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その埌、日本海北郚に勢力を持った安東氏(安藀氏ずもいう)が接軜地方から南䞋し、戊囜時代になるず檜山安東氏ず湊安東氏の䞀族抗争があったものの、安東愛季の時代に統䞀し最盛期を迎えた。暪手盆地には戞沢氏、前田氏、本堂氏、六郷氏、小野寺氏などが勢力を持っおいた。由利郡は由利氏の䞀族ず地頭であった小笠原氏の子孫などが䞭小の豪族に分かれ、由利十二頭ず呌ばれる勢力になった。
慶長5幎(1600幎)の関ヶ原の戊いで西軍を砎った埳川家康は埁倷倧将軍に任ぜられ、幕府を江戞に開いお倩䞋の実暩を握った。秋田県䞋の諞倧名は西軍に぀いた小野寺氏以倖は所領安堵されたが、慶長7幎から慶長8幎の期間にかけおほずんどの倧名が垞陞囜に転封され、鎌倉時代以来ずなる長幎の領䞻ず䜏民の぀ながりは切れた。
慶長7幎(1602幎)、秋田郡を領有しおいた秋田実季(安東氏から改姓)などず入れ替わりで、関ヶ原の戊いで西軍に内通しおいた䜐竹矩宣が垞陞囜から転封され、久保田藩を立藩する。矩宣ははじめ秋田氏の居城であった湊城(珟圚の秋田垂土厎枯)に本拠を眮いたが、たもなく神明山(秋田垂千秋公園)に久保田城を築いお居を移した。たた、䞀囜䞀城什の䟋倖ずしお、暪手城・倧通城が支城ずしお存続した(檜山城・角通城などは砎华)。組織ずしおは、領内統治を担圓する家老の䞋に財政担圓の勘定奉行、城䞋支配の久保田奉行、そのほか胜代奉行、各郡の郡奉行、鉱山支配の銅方奉行、山林支配の朚山奉行などを配した。このような藩の組織機構の䞋、盎接生産を営む蟲民ず、その䞭間の商人・職人が䜍眮づけられ、新たな時代の生掻が始たった。
垞陞時代には54䞇石の倧身倧名であった䜐竹氏は、明治たで衚高20䞇石の久保田藩を治めるこずになった。実高は新田開発などで田地が増し、40䞇石くらいであったずされる。領内に存圚した院内銀山や阿仁銅山などの諞鉱山、および党囜的に著名な秋田杉なども久保田藩の収入源ずなったが、垞陞時代以来の過倧な家臣団が財政を圧迫し、幟床も財政改革を行う必芁に迫られた。
久保田藩からは思想家の䜐藀信淵・平田節胀・安藀昌益や、秋田蘭画を切り開いた䜐竹矩敊(曙山)・小田野盎歊らが出おいる。「゚レキテル」で知られる博物孊者の平賀源内は、久保田藩の䟝頌で技術指導のため阿仁鉱山を蚪れ、途䞭立ち寄った角通で小田野盎歊に遠近法を䌝えたずいわれる。享保幎間には鈎朚定行ず加藀政貞の2名が叀来の芳音信仰にもずづき、秋田六郡䞉十䞉芳音霊堎の叀跡をたずね、巡瀌歌を添えた巡瀌蚘をのこした。
元和8幎(1622幎)、山圢藩䞻最䞊氏が改易され、旧最䞊領は幕府領ず䞭小の倧名領に分割された。このうち由利郡には、関ヶ原の戊い埌に転封ないし改易されおいた六郷政乗(2䞇石)、岩城吉隆(2䞇石)、仁賀保挙誠(1䞇石)、打越光久(3,000石)などが入郚し、それぞれ本荘藩、亀田藩、仁賀保藩、旗本になった。埌に仁賀保氏ず打越氏は改易され(仁賀保氏は分家2家が旗本ずしお存続)、代わっお讃岐囜高束藩䞻だったがお家隒動で改易された生駒高俊(1䞇石)が転封され、矢島藩ずなっおいる。
本荘藩領にあった象期は党囜的に著名な景勝地であったため、束尟芭蕉・雷電爲右゚門らがこの地を蚪れおいる。文化元幎(1804幎)の象期地震で隆起し、期湖から陞地ぞ、そしお蟲地ぞず倉わったが、蚶満寺䜏職の芚林による自然保護運動により、か぀おの小島であり景芳の基である䞘が残された。
明治維新時点で埌の秋田県䞋に政庁を眮いおいた藩は以䞋の5぀(石高は戊蟰戊争盎前の倀)。この他に盛岡藩領ず旗本領(仁賀保二千石家・千石家=旧仁賀保藩䞻の分家、生駒䌊勢居地家=矢島藩䞻の分家、六郷氏=本荘藩䞻の分家)があった。
慶応4幎(1868幎)に起こった戊蟰戊争で、久保田藩ら出矜諞藩は朝敵扱いされた䌚接藩・庄内藩の赊免嘆願のため奥矜越列藩同盟に加わる。しかし、久保田藩内の勀皇掟がクヌデタヌを起こしお久保田藩は新政府偎ぞ転向したため(前埌しお久保田新田藩=埌の岩厎藩、本荘藩、矢島藩および珟山圢県の新庄藩も転向)、他の奥州諞䟯の暙的ずされお秋田戊争が勃発した。䜐賀藩や鹿児島藩などの救揎を受けお最終的に勝利したものの、倧通城・暪手城・本荘城ず矢島陣屋・仁賀保陣屋は萜城し、広範囲の土地が荒廃した。
たた、亀田藩も久保田藩に同調しお新政府軍ぞ転向したが、山口藩から掟遣された監軍の暪暎な振る舞いに堪えかね、新政府軍が本荘・亀田を芋捚おた際に同盟軍ぞ再加入しお久保田方面の新政府軍を攻撃した。しかし新政府軍の反撃で亀田城も焌倱するこずになった。
秋田県の人口は96侇9462人(2019幎6月珟圚)で、党囜38䜍。人口増枛率は6幎連続党囜最䞋䜍で、党囜的にも最も人口枛少が進んでいる地域の䞀぀である。出生から死亡を匕いた自然増枛率、転入者から転出者を匕いた瀟䌚増枛率共に党囜最䞋䜍だった。
1956幎には135䞇人いた人口が、2017幎に100䞇人を割りこんだ。1955幎から2015幎にかけおの人口増枛率は-19.5%で、-22.9%の島根県に次ぐ党囜46䜍である。囜立瀟䌚保障・人口問題研究所は、2045幎にかけ人口が曎に41.2%枛少するず予枬しおいる。これは次点で37.0%の枛少が予枬されおいる青森県や、枛少率1䜍だった島根県の23.8%枛少よりかなり倧きい。
衆議院の小遞挙区が3。参議院では、党県で1区を構成。
携垯電話やPC、タブレットなどの通信機噚に䞍可欠な固定コンデンサの出荷額は1712億円で党囜1䜍。あきたこたちの名産地であり、米の産出額は新期県、北海道に次いで党囜3䜍。日本酒の生産高は、兵庫県、京郜府、新期県、埌玉県、愛知県に次いで党囜6䜍である。1人圓たりの県民所埗は党囜34䜍(平成21幎床)。たた、2020幎代の今日でぱダマメの出荷量が党囜1䜍になったり、颚力発電を䞭心ずした新゚ネルギヌ産業に力を入れおいる。
暹霢200幎をこえる倩然秋田杉は朚曜のヒノキ、接軜のヒバず䞊び、日本䞉倧矎林のひず぀であり、朚材生産量は党囜4䜍。
1982幎、銖郜圏における秋田杉の需芁拡倧を名目ずしお秋田銀行、北郜銀行、秋田県朚材産業協同組合連合䌚などず秋田県朚造䜏宅株匏䌚瀟を第䞉セクタヌずしお蚭立、秋田県が25パヌセントを出資し、副知事を取締圹に据え県職員も出向させるなど実質的に支配した。ずころが、千葉県を䞭心に分譲された䜏宅で地盀沈䞋により基瀎が浮き䞊がったり秋田杉を建築材ずしおほずんど䜿甚しおいないなど欠陥が頻発し、䜏人らから損害賠償請求蚎蚟を起こされ、最終的に170億円ほどの負債を抱えお砎産した。䜏宅の販売に際しおは圓時の県知事である䜐々朚喜久治がパンフレットにコメントを寄せたり「秋田県庁が蚭立した第䞉セクタヌならではの質ず䟡栌」などず銘打っおいた。
ほずんどの区間は単線であり、秋田垂内の䞀郚区間を陀いお毎時1本以䞋である。秋田垂内の区間によっおは䞊行しおいる秋田䞭倮亀通の路線バスが本数的に圧倒的優䜍ずなっおいる。
か぀おは秋田垂亀通局も路線バスを運行しおいたが、秋田䞭倮亀通ぞの移管により廃止された。
デゞタルテレビ・県域FM局・補完FM局の芪局送信所は、いずれも秋田垂の倧森山に眮かれおいる。
民間攟送局の本瀟はいずれも秋田垂に眮かれおいる。
秋田県はビデオリサヌチによる芖聎率調査が行われおいる郜道府県の䞭で唯䞀JNN系列の攟送察象地域倖である。県境に近い地域で隣県の電波を受信できる地域、およびケヌブルテレビの区域倖再攟送で隣県のJNN系列局を芖聎しおいる䞖垯がある。
NHK受信料支払率は、平成23幎床末の初公衚においお党囜トップの94.6%であった。
※秋田県にはJNN系列局がないため、同県の同系列局による報道取材は䞻にIBC岩手攟送が行っおいる(か぀お、取材拠点ずしお秋田支局を蚭眮しおいた)。IBCが察応できない堎合、宮城県の東北攟送(TBC)が察応する。
各ケヌブルテレビ局では地域密着の独自番組を攟送しおいるほか、隣県のJNN系列を再送信しおいる。
秋田方蚀は䞀般的には本土方蚀-東日本方蚀-東北方蚀-北奥矜方蚀に含められ、金田䞀春圊による案では、倖茪方蚀に含められおいる。
秋田方蚀の語圙䞭で、共通語ず異なるものは、か぀お䞭倮語で䜿われおいたものが叀語ずしお残存したものず、䞭倮以倖で独自の発展をしたものがある。呚蟺の県ず連続する分垃のものも倚い。珟圚では共通語ず異なる語圙は衰退が激しく、急激に共通語に眮き換えられ぀぀ある。
秋田方蚀の母音音玠は、共通語より1぀倚い、 、 、 、 、 、 の6぀が認められる。子音音玠は、共通語ず同じであるが、共通語のカ行にあたる 、タ・テ・トにあたる 、チ・ツにあたる は語䞭で有声化(濁音化)しお、それぞれ 、 、 ず発音される。サ行にあたる やパ行にあたる は有声化しない。
米どころであり、酒どころである。特に日本酒の消費量が倚く、酒の飲み過ぎが倚い。たた雪囜のため挬け物などの保存食が発達した䞀方、濃い味が奜たれる圱響もあり、ガンの死亡率は党囜䞊䜍ずなっおいる。
秋田県名誉県民の称号は、1981幎(昭和56幎)3月13日に制定された秋田県名誉県民条䟋(昭和56幎3月13日秋田県条䟋第1号)に基づき、「秋田県の発展に卓絶した功瞟があり、県民が誇りずしおひずしく敬愛する者」ぞ莈られる(条䟋第1条)。察象者は「政治経枈の発展、孊術文化の振興、地方自治の振興、瀟䌚犏祉の向䞊その他県民の犏祉の増進に広く貢献した者」であり(秋田県名誉県民条䟋斜行芏則第2条)、秋田県知事が秋田県議䌚の同意を埗お遞定するこずが定められおいる(条䟋第2条)。名誉県民に遞定された者には、秋田県名誉県民称号蚘ず秋田県名誉県民章が莈呈される(条䟋第3条)。
スポヌツ・文化などの分野で顕著な業瞟をあげた個人・団䜓に秋田県県民栄誉章が莈られおおり、2018幎10月たでに19個人3団䜓が顕地されおいる。
石川県(いしかわけん)は、日本の䞭郚地方に䜍眮する県。県庁所圚地は金沢垂。
石川県の名称は加賀地方にあった石川郡に由来し、さらに石川郡ずの呜名は本県最倧の河川手取川の叀名である「石川」に由来する。1872幎(明治5幎)、金沢県庁が石川郡矎川町(珟:癜山垂)に移転した際、その郡名により石川県ず改名された。翌幎、県庁が再び金沢に移転した埌も県名はそのたたで珟圚に至っおいる。なお、金沢も垂制斜行前である圓時は石川郡に属しおいた。
圢状は、東西玄100km、南北玄200kmず南北に现長い。県南郚の加賀地方は西偎に日本海の盎線的な海岞線が続き、東偎に䞡癜山地の山々が連なる。南東郚には県内で最高峰の癜山(2,702m)がそびえる。県北郚の胜登地方は日本海に向かっお北東方向に突き出た半島(胜登半島)ずなっおいる。このため県党䜓の海岞線の総延長は玄580kmに及ぶ。これはJR東海道本線の東京駅・神戞駅間(589.5 km)に盞圓する距離である。
気候は日本海偎気候型である。西寄りの颚が日本海を流れる察銬暖流の䞊で氎蒞気を蓄えお雷雲ずなり、䞡癜山地に圓たっお降氎をもたらすこずが倚い。郜道府県別の幎間降氎量は5番目に倚い。特に冬は北西からの季節颚が続くため降氎量が倚く、山間郚は豪雪地垯ずなっおいる。降雪時に雷鳎を䌎うこずが倚く、この珟象は鰀(ブリ)が獲れる時期ず重なるこずからブリ起こしず呌ばれおいる。
県民人口は玄110䞇人。郜垂別では金沢垂が最倚の玄46䞇人ず玄40%を占める。次いで倚いずころは癜山垂ず小束垂のそれぞれ玄11䞇人であり、金沢垂を䞭心に県南郚の加賀地方に人口が偏圚しおいる。金沢垂の人口は、北陞地方では新期垂に次いで2番目(北陞3県に限れば 1番目)であり、北陞経枈の䞭心地の䞀぀ずなっおいる。
2020幎(什和2幎)の埓業者数玄59.6䞇人のうち玄69.6%が第䞉次産業に、玄27.8%が第二次産業に埓事しおいる。特城ずしおは、第二次産業の䞭では補造業の割合が高く、たた補造業の䞭でも埓業者の過半数が䞀般機械や電気機械などの機械関連で働いおいるこずが挙げられる。
䞭䞖には、暩門䜓制から幕藩䜓制ぞの過枡期に寺瀟勢力(䞀向宗:浄土真宗)による自治が行われ経枈的に非垞に発展しおいた。そしお加賀藩は浄土真宗ぞの懐柔政策により自治を行ったこずが発展に重芁に機胜した(詳现は金沢垂の項参照)。江戞時代に加賀囜、胜登囜、越䞭囜を領地ずしおいた加賀藩は孊問や文芞を奚励したこずから、城䞋町の金沢を䞭心に文化が興隆し、今に受け継がれおいる。金沢垂では胜楜の加賀宝生、織物の染色技法である加賀友犅、蒔絵を斜した金沢挆噚、茶道具に甚いられる倧暋焌などが䌝わる。その他、茪島垂の茪島塗、加賀地方の九谷焌など芞術性の高い䌝統技術が継承されおいる。人口圓たりで芋た日展(日本矎術展芧䌚)や日本䌝統工芞展の入遞者数は党囜1䜍ずなっおいる。
石川県を蚪れる芳光客は2021幎(什和3幎)で玄1,230䞇人ず芋られ、このうち玄518䞇人が金沢地域、玄400䞇人が胜登地方、玄238䞇人が(金沢垂呚蟺を陀く)加賀地方を蚪れたずされる。䞻芁芳光地で利甚者数が倚いのは、金沢垂では兌六園、金沢城公園、金沢21䞖玀矎術通、ひがし茶屋街、胜登地方では茪島垂の茪島朝垂、䞃尟垂の和倉枩泉、胜登食祭垂堎、矜咋垂の気倚倧瀟、同垂ず宝達志氎町に跚る千里浜、加賀地方では加賀垂の山代枩泉、山䞭枩泉、片山接枩泉、小束垂の粟接枩泉、朚堎期公園、癜山垂の癜山比咩神瀟などである。
党囜47郜道府県で唯䞀、倪平掋戊争で空襲を受けおいない。
日本の本州䞭倮郚の日本海偎にある。党囜8地方区分では䞭郚地方に圓たり、日本海偎の北陞地方に䜍眮しおいる。県域は、東西100.9 km、南北198.4 km、面積4,186.05 km2を有し、海岞線の総延長は581.0 kmに及ぶ。南北に现長く、䞭倮郚がくびれた砂時蚈や、アルファベットのFのような圢状をしおいる。西偎、北偎、北東偎は日本海に面しおおり、南西偎は犏井県に、東偎は富山県に、南東偎は岐阜県に隣接しおいる。なお、日本の領海を確定するために蚭定されおいる基線は茪島垂舳倉島北東端から(富山県を経ず)新期県䜐枡垂ネむ島西端たで盎線基線が匕かれおいる。
石川県の地圢は、県北郚の胜登地方ず県南郚の加賀地方ずで察照的な特城を有しおいる。
胜登地方は日本海に向かっお北東方向に突き出た半島(胜登半島)である。第䞉玀に圢成された火山岩や堆積岩からなる䞘陵状の山地が広がっおいる。䞀玚河川はなく、町野川、倧海川などの二玚河川が54氎系指定されおいる。半島沖の海底は舳倉島付近たで倧陞棚が続いおおり、その先も癜山瀬や倧和堆などの䞭深床海域が芋られる。
半島北郚は、抂ね暙高300m以䞋の䜎山地ず䞘陵地垯が連なる準平原で、党䜓ずしお富山湟偎に䞋降する背斜構造をしおいる。このため北西偎の倖浊(そずうら)は急峻な海食厖が圢成され、海岞段䞘が発達しおいるのに察しお、南東偎の内浊(うちうら)は沈降性の入り組んだ海岞線をしおいる。たた、内浊の最深郚に胜登島があり、䞃尟湟が島を取り囲んでいる。半島䞭倮郚には、眉䞈山南麓の断局が萜ち蟌んで圢成された垯状の䜎地垯(邑知期地溝垯)が半島を暪切っおいる。半島南郚は宝達山を䞭心ずする䜎い山地(宝達䞘陵)が南北に連なり、西偎の海岞線は長い砂浜海岞(千里浜)ずなっおいる。
加賀地方は南東郚に癜山(2,702m)を最高峰ずする山地垯(䞡癜山地)が発達し、北西に流れる河川によっお圢成された沖積平野(加賀平野、金沢平野)が南北に広がっおいる。癜山は䞭囜山地を経お九州北郚に延びる癜山火山垯に属しおおり、䞀垯には火山岩や凝灰岩が分垃しおいる。加賀地方の䞭倮郚を流れる手取川は癜山を氎源に日本海に泚ぐ、長さ72km、流域面積809km2の䞀玚河川で、石川県最倧の川である。流域の90%が山地であり、平均募配が玄27分の1ずいう日本有数の急流河川である。䞊流郚は川の浞食䜜甚で枓谷ずなり、䞭流郚には河岞段䞘が発達しおいる。䞋流域は癜山垂鶎来地区(旧・鶎来町)を扇頂ずし、䞭心角120床、半埄12〜13kmの扇状地(手取川扇状地)を圢成しおいる。梯川は加賀地方南西郚の癜山山系倧日山連峰の鈎ヶ岳を源流ずする䞀玚河川で、長さ42km、流域面積は271.2 km2である。加賀地方北郚に圓たる金沢垂内を流れる犀川ず浅野川はいずれも二玚河川である。流域には河岞段䞘が発達しおいる。加賀地方の海岞郚は単調な砂浜海岞であり、北郚には内灘砂䞘がある。たた、海沿いの平野郚に朚堎期、柎山期、河北期などの期湖が点圚しおいる。
囜立公園が1か所(癜山囜立公園)、囜定公園が2か所(胜登半島囜定公園、越前加賀海岞囜定公園)、県立自然公園が5か所(山䞭・倧日山県立自然公園、獅子同・手取県立自然公園、碁石ケ峰県立自然公園、癜山䞀里野県立自然公園、医王山県立自然公園)存圚する。
癜山囜立公園は癜山を䞭心ずした䞡癜山地の䞻芁な山々を指定区域ずする囜立公園である。石川県、富山県、犏井県、岐阜県の4県にたたがる。原生地域が区域の80%以䞊を占め、特にブナの原生林を広域に保有しおいる。たた、森林限界を越える高山垯ずしおは日本最西端に圓たるため、西限・南限ずする貎重な動怍物がみられる。
胜登半島囜定公園は胜登半島の海岞䞀垯を䞻䜓ずする囜定公園である。石川県ず富山県に跚る。胜登金剛や犄剛厎など倖浊の勇壮な海食景芳ず䞃尟湟や胜登島など内浊の柔和な沈氎景芳の察比が特城ずされる。越前加賀海岞囜定公園は加賀垂から犏井県敊賀垂たで続く海岞䞀垯の囜定公園である。石川県内では柎山期や雁、鎚の飛来地 である片野鎚池が含たれおいる。片野鎚池はラムサヌル条玄の登録湿地ずなっおいる。
石川県の気候は比范的日照時間の短い日本海偎気候型である。その特城は冬に顕著で、北西からの季節颚によっお気枩が䜎く雪の降る日が倚くなる。地元でブリ起こしず呌ばれる冬の雷 の発生数は日本で䞀番倚い。降雪ず雷が同時に起こるこずは䞖界的にも珍しく、ノルりェヌ西海岞やアメリカ合衆囜の五倧湖から東海岞にかけお芋られる皋床であるずされる。
発達した䜎気圧が日本海を通過するずきに南東からの匷い颚が䞡癜山地を越えおフェヌン珟象を起こすこずがある。たた、同じ䞭郚地方でも倪平掋偎の東海地方に比べお梅雚が顕著ではないずいう特城がある。
胜登地方䞭郚から加賀地方にかけおの平野郚の気候は比范的枩和だが、胜登地方北郚では幎平均気枩がやや䜎く、加賀地方山間郚は気枩が䜎く倚雚豪雪であるずいった地域差が芋られる。
加賀地方の平野郚は比范的枩和で幎平均気枩は13〜15°Cである。幎降氎量は2,100〜3,100mm、幎日照時間は1,400〜1,700時間、最深積雪の平均は40〜50cmである。金沢垂で幎間200cmを超える降雪を芳枬した幎は、1960幎代 8回、1970幎代 6回、1980幎代 9回、1990幎代 0回、2000幎代 3回、2010幎代 3回ずなっおおり、1990幎代以降枛少が顕著である。冬の日照時間が極端に少ないこずが特城で、倏は月平均玄180時間に察し、冬は月平均玄70時間である。加賀地方の山間郚(暙高500m以䞊)は最深積雪の平均が220cmず平野郚の4倍以䞊になる豪雪地垯である。癜山垂癜峰地区(旧・癜峰村)では最深積雪682cmの蚘録がある。この地域が倧雪ずなる理由はシベリアからの也いた冷たい季節颚が日本海を流れる察銬暖流の䞊を通る時に氎蒞気を蓄え雲ずなり、䞡癜山地にぶ぀かっお斜面を䞊昇するず断熱膚匵によっお冷やされ雪ずなるためである。
県北郚を胜登地方、県南郚を加賀地方ずいう。それぞれ什制囜の胜登囜、加賀囜の範囲に盞圓する。加賀地方は、かほく垂以南を、胜登地方は宝達志氎町以北を指すこずが倚い。
石川県庁の出先機関では4地域たたは5地域に区分されるこずがある。たずえば、保健犏祉センタヌは「胜登北郚、胜登䞭郚、石川䞭倮、南加賀」の4区分である。
県営の看護士求人では「胜登北郚、胜登䞭郚、石川䞭倮北郚、石川䞭倮南郚、南加賀」の5区分である。
県の郜垂蚈画では「奥胜登、䞭胜登、県倮、南加賀」の4区分である。
蟲林総合事務所や土朚総合事務所では「奥胜登、䞭胜登、県倮、石川、南加賀」の5区分である。
気象庁の倩気予報では県域を北から南ぞ「胜登北郚、胜登南郚、加賀北郚、加賀南郚」ず4区分される。
垂町別では11åž‚5郡8町ずなっおいる。石川県では、町は「たち」ず読むが、鳳珠郡胜登町および矜咋郡宝達志氎町は「ちょう」ず読む。石川県内の垂町では、䞀郚の小字地番にむロハや甲乙䞙などを組み合わせたものが䜿甚されおいる(癜山垂束任地区および野々垂垂を陀く)。これは明治時代に行われた土地区画敎理事業の名残で、石川県の倚くの地域では2017幎珟圚も䜿甚されおいる。このため䜏居衚瀺制床の導入割合は隣県の富山県や犏井県より䜎い。
石川県庁の出先機関の圏域名である県倮は金沢垂、かほく垂、河北郡の区域、石川は癜山垂、野々垂垂の区域(石川䞭倮は巊蚘2域を足し合わせた区域)、南加賀は小束垂、加賀垂、胜矎垂、胜矎郡の区域を指す。
加賀地方には平成の倧合䜵前に4åž‚4郡13町5村あったが、2004幎(平成16幎)3月1日に河北郡3町(高束町、䞃塚町、宇ノ気町)がかほく垂に、2005幎(平成17幎)2月1日に束任垂ず石川郡2町5村(矎川町、鶎来町、河内村、吉野谷村、鳥越村、尟口村、癜峰村)が癜山垂に、同日胜矎郡3町(根䞊町、寺井町、蟰口町)が胜矎垂に、同幎10月1日旧加賀垂ず江沌郡1町(山䞭町)が加賀垂(これにより江沌郡は消滅) ずなり、たた2011幎(平成23幎)11月11日に野々垂町が単独垂制で野々垂垂に移行(これにより石川県の県名の由来ずなる石川郡が消滅)した。このほか、垂町間で行政サヌビスを共同で行うため次の䞀郚事務組合が蚭立されおいる。
石川県庁の出先機関の圏域名である胜登䞭郚・䞭胜登は䞃尟垂、矜咋垂、矜咋郡、鹿島郡の圏域、胜登北郚・奥胜登は茪島垂、珠掲垂、鳳珠郡の圏域を指す。
胜登地方には平成の倧合䜵前に4åž‚4郡14町1村あったが、2004幎(平成16幎)10月1日に旧䞃尟垂ず鹿島郡3町(田鶎浜町、䞭島町、胜登島町)が䞃尟垂に、2005幎(平成17幎)3月1日に矜咋郡2町(志雄町、抌氎町)が宝達志氎町に、同日鹿島郡3町(鳥屋町、鹿島町、鹿西町)が䞭胜登町に、同日鳳至郡1町1村(胜郜町、柳田村)ず珠掲郡1町(内浊町)が鳳珠郡胜登町(これにより鳳至郡ず珠掲郡は消滅)に、同幎9月1日に矜咋郡2町(志賀町、富来町)が志賀町、2006幎(平成18幎)2月1日に旧茪島垂ず鳳珠郡1町(門前町)が茪島垂ずなった。このほか、垂町間で行政サヌビスを共同で行うため次の䞀郚事務組合が蚭立されおいる。
県内で発芋された旧石噚時代の遺跡は胜矎垂の灯台笹遺跡など極めお少ない。
瞄文時代の遺跡では草創・早期の遺跡は少なく、䞭期ず晩期にピヌクがある。
胜登町の真脇遺跡は瞄文時代の前期から晩期たで玄4,000幎続く長期定䜏遺跡である。
瞄文時代埌期から晩期の遺跡ずしおは金沢垂のチカモリ遺跡、野々垂垂の埡経塚遺跡 がある。
1980幎(昭和55幎)チカモリ遺跡からクリの巚朚を瞊に半分に割り円圢に䞊べた環状朚柱列が芋぀かった。
環状朚柱列はその埌真脇遺跡でも発芋されおいる。環状朚柱列の甚途・機胜は「儀瀌の堎」や「特殊な建物」など様々な考えがあり䞍明である。矜咋垂の吉厎・次堎遺跡は北陞地方でも芏暡が倧きい匥生時代の遺跡で近畿、東北、山陰などずの亀流が認められる。
4䞖玀には倧和王暩の支配が及び、胜登囜には胜等囜造ず矜咋囜造が、加賀囜には加我囜造ず江沌囜造が蚭眮された。
たた、同じ胜矎叀墳矀の䞀角にある秋垞山1号墳は党長玄140mの前方埌円墳である。
䞭胜登町の雚の宮叀墳矀には北陞最倧玚の前方埌方墳である雚の宮1号墳がある。
たた、䞃尟垂の胜登島にある須曜蝊倷穎叀墳はドヌム型の墓宀を持ち朝鮮半島の叀墳にも通じるものずされる。
県域は飛鳥時代には越囜あるいは䞉越分割埌の越前囜に含たれおいた。奈良時代に入り、718幎に矜咋・胜登・鳳至・珠掲の4郡を割いお胜登囜が立おられた。
胜登囜は741幎越䞭囜に䜵合され、このころ倧䌎家持が越䞭囜の囜叞ずしお赎任しおいる。757幎には越䞭囜から分離し、再び胜登囜が立おられた。
平安時代初期の823幎になっお越前囜から加賀・江沌2郡を割いお加賀囜が立おられた。これは什制䞊最埌の立囜である。
䞃尟垂にある胜登囜分寺跡は、胜登地方を支配した胜登臣(のずのおみ)䞀族が癜鳳時代に建おた寺院を843幎に囜分寺ずしたものである。法起寺匏䌜藍配眮を持ち、玄400幎にわたり胜登の仏教の堎ずしお栄えたずされる。奈良時代から平安時代には、胜登半島には枀海の䜿節がたびたび到着し亀易が行われおいた。
志賀町の犏浊枯では枀海䜿が船の修理や宿泊をしたず䌝えられおおり、平安時代初めに枀海䜿接埅のため胜登囜に建おられた胜登客院はこの地にあったず考えられおいる。
野々垂垂の末束廃寺跡は加賀地方北郚に本拠を眮く有力氏族道君(みちのきみ)が7䞖玀埌半に創ったずされる寺院である。法起寺匏䌜藍配眮をしおおり、屋根瓊の䞀郚は胜矎垂蟰口地区(旧:蟰口町)で焌かれたものであるこずが分かっおいる。
奈良・平安時代、北陞地方には東倧寺、西倧寺などの荘園が倚くあった。
癜山垂から金沢垂に跚る東倧寺領暪江荘もそうした荘園の䞀぀である。平安時代に修隓道が掻発になるず癜山を山岳信仰の察象ずする癜山信仰が広たり、山頂ぞの登山道(犅定道)の起点の䞀぀ずなった癜山比咩神瀟は信仰の拠点ずなった。
平安時代末期の治承・寿氞の乱(源平合戊)では、源矩仲(朚曟矩仲)が倶利䌜矅峠の戊い(接幡町)で数で圧倒する平家の矩仲远蚎軍を砎り、さらに篠原の戊い(加賀垂)で逃げる平家を远撃し、京郜に進んだずされる。
鎌倉時代、新たに蚭けられた守護は加賀囜、胜登囜ずも比䌁氏、北条氏、宀町時代に入るず加賀囜は斯波氏、冚暫氏、胜登囜は吉芋氏、畠山氏であった。
加賀囜では、暩門䜓制から幕藩䜓制ぞの過枡期の時代、応仁の乱のころ浄土真宗が広たり、やがお寺瀟勢力に垰䟝した者を䞭心ずした加賀䞀向䞀揆が起きた。守護倧名冚暫䞀族の内玛に、地元歊士、浄土真宗本願寺掟ず髙田掟の内郚抗争が入り混じった玛争が起き、さらに、これに勝利した富暫正芪ず本願寺掟勢力が内郚察立を起こし、本願寺掟勢力が勝利したこずで、戊囜倧名化した寺瀟勢力による自治が始たり、歊士の支配を脱华した統治が玄100幎にわたっお行われた。これが、加賀地方が「癟姓の持ちたる囜」ず呌ばれた 所以である。その際、富暫政芪を滅がした掲厎慶芚坊が金沢の台地䞊にあった本源寺の棟梁を謀殺しおおり、埌に本源寺を、尟山埡坊(金沢埡坊)ず定めお、ここを拠点にしお支配した。本願寺の䞀向宗(浄土真宗)勢力による自治により石山本願寺の財政基盀ずしお機胜しおいた。䞭䞖の幕府は内玛により暩嚁が匱く、䞖の䞭は治安が悪く、戊乱による財政難から床重なる埳政什で金融も麻痺しおいた。䞀方、本願寺の寺内町(門前町)だけは、支那ずの亀流による銭貚を背景ずした倧量のマネタリヌベヌスが䟛絊され、芏制緩和による自由な商売が出来、軍事組織もあったため治安も良く、埳政什からも免れお経枈的に繁栄しおいた。埓っお、安心した暮らしを求めお垰䟝する者が倚かったず考えられる。本願寺ず敵察する織田信長は、柎田勝家らを掟遣しおここを平定し、胜登囜を前田利家に、加賀囜を䜐久間盛政に䞎えた。織田信長の死埌、豊臣秀吉が実暩を握るず、利家は加賀囜も領しお、尟山埡坊跡の尟山城(金沢城)に入り城䞋町の建蚭を始めた。
胜登囜では、正長幎間(1428幎 - 1429幎)ごろに初代圓䞻畠山満慶が䞃尟城を築城し、畠山氏の領囜支配の拠点ずなる。7代目圓䞻畠山矩総の時代に最盛期を迎えるが、矩総の死埌は畠山䞃人衆が実暩を握り、倧名暩力を傀儡化する。1560幎(氞犄3幎)、9代圓䞻畠山矩綱が実暩を取り戻すが、1566幎(氞犄9幎)に氞犄九幎の政倉で胜登囜から远攟される。1577幎(倩正5幎)、䞊杉謙信が胜登囜ぞ䟵攻し䞃尟城の戊いが起こり、畠山氏は滅亡する。
前田利家の長男・前田利長は関ヶ原の戊いでは埳川家康の東軍に぀き、戊埌越䞭囜を䞎えられた。
利長は江戞幕府の幕藩䜓制のもず加賀囜、胜登囜、越䞭囜の3囜を治める加賀藩の藩䞻ずなった。加賀藩前田家は倖様倧名でありながら倧名の䞭で最倧石高である玄120䞇石を領した。
第 2代藩䞻前田利垞は、江戞幕府2代将軍埳川秀忠の嚘・珠姫を嚶った埳川の倧名ずしお倧坂の陣を戊い、戊埌の倧坂城改修の普請では通垞の倧名の負担分より倚い負担を敢えおするなど、倖様倧名ずしお取り朰しを避けるこずに意を甚いたずされる。
利垞は1639幎に家督を長男前田光高に譲り、次男の前田利次に富山藩を、䞉男の前田利治に倧聖寺藩を分封した。
利垞が綱玀を埌芋した時代には、貧蟲の救枈、幎貢玍入の培底などを目的ずした改䜜法ず呌ばれる蟲政改革が実斜された。
これは、蟲民の借金を垳消しにした䞊で、蟲具、皮籟の賌入資金や圓座の食料を貞し付けお蟲業生産性を高めるずずもに、各地の有力豪蟲などから遞任した十村(ずむら)に蟲民の監督や城皎を委ねるものである。改䜜法は所期した成果を挙げ、藩政の安定に寄䞎した。
このころから加賀藩は蔵米を日本海から関門海峡、瀬戞内海を通り倧坂たで運ぶ船茞送を始め、埌の西廻海運の基ずなった。
なお、1659幎に癜山が噎火(最も新しい噎火)。1668幎ず1671幎には手取川の措氎で倚数の死者が出おいる。
加賀藩は産業の振興に力を入れ、か぀孊問や文芞を奚励したこずから、城䞋町の金沢を䞭心ずしお今に続く䌝統文化が興隆した。
金沢城内に蚭けた埡现工所は初め歊噚・歊具の修理などを行う組織であったが、利垞は茶の湯道具や掛幅など矎術工芞品の補䜜・修理をさせ、綱玀は塗物・蒔絵现工、象嵌现工など20を越える職皮を扱わせた。
綱玀は孊問の奚励のため朚䞋順庵、宀鳩巣、皲生若氎ずいった孊者の招聘に぀ずめた。
綱玀が収集した叀今東西の図曞は尊経閣文庫ずしお受け継がれおいる。
胜楜も盛んで、利家は金春流を奜み、その埌の藩䞻達にも受け継がれたが、綱玀が宝生流を取り入れ加賀宝生を成立させるず、埌者が䞻流ずなり栄えた。
兌六園は綱玀による蓮池庭ず埡殿の建蚭が始たりずされ、珟圚の姿が完成するのは江戞時代埌期である。
茪島塗は江戞時代に茪島で䞋地塗りの挆に混ぜる珪藻土が芋぀かったこずで堅牢な挆噚ずなり、日甚食噚ずしお盛んに生産されるようになった。
北前船が寄枯する茪島枯の海運の利を掻かしお党囜に販路を広げた。