4身 |Fastness |- |{{0|0000.}}{{0}}6.{{0}}8 |ベルモントパーク |[[マンハッタンステークス|マンハッタンS]] |GI |12 |9 |5 |{{0}}8着 |[[ジェリー・ベイリー|J.ベイリー]] |53 |芝10F(堅良) | |{{0|-}}11 3/4身 |Diplomatic Jet |- |{{0|0000.}}{{0}}7.14 |ハリウッドパーク |[[:en:Bel Air Handicap|ベルエアH]] |GII |4 |3 |3 |{{0}}{{Color|darkgreen|3着}} |[[:en:Goncalino Almeida|G.アルメイダ]] |51.5 |ダ8.5F(速) | |{{0|-}}11身 |Cleante |- |{{0|0000.}}{{0}}7.27 |[[デルマー競馬場|デルマー]] |アローワンス | |5 |3 |4 |{{0}}{{Color|darkblue|2着}} |[[パトリック・ヴァレンズエラ|P.ヴァレンズエラ]] |53 |芝8.5F(堅良) | |{{0|-}}1 1/4身 |[[ジェントルメン (競走馬)|Gentlemen]] |- |{{0|0000.}}{{0}}8.{{0}}9 |デルマー |[[:en:Cougar II Stakes|エスコンディドH]] | |6 |6 |4 |{{0}}{{Color|darkred|1着}} |P.ヴァレンズエラ |52 |芝11F(堅良) |{{0|R}}2:18.80 |{{Nowiki|-}}1 1/4身 |(Ianomami) |- |{{0|0000.}}{{0}}8.31 |デルマー |[[:en:Del Mar Handicap|デルマー招待H]] |GII |7 |2 |3 |{{0}}{{Color|darkred|1着}} |P.ヴァレンズエラ |52.5 |芝11F(堅良) |{{0|R}}2:13.89 |{{Nowiki|-}}1/2身 |(Talloires) |- |{{0|0000.}}{{0}}9.29 |[[ウッドバイン競馬場|ウッドバイン]] |[[カナディアンインターナショナルステークス|カナディアン国際S]] |GI |7 |1 |6 |{{0}}5着 |P.ヴァレンズエラ |57 |芝12F(重) | |{{0|-}}13身 |[[シングスピール|Singspiel]] |- |{{0|0000.}}11.{{0}}4 |サンタアニタ |[[:en:Carleton F. Burke Handicap|カールトンF.バークH]] |GII |8 |1 |1 |{{0}}{{Color|darkred|1着}} |[[クリス・マッキャロン|C.マッキャロン]] |53.5 |芝12F(堅良) |{{0|R}}2:24.24 |{{Nowiki|-}}3身 |(Bon Point) |- |} * 斤量はポンド表記のものはキログラム表記に換算して記載<ref>{{Cite web |url=https://www.jra.go.jp/keiba/overseas/rule/ |title=海外競馬の勝馬投票券 発売のルール |accessdate=2023-11-16 |publisher=JRA}}</ref> == 血統表 == {{競走馬血統表 |name = デルニエアンプルール |ref1 = <ref name="ex01">{{Cite web |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000347994/pedigree/ |title=Dernier Empereur(USA) |accessdate=2023-11-16 |website=JBISサーチ}}</ref> |mlin = [[シャーペンアップ系]] |ref2 = <ref>{{Cite web |url=https://db.netkeiba.com/horse/ped/000a002096/ |title=Dernier Empereurの血統表 |accessdate=2023-11-20 |website=netkeiba.com}}</ref> |flin = |FN = [[3号族|3-l]] |ref3 = <ref name="ex01"/> |inbr = [[ウォーレリック|War Relic]] 5・5(母内) |ref4 = <ref name="ex01"/> |f = [[:en:Trempolino|Trempolino]]<br />1984 栗毛 アメリカ |m = Dear Colleen<br />1974 黒鹿毛 アメリカ |ff = [[シャーペンアップ|Sharpen Up]]<br />1969 栗毛 イギリス |fm = Trephine<br />1977 鹿毛 フランス |mf = [[インリアリティ|In Reality]]<br />1964 鹿毛 アメリカ |mm = Blarney Bess<br />1959 鹿毛 アメリカ |fff = *[[エタン (競走馬)|エタン]] |ffm = Rocchetta |fmf = *[[ヴァイスリーガル]] |fmm = Quiriquina |mff = [[インテンショナリー|Intentionally]] |mfm = My Dear Girl |mmf = [[タルヤー|Tulyar]] |mmm = Uvira |ffff = [[ネイティヴダンサー|Native Dancer]] |fffm = Mixed Marriage |ffmf = [[ロックフェラ|Rockefella]] |ffmm = Chambiges |fmff = [[ノーザンダンサー|Northern Dancer]] |fmfm = Victoria Regina |fmmf = [[:en:Molvedo|Molvedo]] |fmmm = La Chaussee |mfff = [[インテント|Intent]] |mffm = My Recipe |mfmf = [[ラフンタンブル|Rough'n Tumble]] |mfmm = Iltis |mmff = [[テヘラン (競走馬)|Tehran]] |mmfm = Neocracy |mmmf = Umidwar |mmmm = Lady Lowless |}} * 父Trempolinoはフランスで活躍し、[[凱旋門賞]]を勝利した。他にも、ジョッケクルブ賞やBCターフで2着に入った。 * 母Dear Colleenはアメリカで42戦9勝<ref>{{Cite web|url=https://www.equibase.com/profiles/Results.cfm?type=Horse&refno=602344&registry=T&rbt=TB |title=Dear Colleen (KY) |publisher=Equibase |accessdate=2023-11-16}}</ref>。 * 3代母Uviraは[[アイリッシュオークス]]勝ち馬。ここから広がる牝系には、[[エーピーインディ|A.P.Indy]]、[[レモンドロップキッド|Lemon Drop Kid]]、[[デュークオブマーマレード|Duke of Marmalade]]、Court Visionなどがいる。 == 脚注 == === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == *{{競走馬成績|netkeiba=000a002096|racingpost=72974|racingpostname=dernier-empereur|jbis=0000347994}} *[https://www.equibase.com/profiles/Results.cfm?type=Horse&refno=1271095&registry=T&rbt=TB#completeStats Dernier Empereur (KY)] - 競走成績 {{DEFAULTSORT:てるにえあんふるうる}} [[Category:サラブレッド]] [[Category:1990年生 (競走馬)|仏てるにえあんふるうる]] [[Category:アメリカ合衆国生産の競走馬]] [[Category:フランス調教の競走馬]] [[Category:アメリカ合衆国調教の競走馬]] [[Category:フランス供用種牡馬]] [[Category:アイルランド供用種牡馬]] [[Category:ニュージーランド供用種牡馬]]
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栃木県立県北体育館
栃木県立県北体育館(とちぎけんりつ けんほくたいいくかん)は、栃木県大田原市にある、屋内スポーツ施設。メインアリーナ・サブアリーナ・武道場・トレーニング室などで構成される。指定管理者として大田原市が運営する。 アリーナの面積は2,000 m(50×40 m)で、バスケットボール2面、レスリング2面、バレーボール3面、インディアカ6面、バドミントン10面、ビームライフル10台、ソフトテニス2面、空手2面、ハンドボール1面、トランポリン1台、卓球20台、バウンドテニス6面の広さがある。 2021年(令和3年)度の利用実績は86,162人。第77回国民体育大会(いちご一会とちぎ国体・大会)では、バドミントンと綱引き(公開競技)が開催された。 アリーナの面積は770 m(35×22 m)で、バスケットボール1面、バドミントン4面、バレーボール1面、卓球10台、トランポリン1台、綱引き3面の広さがある。2021年(令和3年)度の利用実績は55,566人。 広さは992 m(31.5×31.5 m)で剣道場4面、柔道場4面の広さがある。2021年(令和3年)度の利用実績は18,389人。 エアロビクスエリア、フレックスエリア、ウェイトトレーニングエリア、フリーウェイトエリア、リラクゼーションエリア、体力測定エリア、スキーマスターマルチプログラムの各種コーナーがある。2021年(令和3年)度の利用実績は5,104人。 幼児体育室と研修室があり、2021年(令和3年)度の利用実績は前者が1,016人、後者が23,780人であった。また、大田原市教育委員会スポーツ振興課が事務局を置いている。
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栃木県立県北体育館は、栃木県大田原市にある、屋内スポーツ施設。メインアリーナ・サブアリーナ・武道場・トレーニング室などで構成される。指定管理者として大田原市が運営する。
{{体育館 |名称= 栃木県立県北体育館 |旧名称= |画像= {{画像募集中|cat=大田原市}} |画像説明= |愛称= 県北体育館 |正式名称= 栃木県立県北体育館 |用途= [[体育館]]・[[武道場]] |旧用途= |収容人数= |敷地面積= 30975.65 |建築面積= 9148<ref name="vk">{{cite web|url=https://www.pref.tochigi.lg.jp/b06/zaikatu/documents/20231017141228.pdf|title=施設カルテ 栃木県 県北体育館|date=2023-10-17|publisher=栃木県|accessdate=2023-12-03}}</ref> |延床面積= 9997.53 |階数= 地上2階<ref name="vk"/> |竣工=[[1996年]][[3月20日]]<ref name="vk"/> |所在地郵便番号= 324-0047 |所在地= [[栃木県]][[大田原市]]美原3-2-62 | 緯度度 = 36| 緯度分 = 51| 緯度秒 = 34 | 経度度 = 140| 経度分 = 0| 経度秒 = 5 | 座標右上表示 = Yes }} '''栃木県立県北体育館'''(とちぎけんりつ けんほくたいいくかん)は、[[栃木県]][[大田原市]]にある、屋内[[スポーツ施設]]。メインアリーナ・サブアリーナ・武道場・トレーニング室などで構成される<ref name=":0">{{Cite web |url=https://www.pref.tochigi.lg.jp/c09/education/sports/shisetsu/kenhokutaiikukan.html |title=栃木県╱栃木県県北体育館 |access-date=2023年11月16日 |publisher=栃木県}}</ref>。[[指定管理者]]として大田原市が運営する<ref name="sk">{{cite web|url=https://www.pref.tochigi.lg.jp/b03/pref/gyoukaku/tochigigyoukaku/documents/20230213164232.pdf|title=指定管理者による公の施設の管理運営状況|publisher=栃木県行政改革ICT推進課行政改革担当|date=2023-02-15|accessdate=2023-12-03}}</ref>。 == 施設 == === メインアリーナ === アリーナの面積は2,000 [[平方メートル|m<sup>2</sup>]](50×40 [[メートル|m]])で<ref name="sk"/>、バスケットボール2面、レスリング2面、バレーボール3面、インディアカ6面、バドミントン10面、ビームライフル10台、ソフトテニス2面、空手2面、ハンドボール1面、トランポリン1台、卓球20台、バウンドテニス6面の広さがある<ref name=":0" />。 2021年(令和3年)度の利用実績は86,162人<ref name="sk"/>。[[第77回国民体育大会]](いちご一会とちぎ国体・大会)では、[[バドミントン]]<ref name=":1">{{Cite web |url=https://www.japan-sports.or.jp/kokutai/tabid1385.html |title=第77回大会(令和4年・2022年開催) |access-date=2023年11月16日 |publisher=日本スポーツ協会}}</ref>と[[綱引き]](公開競技)が開催された<ref>{{cite web|url=https://www.shimotsuke.co.jp/articles/-/604072|title=国体公開競技「綱引き」大田原で開幕 宇都宮では100日前イベント|date=2022-06-25|accessdate=2023-12-03}}</ref>。 === サブアリーナ === アリーナの面積は770 m<sup>2</sup>(35×22 m)で<ref name="sk"/>、バスケットボール1面、バドミントン4面、バレーボール1面、卓球10台、トランポリン1台、綱引き3面の広さがある<ref name=":0" />。2021年(令和3年)度の利用実績は55,566人<ref name="sk"/>。 === 武道場 === 広さは992 m<sup>2</sup>(31.5×31.5 m)で<ref name="sk"/>剣道場4面、柔道場4面の広さがある<ref name=":0" />。2021年(令和3年)度の利用実績は18,389人<ref name="sk"/>。 === トレーニング室 === エアロビクスエリア、フレックスエリア、ウェイトトレーニングエリア、フリーウェイトエリア、リラクゼーションエリア、体力測定エリア、スキーマスターマルチプログラムの各種コーナーがある<ref name=":0" />。2021年(令和3年)度の利用実績は5,104人<ref name="sk"/>。 === その他 === 幼児体育室と研修室があり、2021年(令和3年)度の利用実績は前者が1,016人、後者が23,780人であった<ref name="sk"/>。また、大田原市教育委員会スポーツ振興課が事務局を置いている<ref name="vk"/>。 == 大会等の開催 == * [[ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ|Bリーグ]]公式戦<ref>{{Cite web |url=https://www.utsunomiyabrex.com/news/detail/id=21077 |title=【9/20 更新】9/22(金)~24(日) 第99回 天皇杯 2次ラウンド 栃木県大田原開催のお知らせ |access-date=2023年11月16日 |publisher=Bリーグ}}</ref> * 第77回国民体育大会(いちご一会とちぎ国体・大会)<ref name=":1" /> == アクセス == === 電車 === * [[東日本旅客鉄道|JR]][[東北新幹線]]・[[東北本線]]([[宇都宮線]])[[那須塩原駅]]からタクシーで20分 * JR東北本線[[西那須野駅]]または[[野崎駅 (栃木県)|野崎駅]]からタクシーで10分 === バス === * [[大田原市営バス]]「[[東武宇都宮百貨店#大田原店|東武百貨店]]前」下車徒歩12分または「西原小・県北体育館入口」下車徒歩10分 === 車 === * [[東北自動車道]][[矢板インターチェンジ|矢板IC]]から[[国道4号]]・[[国道461号]]を経由して約25分 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!-- === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === --> {{Reflist|2}} == 外部リンク == * [https://www.city.ohtawara.tochigi.jp/docs/2013082768124/ 県北体育館|大田原市] - 大田原市 {{DEFAULTSORT:とちきけんりつけんほくたいいくかん}} [[Category:関東地方の屋内競技施設]] [[Category:関東地方のバスケットボール競技施設]] [[Category:Bリーグ公式戦が開催された競技場]] [[Category:栃木県のスポーツ施設|けんほくたいいくかん]] [[Category:大田原市の建築物]] [[Category:1996年開設のスポーツ施設]] [[Category:1996年竣工の日本の建築物]]
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Octopus vulgaris
Octopus vulgaris(英語: common octopus, フランス語: Pieuvre, Poulpe de roche, スペイン語: pulpo común)は大西洋や地中海に生息するタコの一種である。長い間温帯から熱帯の汎存種と考えられてきたが、隠蔽種の存在が指摘され、現在では Octopus sinensis や Octopus tetricus など複数種が認識され、Octopus vulgaris 種群には6種が含まれると考えられている。 ジョルジュ・キュヴィエが1979年に Tableau Elémentaire de l’Histoire Naturelle des Animaux, 380. 中で記載した。タイプ産地は西部地中海であると推定されている。同時にこの著作において、本種はマダコ属 Octopus Cuvier, 1979 のタイプ種となっている。 最大全長は雌が1.2 m(メートル)、雄が1.3 m。体重は最大で10 kg(キログラム)、普通3 kg 程度。地中海西部では、雄は外套長9.5 cm(センチメートル)で、雌は13.5 cm で成熟する。 中型から大型で、全体的にがっしりとしている。腕は太く、腕ごとにほぼ等長等大である。背側の一対の腕はやや短い。雄の右第3腕は短くなり、先端が非常に小さな匙状の交接腕に変化する。交接腕長に対する小舌の割合は2.5% 以下。1つの半鰓 (demibranch) には9–11枚の鰓弁 (gill lamellae) を持つ。 形態的に酷似するマダコとは、交接腕上の吸盤数がマダコでは119–152個なのに対し、本種では154–192個とやや多いことで識別される。また、通常腕の吸盤数もマダコでは雄で207–273個、雌で223–276個程度と少ないのに対し、本種では雄で322–350個、雌で329–340個と多い。 また、かつて Octopus "vulgaris" type II と言及されていた南北アメリカ大陸の大西洋岸に広く分布する O. americanus は、1つの半鰓にある鰓弁が7–8枚と本種より少なく、本種では両性とももつ基部から15番目および19番目にみられる大きい吸盤を欠き、代わりに O. americanus には雄にのみ基部から7番目と8番目の吸盤が大きくなる。また、生息域も O. vulgaris では100–150 m のやや深いところなのに対し、O. americanus では15–100 m 程度と浅い。 大陸棚の外縁から沿岸部にかけて生息し、海底の岩礁や藻場、底質は岩場や砂質、泥質などの様々な環境に生育する。 非常に運動性が高く、活発に捕食を行う。7 °C 以下では非活動的になる。長く柔軟に動く8本の腕は、触覚と化学受容機能、吸着能力を具えた吸盤列を持ち、腕の神経筋系は精巧な作業をこなす能力と非常に優れた柔軟性とを兼ね備えている。大きく複雑な脳だけでなく、これらの適応的な神経筋の発達や精巧な感覚系を通じた環境との相互作用の働きがタコの複雑な行動を可能にしている。 頭足類は一般的に成長が早く、短命であると考えられており、オウムガイを除き、通常2年未満しか生きないとされていた。しかし最近の研究からは、本種のガベス湾(地中海中央部、チュニジア)の個体群の99%は普通2年の寿命を持つことが分かっており、非常に稀であるが老齢な雄では3年2.5か月と3年5.7か月の個体が知られている。タコの日齢は嘴の顎板(カラストンビ)に形成される、成長線と呼ばれる微細構造により推定される。 大西洋北東部、ガリシア沖における O. vulgaris の雌の成熟と産卵は12月から翌9月まで続き、春にピークがある。地中海のサルデーニャ沖では成熟した雄が一年を通して見られるものの、2月か8月で特に多くなる。未成熟や発達途中の雄は10月から1月に見られ、成熟期を過ぎた雄は8月に見られる。孵化後約1年で成熟し、成熟時の日齢は雌で313±53日、雄で309±65日である。成熟時のサイズは、ガリシア沖では雌で平均 1788 g、雄で平均 903 g で、サルデーニャ沖では、雌で平均 1459.0±917.2 g(グラム)(外套長 148.4±26.9 mm(ミリメートル))、雄で平均 1357.7±937.5 g(外套長 166.0±62.2 mm)という報告がある。 潜在的な産卵数は平均 221,447±116,031個、卵の長径は平均 3.0±0.8 mm、成熟した精莢数は平均 182±88個、長さは平均 48.8±10.6 mm。性比は普通1:1であるが、5月と9月では差が表れる。 本種の雌は何千個もの小さな卵を産み、卵が成長するまで卵塊を保育する。卵を洗浄し、新鮮な海水を送り、保護する。実際、雌の保育なしに孵化させると、菌類やバクテリアなどによる汚染により通常は正常に胚発生が起こらない。 孵化のピークは夏の終わりから秋にかけてであることが示唆されている。孵化したばかりの漂泳性の仔ダコ(paralarva)の分布は海洋循環の影響を受ける。本種のシチリア海峡で産卵する個体群は潮流の縁辺に集中することで、好ましい環境の海底に着底しやすくなっている。 ヨーロッパの本種から、回虫類アニサキス Anisakis simplex の幼生の報告がある。回虫類以外の線形動物も知られ、スペイン北西部の本種の消化腺と腸を取り囲む結合組織鞘からは魚線虫科の幼生が確認されている。 地中海に産する本種の腎嚢からはこれまでコノキエマ属の Conocyema polymorpha、ディキエマ属の Dicyema paradoxum、Dicyema typus、Dicyemennea 属のDicyemennea lameerei といった二胚動物が見つかっている。これは日本近海のマダコにミサキニハイチュウ、トガリニハイチュウ、ヤマトニハイチュウといった異なる種のニハイチュウが見つかっていることと対照的である。 口や腹側の吸盤、咽頭、腎嚢などからは吸虫(扁形動物)の Lecithochirium が報告されている。また、バニュルスからは雌雄のキクロプス型カイアシ類、地中海からはカイアシ類 Pennella varians の幼生が知られる。 かつては南北アメリカ大陸の大西洋岸、地中海からアフリカ大陸沿岸、インド洋のユーラシア大陸沿岸から日本にかけて広く分布すると考えられてきた。しかし、これまで Octopus vulgaris と呼ばれてきたタコは、分子遺伝学的研究によって実際には生物地理学的に異なるいくつかの地域個体群からなり、よく似た形態を持つ種複合体を形成していることが明らかになった。日本近海のマダコは Octopus vulgaris と混同され、この学名で言及されてきたが、現在では別種とされ、マダコには Octopus sinensis d’Orbigny, 1841 の学名が用いられる。 Norman et al. (2014) は O. vulgaris とされてきた種を次のように5型に分けた。 O. vulgaris 種群の分類は分子系統解析に基づき、整理されつつある。COI 遺伝子による分子系統解析に基づく系統関係は以下の通りである。 以下に Gleadall (2016)、 Amor et al. (2017) および Avendaño et al. (2020) に示されている O. vulgaris 種群の種名と分布を示す。 本種は地中海および大西洋の沿岸漁業で最も商業的に重要な軟体動物である。非常に好まれ、商業的漁業だけでなく自給的漁業も支えている。漁法はルアー(餌木)、釣り(hook and line)、蛸壺や罠漁、銛突き、長袋網 (fyke net) や三枚網 (trammel net)、(底曳網(otter trawl)などで、水深20–200 m から漁獲される。特にポルトガルのアルガルヴェ、スペインのアンダルシアやガリシア、イタリアのサルデーニャ、ギリシャのトラキア海(トラキア付近のエーゲ海)では小規模な沿岸漁業により盛んに漁獲される。 ピークである1960年代後半には、世界中で1年あたり100,000 t (トン)以上漁獲されていた。以降落ち着き、1980年頃には20,000–30,000 t が漁獲されている。西アフリカ沖でスペイン船が漁獲した非同定のタコ類の中にも本種が含まれていると考えられ、40,000–50,000 t が漁獲されている。 日本近海のマダコの減少により、ここ30年でモロッコやモーリタニアから大量の本種 O. vulgaris が輸入され、乱獲により個体数の激減を招いた。 日本におけるマダコと同様、ヨーロッパ各地の水族館で多数の飼育例がある。ドイツ・オーバーハウゼンの水族館 Sea Life Oberhausen では、「タコのパウル (Paul der Krake)」と呼ばれる本種 Octopus vulgaris が飼育されており、2010 FIFAワールドカップ の結果の「予言」を行ったことでよく知られている。 本種は雌による卵の保育を行うため保育なしでの孵化率は低いが、実験室環境下で胚発生を正常に行わせることができる、完全にパラメータ制御された人工海水を用いた孵化システムが開発されている。 2010年のドキュメンタリー映画『オクトパスの神秘: 海の賢者は語る』では南アフリカの O. vulgaris が登場する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "Octopus vulgaris(英語: common octopus, フランス語: Pieuvre, Poulpe de roche, スペイン語: pulpo común)は大西洋や地中海に生息するタコの一種である。長い間温帯から熱帯の汎存種と考えられてきたが、隠蔽種の存在が指摘され、現在では Octopus sinensis や Octopus tetricus など複数種が認識され、Octopus vulgaris 種群には6種が含まれると考えられている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ジョルジュ・キュヴィエが1979年に Tableau Elémentaire de l’Histoire Naturelle des Animaux, 380. 中で記載した。タイプ産地は西部地中海であると推定されている。同時にこの著作において、本種はマダコ属 Octopus Cuvier, 1979 のタイプ種となっている。", "title": "記載" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "最大全長は雌が1.2 m(メートル)、雄が1.3 m。体重は最大で10 kg(キログラム)、普通3 kg 程度。地中海西部では、雄は外套長9.5 cm(センチメートル)で、雌は13.5 cm で成熟する。", "title": "形態" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "中型から大型で、全体的にがっしりとしている。腕は太く、腕ごとにほぼ等長等大である。背側の一対の腕はやや短い。雄の右第3腕は短くなり、先端が非常に小さな匙状の交接腕に変化する。交接腕長に対する小舌の割合は2.5% 以下。1つの半鰓 (demibranch) には9–11枚の鰓弁 (gill lamellae) を持つ。", "title": "形態" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "形態的に酷似するマダコとは、交接腕上の吸盤数がマダコでは119–152個なのに対し、本種では154–192個とやや多いことで識別される。また、通常腕の吸盤数もマダコでは雄で207–273個、雌で223–276個程度と少ないのに対し、本種では雄で322–350個、雌で329–340個と多い。", "title": "形態" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また、かつて Octopus \"vulgaris\" type II と言及されていた南北アメリカ大陸の大西洋岸に広く分布する O. americanus は、1つの半鰓にある鰓弁が7–8枚と本種より少なく、本種では両性とももつ基部から15番目および19番目にみられる大きい吸盤を欠き、代わりに O. americanus には雄にのみ基部から7番目と8番目の吸盤が大きくなる。また、生息域も O. vulgaris では100–150 m のやや深いところなのに対し、O. americanus では15–100 m 程度と浅い。", "title": "形態" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "大陸棚の外縁から沿岸部にかけて生息し、海底の岩礁や藻場、底質は岩場や砂質、泥質などの様々な環境に生育する。", "title": "生態" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "非常に運動性が高く、活発に捕食を行う。7 °C 以下では非活動的になる。長く柔軟に動く8本の腕は、触覚と化学受容機能、吸着能力を具えた吸盤列を持ち、腕の神経筋系は精巧な作業をこなす能力と非常に優れた柔軟性とを兼ね備えている。大きく複雑な脳だけでなく、これらの適応的な神経筋の発達や精巧な感覚系を通じた環境との相互作用の働きがタコの複雑な行動を可能にしている。", "title": "生態" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "頭足類は一般的に成長が早く、短命であると考えられており、オウムガイを除き、通常2年未満しか生きないとされていた。しかし最近の研究からは、本種のガベス湾(地中海中央部、チュニジア)の個体群の99%は普通2年の寿命を持つことが分かっており、非常に稀であるが老齢な雄では3年2.5か月と3年5.7か月の個体が知られている。タコの日齢は嘴の顎板(カラストンビ)に形成される、成長線と呼ばれる微細構造により推定される。", "title": "生態" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "大西洋北東部、ガリシア沖における O. vulgaris の雌の成熟と産卵は12月から翌9月まで続き、春にピークがある。地中海のサルデーニャ沖では成熟した雄が一年を通して見られるものの、2月か8月で特に多くなる。未成熟や発達途中の雄は10月から1月に見られ、成熟期を過ぎた雄は8月に見られる。孵化後約1年で成熟し、成熟時の日齢は雌で313±53日、雄で309±65日である。成熟時のサイズは、ガリシア沖では雌で平均 1788 g、雄で平均 903 g で、サルデーニャ沖では、雌で平均 1459.0±917.2 g(グラム)(外套長 148.4±26.9 mm(ミリメートル))、雄で平均 1357.7±937.5 g(外套長 166.0±62.2 mm)という報告がある。", "title": "生態" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "潜在的な産卵数は平均 221,447±116,031個、卵の長径は平均 3.0±0.8 mm、成熟した精莢数は平均 182±88個、長さは平均 48.8±10.6 mm。性比は普通1:1であるが、5月と9月では差が表れる。", "title": "生態" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "本種の雌は何千個もの小さな卵を産み、卵が成長するまで卵塊を保育する。卵を洗浄し、新鮮な海水を送り、保護する。実際、雌の保育なしに孵化させると、菌類やバクテリアなどによる汚染により通常は正常に胚発生が起こらない。", "title": "生態" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "孵化のピークは夏の終わりから秋にかけてであることが示唆されている。孵化したばかりの漂泳性の仔ダコ(paralarva)の分布は海洋循環の影響を受ける。本種のシチリア海峡で産卵する個体群は潮流の縁辺に集中することで、好ましい環境の海底に着底しやすくなっている。", "title": "生態" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ヨーロッパの本種から、回虫類アニサキス Anisakis simplex の幼生の報告がある。回虫類以外の線形動物も知られ、スペイン北西部の本種の消化腺と腸を取り囲む結合組織鞘からは魚線虫科の幼生が確認されている。", "title": "生態" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "地中海に産する本種の腎嚢からはこれまでコノキエマ属の Conocyema polymorpha、ディキエマ属の Dicyema paradoxum、Dicyema typus、Dicyemennea 属のDicyemennea lameerei といった二胚動物が見つかっている。これは日本近海のマダコにミサキニハイチュウ、トガリニハイチュウ、ヤマトニハイチュウといった異なる種のニハイチュウが見つかっていることと対照的である。", "title": "生態" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "口や腹側の吸盤、咽頭、腎嚢などからは吸虫(扁形動物)の Lecithochirium が報告されている。また、バニュルスからは雌雄のキクロプス型カイアシ類、地中海からはカイアシ類 Pennella varians の幼生が知られる。", "title": "生態" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "かつては南北アメリカ大陸の大西洋岸、地中海からアフリカ大陸沿岸、インド洋のユーラシア大陸沿岸から日本にかけて広く分布すると考えられてきた。しかし、これまで Octopus vulgaris と呼ばれてきたタコは、分子遺伝学的研究によって実際には生物地理学的に異なるいくつかの地域個体群からなり、よく似た形態を持つ種複合体を形成していることが明らかになった。日本近海のマダコは Octopus vulgaris と混同され、この学名で言及されてきたが、現在では別種とされ、マダコには Octopus sinensis d’Orbigny, 1841 の学名が用いられる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "Norman et al. 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(2020) に示されている O. vulgaris 種群の種名と分布を示す。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "本種は地中海および大西洋の沿岸漁業で最も商業的に重要な軟体動物である。非常に好まれ、商業的漁業だけでなく自給的漁業も支えている。漁法はルアー(餌木)、釣り(hook and line)、蛸壺や罠漁、銛突き、長袋網 (fyke net) や三枚網 (trammel net)、(底曳網(otter trawl)などで、水深20–200 m から漁獲される。特にポルトガルのアルガルヴェ、スペインのアンダルシアやガリシア、イタリアのサルデーニャ、ギリシャのトラキア海(トラキア付近のエーゲ海)では小規模な沿岸漁業により盛んに漁獲される。", "title": "利用と文化" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ピークである1960年代後半には、世界中で1年あたり100,000 t (トン)以上漁獲されていた。以降落ち着き、1980年頃には20,000–30,000 t が漁獲されている。西アフリカ沖でスペイン船が漁獲した非同定のタコ類の中にも本種が含まれていると考えられ、40,000–50,000 t が漁獲されている。", "title": "利用と文化" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "日本近海のマダコの減少により、ここ30年でモロッコやモーリタニアから大量の本種 O. vulgaris が輸入され、乱獲により個体数の激減を招いた。", "title": "利用と文化" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "日本におけるマダコと同様、ヨーロッパ各地の水族館で多数の飼育例がある。ドイツ・オーバーハウゼンの水族館 Sea Life Oberhausen では、「タコのパウル (Paul der Krake)」と呼ばれる本種 Octopus vulgaris が飼育されており、2010 FIFAワールドカップ の結果の「予言」を行ったことでよく知られている。", "title": "利用と文化" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "本種は雌による卵の保育を行うため保育なしでの孵化率は低いが、実験室環境下で胚発生を正常に行わせることができる、完全にパラメータ制御された人工海水を用いた孵化システムが開発されている。", "title": "利用と文化" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2010年のドキュメンタリー映画『オクトパスの神秘: 海の賢者は語る』では南アフリカの O. vulgaris が登場する。", "title": "利用と文化" } ]
Octopus vulgarisは大西洋や地中海に生息するタコの一種である。長い間温帯から熱帯の汎存種と考えられてきたが、隠蔽種の存在が指摘され、現在では Octopus sinensis や Octopus tetricus など複数種が認識され、Octopus vulgaris 種群には6種が含まれると考えられている。
{{Italic title}} {{生物分類表 |色 = 動物界 |名称={{snamei|Octopus vulgaris}} |status = LC |画像=[[File:Octopus vulgaris2.jpg|300px|{{snamei|Octopus vulgaris}}]] |画像キャプション={{snamei|Octopus vulgaris}} |界=[[動物]]界 {{sname||Animalia}} |門=[[軟体動物]]門 {{sname||Mollusca}} |綱=[[頭足類|頭足綱]] {{sname||Cephalopoda}} |上目=[[八腕形上目]] {{sname||Octopodiformes}} |目=[[タコ目]](八腕目) {{sname||Octopoda}} |亜目=[[マダコ亜目]] {{sname||Incirrina}} |科=[[マダコ科]] {{sname||Octopodidae}} |亜科=[[マダコ亜科]] {{sname||Octopodinae}} |属=[[マダコ属]] {{snamei||Octopus (genus)|Octopus}} |亜属=[[マダコ亜属]] {{lang|la|subg.}} {{snamei||Octopus}} |種='''''{{sname||Octopus vulgaris|O. 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al.''|2014|p=42}}。タイプ産地は西部地中海であると推定されている{{Sfn|Norman ''et al.''|2014|p=42}}。同時にこの著作において、本種は[[マダコ属]] {{Snamei|Octopus}} {{AUY|Cuvier|1979}} の[[タイプ種]]となっている{{Sfn|Norman ''et al.''|2014|p=40}}。 == 形態 == [[File:Octopus vulgaris Merculiano.jpg|thumb|left|240px|{{snamei|Octopus vulgaris}}]] 最大全長は雌が1.2 m{{small|([[メートル]])}}、雄が1.3 m{{Sfn|Roper ''et al.''|1984|pp=211–212}}。体重は最大で10 kg{{small|([[キログラム]])}}、普通3 kg 程度{{Sfn|Roper ''et al.''|1984|pp=211–212}}。地中海西部では、雄は[[外套長]]9.5 cm{{small|([[センチメートル]])}}で、雌は13.5 cm で成熟する{{Sfn|Roper ''et al.''|1984|pp=211–212}}。 中型から大型で、全体的にがっしりとしている{{Sfn|Roper ''et al.''|1984|pp=211–212}}。[[腕 (頭足類)|腕]]は太く、腕ごとにほぼ等長等大である{{Sfn|Roper ''et al.''|1984|pp=211–212}}。背側の一対の腕はやや短い{{Sfn|Roper ''et al.''|1984|pp=211–212}}。雄の右第3腕は短くなり、先端が非常に小さな匙状の[[交接腕]]に変化する{{Sfn|Roper ''et al.''|1984|pp=211–212}}。交接腕長に対する小舌の割合は2.5% 以下{{Sfn|Roper ''et al.''|1984|pp=211–212}}。1つの[[半鰓]] ({{lang|en|demibranch}}) には9–11枚の[[鰓弁]] ({{lang|en|gill lamellae}}) を持つ{{Sfn|Avendaño ''et al.''|2020|pp=909–925}}。 === 類似種との識別 === 形態的に酷似する[[マダコ]]とは、[[交接腕]]上の吸盤数がマダコでは119–152個なのに対し、本種では154–192個とやや多いことで識別される{{Sfn|Gleadall|2016|pp=31–42}}。また、通常腕の吸盤数もマダコでは雄で207–273個、雌で223–276個程度と少ないのに対し、本種では雄で322–350個、雌で329–340個と多い{{Sfn|Gleadall|2016|pp=31–42}}。 また、かつて {{snamei|Octopus "vulgaris"}} type II と言及されていた南北アメリカ大陸の大西洋岸に広く分布する {{snamei|O. americanus}} は、1つの[[半鰓]]にある鰓弁が7–8枚と本種より少なく、本種では両性とももつ基部から15番目および19番目にみられる大きい吸盤を欠き、代わりに {{snamei|O. americanus}} には雄にのみ基部から7番目と8番目の吸盤が大きくなる{{Sfn|Avendaño ''et al.''|2020|pp=909–925}}。また、生息域も {{snamei|O. vulgaris}} では100–150 m のやや深いところなのに対し、{{snamei|O. americanus}} では15–100 m 程度と浅い{{Sfn|Avendaño ''et al.''|2020|pp=909–925}}。 == 生態 == [[File:Octopus Vulgaris.jpg|thumb|300px|砂質の海底に生息する{{snamei|O. vulgaris}}([[アルメリア]])]] [[大陸棚]]の外縁から沿岸部にかけて生息し、海底の[[岩礁]]や[[藻場]]、底質は岩場や砂質、泥質などの様々な環境に生育する{{Sfn|Roper ''et al.''|1984|pp=211–212}}{{Sfn|Belcari ''et al.''|2002|pp=157–166}}。 非常に運動性が高く、活発に捕食を行う{{Sfn|Feinstein ''et al.''|2011|pp=219–229}}。7 ℃ 以下では非活動的になる{{Sfn|Roper ''et al.''|1984|pp=211–212}}。長く柔軟に動く8本の[[腕 (頭足類)|腕]]は、[[触覚]]と[[嗅覚|化学受容]]機能、吸着能力を具えた[[吸盤列]]を持ち、腕の神経筋系は精巧な作業をこなす能力と非常に優れた柔軟性とを兼ね備えている{{Sfn|Feinstein ''et al.''|2011|pp=219–229}}。大きく複雑な脳だけでなく、これらの適応的な神経筋の発達や精巧な感覚系を通じた環境との相互作用の働きがタコの複雑な行動を可能にしている{{Sfn|Feinstein ''et al.''|2011|pp=219–229}}。 頭足類は一般的に成長が早く、短命であると考えられており、[[オウムガイ]]を除き、通常2年未満しか生きないとされていた{{Sfn|Nafkha ''et al.''|2019|pp=243–252}}。しかし最近の研究からは、本種の[[ガベス湾]](地中海中央部、[[チュニジア]])の個体群の99%は普通2年の寿命を持つことが分かっており、非常に稀であるが老齢な雄では3年2.5か月と3年5.7か月の個体が知られている{{Sfn|Nafkha ''et al.''|2019|pp=243–252}}。タコの日齢は嘴の顎板([[カラストンビ]])に形成される、成長線と呼ばれる微細構造により推定される{{Sfn|Cuccu ''et al.''|2013|pp=843–849}}{{Sfn|Hernández-López|Castro-Hernández|2001|pp=679–684}}{{Sfn|Canali ''et al.''|2011|pp=141–149}}。 大西洋北東部、[[ガリシア]]沖における {{snamei|O. vulgaris}} の雌の成熟と産卵は12月から翌9月まで続き、春にピークがある{{Sfn|Otero ''et al.''|2007|pp=122–129}}。地中海のサルデーニャ沖では成熟した雄が一年を通して見られるものの、2月か8月で特に多くなる{{Sfn|Cuccu ''et al.''|2013|pp=843–849}}。未成熟や発達途中の雄は10月から1月に見られ、成熟期を過ぎた雄は8月に見られる{{Sfn|Cuccu ''et al.''|2013|pp=843–849}}。孵化後約1年で成熟し、成熟時の日齢は雌で313±53日、雄で309±65日である{{Sfn|Cuccu ''et al.''|2013|pp=843–849}}。成熟時のサイズは、ガリシア沖では雌で平均 1788 g、雄で平均 903 g で{{Sfn|Otero ''et al.''|2007|pp=122–129}}、サルデーニャ沖では、雌で平均 1459.0±917.2 g{{small|([[グラム]])}}([[外套長]] 148.4±26.9 mm{{small|([[ミリメートル]])}})、雄で平均 1357.7±937.5 g(外套長 166.0±62.2 mm)という報告がある{{Sfn|Cuccu ''et al.''|2013|pp=843–849}}。 潜在的な産卵数は平均 221,447±116,031個、卵の長径は平均 3.0±0.8 mm、成熟した[[精莢]]数は平均 182±88個、長さは平均 48.8±10.6 mm{{Efn|Average±S.D.。S.D.は[[標準偏差]]を表す}}{{Sfn|Otero ''et al.''|2007|pp=122–129}}。[[性比]]は普通1:1であるが、5月と9月では差が表れる{{Sfn|Otero ''et al.''|2007|pp=122–129}}。 本種の雌は何千個もの小さな卵を産み、卵が成長するまで卵塊を保育する{{Sfn|Deryckere ''et al.''|2020|pp=1–18}}。卵を洗浄し、新鮮な海水を送り、保護する{{Sfn|Deryckere ''et al.''|2020|pp=1–18}}。実際、雌の保育なしに孵化させると、菌類やバクテリアなどによる汚染により通常は正常に胚発生が起こらない{{Sfn|Deryckere ''et al.''|2020|pp=1–18}}。 孵化のピークは夏の終わりから秋にかけてであることが示唆されている{{Sfn|Otero ''et al.''|2007|pp=122–129}}。孵化したばかりの[[漂泳性]]の仔ダコ({{lang|en|[[:en:paralarva|paralarva]]}})の分布は[[海洋循環]]の影響を受ける{{Sfn|Garofalo ''et al.''|2010|pp=1363–1371}}。本種の[[シチリア海峡]]で産卵する個体群は潮流の縁辺に集中することで、好ましい環境の海底に着底しやすくなっている{{Sfn|Garofalo ''et al.''|2010|pp=1363–1371}}。 === 寄生虫 === ヨーロッパの本種から、[[回虫]]類[[アニサキス]] {{Snamei||Anisakis simplex}} の幼生の報告がある{{Sfn|Pascual ''et al.''|2019|pp=169–179}}。回虫類以外の[[線形動物]]も知られ、スペイン北西部の本種の消化腺と腸を取り囲む結合組織鞘からは[[魚線虫科]]の幼生が確認されている{{Sfn|Pascual ''et al.''|2019|pp=169–179}}。 地中海に産する本種の[[頭足類の体#排出器官|腎嚢]]からはこれまで[[コノキエマ属]]の {{snamei||Conocyema polymorpha}}、[[ディキエマ属]]の {{snamei||Dicyema paradoxum}}、{{Snamei||Dicyema typus}}、{{snamei||Dicyemennea}} 属の{{snamei||Dicyemennea lameerei}} といった[[二胚動物]]が見つかっている{{Sfn|Furuya|Souidenne|2019|pp=159–168}}。これは日本近海の[[マダコ]]に[[ミサキニハイチュウ]]、[[トガリニハイチュウ]]、[[ヤマトニハイチュウ]]といった異なる種の[[ニハイチュウ]]が見つかっていることと対照的である。 口や腹側の[[吸盤 (頭足類)|吸盤]]、[[咽頭]]、[[腎嚢]]などからは[[吸虫]]([[扁形動物]])の {{snamei||Lecithochirium}} が報告されている{{Sfn|Pascual ''et al.''|2019|pp=169–179}}。また、[[バニュルス=シュル=メール|バニュルス]]からは雌雄の[[キクロプス型]][[カイアシ類]]、地中海からはカイアシ類 {{Snamei||Pennella varians}} の幼生が知られる{{Sfn|Pascual ''et al.''|2019|pp=169–179}}。 == 分類 == かつては南北[[アメリカ大陸]]の大西洋岸、地中海から[[アフリカ大陸]]沿岸、[[インド洋]]の[[ユーラシア大陸]]沿岸から[[日本]]にかけて広く分布すると考えられてきた{{Sfn|Roper ''et al.''|1984|pp=211–212}}。しかし、これまで {{snamei|Octopus vulgaris}} と呼ばれてきたタコは、[[分子遺伝学]]的研究によって実際には[[生物地理学]]的に異なるいくつかの地域個体群からなり、よく似た形態を持つ[[種集群|種複合体]]を形成していることが明らかになった{{Sfn|Norman|Hochberg|2005|pp=127–154}}{{Sfn|Norman ''et al.''|2014|p=41}}{{Sfn|Gleadall|2016|pp=31–42}}{{Sfn|Amor ''et al.''|2015|pp=753–758}}。日本近海の[[マダコ]]は {{snamei|Octopus vulgaris}} と混同され、この学名で言及されてきたが、現在では別種とされ、マダコには {{snamei||Octopus sinensis}} {{AUY|d’Orbigny|1841}} の学名が用いられる{{Sfn|Gleadall|2016|pp=31–42}}。 {{Harvtxt|Norman ''et al.''|2014}} は {{snamei|O. vulgaris}} とされてきた種を次のように5型に分けた。 * {{Snamei|Octopus vulgaris}} {{AU|sensu stricto}} - 地中海、[[大西洋]]中央部と北東部。 * {{Snamei|Octopus "vulgaris"}} type I - 熱帯西部中央大西洋([[メキシコ湾]]から[[カリブ海]]{{Sfn|Amor ''et al.''|2017|pp=275–288}})。[[アルシド・ドルビニ]] (1840) により {{Snamei|Octopus vulgaris}} として報告されたもので、これまでに {{snamei|O. americanus}} {{AUY|Baker in Denys de Montfort|1802}} や {{Snamei|O. bakerii}} {{AUY|d'Orbigny|1826}} と記載されたものと同じである可能性がある{{Sfn|Norman ''et al.''|2014|p=45}}。 * {{Snamei|Octopus "vulgaris"}} type II - 亜熱帯南西部大西洋: [[ブラジル]]。初め[[アルシド・ドルビニ|ドルビニ]] (1840) により {{Snamei|Octopus vulgaris}} として報告され、[[ジョン・エドワード・グレイ|グレイ]] (1849) により {{snamei||O. geryonea}} {{AUY|[[ジョン・エドワード・グレイ|Gray]]|1849}} と記載されたもの{{Sfn|Norman ''et al.''|2014|p=45}}。 * {{Snamei|Octopus "vulgaris"}} type III - 温帯南アフリカと南インド洋。 * {{Snamei|Octopus "vulgaris"}} type IV - 亜熱帯および温帯東アジア。[[アルシド・ドルビニ|ドルビニ]] (1834) により {{Snamei||Octopus sinensis}} {{AUY|d'Orbigny|1841}} として記載され、Appellöf (1886) により {{Snamei|Octopus vulgaris}} として言及された。 {{snamei|O. vulgaris}} 種群の分類は分子系統解析に基づき、整理されつつある。''{{仮リンク|シトクロームcオキシダーゼ・サブユニットI|label=COI|en|Cytochrome c oxidase subunit I}}'' 遺伝子による分子系統解析に基づく系統関係は以下の通りである{{Sfn|Amor ''et al.''|2015|pp=753–758}}{{Sfn|Amor ''et al.''|2017|pp=275–288}}{{Sfn|Ritschard ''et al.''|2019|ps=: e7300}}{{Sfn|Avendaño ''et al.''|2020|pp=909–925}}。 {{clade |1={{clade |1={{Snamei|O. hummelincki}} |2={{clade |label1={{small|{{Snamei|O. mimus}} group}} |1={{clade |1={{Snamei|O. bimaculoides}} |2={{clade |1={{Snamei|O. mimus}} |2={{clade |1={{clade |1={{Snamei|O. maya}} |2={{Snamei|O. taganga}} }} |2={{Snamei|O. insularis}} }} }} }} |2={{clade |1={{Snamei|O. briareus}} |label2={{small|{{Snamei|O. vulgaris}} group}} |2={{clade |1={{Snamei|O. tetricus}} |2={{clade |1={{Sname|''O.'' [[cf.]] ''tetricus''}} |2={{clade |1={{Snamei|O. sinensis}} |2={{clade |1={{Snamei|O. americanus}} |2={{clade |1={{Snamei|O. vulgaris}} {{AU|s.s.}} |2={{Snamei|O. "vulgaris"}} Type III }} }} }} }} }} }} }} }} }} 以下に {{Harvtxt|Gleadall|2016}}、 {{Harvtxt|Amor ''et al.''|2017}} および {{Harvtxt|Avendaño ''et al.''|2020}} に示されている {{snamei|O. vulgaris}} 種群の種名と分布を示す。 * {{Snamei||Octopus mimus}} group ** {{Snamei||Octopus bimaculoides}} {{Small|{{AU|Pickford}} & {{AUY|McConnaughey|1949}}}} - 北[[太平洋]]東部([[アメリカ西海岸]]、[[カリフォルニア湾]]) ** {{Snamei||Octopus insularis}} {{small|{{AU|Leite}} & {{AUY|Haimovici|2008}}}} - [[南大西洋]]島嶼部([[セントヘレナ島]]、[[アセンション島]]、[[マルティン・ヴァス諸島]])、大西洋西部沿岸([[ブラジル]]から[[カンペチェ湾]]の沿岸部、[[フェルナンド・デ・ノローニャ]]、[[小アンティル諸島]]) *** [[シノニム|syn.]] {{snamei||Octopus tayrona}} {{small|{{AU|Guerrero-Kommritz}} & {{AUY|Camelo-Guarin|2016}}}} - カリブ海{{Efn|{{Snamei||Octopus insularis}} に内包される{{Sfn|Ritschard ''et al.''|2019|ps=: e7300}}{{Sfn|Avendaño ''et al.''|2020|pp=909–925}}{{Sfn|Puentes-Sayo ''et al.''|2021|ps=: eyab039}}。}} ** {{Snamei||Octopus maya}} {{small|{{AU|Voss}} & {{AUY|Solís|1966}}}} - [[ユカタン半島]]沿岸 ** {{Snamei||Octopus mimus}} {{Small|{{AUY|Gould|1852}}}} - 南[[太平洋]]東部([[ペルー]]から[[チリ]]北部沿岸) ** {{Snamei||Octopus taganga}} {{small|{{AU|Guerrero-Kommritz}} & {{AUY|Camelo-Guarin|2016}}}} - [[コロンビア]][[タガンガ湾]]([[サンタ・マルタ (コロンビア)|サンタ・マルタ]]) * {{Snamei||Octopus vulgaris}} group ** {{Snamei||Octopus americanus}} {{small|{{AUY|Monfort|1802}}}} - 大西洋の北アメリカ大陸から南アメリカ大陸沿岸部(ブラジル南部{{Sfn|Amor ''et al.''|2017|pp=275–288}}){{Efn|{{Harvtxt|Gleadall|2016}} では {{sname|''O.'' [[aff.]] ''vulgaris''}}、{{Harvtxt|Amor ''et al.''|2017}} では{{Snamei||Octopus vulgaris}} type II と表記されていた。}} ** [[マダコ]] {{Snamei||Octopus sinensis}} {{Small|{{AUY|d'Orbigny|1841}}}} - 日本沿岸([[本州]]以南)、[[朝鮮半島]]から[[台湾]]にかけての[[東シナ海]]、[[ケルマデック諸島]]{{Efn|{{Harvtxt|Norman ''et al.''|2014}} や {{Harvtxt|Amor ''et al.''|2015}} では {{Snamei|O. vulgaris}} Type IV と言及されていた。}} *** [[シノニム|syn.]] {{Snamei||Octopus jollyorum}} {{small|{{AU|A. Reid}} & {{AUY|N. G. Wilson|2015}}}} - [[ケルマデック諸島]]{{Efn|{{Harvtxt|Amor ''et al.''|2017}} により {{Snamei||Octopus sinensis}} の[[ジュニアシノニム]]とみなされている。}} ** {{Snamei||Octopus tetricus}} {{Small|{{AUY|Gould|1852}}}} - [[オーストラリア大陸]]東海岸、[[タスマニア島]]沿岸、[[ニュージーランド]][[北島 (ニュージーランド)|北島]]沿岸 *** [[シノニム|syn.]] {{Snamei||Octopus gibbsi}} {{small|{{AUY|O'Shea|1999}}}} - [[ニュージーランド]][[北島 (ニュージーランド)|北島]]沿岸{{Efn|{{Harvtxt|Norman ''et al.''|2014}} により {{Snamei||Octopus tetricus}} の[[ジュニアシノニム]]とみなされている。}} ** {{sname|''Octopus'' [[cf.]] ''tetricus''}} - オーストラリア大陸西海岸{{Efn|{{Harvtxt|Gleadall|2016}} では {{sname|''O.'' [[aff.]] ''tetricus''}} と表記される。}} ** '''{{Snamei||Octopus vulgaris}}''' {{AU|s.s.}} - [[地中海]]、北大西洋([[イギリス海峡]]から[[セネガル]]沿岸、[[アゾレス諸島]]、[[カナリー諸島]]沿岸) ** {{Snamei|Octopus "vulgaris"}} Type III - 南半球個体群([[アフリカ大陸]]南部[[ナミビア]]から[[マダガスカル]]沿岸、[[トリスタンダクーニャ島]]、[[アムステルダム島]]){{Efn|{{Harvtxt|Gleadall|2016}} では {{Snamei||O. vulgaris}} (south) と言及される。}} <gallery mode=packed> CaliforniaTwoSpotOctopus1.jpg|{{Snamei|O. bimaculoides}} Octopus insularis.jpg|{{Snamei|O. insularis}} Gloomy Octopus-Octopus tetricus.JPG|{{Snamei|O. tetricus}} Octopus sinensis (Osaka Aquarium KAIYUKAN).jpg|{{snamei|O. sinensis}} </gallery> == 利用と文化 == === 食用 === [[File:Festa da Istoria 2011 (6089203513).jpg|thumb|200px|[[スペイン]]で食される[[ポルボ・ア・フェイラ]]。]] 本種は地中海および大西洋の[[沿岸漁業]]で最も商業的に重要な[[軟体動物]]である{{Sfn|Quinteiro ''et al.''|2011|pp=15–20}}。非常に好まれ、商業的漁業だけでなく自給的漁業も支えている{{Sfn|Roper ''et al.''|1984|pp=211–212}}。漁法は[[ルアー]]([[餌木]])、[[釣り]]([[:en:Hook and line|hook and line]]{{Efn|[[延縄]]、[[一本釣り]]、[[手釣り]]など釣り糸と釣り針を使う漁法の総称。}})、[[蛸壺]]や罠漁、[[銛]]突き、[[定置網|長袋網]] ({{lang|en|fyke net}}) や[[刺し網|三枚網]] ({{lang|en|trammel net}})、([[底曳網]]([[:en:otter trawl|otter trawl]])などで、水深20–200 m から漁獲される{{Sfn|Roper ''et al.''|1984|pp=211–212}}{{Sfn|Pita ''et al.''|2021|ps=: 105820}}。特に[[ポルトガル]]の[[アルガルヴェ]]、[[スペイン]]の[[アンダルシア州|アンダルシア]]や[[ガリシア州|ガリシア]]、[[イタリア]]の[[サルデーニャ]]、[[ギリシャ]]の[[トラキア海]]([[トラキア]]付近の[[エーゲ海]])では小規模な沿岸漁業により盛んに漁獲される{{Sfn|Pita ''et al.''|2021|ps=: 105820}}。 ピークである1960年代後半には、世界中で1年あたり100,000 t {{Small|([[トン]])}}以上漁獲されていた{{Sfn|Roper ''et al.''|1984|pp=211–212}}。以降落ち着き、1980年頃には20,000–30,000 t が漁獲されている{{Sfn|Roper ''et al.''|1984|pp=211–212}}。西アフリカ沖でスペイン船が漁獲した非同定のタコ類の中にも本種が含まれていると考えられ、40,000–50,000 t が漁獲されている{{Sfn|Roper ''et al.''|1984|pp=211–212}}。 日本近海のマダコの減少により、ここ30年で[[モロッコ]]や[[モーリタニア]]から大量の本種 {{snamei|O. vulgaris}} が輸入され、乱獲により個体数の激減を招いた{{Sfn|Gleadall|2016|pp=31–42}}。 === 飼育 === [[File:Paul the Octopus 1.jpg|thumb|150px|水族館で飼育される「タコの[[パウル (タコ)|パウル]]」]] 日本におけるマダコと同様、ヨーロッパ各地の水族館で多数の飼育例がある<ref>{{Cite web|url=https://www.visitsealife.com/london/explore/creatures/octopus/|title=Octopus|website=SEA LiFE London Aquarium|accessdate=2023-11-22}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.visitsealife.com/paris/en/whats-inside/our-animals/octopus/|title=Octopus|website=SEA LiFE Paris|accessdate=2023-11-22}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://tonmo.com/threads/octopus-vulgaris-cognitive-expriment-tank-in-austria-europe.81063/|title=Octopus vulgaris cognitive expriment tank in Austria (Europe)|author=Wolfgang_Slany|website=TONMO: The Octopus News Magazine Online|date=2023-09-18|accessdate=2023-11-22}}</ref>。[[ドイツ]]・[[オーバーハウゼン]]の水族館 {{lang|en|Sea Life Oberhausen}} では、「タコの[[パウル (タコ)|パウル]] ({{lang|de|Paul der Krake}})」と呼ばれる本種 {{snamei|Octopus vulgaris}} が飼育されており、[[2010 FIFAワールドカップ]] の結果の「予言」を行ったことでよく知られている{{Sfn|Gleadall|2016|pp=31–42}}。 本種は雌による卵の保育を行うため保育なしでの孵化率は低いが、実験室環境下で[[胚発生]]を正常に行わせることができる、完全にパラメータ制御された[[人工海水]]を用いた[[孵化]]システムが開発されている{{Sfn|Deryckere ''et al.''|2020|pp=1–18}}。 === 作品 === 2010年のドキュメンタリー映画『[[オクトパスの神秘: 海の賢者は語る]]』では[[南アフリカ]]の {{snamei|O. vulgaris}} が登場する。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite journal|last1=Amor |first1=M. |last2=Laptikhovsky |first2=V. |last3=Norman |first3=M. |last4=Strugnell |first4=J. |date=2017 |title=Genetic evidence extends the known distribution of ''Octopus insularis'' to the mid-Atlantic islands Ascension and St Helena |journal=Journal of the Marine Biological Association of the United Kingdom |volume=97|issue=4 |pages=753–758 |doi=10.1017/S0025315415000958|ref={{SfnRef|Amor ''et al.''|2015}} }} * {{Cite journal|last1=Amor |first1=M. |first2=Mark D. |last2=Norman |first3=Alvaro |last3=Roura |first4=Tatiana S. |last4=Leite |first5=Ian G. |last5=Gleadall |first6=Amanda |last6=Reid |first7=Catalina |last7=Perales-Raya |first8=Chung-Cheng |last8=Lu |first9=Colin J. |last9=Silvey |author10=Erica A. G. Vidal, Frederick G. Hochberg, Xiaodong Zheng, Jan M. Strugnell|title=Morphological assessment of the ''Octopus vulgaris'' species complex evaluated in light of molecular-based phylogenetic inferences |journal=Zoologica Scripta |volume=46 |issue=3|pages=275–288|doi=10.1111/zsc.12207|ref={{SfnRef|Amor ''et al.''|2017}} }} * {{Cite journal|last1=Avendaño |first1=O. |lasst2=Roura |first2=Á. |last3=Cedillo-Robles |first3=C.E. |last4=Rodríguez-Canul |first4=R. |last5=Velázquez-Abunader |first5=I. |last6=Guerra |first6=Á |title=''Octopus americanus'': a cryptic species of the ''O. vulgaris'' species complex redescribed from the Caribbean |journal=Aquat. Ecol. |volume=54 |pages=909–925 |date=2020 |doi=10.1007/s10452-020-09778-6|ref={{SfnRef|Avendaño ''et al.''|2020}} }} * {{Cite journal|last1=Belcari |first1=P. |last2=Cuccu |first2=D. |last3=González |first4=M. |last5=Srairi |first5=A |last6=Vidoris |first6=P. |title=Distribution and abundance of ''Octopus vulgaris'' Cuvier, 1797 (Cephalopoda: Octopoda) in the Mediterranean Sea|journal=Scientia Marina |date=2002|volume=66|issue=S2|pages=157–166|doi=10.3989/scimar.2002.66s2157|ref={{SfnRef|Belcari ''et al.''|2002}} }} * {{Cite journal|last1=Canali |first1=Ester|first2=Giovanna |last2=Ponte1 |first3=Paola |last3=Belcari |first4=Francisco |last4=Rocha |first5=Graziano |last5=Fiorito|title=Evaluating age in ''Octopus vulgaris'': estimation, validation and seasonal differences|journal=Mar. Ecol. Prog. Ser.|volume=441|date=2011|pages=141–149|doi=10.3354/meps09399|ref={{SfnRef|Canali ''et al.''|2011|pp=141–149}} }} * {{Cite journal|first1=Danila |last1=Cuccu|first2=Marco |last2=Mereu |first3=Alessandro |last3=Cau |first4=Paola |last4=Pesci|first5=Angelo |last5=Cau|title=Reproductive development versus estimated age and size in a wild Mediterranean population of ''Octopus vulgaris'' (Cephalopoda: Octopodidae)|journal=Journal of the Marine Biological Association of the United Kingdom|date=2013|volume=93 |issue=3|pages=843–849|doi=10.1017/S0025315412000203|ref={{SfnRef|Cuccu ''et al.''|2013}} }} * {{Cite journal|last1=Deryckere |first1=A. |last2=Styfhals |first2=R. |last3=Vidal |first3=E.A.G. |last4=Almansa |first4=E. |last5=Seuntjens |firt5=E.|title=A practical staging atlas to study embryonic development of ''Octopus vulgaris'' under controlled laboratory conditions |journal=BMC Dev. Biol. |volume=20 |number=7 |pages=1–18|date=2020|doi=10.1186/s12861-020-00212-6|ref={{SfnRef|Deryckere ''et al.''|2020}} }} * {{Cite journal|last1=Feinstein |first1=N. |last2=Nesher |first2=N. |last3=Hochner |first3=B. |title=Functional morphology of the neuromuscular system of the ''Octopus vurgaris'' arm |journal=Vie Milieu, Life and Environment |date=2011|volume=61|issue=4|pages=219–229|ref={{SfnRef|Feinstein ''et al.''|2011}} }} * {{cite book|first=Hidetaka|last=Furuya|author-link=古屋秀隆|first2=Dhikra|last2=Souidenne|chapter=11 Dicyemids|editors=Camino Gestal, Santiago Pascual, Ángel Guerra, Graziano Fiorito, Juan M. Vieites|title=Handbook of Pathogens and Diseases in Cephalopods|pages=159–168|publisher=Springer|date=2019|isbn=978-3-030-11329-2|doi=10.1007/978-3-030-11330-8|ref=harv}} * {{Cite journal|last1=Garofalo |first1=Germana |first2=Luca |last2=Ceriola |first3=Michele |last3=Gristina |first4=Fabio |last4=Fiorentino |first5=Roberta |last5=Pace |title=Nurseries, spawning grounds and recruitment of ''Octopus vulgaris'' in the Strait of Sicily, central Mediterranean Sea |journal=ICES Journal of Marine Science |volume=67 |issue=7 |date=2010 |pages=1363–1371|doi=10.1093/icesjms/fsq101|ref={{SfnRef|Garofalo ''et al.''|2010}} }} * {{Cite journal|last=Gleadall |first=Ian |date=2016|title=''Octopus sinensis'' d’Orbigny, 1841 (Cephalopoda: Octopodidae): valid species name for the commercially valuable East Asian common octopus|journal=Species Diversity |volume=21 |pages=31–42|doi=10.12782/sd.21.1.031|ref=harv}} * {{Cite journal|last1=Guerrero-Kommritz |first1=J. |last2=Camelo-Guarin |first2=S. |date=2016 |title=Two new octopod species (Mollusca: cephalopoda) from the southern Caribbean |journal=Mar. Biodivers. |volume=46 |issue=3 |pages=589–602|doi=10.1007/s12526-015-0406-9}} * {{Cite journal|last1=Hernández-López|first1=J.L.|last2=Castro-Hernández|first2=J.J.|title=Age determined from the daily deposition of concentric rings on common octopus (''Octopus vulgaris'') beaks|journal=Fishery Bulletin |volume=99|issue=4|date=2001|pages=679–684|ref=harv }} * {{Cite journal|first1=Basma |last1=Nafkha|first2=Francisco |last2=Rocha|first3=Olfa |last3=Ben Abdallah-Ben Hadj Hamida|first4=Nader |last4=Ben Hadj Hamida|first5=Bachra |last5=Chemmam|first6=Cristina |last6=Velasco|first7=Soufia |last7=Ezzeddine-Najai|first8=Othman |last8=Jarboui|title=How long can ''Octopus vulgaris'' live? An extended life cycle in southern Tunisian coasts from age estimation using stylet analysis|journal=Cah. Biol. Mar. |date=2019 |volume=60|pages=243–252|doi=10.21411/CBM.A.DE35B895|ref={{SfnRef|Nafkha ''et al.''|2019}} }} * {{Cite journal|last1=Norman |first1=M.D. |last2=Hochberg |first2=F.G. |date=2005 |title=The current state of Octopus taxonomy |journal=Phuket Marine Biological Center Research Bulletin |volume=66|pages=127–154|ref=harv}} * {{cite book|last1=Norman |first1=M.D. |last2=Hochberg |first2=F.G. |last3=Finn |first3=J. K. |date=2014b|chapter=Octopods and Vampire Squids|editors=P. Jereb, C. F. E. Roper, M. D. Norman & J. K. Finn|title=Cephalopods of the World. An Annotated and Illustrated Catalogue of Cephalopod Species Known to Date. Volume 3 Octopods and Vampire Squids |pages=33–270|place=Rome |publisher=Food and Agriculture Organization of the United Nations|url=https://www.fao.org/documents/card/en?details=6d398e2d-abf1-57f1-91d5-664b06874ee6|ref={{SfnRef|Norman ''et al.''|2014}} }} * {{Cite journal|girst1=Jaime |last1=Otero |first2=Ángel F. |last2=González |first3=M. Pilar |last3=Sieiro |first4=Ángel |last4=Guerra |title=Reproductive cycle and energy allocation of ''Octopus vulgaris'' in Galician waters, NE Atlantic |journal=Fisheries Research|volume=85|issue= 1–2|date=2007|pages=122–129 |issn= 0165-7836|doi=10.1016/j.fishres.2007.01.007|ref={{SfnRef|Otero ''et al.''|2007}} }} * {{cite book|first1=Santiago|last1=Pascual|first2=Elvira|last2=Abollo|first3=Ivona|last3=Mladineo|first4=Camino|last4=Gestal|chapter=12 Metazoa and Related Diseases|editors=Camino Gestal, Santiago Pascual, Ángel Guerra, Graziano Fiorito, Juan M. Vieites|title=Handbook of Pathogens and Diseases in Cephalopods|pages=169–179|publisher=Springer|date=2019|isbn=978-3-030-11329-2|doi=10.1007/978-3-030-11330-8|ref={{SfnRef|Pascual ''et al.''|2019}} }} * {{Cite journal|last1=Pita |first1=C.|first2=K. |last2=Roumbedakis |first3=T. |last3=Fonseca |first4=F.L. |last4=Matos |first5=J. |last5=Pereira |first6=S. |last6=Villasante |first7=P. |last7=Pita |first8=J.M. |last8=Bellido |author9=Gonzalez, A.F.; García-Tasende, M.; Lefkaditou, E.; Adamidou, A.; Cuccu, D.;Belcari, P.; Moreno, A.; Pierce, G.J.|title=Fisheries for common octopus in Europe: socioeconomic importance and management |journal=Fisheries Research |volume=235 |date=2021 |pages=105820|doi=10.1016/j.fishres.2020.105820 |ref={{SfnRef|Pita ''et al.''|2021}} }} * {{Cite journal|last1=Puentes-Sayo |first1=A. |last2=Torres-Rodríguez |first2=J. |last3=Lecompte |first3=O.|title=Solving the identity of the common shallow-water octopus of the Colombian Caribbean based on the analysis of mitochondrial DNA sequence data|journal=Journal of Molluscan Studies|volume=87|issue=4|date=2021|pages= eyab039|doi=10.1093/mollus/eyab039|ref={{SfnRef|Puentes-Sayo ''et al.''|2021}} }} * {{cite journal |url=http://www.mapress.com/mr/content/v31/2011f/n1p020.pdf |first1=Javier |last1=Quinteiro |first2=Tarik |last2=Baibai |first3=Laila |last3=Oukhattar |first4=Abdelaziz |last4=Soukri |first5=Pablo |last5=Seixas |first6=Manuel |last6=Rey-Méndez |title=Multiple paternity in the common octopus ''Octopus vulgaris'' (Cuvier, 1797), as revealed by microsatellite DNA analysis |journal=Molluscan Research |volume=31 |issue=1 |year=2011 |pages=15–20 |citeseerx=10.1.1.363.8342|ref={{SfnRef|Quinteiro ''et al.''|2011}} }} * {{Cite book|last1=Ritschard |first1=E.A. |last2=Guerrero-Kommritz |first2=J. |last3=Sanchez |first3=J.A. |date=2019 |title=First molecular approach to the octopus fauna from the southern Caribbean |journal=Peer J |volume=7|pages=e7300|ref={{SfnRef|Ritschard ''et al.''|2019}} }} * {{Cite book|last=Roper |first=C.F.E. |first2=M.J. |last2=Sweeney |first3=C.E. |last3=Nauen |date=1984 |title=FAO species catalogue. Vol. 3. Cephalopods of the world. An annotated and illustrated catalogue of species of interest to fisheries |series=FAO Fish. Synop. (125) Vol. 3|publisher=United Nations Development Programme Food and Agreculture Organization of the United Nations |pages=1–277|isbn=9251013829|ref={{SfnRef|Roper ''et al.''|1984}} }} == 関連項目 == * [[マダコ]] * [[ヨーロッパコウイカ]] * [[ヨーロッパヤリイカ]] {{snamei|Loligo vulgaris}} == 外部リンク == * {{Commonscat-inline|Octopus vulgaris}} * {{Wikispecies-inline|Octopus vulgaris}} {{Taxonbar|from=Q651361}} [[Category:タコ]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Octopus_vulgaris
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やまねこバブジーの大冒険
『やまねこバブジーの大冒険』(やまねこバブジーのだいぼうけん、Bubsy in Claws Encounters of the Furred Kind)は、1994年にパック・イン・ビデオより発売されたスーパーファミコン用ソフト。各9,800円(税別)。 現在、すべてのゲームはアタリの知的財産である。
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『やまねこバブジーの大冒険』は、1994年にパック・イン・ビデオより発売されたスーパーファミコン用ソフト。各9,800円(税別)。
{{コンピュータゲーム |Title=やまねこバブジーの大冒険 |Genre = [[アクションゲーム|アクション]] |Plat = [[スーパーファミコン]]<br />{{Collapsible list |title = 対応機種一覧 |1 = [[メガドライブ|SEGA Genesis]]<br />[[Windows]]}} |Dev = [[w:Accolade (company)|Accolade]]、Solid Software、ポッポ |Pub = {{vgrelease new|JP|[[パック・イン・ビデオ]]|NA|[[w:Accolade (company)|Accolade]]}} |Play = 1人 |Media = 16[[メガビット]][[ロムカセット]]<ref>{{Cite journal |和書 |author = |authorlink = |title = スーパーファミコンソフトオールカタログ 1994年 |date = 2019-9-28 |publisher = [[ジーウォーク]] |journal = スーパーファミコン パーフェクトカタログ |volume = |number = |isbn = 9784862979131 |page = 124 |url = |ref = harv}}</ref> |Date = {{vgrelease new|JP|[[1994年]][[6月17日]]|NA|1993年5月|EU|1993年10月28日}} |Lang = 日本語 | etc = 型式: SHVC-UY }} 『'''やまねこバブジーの大冒険'''』(やまねこバブジーのだいぼうけん、''Bubsy in Claws Encounters of the Furred Kind'')は、[[1994年]]に[[パック・イン・ビデオ]]より発売された[[スーパーファミコン]]用ソフト。各9,800円(税別)。 == 移植版 == {| class="wikitable" style="font-size:small" ! No. ! タイトル ! 発売日 ! 対応機種 ! 開発元 ! 発売元 ! メディア ! 型式 ! 備考 |- | style="text-align:right" |1 ! Bubsy in Claws Encounters of the Furred Kind | {{vgrelease new|NA|1993年7月|EU|1993年8月}} | [[メガドライブ|SEGA Genesis]] | Al Baker & Associates | [[w:Accolade (company)|Accolade]] | [[ロムカセット]] | T-119026 | |- | style="text-align:right" |2 ! Super Bubsy | {{vgrelease new|NA|1995年}} | [[Windows]] | [[ATI Technologies]] | [[エレクトロニック・アーツ]] | [[CD-ROM]] | ALE08801309IB | |- | style="text-align:right" |3 ! Bubsy Two-Fur | {{vgrelease new|INT|2015年12月17日}} | [[Windows]] | [[w:Tommo|Retroism]] | [[アタリ (企業)|Atari]] | ダウンロード([[Steam]]) | 426630 | SNES版の移植 |- |} == 評価 == {{コンピュータゲームレビュー |rev1 = [[ファミ通]] |rev1Score = 22/40点 }} *ゲーム誌『[[ファミ通|Weekly ファミコン通信]]』の「[[クロスレビュー]]」では合計22点(満40点)<ref name="Fam">Weekly ファミコン通信 1994年5月8日刊号</ref> == シリーズ作品 == 現在、すべてのゲームは[[アタリ (企業)|アタリ]]の知的財産である。 *[[w:Bubsy 2|Bubsy II]] - シリーズの2弾タイトル。1994年にスーパーファミコン、メガドライブ、[[ゲームボーイ]]で発売。日本未発売。 *[[w:Bubsy in Fractured Furry Tales|Bubsy in Fractured Furry Tales]] - シリーズの[[派生作品|関連タイトル]]。1994年に[[Atari Jaguar]]で発売。日本未発売。 *[[w:Bubsy 3D|Bubsy 3D]] - シリーズの3弾タイトル。1996年に[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]で発売。日本では[[ココナッツジャパンエンターテイメント|ココナッツジャパン]]より発売が予定されていたが中止となった。<ref>https://tcrf.net/Bubsy_3D</ref> [[セガサターン]]版も発表されたが、こちらも中止となった。 *Bubsy Two-Fur - シリーズのオムニバス。2015年に[[Windows]]で発売。Bubsy in Claws Encounters of the Furred Kind(北米版)とBubsy IIがを含む。 *[[w:Bubsy: The Woolies Strike Back|Bubsy: The Woolies Strike Back]] - シリーズの4弾タイトル。2017年に[[PlayStation 4]]と[[Windows]]で発売。PS4版の日本未発売。 *[[w:Bubsy: Paws on Fire!|Bubsy: Paws on Fire!]] - シリーズの5弾タイトル。2019年に[[PlayStation 4]]、[[Windows]]と[[Nintendo Switch]]で発売。PS4とSwitch版の日本未発売。 == 出典 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://www.marv.jp/titles/cs/108/ やまねこバブジーの大冒険 マーベラス公式サイト] {{Video-game-stub}} {{DEFAULTSORT:やこうちゆう けえむ}} [[Category:スーパーファミコン用ソフト]] [[Category:メガドライブ用ソフト]] [[Category:Windows用ゲームソフト]] [[Category:1994年のコンピュータゲーム]] [[Category:アメリカで開発されたコンピュータゲーム]]
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TOMOKO IDA
TOMOKO IDA(トモコ イダ)は日本・アメリカ・韓国で活動している女性音楽プロデューサー・トラックメイカー・作詞家・作曲家・編曲家である。 ソニー・ミュージックパブリッシング所属。 東京都出身。 幼少期にヒップホップカルチャーに興味を持ちDJ・トラックメイカーとして活動。2008年〜2009年には渡米しニューヨークで活動した。 2016年より音楽プロデューサーとして本格的に活動。 2020年よりTSUGUMI(SOULHEAD)との共作でSixTONESへの楽曲提供を行っており、9thシングル「ABARERO」で初めてタイトル曲を手掛けた。 2023年にTainyのアルバム『DATA』の収録曲「obstáculo」を共同プロデュース、同アルバムはU.S. Billboard 200で初登場11位を記録している。
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TOMOKO IDAは日本・アメリカ・韓国で活動している女性音楽プロデューサー・トラックメイカー・作詞家・作曲家・編曲家である。 ソニー・ミュージックパブリッシング所属。
{{Infobox Musician | 名前 = {{Ruby|TOMOKO IDA|トモコ イダ}} | 背景色 = solo_singer | 出生名 = | 出生 = | 出身地 = {{JPN}}・[[東京都]] | 死没 = | 学歴 = | ジャンル = [[J-POP]] | 職業 = [[音楽プロデューサー]]<br>[[トラックメイカー]] | 担当楽器 = | 活動期間 = | レーベル = | 事務所 = [[ソニー・ミュージックパブリッシング (日本)|ソニー・ミュージックパブリッシング]] | 共同作業者 = | 公式サイト = [https://www.tomokoida.com/] }} '''TOMOKO IDA'''(トモコ イダ)は日本・アメリカ・韓国で活動している女性音楽プロデューサー・トラックメイカー・作詞家・作曲家・編曲家である。 [[ソニー・ミュージックパブリッシング (日本)|ソニー・ミュージックパブリッシング]]所属。 == 概要 == [[東京都]]出身。 幼少期にヒップホップカルチャーに興味を持ちDJ・トラックメイカーとして活動。2008年〜2009年には渡米しニューヨークで活動した。 2016年より音楽プロデューサーとして本格的に活動。 2020年よりTSUGUMI([[SOULHEAD]])との共作で[[SixTONES]]への楽曲提供を行っており、9thシングル「[[ABARERO]]」で初めてタイトル曲を手掛けた。 2023年にTainyのアルバム『DATA』の収録曲「obstáculo」を共同プロデュース、同アルバムはU.S. Billboard 200で初登場11位を記録している<ref>[https://www.tomokoida.com/about TOMOKO IDA | Official Website | About]</ref>。 == ディスコグラフィー == === ソロ作品 === {|class="wikitable" style=font-size:small |- !&nbsp; !発売日 !タイトル |- |EP |[[2018年]][[6月8日]] | '''Shikkui''' |- |シングル |[[2019年]][[10月4日]] | '''JUMBLE''' |- |シングル |[[2020年]][[11月6日]] | '''Intel''' |- |シングル |[[2021年]][[12月10日]] | '''shitazu''' |- |EP |[[2022年]][[11月4日]] | '''80YA''' |- |シングル |[[2023年]][[11月8日]] | '''TOKYOITE'''<ref>[https://music.spaceshower.jp/news/250908/ AI、三浦大知などを手がける音楽プロデューサーTOMOKO IDAのインストシングル「TOKYOITE」が本日リリース! (2023.11.08) | SPACE SHOWER MUSIC]</ref> |- |} === 参加作品 === {|class="wikitable" style=font-size:small |- !発売日 !タイトル !収録曲 !備考 |- |2017年3月8日 | [[ちゃんみな]]『未成年』 |Wonderland |作曲(ちゃんみなとの共作) |- |2017年4月19日 | [[THE RAMPAGE from EXILE TRIBE]]『[[FRONTIERS (THE RAMPAGE from EXILE TRIBEの曲)|FRONTIERS]]』 |13 SAVAGE |作曲(インスト曲) |- |2017年7月19日 | THE RAMPAGE from EXILE TRIBE『[[Dirty Disco]]』 |RAMPAGE ALL DAY |作曲(インスト曲) |- |2018年2月28日 | [[GENERATIONS from EXILE TRIBE]]『[[GENERATIONS LIVE TOUR 2017 MAD CYCLONE]]』 |CYCLONE ALLEY |作曲(インスト曲) |- |2018年4月27日 | [[CRAZYBOY]]『[[NEOTOKYO FOREVER]]』 |LOCO (feat.THE BACKCOURT) |作曲 |- |2019年6月12日 | [[ASOBOiSM]]『YOU』 |YOU |編曲 |- |2020年7月22日 | [[SixTONES]]『[[NAVIGATOR (SixTONESの曲)|NAVIGATOR]]』 |love u… (通常盤のみ) |作詞・作曲・編曲([[SOULHEAD|TSUGUMI]]との共作) |- |2020年11月11日 | SixTONES『[[NEW ERA (SixTONESの曲)|NEW ERA]]』 |So Addicted (期間限定盤のみ) |作詞・作曲・編曲(TSUGUMIとの共作) |- |2020年12月16日 | [[EXILE]]『[[SUNSHINE (EXILEの曲)|SUNSHINE]]』 |PERFECT PERFORMER'S ANTHEM |作曲 |- |2021年1月6日 | SixTONES『[[1ST]]』 |Coffee & Cream |作詞・作曲・編曲(TSUGUMIとの共作) |- |2021年2月17日 | SixTONES『[[僕が僕じゃないみたいだ]]』 |Bella (初回盤Bのみ) |作詞・作曲・編曲(TSUGUMIとの共作) |- |2021年8月11日 | SixTONES『[[マスカラ (SixTONESの曲)|マスカラ]]』 |Lost City (通常盤のみ) |作曲(Chris Meyerとの共作)・編曲 |- |2021年8月18日 | [[FANTASTICS from EXILE TRIBE]]『[[FANTASTIC VOYAGE]]』 |DiVE |編曲([[市瀬るぽ]]との共作) |- |2022年1月25日 | THE RAMPAGE from EXILE TRIBE『[[RAY OF LIGHT (THE RAMPAGE from EXILE TRIBEのアルバム)|RAY OF LIGHT]]』 |PERFORMER'S D.N.A. |作曲・編曲(インスト曲) |- |2022年2月25日 | [[idom]]『i's』 |Awake<br>Moment<br>Freedom |作曲(idomとの共作) |- |2022年3月16日 | [[SWAY (ラッパー)|SWAY]]『Stay Wild And Young』 |ON FIRE |作曲(TOMAとの共作) |- |2022年5月25日 | [[竹内唯人]]『OO』 |I know I Can |作曲(TSUGUMIとの共作) |- |2022年9月7日 | idom『GLOW』 |Savior |作曲(idomとの共作)・編曲 |- |2022年12月14日 | [[krage]]『my blue』 |Xu |作曲(krageとの共作)・編曲 |- |2022年12月21日 | [[KARA]]『[[MOVE AGAIN]]』 |Queens |作詞・作曲・編曲([[山本加津彦]]・Lotte Morkvedとの共作) |- |2023年4月12日 | SixTONES『[[ABARERO]]』 |ABARERO |作詞・作曲(TSUGUMIとの共作)・編曲 |- |2023年8月23日 | [[AI (歌手)|AI]]『RESPECT ALL』 |リスペクト<br>Life Goes On |作曲(Bob Jamesとの共作)・プロデュース<br>作曲(AIとの共作)・プロデュース[映画『[[春に散る]]』主題歌] |- |2023年9月6日 | [[三浦大知]]『[[能動]]』 |能動<ref>[https://realsound.jp/2023/11/post-1471632.html 三浦大知×TOMOKO IDA、攻めの持ち味活かして初共作 「能動」の挑戦的な制作を振り返る - Real Sound|リアルサウンド]</ref> |作曲(三浦大知・TSUGUMIとの共作) |- |2023年10月6日 | idom『Who?』 |ミニマリスト / idom&[[Kvi Baba]]<br>Knock Knock |作曲(idom・Kvi Babaとの共作)<br>作曲(idomとの共作) |- |2023年10月20日 | [[Anonymouz]]『シガレット』 |JAM |編曲 |- |} == 出典 == <references /> == 外部リンク == * {{Official|www.tomokoida.com/|TOMOKO IDA | Official Website}} * [https://tomokoida.tumblr.com/ tomokoida.tumblr.com] * {{Twitter|djtomoko}} * {{Instagram|tomokoida}} {{デフォルトソート:いた ともこ}} [[Category:日本の音楽プロデューサー]] [[Category:日本のトラックメイカー]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:生年未記載]] [[category:存命人物]]
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2023年のラリージャパン
2023年のラリージャパンは、2023年の世界ラリー選手権 (WRC) 第13戦として、2023年11月16日から11月19日にかけて、日本の愛知県・岐阜県で行われた。 正式名称は「FIA世界ラリー選手権 フォーラムエイト・ラリージャパン2023」(FIA World Rally Championship FORUM8 Rally Japan 2023)。 WRCの日本ラウンドとしては通算8回目、本州中部地方での開催は2年連続2回目となる。前年に続きWRCシーズン最終戦として行われる。 今回は新たな試みとして、ラリーの拠点となる豊田スタジアムの競技場内で2台並走方式のスーパースペシャルステージ(SSS)が行われる。ラリージャパンにおけるスタジアムSSSは、札幌ドームで行った2008・2010年以来となる。10月からピッチの芝生を剥がしてアスファルトを舗装し、バリアやジャンプ台を設営する工事が行われた。なお、当競技場をホームスタジアムとする名古屋グランパスエイトは、J1リーグ終盤のホームゲーム2戦を岐阜メモリアルセンター長良川競技場で代替開催することになった。 前年と同じく愛知県(豊田市・岡崎市・新城市・設楽町)と岐阜県(恵那市・中津川市)の6市町で開催される(詳細地図)。スペシャルステージ (SS) の設定もおおむね同じだが、前述の豊田スタジアムSSSがDAY1〜3に3日続けて開催され、DAY3の岡崎市SSSの開催場所が変更されるなどの違いがある。SS本数は計22本。4日間の総走行距離は958.95km、うちSS走行距離は304.12km(31.7%)、移動区間(リエゾン)は654.83kmである。 ラリージャパン公式サイトの観戦ガイドおよび掲示板Itinerary v2.0より。丸括弧内は観戦ポイント。 昨年に引き続き、愛知・岐阜を舞台に開催される今大会では、豊田スタジアムでのデュアルSSで行われるSSS3本、岡崎中央総合公園のSSS2本が新たに加わった。 DAY1は、ヌービルがラリーリーダ―となり、2位にラッピがつけヒョンデ勢が好調な滑り出しを見せる。 DAY2は、悪天候となり本降りの雨の中始まった。最初のSS2では、勝田がクラッシュ。勝田はマシンに損傷を負いながらコースに復帰するも、同一コーナーでソルド、フルモーは崖下に転落。車両回収のため赤旗中断となった。SS2、3とエバンスが連続でトップタイムをマークしラップリーダに浮上。SS4は悪天候の影響で、キャンセルとなった。午後のループでは、SS2でクラッシュを喫した勝田が、車両修復を間に合わせ、SS5~7を3連続トップタイムをマーク。昨年のラリージャパンの覇者ヌービルは、SS6スタート直後にクラッシュを喫しデイリタイヤとなりトップ争いから脱落し、トヨタの1-2-3体制が築かれた。SS8ではラッピが最速タイムをマークした。SS2でトップに立ったエバンスがリーダーを守り、SS7で2位オジェがスピンし、マシン修復で時間を要しペナルティを受けたため1分49秒の差をつけた。3位に約2分差でロバンパラ、4位以下はミケルセン(WRC2)、ミュンスター(フォード)、グリアジン(WRC2)、ラッピ、タナク、勝田と続いている。 DAY3最初のSS9では、スタートが開始されるもゼロカーが止まっていた影響で赤旗中断した。4台に補正タイムが与えられるも、約20分後に再開された。SS9はオジェがトップタイムをマークし、勝田にはノーショナルタイムとして同タイムが与えられた。SS10は、勝田がSS9に続きトップタイム、岡崎市SSSは2連続でエバンスがトップタイムをマークした。午後のループでは、勝田が3連続でトップタイムをマークした。最後の豊田スタジアムSSSとなるSS16は、前日に引き続きラッピが最速タイムを記録。前日に引き続きエバンスがラリーリーダーを守り、1分15秒差でオジェ、1分40秒差でロバンペラと1-2-3体制。4位ラッピ(ヒョンデ)とは3分差、5位タナク(フォード)とは3分35秒差、6位勝田は3分50秒差と大きな差がつく展開となった。
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2023年のラリージャパンは、2023年の世界ラリー選手権 (WRC) 第13戦として、2023年11月16日から11月19日にかけて、日本の愛知県・岐阜県で行われた。 正式名称は「FIA世界ラリー選手権 フォーラムエイト・ラリージャパン2023」(FIA World Rally Championship FORUM8 Rally Japan 2023)。
'''2023年のラリージャパン'''は、[[2023年の世界ラリー選手権]] (WRC) 第13戦として、[[2023年]][[11月16日]]から[[11月19日]]にかけて、[[日本]]の[[愛知県]]・[[岐阜県]]で行われた。 正式名称は「FIA世界ラリー選手権 [[フォーラムエイト]]・[[ラリージャパン]]2023」({{lang|en|FIA World Rally Championship FORUM8 Rally Japan 2023}})。 == 概要 == WRCの日本ラウンドとしては通算8回目、本州中部地方での開催は2年連続2回目となる。前年に続きWRCシーズン最終戦として行われる。 今回は新たな試みとして、ラリーの拠点となる[[豊田スタジアム]]の競技場内で2台並走方式のスーパースペシャルステージ(SSS)が行われる。ラリージャパンにおけるスタジアムSSSは、[[札幌ドーム]]で行った2008・2010年以来となる。10月からピッチの芝生を剥がしてアスファルトを舗装し、バリアやジャンプ台を設営する工事が行われた<ref>{{Cite news |title=スタジアムにラリーコース 豊田 WRC16日開幕 |url=https://www.yomiuri.co.jp/local/aichi/news/20231106-OYTNT50164/ |newspaper=読売新聞online |date=2023-11-06 |accessdate=2023-11-15}}</ref><ref>{{youtube|YkZTrsg6iyc|Toyota Stadium SSS time lapse}} - フォーラムエイト・ラリージャパン</ref>。なお、当競技場をホームスタジアムとする[[名古屋グランパスエイト]]は、[[2023年のJ1リーグ|J1リーグ]]終盤のホームゲーム2戦を[[岐阜メモリアルセンター長良川競技場]]で代替開催することになった<ref>{{Cite web |title=第31節 サガン鳥栖戦、第34節 柏レイソル戦における試合会場の決定について |url=https://nagoya-grampus.jp/news/pressrelease/2023/030331-34.php |website=名古屋グランパスエイト |date=2023-03-03 |accessdate=2023-11-15}}</ref>。 == エントリーリスト == *最高峰クラスのラリー1はトヨタ4台、ヒョンデ3台、Mスポーツ(フォード)2台の9台が参加する。Mスポーツはレギュラーの[[ピエール=ルイ・ルーベ]]に替えて[[アドリアン・フルモー]]を起用した<ref>{{Cite web |和書|title=Mスポーツ・フォード、WRCジャパンのノミネートドライバーをピエール‐ルイ・ルーベからアドリアン・フルモーに変更 |url=https://www.rallyplus.net/99861 |website= |date=2023-10-21 |accessdate=2023-11-15}}</ref>。 *日本の出場者の中では、[[1998年長野オリンピック]][[スピードスケート]]男子500mで金メダルを獲得した[[清水宏保]]がラリードライバーとして初参戦する<ref>{{Cite web |title=スケート金メダリスト、清水宏保選手が公道最速WRC挑戦。世界ラリー選手権(WRCラリージャパン)11月16日~19日開催 |url=https://www.caranddriver.co.jp/motorsports/60236/ |website=CAR and DRIVER ONLINE |date=2023-11-04 |accessdate=2023-11-15}}</ref>。 {| class="wikitable" style="font-size:70%;" |- ! No. ! エントラント ! ドライバー<br/>コドライバー ! マシン ! クラス<br/>グループ ! 選手権 |- ! 17 | rowspan=4 | {{flagicon|JPN}} [[トヨタ・ガズー・レーシング・ヨーロッパ|トヨタ・ガズー・レーシングWRT]] | {{flagicon|FRA}} [[セバスチャン・オジェ]]<br />{{flagicon|FRA}} [[バンサン・ランデ]] | rowspan=4 | [[トヨタ・GRヤリス ラリー1]] | RC1<br />ラリー1 | {{Tooltip|M|マニュファクチャラーズ選手権}} |- ! 33 | {{flagicon|GBR}} [[エルフィン・エバンス]]<br />{{flagicon|GBR}} [[スコット・マーティン]] | RC1<br />ラリー1 | {{Tooltip|M|マニュファクチャラーズ選手権}} |- ! 69 | {{flagicon|FIN}} [[カッレ・ロバンペラ]]<br />{{flagicon|FIN}} [[ヨンネ・ハルットゥネン]] | RC1<br />ラリー1 | {{Tooltip|M|マニュファクチャラーズ選手権}} |- ! 18 | {{flagicon|JPN}} [[勝田貴元]]<br />{{flagicon|IRL}} [[アーロン・ジョンストン]] | RC1<br />ラリー1 | |- ! 4 | rowspan=3 | {{flagicon|KOR}} [[現代自動車|ヒョンデ]]・[[シェル (企業)|シェル]]・モビスWRT | {{flagicon|FIN}} [[エサペッカ・ラッピ]]<br />{{flagicon|FIN}} [[ヤンネ・フェルム]] | rowspan=3 | [[ヒョンデ・i20 N ラリー1]] | RC1<br />ラリー1 | {{Tooltip|M|マニュファクチャラーズ選手権}} |- ! 6 | {{flagicon|ESP}} [[ダニ・ソルド]]<br />{{flagicon|ESP}} [[カンディード・カレラ]] | RC1<br />ラリー1 | {{Tooltip|M|マニュファクチャラーズ選手権}} |- ! 11 | {{flagicon|BEL}} [[ティエリー・ヌービル]]<br />{{flagicon|BEL}} [[マルティン・ウィダグ]] | RC1<br />ラリー1 | {{Tooltip|M|マニュファクチャラーズ選手権}} |- ! 8 | rowspan=2 | {{flagicon|GBR}} [[Mスポーツ]]・[[フォード・モーター|フォード]]WRT | {{flagicon|EST}} [[オィット・タナック]]<br />{{flagicon|EST}} [[マルティン・ヤルヴェオヤ]] | rowspan=2 | [[フォード・プーマ ラリー1]] | RC1<br />ラリー1 | {{Tooltip|M|マニュファクチャラーズ選手権}} |- ! 16 | {{flagicon|FRA}} [[アドリアン・フルモー]]<br />{{flagicon|FRA}} [[アレクサンドル・コリア]] | RC1<br />ラリー1 | {{Tooltip|M|マニュファクチャラーズ選手権}} |- ! 20 | rowspan=2 | {{flagicon|GER}} トクスポーツWRT3 | {{flagicon|NOR}} [[アンドレアス・ミケルセン]]<br />{{flagicon|NOR}} [[トルステン・エリクセン]] | rowspan=3 | [[シュコダ・ファビア]]RS ラリー2 | RC2<br />ラリー2 | WRC2({{Tooltip|T|チームズ}})/{{Tooltip|D|ドライバーズ}} |- ! 21 | {{Tooltip|ANA|Authorised Neutral Athletes(公認中立選手)}} [[ニコライ・グリヤジン]]<br />{{Tooltip|ANA|Authorised Neutral Athletes(公認中立選手)}} [[コンスタンティン・アレクサンドロフ]] | RC2<br />ラリー2 | WRC2({{Tooltip|T|チームズ}})/{{Tooltip|DC|}}/{{Tooltip|CC|}}) |- ! 22 | {{flagicon|POL}} カエタン・カエタノビッチ | {{flagicon|POL}} [[カエタン・カエタノビッチ]]<br />{{flagicon|POL}} [[マチェイ・スチェパニアク]] | RC2<br />ラリー2 | WRC2({{Tooltip|DC|}}/{{Tooltip|CC|}}) |- ! 23 | {{flagicon|FIN}} ヘイキ・コバライネン | {{flagicon|FIN}} [[ヘイキ・コバライネン]]<br />{{flagicon|JPN}} [[北川紗衣]] | シュコダ・ファビア ラリー2 | RC2<br />ラリー2 | WRC2({{Tooltip|DC|}}/{{Tooltip|CC|}}) |- ! 24 | {{flagicon|GBR}} Mスポーツ・フォードWRT | {{flagicon|LUX}} [[グレゴワール・ムンスター|グレゴワール・ミュンステール]]<br />{{flagicon|BEL}} [[ルイ・ルーカ]] | [[フォード・フィエスタ]] ラリー2 | RC2<br />ラリー2 | |- ! 25 | {{flagicon|POL}} Daniel Chwist | {{flagicon|POL}} Daniel Chwist<br />{{flagicon|POL}} Kamil Heller | シュコダ・ファビア ラリー2 Evo | RC2<br />ラリー2 | WRC2({{Tooltip|DC|}}/{{Tooltip|CC|}}) |- ! 26 | {{flagicon|JPN}} 福永修 | {{flagicon|JPN}} [[福永修]]<br />{{flagicon|JPN}} [[齊田美早子]] | シュコダ・ファビア ラリー2 Evo | RC2<br />ラリー2 | WRC2({{Tooltip|DCM|}}/{{Tooltip|CC|}}) |- ! 28 | {{flagicon|IRL}} エイモン・ボランド | {{flagicon|IRL}} [[エイモン・ボランド]]<br />{{flagicon|IRL}} [[マイケル・ジョゼフ・モリシー|MJ]] | [[シトロエン・C3]] ラリー2 | RC2<br />ラリー2 | WRC2({{Tooltip|DCM|}}/{{Tooltip|CCM|}}) |- ! 29 | {{flagicon|ESP}} Miguel DÍAZ ABOIT | {{flagicon|ESP}} Miguel Diaz Aboit<br />{{flagicon|ESP}} Rodrigo Sanjuan de Eusebio | シュコダ・ファビアRS ラリー2 | RC2<br />ラリー2 | WRC2({{Tooltip|DCM|}}/{{Tooltip|CC|}}) |- ! 30 | {{flagicon|JPN}} 今井聡 | {{flagicon|JPN}} [[今井聡 (ラリードライバー)|今井聡]]<br />{{flagicon|NZL}} [[ジェイソン・ファーマー]] | シトロエン・C3 ラリー2 | RC2<br />ラリー2 | WRC2({{Tooltip|DC|}}/{{Tooltip|CC|}}) |- ! 31 | {{flagicon|CAN}} Jason Bailey | {{flagicon|CAN}} Jason Bailey<br />{{flagicon|CAN}} Shayne Peterson | フォード・フィエスタ ラリー3 | RC3<br />ラリー3 | WRC3({{Tooltip|DM|}}) |- ! 32 | {{flagicon|JPN}} [[GR (トヨタ自動車)|トヨタ・ガズー・レーシング]] WRJ | {{flagicon|JPN}} [[勝田範彦]]<br />{{flagicon|JPN}} [[木村裕介]] | [[トヨタ・GRヤリス]] | NAT<br />JRCar1 | |- ! 34 | {{flagicon|JPN}} [[SUBARU|スバル]]・チーム・アライ | {{flagicon|JPN}} [[新井敏弘]]<br />{{flagicon|JPN}} [[松本優一]] | [[スバル・WRX]] S4 | NAT<br />JRCar1 | |- ! 35 | {{flagicon|JPN}} アヘッド・ジャパン・レーシングチーム | {{flagicon|JPN}} [[新井大輝]]<br />{{flagicon|JPN}} [[立久井大輝]] | [[プジョー・208]] ラリー4 | RC4<br />ラリー4 | |- ! 36 | {{flagicon|JPN}} トヨタ・ガズー・レーシング WRJ | {{flagicon|JPN}} [[眞貝知志]]<br />{{flagicon|JPN}} [[安藤裕一]] | トヨタ・GRヤリス | NAT<br />JRCar1 | |- ! 37 | {{flagicon|JPN}} Team BRIDE | {{flagicon|JPN}} [[佐々木康行]]<br />{{flagicon|JPN}} [[松下和樹]] | トヨタ・GRヤリス | NAT<br />JRCar1 | |- ! 38 | {{flagicon|JPN}} 堀田信 | {{flagicon|JPN}} [[堀田信]]<br />{{flagicon|JPN}} [[河西晴雄]] | トヨタ・GRヤリス | NAT<br />JRCar1 | |- ! 39 | {{flagicon|JPN}} ウェルパイン・モータースポーツ | {{flagicon|JPN}} [[村田康介]]<br />{{flagicon|JPN}} [[梅本まどか]] | トヨタ・GRヤリス | NAT<br />JRCar1 | |- ! 40 | {{flagicon|JPN}} K-ONEレーシングチーム | {{flagicon|JPN}} [[山本悠太]]<br />{{flagicon|JPN}} [[立久井和子]] | [[トヨタ・86]] | NAT<br />JRCar2 | |- ! 41 | {{flagicon|JPN}} Kunisawa.net | {{flagicon|JPN}} [[国沢光宏]]<br />{{flagicon|JPN}} [[木原雅彦]] | [[ルノー・クリオ]] RSライン<!-- Amended Entry Listにて変更 --> | RC5<br />ラリー5 | |- ! 44 | {{flagicon|JPN}} LSCRラリーチーム | {{flagicon|JPN}} [[中山透]]<br />{{flagicon|JPN}} [[松浦俊朗]] | トヨタ・GRヤリス | NAT<br />JRCar1 | |- ! 45 | {{flagicon|JPN}} スリーファイブ・モータースポーツ | {{flagicon|JPN}} [[高田幸治]]<br />{{flagicon|JPN}} [[関本貴史]] | トヨタ・GRヤリス | NAT<br />JRCar1 | |- ! 46 | {{flagicon|JPN}} チームHASラリー | {{flagicon|JPN}} [[萩原泰則]]<br />{{flagicon|JPN}} [[原田晃一]] | スバル・WRX Sti 2015 | NAT<br />JRCar1 | |- ! 47 | {{flagicon|JPN}} ウェルパイン・モータースポーツ | {{flagicon|JPN}} [[入江慧士]]<br />{{flagicon|JPN}} [[蔭山恵]] | [[トヨタ・ヴィッツ]] | NAT<br />JRCar3 | |- ! 48 | {{flagicon|JPN}} マッスルラリー | {{flagicon|JPN}} [[清水宏保]]<br />{{flagicon|JPN}} [[保井隆宏]] | [[トヨタ・ヤリス]]<!-- 注:GRヤリスではない --> | NAT<br />JRCar3 |- ! 49 | {{flagicon|JPN}} Dスポーツ・ハーフウェイレーシング・ラリーチーム | {{flagicon|JPN}} [[相原泰祐]]<br />{{flagicon|JPN}} [[萩野司]] | [[ダイハツ・コペン]] | NAT<br />JRCar3 | |- ! colspan="6" style="text-align:center" | 出典<ref>{{Cite web |title=AMENDED ENTRY LIST|url=https://app-cdn.sportity.com/5848cc98-d554-4cf8-96de-cf9585cd2bdb/0802c1a8-1f09-4fe2-9f84-84ac3f57001b_Amended%20Entry%20List.pdf |website=Rally Japan |format=PDF |date=2023-11-15 |accessdate=2023-11-15}}</ref> |} == ルート == 前年と同じく愛知県([[豊田市]]・[[岡崎市]]・[[新城市]]・[[設楽町]])と岐阜県([[恵那市]]・[[中津川市]])の6市町で開催される(詳細地図<ref>{{Cite web |format=PDF |title=COC COMMUNICATIN No.4 |url=https://app-cdn.sportity.com/5848cc98-d554-4cf8-96de-cf9585cd2bdb/89095289-64ee-4786-aa07-a92d4d3af142_COC%20Communication%205.pdf |website=Rally Japan 公式掲示板 |date=2023-11-14 |accessdate=2022-11-17}}</ref>)。スペシャルステージ (SS) の設定もおおむね同じだが、前述の豊田スタジアムSSSがDAY1〜3に3日続けて開催され、DAY3の岡崎市SSSの開催場所が変更されるなどの違いがある。SS本数は計22本。4日間の総走行距離は958.95km、うちSS走行距離は304.12km(31.7%)、移動区間(リエゾン)は654.83kmである<ref name="Itinerary">{{Cite web |title=Itinerary v2.0 20231020 |url=https://app-cdn.sportity.com/5848cc98-d554-4cf8-96de-cf9585cd2bdb/7bea01f0-877a-4024-a04f-d960c87303a4_Itinerary%20v2.0%2020231020.pdf |website=Rally Japan 公式掲示板 |date=2023-11-16 |accessdate=2023-11-16}}</ref>。 ;11月15日(DAY1) :走行距離:8.55km SS距離:2.10km リエゾン距離:6.45km<ref name="Itinerary"/> :初日は豊田スタジアムでのセレモニアルスタート後、19時からスタジアムSSSの1本目(2.10km)を行う。前年シェイクダウンとSS1を行った[[鞍ヶ池公園]]は今回はシェイクダウンのみ利用する。 ;11月16日(DAY2) :走行距離:385.47km SS距離:133.26km リエゾン距離:252.12km<ref name="Itinerary"/> :本格的な競技が始まる金曜日はSS2からSS8まで7本。SS2伊勢神トンネル(23.67km)、SS3稲武ダム(19.38km)、SS4設楽町(22.53km)を走行した後サービスパークに戻り、午後も同じ順番でSS5・6・7を走行し、豊田スタジアムへ帰還後スタジアムSSS2本目を行う。SS2/5のルート上にある[[伊世賀美隧道]](旧伊勢神トンネル)は、前年大会では走行車両が撒き上げた砂埃で視界が悪化する問題が生じたため<ref>{{Cite web|和書|title=ラリージャパン序盤の肝になった? “名所”旧伊勢神トンネルは超難関で視界不良も「リスクを負う人負わない人で差が出た」 |url=https://jp.motorsport.com/wrc/news/wrc-2022-rallyjapan-isegamitunnel/10397828/ |website=motorsport.com日本版 |date=2022-11-11 |accessdate=2023-11-17}}</ref>、大会前に路面の再舗装工事が行われた<ref>{{Cite web |和書|title=ジャパン名物・旧伊勢神トンネルの舗装が完了 |url=http://rallyx.net/news/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%91%E3%83%B3%E5%90%8D%E7%89%A9%E3%83%BB%E6%97%A7%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%A5%9E%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%81%AE%E8%88%97%E8%A3%85%E3%81%8C%E5%AE%8C%E4%BA%86-22967/ |website=ラリーXモバイル |date=2023-09-17 |accessdate=2023-11-17}}</ref>。 ;11月17日(DAY3) :走行距離:277.98km SS距離:84.68km リエゾン距離:193.30km<ref name="Itinerary"/> :土曜日はSS9からSS16まで8本。SS9額田の森(20.32km)、SS10三河湖(14.78km)を走行したのち、[[岡崎中央総合公園]]の敷地内でSSS(2.84km)を2本続けて行う<ref>{{Cite web |和書 |title=岡崎市SSS会場マップ公開! |url=https://okz-rally.com/2023/11/11/%e5%b2%a1%e5%b4%8e%e5%b8%82sss%e4%bc%9a%e5%a0%b4%e3%83%9e%e3%83%83%e3%83%97%e5%85%ac%e9%96%8b%ef%bc%81/ |website=岡崎でRally Japanを楽しもう。 |date=2023-11-11 |accessdate=2023-11-17}}</ref>(この場所は2019年のリハーサルイベント「セントラルラリー愛知/岐阜」で使用したコースを拡張している<ref>{{Cite web |title=WRCラリージャパン、岡崎中央総合公園でのスペシャルステージ最新情報 |url=https://www.rallyplus.net/95086 |website=RALLYPLUS.NET |date=2023-03-23 |accessdate=2023-11-17}}</ref>)。午後は額田の森と三河湖でSS13・14を行ったのち、[[本宮山スカイライン]]でSS15新城市(6.70km)を行い、豊田スタジアムへ戻りスタジアムSSS3本目を行う。この日は昼のサービスなしの一日となる。 ;11月18日(DAY4) :走行距離:286.95km SS距離:84.08km リエゾン距離:202.87km<ref name="Itinerary"/> :最終日はSS17からSS22まで6本。県境の[[矢作ダム]]付近でSS17旭高原(7.52km)を行ったのち、岐阜県内を北上し、SS18恵那市(22.92km)とSS19根の上高原(11.60km)を走行する。SS18は[[明知鉄道]]の線路沿いを走るスタート区間が延長された。また、[[岩村町本通り]]や[[日本大正村]]などの観光名所をたどるリエゾン区間が用意されている<ref>{{Cite web |和書|format=PDF |title=WRC2023直前チラシ |url=https://rally-ena.jp/wp-content/uploads/2023/11/wrc2023-overview-maps_v2.pdf |website=恵那市ラリージャパン活用推進実行委員会 |date=2023-10-25 |accessdate=2023-11-17}}</ref>。この日も昼のサービスは行わず、午後はSS20恵那市、SS21根の上高原をリピートし、最終のSS22旭高原は上位5人にボーナスポイントが与えられるパワーステージとなる。その後豊田スタジアムでセレモニアルフィニッシュが行われる。 == アイテナリー == ラリージャパン公式サイトの観戦ガイド[https://rally-japan.jp/guide/]および掲示板Itinerary v2.0[https://app-cdn.sportity.com/5848cc98-d554-4cf8-96de-cf9585cd2bdb/7bea01f0-877a-4024-a04f-d960c87303a4_Itinerary%20v2.0%2020231020.pdf]より。丸括弧内は観戦ポイント。 *DAY1 11月16日 木曜 **09:01 シェイクダウン [[鞍ケ池公園]] {{smaller|Kuragaike Park}}(鞍ケ池公園) **17:05<ref>[https://app-cdn.sportity.com/5848cc98-d554-4cf8-96de-cf9585cd2bdb/57fda4c3-9042-4d36-a2e9-465094ba7b2c_Bulletin%202.pdf BULETTIN NO:2] ラリージャパン公式掲示板(2023年11月15日)</ref> セレモニアルスタート(豊田スタジアム) **19:05 '''SS1''' 豊田スタジアムSSS {{smaller|TOYOTA STADIUM SSS 1}}(豊田スタジアム) *DAY2 11月17日 金曜 **05:34 サービスA(豊田スタジアム) **07:04 '''SS2''' [[伊世賀美隧道|伊勢神トンネル]] {{smaller|Isegami's Tunnel 1}}(旭高原元気村) **08:04 '''SS3''' [[稲武町|稲武ダム]] {{smaller|Inabu Dam 1}}([[黒田ダム]]/旧[[設楽町立名倉小学校|駒ケ原分校]]) **09:02 '''SS4''' [[設楽町]] {{smaller|Shitara Town 1}}(天狗棚) **11:41 サービスB(豊田スタジアム) **13:36 '''SS5''' 伊勢神トンネル {{smaller|Isegami's Tunnel 2}}(旭高原元気村) **14:36 '''SS6''' 稲武ダム {{smaller|Inabu Dam 2}}(黒田ダム/旧駒ケ原分校) **15:34 '''SS7''' 設楽町 {{smaller|Shitara Town 2}}(天狗棚) **18:03 サービスC(豊田スタジアム) **19:35 '''SS8''' 豊田スタジアムSSS {{smaller|TOYOTA STADIUM SSS 2}}(豊田スタジアム) *DAY3 11月18日 土曜 **06:45 サービスD(豊田スタジアム) **08:04 '''SS9''' [[額田町|額田の森]] {{smaller|Nukata Forest 1}}([[岡崎市立千万町小学校|千万町楽校]]) **09:05 '''SS10''' [[羽布ダム|三河湖]] {{smaller|Lake Mikawako 1}}(三河湖) **11:15 '''SS11''' [[岡崎市]]SSS {{smaller|Okazaki City SSS 1}}([[岡崎中央総合公園]]) **11:26 '''SS12''' 岡崎市SSS {{smaller|Okazaki City SSS 2}}(岡崎中央総合公園) **12:16 タイヤフィッティングゾーン(岡崎中央総合公園) **13:04 '''SS13''' 額田の森 {{smaller|Nukata Forest 2}}(千万町楽校) **14:05 '''SS14''' 三河湖 {{smaller|Lake Mikawako 2}}(三河湖) **15:11 '''SS15''' [[新城市]] {{smaller|Shinshiro City}}(鬼久保ふれあい広場) **17:01 サービスE(豊田スタジアム) **19:35 '''SS16''' 豊田スタジアムSSS {{smaller|TOYOTA STADIUM SSS 3}}(豊田スタジアム) *DAY4 11月19日 日曜 **05:39 サービスE(豊田スタジアム) **07:05 '''SS17''' 旭高原 {{smaller|Asahi Kougen}}(旭高原元気村) **08:03 '''SS18''' [[恵那市]] {{smaller|Ena City 1}}([[山岡駅]]/[[山岡町|田沢]]/[[恵南]]林道/[[明智町|明智]]) **08:56 '''SS19''' [[根の上高原]] {{smaller|Nenoue Kougen 1}}(根の上高原) **10:01 タイヤフィッティングゾーン([[中津川公園]]) **11:04 '''SS20''' 恵那市 {{smaller|Ena City 2}}(山岡駅/田沢/恵南林道/明智) **11:57 '''SS21''' 根の上高原 {{smaller|Nenoue Kougen 2}}(根の上高原) **14:15 '''SS22''' 旭高原パワーステージ {{smaller|Asahi Kougen Power Stage}}(旭高原元気村) **16:00 フィニッシュ(豊田スタジアム) == レポート == 昨年に引き続き、愛知・岐阜を舞台に開催される今大会では、豊田スタジアムでのデュアルSSで行われるSSS3本、岡崎中央総合公園のSSS2本が新たに加わった。 DAY1は、ヌービルがラリーリーダ―となり、2位にラッピがつけヒョンデ勢が好調な滑り出しを見せる。 DAY2は、悪天候となり本降りの雨の中始まった。最初のSS2では、勝田がクラッシュ。勝田はマシンに損傷を負いながらコースに復帰するも、同一コーナーでソルド、フルモーは崖下に転落。車両回収のため赤旗中断となった。SS2、3とエバンスが連続でトップタイムをマークしラップリーダに浮上。SS4は悪天候の影響で、キャンセルとなった<ref>{{Cite web |title=ラリージャパンは2023年も波乱の幕開け、SS4が悪天候のため中止に。デイ2午前首位はトヨタのエバンス {{!}} ラリー/WRC {{!}} autosport web |url=https://www.as-web.jp/rally/1015446 |website=AUTO SPORT web |date=2023-11-17 |access-date=2023-11-19 |language=ja}}</ref>。午後のループでは、SS2でクラッシュを喫した勝田が、車両修復を間に合わせ、SS5~7を3連続トップタイムをマーク。昨年のラリージャパンの覇者ヌービルは、SS6スタート直後にクラッシュを喫しデイリタイヤとなりトップ争いから脱落し、トヨタの1-2-3体制が築かれた。<ref>{{Cite web |title=ラリージャパン:クラッシュ喫した勝田貴元が復活、ネバーギブアップの3連続ステージ優勝。首位はエバンス {{!}} ラリー/WRC {{!}} autosport web |url=https://www.as-web.jp/rally/1015603 |website=AUTO SPORT web |date=2023-11-17 |access-date=2023-11-19 |language=ja}}</ref>SS8ではラッピが最速タイムをマークした。SS2でトップに立ったエバンスがリーダーを守り、SS7で2位オジェがスピンし、マシン修復で時間を要しペナルティを受けたため1分49秒の差をつけた。3位に約2分差でロバンパラ、4位以下はミケルセン(WRC2)、ミュンスター(フォード)、グリアジン(WRC2)、ラッピ、タナク、勝田と続いている。 DAY3最初のSS9では、スタートが開始されるもゼロカーが止まっていた影響で赤旗中断した<ref>{{Cite web |title=ラリージャパンSS9の赤旗についてFIAが声明。オフィシャルカーのコース停止は「危険な場所にいた観客に移動を促した」 {{!}} ラリー/WRC {{!}} autosport web |url=https://www.as-web.jp/rally/1016080 |website=AUTO SPORT web |date=2023-11-18 |access-date=2023-11-19 |language=ja}}</ref>。4台に補正タイムが与えられるも、約20分後に再開された。SS9はオジェがトップタイムをマークし、勝田にはノーショナルタイムとして同タイムが与えられた。SS10は、勝田がSS9に続きトップタイム、岡崎市SSSは2連続でエバンスがトップタイムをマークした。午後のループでは、勝田が3連続でトップタイムをマークした<ref>{{Cite web |title=有言実行の快進撃、勝田貴元が3SS連続ベストで6番手浮上。総合はトヨタがトップ3独占/ラリージャパン {{!}} ラリー/WRC {{!}} autosport web |url=https://www.as-web.jp/rally/1016088 |website=AUTO SPORT web |date=2023-11-18 |access-date=2023-11-19 |language=ja}}</ref>。最後の豊田スタジアムSSSとなるSS16は、前日に引き続きラッピが最速タイムを記録。前日に引き続きエバンスがラリーリーダーを守り、1分15秒差でオジェ、1分40秒差でロバンペラと1-2-3体制。4位ラッピ(ヒョンデ)とは3分差、5位タナク(フォード)とは3分35秒差、6位勝田は3分50秒差と大きな差がつく展開となった。<ref>{{Cite web |title=トヨタ、3日目もラリージャパンで上位独占。ラトバラ代表「少し楽な展開だったように思える」 {{!}} ラリー/WRC {{!}} autosport web |url=https://www.as-web.jp/rally/1016258 |website=AUTO SPORT web |date=2023-11-18 |access-date=2023-11-19 |language=ja}}</ref> == リザルト == === スペシャルステージ順位 === {| class="wikitable" style="font-size: 70%;" |- ! rowspan=2 | 曜日 !! rowspan=2 | SS !! rowspan=2 | 距離 !! colspan=3| SS順位 !! rowspan=2 | リーダー |- ! 1位 !! 2位 !! 3位 |- !DAY1 11月16日 !SS 1 豊田スタジアム TOYOTA STADIUM SSS 1 |2.10 km |#11 ヌービル/ウィダグ 1:47.6 |#4 ラッピ/フェルム 1:48.3 |#8 タナク/ヤルヴェオヤ 1:49.0 |#11 ヌービル/ウィダグ 1:47.6 |- ! rowspan="7" |DAY2 11月17日 !SS 2 伊勢神トンネル{{Efn2|No.6, 16のクラッシュにより、ステージは赤旗中断された。No.21,23,24にはスプリットタイムによる補正タイムが、No.22,25,26,28,29,30,31,32,34,35,36,37,38,39,40,41,44,45,46,47,48,49にはノーショナルタイム(21:39.8)が与えられた。}} Isegami's Tunnel 1 |23.67 km |#33 エバンス/マーティン 20:17.8 |#17 オジェ/ランデ 20:21.8 |#11 ヌービル/ウィダグ 20:38.6 |#33 エバンス/マーティン 22:10.3 |- !SS 3 稲武ダム Inabu Dam 1 |19.38 km |#33 エバンス/マーティン 14:20.0 |#11 ヌービル/ウィダグ 14:30.1 |#20 ミケルセン/エリクセン 14:36.2 | rowspan="2" |#33 エバンス/マーティン 36:30.3 |- !SS 4 設楽町 Shitara Town 1 |22.53 km | colspan="3" |キャンセル{{efn2|悪天候によりキャンセル<ref name="RP221111">{{Cite web|和書|title=SS4 悪天候によりキャンセル |url=https://rally-japan.jp/news/press-release/news-20969/ |website=ラリージャパン |date=2023-11-17 |accessdate=2023-11-17}}</ref>。}} |- !SS 5 伊勢神トンネル Isegami's Tunnel 2 |23.67 km |#18 勝田/ジョンストン 19:08.1 |#11 ヌービル/ウィダグ 19:11.4 |#17 オジェ/ランデ 19:24.3 |#33 エバンス/マーティン 55:57.2 |- !SS 6 稲武ダム Inabu Dam 2 |19.38 km |#18 勝田/ジョンストン 12:48.5 |#33 エバンス/マーティン 12:48.8 |#17 オジェ/ランデ 12:53.2 |#33 エバンス/マーティン 1:08:46.0 |- !SS 7 設楽町 Shitara Town 2 |22.53 km |#18 勝田/ジョンストン 14:33.6 |#33 エバンス/マーティン 14:34.7 |#17 オジェ/ランデ 14:41.2 |#33 エバンス/マーティン 1:23:20.7 |- !SS 8 豊田スタジアム{{Efn2|No.29のインシデントによって赤旗中断されたため、No.29に補正タイム(2:16.4)が与えられた。No.32のインシデントによって赤旗中断されたため、No.36に補正タイム(2:16.4)が与えられた。}} TOYOTA STADIUM SSS 2 |2.10 km |#4 ラッピ/フェルム 2:00.0 |#18 勝田/ジョンストン 2:01.0 |#17 オジェ/ランデ 2:01.0 |#33 エバンス/マーティン 1:25:22.7 |- ! colspan="2" |DAY1-DAY2総合 |<s>135.36 km</s> →112.83 km |#33 エバンス/マーティン 1:25:22.7 |#17 オジェ/ランデ 1:27.12.6 |#69 ロバンペラ/ハルットゥネン 1:27:29.3 | |- ! rowspan="8" |DAY3 11月18日 !SS 9 額田の森{{Efn2|ゼロカーのインシデントにより赤旗が提示された。影響を受けたNo.4,8,11,18には補正タイムが与えられた。}} Nukata Forest 1 |20.32 km |#18 勝田/ジョンストン 15:23.2 |#17 オジェ/ランデ 15:23.2 |#33 エバンス/マーティン 15:26.3 |#33 エバンス/マーティン 1:40:49.0 |- !SS 10 三河湖 Lake Mikawako 1 |14.78 km |#18 勝田/ジョンストン 11:14.8 |#11 ヌービル/ウィダグ 11:15.9 |#8 タナク/ヤルヴェオヤ 11:16.9 |#33 エバンス/マーティン 1:52:26.8 |- !SS 11 岡崎市 Okazaki City SSS 1 |2.84 km |#33 エバンス/マーティン 2:20.2 |#8 タナク/ヤルヴェオヤ 2:20.4 |#11 ヌービル/ウィダグ 2:20.6 |#33 エバンス/マーティン 1:54:47.0 |- !SS 12 岡崎市 Okazaki City SSS 2 |2.84 km |#33 エバンス/マーティン 2:18.7 |#8 タナク/ヤルヴェオヤ 2:19.6 |#17 オジェ/ランデ 2:19.9 |#33 エバンス/マーティン 1:57:05.7 |- !SS 13 額田の森 Nukata Forest 2 |20.32 km |#18 勝田/ジョンストン 14:33.5 |#17 オジェ/ランデ 14:36.3 |#8 タナク/ヤルヴェオヤ 14:37.7 |#33 エバンス/マーティン 2:11:52.7 |- !SS 14 三河湖 Lake Mikawako 2 |14.78 km |#18 勝田/ジョンストン 10:35.8 |#11 ヌービル/ウィダグ 10:36.6 |#8 タナク/ヤルヴェオヤ 10:38.5 |#33 エバンス/マーティン 2:23:09.8 |- !SS 15 新城市 Shinshiro City |6.70 km |#18 勝田/ジョンストン 3:19.7 |#69 ロバンペラ/ハルットゥネン 3:20.1 |#33 エバンス/マーティン 3:21.1 |#33 エバンス/マーティン 2:26:30.9 |- !SS 16 豊田スタジアム TOYOTA STADIUM SSS 3 |2.10 km |#4 ラッピ/フェルム 1:47.0 |#8 タナク/ヤルヴェオヤ 1:48.5 |#11 ヌービル/ウィダグ 1:49.1 |#33 エバンス/マーティン 2:28:20.8 |- ! colspan="2" |DAY1-DAY3総合 |<s>220.04 km</s> → 197.51 km |#33 エバンス/マーティン 2:28:20.8 |#17 オジェ/ランデ 2:29:35.8 |#69 ロバンペラ/ハルットゥネン 2:30:01.4 | |- ! rowspan="6" |DAY4 11月19日 !SS 17 旭高原 Asahi Kougen |7.52 km |#11 ヌービル/ウィダグ 5:04.2 |#18 勝田/ジョンストン 5:06.3 |#33 エバンス/マーティン 5:08.3 |#33 エバンス/マーティン 2:33:29.1 |- !SS 18 恵那市 Ena City 1 |22.92 km |#11 ヌービル/ウィダグ 18:09.9 |#18 勝田/ジョンストン 18:16.0 |#33 エバンス/マーティン 18:20.5 |#33 エバンス/マーティン 2:51:49.6 |- !SS 19 根ノ上高原 Nenoue Kougen 1 |11.6 km |#18 勝田/ジョンストン 8:16.3 |#11 ヌービル/ウィダグ 8:21.6 |#4 ラッピ/フェルム 8:26.0 |#33 エバンス/マーティン 3:00:17.2 |- !SS 20 恵那市 Ena City 2 |22.92 km |#11 ヌービル/ウィダグ 18:03.7 |#4 ラッピ/フェルム 18:06.7 |#8 タナク/ヤルヴェオヤ 18:14.7 |#33 エバンス/マーティン 3:18:39.3 |- !SS 21 根ノ上高原 Nenoue Kougen 2 |11.6 km |#18 勝田/ジョンストン 8:16.6 |#11 ヌービル/ウィダグ 8:21.2 |#8 タナク/ヤルヴェオヤ 8:21.6 |#33 エバンス/マーティン 3:27:06.7 |- !SS 22 旭高原PS Asahi Kougen Power Stage |7.52 km |#11 ヌービル/ウィダグ 4:48.8 |#8 タナク/ヤルヴェオヤ 4:51.2 |#4 ラッピ/フェルム 4:55.6 |#33 エバンス/マーティン 3:32:08.8 |- ! colspan="2" |DAY1-DAY4総合 |<s>304.12 km</s> →281.59 km |#33 エバンス/マーティン 3:32:08.8 |#17 オジェ/ランデ 3:33:26.5 |#69 ロバンペラ/ハルットゥネン 3:33:55.3 | |} === 最終成績 === {| class="wikitable sortable" style="font-size:70%;" |- !colspan=2|順位 !!rowspan=2|No !!rowspan=2|ドライバー<br/>コ・ドライバー !!rowspan=2|エントラント !!rowspan=2|車両 ! rowspan="2" |SS ! rowspan="2" |Pen.!! rowspan="2" |タイム !!rowspan=2|差 !!rowspan=2|獲得ポイント<br />(対象選手権+<br />パワーステージ) |- !総合 !! クラス Elig. |- !1 |RC1 M !33 |{{flagicon|GBR}} [[エルフィン・エバンス]]<br />{{flagicon|GBR}} [[スコット・マーティン]] |{{flagicon|JPN}} [[トヨタ・ガズー・レーシング・ヨーロッパ|トヨタ・ガズー・レーシングWRT]] |[[トヨタ・GRヤリス ラリー1]] |3:32:08.8 | |3:32:08.8 | |D/C/M:25 |- !2 |RC1 M !17 |{{flagicon|FRA}} [[セバスチャン・オジェ]]<br />{{flagicon|FRA}} [[バンサン・ランデ]] |{{flagicon|JPN}} [[トヨタ・ガズー・レーシング・ヨーロッパ|トヨタ・ガズー・レーシングWRT]] |[[トヨタ・GRヤリス ラリー1]] |3:33:26.5 |1:00 |3:33:26.5 | +1:17.7 |D/C/M:18+1 |- !3 |RC1 M !69 |{{flagicon|FIN}} [[カッレ・ロバンペラ]]<br />{{flagicon|FIN}} [[ヨンネ・ハルットゥネン]] |{{flagicon|JPN}} [[トヨタ・ガズー・レーシング・ヨーロッパ|トヨタ・ガズー・レーシングWRT]] |[[トヨタ・GRヤリス ラリー1]] |3:33:55.3 | |3:33:55.3 | +1:46.5 |D/C:15 |- !4 |RC1 M !4 |{{flagicon|FIN}} [[エサペッカ・ラッピ]]<br />{{flagicon|FIN}} [[ヤンネ・フェルム]] |{{flagicon|KOR}} [[現代自動車|ヒョンデ]]・[[シェル (企業)|シェル]]・モビスWRT |[[ヒョンデ・i20 N ラリー1]] |3:34:59.1 | |3:34:59.1 | +2:50.3 |D/C/M:12+3 |- !5 |RC1 - !18 |{{flagicon|JPN}} [[勝田貴元]]<br />{{flagicon|IRL}} [[アーロン・ジョンストン]] |{{flagicon|JPN}} [[トヨタ・ガズー・レーシング・ヨーロッパ|トヨタ・ガズー・レーシングWRT]] |[[トヨタ・GRヤリス ラリー1]] |3:34:09.1 |1:10 |3:35:19.1 | +3:10.3 |D/C:10+2 |- !6 |RC1 M !8 |{{flagicon|EST}} [[オィット・タナック]]<br />{{flagicon|EST}} [[マルティン・ヤルヴェオヤ]] |{{flagicon|GBR}} [[Mスポーツ]]・[[フォード・モーター|フォード]]WRT |[[フォード・プーマ ラリー1]] | | | | |D/C/M:8+4 |- !7 |RC2 WRC2(T/D) !20 |{{flagicon|NOR}} [[アンドレアス・ミケルセン]]<br />{{flagicon|NOR}} [[トルステン・エリクセン]] |{{flagicon|GER}} トクスポーツWRT3 |[[シュコダ・ファビア]]RS ラリー2 | | | | |D/C:6 WRC2(T/D):25+1 |- !8 |RC2 WRC2(T/DC/CC) !21 |{{Tooltip|ANA|Authorised Neutral Athletes(公認中立選手)}} [[ニコライ・グリアジン]]<br />{{Tooltip|ANA|Authorised Neutral Athletes(公認中立選手)}} [[コンスタンティン・アレクサンドロフ]] |{{flagicon|GER}} トクスポーツWRT3 |[[シュコダ・ファビア]]RS ラリー2 | | | | |D/C:4 WRC2(T/D/C):18+3 WRC2(DC/CC):25 |- !9 |RC2 WRC2(DC/CC) !22 |{{flagicon|POL}} [[カエタン・カエタノビッチ]]<br />{{flagicon|POL}} [[マチェイ・スチェパニアク]] |{{flagicon|POL}} カエタン・カエタノビッチ |[[シュコダ・ファビア]]RS ラリー2 | | | | |D/C:2 WRC2(D/C):15+2 WRC2(DC/CC):18 |- !10 |RC4 - !35 |{{flagicon|JPN}} [[新井大輝]]<br />{{flagicon|JPN}} [[立久井大輝]] |{{flagicon|JPN}} アヘッド・ジャパン・レーシングチーム |[[プジョー・208]] ラリー4 | | | | | |- !11 |RC2 WRC2(DCM/CC) !26 |{{flagicon|JPN}} [[福永修]]<br />{{flagicon|JPN}} [[齊田美早子]] |{{flagicon|JPN}} 福永修 |シュコダ・ファビア ラリー2 Evo | | | | |WRC2(D/C):12 WRC2(DC/CC):15 WRC2(DM):25 |- !12 |RC2 WRC2(DC/CC) !25 |{{flagicon|POL}} Daniel Chwist<br />{{flagicon|POL}} Kamil Heller |{{flagicon|POL}} Daniel Chwist |シュコダ・ファビア ラリー2 Evo | | | | |WRC2(D/C):10 WRC2(DC/CC):12 |- !13 |RC1 M !11 |{{flagicon|BEL}} [[ティエリー・ヌービル]]<br />{{flagicon|BEL}} [[マルティン・ウィダグ]] |{{flagicon|KOR}} [[現代自動車|ヒョンデ]]・[[シェル (企業)|シェル]]・モビスWRT |[[ヒョンデ・i20 N ラリー1]] | | | | |D/C/M:0+5 |- !14 |RC2 WRC2(DCM/CCM) !28 |{{flagicon|IRL}} [[エイモン・ボランド]]<br />{{flagicon|IRL}} [[マイケル・ジョゼフ・モリシー|MJ]] |{{flagicon|IRL}} エイモン・ボランド |[[シトロエン・C3]] ラリー2 | | | | |WRC2(D/C):8 WRC2(DC/CC):10 WRC2(DM):18 WRC2(CM):25 |- !15 |JRCar1 - !36 |{{flagicon|JPN}} [[眞貝知志]]<br />{{flagicon|JPN}} [[安藤裕一]] |{{flagicon|JPN}} トヨタ・ガズー・レーシング WRJ |トヨタ・GRヤリス | |0:10 | | | |- !16 |JRCar1 - !39 |{{flagicon|JPN}} [[村田康介]]<br />{{flagicon|JPN}} [[梅本まどか]] |{{flagicon|JPN}} ウェルパイン・モータースポーツ |トヨタ・GRヤリス | | | | | |- !17 |JRCar2 - !40 |{{flagicon|JPN}} [[山本悠太]]<br />{{flagicon|JPN}} [[立久井和子]] |{{flagicon|JPN}} K-ONEレーシングチーム |[[トヨタ・86]] | |0:10 | | | |- !18 |RC2 WRC2(DCM/CC) !29 |{{flagicon|ESP}} Miguel Diaz Aboit<br />{{flagicon|ESP}} Rodrigo Sanjuan de Eusebio |{{flagicon|ESP}} Miguel DÍAZ ABOIT |シュコダ・ファビアRS ラリー2 | | | | |WRC2(D/C):6 WRC2(DC/CC):8 WRC2(DM):15 |- !19 |RC5 - !41 |{{flagicon|JPN}} [[国沢光宏]]<br />{{flagicon|JPN}} [[木原雅彦]] |{{flagicon|JPN}} Kunisawa.net |[[ルノー・クリオ]] RSライン | | | | | |- !20 |JRCar1 - !44 |{{flagicon|JPN}} [[中山透]]<br />{{flagicon|JPN}} [[松浦俊朗]] |{{flagicon|JPN}} LSCRラリーチーム |トヨタ・GRヤリス | |1:00 | | | |- !21 |JRCar1 - !37 |{{flagicon|JPN}} [[佐々木康行]]<br />{{flagicon|JPN}} [[松下和樹]] |{{flagicon|JPN}} Team BRIDE |トヨタ・GRヤリス | | | | | |- !22 |RC3 WRC3(DM) !31 |{{flagicon|CAN}} Jason Bailey<br />{{flagicon|CAN}} Shayne Peterson |{{flagicon|CAN}} Jason Bailey |フォード・フィエスタ ラリー3 | |3:00 | | |WRC2(DM):12 WRC3(D):25 |- !23 |JRCar3 - !49 |{{flagicon|JPN}} [[相原泰祐]]<br />{{flagicon|JPN}} [[萩野司]] |{{flagicon|JPN}} Dスポーツ・ハーフウェイレーシング・ラリーチーム |[[ダイハツ・コペン]] | |0:20 | | | |- !24 |RC2 WRC2(DC/CC) !30 |{{flagicon|JPN}} [[今井聡 (ラリードライバー)|今井聡]]<br />{{flagicon|NZL}} [[ジェイソン・ファーマー]] |{{flagicon|JPN}} 今井聡 |シトロエン・C3 ラリー2 | | | | | |- !25 |JRCar1 - !38 |{{flagicon|JPN}} [[堀田信]]<br />{{flagicon|JPN}} [[河西晴雄]] |{{flagicon|JPN}} 堀田信 |トヨタ・GRヤリス | |1:00 | | | |- !26 |JRCar1 - !46 |{{flagicon|JPN}} [[萩原泰則]]<br />{{flagicon|JPN}} [[原田晃一]] |{{flagicon|JPN}} チームHASラリー |スバル・WRX Sti 2015 | |5:30 | | | |- !27 |JRCar1 - !45 |{{flagicon|JPN}} [[高田幸治]]<br />{{flagicon|JPN}} [[関本貴史]] |{{flagicon|JPN}} スリーファイブ・モータースポーツ |トヨタ・GRヤリス | |2:10 | | | |- !28 |JRCar3 - !48 |{{flagicon|JPN}} [[清水宏保]]<br />{{flagicon|JPN}} [[保井隆宏]] |{{flagicon|JPN}} マッスルラリー |[[トヨタ・ヤリス]] | | | | | |- ! colspan="11" |以上完走 |- !SS22 リタイア |JRCar3 - !47 |{{flagicon|JPN}} [[入江慧士]]<br />{{flagicon|JPN}} [[蔭山恵]] |{{flagicon|JPN}} ウェルパイン・モータースポーツ |[[トヨタ・ヴィッツ]] | | | colspan="2" |メカニカル | |- !SS20 リタイア |RC2 - !24 |{{flagicon|LUX}} [[グレゴワール・ミュンステール]]<br />{{flagicon|BEL}} [[ルイ・ルーカ]] |{{flagicon|GBR}} Mスポーツ・フォードWRT |[[フォード・フィエスタ]] ラリー2 | | | colspan="2" |アクシデント | |- !SS19 リタイア |JRCar1 - !34 |{{flagicon|JPN}} [[新井敏弘]]<br />{{flagicon|JPN}} [[松本優一]] |{{flagicon|JPN}} [[SUBARU|スバル]]・チーム・アライ |[[スバル・WRX]] S4 | |0:20 | colspan="2" |メカニカル | |- !SS13 リタイア |RC2 WRC2(DC/CC) !23 |{{flagicon|FIN}} [[ヘイキ・コバライネン]]<br />{{flagicon|JPN}} [[北川紗衣]] |{{flagicon|FIN}} ヘイキ・コバライネン |シュコダ・ファビア ラリー2 | | | colspan="2" |メカニカル | |- !SS8 リタイア |JRCar1 - !32 |{{flagicon|JPN}} [[勝田範彦]]<br />{{flagicon|JPN}} [[木村裕介]] |{{flagicon|JPN}} [[GR (トヨタ自動車)|トヨタ・ガズー・レーシング]] WRJ |[[トヨタ・GRヤリス]] | | | colspan="2" |アクシデント | |- !SS2 リタイア |RC1 M !6 |{{flagicon|ESP}} [[ダニ・ソルド]]<br />{{flagicon|ESP}} [[カンディード・カレラ]] |{{flagicon|KOR}} [[現代自動車|ヒョンデ]]・[[シェル (企業)|シェル]]・モビスWRT |[[ヒョンデ・i20 N ラリー1]] | | | colspan="2" |アクシデント | |- !SS2 リタイア |RC1 M !16 |{{flagicon|FRA}} [[アドリアン・フルモー]]<br />{{flagicon|FRA}} [[アレクサンドル・コリア]] |{{flagicon|GBR}} [[Mスポーツ]]・[[フォード・モーター|フォード]]WRT |[[フォード・プーマ ラリー1]] | | | colspan="2" |アクシデント | |} == 脚注 == === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{reflist|2}} == 関連項目 == * [[ラリージャパン]] * [[2023年の世界ラリー選手権]] == 外部リンク == * [https://rally-japan.jp/ ラリージャパン公式サイト] * {{twitter|2020rallyjapan|フォーラムエイト・ラリージャパン}} * {{twitter|officialWRC_JP|WRC - FIA世界ラリー選手権公式}} {{世界ラリー選手権のイベント}} {{DEFAULTSORT:らりいしやはん2023}} [[Category:世界ラリー選手権|2023]] [[Category:2023年の日本のモータースポーツ]] [[Category:愛知県のスポーツ史]] [[Category:岐阜県のスポーツ史]] [[Category:2023年11月]] [[Category:2023年の愛知県]] [[Category:2023年の岐阜県]]
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Apocalypse Day
「Apocalypse Day」(アポカリプス・デイ)は、鈴木愛奈の楽曲。hotaruが作詞、Rictが作曲を手掛けた。鈴木の4枚目のシングルとして2023年12月27日にLantisから発売された。 表題曲は自身が声優として主演を務めるテレビアニメ『邪神ちゃんドロップキック【世紀末編】』のオープニングテーマであり、同作品の主題歌をソロで担当するのは今回が初となる。 楽曲制作にSABLE HILLSのギタリスト・Rictを迎えた本格的なメタルコアサウンドであり、ハードでアグレッシブな楽曲に仕上がっている。
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「Apocalypse Day」(アポカリプス・デイ)は、鈴木愛奈の楽曲。hotaruが作詞、Rictが作曲を手掛けた。鈴木の4枚目のシングルとして2023年12月27日にLantisから発売された。
{{Infobox Single <!-- プロジェクト:楽曲 をご覧ください --> | Name = Apocalypse Day | Artist = [[鈴木愛奈]] | Album = | A-side = | B-side = Liberer le sceau | Released = [[2023年]][[12月27日]] | Format = [[シングル|マキシシングル]] | Recorded = | Genre = [[J-POP]]、[[ヘヴィメタル]]、[[アニメソング]] | Length = | Label = [[ランティス|Lantis]] | Lyricist = [[hotaru]] | Composer = Rict | Producer = | Certification = | Chart position = | Last single = Dash and Go!<br />([[2023年]]) | This single = '''Apocalypse Day'''<br />(2023年) | Next single = 果てのない旅<br />([[2024年]]) | Misc = }} 「'''Apocalypse Day'''」(アポカリプス・デイ)は、[[鈴木愛奈]]の楽曲。[[hotaru]]が作詞、Rictが作曲を手掛けた。鈴木の4枚目の[[シングル]]として[[2023年]][[12月27日]]に[[ランティス|Lantis]]が発売<ref name="oricon">{{Cite web|url=https://www.oricon.co.jp/prof/654878/products/1493276/1/|title=Apocalypse Day|work=ORICON STYLE |author=|publisher=[[オリコン]]|accessdate=2023-11-15}}</ref>。 == 背景 == 表題曲は自身が声優として主演を務める[[テレビアニメ]]『[[邪神ちゃんドロップキック#テレビアニメ|邪神ちゃんドロップキック【世紀末編】]]』のオープニングテーマであり、同作品の主題歌をソロで担当するのは今回が初となる<ref name="animate">{{Cite web|url=https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1697000498|title=鈴木愛奈さんによるニューシングル「Apocalypse Day」(TVアニメ『邪神ちゃんドロップキック【世紀末編】』 オープニングテーマ)が発売決定! |author=|publisher=[[アニメイトタイムズ]]|date=2023-10-11|accessdate=2023-11-15}}</ref>。 楽曲制作に[[SABLE HILLS]]のギタリスト・Rictを迎えた本格的なメタルコアサウンドであり、ハードでアグレッシブな楽曲に仕上がっている<ref name="animate" />。 == シングル収録内容 == # '''Apocalypse Day''' #:作詞:hotaru / 作曲・編曲 : Rict(SABLE HILLS) # '''Liberer le sceau''' #:作詞:Leo Figaro([[MinstreliX]])/ 作曲・編曲:Takao(MinstreliX)/ 弦編曲:田熊知存(Dream Monster) # Apocalypse Day (Instrumental) # Liberer le sceau (Instrumental) == 脚注 == === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * [[ランティス|Lantis]]による紹介ページ ** [https://www.lantis.jp/release-item/LACM-24467.html 通常盤] {{鈴木愛奈}} {{デフォルトソート:あほかりふすてい}} [[Category:楽曲 あ|ほかりふすてい]] [[Category:鈴木愛奈の楽曲]] [[Category:Hotaruが制作した楽曲]] [[Category:2023年のシングル]] [[Category:日本テレビのテレビアニメ主題歌]]<!-- BS日テレ製作 -->
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骨無しのイーヴァル
イヴァル・ザ・ボーンレス あるいは骨無しのイーヴァル(古ノルド語: Ívarr hinn Beinlausi [ˈiːˌwɑrː ˈhinː ˈbɛinˌlɔuse]; 873年頃没)は、ヴァイキングの指導者で、イングランドとアイルランドに侵攻した。 『ラグナル・ロズブロークの物語』によれば、彼はラグナル・ロズブロークとその妻アスラウグの息子であり、兄弟にビョルン・アイアンサイド、フヴィッツェルク、蛇眼のシグルズ、ウッボがいる。ただし、これが歴史的に正確であるかは確実ではない。イーヴァルはおそらく、870年から873年の間にダブリンのヴァイキング王であったイマールと同一人物とされる。 彼はおそらく787年頃にスウェーデンのウプサラで生まれたとの説がある。 あだ名の由来は諸説ある。"Ívarr beinlausi"は「足のないイヴァル」に翻訳できるが、「beinlausi」は同じ言葉「bein」で「骨」と「足」を指すため、「ボーンレス」にも翻訳できる。 数々の伝承では、彼が脚や骨を持たないか、骨形成不全症のような骨の状態を持っているとされており、ラグナルソナ・ソータ(またはラグナルの息子の物語とも呼ばれる)の一節では男性の性的不能を指す可能性があると示唆されている。 ラグナル・ロズブロークの物語によれば、イーヴァルの骨のなさは呪いの結果だった。彼の母であるラグナルの三番目の妻であるアスラウグは、ヴェールヴァ(予知者または千里眼の女性)とされていた。アスロウグは、夫婦がイギリスでの略奪中に長い別離の後、結婚を完了する前に3晩待つよう提案していた。しかし、ラグナルは長い別離の後に情熱的で、彼女の言葉に従わなかった。その結果、イーヴァルは骨が弱い状態で生まれた。 別の仮説では、実際には彼が「嫌われ者」として知られていたとされ、ラテン語ではExosus(嫌われた)となる。ラテン語の基本的な知識しかない中世の写本作成者は、これを ex(なし)os(骨)と解釈しやすかったため、「ボーンレス」となった可能性がある。ただし、これは彼の名前の直訳とは一致しづらい。 伝説ではイヴァルの身体の障害を描写しているが、同時に彼の知恵、狡猾さ、および戦闘における戦略と戦術の優れた能力も強調されている。 彼はしばしばウイ・ウマール王朝の創始者であるイーヴァルと同一視され、9世紀中頃から10世紀にかけてヨーク市を拠点にノーサンブリアを支配し、ダブリン王国としてアイリッシュ海域を支配したと考えられている。これにより、彼はクロヴァン王朝の祖先ともなった。 アングロサクソンの年代記者のエゼルウェルドによれば、イーヴァルの死は870年とされている 。 アルスター年代記には、873年にイーマルが亡くなったと記載されている。また、アイルランドの断片年代記 にも873年の項目でイーマルの死が記録されている。 ライスリンドの王としてゴズフライト(つまり、イーマルの父)と同定されたのは17世紀の写本家によるものであった。元の11世紀の写本では、エントリーの対象は単にスカンジナビアの王(「ロクランの王」の意)と呼ばれており、おそらくはイーマルを指していたと考えられる。イーマルの死はアイルランド断片年代記以外で特記されておらず、死因である突然でひどい病気は他の資料には記載されていないが、これによりイーヴァルの古ノルド語のあだ名の真の起源が、彼の生涯の終わりに彼を襲った未知の病気の影響にある可能性がある。 1686年、農夫トーマス・ウォーカーがダービーシャーのレプトンでスカンジナビアの埋葬丘を発見した。これは大異教徒軍がメルシア王バーグレッドを倒した戦場の近くであり、その身の回りに部分的な骸骨が250を超える数あったことから、埋葬された人物は非常に高い地位にあったと考えられている。この埋葬丘がイーヴァルの最後の安息の地であったかもしれないとされている。 伝説によれば、イーヴァルは攻撃される場所に自分を埋葬するように命じ、もしそうなれば土地にやってくる敵は不幸に遭うだろうと予言した。伝説によれば、この予言は真実であり、「ウィルヘルム・バスタード(ウィリアム1世)が上陸するとき、彼は埋葬地に行ってイーヴァルの丘を壊し、イーヴァルの体が腐敗していないことを見た。その後、ウィルヘルムは上陸侵攻を続け、勝利を収めた」とされている。
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イヴァル・ザ・ボーンレス あるいは骨無しのイーヴァルは、ヴァイキングの指導者で、イングランドとアイルランドに侵攻した。
[[ファイル:Harley_MS_2278,_folio_48v_excerpt_2.jpg|サムネイル|"''Hyngwar''", イーヴァルの名前が記された ''Harley MS 2278'', 15世紀の [[中英語|Middle English]] manuscript.<ref>{{Cite book |url=https://archive.org/details/corollasanctiead00hervuoft |title=Corolla Sancti Eadmundi = The garland of Saint Edmund, king and martyr |last=Hervey |first=Francis |date=1907 |location=London |publisher=John Murray |ol=11080612W}}</ref>]] '''イヴァル・ザ・ボーンレス''' あるいは'''骨無しのイーヴァル'''({{lang-non|Ívarr hinn Beinlausi}} {{IPA-non|ˈiːˌwɑrː ˈhinː ˈbɛinˌlɔuse|}}; 873年頃没)は、[[ヴァイキング]]の指導者で、[[イングランド]]と[[アイルランド]]に侵攻した。 == 人物 == 『[[ラグナル・ロズブロークのサガ|ラグナル・ロズブロークの物語]]』によれば、彼は[[ラグナル・ロズブローク]]とその妻[[アスロッグ|アスラウグ]]の息子であり、兄弟に[[剛勇のビョルン|ビョルン・アイアンサイド]]、[[フヴィッツェルク]]、[[シグルズ・スネーク・イン・ザ・アイ|蛇眼のシグルズ]]、[[ウッバ|ウッボ]]がいる。ただし、これが歴史的に正確であるかは確実ではない。イーヴァルはおそらく、870年から873年の間にダブリンの[[ヴァイキング|ヴァイキング王]]であった[[Ímar|イマール]]と同一人物とされる。<ref>{{cite encyclopedia |first=Marios |last=Costambeys |publisher=オックスフォード大学出版 |encyclopedia=オックスフォード国立伝記辞典 |title=Ívarr [Ívarr inn Beinlausi, Ingwaer, Imhar] (d. 873) |year=2004 |url=https://www.oxforddnb.com/view/10.1093/ref:odnb/9780198614128.001.0001/odnb-9780198614128-e-49261 |doi=10.1093/ref:odnb/49261 |isbn=978-0-19-861412-8}} {{ODNBsub}}</ref> 彼はおそらく787年頃に[[スウェーデン]]の[[ウプサラ]]で生まれたとの説がある。<ref>{{Cite book |last=Strittmatter |first=Rowena |url=https://books.google.com/books?id=WRWaEAAAQBAJ&dq=Ivar+the+boneless+Swedish+origin&pg=PT38 |title=Our Ancestors: A Journey through the Generations |date=2016-12-13 |publisher=tredition |isbn=978-3-7323-8143-2 |language=en}}</ref> あだ名の由来は諸説ある。"Ívarr beinlausi"は「足のないイヴァル」に翻訳できるが、「beinlausi」は同じ言葉「bein」で「骨」と「足」を指すため、「ボーンレス(骨なし)」にも翻訳できる。<ref>{{Cite web |last= |first= |date= |title=Leg in Danish |url=https://dictionary.cambridge.org/dictionary/english-danish/leg |access-date=2021-02-05 |website=dictionary.cambridge.org |language=en}}</ref> 数々の伝承{{example needed|date=October 2022}}では、彼が脚や骨を持たないか、[[骨形成不全症]]のような骨の状態を持っているとされており、''[[ラグナルソナ・ソータ]]''(またはラグナルの息子の物語とも呼ばれる)の一節では[[性機能障害|男性の性的不能]]を指す可能性があると示唆されている。<ref>{{cite encyclopedia |url=https://www.worldhistory.org/Ivar_the_Boneless/ |title=Ivar the Boneless |encyclopedia=[[World History Encyclopedia]] |first=Emma |last=Groeneveld |date=12 November 2018}}</ref> [[ラグナル・ロズブローク]]の物語によれば、イーヴァルの骨のなさは呪いの結果だった。彼の母であるラグナルの三番目の妻である[[アスラウグ]]は、ヴェールヴァ(予知者または千里眼の女性)とされていた。アスロウグは、夫婦がイギリスでの略奪中に長い別離の後、結婚を完了する前に3晩待つよう提案していた。しかし、ラグナルは長い別離の後に情熱的で、彼女の言葉に従わなかった。その結果、イーヴァルは骨が弱い状態で生まれた。<ref name="files2">{{cite web |last1=Baker |first1=Mick |title=Anglo-Saxon Britain: In the Footsteps of Ivarr the Boneless |url=http://www.historyfiles.co.uk/FeaturesBritain/EnglandIvarr.htm |website=The History Files |access-date=1 September 2016}}</ref> 別の仮説では、実際には彼が「嫌われ者」として知られていたとされ、ラテン語ではExosus(嫌われた)となる。ラテン語の基本的な知識しかない中世の写本作成者は、これを ex(なし)os(骨)と解釈しやすかったため、「ボーンレス(骨なし)」となった可能性がある。<ref>{{cite book |last1=Ferguson |first1=Robert |title=The hammer and the cross: a new history of the Vikings |date=2009 |location=London |publisher=Allan Lane |isbn=978-0713997880 |oclc=609990781}}</ref>ただし、これは彼の名前の直訳とは一致しづらい。<ref>{{cite book |last1=Ferguson |first1=Robert |title=The hammer and the cross: a new history of the Vikings |date=2009 |location=London |publisher=Allan Lane |isbn=978-0713997880 |oclc=609990781}}</ref> 伝説ではイヴァルの身体の障害を描写しているが、同時に彼の知恵、狡猾さ、および戦闘における戦略と戦術の優れた能力も強調されている。<ref>{{Cite web |url=http://www.englishmonarchs.co.uk/vikings_10.html |title=Ivar the Boneless |last=Mahoney |first=Mike |website=www.englishmonarchs.co.uk |access-date=2017-04-14}}</ref> 彼はしばしばウイ・ウマール王朝の創始者であるイーヴァルと同一視され、9世紀中頃から10世紀にかけてヨーク市を拠点に[[ノーサンブリア王国|ノーサンブリア]]を支配し、ダブリン王国としてアイリッシュ海域を支配したと考えられている。<ref name=":02">{{Cite book |title=The northern conquest: Vikings in Britain and Ireland |last=Holman |first=Katherine |date=2007 |location=Oxford |publisher=Signal Books |oclc=166381361 |isbn=9781904955344 |language=en}}</ref>これにより、彼はクロヴァン王朝の祖先ともなった。 == 年表 == [[ファイル:Harley_MS_2278,_folio_39r_excerpt.jpg|サムネイル|ロブロカス(ロズブローク)とその息子たちイーヴァルとウッボ 15th-century miniature in ''Harley MS 2278'', folio 39r.]] [[ファイル:Harley_MS_2278,_folio_48r_excerpt.jpg|代替文=Refer to caption|右|サムネイル|田舎を荒らす Ívarr と Ubba の15世紀の描写。folio 48r of British Library Harley 2278.]] [[ファイル:Harley_MS_2278,_folio_47v_excerpt.jpg|代替文=Refer to caption|右|サムネイル|大英図書館ハーレー2278号のフォリオ47vに描かれた、父ロズブロクの仇を討つために旅立つÍvarrとUbbaの姿。]] * [[865年]]、イヴァールが率いる[[大異教徒軍]]が[[アングロ・サクソン人|アングロサクソン]]の[[ヘプターキー]]に侵攻した。<ref>{{Cite book |title=The Kings & Queens of Anglo-Saxon England |last=Venning |first=Timothy |date=2013-06-19 |publisher=Amberley |isbn=9781445608976 |language=en}}</ref> ヘプターキーは[[イースト・アングリア|イーストアングリア]]、[[エセックス]]、[[ケント (イングランド)|ケント]]、[[マーシア王国|マーシア]]、[[ノーサンブリア王国|ノーサンブリア]]、[[サセックス]]、および[[ウェセックス王国|ウェセックス]]の七王国の総称であった。侵攻は、[[ラグナル・ロズブローク|ラグナル・ロスブローク]]の息子たちによって組織され、かつてアングロサクソンの王エラ・オブ・[[ノーサンブリア王国|ノーサンブリア]]がラグナルを蛇の穴に投げ込んで殺害したとされる復讐のためだったが、この出来事の歴史的な正確性は不明。 <ref>{{Cite book |title=Norse Mythology: Legends Of Gods And Heroes |last=Munch |first=Peter Andreas |date=2010-09-10 |publisher=Kessinger Publishing, LLC |isbn=9781164510307 |editor-last=Olsen |editor-first=Magnus |language=en}}</ref><ref>{{Cite book |url=https://archive.org/details/historyofvikings0002jone |title=A History of the Vikings |last=Jones |first=Gwyn |date=1984-11-01 |publisher=Oxford University Press |isbn=9780192158826 |edition=Revised |language=en}}</ref> 伝説によれば、イーヴァルはエッラ王に打ち勝たず、和解を求めた。彼は牛の皮で覆えるだけの土地を求め、エッラ王に対して戦争を起こさないことを誓った。しかしその後イーヴァルは牛の皮を非常に細い糸に切り裂いて、大きな要塞(以前の伝説ではヨークで、後の伝説ではロンドンであった)を包み込むことができるほどの形状にし、彼は要塞を手に入れたと伝えられている。(この伝説的な策略は[[ディードー]]ものと類似性が見られる)。 * 翌年末、軍は北に向かい、867年に[[ヨーク (イングランド)|ヨーク]]で王{{仮リンク|エッラ (ノーサンブリア王)|en|Ælla of Northumbria|label=エッラ}}を捕らえた。<ref name=":12">{{Cite book |title=Viking Empires |last1=Forte |first1=Angelo |last2=Oram |first2=Richard |last3=Pedersen |first3=Frederik |date=2005-05-30 |publisher=Cambridge University Press |isbn=9780521829922 |edition=First |language=en}}</ref> 伝説によれば、エッラ王はイーヴァルとその兄弟によって[[血の鷲]]の刑によって処刑された。これは歴史的な正確性に議論がある処刑方法で、胸郭が後ろから開かれ、肺が引き抜かれ、翼のような形状になる。<ref name=":0">{{Cite book |title=The northern conquest: Vikings in Britain and Ireland |last=Holman |first=Katherine |date=2007 |location=Oxford |publisher=Signal Books |oclc=166381361 |isbn=9781904955344 |language=en}}</ref> 同じ年の後半、軍は南に向かい、[[マーシア王国]]に侵攻し、[[ノッティンガム]]の町を占拠し、冬を過ごした。マーシアの王バーグレット・オブ。マーシアは[[ウェスト・サセックス|西サセックス]]の王[[エゼルレッド (ウェセックス王)]]と提携し、合同軍は町に包囲された。アングロサクソンは市を奪回できなかったが、休戦が合意され、デーン人はヨークに撤退することになった。<ref name=":12" /> 大異教徒軍は1年以上にわたりヨークに滞在し、さらなる攻撃のために力を蓄えた。<ref name=":12" /> * イーヴァルとウッバは、869年に[[イースト・アングリア|イーストアングリア]]に戻った際の[[デーン人]]の指揮官であったとされる。彼らは[[イースト・アングリア|東アングリア]]王[[エドマンド殉教王]]にキリスト教を放棄するよう要求したが、拒否されたため処刑した。<ref>{{Cite book |title=The Anglo-Saxon Chronicle |date=1998-08-18 |publisher=Routledge |isbn=9780415921299 |editor-last=Swanton |editor-first=Michael J. |edition=First |language=en}}</ref> [[エドマンド殉教王]]の死の詳細は不明だが、彼の捕獲とラグナルの息子たちによる処刑は起こった可能性がある。<ref name=":2">{{Cite book |title=The political theology of Abbo of Fleury: A study of the ideas about society and law of the tenth-century monastic reform movement |last=Mostert |first=Marco |date=1987-01-01 |publisher=Verloren |isbn=9789065502094 |language=en}}</ref><ref>{{Cite book |title=The Anglo-Saxon Chronicle |date=1998-08-18 |publisher=Routledge |isbn=9780415921299 |editor-last=Swanton |editor-first=Michael J. |edition=First |language=en}}</ref> == 死 == アングロサクソンの年代記者のエゼルウェルドによれば、イーヴァルの死は870年とされている<ref>{{Cite book |title=The Kings & Queens of Anglo-Saxon England |last=Venning |first=Timothy |date=2013-06-19 |publisher=Amberley |isbn=9781445608976 |language=en}}</ref><nowiki> 。 アルスター年代記には、873年にイーマルが亡くなったと記載されている。また、アイルランドの断片年代記 にも873年の項目でイーマルの死が記録されている。</nowiki><ref>{{Cite web |url=http://www.ucc.ie/celt/published/T100017/index.html |title=Fragmentary Annals of Ireland 409 |access-date=2 February 2009 |publisher=CELT}}</ref> ライスリンドの王としてゴズフライト(つまり、イーマルの父)と同定されたのは17世紀の写本家によるものであった。元の11世紀の写本では、エントリーの対象は単に[[スカンディナヴィア|スカンジナビア]]の王(「ロクランの王」の意)と呼ばれており、おそらくはイーマルを指していたと考えられる。イーマルの死はアイルランド断片年代記以外で特記されておらず、死因である突然でひどい病気は他の資料には記載されていないが、これによりイーヴァルの[[古ノルド語]]のあだ名の真の起源が、彼の生涯の終わりに彼を襲った未知の病気の影響にある可能性がある。 1686年、農夫トーマス・ウォーカーがダービーシャーのレプトンでスカンジナビアの埋葬丘を発見した。これは[[大異教徒軍]]がメルシア王バーグレッドを倒した戦場の近くであり、その身の回りに部分的な骸骨が250を超える数あったことから、埋葬された人物は非常に高い地位にあったと考えられている。この埋葬丘がイーヴァルの最後の安息の地であったかもしれないとされている。<ref>{{Cite book |url=https://www.amazon.com/Vikings-History-Martin-Arnold-2008-04-14/dp/B01K945BXC/ |title=The Vikings: A Short History by Martin Arnold |last=Arnold |first=Martin |publisher=The History Press}}</ref> 伝説によれば、イーヴァルは攻撃される場所に自分を埋葬するように命じ、もしそうなれば土地にやってくる敵は不幸に遭うだろうと予言した。伝説によれば、この予言は真実であり、「庶子王ウィルヘルム([[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]])が上陸するとき、彼は埋葬地に行ってイーヴァルの丘を壊し、イーヴァルの体が腐敗していないことを見た。その後、ウィルヘルムは上陸侵攻を続け、勝利を収めた」とされている<ref>{{Cite news |url=http://mythologian.net/ivar-the-boneless-ragnar-lothbroks-son/ |title=Ivar the Boneless, Ragnar Lothbrok's Son - Mythologian.Net |newspaper=Symbols and Their Meanings - Mythology and Gods - Mythical Creatures |date=28 December 2015 |language=en-US |access-date=2017-04-19}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.uphellyaa.org/recent-festivals/up-helly-aa-2014/saga-of-ivar-the-boneless-ragnarsson |title=Saga of Ivar (The Boneless) Ragnarsson {{!}} Up Helly Aa |website=www.uphellyaa.org |language=en-GB |access-date=2017-04-19 |archive-date=20 April 2017 |archive-url=https://web.archive.org/web/20170420143200/http://www.uphellyaa.org/recent-festivals/up-helly-aa-2014/saga-of-ivar-the-boneless-ragnarsson |url-status=dead}}</ref>。 == 脚注 == {{reflist}} {{Normdaten}} [[Category:生年不明]] [[Category:873年没]] [[Category:9世紀のイングランド]] [[Category:七王国時代]] [[Category:ヴァイキング]] [[Category:ヴァイキング時代]] [[Category:9世紀の戦争]] [[Category:ノーサンブリア]] [[Category:スカンディナヴィア]] [[Category:北欧史の人物]] {{DEFAULTSORT:ほねなしのいうあある}}
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第3軍団 (ロシア陸軍)
第3軍団(だい3ぐんだん、ロシア語: 3-й армейский корпус)は、ロシア陸軍の軍団。西部軍管区隷下。 2022年6月、ロシアのウクライナ侵攻の影響に伴い、ロシア各地の志願兵を基幹に、ニジニ・ノヴゴロド州で創設された。団員には6か月契約でロシアの平均月収の3倍に当る月給20万ルーブル+インセンティブの高額報酬が約束されたが、定員の2万人には未充足で高齢者や麻薬中毒者、アルコール中毒者の志願兵も入隊したとされる。 2022年9月上旬、ウクライナ軍の攻勢に対抗するため友軍の救援で北東部ハルキウ州イジュームに配置されたが、返り討ちに遭い「戦況に何の影響も与えずに溶けて消えた」と評されてあまり役に立たずにハルキウ州の大部分を解放された。 2023年2月上旬、東部ドネツィク州ヴォルノヴァーハ地区ヴフレダールに配置された。 2023年5月上旬、第72独立自動車化狙撃旅団がワグネル・グループの援軍で東部ドネツィク州バフムートに配置されたが、第6中隊、第8中隊が全滅して撤退したため、ワグネルのエフゲニー・プリゴジン代表から「第72旅団がものすごい勢いで戦場から逃げ出した。現時点でバフムート市内に残っている部隊はワグネルだけだ」と批判された。その後に第72旅団はワグネルに私刑にされ、団員の殺害・暴行、装備没収の報復を受けたとローマン・ヴェネヴィチン旅団長が報告した。9月中旬にはバフムート郊外のアンドリーウカに配備されていたが、ウクライナ軍に包囲殲滅されてアンドリーウカを解放された。 2023年6月上旬、第6自動車化狙撃師団が第1軍団の援軍で東部ドネツィク州ポクロウシク地区アウディーイウカに配置された。
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第3軍団は、ロシア陸軍の軍団。西部軍管区隷下。
{{軍隊資料 |名称 = 第3軍団 |画像 = [[ファイル:2022_Russian_Invasion_bear_paw_vehicle_marking.svg|150px]] |画像説明 = |創設 = 2022年6月 |廃止 = |再編成 = |再廃止 = |国籍 = {{RUS}} |所属 = {{flagicon image|Flag_of_the_Russian_Federation_Ground_Forces.svg}} [[ロシア陸軍]] |規模 = [[軍団]] |兵科 = [[自動車化狙撃兵]] |兵種 = [[陸戦]] |人員 = 10,000人<ref name="FO">[https://www.forbes.com/sites/davidaxe/2022/09/15/the-russians-spent-months-forming-a-new-army-corps-it-lasted-days-in-ukraine/ The Russians Spent Months Forming A New Army Corps. It Lasted Days in Ukraine] フォーブス</ref> |所在地 = [[ニジニ・ノヴゴロド州]]ムリノ |編成地 = |通称号 = |愛称 = |標語 = |上級部隊 = [[西部軍管区 (ロシア)|西部軍管区]] |最終上級部隊 = |担当地域 = [[ニジニ・ノヴゴロド州]] |最終位置 = |主な戦歴 = [[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアのウクライナ侵攻]] |司令官 = ウラジーミル・ベリャフスキー[[少将]] }} '''第3軍団'''(だい3ぐんだん、{{Lang-ru|'''3-й армейский корпус'''}})は、[[ロシア陸軍]]の[[軍団]]。[[西部軍管区 (ロシア)|西部軍管区]]隷下。 == 概要 == === ロシアのウクライナ侵攻 === 2022年6月、[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアのウクライナ侵攻]]の影響に伴い、ロシア各地の志願兵を基幹に、[[ニジニ・ノヴゴロド州]]で創設された。団員には6か月契約でロシアの平均月収の3倍に当る月給20万ルーブル+インセンティブの高額報酬が約束されたが、定員の2万人には未充足で高齢者や麻薬中毒者、アルコール中毒者の志願兵も入隊したとされる<ref name="FO"/>。 ==== 北東部・イジューム戦線 ==== {{seealso|ウクライナ北東部攻勢|イジュームの戦い (2022年)|2022年ウクライナの東部反攻}} 2022年9月上旬、ウクライナ軍の攻勢に対抗するため友軍の救援で北東部[[ハルキウ州]][[イジューム]]に配置されたが、返り討ちに遭い「戦況に何の影響も与えずに溶けて消えた」と評されてあまり役に立たずにハルキウ州の大部分を解放された<ref name="FO"/><ref>[https://www.cnn.co.jp/world/35193092.html ウクライナ軍、北東部ハルキウ州で30超の集落を掌握 ゼレンスキー氏] CNN</ref>。 ==== 東部・南ドネツク戦線 ==== {{seealso|ヴフレダールの戦い}} 2023年2月上旬、東部[[ドネツィク州]][[ヴォルノヴァーハ]]地区ヴフレダールに配置された<ref>[https://www.understandingwar.org/backgrounder/russian-offensive-campaign-assessment-february-2-2023 Russian Offensive Campaign Assessment, February 2, 2023] 戦争研究所</ref>。 ==== 東部・バフムート戦線 ==== {{seealso|バフムートの戦い}} 2023年5月上旬、第72独立自動車化狙撃旅団が[[ワグネル・グループ]]の援軍で東部[[ドネツィク州]][[バフムート]]に配置されたが、第6中隊、第8中隊が全滅して撤退したため、ワグネルの[[エフゲニー・プリゴジン]]代表から「第72旅団がものすごい勢いで戦場から逃げ出した。現時点でバフムート市内に残っている部隊はワグネルだけだ」と批判された<ref>[https://www.cnn.co.jp/world/35203616.html ワグネルのトップ、ロシア軍の旅団に憤り バフムートの戦域から「逃げた」] CNN</ref><ref>[https://www.cnn.co.jp/world/35203612.html ウクライナ軍、バフムート付近で反撃に成功と主張] CNN</ref>。その後に第72旅団はワグネルに私刑にされ、団員の殺害・暴行、装備没収の報復を受けたとローマン・ヴェネヴィチン旅団長が報告した<ref>[https://www.moscowtimes.ru/2023/06/08/uvolennii-polkovnik-rasskazal-o-massovih-prestupleniyah-chvk-vagner-a45465 Уволенный полковник рассказал о массовых преступлениях ЧВК «Вагнер»] ザ・モスクワ・タイムズ</ref>。9月中旬にはバフムート郊外のアンドリーウカに配備されていたが、ウクライナ軍に包囲殲滅されてアンドリーウカを解放された<ref>[https://forbesjapan.com/articles/detail/66066 ウクライナ軍の精鋭旅団が猛攻、バフムート近郊のロシア軍旅団が全滅] フォーブス・ジャパン</ref>。 ==== 東部・アウディーイウカ戦線 ==== {{seealso|アウディーイウカの戦い (2022年)}} 2023年6月上旬、第6自動車化狙撃師団が[[第1軍団 (ロシア陸軍)|第1軍団]]の援軍で東部[[ドネツィク州]][[ポクロウシク]]地区[[アウディーイウカ (ドネーツィク州)|アウディーイウカ]]に配置された<ref>[https://www.understandingwar.org/backgrounder/russian-offensive-campaign-assessment-june-1-2023 Russian Offensive Campaign Assessment, June 1, 2023] 戦争研究所</ref>。 == 編制 == * 軍団司令部(ムリノ) * 第6自動車化狙撃師団 * {{仮リンク|第72独立自動車化狙撃旅団 (ロシア陸軍)|ru|72-я отдельная мотострелковая бригада|en|72nd Separate Motor Rifle Brigade|label=第72独立自動車化狙撃旅団}} * 第27砲兵旅団 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{DEFAULTSORT:くんたん03}} [[Category:ロシア陸軍の軍団|03]] [[Category:ニジニ・ノヴゴロド州]]
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大井駿
大井 駿(おおい しゅん、1993年4月10日 - )は、日本の指揮者、ピアニスト、古楽器奏者。 東京都で生まれ、幼少期を鳥取県鳥取市で過ごす。幼い頃よりピアノを始める。2012年、高校卒業後に渡欧。ヨーロッパ各地にて指揮、ピアノ、チェンバロやフォルテピアノなどの古楽器をそれぞれ専攻。 2016年、ザルツブルク・モーツァルテウム大学の学内ピアノオーディションにて優勝し、バート・ライヒェンハル管弦楽団(ドイツ語版)との演奏会でベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番を弾き振りにて演奏。 2022年、広島にて行なわれた第1回次世代指揮者コンクールにて優勝、ならびに細川俊夫の作品の最も優れた演奏に贈られる細川賞を作曲者本人より受賞。 2023年には、ポーランドのワルシャワにて行なわれた、第2回ショパン国際ピリオド楽器コンクールの本大会にも出場。 指揮者、またはソリストとして、東京都交響楽団、読売日本交響楽団、東京フィルハーモニー交響楽団、広島交響楽団、広島ウインドオーケストラ、モーツァルテウム管弦楽団、バート・ライヒェンハル管弦楽団(ドイツ語版)、マイニンゲン宮廷楽団、パリ警視庁吹奏楽団(英語版)などの国内外のオーケストラと共演。 オーストリア国営放送(ORF)「Entrada」や、テレビ朝日「題名のない音楽会」といったメディアにも多数出演。 フランス、ドイツ、オーストリア、イタリア、スイスなど5つの国にて学び、それぞれ3つの分野を主専攻として修めている。
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大井 駿は、日本の指揮者、ピアニスト、古楽器奏者。
{{Infobox Musician | Name = 大井 駿<br />{{small|Shun Oi}} | Background = classic | Origin = {{JPN}} [[東京都]] | Genre = [[クラシック音楽|クラシック]]<br />[[古楽]] | School_background = {{FRA}} [[パリ地方音楽院]]<br />{{AUT}} [[ザルツブルク・モーツァルテウム大学]]<br />{{DEU}} [[ミュンヘン音楽・演劇大学]]<br />{{ITA}} カステルフランコ・ヴェーネト音楽院<br />{{CHE}} [[バーゼル・スコラ・カントルム]] | Born = {{生年月日と年齢|1993|04|10}} | Occupation = [[指揮者]]<br />[[ピアニスト]]<br />[[古楽器]]奏者 }} {{Portal クラシック音楽}} '''大井 駿'''(おおい しゅん、[[1993年]][[4月10日]] - )は、日本の[[指揮者]]、[[ピアニスト]]、[[古楽器]]奏者。 == 略歴 == [[東京都]]で生まれ、幼少期を[[鳥取県]][[鳥取市]]で過ごす<ref>{{Cite web |title=ヤマハ・ガラ・コンサート 2023 - ヤマハ・ガラ・コンサート - ヤマハ音楽振興会 |url=https://www.yamaha-mf.or.jp/gala/gala_23/ |website=www.yamaha-mf.or.jp |access-date=2023-11-15}}</ref>。幼い頃よりピアノを始める<ref>{{Cite web |title=音楽奨学支援 活動リポート(9) 大井 駿さん |url=https://www.yamaha-mf.or.jp/webymf/support/18070201/ |website=Web広報誌ymf - ヤマハ音楽振興会 |date=2018-07-02 |access-date=2023-11-15 |language=ja |first=YAMAHA MUSIC |last=FOUNDATION}}</ref>。2012年、高校卒業後に渡欧。ヨーロッパ各地にて[[指揮 (音楽)|指揮]]、[[ピアノ]]、[[チェンバロ]]や[[フォルテピアノ]]などの[[古楽器]]をそれぞれ専攻。 [[2016年]]、[[ザルツブルク・モーツァルテウム大学]]の学内ピアノオーディションにて優勝し、{{仮リンク|バート・ライヒェンハル管弦楽団|de|Bad Reichenhaller Philharmoniker}}との演奏会で[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[ピアノ協奏曲第1番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第1番]]を[[弾き振り]]にて演奏<ref>{{Cite web |title=【公開録音】大井 駿[pf.] 、江沢 茂敏[pf.](2018年7月19日(木)) {{!}} ピアノコンサート {{!}} ピティナ・ピアノホームページ |url=https://www.piano.or.jp/concert/news/2018/04/02_24211.html |website=www.piano.or.jp |access-date=2023-11-15}}</ref>。 [[2022年]]、[[広島県|広島]]にて行なわれた第1回次世代指揮者コンクールにて優勝、ならびに[[細川俊夫 (作曲家)|細川俊夫]]の作品の最も優れた演奏に贈られる細川賞を作曲者本人より受賞<ref>{{Cite web |title=アンコール:広島から発信 次世代指揮者アカデミー&コンクール初開催 |url=https://mainichi.jp/articles/20220830/org/00m/200/001000d |website=毎日新聞 |access-date=2023-11-15 |language=ja}}</ref>。 [[2023年]]には、[[ポーランド]]の[[ワルシャワ]]にて行なわれた、第2回[[ショパン国際ピリオド楽器コンクール]]の本大会にも出場<ref>{{Cite web |title=第2回ショパン国際ピリオド楽器コンクールの出場者が発表 |url=https://ontomo-mag.com/article/column/chopin-period-participants/ |website=音楽っていいなぁ、を毎日に。| Webマガジン「ONTOMO」 |access-date=2023-11-15}}</ref>。 [[2018年]]、[[2019年]]、[[2020年]]度[[ヤマハ音楽振興会]]音楽支援奨学生、[[2023年]]度[[ローム]]・ミュージック・ファンデーション奨学生。 == 共演歴 == 指揮者、またはソリストとして、[[東京都交響楽団]]<ref>{{Cite web |title=SaLaDプレミアムコンサート 日野/町田 {{!}} [サラダ音楽祭]TOKYO MET SaLaD MUSIC FESTIVAL 2023 |url=https://salad-music-fes.com/premium01/ |date=2021-07-02 |access-date=2023-11-15 |language=ja}}</ref>、[[読売日本交響楽団]]<ref>{{Cite web |title=第35回読響アンサンブル・シリーズ {{!}} コンサート {{!}} 読売日本交響楽団 |url=https://yomikyo.or.jp/concert/2022/02/35-1.php |website=yomikyo.or.jp |access-date=2023-11-15}}</ref>、[[東京フィルハーモニー交響楽団]]<ref>{{Cite web |title=「ヤマハ・ガラ・コンサート2023」開催 共演:東京フィルハーモニー交響楽団/指揮:大井駿 |url=https://kyodonewsprwire.jp/release/202307137130 |website=共同通信PRワイヤー |date=2023-07-28 |access-date=2023-11-15 |language=ja}}</ref>、[[広島交響楽団]]<ref>{{Cite web |title=大井駿が指揮 広島交響楽団の「音楽の花束~秋」に1100人 |url=https://www.47news.jp/10116601.html |website=47NEWS |access-date=2023-11-15 |language=ja}}</ref>、[[広島ウインドオーケストラ]]、[[モーツァルテウム管弦楽団]]、{{仮リンク|バート・ライヒェンハル管弦楽団|de|Bad Reichenhaller Philharmoniker}}、[[マイニンゲン宮廷楽団]]、{{仮リンク|パリ警視庁吹奏楽団|en|La Musique des Gardiens de la Paix}}などの国内外の[[オーケストラ]]と共演。 [[オーストリア放送協会|オーストリア国営放送(ORF)]]「Entrada」<ref>{{Cite web |title=Shun Oi, Dirigent |url=https://oe1.orf.at/artikel/698448/Shun-Oi-Dirigent |website=oe1.orf.at |access-date=2023-11-15 |language=de |last=oe1.orf.at}}</ref>や、[[テレビ朝日]]「[[題名のない音楽会]]」<ref>{{Cite web |title=これまでの放送|題名のない音楽会|テレビ朝日 |url=https://www.tv-asahi.co.jp/daimei/backnumber/0009/ |website=www.tv-asahi.co.jp |access-date=2023-11-15 |language=ja}}</ref>といったメディアにも多数出演。 == 学歴・師事歴 == [[フランス]]、[[ドイツ]]、[[オーストリア]]、[[イタリア]]、[[スイス]]など5つの国にて学び、それぞれ3つの分野を主専攻として修めている。 === 指揮 === * [[ザルツブルク・モーツァルテウム大学]]指揮科卒業、同[[大学院]]修士課程指揮科修了 ** [[ブルーノ・ヴァイル]]、{{仮リンク|ヨハネス・カリツケ|en|Johannes Kalitzke}}、{{仮リンク|イオン・マリン|en|Ion Marin}}に師事。 === ピアノ === * [[パリ地方音楽院]]ピアノ科卒業 * カステルフランコ・ヴェーネト音楽院ピアノ科ディプロム課程修了<ref>{{Cite web |title=音楽奨学支援 活動リポート(9) 大井 駿さん |url=https://www.yamaha-mf.or.jp/webymf/support/18070201/ |website=Web広報誌ymf - ヤマハ音楽振興会 |date=2018-07-02 |access-date=2023-11-15 |language=ja |first=YAMAHA MUSIC |last=FOUNDATION}}</ref> * ザルツブルク・モーツァルテウム大学ピアノ科卒業 ** 迫昭嘉、[[ジャック・ルヴィエ]]、{{仮リンク|アンドレアス・グロートホイゼン|en|Duo Tal & Groethuysen}}に師事。 === 古楽 === * [[ミュンヘン音楽・演劇大学]]古楽科卒業 * [[バーゼル・スコラ・カントルム]]大学院フォルテピアノ科修了 **{{仮リンク|クリスティーネ・ショルンスハイム|en|Christine Schornsheim}}、エドアルド・トルビアネッリ、{{仮リンク|ラインハルト・ゲーベル|en|Reinhard Goebel}}に師事。 == 人物 == * 趣味は[[天体観測]]、[[スクーバダイビング|ダイビング]]、[[キャンプ]]、[[スキー]]。[[歴史]]についても詳しい。<ref>{{Cite web |title=大井駿|ONTOMOナビゲーター |url=https://ontomo-mag.com/people/shun-oi/ |website=音楽っていいなぁ、を毎日に。| Webマガジン「ONTOMO」 |access-date=2023-11-15}}</ref> * [[日本語]]のほかに、[[英語]]、[[ドイツ語]]、[[フランス語]]が堪能。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://www.shun-oi.com/ja ホームページ] * [https://ontomo-mag.com/people/shun-oi/?people_pager=3 大井駿] - [[音楽之友社]]Webマガジン「ONTOMO」 {{DEFAULTSORT:おおの しゆん}} [[Category:日本の指揮者]] [[Category:日本のピアニスト]] [[Category:日本のチェンバロ奏者]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:ミュンヘン音楽・演劇大学出身の人物]] [[Category:1993年生]] [[Category:存命人物]]
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ドナウ川クルーズ
ドナウ川クルーズ(ドナウがわクルーズ、英語: Danube River cruise)はヨーロッパの大河・ドナウ川を船で航行することで、特にドイツ・パッサウからハンガリー・ブダペストまでが観光航路として盛んで、東洋の長江クルーズに相当する。 現在、ドナウ川では黒海からルーマニアのブライラまで航海用大型船の航行ができ、河川航行用船舶ではドイツのケルハイム(Kelheim)まで、小型船ならウルムまで可能である。1992年完成のライン・マイン・ドナウ運河により、北海のロッテルダムから黒海のスリナまで航行ができ、1994年からは汎ヨーロッパ回廊にも指定された。 観光客用にクルーズ客船の運用も盛んで、ドナウ川クルーズは東洋の長江三峡下りに相当し、特にドイツ南部パッサウからハンガリー・ブダペストまでが盛んで、途中オーストリア・スロバキアを経由する。 文学や芸術関係では、ヨハン・シュトラウス2世の合唱用のウィンナ・ワルツ「美しく青きドナウ」(1867年)がよく知られている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ドナウ川クルーズ(ドナウがわクルーズ、英語: Danube River cruise)はヨーロッパの大河・ドナウ川を船で航行することで、特にドイツ・パッサウからハンガリー・ブダペストまでが観光航路として盛んで、東洋の長江クルーズに相当する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "現在、ドナウ川では黒海からルーマニアのブライラまで航海用大型船の航行ができ、河川航行用船舶ではドイツのケルハイム(Kelheim)まで、小型船ならウルムまで可能である。1992年完成のライン・マイン・ドナウ運河により、北海のロッテルダムから黒海のスリナまで航行ができ、1994年からは汎ヨーロッパ回廊にも指定された。", "title": "航路" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "観光客用にクルーズ客船の運用も盛んで、ドナウ川クルーズは東洋の長江三峡下りに相当し、特にドイツ南部パッサウからハンガリー・ブダペストまでが盛んで、途中オーストリア・スロバキアを経由する。", "title": "観光" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "文学や芸術関係では、ヨハン・シュトラウス2世の合唱用のウィンナ・ワルツ「美しく青きドナウ」(1867年)がよく知られている。", "title": "文化" } ]
ドナウ川クルーズはヨーロッパの大河・ドナウ川を船で航行することで、特にドイツ・パッサウからハンガリー・ブダペストまでが観光航路として盛んで、東洋の長江クルーズに相当する。
[[File:Passau Altstadt Panorama 5.jpg|thumb|right|350px|ドイツ・[[パッサウ]]の[[ドナウ川]]で]] [[File:Országház (509. számú műemlék) 39.jpg|thumb|right|350px|ハンガリー・[[ブダペスト]]のドナウ川]] '''ドナウ川クルーズ'''(ドナウがわクルーズ、{{Lang-en|Danube River cruise}})はヨーロッパの大河・[[ドナウ川]]を船で航行することで、特にドイツ・[[パッサウ]]からハンガリー・[[ブダペスト]]までが観光航路として盛んで、東洋の[[長江三峡下り|長江クルーズ]]に相当する。 ==航路== 現在、ドナウ川では[[黒海]]から[[ルーマニア]]の[[ブライラ]]まで[[航海]]用大型船の航行ができ、河川航行用船舶ではドイツのケルハイム([[:en:Kelheim|Kelheim]])まで、小型船なら[[ウルム]]まで可能である。1992年完成の[[ライン・マイン・ドナウ運河]]により、[[北海]]の[[ロッテルダム]]から黒海の[[スリナ]]まで航行ができ、1994年からは[[汎ヨーロッパ回廊]]にも指定された。 ==観光== 観光客用に[[クルーズ客船]]の運用も盛んで、ドナウ川クルーズは東洋の[[長江三峡下り]]に相当し、特にドイツ南部[[パッサウ]]からハンガリー・[[ブダペスト]]までが盛んで、途中オーストリア・スロバキアを経由する。<ref>[https://www.frommers.com/slideshows/818945-10-best-river-cruises 10 Best River Cruises (Frommer's, 2019)]</ref><ref>[https://www.icruises.jp/area/danuberiver.html ドナウ川クルーズの魅力(iCruise アイ・クルーズ、2019年)]</ref> ==文化== 文学や芸術関係では、[[ヨハン・シュトラウス2世]]の合唱用の[[ウィンナ・ワルツ]]「[[美しく青きドナウ]]」(1867年)がよく知られている。 ==関連項目== *[[リバー・クルーズ]] ==脚注== {{Reflist}} ==外部リンク== {{Commonscat|Water transport on the Danube}} *[https://www.icruises.jp/area/danuberiver.html ドナウ川クルーズの魅力(iCruise アイ・クルーズ、2019年)] {{DEFAULTSORT:となうかわくるうす}} [[Category:観光の形式]] [[Category:ドナウ川]]
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旧本庄警察署
旧本庄警察署(きゅうほんじょうけいさつしょ)は、埼玉県本庄市中央1-2-3にある建築物(擬洋風建築)。埼玉県指定文化財。旧本庄市立歴史民俗資料館(ほんじょうしりつれきしみんぞくしりょうかん)。 1883年(明治16年)に本庄警察署として建てられた建物である。 1972年(昭和47年)3月に埼玉県指定文化財に指定された。1980年(昭和55年)11月に本庄市立歴史民俗資料館が開館した。 2020年(令和2年)2月29日をもって閉館した。 2階ベランダには彫刻が施された円柱がある。窓は1階・2階ともに分銅付の上下開閉式である。室内の天井には円形の漆喰レリーフが施されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "旧本庄警察署(きゅうほんじょうけいさつしょ)は、埼玉県本庄市中央1-2-3にある建築物(擬洋風建築)。埼玉県指定文化財。旧本庄市立歴史民俗資料館(ほんじょうしりつれきしみんぞくしりょうかん)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1883年(明治16年)に本庄警察署として建てられた建物である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1972年(昭和47年)3月に埼玉県指定文化財に指定された。1980年(昭和55年)11月に本庄市立歴史民俗資料館が開館した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2020年(令和2年)2月29日をもって閉館した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2階ベランダには彫刻が施された円柱がある。窓は1階・2階ともに分銅付の上下開閉式である。室内の天井には円形の漆喰レリーフが施されている。", "title": "建築" } ]
旧本庄警察署(きゅうほんじょうけいさつしょ)は、埼玉県本庄市中央1-2-3にある建築物(擬洋風建築)。埼玉県指定文化財。旧本庄市立歴史民俗資料館(ほんじょうしりつれきしみんぞくしりょうかん)。
{{建築物 |名称 =旧本庄警察署 |旧名称 = |画像 =[[File:Old Honjo Police Station ac (2).jpg|250px]] |画像説明 = |用途 = |旧用途 = [[警察署]] |設計者 = |構造設計者 = |設備設計者 = |施工 = |建築主 = |事業主体 = |管理運営 = |構造形式 = 木造 |敷地面積= |敷地面積ref= |敷地面積備考= |建築面積= |建築面積ref= |建築面積備考= |延床面積= |延床面積ref= |延床面積備考= |階数 = 2階建 |高さ = |エレベーター数 = |戸数 = |駐車台数 = |着工 = |竣工 = 1886年 |開館開所 = |改築 = |解体 = |所在地郵便番号 = 367-0053 |所在地 = [[埼玉県]][[本庄市]]中央1-2-3 |緯度度 =36 |緯度分 =14 |緯度秒 = 30.8 |経度度 =139 |経度分 =11 |経度秒 = 5.1 |座標右上表示 = no |位置図種類 = Japan Saitama |文化財指定 = 埼玉県指定文化財 |指定日 =1972年3月 |備考 = }} '''旧本庄警察署'''(きゅうほんじょうけいさつしょ)は、[[埼玉県]][[本庄市]]中央1-2-3にある[[建築物]]([[擬洋風建築]])。埼玉県指定文化財。旧本庄市立歴史民俗資料館(ほんじょうしりつれきしみんぞくしりょうかん)<ref>{{Cite journal| 和書 |url=https://www.city.honjo.lg.jp/material/files/group/45/202002-36.pdf |title=歴史民俗資料館(旧本庄警察署)閉館のお知らせ |journal=広報ほんじょう |publisher=本庄市 |format=PDF |accessdate=2023-09-09}}</ref>。 == 歴史 == 1883年(明治16年)に[[本庄警察署]]として建てられた建物である。 1972年(昭和47年)3月に埼玉県指定文化財に指定された。1980年(昭和55年)11月に本庄市立歴史民俗資料館が開館した。 2020年(令和2年)2月29日をもって閉館した。 == 建築 == 2階ベランダには彫刻が施された円柱がある<ref name="honjo">{{Cite web |url=https://www.city.honjo.lg.jp/soshiki/kyoikuiinkai/bunkazai/tantoujouhou/bunkazai/1380153171392.html |title=旧本庄警察署 |publisher=本庄市 |accessdate=2023-09-09}}</ref>。窓は1階・2階ともに分銅付の上下開閉式である<ref name="honjo"/>。室内の天井には円形の漆喰レリーフが施されている<ref name="honjo"/>。 == 展示 == * 1階 ** [[縄文時代]]から[[弥生時代]]の[[土器]] ** [[古墳時代]]の[[埴輪]] * 2階 ** 近世から近代の資料 == 利用案内 == * 開館時間:午前9時~午後4時30分 * 休館日:月曜 * アクセス : [[東日本旅客鉄道|JR]][[高崎線]][[本庄駅]]から徒歩15分 == 脚注 == {{Commonscat|Old Honjo Police Station}} {{Reflist}} {{Museum-stub}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ほんしようしれきしみんそくしりようかん}} [[Category:日本の郷土博物館]] [[Category:埼玉県の博物館]] [[Category:擬洋風建築]] [[Category:西洋館]] [[Category:1883年竣工の日本の建築物]] [[Category:1980年開設の博物館]]
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祝雷
祝 雷(チュー・レイ)は、中国の電子工学者。マカオ大学科技学院講座教授。IEEEフェロー。 1985年南京工業大学(のちの東南大学)卒業、工学士。1988年東南大学大学院修了、工学修士。1989年から日本政府奨学金を得て、1993年電気通信大学大学院修了、博士(工学)、松下寿電子工業入社。 1996年モントリオール理工科大学博士研究員。2000年南洋理工大学電子工学部准教授。2012年「平面マイクロ波フィルターのモデリング、設計、開発への貢献」によりIEEEフェローとなった。 2013年マカオ大学教授。2016年マカオ大学ディスティングイッシュトプロフェッサー。2023年マカオ大学講座教授。専門は高周波工学、マイクロ波工学、アンテナ工学、応用電磁気学。
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祝 雷(チュー・レイ)は、中国の電子工学者。マカオ大学科技学院講座教授。IEEEフェロー。
'''祝 雷'''(チュー・レイ)は、[[中国]]の[[電子工学者]]。[[マカオ大学]]科技学院講座教授。[[IEEEフェロー]]。 == 人物・経歴 == 1985年南京工業大学(のちの[[東南大学]])卒業、[[工学士]]。1988年[[東南大学]]大学院修了、[[工学修士]]<ref name="um"/>。1989年から[[日本政府]]の奨学金を得て<ref name="ut"/>、1993年[[電気通信大学]]大学院修了、[[博士(工学)]]<ref>[https://ci.nii.ac.jp/naid/500000094916 Studies on boundary integral equation method for the analysis of transmission lines with complex cross-sections 複雑な断面構造を持つマイクロ波伝送線路の解析のための境界積分方程式法の研究 祝, 雷 チュー, レイ]</ref>、[[松下寿電子工業]]入社<ref name="ut">[https://www.fst.um.edu.mo/personal/leizhu/ Lei ZHU 祝雷 Chair Professor IEEE Fellow]マカオ大学</ref>。 1996年[[モントリオール理工科大学]][[博士研究員]]<ref name="ut"/>。2000年[[南洋理工大学]]電子工学部准教授<ref name="ut"/>。2012年「平面マイクロ波フィルターのモデリング、設計、開発への貢献」により[[IEEEフェロー]]となった<ref>[https://www.ieee.org/documents/fellows_class_2012.pdf 2012 elevated fellow]IEEE Fellows Directory</ref>。 2013年[[マカオ大学]]教授。2016年マカオ大学[[ディスティングイッシュトプロフェッサー]]。2023年マカオ大学講座教授<ref name="ut"/><ref name="um">[https://www.fst.um.edu.mo/people/leizhu/ Lei ZHU祝雷 Chair Professor]University of Macau - Faculty of Science and Technology</ref>。専門は[[高周波]]工学、[[マイクロ波工学]]、[[アンテナ]]工学、応用[[電磁気学]]<ref name="um"/>。 == 脚註 == {{Reflist}} {{People-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ちゆ れい}} [[Category:中国の工学者]] [[Category:パナソニックグループの人物]] [[Category:日本留学経験者]] [[Category:IEEEフェロー]] [[Category:澳門大学の教員]] [[Category:南洋理工大学の教員]] [[Category:博士(工学)取得者]] [[Category:電気通信大学出身の人物]] [[Category:東南大学出身の人物]] [[Category:存命人物]]
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生活デザイン学科
生活デザイン学科(せいかつデザインがっか)は、日本の大学や短期大学に開設されているデザイン学科の一つ。 美術学部や工学部などで開設するデザイン学のほか、家政学・生活科学系の学部で学ばれていた被服学・ファッションデザイン、住居学・住居建築・インテリアデザインのほか、IT情報デザイン(デジタルアート)、地域学(地域研究・地域デザイン)などのカリキュラムを備えている。 これらを総合的に学ぶ場合と、専攻・コース制などにして学ぶ場合とある。 取得を目標としている資格には、建築士、学芸員、学校図書館司書教諭資格、社会教育主事、教育職員免許状(芸術系学部なら美術、家政学部等なら家庭)衣料管理士(テキスタイルアドバイザー)、インテリアプランナー、インテリアコーディネーター、ウェブデザイン実務士、情報処理技術者、生活園芸士、パターンメーキング技術検定、商業施設士補、色彩検定(色彩コーディネーター)、キッチンスペシャリスト、マンションリフォームマネジャー、フードスペシャリスト、ファッションビジネス能力検定、プロダクトデザイン検定、CAD利用技術者試験、リテールマーケティング検定(販売士検定)など。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "生活デザイン学科(せいかつデザインがっか)は、日本の大学や短期大学に開設されているデザイン学科の一つ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "美術学部や工学部などで開設するデザイン学のほか、家政学・生活科学系の学部で学ばれていた被服学・ファッションデザイン、住居学・住居建築・インテリアデザインのほか、IT情報デザイン(デジタルアート)、地域学(地域研究・地域デザイン)などのカリキュラムを備えている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "これらを総合的に学ぶ場合と、専攻・コース制などにして学ぶ場合とある。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "取得を目標としている資格には、建築士、学芸員、学校図書館司書教諭資格、社会教育主事、教育職員免許状(芸術系学部なら美術、家政学部等なら家庭)衣料管理士(テキスタイルアドバイザー)、インテリアプランナー、インテリアコーディネーター、ウェブデザイン実務士、情報処理技術者、生活園芸士、パターンメーキング技術検定、商業施設士補、色彩検定(色彩コーディネーター)、キッチンスペシャリスト、マンションリフォームマネジャー、フードスペシャリスト、ファッションビジネス能力検定、プロダクトデザイン検定、CAD利用技術者試験、リテールマーケティング検定(販売士検定)など。", "title": null } ]
生活デザイン学科(せいかつデザインがっか)は、日本の大学や短期大学に開設されているデザイン学科の一つ。 美術学部や工学部などで開設するデザイン学のほか、家政学・生活科学系の学部で学ばれていた被服学・ファッションデザイン、住居学・住居建築・インテリアデザインのほか、IT情報デザイン(デジタルアート)、地域学(地域研究・地域デザイン)などのカリキュラムを備えている。 これらを総合的に学ぶ場合と、専攻・コース制などにして学ぶ場合とある。 取得を目標としている資格には、建築士、学芸員、学校図書館司書教諭資格、社会教育主事、教育職員免許状(芸術系学部なら美術、家政学部等なら家庭)衣料管理士(テキスタイルアドバイザー)、インテリアプランナー、インテリアコーディネーター、ウェブデザイン実務士、情報処理技術者、生活園芸士、パターンメーキング技術検定、商業施設士補、色彩検定(色彩コーディネーター)、キッチンスペシャリスト、マンションリフォームマネジャー、フードスペシャリスト、ファッションビジネス能力検定、プロダクトデザイン検定、CAD利用技術者試験、リテールマーケティング検定(販売士検定)など。
'''生活デザイン学科'''(せいかつデザインがっか)は、日本の[[大学]]や[[短期大学]]に開設されている[[デザイン学科]]の一つ。 [[美術学部]]や[[工学部]]などで開設する[[デザイン学]]のほか、[[家政学]]・[[生活科学]]系の[[学部]]で学ばれていた[[被服学]]・[[ファッションデザイン]]、[[住居学]]・住居[[建築]]・[[インテリアデザイン]]のほか、[[IT]][[情報デザイン]]([[デジタルアート]])、[[地域学]]([[地域研究]]・地域デザイン)などの[[カリキュラム]]を備えている<ref>[https://www.kwuc.ac.jp/assets/pdf/introduction/information/ninka/design-outline_01.pdf 設置の趣旨等を記載した書類 (家政学部 生活デザイン学科)] 九州女子大学</ref>。 これらを総合的に学ぶ場合と、[[専攻]]・コース制などにして学ぶ場合とある。 取得を目標としている[[資格]]には、[[建築士]]、[[学芸員]]、学校図書館[[司書]]教諭資格、[[社会教育主事]]、[[教育職員免許状]](芸術系学部なら美術、家政学部等なら家庭)衣料管理士(テキスタイルアドバイザー)、[[インテリアプランナー]]、[[インテリアコーディネーター]]、ウェブデザイン実務士、[[情報処理技術者]]、生活園芸士、パターンメーキング技術検定、商業施設士補、[[色彩検定]](色彩コーディネーター)、キッチンスペシャリスト、[[マンションリフォームマネジャー]]、[[フードスペシャリスト]]、ファッションビジネス能力検定、プロダクトデザイン検定、[[CAD利用技術者試験]]、リテールマーケティング検定([[販売士検定]])など。 == 生活デザイン学科のある教育機関 == * [[東北工業大学]] [[ライフデザイン学部]](学科の旧名は安全安心生活デザイン学科) * [[東京家政学院大学]] 現代生活学部 * [[相模女子大学]] [[学芸学部]] * [[岐阜市立女子短期大学]] [ファッション専修 建築・インテリア専修 ビジュアル専修] * [[滋賀県立大学]] [[人間文化学部]] * [[安田女子大学]] [[家政学部]] [生活デザインコースと建築デザインコース] * [[大阪成蹊短期大学]] [<nowiki/>[[イラスト]]・[[アニメ]]・デザインコース]と[<nowiki/>[[アパレル]]・ファッションコース] * [[広島女学院大学]] [[人間生活学部]] [生活プロデュース、被服・ファッションデザイン、インテリア・建築、地域デザイン] * [[九州女子大学]] 家政学部 [<nowiki/>[[家庭科]]教育コース] [インテリアデザインコース] [<nowiki/>[[ライフデザイン]]コース](旧 人間生活学科) * [[活水女子大学]] 健康生活学部 (建築、インテリア、プロダクト、アパレルの分野) == 類似学科・コース等を開設する教育機関 == * [[ライフデザイン学科]]([[大妻女子大学]] 家政学部 など) * [[宮城学院女子大学]] [[生活科学部]] 生活文化デザイン学科 [生活文化・地域社会コース] [建築・まちづくりコース] [住居・インテリアコース] * [[日本大学短期大学部]](船橋) 建築・生活デザイン学科 [デザイン系]と[エンジニアリング系] * [[日本工業大学建築学部]] 建築学科・生活環境デザインコース * [[愛国学園短期大学]] 生活デザイン専攻(フード系、ファッション系、福祉系、事務系) * [[共立女子短期大学]] 生活科学科 [生活デザインコース](フードデザイン系、プロダクトデザイン系、ファッションデザイン系、インテリアデザイン系) * [[拓殖大学工学部]] デザイン学科 生活デザインコース(プロダクトデザインや空間デザイン等) * [[愛知学泉短期大学]] 生活デザイン総合学科 * [[椙山女学園大学]] [[人間関係学部]] 生活環境デザイン学科 [アパレルメディア分野] [インテリア・プロダクト分野] [建築・住居分野] * [[仁愛女子短期大学]] 生活科学学科 生活デザイン専攻 * [[京都女子大学]] 家政学部 生活造形学科 * [[神戸国際大学]] [[経済学部]] 国際文化ビジネス・観光学科 生活デザインコース(建築系が中心) * [[武庫川女子大学]] [[生活環境学部]] 生活環境学科 [被服学コース] [アパレルコース] [生活デザインコース] [環境デザインコース] [建築デザインコース] [まちづくりコース] * 武庫川女子大学短期大学部 生活造形学科 * [[比治山大学短期大学部]] 総合生活デザイン学科(以前は[[栄養士]]養成課程もあった) * [[九州産業大学]] 芸術学部 生活環境デザイン学科 == かつて設置していた教育機関 == * [[武蔵野美術大学短期大学部]] * [[京都ノートルダム女子大学]] 現代人間学部 に福祉生活デザイン学科があったが、生活環境学科へ * [[山陽学園短期大学]] - 2003年 人間文化学科を統合しキャリアデザイン学科に * [[山口県立大学|山口女子大学]] 家政学部 == 脚注 == <references /> == 関連項目 == * [[芸術系学科のある短期大学一覧]] * [[建築学部]] / [[建築学科]] * [[家政科]] * [[ファッションデザイン学科]] {{デフォルトソート:せいかつてさいんかくか}} [[カテゴリ:生活科学]] [[カテゴリ:日本のデザイン学校]] [[カテゴリ:大学の学科]]
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ロベルト・チポラ
ロベルト・チポラ(Roberto Cipolla)は、イギリスの情報工学者。ケンブリッジ大学教授。東芝欧州社ケンブリッジ研究所所長。王立協会フェロー。 ウォリックシャー州ソリフル生まれ。1984年ケンブリッジ大学クイーンズ・カレッジ卒業。1986年ペンシルベニア大学大学院修士課程修了、M.S.E.。1988年電気通信大学大学院修士課程修了、工学修士。1991年オックスフォード大学ベリオール・カレッジ大学院博士課程修了、D.Phill。 同年東芝フェロー。1992年ケンブリッジ大学講師、ジーザス・カレッジフェロー。1997年同リーダー。2000年同教授。2004年ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ教授。2007年東芝欧州社ケンブリッジ研究所所長。2010年王立工学アカデミー(英語版)フェロー。2022年王立協会フェロー。
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ロベルト・チポラは、イギリスの情報工学者。ケンブリッジ大学教授。東芝欧州社ケンブリッジ研究所所長。王立協会フェロー。
{{Infobox person | name = ロベルト・チポラ | image = RobertoCipolla1.jpg | birth_date = | birth_place = {{GBR}} [[ソリフル]] | birth_name = | nationality = | occupation = | title = | awards = | website = | education = [[ケンブリッジ大学]]<br>[[ペンシルベニア大学]]<br>[[電気通信大学]]<br>[[オックスフォード大学]] | alma_mater = | thesis_title = | thesis_url = | thesis_year = | workplaces =[[ケンブリッジ大学]] }} '''ロベルト・チポラ'''(Roberto Cipolla)は、[[イギリス]]の[[情報工学者]]。[[ケンブリッジ大学]]教授。[[東芝]]欧州社ケンブリッジ研究所所長。[[王立協会フェロー]]。 == 人物・経歴 == [[ウォリックシャー州]][[ソリフル]]生まれ<ref>{{Cite web|date=2009-08-24|title=Do the maths|url=http://mi.eng.cam.ac.uk/~cipolla/archive/Public-Understanding/2009-Sunday-Times-Maths.pdf|access-date=2021-01-27|website=Times Online|language=en}}</ref><ref name="whoswho"/>。1984年[[ケンブリッジ大学]][[クイーンズ・カレッジ]]卒業<ref name="whoswho"/>。1986年[[ペンシルベニア大学]]大学院修士課程修了、[[M.S.]]E.<ref name="whoswho"/><ref name="ni"/>。1988年[[電気通信大学]]大学院修士課程修了、[[工学修士]]<ref name="whoswho"/><ref name="ni">[https://niigata-u.repo.nii.ac.jp/record/3480/files/J72-D-2_6_855-865.pdf ステレオ動画画像解析の一手法]新潟大学</ref>。1991年[[オックスフォード大学]][[ベリオール・カレッジ (オックスフォード大学)|ベリオール・カレッジ]]大学院博士課程修了、D.Phill<ref name="whoswho">{{Who's Who|title=CIPOLLA, Prof. Roberto|id=U249605|volume=2020|edition=online [[Oxford University Press]]|location=Oxford}}</ref><ref name="ni"/>。 同年[[東芝]][[フェロー]]<ref name=":0">{{Cite web|title=Roberto Cipolla - Professor of Information Engineering|url=http://mi.eng.cam.ac.uk/~cipolla/biography.htm|access-date=2021-01-28|website=mi.eng.cam.ac.uk}}</ref>。1992年ケンブリッジ大学講師、[[ジーザス・カレッジ (ケンブリッジ大学)|ジーザス・カレッジ]]フェロー<ref name=":0" />。1997年同[[リーダー]]。2000年同教授<ref name=":1">{{Cite web|title=Professor Roberto Cipolla elected a Fellow of The International Association for Pattern Recognition {{!}} Department of Engineering|url=http://www.eng.cam.ac.uk/news/professor-roberto-cipolla-elected-fellow-international-association-pattern-recognition|access-date=2021-01-28|website=www.eng.cam.ac.uk|date=12 October 2020}}</ref>。2004年[[ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ]]教授<ref>{{Cite web|date=2010-08-27|title=Antony Gormley drops 60-tonne load for monumental sculpture|url=http://www.theguardian.com/artanddesign/2010/aug/27/antony-gormley-exposure-sculpture|access-date=2021-01-27|website=The Guardian|language=en}}</ref>。2007年東芝欧州社ケンブリッジ研究所所長<ref name=":1" /><ref>[https://www.global.toshiba/jp/technology/corporate/rdc/about/global.html 研究開発センター]東芝</ref>。2010年{{仮リンク|王立工学アカデミー|en|Royal Academy of Engineering}}フェロー<ref name="List of Fellows">{{cite web|author=Anon|year=2010|title=List of Fellows of the Royal Academy of Engineering|url=https://www.raeng.org.uk/about-us/the-fellowship/list-of-fellows?q=cipolla|publisher=raeng.org.uk|location=London|access-date=2022-05-11}}</ref>。2022年[[王立協会]]フェロー<ref name="Royal Society">{{Cite web |date=2022-05-10 |title=Outstanding scientists elected as Fellows and Foreign Members of the Royal Society |url=https://royalsociety.org/news/2022/05/new-fellows-2022/ |access-date=2022-05-11 |website=Royal Society}}</ref>。 == 脚註 == {{Reflist}} {{People-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ろへると ちほら}} [[Category:イギリスの工学者]] [[Category:日本留学経験者]] [[Category:王立協会フェロー]] [[Category:王立芸術大学の教員]] [[Category:ケンブリッジ大学の教員]] [[Category:電気通信大学出身の人物]] [[Category:Master of Science取得者]] [[Category:東芝の人物]] [[Category:Doctor of Philosophy取得者]] [[Category:工学修士取得者]] [[Category:オックスフォード大学出身の人物]] [[Category:ペンシルベニア大学出身の人物]] [[Category:ケンブリッジ大学出身の人物]] [[Category:ソリフル出身の人物]]
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テオフィル・アメル
テオフィル=アブラム・アメル(Théophile-Abraham Hamel、1817年11月8日 - 1870年12月23日)は、19世紀、カナダの画家である。おもにケベック州に住み、多くのカナダの人物の肖像画を描いたことで知られている。 現在はケベック・シティーの一部であるサント=フォワ(Sainte-Foy)で生まれた。1656年にノルマンディーのアヴルメニル(Avremesnil)からヌーベルフランスに入植したジャン・アメル(Jean Hame)を祖先にもつ裕福な農家の息子に生まれた。 1834年から1840年の間、アメルはケベックで活動していた画家のアントワーヌ・プラモンドン(Antoine Plamondon: 1804-1895)の元で学び、肖像画家となり有力な政治家の アマブル・ディオンヌ(Amable Dionne)の肖像画も描くようになった。 1843年6月からヨーロッパに修行にでて、フィレンツェで学び 、16世紀の巨匠、ティツィアーノの作品を模写して修行した。1846年に帰国し、ケベックにスタジオを開き、その翌年、モントリオールに移った。1850年代には画家として評価されるようになり、数年後に結婚した。政府から注文を受けるようになり、有力者から注文を受けた。新約聖書を題材に10点ほどの宗教画も残したが、シンプルなスタイルの肖像画家として知られている。同時代の人物だけでなくカナダの歴史上の人物の肖像画も描いた。1862年の火事で多くの作品が失われた。 甥のウジェーヌ・アメル(Eugène Hamel: 1845-1932)やブラッサ(Napoléon Bourassa: 1827-1916)、リュエラン(Ludger Ruelland: 1827-1896)、ジファール(Alexandre Stanislas Giffard : 1841-1880)といったカナダの画家を指導した。 1870年にケベック・シティーで亡くなった。
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テオフィル=アブラム・アメルは、19世紀、カナダの画家である。おもにケベック州に住み、多くのカナダの人物の肖像画を描いたことで知られている。
{{Infobox 芸術家 | bgcolour = #6495ED | name = テオフィル・アメル<br>Théophile Hamel | image = File:Theophile Hamel autoportrait collection mnbaq.jpg | imagesize = 200px | caption = 自画像 (c.1849) | birthdate = {{birth date|1817|11|8}} | location = [[ケベック・シティー]] | deathdate = {{death date and age|1870|12|23|1817|11|8}} | deathplace = ケベック・シティー | field = | training = | movement = | works = | patrons = | influenced by = | influenced = | awards = }} '''テオフィル=アブラム・アメル'''(Théophile-Abraham Hamel、[[1817年]][[11月8日]] - [[1870年]][[12月23日]])は、19世紀、[[カナダ]]の画家である。おもにケベック州に住み、多くのカナダの人物の肖像画を描いたことで知られている<ref name=":1">« Théophile Hamel | Dictionnaire biographique du Canada » (consulté le 5 février 2019)</ref>。 == 略歴 == 現在は[[ケベック・シティー]]の一部であるサント=フォワ(Sainte-Foy)で生まれた。1656年に[[ノルマンディー]]のアヴルメニル(Avremesnil)から[[ヌーベルフランス]]に入植したジャン・アメル(Jean Hame)を祖先にもつ裕福な農家の息子に生まれた。 1834年から1840年の間、アメルはケベックで活動していた画家のアントワーヌ・プラモンドン(Antoine Plamondon: 1804-1895)の元で学び、肖像画家となり有力な政治家の アマブル・ディオンヌ(Amable Dionne)の肖像画も描くようになった<ref>« Théophile Hamel | Encyclopédie canadienne » (consulté le 4 février 2019)</ref>。 1843年6月からヨーロッパに修行にでて、[[フィレンツェ]]で学び<ref>{{Ouvrage|prénom1=Vézina,|nom1=Raymond.|titre=Théophile Hamel : peintre national, 1817-1870|éditeur=Éditions Élysée|date=©1975-|isbn=0885450132|isbn2=9780885450138|oclc=2475478|lire en ligne=https://www.worldcat.org/oclc/2475478|consulté le=2019-02-05}}</ref><ref name=":1" /> 、16世紀の巨匠、[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ|ティツィアーノ]]の作品を模写して修行した。1846年に帰国し、ケベックにスタジオを開き、その翌年、[[モントリオール]]に移った。1850年代には画家として評価されるようになり、数年後に結婚した。政府から注文を受けるようになり、有力者から注文を受けた。新約聖書を題材に10点ほどの宗教画も残したが、シンプルなスタイルの肖像画家として知られている。同時代の人物だけでなくカナダの歴史上の人物の肖像画も描いた。1862年の火事で多くの作品が失われた。 甥のウジェーヌ・アメル(Eugène Hamel: 1845-1932)<ref>{{Ouvrage|auteur1=|prénom1=Hamel-Beaudoin, Françoise,|nom1=1925-|titre=Théophile Hamel : peintre, 1817-1870|passage=58|éditeur=Lidec|date=2008|isbn=9782760870994|isbn2=2760870995|oclc=507335398|lire en ligne=https://www.worldcat.org/oclc/507335398|consulté le=2019-02-05}}</ref>やブラッサ(Napoléon Bourassa: 1827-1916)、リュエラン(Ludger Ruelland: 1827-1896)、ジファール(Alexandre Stanislas Giffard : 1841-1880)といったカナダの画家を指導した。 1870年にケベック・シティーで亡くなった。 == 作品 == <gallery mode="nolines" widths="190" heights="200" style="font-size:smaller"> File:Jacques Cartier 1851-1852.jpg|[[ジャック・カルティエ]](16世紀探検家)(c.1844) File:Samuel-de-champlain-s.jpg|サミュエル・ド・シャンプラン(17世紀探検家) File:Hamel Mgr Joseph Signay.jpg|Joseph Signay(ケベックの大司教) (1847) File:Hamel Lecodie Bilodeau.jpg|"Portrait of Léocadie Bilodeau" (c.1842) </gallery> == 参考文献 == {{Reflist}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あめる ておふいる}} [[Category:19世紀カナダの画家]] [[Category:ケベック・シティー出身の人物]] [[Category:1817年生]] [[Category:1870年没]]
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結婚の寓意
『結婚の寓意』(けっこんのぐうい、伊: Allegoria coniugale, 仏: Allégorie conjugale, 英: Allegory of Marriage)あるいは『別離の寓意』(べつりのぐうい、仏: Allégorie de la séparation, 英: Allegory of Separation)は、イタリアのルネサンス期のヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノ・ヴェチェッリオが1530年から1535年ごろに制作した絵画である。油彩。主題についてはよくわかっていない。かつては『アルフォンソ・ダヴァロスの寓意』(仏: Allégorie d'Alphonse d'Avalos, 英: Allegory of Alfonso d'Avalos)とも呼ばれていたが、今日の見解は否定的である。現在はパリのルーヴル美術館に所蔵されている。またロイヤル・コレクションに所蔵されている2点を含む、ティツィアーノの後に制作されたかなり初期の模写がいくつか知られている。 画面左に水晶玉を持った身なりの良い女性と、黒い甲冑を身に着けた紳士が描かれている。彼ら、特に女性は、数人の子供たちと若い女性に付き添われている。赤色、緑色、黄色を組み合わせた女性の明るい色のドレスが、彼女の均整のとれた身体を包み込んでいる。この強い光の塊の傍らで、磨かれた金属製の胸当てと肩当てを身に着けた紳士の姿が暗く際立っている。彼は身体を女性の方に向けているが、顔は画面の外の鑑賞者のほうを見つめながら、彼女の胸に手を押し当てている。 彼らは画面右のいくつかの寓意的な人物像が関連づけられている。弓と矢を持った子供は愛の神を表している。髪に花輪を巻いた女性は非難するような態度で胸に手を置いている。そしてさらに画面奥には、頭上に掲げた花をいっぱいに詰めた籠を見上げている若者の頭が、かなり短縮されて描かれている。この最後の人物は豊かな半影の中に残り、頭部が真っ青な空に置かれており、一方で明るさが前景に広がりながら、水晶玉と肩当てに広い光を呼び起こしている。 ティツィアーノは後に本作品の構図を用い、『キューピッドに目隠しをするヴィーナス』(Venere che benda amore)を制作した。 伝統的な名称についていくつかの誤りはあるが、主題は依然として不明瞭である。 第2代ヴァスト侯爵アルフォンソ・ダヴァロス(英語版)とその妻マリア・ダラゴーナ(英語版)の肖像画と考えられたほか、ティツィアーノとその愛人、フェラーラ公爵アルフォンソ1世・デステとその愛人ラウラ・ディアンティ(イタリア語版)とも考えられた。 美術史家エルヴィン・パノフスキーらは、本作品は肖像画はなく、結婚の寓意と考えている。 ゲオルグ・グロナウ(フランス語版)は、本作品の中心人物として描かれている女性像が、ロンドンのナショナル・ギャラリー所蔵の『アルドブランディーニの聖母』(La Madonna Aldobrandini)に描かれたアレクサンドリアの聖カタリナと同一人物ではないかと想像している。グロナウは同じ「丸みを帯びたフォルム」と横顔、そして同じく「真珠を数珠繋ぎにした糸を絡ませた豊かな三つ編みの金髪」に注目している。彼はまた比較対象として『毛皮を着た若い女性』(Ragazza in pelliccia)についても言及している。 この人物群はかつてヴァスト侯爵アルフォンソ・ダヴァロスがトルコ人との戦いに出発しようとしていたとき、侯爵と若い妻マリア・ダラゴーナとの別れを表すものと考えられていた。画面右の人物像はそれぞれキューピッド、勝利の女神ニケ、結婚の神ヒュメナイオスであり、彼らは悲しんでいる女性を慰めているように見える。彼女は人間のあらゆる事象の儚さを象徴する水晶玉を手に持ち、瞑想的に見つめている。しかし、グロナウの見解では、鎧を着た男の特徴はヴァスト侯爵の特徴とは一致しない。 チャールズ・リケッツ(英語版)は水晶玉を持った女性は賢明や思慮深さを表しており、花と花輪と矢の束を持った従者たちは鎧を着た戦士が背を向けた楽しみかもしれないと想像している。「ありふれた寓意」と彼は書いている、「水晶玉を見つめる者が物思いにふける妻であるというカヴァルカゼル(英語版)とクロウ(英語版)によって提唱された説よりも、この「詩情」の根源にある可能性が高い」。 この作品はおそらく1530年から1535年ごろに、『ウサギの聖母』(Madonna del Coniglio)あるいは『アルドブランディーニの聖母』と同時期に、『聖母の神殿奉献』(Presentazione di Maria al Tempio)からそれほど遠くない時期に制作された。 リケッツによると、本作品は1910年までに「磨耗と修正、何世紀にもわたる汚れによる損傷を部分的に被るというショッキングな状態」になっていた。人気があった絵画作品にはよくあることで、リケッツの見解では2人の女性は「ひどく修正」されており、おそらくかつて胸を覆っていたと思われる追加された衣類が除去されたことが原因で、水晶玉を持っている女性の露出した胸に何らかの損傷と、いくらかの顔料の磨耗を引き起こした。 絵画は17世紀前半にスペイン王国にあり、イングランド国王チャールズ1世が1623年にスペインを訪問した際に公売で入手した。イギリスに渡った絵画はホワイトホールのコレクションに収蔵され、1629年にピーター・オリバーによって複製され、1639年の目録に記載された。この作品はチャールズ1世の処刑後の1650年に、ロンドンで出典を明示することなく『グアスト侯爵の家族』(The family of ye Marquess of Guasto)として売却された。その後、ロンドンのジョン・ハッチンソン(英語版)とパリのエバーハルト・ジャバッハに所有された。1660年ごろにはエングレーヴィングが制作され、1661年に引用された。フランス国王ルイ14世は1662年にジャバッハから入手し、1683年の目録 (第54号) に記載された。 現存する様々な複製は、細部は異なるが、本作品の構図が有名であったことを示している。イギリスのロイヤル・コレクションの初期の2点の模写は、スペイン国王に雇われていた模写家マイケル・クロス(英語版)がティツィアーノに基づいて直接チャールズ1世のために制作したものである可能性がある。 現在テート・ブリテンに所蔵されているラファエル前派の画家ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの1865年から1866年の絵画『最愛の人』(The Beloved)の全体的な構図はティツィアーノに影響を受けている。ロセッティは同様の円形に配置された6人の人物のグループが描かれている。
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『結婚の寓意』あるいは『別離の寓意』は、イタリアのルネサンス期のヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノ・ヴェチェッリオが1530年から1535年ごろに制作した絵画である。油彩。主題についてはよくわかっていない。かつては『アルフォンソ・ダヴァロスの寓意』とも呼ばれていたが、今日の見解は否定的である。現在はパリのルーヴル美術館に所蔵されている。またロイヤル・コレクションに所蔵されている2点を含む、ティツィアーノの後に制作されたかなり初期の模写がいくつか知られている。
{{Infobox 絵画作品 | image_file = 0000135227 OG.jpg | image_size = 380px | title = 結婚の寓意 | other_language_1 = [[イタリア語]] | other_title_1 = Allegoria coniugale | other_language_2 = [[英語]] | other_title_2 = Allegory of Marriage | artist = [[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ]] | year = 1530年–1535年 | type = [[油彩]]、[[キャンバス]] | height = 123 | width = 107 | city = [[パリ]] | museum = [[ルーヴル美術館]] }} 『'''結婚の寓意'''』(けっこんのぐうい、{{lang-it-short|Allegoria coniugale}}, {{lang-fr-short|Allégorie conjugale}}, {{lang-en-short|Allegory of Marriage}})あるいは『'''別離の寓意'''』(べつりのぐうい、{{lang-fr-short|Allégorie de la séparation}}, {{lang-en-short|Allegory of Separation}})は、[[イタリア]]の[[ルネサンス]]期の[[ヴェネツィア派]]の巨匠[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ]]が1530年から1535年ごろに制作した絵画である。[[油彩]]。主題についてはよくわかっていない。かつては『'''アルフォンソ・ダヴァロスの寓意'''』({{lang-fr-short|Allégorie d'Alphonse d'Avalos}}, {{lang-en-short|Allegory of Alfonso d'Avalos}})とも呼ばれていたが、今日の見解は否定的である<ref name=L>{{cite web|title=Allégorie conjugale (Allégorie de la séparation?), dit à tort Allégorie d'Alphonse d'Avalos |accessdate=2023/11/15 |url=https://collections.louvre.fr/ark:/53355/cl010066480 |publisher=[[ルーヴル美術館]]公式サイト}}</ref>。現在は[[パリ]]の[[ルーヴル美術館]]に所蔵されている<ref name=L /><ref name=CTV>{{cite web|title=Titian |accessdate=2023/11/15 |url=http://cavallinitoveronese.co.uk/general/view_artist/66 |publisher=Cavallini to Veronese}}</ref>。また[[ロイヤル・コレクション]]に所蔵されている2点を含む、ティツィアーノの後に制作されたかなり初期の模写がいくつか知られている<ref name=RC1>{{cite web|title=AFTER TITIAN (C. 1488-VENICE 1576), The Allegory of Alfonso D'Avalos c. 1610-90 |accessdate=2023/11/15 |url=https://www.rct.uk/collection/402910/the-allegory-of-alfonso-davalos |publisher=[[ロイヤル・コレクション|ロイヤル・コレクション・トラスト]]公式サイト}}</ref><ref name=RC2>{{cite web|title=AFTER TITIAN (C. 1488-VENICE 1576), The Allegory of Alfonso d'Avalos c.1625-49 |accessdate=2023/11/15 |url=https://www.rct.uk/collection/402663/the-allegory-of-alfonso-davalos-0#:~:text=Description,carrying%20a%20bundle%20of%20arrows. |publisher=ロイヤル・コレクション・トラスト公式サイト}}</ref>。 == 作品 == [[File:Titian - The Virgin and Child with the Infant Saint John and a Female Saint or Donor ('The Aldobrandini Madonna') - Google Art Project.jpg|thumb|230px|同時期の作品『[[アルドブランディーニの聖母 (ティツィアーノ)|アルドブランディーニの聖母]]』。[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ロンドン・ナショナル・ギャラリー]]所蔵。]] [[File:Titian - Madonna and Child with Saints (detail) - WGA22792.jpg|thumb|230px|『アルドブランディーニの聖母』のディテール。]] [[File:0000135227 OG (cropped1) (cropped).jpg|thumb|230px|『結婚の寓意』の矢の束を抱えたキューピッド(ディテール)。]] [[File:Tizian 101.jpg|thumb|230px|晩年の作品『[[キューピッドに目隠しをするヴィーナス]]』。[[ボルゲーゼ美術館]]所蔵。]] 画面左に[[水晶玉]]を持った身なりの良い女性と、黒い甲冑を身に着けた紳士が描かれている。彼ら、特に女性は、数人の子供たちと若い女性に付き添われている。赤色、緑色、黄色を組み合わせた女性の明るい色のドレスが、彼女の均整のとれた身体を包み込んでいる。この強い光の塊の傍らで、磨かれた金属製の胸当てと肩当てを身に着けた紳士の姿が暗く際立っている。彼は身体を女性の方に向けているが、顔は画面の外の鑑賞者のほうを見つめながら、彼女の胸に手を押し当てている<ref name=G88>Gronau 1904, p. 88.</ref>。 彼らは画面右のいくつかの寓意的な人物像が関連づけられている。弓と矢を持った子供は愛の神を表している。髪に花輪を巻いた女性は非難するような態度で胸に手を置いている。そしてさらに画面奥には、頭上に掲げた花をいっぱいに詰めた籠を見上げている若者の頭が、かなり短縮されて描かれている<ref name=G88 />。この最後の人物は豊かな半影の中に残り、頭部が真っ青な空に置かれており、一方で明るさが前景に広がりながら、水晶玉と肩当てに広い光を呼び起こしている<ref>Gronau 1904, pp. 88–89.</ref>。 ティツィアーノは後に本作品の構図を用い、『[[キューピッドに目隠しをするヴィーナス]]』({{it|Venere che benda amore}})を制作した<ref>イアン・G・ケネディー 2009年、p.85-86。</ref>。 伝統的な名称についていくつかの誤りはあるが、主題は依然として不明瞭である<ref name=L /><ref name=G284 />。 第2代ヴァスト侯爵{{ill|アルフォンソ・ダヴァロス|en|Alfonso d'Avalos}}とその妻{{ill|マリア・ダラゴーナ|en|Maria d'Aragona}}の[[肖像画]]と考えられたほか、ティツィアーノとその愛人、[[フェラーラ|フェラーラ公爵]][[アルフォンソ1世・デステ]]とその愛人{{ill|ラウラ・ディアンティ|it|Laura Dianti}}とも考えられた<ref name=CTV />。 [[美術史家]][[エルヴィン・パノフスキー]]らは、本作品は肖像画はなく、結婚の[[寓意]]と考えている<ref name=CTV />。 ===分析=== {{ill|ゲオルグ・グロナウ|fr|Georg Gronau}}は、本作品の中心人物として描かれている女性像が、[[ロンドン]]の[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]所蔵の『[[アルドブランディーニの聖母 (ティツィアーノ)|アルドブランディーニの聖母]]』({{it|La Madonna Aldobrandini}})に描かれた[[アレクサンドリアの聖カタリナ]]と同一人物ではないかと想像している<ref name=G87>Gronau 1904, p. 87.</ref>。グロナウは同じ「丸みを帯びたフォルム」と横顔、そして同じく「[[真珠]]を数珠繋ぎにした糸を絡ませた豊かな[[三つ編み]]の金髪」に注目している<ref name=G87 />。彼はまた比較対象として『[[毛皮を着た若い女性]]』({{it|Ragazza in pelliccia}})についても言及している<ref>Gronau 1904, pp. 277–278.</ref>。 この人物群はかつてヴァスト侯爵アルフォンソ・ダヴァロスが[[トルコ人]]との戦いに出発しようとしていたとき、侯爵と若い妻マリア・ダラゴーナとの別れを表すものと考えられていた<ref>Gronau 1904, p. 87–88.</ref>。画面右の人物像はそれぞれ[[キューピッド]]、勝利の女神[[ニケ]]、結婚の神[[ヒュメナイオス]]であり、彼らは悲しんでいる女性を慰めているように見える。彼女は人間のあらゆる事象の儚さを象徴する水晶玉を手に持ち、瞑想的に見つめている。しかし、グロナウの見解では、鎧を着た男の特徴はヴァスト侯爵の特徴とは一致しない<ref name=G88 />。 {{ill|チャールズ・リケッツ|en|Charles Ricketts}}は水晶玉を持った女性は賢明や思慮深さを表しており、花と花輪と矢の束を持った従者たちは鎧を着た戦士が背を向けた楽しみかもしれないと想像している<ref name=R88>Ricketts 1910, p. 88.</ref>。「ありふれた寓意」と彼は書いている、「水晶玉を見つめる者が物思いにふける妻であるという{{ill|ジョヴァンニ・バティスタ・カヴァルカゼル|en|Giovanni Battista Cavalcaselle|label=カヴァルカゼル}}と{{ill|ジョゼフ・アーチャー・クロウ|en|Joseph Archer Crowe|label=クロウ}}によって提唱された説よりも、この「詩情」の根源にある可能性が高い」<ref name=R88 />。 ===制作年代=== この作品はおそらく1530年から1535年ごろに、『[[聖母子と聖カテリナと羊飼い|ウサギの聖母]]』({{it|Madonna del Coniglio}})あるいは『アルドブランディーニの聖母』と同時期に、『[[聖母の神殿奉献 (ティツィアーノ)|聖母の神殿奉献]]』({{it|Presentazione di Maria al Tempio}})からそれほど遠くない時期に制作された<ref name=L /><ref name=G284>Gronau 1904, p. 284.</ref>。 ===保存状態=== リケッツによると、本作品は1910年までに「磨耗と修正、何世紀にもわたる汚れによる損傷を部分的に被るというショッキングな状態」になっていた<ref>Ricketts 1910, p. 87.</ref>。人気があった絵画作品にはよくあることで、リケッツの見解では2人の女性は「ひどく修正」されており、おそらくかつて胸を覆っていたと思われる追加された衣類が除去されたことが原因で、水晶玉を持っている女性の露出した胸に何らかの損傷と、いくらかの[[顔料]]の磨耗を引き起こした<ref name=R88 />。 == 来歴 == [[File:Dante gabriel rossetti, l'amata (la sposa), 1865-66FXD.jpg|thumb|[[ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ]]の絵画『最愛の人』。[[テート・ブリテン]]所蔵。]] 絵画は17世紀前半に[[スペイン王国]]にあり、[[イングランド]]国王[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]が1623年にスペインを訪問した際に[[公売]]で入手した<ref name=L /><ref name=CTV />。イギリスに渡った絵画は[[ホワイトホール]]のコレクションに収蔵され、1629年に[[ピーター・オリバー (画家)|ピーター・オリバー]]によって複製され、1639年の目録に記載された<ref name=G284 /><ref>Phillips 1896, p. 94.</ref>。この作品はチャールズ1世の処刑後の1650年に、ロンドンで出典を明示することなく『グアスト侯爵の家族』({{en|The family of ye Marquess of Guasto}})として売却された<ref name=L />。その後、ロンドンの{{ill|ジョン・ハッチンソン (円頂党)|en|John Hutchinson (Roundhead)|label=ジョン・ハッチンソン}}と[[パリ]]の[[エバーハルト・ジャバッハ]]に所有された。1660年ごろには[[エングレーヴィング]]が制作され、1661年に引用された<ref name=L />。[[フランス王国|フランス]]国王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]は1662年にジャバッハから入手し、1683年の目録 (第54号) に記載された<ref name=L /><ref name=G284 />。 == 複製 == 現存する様々な複製は、細部は異なるが、本作品の構図が有名であったことを示している<ref name=CTV /><ref name=RC1 /><ref name=RC2 /><ref name=G284 />。イギリスのロイヤル・コレクションの初期の2点の模写は、スペイン国王に雇われていた模写家{{ill|マイケル・クロス (画家)|en|Michael Cross (painter)|label=マイケル・クロス}}がティツィアーノに基づいて直接チャールズ1世のために制作したものである可能性がある<ref name=RC1 /><ref name=RC2 />。 == 影響 == 現在[[テート・ブリテン]]に所蔵されている[[ラファエル前派]]の画家[[ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ]]の1865年から1866年の絵画『最愛の人』({{en|The Beloved}})の全体的な構図はティツィアーノに影響を受けている。ロセッティは同様の円形に配置された6人の人物のグループが描かれている<ref>The Pre-Raphaelites 1984, p. 211.</ref>。 == ギャラリー == <gallery widths="160px" heights="160px" perrow="4" style="font-size:smaller"> The allegory of Alfonso D'Avalos.jpg|ティツィアーノ後『アルフォンソ・ダヴァロスの寓意』 1610年–1690年ごろ [[ロイヤル・コレクション]]所蔵 After Titian (c. 1488-Venice 1576) - The Allegory of Alfonso d'Avalos - RCIN 402663 - Royal Collection.jpg|ティツィアーノ後『アルフォンソ・ダヴァロスの寓意』 1625年–1649年 ロイヤル・コレクション所蔵 Titian (c.1488-1576) (after) - An Allegory of Marriage, in Honour of Alfonso d'Avalos, marchese del Vasto - 485086 - National Trust.jpg|ティツィアーノ後『結婚の寓意』 17世紀 [[ナショナル・トラスト]]所蔵 Allegory of Alfonso d'Avalos (Allegory of Marriage) c. 1700. Ludovico Mattioli after Titian.jpg|{{ill|ルドヴィコ・マッティオリ|en|Ludovico Mattioli}}『アルフォンソ・ダヴァロスの寓意』 1700年ごろ Copy of Titian's Allegory of Alfonso d'Avalos, Marchese del Vasto, by Alfred Jacob Miller.jpg|[[アルフレッド・ジェイコブ・ミラー]]『アルフォンソ・ダヴァロスの寓意』 1833年 Allegory on marriage, after Titian (cropped).jpg|ティツィアーノ後『ヴァスト侯爵アルフォンソ・ダヴァロスの寓意』 1867年 Ernst-friedrich-von-liphart-allegorie-des-alfonso-d-39-avalos-marques-del-vasto-nach-tizian.jpg|{{ill|エルンスト・フリードリヒ・フォン・リハルト|en|Ernst Friedrich von Liphart}}『ヴァスト侯爵アルフォンソ・ダヴァロスの寓意』 1877年 </gallery> == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * イアン・G・ケネディー『ティツィアーノ』[[Taschen]](2009年) * Gronau, Georg (1904). ''[https://archive.org/details/dli.granth.88249/page/284/mode/2up?view=theater Titian]''. London: Duckworth and Co; New York: Charles Scribner's Sons. pp. 87–88, 277–278, 284. * Phillips, Claude (1896). ''[https://archive.org/details/picturegalleryof00philrich/page/94/mode/2up?view=theater The Picture Gallery of Charles I]''. London: Seeley and Co. Limited; New York: Macmillan and Co. pp. 94, 98. * Ricketts, Charles (1910). ''[https://archive.org/details/cu31924016774352/page/n111/mode/2up?view=theater Titian]''. London: Methuen & Co. Ltd. pp. 87–88, 179, plate lxvi. * ''The Pre-Raphaelites'', 1984 (exhibition catalogue, various authors, but most Rossetti entries by Alastair Grieve), Tate Gallery, London, {{ISBN|0713916389}} == 外部リンク == {{Commonscat|}} * [https://collections.louvre.fr/ark:/53355/cl010066480 ルーヴル美術館公式サイト, ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『誤ってアルフォンソ・ダヴァロスの寓意と呼ばれた、夫婦の寓意(別離の寓意?)』] {{ティツィアーノ・ヴェチェッリオ}} {{DEFAULTSORT:けつこんのくうい}} [[Category:ティツィアーノ・ヴェチェッリオの作品]] [[Category:1530年代の絵画]] [[Category:寓意画]] [[Category:ギリシア神話を題材とした絵画]] [[Category:ルーヴル所蔵品]]
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台東区立駒形中学校
台東区立駒形中学校(たいとうくりつ こまがたちゅうがっこう)は、東京都台東区北上野2丁目にある公立中学校である。
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台東区立駒形中学校は、東京都台東区北上野2丁目にある公立中学校である。
{{Infobox 日本の学校 |校名 =台東区立駒形中学校 |画像 = |過去校名 = |国公私立 = [[公立学校]] |設置者 = [[File:Flag of Taito, Tokyo.svg|25x20px]][[台東区]] |併合学校 = |校訓 = |設立年月日 = [[1947年]][[4月1日]] |記念日名称 = 開校記念日 |創立記念日 = [[6月7日]] |創立者 = |閉校年月日 = |共学・別学 = [[男女共学]] |学期 = [[3学期制]] |中学校コード = 130057<ref name="東京都公立学校一覧表">{{PDFlink|[https://www.kyo-kai.co.jp/img/test/code/13.pdf 東京都所属中学校コード表]}}</ref> |郵便番号 = 110-0014 |所在地 = [[東京都]][[台東区]][[北上野]]2丁目15番1号 |座標={{ウィキ座標度分秒|35|43|02.79|N|139|47|03.27|E|}} |外部リンク = [https://www.taito.ed.jp/swas/index.php?id=1320117 公式サイト] }} '''台東区立駒形中学校'''(たいとうくりつ こまがたちゅうがっこう)は、[[東京都]][[台東区]][[北上野]]2丁目にある[[公立学校|公立]][[中学校]]である。 == 概要 == {{節stub}} == 沿革 == *[[1947年]]([[昭和]]22年)[[4月1日]] - [[台東区立松葉小学校]]内に台東区立駒形中学校開校。 *[[1956年]](昭和31年) **4月1日 - [[台東区立金竜小学校]]内に第2分校設置。 **[[9月1日]] - 台東区山伏町46番地(現在地)に[[学校施設#校舎|校舎]]移転。 *[[1957年]](昭和32年) **[[11月6日]] - 独立校舎完成記念として、[[校歌]]制定。 **[[11月9日]] - 創立10周年記念式典挙行。 *[[1962年]](昭和37年)[[5月2日]] - 創立15周年記念式典挙行。 *[[1964年]](昭和39年)9月1日 - 校舎改修工事のため分校(1学年が清島分校、2学年が金竜分校、3学年が本校)設置。 *[[1967年]](昭和42年)[[11月2日]] - 創立20周年記念式典挙行。 *[[1977年]](昭和52年)[[11月17日]] - 創立30周年記念式典挙行。 *[[1987年]](昭和62年) **4月1日 - 新校舎が完成し、移転。 **[[11月6日]] - 創立40周年記念式典挙行。 *[[1997年]]([[平成]]9年)[[11月1日]] - 創立50周年記念式典挙行。 *[[2017年]](平成29年)[[11月11日]] - 創立70周年記念式典挙行。 == 学校行事 == *4月 - 入学式 *5月 - 3学年修学旅行 *6月 - 2学年霧ヶ峰移動教室 *7月 - 駒中まつり(文化祭)、林間学校 *9月 - 2学年職場体験、運動会 *2月 - 2学年・1学年校外学習 *3月 - 合唱コンクール、[[卒業式]] == 生徒数 == {| class="wikitable" style="text-align:right" |- !学年!!1年!!2年!!3年!![[特別支援学級|特別支援]]!!合計 |- |学級||4||4||3||-||11 |- |生徒||121||134||96||-||351 |} *[[2023年]]([[令和]]5年)[[4月15日]]時点 == 通学区域 == ;出典<ref>{{PDFlink|[https://www.city.taito.lg.jp/kosodatekyouiku/kuritsushocyugakko/nyugakutugaku/tsuugakukuiki.files/taitoukuritsutyuugakkou_tsuugakukuiki.pdf 台東区立中学校通学区域表]}}</ref> *[[元浅草]]1丁目(14番~21番) *元浅草2丁目(全域) *元浅草3丁目(17番・18番) *元浅草4丁目(全域) *[[西浅草]]2丁目(全域) *西浅草3丁目(全域) *[[松が谷 (台東区)|松が谷]]1丁目(全域) *松が谷2丁目(全域) *松が谷3丁目(全域) *松が谷4丁目(全域) *[[北上野]]2丁目(1番~12番・15番) *[[東上野]]6丁目(全域) == アクセス == *[[めぐりん (台東区)|台東区コミュニティバス「めぐりん」]] **「南めぐりん」で、「北上野」[[バス停留所|停留所]]下車後、徒歩約30秒。 **「東西めぐりん」で、「北上野二丁目」停留所下車後、徒歩約5分。 *[[都営バス]]「上26」・「草41」の各系統で、「入谷鬼子母神」又は「中入谷(台東区)」停留所下車後、徒歩約6分。 *[[東京地下鉄|東京メトロ]] **[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]][[入谷駅 (東京都)|入谷駅]](出口1)から、徒歩約5分。 **[[東京メトロ銀座線|銀座線]][[稲荷町駅 (東京都)|稲荷町駅]](出口3)から、徒歩約10分。 *[[東日本旅客鉄道|JR東日本]] **[[新幹線]]・[[在来線]]各線の[[上野駅]](入谷口)から、徒歩約15分。 **[[山手線]]・[[京浜東北線]][[鶯谷駅]](南口)から、徒歩約15分。 == 学校周辺 == *台東区台東清掃事務所北上野分室 - 台東区道をはさんで、敷地が隣接。 * 親疎通り(台東区道) *台東区立新坂本児童遊園 - 親疎通り(台東区道)をはさんで、敷地が隣接。 *[[セブン-イレブン|セブンイレブン]]台東北上野2丁目店 *清洲橋通り(台東区道) *[[国道4号|国道4号線]](昭和通り) *[[首都高速道路]][[首都高速1号上野線|1号上野線]] **[[入谷出入口]] *左衛門橋通り(台東区道) *台東区立入谷南公園 *この他、上述のセブンイレブン台東北上野2丁目店'''以外'''のコンビニやマンション・アパートなども点在する。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 関連項目 == *[[東京都中学校一覧]] == 外部リンク == *[https://www.taito.ed.jp/swas/index.php?id=1320117 台東区立駒形中学校] {{School-stub|pref=東京都}} {{DEFAULTSORT:たいとうくりつこまかたちゆう}} [[Category:東京都区部の公立中学校]] [[Category:台東区の中学校|こまかた]] [[Category:学校記事]]
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ウィキメディア・ドイツ
ウィキメディア・ドイツ - 自由な知識振興のための協会 (Wikimedia Deutschland – Gesellschaft zur Förderung Freien Wissens) は、ドイツの非営利団体で、ベルリンのテンペルホーファー・ウーファー23-24(ドイツ語版)ビルに本部を置いている。ウィキペディアとその他のプロジェクトを運営しているアメリカ合衆国のウィキメディア財団により、最初の国内組織 (支部) として2004年に設立された。自身の統計によると、2022年の会員数は10万人以上である。協会の職員は2022年には約160人で、彼らが広報業務、ウィキデータプロジェクト、ウィキペディアとその姉妹プロジェクトのボランティアの取りまとめ (プロジェクト、会議、他組織との連携など) 、ウィキペディアを支えるソフトウェアの開発や、協会の資金調達などに従事している。また一般的に知識資源への自由なアクセスと利用しやすさ (フリーコンテンツ) に従事する部署もあり、ウィキペディアとは部分的にのみ接続している。 協会の定款に記載されている一般的な目的は次の通り。 „この協会の目的は、知識と教育へのアクセス機会均等を促進するために、無私の活動によるオープンコンテンツの製作、収集、普及を促進することにある。“ 具体的な目的は次のように定められている。 協会はウィキメディアプロジェクトに関連するソフトウェア開発に従事しており、異なるウィキメディアプロジェクト (ウィキペディアを含む) のボランティアを支援し、「自由な知識」というテーマで教育、学術、文化機関と連携している。 2022年5月の第27回会員総会で、ウィキメディア・ドイツの価値観の枠組みが決定された。この価値観の枠組みは、執行委員会や理事会や職員にとって、戦略上の決定の基準であり、難しい決定に際し計画の方向性を示す役割がある。 „参加、多様性、自由でオープンなアクセス、公正、持続性、そして敬意を持った協力 -- こうした価値観がウィキメディア・ドイツの中核である。これらは私たちのモチベーションである同時に、常に過失から学ぶという意図を持ち、協会の日常活動においていつも直面する課題である。“ ウィキメディア・ドイツ - 自由な知識振興のための協会は、2004年6月13日、34人のウィキペディア執筆者により設立され、2004年10月25日、ベルリンのシャルロッテンブルク地方裁判所において団体登記簿に第23855Nz号として登記された。 ベルリンの税務署 (法人I) は協会の活動を教育振興のための非営利活動として認定し、納税番号27/029/42207を付与した。 協会の組織は会員総会、非常勤執行委員会、常勤理事会からなる。 会員総会は協会組織の最高機関である。そこでは協会の基本的な問題や事項を決定し、執行委員を選出し、執行委員会や理事会の決定を承認するかを決定する。選挙や定款および会費の変更に関する決定には、会員は遠隔参加もできる。簡単な議案は出席会員が決定する。 協会独自の情報では、会員数は2019年4月までに72,000人を超えた。ウィキペディア創設者の1人であるジミー・ウェールズは協会の名誉会員である。2022年5月には会員数は10万人を超えた。 賛助会員には投票権は無い。名誉会員は定款により会費は免除されているが、彼らは正会員と同様の権利がある。 2011年から、会員総会は年に2回開催されている。 2011年5月19日の定款改正まで、名誉理事会が今日の執行委員会の主要機能を担っていたが、ドイツ民法典第26条により法的に協会を代表する権限があったため、原則として協会の法的取引にも責任を負っていた。 今日の名誉執行委員会は、委員長1名、会計主任1名、委員5名からなり、そのほか2名の実行委員が参加することができる。もはや執行委員会は協会の法的代表者ではない。 執行委員会は理事を任命し、監督し、解任し、特に協会の戦略的調整に責任を負う。執行委員会は協会が関与する法人組織において協会を代表する。 執行委員会の委員長は、2018年12月から2022年5月までルーカス・メッツガーであった。第27回会員総会により、2022年5月14日からはアリス・ヴィーガントが後任に選出された。メッツガー自身は立候補しなかった。 2006年から2011年5月19日の定款改正まで、名誉理事会の監督の下に専務理事が日常の業務を執行し、率いていた。しかしドイツ民法典第26条により理事には協会を代表する権限はなかった。2011年からは、常勤の理事会が業務執行し、対外的にも協会を代表している。 これまでの理事長: 2022年には協会は職員として約160名を雇用していた。 協会は主に寄付金と会員の会費で運営されている。 2009年まで、アメリカのウィキメディア財団との「取り決め」により、資金は技術及びコミュニティ支援のために使用され、「国際的な活動に貢献」してきた。2009年の年間支出の約30%は管理費と広告費に使われた。 2010年に協会は寄付の半分をアメリカのウィキメディア財団に送らなければならなかった。 現在ではウィキメディア財団は受領した寄付金の一部をファンドレイジング協定に基づきドイツ協会へ配分し、また毎年申請に応じて補助金を交付している。2015年の協会年間計画には、760万ユーロ以上を財団へ送金することが含まれていた。ウィキメディア・ドイツ協会は寄付金のうち200万ユーロを受け取り、ウィキメディア財団の寄付金配分委員会 (FDC) から84万ユーロの配分を受けた。ちなみに2013年には、寄付金が150万ユーロ、FDCからの配分は140万ユーロであった。 これと並んで、会員からの会費収入が協会の財政計画の重要費目である。2015年にこれは110万ユーロに達した。2013年にはまだ15万ユーロだった。 支出項目は主に、「ソフトウェア開発」 (2015年は136万ユーロ)、「コミュニティと契約」 (77万ユーロ)、「教養、学術、文化」 (61万ユーロ) の活動に使用されている。次に金額が大きい費目は、理事会/執行委員会 (49万ユーロ、国際連携関連と政策審議会) と協会のコミュニケーション (40万5千ユーロ) である。 協会の資金調達とウィキメディア財団への寄付金送金を円滑にするために、2010年に公益ウィキメディア会社が非営利有限責任組織(ドイツ語版)としてベルリンに設立された (登記番号HRB 130183B)。唯一の株主はウィキメディア・ドイツである。 この子会社は2015年にウィキメディア・ドイツへ、寄付金収入と共に「運営資金」として15万ユーロを送金した。
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ウィキメディア・ドイツ - 自由な知識振興のための協会 は、ドイツの非営利団体で、ベルリンのテンペルホーファー・ウーファー23-24ビルに本部を置いている。ウィキペディアとその他のプロジェクトを運営しているアメリカ合衆国のウィキメディア財団により、最初の国内組織 (支部) として2004年に設立された。自身の統計によると、2022年の会員数は10万人以上である。協会の職員は2022年には約160人で、彼らが広報業務、ウィキデータプロジェクト、ウィキペディアとその姉妹プロジェクトのボランティアの取りまとめ (プロジェクト、会議、他組織との連携など) 、ウィキペディアを支えるソフトウェアの開発や、協会の資金調達などに従事している。また一般的に知識資源への自由なアクセスと利用しやすさ (フリーコンテンツ) に従事する部署もあり、ウィキペディアとは部分的にのみ接続している。
'''ウィキメディア・ドイツ - 自由な知識振興のための協会 (Wikimedia Deutschland – Gesellschaft zur Förderung Freien Wissens)''' は、[[ドイツ]]の非営利団体<ref>{{Internetquelle|url=https://www.wikimedia.de/transparenz/|titel=Transparenz – Wikimedia|abruf=2020-08-31}}</ref>で、[[ベルリン]]の{{仮リンク|テンペルホーファー・ウーファー23-24|de|Tempelhofer Ufer 23–24}}ビルに本部を置いている。[[ウィキペディア]]とその他のプロジェクトを運営しているアメリカ合衆国の[[ウィキメディア財団]]により、最初の[[ウィキメディアの国別協会一覧|国内組織 (支部)]] として2004年に設立された。自身の統計によると、2022年の会員数は10万人以上である<ref name="Jahresbericht">[https://blog.wikimedia.de/2022/05/09/wikimedia-deutschland-begruesst-100-000stes-mitglied/ ''Aktuelles.''] In: ''wikimedia.de.'' Wikimedia Deutschland e.&nbsp;V. Abgerufen am 18. Mai 2022.</ref>。協会の職員は2022年には約160人で<ref>{{Internetquelle|url=https://www.wikimedia.de/im-interview-lukas-mezger/|titel=Im Interview: Lukas Mezger|werk=Wikimedia|abruf=2020-05-21}}</ref>、彼らが広報業務、[[ウィキデータ]]プロジェクト、ウィキペディアとその姉妹プロジェクトのボランティアの取りまとめ (プロジェクト、会議、他組織との連携など) 、ウィキペディアを支えるソフトウェアの開発や、協会の資金調達などに従事している。また一般的に知識資源への自由なアクセスと利用しやすさ ([[フリーコンテント|フリーコンテンツ]]) に従事する部署もあり、ウィキペディアとは部分的にのみ接続している。 == 目的と活動 == 協会の[[定款]]に記載されている一般的な目的は次の通り。 {{Zitat |Text=この協会の目的は、知識と教育へのアクセス機会均等を促進するために、無私の活動による[[フリーコンテント|オープンコンテンツ]]の製作、収集、普及を促進することにある。 |Autor=ウィキメディア・ドイツ定款 |Quelle=''§&nbsp;2 目的と課題'', 2016年11月26日<ref name="Satzung">[https://www.wikimedia.de/satzung-ordnungen-und-beschluesse/ ''Satzung.''] In: ''wikimedia.de.'' Wikimedia Deutschland e.&nbsp;V. Abgerufen am 4. Januar 2018.</ref>}} 具体的な目的は次のように定められている。 * 収集と普及は[[ウィキ]]で行うのが優先されるべきである。 * 協会はウィキメディア財団の支部の役割を果たすべきである。 * 協会の目的に貢献する次の活動を行う。 ** ウィキメディア財団のウィキの運営の支援。 ** ウィキメディアプロジェクトの内容をデジタル又は印刷物によりオフラインで配布する。 ** 情報に関するイベントの開催や、オープンコンテンツ、ウィキ、ウィキメディアプロジェクトについての情報資料の作成と配布。 ** オープンコンテンツとウィキに関連する学術的、社会的、文化的、法律的問題を解明する。 協会はウィキメディアプロジェクトに関連するソフトウェア開発に従事しており<ref>[[wmde:/wiki/Software-Entwicklung|''Software-Entwicklung.'']] In: ''wikimedia.de.'' Wikimedia Deutschland e.&nbsp;V. Abgerufen am 4. Januar 2018.</ref>、異なるウィキメディアプロジェクト (ウィキペディアを含む) のボランティアを支援し<ref>[[wmde:/wiki/Freiwillige|''Freiwillige.'']] In: ''wikimedia.de.'' Wikimedia Deutschland e.&nbsp;V. Abgerufen am 4. Januar 2018.</ref>、「自由な知識」というテーマで教育、学術、文化機関と連携している<ref>[[wmde:/wiki/BildungWissenschaftKultur|''Bildung Wissenschaft Kultur.'']] In: ''wikimedia.de.'' Wikimedia Deutschland e.&nbsp;V. Abgerufen am 4. Januar 2018.</ref>。 === ウィキメディア・ドイツの価値観の枠組み === 2022年5月の第27回会員総会で、ウィキメディア・ドイツの価値観の枠組みが決定された<ref>{{Internetquelle|url=https://www.wikimedia.de/werte/|titel=Unsere Werte|werk=www.wikimedia.de|hrsg=Wikimedia Deutschland|datum=2022|abruf=2022-05-23}}</ref>。この価値観の枠組みは、執行委員会や理事会や職員にとって、戦略上の決定の基準であり、難しい決定に際し計画の方向性を示す役割がある<ref>{{Internetquelle|autor=Björn Bowinkelmann|url=https://blog.wikimedia.de/2022/05/14/alice-wiegand-zur-neuen-vorsitzenden-des-praesidiums-gewaehlt/|titel=Alice Wiegand zur neuen Vorsitzenden des Präsidiums gewählt|titelerg=Neben der Präsidiumswahl haben die Mitglieder von Wikimedia e. V. auf der 27. Mitgliederversammlung einen Werterahmen für den Verein beschlossen.|werk=blog.wikimedia.de|datum=2022-05-14|abruf=2022-05-23}}</ref>。 {{Zitat |Text=参加、多様性、自由でオープンなアクセス、公正、持続性、そして敬意を持った協力 -- こうした価値観がウィキメディア・ドイツの中核である。これらは私たちのモチベーションである同時に、常に過失から学ぶという意図を持ち、協会の日常活動においていつも直面する課題である。 |Autor=ウィキメディア・ドイツ |Quelle=''ウィキメディア・ドイツの価値観の枠組み'', 序文より, 2022年 |ref=<ref>{{Internetquelle |url=https://www.wikimedia.de/werte/ |titel=Unsere Werte |titelerg=Präambel |werk=www.wikimedia.de |hrsg=Wikimedia Deutschland |datum=2022 |abruf=2022-05-23}}</ref>}} == 組織 == === 法律上の地位 === ウィキメディア・ドイツ - 自由な知識振興のための協会は、2004年6月13日<ref name="Satzung" />、34人のウィキペディア執筆者により設立され、2004年10月25日、ベルリンのシャルロッテンブルク地方裁判所において団体登記簿に第23855Nz号として登記された。 ベルリンの税務署 (法人I) は協会の活動を教育振興のための非営利活動として認定し、納税番号27/029/42207を付与した<ref name="Verein">[https://www.wikimedia.de/wiki/Transparenz ''Verein.''] In: ''wikimedia.de.'' Wikimedia Deutschland e.&nbsp;V. Abgerufen am 4. Januar 2018.</ref>。 === 組織 === 協会の組織は会員総会、非常勤執行委員会、常勤理事会からなる。 ==== 会員総会 ==== 会員総会は協会組織の最高機関である。そこでは協会の基本的な問題や事項を決定し、執行委員を選出し、執行委員会や理事会の決定を承認するかを決定する。選挙や定款および会費の変更に関する決定には、会員は遠隔参加もできる。簡単な議案は出席会員が決定する<ref name="Satzung" />。 協会独自の情報では、会員数は2019年4月までに72,000人を超えた<ref name="Jahresbericht" />。ウィキペディア創設者の1人である[[ジミー・ウェールズ]]は協会の名誉会員である<ref>[https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Wikimedia_Deutschland&oldid=10835121 ''Wikimedia Deutschland.''] In: ''Meta-Wiki.'' Abgerufen am 4. Januar 2018.</ref><ref>In der Vereinsveröffentlichug zu Mitgliederzahlen auf wikimedia.de wird das Ehrenmitglied Jimmy Wales nicht mitgezählt.</ref>。2022年5月には会員数は10万人を超えた<ref>[[wmdeblog:2022/05/09/wikimedia-deutschland-begruesst-100-000stes-mitglied/|''Wikimedia Deutschland.'']] In: ''Wikimedia Aktuelles'' Abgerufen am 14. Mai 2022.</ref>。 賛助会員には投票権は無い。名誉会員は定款により会費は免除されているが、彼らは正会員と同様の権利がある<ref name="Satzung" />。 2011年から、会員総会は年に2回開催されている。 ==== 執行委員会 ==== 2011年5月19日の定款改正まで、名誉理事会が今日の執行委員会の主要機能を担っていたが、ドイツ民法典第26条により法的に協会を代表する権限があったため、原則として協会の法的取引にも責任を負っていた。 今日の名誉執行委員会は、委員長1名、会計主任1名、委員5名からなり、そのほか2名の実行委員が参加することができる<ref>{{Internetquelle|url=https://www.wikimedia.de/wiki/Satzung|titel=Verein – Wikimedia Deutschland|abruf=2018-12-11}}</ref>。もはや執行委員会は協会の法的代表者ではない<ref name="Präsidium">[https://www.wikimedia.de/praesidium/ ''Präsidium.''] In: ''wikimedia.de.'' Wikimedia Deutschland e.&nbsp;V. Abgerufen im Mai 2020.</ref>。 執行委員会は理事を任命し、監督し、解任し、特に協会の戦略的調整に責任を負う。執行委員会は協会が関与する法人組織において協会を代表する<ref name="Präsidium" />。 執行委員会の委員長は、2018年12月から2022年5月までルーカス・メッツガーであった<ref>{{Internetquelle|url=https://blog.wikimedia.de/2018/12/01/6-praesidium-von-wikimedia-deutschland-ist-gewaehlt/|titel=6. Präsidium von Wikimedia Deutschland ist gewählt|werk=Wikimedia Deutschland Blog|abruf=2018-12-11}}</ref>。第27回会員総会により、2022年5月14日からはアリス・ヴィーガントが後任に選出された。メッツガー自身は立候補しなかった<ref>{{Internetquelle|url=https://blog.wikimedia.de/2022/05/14/alice-wiegand-zur-neuen-vorsitzenden-des-praesidiums-gewaehlt/|titel=Alice Wiegand zur neuen Vorsitzenden des Präsidiums gewählt|werk=Wikimedia Deutschland Blog|abruf=2022-05-14}}</ref>。 ==== 理事会 ==== 2006年から2011年5月19日の定款改正まで、名誉理事会の監督の下に専務理事が日常の業務を執行し、率いていた。しかしドイツ民法典第26条により理事には協会を代表する権限はなかった。2011年からは、常勤の理事会が業務執行し、対外的にも協会を代表している。 これまでの理事長: {| class="wikitable" ! 期間 ! 理事長 |- | 2011年11月20日~2014年8月31日 || {{仮リンク|パーヴェル・リヒター|de|Pavel Richter (Manager)}} (2009年までは専務理事) |- | 2014年9月1日~2015年4月30日 || Jan Engelmann (暫定)<ref>Tim Moritz Hector (Präsidiumsvorsitzender Wikimedia Deutschland): [https://lists.wikimedia.org/pipermail/vereinde-l/2014-July/007843.html ''Interimsvorstand.''] In: ''wikimedia.org.'' Ankündigung auf der Mailingliste „VereinDE-l – Mailingliste des Wikimedia Deutschland e.&nbsp;V.“, 11. Juli 2014, abgerufen am 4. Januar 2018.</ref><ref name="Verein" /> |- | 2015年5月1日~2016年12月7日 || {{仮リンク|クリスチャン・リッケルツ|de|Christian Rickerts}}<ref>{{Internetquelle |autor=Melanie Melzer |url=https://kress.de/news/detail/beitrag/130038-wikimedia-deutschland-christian-rickerts-wird-vorstand.html |titel=Wikimedia Deutschland: Christian Rickerts wird Vorstand |werk=kress.de |datum=2015-03-02 |abruf=2016-12-04}}</ref> |- | 2016年12月8日~2017年1月29日 || アブラハム・タヘリバンド (暫定)<ref>{{Internetquelle |autor=Tim Moritz Hector |url=https://blog.wikimedia.de/2016/12/08/abraham-taherivand-wird-interimsvorstand/ |titel=Abraham Taherivand wird Interimsvorstand |hrsg=Wikimedia Deutschland |datum=2016-12-08 |abruf=2016-12-08}}</ref> |- | 2017年1月30日~2021年5月31日 || アブラハム・タヘリバンド<ref>[https://blog.wikimedia.de/2017/01/30/abraham-taherivand-als-vorstand-von-wikimedia-deutschland-bestaetigt/ Eintrag auf blog.wikimedia.de]</ref> |- | 2021年6月1日~2022年7月31日 || {{仮リンク|クリスチャン・フンボルグ|de|Christian Humborg}}<ref name="Christian-Humborg-WMD-20210510"> {{Internetquelle|url=https://www.sueddeutsche.de/kultur/wikimedia-christian-humborg-interview-1.5290582?reduced=true|titel="Deutschland gehört überhaupt nicht zur Spitze"|titelerg=Interview: Christian Humborg wird im Juni Chef der Wikimedia|werk=Süddeutsche Zeitung|datum=2021-05-11|abruf=2021-09-25}} </ref> |- | 2022年8月1日~ || クリスチャン・フンボルグ (議長),<ref name="ch-fh-bestellung">Wikimedia Deutschland: [https://www.wikimedia.de/wp-content/uploads/2022/06/Beschluesse-des-7.-Praesidiums-5.pdf Bestellung von Franziska Heine zum weiteren Vorstandsmitglied] (Beschluss des Präsidiums vom 9. April 2022)</ref> {{仮リンク|フランツィスカ・ハイネ|de|Franziska Heine}}<ref>{{Internetquelle |url=https://blog.wikimedia.de/2022/04/28/wikimedia-deutschland-erhaelt-doppelspitze/ |titel=Wikimedia Deutschland erhält Doppelspitze |werk=Wikimedia Blog |abruf=2022-09-13}}</ref> |- |} === 職員 === 2022年には協会は職員として約160名を雇用していた<ref>[https://www.wikimedia.de/wiki/ueber-uns ''Über uns.''] In: ''wikimedia.de.'' Wikimedia Deutschland e.&nbsp;V. Abgerufen am 22. Januar 2022.</ref>。 == 財政 == 協会は主に寄付金と会員の会費で運営されている。 2009年まで、アメリカのウィキメディア財団との「取り決め」により、資金は技術及びコミュニティ支援のために使用され、「国際的な活動に貢献」してきた。2009年の年間支出の約30%は管理費と広告費に使われた<ref name="Spiegel 8-10-2010">[http://www.spiegel.de/netzwelt/web/0,1518,722059,00.html ''Wikipedia-Spenden – Wiki-Autoren streiten um Geld und Transparenz.''] In: ''[[Spiegel Online]].'' 8. Oktober 2010, abgerufen am 4. Januar 2018.</ref>。 2010年に協会は寄付の半分をアメリカのウィキメディア財団に送らなければならなかった<ref name="Spiegel 8-10-2010" />。 現在ではウィキメディア財団は受領した寄付金の一部を[[ファンドレイジング]]協定に基づきドイツ協会へ配分し<ref>[[metawiki:2012-13 Fundraising Agreement (DE)|''Fundraising Agreement.'']] In: ''wikimedia.org.'' Abgerufen am 4. Januar 2018 (englisch).</ref>、また毎年申請に応じて補助金を交付している。2015年の協会年間計画には、760万ユーロ以上を財団へ送金することが含まれていた。ウィキメディア・ドイツ協会は寄付金のうち200万ユーロを受け取り、ウィキメディア財団の寄付金配分委員会 (FDC) から84万ユーロの配分を受けた<ref name="Jahresplan 2015">[https://wikimedia.de/wiki/Jahresplan_2015 ''Jahresplan 2015.''] In: ''wikimedia.de.'' Wikimedia Deutschland e.&nbsp;V. Abgerufen am 4. Januar 2018.</ref>。ちなみに2013年には、寄付金が150万ユーロ、FDCからの配分は140万ユーロであった<ref>[[meta:Wikimedia Deutschland/2013 annual plan/de#Budget Wikimedia Deutschland e. V.|''Budget 2013.'']] In: ''wikimedia.de.'' Wikimedia Deutschland e.&nbsp;V. Wikimedia Deutschland, abgerufen am 4. Januar 2018.</ref>。 これと並んで、会員からの会費収入が協会の財政計画の重要費目である。2015年にこれは110万ユーロに達した<ref name="Jahresplan 2015" />。2013年にはまだ15万ユーロだった<ref>[[metawiki:Wikimedia Deutschland/2013 annual plan/de#Budget_Wikimedia_Deutschland_e._V.|''Jahresplan 2013.'']] In: ''wikimedia.org.'' Abgerufen am 4. Januar 2018.</ref>。 支出項目は主に、「ソフトウェア開発」 (2015年は136万ユーロ)、「コミュニティと契約」 (77万ユーロ)、「教養、学術、文化」 (61万ユーロ) の活動に使用されている。次に金額が大きい費目は、理事会/執行委員会 (49万ユーロ、国際連携関連と政策審議会) と協会のコミュニケーション (40万5千ユーロ) である<ref name="Jahresplan 2015" />。 ;公益ウィキメディア会社 協会の資金調達とウィキメディア財団への寄付金送金を円滑にするために、2010年に公益ウィキメディア会社が{{仮リンク|非営利有限責任組織|de|Gemeinnützige GmbH}}としてベルリンに設立された (登記番号HRB 130183B)<ref name="Spiegel 8-10-2010" /><ref>[http://www.handelsregisterbekanntmachungen.de/skripte/hrb.php?rb_id=148719&land_abk=be ''Gründungseintrag.''] In: ''handelsregisterbekanntmachungen.de.'' 10. November 2010, abgerufen am 4. Januar 2018.</ref>。唯一の株主はウィキメディア・ドイツである<ref>{{Internetquelle |url=http://www.handelsregisterbekanntmachungen.de/skripte/hrb.php?rb_id=331323&land_abk=be |titel=Öffentliche Bekanntmachung AUREG |werk=handelsregisterbekanntmachungen.de |abruf=2016-01-29}}</ref>。 この子会社は2015年にウィキメディア・ドイツへ、寄付金収入と共に「運営資金」として15万ユーロを送金した<ref name="Jahresplan 2015" />。 == 論争 == === ドイツ社会問題中央研究所の基準との比較 === {{main|{{仮リンク|ウィキメディア・ドイツ-論争-ドイツ社会問題中央研究所の基準との比較|de|Wikimedia Deutschland#Vergleich mit DZI-Kriterien}}}} === 子会社 === {{main|{{仮リンク|ウィキメディア・ドイツ-論争-子会社|de|Wikimedia Deutschland#Gemeinnützige Wikimedia Fördergesellschaft}}}} === 理事会からの早すぎる離脱 === {{main|{{仮リンク|ウィキメディア・ドイツ-論争-理事会からの早すぎる離脱|de|Wikimedia Deutschland#Vorzeitige Trennung vom Vorstand}}}} === ウィキメディアの費用対効果比較 === {{main|{{仮リンク|ウィキメディア・ドイツ-論争-ウィキメディアの費用対効果比較|de|Wikimedia Deutschland#Kosten-Nutzen-Vergleich der Wikimedia}}}} === ボランティアとの連携不足 === {{main|{{仮リンク|ウィキメディア・ドイツ-論争-ボランティアとの連携不足|de|Wikimedia Deutschland#Kosten-Nutzen-Mangelnde Zusammenarbeit mit Ehrenamtlichen}}}} == 法的論争 == {{main|{{仮リンク|ウィキメディア・ドイツ-法的論争|de|Wikimedia Deutschland#Rechtliche Auseinandersetzungen}}}} == 表彰 == * 2020年: {{仮リンク|カール・プロイスカー・メダル|de|Karl-Preusker-Medaille}} == 脚注 == <references /> == 外部リンク == {{Commonscat}} * [//wikimedia.de/ Website des Vereins] * [https://www.wikipedia.de/ Website von wikipedia.de] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ういきめていあといつ}} [[Category:ウィキメディア財団]] [[Category:2004年設立]] [[Category:ベルリンの企業]]
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マヤ・アースキン
マヤ・アースキン(Maya Erskine、1987年5月7日生まれ)は、アメリカの女優兼作家。『Man Seeking Woman』のマギー役や『Betas』のミッキー役で知られている 。2019年から2021年まで、彼女はHuluのオリジナルテレビコメディシリーズ『PEN15』でアンナ・コンクルと共演し、また、このシリーズの共同制作者および共同エグゼクティブプロデューサーも務めた 。彼女とコンクルは、シリーズ内で13歳の自分自身の架空のバージョンを演じた。 アースキンはロサンゼルスで生まれ、母親は新潟和泉町出身の日本人、父親はニュージャージー出身のアメリカ人で、ジャズドラマーのピーター・アースキンである。彼女の母親はPEN15で彼女の役の母親も演じている。 アースキンはCrossroads School for Arts & Sciencesに通い 、Los Angeles County High School for the Artsを卒業し 、その後、ニューヨーク大学のティッシュ芸術学校に進学した 。アースキンはもともとミュージカルシアターを専攻していたが、後に学校の実験劇場ウィングに転向した。NYUでの在学中、アムステルダムの演劇プログラムで留学していたアンナ・コンクルと出会った。 アースキンは、ロサンゼルスの劇団であるイーストウエスト・プレイヤーズおよびゲフィン・プレイハウスに出演している。 2019年には、エイミー・ポーラーの監督デビュー作である『ワイン・カントリー』に出演し、ポーラー、マヤ・ルドルフ、ティナ・フェイ、レイチェル・ドラッチなど、数々のコメディアンと共演した。 2019年9月に、俳優のマイケル・アンガラノとの交際を公表した。2020年11月2日、カップルは婚約していることと子供を授かったことを明らかにした。彼らの息子は2021年に誕生した。
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マヤ・アースキンは、アメリカの女優兼作家。『Man Seeking Woman』のマギー役や『Betas』のミッキー役で知られている。2019年から2021年まで、彼女はHuluのオリジナルテレビコメディシリーズ『PEN15』でアンナ・コンクルと共演し、また、このシリーズの共同制作者および共同エグゼクティブプロデューサーも務めた。彼女とコンクルは、シリーズ内で13歳の自分自身の架空のバージョンを演じた。
{{Infobox 人物 |name=Maya Erskine |image=Maya Erskine.jpg|caption=Erskine in 2016 |birth_date={{birth date and age|1987|5|7}} |birth_place=ロスアンジェルス, カリフォルニア, U.S. |death_date= |death_place= |education=[[ニューヨーク大学]] ([[Bachelor of Fine Arts|BFA]]) |occupation=女優, ライター |yearsactive=2010- 現在 |partner=[[Michael Angarano]] <br /> (2019–present)|children=1}} '''マヤ・アースキン'''(Maya Erskine、1987年5月7日生まれ)は、アメリカの女優兼作家。『Man Seeking Woman』のマギー役や『Betas』のミッキー役で知られている<ref>{{Cite web |url=http://kore.am/man-seeking-womans-maya-erskine-on-dating-hitler/ |title='Man Seeking Woman's Maya Erskine on "Dating Hitler" |date=2015-04-30 |website=Kore Asian Media |language=en-US |access-date=2019-03-09 |archive-url=https://web.archive.org/web/20161112061451/http://kore.am/man-seeking-womans-maya-erskine-on-dating-hitler/ |archive-date=November 12, 2016 |url-status=dead}}</ref> 。2019年から2021年まで、彼女はHuluのオリジナルテレビコメディシリーズ『PEN15』でアンナ・コンクルと共演し、また、このシリーズの共同制作者および共同エグゼクティブプロデューサーも務めた<ref>{{Cite web |url=https://www.thecut.com/2019/02/interview-with-maya-erskine-and-anna-konkle-from-hulu-pen15.html |title=How PEN15 Made Two 30-Year-Olds Look 13 |author=Davis |first=Allison P. |date=2019-02-14 |website=The Cut |language=en |access-date=2019-03-09}}</ref> 。彼女とコンクルは、シリーズ内で13歳の自分自身の架空のバージョンを演じた<ref>{{Cite web |url=https://www.latimes.com/entertainment/tv/la-et-st-pen15-hulu-feature-20190208-story.html |title='PEN15' creators Maya Erskine and Anna Konkle on playing their uncool 13-year-old selves |author=Villarreal |first=Yvonne |website=[[Los Angeles Times]] |date=February 8, 2019 |access-date=2019-02-16}}</ref>。 == 生い立ち == アースキンはロサンゼルスで生まれ、母親は新潟和泉町出身の日本人、父親はニュージャージー出身のアメリカ人で、ジャズドラマーのピーター・アースキンである<ref name=":0">{{Cite web |url=https://wwd.com/eye/people/maya-erskine-plus-one-tribeca-film-festival-pen15-1203127675/ |title=Maya Erskine Breaks Out With a Little Help From Her Friends |author=Tauer |first=Kristen |date=2019-05-10 |website=WWD.com |language=en |access-date=2019-05-28}}</ref>。彼女の母親はPEN15で彼女の役の母親も演じている<ref name=":1">{{Cite news |url=https://www.thedailybeast.com/maya-erskine-of-hulus-pen15-and-tribeca-film-festivals-plus-one-is-about-to-be-hollywoods-biggest-comedy-star |title=Maya Erskine Is About to Be Hollywood's Biggest Comedy Star |last=Fallon |first=Kevin |newspaper=[[The Daily Beast]] |date=2019-05-01 |access-date=2019-05-28 |language=en}}</ref>。 アースキンはCrossroads School for Arts & Sciencesに通い<ref name=":1" /> 、Los Angeles County High School for the Artsを卒業し<ref>{{Cite news |url=https://smmirror.com/2005/07/sm-drama-student-wins-major-award/ |title=SM Drama Student Wins Major Award |date=July 20, 2005 |newspaper=[[Santa Monica Mirror]] |access-date=August 5, 2017}}</ref> 、その後、[[ニューヨーク大学]]のティッシュ芸術学校に進学した<ref>{{Cite web |url=https://tisch.nyu.edu/drama/about/studios/the-classical-studio/Alumni |title=The Classical Studio Alumni |website=tisch.nyu.edu |access-date=August 5, 2017}}</ref> 。アースキンはもともとミュージカルシアターを専攻していたが、後に学校の実験劇場ウィングに転向した<ref>{{Cite web |author=Carlin |first=Shannon |title=How Re-Living The Horrors Of Middle School Changed The Stars Of 'PEN15' For The Better |url=https://www.bustle.com/p/pen15-stars-maya-erskine-anna-konkle-are-overcoming-their-middle-school-trauma-by-reliving-it-15949199 |access-date=2019-02-20 |website=Bustle |language=en}}</ref>。NYUでの在学中、[[アムステルダム]]の演劇プログラムで留学していたアンナ・コンクルと出会った。<ref>{{Cite web |author=Villarreal |first=Yvonne |title='PEN15' creators Maya Erskine and Anna Konkle on playing their uncool 13-year-old selves |url=https://www.latimes.com/entertainment/tv/la-et-st-pen15-hulu-feature-20190208-story.html |access-date=2019-02-20 |website=[[Los Angeles Times]] |date=February 8, 2019}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.papermag.com/pen15-maya-erskine-anna-konkle-2631519726.html |title='PEN15' Stars Maya Erskine and Anna Konkle in Conversation |date=2019-03-13 |website=PAPER |first=Brendan |author=Wetmore |language=en |access-date=2019-05-28}}</ref> == キャリア == アースキンは、ロサンゼルスの劇団であるイーストウエスト・プレイヤーズおよびゲフィン・プレイハウスに出演している。<ref>{{Cite web |url=http://www.geffenplayhouse.org/media_center_cast.php?show_id=168 |title=Media Center Cast |author=Playhouse |first=Geffen |website=www.geffenplayhouse.org |access-date=August 5, 2017 |archive-url=https://web.archive.org/web/20170805221025/http://www.geffenplayhouse.org/media_center_cast.php?show_id=168 |archive-date=August 5, 2017 |url-status=dead}}</ref> <ref>{{Cite web |url=http://www.geffenplayhouse.org/media_center_cast.php?show_id=168 |title=Media Center Cast |last=Playhouse |first=Geffen |website=www.geffenplayhouse.org |access-date=August 5, 2017 |archive-url=https://web.archive.org/web/20170805221025/http://www.geffenplayhouse.org/media_center_cast.php?show_id=168 |archive-date=August 5, 2017 |url-status=dead}}</ref> 2019年には、[[エイミー・ポーラー]]の監督デビュー作である『[[ワイン・カントリー (映画)|ワイン・カントリー]]』に出演し、ポーラー、マヤ・ルドルフ、ティナ・フェイ、レイチェル・ドラッチなど、数々のコメディアンと共演した<ref name=":0" />。 2019年9月に、俳優のマイケル・アンガラノとの交際を公表した。2020年11月2日、カップルは婚約していることと子供を授かったことを明らかにした。彼らの息子は2021年に誕生した<ref>{{Cite news |url=https://people.com/parents/maya-erskine-pregnant-engaged-michael-angarano/ |title=Maya Erskine Is Pregnant and Engaged! PEN15 Star and Michael Angarano Expecting Their First Child |last=Mizoguchi |first=Karen |date=2020-11-02 |newspaper=[[People Magazine|People]] |access-date=2020-11-04}}</ref><ref>{{Cite news |last=VanHoose |first=Benjamin |author2=Ushe |first2=Naledi |date=2021-05-07 |title=Pen15 Star Maya Erskine and Fiancé Michael Angarano Welcome First Child |newspaper=People Magazine |url=https://people.com/parents/maya-erskine-michael-angarano-welcome-first-child/ |access-date=2021-05-07}}</ref>。 == フィルモグラフィ == === 映画 === {| class="wikitable sortable plainrowheaders" !年 !題名 !役名 ! class="unsortable" |Notes |- |2015 |''フランケンシュタイン アダム・ザ・モンスター'' |ワンダ | |- | rowspan="2" |2018 |''[[シックス・バルーン]]'' |キャメロン | |- |''When Jeff Tried to Save the World'' |サマンサ | |- | rowspan="2" |2019 |''Plus One'' |アリス・モリ | |- |''[[ワイン・カントリー (映画)|ワイン・カントリー]]'' |ジェイド | |- |2020 |[[弱虫スクービーの大冒険]] |ジュディ・タカモト |声の出演 |- |2022 |''[[DC がんばれ!スーパーペット]]'' |[[マーシー・グレイブス]] |声の出演 |- |2025 |''Wildwood'' |{{TableTBA}} |声の出演 |- |TBA |''Sacramento'' |{{TableTBA}} |Filming<ref>{{Cite web |url=https://www.cbsnews.com/amp/sacramento/news/sacramento-film-wrapping-up-production-maybe-youll-catch-a-glimpse-of-stars-at-these-spots/ |website=cbsnews.com |access-date=June 4, 2023 |title="Sacramento" film wrapping up production: Maybe you'll catch a glimpse of stars at these spots |first=Cecilio |author=Padilla |date=May 25, 2023}}</ref> |} === テレビ番組 === {| class="wikitable sortable" !題名 !題名 !役名 ! class="unsortable" |Notes |- | rowspan="3" |2013 |''[[ハート・オブ・ディクシー ドクターハートの診療日記]]'' |ネッシー |2 エピソード |- |''Project Reality'' | |{{要出典|date=June 2022}} |- |''High School USA!'' |生徒 |声の出演; 4 エピソード |- |2013–2014 |''Betas'' |ミッキー |メインキャスト |- |2014 |''Next Time on Lonny'' |Charika |Episode: "Lonny is Famous" |- | rowspan="3" |2015 |''Stone Quackers'' |various |Voice role; 2 episodes |- |''Man Seeking Woman'' |マギー |Main role (season 1) |- |''Big Time in Hollywood, FL'' |Venice |Episode: "What Dreams May Come" |- | rowspan="2" |2016 |''Heartbeat'' |Ji-Sung |Main role |- |''Son of Zorn'' |April Lee |Episode: "A Taste of Zephyria" |- |2016–2017 |[[インセキュア]] |ダイアナ・ナカムラ |Recurring role (seasons 1–2), 6 episodes |- | rowspan="2" |2017 |''Michael Bolton's Big, Sexy Valentine's Day Special'' |スーザン |TV special |- |''Wet Hot American Summer: Ten Years Later'' |Ginny |3 episodes |- |2017–2018 |''Casual'' |Rae |リカーリングキャスト(seasons 3–4), 15 episodes |- |2019–2021 |''PEN15'' |マヤ・イシイ・ペーターズ |Main role; also creator, writer, and executive producer |- | rowspan="4" |2020 |[[ボージャック・ホースマン]] |Ivy Tran |Voice role; episode: "Good Damage" |- |''Bob's Burgers'' |Kaylee |Voice role; 2 episodes |- |''[[ロボット・チキン]]'' |College Girl #4 |声の出演; episode: "Buster Olive in..." |- |''[[ビッグマウス (2017年のテレビアニメ)|ビッグマウス]]'' |カフェテリアの女性:ミーシャ |声の出演; episode: "カフェテリアガールズ" |- |2020–2021 |''Crossing Swords'' |プリンセスブロッサム |リカーリングボイスキャスト, 5エピソード |- |2022 |[[オビ=ワン・ケノービ (テレビドラマ)|オビ=ワン・ケノービ]] |Sully Stark |ミニシリーズ<br /><br /> 3 エピソード |- |2023 |''[[BLUE EYE SAMURAI/ブルーアイ・サムライ|Blue Eye Samurai/ブルーアイ・サムライ]]'' |ミズ |Netflixオリジナルアニメ 主演<ref>https://deadline.com/2020/10/netflix-blue-eye-samurai-animated-action-series-michael-green-maya-erskine-george-takei-masi-oka-randall-park-lead-cast-1234594672/</ref> |- |2024 |''Mr. &amp;amp; Mrs. Smith'' |ミセス・スミス |Upcoming TV series; main role{{要出典|date=June 2022}} |} == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * {{IMDb name|4224109}} * {{Rotten Tomatoes person|maya_erskine}} [[Category:ニューヨーク大学出身の人物]] [[Category:21世紀アメリカ合衆国の女性著作家]] [[Category:アメリカ合衆国の女性声優]] [[Category:アメリカ合衆国のテレビ女優]] [[Category:アメリカ合衆国の映画女優]] [[Category:21世紀アメリカ合衆国の女優]] [[Category:日系アメリカ人の俳優]] [[Category:ロサンゼルス出身の人物]] [[Category:1987年生]] [[Category:存命人物]]
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文棟柱 (野球)
文 棟柱(ムン・ドンジュ、朝鮮語: 문동주、2003年12月23日 - )は、大韓民国の光州広域市出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。KBOリーグのハンファ・イーグルス所属。 光州振興高等学校(朝鮮語版)で2年生の時に投手へ転向。最速154km/hの速球を計測して注目を集め、光州東城高等学校(朝鮮語版)の金倒永と共に、起亜タイガースの1次ドラフト指名候補とされた。 2022年の新人ドラフトにて、起亜は1次ドラフトで金を指名。自身は同じく1次ドラフトでハンファ・イーグルスに指名されて入団した。 2022年5月10日のLGツインズ戦で救援登板してデビューした。同月18日のサムスン・ライオンズ戦でプロ初ホールドを記録した。6月9日の斗山ベアーズ戦で初先発登板し、4回4失点で敗戦投手となった。この試合後に右肩腱板部分断裂および血腫と診断され、離脱した。その後復帰し、10月3日のSSGランダース戦で5回4失点ながらプロ初勝利を記録した。 2023年4月12日の起亜戦でプロ初のクオリティ・スタートに加え、自己最速となる160km/hを計測した。シーズン途中に開催されたアジア競技大会の韓国代表に選出されて優勝し、兵役を免除された。また、シーズン終了後にはアジア プロ野球チャンピオンシップの韓国代表に選出された。
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文 棟柱は、大韓民国の光州広域市出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。KBOリーグのハンファ・イーグルス所属。
{{Infobox baseball player |選手名 = 文 棟柱 |英語表記 = Moon Dong-Ju |所属球団 = ハンファ・イーグルス |背番号 = 1 |選手写真ファイル名 = Moon Dong-ju 2023.jpg |写真サイズ = 250 |写真のコメント = ハンファ・イーグルス時代<br>(2023年5月25日) |国籍 = {{KOR2}} |出身地 = [[光州広域市]] |生年月日 = {{生年月日と年齢|2003|12|23}} |没年月日 = |身長 = 188 |体重 = 98 |利き腕 = 右 |打席 = 右 |守備位置 = [[投手]] |プロ入り年度 = 2022年 |ドラフト順位 = 1次ドラフト |初出場 = KBO / 2022年5月10日 |最終出場 = |年俸 = 3300万ウォン(2023年) |経歴 = * {{仮リンク|光州振興高等学校|ko|광주진흥고등학교}} * [[ハンファ・イーグルス]] (2022 - ) |代表チーム = |五輪 = |WBC = |選出国 = |選出年 = |得票率 = |選出方法 = }} {{MedalTableTop}} {{MedalCountry|{{KOR}}}} {{MedalCompetition|[[アジア プロ野球チャンピオンシップ]]}} {{MedalSilver|[[2023 アジア プロ野球チャンピオンシップ|2023]]|}} {{MedalBottom}} '''文 棟柱'''(ムン・ドンジュ、{{lang-ko|문동주}}、[[2003年]][[12月23日]] - )は、[[大韓民国]]の[[光州広域市]]出身の[[プロ野球選手]]([[投手]])。右投右打。[[KBOリーグ]]の[[ハンファ・イーグルス]]所属。 == 経歴 == === プロ入り前 === {{仮リンク|光州振興高等学校|ko|광주진흥고등학교}}で2年生の時に[[投手]]へ転向。最速154km/hの速球を計測して注目を集め、{{仮リンク|光州東城高等学校|ko|광주동성고등학교}}の[[金倒永]]と共に、[[起亜タイガース]]の1次ドラフト指名候補とされた<ref>{{Cite web |title='우완 154km' 문동주 vs '제2의 이종범' 김도영 |url=https://sports.news.naver.com/news?oid=214&aid=0001109755 |website=sports.news.naver.com |access-date=2023-11-16 |language=ko |first=박주린 |last=이명노}}</ref>。 2022年の新人ドラフトにて、起亜は1次ドラフトで金を指名。自身は同じく1次ドラフトで[[ハンファ・イーグルス]]に指名されて入団した<ref>{{Cite web |title=[공식발표] '제 2의 이종범은 KIA로' 한화, 이변없이 154km 우완 문동주 지명 |url=https://sports.news.naver.com/news?oid=076&aid=0003771235 |website=sports.news.naver.com |access-date=2023-11-16 |language=ko |last=이종서}}</ref>。 === ハンファ時代 === {{by|2022年}}5月10日の[[LGツインズ]]戦で救援登板してデビューした。同月18日の[[サムスン・ライオンズ]]戦でプロ初ホールドを記録した。6月9日の[[斗山ベアーズ]]戦で初先発登板し、4回4失点で敗戦投手となった。この試合後に右肩腱板部分断裂および血腫と診断され、離脱した。その後復帰し、10月3日の[[SSGランダース]]戦で5回4失点ながらプロ初勝利を記録した。 {{by|2023年}}4月12日の起亜戦でプロ初の[[クオリティ・スタート]]に加え、自己最速となる160km/hを計測した。シーズン途中に開催された[[アジア競技大会]]の韓国代表に選出されて優勝し、兵役を免除された<ref>{{Cite web |title=아버지가 못다 이룬 꿈 한 번에 달성한 아들, 문동주 [항저우 2022] |url=https://sports.news.naver.com/news?oid=241&aid=0003304858 |website=sports.news.naver.com |access-date=2023-11-16 |language=ko |last=이형석}}</ref>。また、シーズン終了後には[[アジア プロ野球チャンピオンシップ]]の韓国代表に選出された<ref>{{Cite web |title=文棟柱|韓国代表選手|カーネクスト アジアプロ野球チャンピオンシップ2023 |url=https://www.japan-baseball.jp/jp/profile/top_apbc2023/kor/1.html |website=野球日本代表 侍ジャパンオフィシャルサイト |access-date=2023-11-16 |language=ja |last=NPBエンタープライズ}}</ref><ref>{{Cite web |title=【アジチャン】韓国160キロ右腕・文棟柱「目標は優勝すること」10月アジア大会で金メダル獲得 - スポニチ Sponichi Annex 野球 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2023/11/15/kiji/20231115s00001000464000c.html |website=スポニチ Sponichi Annex |access-date=2023-11-16 |language=ja}}</ref>。 == 詳細情報 == === 年度別投手成績 === {|{{投手成績|リーグ=KBOリーグ}} |- |style="text-align:center;"|{{by2|2022}} |rowspan="2" style="text-align:center;white-space:nowrap;"|[[ハンファ・イーグルス|ハンファ]] |13||4||0||0||0||1||3||0||2||.250||127||28.2||28||5||14||0||1||36||2||1||19||18||5.65||1.47 |- |style="text-align:center;"|{{by2|2023}} |23||23||0||0||0||8||8||0||0||.500||503||118.2||113||6||42||0||4||95||5||1||52||49||3.72||1.31 |- !colspan="2"|[[KBOリーグ|KBO]]:2年 |36||27||0||0||0||9||11||0||2||.450||630||147.1||141||11||56||0||5||131||7||2||71||67||4.09||1.34 |} * 2023年度シーズン終了時 === 表彰 === ; KBO * 新人王(2023年) === 背番号 === * '''1'''(2022年 - ) === 代表歴 === * [[2022年アジア競技大会|2023年 アジア競技大会 韓国代表]] * [[2023 アジア プロ野球チャンピオンシップ 韓国代表|2023年 アジア プロ野球チャンピオンシップ 韓国代表]] == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == {{BASEBALLstats|kbo=52701|brkbo=moon--002don}} * {{인스타그램|dongjoo_1}} {{ハンファ・イーグルス}} {{韓国野球委員会新人王}} {{デフォルトソート:むん とんしゆ}} [[Category:韓国の野球選手]] [[Category:ハンファ・イーグルス及びピングレ・イーグルスの選手]] [[Category:野球韓国代表選手]] [[Category:韓国のアジア競技大会選手]] [[Category:韓国のアジア競技大会金メダリスト]] [[Category:光州広域市出身の人物]] [[Category:2003年生]] [[Category:存命人物]]
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高橋武太郎
高橋 武太郎(たかはし たけたろう、1874年〈明治7年〉5月1日 - 1951年〈昭和26年〉4月18日)は、明治後期から昭和時代にかけて活動した日本の電気技術者、実業家である。長野県の電力会社信濃電気で常務取締役を務めたのち独立し研削材メーカーの信濃電気製錬(旧・大正電気製錬所)を起業した。岡山県出身。 岡山県民・山形和吉の六男として1874年(明治7年)5月1日に生まれる。出身地は岡山県苫田郡津山町(現・津山市)。1878年(明治11年)2月高橋家に養子入りし家を継いだ。山口県立山口中学校を経て山口高等学校に入り、1896年(明治29年)7月に卒業。次いで1899年(明治32年)7月東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業した。 大学在学中、石川島造船所にて実習していた際に同社が工事を請け負ったことから長野県の飯田にある飯田電灯で設計・監督に関わった。この縁から大学卒業後は飯田電灯に主任技術者として入社し、拡張工事に従事した。1902年(明治35年)、飯田電灯から同じ長野県の電力会社信濃電気へと転じその起業に参画。1903年(明治36年)5月会社設立(初代社長越寿三郎)ののち同年8月信濃電気の技師長に着任した。同社では関川での水力発電所建設を指揮したほか、発生電力を用いた副業であるカーバイド事業(炭化カルシウム製造)に取り組んだ。1905年(明治38年)取締役に選出(取締役兼技師長)。1913年(大正2年)には常務取締役に昇格した。1918年(大正7年)12月、建設に携わった関川の高沢発電所構内に高橋の業績をたたえる記念碑(長野県知事赤星典太篆題)が建てられた。 関川の杉野沢発電所完成(1919年4月)を区切りとして信濃電気からの退職を決め、1919年(大正8年)5月17日付で同社取締役を辞任した。退職後は退職金を投じ、信濃電気から上水内郡柏原村(現・信濃町柏原)にあったカーバイド工場の一角を借り受けて「大正電気製錬所」を立ち上げた。製錬所では友人で冶金学を専門とする東京帝国大学教授桂弁三の指導により、信濃電気から受電して銑鉄(低リン銑鉄)の製造を開始した。しかしながら第一次世界大戦終結の影響を受けて鉄鋼価格の下落が止まらない状況にあり、大正電気製錬所も短期間で事業停止を余儀なくされた。事業停止を機に個人事業から改めて会社組織として事業再開を待つこととなり、1921年(大正10年)12月26日、友人・知人8名とともに株主となって資本金37万5100円の株式会社大正電気製錬所を設立した。会社の本店は東京の自宅に置いた。 1926年(大正15年)、大正電気製錬所は銑鉄製造を断念し研削材に用いられる人造コランダム(褐色溶解アルミナ。別名アランダム)やカーボランダム(炭化ケイ素)の試作に着手した。1928年(昭和3年)からは製品出荷が可能となり、販路も順次拡大して会社の事業を軌道に乗せることに成功した。1938年(昭和13年)になり、大正電気製錬所では信濃電気の後身である長野電気から当時不要になっていたカーバイド工場の現物出資を受けた。このことで長野電気との間に資本関係が生じ、同社の解散後には信越化学工業の傘下に入ることとなった。 太平洋戦争下では引き続き大正電気製錬所社長として軍需が高まる研削材事業の経営にあたる。ところが戦後、軍需消失にドッジ不況による需要減が重なって大正電気製錬所は経営難に陥る。その只中にあった1950年(昭和25年)3月、高橋は健康上の理由で代表取締役社長兼技師長を辞職して大正電気製錬所から退いた。翌1951年(昭和26年)2月、大正電気製錬所は小坂武雄の社長就任にあわせ信濃電気製錬へと社名を変更する。その2か月後の同年4月18日、高橋武太郎は死去した。76歳没。5月2日に信濃電気製錬柏原工場において社葬が行われた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "高橋 武太郎(たかはし たけたろう、1874年〈明治7年〉5月1日 - 1951年〈昭和26年〉4月18日)は、明治後期から昭和時代にかけて活動した日本の電気技術者、実業家である。長野県の電力会社信濃電気で常務取締役を務めたのち独立し研削材メーカーの信濃電気製錬(旧・大正電気製錬所)を起業した。岡山県出身。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "岡山県民・山形和吉の六男として1874年(明治7年)5月1日に生まれる。出身地は岡山県苫田郡津山町(現・津山市)。1878年(明治11年)2月高橋家に養子入りし家を継いだ。山口県立山口中学校を経て山口高等学校に入り、1896年(明治29年)7月に卒業。次いで1899年(明治32年)7月東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "大学在学中、石川島造船所にて実習していた際に同社が工事を請け負ったことから長野県の飯田にある飯田電灯で設計・監督に関わった。この縁から大学卒業後は飯田電灯に主任技術者として入社し、拡張工事に従事した。1902年(明治35年)、飯田電灯から同じ長野県の電力会社信濃電気へと転じその起業に参画。1903年(明治36年)5月会社設立(初代社長越寿三郎)ののち同年8月信濃電気の技師長に着任した。同社では関川での水力発電所建設を指揮したほか、発生電力を用いた副業であるカーバイド事業(炭化カルシウム製造)に取り組んだ。1905年(明治38年)取締役に選出(取締役兼技師長)。1913年(大正2年)には常務取締役に昇格した。1918年(大正7年)12月、建設に携わった関川の高沢発電所構内に高橋の業績をたたえる記念碑(長野県知事赤星典太篆題)が建てられた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "関川の杉野沢発電所完成(1919年4月)を区切りとして信濃電気からの退職を決め、1919年(大正8年)5月17日付で同社取締役を辞任した。退職後は退職金を投じ、信濃電気から上水内郡柏原村(現・信濃町柏原)にあったカーバイド工場の一角を借り受けて「大正電気製錬所」を立ち上げた。製錬所では友人で冶金学を専門とする東京帝国大学教授桂弁三の指導により、信濃電気から受電して銑鉄(低リン銑鉄)の製造を開始した。しかしながら第一次世界大戦終結の影響を受けて鉄鋼価格の下落が止まらない状況にあり、大正電気製錬所も短期間で事業停止を余儀なくされた。事業停止を機に個人事業から改めて会社組織として事業再開を待つこととなり、1921年(大正10年)12月26日、友人・知人8名とともに株主となって資本金37万5100円の株式会社大正電気製錬所を設立した。会社の本店は東京の自宅に置いた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1926年(大正15年)、大正電気製錬所は銑鉄製造を断念し研削材に用いられる人造コランダム(褐色溶解アルミナ。別名アランダム)やカーボランダム(炭化ケイ素)の試作に着手した。1928年(昭和3年)からは製品出荷が可能となり、販路も順次拡大して会社の事業を軌道に乗せることに成功した。1938年(昭和13年)になり、大正電気製錬所では信濃電気の後身である長野電気から当時不要になっていたカーバイド工場の現物出資を受けた。このことで長野電気との間に資本関係が生じ、同社の解散後には信越化学工業の傘下に入ることとなった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "太平洋戦争下では引き続き大正電気製錬所社長として軍需が高まる研削材事業の経営にあたる。ところが戦後、軍需消失にドッジ不況による需要減が重なって大正電気製錬所は経営難に陥る。その只中にあった1950年(昭和25年)3月、高橋は健康上の理由で代表取締役社長兼技師長を辞職して大正電気製錬所から退いた。翌1951年(昭和26年)2月、大正電気製錬所は小坂武雄の社長就任にあわせ信濃電気製錬へと社名を変更する。その2か月後の同年4月18日、高橋武太郎は死去した。76歳没。5月2日に信濃電気製錬柏原工場において社葬が行われた。", "title": "経歴" } ]
高橋 武太郎は、明治後期から昭和時代にかけて活動した日本の電気技術者、実業家である。長野県の電力会社信濃電気で常務取締役を務めたのち独立し研削材メーカーの信濃電気製錬(旧・大正電気製錬所)を起業した。岡山県出身。
[[ファイル:Takahashi Taketaro.jpg|thumb|upright|信濃電気時代の高橋武太郎]] '''高橋 武太郎'''(たかはし たけたろう、[[1874年]]〈[[明治]]7年〉[[5月1日]] - [[1951年]]〈[[昭和]]26年〉[[4月18日]])は、明治後期から昭和時代にかけて活動した[[日本]]の電気技術者、[[実業家]]である。[[長野県]]の電力会社[[信濃電気]]で常務取締役を務めたのち独立し[[研磨材|研削材]]メーカーの[[信濃電気製錬]](旧・大正電気製錬所)を起業した。[[岡山県]]出身。 == 経歴 == [[岡山県]]民・山形和吉の六男として[[1874年]](明治7年)[[5月1日]]に生まれる<ref name="koshin4">人事興信所 編『人事興信録』第4版、人事興信所、1915年、た62頁。{{NDLJP|1703995/430}}</ref>。出身地は岡山県[[苫田郡]][[津山町 (岡山県)|津山町]]<ref name="kinencho">矢ケ崎賢次 編『長野県御大典記念帖』、[[長野新聞]]、1916年、26頁。{{NDLJP|920904/73}}</ref>(現・[[津山市]])。[[1878年]](明治11年)2月高橋家に[[養子縁組|養子入り]]し家を継いだ<ref name="koshin4"/>。[[山口県立山口高等学校|山口県立山口中学校]]を経て[[山口高等学校 (旧制)|山口高等学校]]に入り<ref name="teidai">藤田一 編『帝国大学出身名鑑』(2版)、校友調査会、1934年、タ66頁。{{NDLJP|1280156/575}}</ref>、[[1896年]](明治29年)7月に卒業<ref>「[{{NDLDC|2947197/3}} 学事 山口高等学校卒業証書授与式]」『[[官報]]』第3917号、1896年7月20日</ref>。次いで[[1899年]](明治32年)7月[[東京大学大学院工学系研究科・工学部|東京帝国大学工科大学]]電気工学科を卒業した<ref>「[{{NDLDC|2948098/4}} 学事 東京帝国大学各分科大学卒業証書授与式]」『官報』第4808号、1899年7月12日</ref>。 大学在学中、[[IHI|石川島造船所]]にて実習していた際に同社が工事を請け負ったことから[[長野県]]の[[飯田市|飯田]]にある[[飯田電灯]]で設計・監督に関わった<ref name="kinencho"/>。この縁から大学卒業後は飯田電灯に[[電気主任技術者|主任技術者]]として入社し、拡張工事に従事した<ref name="kinencho"/>。[[1902年]](明治35年)、飯田電灯から同じ長野県の電力会社[[信濃電気]]へと転じその起業に参画<ref name="kinencho"/>。[[1903年]](明治36年)5月会社設立(初代社長[[越寿三郎]])ののち同年8月信濃電気の技師長に着任した<ref name="seiren-18">信濃電気製錬 編『信濃電気製錬70年の歩み』、信濃電気製錬、1991年、18-22頁</ref>。同社では[[関川 (信越)|関川]]での[[水力発電|水力発電所]]建設を指揮したほか、発生電力を用いた副業であるカーバイド事業([[炭化カルシウム]]製造)に取り組んだ<ref name="seiren-18"/>。[[1905年]](明治38年)取締役に選出<ref>「[{{NDLDC|2950052/15}} 商業登記]」『官報』第6716号、1905年11月16日</ref>(取締役兼技師長<ref name="kinencho"/>)。[[1913年]](大正2年)には常務取締役に昇格した<ref name="kinencho"/>。[[1918年]](大正7年)12月、建設に携わった関川の高沢発電所構内に高橋の業績をたたえる記念碑(長野県知事[[赤星典太]]篆題)が建てられた<ref>前掲『信濃電気製錬70年の歩み』、7-8頁</ref>。 関川の杉野沢発電所完成(1919年4月)を区切りとして信濃電気からの退職を決め<ref name="seiren-18"/>、[[1919年]](大正8年)5月17日付で同社取締役を辞任した<ref>「[{{NDLDC|2954204/17}} 商業登記]」『官報』第2091号附録、1919年7月24日</ref>。退職後は退職金を投じ、信濃電気から[[上水内郡]][[柏原村 (長野県)|柏原村]](現・[[信濃町 (代表的なトピック)|信濃町]]柏原)にあったカーバイド工場の一角を借り受けて「大正電気製錬所」を立ち上げた<ref name="seiren-18"/>。製錬所では友人で冶金学を専門とする東京帝国大学教授桂弁三の指導により、信濃電気から受電して[[銑鉄]](低リン銑鉄)の製造を開始した<ref name="seiren-18"/>。しかしながら[[第一次世界大戦]]終結の影響を受けて鉄鋼価格の下落が止まらない状況にあり、大正電気製錬所も短期間で事業停止を余儀なくされた<ref name="seiren-18"/>。事業停止を機に個人事業から改めて会社組織として事業再開を待つこととなり、[[1921年]](大正10年)12月26日、友人・知人8名とともに株主となって[[資本金]]37万5100円の株式会社大正電気製錬所を設立した<ref name="seiren-18"/>。会社の本店は東京の自宅に置いた<ref name="seiren-18"/>。 [[1926年]](大正15年)、大正電気製錬所は銑鉄製造を断念し研削材に用いられる人造[[コランダム]]([[褐色溶解アルミナ]]。別名アランダム)やカーボランダム([[炭化ケイ素]])の試作に着手した<ref name="seiren-18"/>。[[1928年]](昭和3年)からは製品出荷が可能となり、販路も順次拡大して会社の事業を軌道に乗せることに成功した<ref name="seiren-18"/>。[[1938年]](昭和13年)になり、大正電気製錬所では信濃電気の後身である[[長野電灯|長野電気]]から当時不要になっていたカーバイド工場の[[現物出資]]を受けた<ref name="seiren-18"/>。このことで長野電気との間に資本関係が生じ、同社の解散後には[[信越化学工業]]の傘下に入ることとなった<ref name="seiren-18"/>。 [[太平洋戦争]]下では引き続き大正電気製錬所社長として軍需が高まる研削材事業の経営にあたる<ref>『信濃電気製錬70年の歩み』、26-27頁</ref>。ところが戦後、軍需消失に[[ドッジ不況]]による需要減が重なって大正電気製錬所は経営難に陥る<ref name="seiren-29">『信濃電気製錬70年の歩み』、29-32頁</ref>。その只中にあった[[1950年]](昭和25年)3月、高橋は健康上の理由で代表取締役社長兼技師長を辞職して大正電気製錬所から退いた<ref name="seiren-29"/>。翌[[1951年]](昭和26年)2月、大正電気製錬所は[[小坂武雄]]の社長就任にあわせ[[信濃電気製錬]]へと社名を変更する<ref name="seiren-34">『信濃電気製錬70年の歩み』、34-35頁</ref>。その2か月後の同年[[4月18日]]、高橋武太郎は死去した<ref name="seiren-34"/>。76歳没。5月2日に信濃電気製錬柏原工場において社葬が行われた<ref name="seiren-34"/>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{デフォルトソート:たかはし たけたろう}} [[Category:日本の企業創立者]] [[Category:日本の電気技術者]] [[Category:長野電気の人物]] [[Category:山口県立山口高等学校出身の人物]] [[Category:山口大学出身の人物]] [[Category:東京大学出身の人物]] [[Category:岡山県出身の人物]] [[Category:1874年生]] [[Category:1951年没]]
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マイクロパップ真空管
マイクロパップ真空管(マイクロパップしんくうかん)は三極真空管で第二次世界大戦中にレーダーなどの高周波領域で動作する電波兵器に使われたが、マグネトロンの改良型である6共振空洞型マグネトロンに取って代わられた。 この真空管は、外付けのアノード・ブロックが特徴で、これにより熱放散が良くなっている。これらの真空管は、25cmという短い波長でキロワット級の高周波電力を供給することができ、200MHzでは100kW台のパルス波を供給することができた。マイクロパップ管は、アノードとカソード間の電子の通過時間を最小化するために非常に高い電圧を使用しており、管のサイズが大きいにもかかわらず高周波を供給していた。 マイクロパップ真空管は、1939年ごろ、銅とガラスの真空気密接合技術が開発されたことによって製造が可能になった。円筒形のアノード電極と同心円筒形のグリッド電極を使用する設計で、カソードは直熱方式のトリウムタングステン線であった。GECが開発したNT99というタイプは、600MHzレーダー・セットで使用された場合、ピーク出力200kW(2本1組の場合)を得られた。マイクロパップ三極管を使用した50cm波長レーダーセットは、戦艦ビスマルクの動きを追跡するために重巡洋艦サフォークに搭載された。 「メートル波長帯域」レーダーシステムで広く使用されていたが、ジョン・ランドールとハリー・ブートによる空洞マグネトロンの改良型である6共振空洞型マグネトロンが、はるかに高い周波数で大きな出力を生み出すことができるようになったため、これに取って代わられた。
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マイクロパップ真空管(マイクロパップしんくうかん)は三極真空管で第二次世界大戦中にレーダーなどの高周波領域で動作する電波兵器に使われたが、マグネトロンの改良型である6共振空洞型マグネトロンに取って代わられた。
'''マイクロパップ真空管'''(マイクロパップしんくうかん)は[[三極真空管]]で[[第二次世界大戦]]中に[[レーダー]]などの[[高周波]]領域で動作する[[電波兵器]]に使われたが、[[マグネトロン]]の改良型である[[ジョン・ランドール (物理学者)#6共振空洞型マグネトロンの発明|6共振空洞型マグネトロン]]に取って代わられた<ref name=":0">{{Cite web |url=http://www.r-type.org/pdfs/ase-tube.pdf |website=The Valve Museum |access-date=2023-11-16 |title=Radar tube development}}</ref><ref name=":1">F.A. Kingsley (ed.), ''The Development of Radar Equipments for the Royal Navy, 1935–45'' Springer, 2016, {{ISBN2|1349134570}}, pages 110–111</ref>。 == 特徴 == この真空管は、外付けの[[アノード]]・ブロックが特徴で<ref>{{Cite web |title=Micropup CV55 air-cooled triode {{!}} Science Museum Group Collection |url=https://collection.sciencemuseumgroup.org.uk/objects/co420955/micropup-cv55-air-cooled-triode-electronic-valve |website=collection.sciencemuseumgroup.org.uk |access-date=2023-11-16 |language=en}}</ref><ref>{{Cite web |title=CV155 |url=https://www.valvecollector.uk/cv155.htm |website=www.valvecollector.uk |access-date=2023-11-16}}</ref>、これにより熱放散が良くなっている。これらの真空管は、25cmという短い[[波長]]でキロワット級の高周波電力を供給することができ<ref>{{Cite web |url=http://www.ase-museoedelpro.org/Museo_Edelpro/Catalogo/tubes/Family_descr_doc/coll_P5.pdf |title=High-frequency, VHF / UHF space-charge types |access-date=2023-11-16 |publisher=Silica valves}}</ref>、200MHzでは100kW台の[[パルス波]]を供給することができた。マイクロパップ管は、アノードと[[カソード]]間の電子の通過時間を最小化するために非常に高い電圧を使用しており<ref>United States Department of the Army ''Generation and Transmission of Microwave Energy'', Technical Manual TM 11-673, June 1953, pp. 114–116</ref>、管のサイズが大きいにもかかわらず高周波を供給していた。 == 製造技術 == マイクロパップ真空管は、1939年ごろ、銅とガラスの真空気密接合技術が開発されたことによって製造が可能になった。円筒形のアノード電極と同心円筒形の[[制御グリッド|グリッド電極]]を使用する設計で、カソードは直熱方式の[[トリウムタングステン]]線<ref>{{Cite web |title=トリウムタングステン(Thoriated Tungsten)の開発と製造_使用と特性 |url=https://www.goodfellow-japan.jp/en/blog/thoriated-tungsten.htm |website=www.goodfellow-japan.jp |access-date=2023-11-16 |language=ja}}</ref>であった。[[ゼネラル・エレクトリック・カンパニー|GEC]]が開発したNT99というタイプは、600MHzレーダー・セットで使用された場合、ピーク出力200kW(2本1組の場合)を得られた。マイクロパップ三極管を使用した50cm波長レーダーセットは、[[ビスマルク (戦艦)|戦艦ビスマルク]]の動きを追跡するために[[サフォーク (重巡洋艦)|重巡洋艦サフォーク]]に搭載された<ref>L. Brown, ''Technical and Military Imperatives: A Radar History of World War 2'', CRC Press, 1999, {{ISBN2|1420050664}}, page 329</ref>。 == マグネトロンが代替 == 「メートル波長帯域」レーダーシステムで広く使用されていたが、[[ジョン・ランドール (物理学者)|ジョン・ランドール]]と[[ハリー・ブート]]による[[マグネトロン|空洞マグネトロン]]の改良型である6共振空洞型マグネトロンが、はるかに高い周波数で大きな出力を生み出すことができるようになったため、これに取って代わられた<ref name=":0" /><ref name=":1" />。 == 脚注・参考文献 == {{reflist}} == 関連項目 == * [[真空管]] * [[レーダー]] * [[レーダーの歴史]] * [[マグネトロン]] == 外部リンク == * {{Cite web |url=http://www.r-type.org/pdfs/ase-tube.pdf |website=The Valve Museum |access-date=2023-11-16 |title=Radar tube development}} {{DEFAULTSORT:まいくろはつふしんくうかん}} [[Category:真空管]] [[Category:レーダー]]
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あかさかかなた
あかさかかなた(本名:非公表)は、日本の絵本作家。兵庫県神戸市出身。 兵庫県加古川市を中心に活動 あかさかかなたは、「兎の眼」などで知られる児童文学作家・灰谷健次郎の神戸市立東灘小学校時代の教え子。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "あかさかかなた(本名:非公表)は、日本の絵本作家。兵庫県神戸市出身。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "兵庫県加古川市を中心に活動 あかさかかなたは、「兎の眼」などで知られる児童文学作家・灰谷健次郎の神戸市立東灘小学校時代の教え子。", "title": "経歴" } ]
あかさかかなたは、日本の絵本作家。兵庫県神戸市出身。
{{複数の問題 |特筆性=2023年11月16日 (木) 06:12 (UTC)|分野=人物 |存命人物の出典皆無=2023年11月16日 (木) 19:10 (UTC) |参照方法=2023年11月16日 (木) 19:10 (UTC) |脚注の不足=2023年11月16日 (木) 19:10 (UTC) |wikify=2023年11月16日 (木) 19:10 (UTC) |言葉を濁さない=2023年11月16日 (木) 19:10 (UTC) }} '''あかさかかなた'''(本名:非公表)は、[[日本]]の[[絵本作家]]。[[兵庫県]][[神戸市]]出身。 == 経歴 == 兵庫県加古川市を中心に活動 あかさかかなたは、「兎の眼」などで知られる児童文学作家・灰谷健次郎の神戸市立東灘小学校時代の教え子。 <ref>[https://www.kobe-np.co.jp/news/touban/202212/0015922293.shtml 神戸新聞2022年12月27日掲載]</ref> <ref>[https://www.yomiuri.co.jp/local/hyogo/news/20230307-OYTNT50050/ 読売新聞2023年3月7日掲載]</ref> == 作品 == === 絵本 === * 『さみしがりのがりぱんだ』[[HPS]] - {{ISBN|9784991282201}} == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://garipanda.net/ がりぱんだ公式サイト] {{Artist-substub}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:あかさかかなた}} [[Category:日本の男性絵本作家]] [[Category:兵庫県出身の人物]] [[Category:存命人物]]
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朴燦鍾
朴 燦鍾(パク・チャンジョン、朝鮮語: 박찬종、1939年4月19日 - )は、大韓民国の政治家、法曹。第9・10・12・13・14代韓国国会議員。 本貫は密陽朴氏。号は尤堂(ウダン、우당)。 釜山出身。ソウル大学校商科大学経済学科、東国大学校経営学修士課程修了。政界では民主共和党釜山市第3地区党委員長、1976年4月27日から韓国公認会計士会長、民主化推進協議会人権擁護委員長、統一民主党政策議長、野圏統合推進会共同代表、民主党副総裁等を務めた。
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朴 燦鍾は、大韓民国の政治家、法曹。第9・10・12・13・14代韓国国会議員。 本貫は密陽朴氏。号は尤堂(ウダン、우당)。
'''朴 燦鍾'''(パク・チャンジョン、{{Lang-ko|박찬종}}、[[1939年]][[4月19日]] - )は、[[大韓民国]]の[[政治家]]、[[法曹]]、[[弁護士]]、[[公認会計士]]、[[海軍軍人]]。第9・10・12・13・14代[[国会 (大韓民国)|韓国国会]]議員。 [[本貫]]は[[密陽朴氏]]。[[雅号|号]]は'''尤堂'''(ウダン、우당)。 == 経歴 == [[釜山広域市|釜山]]出身。[[ソウル大学校]]商科大学経済学科卒、[[東国大学校]]経営学修士課程修了。高試行政・公法科、[[米国公認会計士]]試験合格。元韓国公認会計士会会長<ref>{{Cite web |title=會長(회장)에 朴燦鍾(박찬종)씨 선출 會計士會定總(회계사회정총),會則(회칙)개정않기로 |url=https://newslibrary.naver.com/viewer/index.naver?articleId=1976042800099203003&editNo=1&printCount=1&publishDate=1976-04-28&officeId=00009&pageNo=3&printNo=3123&publishType=00020 |website=NAVER Newslibrary |access-date=2023-11-16|work=매일경제|date=1976.04.28}}</ref>。政界入り後は国会議員5期を務めたほか、[[民主共和党 (韓国)|民主共和党]]釜山市第3地区党委員長、[[民主化推進協議会]]人権擁護委員長、[[統一民主党]]政策議長、野圏統合推進会共同代表、[[民主党 (韓国 1990-1991)|民主党]]副総裁などを務めた<ref>{{Cite web |title=대한민국헌정회 |url=https://rokps.or.kr/profile/profile_view.asp?idx=1645&page=1 |website=rokps.or.kr |access-date=2023-11-16}}</ref>。 [[1992年大韓民国大統領選挙|1992年の大統領選挙]]に{{仮リンク|新政治改革党|ko|신정치개혁당|label=新政党}}の候補として出馬し、6.4%の得票率で4位を記録した<ref>{{Cite web |title=기록으로 보는 대통령선거의 역사 > 연표 및 주요사건 |url=https://theme.archives.go.kr/next/vote/outline/lineOut02.do |website=theme.archives.go.kr |access-date=2023-11-16}}</ref>。 1996年2月、[[新韓国党]][[首都圏 (韓国)|首都圏]]選挙対策委員長を務めた。[[統営市]]・[[固城郡]]選挙区の遊説中に「元[[大統領 (大韓民国)|大統領]]の[[全斗煥]]と[[盧泰愚]]を司法処理しなかったら、[[全羅道]]の[[デモ隊]]がデモを継続し、国家危機に突入する」と話したが、[[韓国の地域対立|地域対立]]を助長するため非難を受けた<ref>{{Cite web |title=박찬종씨'지역감정'발언 물의|work=한겨레|date=1996.02.28|url=https://newslibrary.naver.com/viewer/index.naver?articleId=1996022800289104004&editNo=5&printCount=1&publishDate=1996-02-28&officeId=00028&pageNo=4&printNo=2491&publishType=00010 |website=NAVER Newslibrary |access-date=2023-11-16}}</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} {{DEFAULTSORT:はく ちやんしよん}} [[Category:韓国の国会議員]] [[Category:韓国の弁護士]] [[Category:公認会計士]] [[Category:韓国海軍の軍人]] [[Category:釜山広域市出身の人物]] [[Category:密陽朴氏]] [[Category:ソウル大学校出身の人物]] [[Category:東国大学校出身の人物]] [[Category:1939年生]] [[Category:存命人物]]
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BEST of the Tank-top
BEST of the Tank-top(ベスト・オブ・ザ・タンクトップ)は、2023年11月15日にユニバーサルシグマから発売されたヤバイTシャツ屋さんの1枚目のベスト・アルバム。 このアルバムはヤバイTシャツ屋さんが2023年で結成10周年を記念してリリースされたアルバムであり、本作のリリースは、同年8月17日の横浜BuzzFrontにて開催された「ヤバイTシャツ屋さん 緊急開催!重大発表をしまくるワンマンライブ (一部生配信あり!!!!!)」で発表された。 本作は10年間のバンド活動を網羅したような作品となっており、代表曲からライブの定番曲まで19曲が収録されている。また、ボーナストラックとして書き下ろし曲やこれまでCD化されてこなかった音源も収録された。 完全生産限定盤、初回限定盤、通常盤の3形態となっており、完全生産限定盤と初回限定盤は過去のミュージックビデオを集めたBlu-ray Discが付属する。また、完全生産限定盤はそれに加えて限定バスタオルも付属する。 bonus track おもしろMusic Videoコレクション
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BEST of the Tank-top(ベスト・オブ・ザ・タンクトップ)は、2023年11月15日にユニバーサルシグマから発売されたヤバイTシャツ屋さんの1枚目のベスト・アルバム。
{{Infobox Album | Name = BEST of the Tank-top | Cover = | Type = ベスト・アルバム | Artist = [[ヤバイTシャツ屋さん]] | Released = [[2023年]][[11月15日]] | Recorded = | Genre = [[J-POP]] | Length = 1時間17分 | Label = [[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサルシグマ]] | Producer = | Reviews = | Chart position = *10位(オリコン)<ref name="oricon">{{Cite web|url=https://www.oricon.co.jp/prof/678614/products/1488671/1/|title=BEST of the Tank-top|ヤバイTシャツ屋さん|accessdate=2023-11-27|website=ORICON NEWS}}</ref> | Certification = | Last album = [[Tank-top Flower for Friends]]<br />(2023年) | This album = '''BEST of the Tank-top'''<br />(2023年) | Next album = | Misc = }} '''BEST of the Tank-top'''(ベスト・オブ・ザ・タンクトップ)は、2023年11月15日に[[ユニバーサルシグマ]]から発売された[[ヤバイTシャツ屋さん]]の1枚目の[[ベスト・アルバム]]<ref name="oricon" />。 == 概要 == このアルバムはヤバイTシャツ屋さんが2023年で結成10周年を記念してリリースされたアルバムであり、本作のリリースは、同年[[8月17日]]の横浜BuzzFrontにて開催された「ヤバイTシャツ屋さん 緊急開催!重大発表をしまくるワンマンライブ (一部生配信あり!!!!!)」で発表された<ref name="rockinon20230818">{{Cite news |title=ヤバイTシャツ屋さん、「初のベストアルバム」「初全都道府県ツアー」「初のファンクラブ」「サンリオコラボ」「地上波冠番組」「MV公開」をサプライズ発表 |newspaper=[[rockin'on]] |date=2023-08-18 |url=https://rockinon.com/news/detail/207183 |accessdate=2023-11-16}}</ref>。 本作は10年間のバンド活動を網羅したような作品となっており、代表曲からライブの定番曲まで19曲が収録されている。また、ボーナストラックとして書き下ろし曲やこれまでCD化されてこなかった音源も収録された<ref name="billboard20231101">{{Cite news |title=ヤバイTシャツ屋さん、初ベストAL『BEST of the Tank-top』トレーラー公開 |newspaper=[[billboard JAPAN]] |date=2023-11-01 |url=https://www.billboard-japan.com/d_news/detail/131367/2 |access-date=2023-11-16}}</ref>。 完全生産限定盤、初回限定盤、通常盤の3形態となっており、完全生産限定盤と初回限定盤は過去の[[ミュージックビデオ]]を集めた[[Blu-ray Disc]]が付属する<ref>[https://yabaitshirtsyasan.com/discography/153518/ 「BEST of the Tank-top」初回限定盤 (CD+Blu-ray)] - ヤバイTシャツ屋さん OFFICIAL WEB SITE</ref>。また、完全生産限定盤はそれに加えて限定バスタオルも付属する<ref name=":0">[https://yabaitshirtsyasan.com/discography/153603/ 「BEST of the Tank-top」完全生産限定盤 (CD+Blu-ray+10周年感があるバスタオル)] - ヤバイTシャツ屋さん OFFICIAL WEB SITE</ref>。 == 収録内容 == === CD(全形態共通) === * 1. '''[[We love Tank-top|あつまれ!パーティーピーポー]]''' ** 作詞:DELATORRE ERIC、ERIC D LUX、GORDY SKYLER HUSTEN、GORDY STEFAN KENDAL、SMITH JONATHAN H、こやまたくや、作曲:Skyler Husten Gordy、Stefan Kendal Gordy、編曲:ヤバイTシャツ屋さん * 2. '''[[Galaxy of the Tank-top|ハッピーウェディング前ソング]]''' ** 作詞・作曲:こやまたくや、編曲:ヤバイTシャツ屋さん * 3. '''[[Galaxy of the Tank-top|ヤバみ]]''' ** 作詞・作曲:こやまたくや、編曲:ヤバイTシャツ屋さん * 4. '''[[You need the Tank-top|NO MONEY DANCE]]''' ** 作詞・作曲:こやまたくや、編曲:ヤバイTシャツ屋さん * 5. '''[[Tank-top Flower for Friends|Blooming the Tank-top]]''' ** 作詞・作曲:こやまたくや、編曲:ヤバイTシャツ屋さん * 6. '''[[Galaxy of the Tank-top|鬼POP激キャッチー最強ハイパーウルトラミュージック]]''' ** 作詞・作曲:こやまたくや、編曲:ヤバイTシャツ屋さん * 7. '''[[Tank-top Festival in JAPAN|KOKYAKU満足度1位]]''' ** 作詞・作曲:こやまたくや、編曲:ヤバイTシャツ屋さん * 8. '''[[Tank-top Flower for Friends|ちらばれ!サマーピーポー]]''' ** 作詞・作曲:こやまたくや、編曲:[[シライシ紗トリ]] * 9. '''[[We love Tank-top|無線LANばり便利]]''' ** 作詞・作曲:こやまたくや、編曲:ヤバイTシャツ屋さん * 10. '''[[Galaxy of the Tank-top|Tank-top in your heart]]''' ** 作詞・作曲:こやまたくや、編曲:ヤバイTシャツ屋さん * 11. '''[[You need the Tank-top|泡 Our Music]]''' ** 作詞・作曲:こやまたくや、編曲:ヤバイTシャツ屋さん * 12. '''[[Galaxy of the Tank-top|肩 have a good day -2018ver.-]]''' ** 作詞・作曲:こやまたくや、編曲:[[亀田誠治]] * 13. '''[[We love Tank-top|Tank-top of the world]]''' ** 作詞・作曲:こやまたくや、編曲:ヤバイTシャツ屋さん * 14. '''[[Tank-top Flower for Friends|Bluetooth love]]''' ** 作詞・作曲:こやまたくや、編曲:ヤバイTシャツ屋さん * 15. '''[[Tank-top Flower for Friends|dabscription]]''' ** 作詞・作曲:こやまたくや、編曲:永澤和真、ヤバイTシャツ屋さん * 16. '''[[Tank-top Festival in JAPAN|Tank-top Festival 2019]]''' ** 作詞・作曲:こやまたくや、編曲:ヤバイTシャツ屋さん * 17. '''[[You need the Tank-top|癒着☆NIGHT]]''' ** 作詞・作曲:こやまたくや、編曲:ヤバイTシャツ屋さん * 18. '''[[You need the Tank-top|Give me the Tank-top]]''' ** 作詞・作曲:こやまたくや、編曲:ヤバイTシャツ屋さん * 19. '''[[Tank-top Festival in JAPAN|かわE]]''' ** 作詞・作曲:こやまたくや、編曲:ヤバイTシャツ屋さん '''bonus track''' * 20. '''BEST''' ** 作詞・作曲:こやまたくや、編曲:ヤバイTシャツ屋さん * 21. '''スーモマーチ(ハウ前ソver.)''' ** 作詞:横澤宏一郎 、 葉葉 、 こやまたくや、作曲:川嶋可能 、 こやまたくや 、編曲:ヤバイTシャツ屋さん * 22. '''スーモマーチ(ネコ飼いたいver.)''' ** 作詞:横澤宏一郎 、 葉葉 、 こやまたくや、作曲:川嶋可能 、 こやまたくや 、編曲:ヤバイTシャツ屋さん * 23. '''大阪芸大MY REQUESTジングル〜ヤバイコラボ曲〜''' ** 作詞・作曲:こやまたくや、編曲:ヤバイTシャツ屋さん * 24. '''#このラジオがヤバい ジングル''' ** 作詞・作曲:こやまたくや、編曲:ヤバイTシャツ屋さん * 25. '''ゾロリのおれさま最高ソング(DEMO ver.)''' ** 作詞・作曲:こやまたくや、編曲:ヤバイTシャツ屋さん * 26. '''[[We love Tank-top|喜志駅周辺なんもない]](運賃改定ver.)''' ** 作詞・作曲:こやまたくや、編曲:ヤバイTシャツ屋さん * 27. '''[[Galaxy of the Tank-top|ハッピーウェディング前ソング]](2年以内に別れないver.)''' ** 作詞・作曲:こやまたくや、編曲:ヤバイTシャツ屋さん === Blu-ray Disc(完全生産限定盤、初回限定盤共通) === '''おもしろMusic Videoコレクション''' * 1. あつまれ!パーティーピーポー * 2. 無線LANばり便利 * 3. ヤバみ * 4. [[どうぶつえんツアー|肩 have a good day]] * 5. ハッピーウェディング前ソング * 6. Tank-top in your heart * 7. [[Galaxy of the Tank-top|肩 have a good day -2018 ver.-]] * 8. 鬼POP激キャッチー最強ハイパーウルトラミュージック * 9. KOKYAKU満足度1位 * 10. かわE * 11. Tank-top Festival 2019 * 12. 癒着☆NIGHT * 13. 泡 Our Music * 14. [[Galaxy of the Tank-top|Universal Serial Bus]] * 15. [[You need the Tank-top|sweet memories]] * 16. Give me the Tank-top * 17. [[You need the Tank-top|げんきもりもり!モーリーファンタジー]] * 18. NO MONEY DANCE * 19. [[Tank-top Flower for Friends|くそ現代っ子ごみかす20代]] * 20. Bluetooth Love * 21. dabscription * 22. ちらばれ!サマーピーポー * 23. [[Tank-top Flower for Friends|hurray]] * 24. Blooming the Tank-top == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == UNIVERSAL MUSIC JAPANによる紹介ページ * [https://www.universal-music.co.jp/yabaitshirtsyasan/products/umck1756/ BEST of the Tank-top[通常盤]] * [https://www.universal-music.co.jp/yabaitshirtsyasan/products/umck7222/ BEST of the Tank-top[初回限定盤]] * [https://www.universal-music.co.jp/yabaitshirtsyasan/products/umck7223/ BEST of the Tank-top[完全生産限定盤]] ヤバイTシャツ屋さん OFFICIAL WEB SITEによる紹介ページ * [https://yabaitshirtsyasan.com/discography/153571/ 「BEST of the Tank-top」通常盤 (CDのみ)] * [https://yabaitshirtsyasan.com/discography/153518/ 「BEST of the Tank-top」初回限定盤 (CD+Blu-ray)] * [https://yabaitshirtsyasan.com/discography/153603/ 「BEST of the Tank-top」完全生産限定盤 (CD+Blu-ray+10周年感があるバスタオル)] {{ヤバイTシャツ屋さん}} {{album-stub}} {{DEFAULTSORT:へすとおふさたんくとつふ}} [[Category:2023年のアルバム]] [[Category:ユニバーサルミュージックジャパンのベスト・アルバム]] [[Category:ヤバイTシャツ屋さんのアルバム]]
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西部ステップ牧畜民
考古遺伝学では、西部ステップ牧畜民(WSH)という用語は、紀元前5千年紀の変わり目の頃に銅器時代の草原の個体で最初に同定された明確な祖先構成要素に与えられた名前である、その後、クヴァリンスク文化、スレドニ・ストグ文化、ヤムナ文化などの遺伝的に類似した、あるいは直接関連した古代の集団で検出され、現代のヨーロッパ、西アジア、南アジアの集団でもかなりのレベルで発見されている。この祖先系統はしばしばヤムナヤ祖先系統、ヤムナヤ関連祖先系統、ステップ祖先系統またはステップ関連祖先系統と呼ばれる。 西部ステップ牧畜民は東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)とコーカサス狩猟採集民(英語: Caucasus Hunter-Gatherer)(CHG)が合併した子孫と考えられている。西部ステップ牧畜民(WSH)成分は東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)とコーカサス狩猟採集民(CHG)の祖先成分がほぼ等しい割合で遺伝的混血したものとしてモデル化され、Y-DNAハプログループの大部分は東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)男性からの寄与である。西部ステップ牧畜民の男性のY-DNAハプログループは一様ではなく、ヤムナ文化の個体は主にR1b-Z2103に属し、I2a2は少数であり、それ以前のクヴァリンスク文化の個体は主にR1bであるが、R1a、Q1a、J、I2a2もあり、それ以降の高WSH祖先の縄目文土器文化の個体は初期のサンプルでは主にハプログループR1bに属し、時間の経過とともにR1a-M417が優勢になる。 紀元前3,000年頃、ヤムナ文化またはそれに近縁の集団の人々は、新石器時代の農民との混血を加えた高レベルの西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先を持ち、インド・ヨーロッパ人の移動(英語: Indo-European migrations)に着手した。この時代のWSHの祖先はしばしばステップ初期・中期青銅器時代(Steppe EMBA)と呼ばれる。 この移動は、約75%が西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先である縄目文土器文化と、約50%が西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先である鐘状ビーカー文化(「東方グループ」)の両方の起源に関連しているが、これらのグループの正確な関係は不明である。西部ステップ牧畜民(WSH)の拡大により、ヨーロッパの遺伝子プールから初期ヨーロッパ農耕民(EEF)のY-DNAが事実上消滅し、ヨーロッパの文化的・遺伝的景観が大きく変化した。青銅器時代には、中央ヨーロッパからの混血を持つ縄目文土器文化人が草原に再移住し、シンタシュタ文化を形成し、しばしば草原中後期青銅器時代(Steppe MLBA)またはシンタシュタ関連と呼ばれる西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先の一種を形成した。 アンドロノヴォ文化とスラブナヤ文化(英語: Srubnaya culture)を経て、ステップMLBAはインド・イラン語派とともに中央アジアと南アジアに伝わり、長期にわたって文化的・遺伝的遺産を残した。 ヨーロッパの現代人口は、大部分がWHG(西ヨーロッパ狩猟採集民)、東ヨーロッパ狩猟採集民(EEF)、西部ステップ牧畜民(WSH)の混合としてモデル化できる。ヨーロッパでは,Haakら (2015)によると西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先はノルウェー人の間でピークに達している(約50%)が,南アジアではNarasimhanら (2019)によるとカラシュ人の間でピークに達している(約30%)。 2015年中にネイチャーとセル (雑誌)に発表されたいくつかの遺伝子研究の要約がHeyd (2017)によって示されている: 「ステップの祖先」は、少なくとも3つの特徴的なクラスターに分類することができる。すなわち、中石器時代にヨーロッパ草原の原住民であった東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)に関連する集団と、近東から北に広がったコーカサス狩猟採集民(CHG)に関連する集団である。この祖先プロフィールは「銅器時代の草原」祖先系統、あるいは「前ヤムナヤの祖先系統」として知られ、クヴァリンスク文化II遺跡とプログレス2遺跡の古代の個体によって代表される。これらの個体は、年代的には東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)と後期ヤムナヤの中間であり、コーカサス狩猟採集民(CHG)の祖先の割合は非常に多様である。 後期のヤムナ文化集団は、東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)関連/コーカサス狩猟採集民(CHG)関連の混血集団にアナトリア農耕民の祖先と西方狩猟採集民の混血を加えたものとモデル化することもできるし、東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)、コーカサス狩猟採集民(CHG)、イランの石器時代の祖先の混血とモデル化することもできる。このような祖先プロフィールは、それ以前の新石器時代のステップやステップマイコープ文化の集団には見られない。ヤムナ文化の個体だけでなく、アルタイ山脈付近の近縁のアファナシェヴォ文化や青銅器時代中期の草原のポルタフカ文化の個体にも非常に類似した祖先が見られる。この遺伝的要素は、草原時代前期から中期青銅器時代(ステップ初期-中期青銅器時代:Steppe Early to Middle Bronze Age、Steppe EMBA)、またはヤムナヤ関連祖先系統として知られている。 ヤムナヤに関連する集団が東ヨーロッパと中央ヨーロッパに拡大した結果、縄目文土器文化や鐘状ビーカー文化の古代の人々のように、ステップEMBAと初期ヨーロッパ農民の祖先が混ざった集団が形成された。東部の縄目文土器文化では、ファティアノヴォ=バラノヴォ(Fatyanovo-Balanovo)文化関連集団が草原やさらに東への逆移動の源となり、その結果、スルブナヤ文化(英語: Srubnaya culture)、シンタシュタ文化、アンドロノヴォ文化が形成された可能性がある。これらの文化に属する古代の人々の遺伝的クラスターは、ステップ中期~後期青銅器時代(ステップMLBA)の祖先として知られている。 いわゆる「銅器時代ステップ」の祖先、それは東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)と近東つまりコーカサス狩猟採集民(CHG)関連)集団の比較的単純な混血としてモデル化できるが、それが最初に形成された正確な位置は、依然として不明である。近東に祖先を持つ集団とポントス・カスピ海草原の東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)との混血は紀元前5千年までには始まっており、少なくともヤムナヤ文化より1千年は先行していた。 この初期の「ヤムナヤ以前」の祖先は、 クヴァリンスクII墓地の銅器時代の個体や、コーカサス山脈の真北にあるプログレス2遺跡で初めて検出された。この祖先は、ステップマイコープ文化の個体でも検出されているが、シベリアやアメリカ先住民関連の混血が加わっている。 クヴァリンスク文化の個体群は遺伝的に異質な集団であり、東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)に近い個体もいれば、後のヤムナヤの集団に近い個体もいる。平均して、これらの個体は、およそ4分の3が東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)、4分の1が近東(「アルメニア人関連」)の祖先であると推定できる。これらの3人はY染色体ハプログループR1a(後のヤムナヤのエリートの墓には見られない)、R1b、Q1aに属しており、最初の2つは先行する東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)集団に見られることから、先行する東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)集団との連続性を示唆している。 コーカサス北部の山麓にあるプログレス2遺跡の3個体も東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)とコーカサス狩猟採集民(CHG)に関連する祖先を持ち、遺伝学的にクヴァリンスクIIの新石器時代の個体と類似しているが、コーカサス狩猟採集民(CHG)に関連する祖先のレベルが高く、後期のヤムナヤ集団に匹敵する。 考古学者のデイヴィッド・アンソニーは、ヴォルガ川中流域と北コーカサス山麓の間に位置するクヴァリンスク/プログレス2の交配ネットワークが「ヤムナヤの遺伝的祖先としてもっともらしい」と推測している。 初期のヤムナヤ人、アファナシエボ文化人、そしてヤムナヤに続いて草原に進出したポルタフカ文化(英語: Poltavka culture)とカタコンブ文化(英語: Catacomb culture)の人々は、遺伝学的にほとんど区別のつかないクラスターを構成しており、主にR1b Y-DNAハプログループを持ち、I2aは少数派である。 2015年に初めてヤムナヤの全ゲノム配列が発表されたとき、ヤムナヤの個体にはアナトリア農耕民の祖先はいないと報告されたが、より大規模な調査の結果、現在ではヤムナヤには約14%のアナトリア農耕民の祖先がおり、さらに以前の銅器時代のステップの個体にはなかった小規模な西部ステップ牧畜民(WHG)の要素があることが一般的に合意されている。 ヤムナヤクラスターの形成に関与した実際の集団は依然として不明である。提案されているモデルには、東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)/コーカサス狩猟採集民(CHG)集団と西のヨーロッパ農耕民(球状アンフォラ文化圏の集団や遺伝的に類似した集団など)との混血、東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)集団とイラン銅器時代の集団との二方向混血、東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)、コーカサス狩猟採集民(CHG)、イラン石器時代の集団の三方向混血などがある。 2022年の研究では、ヤムナヤの祖先は、まだサンプリングされていない混血東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)/コーカサス狩猟採集民(CHG)集団と南コーカサスからの第二の源との混合としてモデル化できると結論づけ、ヤムナヤクラスターの源集団としてのクヴァリンスク文化新石器時代を否定している。この研究はまた、ククテニ・トリピリア文化や球状アンフォラ文化のヨーロッパの農民集団がヤムナヤに祖先をもたらしたという指摘とも矛盾しており、ヤムナヤにはヨーロッパの農民に見られるようなアナトリアの祖先が優位であることはなく、アナトリア人とレバノン人の祖先を同じ割合で持っている。 遺伝学的証拠は、紀元前3千年紀の初期にヨーロッパで大規模かつ比較的急激な人口の入れ替わりがあったことを示しており、その結果、縄目文土器文化と鐘状ビーカー文化とともにステップの祖先が急速に広まった。 縄目文土器文化の個体は、ヨーロッパ中北部や北東部の先行する新石器時代の文化とは遺伝的に異なることが示されており、彼らの祖先の約75%はヤムナヤのような集団に由来している。 最古の縄目文土器文化の個体は遺伝学的にヤムナヤに近い。新石器時代の地域集団との混血の結果、ヤムナヤと球状アンフォラ文化の個体の中間の遺伝子を持つ個体が後世に生まれた。 2021年の研究によると、ボヘミアの初期縄目文土器文化集団は、ヤムナヤに似た集団とヨーロッパ新石器に似た集団に、さらに、北東ヨーロッパの銅器時代の森林ステップ集団(Pitted Ware文化、ラトビア中期新石器時代文化、ウクライナ新石器時代文化、およびそれらに遺伝的に類似した集団など)が5%から15%程度寄与しており、著者らはこの集団を「森林ステップ」の祖先と呼んでいるが、これらの三者混合としてモデル化できる。 鐘状ビーカー文化では、ドイツ、チェコ共和国、イギリス出身の個体に、ステップに関連する祖先の高い割合(約50%)が見られる。遺伝子の入れ替わりが最も激しいのはイギリスで、数百年のうちに遺伝子プールの約90%が入れ替わった。 ステップの祖先を持つボヘミアの初期の鐘状ビーカー文化人は、縄目文土器文化の人と遺伝的に似ており、この2つのグループの連続性を示唆している。後期の鐘状ビーカー文化人は、さらに20%ほど中期の銅器時代の祖先を持っている。 ウラル山脈南部のシンタシュタ文化、中央アジアのアンドロノヴォ文化、そしてポントス・カスピ海草原地帯のスラブナヤ文化(英語: Srubnaya cultures)の青銅器時代の人々は、いずれもヤムナヤに関連した祖先を持っており、さらにヨーロッパ系農民の混血が加わって、ステップ中後期青銅器時代の祖先(ステップMLBA、Steppe Middle-Late Bronze Age)として知られているが、このクラスターには、縄目文土器文化の形成とともに発展したシンタシュタ文化人の祖先も含まれる可能性がある。シンタシュタ文化、アンドロノヴォ文化、スラブナヤ文化(英語: Srubnaya cultures)に属する人々は、いずれも遺伝学的に類似しており、最終的には東部の縄目文土器文化の集団であるファティアノヴォ・ブラノヴォ文化(英語: Fatyanovo–Balanovo culture)集団の二次移動の子孫である可能性がある。 このステップMLBAクラスターは、さらに「西ステップMLBAクラスター」と「中央ステップMLBAクラスター」に分けられる。「西ステップMLBAクラスター」は、3分の2がヤムナヤに関連する祖先、3分の1がヨーロッパ農耕民に関連する祖先とモデル化され、「中央ステップMLBAクラスター」は、西シベリア狩猟採集民(英語: Western Steppe Hunter Gatherer)(WSHG)に9%前後の祖先を持つ西ステップMLBAとモデル化される。中央ステップMLBAクラスターは、紀元前2千年紀初頭にヤムナヤに関連する祖先が南アジアに伝播する主要な媒介となったことが示唆されている。 Haakら (2015)はヤムナヤ文化の人々の祖先が東ヨーロッパ狩猟採集民と別の未確認集団の混合であることを発見した。調査した7人のヤムナヤ人男性全員がハプログループR1b (Y染色体)のサブクレード、ハプログループR-M269(R-M269)に属することが判明した。R1bはそれ以前にさらに北に住む[[東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)の間で検出されていた{sfn|Haakら|2015}}。 この研究によって、縄目文土器文化の被検者は約75%が西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先であり、ヤムナヤ人または中期新石器時代のヨーロッパ人と混血した遺伝的に類似した集団の子孫であることが判明した。このことは、ヤムナヤ人または近縁の集団が紀元前3,000年頃に大規模な拡大に乗り出したことを示唆しており、おそらくヨーロッパにおけるインド・ヨーロッパ語族の少なくとも一部の拡散に一役買ったと思われる。 この時期、G2aのような初期ヨーロッパ農耕民(EEFs)の間で一般的なY-DNAハプログループは中央ヨーロッパではほぼ完全に消滅し、この地域では以前は稀であった(R1b)か不明であった(R1a)という西部ステップ牧畜民(WSH)/[[東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)の父系ハプログループに取って代わられる。初期ヨーロッパ農耕民 (EEF)のmtDNAも同様に著しく減少し、西部ステップ牧畜民(WSH)タイプに取って代わられることから、ヤムナヤの拡大は男性と女性の両方によって行われたことが示唆される。 ヤムナヤの拡大の余波で、中央ヨーロッパでは初期ヨーロッパ農耕民(EEF)と西ヨーロッパ狩猟採集民(WHG)の祖先が復活したようで、これは鐘状ビーカー文化とその後継のウーニェチツェ文化のサンプルで検出されている。鐘状ビーカー文化には約50%の西部ステップ牧畜民(WSH)祖先がいた。 現代のヨーロッパの集団はすべて西ヨーロッパ狩猟採集民(WHG)、初期ヨーロッパ農耕民(EEF)、西部ステップ牧畜民(WSH)の混合としてモデル化できる。西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先は南ヨーロッパよりも北ヨーロッパでより一般的である。この研究で調査された現代の集団の中で、ノルウェー人が最も多くの西部ステップ牧畜民(WSH)祖先を持つことが判明し、彼らの間では50%を超えていた。 Allentoft et al. (2015)は5人のヤムナヤ人男性のY-DNAを調査した。4人はR1b1a2のタイプに属し、1人はI2a2a1b1bに属していた。研究の結果、中央ヨーロッパの新石器時代の農耕民は、紀元前3000年頃にヤムナヤ人に「大部分取って代わられた」ことが判明した。この入れ替わりは、遺伝的景観だけでなく、ヨーロッパの文化的景観をも多くの点で変えてしまった。 シベリア南部の当時のアファナシェヴォ文化の人々はヤムナヤと「遺伝的に区別できない」ことが発見された。縄目文土器文化、鐘状ビーカー文化、ウーニェチツェ文化、そして北欧青銅器時代の人々は、互いに遺伝的に非常に類似しているが、ヤムナヤとの親和性のレベルも様々であることが判明した。この研究の著者は、中央アジアのシンタシュタ文化は、西部ステップ牧畜民(WSH)とヨーロッパの新石器時代の農民の両方の祖先を持つ縄目文土器文化の人々が中央ヨーロッパから東へ移動した結果として出現したことを示唆した。 Jones et al. (2015)は、西部ステップ牧畜民(WSH)が[[東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)とこれまで知られていなかった分岐群との混血の子孫であることを発見した。 著者らはこれをコーカサス狩猟採集民(英語: Caucasus hunter-gatherer)s(CHGs)と同定・命名している。コーカサス狩猟採集民(CHG)は紀元前43,000年頃に西ヨーロッパ狩猟採集民(WHG)から分裂し、紀元前23,000年頃に初期ヨーロッパ農耕民(EEF)から分裂したことが判明した。ヤムナヤ族は「祖先の半分をコーカサス狩猟採集民(CHG)に連なるものに負っている」と推定された。 2015年11月にネイチャーに掲載されたMathieson et al. (2015)古代ユーラシア人230人におけるゲノムワイドな選択パターンによると、ポルタフカ文化(英語: Poltavka culture)、ポタポフカ文化(英語: Potapovka culture)、スルブナヤ文化(英語: Srubnaya culture)の人々は密接な関係にあり、大部分が西部ステップ牧畜民(WSH)の子孫であったが、スルブナヤ文化人は他の人々よりも初期ヨーロッパ農耕民(EEF)の祖先を持っていた(約17%)。ヤムナヤと同様に、ポルタフカ文化の男性はほとんどがR1bのタイプを持っていたが、スルブナヤの男性はR1aのタイプを持っていた。 この研究では、現代のヨーロッパ人のほとんどが、西ヨーロッパ狩猟採集民(WHG)、初期ヨーロッパ農耕民(EEF)、西部ステップ牧畜民(WSH)の混合体としてモデル化できることがわかった 2016年7月にネイチャーに掲載された遺伝学的研究によると、西部ステップ牧畜民(WSH)は東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)と「イラン銅器時代の人々に関連する集団」の混合であることがわかった。EHGは75%が古代北ユーラシア人(ANE)系であるとモデル化された。南アジアの集団の間で西部ステップ牧畜民(WSH)祖先の有意な存在が検出された。南アジアで西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先はカラシュ人の50%がピークで、これは北ヨーロッパの現代の集団に近いレベルである。 Lazaridis et al. (2017)はミケーネ人とミノア人の遺伝的起源を調べた。彼らはミノア人と遺伝的に類似していることが判明したが、ミケーネ人はミノア人には存在しない西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先を約15%保有していることが判明した。その結果、ミケーネ人は西部ステップ牧畜民(WSH)とミノア人の祖先の混合体としてモデル化できることがわかった。この研究では、今後の研究で解決すべき2つの重要な疑問が残されていると主張している。 第一に、ミノア人とミケーネ人に共通する「東方」の祖先はいつエーゲ海に到着したのか?第二に、ミケーネ人の「北方」の祖先はギリシャへの散発的な侵入によるものなのか、それとも中央ヨーロッパのような急速な移動の結果なのか?このような移動は、原ギリシア語を話す集団がインド・ヨーロッパ語族のステップ侵入の南翼を形成したという考えを支持するだろう。しかし、古代にインド・ヨーロッパ語族の言語が証明されていたピシディアの青銅器時代のサンプルに「北方」の祖先が見られないことから、この遺伝的・言語的関連には疑問が持たれ、古代アナトリア語族のさらなるサンプリングが必要である。 Olalde (2018)はイギリス諸島への西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先の侵入を調査した。西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先は紀元前3千年紀の後半に鐘状ビーカー文化によってイギリス諸島に持ち込まれたことが判明した。鐘状ビーカー人の移住は「数百年のうちにイギリスの遺伝子プールの〜90%が入れ替わった」 イギリス諸島の遺伝子プールは、以前は初期ヨーロッパ農耕民(EEF)によって支配されており、地域によって異なる西ヨーロッパ狩猟採集民(WHG)の混血が加わっていた。 現代のイギリス諸島の一部におけるY-DNAは、ほぼ完全にR1b-M269に属しており、これは西部ステップ牧畜民(WSH)の系統である。 2018年2月にネイチャーに掲載された遺伝学的研究によると、ヨーロッパの現代人口は大部分が東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)、西ヨーロッパ狩猟採集民(WHG)、西部ステップ牧畜民 (WSH)、初期ヨーロッパ農耕民(EEF)の混合としてモデル化できると指摘されている。 この研究では、ヤムナヤに隣接する球状アンフォラ文化の人々を調査した。その結果、球状アンフォラ文化の人々には西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先がいないことが判明し、文化の違いと遺伝子の違いが関係していることが示唆された。 注目すべきは、紀元前500年頃に現代のブルガリアに埋葬された2人の人物の間で西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先が検出されたことである。紀元前4,500年。このことは、西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先が、これまで信じられていたよりも2,000年も早くステップの外に現れたことを示している。 Damgaard et al. 2018は、ヤムナヤに関連した移住はヨーロッパよりも東アジアと南アジアで直接的かつ長期的な影響が少なかったことを発見した。決定的なことは、新石器時代後期の中央アジアのボタイ文化には西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先がいないことが判明し、彼らが西部ステップ牧畜民(WSH)から深く分岐した古代北ユーラシア人(ANE)由来の集団に属していたことが示唆された。 2018年11月にProceedings of the National Academy of Sciences of the United States of Americaに掲載された遺伝子研究は、モンゴル高原における西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先の存在を調査した。バイカル湖周辺に埋葬された青銅器時代後期の多数の遺骨が調査された。これらの個体の西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先はわずか7%であり、ユーラシア東部ステップでは牧畜が遺伝的な置換ではなく、文化的な伝達によって採用されたことが示唆された。 カラスク文化のような南シベリアの青銅器時代後期の集団に見られる西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先は、この時代までこの地域に遺伝的遺産がほとんど存在しなかった初期のアファナシェヴォ文化ではなく、アンドロノヴォ文化を通じて伝わったことが、この研究で判明した。 2019年2月にNature Communications誌に掲載された遺伝子研究は、ヤムナヤ文化とマイコープ文化の遺伝的起源を比較した。それによると、ヤムナヤ文化の間で発見された初期ヨーロッパ農耕民(EEF)祖先のほとんどは、東ヨーロッパの球状アンフォラ文化とククテニ文化に由来することがわかった。ヤムナヤ族における初期ヨーロッパ農耕民(EEF)の祖先の合計は10~18%と推定されています。マイコープ文化における初期ヨーロッパ農耕民(EEF)の祖先の多さを考えると、マイコープ文化が西部ステップ牧畜民(WSH)におけるコーカサス狩猟採集民(CHG)祖先系統の主要な源であったということは不可能である。したがって、コーカサス狩猟採集民(CHG)から西部ステップ牧畜民(WSH)への混血は、もっと早い時期に起こったに違いないと思われる。 Olalde (2019)は、西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先がイベリア半島に入った過程を分析した。イベリア半島における西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先の最古の証拠は、紀元前2,200年にイベリア半島で先住民集団と近接して暮らしていた個体から発見された。紀元前2,000年までには、イベリア半島の先住民のY-DNA(H、G2、I2)は、ほぼ完全に単一のWSH系統であるR-M269に置き換えられていた。しかし、この時期のイベリアにおけるmtDNAはまだほとんどが土着由来であり、イベリアにおけるWSHの祖先の侵入は主に男性主導であったことが確認された。 南アジアと中央アジアのゲノム形成という2019年9月にScienceに掲載された論文では、ユーラシア大陸全域のインド・ヨーロッパ語を話す集団に大量の西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先がいることが判明した。これはヤムナヤ人がインド・ヨーロッパ語を話していたという説の裏付けとなった。 この研究では、縄目文土器文化、スルブナヤ文化、シンタシュタ文化、アンドロノヴォ文化の人々は、約3分の2が西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先を持ち、約3分の1がヨーロッパの中期新石器時代の混血を持つ近縁集団であることが判明した。これらの結果は、シンタシュタ文化が、主に西部ステップ牧畜民(WSH)を祖先とする縄目文土器文化の人々が草原に戻る東方への移動として出現したという考え方をさらに裏付けるものであった。初期の西部ステップ牧畜民(WSH)の間では、R1bが最も一般的なY-DNA系統であり、R1a(特にハプログループR1a#R1a1b2 (R-Z93) (アジア)|R1a1a1b2)はアンドロノヴォやスラブナヤなど中央アジアの後期集団に多か見られた。 西シベリア狩猟採集民(WSGs)は、この研究で発見された系統であり、明確な考古学的系統である。西シベリア狩猟採集民(WSG)の祖先は、約30%が東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)、50%が古代北ユーラシア人(ANE)、20%が東アジア人の祖先を持つことが判明した。西部ステップ牧畜民(WSH)が東方へ拡大する過程で、西シベリア狩猟採集民(WSG)からわずかな(約8%)混血を得たことが注目された。 青銅器時代に中央アジアと南アジアに西部ステップ牧畜民(WSH)祖先系統の著しい流入があったことが判明した。西部ステップ 牧畜民(WSH)の祖先は、紀元前3千年紀の中央アジア南部の以前のサンプルにはほとんど含まれていないことがわかった 青銅器時代に中央アジアから南アジアに向かって西部ステップ牧畜民(WSH)が拡大した際、西部ステップ牧畜民(WSH)の間で南アジアの農耕民の祖先系統が増加した。南アジアの集団の中で、西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先系統はバラモンとブーミハル(英語: Bhumihar)の間で特に多い。したがって、西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先はヴェーダ文化(英語: Vedic culture)とともにインドに広がったと予想される。 Antonio et al. (2019)古代ローマ: ヨーロッパと地中海の遺伝的十字路 2019年11月にサイエンス に掲載された、紀元前900年から紀元前200年の間にローマ近郊に埋葬された6人のラテン人男性の遺骨を調査した。彼らは父方のハプログループR-M269、ハプログループT-M184(T1a1a, T-L208)、R-311、R-PF7589、R-P312(2サンプル)を、および母方のハプログループH1aaj1a、ハプログループT(T2c1f)、H2a、U4a1a、H11a、H10を保有していた。先行する原ヴィラノヴァン文化(英語: Proto-Villanovan culture)の女性は母方のハプログループU5a2bを持っていた。これらの調査個体は、約30~40%のステップ祖先系統の存在によってイタリアの先行集団と区別された。調査されたラテン人とエトルリア人との間の遺伝的差異は重要ではないことが判明した。 Fernandes et al. (2019)西地中海の島々におけるステップとイラン関連の祖先の到来によると、バレアレス諸島から発掘された骨格(紀元前2400年までさかのぼる)にはかなりの西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先が含まれていたが、それ以降のバレアレス諸島の個体には、地理的な不均質性や、よりヨーロッパ人の最初の農民関連の祖先を持つ集団からの移民を反映して、ステップの遺産は少なかった。シチリアでは、西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先はBC〜2200年までに到着し、少なくとも部分的にはスペインから来た可能性が高い。初期青銅器時代のシチリア人男性5人のうち4人がステップ関連Y染色体ハプログループR1b1a1a2a1a2(R-P312)を持っていた。これらのうち2人はY染色体ハプログループR1b1a1a2a2a1(Z195)であり、これは今日ではイベリアにほぼ限定されており、紀元前2500年から2000年にかけてそこで生まれたという仮説がある。サルデーニャでは,青銅器時代にWSHの祖先がいたことを示す説得力のある証拠は見つかっていないが,著者らはCE~200-700年までにそれを検出している。 アメリカの考古学者デイヴィッド・W・アンソニー(英語: David W. Anthony)(2019年)は西部ステップ牧畜民(WSH)に関する最近の遺伝データをまとめた。アンソニーは、西部ステップ牧畜民(WSH)はドニエプル・ドネツ文化とヤムナヤ文化の父系間の遺伝的連続性を示しており、両文化の男性はほとんどがR1bの保因者であり、より少ない程度でI2の保因者であったことが判明していると指摘している。 ドニエプル=ドネツ人のmtDNAは東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)や西ヨーロッパ狩猟採集民(WHG)に関連するUのタイプばかりであるが、ヤムナヤ人のmtDNAにはコーカサス狩猟採集民(CHG)や初期ヨーロッパ農耕民(EEF)に頻繁に見られるタイプも含まれている。アンソニーによれば、西部ステップ牧畜民(WSH)はそれ以前にポントス・カスピ海草原でヤムナヤ文化に先行していたスレドニ・ストグ文化とクヴァリンスク文化の間で発見されていた。スレドニ・ストグ文化人はほとんどが西部ステップ牧畜民(WSH)でわずかに初期ヨーロッパ農耕(EEF)が混血していたが、さらに東に住んでいたクヴァリンスク文化人は純粋にWSHであった。アンソニーはまた、クヴァリンスク文化の先祖とは異なり、ヤムナヤのY-DNAはもっぱら東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)と西ヨーロッパ狩猟採集民(WHG)であると指摘している。このことは、ヤムナヤの有力な氏族が東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)と西ヨーロッパ狩猟採集民(WHG)の起源であることを示唆している。 西部ステップ牧畜民(WSH)のわずかな初期ヨーロッパ農耕民(EEF)の祖先は中央ヨーロッパに由来することが判明しており、またヤムナヤ族からはコーカサス狩猟採集民(CHG)のY-DNAが検出されていないことから、アンソニーはマイコープ文化が西部ステップ牧畜民(WSH)の文化やコーカサス狩猟採集民(CHG)の祖先に大きく貢献することは不可能であると指摘している。アンソニーは、東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)とコーカサス狩猟採集民(CHG)の混血は紀元前5,000年頃にポントス・カスピ海草原の東部で最初に起こり、初期ヨーロッパ農耕民(EEF)との混血はそれより後にポントス・カスピ海草原の南部で起こったと示唆している。 ヤムナヤのY-DNAはもっぱら東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)と西ヨーロッパ狩猟採集民(WHG)のタイプなので、アンソニーは混血は東ヨーロッパ狩猟採集民EHGと西ヨーロッパ狩猟採集民(WHG)の男性、コーカサス狩猟採集民(CHG)と初期ヨーロッパ農耕民(EEF)の女性の間で起こったに違いないと指摘している。アンソニーはこのことを、インド・ヨーロッパ語族が当初は東ヨーロッパに住む東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)の間で話されていたことを示す新たな証拠として挙げている。これに基づいてアンソニーは、西部ステップ牧畜民(WSH)が持ち込んだインド・ヨーロッパ語族は、当初は「東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)によって話されていた支配的な言語が、音韻論、形態論、語彙においてコーカサス的な要素を吸収した」(コーカサス狩猟採集民(CHG)によって話されていた)結果であったと結論づけている。 銅器時代から青銅器時代初期にかけて、ヨーロッパの初期ヨーロッパ農耕民(EEF)文化は西部ステップ牧畜民(WSH)の相次ぐ侵略によって圧倒された。これらの侵略によって、ヨーロッパの初期ヨーロッパ農耕民(EEF)の父系DNA系統はほぼ完全に消滅した。ヨーロッパにおけるDNA系統はほぼ完全に[[東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)/西部ステップ牧畜民(WSH)の父系DNA(主にR1bとR1a)に置き換わった。しかし初期ヨーロッパ農耕民(EEF)のmtDNAは頻繁に残っており、西部ステップ牧畜民(WSH)の男性と初期ヨーロッパ農耕民(EEF)の女性の混血を示唆している。 西ステップの牧畜民は明るい肌(英語: Light skin)だったと考えられている。ヤムナヤのような初期青銅器時代のステップの集団は、ほとんどが茶色の目と黒髪だったと考えられている。一方、縄目文土器文化の人々は青い目の割合が高かった。 メラノサイトの発達とメラニン合成を制御するKITLG遺伝子のrs12821256対立遺伝子は、金髪と関連しており、最初に発見されたのは古代北ユーラシア人であった。紀元前15,000年頃のシベリアのアフォントヴァ山遺跡で初めて発見され、後にサマラ、モタラ、ウクライナの3人の東ヨーロッパ狩猟採集民で発見され、後に西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先を持つ数人の個体で発見された。 遺伝学者デイヴィッド・ライヒは、おそらく西草原の牧畜民の大移動がこの突然変異をヨーロッパにもたらしたと結論づけ、現代のヨーロッパ人にこの一塩基多型(SNP)のコピーが何億もある理由を説明している。2020年、ある研究が、西部ステップ牧畜民の祖先系統が現代ヨーロッパ人の肌や髪の色を明るくする原因であり、特に北ヨーロッパ人の表現型に支配的な影響を与えていることを示唆した。 2015年の研究によると、ヤムナヤはテストされた古代の集団の中で、身長に対する遺伝的選択の計算値が過去最高であった。 ヤムナヤ遺跡から採取された5つの古代のDNAサンプルの約4分の1は、ラクターゼ活性持続症に関連する対立遺伝子を持っており、成人期までの乳糖耐性を付与する。ヤムナヤのような草原由来の集団は、この特徴をユーラシアの草原からヨーロッパに持ち込んだと考えられており、この特徴を持たないヨーロッパの集団に対して生物学的な優位性を与えたのではないかという仮説がある。 ユーラシアの草原の集団は、草原との混血がないヨーロッパの農耕民や狩猟採集民よりも、乳糖耐性対立遺伝子の頻度が高い。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "考古遺伝学では、西部ステップ牧畜民(WSH)という用語は、紀元前5千年紀の変わり目の頃に銅器時代の草原の個体で最初に同定された明確な祖先構成要素に与えられた名前である、その後、クヴァリンスク文化、スレドニ・ストグ文化、ヤムナ文化などの遺伝的に類似した、あるいは直接関連した古代の集団で検出され、現代のヨーロッパ、西アジア、南アジアの集団でもかなりのレベルで発見されている。この祖先系統はしばしばヤムナヤ祖先系統、ヤムナヤ関連祖先系統、ステップ祖先系統またはステップ関連祖先系統と呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "西部ステップ牧畜民は東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)とコーカサス狩猟採集民(英語: Caucasus Hunter-Gatherer)(CHG)が合併した子孫と考えられている。西部ステップ牧畜民(WSH)成分は東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)とコーカサス狩猟採集民(CHG)の祖先成分がほぼ等しい割合で遺伝的混血したものとしてモデル化され、Y-DNAハプログループの大部分は東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)男性からの寄与である。西部ステップ牧畜民の男性のY-DNAハプログループは一様ではなく、ヤムナ文化の個体は主にR1b-Z2103に属し、I2a2は少数であり、それ以前のクヴァリンスク文化の個体は主にR1bであるが、R1a、Q1a、J、I2a2もあり、それ以降の高WSH祖先の縄目文土器文化の個体は初期のサンプルでは主にハプログループR1bに属し、時間の経過とともにR1a-M417が優勢になる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "紀元前3,000年頃、ヤムナ文化またはそれに近縁の集団の人々は、新石器時代の農民との混血を加えた高レベルの西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先を持ち、インド・ヨーロッパ人の移動(英語: Indo-European migrations)に着手した。この時代のWSHの祖先はしばしばステップ初期・中期青銅器時代(Steppe EMBA)と呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "この移動は、約75%が西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先である縄目文土器文化と、約50%が西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先である鐘状ビーカー文化(「東方グループ」)の両方の起源に関連しているが、これらのグループの正確な関係は不明である。西部ステップ牧畜民(WSH)の拡大により、ヨーロッパの遺伝子プールから初期ヨーロッパ農耕民(EEF)のY-DNAが事実上消滅し、ヨーロッパの文化的・遺伝的景観が大きく変化した。青銅器時代には、中央ヨーロッパからの混血を持つ縄目文土器文化人が草原に再移住し、シンタシュタ文化を形成し、しばしば草原中後期青銅器時代(Steppe MLBA)またはシンタシュタ関連と呼ばれる西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先の一種を形成した。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "アンドロノヴォ文化とスラブナヤ文化(英語: Srubnaya culture)を経て、ステップMLBAはインド・イラン語派とともに中央アジアと南アジアに伝わり、長期にわたって文化的・遺伝的遺産を残した。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ヨーロッパの現代人口は、大部分がWHG(西ヨーロッパ狩猟採集民)、東ヨーロッパ狩猟採集民(EEF)、西部ステップ牧畜民(WSH)の混合としてモデル化できる。ヨーロッパでは,Haakら (2015)によると西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先はノルウェー人の間でピークに達している(約50%)が,南アジアではNarasimhanら (2019)によるとカラシュ人の間でピークに達している(約30%)。", "title": null }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2015年中にネイチャーとセル (雑誌)に発表されたいくつかの遺伝子研究の要約がHeyd (2017)によって示されている:", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "「ステップの祖先」は、少なくとも3つの特徴的なクラスターに分類することができる。すなわち、中石器時代にヨーロッパ草原の原住民であった東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)に関連する集団と、近東から北に広がったコーカサス狩猟採集民(CHG)に関連する集団である。この祖先プロフィールは「銅器時代の草原」祖先系統、あるいは「前ヤムナヤの祖先系統」として知られ、クヴァリンスク文化II遺跡とプログレス2遺跡の古代の個体によって代表される。これらの個体は、年代的には東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)と後期ヤムナヤの中間であり、コーカサス狩猟採集民(CHG)の祖先の割合は非常に多様である。", "title": "用語と定義" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "後期のヤムナ文化集団は、東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)関連/コーカサス狩猟採集民(CHG)関連の混血集団にアナトリア農耕民の祖先と西方狩猟採集民の混血を加えたものとモデル化することもできるし、東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)、コーカサス狩猟採集民(CHG)、イランの石器時代の祖先の混血とモデル化することもできる。このような祖先プロフィールは、それ以前の新石器時代のステップやステップマイコープ文化の集団には見られない。ヤムナ文化の個体だけでなく、アルタイ山脈付近の近縁のアファナシェヴォ文化や青銅器時代中期の草原のポルタフカ文化の個体にも非常に類似した祖先が見られる。この遺伝的要素は、草原時代前期から中期青銅器時代(ステップ初期-中期青銅器時代:Steppe Early to Middle Bronze Age、Steppe EMBA)、またはヤムナヤ関連祖先系統として知られている。", "title": "用語と定義" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ヤムナヤに関連する集団が東ヨーロッパと中央ヨーロッパに拡大した結果、縄目文土器文化や鐘状ビーカー文化の古代の人々のように、ステップEMBAと初期ヨーロッパ農民の祖先が混ざった集団が形成された。東部の縄目文土器文化では、ファティアノヴォ=バラノヴォ(Fatyanovo-Balanovo)文化関連集団が草原やさらに東への逆移動の源となり、その結果、スルブナヤ文化(英語: Srubnaya culture)、シンタシュタ文化、アンドロノヴォ文化が形成された可能性がある。これらの文化に属する古代の人々の遺伝的クラスターは、ステップ中期~後期青銅器時代(ステップMLBA)の祖先として知られている。", "title": "用語と定義" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "いわゆる「銅器時代ステップ」の祖先、それは東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)と近東つまりコーカサス狩猟採集民(CHG)関連)集団の比較的単純な混血としてモデル化できるが、それが最初に形成された正確な位置は、依然として不明である。近東に祖先を持つ集団とポントス・カスピ海草原の東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)との混血は紀元前5千年までには始まっており、少なくともヤムナヤ文化より1千年は先行していた。", "title": "起源と拡大" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "この初期の「ヤムナヤ以前」の祖先は、 クヴァリンスクII墓地の銅器時代の個体や、コーカサス山脈の真北にあるプログレス2遺跡で初めて検出された。この祖先は、ステップマイコープ文化の個体でも検出されているが、シベリアやアメリカ先住民関連の混血が加わっている。", "title": "起源と拡大" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "クヴァリンスク文化の個体群は遺伝的に異質な集団であり、東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)に近い個体もいれば、後のヤムナヤの集団に近い個体もいる。平均して、これらの個体は、およそ4分の3が東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)、4分の1が近東(「アルメニア人関連」)の祖先であると推定できる。これらの3人はY染色体ハプログループR1a(後のヤムナヤのエリートの墓には見られない)、R1b、Q1aに属しており、最初の2つは先行する東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)集団に見られることから、先行する東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)集団との連続性を示唆している。", "title": "起源と拡大" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "コーカサス北部の山麓にあるプログレス2遺跡の3個体も東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)とコーカサス狩猟採集民(CHG)に関連する祖先を持ち、遺伝学的にクヴァリンスクIIの新石器時代の個体と類似しているが、コーカサス狩猟採集民(CHG)に関連する祖先のレベルが高く、後期のヤムナヤ集団に匹敵する。", "title": "起源と拡大" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "考古学者のデイヴィッド・アンソニーは、ヴォルガ川中流域と北コーカサス山麓の間に位置するクヴァリンスク/プログレス2の交配ネットワークが「ヤムナヤの遺伝的祖先としてもっともらしい」と推測している。", "title": "起源と拡大" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "初期のヤムナヤ人、アファナシエボ文化人、そしてヤムナヤに続いて草原に進出したポルタフカ文化(英語: Poltavka culture)とカタコンブ文化(英語: Catacomb culture)の人々は、遺伝学的にほとんど区別のつかないクラスターを構成しており、主にR1b Y-DNAハプログループを持ち、I2aは少数派である。", "title": "起源と拡大" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2015年に初めてヤムナヤの全ゲノム配列が発表されたとき、ヤムナヤの個体にはアナトリア農耕民の祖先はいないと報告されたが、より大規模な調査の結果、現在ではヤムナヤには約14%のアナトリア農耕民の祖先がおり、さらに以前の銅器時代のステップの個体にはなかった小規模な西部ステップ牧畜民(WHG)の要素があることが一般的に合意されている。", "title": "起源と拡大" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ヤムナヤクラスターの形成に関与した実際の集団は依然として不明である。提案されているモデルには、東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)/コーカサス狩猟採集民(CHG)集団と西のヨーロッパ農耕民(球状アンフォラ文化圏の集団や遺伝的に類似した集団など)との混血、東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)集団とイラン銅器時代の集団との二方向混血、東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)、コーカサス狩猟採集民(CHG)、イラン石器時代の集団の三方向混血などがある。", "title": "起源と拡大" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2022年の研究では、ヤムナヤの祖先は、まだサンプリングされていない混血東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)/コーカサス狩猟採集民(CHG)集団と南コーカサスからの第二の源との混合としてモデル化できると結論づけ、ヤムナヤクラスターの源集団としてのクヴァリンスク文化新石器時代を否定している。この研究はまた、ククテニ・トリピリア文化や球状アンフォラ文化のヨーロッパの農民集団がヤムナヤに祖先をもたらしたという指摘とも矛盾しており、ヤムナヤにはヨーロッパの農民に見られるようなアナトリアの祖先が優位であることはなく、アナトリア人とレバノン人の祖先を同じ割合で持っている。", "title": "起源と拡大" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "遺伝学的証拠は、紀元前3千年紀の初期にヨーロッパで大規模かつ比較的急激な人口の入れ替わりがあったことを示しており、その結果、縄目文土器文化と鐘状ビーカー文化とともにステップの祖先が急速に広まった。", "title": "起源と拡大" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "縄目文土器文化の個体は、ヨーロッパ中北部や北東部の先行する新石器時代の文化とは遺伝的に異なることが示されており、彼らの祖先の約75%はヤムナヤのような集団に由来している。", "title": "起源と拡大" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "最古の縄目文土器文化の個体は遺伝学的にヤムナヤに近い。新石器時代の地域集団との混血の結果、ヤムナヤと球状アンフォラ文化の個体の中間の遺伝子を持つ個体が後世に生まれた。", "title": "起源と拡大" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2021年の研究によると、ボヘミアの初期縄目文土器文化集団は、ヤムナヤに似た集団とヨーロッパ新石器に似た集団に、さらに、北東ヨーロッパの銅器時代の森林ステップ集団(Pitted Ware文化、ラトビア中期新石器時代文化、ウクライナ新石器時代文化、およびそれらに遺伝的に類似した集団など)が5%から15%程度寄与しており、著者らはこの集団を「森林ステップ」の祖先と呼んでいるが、これらの三者混合としてモデル化できる。", "title": "起源と拡大" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "鐘状ビーカー文化では、ドイツ、チェコ共和国、イギリス出身の個体に、ステップに関連する祖先の高い割合(約50%)が見られる。遺伝子の入れ替わりが最も激しいのはイギリスで、数百年のうちに遺伝子プールの約90%が入れ替わった。", "title": "起源と拡大" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ステップの祖先を持つボヘミアの初期の鐘状ビーカー文化人は、縄目文土器文化の人と遺伝的に似ており、この2つのグループの連続性を示唆している。後期の鐘状ビーカー文化人は、さらに20%ほど中期の銅器時代の祖先を持っている。", "title": "起源と拡大" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ウラル山脈南部のシンタシュタ文化、中央アジアのアンドロノヴォ文化、そしてポントス・カスピ海草原地帯のスラブナヤ文化(英語: Srubnaya cultures)の青銅器時代の人々は、いずれもヤムナヤに関連した祖先を持っており、さらにヨーロッパ系農民の混血が加わって、ステップ中後期青銅器時代の祖先(ステップMLBA、Steppe Middle-Late Bronze Age)として知られているが、このクラスターには、縄目文土器文化の形成とともに発展したシンタシュタ文化人の祖先も含まれる可能性がある。シンタシュタ文化、アンドロノヴォ文化、スラブナヤ文化(英語: Srubnaya cultures)に属する人々は、いずれも遺伝学的に類似しており、最終的には東部の縄目文土器文化の集団であるファティアノヴォ・ブラノヴォ文化(英語: Fatyanovo–Balanovo culture)集団の二次移動の子孫である可能性がある。", "title": "起源と拡大" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "このステップMLBAクラスターは、さらに「西ステップMLBAクラスター」と「中央ステップMLBAクラスター」に分けられる。「西ステップMLBAクラスター」は、3分の2がヤムナヤに関連する祖先、3分の1がヨーロッパ農耕民に関連する祖先とモデル化され、「中央ステップMLBAクラスター」は、西シベリア狩猟採集民(英語: Western Steppe Hunter Gatherer)(WSHG)に9%前後の祖先を持つ西ステップMLBAとモデル化される。中央ステップMLBAクラスターは、紀元前2千年紀初頭にヤムナヤに関連する祖先が南アジアに伝播する主要な媒介となったことが示唆されている。", "title": "起源と拡大" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "Haakら (2015)はヤムナヤ文化の人々の祖先が東ヨーロッパ狩猟採集民と別の未確認集団の混合であることを発見した。調査した7人のヤムナヤ人男性全員がハプログループR1b (Y染色体)のサブクレード、ハプログループR-M269(R-M269)に属することが判明した。R1bはそれ以前にさらに北に住む[[東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)の間で検出されていた{sfn|Haakら|2015}}。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "この研究によって、縄目文土器文化の被検者は約75%が西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先であり、ヤムナヤ人または中期新石器時代のヨーロッパ人と混血した遺伝的に類似した集団の子孫であることが判明した。このことは、ヤムナヤ人または近縁の集団が紀元前3,000年頃に大規模な拡大に乗り出したことを示唆しており、おそらくヨーロッパにおけるインド・ヨーロッパ語族の少なくとも一部の拡散に一役買ったと思われる。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "この時期、G2aのような初期ヨーロッパ農耕民(EEFs)の間で一般的なY-DNAハプログループは中央ヨーロッパではほぼ完全に消滅し、この地域では以前は稀であった(R1b)か不明であった(R1a)という西部ステップ牧畜民(WSH)/[[東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)の父系ハプログループに取って代わられる。初期ヨーロッパ農耕民 (EEF)のmtDNAも同様に著しく減少し、西部ステップ牧畜民(WSH)タイプに取って代わられることから、ヤムナヤの拡大は男性と女性の両方によって行われたことが示唆される。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ヤムナヤの拡大の余波で、中央ヨーロッパでは初期ヨーロッパ農耕民(EEF)と西ヨーロッパ狩猟採集民(WHG)の祖先が復活したようで、これは鐘状ビーカー文化とその後継のウーニェチツェ文化のサンプルで検出されている。鐘状ビーカー文化には約50%の西部ステップ牧畜民(WSH)祖先がいた。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "現代のヨーロッパの集団はすべて西ヨーロッパ狩猟採集民(WHG)、初期ヨーロッパ農耕民(EEF)、西部ステップ牧畜民(WSH)の混合としてモデル化できる。西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先は南ヨーロッパよりも北ヨーロッパでより一般的である。この研究で調査された現代の集団の中で、ノルウェー人が最も多くの西部ステップ牧畜民(WSH)祖先を持つことが判明し、彼らの間では50%を超えていた。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "Allentoft et al. (2015)は5人のヤムナヤ人男性のY-DNAを調査した。4人はR1b1a2のタイプに属し、1人はI2a2a1b1bに属していた。研究の結果、中央ヨーロッパの新石器時代の農耕民は、紀元前3000年頃にヤムナヤ人に「大部分取って代わられた」ことが判明した。この入れ替わりは、遺伝的景観だけでなく、ヨーロッパの文化的景観をも多くの点で変えてしまった。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "シベリア南部の当時のアファナシェヴォ文化の人々はヤムナヤと「遺伝的に区別できない」ことが発見された。縄目文土器文化、鐘状ビーカー文化、ウーニェチツェ文化、そして北欧青銅器時代の人々は、互いに遺伝的に非常に類似しているが、ヤムナヤとの親和性のレベルも様々であることが判明した。この研究の著者は、中央アジアのシンタシュタ文化は、西部ステップ牧畜民(WSH)とヨーロッパの新石器時代の農民の両方の祖先を持つ縄目文土器文化の人々が中央ヨーロッパから東へ移動した結果として出現したことを示唆した。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "Jones et al. (2015)は、西部ステップ牧畜民(WSH)が[[東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)とこれまで知られていなかった分岐群との混血の子孫であることを発見した。 著者らはこれをコーカサス狩猟採集民(英語: Caucasus hunter-gatherer)s(CHGs)と同定・命名している。コーカサス狩猟採集民(CHG)は紀元前43,000年頃に西ヨーロッパ狩猟採集民(WHG)から分裂し、紀元前23,000年頃に初期ヨーロッパ農耕民(EEF)から分裂したことが判明した。ヤムナヤ族は「祖先の半分をコーカサス狩猟採集民(CHG)に連なるものに負っている」と推定された。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2015年11月にネイチャーに掲載されたMathieson et al. (2015)古代ユーラシア人230人におけるゲノムワイドな選択パターンによると、ポルタフカ文化(英語: Poltavka culture)、ポタポフカ文化(英語: Potapovka culture)、スルブナヤ文化(英語: Srubnaya culture)の人々は密接な関係にあり、大部分が西部ステップ牧畜民(WSH)の子孫であったが、スルブナヤ文化人は他の人々よりも初期ヨーロッパ農耕民(EEF)の祖先を持っていた(約17%)。ヤムナヤと同様に、ポルタフカ文化の男性はほとんどがR1bのタイプを持っていたが、スルブナヤの男性はR1aのタイプを持っていた。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "この研究では、現代のヨーロッパ人のほとんどが、西ヨーロッパ狩猟採集民(WHG)、初期ヨーロッパ農耕民(EEF)、西部ステップ牧畜民(WSH)の混合体としてモデル化できることがわかった", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2016年7月にネイチャーに掲載された遺伝学的研究によると、西部ステップ牧畜民(WSH)は東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)と「イラン銅器時代の人々に関連する集団」の混合であることがわかった。EHGは75%が古代北ユーラシア人(ANE)系であるとモデル化された。南アジアの集団の間で西部ステップ牧畜民(WSH)祖先の有意な存在が検出された。南アジアで西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先はカラシュ人の50%がピークで、これは北ヨーロッパの現代の集団に近いレベルである。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "Lazaridis et al. (2017)はミケーネ人とミノア人の遺伝的起源を調べた。彼らはミノア人と遺伝的に類似していることが判明したが、ミケーネ人はミノア人には存在しない西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先を約15%保有していることが判明した。その結果、ミケーネ人は西部ステップ牧畜民(WSH)とミノア人の祖先の混合体としてモデル化できることがわかった。この研究では、今後の研究で解決すべき2つの重要な疑問が残されていると主張している。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "第一に、ミノア人とミケーネ人に共通する「東方」の祖先はいつエーゲ海に到着したのか?第二に、ミケーネ人の「北方」の祖先はギリシャへの散発的な侵入によるものなのか、それとも中央ヨーロッパのような急速な移動の結果なのか?このような移動は、原ギリシア語を話す集団がインド・ヨーロッパ語族のステップ侵入の南翼を形成したという考えを支持するだろう。しかし、古代にインド・ヨーロッパ語族の言語が証明されていたピシディアの青銅器時代のサンプルに「北方」の祖先が見られないことから、この遺伝的・言語的関連には疑問が持たれ、古代アナトリア語族のさらなるサンプリングが必要である。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "Olalde (2018)はイギリス諸島への西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先の侵入を調査した。西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先は紀元前3千年紀の後半に鐘状ビーカー文化によってイギリス諸島に持ち込まれたことが判明した。鐘状ビーカー人の移住は「数百年のうちにイギリスの遺伝子プールの〜90%が入れ替わった」 イギリス諸島の遺伝子プールは、以前は初期ヨーロッパ農耕民(EEF)によって支配されており、地域によって異なる西ヨーロッパ狩猟採集民(WHG)の混血が加わっていた。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "現代のイギリス諸島の一部におけるY-DNAは、ほぼ完全にR1b-M269に属しており、これは西部ステップ牧畜民(WSH)の系統である。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2018年2月にネイチャーに掲載された遺伝学的研究によると、ヨーロッパの現代人口は大部分が東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)、西ヨーロッパ狩猟採集民(WHG)、西部ステップ牧畜民 (WSH)、初期ヨーロッパ農耕民(EEF)の混合としてモデル化できると指摘されている。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "この研究では、ヤムナヤに隣接する球状アンフォラ文化の人々を調査した。その結果、球状アンフォラ文化の人々には西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先がいないことが判明し、文化の違いと遺伝子の違いが関係していることが示唆された。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "注目すべきは、紀元前500年頃に現代のブルガリアに埋葬された2人の人物の間で西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先が検出されたことである。紀元前4,500年。このことは、西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先が、これまで信じられていたよりも2,000年も早くステップの外に現れたことを示している。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "Damgaard et al. 2018は、ヤムナヤに関連した移住はヨーロッパよりも東アジアと南アジアで直接的かつ長期的な影響が少なかったことを発見した。決定的なことは、新石器時代後期の中央アジアのボタイ文化には西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先がいないことが判明し、彼らが西部ステップ牧畜民(WSH)から深く分岐した古代北ユーラシア人(ANE)由来の集団に属していたことが示唆された。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2018年11月にProceedings of the National Academy of Sciences of the United States of Americaに掲載された遺伝子研究は、モンゴル高原における西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先の存在を調査した。バイカル湖周辺に埋葬された青銅器時代後期の多数の遺骨が調査された。これらの個体の西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先はわずか7%であり、ユーラシア東部ステップでは牧畜が遺伝的な置換ではなく、文化的な伝達によって採用されたことが示唆された。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "カラスク文化のような南シベリアの青銅器時代後期の集団に見られる西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先は、この時代までこの地域に遺伝的遺産がほとんど存在しなかった初期のアファナシェヴォ文化ではなく、アンドロノヴォ文化を通じて伝わったことが、この研究で判明した。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2019年2月にNature Communications誌に掲載された遺伝子研究は、ヤムナヤ文化とマイコープ文化の遺伝的起源を比較した。それによると、ヤムナヤ文化の間で発見された初期ヨーロッパ農耕民(EEF)祖先のほとんどは、東ヨーロッパの球状アンフォラ文化とククテニ文化に由来することがわかった。ヤムナヤ族における初期ヨーロッパ農耕民(EEF)の祖先の合計は10~18%と推定されています。マイコープ文化における初期ヨーロッパ農耕民(EEF)の祖先の多さを考えると、マイコープ文化が西部ステップ牧畜民(WSH)におけるコーカサス狩猟採集民(CHG)祖先系統の主要な源であったということは不可能である。したがって、コーカサス狩猟採集民(CHG)から西部ステップ牧畜民(WSH)への混血は、もっと早い時期に起こったに違いないと思われる。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "Olalde (2019)は、西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先がイベリア半島に入った過程を分析した。イベリア半島における西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先の最古の証拠は、紀元前2,200年にイベリア半島で先住民集団と近接して暮らしていた個体から発見された。紀元前2,000年までには、イベリア半島の先住民のY-DNA(H、G2、I2)は、ほぼ完全に単一のWSH系統であるR-M269に置き換えられていた。しかし、この時期のイベリアにおけるmtDNAはまだほとんどが土着由来であり、イベリアにおけるWSHの祖先の侵入は主に男性主導であったことが確認された。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "南アジアと中央アジアのゲノム形成という2019年9月にScienceに掲載された論文では、ユーラシア大陸全域のインド・ヨーロッパ語を話す集団に大量の西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先がいることが判明した。これはヤムナヤ人がインド・ヨーロッパ語を話していたという説の裏付けとなった。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "この研究では、縄目文土器文化、スルブナヤ文化、シンタシュタ文化、アンドロノヴォ文化の人々は、約3分の2が西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先を持ち、約3分の1がヨーロッパの中期新石器時代の混血を持つ近縁集団であることが判明した。これらの結果は、シンタシュタ文化が、主に西部ステップ牧畜民(WSH)を祖先とする縄目文土器文化の人々が草原に戻る東方への移動として出現したという考え方をさらに裏付けるものであった。初期の西部ステップ牧畜民(WSH)の間では、R1bが最も一般的なY-DNA系統であり、R1a(特にハプログループR1a#R1a1b2 (R-Z93) (アジア)|R1a1a1b2)はアンドロノヴォやスラブナヤなど中央アジアの後期集団に多か見られた。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "西シベリア狩猟採集民(WSGs)は、この研究で発見された系統であり、明確な考古学的系統である。西シベリア狩猟採集民(WSG)の祖先は、約30%が東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)、50%が古代北ユーラシア人(ANE)、20%が東アジア人の祖先を持つことが判明した。西部ステップ牧畜民(WSH)が東方へ拡大する過程で、西シベリア狩猟採集民(WSG)からわずかな(約8%)混血を得たことが注目された。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "青銅器時代に中央アジアと南アジアに西部ステップ牧畜民(WSH)祖先系統の著しい流入があったことが判明した。西部ステップ 牧畜民(WSH)の祖先は、紀元前3千年紀の中央アジア南部の以前のサンプルにはほとんど含まれていないことがわかった", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "青銅器時代に中央アジアから南アジアに向かって西部ステップ牧畜民(WSH)が拡大した際、西部ステップ牧畜民(WSH)の間で南アジアの農耕民の祖先系統が増加した。南アジアの集団の中で、西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先系統はバラモンとブーミハル(英語: Bhumihar)の間で特に多い。したがって、西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先はヴェーダ文化(英語: Vedic culture)とともにインドに広がったと予想される。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "Antonio et al. (2019)古代ローマ: ヨーロッパと地中海の遺伝的十字路 2019年11月にサイエンス に掲載された、紀元前900年から紀元前200年の間にローマ近郊に埋葬された6人のラテン人男性の遺骨を調査した。彼らは父方のハプログループR-M269、ハプログループT-M184(T1a1a, T-L208)、R-311、R-PF7589、R-P312(2サンプル)を、および母方のハプログループH1aaj1a、ハプログループT(T2c1f)、H2a、U4a1a、H11a、H10を保有していた。先行する原ヴィラノヴァン文化(英語: Proto-Villanovan culture)の女性は母方のハプログループU5a2bを持っていた。これらの調査個体は、約30~40%のステップ祖先系統の存在によってイタリアの先行集団と区別された。調査されたラテン人とエトルリア人との間の遺伝的差異は重要ではないことが判明した。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "Fernandes et al. (2019)西地中海の島々におけるステップとイラン関連の祖先の到来によると、バレアレス諸島から発掘された骨格(紀元前2400年までさかのぼる)にはかなりの西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先が含まれていたが、それ以降のバレアレス諸島の個体には、地理的な不均質性や、よりヨーロッパ人の最初の農民関連の祖先を持つ集団からの移民を反映して、ステップの遺産は少なかった。シチリアでは、西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先はBC〜2200年までに到着し、少なくとも部分的にはスペインから来た可能性が高い。初期青銅器時代のシチリア人男性5人のうち4人がステップ関連Y染色体ハプログループR1b1a1a2a1a2(R-P312)を持っていた。これらのうち2人はY染色体ハプログループR1b1a1a2a2a1(Z195)であり、これは今日ではイベリアにほぼ限定されており、紀元前2500年から2000年にかけてそこで生まれたという仮説がある。サルデーニャでは,青銅器時代にWSHの祖先がいたことを示す説得力のある証拠は見つかっていないが,著者らはCE~200-700年までにそれを検出している。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "アメリカの考古学者デイヴィッド・W・アンソニー(英語: David W. Anthony)(2019年)は西部ステップ牧畜民(WSH)に関する最近の遺伝データをまとめた。アンソニーは、西部ステップ牧畜民(WSH)はドニエプル・ドネツ文化とヤムナヤ文化の父系間の遺伝的連続性を示しており、両文化の男性はほとんどがR1bの保因者であり、より少ない程度でI2の保因者であったことが判明していると指摘している。", "title": "分析" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ドニエプル=ドネツ人のmtDNAは東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)や西ヨーロッパ狩猟採集民(WHG)に関連するUのタイプばかりであるが、ヤムナヤ人のmtDNAにはコーカサス狩猟採集民(CHG)や初期ヨーロッパ農耕民(EEF)に頻繁に見られるタイプも含まれている。アンソニーによれば、西部ステップ牧畜民(WSH)はそれ以前にポントス・カスピ海草原でヤムナヤ文化に先行していたスレドニ・ストグ文化とクヴァリンスク文化の間で発見されていた。スレドニ・ストグ文化人はほとんどが西部ステップ牧畜民(WSH)でわずかに初期ヨーロッパ農耕(EEF)が混血していたが、さらに東に住んでいたクヴァリンスク文化人は純粋にWSHであった。アンソニーはまた、クヴァリンスク文化の先祖とは異なり、ヤムナヤのY-DNAはもっぱら東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)と西ヨーロッパ狩猟採集民(WHG)であると指摘している。このことは、ヤムナヤの有力な氏族が東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)と西ヨーロッパ狩猟採集民(WHG)の起源であることを示唆している。", "title": "分析" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "西部ステップ牧畜民(WSH)のわずかな初期ヨーロッパ農耕民(EEF)の祖先は中央ヨーロッパに由来することが判明しており、またヤムナヤ族からはコーカサス狩猟採集民(CHG)のY-DNAが検出されていないことから、アンソニーはマイコープ文化が西部ステップ牧畜民(WSH)の文化やコーカサス狩猟採集民(CHG)の祖先に大きく貢献することは不可能であると指摘している。アンソニーは、東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)とコーカサス狩猟採集民(CHG)の混血は紀元前5,000年頃にポントス・カスピ海草原の東部で最初に起こり、初期ヨーロッパ農耕民(EEF)との混血はそれより後にポントス・カスピ海草原の南部で起こったと示唆している。", "title": "分析" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "ヤムナヤのY-DNAはもっぱら東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)と西ヨーロッパ狩猟採集民(WHG)のタイプなので、アンソニーは混血は東ヨーロッパ狩猟採集民EHGと西ヨーロッパ狩猟採集民(WHG)の男性、コーカサス狩猟採集民(CHG)と初期ヨーロッパ農耕民(EEF)の女性の間で起こったに違いないと指摘している。アンソニーはこのことを、インド・ヨーロッパ語族が当初は東ヨーロッパに住む東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)の間で話されていたことを示す新たな証拠として挙げている。これに基づいてアンソニーは、西部ステップ牧畜民(WSH)が持ち込んだインド・ヨーロッパ語族は、当初は「東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)によって話されていた支配的な言語が、音韻論、形態論、語彙においてコーカサス的な要素を吸収した」(コーカサス狩猟採集民(CHG)によって話されていた)結果であったと結論づけている。", "title": "分析" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "銅器時代から青銅器時代初期にかけて、ヨーロッパの初期ヨーロッパ農耕民(EEF)文化は西部ステップ牧畜民(WSH)の相次ぐ侵略によって圧倒された。これらの侵略によって、ヨーロッパの初期ヨーロッパ農耕民(EEF)の父系DNA系統はほぼ完全に消滅した。ヨーロッパにおけるDNA系統はほぼ完全に[[東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)/西部ステップ牧畜民(WSH)の父系DNA(主にR1bとR1a)に置き換わった。しかし初期ヨーロッパ農耕民(EEF)のmtDNAは頻繁に残っており、西部ステップ牧畜民(WSH)の男性と初期ヨーロッパ農耕民(EEF)の女性の混血を示唆している。", "title": "分析" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "西ステップの牧畜民は明るい肌(英語: Light skin)だったと考えられている。ヤムナヤのような初期青銅器時代のステップの集団は、ほとんどが茶色の目と黒髪だったと考えられている。一方、縄目文土器文化の人々は青い目の割合が高かった。", "title": "表現型" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "メラノサイトの発達とメラニン合成を制御するKITLG遺伝子のrs12821256対立遺伝子は、金髪と関連しており、最初に発見されたのは古代北ユーラシア人であった。紀元前15,000年頃のシベリアのアフォントヴァ山遺跡で初めて発見され、後にサマラ、モタラ、ウクライナの3人の東ヨーロッパ狩猟採集民で発見され、後に西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先を持つ数人の個体で発見された。", "title": "表現型" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "遺伝学者デイヴィッド・ライヒは、おそらく西草原の牧畜民の大移動がこの突然変異をヨーロッパにもたらしたと結論づけ、現代のヨーロッパ人にこの一塩基多型(SNP)のコピーが何億もある理由を説明している。2020年、ある研究が、西部ステップ牧畜民の祖先系統が現代ヨーロッパ人の肌や髪の色を明るくする原因であり、特に北ヨーロッパ人の表現型に支配的な影響を与えていることを示唆した。", "title": "表現型" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "2015年の研究によると、ヤムナヤはテストされた古代の集団の中で、身長に対する遺伝的選択の計算値が過去最高であった。", "title": "表現型" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "ヤムナヤ遺跡から採取された5つの古代のDNAサンプルの約4分の1は、ラクターゼ活性持続症に関連する対立遺伝子を持っており、成人期までの乳糖耐性を付与する。ヤムナヤのような草原由来の集団は、この特徴をユーラシアの草原からヨーロッパに持ち込んだと考えられており、この特徴を持たないヨーロッパの集団に対して生物学的な優位性を与えたのではないかという仮説がある。", "title": "ラクターゼ活性持続症" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "ユーラシアの草原の集団は、草原との混血がないヨーロッパの農耕民や狩猟採集民よりも、乳糖耐性対立遺伝子の頻度が高い。", "title": "ラクターゼ活性持続症" } ]
考古遺伝学では、西部ステップ牧畜民(WSH)という用語は、紀元前5千年紀の変わり目の頃に銅器時代の草原の個体で最初に同定された明確な祖先構成要素に与えられた名前である、その後、クヴァリンスク文化、スレドニ・ストグ文化、ヤムナ文化などの遺伝的に類似した、あるいは直接関連した古代の集団で検出され、現代のヨーロッパ、西アジア、南アジアの集団でもかなりのレベルで発見されている。この祖先系統はしばしばヤムナヤ祖先系統、ヤムナヤ関連祖先系統、ステップ祖先系統またはステップ関連祖先系統と呼ばれる。 西部ステップ牧畜民は東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)とコーカサス狩猟採集民(CHG)が合併した子孫と考えられている。西部ステップ牧畜民(WSH)成分は東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)とコーカサス狩猟採集民(CHG)の祖先成分がほぼ等しい割合で遺伝的混血したものとしてモデル化され、Y-DNAハプログループの大部分は東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)男性からの寄与である。西部ステップ牧畜民の男性のY-DNAハプログループは一様ではなく、ヤムナ文化の個体は主にR1b-Z2103に属し、I2a2は少数であり、それ以前のクヴァリンスク文化の個体は主にR1bであるが、R1a、Q1a、J、I2a2もあり、それ以降の高WSH祖先の縄目文土器文化の個体は初期のサンプルでは主にハプログループR1bに属し、時間の経過とともにR1a-M417が優勢になる。 紀元前3,000年頃、ヤムナ文化またはそれに近縁の集団の人々は、新石器時代の農民との混血を加えた高レベルの西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先を持ち、インド・ヨーロッパ人の移動に着手した。この時代のWSHの祖先はしばしばステップ初期・中期青銅器時代と呼ばれる。 この移動は、約75%が西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先である縄目文土器文化と、約50%が西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先である鐘状ビーカー文化(「東方グループ」)の両方の起源に関連しているが、これらのグループの正確な関係は不明である。西部ステップ牧畜民(WSH)の拡大により、ヨーロッパの遺伝子プールから初期ヨーロッパ農耕民(EEF)のY-DNAが事実上消滅し、ヨーロッパの文化的・遺伝的景観が大きく変化した。青銅器時代には、中央ヨーロッパからの混血を持つ縄目文土器文化人が草原に再移住し、シンタシュタ文化を形成し、しばしば草原中後期青銅器時代またはシンタシュタ関連と呼ばれる西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先の一種を形成した。 アンドロノヴォ文化とスラブナヤ文化を経て、ステップMLBAはインド・イラン語派とともに中央アジアと南アジアに伝わり、長期にわたって文化的・遺伝的遺産を残した。 ヨーロッパの現代人口は、大部分がWHG(西ヨーロッパ狩猟採集民)、東ヨーロッパ狩猟採集民(EEF)、西部ステップ牧畜民(WSH)の混合としてモデル化できる。ヨーロッパでは,Haakら (2015)によると西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先はノルウェー人の間でピークに達している(約50%)が,南アジアではNarasimhanら (2019)によるとカラシュ人の間でピークに達している(約30%)。
{{日本語表現|date=2023年12月}} {{short description|Archaeogenetic name for an ancestral genetic component}} [[File: Yamnaya pastoralists, main genetic ancestry日本語.jpg |thumb|upright=1.35| 西部ステップ牧畜民(ヤムナヤ牧畜民)の主な遺伝的祖先:[[東ヨーロッパ狩猟採集民]](EHG)とコーカサス狩猟採集民(CHG)の合流<ref name="exd.14142">{{cite journal |last1=Hanel |first1=Andrea |last2=Carlberg |first2=Carsten |title=Skin colour and vitamin D: An update |journal=Experimental Dermatology |date=July 3, 2020 |volume=29 |issue=9 |pages=864–875 |pmid=32621306 |doi=10.1111/exd.14142 |doi-access=free}}</ref>。]] [[File:IE expansion.png|thumb|upright=1.35| 広く信じられている[[クルガン仮説]]による、紀元前4000年頃から1000年頃までのインド・ヨーロッパ人の移動のスキーム。これらの移動は西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先と[[インド・ヨーロッパ語族]]をユーラシア大陸の大部分に広めたと考えられている。{{sfn|Haak et al.|2015}}{{sfn|Jeong et al.|2018}}{{sfn|Narasimhan et al.|2019}}。]] [[考古遺伝学]]では、'''西部ステップ牧畜民'''('''WSH''')という用語は、[[紀元前5千年紀]]の変わり目の頃に[[銅器時代]]の草原の個体で最初に同定された明確な祖先構成要素に与えられた名前である、その後、[[クヴァリンスク文化]]、[[スレドニ・ストグ文化]]、[[ヤムナ文化]]などの遺伝的に類似した、あるいは直接関連した古代の集団で検出され、現代のヨーロッパ、西アジア、南アジアの集団でもかなりのレベルで発見されている{{Efn|「コーカサスの北、サマラ地方(紀元前5200-4000年)の新石器時代とBA時代の人々は、東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)とコーカサス狩猟採集民(CHG)/イラン人の祖先が等しく混ざっており、いわゆる "草原の祖先 "である、 この祖先は、やがてさらに西へと広がり、現在のヨーロッパ人や、東のアルタイ地方、南アジアに大きく貢献した。」{{sfn|Wang et al.|2019}} }}{{Efn| "最近の古ゲノム研究によって、銅器時代(紀元前3300-2700年頃)に始まった西部ステップ牧畜民(WSH)の移動が、ヨーロッパと中央アジアの遺伝子と文化を大きく変容させたことが明らかになった...。ヤムナヤ地平線(前3300-前2700年頃)を最古の代表とするこれらの西部ステップ牧畜民(WSH)の移住は、ヨーロッパの縄目文土器文化(前2500-前2200年頃)だけでなく、カスピ海とアルタイ・サヤンの山岳地帯の間に位置する草原文化、例えばアファナシェヴォ文化(前3300-前2500年頃)、後のシンタシュタ文化(前2100-前1800年頃)、アンドロノヴォ文化(前1800-前1300年頃)にも貢献した。」{{sfn|Jeong et al.|2018}} }}。この祖先系統はしばしば'''ヤムナヤ祖先系統'''、'''ヤムナヤ関連祖先系統'''、'''ステップ祖先系統'''または'''ステップ関連祖先系統'''と呼ばれる{{sfn|Jeong et al.|2019}}。 西部ステップ牧畜民は[[東ヨーロッパ狩猟採集民]](EHG)と{{日本語版にない記事リンク|コーカサス狩猟採集民|en| Caucasus Hunter-Gatherer}}(CHG)が合併した子孫と考えられている。西部ステップ牧畜民(WSH)成分は東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)とコーカサス狩猟採集民(CHG)の祖先成分がほぼ等しい割合で遺伝的混血したものとしてモデル化され、[[Y染色体ハプログループ|Y-DNA]]ハプログループの大部分は東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)男性からの寄与である。西部ステップ牧畜民の男性のY-DNAハプログループは一様ではなく、[[ヤムナ文化]]の個体は主にR1b-Z2103に属し、I2a2は少数であり、それ以前の[[クヴァリンスク文化]]の個体は主にR1bであるが、R1a、Q1a、J、I2a2もあり、それ以降の高WSH祖先の[[縄目文土器文化]]の個体は初期のサンプルでは主にハプログループR1bに属し、時間の経過とともにR1a-M417が優勢になる{{sfn|Anthony|2019a|pp=1-19}}{{sfn|Malmström et al.|2019}}{{sfn|Papac et al.|2021}}。 紀元前3,000年頃、[[ヤムナ文化]]またはそれに近縁の集団の人々は、新石器時代の農民との混血を加えた高レベルの西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先を持ち、{{日本語版にない記事リンク|インド・ヨーロッパ人の移動|en| Indo-European migrations}}に着手した。この時代のWSHの祖先はしばしば'''ステップ初期・中期青銅器時代'''('''Steppe EMBA''')と呼ばれる{{Efn|name=Distinction|「ヤムナ文化とアファナシェヴォ文化に関連する初期の集団(しばしば「草原前期・中期青銅器時代」、「steppe_EMBA」と呼ばれる)と、ポタポフカ文化、シンタシュタ文化、スルブナヤ文化、アンドロノヴォ文化など多くの文化に関連する後期の集団(しばしば「草原中期・後期青銅器時代」、「steppe_MLBA」と呼ばれる)である。」{{sfn|Jeong et al.|2019}} }}。 この移動は、約75%が西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先である[[縄目文土器文化]]と、約50%が西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先である[[鐘状ビーカー文化]](「東方グループ」)の両方の起源に関連しているが、これらのグループの正確な関係は不明である<ref>{{Cite web |first=Bianca |last=Preda |date=May 6, 2020 |title=Yamnaya - Corded Ware - Bell Beakers: How to conceptualise events of 5000 years ago |url=https://www2.helsinki.fi/en/news/language-culture/yamnaya-corded-ware-bell-beakers-how-to-conceptualise-events-of-5000-years-ago |access-date=August 5, 2021 |website=The Yamnaya Impact On Prehistoric Europe |publisher=[[University of Helsinki]]}} ({{harvnb|Heyd|2019}})</ref>。西部ステップ牧畜民(WSH)の拡大により、ヨーロッパの遺伝子プールから[[初期ヨーロッパ農耕民]](EEF)のY-DNAが事実上消滅し、ヨーロッパの文化的・遺伝的景観が大きく変化した。[[青銅器時代]]には、中央ヨーロッパからの混血を持つ[[縄目文土器文化]]人が草原に再移住し、[[シンタシュタ文化]]を形成し、しばしば'''草原中後期青銅器時代'''('''Steppe MLBA''')または'''シンタシュタ関連'''と呼ばれる西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先の一種を形成した{{Efn|name=Distinction}}。 [[アンドロノヴォ文化]]と{{日本語版にない記事リンク|スラブナヤ文化|en|Srubnaya culture}}を経て、ステップMLBAは[[インド・イラン語派]]とともに中央アジアと南アジアに伝わり、長期にわたって文化的・遺伝的遺産を残した。 ヨーロッパの現代人口は、大部分がWHG(西ヨーロッパ狩猟採集民)、東ヨーロッパ狩猟採集民(EEF)、西部ステップ牧畜民(WSH)の混合としてモデル化できる。ヨーロッパでは,{{harvp|Haakら|2015}}によると西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先は[[ノルウェー人]]の間でピークに達している(約50%)が,南アジアでは{{harvp|Narasimhanら|2019}}によると[[カラシュ人]]の間でピークに達している(約30%)。 == 概要 == [[File:Yamnaya-related migrations.jpg|thumb|upright=1.5|ヤムナ文化に関連する集団の移住。アンソニー(2007)<ref>{{cite book |last=Anthony |first=David W. |author-link=David W. Anthony |year=2007 |title=[[The Horse, the Wheel, and Language]] |publisher=[[Princeton University Press]]}}</ref> (2017);<ref>{{cite book |last=Anthony |first=David |year=2017 |chapter=Archaeology and Language: Why Archaeologists Care About the Indo-European Problem |editor1-last=Crabtree |editor1-first=P.J. |editor2-last=Bogucki |editor2-first=P. |title=European Archaeology as Anthropology: Essays in Memory of Bernard Wailes |chapter-url=https://www.academia.edu/35405459}}</ref> ナラシマンら(2019);{{sfn|Narasimhan et al.|2019}} Nordqvistとヘイド (2020):<ref>{{cite journal |last1=Nordgvist |first1=Kerkko |last2=Heyd |first2=Volker |date=November 12, 2020 |title=The Forgotten Child of the Wider Corded Ware Family: Russian Fatyanovo Culture in Context |journal=Proceedings of the Prehistoric Society |volume=86 |pages=65–93 |doi=10.1017/ppr.2020.9 |s2cid=228923806 |url=https://www.cambridge.org/core/journals/proceedings-of-the-prehistoric-society/article/forgotten-child-of-the-wider-corded-ware-family-russian-fatyanovo-culture-in-context/6309A60F638130BF6F7FD96135AA1B37}}</ref>による。 {{bulleted list |3000 BC: 初期の東方への移住が[[アファナシェヴォ文化]]につながった。おそらく原[[トカラ語]]。 |2900 BC: 北西方向への移住が[[縄目文土器文化]]から[[鐘状ビーカー文化]]に変容した:アンソニーによると、[[ヤムナ文化]]としてカルパティア山脈の西への西方へ移住し、[[鐘状ビーカー文化]]へと変容した。おそらく[[イタロ・ケルト語派]]。 |2700 BC: カルパティア山脈の東から始まった第二次の東方への移住は、[[縄目文土器文化]]として始まり、ファティアノヴォ=バラノヴォ文化へと変化した; (2800 BCE) -> アバシェヴォ文化; (2200 BCE) -> [[シンタシュタ文化]]; (2100-1900 BCE) -> [[アンドロノヴォ文化]]; (1900-1700 BCE) -> [[インド・アーリア人]].}}]] [[File: Admixture_proportions_of_Yamnaya_populations日本語.jpg |thumb|upright=1.5|[[ヤムナ文化]]集団の混血割合。彼らは[[東ヨーロッパ狩猟採集民]](<small>{{Colorsample|#00BFFF|0.6}}</small> EHG), {{日本語版にない記事リンク|コーカサス狩猟採集民|en|Caucasian Hunter-Gatherer}} (<small>{{Colorsample|#228B22|0.6}}</small> CHG), {{日本語版にない記事リンク|アナトリア新石器時代人|en|Anatolian Neolithic}}(<small>{{Colorsample|#FFA500|0.6}}</small>) and [[西ヨーロッパ狩猟採集民]] (<small>{{Colorsample|#0000FF|0.6}}</small> WHG)祖先系統の混血だった<ref>{{cite journal |last1=Wang |first1=Chuan-Chao |last2=Reinhold |first2=Sabine |last3=Kalmykov |first3=Alexey |title=Ancient human genome-wide data from a 3000-year interval in the Caucasus corresponds with eco-geographic regions |journal=Nature Communications |date=4 February 2019 |volume=10 |issue=1 |pages=590 |doi=10.1038/s41467-018-08220-8 |pmid=30713341 |pmc=6360191 |bibcode=2019NatCo..10..590W |language=en |issn=2041-1723}}</ref>。]] 2015年中に''[[ネイチャー]]と''[[セル (雑誌)]]に発表されたいくつかの遺伝子研究の要約が{{Harvp|Heyd|2017}}によって示されている: * 西部ステップ牧畜民の成分は「南ヨーロッパで低く、北ヨーロッパで高い」。({{harvnb|Haak et al.|2015}}; {{harvnb|Lazaridis et al.|2016}})。 * 紀元前3000年頃とされる[[ヤムナ文化]]集団の移動と関連している ({{harvnb|Allentoft et al.|2015|p=}}; {{harvnb|Haak et al.|2015}}); * 第三千年紀のヨーロッパ(および先史時代のヨーロッパ全般)は、「大規模な人口移動と入れ替わりを伴う非常にダイナミックな時代」であった({{harvnb|Allentoft et al.|2015|p=}}); * [[ヤムナ文化]]集団の移住は[[インド・ヨーロッパ語]]の拡散と関連している({{harvnb|Allentoft et al.|2015|p=}}; {{harvnb|Haak et al.|2015}}); * ペストは紀元前3千年紀にヨーロッパに広まり({{harvnb|Rasmussen et al.|2015}})、ユーラシア草原からの移住に由来する; * [[ヤムナ文化]]集団の人々は、身長に対する遺伝的淘汰がこれまでで最も高い({{harvnb|Mathieson et al.|2015|p=}}); == 用語と定義 == 「ステップの祖先」は、少なくとも3つの特徴的なクラスターに分類することができる。すなわち、中石器時代にヨーロッパ草原の原住民であった東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)に関連する集団と、近東から北に広がったコーカサス狩猟採集民(CHG)に関連する集団である。この祖先プロフィールは「銅器時代の草原」祖先系統、あるいは「前ヤムナヤの祖先系統」として知られ、[[クヴァリンスク文化]]II遺跡とプログレス2遺跡の古代の個体によって代表される。これらの個体は、年代的には東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)と後期ヤムナヤの中間であり、コーカサス狩猟採集民(CHG)の祖先の割合は非常に多様である{{sfn|Eisenmann et al.|2018}}{{sfn|Anthony|2019a}}{{sfn|Lazaridis et al.|2022}}。 後期の[[ヤムナ文化]]集団は、東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)関連/コーカサス狩猟採集民(CHG)関連の混血集団にアナトリア農耕民の祖先と西方狩猟採集民の混血を加えたものとモデル化することもできるし、東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)、コーカサス狩猟採集民(CHG)、イランの石器時代の祖先の混血とモデル化することもできる。このような祖先プロフィールは、それ以前の新石器時代のステップやステップ[[マイコープ文化]]の集団には見られない。ヤムナ文化の個体だけでなく、アルタイ山脈付近の近縁の[[アファナシェヴォ文化]]や青銅器時代中期の草原のポルタフカ文化の個体にも非常に類似した祖先が見られる。この遺伝的要素は、草原時代前期から中期青銅器時代(ステップ初期-中期青銅器時代:Steppe Early to Middle Bronze Age、Steppe EMBA)、または[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]関連祖先系統として知られている{{sfn|Eisenmann et al.|2018}}{{sfn|Lazaridis et al.|2022}}。 [[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]に関連する集団が東ヨーロッパと中央ヨーロッパに拡大した結果、[[縄目文土器文化]]や[[鐘状ビーカー文化]]の古代の人々のように、ステップEMBAと初期ヨーロッパ農民の祖先が混ざった集団が形成された。東部の[[縄目文土器文化]]では、ファティアノヴォ=バラノヴォ(Fatyanovo-Balanovo)文化関連集団が草原やさらに東への逆移動の源となり、その結果、{{日本語版にない記事リンク|スルブナヤ文化|en|Srubnaya culture}}、[[シンタシュタ文化]]、[[アンドロノヴォ文化]]が形成された可能性がある。これらの文化に属する古代の人々の遺伝的クラスターは、ステップ中期~後期青銅器時代(ステップMLBA)の祖先として知られている{{sfn|Eisenmann et al.|2018}}{{sfn|Lazaridis et al.|2022}}。 == 起源と拡大 == === ステップ銅器時代 === いわゆる「銅器時代ステップ」の祖先、それは東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)と近東つまりコーカサス狩猟採集民(CHG)関連)集団の比較的単純な混血としてモデル化できるが、それが最初に形成された正確な位置は、依然として不明である{{sfn|Narasimhan et al.|2019}}{{sfn|Lazaridis et al.|2022}}。近東に祖先を持つ集団と[[ポントス・カスピ海草原]]の東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)との混血は紀元前5千年までには始まっており、少なくともヤムナヤ文化より1千年は先行していた{{sfn|Mathieson et al.|2015}}{{sfn|Wang et al.|2019}}。 この初期の「[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]以前」の祖先は、[[クヴァリンスク文化| クヴァリンスク]]Ⅱ墓地の銅器時代の個体や、コーカサス山脈の真北にあるプログレス2遺跡で初めて検出された。この祖先は、ステップ[[マイコープ文化]]の個体でも検出されているが、シベリアやアメリカ先住民関連の混血が加わっている{{sfn|Skoglund|Mathieson|2018}}{{sfn|Wang et al.|2019}}。 [[クヴァリンスク文化]]の個体群は遺伝的に異質な集団であり、東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)に近い個体もいれば、後の[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]の集団に近い個体もいる。平均して、これらの個体は、およそ4分の3が東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)、4分の1が近東(「アルメニア人関連」)の祖先であると推定できる。これらの3人はY染色体ハプログループR1a(後の[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]のエリートの墓には見られない)、R1b、Q1aに属しており、最初の2つは先行する東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)集団に見られることから、先行する東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)集団との連続性を示唆している{{sfn|Mathieson et al.|2015}}{{sfn|Lazaridis et al.|2022}}。 コーカサス北部の山麓にあるプログレス2遺跡の3個体も東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)とコーカサス狩猟採集民(CHG)に関連する祖先を持ち、遺伝学的に[[クヴァリンスク文化|クヴァリンスク]]Ⅱの新石器時代の個体と類似しているが、コーカサス狩猟採集民(CHG)に関連する祖先のレベルが高く、後期の[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]集団に匹敵する{{sfn|Wang et al.|2019}}{{sfn|Anthony|2019b}}。 考古学者のデイヴィッド・アンソニーは、ヴォルガ川中流域と北コーカサス山麓の間に位置するクヴァリンスク/プログレス2の交配ネットワークが「[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]の遺伝的祖先としてもっともらしい」と推測している{{sfn|Anthony|2019b}}。 === ステップ中期-後期青銅器時代 === [[File:Indo-European migrations.jpg|thumb|upright=1.5|紀元前3000年から紀元前800年までのインド・ヨーロッパ人の移動スキーム]] 初期の[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]人、[[アファナシエボ文化]]人、そして[[文化|ヤムナヤ]]に続いて草原に進出した{{日本語版にない記事リンク|ポルタフカ文化|en|Poltavka culture}}と{{日本語版にない記事リンク|カタコンブ文化|en|Catacomb culture}}の人々は、遺伝学的にほとんど区別のつかないクラスターを構成しており、主にR1b Y-DNAハプログループを持ち、I2aは少数派である{{sfn|Mathieson et al.|2015}}{{sfn|Lazaridis et al.|2022}}。 2015年に初めて[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]の全ゲノム配列が発表されたとき、[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]の個体にはアナトリア農耕民の祖先はいないと報告されたが{{sfn|Haak et al.|2015}}{{sfn|Allentoft et al.|2015}}{{sfn|Mathieson et al.|2015}}、より大規模な調査の結果、現在では[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]には約14%のアナトリア農耕民の祖先がおり、さらに以前の[[銅器時代]]のステップの個体にはなかった小規模な西部ステップ牧畜民(WHG)の要素があることが一般的に合意されている{{sfn|Anthony|2019b}}{{sfn|Lazaridis et al.|2022}}{{sfn|Mathieson et al.|2018}}。 [[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]クラスターの形成に関与した実際の集団は依然として不明である。提案されているモデルには、[[東ヨーロッパ狩猟採集民]](EHG)/コーカサス狩猟採集民(CHG)集団と西のヨーロッパ農耕民([[球状アンフォラ文化]]圏の集団や遺伝的に類似した集団など)との混血、[[東ヨーロッパ狩猟採集民]](EHG)集団とイラン[[銅器時代]]の集団との二方向混血、[[東ヨーロッパ狩猟採集民]](EHG)、コーカサス狩猟採集民(CHG)、イラン石器時代の集団の三方向混血などがある{{sfn|Wang et al.|2019}}{{sfn|Lazaridis et al.|2016}}{{sfn|Lazaridis et al.|2022}}。 2022年の研究では、[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]の祖先は、まだサンプリングされていない混血[[東ヨーロッパ狩猟採集民]](EHG)/コーカサス狩猟採集民(CHG)集団と南コーカサスからの第二の源との混合としてモデル化できると結論づけ、[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]クラスターの源集団としての[[クヴァリンスク文化]]新石器時代を否定している。この研究はまた、ククテニ・トリピリア文化や[[球状アンフォラ文化]]のヨーロッパの農民集団が[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]に祖先をもたらしたという指摘とも矛盾しており、[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]にはヨーロッパの農民に見られるようなアナトリアの祖先が優位であることはなく、アナトリア人とレバノン人の祖先を同じ割合で持っている{{sfn|Lazaridis et al.|2022}}。 === 縄目文土器文化と鐘状ビーカー文化 === 遺伝学的証拠は、紀元前3千年紀の初期にヨーロッパで大規模かつ比較的急激な人口の入れ替わりがあったことを示しており、その結果、[[縄目文土器文化]]と[[鐘状ビーカー文化]]とともにステップの祖先が急速に広まった{{sfn|Haak et al.|2015}}{{sfn|Papac et al.|2021}}。 [[縄目文土器文化]]の個体は、ヨーロッパ中北部や北東部の先行する新石器時代の文化とは遺伝的に異なることが示されており、彼らの祖先の約75%は[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]のような集団に由来している{{sfn|Haak et al.|2015}}{{sfn|Papac et al.|2021}}。 最古の[[縄目文土器文化]]の個体は遺伝学的に[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]に近い。新石器時代の地域集団との混血の結果、[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]と[[球状アンフォラ文化]]の個体の中間の遺伝子を持つ個体が後世に生まれた{{sfn|Papac et al.|2021}}。 2021年の研究によると、[[ボヘミア]]の初期[[縄目文土器文化]]集団は、[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]に似た集団とヨーロッパ新石器に似た集団に、さらに、北東ヨーロッパの[[銅器時代]]の森林ステップ集団(Pitted Ware文化、ラトビア中期新石器時代文化、ウクライナ新石器時代文化、およびそれらに遺伝的に類似した集団など)が5%から15%程度寄与しており、著者らはこの集団を「森林ステップ」の祖先と呼んでいるが、これらの三者混合としてモデル化できる{{sfn|Papac et al.|2021}}。 [[鐘状ビーカー文化]]では、ドイツ、チェコ共和国、イギリス出身の個体に、ステップに関連する祖先の高い割合(約50%)が見られる。遺伝子の入れ替わりが最も激しいのはイギリスで、数百年のうちに遺伝子プールの約90%が入れ替わった{{sfn|Mathieson et al.|2018}}{{sfn|Olalde|2018}}。 ステップの祖先を持つ[[ボヘミア]]の初期の[[鐘状ビーカー文化]]人は、[[縄目文土器文化]]の人と遺伝的に似ており、この2つのグループの連続性を示唆している。後期の[[鐘状ビーカー文化]]人は、さらに20%ほど中期の[[銅器時代]]の祖先を持っている{{sfn|Papac et al.|2021}}{{sfn|Olalde|2018}}。 === ステップ中期-後期青銅器時代 === [[File: From_Corded_Ware_to_Sintashta日本語.jpg |thumb|upright=1.35|[[縄目文土器文化]]の東部は[[シンタシュタ文化]](紀元前2100年頃〜1800年頃)に貢献し、そこで[[インド・イラン語派]]と文化が生まれた。]] ウラル山脈南部の[[シンタシュタ文化]]、中央アジアの[[アンドロノヴォ文化]]、そして[[ポントス・カスピ海草原]]地帯の{{日本語版にない記事リンク|スラブナヤ文化|en|Srubnaya cultures}}の青銅器時代の人々は、いずれも[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]に関連した祖先を持っており、さらにヨーロッパ系農民の混血が加わって、ステップ中後期青銅器時代の祖先(ステップMLBA、Steppe Middle-Late Bronze Age)として知られているが、このクラスターには、[[縄目文土器文化]]の形成とともに発展した[[シンタシュタ文化]]人の祖先も含まれる可能性がある。[[シンタシュタ文化]]、[[アンドロノヴォ文化]]、{{日本語版にない記事リンク|スラブナヤ文化|en|Srubnaya cultures}}に属する人々は、いずれも遺伝学的に類似しており、最終的には東部の[[縄目文土器文化]]の集団である{{日本語版にない記事リンク|ファティアノヴォ・ブラノヴォ文化|en|Fatyanovo–Balanovo culture}}集団の二次移動の子孫である可能性がある{{sfn|Lazaridis et al.|2022}}{{sfn|Narasimhan et al.|2019}}{{sfn|Damgaard et al.|2018}}{{sfn|Allentoft et al.|2015}}。 このステップMLBAクラスターは、さらに「西ステップMLBAクラスター」と「中央ステップMLBAクラスター」に分けられる。「西ステップMLBAクラスター」は、3分の2が[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]に関連する祖先、3分の1がヨーロッパ農耕民に関連する祖先とモデル化され、「中央ステップMLBAクラスター」は、{{日本語版にない記事リンク|西シベリア狩猟採集民|en|Western Steppe Hunter Gatherer}}(WSHG)に9%前後の祖先を持つ西ステップMLBAとモデル化される。中央ステップMLBAクラスターは、紀元前2千年紀初頭に[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]に関連する祖先が南アジアに伝播する主要な媒介となったことが示唆されている{{sfn|Narasimhan et al.|2019}}。 == 研究 == === Haakら(2015), ''草原からの大移動はヨーロッパにおけるインド・ヨーロッパ語の源だった'' === {{harvp|Haakら|2015}}は[[ヤムナ文化|ヤムナヤ文化]]の人々の祖先が[[東ヨーロッパ狩猟採集民]]と別の未確認集団の混合であることを発見した。調査した7人の[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]人男性全員が[[ハプログループR1b (Y染色体)]]のサブクレード、ハプログループR-M269(R-M269)に属することが判明した。R1bはそれ以前にさらに北に住む[[東ヨーロッパ狩猟採集民]](EHG)の間で検出されていた{{sfn|Haakら|2015}}。 この研究によって、[[縄目文土器文化]]の被検者は約75%が西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先であり、[[ヤムナ文化|ヤムナヤ人]]または中期新石器時代のヨーロッパ人と混血した遺伝的に類似した集団の子孫であることが判明した。このことは、[[ヤムナ文化|ヤムナヤ人]]または近縁の集団が紀元前3,000年頃に大規模な拡大に乗り出したことを示唆しており、おそらくヨーロッパにおける[[インド・ヨーロッパ語族]]の少なくとも一部の拡散に一役買ったと思われる。 この時期、[[ハプログループG (Y染色体) |G2a]]のような[[初期ヨーロッパ農耕民]](EEFs)の間で一般的な[[Y染色体ハプログループ|Y-DNA]]ハプログループは中央ヨーロッパではほぼ完全に消滅し、この地域では以前は稀であった(R1b)か不明であった([[ハプログループR1a (Y染色体) |R1a]])という西部ステップ牧畜民(WSH)/[[東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)の父系ハプログループに取って代わられる。[[初期ヨーロッパ農耕民]] (EEF)のmtDNAも同様に著しく減少し、西部ステップ牧畜民(WSH)タイプに取って代わられることから、[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]の拡大は男性と女性の両方によって行われたことが示唆される<ref>{{cite book |last1=Crabtree |first1=Pam J. |last2=Bogucki |first2=Peter |title=European Archaeology as Anthropology: Essays in Memory of Bernard Wailes |date=January 25, 2017 |publisher=[[University of Pennsylvania Press]] |isbn=978-1-934536-90-2 |page=55 |url=https://books.google.com/books?id=2A76DQAAQBAJ&pg=PA55 |via=[[Google Books]] |language=en |quote=「さらに、初期ヨーロッパ農耕民(EEF)に非常に多かったmtDNA N1aとYハプログループG2aが、YハプログループR1aとR1b、そしてステップ・[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]民族に典型的な様々なmtDNAハプログループに取って代わられたため、片親マーカーは突然変化した。片親マーカーは、移住者に草原からの男女が含まれていたことを示している。}}</ref>。 [[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]の拡大の余波で、中央ヨーロッパでは初期ヨーロッパ農耕民(EEF)と[[西ヨーロッパ狩猟採集民]](WHG)の祖先が復活したようで、これは[[鐘状ビーカー文化]]とその後継の[[ウーニェチツェ文化]]のサンプルで検出されている。[[鐘状ビーカー文化]]には約50%の西部ステップ牧畜民(WSH)祖先がいた。{{sfn|Mathieson et al.|2018}} 現代のヨーロッパの集団はすべて西ヨーロッパ狩猟採集民(WHG)、初期ヨーロッパ農耕民(EEF)、西部ステップ牧畜民(WSH)の混合としてモデル化できる。西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先は南ヨーロッパよりも北ヨーロッパでより一般的である。この研究で調査された現代の集団の中で、ノルウェー人が最も多くの西部ステップ牧畜民(WSH)祖先を持つことが判明し、彼らの間では50%を超えていた{{sfn|Haak et al.|2015}}。 === アレントフトら(2015)''青銅器時代ユーラシアの集団ゲノム学'' === {{harvp|Allentoft et al.|2015}}は5人の[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]人男性のY-DNAを調査した。4人は[[ハプログループR1b (Y染色体) |R1b1a2]]のタイプに属し、1人は[[ハプログループI (Y染色体) |I2a2a1b1b]]に属していた。研究の結果、中央ヨーロッパの新石器時代の農耕民は、紀元前3000年頃に[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]人に「大部分取って代わられた」ことが判明した。この入れ替わりは、遺伝的景観だけでなく、ヨーロッパの文化的景観をも多くの点で変えてしまった{{sfn|Allentoft et al.|2015}}。 シベリア南部の当時の[[アファナシェヴォ文化]]の人々は[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]と「遺伝的に区別できない」ことが発見された。[[縄目文土器文化]]、鐘状[[ビーカー文化]]、[[ウーニェチツェ文化]]、そして[[北欧青銅器時代]]の人々は、互いに遺伝的に非常に類似しているが、[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]との親和性のレベルも様々であることが判明した。この研究の著者は、中央アジアの[[シンタシュタ文化]]は、西部ステップ牧畜民(WSH)とヨーロッパの新石器時代の農民の両方の祖先を持つ[[縄目文土器文化]]の人々が中央ヨーロッパから東へ移動した結果として出現したことを示唆した{{sfn|Allentoft et al.|2015}}。 === ジョーンズら(2015)、''後期旧石器時代のゲノムは現代ユーラシア人の深いルーツを明らかにする'' === {{harvp|Jones et al.|2015}}は、西部ステップ牧畜民(WSH)が[[東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)とこれまで知られていなかった[[分岐群]]との混血の子孫であることを発見した。 著者らはこれを{{日本語版にない記事リンク|コーカサス狩猟採集民|en|Caucasus hunter-gatherer}}s(CHGs)と同定・命名している。コーカサス狩猟採集民(CHG)は紀元前43,000年頃に西ヨーロッパ狩猟採集民(WHG)から分裂し、紀元前23,000年頃に初期ヨーロッパ農耕民(EEF)から分裂したことが判明した。[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]族は「祖先の半分をコーカサス狩猟採集民(CHG)に連なるものに負っている」と推定された{{sfn|Jones et al.|2015}}。 === Mathiesonら(2015)、''古代ユーラシア人230人におけるゲノムワイドな選択パターン'' === 2015年11月に''[[ネイチャー]]''に掲載された{{harvp|Mathieson et al.|2015}}''古代ユーラシア人230人におけるゲノムワイドな選択パターン''によると、{{日本語版にない記事リンク|ポルタフカ文化|en|Poltavka culture}}、{{日本語版にない記事リンク|ポタポフカ文化|en|Potapovka culture}}、{{日本語版にない記事リンク|スルブナヤ文化|en|Srubnaya culture}}の人々は密接な関係にあり、大部分が西部ステップ牧畜民(WSH)の子孫であったが、スルブナヤ文化人は他の人々よりも初期ヨーロッパ農耕民(EEF)の祖先を持っていた(約17%)。[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]と同様に、ポルタフカ文化の男性はほとんどがR1bのタイプを持っていたが、スルブナヤの男性はR1aのタイプを持っていた{{sfn|Mathieson et al.|2015}}。 この研究では、現代のヨーロッパ人のほとんどが、西ヨーロッパ狩猟採集民(WHG)、初期ヨーロッパ農耕民(EEF)、西部ステップ牧畜民(WSH)の混合体としてモデル化できることがわかった{{Efn|"現代のヨーロッパ人のほとんどは、中石器時代の狩猟採集民(WHG)、初期農耕民(EEF)、ステップ牧畜民(Yamnaya)に関連する3つの古代の集団の混合体としてモデル化できる"{{sfn|Mathieson et al.|2015|p=}}。}} ===ラザリディスら(2016):''古代近東における農耕の起源に関するゲノム学的洞察''=== 2016年7月に''[[ネイチャー]]''に掲載された遺伝学的研究によると、西部ステップ牧畜民(WSH)は[[東ヨーロッパ狩猟採集民]](EHG)と「イラン銅器時代の人々に関連する集団」の混合であることがわかった。EHGは75%が[[古代北ユーラシア人]](ANE)系であるとモデル化された。南アジアの集団の間で西部ステップ牧畜民(WSH)祖先の有意な存在が検出された。南アジアで西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先は[[カラシュ人]]の50%がピークで、これは北ヨーロッパの現代の集団に近いレベルである{{sfn|Lazaridis et al.|2016}}。 === Lazaridisら(2017)、''ミノア人とミケーネ人の遺伝的起源'' === {{harvp|Lazaridis et al.|2017}}は[[ミケーネ文明|ミケーネ]]人と[[ミノア文明|ミノア]]人の遺伝的起源を調べた。彼らはミノア人と遺伝的に類似していることが判明したが、ミケーネ人はミノア人には存在しない西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先を約15%保有していることが判明した。その結果、ミケーネ人は西部ステップ牧畜民(WSH)とミノア人の祖先の混合体としてモデル化できることがわかった。この研究では、今後の研究で解決すべき2つの重要な疑問が残されていると主張している。 第一に、ミノア人とミケーネ人に共通する「東方」の祖先はいつエーゲ海に到着したのか?第二に、ミケーネ人の「北方」の祖先はギリシャへの散発的な侵入によるものなのか、それとも中央ヨーロッパのような急速な移動の結果なのか?このような移動は、原ギリシア語を話す集団がインド・ヨーロッパ語族のステップ侵入の南翼を形成したという考えを支持するだろう。しかし、古代にインド・ヨーロッパ語族の言語が証明されていたピシディアの青銅器時代のサンプルに「北方」の祖先が見られないことから、この遺伝的・言語的関連には疑問が持たれ、古代アナトリア語族のさらなるサンプリングが必要である{{sfn|Lazaridis et al.|2017}}。 === ''ビーカー現象と北西ヨーロッパのゲノム変容'' === {{harvp|Olalde|2018}}はイギリス諸島への西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先の侵入を調査した。西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先は[[紀元前3千年紀]]の後半に[[鐘状ビーカー文化]]によってイギリス諸島に持ち込まれたことが判明した。鐘状ビーカー人の移住は「数百年のうちにイギリスの遺伝子プールの〜90%が入れ替わった」{{Efn|「移住はビーカー文化複合のさらなる普及に重要な役割を果たした、 ビーカー文化複合の拡散によって、ステップに関連した祖先が大量に導入され、数百年以内にイギリスの遺伝子プールの90%が入れ替わった。」{{sfn|Olalde|2018}} }} イギリス諸島の遺伝子プールは、以前は初期ヨーロッパ農耕民(EEF)によって支配されており、地域によって異なる西ヨーロッパ狩猟採集民(WHG)の混血が加わっていた<ref>{{Cite journal |last1=Brace |first1=Selina |last2=Diekmann |first2=Yoan |last3=Booth |first3=Thomas J. |last4=van Dorp |first4=Lucy |last5=Faltyskova |first5=Zuzana |last6=Rohland |first6=Nadin |last7=Mallick |first7=Swapan |last8=Olalde |first8=Iñigo |last9=Ferry |first9=Matthew |last10=Michel |first10=Megan |last11=Oppenheimer |first11=Jonas |last12=Broomandkhoshbacht |first12=Nasreen |last13=Stewardson |first13=Kristin |last14=Martiniano |first14=Rui |last15=Walsh |first15=Susan |date=2019 |title=Ancient genomes indicate population replacement in Early Neolithic Britain |journal=Nature Ecology & Evolution |language=en |volume=3 |issue=5 |pages=765–771 |doi=10.1038/s41559-019-0871-9 |issn=2397-334X |pmc=6520225 |pmid=30988490}}</ref>。 現代のイギリス諸島の一部における[[Y染色体ハプログループ|Y-DNA]]は、ほぼ完全に[[ハプログループR1b (Y染色体) |R1b-M269]]に属しており、これは西部ステップ牧畜民(WSH)の系統である{{sfn|Olalde|2018}}。 === ''南東ヨーロッパのゲノム史'' === 2018年2月に''[[ネイチャー]]''に掲載された遺伝学的研究によると、ヨーロッパの現代人口は大部分が[[東ヨーロッパ狩猟採集民]](EHG)、西ヨーロッパ狩猟採集民(WHG)、西部ステップ牧畜民 (WSH)、初期ヨーロッパ農耕民(EEF)の混合としてモデル化できると指摘されている{{Efn| ヨーロッパの祖先の大部分は、3つの異なるソースに由来することが以前に示されている。第一に、他のどの集団よりもヨーロッパの中石器時代の狩猟採集民に近い「狩猟採集民関連」の祖先であり、さらに「東部」(EHG)と「西部」(WHG)の狩猟採集民関連の祖先に細分することができる7。第二に、アナトリア北西部の新石器時代の農耕民に関連する「北西アナトリア新石器時代関連」の祖先であり、農耕の出現と密接に関連している。第三の源である「ステップ関連」の祖先は、後期新石器時代から青銅器時代への移行期に西ヨーロッパに現れ、最終的には[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]草原牧畜民に関連する集団に由来する。ステップ関連の祖先そのものは、[[東ヨーロッパ狩猟採集民]](EHG)関連の祖先と、コーカサスの後期旧石器時代の狩猟採集民(CHG)およびイラン北部の最初の農耕民に関連する祖先の混合としてモデル化できる{{sfn|Mathieson et al.|2018}}。}}。 この研究では、ヤムナヤに隣接する[[球状アンフォラ文化]]の人々を調査した。その結果、球状アンフォラ文化の人々には西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先がいないことが判明し、文化の違いと遺伝子の違いが関係していることが示唆された{{sfn|Mathieson et al.|2018}}。 注目すべきは、紀元前500年頃に現代の[[ブルガリア]]に埋葬された2人の人物の間で西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先が検出されたことである。紀元前4,500年。このことは、西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先が、これまで信じられていたよりも2,000年も早くステップの外に現れたことを示している{{sfn|Mathieson et al.|2018}}。 === ''最初の馬の牧畜民と初期青銅器時代のステップのアジアへの拡大の影響'' === {{harvnb|Damgaard et al.|2018}}は、[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]に関連した移住はヨーロッパよりも東アジアと南アジアで直接的かつ長期的な影響が少なかったことを発見した。決定的なことは、新石器時代後期の中央アジアのボタイ文化には西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先がいないことが判明し、彼らが西部ステップ牧畜民(WSH)から深く分岐した[[古代北ユーラシア人]](ANE)由来の集団に属していたことが示唆された{{sfn|Damgaard et al.|2018}}。 === ''ユーラシア草原東部における青銅器時代の人口動態と酪農牧畜の台頭'' === 2018年11月に''Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America''に掲載された遺伝子研究は、モンゴル高原における西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先の存在を調査した。バイカル湖周辺に埋葬された青銅器時代後期の多数の遺骨が調査された。これらの個体の西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先はわずか7%であり、ユーラシア東部ステップでは牧畜が遺伝的な置換ではなく、文化的な伝達によって採用されたことが示唆された{{sfn|Jeong et al.|2018}}。 [[カラスク文化]]のような南シベリアの青銅器時代後期の集団に見られる西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先は、この時代までこの地域に遺伝的遺産がほとんど存在しなかった初期の[[アファナシェヴォ文化]]ではなく、[[アンドロノヴォ文化]]を通じて伝わったことが、この研究で判明した{{sfn|Jeong et al.|2018}}。 === Wang (2019)''コーカサスにおける3000年間隔の古代人ゲノムワイドデータは生態地理学的地域と対応する'' === 2019年2月に''Nature Communications''誌に掲載された遺伝子研究は、[[ヤムナ文化|ヤムナヤ文化]]と[[マイコープ文化]]の遺伝的起源を比較した。それによると、ヤムナヤ文化の間で発見された初期ヨーロッパ農耕民(EEF)祖先のほとんどは、東ヨーロッパの[[球状アンフォラ文化]]と[[ククテニ文化]]に由来することがわかった{{sfn|Wang et al.|2019}}{{sfn|Anthony|2019b|p=32}}。ヤムナヤ族における初期ヨーロッパ農耕民(EEF)の祖先の合計は10~18%と推定されています。[[マイコープ文化]]における初期ヨーロッパ農耕民(EEF)の祖先の多さを考えると、[[マイコープ文化]]が西部ステップ牧畜民(WSH)におけるコーカサス狩猟採集民(CHG)祖先系統の主要な源であったということは不可能である。したがって、コーカサス狩猟採集民(CHG)から西部ステップ牧畜民(WSH)への混血は、もっと早い時期に起こったに違いないと思われる{{sfn|Anthony|2019b|p=32}}。 === ''過去8000年にわたるイベリア半島のゲノム史'' === {{harvp|Olalde|2019}}は、西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先が[[イベリア半島]]に入った過程を分析した。イベリア半島における西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先の最古の証拠は、紀元前2,200年にイベリア半島で先住民集団と近接して暮らしていた個体から発見された。紀元前2,000年までには、イベリア半島の先住民の[[Y染色体ハプログループ|Y-DNA]]([[ハプログループH (Y染色体)|H]]、[[ハプログループG (Y染色体)|G2]]、[[ハプログループI (Y染色体)|I2]])は、ほぼ完全に単一のWSH系統であるR-M269に置き換えられていた。しかし、この時期のイベリアにおけるmtDNAはまだほとんどが土着由来であり、イベリアにおけるWSHの祖先の侵入は主に男性主導であったことが確認された。 {{Efn|「前2500年頃までにイベリアと北アフリカの間に散発的な接触があり、前2000年頃までにイベリアの祖先の40%とY染色体のほぼ100%がステップの祖先を持つ人々と入れ替わったことを示した。Y染色体の入れ替わりはさらに劇的で、銅器時代のイベリアで一般的だった系統(I2、G2、H)は、R1b-M269という1つの系統にほぼ完全に取って代わられた」{{sfn|Olalde|2019}}。}} === Narasimhanら(2019)、''南・中央アジアにおけるゲノム形成'' === [[File: Yamnaya_Steppe_Pastoralists日本語.jpg|thumb|upright=1.5|{{harvp|Narasimhan et al.|2019}}による、ヤムナヤ関連の移住。]] ''南アジアと中央アジアのゲノム形成''という2019年9月に''Science''に掲載された論文では、ユーラシア大陸全域のインド・ヨーロッパ語を話す集団に大量の西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先がいることが判明した。これは[[ヤムナ文化|ヤムナヤ人]]がインド・ヨーロッパ語を話していたという説の裏付けとなった{{sfn|Narasimhan et al.|2019}}。 この研究では、[[縄目文土器文化]]、スルブナヤ文化、[[シンタシュタ文化]]、[[アンドロノヴォ文化]]の人々は、約3分の2が西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先を持ち、約3分の1がヨーロッパの中期新石器時代の混血を持つ近縁集団であることが判明した。これらの結果は、[[シンタシュタ文化]]が、主に西部ステップ牧畜民(WSH)を祖先とする[[縄目文土器文化]]の人々が草原に戻る東方への移動として出現したという考え方をさらに裏付けるものであった。初期の西部ステップ牧畜民(WSH)の間では、R1bが最も一般的なY-DNA系統であり、R1a(特にハプログループR1a#R1a1b2 (R-Z93) (アジア)|R1a1a1b2)はアンドロノヴォやスラブナヤなど中央アジアの後期集団に多か見られた{{sfn|Narasimhan et al.|2019}}。 西シベリア狩猟採集民(WSGs)は、この研究で発見された系統であり、明確な考古学的系統である。西シベリア狩猟採集民(WSG)の祖先は、約30%が[[東ヨーロッパ狩猟採集民]](EHG)、50%が[[古代北ユーラシア人]](ANE)、20%が東アジア人の祖先を持つことが判明した。西部ステップ牧畜民(WSH)が東方へ拡大する過程で、西シベリア狩猟採集民(WSG)からわずかな(約8%)混血を得たことが注目された{{sfn|Narasimhan et al.|2019}}。 青銅器時代に中央アジアと南アジアに西部ステップ牧畜民(WSH)祖先系統の著しい流入があったことが判明した。西部ステップ 牧畜民(WSH)の祖先は、紀元前3千年紀の中央アジア南部の以前のサンプルにはほとんど含まれていないことがわかった{{Efn|"重要なことに、紀元前3千年紀の[[トゥーラーン]]では、[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]に関連するステップの牧畜民に由来する祖先を持つ個体は見つかっていない。このように、ステップ牧畜民の祖先はまだこの地域には広まっていなかったのである」{{sfn|Narasimhan et al.}}}} 青銅器時代に中央アジアから南アジアに向かって西部ステップ牧畜民(WSH)が拡大した際、西部ステップ牧畜民(WSH)の間で南アジアの農耕民の祖先系統が増加した。南アジアの集団の中で、西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先系統は[[バラモン]]と{{日本語版にない記事リンク|ブーミハル|en|Bhumihar}}の間で特に多い。したがって、西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先は{{日本語版にない記事リンク|ヴェーダ文化|en|Vedic culture}}とともにインドに広がったと予想される{{sfn|Narasimhan et al.|2019}}。 === アントニオら(2019)、''古代ローマ:ヨーロッパと地中海の遺伝的十字路'' === {{harvp|Antonio et al.|2019}}''古代ローマ: ヨーロッパと地中海の遺伝的十字路'' 2019年11月に''[[サイエンス]]'' に掲載された、紀元前900年から紀元前200年の間に[[ローマ]]近郊に埋葬された6人の[[ラテン人]]男性の遺骨を調査した。彼らは父方のハプログループ[[ハプログループR1b (Y染色体)|R-M269]]、ハプログループT-M184(T1a1a, T-L208)、[[ハプログループR1b (Y染色体)|R-311]]、R-PF7589、[[ハプログループR1b (Y染色体)|R-P312]](2サンプル)を、および母方のハプログループ[[ハプログループH (mtDNA) |H1aaj1a]]、ハプログループT(T2c1f)、[[ハプログループH (mtDNA)|H2a]]、[[ハプログループU (mtDNA)|U4a1a]]、[[ハプログループH (mtDNA)|H11a]]、[[ハプログループH (mtDNA)|H10]]を保有していた。先行する{{日本語版にない記事リンク|原ヴィラノヴァン文化|en|Proto-Villanovan culture}}の女性は母方のハプログループ[[ハプログループU (mtDNA)|U5a2b]]を持っていた{{sfn|Antonio et al.|2019|loc=表2サンプル情報,行29-32,36-37}}。これらの調査個体は、約30~40%のステップ祖先系統の存在によってイタリアの先行集団と区別された{{sfn|Antonio et al.|2019|p=2}}。調査されたラテン人と[[エトルリア人]]との間の遺伝的差異は重要ではないことが判明した{{sfn|Antonio et al.|2019|p=3}}。 === Fernandesら(2019)、''西地中海の島々におけるステップとイラン関連の祖先の到来'' === {{harvp|Fernandes et al.|2019}}''西地中海の島々におけるステップとイラン関連の祖先の到来''によると、[[バレアレス諸島]]から発掘された骨格(紀元前2400年までさかのぼる)にはかなりの西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先が含まれていたが、それ以降のバレアレス諸島の個体には、地理的な不均質性や、よりヨーロッパ人の最初の農民関連の祖先を持つ集団からの移民を反映して、ステップの遺産は少なかった。[[シチリア]]では、西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先はBC〜2200年までに到着し、少なくとも部分的には[[スペイン]]から来た可能性が高い。初期青銅器時代のシチリア人男性5人のうち4人がステップ関連Y染色体ハプログループR1b1a1a2a1a2(R-P312)を持っていた。これらのうち2人はY染色体ハプログループR1b1a1a2a2a1(Z195)であり、これは今日ではイベリアにほぼ限定されており、紀元前2500年から2000年にかけてそこで生まれたという仮説がある。[[サルデーニャ]]では,青銅器時代にWSHの祖先がいたことを示す説得力のある証拠は見つかっていないが,著者らはCE~200-700年までにそれを検出している{{sfn|Fernandes et al.|2019}}。 == 分析 == アメリカの考古学者{{日本語版にない記事リンク|デイヴィッド・W・アンソニー|en|David W. Anthony}}(2019年)は西部ステップ牧畜民(WSH)に関する最近の遺伝データをまとめた。アンソニーは、西部ステップ牧畜民(WSH)は[[ドニエプル・ドネツ文化]]と[[ヤムナ文化|ヤムナヤ文化]]の父系間の遺伝的連続性を示しており、両文化の男性はほとんどが[[ハプログループR1b (Y染色体) |R1b]]の保因者であり、より少ない程度で[[ハプログループI (Y染色体) |I2]]の保因者であったことが判明していると指摘している{{sfn|Mathieson et al.|2018}}。 ドニエプル=ドネツ人のmtDNAは[[東ヨーロッパ狩猟採集民]](EHG)や西ヨーロッパ狩猟採集民(WHG)に関連する[[ハプログループU (mtDNA)|U]]のタイプばかりであるが、[[ヤムナ文化|ヤムナヤ人]]のmtDNAにはコーカサス狩猟採集民(CHG)や初期ヨーロッパ農耕民(EEF)に頻繁に見られるタイプも含まれている。アンソニーによれば、西部ステップ牧畜民(WSH)はそれ以前に[[ポントス・カスピ海草原]]で[[ヤムナ文化|ヤムナヤ文化]]に先行していた[[スレドニ・ストグ文化]]と[[クヴァリンスク文化]]の間で発見されていた。[[スレドニ・ストグ文化]]人はほとんどが西部ステップ牧畜民(WSH)でわずかに初期ヨーロッパ農耕(EEF)が混血していたが、さらに東に住んでいた[[クヴァリンスク文化]]人は純粋にWSHであった。アンソニーはまた、[[クヴァリンスク文化]]の先祖とは異なり、[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]のY-DNAはもっぱら[[東ヨーロッパ狩猟採集民]](EHG)と西ヨーロッパ狩猟採集民(WHG)であると指摘している。このことは、[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]の有力な氏族が[[東ヨーロッパ狩猟採集民]](EHG)と西ヨーロッパ狩猟採集民(WHG)の起源であることを示唆している{{sfn|Anthony|2019b|p=36}}。 西部ステップ牧畜民(WSH)のわずかな初期ヨーロッパ農耕民(EEF)の祖先は中央ヨーロッパに由来することが判明しており、また[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]族からはコーカサス狩猟採集民(CHG)のY-DNAが検出されていないことから、アンソニーは[[マイコープ文化]]が西部ステップ牧畜民(WSH)の文化やコーカサス狩猟採集民(CHG)の祖先に大きく貢献することは不可能であると指摘している。アンソニーは、[[東ヨーロッパ狩猟採集民]](EHG)とコーカサス狩猟採集民(CHG)の混血は紀元前5,000年頃に[[ポントス・カスピ海草原]]の東部で最初に起こり、初期ヨーロッパ農耕民(EEF)との混血はそれより後に[[ポントス・カスピ海草原]]の南部で起こったと示唆している{{sfn|Anthony|2019a|pp=1-19}}。 [[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]のY-DNAはもっぱら[[東ヨーロッパ狩猟採集民]](EHG)と西ヨーロッパ狩猟採集民(WHG)のタイプなので、アンソニーは混血は[[東ヨーロッパ狩猟採集民]]EHGと西ヨーロッパ狩猟採集民(WHG)の男性、コーカサス狩猟採集民(CHG)と初期ヨーロッパ農耕民(EEF)の女性の間で起こったに違いないと指摘している。アンソニーはこのことを、[[インド・ヨーロッパ語族]]が当初は東ヨーロッパに住む[[東ヨーロッパ狩猟採集民]](EHG)の間で話されていたことを示す新たな証拠として挙げている。これに基づいてアンソニーは、西部ステップ牧畜民(WSH)が持ち込んだインド・ヨーロッパ語族は、当初は「[[東ヨーロッパ狩猟採集民]](EHG)によって話されていた支配的な言語が、音韻論、形態論、語彙においてコーカサス的な要素を吸収した」(コーカサス狩猟採集民(CHG)によって話されていた)結果であったと結論づけている{{sfn|Anthony|2019a|pp=1-19}}。 銅器時代から青銅器時代初期にかけて、ヨーロッパの初期ヨーロッパ農耕民(EEF)文化は西部ステップ牧畜民(WSH)の相次ぐ侵略によって圧倒された。これらの侵略によって、ヨーロッパの初期ヨーロッパ農耕民(EEF)の父系DNA系統はほぼ完全に消滅した。ヨーロッパにおけるDNA系統はほぼ完全に[[東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)/西部ステップ牧畜民(WSH)の父系DNA(主に[[ハプログループR1b (Y染色体) |R1b]]と[[ハプログループR1a (Y染色体) |R1a]])に置き換わった。しかし初期ヨーロッパ農耕民(EEF)のmtDNAは頻繁に残っており、西部ステップ牧畜民(WSH)の男性と初期ヨーロッパ農耕民(EEF)の女性の混血を示唆している{{sfn|Goldberg et al.|2017|p=2657}}{{sfn|Juras et al.|2018|p=1}}{{sfn|Olalde|2019|pp=1-2}}。 == 表現型 == 西ステップの牧畜民は{{日本語版にない記事リンク|明るい肌|en| Light skin}}だったと考えられている。ヤムナヤのような初期青銅器時代のステップの集団は、ほとんどが茶色の目と黒髪だったと考えられている{{sfn|Allentoft et al.|2015}}{{sfn|Gibbons|2015}}。一方、[[縄目文土器文化]]の人々は青い目の割合が高かった{{sfn|Heyd|2017}}<ref>{{cite journal |last1=Frieman |first1=Catherine J. |last2=Hofmann |first2=Daniela |title=Present pasts in the archeology of genetics, identity and migration in Europe: a critical essay |journal=[[World Archaeology]] |date=August 8, 2019 |volume=51 |issue=4 |pages=528–545 |doi=10.1080/00438243.2019.1627907 |hdl=1956/22151 |s2cid=204480648 |hdl-access=free |issn=0043-8243}}</ref>。 [[メラノサイト]]の発達と[[メラニン]]合成を制御するKITLG遺伝子のrs12821256[[対立遺伝子]]は、[[金髪]]と関連しており、最初に発見されたのは[[古代北ユーラシア人]]であった。紀元前15,000年頃のシベリアのアフォントヴァ山遺跡で初めて発見され、後にサマラ、モタラ、ウクライナの3人の[[東ヨーロッパ狩猟採集民]]で発見され、後に西部ステップ牧畜民(WSH)の祖先を持つ数人の個体で発見された{{sfn|Mathieson et al.|2018}}。 遺伝学者{{日本語版にない記事リンク|デイヴィッド・ライヒ|en|David Reich}}は、おそらく西草原の牧畜民の大移動がこの突然変異をヨーロッパにもたらしたと結論づけ、現代のヨーロッパ人にこの[[一塩基多型]](SNP)のコピーが何億もある理由を説明している{{sfn|Reich|2018|p=[https://books.google.com/books?id=uLNSDwAAQBAJ&pg=PA96 96]|ps= 「ヨーロッパの古典的な金髪の突然変異の最も古い例は、1万7千年前の東シベリアのバイカル湖地方の古代北ユーラシア人である。今日、中央ヨーロッパと西ヨーロッパに存在する何億というこの突然変異のコピーは、おそらく古代北ユーラシア人の祖先を持つ人々の大移動に由来している。」}}。2020年、ある研究が、西部ステップ牧畜民の祖先系統が現代ヨーロッパ人の肌や髪の色を明るくする原因であり、特に北ヨーロッパ人の表現型に支配的な影響を与えていることを示唆した<ref name="exd.14142"/>。 2015年の研究によると、[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]はテストされた古代の集団の中で、身長に対する遺伝的選択の計算値が過去最高であった{{sfn|Mathieson et al.|2015}}{{sfn|Heyd|2017}}。 == ラクターゼ活性持続症 == [[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]遺跡から採取された5つの古代のDNAサンプルの約4分の1は、[[ラクターゼ活性持続症]]に関連する対立遺伝子を持っており、成人期までの乳糖耐性を付与する<ref>{{cite journal |last1=Saag |first1=L |title=Human Genetics: Lactase Persistence in a Battlefield |journal=[[Current Biology]] |date=2020 |volume=30 |issue=21 |pages=R1311–R1313 |doi=10.1016/j.cub.2020.08.087 |pmid=33142099 |s2cid=226229587 |doi-access=free }}</ref>。[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]のような草原由来の集団は、この特徴をユーラシアの草原からヨーロッパに持ち込んだと考えられており、この特徴を持たないヨーロッパの集団に対して生物学的な優位性を与えたのではないかという仮説がある<ref>{{cite journal |last1=Segurel |first1=Laure |last2=Guarino-Vignon |first2=Perle |last3=Marchi|first3=Nina |last4=Lafosse |first4=Sophie |last5=Laurent |first5=Romain |last6=Bon |first6=Céline |last7=Fabre |first7=Alexandre |last8=Hegay |first8=Tatyana |last9=Heyer |first9=Evelyne |title=Why and when was lactase persistance selected for? Insights from Central Asian herders and ancient DNA |journal=[[PLOS Biology]] |date=2020 |volume=18 |issue=6 |pages=e3000742 |doi=10.1371/journal.pbio.3000742 |pmid=32511234 |pmc=7302802 |doi-access=free |quote= さらに、古代のDNA研究によると、ラクターゼ活性持続症に関する突然変異は青銅器時代の終わりまでヨーロッパには存在しなかったか、非常にまれであり[26-29]、ステップの祖先を持つ個体で最初に出現した[19,20]。従って、この突然変異はヤムナヤに関連する集団で発生し、後にこれらの草原の牧畜民の移動によってヨーロッパに到着したと提唱された。}}</ref><ref>{{cite journal |last1=Callaway |first1=Ewen |date=June 10, 2015 |title=DNA data explosion lights up the Bronze Age |journal=[[Nature (journal)|Nature]] |volume=522 |issue=7555 |pages=140–141 |doi=10.1038/522140a |pmid=26062491 |bibcode=2015Natur.522..140C |doi-access=free |quote=「その結果、ヤムナヤ人は乳糖耐性のDNA変異を持つ可能性が最も高く、草原からの移住者が最終的にこの形質をヨーロッパに持ち込んだ可能性が示唆された。」}}</ref><ref>{{cite journal |last1=Furholt |first1=Martin |title=Massive Migrations? The Impact of Recent DNA Studies on our View of Third Millennium Europe |journal=[[European Journal of Archaeology]] |date=2018 |volume=21 |issue=2 |pages=159–191 |doi=10.1017/eaa.2017.43 |doi-access=free |quote=「例えば、一方の系統が他方の系統よりも生物学的に進化的に優位に立っている可能性がある。({{harvnb|Allentoft et al.|2015|p=171}})は、新石器時代後期の個体の大多数とは対照的に、[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]と[[縄目文土器文化]]に関係する個体では、著しく高い割合で乳糖耐性があることを発見している。」}}</ref>。 ユーラシアの草原の集団は、草原との混血がないヨーロッパの農耕民や狩猟採集民よりも、乳糖耐性対立遺伝子の頻度が高い<ref>{{cite journal |last1=Gross |first1=Michael |title=On the origin of cheese |journal=[[Current Biology]] |date=2018 |volume=28 |issue=20 |pages=R1171–R1173 |doi=10.1016/j.cub.2018.10.008 |doi-access=free |quote=「その研究で検出されたラクターゼ活性持続症の頻度が最も高かったのは、ユーラシア草原のヤムナヤの間で見つかり、ヨーロッパ内で最も高かったのは[[縄目文土器文化]]の間で見つかった。」}}</ref>。 == 脚注 == === 注釈 === {{Notelist|30em}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[東ヨーロッパ狩猟採集民]] * [[古代北ユーラシア人]] * [[考古遺伝学]] == 参考文献 == {{refbegin|30em}} * {{Cite journal |last1=Allentoft |first1=Morten E. |last2=Sikora |first2=Martin |last3=Sjögren |first3=Karl-Göran |last4=Rasmussen |first4=Simon |last5=Rasmussen |first5=Morten |last6=Stenderup |first6=Jesper |last7=Damgaard |first7=Peter B. |last8=Schroeder |first8=Hannes |last9=Ahlström |first9=Torbjörn |last10=Vinner |first10=Lasse |date=2015 |title=Population genomics of Bronze Age Eurasia |journal=[[Nature (journal)|Nature]] |volume=522 |issue=7555 |pages=167–172 |doi=10.1038/nature14507 |pmid=26062507 |bibcode=2015Natur.522..167A |s2cid=4399103 |issn=1476-4687 |url=https://depot.ceon.pl/handle/123456789/13155 |ref={{sfnref|Allentoft et al.|2015}} }} * {{cite journal |last1=Anthony |first1=David |author1-link=David W. Anthony |date=Spring–Summer 2019a |title=Archaeology, Genetics, and Language in the Steppes: A Comment on Bomhard |journal=[[Journal of Indo-European Studies]] |volume=47 |issue=1–2 |pages=1–23 |url=https://www.academia.edu/39985565 |access-date=January 9, 2020 }} * {{cite book |last1=Anthony |first1=David W. |author1-link=David W. Anthony |year=2019b |chapter=Ancient DNA, Mating Networks, and the Anatolian Split |editor1-last=Serangeli |editor1-first=Matilde |editor2-last=Olander |editor2-first=Thomas |title=Dispersals and Diversification: Linguistic and Archaeological Perspectives on the Early Stages of Indo-European |url=https://books.google.com/books?id=DHnEDwAAQBAJ |publisher=[[Brill Publishers|BRILL]] |pages=21–54 |isbn=978-9004416192 |via=[[Google Books]] }} * {{cite journal |last1=Antonio |first1=Margaret L. date=November 8, 2019 |title=Ancient Rome: A genetic crossroads of Europe and the Mediterranean |journal=[[Science (journal)|Science]] |publisher=[[American Association for the Advancement of Science]] |volume=366 |issue=6466 |pages=708–714 |bibcode=2019Sci...366..708A |doi=10.1126/science.aay6826 |pmc=7093155 |pmid=31699931 |ref={{harvid|Antonio et al.|2019}}}} * {{cite journal |last1=Damgaard |first1=Peter de Barros |date=June 29, 2018 |title=The first horse herders and the impact of early Bronze Age steppe expansions into Asia |journal=[[Science (journal)|Science]] |publisher=[[American Association for the Advancement of Science]] |volume=360 |issue=6396 |pages=eaar7711 |doi=10.1126/science.aar7711 |pmc=6748862 |pmid=29743352 |ref={{harvid|Damgaard et al.|2018}}}} * {{Cite journal |last1=Eisenmann |first1=Stefanie |last2=Bánffy |first2=Eszter |last3=van Dommelen |first3=Peter |last4=Hofmann |first4=Kerstin P. |last5=Maran |first5=Joseph |last6=Lazaridis |first6=Iosif |last7=Mittnik |first7=Alissa |last8=McCormick |first8=Michael |last9=Krause |first9=Johannes |last10=Reich |first10=David |last11=Stockhammer |first11=Philipp W. |date=2018 |title=Reconciling material cultures in archaeology with genetic data: The nomenclature of clusters emerging from archaeogenomic analysis |journal=[[Scientific Reports]] |language=en |volume=8 |issue=1 |pages=13003 |doi=10.1038/s41598-018-31123-z |issn=2045-2322 |pmc=6115390 |pmid=30158639 |bibcode=2018NatSR...813003E |ref={{sfnref|Eisenmann 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盧施煥
盧 施煥(ノ・シファン、朝鮮語: 노시환、2000年12月3日 - )は、大韓民国の蔚山広域市出身のプロ野球選手(内野手)。右投右打。KBOリーグのハンファ・イーグルス所属。 2019年の新人ドラフトにて、2次ドラフト1位でハンファ・イーグルスから指名され入団した。 2023年は131試合に出場して打率.298、31本塁打、101打点を記録し、本塁打と打点の二冠王に輝いた。シーズン途中に開催されたアジア競技大会の韓国代表に選出されて優勝し、兵役を免除された。また、シーズン終了後にはアジア プロ野球チャンピオンシップの韓国代表に選出された。
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盧 施煥は、大韓民国の蔚山広域市出身のプロ野球選手(内野手)。右投右打。KBOリーグのハンファ・イーグルス所属。
{{Infobox baseball player |選手名 = 盧 施煥 |英語表記 = Roh Si-Hwan |所属球団 = ハンファ・イーグルス |背番号 = 8 |選手写真ファイル名 = |写真サイズ = |写真のコメント = |国籍 = {{KOR2}} |出身地 = [[蔚山広域市]] |生年月日 = {{生年月日と年齢|2000|12|23}} |没年月日 = |身長 = 185 |体重 = 105 |利き腕 = 右 |打席 = 右 |守備位置 = [[三塁手]]、[[一塁手]] |プロ入り年度 = 2019年 |ドラフト順位 = 2次ドラフト1位 |初出場 = KBO / 2019年3月24日 |最終出場 = |年俸 = 1億3100万ウォン(2023年) |経歴 = * {{仮リンク|慶南高等学校|ko|경남고등학교}} * [[ハンファ・イーグルス]] (2019 - ) |代表チーム = |五輪 = |WBC = |選出国 = |選出年 = |得票率 = |選出方法 = }} '''盧 施煥'''(ノ・シファン、{{lang-ko|노시환}}、[[2000年]][[12月3日]] - )は、[[大韓民国]]の[[蔚山広域市]]出身の[[プロ野球選手]]([[内野手]])。右投右打。[[KBOリーグ]]の[[ハンファ・イーグルス]]所属。 == 経歴 == === ハンファ時代 === 2019年の新人ドラフトにて、2次ドラフト1位で[[ハンファ・イーグルス]]から指名され入団した。 2023年は131試合に出場して打率.298、31本塁打、101打点を記録し、本塁打と打点の二冠王に輝いた<ref>{{Cite web |title=11・16開幕アジアCSへ韓国代表4番にハンファ所属ノ・ シファン 今季2冠巨漢スラッガー - プロ野球 : 日刊スポーツ |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202310250000070.html |website=nikkansports.com |access-date=2023-11-16 |language=ja |last=古川真弥}}</ref>。シーズン途中に開催された[[アジア競技大会]]の韓国代表に選出されて優勝し、兵役を免除された<ref>{{Cite web |title=아버지가 못다 이룬 꿈 한 번에 달성한 아들, 문동주 [항저우 2022] |url=https://sports.news.naver.com/news?oid=241&aid=0003304858 |website=sports.news.naver.com |access-date=2023-11-16 |language=ko |last=이형석}}</ref>。また、シーズン終了後には[[アジア プロ野球チャンピオンシップ]]の韓国代表に選出された<ref>{{Cite web |title=盧施焕|韓国代表選手|カーネクスト アジアプロ野球チャンピオンシップ2023 |url=https://www.japan-baseball.jp/jp/profile/top_apbc2023/kor/8.html |website=野球日本代表 侍ジャパンオフィシャルサイト |access-date=2023-11-16 |language=ja |last=NPBエンタープライズ}}</ref><ref>{{Cite web |title=侍ジャパン打つ!韓国の4番はノ・シファン 今季31本塁打&101打点の2冠 右の大砲 - プロ野球 : 日刊スポーツ |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202310240000445.html |website=nikkansports.com |access-date=2023-11-16 |language=ja |last=古川真弥}}</ref>。 == 詳細情報 == === 年度別打撃成績 === {|{{年度別打撃成績|リーグ=KBOリーグ}} |- |style="text-align:center;"|{{by2|2019}} |rowspan="5" style="text-align:center;"|[[ハンファ・イーグルス|ハンファ]] |91||192||177||19||33||8||1||1||46||13||2||2||1||1||11||0||2||72||3||.186||.241||.260||.501 |- |style="text-align:center;"|{{by2|2020}} |106||387||346||46||76||18||2||12||134||43||0||1||1||1||33||1||6||116||8||.220||.298||.387||.685 |- |style="text-align:center;"|{{by2|2021}} |107||458||380||56||103||18||1||18||177||84||5||2||0||4||73||9||1||107||15||.271||.387||.466||.852 |- |style="text-align:center;"|{{by2|2022}} |115||490||434||55||122||24||1||6||166||59||6||2||0||4||48||1||4||95||13||.281||.355||.383||.738 |- |style="text-align:center;"|{{by2|2023}} |131||595||514||85||153||30||1||'''31'''||'''278'''||'''101'''||2||1||0||3||74||5||4||118||13||.298||.388||.541||.929 |- !colspan="2"|[[KBOリーグ|KBO]]:5年 |550||2122||1851||261||487||98||6||68||801||300||15||8||2||13||239||16||17||508||52||.263||.351||.433||.783 |} * 2023年度シーズン終了時 * 各年度の'''太字'''はリーグ最高 === タイトル === ; KBO * [[最多本塁打 (韓国野球委員会)|本塁打王]]:1回(2023年) * 打点王:1回(2023年) === 表彰 === ; KBO * [[ゴールデングラブ賞 (韓国)|ゴールデングラブ賞]]:1回(三撃手部門:2023年) === 背番号 === * '''37'''(2019年) * '''8'''(2020年 - ) === 代表歴 === * [[2022年アジア競技大会|2023年 アジア競技大会 韓国代表]] * [[2023 アジア プロ野球チャンピオンシップ 韓国代表|2023年 アジア プロ野球チャンピオンシップ 韓国代表]] == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == {{BASEBALLstats|kbo=69737|brkbo=noh---000si-}} * {{Instagram|hwanisi}} {{ハンファ・イーグルス}} {{韓国野球委員会本塁打王}} {{韓国野球委員会打点王}} {{韓国野球委員会 ゴールデングラブ(三塁手)}} {{デフォルトソート:の しふあん}} [[Category:韓国の野球選手]] [[Category:ハンファ・イーグルス及びピングレ・イーグルスの選手]] [[Category:野球韓国代表選手]] [[Category:韓国のアジア競技大会選手]] [[Category:韓国のアジア競技大会金メダリスト]] [[Category:蔚山広域市出身の人物]] [[Category:2000年生]] [[Category:存命人物]]
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プロジェクトセカイの登場人物
プロジェクトセカイの登場人物では、セガ、Colorful Palette、クリプトンによるメディアミックス企画『プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク』の登場キャラクターについて記述する。 本作にはバーチャルシンガー(ピアプロキャラクターズ)と20名のオリジナルキャラクターが登場する。各ユニット4名ずつに分類されており、それぞれ、バンドユニット「Leo/need」、アイドルユニット「MORE MORE JUMP!」、ストリートユニット「Vivid BAD SQUAD」、ショーユニット「ワンダーランズ×ショウタイム」、正体不明の音楽サークル「25時、ナイトコードで。」に分類される。 セカイはオリジナルキャラクターたちの想いで作られた場所である。しかし、例外として「ワンダーランズ×ショウタイム」のセカイは天馬司、「25時、ナイトコードで。」のセカイは朝比奈まふゆと、それぞれ個人の想いからセカイが誕生しており、他のメンバーはそのセカイに招かれた形となっている。そのため、セカイの変化も司やまふゆの心境の変化によって変わる部分が大きい。一方で、まふゆのセカイでは、絵名の心境の変化によって鏡音リンが姿を現すなど、招かれたメンバーの想いが影響している部分も存在する。 プレイヤーは序盤に登場する「初音ミク」以外と直接接触することは一切なく、現実世界とも各セカイとも違う別の空間からキャラクターたちを見守る存在となっている。 本作の現実世界では、ボカロPやバーチャル・シンガーは現実世界と同じ定義で存在している。しかし、この要素を細かく描くとメタ的な要素が濃くなるため意図的に細かい説明まではされていない。ただし、イベント『Live with memories』ではストーリー内にて現実世界におけるソフトウェアとしての『初音ミク』の存在に本格的に触れられており、現実世界におけるミクの存在や主人公の星乃一歌がミクのソフトウェアを購入する姿が描かれている。 各セカイに登場するバーチャル・シンガーは序盤は決められたメンバーのみ登場するが、物語が進行していくと他のバーチャル・シンガーとの交流も可能となる。ゲーム内ではバーチャルシンガーの声はボーカロイドを利用したものが使用されており、声優による音声収録は行われていない。ゲーム内・公式サイトでは音声ソース提供者が「ORIGINAL CV」としてクレジットされている。 バーチャル・シンガーはセカイごとに人格に大きな違いがあり、とくに初音ミクに関しては姿や髪の色まで全てが異なっている。そのため、セカイごとのバーチャル・シンガーは同じ名前でも全く別の存在として描かれる。 Leo/need(レオニード)は、渋谷にある宮益坂女子学園に通う幼馴染の女子高生4人で結成されたバンドユニット。略称は「レオニ」。ジャンルは「バンド」。セカイのモチーフは学校の教室。セカイに居るバーチャルシンガーは初音ミク、巡音ルカ、MEIKO、鏡音リン、鏡音レン、KAITO。 かつてはお互いにすれ違い、バラバラになってしまっていたが、その苦難を乗り越え結成された。 「Leo/need」のコンセプトについて本作のメインライターである桝井は「等身大の普通の女子高生たちを描く」ことを念頭に置いている。そのため物語としては、大きな出来事が起きてそれを乗り越えていくという壮大な物語は想定されておらず、幼馴染たちとの友情や関係性で悩み、ときには喧嘩し、時には相談し合いながら困難を乗り越える姿を描くことが重視されている。そのため、起きる事件も友人関係などにフォーカスされ、ファンタジーのような人生を変える大きな問題に直面するわけではないが、彼女たちにとっては同じぐらい重要で真剣な悩みを抱えており、それをどう変えていくかを描いている。なかでも最初の物語のテーマは「心のすれ違い」であり「本当は一緒にいたい」という気持ちを伝えたいけど言うことができない、女の子同士の間で起きる「言える」「言えない」などの感情表現を描いている。この感情表現が読み手側に不快感を与えてしまいキャラクターが嫌われてしまうような事態にならないようにシナリオ作成段階で微調整を繰り返しており、桝井は本ユニットが5ユニットのうちで2番目にシナリオを作成するのが難しいユニットだったと語っている。 なかでも主人公の一歌は、「自分がこれからどうしたいのか」を決められず、それが分からないまま何となく進んでしまってきた今時の若者として描かれており、そんな一歌がミクに背中を押されることで、自分の中の新しい一歩を踏み出すという物語の構成となっている。 MORE MORE JUMP!(モアモアジャンプ!)は、宮益坂女子学園に通う女子高生4人で結成されたアイドルユニット。略称は「モモジャン」。ジャンルは「アイドル」。セカイのモチーフはライブステージ。セカイに居るバーチャルシンガーは初音ミク、鏡音リン、巡音ルカ、MEIKO、鏡音レン、KAITO。 アイドルを夢見る1人の少女とアイドルを辞めた3人の少女たちが、あるきっかけで出会い、苦難を乗り越え結成された異色アイドルユニットとなる。チームのモチーフは「三つ葉のクローバー」。4人で共に活動したいという想いを貫くために、ネット配信をメインとしたフリーのアイドルグループとして活動している。 「MORE MORE JUMP!」のコンセプトは「いろんな壁にぶつかっても頑張り続け、周囲に希望を届け続けるアイドルユニット」。この物語ではアイドル業界のもつ「エグみ」も描き、アイドルという存在に一歩踏み込んだ物語を描いている。これは、壁があるからこそプレイヤーに彼女たちの頑張りをみせられるのではないかという考えからきているが、読後感も大事にするため「エグみ」の程度は調節されている。また、アイドルという要素を描くうえでプロデューサー兼ディレクターの近藤が以前プロデューサーを務めた『バンドリ!ガールズバンドパーティ!』で描いたアイドルバンドの経験が生かされており、そこで学んだ「どこまでアイドルのリアルな要素に踏み込んでいいのか」という経験が本作のシナリオにも生かされている。 主人公のみのりは、自分がアイドルを目指すきっかけになった遥を「彼女みたいなアイドルになりたい」という想いだけで助けにいく。そのように、お互いに想いを与え合い、もらい合いながら壁にぶつかっていくアイドルたちを描いており、特にみのりと遥の関係性は「オーディションに落ち続けた普通の少女が、アイドル業界のトップを張り続けたアイドルの心に踏み込む」ための説得力をプレイヤーに伝えることを重点においてシナリオが手掛けられた。 Vivid BAD SQUAD(ビビットバッドスクワッド)は、女子高生ストリートユニット「Vivids(ビビッズ)」と、男子高生音楽ユニット「BAD DOGS(バッド・ドッグズ)」が伝説を超えるために共同で結成したストリートユニット。 略称は「ビビバス」。ジャンルは「ストリート」。セカイのモチーフはストリートでMEIKOの経営するカフェも存在する。セカイに居るバーチャルシンガーは初音ミク、MEIKO、鏡音リン、鏡音レン、KAITO、巡音ルカ。 Vivid BAD SQUADはミュージシャンであり杏の父でもあるKENが開催した伝説のイベント「RAD WEEKEND(ラッドウィーケンド)」を超えるイベントを開催するために集った実力派ストリートユニット。チーム結成後も「Vivids」「BAD DOGS」としてユニット活動はそれぞれ続けており、こはねに関しては修行も兼ねて一人で対戦形式のイベントに複数参加するなど、チームの形式にとらわれないさまざまな活動をしている。また、チームとしても大きなイベントのゲストに呼ばれるなど、高い技術力を有している。 「Vivids」のチーム名の由来は、彼女たちが活動する渋谷の「ビビッドストリート」から。本編より2年前から活動している「BAD DOGS」のチーム名の由来は、人から見ればバカみたいな夢を追いかける彰人と冬弥の2人の様子を「頭が悪い」「躾のなっていない犬」になぞらえて彰人が名付けた。「犬にかまれることの恐ろしさを思い知らせる」という意味もあるが、本命の意味は「最高の相棒」というスラングから。冬弥は彰人がチーム名に「犬」と名付けた理由を、「むかし、彰人が犬に噛まれてトラウマになっている」ことも関係あるのではないかと思っている。 「Vivid BAD SQUAD」では「志」「信念」を大事にしており、音楽を介して共通点を見つけ、ひとつになっていく物語を描く。このコンセプトはストリートの楽曲から受ける「信念を貫くカッコよさ」からきており、自身の夢を侮られることに対して少年少女たちが反発し、お互いにぶつかり合いながらも成長していく姿を描いている。また、ストリートシーンの音楽をどう扱うかにも重点を置いており、ストリート系の音楽に詳しいクリプトンのプロデューサーである佐々木の意見も多く取り入れられている。 この物語では主人公的ポジションにいるこはねが杏と出会うことで自分の知らなかった新たな世界に足を踏み込み、自分の手で新たな居場所を作っていく物語となる。その中で彰人や冬弥と敵対しつつも、こはね自身が成長することで登場人物たちの関係性が大きく変わっていく様子が描かれる。また、彼ら彼女らがどうして音楽に熱い想いを抱くのかを描くために、他のユニットではメインとなる人物の視点がある程度固定されているのに対し、本ユニットは4人全員の視点が入れ替わりながら物語が進み、全員が主人公となり得る構成となっている。 ワンダーランズ×ショウタイムは、人気テーマパーク「フェニックスワンダーランド」にある舞台ステージの劇団員として活動する高校生ミュージカルユニット。略称は「ワンダショ」。ジャンルは「ミュージカル」。セカイのモチーフはテーマパーク。セカイに居るバーチャルシンガーは初音ミク、KAITO、鏡音レン、鏡音リン、MEIKO、巡音ルカ。 寂れてしまい、観客も来ないステージの復活を夢見て活動をしている。合言葉は「わんだほーい!」。「ワンダーランズ×ショウタイム」のセカイは司の想いから生まれており、他のメンバーはそこに招かれている形となっている。司を通して「Leo/need」のメンバー全員と交流を持っている。 「ワンダーランズ×ショウタイム」は、にぎやかなお祭りユニットとして描かれており、企画初期のアイデアが最後まで残った唯一のユニットとなる。企画当初、ボーカロイドとは曲を作るだけではなく絵やマンガを描いたり、各々が自身のできることを持ち寄り、ニコニコ動画という場所でみんな一緒に楽しめる点が魅力的だったという話題がシナリオチーム内で上がり、そのように個性が集まり、皆で一緒に新しい面白さを作り上げていくところを描こうと本ユニットが構想された。個性的なユニットということもあり、本ユニットに登場する初音ミクもアッパーでカオスな雰囲気となっている。 主人公の司は、最初は自己の主張が激しいキャラクターとして描かれるが、個性的な仲間と出会うことで少しずつ変化していく様子が描かれる。また、司にとって妹・咲希の存在が彼の根幹につながる大事な要素として描かれている。咲希の存在は、司という人物像をユーザーが誤解して受け取らないために必要な要素でもあり、メインストーリー序盤のオープニングにて描かれる司と咲希の過去回想はシナリオ完成後に改めて書き足された内容でもある。 25時、ナイトコードで。(にじゅうごじ、ナイトコードで。)は、チャットツール「ナイトコード」で25時の訪れと共に活動する正体不明の音楽サークル。略称は「ニーゴ」。ジャンルは「アンダーグラウンド」。セカイのモチーフは何もない無機質な場所。セカイに居るバーチャルシンガーは初音ミク、鏡音リン、MEIKO、巡音ルカ、KAITO。 メンバー同士はチャットツール「ナイトコード」で交流しており、当初はお互いの顔も本名も一切知らなかった。「誰もいないセカイ」はまふゆの想いから誕生しており、他のメンバーはまふゆを救いたいと願ったミクが周囲に助けを求める形で招かれた。現在では、他のメンバーの影響を受けセカイが変化する場面も見られる。MEIKOは、まふゆが奏たち3人の想いに触れ、少しずつ変化することでセカイにも変化が起きていると推測している。 「25時、ナイトコードで。」はメンバーの4人全員が簡単には解決できない課題を抱えており、彼女たちの中で、ある一定の納得を得られることで次のステップに進めるような展開になっている。そのため、読後感のある物語ではなく、「彼女たちがそう決めたのなら周囲は応援するしかない」という物語展開となる。また、あるキャラクターに関しては死生観にも若干踏み込んでいる。また、全ユニットの中では唯一、クリエイターサイドの物語としても描かれている。 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SQUAD(ビビットバッドスクワッド)は、女子高生ストリートユニット「Vivids(ビビッズ)」と、男子高生音楽ユニット「BAD DOGS(バッド・ドッグズ)」が伝説を超えるために共同で結成したストリートユニット。 略称は「ビビバス」。ジャンルは「ストリート」。セカイのモチーフはストリートでMEIKOの経営するカフェも存在する。セカイに居るバーチャルシンガーは初音ミク、MEIKO、鏡音リン、鏡音レン、KAITO、巡音ルカ。", "title": "Vivid BAD SQUAD" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "Vivid BAD SQUADはミュージシャンであり杏の父でもあるKENが開催した伝説のイベント「RAD WEEKEND(ラッドウィーケンド)」を超えるイベントを開催するために集った実力派ストリートユニット。チーム結成後も「Vivids」「BAD DOGS」としてユニット活動はそれぞれ続けており、こはねに関しては修行も兼ねて一人で対戦形式のイベントに複数参加するなど、チームの形式にとらわれないさまざまな活動をしている。また、チームとしても大きなイベントのゲストに呼ばれるなど、高い技術力を有している。", "title": "Vivid BAD SQUAD" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "「Vivids」のチーム名の由来は、彼女たちが活動する渋谷の「ビビッドストリート」から。本編より2年前から活動している「BAD DOGS」のチーム名の由来は、人から見ればバカみたいな夢を追いかける彰人と冬弥の2人の様子を「頭が悪い」「躾のなっていない犬」になぞらえて彰人が名付けた。「犬にかまれることの恐ろしさを思い知らせる」という意味もあるが、本命の意味は「最高の相棒」というスラングから。冬弥は彰人がチーム名に「犬」と名付けた理由を、「むかし、彰人が犬に噛まれてトラウマになっている」ことも関係あるのではないかと思っている。", "title": "Vivid BAD SQUAD" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "「Vivid BAD SQUAD」では「志」「信念」を大事にしており、音楽を介して共通点を見つけ、ひとつになっていく物語を描く。このコンセプトはストリートの楽曲から受ける「信念を貫くカッコよさ」からきており、自身の夢を侮られることに対して少年少女たちが反発し、お互いにぶつかり合いながらも成長していく姿を描いている。また、ストリートシーンの音楽をどう扱うかにも重点を置いており、ストリート系の音楽に詳しいクリプトンのプロデューサーである佐々木の意見も多く取り入れられている。", "title": "Vivid BAD SQUAD" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "この物語では主人公的ポジションにいるこはねが杏と出会うことで自分の知らなかった新たな世界に足を踏み込み、自分の手で新たな居場所を作っていく物語となる。その中で彰人や冬弥と敵対しつつも、こはね自身が成長することで登場人物たちの関係性が大きく変わっていく様子が描かれる。また、彼ら彼女らがどうして音楽に熱い想いを抱くのかを描くために、他のユニットではメインとなる人物の視点がある程度固定されているのに対し、本ユニットは4人全員の視点が入れ替わりながら物語が進み、全員が主人公となり得る構成となっている。", "title": "Vivid BAD SQUAD" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ワンダーランズ×ショウタイムは、人気テーマパーク「フェニックスワンダーランド」にある舞台ステージの劇団員として活動する高校生ミュージカルユニット。略称は「ワンダショ」。ジャンルは「ミュージカル」。セカイのモチーフはテーマパーク。セカイに居るバーチャルシンガーは初音ミク、KAITO、鏡音レン、鏡音リン、MEIKO、巡音ルカ。", "title": "ワンダーランズ×ショウタイム" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "寂れてしまい、観客も来ないステージの復活を夢見て活動をしている。合言葉は「わんだほーい!」。「ワンダーランズ×ショウタイム」のセカイは司の想いから生まれており、他のメンバーはそこに招かれている形となっている。司を通して「Leo/need」のメンバー全員と交流を持っている。", "title": "ワンダーランズ×ショウタイム" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "「ワンダーランズ×ショウタイム」は、にぎやかなお祭りユニットとして描かれており、企画初期のアイデアが最後まで残った唯一のユニットとなる。企画当初、ボーカロイドとは曲を作るだけではなく絵やマンガを描いたり、各々が自身のできることを持ち寄り、ニコニコ動画という場所でみんな一緒に楽しめる点が魅力的だったという話題がシナリオチーム内で上がり、そのように個性が集まり、皆で一緒に新しい面白さを作り上げていくところを描こうと本ユニットが構想された。個性的なユニットということもあり、本ユニットに登場する初音ミクもアッパーでカオスな雰囲気となっている。", "title": "ワンダーランズ×ショウタイム" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "主人公の司は、最初は自己の主張が激しいキャラクターとして描かれるが、個性的な仲間と出会うことで少しずつ変化していく様子が描かれる。また、司にとって妹・咲希の存在が彼の根幹につながる大事な要素として描かれている。咲希の存在は、司という人物像をユーザーが誤解して受け取らないために必要な要素でもあり、メインストーリー序盤のオープニングにて描かれる司と咲希の過去回想はシナリオ完成後に改めて書き足された内容でもある。", "title": "ワンダーランズ×ショウタイム" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "25時、ナイトコードで。(にじゅうごじ、ナイトコードで。)は、チャットツール「ナイトコード」で25時の訪れと共に活動する正体不明の音楽サークル。略称は「ニーゴ」。ジャンルは「アンダーグラウンド」。セカイのモチーフは何もない無機質な場所。セカイに居るバーチャルシンガーは初音ミク、鏡音リン、MEIKO、巡音ルカ、KAITO。", "title": "25時、ナイトコードで。" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "メンバー同士はチャットツール「ナイトコード」で交流しており、当初はお互いの顔も本名も一切知らなかった。「誰もいないセカイ」はまふゆの想いから誕生しており、他のメンバーはまふゆを救いたいと願ったミクが周囲に助けを求める形で招かれた。現在では、他のメンバーの影響を受けセカイが変化する場面も見られる。MEIKOは、まふゆが奏たち3人の想いに触れ、少しずつ変化することでセカイにも変化が起きていると推測している。", "title": "25時、ナイトコードで。" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "「25時、ナイトコードで。」はメンバーの4人全員が簡単には解決できない課題を抱えており、彼女たちの中で、ある一定の納得を得られることで次のステップに進めるような展開になっている。そのため、読後感のある物語ではなく、「彼女たちがそう決めたのなら周囲は応援するしかない」という物語展開となる。また、あるキャラクターに関しては死生観にも若干踏み込んでいる。また、全ユニットの中では唯一、クリエイターサイドの物語としても描かれている。", "title": "25時、ナイトコードで。" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "死生観などの「アンダーグラウンド」特有のテーマを描くうえでは、浅すぎるテーマだとこの内容自体を扱ってはいけないことから、全年齢コンテンツで描けるギリギリのラインを見極めている。また、「絶望的な状況で、絶望的な音楽があるからこそ、自分はここにいられる」という「アンダーグラウンド」の楽曲に含まれる要素は大事にしており、その曲に救われた人がいる事実を重く受け止めて、万人受けはしないシナリオでも、そういう人たちに共感してもらいたいという想いを込めて物語が描かれている。これらの要素から、本ユニットのストーリーはシナリオ執筆が一番難しかったユニットであるとメインライターの桝井は語っている。", "title": "25時、ナイトコードで。" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "本作ではオリジナルキャラクター20名以外の登場人物たちの多くがLive2Dとフルボイス対応で登場している。初登場時にイラストとボイスがなかったキャラクターも、後のアップデートにて追加されることがある。担当声優はゲーム内のクレジットを出典としている。", "title": "その他の登場人物" } ]
プロジェクトセカイの登場人物では、セガ、Colorful Palette、クリプトンによるメディアミックス企画『プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク』の登場キャラクターについて記述する。
{{Pathnavbox| * {{Pathnav|プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク}} * {{Pathnav|ピアプロキャラクターズ}} }} '''プロジェクトセカイの登場人物'''では、[[セガ]]、[[Colorful Palette]]、[[クリプトン・フューチャー・メディア|クリプトン]]によるメディアミックス企画『[[プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク]]』の登場キャラクターについて記述する。 == 概要 == 本作にはバーチャルシンガー([[ピアプロキャラクターズ]])と20名のオリジナルキャラクターが登場する。各ユニット4名ずつに分類されており、それぞれ、バンドユニット「Leo/need」、アイドルユニット「MORE MORE JUMP!」、ストリートユニット「Vivid BAD SQUAD」、ショーユニット「ワンダーランズ×ショウタイム」、正体不明の音楽サークル「25時、ナイトコードで。」に分類される<ref name="miku213077">{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/games/476/G047609/20191213077/|title=「プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク」,ゲーム内に登場する5ユニット,総勢20名のプロフィールと相関図が公開に|date=2019-12-13|accessdate=2020-09-24}}</ref>。 セカイはオリジナルキャラクターたちの想いで作られた場所である。しかし、例外として「ワンダーランズ×ショウタイム」のセカイは天馬司、「25時、ナイトコードで。」のセカイは朝比奈まふゆと、それぞれ個人の想いからセカイが誕生しており、他のメンバーはそのセカイに招かれた形となっている。そのため、セカイの変化も司やまふゆの心境の変化によって変わる部分が大きい。一方で、まふゆのセカイでは、絵名の心境の変化によって鏡音リンが姿を現すなど、招かれたメンバーの想いが影響している部分も存在する。 プレイヤーは序盤に登場する「初音ミク」以外と直接接触することは一切なく、現実世界とも各セカイとも違う別の空間からキャラクターたちを見守る存在となっている。 == バーチャル・シンガー == [[ファイル:Project Sekai VIRTUAL SINGER logo.svg|右|フレームなし]] 本作の現実世界では、ボカロPやバーチャル・シンガーは現実世界と同じ定義で存在している。しかし、この要素を細かく描くとメタ的な要素が濃くなるため意図的に細かい説明まではされていない<ref name="prsk1stLt">{{Cite web|和書|url=https://news.denfaminicogamer.jp/interview/211005a|title=『プロセカ』ネタバレ全開シナリオチームインタビュー! 苦しくなる展開もあるけれど、不安になりすぎずに見守ってほしい|date=2021-10-05|accessdate=2021-10-07}}</ref>。ただし、イベント『Live with memories』ではストーリー内にて現実世界におけるソフトウェアとしての『初音ミク』の存在に本格的に触れられており、現実世界におけるミクの存在や主人公の星乃一歌がミクのソフトウェアを購入する姿が描かれている。 各セカイに登場するバーチャル・シンガーは序盤は決められたメンバーのみ登場するが、物語が進行していくと他のバーチャル・シンガーとの交流も可能となる<ref name="miku9868">{{Cite web|和書|url=https://pjsekai.sega.jp/news/article/index.html?hash=ed54bf60be2a679ad2df8f3a3157fbe4ae9868e6|title=プロジェクトメッセージ vol.3 #セカイの質問箱「オープンβテストの予定は?」|date=2020-07-01|accessdate=2020-09-27}}</ref>。ゲーム内ではバーチャルシンガーの声はボーカロイドを利用したものが使用されており、[[声優]]による音声収録は行われていない。ゲーム内・公式サイトでは音声ソース提供者が「ORIGINAL CV」としてクレジットされている。 バーチャル・シンガーはセカイごとに人格に大きな違いがあり、とくに初音ミクに関しては姿や髪の色まで全てが異なっている。そのため、セカイごとのバーチャル・シンガーは同じ名前でも全く別の存在として描かれる。 ; [[初音ミク]] : 声:[[藤田咲]]<ref name="animatetimes11794">{{Cite web |url=https://www.animatetimes.com/tag/details.php?id=11794 |title=プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク|声優・ゲーム・キャラクター・登場人物・最新情報一覧 |website=アニメイトタイムズ |accessdate=2023-11-12}}</ref> : 誕生日:8月31日、身長:158cm<ref name="fanbook01">KADOKAWA 『プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク 公式ビジュアルファンブック』 2021年11月26日刊行、 {{ISBN2|978-4-04-733575-2}}</ref> :はつらつとした明るく可愛い歌声が特徴の少女バーチャル・シンガー。歌うジャンルは多種多様であり、バーチャル・シンガーの中でも世代を問わずに名前を知られている<ref name="fanbook01"/>。 :;教室のセカイのミク ::一歌たち4人の想いから生まれた「教室のセカイ」に住むミク。歌以外に演奏も大好きであり、一歌たちにも演奏を教えることがある。一歌たちに対しては先輩らしさを見せようと自信に満ちた態度で接することが多いが、実は少し背伸びをしており、裏でこっそりと練習をしている。一歌たちに何を教えられるのか悩むなど、セカイのミクたちの中でも一番年相応の少女らしい一面を見せる機会が多く、そのことを知っているルカにからかわれることも多い。また、後輩のリンにも「ミクぴょん」と呼ばれるなど、周囲から弄られることも。一歌との結びつきは強く、お互いに強く信頼しあう関係である<ref name="fanbook01"/>。 :;ステージのセカイのミク ::みのりたち4人の想いから生まれた「ステージのセカイ」のミク。セカイのミクたちの中でも一番見た目が「初音ミク」に近いデザインになっている。明るく前向きであり、ファンのためを一番に想いながら歌い続けている。ファンサやダンスなども完璧にこなすなどアイドルとしての実力は高い<ref name="fanbook01"/>。 :;ストリートのセカイのミク ::こはねたちの想いから生まれた「ストリートのセカイ」のミク。大人びた雰囲気とサバサバした姉御肌な性格をしている。言葉は端的なことが多いが、向き合うべきことにしっかりと向き合わせてくれる優しさも持つ。普段はMEIKOの店に入り浸りコーヒーを飲んでいることが多いが、たまに店を手伝うこともある。歌やスポーツなど何でもそつなくこなす器用さがある一方、料理が苦手であり、その不器用さはMEIKOが包丁を持たせないほど危険でサンドイッチを作るのにも一苦労している。ミク自身は自身が料理が下手であることに気が付いていない<ref name="fanbook01"/>。 :;ワンダーランドのセカイのミク ::司の想いから生まれた「ワンダーランドのセカイ」のミク。KAITOが座長を務める劇団の一員。常にハイテンションで突拍子の無い行動をしている。楽しそうなことはとにかく何でもやってみる性格で、そのぶっ飛びがちな行動にKAITOは振り回されている。しかし、その行動は全てみんなを笑顔にするという目的がある。えむと特に仲がよく、一緒に行動している場面が多い<ref name="fanbook01"/>。 :;誰もいないセカイのミク ::まふゆの想いから生まれた「誰もいないセカイ」のミク。淡々とした性格で無機質な雰囲気をみせているが、実際は感情の現し方がわからないだけであり、知らないことに対して好奇心をみせることも多い。まふゆと行動を共にすることが多く、話すのが得意ではない代わりに、まふゆのそばに静かに寄り添っている。瑞希の持ち込むお菓子や服など、色々なものを宝物として大事にしている。まふゆとは違い味覚などもあり、彼女に代わり味を教えようとする場面も見られた<ref name="fanbook01"/>。 ; [[鏡音リン・レン|鏡音リン]] : 声:[[下田麻美]]{{R|animatetimes11794}} : 誕生日:12月27日、身長:152cm<ref name="fanbook01"/> : 大きなリボンが特徴の少女バーチャル・シンガー。鏡音レンとは兄妹ではないがツインボーカルとして一緒に歌を奏でることが多く、2人1組で認知されることも多い。キュートでチャーミングな歌声が特徴<ref name="fanbook01"/>。 :;教室のセカイのリン ::ミクたちとバンドをしている。お調子者であり咲希と一緒に女子高生らしい様々なことで盛り上がっている様子が見られる。あまり真剣ではないように見えて、じつはみんなが元気になれるように率先して行動する場面も多い<ref name="fanbook01"/>。 :;ステージのセカイのリン ::駆け出しのアイドル。キュートな愛らしさが特徴であり、アイドルであることを楽しんでいるが、時折自身の不甲斐なさを感じることもある。しかし、ファンに希望を届けるために努力を続ける姿は愛莉に影響を与えている<ref name="fanbook01"/>。 :;ストリートのセカイのリン ::鏡音レンの相棒。DJについても勉強している。明るく元気な一方でわがままな面も見られ、相棒のレンと喧嘩することも多い。喧嘩した時には彰人や冬弥に頼ることもある<ref name="fanbook01"/>。 :;ワンダーランドのセカイのリン ::明るくの邪気な性格。元はセカイの様々な場所でショーをして回っていたが、レンに誘われる形でKAITOの劇団に加わる<ref name="fanbook01"/>。 :;誰もいないセカイのリン ::絵名の悲痛な叫びに呼応するようにセカイに現れたリン。気だるげでぶっきらぼうであり、常につんつんとした態度をとっている。しかし、実は寂しがりやであり、その性格から他人の弱さに寄り添うこともできる。普段は絵名と行動を共にすることが多いほか、瑞希やルカに遊ばれたりからかわれている場面も多い<ref name="fanbook01"/>。 ; [[鏡音リン・レン|鏡音レン]] : 声:下田麻美{{R|animatetimes11794}} : 誕生日:12月27日、身長:156cm<ref name="fanbook01"/> : 短く後ろに結ばれたブロンドヘアが特徴の少年バーチャル・シンガー。リンとはツインボーカルとして認知されることが多い。芯のあるパワフル歌声が特徴的で、感情表現の豊かさも兼ね備えている<ref name="fanbook01"/>。 :;教室のセカイのレン ::教室のセカイに最後に現れたバーチャル・シンガー。「相手のためを思うなら時にはぶつかることも必要」という考えを持ち、無理をするリンと喧嘩をすることもあった。その考えは穂波に大きな影響を与えている。 :;ステージのセカイのレン ::アイドルの一人として活動をしており、ダンスからファンサ、時には企画まで様々なことをこなす。一時期は活動を停止して企画に集中していたが、ある時を境にみのりやミクたちに合流して活動を再開する。 :;ストリートのセカイのレン ::MEIKOのカフェの常連。KAITOからDJの技術を学んでいるが、普段真面目には見えないKAITOの姿に飽きれている場面も。生意気なところもあり相棒のリンと喧嘩をすることも多い。喧嘩をしたときは彰人や冬弥を頼ることもある<ref name="fanbook01"/>。 :;ワンダーランドのセカイのレン ::KAITOの劇団の一員。素直かつ無邪気な性格。みんなを笑顔にするために様々なショーを提案して取り組んでいる。KAITOの劇団にリンを誘った張本人<ref name="fanbook01"/>。 :;誰もいないセカイのレン ::イベントストーリー「迷い子の手を引く、そのさきは」から登場。内気で引っ込み思案な性格であり表に出たがらない。普段はミクの後ろに隠れていることが多い。 ; [[巡音ルカ]] : 声:[[浅川悠]]{{R|animatetimes11794}} : 誕生日:1月30日、身長:162cm<ref name="fanbook01"/> : ピンクのロングヘアに大人びた見た外観が特徴の女性バーチャル・シンガー。落ち着いた柔らかい歌声が特徴だが、時には情熱的な歌声を聴かせることもある。また、バイリンガルでもあり英語で歌う場面も多い<ref name="fanbook01"/>。 :;教室のセカイのルカ ::ミクとバンドをしており、ミクにとっても良き先輩の一人。ミクのことは背伸びしたがりのかわいい後輩と思っており、彼女をからかうことも多いためミクから文句を言われる場面も。誰に対しても気遣いや優しさを見せており、演奏以外にもプライベートな相談にも真剣に答えてくれる。その姿に咲希や志歩が助けられたことも多い<ref name="fanbook01"/>。 :;ステージのセカイのルカ ::清楚な雰囲気を纏う大人びたアイドル。しかし、実はお茶目な一面を持っており、その少し抜けた性格は周囲を驚かせることも。しかし、緊急時には的確なアドバイスをすることができ、それが雫や愛莉を救うこともあった。アイドルとしての実力は高く、歌もダンスも完璧にこなすトップアイドルである<ref name="fanbook01"/>。 :;ストリートのセカイのルカ ::当初はバーチャルライブのみ登場。イベント『Same Dreams,Same Colors』より本格的にイベントストーリーに登場する。初期のころからセカイに滞在しており、こはねたちともそのころから交流はあったが、本人がセカイを回る旅に出たために、長らく誰もその姿を見かけなかった。MEIKO曰く「KAITO並みにフラフラしている」。自由人であり、自分の思うがままに行動するが、悩む人に対しては親身にアドバイスすることもある。 :;ワンダーランドのセカイのルカ ::KAITOの劇団の一員。常に眠そうな様子を見せており、時には立ったままその場で寝てしまうという離れ業を見せている。そのため、MEIKOからはよく叱られている。ただし、寝ていても会話は聞こえている様子であり、寝言で返事をしている。マイペースなのんびり屋にも見えるが、一方で周囲が危機的な状況であったり、深く悩んでいる時には眼が冴えた状態となり的確にアドバイスをしてくれる場面もある<ref name="fanbook01"/>。 :;誰もいないセカイのルカ ::奏のある事情に呼応するかのようにセカイに現れた。優雅で穏やかな雰囲気を纏っているが、謎めいた助言をすることが多い。その助言は時に互いの関係性を壊してしまうような過激ともとれるような内容も多く、相手が指摘されたくない部分を突きつける手段を選ばない一面を見せる。そのやり方を気に食わないMEIKOからは「考え方が相容れない」といわれているが、本人は「関係性を壊すことも大事」という考え方を変える気はない<ref name="fanbook01"/>。 ; [[MEIKO]] : 声:[[拝郷メイコ]]{{R|animatetimes11794}} : 誕生日:11月5日、身長:167cm<ref name="fanbook01"/> : 栗色のショートボブが特徴の大人な女性バーチャル・シンガー。安定感のある歌唱力と、女性ならではの優しく温かみのある歌声を持つ<ref name="fanbook01"/>。 :;教室のセカイのMEIKO ::ルカやミクと共にバンドをしており、主にドラムをメインとする。明るく爽やかで周囲を引っ張っていくリーダータイプ。バンドの部長的存在であり、ルカと共に一歌たちだけでなく、ミクやリンも見守っている。同じドラムの穂波から相談を受けることもあり、彼女が自身の悩みに一つの答えを得るきっかけを作る<ref name="fanbook01"/>。 :;ステージのセカイのMEIKO ::ベテランアイドルの一人。芯の強い性格だが我が強いわけではなく、気遣いの溢れるトークで周囲を自然と和ませる。曲に関してもキュートな曲からクール系まで幅広い曲調をこなす<ref name="fanbook01"/>。 :;ストリートのセカイのMEIKO ::セカイにあるカフェ「crase café(くれーすかふぇ)」のマスター。穏やかで落ち着いた正確であり、こはねたちだけでなく、バーチャル・シンガーたちの相談にもよく乗っている。常連のミクと一緒にいることが多く、彼女に店番を任せることもあるが、料理に関してだけは不安な面持ちで見守っている。KAITOに対しては、よくつまみ食いなどをしているため叱ることも多いが、DJとしての実力に関しては信頼している<ref name="fanbook01"/>。 :;ワンダーランドのセカイのMEIKO ::KAITOの劇団の一員。パワフルな性格をしており、やることも豪快なことが多い。強引なところもあり、ミクと一緒にKAITOを振り回すが、悩みを持つ人たちをぐいぐいと引っ張ってくれる姉御肌な様子も見られる。いつも寝ているルカの御守をすることも多く、彼女といるときはツッコミ役になることが多い<ref name="fanbook01"/>。 :;誰もいないセカイのMEIKO ::瑞希の秘密の想いに呼応するようにセカイに現れる。冷静で思慮深い性格。周囲と距離をとっている様子から冷たく無関心にも取られることがあるが、これはまふゆや瑞希の悩みを客観的にとらえるための行動である。瑞希の秘密について特に関心を示しており、周囲を揺さぶるルカとはよく衝突している。また、瑞希を救おうとしている絵名へもアドバイスをしている<ref name="fanbook01"/>。 ; [[KAITO]] : 声:[[風雅なおと]]{{R|animatetimes11794}} : 誕生日:2月17日、身長:175cm<ref name="fanbook01"/> : ダークブルーの髪と青いロングマフラーが特徴の男性バーチャル・シンガー。清涼感のある歌声で厚みのある低音から伸びのある高音まで、幅広い楽曲を歌い分ける<ref name="fanbook01"/>。 :;教室のセカイのKAITO ::大人しく寡黙で、一見人見知りにも感じられる性格。しかし、楽器を通して周囲に感情を伝えることに長けている。一歌に対して様々なアドバイスをすることも。 :;ステージのセカイのKAITO :: ミクたちと同じアイドルであり、マネージャー、プロデュース、演出なども兼業している。本人は裏方をやることも大好きであり、アイドルと両立して活動している。裏方もやっているからこそ、スタッフ視点でアイドルを支える気持ちに寄り添うことができ、KAITOの考えが遥の悩みを解決する手助けになった。 :;ストリートのセカイのKAITO ::MEIKOのカフェに時折ふらっと現れる。ノリが軽く抜けているところもあり、DJの弟子であるレンや彼の相棒のリンにツッコまれたり、MEIKOの店のアイスなどを勝手に食べて叱られるなど、だらしない面が目立つ一方、DJとしての実力はプロ並みであり、豊富な音楽知識は彰人たちに影響を与えることもある。また、コーヒーを入れることに関してはMEIKOも認める腕前を持つ<ref name="fanbook01"/>。 :;ワンダーランドのセカイのKAITO ::バーチャル・シンガーとぬいぐるみたちによる劇団の座長を務める。明るく突拍子もないメンバーが揃う劇団の中でも真面目でしっかり者、しかしユーモアもある大人な男性であり、癖の強い劇団をまとめる。しかし、ミクたちの行動に振り回されることも多い。司や類にとっては演劇に関して頼れる存在となっており、アドバイスを求めることも多い<ref name="fanbook01"/>。 :;誰もいないセカイのKAITO ::人物 無機質だったり、淡々としていたり、底が知れなかったりと感情が読み取れない者が多かったニーゴのバチャシンたちの中ではひと際異彩を放っており、荒々しい口調と激情を顕にしている == Leo/need == [[ファイル:Leo⁄need logo.svg|右|フレームなし]] '''Leo/need'''(レオニード)は、渋谷にある宮益坂女子学園に通う幼馴染の女子高生4人で結成されたバンドユニット。略称は「'''レオニ'''」。ジャンルは「'''バンド'''」<ref name="miku213077"/>。セカイのモチーフは学校の教室。セカイに居るバーチャルシンガーは初音ミク、巡音ルカ、MEIKO、鏡音リン、鏡音レン、KAITO。 かつてはお互いにすれ違い、バラバラになってしまっていたが、その苦難を乗り越え結成された<ref name="miku213077"/>。 「Leo/need」のコンセプトについて本作のメインライターである桝井は「等身大の普通の女子高生たちを描く」ことを念頭に置いている。そのため物語としては、大きな出来事が起きてそれを乗り越えていくという壮大な物語は想定されておらず、幼馴染たちとの友情や関係性で悩み、ときには喧嘩し、時には相談し合いながら困難を乗り越える姿を描くことが重視されている。そのため、起きる事件も友人関係などにフォーカスされ、ファンタジーのような人生を変える大きな問題に直面するわけではないが、彼女たちにとっては同じぐらい重要で真剣な悩みを抱えており、それをどう変えていくかを描いている。なかでも最初の物語のテーマは「心のすれ違い」であり「本当は一緒にいたい」という気持ちを伝えたいけど言うことができない、女の子同士の間で起きる「言える」「言えない」などの感情表現を描いている。この感情表現が読み手側に不快感を与えてしまいキャラクターが嫌われてしまうような事態にならないようにシナリオ作成段階で微調整を繰り返しており、桝井は本ユニットが5ユニットのうちで2番目にシナリオを作成するのが難しいユニットだったと語っている<ref name="miku20083">{{Cite web|和書|url=https://news.denfaminicogamer.jp/interview/200803a|title=『プロジェクトセカイ』は音楽と人間の関わりを支える“初音ミク”という存在を具現化した作品に【開発者インタビュー】|date=2020-08-03|accessdate=2020-09-27}}</ref><ref name="miku23105">{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/games/476/G047609/20191023105/|title=「プロジェクトセカイ」は現代の日本と“セカイ”を舞台に物語が展開。ゲームシステムや収録楽曲なども明らかにされた発表会の模様をレポート|date=2019-10-23|accessdate=2020-09-23}}</ref><ref name="miku23108">{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/games/476/G047609/20200923108/|title=[TGS 2020]「プロジェクトセカイ」配信直前SP。アスノヨゾラ哨戒班からはじまる,追加楽曲20曲が全公開|date=2020-09-26|accessdate=2020-09-27}}</ref>。 なかでも主人公の一歌は、「自分がこれからどうしたいのか」を決められず、それが分からないまま何となく進んでしまってきた今時の若者として描かれており、そんな一歌がミクに背中を押されることで、自分の中の新しい一歩を踏み出すという物語の構成となっている<ref name="miku20083"/>。 ; 星乃 一歌(ほしの いちか) : [[声優|声]]:[[野口瑠璃子]]{{R|animatetimes11794}} : 誕生日:8月11日、身長:161cm、学校:宮益坂女子学園、クラス:2-A<ref name="miku213077"/> : 宮益坂女子学園に通う高校2年生。Leo/needのギター・ボーカル担当。オリジナルキャラクターの中でも本作全体の主人公としてキービジュアルや宣伝広告などに描かれることが多い<ref name="miku228088">{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/games/476/G047609/20200228088/|title=「プロジェクトセカイ」初音ミクと星乃一歌が登場するWebムービーを公開|date=2020-02-28|accessdate=2020-09-24}}</ref><ref name="miku14269">{{Cite web|和書|url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1214269.html|title=「プロジェクトセカイ カラフルステージ feat.初音ミク」の全貌が明らかに!|date=2019-10-23|accessdate=2020-09-27}}</ref>。見た目はクールだが、実際は友人想いの心優しい少女である<ref name="miku213077"/>。 : とある事情から穂波と志歩との関係に溝ができていた。そんなとき、一歌がデバイスに無名の楽曲「Untitled」を見つけたことで物語が動き出す<ref name="miku213077"/>。 : 初音ミクが大好きで、幼いころから父親に譲られたギターでミクの楽曲を演奏しながら歌っていた<ref name="miku228088"/>。名前の由来は歌が好きで出会った両親が「ひとつのうたで出会い授かった子」であったことから一歌と名付けられた<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=SXjKFi2WgNU&list=PLTfXrJphTufmZwPQ8izm0RoAr_DznTG40&index=8 【Leo/need】星乃 一歌(CV.野口 瑠璃子) 2020年3月16日]</ref>。 : 「25時、ナイトコードで。」のまふゆは学校の先輩であり、同じく学級委員を務めていることから交流がある。また、「MORE MORE JUMP!」の桐谷遥とは同じクラスの友人同士。「ワンダーランズ×ショウタイム」の寧々の歌声を聞いてから彼女に師事しており、空いた時間で歌唱を教わっている。「Vivid BAD SQUAD」のこはねのことは志歩と同じクラスの女の子という認識であったが、一歌がストリートで歌い始め、人前で声が出ず悩んでいた時に偶然、彼女の路上ライブパフォーマンスを見てどうすればよいのかを相談する。その結果、ストリートで歌うことができるようになり歌にも自身が付いたことでこはねとの交流を持つようになる<ref>一歌『想いよ、届け』 サイドストーリー 後編</ref>。 : 趣味はミクの歌を聴く事と育てているサボテンを眺めること。特技はりんごの皮むき。好きな食べ物は焼きそばパンで嫌いな食べ物はグリーンピース。苦手なことは絶叫アトラクションに乗ること<ref name="miku213077"/><ref name="miku910">{{Cite web|和書|url=https://pjsekai.sega.jp/news/article/index.html?hash=eb1cea184677880b4e433d57d6baf16aba9eb10f|title=プロジェクトメッセージ vol.2 #セカイの質問箱「他社ボカロ曲は登場する?」「男の子たちも歌いますか?」|date=2020-06-12|accessdate=2020-09-27}}</ref>。 ; 天馬 咲希(てんま さき) : 声:[[礒部花凜]]{{R|animatetimes11794}} : 誕生日:5月9日、身長:159cm、学校:宮益坂女子学園、クラス:2-B、兄:司<ref name="miku213077"/> : 宮益坂女子学園に通う高校2年生。Leo/needのキーボード担当。 : バンド内のムードメーカーで常に笑顔を絶やさない明るい性格。「ワンダーランズ×ショウタイム」の天馬司を兄にもつ。幼いころから病弱であり中学校は休学しがちであった。その後、体調が次第に良くなり、高校から復学することになる。幼馴染である一歌たちと長い間連絡を取っていなかった<ref name="miku213077"/>。母はピアノの先生であり司と共にピアノを習っていた。そのため、バンド内ではキーボードを担当することになる。幼馴染4人で見た流星群が高校生となった現在でも大切な思い出となっている<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=2EqLngtPiMI&list=PLTfXrJphTufmZwPQ8izm0RoAr_DznTG40&index=9 【Leo/need】天馬 咲希(CV.礒部 花凜) 2020年3月18日]</ref>。 : 「Vivid BAD SQUAD」の冬弥とは幼馴染であり、「とーやくん」と呼んで慕っている。「MORE MORE JUMP!」のみのりは初めて他のクラスでできた友人であり、偶然バイト先も同じだったことから友人関係を築いている。 : 趣味はファッションやメイク動画視聴、ビーズアクセサリー作りなど。特技はヘアアレンジ、お手玉。好きな食べ物はスナック菓子、嫌いな食べ物はおかゆ。一人ぼっちになることが苦手である<ref name="miku213077"/><ref name="miku910"/>。高校ではソフトテニス部に所属し、みのりと共にカフェでバイトもしている。 ; 望月 穂波(もちづき ほなみ) : 声:[[上田麗奈]]{{R|animatetimes11794}} : 誕生日:10月27日、身長:166cm、学校:宮益坂女子学園、クラス:2-A<ref name="miku213077"/> : 宮益坂女子学園に通う高校2年生。Leo/needのドラム担当。父は美容師 母はスタイリストであり、弟がいる。 : 文武両道の優等生。穏やかで誰に対しても優しさをみせる。中学時代のある出来事をきっかけに一歌たちと距離を置くようになっていた<ref name="miku213077"/>。中学の頃に吹奏楽部でパーカッションを担当していた影響でバンド内ではドラムを担当する。幼い時に幼馴染たちと流星群を見た影響から、現在も時々空を眺めることがある<ref name="miku1100">[https://www.youtube.com/watch?v=IuCucdJaIrQ&list=PLTfXrJphTufmZwPQ8izm0RoAr_DznTG40&index=10 【Leo/need】望月 穂波(CV.上田 麗奈) 2020年3月19日]</ref>。 : 「25時、ナイトコードで。」の奏の家に[[家事代行サービス]]のアルバイトで通っており、家事のできない奏の代わりに家事全般を行っているほか、時には奏からの相談にのることもある。現在、アルバイトで通っているのは奏の家のみである。奏との出会いは中学校時代であり奏の命を救ったことがある<ref name="miku1100"/>。「ワンダーランズ×ショウタイム」のえむとは同級生であり、幼馴染との疎遠期間の間でも自身を勇気づけてくれた友人。また、「MORE MORE JUMP!」の雫は志歩の姉であるとともに同じ美化委員であったことから交流が深い。 : 趣味は飼い犬の柴犬「しばお」の散歩と家庭菜園。特技は水泳と家事全般であり、高校では家庭科部に所属する。好きな食べ物はアップルパイで苦手な食べ物はチーズ。苦手なことは絵を描くこと<ref name="miku213077"/><ref name="miku910"/><ref name="miku1100"/>。 ; 日野森 志歩(ひのもり しほ) : 声:[[中島由貴 (声優)|中島由貴]]{{R|animatetimes11794}} : 誕生日:1月8日、身長:159cm、学校:宮益坂女子学園、クラス:2-B、姉:雫<ref name="miku213077"/> : 宮益坂女子学園に通う高校2年生。Leo/needのベース担当。 : 他者との馴れ合いを嫌う一匹狼のような性格をしている。また、自分の好きなことに没頭する性格で、そのことに対して周囲にどう思われようが本人は気にしていない<ref name="miku213077"/>。 : かつては幼馴染たちのことを大切に思っていたが、中学時代に起きたあることをきっかけに彼女たちと距離を置いている<ref name="miku213077"/>。 : 母は琴の講師で父はバンドのギタリストをしていた。ただ、志歩は憧れのバンドマンがベースをやっていたためベースを選んだ<ref name="miku11e7">[https://www.youtube.com/watch?v=t4WE_92Xjgw&list=PLTfXrJphTufmZwPQ8izm0RoAr_DznTG40&index=11 【Leo/need】日野森 志歩(CV.中島 由貴) 2020年3月20日]</ref>。 : 「MORE MORE JUMP!」のみのりと「Vivid BAD SQUAD」のこはねはクラスメイトであり、幼馴染と疎遠になり友人もいなかったクラスの中で唯一、純粋に「お話しがしたい」という想いだけで接してくれた友人。そのため、彼女たちからの誘いやお願いに弱い一面をみせることもある。志歩は2人のことを「咲希に似ている」と感じている。「ワンダーランズ×ショウタイム」の寧々に対して彼女の歌唱力を高く評価しており、寧々のプロに対する考え方に影響を受けた。 : 趣味は好きなガールズバンドのライブを見に行くことやベースの練習・演奏をすること。特技は書道。好きな食べ物はラーメンとハンバーグ、嫌いな食べ物は豆腐。苦手なものは姉の雫だが、これは場所を弁えずに雫がくっついてきて目立つのが嫌だからであり、姉妹関係はむしろ良好である<ref name="miku213077"/><ref name="miku910"/><ref name="miku11e7"/>。 == MORE MORE JUMP! == [[ファイル:MORE MORE JUMP! logo.png|右|フレームなし]] '''MORE MORE JUMP!'''(モアモアジャンプ!)は、宮益坂女子学園に通う女子高生4人で結成されたアイドルユニット。略称は「'''モモジャン'''」。ジャンルは「'''アイドル'''」<ref name="miku213077"/>。セカイのモチーフはライブステージ。セカイに居るバーチャルシンガーは初音ミク、鏡音リン、巡音ルカ、MEIKO、鏡音レン、KAITO。 アイドルを夢見る1人の少女とアイドルを辞めた3人の少女たちが、あるきっかけで出会い、苦難を乗り越え結成された異色アイドルユニットとなる<ref name="miku213077"/>。チームのモチーフは「三つ葉のクローバー」<ref name="miku4014"/>。4人で共に活動したいという想いを貫くために、ネット配信をメインとしたフリーのアイドルグループとして活動している。 「MORE MORE JUMP!」のコンセプトは「いろんな壁にぶつかっても頑張り続け、周囲に希望を届け続けるアイドルユニット」。この物語ではアイドル業界のもつ「エグみ」も描き、アイドルという存在に一歩踏み込んだ物語を描いている。これは、壁があるからこそプレイヤーに彼女たちの頑張りをみせられるのではないかという考えからきているが、読後感も大事にするため「エグみ」の程度は調節されている。また、アイドルという要素を描くうえでプロデューサー兼ディレクターの近藤が以前プロデューサーを務めた『バンドリ!ガールズバンドパーティ!』で描いたアイドルバンドの経験が生かされており、そこで学んだ「どこまでアイドルのリアルな要素に踏み込んでいいのか」という経験が本作のシナリオにも生かされている<ref name="miku20083"/>。 主人公のみのりは、自分がアイドルを目指すきっかけになった遥を「彼女みたいなアイドルになりたい」という想いだけで助けにいく。そのように、お互いに想いを与え合い、もらい合いながら壁にぶつかっていくアイドルたちを描いており、特にみのりと遥の関係性は「オーディションに落ち続けた普通の少女が、アイドル業界のトップを張り続けたアイドルの心に踏み込む」ための説得力をプレイヤーに伝えることを重点においてシナリオが手掛けられた<ref name="miku20083"/>。 ; 花里 みのり(はなさと みのり) : 声:[[小倉唯]]{{R|animatetimes11794}}<ref group="注釈">『[[初音ミク -Project DIVA-]]』初音ミク専属モーションアクターも担当</ref> : 誕生日:4月14日、身長:158cm、学校:宮益坂女子学園、クラス:2-D<ref name="miku213077"/> : 不運によく見舞われるも純粋な性格とひたむきな心で頑張り続ける高校2年生<ref name="miku213077"/>。学校では同級生である「Vivid BAD SQUAD」のこはねと共に飼育委員を務める。小学生の弟がいる。 : テレビで偶然見かけた人気アイドルグループ『ASRUN(アスラン)』の桐谷遥のある言葉をきっかけに、彼女のようなアイドルを目指すようになる。しかし、これまでに様々なオーディションを受けるも、全て落ち続けている<ref name="miku213077"/>。 : 同じクラスのこはねはなんでも打ち明けられる親友同士。また、バイト仲間である「Leo/need」の咲希とも友人同士であるほか、志歩ともクラスメイトであり、こはねと一緒に彼女をライブに誘うこともある。 : 趣味はアイドルの振りコピや日記、動物の世話。特技はキャッチフレーズをつけること。好きな食べ物はサーモンで嫌いな食べ物はブロッコリー。落ち着いた行動をとることが苦手である<ref name="miku213077"/><ref name="miku910"/>。 : 作中で一番最初にオリジナルメインキャラクター全員と交流や面識を持ったキャラクターである。 ; 桐谷 遥(きりたに はるか) : 声:[[吉岡茉祐]]{{R|animatetimes11794}} : 誕生日:10月5日、身長:163cm、学校:宮益坂女子学園、クラス:2-D<ref name="miku213077"/> : 国民的人気アイドルグループ『ASRUN』に所属していたアイドル業界のカリスマ的存在であり、所属時はグループ内でも絶大な人気を誇っていた。みのりの憧れであり目標であったが、ある日、グループが突然解散し、それを機に芸能界を引退。宮益坂女子学園に復学する<ref name="miku213077"/>。 : みのりからは憧れのアイドルとして尊敬されており、その気持ちを嬉しく感じているが、出会った当初は複雑な想いで接していた<ref name="miku213077"/>。元々は上手く笑えない内気な少女であったが、そんな彼女を笑顔にしてくれたアイドルにあこがれて芸能界に入る<ref name="miku4014">[https://www.youtube.com/watch?v=MXLwDOUIAAI&list=PLTfXrJphTufmZwPQ8izm0RoAr_DznTG40&index=14 【MORE MORE JUMP!】桐谷 遥(CV.吉岡 茉祐) 2020年3月24日]</ref>。「Vivid BAD SQUAD」の白石杏とは現在は学校は違うも、小学校・中学校時代からの親友であり足の速さや給食を食べ終わる早さなどをよく競い合っていたライバル同士でもある。そのため、現在でも親友同士であり、悩み音を相談することもある<ref name="#1">[https://twitter.com/pj_sekai/status/1288036515000377344 プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク 2020年7月28日]</ref>。「Leo/need」の一歌と咲希は同じクラスの同級生で友達同士。また、解散はしたものの『ASRUN』の元メンバーたちとは今でも良好な関係は築けている<ref>「ここからRE:START!」遥サイドストーリー前編より</ref>。 : 趣味はペンギングッズを集めること。特技はバスケットボール。好きな食べ物は甘いもの全般で嫌いな食べ物はワサビ。几帳面な性格もあり怠けることが苦手である<ref name="miku213077"/><ref name="miku910"/>。母親はネイリストをしている。 ; 桃井 愛莉(ももい あいり) : 声:[[降幡愛]]{{R|animatetimes11794}} : 誕生日:3月19日、身長:156cm、学校:宮益坂女子学園、クラス:3-E<ref name="miku213077"/> : 自信家で他人に対して強引な面もあるが、誰よりもアイドルという仕事に愛と情熱、そして強い誇りを持つ高校3年生<ref name="miku213077"/>。父は主夫。家族に姉と妹がおり、3姉妹の次女である。特に姉に対しては怖くて頭が上がらない。部活は茶道部。 : かつてはバラエティ番組を中心に人気を博していたが、ある事情から事務所を辞め、アイドルを引退。普通の高校生として過ごしていたが、あることをきっかけに、なりゆきでみのりがアイドルになるためのコーチングをすることになる。みのりからはスパルタだが頼れる先輩として慕われている<ref name="miku213077"/>。 : 雫とは研究生時代の同期であり、彼女のファンであり同時に才能を羨ましいと感じている<ref name="miku213077"/>。「Leo/need」の咲希は闘病時代に彼女の姿に救われたファンの一人である。「25時、ナイトコードで。」の東雲絵名とは中学校時代からの親友<ref name="#2">[https://twitter.com/pj_sekai/status/1297823086566285317 プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク 2020年8月24日]</ref>。中学時代は公立中学に通っており、そのときに絵名とクラスメイトになる。絵名とは周囲からアイドルであることをからかわれているときに救われて以来の仲であり、お互いに言いたいことをはっきり言うため喧嘩も絶えなかったが、現在に至るまで親友と呼べる間柄が続いている。絵名の弟である彰人とは絵名の家に遊びに行っていた際に何度か会っており、年下である彼のことを「彰人くん」と呼んでいた。中学時代、絵名が父との不和により荒れていた時代、彼女は「愛莉には夢を追ってほしいから」と愛莉に助けを求めることはしなかった。しかし、絵名のおかげで夢に近づいたのに側にいてあげられないことに思い悩んだ愛莉はビビッドストリートを訪れ、彰人に「絵名のことを見守ってあげてほしい」と自身の想いを託している。愛莉は絵名を勇気づけるためにアイドルとして全力で走り続けた時代について後悔はしていないが、自身が彰人に願いを託したことに関しては「身勝手なことをした」と感じていた。しかし、現在の絵名の様子をみて、彰人が律儀に願いを守ってくれていることを感じ取っている。なお、このことは彰人と愛莉しか知らない出来事であり、絵名はこのことを知らない<ref>桃井愛莉 サイドストーリー 「変わらぬ不屈の心」</ref>。 : 趣味はアイドル研究とショッピング。特技は料理や子供のお世話。好きな食べ物は和菓子で嫌いな食べ物はレバー。ネコアレルギーがあるため苦手としているが嫌いというわけではなく、むしろ触れ合いたいと感じている<ref name="miku213077"/><ref name="miku910"/>。 ; 日野森 雫(ひのもり しずく) : 声:[[本泉莉奈]]{{R|animatetimes11794}} : 誕生日:12月6日、身長:168cm、学校:宮益坂女子学園、クラス:3-E、妹:志歩<ref name="miku213077"/> : どこかつかめないミステリアスな雰囲気を漂わせる高校3年生。妹・志歩を可愛がっており、Leo/needのメンバーとも交流がある<ref name="miku213077"/><ref>[https://twitter.com/pj_sekai/status/1297096173153443840 プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク 2020年8月22日]</ref>。学校では美化委員会に所属<ref>[https://twitter.com/pj_sekai/status/1292385126714716162 プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク 2020年8月9日]</ref>。 : 人気アイドルグループ『Cheerful*Days(チアフルデイズ)』に所属している現役アイドルでもあり、その独特の雰囲気や魅力を感じさせる容姿でファンを虜にしている。しかし、グループ内ではその存在を妬まれている<ref name="miku213077"/>。そんな中、雫自身もアイドルを続ける意味が分からなくなってしまう<ref name="miku4016">[https://www.youtube.com/watch?v=PdKVjnJ8bH0&list=PLTfXrJphTufmZwPQ8izm0RoAr_DznTG40&index=16 【MORE MORE JUMP!】日野森 雫(CV.本泉 莉奈) 2020年3月26日]</ref>。ある出来事をきっかけに事務所を退所し、後に「MORE MORE JUMP!」に加わる。 : アイドルになった理由は友達がオーディションに応募していたため。愛莉とは研究生時代の同期であり、彼女のファンであると同時にその存在が心の支えとなっている。「周囲が求める日野森雫を演じる」自身のアイドル像に悩みを抱えているが、みのりの夢は応援している<ref name="miku213077"/><ref name="miku4016"/>。弓道部に所属しており、「25時、ナイトコードで。」のまふゆは同じ部活の同級生同士である。 : 趣味は読書と散歩。特技は弓道や刺繍。好きな食べ物はうどんと湯葉で嫌いな食べ物は辛いもの全般。苦手なことは地図を読むことや機械の操作であり、スマホの操作にも苦戦している<ref name="miku213077"/><ref name="miku910"/>。 == Vivid BAD SQUAD == [[ファイル:Vivid BAD SQUAD logo.png|右|フレームなし]] '''Vivid BAD SQUAD'''(ビビットバッドスクワッド)は、女子高生ストリートユニット「'''Vivids(ビビッズ)'''」と、男子高生音楽ユニット「'''BAD DOGS(バッド・ドッグズ)'''」が伝説を超えるために共同で結成したストリートユニット。 略称は「'''ビビバス'''」。ジャンルは「'''ストリート'''」。セカイのモチーフはストリートでMEIKOの経営するカフェも存在する。セカイに居るバーチャルシンガーは初音ミク、MEIKO、鏡音リン、鏡音レン、KAITO、巡音ルカ。 Vivid BAD SQUADはミュージシャンであり杏の父でもあるKENが開催した伝説のイベント「'''RAD WEEKEND(ラッドウィーケンド)'''」を超えるイベントを開催するために集った実力派ストリートユニット<ref name="miku213077"/>。チーム結成後も「Vivids」「BAD DOGS」としてユニット活動はそれぞれ続けており、こはねに関しては修行も兼ねて一人で対戦形式のイベントに複数参加するなど、チームの形式にとらわれないさまざまな活動をしている。また、チームとしても大きなイベントのゲストに呼ばれるなど、高い技術力を有している。 「Vivids」のチーム名の由来は、彼女たちが活動する渋谷の「ビビッドストリート」から。本編より2年前から活動している「BAD DOGS」のチーム名の由来は、人から見ればバカみたいな夢を追いかける彰人と冬弥の2人の様子を「頭が悪い」「躾のなっていない犬」になぞらえて彰人が名付けた。「犬にかまれることの恐ろしさを思い知らせる」という意味もあるが、本命の意味は「最高の相棒」というスラングから。冬弥は彰人がチーム名に「犬」と名付けた理由を、「むかし、彰人が犬に噛まれてトラウマになっている」ことも関係あるのではないかと思っている<ref>青柳冬弥 サイドストーリー 「相棒として」</ref>。 「Vivid BAD SQUAD」では「志」「信念」を大事にしており、音楽を介して共通点を見つけ、ひとつになっていく物語を描く。このコンセプトはストリートの楽曲から受ける「信念を貫くカッコよさ」からきており、自身の夢を侮られることに対して少年少女たちが反発し、お互いにぶつかり合いながらも成長していく姿を描いている。また、ストリートシーンの音楽をどう扱うかにも重点を置いており、ストリート系の音楽に詳しいクリプトンのプロデューサーである佐々木の意見も多く取り入れられている<ref name="miku20083"/>。 この物語では主人公的ポジションにいるこはねが杏と出会うことで自分の知らなかった新たな世界に足を踏み込み、自分の手で新たな居場所を作っていく物語となる。その中で彰人や冬弥と敵対しつつも、こはね自身が成長することで登場人物たちの関係性が大きく変わっていく様子が描かれる。また、彼ら彼女らがどうして音楽に熱い想いを抱くのかを描くために、他のユニットではメインとなる人物の視点がある程度固定されているのに対し、本ユニットは4人全員の視点が入れ替わりながら物語が進み、全員が主人公となり得る構成となっている<ref name="miku20083"/>。 ; 小豆沢 こはね(あずさわ こはね) : 声:[[秋奈]]{{R|animatetimes11794}} : 誕生日:3月2日、身長:156cm、学校:宮益坂女子学園、クラス:2-A<ref name="miku213077"/> : 自分に自信をもてない内気な高校2年生。当初はおさげに眼鏡をしており、常に俯いていることが多かった<ref name="miku213077"/>。学校では同級生である「MORE MORE JUMP!」のみのりと共に飼育委員をしている<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=faXqIooFi3o&list=PLTfXrJphTufmZwPQ8izm0RoAr_DznTG40&index=23 【Vivid BAD SQUAD】小豆沢 こはね(CV.秋奈) 2020年4月9日]</ref> : ある日、偶然通りかかったライブカフェ&バーで杏の歌声を聞き、その聴いたことも見たこともないラップや激しいテンポの音楽に衝撃を受けて虜になる。その後、杏の希望で歌声を披露したところ、彼女に「相棒になってほしい」と告白され、杏とともに女子高生ストリートユニット「Vivids」を結成した<ref name="miku213077"/>。 : 杏のことはきっかけをくれた大切な友人であり、かけがえのない相棒として慕っている<ref name="miku213077"/>。みのりとはなんでも打ち明けられる親友であり、同じクラスである「Leo/need」の志歩と3人で出かけることもある。週に一回は「フェニックスワンダーランド」に通っていたほどの常連客であり、「ワンダーランズ×ショウタイム」のメンバーには「良い悪いを明確に評価してくれる常連客」「ファン第1号」として注目されているほか、彼女もキャスト陣のことは把握している。芸術にも明るく、同じユニットメンバーの彰人や冬弥の父についても名前を知っていた。 : ある出来事をきっかけに杏の父の元相棒であり世界的アーティストの古瀧大河に興味を持たれ、彼の弟子として歌を教わることになる。 : 趣味は父親が飼っているヘビのお世話。特技は写真撮影。好きな食べ物は桃まんとごま団子で嫌いな食べ物は酢の物。人前に立つことが苦手であるが、徐々に克服しており、「ストリートのセカイ」のミクからは「将来、彼女がユニットを引っ張っていく存在になるかもしれない」と注目されている<ref name="miku213077"/><ref name="miku910"/>。 ; 白石 杏(しらいし あん) : 声:[[鷲見友美ジェナ]]{{R|animatetimes11794}} : 誕生日:7月26日、身長:160cm、学校:神山高校、クラス:2-A<ref name="miku213077"/> : サバサバとした勝気な性格をした高校2年生。父はシブヤのストリートでは有名な元ミュージシャン・KEN。父は「WEEKEND GARAGE(ウィーケンド・ガレージ)」というライブカフェ&バーを経営しており、杏も良く手伝っている<ref name="miku213077"/>。学校では風紀委員を務め、委員会活動中は自身も制服を正している<ref>[https://twitter.com/pj_sekai/status/1292747516451135490 プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク 2020年8月10日]</ref>。 : 父がかつて開催したライブイベント『RAD WEEKEND』を超えるような最高のイベントを自分の手でつくることを夢見ており、他のミュージシャンの誘いを受けるも断り続け、最高の相棒となる存在を探し続けてきた。そんなとき、偶然にも杏の歌声を聞いたこはねと出会い、その後、彼女の歌声に「この子と一緒に歌いたい」と感じたことから彼女を誘い、ユニット『Vivids』を結成する<ref name="miku213077"/>。 : こはねのことを最高の相棒と感じており、大好きな存在として大切にしている。彰人とは常に喧嘩をするような犬猿の仲だが、同じ夢を持つ者同士、ライバルとしてその実力を認めている<ref name="miku213077"/>。「MORE MORE JUMP!」の桐谷遥とは学校は違うものの小学校・中学校時代からの親友であり、足の速さや給食を食べ終わる速さなどをよく競い合っていたライバル同士でもある<ref name="#1"/>。「25時、ナイトコードで。」の瑞希は同じクラスの友人同士であり、瑞希にとってもかけがえのない友人の一人となっている。「ワンダーランズ×ショウタイム」の司と類は、彼女にとって風紀委員の取り締まり対象の常連であり、頭痛の種になっている。 : 趣味はミント栽培。特技はコーヒーや紅茶を淹れること。好きな食べ物はラムレーズンのアイスで嫌いな食べ物はトマト。幽霊や怪談話等を苦手としている<ref name="miku213077"/><ref name="miku910"/>。 ; 東雲 彰人(しののめ あきと) : 声:[[今井文也]]{{R|animatetimes11794}}、[[青山玲菜]](幼少期){{R|CV1}} : 誕生日:11月12日、身長:174cm、学校:神山高校、クラス:2-A、姉:絵名<ref name="miku213077"/> : 音楽と自身の抱く夢に真剣な高校1年生。初対面には人当たりのよさそうな雰囲気を出しているが、親しい相手には辛口な言動を隠さず、杏とはよく喧嘩をしている。杏の父に憧れて中学時代から音楽活動をしており、相棒の冬弥とボーカルユニット「BAD DOGS(バッドドッグズ)」としてイベントハウスなどで歌っている。その実力はメインストーリーの時点で既に界隈で話題となっていた<ref name="miku213077"/>。 : 冬弥のことは信頼する最高の相棒と感じており、彼のために共に悩みぶつかり合うこともある。杏とは喧嘩をするも、その実力は認めている。一方で、こはねのことは当初、覚悟の無い素人として冷ややかな態度をとっていたが、その実力を認めてからは、彼女をからかいつつも背中を預けられる仲間として認めている<ref name="miku213077"/>。姉の絵名には買い物やイラストの参考写真集めに付き合わされることがあり、振り回されている。しかし、彼女のことを気にかけており、ひっそりと陰から支える場面もある<ref>[https://twitter.com/pj_sekai/status/1294921841979596805 プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク 2020年8月16日]</ref>。これは、彰人自身の性格にも由来しているが、きっかけとして、中学時代に絵名の親友である「MORE MORE JUMP!」の桃井愛莉に「絵名のことを見守ってあげてほしい」と願いを託されたことも関係している。そのこともあり、愛莉のことを「絵名と親友でいてくれる”あの人”」と呼んで慕っており、愛莉に関係することは「あの人に迷惑をかけるわけにはいかない」と姉の頼みでも面倒くさがらずに協力している<ref>東雲絵名 サイドストーリー 「差しのべられた手」</ref>。 : 趣味はファッションコーディネート。特技はヒューマンビートボックス。好きな食べ物はパンケーキとチーズケーキで嫌いな食べ物はニンジン。犬が苦手である<ref name="miku213077"/><ref name="miku910"/>。 ; 青柳 冬弥(あおやぎ とうや) : 声:[[伊東健人]]{{R|animatetimes11794}}<ref group="注釈">過去にはボカロP「21世紀P」としても活動していた。</ref>、[[平山笑美]](幼少期){{R|CV1}} : 誕生日:5月25日、身長:178cm、学校:神山高校、クラス:2-B<ref name="miku213077"/> : クールで無口な落ち着いた性格をしている。クラシック音楽に携わる父の影響で幼少期から英才教育を受けていた。そのため音楽センスは抜群だが、厳格な父に嫌気が差し路上での音楽活動を始める。そんな時、彰人と出会い、彼の夢を聞いて一緒にユニットを組むことになった<ref name="miku213077"/>。学校では図書委員を務めている。 : 彰人のことは居場所をくれた恩人と感じている。こはねのことは気弱そうな少女と感じているが、そこに秘めた才能を感じ取っている<ref name="miku213077"/>。兄2人は音楽家だが、父と冬弥の問題に関しては父親の考えに賛同している。天馬兄妹とは親を通して古い馴染み同士であり、当時の幼き自分を救ってくれた司を尊敬しており、咲希のことも昔から心配して現在でも気に掛けることがある。後に、司や咲希を通して彼女の幼馴染である「Leo/need」のメンバー全員と交流を持つようになる。また、「25時、ナイトコードで。」の瑞希とも文化祭をきっかけに交友を持つようになる。 : 趣味は読書。父の教育もあり、ピアノやバイオリンを得意としている。好きな食べ物はコーヒーとクッキーで嫌いな食べ物はイカ。高所恐怖症であり高い所が苦手である<ref name="miku213077"/><ref name="miku910"/>。 == ワンダーランズ×ショウタイム == '''ワンダーランズ×ショウタイム'''<ref group="注釈">ユニット名の中の「×」は発音しない。</ref>は、人気テーマパーク「'''フェニックスワンダーランド'''」にある舞台ステージの劇団員として活動する高校生ミュージカルユニット。略称は「'''ワンダショ'''」。ジャンルは「'''ミュージカル'''」<ref name="miku213077"/>。セカイのモチーフはテーマパーク。セカイに居るバーチャルシンガーは初音ミク、KAITO、鏡音レン、鏡音リン、MEIKO、巡音ルカ。 寂れてしまい、観客も来ないステージの復活を夢見て活動をしている。合言葉は「わんだほーい!」<ref name="miku213077"/>。「ワンダーランズ×ショウタイム」のセカイは司の想いから生まれており、他のメンバーはそこに招かれている形となっている。司を通して「Leo/need」のメンバー全員と交流を持っている。 「ワンダーランズ×ショウタイム」は、にぎやかなお祭りユニットとして描かれており、企画初期のアイデアが最後まで残った唯一のユニットとなる。企画当初、ボーカロイドとは曲を作るだけではなく絵やマンガを描いたり、各々が自身のできることを持ち寄り、[[ニコニコ動画]]という場所でみんな一緒に楽しめる点が魅力的だったという話題がシナリオチーム内で上がり、そのように個性が集まり、皆で一緒に新しい面白さを作り上げていくところを描こうと本ユニットが構想された。個性的なユニットということもあり、本ユニットに登場する初音ミクもアッパーでカオスな雰囲気となっている<ref name="miku20083"/>。 主人公の司は、最初は自己の主張が激しいキャラクターとして描かれるが、個性的な仲間と出会うことで少しずつ変化していく様子が描かれる。また、司にとって妹・咲希の存在が彼の根幹につながる大事な要素として描かれている。咲希の存在は、司という人物像をユーザーが誤解して受け取らないために必要な要素でもあり、メインストーリー序盤のオープニングにて描かれる司と咲希の過去回想はシナリオ完成後に改めて書き足された内容でもある<ref name="miku20083"/>。 ; 天馬 司(てんま つかさ) : 声:[[廣瀬大介]]{{R|animatetimes11794}}、[[高橋由衣 (声優)|高橋由衣]](幼少期)<ref name="CV1" /> : 誕生日:5月17日、身長:173cm、学校:神山高校、クラス:3-C、妹:咲希<ref name="miku213077"/> : 自信過剰で目立ちたがり屋な高校3年生。病弱な妹・咲希のことを大切にしており、彼女の幼馴染であるLeo/needのメンバーとも交流がある。時には司の行動を心配して咲希やLeo/needのメンバーで司のポーズやセリフを一緒に考えることもあり、司も一歌や穂波に助けられることがある<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=krkqjGfAaAY&list=PLTfXrJphTufmZwPQ8izm0RoAr_DznTG40&index=18 【ワンダーランズ×ショウタイム】天馬 司(CV.廣瀬 大介) 2020年3月29日]</ref><ref name="miku213077"/><ref>[https://twitter.com/pj_sekai/status/1297458561128247296 プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク 2020年8月23日]</ref>。 : 調子に乗りやすく、また乗せられやすい性格をしており、その真っすぐな性格は周囲から呆れられることがある。一方でメンバーの中でも比較的常識人であり、えむや類のことを「無茶苦茶な奴」「ヤバい奴」と認識している<ref name="miku213077"/>。普段みせる姿とは裏腹に現実主義な視点を持っており、当初はセカイについても何かの夢だと感じていた。子供の頃に見た劇団のショーに憧れ、世界一のスターを目指してフェニックスワンダーランドの面接を受ける<ref name="miku213077"/>。 : 周囲から浮きそうな性格に見えるがクラス内での友人関係は良好。「Vivid BAD SQUAD」の冬弥とは昔馴染みであり、今でも彼と父親の関係に対して気にしている場面がある。冬弥の相棒である彰人からは時にからかわれることもある。「25時、ナイトコードで。」の瑞希とは文化祭で交流が生まれ、瑞希からは面白い先輩として認識されている。 : 趣味はミュージカル観劇と衣装づくり。特技はピアノ。また、即カッコいいポーズができることだが、周囲からは微妙な反応をされることもある。好きな食べ物はアクアパッツァと生姜焼きで嫌いな食べ物はピーマン。虫が苦手であり、特に多足の虫が苦手<ref name="miku213077"/><ref name="miku910"/>。 ; 鳳 えむ(おおとり えむ) : 声:[[木野日菜]]{{R|animatetimes11794}} : 誕生日:9月9日、身長:152cm、学校:宮益坂女子学園、クラス:2-B<ref name="miku213077"/> : 底抜けに明るい天真爛漫な性格をした高校2年生。なにか思い立つとすぐにアクションを起こすため、周囲を巻き込むことも<ref name="miku213077"/>。2人の兄と1人の姉がいる。 : フェニックスワンダーランドの劇団員であり、ステージの復活を目的に活動している<ref name="miku213077"/>。えむという名前は彼女がいつも笑顔でいられるように、聞いた人が面白いと笑ってくれるようにという意味が込められており、本人も気に入っている<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=UZ5danfxYLQ&list=PLTfXrJphTufmZwPQ8izm0RoAr_DznTG40&index=19 【ワンダーランズ×ショウタイム】鳳 えむ(CV.木野 日菜) 2020年3月30日]</ref>。 : その性格から、現実離れした思考の持ち主だと思われているが、現実的な視点で物事を見極めており、ショーキャストが舞台に打ち込めるように経営者側の事情は伏せて接していたり、クリスマスでもサンタの存在を信じているように周囲にはふるまいつつも、実は周囲のために信じているふりを演じているなど、周りの人が笑顔になれるように考え動いている。高校の先輩などに自身の意見を明確に主張することもあるが、思いついた案を明確に実現するための道筋を考えることに苦戦することも多い。先輩に対しては敬語で接している。学校での成績は良く、テストの際にはクラスで3番目の成績をとることもあった。 : 「Leo/need」の穂波とは同じクラスの友人同士であり、悩む彼女のために行動を起こすこともある。穂波の幼馴染の咲希や「MORE MORE JUMP!」の遥とは体育祭を通じて友人となり、彼女たちもえむの行動力に影響を受けた。「25時、ナイトコードで。」のまふゆは体育祭以降交流が深くなった先輩であり、彼女の心の内側を感じ取り恐れているものの、一方では彼女の本当の笑顔を見たいと感じている。 : 趣味はご近所探検。特技はアクロバット。また、どんな料理も美味しく食べられる特技がある。好きな食べ物は鯛焼き。苦手なものは夕暮れ<ref name="miku213077"/><ref name="miku910"/>。「わんだほーい」が口癖。実家はフェニックスワンダーランドの親会社「フェニックスグループ」を経営しており、経営一族の娘でもある。フェニックスワンダーランドの創設者である祖父が大好きで、彼が考案した「ワンダーステージ」が大のお気に入りだったが、1年前に祖父が他界し経営権が父親に移ったことで状況は一変した。父親は維持費が高く採算の取れない「ワンダーステージ」を取り壊しリニューアルすることを決断するが、えむが猛反発。父親が今年の連休までに採算が取れるくらい客を集めることを条件に取り壊しは延期された。実はもともとは採用試験不合格だった司を採用した張本人。 ; 草薙 寧々(くさなぎ ねね) : 声:[[Machico]]{{R|animatetimes11794}} : 誕生日:7月20日、身長:156cm、学校:神山高校、クラス:2-B<ref name="miku213077"/> : 誰に対しても毒舌であまり人前に出ることのない高校2年生。類は年上の幼馴染<ref name="miku213077"/>。 : 類の推薦により劇団に加わる。ミュージカルの舞台を夢見ており、児童劇団にいた経験から歌声は高校生とは思えないレベルである。しかし、司やえむの前に姿を現すことはなく、「ネネロボ」という類の作ったロボを操作し、自身の代わりとしてステージに立たせていた。後に自身のトラウマと向き合ってからは自身もステージに立つようになり、その歌声は他の劇団キャストも認めるほどであった<ref name="miku213077"/>。 : メンバーの中で一番の常識人であり、司やえむに振り回されることもある。類のことはおせっかいな幼馴染と感じている<ref name="miku213077"/>。ネネロボは当初、寧々自身が操作していたが現在では自立型AIを搭載しており、時に寧々の本当の想いをサポートするために行動を起こすこともある。「Leo/need」の一歌に歌を指導しているほか、志歩のプロの道に関する考えに影響を与えた。 : 趣味は対戦ゲームとミュージカル・映画鑑賞。特技は歌や機械の操作全般。好きな食べ物はグレープフルーツで嫌いな食べ物はミント味の食べ物。人通りの多い場所が苦手である<ref name="miku213077"/><ref name="miku910"/>。 ; 神代 類(かみしろ るい) : 声:[[土岐隼一]]{{R|animatetimes11794}}、[[森なな子]](幼少期)<ref name="CV1" /> : 誕生日:6月24日、身長:182cm、学校:神山高校、クラス:3-C<ref name="miku213077"/> : マイペースな性格だが、天才的な頭脳を持ち、独特の発想をすることから周囲から変人扱いされることが多い<ref name="miku213077"/>高校3年生。 : 劇団ではステージ演出を手掛け、その一方でショー用のロボットも製作している。以前は渋谷の別の高校に通っていたが、最近神山高校に転校した。 : 寧々とは家も隣同士であり幼馴染み。彼女のあるトラウマの克服を願い劇団に彼女を推薦した。司のことは演出しがいのある面白い役者として興味を抱いている<ref name="miku213077"/>。「25時、ナイトコードで。」の瑞希とは中学時代同じ学校で変わり者だった同士であり、今でも互いのことを気にかけている。類と寧々のショーの衣装は瑞希が手掛けている。 : 趣味はショーの演出を考えることやバルーンアート。常に「観客を笑顔にするショー」と「自分が満足できるショー」ができることをポリシーに考えているが、ショーの奇抜さと危険性が独り歩きして(類が安全性もショーの要素に入れていても)、類に賛同する者がおらず単独でショーを行っていた過去がある。ワンダーランズ×ショウタイム加入前からも許可を取らずにひとりゲリラショーを開催しては警備員を怒らせては逃げるを繰り返していた。現在もゲリラショーは続けており司とえむも飛び入り参加したことがある。 : 特技はロボットなどの発明。好きな食べ物はラムネ菓子で嫌いな食べ物は野菜全般。一方で掃除や単純作業を苦手としている<ref name="miku213077"/><ref name="miku910"/>。 == 25時、ナイトコードで。 == [[ファイル:Nightcord at 25-00 logo.svg|右|フレームなし]] '''25時、ナイトコードで。'''(にじゅうごじ、ナイトコードで。)は、チャットツール「'''ナイトコード'''」で25時の訪れと共に活動する正体不明の音楽サークル。略称は「'''ニーゴ'''」。ジャンルは「'''アンダーグラウンド'''」<ref name="miku213077"/>。セカイのモチーフは何もない無機質な場所。セカイに居るバーチャルシンガーは初音ミク、鏡音リン、MEIKO、巡音ルカ、KAITO。 メンバー同士はチャットツール「ナイトコード」で交流しており、当初はお互いの顔も本名も一切知らなかった<ref name="miku213077"/>。「誰もいないセカイ」はまふゆの想いから誕生しており、他のメンバーはまふゆを救いたいと願ったミクが周囲に助けを求める形で招かれた。現在では、他のメンバーの影響を受けセカイが変化する場面も見られる。MEIKOは、まふゆが奏たち3人の想いに触れ、少しずつ変化することでセカイにも変化が起きていると推測している<ref>MEIKO『必要な距離』 サイドストーリー 前篇</ref>。 「25時、ナイトコードで。」はメンバーの4人全員が簡単には解決できない課題を抱えており、彼女たちの中で、ある一定の納得を得られることで次のステップに進めるような展開になっている。そのため、読後感のある物語ではなく、「彼女たちがそう決めたのなら周囲は応援するしかない」という物語展開となる。また、あるキャラクターに関しては死生観にも若干踏み込んでいる。また、全ユニットの中では唯一、クリエイターサイドの物語としても描かれている<ref name="miku20083"/>。 死生観などの「アンダーグラウンド」特有のテーマを描くうえでは、浅すぎるテーマだとこの内容自体を扱ってはいけないことから、全年齢コンテンツで描けるギリギリのラインを見極めている。また、「絶望的な状況で、絶望的な音楽があるからこそ、自分はここにいられる」という「アンダーグラウンド」の楽曲に含まれる要素は大事にしており、その曲に救われた人がいる事実を重く受け止めて、万人受けはしないシナリオでも、そういう人たちに共感してもらいたいという想いを込めて物語が描かれている。これらの要素から、本ユニットのストーリーはシナリオ執筆が一番難しかったユニットであるとメインライターの桝井は語っている<ref name="miku20083"/>。 ; 宵崎 奏(よいさき かなで) : 声:[[楠木ともり]]{{R|animatetimes11794}} : 誕生日:2月10日、身長:154cm、学校:通信制高校2年生(17歳)<ref name="miku213077"/><ref>望月穂波 星2 サイドストーリー後編</ref> : 自宅に常に引きこもっているジャージ姿の少女。音楽サークル『25時、ナイトコードで。』作曲担当<ref name="miku213077"/>。ハンドルネームは「K(ケイ)」。父親は作曲家、母親は病気で他界。ある事情で現在は一人暮らしをしている。父親が母親が生きていたころに送ったオルゴールが大のお気に入り。 : 2年前父親がCMのコンペに応募する曲を作っていた際、煮詰まってしまい奏にアドバイスをもらっていたが、奏が曲にアレンジを加えたものを気に入りコンペに通した結果、彼の曲は採用されたが使われたのは奏がアレンジしたフレーズだった。以降、父親には仕事の依頼が増えたが、受託先からあのフレーズのような依頼が下りるようになった。そのため曲作りに苦悩するようになり、受託先から彼の曲を古臭いと嗤われたこと、そして奏が父に宛てた曲が追い打ちをかけ、ついに倒れてしまった。奏の早急な対応で助かったが、記憶障害に陥り現在も入院している。以降、奏は呪いのように「誰かを幸せにする曲をつくり続けなければならない」と思い、それだけのために生きていた。『25時、ナイトコードで。』を結成したのもこのトラウマがきっかけである<ref name="miku213077"/>。 : 当初、いつもメンバーを気遣うまふゆのことは、自身と性格も全く異なるはずなのにどこかシンパシーを感じていた。後に、彼女を救うことが目的の一つとなり、お互いを生かすための「呪い」にもなった<ref name="miku213077"/>。「Leo/need」の望月穂波が奏の自宅に家事代行サービスのアルバイトで通っており、仕事で家事ができない奏の代わりに家事全般を行っているほか、穂波に自身の悩みを相談することも多い。まだ高校生になって間もない頃、家の中で疲労で倒れた所を中学生の穂波に救われたことが初めての出会いである<ref name="miku1100"/>。 : 趣味は音楽鑑賞や映画・漫画・アニメ・美術作品を見ること。特技は感覚で時間を計れること。好きな食べ物はカップ麺と缶詰で嫌いな食べ物はパクチーや納豆などにおいが独特な食べ物。直射日光や家事全般を苦手としている<ref name="miku213077"/><ref name="miku910"/>。 ; 朝比奈 まふゆ(あさひな まふゆ) : 声:[[田辺留依]]{{R|animatetimes11794}} : 誕生日:1月27日、身長:162cm、学校:宮益坂女子学園、クラス:3-B<ref name="miku213077"/> : 表向きは明るくてユーモアもあり、頼れる優等生な高校3年生。音楽サークル『25時、ナイトコードで。』作詞担当。サークルメンバーの中で唯一学校に普通に通っている<ref name="miku213077"/>。ハンドルネームは「雪(ゆき)」。 : 常に友人やメンバーを気遣っており誰が見ても完璧な優等生に見える振る舞いをしている<ref name="miku213077"/>。学校では学級委員を務め、同じく学級委員である「Leo/need」の一歌とも面識がある。部活は弓道部に所属しており、「MORE MORE JUMP!」の雫は同じ部活に所属する同学年同士である。小学生の時から優等生で両親から期待をかけられ育っていった。だがそれが重みとなり、小学生時代はクラスメイトに遠慮され遊びに行けず、中学生時代は親に将来は看護師になりたいことを打ち明けるも、夢を否定され代わりにこの学力なら医者を目指すよう諭される。しかしそれらをやんわりと受け入れ、徐々に自分の感情を押し込めるようになっていき、ある日、自分がなにが好きで何がしたいかよく分からなくなり自分自身を喪失した。同時に味覚も失っている。高校生になった現在も優等生を演じているが、心は空っぽのまま過ごしている。 : 体育祭を通して交流を持つようになった後輩で「ワンダーランズ×ショウタイム」の鳳えむは、まふゆの心の内側を感じ取っている。えむはまふゆに対して怯えた態度をとることがあり、まふゆもえむが自身の内側に気が付いているのではないかと感じている。それでも、えむが自身に積極的に接してくる様子を「おかしな子」と感じており、彼女のことを普段学校の話をしないニーゴのメンバーにも話すなど関心を抱いている。 : 趣味はアクアリウムだが水槽には魚は一匹もいない。なのにアクアリウムが好きな理由は「見ていると自分まで透明になっていくみたいだから」<ref>[https://twitter.com/pj_sekai/status/1296643242205704192 プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク 2020年8月21日]</ref>。特技は英会話。好きな食べ物は母親の手料理で嫌いな食べ物は特になし。苦手なものはなし。本人も好きや嫌いというのが良くわかっていないため、母親の手料理というのも建前で言っている部分がある<ref name="miku213077"/><ref name="miku910"/><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=tIqXODldSzk&list=PLTfXrJphTufmZwPQ8izm0RoAr_DznTG40&index=29 【25時、ナイトコードで。】朝比奈 まふゆ(CV.田辺 留依) 2020年4月4日]</ref>。 ; 東雲 絵名(しののめ えな) : 声:[[鈴木みのり (声優)|鈴木みのり]]{{R|animatetimes11794}} : 誕生日:4月30日、身長:158cm、学校:神山高校(夜間定時制)、クラス:3-D、弟:彰人<ref name="miku213077"/> : 承認欲求が強い高校3年生。音楽サークル『25時、ナイトコードで。』イラスト担当<ref name="miku213077"/>。ハンドルネームは「えななん」。 : SNSに依存しており、自撮りやエゴサーチを欠かさない。父が有名な画家であり、自身もその影響を受けて絵を描いてSNSに投稿していた。それを見つけた奏に声をかけられたためサークルのメンバーに加わる<ref name="miku213077"/>。 : 奏のことを自身の絵に存在価値をくれた恩人として慕っている。年下の瑞希とは常に喧嘩ばかりしているが、色々な点で気の合う不思議な関係を築いている<ref name="miku213077"/>。ボイスチャットでの雑談の9割は絵名と瑞希の喧嘩のような雑談で埋まることが多い<ref>[https://twitter.com/pj_sekai/status/1285137974309425153 プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク 2020年7月20日]</ref>。「MORE MORE JUMP!」の桃井愛莉とは中学校時代からの友人であり、中学時代のある出来事をきっかけに彼女を助けて以来、親友としての関係が続いている。愛莉の夢を応援しており、お互いを素の自分がだせる数少ない友人として大切にしている。彰人も愛莉のことを絵名の数少ない友人として接してくれることに感謝している節がうかがえる<ref name="#2"/>。 : 父親に対しては、自身の絵を否定した存在として嫌っており、自分の絵が誰にも認められないと思い悩んでいる。弟の彰人も彼女のことを気にかけていた。後に、絵名の想いに呼応して現れたリンやニーゴのメンバー、彰人の影響もあり、認められなくても描き続ける道を選ぶ。リンはそんな彼女の姿を「呪い」と感じつつ、それが彼女にとっての救いになるとも思っている。 : 趣味は絵を描くことや自撮りをSNS にアップすること、エゴサーチなど。特技はファッションや小物のリサーチ、料理の食材当て。好きな食べ物はパンケーキとチーズケーキで嫌いな食べ物はニンジンと、弟の彰人と食の好みは一致している。朝起きることを苦手としている<ref name="miku213077"/><ref name="miku910"/>。 ; 暁山 瑞希(あきやま みずき) : 声:[[佐藤日向]]{{R|animatetimes11794}} : 誕生日:8月27日、身長:163cm、学校:神山高校、クラス:2-B<ref name="miku213077"/> : 気分屋な性格の高校2年生。音楽サークル『25時、ナイトコードで。』動画制作担当<ref name="miku213077"/>。ハンドルネームは「Amia(アミア)」。 : 偶然聴いた奏の曲に惹かれ、個人的にMV を制作して投稿する。それが奏の目に留まり、動画担当としてサークルメンバーに誘われた。海外に住む姉が一人いる。家族との関係は良好。瑞希の良き理解者でもあり、特に姉は今の瑞希を形作るきっかけとなった。 : 可愛らしいフリルのついた服装を好み、制服も女子用を着用しているが、生徒からは「どっちかわからない」と避けられるか逆に興味を持たれ話しかけられることから、単位のための補習以外は不登校を続けている。性別は不明だが中学時代は短髪で男子制服を着用していたことが判明している。サークルメンバーの誰にも話していない秘密があるも内容は不明<ref name="miku213077"/>。 : この経緯から自身のありのままを受け入れてくれた奏に恩義を感じている。絵名をからかうことを楽しんでおり、そのことから絵名と喧嘩になることが多い<ref name="miku213077"/>。「ワンダーランズ×ショウタイム」の類とは古い友人同士。「Vivid BAD SQUAD」の杏とはクラスメイトで数少ない本当の友人。杏を通して「Vivid BAD SQUAD」のメンバー全員と交流があり、特に彰人については決して名前で呼ばず「絵名の弟くん」「弟くん」と呼びからかって遊んでいる。その他、文化祭を通して「ワンダーランズ×ショウタイム」の司、寧々とも交流を持った。 : 趣味は動画作成用の素材集めやコラージュ。特技は洋服アレンジ。好きな食べ物はカレーライスとフライドポテトで嫌いな食べ物はきのこ系。猫舌で熱い食べ物が苦手<ref name="miku213077"/><ref name="miku910"/>。 == その他の登場人物 == 本作ではオリジナルキャラクター20名以外の登場人物たちの多くがLive2Dとフルボイス対応で登場している。初登場時にイラストとボイスがなかったキャラクターも、後のアップデートにて追加されることがある。担当声優はゲーム内のクレジットを出典としている<ref name="CV1">ゲーム内、「各種表記」→「スタッフ」より。2021年7月31日閲覧。</ref>。 === Leo/needの関連人物 === ; イオリ : 声:[[笹本菜津枝]] : 志歩のバイト先のスタジオなどで活動しているバンド『STANDOUT(スタンドアウト)』のリーダー兼ボーカリスト。19歳<ref name="prsk210817">{{Cite web|和書|url=https://pjsekai.sega.jp/news/article/index.html?hash=afcda7004710f8b27e324e780f75dd1ff2410e0d|title=プロジェクトメッセージ vol.8 |date=2021-08-17|accessdate=2021-08-17}}</ref>。音楽に対してストイックに向き合っており、本気で音楽を一緒にやれるメンバーを求めている。メジャーデビューを控えており、新たなベーシストを探していた。そんな時、ライブハウスでバイトをしている志歩のベースを聞いたことにより、志歩をベーシストとして自分のバンドに勧誘する。 : 『プロは「好き」の気持ちだけでは通用せず、聞いてくれるファンを優先し、自分たちの音楽に責任を持たなければいけない』と考えている。そのため、自分たちの音楽だけではなく観客も大事にできることをメンバーにも求めている。一方で、Leo/needについては彼女たちの友情を認めつつも、今後、志歩がプロを目指す際に、これまでのような体制で一緒にやっていけば志歩自身も一歌たちも共に苦しむことになってしまうと危惧していた。 : デビュー発表のために開いた野外ライブでは、Leo/needのメンバーに志歩と同じ夢を歩む覚悟があるのかを聞いたうえで、一歌たちの覚悟を認める。一方で、それでも迷う志歩の背中を押すために、Leo/needのメンバーにライブのオープニングアクトをやってみるように勧める。そこで観客からも認められる演奏を披露できたLeo/needの姿を見て、志歩への勧誘を諦めた。 : ミオに関しては本当は一緒にバンドをやっていきたいと考えており、彼女がLeo/needのメンバーみたいに「一緒にやりたい」と言ってくれること心の奥で待っていたが、彼女の態度を見てその願いを半ば諦めていた。しかし、ミオが再び一緒にバンドをやりたいと言ってくれた際には、「演奏でその想いを伝えてほしい」と告げる。その後、イオリとミオはライブを成功させ、プロアーティストとしての第一歩を踏み出した。 : この件以降もLeo/needのことを気にかけており、一歌に作詞のアドバイスをするなど初ライブのサポートをするほか、ライブ後に本人たちにしっかり批評をするなど彼女たちの夢に協力している。クレープが好物で本人は隠している様子であったが、ミオがLeo/needのメンバーにうっかり話してしまっている<ref name="#3">日野森志歩 サイドストーリー「このあとは反省会」</ref>。 : 好きな食べ物はバナナチョコクレープ、嫌いな食べ物は辛いもの。趣味は古着屋巡り<ref name="fanbook01"/>。 ; ミオ : 声:[[土屋李央]] : 『STANDOUT(スタンドアウト)』のベーシスト。19歳<ref name="prsk210817"/>。イオリの友人であり、彼女のことを「イオリちゃん」と呼び慕っている。 : 「皆と楽しくバンドをやりたい」という願いが音楽を始めた動機であり、『STANDOUT』のメンバーとしてイオリたちと音楽をしている日々を心の底から楽しんでいた。しかし、プロデビューが決まったときに「プロが担う責任」を背負うのが怖くなったミオはバンドから逃げだしてしまう。この出来事はイオリが新たなベーシストを探すきっかけとなる。 : ある日、志歩の前に自身の正体を明かさずに現れ、「STANDOUTのベーシストが来られなくなったから、今日のライブだけ代わりにベースを弾いてほしい」とお願いして自分の楽譜だけを渡し、その場を立ち去る。その後、再びLeo/needとイオリの前に現れた際には、イオリからプロになる覚悟について問われるも反論できなかった。 : ミオの在り方は「皆と一緒にいたい」という一歌たちの姿にも、「皆と一緒に演奏を続けたい」という志歩自身の姿とも重なり、志歩自身が答えを出すきっかけにもつながる。ミオは志歩と二人で話をした際に、彼女の「プロとしての責任」の考えについて聞いたことにより、イオリたちと同じ道を進む覚悟を決め、音楽と再び向き合うことを決める。そして、ライブ当日、イオリと対面したミオは彼女に覚悟を告げ、バンドに復帰した。 : デビュー後もイオリと共にLeo/needのライブに行くなど、彼女たちの夢に協力している<ref name="#3"/>。 : 好きな食べ物は激辛タンタンメン、嫌いな食べ物は生クリームであり、イオリとは食べ物の好みが正反対になっている。趣味はテディベア集め<ref name="fanbook01"/>。 ; 穂波のクラスメイトA・B : 穂波が高校に進学してからのクラスメイトである2人の少女。 : 一歌たちと疎遠だった穂波が一緒に過ごしていた少女たち。中学時代に別の元クラスメイトとの間で起きた出来事をきっかけに穂波は新たに友人となった彼女たちとの距離感を測りかねていたが、一歌たちとの仲が戻った際に自身の本当の想いを打ち明けた際には、穂波が想いを打ち明けてくれたことに喜んだ。その後もクラスメイトとして穂波と一緒に行動することは多く、一歌たちを含め友人となっており、ライブにも観客として参加するなど友人としての関係は続いている。 ; 高木 未羽(たかぎ みう) : 声:[[大野柚布子]] : 志歩が中学時代に屋上で共に過ごしていた少女。両親の転勤が多いため引っ越すことが多く、一つの学校に留まることは少ない。 : すぐに転校するため周囲と関わることがなかったが、偶然、屋上で一人で過ごす志歩と出会ったことで休み時間は一緒に過ごすようになる。志歩の影響でアコースティックギターをはじめ、お互いに口数は少ないながらも親交を深めるが、しばらくして再び転校することが決まる。その際、志歩に「自分も次の学校では友人を作れるよう頑張る」と約束し、志歩と幼馴染の関係が戻ることを願った。 : それから数年後、ライブ会場で志歩は偶然、未羽を見かける。また、数日後には路上ライブをしている未羽に出会うも、彼女にも友人ができていることを知り声をかけずにその場を立ち去った。未羽も志歩がいたことに気が付いており、幼馴染たちとの仲が改善したことを知って喜んだ。 ; 吉崎 花乃(よしざき はなの) : 声:[[指出毬亜]] : イベント『Live with memories』より登場。Leo/needにとって初めてのファンであり、彼女たちも花乃と兄の葉太のことは以前より認識していた。 : 1年程前よりライブハウスに通っており、ある日、偶然、Leo/needの演奏を聴いたことで彼女たちのファンとなる。以降は最前列でいつも彼女たちの演奏を聴いていたが、ある日、兄の葉太と喧嘩となり、その現場をLeo/needのメンバーに偶然目撃される。 : 本編の一年前に両親が離婚しており、ライブハウスに通い出したのも落ち込んでいた花乃を元気づけたいと思った兄の薦めであった。その時に聴いたLeo/needの楽曲に勇気づけられたことが、彼女たちのファンになるきっかけとなる。しかし、花乃を引き取った父が再婚したことにより新たな家族と一緒にいることが苦しくなり、外へ出歩いている時間が多くなったことを心配した兄から「もう一緒にいるのはやめよう」と言われたことが喧嘩のきっかけとなる。 : 花乃は兄の言葉の真意に気が付いていたが、それでも離れ離れになりたくないと強く思っていた。その後、Leo/needとの交流や彼女たちから兄妹に向けた演奏を聴いて、新たな家族と仲良くなる決心がついた。 ; 吉崎 葉太(よしざき ようた) : 声:[[安田陸矢]] : イベント『Live with memories』より登場。妹と花乃と共にLeo/needのライブに通う彼女たちのファン。 : 両親の離婚により落ち込んでいた妹の花乃をライブハウスに誘うようになり、以降はLeo/needのライブの常連客となる。しかし、妹が新たな家族に馴染めない理由は外に連れ出す自分のせいだと思った葉太は花乃に「もう会うのはやめよう」と告げ、それが喧嘩の原因となってしまう。 : 喧嘩を偶然目撃したLeo/needのメンバーに事情を説明した葉太は彼女たちに「自分はもうライブには来ない」「一人になってしまう妹に話しかけてやってくれないか」と頼むが、後に一歌の提案によってもう一度だけ兄妹でライブに来てほしいと頼まれた花乃に誘われてライブに参加する。そこで演奏を聞いて決意を新たにした葉太は、花乃に「新しい家族と仲良くなれたら、もう一度一緒にライブに行こう」と約束した。 ; 高坂 朔(こうさか さく) : 声:[[福原綾香]] : イベント『No seek No find』より登場。女子高生バンド『anemone(アネモネ)』のボーカル兼作曲担当で事務所にスカウトされるほどの腕前を持つ少女。 : 冷静沈着だが思ったことは素直に言葉にしてしまうことも多く、周囲とトラブルになる場面もあり、バンドメンバーが仲裁に入ることも多い。 : 元々はLeo/needとは別のスタジオを拠点に活動していた。Leo/needのことは、「かわいい楽曲」と一定の評価はしているものの、ライブハウスにあった曲の選択ができていない点も含め「自分には響かない」という指摘もしている。 : '''真堂 良樹 (しんどう よしき)''' : 声:[[土田大|土田 大]] : === MORE MORE JUMP!の関連人物 === ; 真衣(まい) : 声:[[河野みさき]] : 『ASRUN(アスラン)』の元メンバーで遥の後輩。15歳<ref name="prsk210817"/>。遥に憧れてアイドルを志し、オーディションを乗り越え『ASRUN』に加入する。 : 遥と友好的な関係を築き、彼女の言葉を胸に特訓に励んでいた。しかし、加入してから3年目のある日、新曲で自身が上手く歌えなかったことからスランプに陥り、過剰なトレーニングを重ねたことから喉を壊しアイドル引退を余儀なくされる。その現実に自暴自棄になった真依は、遥に対して辛辣な言葉をぶつけてしまう。この言葉がトラウマとなりステージに上がれなくなった遥はアイドルを引退し、ASRUNも解散となる。 : 現実と向き合えるまでに回復した真依は、自身が遥に対してしてしまったことを後悔し、その想いを伝えるために再び遥やみのりたちに接触する。 : 遥がトラウマを克服した後は関係も修復。遥は真依にアイドルを続けていくことを伝える。その後は舞台女優として活動中。喉の関係で歌を歌うことができずミュージカルに出ることは難しいが、それでも応援するファンのために舞台に立ち続けている<ref name="fanbook01"/>。 : 『つなぐPainful Hope』では順調に舞台女優として活躍している姿が描かれており、モモジャンのメンバーが舞台をみに訪れている。その時、悩む遥にアドバイスを送り背中を押している。 : 好きな食べ物はエクレア、嫌いな食べ物はレバー。趣味は岩盤浴・銭湯巡り<ref name="fanbook01"/>。 ; 元ASRUNメンバー : 遥や真依と共に活動していたASRUNの元メンバー。ASRUN解散を機に事務所を移籍。予算の無い事務所でも明るく元気に活動しており、解散後のメンバーのことも気にかけて応援している。 : イベント「ここからRE:START!」の遥サイドストーリーに登場。遥が新たにグループを結成して事務所を探している噂を聞き、遥に電話をかける。だが、電話の目的は遥の勧誘ではなく、遥をアイドルに連れ戻したみのりがどういう少女なのかを知りたかったため。彼女は遥にとって、今までどの事務所でも誰も興味を持ってもらえなかったみのりに初めて興味を示してくれた人物であった。遥にとって真依以外で初めてみのりについての想いが話せた人物である。遥からみのりのことを聞いた彼女は「将来、間違いなく凄いアイドルになる」と遥に伝えた。 ; Cheerful*Daysのメンバー達 : 雫が所属しているアイドルグループ『Cheerful*Days(チアフルデイズ)』に所属するメンバーたち。その人気から優遇されている雫に対して不満を持っており、陰口や嫌がらせをしていた。雫がアイドルを引退することを宣言した後も雫に対して攻撃的な態度を示していたことをきっかけに、愛莉たちと口論になる。この騒動をきっかけに雫はCheerful*Daysとの決別を決意した。 :; 日暮アリサ(ひぐれ アリサ) :: 声:[[高田憂希]] :: 現在の『Cheerful*Days』のリーダー。 ; ななみん : 声:[[仲田ありさ]] : 約80万人の登録者数を誇るネット配信者。本名は'''早川ななみ(はやかわ ななみ)'''。17歳<ref name="prsk210817"/>。 : アイドルグループ『CreamBerry(クリームベリー)』の元メンバーで業界内でも高い人気を誇っていたアイドルの一人であった。だが、突然アイドルを引退し、現在は配信者としてネット動画を中心に活動。楽曲の販売やライブの開催に関するサポートを受けるために配信専門の事務所に所属している。 : 遥と親交があり、事務所探しの相談を受けたことがある。それがきっかけとなりMORE MORE JUMP!に興味を持ち共同でのコラボ配信企画を持ちかけた。遥から彼女がアイドルに戻るきっかけの出来事について話を聞いており、彼女を救ったみのりに興味を持っていた。また、MORE MORE JUMP!についても応援している。ななみとのコラボ配信をきっかけにMORE MORE JUMP!は初のライブパフォーマンスをファンの前で披露し、コラボ企画を無事成功させる。また、みのりがファンに認められるきっかけにもなった。 : 『MOREMOREMakingXmas』では、MORE MORE JUMP!の動画にゲストで登場。また、リアルイベントをやりたい彼女らのために自身の事務所を通じて会場を安く確保できないか探してくれるなど、、MORE MORE JUMP!に協力している。 : 好きな食べ物はフルーツタルト。嫌いな食べ物はワサビであり、遥と親しくなったきっかけも彼女がワサビが苦手であることを知ったことがきっかけである。趣味はキリンのグッズ集め<ref name="fanbook01"/>。 ; 内山 唯奈(うちやま ゆいな) : 声:[[平山笑美]] : みのりのファン第1号。初登場は『届け!HOPEFUL STAGE♪』。当初は名前もボイスもなく、「みのりのファン」という表記のみであったが、イベント『MOREMOREMakingXmas』前日にLive2Dとボイスが追加された。 : みのりのファンである女子高生。街で偶然みのりに出会い声をかける。当時は部活で足手まといになっていることを悩み落ち込んでいたが、みのりの応援もあり前向きに頑張ることを誓う。この出会いは、みのりにも大きな影響を与えた。 : 『MOREMOREMakingXmas』にて再登場。MORE MORE JUMP!初のリアルイベントにスタッフとして参加し、みのりと再会する。再開した際の「みのりのために頑張りたい」という言葉がみのりに勇気を与えている。イベントではスタッフが握手会の待機列の多さに混乱している中、率先して場をまとめイベント成功に貢献した。 ; 斎藤 彩香(さいとう あやか) : 声:[[森谷里美]] : MORE MORE JUMP!のファンであり、様々なアーティストやアイドルのイベント制作のアルバイトもしている女子大生。リアルイベントをやるためのスタッフ不足に悩むMORE MORE JUMP!にメールで企画書を送り、ボランティアを買って出る。 : Cheerful*Days時代からの雫の大ファンであり、油断すると彼女のことを「雫様」と呼んでしまうこともある。雫と初めて直接会った時には「女神!」と興奮し、その様子を愛莉から呆れられている。ただし、仕事とプライベートはしっかり分けており、彼女の作った企画書は遥から見ても完ぺきなものであった。また、スタッフをまとめることにもたけており、MORE MORE JUMP!初のリアルイベントの成功に大きく貢献した。イベント終了後にはメンバーそれぞれに花束をプレゼントするサプライズを行った。 ; 長谷川 里帆(はせがわ りほ) : 声:[[長谷川育美]] : 作曲が趣味で曲を投稿している配信者。みのりたちと同年代の学生であり、アイドルファンでもある。特に遥のことを昔から推しており、彼女の言葉に感銘を受け、希望を届ける歌を作りたいと考えている。 : イベント「つなぐPainful Hope」にて初登場。新曲つくりに乗り出したモモジャンへメールを送ったことをきっかけに新曲づくりに協力することになるが、同時期に自身の過去の曲が有名配信者の目に留まり、曲の再生数が100万再生を超える人気となる。しかし、その曲が注目を集めたことで、誹謗中傷の書き込みも増え、それを見たことにより精神的に不安定になってしまう。その影響で曲作りもできなくなり、次第に心が追い詰められるが、遥と対話したことで「どれだけ苦しくても曲を作り続けることだけは諦めたくない」という選択をし、モモジャンへ提供する曲も完成した。誹謗中傷はその後も送られてくるが、曲を好きでいてくれる人たちのために曲を作り続けている。 === Vivid BAD SQUADの関連人物 === ; 白石 謙(しらいし けん) : 声:[[中村大志 (声優)|中村大志]] : 杏の父親であり、伝説のライブ『RAD WEEKEND』を開催したミュージシャン『KEN(ケン)』。43歳<ref name="prsk210817"/>。その伝説は現在も語り継がれており、謙が経営するライブカフェ&バー『WEEKEND GARAGE』には、かつての仲間や謙に会うために客が集っている。常連には「謙さん」と呼ばれている。妻は学校教師で料理は下手らしい。 : 彰人や冬弥にとってはもう一人の父親というべき立場であり、こはねも含め、4人の活動を見守っている。杏の幼馴染である遥とも面識がある。 : 『RAD WEEKEND』を目指す若者がいることを嬉しいと思っているが、一方で、「過去や記憶はいつの間にか美化されていく」「俺たちにその気がなくても、誇張され真実からかけ離れていく」と彰人に話しており、その言葉を理解ができなかった彰人に「そのうち分かるときがくる」と話している。また、目標は人を惑わすこともあると考えており、彰人に「そればかりに囚われるな」と忠告している<ref>東雲彰人 サイドストーリー 「敗北の夜」</ref>。 : 好きな食べ物は肉料理全般。嫌いな食べ物は梅干し。趣味は釣り<ref name="fanbook01"/>。 ; 三田 洸太郎(みた こうたろう) : 声:[[峯田大夢]] : 彰人や冬弥の同業者であり、同じストリートで活動しているミュージシャン。17歳<ref name="prsk210817"/>。ユニットストーリーでは『ミュージシャン』と表記されるのみであったが、イベント『STRAY BAD DOG』で名前や過去が明らかとなる。 : ミュージシャン・KENのことを尊敬しており、彰人たちBAD DOGSの実力も評価している。一方で、KENの娘である杏に対しては親の七光りで脚光を浴びていると感じており、彼女やこはねを陥れるためにライブを妨害。VividsとBAD DOGSが対立するきっかけを作る。 : 後にVividsのライブを見てその実力を見せつけられた後は彼女たちに謝罪。妨害にBAD DOGSは関係ないことを打ち明け、自身も真っ当に頑張っていくことを伝えた。 : その後のイベントストーリーにも登場しており、彰人から「Vividsには謝罪したのにBAD DOGSには謝罪に来ていない」ことについて咎められた際には、「半端な音楽をやっているうちは2人に顔を合わせられない」と考えていたことを明らかにし、音楽と改めて向き合っていることが明らかとなった。『STRAY BAD DOG』では自身の参加するイベントに単独で出場していた彰人の様子を心配し、冬弥たちに相談しに来ている。Vivid BAD SQUADの活動を応援しており、現在はライバルでありながら良好な関係を築いている。彰人と冬弥とはほぼ同時期に活動を始めており、BAD DOGS結成前の彰人と冬弥を知る数少ない人物でもある。 : 好きな食べ物はイチゴ、嫌いな食べ物はイチゴ風味の食べ物や飲み物。趣味はソシャゲ<ref name="fanbook01"/>。 ; 青柳 春道(あおやぎ はるみち) : 声:[[小野健一 (声優)|小野健一]] : 冬弥の父親。53歳<ref name="prsk210817"/>。世界的にも有名なクラシック音楽家・作曲家としてその名が知られており、冬弥の兄二人も彼から教育を受けてクラシックの道を歩んでいる<ref name="fanbook01"/>。 : クラシックは人生を豊かにするという信念を持ち、それを疑わず冬弥が幼い頃からクラシックの英才教育をおこなっていた。その厳しい教育により冬弥との親子関係に亀裂が入る。 : ストリート音楽を「遊び」と切り捨て、その音楽を続けている冬弥と長らく衝突していた。しかし、後に父親が「クラシックの良さを冬弥に知ってほしい」という願いから教えていたことに気が付いた冬弥は、自身の本当の想いを春道に告げる。その後、春道はこっそりと冬弥のライブを見に行っていたようで、ストリート音楽への理解は得られなかったが、2人の間にあったわだかまりは少しずつ解消されている。 : 好きな食べ物はクッキー、嫌いな食べ物はフォアグラ。趣味は音楽鑑賞<ref name="fanbook01"/>。 ; 小豆沢こはねの父親 : こはねの父親。眼鏡をかけている。蛇のパール伯爵を買っており、こはねと共に世話をしているほか、カメラが趣味であり娘のこはねも影響を受けている。 : こはねのやることには反対せずに応援していたが、ライブハウスに一人で出入りするこはねを心配し、一時はライブハウスに通うことに難色を示していた。しかし、こはねから「ライブを見て決めてほしい」と招待され、実際に娘の歌声や会場の雰囲気を感じ取ったことで娘の活動継続を認めた。 ; 遠野 新(とうの あらた) : 声:[[柳晃平]] : イベント『STRAY BAD DOG』より登場する男性ソロミュージシャン。19歳<ref name="prsk210817"/>。人当たりがよく物腰柔らかい性格にみえるが、音楽に対してストイックであり、正確でありながらも厳しい批評をする。 : 高い実力を誇り、その歌声は彰人でさえ『RAD WEEKEND』の時に近い感情を思い出すほど。『RAD WEEKEND』を実際に見た観客のひとり。Vivid BAD SQUADと同様に『RAD WEEKEND』を超えるイベントを目指しており、現在、その夢に一番近い人物と言われている。3年ほど修行として海外を拠点に活動していたが、イベント『STRAY BAD DOG』より渋谷へと拠点を移す。ライブの後はチョコパフェを食べる習慣がある。 : Vivid BAD SQUADのことも注目しており、当初は実力はまだまだでも個々では今後に期待が持てる旨の評価をしていた。しかし、彰人に対しては「君が1番おもしろくない」と厳しい言葉を投げかける。 : その後、とあるイベントで彰人と再会。そこで彰人の歌声を聞いて彼の本気を認め、自身も本気の歌唱で答える。その歌声に彰人は負けを認めるも、直後に乱入してきたVivid BAD SQUADのメンバーの歌を聞き、彼らの実力を認め自ら「今回は引き分け」「良い歌だった」と評した。その後、彰人にVivid BAD SQUADとの再戦を約束する。 :実は本人は『RAD WEEKEND』への思い入れはそこまで強くなかった。彼がこのイベントを超えることを目指したのは、彼を音楽の世界に誘った相棒の夢であったから。彼と一緒に夢を追いかけ、「こいつと一緒に夢を叶えられたら最高だろうな」と思い始めた矢先、その相棒が交通事故に巻き込まれ麻痺による後遺症により歌うことができなくなってしまう。その後、色々なことがあり彼は相棒の想いを背負い『RAD WEEKEND』を超える覚悟を決めた。 : 好きな食べ物はチョコレートパフェとオムライス、嫌いな食べ物は納豆。趣味は写真であり、ミニポラロイド系カメラを愛用している<ref name="fanbook01"/>。 ; 古瀧 大河(こたき たいが) : 声:[[平林剛 (俳優)|平林剛]] : こはねがソロでイベントに出た際に彼女の前に現れた謎の男。43歳<ref name="fanbook01"/>。「RAD WEEKEND」のことに詳しく、こはねの歌の実力を認めるも、RAD WEEKENDを超えるためのアドバイスとして「嬢ちゃんが自分とまっすぐ向きあえるようになれば、もっと化ける」と言葉を残しその場を去っていった。後に、こはねがアドバイスや杏の言葉を胸に覚醒した際にも観客としてライブを見に来ており、こはねの姿を見てRAD WEEKENDを超える可能性を認めるも「今の力を自分のものにするには、まだ時間が必要」とも考えている。 : こはね曰く印象は「大柄で少し怖そうな雰囲気」「声が低い」「杏の父に似ている」。その話を聞いた杏は一人だけ心当たりを思い浮かべるも、「この町にいるわけがない」と否定していた。本人は「RAD WEEKEND」に参加した経験がある。 : イベント『Bout for Beside You』にて正体が判明。正体は謙のかつての相棒で、謙と妹の凪の3人で『RAD WEEKEND』を企画した発起人の一人。『RAD WEEKEND』後はアメリカにわたっており、一部では謙との間で何かがあったと言われていた。実際には2人の関係は現在も良好である。妹の凪については「どこかで今も歌っている」と話しているが、謙も含め彼女のことは話したがらない様子をみせている。現在は『WALKER』として活動しており世界的に有名なアーティストの一人となっている。 : 杏とは彼女が幼い頃からの付き合い。遠野新とも交流があり、彼と正面から対決をして圧勝するほどの実力者。普段は誰かに歌を教えることは一切ないが、こはねに興味を示し彼女を弟子にする。以降はこはねに通常の歌唱の指導とは異なる少し変わった方法で定期的に歌を教えている。 : 好きな食べ物はウイスキー、嫌いな食べ物はつぶあん。趣味はツーリング<ref name="fanbook01"/>。 ; 翔太(しょうた) : 彰人が小学生の時に所属していたサッカーチームのチームメイト。チームメイトだった頃は彰人に元気付けられていたが、彰人がチームを辞めてからは話す機会がなく離れ離れとなる。 : 兄の手伝いで『シブヤ夏祭り』の実行委員を務めており、そこに出場するアーティストを探す際に偶然「BAD DOGS」のライブを見て彰人と再会。彼に夏祭りへの出演を依頼する。彰人たちへ依頼した理由は、アマチュア部門のトリとして歌唱力のあるユニットのパフォーマンスで締めたいと考えていたため。 ; 古瀧 凪(こたき なぎ) : 声:[[大井麻利衣]] : 古瀧大河の妹で、Nagi名義で活動していたミュージシャン。KENと大河の3人で『RADder』というユニットを組んでいた。その実力の高さとカリスマ性から高い人気を誇り、杏にとっても憧れのミュージシャンであった。『RAD WEEKEND』開催後の消息は不明であり、謙と大河は消息を知っているようであるが周囲にははぐらかしている。 ; 宮田 颯真(みやた そうま) : 声:[[岩中睦樹]] : 遠野新と相棒であった男性。イベント「THE POWER OF UNITY」より登場。 : 新に「RAD WEEKEND」を超える夢を語り、彼を音楽の世界に引き入れた張本人。しかし、交差点に侵入してきた車にはねられ、身体に麻痺が残る重傷を負ってしまう。この事故でベッドに座っているだけでもふらついてしまうほどの後遺症が残り、歌を続けることが困難となってしまった。颯真の夢は新が追い続けているが、颯真は彼のことを「相棒」ではなく「親友」と呼ぶようになった。 : 体調の回復に伴いシブヤの病院に転院。そこで新のほか、彰人と冬弥に出会う。彼らの前では明るく振舞い、ビビットストリートで歌っている彰人たちの話を目を輝かせて聞いていたが、自身のことを「親友」と紹介された新は複雑な表情を浮かべていた。 ; ビビ :「青空に願うユア・ハピネス!」より登場。ビビットストリートに住み着いている野良猫。歌が上手い人の前には立ち止まって聴いてくれる反面、気に入らないとスルーしてしまうことから、「ビビに聴いてもらうことが、若手が一人前になる第一歩」と言われており、『音楽がわかる猫』とも呼ばれている。 === ワンダーランズ×ショウタイムの関連人物 === ; 着ぐるみ : 声:[[下鶴直幸]] : えむのSP兼お世話係をしているフェニックスワンダーランドのキャストの一人<ref name="fanbook01"/>。いつも「ポチ公くん」の着ぐるみを着ている<ref>日野森雫 サイドストーリー「フェニラン・ナイトデート」後編</ref>。えむのボディーガードや劇のキャストなど、多様な活動をしている。えむのことを大事にしており、経営者側の判断より、えむのためになることを一番に優先する。 : 好きな食べ物はだし巻き卵と枝豆。嫌いな食べ物はシュークリーム。趣味は筋トレ<ref name="fanbook01"/>。 ; うさぎのぬいぐるみ : 声:秋奈 : ワンダーランドのセカイにいる人形たちのひとつ。その正体は咲希の持っていたぬいぐるみ。司はそのことを忘れていたが、後に交流を通じて思い出すことになる。足の裏に「さき」の名前が刺しゅうされている。一人称は「ボク」。趣味はセカイにいるお花たちと歌うこと<ref name="fanbook01"/>。 ; 青龍院 櫻子(せいりゅういん さくらこ) : 声:[[東城日沙子]] : フェニックスワンダーランドで一番人気の劇場「フェニックスステージ」を代表する歌姫。17歳<ref name="prsk210817"/>。その歌声はライバルであった寧々たちですら驚きを隠せないほどの実力の持ち主。自身の劇団や歌声に誇りを持っており、当初はワンダーランズ×ショウタイムと対立していた。 : 感受性が豊かで相手を見下したり嫌味な発言をすることもあるが、相手の実力を冷静に見極めており、良いと感じたことは敵であっても素直に褒めるなど嘘はつかない性格。寧々についても当初は嫌味な発言を向けていたが、それは寧々の歌に対する欠点に気が付いていたからであり、後に彼女の成長した歌声を聞いてその実力を認めている。 : 経営方針の変更について違和感を持っており、ワンダーランズ×ショウタイムの計画に賛同。フェニックスワンダーランドのスタッフ全員を繋ぎとめる重要な役割を果たす。これは、幼い頃、フェニックスワンダーランドでみたショーを見てショーキャストを志した経緯も関係している。 : 好きな食べ物はロールケーキ、嫌いな食べ物はこんにゃく。趣味は太極拳<ref name="fanbook01"/>。 ; 鳳 楽之介(おおとり らくのすけ) : 声:[[蓮岳大]] : えむの祖父でありフェニックスワンダーランドの創設者。ユニットストーリーより約1年前に他界している。 : えむにとっての根幹を築いた人物であり、楽之介の大好きだった遊園地を残すことがえむの目的の一つになっている。かつて、ショーコンテストが行われようとした際には「ショーは1番なんて決めなくていい。みんな違ってみんないい」と開催を中止した過去がある。そのため、楽之介の亡き後にショーコンテストを改めて開催することが決まったことに、えむは複雑な感情を抱いている。 ; 鳳 幸之介(おおとり こうのすけ) : 声:[[相沢まさき]] : えむの父。楽之介の亡き後、現在のフェニックスワンダーランドの会長兼経営監査を務めている<ref name="fanbook01"/>。55歳<ref name="prsk210817"/>。えむの「ワンダーステージの取り壊しを中止してほしい」という願いに対して猶予を与えるなど、えむたちに対して公平な立場をとっている。 : 好きな食べ物は縁日のりんご飴、嫌いな食べ物はス―ス―する飴。趣味はクロスワード<ref name="fanbook01"/>。 ; 鳳 慶介(おおとり けいすけ) : 声:[[花田光]] : 鳳家の長男で、えむの長兄。30歳<ref name="prsk210817"/>。フェニックスワンダーランドの運営会社の社長で経営を担当している<ref name="fanbook01"/>。 : 集客率の減っているフェニックスワンダーランドの経営改善のため、アトラクションの新設や取り壊しを行っているほか、他の企業とキャラクターライセンスに関する提携を結ぼうとしている。昔のままの遊園地を守りたいえむの想いに対しては理想でしかないと考えている。実際には本人もその理想を守りたいと思っており、えむの思い描く理想の形に向けてまだやりようがあったのではと後悔もしていた。 : 好きな食べ物はアジのひらき、嫌いな食べ物はチョコレート。趣味は数独<ref name="fanbook01"/>。 ; 鳳 晶介(おおとり しょうすけ) : 声:[[伊丸岡篤]] : 鳳家の次男で、えむの次兄。27歳<ref name="prsk210817"/>。フェニックスワンダーランドの専務。 : えむの訴える理想については疎ましくさえ思っており、その態度から彼女たちとの対立の火種を生み出している。これは、自分たちもその夢を切り捨て、フェニックスワンダーランドのために経営方針の転換をやらざるをえなかった責任感からきているところもある。 : 好きな食べ物はアメリカンドッグ、嫌いな食べ物はピーマン。趣味は腕時計のコレクション<ref name="fanbook01"/>。 ; 鳳 ひなた(おおとり ひなた) : 声:[[森谷里美]] : 鳳家の長女で、えむの姉。大学に通う学生。20歳<ref name="prsk210817"/>。子供に関する職に就くために大学で勉強している<ref name="fanbook01"/>。遊園地経営にはあまり興味がない<ref name="fanbook01"/>。 : 心優しい性格で、えむの悩みにも耳を傾ける。えむと同じくアトラクションの取り壊しには乗り気ではないが、一方で兄たちの立場や経営改善の必要性も理解している。 : 好きな食べ物は桃、嫌いな食べ物は特になし。趣味はソフトボール<ref name="fanbook01"/>。 ; ジャン・ライリー : 声:[[樫井笙人]] : ライリー・エンターテインメントの社長。54歳<ref name="prsk210817"/>。世界的に有名なキャラクターコンテンツIPを管理している大企業の社長でもある。仕事の際の一人称は「私」。プライベートでは「僕」<ref name="fanbook01"/>。 : 業務提携の視察のためフェニックスワンダーランドを訪れた際に、司たちが企画した大規模なショーを見て「この場所から生まれるショーをもっと見てみたい」と感動する。そして「我々もここの仲間に加えてほしい」と業務提携を許諾する。かつては自身もショーキャストを志した時代があった。また、フェニックスワンダーランドの創設者である鳳楽之介に恩がある<ref name="fanbook01"/>。 : 好きな食べ物はお好み焼き、嫌いな食べ物は卵かけご飯。趣味は相撲観戦<ref name="fanbook01"/>。 ; 風祭 夕夏(かざまつり ゆうか) : 声:[[竹内恵美子]] : 寧々の憧れている舞台女優。10年前に寧々と類が彼女のショーを観に行ったことがあり、そこで演じた「人魚姫」の歌声に魅せられたことが寧々が芝居の世界に憧れるきっかけとなる。 : 高校生の頃に初めてみたショーに影響され卒業後に上京。その後、オーディションで抜擢された初主演作が寧々の観た人魚姫だった。その後も日本で活躍するが、「もっと大きな舞台で活躍したい」と考えた夕夏は仲間たちと別れてアメリカへ活動の拠点を移すことになる。異国の環境で紆余積極もあったが無事成功を収めた彼女は、日本での公演で偶然寧々と出会い彼女のショーを見ることになる。そこでかつての自分を思い出した夕夏は寧々に自分は今の道に進んで後悔はしていないことを話した。この会話は寧々が自身の将来を考えるきっかけとなる。 : '''玄武 旭 (げんぶ あさひ)''' : 声:[[石川界人]] : '''天満 星一 (あまみ せいいち)''' ; 獏野 歴(ばくの れき) : 声:[[松岡禎丞]] === 25時、ナイトコードで。の関連人物 === ; 宵崎奏の父親 : 声:[[うさみ航]] : 奏の父で作曲家。46歳<ref name="prsk210817"/>。妻は既に他界している。 : 作曲家として企業CMなどの音楽を手掛けており、男手一つで奏を育てた。しかし、ユニットストーリーの2年前、CMコンペ用の楽曲制作に煮詰まってしまい奏にアドバイスをもらった際に、奏が曲にアレンジを加えたものがコンペに採用され、その結果、彼の作曲部分は使われたなかった。このCM以降、作曲の仕事依頼は増えるも曲作りに悩むようになり、受託先から彼の曲を古臭いと嗤われたことや奏が父に宛てた曲が追い打ちとなり、ついに倒れてしまう。奏の早急な対応で助かるも、記憶障害に陥り現在も入院している。この事件が奏にとってトラウマとなり、現在も呪いのように彼女を蝕んでいる。 : 奏が現在使用している作業部屋は、本来は父親が作曲をしていた部屋である。 : 好きな食べ物は茄子のおひたし、嫌いな食べ物はカニ、エビ。趣味は映画鑑賞<ref name="fanbook01"/>。 ; 朝比奈まふゆの母 : 声:[[豊口めぐみ]] : まふゆの母。その性格は瑞希曰く「価値観をナチュラルに押し付けてくるタイプ」であり、まふゆを自分たちが良いと思った道へ進ませようとしている。そのため、まふゆのやりたいと思ったことに対して、自分たちの意向と違うものは全て切り捨てさせようとしている。この母による呪縛により、まふゆの人格は大きく変化していくことになる。 ; 朝比奈まふゆの父 : 声:[[新垣樽助]] : まふゆの父。眼鏡をかけた温厚な男性。まふゆのことは母に任せきりで母と喧嘩をするまふゆのことを心配している。 ; 東雲 慎英(しののめ しんえい) : 声:[[星野貴紀]] : 絵名、彰人の父親で著名な画家。48歳<ref name="prsk210817"/>。彼の絵はこはねもよく知っているほど。 : 画家を目指す絵名に対し「お前には才能がない」と冷たく接したことで親子関係に亀裂が入り、以降は絵名から会うたびに激しく拒絶されるほど親子仲は悪化した。しかし彼としては、自分のような苦しく厳しい人生を歩めるほど絵名は強くないと考えたため「才能がない」と伝えただけであり、決して絵を描くことを否定はしなかった。後に、彰人より「画家としては正しいが、父親としては正しくない」と論されたことをきっかけに、絵名に父親としての言葉をかけている。 : 好きな食べ物はパンケーキ、チーズケーキ。嫌いな食べ物はにんじん。趣味は家族とのキャンプ<ref name="fanbook01"/>。 ; 宵崎奏の母親 : 声:[[山本亜衣]] : 奏の母親で本編開始時点で故人。享年30歳<ref name="fanbook01"/>。「いつか見た夢を」 サイドストーリーにて人物像の一部が語られたほか、イベント『カーネーション・リコレクション』の過去回想でその容姿と家族との関わりが明かされた。 : 家族思いの優しい女性。病弱のため入院することが多く、奏に心配をかけないように無理に笑っている時期もあったが、それでも病室で奏の父親のオルゴールを聴いていた時は心の底から笑顔になれていた。オルゴールの曲は夫婦で初めて旅行に行った際に奏の父が彼女のために作ったもの。二人で見た沢山のランタンが空に飛んでいく景色があまりにも綺麗であったため、この時の気持ちをいつでも思い出せるように作られた。 : 奏の父の作る曲が好きで、彼の曲を聞くと自然と笑顔になっていた。彼女の笑顔は、奏が音楽で何を伝えたいのか、その想いの原点となっており、まふゆにも自身の母のように笑ってほしいと願っている。 : 奏が幼い頃に病気のため他界。白のカーネーションが好きであり、彼女の葬式では棺の中にカーネーションが入れられた。奏は葬儀の日のことは曖昧にしか覚えていないが、雲一つない綺麗な空に一筋の煙が昇る光景は鮮明に覚えている。 : 好きな食べ物は揚げ出し豆腐、嫌いな食べ物はゴーヤ。趣味はガーデニング<ref name="fanbook01"/>。 ; 雪平(ゆきひら) : 絵名が小学生から中学2年生まで通っていた絵画教室の講師。世間でも有名な画家であり、辛口な講評で知られている。絵名の父の友人でもある。 : 絵名の絵の欠点に当時から気が付いており、講評の際にその問題点について指摘したが、その時の絵名は父親に自身の絵を否定されたばかりで精神状態が不安定であり、雪平の講評が彼女をさらに追い詰めてしまう。結果として絵名はその日を最後に教室を辞めてしまう。 : その後も絵名のことを気にかけていた様子で辞めてからしばらくは連絡を入れたり講習会の手紙を出したりしていた。そして2年後、絵名が再び絵画教室に復学した際にも彼女の絵に厳しい講評をしたが、同時に彼女の欠点を伸ばすための助言もしている。また、2年前の彼女の絵に関しても覚えていた。 ; 夏野 二葉(なつの ふたば) : 声:[[石見舞菜香]] : 絵名の絵画教室時代の友人。心優しくお淑やかな性格をしており、絵名も彼女のことは「二葉」と呼んで親しくしていた。 : 当初、絵の腕前は絵名より低かった。しかし、徐々にその才能を開花させ、絵名が教室を辞める直前には普段、誰かを褒めない雪平がその絵を褒めるほどに成長した。 : 2年後も変わらず教室に通っており、教室のロビーに絵が飾られるほどの評価を受けている。また、東京美術大学を目指しており、そのために毎日教室に通っている。絵名との再会には心から喜んでおり、また以前のような関係に戻りたいと思っている。 : 実は初めて会った時から絵名の絵に惹かれており、現在の彼女の技術が自分より劣っていることを認めながら、それでも彼女に絵を続けてほしいと思っている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} {{デフォルトソート:ふろしえくとせかいのとうしようしんふつ}} [[Category:ゲームの登場人物の一覧]] [[Category:プロジェクトセカイ|*とうしようしんふつ]]
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十波羅蜜寺
十波羅蜜寺(じゅっぱらみつじ)は、香川県三豊市にある真言宗醍醐派の別格本山の寺院である。山号は七宝山。本尊は虚空蔵菩薩。 創建年は不詳。真言宗醍醐派の別格本山であり、本尊の虚空蔵菩薩以外にも、吉祥を招くとされる福徳自在の女神吉祥天を祀っている。 また樹齢約400年のカイヅカイブキ(万寿柏)が植わっており、名所のひとつとなっているほか、1927年(昭和2年)にアメリカから贈られた人形「アナマ・ジュリー」が香川県内で唯一現存している。
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十波羅蜜寺(じゅっぱらみつじ)は、香川県三豊市にある真言宗醍醐派の別格本山の寺院である。山号は七宝山。本尊は虚空蔵菩薩。
{{日本の寺院 |名称 = 十波羅蜜寺 |画像 = {{画像募集中|cat=三豊市}} |所在地 = [[香川県]][[三豊市]]仁尾町仁尾丁220 |院号 = 吉祥院 |宗派 = [[真言宗醍醐派]] |寺格 = 別格本山 |本尊 = [[虚空蔵菩薩]] |創建年 = 不詳 |開基 = |正式名 = 吉祥院 七宝山 十波羅蜜寺 |札所等 = 讃州七福([[吉祥天]]) |文化財 = |地図2 = }} '''十波羅蜜寺'''(じっぱらみつじ)は、[[香川県]][[三豊市]]仁尾町仁尾にある[[真言宗醍醐派]]の[[別格本山]]の[[寺院]]である。山号は七宝山。本尊は[[虚空蔵菩薩]]<ref>{{cite web|url=https://yaokami.jp/1375684/|title=十波羅蜜寺|publisher=八百万の神|accessdate=2023-11-15}}</ref>。 院号は'''吉祥院'''(きちじょういん)で一般的にはこの名前で知られている。また奥之院に[[岩屋妙見宮]]がある。 == 歴史 == 創建年は不詳。[[真言宗醍醐派]]の[[別格本山]]であり、本尊の[[虚空蔵菩薩]]以外にも、吉祥を招くとされる福徳自在の女神吉祥天を祀っている<ref>{{cite web|url=https://www.city.mitoyo.lg.jp/kakuka/seisaku/sangyo/14_1/2/2492.html|title=吉祥院|publisher=三豊市|accessdate=2023-11-15}}</ref>。 また樹齢約400年の[[カイヅカイブキ]](万寿柏)が植わっており、名所のひとつとなっているほか、[[1927年]]([[昭和]]2年)に[[アメリカ]]から贈られた人形「アナマ・ジュリー」が香川県内で唯一現存している<ref>{{cite web|url=http://www.city.mitoyo.lg.jp/hotnews_old/reiwa4/202201hot_1/10474.html|title=平和の願いが込められた人形を見学(仁尾こども園)|publisher=三豊市|accessdate=2023-11-15}}</ref>。 == 交通 == * [[高松自動車道]]「[[三豊鳥坂インターチェンジ]]」より車で約10分。 * [[四国旅客鉄道|JR]]「[[詫間駅]]」より車で約10分。 == 脚注 == <references /> == 外部リンク == * [https://www.city.mitoyo.lg.jp/kakuka/kyouikuiinkai/shogai/3_1/5/791.html 吉祥院] - 三豊市 {{Buddhism-stub}} {{DEFAULTSORT:しつはらみつし}} [[Category:真言宗醍醐派の寺院]] [[Category:三豊市の歴史]] [[Category:三豊市の建築物]]
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ムジキウィス・D・サントス
ムジキウィス・D・サントス (Mudjekeewis Dalisay Santos)は、フィリピンの水産学者。フィリピン農務省国立水産研究開発研究所 (NFRDI) 科学者IV 、フィリピン生化学・分子生物学協会会長、フィリピン国立科学技術アカデミー会員。 フィリピン共和国バギオ生まれ。1992年フィリピン大学バギオ校卒業。国立水産研究開発研究所 (NFRDI) 主任水産養殖者を務め、2008年東京海洋大学大学院修了、博士(海洋科学)。青木宙教授の下で博士研究員を務め、2009年にフィリピンに帰国後、2010年に科学者I、2014年に科学者 II、2021年に科学者 IVが授与された。2018年フィリピン国立科学技術アカデミー会員。2022年フィリピン生化学・分子生物学協会会長。
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ムジキウィス・D・サントス は、フィリピンの水産学者。フィリピン農務省国立水産研究開発研究所 (NFRDI) 科学者IV 、フィリピン生化学・分子生物学協会会長、フィリピン国立科学技術アカデミー会員。
{{Infobox person | name = ムジキウィス・ダリサイ・サントス | image = MDSantos.jpg | birth_date = | birth_place = {{PHI}} [[バギオ]] | birth_name = | nationality = | occupation = | title = | awards = | website = | education = [[フィリピン大学]]バギオ校<br>[[東京海洋大学]]大学院 | alma_mater = | thesis_title = | thesis_url = | thesis_year = | workplaces = 国立水産研究開発研究所 (NFRDI) }} '''ムジキウィス・D・サントス '''(Mudjekeewis Dalisay Santos)は、[[フィリピン]]の[[水産学者]]。[[:w:Department of Agriculture (Philippines)|フィリピン農務省]]国立水産研究開発研究所 (NFRDI) 科学者IV 、フィリピン生化学・分子生物学協会会長、[[:w:National Academy of Science and Technology|フィリピン国立科学技術アカデミー]]会員。 == 人物・経歴 == [[フィリピン共和国]][[バギオ]]生まれ<ref name=":5">{{Cite web |title=STAC-J’s Mudjie Santos: Looking Ahead! {{!}} Philippines Today |url=https://www.philippinestoday.net/archives/200 |access-date=2023-09-05 |language=en-US}}</ref>。1992年[[フィリピン大学]]バギオ校卒業<ref name=":2">{{Cite web |title=NAST Members |url=https://members.nast.ph/index.php/list-of-nast-members/details/1/120 |access-date=2023-03-30 |website=members.nast.ph}}</ref><ref name=":5"/>。国立水産研究開発研究所 (NFRDI) 主任水産養殖者を務め<ref name=":2" /><ref name=":5" />、2008年[[東京海洋大学]]大学院修了、[[博士]](海洋科学)<ref>[https://ci.nii.ac.jp/naid/500000437418 Immuno-hematopoietic cytokines in teleost fish 魚類白血球の増殖・分化に関与するサイトカイン Santos Mudjekeewis Dalisay サントス ムジキウィス ダリサイ]</ref>。[[青木宙]]教授の下で[[博士研究員]]を務め<ref name=":2" /><ref name=":5" />、2009年にフィリピンに帰国後、2010年に科学者I、2014年に科学者 II、2021年に科学者 IVが授与された<ref name=":2" /><ref>{{Cite web |title=Members |url=https://scientificcareersystem.nast.ph/index.php/members |access-date=2023-03-30 |website=scientificcareersystem.nast.ph}}</ref>。2018年[[:w:National Academy of Science and Technology|フィリピン国立科学技術アカデミー]]会員<ref name=":2" /><ref>{{Cite web |last=Malgapu |first=Hans |date=2018-07-12 |title=Santos of Grad. School elected as NAST Academician - |url=https://www.ust.edu.ph/santos-of-grad-school-elected-as-nast-academician/ |access-date=2023-04-03 |language=en-US}}</ref>。2022年フィリピン生化学・分子生物学協会会長<ref name=":3">{{Cite web |title=Board of Directors |url=https://www.psbmb.org/board-of-directors |access-date=2023-03-30 |website=PSBMB |language=en}}</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} {{People-stub}} {{DEFAULTSORT:むしきういすていさんとす}} [[Category:水産学者]] [[Category:日本留学経験者]] [[Category:博士(海洋科学)取得者]] [[Category:東京海洋大学出身の人物]] [[Category:フィリピン大学出身の人物]] [[Category:フィリピン出身の人物]]
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マット・オライリー
マット・オライリー(Matt O'Riley, 2000年11月21日 - )は、ロンドン出身のプロサッカー選手。デンマーク代表。セルティックFC所属。ポジションはミッドフィールダー。 テディントン(英語版)を拠点とするNPLの下部組織に所属した後、2009年に8歳でフラムの下部組織に入団。下部組織内で昇格を続け、最終的にU-18チームとリザーヴチームでレギュラーの座を掴んだ。2017年8月8日、EFLカップ1回戦、アウェイのウィコム・ワンダラーズ戦でトップチーム初出場。 その後2シーズン、主にU-21チームでEFLトロフィーの試合に度々出場したが、トップチームでの出場機会はあまり得られなかった。2020年1月1日、ホームで迎えたレディング戦に途中出場し、チャンピオンシップ初出場。2020年夏、国内外の複数のクラブから関心を寄せられる中、新たな3年契約のオファーを辞退し、フラムから去ることとなった。 2021年1月24日、フラムとの契約を満了し、リーグ1のミルトン・キーンズ・ドンズにフリーで移籍。加入して間もない1月30日、ウィンブルドン戦でプロ初ゴールを記録した。 2021-22シーズン、開幕から印象的な活躍を残し、4ゴールを挙げた11月度のEFL月間最優秀若手選手(英語版)に選出された。 2022年1月20日、4年半契約でスコティッシュ・プレミアシップのセルティックに移籍。移籍金は150万ポンドと報じられている。1月26日、リーグ第23節のハーツ戦で移籍後初出場。2月9日、リーグ第26節のアバディーン戦で移籍後初ゴールを挙げ、勝利に貢献した。4月9日、リーグ第33節のセント・ジョンストン戦では2ゴールを挙げ、チームも7-0で大勝した。シーズン途中の加入であったが主力として活躍し、2021-22シーズンのリーグ優勝に貢献した。 2022年9月6日、ホームのレアル・マドリード戦でUEFAチャンピオンズリーグ初出場。 2023年9月、セルティックとの契約延長に合意し、新たな4年契約を交わした。 イングランドの世代別代表に選出されていたが、母方の血筋からアイルランド、デンマーク、ノルウェーの代表資格も有する。2022年2月には「イングランドの世代別代表でプレイしてきたけれど、同時にデンマーク人としての自覚もあるんだ。母がデンマーク人だから僕もそれなりに話せるし、理解もできる。言葉の面で問題はないと思うよ。もしデンマーク代表から呼ばれることがあれば、断ることはできないだろうね」と述べ、将来的にデンマーク代表を視野に入れていることを明らかにした。 同年3月、U-21デンマーク代表から初招集を受けた。6月14日、U-21欧州選手権予選(英語版)のトルコ戦で初ゴールを記録。 2023年10月、EURO 2024予選のメンバーに負傷離脱者が出たため、A代表に追加召集された。
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マット・オライリーは、ロンドン出身のプロサッカー選手。デンマーク代表。セルティックFC所属。ポジションはミッドフィールダー。
{{サッカー選手 | 名前 = マット・オライリー | 画像 = 2023.07.19 Yokohama F. Marinos - Celtic Glasgow (6-4) - 53062949186 (Matt Oriley).jpg | 画像サイズ = | 画像の説明 = [[セルティックFC|セルティック]]でのオライリー(2023年) | 本名 = Matthew Sean O'Riley<ref>{{Cite web2 |format=PDF |url=https://www.efl.com/siteassets/efl-documents/efl-professional-retain-list--free-transfers---2017-18.pdf |title=CLUB LIST OF REGISTERED PLAYERS AS AT 19th MAY 2018 |work=[[イングリッシュ・フットボールリーグ]] |language=en |page=16 |df=ja |access-date=2018-06-17 |archive-url=https://web.archive.org/web/20181010184105/https://www.efl.com/siteassets/efl-documents/efl-professional-retain-list--free-transfers---2017-18.pdf |archive-date=2018-10-10}}</ref> | 愛称 = | カタカナ表記 = | アルファベット表記 = Matt O'Riley | 原語名 = | 原語表記 = | 国 = {{DEN}}<br/>{{ENG}} | 生年月日 = {{生年月日と年齢|2000|11|21}} | 出身地 = [[ロンドン]]・[[ハウンズロー区]] | 没年月日 = <!--{{死亡年月日と没年齢|2000|11|21|y|m|d}}--> | 身長 = 187cm | 体重 = 77kg | 所属チーム名 = {{Flagicon|SCO}} [[セルティックFC|セルティック]] | ポジション = [[ミッドフィールダー|MF]] | 背番号 = 33 | 利き足 = 左足 | ユース年1 = 2007-2009 | ユースクラブ1 = {{Flagicon|ENG}} NPL | ユース年2 = 2009-2017 | ユースクラブ2 = {{Flagicon|ENG}} [[フラムFC|フラム]] | 年1 = 2017-2020 | クラブ1 = {{Flagicon|ENG}} フラム | 出場1 = 1 | 得点1 = 0 | 年2 = 2021-2022 | クラブ2 = {{Flagicon|ENG}} [[ミルトン・キーンズ・ドンズFC|ミルトン・キーンズ・ドンズ]] | 出場2 = 49 | 得点2 = 10 | 年3 = 2022- | クラブ3 = {{Flagicon|SCO}} [[セルティックFC|セルティック]] | 出場3 = 54 | 得点3 = 7 | クラブ成績更新日 = 2023年11月16日 | 代表年1 = 2015-2016 | 代表1 = {{Fbu|17|ENG|name=イングランド U-16}} | 代表出場1 = 4 | 代表得点1 = 0 | 代表年2 = 2017 | 代表2 = {{Fbu|19|ENG|name=イングランド U-18}} | 代表出場2 = 1 | 代表得点2 = 0 | 代表年3 = 2022 | 代表3 = {{Fbu|21|DEN|name=デンマーク U-21}} | 代表出場3 = 6 | 代表得点3 = 2 | 代表年4 = 2023- | 代表4 = {{Fb|DEN}} | 代表出場4 = 1 | 代表得点4 = 0 | 代表成績更新日 = 2023年12月17日 | 監督年1 = | 監督チーム1 = | medaltemplates = }} '''マット・オライリー'''(Matt O'Riley, [[2000年]][[11月21日]] - )は、[[ロンドン]]出身の[[プロサッカー選手]]。[[サッカーデンマーク代表|デンマーク代表]]。[[セルティックFC]]所属。ポジションは[[ミッドフィールダー]]。 == 経歴 == === クラブ === {{仮リンク|テディントン|en|Teddington}}を拠点とするNPLの下部組織に所属した後、2009年に8歳で[[フラムFC|フラム]]の下部組織に入団<ref>{{Cite web2 |author=Gabriel Reef Ramsey |url=https://alloutfootball.co.uk/5-signings-that-the-new-bradford-city-manager-should-consider/ |title=5 Signings that the new Bradford City manager should consider |work=All Out Football |language=en |df=ja |date=2020-12-16 |access-date=2021-01-24 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210125113147/https://alloutfootball.co.uk/5-signings-that-the-new-bradford-city-manager-should-consider/ |archive-date=2021-01-25}}</ref>。下部組織内で昇格を続け、最終的にU-18チームとリザーヴチームでレギュラーの座を掴んだ<ref name="mkd20210124">{{Cite web2 |url=https://www.mkdons.com/news/2021/january/oriley-makes-mk-dons-move/ |title=O'Riley makes MK Dons move |work=[[ミルトン・キーンズ・ドンズFC]] |language=en |df=ja |date=2021-01-24 |access-date=2021-01-24}}</ref>。2017年8月8日、[[EFLカップ]]1回戦、アウェイの[[ウィコム・ワンダラーズFC|ウィコム・ワンダラーズ]]戦でトップチーム初出場<ref>{{Cite web2 |url=https://www.bbc.com/sport/football/40785921 |title=Wycombe Wanderers 0-2 Fulham |work=[[BBCスポーツ]] |language=en |df=ja |date=2017-08-08 |access-date=2021-01-24}}</ref>。 その後2シーズン、主にU-21チームで[[EFLトロフィー]]の試合に度々出場したが、トップチームでの出場機会はあまり得られなかった。2020年1月1日、ホームで迎えた[[レディングFC|レディング]]戦に途中出場し、[[EFLチャンピオンシップ|チャンピオンシップ]]初出場<ref>{{Cite web2 |url=https://www.bbc.com/sport/football/50908502 |title=Fulham 1-2 Reading: John Swift sets Royals on way to victory |work=BBCスポーツ |language=en |df=ja |date=2020-01-01 |access-date=2021-01-24}}</ref>。2020年夏、国内外の複数のクラブから関心を寄せられる中、新たな3年契約のオファーを辞退し、フラムから去ることとなった<ref>{{Cite web2 |url=https://www.skysports.com/football/news/11681/12010655/fulham-youngster-matt-oriley-to-leave-club-amid-championship-dutch-and-belgian-interest |title=Fulham youngster Matt O'Riley to leave club amid Championship, Dutch and Belgian interest |work=[[Sky Sports]] |language=en |df=ja |date=2020-06-19 |access-date=2021-01-24}}</ref>。 2021年1月24日、フラムとの契約を満了し、[[EFLリーグ1|リーグ1]]の[[ミルトン・キーンズ・ドンズFC|ミルトン・キーンズ・ドンズ]]にフリーで移籍<ref name="mkd20210124"/>。加入して間もない1月30日、[[AFCウィンブルドン|ウィンブルドン]]戦でプロ初ゴールを記録した<ref>{{Cite web2 |url=https://www.bbc.com/sport/football/55776647 |title=AFC Wimbledon 0-2 Milton Keynes Dons |work=BBCスポーツ |language=en |df=ja |date=2021-01-30 |access-date=2021-01-30}}</ref>。 2021-22シーズン、開幕から印象的な活躍を残し、4ゴールを挙げた11月度の{{仮リンク|EFL月間最優秀若手選手|en|EFL Young Player of the Month}}に選出された<ref name="mkd20211211">{{Cite web2 |url=https://www.mkdons.com/news/2021/december/oriley-named-efls-young-player-of-the-month |title=O'Riley named EFL's Young Player of the Month |work=ミルトン・キーンズ・ドンズFC |language=en |df=ja |date=2021-12-11 |access-date=2021-12-11}}</ref>。 2022年1月20日、4年半契約で[[スコティッシュ・プレミアシップ]]の[[セルティックFC|セルティック]]に移籍。移籍金は150万ポンドと報じられている<ref>{{Cite web2 |url=https://www.celticfc.com/news/2022/january/20/celtic-delighted-to-sign-matt-o-riley/ |title=Celtic delighted to sign Matt O'Riley |work=[[セルティックFC]] |language=en |df=ja |date=2022-01-20 |access-date=2022-01-20}}</ref><ref>{{Cite web2 |author=Andrew Smith |url=https://www.scotsman.com/sport/football/celtic/matt-oriley-to-celtic-a-potential-tom-rogic-understudy-3535079 |title=Matt O'Riley to Celtic: A potential Tom Rogic understudy who could play a major role against Rangers |work=[[ザ・スコッツマン]] |language=en |df=ja |date=2022-01-20 |access-date=2022-04-24}}</ref>。1月26日、リーグ第23節の[[ハート・オブ・ミドロシアンFC|ハーツ]]戦で移籍後初出場<ref>{{Cite web2 |author=Nick McPheat |url=https://www.bbc.com/sport/football/60038982 |title=Hearts 1-2 Celtic: Postecoglou hails Celtic's 'resilience & grit' |work=BBCスポーツ |language=en |df=ja |date=2022-01-26 |access-date=2022-02-02}}</ref>。2月9日、リーグ第26節の[[アバディーンFC|アバディーン]]戦で移籍後初ゴールを挙げ、勝利に貢献した<ref>{{Cite web2 |author=Nick McPheat |url=https://www.bbc.com/sport/football/60225010 |title=Aberdeen 2-3 Celtic: League leaders survive second-half comeback in five-goal thriller |work=BBCスポーツ |language=en |df=ja |date=2022-02-09 |access-date=2022-02-10}}</ref>。4月9日、リーグ第33節の[[セント・ジョンストンFC|セント・ジョンストン]]戦では2ゴールを挙げ、チームも7-0で大勝した<ref>{{Cite web2 |author=Thomas Duncan |url=https://www.bbc.com/sport/football/60903101 |title=Celtic 7-0 St Johnstone: Leaders nine points clear after crushing win |work=BBCスポーツ |language=en |df=ja |date=2022-04-09 |access-date=2022-04-10}}</ref>。シーズン途中の加入であったが主力として活躍し、2021-22シーズンのリーグ優勝に貢献した<ref>{{Cite web |author=Alison Conroy |url=https://www.skysports.com/football/news/11787/12606937/celtic-win-scottish-premiership-title-after-dundee-united-draw |title=Celtic win Scottish Premiership title after Dundee United draw |work=Sky Sports |language=en |df=ja |date=2022-05-12 |access-date=2023-01-01}}</ref>。 2022年9月6日、ホームの[[レアル・マドリード]]戦で[[UEFAチャンピオンズリーグ]]初出場<ref>{{Cite web2 |url=https://www.skysports.com/football/celtic-vs-real-madrid/teams/477352 |title=Starting Lineups - Celtic vs R Madrid |work=Sky Sports |language=en |df=ja |date=2022-09-06 |access-date=2023-01-01}}</ref>。 2023年9月、セルティックとの契約延長に合意し、新たな4年契約を交わした<ref>{{Cite web2 |url=https://www.bbc.com/sport/football/66970195 |title=Matt O'Riley: Celtic midfielder signs new four-year deal |work=BBCスポーツ |language=en |df=ja |date=2023-09-30 |access-date=2023-09-30}}</ref>。 === 代表 === [[イングランド]]の世代別代表に選出されていたが、母方の血筋から[[アイルランド]]、[[デンマーク]]、[[ノルウェー]]の[[サッカー選手の代表資格|代表資格]]も有する<ref>{{Cite web2 |author=Andrew Smith |url=https://www.scotsman.com/sport/football/celtic/matt-oriley-to-celtic-a-potential-tom-rogic-understudy-3535079 |title=Matt O'Riley to Celtic: A potential Tom Rogic understudy who could play a major role against Rangers |work=ザ・スコッツマン |language=en |df=ja |date=2022-01-20 |access-date=2022-02-10}}</ref>。2022年2月には「イングランドの世代別代表でプレイしてきたけれど、同時にデンマーク人としての自覚もあるんだ。母がデンマーク人だから僕もそれなりに話せるし、理解もできる。言葉の面で問題はないと思うよ。もしデンマーク代表から呼ばれることがあれば、断ることはできないだろうね」と述べ、将来的にデンマーク代表を視野に入れていることを明らかにした<ref>{{Cite web2 |author=Ewan Paton |url=https://uk.sports.yahoo.com/news/celtic-ace-matt-oriley-wont-181139458.html |title=Celtic ace Matt O'Riley 'won't say no' to Denmark amid World Cup dream |work=Yahoo! Sports |language=en |df=ja |date=2022-02-16 |access-date=2023-01-04}}</ref>。 同年3月、[[U-21サッカーデンマーク代表|U-21デンマーク代表]]から初招集を受けた<ref>{{Cite web2 |url=https://dbu.dk/nyheder/2022/marts/flere-nye-ansigter-paa-u21/ |title=Flere nye ansigter på U21 |work=[[デンマークサッカー協会]] |language=da |df=ja |access-date=2022-03-15}}</ref>。6月14日、{{仮リンク|UEFA U-21欧州選手権2023 (予選)|label=U-21欧州選手権予選|en|2023 UEFA European Under-21 Championship qualification}}の[[U-21サッカートルコ代表|トルコ]]戦で初ゴールを記録<ref>{{Cite web2 |url=https://www.skysports.com/football/denmark-u21-vs-turkey-u21/live/460366 |title=Live Commentary - Denmark U21 vs Turkey U21 |work=Sky Sports |language=en |df=ja |access-date=2023-01-01 |archive-url=https://web.archive.org/web/20230101175528/https://www.skysports.com/football/denmark-u21-vs-turkey-u21/live/460366 |archive-date=2023-01-01}}</ref><ref>{{Cite web2 |author=M.Ross |url=https://celtsarehere.com/video-matt-oriley-scores-first-goal-for-denmark/ |title=Video: Matt O'Riley Scores First Goal For Denmark |work=Celts Are Here |language=en |df=ja |date=2022-06-14 |access-date=2023-01-01}}</ref>。 2023年10月、[[UEFA EURO 2024予選・グループH|EURO 2024予選]]のメンバーに負傷離脱者が出たため、A代表に追加召集された<ref>{{Cite web2 |author=Frederik Mahler Bank |url=https://www.dr.dk/sporten/fodbold/landsholdet/kasper-hjulmand-efterudtager-tre-spillere-til-afgoerende-kampe |title=Kasper Hjulmand efterudtager tre spillere til afgørende kampe |work=[[デンマーク放送協会]] |language=da |df=ja |date=2023-11-10 |access-date=2023-11-16}}</ref><ref>{{Cite web2 |author=田島大 |url=https://www.footballista.jp/news/169163 |title=セルティックでブレイク中のオライリー、無所属時代を経てデンマーク代表に上り詰める |work=footballista |df=ja |date=2023-10-23 |access-date=2023-11-16}}</ref>。11月20日、[[サッカー北アイルランド代表|北アイルランド]]戦でA代表初出場<ref>{{Cite web2 |author=Frederik Josephsen Kargo |url=https://sport.tv2.dk/fodbold/2023-11-20-danmark-taber-til-bundhold-i-sidste-kvalkamp |title=Danmark taber til bundhold i sidste kvalkamp |work=TV2 |language=da |df=ja |date=2023-11-20 |access-date=2023-12-07}}</ref>。 == 個人成績 == === クラブ === {{サッカー選手国内成績表 top|yy}} {{サッカー選手国内成績表 th|イングランド|all}} |- |[[フットボールリーグ・チャンピオンシップ2017-2018|2017-18]]||rowspan="3"|[[フラムFC|フラム]]||rowspan="3"|33||[[EFLチャンピオンシップ|チャンピオンシップ]]||0||0||2||0||0||0||2||0 |- |[[プレミアリーグ2018-2019|2018-19]]||[[プレミアリーグ]]||0||0||1||0||0||0||1||0 |- |[[EFLチャンピオンシップ2019-2020|2019-20]]||チャンピオンシップ||1||0||1||0||0||0||2||0 |- |[[EFLリーグ1 2020-2021|2020-21]]||rowspan="2"|[[ミルトン・キーンズ・ドンズFC|ミルトン・キーンズ・ドンズ]]||17||rowspan="2"|[[EFLリーグ1|リーグ1]]||23||3||colspan="2"|-||colspan="2"|-||23||3 |- |[[EFLリーグ1 2021-2022|2021-22]]||7||26||7||1||0||1||0||28||7 {{サッカー選手国内成績表 th|スコットランド|all}} |- |[[:en:2021–22 Scottish Premiership|2021-22]]||rowspan="3"|[[セルティックFC|セルティック]]||rowspan="3"|33||rowspan="3"|[[スコティッシュ・プレミアシップ|S・プレミア]]||16||4||colspan="2"|-||2||0||18||4 |- |[[:en:2022–23 Scottish Premiership|2022-23]]||38||3||3||0||3||1||44||4 |- |[[:en:2023–24 Scottish Premiership|2023-24]]|| || || || || || || || {{サッカー選手国内成績表 通算始|4|イングランド|チャンピオンシップ}}1||0||3||0||0||0||4||0 {{サッカー選手国内成績表 通算行|イングランド|プレミアリーグ}}0||0||1||0||0||0||1||0 {{サッカー選手国内成績表 通算行|イングランド|リーグ1}}49||10||1||0||1||0||51||10 {{サッカー選手国内成績表 通算行|スコットランド|S・プレミア}}54||7||3||0||5||1||62||8 {{サッカー選手国内成績表 通算終}}104||17||8||0||6||1||118||18 |} === 代表 === {{サッカー代表個人成績|デンマーク|1}} |- |2023||1||0 |- !通算||1||0 |} == タイトル == === クラブ === ;セルティック * スコティッシュ・プレミアシップ(2021-22<ref>{{Cite web2 |author=Thomas Duncan |url=https://www.bbc.com/sport/football/61316038 |title=Dundee United 1–1 Celtic: Ange Postecoglou's side reclaim league title |work=BBCスポーツ |language=en |df=ja |date=2022-05-11 |access-date=2022-05-12}}</ref>、2022-23<ref>{{Cite web2 |author=Martin Watt |url=https://www.bbc.com/sport/football/65439690 |title=Hearts 0-2 Celtic: Ange Postecoglou's side seal back-to-back titles |work=BBCスポーツ |language=en |df=ja |date=2023-05-07 |access-date=2023-05-07}}</ref>) * [[スコティッシュカップ]](2022-23<ref>{{Cite web2 |author=Thomas Duncan |url=https://www.bbc.com/sport/football/65730831 |title=Celtic 3–1 Inverness CT: Ange Postecoglou's side win Scottish Cup to claim treble |work=BBCスポーツ |language=en |df=ja |date=2023-06-03 |access-date=2023-06-03}}</ref>) * [[スコティッシュリーグカップ]](2022-23<ref>{{Cite web2 |author=Colin Moffat |url=https://www.bbc.com/sport/football/64688959 |title=Viaplay Cup final: Rangers 1-2 Celtic - Kyogo double delivers the trophy for holders |work=BBCスポーツ |language=en |df=ja |date=2023-02-26 |access-date=2023-02-26}}</ref>) === 個人 === * {{仮リンク|EFL月間最優秀若手選手|en|EFL Young Player of the Month}}(2021年11月<ref name="mkd20211211"/>) * スコティッシュ・プレミアシップ月間最優秀ゴール(2022年4月<ref>{{Cite web2 |author=Joe Sullivan |url=https://www.celticfc.com/news/2022/may/06/matt-o-riley-s-goal-of-last-month-and-a-goal-for-this-month/ |title=O'Riley's goal of last month and a goal for this month |work=セルティックFC |language=en |df=ja |date=2022-05-06 |access-date=2022-05-08}}</ref>) == 脚注 == {{Reflist|2}} == 外部リンク == {{Commonscat|Matt O'Riley}} * {{Sports links}} * {{Twitter|mattoriley8}} * {{Instagram|mattoriley8}} {{セルティックFCのメンバー}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おらいりい まつと}} [[Category:デンマークのサッカー選手]] [[Category:イングランドのサッカー選手]] [[Category:サッカーデンマーク代表選手]] [[Category:フラムFCの選手]] [[Category:ミルトン・キーンズ・ドンズFCの選手]] [[Category:セルティックFCの選手]] [[Category:ハウンズロー区出身の人物]] [[Category:2000年生]] [[Category:存命人物]]
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自転しながら公転する
『自転しながら公転する』(じてんしながらこうてんする)は、山本文緒による日本の長編小説。月刊小説誌「小説新潮」に2016年1月号から2019年5月号まで不定期に掲載され、プロローグとエピローグを書き下ろして大幅に改稿し、2020年9月に新潮社より刊行された。2022年11月には文庫化された。第16回中央公論文芸賞、第27回島清恋愛文学賞受賞。 母の介護のために憧れであった東京から実家のある茨城に戻った32歳の女性が悶々とした日々を過ごしていく中で出会った、優しいけれど経済的に不安な男性との関係が深まっては離れていくという道を繰り返し、様々な不安に苛まれながらもひたむきに幸せを追い求めていく姿を描く。 読売テレビ・日本テレビ系のスペシャルドラマとして、2023年12月14日から12月28日まで3週連続で放送された。主演は松本穂香。
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『自転しながら公転する』(じてんしながらこうてんする)は、山本文緒による日本の長編小説。月刊小説誌「小説新潮」に2016年1月号から2019年5月号まで不定期に掲載され、プロローグとエピローグを書き下ろして大幅に改稿し、2020年9月に新潮社より刊行された。2022年11月には文庫化された。第16回中央公論文芸賞、第27回島清恋愛文学賞受賞。 母の介護のために憧れであった東京から実家のある茨城に戻った32歳の女性が悶々とした日々を過ごしていく中で出会った、優しいけれど経済的に不安な男性との関係が深まっては離れていくという道を繰り返し、様々な不安に苛まれながらもひたむきに幸せを追い求めていく姿を描く。
{{基礎情報 書籍 | title = 自転しながら公転する | orig_title = Spinning Around My Whirl | image = <!-- 画像(「[[」「]]」や「画像:」「Image:」は不要) --> | image_size = <!-- 画像の幅(「px」は不要) --> | image_caption = <!-- 画像の概要 --> | editor = 桜井京子<ref name="tvlife632050">{{Cite news2|df=ja|title=松本穂香主演、藤原季節共演で直木賞作家・山本文緒原作の『自転しながら公転する』をドラマ化【コメントあり】|url=https://www.tvlife.jp/drama/632050|newspaper=[[TV LIFE|TV LIFE web]]|publisher=[[ワン・パブリッシング]]|date=2023-11-16|accessdate=2023-11-16}}</ref><ref name="real1490715">{{Cite news2|df=ja|title=松本穂香主演の3週連続SPドラマ『自転しながら公転する』放送決定 共演に藤原季節ら|url=https://realsound.jp/movie/2023/11/post-1490715.html|newspaper=[[リアルサウンド|Real Sound映画部]]|publisher=blueprint|date=2023-11-16|accessdate=2023-11-16}}</ref> | author = [[山本文緒]] | translator = <!-- 訳者 --> | illustrator = <!-- イラスト --> | published = [[2020年]][[9月25日]]<!-- 単行本奥付の発行日 --> | publisher = [[新潮社]] | genre = 長編小説 | country = {{JPN}} | language = [[日本語]] | type = [[四六判]]変型 | pages = 479 | preceded_by = <!-- 前作 --> | followed_by = <!-- 次作 --> | website = [https://www.shinchosha.co.jp/jiten-kouten/#book www.shinchosha.co.jp] | id = {{ISBN2|978-4-10-308012-1}} | id2 = {{ISBN2|978-4-10-136063-8}} | id2type = [[文庫判]] | portal1 = 文学 }} 『'''自転しながら公転する'''』(じてんしながらこうてんする)は、[[山本文緒]]による日本の[[長編小説]]。月刊[[小説誌]]「[[小説新潮]]」に[[2016年]]1月号から[[2019年]]5月号まで不定期に掲載され、プロローグとエピローグを書き下ろして大幅に改稿し、[[2020年]]9月に[[新潮社]]より刊行された<ref>本巻末に記載。</ref><ref name="yamamoto">{{Cite web2|df=ja|title=山本文緒『自転しながら公転する』|url=https://www.shinchosha.co.jp/book/308012/|publisher=[[新潮社]]|accessdate=2023-11-16}}</ref>。[[2022年]]11月には文庫化された<ref>文庫版{{Cite web2|df=ja|title=山本文緒『自転しながら公転する』|url=https://www.shinchosha.co.jp/book/136063/|publisher=新潮社|accessdate=2023-11-16}}</ref>。第16回[[中央公論文芸賞]]<ref>{{Cite news2|df=ja|title=中公文芸賞に山本文緒さん|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE209DY0Q1A820C2000000/|newspaper=[[日本経済新聞]]|publisher=[[日本経済新聞社]]|date=2021-08-20|accessdate=2023-11-16}}</ref>、第27回[[島清恋愛文学賞]]<ref>{{Cite news2|df=ja|title=島清文学賞に山本文緒|url=https://www.kanaloco.jp/news/culture/bunka/article-523404.html|newspaper=[[神奈川新聞|カナロコ]]|publisher=神奈川新聞社|date=2021-06-01|accessdate=2023-11-16}}</ref>受賞。 母の介護のために憧れであった東京から実家のある茨城に戻った32歳の女性が悶々とした日々を過ごしていく中で出会った、優しいけれど経済的に不安な男性との関係が深まっては離れていくという道を繰り返し、様々な不安に苛まれながらもひたむきに幸せを追い求めていく姿を描く{{R|yamamoto}}。 == あらすじ == {{要あらすじ|date=2023年11月}} == 登場人物 == ; 与野都(よの みやこ)〈32〉 : 実家がある茨城県牛久市のアウトレットモールにあるアパレルショップの店員。 : 東京で働いていたが、家庭の事情により実家に戻ってきている。 ; 羽島貫一(はしま かんいち)〈30〉 : 都と同じアウトレットモールにある回転寿司店の店員。趣味は読書。 ; ニャン : 貫一と同じ回転寿司店で働くベトナム出身のアルバイト店員。 ; 絵里 : 都の高校時代の同級生。2年前に結婚している。 ; そよか : 都の幼なじみ。文具メーカーの営業を担当している。 ; 亀沢 : 都が働くアパレルショップの店長で既婚者。2人の娘がいる。 ; 東馬 : 都が働くアパレルショップのマネージング・ディレクター。 == 書籍情報 == * [[山本文緒]]『自転しながら公転する』 ** 単行本:2020年{{0}}9月28日発売<!-- 発行日は9月25日 -->、[[新潮社]]、{{ISBN2|978-4-10-308012-1}} ** 文庫本:2022年11月{{0}}1日発売、[[新潮文庫]]、{{ISBN2|978-4-10-136063-8}} == テレビドラマ == {{基礎情報 テレビ番組 | 番組名 = 自転しながら公転する<br />{{small|''Spinning Around My Whirl''}} | 画像 = <!--入力例:Example.svg--> | 画像サイズ = <!--pxを含まない入力例:200--> | 画像サイズ自動補正比 = | 画像の代替テキスト = | 画像説明 = | 別名 = | ジャンル = [[テレビドラマ]] | 原作 = [[山本文緒]] | 原案 = | 企画 = [[新潮社]](協力) | 構成 = | 脚本 = [[池田奈津子]] | 台本 = | 総監督 = | 監督 = <!--「ディレクター」も使用可--> | 演出 = 淵上正人([[共同テレビジョン|共同テレビ]]) | 監修 = | クリエイティブ・ディレクター = | 司会者 = | 出演者 = [[松本穂香]]<br />[[藤原季節]]<br />[[長谷川慎 (ダンサー)|長谷川慎]]([[THE RAMPAGE from EXILE TRIBE|THE RAMPAGE]])<br />[[小林涼子]]<br />[[野村麻純]]<br />[[田中偉登]]<br />[[神保悟志]]<br />[[鶴田真由]] | 審査員 = | 声の出演 = | ナレーター = | アナウンサー = | テーマ曲作者 = | 音楽 = 戸田有里子 | 作曲 = | OPテーマ = | EDテーマ = [[上白石萌音]]「Loop」 | 国・地域 = {{JPN}} | 言語 = [[日本語]] | 時代設定 = | シーズン数 = | シリーズ数 = | 話数 = | 各話リスト = | 各話の長さ = <!--「製作」ヘッダ--> | チーフ・プロデューサー = 中間利彦 | プロデューサー = 矢部誠人<br />水野綾子(共同テレビ) | 制作プロデューサー = | 撮影地 = [[牛久市]]<br />[[山北町]] | 撮影監督 = | 撮影体制 = | 編集 = | 制作 = 共同テレビ(協力) | 製作 = [[讀賣テレビ放送|読売テレビ]] | 配給 = | 製作費 = <!--「放送」ヘッダ--> | ヘッダ = 放送 <!--既定値は「放送」--> | ネット配信 = | 放送局 = [[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]] | 映像形式 = [[文字多重放送]] | 音声形式 = [[ステレオ放送]] | 放送国 = {{JPN}} | 放送期間 = [[2023年]][[12月14日]] - [[12月28日]] | 放送時間 = 木曜 23:59 - 翌 0:54 | 放送枠 = | 放送分 = 55 | 放送回数 = 3 | 外部リンク = https://www.ytv.co.jp/jitenkouten/ | 外部リンク名 = 公式サイト <!--脚注--> | 特記事項 = }} [[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]・[[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系]]のスペシャルドラマとして、[[2023年]][[12月14日]]から[[12月28日]]まで3週連続で放送された{{R|tvlife632050|real1490715}}。主演は[[松本穂香]]{{R|tvlife632050|real1490715}}。 === キャスト === ; 与野都〈30〉 : 演 - [[松本穂香]] ; 羽島貫一〈30〉 : 演 - [[藤原季節]]{{R|tvlife632050|real1490715}} ; ニャン〈22〉 : 演 - [[長谷川慎 (ダンサー)|長谷川慎]]([[THE RAMPAGE from EXILE TRIBE|THE RAMPAGE]]){{R|tvlife632050|real1490715}} ; 小島そよか〈30〉 : 演 - [[小林涼子]]{{R|tvlife632050|real1490715}} ; 柏崎絵里〈30〉 : 演 - [[野村麻純]]{{R|tvlife632050|real1490715}} ; 檜山優 : 演 - [[田中偉登]]<ref name="caststaff">{{Cite web2|df=ja|title=キャスト・スタッフ|url=https://www.ytv.co.jp/jitenkouten/#cast|work=自転しながら公転する|publisher=[[讀賣テレビ放送]]|accessdate=2023-11-21}}</ref> ; 与野修〈57〉 : 演 - [[神保悟志]]{{R|tvlife632050|real1490715}} ; 与野桃枝〈56〉 : 演 - [[鶴田真由]]{{R|tvlife632050|real1490715}} === スタッフ === * 原作 - [[山本文緒]]『自転しながら公転する』([[新潮文庫]]刊){{R|tvlife632050}} * 脚本 - [[池田奈津子]]{{R|tvlife632050}} * 演出 - 渕上正人([[共同テレビジョン|共同テレビ]]){{R|caststaff}} * 音楽 - 戸田有里子{{R|tvlife632050}} * 主題歌 - [[上白石萌音]]「Loop」([[ポリドール・レコード#日本のポリドール|Polydor Records]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2303406/full/|title=上白石萌音、松本穂香主演ドラマ『自転しながら公転する』主題歌担当 作詞に参加「作品を彩る1ピースになれたら幸せ」|website=ORICON NEWS|publisher=[[オリコン#企業グループ|oricon ME]]|date=2023-11-21|accessdate=2023-11-21}}</ref> * ベトナム語発音指導 - グエン・アイン・トゥー * 寿司所作指導 - 榮寿司、すし文化講座寿司道 * 警察監修 - [[古谷謙一]] * アクションコーディネーター - 根本太樹 * チーフプロデューサー - 中間利彦{{R|caststaff}} * プロデューサー - {{出典範囲|text1=矢部誠人、水野綾子(共同テレビ)|ref1={{R|caststaff}}}} * 企画協力 - [[新潮社]] * 制作協力 - 共同テレビ * 制作著作 - [[讀賣テレビ放送|読売テレビ]] === 放送日程 === {| class="wikitable" style="text-align:center" |- !各話!!放送日!!サブタイトル<ref>[https://tver.jp/series/srtt7k5063 TVer 自転しながら公転する]</ref> |- |第1話||12月14日 |最悪な出会い |- |- |第2話||12月21日 |ふたりの距離 |- |- |第3話||12月28日 |足りないふたり |- |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == {{dl2 | 小説 | * [https://www.shinchosha.co.jp/jiten-kouten/ 山本文緒『自転しながら公転する』特設サイト] - 新潮社 | テレビドラマ | * [https://www.ytv.co.jp/jitenkouten/ 自転しながら公転する] - 読売テレビ }} {{Lit-stub}} {{Tv-stub}} {{デフォルトソート:してんしなからこうてんする}} [[Category:2016年の小説]] [[Category:日本の小説]] [[Category:新潮社の出版物]] [[Category:茨城県を舞台とした小説]] [[Category:介護を題材とした作品]] [[Category:日本の恋愛小説]] [[Category:2023年のテレビドラマ]] [[Category:読売テレビのスペシャルドラマ]] [[Category:日本の小説を原作とするテレビドラマ]] [[Category:茨城県を舞台としたテレビドラマ]] [[Category:日本の恋愛ドラマ]] [[Category:共同テレビのテレビドラマ]]
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1907年世界体操競技選手権
1907年世界体操競技選手権(1907ねんせかいたいそうきょうぎせんしゅけん)は、1907年(明治40年)6月30日にボヘミア王国のプラハで開催された第3回世界体操競技選手権大会である。 国際体操連盟の公式文書では、ボヘミアの選手が獲得したメダルはチェコスロバキアのメダルとして認められている。
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1907年世界体操競技選手権(1907ねんせかいたいそうきょうぎせんしゅけん)は、1907年(明治40年)6月30日にボヘミア王国のプラハで開催された第3回世界体操競技選手権大会である。
'''1907年世界体操競技選手権'''(1907ねんせかいたいそうきょうぎせんしゅけん)は、[[1907年]]([[明治]]40年)[[6月30日]]に[[ボヘミア王国]]の[[プラハ]]で開催された第3回[[世界体操競技選手権]]大会である。 == 競技結果 == === 男子 === {| {{MedalistTable|type=種目}} |- | 団体総合 | {{BOH}}<br />{{small|[[:en:Josef Čada|Josef Čada]]<br />[[:en:František Erben|František Erben]]<br />[[:en:Bohumil Honzátko|Bohumil Honzátko]]<br />Karel Sal<br />Josef Seidl<br />[[:en:Karel Starý|Karel Starý]]}} | {{FRA}}<br />{{small|[[:en:Joseph Castiglioni|Joseph Castiglioni]]<br />Georges Charmoille<br />[[:en:Joseph Lux|Joseph Lux]]<br />[[:en:Jules Rolland|Jules Rolland]]<br />{{仮リンク|ルイ・セグラ|en|Louis Ségura}}<br />François Vidal}} | {{BEL}}<br />{{small|Herman Carsau<br />Louis de Winter<br />Paul Giesenfeld<br />Karel Lannie<br />Paul Mangin<br />Leo Pouwels}} |- | 個人総合 | [[:en:Josef Čada|Josef Čada]]<br /><small>{{BOH}}</small> | [[:en:Jules Rolland|Jules Rolland]]<br /><small>{{FRA}}</small> | [[:en:František Erben|František Erben]]<br /><small>{{BOH}}</small> |- | あん馬 | [[:en:František Erben|František Erben]]<br /><small>{{BOH}}</small> | [[:en:Jules Rolland|Jules Rolland]]<br /><small>{{FRA}}</small> | Karel Sal<br /><small>{{BOH}}</small> |- | 平行棒 | [[:en:Joseph Lux|Joseph Lux]]<br /><small>{{FRA}}</small> | [[:en:Josef Čada|Josef Čada]]<br /><small>{{BOH}}</small> | {{仮リンク|ルイ・セグラ|en|Louis Ségura}}<br /><small>{{FRA}}</small><hr>[[:en:František Erben|František Erben]]<br /><small>{{BOH}}</small> |- | 鉄棒 | Georges Charmoille<br /><small>{{FRA}}</small><hr>[[:en:František Erben|František Erben]]<br /><small>{{BOH}}</small> | 受賞者なし | [[:en:Jules Rolland|Jules Rolland]]<br /><small>{{FRA}}</small> |} <ref name="sports">{{cite web|title=Sports 123: Gymnastics |url=http://sports123.com/gym/index.html |publisher=sports123.com |accessdate=16 Nov 2023 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111007001033/http://sports123.com/gym/index.html |archivedate=07 Oct 2011 }}</ref> <ref name="siccsports-t">{{cite web|title=Historical Medallists - Team |url=http://iis.siccsports.com/Sports/Medals/Details?id=GA122N10&lang=en |publisher=siccsports.com |accessdate=16 Nov 2023 |url-status=dead |date=2014-07-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20161009183146/http://iis.siccsports.com/Sports/Medals/Details?id=GA122N10&lang=en |archivedate=2016-10-09 }}</ref> <ref name="siccsports-i">{{cite web|title=Historical Medallists - Individual |url=http://iis.siccsports.com/Sports/Medals/Details?id=GA121N10&lang=en |publisher=siccsports.com |accessdate=16 Nov 2023 |url-status=dead |date=2014-07-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20161009182832/http://iis.siccsports.com/Sports/Medals/Details?id=GA121N10&lang=en |archivedate=2016-10-09 }}</ref> == 国別メダル受賞数 == {| {{RankedMedalTable}} |- | 1 ||align="left"| {{BOH}} || 4 || 1 || 3 || 8 |- | 2 ||align="left"| {{FRA}} || 2 || 3 || 2 || 7 |- | 3 ||align="left"| {{BEL}} || 0 || 0 || 1 || 1 |- !colspan=2|'''合計'''|| 6 || 4 || 6 || 16 |} [[国際体操連盟]]の公式文書では、ボヘミアの選手が獲得したメダルはチェコスロバキアのメダルとして認められている。 == 脚注 == {{Reflist}} {{世界体操競技選手権}} {{DEFAULTSORT:せかいたいそうきようきせんしゆけん1907}} [[Category:世界体操競技選手権|1907]] [[Category:1907年のスポーツ]] [[Category:1907年のボヘミア王国]] [[Category:プラハのスポーツ競技大会]] [[Category:1907年6月]]
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アル・アダラーFC
アル・アダラーFC(英語: Al-Adalah FC, アラビア語: نادي العدالة لكرة القدم))は、サウジアラビアのアハサーをホームタウンとする、サウジ・ファースト・ディヴィジョン(英語版)に加盟するプロサッカークラブである。 2023年11月16日現在 注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
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アル・アダラーFCは、サウジアラビアのアハサーをホームタウンとする、サウジ・ファースト・ディヴィジョンに加盟するプロサッカークラブである。
{{サッカークラブ |font-color=#ffffff |background-color=#a22041 |border-color=#004488 | クラブ名 = アル・アダラー | 原語表記 = {{lang|ar|نادي العدالة لكرة القدم}} | 呼称 = | 愛称 = Fursan Al-Waha (Knights of the Oasis) | カラー = {{color box|#004488}} 青 | 創設 = 1984 | リーグ = [[サウジ・ファーストディヴィジョンリーグ]] | ディビジョン = 2部 | クラブライセンス = | ホームタウン = [[フフーフ]] | スタジアム = {{仮リンク|プリンス・アブドゥラー・ビン・ジャラウィ・スタジアム|en|Prince Abdullah bin Jalawi Stadium}} | キャパ = 19,500 | 法人名 = | 代表 = アブドゥルアズィーズ・アル=ムディ | 監督 = {{Flagicon|CRO}} [[アンテ・ミシェ]] | HP = http://www.aladalahclub.com/ | pattern_la1 = _adalah1920h | pattern_b1 = _adalah1920h | pattern_ra1 = _adalah1920h | pattern_so1 = _adalah1920h | pattern_sh1 = _adalah1920h | leftarm1 = | body1 = | rightarm1 = | shorts1 = | socks1 = | pattern_la2 = _adalah1920a | pattern_b2 = _adalah1920a | pattern_ra2 = _adalah1920a | pattern_so2 = _adalah1920a | pattern_sh2 = _adalah1920a | leftarm2 = | body2 = | rightarm2 = | shorts2 = | socks2 = | pattern_la3 = _adalah1920t | pattern_b3 = _adalah1920t | pattern_ra3 = _adalah1920t | pattern_so3 = _adalah1920t | pattern_sh3 = _adalah1920t | leftarm3 = | body3 = | rightarm3 = | shorts3 = | socks3 = | website = http://www.aladalahclub.com/ }} '''アル・アダラーFC'''({{lang-en|Al-Adalah FC}}, {{lang-ar|نادي العدالة لكرة القدم}}))は、[[サウジアラビア]]の[[アハサー]]をホームタウンとする、[[サウジ・ファーストディヴィジョンリーグ]]に加盟するプロ[[サッカー]]クラブである。 == タイトル == === 国内タイトル === * {{仮リンク|サウジ・サードディヴィジョンリーグ|en|Saudi Third Division League}} : 1回 ** 2000-01 === 国際タイトル === * なし == 現所属メンバー == 2023年11月16日現在 {{サッカークラブチーム選手一覧 開始}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=1|国籍=KSA|ポジション=GK|名前=[[ムタブ・シャラヒリ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=3|国籍=BRA|ポジション=DF|名前=[[フィリペ・マイア]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=4|国籍=KSA|ポジション=DF|名前=[[フセイン・アル=モサービ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=5|国籍=GRE|ポジション=DF|名前=[[テオファニス・マブロマティス]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=6|国籍=KSA|ポジション=MF|名前=[[オマール・アル=ザイニ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=7|国籍=KSA|ポジション=FW|名前=[[ラシェド・アル=サーレム]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=8|国籍=KSA|ポジション=DF|名前=[[アブドゥラー・アル=ユーセフ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=9|国籍=ROU|ポジション=FW|名前=[[アレクサンダル・トゥドリエ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=10|国籍=MLI|ポジション=MF|名前=[[ムサ・ドゥンビア]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=11|国籍=KSA|ポジション=FW|名前=[[カシム・アル=カータニ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=13|国籍=KSA|ポジション=GK|名前=[[ムハンマド・アル=ブラディ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=14|国籍=KSA|ポジション=MF|名前=[[アブドゥルラフマン・アル=フリブ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=15|国籍=KSA|ポジション=MF|名前=[[ナセル・アル=ムカヘム]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=16|国籍=KSA|ポジション=MF|名前=[[ハーレド・アル=ハムディ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=17|国籍=PER|ポジション=MF|名前=[[クリストファー・ゴンザレス]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 中央}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=18|国籍=KSA|ポジション=MF|名前=[[エリヤス・アル=ブラディ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=19|国籍=KSA|ポジション=DF|名前=[[アブドゥラー・アル=ラシディ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=20|国籍=KSA|ポジション=FW|名前=[[ムハンマド・アブ・アブドゥル]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=21|国籍=KSA|ポジション=FW|名前=[[ワリード・アル=シャンギアティ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=22|国籍=KSA|ポジション=GK|名前=[[アリ・アル=アメリ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=24|国籍=KSA|ポジション=MF|名前=[[アブドゥルマジード・アル=サイード]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=27|国籍=KSA|ポジション=DF|名前=[[アワド・フリーズ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=32|国籍=KSA|ポジション=DF|名前=[[ムハンマド・サラー]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=44|国籍=TOG|ポジション=MF|名前=[[サムソンディン・オウロ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=49|国籍=KSA|ポジション=DF|名前=[[アリ・アル=サーレム]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=70|国籍=KSA|ポジション=MF|名前=[[フサイン・アル=モガウィ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=74|国籍=FRA|ポジション=MF|名前=[[カリム・ヨーダ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=88|国籍=KSA|ポジション=MF|名前=[[アリ・アル=スワイジ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=89|国籍=KSA|ポジション=MF|名前=[[ハーレド・アル・ムジエル]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=90|国籍=KSA|ポジション=MF|名前=[[アンマル・アル=バシャー]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 終了}} ;[[監督]] *{{flagicon|CRO}} [[アンテ・ミシェ]] == 歴代監督 == *{{Flagicon|TUN}} [[ハビブ・ベン・ロムダン]] 2011 *{{Flagicon|TUN}} [[ナジブ・ホアジャ]] 2011–2012 *{{Flagicon|TUN}} [[ワヒド・ヒドゥシ]] 2012–2013 *{{Flagicon|EGY}} [[サラー・アブ・ エル・ファトゥー]] 2013 *{{Flagicon|TUN}} [[ヌレディン・ラビアド]] 2013–2014 *{{Flagicon|TUN}} [[セリム アル マンガ]] 2014–2015 *{{Flagicon|TUN}} [[モハメド・サイディ]] 2015–2016 *{{Flagicon|EGY}} [[アハメド・サリ]] 2016–2017 *{{Flagicon|EGY}} [[アブドゥラー・ダルウィッシュ]] 2017–2018 *{{Flagicon|TUN}} [[リダ・ジェディ]] 2018–2019 *{{Flagicon|KSA}} [[レダ・アル・ジャンベ]] 2019 *{{Flagicon|TUN}} [[スカンデル・カスリ]] 2019 *{{Flagicon|TUN}} [[ナシーフ・ベヤウィ]] 2019–2020 *{{Flagicon|ITA}} [[ジョバンニ・ソリナス]] 2020 *{{Flagicon|TUN}} [[モハメド・ムカッチャー]] 2020–2021 *{{Flagicon|TUN}} [[ジャレル・カドリ]] 2021 *{{Flagicon|TUN}} [[ナシーフ・ベヤウィ]] 2021–2022 *{{Flagicon|TUN}} [[ユーセフ・アル・マンナイ]] 2022 *{{Flagicon|SVK}} [[マルティン・シェベラ]] 2022 –2023 *{{Flagicon|CRO}} [[アンテ・ミシェ]] 2023– == 歴代所属選手 == * {{Flagicon|NGA}} [[ジョン・オグ]] 2020 * {{Flagicon|MLI}} [[アダマ・トラオレ]] 2020 * {{Flagicon|BRA}} [[アラン・リマ・カリウス]] 2021-2022 * {{Flagicon|GUI}} [[ミカエル・ディレスタム]] 2022-2023 * {{Flagicon|SUI}} [[マルティン・アンガ]] 2022-2023 * {{Flagicon|MLI}} [[ムサ・ドゥンビア]] 2023- == 脚注 == == 外部リンク == * [http://www.aladalahclub.com// 公式サイト] {{DEFAULTSORT:ある あたらー}} [[Category:サウジアラビアのサッカークラブ]] [[Category:1984年設立のスポーツチーム]]
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台東区立桜橋中学校
台東区立桜橋中学校(たいとうくりつ さくらばしちゅうがっこう)は、東京都台東区今戸2丁目にある公立中学校である。
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台東区立桜橋中学校は、東京都台東区今戸2丁目にある公立中学校である。
{{Infobox 日本の学校 |校名 =台東区立桜橋中学校 |画像 = |過去校名 = |国公私立 = [[公立学校]] |設置者 = [[File:Flag of Taito, Tokyo.svg|25x20px]][[台東区]] |併合学校 = 台東区立蓬莱中学校<br />台東区立今戸中学校 |校訓 = |設立年月日 = [[1947年]][[4月1日]] |記念日名称 = 開校記念日 |創立記念日 = [[6月16日]] |創立者 = |閉校年月日 = |共学・別学 = [[男女共学]] |学期 = [[3学期制]] |中学校コード = 130917<ref name="東京都公立学校一覧表">{{PDFlink|[https://www.kyo-kai.co.jp/img/test/code/13.pdf 東京都所属中学校コード表]}}</ref> |郵便番号 = 111-0024 |所在地 = [[東京都]][[台東区]][[今戸]]2丁目1番8号 |座標={{ウィキ座標度分秒|35|43|14.67|N|139|48|25.53|E|}} |外部リンク = [https://www.taito.ed.jp/swas/index.php?id=1320116 公式サイト] }} '''台東区立桜橋中学校'''(たいとうくりつ さくらばしちゅうがっこう)は、[[東京都]][[台東区]][[今戸]]2丁目にある[[公立学校|公立]][[中学校]]である。 == 沿革 == {{notice|(注)著作権侵害防止のため、一部文言の改編や追記・削除を行っております。}} *[[2002年]]([[平成]]14年) **[[4月1日]] - 蓬莱中学校と今戸中学校を統合し、開校。当面は、旧蓬莱中学校[[学校#校舎|校舎]]を仮校舎に充てた。同日、[[反発|校旗]]と[[校歌]]を制定。初代校長に杉山政一が着任。ティーチングアシスタントモデル校となる。 **[[4月8日]] - 開校式挙行。 **[[6月16日]] - 開校記念式典挙行。 *[[2003年]](平成15年)4月1日 - 今戸2丁目1番8号の現在地に新校舎竣工。 *[[2004年]](平成16年)4月1日 - 学力向上フロンティアスクール及び放課後学習チューター配置校となる。 *[[2013年]](平成27年)4月1日 - [[2020年東京オリンピック|オリンピック]]・[[2020年東京パラリンピック|パラリンピック]]教育推進校。 * 2023年(令和5年)1月 - 全教科 人権尊重教育推進指定校となる<ref name="kyoiku-shitei5">[https://www.kyoiku.metro.tokyo.lg.jp/school/designated_and_promotional_school/other/files/schools_r5/01.pdf 『令和5年度 区市町村及び東京都教育委員会並びに文部科学省 研究協力・推奨・推進・指定校・創意工夫ある学校等一覧』東京都教育委員会、2023年10月16日閲覧]</ref>。 == 学校行事 == *4月 - [[入学式]] *5月 - 2学年霧ヶ峰移動教室、3学年[[修学旅行]] *6月 - [[運動会]] *8月 - 霧ヶ峰林間学園 *10月 - 文化祭 *12月 - 2学年台東区音楽鑑賞教室 *3月 - 2学年・1学年校外学習、3学年卒業遠足、[[卒業式]] == 通学区域 == ;出典<ref>{{PDFlink|[https://www.city.taito.lg.jp/kosodatekyouiku/kuritsushocyugakko/nyugakutugaku/tsuugakukuiki.files/taitoukuritsutyuugakkou_tsuugakukuiki.pdf 台東区立中学校通学区域表]}} - 台東区</ref> *今戸1丁目(全域) *今戸2丁目(全域) *[[浅草]]3丁目(1番~3番・25番~30番) *浅草4丁目(1番~4番・48番・49番) *浅草5丁目(1番~3番・43番~48番・60番~73番) *浅草6丁目(全域) *浅草7丁目(全域) *[[東浅草]]1丁目(全域) *東浅草2丁目(全域) *[[千束]]4丁目(1番~10番・11番(15号~22号)・34番~39番・50番・51番) *[[日本堤]]1丁目(全域) *日本堤2丁目(1番~35番) *[[橋場]]1丁目(全域) *橋場2丁目(全域) *[[清川 (台東区)|清川]]1丁目(全域) *清川2丁目(全域) == アクセス == *[[都営バス]]「東42-1」・「東42-2」・「東42-3」<!---学校ホームページ内アクセスには、「東42乙」・「東42甲」と記載あるが、都営バスの記載に従う。--->の各系統で、 **[[東日本旅客鉄道|JR東日本]][[東京駅]]・東神田・[[東武鉄道]][[浅草駅#東武鉄道|東武浅草駅]]方面から、 ***「東42-3」系統で、「今戸1丁目」[[バス停留所|停留所]]下車後、徒歩約330m・約5分。 ***「東42-1」・「東42-2」の各系統で、「今戸」停留所下車後、徒歩約560m・約9分。 **JR東日本・[[東京地下鉄|東京メトロ]]・東武鉄道・[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]][[南千住駅]](西口)・都営バス[[都営バス南千住営業所|南千住車庫]]方面から、 ***「東42-3」系統で、「桜橋中学校前」停留所下車後、徒歩約75m・約1分。 ***「東42-1」・「東42-2」の各系統で、「今戸」停留所下車後、徒歩約540m・約8分。 **「東42-3」系統は、本校付近で、浅草雷門発と南千住車庫発で、運行ルートが異なる。 == 学校周辺 == *安昌寺 - 敷地が隣接。 **なお、学校周辺には、安昌寺以外の寺院も点在する。 *[[東京都道314号言問大谷田線]] *[[隅田川]] **桜橋 **なお、学校付近では、台東・[[墨田区|墨田]]の区境線となっている。 *台東リバーサイドスポーツセンター *[[東急リバブル]]浅草ロイヤルマンション *台東区区役所社会教育センター社会教育館 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 関連項目 == *[[東京都中学校一覧]] == 外部リンク == *[https://www.taito.ed.jp/swas/index.php?id=1320116 台東区立桜橋中学校] {{School-stub|pref=東京都}} {{DEFAULTSORT:たいとうくりつさくらはしちゆう}} [[Category:東京都区部の公立中学校]] [[Category:台東区の中学校|さくらはし]] [[Category:学校記事]] [[Category:2003年竣工の日本の建築物]]
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福島城 (摂津国)
福島城(ふくしまじょう)は、摂津国西成郡福島(現在の大阪府大阪市福島区福島付近)にあった日本の城(平城)。福島砦ともいう。 福島城があった福島は、中世初期の頃は大川尻(大川は淀川の上流部分)にあたる場所に形成された島だった。福島荘という荘園があり、福島村という村名も中世から見られる。福島は、西隣の野田村(西成郡鷺島荘の一部、現在の福島区野田付近)と共に、度々合戦の舞台となった。 享禄4年(1531年)3月、細川晴元と細川高国の争いの中で、高国方の浦上村宗が野田・福島に陣を敷いているが、この時、野田・福島に砦が築かれたとみられる。 元亀元年(1570年)7月、織田信長と対立する三好三人衆が野田・福島の砦の補強を行って立て籠もっており(野田城・福島城の戦い)、『細川両家記』には、堀を掘って壁を築き、櫓を建てるなどしたことが記される。また『信長公記』によると、野田・福島に籠城した三好三人衆方の軍勢は8,000人ほどだったといい、大規模な城砦が築かれていた様子がうかがえる。 この年の9月、福島城から東に4キロメートルの位置にある本願寺が織田軍への攻撃を開始し、また朝倉氏と浅井氏の軍勢が京都に侵攻したことを受けて、織田軍は野田・福島方面から退いた。しかし、天正4年(1576年)、福島城は織田軍の攻撃により、野田城ともども落城した。その後、野田・福島の地は天正6年(1578年)の木津川口の戦いなどで、織田方の陣地として利用されたとみられる。 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の際には、大坂方の大野道犬が福島の五分一に棚楼(井楼か)を築き、野田の新家を守ったという(『西成郡史』)。同年11月23日に、幕府軍の攻撃により新家が陥落し、福島も幕府方の手に落ちたとされる(野田・福島の戦い)。この時の大野道犬について、福島城に拠っていたともいわれる。 野田城については、「城ノ内」という字名が後世に残るなど、その所在地を知る手掛かりがあるが、福島城についてはそうしたものはなく、江戸時代末期に成立の『摂津名所図会大成』にも「其所詳ならず」と記されている。
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福島城(ふくしまじょう)は、摂津国西成郡福島(現在の大阪府大阪市福島区福島付近)にあった日本の城(平城)。福島砦ともいう。
{{日本の城郭概要表 |name = 福島城 |pref = 大阪府 |img = <!-- 写真 --> |img_capt = <!-- 写真の説明 --> |img_width= <!-- 写真幅 --> |ar_called = 福島砦 |struct = [[平城]] |tower_struct = <!-- 天守構造 --> |builders = [[浦上村宗]] |build_y = [[享禄]]4年([[1531年]]) |revamp = [[三好三人衆]] |rulers = 浦上村宗、三好三人衆 |reject_y = [[慶長]]19年([[1614年]])? |remains = なし |cultural asset = <!-- 指定文化財 --> |registered cultural asset = <!-- 登録文化財 --> |remains number = <!-- 埋蔵文化財包蔵地番号 --> |rebuilding things = <!-- 再建造物 --> | latd = |latm = |lats = <!-- 緯度 --> | longd = |longm = |longs = <!-- 経度 --> |map = <!-- 地図 --> |map_mark = <!-- アイコン --> |map_label = <!-- ラベル --> |map_label_position = <!-- ラベル位置 --> }} '''福島城'''(ふくしまじょう)は、[[摂津国]][[西成郡]]福島(現在の[[大阪府]][[大阪市]][[福島区]][[福島 (大阪市)|福島]]付近)にあった[[日本の城]]([[平城]]){{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1983|pp=1066–1067}}。'''福島砦'''ともいう{{sfn|谷口|2006|p=94}}。 == 概要 == 福島城があった福島は、[[中世]]初期の頃は大川尻(大川は[[旧淀川|淀川]]の上流部分{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1983|pp=219–220}})にあたる場所に形成された島だった{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1983|pp=1066–1067}}。福島荘という[[荘園 (日本)|荘園]]があり、福島村という村名も中世から見られる{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1983|pp=1066–1067}}。福島は、西隣の[[野田村 (大阪府西成郡)|野田村]](西成郡鷺島荘の一部、現在の福島区[[野田 (大阪市)|野田]]付近)と共に、度々合戦の舞台となった{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1983|pp=954–955, 1066–1067}}。 [[享禄]]4年([[1531年]])3月、[[細川晴元]]と[[細川高国]]の争いの中で、高国方の[[浦上村宗]]が野田・福島に陣を敷いているが{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1983|pp=1066–1067}}<ref name="大系">{{Citation|和書|editor1-last=平井|editor1-first=聖|editor1-link=平井聖|editor2-last=村井|editor2-first=益男|editor2-link=|editor3-last=村田|editor3-first=修三|editor3-link=村田修三|year=1981|chapter=野田城|title=[[日本城郭大系]] 第12巻 大阪・兵庫|publisher=[[新人物往来社]]|id={{全国書誌番号|81020173}}|pages=189–191}}</ref><ref>{{Citation|和書|last=今谷|first=明|author-link=今谷明|year=1985|title=戦国三好一族|publisher=新人物往来社|isbn=4-404-01262-4|page=83}}</ref>、この時、野田・福島に砦が築かれたとみられる<ref name="大系" />。 [[元亀]]元年([[1570年]])7月、[[織田信長]]と対立する[[三好三人衆]]が野田・福島の砦の補強を行って立て籠もっており([[野田城・福島城の戦い]])、『[[細川両家記]]』には、[[堀]]を掘って壁を築き、[[櫓 (城郭)|櫓]]を建てるなどしたことが記される<ref name="大系" /><ref>{{Citation|和書|editor-last=塙|editor-first=保己一|editor-link=塙保己一|year=1894|chapter=細川兩家記|title=群書類従 第拾參輯|publisher=[[経済雑誌社]]|id={{全国書誌番号|20474265}}|url={{NDLDC|1879780/327}}|page=645}}</ref>。また『[[信長公記]]』によると、野田・福島に籠城した三好三人衆方の軍勢は8,000人ほどだったといい、大規模な城砦が築かれていた様子がうかがえる<ref name="大系" />。 この年の9月、福島城から東に4キロメートルの位置にある[[石山本願寺|本願寺]]が織田軍への攻撃を開始し、また[[朝倉氏]]と[[浅井氏]]の軍勢が[[京都]]に侵攻したことを受けて、織田軍は野田・福島方面から退いた{{sfn|谷口|2006|pp=95–97}}。しかし、天正4年(1576年)、福島城は織田軍の攻撃により、[[野田城 (摂津国)|野田城]]ともども落城した<ref name="大系" />。その後、野田・福島の地は天正6年([[1578年]])の[[第二次木津川口の戦い|木津川口の戦い]]などで、織田方の陣地として利用されたとみられる<ref name="大系" />。 [[慶長]]19年([[1614年]])の[[大坂の陣#大坂冬の陣|大坂冬の陣]]の際には、大坂方の[[大野治胤|大野道犬]]が福島の五分一に棚楼(井楼か)を築き、野田の[[新家町 (福島区)|新家]]を守ったという(『西成郡史』)<ref name="大系" /><ref name="西成">{{Citation|和書|editor=大阪府西成郡役所|year=1915|title=西成郡史 第1編 第2編 第3編 第4編 第5編|publisher=大阪府西成郡役所|id={{全国書誌番号|43018646}}|url={{NDLDC|950864/177}}|page=259}}</ref>。同年11月23日に、[[徳川幕府|幕府]]軍の攻撃により新家が陥落し、福島も幕府方の手に落ちたとされる([[野田・福島の戦い]])<ref name="大系" /><ref name="西成" />。この時の大野道犬について、福島城に拠っていたともいわれる<ref>{{Citation|和書|last=吉田|first=勝|year=1967|chapter=福島城|editor=[[鳥羽正雄]]ほか|others=[[大類伸]] 監修|title=日本城郭全集9|publisher=[[人物往来社]]|id={{全国書誌番号|53001974}}|page=143}}</ref><ref name="名所">{{Citation|和書|editor-last=船越|editor-first=政一郎|year=1928|chapter=摂津名所図会大成 巻之十|title=摂津名所図会大成 其二|series=浪速叢書 第八|publisher=浪速叢書刊行会|id={{全国書誌番号|47025098}}|url={{NDLDC|1243124/175}}|page=331}}</ref>。 野田城については、「城ノ内」という[[小字|字名]]が後世に残るなど、その所在地を知る手掛かりがあるが<ref name="大系" />、福島城についてはそうしたものはなく、[[江戸時代]]末期に成立<ref name="大系" />の『摂津名所図会大成』にも「其所詳ならず」と記されている<ref name="名所" />。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Citation|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1983|title=[[角川日本地名大辞典]] 27 大阪府|publisher=[[角川書店]]|id={{全国書誌番号|83052043}}}} * {{Citation|和書|last=谷口|first=克広|author-link=谷口克広|year=2006|title=信長の天下布武への道|publisher=[[吉川弘文館]]|series=戦争の日本史13|isbn=978-4-642-06323-4}} {{デフォルトソート:ふくしましよう}} [[Category:摂津国の城]] [[Category:大阪府の城]] [[Category:福島区の歴史]] [[Category:福島区の建築物|廃ふくしましよう]] [[Category:現存しない大阪市の建築物]] [[Category:浦上氏|城ふくしましよう]] [[Category:三好氏|城ふくしましよう]]
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永井万助
永井 万助(永井 萬助、ながい まんすけ、1879年5月8日 - 1955年4月4日)は、大正から昭和前期の新聞記者、教育者。朝日新聞社外報部長。号は朴公。 1879年(明治12年)生まれ。島根県出身。弟の永井瓢斎(本名、栄蔵)も新聞記者、俳人である。 立教英語専修学校(現・立教大学)卒業。 若い頃に、松江の中学校で英語教師を務めるが、この時の生徒に文部省の国定教科書「サクラ読本」の生みの親である井上魁がいる。 1912年(明治45年)、外務大臣官房報告課嘱託となり、翻訳に務めた。 1914年(大正3年)、東京朝日新聞社(現・朝日新聞社)に入社し、外報部に所属する。論説班員も兼務し、1924年(大正13年)朝日新聞社外報部長に就任した。 次男の永井萠二も新聞記者として活動しながら児童文学者として多くの著作を残した。
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永井 万助は、大正から昭和前期の新聞記者、教育者。朝日新聞社外報部長。号は朴公。
'''永井 万助'''(永井 萬助、ながい まんすけ、[[1879年]]5月8日 - [[1955年]]4月4日)は、大正から昭和前期の[[記者|新聞記者]]、[[教育関係人物一覧|教育者]]、[[翻訳|翻訳家]]。[[朝日新聞社]]外報部長。号は朴公<ref name="doc1">講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」 [https://kotobank.jp/word/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E4%B8%87%E5%8A%A9-1096024 『永井万助』 ]‐ [[コトバンク]]</ref>。 == 人物・経歴 == 1879年(明治12年)生まれ。[[島根県]]出身。弟の[[永井瓢斎]](本名、栄蔵)も新聞記者、俳人である<ref name="doc1"/><ref name="doc2">歴史が眠る多磨霊園 [http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/N/nagai_ma.html 『永井萬助』]</ref>。 立教英語専修学校(現・[[立教大学]])卒業<ref name="doc1"/>。 若い頃に、[[松江市|松江]]の中学校で英語教師を務めるが、この時の生徒に[[文部省]]の国定教科書「[[サクラ読本]]」の生みの親である[[井上赳]]がいる<ref name="doc2"/>。 1912年(明治45年)、外務大臣官房報告課嘱託となり、翻訳に務めた<ref name="doc1"/>。 1914年(大正3年)、[[東京朝日新聞|東京朝日新聞社]](現・[[朝日新聞社]])に入社し、外報部に所属する。論説班員も兼務し、1924年(大正13年)朝日新聞社外報部長に就任した<ref name="doc1"/><ref>[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/25(T14)0515_016.pdf 『立教大学新聞 第16号』] 1925年(大正14年)5月15日</ref>。 次男の[[永井萠二]]も新聞記者として活動しながら[[児童文学]]者として多くの著作を残した<ref name="doc2"/>。 == 主な著作 == *『明治大正史:第2巻 外交篇』(1930年) *『豪州の牧場王』永井万助訳 アイオン・アイドリス著 (1943年) == 脚注 == {{Reflist}} {{People-stub}} {{DEFAULTSORT:なかい まんすけ}} [[Category:日本のジャーナリスト]] [[Category:日本の翻訳家]] [[Category:朝日新聞社の人物]] [[Category:立教大学出身の人物]] [[Category:島根県出身の人物]] [[Category:1879年生]] [[Category:1955年没]]
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ボヤン・シャラノヴ
ボヤン・シャラノヴ(セルビア語: Бојан Шаранов, ラテン文字転写: Bojan Šaranov、1987年10月22日 - )は、セルビアのサッカー選手。ポジションはゴールキーパー。 OFKベオグラード時代の2010-11シーズン、セルビア・スーペルリーガベストイレブンに選出されると、6月3日に韓国との親善試合でセルビア代表デビューを果たし、同月マッカビ・ハイファFCに移籍した。 2014年12月30日、エルゴテリスFCに移籍した。 2016年冬、パルチザン・ベオグラードに加入しセルビアに復帰したが、同年8月31日に退団した。 その後カラバフFKを経て、2017年9月、FKゼムンにフリー移籍で加入した。 2018年1月、FKラドニチュキ・ニシュに移籍した。
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ボヤン・シャラノヴは、セルビアのサッカー選手。ポジションはゴールキーパー。
{{サッカー選手 |名前=ボヤン・シャラノヴ |画像=MHFC-Boyan-Sharanov.jpg |画像の説明= |本名= |愛称= |カタカナ表記= |アルファベット表記=Bojan Šaranov |原語名=キリル文字 |原語表記=Бојан Шаранов |国={{SRB}} |誕生日={{生年月日と年齢|1987|10|22}} |出身地={{flagicon|YUG1945}} [[ヴルシャツ]] |身長=188cm |体重= |血液型= |所属チーム名= |ポジション=[[ゴールキーパー (サッカー)|GK]] |背番号= |利き足=右足 |ユース年1=|ユースクラブ1={{flagicon|SCG}} [[OFKベオグラード]] |年1=2004-2011|クラブ1={{flagicon|SRB}} [[OFKベオグラード]]|出場1=72|得点1=0 |年2=2005-2007|クラブ2=→{{flagicon|SRB}} [[FKマチュヴァ・シャバツ|マチュヴァ]](loan)|出場2=18|得点2=0 |年3=2007|クラブ3=→{{flagicon|SRB}} [[FKベジャニヤ|ベジャニヤ]](loan)|出場3=2|得点3=0 |年4=2008|クラブ4=→{{flagicon|MNE}} [[FKルダル・プリェヴリャ|ルダル・プリェヴリャ]](loan)|出場4=0|得点4=0 |年5=2011-2014|クラブ5={{flagicon|ISR}} [[マッカビ・ハイファFC|マッカビ・ハイファ]]|出場5=76|得点5=0 |年6=2015|クラブ6={{flagicon|GRE}} [[エルゴテリスFC|エルゴテリス]]|出場6=13|得点6=0 |年7=2015-2016|クラブ7={{flagicon|SRB}} [[パルチザン・ベオグラード]]|出場7=18|得点7=0 |年8=2016-2017|クラブ8={{flagicon|AZE}} [[カラバフFK|カラバフ]]|出場8=2|得点8=0 |年9=2017-2018|クラブ9={{flagicon|SRB}} [[FKゼムン|ゼムン]]|出場9=12|得点9=0 |年10=2018|クラブ10={{flagicon|SRB}} [[FKラドニチュキ・ニシュ|ラドニチュキ・ニシュ]]|出場10=8|得点10=0 |年11=2018-2019|クラブ11={{flagicon|GRE}} [[PASラミア1964|ラミア1964]]|出場11=19|得点11=0 |年12=2019-2020|クラブ12={{flagicon|TUR}} [[ファティ・カラギュムリュクSK|ファティ・カラギュムリュク]]|出場12=11|得点12=0 |年13=2021-2023|クラブ13={{flagicon|GRE}} [[PASラミア1964|ラミア1964]]|出場13=37|得点13=0 |クラブ成績更新日=2023年2月13日 |代表年1=2006|代表1={{fbu|19|SCG|name=セルビア・モンテネグロ U-19}}|代表出場1=1|代表得点1=0 |代表年2=2007-2009|代表2={{fbu|21|SRB|name=セルビア U-21}}|代表出場2=9|代表得点2=0 |代表年3=2011|代表3={{SRBf}}|代表出場3=1|代表得点3=0 |代表成績更新日=2011年6月3日 }} '''ボヤン・シャラノヴ'''({{翻字併記|sr|Бојан Шаранов|Bojan Šaranov}}、[[1987年]][[10月22日]] - )は、[[セルビア]]の[[プロサッカー選手|サッカー選手]]。ポジションは[[ゴールキーパー (サッカー)|ゴールキーパー]]。 == 経歴 == [[OFKベオグラード]]時代の2010-11シーズン、[[セルビア・スーペルリーガベストイレブン]]に選出される<ref>{{Cite web | url=http://www.b92.net/sport/fudbal/vesti.php?yyyy=2011&mm=05&dd=27&nav_id=514908 | title=JSL: Izabran najbolji tim | language=Serbian | publisher=b92.net | date=27 May 2011 | accessdate=22 March 2016}}</ref>と、6月3日に[[サッカー韓国代表|韓国]]との親善試合で[[サッカーセルビア代表|セルビア代表]]デビューを果たし<ref>{{Cite web | url=http://mondo.rs/a209113/Sport/Fudbal/Orlovi-pali-u-Seulu.html | title="Orlovi" pali u Seulu | language=Serbian | publisher=mondo.rs | date=3 June 2011 | accessdate=22 March 2016}}</ref>、同月[[マッカビ・ハイファFC]]に移籍した<ref>{{Cite web | url=http://mondo.rs/a210752/Sport/Fudbal/Bojan-Saranov-u-Makabiju-iz-Haife.html | title=Bojan Šaranov u Makabiju iz Haife | language=Serbian | publisher=mondo.rs | date=21 June 2011 | accessdate=22 January 2016}}</ref>。 2014年12月30日、[[エルゴテリスFC]]に移籍した<ref>{{Cite web | url=http://www.ergotelis.gr/gr/anakoinoseis/ston-ergoteli-o-bojan-saranov-5624 | title=Στον Εργοτέλη ο Bojan Saranov | language=Greek | publisher=ergotelis.gr | date=30 December 2014 | accessdate=25 March 2016}}</ref>。 2016年冬、[[パルチザン・ベオグラード]]に加入しセルビアに復帰した<ref>{{Cite web | url=http://sport.blic.rs/fudbal/domaci-fudbal/on-ce-braniti-crno-bele-saranov-za-blic-sanjao-sam-da-budem-golman-partizana/443pz7n | title=ON ĆE BRANITI CRNO-BELE Šaranov za "Blic": Sanjao sam da budem golman Partizana! | language=Serbian | publisher=blic.rs | date=23 December 2015 | accessdate=23 December 2015}}</ref>が、同年8月31日に退団した<ref>{{Cite web | url=http://www.sr.partizan.rs/145328-bojan-saranov-napustio-partizan/ | title=Rastanak Partizana i Bojana Šaranova | language=Serbian | publisher=partizan.rs | date=31 August 2016 | accessdate=6 September 2017}}</ref>。 その後[[カラバフFK]]を経て、2017年9月、[[FKゼムン]]にフリー移籍で加入した<ref>{{Cite web | url=https://www.sportskacentrala.com/2017/09/01/zemun-napravio-veliki-posao-stigli-bivsi-igraci-partizana/ | title=Zemun napravio veliki posao: Stigli bivši igrači Partizana | language=Serbian | publisher=sportskacentrala.com | date=1 September 2017 | accessdate=20 August 2018}}</ref>。 2018年1月、[[FKラドニチュキ・ニシュ]]に移籍した<ref>{{Cite web | url=http://fkradnickinis.rs/2018/01/bojan-saranov-novi-golman-radnickog/?lang=lat | title=BOJAN ŠARANOV NOVI GOLMAN RADNIČKOG | language=Serbian | publisher=fkradnickinis.rs | date=24 January 2018 | accessdate=4 March 2018 | archive-url=https://web.archive.org/web/20180820234850/http://fkradnickinis.rs/2018/01/bojan-saranov-novi-golman-radnickog/?lang=lat | archive-date=20 August 2018 | url-status=dead }}</ref>。 == 脚注 == {{reflist}} == 外部リンク == * {{Sports links}} {{セルビア・スーペルリーガベストイレブン (GK)}} {{UEFA U-21欧州選手権2009セルビア代表}} {{DEFAULTSORT:しやらのう ほやん}} [[Category:セルビア・モンテネグロのサッカー選手]] [[Category:セルビアのサッカー選手]] [[Category:OFKベオグラードの選手]] [[Category:FKマチュヴァ・シャバツの選手]] [[Category:FKベジャニヤの選手]] [[Category:FKルダル・プリェヴリャの選手]] [[Category:マッカビ・ハイファの選手]] [[Category:エルゴテリスFCの選手]] [[Category:パルチザン・ベオグラードの選手]] [[Category:カラバフFKの選手]] [[Category:FKゼムンの選手]] [[Category:FKラドニチュキ・ニシュの選手]] [[Category:PASラミア1964の選手]] [[Category:ファティ・カラギュムリュクSKの選手]] [[Category:サッカーセルビア代表選手]] [[Category:ヴォイヴォディナ出身の人物]] [[Category:1987年生]] [[Category:存命人物]]
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金倒永
金 倒永(キム・ドヨン、朝鮮語: 김도영、2003年10月2日 - )は、大韓民国の光州広域市出身のプロ野球選手(内野手)。右投右打。KBOリーグの起亜タイガース所属。 高校時代の2021年にWBSC U-23ワールドカップの韓国代表に選出された。 2022年の新人ドラフトにて、1次ドラフトで起亜タイガースから指名され入団した。 2022年は103試合に出場して打率.237、3本塁打、19打点、13盗塁を記録した。オフにはオーストラリアのチームへ派遣される予定だったが、つま先を痛めたため辞退した。 2023年は84試合に出場して打率.307、7本塁打、47打点、25盗塁を記録した。シーズン終了後にはアジア プロ野球チャンピオンシップの韓国代表に選出された。
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金 倒永は、大韓民国の光州広域市出身のプロ野球選手(内野手)。右投右打。KBOリーグの起亜タイガース所属。
{{Infobox baseball player |選手名 = 金 倒永 |英語表記 = Kim Do-Yeong |所属球団 = 起亜タイガース |背番号 = 5 |選手写真ファイル名 = |写真サイズ = |写真のコメント = |国籍 = {{KOR2}} |出身地 = [[光州広域市]] |生年月日 = {{生年月日と年齢|2003|10|2}} |没年月日 = |身長 = 183 |体重 = 85 |利き腕 = 右 |打席 = 右 |守備位置 = [[三塁手]]、[[遊撃手]] |プロ入り年度 = 2022年 |ドラフト順位 = 1次ドラフト |初出場 = KBO / 2022年4月2日 |最終出場 = |年俸 = 5000万ウォン(2023年) |経歴 = * {{仮リンク|光州東城高等学校|ko|광주동성고등학교}} * [[起亜タイガース]] (2022 - ) |代表チーム = |五輪 = |WBC = |選出国 = |選出年 = |得票率 = |選出方法 = }} '''金 倒永'''(キム・ドヨン、{{lang-ko|김도영}}、[[2003年]][[10月2日]] - )は、[[大韓民国]]の[[光州広域市]]出身の[[プロ野球選手]]([[内野手]])。右投右打。[[KBOリーグ]]の[[起亜タイガース]]所属。 == 経歴 == === プロ入り前 === 高校時代の2021年に[[WBSC U-23ワールドカップ]]の韓国代表に選出された。 2022年の新人ドラフトにて、1次ドラフトで[[起亜タイガース]]から指名され入団した。 === 起亜時代 === 2022年は103試合に出場して打率.237、3本塁打、19打点、13盗塁を記録した。オフには[[オーストラリア]]のチームへ派遣される予定だったが、つま先を痛めたため辞退した<ref>{{Cite web |title=프로야구 장재영·김도영, 올겨울 호주서 뛴다…질롱코리아 합류 |url=https://www.yna.co.kr/view/AKR20221014150500007 |website=연합뉴스 |date=2022-10-14 |access-date=2023-11-16 |language=ko |last=김경윤}}</ref><ref>{{Cite web |title=‘발가락 통증’ KIA 김도영 질롱코리아 명단 제외…김규성 대체 |url=http://www.jndn.com/article.asp?aid=1667292546347833104 |website=jndn.com |date=2022-11-01 |access-date=2023-11-16 |language=ko}}</ref>。 2023年は84試合に出場して打率.307、7本塁打、47打点、25盗塁を記録した。シーズン終了後には[[アジア プロ野球チャンピオンシップ]]の韓国代表に選出された<ref>{{Cite web |title=金倒永|韓国代表選手|カーネクスト アジアプロ野球チャンピオンシップ2023 |url=https://www.japan-baseball.jp/jp/profile/top_apbc2023/kor/5.html |website=野球日本代表 侍ジャパンオフィシャルサイト |access-date=2023-11-16 |language=ja |last=NPBエンタープライズ}}</ref>。 == 詳細情報 == === 年度別打撃成績 === {|{{年度別打撃成績|リーグ=KBOリーグ}} |- |style="text-align:center;"|{{by2|2022}} |rowspan="2" style="text-align:center;"|[[起亜タイガース|起亜]] |103||254||224||37||53||11||4||3||81||19||13||3||4||1||22||0||3||62||3||.237||.312||.362||.674 |- |style="text-align:center;"|{{by2|2023}} |84||385||340||72||103||20||5||7||154||47||25||4||2||4||38||1||1||62||14||.303||.371||.453||.824 |- !colspan="2"|[[KBOリーグ|KBO]]:2年 |187||639||564||109||156||31||9||10||235||66||38||7||6||5||60||1||4||124||17||.277||.348||.417||.764 |} * 2023年度シーズン終了時 === 背番号 === * '''5'''(2022年 - ) === 代表歴 === * [[WBSC U-23ワールドカップ|2021年 WBSC U-23ワールドカップ 韓国代表]] * [[2023 アジア プロ野球チャンピオンシップ 韓国代表|2023年 アジア プロ野球チャンピオンシップ 韓国代表]] == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == {{BASEBALLstats|kbo=52605|brkbo=kim---001doy}} {{起亜タイガース}} {{デフォルトソート:きむ とよん}} [[Category:韓国の野球選手]] [[Category:起亜タイガース及びヘテ・タイガースの選手]] [[Category:野球韓国代表選手]] [[Category:光州広域市出身の人物]] [[Category:2003年生]] [[Category:存命人物]]
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ウォルター・リール
ウォルター・リール(Walter Soares LEAL)は、ブラジル人生物学者。カリフォルニア大学デービス校特別教授。アメリカ科学振興協会フェロー。元国際化学生態学会会長。 ブラジル出身。1982年ペルナンブコ連邦大学化学工学専攻卒業。1987年三重大学大学院農学研究科農芸化学専攻修了、農学修士。1990年筑波大学大学院農学研究科応用生化学専攻修了、農学博士。農林水産省蚕糸・昆虫農業技術研究所入所後、カリフォルニア大学デービス校特別教授、同大学昆虫学部長、国際化学生態学会会長を務め、2005年アメリカ科学振興協会フェロー。2015年カリフォルニア科学アカデミーフェロー。2016年の国際昆虫学会議では共同議長を務めた。
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ウォルター・リールは、ブラジル人生物学者。カリフォルニア大学デービス校特別教授。アメリカ科学振興協会フェロー。元国際化学生態学会会長。
{{表記揺れ案内|表記1=バルター・スアレス・レアル}} '''ウォルター・リール'''(Walter Soares LEAL)は、[[ブラジル人]][[生物学者]]。[[カリフォルニア大学デービス校]][[特別教授]]。[[アメリカ科学振興協会]]フェロー。元国際化学生態学会会長。 == 人物・経歴 == [[ブラジル]]出身。1982年[[:w:Federal University of Pernambuco|ペルナンブコ連邦大学]][[化学工学]]専攻卒業。1987年[[三重大学]]大学院[[農学研究科]][[農芸化学]]専攻修士課程修了、[[農学修士]]<ref name="ab">[http://www.abc.org.br/membro/walter-soares-leal/ WALTER SOARES LEAL]ABC Academia Brasileira de Ciências</ref>。1990年[[筑波大学]]大学院農学研究科応用[[生化学]]専攻博士課程修了、[[農学博士]]<ref>[https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/records/11967 Chemical ecology of Astigmatid mites]つくばリポジトリ</ref><ref name="ab"/><ref>[https://ci.nii.ac.jp/naid/500000101735 Chemical ecology of astigmatid mites 無気門亜目コナダニ類の化学生態学 Walter Soares Leal バルター スアレス レアル]</ref>。[[農林水産省]][[蚕糸・昆虫農業技術研究所]]入所後<ref>[https://www.naro.affrc.go.jp/archive/nias/newsletter/sanconkennews/sanconnewsNo37.pdf 蚕糸昆虫研ニュース No.32]</ref>、[[カリフォルニア大学デービス校]][[特別教授]]<ref name="ab"/><ref>{{Cite web|last=wsleal|date=2018-02-14|title=Walter S. Leal|url=https://biology.ucdavis.edu/people/walter-leal|access-date=2021-12-31|website=College of Biological Sciences|language=en}}</ref>、同大学昆虫[[学部長]]<ref>{{Cite web|title=Walter Leal Named Chair of UC Davis Department of Entomology|url=https://ucanr.edu/blogs/blogcore/postdetail.cfm?postnum=18856|access-date=2021-12-31|website=ANR Blogs|language=en-us}}</ref>、国際化学生態学会会長を務め、2005年[[アメリカ科学振興協会]]フェロー<ref>{{Cite web |title=Walter Leal has a nose for insects' sense of smell {{!}} American Association for the Advancement of Science |url=https://www.aaas.org/walter-leal-has-nose-insects-sense-smell |access-date=2022-10-27 |website=www.aaas.org |language=en}}</ref>。2015年[[カリフォルニア科学アカデミー]]フェロー<ref>{{Cite web |last=Jones |first=Dave |date=2015-10-13 |title=Walter Leal Elected to California Academy of Sciences |url=https://biology.sf.ucdavis.edu/news/walter-leal-elected-california-academy-sciences |access-date=2022-04-21 |website=College of Biological Sciences |language=en}}</ref>。2016年の[[:w:International Congress of Entomology|国際昆虫学会議]]では共同議長を務めた<ref>{{Cite journal|last1=Simmons|first1=Alvin M|last2=Leal|first2=Walter S|date=2018-03-08|title=Twenty-Fifth International Congress of Entomology: The ICE 2016 Journey|url=https://academic.oup.com/ae/article/64/1/32/4925136|journal=American Entomologist|language=en|volume=64|issue=1|pages=32–43|doi=10.1093/ae/tmy008|issn=1046-2821|doi-access=free|hdl=11572/382549|hdl-access=free}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{Normdaten}} {{scientist-stub}} {{DEFAULTSORT:うおるたりる}} [[Category:アメリカ合衆国の生態学者]] [[Category:アメリカ科学振興協会フェロー]] [[Category:アメリカ合衆国の昆虫学者]] [[Category:アメリカ合衆国の生化学者]] [[Category:カリフォルニア大学デービス校の教員]] [[Category:日本留学経験者]] [[Category:農学博士取得者]] [[Category:農学修士取得者]] [[Category:筑波大学出身の人物]] [[Category:三重大学出身の人物]] [[Category:ブラジル出身の人物]]
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マシアス・ボー
マシアス・ボー(英語: Mathias Boe、1980年7月11日 - )は、デンマークの男子バドミントン選手。2012年ロンドンオリンピックの男子ダブルス銀メダリスト。BWF世界ランキング最高位は1位。 男子ダブルスで3歳年下のカーステン・モーゲンセンとペアを組む。 2012年ロンドンオリンピックでは、準決勝で韓国の鄭在成 / 李龍大を17-21, 21-18, 22-20で破って決勝に進出する。決勝では、中国の蔡贇 / 傅海峰に敗れ銀メダルを獲得した。
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マシアス・ボーは、デンマークの男子バドミントン選手。2012年ロンドンオリンピックの男子ダブルス銀メダリスト。BWF世界ランキング最高位は1位。
{{Expand English||date=2023年12月 }}{{バドミントン選手 |五輪メダル1 = [[ファイル:Silver_medal.svg|20px|alt=|link=]] |名前 = マシアス・ボー |画像 = [[ファイル: Yonex IFB 2013 - Quarterfinal - Liu Xiaolong - Qiu Zihan vs Mathias Boe - Carsten Mogensen 11.jpg|250px]] |説明 = |生年月日 = {{生年月日と年齢|1980|7|11}} |没年月日 = |性別 = 男性 |国籍 = {{DEN}} |出身地 = フリズリクソン |身長 = 185cm |体重 = |血液型 = |利き腕 = 左 |競技開始年齢 = |種目 = 男子ダブルス |日本代表歴 = |世界ランク(最高) = 1 |日本ランク(最高) = |国際大会 = * [[2012年ロンドンオリンピックのバドミントン競技|ロンドンオリンピック]] 準優勝(2012年) * [[世界バドミントン選手権大会|世界選手権]] 準優勝(2013年) * [[ヨーロッパ競技大会]] 優勝(2015年) * [[ヨーロッパバドミントン選手権大会|ヨーロッパ選手権]] 優勝(2012年、2017年) |国内大会 = |所属 = |medaltemplates = {{MedalSport|男子 [[バドミントン]]}} {{MedalCountry|{{DEN}}}} {{MedalCompetition|[[オリンピックのバドミントン競技|オリンピック]]}} [[File:Olympic rings with transparent rims.svg|center|80px]] {{MedalSilver|[[2012年ロンドンオリンピックのバドミントン競技|2012 ロンドン]]|男子ダブルス}} {{MedalCompetition|[[世界バドミントン選手権大会|世界選手権]]}} {{MedalBronze|[[2014年世界バドミントン選手権大会|2014 コペンハーゲン]]|男子ダブルス}} {{MedalSilver|[[2013年世界バドミントン選手権大会|2013 広州]]|男子ダブルス}} {{MedalCompetition|[[スディルマン杯]]}} {{MedalBronze|[[スディルマンカップ2013|2013 クアラルンプール]]|混合団体}} {{MedalSilver|[[スディルマンカップ2011|2011 青島]]|混合団体}} {{MedalCompetition|[[トマス杯]]}} {{MedalBronze|2018 バンコク|男子団体}} {{MedalGold|2016 崑山|男子団体}} {{MedalBronze|[[トマス杯&ユーバー杯2012|2012 武漢]]|男子団体}} {{MedalCompetition|[[ヨーロッパ競技大会]]}} {{MedalGold|2015 バクー|男子ダブルス}} {{MedalCompetition|[[ヨーロッパバドミントン選手権大会|ヨーロッパ選手権]]}} {{MedalGold|2017 コリング|男子ダブルス}} {{MedalBronze|2014 カザン|男子ダブルス}} {{MedalGold|2012 カールスクルーナ|男子ダブルス}} {{MedalSilver|2010 マンチェスター|男子ダブルス}} {{MedalSilver|2008 スヘルトーヘンボス|男子ダブルス}} |show-medals = |bwf_id = 6570E6B3-B94F-4486-B6ED-B604545DB819 |更新日時 = }} '''マシアス・ボー'''({{Lang-en|Mathias Boe}}、[[1980年]][[7月11日]] - )は、[[デンマーク]]の男子[[バドミントン]]選手<ref>[https://bwf.tournamentsoftware.com/player-profile/6570E6B3-B94F-4486-B6ED-B604545DB819/ Mathias BOE] - BWF</ref>。 [[2012年ロンドンオリンピックのバドミントン競技|2012年ロンドンオリンピック]]の男子ダブルス銀メダリスト。[[BWF世界ランキング]]最高位は1位。 ==経歴== 男子ダブルスで3歳年下の[[カーステン・モーゲンセン]]とペアを組む。 [[2012年ロンドンオリンピックのバドミントン競技|2012年ロンドンオリンピック]]では、準決勝で[[韓国]]の[[鄭在成]] / [[李龍大]]を17-21, 21-18, 22-20で破って決勝に進出する。決勝では、[[中国]]の[[蔡贇]] / [[傅海峰]]に敗れ銀メダルを獲得した。 ==脚注== {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://www.badminton.dk/cms/default.aspx?clubid=3547&m=229172&cmsid=132&pageid=1997 Profil] badminton.dk * [http://www.facebook.com/pages/Mathias-Boe-and-Carsten-Mogensen/169116036467396 Offizielle Facebook-Seite von Mathias Boe und Carsten Mogensen] {{Badminton-stub}} {{デフォルトソート:ほお ましあす}} [[Category:デンマークのバドミントン選手]] [[Category:存命人物]] [[Category:1980年生]]
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タイヴォン・グレイ
タイヴォン・ハワード・グレイ(英語: Tayvon Howard Gray、2002年8月19日 - )は、ジャマイカとアメリカ合衆国のサッカー選手。ジャマイカ代表。ポジションはDF。 ニューヨークのブロンクス区生まれ。9歳の時にトッテナム・ホットスパーFCとフラムFCの練習に参加した経歴がある。2017年にニューヨーク・シティFCの下部組織に加入した He is of Jamaican descent.。 2019年11月26日にホームグロウン契約を締結し来季からトップチームの試合に出場出来るようになった。これは同クラブの本拠地であるブロンクス区出身の人物としては初の快挙であった。しかし2020年のプロデビューはなく、2021年4月24日の試合がプロ初出場となった。アントン・ティネルホルムが負傷するとレギュラーに昇格した。 アメリカ合衆国U-17代表としてCONCACAF U-17選手権2019、2019 FIFA U-17ワールドカップに参加した 。 2023年9月にジャマイカA代表から招集され、8日の2023-24 CONCACAFネーションズリーグのホンジュラス代表戦で初出場を記録した。
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タイヴォン・ハワード・グレイは、ジャマイカとアメリカ合衆国のサッカー選手。ジャマイカ代表。ポジションはDF。
{{サッカー選手 |名前=タイヴォン・グレイ |画像= |画像の説明= |本名=タイヴォン・ハワード・グレイ |愛称= |カタカナ表記= |アルファベット表記=Tayvon Gray |原語名= |原語表記= |国={{JAM}}<br />{{USA}} |誕生日={{生年月日と年齢|2002|8|19}} |出身地=[[ブロンクス区]] |身長=180cm |体重=74kg |血液型= |所属チーム名={{Flagicon|USA}} [[ニューヨーク・シティFC]] |ポジション=[[ディフェンダー (サッカー)|DF]](RB) |背番号=24 |利き足=右足 |ユース年1=|ユースクラブ1={{Flagicon|USA}} SDFCガンナーズ |ユース年2=2012-2017|ユースクラブ2={{Flagicon|USA}} シーダー・スターズ |ユース年3=2017-2019|ユースクラブ3={{Flagicon|USA}} [[ニューヨーク・シティFC|ニューヨーク・シティ]] |年1=2020-|クラブ1={{Flagicon|USA}} ニューヨーク・シティ|出場1=69|得点1=0 |クラブ成績更新日=2023年11月16日 |代表年1=2018-2019|代表1={{fbu|17|USA|name=アメリカ合衆国 U-17}}|代表出場1=18|代表得点1=0 |代表年2=2023-|代表2={{fb|JAM}}|代表出場2=1|代表得点2=0 |代表成績更新日=2023年11月16日 |監督年1=|監督チーム1= |medaltemplates= }} '''タイヴォン・ハワード・グレイ'''({{lang-en|Tayvon Howard Gray}}、[[2002年]][[8月19日]] - )は、[[ジャマイカ]]と[[アメリカ合衆国]]のサッカー選手。[[サッカージャマイカ代表|ジャマイカ代表]]。ポジションは[[ディフェンダー (サッカー)|DF]]。 ==クラブ歴== [[ニューヨーク]]の[[ブロンクス区]]生まれ<ref name="auto1">{{Cite web|url=https://www.nycfc.com/players/tayvon-gray/|title=Tayvon Gray|first=New York City|last=FC|website=New York City FC|accessdate=27 July 2021}}</ref>。9歳の時に[[トッテナム・ホットスパーFC]]と[[フラムFC]]の練習に参加した経歴がある<ref name="auto">{{Cite web|url=https://www.edpsoccer.com/news_article/show/1119282-athleticism-commitment-and-family-propel-tayvon-gray-to-pro-contract-with-nycfc|title=Athleticism, Commitment and Family Propel Tayvon Gray to Pro Contract with NYCFC|first=Evan|last=Unger|date=August 25, 2020|website=EDP Soccer|accessdate=August 25, 2020}}</ref>。2017年に[[ニューヨーク・シティFC]]の下部組織に加入した<ref>{{Cite web|url=https://www.bxtimes.com/gun-hill-resident-joins-nycfc/|title=Gun Hill Resident joins NYCFC – Bronx Times|first=Jason|last=Cohen|website=www.bxtimes.com|accessdate=27 July 2021}}</ref><ref name="auto1"/> He is of Jamaican descent.<ref>{{Cite web|url=https://www.starsandstripesfc.com/2022/3/3/22958524/tayvon-gray-new-york-city-fc-nycfc-mls-major-league-soccer-jamaica-usa-usmnt-transfer-rumors|title=SSFC Spotlight: Tayvon Gray takes full advantage of opportunity|first=Brendan|last=Joseph|date=March 3, 2022|website=Stars and Stripes FC|accessdate=March 3, 2022}}</ref>。 2019年11月26日にホームグロウン契約を締結し来季からトップチームの試合に出場出来るようになった<ref>{{Cite web|url=https://www.mlssoccer.com/news/nycfc-sign-usynt-defender-tayvon-gray-homegrown-deal|title=NYCFC sign US youth national team defender Tayvon Gray to Homegrown deal &#124; MLSSoccer.com|website=mlssoccer|accessdate=27 July 2021}}</ref>。これは同クラブの本拠地であるブロンクス区出身の人物としては初の快挙であった<ref>{{Cite web|last=FC|first=New York City|title=Tayvon Gray|url=https://www.nycfc.com/players/tayvon-gray/|access-date=2022-02-21|website=New York City FC|language=en}}</ref>。しかし2020年のプロデビューはなく、2021年4月24日の試合がプロ初出場となった<ref>{{Cite web|url=https://www.mlssoccer.com/competitions/mls-regular-season/2021/matches/nycvscin-04-24-2021/|title=NYCvsCIN 04-24-2021 &#124; MLSsoccer.com|website=mlssoccer|accessdate=27 July 2021}}</ref>。[[アントン・ティネルホルム]]が負傷するとレギュラーに昇格した<ref>{{Cite web|last=FC|first=New York City|title=Tayvon Gray|url=https://www.nycfc.com/players/tayvon-gray/stats/|access-date=2022-02-21|website=New York City FC|language=en}}</ref>。 ==代表歴== アメリカ合衆国U-17代表として[[CONCACAF U-17選手権2019]]、[[2019 FIFA U-17ワールドカップ]]に参加した <ref>{{Cite web|url=https://www.ussoccer.com/players/g/tayvon-gray|title=Tayvon Gray &#124; U.S. Soccer Official Website|website=www.ussoccer.com|accessdate=27 July 2021}}</ref>。 2023年9月にジャマイカA代表から招集され、8日の[[2023-24 CONCACAFネーションズリーグ]]の[[サッカーホンジュラス代表|ホンジュラス代表]]戦で初出場を記録した<ref>{{cite web|url=https://www.jamaicaobserver.com/latest-news/jff-names-23-man-squad-for-concacaf-matches-against-haiti-honduras/|title=JFF names 23 man squad for CONCACAF matches against Haiti Honduras|accessdate=September 9, 2023}}</ref><ref>{{cite web|url=https://skyscraperblues.com/posts/tayvon-gray-made-debut-jamaica|first=Caitlyn|last=Chale|date=September 9, 2023|title=Tayvon Gray made his debut with Jamaica|work=Skyscraper Blues|accessdate=September 9, 2023}}</ref>。 ==参考文献== {{reflist|30em}} ==外部リンク== *{{sports links}} {{ニューヨーク・シティFCのメンバー}} {{Navboxes |title=アメリカ合衆国代表 - 出場大会 |titlestyle=background:white; color:#3C3B6E; border:1px solid #B22234; |list1= {{CONCACAF U-17選手権2019アメリカ合衆国代表}} {{2019 FIFA U-17ワールドカップアメリカ合衆国代表}} }} {{DEFAULTSORT:くれい たいうおん}} [[Category:アメリカ合衆国のサッカー選手]] [[Category:ジャマイカのサッカー選手]] [[Category:サッカージャマイカ代表選手]] [[Category:ニューヨーク・シティFCの選手]] [[Category:ブロンクス出身の人物]] [[Category:ジャマイカ系アメリカ人]] [[Category:2002年生]] [[Category:存命人物]]
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アル・バーティンFC
アル・バーティンFC(英語: Al Batin FC, アラビア語: نادي الباطن لكرة القدم))は、サウジアラビアのハファル・アル=バーティン(英語版)をホームタウンとする、サウジ・ファーストディヴィジョンリーグに加盟するプロサッカークラブである。 2023年11月16日現在 注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "アル・バーティンFC(英語: Al Batin FC, アラビア語: نادي الباطن لكرة القدم))は、サウジアラビアのハファル・アル=バーティン(英語版)をホームタウンとする、サウジ・ファーストディヴィジョンリーグに加盟するプロサッカークラブである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "2023年11月16日現在", "title": "現所属メンバー" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。", "title": "現所属メンバー" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "", "title": "歴代監督" } ]
アル・バーティンFCは、サウジアラビアのハファル・アル=バーティンをホームタウンとする、サウジ・ファーストディヴィジョンリーグに加盟するプロサッカークラブである。
{{サッカークラブ |font-color=#1F2F54 |background-color=#95C0EC |border-color=#1F2F54 | クラブ名 = アル・バーティン | 原語表記 = {{rtl-lang|ar|نادي الباطن لكرة القدم}} | 呼称 = | 愛称 = Al Samawi (The Sky Blue) | カラー = {{color box|#95C0EC}} 青 | 創設 = 1979 | リーグ = [[サウジ・ファーストディヴィジョンリーグ]] | ディビジョン = 2部 | クラブライセンス = | ホームタウン = {{仮リンク|ハファル・アル=バーティン|en|Hafar Al-Batin}} | スタジアム = {{仮リンク|アル=バーティン・クラブ・スタジアム|en|Al-Batin Club Stadium}} | キャパ = 6,000 | 法人名 = | 代表 = カレド・アル=フワイディ | 監督 = {{Flagicon|POR}} [[クイム・マチャド]] | HP = https://albatin.sa/ |pattern_la1 = _batin2021h |pattern_b1 = _batin2021h |pattern_ra1 = _batin2021h |pattern_so1 = |pattern_sh1 = _batin2021h |leftarm1 = |body1 = |rightarm1 = |shorts1 = 66ACF4 |socks1 = 66ACF4 |pattern_la2 = _batin2021a |pattern_b2 = _batin2021a |pattern_ra2 = _batin2021a |pattern_so2 = |pattern_sh2 = _batin2021a |leftarm2 = |body2 = |rightarm2 = |shorts2 = |socks2 = DFDFDF | website = https://albatin.sa/ }} '''アル・バーティンFC'''({{lang-en|Al Batin FC}}, {{lang-ar|نادي الباطن لكرة القدم}}))は、[[サウジアラビア]]の{{仮リンク|ハファル・アル=バーティン|en|Hafar Al-Batin}}をホームタウンとする、[[サウジ・ファーストディヴィジョンリーグ]]に加盟するプロ[[サッカー]]クラブである。 == タイトル == === 国内タイトル === * [[サウジ・ファーストディヴィジョンリーグ]] : 1回 ** 2019-20 === 国際タイトル === * なし == 現所属メンバー == 2023年11月16日現在 {{サッカークラブチーム選手一覧 開始}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=1|国籍=KSA|ポジション=GK|名前=[[バジル・アルバハラニ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=4|国籍=KSA|ポジション=DF|名前=[[ハーレド・アル=ハスラン]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=5|国籍=MAR|ポジション=DF|名前=[[アミン・アトウチ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=6|国籍=FRA|ポジション=DF|名前=[[ティボー・ペール]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=7|国籍=KSA|ポジション=MF|名前=[[ミシャリ・アル=カータニ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=8|国籍=KSA|ポジション=MF|名前=[[ヤヒヤ・アル=カルニ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=9|国籍=CIV|ポジション=FW|名前=[[ママドゥ・ソロ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=10|国籍=URU|ポジション=MF|名前=[[ブラヒアン・アレマン]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=11|国籍=KSA|ポジション=MF|名前=[[ムハンマド・アル=サーリ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=12|国籍=MAR|ポジション=GK|名前=[[アブデラリ・ムハムディ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=13|国籍=KSA|ポジション=DF|名前=[[ハッサン・アル=アスマリ]]}}(アル・イテハドからレンタル中) {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=14|国籍=KSA|ポジション=MF|名前=[[イスマイル・オマル]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=15|国籍=KSA|ポジション=FW|名前=[[アブドゥルラフマン・サード]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=19|国籍=KSA|ポジション=DF|名前=[[ハッサン・アル=ジュバイリ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=20|国籍=KSA|ポジション=MF|名前=[[タリク・アル=ムタイリ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 中央}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=21|国籍=KSA|ポジション=MF|名前=[[アブドゥレラ・アル=バリ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=22|国籍=KSA|ポジション=GK|名前=[[ミシェル・ハリス]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=24|国籍=KSA|ポジション=DF|名前=[[サクル・マムドゥ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=25|国籍=MAR|ポジション=MF|名前=[[ザカリア・ラフラリ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=26|国籍=KSA|ポジション=GK|名前=[[ファラ・アル=シャンマリ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=27|国籍=KSA|ポジション=DF|名前=[[ラビー・ハウサウィ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=29|国籍=KSA|ポジション=DF|名前=[[バーダー・ナセル]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=45|国籍=KSA|ポジション=FW|名前=[[アブドゥルラフマン・アンワル]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=48|国籍=KSA|ポジション=MF|名前=[[アブドゥラー・アル=サムティ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=66|国籍=KSA|ポジション=DF|名前=[[サラー・アル=ベン・アリ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=76|国籍=GHA|ポジション=MF|名前=[[アイザック・サッキー]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=77|国籍=KSA|ポジション=FW|名前=[[ユーセフ・ファワズ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=94|国籍=KSA|ポジション=MF|名前=[[ナワーフ・アル=セヒマイ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=99|国籍=KSA|ポジション=FW|名前=[[ディダン・アル=ムタイリ]]}}(アル・シャバブからレンタル中) {{サッカークラブチーム選手一覧 終了}} ;[[監督]] *{{flagicon|POR}} [[クイム・マチャド]] == 歴代監督 == *{{Flagicon|TUN}} [[ハビブ・ベン・ロムダン]] 2014–2016 *{{Flagicon|TUN}} [[ユースリ・ビン・カーラ]] 2016 *{{Flagicon|KSA}} [[ハリド・アル・コロニ]] 2016 *{{Flagicon|EGY}} [[アデル・アブデル・ラフマン]] 2016 *{{Flagicon|KSA}} [[ハリド・アル・コロニ]] 2016–2017 *{{Flagicon|POR}} [[クイム・マチャド]] 2017–2018 *{{Flagicon|ROM}} [[シプリアン・パナイト]] 2018 *{{Flagicon|BEL}} [[フランキー・フェルコーテレン]] 2018 *{{Flagicon|KSA}} [[ユセフ・アル・ガディール]] 2018–2019 *{{Flagicon|ROM}} [[シプリアン・パナイト]] 2019 *{{Flagicon|TUN}} [[リダ・ジェディ]] 2019 *{{Flagicon|POR}} [[ホセ・ガリド]] 2019–2021 *{{Flagicon|SRB}} [[アレクサンダー・ヴェセリノビッチ]] 2021 *{{Flagicon|SRB}} [[ネナド・ララトヴィッチ]] 2021 *{{Flagicon|SRB}} [[ダルコ・ノヴィッチ]] 2021 *{{Flagicon|CRO}} [[アレン・ホーヴァット]] 2021–2023 *{{Flagicon|CRO}} [[ズドラフコ・ロガルシッチ]] 2023 *{{Flagicon|SRB}} [[スルジャン・ヴァシリエヴィッチ]] 2023 *{{Flagicon|POR}} [[クイム・マチャド]] 2023– == 歴代所属選手 == * {{Flagicon|TUN}} [[アイマン・マスルーティ]] 2018 * {{Flagicon|BRA}} [[クリサン・ダ・クルス・ケイロス・バルセロス]] 2018-2019 * {{Flagicon|GUI}} [[イスマエル・バングラ]] 2019 * {{Flagicon|NED}} [[サンドロ・シェンク]] 2019 * {{Flagicon|URU}} [[マルティン・カンパーニャ]] 2020-2023 * {{Flagicon|GHA}} [[アフリイェ・アックア]] 2021-2022 * {{Flagicon|BRA}} [[マウリシオ・デ・カルヴァーリョ・アントニオ]] 2021-2023 * {{Flagicon|COL}} [[アンドレス・フェリペ・ロア]] 2023 * {{Flagicon|URU}} [[レンゾ・ロペス]] 2023 == 脚注 == == 外部リンク == * [https://albatin.sa// 公式サイト] {{DEFAULTSORT:ある はーてぃん}} [[Category:サウジアラビアのサッカークラブ]] [[Category:1979年設立のスポーツチーム]]
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カーステン・モーゲンセン
カーステン・モーゲンセン(英語: Carsten Mogensen、1983年7月24日 - )は、デンマークの男子バドミントン選手。2012年ロンドンオリンピックの男子ダブルス銀メダリスト。BWF世界ランキング最高位は1位。 男子ダブルスで3歳年上のマシアス・ボーとペアを組む。 2012年ロンドンオリンピックでは、準決勝で韓国の鄭在成 / 李龍大を17-21, 21-18, 22-20で破って決勝に進出する。決勝では、中国の蔡贇 / 傅海峰に敗れ銀メダルを獲得した。
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カーステン・モーゲンセンは、デンマークの男子バドミントン選手。2012年ロンドンオリンピックの男子ダブルス銀メダリスト。BWF世界ランキング最高位は1位。
{{Expand English||date=2023年12月}} {{バドミントン選手 |五輪メダル1 = [[ファイル:Silver_medal.svg|20px|alt=|link=]] |名前 = カーステン・モーゲンセン |画像 = [[ファイル: Yonex IFB 2013 - Eightfinal - Łukasz Moreń-Wojciech Szkudlarczyk — Mathias Boe-Carsten Mogensen 10.jpg|250px]] |説明 = |生年月日 = {{生年月日と年齢|1983|7|24}} |没年月日 = |性別 = 男性 |国籍 = {{DEN}} |出身地 = [[シャルロッテンルンド]] |身長 = 185cm |体重 = 75kg |血液型 = |利き腕 = 右 |競技開始年齢 = |種目 = 男子ダブルス |日本代表歴 = |世界ランク(最高) = 1 |日本ランク(最高) = |国際大会 = * [[2012年ロンドンオリンピックのバドミントン競技|ロンドンオリンピック]] 準優勝(2012年) * [[世界バドミントン選手権大会|世界選手権]] 準優勝(2013年) * [[ヨーロッパ競技大会]] 優勝(2015年) * [[ヨーロッパバドミントン選手権大会|ヨーロッパ選手権]] 優勝(2012年、2017年) |国内大会 = |所属 = |medaltemplates = {{MedalSport|男子 [[バドミントン]]}} {{MedalCountry|{{DEN}}}} {{MedalCompetition|[[オリンピックのバドミントン競技|オリンピック]]}} [[File:Olympic rings with transparent rims.svg|center|80px]] {{MedalSilver|[[2012年ロンドンオリンピックのバドミントン競技|2012 ロンドン]]|男子ダブルス}} {{MedalCompetition|[[世界バドミントン選手権大会|世界選手権]]}} {{MedalBronze|[[2014年世界バドミントン選手権大会|2014 コペンハーゲン]]|男子ダブルス}} {{MedalSilver|[[2013年世界バドミントン選手権大会|2013 広州]]|男子ダブルス}} {{MedalCompetition|[[スディルマン杯]]}} {{MedalBronze|[[スディルマンカップ2013|2013 クアラルンプール]]|混合団体}} {{MedalSilver|[[スディルマンカップ2011|2011 青島]]|混合団体}} {{MedalCompetition|[[トマス杯]]}} {{MedalBronze|[[トマス杯&ユーバー杯2012|2012 武漢]]|男子団体}} {{MedalSilver|[[トマス杯&ユーバー杯2010|2010 仙台&東京]]|男子団体}} {{MedalCompetition|[[ヨーロッパ競技大会]]}} {{MedalGold|2015 バクー|男子ダブルス}} {{MedalCompetition|[[ヨーロッパバドミントン選手権大会|ヨーロッパ選手権]]}} {{MedalGold|2017 コリング|男子ダブルス}} {{MedalBronze|2014 カザン|男子ダブルス}} {{MedalGold|2012 カールスクルーナ|男子ダブルス}} {{MedalSilver|2010 マンチェスター|男子ダブルス}} {{MedalSilver|2008 スヘルトーヘンボス|男子ダブルス}} |show-medals = |bwf_id = 51A8B183-9A21-4CED-84A9-85FDEBA49D95 |更新日時 = }} '''カーステン・モーゲンセン'''({{Lang-en|Carsten Mogensen}}、[[1983年]][[7月24日]] - )は、[[デンマーク]]の男子[[バドミントン]]選手<ref>[https://bwf.tournamentsoftware.com/player-profile/51A8B183-9A21-4CED-84A9-85FDEBA49D95/ Carsten MOGENSEN] - BWF</ref>。 [[2012年ロンドンオリンピックのバドミントン競技|2012年ロンドンオリンピック]]の男子ダブルス銀メダリスト。[[BWF世界ランキング]]最高位は1位。 ==経歴== 男子ダブルスで3歳年上の[[マシアス・ボー]]とペアを組む。 [[2012年ロンドンオリンピックのバドミントン競技|2012年ロンドンオリンピック]]では、準決勝で[[韓国]]の[[鄭在成]] / [[李龍大]]を17-21, 21-18, 22-20で破って決勝に進出する。決勝では、[[中国]]の[[蔡贇]] / [[傅海峰]]に敗れ銀メダルを獲得した。 ==脚注== {{Reflist}} == 外部リンク == * {{commons category-inline|Carsten Mogensen}} * {{Facebook|BoeMogensen}} (With Boe) * {{BWF|51A8B183-9A21-4CED-84A9-85FDEBA49D95|Carsten MOGENSEN}} * {{BWF2|51304/carsten-mogensen|Carsten MOGENSEN}} * [http://badmintoneurope.com/cms/?&pageid=6109 Carsten Mogensen] at BadmintonEurope.com * {{Sports-Reference}} * [http://www.badminton.dk/cms/default.aspx?clubid=3547&m=230999&cmsid=132&pageid=1997 Carsten Mogensen] at Badminton.dk {{Badminton-stub}} {{デフォルトソート:もおけんせん かあすてん}} [[Category:デンマークのバドミントン選手]] [[Category:存命人物]] [[Category:1983年生]] [[Category:デンマーク首都地域出身の人物]]
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ヤマドンガ
『ヤマドンガ』(Yamadonga)は、2007年のインドのテルグ語ファンタジーアクションコメディ映画。監督はS・S・ラージャマウリ、プロデューサーはチランジーヴィ・ペダマルーとガンガラージュ・ガンナン(英語版)が務め、ヴィシュヴァーミトラ・クリエーションズが製作を手掛けた。主要キャストとしてN・T・ラーマ・ラオ・ジュニア、モーハン・バーブ(英語版)、プリヤーマニ、マムター・モーハンダース(英語版)、アリー、ブラフマーナンダムが出演している。 1977年の『Yamagola』から影響を受けたプロットを基に、泥棒のラジャを主人公とし、ヒンドゥー教の死と正義を司るヤマとの対峙やヒロインの少女マヒとの関係を描いている。2007年1月からラモジ・フィルムシティを中心に撮影が行われた。主要スタッフとしてM・M・キーラヴァーニが音楽監督、K・K・センティル・クマールが撮影監督、ラーマ・ラージャマウリ(英語版)が衣装デザイナーを務めた。 2007年8月15日に公開された。批評家からは好意的な評価を得ており、配給収入2億9000万ルピーを記録して「ブロックバスター」に認定された。『ヤマドンガ』は2007年公開のテルグ語映画で最も高い興行成績を記録し、主演のラーマ・ラオ・ジュニアはフィルムフェア賞 テルグ語映画部門主演男優賞を受賞した。2008年にはヒンディー語吹替版『Lok Parlok』、2016年にはタミル語吹替版『Vijayan』、アワディー語吹替版『Chor Raja』がそれぞれ公開された。 孤児のラジャはハイデラバードで泥棒をしながら暮らしており、そこで裕福な少女マヒと出会う。ラジャに恋をしたマヒはナラシンハの力を宿したネックレスをプレゼントするが、ラジャは値打ちがないと判断して捨てようとするが、ネックレスはラジャのもとに戻ってきてしまう。これ以降、ラジャは事あるごとにネックレスを捨てようとするが、そのたびにネックレスは彼の元に戻ってきてしまう。12年後、マヒは死んだ祖父の遺産相続人になるが、遺産を狙うおじのラーム・プラサード一家に屋敷を乗っ取られて奴隷のような扱いを受け、自分を救ってくれる「王子様」の存在を待ち続けていた。同じころ、ラジャは相棒のサティと手を組んで詐欺を働く一方、金貸しのダナラクシュミから多額の借金を抱えて返済に追われていた。 ある日、ラジャとサティは「妻のドレスを探して欲しい」という依頼を引き受けて街中を探していたが、そこでギャングたちに追われるマヒと遭遇する。マヒは遺産を狙うラーム・プラサード一家が差し向けたギャングたちに命を狙われており、彼女がラジャが探し出したドレスを持って行ってしまったことから、ラジャはギャングたちを倒してマヒを助け出す。マヒからドレスを受け取ったラジャとサティは依頼主の元に向かい報酬を受け取ろうとするが、依頼主が急死したため報酬を受け取ることができず、ラジャはヤケ酒を飲みながら死を司るヤマを侮辱する。ラジャの罵声を聞いたヤマは激怒し、チトラグプタ(英語版)にラジャを連れてくるように命じる。一方、マヒが死んだ時は遺産の全額が施設に寄付されることを知ったラーム・プラサードたちは彼女を保護しようとし、報道で彼女の正体を知ったラジャとサティは、ラーム・プラサードから身代金を手に入れようと計画する。ラジャに保護されたマヒは、ラジャがネックレスを持っていたことから、彼が12年前に恋した少年であることに気付く。 ラジャとサティはラーム・プラサード父子と接触して身代金500万ルピーを要求するが、父子は金額を5億ルピーと勘違いしてしまう。高額な身代金の支払いに難色を示したラーム・プラサードは、ギャングのナーラーヤナに命じてラジャを殺してしまう。地獄(英語版)に送られたラジャは、そこで再会した依頼主から、自分が死んだのは侮辱された復讐のためにヤマが仕組んだことだと聞かされる。事実を知ったラジャは、ヤマが不在の隙をついて死の縄(英語版)を盗み出して王座を奪い取ってしまう。事態を知ったヤマは王座を取り戻そうとするが、ナーラダ(英語版)の提案で王座をかけて選挙を実施することになった。「地獄を楽園にする」と宣言したラジャは選挙戦を有利に進める一方、ヤマは尊大な性格が災いして支持を得られず、さらにセクハラ疑惑が持ち上がったことで妻とも疎遠になってしまう。窮地に陥ったヤマはチトラグプタの提案で天女たちを呼び寄せて人気を取り戻すが、天界にいた祖父の協力を得たラジャが勢いを盛り返し、ラジャが選挙戦に勝利する。しかし、ヤマが死の縄を取り戻したことで形勢が逆転し、ヤマはラジャを罰しようとするが、ラジャが王の権限で自分の罪を記録から抹消していたため罪に問うことができず、ラジャは地球に戻っていく。 地獄での記憶を失ったラジャは身代金を受け取りに屋敷に向かい、そこでマヒの境遇を知り、ラーム・プラサード一家を成敗してマヒを救い出して彼女と婚約する。しかし、酒に酔ったラジャは再びヤマを侮辱したため、ヤマに罰する口実を与えてしまう。ヤマはラジャに復讐するため地球に降り立ちダナラクシュミに姿を変え、彼女の父に姿を変えたチトラグプタと共にラジャに近付く。記憶を取り戻したラジャはヤマを翻弄するが、ヤマに身代金交渉をしている姿を暴露されたことでマヒから拒絶されてしまう。ラーム・プラサードがナーラーヤナを呼び寄せるが、ナーラーヤナがマヒに一目惚れして彼女を誘拐し、彼女を救おうとしたラジャは車にはねられて重傷を負ってしまう。崖から落ちたラジャはシンハーチャラム寺院の敷地に辿り着き、ヤマは死の縄で彼の命を奪おうとするが、ナラシンハの力に守られたラジャの命を奪うことができず、ヤマは彼を寺院から引きずり出そうとする。ヤマに気付いたラジャは、これまでの非礼を詫びて、マヒを救うために30分だけ生かして欲しいと懇願して寺院を立ち去る。その様子を見ていたナーラダがヤマを説得しようとするが、ヤマは「飛び立った死の縄はラジャの命を奪うまで止まらない」と告げる。ラジャはナーラーヤナたちを倒してマヒを救うと同時に死の縄に襲われるが、ネックレスの力によって難を免れる。ヤマはラジャの命を奪うことを止めるが、そこにサティを連れたダナラクシュミが現れて借金の返済を求めたため、ラジャは窮地に陥り、ヤマは「地獄と地球、どちらで暮らすのがいいか」とラジャに問いかける。同時にチトラグプタもヤマの妻を連れて現れ、ヤマにかけられた誤解を解こうとするが、ダナラクシュミとの関係を疑われて窮地に陥り、ラジャは同じように「地獄と地球、どちらで暮らすのがいいか」とヤマに問いかける。 『ヤマドンガ』はS・S・ラージャマウリが『Student No: 1』『Simhadri』に続いてN・T・ラーマ・ラオ・ジュニアを主人公に起用した作品である。ラージャマウリは映画のプロット(主人公が死んで地獄に行き、再び地球に戻ってくる部分)について、ラーマ・ラオ・ジュニアの祖父N・T・ラーマ・ラオの主演作(『Devanthakudu』『Yamagola』)から影響を受けつつ、それ以外の基本的なプロットについては『ヤマドンガ』独自のものであると語っている。 映画にはラーマ・ラオ・ジュニアと祖父NTRの共演シーンがあり、脚本はラージャマウリと父V・ヴィジャエーンドラ・プラサードが共同で執筆している。ヤマ役にはラージャマウリが「完璧で唯一の人選」と絶賛したモーハン・バーブ(英語版)が起用された。また、ラーマ・ラオ・ジュニアはラージャマウリの指示を受け、役作りのために体重の大幅な減量を行っている。ヒロインのマヒ役にはプリヤーマニが起用され、彼女は岩の上を歩くシーンの撮影中に足を滑らせて負傷(足首の捻挫と出血)している。 2007年1月から主要撮影が始まり、地獄(英語版)のシーンはラモジ・フィルムシティに特注した舞台セットで撮影された。このほか、いくつかのシーンはアーンドラ・プラデーシュ州のタラコナ(英語版)で撮影され、歌曲シーンはゴールコンダ城で撮影している。 映画音楽とサウンドトラックの作曲はM・M・キーラヴァーニが手掛け、ヴェル・レコードからサウンドトラックがリリースされた。 当初は2007年7月9日公開の予定だったが、後に8月15日公開に延期された。2019年11月29日には『Vijayan』のタイトルでタミル語版が公開され、日本では2023年10月20日に特集上映「熱風!!南インド映画の世界」の一本として『マガディーラ 勇者転生』『プシュパ 覚醒』『サイラー ナラシムハー・レッディ 偉大なる反逆者(英語版)』と共に公開された。2008年2月29日にDVDが発売された。 『ヤマドンガ』の配給収入は2億9000万ルピーを記録している。上映日数は405劇場で50日間を記録し、このうち324劇場では100日間を記録しており、2007年公開のテルグ語映画の中で最も高い興行収入を記録した映画の一つとなり、ラーマ・ラオ・ジュニア主演作として『Simhadri』を越える成功を収めた。 ワンインディア(英語版)は「『ヤマドンガ』は、あらゆる年齢層・階層の人たちが楽しめる映画になっている。ラージャマウリはNTRジュニアのキャラクターを彼の祖父を模して造形し、さらにNTRをアニメーション形式でスクリーンに復活させるという素晴らしい仕事をした。NTRジュニアの演技と台詞回しは全体的にとても楽しく、ヤマを演じたモーハン・バーブは、彼が多才な俳優であることを再確認させてくれた」と批評し、Sifyは「この社会派ファンタジー映画は、NTRの新たな姿とモーハン・バーブの謎めいた演技に救われている。楽曲と背景音楽を作曲したM・M・キーラヴァーニの技術的な面とエンターテインメント性が、映画の前半に一見の価値を与えている」と批評している。また、Idlebrain.comのジーヴィは3/5の星を与え、「映画の前半はとても楽しめたが、後半はもっと面白くできたのではないか。評価すべき点はモーハン・バーブ、NTR、舞台セット、カメラワーク、音楽である。反面、映画の後半(NTRが地球に戻ってきて以降)の脚本は手に汗握るものではなかったし、上映時間も3時間5分と非常に長いものだった」と批評している。
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『ヤマドンガ』(Yamadonga)は、2007年のインドのテルグ語ファンタジーアクションコメディ映画。監督はS・S・ラージャマウリ、プロデューサーはチランジーヴィ・ペダマルーとガンガラージュ・ガンナンが務め、ヴィシュヴァーミトラ・クリエーションズが製作を手掛けた。主要キャストとしてN・T・ラーマ・ラオ・ジュニア、モーハン・バーブ、プリヤーマニ、マムター・モーハンダース、アリー、ブラフマーナンダムが出演している。 1977年の『Yamagola』から影響を受けたプロットを基に、泥棒のラジャを主人公とし、ヒンドゥー教の死と正義を司るヤマとの対峙やヒロインの少女マヒとの関係を描いている。2007年1月からラモジ・フィルムシティを中心に撮影が行われた。主要スタッフとしてM・M・キーラヴァーニが音楽監督、K・K・センティル・クマールが撮影監督、ラーマ・ラージャマウリが衣装デザイナーを務めた。 2007年8月15日に公開された。批評家からは好意的な評価を得ており、配給収入2億9000万ルピーを記録して「ブロックバスター」に認定された。『ヤマドンガ』は2007年公開のテルグ語映画で最も高い興行成績を記録し、主演のラーマ・ラオ・ジュニアはフィルムフェア賞 テルグ語映画部門主演男優賞を受賞した。2008年にはヒンディー語吹替版『Lok Parlok』、2016年にはタミル語吹替版『Vijayan』、アワディー語吹替版『Chor Raja』がそれぞれ公開された。
{{Infobox Film | 作品名 = ヤマドンガ | 原題 = Yamadonga | 画像 = | 画像サイズ = | 画像解説 = | 監督 = [[S・S・ラージャマウリ]] | 脚本 = {{Plainlist| * S・S・ラージャマウリ * M・ラトナム(台詞) }} | 原案 = [[V・ヴィジャエーンドラ・プラサード]] | 原作 = | 製作 = {{Plainlist| * チランジーヴィ・ペダマルー * {{仮リンク|ガンガラージュ・ガンナン|en|Gangaraju Gunnam}} }} | 製作総指揮 = | ナレーター = | 出演者 = {{Plainlist| * [[N・T・ラーマ・ラオ・ジュニア]] * [[モーハン・バーブ]] * [[プリヤーマニ]] * {{仮リンク|マムター・モーハンダース|en|Mamta Mohandas}} * [[アリー (俳優)|アリー]] * [[ブラフマーナンダム]] }} | 音楽 = [[M・M・キーラヴァーニ]] | 主題歌 = | 撮影 = [[K・K・センティル・クマール]] | 編集 = {{仮リンク|コータギリ・ヴェンカテーシュワラ・ラーウ|en|Kotagiri Venkateswara Rao}} | 制作会社 = | 製作会社 = ヴィシュヴァーミトラ・クリエーションズ | 配給 = {{Plainlist| * {{Flagicon|IND}} ヴィシュヴァーミトラ・クリエーションズ * {{Flagicon|JPN}} JAIHO(協力:ツイン) }} | 公開 = {{Plainlist| * {{Flagicon|IND}} [[2007年]][[8月15日]] * {{Flagicon|JPN}} [[2023年]][[10月20日]] }} | 上映時間 = 179分 | 製作国 = {{IND}} | 言語 = [[テルグ語]] | 製作費 = ₹160,000,000 - 180,000,000<ref name="sakshi">{{Cite web|url=https://www.sakshi.com/news/family/special-story-to-ssrajamouli-473713|title = భళి భళి భళిరా భళి రాజమౌళి|date = 5 May 2017|accessdate=2023-11-16}}</ref> | 興行収入 = | 配給収入 = ₹290,000,000<ref name=":0" /> | 前作 = | 次作 = }} 『'''ヤマドンガ'''』(Yamadonga)は、[[2007年の映画|2007年]]の[[インドの映画|インド]]の[[テルグ語映画|テルグ語]][[ファンタジー映画|ファンタジー]][[アクション映画|アクション]][[コメディ映画]]<ref>{{cite news |title=SS Rajamouli and Jr NTR's Yamadonga to be released in Tamil |url=https://timesofindia.indiatimes.com/entertainment/tamil/movies/news/ss-rajamouli-and-jr-ntrs-yamadonga-to-be-released-in-tamil/articleshow/72235832.cms |accessdate=26 November 2019 |website=The Times of India |date=26 November 2019 |quote=Yamadonga, the 2007 Telugu-language fantasy action comedy film directed by SS Rajamouli, ....}}</ref>。監督は[[S・S・ラージャマウリ]]、プロデューサーはチランジーヴィ・ペダマルーと{{仮リンク|ガンガラージュ・ガンナン|en|Gangaraju Gunnam}}が務め、ヴィシュヴァーミトラ・クリエーションズが製作を手掛けた<ref>{{Cite web |last=Atluri |first=Sri |date=2008-09-28 |title=Star Interviews : Exclusive Interview: Rajamouli |url=http://www.telugucinema.com/c/publish/stars/interview_rajamouli_2007_3.php |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080928115112/http://www.telugucinema.com/c/publish/stars/interview_rajamouli_2007_3.php |archivedate=2008-09-28 |accessdate=2022-08-27 |website=[[Telugucinema.com]]}}</ref>。主要キャストとして[[N・T・ラーマ・ラオ・ジュニア]]、[[モーハン・バーブ]]、[[プリヤーマニ]]、{{仮リンク|マムター・モーハンダース|en|Mamta Mohandas}}、[[アリー (俳優)|アリー]]、[[ブラフマーナンダム]]が出演している。 1977年の『[[:en:Yamagola|Yamagola]]』から影響を受けたプロットを基に、泥棒のラジャを主人公とし、[[ヒンドゥー教]]の死と正義を司る[[ヤマ (インド神話)|ヤマ]]との対峙やヒロインの少女マヒとの関係を描いている。2007年1月から[[ラモジ・フィルムシティ]]を中心に撮影が行われた。主要スタッフとして[[M・M・キーラヴァーニ]]が音楽監督、[[K・K・センティル・クマール]]が撮影監督、{{仮リンク|ラーマ・ラージャマウリ|en|Rama Rajamouli}}が衣装デザイナーを務めた。 2007年8月15日に公開された。批評家からは好意的な評価を得ており、配給収入2億9000万ルピーを記録して「[[ブロックバスター (映画)|ブロックバスター]]」に認定された<ref>{{Cite web |date=2020-05-20 |title=Happy birthday Jr NTR: 5 movies that prove 'Young Tiger' is talent personified |url=https://www.deccanherald.com/entertainment/happy-birthday-jr-ntr-5-movies-that-prove-young-tiger-is-talent-personified-839747.html |website=Deccan Herald|accessdate=2023-11-16}}</ref>。『ヤマドンガ』は2007年公開のテルグ語映画で最も高い興行成績を記録し、主演のラーマ・ラオ・ジュニアは[[フィルムフェア賞 テルグ語映画部門主演男優賞]]を受賞した。2008年にはヒンディー語吹替版『Lok Parlok』、2016年にはタミル語吹替版『Vijayan』、アワディー語吹替版『Chor Raja』がそれぞれ公開された。 == ストーリー == 孤児のラジャは[[ハイデラバード (インド)|ハイデラバード]]で泥棒をしながら暮らしており、そこで裕福な少女マヒと出会う。ラジャに恋をしたマヒは[[ナラシンハ]]の力を宿したネックレスをプレゼントするが、ラジャは値打ちがないと判断して捨てようとするが、ネックレスはラジャのもとに戻ってきてしまう。これ以降、ラジャは事あるごとにネックレスを捨てようとするが、そのたびにネックレスは彼の元に戻ってきてしまう。12年後、マヒは死んだ祖父の遺産相続人になるが、遺産を狙うおじのラーム・プラサード一家に屋敷を乗っ取られて奴隷のような扱いを受け、自分を救ってくれる「王子様」の存在を待ち続けていた。同じころ、ラジャは相棒のサティと手を組んで詐欺を働く一方、金貸しのダナラクシュミから多額の借金を抱えて返済に追われていた。 ある日、ラジャとサティは「妻のドレスを探して欲しい」という依頼を引き受けて街中を探していたが、そこでギャングたちに追われるマヒと遭遇する。マヒは遺産を狙うラーム・プラサード一家が差し向けたギャングたちに命を狙われており、彼女がラジャが探し出したドレスを持って行ってしまったことから、ラジャはギャングたちを倒してマヒを助け出す。マヒからドレスを受け取ったラジャとサティは依頼主の元に向かい報酬を受け取ろうとするが、依頼主が急死したため報酬を受け取ることができず、ラジャはヤケ酒を飲みながら死を司る[[ヤマ (インド神話)|ヤマ]]を侮辱する。ラジャの罵声を聞いたヤマは激怒し、{{仮リンク|チトラグプタ|en|Chitragupta}}にラジャを連れてくるように命じる。一方、マヒが死んだ時は遺産の全額が施設に寄付されることを知ったラーム・プラサードたちは彼女を保護しようとし、報道で彼女の正体を知ったラジャとサティは、ラーム・プラサードから身代金を手に入れようと計画する。ラジャに保護されたマヒは、ラジャがネックレスを持っていたことから、彼が12年前に恋した少年であることに気付く。 ラジャとサティはラーム・プラサード父子と接触して身代金500万ルピーを要求するが、父子は金額を5億ルピーと勘違いしてしまう。高額な身代金の支払いに難色を示したラーム・プラサードは、ギャングのナーラーヤナに命じてラジャを殺してしまう。{{仮リンク|ナーラーカ (インド神話)|en|Naraka (Hinduism)|label=地獄}}に送られたラジャは、そこで再会した依頼主から、自分が死んだのは侮辱された復讐のためにヤマが仕組んだことだと聞かされる。事実を知ったラジャは、ヤマが不在の隙をついて{{仮リンク|パーシャ|en|Pasha (Hinduism)|label=死の縄}}を盗み出して王座を奪い取ってしまう。事態を知ったヤマは王座を取り戻そうとするが、{{仮リンク|ナーラダ|en|Narada}}の提案で王座をかけて選挙を実施することになった。「地獄を楽園にする」と宣言したラジャは選挙戦を有利に進める一方、ヤマは尊大な性格が災いして支持を得られず、さらにセクハラ疑惑が持ち上がったことで妻とも疎遠になってしまう。窮地に陥ったヤマはチトラグプタの提案で天女たちを呼び寄せて人気を取り戻すが、天界にいた[[N・T・ラーマ・ラオ|祖父]]の協力を得たラジャが勢いを盛り返し、ラジャが選挙戦に勝利する。しかし、ヤマが死の縄を取り戻したことで形勢が逆転し、ヤマはラジャを罰しようとするが、ラジャが王の権限で自分の罪を記録から抹消していたため罪に問うことができず、ラジャは地球に戻っていく。 地獄での記憶を失ったラジャは身代金を受け取りに屋敷に向かい、そこでマヒの境遇を知り、ラーム・プラサード一家を成敗してマヒを救い出して彼女と婚約する。しかし、酒に酔ったラジャは再びヤマを侮辱したため、ヤマに罰する口実を与えてしまう。ヤマはラジャに復讐するため地球に降り立ちダナラクシュミに姿を変え、彼女の父に姿を変えたチトラグプタと共にラジャに近付く。記憶を取り戻したラジャはヤマを翻弄するが、ヤマに身代金交渉をしている姿を暴露されたことでマヒから拒絶されてしまう。ラーム・プラサードがナーラーヤナを呼び寄せるが、ナーラーヤナがマヒに一目惚れして彼女を誘拐し、彼女を救おうとしたラジャは車にはねられて重傷を負ってしまう。崖から落ちたラジャは[[シンハーチャラム寺院]]の敷地に辿り着き、ヤマは死の縄で彼の命を奪おうとするが、ナラシンハの力に守られたラジャの命を奪うことができず、ヤマは彼を寺院から引きずり出そうとする。ヤマに気付いたラジャは、これまでの非礼を詫びて、マヒを救うために30分だけ生かして欲しいと懇願して寺院を立ち去る。その様子を見ていたナーラダがヤマを説得しようとするが、ヤマは「飛び立った死の縄はラジャの命を奪うまで止まらない」と告げる。ラジャはナーラーヤナたちを倒してマヒを救うと同時に死の縄に襲われるが、ネックレスの力によって難を免れる。ヤマはラジャの命を奪うことを止めるが、そこにサティを連れたダナラクシュミが現れて借金の返済を求めたため、ラジャは窮地に陥り、ヤマは「地獄と地球、どちらで暮らすのがいいか」とラジャに問いかける。同時にチトラグプタもヤマの妻を連れて現れ、ヤマにかけられた誤解を解こうとするが、ダナラクシュミとの関係を疑われて窮地に陥り、ラジャは同じように「地獄と地球、どちらで暮らすのがいいか」とヤマに問いかける。 == キャスト == {{Cast listing| * ラジャ - [[N・T・ラーマ・ラオ・ジュニア]] ** 幼少期のラジャ - {{仮リンク|シュリー・シンハー・コドゥリ|en|Sri Simha Koduri}} * [[ヤマ (インド神話)|ヤマ]] - [[モーハン・バーブ]] * マヘーシュワリ(マヒ) - [[プリヤーマニ]] * ダナラクシュミ - {{仮リンク|マムター・モーハンダース|en|Mamta Mohandas}} * サティ - [[アリー (俳優)|アリー]] * {{仮リンク|チトラグプタ|en|Chitragupta}} - [[ブラフマーナンダム]] * ヤマの妻 - {{仮リンク|クシュブー|en|Khushbu}} * ラーム・プラサード - {{仮リンク|ジャヤー・プラカーシュ・レッディ|en|Jaya Prakash Reddy}} * マヘーシュワリのおば - シヴァ・パールヴァティー * マヘーシュワリの従兄弟 - {{仮リンク|ラグー・バーブ|en|Raghu Babu}} * マヘーシュワリの祖父 - {{仮リンク|ランガナート|en|Ranganath (actor)}} * [[インドラ]] - {{仮リンク|ラージーヴ・カナカラ|en|Rajeev Kanakala}} * {{仮リンク|ナーラダ|en|Narada}} - {{仮リンク|ナレーシュ|en|Naresh (actor)}} * ヤマの衛兵長 - {{仮リンク|ナルシング・ヤーダヴ|en|Narsing Yadav}} * [[ヴァルナ (神)|ヴァルナ]] - バーラーニ * ラジャの依頼主 - {{仮リンク|M・S・ナーラーヤナ|en|M. S. Narayana}} * ナーラーヤナ - {{仮リンク|ナレンドラ・ジャー|en|Narendra Jha}} * ギャング - {{仮リンク|スタント・シルヴァー|en|Stunt Silva}} * 本人役 - [[N・T・ラーマ・ラオ]](アーカイヴ出演<ref name="Soundarya in NTR-Rajamouli's Yamadonga!">{{cite web| title=nonstopcinema.com| work= Soundarya in NTR-Rajamouli's Yamadonga!|url= http://www.nonstopcinema.com/nsc/gossip/display.php?id=309 |accessdate=16 January 2007 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20070111165626/http://www.nonstopcinema.com/nsc/gossip/display.php?id=309 <!-- Bot retrieved archive --> |archivedate = 11 January 2007}}</ref>) ; [[アイテム・ナンバー]] * 「Nachore」シーン出演 - {{仮リンク|ラムバー (女優)|en|Rambha (actress)|label=ラムバー}} * [[ラムバー]] - {{仮リンク|ナヴニート・カウル・ラーナー|en|Navneet Kaur Rana}} * [[ウルヴァシー]] - {{仮リンク|プリーティ・ジャンギアニ|en|Preeti Jhangiani}} * [[メーナカー]] - {{仮リンク|アルチャナ・シャストリー|en|Archana Shastry}} }} == 製作 == === 撮影 === 『ヤマドンガ』は[[S・S・ラージャマウリ]]が『[[:en:Student No: 1|Student No: 1]]』『[[:en:Simhadri (2003 film)|Simhadri]]』に続いて[[N・T・ラーマ・ラオ・ジュニア]]を主人公に起用した作品である。ラージャマウリは映画のプロット(主人公が死んで地獄に行き、再び地球に戻ってくる部分)について、ラーマ・ラオ・ジュニアの祖父[[N・T・ラーマ・ラオ]]の主演作(『[[:en:Devanthakudu (1960 film)|Devanthakudu]]』『[[:en:Yamagola|Yamagola]]』)から影響を受けつつ、それ以外の基本的なプロットについては『ヤマドンガ』独自のものであると語っている<ref>{{Cite web |last=Atluri |first=Sri |date=2008-09-28 |title=Star Interviews : Exclusive Interview: Rajamouli |url=http://www.telugucinema.com/c/publish/stars/interview_rajamouli_2007.php |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080928113529/http://www.telugucinema.com/c/publish/stars/interview_rajamouli_2007.php |archivedate=2008-09-28 |accessdate=2022-08-24 |website=[[Telugucinema.com]]}}</ref><ref name=":1">{{Cite web |last=Rajmani |first=Radhika |date=2007-08-07 |title=The Rajmouli-NTR Jr winning combination |url=https://www.rediff.com/movies/2007/aug/21ssraja.htm |access-date= |website=[[Rediff.com]]|accessdate=2023-11-15}}</ref>。 映画にはラーマ・ラオ・ジュニアと祖父NTRの共演シーンがあり<ref>{{Cite news |last=Dundoo |first=Sangeetha Devi |date=2021-12-24 |title=Rajamouli's cocktail of folklore, fantasy and now, history |work=The Hindu |url=https://www.thehindu.com/entertainment/movies/rajamoulis-cocktail-of-folklore-fantasy-and-now-history/article38028706.ece |issn=0971-751X}}</ref><ref>{{Cite web |date=2018-05-20 |title=Here's how Tollywood star Jr NTR redefined himself as an actor |url=https://indianexpress.com/article/entertainment/telugu/happy-birthday-jr-ntr-5184023/ |website=The Indian Express |quote=The fantasy film also had a similar plotline to that of NTR’s Yamagola (1977)|accessdate=2023-11-15}}</ref><ref name=":0">{{Cite web |date=2022-03-25 |title=5 SS Rajamouli Films That Broke All Records at Box-Office |url=https://www.news18.com/news/movies/5-ss-rajamouli-films-that-broke-all-records-at-box-office-4907735.html |website=News18 |quote=Yamadonga (2007), a fantasy play reminiscent of the classic Yamagola|accessdate=2023-11-15}}</ref>、脚本はラージャマウリと父[[V・ヴィジャエーンドラ・プラサード]]が共同で執筆している。[[ヤマ (インド神話)|ヤマ]]役にはラージャマウリが「完璧で唯一の人選」と絶賛した[[モーハン・バーブ]]が起用された<ref name=":1" />。また、ラーマ・ラオ・ジュニアはラージャマウリの指示を受け、役作りのために体重の大幅な減量を行っている<ref>{{Cite web |date=2018-11-24 |title=Telugu Actors Weight Loss Stories To Inspire You |url=https://english.sakshi.com/entertainment/2018/11/24/how-jr-ntr-anushka-prabhas-lost-weight |website=Sakshi Post|accessdate=2023-11-15}}</ref><ref name=":1" />。ヒロインのマヒ役には[[プリヤーマニ]]が起用され、彼女は岩の上を歩くシーンの撮影中に足を滑らせて負傷(足首の捻挫と出血)している<ref name="Priya injured">{{cite web |title=Priyamani injured in shooting |url=http://www.indiaglitz.com/channels/telugu/article/28517.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070119063409/http://www.indiaglitz.com/channels/telugu/article/28517.html |url-status=dead |archivedate=19 January 2007 |accessdate=16 January 2007 |work=Indiaglitz.com}}</ref>。 2007年1月から[[主要撮影]]が始まり<ref>{{Cite web |date=2007-01-03 |title='Yamadonga' in regular shooting - Telugu News |url=https://www.indiaglitz.com/yamadonga-in-regular-shooting-telugu-news-28226 |website=IndiaGlitz.com|accessdate=2023-11-15}}</ref>、{{仮リンク|ナーラーカ (インド神話)|en|Naraka (Hinduism)|label=地獄}}のシーンは[[ラモジ・フィルムシティ]]に特注した舞台セットで撮影された<ref name=":1" />。このほか、いくつかのシーンは[[アーンドラ・プラデーシュ州]]の{{仮リンク|タラコナ|en|Talakona}}で撮影され<ref name=":2">{{Cite web |date=2007-04-10 |title='Yamadonga' in Talakona - Telugu News |url=https://www.indiaglitz.com/yamadonga-in-talakona-telugu-news-30432 |website=IndiaGlitz.com|accessdate=2023-11-15}}</ref>、歌曲シーンは[[ゴールコンダ|ゴールコンダ城]]で撮影している<ref>{{Cite news |last=Nanisetti |first=Serish |date=2019-02-12 |title=Filmy route to heritage |language=en-IN |work=The Hindu |url=https://www.thehindu.com/society/history-and-culture/living-hyderabad-filmy-route-to-heritage/article26246189.ece |issn=0971-751X}}</ref>。 === 音楽 === {{Infobox Album | Name = ヤマドンガ | Type = [[サウンドトラック]] | Artist = M・M・キーラヴァーニ | Released = 2007年7月14日 | Recorded = 2007年 | Genre = [[サウンドトラック]] | Length = 32:41 | Label = ヴェル・レコード | Producer = M・M・キーラヴァーニ | Reviews = | Chart position = | Certification = | Last album = 『[[:en:Khatarnak|Khatarnak]]』<br />(2006年) | This album = 『ヤマドンガ』<br />(2007年) | Next album = 『[[:en:Dhokha|Dhokha]]』<br />(2007年) }} 映画音楽とサウンドトラックの作曲は[[M・M・キーラヴァーニ]]が手掛け、ヴェル・レコードからサウンドトラックがリリースされた<ref>{{Cite web|url=https://www.saavn.com/s/album/telugu/Yamadonga-2007/E0bx3lBXpb0_|title = Yamadonga Songs Download - Telugu Songs Online @JioSaavn|date = 14 July 2007|accessdate=2023-11-15}}</ref>。 {{track listing | headline = トラックリスト | extra_column = 歌手 | lyrics_credits = yes | total_length = 32:41 | title1 = Nuvvu Muttukunte | lyrics1 = {{仮リンク|アナンタ・シュリラーム|en|Anantha Sriram}} | extra1 = {{仮リンク|ランジット (歌手)|en|Ranjith (singer)|label=ランジット}}、プラナヴィ・アーチャールヤ | length1 = 3:53 | title2 = Rabbaru Gajulu | lyrics2 = アナンタ・シュリラーム | extra2 = [[ダレル・メヘンディ]]、プラナヴィ・アーチャールヤ | length2 = 5:19 | title3 = Olammi Tikkareginda | lyrics3 = {{仮リンク|ブヴァナ・チャンドラ|en|Bhuvana Chandra}} | extra3 = N・T・ラーマ・ラオ・ジュニア、マムター・モーハンダース | length3 = 4:11 | title4 = Nachore Nachore | lyrics4 = ブヴァナ・チャンドラ | extra4 = ディープ、{{仮リンク|ガンガ・シータラース|en|Ganga Sitharasu|label=ガンガ}} | length4 = 4:54 | title5 = Nunugu Misalodu | lyrics5 = アナンタ・シュリラーム | extra5 = M・M・キーラヴァーニ、{{仮リンク|スニタ (歌手)|en|Sunitha (Telugu singer)|label=スニタ・ウパドラシュタ}} | length5 = 5:03 | title6 = Young Yama | lyrics6 = アナンタ・シュリラーム | extra6 = M・M・キーラヴァーニ、{{仮リンク|シャンカル・マハデーヴァン|en|Shankar Mahadevan}}、{{仮リンク|マノ (歌手)|en|Mano (singer)|label=マノ}}、プラナヴィ・アーチャールヤ | length6 = 4:54 | title7 = Srikara Karunda | lyrics7 = ジョンナヴィットゥラ | extra7 = マノ | length7 = 1:29 | title8 = Chala Challaga Gali | lyrics8 = ブヴァナ・チャンドラ | extra8 = M・M・キーラヴァーニ、サンギーター=サンギータ・サジート | length8 = 1:57 | title9 = Bambharala Chumbhanala | lyrics9 = ブヴァナ・チャンドラ | extra9 = マノ、プラナヴィ・アーチャールヤ | length9 = 1:01 }} == 公開 == 当初は2007年7月9日公開の予定だったが、後に8月15日公開に延期された<ref name=":2" />。2019年11月29日には『Vijayan』のタイトルでタミル語版が公開され<ref>{{Cite web|date=2019-11-26|title=SS Rajamouli and Jr NTR's Yamadonga to release in Tamil|url=https://boxofficeindia.co.in/ss-rajamouli-and-jr-ntrs-yamadonga-release-tamil|accessdate=2021-07-05|website=Box Office India|language=en}}</ref><ref>{{Cite news|title=SS Rajamouli and Jr NTR's Yamadonga to be released in Tamil |url=https://timesofindia.indiatimes.com/entertainment/tamil/movies/news/ss-rajamouli-and-jr-ntrs-yamadonga-to-be-released-in-tamil/articleshow/72235832.cms|accessdate=2021-07-05|website=The Times of India|date=26 November 2019 |language=en}}</ref>、日本では2023年10月20日に特集上映「熱風!!南インド映画の世界」の一本として『[[マガディーラ 勇者転生]]』『[[プシュパ 覚醒]]』『{{仮リンク|サイラー ナラシムハー・レッディ 偉大なる反逆者|en|Sye Raa Narasimha Reddy}}』と共に公開された<ref>{{cite web|url=https://natalie.mu/eiga/news/541581|title=南インド映画の特集で興収1位「プシュパ」日本初公開、「ヤマドンガ」なども上映|publisher=映画ナタリー|date=2023-09-19|accessdate=2023-11-15}}</ref>。2008年2月29日にDVDが発売された<ref>{{cite news |title=Yamadonga DVD Info |url=https://www.tolly2holly.com/Details.aspx?pid=40 |accessdate=24 March 2008}}</ref>。 == 評価 == === 興行収入 === 『ヤマドンガ』の配給収入は2億9000万ルピーを記録している<ref name=":0" />。上映日数は405劇場で50日間を記録し、このうち324劇場では100日間を記録しており、2007年公開のテルグ語映画の中で最も高い興行収入を記録した映画の一つとなり、ラーマ・ラオ・ジュニア主演作として『Simhadri』を越える成功を収めた<ref>{{cite web|url=http://www.rediff.com/movies/2007/dec/19sli3.htm|title=Top five Telugu films of 2007|publisher=[[Rediff.com]]|accessdate=2023-11-15}}</ref>。 === 批評 === {{仮リンク|ワンインディア|en|Oneindia}}は「『ヤマドンガ』は、あらゆる年齢層・階層の人たちが楽しめる映画になっている。ラージャマウリはNTRジュニアのキャラクターを彼の祖父を模して造形し、さらにNTRをアニメーション形式でスクリーンに復活させるという素晴らしい仕事をした。NTRジュニアの演技と台詞回しは全体的にとても楽しく、ヤマを演じたモーハン・バーブは、彼が多才な俳優であることを再確認させてくれた」と批評し<ref>{{cite web|url=http://entertainment.oneindia.in/telugu/reviews/2007/yamadonga-review-160807-1.html|title=Yamadonga – Review|date=16 August 2007|publisher=[[Oneindia.in]]|accessdate=16 August 2007}}</ref>、[[:en:Sify|Sify]]は「この社会派ファンタジー映画は、NTRの新たな姿とモーハン・バーブの謎めいた演技に救われている。楽曲と背景音楽を作曲したM・M・キーラヴァーニの技術的な面とエンターテインメント性が、映画の前半に一見の価値を与えている」と批評している<ref>{{cite web|url=http://www.sify.com/movies/yamadonga-review-telugu-14510898.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130625212237/http://www.sify.com/movies/yamadonga-review-telugu-14510898.html|url-status=dead|archivedate=2013-06-25|title=Yamadonga Review|website=[[Sify]] |accessdate=2023-11-15}}</ref>。また、[[:en:Idlebrain.com|Idlebrain.com]]のジーヴィは3/5の星を与え、「映画の前半はとても楽しめたが、後半はもっと面白くできたのではないか。評価すべき点はモーハン・バーブ、NTR、舞台セット、カメラワーク、音楽である。反面、映画の後半(NTRが地球に戻ってきて以降)の脚本は手に汗握るものではなかったし、上映時間も3時間5分と非常に長いものだった」と批評している<ref>{{cite web|url=http://www.idlebrain.com/movie/archive/mr-yamadonga.html|title=Yamadonga|publisher=idlebrain|accessdate=15 August 2007}}</ref>。 === 受賞・ノミネート === {| class="wikitable sortable" style="text-align:left; font-size:small" ! scope="col" |映画賞 ! scope="col" |授賞式 ! scope="col" |部門 ! scope="col" |対象 ! scope="col" |結果 ! scope="col" class="unsortable" |出典 |- ! rowspan="4" scope="row" |[[ナンディ賞]] | rowspan="4" |2008年1月12日 | {{仮リンク|ナンディ賞 編集賞|en|Nandi Award for Best Editor|label=編集賞}} | {{仮リンク|コータギリ・ヴェンカテーシュワラ・ラーウ|en|Kotagiri Venkateswara Rao}} | rowspan="10" {{won}} | rowspan="4" |<ref>{{cite web|url=http://www.idlebrain.com/news/2000march20/nandiawards2007.html|title=Nandi awards 2007 announced|publisher=idlebrain|accessdate=12 January 2008}}</ref> |- | {{仮リンク|ナンディ賞 メイクアップアーティスト賞|en|Nandi Award for Best Makeup Artist|label=メイクアップアーティスト賞}} | ナッラ・シーヌ |- | {{仮リンク|ナンディ賞 衣装デザイン賞|en|Nandi Award for Best Costume Designer|label=衣装デザイン賞}} | {{仮リンク|ラーマ・ラージャマウリ|en|Rama Rajamouli}} |- | {{仮リンク|ナンディ賞 特殊効果賞|en|Nandi Award for Best Special Effects|label=特殊効果賞}} | R・C・カマル・カンナン |- ! rowspan="6" scope="row" |{{仮リンク|CineMAA賞|en|CineMAA Awards}} | rowspan="6" |2008年3月23日 | 主演男優賞 | N・T・ラーマ・ラオ・ジュニア | rowspan="6" |<ref>{{cite web|url=https://www.idlebrain.com/news/functions/cinemaa-awards2008.html|title=Cinemaa Awards 2008 presentation|publisher=idlebrain|accessdate=2023-11-15}}</ref> |- | 助演男優賞 | モーハン・バーブ |- | 振付賞 | {{仮リンク|プレム・ラクシータ|en|Prem Rakshith}} |- | 台詞賞 | M・ラトナム |- | 撮影賞 | [[K・K・センティル・クマール]] |- | 美術監督賞 | {{仮リンク|アーナンド・サーイ|en|Anand Sai}} |- ! rowspan="6" scope="row" |{{仮リンク|第55回フィルムフェア賞 南インド映画部門|en|55th Filmfare Awards South}} | rowspan="6" |2008年7月12日 | {{仮リンク|フィルムフェア賞 テルグ語映画部門作品賞|en|Filmfare Award for Best Film – Telugu|label=作品賞}} | 『ヤマドンガ』 | rowspan="2" {{nom}} | rowspan="6" |<ref>{{cite web|url=http://bollyspice.com/view.php/1411-happy-days-at-the-55th-tiger-balm-filmfare-south-awards.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080828011034/http://bollyspice.com/view.php/1411-happy-days-at-the-55th-tiger-balm-filmfare-south-awards.html|archivedate=2008-08-28|title=Happy Days at the 55th Tiger Balm Filmfare South Awards|work=bollyspice.com|url-status=dead|accessdate=2023-11-15}}</ref> |- | [[フィルムフェア賞 テルグ語映画部門監督賞|監督賞]] | S・S・ラージャマウリ |- | [[フィルムフェア賞 テルグ語映画部門主演男優賞|主演男優賞]] | N・T・ラーマ・ラオ・ジュニア | {{won}} |- | [[フィルムフェア賞 テルグ語映画部門助演男優賞|助演男優賞]] | モーハン・バーブ | rowspan="3" {{nom}} |- | {{仮リンク|フィルムフェア賞 テルグ語映画部門助演女優賞|en|Filmfare Award for Best Supporting Actress – Telugu|label=助演女優賞}} | マムター・モーハンダース |- | [[フィルムフェア賞 テルグ語映画部門音楽監督賞|音楽監督賞]] | M・M・キーラヴァーニ |- ! scope="row" |{{仮リンク|サントーシャム映画賞|en|Santosham Film Awards}} | 2008年8月2日 | {{仮リンク|サントーシャム映画賞 美術監督賞|en|Santosham Best Art Direction Award|label=美術監督賞}} | アーナンド・サーイ | {{won}} | <ref>{{cite web|url=http://www.idlebrain.com/news/functions/santoshamawards2008.html |title=Santhosham Awards 2008 |date=2 August 2008 |publisher=Idlebrain.com |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150318213357/http://www.idlebrain.com/news/functions/santoshamawards2008.html |archivedate=18 March 2015|accessdate=2023-11-15}}</ref> |} == 出典 == {{Reflist|2}} == 外部リンク == * [https://neppusouthindianmovie.com/ 『熱風!!南インド映画の世界』オフィシャルサイト] * {{Allcinema title|391683|ヤマドンガ}} * {{Kinejun title|98232|ヤマドンガ}} * {{IMDb title|0924317|Yamadonga}} {{DEFAULTSORT:やまとんか}} [[Category:2007年の映画]] [[Category:インドのファンタジー映画]] [[Category:インドのアクション・コメディ映画]] [[Category:テルグ語で製作された映画作品]] [[Category:アーンドラ・プラデーシュ州で製作された映画作品]] 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甲板 (船)
甲板(かんぱん、またはこうはん)とは、船の上部にある平らな床のこと。 大きく鋼甲板と木甲板の二つに分けられる。鋼甲板は「飛行甲板」に代表されるように、現代の軍艦において多く利用されている他、タンカーや貨物船などに多く見られる。木甲板は、油分を含み、耐久性に優れ、高級感を演出できるとされ、客船などでよく使用される。また、軍艦においても、旧海軍の「大和型戦艦」や航空母艦「赤城」、アメリカ海軍の戦艦「アイオワ級戦艦」その他多数の艦にて使われていた例がある。
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甲板(かんぱん、またはこうはん)とは、船の上部にある平らな床のこと。
'''甲板'''('''かんぱん'''、または'''こうはん''')とは、[[船]]の上部にある平らな床のこと<ref>{{Cite web |title=甲板(かんぱん)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E7%94%B2%E6%9D%BF-63049 |website=コトバンク |access-date=2023-11-16 |language=ja |first=精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,百科事典マイペディア,世界大百科事典 |last=第2版,世界大百科事典内言及}}</ref>。 [[File:Falls of Clyde deck.jpg|thumb|300px|木甲板の一例]] == 材質 == 大きく鋼甲板と木甲板の二つに分けられる。鋼甲板は「[[飛行甲板]]」に代表されるように、現代の軍艦において多く利用されている他、[[タンカー]]や[[貨物船]]などに多く見られる。木甲板は、油分を含み、耐久性に優れ、高級感を演出できるとされ、[[客船]]などでよく使用される<ref>{{Cite web |title=木甲板 |url=https://kinomemocho.com/zatu_mokukanpan.html |website=kinomemocho.com |access-date=2023-11-16}}</ref>。また、[[軍艦]]においても、[[旧海軍]]の「[[大和型戦艦]]」や[[航空母艦]]「[[赤城 (空母)|赤城]]」、[[アメリカ海軍]]の戦艦「[[アイオワ級戦艦]]」その他多数の艦にて使われていた例がある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} [[Category:船舶の構造]]
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4,854,854
断尾
断尾(だんび)とは、動物の尻尾をヒトの手によって全部または一部切断する行為である。動物の種類や飼育環境によって、ナイフなど鋭利な刃物を用いた切断、ガスや電気によって加熱したコテなどの器具を用いた炙り、ゴムリングなどで尻尾を締めつけて壊死させる結紮、といった方法により行われる。 豚の断尾は通常、生後2–4日の時点で麻酔なしで行われる。豚の尻尾には先端まで末梢神経が伸びているため、尻尾を切断された子豚は激しい痛みを感じ、多大なトラウマを抱える。 家畜の豚の多くは、狭い空間で高密度多頭飼育されている(集約畜産)。そのような飼育環境で多大なストレスを抱えた豚は、豚ストレス症候群(英語版) (PSS) (人間でいうPTSDに相当)を発症し、別の豚の尻尾をかじるなど神経症による問題行動を起こすことがある。この「尾かじり」を防ぐために行われているのが断尾である。ただし、適切なスペースを確保し、一定量の水と藁を提供するなど、適切な環境が保たれている場合には、豚は他の豚の尻尾をかじることはないと報告されている。 なお、ブラジルやタイ、リトアニア、スウェーデン、フィンランド、アイスランドなどでは、動物福祉(アニマル・ウェルフェア)上の理由から豚の断尾は一切行われていない。また、EU諸国やカナダにおいては、麻酔なしで断尾を日常的に行うことは違法とされている。フランスでは、日常的に豚の尻尾を切断していた養豚業者に対して、動物虐待の罪で有罪判決が下された事例もある。 しかし、米国や日本では、麻酔なしの断尾という慣行がいまだに広く残っている。日本養豚協会の調査(2016年)によれば、日本では、実に91.3%の農家が麻酔を使わずに断尾している。 現在、多くの品種の羊が断尾されているが、これは糞が尻尾に付着することでハエが集るのを防ぐためとされる。なお、同じ理由から、尻の皮膚を切り取られたり皮を剥がれたりすることもある(ミュールシング)。 断尾は、正しく行われないと、成長障害や肛門脱などの問題を引き起こす可能性がある。尻尾を切断された子羊は、血漿コルチゾール濃度の上昇に見舞われたり、立ったり歩いたりするときに異常な姿勢を示すことも報告されている。 犬の断尾は通常、生後14日未満の子犬に対して、麻酔なしで行われている。子犬の断尾について、かつては「生後まもないうちは痛みを感じにくい」とされてきたが、実際は「痛みを感じていないのではなく表現しにくいだけ」と考えられている。 断尾の最も一般的な理由は「使役犬の怪我を防ぐため」とされる。例えば猟犬の場合、「草むらに入るとき尻尾に切り傷を負ってしまうことを防ぐ」などという名目で、断尾が施される。また、牧畜犬の場合には、「牛や羊に尻尾を踏まれてしまうリスクを減らす」などという名目で行われる。他方で、愛玩犬(ペット)については断尾を行う合理的理由はないものの、「尻尾が短いとお尻がかわいく見える」など見た目の理由から断尾が行われることも多い。 しかし、米国最大の獣医師団体である米国獣医学協会(英語版)は、「使役犬の断尾の正当化には十分な科学的根拠がない。犬の尾部損傷に関する大多数の研究によれば、尾の損傷が起こる確率は〔わずか〕0.23%である」として、使役犬に対する断尾行為を批判している。米国獣医学協会以外にも、米国動物病院協会(英語版)やカナダ獣医学協会(英語版)など様々な団体が断尾行為を非難している。また、これら団体は、ケネルクラブが正統な犬種の基準として尻尾の長さを定めていること(右画像も参照)についても非難している。なお、ケネルクラブのなかにはドイツ・ケネルクラブ(ドイツ語版) (VDH) やスイス犬学クラブ(ドイツ語版) (SKG) のように、断尾された犬の展示を禁止するところもある。 そのほか、断尾は犬のコミュニケーションに問題をきたすという指摘もある。犬は社会的動物であり、尻尾を使って他の犬とコミュニケーションをとる。研究では、尻尾のない犬はコミュニケーション上の大きなハンディキャップを負っていることが明らかとなっている。別の研究では、尻尾の動きによって合図を伝えるには、短い尻尾よりも長い尻尾のほうが効果的であることが発見されている。さらに、ヴィクトリア大学のトム・ライムヘンは、社会的な合図を他の犬にうまく伝えることができないまま成長した犬は、より反社会的になり、その結果、より攻撃的になる可能性があると推論している。 コミュニケーションのほかに、健康問題も指摘されている。断尾された犬は尻尾の欠損を補うためにより懸命に体を動かす必要があり、その結果、関節などに余分なストレスが蓄積し、長期的にはそれが健康被害をもたらす可能性があるとされている。 断尾は動物虐待とみなされることも多い。また、多くの国では断尾は犯罪とされ、違法化されている。さらに、なかには犬を猟犬や牧畜犬など使役犬に用いることも禁止する国もある。 アイスランド、アイルランド、イギリス、イタリア、ヴァージン諸島、エストニア、オーストラリア、オーストリア、オランダ、キプロス、ギリシア、クロアチア、コロンビア、スイス、スウェーデン、スロヴァキア、スロヴェニア、チリ、トルコ、ニュージーランド、ノルウェー、フィンランド、ベルギー、ポーランド、ラトヴィア、リトアニア、ルクセンブルクでは犬の断尾は違法とされ、イスラエル、スペイン、ドイツ、ブラジルでも一部の例外を除いて違法とされている。他方で、アフガニスタン、アメリカ合衆国、インドネシア、エジプト、クウェート、コスタリカ、スリランカ、タイ、チュニジア、日本、ネパール、フィリピン、ペルー、ボリビア、マレーシア、メキシコ、モーリシャス、レバノンでは一切の制限がない。 18世紀のイギリスでは、尻尾のある犬に対して税金が課されるようになってから、断尾が慣例化した。 1991年に獣医外科医法(英語版)が改正されると、1993年7月1日以降は断尾は獣医師のみが行えることとされ、一般人による断尾が禁止された。1992年、王立獣医外科学会(英語版)は、断尾は「治療上または予防上の理由がない限り」倫理に反する行為であるとの見解を示した。現在、断尾を行っている獣医師は懲戒処分を受けたり獣医師登録を抹消される可能性がある。断尾は、イングランドとウェールズでは動物福祉法(英語版)によって、スコットランドでは動物健康福祉法(英語版)によって禁止されており、違法な断尾行為により有罪となった場合は、最高2万ポンド(約370万円)の罰金か最長51週間の禁固刑、またはその両方が科される。 1987年に欧州評議会によって制定された愛玩動物の保護に関する欧州条約(英語版)では、医療以外の理由による断尾は禁止されている。 歴史的には、馬の断尾は実用的な目的から行われることがほとんどであった。例えば、大きな荷物の運搬に使役される輓馬の場合、尻尾が牽引ロープや農機具などに絡まるのを防ぐために断尾が行われることもあった。しかし現代では、馬に断尾は不要であると考えられており、アイルランド、イギリス、ノルウェー、オーストラリアの一部、アメリカ合衆国の11の州では馬の断尾が禁止されている。しかし、そのほかの地域では現在でも断尾が行われている場所がある。 馬の断尾に関しては、馬に苦痛や不快感を与えると指摘され、また尻尾を使ってハエを叩くことができなくなるという問題もある。 かつては、乳牛に対して断尾を施すことで「牛の体や乳房、乳頭が汚れにくくなり、その結果体細胞 (SCC) が減少し乳房炎になりにくくなる」と考えられており、断尾が広く行われていた時代もあった。しかし、現在では、この説は否定されている。調査によれば、断尾の有無と体細胞数、乳房炎の頻度、牛の清潔度のあいだに有意な効果は認められず、断尾は乳の質に影響を及ぼさないことが明らかとなっている。それどころか、断尾によって牛は尻尾を使ってハエやアブ、蚊などの害虫を追い払うことができなくなるという問題も発生する。そのため、畜産技術協会は、牛の断尾は「害虫を追い払うことができなくなり、牛がストレスを感じることから、実施しないことが望ましい」との指針を示している。また、「糞尿を撒き散らかさなくなる」など衛生上の理由から断尾を行う事例も見られる。しかし、畜産技術協会は、「牛床の改善や糞尿の適切な処理により飼養環境の改善を図ることが重要」としており、尻尾の衛生に関しては、断尾ではなく尾房のトリミングと洗浄が効果的であるとして、これを推奨している。それでもなお、牛に対して断尾を行っている農家はいまだ存在する。信州大学の竹田謙一准教授らは、そのような農家を調査した上で、いずれの農家も麻酔を用いずに乳牛に対して断尾を行っていることから、「断尾農家の乳牛に対する倫理的配慮は低い」と推察している。また、「断尾農家の多くは明確な根拠もなく断尾を実施している」ことも指摘している。 断尾された牛は、切断時だけでなく切断後もずっと痛みやストレスに悩まされる。さらに、切断部の感覚器官が過敏になり、神経線維が異常に増殖し、暑さや寒さに対して過敏になり、クロストリジウム感染症を発症しやすくなる、といった問題もある。動物福祉(アニマル・ウェルフェア)の観点から牛の断尾が問題であることは証明されており、米国獣医学協会(英語版)およびカナダ獣医学協会(英語版)は、牛に対する断尾に反対している。また、イギリス、オランダ、スウェーデン、デンマーク、アメリカ合衆国の一部の州、オーストラリアの一部の州では酪農業における断尾が禁止されている。また、カナダでも、医学的に必要でない場合には断尾を行ってはならないとされている。他方で、日本では断尾に関する規制はなく、全国で飼育されている乳牛約137万頭のうち約10万頭(約7.5%)が断尾されている(2014年調査)。
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"断尾された牛は、切断時だけでなく切断後もずっと痛みやストレスに悩まされる。さらに、切断部の感覚器官が過敏になり、神経線維が異常に増殖し、暑さや寒さに対して過敏になり、クロストリジウム感染症を発症しやすくなる、といった問題もある。動物福祉(アニマル・ウェルフェア)の観点から牛の断尾が問題であることは証明されており、米国獣医学協会(英語版)およびカナダ獣医学協会(英語版)は、牛に対する断尾に反対している。また、イギリス、オランダ、スウェーデン、デンマーク、アメリカ合衆国の一部の州、オーストラリアの一部の州では酪農業における断尾が禁止されている。また、カナダでも、医学的に必要でない場合には断尾を行ってはならないとされている。他方で、日本では断尾に関する規制はなく、全国で飼育されている乳牛約137万頭のうち約10万頭(約7.5%)が断尾されている(2014年調査)。", "title": "牛" } ]
断尾(だんび)とは、動物の尻尾をヒトの手によって全部または一部切断する行為である。動物の種類や飼育環境によって、ナイフなど鋭利な刃物を用いた切断、ガスや電気によって加熱したコテなどの器具を用いた炙(あぶ)り、ゴムリングなどで尻尾を締めつけて壊死させる結紮、といった方法により行われる。
'''断尾'''(だんび)とは、動物の[[尾|尻尾]]を[[ヒト]]の手によって全部または一部切断する行為である。[[動物]]の種類や飼育環境によって、ナイフなど鋭利な刃物を用いた'''切断'''、ガスや電気によって加熱したコテなどの器具を用いた'''{{Ruby|炙|あぶ}}り'''、ゴムリングなどで尻尾を締めつけて壊死させる'''[[結紮]]'''、といった方法により行われる<ref name = "Model Code"/>。 == 豚 == [[ファイル:Results of tail docking a piglet at Iowa Select Farms, taken by Mercy for Animals in 2011.jpg|thumb|300x300px|[[アメリカ合衆国|米国]][[アイオワ州]]の養豚処理業者によって行われた子豚の断尾([[2011年]]撮影)。 ---- 麻酔をせずに断尾された子豚は、激しい痛みを感じ、多大な[[心的外傷|トラウマ]]を抱えることとなる<ref name="guardian20190119" /><ref name="hfapig" />。]] [[豚]]の断尾は通常、生後2–4日の時点で麻酔なしで行われる。豚の尻尾には先端まで[[末梢神経]]が伸びているため、尻尾を切断された子豚は激しい痛みを感じ、多大な[[心的外傷|トラウマ]]を抱える<ref name="guardian20190119">{{Cite web|date=2019-01-19|title=The curse of tail-docking: the painful truth about Italy's pigs {{!}} Cecilia Ferrara and Catherine Nelson|url=http://www.theguardian.com/environment/2019/jan/19/curse-tail-docking-painful-truth-italy-pigs|access-date=2021-01-28|website=the Guardian|language=en}}</ref><ref name="hfapig" />。 家畜の豚の多くは、狭い空間で高密度多頭飼育されている([[集約畜産]])。そのような飼育環境で多大なストレスを抱えた豚は、{{仮リンク|豚ストレス症候群|en|Porcine stress syndrome}} (PSS) (人間でいう[[PTSD]]に相当{{Sfn|ジョイ|2022|loc=kindle版: 位置No. 58–59/289}})を発症し、別の豚の尻尾をかじるなど神経症による問題行動を起こすことがある{{Sfn|ジョイ|2022|loc=kindle版: 位置No. 58–59/289}}<ref name="hfapig">{{Cite web |author= |url=https://www.hopeforanimals.org/pig/430/ |title=子豚の尻尾を麻酔なしで切断 |website=HOPE for ANIMALS |publisher=NPO法人アニマルライツセンター |language=ja |date=2015-12-31 |accessdate=2023-11-15}}</ref>{{Sfn|Li et al.|2017}}。この「尾かじり」を防ぐために行われているのが断尾である。ただし、適切なスペースを確保し、一定量の水と{{Ruby|藁|わら}}を提供するなど、適切な環境が保たれている場合には、豚は他の豚の尻尾をかじることはないと報告されている<ref>{{Cite journal |last=Valros |first=Anna |last2=Heinonen |first2=Mari |year=2015 |title=Save the pig tail |url= |journal=Porcine Health Management |publisher=BMC |volume=1 |issue=2 |pages= |doi=10.1186/2055-5660-1-2 |accessdate=2021-11-15}}</ref>。 なお、[[ブラジル]]や[[タイ王国|タイ]]、[[リトアニア]]、[[スウェーデン]]、[[フィンランド]]、[[アイスランド]]などでは、[[動物福祉]](アニマル・ウェルフェア)上の理由から豚の断尾は一切行われていない<ref name="hfapig" /><ref>{{Cite web|last=foodnavigator-asia.com|title=CPF to further promote natural behaviours of livestock to avoid pain and injury|url=https://www.foodnavigator-asia.com/Article/2020/06/23/CPF-to-further-promote-natural-behaviours-of-livestock-to-avoid-pain-and-injury|access-date=2021-01-28|website=foodnavigator-asia.com|language=en-GB}}</ref>。また、[[EU]]諸国や[[カナダ]]においては、麻酔なしで断尾を日常的に行うことは違法とされている<ref name="hfapig" />。[[フランス]]では、日常的に豚の尻尾を切断していた養豚業者に対して、[[動物虐待]]の罪で有罪判決が下された事例もある<ref>{{Cite web |author= |url=https://www.schweizerbauer.ch/tiere/schweine/wegen-schwanzkupierens-als-tierquaeler-verurteilt/ |title=Wegen Schwanzkupierens als Tierquäler verurteilt |publisher=Schweizer Bauer |language=de |date=2022-04-10 |accessdate=2023-11-15}}</ref>。 しかし、[[アメリカ合衆国|米国]]や[[日本]]では、麻酔なしの断尾という慣行がいまだに広く残っている。日本養豚協会の調査([[2016年]])によれば、日本では、実に91.3%の農家が麻酔を使わずに断尾している<ref>{{Cite web |author= |url=https://www.hopeforanimals.org/pig/pigfarms-survey/ |title=養豚業業界のアニマルウェルフェアの意識-妊娠ストール使用率に変化なし。だが群飼育への切替や麻酔を検討する会社も。 |website=HOPE for ANIMALS |publisher=NPO法人アニマルライツセンター |language=ja |date=2019-12-08 |accessdate=2023-11-15}}</ref>。 == 羊 == [[ファイル:Sheep management, breeds and judging for schools; a textbook for the shepherd and student (1920) (14773224452).jpg|thumb|300x300px|断尾される子羊([[1920年]]撮影)]] 現在、多くの品種の[[羊]]が断尾されているが、これは糞が尻尾に付着することで[[ハエ]]が{{Ruby|集|たか}}るのを防ぐためとされる<ref name="Model Code">{{cite book |url = http://www.publish.csiro.au/nid/22/pid/5389.htm |title = The Sheep – Second Edition |work = Model Code of Practice for the Welfare of Animals |publisher = [[CSIRO]] Publishing |author = Primary Industries Ministerial Council |year=2006 |isbn =0-643-09357-5 |access-date=2007-01-09 }}</ref><ref>French, N. P., R. Wall and K. L. Morgan. 1994. Lamb tail docking: a controlled field study of the effects of tail amputation on health and productivity. Vet. Rec. 124: 463-467.</ref>。なお、同じ理由から、[[尻]]の皮膚を切り取られたり皮を剥がれたりすることもある([[ミュールシング]])。 断尾は、正しく行われないと、[[成長障害]]<ref>Giadinis, N. D., Loukopoulos, P., Tsakos, P., Kritsepi-Konstantinou, M., Kaldrymidou, E., and Karatzias, H. Illthrift in suckling lambs attributed to lung pyogranuloma formation. Veterinary Record, 165: 348–350, 2009.http://veterinaryrecord.bvapublications.com/cgi/content/full/165/12/348?view=long&pmid=19767640</ref>や[[肛門脱]]などの問題を引き起こす可能性がある。尻尾を切断された子羊は、血漿コルチゾール濃度の上昇に見舞われたり、立ったり歩いたりするときに異常な姿勢を示すことも報告されている<ref>{{Cite journal |last= |first= |last2= |first2= |year=2017 |month=Abril |title=EFECTOS DE LA CASTRACIÓN Y EL CORTE DE COLA SOBRE EL BIENESTAR DEL GANADO OVINO |url=https://www.fawec.org/media/com_lazypdf/pdf/Ficha_Tecnica_FAWEC_n18_Es.pdf |journal=FICHA TÉCNICA SOBRE BIENESTAR DE ANIMALES DE GRANJA |language=es |volume= |issue=18 |pages= |doi= |accessdate=}}</ref>。 {| | [[ファイル:Two lambs rubber ring tail docking, cropped.jpg|thumb|300x300px|硬いゴムリングを尻尾に付けられている子羊。 ---- 尻尾の血行を止めることで尻尾は数週間かけて[[壊死]]し、最終的に脱落する。ゴムリングを装着された子羊は、しばらく痛みを感じるが、尻尾が壊死してくるに伴い感覚は麻痺していき、次第に痛みを感じなくなる。]] | [[ファイル:Lamb_-_no_docking.jpg|thumb|300x300px|断尾されていない羊。 ---- 羊は本来、この写真にあるように長い尻尾を持つ。しかし、多くの現場で断尾が行われているため、羊の尻尾は本来短いと勘違いする者も少なくない。]] |} == 犬 == [[ファイル:Dog smelling for truffles in Mons, Var.jpg|thumb|300x300px|一部の尻尾を切断され、[[使役動物|使役]]([[トリュフ]]探し)に利用されている犬]] [[ファイル:Grupp 1, WELSH CORGI PEMBROKE, BE CH C.I.B. LU CN NL CH Siggen’s Marguerita (23683385973).jpg|thumb|300x300px|断尾されていない[[ウェルシュ・コーギー・ペンブローク]] ---- コーギーは本来、この写真のように長い尻尾を持つ犬種であるが、ケネルクラブが正統な犬種の尻尾の長さを定めていることもあり、長らく慣行としてコーギーに対する断尾が行われ続けてきた(例えば[[ジャパンケネルクラブ]]はコーギーの尻尾を「2インチ(5.1cm)まで」と定めている<ref>{{Cite web |author= |url=https://wancolab.com/body/p/corgi-tail-docking/ |title=コーギーの尻尾はなぜ短い? 犬の断尾の歴史と役割、犬種について |website=わんこラボ |publisher= |language=ja |date=2022-05-25 |accessdate=2023-11-19}}</ref>)。<br />しかし近年では「できるだけ動物に苦痛を与えるべきでない」という[[動物福祉]](アニマル・ウェルフェア)の考えが主流となってきており、多くの国で断尾は犯罪([[動物虐待]])とみなされ、違法とされている。]] [[犬]]の断尾は通常、生後14日未満の子犬に対して、麻酔なしで行われている<ref>{{cite web|url=http://www.cdb.org/defra/sub1.htm|title=DEFRA – CDB Submission|work=cdb.org|access-date=27 January 2005|archive-url=https://web.archive.org/web/20051025090446/http://www.cdb.org/defra/sub1.htm|archive-date=25 October 2005|url-status=dead}}</ref><ref name="canine">{{Cite web|url=https://www.avma.org/KB/Resources/FAQs/Pages/Frequently-asked-questions-about-canine-tail-docking.aspx|title=Canine Tail Docking FAQ|website=www.avma.org|language=en-us|access-date=8 November 2017}}</ref>。子犬の断尾について、かつては「生後まもないうちは痛みを感じにくい」とされてきたが、実際は「痛みを感じていないのではなく表現しにくいだけ」と考えられている<ref>{{Cite web |author= |url=https://www.oricon.co.jp/special/56331/ |title=なぜコーギーもトイプーもしっぽ切る? 断尾・断耳行為が日本で消えない理由「メリットなく、リスク伴う」 |website= |publisher= |language=ja |date=2021-05-13 |accessdate=2023-11-19}}</ref>。 断尾の最も一般的な理由は「[[使役犬]]の怪我を防ぐため」とされる。例えば[[猟犬]]の場合、「草むらに入るとき尻尾に切り傷を負ってしまうことを防ぐ」などという名目で、断尾が施される。また、[[牧畜犬]]の場合には、「牛や羊に尻尾を踏まれてしまうリスクを減らす」などという名目で行われる。他方で、愛玩犬([[ペット]])については断尾を行う合理的理由はないものの、「尻尾が短いとお尻がかわいく見える」など見た目の理由から断尾が行われることも多い。 しかし、[[アメリカ合衆国|米国]]最大の[[獣医師]]団体である{{仮リンク|米国獣医学協会|en|American Veterinary Medical Association}}は、「使役犬の断尾の正当化には十分な科学的根拠がない。犬の尾部損傷に関する大多数の研究によれば、尾の損傷が起こる確率は〔わずか〕0.23%である」として、使役犬に対する断尾行為を批判している<ref name="canine" />。米国獣医学協会<ref>{{Cite web|url=https://www.avma.org/KB/Policies/Pages/Ear-Cropping-and-Tail-Docking-of-Dogs.aspx|title=Ear cropping and tail docking of dogs|accessdate=2023-11-19}}</ref>以外にも、{{仮リンク|米国動物病院協会|en|American Animal Hospital Association}}<ref>{{Cite web | url=https://www.aaha.org/about-aaha/aaha-position-statements/ear-croppingtail-docking | title=Ear cropping and tail docking|accessdate=2023-11-19}}</ref>や{{仮リンク|カナダ獣医学協会|en|Canadian Veterinary Medical Association}}など様々な団体<ref>[https://www.avma.org/KB/Resources/Backgrounders/Documents/dogs_tail_docking_bgnd.pdf Welfare Implications of Tail Docking-Dogs] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20140225100655/https://www.avma.org/KB/Resources/Backgrounders/Documents/dogs_tail_docking_bgnd.pdf |date=February 25, 2014 }} American Veterinary Medical Association</ref>が断尾行為を非難している。また、これら団体は、[[ケネルクラブ]]が正統な犬種の基準として尻尾の長さを定めていること(''右画像も参照'')についても非難している。なお、ケネルクラブのなかには{{仮リンク|ドイツ・ケネルクラブ|de|Verband für das Deutsche Hundewesen}} (VDH) や{{仮リンク|スイス犬学クラブ|de|Schweizerische Kynologische Gesellschaft}} (SKG) のように、断尾された犬の展示を禁止するところもある。 そのほか、断尾は犬のコミュニケーションに問題をきたすという指摘もある。犬は[[社会的動物]]であり、尻尾を使って他の犬とコミュニケーションをとる。研究では、尻尾のない犬はコミュニケーション上の大きなハンディキャップを負っていることが明らかとなっている<ref>{{Cite web|url=http://www.scottvet.co.uk/tailwag/docking1.txt |title=Cosmetic tail docking of dogs tails |last=Wansborough |first=Robert |publisher=Australian Veterinary Journal |date=1 July 1996 |access-date=31 December 2007 |archive-url=https://archive.today/20071116194221/http://www.scottvet.co.uk/tailwag/docking1.txt |archive-date=16 November 2007 |url-status=dead }}</ref>。別の研究では、尻尾の動きによって合図を伝えるには、短い尻尾よりも長い尻尾のほうが効果的であることが発見されている<ref name="Reimchen">{{cite journal |title=Behavioural responses of Canis familiaris to different tail lengths of a remotely-controlled life-size dog replica |journal=Behaviour |date=1 January 2008 |volume=145 |issue=3 |pages=377–390 |doi=10.1163/156853908783402894 |last1=Reimchen |last2=Leaver }}</ref>。さらに、[[ビクトリア大学|ヴィクトリア大学]]のトム・ライムヘンは、社会的な合図を他の犬にうまく伝えることができないまま成長した犬は、より反社会的になり、その結果、より攻撃的になる可能性があると推論している<ref>{{cite web|url=http://www.canada.com/vancouversun/news/story.html?id%3Dc42371b7-8b74-4e75-8d85-e19bbf161361%26k%3D67117 |title=Cutting off dogs' tails leads to aggression: Study |access-date=21 January 2011 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20121109203423/http://www.canada.com/vancouversun/news/story.html?id=c42371b7-8b74-4e75-8d85-e19bbf161361&k=67117 |archive-date=9 November 2012 }}</ref>。 コミュニケーションのほかに、健康問題も指摘されている。断尾された犬は尻尾の欠損を補うためにより懸命に体を動かす必要があり、その結果、関節などに余分なストレスが蓄積し、長期的にはそれが健康被害をもたらす可能性があるとされている。 断尾は[[動物虐待]]とみなされることも多い<ref>[http://www.peta.org/issues/companion-animal-issues/cruel-practices/ear-cropping-tail-docking Ear-Cropping and Tail-Docking] People for the Ethical Treatment of Animals</ref>。また、多くの国では断尾は犯罪とされ、違法化されている。さらに、なかには犬を猟犬や牧畜犬など使役犬に用いることも禁止する国もある。 [[アイスランド]]、[[アイルランド]]、[[イギリス]]<ref name="United Kingdom">{{cite web | url=http://www.bva.co.uk/atoz/Tail_docking_of_dogs.aspx | title=Tail docking of dogs | access-date=2012-10-30 | work=British Veterinary Association | publisher=BVA}}</ref>、[[イタリア]]、[[ヴァージン諸島]]、[[エストニア]]、[[オーストラリア]]<ref name="australia">{{cite web|url=http://kb.rspca.org.au/Is-the-tail-docking-of-dogs-legal_277.html |title=Is the tail docking of dogs legal? |access-date=2011-02-15 |date=2010-08-03 |work=RSPCA Australia Knowledgebase |publisher=RSPCA |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20110220230224/http://kb.rspca.org.au/Is-the-tail-docking-of-dogs-legal_277.html |archive-date=2011-02-20 }}</ref>、[[オーストリア]]、[[オランダ]]、[[キプロス]]、[[ギリシア]]、[[クロアチア]]、[[コロンビア]]、[[スイス]]、[[スウェーデン]]、[[スロヴァキア]]、[[スロヴェニア]]、[[チリ]]、[[トルコ]]、[[ニュージーランド]]、[[ノルウェー]]<ref>{{Cite web|url=http://www.svh55.com.au/tail_docking.html|title=Tail Docking|website=www.svh55.com.au|access-date=2019-12-20}}</ref>、[[フィンランド]]、[[ベルギー]]、[[ポーランド]]、[[ラトビア|ラトヴィア]]、[[リトアニア]]、[[ルクセンブルク]]では犬の断尾は違法とされ、[[イスラエル]]、[[スペイン]]、[[ドイツ]]、[[ブラジル]]でも一部の例外を除いて違法とされている。他方で、[[アフガニスタン]]、[[アメリカ合衆国]]、[[インドネシア]]、[[エジプト]]、[[クウェート]]、[[コスタリカ]]、[[スリランカ]]、[[タイ王国|タイ]]、[[チュニジア]]、[[日本]]、[[ネパール]]、[[フィリピン]]、[[ペルー]]、[[ボリビア]]、[[マレーシア]]、[[メキシコ]]、[[モーリシャス]]、[[レバノン]]では一切の制限がない。 === イギリスにおける犬の断尾 === [[18世紀]]の[[イギリス]]では、尻尾のある犬に対して税金が課されるようになってから、断尾が慣例化した<ref>{{Cite journal |last1=Sinmez |first1=Cagri Caglar |last2=Yigit |first2=Ali |last3=Aslim |first3=Gokhan |date=2017-07-03 |title=Tail docking and ear cropping in dogs: a short review of laws and welfare aspects in the Europe and Turkey |journal=Italian Journal of Animal Science |volume=16 |issue=3 |pages=431–437 |doi=10.1080/1828051X.2017.1291284|doi-access=free }}</ref>。 [[1991年]]に{{仮リンク|獣医外科医法|en|Veterinary Surgeons Act 1966}}が改正されると、[[1993年]][[7月1日]]以降は断尾は獣医師のみが行えることとされ、一般人による断尾が禁止された<ref>[http://webarchive.nationalarchives.gov.uk/20081026172913/http://www.opsi.gov.uk/si/si1991/uksi_19911412_en_1.htm Veterinary Surgeons Act 1966 (Schedule 3 Amendment) Order 1991] Office of Public Sector Information</ref>。[[1992年]]、{{仮リンク|王立獣医外科学会|en|Royal College of Veterinary Surgeons}}は、断尾は「治療上または予防上の理由がない限り」倫理に反する行為であるとの見解を示した。現在、断尾を行っている獣医師は懲戒処分を受けたり獣医師登録を抹消される可能性がある。断尾は、[[イングランド]]と[[ウェールズ]]では{{仮リンク|動物福祉法|en|Animal Welfare Act 2006}}によって、[[スコットランド]]では{{仮リンク|動物健康福祉法|en|Animal Health and Welfare (Scotland) Act 2006}}によって禁止されており、違法な断尾行為により有罪となった場合は、最高2万ポンド(約370万円)の罰金か最長51週間の禁固刑、またはその両方が科される。 === その他ヨーロッパにおける犬の断尾 === [[1987年]]に[[欧州評議会]]によって制定された{{仮リンク|愛玩動物の保護に関する欧州条約|en|European Convention for the Protection of Pet Animals}}では、医療以外の理由による断尾は禁止されている。 == 馬 == 歴史的には、[[馬]]の断尾は実用的な目的から行われることがほとんどであった。例えば、大きな荷物の運搬に使役される[[輓獣|輓馬]]の場合、尻尾が牽引ロープや農機具などに絡まるのを防ぐために断尾が行われることもあった。しかし現代では、馬に断尾は不要であると考えられており、[[アイルランド]]、[[イギリス]]、[[ノルウェー]]、[[オーストラリア]]の一部、[[アメリカ合衆国]]の11の州では馬の断尾が禁止されている。しかし、そのほかの地域では現在でも断尾が行われている場所がある<ref>[http://www.afac.ab.ca/research/species/articles/hhorse.htm "Tail Docking in Heavy Horses." Livestock Welfare INSIGHTS Issue 4 – Jun 2003] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20101124040142/http://www.afac.ab.ca/research/species/articles/hhorse.htm |date=2010-11-24 }} web page accessed September 1, 2008</ref>。 馬の断尾に関しては、馬に苦痛や不快感を与えると指摘され、また尻尾を使って[[ハエ]]を叩くことができなくなるという問題もある。 {| | [[ファイル:Polo pony docked.jpg|thumb|300x300px|断尾された[[ポニー]]([[1910年|1910]]–[[1915年]]ごろ撮影)]] | [[ファイル:Clydesdale_horse.jpg|thumb|300x300px|断尾された[[クライズデール]]]] |} == 牛 == かつては、[[乳牛]]に対して断尾を施すことで「[[牛]]の体や乳房、乳頭が汚れにくくなり、その結果体細胞 (SCC) が減少し[[乳房炎]]になりにくくなる」と考えられており、断尾が広く行われていた時代もあった。しかし、現在では、この説は否定されている。調査によれば、断尾の有無と体細胞数、乳房炎の頻度、牛の清潔度のあいだに有意な効果は認められず、断尾は乳の質に影響を及ぼさないことが明らかとなっている<ref>Tucker, C. B., D. Fraser and D. M. Weary. 2001. Tail docking dairy cattle: effects on cow cleanliness and udder health. J. Dairy Sci. 84: 84–87.</ref>{{Sfn|畜産技術協会|2018}}。それどころか、断尾によって牛は尻尾を使ってハエやアブ、蚊などの害虫を追い払うことができなくなり、心理的ストレスを抱えることにより摂食や休息行動時間が短縮するという問題も発生する{{Sfn|畜産技術協会|2018}}{{Sfn|畜産技術協会|2020|p=10}}。そのため、[[畜産技術協会]]は、牛の断尾は「害虫を追い払うことができなくなり、牛がストレスを感じることから、実施しないことが望ましい」との指針を示している{{Sfn|畜産技術協会|2018}}{{Sfn|畜産技術協会|2011}}。また、「糞尿を撒き散らかさなくなる」など衛生上の理由から断尾を行う事例も見られる{{Sfn|竹田ほか|2004}}。しかし、畜産技術協会は、「牛床の改善や糞尿の適切な処理により飼養環境の改善を図ることが重要」としており、尻尾の衛生に関しては、断尾ではなく尾房のトリミングと洗浄が効果的であるとして、これを推奨している{{Sfn|畜産技術協会|2018}}。それでもなお、牛に対して断尾を行っている農家はいまだ存在する。[[信州大学]]の[[竹田謙一]]准教授らは、そのような農家を調査した上で、いずれの農家も麻酔を用いずに乳牛に対して断尾を行っていることから、「断尾農家の乳牛に対する倫理的配慮は低い」と推察している{{Sfn|竹田ほか|2004}}{{Sfn|竹田ほか|2007}}。また、「断尾農家の多くは明確な根拠もなく断尾を実施している」ことも指摘している{{Sfn|竹田ほか|2007}}。 断尾された牛は、切断時だけでなく切断後もずっと痛みやストレスに悩まされる。さらに、切断部の感覚器官が過敏になり、神経線維が異常に増殖し、暑さや寒さに対して過敏になり、クロストリジウム感染症を発症しやすくなる、といった問題もある。[[動物福祉]](アニマル・ウェルフェア)の観点から牛の断尾が問題であることは証明されており、{{仮リンク|米国獣医学協会|en|American Veterinary Medical Association}}および{{仮リンク|カナダ獣医学協会|en|Canadian Veterinary Medical Association}}は、牛に対する断尾に反対している。また、[[イギリス]]<ref name="hsus">{{Cite web |author= |url=https://www.wellbeingintlstudiesrepository.org/cgi/viewcontent.cgi?article=1013&context=hsus_reps_impacts_on_animals |title=Welfare Issues with Tail Docking of Cows in the Dairy Industry |website= |publisher=The Humane Society of the United States |language=en |year=2012 |month=December |accessdate=2023-11-19}}</ref>、[[オランダ]]<ref name="hsus" />、[[スウェーデン]]<ref name="hsus" />、[[デンマーク]]<ref name="hsus" />、[[アメリカ合衆国]]の一部の州<ref name="hsus" />、[[オーストラリア]]の一部の州<ref>{{cite web|title=Tail Docking of Cattle|url=https://www.avma.org/KB/Resources/LiteratureReviews/Documents/tail_docking_cattle_bgnd.pdf|accessdate=2023-11-19}}</ref>では酪農業における断尾が禁止されている。また、[[カナダ]]でも、医学的に必要でない場合には断尾を行ってはならないとされている<ref>[https://www.nfacc.ca/codes-of-practice/dairy-cattle/code Code of Practice for the care and handling of farm animals - Dairy Cattle]</ref>。他方で、[[日本]]では断尾に関する規制はなく、全国で飼育されている乳牛約137万頭のうち約10万頭(約7.5%)が断尾されている(2014年調査)<ref>{{Cite web |author= |url=https://www.hopeforanimals.org/dairy-cow/466/ |title=乳牛の尾の切断 |website=HOPE for ANIMALS |publisher=NPO法人アニマルライツセンター |language=ja |date=2016-07-07 |accessdate=2023-11-19}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite journal |last=Li |first=Yuzhi |last2=Zhang |first2=Hongfu |last3=Johnston |first3=Lee J. |last4=Martin |first4=Wayne |year=2017 |month=November |title=Effects of tail docking and tail biting on performance and welfare of growing–finishing pigs in a confinement housing system |url= |journal=Journal of Animal Science |publisher= |volume=95 |issue=11 |pages= |doi=10.2527/jas2017.1571 |ref={{SfnRef|Li et al.|2017}} }} * {{Cite book |和書 |last=ジョイ |first=メラニー |authorlink=メラニー・ジョイ |translator=玉木麻子 |title=私たちはなぜ犬を愛し、豚を食べ、牛を身にまとうのか——カーニズムとは何か |publisher=青土社 |year=2022 |page= |id= |isbn=9784791774760 |ref={{SfnRef|ジョイ|2022}} }} * {{Cite journal |和書 |author=竹田謙一 |coauthors=神山洋、松井寛二 |title=搾乳牛の断尾に関する酪農家への聞き取り調査 |journal=家畜福祉 |volume=40 |issue=1 |publisher= |year=2004 |pages=40–41 |url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjlm/40/1/40_KJ00001057569/_pdf |ref={{SfnRef|竹田ほか|2004}} }} * {{Cite journal |和書 |author=竹田謙一 |coauthors=神山洋、松井寛二 |title=搾乳牛の断尾に対する農家の意識 |journal=信州大学農学部AFC報告 |volume= |issue=5 |publisher= |year=2007 |pages=55–63 |url=https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010740202.pdf |ref={{SfnRef|竹田ほか|2007}} }} * {{Cite web |author=畜産技術協会 |url=https://www.maff.go.jp/j/chikusan/sinko/pdf/dairy_cattle.pdf |title=アニマルウェルフェアの考え方に対応した乳用牛の飼養管理指針 |website= |publisher=[[農林水産省]] |language=ja |year=2011 |accessdate=2023-11-19 |ref={{SfnRef|畜産技術協会|2011}} }} * {{Cite web |author=畜産技術協会 |url=http://jlta.lin.gr.jp/report/animalwelfare/H30/technicalletter_cow_h30.pdf |title=快適性に配慮した乳用牛の飼養管理——乳用牛の「断尾」について |website= |publisher= |language=ja |year=2018 |accessdate=2023-11-19 |ref={{SfnRef|畜産技術協会|2018}}}} * {{Cite web |author=畜産技術協会 |url=http://jlta.lin.gr.jp/report/animalwelfare/R01/2020_04_pamplets_AW_cow_2019.pdf |title=アニマルウェルフェアの実践に向けて——アニマルウェルフェアの実践は、生産性の向上につながります:乳用牛 |website= |publisher= |language=ja |year=2020 |accessdate=2023-12-04 |ref={{SfnRef|畜産技術協会|2020}} }} == 外部リンク == * {{Commonscat-inline|Docking (animal)|断尾}} {{デフォルトソート:たんひ}} [[Category:動物虐待]] [[Category:動物福祉]] [[Category:家畜]]
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ダニエル・ムココ・サンバ
ダニエル・ムココ・サンバ(Daniel MUKOKO Samba)は、コンゴ民主共和国の政治家、経済学者。予算大臣や、副首相を経て、運輸港湾公社総裁。 コンゴ民主共和国ムバンザ・ヌグング生まれ。1983年キンシャサ大学(フランス語版)経済学部卒業、経済学士。1990年大分大学大学院経済学研究科修了、経済学修士。1993年筑波大学社会工学系大学院修了、博士 (都市・地域計画)。キンシャサ大学教授、コンゴ大学教授、愛知教育大学教授等を経て、2009年から2012年まで予算大臣を、2012年から2014年まで副首相を務めた。退任後は、運輸港湾公社(旧オナトラ)の総裁や、キンシャサ大学教授を務めた。
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ダニエル・ムココ・サンバは、コンゴ民主共和国の政治家、経済学者。予算大臣や、副首相を経て、運輸港湾公社総裁。
'''ダニエル・ムココ・サンバ'''(Daniel MUKOKO Samba)は、[[コンゴ民主共和国]]の[[政治家]]、[[経済学者]]。予算大臣や、[[副首相]]を経て、運輸港湾公社総裁。 == 人物・経歴 == [[コンゴ民主共和国]][[ムバンザ・ヌグング]]生まれ。1983年{{仮リンク|キンシャサ大学|fr|Université de Kinshasa}}経済学部卒業、[[経済学士]]。1990年[[大分大学]]大学院経済学研究科修了、[[経済学修士]]<ref name="as"/>。1993年[[筑波大学]]社会工学系大学院修了<ref>[https://www.africa.kyoto-u.ac.jp/research/symposium/sympo_archives 過去のイベント]京都大学アフリカ地域研究資料センター</ref><ref name="as">[https://www.ashinaga.org/about-us/kenjin-tatsujin/%E3%83%80%E3%83%8B%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%82%B3%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%90/ ダニエル・ムココ・サンバ Daniel MUKOKO Samba 運輸港湾公社総裁 元副首相・予算大臣]一般財団法人あしなが育英会</ref>、[[博士]] (都市・地域計画)<ref>[https://ci.nii.ac.jp/naid/500000122646 A city system model for a dualistic economy : the African case Mukoko Sanba ムココ サンバ]</ref>。キンシャサ大学教授、[[コンゴ大学]]教授、[[愛知教育大学]]教授等を経て、2009年から2012年まで予算大臣を、2012年から2014年まで[[副首相]]を務めた<ref name="as"/>。退任後は、運輸港湾公社(旧[[オナトラ]])の総裁や<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/af/af1/d_congo/page3_002439.html ムココ・コンゴ民主共和国運輸港湾公社総裁による堀井学外務大臣政務官表敬]外務省</ref>、キンシャサ大学教授を務めた<ref>[https://www.jica.go.jp/jica_ri/news/topics/2022/20220825_01.html コンゴ民主共和国におけるEBPMの課題]国際協力機構 緒方貞子平和開発研究所</ref>。 == 出典 == {{Reflist}} {{COD-stub}} {{politician-stub}} {{DEFAULTSORT:たにえるむここさんは}} [[Category:日本の経済学者]] [[Category:コンゴ民主共和国の政治家]] [[Category:国際連合の職員]] [[Category:日本・コンゴ民主共和国関係]] [[Category:日本留学経験者]] [[Category:愛知教育大学の教員]] [[Category:博士号取得者]] [[Category:経済学修士取得者]] [[Category:筑波大学出身の人物]] [[Category:大分大学出身の人物]] [[Category:コンゴ中央州出身の人物]]
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戦時内閣
戦時内閣(せんじないかく、英:War cabinet)とは、戦時中において政府が緊急的に組閣する内閣の総称。 第一次世界大戦前にイギリスにあった制度を参考に、第一次世界大戦・第二次世界大戦の間はヨーロッパ各国で見られるようになった。 日本においても東条英機らが組閣した内閣がこれにあたるとされている。 現代においてもしばしばみられ、中でもイスラエル戦時内閣は2023年10月に組閣されたもっとも新しいものである。
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[[File:Prime_Minister_Lloyd_George's_War_Cabinet,_1916.png|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:Prime_Minister_Lloyd_George's_War_Cabinet,_1916.png|サムネイル|[[デビッド・ロイド・ジョージ]]首相が1916年に組閣した内閣]] '''戦時内閣'''(せんじないかく、[[英語|英]]:War cabinet)とは、戦時中において政府が緊急的に組閣する内閣の総称。 [[第一次世界大戦]]前にイギリスにあった制度を参考に、第一次世界大戦・[[第二次世界大戦]]の間はヨーロッパ各国で見られるようになった<ref name="ZeikinChuChuNitohYumeno">{{Cite journal|last=J. A. F.|date=1917|title=British War Administration|url=https://www.cambridge.org/core/product/identifier/S0003055400107300/type/journal_article|journal=American Political Science Review|volume=11|issue=4|pages=745|language=en|doi=10.2307/1946861|issn=0003-0554|jstor=1946861|s2cid=251094540|doi-access=free}}</ref>。 日本においても[[東条英機]]らが組閣した内閣がこれにあたるとされている<ref name="KusoFemiSaebou">{{cite news |url=https://www.thetimes.co.uk/archive/article/1916-12-04/9/2.html?region=global#start%3D1916-11-30%26end%3D1916-12-09%26terms%3DLloyd%20George%26back%3D/tto/archive/find/Lloyd+George/w:1916-11-30%7E1916-12-09/o:date/1%26prev%3D/tto/archive/frame/goto/Lloyd+George/w:1916-11-30%7E1916-12-09/o:date/6%26next%3D/tto/archive/frame/goto/Lloyd+George/w:1916-11-30%7E1916-12-09/o:date/8 |title=Lloyd George |url-access=subscription |website=thetimes.co.uk |access-date=March 9, 2023}}</ref>。 現代においてもしばしばみられ、中でも[[イスラエル戦時内閣]]は2023年10月に組閣されたもっとも新しいものである<ref name="AhegaoKitamuraSae">{{cite web |url=http://www.rte.ie/centuryireland/index.php/articles/edward-carson-joins-cabinet-after-reshuffle |title=Edward Carson joins cabinet after reshuffle – Century Ireland |website=RTE |access-date=23 October 2017}}</ref>。 == 参考文献 == {{Commons category|War cabinet}} * Amery, Leopold, [https://archive.org/details/mypoliticallife0002amer/page/n7/mode/2up ''My Political Life, Vol. II, War and Peace, 1914–1929''], London: Hutchinson, 1953 * Archive.org ([https://archive.org/ ''sign in to view references and sources'')] * Le May, G.H.L., [https://archive.org/details/britishgovernmen0000lema/page/232/mode/2up ''British Government, 1914–1963''], London: Methuen, 1964 * {{cite book |last=Hasluck |first=Paul |author-link=Paul Hasluck |title=The Government and the People 1939–1941 |url=https://www.awm.gov.au/collection/RCDIG1070213/ |series=Australia in the War of 1939–1945. Series 4 – Civil|volume=I|year=1952 |publisher=Australian War Memorial |location=Canberra }} * {{cite book |last=Horner |first=David|author-link= David Horner|title=Inside the War Cabinet: Directing Australia's War Effort 1939–45 |year=1996 |publisher=[[Allen and Unwin]] |location=[[St Leonards, New South Wales]] |isbn=1-86373-968-8 }} * Roskill, Stephen, [https://archive.org/details/hankeymanofsecre0001rosk/page/n5/mode/2up ''Hankey, Man of Secrets, Vol. I, 1877–1918''], London: Collins, 1970 * Roskill, Stephen, [https://archive.org/details/hankeymanofsecre0002rosk/page/n5/mode/2up ''Hankey, Man of Secrets, Vol. II, 1919–1931''], London: Collins, 1972 * Schuyler, Robert L., [https://www.jstor.org/stable/pdf/2141903.pdf ''The British War Cabinet''], Political Science Quarterly, New York: Academy of Political Science, Vol. 33, No. 3, Sept. 1918 * UK National Archives, [https://www.nationalarchives.gov.uk/cabinetpapers/cabinet-gov/cab23-first-world-war-conclusions.htm#War%20Cabinet%20Conclusions%201916%20to%201918 ''War Cabinet Minutes''] * UK Govt Blog, [https://history.blog.gov.uk/2016/12/09/9-december-1916-david-lloyd-george-introduces-minuted-cabinet-meetings-and-instigates-the-cabinet-office/ ''9 December 1916, The Rise of the War Cabinet''] * Encyclopædia Britannica online, [https://www.britannica.com/topic/democracy/England ''English Democracy''] * CPI Index online [https://www.in2013dollars.com/UK-inflation ''UK inflation calculator''] * Marlowe, John, [https://archive.org/details/milnerapostleofe0000marl/page/n5/mode/2up?q=was+policy+committee ''Milner: Apostle of Empire''], London: Hamish Hamilton, 1976 * The War Cabinet, [https://archive.org/details/reportforyear19100grea/mode/2up?q=Milner ''Report for the Year 1917''], London: His Majesty's Stationery Office, 1918 * A summary of the (above) war cabinet report, CAB 23-5, [http://filestore.nationalarchives.gov.uk/pdfs/large/cab-23-5.pdf pp. 280, 326 of 475] == 脚注 == {{reflist}} == 外部サイト == *[https://fc1adult.com/bbs/0twi6dds イスラエル臨時政府] [[Category:イギリスの政治]]
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リソドゥス
リソドゥス(Lissodus)は、絶滅した淡水サメの属種、石炭紀のミシシッピアン期から白亜紀のアルビアン期まで存在していた。 リソドゥス属は、中生代に栄えた古代サメのうち最も古い時代に出現した原始的なサメで、歯のかみ合わせ面が比較的平らなことから「平滑な歯」を意味して名付けられた。体長50~70センチで、平らな歯で海底の泥の中にいる動物を食べ、最初は海にすんでいたが、淡水域も生息範囲になったと推定されている。体長は約15センチメートルほど、二枚貝を食べるために使用する平らな歯を持っていた。 日本国内では愛媛県西予市田穂の三畳紀石灰岩中から、化石ハンターの宇都宮聡によって 国内初のリソドゥスの歯化石が発見されている。 既知の種: アンゴラから見つかったリソドゥスの三畳紀の標本は、おそらく乾燥期に湖が干上がったであろう淡水湖の堆積物から発見された。同じ場所からの他の魚には、シェフェリウス(以前は「マルケシア」として知られていた)、2つのPerleidus種、新鰭類のアンゴライクシス、および肺魚マイクロセラトドゥスが含まれている。
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リソドゥス(Lissodus)は、絶滅した淡水サメの属種、石炭紀のミシシッピアン期から白亜紀のアルビアン期まで存在していた。
{{生物分類表 |名称=リソドゥス |fossil_range = 初期石炭紀からアルビアン期まで<br />{{fossilrange|Early Carboniferous|Albian}}<ref>{{cite journal |title=Chondrichthyan genus Lissodus from the Lower Carboniferous of Ireland |journal=Acta Palaeontologica Polonica |date=2004 |volume=49 |url=https://www.researchgate.net/publication/258092622}}</ref> [[File:Lissodus hasleensis.jpg|Lissodus hasleensis|250px|]] |省略 = 爬虫綱 |目 =ハイボドンタフォルムス {{Sname||Hybodontiformes}} |科=ロンキディダエ {{Sname|Lonchidiidae}} |属=リソドゥス {{Sname||Lissodus}} |和名='''リソドゥス'''}} '''リソドゥス'''(Lissodus)は、絶滅した淡水[[サメ]]の属種、石炭紀の[[ミシシッピアン期]]から[[白亜紀]]の[[アルビアン期]]まで存在していた<ref>{{cite journal |author=Jan Rees & Charlie J. Underwood |year=2002 |title=The status of the shark genus Lissodus Brough, 1935, and the position of nominal Lissodus species within the Hybodontoidea (Selachii) |journal=[[Journal of Vertebrate Paleontology]] |volume=22 |issue=3 |pages=471–479 |jstor=4524243 |doi=10.1671/0272-4634(2002)022[0471:tsotsg]2.0.co;2|s2cid=13836075 |url=http://doc.rero.ch/record/15165/files/PAL_E2440.pdf }}</ref>。 == 解説 == リソドゥス属は、中生代に栄えた古代サメのうち最も古い時代に出現した原始的なサメで、歯のかみ合わせ面が比較的平らなことから「平滑な歯」を意味して名付けられた。体長50~70センチで、平らな歯で海底の泥の中にいる動物を食べ、最初は海にすんでいたが、淡水域も生息範囲になったと推定されている<ref>{{Cite web|和書|title=愛媛で古代サメの化石/2億5千万年前の地層|url=http://www.shikoku-np.co.jp/national/science_environmental/20100620000203#:~:text=%E3%83%AA%E3%82%BD%E3%83%89%E3%82%A5%E3%82%B9%E5%B1%9E%E3%81%AF%E3%80%81,%E3%81%A6%E5%90%8D%E4%BB%98%E3%81%91%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%80%82|website=ShikokuNews|publisher=四国新聞社|accessdate=2023-11-20}}</ref>。体長は約15センチメートルほど、[[二枚貝]]を食べるために使用する平らな歯を持っていた<ref>{{cite book |first=Richard M.|last=Gaines|title=Coelophysis|year=2001 |publisher= ABDO Publishing Company|pages= 17|isbn= 1-57765-488-9}}</ref>。 日本国内では[[愛媛県]]西予市田穂の三畳紀石灰岩中から、化石ハンターの[[宇都宮聡]]によって国内初のリソドゥスの歯化石が発見されている<ref>{{harvnb|後藤仁敏.田中猛.宇都宮聡|2010}}</ref>。 既知の種: *''Lissodus africanus'' *''Lissodus angulatus'' *''Lissodus bartheli'' *''Lissodus cassangensis'' *''Lissodus cristatus'' *''Lissodus guenneguesi'' *''Lissodus hasleensis'' *''Lissodus johnsonorum'' *''Lissodus leiodus'' *''Lissodus leiopleurus'' *''Lissodus lepagei'' *''Lissodus levis'' *''Lissodus minimus'' *''Lissodus wardi'' *''Lissodus xiushuiensis'' == 古生態学 == [[アンゴラ]]から見つかったリソドゥスの[[三畳紀]]の標本は、おそらく乾燥期に湖が干上がったであろう[[淡水湖]]の堆積物から発見された。同じ場所からの他の魚には、シェフェリウス(以前は「マルケシア」として知られていた<ref>A. Akbulut and H. Özdikmen. 2012. To the memory of Dr. Bobb Schaeffer, Schaefferius nom. nov., a new name for the preoccupied genus Marquesia Schaeffer, 1990 (Osteichthyes: Actinopterygii: Palaeonisciformes). Munis Entomology & Zoology 7:1272-1273</ref>)、2つのPerleidus種、新鰭類のアンゴライクシス、および[[肺魚]]マイクロセラトドゥスが含まれている。 == 参考文献 == * {{Cite journal|和書|author=後藤仁敏, 田中猛, 宇都宮聡 |year=2010 |title=愛媛県西予市の田穂層(三畳紀前期)産の板鰓類リソドゥスの歯化石 |journal=地球科学 |volume=64 |issue=3 |pages=111-116 |doi=10.15080/agcjchikyukagaku.64.3_111 |url=https://doi.org/10.15080/agcjchikyukagaku.64.3_111 |accessdate=2023-08-18 |ref={{harvid|後藤仁敏.田中猛.宇都宮聡|2010}}}}{{オープンアクセス}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!-- === 注釈 === {{Notelist2}} --><!-- 注釈が必要になったときに左記のコメントアウトを解除してください。それまでは左記のテンプレートを除去しないでください。 --> === 出典 === {{Reflist|30em}}{{Taxonbar|from=Q13401890}} [[Category:サメ]] [[Category:生きている化石]] [[Category:冬の季語]] [[Category:水生生物]] [[Category:生物学]] [[Category:生態学]] [[Category:石炭紀]] [[Category:ペルム紀]] [[Category:三畳紀]] [[Category:ジュラ紀]] [[Category:白亜紀]]
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対頂角
対頂角(たいちょうかく,Diagonal angles)とは、2直線が交わってできる角のうち、向かいあった角のことである。 図では、∠ a と∠ c、∠ b と∠ d が対頂角である。 対頂角はいつも等しい。 対頂角が等しいことは以下のように示せる。 一直線であるから、∠a+∠b=180°である。また、∠b+∠c=180°である。 だから、∠a+∠b=∠c+∠bが成り立つ。 両辺から∠bを引いて、∠a=∠cとなる。 (証明終わり)
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対頂角とは、2直線が交わってできる角のうち、向かいあった角のことである。 図では、∠ a と∠ c、∠ b と∠ d が対頂角である。 対頂角はいつも等しい。
{{統合提案|平行線と角 | t = ノート:錯角 | date = 2023年12月 }}{{出典の明記|date=2023年11月16日 (木) 08:36 (UTC)}} '''対頂角'''(たいちょうかく,''Diagonal angles'')とは、2[[直線]]が交わってできる角のうち、向かいあった角のことである。<ref>{{Cite web |title=5分でわかる、「対頂角・同位角・錯角」の映像授業 {{!}} 映像授業のTry IT (トライイット) |url=https://www.try-it.jp/chapters-876/sections-877/lessons-878/ |website=www.try-it.jp |access-date=2023-12-11}}</ref> 図では、∠ ''a'' と∠ ''c''、∠ ''b'' と∠ ''d'' が対頂角である。 対頂角はいつも等しい。<ref name=":0">{{Cite web |url=https://mathconnect.tokyo-shoseki.co.jp/hitokufu/20231004-01/ |title=【2年4章】対頂角、同位角、錯角の指導について |access-date=2023-11-16 |publisher=東京書籍}}</ref> [[ファイル:Diagonal_angles.png|サムネイル|対頂角の図]] == 証明 == 対頂角が等しいことは以下のように示せる。 一直線であるから、∠a+∠b=180°である。また、∠b+∠c=180°である。 だから、∠a+∠b=∠c+∠bが成り立つ。 両辺から∠bを引いて、∠a=∠cとなる。 (証明終わり)<ref name=":0" /> == 関連項目 == * [[錯角]] * [[同位角]] * [[幾何学]] == 出典 == {{Reflist|group=2}} [[Category:幾何学|たいちようかく]] [[Category:数学に関する記事|たいちようかく]]
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金鶴烈
金 鶴烈(キム・ハンニョル、朝鮮語: 김학렬、1923年1月1日 - 1972年3月21日)は、大韓民国の官僚。第3代経済企画院次官、第22代財務部(現・企画財政部)長官、第10代副総理、第10代経済企画院長官。 本貫は慶州金氏。キム・ハギョル(漢字同、김학열)という表記も見られる。 日本統治時代の慶尚南道固城郡出身。釜山商業学校、ウォンサン商業学校、中央大学卒。1950年に第1回高等考試行政科外務職に合格し、1952年にはミズーリ大学とアクロン大学大学院で経済学を学んだ。帰国後財務部で司税局長、予算局長、経済企画院調整官などを務め、同院副院長補、1963年12月17日から1966年9月26日まで次官を務めた。1966年9月26日から1966年12月27日まで第22代財務部(現・企画財政部)長官を務めた。1969年には浦項総合製鉄所の建設事業のため日本から経済協力資金を受けることを成功させた。そのほか同年6月3日から1972年1月4日まで第10代副総理、第10代経済企画院長官を務めた。1972年に膵癌により死去。享年49。
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金 鶴烈は、大韓民国の官僚。第3代経済企画院次官、第22代財務部(現・企画財政部)長官、第10代副総理、第10代経済企画院長官。 本貫は慶州金氏。キム・ハギョル(漢字同、김학열)という表記も見られる。
[[ファイル:김학렬 1971.jpg|サムネイル|1971年]] '''金 鶴烈'''(キム・ハンニョル、{{Lang-ko|김학렬}}、[[1923年]][[1月1日]] - [[1972年]][[3月21日]])は、[[大韓民国]]の[[官僚]]。第3代[[大韓民国経済企画院|経済企画院]]次官、第22代[[大韓民国財務部|財務部]](現・[[企画財政部]])長官、第10代副総理、第10代経済企画院長官。 [[本貫]]は[[慶州金氏]]<ref name=韓国民族文化大百科事典>{{Cite web |title=김학렬(金鶴烈) |url=https://encykorea.aks.ac.kr/Article/E0010929|website=[[韓国民族文化大百科事典]]|access-date=2023-11-16 |language=ko}}</ref>。'''キム・ハギョル'''(漢字同、김학열)という表記も見られる<ref>{{Cite web |title=제1회 공인 회계사 실무시험 실시공고 |url=https://newslibrary.naver.com/viewer/index.naver?articleId=1966100500239102029&editNo=1&printCount=1&publishDate=1966-10-05&officeId=00023&pageNo=2&printNo=13985&publishType=00010 |website=NAVER Newslibrary |access-date=2023-11-16|date= 1966.10.05 |work=조선일보}}</ref>。 == 経歴 == [[慶尚南道 (日本統治時代)|日本統治時代の慶尚南道]][[固城郡]]出身。釜山商業学校、ウォンサン商業学校、[[中央大学]]卒。1950年に第1回高等考試行政科外務職に合格し、1952年には[[ミズーリ大学群|ミズーリ大学]]と[[アクロン大学]]大学院で経済学を専攻した。帰国後に財務部司税局長・予算局長、経済企画院調整官・副院長補(1962年)・次官(1963年12月17日〜1966年9月26日)、[[大統領 (大韓民国)|大統領]]首席政務秘書官を務めた。1966年9月26日から1966年12月27日までは第22代財務部(現・企画財政部)長官を務めた。1969年には[[浦項総合製鉄|浦項総合製鉄所]]の建設事業のため[[日本]]から経済協力資金を受けることを成功させた。同年6月3日から1972年1月4日までは第10代副総理、第10代経済企画院長官を務めた<ref name=韓国民族文化大百科事典/>。 1972年に[[膵臓癌]]によりソウル市内の自宅で死去。享年49<ref>{{Cite web |title=前副總理(전부총리) 金鶴烈(김학렬)씨 別世(별세) |url=https://newslibrary.naver.com/viewer/index.naver?articleId=1972032100209201018&editNo=2&printCount=1&publishDate=1972-03-21&officeId=00020&pageNo=1&printNo=15526&publishType=00020 |website=NAVER Newslibrary |access-date=2023-11-16|work=동아일보|date=1972.03.21}}</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} ==関連項目== *[[10・2抗命波動]] {{DEFAULTSORT:きむ はんによる}} [[Category:大韓民国経済企画院長官]] [[Category:大韓民国財務部長官]] [[Category:慶州金氏]] [[Category:慶尚南道出身の人物]] [[Category:中央大学出身の人物]] [[Category:ミズーリ大学出身の人物]] [[Category:1923年生]] [[Category:1972年没]] [[Category:膵癌で亡くなった人物]]
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真観寺 (徳島市)
真観寺(しんかんじ)は、徳島県徳島市春日にある真言宗大覚寺派の寺院。本尊は大日如来。 戦国時代に篠原長秀の居城であった今切城の書院址に建立された真言宗大覚寺派の寺院で、今切城の本丸であった篠原神社と隣接している。 また明治時代の初めに寺町にあった春日寺の本堂を真観寺に移築した。
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真観寺(しんかんじ)は、徳島県徳島市春日にある真言宗大覚寺派の寺院。本尊は大日如来。
{{日本の寺院 |名称 = 真観寺 |画像 = {{画像募集中|cat=徳島市}} |所在地 = [[徳島県]][[徳島市]][[春日 (徳島市)|春日]]2丁目5−23 |山号 = |宗派 = [[真言宗大覚寺派]] |本尊 = [[大日如来]] |創建年 = |開基 = |正式名 = 真観寺 |札所等 = |文化財 = }} '''真観寺'''(しんかんじ)は、[[徳島県]][[徳島市]][[春日 (徳島市)|春日]]にある[[真言宗大覚寺派]]の[[寺院]]。本尊は[[大日如来]]。 == 歴史 == [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に[[篠原長秀]]の居城であった[[今切城]]の書院址に建立された[[真言宗大覚寺派]]の寺院で、今切城の本丸であった[[篠原神社 (徳島市)|篠原神社]]と隣接している<ref>『日本城郭全集:広島, 香川, 徳島』([[人物往来社]]、[[1966年]])</ref>。 また[[明治時代]]の初めに[[寺町 (徳島市)|寺町]]にあった春日寺の本堂を真観寺に移築した<ref>{{Cite web|url=https://library.bunmori.tokushima.jp/digital/webkiyou/15/1512.htm|title=郷土研究発表会紀要第15号|publisher=阿波学会研究紀要|accessdate=2023-11-16}}</ref><ref>『[[角川日本地名大辞典]] 36 徳島県』([[1986年]] ISBN 4040013603)</ref>。 == 交通 == * [[徳島自動車道]]「[[徳島インターチェンジ]]」より車で約10分。 * [[四国旅客鉄道|JR]][[徳島線]]「[[佐古駅]]」より車で約10分。 == 脚注 == <references /> {{DEFAULTSORT:しんかんし}} [[Category:徳島市の寺]] [[Category:真言宗大覚寺派の寺院]] {{Buddhism-stub}}
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アル・オルーバ
アル・オルーバFC(英語: Al-Orobah FC, アラビア語: نادي العروبة))は、サウジアラビアのサカーカをホームタウンとする、サウジ・ファースト・ディヴィジョン(英語版)に加盟するプロサッカークラブである。 2023年11月16日現在 注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
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アル・オルーバFCは、サウジアラビアのサカーカをホームタウンとする、サウジ・ファースト・ディヴィジョンに加盟するプロサッカークラブである。
{{サッカークラブ |font-color=#0C904A |background-color=#FFF450 |border-color=#1955A6 | クラブ名 = アル・オルーバ | 原語表記 = {{lang|ar|نادي العروبة}} | 呼称 = | 愛称 = | カラー = {{color box| #FFF450}} 黄 | 創設 = 1975 | リーグ = [[サウジ・ファーストディヴィジョンリーグ]] | ディビジョン = 2部 | クラブライセンス = | ホームタウン = [[サカーカ]] | スタジアム = {{仮リンク|アル=オルーバ・クラブ・スタジアム|en|Al-Orobah Club Stadium}} | キャパ = 7,000 | 法人名 = | 代表 = ムニス・アル=ダウィ | 監督 = {{Flagicon|BIH}} [[ルスミル・ツヴィコ]] | HP = https://orobahfc.com/ |pattern_b1=_shoulder_stripes_Green_stripes |pattern_ra1=_shoulder_stripes_Green_stripes_half |pattern_sh1=_adidasGreen |pattern_so1=_3_stripes_Green |leftarm1=009933 |body1=009933 |rightarm1=009933 |shorts1=FFFF66 |socks1=009933 |pattern_b2=_shoulder stripes Green stripes |pattern_la2=_shoulder stripes Green stripes half |pattern_ra2=_shoulder stripes Green stripes half |pattern_sh2=_esp_08_away |pattern_so2=_3_stripes_Green |body2=FFFF66 |leftarm2=009933 |rightarm2=009933 |shorts2=009933 |socks2=FFFF66 | website = https://orobahfc.com/ }} '''アル・オルーバFC'''({{lang-en|Al-Orobah FC}}, {{lang-ar|نادي العروبة}}))は、[[サウジアラビア]]の[[サカーカ]]をホームタウンとする、[[サウジ・ファーストディヴィジョンリーグ]]に加盟するプロ[[サッカー]]クラブである。 == タイトル == === 国内タイトル === * [[サウジ・ファーストディヴィジョンリーグ]] : 1回 ** 2012-13 * {{仮リンク|サウジ・セカンドディヴィジョンリーグ|en|Saudi Second Division League}} : 1回 ** 2007-08 === 国際タイトル === * なし == 現所属メンバー == 2023年11月16日現在 {{サッカークラブチーム選手一覧 開始}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=1|国籍=KSA|ポジション=GK|名前=[[ラフェア・アル=ルワイリ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=2|国籍=KSA|ポジション=DF|名前=[[アブドゥルラフマン・アル=マスーディ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=3|国籍=KSA|ポジション=MF|名前=[[スライマン・アル=ナクリ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=4|国籍=KSA|ポジション=DF|名前=[[ゼヤド・アル=フナイティ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=5|国籍=KSA|ポジション=DF|名前=[[ナイフ・アルマス]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=6|国籍=CUW|ポジション=MF|名前=[[フルノン・アニータ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=7|国籍=AUS|ポジション=FW|名前=[[コナー・ペイン]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=8|国籍=NED|ポジション=MF|名前=[[ムニール・エル・アルロウシ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=9|国籍=BRA|ポジション=FW|名前=[[チアゴ・べゼラ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=10|国籍=KSA|ポジション=MF|名前=[[イブラヒム・アル=ハルビ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=11|国籍=KSA|ポジション=MF|名前=[[ハメド・アル=マカティ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=13|国籍=KSA|ポジション=MF|名前=[[アハメド・カレンシ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=14|国籍=KSA|ポジション=DF|名前=[[バンダー・ダルウィッシュ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=15|国籍=KSA|ポジション=MF|名前=[[アブドゥレラー・ジャーマン]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=18|国籍=KSA|ポジション=DF|名前=[[ハムダン・アル=ルワイリ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 中央}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=19|国籍=KSA|ポジション=FW|名前=[[オマール・アル=シャラリ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=20|国籍=KSA|ポジション=DF|名前=[[ナワーフ・アル=ムタイリ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=22|国籍=KSA|ポジション=GK|名前=[[サウド・アル=ルワイリ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=23|国籍=KSA|ポジション=DF|名前=[[ファハド・アッ=ドッサリ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=24|国籍=KSA|ポジション=MF|名前=[[ムハンマド・アル=スフィヤニ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=27|国籍=BRA|ポジション=DF|名前=[[マテウス・ドゥアルテ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=29|国籍=LTU|ポジション=GK|名前=[[ジウガス・バートクス]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=34|国籍=KSA|ポジション=DF|名前=[[ミシャル・アル=ルワイリ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=66|国籍=KSA|ポジション=DF|名前=[[アシュラフ・アル=シャメリ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=70|国籍=KSA|ポジション=MF|名前=[[アハメド・アル=ハズミ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=77|国籍=KSA|ポジション=GK|名前=[[アブドゥルバリ・アル=ダラーン]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=88|国籍=KSA|ポジション=MF|名前=[[アブドゥルアズィーズ・アル=ファヒキ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=92|国籍=KSA|ポジション=FW|名前=[[ファハド・アル=ズバイディ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=96|国籍=FRA|ポジション=FW|名前=[[ベニ・エンコロロ]]}} {{サッカークラブチーム選手一覧 終了}} ;[[監督]] *{{flagicon|BIH}} [[ルスミル・ツヴィコ]] == 歴代監督 == == 歴代所属選手 == * {{Flagicon|BRA}} [[ダビ・アパレシド・ダ・シルバ]] 2016-2017 * {{Flagicon|CMR}} [[マキシム・ロイク・フジュ]] 2018-2019 * {{Flagicon|BRA}} [[エイジソン・テオフィロ・ソアレス]] 2019 * {{Flagicon|CUW}} [[フルノン・アニータ]] 2023- * {{Flagicon|AUS}} [[コナー・ペイン]] 2023- == 脚注 == == 外部リンク == * [https://orobahfc.com// 公式サイト] {{DEFAULTSORT:ある おるーは}} [[Category:サウジアラビアのサッカークラブ]] [[Category:1975年設立のスポーツチーム]]
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On My Youth
『On My Youth』(オン・マイ・ユース)は、2023年11月1日にLabel Vから発売されたWayV(威神V)の2枚目のオリジナルアルバム。 予告編 ミュージックビデオ 2023年11月1日の上海を皮切りに、5日成都、8日北京、12日広州、15日蘇州まで、中国5都市でショーケースツアー「2023 WayV SHOWCASE TOUR [On My Youth]」を開催した。 今ツアーは開催決定のニュースから高い関心を集め、10月26日のチケット販売と同時に全回がソールドアウトになった。 公演ではタイトル曲「On My Youth」をはじめとするセカンドフルアルバムに収録された新曲のステージを披露しており、その他にアルバムに関連するトークやゲームも実施された。 2023年11月1日、音源公開5分で中国QQ MUSICのデジタルアルバム販売チャート1位を達成し、デジタルアルバム販売チャートでも週間1位を記録した。 中国QQ MUSIC、Kugou Music、網易雲音楽のデジタルアルバム販売チャート1位を達成した。 QQ MUSICでは「プラチナアルバム」認証取得および中国ミュージックビデオ(MV)チャート1位を記録した。 iTunesトップアルバムチャートでは全世界17の国と地域で1位を達成し、日本LINE MUSICのアルバムトップ100チャートでも1位にランクインした。
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『On My Youth』(オン・マイ・ユース)は、2023年11月1日にLabel Vから発売されたWayV(威神V)の2枚目のオリジナルアルバム。
{{Infobox Album | Name = On My Youth | Cover = | Type = [[スタジオ・アルバム]] | Artist = [[WayV]] | Released = [[2023年]][[11月1日]] | Recorded = | Genre = [[C-POP]] | Length = 33分 | Label = Label V<br/>SM ENTERTAINMENT<br/>カカオエンターテインメント | Producer = | Reviews = | Chart position = *[[サークルチャート]] **週間4位<ref>[https://circlechart.kr/page_chart/album.circle?nationGbn=T&targetTime=45&hitYear=2023&termGbn=week&yearTime=3 サークルチャート2023年11月5日〜2023年11月11日]</ref> *[[オリコンチャート|オリコン]] **週間5位(週間アルバム)<ref>[https://www.oricon.co.jp/rank/ja/w/2023-12-04/ オリコン週間アルバムランキング2023年12月4日付]</ref> *[[Billboard Japan]] **週間4位([[Billboard Japan Hot Albums|Hot Albums]])<ref>[https://www.billboard-japan.com/charts/detail?a=hot_albums&year=2023&month=12&day=04 Billboard Japan Hot Albums]</ref> **週間4位(Top Albums Sales)<ref>[https://www.billboard-japan.com/charts/detail?a=top_albums&year=2023&month=12&day=04 Billboard Japan Top Albums Sales]</ref> | Certification = | Last album = '''[[Phantom (アルバム)|Phantom]]'''<br/>(2023年) | This album = '''On My Youth'''<br/>(2023年) | Next album = | Misc = | EAN = | Tracklist = }} 『'''On My Youth'''』(オン・マイ・ユース)は、[[2023年]][[11月1日]]にLabel Vから発売された[[NCT (音楽グループ)#威神V (WayV)|WayV]](威神V)の2枚目の[[スタジオ・アルバム|オリジナルアルバム]]。 == 概要 == *1stフルアルバム『[[Awaken The World]]』(2020年)より約3年ぶりに発売されたWayVのフルアルバム。 *2023年11月1日、Label VとSM Entertainmentから各種音楽配信サイトで公開された。 *4thミニアルバム『[[Phantom (アルバム)|Phantom]]』以来、約11ヶ月ぶりのカムバック。 *タイトル曲'''「On My Youth」'''を含む全10曲が収録されている。 *フィジカルアルバムは2023年11月8日に発売された。 *2023年10月27日に[[李克強]]元首相が急逝した影響により、カムバック活動に一部変更が生じた。 == プロモーション == '''予告編''' *10月20日より、バラエティコンテンツ「青春不败(Invincible Youth)」を公開した。 *10月31日、YouTube等のWayV公式アカウントより、発売記念カウントダウンライブを行った。 '''ミュージックビデオ''' *10月19日、収録曲「No One But You」と「INVINCIBLE(极限)」のトラックビデオを公開した。 *11月1日、タイトル曲「On My Youth」のミュージックビデオを公開した。 *11月9日、タイトル曲「On My Youth」の英語バージョンのパフォーマンスビデオを公開した。 == 活動 == 2023年11月1日の上海を皮切りに、5日成都、8日北京、12日広州、15日蘇州まで、中国5都市でショーケースツアー'''「2023 WayV SHOWCASE TOUR [On My Youth]」'''を開催した<ref name="showcase">{{Cite web|和書|date=2023-10-30|url=https://www.wowkorea.jp/topic/read/110651.html|title=「WayV」、中国ショーケースツアーを5都市で開催…全席ソールドアウト|website=wowKorea|accessdate=2023-11-15}}</ref>。 今ツアーは開催決定のニュースから高い関心を集め、10月26日のチケット販売と同時に全回がソールドアウトになった<ref name="showcase"/>。 公演ではタイトル曲「On My Youth」をはじめとするセカンドフルアルバムに収録された新曲のステージを披露しており、その他にアルバムに関連するトークやゲームも実施された<ref name="showcase"/>。 == チャート成績 == 2023年11月1日、音源公開5分で中国QQ MUSICのデジタルアルバム販売チャート1位を達成し、デジタルアルバム販売チャートでも週間1位を記録した<ref name="chart">{{Cite web|和書|date=2023-11-09|url=https://www.wowkorea.jp/news/read/413943.html|title=「WayV」、2ndフルアルバムが韓国アルバムチャート1位達成…9日にパフォーマンスビデオ公開|website=wowKorea|accessdate=2023-11-15}}</ref>。 中国QQ MUSIC、Kugou Music、網易雲音楽のデジタルアルバム販売チャート1位を達成した<ref name="chart"/>。 QQ MUSICでは「プラチナアルバム」認証取得および中国ミュージックビデオ(MV)チャート1位を記録した<ref name="chart"/>。 iTunesトップアルバムチャートでは全世界17の国と地域で1位を達成し、日本LINE MUSICのアルバムトップ100チャートでも1位にランクインした<ref name="chart"/>。 == 収録曲 == # '''On My Youth (遗憾效应)''' [3:33] #*作詞 :潘彦廷 (YTP) #*作曲 :Peter Wallevik、Daniel Davidsen、Mich Hansen、Janée “Jin Jin” Bennett、Bobii Lewis、Wayne Hector、Teshaun Armstrong、Rick Bridges #*編曲 :PhD #:クラシックの和声進行、ユニークなストリング、ヒップホップドラムといった様々な音楽要素が調和するミディアムテンポのバラード曲<ref name="asiatoday">{{Cite web|date=2023-11-01|url=https://www.asiatoday.co.kr/view.php?key=20231101010000571|title=WayV, 오늘 발라드 타이틀 담긴 ‘온 마이 유스’ 발매|website=アジアトゥデイ|accessdate=2023-11-01}}</ref>。 #:歌詞には分別がつかない年齢の頃に逃した愛に対する惜しさと、その時を思い出して悟った感情を表現している<ref name="asiatoday"/>。 # '''Poppin' Love (心动预告)''' [3:05] #*作詞 :潘彦廷 (YTP) #*作曲 :Ben Samama、Sean Fischer #*編曲 :Sean Fischer #:運命のようなラブストーリーを歌ったポップダンスナンバー<ref name="asiatoday"/>。 # '''Ain't No Thang''' [3:00] #*作詞 :潘彦廷 (YTP) #*作曲 :Greg Bonnick、Hayden Chapman、Justin Starling、Miles Barker #*編曲 :LDN Noise #:どんな苦難と困難があってもあきらめないというダンスポップ曲<ref name="asiatoday"/>。 # '''No One But You''' [3:37] #*作詞 :深白色 (Arys Chien) #*作曲 :Ninos Hanna、Hampus Nerge、Tom Wiklund #:愛する人との幸せな日常を描いたミディアムテンポのポップ曲<ref name="asiatoday"/>。 # '''INVINCIBLE (极限)''' [3:30] #*作詞 :柯朋宇 (Tomo Kurt) #*作曲 :Greg Bonnick、Hayden Chapman、Jeffrey The Kiddd、Robbie Jay #*編曲 :LDN Noise #:WayVのありのままの姿と自信感を表現したヒップホップ曲<ref name="asiatoday"/>。 # '''RODEO (冒险行动)''' [2:38] #*作詞 :潘彦廷 (YTP) #*作曲 :Greg Bonnick、Hayden Chapman、Justin Starling #*編曲 :LDN Noise # '''Moonlight (新月)''' [3:35] #*作詞 :潘彦廷 (YTP) #*作曲 :Hayden Chapman、Greg Bonnick、Jeffrey The Kiddd、Sevn Dayz、Tay Jasper #*編曲 :LDN Noise #:自分が未来の主人公という自信にあふれる歌詞が印象的な楽曲<ref name="asiatoday"/>。 # '''心之所向 (Lighthouse)''' [3:41] #*作詞 :小寒 (Xiao Han) #*作曲 :밍지션 (minGtion)、Andrew Choi、Nermin Harambasic #*編曲 :밍지션 (minGtion) # '''Be Alright (未来电台)''' [3:27] #*作詞 :潘彦廷 (YTP)、쿤 (KUN) #*作曲 :Hayden Chapman、Greg Bonnick、Jeffrey The Kiddd、Sevn Dayz #*編曲 :LDN Noise #:ファンに向けた感謝と労いを率直に歌った楽曲<ref name="asiatoday"/>。 # '''On My Youth (English Ver.)''' [3:33] #*作詞 :Janée “Jin Jin” Bennett、Bobii Lewis、Wayne Hector、Teshaun Armstrong、Rick Bridges #*作曲 :Peter Wallevik、Daniel Davidsen、Mich Hansen、Janée “Jin Jin” Bennett、Bobii Lewis、Wayne Hector、Teshaun Armstrong、Rick Bridges #*編曲 :PhD #:「On My Youth」の英語バージョン<ref name="asiatoday"/>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist|2}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おんまいゆうす}} {{NCT (音楽グループ)}} [[Category:WayVのアルバム]] [[Category:2023年のアルバム]]
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レ・ティ・トゥエット・マイ
レ・ティ・トゥエット・マイ(Lê Thị Tuyết Mai)は、ベトナムの外交官。ベトナム外務省入省法務・条約局長をを経て、在ジュネーブ国際機関政府代表部特命全権大使。 ハノイ生まれ。1988年ベトナム外交アカデミー卒業。1988年から1989年までキーウ大学でロシア語を学んだ。1991年ベトナム外務省入省。横浜国立大学で国際経済法を専攻して修士号取得後、2000年横浜国立大学大学院大学院国際社会科学研究科博士後期課程修了、博士(学術)。 2013年から2016年まで駐ノルウェー特命全権大使を務め、2017年から2020年まで外務省法務・条約局長を務めた。2020年に国際連合ジュネーブ事務局及び在ジュネーブ国際機関ベトナム社会主義共和国政府代表部特命全権大使・常駐代表に任命された。2021年国際連合貿易開発会議政府間専門家グループ副議長。
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レ・ティ・トゥエット・マイは、ベトナムの外交官。ベトナム外務省入省法務・条約局長をを経て、在ジュネーブ国際機関政府代表部特命全権大使。
{{表記揺れ案内|表記1=レーチイ・トウエツ・マイ}} {{Infobox person | name = レ・ティ・トゥエット・マイ | image = Vietnam's Le Thi Tuyet Mai (cropped).jpg | birth_date = | birth_place = | occupation = [[外交官]] | nationality = [[ベトナム]] }} '''レ・ティ・トゥエット・マイ'''(Lê Thị Tuyết Mai)は、[[ベトナム]]の[[外交官]]。[[:w:Ministry of Foreign Affairs (Vietnam)|ベトナム外務省]]入省法務・[[条約局]]長を経て、在[[ジュネーブ]][[国際機関]][[政府代表部]][[特命全権大使]]。 == 経歴 == [[ハノイ]]生まれ<ref name=":2">{{Cite web |title=Tiểu sử Đại sứ |trans-title=Ambassador's Biography |url=https://vnmission-geneva.mofa.gov.vn/vi-vn/embassy/Ambassador/Biography%20Ambassador/Trang/default.aspx |lang=vi |access-date=2022-12-13 |website=The Permanent Mission of the Socialist Republic of Viet Nam to the United Nations Office, the World Trade Organization and Other International Organizations in Geneva |publisher=Vietnam Ministry of Foreign Affairs}}</ref><ref name=":1" />。1988年[[:w:Diplomatic Academy of Vietnam|ベトナム外交アカデミー]]卒業。1988年から1989年まで[[キーウ大学]]で[[ロシア語]]を学んだ。1991年[[:w:Ministry of Foreign Affairs (Vietnam)|ベトナム外務省]]入省<ref name=":0" />。[[横浜国立大学]]で[[国際経済法]]を専攻して[[修士号]]取得後<ref name=":2"/><ref name=":1">{{Cite web |title=Ambassador's Biography |url=https://vnmission-geneva.mofa.gov.vn/en-us/embassy/Ambassador/Biography%20Ambassador/Pages/default.aspx |access-date=2022-12-13 |website=The Permanent Mission of the Socialist Republic of Viet Nam to the United Nations Office, the World Trade Organization and Other International Organizations in Geneva |publisher=Vietnam Ministry of Foreign Affairs}}</ref>、2000年横浜国立大学大学院大学院国際社会科学研究科博士後期課程修了、[[博士(学術)]]<ref>[https://ci.nii.ac.jp/naid/500000192068 Legal aspects of preferential treatment for developing countries in the WTO system Le Thi Tuyet Mai レーチイ トウエツ マイ]</ref><ref>[https://www.gsiss.ynu.ac.jp/english/about/center/reference/collections/pdf/3_d_20131111.pdf 国際社会科学研究資料室  博士論文所蔵リスト]横浜国立大学</ref>。 2013年から2016年まで駐[[ノルウェー]][[特命全権大使]]を務め、2017年から2020年まで外務省法務・[[条約局]]長を務めた<ref name=":1" />。2020年に[[国際連合ジュネーブ事務局]]及び在[[ジュネーブ]][[国際機関]]ベトナム社会主義共和国[[政府代表部]]特命全権大使・常駐代表に任命された<ref name=":0">{{Cite web |title=Le Thi Tuyet Mai |url=https://www.genderchampions.com/champions/le-thi-tuyet-mai |access-date=2022-12-13 |website=International Gender Champions}}</ref><ref>{{Cite web |date=2022-12-07 |title=Geneva missions of Vietnam and Laos celebrate Lao National Day |url=https://en.vietnamplus.vn/geneva-missions-of-vietnam-and-laos-celebrate-lao-national-day/245108.vnp |access-date=2022-12-13 |website=VietnamPlus |agency=Vietnam News Agency |language=en}}</ref><ref>{{Cite web |title=Viet Nam |url=https://www.ungeneva.org/en/blue-book/missions/member-states/viet-nam |access-date=2022-12-13 |website=United Nations Office at Geneva |language=en}}</ref><ref>{{Cite web |title=Ambassador Le Thi Tuyet Mai affirms Viet Nam's consistent policy on promoting human rights |url=https://haiphongnews.gov.vn/foreign-activities/ambassador-le-thi-tuyet-mai-affirms-viet-nams-consistent-policy-on-promoting-human-rights-ct562.html |access-date=2022-12-13 |website=Hai Phong News |language=en}}</ref>。2021年[[国際連合貿易開発会議]]政府間専門家グループ副議長<ref>{{Cite web |title=Vietnam elected as vice chair of UNCTAD intergovernmental expert group's meeting |url=https://vietnamnet.vn/en/vietnam-elected-as-vice-chair-of-unctad-intergovernmental-expert-groups-meeting-754709.html |access-date=2022-12-13 |website=VietNamNet |agency=Vietnam News Agency |language=en}}</ref>。 == 脚注 == {{reflist}} {{Vietnam-stub}} {{diplomat-stub}} {{DEFAULTSORT:れ てい とうえつと まい}} [[Category:べトナムの女性大使]] [[Category:在ノルウェーベトナム大使]] [[Category:国際法学者]] [[Category:博士(学術)取得者]] [[Category:修士(学術)取得者]] [[Category:日本留学経験者]] [[Category:横浜国立大学出身の人物]] [[Category:ハノイ出身の人物]]
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国際パトロール
国際パトロール株式会社(こくさいぱとろーる)は、大阪府大阪市天王寺区に本社を置く警備会社である。全日警のグループ傘下。
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国際パトロール株式会社(こくさいぱとろーる)は、大阪府大阪市天王寺区に本社を置く警備会社である。全日警のグループ傘下。
{{混同|[[秋田県]][[秋田市]]に本社を置く株式会社国際パトロール}} {{基礎情報 会社 |社名= 国際パトロール株式会社 |英文社名= |ロゴ= |画像 = |画像説明 = |種類= [[株式会社 (日本)|株式会社]] |市場情報= |略称= |国籍= {{JPN}} |郵便番号= 543-0023 |本社所在地= [[大阪府]][[大阪市]][[天王寺区]][[味原町]]13-13-1 |設立= [[1971年]]([[昭和]]46年)[[3月15日]] |業種= 9050 |法人番号= |統一金融機関コード= |SWIFTコード= |事業内容= [[空港警備|航空保安検査業務]]<br />[[機械警備]]<br />ビルトータル管理<br />施設警備<br />[[現金輸送警備]]<br />[[現金自動預け払い機|現金自動預払機]]総合管理<br />防災点検<br />[[警備員指導教育責任者|交通指導]]<br />以上の各種[[警備|警備業務]] |代表者= 代表取締役社長 後藤哲男 |資本金= 5,000万 |発行済株式総数= |売上高= |営業利益= |純利益= |純資産= |総資産= |従業員数= 191人 |決算期= |主要株主= |主要子会社= |関係する人物= |外部リンク= [http://www.kokupato.com/ www.kokupato.com/] |特記事項= }} '''国際パトロール株式会社'''(こくさいぱとろーる)は、[[大阪府]][[大阪市]][[天王寺区]][[味原町]]に本社を置く[[警備|警備会社]]である。[[全日警]]のグループ傘下<ref>{{Cite web|和書|url=https://salesnow.jp/db/companies/8120001023245|title=国際パトロール株式会社の基本情報|publisher=SalesNow|accessdate=2023-11-16}}</ref>。 == 沿革 == * [[1971年]]([[昭和]]46年)[[3月15日]] - 設立<ref name=":0">{{cite web|url=http://www.kokupato.com/corpor/corpo_1.htm|title=沿革|publisher=国際パトロール株式会社|accessdate=2023-11-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tele.soumu.go.jp/musen/SearchServlet?HZ=3&SelectID=1&SelectOW=03&DC=100&SK=4&pageID=5&SC=59501&CONFIRM=1|title=国際パトロール株式会社|publisher=総務省|accessdate=2023-11-16}}</ref>。 * [[1995年]]([[平成]]{{0}}7年)[[1月]] - [[阪神・淡路大震災]]における[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]の代替輸送バスの警備に従事<ref name=":0" />。 * [[1997年]](平成{{0}}9年)[[3月]] - 人材派遣業務を開始<ref name=":0" />。 * [[2004年]](平成16年)[[4月]] - [[全日警]]のグループ傘下となる<ref name=":0" />。 * [[2021年]]([[令和]]{{0}}3年)[[6月]] - [[岸和田市]]における[[新型コロナウイルス]]のワクチン集団接種開場の警備に参加<ref name=":0" />。 == 脚注 == <references /> == 外部リンク == * [http://www.kokupato.com/ 国際パトロール株式会社] {{DEFAULTSORT:こくさいはとろおる}} [[Category:日本の警備業者]] [[Category:天王寺区の企業]] [[Category:1971年設立の企業]] {{company-stub}}
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I Wish (なにわ男子の曲)
『I Wish』は、なにわ男子の6枚目のシングル。2023年11月15日にJ Stormから発売された。 初回限定盤1(DVD/Blu-ray)、初回限定盤2(DVD/Blu-ray)、通常盤(CDのみ)で発売。 表題作「I Wish」は道枝駿佑が出演するTBS系火曜ドラマ『マイ・セカンド・アオハル』主題歌で、青春のきらめきやピュアな願いが込められた爽やかなラブソングかつ応援歌。なにわ男子にとっては初のTBS系ドラマの主題歌であり、制作陣と何度も話し合いを重ね、第二の青春を突き進むドラマの主人公たちに寄り添う楽曲になるよう書き下ろされた。冬を感じさせるキーボードの演奏で始まり、ストリングスからドラムとベース、オルガンへとつながっていくクリスマスの季節感も意識したサウンドで、藤原は「まさに“なにわ男子のクリスマスソング”って感じ」と述べている。情報解禁日の10月4日に「Recording Movie」、10月16日にはグランピング施設でメンバーが自由に遊び回るMVが公開され、公式Instagramではメイキング動画も公開された。 グループがCDデビュー2周年を迎えた11月12日には公式YouTubeチャンネルで「なにわ男子(祝)デビュー2周年 生配信」を実施し、「I Wish」を初パフォーマンスした。また、11月14日にはグループの公式Instagramにて大西流星がインスタライブ「#りゅちぇソロインライ」を配信してCDの特典などを紹介したが、開始10分後にはドラマ撮影後の道枝が告知無しで登場。終盤では「I Wish」のダンスを2人で披露し、X(旧Twitter)では2人のコンビ名「みちょりゅちぇ」がトレンド入りした。 CDケース付属の帯裏に記載されている動画視聴ユーザーコードを特設サイトに登録することで、各形態それぞれ異なるストリーミング動画を期間限定(配信期限:2023年11月14日正午 - 12月31日23:59)で視聴可能。 クレジット出典 初週37.0万枚を売り上げ、11月27日付の最新「オリコン週間シングルランキング」で初登場1位となり、6作連続・通算6作目の首位獲得となった。また、このCD売上枚数のポイントが大きくけん引し、同日付の「オリコン週間合算シングルランキング」でも同じく通算6作目の首位を獲得した。
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『I Wish』は、なにわ男子の6枚目のシングル。2023年11月15日にJ Stormから発売された。
{{Infobox Single | Name = I Wish | Artist = [[なにわ男子]] | Album = | A-side = | B-side = Join us !<br />ただいま<br />Have a blast<br />Snowy Love<br />F.L.E.X. | Released = [[2023年]][[11月15日]] | Format = [[シングル#CDシングル|マキシシングル]] | Recorded = | Genre = [[J-POP]] | Length = | Label = [[ジェイ・ストーム|J Storm]] | Writer = [[youth case]] | Composer = | Producer = | Certification = * プラチナ([[日本レコード協会]])<ref>{{Cite press release|和書| title = 11月度GD認定〜INI「TAG ME」がダブル・プラチナ認定!| publisher = 日本レコード協会| date = 2023-12-08| url = https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000521.000010908.html| accessdate = 2023-12-15}}</ref> | Chart position = * '''[[オリコンチャート]]''' ** 週間1位(シングル)<ref name="oricon20231121">{{Cite web| url = https://www.oricon.co.jp/news/2303316/full/| title = なにわ男子、6作連続・通算6作目のシングル1位 道枝駿佑出演のドラマ主題歌【オリコンランキング】| date = 2023-11-21| website = ORICON NEWS| publisher = oricon ME| accessdate = 2023-11-24}}</ref> ** 週間1位(合算シングル)<ref name="oricon20231124">{{Cite web|和書| url = https://www.oricon.co.jp/news/2303630/full/| title = なにわ男子、通算6作目の合算シングル1位【オリコンランキング】| date = 2023-11-24| website = ORICON NEWS| publisher = oricon ME| accessdate = 2023-11-26}}</ref> ** 2023年11月度月間1位<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.oricon.co.jp/rank/js/m/2023-11/| title = オリコン月間 シングルランキング 2023年11月度| website = ORICON NEWS| publisher = oricon ME| accessdate = 2023-12-15}}</ref> * '''[[Billboard JAPAN]]''' ** 週間1位(Top Singles Sales)<ref>{{Cite web| url = https://www.billboard-japan.com/d_news/detail/132017/2| title = 【ビルボード】なにわ男子『I Wish』初週39.5万枚でシングル・セールス首位| date = 2023-11-20| website = Billboard JAPAN| publisher = 阪神コンテンツリンク| accessdate = 2023-11-24}}</ref> ** 週間2位(Hot 100)<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.billboard-japan.com/d_news/detail/132076/2| title = 【ビルボード】Ado「唱」が通算8度目の総合首位、【#BBMAs】出演のStray Kidsがトップ10にジャンプアップ| date = 2023-11-22| website = Billboard JAPAN| publisher = 阪神コンテンツリンク| accessdate = 2023-11-26}}</ref> | Last single = [[Make Up Day/Missing]]<br/>(2023年) | This single = '''I Wish'''<br/>(2023年) | Next single = | Misc = | EAN = {{JAN|4582515774769}} - 初回限定盤1(CD+DVD)<br />{{JAN|4582515774752}} - 初回限定盤1(CD+Blu-ray)<br />{{JAN|4582515774783}} - 初回限定盤2(CD+DVD)<br />{{JAN|4582515774776}} - 初回限定盤2(CD+Blu-ray)<br />{{JAN|4582515774790}} - 通常盤 | Tracklist = }} 『'''I Wish'''』は、[[なにわ男子]]の6枚目の[[シングル]]<ref name="natalie20231004">{{Cite web|和書| url = https://natalie.mu/music/news/543596| title = なにわ男子の6枚目シングルは道枝駿佑の出演ドラマ主題歌| date = 2023-10-04| website = 音楽ナタリー| publisher = ナターシャ| accessdate = 2023-11-16}}</ref>。2023年11月15日に[[ジェイ・ストーム|J Storm]]から発売された。 == 概要 == 初回限定盤1(DVD/Blu-ray)、初回限定盤2(DVD/Blu-ray)、通常盤(CDのみ)で発売<ref name="natalie20231004" />。 表題作「'''I Wish'''」は[[道枝駿佑]]が出演する[[TBSテレビ|TBS]]系[[火曜ドラマ (TBS)|火曜ドラマ]]『[[マイ・セカンド・アオハル]]』主題歌で、青春のきらめきやピュアな願いが込められた爽やかなラブソングかつ応援歌<ref name="natalie20231004_2">{{Cite web|和書| url = https://natalie.mu/music/news/543580| title = なにわ男子、ドラマ「マイ・セカンド・アオハル」主題歌担当 青春のきらめきと切なさを歌う| date = 2023-10-04| website = 音楽ナタリー| publisher = ナターシャ| accessdate = 2023-11-20}}</ref>。[[なにわ男子]]にとっては初のTBS系ドラマの主題歌であり、制作陣と何度も話し合いを重ね、第二の青春を突き進むドラマの主人公たちに寄り添う楽曲になるよう書き下ろされた<ref>{{Cite web|和書| url = https://thetv.jp/news/detail/1160348/| title = なにわ男子の新曲「I Wish」が、ドラマ主題歌に決定「冬のなにわ男子を感じられる」<マイ・セカンド・アオハル>| date = 2023-10-04| website = WEBザテレビジョン| publisher = KADOKAWA| accessdate = 2023-11-16}}</ref>。冬を感じさせるキーボードの演奏で始まり、ストリングスからドラムとベース、オルガンへとつながっていくクリスマスの季節感も意識したサウンドで<ref>{{Cite web|和書| author = 宗像明将| url = https://realsound.jp/2023/11/post-1500061.html| title = なにわ男子、6枚目シングル『I Wish』が首位 表題曲に感じるyouth caseの職人技| date = 2023-11-26| website = Real Sound| publisher = blue print| accessdate = 2023-11-26}}</ref>、藤原は「まさに“なにわ男子のクリスマスソング”って感じ」と述べている<ref>{{Cite journal|和書|title=風に乗せる願いゴト|date=2023-11-15|publisher=東京ニュース通信社|journal=[[週刊TVガイド]]|issue=2023年11月24日号|pages=3-12}}</ref>。情報解禁日の10月4日に「Recording Movie」<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.j-storm.co.jp/s/js/news/detail/13362| title = なにわ男子 - I Wish <nowiki>[Recording Movie]</nowiki> 公開!| date = 2023-10-04| website = なにわ男子 J Storm OFFICIAL SITE| publisher = ジェイ・ストーム|accessdate = 2023-11-20}}</ref>、10月16日にはグランピング施設でメンバーが自由に遊び回るMVが公開され、公式Instagramではメイキング動画も公開された<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.j-storm.co.jp/s/js/news/detail/13374| title = なにわ男子 - I Wish <nowiki>[Official Music Video]</nowiki> YouTube ver.公開!| date = 2023-10-16| website = なにわ男子 J Storm OFFICIAL SITE| publisher = ジェイ・ストーム|accessdate = 2023-11-20}}</ref><ref>{{Cite web|和書| author = 本手| url = https://realsound.jp/2023/11/post-1482534.html| title = 藤原丈一郎が大西流星への愛を熱弁 なにわ男子、「I Wish」MV撮影メイキング動画公開| date = 2023-11-07| website = Real Sound| publisher = blueprint| accessdate = 2023-11-20}}</ref>。 グループがCDデビュー2周年を迎えた11月12日には公式YouTubeチャンネルで「なにわ男子(祝)デビュー2周年 生配信」を実施し、「I Wish」を初パフォーマンスした<ref>{{Cite web|和書| url = https://mdpr.jp/news/detail/4047549| title = なにわ男子、デビュー2周年で感謝と決意語る「皆さんがいてくださるから僕たちが輝ける」| date = 2023-11-12| website = モデルプレス| publisher = ネットネイティブ| accessdate = 2023-11-24}}</ref><ref>{{Cite news|和書| title = なにわ男子 デビュー2周年生配信「これからも笑顔で幸せに」| newspaper = デイリースポーツ online| date = 2023-11-13| url = https://www.daily.co.jp/gossip/2023/11/13/0017021987.shtml| accessdate = 2023-11-24}}</ref>。また、11月14日にはグループの公式Instagramにて[[大西流星]]がインスタライブ「#りゅちぇソロインライ」を配信してCDの特典などを紹介したが、開始10分後にはドラマ撮影後の道枝が告知無しで登場<ref name="model20231114">{{Cite web|和書| url = https://mdpr.jp/news/detail/4050816| title = なにわ男子・道枝駿佑、大西流星のソロ生配信に“告知なし”サプライズ登場「何の許可もなしに来た」| date = 2023-11-14| website = モデルプレス| publisher = ネットネイティブ| accessdate = 2023-11-24}}</ref>。終盤では「I Wish」のダンスを2人で披露し、X(旧[[Twitter]])では2人のコンビ名「みちょりゅちぇ」がトレンド入りした<ref name="model20231114" />。 == 特典 == ; 先着購入特典<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.j-storm.co.jp/s/js/news/detail/13380| title = なにわ男子 6thシングル「I Wish」先着購入特典の絵柄を解禁!| date = 2023-10-18| website = なにわ男子 J Storm OFFICIAL SITE| publisher = ジェイ・ストーム| accessdate = 2023-11-16}}</ref> :* 初回限定盤1:『I Wish』オリジナル・クリアファイル(A4サイズ) :* 初回限定盤2:オリジナル・フォトステッカー(スマホサイズ2枚セット) :* 通常盤:メンバー同士で撮り合いっこ!チェキ風クリアソロカード(メンバーソロ7枚セット) : ; 封入特典<ref name="Jstorm">{{Cite web|和書| url = https://www.j-storm.co.jp/s/js/discography/JACA-6107| title = I Wish| website = なにわ男子 J Storm OFFICIAL SITE| publisher = ジェイ・ストーム| accessdate = 2023-11-16}}</ref> :* 初回限定盤1:20P歌詞ブックレット、動画視聴ユーザーコード① :* 初回限定盤2:20P歌詞ブックレット、動画視聴ユーザーコード② :* 通常盤(初回プレス仕様):動画視聴ユーザーコード③ === 「I Wish」リリース記念 期間限定動画配信 === CDケース付属の帯裏に記載されている動画視聴ユーザーコードを特設サイトに登録することで、各形態それぞれ異なるストリーミング動画を期間限定(配信期限:2023年11月14日正午 - 12月31日23:59)で視聴可能<ref name="Jstorm" /><ref>{{Cite web|和書| url = https://campaign-communication.jp/s/iwish/| title =なにわ男子6thシングル「I Wish」リリース記念期間限定動画配信| website = なにわ男子 J Storm OFFICIAL SITE| publisher = ジェイ・ストーム| accessdate = 2023-11-16}}</ref>。 * 動画視聴ユーザーコード①:「I Wish」スペシャル座談会〈前編〉 * 動画視聴ユーザーコード②:「I Wish」スペシャル座談会〈後編〉 * 動画視聴ユーザーコード③:「I Wish」Choreography Behind == 収録曲 == クレジット出典<ref name="Jstorm" /> === CD === ==== 初回限定盤1 ==== # '''I Wish''' #:作詞・作曲:[[youth case]] / 編曲:youth case、[[ha-j]] #:* [[道枝駿佑]]出演 [[TBSテレビ|TBS]]系[[火曜ドラマ (TBS)|火曜ドラマ]]『[[マイ・セカンド・アオハル]]』主題歌<ref name="natalie20231004_2" /> # '''Join us !''' #:作詞・作曲・編曲:竹縄航太 #:明るいポジティブな歌詞と、フューチャー・ポップなメロディラインが癖になる楽曲<ref>{{Cite web|和書| url = https://tower.jp/article/news/2023/10/31/tg014| title = なにわ男子、11月15日リリースの6thシングル『I Wish』よりカップリング曲“Join us !”MV公開| date = 2023-10-31| website = TOWER RECORDS ONLINE| publisher = タワーレコード| accessdate = 2023-11-24}}</ref>。公式TikTokではMV撮影の裏側が公開された<ref>{{Cite tweet|author=なにわ男子 / J Storm|user=728_Storm|number=1718126948478750891|title=なにわ男子 / J Storm📢 公式TikTok更新!/「Join us !」Music Video 撮影の裏側👦🏻🪩|date=2023-10-28|access-date=2023-11-23}}</ref>。 # '''ただいま''' #:作詞・作曲・編曲:Nobuhiro Tahara # ただいま(オリジナル・カラオケ) ==== 初回限定盤2 ==== # I Wish # Join us ! # '''Have a blast''' #:作詞・作曲・編曲:Nobuhiro Tahara # Have a blast(オリジナル・カラオケ) ==== 通常盤 ==== # I Wish # Join us ! # '''Snowy Love''' #:作詞:岡田一成 / 作曲:岡田一成、梶原健生 / 編曲:[[佐々木博史]] # '''F.L.E.X.''' #:作詞・作曲・編曲:[[坂室賢一]] # I Wish(オリジナル・カラオケ) # Join us !(オリジナル・カラオケ) # Snowy Love(オリジナル・カラオケ) # F.L.E.X.(オリジナル・カラオケ) ===DVD/Blu-ray=== ==== 初回限定盤1 ==== * 「I Wish」Music Video & Making * 「I Wish」Jacket Shooting & Recording Behind ==== 初回限定盤2 ==== * 「Join us !」Music Video & Making == チャート成績 == 初週37.0万枚を売り上げ、11月27日付の最新「オリコン週間シングルランキング」で初登場1位となり、6作連続・通算6作目の首位獲得となった<ref name="oricon20231121" />。また、このCD売上枚数のポイントが大きくけん引し、同日付の「オリコン週間合算シングルランキング」でも同じく通算6作目の首位を獲得した<ref name="oricon20231124" />。 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://www.j-storm.co.jp/s/js/discography/JACA-6107 I Wish] - J Storm * [https://www.johnnys-net.jp/page?id=discoDetail&artist=56&data=2833 I Wish] - FAMILY CLUB Official Site * YouTube ** {{YouTube|c25sMesaaNU|なにわ男子 - I Wish <nowiki>[Recording Movie]</nowiki>}} ** {{YouTube|78aFPj1CAxg|なにわ男子 - I Wish <nowiki>[Official Music Video]</nowiki> YouTube ver.}} ** {{YouTube|1mp501VapgU|なにわ男子 - Join us ! <nowiki>[Official Music Video]</nowiki> YouTube ver.}} {{なにわ男子}} {{TBS火曜ドラマ主題歌 2020年代前半}} {{オリコン月間シングルチャート第1位 2020年代前半|2023年11月度}} {{オリコン週間シングルチャート第1位 2023年|2023年11月27日付}} {{オリコン週間合算シングルチャート第1位 2023年|2023年11月27日付}} {{Billboard JAPANシングル・セールス・チャート「Billboard JAPAN Top Singles」第1位 2023年|2023年11月22日付}} {{Single-stub}} {{DEFAULTSORT:あいういつしゆ}} [[Category:2023年のオリコンシングルチャート1位獲得作品]] [[Category:オリコン月間シングルチャート1位獲得作品]] [[Category:なにわ男子の楽曲]] [[Category:youth caseが制作した楽曲]] [[Category:TBS火曜ドラマの主題歌]] [[Category:楽曲 あ|いういつしゆ]]
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アンスロポス
『アンスロポス』は、関ジャニ∞の楽曲。2024年1月24日にINFINITY RECORDSから50枚目のシングルとして発売予定。
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『アンスロポス』は、関ジャニ∞の楽曲。2024年1月24日にINFINITY RECORDSから50枚目のシングルとして発売予定。
{{Otheruses|[[関ジャニ∞]]の楽曲|その他|en:Anthropos}} {{Infobox Single | Name = アンスロポス | Artist = [[関ジャニ∞]] | Album = | A-side = | B-side = {{Plainlist| * 軌跡とキセキ * 0時5分のラヴ・ゲーム * Back 2 The Kids }} | Released = [[2024年]][[1月24日]](予定) | Format = [[シングル|マキシシングル]] | Recorded = | Genre = {{Plainlist| * [[J-POP]] * [[ロック (音楽)|ロック]] * [[アニメソング]] }} | Length = <!--分秒--> | Label = [[INFINITY RECORDS]] | Writer = {{Plainlist| * [[キタニタツヤ]](作詞・作曲) }} | Producer = | Certification = | Chart position = | Last single = [[オオカミと彗星]]<br />(2023年) | This single = '''アンスロポス'''<br />(2024年) | Next single = - | Misc = <!--{{External music video|{{YouTube||「アンスロポス」}}}}-->{{External music video|{{YouTube|j9LQat01_Uo|「ズッコケ男道」(ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2023)}}|Upper caption = ライブ映像}} }} {{external media | align = right | video1 = {{YouTube|bNm3hLfCwgM|『め組の大吾 救国のオレンジ』OPノンクレジット映像/「アンスロポス」関ジャニ∞}} }} 『'''アンスロポス'''』は、[[関ジャニ∞]]の楽曲{{R|oricon230909|natalie230909|mdpr230909|billboard230909|official230910}}。[[2024年]][[1月24日]]に[[INFINITY RECORDS]]から50枚目の[[シングル]]として発売予定{{R|official231116|oricon231116|natalie231116|tft231116}}。 == 概要 == * 前作『[[オオカミと彗星]]』から約5か月振りのリリース。 * CDは初回限定「冬」盤(Blu-ray/DVD)、初回限定「炎」盤(Blu-ray/DVD)、通常盤の5形態で発売。 * 本作は関ジャニ∞の20周年第1弾シングルであり{{R|oricon230909|billboard230909|official230910}}、記念すべき'''通算50枚目のシングル'''である{{R|official231116|oricon231116|natalie231116|tft231116}}。 * 表題曲「'''アンスロポス'''」は、[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]/[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系[[読売テレビ制作土曜夕方枠のアニメ|アニメ]]『[[め組の大吾#テレビアニメ|め組の大吾 救国のオレンジ]]』の第1クールおよび第2クールのオープニングテーマである{{R|oricon230909|natalie230909|mdpr230909|billboard230909|tweet231218}}。 ** 48thシングル『[[未完成 (関ジャニ∞の曲)|未完成]]』以来2作振り、通算17曲目のシングルでのバンド曲である{{R|oricon231222|tft231222}}。 ** 同曲は、[[キタニタツヤ]]からの楽曲提供である{{R|oricon230909|natalie230909|mdpr230909|billboard230909}}。 *** 同曲に対してキタニは「長いキャリアの中で着実にその足元を固め続けてきた関ジャニ∞というチームがこの歌詞を歌うこともまた同じ意味を持つ筈だと信じて、今回『アンスロポス』という歌を作った」とコメントしている{{R|natalie230909|mdpr230909}}。 ** 自身がアニメ作品のテーマソングを担当するのは、2016年に担当した[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系[[フジテレビ日曜朝8時30分枠のアニメ|アニメ]]『[[モンスターハンター ストーリーズ#テレビアニメ|モンスターハンター ストーリーズ RIDE ON]]』の主題歌である「[[パノラマ (関ジャニ∞の曲)|パノラマ]]」{{R|oricon160713}}以来、約7年振りである。 ** 同曲の歌詞には、同作の主人公・十朱大吾らの人命救助にかける想いを想起させるフレーズが散りばめられており、力強いバンドサウンドの楽曲となっている{{R|oricon230909|natalie230909|mdpr230909|billboard230909|official230910}}。 ** 同作への起用に対して関ジャニ∞は「大吾たちが、時に危ういほどの情熱を持って、自らのアイデンティティを賭してまで救う生命ひとつひとつの輝きに感銘を覚えました」とコメントしている{{R|natalie230909|mdpr230909}}。 ** タイトルの「アンスロポス」は、[[ギリシア語|ギリシャ語]]で「見上げる人」「人間」という意味である{{R|oricon230909|natalie230909|mdpr230909|billboard230909}}。 *** この「アンスロポス」という単語をキタニがタイトルに名付けたことに対して関ジャニ∞は「まさに原作の本質を射抜いた一言と、群衆を煽り続けるような高揚感を感じる楽曲は、僕らにとっても新たな幕開けの一曲になりそうです」とコメントしている{{R|natalie230909|mdpr230909}}。 * 各初回限定盤と通常盤にはそれぞれカップリングを収録しており{{R|official231116|oricon231116|natalie231116|tft231116}}、通常盤には「'''軌跡とキセキ'''」、初回限定「冬」盤には「'''0時5分のラヴ・ゲーム'''」、初回限定「炎」盤には「'''Back 2 The Kids'''」を収録{{R|official231222}}。 ** 「軌跡とキセキ」は、本作の情報解禁時点で「20周年を迎えた関ジャニ∞にとってメモリアルな一曲」と紹介されていた{{R|official231116|oricon231116|natalie231116|tft231116}}。 * 各初回限定盤には特典映像を収録した特典Blu-ray/DVDを付属。 ** 初回限定「冬」盤には、表題曲「'''アンスロポス'''」の[[ミュージック・ビデオ]]とメイキング映像、2023年9月に開催されたデビュー20周年記念前夜祭野外ライブ『[[KANJANI∞ 20FES 〜前夜祭〜]]』の模様と同ライブおよび後述の野外フェスの[[舞台裏映像|ビハインド・ザ・シーン]]を収録{{R|official231116|oricon231116|natalie231116|tft231116}}。 ** 初回限定「炎」盤には、2023年夏に出演した野外フェス『[[関ジャニ∞の音楽フェスティバル出演一覧#ロッキン2023|ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2023]]』と『[[関ジャニ∞の音楽フェスティバル出演一覧#ワンチャンフェス2023|WANIMA presents 1CHANCE FESTIVAL 2023]]』の模様を全編収録{{R|official231116|oricon231116|natalie231116|tft231116}}。 * 本作のアーティスト写真は、前述のアニメ『め組の大吾 救国のオレンジ』の消防官のストーリーをモチーフに撮影されており、炎をバックにメンバー5人が力強い眼差しでたたずむ写真となっている{{R|official231222|oricon231222|natalie231222|tft231222}}。 * 本作のジャケット写真は、「アンスロポス」というタイトルが「見上げる人」という意味を持っているため、見上げてしまうほど大きな[[フェニックス|火の鳥(不死鳥)]]が全形態の象徴となっている{{R|official231222|oricon231222|natalie231222|tft231222}}。 ** 初回限定「冬」盤は、青空の下で大きく羽を広げた不死鳥の前に聳え立つ5人の姿を写している{{R|official231222|oricon231222|tft231222}}。 ** 初回限定「炎」盤は、"「炎」盤"と謳うように、命を宿して燃える不死鳥を背負う5人の姿を写している{{R|official231222|oricon231222|tft231222}}。 ** 通常盤は、メンバーの姿は無く不死鳥を前面に押し出したものとなっている{{R|official231222|oricon231222|tft231222}}。 * 関ジャニ∞は「春夏冬中(あきないちゅう)」と謳い2023年からシングル{{Efn2|48thシングル『未完成』は初回限定「春」盤、49thシングル『オオカミと彗星』は初回限定「夏」盤を発売。}}を発売しており、その最後を締めくくる第3弾として本作が初回限定「冬」盤を発売予定{{R|official231116|oricon231116|natalie231116|tft231116}}。 * 本作の全形態{{Efn2|name="MOC"|通常盤は初回プレス分のみ。}}には、お楽しみカード「まいど!おおきにカード」を封入{{R|official231222b}}。{{Main|#まいど!おおきにカード}} === まいど!おおきにカード === * 本作の全形態{{Efn2|name="MOC"}}にメンバーのソロ(横山・村上・丸山・安田・大倉)が各3種(「アンスロポスver.」、「FESTIVAL SESSIONSver.」、「バトルモードver.」)、メンバー集合(バトルモードver.)が1種、計16種類のうちランダムで1種類の絵柄が封入されている{{R|official231222b}}。 ** このうち、メンバー集合1種のカードは、「ホログラムSSR仕様」となっている{{R|official231222b}}。 * カード裏面は各種共通となっている{{R|official231222b}}。 {| class="wikitable" style="font-size:small" |+ まいど!おおきにカード(全16種、ランダムで1枚封入) ! バージョン ! 種類 |- |アンスロポスver. |rowspan="2"|横山・村上・丸山・安田・大倉(全5種) |- |FESTIVAL SESSIONSver. |- |バトルモードver. |横山・村上・丸山・安田・大倉・集合(全6種) |} === 各形態概要 === {| class="wikitable" style="font-size:small" |+ カップリング ! # ! 曲名 ! 形態 |- !rowspan="3"|3 |'''軌跡とキセキ''' |通常盤 |- |'''0時5分のラヴ・ゲーム''' |初回限定「冬」盤 |- |'''Back 2 The Kids''' |初回限定「炎」盤 |} {| class="wikitable" style="font-size:small" |+ 特典 ! 特典内容 ! 形態 |- |'''特典Blu-ray/DVD'''(詳細は「''[[#初回限定「冬」盤(特典映像)|#初回限定「冬」盤]]''」を参照) |rowspan="5"|初回限定「冬」盤 |- |'''デジパック・スリーブ仕様''' |- |'''「KANJANI∞ 20FES 〜前夜祭〜」LIVEフォトブック'''(48P) |- |'''歌詞カード''' |- |'''[[#まいど!おおきにカード|お楽しみカード]]''' |- |'''特典Blu-ray/DVD'''(詳細は「''[[#初回限定「炎」盤(特典映像)|#初回限定「炎」盤]]''」を参照) |rowspan="5"|初回限定「炎」盤 |- |'''三方背ケース仕様''' |- |'''「FESTIVAL SESSIONS 2023」LIVEフォトブック'''(24P) |- |'''8P歌詞フォトブック''' |- |'''お楽しみカード''' |- |'''8P歌詞フォトブック''' |rowspan="2"|通常盤(初回プレス) |- |'''お楽しみカード''' |} == 販売形態 == * 発売日:2024年1月24日 ** '''初回限定「冬」盤(LLCA-6117~6118:CD+Blu-ray)''' *** デジパック・スリーブ仕様 *** 「「KANJANI∞ 20FES 〜前夜祭〜」LIVEフォトブック」封入 *** 「歌詞カード」封入 *** 「[[#まいど!おおきにカード|お楽しみカード]]」封入 ** '''初回限定「冬」盤(LLCA-6119~6121:CD+DVD)''' *** デジパック・スリーブ仕様 *** 「「KANJANI∞ 20FES 〜前夜祭〜」LIVEフォトブック」封入 *** 「歌詞カード」封入 *** 「お楽しみカード」封入 ** '''初回限定「炎」盤(LLCA-6122~6123:CD+Blu-ray)''' *** 三方背ケース仕様 *** 「「FESTIVAL SESSIONS 2023」LIVEフォトブック」封入 *** 「8P歌詞フォトブック」封入 *** 「お楽しみカード」封入 ** '''初回限定「炎」盤(LLCA-6124~6125:CD+DVD)''' *** 三方背ケース仕様 *** 「「FESTIVAL SESSIONS 2023」LIVEフォトブック」封入 *** 「8P歌詞フォトブック」封入 *** 「お楽しみカード」封入 ** '''通常盤(LLCA-6126:CD)''' *** 「8P歌詞フォトブック」封入(初回プレス分のみ) *** 「お楽しみカード」封入(初回プレス分のみ) == プロモーション == * 2023年9月9日、[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]/[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系[[読売テレビ制作土曜夕方枠のアニメ|アニメ]]『[[め組の大吾#テレビアニメ|め組の大吾 救国のオレンジ]]』のオープニングテーマとして表題曲「アンスロポス」が起用されたことが発表された{{R|oricon230909|natalie230909|mdpr230909|billboard230909|official230910}}。 * 同年9月16日、同作の前番組『[[MIX (漫画)#テレビアニメ|MIX MEISEI STORY 2ND SEASON 〜二度目の夏、空の向こうへ〜]]』内で放送された同作のPR映像で「アンスロポス」の音源が初解禁された{{R|oricon230909|natalie230909|mdpr230909|billboard230909}}。 * 同年9月23日、同作の30秒CMが公開され、公式[[Twitter|X(旧Twitter)]]にて関ジャニ∞によるメッセージ動画も公開された{{R|tweet230923}}。 * 同年9月30日、同作が放送開始され、「アンスロポス」を使用した同作のオープニングのノンクレジット映像が公開された{{R|natalie230930}}。 * 同年11月11日、「アンスロポス」を使用した同作の特別PVが公開された{{R|crank231111}}。 * 同年11月16日 ** 本作の発売が発表された{{R|official231116|oricon231116|natalie231116|tft231116}}。 ** 本作の初回限定「炎」盤に収録されている『[[関ジャニ∞の音楽フェスティバル出演一覧#ロッキン2023|ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2023]]』で披露した「[[ズッコケ男道]]」のライブ映像が公開された{{R|official231116|oricon231116|natalie231116|tft231116}}。 ** [[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]/[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系『[[ベストヒット歌謡祭|ベストヒット歌謡祭 2023]]』で「アンスロポス」がテレビ初披露された{{R|official231109|oricon231109|natalie231109}}。{{Main2|初披露以降の楽曲披露|#テレビ歌唱}} *** また、同曲を提供し、同日に出演予定だった[[キタニタツヤ]]が体調不良により欠席したことで、[[丸山隆平]]がキタニの「[[青のすみか]]」を急遽カバーした{{R|oricon231116b|mdpr231116}}。 * 同年11月18日、[[村上信五]]がパーソナリティを務めるラジオ番組『[[村上信五くんと経済クン]]』([[文化放送]])にて、「アンスロポス」がラジオ初オンエアされた{{R|joqr231116}}。 * 同年12月1日、前述の『ベストヒット歌謡祭2023』でのライブ映像がYouTubeにて2024年2月21日までの期間限定で公開された{{R|tweet231201}}。 * 同年12月18日、同作の第2クールも引き続き「アンスロポス」がオープニングテーマとして起用されることが発表された{{R|tweet231218}}。 * 同年12月22日、本作のアーティスト写真やジャケット写真、収録されるカップリングや特典の『[[#まいど!おおきにカード|お楽しみカード]]』の詳細が発表された{{R|official231222|oricon231222|natalie231222|tft231222|official231222b}}。 == 収録曲 == === CD === ==== 通常盤 ==== #'''アンスロポス''' #: <span style="font-size: smaller;">作詞・作曲:[[キタニタツヤ]]<br />編曲:Diz</span> #* [[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]/[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系[[読売テレビ制作土曜夕方枠のアニメ|アニメ]]『[[め組の大吾#テレビアニメ|め組の大吾 救国のオレンジ]]』オープニングテーマ{{R|oricon230909|natalie230909|mdpr230909|billboard230909}} #'''軌跡とキセキ''' #アンスロポス (オリジナル・カラオケ) #軌跡とキセキ (オリジナル・カラオケ) ==== 初回限定「冬」盤(CD) ==== #アンスロポス #'''0時5分のラヴ・ゲーム''' ==== 初回限定「炎」盤(CD) ==== #アンスロポス #'''Back 2 The Kids''' === 特典映像 === ==== 初回限定「冬」盤(特典映像) ==== {{tracklist | headline = Blu-ray/DVD | total_length = <!--auto--> | title1 = '''アンスロポス''' | length1 = | note1 = Music Clip | title2 = アンスロポス | length2 = | note2 = Making | title3 = FESTIVAL SESSIONS 2023 | length3 = | note3 = BEHIND THE SCENES | title4 = [[KANJANI∞ 20FES 〜前夜祭〜]] | length4 = | note4 = LIVE映像 }} {{tracklist | headline = [[KANJANI∞ 20FES 〜前夜祭〜]] | total_length = <!--auto--> | title1 = '''[[ズッコケ男道]]''' | length1 = | title2 = '''[[無責任ヒーロー]]''' | length2 = | title3 = '''[[未完成 (関ジャニ∞の曲)|未完成]]''' | length3 = | title4 = '''[[オオカミと彗星|生きてる僕ら]]''' | length4 = | title5 = '''[[象 (関ジャニ∞の曲)|象]]''' | length5 = | title6 = '''[[NOROSHI]]''' | length6 = | title7 = '''[[8UPPERS|Baby Baby]]''' | length7 = | title8 = '''[[JUKE BOX (関ジャニ∞のアルバム)|夕闇トレイン]]''' | length8 = | title9 = '''[[8UPPERS|BOY '23]]''' | length9 = | title10 = '''[[ハライッパイ]]''' | length10 = | title11 = '''[[関ジャニ∞の元気が出るCD!!|勝手に仕上がれ]]''' | length11 = | title12 = '''[[LIFE〜目の前の向こうへ〜]]''' | length12 = | title13 = '''[[オオカミと彗星]]''' | length13 = | title14 = '''[[オオカミと彗星|大再生]]''' | length14 = | title15 = '''[[罪と夏]]''' | length15 = | title16 = '''[[T.W.L/イエローパンジーストリート|T.W.L]]''' | length16 = | title17 = '''[[サタデーソング]]''' | length17 = | title18 = '''[[関ジャニ∞の元気が出るCD!!|ナントカナルサ]]''' | length18 = | title19 = '''[[オオカミと彗星|SLOW]]''' | length19 = | title20 = '''[[オモイダマ|純情恋花火]]''' | length20 = | note20 = アンコール }} ==== 初回限定「炎」盤(特典映像) ==== {{tracklist | headline = Blu-ray/DVD | total_length = <!--auto--> | title1 = [[関ジャニ∞の音楽フェスティバル出演一覧#ロッキン2023|ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2023]] | length1 = | note1 = LIVE映像 | title2 = [[関ジャニ∞の音楽フェスティバル出演一覧#ワンチャンフェス2023|WANIMA presents 1CHANCE FESTIVAL 2023]] | length2 = | note2 = LIVE映像 }} {{tracklist | headline = [[関ジャニ∞の音楽フェスティバル出演一覧#ロッキン2023|ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2023]] | total_length = <!--auto--> | title1 = '''ズッコケ男道''' | length1 = | title2 = '''無責任ヒーロー''' | length2 = | title3 = '''未完成''' | length3 = | title4 = '''[[関ジャニ∞の元気が出るCD!!|ふりむくわけにはいかないぜ]]''' | length4 = | title5 = '''象''' | length5 = | title6 = '''NOROSHI''' | length6 = | title7 = '''[[オモイダマ]]''' | length7 = | title8 = '''[[喝采 (関ジャニ∞の曲)|喝采]]''' | length8 = | title9 = '''BOY '23''' | length9 = | title10 = '''ハライッパイ''' | length10 = | title11 = '''勝手に仕上がれ''' | length11 = | title12 = '''LIFE〜目の前の向こうへ〜''' | length12 = | title13 = '''T.W.L''' | length13 = }} {{tracklist | headline = [[関ジャニ∞の音楽フェスティバル出演一覧#ワンチャンフェス2023|WANIMA presents 1CHANCE FESTIVAL 2023]] | total_length = <!--auto--> | title1 = '''ズッコケ男道''' | length1 = | title2 = '''無責任ヒーロー''' | length2 = | title3 = '''未完成''' | length3 = | title4 = '''象''' | length4 = | title5 = '''NOROSHI''' | length5 = | title6 = '''ハライッパイ''' | length6 = | title7 = '''勝手に仕上がれ''' | length7 = | title8 = '''[[ここに]]''' | length8 = }} == 楽曲提供者 == * [[キタニタツヤ]] ** 「アンスロポス」(作詞・作曲) == テレビ歌唱 == ; アンスロポス :* [[ベストヒット歌謡祭|ベストヒット歌謡祭 2023]](2023年11月16日、[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]/[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]){{R|oricon231109|natalie231109}} :* [[ミュージックステーションスーパーライブ|ミュージックステーション SUPER LIVE 2023]](2023年12月22日、[[テレビ朝日]]){{R|oricon231215}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2 | refs = * <ref name="oricon230909">{{Cite news|url= https://www.oricon.co.jp/news/2294271/full/ |title= 関ジャニ∞、2024年にアリーナ&ドーム公演決定 新曲「アンスロポス」がアニメ『め組の大吾 救国のオレンジ』OP主題歌 |newspaper= ORICON NEWS|date= 2023-09-09|accessdate= 2023-11-16}}</ref> * <ref name="natalie230909">{{Cite news|url= https://natalie.mu/music/news/540368 |title= 関ジャニ∞「め組の大吾」オープニング主題歌を担当、作詞作曲はキタニタツヤ |newspaper= 音楽ナタリー|date= 2023-09-09|accessdate= 2023-11-16}}</ref> * <ref name="mdpr230909">{{Cite news|url= https://mdpr.jp/news/detail/3942044 |title= 関ジャニ∞、アニメ「め組の大吾 救国のオレンジ」OP主題歌に決定〈アンスロポス〉 |newspaper= モデルプレス|date= 2023-09-09|accessdate= 2023-11-16}}</ref> * <ref name="billboard230909">{{Cite news|url= https://www.billboard-japan.com/d_news/detail/129631/2 |title= 関ジャニ∞、キタニタツヤ書き下ろし新曲でアニメ『め組の大吾』OP主題歌担当 アリーナ&ドーム公演も決定 |newspaper= Billboard JAPAN|date= 2023-09-09|accessdate= 2023-11-16}}</ref> * <ref name="official230910">{{Cite web|和書|url= https://www.infinity-r.jp/news/6165 |title= 新曲『アンスロポス』が TVアニメ「め組の大吾 救国のオレンジ」OP主題歌に決定!! 2024年に20周年を記念したアリーナ&ドームツアーの開催も同時発表!! |website= 関ジャニ∞ / 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『ベストヒット歌謡祭』歌唱曲発表 キスマイ新体制初TVパフォーマンス 香取慎吾は話題曲 関ジャニ、JO1は新曲TV初披露へ |newspaper= ORICON NEWS|date= 2023-11-09|accessdate= 2023-11-16}}</ref> * <ref name="natalie231109">{{Cite news|url= https://natalie.mu/music/news/548386 |title= 関ジャニ∞、JO1、香取慎吾、なにわ男子、ビーファ、ミセスら出演「ベストヒット歌謡祭」歌唱曲発表 |newspaper= 音楽ナタリー|date= 2023-11-09|accessdate= 2023-11-16}}</ref> * <ref name="crank231111">{{Cite news|url= https://m.crank-in.net/news/136747/1 |title= アニメ『め組の大吾 救国のオレンジ』特別PV解禁 大吾・駿・雪の魂の成長物語を主題歌と共に振り返る |newspaper= クランクイン!|date= 2023-11-11|accessdate= 2023-11-16}}</ref> * <ref name="official231116">{{Cite web|和書|url= https://www.infinity-r.jp/news/6191 |title= 1/24(水)NewSingle『アンスロポス』発売決定! フェス映像収録の超豪華盤! |website= 関ジャニ∞ / INFINITY RECORDS 公式サイト|date= 2023-11-16|accessdate= 2023-11-16}}</ref> * <ref name="oricon231116">{{Cite news|url= https://www.oricon.co.jp/news/2302737/full/ |title= 関ジャニ∞、通算50枚目のシングル来年1・24発売 『ロッキン』ライブ映像のYouTube公開も |newspaper= ORICON NEWS|date= 2023-11-16|accessdate= 2023-11-16}}</ref> * <ref name="natalie231116">{{Cite news|url= https://natalie.mu/music/news/549329 |title= 関ジャニ∞「め組の大吾」OP主題歌をシングルリリース、フェス出演時の映像&舞台裏収録 |newspaper= 音楽ナタリー|date= 2023-11-16|accessdate= 2023-11-16}}</ref> * <ref name="tft231116">{{Cite news|url= https://www.thefirsttimes.jp/news/0000350340/ |title= 関ジャニ∞、50枚目シングル「アンスロポス」発売決定! アニメ『め組の大吾 救国のオレンジ』OPテーマ |newspaper= THE FIRST TIMES|date= 2023-11-16|accessdate= 2023-11-16}}</ref> * <ref name="joqr231116">{{Cite web|和書|url= https://www.joqr.co.jp/qr/article/107234/ |title= 11/18(土)村上信五持ち込み企画! 徳島県神山町を特集!『村上信五くんと経済クン』 |website= 村上信五くんと経済クン|publisher= 文化放送|date= 2023-11-16|accessdate= 2023-11-16}}</ref> * <ref name="oricon231116b">{{Cite news|url= https://www.oricon.co.jp/news/2302879/full/ |title= 関ジャニ∞丸山隆平、キタニタツヤ"代打"で「青のすみか」熱唱 『ベストヒット歌謡祭』 |newspaper= ORICON NEWS|date= 2023-11-16|accessdate= 2023-11-16}}</ref> * <ref name="mdpr231116">{{Cite news|url= https://mdpr.jp/music/detail/4054654 |title= 関ジャニ∞丸山隆平、キタニタツヤ代打で「青のすみか」急遽カバー 短髪姿もお披露目〈ベストヒット歌謡祭2023〉 |newspaper= モデルプレス|date= 2023-11-16|accessdate= 2023-11-16}}</ref> * <ref name="tweet231201">{{Cite tweet|author= 関ジャニ∞ / INFINITY RECORDS|user= Infinity_rJP|number= 1730421970133815769 |title= 【#YouTube公開】「#ベストヒット歌謡祭」で披露したLIVE映像をYouTubeにて公開! ♪ アンスロポス |date= 2023-12-01|accessdate= 2023-12-01}}</ref> * <ref name="oricon231215">{{Cite news|url= https://www.oricon.co.jp/news/2306889/full/ |title= 『Mステ SUPER LIVE』"すべて生歌唱"楽曲解禁 スノスト、YOASOBI、ビーファ、スキズ、ルセラ… |newspaper= ORICON NEWS|date= 2023-12-15|accessdate= 2023-12-15}}</ref> * <ref name="tweet231218">{{Cite tweet|author= アニメ『め組の大吾 救国のオレンジ』公式|user= megumi_animeoff|number= 1736491455948976567 |title= 🔥続投決定🔥 アニメ「#め組の大吾 #救国のオレンジ」第2クールOP主題歌も引き続き「#アンスロポス」に決定🚒💥 |date= 2023-12-18|accessdate= 2023-12-18}}</ref> * <ref name="official231222">{{Cite web|和書|url= https://www.infinity-r.jp/news/6247 |title= 新ビジュアル解禁! NewSG『アンスロポス』ジャケット写真&収録曲も同時公開! |website= 関ジャニ∞ / INFINITY RECORDS 公式サイト|date= 2023-12-22|accessdate= 2023-12-22}}</ref> * <ref name="official231222b">{{Cite web|和書|url= https://www.infinity-r.jp/news/6229 |title= NewSG『アンスロポス』封入お楽しみカードの詳細&絵柄公開! |website= 関ジャニ∞ / INFINITY RECORDS 公式サイト|date= 2023-12-22|accessdate= 2023-12-22}}</ref> * <ref name="oricon231222">{{Cite news|url= https://www.oricon.co.jp/news/2307833/full/ |title= 関ジャニ∞、通算50枚目シングル「アンスロポス」アー写&ジャケット公開 炎を背負い力強い眼差し |newspaper= ORICON NEWS|date= 2023-12-22|accessdate= 2023-12-22}}</ref> * <ref name="natalie231222">{{Cite news|url= https://natalie.mu/music/news/554365 |title= 関ジャニ∞「め組の大吾」モチーフの新ビジュアル |newspaper= 音楽ナタリー|date= 2023-12-22|accessdate= 2023-12-22}}</ref> * <ref name="tft231222">{{Cite news|url= https://www.thefirsttimes.jp/news/0000365971/ |title= 関ジャニ∞、炎バックの新ビジュアルを解禁! シングル「アンスロポス」ジャケット写真3種も同時公開 |newspaper= THE FIRST TIMES|date= 2023-12-22|accessdate= 2023-12-22}}</ref> }} == 外部リンク == * 紹介ページ ** [https://www.infinity-r.jp/discography/6189 アンスロポス] - INFINITY RECORDS ** [https://www.johnnys-net.jp/page?id=discoDetail&artist=13&data=2862 アンスロポス] - FAMILY CLUB Official Site * YouTube ** OPノンクレジット映像 *** {{YouTube|bNm3hLfCwgM|『め組の大吾 救国のオレンジ』OPノンクレジット映像/「アンスロポス」関ジャニ∞}} ** ライブ映像 *** {{YouTube|j9LQat01_Uo|関ジャニ∞ - ズッコケ男道 from ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2023 (50th Single『アンスロポス』初回限定「炎」盤収録)}} ** アニメ特別PV *** {{YouTube|tQbK43JmTTQ|『め組の大吾 救国のオレンジ』【PV第2弾】毎週土曜夕方5時30分から放送中!}} ** スポット映像 *** {{YouTube|eim9Jv9VXOI|『め組の大吾 救国のオレンジ』【15秒CM第3弾】2023年9月30日(土)放送開始!}} *** {{YouTube|pKxw3K7TX_w|『め組の大吾 救国のオレンジ』【OP主題歌使用 30秒CM】2023年9月30日(土)放送開始!}} {{関ジャニ∞}} {{デフォルトソート:あんすろほす}} [[Category:関ジャニ∞の楽曲]] [[Category:2024年のシングル]] [[Category:読売テレビのテレビアニメ主題歌]] [[Category:楽曲 あ|んすろほす]]
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田林寺
田林寺(でんりんじ)は、徳島県徳島市丈六町にある高野山真言宗の寺院。山号は櫻間山。本尊は阿弥陀如来。 1661年(寛文元年)に創建。「寛保神社帳」では十二社権現と八幡宮の別当寺として田林寺の名前が挙がっており、「阿波志」には紀重遠城の跡地で、小松島市にある地蔵寺の末寺と記されている。 田林寺があった場所は元々は熊山城の里城である田林寺営(紀重遠城)で田口良遠の居城であったが、源義経に攻められ落城し、後にその場所に田林寺が創建した。また1993年(平成4年)に新たに水子地蔵尊が境内に建立された。
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田林寺(でんりんじ)は、徳島県徳島市丈六町にある高野山真言宗の寺院。山号は櫻間山。本尊は阿弥陀如来。
{{日本の寺院 |名称 = 田林寺 |画像 = {{画像募集中|cat=徳島市}} |所在地 = [[徳島県]][[徳島市]][[丈六町]]字行正7 |山号 = 櫻間山 |院号 = 安養院 |宗派 = [[高野山真言宗]] |本尊 = [[阿弥陀如来]] |創建年 = [[1661年]]([[寛文]]元年) |開基 = |正式名 = 櫻間山 安養院 田林寺 |札所等 = |文化財 = }} '''田林寺'''(でんりんじ)は、[[徳島県]][[徳島市]][[丈六町]]にある[[高野山真言宗]]の[[寺院]]。山号は櫻間山。本尊は[[阿弥陀如来]]<ref>{{Cite web|url=https://yaokami.jp/1365109/|title=田林寺|publisher=八百万の神|accessdate=2023-11-16}}</ref>。 == 歴史 == [[1661年]]([[寛文]]元年)に創建。「寛保神社帳」では十二社権現と八幡宮の別当寺として田林寺の名前が挙がっており、「[[阿波志]]」には紀重遠城の跡地で、[[小松島市]]にある[[地蔵寺 (小松島市)|地蔵寺]]の末寺と記されている<ref>『[[角川日本地名大辞典]] 36 徳島県』([[1986年]] ISBN 4040013603)</ref>。 田林寺があった場所は元々は熊山城の里城である'''田林寺営'''(紀重遠城)で[[田口良遠]]の居城であったが、[[源義経]]に攻められ落城し、後にその場所に田林寺が創建した。また[[1993年]]([[平成]]4年)に新たに水子地蔵尊が境内に建立された<ref>『阿波新田氏』(開国堂印刷所、[[1936年]])</ref>。 == 交通 == * [[徳島自動車道]]「[[徳島インターチェンジ]]」より車で約20分。 * [[四国旅客鉄道|JR]][[牟岐線]]「[[地蔵橋駅]]」より車で約5分。 == 脚注 == <references /> {{DEFAULTSORT:てんりんし}} [[Category:徳島市の寺]] [[Category:高野山真言宗の寺院]] {{Buddhism-stub}}
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1905年世界体操競技選手権
1905年世界体操競技選手権(1905ねんせかいたいそうきょうぎせんしゅけん)は、1905年(明治38年)4月22日から4月23日にフランスのボルドーで開催された第2回世界体操競技選手権大会である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "1905年世界体操競技選手権(1905ねんせかいたいそうきょうぎせんしゅけん)は、1905年(明治38年)4月22日から4月23日にフランスのボルドーで開催された第2回世界体操競技選手権大会である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "", "title": "競技結果" } ]
1905年世界体操競技選手権(1905ねんせかいたいそうきょうぎせんしゅけん)は、1905年(明治38年)4月22日から4月23日にフランスのボルドーで開催された第2回世界体操競技選手権大会である。
'''1905年世界体操競技選手権'''(1905ねんせかいたいそうきょうぎせんしゅけん)は、[[1905年]]([[明治]]38年)[[4月22日]]から[[4月23日]]に[[フランス]]の[[ボルドー]]で開催された第2回[[世界体操競技選手権]]大会である。 == 競技結果 == === 男子 === {| {{MedalistTable|type=種目}} |- | 団体総合 | {{FRA}}<br />{{small|[[:en:Georges Dejagere|Georges Dejagere]]<br />[[リュシアン・ドマネー]]<br />[[:en:Marcel Lalu|Marcel Lalu]]<br />Daniel Lavielle<br />[[:en:Joseph Martinez|Joseph Martinez]]<br />[[:en:Pierre Payssé|Pierre Payssé]]}} | {{NED}}<br />{{small|D. de Boer<br />G.J. Douw<br />B. Florijn<br />[[:en:Dirk Janssen|Dirk Janssen]]<br />[[:en:Jan Bolt|Jan Bolt]]<br />[[:en:Jan Jacob Kieft|Jan Jacob Kieft]]<br />Ferdinand Lambert<br />J.H. Reder<br />[[:en:Johan Schmitt|Johan Schmitt]]}} | {{BEL}}<br />{{small|Jean de Hoe<br />Paul Mangin<br />Auguste van Ackere<br />Albert van de Roye<br />Leon van de Roye<br />Vital Verdickt}} |- | 個人総合 | [[:en:Marcel Lalu|Marcel Lalu]]<br /><small>{{FRA}}</small> | Daniel Lavielle<br /><small>{{FRA}}</small> | [[リュシアン・ドマネー]]<br /><small>{{FRA}}</small> |- | あん馬 | [[:en:Georges Dejagere|Georges Dejagere]]<br /><small>{{FRA}}</small> | [[:en:Marcel Lalu|Marcel Lalu]]<br /><small>{{FRA}}</small> | Daniel Lavielle<br /><small>{{FRA}}</small> |- | 平行棒 | [[:en:Joseph Martinez|Joseph Martinez]]<br /><small>{{FRA}}</small><hr>[[:en:Marcel Lalu|Marcel Lalu]]<br /><small>{{FRA}}</small> | 受賞者なし | [[:en:Pierre Payssé|Pierre Payssé]]<br /><small>{{FRA}}</small> |- | 鉄棒 | [[:en:Marcel Lalu|Marcel Lalu]]<br /><small>{{FRA}}</small> | [[:en:Joseph Martinez|Joseph Martinez]]<br /><small>{{FRA}}</small> | [[:en:Pierre Payssé|Pierre Payssé]]<br /><small>{{FRA}}</small><hr>[[リュシアン・ドマネー]]<br /><small>{{FRA}}</small> |} <ref name="sports">{{cite web|title=Sports 123: Gymnastics |url=http://sports123.com/gym/index.html |publisher=sports123.com |accessdate=16 Nov 2023 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111007001033/http://sports123.com/gym/index.html |archivedate=07 Oct 2011 }}</ref> <ref name="siccsports-t">{{cite web|title=Historical Medallists - Team |url=http://iis.siccsports.com/Sports/Medals/Details?id=GA122N10&lang=en |publisher=siccsports.com |accessdate=16 Nov 2023 |url-status=dead |date=2014-07-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20161009183146/http://iis.siccsports.com/Sports/Medals/Details?id=GA122N10&lang=en |archivedate=2016-10-09 }}</ref> <ref name="siccsports-i">{{cite web|title=Historical Medallists - Individual |url=http://iis.siccsports.com/Sports/Medals/Details?id=GA121N10&lang=en |publisher=siccsports.com |accessdate=16 Nov 2023 |url-status=dead |date=2014-07-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20161009182832/http://iis.siccsports.com/Sports/Medals/Details?id=GA121N10&lang=en |archivedate=2016-10-09 }}</ref> == 国別メダル受賞数 == {| {{RankedMedalTable}} |- | 1 ||align="left"| {{FRA}} || 6 || 3 || 5 || 14 |- | 2 ||align="left"| {{NED}} || 0 || 1 || 0 || 1 |- | 3 ||align="left"| {{BEL}} || 0 || 0 || 1 || 1 |- !colspan=2|'''合計'''|| 6 || 4 || 6 || 16 |} == 脚注 == {{Reflist}} {{世界体操競技選手権}} {{DEFAULTSORT:せかいたいそうきようきせんしゆけん1905}} [[Category:世界体操競技選手権|1905]] [[Category:1905年のスポーツ]] [[Category:フランス開催の国際スポーツ競技大会]] [[Category:1907年のフランス]] [[Category:ボルドーのスポーツ競技大会]] [[Category:1905年4月]]
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ストンプ442
『ストンプ442』(Stomp 442)は、アメリカ合衆国のヘヴィメタル・バンド、アンスラックスが1995年に発表した7作目のスタジオ・アルバム。ジョン・ブッシュ加入後としては2作目に当たる。 長年リードギターを担当してきたダン・スピッツの解雇に伴い、本作ではポール・クルック(スレイヤーのローディーを務めていた)、パンテラのダイムバッグ・ダレル、それにドラマーのチャーリー・ベナンテがリードギターのパートを分担した。ただし、スピッツは後年、クルックやダレルは自分が作ったフレーズをコピーしていたと主張しており「もし法廷に出ることがあったら、俺の持っているテープを証拠として出してもいい」と語っている。本作のプロデューサーに起用されたブッチャー・ブラザーズは、アージ・オーヴァーキル(英語版)やルシャス・ジャクソン(英語版)といったオルタナティヴ・ロック系のバンドの作品を手がけてきた。 アルバム・ジャケットはピーター・カーゾンと、ヒプノシスの一員として知られるストーム・ソーガソンがデザインしたが、裸の男性の尻が写っていることからウォルマートでは販売を拒否された。なお、本作のアートワークは、元々はブルース・ディッキンソンのアルバム『ボールズ・トゥ・ピカソ』のために作られた。 ボーカリストのジョン・ブッシュによれば、当時エレクトラ・レコードでは大規模なリストラでバンドの担当A&Rなどスタッフの4分の1が解雇され、新体制の同社はバンドとの契約を継続する気はなかったため、本作がエレクトラ所属時としては最後のアルバムとなった。 母国アメリカでは前スタジオ・アルバム『サウンド・オブ・ホワイト・ノイズ』ほどの成功を収められず、Billboard 200では最高47位にとどまった。イギリスでは1995年11月4日付の全英アルバムチャートで77位を記録するが、翌週にはトップ100圏外に落ち、『アマング・ザ・リヴィング』(1987年)以降のスタジオ・アルバムとしては初めて、全英トップ20入りを逃す結果となった。1996年にシングル・カットされた「ナッシング」は、全英シングルチャートで89位を記録した。 Stephen Thomas Erlewineはオールミュージックにおいて5点満点中2点を付け「一握りの曲は底力を示しているとはいえ、バンドの信奉者を失望させた」と評している。一方、『CDジャーナル』のミニ・レビューでは「ギタリストの脱退などいくつかトラブルがあったが、脳天をエグるようなザクザクと刻むギターは健在」と評されている。 特記なき楽曲は作詞:ジョン・ブッシュ&スコット・イアン、作曲:チャーリー・ベナンテ。ただし、メロディ・ラインの作曲はフランク・ベロも含むメンバー4人による。 下記トラック・リストは1998年再発CD (VICP-60321)に準拠。日本初回盤CD (WPCR-521)には「リメンバー・トゥモロー」のみ収録され、13.以下の曲はEP『フュエルドEP』(1996年)に収録されていた。 アディショナル・ミュージシャン
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『ストンプ442』は、アメリカ合衆国のヘヴィメタル・バンド、アンスラックスが1995年に発表した7作目のスタジオ・アルバム。ジョン・ブッシュ加入後としては2作目に当たる。
{{Infobox Album | Name = ストンプ442 | Type = [[スタジオ・アルバム]] | Artist = [[アンスラックス]] | Released = [[1995年]][[10月24日]]{{Flagicon|USA}}<ref name=erlewine>{{Cite web |url=https://www.allmusic.com/album/stomp-442-mw0000176303 |last=Erlewine |first=Stephen Thomas |title=Anthrax - Stomp 442 Album Reviews, Songs & More |publisher=AllMusic |accessdate=2023-11-16}}</ref><br />1995年[[11月10日]]{{Flagicon|JPN}}<ref name=cdjournal>{{Cite web |url=https://artist.cdjournal.com/d/-/1296010035 |title=アンスラックス/ストンプ442 (廃盤) |publisher=音楽出版社|work=CDJournal |accessdate=2023-11-16}}</ref> | Recorded = [[ペンシルベニア州]]コンショホッケン スタジオ4<ref name=credits>CD英文ブックレット内クレジット</ref> | Genre = [[ヘヴィメタル]]、[[スラッシュメタル]]、[[グルーヴ・メタル]] | Length = 56分16秒(日本初回盤CD) | Label = [[エレクトラ・レコード]] | Producer = アンスラックス、ブッチャー・ブラザーズ | Reviews = *[[オールミュージック|AllMusic]] {{Rating-5|2}} [https://www.allmusic.com/album/stomp-442-mw0000176303 link] | Chart position = *36位(フィンランド<ref>[https://finnishcharts.com/showitem.asp?interpret=Anthrax&titel=Stomp+442&cat=a finnishcharts.com - Anthrax - Stomp 442]</ref>) *44位(日本<ref>{{Cite web |url=https://www.oricon.co.jp/prof/38489/products/308071/1/ |title=ストンプ442 - アンスラックス|publisher=[[オリコン]] |accessdate=2023-11-16}}</ref>) *47位(アメリカ<ref name=billboard200>{{Cite web |url=https://www.billboard.com/artist/anthrax/chart-history/tlp/ |title=Anthrax - Chart History - Billboard 200 |publisher=Billboard |accessdate=2023-11-16}}</ref>) *49位(オーストラリア<ref>[https://australian-charts.com/showitem.asp?interpret=Anthrax&titel=Stomp+442&cat=a australian-charts.com - Anthrax - Stomp 442]</ref>) *77位(イギリス<ref name=officialcharts>[https://www.officialcharts.com/artist/23975/anthrax/ ANTHRAX songs and albums | full Official Chart History]</ref>) | Certification = | Last album = [[ライヴ!!〜アイランド・イヤーズ]]<br />(1994年) | This album = '''ストンプ442'''<br />(1995年) | Next album = [[ヴォリューム8:スレット・イズ・リアル!]]<br />(1998年) }} 『'''ストンプ442'''』(Stomp 442)は、[[アメリカ合衆国]]の[[ヘヴィメタル]]・[[バンド (音楽)|バンド]]、[[アンスラックス]]が[[1995年]]に発表した7作目の[[スタジオ・アルバム]]。ジョン・ブッシュ加入後としては2作目に当たる。 == 背景 == 長年[[リードギター]]を担当してきた[[ダン・スピッツ]]の解雇に伴い、本作ではポール・クルック([[スレイヤー]]のローディーを務めていた)、[[パンテラ]]の[[ダイムバッグ・ダレル]]、それにドラマーのチャーリー・ベナンテがリードギターのパートを分担した<ref name=rivadavia>{{Cite web |url=https://ultimateclassicrock.com/anthrax-stomp-442/ |last=Rivadavia |first=Eduardo |title=How Anthrax Moved With the Times of ' Stomp 442' |publisher=Townsquare Media |work=Ultimate Classic Rock |date=2015-10-24 |accessdate=2023-11-16}}</ref>。ただし、スピッツは後年、クルックやダレルは自分が作ったフレーズをコピーしていたと主張しており「もし法廷に出ることがあったら、俺の持っているテープを証拠として出してもいい」と語っている<ref>{{Cite web |url=https://blabbermouth.net/news/anthrax-guitarist-dan-spitz-says-dimebag-copied-his-solos-on-stomp |title=ANTHRAX Guitarist DAN SPITZ Says DIMEBAG Copied His Solos On 'Stomp 442' |publisher=Blabbermouth.net |date=2006-05-04 |accessdate=2023-11-16}}</ref>。本作のプロデューサーに起用されたブッチャー・ブラザーズは、{{仮リンク|アージ・オーヴァーキル|en|Urge Overkill}}や{{仮リンク|ルシャス・ジャクソン|en|Luscious Jackson}}といった[[オルタナティヴ・ロック]]系のバンドの作品を手がけてきた<ref name=rivadavia />。 アルバム・ジャケットはピーター・カーゾンと、[[ヒプノシス]]の一員として知られる[[ストーム・ソーガソン]]がデザインしたが<ref name=rivadavia />、裸の男性の尻が写っていることから[[ウォルマート]]では販売を拒否された<ref name=chantler>{{Cite web |url=https://www.loudersound.com/features/anthrax-the-story-behind-every-album-cover |last=Chantler |first=Chris |title=Anthrax: the story behind every album cover |publisher=Future plc |work=loudersound.com |date=2016-07-11 |accessdate=2023-11-16}}</ref>。なお、本作のアートワークは、元々は[[ブルース・ディッキンソン]]のアルバム『[[ボールズ・トゥ・ピカソ]]』のために作られた<ref name=rivadavia /><ref name=chantler />。 ボーカリストのジョン・ブッシュによれば、当時[[エレクトラ・レコード]]では大規模なリストラでバンドの担当A&Rなどスタッフの4分の1が解雇され、新体制の同社はバンドとの契約を継続する気はなかったため、本作がエレクトラ所属時としては最後のアルバムとなった<ref>{{Cite web |url=https://blabbermouth.net/news/john-bush-i-treasure-my-years-in-anthrax |title=JOHN BUSH: 'I Treasure My Years In ANTHRAX' |publisher=Blabbermouth.net |date=2018-07-28 |accessdate=2023-11-16}}</ref>。 == 反響・評価 == 母国アメリカでは前スタジオ・アルバム『[[サウンド・オブ・ホワイト・ノイズ]]』ほどの成功を収められず、[[Billboard 200]]では最高47位にとどまった<ref name=billboard200 />。イギリスでは1995年11月4日付の[[全英アルバムチャート]]で77位を記録するが、翌週にはトップ100圏外に落ち、『[[アマング・ザ・リヴィング]]』(1987年)以降のスタジオ・アルバムとしては初めて、全英トップ20入りを逃す結果となった<ref name=officialcharts />。1996年にシングル・カットされた「ナッシング」は、[[全英シングルチャート]]で89位を記録した<ref name=officialcharts />。 Stephen Thomas Erlewineは[[オールミュージック]]において5点満点中2点を付け「一握りの曲は底力を示しているとはいえ、バンドの信奉者を失望させた」と評している<ref name=erlewine />。一方、『CDジャーナル』のミニ・レビューでは「ギタリストの脱退などいくつかトラブルがあったが、脳天をエグるようなザクザクと刻むギターは健在」と評されている<ref name=cdjournal />。 == 収録曲 == 特記なき楽曲は作詞:ジョン・ブッシュ&スコット・イアン、作曲:チャーリー・ベナンテ。ただし、メロディ・ラインの作曲はフランク・ベロも含むメンバー4人による<ref name=credits />。 #ランダム・アクツ・オブ・センスレス・ヴァイオレンス "''Random Acts of Senseless Violence''" – 4:03 #フュエルド "''Fueled''" – 4:02 #キング・サイズ "''King Size''" – 3:59 #*作詞:ジョン・ブッシュ、スコット・イアン、リッチ・ロス/作曲:チャーリー・ベナンテ #ライディング・ショットガン "''Riding Shotgun''" – 4:26 #パーペチュアル・モーション "''Perpetual Motion''" – 4:20 #イン・ア・ゾーン "''In a Zone''" – 5:07 #ナッシング "''Nothing''" – 4:33 #アメリカン・ポンペイ "''American Pompeii''" – 5:30 #ドロップ・ザ・ボール "''Drop the Ball''" – 4:59 #テスター "''Tester''" – 4:21 #ベア "''Bare''" – 5:32 === 日本盤ボーナス・トラック === 下記トラック・リストは1998年再発CD (VICP-60321)に準拠。日本初回盤CD (WPCR-521)には「リメンバー・トゥモロー」のみ収録され<ref name=cdjournal />、13.以下の曲は[[コンパクト盤|EP]]『フュエルドEP』(1996年)に収録されていた<ref>{{Cite web |url=https://artist.cdjournal.com/d/-/1196050057 |title=アンスラックス/フュエルドEP (廃盤) |publisher=音楽出版社|work=CDJournal |accessdate=2023-11-16}}</ref>。 #<li value=12>リメンバー・トゥモロー "''Remember Tomorrow''" – 5:05 #*作詞・作曲:[[ポール・ディアノ]]、[[スティーヴ・ハリス]] #*[[アイアン・メイデン]]のカヴァー。 #グラント・アンド・クリック "''Grunt and Click''" – 5:28 #ウォッチン・ユー "''Watching You''" – 3:37 #*作詞・作曲:[[ジーン・シモンズ (ミュージシャン)|ジーン・シモンズ]] #*[[キッス]]のカヴァー。 #デスローンド・エンペラー "''Dethroned Emperor''" – 4:32 #*作詞・作曲:トム・G・ウォリアー #*[[セルティック・フロスト]]のカヴァー。 #ノー・タイム・ディス・タイム "''No Time This Time''" – 3:21 #*作詞・作曲:[[スティング (ミュージシャン)|スティング]] #*[[ポリス (バンド)|ポリス]]のカヴァー。 #セレブレイテッド・サマー "''Celebrated Summer''" – 4:25 #*作詞・作曲:[[ボブ・モールド]] #*[[ハスカー・ドゥ]]のカヴァー。 === 2001年リマスターCD (BEY 78210)ボーナス・トラック === #<li value=12> "''Grunt & Click''" – 5:29 # "''Dethroned Emperor''" – 4:33 #*作詞・作曲:トム・G・ウォリアー # "''Celebrated Summer''" – 4:30 #*作詞・作曲:ボブ・モールド # "''Watchin' You''" – 3:39 #*作詞・作曲:ジーン・シモンズ == 参加ミュージシャン == *ジョン・ブッシュ - [[ボーカル]] *スコット・イアン - [[リズムギター]](all songs)、[[リードギター]](on #10)、[[アコースティック・ギター]](on #11)、[[フロアタム]](on #9)、バッキング・ボーカル *フランク・ベロ - [[エレクトリックベース|ベース]]、[[12弦ベース]]、バッキング・ボーカル *チャーリー・ベナンテ - [[ドラムセット|ドラムス]](all songs)、モーズコード・ギター(on #1)、リードギター(on #7, #8, #10, #11)、[[ボンゴ]](on #8)、フロアタム(on #9)、チャイム(on #9)、[[パーカッション]](on #11) '''アディショナル・ミュージシャン''' *ポール・クルック - ギター・ソロ(on #1, #5, #6, #9) *[[ダイムバッグ・ダレル]] - ギター・ソロ(on #3, #4) *マイク・テンペスタ - ギター(on #8) *ジョー・ニコロ - ノイズ(on #4) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} ==外部リンク== *{{discogs master|master=42975}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:すとんふふおおふおおとうう}} [[Category:アンスラックスのアルバム]] [[Category:1995年のアルバム]] [[Category:エレクトラ・レコードのアルバム]]
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バクリ
Web広告代理店の社員だった荒川大史が、2022年6月に創業。 主な事業としては、インハウス支援事業、Webコンサルティング事業を営む。 Web戦略立案からWebサイト制作、Web集客までインターネットメディアに対し展開している。 事業としては2020年から創業。 荒川大史(代表取締役社長) Webマーケティング歴20年。インターネット専門の広告代理店にて、営業、マーケティング、 コンサルタントとして従事。SEO部署の立ち上げに関わるなど、検索エンジンマーケティングを 中心にマーケティングを支援。 一環したネットマーケティング支援を軸として、金融、美容、医療、コンサルティング会社などのお客様を幅広い実績あり。 Googleアナリティクスなどによるアクセス分析コンサルティングなども手掛ける。 上級ウェブ解析士。 一般財団法人ブランド・マネージャー認定協会、ブランドマネージャー、薬機法取得者。
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'''バクリ''' (bakri, bakrie, bacri) * {{仮リンク|アダム・バクリ|en|Adam Bakri}} - [[イスラエル]]生まれのパレスチナ人俳優。 * [[アブリザル・バクリ]] - [[インドネシア]]の政治家。[[バクリグループ]]の党首でもある。 * [[ジャン=ピエール・バクリ]] - [[フランス]]の俳優、脚本家。 * [[ニコラ・バクリ]] - フランスの作曲家。 * {{仮リンク|バクリ (マレーシア)|en|Bukit Bakri}} - [[マレーシア]]の[[ジョホール州]]の町。 * [[バクリ大学]] - インドネシアの[[ジャカルタ]]の私立総合大学。 {{aimai}} {{DEFAULTSORT:はくり}} [[Category:アラビア語の姓]] [[Category:フランス語の姓]]
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ジャパン・マスターズ
ジャパン・マスターズ(Japan Masters)は、2023年から日本で開催されている、バドミントンの国際大会。 大会グレードはBWFワールドツアースーパー500。2023年から2026年までは熊本市での開催が決定している。
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ジャパン・マスターズは、2023年から日本で開催されている、バドミントンの国際大会。 大会グレードはBWFワールドツアースーパー500。2023年から2026年までは熊本市での開催が決定している。
'''ジャパン・マスターズ'''(Japan Masters)は、[[2023年]]から[[日本]]で開催されている、[[バドミントン]]の国際大会<ref>[https://kumamotomasters-japan.com/ 熊本マスターズ] - KumamotoMasters-japan.com</ref>。 大会グレードは[[BWFワールドツアー]]スーパー500。[[2023年]]から[[2026年]]までは[[熊本市]]での開催が決定している。 ==優勝選手== {| class="wikitable" style="font-size:90%;" !年 !男子シングルス !女子シングルス !男子ダブルス !女子ダブルス !混合ダブルス |- |[[2023年ジャパン・マスターズ|2023]] |{{flagicon|DEN}} [[ビクター・アクセルセン]] |{{flagicon|INA}} [[グレゴリア・マリスカ・トゥンジュン]] |{{flagicon|CHN}} [[何濟霆]]<br />{{flagicon|CHN}} [[任翔宇]] |{{flagicon|CHN}} [[張殊賢]]<br />{{flagicon|CHN}} [[鄭雨]] |{{flagicon|CHN}} [[鄭思維]]<br />{{flagicon|CHN}} [[黄雅瓊]] |} ==脚注== {{Reflist}} {{BWFワールドツアー}} {{BWFスーパーシリーズ}} {{Badminton-stub}} {{デフォルトソート:しやはんますたあす}} [[Category:ジャパン・マスターズ|*]]
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グレフォ・ゲルン
グレフォ・ソレマン・ゲルン(Prof. Dr. Ir. Grevo Soleman Gerung)は、インドネシアの水産学者。元サム・ラトゥランギ大学副学長。 サム・ラトゥランギ大学水産海洋科学部卒業。琉球大学大学院農学研究科修了後、2001年北海道大学大学院水産学研究科修了、博士(水産科学)。 母校サム・ラトゥランギ大学副学長を経て、水産海洋学学部長を務め、2015年には学生交流に関する覚書のため、長崎大学の片峰茂学長、山下俊一理事らと面会するなどした。2022年には首相に立候補した。
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グレフォ・ソレマン・ゲルンは、インドネシアの水産学者。元サム・ラトゥランギ大学副学長。
'''グレフォ・ソレマン・ゲルン'''(Prof. Dr. Ir. Grevo Soleman Gerung)は、[[インドネシア]]の[[水産学者]]。元[[:w:Sam Ratulangi University|サム・ラトゥランギ大学]]副学長。 == 人物・経歴 == [[北スラウェシ州]][[マナド]]出身。1984年[[:w:Sam Ratulangi University|サム・ラトゥランギ大学]]水産海洋科学部卒業<ref name=PendidikanGrevo>[https://kumparan.com/manadobacirita/adik-rocky-gerung-resmi-daftar-bakal-calon-rektor-unsrat-manado-1xhIUVVcT0D/full Adik Rocky Gerung Resmi Daftar Bakal Calon Rektor Unsrat Manado] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20230323135221/https://kumparan.com/manadobacirita/adik-rocky-gerung-resmi-daftar-bakal-calon-rektor-unsrat-manado-1xhIUVVcT0D |date=2023-03-23 }}</ref>。1994年[[琉球大学]][[大学院]][[農学研究科]]修了<ref name=PendidikanGrevo />。2001年[[北海道大学大学院水産学研究科]]修了、[[博士]](水産科学)<ref>[https://ci.nii.ac.jp/naid/500000203403 Study on Indonesian Gracilariaceae(Rhodophyta,Gigartinales) インドネシア産オゴノリ科海藻(紅藻,スギノリ目)の研究 Gerung, Grevo Soleman ゲルン, グレフォ ソレマン]</ref><ref name=PendidikanGrevo />。 母校サム・ラトゥランギ大学副学長を経て、水産海洋[[学部長]]を務め<ref name="io"/>、2015年には学生交流に関する覚書のため、[[長崎大学]]の[[片峰茂]]学長、[[山下俊一]]理事らと面会するなどした<ref>[https://www.nagasaki-u.ac.jp/ja/news/news1929.html サムラトランギ大学(インドネシア)との間における学術交流協定及び同協定に基づく学生交流に関する覚書を更新]長崎大学2015年11月16日</ref>。2022年には[[首相]]に立候補した<ref name="io">[https://manadopost.jawapos.com/publika/16/03/2022/prof-grevo-adik-rocky-gerung-bakal-tarung-di-pemilihan-rektor-unsrat/ Prof Grevo, Adik Rocky Gerung Bakal `Tarung` di Pemilihan Rektor Unsrat] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20220518152516/https://manadopost.jawapos.com/publika/16/03/2022/prof-grevo-adik-rocky-gerung-bakal-tarung-di-pemilihan-rektor-unsrat/ |date=2022-05-18 }}. ''Manado Post''. Diakses 28 April 2022.</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} {{People-stub}} {{DEFAULTSORT:くれふおけるん}} [[Category:水産学者]] [[Category:日本留学経験者]] [[Category:博士(海洋科学)取得者]] [[Category:北海道大学出身の人物]] [[Category:琉球大学出身の人物]] [[Category:北スラウェシ州出身の人物]]
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