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フェンチオン 用途 フェンチオンは害虫の殺虫剤、殺ダニ剤、殺鳥剤と使われ、ミバエ、ヨコバイ、蛾、鉄砲虫、蚊、アブラムシ、コドリンガとハタオリドリ科の鳥に対して使用されている。 穀物、サトウキビ、米、トウモロコシ、テーブルビート、梨、柑橘類、ピスタチオ、綿、オリーブ、コーヒー豆、ココア、野菜、ブドウに使用されている。 また、シラミ、ノミ、ハエ、ダニおよび他の外部寄生虫を駆除するために家畜(ウシ、ブタ、イヌ)などにおいて使用されている。 畳の防虫剤としても利用される。 毒性 縮瞳、頭痛、吐き気、嘔吐、めまい、筋力低下、眠気、倦怠感、興奮、または不安の急性中毒を引き起こす。 中等度または重度である場合、高血圧、腹痛、下痢、重い流涎、多量の発汗、胸苦しさが現れ使用者は昏睡、呼吸停止、発作、反射の消失し弛緩性麻痺が発生するために、自殺企画者がいる。 多くの野鳥でフェンチオン中毒が起こり、縮瞳、流涎、震顫、歩行困難、呼吸困難の症状が現れた。 フェンチオンは魚や水生無脊椎動物に対する毒性が強く、ミツバチもフェンチオンの影響を受けることが判明している。 性質 フェンチオンは、光化学的に生成されたヒドロキシルラジカルと速やかに反応し、その半減期は約5時間。 通常の水中環境下では、水中でのフェンチオンの半減期は2.9~21.1日である。 土壌中では、フェンチオンは4~6週間で劣化する。
レイモンド・ロウ インディー団体 2003年5月にプロレスデビューし、地元であるオハイオ州を中心にインディー団体を転戦。2012年よりNWAヒューストンを主戦場に移し、ジャックス・デインとのタッグ、パス・オブ・レジスタンス(The Path Of Resistance)としてNWAローンスタータッグ王座に戴冠するなどタッグ戦線で活躍。2013年からは階級をジュニアヘビー級に転向し、4月20日にNWAローンスタージュニアヘビー級王座を保持するマイク・デルを相手に勝利を収めて、同王座を獲得した。 6月1日、ROHが主催するHonor In The Heart Of Texasにて、ボビー・フィッシュを相手に同団体に初参戦を果たす。2014年1月、ROHが主催するトップ・プロスペクト・トーナメントに出場。初戦でコンゴ、準決勝でコーリー・ホリスを破り、決勝へ進出するも、ハンソンに敗北を喫し準優勝で終わる。これを機にROHへレギュラー参戦するようになり、4月4日、ハンソンとタッグチーム、ウォー・マシン(War Machine)を結成した。8月にバイク事故を起こし深刻な怪我を負い、長期離脱を余儀なくされてしまう。2015年3月1日、ROH 13th Anniversary: Winner Takes Allにて、メインイベントに出場したハンソンをアシストする役目として登場し、ROHに復帰を果たす。 8月22日、Field Of Honor 2015にて、ウォー・マシンとして出場し、K.E.S.(ランス・アーチャー & デイビーボーイ・スミス・ジュニア)と対戦。この試合に勝利を収め、試合後にK.E.S.が保持するGHCタッグ王座に挑戦することをアピールした。9月19日、プロレスリング・ノアが主催するGREAT VOYAGE 2015 in OSAKAにウォー・マシンとして出場し、GHCタッグ王座を保持するK.E.S.と対戦したが、敗北を喫して王座奪取とはならなかった。 12月18日、Final Battleにて、ROH世界タッグ王座を保持するキングダム(マット・ターバン & マイケル・ベネット)と対戦。勝利を収めて、第44代タッグ王者組に輝き、ROHでのタイトル初戴冠を果たした。 2016年11月、新日本プロレスが主催するタッグリーグ戦、WORLD TAG LEAGUEにウォー・マシンとして出場。 2017年4月9日、天山広吉&小島聡組からIWGPタッグ王座を奪取した。 NXT 2018年1月16日、WWEと契約を交わし入団。4月11日、WWEの傘下団体であるNXTにてヘビー・マシーナリー(タッカー・ナイト & オーティス・ドーゾビッチ) vs リディック・モス & ティノ・サバテリの試合中にハンソンと共にウォー・レイダース(War Raiders)として乱入。両タッグを襲撃すると最後にサバテリにフォールアウトを決めてリングを占拠した。12月21日、かねてより交際中だったサラ・ローガン(Sarah Logan)と結婚式を挙げた。 2019年1月26日、NXT TakeOver: PhoenixでNXTタッグ王者チームのジ・アンディスピューテッド・エラ(カイル・オライリー & ロデリック・ストロング)に挑戦。終盤になるとハンソンが孤立して集中攻撃を受けるも危機を脱出。そしてフォールアウトを決めて勝利。王座を戴冠した。 WWE 2019年4月15日、WWE・RAWで自身はエリック(Erik)、ハンソンはアイバー(Ivar)へとリングネームを変更。そしてタッグネームをバイキング・エクスペリエンスに改めてデビューした。同月22日、タッグネームをバイキング・レイダース (The Viking Raiders)に改名。
成田鉄道D1001形ディーゼル機関車 成田鉄道D1001形ディーゼル機関車(なりたてつどうD1001がたディーゼルきかんしゃ)は成田鉄道(2代目)が1931年に購入、保有していたディーゼル機関車である。 日本の地方鉄道向けディーゼル機関車としては記念すべき第1号機であるとともに、日立製作所が製造したディーゼル機関車の第1号機としても知られる。 概要 多古線の貨物列車牽引用機関車として1931年に日立製作所で1両が製造された。 日立にとっては試作機関車としての意味合いの強い車両であったが、製造後、転属や改造などの大きな転変を繰り返しながら、実に50年近くも使用され続けた長寿機関車であった。 構造 全長7,350mm、公称20t級(実際には22.1t)のB型機関車で、凸型車体を持つが、搭載機関の形状の制約からやや背の高いボンネットを前後に備える。一見運転台を中央に置いた完全なセンターキャブ方式に見えるが、ボンネットの長さは前後で微妙に異なる。ホイールベースは2,900mmに抑えてあったが、動輪径は1,070mmあり、この種の小型機関車としては大きめである。 車体そのものはリベットで組み立てられたいかにも無骨な形状で、背の高いボンネットに合わせて運転台の妻面窓も高い位置に設けられていたことから、腰高な印象を与える外観であった。 機関の冷却に用いるラジエターは前後のボンネットの妻面部を使い切る大面積のものが設置されており、側面には鎧戸方式の通気口が設けられていた。 運転台は前後の妻面の左右に出入り口を設けてあり、中央に運転台が設置されていた。 主要機器 池貝鉄工所製の船舶用ディーゼルエンジンをベースに車載用に設計変更した6SD18(縦型直列6気筒水冷式 定格150HP/600rpm 最大185HP/800rpm)ディーゼルエンジンを片方のボンネット内に搭載した。シリンダーのボア×ストロークは180mm×270mmの大型中速機関で、燃料噴射は既に無気噴射となっている。全長は2,628mmであるが、全高は1,690mmもあり、このためにボンネットが高くなった。エンジン単体の総重量も3.75tに達する重量級である。 ここから運転室直下に設置された多板式クラッチと4段式機械式変速機による減速を経て運転台床下のジャック軸を駆動し、前後の車輪へロッドで動力を伝達する。元々ローカル線での小運転を想定した車両であり、定格出力での最高速度は35km/hに留まる。 変速機操作と制動、それに機関始動に共通して空気圧を使用するため、大容量の空気タンクが運転台下に吊り下げられており、外観のアクセントとなっていた。空気圧縮機は2段式で、空気ブレーキ用の低圧タンクと、エンジン始動用の高圧タンクをそれぞれ備える。 運用 日本のディーゼル機関車としては極めて初期の作例であるが、後発となる鉄道省DB10形が50馬力前後の非力な入換用機関車でしかなかったのに対し、こちらは規模の小さな地方私鉄向けとはいえ、当初より本線列車牽引を前提に設計された野心作であった。1931年6月に竣工、成田鉄道に納入された。価格は30,000円(当時)である。 成田鉄道は従前蒸気機関車運行であったが、多古線向けに1928年から1929年にかけ、雨宮製作所製で両運転台式2軸ガソリン動車であるガ101・ガ102 - ガ105の計5両を導入し、1930年には600mm軌間の八街線向けに汽車製造製の単端式ガソリン動車ガ201・202を導入した。そして1931年のD1001に続いて1932年には、多古線向けに汽車製造製ボギー式ディーゼル動車であるヂ301も導入されたが、これはD1001を購入していた成田鉄道に、汽車製造が試作ディーゼルカーを格安で売り込んだものであり、エンジンは輸入品でより小型のメルセデス・ベンツOM5Sであった。 このように、ガソリンエンジンを搭載した内燃車両の取り扱いには一応の経験があった成田鉄道だが、2両の試作車のディーゼル機関メンテナンス(池貝とメルセデスに相互の部品互換性は皆無である)には苦慮があったものと思われる。 D1001は設計上試行錯誤の跡も見受けられたが、客貨両用に一定の稼働実績を残した。しかし日中戦争・太平洋戦争期の戦時体制に伴う燃料不足や、試作車ゆえの扱い難さから、1930年代後期以降の稼働実績は下がり、路線休止直前の1943年時点で運用はほとんどなくなっていた模様である。 成田鉄道多古線は不要不急路線撤去令で1944年1月に休止となり、不要となった本車は武蔵野鉄道へ譲渡された。 譲渡後は保守側の習熟不足や資材の不足から機関の不調が目立ち、戦後西武農業鉄道(のち西武鉄道)成立後の1949年3月に除籍、富士産業宇都宮工場(のち宇都宮車輌に分社後、富士重工業に合併)へ譲渡した。更に時期不明だが東京に本社のある鉄道施設工業が譲受、「DB102」の車号を与えたうえで、不調のエンジン修繕のため群馬県高崎市の高崎駅上信電鉄側線を借用し、高崎市の(有)早房内燃機工業所に依頼して1960年5月から1961年12月までかけて修繕を図ったが、完全な復旧に至らなかった。老朽機関を搭載した、それも試作要素の多い旧式車両の既存エンジンを再生するのは難しかったようで、1963年には西武鉄道へ戻された。 この際、所沢車両工場で機関・変速機の完全換装を行い、エンジンは気動車用の新潟鐵工所製DMH17C(180PS/1,500rpm)、変速機は液体式の新潟コンバータ製DB115となった。最終駆動部分はオリジナルのジャック軸式が流用された。 こうして西武鉄道では1963年10月付で、名目上は新造車のD21形D21として再生された(実際の竣工は同年6月の模様で、当時延長中であった上水線の建設工事で貨車牽引に従事している1963年9月撮影の写真が残されている)。 その後1964年から翌年にかけて上武鉄道に貸し出されたこともあったものの、主として新所沢の米軍専用線で貨車牽引に用いられ、拝島線工事にも用いられたが、専用線の廃止と拝島線開通で用途を失った。このため1969年3月に廃車されて車両としての車籍は失われたが、工務部7として機械扱いで1976年頃まで夜間の保線工事に使用された。この最終期まで、塗装の変更は繰り返されたものの、外観を原型から大きく崩す改造のなかったことは特筆される。 最終的には駆動系の故障で1977年2月に用途廃止となり、そのまま解体処分に付されている。
中国暦 中国暦(ちゅうごくれき)では、中国の伝統的な暦法を総合して説明する。中国では伝統的な暦法のことを夏暦(かれき)・農暦(のうれき)・陰暦(いんれき)・旧暦(きゅうれき)などと呼んでいる。また、ベトナムなどのように黄暦(こうれき)と呼称する国・地域もある。さらに日本では、中国から輸入した暦のことを漢暦(かんれき)と呼んでいた(日本の暦については「太陰太陽暦#日本」も参照)。 夏暦とはもともと古六暦の一つであるが、辛亥革命以後に太陽暦(グレゴリオ暦)が採用されるようになると、それまでの伝統的な太陰太陽暦を総称する言葉となった。これは、中国の太陰太陽暦が建寅の月を年始とする夏正であったためである。また、一般的に農暦と呼ばれるようになったのは、農村で今でも広く使われているからである。中国国内で2006年に無形文化遺産に登録され、2016年、ユネスコが推進する無形文化遺産に登録された。 特徴 中国の暦法はいわゆる太陰太陽暦であり、1月の長さを月の月齢約29.3日を基準に1年における月の配列を太陽の運行を基準に定める。新月を朔、満月を望といい朔日を月の初めの日として配当していった。朔日の計算方法には、平朔法と定朔法がある。季節は1太陽年を24分した二十四節気を基準に決められる。二十四節気の計算方法には平気法と定気法がある。12朔望月と1太陽年のずれは閏月を設けることで調整され、閏月は年の途中に置かれ二十四節気の中気を含まない月とされた。年始は前漢の太初暦以来冬至の翌々月、つまり立春前後に設けられ1月には必ず雨水が含まれた。これにより1年の始めと四季の始めが一致するようにされた。 そして中国暦の大きな特徴は上記のような日付の配当するカレンダーとしての機能のほかに日食や月食、惑星の運行位置を計算して予報する天体暦(エフェメリス)としての機能をあわせもっていたことである。このため日食・月食の誤報がしばしば改暦の理由になった。 歴史 甲骨文・金文や詩経などによると殷・周の時代は日・月や星、植物の生長などを観察して日付を決めていた。これを観象授時暦という。月の初めの日は新月の日(朔日)ではなく、月が見え始める二日月・三日月などの日を当てた。この日を朏(ひ)日という。年始はノーモンの観察などにより、冬至頃に設定された。 このような素朴な暦法は春秋戦国時代になって、大きく発展した。二十四節気が導入され、また閏月の設定にメトン周期が用いられ月初めも朔日の計算によって決定された。戦国時代の各国で独自の四分暦が造られ、これらを戦国四分暦という。この頃、年始について三正(夏正・殷正・周正)という考え方が生まれた。夏暦・殷暦・周暦というものがあったとされ夏暦では年始が冬至の2月後、殷暦では冬至の1月後(つまり夏暦の12月)、周暦では冬至の月(夏暦の11月)とし正月が王朝交替ごとに変更され、夏正→殷正→周正→夏正→…と循環されてきたとした。これを受けて周に次ぐ王朝をめざす戦国各国はほとんどが夏正を採用していたが、秦の顓頊暦のように10月を年始とする暦もあった(ただし、正月・2月・3月といった月の配列は夏暦に従っていた)。秦の中国統一により顓頊暦の10月歳首が採用されたが、漢の太初暦改暦以降、夏正が採用され、現在の旧正月もこれを踏襲している。 前漢では秦の顓頊暦を踏襲して使っていたが武帝の時に改暦を行い、太初暦が作られた。その後、太初暦は成帝の時に劉歆によって天体暦としての性格の強い三統暦として補修された。三統暦は、その後の中国暦の枠組みをつくった。 魏晋南北朝時代、とくに月の不規則な運行についての研究がすすみ暦法に反映された。最初にこれを導入したのは劉洪の乾象暦であり、祖沖之の大明暦に至っては歳差まで考慮してより精密な暦が作られた。このようにして朔日の計算において定朔法が生まれ、隋の劉焯はこれに基づく皇極暦という優れた暦法を作成したが官暦に採用されず、定朔が正式に官暦に採用されるのは唐代の戊寅元暦からである。 唐の時代は、暦の計算方法が飛躍的に発展した。玄宗朝に大規模な改暦議論が起こり、中国系・インド系・ペルシア系の各天文学者たちが独自の暦を提案した。そのなかで一行は大規模な実測を行い、太陽運行の不均等性を考慮し計算に不等間隔二次差補間法を用いた革新的な大衍暦を作り、結果的に中国系の暦が官暦に採用された。その後は唐・宋を通じて細かい改暦が何度もなされたが、とりわけ見るべき発展はなかった。 元の時代、郭守敬らによって革新的な授時暦が作れられた。1太陽年には南宋の統天暦が出したグレゴリオ暦と同じ値を採用し、また計算方法には三次差補間法や球面三角法が使用された。授時暦は明代にも大統暦と名を改めて使われ、合わせて364年に及ぶ中国史上最も長く使われた暦となった。大統暦は月日の配当においては問題がなかったが、食の予報など天体暦としては不完全であった。このため、清の時代には西洋の天文学に基づく時憲暦が採用された。
ジョージ・マリン 経歴 1880年、オハイオ州トレドで生まれる。 1902年にデトロイト・タイガースでメジャーデビュー。1年目から13勝を上げ、2年目となる1903年からは開幕投手を務めた。安定して300回を投げる投手でタイ・カッブ、サム・クロフォードらと共にタイガースのリーグ3連覇にも大きく貢献した。1913年シーズン中にワシントン・セネタースに移籍したが成績は悪化し、防御率は5.40だった。1914年に創設1年目のフェデラル・リーグのインディアナポリス・フージャーズに移籍し、14勝を上げた。 1915年にニューアーク・ペパーで引退。 1944年インディアナ州ウォバシュで死去。63歳。
機場第一航廈駅 駅構造 ホームは地下2階にある。島式ホーム1面2線の地下駅で、フルスクリーンタイプのホームドアを有する。地上出口は1つある。開業時点での駅構内の案内表示は「往台北」「往中壢(環北を指す)」「往機場」であり、実際の利用時は注意が必要。
渡辺好明 (美術家) 渡辺 好明(わたなべ よしあき、1955年(昭和30年)6月24日 - 2009年(平成21年)11月4日)は、日本の現代美術家。 東京藝術大学美術学部教授。 作家活動 1980年より国内外にて個展、グループ展など多数開催。1991年以降「光ではかられた時」と題して、火(蠟燭などの灯火)や水(水鏡)を用いたインスタレーションを展開。主な展覧会に「白州・夏・フェスティバル」(1991年)、「光をつかむ-素材としての光の現れ」O美術館(1997年)、「光ではかられた時-渡辺好明」斎藤記念川口現代美術館(1999年)、「ジ・エッセンシャル」千葉市美術館(2002年)、「D/J Brand ~ドイツに学んだアーティストの発火点」東京芸術大学大学美術館(2005年)、「ワンダリング・ウインド~日本現代美術の3人」Gallery Apel, イスタンブール(2006年)、「A simpli-city No. 5」A trans Pavilion、ベルリン(2009年)など。 教育活動 1992年 東京藝術大学取手校地発足に伴い始められた取手校地創作展(現アートパス取手)や、1997年 資料館取手館(当時)および1998年 クンストラウムデュッセルドルフで開催された同学とデュッセルドルフ美術アカデミーとの現代美術交流展、2002年 ワイマールバウハウス大学との現代美術交流展「グリーンスペース」、2003年「グリーンスベース2~光と景」、2005年 IMAselection Vol.1「表現の水際2005」「Rosa!~あらわになる色」「D/J brand ~ドイツに学んだアーティストの発火点」など多数の企画展を実施していた。 社会活動 1999年から始められた 「取手アートプロジェクト」は、東京藝術大学、取手市、市民が共同で実行委員会を構成して取手市で毎年開催されている現代アート展であり、これらの立案、実施運営に中心的に携わってきた。また2007年、取手市と東京藝術大学との連携事業として取手井野団地内に若いアーティストのための共同アトリエ 「井野アーティストヴィレッジ」を立ち上げ、代表として企画運営にあたっていた。
榎本隆一郎 経歴 和歌山県出身。農業・榎本熊太郎の長男として生まれる。和歌山中学校を経て、1915年12月、海軍機関学校(24期)を卒業し、翌年12月、海軍機関少尉任官。1920年12月、海軍大学校選科学生となり、翌年9月、九州帝国大学工学部に入学、応用地質学を学び1924年3月に卒業した。 徳山燃料廠製油部員、機関学校教官、欧米出張、海軍省軍需局員、欧米出張、徳山燃料廠付、燃料廠研究部員、北支特務部員(北京)、商工省燃料局人造石油課長、昭南在勤武官などを経て、1942年11月、海軍少将に進級した。 第2燃料廠長、軍需省燃料局石油部長、同燃料局長、軍令部出仕などを歴任し、1945年11月、海軍中将となり予備役に編入された。 その後、日本瓦斯化学工業社長、水交会会長などを勤めた。
ウィーバービル (カリフォルニア州) 歴史 ウィーバービルは1850年に設立され、カリフォルニア・ゴールドラッシュの歴史を残す町である。現在のトリニティ・アルプス原生地域の麓に囲まれており、かつては約2,000人の中国人金探鉱者が居り、独自の中華街があった。 ウィーバービルの経済根幹は長年、製材業、観光および大麻の生産だった。地域の経済は長い間に緩りと衰退を続けてきており、地球規模の不動産バブルがあったときに小さな好景気があっただけだった。2009年4月時点でトリニティ郡の失業率は20.9%になっている(ニューヨーク・タイムズ記事)。 ウィーバービルにはカリフォルニアでも最古で継続的に使用されている中国の寺院がある。そのジョス・ハウスは現在公園管理部が管理しており、一年中訪問者を受け入れている。 ウィーバービルはしばしば森林火災の影響を受けている。最近のものでは2006年7月29日の山火事があり、町内住人の大半が2日間避難したが、連邦、州および地元の消防士の活躍でほとんど被害もなく鎮火された。 ウィーバービル・ジョス・ハウス州立歴史公園 ウィーバービル・ジョス・ハウス(「雲の下の森林寺院」とも呼ばれる)は道教寺院であり、1874年に建設され、ゴールドラッシュ時代に中国人が礼拝を行った場所として、州内でも最も保存状態の良い建物である。この寺院は現在「ウィーバービル・ジョス・ハウス州立歴史公園」となっており、複雑に彫刻を施された木製祭壇などの内部は観光客も見ることができる。 地理と気候 ウィーバービルは北緯40度44分12秒 西経122度56分10秒に位置する。アメリカ合衆国国勢調査局に拠れば、市域全面積は35.4平方マイル (91.7 km²)であり、すべて陸地である。 1894年以来、アメリカ国立気象局がウィーバービルに共同気象観測所をおいている。その記録に基づけば、1月の平均最高気温は 47.2°F(8.4℃)、最低気温は 27.4°F(−2.6℃) である。7月の平均最高気温は 94.1°F(34.5℃)、最低気温は 49.1°F(9.5℃) である。年間平均で 90°F(32℃) 以上になるのが77.3日、32°F(0℃) 以下になるのが126.8日ある。過去最高気温は1932年8月4日の 116°F(46.7℃)、最低気温は1972年12月9日の −10°F(−23.3℃) だった。 年間平均降水量は35.28インチ (896 mm) であり、計測可能な降水日は平均して年間83日ある。最も降水量の多かった年は1970年の53.77インチ (1,366 mm)、最も少なかった年は2005年の20.19インチ (513 mm) だった。1ヶ月間の降水量が最も多かったのは2005年12月の20.86インチ (530 mm)、24時間雨量で最も多かったのは1982年1月4日の5.50インチ (140 mm) だった。降雪量は年平均22.5インチ (57 cm) である。1ヶ月間の降雪量が最も多かったのは1950年1月の75.3インチ (191 cm) だった。 政治 カリフォルニア州議会では、上院の第4および下院の第1選挙区に属している。連邦議会下院ではカリフォルニア州第2選挙区に属している。クック投票動向指数は共和党+11である。2010年時点で周下院議員は民主党議員、その他は共和党議員が務めている。 大衆文化の中のウィーバービル イギリスの作家ジェームズ・ヒルトンの作品『失われた地平線』の中で遠隔の天国シャングリラにウィーバービルがヒントを与えたとされている。しかし、1941年のヒルトンのインタビューで「ウィーバービルがシャングリラを思い出させた」と語っているが、これを誤って解釈した結果である。ウィーバービルから約8マイル (13 km) にあるジャンクションシティにはチベットの仏教寺院がある。
2014年ソチオリンピック 大会招致までの経緯 開催地は2007年7月4日にグアテマラのグアテマラシティで開催された第119次IOC総会でソチに決定した。総会直前までは、前回2010年冬季オリンピックの開催地投票でバンクーバーに接戦で負けた韓国の平昌が最有力候補だったが、二度の投票の末に接戦を制したソチに決定した。 開催費用 ソチオリンピックの開催費用は当初120億ドルと見積もられていたが、最終的には500億ドルとなる見通しになっており、これは2008年北京オリンピックを上回って近代オリンピック史上最高額となる。開催費用がここまで膨れ上がった原因としては、インフラ整備コスト増大やテロ対策や工事の遅れなどが挙げられる一方で、汚職による横領・不正流用疑惑も持ち上がっている。 競技の開始時間 スキージャンプ、フリースタイルスキーのモーグル、スノーボードのハーフパイプはナイターでの開催となった。 大会マスコット 2011年2月26日、2014年ソチオリンピックのマスコットがユキヒョウ、ホッキョクグマ、ノウサギの3体に決定したことが発表された。後にユキヒョウは褐色のヒョウに変更された。ホッキョクグマは1980年モスクワオリンピックのマスコット「ミーシャ」の孫とされる。
大森鍾一 大森 鍾一(おおもり しょういち、安政3年5月14日(1856年6月16日) - 昭和2年(1927年)3月3日)は、日本の内務官僚、政治家。貴族院議員、枢密顧問官、皇太后宮大夫、男爵。 生涯 幕臣、駿府与力・大森直正の長男として生まれる。静岡学校、名古屋学校を経て、明治5年10月(1872年11月)に林欽次塾に入り、後に中退。 1873年4月、明治政府に出仕し陸軍造兵司・一等附属となる。司法省、法制局、太政官を経て、1878年10月、内務省に移り四等属に任官。以後、内務権大書記官、兼戸籍局長、内務卿官房長心得、内務大臣秘書官(山縣有朋大臣)、内務書記官・総務局文書課長兼勤、県治局長、兼警保局長などを歴任した。 1893年3月、長崎県知事に発令され、兵庫県知事を経て、1900年10月、内務総務長官(内務次官)に就任。1902年2月に京都府知事に転じ、1916年4月まで在任。1915年11月の大正天皇の即位の礼を大礼使参与官として担った。京都府知事在任中の1909年12月21日、貴族院議員に勅選され1916年7月3日まで務める。 1915年12月1日、男爵を叙爵。1916年6月22日、皇后宮大夫に就任し、1923年9月から死去するまで枢密顧問官を兼任。1926年12月、大正天皇の崩御に伴い皇太后宮大夫に就任し、在職中に死去した。
レラティビティ・メディア 概要 2005年に初製作となる短編映画『Jerry vs. Death』、翌2006年には長編映画『RV』が公開される。2008年にソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント、ライオンズゲート、ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ、パラマウント・ピクチャーズ、ユニバーサル映画と2015年までの映画の共同製作協定を結んだ。 2009年1月にはユニバーサルからフォーカス・フィーチャーズのジャンル映画製作部門ローグ・ピクチャーズを約1億5000万ドルで買収。2010年7月にはオーバーチュア・フィルムズの配給・宣伝部門を買収した。 また2011年1月、同社はパラマウント ホーム エンタテインメントで事業社長を務めたスティーヴ・バートラムを最高執行責任者兼最高財務責任者に迎えた。 2015年8月、連邦倒産法第11章を申請したことが報道される。
アイドリング!!!のコーナー・企画 番組の流れ 番組は主に、下記の通りに進行するが、この番組はそれほど進行パターンにこだわる番組ではないので、回によっては下記の基本パターンとは全く違う進行の場合もある。 また、2010年4月の「品はちライブ」開始に伴い、それを収録したものを月に2回程度、CS放送27分+オンデマンド分の通常放送扱いで2012年2月まで放送している。MCはメンバー持ち回りで行い、バカリズム(升野英知、以下「升野」)及びアナウンサーは登場しない。 主なメインコーナー メインコーナーは決まった曜日に決まったコーナーを行うというような形式ではなく全て不定期で行われる(次回があるのかどうかも不明)。また、バレンタインや放送○○回目記念、誕生日企画などの時期的なイベントや後述するドッキリなどを「緊急(特別)企画 ○○○!!!」と称して放送することがある。 コーナー名は番組名にちなんで「ング」や「!!!」(感嘆符3つ)が付くことが多い。 過去の主なコーナー 2期生加入以前に行われていた「ガンバリング!!!」の鉄棒や大縄跳び、「にらめっきング!!!」「大好きアイドリング!!!」「バック・トゥ・ザ・アイドリング!!!」などは登竜門的企画と位置付けられ、2期生のみの出演回で再度行われている。 卒業スペシャル メンバーの卒業に伴い不定期で放送される。"脱退"扱いである小林を除き最初の卒業生となった小泉卒業の際は、番組名も「ズミドリング!!!」と改め(元々は小泉の号泣事件を救済する別企画で加藤が出した案。ジングルSEも小泉1人で撮り直された)編集室から升野のコメントと番組・コンサートから編集されたVTRを放送するというややしんみりした内容だったが、以降メンバーが卒業する場合は「さらば!!○○(卒業生)スペシャル」と銘打ちスタジオにメンバー全員を集めてのトークと番組内から名場面を集めたVTRを放送するという明るい内容となっている。
ジェステ 地理 モージュ地方にあるアンジューのコミューンである。ジェステはラ・ショーセールの南東にあり、コミューンの西側はロワール=アトランティック県と接している。 歴史 ヴァンデ戦争さなかの1794年2月1日、ジャン=ニコラ・ストフレ率いるヴァンデ軍は、ジェステの戦いにおいて、エティエンヌ・コルドリエ率いる地獄部隊に勝利した。しかし、共和国軍はそれから4日後に戻ってきて、138人の住民たちを虐殺した。犠牲者の多くはシャトー内で銃殺されていた。 2013年6月19日、司法上の手続きや地域建築・文化財部(fr)を無視した首長ジャン・ピエール・レジェと議会に委託され、教会の一部が壊された。
津島知明 津島知明(つしま ともあき、1959年- )は、国文学者。 東京都生まれ。國學院大学大学院博士課程単位取得退学、2006年「動態としての枕草子」で國學院大學文学博士。各大学非常勤講師。
東大将棋 IS将棋 IS将棋は、東大将棋の思考エンジンである。「IS」は「Information Science」の略。 1997年の世界コンピュータ将棋選手権で初登場。同年は惜しくも予選6位で決勝進出(予選上位5位まで)はならなかったが、翌1998年に初優勝。開発チームは全員が当時東京大学所属の学生ということで話題となり、同年にMicrosoft Windows用の「最強 東大将棋」として発売された。以後世界コンピュータ将棋選手権において優勝4回(1998年、2000年、2001年、2003年)、準優勝1回(2002年)と、名実ともに同時代の最強将棋ソフトの一つとなった。 市販ソフトとしては前述のWindows版に加え、過去にPlayStation(ちなみにPS版は、2009年8月12日にPS3とPSPのゲームアーカイブスでダウンロード配信をスタートしている。)、PlayStation 2、PlayStation Portable、ニンテンドーDS用が発売されている。 ただ開発チームのメンバーが就職等の関係で開発継続が困難となったことや、思考ロジックを一から書き直したいというプログラマ側の要望から、2005年を最後に世界コンピュータ将棋選手権の参戦を取りやめており、IS将棋ベースの市販ソフトは同年の「最強 東大将棋8 for Windows」が事実上最終版となっている。(ただしその後も同ソフトベースの詰将棋ソフトや、定跡学習のためのソフトなどが発売されており、シリーズとしては継続している) 棚瀬将棋 IS将棋の開発チームメンバーの一人である棚瀬寧(元・株式会社モルフォ)が個人で一から思考ロジックを書き直したソフト。当初は2006年の世界コンピュータ将棋選手権に出場を目指していたが、バグが取りきれず同年は欠場し、翌2007年の同選手権に初参加していきなり準優勝。2008年も準優勝したほか、選手権終了後のエキシビション対局では朝日アマ名人の加藤幸男に勝利したことで話題となった。 2008年9月に「新・東大将棋 無双」の名前でWindows版ソフトが発売された。 その他 2000年代にマイナビが発行していた将棋関連書籍には、本ソフトにちなみ『東大将棋ブックス』のレーベル名が付けられていた。特に所司和晴の「道場」シリーズが有名。
大内美予子 大内 美予子(おおうち みよこ、1935年 - )は、日本の小説家。静岡県生まれ。金城学院大学文学部中退。
若林真紀 若林 真紀(わかばやし まき)は、日本の小説家(女性)。1980年代後半以降の少女小説ブームの時期に、講談社X文庫ティーンズハートや角川スニーカー文庫、小学館パレット文庫で作品を発表した。 人物 横浜市に育つ。美術大学を卒業後、編集者、グラフィックデザイナー、コピーライター等の職を経て小説家となった。
源義信 経歴 源義親の長男として生まれるが、義親が西国で乱行を起こしたため、家督は異母弟の為義が叔父の義忠の養子となって継承した。義親の正室は肥後守・高階基実の娘であるが、義父の基実は義親の乱行により肥後守を罷免され、贖銅の刑を科された。角田文衛は、義信(長男)・義俊(次男)・義泰(三男)・義行(五男)がそれぞれ対馬太郎・対馬次郎・対馬三郎・対馬四郎の呼び名を持つことから、この4人が正室所生の同母兄弟で、為義は庶子だったのではないかと推測している。武士として目立った活動は見られないが、官途は為義より高く最終的に従四位下左兵衛佐となっている。なお、為義を河内源氏の棟梁とする概念が生まれるのは源頼朝が鎌倉幕府を開く前後からであり、当時は源氏各系統の上に立つ「嫡流」というものは存在しなかったという見解もある。また、為義は義信の弟ではなく叔父であるとする説もある。
山田紗暉 来歴 小学校より父の指導の下で格闘技に打ち込み、空手・テコンドー・キックボクシング・総合格闘技で多くのタイトルを獲得。 2007年5月20日、J-NETWORKに初参戦。神村江里加と引き分ける。 11月4日、中学女子最強決定トーナメントにて陣内まどかと対戦するが、判定負け。 2008年、ボクシングへの転向を決意。フジタボクシングジムに所属して県内の興行でエキシビションをこなし、一方で全国U-15ジュニアボクシング大会西部予選に参加し1回KO勝利。 17歳を迎える2009年8月20日にプロテストを受験し合格。史上最年少でのプロとなった。10月18日、福岡県立久留米体育館での竹内久子(広島拳闘会)戦がプロデビューとなる予定だったが、竹内が負傷したため、上村里子(山木)とのエキシビションになった。 2010年2月7日、福岡市九電記念体育館にて女子では黒木優子を抜いて当時史上最年少となる17歳5か月(2018年に四宮菊乃が17歳1か月で更新)でプロデビュー、平安山裕子に判定勝利。 2011年8月28日、大阪で東洋太平洋ランカーの三好喜美佳に判定勝利。 2012年1月16日付で博多協栄ジムに移籍。 妹・真子も3月11日にJBCプロテスト合格を果たし、日本初の姉妹プロボクサー誕生となった。 2012年9月30日、福岡市九電記念体育館にて初の姉妹揃い踏みが実現。自身初の6回戦としてカイ・ジョンソンと対戦も引き分け。デビューからの連勝は5で止まった。 12月9日、地元の糸島市伊都文化会館にてジュプジャン・シットサイトーンと対戦し三者フルマークの判定勝利。 2013年9月30日、初の後楽園ホールで勝又ジムのフィリピン人選手、ハニー・カツマタと対戦するが、4勝すべてKOの相手に4回TKOでプロボクシング初黒星を喫した。 2014年、WBO世界王座を獲得した妹とともに引退。 現在は地元糸島で「ボクシング・キックボクシングジム KING BOX」のトレーナーを務める。
米川駅 駅構造 開業当時は島式プラットホーム1面2線で使用されていたが、現在は下り本線は撤去され、かつての上り本線が単式1面1線として使用されている地上駅(停留所)。徳山地域鉄道部管理の無人駅で、過去の下り本線上に構築された駅舎内に自動券売機が設置されている。
市岡寿 経歴 岐阜県出身。成城中学校を経て、1914年12月、海軍兵学校(42期)を卒業し、1915年12月、海軍少尉に任官。海軍大学校で航海学生として学ぶ。第15潜水隊付、「駒橋」航海長、「磐手」分隊長、「第51潜水艦」艤装員、「第34潜水艦」長心得、第1潜水戦隊参謀、連合艦隊参謀、横須賀鎮守府付、「北上」航海長などを歴任し、1928年12月、海軍大学校(甲種26期)を卒業。 「春日」教官、海軍省教育局員、欧米出張、皇族(高松宮宣仁親王)付武官、第24潜水隊司令、軍令部副官、「由良」艦長、「香取」兼「鹿島」艤装員長、「香取」艦長、連合艦隊司令部付、第6艦隊参謀長、海兵教頭などを歴任し、1941年10月、海軍少将に進級。 太平洋戦争には1942年2月、第2潜水戦隊司令官として出征した。その後、海大教頭、第8潜水戦隊司令官、兼第15根拠地隊司令官(ペナン)、海上護衛参謀副長などを務め、1945年5月、海軍中将となった。海軍潜水学校長兼呉潜水戦隊司令官として終戦を迎え、同年10月に予備役に編入。1947年2月、戦犯容疑で拘留され(容疑については伊号第八潜水艦#国際法違反事件を参照)、裁判において軍令部第一部長であった中澤佑と対立した。翌年2月に重労働20年の判決があったが、1958年5月に釈放された。
西井里佳 西井 里佳(にしい りか、1962年9月10日 - )は、大阪府出身のタレント/フリーランスアナウンサー/レポーター。旧芸名は西井敬子。身長162cm、体重50kg、靴のサイズ24.5cm、血液型はA型。えりオフィス所属。日本大学芸術学部演劇学科卒業。特技はフラメンコ/英会話/茶道、趣味は茶道/ゴルフ/音楽/映画/読書。
伊丹区検察庁 所在地 〒664-0881 兵庫県伊丹市昆陽1-1-12 - 同敷地内に神戸地方検察庁伊丹支部がある。 管轄 伊丹市・宝塚市・川西市・川辺郡の3市1郡。
日宇 住宅地開発 同地は1927年(昭和2年)に当時の東彼杵郡日宇村が佐世保市に編入されてからは、市街中心部への通勤者等が暮らすベッドタウン的な地域として発展した。戦後、現在の国道35号(日宇バイパス)の完成以降、卸団地の造成、黒髪町や大岳台・もみじが丘などの住宅地開発が進み、人口も増加した。 大型店舗 近年、国道沿いには工場跡地を再開発したジャスコシティ大塔(現イオン大塔ショッピングセンター)の開店をきっかけとして各種ロードサイド店舗が立ち並ぶようになっている。
今堀和友 今堀 和友(いまほり かずとも、1920年6月1日 - 2016年5月8日)は、日本の生化学者。東京大学名誉教授。大阪府大阪市出身。父は教育者・心理学者の今堀友市、兄は東洋史学者・今堀誠二、生物学者・今堀宏三。弟子に2016年度ノーベル生理学・医学賞受賞者である大隅良典がいる。
松島晃 人物 ジェック・イー出身。当時は古橋一浩監督作品に作画監督、原画として参加することが多く、古橋が監督を担当した『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 』シリーズの全てに参加している。OVA作品『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 星霜編』ではキャラクターデザインを務めた。その他、『マリア様がみてる』など多くの作品でキャラクターデザイン、総作画監督を務める。 ufotable参加後は外崎春雄とタッグを組むことが多く、OVA作品『テイルズ オブ シンフォニア THE ANIMATION』以降、ufotableが制作する『テイルズ オブ シリーズ』のアニメーションパートのすべてにおいてアニメーションキャラクターデザイン及び総作画監督を務め、外崎が監督を務めている。そのほか、外崎が監督をするアニメーション作品ではキャラクターデザイン・総作画監督を担当することがほとんどである。
城繁幸 城 繁幸(じょう しげゆき、1973年5月10日 - )は、山口県出身の作家、人事コンサルタント。株式会社ジョーズ・ラボ(Joe's Labo)代表取締役。ワカモノ・マニフェスト策定委員会のメンバー。 人物 山口県立徳山高等学校、東京大学法学部を卒業後、1997年に富士通に入社。富士通では人事部に勤務し、成果主義を導入した新人事制度導入直後から運営に携わった。2004年に退社し、富士通が行った成果主義の問題点や日本型成果主義の矛盾点を自著で主張している。
スアキム・PKセンチャイムエタイジム 来歴 2018年2月12日、KNOCK OUT First Impactで那須川天心と対戦し、判定負けを喫した。 2018年3月28日、ロッタン・ジットムアンノンと対戦し、判定負けを喫した。 2018年9月7日、ルンピニースタジアムスーパーフェザー級タイトルマッチでテーパブット・シッオブンと対戦し判定勝ちで王座獲得に成功した。 2019年3月10日、RISE WORLD SERIES 2019 -58kgトーナメントの1回戦でタリソン・ゴメス・フェレイラと対戦し、ボディーへの左前蹴りでKO勝ちを収めた。 2019年7月21日、RISE WORLD SERIES 2019 -58kgトーナメントの準決勝で那須川天心と対戦し、那須川の胴回し回転蹴りで額をカットしてドクターストップによりTKO負けを喫した。
半原始環 代数学において、半原始環(英: semiprimitive ring)またはジャコブソン半単純環 (Jacobson semisimple ring)、または短くして J-半単純環 (J-semisimple ring) とは、ジャコブソン根基が 0 であるような環のことである。これは半単純環よりも一般的なタイプの環であるが、単純加群はなお環についての十分な情報を与えてくれる。有理整数環のような環は半原始環であり、アルティン的半原始環はちょうど半単純環である。半原始環は原始環の部分直積として理解することができ、それはジャコブソンの稠密性定理によって述べられている。 定義 環はジャコブソン根基が零イデアルのとき半原始的 (semiprimitive) あるいはジャコブソン半単純 (Jacobson semisimple) と呼ばれる。 環が半原始的であることと忠実な半単純左加群をもつことは同値である。半原始の性質は左右対称であるので、環が半原始的であることと忠実な半単純右加群をもつことは同値である。 環が半原始的であることと左原始環の subdirect product であることは同値である。 可換環が半原始的であることと体の subdirect product であることは同値である(Lam 1995, p. 137)。 左アルティン環が半原始的であることと半単純であることは同値である(Lam 2001, p. 54)。そのような環は半単純アルティン的とも呼ばれる(Kelarev 2002, p. 13)。
とう利天 概略 須弥山の頂上、閻浮提の上、80000由旬の処にあり、中央に善見(喜見)宮がある。四面それぞれ80000由旬の大きな城があり、そこに帝釈天が住し、四方には各8つの城があり、その所属を支配する天部の衆徒や神々が住んでいる。ゆえにこれに善見城を加えて計33天となるので、三十三天と称される。 この33天は、半月の三斎日には城外西南角の善法堂に集会して、如法・不如法を論評するという。この天の有情が婬欲を行ずる時は、形を変えて人間の如くなるが、ただ、風気を泄し終われば熱悩がたちまち除かれるという。身長は1由旬、衣の重さは6銖、寿命は1000歳にして、その一昼夜は人間界の100年に相当するといわれる。また初生の時は、人間の6歳の如く色円満し自ら衣服があるという。 釈尊を生んだ摩耶夫人はその7日後に死去したが、この天に転生したとされる。『摩訶摩耶経』などには、釈尊はかつてこの天に昇り、実母の摩耶夫人のために3ヶ月間説法し、三道宝階に依って僧伽施国の地に降り給うたと記されている。
タウンハウス (イギリス) 背景 歴史的にはタウンハウスとは、貴族、あるいは裕福な家系の都市部における住居であるが、彼らは1軒または複数のカントリー・ハウス、多くの場合マナー・ハウスを所有していて、年間の大半はそちらに住んでおり、その不動産が彼らの資産や政治力の大半を生み出していた。ロンドンの法曹院の多くがこの機能を有しており、例えばグレイ法曹院は、初代グレイ・ドゥ・ウィルトン男爵レジナルド・ドゥ・グレイ (英語版) のロンドンのタウンハウスだった。18世紀以降地主とその使用人達は、ソーシャル・シーズン (英語版) の間タウンハウスに住むようになった 。 また18世紀以降、富裕層、特に庭園のある敷地を持つ者に集合住宅を購入させることは、ジョージアン様式建築 (英語版) の成功例の一つだった。ほんの一握りのタウンハウスだけが戸建てだったが、地方には数百あるいは数千エーカーの敷地を持つカントリー・ハウスを所有する貴族でさえ、都市部では集合住宅に住んでいた。例えばノーフォーク公は、地方にはアランデル城 (英語版) を所有していたが、1722年以降の彼のロンドンでの居宅であるノーフォーク・ハウス (英語版) はセント・ジェームズ広場 (英語版) にあり、30メートル (100フィート) を超える横幅を持つ集合住宅だった。 ロンドン 中世では貴族のロンドンの住居は、ロンドン・ウォールの内側かシティ・オブ・ロンドンの境界内に建てられていて、一般に"イン" (Inn、宿の意) として知られている。例えばリンカーン法曹院 (Lincoln's Inn) はリンカーン伯爵のタウンハウスであったし、グレイ法曹院 (Gray's Inn) はグレイ・ドゥ・ウィルトン男爵のタウンハウスだった。貴族達は次第にシティ・オブ・ロンドンからウェストミンスター宮殿への公式な主要道であるストランド通り (英語版) 沿いに広がっていき、議会と裁判所の機能も移っていった。ケンジントンやハムステッド等の地域は、19世紀までロンドン郊外の村 (ハムレット) だったため、ホランド・ハウス等は真の歴史的なタウンハウスとはみなされない。司教もまたロンドンの住居を持っており、それらは一般に"宮殿" (Palace) と呼ばれ、例えばランベス宮殿、エリー宮殿等がある。多くの貴族所有のタウンハウスは、第一次世界大戦で、焼失したりあるいは居住用としては使われなくなったりした。 ストランド通り最大の邸宅は、その時代王国内で最も裕福であったランカスター公ジョン・オブ・ゴーント (1340-1399) のサヴォイ宮殿である。ストランド通りにはテムズ川河口に面しているという利点があり、そこに邸宅を持つ貴族達は、個人的な荷揚げ場所を確保することができた。次の流行は、テューダー朝の王室が近いセント・ジェームズに向かってさらに西に移動することだった。18世紀に入りコヴェント・ガーデンが、ベッドフォード・エステート (英語版) を所有するベッドフォード公により開発され、メイフェアがグローヴナー・エステート (英語版) を所有するウェストミンスター公により開発された。現代以前の最後の流行は、ベルグレイヴィアの元は沼地であった土地に住居を建てるというもので、ここもまたウェストミンスター公により開発が行われた。以下に、大半は解体されているが、"オテル・パティキュリエ" (英語版) に匹敵するタウンハウスの例を掲げる。 その他の都市 ほとんどのタウンハウスはロンドンにあるが、地方都市にもまたいくつかの歴史的なタウンハウスが存在する。例えば、バンプファイルド・ハウス (第二次世界大戦により滅失) はデヴォン州の州都エクセターにあり、バンプファイルド家のボルティモア男爵 (英語版) のタウンハウスであった。男爵家の地方における主たる居宅はデヴォンにあるポルティモア・ハウスだった。エクセターにはまたベッドフォード・ハウスがあり、これも既に滅失しているが、ベッドフォード公のタウンハウスだった。公爵はベッドフォードシャー州のウォバーン・アビーに住んでいたが、その広大な不動産を管理するために西部に拠点を必要としていた。 ジョージアン様式のダブリン "ジョージアン様式のダブリン" (英語版) は5つの広場 (Garden square) (英語版) から構成されていて、それは主要な貴族のタウンハウスを含んでいた。その広場とは、メリオン広場 (英語版) 、セント・スティーブンズ・グリーン (英語版) 、フィッツウィリアム広場 (英語版) 、ラスランド広場 (英語版) (現在のパーネル広場) 、マウントジョイ広場 (英語版) である。それらの広場にある多くのタウンハウスは、現在はオフィスとなっており、一部解体されたものもある。
東京医療専門学校 四谷本部校舎 JR中央線・総武線「四ツ谷駅」より徒歩5分 代々木校舎 JR山手線・総武線、都営地下鉄大江戸線「代々木駅」より徒歩1分
ミューミューニャーニャー 概要 『ゴロンタ劇場』、『ブンブンたいむ』、『にこにこぷん』と並行して土曜日に放送され、「第…代目」のカウントからは外れている。これは後の『ぐ〜チョコランタン』の前身『スプーとガタラット』が『ドレミファ・どーなっつ!』と並行して放送されていた事例を除くと唯一であり、制作時期では『ゴロンタ劇場』に続いて7番目となる。 初代の「ブーフーウー」から出演したキャストが起用された最後の作品でもある。 あらすじ 仲がよすぎてケンカばかりしている姉弟の猫、ミューミューとニャーニャーが、まわりの人たちを巻き込んで次々と事件を起こす。
ハネジロペンギン 分布 繁殖地はニュージーランド南島のバンクス半島とモトナウ島、および北カンタベリー海岸にのみ分布する。 形態 体長40-45cmと小型。近縁のコガタペンギンより体がやや大きく、フリッパーの白い縁取りの幅が広い。 生態 生態もコガタペンギンに似ており、明け方に海へ出て日没後に陸に上がる。上陸に適した暗さになるまで沖合いで群れを作って待つ性質がある。 繁殖期間はコガタペンギンよりやや短く、産卵は7月から12月にかけて、ほとんどは8月から11月に行われる。巣は砂丘や斜面の茂みの下に作られる。卵は33日から39日で孵化し、雛は50日から65日で巣立つ。 食性は動物食で小型の魚類を主に食す。狩りは海岸から25km程度までの範囲で行われ、もっとも遠い記録は75kmである。 保護上の位置づけ ニュージーランド本島では、特に外来種による被害が甚大で、個体数が減少しており、全滅した繁殖地も存在する。現在最も絶滅が心配されているペンギンの一種で、絶滅危惧種。 分類学説 学者によっては本種をコガタペンギンの亜種とする説もあるが、ニュージーランドの専門家の多くはコガタペンギンとハネジロペンギンは異なる種であると主張している。本稿では、ハネジロペンギンのただ一人の研究者であるクリス・チャリス博士の見解にしたがい、ハネジロペンギンを独立種として表記した。
優香 明日へSwitch! 概要 今日から明日への最後の5分間、番組開始から2011年3月までは「明日への活力」となる言葉、名言を紹介、2011年4月以降は「明日はなんの日」であるかを解説。「こんばんは。優香です」と挨拶し、解説の後、優香がその感想を述べ「優香でした」と締める。 開始時は『BATTLE TALK RADIO アクセス』終了直後のミニ番組として、2010年4月5日からは『ニュース探究ラジオ Dig』の前半部と後半部(『ニュース探求ラジオ Dig 深夜営業』、2012年3月30日に終了)にはさまれる形で放送されていた。2011年秋の改編で番組終了とともにミニ番組枠が一旦廃止された。なお、24時前のミニ番組枠は2012年春に『Dig 深夜営業』のコーナーから独立した『BLITZ POWER PUSH』で復活している。
オランダの歴史 前史 古代のネーデルラント(低地地方)はライン川下流以南がローマ帝国領、以北はフランク人やフリース人などが住むゲルマン系諸族の土地であった。森林が多い低地帯で、バタウィ族やフリース族などが共存していた。 ローマ帝国 ネーデルラント(低地地方)は紀元前58年、ガイウス・ユリウス・カエサルが率いるローマ帝国軍の侵攻を受け、ローマ帝国領最北端の地域に編入された(ガリア戦争)。ただし、帝国軍はネーデルラント北部のフリースラント地方の大部分は平定することが出来なかった。帝国はライン川を帝国領北端の国境線として、低地ゲルマニア属州の辺境を守る砦や町を造った。これらの中で重要だった町は、現在のユトレヒト、ナイメーヘン、マーストリヒトである。また、この時初めて文字がこの地にもたらされた。 以前からこの地に住んでいたバタウィ族とローマ帝国の関係は当初は良好なものであり、次第にローマ文化が浸透してゆき、土着の神を奉るローマ風の寺院なども造られた。また、北海で産出される塩も重要な交易商品として帝国各地へ運ばれた。69年には、皇帝ネロの自殺に伴う帝国内の混乱に乗じる形で、ガイウス・ユリウス・キウィリスが首謀したバタウィ族の反乱(革命)が発生した。70年に新皇帝ウェスパシアヌスが実権を握り帝国内の混乱を収める中で、バタウィ族の反乱に対してもローマ軍団を派遣してこれを平定した。以後この地にはローマ軍団が常駐するようになった。 その後ローマ帝国が分裂し、この地を治めるのは西ローマ帝国となるが、帝国の勢力が衰えるとともにこの地域も衰退していったと思われる。 民族大移動時代 4世紀以降の民族移動時代には、ネーデルラントは多くのゲルマン人の通過経路となった。なお、この時代の記録はほとんど残されていない。北のフリース人、南のフランク人、東のサクソン人の勢力圏に囲まれていたと考えられている。 フランク王国 民族大移動期にローマ帝国はフランク人のサリ族を傭兵として利用するためにフォエデラティの資格でネーデルラント南部のトクサンドリアに入植させたが、西ローマ帝国の衰退にともない、サリ族入植地から発展して成立したフランク王国に、ネーデルラント全体が取り込まれていった。フランク王国の初代国王クロヴィス1世がカトリックに改宗したことにより、ネーデルラントにもキリスト教がもたらされた。 フランク王国の史料によれば、7世紀から8世紀においても、ネーデルラント北部からドイツ北部の海岸線に沿った地域はフリースラント王国が独立を保っており、その中心地はユトレヒトであった。734年のボールンの戦いでフランク王国がフリースラント王国を破り、現在のフリースラント州付近までがフランク王国の領土となった。その後、785年にザクセン公ヴィドゥキントがカール大帝に降伏し、ネーデルラントは完全にフランク王国の領土となった。この時点でのフランク王国の中心地は、現在のベルギーと北フランス一帯であった。 843年にフランク王国が西フランク王国、中フランク王国、東フランク王国に分裂すると、ネーデルラントは中フランク王国に属することになった。その後、中フランク王国は再度分裂し、ネーデルラント(現在のオランダ語圏)は東フランク王国に吸収される。 800年頃から1000年頃にかけては、激しいヴァイキングの侵攻に晒された。841年から873年にかけてはネーデルラントの大部分が占領され、ロリック率いる占領者がドレスタット(現在のユトレヒト付近にあった中世の町)からネーデルラント全域の統治を行った。 カール5世のネーデルラント政策 マクシミリアンとマリーの孫で自らもネーデルラントで生まれ育った神聖ローマ皇帝カール5世は、ネーデルラント17州すべての主権者として専制政治を行い、カール5世退位後にハプスブルク領がオーストリア・ハプスブルク家とスペイン・ハプスブルク家に分割されると、ネーデルラントはスペインの支配下に入った。 また、1530年代には再洗礼派がネーデルラントに流入し、アムステルダムを中心に勢力を伸ばした。1534年にはヤン・マティスを指導者として再洗礼派がアムステルダムを掌握、さらに再洗礼派にはヤン・ベーケルスゾンが指導者として加わり、ミュンスターを中心とした「ミュンスター千年王国」を建設したが、1535年にはプロテスタント諸侯とカトリック諸侯の連合軍によってミュンスターは陥落した。 1545年、カール5世はネーデルラント諸州に異端審問官を設置、1550年にはこれらの異端審問官を皇帝直属機関とした。しかしこうした政策は主に経済面への悪影響を懸念するネーデルラント各都市からの反発を受けたため、カール5世によるプロテスタントへの圧力は弱まった。一方、1540年代にはカルヴァン派もネーデルラントに流入し、都市部の商人や手工業者を中心に勢力を広げた。 このように、カール5世のネーデルラント政策はプロテスタントへの弾圧が目立つものであったが、一方でネーデルラント諸州が政治的一体性を持ち、また「ネーデルラント」としての統一的なアイデンティティを獲得し始めた時期にも相当する。 フェリペ2世のネーデルラント政策 カール5世は1555年にネーデルラント諸州を息子フェリペ2世に譲り、翌年にはスペイン王位も譲って隠居生活に入る。 フェリペ2世は1559年までネーデルラントに留まったが、この年に庶姉のパルマ公妃マルゲリータをネーデルラント全州総督に任命してスペインへ向かった。ネーデルラント諸州の政治はアラス司教のグランヴェルが事実上の最高責任者となった。一方、同年にはカトー・カンブレジ条約によってヴァロワ家とハプスブルク家の講和が成立したため、フランスからネーデルラントへ大量のカルヴァン派が流入を開始した。同年にはまた、ネーデルラント諸州の司教区再編が議論され、1562年には、それまでランス大司教区、ケルン大司教区、トリアー大司教区という、いずれもネーデルラント諸州外の大司教の管轄下に置かれていたネーデルラント諸州が新たにカンブレ、メヘレン、ユトレヒトの3つの大司教区に再編された。この結果、ネーデルラント諸州の貴族たちが持っていた教会関係の利権が失われることとなり、貴族たちの不満が募った。 1566年、再び強化された異端審問に反発し、ネーデルラント諸州の下級貴族たち300名ほどがマルゲリータに異端審問の中止を要求した。マルゲリータはこの要求を容れたが、その結果、亡命中だったプロテスタントの指導者たちがネーデルラント諸州に舞い戻り、活発な野外説教を行うようになった。8月にはカトリックの教会や修道院を標的にした打ち壊しがフランドル州で発生し、他の州にも広がっていった(聖像破壊運動)。これらの一連の動きの背景には、この年の極端な冷害による食料不足もあった。 1567年、フェリペ2世は事態を収拾するためにアルバ公を指揮官とする1万の部隊をネーデルラントに派遣した。8月にネーデルラント入りしたアルバ公は、徹底的なプロテスタントの取り締まりを行い、12月には穏健派のマルゲリータに代わってネーデルラント全州総督となった。一方、ネーデルラント諸州の貴族の中でも最有力者であったオラニエ公ウィレム1世は、アルバ公がネーデルラント入りする前の4月にドイツに逃亡していたが、アルバ公はオラニエ公およびそれに付き従った貴族たちの財産と所領を没収するという強硬策を採った。 反乱の始まり 1568年、オラニエ公ウィレム1世は弟ローデウェイクらとともにネーデルラントに侵攻し、アルバ公に戦いを挑んだが、これは失敗に終わり、フランスに逃げ込むことになった。フランスでユグノー勢力と合流したオラニエ公らは、軍船をかき集めて海賊船団を設立した。イングランドのドーバーやフランスのラ・ロシェルを根拠地として通商破壊戦を展開した。これがいわゆる「海乞食」(ゼーゴイゼン、ワーテルヘーゼン)である。 1572年4月、26艘の船団に搭乗したおよそ250人の「海乞食」軍団はマース川の河口にあるブリーレの町の占拠に成功した。その後、ブリーレを根拠地に周辺の港町を幾つか攻略し、ホラント州およびゼーラント州内の水上交通網を押さえる戦略に出た。この結果、多くの都市がオラニエ公側に寝返り、7月までに26都市がオラニエ公側に付くこととなった。この月、ホラント州議会はオラニエ公ウィレムを州総督に任命する。 アルバ公側も反撃に出たが、オラニエ公側の守りを崩すことは出来ず、1574年10月のレイデンヘ攻防戦に勝利を収めたオラニエ公は、ホラント州およびゼーラント州を実効支配するに至った。その後、各地からプロテスタントがホラント州およびゼーラント州に逃げ込み、この2州の政治の実権はプロテスタントが握るようになった。 ヘントの和平とその破綻 1575年、スペイン王フェリペ2世は2度目の破産宣告をした。この影響でネーデルラント派遣軍への給料支払いが滞ったため、スペイン兵たちはブラバント州で略奪行為に出た。この略奪を問題視したネーデルラント南部の諸州はスペイン軍の撤退を要求し、1576年11月にヘントの和平が成立した。しかしこの和平体制は長くは続かず、1577年にはオラニエ公と、アルバ公に代わって1576年にネーデルラント全州総督となっていたフアン・デ・アウストリアの間で戦闘が再開される。 戦闘再開から間もなく、ユトレヒト州とアムステルダムはオラニエ公側に就くが、スペイン側も病死したフアン・デ・アウストリアの次のネーデルラント総督となったアレッサンドロ・ファルネーゼが主導して1579年1月にアラス同盟を結成、反乱州との対決姿勢を強めた。これに対し、反乱州は同じ月にホラント州およびゼーラント州でユトレヒト同盟を結成、翌年までにユトレヒト同盟は北部7州による同盟へと発展した。 フェリペ2世の統治権否認決議 1580年9月、ユトレヒト同盟はフランス王アンリ3世の弟アンジュー公フランソワを新たにネーデルラントの君主として迎えることを決め(プレシ・レ・トゥール条約)、1581年7月にはユトレヒト同盟に参加した北部7州による連邦議会によって、フェリペ2世の統治権を否認する統治権否認令を布告した。アンジュー公は1581年8月にネーデルラント入りしたが、ユトレヒト同盟側との意見の対立により、1583年6月にはフランスに戻ってしまう。更に1584年7月にはオラニエ公ウィレムが暗殺され、ユトレヒト同盟は指導者を欠く状態となった。 1585年1月、ユトレヒト同盟はアンリ3世に北部7州の主権を委ねることを申し出たが、この申し出はアンリ3世に拒否される。同年6月にはイングランド女王エリザベス1世に同様の申し入れをするが、これも断られ、代替策としてイングランド貴族レスター伯ロバート・ダドリーが執政として北部7州に迎えられることとなった。8月に入るとスペイン軍の封鎖を受けていたアントウェルペンが降伏、開城に至って焼き討ちを受け、退去したプロテスタント市民が大挙して北部へと逃れた。これをきっかけとして10万から15万に達するとみられる難民がそれまでの商工業の中心だった南ネーデルラントから北部のホラントとゼーラントに移動する事態となり、ネーデルラントの経済の中心はアントウェルペンから資本と商業のノウハウが移転されたホラントの中心都市アムステルダムに移ることとなった。レスター伯は1585年12月に兵士5000人を率いてネーデルラント入りするが、やはり意見の対立が発生して1587年12月に帰国。ハプスブルク家と対抗出来る有力君主に北部7州の主権を委ねるという戦略は完全に破綻した。 ネーデルラント連邦共和国 1585年にホラント州およびゼーラント州の総督に任命されたマウリッツ・ファン・ナッサウは、1591年までに更にユトレヒト州、ヘルダーラント州、オーファーアイセル州総督にも就任し、反乱側の指導者としての地位を確立する。1596年にはフランスとイングランドが北部7州を国家として事実上認める条約(グリニッジ条約)を締結し、うやむやのうちにネーデルラント連邦共和国が成立していたことになった。 共和国が成立してもスペインとの戦争は終わらなかった。ネーデルラント諸州は1602年、連合東インド会社(オランダ東インド会社)を設立してアジアに進出し、ポルトガルから香料貿易を奪取し、世界の海に覇権を称えた。このため貿易の富がアムステルダムに流入して、17世紀の共和国は黄金時代を迎えることとなる(オランダ海上帝国)。1609年にはスペインとの12年停戦協定が結ばれたが、1621年に停戦が終わると、独立戦争はヨーロッパ全体を巻き込んだ三十年戦争にもつれ込んだ。1648年、三十年戦争を終結させたヴェストファーレン条約の一部であるミュンスター条約で、スペインはネーデルラント連邦共和国の独立を正式に承認し、80年にわたる戦争は終結した。 オランダ東インド会社は、アジアだけでなく南北アメリカにも植民地を築いた。しかし各地の植民地でイギリス東インド会社と衝突し、ついには3次にわたる英蘭戦争となり、次第にイギリスより劣勢に立つことになった。 1672年、イングランドがオランダに宣戦布告し(第三次英蘭戦争)、続いてフランス王国も宣戦を布告した(オランダ侵略戦争)。この国家的危機のため、1672年は「災厄の年」と呼ばれる。オラニエ派と共和派の対立も深まり、ついには1653年以来共和制の指導者であったヨハン・デ・ウィット兄弟が倒され、ウィレム3世が総督職に就いた。 1688年、ウィレム3世はイングランドへ侵攻し、ジェームズ2世は国外へ逃れた(名誉革命)。ウィレム3世は妻メアリー2世とともにイングランドの共同統治者(ウィリアム3世)となり、イングランド(およびスコットランド、アイルランド)とネーデルラントは1702年までの20年余、ともに同じ元首を頂くことになった。18世紀始めに勃発したスペイン継承戦争ではネーデルラントはフランス・スペインを相手にイギリスとともに戦った。1747年、オーストリア継承戦争の最中、フランスに侵攻されたが、なんとか撃退した。 18世紀末葉になるとフランスの啓蒙思想が共和国にも流入したが、オランダ総督のウィレム5世が優柔不断な態度を取っていたため、統領職を代々世襲するオラニエ=ナッサウ家に対する反感が高まった。さらにアメリカ独立戦争でイギリスと対立し、第四次英蘭戦争を起こして敗北(ただし、アメリカ独立戦争ではイギリスが敗北したため、オランダの損失は植民地のナーガパッティナムのみ)、1785年にパトリオッテン派が蜂起する結果になった。 バタヴィア共和国とホラント王国 フランス革命が起こると、フランス革命軍は1793年にネーデルラント一帯を占領し、フランスへ亡命していた革命派やその同調者にバタヴィア共和国を樹立させたが、ナポレオンが皇帝に即位すると、1806年に弟ルイ・ボナパルトを国王とするホラント王国に移行した。しかしルイはネーデルラント人の利益を優先してナポレオンの命令に忠実でなかったため、ナポレオンは1810年に王国を廃止してフランス帝国の直轄領とし、総督ルブランがアムステルダムに駐在した。この混乱のなかで東インド会社は解散し、東インド植民地(オランダ領東インド)はフランスと敵対するイギリスが一時占領(1811年 - 1816年)した。この影響は遠く離れた日本の出島まで及び、オランダ国旗を掲げ(この時期、オランダ国旗を掲げている場所は、世界中で長崎の出島とアフリカ西海岸のエルミナ要塞しかなかった)オランダ船を装ったイギリス船フェートン号による侵犯事件も起こった(フェートン号事件)。 ネーデルラント王国 1813年にナポレオン帝国が崩壊すると、イギリスに亡命していたオラニエ=ナッサウ家の一族が帰国し、ウィレム1世が即位して南ネーデルラント(ベルギー、ルクセンブルク)を含むネーデルラント連合王国を樹立した。これが現在まで続くネーデルラント王国(オランダ王国)の始まりである。しかしベルギーは独立戦争の後、1830年に分離独立した。1890年ウィレム3世が死去すると、王位を継承したウィルヘルミナ女王が幼少のため母后エンマが摂政となったが、その際にはルクセンブルク大公国が同君連合を解消して完全独立した。ウィルヘルミナ女王は1898年に18歳で親政を開始し、女王の統治時代は50年にわたって続くことになる。 第一次世界大戦ではネーデルラント王国は中立を維持したが、第二次世界大戦では中立宣言にもかかわらずナチス・ドイツに占領された。このためウィルヘルミナ女王の政府はイギリスに亡命している。また1941年に太平洋戦争が勃発すると、12月8日に日本に対して宣戦を布告した。東インド植民地(オランダ領東インド)は日本軍に占領された。南方軍司令官の今村均大将はオランダ側からの現地住民から身を守るための武装許可の要請を受け入れ、オランダ人の拳銃携帯を許可している。1945年の日本降伏後、オランダ軍は日本軍人をBC級戦犯として逮捕、拷問・処刑を行った(連合国中で最も多い226人の日本人を処刑、数千人を無期・有期刑で服役させた)。中には無実の者も含まれており、オランダの単なる報復行為の側面もあった。 日本降伏後、スカルノら現地の独立派は独立を宣言し、オランダはインドネシアの独立を認めることなく再征服を目指したことによりインドネシア独立戦争(1945年 - 1949年)が勃発したが、結局インドネシアの独立を承認せざるを得なくなった。本国では1948年にウィルヘルミナ女王が退位してユリアナ女王が即位し、1980年にはユリアナ女王の譲位を受けてベアトリクス女王が即位している。
P504i 概要 従来の3倍の通信速度28.8kbpsとなったP503iSと比べて大幅に薄型化。 16.8mmの厚さは、当時としては驚異的な薄さで注目を浴びた。 液晶には、NTTドコモ向けの松下の端末としては初のTFT液晶が採用された。 iアプリの保存件数は、最大200件になり着メロは32和音に対応。 文字変換も予測変換に対応するなど改良された。 イヤホンマイク端子は専用の平型のものになった。 また、ワンプッシュオープンが携帯電話としては初めて搭載された機種でもある(PHSでは2001年、KX-HV200に搭載されている)。
Crobots 概要 競技場を舞台にロボット同士が戦う。競技場の広さは1000メートル×1000メートル。同時に登場できるロボットは4台まで。ロボットは移動、索敵、砲撃を行うことができ、砲撃を受けたロボットはダメージを受ける。ダメージが100を超えると破壊されたとみなされ競技場から退場する。最後まで競技場に残ったロボットが勝者となる。 ロボットの動作は、C言語風のプログラムで記述する。言語機能としてはC言語と比べると浮動小数点数、構造体、共用体、ポインタ、一部の制御構文などがない。ロボット制御用ライブラリとしてscan(索敵)、cannon(砲撃)、drive(移動)、damane(ダメージ取得)、speed(スピード制御)、loc_x/loc_y(現在位置取得)の各関数が提供される。その他にrand、sqrt、sin、cos、tan、atanの各関数が使用できる。 プログラムは独自の32bitスタックアーキテクチャCPUのコードにコンパイルされて実行される。1台のロボットに割り当てられるコード領域は1000命令、スタック領域は500ワードまでとなっている。 Crobotsはシェアウェアであるがソースコードは公開されており、その解説が月刊アスキー1988年2月号から3回にわたって掲載された。 クローン 多くのCrobotsクローンが作成された。しかしながら、コンパイラとバーチャルマシンが揃ったものは、JavaクローンとJava VMやマイクロソフトコンパイラを使用したC++クローンなどごく一部である。 正式なクローンは、Tom Poindexterのオリジナル版と同じ機能を持つが、標準Cライブラリの三角関数に合わせるため、しばしば角度の向きが変えられる。直近のクローンはCrobots64とNetrobotsである。Marco ZoraによるcrobotsはC++サブセットコンパイラとバーチャルマシンに加え、優れたグラフィックインターフェイスを持つ。このクローンの重要な点は、同種のCrobotsとの新しい協調性があり、Crobotsの数が無制限であり、浮動小数点による演算と仮想CPUの速度です。一方、Netrobotsはネットワーク越しに実行することが出来、それぞれのロボットは別々のプロセスで動作し、異なる言語で記述することが出来る。 CrobotsはApple IIで動作するen:RobotWarからコンセプトを得ている。RobotWarはプロプライエタリソフトウェアであり、言語も独自の言語であった。また、リアルタイムビューを含んでいた。 日本での普及 オリジナルのCrobotsはIBM PC上のMS-DOSで動作するが、これをアスキー編集部ICWS(International Core Wars Society、Core Warsについてはコア戦争を参照)日本支部がPC-9801やFM-16βなどの国産MS-DOSパソコンに移植し、月刊アスキーディスクサービスやASCII-NET(PCS)で公開された。また、有志によりPC-88VAのMSE上で動作するパッチも公開された。 ICWS日本支部では日本CROBOTSトーナメントを開催した。第1回は1987年10月3日に南青山で18台のロボットが参加して行われた 。
海軍航空本部 沿革 海軍航空本部の創設以前、帝国海軍は航空分野に関する中央総括部署を持たずに、海軍省内部部局や海軍艦政本部が分割して担当していた。しかし、刻々と進歩する航空分野に十分対応するためには統一的に管轄する担当部署が必要であるとの認識から航空関連部署を新設することになった。これが海軍航空本部であり、海軍航空本部令(1927年(昭和2年)4月4日勅令第61号)により海軍艦政本部から分離独立する形で設立された。以後、航空行政を総括する立場から航空戦力増強を推進、それにともない組織も順次強化されていった。終戦後の1945年(昭和20年)11月30日、海軍省廃止に伴い海軍航空本部も解散した。
必履修科目 必履修科目(ひつりしゅうかもく)とは、日本の後期中等教育の課程(高等学校の課程、中等教育学校の後期課程、特別支援学校の高等部の課程)において、卒業までに学校の定めた教育課程に従って履修しなければならない科目のことである。 特別支援学校の高等部における教育課程 特別支援学校の高等部においては、個別に「特別支援学校高等部学習指導要領」が定められているが、「高等学校学習指導要領」の多くの部分を準用している。 ただし、一般の高等学校や中等教育学校と比較すると、教育課程に若干の違いが見られる。 高等専門学校における教育課程 高等専門学校の課程は、後期中等教育から(大学などにおける)専門教育に相当するものである。学習指導要領はなく、文部科学省が所管する省令である高等専門学校設置基準に定める要件に基づく教育課程が定められる。 「専門教育を主とする学科」と「総合学科」 商業に関する学科、工業に関する学科など、専門教育を主とする学科では、専門に関わる科目を25単位以上履修することとなっている。ただし、一定の条件下で、5単位まで、普通教育に関する教科に組み入れることなどの措置が認められている。 なお、総合学科にあっては、「産業社会と人間」(2 - 4)を入学年次に履修することになっている。 これらの科目は厳密には必履修科目とは呼ばれない。 各学校が定める必履修科目・必修科目 学校によっては、学習指導要領の定める必履修科目の他に、学校のすべての生徒が履修すべき科目を定めていることがある。また、時間割上すべての生徒が学習する科目を必履修科目・必修科目などと呼び、その他の科目を選択科目と呼ぶこともある。
阿閉吉男 阿閉吉男(あとじ よしお、1913年8月28日 - 1997年8月20日)は、日本の社会学者、名古屋大学・創価大学名誉教授。 来歴 東京出身。府立六中(現都立新宿高等学校)を経て1937年東京帝国大学文学部社会学科卒。名古屋大学文学部助教授、1960年教授、1977年定年、創価大教授。1993年退職。ジンメル、マックス・ヴェーバーを研究。1970年日本社会学会会長。1980年「ジンメル社会学の方法」で日本学士院賞受賞。
エンドル 演ドル(えんドル)は、演歌とアイドルとを合わせた造語。「エンドル」とも表記される。 歌謡曲におけるアイドルのような売り出し方をした女性演歌歌手、または、女性アイドルが演歌歌手として売り出した場合に、自称・他称される。男性がこう呼ばれる例は極めてまれで、近年は「イケメン演歌歌手」等と称される。 概要 1970年代には既に森昌子、石川さゆり、八代亜紀、西川峰子、牧村三枝子といったアイドル的な立ち位置の演歌歌手が活躍していたが、歌謡曲のジャンル分けが曖昧な時代であったことから、彼女らを指す特別な名称はなかった。 1980年代後半から「バラエティーアイドル」の略語としてバラドルが用いられるようになり、「〇〇ドル」はある特性を持ったアイドルの略語として認知されるようになった。 1980年代終盤から1990年代初頭にかけて10代〜20代の女性演歌歌手が多くデビューした。演歌歌手=おばさん、演歌=中高年向けの音楽というイメージを払拭する狙いもあり、彼女らに対して「演歌のアイドル」略して「演ドル」「エンドル」という名称が使われるようになった。 1995年(平成7年)、集英社「イミダス(情報・知識imidas)」の時事用語辞典の新語流行語として「演ドル」が記載された。 1999年(平成11年)10月16日、テレビ朝日系列「京都マル秘仕置帖 ~伝説の男“必殺仕事人三味線屋勇次”が京の町に現れた! カラオケ教室美人殺人事件 デビュー直前に消された演ドルの秘密~」が放送された。
石清尾山塊 概要 石清尾山塊は、高松平野の北西部に位置し、市街地に囲まれた周囲約16㎞・東西約3㎞・南北約4㎞に広がる独立した山塊である。北端の石清尾山(232.4m)・南側の浄願寺山(239.5m)・東側に位置する稲荷山(166m)と室山(199.8m)などと平坦な峰でなる。山塊の名称は、北東山麓の石清尾八幡神社に由来する。山塊の北側の山麓から瀬戸内海まで約1㎞で、西側の香東川は北流して瀬戸内海に注ぐ。 山塊の峰や尾根を中心に、古墳時代の前期から後期にわたる120基を超す積石塚と盛土墳が分布する。全長約96mの双方中円墳の「猫塚古墳」など20基を超す積石塚群は、「石清尾山古墳群」として国の史跡に指定され、全国の人々にも知られる香川県を代表する古代遺跡である。 山塊は香川のみどり百選の一つ。峰山には、高松市の峰山公園(丸山地区には芝生広場・わんぱく広場・ちびっこ広場ほか、西石清尾地区にははにわっ子広場・アスレチックコース・バーベキュー広場・キャンプサイト・展望台ほか、東石清尾地区には花木園・桜並木ほか)が整備されている。また登山やハイキングが楽しめる市民に身近な里山である。 石清尾山の展望台では、東方の屋島と西方の五色台に挟まれた瀬戸内海が一望できる。高松市の中心市街とサンポート高松は眼下。前方に、女木島・男木島・直島・豊島・小豆島などの島々、行き交う船舶、海を隔てて岡山県の山々が遠望できる。また展望台から望む夜景は、高松市民が楽しむ夜景スポットの一つである。 北東の山塊最大の摺鉢谷には、峰近くの緩斜面を果樹園や畑などに使用して集住する峰山町がある。山上へは、山麓の宮脇町の峰山墓地から峰山町を経て、石清尾山の峰に至る自動車道が通る。山塊を囲み、山塊に広がる行政区は宮脇町のほか数町にまたがる。 石清尾山は狭義では「石清尾山」を指すが、広義では「石清尾山塊」と解釈されている。 地形・地質 地形の詳細は巻頭と概要に記述の通り。 石清尾山と浄願寺山は、白亜紀後期の花崗岩類を中期中新世(約1300万年前~約1500万年前)の讃岐岩質安山岩(サヌキトイド)が覆ったビュートで、頂部に平坦面が残る。石清尾八幡宮から紫雲山は、讃岐岩質安山岩の貫入岩体で、石清尾山の東の尾根に火道角礫岩が分布する。 登山・ハイキング 代表的なコースの、石清尾山から紫雲山を廻るコースは下記の通り。 最寄りの市民病院バス停から5分ほど車道を登ると、社会福祉法人「さぬき」の入り口に登山口の案内表示があり、構内を通り抜けた山側に登山口がある。稜線に沿って登り、平坦な峰を進むと石清尾山の山頂の展望台に到着する。展望台から南に入り、林の中を進み「猫塚古墳」を目指す。古墳を過ぎれば車道に出る。車道を南に進み、トイレ・「姫塚古墳」・「小塚古墳」の前を通り、休憩所を過ぎればハイキングコースの道標がある。山道に入り「石船塚古墳」の右側をたどると紫雲山への縦走路に入る。東側に下り、紫雲山に登り返すと、稲荷山と室山の分岐の尾根に出る。北に折れ、稲荷山を目指して平坦な峰を進む。稲荷山の三角点は、「稲荷山北端1号墳」の墳丘にある。北に向かって急坂を道標のある場所まで下り、裾野を回り込み、中野稲荷神社の境内の階段を下る。眼前の鉄道の高架を抜け、左に曲がればJR栗林公園北口駅である。本ルートは、JR栗林公園北口駅をスタート地点とする登山者も多い。 歴史 古墳時代は、山塊の北側の山麓は海岸であり、東側と西側の山麓を河川が北流していたとされている。標高150~160メートルの摺鉢谷では、弥生時代の青銅器・土器・石器が採取され、高地性集落の痕跡が認められる。浄願寺山と紫雲山の標高20~30メートルの場所でも、弥生時代の遺物が採取されている。 古墳時代前期の積石塚は、大和の豪族を首長とする政治連合に参加しながら、自立的な地域支配を行っていた豪族の遺跡とされている。その後、古墳時代後期まで、山塊の全域で多くの盛土墳が築かれている。 江戸時代の摺鉢谷は、深山幽谷であると『三代物語』に記述する。香東川は石清尾山塊を挟んで東西二筋の流れであったが、西嶋八兵衛が江戸時代初めの治水工事で東側の流れを堰き止め、西側の流れ一本に改変したとされている。 昭和時代初め、摺鉢谷の峰近くの緩斜面と平坦地が開拓され、徐々に居住者が増える。峰山町は1940年(昭和15年)、高松市の町名になる。2018年(平成30年)5月現在、65世帯・153人が居住する。1979年(昭和54年)、市政施行90周年記念事業の一環として峰山公園の整備が始まる。1981年(昭和56年)に丸山地区の供用開始、1983年(昭和58年)に全域の供用開始となる。その後、はにわっ子広場などが新設された。 交通 バス路線は山麓で止まり、峰山への乗り入れは無い。山上へは、タクシー・自家用車・徒歩などになる。 ショートカット 山塊は都心の人口密集地に囲まれ、交通を阻む状態にあるため、複数のショートカットが存在する。 栗林トンネル 峰山と紫雲山の間に位置し、高松市の中心部と鶴尾地区及びそこに連結する国道32号を結ぶ動脈である。トンネルは香川県道172号川東高松線の一部で交通量も多い。ここをショートカットしない場合は、中央通り(国道11号)まで迂回することになる。栗林トンネルの北側に延びる約1キロメートルの百舌坂は、学生や市民ランナーが走り込み練習をする坂で、上りきると市街地が一望できる。 峰山トンネル 2018年7月2日、高松市は切通峠の下部に峰山トンネルを貫いた、総延長約7.5キロメートルの都市計画道路木太鬼無線の供用を開始した。迂回を余儀なくされていた、高松西部地域(鬼無・香西ほか)と高松中心部とのアクセスを格段に向上させた重要な道路である。峰山トンネル東側の奥の池南交差点で、栗林トンネルを通るショートカット道路と交差する。 切通越え 切通越えは峰山と浄願寺山の間の峠越えの道路で、鶴尾地区と弦打地区を結ぶ。自動車の対向困難箇所が多数存在する狭隘な農道のため、対向車が現れることは稀である。
ガタパーチャ 植物 マレーからソロモン諸島に分布する常緑高木。成長すると樹高30メートル、直径1メートルの巨木になる。葉の大きさは8-25センチメートルで、裏側が黄色い。花は白く、枝に沿ってまとまって付く。実は3-7センチメートル大の卵型で、食べられる。 樹脂 通常の天然ゴムは南アメリカ原産のパラゴムノキ(Hevea brasiliensis)の樹液から採れるもので100%cis(シス)型のポリ-1,4-イソプレン構造をしているが、ガタパーチャは100%trans(トランス)型のポリ-1,4-イソプレンである。trans型のイソプレンはcis型に比べ分子鎖間にはたらく分子間力が強く、その為、ガタパーチャから作られるペルカゴムと呼ばれる天然ゴムは、通常の天然ゴムより固く強靭で弾性が低い。色は白色である。 マレーでは古くから利用されていたが、西洋にその存在が知られたのは1842年。空気中では酸化されやすいが水中ではほとんど変質しないという性質と絶縁性の高さから、1850年代から高分子化合物が利用されるまで海底電線の被覆材となった。ドイツのヴェルナー・フォン・ジーメンスとハルスケが地下ケーブルのために発明した被覆導線だが原産地のマレー・ボルネオを支配していたイギリスが、栽培、輸入、販売を独占。海底電信線を敷き国際通信大国となったイギリスに対抗するためドイツと日本は有線とは別に無線通信の研究を始めることとなる(井上照幸『KDD IDC ITJ』(大月書店)参照)。カメラの外装に使用されることもあり、ライカが外装に革ではなくこの樹脂(合成皮革、と言及されることがある)を利用していることなどはよく語られるところである。 現在はゴルフボールのカバー(外皮)材が最も大きな用途で、歯科医療の根管充填材、仮封材としても用いられる。 ガタパーチャと同じく100%trans型のポリ-1,4-イソプレンである天然のゴム類似物質に、南アメリカ原産のアカテツ科の樹木 Mimusops balata から得られるバラタがある。これもゴルフボールのカバー材に使用される。 また、アカテツ科ではないトチュウ(トチュウ科)の樹皮からもガタパーチャと類似した樹脂が採取できる。
呉城文化 呉城文化(ごじょうぶんか、吳城文化、拼音: wúchéng wénhuà, Wucheng culture)は、中国江西省から発見された青銅器時代の贛江(長江支流)中流・下流の文化。商王朝と同時代の文化であった。江西省樟樹市呉城鎮の贛江沿岸にある、呉城遺跡に由来する。商代の都市遺跡としても最大級の呉城遺跡は、広さ4平方km以上で、1973年から発掘された。呉城文化の遺跡は江西省を中心に100以上発見されているが、特に樟樹市の呉城遺跡、瑞昌市の銅嶺遺跡、吉安市新幹県の大洋洲遺跡の3つが大きい。 呉城文化は、黄河流域の河南省鄭州市付近で栄えた二里岡文化(商代初期の中心地だったとも考えられる)が長江付近まで勢力を伸ばしたことにより誕生したと考えられる。長江文明の長い伝統と、強力な青銅器文化である二里岡文化の影響が交じり合っているさまが呉城文化にはみられる。呉城文化は四川盆地の三星堆遺跡、および黄河中流域の殷墟と同時代の文化である。 呉城遺跡は陶器や原始的な磁器(原始瓷器)製造の中心であり、幾何学的な文様が特徴である。この文様の中には、未解読文字と考えられるものもある。呉城文化はまた、青銅製の鐘(鐘の舌がない特殊な様式のもの)の出土でも知られる。吉安市新幹県から出土した呉城文化の遺跡からはこの文化特有の様式の青銅器が多数出土する。 呉城遺跡は、二里岡文化の長江流域における前哨であったとされる都市遺跡・盤龍城遺跡の衰退に大きな影響を与えたと見られる。どちらの遺跡も長江における陶器製造の中心で、中国南方の資源を北中国の平野へ運送する拠点でもあり、激しく競争をしていた。二里岡文化の後期、呉城遺跡は大きく発展し始めたが、一方で盤龍城遺跡は急速な衰退を始めた。
東京大学東洋文化研究所 東京大学東洋文化研究所(とうきょうだいがくとうようぶんかけんきゅうじょ、英称:Institute for Advanced Studies on Asia, The University of Tokyo)は、東京大学の附置研究所で、東洋の文化の総合的研究を目的として設置された研究所である。主に人文・社会科学の研究者が所属し、アジア地域の文学、歴史、社会、政治、経済などの研究・教育を行っている。 略称は東文研、IOC(IOC は2009年までの英称 The Institute of Oriental Culture, The University of Tokyo の略である)。 概要 昭和初期の国策による東洋研究推進の流れに乗り、1941年、当時の東京帝国大学に設置される。附属図書館内に研究室と事務室を置き、研究部門の組織は研究分野別に分かれていた。当初は哲学・文学・史学部門、法律・政治部門、経済・商業部門の3部門であったが、1948年に廃止された東方文化学院を吸収し1949年には部門の細分化が行われる。哲学・宗教部門、文学・言語部門、歴史部門、美術史・考古学部門、法律・政治部門、経済・商業部門の6部門となるとともに、大塚にあった旧東方文化学院建物に研究部門の一部が移転した。 1951年の部門改正では地域別の部門構成が導入され、汎アジア経済部門、汎アジア人文地理学部門、汎アジア文化人類学部門、東アジア政治・法律部門、東アジア歴史部門、東アジア美術史・考古学部門、東アジア哲学・宗教部門、東アジア文学部門の8部門に再編。以後、東アジア以外の地域の研究者の増加とともに南アジア、東北アジア、西アジア、東南アジアなどの研究を扱う部門が増設され、1978年までに13部門に拡充された。また、1967年には本郷キャンパス構内(旧:懐徳館跡地)に地上8階地下1階の合同庁舎が完成したため、大塚の施設を廃止し、総合研究資料館(現:総合研究博物館)と同居する形で統合移転した。 1980年代に入るとアジア地域が世界情勢に占める重要性が増し、アジア地域研究に対する社会的な要請が大きくなったことから研究所の充実と拡大を目指して大規模な組織の再編成が行われ、1981年に13部門を地域別に再編して汎アジア部門、東アジア部門、南アジア部門、西アジア部門の4部門体制とした。また、この時期には組織の拡張と図書室の蔵書漸増に伴い施設の狭隘が問題となり、1983年に総合研究資料館と施設を交換分合、旧合同庁舎全館を研究所とした。 1999年には附属東洋学文献センター(1966年設置)を廃止、代わって東洋学研究情報センターを新設し、東洋学文献センターで実施されていた資料のドキュメンテーション研究を引き継ぐとともに、造形資料の研究やアジア研究資料のデータベース化などを行い、アジア全域にわたる文献・造形資料、および社会情報の蓄積と発信事業を進めている。日本のアジア地域研究の研究・情報センターを目指している。 本郷キャンパスの建物の門前には旧東方文化学院(現:拓殖大学国際教育会館)前に置かれていた獅子像が移設されている。研究所庁舎内にある図書室はアジア地域およびそれと関係の深い北アフリカ地域の政治・経済・歴史・文学・芸術・宗教など、様々な分野に関する資料を所蔵しており、日本国内屈指のアジア地域研究専門図書館の一つである。
最後の言葉 概要 1988年(昭和63年)、フランスの雑誌『ル・フィガロ・マガジーヌ』が創刊10周年記念で製作したオムニバスのテレビ映画『パリ・ストーリー』(Les français vus par、「 - から見るフランス人たち」の意)の第2話として製作され、フランスのテレビ局アンテーヌ2で放映された。ほかの参加監督は、ヴェルナー・ヘルツォーク、デヴィッド・リンチ、アンジェイ・ワイダ、ルイジ・コメンチーニである。 本作には、エラート・フィルムの母体のレコード会社エラートから、ヴァイオリニストのピエール・アモイヤルが出演している。ハンス・ツィシュラーは、文学者であり、初期ヴィム・ヴェンダース作品の主演俳優である。 本作の舞台は、パリの西にあるモン=ヴァレリアンで、ドイツ占領下の時代に起きた事件をテーマにしている。本作は、ヴァランタン・フェルドマンに捧げられている。 日本では、『パリ・ストーリー』のタイトルで1993年(平成5年)にパイオニアLDC(現在のジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメントジャパン)からVHSとLDでビデオグラム発売されている。DVDは未発売である。 ストーリー セーヌ川沿いにある家を尋ねる男(ハンス・ツィシュラー)。その家にはヴァイオリン奏者(ピエール・アモイヤル)がいた。ふたりは川まで歩き、第二次世界大戦時にそこで起きた、ドイツ将校によるフランス民間人の虐殺事件を想起する。
オオルリ 形態 全長が約16 cm、翼開長が約27 cm。雄の背中は尾も含め光沢のある青で、尾の基部には左右に白斑がある。喉、顔は黒で腹は白い。雌は頭から尾にかけて背面が茶褐色で、喉と腹は白い。胸と脇が褐色。 また、雄が美しい色彩になるには2 - 3年を要すると考えられ、若鳥時代の雄の羽色は雌の羽色と似た茶褐色で、背面の一部と風切羽及び尾羽に青色が表れているだけである。雌はキビタキの雌やコサメビタキなどに似ている。 コルリ、ルリビタキなど共に、「青い鳥」御三家の一つである。 鳴き声 地鳴きはクッ、クッ。さえずりは、美しい声でゆっくりとピリーリー、ポィヒーリー、ピールリ、ピールリ、ジィ、ジィと鳴く。雌もさえずることがある。 日本三鳴鳥のひとつである(他はウグイスとコマドリ)。 分布 旧北区。中国東北部、ウスリー、朝鮮半島や日本で繁殖し、インドシナ半島から大スンダ列島、フィリピンなどに渡って越冬する。 日本には夏鳥として4月下旬ごろに渡来し、南西諸島を除く北海道から九州までの全国各地で繁殖する。10月ごろまで見られる。 生態 低山帯から亜高山帯にかけての山地や丘陵に生息し、とくに渓流沿いのよく茂った森林に多く、飛翔している昆虫を捕食する。クモ類なども捕食する。渓流沿いの岩壁や土壁のくぼみなどにコケを用いて巣をつくる。なわばりを持ち、林の中の湖のほとりや、牧場と林の境などでも見られる。繁殖期に雄は木の梢で豊富な声量でさえずる。渡りの時期には市街地の公園でも観察される。
加古川大堰 概要 国土交通省近畿地方整備局が管理する高さ6メートルの可動堰。一級河川・加古川の本流河口より12.0キロメートル上流地点に建設された。加古川本流唯一の河川管理施設である。 加古川の治水と慣行水利権分の用水補給を行う不特定利水供給、および加古川下流域の都市に対する上水道供給を目的とする。 堰ではあるが、特定多目的ダム法に基づいて特定多目的ダムとして建設されたため、法律上はダムとして扱われる。
アンドーバー (マサチューセッツ州) 町の設立と法人化 1634年、マサチューセッツ植民地議会が、現在エセックス郡となっている領域で現在のアンドーバー、ノースアンドーバー、サウスローレンスとなった土地を含め、内陸開拓のために土地を取っておいた。入植を奨励するために、初期開拓者は3年間、税、賦役、奉仕(兵役は除く)を免除となった。アンドーバー初の恒久的開拓地は、1641年にニューベリーとイプスウィッチから来たジョン・ウッドブリッジと開拓者集団が設立したものだった。 彼らが到着してから間もなく、地元のペナクック族インディアンの酋長カットシャマシェから、「通貨6ポンドと上着1着」と引き換えに土地を購入した。ただし、ペナクック族の男であるロジャーがその土地にトウモロコシを植え、土地の水流から魚のエールワイフを獲ることを認めるという条件があった。町の東部を流れる小さな水流はロジャーの栄誉を称えてロジャーのブルックと名付けられた。1646年5月、この開拓地は町として法人化されアンドーバーと名付けられた。この名称は、町の初期住民数人の出身地に近いイングランドのハンプシャーにあるアンドーバー町にちなんで選ばれた可能性がある。記録に残る最初のタウンミーティングは、1656年に、現在ノースアンドーバーの町の中にあった開拓者ジョン・オズグッドの家で開催された。 現在のノースアンドーバーにあった旧埋葬地は初期の町の中心だった。一般に信じられていることに反して、現在のノースアンドーバーにもあるオールドノース教会の位置に応じて町は分かれた。事実上、現在のアンドーバーは1646年以降も長い間、町として法人化されていないままだった。町の南西部出身の住人は当時のアンドーバーの北端までずっと歩くのに疲れ、現在のアンドーバーの中央に独自の教会を建てることに決めた。初期には恐ろしいインディアンの攻撃から守るために、オールド・センター(ノースアンドーバー)周辺に住民が集まっていたが、1675年にフィリップ王戦争が始まるまでインディアンは極めて平和を好んでいた。フィリップ王はニューイングランドの大半で白人開拓者に対する反乱を組織化したインディアンだった。1676年から1698年の間にインディアンによる襲撃が6回起こったが(最後の襲撃はエスカンビュイット酋長が率いた)、増え続ける白人開拓者が土地の支配権を確立していった 1798年11月、デイビッド・ブランがデダムの集団を率い、自由の柱を設置した。その柱には「印紙法はいらない、治安維持法はいらない、外国人法はいらない、土地税はいらない、アメリカの専制者に失墜を、大統領に平和と退任を、副大統領に愛の生活を」と書かれており、当時の大統領ジョン・アダムズと副大統領トーマス・ジェファーソンをやり玉に挙げていた。ブラウンはアンドーバーで逮捕されたが、4,000ドルの保釈金を払えなかったので、裁判のためにセイラムに連れて行かれた。ブラウンの裁判は1799年6月に行われた。ブラウンは有罪を主張するつもりだったが、判事のサミュエル・チェイスは彼を助けた者、あるいは彼にその文句を書かせた者の名前を挙げさせたかった。ブラウンはそれを拒否し、480ドルの罰金を科され、18か月の収監を宣告された。外国人・治安諸法のあった当時としては最も重い量刑だった。 魔女裁判 1692年のセイラム魔女裁判のとき、アンドーバー住人のジョセフ・バラードが、隣接するセイラム・ビレッジで既に魔女と識別されていた数人の少女たちからバラードの妻を救うよう求めた。その少女たちはエリザベス・バラードを訪問した後、アンドーバーの何人かが彼女に魔法をかけたと主張した。それはアン・フォスター、その娘のメアリー・レイシー・シニア、さらに孫であるメアリー・レイシー・ジュニアだった。その後の法的手続きの間に、40人以上のアンドーバー住人、その大半は女性と子供が正式に、悪魔と契約したと告発された。アンドーバー住人の中からマーサ・キャリア、メアリー・パーカー、サミュエル・ウォードウェルの3人が有罪となり処刑された。他に5人が罪状認否で有罪を認めるか、裁判で有罪とされた。アン・フォスター、メアリー・レイシー・シニア、アビゲイル・フォークナー・シニア(アンドーバーの牧師フランシス・デーンの娘)が1692年に、ウォードウェルの妻サラと、デーン牧師の娘エリザベス・ジョンソン・ジュニアが1693年に有罪となった。処刑されなかった者達はウィリアム・フィップス総督から刑執行の延期を認められたが、その記録には有罪が残った。1713年、その10年前の1703年にアビゲイル・フォークナー・シニアとサラ・ウォードウェルが始めた請願に反応して、マサチューセッツ総督ジョセフ・ダドリーが、有罪とされた者の名前にあった汚点を雪いだ。 2つの教区と町の分割 1705年、アンドーバーの人口が南の方に移動し始め、町の南部に新しい集会所を設けるアイディアが提案された。これには、北の最初の集会所近くに住む人々から強く反対されたが、1709年、植民地議会が北と南の2つのパリッシュにアンドーバーを分割して、この論争を解決させた。この分割後、サウスアンドーバーはサウスパリッシュ「埋葬地」を設定した。アンドーバーの初期開拓者ロバート・ラッセルが1710年12月に80歳で死亡して埋葬された。しかしこの分割にも拘わらず、町は政治的には一体のままだった。 アンドーバーはマサチューセッツ州の中で長年地理的に最大級の町だった。1826年、3番目のパリッシュが設立され、リザベーション道路沿いに西パリッシュ教会が建設された。1854年、古いパリッシュの境界に従って町を2つの政体に分割する法案が成立した。アンドーバーという名前は人口が多く裕福な西と南パリッシュが保持することになり、北のパリッシュにはノースアンドーバーの名前が与えられた。 アメリカ独立戦争時のアンドーバー 1775年4月19日の朝、約350人のアンドーバー男性がレキシントンに向かって行軍したという記録がある。彼らはその日の戦闘には間に合わなかったが、2か月後のバンカーヒルの戦いには参加することとなり、その後もイギリス兵との小競り合いで戦った。 マサチューセッツ憲法制定会議に代表となったアンドーバー住民の中には、サミュエル・オズグッド大佐、ゼバディア・アボット、ジョン・ファーナム、サミュエル・フィリップス・ジュニアがいた。フィリップスはその後フィリップス・アカデミーを設立することになった者だが、ジョン・アダムズに指名されて州憲法の草稿を起草することに貢献した。 1775年6月17日、チャールズタウン焼き討ちのとき、アンドーバー住民がホルトヒルの上まで登ってそれを目撃した。ホルトヒルはエセックス郡で最高地点であり、現在はチャールズ・W・ウォード保護地の一部になっている。 大統領に当選していたフランクリン・ピアースの息子の死 1853年1月6日、大統領に当選していたフランクリン・ピアースとその妻ジェーンの息子ベンジャミン・"ベニー"・ピアース、11歳が、アンドーバーの列車事故で死んだ。ボストンからローレンスに向かっていたボストン・アンド・メイン急行が時速40マイル (64 km) で走行中に、車軸が折れた。フランクリン・ピアースも乗車していた唯一の客車が盛り土から落ちて2つに折れた。貨物車と機関車は線路に留まっていた。ピアースの息子が唯一死亡した乗客であったが、当初は父のピアースも致命傷を負ったと伝えられた。少年はほとんど首が落ちてしまう状態だった。ピアースはシートで息子を覆い、妻に見せないようにしたが、ジェーンも息子を見てしまった。夫妻はその後酷く落ち込み、ピアースの大統領職遂行に影響した。ピアースは重い打撲傷を負っただけだった。ピアースはそれ以前に2人の子供を失くしていた。その息子の死は夫妻に暗影を投じたと言われている。特にジェーンはホワイトハウスでもほとんど楽しむことがなく、死んだ子供達に宛てて手紙を書いて大半の時を過ごした。ジェーンは悲しみに沈んだまま1863年に死んだ。1857年にピアースがホワイトハウスを去った後、「残されたことは、飲むことと死ぬことだけだ」と言った。妻が死んでから6年後の1869年10月、ピアース自身も肝硬変で死んだ。 南北戦争 南北戦争が始まるずっと前から、アンドーバーでは反奴隷制度運動が多くの支持者を集めていた。熱心な奴隷制度廃止論者であり、ウィリアム・ロイド・ガリソンの友人だったウィリアム・ジェンキンスや、他にも数人が逃亡奴隷のために地下鉄道 (秘密結社)の停車駅を提供した。『アンクルトムの小屋』の著者ハリエット・ビーチャー・ストウが長くここの住人だったことは注目すべきである。「ストウの家」と呼ばれたその家は現在、フィリップス・アカデミー・アンドーバー校が所有している。その遺骸はフィリップス・アカデミーの墓地に埋葬されている。1861年に南軍がサムター砦を砲撃したとき、志願兵79名の中隊が結成された。1865年に戦争が終わる時までにアンドーバーから600人が北軍に入隊した。 ショーシーン・ビレッジ 1919年、アメリカン・ウールン社が、既に工場のあるフライ・ビレッジに100万ドルを掛けた新工場を建設し、その地域を「ショーシーン」と改名する計画を発表した。このビレッジは「モデル工業町」として完全に再建され、会社の本社を置く場所となった。工場は1922年に操業を開始し、それから2年後には町に家屋200軒以上、町のための建物数棟、テニスコート数面、水泳場、ボウリンググリーン、運動場とゴルフコースがあるようになっていた。従業員は会社から家を借りた。そのレンガ造りの建物は上級管理職のために保持され、木造の建物が下級者のために使われた。しかしこの工業のユートピアは短命であり、1940年代初期には家屋のほとんど全てと管理用建物が個人の所有になった。この工場は合成繊維が毛糸よりも人気が出て、変化する技術の犠牲になった。アメリカン・ウールン社は1953年に工場を閉鎖し、建物には今日、様々な事業所、家屋、アパートが入っている。しかし、このビレッジは、サッカーチームのショーシーン・インディアンスが1925年に全国的なサッカー大会で優勝した時にその名を全国に轟かせた。 地理 アメリカ合衆国国勢調査局に拠れば、町域全面積は32.1平方マイル (83.2 km²)であり、このうち陸地31.0平方マイル (80.3 km²)、水域は1.1平方マイル (2.9 km²)で水域率は3.49%である。そこそこの広さがある水域としては、ショーシーン川とハゲッツ池がある。ハゲッツ池は町内の西部にあり、貯水池として機能している。元々他の水域とは別のものだったが、1990年代後半から町の北側境界の半分を構成するメリマック川の水を導き、町の増加する需要に対応している。町内にはハロルド・パーカー州有林、チャールズ・W・ウォード保護地、ハロルド・R・ラフトン保護地、ディア・ジープ保護地(メリマック川岸沿い)があり、さらにローレンスのデン・ロック公園の小部分も入っている。ゴルフコースも幾つかある。 アンドーバー町の中心は、ローレンスの中心から南に約4マイル (6.4 km)、ボストンの北22マイル (35 km)、ニューハンプシャー州マンチェスターから南東に30マイル (48 km) にある。エセックス郡の西端にあり、メリマック川に沿っている。北はローレンス、北東はノースアンドーバー、南はノースレディングとウィルミントン、南西はテュークスベリーの各市町に接している。北東はドラカットとも接しているが、その町境はメリマック川の中にあり、ドラカット町の中にはメリマック川を渡す橋が無い。人はマスーアンあるいは近くのローウェルを通ってドラカットに入る必要があり、これは南西のテュークスベリーとの境界も同様である。 交通 アンドーバーは州間高速道路93号線と同495号線が交差する地点にある。またマサチューセッツ州道25号線が町を南北に通る幹線道であり、同133号線と同125号線も通っている。 マサチューセッツ湾交通局通勤線のヘイブリル/レディング線には、バラードベールとアンドーバーの2か所に駅があり、ヘイブリルからボストン北駅に列車が走っている。アンドーバー駅は旧ボストン・アンド・メイン鉄道の駅である3番目の鉄道駅にも近く、この駅はアメリカ合衆国国家歴史登録財に指定されている。最寄りの飛行場はノースアンドーバーのローレンス市民空港で一般用途の利用ができ、国内便を使うとすればボストンのジェネラル・エドワード・ローレンス・ローガン国際空港と、マンチェスター市のマンチェスター・ボストン地域空港がある。どちらの空港もアンドーバーからは30マイル (48 km) 以内にある。メリマックバレー地域交通局が運行する幾つかのバス路線が町内の北端に入って来る。これらの路線はローレンスとを結び、ウィークデイにはボストンへの通勤も可能である。 政府 郡政府: エセックス郡 郡政府には次の役職が残っている 郡事務官、地区検事、土地登記官、検認登録官、保安官 州政府 マサチューセッツ州議会には、下院2人、上院1人を送り出している。知事評議員も1人を送り出している 連邦政府 アメリカ合衆国下院議員は州第3および第6選挙区に入っている。上院議員は2人である インターネット 2011年9月に公表されたパンドのネットワーク・コンテント・デリバリー・サービスに拠れば、アンドーバーは2011年のインターネットの速度が世界最速クラスである10都市に入っており、全米では唯一だった。その速度は 22.41 Mbit/s であり、世界最速の 33.5 Mbit/s よりはかなり遅い。
ドボラック法 特徴 衛星画像を用いて、熱帯低気圧の勢力・特性などを解析できることにある。 これまで、気象偵察機や船舶などを使って、直接熱帯低気圧の中に入って観測する危険を避けることができ、短時間で観測できるなど、有用な手段とされているからである。 気象衛星の画像を使用し、雲の大きさや、発達傾向、雲の広がり、温度を用いて、最大風速などの強度や特性を決定する。 解析に用いる画像は、気象衛星による可視画像・赤外線画像を使用する(現在、解析の主体は赤外画像)。 静止衛星による観測が実用化され、観測間隔も細かくなったことから、より客観的に解析が出来るよう、手順・解析ルールが細かくなっている。1984年頃から実用化された、Dvoraku Techniqueでは、解析者による主観評価や変動を小さくするため、パターン認識やそのための評価テーブルなどを使って判別が行われるようになった。赤外画像では、温度スケールを用いてそれにあった赤外強調画像を使って、温度場の分布・変化傾向からパターンを割り出し勢力を決定する。等間隔で観測された画像から、発達・衰弱の状態を考慮、最終的なパターン値を得たのち、風速などを推定する。 最初にこの解析法が実用化された当時、コンピューター処理がおぼつかない時代であり、不定期に観測される極軌道衛星の画像をフィルム焼き付けて解析していた。そのために、可視や赤外画像からこれまでの航空機観測やレーダーなどと併せて、総合的な判断の上で得られた値を参照しながら解析されていた。現在は、衛星画像を直接入手し解析する機関によってドボラック法、またはドボラック法を改良した解析ツールを用いて解析・評価が行われているが解析機関によって相違が現れる。 各機関での解析誤差は、概ねFT値で0.5程度ある。解析誤差が明らかに大きい場合は、再度解析して衛星画像での特徴と比較して検証する必要が生じる。 勢力、大きさの解析 1984年以降に実用化された、Dvorak Techniqueによる解析の流れは、次のような過程で解析される。後に1980年代後半から90年代初めに実用化される、Dvorak Techinique(派生を含む)も、デジタル処理技術が可能になったことから、コンピューターでの解析に主眼がおかれた。日本をはじめとして多くの国で、熱帯低気圧や擾乱の解析で使用されている。 中心付近の冷域・濃密域の判定 可視・赤外である。 前のT値が3.0より下の場合 12時間傾向の値 前のT値が3.5以上の場合 T値を保留 最終T値を用いる 9.の手順に行く。 中心付近の冷域分布 これまでの解析でT値が3以上の場合、12時間傾向から維持されている場合は、値を保留する。T値が3.5以上の場合は、T値を用いる。 この値は最終的に、CI値の評価手順を用いる。 モデル推定からのT値(MET) METと略される評価で、過去24時間での状態からT値を算定する。この際に熱帯低気圧の強さに関係なく、4.で評価した発達・衰弱状態を 用いて外挿評価する。これは、熱帯低気圧が1.0/日の割合で発達・衰弱するという性質を使って求める。 発達している場合 MET = 24時間前のT値+(0.5から1.0)をたして D を付す。 衰弱している場合 MET = 24時間前のT値+(-0.5から-1.0)をして W を付す。 変化がない場合 MET = 24時間前のT値を使用し、S を付す。 パターン番号 (PAT または PT) パターン番号を、衛星の画像から分類パターンから似たパターンを選んでパターン分類するというやり方である。厳格な温度パターンの範囲でこうしなさい。というのはないが、中心付近に向かって温度が下がっているという特性を利用する。にわかに知られた分類はこの分類であり、初期のドボラック解析で使用された分類と同じである。 実際に解析する際、DTの解析が精度を欠く場合、PATのパターン番号にMETの値(0.5)を加減して、最終的なPATの値を決定する。 上陸時の扱い ドボラック法では、赤外・可視画像他に、最近では極軌道衛星の情報を使って解析することが増えている。赤外や極軌道衛星のサウンディングデータでは、温度で解析することから、陸上に上陸すると地上の温度によって解析誤差が誤差が大きくなり、著しい弊害が発生する。また地形による変形や変質も大きいためあえて解析しないか、解析できたとしても無理に解析値を出さないなどの措置が講じられる。解析機関によって違いがあるが、上陸したとされた際には、INLAND などと表記し、衛星で解析された結果を、警報へ反映させないことがある。
野崎丹斐太郎 経歴 京都帝国大学卒業。大正14年に祖父武吉郎が没した為、家業(製塩業)を継ぐ。昭和9年(1934年)株式会社野﨑事務所カナワ式、真空式、流下式と新しい製塩法を次々と取り入れ近代化をはかった。昭和21年(1946年)に内海塩業株式会社に社名変更し、昭和44年(1969年)にはイオン交換樹脂膜法を採用した。昭和49年(1974年)にはナイカイ塩業株式会社と社名を変更した。昭和51年、84歳で没した。
レディパステル 戦績 一口馬主クラブのひとつであるロードサラブレッドオーナーズの所有馬として2001年1月8日、中山芝1800メートルの新馬戦にて、厩舎所属の嘉藤貴行を背にデビュー。芝を2戦するも3着・2着と勝ちきれず、ダートに変わった3戦目で初勝利。続く芝の500万下ではクビ差の2着。この結果によりデビューより手綱を握っていた嘉藤は乗り替わりとなった。続く桜花賞前日のミモザ賞は蛯名正義との新コンビで快勝し、トライアルから優駿牝馬というローテーションで本番を目指すことが決定した。 しかし出走予定のフローラステークスには、蛯名とのコンビでフラワーカップを勝ったタイムフェアレディが先約していたこともあり蛯名が騎乗できず、横山典弘もローズバドに騎乗するため関東の有力騎手がいないという事態に陥った。そこで、陣営は息子の耳の治療専念を理由に4月から短期免許を取得し来日していたケント・デザーモに騎乗を依頼。デザーモとの新コンビで臨んだフローラステークスは一番人気に推されたものの、オイワケヒカリに届かず2着に終わる。 そして迎えた本番の優駿牝馬。桜花賞を圧勝したテイエムオーシャンが圧倒的な1番人気になるなか、本馬は5番人気(単勝オッズ17.6倍)であった。レースではテイエムオーシャン直線で伸びず、直線一気に賭けた本馬は、同じく後方から伸びたローズバドとの競り合いをクビ差制して、初重賞がクラシック制覇、鞍上のデザーモは外国人初のクラシック勝ちとなった。 秋は、蛯名正義と再コンビを組み紫苑ステークスから始動し勝利を収めた。テイエムオーシャンとローズバドに次ぐ3番人気で迎えた秋華賞では、中団から伸びたものの外々を回る展開で、テイエムオーシャンには届かず、最後方から末脚を見せたローズバドにもかわされて3着。続くエリザベス女王杯は、秋華賞で敗れた2頭に加えて、トゥザヴィクトリーとティコティコタックも出走するというメンバーとなり、古馬2頭をおさえて3番人気に推された。レースは古馬2頭とほぼ同位置でレースを進め、直線では最内を突いたが、4着に終わる。なお、本レースは1着から5着までがハナ・ハナ・クビ・クビの大混戦であり、本馬も走破タイムは勝ち馬と同タイムであった。 その後古馬になり、牝馬戦線を中心に使われ、中山牝馬ステークスや府中牝馬ステークスに勝利した。また牡馬に混じり目黒記念で2着に入るなど、東京競馬場を中心に好走をしている。2002年のエリザベス女王杯は3着、翌年のエリザベス女王杯も4着に好走し、同レースを最後に引退。2003年11月22日にオークスを制した東京競馬場で引退式を行った。 生涯21戦し一度も掲示板をはずさず、馬券圏内を外したのも4度と、堅実な成績を残している。 繁殖入り後 日本ではなくヨーロッパに繋養され、初年度・2年目ともにロックオブジブラルタルと交配されともに牡馬を出産した。その後産駒は日本に輸入されたが、ヨーロッパ産のため外国産馬の扱いで2007年に初仔のロードバロックが競走馬デビューし、2008年に初勝利を挙げている。 3年目はモンジューと交配されたあとに日本へ帰国し、ケイアイファームで繋養されている。
風巻絃一 風巻 絃一(かざまき げんいち、1924年3月15日 - )は、日本の小説家。 東京生まれ。法政大学在学中に学徒出陣。復員後、新聞・雑誌記者を経て作家となり、歴史小説、時代小説を書く。
新内町 新内町(しんうちまち)は、徳島県徳島市の町名。現行行政地名は新内町一丁目及び新内町二丁目。2010年1月現在の徳島市の調査による人口は179人、世帯数は98世帯。郵便番号は〒770-0845。 地理 徳島市の中心駅徳島駅の南方に位置し、内町地区に属しその南部にあたる。 東西に伸びる通りの両側に細長く延び、東が1丁目・西が2丁目と並ぶが、1丁目と2丁目の間は南北に伸びる両国本町で分断されている。 同じく東西に伸びる、北の中通町と南の南内町に挟まれている。さらに北の町も含め、この一帯の町はいずれも1~3丁目からなるが、南内町の南の新町川が上流(西)で北へ曲がり陸地を狭くしており、そのため西端の3丁目は新内町にはない。通りの西端は丁字路で終わっている。 東は富田橋通り沿いに南北に伸びる幸町である。通り自体はさらに続き、幸町2丁目と3丁目を分け、牟岐線をアンダーパスする歩行者・自転車用道路に繋がる。 歴史 江戸時代は、新内町・南内町・幸町3丁目(のちには加えて中洲町)一帯は、塀の高い武家屋敷の裏だったため、塀裏(へうら)と呼ばれた。 寛文年間(1661年~1672年)、現在の新内町2丁目~南内町2丁目に徳島藩の牢屋敷が置かれた。 明治以降は大半は塀裏町となり、一部は裏ノ町・中通町・中魚町(現在の幸町公園付近の富田橋通り沿いにあった魚商人町)だった。1941年、新内町となった。1975年、両国橋通り沿いが両国本町となった。
武蔵野市立境南小学校 教育目標 「よく考える子」「進んで取り組む子」「やさしい子」「元気な子」
園田英弘 園田 英弘(そのだ ひでひろ、1947年3月20日 - 2007年4月6日)は日本の社会学者(専攻は日本社会史、比較社会学)。 経歴 福岡県久留米市出身。福岡県立明善高等学校、京都大学教育学部を経て、東京大学大学院教育研究科修士課程修了。京都大学人文科学研究所助手、国立民族学博物館助教授を歴任。1986年に国際日本文化研究センターの創設準備室次長となり、1987年に助教授、1994年より同センター教授。1998年からの3年間と2005年から2年間にわたり、研究調整主幹を務める他に副所長も務めた。 1994年に『西洋化の構造』でサントリー学芸賞受賞。同年6月 大阪大学より人間科学博士 論文の題は「西洋化の構造 -黒船・武士・国家 」。 2007年4月6日午前、自宅を出て行方不明だったが、翌日、家族によって現在物置として使用している京都府八幡市内の旧自宅物置で首を吊って自殺しているのが発見された。享年60。
大伴像見 経歴 天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱終結後に行われた叙位にて従五位下に叙爵する。神護景雲3年(769年)左大舎人助に任ぜられ、光仁朝の宝亀3年(772年)従五位上に昇叙された。 『万葉集』に5首の和歌作品が採録されている。勅撰歌人として『拾遺和歌集』にも2首が採られている。
KiWi バイオグラフィー ともに日本の音楽プロデューサーであるAZUpubschoolとCOR!Sによるコンポーザーデュオ。コンセプトストーリーであるおとぎ話“KiWi物語”をもとに楽曲を製作している。 2016年7月に Major Lazerのメンバーである米プロデューサーDiplo主催のレーベル〈Mad Decent〉より『SUGAR PANIC REMIXES』をリリースした。同年12月にはBBC Radioの番組『1xtra〈Diplo&Friends〉』にゲスト出演を果たした。 国内では、2016年12月にヴィレッジヴァンガードミュージックから初のミニアルバムCD『KiWi物語』をリリース。2017年1月には、それまでに発表された楽曲をまとめたアルバムCD『March』を、おとぎ話“KiWi物語”の序章と位置付けてリリースした。
ジョゼフ・F・エンライト 「デイス」艦長まで ジョゼフ・フランシス・エンライトは1910年9月18日、ノースダコタ州マイノットに生まれる。1933年に海軍兵学校(アナポリス)を卒業。卒業年次から「アナポリス1933年組」と呼称されたこの世代からは、クイーンフィッシュ (USS Queenfish, SS-393) 艦長で阿波丸事件の一方の当事者チャールズ・E・ラフリン、ハリバット (USS Halibut, SS-232) 艦長を経て大将に登りつめたイグナティス・J・ギャランティンなどがいる。卒業後は戦艦メリーランド (USS Maryland, BB-46) に3年間乗り組んだ後、1936年以降は潜水艦に転じた。潜水艦S-22 (USS S-22, SS-127) 乗り組みを経て、第二次世界大戦勃発後の1942年6月22日、エンライトは潜水艦O-10 (USS O-10, SS-71) で最初の艦長職を務めた。 1943年7月23日、少佐に昇進したエンライトは、この日竣工した潜水艦デイス (USS Dace, SS-247) の艦長に就任する。「アナポリス1933年組」で潜水艦に進んだ者の中で艦長に就くのは、エンライトが初めてだった。デイスはニューロンドンを9月7日に出港し、10月3日に真珠湾に到着したデイスは、10月20日に最初の哨戒で日本近海に向かった。哨戒では何隻かの日本側艦船を発見して攻撃を行ったが目立った戦果はなかった。また当時、デイスが向かった海域を「空母翔鶴が通過する」という情報があり、デイスを含めた所在の潜水艦に翔鶴を仕留めるよう指令が出ていた。ところが、エンライトは自分の直感を抑えて規則に従った結果、結果的に翔鶴を逃す結果となった。実際に11月15日に北緯33度55分 東経140度32分の地点で件の翔鶴と3隻の駆逐艦を発見したものの、ただ「発見した」というだけに留まった。11月19日午後、デイスは北緯34度13分 東経136度33分の地点で輸送船、タンカー、哨戒艇を相次いで発見。しかし、哨戒艇の先制攻撃を受け、14発に及ぶ爆雷攻撃で艦尾発射管室のバルブが損傷するなどの被害を受けた。12月11日、デイスは49日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投した。 エンライトは司令部に報告のため出頭した。報告は「自分は艦もスタッフも担当海域も、あらゆる優れたものに恵まれた」で始まり、「今回の哨戒任務が不作だったのは自分の責任ですから」と、自ら自分をデスクワークに廻してくれるよう要請、これが潜水部隊司令官チャールズ・A・ロックウッド中将(アナポリス1912年組)に受理され、エンライトは12月28日付でミッドウェー島の潜水艦救護隊隊長に転じた。エンライトは3日後の1944年1月1日付で中佐に昇進し、ミッドウェー島の潜水艦基地の副司令にも就いた。自らを責めて艦長の座を辞したエンライトだったが、再び艦長に就く機会が訪れる。 アーチャーフィッシュ艦長と信濃 1944年9月、エンライトはアーチャーフィッシュの3代目艦長に就任する。アーチャーフィッシュは10月30日に5回目の哨戒で真珠湾を出撃し、11月9日にサイパン島に寄港して補給と整備を行う。サイパン島出港後、哨戒期間の前半はB-29への支援活動に充てられた。11月28日夜、アーチャーフィッシュはレーダーと目視により複数の目標を発見、これこそが信濃であった。エンライト自身も信濃と、護衛の駆逐艦雪風、磯風、浜風を確認する。アーチャーフィッシュと信濃との間は一旦は遠ざかるが、11月29日3時ごろになってジグザグ航行を行っていた信濃がアーチャーフィッシュのいる方に向かってきた。3時18分、アーチャーフィッシュは魚雷を6本発射し、4本が信濃に命中した。信濃は約7時間後に沈没し、「潜水艦によって撃沈された、第二次世界大戦、あるいは歴史上もっとも大きな艦船」となった。もっとも、アメリカ軍は信濃撃沈自体は無電傍受で察知していたが、信濃川に由来する名前の巡洋艦改造空母と思い込んでいたので、報告でのすったもんだの末に当初は「28,000トンの空母」1隻撃沈として認定された。アメリカ軍が信濃の正体を知ったのは1946年になってからのことで、エンライトはジェームズ・フォレスタル海軍長官から海軍十字章を、ハリー・S・トルーマン大統領から部隊感状を授与された。 この後、アーチャーフィッシュは哨戒を2回行ったが戦果はなく、エンライトの公認撃沈スコアは信濃ただ1隻となった。 戦後 1945年8月15日の終戦を北海道沖で迎えたアーチャーフィッシュは、翌日には艦内で酒宴を挙げた。8月31日に東京湾に入港し、「信濃」誕生の地である横須賀海軍工廠近くで他の11隻の潜水艦と共に潜水母艦プロテウス (USS Proteus, AS-19) の側に停泊した。ここでエンライトは乗組員とともに横須賀の町に入ることを申請し、許可が下りた後上陸して町や海軍工廠を見学したが、この時は、そこが「信濃」の誕生の地である確認が取れなかった。9月2日に戦艦ミズーリ (USS Missouri, BB-63) の艦上で降伏文書調印式が行われ、アーチャーフィッシュも参列した。調印式終了後、エンライトは接収したばかりの横須賀のクラブで開かれたロックウッド主催の祝宴に他の11隻の潜水艦の艦長とともに出席し、勝利の酒宴を楽しんだ。 戦後のエンライトはアナポリスでの機関教官を経て、1949年から1950年は第31潜水隊司令を務める。1952年1月1日付で大佐に昇進して海軍作戦部勤務となり、アーレイ・バーク少将(アナポリス1923年組)の命で海上自衛隊に警備艇を供与する議会の承認を取り付けるプレゼンテーションを行った。1953年から1954年までは潜水母艦「フルトン」 (USS Fulton, AS-11) 艦長、1954年から1955年までは第8潜水群司令を務める。1955年から1957年には大西洋艦隊潜水部隊の参謀長として司令官のフランク・T・ワトキンス少将(アナポリス1922年組)、チャールズ・W・ウィルキンス少将(アナポリス1924年組)およびフレデリック・B・ウォーダー少将(アナポリス1925年組)に仕え、これがエンライトと潜水艦が最後に関わったポストとなった。1959年からはミサイル巡洋艦ボストン (USS Boston, CAG-1) の艦長を務め、海軍作戦部での仕事も兼ねた。1963年、エンライトはボストンの艦長職を最後に大佐で退役した。 退役後、エンライトはマサチューセッツ州ドーバーに移り住み、1970年までノースロップ社に就職してオメガ航法の研究開発に従事した。その後は1987年に回想録 "SHINANO! The Sinking of Japan Secret Supership" を出版し、2000年7月20日にバージニア州フェアファックスの自宅で亡くなった。89歳没。死後、アーリントン国立墓地に埋葬されている。
高慢チキ子ちゃん 『高慢チキ子ちゃん』(こうまんチキこちゃん)は、早稲田ちえによる日本の漫画作品。 概要 『なかよし』(講談社)において、1999年から1999年まで連載された。
日韓戦 (サッカー) 概要 日本サッカー協会 (JFA) と大韓サッカー協会 (KFA) はともにアジア地区を統括するアジアサッカー連盟 (AFC) に属し、同時に東アジアサッカー連盟 (EAFF) にも所属する。両国は海を隔てた隣国で歴史的にも密接な関係を有するため、両国代表間の試合は他の試合に比べて特殊な雰囲気を持つとされる。そのため、しばしばその政治性が問題となることもあった(詳細は「話題となったメッセージなど」の節を参照)。2010年から2014年まで日本代表監督を務めたアルベルト・ザッケローニは、日韓戦をイタリアとドイツの試合と同等のものであるとコメントしている。 2017年12月16日までに78試合が行われ、戦績は日本の14勝、韓国の41勝、23引き分けであるが、1993年の日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)創設以降は7勝9敗(10引き分け)となっている。なお、23引き分けの中には公式戦によりPK戦が行われたものが4度あり、日本が3勝、韓国が1勝となっている。 初の日韓戦 日本と韓国による初めての国際試合は、1954年3月7日および3月14日に日本の東京都・明治神宮外苑競技場で行われた1954 FIFAワールドカップ・予選の第1戦である。この予選は本来ホーム・アンド・アウェー方式で行われるはずであったが、大統領(当時)李承晩が日本代表の入国を拒否し、意向を受けて韓国での開催が不可能となったため、2試合とも日本での開催となった。 史上初の日韓戦となった第1戦は日本が前半16分に先制するが、韓国が前半に2点、後半に3点を決めて1-5で韓国が勝利した。長沼健が挙げた日本の得点が日韓戦の第1号ゴール(同時にFIFAワールドカップ地区予選における日本代表の第1号ゴール)となり、一方の韓国の日韓戦の第1号ゴールは鄭南湜による前半21分の得点である。この試合で記録された失点は日本の対韓国戦最多失点であり、両チームを通じた最多失点となっている(2015年8月現在)。第2戦は2-2の引き分けであったが、2試合合計のスコアが日本3得点に対して韓国7得点となったため、韓国がアジア代表としてFIFAワールドカップに出場した。 定期戦 1972年からは日韓定期戦が開始され、国立霞ヶ丘陸上競技場で開催された第1回定期戦は2-2の引き分け。1991年の第15回まで行われ、日本の3勝、韓国の10勝、2引き分けとなっている。 その後は定期戦の開催は中断されており、2013年には大韓サッカー協会会長の鄭夢奎が記者団に対して、日本サッカー協会と2014年10〜11月ごろに親善試合を行うことで合意しその後毎年定期戦を行っていくことを明らかにしたと報じられたが、2014年10月6日に予定していた試合は、韓国代表の洪明甫監督の辞任により延期された。 2002年日韓ワールドカップ共同開催前 1996年に2002 FIFAワールドカップの共催が決定すると、サッカーを通じて日韓関係を好転させようとする機運が高まった。 1997年11月1日に行われた1998 FIFAワールドカップ・アジア予選グループB第9節で、ワールドカップ出場が危ぶまれていた日本はアウェイで既に出場を決めていた韓国と対戦し、2-0で勝利した。この試合の際、韓国のサポーター集団「レッドデビルズ」は日本に対して「Let's Go To France Together(フランスに一緒に行こう)」と書かれた横断幕を掲示し、試合後には両サポーターによるエール交換が行われた。 なお、この「Together(一緒に)」という単語は、その後2002年のワールドカップ共催にあたって出版された両国の選手(中田英寿および洪明甫)の共同作業による著書や、Voices of KOREA/JAPANによる同大会公式テーマソングのタイトルの中にも表れている。
桑山哲也 桑山 哲也(くわやま てつや、1972年4月13日 - )は、日本のアコーディオン奏者。北海道札幌市出身。血液型O型。所属事務所はホリプロ。 人物 父親の桑山真弓はアコーディオン奏者・作曲家。北海道放送専属バンドのリーダーを経て1965年に桑山音楽事務所を設立し、さっぽろ雪まつり公式イメージソング『雪まつりの歌』をはじめ北海道関連の曲を多数制作した。「NHKのど自慢」のテーマ曲なども演奏していた。この父の影響でアコーディオンを奏でるようになった。因みに姉も同番組で鐘(チューブラーベル)を鳴らしていた。 小学校6年生時の全日本アコーディオンコンクールに出場した際に後の師匠となるデデ・モンマルトルに楽屋に呼ばれ、「自分は30年日本に住んでいるが、弟子を全て断ってきた。君は教えたいと初めて思った。」と言われた。理由は「何かわからないけど教えたいと思った」とのことであった。中学より住み込み弟子となったため、日本で300人ほどいるボタン式クロマチック・アコーディオン奏者の中で唯一のベルギー式配列奏者となっている。 高校時代は徒歩暴走族であったという。 2005年4月29日、女優の藤田朋子と結婚。
吉岡なつき 概要 趣味・特技は料理、お菓子作り。
BRATS 概要 2011年8月、いもうとシスターズ所属のジュニアアイドルであった黒宮れい、黒宮あや、後藤聖良、まりあの4名が自らの意思でロックバンドを結成する。結成時点でのメンバーの平均年齢は12歳であった。 当初はいもうとシスターズ内でのバンド活動挑戦企画という位置付けであったが、後に正式にバンド名が決まり、ライブ活動を開始する。なお「Brats」とは、英語で"(手に負えない)子供""ガキ"を意味する。 各メディアにおいて"ガールズバンド"として紹介される事が多いが、2017年時点でメンバー達は「(BRATSを)ガールズバンドという言葉で括られたくない」と主張している。
江陽 (八戸市) 地理 八戸市の中央部に位置し、北に豊洲、八戸港第一工業港、南に小中野、柏崎、西に沼館、城下東に新井田川、湊町に面している。 鉄道の駅はJR八戸線の小中野駅が最寄駅である。
山内昶 山内 昶(やまうち ひさし、1929年2月13日- 2006年)は日本の文化史学者。 東京生まれ。1954京都大学文学部仏文科卒、57年旧制京都大学大学院終了。1960年熊本商科大学助教授、1962年甲南大学助教授、教授、96年定年、名誉教授、大手前大学教授。 1994年に著書『「食」の歴史人類学―比較文化論の地平』で第7回和辻哲郎文化賞を受賞。 食のタブーなどを研究。インセスト・タブーは生物学的な基盤にヒトとして何らかの飛躍が加わったものであるとする。
分子進化のほぼ中立説 分子進化のほぼ中立説(ぶんししんかのほぼちゅうりつせつ)、または、弱有害突然変異体仮説(じゃくゆうがいとつぜんへんいたいかせつ)とは、分子進化の中立説から発展し、分子レベルでの弱有害突然変異(あるいは、弱有利突然変異)が生物進化に及ぼす効果を理論的に説明する仮説である。 ほぼ中立説は1973年に太田朋子によって提唱され (この時点では弱有害突然変異の効果のみ含む)、1990年代初頭にほぼ中立である弱有利突然変異と弱有害突然変異の効果を含む説に拡張された。 ほぼ中立説が木村資生の中立説と異なる点は次のとおりである。 中立説では自然淘汰の影響を受けない完全な中立突然変異に主題を置き、進化速度は集団サイズとは相関がなく、中立突然変異率に等しくなると論じた。 一方、ほぼ中立説では集団サイズと分子進化速度の相関を予想している。簡単に説明すれば、遺伝的浮動は弱有害突然変異を集団中に固定する力であるが、大きい集団では遺伝的浮動の効果は弱い。ゆえに、大きい集団では小さい集団よりもゆっくり進化が進むということである。 ほぼ中立説の誕生 1970年代、進化生物学者はタンパク質の進化速度(いわゆる、分子時計)が世代時間とは関係なく、絶対時間に関して一定であることを明らかにし、また、ノンコーティングDNAを種間で比較して求めた進化速度では、世代時間と反比例になる
富久山バイパス 富久山バイパス(ふくやまバイパス)は、福島県郡山市を通る国道288号のバイパスである。 隣接するバイパス (郡山方面)富久山バイパス - 郡山東バイパス(大熊方面)
加美平 地理 福生市北部に位置し、中央を青梅線が貫いている。福生、東町、武蔵野台、羽村市川崎・神明台と接する。羽村市境に、東京都住宅供給公社加美平住宅の団地が置かれている。 地価 住宅地の地価は2013年(平成25年)7月1日に公表された東京都の地価調査によれば加美平一丁目24番18の地点で16万円/m²となっている。 歴史 1979年(昭和54年)2月1日に大字福生から、区画整理の後、町名改称して現町名になった。一部にかつて羽村町だった部分もある。 地名の由来 町名の由来は、この付近の字名だった「加美」からきている。福生市内の旧福生村地域には、「奈賀」(現在の本町・東町など)、「志茂」(現在の大字志茂など)という地名もあり、それぞれ江戸期の伝承名「上」「中」「下」に由来する。
レギオン (テレビドラマ) 概要 デヴィッド・ハラーは若くして統合失調症と診断され、それ以来多くの精神病院に収容されてきた。ある患者と出会ってから、ハラーは自分が単なる精神病ではない可能性に目覚め始める。 2015年10月に、FXとマーベルはX-MENのキャラクターである"レギオン"に基づくテレビドラマシリーズを製作し、ノア・ホーリーがパイロット版の脚本と監督を担当すると発表した。キャスティングは2016年1月に始まり、パイロット版は5月に完成し、シリーズの製作が決定した。撮影はロケーションがバンクーバー、スタジオ撮影がバーナビーで行われた。ホーリーはデヴィッドを"信頼できない語り手"として描き、1960年代と現代の要素を交え、シリーズを主人公のゆがんだ目を通して描くことを意図した。 8話からなるシーズン1はFXで2017年2月8日から放送された。2017年3月15日にはシーズン2の製作が発表された。10エピソードからなるシーズン2は2018年4月3日から放送された。2018年6月、シーズン3の製作が発表された。最終シーズン3は2019年6月24日から放送されて完結した。 日本ではFOXチャンネルで2017年2月9日からシーズン1が放送され、2018年4月5日からシーズン2が放送された。シーズン3は2019年8月10日から放送されている。 シーズン1のあらすじ 精神病院に入院させられていたデヴィッド・ハラーは患者のレニーと友人となり、身体を交換できるミュータントのシドと恋に落ちる。政府機関ディビジョン3に尋問を受けるが、救出されてメラニー・バード博士の運営する施設サマーランドに連れていかれる。デヴィッドは記憶療法によってしだいに過去を思い出し、強いミュータント能力を発揮し始める。"目"と呼ばれるミュータントを擁するディビジョン3はデヴィッドを危険視してつけ狙う。バード博士らの努力で、子供時代からデヴィッドに寄生していたシャドウ・キングがようやく分離されるが、レニー、次にバード博士の夫で超能力者のオリバーに寄生する。 シーズン2のあらすじ 1年後、デヴィッドは発見されると、サマーランドはディビジョン3と協力してファルーク(シャドウ・キング)と戦っている。ミゴ修道会の僧が人々を緊張状態に陥れる疫病を広めている。ファルークはオリバー、そしてメラニーを操って失われた自分の肉体を探す。未来のシドがデヴィッドに、ファルークは世界を破滅から救うと語り、デヴィッドは一時ファルークを助けるが、姉のエイミーを殺されて激怒し、肉体を取り戻したファルークと戦い始める。デヴィッドはファルークを倒すが、未来に起こすはずの破壊によって危険視されて拘束され、レニーとともに逃げ出す。 シーズン3のあらすじ サマーランド、ディビジョン3、そしてファルークは世界をこれから破壊するはずのデヴィッドを危険視して殺そうとする。デヴィッドは時間旅行者のスウィッチの協力を得て、父チャールズがモロッコを訪れてファルークと戦って倒したと思い込み、ファルークが幼児のデヴィッドの心に住み着くことになった歴史を変えようと過去に飛ぶ。シドと男女のケリーも追いかけるが幼児のデヴィッドを殺すことをためらう。時間旅行に引き付けられた"時間の悪魔"が彼らを襲う。チャールズ、デヴィッド、過去と現在のファルークは和解し、過去のファルークはデヴィッドの心には住み着かないことにして歴史が変わる。これまでの時間線のデヴィッドとシドは姿を消す。
オブジェクト (プログラミング) オブジェクト(英: object)はオブジェクト指向プログラミングにおいて、プログラム上の手続きの対象を抽象化する概念である。 概説 オブジェクト指向プログラミングパラダイムでは、関連するデータを束ね、代入、演算、手続き(関数やメソッドなど)を介した受け渡しといった操作の対象にでき、またメッセージの受け手になれる実体をオブジェクトと呼ぶ(ただし、数値などの基本的なデータ型はオブジェクトとしないプログラミング言語も多い)。多くの場合、オブジェクトは他のオブジェクトを要素として格納することができ、複雑なデータ構造を表現できる。 オブジェクトは、プログラム上で実現したい概念(例えば「顧客」「社員」「課」「商品」「注文書」など)をメタファとして表現するのにもしばしば使われ、プログラムの設計を考えたり他人と共有したりするのに役立つと考えられている。またマウスカーソル、ウィンドウ、メニュー、ファイル、段落など、コンピュータ上でユーザが目にするもので、名前が付いているようなものはほとんどオブジェクトとして表現できる。 オブジェクトは、それ自身に関するデータだけでなく、それ自身や内部のデータに対する操作も束ねている場合が多い。例えば、注文書を表すオブジェクトには、注文する商品を追加する操作や注文を取り消す操作を用意することができる。またマウスカーソルを表すオブジェクトについては、上下左右に動かす、クリックするというような操作が考えられるし、ファイルのオブジェクトについては、コピー、削除などの操作が考えられる。操作対象と操作そのものの定義や動作をまとめて表現することでプログラムの見通しが良くなり、プログラミング効率やプログラムの再利用性を高めるのに寄与すると考えられている。 クラスベースのオブジェクト指向では、共通した特徴や動作をもつオブジェクトの抽象的な種類をクラスと呼ぶ。そして、そのクラスに基づき生成されたオブジェクトの具体的な実体をインスタンスと呼んで区別する。例えば「ファイルというもの」や「アイコンというもの」の性質を定義したのがクラスであり、「〜というもの」の性質に沿った一つ一つのファイルやアイコンを表すものがそれぞれインスタンスである。 オブジェクトの実装 オブジェクトは、単純なデータとは限らない<何ものか>を指す概念だが、オブジェクトのインスタンスは、プログラムが実行される時の実体は記憶装置上のデータである。これに対し、クラスはインスタンスが持つデータの形式と操作についての定義であり、プログラムが実行されるときの実体は記憶装置上のプログラムに対応する。このとき、そのオブジェクトは、<何ものか>を抽象化していると表現される。(ここで言う「抽象化」は、C++の抽象クラスとは無関係) 例えば、オブジェクトが「会員」を表している場合、オブジェクトのインスタンスは、会員番号や、会員についての情報だけを持ち、それで「会員」そのものを表すと考える。一方、クラスはこのインスタンスがどのような性質を持つか、会員番号は何桁分必要で、そのほかにどのような情報を持つか、さらにその会員についての様々な操作―例えば、その会員のウェブ上でのログイン/ログオフや、認証にかかわる様々な操作を定義するものである。このとき、このオブジェクトは「会員」を抽象化していることになる。 オブジェクトは記憶装置上に自らのインスタンスを作るための手続きを備えており、この手続きが何らかの形で(通常は他のインスタンスによって)呼び出されることで、インスタンスとなる。オブジェクト指向プログラミングでは、プログラムもオブジェクトであり、プログラムの実行を抽象化するオブジェクトがインスタンス化することを契機として、様々なオブジェクトがインスタンス化され、これによってプログラムが作動する。
サルヴァトーレ・クオモ 生い立ち クオモは1972年にイタリア・ナポリに生まれた。父がイタリア人、母が日本人。 クオモはナポリでイタリアンシェフとして勤めていた父に最初にあこがれました。料理人として始めたのはまだ幼い11歳の時に厨房で修行し、イタリアと日本、両方の国で過ごす。時間をかけてやがて伝統イタリアンの芸術的な料理を日本の完璧さとあわせることができた。 数年後、彼の父が1984年に千葉でイタリアンレストランを開き、クオモは父と一緒に日本に行くことになった。その時代のことに対してクオモはあまり良い経験ではなかったと言う。「日本のことがあまり好きでは無かったです。たった一年でイタリアに帰り2~3年間料理学校で修行をしました。18歳の時に父が重い病にかかったため日本に戻り、それからずっと日本にいました。」 クオモによれば、その時期日本でイタリアン料理が流行り始めたころだったという。クオモと兄弟は日本でレストランを成功するには日本の食生活をまず知ることが大事だと考えた。二年間市場を研究し、クオモはオリジナルなナポリピザを作る新しいレストランを東京に開店した。 その時点からクオモはナポリピザを日本とアジアに広げたと思われている。 テレビとメディア クオモは日本で料理番組の司会としてメジャー で活躍。 新しいレストランを開くたびに日本のメデェアはそれを報道する。 2010年6月に中国での初めてのVPNから認識されたナポリレストランの成功後に中国の雑誌Sina Fashiongがクオモを「ナポリからの贈り物」と名づけた。 China 2013年2月、韓国の編集者ジュー・ヨングックは、韓国で初めてのSalvatore Cuomo Restaurantが開店したのを、まるで1985年に韓国に初めてピザが登場したのが繰り返されているようだと書いた。料理評論家は、クオモが韓国でもピザを焼くための本格的な木材オーブンを作るために地方の名工を訪ねたと述べ、彼を「大切なご褒美」と呼んだ。 2013年にクオモが運営するXEX Tokyo RestaurantがトラベルチャンネルのAnthony Bourdainの番組Anthony Bourdain: No Reservations Tokyoから日本のエリートの最後の行き先と断言した。 受賞 2004年6月にICF Worldwide Italian Cuisine Ambassadorから賞を受賞した。新鮮なイタリアン料理の支持者としてクオモは日本でもっとも有力のあるイタリア人として認定された。 2006年、2007年と2008年にクオモシェフはNaples World Pizza Championshipで行われたInternational Pizza Festivalでトップスリーに入る。 2009年にクオモはイタリアとフランス商品をアジアに広めたためORDRE DES COTEAUX DE CHAMPAGNEから葡萄酒業界のプロモーション活動を認定された。 2010年に世界初Mozzarella Bufala Capanaの大使の称号をもらいました。 2013年に高質なレストランでParma Hamを取り使われたためParma Ham ProscuittoからParma Ham Specialist賞を受賞した。 その他 2010 N.1 日本ピザグループ: Pizza Salvatore Cuomo ( Oricon chart Japan ) 2012 ORDRE DES COTEAUX DE CHAMPAGNE ( Officier ) 2012 N.1 日本ピザグループ: Pizza Salvatore Cuomo ( Oricon chart Japan ) 2013 APN アジア大使 2014 Parma Ham スペシャリスト
親子の対立 親子の対立(おやこのたいりつ)あるいは親子間コンフリクト(英: Parent-offspring conflict)は、親子間で最適な生存戦略が異なるために起きる進化的対立のことである。両親は子の数を最大化するようつとめる事で自身の適応度を増大させることができるが、子は兄妹と争い親の投資をより多く独占しようと努めることで自身の適応度を高めることができる。この理論は血縁選択説の理論的拡張として1974年にロバート・トリヴァースによって提案され、利己的遺伝子としてより一般化され、観察されている多くの生物学的現象に適用されている。親子の葛藤、親子間闘争などとも訳され定訳はない。 植物 いくつかの研究が、親子間対立がさやを持つ植物で見られ、種子の最適数の進化を促す可能性を示唆している。 鳥類 親子間の対立の初期の例は鳥類、特に猛禽類で観察された。親はしばしば二つ以上の卵を産み、二羽以上の子を育てようと試みるのと同時に、もっとも強い子は弱い兄妹を殺して親が運ぶ食糧を独占しようとすることがある。このような対立が鳥類の最適クラッチサイズの進化の原動力であると提案されている。 人間の例 人間における重要な親子間対立の例はデイビッド・ヘイグ(Haig 1993)の妊娠中の遺伝的対立の研究で提示された。ヘイグは、胎児の遺伝子は「母親が胎児に与える栄養の”母親にとって”の最適量」よりも多くの栄養を引き出すよう選択を受ける(すなわちより多く栄養を引き出す対立遺伝子はそうでない対立遺伝子よりも割合が増す)と主張し、この仮説には経験的な証拠の支持を受けている。例えば胎盤は母親のインスリン感受性を減少させ、allocrineホルモンを分泌する。それによって胎児が利用できる血糖の量を増加させる。母親は血中のインスリン濃度を上昇させることで対抗する。この影響を打ち消すために胎盤はインスリン分解酵素の生産を刺激するインスリン受容体を持っている。 およそ30%の胎児は出産まで到達せず(22%は臨床上の妊娠に達しない)、これは母と子の第二の対立の舞台を作る。胎児は自然流産のための質のカットオフポイント(自分自身を切り捨てる地点)を持つが、それは母親が期待する値よりも低い。母親も繁殖人生の終わりに近づけば質のカットオフポイントは下げざるを得ないだろう。高齢の母親が遺伝的障害を持った子をより多く産みやすいのはこの影響を受けているかも知れない。 はじめは妊娠の持続は母親の黄体ホルモンによってコントロールされる。しかし妊娠後期には母親の黄体ホルモンの分泌を引き起こす、母胎の血中に放出されるヒト絨毛性ゴナドトロピンによってコントロールされる。これはまた母親にとっての最適量よりも多くの血液の供給を求める胎児のために、胎盤への血液の供給を巡る対立も引き起こす(高い出生時体重はそれだけで母親にとっての危険因である)。これは高血圧症を引き起こす。この出生時体重ははっきりと母親の血圧と相関している。
春日直樹 春日 直樹(かすが なおき、1953年生)は、日本の人類学者。一橋大学名誉教授。奈良大学社会学部教授、大阪大学大学院人間科学研究科教授、一橋大学大学院社会学研究科教授を歴任。サントリー学芸賞受賞。 人物 東京都板橋区生まれ。1972年東京大学教養学部理科II類入学。1978年東京大学農学部農業経済学科卒、1981年大阪大学大学院人間科学研究科博士課程中退、北海道大学文学部助手、フィジー・南太平洋大学社会経済開発学部客員研究員、1986年大阪大学人間科学部助手、1988年奈良大学社会学部助教授、1995年教授、1996年大阪大学人間科学部教授、2000年同人間科学研究科教授、同年2000年「ヴィチ・カンバニ運動」で大阪大学博士(人間科学)取得、これを上梓した『太平洋のラスプーチン』でサントリー学芸賞受賞。2010年一橋大学大学院社会学研究科総合社会科学専攻人間行動研究分野社会人類学共同研究室教授、2017年同特任教授、一橋大学名誉教授。
N-58 (航空機) N-58 シグネット(N-58 Cygnet)は、日本大学工学部(現・理工学部)と伊藤忠航空整備(現・ジャムコ)によって共同開発された短距離離着陸(STOL)の試験用飛行機。 概要 第二次世界大戦後の日本の軽飛行機市場が海外のメーカーに独占されていたことに対し、伊藤忠は国産の軽飛行機を開発することでその状況を打開しようと考え、その第一段階として日本の国情に見合ったSTOL性を持つ軽飛行機の試作を日大工学部機械工学科航空専修コースと共同で行うことにした。設計は木村秀政教授が指導する木村研究室によって行われ、木村研究室が保有していたパイパー PA-22 トライペーサーの改造機となった。詳細設計と製作は伊藤忠の技術部が担当している。 主翼はトライペーサーの主要構造と翼型をほぼそのまま流用してはいるが、STOL性強化のためにフラップを左右それぞれ2枚ずつ備えるほか、補助翼の改造なども行われた。胴体後部にも改造が加えられており、垂直尾翼と水平尾翼はトライペーサーのものからモノコック構造の新設計品に、昇降舵と方向舵もアルミ合金骨組羽布張りのものに換装されている。また、プロペラも機体に適した低ピッチ・プロペラへと変更された。飛行試験では目標とした性能に達している。 試作された1機は1960年(昭和35年)11月28日に完成・初飛行。同年12月9日には「シグネット」と命名されている。日本大学の学有機として運用され、STOL性に関する各種データの収集に従事し、それらのデータは伊藤忠と日大工学部の次作であるN-62の開発に生かされた。また、学生パイロットのための練習機としても用いられ、日本一周飛行や韓国親善飛行なども行っている。約10年間の活動の後に退役し、現在は青森県五戸町の歴史みらいパークで展示されている。
山川漁港 歴史 山川港に関する最古の記述は1217年(建保5年)の文献にある。九州南端に位置することから南蛮貿易における重要な中継地の一つとなっており、都市を形成していたと考えられている。1561年(永禄4年)にポルトガル商人の殺傷事件が起きたことが記録に残されている。 戦国時代においては、山川港の支配権をめぐって地域の有力豪族であった指宿氏と頴娃氏が争っていたが、1583年(天正11年)頃から戦国大名の島津氏が直接支配するようになった。文禄・慶長の役や1609年(慶長14年)の琉球出兵においては島津氏の拠点港として利用された。江戸幕府の鎖国政策によって南蛮貿易が終息した後は、薩摩藩による琉球貿易や砂糖輸送の拠点となった。 幕末においては、1837年(天保8年)に起きたモリソン号事件の舞台の一つとなった。1858年(安政5年)には咸臨丸が寄港しており、1859年(安政6年)および1862年(文久2年)には流罪になった西郷隆盛がここから奄美大島および徳之島に渡っている。 明治以降は沿岸漁業の基地となり、1950年(昭和25年)12月、第3種漁港に指定された。第二次世界大戦後の食糧不足を背景として1949年(昭和24年)から1959年(昭和34年)にかけて遠洋漁業によるカツオ漁が急増したが、オイルショックや排他的経済水域設定の影響を受け、漁獲量は1978年(昭和53年)の20432トンをピークに減少傾向にある。1984年(昭和59年)に港の東部が埋め立てられ水産加工団地がつくられ、冷蔵倉庫、冷凍施設、魚肉練り製品の加工施設などが建設された。 地形 山川湾は約5千年前の火山噴火によって形成されたその大きさからカルデラにも分類されるマールである。周囲4km,最深部51mあり、天然の良港となっている。近辺には、池田湖、鰻池、開聞岳など、同時期の火山噴火でできた火山・カルデラ・火口湖・マールが多く見られる。
イオンタウン伊賀上野 テナント 核店舗は当ショッピングセンターの一番奥まった、東側中央棟にあるマックスバリュ上野店である。 西側の敷地全体をビッグモーターイオンタウン伊賀上野店が占めている。 東側東棟と東側西棟には、雑貨店やサービス系テナント、衣料品店、軽食店などの専門店が、計26店舗が入居している。 車 このショッピングセンターは国道422号沿いにある。 バス 自家用車を持っていない60歳以上の高齢者が多いこともあり、上野コミュニティバスのイオンタウン伊賀上野バス停留所がマックスバリュ前に設置されている。また、三重交通バスの市民病院下バス停留所と本郷口バス停留所が国道422号上にある。 鉄道 伊賀鉄道伊賀線の新駅設置を四十九町自治会が請願し、新駅が設置されることになった。2017年10月3日に、新駅の名称は「四十九駅」、開業予定は2018年3月17日と発表され、予定通り開業した。
磯部竜淵斎 経歴・人物 甲斐三ノ宮国玉神社の宮司。武田信虎の頃より武田氏に仕える。天文15年(1546年)8月12日、武田晴信は竜淵斎宛で信濃出陣中の諸将の様子を伝え、意見を求めている。のち武田勝頼に仕え、長篠の戦いで討死した。
起承転結殺人事件 あらすじ 中華料理店で立てこもり事件が発生する。人質の解放を条件に警察官を一人来させろと要求した犯人に応えて、大貫警部は井上刑事を送り込んだ。だが犯人は、事故で沈んだ遊覧船の元船長で、遊覧船が沈んだ事故の真相を調べてくれと頼んできたのだった。その後、事故が起こった地域の有力者が4人殺される。
ラストイニング 概要 主人公を監督にすることにより、試合だけでない高校野球の裏側を描いた作品。練習方法等も多く描画されかつ練り込まれているのが特徴で、実力の土台固めなどを軽視せず野球に対して理論的な姿勢で挑んでいる。 作画の中原裕は、努力と根性があれば何とかなるというありがちなスポ根にはしたくなかった、格上のチームに勝つには土台となるだけの実力と、相手を分析しての作戦が不可欠だと思うと語っている。 あらすじ インチキセールスマンとして生計を立てていた鳩ヶ谷圭輔。だが勤めていた会社が薬事法違反及び詐欺容疑で取り調べられ、その際に上司に責任を被せられて一人、留置所で勾留される事となってしまった。その頃、夏の甲子園予選で彩珠学院高校が初戦敗退という結果で短い夏を終える。彩学は36年前の甲子園で初出場初優勝を果たし、名門と呼ばれていた時期もある高校だったが、その野球部も今では弱小と化しており、学園の経営も悪化の一途を辿っていた。 彩学の経営監査を任せられている美里ゆり子は、広大な野球専用グラウンドなどその原因となった野球部を不良債権として取り潰すことを主張する。だが校長であり、かつての全国制覇チームの主将でもあった狭山滋明は理事長に掛け合い「来年の夏までに甲子園に出場」できれば野球部の存続を認めることを約束として取り付ける。そしてそのために狭山が目を付けたのが、13年前彩学のキャプテンだった鳩ヶ谷だった。鳩ヶ谷は13年前の甲子園県大会予選準々決勝にて、「大切なのは勝ち負けよりも高校生らしいひたむきさ」を持論とする審判・鶴ヶ島の押し出しの判定に激高して全力で殴りつけてしまった過去があった。 その鳩ヶ谷に対し狭山は彩学の監督を依頼する。職を失い、恋人にも有り金全てを持ち逃げされ、すべてを失った鳩ヶ谷は監督を引き受ける。さっそく鳩ヶ谷は彩学ナインをD・C・M(イヌ・ネコ・サル)の3タイプに分類し、独特の指導を始める。Dは「ドッグ」、従順で良く云う事を聴くが集団性を重んじる。Cは「キャット」、気紛れで個人主義だが能力は高い。Mは「モンキー」、思慮深く表も裏も思考が回る、といった具合である。 鳩ヶ谷は偶然見かけた草野球で特大のホームランを打った元高校球児の大宮剛士(旧姓・児島)を養子縁組・転入させて野球部に加え、なおかつ留学生枠を利用してスティーブ・ストローターを控え投手として育てることを決める。鳩ヶ谷の指導によって生まれ変わった彩学野球部は、春の県大会でベスト16入りして夏のシード権を獲得する。そしていよいよ夏の大会が迫ったとき、エース・日高直哉が控え投手のスティーブと正捕手の八潮創太が練習している様子を見て嫉妬し、独自にフォークボールの練習をして右肘関節に炎症を起こし、初戦に間に合わなくなってしまう。そして初戦・2回戦のさいたま新都心高校戦は苦肉の策としてスティーブの先発となってしまうが、5回裏に打線が爆発しサヨナラコールド勝ちする。 3回戦の名門・春日野大栄高校戦では、エース日高が復帰し剛士がホームランを打つなどで3対1で快勝する。4回戦の瑞雲高校戦では剛士が大栄戦のホームランのイメージを引きずってしまい遅い球に合わずにスランプに陥り、予想外の苦戦となってしまうが2対1で勝利。5回戦埼玉栄冠高校戦では相手の得意戦略のスクイズを読んで完璧に防ぎ2対0で完封勝利。準々決勝の武蔵体育大学付属高校戦では速球に強い打線であること、エース日高を休ませる意図もあって軟投派スティーブを先発させるが、打撃戦となり辛くも10対9で勝利する。準決勝の安政大付属高校戦では相手エース・新谷を攻略し4対1で勝利する。そしていよいよ甲子園をかけた夏の埼玉地区予選決勝、相手は優勝候補筆頭・春の選抜甲子園ベスト8の聖母学苑。超高校級投手・明石慎之介に苦戦し延長戦に突入するも、日高が自己最速の148km/hを記録するなど延長10回の死闘を制し夏の甲子園出場を決める。甲子園出場を決め、野球部は救われたかと思われた矢先、学校の売却先が部活動を全て廃止していることが明らかとなる。祝勝会で甲子園で勝ち進んで学校の名が知れれば新たな経営母体が見つかると言われ、野球部だけでなく学校を救うため、彩学野球部は全国制覇を目指すことになるのであった。 甲子園初戦は地元・兵庫県代表・湊川商工。彩学は完全アウェーの雰囲気に飲まれることなく危なげなく勝利する。2回戦は大分県代表大豊高校。日高は自己最速の150km/hを記録し、剛士が左のエース・国東からホームランを打つなどで勝利する。3回戦は東東京代表・帝都大学第一高校。ここまでほとんどの試合1人で力投してきたエース日高が時限爆弾を抱えていることが明らかとなり、鳩ヶ谷は「チームの勝利か、日高の将来か」で頭を悩ませることになる。一方、帝大一高も優勝を見据えてエースを温存し、お互いに控え投手が先発となり打撃戦となるが彩学は辛くも勝利する。準々決勝は香川県代表の興洋学園。エース佐野の投球術に翻弄されるが、9回裏相手のエラーから得たチャンスに日高がサヨナラタイムリーを放って勝利する。準決勝・地元の大阪府代表・難波南洋高校と対戦し善戦するが、ドラフト1位が有力視されているエース藤村の前に6対4で敗れ、ベスト4という結果に終わる。 甲子園終了後、彩学ナインの活躍によって学校法人購入の申し入れが相次ぎ、経営責任者の美里ゆり子の決断によって帝都大学付属彩珠学院高等部となる。鳩ヶ谷は痛い箇所を探られたくないマスコミ対策によって、学校法人が購入したブラジルの野球指導施設「SBA(サイガク・ベースボール・アカデミー)」に最高責任者として転身する。ブラジルで高校野球ライターの蕨耕一から「実は鳩ヶ谷監督とお話がしたいと、今は落ちぶれた元名門校からの申し出が来ている」と知らされ、鳩ヶ谷は「ゴキゲンだわ…」とつぶやくのだった。 私立彩珠学院高校 36年前、甲子園大会に初出場で初優勝をしたという偉業を成し遂げた経歴のある学校。だが近年は毎回予選も初戦敗退という程落ちぶれてしまっていた。略称は「彩学(サイガク)」。名前の由来は、埼玉県のキャッチフレーズ『彩の国』。登場人物の名前は埼玉県にある市町村にちなんだものになっている。 後述の鳩ヶ谷圭輔が監督に着任してからの公式試合最高戦績は夏の甲子園本戦ベスト4で、惜しくも36年前の再来とまでは至らなかった。 甲子園終了後、彩学ナインの活躍によって学校法人購入の申し入れが相次ぎ、経営責任者の美里ゆり子の決断によって帝都大学付属彩珠学院高等部となる(経営母体として最良の大学を蹴ってまで帝都大学の付属校になったが、美里ゆり子は「どうせなら1部リーグに所属している学校の方が良い」とあえて帝都大学を選択した。ただ、これも後述となるが甲子園本戦ベスト16戦でサイガクは同じく帝都大学の帝大一高と対戦しており、この折に帝大一高の選手は帝都大学を「関東リーグ2部の弱小校」と称している)。 なお、当初の彩学は中高一貫校として高校からの進学が不可能であったが、これもゆり子の手によって「若干名のスポーツ優待生」を翌年から募集する事となった。曰く「野球部あっての彩学なんだから当然でしょ!」。 武蔵体育大学付属高校 通称「武体大」。野球部のモットーは「打撃力無き者は去れ!!」。浦和第一と打撃力では、一、二を争うチーム。準々決勝までの4試合で総得点73点を誇るが、1試合平均7失点と守備に気を使わないチームでもある。鳩ヶ谷曰く「筋肉バカ集団」。 浦和第一高校 打撃が売りのチーム。新チームになってからの公式戦チーム打率.398。クリーンナップ3人では.423。長打率は1.026と10割を越えている。しかし、単発が多いので得点は少ない。夏の県大会では準決勝までの5試合でチーム打率.458と総得点88を誇る。 ラジオ実況放送 2010年12月23日13時から15時30分に、ニッポン放送の特別番組として、県大会決勝戦の彩珠学院対聖母学苑戦をラジオの野球実況中継として再現した番組が放送された。実況をニッポン放送の煙山光紀アナウンサー、解説を渡部建(アンジャッシュ)が務めた。この企画を発案したのはマンガ大賞の発起人も務める吉田尚記アナウンサーによるものだった。またこの放送は、第48回ギャラクシー賞のラジオ部門で優秀賞に選ばれた。この実況放送の模様は第29巻の初回限定バージョンにCD2枚組で収録されている。
ラフダル・ベルミ 来歴 アルジェリアと1980年代のアフリカを代表するサッカー選手。1982年6月16日のスペインW杯1次リーグ初戦において当時のヨーロッパチャンピオンの西ドイツを2-1で下す大番狂わせを演じ、旋風を巻き起こした時の中心選手である。この活躍でイタリアのユヴェントスFCやスペインのFCバルセロナなどが獲得に動いたが、同胞のラバー・マジェールがポルトガルのFCポルトへ移籍し成功を収めた事とは対照的に、キャリア終盤にカタールのアル・アラビSCに所属したのを除き、終始アルジェリア国内に留まり続けた。 引退後は指導者の道へ進み2005年にアルジェリア代表監督を務めている。 
東京都主税局 概要 東京都の収入の約4分の3を占める都税について、税制の企画・課税・徴収を行っている。本来は市町村税である住民税の法人分、固定資産税、都市計画税なども23区内においては都税となるため、都の税務関係の組織は他の道府県と比較してもかなり大きなものとなっている。外形標準課税、差し押さえ物品のネットオークションでの公売、ホテル等の宿泊客を対象に課税する宿泊税や、いわゆる「駅ナカ」の固定資産評価の見直しの発案等を先駆けて実施し、国や他の自治体に影響を与えた政策も多い。
ひまわり (飯塚雅弓のアルバム) 背景 移籍後初のアルバムということで、再スタートしたい気持ちがあり、自身で作詞したものを多めに入れたり楽器をたくさん取り入れたという。その分、暖かさをメインに考えている。 テーマは「出逢いの素晴らしさ」「そこから生まれる優しさや強さ」で、それを表現していこうと意識して作ったアルバムだという。 プロモーション・リリース 2001年7月25日に徳間ジャパンコミュニケーションズから発売された。同レーベルに移籍して初となるアルバム。 『berry best』から5ヶ月ぶりとなるアルバムで、オリジナルアルバムとしては『AERIS』から11ヶ月ぶりとなる5枚目オリジナルアルバム。 販売形態は、通常盤(TKCA-72176)のみで、初回限定版は、特別パッケージとピクチャーレーベル仕様となっている。 本アルバムを引っ提げて、ツアーライブ『Strawberry Story 2001 〜ひまわりのように〜』が8月5日から24日まで開催された。8月24日に行われた渋谷公会堂公演の模様を収録したDVDおよびLDが12月5日に徳間ジャパンコミュニケーションズから発売された。 音楽性 2曲目「アイのチカラ」にある「LOVE!!」「KISS!!」「Dash!!」は狙って作ったといい、ライブを意識し、自身がステージで歌っているのを想像しながら作詞したという。 10曲目「小さな私から」は、曲が終わって約1分後に「ひまわり」のボーナストラックがある。 その他、グロッケン・鍵盤ハーモニカ・タンバリンといった楽器を使用しており、飯塚は「歌うだけじゃなくて楽器とも触れ合っていきたいなあって思っていて、今回のコンサートでも、楽器と触れ合える時間みたいなものを作ってます。」と述べている。
ロイヤルリーグ ロイヤル・リーグ(Royal League)は、スカンディナヴィア諸国のクラブチームによる国際サッカー大会である。 デンマーク、スウェーデン、ノルウェーの各国内リーグの1位から4位までが参加する。第1回大会は2004-2005シーズンに行なわれた。 2007-08シーズンは財政的な理由により中止され、2008-09シーズンの復活を目論んでいた。しかし2008年10月11日、放映権が売却されなかったため2009-10シーズンも中止となることが発表された。 2010年には参加クラブを3チーム増やし、15クラブが参加するロイヤルカップという新たな大会が計画された。
ヒラサワンダ WEBムービー リステリン LISTERINE®「Nobody is perfect~完璧な人間なんていない~」
宮沢清作 宮沢 清作(みやざわ せいさく、1878年(明治11年)4月21日 - 1939年(昭和14年)3月14日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士、判事。 経歴 宮城県宮城郡多賀城村(現在の多賀城市)に、宮沢清右衛門の五男として生まれる。1904年に日本大学を卒業し、判事検事登用試験に合格した。司法官試補を経て、盛岡地方裁判所、宇都宮地方裁判所、栃木区裁判所、仙台区裁判所、仙台地方裁判所で判事を歴任した。やがて退官して弁護士となり、仙台弁護士会副会長を務めた。 県会議員を経て、1931年の衆議院補欠選挙に当選。以後、第18回・第19回総選挙で当選し、1937年にも補欠当選した。
ブラックメタル ファッション/パフォーマンス ファッション面の特徴として、顔全体を白く、目の周りを黒く塗ったコープス・ペイント(土葬文化の下で死者の姿を扮装したものとされる)をする者が多い。他には全身黒服、鋲が多く打たれたガントレット、ガンベルト、バンドTシャツ、センター・パートのロング・ヘア、革ジャケット、ロング・ブーツ、生々しい血のり等。ただし、これらのファッションはブラックメタルに限らず、一般的なメタルシーンでも見られる。また、中後期Emperorのように、コープス・ペイントやロングヘアーが見られないバンドも存在する。ブラジルのバンドサルコファーゴの1stアルバムでのファッションが計り知れぬ影響を与えたとされる。 アートワークはモノクロのものが多い。これは1990年代に入ってデスメタルバンドのアートワークがどんどん鮮やかなものになったことに対するアンチテーゼである。自然や神話の風景が題材として選ばれることが多い。 また、ライブを一切行わないことを信条にしているバンドも存在する。一方で、メイヘムやゴルゴロスなどのように動物の頭部や血液を使用したパフォーマンスで論争を呼ぶバンドも存在する。 第一世代 1980年代に登場し、スラッシュメタルバンドVenomが1982年に出したアルバム『BLACK METAL』がその起源だとされている。反キリストをテーマにした歌詞やヴォーカルスタイル、ステージネームを使った演出技法は後続のバンドに影響を与えた。 デンマークのマーシフル・フェイトも重要なバンドである。フロントマンであるキング・ダイアモンドのメイクはコープスペイントの素地を作ったともいわれる。 さらにその後出てきたヘルハマーやBathoryにより、今日のブラックメタルの基本となるサウンドが作り出された。いわゆる"第一世代"と呼ばれる時期である。1980年代には、これらのサタニックなスラッシュメタルバンドが「ブラックメタル」と呼ばれることもあった。第一世代と呼ばれるバンドには他にクリーター、デストラクション、ソドムなどのドイツのバンドや、ブルドーザー、デス・SSなどがいる。 しかし、1987年になると事態は一時沈静化する。Slayerマガジンの著者Metalionは「昨今のサタニックバンドブームはどうやら終わりを迎えたようだ」と記述している。その一方で、Incubus、モービッド・エンジェル、サバト(UK)、トーメンター、サルコファーゴ、グロテスク、Treblinkaなど一部のバンドがサタニックなテーマを掲げて活動を続けていた。 他に、初期のブラックメタルシーンのバンドとしては日本のサバト、コロンビアのParabellum、イスラエルのサレム、イタリアのMortuary Drapeなどがいる。1990年に結成された日本のSighはノルウェーのシーンのメンバーと定期的に連絡を取っていた。彼らの1stアルバムは "ブラックメタル界におけるカルト・クラシック"になったともいわれる。 ノルウェーのシーンが勃興する前の年にはRoot、Master's Hammer、Von、ロッティング・クライスト、サマエル、ブラスフェミーらが重要な作品をリリースしている。特にMaster's Hammerのデビュー作RitualはダークスローンのFenrizをして「このアルバムこそが最初のノルウェイジャン・ブラックメタルだ。もっとも、彼らの出身はチェコなんだけどね。」と言わしめた。ブラスフェミーのデビュー作Fallen Angel of Doomは後にウォー・ブラックメタルと呼ばれるスタイルへとつながることになる。 1990年、1991年には北欧のバンドが上記のバンドに影響を受け活動を始める。スウェーデンではマーダック、ディセクション、Nifelheim、アブラプタムが、フィンランドではデスメタルやグラインドコアの要素を取り入れたベヘリット、アーチゴート、インペイルド・ナザリーンといったバンドが現れた。特にフィンランドシーンの音楽性は後のウォー・ブラックメタルに大きな影響を与えた。 デスメタル全盛のアメリカではDemoncy、Profanatica、アブスーが誕生している。1990年にライプツィヒで行われたメイヘムのライブは東ドイツのシーンに絶大な影響を与えたと言われ 、一部ではジャーマンブラックメタルの幕開けだとまで評されている。 第二世代:殺人事件 続いて1990年代には、Emperor、Mayhem、Darkthrone、Burzumといったノルウェー出身のバンドが活躍し始め、ブラックメタルという音楽をよりはっきりさせた。Mayhemのヴォーカリストであるデッドが自殺し 、Darkthroneが2ndアルバム"A Blaze in the Northern Sky"をリリースした直後にユーロニモスがつくりあげたブラックメタルシーンを俗に"第二世代"と呼ぶ。長らく人の知るところではなかったブラックメタルが俄に注目を浴び、その名が広まるに至ったのは、これらのバンドのメンバーを中心に起こった「自殺、教会への放火、殺人」など数々の事件や犯罪行為、およびそれらをセンセーショナルに取り上げたメディアによる影響が大きい。 アンダーグラウンド主義の元、メジャー音楽に攻撃をしかけ、ツアー中のアーティストの家を放火・ツアーバスを転倒させる、等の行動も起こしていた彼らおよびそのファン達は、ブラックメタルマフィアとも呼ばれた。また、シーンの中核には反キリスト教集団「インナーサークル」(Black Metal Inner Circle)が存在するとされ、その集団内での格付けは行った犯罪の大きさで決まったとさえも言われた。(詳細は→インナーサークル) しかし、1993年8月、バーズム の中心人物、「Count Grishnackh(カウント・グリシュナック)」ことヴァルグ・ヴィーケネスが、インナーサークル及びMayhemのリーダーであった「ユーロニモスことオイスタイン・アーセスを殺害する事件」を起こす。この事件でヴァルグがついに逮捕され、懲役21年という判決を受けた事をきっかけに、バンドのメンバーらの犯罪が次々と発覚して逮捕者が続出し、初期のブラックメタルシーンは崩壊してしまう。 また、同時期に他国でも様々なシーンが誕生していた。ポーランドではグレイヴランドとベヒーモスによってシーンが築かれている。アメリカではBlack Funeral、Grand Belial's Key、Judas Iscariotらが活躍している。 フランスではアンダーグラウンドシーンのミュージシャンが集まり、Les Légions Noiresというグループが結成されるに至った。著名なバンドではMütiilation、Vlad Tepes、Belketre、Torgeistがいる。同時にナショナル・ソーシャリスト・ブラックメタル(NSBM)シーンも勃興している。AntaeusのMkMはあるインタビューで「(この時期のフランスのシーンは)とても簡単に整理できる。NSBMを選んで、ファンジンと聴衆からのサポートを受けるか、the Black Legionsの一員になってあの'カルト'なアウラを身に纏うか…。Antaeusはパリ出身で、NSBMもやらないし、クリシェに満ちた'スカンジナビアン・ブラックメタル'でもないから、どこにも属さないってことになるかな。とはいえ、シーンに迎合しようって気もさらさらないけど。」と語っている 。Deathspell Omegaのように前衛的な手法をとっているバンドも多く存在する。不協和音を取り入れていることが特徴で、他にはAntaeus、Aosothなどが著名である。 ドイツのシーンではアブサードの行いが論争を呼んだ。1993年、アブサードのメンバーが同じ学校に在籍する「ザンドロ・ベイヤーという少年を殺害」したのである。ベイヤーの墓碑の写真はリリースされたデモの一つThuringian Pagan Madnessのアートワークにナチズムを賛美する言葉とともに掲載されている。このデモは獄中で録音され、ポーランドでグレイヴランドのドラマーによってリリースされている。 Nagelfarの中心人物であるAlexander von Meilenwaldはこのドイツシーンの最重要作品としてUngod、Tha-Norr、Lunar Aurora、KatharsisのデビューアルバムとDesasterのデモLost in the Agesを挙げ、「必ずしもドイツ史上最高の作品だとは言えないかもしれないが、全部すばらしい出来だ」と述べている。 それからもブラックメタルは脈々と受け継がれ、現在ではノルウェーを中心とした本場スカンディナヴィア地方以外にも、フランスやドイツ、ウクライナをはじめとするヨーロッパ、南米、北米、東アジア、東南アジア、オーストラリアなど世界各地でシーンが築かれると同時に、ディム・ボルギルらのようにメジャーレーベルでの商業的成功を収めるバンドも現れている。 歌詞・思想・哲学 音楽性が多岐に及びつつもブラックメタルというジャンルが成立しているのは、思想などといった側面が非常に強く、歌詞や世界観などによる演出にも重点が置かれているということを念頭に置かなければならない。 ブラックメタルのシーンには、音楽活動を通して思想を伝播することを重要だと考えているバンドが数多くいる。一般的なブラックメタルの思想は、サタニズム(悪魔主義)という言葉に集約されている。この点で、第一世代に属していたバンドの多くは実際にサタニストであったわけではないが、'サタニック'なイメージや歌詞を用いていた。一方で、ノルウェーのいわゆる第二世代のバンドにとって、サタニズムはイデオロギーの側面からブラックメタルを定義づけるものであった。インナーサークルがスカンディナビアからキリスト教を撤廃し、古代の宗教を復活させるという目標を掲げたこともあり、シーンではキリスト教以外のヨーロッパの宗教(ペイガニズム)を讃えるバンドも存在した 。とはいえ、初期のペイガンバンドが自ら'ブラックメタル'を自称することはあまりなかった。このように、ブラックメタルを自称するバンドはふつう反キリスト、または他の世界宗教への反抗心をテーマにしている。おそらく、これこそがブラックメタルが唯一共有する考えといっていいだろう。 したがって、歌詞ではキリスト教徒の虐殺、キリスト教の滅亡などキリスト教を攻撃するもの、悪魔を称えたり、天使や神、天国を罵るなど冒涜的なもの、人間愛、平和、自由などを否定する反道徳的なもの、自殺、孤独、人間への嫌悪を歌った厭世的なものなどが多い。これらのテーマは全く別のものというわけではなく、それぞれがつながっている。それゆえ、無神論、ペイガニズム、サタニズムのような考えが支持されることが多い。 また、ファンタジーに出てくる悪の象徴、ギリシャ神話や北欧神話(ゲルマン神話)の死の象徴(ハーデースなど)が、悪魔のかわりにテーマとされることがあり、映画や西洋魔術もブラックメタルバンドにインスピレーションを与えている。 個人主義 Chronicles of Chaosの記事では「ほとんどすべてのブラックメタルバンドが持つ最大の特徴は過去への憧憬である。」といわれている。これに関して、Wolves in the Throne Roomのアーロン・ウィーヴァーは「ブラックメタルは根本的なレベルで現代精神を批判する芸術活動なんだと思う。現代の世界観は何かを見落としているんだ、という具合に。」と述べている。故郷にキリスト教が伝播する以前の太古の文化に着目するバンドもいる。Sam Dunnはノルウェーのシーンについて、「他のヘヴィメタルシーンとは違い、文化や地理的特徴がブラックメタルの音楽やイメージに組み込まれている」と言っている。ノルウェーのドキュメンタリーでダークスローンのFenrizは「ブラックメタルというのは何よりもまず、個人主義ってことなんだよ。」と述べている。実際、個人主義を信条にしているアーティストは多い。イーサーンもブラックメタルとは「やりたいことは何でもやる」ことだといい、ある意味では個人主義的な側面を肯定している。あるインタビューでは「俺にとっては音楽的なインスピレーションがすべてだった。ブラックメタルというのは音楽のスタイルではなく、アティテュードなんだよ。初期のノルウェーのブラックメタルのバンドたちは、皆違う音を出していただろ。共通の雰囲気、表現方法は持っていたかもしれないけど。ルールなんか何もなくて(中略)俺はやりたいことをやるだけで、誰にもこういう音楽をやれなんて指示はされないし。もしそんなことを受け入れたら、それはもはやブラックメタルではないよ。」と述べている。その一方で、Euronymousの信奉者は個人主義に反対することが多い。Benjamin Hedge Olsonが著した修士論文によれば、「ブラックメタルはラディカル・インディヴィジュアリズムと集団的アイデンティティの間で起きる抗争と、その両極をも同時に受容しようとする企てによって特徴づけることが出来る。」という。 Olsonはラルフ・ワルド・エマーソンのとなえた超越主義に似た思想を持つアーティストもいると書いている。彼らは肉体という牢獄を捨て、もしくは"超越"し、超越的存在(神)から知識を授かろうとするのである。「霊的意義、文化的意義に欠けているように感じられる世界」に満足しておらず、それを超えて、「宗教的熱狂に満ちた世俗主義」に挑戦したいと考えているからである。Olsonはこのようなバンドのライヴを「情景的一体感や神秘的超越を得るための音楽による儀式」と呼び、 「演者が儀式的なパフォーマンスを通して、自らの世俗的肉体を超越し、神と結びついた精神的なペルソナをその身に帯びる、という認識」を自分が参加したブラックメタルのライヴの典型例として挙げている。 シーン内で有名なミュージシャンの中には、ブラックメタルは何らかのイデオロギーを表明していなければいけないというわけでは必ずしもない、と考えるものもいる。たとえば、ヤン・アクセル・ブロンベルクはMetal Libraryとのインタビューで、「これは個人的な考えだけど、今日のブラックメタルはただの音楽にすぎないと思う。」と語っている。同じように、サティアーも「ブラックメタルは必ずしもサタニックなものでなければならないというわけではない。暗澹としたものでありさえすればいい。」と語っている。Throne of MaledictionのEric Hornerは「多くのバンドがサタニズムやそれに類する信条を持っているけど、僕はそれだけが'ブラックメタル'でいる唯一の手段とは思いませんね。僕にとってのブラックメタルは純粋な感情であり、その感情を伴った個人主義なのです。」と答えている。 だが、Metalionが発行するファンジンSlayerの記事では「自分たちのコンセプト全体が依拠しているような本質よりも、音楽的なことに関してばかり気を払う」ミュージシャンが批判され、「音楽そのもの自体が一番優先されるということはない。」という主張が繰り広げられている。 サタニズム もともと、ブラックメタルという語はサタニックな歌詞やイメージを用いるエクストリームメタルバンドを指す言葉だった。しかし、第一世代のほとんどのバンドはサタニストであったわけではなく、単に聴衆を煽るためにそのイメージを使っただけであった。その中で、Mercyful Fateのヴォーカリストであり、悪魔教会のメンバーであったKing Diamondは数少ない例外である。Michael Moynihanは彼について「80年代のサタニックメタルバンドのメンバーで唯一本気だった人物で、ショック・ヴァリューを狙って悪魔のイメージを使っていただけのポーザーとは違う。」と言っている。 1990年代初頭、ノルウェーのシーンに属する多くのブラックメタルミュージシャンは厭人的悪魔崇拝者を自称していた。彼らは憎しみ、悲しみ、そして邪悪さを広めようとしていたのである。メイヘムのユーロニモスはこの思想の裏に居た重要な人物である。彼らは悪魔教会の「自由や人生を肯定する」考え方を批判した。シーンのメンバーが支持していた有神論的サタニズムはキリスト教の倫理の逆を行く事、すなわち自分の欲望に忠実に生き、弱者を強者の糧にするのをよしとする思想であった。そのため、キリスト教を弱者のものとして否定したフリードリヒ・ニーチェの思想(ニヒリズム)が好まれる傾向にある。Benjamin Hedge Olsonは「(彼らは)ヴェノムの行ったサタニックなパフォーマンスを他のメタルやサタニズムにはない文化的表現のひとつへと変えた」、そして「他のメタルが持つ平凡なアイデンティティや大望を捨て去り、宗教的、イデオロギー的な熱狂を選んだ」と書いている。ユーロニモスは全体主義を支持し、個人主義、同情、平和、幸福、快楽などの考えを否定した。何故このような思想がシーンで支持されていたのかと聞かれ、イーサーンは「(このような考え方は)人々に恐怖を与えるには好都合だった」と語っている。また、「(シーンは)社会の対極でありたがっていた」し、「本当のサタニズムを実践するよりも、単に'邪悪'であること」に力点を置いていたという。ただし、Lords of Chaosによれば、マンハイム 、ヴィーケネス、ブラックソーンのようにユーロニモスを知っていた者の多くは、彼の"過激でサタニックなイメージ"は見せかけだけのものだったという。その一方で、Mortiisはユーロニモスが行っていたことは見せかけではないと語っている。ユーロニモスを1985年から知っており、彼の親友でもあるMetalionは「(ユーロニモス)はいつも自分の考えを披露していた。(中略)死を崇め、過激であろうとしていたんだ。」と証言している。Misanthropic Luciferian OrderのTenebris(噂ではジョン・ノトヴェイトであるとされる)はノルウェーのシーンは主にイデオロギー的なサタニズムと関連しており、「93年にユーロニモスが死んだことで消滅した」と書いている。Sanna Fridhは、シーンのメンバーによる"自分たちは悪魔崇拝者である"という主張には何ら根拠がなかったと述べている。ユーロニモスが死亡した後、捜査を主導したLeif A. Lierによれば、彼自身も部下もサタニストには一人も遭遇しなかったという。ファウストは「サタニズムを超マジにとらえてるヤツもいたけど、ほとんどの人間にとってはハイプに過ぎなかったね」という。当時、有神論的サタニズムを支持しないバンドはユーロニモスやシーンのメンバー(ファウストとか)から'ブラックメタル'であると認められなかった。そのため、ノルウェイジャンブラックメタルのようなサウンドで、サタニックな歌詞を用いてなかったバンドは他の言葉で自分たちのジャンルを表現した。今日でもInfernusやアリオク、Nornagest、Erik Danielssonなどのような著名なミュージシャンのように、ブラックメタルは有神論的サタニズムを支持していなければならないと考えるものがいる。再結成後のDissection、Watainのようなバンドは、ブラックメタルバンドのメンバーはみなサタニストでなければならないという一方で、Black FuneralのMichael W. FordやAntaeusのMkMはブラックメタルはサタニックでなければならないが、メンバー全員が必ずしもサタニストであることまでは必要でないと考えている 。サタニズムからペイガニズムに考えを変えたバンドもいる。 また、サタニズムはナチズムと共通する点も見られる。だが、ヴァルグ・ヴィーケネスのようなネオナチ活動家や、ヒットラーやナチスを崇拝するナショナル・ソーシャリスト・ブラックメタル(国家社会主義ブラック・メタル)と呼ばれているAbsurd、Graveland、Nokturnal Mortumのような極右・ネオナチバンドは、シーンのごく一部である。多くのブラックメタル・バンドは音楽に専念しており、シーンで人種差別が肯定的に捉えられることは少ない。 このように、一般にブラックメタルの中でキリスト教が肯定的に扱われることはほとんどないといっていい。一方で、ブラックメタル特有のサウンドを有していながら歌詞やイメージでキリスト教を賛美する、アンブラックメタルという一見矛盾したジャンルも存在している。
洋風画 概要 絵画技法は西洋画と同じ技法だが、絵画道具は日本にあるものだった。代表的な洋風画としては、小田野直武・佐竹曙山を中心とする一連の「秋田蘭画」が挙げられる。他には平賀源内・司馬江漢・渡辺崋山などの作品もよく知られる。
猪名川パークタウン 猪名川パークタウン(いながわパークタウン)は、兵庫県川辺郡猪名川町にある三菱地所が開発した住宅地である。 環境 大阪から直線距離にして25キロ圏内にありながら、本当の豊かな自然が手に入るとして人気の住宅地である。
Yeahhhhhh...at武道館 解説 RCサクセション初の武道館コンサートを収録したアルバム。カセットテープのみの発売だった。 「オー、イェーイ」、「武道館、ベイビー」、「愛し合ってるかい?」などオーディエンスとのやり取りが収録され、ライブの臨場感が伝わってくる。 通常版のカセットテープ本体の色がグレーだったのに対して、「天使のイヤリング」が付属していた限定版はカセットテープ本体の色がピンクだった。同時期に発売されたビデオ版ではカセットテープ収録曲に加えて、「よォーこそ」「恐るべきジェネレーションの違い(Oh,Ya!)」が収録されている。
ブエル ブエル(Buer)は、悪魔学における悪魔の一人。 概要 『ゴエティア』によると、50の軍団を率いる序列10番の地獄の大総裁。 『大奥義書』によると、アガリアレプトの配下にあるという。 太陽が人馬宮にある時に現れ、自然哲学、道徳哲学、論理学や全ての薬草の薬効を教え、全ての弱った人、特に男性を癒し、よい使い魔を与える。 『ゴエティア』では(人馬宮のシンボル)の姿で現れるとされるが、コラン・ド・プランシーは『地獄の辞典』においてブエルの姿を「星か車輪のような五本の脚を持ち、自ら転がりつつ前進する」と紹介している。『地獄の辞典』第6版以降のM・L・ブルトンによる挿絵では、ライオンの頭と5本のヤギの足を体の周りに持つ姿で描かれており、今ではその姿の方が有名である。また、ヒトデの姿をした悪魔という説もある。『悪魔の偽王国』ではアスタリスクの姿とされる。 ブエルの名前の由来は不明であるが、興味深いことに"Buer"(現ゲルゼンキルヒェン)という古都がドイツのヴェストファーレンにあった。
1980年ノルディックスキー世界選手権 1980年ノルディックスキー世界選手権大会は1980年にアメリカ合衆国、レークプラシッドで開催されたレークプラシッドオリンピックを兼ねて行われたノルディックスキーの世界選手権。レークプラシッドオリンピックではクロスカントリースキー8種目、ノルディック複合1種目、スキージャンプ2種目が実施され、女子20kmは実施されなかったため、スウェーデンのファールンで開催された。
中村雀右衛門 (4代目) 人物・来歴 青木清治は六代目大谷友右衛門の次男として1920年(大正9年)東京に生まれた。1927年(昭和2年)1月、東京市村座『幼字劇書初』の桜丸で大谷廣太郎を名乗り初舞台を踏む。 1942年(昭和17年)、徴兵をうけて出征。しかしその直後に戦地で、「父・六代目友右衛門が、巡業先の鳥取で鳥取地震に遭い、崩壊した劇場の下敷きとなって圧死する」という悲報を受ける。 1946年(昭和21年)、復員。翌年6月、三越劇場『源平布引滝』(実盛物語)の小万、『曽我綉侠御所染』(御所五郎蔵)の逢州などで女形・大谷廣太郎として舞台に復帰する。1948年(昭和23年)3月には東京劇場『須磨都源平躑躅』(扇屋熊谷)の平敦盛ほかで七代目大谷友右衛門を襲名した。その後、1950年(昭和25年)に映画俳優に転身、『佐々木小次郎』でデビューを果たす。東宝の専属俳優から、1954年(昭和29年)に新東宝に移籍し、二枚目スターとして数多くの映画に主演した。 ところが1955年(昭和30年)に映画界を事実上引退、舞台に再復帰したばかりか、活動の場を関西に移す。そして関西歌舞伎の大名跡・中村雀右衛門家に位牌養子として入り、1964年(昭和39年)9月、歌舞伎座『祇園祭礼信仰記・金閣寺』の雪姫ほかで四代目中村雀右衛門を襲名した。以降格調の高い芸風で女形の第一人者となり、六代目中村歌右衛門亡きあとは事実上の最高峰を極めた。 大谷友右衛門はいわゆる江戸の大名跡のひとつで、通常はそれ自体が止め名となるが、七代目は友右衛門襲名後に四代目雀右衛門を継いでいる。これは、徴兵で入隊し太平洋戦争従軍中に戦病死した、三代目雀右衛門の長男・中村景章(終戦後「五代目中村芝雀」を追贈)が、七代目友右衛門の無二の親友だった関係によるもの。友右衛門も景章に2年遅れて徴兵され、過酷な南方の戦地を6年間も転戦したが、こちらは幸運にも生きて再び祖国の地を踏むことができた。 終戦後、復員してきた懐かしい友右衛門の姿を見た景章の母(三代目雀右衛門の未亡人)は、そこに何か運命的なものを感じ、以後は友右衛門を我が子同然に可愛がった。そして、「息子が果たせなかった『雀右衛門』襲名は、ぜひ親友だったあなたにしてもらいたい」と、再三にわたって懇願したのである。大谷友右衛門の明石屋と中村雀右衛門の京屋は、姻戚関係はおろか子弟関係の接点すらない、系統のまったく異なる家系で、友右衛門の雀右衛門襲名は、故人の無念の想いをその親友に託すという異色の養子縁組となった。 2010年(平成22年)1月19日、歌舞伎座さよなら公演 壽初春大歌舞伎『春の寿』の女帝役で1日だけ出演したのが最後の舞台となった。 2012年(平成24年)2月23日肺炎のため死去。91歳の大往生だった。 2012年(平成24年)3月9日の閣議において、従三位を追贈することが決まる。 家族・親族 妻・晃子は七代目松本幸四郎の娘。そのため、十一代目市川團十郎・初代松本白鸚・二代目尾上松緑の三兄弟とは義兄弟の間柄だった。 自身の息子二人も歌舞伎役者。長男は明石屋を継承し、八代目大谷友右衛門として主に立役を務める。次男は京屋を継承し女形で活躍する五代目中村雀右衛門である。
リッチー・マーティン プロ入り前 2012年のMLBドラフト38巡目(全体1151位)でシアトル・マリナーズから指名されたが、この時は契約せずにフロリダ大学へ進学した。大学時代はハリソン・ベイダーとチームメイトだった。 プロ入りとアスレチックス傘下時代 2015年のMLBドラフト1巡目(全体20位)でオークランド・アスレチックスから指名され、プロ入り。契約後、傘下のA-級バーモント・レイクモンスターズでプロデビュー。51試合に出場して打率.237、2本塁打、16打点、7盗塁を記録した。 2016年はA+級ストックトン・ポーツとAA級ミッドランド・ロックハウンズでプレーし、2球団合計で94試合に出場して打率.235、3本塁打、38打点、14盗塁を記録した。 2017年もA+級ストックトンとAA級ミッドランドでプレーし、2球団合計で109試合に出場して打率.234、4本塁打、33打点、13盗塁を記録した。 2018年はAA級ミッドランドでプレーし、118試合に出場して打率.300、6本塁打、42打点、25盗塁を記録した。 オリオールズ時代 2018年12月13日にルール・ファイブ・ドラフトでボルチモア・オリオールズから指名され、移籍した。 2019年3月28日のニューヨーク・ヤンキースとのシーズン開幕戦にて「9番・遊撃手」で先発出場してメジャーデビュー(この試合では3打数無安打)。 プレースタイル 好守と俊足が売りである。
Primary colors 解説 タイトルは「色の三原色」の意味。北野正人曰く「三色あれば何色でもできる」=「三人揃うことで何でも挑戦できる」ということ。また、メンバーを三色のどの色に例えるかという問いに「misono=赤、北野正人=緑、鈴木大輔=青ではないか」とも語っていた。メンバーいわく「季節を感じられるものも多く、一年中楽しめる作品」に仕上がっている。 本作に先行して、「螢火/Show Time」がシングルとしてリリースされた。misonoの実姉である倖田來未も、同日にアルバム『feel my mind』をリリースしている。
歌劇 (雑誌) 歌劇(かげき)は宝塚歌劇団の機関誌。月刊誌、毎月5日発売。1918年(大正7年)8月11日創刊。A5サイズ。発行元は宝塚クリエイティブアーツ。
アイザックス症候群 疫学 発症年齢15~60歳である。多くは40歳前に発症。 アイザックス症候群関連疾患はいずれも希な疾患である。 原因 本質的な原因については、未解明である。しかし、重症筋無力症、甲状腺機能亢進症、全身性エリテマトーデスなどの合併があり、大部分の症例が自己免疫性と考えられる。 電位依存性カリウムチャネル(VGKC)の自己抗体により、末梢神経終末でのVGKCの機能低下が生じ、末梢神経の過剰興奮による筋けいれんなどの運動障害が起こると考えられる。 アイザックス症候群でのVGKC抗体の陽性率は、3 割程度である。 治療 根治療法は確立していない。アイザックス症候群は、傍腫瘍性神経症候群の一種として、胸腺腫や肺癌を合併している場合がある。その場合は、その切除により臨床症状が改善する。しかし切除した後も症状が持続する場合は、免疫療法や対症療法が必要である。 対症療法 各種抗てんかん薬、プレガバリン、芍薬甘草湯
マクベス (2015年の映画) あらすじ 物語はマクベス夫妻の子供の葬式から始まる。夫妻は子供を失った悲しみで胸も張り裂けんばかりだった。 マクベスはダンカン王の部下として従軍し、勝利を手にしたものの、多くの部下が犠牲になってしまった。その闘いの様子を怪しげな女性3人が眺めていた。その3人は王の元へ向かうマクベスとバンクォーの前に姿を現し、マクベスには「万歳、コーダーの領主」「万歳、いずれ王になるお方」と呼びかけ、バンクォーには「将来の王の父親となられるお方」と呼びかける。2人はその意味を3人に問いただそうとしたが、3人は霧の中へと消えてしまった。 この予言が当たる過程で世にも恐ろしい悲劇が引き起こされてしまうのだった。 製作 2014年2月6日、本作の主要撮影がスコットランドで始まった。21日にはイングランドのサリーに移って撮影が続けられた。28日、ノーサンバーランドにあるバンブラー城で200人ほどのエキストラを動員して撮影が続けられた。 スカイ島とイーリーでも本作の撮影が行われた。 マーケティング 2014年4月18日、劇中の写真2枚が公開された。5月14日にはPR用のポスター2枚が公開された。6月4日、スタジオカナルが本作のファースト・トレイラーを公開した。8月27日、マクベスを演じるファスベンダーのポスターとマクベス夫人を演じるコティヤールのポスターの2枚が公開された。9月1日、ワインスタイン・カンパニーがアメリカ向けのトレイラーを公開した。4日には2枚の新しいポスターが公開された。 公開 2013年10月、ワインスタイン・カンパニーが本作の北米配給権を購入した。 本作は2015年5月に開催された第68回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品され、パルムドールを争ったが受賞には至らなかった。 評価 本作は批評家から高く評価されている。映画批評集積サイトのRotten Tomatoesには51件のレビューがあり、批評家支持率は90%、平均点は10点満点で7.6点となっている。サイト側による批評家の意見の要約は「映画であることの利点を損なうことなく、シェイクスピアの戯曲を忠実に映像化している。ジャスティン・カーゼル監督の『マクベス』はマイケル・ファスベンダーの魅惑的な演技のおかげで、シェイクスピア劇の映画化作品の中でも上質な作品の一つとなった。」となっている。また、Metacriticには12件のレビューがあり、加重平均値は85/100となっている。 『デイリー・レビュー』は本作に5つ星評価で3つ星半を与え、「大胆不敵な作品だ。ファスベンダーとコティヤールの演技もいい。」と高く評価しつつも、「俳優たちの台詞回しが下手で抑揚の付け方も変だ。それがこの作品の出来の良さを損ねている。」と批判している。