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治承・寿永の乱 | 頼朝は、寿永二年十月宣旨に基づく東国の年貢の納入を実行すると称して源義経らを上洛させた | a184574p19q1 | [
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"text": "治承・寿永の乱"
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] | false | 治承・寿永の乱 [SEP] 頼朝は、寿永二年十月宣旨に基づく東国の年貢の納入を実行すると称して源義経らを上洛させた。この情報を聞いた義仲は平氏との戦いを切り上げて、閏10月15日に帰京する。義経軍は11月初めには近江まで到達し、味方の離反もあり孤立感を深めていった義仲は、11月19日、法住寺殿を襲撃して後白河法皇を幽閉し、松殿師家を摂政とする傀儡政権を樹立する(法住寺合戦)。義仲は法皇に迫って源頼朝追討の院庁下文を発給させ、翌寿永3年(1184年)正月には征東大将軍となり、形式的には官軍の体裁を整えた。 |
治承・寿永の乱 | 後白河法皇を幽閉した日にちはいつか。 | a184574p19q2 | [
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"text": "11月19日"
}
] | false | 治承・寿永の乱 [SEP] 頼朝は、寿永二年十月宣旨に基づく東国の年貢の納入を実行すると称して源義経らを上洛させた。この情報を聞いた義仲は平氏との戦いを切り上げて、閏10月15日に帰京する。義経軍は11月初めには近江まで到達し、味方の離反もあり孤立感を深めていった義仲は、11月19日、法住寺殿を襲撃して後白河法皇を幽閉し、松殿師家を摂政とする傀儡政権を樹立する(法住寺合戦)。義仲は法皇に迫って源頼朝追討の院庁下文を発給させ、翌寿永3年(1184年)正月には征東大将軍となり、形式的には官軍の体裁を整えた。 |
治承・寿永の乱 | 保元の乱・平治の乱といった軍事衝突に発展するようになった原因は | a184574p2q0 | [
{
"answer_start": 21,
"text": "朝家・貴族内部の権力闘争"
}
] | false | 治承・寿永の乱 [SEP] 平安時代末期、朝家・貴族内部の権力闘争が、保元の乱・平治の乱といった軍事衝突に発展するようになった。こうした内乱で大きな働きをした平清盛は、対立を深める後白河上皇と二条天皇の間をうまく渡り歩き、さらに摂政近衛基実と姻戚関係を結ぶなど、政界に於ける地位を上昇させていく。清盛の地位向上に伴い、平氏一門の官位も上昇、知行国を次第に増やしていった。 |
治承・寿永の乱 | 保元の乱・平治の乱といった軍事衝突の基となったことは何か。 | a184574p2q1 | [
{
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"text": "朝家・貴族内部の権力闘争"
}
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治承・寿永の乱 | 平安時代末期、内乱で大きな働きをして政界に於ける地位を上昇さた武将は | a184574p2q2 | [
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"text": "平清盛"
}
] | false | 治承・寿永の乱 [SEP] 平安時代末期、朝家・貴族内部の権力闘争が、保元の乱・平治の乱といった軍事衝突に発展するようになった。こうした内乱で大きな働きをした平清盛は、対立を深める後白河上皇と二条天皇の間をうまく渡り歩き、さらに摂政近衛基実と姻戚関係を結ぶなど、政界に於ける地位を上昇させていく。清盛の地位向上に伴い、平氏一門の官位も上昇、知行国を次第に増やしていった。 |
治承・寿永の乱 | 平安時代末期、朝家・貴族内部の権力闘争の名は | a184574p2q3 | [
{
"answer_start": 35,
"text": "保元の乱・平治の乱"
}
] | false | 治承・寿永の乱 [SEP] 平安時代末期、朝家・貴族内部の権力闘争が、保元の乱・平治の乱といった軍事衝突に発展するようになった。こうした内乱で大きな働きをした平清盛は、対立を深める後白河上皇と二条天皇の間をうまく渡り歩き、さらに摂政近衛基実と姻戚関係を結ぶなど、政界に於ける地位を上昇させていく。清盛の地位向上に伴い、平氏一門の官位も上昇、知行国を次第に増やしていった。 |
治承・寿永の乱 | 後白河上皇と二条天皇の間をうまく渡り歩き、さらに摂政近衛基実と姻戚関係を結ぶなど、政界に於ける地位を上昇させていったのはだれか | a184574p2q4 | [
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"answer_start": 79,
"text": "平清盛"
}
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治承・寿永の乱 | 義経軍は義仲軍と交戦して宇治の防衛線を突破した戦の名は? | a184574p20q0 | [
{
"answer_start": 102,
"text": "宇治川の戦い"
}
] | false | 治承・寿永の乱 [SEP] このような情勢下、頼朝は弟の源範頼を新たに援軍として派遣し、正月20日、範頼軍と義経軍は、それぞれ勢多と田原から総攻撃を開始する。義経軍は義仲軍と交戦して宇治の防衛線を突破し(宇治川の戦い)、そのまま入洛して法皇の身柄を確保した。義仲は近江粟津で戦死した。 |
治承・寿永の乱 | 範頼軍と義経軍は、それぞれ勢多と田原から総攻撃を開始するのは何時か? | a184574p20q1 | [
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"text": "正月20日"
}
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治承・寿永の乱 | このような情勢下、頼朝は弟の源範頼を新たに援軍として派遣し、正月20日、範頼軍と義経軍は、それぞれ勢多と田原から総攻撃を開始する | a184574p20q2 | [
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"text": "治承・寿永の乱"
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治承・寿永の乱 | 元暦元年は西暦何年? | a184574p21q0 | [
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"text": "1184年"
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] | false | 治承・寿永の乱 [SEP] 一ノ谷の戦いの後、頼朝は義経を総指揮者として畿内西国の軍事体制を整える。土肥実平・梶原景時が山陽道に、大内惟義・大井実春らが伊勢・伊賀に配備されるが、実平・景時は平氏軍の反攻に苦しみ、頼朝は義経を総大将として西国に遠征軍を送ることを検討した。だが、その矢先の元暦元年(1184年)7月、平田家継・藤原忠清ら伊勢・伊賀の平氏家人が軍事蜂起する。激戦の末に反乱は鎮圧されるが佐々木秀義が討死するなど鎌倉方御家人にも大きな被害が及んだ。この乱の影響で義経は畿内の治安維持に専念せざるを得なくなり、代わりに範頼が西国遠征の指揮を執ることになる。 |
治承・寿永の乱 | 一ノ谷の戦いの後、頼朝は義経を総指揮者として畿内西国の軍事体制を整える | a184574p21q1 | [
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"text": "治承・寿永の乱"
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治承・寿永の乱 | 頼朝は義経を総指揮者として畿内西国の軍事体制を整えるのは何時か? | a184574p21q2 | [
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治承・寿永の乱 | 頼朝は義経を総指揮者として畿内西国を整えたのはどの戦のあとか? | a184574p21q3 | [
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"text": "一ノ谷の戦い"
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治承・寿永の乱 | 頼朝によって殺害された甲斐源氏の名は? | a184574p22q0 | [
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"text": "一条忠頼"
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治承・寿永の乱 | 独立性の高い京武者とは? | a184574p22q1 | [
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"text": "畿内周辺の軍事貴族"
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治承・寿永の乱 | 一方、東国では頼朝によって甲斐源氏の一条忠頼が殺害され、甲斐・信濃に対して軍事力が行使された | a184574p22q2 | [
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"text": "治承・寿永の乱"
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治承・寿永の乱 | 平氏が敗れた一ノ谷の戦いの名前は何か? | a184574p23q0 | [
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"text": "治承・寿永の乱"
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] | false | 治承・寿永の乱 [SEP] 一ノ谷の戦いで敗れた平氏は讃岐屋島に陣を構えて内裏を置いた。8月、西国へ向かった範頼軍は当初は順調に山陽道を制圧したが、やがて長く延びた戦線を平氏の水軍によって分断された。また、関門海峡も平知盛によって封鎖されて兵糧不足に陥り進軍は停滞した。この状況をみた義経は元暦2年(1185年)正月、後白河法皇に西国への出陣を奏上してその許可を得る。同年2月、義経は阿波勝浦へ上陸後、在地武士を味方に引き入れて背後から屋島を急襲し、平氏を追い落とした(屋島の戦い)。 |
治承・寿永の乱 | 一ノ谷の戦いで敗れた平氏はどこに陣を構えて内裏を置いたか? | a184574p23q1 | [
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"text": "讃岐屋島"
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治承・寿永の乱 | 西国へ向かった範頼軍は当初は順調に山陽道を制圧したのはいつ? | a184574p23q2 | [
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治承・寿永の乱 | 義経が阿波勝浦へ上陸後、在地武士を味方に引き入れて背後から屋島を急襲し、平氏を追い落としたのは? | a184574p23q3 | [
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"text": "屋島の戦い"
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治承・寿永の乱 | 西進した源範頼軍の糧道を断つために関門海峡を封鎖したのは誰か | a184574p23q4 | [
{
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"text": "平知盛"
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治承・寿永の乱 | 屋島の戦いの後、瀬戸内海の制海権を失った平氏軍はどこに逃れたか? | a184574p24q0 | [
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"text": "長門"
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] | false | 治承・寿永の乱 [SEP] 屋島の戦いの後、瀬戸内海の制海権を失った平氏軍は長門へ撤退する。熊野別当湛増が率いる熊野水軍や、河野通信らの伊予水軍を始めとする中国・四国の武士が続々と義経軍に加わり、時を同じくして範頼軍が九州を制圧したことで、平氏は完全に包囲される形となった。 |
治承・寿永の乱 | 屋島の戦いの後、瀬戸内海の制海権を失った平氏軍はどこへ撤退したか? | a184574p24q1 | [
{
"answer_start": 38,
"text": "長門"
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治承・寿永の乱 | 平氏軍は瀬戸内海で何を失った? | a184574p24q2 | [
{
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"text": "制海権"
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治承・寿永の乱 | 屋島の戦いの後、瀬戸内海の制海権を失った平氏軍はどこへ撤退した? | a184574p24q3 | [
{
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"text": "長門"
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] | false | 治承・寿永の乱 [SEP] 屋島の戦いの後、瀬戸内海の制海権を失った平氏軍は長門へ撤退する。熊野別当湛増が率いる熊野水軍や、河野通信らの伊予水軍を始めとする中国・四国の武士が続々と義経軍に加わり、時を同じくして範頼軍が九州を制圧したことで、平氏は完全に包囲される形となった。 |
治承・寿永の乱 | 屋島の戦いの後、平氏軍が撤退したのは旧国名で言えばどこか | a184574p24q4 | [
{
"answer_start": 38,
"text": "長門"
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] | false | 治承・寿永の乱 [SEP] 屋島の戦いの後、瀬戸内海の制海権を失った平氏軍は長門へ撤退する。熊野別当湛増が率いる熊野水軍や、河野通信らの伊予水軍を始めとする中国・四国の武士が続々と義経軍に加わり、時を同じくして範頼軍が九州を制圧したことで、平氏は完全に包囲される形となった。 |
治承・寿永の乱 | 壇ノ浦の戦いはいつ? | a184574p25q0 | [
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"answer_start": 14,
"text": "元暦2年(1185年)3月24日"
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] | false | 治承・寿永の乱 [SEP] 元暦2年(1185年)3月24日、関門海峡の壇ノ浦で最後の戦いが行われた(壇ノ浦の戦い)。序盤は平氏が優勢であったが、やがて劣勢となっていく。阿波水軍の裏切りもあり平氏の敗色が濃厚となるに従って、平氏の武将は海へ身を投じていき、安徳天皇と二位尼も三種の神器とともに入水した。この戦いで平氏は滅亡した。 |
治承・寿永の乱 | 関門海峡の壇ノ浦で最後の戦いが行われたのはいつ? | a184574p25q1 | [
{
"answer_start": 14,
"text": "元暦2年(1185年)3月24日"
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] | false | 治承・寿永の乱 [SEP] 元暦2年(1185年)3月24日、関門海峡の壇ノ浦で最後の戦いが行われた(壇ノ浦の戦い)。序盤は平氏が優勢であったが、やがて劣勢となっていく。阿波水軍の裏切りもあり平氏の敗色が濃厚となるに従って、平氏の武将は海へ身を投じていき、安徳天皇と二位尼も三種の神器とともに入水した。この戦いで平氏は滅亡した。 |
治承・寿永の乱 | 関門海峡の壇ノ浦で最後の戦いが行われた(壇ノ浦の戦い)はいつか? | a184574p25q2 | [
{
"answer_start": 14,
"text": "元暦2年(1185年)3月24日"
}
] | false | 治承・寿永の乱 [SEP] 元暦2年(1185年)3月24日、関門海峡の壇ノ浦で最後の戦いが行われた(壇ノ浦の戦い)。序盤は平氏が優勢であったが、やがて劣勢となっていく。阿波水軍の裏切りもあり平氏の敗色が濃厚となるに従って、平氏の武将は海へ身を投じていき、安徳天皇と二位尼も三種の神器とともに入水した。この戦いで平氏は滅亡した。 |
治承・寿永の乱 | 元暦2年(1185年)3月24日、関門海峡の壇ノ浦で最後の戦いが行われたのは何と呼ばれている? | a184574p25q3 | [
{
"answer_start": 51,
"text": "壇ノ浦の戦い"
}
] | false | 治承・寿永の乱 [SEP] 元暦2年(1185年)3月24日、関門海峡の壇ノ浦で最後の戦いが行われた(壇ノ浦の戦い)。序盤は平氏が優勢であったが、やがて劣勢となっていく。阿波水軍の裏切りもあり平氏の敗色が濃厚となるに従って、平氏の武将は海へ身を投じていき、安徳天皇と二位尼も三種の神器とともに入水した。この戦いで平氏は滅亡した。 |
治承・寿永の乱 | 壇ノ浦の戦いが行われた年を西暦で答えよ | a184574p25q4 | [
{
"answer_start": 19,
"text": "1185年"
}
] | false | 治承・寿永の乱 [SEP] 元暦2年(1185年)3月24日、関門海峡の壇ノ浦で最後の戦いが行われた(壇ノ浦の戦い)。序盤は平氏が優勢であったが、やがて劣勢となっていく。阿波水軍の裏切りもあり平氏の敗色が濃厚となるに従って、平氏の武将は海へ身を投じていき、安徳天皇と二位尼も三種の神器とともに入水した。この戦いで平氏は滅亡した。 |
治承・寿永の乱 | 弓騎兵だった武者は何に変化していった? | a184574p26q0 | [
{
"answer_start": 278,
"text": "打物騎兵"
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] | false | 治承・寿永の乱 [SEP] それまでの合戦は従者を従えた正規の武士が名乗りを上げ騎射から始めるなど、一定の作法がある戦いであったが、この乱では戦闘の大規模化により正規の武士と従者だけでは人員が不足し、動員対象が騎射に習熟していない未熟な武士や、本来は非武士階級である村落領主クラスにまで拡大したとされる。また馬術や弓術に不慣れな者が多く参加したことから、これまでの合戦ではルール違反とされていた、相手の馬への攻撃や馬による体当たりが行われるようになり、本来は矢が無くなったり馬を下りた際に使う太刀の馬上使用も増加した。これ以降、弓騎兵だった武者は太刀を使う打物騎兵に変化していった。 |
治承・寿永の乱 | 弓騎兵だった武者は何を使う打物騎兵に変化していった? | a184574p26q1 | [
{
"answer_start": 246,
"text": "太刀"
}
] | false | 治承・寿永の乱 [SEP] それまでの合戦は従者を従えた正規の武士が名乗りを上げ騎射から始めるなど、一定の作法がある戦いであったが、この乱では戦闘の大規模化により正規の武士と従者だけでは人員が不足し、動員対象が騎射に習熟していない未熟な武士や、本来は非武士階級である村落領主クラスにまで拡大したとされる。また馬術や弓術に不慣れな者が多く参加したことから、これまでの合戦ではルール違反とされていた、相手の馬への攻撃や馬による体当たりが行われるようになり、本来は矢が無くなったり馬を下りた際に使う太刀の馬上使用も増加した。これ以降、弓騎兵だった武者は太刀を使う打物騎兵に変化していった。 |
治承・寿永の乱 | 治承・寿永の乱において、これまでの合戦ではルール違反とされていた、相手の何への攻撃や何による体当たりが行われるようにったか? | a184574p26q2 | [
{
"answer_start": 154,
"text": "馬"
}
] | false | 治承・寿永の乱 [SEP] それまでの合戦は従者を従えた正規の武士が名乗りを上げ騎射から始めるなど、一定の作法がある戦いであったが、この乱では戦闘の大規模化により正規の武士と従者だけでは人員が不足し、動員対象が騎射に習熟していない未熟な武士や、本来は非武士階級である村落領主クラスにまで拡大したとされる。また馬術や弓術に不慣れな者が多く参加したことから、これまでの合戦ではルール違反とされていた、相手の馬への攻撃や馬による体当たりが行われるようになり、本来は矢が無くなったり馬を下りた際に使う太刀の馬上使用も増加した。これ以降、弓騎兵だった武者は太刀を使う打物騎兵に変化していった。 |
治承・寿永の乱 | 本来は矢が無くなったり馬を下りた際に使うようになった武器とは何か。 | a184574p26q3 | [
{
"answer_start": 246,
"text": "太刀"
}
] | false | 治承・寿永の乱 [SEP] それまでの合戦は従者を従えた正規の武士が名乗りを上げ騎射から始めるなど、一定の作法がある戦いであったが、この乱では戦闘の大規模化により正規の武士と従者だけでは人員が不足し、動員対象が騎射に習熟していない未熟な武士や、本来は非武士階級である村落領主クラスにまで拡大したとされる。また馬術や弓術に不慣れな者が多く参加したことから、これまでの合戦ではルール違反とされていた、相手の馬への攻撃や馬による体当たりが行われるようになり、本来は矢が無くなったり馬を下りた際に使う太刀の馬上使用も増加した。これ以降、弓騎兵だった武者は太刀を使う打物騎兵に変化していった。 |
治承・寿永の乱 | 治承・寿永の乱で正規の武士と従者だけでは人員が不足した理由として上記文中で挙げられている理由を述べよ | a184574p26q4 | [
{
"answer_start": 71,
"text": "戦闘の大規模化"
}
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治承・寿永の乱 | 乱の以前、平氏政権が多くの知行国を保有するに至った権力とは? | a184574p27q0 | [
{
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"text": "軍事・警察権"
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] | false | 治承・寿永の乱 [SEP] 乱の以前、平氏政権は軍事・警察権を握り、多くの知行国を保有していた。このために、平氏政権に権益を奪われた旧勢力(王家、貴族、寺社)により平氏政権の排除が企図された。最終的にはそれが成功したのだが、旧勢力は平氏政権が保有していた権益をすべて奪還することはできなかった。 |
治承・寿永の乱 | 平氏政権に権益を奪われた旧勢力として三例が挙げられている。王家・貴族と何か。 | a184574p27q1 | [
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"text": "寺社"
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治承・寿永の乱 | 平氏政権に権益を奪われたのは? | a184574p27q2 | [
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"text": "旧勢力"
}
] | false | 治承・寿永の乱 [SEP] 乱の以前、平氏政権は軍事・警察権を握り、多くの知行国を保有していた。このために、平氏政権に権益を奪われた旧勢力(王家、貴族、寺社)により平氏政権の排除が企図された。最終的にはそれが成功したのだが、旧勢力は平氏政権が保有していた権益をすべて奪還することはできなかった。 |
治承・寿永の乱 | 治承・寿永の乱の以前、何政権は軍事・警察権を握り、多くの知行国を保有していたか? | a184574p27q3 | [
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"text": "平氏"
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治承・寿永の乱 | の以前、平氏政権は何の権を握ていた? | a184574p27q4 | [
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"text": "軍事・警察"
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治承・寿永の乱 | 平氏政権を排除する軍事力を持っていたのはだれか | a184574p28q0 | [
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"answer_start": 48,
"text": "武士層"
}
] | false | 治承・寿永の乱 [SEP] 旧勢力に平氏政権を排除する力(軍事力)はなく、その力を持っていたのは武士層であった。当初、東国や北陸で勃興した反平氏勢力は平氏追討を建前として掲げてはいたが、本音では自らの権利の確保、そして中央政府からの一定範囲での独立を真の目的としていた。旧勢力は平氏打倒という目的のためには実際に追討に携わる関東政権に依存しなければならず、寿永二年十月宣旨の発給といった大幅な権限委譲の道を開いてしまう。 |
治承・寿永の乱 | 反平氏勢力の真の目的は何 | a184574p28q1 | [
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"text": "中央政府からの一定範囲での独立"
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治承・寿永の乱 | 平氏政権を排除する力を持っていたのはどの層? | a184574p28q2 | [
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"text": "武士層"
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治承・寿永の乱 | 平氏政権を排除する力を持っていたのは誰? | a184574p28q3 | [
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"text": "武士層"
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治承・寿永の乱 | 治承・寿永の乱でなにがもたらされたか | a184574p29q0 | [
{
"answer_start": 21,
"text": "鎌倉幕府の成立"
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] | false | 治承・寿永の乱 [SEP] その結果として鎌倉幕府の成立がもたらされる。草創期の鎌倉幕府は東国の支配権を有するのみだったが、それは当時の幕府を構成する武士たちにとって十分満足できる結果だったはずである。 |
治承・寿永の乱 | 草創期の鎌倉幕府はどこの支配権を有していたか? | a184574p29q1 | [
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"text": "東国の支配権"
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治承・寿永の乱 | 草創期鎌倉幕府はどこの支配権を有していたか | a184574p29q2 | [
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"text": "東国"
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治承・寿永の乱 | 草創期の鎌倉幕府が唯一有していた権利とは何か。 | a184574p29q3 | [
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"text": "東国の支配権"
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治承・寿永の乱 | 草創期の鎌倉幕府はどこの支配権しか持っていなかった? | a184574p29q4 | [
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治承・寿永の乱 | 二条天皇が崩御した後即位したのは誰 | a184574p3q0 | [
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"text": "六条天皇"
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治承・寿永の乱 | 清盛が太政大臣に就任したのは何年ですか? | a184574p3q1 | [
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治承・寿永の乱 | 1167年に太政大臣に就任したのは? | a184574p3q2 | [
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"text": "清盛"
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治承・寿永の乱 | 仁安2年は西暦何年? | a184574p3q3 | [
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"text": "1167年"
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治承・寿永の乱 | 鎌倉幕府と朝廷が全面衝突するのは治承・寿永の乱の何年後か | a184574p30q0 | [
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"text": "約30年後"
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治承・寿永の乱 | 創成期の鎌倉幕府と既存の朝廷はどんな点で利害が一致していたか? | a184574p30q1 | [
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"text": "荘園公領制の維持という点"
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治承・寿永の乱 | 建久元年は西暦何年か | a184574p30q2 | [
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"text": "1190年"
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治承・寿永の乱 | 鎌倉幕府と朝廷の協調体制が確認されたのはいつか。 | a184574p30q3 | [
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"text": "建久元年(1190年)"
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治承・寿永の乱 | 頼朝上洛は西暦何年? | a184574p30q4 | [
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"text": "1190年"
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治承・寿永の乱 | 治承・寿永の乱は何と呼ばれることが多いか | a184574p31q0 | [
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"text": "源平合戦"
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治承・寿永の乱 | 源平合戦と呼ばれることについて、何から何へと政権交代が行われたことに由来するのか。 | a184574p31q1 | [
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"text": "平氏政権から頼朝政権"
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治承・寿永の乱 | 源平合戦を言い換えると? | a184574p31q2 | [
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"text": "源平の戦い"
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治承・寿永の乱 | 治承・寿永の乱は別名なんと呼ばれるか | a184574p31q3 | [
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"text": "源平合戦"
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治承・寿永の乱 | 反平氏を掲げて蜂起した寺社勢力にはどんな寺が挙げられるか? | a184574p32q0 | [
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"text": "興福寺、園城寺など"
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] | false | 治承・寿永の乱 [SEP] しかし、平氏政権に反旗を翻した勢力は源氏一族のみで構成されていたわけではなく、単純に源氏と平氏の争いとは言えない。この乱には熊野勢力や興福寺、園城寺などの寺社勢力が反平氏を掲げて蜂起し、内乱前期においては北陸の在地豪族(義仲とは別個に挙兵)や九州の在地豪族など源平という氏族に無縁の勢力も数多く蜂起している。また、この争乱は、一族や家族、地域の共同体という横の絆と、主君と家臣という縦の絆の相克があり、命を懸けて戦った武士の全てが源氏や平氏という特定氏族に収斂されるわけでもない。 |
治承・寿永の乱 | 熊野勢力や興福寺、ほかどこの寺社が反平氏を掲げて蜂起した? | a184574p32q1 | [
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"text": "園城寺"
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治承・寿永の乱 | 治承・寿永の乱にて平氏政権に反旗を翻した勢力の一つとして寺社勢力がある。この寺社勢力の例を興福寺以外であげよ | a184574p32q2 | [
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"text": "園城寺"
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治承・寿永の乱 | 治承・寿永の乱における横の絆とは、一族や家族、地域の共同体であるが、縦の絆とは。 | a184574p32q3 | [
{
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"text": "主君と家臣"
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治承・寿永の乱 | 源氏や平氏は何から分岐した家系か | a184574p33q0 | [
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"text": "皇族"
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治承・寿永の乱 | 源氏が武士となるのはどの将軍の時代からか? | a184574p33q1 | [
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"text": "足利義満"
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治承・寿永の乱 | 源氏や平氏はどこから分岐した家系であるか | a184574p33q2 | [
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治承・寿永の乱 | 源氏や平氏はどこから分かれた家系であるか。 | a184574p33q3 | [
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治承・寿永の乱 | 源氏一族のトップを何と呼ぶか? | a184574p33q4 | [
{
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"text": "源氏長者"
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治承・寿永の乱 | 治承・寿永の乱によって、日本はどのような社会へと導くこととなったか。 | a184574p34q0 | [
{
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"text": "地縁社会"
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治承・寿永の乱 | 治承・寿永の乱では源氏と誰が戦っていたか | a184574p34q1 | [
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"text": "平氏"
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治承・寿永の乱 | 源氏同士、平氏同士が争う現象は日本各地で見られたか | a184574p34q2 | [
{
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"text": "見られた"
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治承・寿永の乱 | 武士社会に見られる特色の一つは何か? | a184574p34q3 | [
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"text": "地縁的要素"
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治承・寿永の乱 | 武士は発生当初から血縁的要素よりも何の要素が強い集団であったか? | a184574p34q4 | [
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"text": "地縁的要素"
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] | false | 治承・寿永の乱 [SEP] 源氏同士、平氏同士が争う現象は日本各地で見られた。父系で見れば源氏だが、母系で見れば平氏、またはその逆という武将も少からずいて、去就に苦慮した者や、一族が2つに分かれて争った者もいる。一族相克の物語は戦国時代に多いが、この時代に既に始まっている。武士は発生当初から血縁的要素よりも地縁的要素の強い集団であったが、この乱は日本を一層の地縁社会へと導くことになった。 |
治承・寿永の乱 | 後白河法皇と清盛の橋渡しをしていたのは誰ですか? | a184574p4q0 | [
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"text": "建春門院"
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] | false | 治承・寿永の乱 [SEP] 後白河法皇と清盛の政治提携は続いていたが、この二者を橋渡ししていた建春門院(清盛の義妹)が安元2年(1176年)に亡くなると、両者の間に齟齬が生じていくようになる。そして安元3年(1177年)北陸の国衙と比叡山の末社の対立をきっかけに比叡山と院近臣が対立し、院近臣を守る立場にある後白河法皇は清盛に比叡山攻撃を指示したが、清盛はこれを拒否、逆に比叡山側の要求を通し院近臣の身柄を拘束するという手段に出る。これによって後白河法皇は比叡山の言い分を聞かざるを得なくなり、近臣の追放を許す結果となる(鹿ケ谷の陰謀)。 |
治承・寿永の乱 | 建春門院が亡くなったのは何年? | a184574p4q1 | [
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"text": "安元2年(1176年)"
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治承・寿永の乱 | 安元2年は西暦何年? | a184574p4q2 | [
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治承・寿永の乱 | 建春門院(清盛の義妹)が亡くなったのは西暦何年? | a184574p4q3 | [
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治承・寿永の乱 | 北陸の国衙と比叡山の末社の対立をきっかけに比叡山と対立したのは何ですか? | a184574p4q4 | [
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治承・寿永の乱 | 清盛の娘・徳子が皇子を出産したのは何年。 | a184574p5q0 | [
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"text": "治承2年(1178年)"
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] | false | 治承・寿永の乱 [SEP] 一方、その頃から高倉天皇が政治的発言権を強めるようになっていく。治承2年(1178年)、高倉天皇の元に入内させていた清盛の娘・徳子が皇子を出産。後継者となる皇子の誕生で、高倉天皇が退位して院政を敷く条件が生まれる。 |
治承・寿永の乱 | 後継者となる皇子を出産した徳子は誰の娘ですか? | a184574p5q1 | [
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"text": "清盛"
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治承・寿永の乱 | 高倉天皇の元に入内させていた清盛の娘・徳子が皇子を出産したのは西暦何年? | a184574p5q2 | [
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治承・寿永の乱 | 治承2年は西暦何年ですか? | a184574p5q3 | [
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治承・寿永の乱 | 清盛の娘・徳子が皇子を出産したのは何年ですか? | a184574p5q4 | [
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治承・寿永の乱 | 清盛の息子平重盛と娘の平盛子(近衛基実の妻)が相次いで死去したのは何年ですか? | a184574p6q0 | [
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治承・寿永の乱 | 清盛の息子平重盛と娘の平盛子が死去した後に、清盛と対立した人物は後白河法皇と誰ですか? | a184574p6q1 | [
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治承・寿永の乱 | 清盛の息子平重盛と娘の平盛子(近衛基実の妻)が相次いで死去したのは西暦何年? | a184574p6q2 | [
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治承・寿永の乱 | 近衛基実の妻は誰? | a184574p6q3 | [
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"text": "平盛子"
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治承・寿永の乱 | 清盛の息子平重盛と娘の平盛子が相次いで亡くなったのは何年。 | a184574p6q4 | [
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"text": "治承3年(1179年)"
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治承・寿永の乱 | 清盛のクーデターが起こったのは何年 | a184574p7q0 | [
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"text": "治承3年(1179年)"
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治承・寿永の乱 | 清盛のクーデターにより後白河法皇の院政が停止されたのは西暦何年? | a184574p7q1 | [
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治承・寿永の乱 | 清盛のクーデターにより後白河法皇の院政が停止されたのは何年ですか? | a184574p7q2 | [
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"text": "1179年"
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治承・寿永の乱 | 治承4年は西暦何年? | a184574p7q3 | [
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治承・寿永の乱 | 清盛のクーデターにより解任された摂政基房の代わりに就任した人物は? | a184574p7q4 | [
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"text": "近衛基通"
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治承・寿永の乱 | 平氏の知行国は17か国から32か国に急増した政変は | a184574p8q0 | [
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"text": "治承・寿永の乱"
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治承・寿永の乱 | この政変で平氏の知行国は17か国から何か国になりましたか | a184574p8q1 | [
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"text": "32か国"
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