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Q11376038
_START_ARTICLE_ 人斬り龍馬 _START_SECTION_ とどかぬ刃 _START_PARAGRAPH_ 幕末の京で、人知れず尊皇攘夷派の暗殺に奔走する幕府の隠密、人呼んで人斬り五兵衛は、仮初の姿である卸問屋の伸吉として、大店の娘さよへの想いを募らせていた。自らが果たすべき職務と縁談を控えたさよとの許されない恋心との間で葛藤する五兵衛に対して下されたのは、さよの唯一の肉親である父、福屋新右衛門の暗殺であった。 _START_SECTION_ 神の棲む山 _START_PARAGRAPH_ 室町から戦国にかけてのある時代。とある山里に辿り着いた若い男が耳にしたのは、伝説の龍が住まう山の話。自分の人生に生きがいを見出せない男は、龍との戦いに活路を見出して山へと登る。そして、山頂の湖で目にしたのは、水浴びをする女の姿であった。
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Q11376433
_START_ARTICLE_ 仁田義男 _START_PARAGRAPH_ 仁田 義男(にった よしお、1922年5月24日 - 2006年12月16日)は、日本の作家。兵庫県出身。_NEWLINE_本名・寺田義男。1958年「墓場の野師」で文学界新人賞受賞。その後時代小説を書いた。2006年、うっ血性心不全のため死去。
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Q11376449
_START_ARTICLE_ 仁科有理 _START_PARAGRAPH_ 仁科 有理(にしな ゆり、1959年12月2日 - )は、日本の女優。元宝塚歌劇団月組・雪組娘役スター。_NEWLINE_神奈川県横浜市出身。八雲高校卒業。公称身長160cm。血液型はA型。宝塚歌劇団時代の愛称はニナちゃん。 _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ 1978年、64期生として宝塚歌劇団に入団。同期に紫苑ゆう(元星組トップスター)秋篠美帆(元花組トップ娘役)、ひびき美都(元花組トップ娘役)、御織ゆみ乃(宝塚歌劇団振付家)らがいる。『祭りファンタジー/マイ・ラッキー・チャンス』で初舞台を踏んだ後、翌年、月組に配属。_NEWLINE_1981年、宝塚バウホール公演『ディーン』で、ヒロイン役の一人のピア・アンジェリ役を演じた。_NEWLINE_1985年3月、東京宝塚劇場公演『ガイズ&ドールズ』で同作の宝塚大劇場公演(1984年12月)限りで退団した女役条はるきが演じたアデレイド役を一期下の春風ひとみと交代で演じる。翌年、雪組へ組替え。_NEWLINE_1987年、バウホール公演『誇りたかき愛の詩』でヒロイン。翌年の『風と共に去りぬ』ではメラニー役を演じる。_NEWLINE_1989年、『ベルサイユのばら - アンドレとオスカル編 - 』ではマリー・アントワネットを務めた。_NEWLINE_1990年、『黄昏色のハーフムーン/パラダイス・トロピカーナ』の東京公演千秋楽を最後に宝塚歌劇団を退団。その後は舞台を中心に女優として活躍。
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Q18700648
_START_ARTICLE_ 今治地方フィルム・コミッション _START_PARAGRAPH_ 今治地方フィルム・コミッション(いまばりちほうフィルム・コミッション)は、愛媛県の今治地方(今治市・上島町)において映画・テレビ撮影等の支援・情報提供などを行っているフィルム・コミッション。今治地方観光協会の中に組織されている。
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Q11377305
_START_ARTICLE_ 今津郵便局 (大分県) _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 住所:〒879-0199 大分県中津市今津1137-6
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Q11377323
_START_ARTICLE_ 今田・東野の血が騒ぐ _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 街歩きロケとバラエティ企画を主軸にしていた『正解るんです』の後継番組であるが、この番組は名古屋吉本の若手芸人たちを育成することを主眼に企画・制作された。この番組にも引き続き今田耕司と東野幸治がレギュラーで出演し、構成も同様にかわら長介が担当していた。_NEWLINE_当初は「視聴者の夢を叶える」という触れ込みで放送されていたが、回が進むうちにその色合いは薄れ、今田と東野が(時にチーム対抗戦で)様々なゲームで対決したり、ドラマに挑戦したりする番組へと変化していった。この番組の終了後、2人はしばらくCBCテレビでレギュラー番組を持っていなかったが、それから約3年半後にスタートした『名古屋が最高!』で再びレギュラーに起用された。
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Q21452222
_START_ARTICLE_ 仮面ライダー×仮面ライダー ゴースト&ドライブ 超MOVIE大戦ジェネシス _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 特撮テレビドラマシリーズ『平成仮面ライダーシリーズ』の『仮面ライダーゴースト』と『仮面ライダードライブ』の映画作品であり、放送中の仮面ライダーと前作の仮面ライダーが共演するクロスオーバー作品『MOVIE大戦シリーズ』の第7弾でもある。『ゴースト』としては初、『ドライブ』としては4本目の映画作品である。_NEWLINE_本作品では、「複数のパートでそれぞれ異なる物語を描く」という『MOVIE大戦シリーズ』の定番要素を廃し、1本のストーリーとして構成している。_NEWLINE_劇場版限定・初登場仮面ライダーが登場するほか、『ゴースト』テレビシリーズに先駆けて仮面ライダーネクロムが登場する。 _START_SECTION_ 制作 _START_PARAGRAPH_ 監督は『仮面ライダードライブ』テレビシリーズの監督を務めた金田治が担当。脚本は『ケータイ刑事 銭形シリーズ』や『TRICK』シリーズや『ドクターX〜外科医・大門未知子〜』シリーズなどを執筆し、本作品がシリーズ初参加となる林誠人が担当する。テレビ朝日プロデューサーの佐々木基は林の起用について、仮面ライダーシリーズを何も知らないことが理由であると林本人に告げている。_NEWLINE_林は脚本執筆にあたり1ヶ月ほどかけて映像や資料で『ドライブ』について勉強したが、プロット打ち合わせ段階では『ドライブ』終盤の脚本や『ゴースト』の内容も定まっていなかった。林は最初に宇宙を舞台にしたストーリーを考えたが、予算がかかりそうだとして佐々木に却下され、その後『ゴースト』第1話の準備稿を元に、天空寺龍が生きている過去の時代へタイムスリップする内容へと定まった。スケジュールや予算の都合などから、最終的には構想の1/3ほどをカットしたものが決定稿となった。タイトルは、ドライブとゴースト双方の「始まり」を描くことから準備稿で『俺たちのジェネシス』というサブタイトルがつけられ、完成作品へ至った。_NEWLINE_深海マコト / 仮面ライダースペクターについては、脚本段階では変身するマコトの名前が決まっておらず、撮影も『ゴースト』でスペクターが登場したばかりの第5話・第6話と並行していたため、キャラクターを模索しながらの撮影となった。テレビシリーズとのすり合わせを行いつつも、第5話・第6話時点とは異なる立ち位置である為、金田・林・演じた山本涼介のいずれもマコト/スペクターのキャラクター付けに苦労したことを語っている。_NEWLINE_片岡鶴太郎演じる本願寺純と竹中直人演じる仙人との掛け合いは、脚本では大まかな流れのみを指定しただけで、演じる両名のアドリブで行われた。具体的な打ち合わせはなくぶっつけ本番であったが、一発OKであったという。_NEWLINE_敵キャラクターには、アインシュタインやベーブ・ルースなどの案も挙がっていたが、近現代の人物は権利関係の問題から不採用となった。東映プロデューサーの高橋一浩によりアインシュタインに匹敵する天才としてレオナルド・ダ・ヴィンチが挙げられ、それに合わせてラファエロとミケランジェロも登場する流れとなった。_NEWLINE_『ドライブ』テレビシリーズの最終回にて既に対面済であったドライブとゴーストであるが、本作品においてその点は特に反映されていない。また本作品で描写された天空寺龍が殺害される経緯は、『ゴースト』テレビシリーズ終盤で描かれたものとは異なっているが、高橋は本作品の内容は歴史が書き換えられた設定上のものとしており、テレビシリーズでの描写と変えることは当初の予定通りであったと述べている。 _START_SECTION_ 評価 _START_PARAGRAPH_ 丸の内TOEI2他全国292スクリーンで公開され、2015年12月12・13日の初日2日間で興収2億2280万2100円・動員18万1151人を記録し、映画観客動員ランキング(興行通信社調べ)で初登場第4位を獲得した。 _START_SECTION_ ストーリー _START_PARAGRAPH_ 108体のロイミュードを撲滅してから3ヶ月後、頻発する超常現象の極秘捜査を命じられた泊進ノ介 / 仮面ライダードライブと詩島霧子は、大天空寺へと足を運ぶ。超常現象の目撃者の中にいつも確認されている月村アカリと山ノ内御成に接触しようとするが、眼魔スペリオルが天空寺タケル / 仮面ライダーゴーストからムサシ眼魂を盗み出す。タケルは、眼魂を奪還しようと変身して眼魔に立ち向かうが、進ノ介たちには、眼魔が見えない。そのため、大天空寺の器物を誤って破壊してしまうなど1人で暴れているように見えるゴーストを進ノ介と霧子は誤解してしまう。さらに詩島剛 / 仮面ライダーマッハが加わりゴーストに襲い掛かる。そこに深海マコト / 仮面ライダースペクターも乱入。そして、進ノ介は、剛が持ってきたハーレー博士が自分用に作ったマッハドライバー炎とシフトデッドヒートで、仮面ライダーデッドヒートドライブに変身し、2対2の戦いに発展してしまうも、アカリが放射した不知火のおかげで、ようやく眼魔が見えるようになり、4人は眼魔スペリオルを撃破し、タケルはムサシ眼魂を取り返した。_NEWLINE_タケルたちと進ノ介たちは協力することになるが、突如モノリスに現れたワームホールによって、進ノ介とタケルは、10年前の過去(2005年)にタイムスリップしてしまう。そこで進ノ介は初めて知り合う前のベルトさん(ドライブドライバー)と、タケルは生前の父・天空寺龍との「再会」を果たすが、龍が眼魔との戦いで亡くなった日が間近に迫っていることを知ったタケルと進ノ介は、それを阻止すべく動き出す。_NEWLINE_一方、2人が過去に渡ったことで歴史が変わり、10年後の現在(2015年)には撲滅した筈のロイミュードたちが大挙して現れ、剛とマコトは復活したチェイス / 仮面ライダーチェイサーと共に迎え撃つ。_NEWLINE_そして過去(2005年)では、「世紀の大天才」と謳われた偉人・レオナルド・ダ・ヴィンチの力を持つダヴィンチ眼魔の誕生を目論むラファエロ眼魔とミケランジェロ眼魔によってチビアカリ(幼い頃のアカリ)が誘拐される事件が起こり、進ノ介とタケルは、龍とチビタケル(幼い頃のタケル)と共にチビアカリの救出に向かう。 _START_SECTION_ 本作品オリジナルの仮面ライダー _START_PARAGRAPH_ 数値データはボーナスディスクのデータファイル及び『仮面ライダードライブ超全集』より。_NEWLINE_この他、劇中で仮面ライダーマッハと仮面ライダースペクターがミケランジェロとダヴィンチの眼魔眼魂を使おうと試みたが、両者に偉人に対する知識がなかったため、眼魂に宿る偉人の魂に応えられず失敗した。
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Q11378483
_START_ARTICLE_ 仲博史 _START_PARAGRAPH_ 仲博史(なか ひろし、1948年12月15日 - )は、日本のドラマー・ボーカリストである。愛称はクマ、KUMA、KU-MA、また「伝説のドラマー・クマ」と呼ばれることもある。 _START_SECTION_ 略歴 _START_PARAGRAPH_ 1969年、名古屋にてギタートリオのロックバンド、ザ・ジル「THE JILL」を結成。ジャズ喫茶・米軍キャンプ等に出演。 1971年、中京大学でのステージを最後に解散。(THE JILLには音楽プロデューサー・作曲家の「三室のぼる」も在籍していた)_NEWLINE_1970年代後半より米国に拠点を移し活動する。1979年にはザ・バンドのリック・ダンコと共演。これを機に米国の多くのミュージシャンと親交を深める。 帰国後、音楽生活の拠点となった名古屋にて、旧友のコスモスファクトリーのメンバーと共にプログレッシブ・ロックバンド「天志音」を結成。 2001年より、仲博史(ボーカル、ドラムス)、泉千(ボーカル、キーボード)、水谷ひさし(ボーカル、ギター)、山下直樹(ベース)のメンバーで限定的ではあるがライブ活動を開始。 2008年11月29日には「名古屋能楽堂」でロックバンドとしては初のコンサートを行う。 _START_SECTION_ 音楽性 _START_PARAGRAPH_ ドラムと共にボーカルも担当することが多く、一貫して「LIVE指向」である。 ロールを多用するメロディアスな表現や変拍子のドラミングを得意とするが、1970年初頭に参加した「コンバインバンド」(イエローの中村純作も在籍)では、当時日本人バンドの出演が困難であったディスコ「赤坂ムゲン」への出演(R&Bを中心に演奏)など、演奏分野の範疇は広い。_NEWLINE_度々キャッチフレーズで用いられる「伝説のドラマー・クマ」とは、帰国後、活動拠点が東京ではなく、ミュージシャンとしての生活をスタートした名古屋に戻ったことで、出演するライブハウスが「名古屋の生んだ伝説のドラマー・クマ」とパンフレットに書いたのが始まりである。 _START_SECTION_ 人物 _START_PARAGRAPH_ 「クマ」「クマさん」と呼ばれ、「仲博史」とは、ほとんど呼ばれていない。 米国での活動を除けば、ほとんどが「バンドマスター」としてのキャリアであり、温厚で面倒見がよく、多くのミュージシャン、バンドを育てた。これらの行為はマネージメントビジネスとしてではなく「先輩ミュージシャン」としてのボランティアであったため、巣立っていったミュージシャン達とは、非常に良好な師弟関係で結ばれている。シンセサイザー奏者の「喜多郎」が在籍したバンド「プレイロード」もその一つで、1971年に豊橋市から名古屋へ仲博史を頼って出てきた18歳のミュージシャン達であった。のちにシンセサイザー奏者として大きく成長する事となった「喜多郎」に「我が師」と敬愛を込めて呼ばれるのも、こうした経緯があるからである。還暦を過ぎて、いまなおライブのオファーは多く、すでに大半が引退している同世代のミュージシャンからは羨望の存在でもある。
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Q11378571
_START_ARTICLE_ 仲田真紀子 _START_PARAGRAPH_ 仲田 真紀子(なかた まきこ、1979年7月7日 - )は、日本のフリーアナウンサー。本名同じ。_NEWLINE_愛媛県松山市出身。松山大学卒業。元セントフォース、株式会社オーケープロダクション所属(遅くとも2012年5月まで)。
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Q16263989
_START_ARTICLE_ 伊左治直 _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ 埼玉県出身。1995年、東京音楽大学大学院修士課程修了。作曲を西村朗、中世西洋音楽史を金澤正剛に師事。_NEWLINE_1991年日本音楽コンクール作曲部門(室内楽曲)第2位(1位なし)、1992年現音作曲新人賞、1994年日本音楽コンクール作曲部門(オーケストラ作品)第1位。1995年芥川作曲賞受賞。_NEWLINE_2005年、2012年にサントリー芸術財団コンサートにて作品が特集される。2008年、CD「伊左治直作品集 熱風サウダージ劇場」を発売(発売元は株式会社フォンテック)。_NEWLINE_現在は東京音楽大学作曲指揮専攻・作曲「芸術音楽コース」の非常勤講師を務める。
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Q11379640
_START_ARTICLE_ 伊沢一郎 _START_SECTION_ 来歴・人物 _START_PARAGRAPH_ 1930年に日活太秦に入社。1931年にサイレント映画『かんかん虫は唄ふ』でデビュー。熊本なまりの喋りと親しみのあるキャラクターが特徴だった。温厚な性格でも知られており、時代劇や特撮、更にはロマンポルノとジャンルを問わず幅広い作品に出演した。_NEWLINE_1970年代から テレビの時代劇や刑事ドラマなどで黒幕的な悪役を演じる機会も多くなり、重厚な演技を見せた。_NEWLINE_1995年5月14日午前1時10分に脳梗塞により死去。83歳没。
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Q269542
_START_ARTICLE_ 伊藤静 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 声優を目指したきっかけは、アルバイトをしていた時に同僚を通して当時アニメの声あてだけでなく、ラジオのパーソナリティ・歌・雑誌など、幅広く活躍していた声優の存在を知って、「色々なことが出来て面白そうだ」と思ったからだという。その後、東京アナウンスアカデミー、(現:東京アナウンス・声優アカデミー)に在籍し、校内オーディションで賢プロダクションの預かりとなり、スクールデュオ3期生となり2002年にデビュー。同じ声優の生天目仁美と声優ユニット「生天目仁美と伊藤静」を結成している。_NEWLINE_2010年4月21日、初の個人名義ミニアルバム『Devotion』をMellow Headから発売した。_NEWLINE_2012年12月5日、自身のブログで結婚を報告した。_NEWLINE_また、2012年に死去した紗ゆりの後任として、2013年に『クレヨンしんちゃん』の大原ななこ役を引き継がれた。_NEWLINE_2016年、第10回声優アワードで助演女優賞を受賞した。 _START_SECTION_ 人物 _START_PARAGRAPH_ 性格は姉御肌で通っており、主にツッコミ役として振る舞う。一方で隙も多く、特にお化けといった類のものは大の苦手だというが、部屋を暗くしてベッドと壁のすき間に挟まりたくなることがあるように、狭い所好きな一面もある。_NEWLINE_かねてよりゲーム「スーパーロボット大戦シリーズ」への出演を将来の夢としており、ロボットものアニメの出演を熱望していたが、実際に2009年には『スーパーロボット大戦NEO』にてオリジナルキャラクターのシャーリィ・ルノイエ役で出演し、2012年発売の『第2次スーパーロボット大戦Z 再世篇』にて『天元突破グレンラガン』のダリー・アダイ役で出演した。 _START_SECTION_ 趣味・嗜好 _START_PARAGRAPH_ 趣味は酒、スキューバ・ダイビング、釣り。_NEWLINE_プロレス愛好家で、特にプロレスリング・ノアのファンにして代表の三沢光晴のファンであった。その「ノア」の本拠地であるディファ有明で開催された『Radio ToHeart2』と『うたわれるものらじお』の合同公開録音においては、三沢のイメージカラーである「緑」のワンピース姿で登場したほど感激していた。_NEWLINE_声優の間で呼ばれるニックネームが様々である。 _START_SECTION_ 仕事関連または同業者とのエピソード _START_PARAGRAPH_ 声優アニメディアのインタビューによると、『ツバサ・クロニクル』のモコナ・モドキ役の菊地美香が伊藤のチュニャンの演技に感動し、以来スタジオでいつも彼女の演技をこっそり見ていたという。また菊地は、伊藤がベテラン声優を差し置いてゲスト声優で最も印象に残ったともコメントした。 _START_SECTION_ その他のエピソード _START_PARAGRAPH_ 高校生の頃、ゲームショップでアルバイトをしていたことがある。また、この時期家出しており、実家に連絡を取って戻ったのは声優になってしばらく経ってからだった。_NEWLINE_目が悪く、普段はコンタクトレンズを愛用している。また、眼鏡を着用していることもある。 _START_SECTION_ 出演 _START_PARAGRAPH_ 太字はメインキャラクター。
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Q11380637
_START_ARTICLE_ 伊賀健一 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 広島大学附属高校〜東京工業大学理工学部電気工学課程卒業。東京工業大学教授、電子情報通信学会会長、日本学術振興会理事を歴任。2007年より2012年まで東京工業大学学長。高速データ通信の信号源等に応用されている面発光レーザ(VCSEL)生みの親<。高速光ファイバー通信網などインターネットの基礎技術、コンピューターマウス、レーザープリンターのレーザー光源などに展開される光エレクトロニクスの基礎を築いた。町田フィルハーモニー交響楽団のコントラバス奏者、町田フィルバロック合奏団の主宰者でもある。
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Q11380673
_START_ARTICLE_ 伊賀街道 _START_PARAGRAPH_ 伊賀街道(いがかいどう)は、伊勢・伊賀二国の大名藤堂高虎の移封後、津(本城)と上野(支城)をむすぶ官道として整備された街道。この道は上野経由で伊勢に向かう参宮客だけでなく、津方面から水産物や塩が、伊賀方面から種油や綿などが運ばれた伊賀・伊勢両国の経済・生活の大動脈としての役割も担っていた。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 伊勢国と伊賀国にまたがる伊賀街道は、津から橡(とち)ノ木峠とも呼ばれた長野峠を越えて上野に至る全長約12里(約50km)の街道で、現在の松阪市中林町の月本の追分を起点とする奈良街道(古くは伊賀越奈良道)と重なる部分が多い。道は現在の国道163号に沿う形で通り、今でも国道沿いに、宿場を中心に賑わったというかつての街道の面影が残っている。
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Q11381374
_START_ARTICLE_ 伝嵯峨本源氏物語 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 日本にも古く飛鳥時代には木版による印刷技術が伝えられてきたものの、その技術を使用して印刷されたのはほぼ仏典に限られており、仏典以外ではわずかに漢籍の印刷が行われるのみであった。そのためすでに平安時代末ころには歌作の場で「源氏見ざる歌詠み遺恨のことなり」などとして重要視され、古典・聖典的な扱いを受け広く読まれてきた源氏物語すらも長く写本のみで伝えられてきた。それが江戸時代初期になって町人の手になる商業出版と呼ぶべき形態の印刷出版事業が始まり『伊勢物語』『徒然草』『方丈記』のようなそれまで「印刷本」の対象とならなかった様々な「本」が印刷されるようになった。このような江戸時代初期を代表する印刷本に、京都の嵯峨を中心に活動していた業者によるものであるため「嵯峨本」の名で呼ばれるものがある。これは藤原惺窩ら儒学者とも交友を持った角倉了以の子角倉素庵が出版業を思い立ち、本阿弥光悦、俵屋宗達らの協力で17世紀の始め(慶長・元和期)に作られたものである。この嵯峨本は、文字は本阿弥光悦流と呼ばれる書体であり、雲母刷の用紙を使ったり、装幀に意匠が凝らされたりした豪華本であった。_NEWLINE_『源氏物語』にも少数ながら「嵯峨本」の『源氏物語』であるとされる古活字本が伝えられていたが、書誌学者の川瀬一馬が多くの『嵯峨本』を調べた結果、「この『嵯峨本源氏物語』は他の多くの『嵯峨本』と比べると活字が小さく字間が狭いなど他の『嵯峨本』と異なりより時代的に後の整版本源氏物語に近い点がいくつか存在するため、この『嵯峨本源氏物語』は真正な『嵯峨本』ではなく『嵯峨本』より後の時代に『嵯峨本』を模して作られたものである」とする見解を示した。この見解については、『嵯峨本源氏物語』は真正な『嵯峨本』に間違いないが、源氏物語が『伊勢物語』『徒然草』『方丈記』といった代表的な『嵯峨本』と比べて極めて長大な作品であり、また時代的にも代表的な『嵯峨本』より遅く作られたらしい物であるためにいくつかの点で異質な物になってしまったのではないかとする見解も出されたが、現在ではこの「『源氏物語』の嵯峨本」は一般的には『伝嵯峨本源氏物語』と呼ばれるようになっている。_NEWLINE_この『伝嵯峨本源氏物語』は、のちに広く読まれた『絵入源氏物語』、『首書源氏物語』、『湖月抄』などと比べたときに、前述のような固有の表題を持たず単に『源氏物語』とだけ題されていることから『無印源氏』(むじるしげんじ)と、また挿絵や注釈を持たず『源氏物語』の本文のみを内容としていることから『素源氏』(すげんじ)などと呼ばれている『源氏物語』の初期の版本の一つである。_NEWLINE_『伝嵯峨本源氏物語』の大学などの公的機関に所蔵されているものとして大阪樟蔭女子大学図書館(全巻揃本)、天理大学天理図書館(天理図書館の目録では「角倉本」と呼ばれている)、鶴見大学図書館、東京大学図書館、京都大学図書館、国文学研究資料館、内閣文庫、大東急記念文庫、東洋文庫などがある。 _START_SECTION_ 本文 _START_PARAGRAPH_ この『伝嵯峨本源氏物語』の本文自体は花散里・常夏・野分が河内本、宿木が別本に属すると見なせるなど河内本や別本からの混入も見られるものの、概ね青表紙本の三条西家本の系統に属するものであり、のちに『源氏物語』の整版本として広く流通した『絵入源氏物語』、『首書源氏物語』、『湖月抄』といったものに近い本文である。
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Q11381494
_START_ARTICLE_ 伯耆民諺記 _START_PARAGRAPH_ 『伯耆民諺記』(ほうきみんげんき)は、江戸時代中期に記された史書。_NEWLINE_寛保2年(1742年)、伯耆国倉吉詰の鳥取藩士といわれる松岡布政(まつおかのぶまさ、?-寛延3年(1750年))によって著された。全20巻。_NEWLINE_伯耆国の様々な伝承や、寺社、古城砦の合戦記を記す。伯耆国のまとまった史書としては唯一のものであり、当地域の歴史研究において欠くことのできない資料である。当時まで伝わっていた伝承を忠実に伝え、特に合戦の描写に筆力がある。伯耆国唯一の史書ではあるが、記述は東伯耆(鳥取県中部)関連のものに偏っている傾向がある。_NEWLINE_この民諺記以外の伯耆国関連の史書としては幕末に編纂された『伯耆志』が知られているが、明治維新の混乱期に散逸したために現存しているのは一部である。しかし、この『伯耆民諺記』には隣国・因幡国に関する『因幡民談記』が不完全ながらも史料批判を行い、「筆記の部」と呼ばれる史料編を載せているのに対して、出典史料が不明な部分が多数を占めるなどしている。(その反省であろうか『伯耆志』には史料編が付け加えられている)_NEWLINE_後世、鵜殿氏によって著された『伯耆民談記』は、『伯耆民諺記』が改題再編されたものと考えられる。これは『因幡民談記』に対しての改題であり、更に何人かの加除改稿によって『民諺記』の元の形が失われた。_NEWLINE_近年まで鳥取県における中世史研究はこの『伯耆民諺記』などの記述を中心に行われてきた。しかし、史料批判的な観点から見ると民諺記は史料というよりも論考といった方が適切であり、(高橋正弘著『因伯の戦国城郭 通史編』)近年では以前見られた記述を鵜呑みにした研究を見直す動きが活発になってきている。
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Q11381855
_START_ARTICLE_ 住吉町 (鹿児島市) _START_SECTION_ 地理 _START_PARAGRAPH_ 鹿児島市中部に位置している。町域の北方には泉町、南方には南林寺町、海を隔てて城南町、西方には堀江町、東方には本港新町がそれぞれ接している。町域の中央を南北に鹿児島県道214号鹿児島港線が通っている。_NEWLINE_町域内には1935年(昭和10年)に九州初の青果・水産併設の市場として鹿児島市中央卸売市場が設置されたが、敷地が手狭になったことから、1968年(昭和43年)に水産部門が魚類市場として独立し、城南町に移転、1976年(昭和51年)には青果部門が青果市場となり、東開町に移転した。_NEWLINE_また、国鉄鹿児島臨港線(貨物線)が通っており、鹿児島港駅も所在していたが、1984年(昭和59年)に貨物線が廃止された。 _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ 江戸期は、鹿児島城下下町のうちであった。南方は文政から天保年頃に諸郷公役によって埋め立てられた屋久島岸岐から、北方は名山堀に至る区域に成立した。_NEWLINE_1889年(明治22年)に市制が施行されたのに伴い、鹿児島府下47町3村の区域より鹿児島市が成立。江戸期の住吉町は鹿児島市の町名「住吉町」となった。1963年(昭和38年)には住吉町の全域で住居表示が実施された。
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Q11382007
_START_ARTICLE_ 佐々並村 _START_SECTION_ 地理 _START_PARAGRAPH_ 山口県のほぼ中央、中国山地に囲まれた地域であり阿武川の支流である佐々並川沿いにわずかに平野が広がる。阿武郡の中でも阿東町、旧むつみ村と並んで山口市の経済圏に含まれる地域である。 _START_SECTION_ 合併後 _START_PARAGRAPH_ 明木村との合併の際、元々隔たれた村域が合併したことを踏まえ、敢えて村役場の位置を定めなかったことから、旭村となってからも2年置きに村役場(本庁舎)と支所を交互に使用していた。その後電算システムの関係で旧明木村役場に村役場が固定され、旧佐々並村役場は旭村佐々並支所となったが、その他の公共施設の一部は佐々並に置かれることとなった。_NEWLINE_2005年(平成17年)3月6日に周辺町村とともに萩市に合併(新設合併)したことから、現在は萩市旭総合事務所佐々並支所が佐々並に置かれている。
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Q11382136
_START_ARTICLE_ 佐々木千里 _START_SECTION_ 人物・来歴 _START_PARAGRAPH_ 1891年(明治24年)6月28日、静岡県に勝間田兵吉として生まれる。上京し、軍楽隊養成所だった陸軍戸山学校を卒業した。_NEWLINE_1917年(大正6年) - 1923年(大正12年)に華やかだった浅草公園六区の「浅草オペラ」時代に、「戸山千里」の名で浅草でチェロ奏者をしていた。その後、マネジメント・サイドに転身し、「エノケン」こと榎本健一の「プペ・ダンサント」で知られる浅草の「玉木座」の支配人となった。_NEWLINE_1931年(昭和6年)12月31日、40歳のとき、東京市淀橋区角筈(現在の東京都新宿区新宿3丁目36-16)に劇団および劇場「ムーランルージュ新宿座」を設立、「レビュー喜劇」(軽演劇)を上演した。小沢不二夫や阿木翁助らの作家、有島一郎や由利徹らの喜劇人を育成した。ムーランルージュは、松竹や林瑞祥(のちのジョイパック、現在のヒューマックスグループ会長)が経営したが、佐々木が還暦を迎えるころ、1951年(昭和26年)5月に閉館した。_NEWLINE_1961年(昭和36年)5月15日に死去した。満69歳没。
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_START_ARTICLE_ 佐伯部 _START_PARAGRAPH_ 佐伯部(さえきべ)は古代日本における品部の1つであるが、ヤマト王権の拡大過程において、中部地方以東の東日本を平定する際、捕虜となった現地人(ヤマト王権側からは「蝦夷・毛人」と呼ばれていた)を、近畿地方以西の西日本に移住させて編成したもの。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 『日本書紀』によれば、日本武尊が東征で捕虜にした蝦夷を初めは伊勢神宮に献じたが、昼夜の別なく騒いで神宮にも無礼を働くので、倭姫命によって朝廷に差し出され、次にこれを三諸山(三輪山)の山麓に住まわせたところ、今度は大神神社に無礼を働き里人を脅かすので、「畿内に住むべからず」との景行天皇の命で、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5ヶ国に送られたのがその祖であるとの起源を伝えており、また、猪名県の佐伯部の者が、仁徳天皇が秘かに愛でていた鹿をそれとは知らずに狩って献上したため、恨めしく思った天皇によって安芸国渟田(ぬた)に移されたのが「(安芸国)渟田の佐伯部」であるとも伝えている。これらの伝承の史実性はともかくとして、古墳時代の中頃(5-6世紀)には、東国人の捕虜を上記5ヶ国に移住させ、佐伯部として設定・編成したのは事実のようで、「佐伯直」や「佐伯造」といった在地の豪族が伴造としてこれを管掌し、これら地方豪族が更に畿内の中央豪族佐伯連(後に宿祢に改賜姓された)に管掌されたため、佐伯部は間接的に中央佐伯氏の部民とされ、その中からは宮廷警衛の任務に上番させられた者もいたと見られている。 _START_SECTION_ 部名の由来 _START_PARAGRAPH_ 平安時代以来、「叫ぶ」に由来するとされてきたが、『常陸国風土記』茨城郡条には、土着民である「山の佐伯、野の佐伯」が王権に反抗したことが記されているので、「障(さへ)ぎる者(き)」で、朝廷の命に反抗する者の意味と説くものもあり、別に上記景行天皇紀に「騒い」だとあることに着目し、「大声を発して邪霊や邪力を追いはらったり、相手を威嚇するといった呪術的儀礼に従事」するのが彼らの職掌で、佐伯部は「サハグ部」であるとの説もある。あるいは、聞きなれない言葉を話すので「騒(さえ)ぐ」ように聞こえたことに由来するとする説もある。
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_START_ARTICLE_ 佐川ギャラクシーハイウェイズ _START_PARAGRAPH_ 佐川ギャラクシーハイウェイズ(さがわギャラクシーハイウェイズ。略称「SGH」)は、東京都江東区東雲にあったSGホールディングスグループで、全国幹線輸送を行っていた企業。現在は佐川急便に吸収合併し消滅。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 佐川急便グループの幹線輸送会社だった「東日本運輸興業」、「ヒッツエクスプレス」、「首都圏運輸」、「佐川ロジテック大阪」、「近畿自動車運送」の5社を経営の一元化及びコスト削減を目指し、東日本運輸興業を存続会社として合併し佐川ギャラクシーハイウェイズが発足。子会社であった佐川引越センターは佐川急便の持ち株会社制移行の際に、コア事業へ育てたいという当時の上層部の意向もあり、SGホールディングスの直系子会社(つまり、佐川急便や同社と方を並べる位置)へ分割した。_NEWLINE_その他、JR貨物M250系電車に搭載するJR貨物U54A形コンテナの所有も行っていた(旧東日本運輸興業の所有であったため)。_NEWLINE_2007年に佐川急便と宅配事業と路線事業をさらに効率よく運用を行い、宅配事業を強化することと佐川急便の路線事業進出の実施を目的として、佐川急便へ吸収合併された。
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_START_ARTICLE_ 佐藤元 _START_SECTION_ 経歴・人物 _START_PARAGRAPH_ 学生時代東映動画スタジオで見学者案内のアルバイトを経てアニメーターとなる。学校卒業後、大手コンピューター会社のプログラマーを務めるが、数ヶ月で退職して、アニメーター(フリーを経て葦プロダクション(現プロダクション リード)、サンライズ、安彦良和スタジオ)として活躍後、サンライズの友人とスタジオを設立し、その後独立。1991年に友人と有限会社夢屋を設立。漫画家として活躍していたが、仕事のストレスから健康を害し、2000年代辺りに東映アニメーション作成『おジャ魔女どれみドッカ〜ン!』の原画マンとしてアニメ業界へ復帰し、フリーアニメーター兼漫画家として活動。_NEWLINE_まだプロの講師が、少なかった1986年から専門学校の講師も務め、多くのプロ作家も講師へと導く。 その中の一人、友人帯ひろ志の紹介で中央美術学院アニメコース講師を一時期手伝うが、学院の都合で正規に講義をやる事はなかった。 現在は、大阪芸大グループにて、客員教授として講義をしている。_NEWLINE_一時期漫画家のあろひろし、サトウ・ユウ、矢野健太郎らと仲が良く、この4人にゲスト2名を加えた6名で『4Spiritsプラス2』というアンソロジー集を作った。_NEWLINE_特撮制作者に同名の人物がいるが、別人である(ただし交遊関係はある)と、自身のブログ「心の元点」2008年5月22日付「特撮関係の佐藤元さん」で表明している。_NEWLINE_また、証拠としてこの同名特撮制作者と雑誌企画で対談を行ったこと(このときは「さとうげん」名義)を明かしたほか、他の同名別人として日本酒蔵元・気象予報士・サンリオ録音監督・魚イラストレーター・科学警察研究所の毛髪鑑定士(以上、佐藤元)・アニメ『ルパン三世 燃えよ斬鉄剣』のメカニックデザイナー(さとうげん)をあげている。
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_START_ARTICLE_ 佐藤友紀 (女優) _START_SECTION_ 人物 _START_PARAGRAPH_ 一時期は時代劇を中心に出演していた。「水戸黄門」、「暴れん坊将軍」、「剣客商売」、「御家人斬九郎」、「隠密奉行朝比奈」、「大奥」、「八丁堀の七人」などありとあらゆるテレビ時代劇を網羅している。_NEWLINE_2006年より女優業の他、脚本、プロデュースなど制作活動も本格化させている。 _START_SECTION_ 特技 _START_PARAGRAPH_ 能(観世流家元派)、関根祥六師、薙刀、乱拍子ょ
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_START_ARTICLE_ 佐藤史生 _START_PARAGRAPH_ 佐藤 史生(さとう しお、本名・佐藤ちよ子、1952年12月6日 - 2010年4月4日 )は、日本の漫画家。 _START_SECTION_ 経歴・人物 _START_PARAGRAPH_ 宮城県登米市出身。24年組、ポスト24年組に数え上げられる。ペンネームは「砂糖・塩」の語呂合わせで、佐藤が竹宮惠子のアシスタントを務めていたときに竹宮が口にした「ソルティ・シュガー」という言葉を、デビューが決まった際に急遽思い出し、使ったものと言われる。1977年に『恋は味なもの!?』(『別冊少女コミック』)でデビュー。代表作に『夢みる惑星』、『ワン・ゼロ』など。_NEWLINE_他のポスト24年組の面々と比べて理知的な作風が特徴で、寡作でありながら根強い人気を誇る。魔術や神話を先端科学と巧みにミックスする独自の世界観を持ち、長編『夢みる惑星』では先史の失われた文明を瑞々しく描き、『ワン・ゼロ』では意志を持ちネットワークに侵入する電子頭脳と魔神たち(大乗仏教の神々と古神道の神々との戦い)を描いた。また『心臓のない巨人』などの複合船シリーズでは、巨大な交易船で宇宙を旅しながら何世代も生き続ける隔離された人々を描き、『やどり木』では辺境星に入植した人類が植物を媒介とした壮大なネットワークに取り込まれる様子を描いた。_NEWLINE_プチフラワー2001年7月号から始まった「20世紀名作招待席」の第1回目をSF短編『金星樹』で飾り、また、インタビューも掲載された。_NEWLINE_2009年12月19日から2010年2月14日まで、出身地である宮城県登米市の石ノ森章太郎ふるさと記念館にて行われた特別企画展『佐藤史生展』では、カラー原画などが展示され、交通の不便さにもかかわらず近県および遠隔地からもファンが足を運んだ。_NEWLINE_晩年は乳がんを患い、摘出手術を受けたが2009年初頭に骨や脳への転移が確認され、再入院した後ホスピスで脳腫瘍により死去。訃報は友人である坂田靖子もホームページで告知した。57歳没。原稿類は一番古くからの友人が保管しているとされる。_NEWLINE_2012年から復刊ドットコムで、<佐藤史生コレクション>として「死せる王女のための孔雀舞」「金星樹」「この貧しき地上に」などが刊行されている。
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Q22125586
_START_ARTICLE_ 佐藤寅太郎 _START_PARAGRAPH_ 佐藤 寅太郎(さとう とらたろう、慶応元年12月5日(1866年1月21日) - 昭和18年(1943年)9月21日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。教育者。 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 信濃国佐久郡長土呂村(現在の長野県佐久市)出身。長野県師範学校を卒業。同級生に河野齢蔵や矢澤米三郎がいた。明治43年(1910年)に長野県視学に就任し、同理事官、同視学官、同学務課長を歴任した。その後、信濃教育会副会長、同会長に選出された。県の教育行政の中枢にあって、上田女子師範学校の廃校や旧制長野工業専門学校の設立を主導した。_NEWLINE_大正8年(1919年)の戸倉事件では長野県議会において、白樺派教師の懲戒処分に同調する答弁を行った。同9年(1920年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。同13年(1924年)以降は旧制岩村田中学(現長野県岩村田高等学校)の校長を務めた。
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_START_ARTICLE_ 佐藤琢磨 _START_SECTION_ プロフィール _START_PARAGRAPH_ 和光学園高等学校卒業後、早稲田大学人間科学部スポーツ科学科に入学。10歳の時に鈴鹿サーキットで初めてF1を観戦したことからモータースポーツに対して強い憧れを抱きつつも、19歳までは自転車競技に身を投じていた。部の無かった高校に部を立ち上げ、顧問一人部員一人で競技開始。94年、インターハイ優勝。95年、インターカレッジ、2位。同年の国体、6位。96年、全日本学生選手権優勝などの記録を残している。_NEWLINE_1996年、ホンダと鈴鹿サーキットがフォーミュラカーを用いたレーシングスクール、鈴鹿サーキット・レーシング・スクール・フォーミュラ(SRS-F)を設立したことを知ると、モータースポーツの世界に飛び込むことを決心。大学を休学して、まずはカートを始め、モータースポーツ歴わずか半年で、選抜方法を変えさせてまでして競争率10倍の難関を突破してSRS-Fへ入学した。他の上位の受講生達と同じく時には講師陣を上回る速さを見せた。1997年首席で卒業。 _START_SECTION_ 2002年 _START_PARAGRAPH_ 2001年10月に、ホンダエンジンを搭載するジョーダンのレギュラードライバーとして2002年シーズンのF1に参戦することが決定し、史上7人目の日本人フルタイムF1ドライバーとなった。初めてレーシングカートに乗ってから僅か5年でF1のシートを獲得するのは奇跡に近い快挙であると言われた。しかし、この年のジョーダンチームは前年には多くの主要なエンジニアが流出したうえ、2001年シーズンまでのメインスポンサーであったベンソン&ベッジスが支援を縮小したことなどから資金不足に陥った。シーズン中のテストもままならないチーム運営の中、シーズン一年目のポイントは日本グランプリでの決勝5位・2ポイントのみに留まった。翌予選・決勝共にチームメイトのジャンカルロ・フィジケラに引けを取らないパフォーマンスを見せ、2003年はジョーダン・グランプリで2年目のF1シーズンを迎える計画だったが、ホンダがエンジン提供先をB・A・Rに絞りジョーダンから引き上げた為、事実上解雇される。それに伴い、B・A・Rのテストドライバーとして移籍する事になる。 _START_SECTION_ 2003年 _START_PARAGRAPH_ 2003年シーズンは、翌2004年以降のレギュラー・ドライバー昇格のオプション付でリザーブ兼テスト・ドライバーとしてB・A・Rに移籍。リザーブドライバーの立場でレースチームに全戦帯同し、レースの合間にはテスト走行をこなすこととなった。最終戦日本GPでは、翌年のシートを失うことが確実になっていたレギュラー・ドライバーのジャック・ヴィルヌーヴがモチベーションを失って急遽参戦を取り止めたために代役で出走。約1年ぶりの実戦となったが、6位入賞を果たす。この入賞で獲得した3ポイントによってB・A・Rはコンストラクターズランキングでザウバーを逆転した。また、この年にはF1以外の活動として、自転車選手だった経歴を活かして「ツール・ド・フランス」の一般参加部門である「エタップ・ド・ツール」にもゲストとして出場している(アキレス腱痛により途中リタイア)。 _START_SECTION_ 2004年 _START_PARAGRAPH_ 2004年シーズンはB・A・Rのレギュラードライバーに昇格。この年のマシン「B・A・R 006」が速さを見せ、各レースで上位争いに加わっていく。_NEWLINE_このシーズンは、スペインGP、アメリカGP、ハンガリーGPにおいて予選3位を記録するなど速さを見せ付ける。しかし、前半戦においては、マシントラブルなどでリタイヤしたレースがいくらかあり、ポイント獲得の機会を失う場合もあった。_NEWLINE_この悪い流れに反するように、ヨーロッパGPで日本人初のセッションリーダー(予選1回目)、フロントロー獲得、ラップリーダーを記録。さらにアメリカGPで日本人最高位タイの3位フィニッシュを果たした。_NEWLINE_この年のB・A・Rは、チームメイトのジェンソン・バトンが2位表彰台を4回、3位表彰台を6回獲得するなど、非常に力強い戦闘力を保持し、フェラーリに次ぐコンストラクター2位を獲得した。 _START_SECTION_ 2005年 _START_PARAGRAPH_ この年にイギリスからモナコに移住した。_NEWLINE_2005年シーズンは前年とは打って変わって苦難の連続であった。開幕のオーストラリアGPでは最後尾スタートから決勝14位に留まり、巻き返しを期したマレーシアGPではウイルス性の発熱により欠場の憂き目にあった。第4戦サンマリノGPでは5位入賞でシーズン初ポイントを獲得したはずがマシンの重量不足でレギュレーション違反の裁定を下されリザルトを取り消された。加えてB・A・RはスペインGP、モナコGPの2レースの出場停止処分を科されたため、ほとんどまともにレースができないままシーズン序盤を浪費してしまった。後半に入るとバトンが復調していくのに対して琢磨の調子は戻らず、最終的にドライバーズポイントはハンガリーGPでの8位入賞による1ポイントのみと、デビュー以来最低の成績に沈んだ。_NEWLINE_2005年は琢磨はもとより、B・A・Rというチーム全体が混乱したシーズンとも言えたが、サーキット以外の部分でもそれは収まらず、琢磨自身もそれに巻き込まれていった。ウィリアムズに移籍するはずだったバトンが突如残留。もうひとつのシートについても、ルーベンス・バリチェロのフェラーリからの移籍が決定していたことから、佐藤は2006年シーズンのB・A・Rでのレギュラードライバーの座を失うことになる。 _START_SECTION_ 2006年 _START_PARAGRAPH_ B・A・Rを離脱した2006年シーズンは複数チームからのオファーもあったが、元F1ドライバーの鈴木亜久里がオーナーを務め、ホンダがエンジンを供給する新規参戦チーム スーパーアグリF1チームから参戦することとなった。_NEWLINE_新規参入チームのうえ、前半戦はホンダエンジンこそ搭載しているものの基本的には4年落ちのアロウズのシャシーを現行レギュレーションに合致するように改良した「SA05」を使用していたために、チームメイトの井出有治と共に後方集団からも大きく離されて最下位を走ることが殆どだった。ニューマシンの「SA06」が登場してからもSAF1以外で最も遅いMF1レーシング(2006年第15戦イタリアGP以降はスパイカーMF1レーシングにチーム名称変更)からも離されたが、マシンの熟成が進むと他の中堅チームとも戦えるようになり、鈴鹿・日本GPでは、MF1の前でチェッカーを受け、さらに、最終戦ブラジルGPでは、チーム最高位の10位という結果を出すと共にチームメイトの山本左近とのダブル完走を果たした。 _START_SECTION_ 2007年 _START_PARAGRAPH_ 2007年シーズンも同チームからファーストドライバーとしてエントリーし、イギリスF3時代のチームメイトであるアンソニー・デビッドソンとともに新型マシンの「SA07」をドライブする。_NEWLINE_新型マシンであるSA07の戦闘力はSA06とは比較にならないほど高く、オーストラリアGPの予選ではチーム創設後初のQ3進出を果たし、予選10位を記録した(デビッドソンは11位)。その後のレースでも、ワークスホンダと同等以上の成績を収めており、第4戦スペインGPでは、終盤にフロントウィングを破損してピットインし順位を落としたジャンカルロ・フィジケラを振り切り、チーム創設後初のポイント(8位・1ポイント)を獲得した。また、この結果は完全日本製パッケージ(日本のコンストラクター・日本人ドライバー・日本製エンジン・日本製タイヤ)で記録した、初のチャンピオンシップ・ポイントであった。第6戦カナダGPでは、荒れたレース展開の中でまずラルフ・シューマッハを、さらにタイヤを傷めてペースの上がらないフェルナンド・アロンソもオーバーテイクし6位でフィニッシュ、スペインGPで記録したチームの最高記録を塗りかえている。_NEWLINE_シーズン後半はチームの資金不足で開発が進まずSA07はライバルとの競争から後れ始め、ポイントは取れないものの第11戦ハンガリーGP〜第17戦ブラジルGPまで7戦連続の完走を果す。 _START_SECTION_ 2008年 _START_PARAGRAPH_ 2008年に入るとスーパーアグリF1チームの資金難が深刻化。ホンダが発表した参戦リストにスーパーアグリチーム及び佐藤琢磨の名前がなく、2008年シーズンに参戦できない状況に陥ったが、開幕直前の3月10日に当座の資金の目処を付けて参戦を表明し、スーパーアグリのファーストドライバーとしてエントリーした。しかし資金難によりマシン開発がほとんどできておらず、前年後半のような戦闘力の劣るマシンでのレースを余儀なくされた。開幕戦のオーストラリアGPでは予選のQ2へ進出することもできず、決勝もトラブルでリタイアした。だが、次戦のマレーシアGPからは予選のパフォーマンスは優れないものの、決勝では完走した。_NEWLINE_5月6日、スーパーアグリF1チームがF1からの撤退を表明したため所属チームを失った。その後、ル・マン24時間レースやALMS、インディなどからオファーを受けるも全て断り、あくまでF1レギュラーシートを獲得する方向で交渉を進めていた。当時の琢磨自身もF1を引退する考えはまったくないことを表明していた。イギリスの月刊誌F1 Racingが行った歴代ドライバー100傑では、唯一の日本人ドライバーとして78位と評価された。_NEWLINE_8月26日、来季F1復帰を目指しスクーデリア・トロ・ロッソとの交渉に入ったことが発表された。その後トロ・ロッソから、琢磨とセバスチャン・ブエミが9月17日からスペイン・ヘレスにて行なわれたテストに参加し、来期のレギュラードライバーとしてのテストを行った。シーズン終了後の11月17日および、18日の午前中にも再びトロ・ロッソのテストでステアリングを握り、初日、2日目の午前といずれも全体のトップタイムをマークした(2日目の午後にレッドブルから出走したセバスチャン・ベッテルに更新された)。12月10日、11日にも、ヘレスで行われたテストにトロ・ロッソから参加し、2日ともセバスチャン・ブエミに次ぐ2番手タイムをマークした。 _START_SECTION_ 2009年 _START_PARAGRAPH_ 2月6日、2008年の3回のテストの後、レギュラードライバー決定を待っていた琢磨だったが、スクーデリア・トロ・ロッソは2009年のドライバーラインナップをセバスチャン・ブエミとセバスチャン・ボーデの2人に決定した。_NEWLINE_2009年7月3日にイギリスのボーリューにある国立自動車博物館で2004年に琢磨がドライブしたB・A・R 006が披露された。これは、第9戦アメリカグランプリにおいて自身初めての表彰台を獲得した時のマシンであり、新たに博物館の収蔵品に加えられることが決定したことによる。この披露会には琢磨自身も参加した。_NEWLINE_オフシーズンにおいては、2010年より参戦する新規チームであるロータスF1チーム、及びグラビティによる買収で新体制となるルノーF1との交渉が行われていたが、これも実現することは無かった。_NEWLINE_現在、2008年4月末に行われたF1スペインGPが、F1における琢磨最後のレースとなっている。 _START_SECTION_ 2010年 _START_PARAGRAPH_ 2月18日、東京でKVレーシングよりインディカー・シリーズに参戦することを発表した。また、F1復帰交渉に関して、ルノー、スクーデリア・トロ・ロッソ、ロータス、ステファンGPと交渉を行ったことも明らかにした。_NEWLINE_2月24,25日にはバーバー・モータースポーツ・パークで合同テストが行われた。インディでの実質初テストにもかかわらず、11チーム21人の内、24日は7位、25日は6位でテストを終えた。_NEWLINE_シリーズが始まると、9月19日にツインリンクもてぎで行われた第16戦インディジャパン300で、オーバルコースにおける自身最高順位である12位で完走した。_NEWLINE_この年は予選では何度か上位につけたが、全17戦中8戦しか完走できなかったことなどもありランキング21位(最高位9位)でシーズンを終えた。_NEWLINE_10月10日に行われたF12010年日本グランプリにおいてロータス・78のデモ走行をした。 _START_SECTION_ 2011年 _START_PARAGRAPH_ 2010年と同じく、KVレーシングからインディカー・シリーズに参戦することを2月4日に発表した。_NEWLINE_3月27日に、セントピーターズバーグで開幕戦が行われたが、そこで自己ベストとなる5位入賞を果たした。第4戦サンパウロでは予選10番手からスタートし、雨の中で他者のクラッシュやマシントラブルなどで3位まで順位を上げたが、14周で日曜日のレースは赤旗中断となり月曜日に延期に。翌日再開されたレースではスタート直後に雨が降りだす展開の中で前を行く2台を交わしてトップに浮上し自身初のリードラップを記録、23周に渡ってトップを走行した。しかし、34周目からのフルコースコーションでチームはピットしない作戦を選択。レース中にフルコースコーションがあと一度でも出されれば給油なしで走りきれるという判断だったが、チームの思惑に反してその後フルコースコーションは出されず、給油のためにピットして順位を下げたことなどもあり最終的には8位でゴールした。_NEWLINE_開幕4戦のロードやストリートでのレースが終わり、シリーズがオーバルのレースになっても前年を上回るパフォーマンスを見せ続けた。第5戦インディ500では予選でチーム最上位の10位獲得も決勝では序盤でクラッシュによりリタイア。第6戦テキサスでは第1レースでオーバル自己最高の5位に入り、第7戦ミルウォーキーでも8位に入る。第8戦アイオワの決勝では終盤にアウトラップでバンプに乗り上げるミスをし、リタイアを喫して19位に終わったがインディカー・シリーズで日本人初となるポールポジションを獲得している。屈指の難易度を誇る第11戦ミッドオハイオにて4位フィニッシュ。ベストリザルトを更新した。_NEWLINE_しかしそれ以降は下位に沈むレースが増え、シングルフィニッシュも第12戦ニューハンプシャーの7位のみとなる。総合ランキングはチームメイトのトニー・カナーンの5位に対し、13位に留まった。 _START_SECTION_ 2012年 _START_PARAGRAPH_ 2月3日、この年よりインディカー・シリーズフル参戦を表明するレイホール・レターマン・ラニガン・レーシング(RLR)に移籍することが発表された。_NEWLINE_開幕戦セントピーターズバーグでは一時ラップリーダーになるも電気系トラブルでリタイアに終わる。第3戦ロングビーチでは3位でファイナルラップに入るもライアン・ハンター=レイと接触しスピン、シーズンで初めて完走出来たものの8位に留まった。第4戦ブラジルのサンパウロではエンジン・トラブルのため前日の予選に出走できず、最後尾から一つ前の25位からのスタートとなるも、巧みなピット戦略も駆使した驚異的な追い上げで自己最高の3位となり初の表彰台に上がる。_NEWLINE_自身3度目のインディ500では、19番手スタートからポジションを上げ119周目にラップリーダーに立つ。その後31周をリードしつつトップ集団に留まる走りを見せる。199周目にはスコット・ディクソンを抜いて2位に上がる。そのまま先頭のダリオ・フランキッティの真後ろ(2位)でファイナルラップに入り、ターン1にフランキッティと並び進入した。しかしフランキッティが残したスペースは狭く、インの白線を踏まされバランスを失いスピンしたマシンはウォールに接触、日本人初優勝はならなかったが自己ベストの17位でレースを終えた。_NEWLINE_続く第6戦デトロイトでは縁石で弾んだマシンがコントロールを失いウォールに追突、第7戦テキサスはターン3でアンダーステアが出てウォールに接触、第8戦ミルウォーキーは周回遅れのジェームズ・ジェイクスにラインを開けてもらえず接触、3戦連続でリタイアに終わった。第10戦アイオワではマシンのセッティングが決まらず、この年試験導入された予選レースでも奮わず24番手スタートとなった。決勝では序盤に追い上げるが上位陣には遅れを取り、完走は出来たものの3周遅れの12位でフィニッシュした。_NEWLINE_第11戦トロントでは11番手スタートから一時5位まで浮上する。しかし終盤ブレーキにトラブルが発生、マシンは持ちこたえたが最終順位を9位まで落とすことになった。第12戦エドモントンではシーズン最高の予選4番手、3番手スタートを獲得、決勝でも上位を維持し53周目に2位までポジションを上げた。その後リーダーのエリオ・カストロネベスを追走するがプッシュ・トゥ・パスの残量で勝るカストロネベスを相手にオーバーテイクには至らず0.8763秒差の2位でフィニッシュ。自己ベストを更新し、武藤英紀と並ぶ日本人ドライバー最高位タイを記録した。年間ランキングは14位(全戦参戦17名)。_NEWLINE_また、インディカーとスケジュールが重ならない日程で、日本国内のレースにスポット参戦した。フォーミュラ・ニッポンにはチーム無限より3戦に出場。FIA 世界耐久選手権の第7戦富士6時間にはLMP1クラスのOAKペスカローロより参戦した。 _START_SECTION_ 2013年 _START_PARAGRAPH_ 1月10日、A.J.フォイト・エンタープライズとの契約が発表される(A.J.フォイトは前年のインディ500でのファイナルラップでのチャレンジを見て獲得を決めたという)。序盤2戦はマシントラブルやドリンクシステムのトラブルでピットでの給水を余儀なくされたことなどが響きそれぞれ8位、14位に終わる。_NEWLINE_第3戦ロングビーチでは4番手グリッドであったが、決勝直前の最終プラクティスでトップタイムを記録すると、スタートでまずウィル・パワーを抜いて3番手に上がり、23周目には前年のこのレースで佐藤に接触した因縁を持つライアン・ハンター=レイを抜き去り2位、その後のピットでダリオ・フランキッティを抜いてトップに立つ。その後は一度もトップを譲ることなく圧倒的な速さを見せつけ、インディカー・シリーズ(CART、チャンプカーを含む)の歴史において、また、スーパーフォーミュラ(フォーミュラ・ニッポン以前を含む)を除くトップフォーミュラの歴史において日本人として初めての優勝を飾った。続く第4戦サンパウロでも、残り1周の時点までトップを快走したが、最終ラップでジェームズ・ヒンチクリフに逆転を許し、2位に終わる。それでもこの2位入賞により、佐藤は総合順位首位に浮上した。_NEWLINE_しかし第5戦のインディ500では、前年のような見せ場も無く決勝13位に終わった。続く第6戦以降においては、第9戦ミルウォーキーでの決勝7位が唯一の決勝一桁順位となり、それ以外のレースでは自身のミスやマシントラブルで尽く決勝下位に沈んだ。特に10月6日の第18戦(ヒューストン)においては、最終周でデブリを拾ってコントロールを乱し、ダリオ・フランキッティ、E.J.ヴィソとの接触事故を起こす。特にフランキッティの車体は宙に舞いフェンスに激突、脊柱と右足首を骨折する大けがとなり、飛び散った破片で観客14人が負傷するなど、大きなクラッシュとなった。フランキッティの怪我は競技に戻れるまでには治癒せず、このレースをもって引退することとなった。_NEWLINE_結局のところ、琢磨は初優勝を飾ったシーズンであったにもかかわらず、第4戦の総合順位首位から最終戦の総合17位(全戦参戦21名)にまで転落し、昨年・一昨年にも及ばない総合順位で終了してしまった。_NEWLINE_同年11月には、翌年より本格的なシリーズ展開が予定されているフォーミュラEのワンメイクマシンである「SRT_01E」の開発ドライバーに起用されることが発表された。 _START_SECTION_ 2014年 _START_PARAGRAPH_ 2014年シーズンもAJフォイト・レーシングで参戦した。開幕戦のセントピーターズバーグではポールポジションを獲得し(決勝は7位)、幸先の良い出だしとなったかに見えた。_NEWLINE_しかしこれ以降は、第7戦のデトロイト・レース2でポールを再び獲得したことを除くと、第13戦までの決勝最高位が9位(第4戦インディアナポリス)という不振に陥ってしまう。完走すらままならず、第8戦から第13戦まで6戦連続リタイアも喫している。第14戦トロント・レース2でようやく決勝5位に入り、終盤2戦(第17・18戦)では決勝4位、6位となっている。しかし、総合順位を挽回するには時すでに遅く、前年を更に下回る総合18位(全戦参戦21名)に終わった。_NEWLINE_9月に北京で行われたフォーミュラEの開幕戦に鈴木亜久里率いるアムリン・アグリ・フォーミュラEチームよりスポット参戦をした。 _START_SECTION_ 2015年 _START_PARAGRAPH_ AJフォイト・レーシングで3年目のシーズンを戦った。決勝最高位は2位、総合14位(全戦参戦18名) _START_SECTION_ 2016年 _START_PARAGRAPH_ AJフォイト・レーシングで4年目のシーズンを迎える。これは、オーナーのAJフォイトを除くドライバーではチーム最長である。_NEWLINE_シーズン終了後、チームがシボレーに移籍、チームも琢磨を残留させる意向であったがホンダとの契約もありチームを離脱、アンドレッティ・オートスポーツに移籍した。 _START_SECTION_ 2017年 _START_PARAGRAPH_ 5月28日、自身8度目となるインディ500では、予選で日本人過去最高の4位に付けた。決勝ではスタートに出遅れたものの65周目にトップに出る。その後ピットミスで10位まで下げるが徐々に順位を上げていき、196周目にエリオ・カストロネベスをかわしてトップに出るとそのままチェッカーフラッグを受け、日本人初のインディ500優勝を達成した(アジア人としても初)。インディカー・シリーズ参戦124戦目の快挙は、自身のオーバルトラック初勝利でもある。この快挙にチームオーナーであるマイケル・アンドレッティやこの年インディ500にスポット参戦したチームメイトのフェルナンド・アロンソ、更に前年まで所属したA.J.フォイト・エンタープライズのクルー達(ビクトリーレーンに向かうピットレーン上で、ここのクルー達とハイタッチをかわしている)やA.J.フォイトからも祝福を受け、日本国内でも道頓堀グリコサインが優勝を祝うサインを表示するなど琢磨の優勝を祝福した。日本国政府も「日頃のたゆみない精進によって、モータースポーツにおいて数々の記録を打ち立て、極めて優れた業績を挙げた」として、8月4日付で内閣総理大臣顕彰を授与。_NEWLINE_その後もシングルフィニッシュを記録し、シリーズチャンピオンも期待されたが、後半戦以降は精彩を欠いた。それでも自身最高の総合8位を記録している。 _START_SECTION_ 2018年 _START_PARAGRAPH_ 2017年9月20日、アンドレッティがシボレー移籍を匂わせたこともあり、2018年シーズンをRLRに移籍して戦うことを発表。RLRには2012年以来6年ぶりの復帰となる。_NEWLINE_開幕前にISMレースウェイで行われた合同テストでは、チームメートのグラハム・レイホールと共に全セッションで最速タイムを独占した。_NEWLINE_シーズン開幕戦となるセントピーターズバーグではファスト6に残り予選6位を獲得するが、レースでは中盤にスコット・ディクソンと接触し後退、12位フィニッシュとなった。その後もシーズンを通して戦略面や接触により後退するレースが度々あり、連覇を狙ったインディ500でも序盤に周回遅れのジェームス・ディヴィソンと接触しリタイア、総合32位となった。_NEWLINE_第11戦アイオワでは5位走行中の292周目に前方でスピンしたエド・カーペンターと接触。琢磨にダメージはなかったものの、カーペンターの部品が散乱しイエローコーションが提示される。この時点で琢磨より上位にいたジョセフ・ニューガーデン、ロバート・ウィッケンスは再スタートを予測しピットイン。しかし再スタートはなくイエローチェッカーとなり、順位が繰り上がったことで琢磨が3位表彰台を獲得した。_NEWLINE_第16戦ポートランドでは予選20番手となるも、スタート直後のイエローコーション中にピットで燃料を継ぎ足し、その後のピットストップを他車より1回減らす作戦を採る。これが見事に功を奏し、自身3度目、ロードコースでは初の優勝を果たした。_NEWLINE_9月16日、シーズン最終戦終了直後に、インディカー参戦10年目となる翌年のこのチームへの残留が発表された。 _START_SECTION_ 2019年 _START_PARAGRAPH_ レイホール移籍2シーズン目(チーム在籍通算3シーズン目)のシーズン。_NEWLINE_第3戦のバーバーでレイホール復帰後初、通算8度目のポール・ポジションからスタート、ピットタイミングによる順位変動以外は先頭を走り続け、通算4勝目を自身初のポール・トゥ・ウインで飾った。_NEWLINE_インディ500でも一度は周回遅れになりながらも挽回し3位になるなど、ランキングも上位に位置し中盤戦を迎えたが、中盤戦はテキサスでポールポジションを獲得した以外は目立ったリザルトを残せずにタイトル争いからは後退。_NEWLINE_そして、第14戦のポコノではスタート直後にアレクサンダー・ロッシと接触。その後、5台を巻き込む多重クラッシュとなった。TV解説を含め、このアクシデントについて他のドライバーたちや元ドライバーからも琢磨の非を問う声が多く上がり、SNSでも琢磨を糾弾する声が上がった。しかし、レイホール・レターマン・ラニガン・レーシングは琢磨のオンボード映像をインディカーに提出し潔白が証明される。琢磨を批判した人たちも次々と批判発言を撤回した。_NEWLINE_苦境を乗り越えて迎えた続く第15戦のゲートウェイでは、スタートで出遅れその後に周回遅れにもなるものの、ピットタイミングとイエローコーションのタイミングで幸運に恵まれ、残り43周の再スタートをトップで迎える。そのままトップを維持したファイナルラップではエド・カーペンターと0.0399秒差の大接戦を制し、通算5勝目を初のシーズン複数勝利で飾った。また、この勝利によりロード・ストリート・オーバル・ショートオーバルというインディカーで開催される4つのコースタイプ全てで勝利を挙げたドライバーとなった。_NEWLINE_ポイントが2倍となる最終戦ラグナ・セカで21位完走に終わり、2017年のランキング最上位更新はならず、9位でシーズンを終了した。 _START_SECTION_ フォーミュラE _START_PARAGRAPH_ かつてF1でもタッグを組んでいた鈴木亜久里のチーム、アムリン・アグリからフォーミュラEの初戦にスポット参戦する。結果はリタイアに終わったが、ファステストラップを獲得、2ポイントを得る。_NEWLINE_フォーミュラEでの最初のファステストラップ獲得者となった。
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Q11384324
_START_ARTICLE_ 佐藤竹秀 _START_SECTION_ 来歴・人物 _START_PARAGRAPH_ 静岡高では1年生の時、1963年の夏の甲子園に控え投手として出場。登板機会はなく2回戦で銚子商に敗退。3年生の1965年春の選抜では2試合に登板、準々決勝で岡山東商の平松政次に完封を喫する。同年夏の県予選でも決勝に進出するが、内田順三のいた東海大一高に延長10回サヨナラ負け、甲子園出場を逸する。高校同期に小田義人、服部敏和がいる。_NEWLINE_卒業後は日本軽金属に入社し外野手に転向。1969年の都市対抗にチームとして18年ぶりに出場するが、1回戦で日本生命に敗退。_NEWLINE_同年のドラフト6位で近鉄バファローズに指名され、翌年シーズン後に入団。1971年のジュニアオールスターにも出場。1974年に一軍に定着し、主に代打として起用される。翌年から外野の準レギュラーとして活躍。しかし1977年に平野光泰が台頭すると、押し出される形となって出場機会が激減する。1978年オフに神部年男、寺田吉孝と共に、チャーリー・マニエル、永尾泰憲との交換トレードでヤクルトスワローズに移籍。ここでもあまり出番はなく、1979年限りで現役引退。_NEWLINE_左投手に強く、1975年には11本塁打を放ったようにパンチ力のある打撃力が持ち味の選手であった。1976年、5月31日と7月11日の共に対太平洋クラブライオンズ戦で永射保から代打サヨナラ満塁本塁打を放っており、シーズン2本の代打サヨナラ満塁本塁打は日本プロ野球史上2人目の記録である。_NEWLINE_引退後は地元の会社員となっていたが、2001年3月に逝去。享年53。
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Q11384990
_START_ARTICLE_ 佐野妙 _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ 2006年、芳文社『まんがタイムファミリー』9月号誌上にて「あなたとふたり」がゲストとして掲載され、4コマ漫画家としてデビュー。その後同誌にて2006年10月号より2007年5月号まで「ふんわりシスターズ」がゲスト扱いとして掲載、その後「Smileすいーつ」と改題して『まんがタイムファミリー』2007年6月号より2010年5月号まで連載。さらに同年竹書房『まんがライフMOMO』10月号より「森田さんは無口」の連載を開始。同作品はテレビ埼玉およびKBS京都にて、2011年7月よりアニメ化。_NEWLINE_2013年現在、『まんがライフMOMO』および『まんがくらぶ』にて「森田さんは無口」を、『まんがタウン』(双葉社)にて「しましま日誌」を、『まんがタイムファミリー』にて「村ドル」を、『まんがライフ』(竹書房)にて「ウリとツメ」を、それぞれ連載しているほか、朝日小学生新聞に掲載の牧野節子による児童小説の挿絵を担当するなど、漫画作品以外の場にも活動の幅を広げている。_NEWLINE_2010年4月、竹書房より自身初となる作品名を表した再録4コマ誌『まんがライフセレクション 森田さんは無口増刊号』が発売された。以後、『まんがライフセレクション』においては年に1回程度のペースで、佐野作品を中心に据えた号が刊行されている。 _START_SECTION_ 作風 _START_PARAGRAPH_ 主に少女や20代女性を主人公にした、キャラクターの表情がとても豊かな作品を発表している。また、作中で感嘆符(!)が使われる事は少なく、普通なら使われる場面の場合、文末は「〜っ」や「〜っっ」などの捨て仮名を用いて表現している。
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Q23940672
_START_ARTICLE_ 依田広太郎 _START_PARAGRAPH_ 依田 広太郎(よだ ひろたろう、1853年(嘉永六年) - 1916年〈大正5年〉5月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将、丹後国宮津(現・京都府宮津市)出身。 _START_SECTION_ 人物 _START_PARAGRAPH_ 宮津藩軍監・依田伴蔵の長男。1877年(明治10年)陸軍士官学校(旧1期) を卒業し陸軍少尉任官。累進して陸軍歩兵中佐となり監軍部参謀事務取扱や第29連隊長を務め、1898年(明治31年))10月1日 陸軍歩兵大佐に昇進すると、陸軍戸山学校長、砲兵会議議員、歩兵第47連隊長を歴任した。1903年(明治36年)12月9日 陸軍少将に任官、同日付けで歩兵第4旅団長を拝命する。次いで歩兵第12旅団長、歩兵第1旅団長を経て、1910年(明治43年)11月30日 、陸軍中将となり第7代第11師団師団長に就任。その5年後の1915年(大正4年)依願で予備役編入となった。
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Q11387447
_START_ARTICLE_ 働け!吉田くん _START_PARAGRAPH_ 『働け!吉田くん』(はたらけ!よしだくん)は、2010年に蛙男商会が制作したアニメーション作品。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 『菅井君と家族石』『秘密結社鷹の爪』でおなじみのキャラクター「吉田くん」が広告代理店に入社し、担当する案件に関する解説を独特の切り口で行う。 _START_SECTION_ ストーリー _START_PARAGRAPH_ 大手広告代理店「山の上広告社」の社長の乱心により行われた「くじ引き入社」第一号社員として、山の上広告社に入社した島根の吉田くんがとし江の下に配属される。
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Q45420274
_START_ARTICLE_ 僕たちは希望という名の列車に乗った _START_SECTION_ ストーリー _START_PARAGRAPH_ ベルリンの壁が建設される前の1956年の東ドイツ。エリート高校に通うテオとクルトはある日、遊びに出かけた西ベルリンの映画館でハンガリーの民衆蜂起を伝えるニュース映像を見る。_NEWLINE_ソ連による軍事介入で多数の人々が犠牲になったことに怒りを感じた2人は、ただ犠牲者を哀悼したいという純粋な気持ちから、級友たちに呼びかけて授業中に2分間の黙祷を行った。_NEWLINE_だが、この行為はソ連の影響下にある東ドイツにおいては体制への反逆行為とみなされ、当局の調査が入り、国民教育相から生徒たちに一週間以内に首謀者を明かすこと、それに従わない者は全員退学に処すという通達が下る。_NEWLINE_生徒たちは大切な仲間を密告してエリート街道を進むか、それとも信念を貫き大学進学を諦めて労働者として生きるか、人生を左右する大きな決断を迫られる。
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Q26046068
_START_ARTICLE_ 元宿仁 _START_PARAGRAPH_ 元宿 仁(もとじゅく ひとし、1945年(昭和20年)8月4日 - )は、日本の政党職員。長年にわたり自由民主党本部の事務方のトップである事務総長(及び事務局長)を務めている。群馬県生まれ。日本ペンクラブ会員。 _START_SECTION_ 略歴 _START_PARAGRAPH_ 群馬県利根郡川場村生品(なましな)に四人兄弟の次男として生まれる。生家が貧しかったことから、中学卒業後の就職先も決まっていたが、教師や兄などの強い勧めもあり内定先を辞退して群馬県立沼田高等学校に進学、高校では柔道部に所属し、3年時には関東大会に出場するなど活躍する。高校卒業後は昼間はアルバイトをしながら夜間は法政大学短期大学部で学び、同短大卒業後は駒澤大学に編入し、1968年3月に卒業。大学では経済学と経理を学んだ。大学時代からすでに知人の紹介で自民党本部でアルバイトを始めており、大学卒業後はそのまま党事務局員として採用され、中央政治大学院を卒業したのち、党本部職員となる。その後は主に経理畑を歩み、経理部長を経たのち、2000年に事務方トップの事務局長に就任。2006年には定年延長の上、 新設の事務総長に就く。民主党に政権を奪われた後の2010年7月にいったん一線を退くが、再び総裁に返り咲いた安倍晋三に呼び戻され、同じく再度事務総長のポストに就き、現在に至る。_NEWLINE_長らく自民党の「金庫番」として党の資金集めにおいて中心的な役割を担っているとされる。_NEWLINE_絵画(描画)が趣味であり、総理経験者や閣僚経験者と名を連ねて政界人として美術展に出品することも珍しくない。 _START_SECTION_ 日歯連事件との関係 _START_PARAGRAPH_ 2004年、当時党内最大派閥だった橋本派の幹部・関係者が起訴され有罪になった日歯連闇献金事件で深い関与が指摘されたことがある。村岡兼造橋本派会長代理の公判には証人として出廷した。 _START_SECTION_ 作詞 _START_PARAGRAPH_ 川場村イメージソング『想い出は果てしなく』(作曲:諏訪利行)2013年
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Q62085363
_START_ARTICLE_ 光成準治 _START_PARAGRAPH_ 光成 準治(みつなり じゅんじ、1963年 - )は、日本史学者。 _START_SECTION_ 略歴 _START_PARAGRAPH_ 大阪府豊中市生まれ、広島県で育つ。広島県庁勤務ののち、2006年九州大学大学院比較社会文化学府博士課程修了、「日本中・近世移行期大名領国における社会構造の研究」で博士(比較社会文化)。鈴峯女子短期大学非常勤講師、LEC専任講師。専攻は日本中・近世移行期史、空間構造史。
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Q6816597
_START_ARTICLE_ 免田駅 _START_SECTION_ 駅構造 _START_PARAGRAPH_ 島式ホーム1面2線を有し、列車交換が可能な地上駅。島式ホームを持つ駅は七尾線では当駅のみとなっている。下り線の横に小さな駅舎を持ち、その駅舎から直接ホームへの跨線橋が出ている。このように駅舎から直接跨線橋が出ている駅は珍しい。七尾線内にはほかに金丸駅がある。_NEWLINE_七尾鉄道部管理の無人駅であるが、駅舎内に自動券売機が設置されている。
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Q79451
_START_ARTICLE_ 免疫グロブリンM _START_PARAGRAPH_ 免疫グロブリンM(めんえきグロブリンM、Immunoglobulin M、IgM)は、B細胞に存在する抗体のクラス(アイソタイプ)の一つである。赤血球のABO式血液型の由来となるA抗原、B抗原に対する主な抗体もこれに属するものである。またヒトの持つ中では最もサイズが大きな抗体でもある。抗体は無脊椎動物には見られず、軟骨魚類以降の脊椎動物で見つかっており、IgMのみがそのすべてで共通に見られる。 _START_SECTION_ 構造と機能 _START_PARAGRAPH_ IgMでは、いくつかの免疫グロブリンがジスルフィド結合でつながって多量体を形成している。五量体が多いが六量体のものもあり、五量体の分子量は約900kである。1つの単量体が2つの抗原結合部位を持っているため、五量体のIgMには合計10個の抗原結合部位があることになる。しかし抗原のサイズが大きいため、通常IgMに10個の抗原が同時に結合することはない。_NEWLINE_J鎖は五量体のIgMにはあるが、おそらく空間の制約のために六量体のIgMには現れない。またJ鎖を欠いた五量体もある。現在のところ、五量体のどの部位にJ鎖があるかも、五量体には2つ以上のJ鎖が含まれることがあるのかも分かっていない。_NEWLINE_IgMはとても大きな分子であるため拡散しにくく、少量が間質液中に存在し、ほとんどは血清中に存在する。_NEWLINE_IgMは多量体であるため、親和力が大きく、補体活性も高い。 _START_SECTION_ 発現 _START_PARAGRAPH_ 生殖細胞では、重鎖のμ領域の遺伝子が最も先頭に位置している。このためIgMは成熟したB細胞で最初に発現する免疫グロブリンである。_NEWLINE_またIgMは20週目ほどの胎児が最初に発現する免疫グロブリン、系統発生学的に最も早くに発達した免疫グロブリンでもある。 _START_SECTION_ 医療的な重要性 _START_PARAGRAPH_ 感染の初期に発現し生体防御の初段階を担うのはこのIgMに属すいずれかの抗体で、それらは症状が進むと再び発現するようになる。またIgMに属す抗体はヒトの胎盤を通過できない。_NEWLINE_これらの2つの生物学的性質によって、IgMは感染症の診断に用いられる。患者の血清の中にIgMが見つかると感染症に罹っていることを意味する。また新生児の血清から見つかると、先天性風疹など子宮内での感染があったことが分かる。 _START_SECTION_ その他 _START_PARAGRAPH_ IgMは、感染の体験がなく免疫がない時でも、血清中で特異的な抗原に結合していることがある。このためIgMは自然抗原と呼ばれることもある。この現象はおそらくIgMの抗原との高い親和性によるものであるものと思われる。例えば赤血球中でA抗原、B抗原と結合しているIgM抗体などである。_NEWLINE_IgMは、血液型の違う輸血を受けた場合に血液が凝固する現象の主な原因である。
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Q28684565
_START_ARTICLE_ 全国消費生活情報ネットワークシステム _START_PARAGRAPH_ 全国消費生活情報ネットワークシステム(ぜんこくしょうひせいかつじょうほうネットワークシステム、Practical living Information Online network system)とは、独立行政法人国民生活センターが運営する詐欺師・悪徳商法などから守るために作られた防犯情報ネットワーク。略称PIO-NET(パイオネット)。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ PIO-NETは、国民生活センターと全国の消費生活センターを結び、消費者からの相談を円滑に行うと同時に、情報を蓄積し、その予防等に務めるために設置された。「消費生活相談データベース」として公開されている。。1984年(昭和59年)から2016年(平成28年)5月末までの情報累積件数は約1,992万件となっている。新手の詐欺手法や特に被害報告が多い詐欺手法は、国民生活センター上で公開され、関連各省や警察などにも情報共有し、新たな被害者の発生予防に務める。マスコミを通して注意喚起が行われることも度々ある。 _START_SECTION_ 利用方法 _START_PARAGRAPH_ 消費生活相談データベースにアクセスし、先方の操作ガイドに従って操作することで閲覧できる。
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Q11389454
_START_ARTICLE_ 全国珍スポーツ決定版 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 祭りやその他の伝統行事の中で行われる珍しい競技の数々を「スポーツ」として紹介していた番組で、ガッツ石松がレギュラーを務めていた。
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Q55538812
_START_ARTICLE_ 全国高等専門学校野球大会 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 1924年(大正13年)、京都帝大の主唱によって第1回の全国高等専門学校野球大会が開催された。この大会は東京・京都・東北・九州の四帝国大学野球連盟が主催し、朝日新聞社が後援となり、各帝大所在地で地区予選(東北・関東・関西・西部)を行い、地区代表4チームを1箇所に集めて優勝戦を行うものであった(試合会場は東京と京都で1年交代の持ち回り)。_NEWLINE_その後、1928年(昭和3年)になって京大が阪神電鉄の援助も受けることにしたため、会場は甲子園球場に定まった。しかし、電鉄会社の後援のもとで有料試合を行うことに批判が起き、一高は“高専分離”を提案。専門学校勢の躍進が背景にあったが、三高は「分離はレベル低下となる」と反論したため、このときは高専分離は行われなかった。_NEWLINE_1932年(昭和7年)、野球統制令が出されたことをきっかけに、改革論議が東大と京大の間で再燃。東大の主張を容れる形で1934年(昭和9年)は大会を2部制とした。しかし中途半端な改革だったため再び論議を呼び、翌年春、連盟はついに分裂。その後は全国高等学校野球連盟と全国実業専門学校野球連盟の手により、高校野球大会と実業専門学校野球大会が別個に開催されるようになった。両大会は戦時中断をはさんで1948年(昭和23年)まで行われた。
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Q11390009
_START_ARTICLE_ 全日本ラリー選手権 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 1979年の全日本ラリードライバー選手権を前身として1980年から全日本ラリー選手権となった。2000年以降の運営支援は同年に発足したJRCA (Japanese Rally Competition Association) により行われ、JAF公認規定の元で全国各地の主催者により、2012年以降は4月 - 10月の期間に年間9戦が開催されている。参戦するドライバー及びコ・ドライバーは、国内B級以上のライセンスが必要となる。_NEWLINE_クラスは排気量を基準として6つに分けられ、2006年からは2005年までのクラス順位とは別に、全クラスを含めて真のNo.1を決める総合順位が設定された。使用車両はグループN規定に近い国内規定に準じたもので改造範囲が狭く、室内は内張りが除かれロールケージが取り付けられているが、エンジンはリストリクターの装着を除けば市販車とほぼ同じである。競技区間は閉鎖されたコースのSSと、一般車両に混じり移動する区間のリエゾンに分かれ、それぞれの規則に則って走行する。_NEWLINE_近年は、SUPER GTのGT300クラスと同様に、キャラクターやイラストなどがボディに描かれた痛車も増加している。これは注目を集める目的も有るが、SUPER GTを始めとするオンロードレースと異なり、プロモーターが存在せず、各地の主催者が持ち回りで開催しているため、将来的な競技継続の観点からも国内ラリーの認知度を高めて新規の客層を開拓する必要性が高まったことによる。2008年のメロンブックスシティ、2011年のCJRTサトリアネオ、2016/2017年のインギング86などクラスタイトルの実績も多い。 _START_SECTION_ スケジュール _START_PARAGRAPH_ イベントにより1日間 - 3日間で行われ、それぞれの1日をDAY (デイ) と呼称する。DAYは、実質的なレース区間であるSS (Special Stage: スペシャルステージ) と計測地点のTC (Time Control: タイムコントロール)、SSとSSを結ぶ移動区間 (ロードセクション) となるリエゾンに分けられ、競技はアイテナリーと呼ばれるタイムスケジュール表に沿って進められる。スタート間隔はイベントに異なるが、通常は1分、上位のドライバーは2分となっている。 _START_SECTION_ 準備 _START_PARAGRAPH_ 競技前にレッキと呼ばれる下見走行を行い、ドライバーとコ・ドライバーはコース状況を把握してペースノートの製作を行う。コースは実際に競技で使われるコースを走れるが、使用する車は競技車両ではなく一般車両となる。シェイクダウンと呼ばれる、実際に競技車両を使用して最終チェックを行った後、違反の有無を確認する車検後に、競技車両は、ドライバーを含め全ての関係者は競技開始まで触れることが出来ないパルクフェルメと呼ばれる車両保管所に置かれる。 _START_SECTION_ リエゾン _START_PARAGRAPH_ 一般公道を移動する区間で、道路交通法に従い一般車両に混じって走行し、TCに入る時間は車両毎に指定されている。道路運送車両法に定められた保安基準を満たしていない場合は公道走行を止められる可能性があり、特にSSでのトラブルで車が破損した場合などに問題となる。リエゾンも競技の一部であり、主催者から示されるコマ図に従って走行するというラリー競技当初の姿が現在も残っている。 _START_SECTION_ SS _START_PARAGRAPH_ 一般公道を閉鎖して作られたタイムトライアル区間のスペシャルステージ (Special Stage) で、SS (エスエス) と呼ばれる。スタート地点はTC内に設置され、ドライバーは全開でアタックする。各DAY最後のSS終了後はTCに移動してリエゾンを通り、サービスパークと呼ばれる本部に戻る。その後、車両は再びパルクフェルメに保管されて次のDAYの競技開始を待つ。 _START_SECTION_ クラス _START_PARAGRAPH_ 分類はFIAのグループN規定をベースとして日本独自の規定を加えたものである。2008年からは「スーパー1500」がJN1.5クラスとして、2009年にJN2クラスとして導入。2014年には2013年までの4クラスが再編され全6クラスとなった。2016年からJN6クラスは4WDに限定されている。ターボ車の排気量は1.7倍換算となる。_NEWLINE_2019年のR5車両導入をきっかけに、番号が若い方が下であった従来とは逆に、WRCやAPRC同様若い方が上のクラスに変更された。 _START_SECTION_ ポイント _START_PARAGRAPH_ 1位 - 8位までに、それぞれ10-8-6-5-4-3-2-1ポイントが与えられ、ステージ距離や路面により係数が掛けられる。50km - 100kmのターマックを1.0として、グラベルが1.2。50km未満はターマック・グラベル共に0.8、50 - 100kmは、100 -150km未満は、ターマックが1.2、グラベルが1.5、150km以上はターマックが1.5、グラベルが2.0となる。_NEWLINE_獲得ポイントはクラス順位と総合順位の両方に加算され、8戦以上に出場している場合は上位7戦分のポイントで計算される。2011年からは、クラス別に各DAYの1 - 3位に上位から1 - 3ポイントが与えられるデイポイント制が導入された。 _START_SECTION_ 沿革 _START_PARAGRAPH_ 1979年に全日本ラリードライバー選手権として始まり、翌1980年より現在の大会名となる。当初はエンジン排気量1.3L以下のAクラスと1.3L以上のBクラスの2クラスで争われた。1984年からは1L以下を加えて排気量の少ない順からA - Cの3クラスとなり、1987年 - 2001年はFIAが定めたクラスに基づき、1L以下、1.6L以下、1.6L以上とされ、2002年 - 2005年は、1.4L以下、2.0L以下、2.0L以上とされ。1995年から第2部門として2WDのみによる選手権が始まり、1998年 - 2005年までは2WD部門と4WD部門とで駆動方式別の選手権を開催していた。また、各部門内で排気量により分類を行い、全クラスで優勝者・選手権保持者が決定していた。2006年、アベレージラリー→SSラリー方式に変更された。_NEWLINE_2000年代、日本でもWRCイベントを開催しようという機運が高まり、手始めとして2001年に第19回スパイク・インターナショナル 日本アルペンラリーが国内初のFIA規定による国際レースとして開催され、国内のラリー競技も日本独自の方式からFIAが定める国際基準に合わせる動きが起こる。2002年、エンジン排気量に掛ける過給器の係数とラリー競技車両の安全基準を国際基準に準拠させ、2004年からはWRCラリージャパンが開催されている。2006年、従来のレギュレーションを大幅に見直した新規定が導入された事に伴い、2WDと4WDという駆動方式別の部門が廃止されたことにより総合順位という概念が誕生した(クラス分けは継続)。同時にアベレージ・ラリーを廃止し、SSのタイムを争うSSラリーに統一した。_NEWLINE_2019年からはグループR5が参戦することが可能になる。
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Q1505018
_START_ARTICLE_ 全米批評家協会賞 _START_PARAGRAPH_ 全米批評家協会賞(National Book Critics Circle Awards)は、アメリカの文学賞の一つ。全米批評家協会(National Book Critics Circle)から、毎年優れた英語作品に対し、小説(Fiction)、ノンフィクション(General Non-Fiction)、伝記・自叙伝(Biography and Autobiograhy)・詩(Poetry)・批評(Criticism)の5つの部門ごとに表彰が行なわれる。
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_START_ARTICLE_ 八日市場市 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ かつて毎月八日に市が開かれ、市場町として発展した。「八日市場」の名はこれにちなむ。似た市名としては、滋賀県の八日市市(ようかいちし、現東近江市)があった。また、匝瑳市に改称後もかつてのイ〜ホの前に「八日市場」の名が付いている。
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_START_ARTICLE_ 共産主義労働者党赤色戦線派 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 70年安保闘争の後、共産主義労働者党(共労党)及びその学生組織であるプロレタリア学生同盟(プロ学同)の運動方針、1969年の沖縄闘争や11決戦、70年安保闘争の総括を巡り党内に分裂が生じていた。_NEWLINE_そのような中でかつて党内において「全人民武装決起貫徹」を標榜していたいいだももらを中心とした一部のメンバーによって赤色戦線派として1971年頃より党内の一フラクションとして組織され、1971年秋に武装闘争に踏み切ろうとした折、共労党内の労働者革命派とプロレタリア革命派が同調して阻止し、その後除名された赤色戦線派が1972年12月に共労党赤色戦線派として結成された。_NEWLINE_1972年8月25日には日本赤軍結成後の共産同赤軍派内の残存メンバー、反戦共闘(レーニン研究会)や旧ML派(後に解放委員会)らとともに「ベトナム八月革命支援集会」を開催し、「八・二五共闘」を発足した。_NEWLINE_独立後、三里塚闘争等にも参加していたが、メンバーが集まらず更に指導者であるいいだももの離脱などにより党派としては停滞し1980年頃まで活動していたとされる。一部の残存メンバーはその後も三里塚闘争などで活動していた。 _START_SECTION_ エピソード _START_PARAGRAPH_ 三里塚闘争に参加していた折、毛沢東語録を読んでおり他党派から失笑されたという。
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_START_ARTICLE_ 兼古製作所 _START_SECTION_ 会社概要 _START_PARAGRAPH_ アネックス(Anex )ブランドのドライバー専門メーカーとして知られる。_NEWLINE_素材から社内一貫生産を行なっている。創業当初は木製の柄の付いたマイナスドライバーより始まり、その後日本の高度成長期にミシンや農業機械の付属用ドライバーとして量産化に成功して拡大成長した。当時はクローバー(CLOVER )ブランドとして、工具メーカーというより下請けメーカーのイメージが強かった。_NEWLINE_二代目の現社長は学生時代に光風会に所属する画家に学ぶほどの芸術(絵画)好きで、そのデザインへのこだわりが現在のアネックスブランドを誕生させ、海外の有名ブランドPBスイスツールズやウェラのドライバーに並ぶ高級ドライバーへと成長させた。現在そのノウハウを六角棒レンチ・ハンマーにも生かし商品の拡大を図っている。商品開発は、社長自らがラフデザインを行ないデザイン事務所と商品コンセプトを決め、社内プロジェクトを立ち上げている。その成果は高級ブランドの確立と社内人材育成、2013年までグッドデザイン賞認定の29年連続取得となっている。_NEWLINE_創業当時のブランド名CLOVER(クローバー:商標登録ユキクローバー)は、中小企業は雑草のごとく踏みつけられてもたくましく根強く繁るようにとの思いが込められていた。ANEX(アネックス)ブランドは、1985年頃にKANEKOを活かし現社長が誕生させた。ACTION・NICE・EXCELLENT「行動しよう、よりよく、より素晴らしく」の思いが込められている。_NEWLINE_販売ルートが金物屋からホームセンターに変化するとともにラチェットドライバーや電動工具用の高機能ビットの開発に力を入れ、現在では「ドライバー」と「ビット」の生産本数がほぼ半々になっている。
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_START_ARTICLE_ 冀察政務委員会 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 中華民国で1935年(民国24年、昭和10年)12月18日に国民政府により設置された機関であり、宋哲元を委員長に任命し、河北省、チャハル(察哈爾)省を統治させた。 _NEWLINE_1935年12月19日付の東京朝日新聞によると、中国北部で発生した住民による自治運動の高まりとそれに対する国民政府の対立の中で「民意尊重と友好国との親睦」を掲げていたことが記されており、「河北省の自治と防共」、「国民政府からの分離」を目指した。_NEWLINE_姫野徳一の『冀察・冀東問題』によれば、民衆自治運動を背景として成立したが、その権限は限られており、自治政権としての性格は弱く、通常は中央政府の意向を受けながら施政を行い、その傾向は特に人事・徴税・外交の各分野に関して顕著だったとしている。_NEWLINE_これは蒋介石が関東軍による日本の傀儡化がこれ以上及ぶのを恐れ先手を打ち、表面上は日本が要求している北支自治運動の形式を取りながら、実態は南京政府の制御下にある「日本の傀儡でない自治政府」である。そのため、国民党政府でありながらも日本人軍事顧問が招聘された。宋委員長の指揮下にあった中国第29軍では桜井徳太郎、中島弟四郎、笠井半蔵が軍事顧問を務めており、盧溝橋事件の際には現地解決に努めた。冀東防共自治政府は冀察政務委員会と満州国に挟まった傀儡地方政権である。 _START_SECTION_ 河北自治運動 _START_PARAGRAPH_ 1935年10月22日付の東京朝日新聞によれば、1935年10月21日河北で自治運動が発生した。1935年10月23日付の東京朝日新聞では、香河県の有力者・武玉亭を指導者とした彼らは武器を持たず、減税と自治を要求していたことが伝えられているが、これは日本側の華北分離工作に伴う支援を受けていたという見解も存在する。_NEWLINE_1935年10月24日付の東京朝日新聞によれば、10月23日には彼らは香河県城を占拠し、「中国国民党打倒」「官吏の罷免」「孫文の建国大綱に基づく地方自治と農民救済を要求する宣言」を発表し、運動は河北省全域に波及する情勢となった。宣言内容では自治を原則とし、土地の公有反対、共産勢力に対する警戒、農村救済、減税、福祉増進を挙げ、同日、河北省各県代表連席会は緊急会議を開催し、各県の民衆が一致して香河民衆を援助する方針を決議したことが伝えられている。_NEWLINE_当時の東京朝日新聞によると、この運動の根本原因には国民政府による搾取があったとされ、10月27日には話し合いの末、保安隊により香河県城が接収され、その地域では解決したが、自治を求めて次々と蜂起が続いたことが伝えられている。_NEWLINE_高木翔之助の『冀東から中華新政権へ』によれば、河北省首席・商震は国民政府の意向を受け、事態の収拾に当たったが、自治運動が塘沽停戦協定で決められた非武装地帯内で発生したことから武力鎮圧をおこなうことはできず(自治運動を起こした側もこの点を考慮したと見られる)、一方日本軍中央でも中国北部の農民運動に対して中国政府が武力鎮圧することを牽制していたが、 商震の斡旋と日本軍司令官・多田駿中将の和平工作により自治運動は小康状態となったとしている。 _START_SECTION_ 委員会成立への道 _START_PARAGRAPH_ 宋哲元は自治運動が自身の勢力拡大に有利であり、大義名分もあることを背景に中国北部に新政権を樹立する動きを見せた。この動きに対して国民政府側は馮玉祥の密使を使って独立を指向する勢力の切崩しを図った。宋に協力の姿勢を見せた韓復榘に対しては中央軍を移動させて威嚇を行っている。_NEWLINE_中村幸雄によれば、土肥原賢二少将の構想した北支政権の成否は、山西省と綏遠省を支配していた閻錫山の態度次第であったが、閻錫山は態度を決めかね、日本側の提案を受諾しなかった。この時期、南京政府の軍事委員会委員長が蒋介石、閻錫山は副委員長であった。このため日本側は土肥原構想を推進するため、閻錫山の掌握を目的として山西省に特務機関を創設した。_NEWLINE_中村隆英によれば、関東軍は11月12日より山海関に戦力を集中させ、中央に「英国の中国経済支配は民衆に害をなし、満洲国に脅威となるので、北支諸省を経済的に分離せしめてこれに対抗する。中国政府の今回の失策に乗じて、華北分離工作を断行するべきだ」との趣旨を打電し、その追認を受けた。このような軍事的背景をもってしても、予定された11月20日までに宋を籠絡できなかったので、殷汝耕にも圧力をかけ、11月23日には冀東防共自治委員会設立を公表させた。_NEWLINE_12月9日に北平・天津の学生らによる自治反対の抗日デモが発生した(一二・九運動)。中村幸雄によれば、一二・九運動は中国共産党北方局書記であった劉少奇指導によるもので土肥原少将の北支政権樹立工作に対する反撃である上に、この時期には長征にあった毛沢東軍が10月延安に終結すると敗戦部隊であった状態から直ちに劉子丹軍を吸収、編成を改正し、陝北根拠地の建設に取りかかり戦力を回復させるが、一二・九運動はこの軍再建に必要な多くの幹部軍官の充足のために行われた幹部軍官募集の意味での学生の獲得運動という一面もあり、大量の知識分子が獲得され、1936年2月には共産軍による山西侵入作戦が起こされ、その実力を誇示している。_NEWLINE_この機に察哈爾、河北の軍権を掌握して中国北部最大の実力者となった宋は徐々に自治を進めて国民政府との衝突を避けようとしたが、中央政府による冀察綏靖公署主任への就任要求は拒絶した。宋が北方自治政権樹立を決意したことに激怒した蒋介石は宋に対し「中央の意思に叛くようなことがあれば断固たる措置を取る」という警告の電報を送ったが、宋は中国北部の自治を要求する電報を中央に送り、場合によっては宋、秦徳純、程克、張自忠など要人が総辞職した後に自治政権を樹立する構えを見せた。_NEWLINE_中国北部の新政権はあくまで南京政府の支配下に置くという腹案を携えて何応欽が北平に派遣されて交渉が行われたが、宋は一切の官職を辞して天津に退避し、何には北平からの退去勧告を出した。何は南京政府と宋の双方を満足させる妥協案を蕭振瀛と練り上げることで宋との会見を実現させ、合意を得た。_NEWLINE_1936年(民国25年)8月19日の宋哲元委員長歓迎宴会には、宋と秦徳純、今井武夫、牟田口廉也、河辺正三、松村孝良、川越茂などが出席した。 _START_SECTION_ 抗日意識の高まり _START_PARAGRAPH_ 冀東政権につづいて冀察政務委員会設立の動きが具体化すると、華北分離の危機感が拡がった。まず起ちあがったのは北平の学生たちである。12月9日、酷寒の中を五千人の学生が、「日本帝国主義打倒」「華北自治反対」「全国が武装して華北を守れ」などのスローガンを叫びながらデモ行進した(一二・九運動)。デモ隊の中心は奉天を追われて北平に移転していた東北大学の学生たちであった。事前に学生の行動を察知した宋哲元は、警察、軍隊を大量に動員し、放水、棍棒、大刀、銃剣で阻止し、多数の負傷者・逮捕者を出した。しかし学生たちは屈しなかった。さらに12月16日冀察政務委員会成立予定日に、ふたたび一万余の学生がデモ行進を行ない、軍隊・警察と激しい衝突をくりかえしながら市民数万人が参加する民衆大会を開き、「冀察政務委員会を承認しない」「華北のいかなる傀儡組織にも反対する」「東北の失地を回復せよ」などの決議案を採択した。政務委員会の成立大会は十八日に延期され、ひそやかな形で行なわざるをえなくなった。_NEWLINE_当局の厳しい取締りの中で敢行された。この学生たちの運動は、全国に波紋を拡げ、 蒋介石の「学生運動禁止令」(1936年1月)を無視して、全国主要都市で学生の集会、デモが挙行された。学生たちは救国宣伝団を組織して農村に入り、農民たちに亡国の危機と抗日の道を説いた。こうした運動を基盤にして、五月には全国学生救国連合会が上海で結成され、おりからの日本の支那駐屯軍大増強(1800人から5800人に)に反対する運動を全国に拡大していった。学生たちの運動はさらに広範な階層へと拡がっていった。一二・九の直後、上海で沈鈞儒、鄒韜奮らの「上海文化界救国会」が、また「上海婦女界救国連合会」がつくられ、1936年5月には、全国の同様な組織六十余を結集した「全国各界救国連合会」が誕生して、「内戦停止、一致抗日」を要求した。これに対して国民党政府は、1936年2月「治安維持緊急治罪法」を発布して抗日運動を厳しく抑圧し、11月には全国各界連合会の指導者沈鈞儒、鄒韜奮、章乃器ら七人を「民国に危害を加えた」との罪名で逮捕した。いわゆる「抗日七君子事件」である。しかしこのような弾圧は、運動に一層拍車をかける結果となり、抗日救国の声は全国にみなぎった。 _START_SECTION_ 冀察政務委員会成立 _START_PARAGRAPH_ 1935年12月18日冀察政務委員会が成立した。目的は「河北省の民衆による自治と防共」「外交、軍事、経済、財政、人事、交通の権限を中央からの分離」を意図していた。成立にあたって「民意尊重」と「友好国との親睦」が宣言され、日本との提携が強調された。翌年2月には土肥原賢二少将を冀察政務委員会最高顧問に招聘することを求め、日本軍当局は土肥原を中将に昇進させてこれに応じた。_NEWLINE_日本軍の中国駐屯軍首脳会議でも冀察政務委員会を独自政権と認めたが、冀東防共自治政府の殷汝耕は初めこそ冀察新政権に参加を表明したものの、その政権が依然南京政府と連絡し、独立した存在とは言えないとして不参加を表明した。 _START_SECTION_ 国民政府の冀察委員会対策 _START_PARAGRAPH_ 冀察政務委員会は自治を求めて成立したが、中国国民党は1935年12月2日から同月7日まで開催した第五期一中全会において中央集権確立を決定していた。 _START_SECTION_ 国民政府の宋哲元対策 _START_PARAGRAPH_ 国民党中央部並びに政府各部から影響力のある人物が視察と称して頻繁に中国北部に派遣された。その中の馮玉祥、鹿鍾麟、石敬亭らの目的は宋哲元と韓復榘両名に中央の意思を伝え、冀察政権が中央に全く服従することを誓約させることであった。宋と韓両名はかつて馮の部下であり、その当時は鹿と石両名も馮の部下であり寝食を共にした経験を持つ上に誰もが山東、河北の出身であった。_NEWLINE_同時に世論を中国北部の中央化に向けるため鉄道建設中止、炭坑譲渡不許可といった中央の権限行使が行われたり、税警団の山東配備のように中央軍が形を変えて地方に駐屯することで拠点を獲得するということが行われた。_NEWLINE_冀察政府の実力の背景は国民革命軍第二十九軍であったが、これは中央軍ではなく宋が軍長であり、梅津・何応欽協定によって国民政府の中央軍と党部が河北から退去させられた後は国民政府が多数の中堅将校を二十九軍に入り込ませ、彼等は二十九軍上層部が抗日から親日に態度を変更して保身を図ることとは対照的に、もともと抗日意識が高かったその兵士に抗日の気運を徹底させる工作を行っていた。 _START_SECTION_ 防共協定 _START_PARAGRAPH_ 宋哲元は山西省共産化の危機が増大したことに鑑み、共産軍の河北省および察哈爾省への侵入を防ぐために取り合えず第二十九軍の一部を省境に配置し、自ら保定に赴き数日間にわたり河北省南部の縣長会議を招集して防共に関する指針を与え、3月29日察哈爾省主席張自忠より察哈爾省における防共の情勢を聴取し協議を行い、午後天津に赴き多田駐屯軍司令官、松室北平特務機関長、今井北平武官らと会見して北支防共に関する会議を行なった。3月30日、多田駐屯軍司令官と冀察綏靖主席宋哲元との間で、防共に関する秘密協定が結ばれ「相協同シテ一切ノ共産主義的行為ノ防遏に従事スル」ことを約したといわれる。また翌31日に調印されたという細目協定の要旨は、(一)冀察政権は閻錫山と協同して共匪の掃蕩に従事す。これがため閻と防共協定を結ぶことに努む。閻にして之を肯ぜざるときは適時独自の立場に於て山西に兵を進め共匪を掃滅す。(二)共産運動に関する情報の交換。(三)冀察政権は、防共を貫徹するため、山東側、綏遠側と協同し、必要に応じ防共協定を結ぶことに努む。(四)日本側は、冀察側の防共に関する行為を支持し、必要なる援助を行なう、と決めている。東アジア全体の安定のため日本から提議された北支、外蒙古における赤化の日支共同防衛に関して南京政府と協議する件については南京政府にその熱意はなかった。張群は北支と日本との防共協定締結に同意していたが、蒋介石は有田八郎との防共協定の締結を拒絶しており、さらに西安事件を転機に蒋介石はソ連との提携したために、日中の防共協定締結は幻となった。 _START_SECTION_ 冀察政務委員会の終焉 _START_PARAGRAPH_ 1937年7月、蘆溝橋事件が勃発すると同委員会は日本軍との折衝を行い、宋哲元と張自忠は香月清司と橋本群と会見を行いこのままなら解決できそうであったが、蒋介石は宋哲元に妥協を禁じた。二十九軍は7月11日の現地停戦協定の後にも7月20日には盧溝橋城から日本軍に銃撃を加え、同時に八宝山方面にあった部隊の一部も日本軍を攻撃したため日本軍も応戦するという事件が起こり、25日には廊坊事件を起こした。翌26日には日本陸軍参謀総長は支那駐屯軍に武力行使容認を指示し、支那駐屯の日本軍は盧溝橋と八宝山の部隊については27日正午、北平城内兵と西苑部隊については28日正午を期限とする退去勧告を二十九軍に出した。_NEWLINE_同日、中国側は広安門事件を起こした。この事件は、直前に起きた廊坊事件とともに中国側の規範意識の欠如と残酷な面を見せつけ、中国側に対して全く反省を期待できない不誠意の表れであり和平解決の望みが絶たれたと判断した日本軍支那駐屯軍は7月27日夜半になって前日の通告を取消し、改めて冀察政務委員会委員長であり、二十九軍軍長でもあった宋哲元に対し「協定履行の不誠意と屡次(るじ)の挑戦的行為とは、最早我軍の隠忍し能(あた)はざる所であり、就中(なかんずく)広安門に於ける欺瞞(ぎまん)行為は我軍を侮辱する甚(はなは)だしきものにして、断じて赦すべからざるものであるから、軍は茲(ここ)に独自の行動を執(と)る」ことを通告し、さらに北平城内の戦禍を避けるために中国側が全ての軍隊を城内から撤退させることを勧告した。_NEWLINE_日本軍支那駐屯軍は28日早朝から北平・天津地方の中国軍に攻撃を加える為、必要な部署を用意し、広報としては河北の民衆を敵視するものではなく、列国の権益とその居留民の生命財産と安全を図り、中国北部の獲得の意図がないことを布告し、これと同じ内容が内閣書記官長談として発表された。駐屯軍は28日から北平周辺の中国軍に対し攻撃を開始し、天津方面では28日夜半から中国軍の攻撃が開始され、各方面で日本軍が勝利し2日間で中国軍の掃蕩が完了した。_NEWLINE_日本軍の総攻撃を受けた二十九軍は、北平・天津地区から駆逐されて国民革命軍に合流した。28日夜、宋哲元は張自忠に冀察政務委員会委員長、綏清交署主任及び北平市長の代理を務めるように指示を出すと秦徳純、馮治安とともに北平を脱出した。他方、市民有志により治安維持会が組織されている。_NEWLINE_冀察政務委員会では不在となった委員に対して8月3日付で補充が行われたが、同月5日には張自忠は冀察政務委員会委員長代理を辞し、同月19日に冀察政務委員会は事務を江朝宗に託して解散した。江は北平地方維持会主席と北平市長を兼務していたがその業務として従来の政務委員会行政事務一般を引継いでいる。
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_START_ARTICLE_ 内平野町 _START_SECTION_ 地理 _START_PARAGRAPH_ 大阪市中央区の北部に位置。北は道修町、南は船越町、東は谷町二丁目、南は大手通、西は阪神高速1号環状線の高架下を流れる東横堀川を挟んで平野町とそれぞれ接する。 _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ 1872年(明治5年)に亀山町、大沢町、内平野町2丁目、内平野町の一部を統合し、内平野町1 - 2丁目となった(旧・内平野町の残余は高麗橋詰町と豊後町の各一部となった)。1989年(平成元年)に豊後町の一部を編入し、1 - 3丁目に再編された。もとは土佐堀通から、現在は北大江公園で分断されたため高麗橋通から南下する高倉筋が当町で終わる。 _START_SECTION_ 町名の由来 _START_PARAGRAPH_ 船場の平野町の東に位置し、豊臣大坂城の惣構の内であったことから「内」を冠している。
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_START_ARTICLE_ 内田理央 _START_SECTION_ 略歴 _START_PARAGRAPH_ 2010年4月、日本テレビ『アイドルの穴〜日テレジェニックを探せ!〜』でデビュー。同年6月、「日テレジェニック2010」に選ばれる。同年9月、雑誌『B.L.T.』の企画「B.L.TRAVELファンイベントバスツアー」から結成された事務所非公認ユニット「LPG」のメンバーとなる。_NEWLINE_2013年11月27日、「LPG(事務所公認)イベントVol.1」(2014年1月25日)の選抜メンバーに選ばれる。_NEWLINE_2014年3月21日、劇団マツモトカズミのレギュラーメンバー1期生に選ばれる。_NEWLINE_2014年3月25日、日本大学を卒業。_NEWLINE_2014年10月からテレビ朝日系列の特撮テレビドラマ『仮面ライダードライブ』にて、詩島霧子役を演じ本格的に女優デビュー。2015年10月からは、ファッション雑誌『MORE』の専属モデルとなる。_NEWLINE_2016年、映画『血まみれスケバンチェーンソー』で初主演。同年9月25日、オフィシャルファンクラブを開設。_NEWLINE_また、ニコニコ生放送「WOWOWぷらすと」(毎週月 - 金 19時30分から配信)で、MCを担当している。_NEWLINE_2019年、『おっさんずラブ』(テレビ朝日系・2018年4月期)の演技により第22回日刊スポーツ・ドラマグランプリ助演女優賞を受賞。
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Q17217126
_START_ARTICLE_ 内野二朗 _START_PARAGRAPH_ 内野 二朗(うちの じろう、1927年6月27日 - 2004年6月15日)は、日本のプロモーター、キョードー東京を中心とするキョードー・グループの創立者。 _START_SECTION_ 生涯 _START_PARAGRAPH_ 現在の埼玉県狭山市で、生まれ育った。「貧しい中で小学校を卒業し」、実家近くの陸軍航空士官学校付属飛行機工場に勤めながら、夜間の青年学校に学んで、中学校卒業資格を得る。海軍飛行予科練習生甲種に志願し、合格するも、既に飛行機の生産がままならない状況の中で、人間魚雷(回天)の乗員として山口県防府の海軍基地に配属された。しかし、直後に病気で入院を余儀なくされ、そのまま終戦を迎えた。_NEWLINE_戦後は、陸軍航空士官学校を接収した米第5空軍のジョンソン基地(現在の航空自衛隊入間基地)で働きながら、英語を学ぶために明治学院大学の夜間英語学校に通い、後にはジョンソン基地の経理担当者となった。その後、ジョンソン基地で将校クラブのフロア・マネージャーをしていた永島達司が立ち上げた新々プロダクションから転職を誘われるも、すぐにはこれに応じず、北海道の米軍千歳基地に勤務してから東京に戻り、新々プロに経理担当者として入社した。その後、新々プロは1957年に協同企画と改称した。1959年、協同企画の業務としてナイトクラブ「ニュー・ラテン・クォーター」のショー・プロデューサーとなり、以降およそ10年間にわたって手腕をふるった。_NEWLINE_1962年、協同企画を退社して独立し、汎芸能企画事務所を立ち上げ、代表取締役となる。汎芸能企画事務所は、1964年に協同企画エージェンシーと改称し、さらに1970年に株式会社キョードー東京となった。この間、1966年に、事務所が現在地の北青山の共同ビルに移転している。その1966年に、協同企画エージェンシーは協同企画とともにビートルズ来日公演に関わり、永島が「招聘の交渉」を引き受けたのに対し、内野は「現場の仕切り」を担った。その後、1971年には、ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ、シカゴ、グランド・ファンク・レイルロード、エルトン・ジョンなど、キョードー東京が企画した海外からの来日アーティストの興行の多くに関わり、1970年代なかば以降は、日本のいわゆるニューミュージック系アーティストたちの興行にも関わった。_NEWLINE_1975年には、ラジオ・チャリティー・ミュージックソンのアイデアを、ニッポン放送に提案し、年末の12月24日から翌25日にかけて、萩本欽一をメインパーソナリティとする24時間のラジオ放送によるチャリティ番組が実現した。_NEWLINE_1986年、内野はキョードー東京の代表取締役を勇退し、嵐田三郎にその座を譲った。_NEWLINE_その後、1990年から1993年まで、株式会社S.S.P.代表取締役を勤め、以降も、株式会社オデッセーや、株式会社ミュージックリーグなどの経営に当たった。_NEWLINE_晩年の内野はチャリティなどに関わることも多く、1993年には、アクト・アゲインスト・エイズの発起人代表となった。また、社団法人コンサートプロモーターズ協会の相談役など、業界団体の役職も務めた。_NEWLINE_死去時には、ミュージックリーグ相談役であった。
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Q1142254
_START_ARTICLE_ 内閣官房 _START_SECTION_ 概説 _START_PARAGRAPH_ 内閣官房の入る内閣府庁舎の所在地は、東京都千代田区永田町一丁目6番1号(通称「本府ビル」)。幹部の執務室や内閣広報室など、内閣官房の内部組織の一部は、この庁舎から道を隔てて隣にある総理大臣官邸に置かれる。_NEWLINE_内閣官房は、閣議事項の整理、内閣の庶務、行政各部の施策の総合調整などを行う。内閣総理大臣を主任の大臣とし、国務大臣たる内閣官房長官が事務を統括する。内閣官房長官は「総理の女房役」と呼ばれることもあり、組閣の際には真っ先に任命されて、首相の右腕として働く。_NEWLINE_官僚組織としては、すべての府省より上位に位置する組織とされる。事務担当の内閣官房副長官は、認証官であり官僚のトップとされ、旧内務省系の省庁(総務省、警察庁、厚生労働省、国土交通省)の事務次官経験者から任命することが多い。 _START_SECTION_ 所管法人 _START_PARAGRAPH_ 内閣官房が主管する独立行政法人、特殊法人及び特別の法律により設立される民間法人(特別民間法人)は存在しない。 _START_SECTION_ 財政 _START_PARAGRAPH_ 2018年度(平成30年度)一般会計当初予算における内閣官房所管予算は 972億5424万9千円。_NEWLINE_国会、裁判所、会計検査院、内閣、内閣府、復興庁、総務省、法務省、外務省、財務省、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省及び防衛省所管の東日本大震災復興特別会計を内閣として共管する。 _START_SECTION_ 職員 _START_PARAGRAPH_ 一般職の在職者数は2018年7月1日現在、内閣官房全体で1,049人(うち、女性142人)である。_NEWLINE_行政機関定員令に定められた内閣官房の定員は、内閣法制局と合わせて、内閣の機関として定められており、特別職16人を含めて1,218人である。_NEWLINE_内閣官房の一般職の職員は非現業の国家公務員なので、労働基本権のうち争議権と団体協約締結権は国家公務員法により認められていない。団結権は認められており、職員は労働組合として国家公務員法の規定する「職員団体」を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる(国家公務員法第108条の2第3項)。_NEWLINE_2018年3月31日現在、人事院に登録された職員団体の数について資料に内閣官房の項はない。
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Q7489395
_START_ARTICLE_ 写楽 (映画) _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 浮世絵師の東洲斎写楽の研究家としても知られるコメディアンのフランキー堺が企画総指揮および脚色(脚色は本名の堺正俊名義)を行った写楽の伝記作品。監督は篠田正浩が務め写楽役は真田広之が担当、フランキーは写楽の絵の版元である蔦屋重三郎役を演じている。_NEWLINE_音楽を担当した武満徹は、本作が映画音楽としての遺作となった。公開翌年の1996年に日曜洋画劇場で放送された際、番組最後にテロップで告知された。_NEWLINE_真田広之と葉月里緒菜はこの共演で知り合い、不倫関係に発展。最終的に真田が離婚する事態となった。_NEWLINE_評論家の淀川長治は作品冒頭で春画を登場させたことを厳しく批判し、見るに堪えない作品と酷評した。 _START_SECTION_ あらすじ _START_PARAGRAPH_ 寛政3年(1791年)、舞台を見ていた大道芸人のおかんは稲荷町役者・十郎兵衛が市川團十郎の上るハシゴに足を潰されて血を流しているのを発見。役者として使いものにならなくなった彼を大道芸の道に引き込む。十郎兵衛は「とんぼ」と呼ばれるようになる。おかんたちと一緒に吉原界隈などに現れてはケチな商売をし、歌舞伎小屋に出入りして書割りを描く手伝いをしていた。_NEWLINE_山東京伝や喜多川歌麿といった人気浮世絵師を抱える版元の蔦屋重三郎は京伝の描いた洒落本がお上のご禁令に触れ、手鎖50日の刑に服していた。将来に不安を感じた歌麿は蔦屋を見限り、他の版元へ鞍替えする。_NEWLINE_蔦屋は起死回生を図ろうと幾五郎や鉄蔵などを使って役者絵に挑戦する。ある日、鉄蔵が名もない男が描いたという絵を蔦屋に届ける。上手ではないが、溢れかえる毒気に魅力を感じた蔦屋は早速その絵の描き主・十郎兵衛を探し出し、役者絵を描くように説得を試みる。こうして謎の絵師・東洲齊写楽(幾五郎「人を真似る楽しみ」という)が誕生し、世間や役者たちに反感を買いながらも一世風靡する。歌麿はこの才能に敏感に反応し、自分の地位を危ぶみ、謎の人物を探し、ようやく十郎兵衛であることを突き止める。_NEWLINE_十郎兵衛を見た歌麿はたびたび吉原に姿を現していた大道芸人であったことを思い出し、しかも自分の贔屓(ひいき)の花魁・花里と懇意であったことから嫉妬の炎を燃やす。二人を江戸から追放させようと画策。「世の中は地獄の上の花火かな」と逃げる二人はすぐに追っ手に捕らえられ、十郎兵衛は拷問を受け、花里は薄汚い女郎屋に売られてしまう。寛政9年(1797年)、蔦屋の葬儀の日、立派な行列や見物人の中に歌麿や幾五郎(十返舎一九)、鉄蔵(葛飾北斎)、そして大道芸人に戻った十郎兵衛の姿があった。
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Q22131366
_START_ARTICLE_ 冨田若春 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 柔道は6歳の時に大阪で開催された世界選手権の48kg級で6連覇を果たした田村亮子の活躍に影響を受けて、松前柔道塾で始めた。小学校5年の時に全国小学生学年別柔道大会40kg超級で優勝を飾った。6年の時には45kg超級で優勝して今大会2連覇を達成した。_NEWLINE_中学になると神奈川県にある相武館吉田道場に入門して寮生活を送ることになった。相原中学1年の時にはマルちゃん杯で3位になった。2年の時にはマルちゃん杯と近代柔道杯で3位になった。3年の時には全国中学校柔道大会の個人戦70kg超級で香長中学3年の斉藤芽生に有効で敗れて2位だった。団体戦では3位になった。マルちゃん杯は2位だった。_NEWLINE_埼玉栄高校へ進むと、1年の時にはインターハイの団体戦で優勝を飾った。国体少年女子の部では決勝で東京都に敗れて2位だった。全国高校選手権の個人戦無差別では決勝で東海大学第四高校2年の佐藤杏香に指導2で敗れて2位だったが、団体戦では同級生の常見海琴とともに活躍して優勝を飾り、最優秀選手に選ばれた。2年の時には全日本カデの70kg超級で優勝した。金鷲旗でも優勝を成し遂げた。アジアジュニアでは決勝でカザフスタンのルザ・ドゥフトゥルバエワに合技で敗れて2位に終わった。全国高校選手権の個人戦無差別では準決勝で元力士及びプロレスラーだった荒谷望誉の娘である荒谷莉佳子に横四方固で敗れて3位だったが、団体戦では前年に続いて常見とともに活躍して2連覇を飾った。3年の時には全日本選手権で5位に入った。金鷲旗では3位だった。インターハイの団体戦でも3位だったものの、個人戦では決勝で東大阪大敬愛高校3年の斉藤芽生を上四方固で破って優勝した。全日本ジュニアでは決勝で東海大学1年の朝比奈沙羅に合技で敗れて2位だったものの、世界ジュニア代表に選ばれた。世界ジュニアでは決勝でブラジルのカミラ・ノゲイラを内股で破るなど、オール一本勝ちで優勝を飾った。団体戦でも決勝のフランス戦を始め全試合に勝利してチームの優勝に貢献した。12月のグランドスラム・東京では準々決勝でロンドンオリンピック金メダリストであるキューバのイダリス・オルティスに敗れるなどして5位に終わった。_NEWLINE_2016年にはコマツ女子柔道部の所属となった。2017年のヨーロッパオープン・ソフィア決勝ではリオデジャネイロオリンピックで優勝したエミリ・アンデオルに反則負けを喫して2位だった。2018年の全日本選手権では準決勝で淑徳大学4年の井上舞子にGSを含めて14分近い戦いの末に反則勝ちを収めるも、決勝では南筑高校3年の素根輝にGSに入ってから反則負けを喫するが2位になった。6月の実業団体では2位だった。8月の実業個人選手権では決勝でミキハウスの山部佳苗を技ありで破って優勝した。2019年4月の全日本女子選手権では準々決勝で東海大学1年の児玉ひかるを内股すかしで破るも、準決勝でパーク24の朝比奈沙羅に大外巻込で敗れて3位だった。6月の実業団体では三井住友戦で稲森奈見と引き分けるも、チームは優勝した。7月のグランプリ・ブダペストでは準々決勝でリオデジャネイロオリンピック金メダリストであるキューバのイダリス・オルティスにGSに入ってから反則勝ちするなどして決勝まで進むと、チュニジアのニヘル・シェイフルフに反則勝ちして全て一本勝ちでIJFワールド柔道ツアー初優勝を飾った。
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Q22128498
_START_ARTICLE_ 冬の蝉 (さだまさしの曲) _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 1989年に「建具屋カトーの決心 -儂がジジイになった頃-」、「修羅の如く」とリリースし、第三弾としてリリースしたのが本曲である。_NEWLINE_日本テレビ系年末時代劇スペシャル『奇兵隊』の主題歌となった。
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Q5871354
_START_ARTICLE_ 処刑リスト _START_SECTION_ あらすじ _START_PARAGRAPH_ ある日、ジャックが外出先から帰宅すると、友人が何者かに殺され、妻は大怪我をさせられ、そして息子の姿がなかった。一体何が起きたのか?ジャックが調べを進めると、驚きの真相が明らかとなった。_NEWLINE_FBIが長年追い続けていたマフィアのボス、ヴィック・ルカがついに起訴され、側近のフランクがその裁判で証言することになった。その証言次第で、ヴィック・ルカは終身刑以上の刑は確実となる状況だった。_NEWLINE_そこでヴィック・ルカはフランクを黙らせるため、彼の息子を誘拐して“保険”にしようと考え、凄腕の殺し屋カリークを送り込んだ。しかし、カリークは番地を間違えて全く無関係のジャックの家に押し入り、凶行に及んだのだった。しかもカリークは、ターゲットを間違えたことに気づいていなかった。_NEWLINE_ジャックはFBIに息子を助け出してほしいと要請するが、彼らは誘拐事件の捜査よりヴィック・ルカの裁判を重視しており、その腰は重たかった。マフィアとFBI双方の理不尽さに怒りを爆発させたジャックはフランクと手を結び、息子を取り戻すべく立ち上がる。
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Q3977852
_START_ARTICLE_ 刑事犬カール _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 高杉婦警と、警察犬のカールの名コンビが様々な事件を解決していく。主人公の高杉洋子役をアイドル・木之内みどりが演じた事や、警察犬カール号(を演じた犬たち)の芸達者さ、頭の良さが話題になり、人気を博した。1981年(昭和56年)には同じくTBSで、坂上味和を主演に『刑事犬カールII』が製作されている。_NEWLINE_TBSおよびJNN加盟各局で放送。再放送も同様で、CS放送のTBSチャンネルでも再放送されている。「刑事犬」という言葉はこの番組独自のものであり、番組プロデューサーの造語である。本放送の終了後もこの言葉は定着しておらず、一般的ではない。_NEWLINE_主役の刑事犬「カール」はオーディションで選ばれた。荒川でこのオーディションがあり、300頭ほどが集められたが、湯浅憲明監督には見立てができず、「これには泣かされた」と語っている。結局栃木の「須藤警察犬訓練所」のスタッフに選んでもらったといい、メインの「クラッフォー・オブ・ツカサドール」と、その弟、妹、いとこの合計四頭が起用された。妹犬はカールの代役、弟犬らは物を咬んだり嗅いだりといった細かい演技に使われた。番組最後まで複数の犬を使っていることに気付く者は外部におらず、これらの全てが一頭の犬と思いこんだ某県警から一度、「警察犬として使いたいのでカールの種をくれないか」と申し出があったという。湯浅監督は困って「品不足なので」とごまかしたという。_NEWLINE_撮影にはこの四頭が常時待機していて、これらの餌用にアイスボックスに入れた牛肉と牛乳が現場に用意されていた。この犬たちは「1キロ1500円(当時)以下の肉は食べない」という注意つきで、湯浅監督によると、「カールたち」が高級肉を食べている横で撮影スタッフは350円のロケ弁当を食べていたという。_NEWLINE_撮影では犬たちのストレスも多く、メインのカールがノイローゼになって餌をとれず痩せてしまった際には、主演犬が回復するまで妹犬が代役を演じている。番組はロングランとなったが、主演のカール「ジル」は体力も衰え、『2』を撮り終わってすぐに死んでしまったという。_NEWLINE_「カール」を提供した栃木の「須藤警察犬訓練所」は番組のテロップで有名になり、大繁盛した。湯浅監督が一度招待されて訪問したところ、カールと同じ種の犬が40頭ほどに増えていたという。 _START_SECTION_ 1991年リメイク版 _START_PARAGRAPH_ 1991年3月23日には、同じTBSの2時間ドラマ枠『ドラマチック22』において、『刑事犬カール・瀬戸内の追跡』というタイトルの単発ドラマとして放送されたが、リメイク前の2作品と比べるとその当時流行したサスペンスドラマと同じ内容となっており、視聴率も4.2%と低かった。この作品以後、リメイク等は行われていない。
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Q10898284
_START_ARTICLE_ 利休七哲 _START_PARAGRAPH_ 利休七哲(りきゅうしちてつ)は、千利休の高弟7人を指す呼称。利休の曾孫にあたる表千家の江岑宗左(逢源斎)の記した『江岑夏書』(こうしんげがき)の中で挙げられている。_NEWLINE_その後、様々な茶書などで構成が微妙に変わり、織田長益(有楽斎)、千道安(利休の実子)、荒木村重(道薫)を加えて「十哲(じってつ)」と呼称される場合もある。また、千道安を除いて前田利長が入る、有馬豊氏や金森長近を加えるなど諸説あるが、いずれも後世呼称されたもので、当時からそのように呼ばれていたわけではない。_NEWLINE_また、古くにおいては「利休七人衆」とも呼ばれていたようである。 _START_SECTION_ 利休門三人衆 _START_PARAGRAPH_ 利休七哲に加えて利休門三人衆といい、利休門下の武将のなかで、特に優れていたといわれる、蒲生氏郷、芝山宗綱(監物)、細川忠興の3人の武将がいる。_NEWLINE_また、彼らは利休七哲にも加わっている。利休七哲と同じで、後世に呼称されたもの。
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Q11397674
_START_ARTICLE_ 前田直行 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 明治11年(1878年)、10代前田直信から家督を相続した。時代が明治に変わっても前田土佐守家の立ち位置は変わらず、前田本家(旧加賀藩主家)の家令として、また学者として活動した。明治33年(1900年)5月9日、父直信の戊辰戦争の戦功によって男爵に叙爵される。先祖直方同様能書家で、漢書家として活躍し、その揮毫するところになる碑文は藩主家の遺跡をはじめ、石川県下のいたるところに存在する。大正年間には初代・利政の岳父である蒲生氏郷の銅像の除幕式のため、本家の当主である前田利為侯爵の代理として滋賀県に赴くなどもしている。遺物として着用した男爵大礼服と写真が現存する。昭和18年(1943年)死去。男爵の爵位は孫の正昭(政雄の子)が継いだ。
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Q8280280
_START_ARTICLE_ 劉維熾 _START_SECTION_ 事跡 _START_PARAGRAPH_ 青年時代にアメリカに留学し、帰国後は広東省電話局局長に就任した。1926年(民国15年)10月、広州市財政局局長に就任し、翌年10月、国民政府財政部塩務署署長に起用された。1929年(民国18年)5月、鉄道部参事兼平漢鉄路管理局局長となり、12月、鉄道部業務司司長に昇進している。_NEWLINE_1932年(民国21年)1月、劉維熾は実業部常務次長に昇進し(1934年11月に同部政務次長)、1935年(民国24年)11月、中国国民党第5期中央執行委員会委員に当選した(1945年5月の第6期でも再選)。翌1936年(民国25年)7月、広東省政府建設庁庁長に異動している。1941年(民国30年)4月、国民党中央党部海外部部長に転じた。_NEWLINE_戦後の1946年(民国35年)11月に制憲国民大会代表に当選し、翌年4月に行政院政務委員兼僑務委員会委員長となる。1948年(民国37年)3月の行憲国民大会でも代表に当選し、同年12月、工商部部長に起用されている。しかし翌1949年(民国38年)3月に劉は早くも辞任し(この際に工商部は経済部に再び改称される)、国共内戦で国民党が敗退すると台湾に逃れた。_NEWLINE_1955年(民国44年)5月11日、死去。享年64。
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Q714176
_START_ARTICLE_ 劉聡 _START_SECTION_ 魏・晋の時代 _START_PARAGRAPH_ 幼い頃から聡明で学問を好み、教育に当たっていた博士朱紀からはただ者ではないと称賛された。_NEWLINE_14歳になると、経史(経書・史書)・百家の学問・孫武・呉起の兵法に精通するようになり、これらで暗誦出来ないものは無かった。文章の才能もあり、草書・隷書を巧みにこなした。著述した懐詩(自らの心情を表す詩)は100篇を越え、賦や頌(詩経の分類)は50篇を越えた。_NEWLINE_15歳の時には武芸を習うようになった。非常に長い腕を持っていた事から特に弓術に秀で、300斤の弓を扱うことが出来た。その逞しさと俊敏さは当時並ぶものがいない程であった。魏晋王朝の重臣であり、父劉淵の親友でもある王渾は、劉聡と会うなり大いに喜び、劉淵へ「この子の力は私には測りしれぬ」と語ったという。_NEWLINE_20歳になると洛陽へ遊学し、多くの名士と交流を深め、朝廷の第一人者である楽広・張華より大いに評価された。_NEWLINE_後に新興郡太守郭頤より招聘を受け、その主簿となった。郭頤からは良将(孝廉を始めとする察挙科目の一つ)として推挙され、驍騎別部司馬に取り立てられた。さらに昇進して右部都尉となると、民百姓をよく慰撫して受け入れ、五部匈奴の豪族で従わないものはいなかった(当時、匈奴の諸部族は魏晋王朝に服属して并州領内に居住しており、左部・右部・南部・北部・中部の五つに分けられていた。これを五部匈奴という)。_NEWLINE_やがて朝廷の権力者である河間王司馬顒の上表により、赤沙中郎将に任じられた。_NEWLINE_当時、父の劉淵は鄴を統治する成都王司馬穎に仕えていたが、晋国内では政変による功臣粛清が相次いでいたので、劉聡は劉淵もまた司馬穎に殺されるのではないかと不安になった。その為、彼は司馬顒の下から離反し、父のいる鄴へ移った。司馬穎からは右積弩将軍・参前鋒戦事に任じられ、軍の前鋒となって戦争に参与した。_NEWLINE_304年8月、右賢王に立てられた。劉淵が司馬穎から離反して郷里に帰還すると、劉聡もこれにつき従った。匈奴の根拠地である左国城に到着すると、劉淵は従祖の劉宣らより上大単于の称号を授かり、劉聡もまた改めて鹿蠡王とされた。 _START_SECTION_ 劉淵の時代 _START_PARAGRAPH_ 同年10月、劉淵が西晋から自立し、漢王朝を樹立した。後に劉聡は撫軍将軍に任じられた。_NEWLINE_308年1月、劉淵の命により、劉聡は他の将軍10人と共に各地の対抗勢力の討伐を委ねられ、南へ向かって太行山に拠点を構えた。_NEWLINE_5月、劉聡は河東において西晋の将軍北宮純らと争ったが、これに敗れた。_NEWLINE_10月、劉淵が皇帝位に即くと、11月に劉聡は車騎大将軍に任じられた。さらに12月には楚王に封じられた。_NEWLINE_309年4月頃、征夷大将軍王弥・前鋒都督石勒と共に壷関へ侵攻した。西晋の并州刺史劉琨は将軍黄粛・韓述に救援を命じたが、劉聡は西澗において韓述軍を撃破し、その首級を挙げた。石勒もまた封田において黄粛を討ち取った。東晋の海王司馬越は淮南内史王曠・将軍施融・曹超を派遣して劉聡を防がせた。劉聡は太行山を越えた所で敵軍と遭遇すると、長平一帯で交戦となったが、これに大勝して施融・曹超を戦死させた。劉聡は遂に屯留・長子を攻略し、討ち取るか捕縛した数は1万9000人を越えた。これにより上党郡太守龐淳は戦意を喪失し、壷関ごと漢軍に降伏した。_NEWLINE_同時期、劉琨が新興郡に割拠している匈奴鉄弗部の劉虎討伐に向かうと、劉聡はその隙を突いて兵を繰り出し、劉琨の本拠地晋陽を襲撃したが、攻略できなかった。_NEWLINE_8月、王弥と共に西晋の首都洛陽攻略に向かった。司馬越は平北将軍曹武・宋抽・彭黙らに迎撃させたが、劉聡らはいずれも返り討ちにした。進軍を続けて宜陽まで到ると、平昌公司馬模は将軍淳于定・呂毅らを、長安から劉聡討伐に向かわせたが、劉聡はこれも撃退した。だが、この連勝により劉聡は驕ってしまい、防備を怠るようになった。9月、弘農郡太守垣延が偽って投降を持ち掛けると、劉聡はこれを信用して陣営に迎え入れた。だが、垣延は夜を待って奇襲を仕掛けたので、劉聡は大敗を喫してしまい、軍を帰還させた。劉淵は白服(喪服)を着て劉聡を迎えたという。_NEWLINE_10月、王弥・始安王劉曜・汝陰王劉景らと共に精騎5万を率いて再び洛陽攻略に向かい、大司空呼延翼が後詰となった。劉聡らが宜陽まで進出すると、晋朝廷は漢軍を二月前に撃退したばかりであったので、再び襲来するとは思っておらず、大いに震えあがった。劉聡らは河南において晋軍を打ち破ると、大きな抵抗も受けずに洛陽城下まで進軍し、西明門の前に屯営した。その夜、涼州の将軍北宮純は勇士1000人余りを率い、護軍賈胤と共に夜襲を掛けた。大夏門において両軍は交戦となったが、配下の将軍呼延顥が討ち取られた事により軍は崩れ、劉聡は南方の洛水に軍を後退させた。だが、呼延翼もまた部下の反逆により殺されると、軍は総崩れとなり、劉聡はさらに後退を余儀なくされた。_NEWLINE_劉淵は敗戦を聞くと、勅書を出して劉聡に退却を命じた。だが、劉聡は晋軍の脆弱さを主張し、呼延顥・呼延翼が戦死した程度で退却するべきではないと訴え、攻撃続行を固く要請したので、劉淵はこれを許した。司馬越は籠城して守りを固めた。_NEWLINE_劉聡は宣陽門に進駐すると、劉曜は上東門に、王弥は広陽門に、劉景は大夏門そにそれぞれ駐屯した。劉聡は嵩山に登って神に勝利を祈願し、平晋将軍劉厲・冠軍将軍呼延朗に軍を統率させ、留守を委ねた。_NEWLINE_司馬越の参軍孫詢は敵本陣に劉聡が不在であることを知ると、司馬越へ漢軍を奇襲するよう勧めた。司馬越はこれに同意し、参軍孫詢・将軍丘光・楼裒らに勇士3000人を与えて攻撃を命じた。孫詢らは宣陽門から出撃して漢軍を撃ち破ると、呼延朗の首級を挙げた。劉聡はこの報告を聞くと急いで戻ったが、劉厲は劉聡に処罰されることを恐れて入水自殺した。_NEWLINE_これを受けて王弥は劉聡へ「今やすでに軍に利はありません。洛陽の守備も堅く、輜重部隊は陝にあって糧食は数日と持ちません。殿下は龍驤(龍驤将軍劉曜)と共に平陽に帰還するべきです。糧を準備して兵を養い、後にまた挙兵しましょう。下官(王弥)もまた兵を収め糧を蓄え、兗・豫の地で命を待ちます。これが最良と考えます」と進言した。劉聡は以前に命令を拒んでまで洛陽攻撃を継続した手前、決断を下す事が出来なかったが、劉淵が黄門郎傅詢らを派遣して再度帰還を促すと、遂に帰還を決断した。11月、劉曜と共に平陽を帰還した。_NEWLINE_12月、大司徒に任じられた。_NEWLINE_310年7月、龍驤大将軍劉曜・鎮軍将軍石勒・安北大将軍趙固・平北大将軍王桑と共に河内へ侵攻し、河内郡太守裴整の守る懐城を包囲した。やがて西晋の征虜将軍宋抽・冠軍将軍梁巨が救援に到来するも、石勒・王桑らが長陵において返り討ちにし、河内の民は裴整を捕らえて降伏した。_NEWLINE_同月、劉淵は病床に伏すようになると、劉聡は大司馬・大単于・録尚書事に任じられ、後事を託された。平陽の西には単于台(胡人の統治を管轄する官署)が設置され、大単于である劉聡がその長官となった。 _START_SECTION_ 劉和殺害 _START_PARAGRAPH_ 8月、劉淵がこの世を去り、長兄である劉和が帝位を継承した。劉和はもともと猜疑心が強い人物であり、西昌王劉鋭・宗正呼延攸・侍中劉乗に唆された事もあり、強大な軍権を掌握していた劉聡と北海王劉乂・魯王劉隆・斉王劉裕ら兄弟の謀反を疑うようになり(劉聡は大単于として10万の胡人を統べる立場にあり、劉乂・劉隆・劉裕は宮中の兵を領していた)、呼延攸らと結託して彼らを排除しようと画策した。_NEWLINE_劉和は時機を見図らって決起し、劉鋭・馬景には単于台にいる劉聡の攻撃を命じた。さらに、他の諸将にもそれぞれ劉乂・劉隆・劉裕を攻撃させたが、劉乂攻撃を命じられていた尚書田密と武衛将軍劉璿は寝返って劉乂に帰順した。その為、劉乂は彼らと共に関所の守備兵を殺して劉聡の下に奔ると、事前に計画を全て漏らしてしまった。その為、劉聡は防備を整えて劉鋭の大軍を待ち構えた。劉鋭は劉聡の陣に備えがあるのを見ると、軍を返して呼延攸・劉乗らと合流し、劉裕・劉隆の攻撃に参加した。彼らは二日の内に劉裕と劉隆を破り、その首級を挙げた。_NEWLINE_その翌日、劉聡は攻勢に転じて西明門を攻撃すると、これを陥落させた。驚いた劉鋭らは南宮に逃げ込んだが、劉聡の前鋒部隊がこれを追いかけた。翌日、劉聡軍は光極西室にいる劉和を捕らえ、妻子ともどもそのまま処刑した。劉乗・劉鋭・呼延攸らもまた捕縛し、市街において晒し首とした。 _START_SECTION_ 皇帝即位 _START_PARAGRAPH_ 劉和の死後、群臣は劉聡に帝位につくよう勧めたが、劉聡自身は側室である張夫人の子であり、末弟の劉乂が正室である単皇后の子であったので、劉聡は彼に位を譲ろうと考えた。だが、劉乂と公卿らは涙を流して劉聡に即位するよう懇願したので、彼は長らく熟考した末に即位を受け入れて「乂(劉乂)と群公は、天下が未だ平定されておらず災いが多いことから、年長である私を推戴した。これは国家の大事であるから、私も従わざるを得ない。だから、魯の隠公のように乂が成人するのを待ち、彼に皇帝位を譲ろうと思う」と宣言し、皇帝の座に即いた。領内に大赦を下して光興と改元し、嫡母である単皇后を貴んで皇太后に立て、劉聡の生母である張夫人を帝太后に立て、劉乂を皇太弟に立てると共に大単于・大司徒に任じた。また、妻の呼延氏を皇后に立て、その子である劉粲を河内王に封じると共に使持節・撫軍大将軍・都督中外諸軍事に任じ、庶長子の劉易を河間王に、劉翼を彭城王に、劉悝を高平王にそれぞれ封じた。_NEWLINE_さらに、石勒を并州刺史に任じ、汲郡公に封じた。略陽郡臨渭県の氐族酋長である蒲洪は多数の氐人を帰服させていたので、劉聡は使者を派遣して蒲洪を平遠将軍に任じる旨を告げ、その勢力を取りこもうと考えたが、蒲洪はこれを受けずに護氐校尉・秦州刺史・略陽公を自称した。_NEWLINE_9月、劉淵を永光陵へ葬り、諡号を光文皇帝、廟号を高祖とした。_NEWLINE_劉淵の次子は劉恭といい、劉聡の同母兄に当たった。だが、劉聡は自ら序列を越えて即位し、さらに末弟の劉乂を皇太弟に立てていたので、劉恭に対し負い目があった。次第に彼の存在を疎ましく思うようになり、劉恭の就寝中を見計らい、刺客を派遣して壁の隙間から彼を刺し殺してしまった。張夫人(劉恭・劉聡の生母)は劉恭の死を聞き、衝撃の余り病を患ったという。_NEWLINE_単氏は容姿端麗であったため、劉聡は彼女を自らの後宮に入れた。匈奴の風習では父が死んだ際、父の妻妾(実母は除く)を子が娶ることを許されていた。だが、漢族の文化では父の妻妾を息子が娶ることは、実母との近親相姦に匹敵する不道徳と見なされていた。そのために、劉乂は何度も母と兄に交わるのを止めるよう諌めた。単氏は思い悩んだ末に自殺した。劉聡は彼女の死を大いに嘆き悲しみ、これ以降、劉乂への寵愛が衰えたが、単氏を追慕して劉乂の皇太弟位は継続された。_NEWLINE_劉粲の生母呼延皇后は劉聡に対し「父が死ぬとその子が受け継ぐというのが、古今からの常道です。陛下は高祖(劉淵)の国を継承したというのに、どうして皇太弟などがいるのでしょうか。陛下が逝去されて百年も経てば、きっと粲の末裔は皆殺しとなっていますよ」と言った。劉聡は「朕もそのことについては憂慮している。もう少し待ち、よく考えてから答えを出そう」となだめたが、呼延皇后は「これを放置しておくと、大事になります。粲たち兄弟が成長して行くのを見て、皇太弟はどう思うでしょうか。きっと、自分の将来が不安になり、異心を抱くに決まっています。万が一、彼が小人と交流があるならば、私たちとの溝はさらに大きくなることでしょう。その事変は、今日にも起こるかもしれませんよ」と、強く進言した。 劉聡の心にはこれに同意するものがあった。 _START_SECTION_ 洛陽攻略 _START_PARAGRAPH_ 10月、劉粲と征東将軍王弥・龍驤将軍劉曜らに4万の兵を与え、洛陽攻略に向かわせた。鎮軍将軍石勒もまた騎兵2万を率いて大陽で合流した。劉粲らは監軍裴邈を澠池で破り、進軍を続けて洛川に入った。その後、轘轅を出て梁国・陳留・汝南・潁川一帯を攻め、砦百余りを陥落させた。石勒は成皋関を越えると、倉垣に進んで陳留郡太守の王讃を包囲したが、敗れて文石津まで撤退した。_NEWLINE_同月、宗族である匈奴鉄弗部の劉虎を楼煩公に封じた。また、司空劉景を大司馬に、左光禄劉殷を大司徒に、右光禄王育を大司空に任じた。_NEWLINE_311年4月、病死した東海王司馬越の棺を守り、山東に向かっていた王衍率いる晋軍10万余りを、石勒が壊滅させた。趙固と王桑は彭城を攻めて徐州刺史の裴盾を殺した。_NEWLINE_5月、石勒の勝利を好機と見た劉聡は、衛尉の呼延晏を使持節・前鋒大都督・前軍大将軍に任じ、禁兵2万7000を授けて宜陽から洛川に入らせた。さらに、王弥・劉曜・石勒に軍を進めて呼延晏と合流するよう命じた。呼延晏が河南へ侵攻すると、晋軍に連勝して3万人を斬った。洛陽攻撃に入ると、平昌門を陥落させ、東陽門・宜陽門と諸々の役所に火を放った。さらに河南尹の劉黙を杜門において撃ち破った。懐帝は河を渡って東へ逃れようとしたが、呼延晏が阻んだ。_NEWLINE_6月、王弥・劉曜が到着すると、再び呼延晏ともに洛陽を包囲した。この時、洛陽城下では酷い食料不足となっており、人が互いに食い合う程であった。百官は離散して、誰も守り抜こうという意志がなかった。王弥・呼延晏は宜陽門を落とすと、南宮に入って太極前殿に上った。兵を放って大掠奪を行い、宮人及び珍宝をことごとく収めた。劉曜は諸王公及び百官以下三万人余りを虐殺し、洛水の北に死体を積み上げて京観を築いた。また、懐帝と恵帝の皇后羊氏を捕らえ、平陽へ送還した。また、伝国の六璽も平陽へ送った。この事件を史書は永嘉の乱と呼ぶ。_NEWLINE_劉聡は大赦を下し、嘉平と改元した。懐帝を丁重に扱い、特進・左光禄大夫に任じ、平阿公に封じた。 _START_SECTION_ 長安攻防 _START_PARAGRAPH_ 次に劉聡は、第二の都である長安攻略に取り掛かった。_NEWLINE_8月、平西将軍趙染と安西将軍劉雅に騎兵2万を与え、南陽王司馬模のいる長安を攻撃させた。さらに、劉粲・劉曜が大軍を率いて後詰めとなった。趙染は潼関で晋軍を破り、将軍呂毅を討ち取った。漢軍が下邽に至ると、司馬模は趙染に降伏した。趙染は司馬模を劉粲のもとへ送った。9月、劉粲は司馬模と子の范陽王司馬黎を殺害し、衛将軍梁芬・長史魯繇・散騎常侍杜驁・辛謐・北宮純らを平陽に送った。劉聡は劉粲が司馬模を殺害したことに大いに怒った。劉粲は「臣は、司馬模が自らの天命を知ることが遅かったために殺害したのです。奴は首都洛陽の危機に際して、命を懸けて戦わなかった。これは天下の悪であることから誅したまでです」と言った。劉聡は「その通りではあるが、我は汝が降伏した者を誅殺したことで、もはや降伏しようと助からないと思われることを恐れているのだ。それに、天道とは神に通じる者であり、我々に天命を理解することなどできぬ」と諭した。劉曜を車騎大将軍・開府儀同三司・雍州牧に任じて中山王に改封して長安を守らせた。また、王弥を大将軍に任じて斉公に封じた。_NEWLINE_10月、石勒が王弥を殺害してその軍を吸収し、劉聡へは王弥が反逆したため討伐したと上表した。劉聡は激怒し使者を派遣すると、石勒が勝手に漢の重臣を殺害したことで上意を無視していると責めた。だが、石勒は既に河北において一大勢力を築き上げており、劉聡は彼が離反することを大いに恐れた。そのため、結局は石勒を許し王弥の軍を統合することも認め、鎮東大将軍・監并幽二州諸軍事・領并州刺史に任じた。_NEWLINE_同月、劉曜が長安に入ると、晋の安定郡太守賈疋を始め、諸々の氐族・羌族は皆人質を送ったが、雍州刺史麹特と新平郡太守竺恢だけは降伏しなかった。また、晋の従事中郎索綝・護軍麹允・頻陽県令梁粛も劉曜に与するのを善しとせず、京兆の南山から安定郡へ逃走を図った。途中、陰密で賈疋の差し出した人質と出会うと、彼らを連れて臨涇に引き返した。彼らは賈疋に晋室復興に協力するよう要請し平南将軍に推挙すると、5万を率いて長安を攻撃した。扶風郡太守梁綜および麹特・竺恢らもこれに呼応して10万を率いて合流した。劉曜は劉雅・趙染を派遣して防がせたが、敗れて帰還した。劉曜は長安の精鋭を率いて諸将と共に黄丘で戦ったが大敗を喫した。自らも流れ矢にあたり、甘渠まで退いた。賈疋はさらに漢の涼州刺史・彭蕩仲を攻撃して殺した。麹特は王禿・紀特らを新豊に派遣して劉粲を攻撃すると、劉粲は平陽に帰還した。劉曜は池陽を陥れ、1万人余りを攫うと、長安に籠った。_NEWLINE_12月、豫州刺史の閻鼎らは晋の秦王司馬鄴を皇太子に奉り、雍城に入ると関中の民は晋・胡族関係なく皆これに応じた。 _START_SECTION_ 暴政の兆し _START_PARAGRAPH_ 312年1月、呼延皇后が亡くなると、劉聡は王育・任凱・朱紀・馬景ら国家の重鎮の娘6人を後宮に入れた。太保劉殷の娘まで後宮に入れようとしたが、同じ劉姓であったことから劉乂が固く諫めた。劉聡は年老いた伯父の太宰劉延年・太傅劉景にこのことを問うと、劉景らは「臣は太保の劉殷が周王室系の劉の康公(姫季子)の子孫であると聞いております。陛下の家系とは違っておりますので、何の問題もないでしょう」と答えた。劉聡は大いに喜び、大鴻臚の李弘を遣わして劉殷の娘2人(劉英と劉娥)を左右の貴嬪とし、昭儀より上位に置いた。また、劉殷の孫娘4人を貴人とし、貴嬪に次ぐ位とした。劉聡が劉弘へ「この女たちは皆、容姿が絶世のものである上に徳も世に冠たるものである。朕と太保劉殷とは別の家系であるから彼女らを娶ったのだが、卿はどう思う」と問うと、劉弘は「陛下とは姓が同じであるだけですので何も問題ないでしょう。魏の司空であった王基は当時における大儒で礼にも通じていましたが、同姓ながら家系の異なる太原の王沈の娘を子のために妻に迎えました」と言った。劉聡は大いに喜び、李弘に黄金六十斤を下賜して「卿はこの事を朕の子弟に伝えるように」と言った。6人の劉氏への寵愛は後宮を傾ける程であり、劉聡はめったに外へ出なくなり、政務を顧みなくなった。国事は全て中黄門が上奏して、左貴嬪の劉英がこれを認可した。_NEWLINE_この頃から劉聡に暴虐な振る舞いが増えた。左都水使者である襄陵王の劉攄は食膳に魚蟹を供出しなかったという理由で死罪となった。将作大匠である望都公の靳陵は温明殿と徽光殿の完成が遅かったという理由で斬られた。_NEWLINE_劉琨の牙門将邢延が新興郡ごと漢に降伏し、劉聡に并州攻撃を求めた。劉聡は鎮北将軍靳沖、平忠将軍卜珝を派遣して晋陽を攻め、包囲した。_NEWLINE_3月、代公拓跋猗盧が兵を率いて晋陽救援に向かった。漢軍は敗れて晋陽から撤退した。_NEWLINE_劉聡の遊猟には節度がなく、朝早くに出かけて夜に帰った。汾水で漁の見物を行い、夜になっても灯りをともし続けた。中軍の王彰は「大難は未だ鎮まっておらず、晋の残党が長安におります。しかしながら、陛下は白竜魚服の災いを忘れ、いつも夜遅くまで帰られません。陛下は先帝の苦労をよく考え、これを受け継ぐべきです。そうすれば、自然と天下の民は情を寄せてきます。にもかかわらず、なぜ自ら成功の道を閉ざすのでしょうか。なぜ堕落の道を選ぶのでしょうか。最近の陛下の振る舞いを観ますに、臣はひどく心を痛めております。人々の心はまだ漢だけに傾いておらず、晋を懐かしむ者もおります。そのうえ、劉琨は遠からぬ地にあり、すぐにでも刺客を送り込むことができます。帝王であろうともひとたび身辺を手薄にして外出すれば、一夫の者でも敵となり得ます。どうか陛下には今までの行いを改め、善行を積んで民の幸いに助力されますように」と諫めた。これを聞いた劉聡は激怒して彼を処刑するよう命じた。だが、上夫人の王氏が叩頭して助命を嘆願したため、命だけは助け、獄に繋ぐよう命じた。母の張氏は劉聡が怒りに任せて刑を乱発するので、大いに心を痛めて三日に渡って食事を取らなかった。また、弟の劉乂や子の劉粲も、劉聡を厳しく諫めた。劉聡はまた怒り「朕が夏の桀王、殷の紂王、周の幽王や厲王のような暴君だというのか。汝らはなぜこのようなやつのために涙を流すのだ」と言った。太宰の劉延年を始め諸公卿列侯100人余りが劉聡の前に赴き、みな冠を外して涙を流しながら「光文帝(劉淵)は、聖なる武をもってよって期を見定めて大業を興しました。だが、天下はいまだ定まらず、陛下はその徳によって事業を受け継ぎ、東に洛陽を、南に長安を平定しました。その功績は周の成王に匹敵し、徳は夏の啓王を超越しております。さながら唐・虞(堯と舜)を見ているようです。しかし近年は、僅かな誤りで王公を処刑し、直言をしたことで大将を獄に繋ぎました。また、遊猟にも節度がなく、朝政を顧みようとなさりません。臣らにはその意味を理解することができず、心を痛めて寝食を忘れるほどであります」と固く諫めて言った。ここに至って、ようやく劉聡は怒りを収めて王彰を許した。_NEWLINE_劉聡は「あの発言は酔っての事であり、本心ではない。卿らの諫言がなければ、朕は過失に気がつかなかっただろうな」と言い、それぞれに帛百匹を下賜し、王彰は釈放された。侍中が劉聡の言葉を王彰に伝え「先帝は君を左右の手の如く頼ってきた。朕は君の功績を忘れたことがない。今回の事は気にせず、今後も国のために直言してほしい。君を驃騎将軍に任じ、定襄郡公に封じることにする」と述べた。_NEWLINE_安北将軍の趙固と平北将軍の王桑は、長史の臨深を人質として劉琨に送り、帰順を願い出た。劉琨は趙固を雍州刺史に、王桑を豫州刺史に任じた。 _START_SECTION_ 懐帝殺害 _START_PARAGRAPH_ 劉聡は懐帝を儀同三司・会稽郡公に封じ、懐帝の側近である庾珉らにも官職を与えた。また、懐帝を招き「卿が豫章王であったとき、朕は卿に接見した。王武子(王済)が朕を紹介すると、卿は以前からその名を聞いていたと言ったな。卿は楽府の歌を朕に示し、『君は辞賦が得意と聞く。試しにこの作品を見てみるように』と言い、朕は王武子とともに『盛徳頌』という詩を作り、卿はこれを称賛した。また、皇堂での射術に誘われたこともあったな。朕が十二本、卿と王武子は九本を命中させた。卿は朕に弓を贈ったが卿は覚えておるかね」と話した。懐帝は「臣が忘れるはずなどありません。ただ一つ残念なのは、もっと早くその龍顔(皇帝の顔)を知ることができなかったということです」と答えた。劉聡は「卿の一族は骨肉の争いを繰り返したが、どうしてこうなったと思う」と問うた。懐帝は「これは人事によらず天意によるものです。大漢は天意に応じたのであり、そのために臣の一族は互いを駆除したのです。もし臣の一族が武帝の大業を継いで九族が協力し合ったならば、陛下の今日はなかったでしょう」と返した。夕方になると懐帝は退出した。劉聡は、年小の劉貴人を懐帝へ下賜して「彼女は名公の孫であり、特別に卿の妻とするので大切にするように」と述べ、劉氏を会稽国夫人とした。_NEWLINE_4月、賈疋・麹特らが長安を数か月に渡って包囲すると、劉曜は幾度も破れ、士女8万家余りを引き連れて平陽に戻った。漢軍が撤退すると、司馬鄴は長安に入った。_NEWLINE_鎮北将軍靳沖を派遣して太原を攻撃させ、平北将軍卜珝をその後詰とした。靳沖は太原攻略に失敗し、その責任を全て卜珝に擦り付け、彼を処刑した。劉聡はこれを聞くと大怒し「卜珝は朕でさえ刑を加えることができない貴人である。靳沖は一体何様のつもりか」と言い、御史中丞浩衍に節を与えて派遣し、靳沖を処刑した。_NEWLINE_劉曜に晋の司徒傅祗が守る三渚を攻撃させ、右将軍劉参に郭黙が守る懐城を攻撃させた。傅祗が病死すると城は陥落し、劉曜は二万戸余りを平陽に移住させた。劉聡は傅祗に太保を追贈し、傅祗の孫である傅純・傅粋を給事中に任じ、傅祗の子である傅暢へ「尊公(傅祗)は天命を全うできなかったが、主君に忠を尽くしたから、朕はこれを顕彰する。晋主は既に降伏しており、天命の支えはない。にもかかわらず、尊公は漢の南方を荒らし、国境を動揺させた。これはまさしく罪であるが、朕はその元悪に官位を追贈し勲功を与え、逆臣の孫を登用した。卿もこれで漢の徳を知ることができたのではないか」と言った。傅暢は「陛下が先臣を称賛される度に、その忠節を明らかにされたことの大恩を感じます」と言った。_NEWLINE_6月、劉聡は貴嬪の劉英を皇后に立てようとした。だが、張皇太后が貴人の張徽光を皇后に立てるよう望んだため、やむなく従った。_NEWLINE_子の河間王劉易を車騎将軍に、彭城王劉翼を衛将軍に任じ、近衛兵を統率させた。また、高平王劉悝を征南将軍に任じて離石を守らせ、済南王劉驥を征西将軍に任じて平陽西に西平城を築いて守らせ、魏王劉操を征東将軍に任じて蒲子を鎮守させた。_NEWLINE_劉琨に降った趙固と王桑は再び漢に帰順しようと思い、劉聡に救援を依頼した。劉聡は鎮遠将軍梁伏疵を派遣したが、漢軍が到着する前に王桑の長史臨深と将軍牟穆が兵1万を率いて晋の魏郡太守劉演に投降した。趙固は梁伏疵と合流して西に向かったが、王桑は漢に帰るのを止め、兵を率いて東の青州に逃走した。趙固は兵を派遣して王桑を追撃し、曲梁で殺した。王桑の残兵は張鳳に率いられて劉演に投降した。劉聡は趙固を荊州刺史・領河南郡太守に任じ、洛陽を守らせた。_NEWLINE_8月、劉易・劉粲・劉曜らを派遣し、晋陽の劉琨を攻撃させた。劉琨は張喬に防戦させたが返り討ちに遭い、太原郡太守高喬らは晋陽ごと劉粲に降伏した。劉琨は常山へ撤退し、義兄弟の代王拓跋猗盧へ救援を要請した。_NEWLINE_劉粲と劉曜は晋の尚書盧志・侍中許遐・太子右衛率崔瑋を捕えて平陽に送った。劉聡は劉曜を車騎大将軍に戻し、前将軍劉豊を并州刺史に任じて晋陽の守備を命じた。_NEWLINE_9月、盧志を太弟太師に、崔瑋を太傅に、許遐を太保に、高喬と令狐泥を武衛将軍に任じた。衛尉の梁芬が長安に投降した。_NEWLINE_10月、劉烜を代王に、劉逞を呉王に、劉朗を潁川王に、劉皐を零陵王に、劉旭を丹陽王に、劉京を蜀王に、劉坦を九江王に、劉晃を臨川王に封じた。また、王育を太保に、王彰を太尉に、任顗を司徒に、馬景を司空に、朱紀を尚書令に、范隆を左僕射に、呼延晏を右僕射に任じた。_NEWLINE_同月、拓跋猗盧は拓跋六脩・拓跋普根らを前鋒として派遣し、拓跋猗盧は20万を統べ後継となり、狼猛に至った。劉粲は恐れて逃走し、劉曜は汾東で大敗を喫した。討虜将軍傅虎は劉曜の身代わりとなり、劉曜はかろうじて撤退できた。11月、拓跋猗盧は追撃し、藍谷で劉粲を破った。征虜将軍の邢延を始め、劉儒・劉豊・簡令・張平が討死し、鎮北将軍の劉豊が捕縛された。劉粲の参軍盧諶が劉琨に投降すると、劉聡は盧諶の父である盧志と弟の盧謐・盧詵を処刑し、戦死した傅虎に幽州刺史の官位を追贈した。_NEWLINE_12月、張氏を皇后に立て、父の張寔を左光禄大夫に任じた。_NEWLINE_彭天護が少数民族を率いて賈疋を攻撃した。彭天護はわざと途中で撤退し、賈疋は追撃するも夜の山路で谷に落ちた。彭天護は賈疋を捕えて殺害し、功績により劉聡は涼州刺史に任じた。_NEWLINE_313年1月、関中の司馬鄴政権が活発となると、劉聡は次第に懐帝を疎ましく思うようになった。劉聡は光極前殿において懐帝に命じ、人々に酒を注がせた。光禄大夫の庾珉・王儁らは立ち上がって慟哭したために、劉聡はこれを不快に思った。この時期、王儁らが平陽で劉琨に呼応しようと謀っていると密告する者がおり、劉聡は懐帝を毒殺し、王儁を始め晋の旧臣10人余りを誅殺した。また懐帝に賜った劉夫人を自らの貴人に戻し、境内の死罪以下に大赦を施行した。_NEWLINE_劉聡の母張氏が死に、光献という諡号を贈った。姪の張皇后も暫くして亡くなり、武孝と諡された。 _START_SECTION_ 女色に溺れる _START_PARAGRAPH_ 3月、劉娥を皇后に立てると、彼女のために皇儀殿を建造すると宣言した。_NEWLINE_陳元達は難く諫めて「臣は、古代の聖王というものは国を家の如く愛し、そのために天がこれを子のように助けるのだと聞きおよんでおります。天が民に君主を立てるのは、父母となりてこれに刑賞するためであって、億兆の民を一人に奉仕させるためでは決してございません。 晋は非道をなして人民を草芥のように見ていたために、天によって命脈を断たれたのです。そのため、漢によって人々は休息を得て希望を持つことができたのです。わが高祖光文皇帝は民のために心を痛め、それが故に自らも、先皇后も質素に振る舞われ、南北宮を建てた時も、群臣の請願があってはじめて行ったのです。今や光極殿で充分であるのに、昭徳・温明以後六宮まで至りました。陛下が即位されて以来、外は二京(洛陽・長安)を攻撃しながらも内にあっては宮殿四十ヶ所余りを建立されております。飢饉疾疫が重なって死者が続出し、外において兵は疲労し内においては人が怨みを抱いているのに、どうしてこれが父母の振舞いと言えるでしょうか。晋は滅んだとは言え、残党は西は漢中・南は江南により、李雄は巴蜀を占有し、王浚・劉琨は隙を窺い、石勒・曹嶷からの朝貢も次第に疎遠となってきております。伏して詔を聞きますに、新たに中宮を立てられるとのことですが、臣らにとって誠に楽しみとするところです。ですが、いまだに大難がまだ平定されておらず、今は宮殿を造営すべきではありません。臣が聞くところによれば前漢の太宗(文帝)が高祖(劉邦)の事業を継いだ後、恵呂の役の後で四海の富、天下の繁栄をもってしてもなお百金の費えを惜しんで不朽の業をなしたのです。陛下の有する地は太宗に遠く及びません。戦守の備えも、太宗の時のように匈奴と南越だけではないのです。それなのに、宮室の奢侈がここまでに至りました。臣が敢えて死を恐れずに申し上げるのは不測の禍をおそれるからです」と述べた。_NEWLINE_これを聞いた劉聡は激怒して「朕は万事の主となって一宮殿の造営をするのに、どうして汝のような鼠子に問うことがあろうか。この男を殺さねば朕の心は乱れたままで、朕の宮殿も完成などするまい。その妻子とともに引き出して斬り、東市にさらしてから鼠と一緒に穴に埋めてしまえ」と汚く罵り、陳元達の妻子とともにこれを処刑しようとした。この時、逍遙園に李中堂があったが、陳元達は李中堂下の樹にしがみつくと「臣の申し上げるところは社稷の計であるのにも関わらず、陛下が臣を殺されるならば、上は天に訴え、下は先帝に訴えます。朱雲はかつて『臣は地下において龍逢や比干と知り合うことができれば満足です』と言いましたが、陛下は誰と知り合うことになるのでしょうか」と叫んだ。_NEWLINE_陳元達は鎖を腰に下げており、鎖を樹に巻きつけていたために、劉聡の左右の者が連れ出そうとしても動かなかった。太宰劉易・大司徒任凱・光禄大夫朱紀と范隆は出血するまで叩頭してこれを諫めた。また、劉娥も後堂でこれを聞くと、密かに中常侍を遣わして刑の執行を中止させ、劉聡へ手書して「後宮の宮殿は整っており、既に十分すぎるほどです。四海が未だ平定されておらぬ今、陛下には何とぞ民を慈しまれますよう。廷尉の言葉は真に社稷の臣であり、称賛されるべきものです。にもかかわらず、これを誅殺してしまえば、四海の民は陛下を何と罵るでしょうか。忠臣が諫言を進める時は、わが身を顧みないもの。そして、これを拒む人君も、わが身を顧みないのです。陛下は妾の為に宮殿を築き、そのために忠臣まで誅殺されます。今後、忠臣が口を閉ざしてしまうとしたら、それは妾のせいに他なりません。遠近の人々の怨念も公私の困弊も妾に集まるでしょう。そして、社稷を滅亡の危機へ追いやるのも妾になります。天下の罪が全て妾に由来しますのに、妾はどこに立つ瀬がありましょうか。古の国が滅んだ原因を見ますに、その殆どが婦人に由来します。妾はいつもこれを心に疾んでおりました。それが今、自らが同じ事をしようとしております。 妾はいつも古の婦人を蔑んでみておりましたが、これからは妾自身が後世の人々から見られます。 妾は何の面目あってあの世に行けましょうか。願わくは陛下、どうか妾に死を賜ってくださいませ。そしてそれを以て陛下の行き過ぎを塞がれますよう」と諫めると、劉聡はようやく過ちに気づき、愕然とした。_NEWLINE_しばらくした後、劉聡は子の劉易らに「朕は最近心を病んでおり、喜怒が度を過ぎると自制が利かなくなってしまったのだ。諸公はよくぞ諫めてくれた。そなたらこそ、補弼の臣と言うべきである。朕は我が心に恥ずかしい。生涯これを忘れはしない」と謝罪した。そして、陳元達を召し寄せると謝罪し、劉娥の手記を手渡し「外では公のような者が支え、内では后が助ける。朕には何の憂いもありはしないな」と語った。また、逍遙園を納賢園に、李中堂を愧賢堂と名を改めた。_NEWLINE_4月、晋の愍帝が長安に即位した。劉聡は劉曜と司隷校尉喬智明・武牙将軍李景年らを派遣して長安を攻撃させ、趙染にも軍を率いて続かせた。_NEWLINE_6月、劉琨と拓跋猗盧が陘北で会合し、漢攻略の方策を練った。7月、劉琨は藍谷に進み、拓跋猗盧は拓跋普根を派遣して北屈に駐軍させた。劉琨は監軍韓拠に命じ、西河から南下して西平城に向かわせた。 劉聡は大将軍・劉粲に劉琨を、驃騎将軍劉易に拓跋普根を防がせ、蕩晋将軍蘭陽に西平城を救援させた。劉琨らは漢軍が動いたと知ると退却した。_NEWLINE_9月、晋の大都督麹允は黄白城に拠っており、劉曜・趙染は幾度も破った。晋の征東大将軍索綝は兵を率いて麹允の救援に当たった。10月、趙染は前鋒大都督・安南大将軍となり、精鋭の騎兵5000を率いて長安を奇襲した。その途上、晋軍を渭陽において撃ち破り、将軍王広を討ち取った。夜に乗じて長安外城に入ると、愍帝は射鴈楼に逃れた。趙染は、龍尾山下の晋軍の諸陣営を焼き払い、1000人余りを殺害して財貨を奪った。明け方、逍遙園に駐屯した後、趙染は軍を返した。麹鑒が追撃を掛けるも、霊武で劉曜に遭遇し、麹鑒は大敗した。11月、劉曜はこの勝利に驕って備えを設けておらず、麹允が兵を率いて奇襲すると、 大敗を喫して冠軍将軍の喬智明が殺害された。劉曜は平陽に帰還した。_NEWLINE_劉曜は河南尹に出兵し、石梁で魏浚を包囲した。劉演と河内郡太守の郭黙が救援したが、劉曜は兵を分けて黄河の北で迎えて撃ち、これを破った。魏浚は逃走したが、捕まって殺害された。_NEWLINE_314年1月、流星が牽牛から出て紫微へ入り、平陽の北十里に墜落した。地面に激突した流星は長さ三十歩、広さ二十七歩の破片となった。劉聡はこれが気になって群臣へ「朕の不徳によってこのようなことが起きた。憚るところなく意見を言うように」と問うたところ、陳元達と博士の張師は「星変の異は、禍行の兆しと言われます。臣は、後宮に三后を立てた事が原因ではないかと恐れております。願わくは、陛下がこれを慎まれる事を」と進言した。すると劉聡は「流星は陰陽の理である。人事に何の関わりもない」と返答した。だが、この数日後に劉娥が亡くなった。これ以後、劉聡の女漁りはさらに激しくなり、後宮から秩序が失われた。 _START_SECTION_ 百官を整備 _START_PARAGRAPH_ 同月、丞相始め七公を設置し、嫡男の劉粲を丞相・領大将軍・録尚書事に任じ、晋王に進封して五郡を食ませた。江都王劉延年を録尚書六条事、汝陰王劉景を太師、王育を太傅、任凱を太保、馬景を大司徒、朱紀を大司空、劉曜を大司馬にそれぞれ任じた。輔漢・都護・中軍・上軍・輔軍・鎮衛・鎮京・前軍・後軍・左軍・右軍・下軍・輔国・冠軍・龍驤・武牙の十六大将軍を設置し、各々2000の兵卒を配備し、全て諸子を任命した。また、左右の司隷を置き、各々に20万戸の領民を領させ、1万戸毎に内史を一人置いた。単于左右輔を置き、各々に夷狄10万落を領させ、1万落毎に都尉を1人置いた。左右選曹尚書を置き、選挙を掌握させた。以上の司隷以下6官について、その位は僕射に準じることにした。 また、劉易を太尉に任じ、始めて相国の位を設置し、七公で勲徳のあった者が亡くなった際に贈ることとした。さらに、御史大夫及び州牧を置き、位は公に等しいものとした。_NEWLINE_5月、劉曜と趙染が長安攻略に向かった。6月、劉曜が再び渭水に赴き、趙染は新豊に拠った。索綝が兵を率いて迎え撃つと、趙染は敵を軽んじており、長史魯徽は諫めた。趙染は取り合わず、精騎数100を率いて迎撃したが敗れて帰還し、恥と悔しさの余りに、魯徽を処刑した。劉曜はこれを聞いて大いに嘆いた。_NEWLINE_劉曜と趙染が将軍の殷凱と共に数万の兵を率いて長安に向かうと、雍州刺史の麹允が馮翊で迎撃したが、敗れて撤退した。しかしその夜、麹允が殷凱の陣営に夜襲を掛け、殷凱は敗死した。劉曜は軍を戻して懐城の郭黙を攻め、米粟八十万石を収めてから三屯を連ねて包囲した。郭黙は食糧が尽きると妻子を人質に送って投降する旨を伝え、食糧を求めた。漢軍が郭黙に食糧を提供すると、郭黙は再び城門を閉じて城を守った。激怒した劉曜は郭黙の妻子を黄河に沈めると、攻撃を再開した。だが、劉琨が派遣した参軍張肇が鮮卑500騎余りを率いて到来した。また、劉聡が使者を派遣して劉曜へ「長安はひとまず置いておくのだ。晋陽の劉琨こそ国家にとって先に除くべきものである。郭黙などは小醜に過ぎず公の神略を労する必要はないので、征虜将軍・貝丘王の劉翼光を留めて包囲させ、公は帰還するように」と伝えたために、劉曜は蒲坂に兵を戻したが、劉聡はこれを招集して輔政させた。趙染が北地を攻めたが、城を攻める最中、矢に当たって戦死した。_NEWLINE_11月、劉粲を相国に任じて百揆を監督させ、丞相の位を撤廃して相国と統合した。_NEWLINE_太廟が完成すると、境内に大赦を行い、建元と改元した。 _START_SECTION_ 佞臣の暗躍 _START_PARAGRAPH_ 315年、劉聡は中護軍靳準の娘である靳月光と靳月華が共に殊色があることから、左右の貴嬪に立てた。数か月、靳月光を皇后に立てた。さらに後、靳月光を上皇后に立て、貴妃劉氏を左皇后に、右貴妃靳氏を右皇后に立てた。陳元達はこの立后について言葉を尽くして諫めたが、劉聡はこれを不快に思い、陳元達を右光禄大夫に任じ、表向きは賢人を優遇することを示しながら、実際にはその権限を奪った。太尉の范隆・大司馬の劉丹・大司空の呼延晏・尚書令の王鑒らが皆上表し、自らの地位を陳元達に譲ってでも、この人事を止めるよう懇願した。これを受けた劉聡は、仕方なく陳元達を御史大夫、儀同三司に任じた。_NEWLINE_3月、東宮太師の盧志・東宮太傅の崔瑋・東宮太保の許遐は、皇太弟の劉乂へ謀反を勧めた。だが、劉乂が従わなかったために、その計を取り止めた。東宮舎人の苟裕はこの一件を劉聡へ報告した。劉聡は盧志・崔瑋・許遐を獄に収め、他のことを理由として殺害した。また、冠威将軍の卜抽に東宮を占拠させ、劉乂の朝廷への出入りを禁止した。劉乂は恐れ慄いてなすところを知らず、上表して庶民となることを願い、また晋王劉粲を太子とし、息子たちの領土も全て晋王へ献上すると伝えた。だが、卜抽はその表文を通さなかった。_NEWLINE_青州刺史の曹嶷が斉の地一帯を攻略し、その兵が10万余りを数えるようになると石勒は曹嶷が二心を抱いているとして、これを討つことを請うた。劉聡は石勒が斉の地を併呑することを恐れ、これを許さなかった。_NEWLINE_8月、劉曜が盟津を渡って河南を攻撃すると、晋の将軍魏該は逃亡した。劉曜は進んで滎陽の李矩を攻め、李矩は将軍李平を成皋に派遣したが劉曜はこれを滅ぼした。李矩は恐れを抱き、人質を送って降伏を請うた。劉曜はその後長安を攻めたが、幾度も晋軍に敗れ、軍を引いて帰還した。劉曜は上党に軍を進めて陽曲を攻めようとすると、劉聡が使者を遣わして劉曜へ「長安がいまだに余命を保っていることは、国家の深く恥じるところである。公は長安を先にして、陽曲は驃騎将軍に任せるように。」と述べた。劉曜は軍を転進して郭邁を討つと、劉聡のもとへ帰還した後に蒲坂へ赴いた。_NEWLINE_9月、劉聡は大鴻臚を襄国に派遣し、河北に巨大勢力を構える石勒に弓矢を下賜するとともに、陝東伯に任じ、皇帝の代わって軍事を司り、刺史・将軍・郡県長を任命し、列侯を封じる権利を与えた。また、年に一回、朝廷に報告することを命じた。_NEWLINE_10月、劉曜は長安攻撃の為に再び軍を進め、粟邑に屯した。晋は麹允を大都督・驃騎将軍に任命して劉曜を防がせた。麹允の軍は餓えが酷く、黄白城を去って霊武に軍を置いた。劉曜が上郡を攻めると、太守張禹と馮翊太守梁粛は允吾に逃走した。関右の地はみな劉曜に応じ、劉曜は軍を進めて黄阜に拠った。_NEWLINE_陳元達は上皇后靳月光に淫行の行為があったことを上奏した。劉聡は靳月光を特に寵愛していたが、陳元達の勢を考慮して皇后から廃した。間もなく靳月光は恥じ入って自殺すると、劉聡はその容姿を追思し、陳元達を怨んだ。これ以降、劉聡と靳月光の父である靳準は陳元達と不仲になった。_NEWLINE_劉聡の中常侍王沈・宣懐・兪容および中宮僕射郭猗・中黄門陵修らは皆寵遇されていた。劉聡が後宮に籠って宴に明け暮れ、百日に渡って出ない程になると、王沈が朝政を仕切る様になり、群臣はみな王沈の発言をもって劉聡の意とした。このため、功績のある旧臣が賞されず、奸佞の小人が二千石の官に至ることもあった。当時、連年に渡り戦争が続いた上、将士には賞賜がなく、後宮では僮僕にさえ数千万の賞賜が与えられるようになったために、群臣は大いに不満を抱いた。王沈らの車や衣服、また邸宅の豪華さは諸王を超えており、その子弟で庶民から内史や令長となる者が30人余りにおよび、彼らは良民を迫害して財貨を着服した。靳準の一族も彼等に媚びへつらった。 _NEWLINE_316年1月、郭猗は劉乂に対して怨みがあり、劉粲に向かって、劉乂が大将軍らと共に3月に大宴会を開き、それをきっかけに造反するつもりであると、嘘の発言をした。また、大将軍従事中郎の王皮・衛軍司馬の劉惇もこれに加担し、劉粲へ偽りの進言をしたので、劉粲はそれを信用した。_NEWLINE_また、靳準の従妹は劉乂の侍女となったが侍人と密通した為に劉乂は怒ってこれを殺し、このことでしばしば靳準を嘲笑した。靳準は深く慚じ怒った。そして劉粲へ、劉乂を誅殺して劉粲が皇太子になることを勧めた。また、一計を案じて、あえて東宮の禁固を緩めて劉乂が賓客と交流するのを許可し、軽薄な小人が劉乂に近づいて謀反を持ち込むのを待ち、その罪を暴露して劉乂と交流した者を捕えて責め、劉聡にそれを示すべし、と告げた。劉粲はその言葉を信じて卜抽に命じ、兵を率いて東宮を去らせた。_NEWLINE_劉聡は315年の冬より朝政に出席しなくなり、軍事・政務に関しては全て劉粲に任せ、刑事の執行と官爵の授与については王沈・郭猗らを通して行わせた。しかし、王沈はほとんど奏上せず、独断で決した。   _NEWLINE_2月、劉聡は少府の陳休と左衛将軍のト崇を始め、特進の綦毋達・太中大夫の公師彧・尚書の王琰・田歆・大司農の朱誕らをみな誅殺した。彼らは、王沈を始めとした宦官が忌み嫌っていた者達であった。侍中の卜幹は泣いて劉聡を諫め「陛下は今まで賢人を求めて側近に侍らせてきましたが、今、一度に七人もの卿大夫を殺戮なされます。陛下は忠良な者を先に誅して後はどうされるのでしょうか。仮に彼等が有罪だとしても、陛下は裁判という正式な手順を踏まずに処罰なさるのです。天下の人々がどうして靡くでしょうか。それに、詔は臣の職務ですが、今回の件では何の相談にも預かっておりません。昔、秦が三人の臣下を殺したとき、君子は秦の穆公が覇者になれないことを知ったのです。どうか陛下、よくお考え直しくださいませ」と言い、叩頭して流血した。王沈は卜幹を叱責し「卜侍中は詔を拒むというのか」と言った。劉聡はその諫言を聞き入れず、衣を引いて奥へ入ると、卜幹を免官して庶人に落とした。_NEWLINE_太宰の劉易・大将軍の劉敷・御史大夫の陳元達・金紫光禄大夫の王延らが参内し「今、王沈らは常伯の位にあって生殺与奪の権を握り、その勢威は海内を傾むかせるほどます。その愛憎によって詔を偽り、内にあっては陛下に諂い。外にあっては相国を佞しております。その威権は人主と変わらず、王公でさえ目を側め、卿宰ですら望塵の拝をとっております。彼らは人の推挙にも影響を及ぼし、実のある選挙が行われることはなくなりました。そのために、士卒は自らを取り上げるために、政治では賄賂が横行するようになり、姦徒が集まり忠善が毒されるようになりました。王琰らは忠臣であり、彼らが忠節を陛下に尽くしていることから、王沈らは自らの姦事が露見することを恐れて極刑に陥れたのです。陛下が賢察を垂れずに誅戮を加えてしまい、怨念は穹蒼に轟き、痛念は九泉に至り、悲嘆は四海に響き、賢愚はともに恐れ慄いております。王沈らはみな刑余の身(宦官の事)であり、背恩忘義の類です。どうして士人や君子のように恩に感じることがあるでしょうか。陛下はなぜこれらを親しく近づけ、任用されているのでしょうか。昔、斉の桓公が易牙を任用した事により乱を招き、蜀漢の孝懐帝(劉禅)が黄皓を任用して滅びを招いたことがありましたが、これらは悪い前例です。ここ数年、地震や日蝕があり、血雨や火災があったのも全て王沈らが原因です。願わくは凶悪の者が刑事に参与する流れを断ち、尚書・御史に朝廷の万事に当たらせ、相国・公卿と五日に一日は政事について議し、大臣にはその言を包み隠さず発言させ、忠臣にはその意を通させますように。今、晋の残党は平定されず、巴蜀の地は従わず、石勒は趙魏の地に割拠する意思をひそかに持ち、曹嶷は全斉の地に王たらんという心を抱いている上に王沈らが大政を乱しております。陛下の心腹四肢で患いがない箇所は有りません。王沈らの官を免じ、有司に付して罪を裁かれますように」と、固く諫めた。_NEWLINE_劉聡はこの上表文を王沈らに見せると、笑って「陳元達が言うには、汝(王沈)らは痴れ者だそうだ」と言い、そのまま対応することなく横になった。王沈は頓首して涙を流し「臣らは小人であって陛下の抜擢を受けましたが、王公朝士は臣らを仇のように憎んでおり、また深く陛下を恨んでおります。どうか臣らを廃して廷内の上下の和を結ばれますように」と言った。劉聡は「この文は偽りであり、卿はどうして恨まれることがあるというのか」と答えた。さらに嫡子の劉粲に問うと、劉粲は王沈らが王室に忠誠を尽くしていると盛んに称賛した。劉聡は大いによろこび、王沈らを封じて列侯とした。_NEWLINE_劉易が再び上疏して固く諫めると、劉聡は大怒してその上表文を破り、劉易は父の行為に怒りの余りに死去した。陳元達は大いに悲しみ、家に戻ると自殺した。 _START_SECTION_ 西晋の滅亡 _START_PARAGRAPH_ 7月、北地での飢饉が悪化して人々は互いに食い合うまでとなった。劉曜が北地郡太守の麹昌を包囲すると、羌酋軍須は軍糧を麹昌に供給したが、劉雅がこれを破った。麹允は歩騎3万を率いて北地に向かうも。劉曜が破った。劉曜が追撃を掛けると、磻石谷で再び破り、麹允は霊武に撤退し、劉曜は北地を占領した。北地を占領した劉曜は涇陽に進み、渭北の諸城が壊滅した。劉曜は建威将軍魯充・散騎常侍梁緯・少府皇甫陽を捕虜にした。_NEWLINE_平陽でも飢饉が悪化し、10人のうち5〜6人が流亡するか餓死した。石勒は石越に騎兵2万を与えて并州に駐屯させ、流民を綏撫させた。これにより20万戸の民が石勒に帰順した。劉聡は黄門侍郎喬詩を派遣して石勒を責めたが、石勒はこれを無視して密かに曹嶷と結んだ。_NEWLINE_劉聡が張氏の侍女である樊氏を上皇に立てた。この時、皇后は既に4人おり、皇后の璽綬が与えられた者も7人いた。朝廷の内外の綱紀が緩み、みな他人の顔色を窺い、各所で賄賂が横行し、軍隊が外に活動して国内は飢饉や疫病に悩まされているにも関わらず、後宮への賞賜は1000万に及んだ。劉敷は何度も泣いて諫言したが、劉聡はこれを容れずにかえって怒り「汝は朝夕やって来て人の前で涙を流すが、人を死人のように扱うのか」と言った。劉敷は憂いと憤りのあまり病を発して亡くなった。_NEWLINE_河東でも蝗害が大発生し、靳準が部下を率いてこの対処に当たった。蝗を捕えて土に埋めたが、その鳴き声は十里余り遠方まで聞こえ、蝗は再び土中から飛び出して豆を食い荒らした。これにより平陽の飢饉はさらに悪化した。_NEWLINE_8月、安定郡太守の焦嵩等が長安救援に向かい、散騎常侍の華輯が京兆を始め4郡の兵を監督して灞上に駐軍したが、漢軍を恐れて前進を止めた。相国の司馬保は胡嵩に兵を与えて長安に向かわせ、霊台で劉曜を破った。しかし、胡嵩は麹允と索綝と対立しており、彼らの威勢が再び盛んになることを恐れ、攻撃を止めて槐里に戻った。劉曜は長安外城を攻め落とし、麹允と索綝は小城に撤退した。長安城は内外が遮断され、食糧が尽き、多数の死者が出た。_NEWLINE_9月、劉聡は群臣を招いて光極殿で宴を開き、劉乂に謁見させたが、劉乂が酷くやつれて泣きながら陳謝するところを見て劉聡も涙を流し、酒を勧めて歓を極め、以前通りに遇するようになった。_NEWLINE_11月、愍帝は遂に降伏を決意し、侍中の宋敞を遣わして劉曜に書状を送った。愍帝は羊車に乗り、降伏の礼を整えて出降した。愍帝が平陽へやって来ると、劉聡は光禄大夫に任じ、懐安侯に封じた。劉曜に黄鉞を下賜し、大都督・陝西諸軍事・太宰に任じ、秦王に封じた。_NEWLINE_劉粲に命じて太廟(劉淵の墓)に報告させ、境内に大赦を施行し、麟嘉と改元した。 _START_SECTION_ 劉乂の死 _START_PARAGRAPH_ 317年1月、漢軍が長安から東に兵を派遣して弘農郡を攻撃した。太守の宋哲は江東に逃走した。_NEWLINE_2月、劉聡は従弟の劉暢に晋の滎陽郡太守李矩を攻撃させた。劉暢は韓の古砦に駐軍すると李矩に使者を送った。李矩は偽って劉暢に降伏し、喜んだ劉暢は宴会を開いた。諸将が酔い潰れた頃、李矩が夜襲を仕掛け、勇士1000人を選ぶと郭誦に命じて劉暢を攻撃させた。漢軍は大敗して数1000人が斬られ、劉暢は敗走した。_NEWLINE_3月、劉粲は王平に命じて「詔によれば都に異変が起ころうとしております。武具を集めて備えられますように」と劉乂に向かって発言させた。劉乂はこれを信じ、宮臣に命じて宮殿に武具を集めさせた。劉粲は使者を靳準・王沈のもとへ派遣して「王平によれば東宮が非常事態に備えているとのことだが、どうすべきか」と問うた。靳準がこれを報告すると、劉聡は大いに驚き「そのようなことがあるのか」と言った。王沈らが声を揃えて「臣らは久しくこのことを聞き知っておりましたが、陛下が信用されないことを恐れていたのです」と言った。劉聡は劉粲に命じて東宮を包囲させた。劉粲は王沈・靳準に命じて氐族・羌族の酋長10人余りを捕えて肉刑を加えさせ、劉乂と共に反逆を謀ったと嘘の自白をさせた。また、劉乂と親しくしていた大臣および官属数十人が誅殺されたが、彼らはみな靳準や宦官たちが普段から憎んでいた人々だった。劉聡が王沈らに対して「今になって卿らがいかに朕に対して忠誠を尽くしていたかを知った。さきに言を用いなかったことから知っていても言わないことのないように」と言った。_NEWLINE_4月、劉乂は廃されて北部王に降格となった。間もなく、劉粲の命令で靳準が刺客を放って、劉乂は殺害された。_NEWLINE_劉乂は温厚な性格で、寛大な人柄であったために、多くの兵卒から慕われていた。 劉乂が殺害されたと聞くと、異母兄の劉聡は慟哭して「朕の兄弟で残るはただ2人となっていたのに、相容れることができなかった。どうやって天下に朕の心を知らしめることができようか」と嘆いた。_NEWLINE_この一件で東宮四衛の兵1万5000人余りを生き埋めにして殺し、このため平陽の町は空虚となった。また、氐族・羌族の10万部落余りが反乱を起こし、靳準を行車騎大将軍としてこれを討伐させた。_NEWLINE_劉聡の領域内において蝗が大発生し、平陽や冀州・雍州で最も酷かった。靳準がこれの対処にあたったが、その最中二人の子が突然死亡したという。_NEWLINE_7月、殊死以下に大赦を施行し、劉粲を皇太子に立て、相国・大単于に任じ、以前通りに朝政を統べさせた。 _START_SECTION_ 愍帝殺害 _START_PARAGRAPH_ 8月、趙固が晋の衛将軍華薈を臨潁で破って殺害した。だが、長史の周振と対立し、騎兵1000人を率いて晋に降り、李矩の命により洛陽を守った。_NEWLINE_10月、上林において猟を行い、愍帝を車騎将軍に任じて戎服を身につけて戟を手にして先導させると、見世物にした。晋の旧臣はそれを見て嘆き悲しんだ。劉粲は劉聡へ「昔、周の武王が殷の紂王を殺したのは、敵対勢力が紂王を擁立することを恐れたからです。今司馬氏が江南に跨拠し、趙固・李矩がともに反逆していますが、兵を起こす者はいずれも司馬鄴救援を名目としております。彼を除いてその望みを絶つべきです」と進言した。劉聡は「朕は以前、庾珉らを殺したが、晋を支持する者はまだ多い。これ以上性急に殺すべきではない。しばらく様子を見るべきだ」と述べた。_NEWLINE_12月、光極殿に群臣を集めて宴を開き、愍帝には酒を注がせたり、杯を洗うよう命じた。また、劉聡が厠に入った時は、蓋をとるよう命じた。その姿を見て晋の旧臣が慟哭し、尚書郎の辛賓が席を離れて愍帝を抱きかかえた。劉聡は怒って辛賓を処刑した。_NEWLINE_趙固・郭黙が河東を攻めると、右司隷の人3万人余りが、牧馬を盗み妻子を引き連れて逃走した。騎兵将軍の劉勲がこれを追撃して1万人余りを殺し、趙固・郭黙は兵を引いて帰った。劉頡はこれを追撃したが、趙固に敗れた。_NEWLINE_劉粲と劉雅らは歩騎10万を率いて小平津によると、趙固は「劉粲を捕えて天子を取り返すのだ」と宣言し、劉聡はこれを知って不快がった。これを聞いて劉粲が劉聡に上書し「司馬鄴が死ねば民の希望もなくなり、李矩や趙固も利用できなくなります。そうすれば、やつらは戦わずして自滅するでしょう」と進言して。これを受け、劉聡は司馬鄴を処刑した。劉粲らは趙固の守る洛陽を攻撃し、趙固は陽城山へ撤退した。 _START_SECTION_ 最期 _START_PARAGRAPH_ 318年3月、李矩が郭黙・郭誦に命じて趙固を救援させ、耿稚・張皮を密かに渡河させて劉粲を襲った。貝丘王の劉翼光がこれを察知して劉粲に告げたが、劉粲は備えなかった。この夜、耿稚らが劉粲の軍を襲って破り、劉粲は陽郷に撤退し、耿稚は劉粲の砦に軍糧を集めて拠った。劉雅はこれを聞いて駆けつけ、砦外に陣営を設けて耿稚と対峙した。劉聡が劉粲の敗北を聞いて太尉范隆に騎兵を率いて赴かせると、耿稚らは恐れて5000の兵を率いて包囲を突破し、北山に逃走して南へ向かった。劉勲がこれを追撃し、河陽で戦って耿稚を大破して3500人を殺害し、また河に投じて死亡した晋兵も1000人余りに及んだ。_NEWLINE_平陽の螽斯則百堂で火災が発生し、劉聡の子である会稽王劉衷以下21人が焼死した。劉聡はこれを聞いて悲しみのあまり気絶し、しばらくしてようやく意識を回復した。_NEWLINE_驃騎大将軍・済南王の劉驥を大将軍・都督中外諸軍事・録尚書事に任じ、衛大将軍・斉王の劉勱を大司徒に任じた。_NEWLINE_中常侍王沈の養女が14歳で非常に美しく劉聡は彼女を左皇后に立てた。尚書令の王鑒・中書監の崔懿之・中書令の曹恂らが諫めて「王たるもの天の徳を持ち、后たるもの地の徳を持つと言います。命ある時は宗廟を守護し、死した後は陵墓により守られます。世に優れた徳を持つ人間を選び、衆の望に叶ってこそ、神祇の心は賞賛を受けるのです。戦国趙の孝成は心の望むままに身分の低い女子を后としたために王統の断絶し、社稷の傾きを招いたのです。大漢の禍もこれに他なりません。麟嘉以来、中宮の位は徳を持って選んでおりません。特に今回は、刑余りの小醜である王沈やその弟女が朝廷を汚しているというのに、その下女などを入れるべきではありません。六宮の妃嬪は皆公子公孫であるのに、どうして下女を入れようというのでしょうか。臣は国家に禍が訪れることを恐れます」と言った。_NEWLINE_劉聡はこれを聞いて激怒し、宣懐を劉粲の下へ派遣し「王鑒らは国家を侮って狂言を口にしております。君臣上下の礼も失しており、速やかに対処しますように」と言い、劉粲は王鑒らを捕らえてて東市に送った。金紫光禄大夫の王延が急行して劉聡を諫めようとしたが、門衛が通さなかった。王鑒らの刑の執行に際して王沈が杖をもって王鑒を叩き「庸奴め。もう悪事は起こせまい。お前のような者と長年共にしておったとはな」と詰った。王鑒が目を瞋らせてこれを叱咤して「豎子め。漢を滅ぼす者は汝ら鼠輩と靳準である。先帝に訴えて汝らを地下において捕えるだろう」と言った。また、崔懿之は「靳準の容姿を見るに必ずや国の患いとなるだろう。汝も人を食らったからには、必ずや人が汝を喰らうだろう」と言い放った。王沈は彼らを処刑した。劉聡はさらに中常侍宣懐の養女を中皇后に立てた。_NEWLINE_7月、劉虎が朔方から代王拓跋鬱律の西部を攻撃するも、返り討ちに遭った。劉虎は逃走し、従弟の劉路孤は部落を率いて拓跋鬱律に帰順した。_NEWLINE_同月、劉聡は病に倒れた。劉聡の少子で既に亡くなっている劉約の幻覚がしばしば見られるようになったという。劉曜を丞相に、石勒を大将軍に任じて、二人を録尚書事に任じ、遺詔を与えて政治を輔けるよう命じたが、二人とも固辞した。その為、劉曜を丞相・領雍州牧に、石勒を大将軍・領幽冀二州牧に任じたが、石勒は今度も辞退した。劉景を太宰に、劉驥を大司馬に、朱紀を太傅に、呼延晏を太保に任じて、皆録尚書事に任じた。また、范隆を尚書令・儀同三司に任じ、靳準を大司空・領司隷校尉に任じて尚書の奏事を裁決させた。_NEWLINE_間もなく劉聡は亡くなった。在位すること9年で昭武皇帝と追諡し、廟号を烈宗とした。_NEWLINE_太子の劉粲が後を継いだが在位1ヶ月で靳準に殺害され、漢は動乱状態に陥った。劉曜と石勒が靳準を討って混乱を収拾したが、やがて華北は劉曜(前趙)と石勒(後趙)の争いの舞台となった。
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_START_ARTICLE_ 劉邦 _START_SECTION_ 出生 _START_PARAGRAPH_ 泗水郡沛県豊邑中陽里(現在の江蘇省徐州市豊県)で、父・劉太公と母・劉媼の三男として誕生した。長兄に劉伯、次兄に劉喜が、異母弟に劉交がいる。生年については2説ある。_NEWLINE_劉媼が劉邦を出産する前、沢の側でうたた寝をしていると、夢の中で神に逢い、劉太公は劉媼の上に龍が乗っている姿を見た。その夢の後に劉邦が生まれたという。また、諱の「邦」は『史記』では記されておらず、現在に残る文献で一番古いものでは後漢の荀悦『漢紀』に記され、『史記』『漢書』の注釈でそれを引用している。出土史料から諱が「邦」であったことはおそらく正しいと思われる。また、字の「季」は「末っ子」のことである。_NEWLINE_劉邦は鼻が高く、立派な髭をしており、いわゆる龍顔、顔が長くて鼻が突き出ている顔をしていたという。また、太股に72の黒子があった。72とは1年360日を五行思想の5で割った数で、当時ではかなりの吉数である。_NEWLINE_その頃の幼馴染に盧綰と樊噲がおり、共に後の反秦活動に参加している。特に盧綰は、盧綰の父親と劉太公が親友付き合いをしており、また盧綰が劉邦と同じ日に生まれたことから、2人も幼少時から親しくして育った。中国の主要王朝の創始者としては、後年の明の朱元璋と並ぶ庶民出身者であるが、家族が次々餓死して一家離散した朱元璋ほどの極貧な生まれではなかった。ただし、中年期までろくな定職も持たずに過ごし、まともな読み書きも身につけないままであった。その一方で、遊び人なりに多くの人に好かれていたことは、蜂起後に彼の大きな財産となっている。 _START_SECTION_ 任侠生活 _START_PARAGRAPH_ 反秦戦争に参加する前の劉邦はいわゆる親分肌の侠客であり、家業を厭い、酒色を好んだ生活をしていた。縁あって沛東に位置する泗水の亭長(警察分署長)に就いたが、任務に忠実な官人ではなかった。沛の役人の中に後に劉邦の覇業を助けることになる蕭何と曹参もいたが、彼らもこの時期には劉邦を高くは評価していなかったようである。しかしなぜか人望のある性質であり、仕事で失敗しても周囲が擁護し、劉邦が飲み屋に入れば自然と人が集まり、店が満席になったと伝えられる。また、この任侠時代に張耳の食客になっていたともいう。_NEWLINE_ある時、劉邦は夫役で咸陽に行ったが、そこで始皇帝の行列を見て「ああ、大丈夫たる者、あのように成らなくてはいかんなあ」と言った。この言葉は項羽が同じく始皇帝の行列を見たときに発した「奴に取って代わってやるわ!」という言葉とよく対比され、劉邦と項羽の性格の違いを表すものとして使われる。_NEWLINE_あるとき、単父の有力者・呂公が仇討ちを避けて沛へとやって来た。名士である呂公を歓迎する宴が開かれ、蕭何がこの宴を取り仕切った。沛の人々はそれぞれ進物に金銭を持参して集まったが、あまりに多くの人が集まったので、蕭何は進物が千銭以下の人は地面に座ってもらおうと提案した。そこへ劉邦がやってきて、進物を「銭一万銭」と呂公に伝えた。あまりの金額に驚いた呂公は、慌てて門まで劉邦を迎え、上席に着かせた。蕭何は劉邦が銭など持っていないのを知っていたので、「劉邦は前から大風呂敷だが、実際に成し遂げたことは少ない(だからこのことも本気にしないでくれ)」と言ったが、呂公は劉邦を歓待し、その人相を見込んで自らの娘を娶わせた。これが呂雉である。_NEWLINE_妻を娶ったものの劉邦は相変わらずの侠客であり、呂雉は実家の手伝いをし、2人の子供を育てながら生活していた。ある時、呂雉が田の草取りをしていたところ、通りかかった老人が呂雉の人相がとても貴いと驚き、息子と娘(後の恵帝と魯元公主)の顔を見てこれも貴いと驚き、帰ってきた劉邦がこの老人に人相を見てもらうと「奥さんと子供たちの人相が貴いのは貴方がいるためである。あなたの貴さは言葉にすることができない」と言い、劉邦は大いに喜んだという。『史記』には他にもいくつかの「劉邦が天下を取ることが約束されていた」との話を載せている。ただ、それらの逸話の中で劉邦は赤龍の子であるとする逸話は、漢が火徳の帝朝と称することに繋がっている。 _START_SECTION_ 陳勝・呉広の乱と挙兵 _START_PARAGRAPH_ ある時、劉邦は亭長の役目を任ぜられ、人夫を引き連れて咸陽へ向かっていたが、秦の過酷な労働と刑罰を知っていた人夫たちは次々と逃亡した。やけになった劉邦は浴びるように酒を飲んだ上、酔っ払って残った全ての人夫を逃がし、自らも一緒に行くあてのない人夫らと共に沼沢へ隠れた。_NEWLINE_紀元前209年、陳勝・呉広の乱が発生し、反乱軍の勢力が強大になると、沛の県令は反乱軍に協力するべきか否かで動揺、そこに蕭何と曹参が「県令では誰も従わない、人気のある劉邦を押し立てて反乱に参加するべきだ」と吹き込んだ。一旦はこれを受け入れた県令であったが、劉邦に使者が行った後に考えを翻し、沛の門を閉じて劉邦を締め出そうとした。劉邦は一計を案じて、絹に書いた手紙を城の中に投げ込んだ(当時の中国の都市は基本的に城塞都市である)。その手紙には「今、この城を必死に守ったところで、諸侯(反乱軍)がいずれこの沛を攻め落とすだろう。そうなれば沛の人々にも災いが及ぶことになる。今のうちに県令を殺して頼りになる人物を長に立てるべきだ」と書いてあり、それに応えた城内の者は県令を殺して劉邦を迎え入れた。劉邦は最初は「天下は乱れ、群雄が争っている。自分などを選べば、一敗地に塗れることになる。他の人を選ぶべきだ」と辞退した。しかし、蕭何と曹参までもが劉邦を県令に推薦したので、劉邦はこれを受けて県令となった。以後、劉邦は沛公と呼ばれるようになる。_NEWLINE_この時、劉邦が集めた兵力は2、3千というところで、配下には蕭何・曹参の他に犬肉業者をやっていた義弟の樊噲、幼馴染の盧綰、県の厩舎係をやっていた夏侯嬰、機織業者の周勃などがいた。_NEWLINE_この軍団で周辺の県を攻めに行き、故郷である豊の留守を雍歯という者に任せたが、雍歯は旧魏の地に割拠していた魏咎の武将の周巿に誘いをかけられて寝返ってしまった。怒った劉邦は豊を攻めるが落とすことができず、仕方なく沛に帰った。当時、陳勝は秦の章邯の軍に敗れて逃れたところを殺されており、その傘下に属した旧楚の公族系の景駒が甯君と秦嘉という者に代わりの王に擁立されていた。劉邦は豊を落とすためにもっと兵力が必要だと考えて、景駒に兵を借りに行った。_NEWLINE_紀元前208年、劉邦は甯君と共に秦軍と戦うが、敗れて引き上げ、新たに碭(現在の安徽省宿州市碭山県)を攻めてこれを落とし、ここにいた5、6千の兵を合わせ、さらに下邑(現在の安徽省宿州市碭山県)を落とし、この兵力を持って再び豊を攻めて、やっとの思いで豊を陥落させた。雍歯は趙の武臣を頼って逃れた。_NEWLINE_豊を取り返した劉邦であったが、この間に豊などとは比べ物にならないほどに重要なものを手に入れていた。張良である。張良は始皇帝暗殺に失敗した後に、旧韓の地で兵士を集めて秦と戦おうとしていたが、それに失敗して留(沛の東南)の景駒の所へ従属しようと思っていた。張良自身も自らの指導者としての資質の不足を自覚しており、自らの兵法をさまざまな人物に説いていたが、誰もそれを聞こうとはしなかった。ところが劉邦は、出会うなり熱心に張良に言葉を聞き入り、張良はこれに感激して「沛公はほとんど天性の英傑だ」と劉邦のことを褒め称えた。これ以降、張良は劉邦の作戦のほとんどを立案し、張良の言葉を劉邦はほとんど無条件に聞き入れ、ついには天下をつかむことになる。劉邦と張良の関係は、君臣関係の理想として後世の人に仰ぎ見られることになる。_NEWLINE_その頃、景駒は項梁によって殺され、項梁が新たな反秦軍の頭領となって、旧楚の懐王の孫を連れてきて楚王の位に即け、祖父と同じく懐王と呼ばせた(後に項羽より義帝の称号を送られる)。劉邦は項梁の勢力下に入り、項梁の甥である項羽と共に秦軍と戦う。_NEWLINE_項梁は何度となく秦軍を破ったが、それと共に傲慢に傾いて秦軍を侮るようになり、章邯軍の前に戦死した。劉邦たちは遠征先から軍を戻し、新たに反秦軍の根拠地に定められた彭城(現在の江蘇省徐州市)へと集結した。項梁を殺した章邯は軍を北へ転じて趙を攻め、趙王の居城鉅鹿を包囲したため、趙は楚へ救援を求めてきていた。そこで懐王は宋義・項羽・范増を将軍として主力軍を派遣し、趙にいる秦軍を破った後、咸陽へと攻め込ませようとし、その一方で劉邦を別働隊として西回りに咸陽を衝かせようとした。そして懐王は「一番先に関中(咸陽を中心とした一帯)に入った者をその地の王とするだろう」と約束した。_NEWLINE_趙へ向かった項羽は、途中で行軍を意図的に遅らせていた宋義を殺して自ら総指揮官となり、渡河した後に船を全て沈めて3日分の兵糧を配ると残りの物資を破棄し、退路を断って兵士たちを死に物狂いで戦わせるという凄まじい戦術で秦軍を撃破、一気にその勇名を高めた。しかしその後、咸陽へ進軍する途中で秦の捕虜20万を生き埋めにするという、これも凄まじい虐殺を行う。このことは後の楚漢戦争でも項羽の悪評として人々の心に残り、多大な影響をもたらすことになる。 _START_SECTION_ 関中入り _START_PARAGRAPH_ 劉邦は西に別働隊を率いて行ったが、その軍勢は項羽軍に比べて質・量ともに劣っており、道々苦戦しながら高陽(現在の河南省開封市杞県)まで来た。ここで劉邦は儒者の酈食其の訪問を受ける。劉邦は大の儒者嫌いで、酈食其に対しても、足を投げ出してその足を女たちに洗わせながら面会するという態度であった。しかしこれを酈食其が一喝すると、劉邦は無礼を詫びて酈食其の進言を聞いた。酈食其は「近くの陳留は、交通の要所であり秦軍の食料も蓄えられているのでこれを得るべきである。城主は反秦軍を脅威に思っているが、民衆からの復讐を恐れているので、降るに降れない。降っても身分を保証すると約束して頂ければ、帰順させるよう説得する」と言った。劉邦はこれを採用し、陳留の県令は説得に応じて降り、交通の要所と大量の兵糧を無血で手に入れた。さらに劉邦はその兵力を合わせて進軍し、大梁を攻め落とした。次いで韓に寄り、寡兵で苦戦していた韓王成と張良を救援して、楊熊率いる秦軍を駆逐し、韓を再建した。そしてその恩義をもって、張良を客将として借り受ける。_NEWLINE_さらに南陽郡を攻略し、郡守の呂齮を撃破して、呂齮が宛(現在の河南省南陽市宛城区)に逃げ込んだために張良の助言でこれを包囲した。呂齮の舎人である陳恢の説得に応じて、これを降伏させると、秦の領域へ近づいていった。この侵攻の際、劉邦は陳留のように降伏を認め、降伏した場合は城主をそのままの地位に任命したため無駄な戦闘はしておらず、その進軍は項羽よりも速かった。そしていよいよ、関中の南の関門である武関に迫った。_NEWLINE_この頃、趙で項羽が秦軍の主力を撃破し、秦の内部では動揺が走った。始皇帝の死後、二世皇帝を傀儡として宦官趙高が専権をふるっていたが、この敗戦がばれれば自分が責任を取らされると考え、二世皇帝を殺し、紀元前207年になってから劉邦に対して関中を二分して王になろうという密書を送ってきた。劉邦はこれを偽者だと思い、自らの軍をもって武関の守将を張良の策によってだまし討ちにし、これを突破した。この後、趙高は王に建てようとしていた子嬰におびき出されて逆に殺された。_NEWLINE_続く嶢関は、秦の最後の砦のため決死の兵が守っていたが、守将が商人出身であり計算高いことを利用した張良の策により、大量の旗を重ねて大軍のように見せかけておいて、降るように誘った。この策は成功し、守将は降ることを約束したが、張良は兵達は決死なので降ることはないと察しており、あくまで油断させるためのものだった。劉邦の軍は砦に入るや否や、守備隊の不意をついて攻めかかって制圧し、嶢関を突破した。こうして劉邦軍は関中に入る。もはや阻むものはなく、秦都・咸陽は目前となった。_NEWLINE_秦王子嬰は、覇上にまで迫っていた劉邦のところへ白装束で首に紐をかけた姿で現れ、皇帝の証である玉璽などを差し出して降伏した。部下の間には子嬰を殺してしまうべきだという声が高かったが、劉邦はこれを許した。_NEWLINE_咸陽に入城した劉邦は宮殿の中の女と財宝に目がくらみ、ここに留まって楽しみたいと思ったが、樊噲と張良に諫められ、覇上へ引き上げた。田舎の遊び人だった劉邦にとって、咸陽の財宝と後宮の女達は極楽にさえ思われただろうが、部下に諌められると一切手を出さなかった。こうした諌言を聞き入れる劉邦の度量と配下への信頼は、項羽と対照的であり、その後の天下統一にも非常に大きな作用をもたらすことになる。ちなみにこの時、蕭何は秦の文書殿に入って法令などの書物を全て持ち帰っている。これがその後の漢王朝の法の制定などに役立ったと言われている。 _START_SECTION_ 漢王劉邦 _START_PARAGRAPH_ 覇上に引き上げた劉邦は、この地に関中の父老(村落のまとめ役)を集めて“法三章”を宣言する。これは秦の万般仔細に及ぶ上に苛烈な法律(故に役人が気分次第で罰を与えたりもでき、特に政道批判の罪による処罰はいいがかりとしても多用された。しかも一族皆殺しもよくあることであった)を「人を殺せば死刑。人を傷つければ処罰。物を盗めば処罰」の三条のみに改めたものである。この施策に関中の民は歓喜し、牛などを献上しようとしたが、劉邦はこれを断った上で「我が軍の食料が十分だから断るのではない。民に出させるに忍びないのだ」と言った。これを聞いた民衆の劉邦人気は更に大きく高まり、劉邦が王にならなかったらどうしようと話し合うほどになった。後世、「法三章」は簡便な法律を表す法諺となっている。_NEWLINE_その頃、東から項羽が関中に向かって進撃してきていた。劉邦はある人の「あなたが先に関中に入ったにもかかわらず、項羽が関中に入ればその功績を横取りする。関を閉じて入れさせなければあなたが関中の王のままだ」というを進言を聞いて、関中を守ろうとして関中の東の関門である函谷関に兵士を派遣して守らせていた。劉邦が関中入りできた最大の要因は、秦の主力軍の相手を項羽が引き受けたことにあり、それなのに劉邦は既に関中王になったつもりで函谷関を閉ざしていることに激怒した項羽は、英布に命じてこれを破らせた。項羽の軍師范増は、劉邦が関中で聖人君子の如く振る舞ったのは天下を狙う大望有るゆえと見て、殺すべきと進言。先の激怒もあって、項羽は40万の軍で劉邦を攻めて滅ぼしてしまおうとした。劉邦の部下である曹無傷は、これに乗じて項羽に取り入ろうと「沛公は関中の王位を狙い、秦王子嬰を宰相として関中の宝を独り占めにしようとしております」と讒言したので、項羽はますます激怒した。_NEWLINE_項羽軍は劉邦軍より兵力も勇猛さも圧倒的に上であり、劉邦はこの危機を打開しようと焦っていたが、ちょうどその時、項羽の叔父である項伯が劉邦軍の陣中に来ていた。項伯はかつて張良に恩を受けており、その恩を返すべく危機的状況にある劉邦軍から張良を救い出そうとしたのである。しかし張良は劉邦を見捨てて一人で生き延びることを断り、項伯を劉邦に引き合わせて何とか項羽に弁明させて欲しいと頼み込んだ。項伯の仲介が功を奏し、劉邦と項羽は弁明のための会合を持つ。この会合で劉邦は何度となく命の危険があったが、張良や樊噲の働きにより虎口を脱した。項羽は劉邦を討つ気が失せ、また弁明を受け入れたことで討つ名目も失った。これが鴻門の会である。陣中に戻った劉邦は、まず裏切者の曹無傷を処刑してその首を陣門に晒した。_NEWLINE_その後、項羽は咸陽に入り、降伏した子嬰ら秦王一族や官吏4千人を皆殺しにし、宝物を持ち帰り、華麗な宮殿を焼き払い、さらに始皇帝の墓を暴いて宝物を持ち出している。劉邦の寛大さと対照的なこれらの行いは、特に関中の人民から嫌悪され、人心が項羽から離れて劉邦に集まる一因となっている。_NEWLINE_項羽は彭城に戻って“西楚の覇王”を名乗り、名目上の王である懐王を義帝と祭り上げて辺境に流し、その途上でこれを殺した。紀元前206年、項羽は諸侯に対して封建(領地分配)を行う。しかしこの封建は非常に不公平なもので、その基準は功績ではなく、項羽との関係が良いか悪いかに拠っていたため多くの不満を買い、すぐ後に次々と反乱が起きるようになる。劉邦にも約束の関中の地とはいえ、咸陽周辺ではなくその西側の一地方であり奥地・辺境である漢中および巴蜀が与えられた(当時「関中」には統一以前の秦の領土を指す意味もあった)。このとき劉邦を「左に遷す」と言ったことから、これが左遷の語源になったと言われている。さらに劉邦の東進を阻止するために、関中は章邯ら旧秦軍の将軍3人に分割して与えられた。_NEWLINE_当時の漢中は、流刑地とされるほどの非常な辺境であった。そこへ行くには「蜀道の険」と呼ばれる、人一人がやっと通れるような桟道があるだけで、劉邦が連れていた3万の兵士は途中で多くが逃げ出し、残った兵士も東に帰りたいと望んでいた。 _START_SECTION_ 項羽との対決 _START_PARAGRAPH_ この時期に劉邦陣営に新たに加わったのが韓信である。韓信は元は項羽軍にいたが、その才能がまったく用いられず、劉邦軍へと鞍替えしてきたのである。最初は単なる兵卒や下級将校であったが、やがて韓信の才能を見抜いた蕭何の推挙により、大将軍となった。その際に韓信は、「項羽は強いがその強さは脆いものであり、特に処遇の不満が蔓延しているため東進の機会は必ず来る。劉邦は項羽の逆を行えば人心を掌握できる」と説いた。また、「関中の三王は20万の兵士を犠牲にした秦の元将軍であり、人心は付いておらず関中は簡単に落ちる。劉邦の兵士たちは東に帰りたがっており、この帰郷の気持ちをうまく使えば強大な力になる」と説いた。劉邦はこの進言を全面的に用いた。_NEWLINE_そして韓信の予言通り、項羽に対する反乱が続発し、項羽はその鎮圧のため常勝ながら東奔西走せざるを得なくなる。項羽は劉邦にも疑いの目を向けたが、劉邦は張良の策によって桟道を焼き払って漢中を出る意志がないと示し、更に項羽に対して従順な文面の手紙を出して反抗する気がないように見せかけていた。これで項羽は安心し、反乱を起こしていた斉の田栄を討伐に向かった。_NEWLINE_それを見た劉邦は、桟道以前に使われていた旧道を通って関中に出撃し、一気に章邯らを破って関中を手に入れ、ここに社稷を建てた。_NEWLINE_一方、遠征先の斉でも、項羽は相変わらず城を落とすたびにその住民を皆殺しにする蛮行を繰り返したため、斉の人々は頑強に抵抗した。このため項羽は斉攻略にかかりきりになり、その隙に乗じた劉邦はさらに東へと軍を進め、途中の王たちを恭順・征服しながら項羽の本拠地・彭城を目指した。 _START_SECTION_ 大敗 _START_PARAGRAPH_ 紀元前205年、劉邦は味方する諸侯との56万と号する連合軍を引き連れて彭城へ入城した。入城した漢軍は勝利に浮かれてしまい、日夜城内で宴会を開き、女を追いかけ回すという有様となった。一方、彭城の陥落を聞いた項羽は自軍から3万の精鋭を選んで急いで引き返し、油断しきっていた漢軍を散々に打ち破った。この時の漢軍の死者は10万に上るとされ、川が死体のためにせき止められたという(彭城の戦い)。劉邦は慌てて脱出したが、劉太公と呂雉が楚軍の捕虜となってしまった。この大敗で、それまで劉邦に味方していた諸侯は一斉に楚になびいた。_NEWLINE_劉邦は息子の劉盈(恵帝)と娘(魯元公主)と一緒に馬車に乗り、夏侯嬰が御者となって楚軍から必死に逃げていた。途中で追いつかれそうになったので、劉邦は車を軽くするために2人の子供を突き落とした。あわてて夏侯嬰が2人を拾ってきたが劉邦はその後も落とし続け、そのたびに夏侯嬰が拾ってきた。_NEWLINE_劉邦は碭で兵を集めて一息ついたものの、ここで項羽に攻められれば防ぎきれないことは明らかだったので、随何に命じて楚軍の英布を味方に引き込みの画策に成功したが、英布は楚の武将・龍且と戦って破れ、劉邦軍と合流した。劉邦は道々兵を集めながら軍を滎陽に集め、周囲に甬道(壁に囲まれた道)を築いて食料を運び込ませ、篭城の用意を整えた。この時期、劉邦の幕僚に謀略家・陳平が加わっている。_NEWLINE_その一方、別働隊に韓信を派遣し、魏・趙を攻めさせて項羽を背後から牽制しようとした。また元盗賊の彭越を使い、項羽軍の背後を襲わせた。_NEWLINE_紀元前204年、楚軍の攻撃は激しく、甬道も破壊されて漢軍の食料は日に日に窮乏してきた。ここで陳平は項羽軍に離間の計を仕掛け、項羽とその部下の范増・鍾離眜との間を裂くことに成功する。范増は軍を引退して故郷に帰る途中、怒りの余り、背中にできものを生じて死亡した。_NEWLINE_離間の計は成功したものの、漢の食糧不足は明らかであり、将軍の紀信を劉邦の影武者に仕立てて項羽に降伏させ、その隙を狙って劉邦本人は西へ脱出した。その後、滎陽は御史大夫の周苛、樅公が守り、しばらく持ちこたえたものの、項羽によって落とされた。_NEWLINE_西へ逃れた劉邦は関中にいる蕭何の元へ戻り、蕭何が用意した兵士を連れて滎陽を救援しようとした。しかし袁生が、真正面から戦ってもこれまでと同じことになる、南の武関から出陣して項羽をおびき寄せる方がいいと進言した。劉邦はこれに従って南の宛に入り、思惑通り項羽はそちらへ向かった。そこで項羽の後ろで彭越を策動させると、こらえ性のない項羽は再び軍を引き返して彭越を攻め、その間に、劉邦も引き返してくる項羽とまともに戦いたくないので、北に移動して成皋(現在の河南省鄭州市滎陽市)へと入った。項羽は戻ってきてこの城を囲み、劉邦は支えきれずに退却した。_NEWLINE_夏侯嬰のみを供として敗走していた劉邦は、韓信軍が駐屯していた修武(現在の河南省焦作市修武県)へ行って、韓信が陣中で寝ているところに入り込み、韓信の軍隊を取り上げた。さらに劉邦は韓信に対して斉を攻めることを命じ、曹参と灌嬰を韓信の指揮下とした。また盧綰と従兄弟の劉賈を項羽の本拠地である楚へ派遣し、後方撹乱を行わせた。_NEWLINE_韓信はその軍事的才能を遺憾なく発揮し、斉をあっさりと下し、楚から来た20万の軍勢と龍且をも討ち破った。ただ斉を攻める際に手違いがあり、斉に漢との同盟を説きに行った酈食其が殺されるということが起きている。 _START_SECTION_ 再び敗れる _START_PARAGRAPH_ 紀元前203年、劉邦は項羽と対陣して堅く守る作戦をとっていたが、一方で項羽の後ろで彭越を活動させ、楚軍の兵站を攻撃させていた。項羽は部下の曹咎に「15日で帰るから手出しをしないで守れ」と言い残して出陣し、彭越を追い散らしたが、曹咎は漢軍の挑発に耐えかねて出陣し、大敗していた。漢軍は項羽が帰ってくると再び防御に徹し、項羽が戦おうと挑んでもこれに応じなかった。_NEWLINE_その頃、韓信は斉を完全に制圧し、劉邦に対して鎮撫のため仮の斉王になりたいとの使者を送ってきた。これを聞いた劉邦は怒って声を荒らげそうになったが、それを察知した張良と陳平に足を踏んで諫められ、もし韓信が離反してしまえば取り返しがつかないことを悟り、韓信を正式な斉王に封じた。_NEWLINE_漢楚両軍は長い間対峙を続け、しびれを切らした項羽は捕虜になっていた劉太公を引き出して大きな釜に湯を沸かし「父親を煮殺されたくなければ降伏しろ」と迫ったが、劉邦はかつて項羽と義兄弟の契りを結んでいたことを持ち出して「お前にとっても父親になるはずだから殺したら煮汁をくれ」とやり返した。次に項羽は「二人で一騎討ちをして決着をつけよう」と言ったが、劉邦は笑ってこれを受けなかった。そこで項羽は弩の上手い者を伏兵にして劉邦を狙撃させ、矢の1本が胸に命中した劉邦は大怪我をした。これを味方が知れば全軍が崩壊する危険があると考え、劉邦はとっさに足をさすり、「奴め、俺の指に当ておった」と言った。その後劉邦は重傷のため床に伏せたが、張良は劉邦を無理に立たせて軍中を回らせ、兵士の動揺を収めた。_NEWLINE_一方、彭越の後方攪乱によって楚軍の食料は少なくなっていた。もはや漢も楚も疲れ果て、天下を半分に分けることを決めて講和した。この時、劉太公と呂雉は劉邦の下に戻ってきている。 _START_SECTION_ 天下統一 _START_PARAGRAPH_ 項羽は東へ引き上げ、劉邦も西へ引き上げようとしていたが、張良と陳平は退却する項羽の軍を攻めるよう進言した。もしここで両軍が引き上げれば楚軍は再び勢いを取り戻し、漢軍はもはやこれに対抗できないだろうというのである。劉邦はこれを容れて、項羽軍の後方を襲った。_NEWLINE_劉邦は同時に、韓信と彭越に対しても兵士を連れて項羽攻撃に参加するように要請したが、どちらも来なかった。劉邦が恩賞の約束をしなかったからである。張良にそれを指摘された劉邦は思い切って韓信と彭越に大きな領地の約束をし、韓信軍と彭越軍を加えた劉邦軍は一気に膨張した。項羽に対して有利な立場に立ったことで、その他の諸侯の軍も雪崩をうって劉邦に味方し、ついに項羽を垓下に追い詰めた。_NEWLINE_追い詰めはしたものの、やはり項羽と楚兵は勇猛であり、漢軍は連日大きな犠牲を出した。このため張良と韓信は無理に攻めず包囲しての兵糧攻めを行い、楚軍を崩壊させた。項羽は残った少数の兵を伴い包囲網を突破したが、楚へ逃亡することを潔しとせず、途中で漢の大軍と戦って自害した(垓下の戦い)。遂に項羽を倒した劉邦は、いまだ抵抗していた魯を下し、残党たちの心を静めるために項羽を厚く弔った。_NEWLINE_紀元前202年、劉邦は群臣の薦めを受けて、ついに皇帝に即位した。_NEWLINE_論功行賞をした際、戦場の功のある曹参を第一に推す声が多かったが、劉邦はそれを退けて蕭何を第一とした。常に敗れ続けた劉邦は、蕭何が常に用意してくれた兵員と物資がなければとっくの昔に滅び去っていたことを知っていたのである。また韓信を楚王に、彭越を梁王に封じた。張良にも3万戸の領地を与えようとしたが、張良はこれを断った。また、劉邦を裏切って魏咎に就くなど、挙兵時から邪魔をし続けながら、最後はまたぬけぬけと漢中陣営に加わり、功こそあれど劉邦が殺したいほど憎んでいた雍歯を速やかに什方侯にした。これは、論功行賞で不平を招いて反乱が起きないための張良の策で、他の諸侯に「あの雍歯が賞せられたのだから、自分にもちゃんとした恩賞が下るだろう」と安心させる効果があった。_NEWLINE_劉邦は最初洛陽を首都にしようと考えたが、劉敬が長安を首都にする利点を説き、張良もその意見に賛同すると、すぐさま長安に行幸し首都に定めた。_NEWLINE_劉邦が家臣たちと酒宴を行っていた時、劉邦は「皆、わしが天下を勝ち取り、項羽が敗れた理由を言ってみよ」と言った。これに答えて高起と王陵が「項羽は傲慢で人を侮ります。これに対して陛下は仁慈で人を慈しみます。しかし陛下は功績があった者には惜しみなく領地を与え、天下の人々と利益を分かち合います。これに対して項羽は賢者を妬み、功績のある者に恩賞を与えようとしませんでした。これが天下を失った理由と存じます」と答えた。_NEWLINE_劉邦は「貴公らは一を知って二を知らない。わしは張良のように策を帷幕の中に巡らし、勝ちを千里の外に決することは出来ない。わしは蕭何のように民を慰撫して補給を途絶えさせず、民を安心させることは出来ない。わしは韓信のように軍を率いて戦いに勝つことは出来ない。だが、わしはこの張良、蕭何、韓信という3人の英傑を見事に使いこなすことが出来た。反対に項羽は范増1人すら使いこなすことが出来なかった。これが、わしが天下を勝ち取った理由だ」と答え、その答えに群臣は敬服した。 _START_SECTION_ 粛清 _START_PARAGRAPH_ その年の7月、燕王臧荼が反乱を起こし、劉邦は親征してこれを下し、幼馴染の盧綰を燕王とした。その中で劉邦は次第に部下や諸侯に猜疑の目を向けるようになった。特に韓信・彭越・英布の3人は領地も広く、百戦錬磨の武将であり、最も危険な存在であった。_NEWLINE_ある時「韓信が反乱を企んでいる」と讒言する者があった。群臣たちは韓信に対する妬みもあり、これを討伐するべきだと言ったが、陳平は軍事の天才・韓信とまともに戦うのは危険であると説き、だまして捕らえることを提案した。劉邦はこれを受け入れて、巡幸に出るから韓信も来るようにと言いつけ、匿っていた鍾離眜の首を持参した韓信がやって来たところを虜にし、楚王から格下げして淮陰侯にした。_NEWLINE_翌年、匈奴に攻められて降った韓王信がそのまま反乱を起こした。劉邦はまた親征してこれを下した。翌紀元前200年、匈奴の冒頓単于を討つため、さらに北へ軍を動かした。しかし、冒頓単于は弱兵を前方に置いて、負けたふりをして後退を繰り返したので、追撃を急いだ劉邦軍の戦線が伸び、劉邦は少数の兵とともに白登山で冒頓単于に包囲された。この時、劉邦は7日間食べ物がなく窮地に陥ったが、陳平の策略により冒頓単于の妃に賄賂を贈り、脱出に成功した(白登山の戦い)。その後、劉邦と冒頓単于は匈奴を兄・漢を弟として毎年貢物を送る条約を結び、以後は匈奴に対しては手出しをしないことにした。_NEWLINE_紀元前196年、韓信は反乱を起こそうと目論んだが、蕭何の策で捕らえられ、誅殺された。この時、劉邦は遠征に出ていたが、帰って韓信が誅殺されたことを聞かされるとこれを悲しんだ。_NEWLINE_同年、彭越は捕らえられて蜀に流されるところを呂雉の策謀により誅殺され、一人残った英布は反乱を起こした。劉邦はこの時体調が優れず、太子(恵帝)を代理の将にしようかと考えていたが、呂雉らにこれを諫められ、親征して英布を下した。この遠征から帰る途中で故郷の沛に立ち寄って宴会を行い、この地の子供120人を集めて「大風の歌」を歌わせた。_NEWLINE_大風起こりて雲飛揚す(大風起兮雲飛揚)_NEWLINE__NEWLINE_威海内に加わりて故郷に帰る(威加海内兮歸故郷)_NEWLINE__NEWLINE_いずくむぞ猛士を得て四方を守らしめん(安得猛士兮守四方)_NEWLINE_そして沛に永代免租の特典を与え、沛の人たちから請われて故郷の豊にも同じ特典を与えた。_NEWLINE_しかし英布戦で受けた矢傷が元で、さらに病状が悪化し、翌紀元前195年に呂雉に対して、今後誰を丞相とするべきかの人事策を言い残して崩御した。この際、自らの死期を悟った劉邦は、「死後どうすればよいのか」と問う呂雉に対し、「(丞相・相国の)蕭何に任せておけばよい。その次は曹参が良かろう」と言い、さらに何度も「その次は?」と聞く呂雉へ「その次は王陵が良いだろうが、愚直すぎるので陳平を補佐とするとよい。だが陳平は頭が切れすぎるから、全てを任せるのは危ない。社稷を安んじるものは必ずや周勃であろう」と言った。そして、なおも「その次は?」と聞く呂雉に「お前はいつまで生きるつもりだ。その後はお前にはもう関係ない」と言っている。_NEWLINE_死後、太子の劉盈が即位したが(恵帝)、実権は全て呂雉に握られ、強大な諸侯は全て劉邦に粛清されており対抗できる者もなく、呂氏の時代がやって来た。呂雉の死後、周勃と陳平により呂氏は粛清され、恵帝の異母弟の代王劉恒文帝が迎えられ、文景の治の繁栄となる。 _START_SECTION_ 劉邦の影響 _START_PARAGRAPH_ 中国史上最初の皇帝・始皇帝は以後の中国にとって悪例として残り、その後の混乱を収めた劉邦は好例として「皇帝(英雄)とはかくあるべき」という理想を、後世の多くの人々の心に形作ることになる。例えば明の朱元璋は李善長より「高祖のごとくすれば、天下はあなたのものになる」と進言され、これを受け入れている。_NEWLINE_特に劉邦と張良の関係に代表される、有能な部下を全面的に信頼してその才を遺憾なく発揮させる点は、後の世にもたびたび引き合いに出された。 _START_SECTION_ 劉邦に関する著述 _START_PARAGRAPH_ 劉邦に関する典籍は、司馬遷の『史記』「高祖本紀」、班固の『漢書』「高帝紀」などがある。「高祖本紀」は『史記』の第8巻で、劉邦の出自から秦末の動乱、楚漢戦争、前漢の初期の動き、劉邦の死までを描いている。_NEWLINE_通俗本も多く、中国の古典小説『西漢演義伝』を元にした『通俗漢楚軍談』が江戸時代によく読まれた。
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_START_ARTICLE_ 加地健三郎 _START_SECTION_ 来歴・人物 _START_PARAGRAPH_ 京阪商業学校(現:大阪府立芦間高等学校)時代には春1回(1938年)、夏2回(1938年、1939年)甲子園に出場した。高校時代のチームメイトに宮口美吉、深尾文彦(2人とものち南海軍)、乾国雄(のち阪神軍)がいる。_NEWLINE_1940年3月15日、ライオン軍と契約し入団。二塁、三塁、遊撃を守ることができるユーティリティープレイヤーとして活躍した。打率は低かったが勝負強い打撃で8打点をマークした。同年末にライオン軍を退団。_NEWLINE_それから10年後の1950年に読売ジャイアンツに復帰。しかし、年齢的に峠を過ぎていたこともあって、全く出場機会がないまま同年末に現役引退した。
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Q64782926
_START_ARTICLE_ 勝亦孝彦 _START_PARAGRAPH_ 勝亦 孝彦(かつまた たかひこ)は、日本の外交官。外務省条約交渉官、外務省社会条約官等を経て、2016年から駐トルクメニスタン特命全権大使。 _START_SECTION_ 経歴・人物 _START_PARAGRAPH_ 静岡県出身。1982年学習院大学法学部法学科卒業、外務省入省。在英国日本国大使館一等書記官、外務省領事局邦人保護課首席事務官、外務省国際法局国際協定課首席事務官、外務省国際法局条約交渉官、外務省大臣官房監察査察室長、外務省経済局国際貿易課WTO紛争処理室長、衆議院事務局安全保障調査室次席調査員等を経て、2011年外務省国際法局社会条約官。2015年在トルコ日本国大使館公使。2016年から駐トルクメニスタン特命全権大使を務めた。
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Q23291976
_START_ARTICLE_ 勝喜代 _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ 勝喜代は芸妓の娘として生まれ、幼少期に三味線を習い、1944年、16歳で芸妓となる。以来、お座敷をはじめ舞踊公演「北野をどり」を1952年初演から2013年まで出演し、舞踊を披露し人気を集めた。1989年、一度引退するも復帰し最後まで務めた。
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Q1101
_START_ARTICLE_ 北ブラバント州 _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ 1952年5月31日に、1960年代後半以来、常に毎年100万人以上が訪れている遊園地のエフテリングが開園し、21世紀に入っても毎年数百万人が来園する、この州における重要な観光地の1つとなっている。 _START_SECTION_ 地理 _START_PARAGRAPH_ 北ブラバント州はオランダの南端の内陸に設置されている州である。同州の中部にはローンセ砂丘とドゥルーネンセ砂丘が存在し、ここは2002年に国立公園となった。
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Q11400860
_START_ARTICLE_ 北上市立黒沢尻東小学校 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 北上市中野町に校舎を構えており、市内の小学校では西小学校と並び生徒数が多い学校である。_NEWLINE_平成18・19年度、北上市教育委員会より小中高キャリア教育地域ぐるみ推進事業に係わる調査研究校の指定を受けて、研究に取り組んでいる。
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Q11400938
_START_ARTICLE_ 北九州市上下水道局 _START_SECTION_ 市販品 _START_PARAGRAPH_ 2011年(平成23年)から北九州水道100周年記念事業としてボトルドウォーターの一般販売を開始。
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Q1205907
_START_ARTICLE_ 北宇和郡 _START_SECTION_ 郡域 _START_PARAGRAPH_ 1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記2町に宇和島市の大部分(吉田町法華津・吉田町深浦・吉田町白浦および吉田町河内の一部を除く)を加えた区域にあたる。
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Q11401459
_START_ARTICLE_ 北山愛郎 _START_SECTION_ 来歴・人物 _START_PARAGRAPH_ 岩手県花巻市生まれ。盛岡中学・東京帝国大学で学び、中国へ渡って貿易統制機関で働く。戦後引き揚げて社会党結成に参加、花巻町長を2期務める。1953年の衆院選に岩手2区から左派社会党公認で出馬、当選して1983年の衆院選で落選するまで通算10期務める。_NEWLINE_この間、党政策審議会長(1970年~1972年)・党中央執行副委員長(1978年~1981年)を歴任。国民服(中国の人民服)で国会に登壇したり、政界を退いた後もミニコミ紙を発行して政治評論活動を続けるなど、独特の活動で知られた。_NEWLINE_2002年2月22日死去。享年96。
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Q17990586
_START_ARTICLE_ 北斗市立久根別小学校 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 北海道北斗市に所在し、1982年に開校した小学校。吹奏楽部などが部活動として活動している。
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Q5770376
_START_ARTICLE_ 北村ヒロコ _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ 結婚・出産を経験後、34歳で夫・娘2人とともに自宅の近所にあった禅道会小金井道場に入門。当初の目的はダイエットのためであった。_NEWLINE_2008年10月5日、リアルファイティング空手道選手権大会・女子52kg以下級に出場。決勝で小澤深岬に勝ち、優勝を果たした。_NEWLINE_2009年4月19日、JEWELSのアマプロ大会「ROUGH STONE 1st RING」に出場。アマチュア総合ルールで大矢裕子に判定勝ち、浜崎朱加には判定ドロー。_NEWLINE_2009年5月16日、JEWELS 3rd RINGのオープニングファイトで村田恵実とJEWELSアマチュアルールで対戦し、腕ひしぎ十字固めで一本勝ちを収めた。_NEWLINE_2009年7月11日、初のプロマッチとなったJEWELS 4th RINGでHARUMIと対戦し、三角絞めで一本勝ちを収めた。_NEWLINE_2009年10月4日、リアルファイティング空手道選手権大会・女子57kg以下級に出場。決勝で杉山しずかに0-3の判定負けを喫し、準優勝となった。_NEWLINE_2009年12月11日、JEWELS 6th RINGで浜崎朱加と対戦予定であったが、直前になって浜崎が怪我をしたため試合が中止となった。_NEWLINE_2010年1月31日、ROUGH STONE 2nd RINGのメインイベントで鹿児島陽子と対戦し、3-0の判定勝ちを収めた。_NEWLINE_2010年2月11日、初めてのケージでの試合となったVALKYRIE 04でsakuraと対戦し、パウンドでTKO勝ち。この試合は負傷欠場となったSACHIに代わる緊急出場となり、前戦からわずか11日後という連戦となった。_NEWLINE_2010年3月19日、JEWELS 7th RINGでセリーナと対戦し、アームロックで一本勝ち。プロデビュー以来4連勝となった。_NEWLINE_2010年6月5日、プロ5戦目で日本国外での試合に抜擢。アメリカ合衆国で行なわれたLegends MMA女子125lbsタイトルマッチでサリー・クラムディアックと対戦し、グラウンドでの肘打ち連打によりタオルが投入されTKO負け。プロ初黒星となった。_NEWLINE_2010年8月29日、禅道会主催の武道総合空手道選手権東海大会のワンマッチで井上瑞樹(魅津希)と対戦し、判定負けを喫した。_NEWLINE_2010年10月10日、JEWELS 10th RINGで開幕したROUGH STONE GP 2010 -52kg級に出場。準決勝で富田里奈に3-0の判定勝ち。12月17日、JEWELS 11th RINGの決勝で市井舞に3-0の判定勝ちを収め優勝を果たした。
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Q11402707
_START_ARTICLE_ 北海道科学大学高等学校 _START_SECTION_ 校歌 _START_PARAGRAPH_ 北海道科学大学校歌_NEWLINE_作詞 和田徹三_NEWLINE_作曲 三枝成彰
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Q11403240
_START_ARTICLE_ 北海道道232号今金北檜山線 _START_SECTION_ 地理 _START_PARAGRAPH_ 国道230号は後志利別川右岸を走るのに対し、本路線は左岸を走る。
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Q18991754
_START_ARTICLE_ 北里俊夫 _START_SECTION_ 詩作から劇作へ _START_PARAGRAPH_ 1913年(大正2年)4月26日、熊本県阿蘇郡南小国村(現在の同県同郡南小国町)に生まれる。幼少のころ、村内の志津(現在の南小国町満願寺志津)に設立された「志津劇団」に親族が関わっており、子ども時代の北里が写る1917年(大正6年)の写真が残っている。_NEWLINE_長じて東京府東京市(現在の東京都)に移り、早稲田大学の富田衛、桜間中庸らとともに詩作活動を行った。桜間が1934年(昭和9年)4月18日に亡くなると、富田とともに『日光浴室 桜間中庸遺稿集』を編集、1936年(昭和11年)7月28日に発行した。このころ中野区上の原町(現在の同区東中野2丁目)を根拠地として詩誌『おぽんち』を主宰する。西山雄太郎の『無風帯』、水戸敬之助の『象眼』と同時代の詩誌であった。その後、大都映画宣伝部に籍を置き、満23歳であった1937年(昭和12年)初旬に発行された『1936 Daitoeiga』を宮崎輝清とともに編集執筆した記録が残っている。『小国セレナーデ』の作詞をし、当時、東京教育交響楽団の指揮者であった渡邊浦人の作曲を得て完成したのは、このころであるとされる。_NEWLINE_1938年(昭和13年)には『オーケストラの少女』、1939年(昭和14年)には『大地』のシナリオを上梓している。1942年(昭和17年)1月、大都映画は戦時統合によって新たに設立された「大日本映画製作」(戦後の大映、現在の角川映画)に吸収されたが、統合にあぶれた人々が寄り集まった皇国映画(代表・中野友作)が製作した『にはか雨』(監督和田敏三)に脚本を提供、同作は同年3月26日に公開された。 _START_SECTION_ 劇作と通俗の時代 _START_PARAGRAPH_ 1945年(昭和20年)8月15日、第二次世界大戦が終結、北里は台湾におり、西川満、濱田隼雄とともに劇団「制作座」を同地で結成した。翌1946年(昭和21年)1月には、北里が中心となって台北中山堂で「制作座」第3回公演を行っている。その後、北里は東京に戻り、同年3月に小沢不二夫、小崎政房らが結成した劇団「空気座」の文芸部に参加したが、同劇団は1949年(昭和24年)には解散している。1947年(昭和22年)1月に新宿・帝都座で初演された「額縁ショー」(演出秦豊吉)は、北里のアイデアによるものだという。戦後間もない1946年、池袋駅東口に池袋アヴァンギャルド(のちの池袋アバン座、池袋1丁目756番地)という、座席数150名前後の小劇場が開業したが、当初同劇場は、1950年(昭和25年)6月25日に豊島区の行事が行われるような劇場であった。当時の経営者は琴代京平(別名小國狂二)であったが、翌1951年(昭和26年)に北里が経営を交代し、自らの劇団「グランギニョール」の根拠地とした。北里による同館の経営は1957年(昭和32年)まで続く。「ナンセンストリオ」の前田隣はこの時代の同座に在籍した(1956年入団)。このころ「東京ヴァーレスク劇場連盟」が結成され、会長に浅草ロック座の仲沢清太郎、副会長に東劇ヴァーレスクの秋本修一、北里は、新宿セントラル劇場の島津太朗、浅草座の森福二郎とともに理事に就任した。_NEWLINE_1963年(昭和38年)1月5日に公開された成人映画『野性のラーラ』(主演ニーナ・ヴォーガンスカヤ)を脚本・監督、北里は映画監督業に進出した。同作は「日本の監督が初めて作った外国映画スコープ」と銘打ったスコープ・サイズの白黒映画であり、解説には芥川隆行、朗読は岸田今日子を起用、吸血マシュシュカと女を描いた作品であった。同作を新潟の映画館で観たという松島利行によれば、「上映が終わると、ヒロインの女ターザンを演じた女優が全裸で舞台に現れ、最前列に出てきて踊るでもなく歌うでもなく右に左に移動した」といい、実演つきの興行を行った。同作を製作したのは、内外フィルム(代表・三木光人、新宿区柏木1丁目、1958年11月設立)であり、同社は、北里を監督に、『ただれた太陽』(主演ローラ・ネグリ、同年9月15日公開)、『霧のラーラ』(主演リタ・ブライアン、1964年10月4日公開)といった成人映画を製作・配給した。_NEWLINE_『日本映画発達史』の田中純一郎は、同書のなかで黎明期のおもな脚本家・監督として、若松孝二、高木丈夫(本木荘二郎の変名)、南部泰三、小林悟、新藤孝衛、糸文弘、小川欽也、小森白、山本晋也、湯浅浪男、宮口圭、藤田潤一、小倉泰美、浅野辰雄、渡辺護、片岡均(水野洽の変名)、福田晴一、深田金之助の名を挙げているが、このリストのなかでは北里について言及していない。『ピンク映画水滸伝 その二十年史』の鈴木義昭は、北里は、『肉体の市場』(1962年)の小林悟、『肉体自由貿易』(1962年)や『不貞母娘』(1963年)の本木荘二郎、『情欲の洞窟』(1963年)の関孝二につづく史上4人目の「ピンク映画監督」であるとする。田中も同書のなかでこれらの作品とともに『野性のラーラ』を挙げている。_NEWLINE_1966年(昭和41年)には「劇団らくだ座」が結成され、同年5月13日 - 同15日、新宿区信濃町の千日谷会堂で第1回公演として、中江良夫の戯曲『恭々しき貧慾者』(演出老川比呂志)とともに、北里の戯曲『贋作風土記』(演出小崎政房)が上演された。当時以降、豊島区南池袋に居を構えた。1978年(昭和52年)には池俊行、淀橋太郎、小崎政房、関英太郎とともに5人で「いきの会」を銀座ガスホールで開いている。_NEWLINE_1980年(昭和55年)2月19日、東京都で死去した。満66歳没。『著作権台帳』第26版(最新版)に記載された2001年(平成13年)段階での著作権継承者は、妻の内沢三知子。 _START_SECTION_ ビブリオグラフィ _START_PARAGRAPH_ 国立国会図書館蔵書等にみる論文・座談会等の書誌である。
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Q6417608
_START_ARTICLE_ 北鈴蘭台駅 _START_SECTION_ 駅構造 _START_PARAGRAPH_ 相対式ホーム2面2線を持つ橋上駅。駅舎、ホームともに掘割部分にあるため、改札・コンコースが地下1階、ホームが地下2階となっている。改札外に売店あり。_NEWLINE_現在のような駅構造になったのは1980年で、それ以前は地上に小さな駅舎があり、ホームへは階段と跨線橋を通っていくようになっていた。 _START_SECTION_ 利用状況 _START_PARAGRAPH_ 2017年の1日の乗車人員は6,107人で、神戸電鉄内では4位。
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Q17193637
_START_ARTICLE_ 医療事故調査 _START_PARAGRAPH_ 医療事故調査(いりょうじこちょうさ、Medical accident investigation)とは、医療事故の原因を究明すること。これを実施する組織や機関は医療事故調査委員会(いりょうじこちょうさいいんかい)略して医療事故調(いりょうじこちょう)と呼ばれる。_NEWLINE_現在、社会問題となっている医療事故の再発防止を目的として、厚生労働省や日本医師会、法曹などを中心として、設置に向けた議論が進行している。また、医療事故発生時に各病院が内部に設置する委員会も同様の名称で呼ばれることがある。 _START_SECTION_ 医療法に基づく医療事故調査 _START_PARAGRAPH_ 日本では2014年6月18日医療法改正により、医療機関の管理者は、「医療事故が発生した場合には、厚生労働省令で定めるところにより、速やかにその原因を明らかにするために必要な調査を行わなければならない」と規定されている(第6条の11)。_NEWLINE_この調査が終了したならば、管理者は調査結果を遅滞なく医療事故調査・支援センターに報告しなければならない(第6条の11の4)。
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Q13365031
_START_ARTICLE_ 十枝修 _START_PARAGRAPH_ 十枝 修(とえだ おさむ、1942年4月1日 - )は、日本の教育学者。徳島大学名誉教授。「非核の政府を求める徳島の会」代表。「徳島健康生活協同組合」監事。湖南師範大学客員教授。東京都出身、東京教育大学卒業。現在は徳島県在住。
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Q11405382
_START_ARTICLE_ 千切山川 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 吉野川の主要河川・園瀬川の下流で合流し、園瀬川と多々羅川を繋ぐように流れている。多々羅川と千切山川の合流地点にある排水機で一部は勝浦川へ排水される。_NEWLINE_またこの地域は阿波狸合戦の舞台となった地でも有名である。橋梁は下大野橋(徳島県道29号徳島環状線)が架かる。
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Q2784170
_START_ARTICLE_ 千秋楽 _START_SECTION_ 風習 _START_PARAGRAPH_ 興行の中で、初日・中日(なかび)・千秋楽の3日が特に重要な日として考えられており、出演者が互いに楽屋を訪れ挨拶するなどの習慣がある。現在では儀礼が簡略化され、中日の挨拶などは略されることが多いが、初日と千秋楽は重要視されている。_NEWLINE_歌舞伎や商業演劇のように、一座の座頭や花形役者が明確に決まっている場合、下回りの役者に対して座長が振る舞いをする習慣もある。興行における一座の一体感を確認し、共にひとつの舞台をつくりあげてきたことを喜び合う日として、千秋楽は独自の意味を持っているといえ、商業的な演劇でなくともこの日にいわゆる「打ち上げ」が行われることも多い。 _START_SECTION_ 特色 _START_PARAGRAPH_ 千秋楽の日の舞台は歌舞伎などにおいては役者のふざけや冗談が許されるという不文律があり、芝居の流れを壊さない程度で、しゃれやいたずらを用意して共演者をからかうこともある。これをそそりという。立役と女形またはベテラン役者と若手が役を入れ替えて上演する「天地会」を行ったりすることもある。_NEWLINE_その時限りの台詞や演出の変更があったり、アドリブをきかせたり、サプライズゲストが登場したりすることがある。また、カーテンコールで俳優が謝辞などを述べることもある。そのため千秋楽の公演は人気があり、他の公演日に先駆けて前売りチケットが売切れになったり、人気公演ではプレミア化することもある。
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Q11406691
_START_ARTICLE_ 千葉県野球場 _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ 1968年7月完成。1973年に千葉県で開催された第28回国民体育大会(千葉若潮国体)に合わせて整備された総合スポーツセンター内にある。_NEWLINE_1990年代中盤まで夏の甲子園千葉大会のメインスタジアムとして使用された(1989年まで決勝戦が行われていた)が、その後千葉マリンスタジアム(現:ZOZOマリンスタジアム)で準々決勝以上(2018年大会はプロ野球千葉ロッテマリーンズの試合が組まれていたため準々決勝は不使用で東千葉大会はゼットエーボールパーク、西千葉大会は柏の葉野球場で開催)の試合を行うようになった他、現在では開会式も同球場で行われており、県内の中心的な役割の野球場は既に千葉マリンスタジアムに譲った格好になっている。ただし、千葉マリンスタジアムの開催日程はあくまでも千葉ロッテマリーンズの公式戦が中心となっており、夏の大会は例年準々決勝まで本球場を中心に開催されている。また、社会人野球でも千葉県予選や南関東地区予選で多用されている他、千葉県大学野球連盟の公式戦でも年間数試合程度であるが使用されている。_NEWLINE_2018年8月から2019年度にかけて耐震・大規模改修を行う予定。内野の観覧席をベンチから個別席に変更、外野の延伸、スコアボードを磁気反転式からLED化する。照明については当初、近隣住宅やモノレールの軌動に影響が懸念されるため難しいとされ、盛土芝生の一部を撤去して設置する案もあったが、見送られた。_NEWLINE_かつてはプロ野球でも使用され、毎年3月にロッテオリオンズやヤクルトスワローズなどがオープン戦を開催していたが、千葉マリンスタジアムの開場以降、プロ野球の試合はもっぱら同球場での開催となっている。_NEWLINE_スポーツセンターと園内各施設の運営管理体制の変遷は千葉県総合スポーツセンターを参照。
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Q11406733
_START_ARTICLE_ 千葉胤泰 _START_SECTION_ 生涯 _START_PARAGRAPH_ 祖父頼胤に代って父宗胤が肥前国に赴いた間に叔父の胤宗が千葉介家の本領千葉荘を領有し、従兄弟の貞胤(胤宗の子)が千葉氏の家督を継いだ。兄の胤貞は、下総国千田荘を本拠として貞胤と千葉氏の家督を賭けて争うが、貞胤が降伏した直後に自身が病没し宗家復帰はならなかった。このため、肥前国に在った胤泰が九州千葉氏を興す事になった。
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Q11406741
_START_ARTICLE_ 千葉興常 _START_PARAGRAPH_ 千葉 興常(ちば おきつね)は、日本の室町時代(戦国時代)の武将。父は千葉胤盛、養父は伯父(胤盛の兄)の千葉介胤朝(たねとも)。 _START_SECTION_ 生涯 _START_PARAGRAPH_ 生誕年は不詳。早くに父・胤盛と死別したことから周防の大内氏のもとで育てられ、元服時に烏帽子親となった大内義興から偏諱の授与を受けて初名の胤棟(たねむね)から興常に改名した。_NEWLINE_文明18年(1486年)胤朝が暗殺されるとこれに少弐政資が介入し、政資の弟が千葉胤資として新当主に擁立される。これをきっかけに九州千葉氏は分裂し、大内氏の後援を受ける興常が祇園城(千葉城)を本拠とした祇園千葉氏(東千葉氏)の初代となる。明応6年(1497年)に大内義興が少弐政資を攻め滅ぼした後には大内氏の肥前守護代に任命され、威勢を振るった。_NEWLINE_命日は天文元年(1532年)6月5日、または天文9年(1540年)6月4日とされる。法名、本光寺殿、日慶。_NEWLINE_家督を継いだ次男の丹波守喜胤もまもなく天文11年(1542年)3月29日、34歳という若さでありながらも病への悩みが原因で自殺してしまったため、その跡は婿養子となった千葉胤頼(少弐政資の孫)が継いでいる。
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Q11407548
_START_ARTICLE_ 南千住 _START_SECTION_ 地理 _START_PARAGRAPH_ 東西に長い菱形をした荒川区の頂角に当たる最東端に位置する。町域内は住宅街やマンション街となっており、中央部にJR常磐線・東京メトロ日比谷線・首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス南千住駅がある。_NEWLINE_また、荒川区東縁を流れる隅田川に北および東を接する。対岸の足立区とは千住大橋と千住汐入大橋、墨田区とは水神大橋と白鬚橋の4本の橋梁で連絡されている。_NEWLINE_東は隅田川を挟んで墨田区堤通、西は荒川・東日暮里、南は台東区橋場・清川・日本堤・千束、北は足立区千住緑町・千住橋戸町・千住関屋町・千住曙町とそれぞれ接している。 _START_SECTION_ 地価 _START_PARAGRAPH_ 住宅地の地価は、2017年(平成29年)1月1日の公示地価によれば、南千住7-29-11 の地点で36万1000円/m²となっている。 _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ 南千住は江戸時代における日光街道の宿場町である千住宿を起源としている。隅田川以北の宿場が拡大し、万治3年(1660年)に千住大橋南側の小塚原町(こづかはらまち)・中村町(なかむらまち)が宿場に加えられ、以来南宿(下宿)と呼ばれた。_NEWLINE_かつて江戸時代から明治初期には、小塚原刑場という処刑場(仕置場)があり、20万人余の罪人がここで刑を執行されたという(延命寺内掲示板による)。刑場跡は、現在の南千住駅の西側、常磐線と日比谷線の線路に挟まれる場所にある延命寺内に位置する。_NEWLINE_また、隅田川が弓のように大きく東側に張り出した地形に存在していたかつての南千住汐入(現在の南千住四丁目、八丁目、三丁目東側)は、明治時代以降、隅田川の舟運と鉄道貨物基地の陸運を接続する物流の要所のひとつであり、「大日本紡績(ニチボウ、現・ユニチカ)」と「鐘淵紡績(カネボウ)」の2大工場が立地する、工業の町としても発展した。多くの店で安く提供されているモツ煮込みや、「ぼったら」と呼ばれる南千住風もんじゃ焼きで知られる。_NEWLINE_ちなみに、南千住駅南側の泪橋交差点を中心に山谷と呼ばれる地域があり、かつては木賃宿が立ち並ぶ労務者の街として知られ、現在も簡易宿泊施設(通称:ドヤ)が少なからず存在する。 _START_SECTION_ 再開発 _START_PARAGRAPH_ 1987年(昭和62年)以降、南千住駅から旧汐入地区を中心とした大規模な再開発が開始され、現在も進行している。特に南千住駅東側に位置する南千住四丁目、八丁目、三丁目東側は、旧国鉄清算事業団処分用地として隅田川貨物駅北部・東部が売却、整備され、旧汐入地区と合わせて大幅な区画整理と共に都市型道路が敷設され、20階 - 30階建て規模の超高層マンションも複数建設されている。_NEWLINE_南千住駅東口につながる補助322号沿いには、再開発事業の一環として開業したLaLaテラス南千住などの複合商業施設やロイヤルホームセンター南千住店が建設され、新興住宅市街地として賑わいを見せる。またつくばエクスプレスの開業にともない、JR及び地下鉄南千住駅のリニューアルも実施され、南千住駅利用者の利便性と安全性が高まった。さらに2007年(平成19年)には隅田川沿いに約13ヘクタールにも及ぶ東京都立汐入公園も整備されている。_NEWLINE_現在は南千住駅西口周辺からコツ通りに至る駅前西側地区を中心に、超高層マンションの建設、商業施設の再開発が進められている。_NEWLINE_その他、南千住北西端にあたる鉄道線路以西地区、かつ、国道4号以西に位置する南千住六丁目は歴史ある下町的風景が広がるが、近年は隅田川沿いを中心に高層マンションの開発が進んでいる。かつては東京スタジアムが町域内にあった。現在では区が運営する荒川総合スポーツセンター、南千住警察署、マンション及びスーパーマーケットが建てられている。
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Q11408077
_START_ARTICLE_ 南波浩 _START_PARAGRAPH_ 南波浩(なんば ひろし、1910年-2000年6月29日)は、国文学者、同志社大学名誉教授。 京都府生まれ。京都帝国大学大学院修了。同志社大学助教授、教授、1981年定年退任、名誉教授、梅花女子大学教授。
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Q26044560
_START_ARTICLE_ 南谷真鈴 _START_PARAGRAPH_ 南谷 真鈴(みなみや まりん、1996年12月20日 - )は、日本の女性登山家・冒険家。七大陸最高峰日本人最年少登頂記録保持者。神奈川県川崎市出身。東京学芸大学附属国際中等教育学校卒業、早稲田大学政治経済学部在学中。 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 神奈川県で生まれたが、父が貿易関係の仕事をしていたこともあり、1歳半でマレーシアに渡り、その後、大連、上海、香港とアジア各地を転々とした。幼い頃からバイオリン、ピアノ、ギター、マリンバ、ドラムを習い、部活もバレー、陸上、乗馬を同時にやっていた。香港に住んでいた13歳の時に学校行事で初めて山に登る機会があり、そこから山に本格的に興味を持ち、エベレストを目指すようになった。17歳の時に両親が離婚。高校3年の春に香港の高校から日本の高校に編入。_NEWLINE_エベレストに登りたいと父に言ったところ、「いいんじゃない。でも資金面でのサポートはしない。自分でやりなさい」と言われ、20歳までに登れば日本人最年少記録を更新できることをPRすれば資金を集められるのではないかと考え毎日のように企業やマスコミにメールを送りスポンサーを探した。すぐに話を聞いてくれたのがフランスのアウトドア用品メーカーミレーで、「ぜひ応援したい」と登山グッズの提供を受けた。その後東京新聞と読売新聞が取材してくれることになり、特に東京新聞では2014年12月16日の夕刊1面で「エベレストへ女子高生挑む 国内最年少目標」と大きく取り上げられ、記事を読んだ高齢女性から「登山が好きだったが私は歳で登れない。自分の夢を託したい」と100万円の寄付を受けた。それから次第にスポンサーがつき、早稲田大学OBである柳井正が代表取締役を務めるユニクロからスポンサードを受けるようになった。_NEWLINE_2015年1月に南米最高峰アコンカグアを皮切りに各大陸最高峰を次々と登頂。2015年3月には長野・八ヶ岳連峰の阿弥陀岳を下山中に250mの滑落事故に遭い、奇跡的に無傷で済んだが、その日は標高2000m付近で雪に穴を掘って一晩過ごし翌日に救助された。_NEWLINE_2015年4月、早稲田大学政治経済学部入学。2015年10月にマナスルの登頂に成功し、日本人最年少の8000m峰登頂と女性世界最年少の同山登頂を達成。2016年1月には南極点に到達。2016年5月23日にエベレストに登頂し日本人最年少記録を更新。2016年7月4日に北米最高峰デナリの登頂に成功し、七大陸最高峰制覇を達成した。一番つらかったのが最後のデナリへの登頂の時で、山頂にアタックする日、晴天の予報だったにもかかわらず突然風速60mの大嵐に見舞われ9日間テントで必死で耐え、SNSに最期の言葉も投稿し死も覚悟したという。_NEWLINE_2017年4月13日に北極点到達に成功し、「探検家グランドスラム」(七大陸最高峰・北極点・南極点到達)を世界最年少の20歳112日で達成した。_NEWLINE_2019年、ミス日本特別賞(和田静郎特別顕彰)に選出された。
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Q149091
_START_ARTICLE_ 原棘鰭上目 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 原棘鰭上目は正真骨亜区(Euteleostei、真骨類の下位分類)に所属する硬骨魚類のうち、ニギス目・キュウリウオ目・サケ目・カワカマス目の4目をまとめた一群である。1960年代後半にGreenwoodらによって提唱され、正真骨亜区の中でもっとも原始的なグループとして位置づけられている。_NEWLINE_原棘鰭上目の分類体系は極めて不安定で、40年余りの間にその構成は何度も変更が加えられてきた。当初はサケ目のみが設置され、その内部に4亜目が含まれる構成であったが、Nelson(1994)によりキュウリウオ目・カワカマス目が独立の目として扱われるようになった。その後、2006年にはキュウリウオ目からニギス目が分離され、現在の4目の体系となっている。_NEWLINE_あるグループにおいて退化している形質が別の群では特化しているなど、分類形質が複雑に入り乱れていることが、体系を不安定なものにしている一因と考えられている。近年はカワカマス目を本上目から除外する見解もあり、原棘鰭上目の存在基盤そのものが流動的である。
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Q11410065
_START_ARTICLE_ 原貞胤 _START_PARAGRAPH_ 原 貞胤(はら さだたね、弘治3年(1557年) - 没年未詳)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。隼人佑。_NEWLINE_弘治3年(1557年)、武田晴信(武田信玄)の譜代家老である原昌胤の3男として生まれる。異説として昌胤の長男・昌栄の子という説もあるが、有力なのは昌胤の3男説である。_NEWLINE_天正8年(1580年)に兄の原昌栄が戦死したため、家督を継いで武田勝頼に仕え、父や兄と同じく隼人佑を称した。武田勝頼が甲斐新府城築城を開始した際、真田昌幸と共に奉行を務めている。天正10年(1582年)の甲州征伐で武田氏が滅亡すると、徳川家康の家臣となった。後に家康の命令で越前松平家の家臣となった。なお、『信長公記』では貞胤は高遠城において戦死したとしているが、その後も存命した記録があることが指摘される。_NEWLINE_大坂冬の陣では松平忠直の麾下の黒幌衆として参戦。冬の陣と夏の陣の和議の間には、かつて真田昌幸と同僚だったことから親交もあった昌幸の次男・真田信繁(真田幸村)の説得を務める役目を担い、信繁の招きに応じて酒宴を開いたことが武林雑話で紹介されている。_NEWLINE_慶長20年(1615年)、越前松平軍と信繁の軍は大坂夏の陣で正面から激突した。のち、越前軍の西尾宗次が討ち取った信繁の首実検を行った。_NEWLINE_その後の経歴は不明である。
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Q11410801
_START_ARTICLE_ 口腔バイオフィルム _START_PARAGRAPH_ 口腔バイオフィルム(こうくうばいおふぃるむ, Oral Biofilm)とは、口腔内微生物によって固相面を足場に、膜状に構成されるバイオフィルム (微生物により形成される構造体)のこと。 _START_SECTION_ デンタルプラークと口腔バイオフィルムの違い _START_PARAGRAPH_ デンタルプラーク(歯垢)とバイオフィルムは細かな定義において異なる。デンタルプラーク=う蝕・歯周病の原因となる細菌の凝集塊という考えが基本であるが、一方の口腔バイオフィルムは、口腔内細菌の塊という意味では類似しているが、バイオフィルム内では構成細菌が様々な情報伝達を行いながら生活しているコミュニティである点で異なる。 _START_SECTION_ バイオフィルム感染症としてのう蝕・歯周病 _START_PARAGRAPH_ 口腔内の2大疾患であるう蝕・歯周病は細菌感染症であることは既に広く認知されているが、バイオフィルム感染症としてのう蝕・歯周病の概念は、1999年、J.W.Costertonによってアメリカの科学雑誌、サイエンス上のレビュー中で提唱されて以降、口腔バイオフィルムの概念が世界に発信されていった。 _START_SECTION_ バイオフィルム感染症としてのう蝕の病態 _START_PARAGRAPH_ Streptococcus mutans(ミュータンス連鎖球菌の一種)などのう蝕原因菌によって硬組織表面にバイオフィルムが形成され、バイオフィルム内に深在性に生息する細菌が糖を代謝することによって、硬組織が溶解されう蝕が進行すると考えられている。 _START_SECTION_ バイオフィルム感染症としての歯周病の病態 _START_PARAGRAPH_ Porphyromonas gingivalisなどの歯周病関連細菌は、歯周ポケット内でバイオフィルム状態で生息するものとポケット内を浮遊して生息するものとがおり、バイオフィルムからは浅在性細菌が放出され、ポケット内を浮遊したり歯肉上皮へ付着・侵入したりする。これら細菌の刺激が持続することで、歯周局所の免疫系が破壊され、歯周病が進行すると考えられている。 _START_SECTION_ 口腔バイオフィルム感染症の治療 _START_PARAGRAPH_ 口腔バイオフィルム感染症は歯ブラシ、スケーラーなどを用いた物理的除去が第一となる。薬物療法としては、う蝕に対しては、S. mutansを殺菌するのに適した薬物である0.2%クロルヘキシジン (日本では粘膜に対する使用は禁止)や、フッ化ナトリウム (ミュータンス菌のエノラーゼ糖代謝系を阻害し、ミュータンス菌の耐性を減少させる)、ポビドンヨードなどが有効であるとされる。_NEWLINE_歯周病に対しては従来から用いられるテトラサイクリン系抗菌薬軟膏、IPMP(イソプロピルメチルフェノール)などの局所投与に加え、最近ではマクロライド系抗菌薬 (アジスロマイシン)などの全身投与法なども検証され良好な治療成果が報告されている。概ね、口腔バイオフィルムに対して薬物療法は有効であるが、歯周基本治療である物理的な機械的除去が第一であり、薬物療法は補助的手段となることを忘れてはならない。
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Q48781075
_START_ARTICLE_ 古屋奎二 _START_PARAGRAPH_ 古屋 奎二(ふるや けいじ、1931年9月14日 - 2000年8月18日)は、日本のジャーナリスト、中国研究家。 _START_SECTION_ 略歴 _START_PARAGRAPH_ 山梨県生まれ。1953年信州大学文理学部卒、産経新聞社に入り、1981年論説副委員長。文部省国語審議会委員。近畿大学人文学部教授となる。妻は新藤涼子。
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Q11411363
_START_ARTICLE_ 古河佳子 _START_PARAGRAPH_ 古河 佳子(ふるかわ けいこ、11月18日 - )は、日本の女優。株式会社スターズ所属。兵庫県出身。血液型はO型。 _START_SECTION_ 特技 _START_PARAGRAPH_ 珠算2級、情報処理検定、パソコン、英語、ドイツ語
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Q11411481
_START_ARTICLE_ 古田台出入口 _START_SECTION_ 元料金所 _START_PARAGRAPH_ 1999年(平成11年)4月1日に草津方面のみ対応するハーフインターチェンジの古田台出入口が整備された時には機械式の料金所が設けられていた。 料金徴収は、道路整備特別措置法に基づく整備許可に伴い25年の期限付きで認められていたため、2010年(平成22年)3月19日で料金徴収期間を終え、その翌20日午前0時から全面的に無料化された。古田台出入口については、無料化後はしばらくの間使用を取りやめていたが、4月末に料金所撤去が終わり使用が再開された。
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Q55540574
_START_ARTICLE_ 古神道仙法教 _START_PARAGRAPH_ 古神道仙法教(こしんとうせんぽうきょう)は、大阪府堺市に本部を置く神道系の宗教団体。1946年に立教、1953年に宗教法人として認証。教義の中心は、平田篤胤と宮地水位の古神道・霊学である。会員数は、1万2946人。 _START_SECTION_ 創始者 _START_PARAGRAPH_ 古神道仙法教の創始者は、正井頎益(1907年~1970年)である。正井は、大阪府に生まれ、20歳代後半から神道を研究し始め、神道天行居や神仙道本部といった古神道系の宗教団体を経て、古神道仙法教を立教した。 _START_SECTION_ 所在地 _START_PARAGRAPH_ 大阪府堺市に本庁を置いている。また、九州や北陸に教会を、滋賀や東京に祭祀所を設置している。 _START_SECTION_ 沿革 _START_PARAGRAPH_ 正井頎益は、神道天行居の幹部(地方教会教会長)を務めていたが、戦後になって教団を離れ、同じく神道天行居から独立していた清水宗徳の神仙道本部に参加したものの、清水とも袂を分かった。そして、戦後日本の精神的退廃を見かねたとして、1946年に大阪で「産須奈教会」として宗教活動を開始した。翌年には「浪速霊学研究所」を設置し、1949年には「神道仙法教」として旧宗教法人令による宗教法人として認証され、1953年に現宗教法人法による宗教法人として認証された。1971年には、教団名を現在の「古神道仙法教」に変更した。1970年に正井頎益が死去してからは、息子の正井頎豫(1943~)が教団を継承し、信徒の教化と祭祀の実行に取り組んだ。また、現在の教団の代表役員は、正井彰吾である。 _START_SECTION_ 教義 _START_PARAGRAPH_ 平田篤胤の古神道と宮地水位の霊学に立脚している。神道天行居や神仙道本部と同じく、神仙道を教義の中心に据えている。教団では、記紀のほか、篤胤や宮地の著作を教典としている。
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Q11411819
_START_ARTICLE_ 可児藤吉 _START_PARAGRAPH_ 可児 藤吉(かに とうきち、1908年1月1日 - 1944年7月18日)は日本の群集生態学者。_NEWLINE_「河川形態型」を提唱し、今西錦司と共に棲み分け理論の基礎を築いたが、陸軍に徴兵され、サイパンの戦いにて戦死した。 _START_SECTION_ 人物 _START_PARAGRAPH_ 岡山県勝田郡勝間田町(現:勝田郡勝央町)に生まれる。京都帝国大学農学部卒。河川の蛇行と、河床形態である瀬と淵に注目し、「河川形態型」を提唱した。また、昆虫が生息するそれぞれの環境を研究することで今西錦司とともに「棲み分け理論」の基礎を築いた。「河川形態型」が発表された同年、太平洋戦争において36歳という若さでサイパン島にて戦死した。
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Q7252648
_START_ARTICLE_ 台66線 _START_PARAGRAPH_ 台66線(たいろくじゅうろくせん)は、桃園市観音区から同市大渓区に至る台湾の東西向快速公路であり、別称は「観音大渓快速公路(かんおんたいけいかいそくこうろ)」。
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Q4810147
_START_ARTICLE_ 合衆国陸軍協会 _START_SECTION_ 会員 _START_PARAGRAPH_ 合衆国陸軍協会には現在、退役将兵と予備役将兵、士官候補生、政府機関の文民職員、軍人の家族、関係市民を含むいくつかの会員区分が公開されている。その他の会員区分には支援企業(防衛関連産業のために)がある。協会会費には毎月発行の機関誌「アーミーマガジン」と、毎年10月に発行される「グリーンブック」の購読料が含まれている。「グリーンブック」は世界中の陸軍指導者執筆による記事が掲載され、そして合衆国陸軍に関する参照情報の年鑑である。会員に毎月「AUSAニュース」を配布している。「AUSAニュース」は陸軍の話題や関連するニュースと陸軍組織のサポートについてのレポートを特徴としている。 _START_SECTION_ 支部 _START_PARAGRAPH_ 合衆国陸軍協会は世界125箇所に支部を擁しており、これら支部は個人および法人会員を通じて合衆国陸軍の為のコミュニティサポートを提供する企画と活動を展開している。支部は陸軍と地元の民間コミュニティ間での連絡役を務めている。これら会員も強力な国防と陸軍の必要性を民間人に対して教育する事を手助けしている。支部は動員され、展開する将兵とその家族をサポートする様々な企画に参加している。典型的な支部活動としては著名な講演者を迎えての会員総会、コミュニティ貢献イベントや陸軍および優れた兵士に対しての特別表彰会を催している。
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Q5963677
_START_ARTICLE_ 合谷穴 _START_PARAGRAPH_ 合谷穴(ごうこくけつ)は、手の陽明大腸経に所属する4番目の経穴である。同経の原穴である。また、面目の宗穴でもある。 _START_SECTION_ 部位 _START_PARAGRAPH_ 左右の第1、第2中手骨の間で第2中手骨よりに取穴する。 _START_SECTION_ 名前の由来 _START_PARAGRAPH_ 合は母指と示指が会うを指し、谷は山と山の間をいい、母指と示指を開くと深い谷に見えるので名づけられた。 _START_SECTION_ 効能 _START_PARAGRAPH_ 頭痛を抑えるツボと考えられ、鼻血、鼻水に効く。下歯痛、鼻水、脳血管障害、視力低下、咽頭痛、歯熱痛、橈骨神経麻痺(下垂手)の治療にも使われる。
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Q11412949
_START_ARTICLE_ 吉川勇一 _START_PARAGRAPH_ 吉川 勇一(よしかわ ゆういち、1931年3月14日 - 2015年5月28日)は、市民運動家、翻訳家。元英語教師(予備校講師・専門学校講師)、元大学非常勤講師。 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 東京大学在学中に日本共産党に入党し、武装闘争を志向する、党内では多数派だが東大では少数派の所感派の活動家として頭角を現し、旧国際派は役職に就かせないという共産党中央の指示で東京大学学生自治会議長に就任した。山村工作隊、東大ポポロ事件、砂川闘争などに参加し、講和・安保両条約発効に抗議する全学ストライキを指導して退学処分を受けた後は、共産党員として専従活動家の道を歩み、全学連書記局員、日本戦没学生記念会(わだつみ会)事務局員(組織部長)、日本平和委員会事務局員、同常任理事などを歴任して実務能力を身につけ、所感派の山村工作隊出身ながら「六全協」後も党に留まり、1958年4月には、後藤新平の義理の姪婿で鶴見和子・俊輔姉弟と姻戚に当たる平野義太郎の仲人で結婚していたが、1965年、前年の原水爆禁止世界大会で共産党の方針に反対意見を表明したことで党から除名処分を受ける。_NEWLINE_同年小田実代表のベ平連の2代目事務局長になり、1974年のベ平連解散まで務める。1967年10月、空母イントレピッド号から米兵4名が脱走した「イントレビット号事件」を契機に、ベ平連の中に米兵脱走を支援する「JATEC」が組織された際にもかかわったとされる。JATEC(Japan Technical Committee to Aid Anti War GIs―反戦脱走米兵援助日本技術委員会)はその後2年間に16名の脱走米兵をスウェーデンなどに脱走させることに成功した。米軍と日本の公安当局の捜査にもかかわらず、中立国移送までの経路や経緯は秘密に包まれていたが、1990年代にソ連の機密文書が公開され、JATECの脱走兵の移送にKGBが協力していたことが明らかになった。吉川本人も、後に共同通信記者の春名幹男の取材に対して、「(ソ連大使館の)参事官や一等書記官と会ったが、恐らく、全員がKGB要員だった」、「脱走兵の日本脱出に事実上の援助を与えてくれるところなら、KGBだろうがスパイだろうが手を借りたいという気持ちだった」とソ連政府の協力を得て脱走米兵をシベリア経由で送り出していたことを明らかにしている。_NEWLINE_ベ平連の解散後、小田実、色川大吉らを中心とした「日本はこれでいいのか市民連合」(日市連)(1980年-1994年)に参加するが、1987年に小田の東京都知事選挙への出馬の是非を巡って日市連内で対立が起こり会を離れる。1988年マルチイシューの市民運動を目指す「市民の意見30の会」を結成。その後は市民意見広告運動にも力を注いだ。_NEWLINE_長く代々木ゼミナールの英語講師を務めた。_NEWLINE_2015年5月28日、慢性心不全のため死去。84歳没。 _START_SECTION_ 人物 _START_PARAGRAPH_ 頑なまでに主張を一貫させ、日本共産党の方針に反対した言論を展開したかどで、同党から除名処分を受けたりした。近年においても真剣な言論活動を行い、「喧嘩ジジイ」とまで言われ、周囲に波紋を広げることがある。_NEWLINE_反面、機知に富んだ感覚も持ち合わせ、そのため教条的な左翼運動だけでなく「ええかげん」なベ平連運動の主体にもなった。既存の左翼運動での知識、経験とベ平連の思想の豊かさが市民運動家としての背景になっている。ちなみにベ平連に参加するきっかけは、ベ平連主催の企画でベトナムの地図を描くことができる人が必要だったから吉川が紹介されたことである。_NEWLINE_近年は運動経験の共有、継承にも力を入れており、吉川のサイトでは最近の著作を読むことができる。_NEWLINE_なお一時、新左翼政党である共産主義労働者党に参加していた。 _START_SECTION_ 著書 _START_PARAGRAPH_ 元日本赤軍派で旅券法違反で逮捕歴のある北川明が代表を務める第三書館から、いくつか著書を出版している。
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Q18457605
_START_ARTICLE_ 吉村功のスポーツ・オブ・ドリーム _START_PARAGRAPH_ 『吉村功のスポーツオブドリーム』(よしむらいさおのスポーツオブドリーム)は、岐阜放送ラジオ(ぎふチャンラジオ)で、原則として毎週月曜18:30-20:00に生放送しているスポーツ番組である。_NEWLINE_2004年に吉村功が東海テレビ放送を退職しフリーアナウンサーとして活動を開始するとともに番組が開始された。吉村が東海地方、特に岐阜県のスポーツ界の話題について、注目の話題・情報や関係者のインタビューなどを通して探りながら熱弁をふるっている。_NEWLINE_2013年まではダイナミックナイターが月曜日に放送される場合(原則としてラジオ日本ジャイアンツナイターで放送される読売ジャイアンツに関係する試合)があれば放送休止となっていたが、2014年はラジオ日本がナイター中継を実施する場合でも、レギュラーシーズン中のGBSでは原則として放送しないことになったため、ほぼ毎週放送となった。
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Q11413272
_START_ARTICLE_ 吉村明宏 _START_SECTION_ 来歴・人物 _START_PARAGRAPH_ 神奈川県横浜市鶴見区出身。逗子開成高校卒業。高校生だった1975年、TBSの『ぎんざNOW!』素人コメディアン道場で、和田アキ子のモノマネを披露し5週勝ち抜き、チャンピオンになり浜っ子吉村としてデビューを果たす。_NEWLINE_しかしその後10年ほど売れず、アイドルのコンサートの司会をして過ごす日々が続く。_NEWLINE_その司会で一生懸命会場を盛り上げていた姿が認められ、ホリプロのスカウトを受け芸名を本名に改名し、その後、『アッコにおまかせ!』『歌のトップテン』『ものまね王座決定戦』など人気番組に次々出演し一躍人気タレントとして売れ始める。また、和田アキ子からも気に入られ、和田アキ子の子分としての芸能界の立ち位置を確立する。そして和田の冠番組である『アッコにおまかせ!の準レギュラーに抜擢され生中継リポーターを務めた。_NEWLINE_「あの頃は〜、ハッ!」「ハ〜ヒフ〜ヘホ〜!」などのギャグを入れた和田アキ子のモノマネはオハコである。実はもともと「あの頃は〜」でおなじみのヒット曲「古い日記」にはその後に「ハッ!」というフレーズはなかったのだが、吉村のモノマネが人気になり、そのイメージがすっかり定着したため、後に発売されたバージョンでは「あの頃は〜」の後に和田アキ子本人が「ハッ!」と叫んでいる。_NEWLINE_和田のモノマネでたくさんの番組からオファーされるなど人気が高くなり、1991年9月30日から自身初の冠帯番組・『吉村明宏のクイズランチ』(TBS系列)がスタートした。帯番組のMC就任が決まったことで和田から「お前も1人前になったな」と褒められた。しかし、売れっ子になったのをいいことにスタッフに対して「この企画何が面白いの?」とダメ出ししたり、台本を渡され「お前がやれ!」とキレて帰ったり、ロケ現場で「撮れ高もう十分だろ」と勝手にロケを切り上げて帰ったり、上から目線で怒ったりするなどの悪行を繰り返した。これにより吉村のスタッフに対する悪態は業界内でも知れ渡り、和田から呼び出され「お前、スタッフから嫌われてるで!」と忠告を受けたが吉村は勘違いし、「アッコさん嫉妬ですか?」と思ったという。だが和田の指摘通りにスタッフとの関係が悪化し、冠帯番組も視聴率が低下し1年で終了した。それでもまだ『アッコにおまかせ』の準レギュラーだったため生活に困窮することはなく、1995年12月には宮古島にて芸能人ハーフマラソン大会の番組(1位間寛平、2位織田無道、他に工藤兄弟、トミーズなどが参加)で3位を獲得している。1996年11月2日放送の『超熱血27時間ぶちぬき炎のチャレンジ宣言!!』では森脇健児らと共にフルマラソンに挑戦。見事5時間ほどで完走。日頃よりジムに通ったり自宅周辺をジョギングしていることは、 テレビや雑誌(雑誌Tarzanの鍛えている芸能人のコーナーでグラビアに登場したことがある)などで何度も本人が公言している。しかし、業界内の評判の悪さは変わることはなく1998年9月には13年間準レギュラーを務めてきた『アッコにおまかせ!』も降板することになってしまった。最大の後ろ盾だった和田のバックアップを失った影響は大きく仕事が激減しレギュラー番組はついに1本もなくなってしまった。_NEWLINE_2000年10月7日放送の『オールスター感謝祭'00秋 超豪華!クイズ決定版 20世紀最後の特大号』を最後にめったなことがない限り、全国ネットの番組に出演しなかったが、2002年1月14日放送の『ライオンのごきげんよう2002 in ハワイ』、2010年7月18日放送の『アッコにおまかせ!』12年ぶりの出演と2014年2月11日放送の『解決!ナイナイアンサー』、さらに5年ぶりの出演となる2015年12月20日放送『アッコにおまかせ!』・2016年2月8日放送『しくじり先生』と数える程度、テレビ出演を行っている。_NEWLINE_『解決!ナイナイアンサー』にゲスト出演時に上記のようにテレビ出演が激減した理由について問われた吉村は「上から目線でスタッフを見てたかもしれない」「イライラしてるときに俺がこの番組を回してるなどと高飛車な態度をとったことが原因ではないか」と語っており、本人がそれを2016年2月8日放送のテレビ朝日「しくじり先生」において前述のスタッフに対しての上から目線の他に挙げた理由として「アッコさんの隣にいた自分まで偉いと勘違いしていた」「売れたのは自分の実力と勘違いしていた」「自分はアッコさんの腰巾着」であったと正式に認めた。_NEWLINE_三代目三遊亭圓歌の芸能人弟子である(落語家としての活動は行っていない)。
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Q11414383
_START_ARTICLE_ 吉野孝義 _START_PARAGRAPH_ 吉野 孝義(よしの たかよし、1947年6月2日 - )は、日本の元裁判官。京都地方裁判所所長、大阪地方裁判所所長などを歴任した。
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Q844744
_START_ARTICLE_ 君の家に着くまでずっと走ってゆく _START_SECTION_ 解説 _START_PARAGRAPH_ 1stシングル「Mysterious Eyes」との同時発売でのメジャーデビューということで各方面から話題を集めた。GARNET CROWのシングルの中で唯一、タイアップがないシングルである。インディーズミニアルバム『first kaleidscope 〜君の家に着くまでずっと走ってゆく〜』からリアレンジしてシングルカットされた。
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Q9616838
_START_ARTICLE_ 君臣佐使 _START_PARAGRAPH_ 君臣佐使(くんしんさし)とは、漢方医学または本草学で生薬をその役割から4つに分類する考え方。
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_START_ARTICLE_ 吾妻鏡 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 『吾妻鏡』は、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの87年間を描く。その記述は治承4年(1180年)4月、以仁王の令旨が伊豆の北条館に届くところから始まり、文永3年(1266年)7月20日に第6代将軍・宗尊親王が京都に到着して将軍を辞官するところで終わる。主な内容は治承・寿永の乱と平氏政権の滅亡、鎌倉幕府の成立、承久の乱、執権政治の始まり、寛元4年(1246年)の宮騒動と翌年の宝治合戦、得宗支配の確立などである。全体は将軍の年代記として記述されており、その日記風の文体は変体漢文の一種で吾妻鏡体とも呼ばれる。収録範囲は当初から宗尊親王の将軍辞官までとする予定だったと見られるが、編纂自体はおそらく未完のままそれ以前の時点で中断したと見る説が有力である。_NEWLINE_編集者の姿勢には偏りがあり、源氏三代に対する評価はしばしば手厳しいが、北条得宗家の活躍は強調される。この傾向は特に北条泰時に関する記述に著しい。_NEWLINE_編纂における参考文献は、大江氏、三善氏、二階堂氏ら文筆の家に残る記録、右筆等の筆録、日記を中心に、北条諸家や縁のある御家人の家伝、訴訟の証拠として提出された偽文書をも含む書類、さらに寺社の記録、可能な場合は『明月記』などの公家の記録などである。このように雑多な参考文献の非同時代性から、記述には編纂者の主観に基づく部分が多いと考えられる。一部には明らかに編纂時の曲筆と見られる部分もあり、特に前半の源氏三代記については『愚管抄』や『玉葉』など同時代の公家の日記との比較を要する。_NEWLINE_本書の写本のうち、最も有名な「北条本」の目録では巻数は全52巻であり、第24巻までが源氏三代で、そのうち15巻が頼朝将軍記である。源氏三代記以降の主人公は、北条得宗家である。ただし第45巻は欠落し、それ以外にも巻数すらふられずに年単位で欠けている部分が計12年もあり、そのうち連続する3年分は「吉川本」や「島津本」などの写本には残っている。したがって全52巻とは本来の巻数ではない。_NEWLINE_「北条本」の目録は、ほぼ南北朝時代に金沢文庫で作られたと見られるが、その段階で既に『吾妻鏡』の散逸が始まっており、室町時代には既に揃いの完本の形では伝えられず、断片的な抄出本や数年分の零本の形で伝わるのみであったと推測されている。それを複数の者が別々に収集しながらまとめていったものが、現在知られる複数の写本である。編纂当時の本書名は不明であるが、室町時代には『吾妻鏡』と呼ばれ、『東鑑』と呼ぶのは江戸時代初期の古活字本からである。 _START_SECTION_ 江戸時代の研究 _START_PARAGRAPH_ 江戸時代の吾妻鏡研究で有名なのは林羅山(道春)であり、徳川家康の為に『東鏡綱要』上下2冊を作成した。また黒田藩の家臣に書き与えた「東鑑考」は漢文325字の短文ながら的を射た解説を行っている。この時代に『吾妻鏡』を研究していたのは主に儒家、国学者であり、主に有職故実、武家故実の面からの研究であり、『吾妻鏡』についての著述のある伊勢貞丈、榊原長俊、大塚嘉樹は江戸時代に知られる有職故実の大家である。校訂の面では古活字本寛永版の菅聊卜(かんりょうぼく)の功績は現在の国史大系本にまで及び、伊勢貞丈、榊原長俊、大塚嘉樹らはいわば「吾妻鏡辞典」とも言えるような注解を行い、難解な『吾妻鏡』の理解を助けた。_NEWLINE_しかしながら、徳川光圀によって開始された『大日本史』などでも『吾妻鏡』を採用してはいるが、星野恒によれば参照の仕方があまり正確ではなく『吾妻鏡』の影響はそれほど大きいものとは見られない。_NEWLINE_最もまとまった著述を残しているのは江戸時代後期に徳川幕府書物奉行であった近藤守重(重蔵)であり、『御本日記続録』において家康収集のいわゆる北条本の経緯や、その他当時知られていた別の写本についての比較を行い、現在でも『吾妻鏡』諸本の研究においては重要史料とされている。また江戸時代には「老談一言集」に、頼朝の死についての部分が欠落していることを徳川家康が「名将の疵に成る」と削除させたと記されていたが、近藤守重は家康が関与していない応永写本(黒川本:後述)にも頼朝の死に関する記事が無い(頼朝記の最後の3年分が無い)ことから「俗説信ずるに足らず」としている。 _START_SECTION_ 明治から現在までの研究 _START_PARAGRAPH_ 近代の『吾妻鏡』研究の出発は、星野恒が1889年(明治22年)の『史学雑誌』創刊号に発表した『吾妻鏡考』からである。星野恒が『吾妻鏡』を取り上げたのはそれまで支配的だった『平家物語』などを元にした歴史観に対する反証としてだったが、当時は国史編纂をめぐっての星野、重野安繹(しげの やすつぐ)、久米邦武らと、川田剛や国学系・水戸学系歴史家との対立があり、星野の論調は『平家物語』や『太平記』の資料価値を否定し、『吾妻鏡』は『玉葉』や『明月記』などの当時の公家の日記と同様の信頼を置くものだった。。_NEWLINE_それに対し9年後の1898年(明治31年)、当時20代後半だった原勝郎が「史学雑誌」第9編第5,6号に『吾妻鏡の性質及其史料としての價値』を発表し、歴史研究における「史料批判」の重要性を強調した。_NEWLINE_その後、大正時代に入って、当時の帝国大学史料編纂掛(現在の東京大学史料編纂所)の二人の研究者、和田英松と八代国治が、それまでは知られていなかった「吉川本」その他の諸本を紹介しながら、『吾妻鏡』が当初思われていたような同時代の記録ではなく、鎌倉幕府の政所や問注所に残る記録のみならず、京の公家の日記類まで参照しながら後世に編纂されたものであり、またそのなかには多くの誤りや曲筆が含まれることを明らかにする。八代国治が1913年(大正2年)に著した『吾妻鏡の研究』は、以降の研究のベースとなった。_NEWLINE_戦後の1960年代(昭和35年 - 昭和45年)以降、それまで定説となっていた八代国治の成立2段階説に対して、笠松宏至、益田宗らの反論が起こった。益田宗や平田俊春は、『吾妻鏡』における『明月記』の利用や、『玉葉』と『吾妻鏡』との関係についての検証を進める。さらに1980年代以降、五味文彦がそれらの指摘を踏まえながら、『吾妻鏡』のベースとなった日記・筆録の推論を行うなど『吾妻鏡』原資料の追究を行った。それらと平行して、現在に伝わる諸写本の研究も進んだ。 _START_SECTION_ 後世の編纂物と伝承の利用 _START_PARAGRAPH_ 『吾妻鏡』を読むとき、それが「日記」形式、つまりあたかも現在進行形のように書かれていることも手伝って、ついそれが真実と思ってしまうか、あるいは「曲筆」と断定しても、編纂者は実は全てを知っていて、政治的思惑、配慮から筆を曲げたと思われがちである。しかし、鎌倉時代後期の編纂者が集めた原史料は、ある意味玉石混淆で、リアルタイムな史料、原本そのものもあれば、何世代もの筆を経た鎌倉時代後期における認識や、先祖の遺徳顕彰の加わったもの、ほとんど物語の様な記述など、異質な史料を「日記」形式にまとめていったものと見られる。その中で、後世の編纂物や伝承から採ったと思われる実例には以下のものがある。 _START_SECTION_ 木曾義仲追討の宣旨 _START_PARAGRAPH_ 治承・寿永の乱(源平合戦)については、鎌倉方が直接関与する部分とそうでない部分とでは、情報の正確さにかなりの開きがあり、特に、源義仲(木曾義仲)の北陸地方における動向などは、かなり後の時代の京都方資料により補っていると見られる。_NEWLINE_例えば『吾妻鏡』では、養和元年(1181年)8月13日条の記述に、木曾義仲追討の宣旨が出されたとある。『吾妻鏡』と同様に、鎌倉時代後期の成立とされる『百錬抄』にも同様の記述がある。しかし当時の公家の日記、例えば『玉葉』の養和元年(1181年)8月6日条や、『吉記』の同15日条、翌16日条などには「信乃の国逆徒」とあるだけで木曾義仲の名はない。この段階で京が注視していたのは、信濃国に侵出していた甲斐源氏であり、義仲の名が登場するのはそれから2年後の『玉葉』寿永2年(1183年)5月16日条が初見である。_NEWLINE_『百錬抄』や『吾妻鏡』の編者には、後に木曾義仲が北陸道から京に攻め上ったことから、北陸での戦いは木曾義仲の進路を塞ぐためとの予断があり、義仲追討の宣旨は、それによる編者の誤解であろうと上杉和彦は指摘している。後世から見れば、平家に立ち向かったのは、源氏の源頼朝と木曾義仲との印象が強いが、実際には当時の平家支配に対して、九州、熊野、近江など、全国で各種勢力が蜂起しており、現在では単純な「源氏対平家」ではなかったと理解されている。 _START_SECTION_ 有力御家人の伝承・上総介広常と千葉常胤 _START_PARAGRAPH_ 頼朝は挙兵直後、石橋山の戦いに敗れて船で房総の安房に渡るが、治承4年(1180年)8月29日条以降、同年10月6日条の鎌倉入りまで、頼朝の右筆・藤原邦通も北条親子も同行していない。このとき大武士団を率いて馳せ参じ、その後明暗を分けた二人の有力御家人が居る。上総介広常と同族の千葉常胤である。_NEWLINE_上総介広常は、後に頼朝の命により殺されたが、その理由も事件のあらましも『吾妻鏡』では明らかではない。ただし上総介広常は後に殺されることを予感させるような人物像として描かれている。その代表例は治承4年(1180年)9月19日条の、上総介広常が初めて頼朝に会ったときの話である。『将門記』の古事をひきながら、広常は場合によっては頼朝を討ってやろうと「内に二図の存念」を持っていたが、頼朝の毅然とした態度に「害心を変じ、和順を奉る」という下りである。広常が内心思ったことが後世の編纂者にまで伝えられたと見るのは不自然である。また、このとき上総介広常が率いてきた軍勢は、『吾妻鏡』によれば2万騎であるが、『延慶本平家物語』には1万騎、『源平闘諍録』には千騎とあり、『吾妻鏡』が一番誇張が大きい。_NEWLINE_それと対照的なのが千葉常胤の記述である。治承4年(1180年)9月9日条で常胤は「源家中絶の跡を興せしめ給うの條、感涙眼を遮り、言語の覃ぶ所に非ざるなり」と感動して涙ぐむ。そして、頼朝はなぜ鎌倉を選んだのかという話に必ず引用されるのも、このときの千葉常胤の献策である。しかし、千葉常胤にとっては、頼朝の父・源義朝は「御恩」を感じるような相手でないことは相馬御厨についての古文書で明らかになっている。_NEWLINE_千葉常胤の一族、そして上総介広常が頼朝に加担したのは、『吾妻鏡』が描くように両氏が累代の源氏の郎等であったからではなく、彼らにとっては上総介となった平家の家人・藤原忠清や、平家と結んだ下総の藤原氏、そして常陸の佐竹氏の圧迫に対して、頼朝を担ぐことによってそれを押し返し、奪い取られた自領を復活するための起死回生の賭けであったと解されている。それは、関東で頼朝の元に参じた他の有力領主達にしても同じである。_NEWLINE_建久3年(1192年)8月5日条には、征夷大将軍となった頼朝の政所始めにおいて、それまでの頼朝の安堵状を回収して政所発給の下文を新たに与えようとしたところ、千葉常胤は「頗る確執」し「常胤が分に於いては、別に御判を副え置」いて欲しいと主張して、特別に頼朝花押の下文を貰ったとあり、千葉常胤を顕彰するその下文の文面が載せられている。『吾妻鏡』には記載はないが、小山朝政もまた特別に頼朝の花押付きの下文を貰ったらしく、その実物が発見されている。そちらは極めて簡潔な安堵状らしいものであるに対して、『吾妻鏡』に載る千葉常胤へのものは、文言が下文としてはあまりにも異様である。_NEWLINE_以上各点などを考え合わせて、この期間を詳細に伝えられる家である千葉氏が、先祖顕彰の家伝を資料として提出した可能性が高く、あるいはそれらを元に「頼朝挙兵記」のような形で原型が出来上がっていた可能性も指摘されている。なお、千葉氏の他にこの間頼朝に同行していたのは三浦一族であり、後に一族が滅んだ宝治合戦で北条側に付いて生き残った佐原三浦氏の祖・佐原義連の顕彰記事も、上総介広常に絡んで治承5年(1181年)6月19日条などに見られる。 _START_SECTION_ 「守護地頭」の設置 _START_PARAGRAPH_ 大江広元に関して、これまで最も注目されてきたのは、文治元年(1185年)11月12日条の、広元が「守護地頭」設置を献策したという下りである。かつてはこれが「守護地頭」の始まりとされた。そして、同年11月28日条には、北条時政がその「守護地頭」の設置を朝廷に要求したとある。しかし、同じ事実を書き記した九条兼実の日記『玉葉』には、「守護地頭」とは書かれていない。そこには「件の北條丸以下郎従等、相分ち五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国を賜う。庄公を論ぜず、兵粮(段別五舛)を宛て催すべし。啻に兵粮の催しに非ず。惣て以て田地を知行すべしと」とある。_NEWLINE_1960年に石母田正は、「鎌倉幕府一国地頭職の成立」などでこの問題に鋭く切り込み、「諸国平均に守護地頭を補任し」は鎌倉時代の後期には他の史料にも見えることから、これは幕府独自の記録によったものではなく、鎌倉時代後期の一般的な通説に基づく作文ではないかと指摘した。そして、この石母田の分析に端を発して、守護・地頭の発生、位置づけについて活発な議論が巻き起り、この「守護地頭」設置の時期は「国地頭制」として守護制の前段階と解されるようになった。 _START_SECTION_ 北条時頼の遺曷 _START_PARAGRAPH_ 北条時頼について八代国治が指摘するのは、弘長3年(1263年)11月22日条の卒去の記述である。時頼の「頌云」の「業鏡高懸、三十七年、一槌撃砕、大道坦然」は、『増集続伝燈録妙堪』の伝記にある遺曷の年齢を変えただけのものである。八代国治はこれを編纂者の「舞文潤飾」と断定する。しかし別人の遺曷を本人の遺曷として紹介することは、後世の史料にはよく見られることである。その例としては、『扶桑五山記』にある蘭渓道隆の遺曷があり、そこでも妙堪の遺曷が使われている。当然ながら蘭渓道隆が人の遺曷の盗作を行ったわけではなく、蘭渓道隆本人の遺曷は別に存在する。_NEWLINE_北条時頼の遺曷に戻れば、『吾妻鏡』とそれほど深い関係があるとは見られていない『鎌倉年代記』にも北条時頼の遺曷として『吾妻鏡』と同じく妙堪のものを載せており、益田宗は「時頼が死んだ弘長3年(1263年)から、吾妻鏡の編纂時期まで3〜40年ある以上、巷間に作られていた時頼遺曷なるものを、編纂者がそのまま本文に採用したと考えるのが当たっているのではあるまいか」とする。 _START_SECTION_ 吾妻鏡の曲筆と顕彰 _START_PARAGRAPH_ 『吾妻鏡』に北条得宗家の顕彰、そしてその為の曲筆が非常に多いことは古くから指摘されており、例えば江戸時代後期の国学者大塚嘉樹(よしき)は『東鑑別注』において、文治2年(1186年)4月8日条の静御前に鶴岡八幡宮で舞をさせたときの記事、文治5年(1189年)4月18日条の北条時房(当初時連)の元服記事、1192年(建久3年)5月26日条の北条泰時の記事などを挙げて『吾妻鏡』編纂者による北条氏顕彰の為の曲筆と断定した。また土佐の宮地仲枝は「東鑑の考」において、1201年(建仁元年)10月6日条の記述を紹介し「此文などかの家の記録とあらずとせんや」としている。 _START_SECTION_ 吾妻鏡の曲筆 _START_PARAGRAPH_ それらの中で、北条時政を、あるいは義時の行動を正当化するの為の曲筆とされている代表的な2例を紹介する。 _START_SECTION_ 源頼家 _START_PARAGRAPH_ 『吾妻鏡』の曲筆のもっとも甚だしいのが頼家将軍記である。源氏が三代で終わったのはこういう不肖の息子が居たからだと誰しも思うが、それが真実の姿であった証拠は何もなく、曲筆と疑われるものは無数にある。曲筆の確実なものは、源頼家の最期である。頼家が将軍の座を降りたのは『吾妻鏡』によると建仁3年(1203年)9月2日の比企能員の変の直後、9月7日条での頼家出家であり、9月10日条で源実朝が将軍を継ぐことを決定したとある。そして、その頼家の死については翌年の7月19日条において、飛脚から頼家死去の報があった事を短く記すのみである。_NEWLINE_しかし、建仁3年(1203年)9月1日に頼家が病死したという鎌倉からの使者が、同年9月7日早朝に京の朝廷に到着し、実朝を次期征夷大将軍に任命するよう要請していることが、近衛家実の『猪隅関白記』、藤原定家の『明月記』、白川伯王家業資王の『業資王記』などによって知られている。『吾妻鏡』によれば頼家が存命どころか、まだ出家(引退)もしていないにもかかわらずである。この当時の鎌倉と京は、普通の使者ならば2週間、至急の知らせでも約1週間かかり、早馬を乗り継いでも9月1日か2日に鎌倉を出発していなければならない。仮に9月2日に鎌倉を発ったとしても、比企能員の変は同日夕方近くに起きた事件であり、頼家の将軍廃立は当初より予定されたことが解る。また、頼家殺害当日の日付の『愚管抄』によると、入浴中を襲撃され激しく抵抗した頼家の首に紐を巻き付け、睾丸(ふぐり)を掴んで、ようやく刺し殺したとある。 _START_SECTION_ 畠山重忠 _START_PARAGRAPH_ 『吾妻鏡』の中では、畠山重忠の乱で人望厚い畠山重忠を追い落とした人物は、北条時政の後妻で悪名高き牧の方とされ、北条義時は元久2年(1205年)6月21日条で畠山重忠の謀殺に反対し、父時政に「今何の憤りを以て叛逆を企つべきや、もし度々の勲功を棄てられ、楚忽の誅戮を加えられば、定めて後悔に及ぶべし」と熱弁をふるう。これはその後北条政子と北条義時が父時政を追放したという「背徳」を正当化する伏線となっている。原勝郎はこれを評して「若同年閏七月の事變に際する二人の態度を考へば、始めに處女にして終りに脱兎たる者か、怪むべきの至なり。換言すればかゝる矛盾を來す所以は『吾妻鏡』の編者が強て義時を回護せんと欲するの念よりしてかゝる曲筆を弄するに至りしに外ならざるべし」と述べている。 _START_SECTION_ 得宗家の顕彰 _START_PARAGRAPH_ 先の2例は、北条氏の行動の正当化の色合いが強いが、次ぎに顕彰の代表例を、時政、泰時、時頼の3人について紹介する。内2例は顕彰の為の露骨な曲筆でもある。 _START_SECTION_ 北条時政・文治2年5月6日の院宣  _START_PARAGRAPH_ 文治元年(1185年)11月25日から文治2年(1186年)3月27日頃まで、北条時政は頼朝の代官として在京していた。この頃より文治3年(1187年)頃までは、京と鎌倉の間で緊迫した政治折衝が行われていた時期であり、『吾妻鏡』には院奏や院宣、頼朝から公卿への手紙などが多数掲載されている。_NEWLINE_そうした院宣のひとつに、後白河法皇が北条時政を褒める一文が間に挟まっている。文治2年(1186年)5月13日条にある5月6日付けの院宣である。この時政顕彰の文を飛ばして読むと、非常に文意のはっきりした院宣らしい文章になり、龍福義友は、これを「時政顕彰の為の捏造」と推定する。また、それとも関連する文治2年(1186年)5月18日条にある頼朝の院奏の趣旨の前半は『吾妻鏡』編纂者が想像で補ったものであり、これには物的証拠がある。同年4月20日に頼朝が出した院奏の実物が、九条家の古文書の中から発見されているのである。『吾妻鏡』の記述と院奏の実物はテーマは同じであるものの、主張している内容は全く異なる。それらの事から、同年5月6日の院宣に出てくる「去月廿日の御消息」は編纂者の元にはなく、しかしそれに言及しなければ話はつながらないと想像で補った(偽造した)ものであろうと見られている。_NEWLINE_この時期は鎌倉幕府の性格を決定する非常に重要な時期であり、『吾妻鏡』はその最も重要なまとまった史料であるが、そのなかには以上のような例も混在し、非常に注意深く読んでいかなければならない箇所とされる。 _START_SECTION_ 北条泰時・正治2年4月8日条 _START_PARAGRAPH_ 北条泰時の顕彰で象徴的なものが正治2年(1200年)4月8日条である。女院殿上人であった若狭前司保季(藤原保季)が、御家人の郎従(武士)の妻と白昼密通していたところへ、夫が六波羅から帰ってきた。怒ったその武士が太刀を取って保季を追い、斬り殺した。その武士を捕らえてあるが、どう裁いたらよいだろうと京の六波羅から鎌倉に早馬が来る。それに対して大江広元から意見を求められた北条泰時は、「郎従の身として諸院宮昇殿の者を殺害するなど、武士の本分にもとる行為だ。それも白昼路上で行うなどもってのほか。直ちに厳罰に処すべきである」と言ったとある。_NEWLINE_この記述は盗作である。この事件は、実は藤原定家の日記『明月記』同年3月29日条に書かれており、泰時が語ったという台詞は藤原定家の感想(憤慨)を写したものである。 _START_SECTION_ 北条時頼・仁治2年11月29日条 _START_PARAGRAPH_ 仁治2年(1241年)11月29日条と翌30日条にはこう書かれている。有力御家人の三浦氏と小山氏との間で、ささいなことからあわや一戦にという事件が起った。北条経時は、この事件で一応理のある三浦氏を助勢しようと、配下の者を武装させて差し向けた。それに対して経時の弟の北条時頼は、酒の場での喧嘩だからと静観していた。二人の祖父である北条泰時は「各々将来御後見の器なり」、つまり二人とも将来執権になろうという者であるのに、兄の経時は「諸御家人の事に対し、爭か好悪を存ぜんか。所為太だ軽骨(軽率)なり、暫く前に来るべからず」と怒った。一方、弟の時頼には「斟酌頗る大儀に似たり。追って優賞有るべし」と褒めて領地を与えたというのである。時頼が15歳のときである。_NEWLINE_兄の北条経時は、祖父泰時の後を継いで19歳で第4代執権となるが、4年後に弟北条時頼に執権を譲り出家、その直後に死亡する。そして『吾妻鏡』は、そもそも時頼の方が優れていて、泰時の眼鏡にも適っていたのだと言っている。 _START_SECTION_ 吾妻鏡の原資料 _START_PARAGRAPH_ 吾妻鏡の原資料の全体像について際だった研究を行ったのは、大正時代の八代国治と最近では五味文彦である。五味文彦は『吾妻鏡』の原史料として3つの類型「幕府事務官僚の日記・筆録」「後に提出された文書」「幕府中枢に残る公文書類」が浮かび上がるとする。ここでは説明の都合上「後に提出された文書」「幕府中枢に残る公文書類」に「京系の記録」を追加して先に説明し、最後に将軍記毎に「幕府事務官僚の日記・筆録」を見ていく。 _START_SECTION_ 後に提出された文書 _START_PARAGRAPH_ 地頭・御家人、寺社などから、訴訟の証拠や由緒として提出されたと思われる文書である。しかし訴訟の証拠書類だろうと思われるものの中には、明らかに偽文書と思われるものが混じっている。元久2年(1205年)閏7月29日条にある河野通信に与えたとされる三代将軍源実朝の御教書はその代表例である。それらのことから幕府の中に保管されていた文書は実はほとんど無く、後世に提出された書類から採録したものがかなりの量に及ぶだろうと推測される。有力御家人の伝承の項で触れた建久3年(1192年)8月5日条などは千葉氏の家伝と思われる。 _START_SECTION_ 幕府中枢に残る公文書類 _START_PARAGRAPH_ 次は公文書類である。それらは政所などの役所に保管されていたものもあろうが、その文を書いた事務官僚の下書きが、あるいは得宗家の寄合での決定が、政所や問注所の執事の家に伝えられて『吾妻鏡』の編纂時に利用されたと思われる。寛喜4年(1232年)12月5日条に、北条泰時が「所処に散在」してしまった大江広元時代の記録を集めさせ、広元の孫の長井泰秀に送ったとあり、その記事自体が、長井泰秀の家に保管されていた記録が『吾妻鏡』に利用されたであろうことを物語っている。頼朝将軍記に多数見られる朝廷からの院宣などもそこに含まれていたと思われる。文治元年(1185年)12月6日条にある「院奏の折紙状」は『玉葉』が情報源とも見られていたが、平田俊春はこれを詳細に検討して、幕府政所にあった案文に拠ったのであろうと推定し、以降それが定説となっている。 _START_SECTION_ 京系の記録 _START_PARAGRAPH_ 大正時代初期の八代国治は、『吾妻鏡』と諸史料との突き合わせを行い、公卿の日記その他京系の多く史料が原史料となっていることを見つける。そして『吾妻鏡』の該当箇所と、オリジナルであろうとするものの該当箇所計29ヶ所を具体的に紹介した。その内、藤原定家の『明月記』が史料として使われている部分が非常に多く、14ヶ所とほぼ半分を占める。それらのことから、『吾妻鏡』は日記の体裁を取りながらも、明らかに後世の編纂物であると八代は断定した。_NEWLINE_八代国治が指摘した文献との関係については、先に触れた通り『玉葉』については否定され、また五味文彦は『平家物語』や『承久記』、そして平田俊春が戦前に主張した『六代勝事記』も使われた形跡は無く、それらの元となった史料合戦記などを利用したのではないかとする。そうした修整はあるものの『明月記』の他、『金槐和歌集』からの引用などは確かに確認され、後に佐藤進一は『飛鳥井教定記』も原史料のひとつに加えている、五味文彦は『十訓抄』なども二階堂行光の顕彰記事に利用された可能性があるとする。 _START_SECTION_ 幕府事務官僚の日記・筆録 _START_PARAGRAPH_ 最後に一番重要な、ベースとなる原史料「幕府事務官僚の日記・筆録」を、各将軍記毎の特徴と合わせて見ていくと次のようになる。 _START_SECTION_ 頼朝将軍記 _START_PARAGRAPH_ ベースとなる原史料の種類・著者を推定することの最も困難な時期が、ちょうど源平合戦の時代、治承4年(1180年)から 治承8年/元暦元年(1184年)頃である。この時期は非常に物語性が強く、読み物としても面白いが、それだけに原資料の姿が現れ難い部分である。この時代全般に渡って、いくつかの御家人の家に伝わる文書や家伝のようなもの、場合によっては「頼朝挙兵記」とでもいうような、既に出来上がっていた物語などが相当利用されていると推定されている。挙兵当時からの右筆として藤原邦通が知られるが、治承8年/元暦元年(1184年)頃から藤原俊兼、二階堂行政、大江広元、三善康信ら、朝廷に仕えていた中・下級実務官僚が相次いで鎌倉に下り、後に政所となる公文所や、問注所の担い手となる。その中で五味文彦は奥州合戦で軍奉行でもあった二階堂行政の筆録がベースと推定する。 _START_SECTION_ 頼家・実朝将軍記 _START_PARAGRAPH_ 二階堂行政の子で初めて政所執事となった二階堂行光の筆録をベースに、三善康信や、和田合戦で軍奉行であった二階堂行村の記録などにより補ったと思われる。ただし二階堂行光の筆録がベースであると言ってもかろうじて痕跡が確認出来るという範囲である。この頼家・実朝将軍記の時期は北条氏を正当化する曲筆が非常に多い。『明月記』が利用されているのもこの時代の部分である。 _START_SECTION_ 藤原頼経・頼嗣将軍記 _START_PARAGRAPH_ 読み物としても面白かった源氏三代将軍記と比べてその文章は大きく異なり、儀式に関する記事、天変地異、祭礼・祈祷に関する記事が多くなる。八代国治はそれを評して「叙事は平凡にして、文章も流暢ならず、日記を読むが如く無味乾燥にして興味少なし」という。原勝郎は、建暦前後より延応の前後まで(1210年 - 1240年前後)、俗にいう尼将軍の時代から将軍藤原頼経の代、執権は北条泰時の時代については、諸家の筆録をベースに一人が編纂したように見受けられ、また源氏三代将軍記に比べれば信用に足るとする。そして延応前後より終りまで、つまりほぼ藤原頼嗣将軍記以降は筆録そのままだろうと考えた。現在までの研究ではそれは否定されるが、しかし原資料が比較的生の形で残っているということは確かである。この時期のベースとなった筆録については、五味文彦は恩賞奉行(恩沢奉行)の中原師員と、同じく恩賞奉行で承久の乱の軍奉行であった後藤基綱のものを中心とする。 _START_SECTION_ 宗尊親王将軍記 _START_PARAGRAPH_ 八代国治や原勝郎が指摘した文章・内容の「つまらなさ」が極まったのがこの時期である。しかし事実の記録としては信頼度は高いといえる。五味文彦は、この部分は御所奉行の筆録が中心で、弘長3年(1263年)7月5日までは二階堂行方、その後は御所奉行を引き継いだ中原師連の記録と推定している。 _START_SECTION_ 吾妻鏡の編纂者 _START_PARAGRAPH_ 直接の編纂者について、八代国治は政所と問注所の執事である三善康信の子孫(大田、町野)、大江広元の子孫(毛利、長井)、二階堂行政の子孫達ではないかとした。 _START_SECTION_ 問注所・三善康信の子孫 _START_PARAGRAPH_ 八代国治は『明月記』と『吾妻鏡』の突き合わせを行い、建暦元年(1211年)11月4日条が『明月記』同年10月23日条を若干縮めて書いたものであることを発見する。更に翌年の建暦2年(1212年)7月8日条には「たまたま造営の事有り。すべからく上臈の上卿宰相弁これを奉るべきか」と『明月記』同年7月27日条の丸写しがある。それらに「善信申して云く」とあるのは三善康信のことである。八代国治はこの2件とも三善康信の評、または献策と偽装されており、そのことからも三善氏の子孫たる町野・大田氏が『吾妻鏡』編纂の中心に居たのではないかと推測した。_NEWLINE_また、三代将軍源実朝が河野通信に与えたとされる御教書の記事は、永仁5年(1297年)の永仁の徳政令に関わる偽文書を元に書かれたものであることは先に触れたが、その元久2年(1205年)閏7月29日条にも「善信奉行す」とある。元となる偽文書が作成されてから編纂推定年代までは非常に短く、編纂者以外の創作が入り込む余地は無い為、三善氏の子孫が編纂者の一人として確実視される。 _START_SECTION_ 政所・大江広元と二階堂行政の子孫 _START_PARAGRAPH_ 大江広元の筆録からと思われるものには、同じ文章を分割したと思われる承元3年(1209年)10月15日条と建保2年(1214年)5月7日条があり、二階堂行政では文治2年(1186年)10月3日条などがある。顕彰した部分も確かに見られる。例えば大江広元では既に見てきた守護地頭の献策などである。ただし既に「「守護地頭」の設置」で見てきたとおり、これは大江広元の顕彰ではあっても編纂者の手による曲筆とは言い切れない。従って顕彰記事の存在だけから広元の子孫の編纂への関与をいうことは出来ないが、これも先にも触れたとおり北条泰時が大江広元時代の記録を広元の孫の長井泰秀に送ったという記事があり、長井氏に伝えられたその記録が『吾妻鏡』編纂に利用されたであろうことは大正時代の頃から和田英松・八代国治らによって指摘されている。_NEWLINE_二階堂行政の子孫については、その子二階堂行光の顕彰記事に元久元年(1204年)9月15日条があり、行光が白河院の古事を語り「相州殊に御感」という。そのとき行光が語った古事は『十訓抄』1の24話にあるものと同じであることを五味文彦は指摘した。記事そのものが後付の創作である可能性はある。ただし五味も認める通り『十訓抄』の編者同様に行光もその古事を知っていたのかも知れず断定は出来ない。また『金槐和歌集』から収録したと思われるものに八代国治が指摘した建保元年(1213年)12月19日条から翌20日条がある。二階堂行光と三代将軍源実朝の和歌のやりとりで、将軍実朝が「再三御感に及ぶ」という下りである。しかしその記事を『吾妻鏡』に加えたことに行光顕彰の意図が指摘出来ても、事実と相違する曲筆という訳ではない。三善康信の場合と比べれば非常におとなしいものである。とはいえ、二階堂氏は『吾妻鏡』の記事のベースと想定される筆録の著者に多数現れることと合わせて考えると、その編纂への関与は濃厚と推測される。 _START_SECTION_ 編纂の意図・「先例」 _START_PARAGRAPH_ 和田英松は1912年の「吾妻鏡古写本考」において、『吾妻鏡』編纂の意図について触れ、「此書の編纂は、幕府の記録を統一して、先例調査の機関に備えんが為にして、且つは開幕以来、久しく年序を経たるを以て、歴代将軍の実記編纂の必要を生じたるが故にて」と推定した。_NEWLINE_鎌倉時代後期に、京・鎌倉を通じて見られた家業・家職の固定化は先例重視の「有職故実」の世界であり、平安時代中期以降の朝廷同様に、この時代の鎌倉幕府でも「前例」が重視されていく。益田宗は1977年の「吾妻鏡の伝来について」において、その「先例」の具体例として京へ送り返された三代の元将軍の鎌倉退出の様子をあげる。『吾妻鏡』より後の時代の宗尊親王の子の7代将軍惟康親王の帰京は『とはずがたり』に描かれており、その前の三代と同様に一旦佐助ヶ谷に行きそこから京へ出発するが、将軍を御所から出すときに「先例だから」と逆輿(さかさごし)にして将軍を乗せたとあり、益田は逆輿だけでなく将軍を廃するときの一定の慣行が既に確立していたのではないかとする。 _START_SECTION_ 「家」の形成 _START_PARAGRAPH_ そうした幕府中枢の事務官僚の実務的な要請に加えて、五味文彦は「混乱した時代に歴史を見直す必要が生まれ」たこと、と同時に「自らの家の流れを確認し、その正統性を主張する必要からも『吾妻鏡』の編纂は求められたに違いない」と述べる。_NEWLINE_平安時代の後期、院政期頃に形を成してきたいわゆる「イエ」の概念が、京の公家社会では家格の形成、家業・家職の固定化から、更には家芸の固定化にまで及んでいくが、武家社会の側にもそちらに向かわざるを得ない要因を抱えていた。分割相続による御家人の零細化である。そうした状況からの保身が嫡男による単独相続への傾斜、「家」「家督」の確立として現れる。それらが相まって得宗家の確立とそれを取り囲む北条庶流の家格の形成が、同時に文筆の家でもそれ以上の家格・家職の固定化が進んでいく。_NEWLINE_『吾妻鏡』編纂時期に鎌倉幕府の政策を決定していたのは寄合衆であるが、その構成を知る手がかりに、永仁3年(1295年)の太田時連の記録『永仁三年記』、応長元年(1309年)の金沢文庫の古文書などがある。これに乾元元年(1302年)当時の引付頭人などから主要要人を加えて、それぞれの家が『吾妻鏡』の中でどう扱われているかをみると、北条一門の北条師時、北条時村とその孫北条煕時、大仏宣時とその子大仏宗宣、金沢貞顕、普音寺基時らの先祖は、生誕記事や顕彰記事で『吾妻鏡』の中にきちんと位置づけられていることがわかる。例外は本来得宗家に次いで家格が高いはずの赤橋家であるが、しかし赤橋義宗は建治2年(1277年)に没し、嫡男赤橋久時はそのときまだ5歳。『吾妻鏡』編纂の中心時期とみられる頃には赤橋家は寄合衆は務めていない。 _NEWLINE_実務官僚としては、永仁3年(1295年)の寄合出席者 に大江氏の長井宗秀、二階堂行藤、三善氏の矢野倫景らが見えており、乾元元年(1302年)11月段階では二階堂行藤の後任として二階堂行貞が加わったと推定されるが、これら三氏の祖については既に見た通りである。応長元年(1309年)の寄合衆には、他に姻戚で安達時顕、得宗被官では長崎高綱、尾藤時綱らが見える。乾元元年(1302年)当時の幕府要人には得宗被官は現れないが、その裏で得宗家を支える存在であったろう。その長崎氏の祖平盛綱には顕彰記事があり、尾藤氏は北条泰時の代に最初の家令として記されている。つまり乾元元年(1302年)前後の幕府・得宗家を支える主要メンバーの家の形成が『吾妻鏡』の中にきちんと織り込まれていることがわかる。 _START_SECTION_ 吾妻鏡の諸本 _START_PARAGRAPH_ 吾妻鏡は金沢文庫にあった原本が小田原の後北条氏の手に渡り、それが徳川家康の手に渡ったと思われやすい。しかし現在の研究では、かなり早くに散逸し、室町時代には既に揃いの完本の形では伝えられておらず、断片的な抄出本や数年分の零本の形で伝わるものがほとんどであったと推測されている。それらを集めて、42巻とか43巻とかまでに収集と補訂が行われたものが、北条本系では徳川家康、吉川本では右田弘詮(陶弘詮)の手に渡り、そこで更に欠損分の収集が行われて51巻あるいは48巻という形に復元されていったとされる。 _START_SECTION_ 北条本 _START_PARAGRAPH_ 現在もっとも一般的なテキストである1933年(昭和8年)の『新訂増補国史大系』の底本となるものは、北条本と呼ばれ後北条氏が所蔵していた写本とされていた。それが天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐のとき、北条氏直が開城の折衝にあたった黒田如水に贈ったものを、如水の子黒田長政が慶長9年(1604年)に徳川家に献上したものである。_NEWLINE_現存する「北条本」の分析から、現在では楮紙の古い料紙の32冊と、楮紙の古い料紙に修善寺紙の補入が施されている10冊、修善寺紙のみの1冊の計43巻を家康は慶長8年(1603年)以前、おそらくは慶長以前(1596年以前)に一括して手に入れていたと推定される。その後の収集による増補を、それまで入手していたものと同じ書式で書き写させたものが、白紙に近い紙を用いた8冊であり、その追加収集と平行して古活字本開版の準備が進められていたとされる。_NEWLINE_黒田長政献上のものが何冊であったかは不明であるが、いずれにしてもその白紙に近い紙による8冊の増補過程で校合に利用されたと思われる。つまり「北条本」と言われる写本は「昔北条本と思われた写本」「いわゆる北条本」であって、後北条氏から伝わった現物はどこにも存在せず、家康の元で増補された写本の中に書き写された原資料のひとつでしかないということになる。_NEWLINE_尚、家康が開版したものは、慶長10年(1605年)印行の慶長古活字本(伏見版)であり、外題・版心には「東鑑」、内題には「新刊吾妻鏡」とあり、相国寺の中興の祖とされる西笑承兌(せいしょうじょうたい)の跋文(ばつぶん)がある。寛永版は寛永3年(1626年)に、慶長活字版を元に難解な文を訂正しカナを符って『吾妻鏡』の普及を目指したものである。林道春(羅山)の跋文により『吾妻鏡』の由来を理解できるようになっている。_NEWLINE_原本は家康没後、江戸城内の紅葉山文庫に収蔵され、現在は国立公文書館蔵で重要文化財である。尚『新訂増補国史大系』はこの「北条本」を底本としながらも、島津本からとされる「吾妻鏡脱漏」を加え、吉川本も校合に用いた。 _START_SECTION_ 島津本 _START_PARAGRAPH_ 巻首にある系図からは天文年間(1532年 - 1555年)の写本と推定されているが、冒頭の目録に無い3年分(北条本にもない)が含まれていることなどから、天文年間以降も収集と補訂が続けられていたと見られる。慶安3年(1650年)に幕府に献上され、現在島津家文書に残るものはそのときの副本とされる。幕府に献上された島津本は行方不明であるが、その中から徳川家所蔵のいわゆる北条本に欠けていた3年分が寛文8年(1668年)に『吾妻鏡脱漏』として、更に北条本の計11巻との差分『吾妻鏡脱纂』が延宝7年(1679年)に木版で出版された。 _START_SECTION_ 吉川本 _START_PARAGRAPH_ 現在『吾妻鏡』の最善本と目されるのが吉川(きっかわ)本であり、大内氏の重臣陶氏の一族、右田弘詮(陶弘詮)によって収集されたものである。右田弘詮は、文亀元年(1501年)頃、その写本42帖を手に入れることができ、数人の筆生を雇い、書き写させて秘蔵した。しかしそれには20数年分の欠落があった。弘詮はその後ようやくにして欠落の内5帖分を手に入れる。これを最初の書写と同じ形式で書き写させ、その目次も兼ねた年譜1帖も加えて大永2年(1522年)に全48帖とした。それがその後大内氏の滅亡とともに、毛利元就の子、吉川元春の手に移り、以降吉川家に伝えられた。現在も吉川資料館蔵で重要文化財である。_NEWLINE_北条本にはある寛元4年、建長3年、建長7年は欠損しているが、北条本に無い『吾妻鏡脱漏』部分の3年を全て含み、それ以外にも日の単位で数百箇所が吉川本のみにある。日単位のものでは北条本との差分は祈祷祭礼に関する記事が多く、また前半部分においては殆ど一致し、差異は後半部分に集中する。_NEWLINE_それらのことから和田英松は「吾妻鏡古写本考」において、北条本などの源流である金沢文庫本は節略本であり、吉川本はそれより前の編集途中の版をベースとした写本であろうとした。今日云われる「北条本」は前述の通り「いわゆる北条本」に過ぎないことから、この認識は現在では根拠を失っているものの、和田英松や八代国治が、編纂途中で斧削を加える前の段階を思わせる吉川本の史料価値は北条本に勝るとした点は現在でも肯定されている。 _START_SECTION_ 黒川本 _START_PARAGRAPH_ 『群書類従』を編纂した塙保己一(はなわ ほきのいち)の和学講談所温古堂の蔵印がある。目録の終わりに「応永11年甲申(1404年)8月25日金沢文庫御本書之」とあり、応永11年に金沢文庫本から書写したものを更に書写したものと推定される。大正時代に黒川真道が所蔵していたことから黒川本と呼ばれるがその後焼失し、東大史料編纂所にその目録部分の影写のみが残されている。 _START_SECTION_ 抄出・零本系 _START_PARAGRAPH_ 集成本と分類される写本の主要なものは上記の北条本、吉川本、島津本の3点であるが、その他抄出・零本の類では前田育徳会尊経閣文庫蔵の応永13年(1406年)の奥書を持つ『山密往来』の紙背に、寿永3年(1184年)4月6日条から同年12月16日まで9ヶ月弱の抄出が見つかっており、写本中最古のものとされる(重要文化財)。また、前田家には包紙上書に「文治以来記録」と書かれた文治3年(1187年)から嘉禄2年(1226年)までの間の、流鏑馬など武芸に係わる記事43日分を抄出したものも残されている。その他伏見宮家旧蔵の伏見宮本は17日分の記事の抄本である。三条西公条筆とされる三条西本は50日前後の記事を2種類有している(その間には重複もある)。清元定本と呼ばれるものは室町幕府の奉行人清原元定が写したもので4冊計106丁である。集成本は、こうした抄出・零本系を右田弘詮、あるいは徳川家康が苦心して集めたものと見られている。
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