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同2005幎の統蚈によるず、䞻芁穀物では小麊 (220 䞇トン)、次いで倧麊 (130 䞇トン) の栜培に集䞭しおいる。麊類は也燥した気候に匷いからである。逆に、米の生産量は13 䞇トンず少ない。
野菜・果実ではトマト (100 䞇トン)、ぶどう (33 䞇トン) が顕著である。商品䜜物ずしおはナツメダシ (87 䞇トン) が際立぀。゚ゞプト、サりゞアラビア、むランに次いで䞖界第4䜍の生産数量であり、䞖界シェアの12.6 %を占める。畜産業では、ダギ (165侇頭)、りシ (150 侇頭) が䞻力である。
ナツメダシはペルシャ湟、メ゜ポタミアの砂挠地垯の原産である。少なくずも5000 幎に枡っお栜培されおおり、むラク地方の蟲業・経枈・食文化ず匷く結び぀いおいる。ずくにバスラずバグダヌドのナツメダシが有力。バスラには800 䞇本ものナツメダシが怍わっおいるずされ、第二次䞖界倧戊埌はアメリカ合衆囜を䞭心に茞出されおきた。むラン・むラク戊争、湟岞戊争ではダシの朚に被害が倚く、茞出額に占めるナツメダシの比率が半枛するほどであった。バグダヌドのナツメダシは囜内でもっずも品質がよいこずで知られる。
むラクで栜培されおいるナツメダシは、カラセヌ皮 (Khalaseh)、ハラりィ皮 (Halawi)、カドラりィ皮 (Khadrawi)、ザヒディ皮 (Zahidi) である。最も生産数量が倚いのはハラりィ皮だ。カドラりィ皮がこれに次ぐ。カラセヌ皮は品質が最も高く、実が軟らかい。ザヒディ皮はバグダヌドを䞭心に栜培されおおり、もっずも早く実がなる。実が也燥しお匕き締たっおおり、デヌツずしお茞出にも向く。
むラクの工業は自絊的であり、食品工業、化孊工業を䞭心ずする。食品工業は、デヌツを原料ずする怍物油粟補のほか、補粉業、粟肉業、皮革補造などが䞭心である。繊維産業も確立しおいる。化孊工業は自絊に芁する原油の粟補、及び肥料の生産である。重油の粟補量は䞖界生産の1 %から2 %に達する (2002幎時点で1.6 %)。䞀方、建築材料ずしお甚いる日干しレンガ、レンガはいただに手工業の段階にも達しおおらず、組織化されおいない個人による生産に䟝存しおいる。
補鉄、薬品、電機などの補造拠点も存圚するが、囜内需芁を満たしおいない。蟲機具、工䜜機械、車䞡などず䜵せ茞入に頌る。
原油確認埋蔵量は1,120億バレルで、サりゞアラビア・むランに次ぐ。米囜゚ネルギヌ省は埋蔵量の90 %が未開発で、掘られた石油井戞はただ2,000 本に過ぎないず掚定。
2009幎時点の総発電量461億kWhの93 %は石油による火力発電でたかなっおいる。残りの7 %はティグリス・ナヌフラテス川䞊流郚に点圚する氎力発電所から䟛絊された。
むラクの送配電網は1861幎にドむツによっお建蚭が始たった。19䞖玀、むギリスずドむツは珟圚のむラクがあるメ゜ポタミアぞの芇暩を競っおいた。鉄道ず電力網の建蚭はドむツが、ティグリス・ナヌフラテス川における蒞気船の運航はむギリスによっお始たった。
むラクの貿易構造を䞀蚀で衚すず、原油ず石油粟補物を茞出し、工業補品を茞入するずいうものである。2003幎時点の茞出額に占める石油関連の比率は91.9 %、同じく茞入額に占める工業補品の割合は93.1 %であるからだ。同幎における貿易収支は茞出、茞入ずも101億ドルであり、均衡がずれおいる。
茞出品目別では、原油83.9 %、石油 (原料) 8.0 %、食品5.0 %、石油化孊補品1.0 %である。食品に分類されおいる品目はほずんどがデヌツである。茞入品目別では、機械73.1 %、基瀎的な工業補品16.1 %、食品5.0 %、化孊工業補品1.0 %。
貿易盞手囜は、茞出がアメリカ合衆囜 18.6 %、ロシアずCIS諞囜、トルコ、ブラゞル、フランス、茞入がアメリカ合衆囜 13.6 %、日本、ドむツ、むギリス、フランスずなっおいる。
むラン・むラク戊争䞭の1986幎時点における貿易構造は、2003幎時点ずあたり倉わっおいない。ただし、盞違点もある。茞出においおは、総茞出額に占める原油の割合が98.1 %ず高かったにもかかわらず、採掘から茞送たでのむンフラが砎壊されたこずにより、原油の茞出が萜ち蟌んでいた。結果ずしお、12億ドルの貿易赀字を蚈䞊しおいた。補鉄業が未発達であったため、茞入に占める鉄鋌の割合が5.9 %ず高かったこずも異なる。貿易盞手囜の顔ぶれは倧きく違う。2003幎時点では茞出入ずもアメリカ合衆囜が第䞀だが、1986幎の䞊䜍5カ囜にアメリカ合衆囜は登堎しない。茞出盞手囜はブラゞル、日本、スペむン、トルコ、ナヌゎスラビアであり、茞入盞手囜は日本、トルコ、むギリス、西ドむツ、むタリアであった。
むラクは鉄道が発達しおおり、囜内の䞻芁郜垂すべおが鉄道で結ばれおいる。2003幎時点の総延長距離は2200 km。旅客茞送量は22億人、貚物茞送量は11億トンに及ぶ。
むラクの鉄道網はシリア、トルコず連結しおおり、ペヌロッパ諞囜ずは鉄道で結ばれおいる。
バグダヌドずアナトリア半島䞭倮南郚のコンダを結ぶむラク初の鉄道路線(バグダヌド鉄道)はドむツによっお建蚭された。バグダヌド鉄道の䞀郚である銖郜バグダヌドず第二の郜垂バスラを結ぶ重芁路線には2013幎時点で時速64kmの老朜化した2぀の車䞡しかなかったが、2014幎に䞭華人民共和囜から時速160kmで゚アコンなどを完備した近代的な青島四方機車車茛補の高速車䞡が導入された(バグダヌド=バスラ高速鉄道路線)。
䞀方、自動車は普及が進んでおらず、自動車保有台数は95䞇台 (うち65䞇台が乗甚車) に留たる。舗装道路の総延長距離も8400 kmに留たる。
囜連の統蚈によれば、䜏民はアラブ人が79%、クルド人16%、アッシリア人3%、トルコマン人(テュルク系)2%である。ナダダ人も存圚しおいたが、むスラ゚ル建囜に䌎うアラブ民族䞻矩の高たりず反ナダダ䞻矩の気運により迫害や虐殺を受けお、囜倖に远攟され、倧半がむスラ゚ルに亡呜した。ただしクルド人に぀いおは難民が倚く、1ポむント皋床の誀差があるずされおいる。各民族は互いに混䜏するこずなくある皋床たずたりをもっお居䜏しおおり、クルド人は囜土の北郚に、アッシリア人はトルコ囜境に近い山岳地垯に、トゥルクマヌンは北郚のアラブ人ずクルド人の境界付近に集たっおいる。それ以倖の地域にはアラブ人が分垃する。気候区ず関連付けるず砂挠気候にある土地はアラブ人が、ステップ気候や地䞭海性気候にある土地にはその他の民族が暮らしおいるこずになる。
むラク南郚ティグリス・ナヌフラテス川合流郚は、䞭東で最も氎の豊かな地域である。むラク人は合流郚付近を沌に因んでマヌシュず呌ぶ。1970幎代以降氎利が完備される以前は、ティグリス川の東に数kmから10 km離れ、川の流れに䞊行した湖沌矀ずナヌフラテス川のアン・ナスリヌダ䞋流に広がるハンマヌル湖が䞀䜓ずなり、合流郚のすぐ南に広がるサナフ湖ずも連結しおいた。マヌシュが途切れるのはようやくバスラに至った地点である。アシで囲った家に䜏み、蟲業ず持劎を生業ずしたマヌシュ・アラブず呌ばれる民族が1950幎代には40䞇人を数えたず蚀う。
マヌシュ・アラブはさらに2皮類に分類されおいる。たず、マアッダンず呌ばれるスむギュりを劎圹に甚いる蟲民である。倏期には米を栜培し、冬期は麊を育おる。スむギュり以倖にヒツゞも扱っおいた。各郚族ごずにむッサダず呌ばれるムハンマドを祖先ずうたう聖者を擁するこずが特城だ。マアッダンはアシに完党に䟝存した生掻を送っおいた。たず、倧量のアシを䜿っお氎面に「島」を䜜り、その島の䞊にアシの家を建おる。スむギュりの逌もアシである。
たた、アフリカ倧陞にルヌツを持぀アフリカ系䜏民も非垞に少数ながら生掻しおいる。そのほずんどが、アラブの奎隷商人によっおむラクに連れおこられた黒人の子孫ずみられる。
アラビア語、クルド語が公甚語である。2004幎のむラク憲法改正以来クルド語がアラビア語ず共に正匏な公甚語に远加された。その他アルメニア語、アれリヌ語や珟代アラム語 (アッシリア語) なども少数ながら䜿われおいる。
曞き蚀葉ずしおのアラビア語 (フスハヌ) は、アラブ䞖界で統䞀されおいる。これはコヌランが基準ずなっおいるからである。しかし、話し蚀葉ずしおのアラビア語 (アヌンミヌダ) は地域によっお異なる。゚ゞプト方蚀は映画やテレビ攟送の蚀葉ずしお広く流通しおいるが、この他にマグレブ方蚀、シリア方蚀、湟岞方蚀、アラビア半島方蚀などが認められおいる。むラクで話されおいるのはむラク方蚀である。ただし、むラク囜内で共通語ずなっおいるバグダヌドの蚀葉ず山岳郚、湟岞郚にもさらに方蚀が分かれおいる。
むラクにおける教育制床は、䌝統的なコヌランを孊ぶ孊校に始たる。むギリス委任統治領時代から西欧型の初等教育が始たり、独立前の1929幎から女性に察する䞭等教育も開始された。珟圚の教育制床は1978幎に改蚂され、矩務教育が6幎制ずなった。教育制床は充実しおおり、初等教育から高等教育に至るたで無料である。囜立以倖の孊校は存圚しない。1990幎時点の統蚈によるず、小孊校は8917校である。3幎制の䞭孊校ぞの進孊は詊隓によっお刀断され、3人に1人が䞭孊校に進む。倧孊ぞ進孊を望むものは䞭孊校卒業埌、2幎間の予備課皋を修了する必芁がある。銖郜バグダヌドを䞭心に倧孊は8校、倧孊終了埌は、19の科孊技術研究所に進むこずもできる。
通垞は婚姻時に改姓するこずはない(倫婊別姓)が、西欧颚に倫の姓に改姓する女性もいる。
キリスト教(カトリック、東方正教䌚、アッシリア東方教䌚など)はアッシリア人ず少数民族に限られおいる。1987幎の時点では140䞇人(党䜓の8%)のキリスト教埒が暮らしおいたが1990幎代ず、さらに2003幎のフセむン政暩厩壊以降ずで倚くが囜を離れた。2010幎の時点での人口比は0.8%ず報告されおいる。
8䞖玀たで政治・文化の䞭心であったクヌファに生たれたアブヌ・ハニヌファ (Abu Hanifa、699幎-767幎) は、ハナフィヌ法孊掟を創蚭し、匟子のアブヌ・ナヌスフず孫匟子のシャむバヌニヌの3人によっお確立し、今日ではムスリムの信奉する孊掟のうち最倧のものにたで成長した。
バスラの (Abd al-Hasan al-Ash'ari、873幎-935幎) は、合理䞻矩を暙抜したムりタズィラ孊掟に属しおいたが、埌に離れる。ムりタズィラ掟がよくしおいたカラヌム (匁蚌) をもちいお論争し、圱響力を䜎䞋させた。同時に䌝統的な信条をも぀アシュアリヌ掟を創蚭した。
1990幎時点のキリスト教人口は玄100䞇人である。最倧の分掟は5割を占めるロヌマ・カトリック教䌚。アッシリア人だけはいずれにも属さずキリストの䜍栌に぀いお独自の解釈をも぀アッシリア東方教䌚 (ネストリりス掟) に属する。19䞖玀たではモヌスルのカルデア教䌚もネストリりス掟に属しおいたが、ロヌマ・カトリック教䌚の垃教掻動により、東方垰䞀教䌚の䞀぀ずなった。
サヌビア教はコヌランに登堎し、ナダダ教やキリスト教ずずもに啓兞の民ずしお扱われる歎史のある宗教である。マンダ教はそのサヌビア教ず同䞀芖されおきた。バプテスマのペハネに付き埓い、掗瀌を非垞に重芖するため、氎蟺を居䜏地ずしお遞ぶ。ティグリス・ナヌフラテス䞡河川のバグダヌド䞋流から、ハンマヌル湖に到る倧湿地垯に倚い。叀代においお西掋・東掋に広く䌝播したグノヌシス䞻矩が原型ず考えられおいる。
ナダダ教埒はバビロニア時代から珟圚のむラク地方に根を䞋ろし、10䞖玀に到るたでナダダ教孊者を倚数擁した。むスラ゚ル建囜以前は10䞇人を超える信者を居䜏しおいたが、移民のため、1990幎時点で、ナダダ教埒は数癟人しか残っおいない。
むラク囜民の嗜奜品ずしおもっずも倧量に消費されおいるのが、茶である。囜連の統蚈によるず、1983幎から1985幎の3幎間の平均倀ずしお囜民䞀人圓たり2.63 kgの茶を消費しおいた。これはカタヌル、アむルランド、むギリスに぀いで䞖界第4䜍である。囜が豊かになるに぀れお茶の消費量は増えおいき、2000幎から2002幎では、䞀人圓たり2.77 kgを消費し、䞖界第䞀䜍ずなった。日本茶業䞭倮䌚の統蚈によるず、2002幎から2004幎では戊争の圱響を被り消費量が2.25 kgず䜎䞋しおいるが、これでも䞖界第4䜍である。むランやトルコなど生産地が近く、むラク囜内では茶を安䟡に入手できる。
现密画、アラビア曞道、モスク建築、カルバラヌやナゞャフなどのシヌア掟聖地。
䌝統的な楜噚ずしおリュヌトに類䌌するりヌド、ノァむオリンに類䌌するレバヌブ、その他ツィタヌに䌌たカヌヌヌン、葊の笛ナヌむ、酒杯型の片面倪錓ダラブッカなどが知られおいる。
りヌドは西掋なしを瞊に半分に割ったような圢をした匊楜噚である。珟圚の研究では3䞖玀から栄えたササン朝ペルシア時代の匊楜噚バルバトが起源ではないかずされるが、アル=ファヌラヌビヌによれば、りヌドは旧玄聖曞創䞖蚘に登堎するレメクによっお䜜られたのだず蚀う。最叀のりヌド状の楜噚の蚘録は玀元前2000幎ごろのメ゜ポタミア南郚 (むラク) にたで遡る。りヌドはフレットを䜿わないため、ビブラヌト奏法や埮分音を䜿甚するアラブの音階・旋法、マカヌムの挔奏に向く。匊の数はか぀おは四匊で、これは珟圚においおもマグリブ地方においお叀圢を芋出す事が出来るが、䌝承では9䞖玀にキンディヌ (あるいはズィリダヌブずも云う) によっお䞀本远加され、五匊になったずされる。珟圚では五匊ないし六匊の楜噚であるこずが倚い (正確には耇匊の楜噚なので五コヌスないし六コヌスの十匊~十䞀匊。五コヌスの堎合、十匊で、六コヌスの堎合、十䞀匊。六コヌス目の最䜎音匊は単匊ずなる)。むラクのりヌド奏者ずしおは、むラク音楜研究所のゞャミヌル・バシヌルJamil Bachir、バグダヌド音楜倧孊のナシル・シャンマNaseer Shamma、囜際的な挔奏掻動で知られるアハメド・ムクタヌルAhmed Mukhtarが著名である。スタヌずしおりヌド奏者のムニヌル・バシヌルMunir Bashirも有名。
カヌヌヌンは台圢の共鳎箱の䞊に平行に倚数の匊を匵り枡した匊楜噚で、手前が高音の匊ずなる。指で匊を぀たんで挔奏する撥匊楜噚であり、匊の本数は様々だが、癟本に達するものなどもある。
たた珟圚、東アラブ叀兞音楜における栞の䞀぀ずしおむラクのバグダヌドぱゞプトのカむロず䞊び重芁な地である。それだけでは無くむスラヌムの音楜文化の歎史にずっおもバグダヌドは倧倉に重芁な地で、アッバヌス朝時代のバグダヌドではカリフの熱心な文芞擁護によりモりスィリヌ、ザルザル、ズィリダヌブなどのりヌドの名手、キンディヌ、ファヌラヌビヌ、サフィヌ・アッ=ディヌンなどの粟緻な理論䜓系を远求した音楜理論家が綺矅星のごずく掻躍をした。その様子は千倜䞀倜物語にも䞀郚描写されおいる。時代は倉遷し、むスラヌムの音楜文化の䞻流はむラク囜倖の地域に移ったのかも知れないが、珟圚でもか぀おの栄華を偲ばせる豊かな音楜䌝統を持぀。バグダヌドにはむラヌキヌ・マカヌム (マカヌム・アル=むラヌキヌ) ず呌ばれる小線成で郜䌚的な匂いのする宀内楜の䌝統がある。
民謡には、カスィヌダず呌ばれるアラブの䌝統詩を謡い䞊げるもの、むラク独自の詩圢を持぀マッワヌル、パスタなどが知られる。
䌝統的な結婚匏では他アラブ圏でも同様だが、ズルナず呌ばれるチャルメラ状の楜噚ずタブルず呌ばれる倪錓がしばしば登堎する。
珟代のむラク人は西掋のロック、ヒップホップ、およびポップスなどをラゞオ攟送局などで楜しんでおり、ペルダン経由で゚ゞプトのポップスなども茞入されおいる。
むラクは、アメリカ合衆囜、゚ゞプトに次ぎ、1974幎3月5日に䞖界遺産条玄を受蚗しおいる。1985幎にバグダヌドの北西290 kmに䜍眮する平原の郜垂遺跡ハトラ (ニヌナワヌ県) が文化遺産に、2003幎にはハトラの東南東50 kmにあるティグリス川に面した郜垂遺跡アッシュヌル (サラヌフッディヌン県) がやはり文化遺産に認定されおいる。
アレクサンドロス倧王の東埁によっお生たれた倧垝囜が分裂埌に生たれたセレりコス朝シリアは玀元前3䞖玀、ハトラを建蚭した。セレりコス朝が衰匱するず、パルティア垝囜の通商郜垂、宗教の䞭心地ずしお栄えた。2䞖玀にはロヌマの東方ぞの拡倧によっお、パルティア垝囜偎の西方最前線の防衛拠点ずなる。ロヌマ垝囜の攻撃には耐えたがパルティア垝囜は衰亡し、パルティア垝囜に服しおいたペルシス王囜が東から版図を拡倧する䞭、224幎に砎壊された。226幎にはパルティア自䜓が滅び、ペルシス王囜はサヌサヌン朝ペルシアを名乗る。
アッシュヌルは玀元前3000幎ごろ、メ゜ポタミア文明最初期のシュメヌルの郜垂ずしおすでに成立しおいた。その埌、シュメヌルの南方に接しおいたアッカド垝囜の郜垂ずなり、りル第䞉王朝を通じお繁栄、玀元前2004幎の王朝厩壊埌も商業の䞭心地ずしお継続した。アッシリアが成立するず、その版図ずなり、叀アッシリア時代のシャムシ・アダド1侖 (前1813幎-前1781幎圚䜍) は、王囜の銖郜をアッシュヌルに定め、廃れおいた゚ンリル神殿を再建しおいる。1000幎の繁栄の埌、新アッシリア王囜のアッシュヌルナツィルパル2䞖はニムルドを建蚭し、遷郜したため、アッシュヌルの性栌は宗教郜垂ぞず倉化した。玀元前625幎に成立し、アッシリアを䟵略した新バビロニア王囜によっお同614幎に埁服・砎壊される。アッシリア自䜓も同612幎に滅びおいる。その埌、パルティア垝囜が郜垂を再建したが、短期間の埌、サヌサヌン朝ペルシャによっお再び砎壊され、その埌再建されるこずはなかった。
アッシュヌルはドむツ人のアッシリア孊者フリヌドリヒ・デヌリチによっお発掘調査が進められたため、遺物の倚くはベルリンのペルガモン博物通に展瀺・収蔵されおいる。
北西にアルメニアずアれルバむゞャン、北にカスピ海、北東にトルクメニスタン、東にアフガニスタンずパキスタン、南にペルシア湟ずオマヌン湟、西にトルコ、むラク(クルディスタン)ず境を接する。たた、ペルシア湟を挟んでクりェヌト、サりゞアラビア、バヌレヌン、カタヌル、アラブ銖長囜連邊に、オマヌン湟を挟んでオマヌンに面する。ペルシア、ペルシャずもいう。公甚語はペルシャ語。
䞀方で教育には泚力されおおり、人間開発指数は0.800で高い分類に入る。科孊技術力においおも、ナノテクノロゞヌのような材料工孊や幹现胞研究で䞖界トップクラスの䜍眮にいる。
パフラノィヌ朝時代にはアメリカ合衆囜の匷い圱響䞋にあったが、革呜により米囜ずの関係が悪化、特にアメリカ倧䜿通人質事件以降、公然たる敵察関係に入った。米囜ずは互いをテロ組織・テロ支揎囜家に指定しおいる。
他方でむラン革呜指導者は反共䞻矩者が倚いため、゜ビ゚ト連邊ずも友奜的ではなく、革呜埌の倖亀は排倖䞻矩的な非同盟䞭立路線を基本ずする。近幎は栞兵噚開発を行っおいる疑惑から経枈制裁を受けおいる。2015幎にオバマ政暩䞋のアメリカず栞合意を締結しお制裁解陀を取り付けたが、トランプ政暩が䞀方的に砎棄し制裁が再開されたため、段階的に栞合意履行停止を進めおいる。
総面積は1,648,195 km2 (平方キロメヌトル) で、䞭東で2番目に倧きく、䞖界では17䜍である。北郚を東西にアルボルズ山脈が、北西郚から南東郚にザヌグロス山脈が走り、その間にむラン高原が広がる。囜土のほずんどがむラン高原䞊にある。同囜はナヌラシアの䞭心に䜍眮し、ホルムズ海峡に面するため、地政孊的に重芁な堎所にある。銖郜であるテヘランは同囜の最倧郜垂であり、経枈ず文化の䞭心地でもある。むランには文化的な遺産が倚く存圚し、ナネスコの䞖界遺産には22個登録されおいる。これはアゞアでは3番目、䞖界では11番目に倚い。
むラン人自身は叀くから囜の名を「アヌリア人の囜」を意味する「むラン」ず呌んできたが、西掋では叀代よりファヌルス州の叀名「パヌルス」にちなみ「ペルシア」ずしお知られおいた。1935幎3月21日、レザヌ・シャヌは諞倖囜に察しお公匏文曞に本来の「むラン」ずいう語を甚いるよう芁請し、正匏に「むラン」に改められたものの混乱が芋られた。1959幎、研究者らの䞻匵によりモハンマド・レザヌ・シャヌがむランずペルシアは代替可胜な名称ず定めた。その埌1979幎のむラン・むスラヌム革呜によっおむスラヌム共和制が暹立されるず、囜制の名ずしおむスラヌム共和囜の名を甚いる䞀方、囜名はむランず定められた。
アケメネス朝はマケドニア王囜のアレクサンドロス倧王率いるギリシャ遠埁軍によっお玀元前330幎に滅がされたが、たもなく倧王が死去しおディアドコむ戊争ずなり、垝囜は䞉分割されおセレりコス朝(玀元前312幎 - 玀元前63幎)の支配䞋に入った。シリア戊争䞭には、玀元前247幎にハカヌマニシュ朝のペルシア垝囜を受け継ぐアルシャク朝(パルティア)が成立し、ロヌマ・シリア戊争でセレりコス朝が敗れるずパルティアは離反した。
7䞖玀に入るず、サヌサヌン朝は東ロヌマ垝囜のヘラクレむオス垝ずの玛争やメ゜ポタミアの倧措氎による囜力䜎䞋を経お、アラビア半島に興ったむスラヌム勢力のハヌリド・むブン・アル=ワリヌドらが率いる軍勢により疲匊。636幎のカヌディスィヌダの戊い、642幎のニハヌノァンドの戊いでむスラヌム勢力に敗北を重ね、651幎に最埌の皇垝ダズデギルド3䞖が死去したこずを以お滅亡した。
むランの䞭䞖は、このむスラヌムの埁服に始たる幟倚の重芁な出来事により特色付けられた。873幎に成立したむラン系のサヌマヌン朝䞋ではペルシア文孊が栄え、10䞖玀に成立したむラン系のブワむフ朝はシヌア掟むスラヌムの十二むマヌム掟を囜教ずした最初の王朝ずなった。11䞖玀から12䞖玀にかけお発達したガズナ朝やセルゞュヌク朝やホラズム・シャヌ朝などのトルコ系王朝は文官ずしおペルシア人官僚を雇甚し、ペルシア語を倖亀や行政の公甚語ずしたため、この時代にはペルシア文孊の散文が栄えた。
1220幎に始たるモンゎル垝囜の埁服によりむランは荒廃した。モンゎル垝囜がむスラヌム化したフレグ・りルスが滅亡した埌、14䞖玀から15䞖玀にかけおむラン高原はティムヌル朝の支配䞋に眮かれた。
1501幎にの教䞻であったむスマヌむヌル1䞖がタブリヌズでサファノィヌ朝を開いた。シヌア掟むスラヌムの十二むマヌム掟を囜教に採甚したむスマヌむヌル1䞖は遊牧民のクズルバシュ軍団を率いお各地を埁服した。たた、レバノンやバヌレヌンから十二むマヌム掟のりラマヌ(むスラヌム法孊者)を招いおシヌア掟教孊を䜓系化したこずにより、サファノィヌ朝治䞋の人々の十二むマヌム掟ぞの改宗が進んだ。1514幎のチャルディラヌンの戊いによっおクルド人の垰属をオスマン垝囜に奪われた。
第五代皇垝のアッバヌス1䞖ぱスファハヌンに遷郜し、各皮の土朚建築事業を行っおサファノィヌ朝の最盛期を珟出した。1616幎にアッバヌス1䞖ずむギリス東むンド䌚瀟の間で貿易協定が結ばれるず、むギリス人のロバヌト・シャヌリヌの指導によりサファノィヌ朝の軍備が近代化された。
しかし、1629幎にアッバヌス1䞖が亡くなるず急速にサファノィヌ朝は匱䜓化し、1638幎にオスマン垝囜の反撃で珟圚のむラク領域を倱い、1639幎のでオスマン朝ずの間の囜境線が確定した。サファノィヌ朝は1736幎に滅亡し、その埌は政治的混乱が続いた。
こうしおむギリスずロシアをはじめずする倖囜からの干枉ず、内政の改進を行い埗ないガヌゞャヌル朝の囜王の䞋で、19䞖玀埌半のむランは列匷に数々の利暩を譲枡する挙に及んだ。1872幎のロむタヌ利暩のような倧芏暡な民族資産のむギリスぞの譲枡ず、ロシアによる金融業ぞの進出が進む䞀方、臣民の苊汁をよそに囜王ナヌセロッディヌン・シャヌは遊蕩を続けた。(1878幎–1880幎)では、(1879幎)を締結したが、戊争の二期目に突入し、むギリス軍は撀退した。
このような内憂倖患にむラン人は黙しお手を拱いおいたわけではなく、1890幎に囜王ナヌセロッディヌン・シャヌがむギリス人のゞェラルド・タルボトにタバコに関する利暩を䞎えたこずを契機ずしお、翌1891幎から十二むマヌム掟のりラマヌの䞻導でタバコ・ボむコット運動が発生し、1892幎1月4日に囜王ナヌセロッディヌン・シャヌをしおタバコ利暩の譲枡を撀回させるこずに成功した。
第四代囜王ナヌセロデッィヌン・シャヌが革呜家レザヌ・ケルマヌニヌに暗殺された埌、1896幎にモザッファロッディヌンが第五代ガヌゞャヌル朝囜王に即䜍した。だが、ナヌセロデッィヌン・シャヌの䞋で倧宰盞を務めたが留任し、政策に倉わりはなかったため、それたでの内憂倖患にも倉化はなかった。しかしながら1905幎に日露戊争にお日本がロシアに勝利するず、この日本の勝利は議䌚制ず倧日本垝囜憲法を有する立憲囜家の勝利だずむラン人には受け止められ、ガヌゞャヌル朝の専制に察する憲法の導入が囜民的な熱望の象城ずなり、同時期の蟲䜜物の䞍䜜ずコレラの発生などの瀟䌚䞍安を背景に、1905幎12月の砂糖商人ぞの鞭打ち事件を盎接の契機ずしお、むラン立憲革呜が始たった。むラン人は囜王に察しお議䌚 (majles) の開蚭を求め、これに気圧された囜王は1906幎8月5日に議䌚開蚭の勅什を発し、9月9日に遞挙法が公垃され、10月7日にむラン初の囜民議䌚 (Majiles-e Shoura-ye Melli) が召集された。しかしながらその埌の立憲革呜は、立憲掟ず専制掟の察立に加え、立憲掟内郚での穏健掟ず革呜掟の察立、曎には劎働者のストラむキや蟲民の反乱、1907幎にむランをそれぞれの勢力圏に分割する英露協商を結んだむギリスずロシアの介入、内戊の勃発等々が耇合的に進行した末に、1911幎にロシア垝囜軍の盎接介入によっお議䌚は立憲政府自らによっお解散させられ、ここに立憲革呜は終焉したのであった。なお、この立憲革呜の最䞭の1908幎5月にマスゞェド・゜レむマヌンで油田が発芋されおいる。
パフラノィヌ朝成立埌、1927幎よりレザヌ・パフラノィヌは䞍平等条玄砎棄、軍備増匷、民法、刑法、商法の西欧化、財政再建、近代的教育制床の導入、鉄道敷蚭、公衆衛生の拡充などの西欧化事業を進め、1931幎に瀟䌚䞻矩者、共産䞻矩者を匟圧する「反共立法」を議䌚に通した埌、1932幎を境に独裁化を匷めた。たた、ガヌゞャヌル朝が欠いおいた官僚制ず軍事力を背景に1935幎7月のゎヌハルシャヌド・モスク事件や1936幎の女性のノェヌル着甚の非合法化などによっお十二むマヌム掟のりラマヌに察抗し、反むスラヌム的な統治を行った。なお、むスラヌムよりもむラン民族䞻矩を重芖したパフラノィヌ1䞖の䞋で1934幎10月にフェルドりスィヌ生誕1,000呚幎蚘念祭が行われ、1935幎に囜号を正匏にペルシアからむランぞず倉曎しおいる。1930幎代埌半にはナチス・ドむツに接近し、1939幎に第二次䞖界倧戊が勃発するず、圓初は䞭立を維持しようずしたが、
1941幎8月25日に゜連軍ずむギリス軍がそれぞれ囜境を超えおむランに䟵攻。むラン軍は敗北し、むギリスず゜連によっお領土を分割された。むラン進駐䞋では1941幎9月16日にレザヌ・パフラノィヌが息子のモハンマド・レザヌ・パフラノィヌに垝䜍を譲䜍した他、芪゜掟共産党のトゥヌデ党が結成された。
1943幎11月30日には連合囜の銖脳が銖郜テヘランでテヘラン䌚談が開催された。その際、䌚議の䞻題ずは別に各銖脳らによっおむランの独立ず領土の保障に関する宣蚀曞に眲名が行われた。むラン囜民のご機嫌を取るためのゞェスチャヌずも評されたが、戊埌むランを特城づける舞台が敎えられた。たた、北郚の゜連軍占領地では自治運動が高揚し、1945幎12月12日にアれルバむゞャン囜民政府が、1946幎1月22日にはクルド人によっおマハヌバヌド共和囜が暹立されたが、䞡政暩は共にアフマド・ガノァヌム銖盞率いるテヘランの䞭倮政府によっお1946幎䞭にむランに再統合された。
1940幎代に囜民戊線を結成したモハンマド・モサッデク議員は、囜民の圧倒的支持を集めお1951幎4月に銖盞に就任した。モサッデグ銖盞はむギリス系アングロ・むラニアン石油䌚瀟から石油囜有化を断行した(石油囜有化運動)が、1953幎8月19日にアメリカ䞭倮情報局(CIA)ずむギリス秘密情報郚による呚到な蚈画(アゞャックス䜜戊、)によっお倱脚させられ、石油囜有化は倱敗に終わった。
1978幎に入るずテヘランで1䞇人芏暡の反政府デモが発生するようになり、8月31日には暎埒が銀行に攟火するなどした。この時、アヌダトッラヌ・ホメむニヌが台頭しおいた。
クルド人はむラン革呜を支持し、自治暩の獲埗を目指しおいたが、革呜成立埌の政府は受け入れずにむラン・クルディスタン民䞻党を非合法化。1979幎8月、クルド人はむラン西郚のケルマヌンシャヌ州や西アヌザルバヌむゞャヌン州の郜垂を占拠するなど倧芏暡な反乱を起こしたが、翌月たでに倧半が鎮圧された。
革呜による混乱が続く1980幎には隣囜むラクのサッダヌム・フセむン倧統領がアルゞェ協定を砎棄しおむラン南郚のフヌれスタヌン州に䟵攻し、むラン・むラク戊争が勃発した。この砎壊的な戊争はむラン・コントラ事件などの囜際瀟䌚の意向を巻き蟌み぀぀、1988幎たで続いた。
囜政䞊の改革掟ず保守掟の争いは、遞挙を通じお今日たで続くものである。保守掟候補マフムヌド・アフマディヌネゞャヌドが勝利した2005幎の倧統領遞挙でもこの点が欧米メディアに泚目された。
2013幎6月に実斜されたむラン倧統領遞挙では、保守穏健掟のハサン・ロりハヌニヌが勝利し、2013幎8月3日に第7代むラン・むスラヌム共和囜倧統領に就任した。
2021幎6月18日に投祚が行われたむラン倧統領遞挙では、゚ブラヌヒヌム・ラむヌスィヌが圓遞した。この遞挙では政界の有力者の倚くが出銬を犁じられ、立候補者が保守匷硬掟だらけずなったこずもあり、投祚率は著しく䜎迷した。
むランの政䜓は1979幎以降の憲法(ガヌヌヌネ・アサヌスィヌ)の芏定による立憲むスラヌム共和制である。政治制床的に耇数の評議䌚的組織があっお耇雑な関係をなしおいる。これらの評議䌚は、民䞻䞻矩的に遞挙によっお遞出される議員で構成されるもの、宗教的立堎によっお遞出されるもの、あるいは䞡者から構成されるものもある。以䞋で説明するのは1989幎修正憲法䞋での䜓制である。
むランの政治制床の特城は、䜕ずいっおも「法孊者の統治」である。これは、むスラヌム法孊者の解釈するむスラヌムが絶察的なものであるこずを前提ずし、珟実にむスラヌム法が実斜されおいるかを監督・指揮する暩限を、むスラヌム法孊者が持぀こずを保障する制床である。この制床は、シヌア掟むスラヌムならではの制床ずいっおよい。むランはシヌア掟のなかでも「十二むマヌム掟」に属するが、䞀般にシヌア掟の教矩では「むマヌム」こそが預蚀者の埌継者ずしお、「むスラヌムの倖面的・内面的芁玠を教埒に教え広める宗教的統率者」ずしおの圹割を担うずされおいる。シヌア掟はむゞュティハヌドの暩限を持぀むスラヌム法孊者を䞀般倧衆ずは区別し、この解釈暩を持぀むスラヌム法孊者(モゞュタヒド)に確固ずした政治的・宗教的地䜍を䞎えおいる。モゞュタヒドの最高䜍にあるのが、「マルゞャ゚・タグリヌド(暡倣の源泉、倧アヌダトッラヌ)」である。マルゞャ゚・タグリヌドはシヌア掟䞖界の最高暩嚁であるが、ロヌマ教皇のように必ず1人ず決たっおいるわけではなく、耇数人のマルゞャ゚・タグリヌドが䞊立するこずがある。1978幎から1979幎のむラン・むスラヌム革呜によっお、マルゞャ゚・タグリヌドの1人であったホメむニヌがむランの最高指導者ずなり、宗教的のみならず、政治的にも最高の地䜍に就くこずずなった。
むランでは立候補者の数が倚い。2000幎2月に行われた第6回囜䌚遞挙では、290名の定員に察し、7,000人近くが立候補し、2001幎の第8回倧統領遞挙では、840名が立候補した。
特に囜䌚遞挙では、投祚の際、投祚者が䞀名を遞択するのではなく、その遞挙区の定員数たで䜕人でも遞定するこずができる。埓っおテヘランのように30名もの定員がある遞挙区では、2, 3人しか遞ばない者もいれば、30人たで列蚘しお投祚する者もいる。぀たりどのような投祚結果になるか予想しにくい制床であるばかりか、死祚や祚の偏りがおこりやすい。テヘランのような倧郜䌚では、投祚が有名人に集䞭し、候補者は芏定祚を獲埗できず、第2ラりンドぞ持ち蟌たれるケヌスも倚い。囜䌚遞挙の堎合、投祚総数の䞉分の䞀を獲埗しなければ、たずえ定員数内の䞊䜍でも圓遞にはならない。そしお、第2ラりンドの遞挙になる。
しかし、こうしたやり方では遞挙費甚がかさむ䞊、第2・第3ラりンドずなれば遞挙結果が決たるたで時間がかかりすぎ囜䌚の空癜期間が生じる。そのため、2000幎1月䞊旬遞挙法の改正が行われ、第䞀ラりンドの圓遞をこれたでの投祚総数の3分の1から25パヌセント以䞊獲埗すれば圓遞ずし、第2ラりンドでは、埓来通り投祚総数の50パヌセント獲埗すれば圓遞ずいうように改正された。
護憲評議䌚は、遞挙の際に、立候補者の資栌審査(遞挙資栌を満たしおいるか吊か)を行なっおいる。
倧統領は最高指導者の専暩事項以倖で、執行機関たる行政府の長ずしお憲法に埓っお政策を執行する。法什により倧統領遞立候補者は遞挙運動以前に監督者評議䌚による審査ず承認が必芁で、囜民による盎接普通遞挙の結果、絶察倚数祚を集めた者が倧統領に遞出される。任期は4幎。再遞は可胜だが連続3遞は犁止されおいる。倧統領は就任埌閣僚を指名し、閣議を䞻宰し行政を監督、政策を調敎しお議䌚に法案を提出する。倧統領および8人の副倧統領ず21人の閣僚で(閣議)が圢成される。副倧統領、倧臣は就任に圓たっお議䌚の承認が必芁である。銖盞職は1989幎の憲法改正により廃止された。たたむランの堎合、行政府は軍を統括しない。
議䌚は「マゞレセ・ショりラヌむェ・゚スラヌミヌ Majles-e showrā-ye eslāmī」(むスラヌム議䌚)ずいい、䞀院制である。立法府ずしおの暩胜を持ち、立法のほか、条玄の批准、囜家予算の認可を行う。議員は任期4幎で290人からなり、囜民の盎接遞挙によっお遞出される。議䌚ぞの立候補にあたっおは監督者評議䌚による審査が行われ、承認がなければ立候補リストに掲茉されない。この審査は“改革掟”に特に厳しく、䟋えば2008幎3月の遞挙においおは7,600人が立候補を届け出たが、事前審査で玄2,200人が倱栌ずなった。その倚くがハヌタミヌ元倧統領に近い改革掟であったこずから、議䌚が本圓に民意を反映しおいるのか疑問芖する声もある。たた、議䌚による立法のいずれに぀いおも監督者評議䌚の承認を必芁ずする。日本語の報道では囜䌚ずも衚蚘される。
専門家䌚議は囜民の遞挙によっお遞出される「善良で博識な」86人のむスラヌム知識人から構成される。1幎に1回招集され䌚期は玄1週間。遞挙の際は倧統領遞、議䌚遞ず同じく、立候補者は監督者評議䌚の審査ず承認を受けなければならない。専門家䌚議は最高指導者を遞出する暩限を持぀。これたで専門家䌚議が最高指導者に察しお疑問を呈瀺したこずはないが、憲法の芏定䞊、専門家䌚議は最高指導者の眷免暩限も持぀。
監督者評議䌚は12人の法孊者から構成され、半数を構成するむスラヌム法孊者6人を最高指導者が指名し、残り半数の䞀般法孊者6人を最高叞法暩長が指名する。これを議䌚が公匏に任呜する。監督者評議䌚は憲法解釈を行い、議䌚可決法案がシャリヌア(むスラヌム法)に適うものかを審議する暩限をも぀。したがっお議䌚に察する拒吊暩をも぀機関であるずいえよう。議䌚可決法案が審議によっお憲法あるいはシャリヌアに反するず刀断された堎合、法案は議䌚に差し戻されお再審議される。日本の報道では護憲評議䌚ず蚳されるが、やや意味合いが異なる。
公益刀別䌚議は議䌚ず監督者評議䌚のあいだで䞍䞀臎があった堎合の仲裁をおこなう暩限を持぀。たた最高指導者の諮問機関ずしおの圹割を持ち、囜家においお最も匷力な機関の䞀぀である。
最高叞法暩長は最高指導者によっお任じられ、最高裁刀所長官および怜事総長を任じる。䞀般法廷が、通垞の民事・刑事蚎蚟を扱い、囜家安党保障にかかわる問題に぀いおは革呜法廷が扱う。革呜法廷の刀決は確定刀決で䞊蚎できない。たたむスラヌム法孊者特別法廷は法孊者による犯眪を扱うが、事件に䞀般人が関䞎した堎合の裁刀もこちらで取り扱われる。むスラヌム法孊者特別法廷は通垞の叞法䜓制からは独立し、最高指導者に察しお盎接に責任を持぀。同法廷の刀決も最終的なもので䞊蚎できない。
2009幎珟圚のむラン政府の察倖政策の基本的な思想は、むスラ゚ルを陀く党おの囜家、囜民ずの公正か぀盞互的な関係構築をするこずである。
䞡囜はそれぞれシヌア掟ずスンナ掟の盟䞻ずであるため、床々囜亀断絶などの察立を繰り返しおきた。近幎ではむラク戊争やアラブの春の混乱で、むラク・シリア・゚ゞプトなどの䞭東の有力囜が囜力を萜ずす䞭、盞察的に䞭東におけるむランずサりゞアラビアの圱響力が拡倧した。シリア内戊やむ゚メン内戊では異なる勢力を支揎し事実䞊の代理戊争の様盞を呈しおいた他、2016幎には囜亀断絶が起きるように、察立が衚面化しおいた。
むランず米囜の倖亀関係は1856幎から始たり、むランにずっお米囜はペルシャ湟情勢においお圧ずなっおいたむギリスずロシアず察峙できる第䞉勢力だったこずもあり、第二次䞖界倧戊たでの関係は良奜だった。特に、1925幎にパフラノィヌ朝を開いたレザヌ・パフラノィヌ皇垝(シャヌ)は、米囜から財政顧問官を招聘しお財政改革にあたるなど傟倒しおいた。
第二次䞖界倧戊埌、冷戊時代に入るず、むランは゜連の隣囜であるこずや産油囜の䞭東における倧囜であるこずから、米囜に䞭東政策の柱ずしお目を付けられる。1951幎にモハンマド・モサッデクが銖盞に就任し、石油を囜有化するなど独立色を匷めるず、米囜ずむギリスの情報機関(CIAずMI6)は1953幎のクヌデタヌを䞻導した。こうしお埩暩した1953幎-1978幎のパフラノィヌ2䞖政暩は、事実䞊米囜の傀儡政暩であったため、米囜ずの関係は質量ずもに重倧だった。この頃は、米囜がむランの栞開発を支揎しおいた。同時に、米囜はむランの石油を倧量に手に入れ、芇暩囜家の立堎を確立した。
内政干枉ずしおは、2009幎のむランの反アフマディヌネゞャヌド掟の倧芏暡なデモにむギリス倧䜿通の関係者が関䞎しおいたこずが知られおいるが、むラン情報省海倖担圓次官は、倧統領遞挙埌のデモの発生に米囜ずペヌロッパの財団・機関が関䞎しおいた事実があったずしお「゜フトな戊争」(実際的な戊争などでない、内政干枉など)を仕掛ける60の欧米団䜓の実名をむランのメディアに察しお公衚し、米囜政府もむランの䜓制を壊す目的で工䜜しおいたず発衚した。2020幎1月には、米囜がむラン革呜防衛隊叞什官ガヌセム・゜レむマヌニヌを殺害した。
むランにおける栞開発は、1950幎代の米傀儡政暩䞋に始たる。1957幎、圓時のドワむト・D・アむれンハワヌ米倧統領により「原子力の平和利甚研究協力協定案」が発衚され、基瀎が築かれた。その埌、実隓炉ず濃瞮りランが提䟛され、原子力発電所の建蚭蚈画も合意されたが、むラン革呜で反米政暩になるず状況は䞀倉。1970幎代に様々な囜ず原子力協力協定を結び、原子力技術移転を目指したが、むスラ゚ルず繋がりの深い米囜等の圧力により進たず、自䞻開発を始めた。秘密裏に行っおいたため、2002幎に暎露されるず、翌幎にはIAEA理事䌚から開発の停止を求められた。しかし、むランは続行したため、欧米ずの察立が起きた。
むラン政府は自囜の栞開発問題に぀いお、栞゚ネルギヌの生産を目指すもので、栞兵噚開発ではないず今たでに䞀貫しお衚明しおきおおり、アフマディネゞャド倧統領は「栞爆匟は持っおはならないものだ」ずアメリカのメディアに察しお明蚀しおいる(『Newsweek』誌2009幎10月7日号)。欧米のむランの栞゚ネルギヌ開発は認められない、ずいう論理は決しお䞖界共通のものではない。新興囜のトルコやブラゞル、たた、ベネズ゚ラ・キュヌバ・゚ゞプトその他の非同盟諞囜は「栞゚ネルギヌの開発はむランの暩利である」ずいうむランの立堎に理解を瀺し、圓然であるずしお支持しおいる。2009幎10月27日のアフマディヌネゞャヌド倧統領ずの䌚談の䞭で、トルコの゚ルドアン銖盞はむランの栞(゚ネルギヌ)保有の暩利があるず匷調し、「地球䞊で非栞の呌びかけを行う者はたず最初に自分の囜から始めるべきだ」ず述べた。たた、ブラゞルのルむス・むナシオ・ルヌラ・ダ・シルノァ倧統領は『Newsweek』誌2009幎10月21日号でむランのりラン濃瞮の暩利を支持しおいるこずが報じられおおり、ベネズ゚ラのりゎ・チャベス倧統領は2006幎7月のアフリカ連合 (AU) 銖脳䌚議に招かれた際、むランの栞開発に぀いお「平和利甚のための栞技術を発展させる暩利がむランにないずいうのか。明らかにある」ず断蚀しおいる。2006幎9月の第14回非同盟諞囜銖脳䌚議では、むランによる平和利甚目的の栞開発の暩利を確認する宣蚀等を採択され、䌚議の議長囜キュヌバや゚ゞプトもこれを支持しおいる。
栞兵噚開発に぀いおは、IAEAや敵察するむスラ゚ルも吊定するこずずなるが、栞技術開発自䜓認めない欧米諞囜の圧力は止たらず、むランも無芖したこずで、2012幎に米囜ずEUからむラン産原油茞入を経枈制裁の察象にされ、実質GDP成長率は前幎比マむナス8.4%にもなった。2013幎に穏健掟のロりハヌニヌが倧統領になるず協議は進み、2015幎に最終的な栞合意に至った。これによりGDPは急回埩を芋せたが、2018幎にむスラ゚ル寄りのドナルド・トランプ米倧統領が䞀方的に合意を砎棄し、SWIFT排陀も含めた経枈制裁を再開するず、経枈は再び急萜した。もっずも、これにより囜産技術が発展したずいう面もある。たた、米囜の行動に察し、ロりハニ倧統領は栞合意から離脱はしないが、栞合意を遵守するわけでもないずいう挔説を行い、栞開発を再開。2021幎にゞョヌ・バむデンが米倧統領に就任しおからは協議が再開したが溝は深く、2022幎7月にはむスラ゚ルメディアのむンタビュヌで、バむデンがむラン攻撃の可胜性も瀺した。その埌、むラン偎は最高指導者顧問ず原子力庁長官が栞兵噚補造は可胜だがしないず発蚀した。
聖地むェルサレムでも同時期に䌌たような反むスラヌム的行為が行われた。
このような事件に察しお最高指導者アリヌ・ハヌメネむヌはメッセヌゞのなかで、むスラヌム教埒ずキリスト教埒を察立させるこずが、この事件の真の銖謀者の望みであるずし、「キリスト教䌚やキリスト教ずは関係がなく、数名の雇われた人間の行動を、キリスト教埒党䜓のものず考えるべきではない」、「我々むスラヌム教埒が、他の宗教の神聖に察しお同じような行動に出るこずはない。クルアヌンが我々に教える事柄は、その察極にある」ず衚明した。
元ムスリム(むスラヌム教埒)のサルマン・ラシュディが曞いた1989幎出版の『悪魔の詩』はむスラヌムの預蚀者ムハンマドに぀いお扱っおいるが、その内容ず、この人物が元ムスリムであったこずから発衚の埌、各囜のムスリムの倧きな非難ず反発を招いた。1991幎7月に起きた日本の茚城県぀くば垂内で筑波倧孊助教授が䜕者かによっお殺された事件(未解決)は、これを蚳しお出版したこずが原因ではないかず考えられおいる。詳现は悪魔の詩を参照。
むランは栞拡散防止条玄 (NPT) に加盟しおいるが、囜際瀟䌚からむランの栞開発問題が問題芖されおいる。
むランは31の州(オスタヌン)からなっおいる。
むランの人口䞊䜍5郜垂は以䞋の通り(郜垂圏の人口ではない)。
むランは北西にアれルバむゞャン(囜境線の長さは432 km。以䞋同様)、アルメニア (35 km) ず囜境を接する。北にはカスピ海に臚み、北東にはトルクメニスタン (992 km) がある。東にはパキスタン (909 km) ずアフガニスタン (936 km)、西にはトルコ (499 km) ずむラク (1,458 km) ず接し、南にはペルシア湟ずオマヌン湟が広がる。面積は1,648,000 km2で、うち陞地面積が1,636,000 km2、氎面積が12,000 km2であり、ほがアラスカの面積に盞圓する。
むランの景芳では無骚な山々が卓越し、これらの山々が盆地や台地を互いに切り離しおいる。むラン西半郚はむランでも人口皠密であるが、この地域は特に山がちでザヌグロス山脈やむランの最高峰ダマヌノァンド山 (暙高: 5,604 m) を含むアルボルズ山脈がある。䞀方、むランの東半は塩分を含むキャビヌル砂挠、ルヌト砂挠のような無人に近い砂挠地垯が広がり、塩湖が点圚する。
平野郚はごくわずかで、倧きなものはカスピ海沿岞平野ずアルノァンド川(シャットゥルアラブ川)河口郚にあたるペルシア湟北端の平野だけである。その他小芏暡な平野郚はペルシア湟、ホルムズ海峡、オマヌン湟の沿岞郚に点圚する。むランは、いわゆる「人類揺籃の地」を構成する15か囜のうちの1぀ず考えられおいる。
党般的には倧陞性気候で暙高が高いため寒暖の差が激しい。特に冬季はペルシャ湟沿岞郚やオマヌン湟沿岞郚を陀くずほが党域で寒さが厳しい。囜土の倧郚分が砂挠気候あるいはステップ気候であるが、ラシュトに代衚されるむラン北端郚(カスピ海沿岞平野)は枩暖湿最気候に属し、冬季の気枩は0°C前埌たで䞋がるが、幎間を通じお湿最な気候であり、倏も29°Cを䞊回るこずは皀である。幎間降氎量は同平野東郚で680 mm、西郚で1700 mm以䞊ずなる。テヘランなどの内陞高地はステップ気候から砂挠気候に属し、冬季は寒く、最䜎気枩は氷点䞋10床前埌たで䞋がるこずもあり降雪もある。䞀方、倏季は也燥しおいお暑く日䞭の気枩は40床近くになる。ハマダヌン、アルダビヌルやタブリヌズなどのあるむラン西郚の高地は、ステップ気候から亜寒垯に属し、冬は非垞に寒さが厳しく、山岳地垯では豪雪ずなり厳しい季節ずなる。特に暙高1,850 mに䜍眮するハマダヌンでは最䜎気枩が-30床に達するこずもある。むラン東郚の䞭倮盆地は也燥しおおり、幎間降氎量は200 mmに満たず、砂挠が広がる砂挠気候ずなる。特にパキスタンに近い南東郚砂挠地垯の倏の平均気枩は38°Cにも達する酷暑地垯ずなる。ペルシア湟、オマヌン湟沿岞のむラン南郚では、冬は穏やかで、倏には枩床・湿床ずもに非垞に高くなり平均気枩は35°C前埌ず酷暑ずなる。幎間降氎量は135 mmから355 mmほどである。