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フェルディナン・ド・マルサン(Ferdinand de Marsin, 1656年2月10日 - 1706年9月9日)は、フランス王国ブルボン朝の軍人。グランヴィル伯ジャン・ガスパール・フェルディナン・ド・マルサンの子。リエージュ出身。
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フランス軍に所属して軍歴を重ね、大同盟戦争でリュクサンブール公の軍に従軍して南ネーデルラントを転戦、1690年のフルーリュスの戦いで負傷したり、1693年のネールウィンデンの戦いでイングランド王ウィリアム3世と戦い、シャルルロワの包囲にも加わった。1701年から1702年までに駐スペイン大使として活動、スペイン継承戦争ではイタリア戦線へ出向きルッザーラの戦いに参戦、ドイツ戦線に移り1703年のシュパイアーバハの戦いにも加わり、戦後元帥に昇進した。
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翌1704年にヴィラールに代わってバイエルン選帝侯マクシミリアン2世の補佐を務め、タラール伯と共にドナウ川に勢力を張った。しかし、マールバラ公ジョン・チャーチルとプリンツ・オイゲンが率いるイングランド・オーストリアにブレンハイムの戦いで大敗、一気に劣勢に傾いてしまった。1705年から復帰したヴィラールと交替、ネーデルラントに送られた。1706年に一旦ドイツのヴィラールと合流した後ネーデルラントに戻り、ラミイの戦いで敗北したヴィルロワ公の救援に向かった後、ネーデルラントにヴァンドーム公が出向きヴィルロワは更迭、マルサンはオルレアン公フィリップ2世と共にヴァンドームが担当していたイタリア戦線へ異動となった。
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だが、トリノ包囲中に救援に向かったオイゲンへの対応でフィリップ2世と対立、有効な策が取れないまま9月7日のオイゲンの襲撃で大敗して致命傷を負い、2日後の9月9日に死去(トリノの戦い)。トリノはオーストリア軍に解放され、翌1707年にナポリもオーストリア軍に制圧され、イタリア戦線は崩壊した。
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常緑性の多年生植物で着生植物根茎は短く横に這い、偽鱗茎を密生する。偽鱗茎は断面が角の丸い四角に近く全体としては鈍い四角錐の形をしている。葉は偽鱗茎の先端に1枚から2枚をつける。葉は革質で、表面にはしわ状の縦に走る凹凸があり、葉の縁は緩い波状になっている。花茎は偽鱗茎の先端から出て、柄はあまり長くない。花序はその柄の先から伸び、小さな花が2列に密生し、垂れて伸び、先端は下を向く。個々の花の基部には苞がある。蕊柱は短くて先端部に翼状の突起が出る。花粉塊は4個ある。
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学名はギリシャ語の pholidos (鱗の意)と otos (耳の意)からなり、花序にガラガラヘビの尾に似た鱗状の苞があることによる。英名は rattlesnake orchid で、まさに「ガラガラヘビのラン」である。ちなみにほ乳類のセンザンコウ目の学名が全く同じ綴りである。
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40-50種があり、中国南部、東南アジア、インドネシア、フィリピン、オーストラリア、ニューカレドニア、ニューギニアに渡って分布する。
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本属は1825年に P. imbricata をタイプ種として W. J. Hooker によって記載された。
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セロジネ属 Coelogyne やデンドロキラム属 Dendrochilum などと近縁のものである。セロジネ属に含め、その中で節として扱われたこともある。セロジネに似るが、唇弁の基部が空洞の筒状になること、蕊柱が短く、先端近くの周辺に翼状の突出がある点などで区別される。
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洋ランとして観賞用に栽培されることがある。比較的普及しているものもあるが、セロジネやデンドロキラムのように時に一般の花屋にまで出回るほどではない。その上に石井、井上編集代表(1969)では『作りやすいが、あまり美しくない』と身もふたもない評価をつけている。
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キネンシスなどいくつかの種は伝統的な医療の中で薬草として用いられたものがあり、それらを中心に成分の研究などもなされている。
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フォルスマン抗原(フォルスマンこうげん、英: Forssman Antigen)は、糖脂質異好タンパク質であり、肺炎レンサ球菌といった腸内微生物を含むイヌやウマ、ネコ、カメ、ヒツジのような特定の動物において見られる異種抗原の一種である。ヒツジでは、赤血球において見られるが、組織および器官では見られない。フォルスマン抗原はポール・バンネル抗原(伝染性単核球症の特徴)とは異なる。どちらの抗原もウマおよびヒツジの赤血球上に存在するが、モルモットの腎細胞はフォルスマン抗原のみを有する。したがって伝染性単核球症陽性の血清は、モルモット腎臓を吸収した後、ウマまたはヒツジ赤血球を凝集させる。
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名称は1930年にこの抗原について記述したスウェーデンの病理学者John Frederick Forssman (1868 – 1947) に因む。
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フォーチュン・グローバル500(Fortune Global 500)は、フォーチュン誌が毎年1回発表している、世界中の会社を対象とした総収益ランキングであるとともに、定額制の企業情報データベースでもある。
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ランク付けされた各企業の"Revenues"(総収益)のほか、"Revenues Change"(総収益増減率)、"Profits"(当期純利益)、"Assets"(総資産)、"Profits Change"(当期純利益増減率)、"Employees"(従業員数)、"Previous Rank"(前年ランク)は無料で見ることができる。有料で更に詳しい企業情報データベースを利用することができる。
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BDAは、コスワースがフォードから設計・開発の依頼を受けた排気量1601CCのカムシャフトをベルトドライブで駆動する4バルブDOHCの直列4気筒エンジンで、実用車でありながらレースやラリーで充分戦える性能を持つエンジンとして開発された。エンジン名称のBDAは、Belt Drive A Seriesから命名された。
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フォードは、1968~1971年にかけてロータスのDOHC(ツインカムロータス)を搭載したスポーツモデルを、エスコートRSとしてラインアップしていた。しかしながらフォードとしてはこのロータスDOHCには、満足していなかった。そこで、新たに市販車のエンジンルームに搭載を前提としてモータスポーツにも使用可能なエンジンを開発するという方針をたてた。
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その方針をもとにフォードは、1967年に、ツインカムロータスよりも優れた性能を持つエンジンの開発をコスワースと契約を結んだ。コスワースは、このエンジンの設計と開発のみ担当して、量産は他社が行うという内容である。
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当時キース・ダックワースはDFVエンジン開発に専念していたので、マイク・ホールが開発を担当した。新しいエンジンは、ツインカムロータスよりも優れた性能を持つエンジンにするためフォードのケント・ブロック(背の高いブロック)にFVAやDFVと同じシリンダヘッド(4バルブDOHCのペントルーフ燃焼室)を取り付け、カムシャフトをコックド・ベルトで駆動するエンジンとした。
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エンジン設計は、1967年5月に開始され、最初の1600ccエンジンは、1968年の6月に完成した。イギリスのエンジンとしては、初めてカムシャフトをベルトで駆動するエンジンとなった。使用するベルトは、フィアットの124スポーツスパイダーですでに使用されていたものを流用した。
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1972年からF2のエンジン規定が「自然吸気の6気筒以下で前年度の生産が最低100台のシリンダブロックを持つ排気量2000㏄以下のエンジン」という規定に変更になった。コスワースは、新規定のF2用エンジンとしてBDAの排気量拡大版(ボア拡大)で対応する方針を固め、排気量を1600㏄から1700㏄、1790㏄、1927㏄と段階的に排気量の拡大を順次図っていく。コスワースの考えでは、ストロークを拡大するとピストンスピードが上がり、回転数を稼ぐことができなく出力が出せなくなることを恐れたためである。
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しかしながら元々が1600㏄のケントブロックでは、ボアピッチが小さくボア拡大による排気量拡大が難しい局面であった。
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ブライアン・ハートは、ケントブロックの限界を早く見抜き、ブロック材質をアルミ合金に変更しシリンダの1番と2番、3番と4番の間隔をつめ"サイアミーズ型”として内側をめっきしたライナーをはめ込んで2,000ccまで排気量拡大が可能としたブロックを設計試作した。このブロックは、オリジナルのケントブロックより軽量化がされていた。 このアルミブロックは、試作段階で早くもフォードの目に止まり、早速エスコートRS1800の後期型に採用されたが、コスワースは高く評価しなかった。
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コスワースは、当時シボレー・ベガのアルミブロックを使用するEAエンジンを平行開発していたが、このベガのアルミブロックに鋳造欠陥が多く、アルミブロックに対して不信感を持っていたのでハートのアルミブロックに対しては、否定的な見解を持っていた。ハートのブロックは、F2用としては1850㏄から2000㏄へと順次排気量アップ(ボア拡大)を図り、F2用エンジンとしての公認と実績をとっていく形で進化を図る。
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一方コスワースは、ケントブロックのボアアップに際しては、シリンダライナをブロックにロウ付けする方法で排気量拡大を図るが、うまくいかずに最終的には、ハートのアルミブロックを採用することになる。
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特に、1973年にBMWがフルスケールの2000㏄のブロックを使用したBMW・M12/6をF2へ参戦させると、BDAはF2での成績を落としていく。このBDAのアルミブロックは、シリンダ間の隙間が狭いためシリンダ間にウオータ・ジャケットを設けることができなかったのと、ピストンリングが直接シリンダブロックを摺動するのでシリンダの摩耗が激しく、寿命が短いという欠点があった。またコッグドベルト自体の信頼性が当時の技術では低く、エンジンを慎重にウォーミングアップしないとベルトが切れ、吸排気バルブがすべて変形するというトラブルも多発した。
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F2からの需要が減った後は、エスコート用のグループ5(シルエットフォーミュラ)用エンジンとして活用された。
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フシジン酸は、翻訳伸長因子 EF-G のリボソームからの解離を防ぐことで、細菌のタンパク質合成阻害剤として機能する。フシジン酸は、主にブドウ球菌属 (Staphylococcus) やレンサ球菌属 (Streptococcus)、コリネバクテリウム属 (Corynebacterium) などのグラム陽性細菌に効果的である。フシジン酸は、細菌の翻訳を阻害するが菌を殺さない、静菌作用を持つ。
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フシジン酸は、Fusidium coccineum という菌類に由来するステロイド系の抗生物質である。デンマークのレオファーマ社によって開発され、1960年代に臨床での使用が解禁された。フシジン酸は、Mucor ramannianus や Isaria kogana といった他の菌類からも単離される。薬剤はフシジン酸ナトリウムとして使用が認可されており、韓国、日本、イギリス、カナダ、ヨーロッパ、オーストラリア、ニュージーランド、タイ、インド、台湾で承認されている。化合物のPK/PDプロファイルに基づいた、異なる経口投与レジメンが Taksta としてアメリカ合衆国で臨床開発中である。
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フシジン酸は in vitro で黄色ブドウ球菌 (Staphylococcus aureus) をはじめとして、ほとんどのコアグラーゼ陽性のブドウ球菌、コリネバクテリウム属の種、ほとんどのクロストリジウム属 (Clostridium) の種に対して活性がある。一方、エンテロコッカス属 (Enterococcus) やほとんどのグラム陰性細菌 (ただしナイセリア属 (Neisseria)、モラクセラ属 (Moraxella)、レジオネラ (Legionella pneumophila)、バクテロイデス (Bacteroides fragilis) を除く) に対しては、有用な活性がないことが知られている。フシジン酸は、in vitro でも臨床においても、らい菌 (Mycobacterium leprae) に対して活性があるが、同属の結核菌 (Mycobacterium tuberculosis) に対してはわずかな活性しか示さない。
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フシジン酸の臨床での利用において重要な点の1つは、メチシリン耐性黄色ブドウ球菌 (MRSA) に対する活性である。MRSA やコアグラーゼ陰性黄色ブドウ球菌を含む、いくつかの米国株の細菌種を対象とした in vitro 感受性試験において、フシジン酸の強力な活性が示されている。薬剤耐性獲得の遺伝的障壁は低い (1ヶ所の点変異で耐性が獲得される) ため、深刻な MRSA 感染の治療に対しては、ヨーロッパやカナダなどで承認されている経口または局所的投与のレジメンで単独で用いてはならず、リファンピシンのような他の抗菌剤と組み合わせて用いるべきである。一方で、病原体が高い薬剤濃度に曝露されているときには耐性選択は低い。高用量の経口投与による単剤療法がアメリカ合衆国で開発中である。
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フシジン酸の局所的投与は、尋常性痤瘡 (ニキビ) の治療に用いられることがある。ニキビの治療において、フシジン酸はその症状を部分的に改善する効果があることが多い。一方で、フシジン酸のアクネ菌 (Cutibacterium (Propionibacterium) acnes) に対する活性は、ニキビの治療によく用いられる他の抗生物質ほどには高くないことが研究で示されている。また、フシジン酸は他の皮膚や眼用の製品 (Fucibet など) にも含まれていることがあるが、こうした目的での使用については議論がある。
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フシジン酸は、皮膚感染症以外の適応症についても試験がなされている。フジジン酸が人工関節に関連した慢性骨髄炎患者の治療に効果がある可能性がある、という特例使用事例に基づくエビデンスが存在する。
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フシジン酸は黄色ブドウ球菌の感染に対し、低用量で単独で用いるべきではない。一方で、フシジン酸は高用量での単剤療法としての可能性がある。フシジン酸を含有する局所製剤 (スキンクリームや眼軟膏) の使用は薬剤耐性の獲得と強く関連しており、フシジン酸の単剤療法の継続的使用には反対の声がある。ヨーロッパで用いられている局所製剤は、多くの場合フシジン酸とゲンタマイシンが混合されており、耐性獲得の防止が図られている。
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フシジン酸ナトリウムの成人用量は、処方される症状に応じて、1日2回 250 mg から最大1日3回 750 mg である (皮膚に用いる場合はより少ない用量である)。錠剤または懸濁液の状態で利用可能である。アメリカ合衆国で臨床開発中の経口投与レジメンは、1日目に 1500 mg を2回、その後は1日2回 600 mg の用量である。In vitro モデルでは、このレジメンでの微生物の耐性選択の可能性は低いことが示されている。
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静注用製剤も存在するが、静脈に刺激性であり静脈炎を引き起こす。ほとんどの場合は経口服用で非常によく吸収されるので、患者が嚥下可能であれば、たとえ心内膜炎 (心腔の感染) の治療であっても、静脈注射をする必要性はほとんどない。
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妊娠時の安全性のエビデンスは不十分である。動物実験と多年の臨床経験からはフシジン酸には催奇性がないことが示唆されるが、フシジン酸は胎盤関門を通過する。
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フシジン (Fucidin) の錠剤と懸濁液 (主成分はフシジン酸ナトリウム) は、肝臓に異常を引き起こすことがあり、黄疸 (皮膚や白目が黄色くなること) が引き起こされることがある。これらの症状はフシジンの投与が終了すると回復する。他の関連する副作用には、暗色の尿と通常より軽い便などがある。これらも治療が完了すると元へ戻る。これらの副作用に気づいたときは、医師に相談すべきである。
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フシジン酸に対する耐性獲得のメカニズムは、黄色ブドウ球菌でのみ詳細な研究がなされている。最も重要なメカニズムは、染色体上で EF-G をコードする fusA 遺伝子中の点変異である。変異によって EF-G は、フシジン酸が結合できないよう変化する。フシジン酸が単独で用いられている場合、耐性は容易に獲得され、多くの場合治療中に獲得される。他のほとんどの抗生物質と同様、フシジン酸への耐性は他の薬剤と併用時には頻繁には発生しない。これが深刻な黄色ブドウ球菌感染の治療にフシジン酸を単独で用いるべきではない理由である。しかしながら、少なくともカナダの病院で1999年から2005年にかけて集められたデータからは、MRSA やメチシリン感受性黄色ブドウ球菌が耐性を獲得する確率はむしろ低く、局所的に用いられる抗生物質としてはムピロシンのほうがより問題であることが判明した。
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また、細菌は「fusB型」の耐性を示すこともある。耐性は、プラスミド上に見つかる fusB、fusC、fusD 遺伝子によるものである。fusB型耐性遺伝子の産物は213残基のタンパク質で、EF-G に 1:1 の比で相互作用する。 FusB型タンパク質はフシジン酸とは異なる領域に結合し、EF-G のコンフォメーション変化を引き起こす。これによって EF-G はフシジン酸から解放され、別のリボソームのトランスロケーションに参加できるようになる。
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FusB型の耐性は MRSA の臨床分離株によく見られ、いくつかのコホートでは70%以上で観察されている。
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フシジン酸は、キノロンと拮抗するため併用するべきではない。リファンピシンとの併用によって、フシジン酸の作用は相加的または相乗的となる。2008年8月8日、アイルランド医薬品委員会 (Irish Medicines Board) は、59歳のアイルランド人男性がアトルバスタチンとフシジン酸の併用後に横紋筋融解症を発症して死亡した事例と、類似の3件の事例について調査を行っていると報告した。2011年8月、イギリスの医薬品・医療製品規制庁はで「重篤で致死の可能性のある横紋筋融解症の危険性があるため、フシジン酸 (フシジン) はスタチンと同時に全身投与されるべきではない」と警告する医薬品安全対策情報を出した。
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無水物はバラ色の結晶で、正方晶系のルチル型構造をとり、格子定数はa = 4.695Å、c = 3.193Åである。Co−F結合距離は2.06Åである。
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各種水和物もバラ色の結晶で、二水和物は単斜晶系、四水和物は2種の多形が知られ、α型は斜方晶系、β型はフッ化ニッケル(II)と同型である。
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フライト・インターセプト・トラップ(Flight interception trap, FIT)は、昆虫を採集する際に使用されるトラップの1種。衝突板トラップ、ウィンドウトラップ (Window trap)とも呼ばれる。飛翔する昆虫が障害物にぶつかると下に落ちる習性を利用したトラップで、甲虫等を採集するのに使用される。通常ベイト(餌)やライトは使用しない。
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基本的なFITは、透明なガラスやプラスチック板(布を使用する場合もある)、支柱、ホルマリン等を入れたバットによって構成される。地面に刺した棒などで、ガラスやプラスチック板を地面と垂直になるように自立させ、その下にホルマリンやエチレングリコール入りのバットを設置することで、ガラス等にぶつかった昆虫を液体内に落下させ採集する。マレーズトラップと組み合わせたようなタイプや、テントウィンドウトラップと称されるテント型のタイプ、安価で持ち運びが容易な素材でできた簡易型など、さまざまな改良版が考案されている。
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FITはもともと小型の甲虫を対象に考案されたトラップであり、ハネカクシ科などの採集に適しているとされる。テントウィンドウトラップでは、アブ科やヤドリバエ科などの双翅目や、寄生蜂などの膜翅目が多く採集される。
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UDアルメリアがプリメーラ・ディビシオンに3シーズンぶりに昇格した2013-2014シーズンに、セカンドチームでの指導の手腕が評価され、トップチームの監督に就任した。4-2-3-1を使うも、開幕10試合勝利がないなど苦しいシーズンとなったが、限られた戦略の中で、観客を魅力する試合を見せ、昇格1年目のシーズンを17位で終え、プリメーラ・ディビシオンに残留した。35歳という若さで月間優秀監督賞を2度も獲得した。
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続く2014-2015シーズンでは、育成させた主力選手のビッククラブ移籍(ビダルはバルセロナへ移籍)も多く、思うように勝ち点を上げることができず、SDエイバルに2-5の敗戰をしたのちに、解任となった。その後、クラブは19位で降格している。
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2016年12月に、セグンダ・ディビシオンのUCAMムルシアの監督に就任した。降格圏内に沈んだチームを、一時は立て直したようにも思えたが、結局はセグンダ・ディビシオンBに降格し、シーズン終了後に退任した。UCAMムルシアは、シーズン開幕前に補強ができず、チームとして戦術が浸透していなかった戦力・チームだったが、わずか短期間でチームに足りなかった戦術、相手の細かい分析によるチームの戦い方を改善させ、チームは最終的に降格したものの、組織的に戦えるチーム立て直した手腕は高く評価された。選手からの信頼も厚い監督だった。
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2017年にCDルーゴの監督に就任した。CDルーゴは、セグンダ・ディビシオンの中で予算規模が下位に位置する小クラブで、限られた戦力ながら、自身の目指す攻撃的なポゼッションスタイルを柔軟に現有戦力に落とし込み、緻密な守備戦術と多彩なサイド攻撃、相手チームの分析も明確に選手に伝え、昇格プレーオフ争いに絡む成績を残している。
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2017-18シーズンの中で、最先端の戦術を限られた戦力の中で選手に伝え表現するその戦い方はスペイン国内で衝撃を与えている。CDルーゴに所属する選手はそれまで芳しくないキャリアを歩んできた選手が多い中で、選手個人に対しても、見事に再生させ選手個々の特徴を活かしながら、チームとしても成績を残した。現在、優秀な指導者が揃うスペインでも注目される若手監督の1人。
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シーズン終了後には1部強豪クラブへの引き抜きが噂されたが、2018年6月28日に同じセグンダ・ディビシオンのコルドバCFの監督に就任した。しかしクラブの財政状況の悪さから、リーグからコルドバは制裁を受け選手獲得が禁止されたことから、8月2日に辞任した。
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2018年10月10日、成績不振を理由に解任されたレオ・フランコ監督の後任としてSDウエスカの監督に就任した。SDウエスカの前までは基本フォーメーションは4-2-3-1を使用していたが、SDウエスカの監督に就任すると、3-4-3を基本フォーメーションとし、偽5バックを操り、相手の攻撃を封じ、ベティスやセビージャの強豪クラブに勝利しレアルマドリードやバルセロナには互角に試合を進めた。就任時には12ポイント差で最下位であったがそこから立て直し、最終的には降格したものの19位でシーズンを終えた。その後もSDウエスカからは指導実績が評価され、延長の打診を受けたが本人は1部リーグでの指導を希望していたために見送った。その後も数多くのクラブへの就任の噂が絶えない状況。
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ニューヨークに暮らすフランシス(グレタ・ガーウィグ)は、プロのダンサーを目指している。彼女と同居していた親友のソフィー(ミッキー・サムナー)は、パッチ(パトリック・ヒューシンガー)との婚約を機に、フランシスを置いて引っ越して行く。残されたフランシスは、故郷のサクラメントで両親と過ごすクリスマス、パリへの短期旅行を経て、ニューヨークに戻ってくる。自分の人生と向き合った彼女は、振付師として、人生の新たな一歩を踏み出す。
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2012年9月1日、テルライド映画祭でプレミア上映された。
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グレタ・ガーウィグは本作で第71回ゴールデングローブ賞ミュージカル・コメディ部門の主演女優賞にノミネートされた。
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フランスにおける日本の漫画(フランスにおけるにほんのまんが)では、フランスの日本漫画受容について概括する。
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現在フランスでは日本の漫画およびそのスタイルを指す語としてmangaという語が作成されており、2000年代後半からは世界で第三位の「消費量」を誇る日本漫画消費大国となっている。本項目では日本の漫画がフランスに移入される際の特有の事情を述べた後、今日の状況に直結する受容史として、戦後、特に1980年代以降の動向を概観する。
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日本語からの外来語であるため名詞としての性は特に定まっていないが、現在では男性名詞として用いられることが多い。一部フレデリック・ボワレは自身が主唱する「ヌーベルまんが」(La Nouvelle Manga) に言及する文脈で女性名詞としても用い、両者のコノテーションを明示的に区別している。女性名詞としての用法は必ずしも根拠を欠いたものではなく、フランスで manga という語が最初に用いられたのは19世紀末のエドモン・ド・ゴンクールによる『北斎漫画』への言及(1885年)であり、このときは女性名詞として用いられていた。それ以来多くの場合は女性名詞として使われており、男性名詞として雑誌やテレビで盛んに用いられて巷間に普及したのは近年、1990年代以降のことである。またフランスの漫画を指す語であるバンド・デシネ (bande dessinée) は女性名詞であり、これとの関係においても特に男性名詞として用いる必然性はない。
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単数・複数の書き分けについては、1991年に施行された新正書法は外来語にもフランス語と同様の複数形・アクサンの適用を定めているが、これは徹底されず旧来の用法も残存しており、des manga および des mangas はいずれも正確な複数形として用いることができる。発音はいずれも「マンガ」である。
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日本漫画はバンド・デシネやアメリカン・コミックスと異なって右から左へと読み進めるが、これは通常の文章を水平に左から右へと読むフランスの読者には馴染みのないものである。また、吹き出しのセリフのみを翻訳した場合は文字を読む向きと視線の動きが齟齬をきたすことになる。このため、フランスで翻訳された日本漫画は1978年に最初に紹介されてから1995年ごろまでレイアウト全体の向きを改めて出版されていた。かつての対処法の中には単純な反転印刷もあったが、これは人物の利き手が逆になったり、「心臓を突く」という描写に整合性が失なわれたり、あるいはナチス式敬礼が左手で行なわれたりする(手塚治虫『アドルフに告ぐ』の翻訳 L'Histoire des 3 Adolf などに顕著)など、読者と作者の双方に不都合を生じさせるものだった。オリジナルを尊重しつつ横書きのセリフと馴染ませる方法として、セリフの入れ換えに伴って不都合の生じた描写箇所に手を入れ、さらにページ上のコマ割りをやり直すという比較的丁寧なやり方もあるが(Casterman 社の Ecritures シリーズなど)、これは手間を要する。
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現在では、大半の出版社はコスト面と作品性を尊重する意味から日本のものと同じ組み方向で出版している。以前はこのことが一部の読者に敬遠される要因ともなっていたが、1990年代にブームになった後はむしろ多くの読者がオリジナルに近いことを歓迎している。フランス以外でも、このころから日本と同じ組み方向で出版することが普通になった、とMona BakerとGabriela Saldanhaは著書で評している。
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1978年以前には、フランス語圏では現代的な意味での日本漫画の紹介はほとんど行なわれていない。例外としては1969年に柔道雑誌 Budo Magazine Europe に収録された平田弘史の『武士道無惨伝』 (Bushidou Muzanden) の数篇、および1972年に Phénix 誌 (Phénix) にクロード・モリテルニ (Claude Moliterni) と小野耕世による「日本のバンド・デシネ」 « La Bande Dessinée Japonaise » と題された記事が掲載されたのみである。1978年にアトス・タケモト (Atoss Takemoto) は Cri qui tue 誌を創刊する。これは1981年までに6冊を刊行し、さいとう・たかを『ゴルゴ13』 (Golgo 13)、手塚治虫『鳥人大系』 (Le système des super oiseaux、 後の再刊時には Demain les oiseaux)、辰巳ヨシヒロ『グッバイ』 (Good Bye)、さらに石ノ森章太郎・藤子不二雄・植田まさしなどの作品を採録していた。紙面はすべて欧米の書籍に合わせた向きに変更されている。
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1979年、タケモトと出版社 Kesselring が最初の単行本となる石ノ森章太郎の『佐武と市捕物控』 (Le vent du nord est comme le hennissement d'un cheval noir) を刊行。当時のヨーロッパの水準からすれば優れた装丁であったがオリジナルの形式は軽視され、作者名の誤植を初めとして文字などの扱いもやや雑なものであった。雑誌と同様、単行本による紹介も最初期の試みは不発に終わった。この後1982年、テレビ放映されたアニメ『キャンディ・キャンディ』 (Candy) の人気を受けて出版社 Télé-Guide がいがらしゆみこと水木杏子による原作漫画を Candy Poche シリーズ全12巻として刊行した。これは、著作権料の支払いを回避しつつフランスのスタジオが独自の翻案を行なうのが一般的であった1980年代で、アニメの原作として唯一翻訳の対象となったものである。
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1982年、Les Humanoïdes Associés 社が Autodafé 叢書の一部として中沢啓治の『はだしのゲン』 (Gen d'Hiroshima) の忠実な翻訳版を刊行したが、販売は振わなかった。同様に辰巳ヨシヒロの『HIROSHIMA』 (Hiroshima) が Artefact 社から刊行されたが、これも読者を獲得するには至っていない。出版業界はこうした経験にやや萎縮し、不況が手伝ったこともあり日本漫画のフランスでの単行本化は『AKIRA』まで間が空くこととなった。この期間の例外は1989年に Albin Michel 社が翻訳出版した石ノ森章太郎の『マンガ日本経済入門』 (Secrets de l'économie japonaise en bandes dessinées) 第一巻のみである。雑誌もまた同様であったが、Idéogram 社は1985年から1986年にかけて初めて日本の成人向け漫画を翻訳紹介している。これは Mutant 誌で11号にわたって掲載された叶精作と小池一夫の『実験人形ダミー・オスカー』 (Androïde もしくは Oscar) および、Rebels 誌の1985年6月から1986年1月(第3号 - 第9号)に掲載された松久由宇と工藤かずやの『危険なジル』 (Scorpia) である。
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翻訳は不在であった一方でこの分野の可能性を指摘していた専門家もおり、1985年にティエリ・グロンステーン (Thierry Groensteen) が Les Cahiers de la bande dessinée 誌で様々な提案や記事を執筆している。また1980年代半ばには初の日本漫画情報に特化したファンジン Mangazone が誕生した。
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1990年代に入るとGlénat 社は1990年3月から大友克洋の『AKIRA』 (Akira) を分冊刊行することを決定。書籍版はアニメ映画版とは異質な部分もあったが漫画としての革新性が注目を集め、同年の末にはフルカラー版が刊行されるほどの成功を収めた。ファンジン Mangazone はこの余波を受けて700部を刷る商業誌に生まれ変わっている。レヴュー雑誌も質が競われるようになり、この年には Yamato と Protoculture addict という2つのファンジンが誕生した。また1990年12月には Albin Michel 社が『はだしのゲン』の新装版を『日本に殉ず』 (Mourir pour le Japon) と改題して再刊。1991年に入り『AKIRA』の刊行が続く中、これに匹敵するヒットにはならなかったものの Les Humanoïdes Associés 社が大友の『童夢』 (Rêves d'enfants)、年末には北条司の『シティーハンター』 (City Hunter) の第一巻を刊行した。1991年5月には豪華な誌面のファンジン Animeland が創刊され、次第に Mangazone 誌に代わるフランス語圏の日本漫画雑誌の代表へと成長してゆく。
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このころには子供番組を席巻する日本アニメに抗議する声も上がっていたが、『AKIRA』を全巻出し終えた Glénat 社はこうしたアニメーション作品の原作を手がける方針を決定し、まず鳥山明の『ドラゴンボール』 (Dragon Ball, 1993.2 - )、高橋留美子の『らんま1/2』 (Ranma ½, 1994.2 - ) を世に送った。Glénat 社の方針は後に転換し、アニメとは直接関係しないものも含め様々な作品の翻訳出版が行なわれるようになった。こうしてフランスの読者の元には士郎正宗『アップルシード』 (Appleseed, 1994.6 - ) および『オリオン』 (Orion, 1994.9 - )、池上遼一『クライング フリーマン』 (Crying Freeman, 1995.1 - )、鳥山明『Dr.スランプ』 (Dr Slump, 1995.2 - )、木城ゆきと『銃夢』 (Gunnm, 1995.3 - )、そして武内直子『美少女戦士セーラームーン』 (Sailor Moon, 1995.11 - ) が届けられることとなった。
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その後、Casterman 社を始めとした老舗出版社も manga 出版に参画を図るようになる。Casterman 社は1995年1月に叢書 Manga を創設し、まずはフランス人作家アレックス・ヴァレンヌ (Alex Varenne) が日本で製作した Kiro、そしてフランスと縁の深いアメリカ人作家ジェローム・チャーリン (Jerome Charyn) とジョー・ステイトン (Joe Staton) による Au Nom de la famille を出版、後者を出した9月には続けざまに田中政志の『ゴン』 (Gon)、沙村広明の『無限の住人』 (L'Habitant de l'infini)、そして初の作家性を売りにした作品谷口ジローの『歩く人』 (L'Homme qui marche) を刊行。Casterman 社の Manga シリーズはさらに先鋭的な新シリーズに引き継がれる1999年まで漫画を供給し続けた。また1995年1月から一年間、アメリカ資本の Dark Horse Comics 社が真鍋譲治の『アウトランダーズ』 (Outlanders) を刊行、Dargaud 社も Kana と名づけたシリーズを創設した。当時は日本漫画 (manga) と韓国漫画 (manhwa) は区別されていなかったため、このシリーズには日本漫画に加えて韓国の漫画家 Hyun Se Lee のAngel Dick、Armagedon も加えられている。
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このころには専門出版社も誕生した。1994年から乾はるかの『お元気クリニック』 (Ogenki Clinic) などの成人向け漫画を出版し、その後垣野内成美と平野俊貴による『吸血姫美夕』 (Vampire princess Miyu) などを手がけた Samuraï Éditions 社、1995年1月に寺沢武一の『武 TAKERU』 (Takeru) を出すものの短命に終わった Star Comics、同様に同年4月に設立され翌年に解散するまでに草彅琢仁『上海丐人賊』 (Shang Hai Kaijinzoku) ・岡崎武士『精霊使い』 (Les Élémentalistes) ・結城信輝『ヴェルバーサーガ』 (Vaelber Saga) などの翻訳出版を行なった Kraken 社などがある。1995年6月にCLAMPの『聖伝-RG VEDA-』 (RG veda) で登場した Tonkam 社は日本漫画専門として初めて大型出版社へと成長した。同社はコストおよび作品性への配慮から初めて日本と同じレイアウト方向を採用し、この形式は間もなく業界の標準的なものとなった(前述の通り Casterman 社の Écritures シリーズなど一部を除く)。
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1996年に到達すると、Animeland 誌の日本アニメ・日本漫画特集号(第22号)が雑誌スタンドに並び、その後他の出版社により日本の人気漫画が相次いで翻訳されていった。1994年には僅かに2シリーズであったが1996年に始まったものは50タイトル以上に上る。Tonkam、Glénat、J'ai lu各社を中心に刊行された単行本は105冊を数えた。この中には新たに Nicky Larson と改題された『シティーハンター』、稲田浩司/三条陸/堀井雄二『DRAGON QUEST -ダイの大冒険-』 (Fly)、士郎正宗『攻殻機動隊』 (Ghost in the shell)、松本大洋『鉄コン筋クリート』 (Amer béton)、萩原一至『BASTARD!! -暗黒の破壊神-』 (Bastard!!)、手塚治虫『ジャングル大帝』 (Le Roi Léo) 『鉄腕アトム』 (Astro le petit robot) 『ブラック・ジャック』 (Blackjack) などがある。1997年には青山剛昌『名探偵コナン』 (Détective Conan)、高田裕三『3×3 EYES』 (3×3 Eyes)、池上遼一/史村翔『サンクチュアリ』 (Sanctuary)、藤島康介『ああっ女神さまっ』 (Ah! My Goddess) が店頭に並んだ。1998年には貞本義行『新世紀エヴァンゲリオン』 (Neon Genesis Evangelion)、北条司『キャッツ♥アイ』 (Cat's Eye)、和月伸宏『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』 (Kenshin le vagabond)、高橋和希『遊☆戯☆王』 (Yu-Gi-Oh!)、浦沢直樹の初翻訳、さらに1999年には原哲夫/武論尊『北斗の拳』 (Ken le survivant)、高橋陽一『キャプテン翼』 (Captain Tsubasa)、CLAMP『カードキャプターさくら』 (Cardcaptor Sakura)、井上雄彦『SLAM DUNK』 (Slam Dunk) が訳された。
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単行本の発行数では1998年151冊、1999年200冊、2000年227冊、2001年269冊と初期に比べると市場は順調に成長した。Kana 社はこの当時の1999年以来業界第四位を維持している。このころには1980年代から1990年代に日本で人気のあった主要な作品は翻訳が進み、その販売も極めて好調であり(2000年初頭には『ドラゴンボール』だけで12万部、主要なシリーズそれぞれ2万部程度)、雑誌も種類を増し、ファン同士の交流も進み、インターネットもこれを後押ししていた。こうした状況にも関わらず、既存のバンド・デシネ業界は新勢力の勃興に冷淡であり、これは例えばアングレーム国際漫画祭の状況にも現れていた。主流に属さない出版社は大概関心を持たれることもなく、谷口ジローを例外として日本の漫画文化が広く認知されていたとはいえなかった。その一方でさらに新作の翻訳が進み、着実に成功を重ねていた。2000年には冨樫義博『HUNTER×HUNTER』 (Hunter × Hunter)、武井宏之『シャーマンキング』 (Shaman King)、尾田栄一郎『ONE PIECE』 (One Piece)、2001年には藤沢とおる『GTO』 (GTO)、桂正和『I"s』 (I¨s)、上条明峰『SAMURAI DEEPER KYO』 (Samurai deeper Kyo)、由貴香織里『天使禁猟区』 (Angel Sanctuary)、浦沢直樹『MONSTER』 (Monster)、2002年には赤松健『ラブひな』 (Love Hina)、木城ゆきと『銃夢 LastOrder』 (Gunnm Last Order)、高屋奈月『フルーツバスケット』 (Fruits Basket)、岸本斉史『NARUTO -ナルト-』 (Naruto) が訳出された。
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2002年以降は新刊におけるアジア由来の漫画のシェアは(2002年377冊、2003年521冊、2004年には754冊、このうち614は日本漫画)、相対的にも(2002年25%、2003年30%、2004年36%、2005年42%、2006年44%、2007年約42%)増加している。これはバンド・デシネのシリーズが年に一冊程度なのに対して、日本漫画は数冊のペースで出るためでもある。日本漫画はアジア漫画の中で最もよく売れている(2005年には外国漫画の発行部数上位20位は日本漫画に占められた)。出版社が予め作品の人気を日本市場で確認できるということに加え、西欧の漫画作品よりも安い価格、着実な刊行ペースが固定読者の獲得を促した。出版社はこぞって日本漫画に特化したシリーズを創設しており、フランスのテイストに配慮しつつ manga の普及を図っている。2003年に最も売れた15タイトルの発行部数は2万5千部から6万部(『遊☆戯☆王』および2004年の『NARUTO -ナルト-』) 程度である。2007年には『NARUTO -ナルト-』が22万部刷られ『DEATH NOTE』 (Death Note) は13万7千部に達した一方、中堅シリーズも好調を維持している。収益では、Pika、Kana、Glénat 各社が市場の80%を占めている。2003年には谷口ジローの『遥かな町へ』 (Quartier lointain) がアングレーム国際漫画祭で日本漫画初となる脚本賞を受賞した。
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2005年には新刊の漫画類において従来のバンド・デシネより日本漫画の方がタイトル数で勝るようになり、日本漫画を含めたバンド・デシネの評論・研究で知られるジル・ラティエ (Gilles Ratier) はこの年を《マンガリザシオンの年=日本漫画普及元年》 ( « l'année de la mangalisation » ) と呼んだ。業界でこれを歓迎する態度を表明した者は珍しかったといってよい。2005年に出版されたアジア漫画は1,142冊であり、これは新刊漫画の42%に相当、このうちの実に937が日本漫画である。2006年には新刊漫画の44%にあたる1,418冊がアジア漫画、このうち1,110が日本漫画であった。2008年の統計ではフランスで出版された1,411冊のアジア漫画のうち、1,288が日本漫画である。人気のあるタイトル同士を比較すると、『NARUTO -ナルト-』13万部、『SAMURAI DEEPER KYO』および荒川弘『鋼の錬金術師』 (Fullmetal alchemist, 2005 - ) それぞれ8万部、『銃夢 LastOrder』『HUNTER×HUNTER』『遊☆戯☆王』『フルーツバスケット』『シャーマンキング』各7万部、鳥山明『ネコマジン』 (Neko Majin) 6万5千部、大暮維人『エア・ギア』 (Air Gear, 2006 - ) および『ONE PIECE』それぞれ6万部といった具合であるが、バンド・デシネの「Titeuf」は64万部と個別の発行部数ではまだバンド・デシネとの差は大きい。2006年初頭には年間の発行部数が1,110万部に達し、日本に次ぐ世界第二の日本漫画「消費国」となった(アメリカ合衆国がこれに次ぐ)。日本漫画は漫画類全体の流通総額の25%を占め、若年層向けフィクションに次いで出版界で最も動きの激しい部門の中で筆頭の伸び率を記録している。
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後に出版社は作品の発掘や愛蔵版の編纂も進め、Vertige Graphic 社は『はだしのゲン』を復刊 (Gen d'Hiroshima)、2003年からは劇画創始者の一人である辰巳ヨシヒロの作品を扱い、Ego comme X 社は2003年につげ義春『無能の人』 (L'Homme sans talent) を刊行している。2006年からは Cornélius が水木しげる作品を手がけており、2007年に『のんのんばあとオレ』 (NonNonBâ) がアングレーム国際漫画祭最優秀作品賞を受賞した。これはフランス市場における日本漫画の浸透ぶりを象徴する出来事となった。日本の若く活発な世代による作品が売上を伸ばす傍らで、谷口ジローと浦沢直樹が先鞭を付けた大人向けの作家性豊かな漫画も成長を見せている。これは1996年の松本大洋を例外として、主に2005年以降の傾向である。
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2009年、ルーブル美術館で荒木飛呂彦の原画展開催。2010 年には、パリ・ポンピドゥーセンターの「公共情報図書館(Bibliothèque public d'information)」部門において、漫画読者についての大規模な調査研究が行なわれた。
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フランソワ=ジョアシャン・ド・ピエール・ド・ベルニ(フランス語: François-Joachim de Pierre de Bernis、1715年5月22日 - 1794年11月3日)は、フランス王国の枢機卿、外交官。
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1715年5月22日、貧しい貴族の家でサン=マルセル=ダルデシュにて生まれた。長男ではなかったため、当時の風習通り聖職者の道を歩み、リセ・ルイ=ル=グラン、ついでサン=シュルピス教会の神学校で学んだ。19歳のときに一旦聖職者の道から離れて、貴族の家系であることを利用して裕福な家族に入り込もうとして成功、1744年にはアカデミー・フランセーズ会員に選出されたが、いずれも家計の問題を完全に解決するには至らなかった。この時期にポンパドゥール夫人に紹介され、夫人はベルニにテュイルリー宮殿での住居と1,500リーヴルの年金を与え、ベルニはさらにそのつてで1751年にヴェネツィア駐在フランス大使の職を得た。
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ヴェネツィア駐在中はヴェネツィア共和国とローマ教皇ベネディクトゥス14世(在位:1740年 - 1758年)の紛争を調停してベネディクトゥス14世の信頼を得たため、副助祭に叙階され、1755年に帰国したときに教皇領の国務大臣に任命された。七年戦争直前の仏墺同盟の交渉にも関わったが、ベルニは同盟を一時的な試みとしか見ておらず、フランス軍を大規模な戦争に投入するつもりはなかった。そして、1757年6月28日にはフランス王ルイ15世によって外務大臣に任命されたが、ポンパドゥール夫人らの出費の多い政策に反対されたため1758年12月にはルイ15世によってソワソンの追放され、そこで6年間過ごした。その間に枢機卿に叙された後、1764年にポンパドゥール夫人が死去したため、ベルニは呼び戻され、再び外務大臣に任命されそうになったがそれを拒否、代わりにアルビ大司教に就任した。
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1769年ローマ教皇選挙ではローマでクレメンス14世の当選を助けたため、ローマ駐在フランス大使に任命され、そこで余生を送った。イエズス会の弾圧を推進したため、イエズス会を支持したピウス6世の治世(1775年 - 1799年)では疎まれ、フランス革命が勃発するとそれに敵対してほぼ無一文に陥った。しかし、イエズス会弾圧の功績を覚えていたスペイン宮廷から年金を与えられて救われた。1794年11月3日にローマで死去、サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会に埋葬された。1803年、ニームの聖堂に改葬された。死去から数十年経過した1878年、ベルニの回想録が出版された。
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パヴィーアのプリマヴェーラでキャリアをスタートさせ、2006年4月23日にトップチームデビューを果たした。その後レンタル移籍を繰り返し、2010年にレッジーナに共同保有の形で移籍。2011年1月31日、ジェノアCFCがパヴィーアから保有権を買い取りレッジーナとの共同保有となった。2011年6月24日、ジェノアが残りの保有権50%を買い取ったが、直後の7月にはキエーヴォとの共同保有となり、2011-12シーズンはキエーヴォでプレーした。
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2012年6月20日、ジェノアとの共同保有の形でACミランへ移籍。アレッサンドロ・ネスタの背負っていた「背番号13」を継承したが、期待に応えることができず、2013年1月にケヴィン・コンスタンの共同保有権と引き換えにジェノアへ復帰し、同月31日に古巣キエーヴォにレンタル移籍で復帰を果たした。
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2013年7月9日、USサッスオーロ・カルチョへ移籍。その際のメディカルチェックで睾丸に腫瘍があることが発覚した。同年9月に復帰したものの、その後のドーピング検査で陽性反応が出たため精密検査を受け、ガンの再発が明らかとなった。しかし、闘病生活を経て2014年9月21日のサンプドリア戦でセリエAに復帰した。2015年10月18日に行われたセリエA第7節ユヴェントス戦からは100試合以上にわたり連続で試合に出場し、主力として活躍した。
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2018年7月11日、SSラツィオへ5年契約で移籍。
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イタリア代表としてU-21代表でプレー。
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2014年11月18日に行われたアルバニア戦でA代表デビューを果たした。
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