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Kova 略歴 ◼︎略歴 ボーカル・ギター、ベース、ドラムからなる3ピースのロックンロールバンド 、The CROCKSを結成し、作詞・作曲、ボーカル・ギターを担当する。後にテナーサックスのメンバーが加わり4人編成のバンドとして勢力的に活動を始める。 ロックバンドTHE COLTSの山外のバンドEL CAMINO のボーカル・ギターとして参加。 現在ではシンガーソングライターMiyuuのサポートギターとしてライブに参加。 シングル ・Wandering of Crow iTunes store / Apple Music / LINE Music 他 配信限定 ・Trip of a Train iTunes store / Apple Music / LINE Music 他 配信限定 アルバム ・VIVA LA CHECK CCR-001 ディスクユニオン・会場 ・ONE'S LIFE AND GROOVE CCR-002 ディスクユニオン・会場 ・GO BUDDY GO CCR-003 ディスクユニオン・会場 ・EL CAMINO IN THE SOMBRERO CCR-004 会場限定 ・MONEY HONEY DREAM CCR-005 会場限定 主な参加ライブ 2012年 ・2012年12月31日 福岡 DRUM LOGOS ROCKA DIVE NITE vol.5 2019年 ・2月26日(火) 代官山 LOOP Miyuu's support ・2月23日(土) 三軒茶屋 酒場ぁドーコレ 2018年 ・12月10日(月) 代官山 LOOP Miyuu's support ・11月27日(火) 下北沢 Laguna Miyuu's support ・11月9日(金) 浅草 銀幕ロック ・10月12日(金) 下北沢 Laguna Miyuu's support ・9月12日(水) 代官山 LOOP Miyuu's support ・9月2日(日) 学芸大学 Larry Smith flagship Store 周年祭 ・8月29日(水) 下北沢 Laguna "Acoustic Journey"
卵化石 卵化石(らんかせき)とは、古代の動物が産卵した卵が化石化したものである。卵化石は動物の生理学上のプロセスの証拠として、生痕化石の典型として考えられている。まれな状況下では、卵化石は、内部に成長した胚の化石が保存されている場合もあり、その場合、それらは体化石に含まれている。多種多様な動物群が産卵した卵化石の記録は古生代に始まり、その記録は現在保存されている。例としては、アンモナイトのような無脊椎動物だけでなく、魚類、両生類、爬虫類のような脊椎動物が含まれている。爬虫類には、中生代の地層から発掘された多くの恐竜の卵が含まれている。それぞれの卵化石を産卵した生物は、しばしば不明であるため、科学者たちは、リンネが考案したリンネ式分類法から切り離し、後にそのリンネ式分類法を模倣した分類システムで卵を分類した。このパラタクソノミ(parataxonomy)はveterovataと呼ばれている。 歴史 初めて学名をつけられた oospecies は、Oolithes bathonicaeであり、J.バックマンによって暫定的につけられた。バックマンは、その卵の集合は、テレオサウルスによって産卵されたものであると考えていた。しかし、現代の科学者たちは、これらの卵を産卵した爬虫類の種類を決定することがもはや不可能であると考えている。 1859年、初めて科学的に文献に記録された恐竜の卵化石は、Father Jean-Jacques Poechであり、南フランスにてカトリック祭司が発見し、アマチュア博物学者が命名した。しかしそのアマチュア博物学者は、それらが巨大な鳥が産卵した物と考えていた。 初めて科学的に認識された恐竜の卵化石は、1923年にアメリカ自然史博物館のクルーらによって偶然発見された。彼らは、モンゴルにて初期の人類の証拠を探していた最中に発見した。卵の発見は、世界中でマウントされ続け、複数の競合する分類体系の発展につながった。1975年、中国の古生物学者である趙資奎は、産卵した母親を仮説していくよりむしろ物理的な形質に基づいて卵を分類するという伝統的なリンネ式システムを基にしたparataxonomyを発展させたシステムにより卵化石を分類するという画期的な方法で分類を始めた。趙が考案した卵の新しい分類方法は、言語の壁のために西洋の科学者らには採用されなかった。しかし、1990年代初頭、ロシアの古生物学者であるコンスタンチンミハイロフが英語の科学文献にて趙の分類方法に注目した。 無脊椎動物 無脊椎動物の卵化石は、化石記録から知られてる。なかでもそれらは古代の頭足類が産卵したものである。アンモナイトの卵は、最もよく知られた頭足類の卵化石である。最も保存状態によいアンモナイトの卵化石が、イングランドのジュラ紀のキムメリッジ粘土層の中で保存されていた。しかし、頭足類の卵は、柔らかくゼラチン状の卵はすぐに分解してしまうので、化石化する機会がほとんどなかったので化石記録は乏しい。中生代、頭足類のもう一つの主要なグループであるベレムナイト類は、卵化石として記録された文献がまったくない。これは、化石記録が実際に存在しなかったのではなく、科学者がそれらを適切に調査されなかったかもしれない。 魚類および両生類 魚類の卵化石の記録は、少なくともデボン紀と新生代にまたがる時代までさかのぼる。多くの異なった魚類の卵は、肉鰭綱、板皮類、およびサメを含む魚類の記録に貢献した。ときどき、母親の体内に止まったままの卵や胚の化石も存在している。いくつかの卵化石は、両生類が産卵したものとはっきり区別することはできない。 いくつかの魚類や両生類の卵化石がMazonova、 Archaeoovulus、Chimaerotheca、Fayolia、Vetacapsulaを含むichnogeneraに分類されている 爬虫類 爬虫類の卵化石の記録は、少なくともペルム紀前期まで遡る。最も古い爬虫類の卵は、おそらく保存の可能性を持った少し柔らかい殻持っていたので、爬虫類の卵は、その化石記録よりもはるかに過去のものであるかもしれない。多くの古代の爬虫類群には、ワニ、恐竜、カメがあることが卵化石から知られている。魚竜やプレシオサウルス のようないくつかの古代の爬虫類は、胎生出産していたと知られているので、卵化石が残されていると予想していない。恐竜の卵は化石爬虫類の卵の中で最もよく知られている種類の一つである。 分類学 卵化石はveterovataと呼ばれるパラタクソノミ(parataxonomy)システムに沿って分類されている。生物の系統学的分類体系に、oofamilies、oogenera、oospecies(総称してootaxaと知られている)の3つの大きなカテゴリーがある。 oogeneraとoofamiliesの名前は、慣習的に「石の卵」を意味する語根 「oolithus」が含まれているが、いつもこの規則に従っているとは限らない。それらは、以下のいくつかの基本的なタイプに分かれている:Testudoid、Geckoid、Crocodiloid、Dinosauroid-spherulitic、Dinosauroid-prismatic、Ornithid Veterovataは、常に産卵した動物の分類を反映するのではないことに留意すべきである。
埼玉県立がんセンター 概要 埼玉県政施行100周年記念事業の一環として開設される。 組織は病院(診療科・看護部)、臨床腫瘍研究所(2005年に研究室から改称)、図書館、事務局からなり、臨床腫瘍研究所ではがん予防研究担当、がん診断研究担当、がん治療研究担当の3分野において研究を行っている。旧病棟本館・南館跡地は緑地化される。
八広駅 駅構造 下り線・上り線共用の追い抜き設備を設置した、2面3線の高架駅である。 四ツ木駅とを結ぶ荒川橋梁に接している。荒川橋梁の架け替え工事前は青砥寄りに駅舎があり、構内踏切も設置されていた。架け替え工事により線路が付け替えられたことに伴い、2001年9月15日のダイヤ改正から新駅舎での営業を開始した。コンコースも高架下の中央に移転するとともに下り線に追い抜き設備が設置され、使用を開始した。 基本的には、単式ホームの1番線が上り線ホーム、島式ホームの2・3番線はそれぞれ下り線ホームと予備ホームである。平日朝ラッシュ時は上り優等列車の待避をするため、1番線を通過列車専用とし、当駅に停車する押上方面の列車は当駅での待避の有無にかかわらず2番線に停車させる。この時間帯の青砥方面行き列車は3番線を使用する。また、平日夕ラッシュ時にも下り線で優等列車の待避する列車が数本存在するが、その場合は2番線を通過線にして3番線に青砥方面の列車が停車する。また、2番線を使用して当駅での折り返し運転が可能である。 当駅には京成電鉄で唯一、LEDを併用した反転フラップ式案内表示機が設置されていたが、2016年7月下旬日暮里駅や成田空港駅などと同じく英語入り接近放送への更新と合わせ、フルカラーLED式の発車案内表示器に取り換えられた。 駅名の由来 開業当初から長い間荒川駅と名乗っていた。荒川(当時は荒川放水路)の土手上に位置していたことが由来だが、1932年(昭和7年)の荒川区成立後は誤解や誤乗を招くことがあった。荒川橋梁の架け替え、駅の高架化を機に地元地名の「八広」に改名した。 「八広」という町名は、1965年(昭和40年)12月1日の住居表示実施に伴い従来の寺島町六・八丁目、隅田町四丁目・吾嬬町西五 - 九丁目の8地区が合併して新たな町域が成立した際に、縁起の良い「八」の字を採り、その字体から「末広がり」の縁起を担いで命名されたものである。
サンタ・ジュスタ 地理 沼沢地であるスターニョ・ディ・サンタ・ジュスタ (it:Stagno di Santa Giusta) に面する。スターニョ・ディ・サンタ・ジュスタの周辺にもいくつかの沼地がある。パルマス・アルボレーアの市域まで広がる。 自然・環境 スターニョ・ディ・サンタ・ジュスタ周辺の沼地のひとつで、サンタ・ジュスタ市街の南東に位置するスターニョ・ディ・パウリ・マイオーリ(Stagno di Pauli Maiori)は、ラムサール条約登録湿地である。スターニョ・ディ・サンタ・ジュスタとは水路で結ばれた淡水の潟湖で、東のパルマス・アルボレーアの市域との間にまたがる(パルマス・アルボレーア、イタリアのラムサール条約登録地一覧も参照)。
シグ 歴史 1853年に鉄道の客車製造業として創業。その後、業務拡大により機械製造、武器製造も手がけたが、2000年に包装機械事業への集中を決定し、関連外の事業の大半を売却した。 2000年に銃器部門のすべての事業を売却したためSIGシリーズの名は買収者が新たに設立したスイスアームズ・ノイハウゼン(SWISS ARMS Neuhausen)に引き継がれた。傘下のザウエル&ゾーン(1976年買収)ブレーザー(1997年買収)も買収者に引き継がれ、武器製造事業から完全に撤退した。 現在の主力事業は飲料の無菌包装容器の販売であり、銃器製造には一切関わっていない。 鉄道車両 創業当時からの主力事業だったが、1995年にイタリアのフィアットグループの鉄道事業会社FIAT FERROVIARIAに売却。売却後はフィアット傘下となったFIAT-SIG ikariya Biorante の株式を保有していたが2000年に全保有株式を売却、現在は完全に事業から撤退している。撤退前、一時期トーションバーを採用したSIG式台車を日本車輌製造がライセンス生産していた。 2002年にフランスのアルストムによるFIAT FERROVIARIA買収に伴いFIAT-SIGはALSTOM Schienenfahrzeugeに改称している。FIAT-SIGの製品はスイス連邦鉄道に採用実績がある。 銃器 1860年から製造を開始。ヘンメリ、ザウエル&ゾーン、ブレーザーの各社を買収。 1985年にアメリカ合衆国に現地法人「SIGARMS」(現SIG Sauer)を設立。 2000年に銃器製造に関する事業を売却。現在は完全に事業から撤退。 「SIG」「SIG SAUER」ブランドの銃器に関してはSWISS ARMSを参照。 包装機器 自社製品用の作業機械製造に端を発している。モーター、電子制御などの業種の買収、売却を繰り返し、最終的に包装機器製造事業に特化した。 1989年にドイツの企業PKLフェアパックングシステムを買収し飲料包装事業に参入。 1998年にSIGパッケージングシステムPKLからSIG Combiblocに改称。 2008年にペットボトル製造関連事業をドイツの企業ザルツギッターに売却し、紙製無菌包装容器の製造に集中している。現在のシググループの主力事業。 SWISS ARMS 2000年にシグから銃器部門を買収した投資家が設立した会社。「SIG」「SIG SAUER」の権利も引き継いでいる。 2007年10月1日にアメリカ現地法人「SIGARMS」を「SIG Sauer」に改称した。 SIGシリーズ SIGシリーズはシグ社の銃器部門の製品で、独自ブランドの「SIG」とザウエル&ゾーンと共同開発した「SIG SAUER」がある。モーゼルのピストル「Mauser M2」はシグアームズ(SIGARMS:1985年設立のアメリカ現地法人)のカスタムモデルであり、ライフル「Mauser M98」はライセンス生産品であるため「SIGシリーズ」と見做されることがある。 代表的な銃器 契約上シグの名称は「SIG シリーズ」「シグアームズ」に残っているが、シググループとの資本関係は存在していない。以下この項目はスイスアームズのSIGシリーズについて記載する。
あなた 二人称としての「あなた」 二人称の人物を呼ぶときに使う言葉であり、私の対義語である。妻が夫を呼ぶ場合にもよく使用される。君よりも敬意を示す語として使われることが多い。漢字に関しては、男性に対し「貴男」、女性に対し「貴女」などとして区別する場合もある。 昔は、そちと言われていた。日本語では目上の人物に対して「あなた」と呼ぶことは失礼にあたり、日本語教員はアジア諸国の日本語学習者にこのことを教えることが多い。 指示語としての「あなた」 彼方(あっち、あなた、かなた)にある様。此方(こっち、こなた)の対義語。ドイツの詩人カール・ブッセの "Über den Bergen" を上田敏が訳詩した「山のあなた」は名訳とされている。この訳文は1899年(明治32年)に出版された『海潮音』にヴェルレーヌの "Chanson d'Automne" (「秋の詩」の意で、訳文では「落葉」。ノルマンディー上陸作戦の符牒としてBBCから放送されたことで知られる)の訳文などと一緒に収録されている。
ラミン・オット 来歴 2008年まで国内(FFASサッカーリーグ)のコニカ・マシンFCに所属。チームがリーグ優勝した2007年にはシーズン最優秀選手賞を獲得した。2008年から2009年まではニュージーランドのベイ・オリンピックに在籍した。 アメリカ領サモア代表では2004年からワールドカップ予選などに出場している。2011年11月22日のトンガ戦では先制点を奪い、代表の1983年のウォリス・フツナ戦以来の勝利とFIFA公式戦初勝利に貢献した。 2013年イギリス製作(2014年5月17日日本初公開)の映画『ネクスト・ゴール!世界最弱のサッカー代表チーム0対31からの挑戦』にも出演した。 代表歴 アメリカ領サモア代表(2004-)11試合2得点
沖縄県道172号瀬底健堅線 路線バス 76番・瀬底線が島の中心部まで乗り入れているほか、65番・本部半島(渡久地廻り)線と66番・本部半島(今帰仁廻り)線が各1本ずつ島を経由する。
栗原祐太 来歴 千葉日大第一高校から早稲田大学に進学。 卒業後に渡米し、NBAサマープロリーグに参加。 その後、独立リーグUSBLやEBAで活躍し、2008年にはNBADLのプレドラフトキャンプに招待される。 2010年、ペルーリーグでのプレーを経て、高松ファイブアローズの練習生となり、開幕前に選手登録される。背番号は2。2011年7月、高松のキャプテンに就任。バスケットボールスクールのコーチも務めた。 2012年7月、東京サンレーヴスに移籍。2014-15シーズン終了まで3シーズン在籍した。 2015年7月、埼玉ブロンコスに移籍。 2016年7月、信州ブレイブウォリアーズに移籍。2016-17シーズンをもって現役引退。
バスケットボールマレーシア代表 歴史 1957年にイギリスからマラヤ連邦が独立。1960年の第1回アジア選手権にマラヤ連邦代表として出場。1963年に国名をマレーシアに変更。自国開催の1977年と1985年のアジア選手権で最高順位の4位となる。1986年世界選手権は1985年アジア選手権優勝のフィリピンが出場辞退したため繰り上がりで初出場し、24位(最下位)となった。
山城博治 山城 博治(やましろ ひろじ、1952年9月20日 - )は、政治活動家。沖縄平和運動センター議長。 経歴 沖縄県具志川市(現うるま市)の農家に生まれた。沖縄県立前原高等学校で生徒会長を務め、アメリカ軍の事故や犯罪に抗議した。法政大学社会学部卒業。1982年、沖縄県庁に入庁、駐留軍従業員対策事業、不発弾対策事業、税務などを担当した。 全日本自治団体労働組合加盟の沖縄県関係職員連合労働組合(自治労沖縄県職労)副委員長を経て、2004年より沖縄平和運動センター事務局長。辺野古新基地や東村高江ヘリパッドの建設反対運動などに取り組み、沖縄の平和運動の象徴的存在ともいわれる。 2008年、県庁を退職。2010年の第22回参議院議員通常選挙沖縄県選挙区に無所属、社民党・沖縄社会大衆党推薦で立候補、落選。2013年の第23回参議院議員通常選挙比例区に社民党から立候補し、党内2位の個人名票を集めるも党の獲得議席数が1に留まり落選。 2015年2月22日、キャンプ・シュワブ前で抗議中に、米軍基地の敷地を示す黄色のラインを越えたとして米軍に一時拘束され、名護署へ引き渡された。釈放時に山城は「黄色のラインは越えていない。私は騒ぎを抑えようと、皆にとりあえず下がろうと言っただけ。明らかに不当だ」と主張していたが、後にこの事件の様子が映された映像が米軍から流出。山城博治が自ら先頭に立って黄色のラインを越えていることが判明した。 2015年12月、名護市辺野古沿岸部近くの米軍キャンプ・シュワブの敷地内に正当な理由なく侵入したとして、日米地位協定に伴う刑事特別法違反の疑いで逮捕された。 2016年10月17日、米軍北部訓練場(東村、国頭村)内に侵入し、有刺鉄線を許可なく切断したとして器物損壊の現行犯で逮捕された。 2016年10月20日、沖縄防衛局職員にけがを負わせた疑いで、公務執行妨害と傷害の容疑で再逮捕された。同年11月29日には、名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブゲート前で、コンクリートブロックを積み上げて工事資材の搬入を阻んだとして、威力業務妨害の疑いで再逮捕された。 最高裁は2017年2月20日付で、勾留継続は憲法に違反しないとして、市民団体による山城の釈放抗告を認めない決定を下した。この決定に反発した人々は那覇地裁前で集会を行った後、地裁の敷地内に入り、庁舎の玄関前で山城の早期釈放を要求した。地裁の職員は庁舎の全てのドアに鍵を掛け、約10人の警察官による警戒体勢の中、対応に追われた。地裁の総務職員は「敷地内での喧騒行為は認めていない」「抗議市民が敷地内に入るのは1987年の海邦国体の時に起きた、日の丸焼き捨て事件の公判以来だと聞く。けが人がいなくて良かった」などと述べている。地裁に居合わせた弁護士は、「市民側の気持ちは分かるが、少しやりすぎでは」と述べている。 2017年3月17日、那覇地裁(潮海二郎裁判長)で4つの容疑の初公判が行われた。被告人となった山城は、米軍基地の有刺鉄線を切断した器物損壊の罪は認めたが、出入り口にブロックを積み上げた威力業務妨害罪について「抗議行動の一つで正当な表現行為だ」と罪を否認、防衛省の職員にけがを負わせたとされる公務執行妨害と傷害の罪についても否認した。 2017年3月18日、勾留先の那覇拘置支所から逮捕後五ヶ月ぶりに保釈された。保釈金の金額は700万円。公判では一部の罪状については認めていたものの、保釈後の会見ではその点には触れず「裁判では無実と無罪と沖縄の正義を訴え、頑張っていく」と強調した。 保釈に際して当人は「保釈決定には事件関係者との面会を禁じる条件が付いている」と明らかにし、関係者と接触する可能性がある抗議活動には「参加を自重せざるを得ない」と述べている。 2017年3月27日、「山城議長たちの裁判勝利! 即時釈放! 政治弾圧を許さない事前集会」で「ブロックを積んだのは県民の抵抗の心を表現する芸術だ。これが威力業務妨害なら、県民の存在自体が威力、威嚇だと言いかねない。追い込まれているのは政府だ。必ず潮目が変わる時が来る」関係者たちに向けて持論を展開した。。 2017年4月1日、同じく反基地運動の集会である「座り込み千日の集会」に参加し、関係者たちに向かって「心折れることなく、さらに力強く前進していこう」と演説し、「沖縄を返せ」を歌い、一人一人と握手を行った。 2017年6月15日、スイス・ジュネーブの国連欧州本部、人権理事会と、16日の関連イベントで「日本政府が人権侵害を止めるよう求める」との内容で演説した。この演説に関し、産経新聞は次のように報じている。山城の主張を聴いたチベット問題NGOの幹部は「彼は苦しんでいる他の誰かのためにスピーチしたのではなく、自分の個人的なケースを述べたにすぎない。全く理解できない」と述べた。山城らが沖縄防衛局の職員に暴力を振るっている動画に関する質問が出されると、山城は「私は日本一のテロリストのように喧伝されている」と持論を述べた。。 2018年3月14日、那覇地裁(柴田寿宏裁判長)から懲役2年執行猶予3年の有罪判決を言い渡された。辺野古の米軍キャンプ・シュワブのゲート前にコンクリートブロックを積み上げて工事資材の搬入を阻んだ威力業務妨害や、沖縄防衛局職員の腕をつかんで約2週間のけがを負わせた公務執行妨害と傷害、有刺鉄線を許可なく切断した器物損壊など全ての罪で有罪とされた。柴田裁判長は「工事に反対、抗議するという表現活動の面もあるが、実力行使をしており表現の自由の範囲を逸脱している」と述べた。 2018年12月13日、福岡高裁那覇支部にて、控訴審判決公判が行われ、大久保正道裁判長は懲役2年、執行猶予3年を言い渡した一審那覇地裁判決を支持、山城博治側の控訴を棄却した。。 2018年12月19日、山城博治被告は、懲役2年、執行猶予3年とした福岡高裁那覇支部判決を不服として最高裁に上告した。。 2019年4月22日、最高裁は上告を棄却し、有罪が確定した。 批判 『琉球新報、沖縄タイムスを正す県民・国民の会』代表運営委員の我那覇真子は、山城について、被害者のふりをした加害者であると主張し、また「人権と表現の自由を脅かしている張本人」であると主張し、山城の「日本政府が表現の自由を侵害している」とする主張について「刑事被告人である彼が渡航を許可され、国際組織で話すことが許されていること自体が、日本で人権と表現の自由が尊重されていることを証明している」と反論している。
岩崎正視 岩崎 正視(いわさき まさみ、1925年12月27日 - 2019年3月1日)は、日本の実業家。トヨタ自動車副会長や、名古屋グランパスエイト社長、日本自動車工業会会長、学校法人名城大学理事長などを歴任した。 人物・経歴 1948年神戸経済大学(現神戸大学)卒業、トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)入社。副社長や副会長を歴任。1995年には豊田達郎社長が病気のため不在となるなかで、日本自動車工業会会長に就任し、豊田章一郎トヨタ自動車会長とともに日米自動車交渉にあたった。 1996年トヨタ自動車相談役に退き、勲二等旭日重光章受章。1999年学校法人名城大学理事長。第2代名古屋グランパスエイト社長、愛知県経営者協会会長、日本自動車会議所副会長、東海銀行監査役なども務めた。 2019年3月1日、老衰のため死去。93歳没。
八木竜一 八木竜一(やぎ りゅういち、1964年12月19日 - ) は、日本の映画監督、CGディレクター。東京都出身。白組所属。 経歴 1987年、白組に入社。CMのデジタルマット画やゲームムービーのCGディレクションに携わる。
代表作は「クロックタワー3」、「バイオハザード0」、さらには2006年からNHK教育で絶大な人気を誇る「うっかりペネロペ」、CX「もやしもん」の菌の演出も務めるなど活躍の場を広げている。
ゲーム『鬼武者3』のオープニングムービーは2004年度のSIGGRAPHのElectronic Theaterで入選を果たした。
次代を担うCGクリエイターが同い年の盟友・山崎貴とともに、監督デビューを果たす。
江尻喜多右衛門 江尻 喜多右衛門(えじり きたえもん、生年不詳 - 元文4年8月19日(1739年9月21日))は江戸時代中期、日向延岡藩の武士。名を延勝(のぶかつ)と称した。 初め山方代官、のちに郡奉行に就任し、名を喜多右衛門と改めた。 延岡藩家老藤江監物に取り立てられ、岩熊井堰の工事に力を尽くした。後年は物頭格250石の上士に昇進した。 父は江戸詰延岡藩士の江尻徳之助(えじりとくのすけ)。 人物 父親から幼少時より算術を習う一方、父親とともに伊庭源内(天文学者西川如見の門下)のもとへ通った。高度な算術や振矩術、水利や土木技術に長じていたため、初めは山代奉行に、ついで郡奉行に取り立てられた。 監物の死後、藩内では岩熊井堰工事中止の意見が大勢を占めていた。譜代大名であった牧野家は江戸においても江戸城の西之丸御門警備、徳川吉宗の日光東照宮参拝の警護など任地での経費がかさみ、藩の財政は逼迫していた。このため家禄を事実上減俸された藩士が多く、井堰工事にかかる負担増大に対して公然と反対論がわき起こるようになった。   井堰工事の責任者となった郡奉行江尻喜多右衛門は藩内の反対論者に対して、「既に慈に至る。当に自刃して罪を謝すべし。然れども今にして死せば、誰か我が志を継がん。死は易く、生は難し。如かず難きを先にして、易きを後にせん(藤江監物様は無念にも獄死なさいました。もう責任を負うのは私一人でしかありません。この仕事が死して罪を償うべき事であれば私も腹を切って殿にお詫び申し上げます。けれども今私が腹を切ってしまえば、いったい誰がこの困難な大事業を成し遂げることができますか。百姓たちを救うことが出来ますか。完成の暁には石高は上がり苦しい藩の財政も立て直すことが出来ましょう。死ぬことは畏れません。生きてこの事業を続けることはもっと難しいことです。だからこそ腹を切る前に私はこの井堰を完成させることを先にやり遂げようと思うのです。)」と述べ、反対論で渦巻いている藩論を説き伏せ、藤江監物獄死で打ちひしがれている農民たちを督励して回った。
バルベリーノ・ヴァル・デルサ 位置・広がり フィレンツェの約26㎞南に位置する。
ヤナ・オブロフスカ 音源 《Acentuado アセントゥアード 谷辺昌央》ALCD-7142 ALM RECORDS/コジマ録音 にギター作品「バルトーク讃歌」「4つの日本の印象」が収録されている
文庫クセジュ 概要 叢書名は、思想家モンテーニュが著作『エセー』の中で述べた Que sais-je? (私は何を知っているのか?)という言葉に由来する。判型は、新書サイズである。すべてのタイトルが128ページにまとめられているという特徴の他に、それぞれの分野の専門家が執筆を行い、一般大衆向けに提供されており、また、頻繁に内容の更新を行っているという特徴をもつ。 第二次世界大戦中の1941年にフランス大学出版局によって刊行が開始された。創設者はポール・アングールヴァン (fr:Paul Angoulvent) であり、監修者も務めている。本シリーズの創設には、ディドロとダランベールが監修した『百科全書』の存在が影響している旨をアングールヴァンは述べている。この叢書は、『百科全書』の精神とモンテーニュの思想をつなぎ合わせながら真理を追い求めようとする試みであるとされ、クラシックな教養から最先端のテーマに至るまで、現代に生きる人々が必要とする知識を提供している。 1951年の時点で、刊行点数が500点に到達している。刊行開始当初は、1000点の刊行を目標としていたが、2018年5月の時点で4000点以上が刊行されている。2018年の時点で、40以上の言語に翻訳出版されている。 日本語版〈文庫クセジュ〉 日本語版は、1951年に白水社によって〈文庫クセジュ〉という名称で刊行が開始された。戦後の1949年に再出発した岩波新書に続く形でのスタートであった。創刊当時、価格は一律120円であった。判型は、新書サイズである。音楽評論家の吉田秀和、美術史学者の高階秀爾、哲学者の木田元など、各分野の専門家が翻訳を行っているという特徴がある。1990年から数年間にわたり、〈コレクション・クセジュ〉という名称のシリーズが白水社から刊行されているが、〈文庫クセジュ〉とは別のシリーズである。700番台までは、ヘラクレスやゼウス、アフロディテなどのギリシア神話に登場する神々のシルエットが描かれた装幀であった。800番以降は、2018年現在も使われている黄色系の装幀となっている。2015年5月、シャルル・ペロ『イエス』の刊行をもって刊行点数が1000点に到達した。 筑波技術短期大学の吉田昭は、「岩波新書と岩波全書の中間を行くアカデミックな性格に特徴がある」と評価している。文芸評論家の加藤弘一は、「フランス産の文庫クセジュは良くも悪くも百科全書の伝統に棹さしており、とっつきにくい面がある」と評価している。
御木裕樹 1973年 - 1989年 : 生い立ち - 幼少時代 東京・南品川で生まれ育ち、神輿の太鼓(品川拍子・大拍子)や盆踊りの太鼓(盆太鼓)に興味を持ち2歳から和太鼓を叩き始め、5歳で和太鼓団体に入団し10代で後継者を育成する指導者となる。 なお、「太鼓芸能集団 鼓童」初代代表の見留知弘とは5歳の時から同太鼓会で同志であり、相棒として同会の新境地を切り開き10年間共に良きパートナーとして活動した。 幼少時代における自らの和太鼓に対する熱中ぶりを「夜眠る時も太鼓のバチを握り、抱きながら寝ていた」と話している。 1989年 - 1995年 : プロデビュー - TRYIN'TIMES時代 1989年、15歳で和太鼓奏者としてプロデビューし、「ロックソーラン節」でNHK紅白歌合戦2回出場・ロック民謡歌手「伊藤多喜雄 & TRYIN'TIMES」(トライン・タイムス)(TAKiO BAND)のレギュラーメンバーとなり6年間所属。 国内・海外コンサートツアーの他、複数枚のCDアルバムレコーディングにも参加。 同バンドにてプロデュースした「北海道 稚内南中学校・郷土芸能部 学び座」「ソーラン節」が「第10回日本民謡民舞大賞」(テレビ東京)にて日本民謡民舞大賞を受賞(優勝)。後に映画化・ドラマ化され「南中ソーラン」(ロックソーラン・よさこいソーラン)として全国的にブームとなる。 同バンドで、米谷智(尺八)、佐々木光儀(津軽三味線)、土井啓輔(尺八)、木乃下真市(津軽三味線)などと15歳で出会い、以後共演を重ねる。 1995年5月1日 - 現在 : コンサート・ライブ・セッション・ユニット・バンド活動 1995年、21歳より伝統やジャンルの枠にとらわれず、自己の名義による国内外でのコンサート及びライブ活動を開始。同時に和楽器や洋楽器で編成された、「和太鼓 御木裕樹&HIROKI BAND」を結成。 楊興新(胡弓)、東原力哉(ドラムス)、B.B.モフラン(パーカッション)、村上“ポンタ”秀一(ドラムス)、坂田明(サックス)、渡辺香津美(ギター)、喜納昌吉(ボーカル・エレキギター・三線)、南こうせつ(フォークシンガー)、宗次郎(オカリナ)、溝口肇(チェロ)、堺正章(タレント・俳優・ミュージシャン)、島田歌穂(女優・歌手)、高樹澪(女優・歌手)、加藤登紀子(シンガーソングライター)、森山良子(歌手)、森田公一(作曲家・編曲家・歌手)、カブキロックス(ロックバンド)、りんけんバンド(沖縄ポップバンド)、永六輔(タレント・作詞家)、小室等(フォークシンガー)、小山貢(津軽三味線・小山流 二代目家元)、木乃下真市(津軽三味線)、上妻宏光(津軽三味線)などと数多く共演。 ロック、ジャズ、イリュージョンマジック、殺陣、ブレイクダンス、格闘技など異なるジャンルとのコラボレーションを重ねている。 礼儀と基礎を重んじる「太鼓道」の創造と、音楽・芸術・エンターテイメント「スーパー和太鼓」の創造 この様なセッションを繰り返す演奏活動について「あらゆる音楽、楽器とコラボレートし、和太鼓の可能性を広げたい」「オリジナルを創って最初は邪道だと言われても、それが受け継がれ、根付いていけば伝統になる。現在伝統になっているものも、生み出された当時は新しい異端のものだったはず」とインタビューで語っている。 『心得・礼儀・礼節・基礎・基本・原点』を重んじ、何事にも真剣で妥協せず一生懸命に取り組む精神を大切にした「和太鼓 御木裕樹流 太鼓道」を創造し、門下生をはじめタレントや和太鼓グループへの和太鼓指導・作曲・プロデュースなど、芸道の伝承・継承にも力を入れているのと同時に、和太鼓らしさや和太鼓が本来持つ良さ・音色・間・リズムなどを大切にしながらも、コンサートタイトルや活動スタイルを“スーパー和太鼓”と題し、和太鼓演奏を音楽・芸術・自分の唄・パフォーマンス・エンターテイメントとして創造し続けている。 「元祖の“太鼓道”と斬新な“スーパー和太鼓”は一見相反する様に見えるが一心同体であり、原点があるから発展する事ができ、発展するからこそ原点がより大切なものになる。」と語っている。 また、御木裕樹の楽曲は各種音楽配信サービスでダウンロード及びストリーミング配信されており、和太鼓の新しい魅力を世界にアピールしている。 和太鼓 御木裕樹流 家元。 和太鼓 御木裕樹流 裕樹會 会主。
東京日日新聞 現・毎日新聞 東京日日新聞は1872年(明治5年)2月21日、条野伝平、西田伝助、落合幾次郎が創刊した東京最初の日刊紙。当初は浅草茅町(現在の浅草橋駅近辺)の条野の居宅から発刊したが、2年後銀座に社屋を建てて進出。雑報入りの「新聞錦絵」が東京土産として話題を呼んだ。1873年(明治6年)、岸田吟香が入社し、平易な口語体の雑報欄が受け大衆紙として定着するも、1874年(明治7年)入社と共に主筆に就任した福地源一郎が社説欄を創設してから、紙面を一新。政府擁護の論陣を張る御用新聞となり、自由民権派の政論新聞と対抗した。この時に校正主任として招かれたのは、語学者で福地とともに遣欧使節団に加わった経験のある市川清流である。 1877年、太政官正院文書局と官報の前身の「太政官日誌」が廃止されたことから、同新聞の「太政官記事」、「広報」の欄が官報の機能を代行する状態となった。1880年(明治13年)頃から政府批判の高まりとともに「御用新聞」との批判も強まったが、その後の1883年、太政官は新たに文書局を設置し官報の刊行を開始している。 1888年(明治21年)、社長交代を契機に論調を中立路線に転換し大幅に部数を伸ばすが、1891年(明治24年)に長州藩閥の機関紙と化し、再び政府寄りとなる。その後伊藤博文や井上馨、三井財閥の支援を受け、1904年(明治37年)には三菱財閥により買収。加藤高明が社長に就任するが経営不振は打開されず、1911年(明治44年)に『大阪毎日新聞』(おおさかまいにちしんぶん)の社長・本山彦一が『東京日日新聞』を買収して東京へ進出した。 『大阪毎日新聞』は明治初期には政治色が強かったため経営上振るわなかったが、1889年(明治22年)から穏和な論調に転換、広告収入の増加もあって『朝日新聞』と並ぶ近畿の有力紙となっていた。 第一次世界大戦の勃発を他紙に先駆けて報道。ロシア革命の報道やレーニンの会見でも注目を集める。シベリア出兵には慎重論をとり、国内問題では米騒動などの社会問題も取り上げ、普通選挙運動にも賛成の立場をとったが、同様の論調をとる東西『朝日新聞』と覇権争いを全国的に繰り広げた。こうした動きは結果的に両社の発展につながったと言える。 業績を回復した『東京日日新聞』は、大正期には東京五大新聞(東京日日新聞・報知新聞・時事新報・國民新聞・東京朝日新聞)の一角に数えられ、1923年(大正13年)9月1日に発生した関東大震災も大毎のバックでこれを乗り切った。震災報道では朝日陣営の後手に回ったが、報道そのものは東京日日の方が評価が高かったとされる。1926年 (大正15年)12月25日には光文事件の失態を犯す。この後、東京新聞界は大阪資本の朝日・東日の二強体制となり、1929年(昭和4年)には『國民新聞』主筆の徳富蘇峰が移籍。1936年(昭和11年)には『時事新報』を合同した。1939年(昭和14年)、東京・有楽町に完成した新社屋には当時東京でも珍しいプラネタリウム「東日天文館」が設置され、壁面には電光ニュースがまたたいた。 太平洋戦争(大東亜戦争)が始まった1941年12月8日の朝刊では、「東亜攪乱・英米の敵性極まる」「断固駆逐の一途のみ」の見出しで、主要紙では唯一開戦をスクープした。戦争中は他紙と同様、戦争翼賛報道を行った。 1943年(昭和18年)1月1日、東京日日新聞と大阪毎日新聞は新聞統制により題字を『毎日新聞』(まいにちしんぶん)に統一。編集機能を東京に集約した。明治初期から長年続いた伝統ある「東京日日新聞」の題字は一旦消滅した。(以降、毎日新聞参照。) 夕刊東京日日新聞 太平洋戦争後の1948年(昭和23年)12月4日に、毎日新聞社の系列会社である東京日日新聞社による新興夕刊紙として「東京日日新聞」が“復刊”した(題字は復活したが、号数は1号から数えていた)。 復刊(新創刊)の背景として、終戦直後の用紙統制が既存紙よりも新興紙に多く割り当てられる事が挙げられる。このとき勃興した新興紙として1945年12月に民報社より「民報」が創刊され、1947年8月「東京民報」に改題した後、民報社は鈴木郁三に買収され、更にその鈴木が毎日新聞社と手を組んだことで「東京民報」は1948年11月30日をもって終刊。民報社が東京日日新聞社と改称して「東京日日新聞」を新創刊した。 既存紙もダミー子会社を設立して用紙を確保しようと腐心していた時期であり、毎日新聞社もまた新興紙の買収といった形で東京日日新聞を復刊(新創刊)したのであるが、翌1949年(昭和24年)11月27日に毎日新聞東京本社による夕刊紙「夕刊毎日新聞」の発行(1951年(昭和26年)10月1日毎日本紙の夕刊に切り替え)で競合したため、内容を娯楽物中心に変更。高田保の時事エッセイ「ブラリびょうたん」の企画が好評を博した。1954年(昭和29年)9月1日より朝刊紙に転換したが退勢を挽回できず、1955年(昭和30年)8月31日をもって休刊となった。 東京日日新聞社は編集局を有楽町の毎日新館に置き、印刷も毎日新聞東京本社に委託したが、既存の会社を買収した経緯から会社組織そのものは全くの別会社を装っており、資本構成に毎日新聞社の名はなかった。その後、毎日新聞社、サン写真新聞社、スポーツニッポン新聞社とともに連名でイベントを開催するようになったが、逆に印刷は東京日日新聞印刷工場を港区芝に設立して独立した。 この新生東日の紙面構成は一日概ね4頁で、1面は総合面(政治経済)であり、毎日新聞夕刊に引き継がれる「近事片々」も戦前に引き付き掲載されていた。2面はスポーツと家庭面であり、毎日新聞主催の都市対抗野球や選抜高校野球、プロ野球毎日オリオンズの記事が多く掲載された。3面は社会面であり、正真正銘の「三面記事」が載った。4面は芸能面で映画演劇が主だが、放送番組を扱う場合は主としてラジオ東京(JOKR)の記事が多く載っていた。 紙齢 現在の東日本の毎日新聞(東京本社・北海道支社発行)の紙齢(創刊からの号数を示すバックナンバー)は、東京日日新聞時代からの物を加算している。1987年(昭和62年)8月30日付で、日本の日刊紙では初めて紙齢40,000号、2015年(平成27年)2月12日付で紙齢50,000号をそれぞれ達成した。
ROAD TO NINJA -NARUTO THE MOVIE- 概要 テレビアニメ化10周年を迎えた『NARUTO -ナルト-』劇場版シリーズ第9弾で、「僕にしか描けないNARUTO映画です」と原作者である岸本斉史が企画からストーリー、キャラクターデザインを手がけた劇場版完全新作ストーリーとなっている。監督はテレビアニメも手がけている伊達勇登。 入場者特典として全国先着150万名限定でDVDをプレゼント。 全国262スクリーンで公開され、2012年7月28、29日の初日2日間で興収3億208万500円、動員25万4,025人になり映画観客動員ランキング(興行通信社調べ)で初登場第3位となった。 監督の伊達曰く、成長を描くため、序盤のナルト、サクラの性格は第7班結成時に戻したと語っている。
住友別子病院 診療科 内科、神経内科、循環器科、腫瘍内科、小児科(現在休診中)、外科、乳腺・内分泌外科、腫瘍外科、整形外科、脳神経外科、小児外科(現在休診中)、皮膚科、泌尿器科、肛門科(現在休診中)、眼科、耳鼻咽喉科、リハビリテーション科(リハビリセンター)、放射線科、歯科、麻酔科、精神科、歯科口腔外科、形成外科、(産)婦人科
クラッキングライフ 概要 中学時代にいじめられてから引きこもってしまった青年が、インターネットの動画サイトを通じ、いじめっ子と再会し、対峙していく様を描く。 インターネットをめぐる犯罪が社会問題化している、今の日本をリアルに切り取った。 2014年1月11日、東京・下北沢トリウッドにて上映。2014年2月25日より、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭2014にて上映された。 ストーリー 中学時代のいじめの影響により引きこもる日々を送る19歳の康平。 ある日偶然いじめの張本人であった裕之を、インターネットの動画サイトで見つける。 街中で喧嘩している人々を勝手に撮影し、インターネット上にその模様を投稿していた。 復讐のため、康平は裕之との接触を試みるが…
カバザクラ 誕生 蒲桜の誕生はエドヒガンザクラとヤマザクラの自然交配によるものであり、偶然によってできたものといえる。その時に誕生した樹木は多くの伝説を持ったものであるが、現在の埼玉県北本市にあたる石戸の寺院の境内にあり石戸蒲ザクラと呼ばれている。名前の由来はこの元の樹木が源範頼の伝説に関係があり、範頼の別名「蒲冠者」にちなむ。 自然交配であるため、元々は世界に1本しか存在しない品種であったが北本市のまちおこしによってその子孫が市内に植樹されている。 特徴 落葉高木で両性花。花弁は5枚。開花時期は4月上旬でソメイヨシノより数日遅く咲き、白い色の花弁をつける。 鈴鹿のがまさくら 三重県鈴鹿市にも同じ字で読みが違う「蒲桜(がまさくら)」と呼ばれる桜がある。関係は不明だがこちらも言い伝えに源範頼がかかわることなどのかばざくらとの共通点も見られる。
高田裕司 (声優) 人物 ナレーターとしてCM、ナレーション、俳優としては舞台を中心に活動している。 出演 太字はメインキャラクター。
椿正晴 椿 正晴(つばき まさはる、1958年 - )は、日本の翻訳家。 埼玉大学教養学部教養学科イギリス文化コース卒業。 都立高校の英語教諭、予備校講師を経て、翻訳者となる。翻訳家鈴木主税が主宰していた翻訳グループ「牧人舎」に所属。
100人の20世紀 『100人の20世紀』(ひゃくにんのにじっせいき)は、1998年(平成10年)から1999年(平成11年)まで、朝日新聞日曜版に掲載された連載読み物である。 概要 激動の20世紀の幕が降りようとしていたこの時期、20世紀を代表する偉人100人をピックアップし、その人生、栄光、苦悩などを紹介したノンフィクションである。1999年(平成11年)と2000年(平成12年)に朝日新聞社から単行本上下2巻がそれぞれ刊行され、さらに2001年(平成13年)には朝日文庫から文庫本上下2巻が刊行された。また、1999年(平成11年)4月4日から2001年(平成13年)3月25日までの毎週日曜18:30 - 18:56(JST)には、これを原作としたテレビ朝日、Vivia(テレビ朝日映像)共同製作のドキュメンタリー番組が放送され、ナレーターを江守徹が担当した。
津波てんでんこ 津波てんでんこ(つなみてんでんこ)は、津波からの避難についての標語である。 この標語は、1990年(平成2年)11月に岩手県下閉伊郡田老町(現・宮古市)にて開催された第1回「全国沿岸市町村津波サミット」において、津波災害史研究家である山下文男らによるパネルディスカッションから生まれたものであるが、三陸地方では昔から「津波起きたら命てんでんこだ」と伝えられてきたという。同様の標語に、自分の命は自分で守れという意味の「命てんでんこ」がある。 標語提唱者の意図 「てんでんこ」の語呂よい響きが手伝って、他人にかまわず逃げろという、ややショッキングなメッセージ性が強調され、利己主義だと誤解を受けやすい。 しかし、元々この言葉を防災の標語として提唱した山下文男は2008年の著作で、この言葉に「自分の命は自分で守る」ことだけでなく、「自分たちの地域は自分たちで守る」という主張も込めていると述べており、緊急時に災害弱者(子ども・老人)を手助けする方法などは、地域であらかじめの話し合って決めておくよう提案している。つまり、標語の意図は「他人を置き去りにしてでも逃げよう」ということではなく、あらかじめ互いの行動をきちんと話し合っておくことで、離れ離れになった家族を探したり、とっさの判断に迷ったりして逃げ遅れるのを防ぐのが第一である。 山下がこの言葉の理解を広めるために、津波被害の象徴的な例として挙げているものには、北海道南西沖地震(1993年)の奥尻島での津波における近藤家母子の悲劇がある。この事例では手をつないで避難していた母子3名が、途中で祖母の家に立ち寄ったため、わずかな時間差で命を落とした。その痛ましい教訓として山下が強調するのは、祖母がすでに避難していたのにも関わらず、それを知らずに尊い命を落とした点であり、母がわが子を連れ立って逃げた点ではない。「津波てんでんこ」は、災害時の行動スキームもあらかじめ考え、互いに共有しておくことを唱えた防災思想であり、「ばらばらに自分だけでも逃げる」という行為は、その意志を共有することで互いを探して共倒れすることを防ぐための約束事である。これは、自分が助かれば他人はどうなっても良いとする利己主義とはまったく異なる。 防災標語としての成立 「津波てんでんこ」がこの標語の形で古くから言い伝えられたものではないことは、山下自身が著書『津波てんでんこ』でハッキリと明言している。その経緯から、防災の意識を高めるための標語として「津波てんでんこ」という言葉が使われるようになったのは、1990年以降のことである。なお、釜石市両石町では、標語の形ではないが、「津波起きたら命てんでんこだ」と昔から伝えられてきたという。 1990年に岩手県田老町で開催された「全国沿岸市町村津波サミット(第一回)」において山下文男は、防災の意識に関して、次のような家族のエピソードを語った。 山下が9歳のころ(1933年)の昭和三陸津波では、彼の父や兄弟は彼を置き去りにして逃げた(山下は末っ子)。山下の母は、後年に父親の非情さを度々なじったが、その都度、山下の父は「なに!てんでんこだ」と反論したという。著書によると、当時すでに標語や言い伝えとして「てんでんこ」という言葉が浸透していたという事実は認められていないが、山下の友人も多くは同じように置き去りにされており、集落内では「津波はまず各々が逃げることが大切」という行動規範は浸透していた。そうした点を踏まえ、山下の父の言葉は「こういうときは、みんなバラバラに逃げるものだ」と端的に述べたものと考えられる。 サミットで語った上記エピソードがとくに注目され、講演に参加した有識者ら(広井脩、阿部勝征、津村建四朗、伊藤和明、渡部偉夫)とのやりとりのなかで「津波」と「てんでんこ」を合成した「津波てんでんこ」という言葉ができた。 その後、北海道南西沖地震(1993年)や北海道十勝沖地震(2003年)などで津波の被害が出るたびに、「津波てんでんこの話が被災地にもっと普及していれば……」とマスメディアに標語が取り上げられる機会があり、しだいに昔からある言い伝えかのような誤解が広がっていくことになる。2003年9月27日の朝日新聞の社説には、「三陸沖やチリの地震で津波の被害に何度もあっている三陸地方には、津波てんでんこという言い伝えがある」とはっきり書かれ、古い言い伝えであるという印象を抱かせる内容になっている。 近年の実践例 2011年の東日本大震災で「釜石の奇跡」と呼ばれる事例では、「津波てんでんこ」を標語に防災訓練を受けていた岩手県釜石市内の小中学生らのうち、当日学校に登校していた生徒全員が生存し、話題となった。小中学生らは、地震の直後から教師の指示を待たずに避難を開始。「津波が来るぞ、逃げるぞ」と周囲に知らせながら、保育園児のベビーカーを押し、高齢者の手を引いて高台に向かって走り続け、全員無事に避難することができた。市教委は「常識ではあり得ないことが起きた訳では無く、訓練や防災教育の成果であり、実践した児童生徒自身が奇跡の意味は違うと(当初から)感じていた」と説明しており日頃の取り組みの積み重ねだった事を明かしている。市では奇跡という文言を使用せず「釜石の出来事」として扱っている。 市内の防災教育を指導し、「釜石の奇跡」の立役者となった片田敏孝教授は、「津波てんでんこ」が古い伝承だと述べているなど、山下の2008年の著作は読んでいないと思われるが、その教えの内容は山下のまとめた「津波てんでんこ」の考え方と多くの共通点がある。具体的には、みずから状況判断して逃げること、災害弱者を助ける立場の者はあらかじめ明らかにしておくこと、家族はそれぞれ逃げると信じて行動することなどを指導しており、標語本来の意図とかなり近い考え方をもって防災教育を実践した。 両者の考え方で相違点を挙げるとすれば、率先して逃げる行為の捉え方がある。山下は、率先して逃げる者が避難を促すというポジティブな面を捉えてはいるが、一人でまず逃げるという行為は、最善の災害対策としてやむをえない「哀しい教え」であると評価している。しかし、片田はポジティブな捉え方を徹底している。片田は、現実にはほとんどの津波警報が杞憂に終わり、率先して逃げた者が「臆病者」というレッテルを受けやすいことを踏まえ、「それでも最初に誰かが逃げることで他者も続き、救われる命があるので、後ろ指さされる可能性を知りながら率先して逃げる者こそ本当に勇気がある者だ」という立場で教育している。釜石の奇跡においても、最初に率先して逃げ出したサッカー部の生徒を大きく評価しており、「津波てんでんこ」を行動に移す際の心理的ハードルを取り除く工夫が、山下とは異なる。 課題 2011年に発生した東日本大震災をきっかけに再び「津波てんでんこ」という言葉がマスメディアに露出することになった。「釜石の奇跡」と呼ばれる岩手県釜石市の事例によって、「津波てんでんこ」は防災教育の標語として全国的な注目を集めた。しかし、当事者の三陸地域の人々においてすら本来の意味とは違った「利己主義的な発想」との誤解が蔓延している状況がある。 2014年度のインターネットを通じた全国調査(767人が回答)では、約7割が「津波てんでんこ」という言葉を聞いたことがないと答えた。さらに聞いたことがないと回答をした者に「津波てんでんこ」に賛同するか否かを尋ねると、約7割が賛同しないと回答した。
GOLDEN☆BEST 城之内早苗 アーリー・ヒッツ 解説 各レコード会社から発売されているゴールデン☆ベストシリーズの中の1枚で、おニャン子クラブ会員番号17番・城之内早苗の初期のヒット曲をまとめた廉価版ベスト・アルバム。 ボーナス・トラック的なものとして、ソロ・デビュー曲且つ代表曲「あじさい橋」のオリジナル・カラオケと、おニャン子クラブ関連の作品から「メッセージ」が収録されている。デビュー曲のカラオケと「メッセージ」が収録される構成は、元・おニャン子クラブメンバーの『GOLDEN☆BEST 国生さゆり SINGLES』『GOLDEN☆BEST 渡辺美奈代 SINGLES』と同様である。河合その子の『GOLDEN☆BEST 河合その子』はカラオケの収録がなく、「メッセージ」のみが収録されている。 「あじさい橋」でオリコン総合ヒットチャート初登場第1位を獲得した城之内は、「ジャンルが "演歌" のデビュー曲でオリコン初登場1位を獲得した、唯一のソロ演歌歌手」という称号を持つ。また、「演歌・歌謡曲のソロ歌手による、デビュー曲の初登場順位最高記録保持者」も城之内である。ただし、グループ出身のソロ・デビューを除外した場合は、2008年に「海雪」で歌手デビューを果たしたジェロになる。
ジェームズ・セシル (第6代ソールズベリー伯爵) 第6代ソールズベリー伯爵ジェームズ・セシル(英語: James Cecil, 6th Earl of Salisbury、1713年10月20日 – 1780年9月19日)は、イギリスの貴族。1713年から1728年までクランボーン子爵の儀礼称号を使用した。
トースアン県 トースアン県(ベトナム語: Huyện Thọ Xuân / 縣壽春)は、ベトナムタインホア省の県である。
小坂尚哉 小坂 尚哉(こさか なおや、1986年9月12日 - )は、大阪府出身で兵庫県在住の競艇選手。登録番号4295。身長169cm。血液型AB型。94期。同期に古賀繁輝、中西裕子、岡崎恭裕らがいる。
尹昌衡 革命派として 1903年(光緒29年)、四川武備学堂第1期に入学し、翌年に日本へ公費で留学した。東京振武学校を経て、陸軍士官学校第6期歩兵科で学んでいる。日本にいる間に、革命派の思想に共鳴し、1906年(光緒32年)に中国同盟会に加入した。翌年には「鉄血丈夫団」にも加わっている。 1908年(光緒34年)帰国し、天津で軍隊の演習に参加した。翌年に広西省へ派遣されて、広西督練公所編訳科長兼幹部学堂教練に任命される。しかし、革命派の活動を密かに進めたことなどが原因で、1910年(宣統2年)に辞職し、四川へ戻った。四川では、督練公所編訳科長兼講武堂教官に任命されている。1911年(宣統3年)、新軍教練処会弁兼陸軍小学総弁代理に就任した。 初代四川都督へ この年の11月27日に、武昌起義(辛亥革命)に呼応した四川省の革命派により、大漢四川軍政府が成都で成立する。四川省咨議局議長の蒲殿俊が都督に、新軍第17鎮統制の朱慶瀾が副都督に、それぞれ推戴され、尹昌衡は都督府軍政部長に任命された。ところが12月8日に、給料遅配に不満を抱いた四川軍兵士が暴動を成都で起こす。蒲と朱は、事態を収拾できずに逃亡した。一方の尹は、統率可能な部隊を糾合してこの暴動を鎮圧している。この功績により、尹は成都の各階層から都督に推戴された。 また同時期に、清の四川総督であった趙爾豊が、兵変等を画策する不穏な動きを見せる。そのため同月22日、尹昌衡は趙を捕縛し、公開で処刑した。この果断な措置は四川の各階層から支持を集め、四川社会の安定に寄与した。 1912年(民国元年)1月に尹昌衡は、前年11月に重慶で成立していた蜀軍政府(都督:張培爵)と合流交渉を開始した。3月12日に、両政府の合意により統一の四川軍政府が成立し、尹が引き続き都督となる。 この頃に、英国の支援を受けたチベット軍と川軍の衝突が四川省辺境で発生している。そのため4月22日に、尹昌衡は袁世凱から征藏総司令に任命された。同年7月10日に、尹は西征軍を率いて成都から出陣し、まもなくチベット軍を撃退している。9月25日に川辺鎮撫使を兼任し、10月9日には陸軍中将位兼上将銜を授与された。1913年(民国2年)4月、尹は成都に帰還している。 部下との対立、失脚 帰還後の尹昌衡は、出征中に成都の留守を担当していた部下で、全川陸軍軍団長である胡景伊との間で対立するようになる。四川都督の地位を狙う胡は、袁世凱の支援を仰いで尹の追い落としを図った。胡の働きかけを受けた袁は、同年6月13日に胡を四川都督に、尹を川辺経略使に、それぞれ任命したのである。この人事に尹は反発したが覆ることはなかった。これ以後、尹が四川省の主導権を握ることはなかったのである。 川辺経略使に転じてからの尹昌衡は精彩を欠く。同年11月、病により休暇をとり、北京で療養した。1914年(民国3年)1月13日には、川辺経略使の地位も廃止されてしまう。その直後の2月2日、趙爾豊の兄趙爾巽と密かに結んだ胡景伊がさらに謀略をしかけ、尹は趙爾豊殺害の罪で逮捕されてしまった。尹は、懲役9年の判決を受け、あらゆる地位と名誉を剥奪されて南京で収監された。袁世凱死後の1916年(民国5年)6月に、ようやく特赦を受けて釈放され、同年10月25日には陸軍中将位兼上将銜に復した。 その後の尹昌衡は、直隷派の江蘇督軍である李純の顧問などをつとめ、1920年(民国9年)からは孫文(孫中山)と連携して四川省や雲南省で活動した。しかし1921年(民国10年)に成都に戻って以降は、事実上、軍事と政治から引退してしまう。1923年(民国12年)7月11日、盛威将軍位を授与された。1937年(民国26年)10月、成都で発足した在野軍人会で執行委員に選出された。1949年に中華人民共和国が建国されても、尹は四川にとどまった。1953年5月26日、尹昌衡は、西康省(現・四川省)の西昌で死去。享年70(満68歳)。
ロサルバ・デ・カルロ ロサルバ・デ・カルロ(Rosalba De Carlo, 1939年10月14日 - )は、イタリアの料理人。主にプッリャ州で活動し、レッチェにレストランを所有している。 経歴 アンドリアーニ・デ・ヴイト・ド・コリリアーノ・ドトラント男爵家の出身である。チェラーゾにある領地のサンタバーバラ(en)分離集落で育った。サンタバーバラでは地元の農民と接する機会が多く、毎日の料理の様子も観察しながら生活した。ロサルバによれば、この幼少期の経験が、高貴な料理から庶民の料理まで様々な古い食文化の知見を得ることにつながった。 ロサルバは、レッチェの自分のレストランの指導を行い、レストランの評判を高めることに貢献した。そして、ロサルバ自身も、レストラン以上に高い評判を得るようになった。 2008年11月25日には、サレント大学(it)で、イタリアユネスコ国内委員会の後援を受けて、サレントの郷土料理についての講演会を行った。ロサルバは単独でケーススタディの報告をした。後援会のポスターデザインには腕輪を付けた彼女の手が使われており、これは様々な社会的階層の料理の融和の象徴としての意味で選ばれた。
マニラ・ライトレール 概要 LRT-1線は、主に南北方向の交通を担っており、全長は約20km、20の駅を持つ。当初18駅であったが、近年2駅が新たに建設され、さらにMRT-3線とループ状に繋ぐ駅を建設中である。ただし、両線のシステムの違いにより、このままでは相互の乗り入れは困難であると言われている。 MRT-2線は、主に東西方向の交通を担っており、延長は13.8km、11の駅を持つ。LRT-1線とMRT-2線は、LRT-1線Doroteo Jose駅とMRT-2線Recto駅において接しており、そこで乗換えが可能である。 また、エドゥサ通り沿いに走っているMRT-3線は、LRT-1線エドゥサ駅 (EDSA) とMRT-3線タフト・アベニュー駅、及びMRT-2線クバオ駅とMRT-3線アラネタ・センター-クバオ駅において乗り換えが可能である。 歴史 マニラ市内における軌道交通の検討は20世紀初頭から検討されてきた。アメリカ植民地時代の1905年にはマニラ電鉄電灯会社(Manila Electric Railroad And Light Company、現メラルコの前身)がマニラ市内に路面電車を走らせていたが、第二次世界大戦で運行を停止し、マニラの戦いで施設は大打撃を受けた。路面電車は以後再建されず、マニラの市内交通はジプニーが担うようになった。1960年代には市内交通の混雑が問題となり、再度公共交通機関の導入が検討されるようになった。1960年代後半にはモノレール建設計画があり、同時に1970年代初頭には日本の海外技術協力事業団(JICAの前身)により通勤鉄道や高速道路の導入提案がなされた。1970年代後半には世界銀行によりLRTの研究が行われ、現在のマニラ・ライトレールの構想が示された。 その後、ライトレールの建設が具体化する。1980年、大統領令603により、運輸省の下、LRTA(Light Rail Transit Authority)が設立された。1981年には、ベルギー政府の借款によりLRT-1線の建設が開始され、1984年に運行が開始された。LRT-1線の乗客数は、年々増加し、運行の拡大が求められるようになった。また、線路や車両の老朽化も進んだ。1994年、日本政府は、政府開発援助 (ODA) の実施機関である国際協力機構 (JICA) (当時のOECF)によって、LRT-1線増強事業を実施し、LRT-1線の整備・増強を支援することを決定した。2000年には、フェーズ2としてLRT-1線増強事業Ⅱを継続しており、これにより、近畿車輛・日本車輌製造の車両を導入。また、ベルギー製の既存車両にもエアコンを取り付けるなどして、修復整備した。 また、1996年より、日本政府はJICAを通し、メトロマニラ大都市圏交通混雑緩和事業を実施し、MRT-2線の建設を支援。この建設のために日本が支援した総額は、750億円(低金利借款)に上る。丸紅等との協力で、韓国製現代ロテム社の車両が調達された。車両自体は韓国製であるが、その電機システムは東芝であり、線路や駅も日本規格となっている。2003年に全区間の運行を開始。現在、さらに東に延伸する計画がある。 なお、1999年に運行が開始されたMRT-3線についても、住友商事等の日系企業が保守作業を支援しており、日本国政府や日系企業の貢献が見られる。 LRT-1線 LRT-1線バクララン駅から南に11.4kmの区間に10駅を設ける南側延伸計画(LRT-6線)があり、2012年3月に国家経済開発局に承認されている。 MRT-2線 MRT-2線サントラン駅から東に4.0kmの区間に2駅を設ける東側延伸計画があり、2012年9月に国家経済開発局に承認されている。 また、MRT-2線レクト駅から西に8.0kmの区間に3駅を設ける西側延伸計画がある。 MRT-7線 LRT-1線およびMRT-3線が共用する予定のノース・アベニュー駅を起点とし、主にコモンウェルス通りに沿って北東に23kmの区間に14駅を設ける計画がある。ケソン、カローカン、およびブラカン州サンホセ・デルモンテを通る。 2016年に着工し、2020年開通予定である。 車両の製造メーカー、信号設備は現代ロテムを予定している。 MRT-8線 フィリピン国鉄サンタ・メサ駅を起点とし、主にショウ・ブルバードとオルティガス通りに沿って東に16.8kmの区間に13駅を設ける計画がある。マニラ、マンダルーヨン、パサイ、およびリサール州カインタ、リサール州タイタイ、リサール州アンゴノを通る。 経営統合 その他、MRT-3線の運営権をMRTCからLRTAに移譲し、経営統合する計画がある。 保有車両 車両は主にヨーロッパやアジア(日本や韓国など)で製造されたものを使用している。 13000形 三菱商事は2017年11月20日に1号線向けの車両を受注したと発表した。車両数は120両(30編成)で、受注額は約300億円となる。2020年末より順次導入される予定。 車両はCAFで製造されるが、制御装置や主電動機、ブレーキなどは日本製の採用を検討している。
造血幹細胞 造血幹細胞(ぞうけつかんさいぼう; hematopoietic stem cell - HSC)とは血球系細胞に分化可能な幹細胞である。ヒト成体では主に骨髄に存在し、白血球(好中球、好酸球、好塩基球、リンパ球、単球、マクロファージ)、赤血球、血小板、肥満細胞、樹状細胞を生み出す。血球芽細胞、骨髄幹細胞ともいう。幹細胞の定義として、一個の細胞が分裂の結果2種類以上の細胞系統に分化 (differentiation) 可能であると同時に幹細胞自体にも分裂可能であり(self renewal: 自己複製)結果として幹細胞が絶える事なく生体内の状況に応じて分化、自己複製を調整し必要な細胞を供給している事になる。 血球系の細胞には寿命があり、造血組織より供給されなくなると徐々に減って行く。この寿命は血球の種類によって異なり、ヒトでは赤血球(約120日)、リンパ球(数日から数十年)、好中球(約1日)、血小板(3~4日)などである。ヒトの造血組織は骨髄内に存在するが、全ての骨の骨髄で造血が行われる訳ではなく、胸骨、肋骨、脊椎、骨盤など体幹の中心部分にある、扁平骨や短骨で主に行われる。その他の長管骨の骨髄では出生後しばらくは造血機能を持つが、青年期以降は造血機能を失い、加齢とともに徐々に辺縁部位が脂肪組織に置き換わって行く。最長の大腿骨でも25歳前後で造血機能を失う。なお、発生直後から骨髄で造血されているわけではなく、骨髄造血が始まるのは胎生4ヶ月頃からである。それ以前は初期は卵黄嚢で、中期は肝臓と脾臓で造血される。なお、肝臓と脾臓は造血機能を完全に失うわけではなく、血液疾患時には造血が見られることもある。骨髄には造血細胞だけでなく、脂肪細胞、マクロファージ、間葉幹細胞などが存在し、造血細胞の中にも、分化した上記血球系細胞およびそれらの前駆細胞が存在している。多分化能を保った造血幹細胞はこれらの中のごく一部であり、最新の学説においては、骨組織と骨髄の境界領域に高頻度に存在し、骨組織内の骨芽細胞(osteoblast)との接触がその維持に重要と考えられている。(造血幹細胞ニッチ) マウスの実験において、大量の放射線を個体に照射すると造血障害が発生するが、MHCの一致した他のマウスより採取した骨髄細胞を移植するとその造血機能が回復する事により、骨髄細胞内に造血幹細胞が存在する事が証明されている。さらに、血球細胞の表面抗原に対するモノクローナル抗体を組み合わせてフローサイトメトリーにて細胞を純化する技術が開発され、骨髄細胞より高濃度で造血幹細胞を純化する事が可能となっており、1個の細胞を移植する事で放射線照射したマウスの造血機能を回復する事が可能になっている。 以上の知見をもとに臨床応用されているのが造血幹細胞移植であり、白血病・悪性リンパ腫・多発性骨髄腫などの血液癌の治療などに役立っている。
海外三十六国 海外三十六国(かいがいさんじゅうろっこく、かいがいさんじゅうろくこく)とは、古代中国の書『淮南子』墬形訓に記されている36の異国の総称である。 36か国には伝説上の存在とされる異国人物が多く含まれており、それらの国々は『山海経』や『三才図会』などの書籍でも記録や絵を見ることが出来る。
シャーリー・ジョーンズ 生い立ち ジョーンズは、ピッツバーグ郊外のペンシルベニア州シャルルロアに生まれた。物事に厳しい主婦マジョリー・ウィリアムズと、ジョーンズ醸造社のオーナー、ポール・ジョーンズの一人娘である彼女は、シャーリー・テンプルにちなんでシャーリー・ジョーンズと名付けられた。一家は後にペンシルベニア州スミストンの近くに移り住む。幼いころ彼女は、父親のことは大好きだったが、母親のほうはしばしば彼女を怒らせていたので、態度が反抗的になっていた。小さなシャーリーは厳しくされても猛然と抵抗しつづけ、長じては平然と母親を拒否するようになった。ジョーンズは話せるようになるとほぼ同時に歌えるようになっていた。サマーキャンプの指導員に勧められて、一家は10代のシャーリーが週に2度、ピッツバーグで、世界的に有名な歌手であり教師のRalph Lawandoに指導してもらえるように手配した。後に彼女はしばしば父親と一緒にピッツバーグ劇場の舞台に立つようになり、この音楽劇場のことが大好きになった。 ジョーンズは南ハンティンドン高校へ入学した。ここで、この独り立ちしたティーンエイジャーは気ままな少年たちに惹かれるのだが、彼らが両親から認められることはほとんどなかった。1952年には高校を卒業、同じ年に彼女はスミストン美人コンテストへの出場を決意した。12人の出場者のうち最年少にして彼女はコンテストを勝ち取り、続いて1952年のミス・ピッツバーグにも輝いた。賞金には500ドルとピッツバーグ劇場で学ぶ奨学金が含まれていた。彼女はこの学校での見習い期間を楽しく過ごしたが、自分に備わった音楽と演技の才能にも拘わらず、自分が歌手としてのキャリアを追求したがっているのどうか確信がもてずにいた。小さいころから動物が大好きだったので、彼女は獣医になりたいとも考え、1953年にニュージャージーのカレッジに入学手続きを行っている。しかしその年の夏、家族で2週間、ニューヨークへ休暇に出かけた。この休暇が彼女の人生を変えたのである。 初期の舞台経歴 マンハッタンでシャーリーの友達の一人が、ブロードウェイのエージェント、ガス・シャーマンに歌を聴かせてみろと彼女を説得した。歌を聴いたシャーマンは喜んでジョーンズと契約。彼女は両親の了承のもと、ニューヨークに住んでブロードウェイの役者になるため一年間がんばることにした。このとき彼女は懐に100ドルしかもっていなかった。もし成功しなかったら、スミストンに戻って獣医として働くつもりだった。彼女の最初のオーディションは、ロングランのミュージカル『南太平洋』のコーラスガールの補充だった。『南太平洋』の作者ロジャース&ハマースタインはシャーリーを見て、そこに大きな素質を見出した。そして彼女はこのソングライターたちと個人的な契約をした最初にして最後の歌手になった。この二人組は彼女を『ミー・アンド・ジュリエット』にキャスティングし、これが彼女の第二のブロードウェイ舞台となる。このツアーで彼女は主役の代役をつとめ、激賞の批評記事をもたらした。 1950年代から1960年代の映画女優時代 リチャード・ロジャースとオスカー・ハマースタイン2世は、音楽教育を受けたジョーンズの歌声に感動し、1955年、彼らのヒット作『オクラホマ!』を映画化する際、彼女をヒロインにキャスティングした。他のミュージカルもすぐさまこれに続き、『回転木馬』(1956年)、『四月の恋』(1957年)、『ミュージック・マン』(1962年)などが作られた。これらの作品の中で、彼女は健全で優しい女性ばかりを演じていた。しかし彼女は、1960年のオスカーを『エルマー・ガントリー/魅せられた男』の演技で獲得している。この映画で彼女が演じたのは、バート・ランカスター演じる主人公によって堕落させられた女性で、この女性はその女たらしに出会ってから数年後売春婦となり復讐を遂げる。 1970年代以降 1970年から1975年にかけテレビの連続ドラマ『パートリッジ・ファミリー』に出演した。シチュエーションコメディシリーズであるこの作品では、五人の子どもをもつ未亡人シャーリー・パートリッジを演じ、彼女が最も親しまれている役とされた。
暁征丸 船歴 本船は、蒋介石政権の中華民国の砲艦として、イギリス統治下の香港の九龍ドックで起工された。しかし、建造中に太平洋戦争が勃発し、開戦直後の1941年(昭和16年)12月に起きた香港の戦いにおいて日本陸軍によって鹵獲された。日本陸軍は本船を陸軍船舶兵(暁部隊)用の砲艦として使用することを計画し、大阪鉄工所の派遣要員により建造を続行、高射砲や野砲などの火砲のほか、爆雷や「す号」「ら号」と称するソナーなどの対潜水艦兵装を搭載して竣工させた。船名は「暁征丸」と命名された。船名に「暁」の頭文字が付くのは船舶司令部が直接管理した鹵獲船舶に共通する命名法である。船種は「警備艇」と呼称されている。 1942年(昭和17年)11月に、同じく香港で鹵獲された「暁南丸」(東亜海運で運航)の船員を徴用して「暁征丸」の乗員へ充当することになった。 1944年(昭和19年)4月上旬、日本陸軍は日本海軍とは別に陸軍独自の護送船団を運航するため、船舶砲兵第2連隊に自衛船隊を新設。「暁征丸」はそのうちの第1護衛船隊へ配備された。第1護衛船隊は本船のほか「錦州丸」(370トン)、「第三警南丸」(50トン)および強力曳船「円島丸」(300トン)・「准河丸」(300トン)で構成された。自衛船隊の兵装を操作する船砲隊員は船舶砲兵第2連隊の第17-19中隊(野砲中隊)と爆雷中隊の人員を主力とし、「暁征丸」の船砲隊長には前田中尉が着任した。 本船は同年5月下旬にシンガポールからマニラまで最初の護衛航海を実施した。ついで同年6月頃に、マニラから高雄港へ貨物船「大倫丸」(大阪商船:6862総トン)を護衛したが、バシー海峡で時化とエンジン故障のため落伍し、後れて目的地へ着いた。同年8月中旬までマニラを拠点にルソン島沿岸での護衛を担当し、8月下旬からはボルネオ島へ移動して同島アピ=サンダカン間航路を3往復した。1944年後半にアメリカ軍のフィリピン反攻が迫るとさらに南へ撤退、その後はジャワ島・スマトラ島方面での護衛任務に従事した。例えば1945年(昭和20年)3月24日から4月11日にかけてシンガポール発・パダン経由・ジャカルタ行きの船団を「第3警南丸」と護衛した。同年6月下旬にはスマトラ島東南端バリンビン沖で浮上襲撃してきた敵潜水艦と交戦し、護衛中の800トン級の輸送船を撃沈されてしまった。第1護衛船隊所属船のうち「錦州丸」(南満州鉄道:238総トン)は1944年8月7日にアメリカ潜水艦「セイルフィッシュ」によって撃沈されたが、本船は終戦まで沈没を免れた。 1945年の日本の降伏後、本船は連合国軍の指示でジャカルタからレンバンへの日本兵輸送を担当。その後、オランダ軍によって鹵獲された。「ルイメス」(Hr.Ms. Luymes、音写表記は暫定)と船名を改め観測船(Opnemingsvaartuig)として使用された。
ラクダ科 ラクダ科の生物の進化 ラクダ科の生物の現在の分布は、過去の分布とは全く異なっている。北米原産との説が強く、また一時は北極圏にもラクダの仲間が生息していた可能性がある。 ラクダ科の生物は約4500万年前、始新世後期、偶蹄目の進化のごく初期に現在の北アメリカ大陸に現れた。ラクダ科に近縁の、最も古いラクダ亜目の生物にはウサギほどの大きさのプロティロプスがおり、四肢に4本の指を持っていた。漸新世までには側指が失われ、ヤギほどの大きさのポエブロテリウムなどが現れた。 その後ラクダ科の生物は北アメリカ大陸で分化を続けた。2〜300万年前ごろにはラクダ科の生物が初めてアジアに現れ、パナマ地峡の形成とともに南アメリカ大陸にも移動した。北アメリカ大陸のラクダの仲間は、氷河期の終結する時期に最初のヒトが移住したのと同時に姿を消した。絶滅の理由は狩り尽くされたためとも環境の変化に適応できなかったためとも考えられる。ユーラシアではラクダ属の生物が分化を続け、南アメリカでは互いに近縁の4種、ラマ、アルパカ、グアナコ、ビクーニャが生き残った。 化石種の生物は、現存するラクダ科の生物よりもはるかに多様な形態を持っていた。北アメリカのティタノティロプスは肩までの体高が3.5mもあり、最高でも2mほどの現在のラクダよりもはるかに大きかった。ステノミルスはガゼルのように華奢な生物で、蹄を持っていた。アエピカメルスやオキシダクティルスは木の葉を食べるのに適したキリンのような背の高い生物だった。 ヒトコブラクダとフタコブラクダの間には「ブフト」と呼ばれる自然交配による種間雑種ができる。ヒトコブラクダ(雄)とラマ(雌)の間には人工授精によって属間雑種ができ、キャマ(カマ)と呼ばれる。
杉原駅 駅構造 相対式ホーム2面2線を持ち、列車交換が可能な地上駅。構内西側の1番線に猪谷方面行きの下り列車が、東側の2番線に高山方面行きの上り列車が停車する。 駅舎は線路より一段高い所にある。高山駅管理の無人駅となっている。 1990年まで急行「のりくら」が運転されていたときは、冬季にスキー客の利便を図って一部列車が臨時停車していた。引き続き、特急「ひだ」に格上げされた後も2003年2月まで一部列車が臨時停車していた。
可愛カナ 略歴 2008年4月4日に『可愛カナ DEBUT! 』でディープス専属女優としてデビュー。 2009年以降新作のリリースが途絶えている。
葛見神社の大クス 葛見神社の大クス(くずみじんじゃのおおクス)は静岡県伊東市馬場町にあるクスの巨樹で、国指定の天然記念物。 伊豆半島は温暖でクスの成長に適しているとされ、クスの巨樹が多く残り、その中の1本がこれである。大クスは市役所の300mほど南西にある葛見神社の境内にその巨体を置き、この神社は伊豆の北東部が「葛見庄」と呼ばれていた平安時代に、庄の初代地頭であった工藤祐隆(伊東家の祖、伊東家次)が、京都の伏見稲荷を勧請合祀し、社殿を造営したことに始まるもので、大クスはその脇で伊東家の厚い保護と崇敬を受けて成長しながら今に至るものである。 この大クスは樹齢千数百年ともいわれ、幹周は15mほどにも達し、幹の中は大きな空洞となっている。このため、幹が折れぬように金属製のベルトで締められており、また、大枝も柱で固定を試みてはいるが、現在は台から浮いてしまい、その効果は期待できそうにない状態にある。 1996年(平成8年)9月22日には、房総半島沖を通過した台風17号の影響で枝2本を破損し、そのうちの1本は大枝の1つで、直径50cm、長さが12mほどあり、高さ約10mの部分で折れ、地上に落下した。 なお、大クスの周りには歩道があり、周回しながら眺めることもできる。また、大クスの右手前には、伊東市に晩年住んでいた元首相、若槻禮次郎が寄進したこの巨樹を讃える石碑が置かれている。1933年(昭和8年)2月28日に国指定の天然記念物とされた。
祇園山古墳 概要 祇園山古墳は、福岡県久留米市御井町高良山にあり 耳納山系西端の高良山から西の平野に向かって派生する丘陵の先端部にあり、筑後平野の多くを一望の下に見渡すことのできる台地(赤黒山)の上に位置しており、占地の意図を窺わせる。 記紀によれば仲哀9年に仲哀天皇と神功皇后が熊襲討伐のため筑紫に幸し高良山に滞在(安在地・朝妻)し、朝鮮半島に出兵時には高良の神が神功皇后を援け給うと伝えられ、高良大社には神功皇后を補佐した武内宿禰が祀られている。その後も磐井の乱では磐井の君がここに陣を置いたと伝えられており、『日本書紀』斉明天皇4年(658年)条の「繕修城柵断塞山川」が神籠石系山城と伝えられている。また豊臣秀吉は1587年 (天正15年)の島津討伐の際、高良山の吉見岳城に本陣を置いた。有史以来多くの戦乱で砦が置かれているように、この地は朝倉方面、福岡方面、八女方面、また鹿島方面など筑紫平野を一望できる戦略的な要衝であり、高良山代や高良大社、高良山神籠石などの歴史的文化財も多い。 古墳は高さの約1/4を地山から方形台状に削り出しており、その基部は楕円形をなしている。場所は 九州自動車道に面しており、久留米インターチェンジから高速道下り方向1.7km地点から目視することができる。 形状は方墳で、石棺は北東から南北方向に沿って古墳頂部中央にあり、内部には朱の痕跡がある。石棺はあるが槨はなく、形状、規模とも吉野ケ里遺跡の楕円状構築物の上に築造された方墳および楽浪漢墓 (阿残墓) 石巌里第9号墳に類似する。 規模・形状 方墳の規模は東西約23.7m、南北約22.9m、高さ約6mで、標高60m(墳丘頂部) 標高55m(墳丘基準面)である。葺き石は2段(墳丘裾部と上段の盛土部分)であり、方墳は本来の地形を楕円形に整形した台地の上に存在する。方墳周辺からは特殊埴輪などは出土していない。 墳丘外周からは、殉葬された従者66名以上と推定される甕棺墓3基、石蓋土壙墓32基(未調査5・不明2を含む)、箱式石棺7基、竪穴式石室13基、不明7基の埋葬施設が確認されている。甕棺は糸島地区甕棺の末期形式のものであることから、被葬者や従者は伊都国との関連が示唆される。 墳墓は九州高速道建設のために削開されるところを、福岡県教育委員会および市民による道路公団に対する保存運動により九州縦貫自動車道関係埋蔵文化財調査が行われ、調査結果による重要性の認識から基部の楕円形の部分的な削開にとどまり、かろうじて墳墓の約80%が遺跡として保存された。 築造時期が墳墓の形状、構築、石室、周囲の甕棺の様式から三世紀中期であること、規模が一辺約23mで斜辺が32mで下部が楕円状であること、石棺はあるが槨が無いこと、石棺に朱が塗られていること、周囲に埴輪はなく66名以上の殉葬があること、そのうちの甕棺K1からは後漢鏡片や大型勾玉などの豪華な装身具が出土していること、G1墓からは鉄製の武器や農機具が出土していること、出土品の殆どが時期的に矛盾が無いことなど多くの点で魏志倭人伝の卑弥呼の墓の記載と良く一致している。さらに、この古墳が邪馬台国が存在した可能性のある筑紫平野を一望できる高台の占地に存在することから、魏志倭人伝の卑弥呼の墓の可能性がある。 埋葬施設 墳頂部は一辺が役10mの平坦面であり、そののほぼ中央に長辺軸を北東ー南西方向とする箱式石棺がある。安山岩の板石を大小5枚使い、側壁の不足部を補う板石各1枚で構築されている。石棺の大きさは底部付近で長さ約2m、幅約90cm、深さ約90cmで、棺内には蓋石も含めて朱が塗られていた。 副葬品 石棺は古い時代に盗掘を受けたと見られ、主体墓の副葬品は失なわれているが、近傍の高良大社に出土品と伝わる三角縁神獣鏡(33方格獣文帯 鈕座「天王日月日月」)および変型方格規矩鏡)があるものの、詳細な由来は不明である。 周囲の第一号甕棺K1は内部が朱に塗られ、成人女性人骨、後漢鏡片(半円方格帯鏡 吾作銘104φ 銘帯 「吾作明口幽湅三商周□無□配疆會・・・・・・番昌兮」半円方格帯銘 「善/同/出/丹/□」)、大きさ5cmの大型硬玉製曲玉、二個の両面穿孔碧玉製管玉、刀子が出土し、九州歴史資料館に収蔵されている。成人女性は被葬者の従者ないし巫女の頭と考えられている。竪穴式石室H7には「差し違い二体葬」が見られたことから殉葬であることが示唆される。形状不明のG主体からは三世紀の畿内では出土していない刀子、鉄鏃、剣、刀身などの鉄製武器だけでなく、鎌、錐、手斧鍬などの鉄製農機具も出土している。墳裾の各所から古式土師器(西新式土器)、須恵器等が多数出土している。
一萬田鑑実 鑑実、観桜会を開く 鑑実は普段は城には住まず、数代前からあった城の麓にある館に住んでいた。そこは山々を見下ろすことができる景色のいい場所であり、鑑実は色々な花木を集めて植え育てていた。その理由は戦ばかりの心をなぐさめるためであった。そこに「黒染めの桜」という珍しい桜があり、領民も身分高き人もこの桜を見ては和歌を詠んだり、酒宴をしたりして楽しんだ。鑑実もまた見たい人には自由に見させていた。天正元年(1573年)2月、この話を耳に入れた大友宗麟は自分も見に行くと鑑実に伝え、急遽に仮屋を設けて宗麟を迎え入れる準備をした。二晩と次の日まで酒宴を行い、宗麟がこの日のために京都から招いた金剛大夫の能を観賞して楽しんだ。 正月に俳諧会を行う 元亀2年(1571年)正月、鑑実は大友家の重臣を招いて俳諧会を行っている。20年ほど前に彼らの詠んだ歌が記録された巻物が発見されたが、一度も公表されていない。
合山究 合山 究(ごうやま きわむ、1942年4月11日 - )は、日本の中国文学者、九州大学名誉教授。 大分県出身。九州大学中国文学科卒、同大学院中退、岐阜大学教育学部講師、九大教養部助教授、教授、九大比較社会文化研究院教授、2006年定年、名誉教授。 林語堂の翻訳、『論語』『紅楼夢』研究など幅広く中国文学を研究する。
ボルボ・V50 ボルボ・V50(ブイごじゅう)は、スウェーデンの自動車メーカー、ボルボ・カーズが2004年から2012年まで製造・販売していたステーションワゴンタイプの乗用車である。 2004年販売型 2003年のボローニャモーターショーにてプロトタイプが発表され、2004年5月に発表された。 斜線と縦格子を組合せたフロントグリルにV型のボンネットなど伝統的なボルボのデザインを踏襲。プラットフォームは、マツダ・アクセラやフォード・フォーカスなどと共通の「フォード・C1プラットフォーム」(「ボルボ・P1プラットフォーム」)を用いている。 衝突安全性においては、ボディが複数のクランプルゾーン(衝撃吸収前後ボディ構造)で構成され、側面には「SHIPS」、後方には「WHIPS」と呼ばれるボルボ独自のシステムが装備されている。 エンジンは1.6L・1.8L・2.0Lの直4DOHCガソリン(同じフォードグループのマツダが開発)と2.4L・2.4Lターボの直5DOHCガソリン、1.4L・2.0Lの直4DOHCディーゼルと2.4Lの直5DOHCディーゼルがラインナップされている(ディーゼルは北米では販売されていない)。 2007年改良型 2007年9月、フェイスリフトが行われ、後期型となる。エントリーモデルとして「2.4Aktiv」を新設し、ラインナップを一新する。 2009年3月、新しく導入された直列4気筒 2.0リッターのガソリンエンジンと、新開発の6速デュアルクラッチトランスミッションを組み合わせた「2.0e」をラインナップに追加。 2012年ボルボ・V40の発売に伴い、V50の販売を終了した。
上田武司 経歴 鳴尾高校ではエースとして活躍。1963年5月には、同年夏の甲子園で優勝する明星高との練習試合で好投し、注目を浴びる。夏の甲子園県予選では準々決勝に進出するが、宮本幸信投手、吉田孝司捕手のバッテリーを擁する市神港高に敗退。1964年に読売ジャイアンツへ入団。 1965年に野手へ転向。巨人のV9時代に内野ならどこでも守れるスーパーサブとして活躍し、長嶋茂雄からは「ジョージ・ベンチ(常時ベンチにいることから、ジョニー・ベンチを捩ったもの)」と呼ばれた。1967年はイースタン・リーグで打率.356をマークして首位打者を獲得した。 黒江透修、土井正三に衰えが見られるようになった1971年には、6月から主に遊撃手として起用され54試合に先発出場。同年の阪急ブレーブスとの日本シリーズでは、最終第5戦で七番打者として先発、5回にダメ押しの2点適時二塁打を放ちチーム日本一に力を添える。1973年には遊撃手、二塁手として57試合に先発出場、9月には遊撃手に定着しチームのリーグ優勝に貢献。V9を達成した同年の南海ホークスとの日本シリーズでは全5試合に出場。2試合に遊撃手として先発し、第2戦では3安打、山内新一から本塁打も放つ。1974年には黒江、土井両選手の不調もあって二番打者としても起用され、打率.266、6本塁打の好成績を残す。1975年まで準レギュラーとして活躍するが、河埜和正が遊撃手に定着し、デーブ・ジョンソンが二塁手にコンバートされると出場機会が減り、1978年限りで引退した。 翌1979年から巨人のコーチに就任し、1995年まで務めた。コーチ就任の年は「地獄の伊東キャンプ」に帯同して若手選手を指導していた。 後にスカウトに転身し、退団。退団後はリアルスポーツ評論家を務めた。
GLORY (格闘技) GLORY(グローリー)は、ヨーロッパのキックボクシング団体。運営はグローリー・スポーツ・インターナショナル。 前身 元々はバス・ブーンが主宰するゴールデン・グローリージムの自主興行が母体。マネージメントファイターの育成やブランド力のアップを図り、2006年9月に自主興行「Ultimate Glory(アルティメット・グローリー)」を開催するようになり、その後UFC(Ultimate Fighting Championship)の主催会社ズッファから大会名称を変更するよう訴訟を起こされたのを機に「United GLORY(ユナイテッド・グローリー)」に変更。また、人材育成大会「Upcoming GLORY(アップカミング・グローリー)」も開催するようになった。 2009年10月17日にはジム創設10周年記念大会としてオランダ・アムステルダムで「GLORY 11: A Decade of Fights」を開催。さらに2010年10月16日から2011年5月28日にかけて、優勝賞金15万ドルを懸けたK-1ルールと修斗ルールのトーナメント「グローリー・ワールドシリーズ(GLORY WORLD SERIES) 2010-2011」を開催するなど、当時から一ジムが開催する自主興行としては異例な規模の大きさの大会を主催していた。 K-1との軋轢 2010年にそれまで世界最大のキックボクシング団体だったK-1を主催するFEGの深刻な財政難が表面化し、多くの選手へのファイトマネー未払いが続出し、ゴールデン・グローリーの選手・関係者への未払いも100万ドルを超え、遂にはFEGがK-1の大会自体を開催できなくなり、FEGは解決のため積極的に投資家との交渉を開始したことを踏まえて、K-1の商標権を保持する石井和義に対してバス・ブーンが複数の投資家を紹介し、谷川貞治が石井に紹介したEMCOMホールディングスの金健一を交えて交渉を行った。バス・ブーンの主張では、その交渉過程でブーンとブーンが率いる投資家たちは日本で金健一と交渉した末にパートナーシップを締結することを決めて取引成立の握手をしたが、その会談以降に金健一が行方をくらまされて交渉が続行できなくなった。さらに石井が、自身が保有するK-1の商標権、並びにFEGが保有するK-1の映像権利をFEGに対する貸し付け担保として不動産デベロッパーのバルビゾンに移管していたため、ブーン達は石井とバルビゾンとも交渉し、2011年のクリスマス直前に交渉が成立寸前だったが、「バルビゾンは休業に入るので交渉は2012年1月5日から再開」との連絡があり、1月5日になって交渉を再開しようとすると、既にバルビゾンは12月29日に金健一と独占交渉を行って契約し、支払いも済ませたと知らされ、石井は最初からブーン達と取引する気はなかったと主張。その後、ブーン率いる投資家の一人が金健一に再度会いに行って抗議すると、脅迫されたと主張。結局、K-1の権利は金健一が香港で設立した新会社「K-1 Global Holdings Limited」に移譲した。また、バス・ブーンらはFEGの未払いに対して訴訟を起こして勝訴、その結果FEGは破産することとなった。 IT'S SHOWTIME買収・世界最大のキック団体へ 同年6月30日には、GLORYと敵対する金健一が率いるK-1グローバルと提携関係を結んで欧州におけるライバル興行団体となっていたIT'S SHOWTIMEを買収したことを電撃発表。これによりGLORYが世界のキックボクシング興行団体の最大手にのし上がることになった。なお買収された側のIT'S SHOWTIMEについては、2012年一杯は別ブランドとしての興行を続けるが、、2013年よりシリーズを統合する方針とし、現地共催者と正式な開催契約していた7月21日のスペイン大会と11月10日のブラジル大会は開催されたものの、9月17日に予定されていた日本大会は延期(事実上の中止)となった。 日本進出、DREAM買収 同年7月23日には、12月に日本の首都圏で『GLORY Grand Slam - Heavyweight』と題した大会を開く予定、並びにその運営を担う日本法人を設立したことを発表(会社名は当初は「株式会社Gエンターテインメント」とされていたが、後に「株式会社グローリー・スポーツ・ジャパン」(略称GSJ)に変更された」。 同年9月20日に東京で行われた会見で、改めて12月2日に幕張メッセにて16人参加の1Dayトーナメント『GLORY 4 Tokyo - GRAND SLAM - Heavyweight』の開催を発表。また、2013年の計画として合計14大会の開催、65kg級、77kg級、85kg級、95kg級で8人トーナメントの『SLAM』を開催、ヘビー級と70kg級では16人トーナメントの『GRAND SLAM』を開催、GLORYへの出場者を発掘する登竜門大会『Road To GLORY』という地方イベントもスタートさせてアメリカや日本で開催、戦績に基づいて自動的に点数が計算されるランキング制度の導入、独自の選手育成のためのトレーニングセンターも世界数カ所に設置計画、『Road To GLORY』以外でも少なくとも3大会を東京で開催などを発表した。GLORYのオフィシャル・コメンテーターには武蔵が就任した。 また、10月11日の会見においては53kg級など、アジア人選手が活躍していける階級の設置を検討していることも示唆された。 日本の多くの格闘技団体と協力し合う形をとっており、KrushやR.I.S.E.には「GLORY推薦選手」という形で選手をブッキングするなどしている。 同年10月25日、従来FEGとリアルエンターテインメントが主催してきた総合格闘技(MMA)イベント・DREAMの運営を継承することが発表された。同年12月31日の大晦日興行『DREAM.18』がGSI傘下での初イベントとなる。なおIT'S SHOWTIMEの場合と異なりGLORYとのシリーズ統合はせず、『DREAM』ブランドはGSIのMMAブランドとして存続する予定で、運営法人もGLORYの日本法人であるGエンターテインメントとは別法人を設立する予定としていた。 その後11月9日の会見にて、当初12月2日に開催予定だったGLORY 4を12月31日のDREAM.18との合同興行に変更する発表が行われ、大会名も『DREAM.18 & GLORY 4』に変更となり、結局大晦日興行が日本での初興行ということになった。12月2日まで1ヵ月を切った時点での変更によって、12月2日大会で決定していた佐藤豪則 vs. フィル・バローニは大晦日には延期にならず、バローニは桜井"マッハ"速人と対戦することが決まったため、佐藤は出場機会を奪われた形となった。他にも久保優太は12月2日に参戦することを前提に1月14日のKrushへの参戦を決めていたが、GLORY 4が大晦日に統合されたことでGLORYへの参戦は日程的に厳しくなり、出場できなくなるなど、直前での一方的な日程変更に対してファンや選手からも不満の声が出た。 更なる世界進出 2012年11月29日、シンガポールを拠点とするアジアの総合格闘技団体ONE FCと提携したことが発表された。 アメリカのテレビ局CBS Sports Networkと放送契約し、GLORY 4を録画放送されたほか、GLORY 10まで放送された。また、CBS Sportsとの契約と並行してSpike TVとの放送契約についての交渉も継続。 2013年には日本とアメリカにおいて、「ROAD TO GLORY」という登竜門大会のシリーズを開催し、各大会のトーナメント優勝者にはGLORY World Serisへの1年間の参戦契約を結んでいっている。GLORY日本スポークスマンに安生洋二が就任。3月10日にRoad to GLORY JAPAN -65kg SLAMを初開催し、同大会のフェザー級日本トーナメント優勝者には世界トーナメント出場権も与えられた。 2013年3月23日にイギリスのロンドン大会、4月6日にトルコのイスタンブール大会を開催。また、各大会にて、2013年2月27日に急死したラモン・デッカーの追悼映像も流された。 2013年5月3日には有明コロシアムで『GLORY 8 TOKYO』を開催し、第一部ではRoad to GLORYとしてミドル級の4人制日本人トーナメントを、第二部ではフェザー級(65kg)世界トーナメントを開催。同大会は『Ameba Studio』(アメスタ)にて日本国内では有料生中継された。 2013年6月から日本でのテレビ放送をFOX bs238にて開始。GLORY 1から順次に全大会を録画放送している。 Spike TVと放送契約・拠点をアメリカへ 2013年6月22日にアメリカで初の本大会をニューヨークで開催。この際にGLORYの一部のルールがアメリカのボクシング・コミッションから認可されなかったことを踏まえて、以降の大会でルールを変更(後述)。 6月27日、UFC人気が爆発的に上昇する要因となったThe Ultimate FighterやUFCの大会、世界最大のプロレス団体WWEの放送でも高視聴率を記録し、現在はBellator MMAやTNAを放送しているバイアコムのSpike TVと複数年の放送契約を結び、2013年10月からゴールデンタイム2時間枠で生中継を中心に放送していくことを発表した。Spike TVは当初K-1を放送する予定だったが、前年のストリーミング中継の視聴者数が芳しくなかったため、K-1の中継を打ち切ってGLORYに乗り換えての放送となった。 Spike TVでの放送枠が2時間であるため、大会を二部構成に分け、第一部は大会の2週間後にSpike TVで録画放送される『GLORY Super Fight Series』の部、第二部は生中継される『メインカード』の部に分けていくことになった。GLORY Super Fight SeriesはSpike TVでの録画放送が終わり次第、GLORY公式サイトにて無料配信される。また、それまでGLORYが行っていた8人制のスラム・トーナメントと16人制のグランドスラム・トーナメントでは2時間枠内に全試合を放送しきることが出来ないため、これからは4人制トーナメントとリザーブファイト1試合にプラスしてワンマッチ2試合の合計6試合が大会当日の生中継されるメインカードとして行われる形式が主体となった。GLORYの人気が高まってアメリカのテレビ局でPPV生中継できるようになった際にスラム・トーナメントとグランドスラム・トーナメントを行う予定としている。CBS Sportsでの最後の放送となったGLORY 10でも、GLORY 11からのSpike TVでの放送に備えて前述の形式での開催・放送となった。 2013年12月21日に有明コロシアムにてGLORY 13を開催予定。同大会ではウェルター級世界トーナメントが行われる。 2016年2月、UFCファイトパスでの放送を開始した。
山田博愛 山田博愛(やまだ ひろよし(はくあい)、1880年 - 1958年)は日本の内務官僚で都市計画家、土木技術者。旧都市計画法、関東大震災後の帝都復興計画を立案した。新潟県出身。 経歴 新潟県高田で長男として生まれる。高田中から第四高等学校 (旧制)を経て、1905年、東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業して、東京市に入る。1908年には土木局道路課長となる。 その後埼玉県と滋賀県の土木課長を経て、1918年に内務省大臣官房局に都市計画課が創設されると、土木分野の主任技師に抜擢され、都市計画課長池田宏や建築主任技師の笠原敏郎らと協力して都市計画法と市街地建築物法の立案と制定に関し中心的役割を果たす。 1920年には欧米に視察旅行。1922年には都市計画課が局に昇格すると、土木事業担当の第一技術課長に就任した。 震災後、直ちに雁災地を調査の上、第一技術課、第二技術課の職員とともに帝都復興計画の原案を作成した。元来几帳面な性格であったらしく、施設計画に際しての積算はかなり緻密なものであったという。帝都復興院が設立されると、山田は計画局第一技術課長となり、計画案作成に当たった。 1924年には帝都復興院は廃止されて、内務省復興局となるが山田は東京第一出張所長に転じ、復興事業の現場責任者となるが、翌年退官した。 その後は日本大学で教鞭をとる。以前から同志とともに日本大学に技術専門学校を設立することに尽力していたが、1920年に講師となり、日本大学に工学部ができると、1931年に教授となり、都市計画を教えた。 1958年に自転車交通事故により他界する。 都市計画協会内に生前所蔵していた資料を収集した山田博愛文庫がある。
石田長生 経歴 1974年、大塚まさじの録音「ザ・オリジナル・ディラン」に参加、レコーディング・デビュー。 1975年、単身渡米。メンフィスのソウル・ミュージシャンと交流する。帰国後、山岸潤史、北京一、チャールズ清水、永本忠、土居正和、ベーカー・土居、砂川正和、国府照幸とでブルースバンド「ソー・バッド・レビュー」を結成する。 1978年,自身がリーダー&リードヴォーカルも担当する『GAS』結成。(メンバーはB藤井裕、Dr松本照夫、Key近藤達郎、Key中西康晴)日本一、日本全国を廻るバンドとして噂になるがレコード・デビュー前に惜しまれつつも解散。 1980年、砂川正和、国府照幸と「サウス・トウ・サウス」の正木五郎、藤井裕に渡辺サトル、金子マリと共に「The Voice&Rhythm」を結成。 徳間ジャパンコミュニケーションズからアルバム「ボイスればリズムる!」でデビューする。この頃、ランディ・クロフォード、オーティス・クレイ、アン・ピーブルスなど、多くの海外ミュージシャンと共演。 1984年、には正木五郎、藤井裕、国府照幸と共に上田正樹のバンドに参加する。その際、スライ・アンド・ロビーと共演。また、グループを再編したトリオによる「The Voice&Rhythm II」を編成。石田長生、正木五郎、藤井裕でアルバム「Ohh!!!」をアポロン音工からリリース。その後ロッキンタマゴというバンドを編成する。そのほか、渡辺香津美、山岸潤史との勉強トリオや、NANIWA EXPRESSの清水興。東原力哉らとセッションを行う。 1989年にCharとアコースティック・デュオ「馬呆(BAHO)」を結成。全国的に名前が知られるようになる。 1992年、メルダックからソロ・デビュー。FM802で「ボート・クラブ・ロード」がオン・エアされる。 1995年、ソウル・フラワー・モノノケ・サミットとともに被災地・神戸の避難所などで慰問演奏をする。 1996年から、活動の中心を東京へ移す。旅をテーマに全国各地をまわる「石やん一人旅」を始める。また、南米(ブラジル、アルゼンチン、ペルー)や南太平洋(サモア、トンガ、フィジー)及びジャマイカ、メキシコなどにも渡り演奏するワールドワイドな活動を展開。 2003年、3月 阪神タイガースの球団公認応援歌「嵐は西から」の作詞・作曲・プロデュースを手がける。 また同年秋に清水興、中村岳とともに活動するトレスアミーゴスとしてニューアルバム発表。また、11月小笠原諸島にてライブを行った事をきっかけに小笠原諸島に魅せられ、その後十数回に渡り渡航。ライブ活動の他、現地の人達との交流を深め、オリジナル小笠原島唄“Boninの島”を作詞作曲。 2004年、サークルKのテレビCMにトレスアミーゴスとして出演。 2006年、11月、4年半ぶり通算8枚目となるオリジナル・アルバム『Ishiyan』発表。 2007年、5月、小笠原諸島をテーマとしたコンセプトアルバム『Boninの島』発表。6月には小笠原諸島父島、母島それぞれの返還祭へ招待されゲスト出演した。島の唄の名手・大平京子と共演。 2015年3月、食道がんが見つかり、治療に専念するためライブ活動を休止し、入院。同年7月8日、早朝に永眠したことを石田のツイッターアカウントを通じてスタッフの名で報告した。
岡山市立建部小学校 概要 岡山市北区の北端に位置する建部町の中央部を校区とする。 主な進学先 公立学校の場合は、岡山市立建部中学校へ進学する。 
フォトバロヴァー・ナーロドニー・リガ 概要 チェコスロバキアがチェコとスロバキアに分離した1993年に創立され、1993-94シーズン以来、チェコで2番目に高いサッカーリーグである。
樋口廣太郎 来歴・人物 京都市出身。京都市立第二商業学校(のちの京都市立西陣商業高等学校、廃校)、彦根経済専門学校(現・滋賀大学経済学部)を経て野村證券に就職。京都支店から祇園支店に転勤後、上司の紹介で野村銀行(後の大和銀行、現・りそな銀行)に転職。同行では大阪本店(現・りそな銀行大阪営業部)に配属されたが数日で退社し、1946年(昭和21年)に京都大学経済学部に再入学。同大学卒業後、1949年(昭和24年)4月に住友銀行(現・三井住友銀行)に入行。代表取締役副頭取まで昇進したが、磯田一郎頭取と対立し、大阪建物社長職や新大阪ホテル(現・ロイヤルホテル)社長職への出向を打診されるも断り、辞職を決意する。副頭取だった樋口が磯田一郎頭取にイトマンへの乱脈融資を諫めた時、「邪魔立てするな」と一蹴され、部屋を出ようとする樋口に磯田がガラスの灰皿を投げつけたという。これが原因になってアサヒビールに転出したという。 住友銀行業務部時代の上司で、前任の東京支店長でもあった、8年先輩の村井勉前社長に招かれ、1986年(昭和61年)、アサヒビール(現:アサヒグループホールディングス)の社長に就任。1987年(昭和62年)、アサヒスーパードライを発売して大ヒットさせる。1995年(平成7年)から経団連の副会長も務め、1998年(平成10年)には当時の小渕恵三内閣総理大臣に請われて首相の諮問機関・経済戦略会議の議長に就任。敬虔なカトリック信徒としても有名であり、大学時代は同じ大学にいた本島等(元長崎市長)と仲が良かった。 アメリカンフットボールへの造詣も深く、母校の京都大学ギャングスターズ後援会長に就任後は財政難に陥っていたクラブチーム・シルバースター(現・アサヒビールシルバースター)にスポンサー参加して支援を行い、日本アメリカンフットボール協会コミッショナーも務めた。そのほか、日本スペイン協会会長、東京都現代美術館館長、日本ナスダック協会会長、防災情報機構議長などの要職も歴任。 アサヒビールの社長に就任後、ロゴマークの変更に際し、社内の反対を押し切って売れ残っていた古いビールを全て店頭から回収・廃棄したことが結果的にアサヒ再興につながった話は有名である(外部リンク参照)。 2012年(平成24年)9月16日に、急性心不全のため東京都渋谷区内の病院で死去した。86歳没。 同年10月12日、政府は樋口を従三位に叙し、旭日大綬章を与えることで閣議決定した。没日付をもって追贈。 2016年1月、第3回日本アメリカンフットボール殿堂入りが決まる。 前任の村井社長と対照的に、部下を激しく叱責するなどし、「瞬間湯沸かし器」と渾名された。
僕だけの君〜Under Super Best〜 背景とリリース 本作は、乃木坂46のメンバーのうちシングル表題曲の選抜メンバーに選ばれなかった「アンダーメンバー」が各シングルのカップリング曲として歌唱する楽曲(=アンダー楽曲)のみによる初のアルバムで、1stシングル収録のアンダー楽曲「左胸の勇気」から19thシングルアンダー楽曲「My rule」までの歴代の全アンダー楽曲に加え、本作発売時点でのアンダーメンバーが歌唱する新曲3曲と本作発売直前にグループを卒業した中元日芽香のソロ曲の計26曲が収録されている。シングル表題曲は全く収録されていないため、裏ベスト・カップリングベスト的な性質の作品といえる。 本作の発売は、2017年7月2日の「乃木坂46 真夏の全国ツアー2017」明治神宮野球場公演で流れた「緊急告知」と題したVTR内で発表された。選抜メンバー以外の歌唱曲がまとめられて発売されるのは異例のことであり、坂道シリーズでは初めて。当初は2017年秋に発売予定であったが、その後2018年1月10日に変更された。 本作は初回生産限定盤(2CD+DVD)、初回仕様限定盤(2CD+DVD)、通常盤(2CD)の3形態で発売され、映像特典として、初回生産限定盤には、幕張メッセで開催した初のアンダーライブから2017年秋の九州シリーズ・福岡公演までの歴代アンダーライブの中から名場面がセレクトされたアンダーライブ特選集「The Best Selection of Under Live」が、初回仕様限定盤には、これまでの全19シングルのアンダー楽曲のミュージック・ビデオに加え、「君は僕と会わない方がよかったのかな」MVの監督、山田篤宏が手掛けた中元日芽香ドキュメンタリー映像「最後のあいさつ〜Her Last Bow〜」、伊藤万理華の個展「伊藤万理華の脳内博覧会」の会場限定で上映された「トイ」「はじまりか、」も収めた「"Super Under"Music Video Collection」が、それぞれのDVDに収録されている。初回生産限定盤は三方背ボックス、デジパック仕様、豪華フォトブックレット付き、初回仕様限定盤は三方背ボックス、フォトブックレット付き。 ヒット祈願 アンダーメンバーによるヒット祈願が『のぎ天2』(Rakuten TV)内で行われた。収録前のアンケートを基にメンバーが2つのグループに分けられ、それぞれ「登山」「バンジージャンプ」に挑戦した。 アートワーク CDジャケットは全3形態いずれもメンバーは登場しない。メンバーが登場しないCDジャケットは乃木坂46のアルバムでは初めてで、シングルを含めた全CD作品でもアニメタイアップ曲を収録したシングル(「制服のマネキン」、「バレッタ」、「今、話したい誰かがいる」)の「アニメ盤」以外では初めてとなる。 また、ヒット祈願企画達成記念として、登山、バンジージャンプ両チームの記念撮影を写した「のぎ天2オリジナルCDジャケット」が抽選で100人にプレゼントされた。 チャート成績 本作は2018年1月9日付オリコンデイリーCDアルバムランキングで初登場、デイリー1位を獲得した。その後、2018年1月22日付オリコン週間CDアルバムランキングで約10万1000枚を売り上げ、初登場1位を獲得した。乃木坂46のアルバム1位獲得は1stアルバム『透明な色』から4作連続通算4作目で、1stからのアルバム連続1位獲得作品数としてはSPEEDと並び、女性グループ歴代1位タイとなった。
レッドマン・プリンセス -悪霊皇女- あらすじ 200年前、白人によるアメリカの植民地化が進められる中、ネイティブアメリカンの勇者テカムセは果敢に抵抗をするも戦死してしまった。死の直前、蘇って白人の皆殺しを誓ったテカムセであるが、遂に日本の女子高生、星子の体を借りて復活し、アメリカ合衆国にとの戦いを再開するのであった。
ミルリーフ 誕生 ミルリーフは1968年2月23日、アメリカ合衆国ヴァージニア州にあるロークビ牧場で生まれた。この牧場はアメリカの富豪アンドリュー・メロンの妻がつくった牧場で、息子のポール・メロンがこの牧場を利用してサラブレッド競走馬の生産を行っていた。メロンは生産馬をイギリスとアメリカで走らせていたが、スタッフとの協議の結果ミルリーフはイギリスのイアン・ボールディングの厩舎に預けられることになった。 2歳時(1970年) 1970年5月、ミルリーフはソールズベリー競馬場で行われた芝5ハロンのレースに出走し、優勝。翌6月にはアスコット競馬場で行われたコヴェントリーステークスを2着馬に8馬身の着差をつけて優勝した。この時点でミルリーフは10年に1頭の逸材と評価されるようになった。7月にはメロンの意向によりフランスに遠征しロベールパパン賞に出走したが、その年のフランス2歳4冠馬マイスワローの前にアタマ差の2着に敗れた。その後イギリスへ戻り、ジムクラックステークス、インペリアルステークス、デューハーストステークスと短距離のレースを3連勝した。この年のシーズンは6戦5勝で、年間獲得賞金はヨーロッパの2歳馬としては史上最高額であった。ジョッキークラブが作成した2歳フリーハンデではマイスワロー(133ポンド)に次ぐ第2位(132ポンド)の評価を得た。第3位はミドルパークステークスを優勝するなど4戦4勝のブリガディアジェラード(131ポンド)であった。 3歳時(1971年) 1971年、初戦のグリーナムステークスに勝利したミルリーフは5月にイギリスクラシック三冠第1戦の2000ギニーに出走した。ミルリーフは1番人気に支持され、2番人気がマイスワロー、3番人気がブリガディアジェラードであった。レースでは逃げたマイスワローを交わしたものの後方からレースを進めたブリガディアジェラードに交わされ、3馬身差の2着に敗れた。 翌6月、ミルリーフはイギリスクラシック三冠第2戦のダービーステークスに出走した。ブリガディアジェラードはこのレースには出走せず、ミルリーフが1番人気に支持された。ミルリーフは中団からレースを進め、残り1ハロンの地点で逃げたリンデントリーを交わし、そのまま2馬身の着差をつけて優勝した。7月3日、メロンの意向によりエクリプスステークスに出走したミルリーフはサンダウン競馬場芝10ハロンのコースレコードを記録して優勝した。24日にはキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスに出走し、2着馬に6馬身の着差をつけて優勝した。 キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス優勝後休養をとったミルリーフは10月にフランスに遠征し、凱旋門賞に出走。ロンシャン競馬場芝2400mのコースレコードを記録して優勝した。この年のシーズンを6戦5勝で終えたミルリーフはヨーロッパ年度代表馬に選出され、ジョッキークラブ作成のフリーハンデで首位(133ポンド)に選ばれた。2000ギニーでミルリーフを破り6戦6勝のブリガディアジェラードは2位(129ポンド)であった。 4歳時(1972年) 1972年4月、パリに滞在中だったメロンの要望により、ミルリーフはフランスに遠征しガネー賞に出走し、2着馬に10馬身の着差をつけ優勝した。その後イギリスへ戻り6月にコロネーションカップに出走したがミルリーフの調子は思わしくなく、ホメリックの追い上げをクビ差凌いで優勝した。レース後馬インフルエンザにかかっていたことが判明した。陣営はコロネーションカップの後、エクリプスステークスでブリガディアジェラードと対戦させる予定であったが、一旦引いた熱が再発したため出走を回避した。陣営は目標を凱旋門賞に置いて体勢を立て直すことにしたが8月30日、調教中に左前脚の管骨を骨折。アメリカから獣医師を招いて手術を行った結果一命は取り留めたものの、競走馬引退を余儀なくされた。 種牡馬時代 競走馬を引退したミルリーフはイギリスのナショナルスタッドで種牡馬となり、総額200万ポンド(1株5万ポンド×40株)のシンジケートが組まれた。ミルリーフの種牡馬成績は良好で、1978年と1987年にイギリスのリーディングサイアーとなった。2度目のリーディングサイアーは死後に獲得したもので、ミルリーフは1986年に心臓発作を起こして安楽死させられた。遺体はナショナルスタッドの敷地内に埋葬された。 シャーリーハイツ(ダービーステークス優勝。産駒スリップアンカーもダービーステークスを勝ち父子3代制覇を達成)やマグニテュード(ミホノブルボン、エルプスなどを輩出)など、産駒には種牡馬として成功した馬が複数いる。日本へはマグニテュードのほかミルジョージなどが輸入された。(子孫についてはミルリーフ系を参照)
北海道立オホーツク流氷公園 概要 「試みて進化する広域公園」をコンセプトに、環境共生型の公園として住民参加による緑豊かな手作り公園を目指している。また、「流氷を望み 潮騒が聞こえる 大いなる風景 緑豊かな手作り公園」として園内をAからDの4ブロックに分けて整備している(Aブロックは紋別市管理)。公園はオホーツク海に面しており、国道238号を挟んだ向かいにはオホーツク紋別空港(紋別空港)がある。 1月から3月の積雪期は4ブロックを全通した1周約5kmの歩くスキーコースが整備され、用具の無料貸し出しも行われる。
藤原為憲 経歴 天慶2年(939年)、常陸国における平将門との紛争に敗れた為憲は、母方の従兄・平貞盛と共に度々の将門の探索をかわしながら潜伏する。天慶3年(940年)2月、「新皇」を僭称した将門の追討に官軍大将の一人として貞盛・藤原秀郷と協力して将門と戦い征伐に成功し、先に将門に襲撃され抑留されていた父・維幾を救援した(承平天慶の乱)。将門追討の恩賞として従五位下に叙爵、木工助(宮内省の宮殿造営職である木工寮の次官)に就任。藤原の藤と木工の工を合わせ工藤姓を興す。家紋「庵木瓜」の創始者。伊豆国・駿河国・甲斐国・遠江国の権守を歴任。 工藤氏からは、伊東氏、伊藤氏、吉川氏、鮫島氏、二階堂氏、相良氏などが派生し、また子孫に工藤茂光、工藤祐経などを輩出した。
レム睡眠行動障害 病態 レム睡眠時には脳は覚醒時に近い活動をしており、全身の骨格筋は緊張が低下している。そのため、通常であれば夢で見たことを行動に起こすことはないが、レム睡眠行動障害は何らかの原因で筋緊張の抑制が障害されるために夢で見たことをそのまま行動に移してしまう。 原因 基礎疾患として、脳幹部の脳腫瘍、パーキンソン病、オリーブ橋小脳萎縮症、レヴィー小体病などいくつかの原因が考えられている。しかしながら、約半数は基礎疾患を持たず、原因不明である。 診断 重要なのは寝言や睡眠時の異常行動が本人の見ていた夢と一致することである。異常行動中に覚醒させることは容易であり、本人に夢の内容を確認しておく。睡眠時の異常行動としてよく知られるものに夢中遊行症(夢遊病)とdeliriumがあるが、これらは覚醒させることが困難である上に、行動中の記憶はない。 治療 クロナゼパム、パロキセチンの投与でコントロールする。 クロナゼパムが第一選択とされてきたが、より安全で忍容性のあるメラトニンの使用を支持する証拠が増加しており、両者の証拠を確立するためにさらなる試験が必要である。
ヴィオラ・ダ・ガンバ ヴィオラ・ダ・ガンバ属のサイズ ヴァイオリン属と同様に音域の異なるいくつかのサイズがあり、一つの「属」をなす。音域の高いほうからトレブル(フランスではドゥシュ、ドイツではディスカント)、アルト、テノール、バスがあり、その他にドゥシュより高いパルドゥシュ(フランス)、バスより低いグレートバス、コントラバスがある。このうち、コントラバスは特別にヴィオローネとも呼ばれる。なお、バスあるいは小型のバスを特殊な用途に使う場合、イタリアで「ヴィオラ・バスタルダ」、イギリスで「リラ・ヴァイオル」、「ディヴィジョン・ヴァイオル」と、それぞれ特別な名称で呼ばれた。 ヴィオラ・ダ・ガンバのみによるアンサンブル(コンソート)には主にトレブル、テノール、バスが用いられた。しかし、17世紀半ば以降同属楽器のアンサンブルという演奏形態が廃れる中、ヴィオラ・ダ・ガンバも、独奏楽器として重用されたバス以外ほとんど使われなくなり、単にヴィオラ・ダ・ガンバといえばバスを指すようになった。 構造・調弦法 ヴァイオリンのように標準化された形状はないが、ヴァイオリン属との違いとして以下のような特徴がある。 表板はややふくらんでいるが裏板は平らで、どちらもヴァイオリン属に比べると薄い板が使われ、そのため弦の張力はヴァイオリン属よりも弱い。バロック時代のヴィオラ・ダ・ガンバには、ヴァイオリン属と同様に、表板を補強する力木(ちからぎ)や、表板と裏板をつなぐ魂柱(こんちゅう)がある。響孔はヴァイオリン属の f 字形とは異なりC字形のものが多いが、f 字形や、炎形など不定形のものもある。肩の線はなだらかに棹(ネック)とつながり、側板の幅が広い。表板と裏板は側板と突き合わせで接着されている。 指板はヴァイオリン属に比べて平らに近い(曲率が小さい)。フレットをもつが、ギターのような固定式ではなく、ガット弦などを棹に巻き付けたのみで、音程の微調整のために動かせるようになっている。フレットは開放弦の5度上の音程まで付いている。駒は指板と同様に天面の曲率が小さく、そのため重音奏法が容易である。 弦の数は6本が基本で、標準的な調弦法は右図のとおり。パルドゥシュは5弦のものもある。ヴァイオリン属はコントラバスを除いて5度調弦だが、ヴィオラ・ダ・ガンバは4度調弦が基本である。17世紀後半にバスの最低弦の4度下に第7弦を追加することが考案された。リラ・ヴァイオルやヴィオラ・バスタルダではしばしば特殊な調弦が行われた。 弓の形状や長さは同時代のヴァイオリン属のそれに近く、木部の先端は鋭角的に曲がらず、なだらかな曲線である。毛を張ると木部は直線になるか、または外側にやや彎曲する。 奏法 楽器を身体の前面で立て、小さなサイズは膝の上に乗せるか両膝で挟み、大きなサイズは両脚のふくらはぎに乗せて保持する。ヴィオローネは脚で支えられないので床に置く。 弓はアンダーハンドで(掌を上に向けて)持つ。弓の中央より毛箱側で木部を親指と人差し指の間で挟んで支え、中指の第一関節で毛を弦に押しつけるようにして奏する。 左手の運指はチェロの運指に近いが、高いポジションでも指板上に親指を置くことはない。フレットのある部分では、ギターのように隣接する2つのフレットの間で弦を押さえるのではなく、フレットの真上あるいは糸巻き側で押さえる。重音奏法では、ギターと同様、同じフレットの位置で複数の弦を、一つの指あるいは異なる指で同時に押さえる運指も用いられる。 歴史 ヴィオラ・ダ・ガンバの誕生およびその祖先については不明な点が多い。スペインの15世紀後期の絵画にはそれらしき楽器が描かれているが、これがヴィオラ・ダ・ガンバであるかどうかは意見が分かれる。 16世紀頃には宮廷でかなり愛好されていたことが各種文献に見受けられる。当時は、ヴィオラ・ダ・ガンバは上流階級の娯楽として、ヴァイオリンは下層階級が生活の手段に用いるものとして認識されていたようである。だが一方で、ヴィオラ・ダ・ガンバの職業的奏者も存在した。演奏法などもこの頃イタリア人ガナッシなどによって研究が進められた。16世紀末のイタリアではヴィオラ・バスタルダと呼ばれる特殊な独奏用楽器も作られ、弦楽器の演奏技術の発展に大きく寄与した。 16世紀から17世紀にはイギリスにヴィオラ・ダ・ガンバが伝えられ、爆発的な人気を呼び、多数の合奏曲や高度な独奏曲が作られた。イタリアのヴィオラ・バスタルダのように、イギリスではディヴィジョンという小型の高度な独奏曲を演奏するための特殊な独奏用楽器が作られた。 大陸では、主に高音域の楽器はヴィオラ・ダ・ブラッチョ系の楽器に取ってかわられ、17世紀からは主にフランスを中心として、バスおよび独奏用に開発されたパルドゥシュが独奏楽器として活躍した。マラン・マレの他、フランソワ・クープラン、フォルクレ親子などが多くの曲を生んだ。フランスではフランス革命を区切りに衰退、ヨーロッパの他の地域でも、18世紀中頃にはバスとヴィオローネ以外はあまり見られなくなった。ドイツでは、ブクステフーデ、テレマン、J.S.バッハなどがバスのために多くの曲を残している。 18世紀の後半にはヴィオラ・ダ・ガンバの使用は衰退し、1787年に最後のヴィオラ・ダ・ガンバの巨匠カール・フリードリヒ・アーベルが死去した後はほとんど作品も作られなくなるが、地域によってはオーケストラの低音楽器としてヴィオローネがなおも使用された。 19世紀末に16世紀から18世紀の音楽・楽器の研究が進むとともに、ヴィオラ・ダ・ガンバもアーノルド・ドルメッチらによって再び脚光をあびることになった。第二次世界大戦後は各地にヴィオラ・ダ・ガンバ協会が設立され、また当時の演奏法なども研究されて、現在は少しずつながら奏者の数は増えている。 日本へは、天正遣欧使節によって、フィーデル、レベックなどの古楽器とともに伝えられたとされる。
C4.5 アルゴリズム C4.5はID3と同じ方法で情報エントロピーの概念を用いて教師データのセットから決定木を生成する。教師データはS = {s_1, s_2, ...}すでにクラス分けがされているサンプルである。それぞれのサンプル s_i = {x_1, x_2, ...} は属性や特徴を表現するベクトル x_1, x_2, ... である。教師データはそれぞれのサンプルが属するクラスを表現しているベクトルC = {c_1, c_2, ...} で拡張される。 C4.5はそれぞれのデータの属性はデータを更に小さな部分集合に分割する決定に使用できるという事実を利用している。C4.5はデータを分割するための属性を選択した結果による正規化されたインフォメーション・ゲイン(エントロピーの違い)を調査する。最も大きな正規化されたインフォメーション・ゲインを示す属性は決定を行うために使うものである。アルゴリズムはより小さなサブリストに再帰的に適用される。 このアルゴリズムはベースとなるケースが数個であり、最も一般的なベースケースはリスト内のすべてのサンプルが同じクラスに属する場合である。この場合、そのクラスを選択するように示すリーフノードを決定木を生成する。どの特徴もインフォメーション・ゲインにつながらない場合も起こりうり、この場合C4.5ではクラスの期待値を使ってツリーの上に決定ノードを生成する。クラスのインスタンスが一つも生成されない場合もあり、この場合も期待値を使ってツリーの上に決定ノードを生成する。 アルゴリズムの疑似コードは以下のようになる。 Check for base cases For each attribute a Find the normalized information gain from splitting on a Let a_best be the attribute with the highest normalized information gain Create a decision node node that splits on a_best recur on the sublists obtained by splitting on a_best and add those nodes as children of node インフォメーション・ゲインと 情報エントロピー それぞれの項目で更に説明されているがEntropy(S)はSの中でクラス分類がどれほどランダムなのかを示す尺度である。インフォメーション・ゲインはある属性’’a’’に付与された尺度である。属性’’a’’は’’S’’を部分集合S_a1, S_a2, S_a3, ..., S_an に分割することができ、そのインフォメーション・ゲインは Entropy(S) - Entropy(S_a1) - Entropy(S_a2) - ... - Entropy(S_an)となる。インフォメーション・ゲインはそれぞれの属性値のエントロピーとその選択が持つ属性値の比率とを掛け合わせることで正規化される。
W53S 特徴 同社の日本向け端末であり、実質的にはW51Sの後継モデルである。しかし、大きな変更点として+JOG(プラスジョグ)の搭載がある。ジョグダイヤルの搭載は、2005年7月のA1404S II以来であるので、約2年、CDMA 1X WINとしてはW21Sから約3年ぶりとなる。 また、本機には人気ゲームシリーズ「メタルギアソリッド」の携帯向けタイトル(メタルギアソリッド モバイル)の体験版がプリインストールされている。また、W43Sと同様に、Style-Upパネルを着せ替えることにより外装を変えることができる。本機では100色のパネルに加えメタルギアオリジナルバージョンのパネルも発売予定。 なおW31Sから、W32SとW41Sを除く全機種に搭載されてきたM.S.オーディオは、搭載されていない。そのため、ATRACの再生は不可能である。 au向けを含む日本国内の大手の携帯電話のキャリア向けとしては、この機種以降にメモリースティックDuo/PRO Duo対応機種は発売されていない。 その他 テレビCMなどは前機種ウォークマンケータイW52S同様、女優の沢尻エリカを起用。「あなたを彩る100のケータイ篇」として沢尻エリカがいろいろなキャラクターを演じる100変化をして、100種類もの「Style-upパネル」があることを強調している。撮影には10日間かかったという。
野中四郎 生涯 岡山県岡山市出身。陸軍軍人であった野中勝明の四男で、叔父・類三郎の養子となっている。東京府立第四中学校、陸軍幼年学校卒業。1924年(大正13年)7月、陸軍士官学校卒業(36期)。1933年(昭和8年)、歩兵大尉となる。 野中自身は職務に熱心で、派閥抗争や革新運動にも名が上がらず、西田税の聴取書でも「面識がない」とされた。 1936年(昭和11年)2月26日、二・二六事件で約500名の下士官兵を率いて警視庁及び桜田門付近を占拠。29日、山下奉文少将に自決を促され、叛乱の責任を取って陸相官邸で拳銃自殺した。享年34。自殺に際しては、旧知の間柄であった井出宣時大佐-(当時)が立ち合い、遺書を預かっている。原隊(歩兵第3連隊)での通夜の後、四谷の自宅に遺体が届けられた。戒名は直心院明光義剣居士。毎年2月下旬、岡山市中区平井の東山霊園内・野中家墓地の野中四郎の墓前にて、有志により神道式の慰霊祭が行われている。 3月2日、妻・美保子は新聞各社の取材攻勢に対し、夫の行動を世間に詫びる手記を発表した。これは事件に関与した将校の未亡人が発表した唯一の手記となっている。美保子夫人は一人娘と共に実家に帰り、北陸地方で図書館に勤務した。
Wiiウェア Wiiウェア(WiiWare, ウィーウェア)は、かつてWiiを対象に行われていた、店頭では販売されていない新作ソフトをインターネットを利用してダウンロード販売するサービスである。Wiiウェア用ソフトは『Wiiショッピングチャンネル』で販売されていたため、購入時はWiiをインターネットに接続する必要があった。 課金(料金体系) Wiiウェアのソフトは全て有料であり、支払いにはWiiポイントを使用した。 料金体系は、500・600・700・800・900・1000・1200・1500ポイントの8種類が存在した。 保存先 ダウンロードしたソフトは、Wii本体内蔵フラッシュメモリもしくはSDメモリーカード・SDHCメモリーカードに保存する。Wii本体内蔵フラッシュメモリに保存した場合はWiiメニュー、SDメモリーカード・SDHCメモリーカードに保存した場合はSDカードメニューから起動する。なお、SDメモリーカード・SDHCメモリーカードに保存したソフトを他のWii本体で使用することはできない。 なお、Wii本体内蔵フラッシュメモリの容量が512MBしかないため、1タイトルにつき最大で40MBまでという制限が設けられていた。 簡単な操作説明 ソフトプレイ中にWiiリモコンの「HOMEボタン」を押し、メニューから「説明書」を選択すると、画面上でそのソフトの簡単な操作方法を確認できる。 機能やコンテンツの追加配信 一部ソフトにおいては、「ニンテンドーWi-Fiコネクション 有料サービス」による、機能やコンテンツの追加配信がされていた。追加コンテンツは有料(Wiiポイントでの支払い)となり、対応ソフト内の専用メニューで購入することができた。なお、追加コンテンツ配信開始前にダウンロードした対応ソフトについては、『Wiiショッピングチャンネル』で追加コンテンツに対応した最新版を受信する必要がある場合があった(無料)。 対応ソフトには赤色のWi-Fiコネクションマークが表記され、購入時に表示される注意文で追加配信コンテンツの内容及び課金の詳細が表記された。 コンテンツの追加配信に対応しているソフトについては「Wiiウェアのゲームタイトル一覧」を参照(一覧表内の備考欄で記載)。
矢部良 人物 20代で南米ブラジルに渡り、メストリ・ビンバの直系の弟子であるメストリ・バンバの下で修行をし、日本人として初めてカポエイラの道場を設立した人物であり、国内で初めてのカポエイラ教則DVDも出した。 日本におけるカポエイラの普及に大きく貢献した。一時はメディアにも登場したり、他の格闘技と対戦させたり、ダンスとの融合を強化するなり日本での発展と進化をさせてきた人物である。 実は矢部はそれまではダンサーの仕事をやっていたが、カポエイラをはじめたきっかけはアクション映画の『オンリー・ザ・ストロング』を見たのがきっかけだったという。映画がきっかけでカポエイラに魅了され、それまで日本人にはなじみの無かったスポーツと格闘と音楽とダンスを融合させた新しいものとして大いに普及させてきた。K-1異種格闘技戦では武蔵と対戦した事もあったが、敗戦している。 ものまね芸人のマイコーりょうに顔が似てることから、同一人物ではないかという憶測が長らく続いていたが、2014年9月16日、マイコーりょう名義のFacebookにて、矢部良とマイコーりょうが同一人物であることをカミングアウトした。
ボンバーマンII 概要 ゲームシステムや雰囲気の異なる『ボンバーキング』(1987年)を除けば、ファミリーコンピュータでの『ボンバーマンシリーズ』の第2作目となる。前年に発売された『ボンバーマン』(PCエンジン版1作目。以下、単に「PCエンジン版」と表記する)のスタッフが制作したためか、主人公のグラフィックや敵キャラクター、複数のエリアに分かれたステージ構成など、随所にPCエンジン版に近い作りが見られる。 2005年12月22日にはゲームボーイアドバンス用ソフト『ハドソンベストコレクション Vol.1 ボンバーマンコレクション』に、初代ボンバーマンとともに収録された。ただしこちらは対戦機能が削除されている。 ノーマルモード 一人用のゲームモード。初代ボンバーマンやPCエンジン版と同じようにステージを1つずつ順番に進めていく。ステージ内の敵をすべて倒したあと、ソフトブロック(破壊可能なブロック)から出てきた出口の上に立てばステージクリア。ただし本作ではPCエンジン版と異なり、ボスクラスの敵は存在しない。制限時間も設定されているが、本作では時間切れになると即ミスになる。 ボーナスステージ 各エリアの6面に出現するアイテム「ボンバーマン」を取得すると、7面の前にボーナスステージが始まる。このステージではボンバーマンは無敵になる。制限時間内にできるだけ多くの敵を倒すのが目的。敵をある程度倒すと出現するボンバーマンに触れると残り人数が1人増える。 VSモード プレイヤー2人で遊べる対戦モード。ブロックを破壊してアイテムを回収しつつ、相手プレイヤーを爆弾の炎に巻き込めば勝利となる。対戦は5本勝負だが、4対4になるとジュースとなり、先に2本先取するか10点とったプレイヤーが最終的な勝者となる。コンピュータを交えた対戦はできない。 バトルモード プレイヤー3人で遊べる対戦モード。このモードをプレイするには別売りのコントローラが必要になる。基本的なルールはVSモードと変わらないが、プレイヤーの初期能力はVSモードの方が若干高い。また、取得するとマイナス効果の表れる「ドクロパネル」が出現する。勝戦回数は1~5本勝負のいずれかから選ぶことができ、最初に勝ち数がそれに達したプレイヤーが勝者となる。VSモード同様、コンピュータを交えた対戦はできない。 ストーリー ホワイトボンバーマンは、鉱山で働く真面目な青年であったが、ブラックボンバーマンの陰謀によって銀行強盗の濡れ衣を着せられて警察に逮捕され、刑務所に収容されてしまう。彼は、自分が無実であることを証明するため、刑務所から脱走することを試みた。
米田豊 幼少期 1884年(明治17年)島根県松江市に、中村正修の子として生まれる。その後、松江藩旧士族の米田家の養子になる。1890年(明治23年)米田が6歳の頃英国国教会宣教師で日本伝道隊の創設者バークレー・バックストン一行が来日し、松江の米田近所住む。その後、バックストン一行に関わるようになる。同じく、日本伝道隊の宣教師パゼット・ウィルクスの導きで信仰を持つ決心をして、1900年(明治33年)に米田16歳の時に、バークレー・バックストンから洗礼を受ける。また、バックストンの元で修養していたちいさき群の笹尾鉄三郎の薫陶を受ける。 聖書学校 知り合いの奥田常三郎が東京府神田の東洋宣教会の聖書学校入学したことを聞く。さらに、機関紙焔の舌で聖書学院4月の開校を知る。そこで、米田は家族の反対を押し切り1901年(明治34年)5月に上京し、1ヶ月遅れで神田の聖書学校に入学する。修養生として訓練を受ける。聖書学校の教師の中田重治、チャールズ・カウマン、笹尾鉄三郎、三谷種吉などの薫陶を受ける。 1902年(明治35年)5月さらに6月に、第二回大挙伝道が行われた。その時中田重治は、三谷種吉の組織した修養生による福音音楽隊を率いて東北、北海道の各地を巡回した。その時、米田は福音音楽隊の一員として、大太鼓を叩く。8月には弘前で伝道した時には、後に日本メソジスト教会重鎮になる阿部義宗がキリスト教に回心する。 1902年の年末には修養生を五組に分けて実地伝道に派遣する。米田は、休暇を兼ねて藤樫と一緒に千葉県に派遣された。 1904年(明治37年)に20歳で徴兵検査を受け日露戦争に従軍する。1905年(明治38)に終戦後、本国に帰還する。その後、聖書学院に復学し、岩手県土崎へ伝道に派遣される。その時、小原十三司らに出会い、小原たちをキリスト教信仰に導く。 1908年(明治41年)に最初の妻白浜たけと結婚する。 聖教団事件 1911年(明治44年)聖教団事件が発生し、中田重治監督とカウマン宣教師らが分裂騒動を起こす。その時、米田は中田側に付く。そして、渡辺善太、丹羽平三郎、池田長十郎、富士たけ、本郷義雄、小出朋治らと共に宣教会教役者と辞任し、中田監督側の聖教団教役者になる。米田は中田監督の元で、丹羽、渡辺と共に委員に就任する。さらに、中田が新に設立した淀橋教会(東京府淀橋町柏木308)に一家で移転する。 しかし、1,2ヶ月の協議の後、米田たちに相談なしで中田監督とチャールズ・カウマン宣教師は和解することになり、中田と宣教師の協力体制が再開される。中田相談なしでカウマンらと妥協したことを、渡辺と米田は大変不満に思い、埼玉県大宮(現在の秩父)方面にトラクト配布に出かけた。 日本ホーリネス教会離脱 1913年に笹尾鉄三郎が辞任したことに失望した米田は、バークレー・バックストンに三度目の来日を機に東洋宣教会を去り、神戸に滞在していたバックストンの秘書になる。バックストンが英国に帰国した後は、長崎市出島メソジスト教会(長崎銀屋町教会)の牧師として赴任した。 1920年1月25日より2月1日まで長崎のメソジスト教会で開かれた純福音宣伝大会に中田重治と柘植不知人と小原十三司が参加したときに、当時メソジストに所属していた米田は中心になって活動する。このことがきっかけになり、1920年3月に7年ぶりにホーリネスに戻る。そして、聖書学院の教授になり、また日本ホーリネス教会深川教会の牧師になる。 日本ホーリネス教会復帰 1920年4月に、米田は「リバイバル後の記」を発表する。そこでは、アメリカの浅薄な伝道者がリバイバルを請け負っているように、リバイバルという用語を乱用することに対しての冷静な抵抗感を吐露している。しかし、12月30日には、「リバイバルの年を送る」という大正のリバイバルの回顧を書いているが、そこでは、「もっと広いリバイバル」を待望する主旨の内容が書いてある。 1924年4月のホーリネス大会で『きよめの友』(旧、焔の舌)主筆を中田重治から受け継ぎ、1933年の分裂まで主筆を続ける。 後に聖書学院の教授になり、新約聖書を教える。1925年日本ホーリネス教会が財団法人になった時に、中田重治、車田秋次、小原十三司、と共に財団法人の理事に選出された。1932年にホーリネス教会第三総会で板垣賛造と共に書記に選出され、その総会で再び理事に選出された。 1932年6月9日に米田は「思想上の脱線を防げ」という論説を『きよめの友』発表した。それは、一般信徒への独善的な聖書解釈を戒める内容である。駒澤大学教授の池上良正はリバイバルの高揚の中で、日ユ同祖論を強引に主張していた中田監督夫妻への牽制であると言う。 1932年、米田はきよめの友の連載していた聖書日課を「旧約聖書講解」(上巻、律法歴史の巻、下巻、詩歌預言の巻)として発行し、また、新約聖書全解を出版した。小池章三の『リバイバルのさなかに-男子ホーム脱線のきざし』によると、昭和のホーリネス・リバイバルの際に、1932年6月頃、聖書学院では「主の再臨を求めるものは、冬物衣類を捧げて祈るべき」「わ藁屑は焼くべきだ」と言って、衣類、書籍を焼いた。中田重治や米田豊の著書も、焚書された。この行動の背後には舎監の中田あやめ監督夫人の影響があったと言われる。 ホーリネス分裂 1932年第三総会後に淀橋聖会が行われ、「聖書より見たる日本」という題で5日間に渡って6回の講演した。中田は総統準備してみずからの日ユ同祖論を発表した。後に、米田と尾崎喬一らが筆記して出版した。米田は中田に才能を見込まれ速記を会得させられていた。さらに、3月に大阪放送で「聖書より見たる日本」を放送講演した。 1933年9月22日に中田重治監督が、聖書学院五教授にイスラエルの民族の救いとそのために祈る日本民族の祝福を中心にする監督の方針にしたがって講義して欲しいという書簡を送った。五教授の米田と車田秋次、小原十三司、一宮政吉、土屋顕一はホーリネス教会の使命は個人の救霊であって、中田監督の新使命には一致できず、聖書学院の教授を辞すべきであるが、これは、全体の信仰問題に関わるので、教団の最高機関の総会を臨時に招集して、監督の新使命の是非の裁定を仰ごうとした。中田の承認の元に、米田ら総会常置委員は臨時総会を招集した。 しかし、中田は臨時総会開催の承認を取り消しして、非合法と見なし、非合法運動を推進したという理由で米田ら五教授を10月19日に解任した。しかし、臨時総会は淀橋教会で10月25日に開催された。中田は臨時総会に対抗して、全国教役者会を聖書学院に非常招集し、10月23日夕方までに役200名教役者が集結した。10月24日の朝に、総会が常置委員によって開かれるが、メソジストの監督審判法に従って非合法であること説明して、そのことの交渉を総会代議員である教職にゆだねた。臨時総会の席上で10月26日臨時総会の二日目に、中田重治の監督職を解任する案が上程されて全会一致で可決された。監督解任によって代わりに代行として委員会制度が設けられ、ホーリネス教会年則に付加された。車田秋次、菅野鋭、小原十三司、一宮政吉らと共に5人の委員に選ばれた。ここで、日本ホーリネス教会は二つに分裂した。その際、米田は中田の解任状を書いた。中田は信仰の相違で別れるのだから握手して別れたいと、車田秋次と握手をした。その夜、米田と車田、一宮、小原、菅野、鈴木仙之助の6名が中田邸を訪問して、共に祈り、敵意なく別れた。 日本聖教会 しかし、その後神田事件や、中田側の民事訴訟によって、問題の解決は難航した。阿部義宗、渡辺善太、松山常次郎、星二郎などの仲裁努力が実って、1936年10月19日に和協分離が成立して、日本ホーリネス教会は解消した。そして、委員側の日本聖教会と中田重治側のきよめ教会に正式に分離することになり、12月25日分離した二つの団体は正式に発足した。米田は1936年11月28日、鉄道ホテルで行われた和協午餐会に委員の一人として出席した。その中で中田と和解した。その後は、中田派とは別の道を歩むことになる。聖書学院は中田側に渡り、日本聖教会は聖書学校塾を練馬区茂呂町に作り、米田は院長として指導者になった。また、機関紙『霊光』の主筆になった。 1941年6月の日本基督教団成立の際には、日本聖教会から第六部の常議員になる。第六部の代表は車田秋次が就任する。 1942年のホーリネス弾圧事件の際には教会指導者の一人として検挙される。2年の実刑判決を受けて上告する。早稲田警察署から巣鴨の東京拘置所に移される。1943年にホーリネス教会は解散し、日本基督教団より米田らホーリネス系の牧師は解任される。1944年4月に保釈されて出所するが、13年間中風で闘病生活をしていた先妻タケ夫人は、米田の入獄中に死去する。 戦後は、しばらく埼玉県秩父に居住した。 1945年10月8日にアメリカ合衆国の放送で「車田、米田が殉教した。」というニュースが放送されたが、11月に車田が手紙をアメリカロサンゼルスにいた東洋宣教会の代表レテー・カウマンに書き送ったことにより、殉教が誤報であったことが分かる。 日本ホーリネス教団 1949年、車田秋次らが東洋宣教会(OMS)の援助により、日本基督教団を離脱して、日本ホーリネス教会(後に、日本ホーリネス教団に改名する)を創設した時には参加せず、翌年の1950年、米田も参加して、柏木の東京聖書学院の構内に居住する。後に、日本ホーリネス教団の元老として車田秋次や山崎亭治らと共に、日本ホーリネス教団を指導する。 1952年に奈津子夫人と再婚する。 1959年に中田の没20周年とプロテスタント宣教100周年記念に際して、中田重治の伝記の刊行が企画され、牧師の森五郎と伊藤馨、信徒の川端京五郎と白根栄治らと共に発起人になる。それに、発起人に車田秋次、野辺地天馬、米田勇、小原十三司、泉田精一、田中敬止を加えて中田派の四つの団体(ホーリネスの群、日本ホーリネス教団、基督兄弟団、)の指導者が中田重治伝刊行委員会が結成される。渡辺善太、阿部義宗、中田羽後が顧問になり、米田の息子の米田勇によって中田の伝記『中田重治伝』が執筆が依頼される。 戦前から、旧約聖書講解(1932年)の新約版をだしたらよいという助言をするものがあった。1963年に、旧約講解と同じ型の物を出版しても良いと思うようになり、家庭礼拝の友に三年間連載した聖書日課をまとめて新約聖書講解を出版した。聖書は口語訳を使用し、各書の総論は1932年に出版した新約聖書全解を使用した。 1964年 小原十三司の発起により、超教派で80歳の誕生日を祝われる。1972年に米寿を記念していのちのことば社より回顧録『主を仰いで』が出版される。1976年日本ホーリネス教団の元老として91歳で、脳溢血により眠るように穏やかな死を迎える。
レヒノ・エルナンデス 経歴 1991年7月25日、アフリカ大陸にあるスペイン領土のセウタに生まれた。 2010年にはカナダのバンクーバーで開催された2010年バンクーバーオリンピックに出場し、スノーボードクロスで31位となった。2011年3月29日にはイタリア・ロンバルディア州のヴァルマレンコで開催されたFIS世界ジュニア選手権において、スノーボードクロスで金メダルを獲得した。 2014年2月にはロシアのソチで開催された2014年ソチオリンピックに出場し、スノーボードクロスで21位となった。2014年3月15日にはスペインのラ・モリーナで開催されたワールドカップにて、初めて同大会で表彰台に上った。 2018年2月には韓国の平昌で開催された2018年平昌オリンピックに出場し、スノーボードクロスで銅メダルを獲得した。冬季オリンピックのスノーボード競技でメダルを獲得した初のスペイン人選手である。スペイン人選手が冬季オリンピックでメダルを獲得するのは1992年アルベールビルオリンピックのブランカ・フェルナンデス・オチョア(女子回転)以来のことであり、男子選手としては1972年札幌オリンピックのフランシスコ・フェルナンデス・オチョア(男子回転)以来のことだった。
ハビエル・カスティーヨ 経歴 2006年開幕前の3月に第1回WBCのパナマ代表に選出された。 2009年開幕前の3月に、第2回WBCのパナマ代表に選出され2大会連続2度目の選出を果たした。 2012年11月には、母国パナマで行われた第3回WBC予選のパナマ代表に選出され、3大会連続3度目の選出を果たした。
欽欽乃欽欽学学教室 概要 通称「欽学」(きんがく)。俳句、川柳、狂歌、替え歌を多く募集。薀蓄のある話から男女関係、体や生理現象の話、下ネタまであらゆることを“研究”として番組中で紹介などしていた。また、あらゆる雑学に触れるコーナーも有った。 贈られてきた作品の中から、優秀作品に表彰状が贈られていた。 コカコーラ・ボトラーズの一社提供。
篠原伯母野山町 篠原伯母野山町(しのはらおばのやまちょう)は兵庫県神戸市灘区の町名。現行行政地名は篠原伯母野山町一丁目から篠原伯母野山町三丁目。平成17年国勢調査(2005年10月1日現在)における世帯数794、人口1,984、うち男性960人、女性1,024人。郵便番号は657-0015。 地理 灘区の地理的中央部に位置する。北東は篠原台、東は都賀川の支流六甲川を隔て六甲台町、南東は大土平町、南は篠原北町、東から北にかけては篠原。南東部に一丁目、南西部に二丁目、北部に三丁目が置かれる。 歴史 旧・篠原字伯母野山と伯父野山(おじのやま)の一部から昭和53年(1978年)8月に成立した。 地名の由来 『篠原村誌』に「伯母野山 袁婆能(おばの)○牛小屋山ノ北方ニアリ松林タリ。 伯父野山 袁遅能(おじの)○伯母野ノ東ニアリ小嶮タル松山アリ」とある。『神戸の地名 改訂版』によれば「オジ」「オバ」に類似する山名は全国各地にあり、「ウバガフトコロ」に至っては数十ヶ所あるという。兵庫県の例で言えば神戸市北区大沢町の「乳母ヶ懐」「番ケ懐」、加古川市の「乳母が懐」、高砂市の「御乳母の懐」があり、ウバはオバに通じ、いずれも日当たりのいい山間の小平地を指すという。 芝晃によれば「ばんのふところ」という字名が北区有野町唐櫃・五社の2箇所にありいずれも「西日を浴びて、北風のあたらぬ日だまりの地」であり、オバノヤマもそうした立地であるとする。 オジについては日当たりのいいオバと対照的に「陰地(オンジ)」の事を言い、同様の地名に長田区高取山の北北東にある「爺父ヶ懐(オジガフトコロ)」を挙げている。
安部隆也 来歴 ヴェルスパ大分、V・ファーレン長崎のアカデミー出身。 2018年より、ヴェルスパ大分へ加入したが、同年シーズン終了後に1年で退団した。
バルザノ 位置・広がり レッコ県南西部のコムーネ。県都レッコから南南西へ15kmの距離にある。
MAN WITH A MISSION 概要 公式設定としては、19XX年、地球が度重なる戦禍に見舞われていた時代、エレクトリックレディーランドと呼ばれる地球の最果てで、天才生物学者であるジミー・ヘンドリックスによるマッドサイエンスの結果生まれた生命体とされる。ジミー自身はギターを趣味としていたことで、音楽の能力がプログラミングされた。超人的な肉体と頭脳を持つため、アドルフ・ヒトラー、ヨシフ・スターリンと言った権力者から、ギレン・ザビに至るまで利用されることとなり、罪の意識に苛まれたジミーは誰の手にも渡らせぬよう、命と引き換えに南極の氷河の中に氷漬けにした。 凍結中は、オオカミならではの発達した聴覚で世界中の様々な音楽を聴いていたが、1997年に開催されたAIR JAMで演奏された音を聴いたことをきっかけに、音楽で何か世界を変えられないかと音楽活動を志すようになる。以後凍結状態が続いていたが、2010年になり、地球温暖化の影響で氷が融けてしまったために復活し、バンド活動を開始した。 バンド自体の結成時期は公表されていない。また、メンバーの年齢や国籍も非公開となっている。楽曲制作において、ギターのJean-Ken JohnnyとベースのKamikaze Boyが主に作詞を手掛けている。作曲は、Jean-Ken JohnnyとKamikaze Boyによってコード進行やリズムパターンとイメージが骨組みとして決定され、その後各パートごとの詳細なアレンジをメンバー全員で話し合いながら作り上げていく手法を取っている。Jean-Ken Johnnyがバースを歌い、Tokyo Tanakaがサビを歌う楽曲構成が大半を占める。 ライブでの登場SEにはバッド・レリジョンの「Man With A Mission」という自身のバンド名と同名の楽曲を使用している。なお、該当曲が収録されているアルバム「Recipe For Hate」のジャケットにはMWAMのメンバーと同じく頭が狼になっている人物が2人描かれている。 プロジェクト始動 - インディーズ活動 2010年3月7日、プロジェクトの始動が公式アナウンスされ、同日に渋谷eggmanにて行われた、Bar「ロックのこころ」およびeggmanによる共同企画イベント「Bar Come On Rock!!Vol.3(バカモンロック)」にて初ライブを行う。3月15日、楽曲「DON'T LOSE YOURSELF」のミュージックビデオをYouTubeに公開。6月25日、渋谷EGGMANにて行われた、World ChordおよびEGGMANによる共同企画イベント「World Standard Development Vol.4」にて、3曲入りの初の自主制作シングル「MAN WITH A MISSION」を会場限定で販売。 11月3日、FROM YOUTH TO DEATH RECORDSより、ミニアルバム『WELCOME TO THE NEWWORLD』を1万枚限定で発売し、全国デビュー。公式先行発表されていた収録曲「DON'T ROSE YOURSELF」は、tvk『Mutoma』2012年1月度テーマソングに起用された。11月17日より全4公演で全米ツアーを行い、その際に告知ポスターを見たエアロスミスのスティーヴン・タイラーが「クール」と叫び、自身のステージで『WELCOME TO THE NEWWORLD』のタイトルを連呼したとされ、話題となった。 2011年3月17日、東日本大震災を受けて公式ブログ上で声明文を掲載し、被災地と被災者に向けて新曲「RAIN OF JULY」をMySpaceおよびYouTube上に公開。同曲は、収益分を全額被災地への寄付に充当するチャリティーシングルとして急遽制作され、ライブ会場限定で4月10日まで販売された。 4月6日、tvk『音楽缶#』2011年4月度テーマソングおよびWOWOW『Hits seeker』2011年4月度パワープレイに起用されたシングル「NEVER FXXKIN' MIND THE RULES」を、2,029枚限定で発売。発売直後の4月8日からは、全国ツアー『MAN WITH A MISSION JAPAN MARKING TOUR 2011』を全国11公演で開催。4月28日、日本クラウンからのメジャーデビューを正式に発表。 メジャーデビュー以降・2011年 6月8日、CROWN STONESより、フルアルバム『MAN WITH A MISSION』を発売しメジャーデビュー。収録曲で、限定シングルで既に発表していた「FLY AGAIN」はミュージックビデオが制作され、tvk『Mutoma』2011年6月度テーマソングおよびテレビ東京『ゴッドタン』2011年6月度エンディングテーマにそれぞれ起用された。アルバムからは「FLY AGAIN」「RAIN OF JULY」「DANCE EVERYBODY」の3曲が各局ラジオオンエアーで取り上げられ、全国計27のラジオ局でパワープレイおよび番組テーマタイアップを獲得した。 6月20日、東日本大震災の復興支援として、岩手県大船渡市にて炊き出しと支援物資の運搬を行う。7月3日、渋谷EGGMANにて、全国ツアーの最終公演にて初のワンマンライブ『MAN WITH A MISSION JAPAN MARKING TOUR FINAL』を開催し、398人を動員。8月14日にはSUMMER SONIC 2011にて、東京会場BEACH STAGEに出演を果たす。9月9日には渋谷 CLUB QUATTROにて、初の自主企画ライブ『MAN WITH A MISSION presents THE MISSION Vol.1』を開催。 10月5日、ハロウィンをコンセプトとしたミニアルバム『Trick ot Treat e.p.』を発売。ニルヴァーナの楽曲「Smells Like Teen Spirit」のカバーを収録したほか、リードトラック「Feel and Think」はtvk『音楽缶#』2011年10月度テーマソングおよびテレビ朝日系『ストリートファイターズ』2011年10月度パワープレイに起用された。10月31日からは、全国ツアー「草食男子絶滅TOUR 2011/2012」を全国14公演で開催。 2012年 - 2012年1月3日より、ニッポン放送『オールナイトニッポン』のジングルを担当。1月27日、メジャーデビューアルバム『MAN WITH A MISSION』が第4回CDショップ大賞に入選。2月10日、日本クラウン主催の第48回日本クラウンヒット賞をJ-POP部門で受賞し、贈呈式に出席。同席した北島三郎から好評と激励を受けた。 3月14日、インディーズデビューミニアルバムに楽曲2曲を追加収録した『WELCOME TO THE NEWWORLD -standard edition-』を再発。本作で初出となる新曲「TAKE ME HOME」はミュージックビデオが制作され、日本テレビ系『音龍門』Baby Dragon's Gate(パワープレイ)に起用された。3月20日、カルチュア・コンビニエンス・クラブがTSUTAYA RECORDSで配布するフリーペーパー『VA』2012年4月号誌上より、Jean-Ken Johnnyの初のコラム「MAN WITH A MISSION ジャンケン・ジョニーの“イヤァ〜…映画って本っ当にイイもんですね〜”」が連載開始。 4月4日、メジャー初のシングル「distance」を発売。CDフォーマットでは、CDのみの通常盤のほかにDVD付2枚組の初回限定盤の2形態が同時発売となり、本作付属DVDが初の映像作品の製品化となる。タイトル曲「distance」はテレビ朝日系『musicる TV』2012年4月度オープニングテーマ、北海道テレビ放送『夢チカ18』2012年4月度オープニングテーマ、tvk『音楽缶#』2012年4月度テーマソングにそれぞれ起用された。オリコンチャートデイリーランキングでは4月4日付で4位を記録し、自身初のトップ5入りを記録。また、ニルヴァーナのアルバム『Never Mind』のカバーを収録したトリビュートアルバム『NEVERMIND TRIBUTE』も同時発売され、本作で「Lithium」のカバーを収録した。同日より、NANO Media Inc.の提供により、iPhoneおよびAndroid端末向けのアーティスト公式スマートフォンアプリ『MAN WITH A MISSION Official Apps』が無料配信開始。シングル発売を記念し、発売翌日の4月5日にはタワーレコード渋谷店にてメンバーが1日店長に就任し、本作キャンペーンと同時に接客や商品陳列などの営業業務を行った。4月7日には、ニッポン放送『オールナイトニッポンR』にて、Jean-Ken Johnnyがラジオパーソナリティに起用された『MAN WITH A MISSION ジャン・ケン・ジョニーのオールナイトニッポンR』が放送。7月18日2ndフルアルバム『MASH UP THE WORLD』を発売。2ndフルアルバム収録の「FROM YOUTH TO DEATH」がハッピーMusic7月オープニングテーマに起用される。 2013年2月22日、テレビ朝日系『ミュージックステーション』に出演。地上波の音楽番組に初めて生出演した。 3月7日、全日本CDショップ店員組合の「第5回CDショップ大賞」の大賞を「MASH UP THE WORLD」で受賞。 8月19日、ソニー・ミュージックレコーズへの移籍を発表。移籍後初のシングル「database feat. TAKUMA(10-FEET)」はテレビアニメ『ログ・ホライズン』のオープニングテーマとして使われ、同作の第1期第18話にメンバー全員がモブキャラとして登場している。 2016年10月からソニー「ハイレゾ級ワイヤレス」キャンペーンCMに起用され、CM初出演を果たす。
大正郵便局 (高知県) 概要 住所:〒786-0399 高知県高岡郡四万十町大正389-4
アデナ文化 アデナ文化(Adena)は、アメリカ合衆国オハイオ州を中心に1000B.C.頃から紀元前後に栄えた文化。アデナ文化は、初期(ないし前期)ウッドランド期(Early Woodlannd Period)の文化として位置付けられ、アデナ文化の出現によって、後のホープウェル文化をはじめとするウッドランド文化の先駆となるウッドランド式土器や墳丘墓、トウモロコシ農耕のすべてがでそろった。 アデナ文化の遺跡の分布範囲 アデナ文化の遺跡は、オハイオ州南部を中心にインディアナ州のオハイオ州との隣接地、ケンタッキー州北部、ペンシルベニア州の南西部、ウェストヴァージニア州の北西部に分布している。 アデナ墳丘墓群は、墳丘墓、環状土木遺構(earthworks encloseure)の双方で知られている遺跡である。墳丘墓は、円錐状をなす土盛りの墳墓であり、アデナ文化のもののうちで最も大きく有名なものは、ウェストヴァージニア州にあるGrave Creek Mound(グレイヴ・クリーク・マウンド)である。グレイヴ・クリーク・マウンドは、20mを超える高さを誇る。 環状土木遺構は、防御用というよりは儀式的な意味を持つ遺構である。環状土木遺構の多くは、ほぼ完全な円形になっている。このように「神聖な円」は、平均して直径100mで堀を伴う低い土塁で囲まれている。いくつかの出入り口がその土塁を分断するようにつくられている。墳丘墓は、そのような環状土木遺構の内部で見つかることがある。いくつかの環状土木遺構がまとまってひとつの遺跡を構成している。約48km²にわたるアデナ文化最大の遺跡、Wolfes Plains Groupはそのようなアデナ文化の環状土木遺構の分布する様子を示す好例である。 アデナ文化の墳丘墓と建築物 アデナ文化の墳丘墓を発掘調査すると丁寧に死者を埋葬している様子をうかがい知ることができる。地位の高い人物は、丸太で組んだ墓に葬られた。それらの墓の輪郭は、長方形で、丸太材は、水平に置かれているか地面を刳り貫いた穴の中に埋め込まれている。墓は何本かの柱と樹皮によって住居のように屋根がつけられ、土の墳丘が被せられている。最初の墓が造られた場所には、次の墓は、内部に作られるかそのマウンドに接して造られる。そしてさらにその上に土盛りをおこなう。 それらの墓は、たいていは土の重みによってつぶれるか、木材が腐って壊れるかするが、丁寧に発掘調査すれば、もともとの墓の形や構造をあきらかにすることができる。 一般的にマウンドの中にある最初の墓は、内部に木柱に支えられた建物がある。その建物は神殿であり棺(若しくは納骨堂)であり(死後の)住居である。墓は、床の上か床の下にピット、つまり家や建物を中に含んだマウンドの中に造られる。 建物を燃やして土に返すことは、埋葬の儀式の一部であった。遺体はあおむけに伸展葬で葬られた。肉体がついたままかすくなくとも関節がつながった状態で葬られた。多くの骨は赤い顔料で塗られていた。肉体が腐敗して骨だけになる前に赤い顔料のなかに漬されたか肉体を腐食させるために一定期間さらしておいてその後に塗料を骨に塗ったかのいずれかと思われる。後者の可能性があるなら墓の中に遺体が置かれた時間と墓が封印された期間があると考えられる。 その間、木製の柱で建てられた小屋のみで仕切られたかトンネル状に出入り口を付けられたマウンドを墓としてその場に寝かされていたのかもしれない。 トンネル状の出入り口に残された壊れかかった遺物は、材木で仕切られるか被われるような状態でアデナ文化のマウンドから発見される。通常1人から3人の遺体がひとつの丸太組みの墓から発見される。遺体から切断された頭蓋骨だけが墓やマウンドから発見されることがある。 たぶん戦いで獲得された捕虜の首級か尊敬される先祖の頭蓋骨である可能性がある。屈葬や二次埋葬の墓がしばしば発見されるにもかかわらずアデナ文化では希な墓である。実際、アデナ文化では、土葬より火葬のほうが一般的だった。遺体は、建物の中か村落の中に葬られた。円形ないし長円形の粘土造のくぼみに置かれて焼却された。 ときどき遺灰や比熱した骨が伸展葬の状態で発見されることがある。そのような伸展葬の遺体はマウンドの中から普通に発見される一方で、「荼毘跡」(骨を焼いてそのままにした跡)ともいうべき窪地に放置されたり、粘土や丸太で覆ってその場所をマウンドにしている場合もある。副葬品がそのような遺体や火葬された遺骸とともに埋葬されている。そのような副葬品は、しばしば意図的に壊されたり火葬の際に傷んでいることがある。 アデナ文化の埋葬や墳丘墓は、アデナ文化の担い手である人々のなかに「死」というものが生活の中の中心的なテーマのひとつとなっていて、「死」についての儀式や習慣の表現に多様性や複合性があることを示し、このような特質は後のウッドランド文化、つまりホープウェル文化、ミシシッピ文化にも中心的なテーマとして受け継がれていくことになる。人々は、埋葬の儀式や埋葬のための施設を造ることに多くの精力が費やされた。 それは、根本的には、マウンドや土木構造物を周辺の風景の中に永久に残すことによって記念とする目的のためであった。そのことは同時に亡くなった霊に捧げられた場所を示すことにもなったのである。墓のある場所は、アデナ人が永久に住むか住まないかに関わらず社会的政治的宗教的中心地であった。アデナ人が住んだのは、2軒から5軒ほどで形成される小さな「村落」であった。その小さな「村落」はいくつかの家族単位で構成され、かなり広域にわたって点在する非常に大きな村落群の一部であった。たぶんこのような「巨大村落」は、墳丘墓や土木構造物を造るのに必要な人口を維持していたと推察される。 アデナ文化の宗教的建築物については、主として墳丘墓から判明している。前述しているように墳丘墓の内部から壊れた状態で発見される建物がある。柱の骨組みや配置は、平均して直径11mほどの円形であり、それよりもずっと大きなものも見られる。 アデナ文化の建物の壁を支える柱はいつも二本一対で円形にならんでいるのが明らかになっている。二本一対の柱に囲まれた円の中にあるいくつかの一本柱は屋根の中央を支えるために使用されていた。マウンド内部にある二本柱の建物が儀礼や葬式のみに使用されたのか、又はそのように葬礼や儀式に使用する建物が普通の住居のプランや形を真似て造っているのかは未だ解決のつかない疑問になっている。 おびただしい量のアデナ文化の建物が墳丘墓から発見される。一方で、同じものが村落遺跡から残骸として発見されることがある。 アデナ文化の遺物 アデナの尖頭器は、長く直線的な有茎尖頭器であって、古期段階の尖頭器と大きくは変わらない。とぎあげてみがいた石製品のなかには、二つの孔のある棒状ないし糸巻き状などの形をした「のどあて」(ないし「襟章」)が見られる。それらの「のどあて」(ないし「襟章」)は投槍器のおもりであったと考えられる。 古期段階の後半に見られるチューブ状のパイプは、アデナ文化では、一般化する。チューブ状のパイプは、吹き口が平坦につくられ、精巧に造られたもののなかには、人間を象ったものもある。アデナ文化の彫刻は小さな石版(石製「護符」)に表現される。その石製「護符」は、小さく平坦なもので、厚さは、1cmをわずかに超えるくらいで、長さは8~10cmほどである。片面ないし両面に様式化した動物や幾何学紋様が刻まれる。
清水信之 幼少・青年期 幼少時よりピアノを習う。なお、小学生の時にピアノを習っていた同級生が後のギタリスト・鳥山雄司である。 東京都立松原高等学校に在学中、後輩のEPO、佐橋佳幸らとバンド活動を行う傍ら、ミュージシャンの松岡直也に師事。清水がラテン系のアレンジに強い理由は、この頃の経験によるものだといわれている。
ビール 原料 ビールの主な原料は水、デンプン源(麦芽など)、ビール酵母、香味料(ホップなど)である。多くの場合、大麦の麦芽を主原料とし、副原料としてアサ科のホップやトウモロコシ、米、砂糖等が使われる。特にこれらの副原料は大麦麦芽の安価な代替物として使用されることがある。また小麦やライ麦の麦芽でも製造は可能である。アフリカではアワ、ソルガム、キャッサバの根が、ブラジルではジャガイモ、メキシコではリュウゼツランがデンプン源として使われる。 水 ビールの主成分は水である。地方によって水に含まれているミネラル組成は異なる。そのため、各地方で製造するのに水に最も適したビールも異なり、地方ごとの特色が現れる。たとえばアイルランドのダブリンの水は硬水であり、ギネスなどのスタウトビールの醸造に適している。チェコのプルゼニで採れる水は軟水で、ピルスナーウルケルなどのペールラガーの醸造に適している。イングランドのブルトンの水はジプサム(石膏; 硫酸カルシウムの鉱物)が含まれているため、硫酸塩の添加(ブルトニゼーションと呼ばれる、ホップの風味を引き立たせる手法)が必要なペールエールビールの製造に適している。 糖質原料 ビールのデンプン源に何を使用するかで、その濃さや風味が左右される。最も一般的なデンプン源は麦芽であり、後述のように大部分のビールには大麦の麦芽が使われる。麦芽の製法は種子に水と空気を与えて発芽させ、発酵過程に入る前に麦芽の成長を止めるため窯内で乾燥焙煎させる。これを焙燥という。その後、幼根を取り除いたものが麦芽である。種子が麦芽になることによって、デンプンを発酵性の糖に変える酵素が生産される。同じ種類の穀物から作られた麦芽でも、焙燥時間と温度の違いによって、異なる色彩をもつようになる。暗色の麦芽からは暗色のビールが製造される。多くのビールにはオオムギの麦芽が使用されている。オオムギは発芽力が強く、皮が薄く、でんぷん質が多く、窒素量の少ないものが原料として優れている。 ホップ 現在、商業用に生産されているビールのほとんど全てには、風味付けとしてホップが使われている。ホップは和名をセイヨウカラハナソウというつる性植物であるが、その花はビール製造において風味付けと保存性を高める機能を持つ。 ホップはもともとドイツ、ヴェストファーレン地方のコルヴァイ修道院のようなビール醸造所で、西暦822年から使用されていた。だがビールに使用するための大量栽培が開始されたのは13世紀になってからである。13世紀から16世紀までの間、ホップは最も主要な香味料として使われるようになっていった。しかしそれ以前には、他の植物(例えばGlechoma hederacea)が香味料として使われることもあった。「歴史」の節で述べたが、グルート (gruit) と呼ばれるニガヨモギなどのさまざまなハーブ、ベリー類も、現在のホップと同じように、ビールの香りづけに使用されていたこともある。現在製造されているビールで、香りづけにホップ以外の植物も使用しているものは、Scottish Heather Ales companyのFraoch'やla Brasserie-LancelotのCervoise Lancelotなどである。ホップは、麦芽の甘みと調和のとれた苦味をビールに与え、また花や柑橘系、ハーブのような香りをビールに与える。ホップには抗生物効果があり、ビール醸造に寄与しない微生物を抑え、ビール酵母が有利に働く環境を整える効果がある。他にも泡持ち(ヘッドリテンション)の長さに寄与し、保存力を高める効果がある。 ビール酵母 ビール酵母は穀類から引き出した糖を代謝し、エチルアルコールと炭酸ガスを生産する。酵母の働きによって麦芽汁がビールになる。また酵母はビールの個性、味わいにも影響を与える。ビール酵母には、発酵中に発生する炭酸ガスとともに液面に浮かび、褐色クリーム状の泡の層を形成する上面発酵酵母と、発酵末期に槽の底に沈殿する下面発酵酵母が存在する。製造に前者を用いるビールを上面発酵ビール(エール)、後者を用いるビールを下面発酵ビール(ラガー)という(詳しくは「分類」の節を参照)。最も主要な上面発酵酵母はSaccharomyces cerevisiaeで、最も主要な下面発酵酵母はSaccharomyces uvarumである。バイエルンの白ビールではTorulaspora delbrueckiiが働く。酵母の働きが解明される以前は、空中を漂う自然酵母によって発酵を行っていた。いわゆる自然発酵ビールである。大部分のビールは純粋培養の酵母を加えることで発酵を行うが、ランビックのようなごく一部は現在も自然発酵で製造されている。自然発酵ビールのランビックでは主にBrettanomyces属の酵母が働く。 清澄剤 清澄剤は濁り物質を凝集させて沈殿除去する働きのある物質である。製造直後のビールにタンパク質の濁りが見られるとき、醸造所によっては1種類あるいはそれ以上の清澄剤が添加されることがある。この操作によって澄んだビールを作ることができる。ビールに使用される清澄剤の例としてはアイシングラス(魚の浮袋に含まれるゼラチン質)、アイリッシュモス(紅藻の一種)、Kappaphycus cottoniiから採れるκ-カラギーナン、ポリクラール、ゼラチンなどである。もしラベルなどに「菜食主義者向け (suitable for vegetarians)」といったことが記されていたなら、そのビールには動物性のゼラチンが使われておらず、海藻や人工の添加物で澄ませている。 製法 ビール醸造所のことをブリュワリー(ブルワリー)という。法律などで制限されていない限り家庭でもビールの醸造は可能であり、ビールの歴史の中ではそのようなビールもたくさん作られてきた。家庭内で消費するため非営利的にビールなどを醸造することを自家醸造 (homebrewing) という。日本では、免許を持たない者がアルコール度数1%以上の酒類を醸造することは禁じられている。自家醸造用の道具を売り買いすることはできるが、きちんと法律の範囲内で醸造するかどうかは使用者に委ねられている。 醸造過程で果汁などを添加したフルーツビールや、香辛料を添加したスパイスビールなどもヨーロッパではポピュラーであるが、長らく日本の法律上はビールではなく発泡酒扱いとなっていた。しかし2018年4月1日の酒税法改正で果実及び香味料の使用が許されるようになった。 麦芽粉砕 ビールの醸造の最初の工程は、デンプン源と温水を使った麦芽汁づくりである。普通デンプン源には大麦麦芽が使用される。麦芽はダスト・異物を除去した後、糖化・ろ過に適した大きさに粉砕される。胚乳部は糖化しやすいように細かく粉砕する。一方、殻皮部は麦汁濾過工程で濾膜を形成させるためになるべく形を残すようにしなければならない。ただし濾膜形成の必要ない加圧式の濾過方法を用いる場合は麦芽全部が細かく粉砕される。粉砕した麦芽のことをグリスト (grist) という。グリストはマッシュタン (mash tun) と呼ばれる容器の中で温水と混合される。グリストを浸す温水のことをリキュール (liquor) といい、グリストと温水の混合物のことをマッシュ (mash) という。 糖化 グリストと温水が混合されると、麦芽に含まれるデンプンなどの多糖類や可溶性タンパク質が溶け出す。多糖類は麦芽のもつ酵素により可溶化し、分解され低分子の麦芽糖が生み出される。この多糖類の分解のことを糖化(マッシング; mashing)という。糖化には1〜2時間ほどの時間が掛かる。麦芽の酵素の力のみで糖化する方法をインフージョン法といい、マッシュの一部を取り出して煮沸し、元の容器にもどしてメインのマッシュの温度を引き上げる方法をデコクション法という。マッシュの煮沸によって酵素は失活するが、でんぷん質が溶解し糖化が進みやすくなる。 糖化が終了したマッシュからは穀物粒などの固形物が取り除かれ、発酵性の麦汁が回収される。麦汁濾過の伝統的な方法であるロータリング (lautering) では、濾過槽の底に溜まった穀物の粒そのものがフィルターとして働き、固形物と麦汁を分離する。現在行われている醸造ではより細かいグリストまで分離できるフィルターフレームが使用されることが多い。最初に絞られる麦汁を1番絞り麦汁という。穀物粒はスパージング (sparging) という操作で湯洗浄し、さらに多くの麦汁を回収する。麦汁とスパージングで加えられた湯の混合物から、穀物粒を濾過によって分離する。スパージングによって得られる麦汁を2番絞り麦汁という。 煮沸 麦汁は湯沸し器やコッパー(copper; 銅で作られていたことに由来)と呼ばれる容器に集められ、1時間程度煮沸される。煮沸によって麦汁中の水分が蒸発し、糖類を初めとする溶質が濃縮されて残る。また同時に糖化段階から麦汁に残留した酵素を失活させる。煮沸にはその他にも殺菌、タンパク質の凝固、色度の上昇、pHの低下、不快な香気成分の分解・飛散、などが起こる。煮沸中にホップを添加する。ホップは数回に分けて添加する場合もある。ホップを煮沸することで、ホップ中のフムロンが異性化し、イソフムロンになることで苦味が強まる。煮沸時間が長いほど苦味が強くなるが、ホップそのものの風味や香気は弱くなる。 冷却 煮沸の終了した麦汁は、酵母による発酵の準備のため冷却される。このとき溶解度が下がってタンパク質やポリフェノールが凝固する。醸造所によってはホップで処理した麦汁をさらにホップバック (hopback) に通す。ホップバックはホップを満たした容器で、風味付けをしたりフィルターの機能を果たしたりする。しかし多くの醸造所ではホップバックを使わず、単純に発酵槽で麦汁を冷却する。その後酵母の増殖に必要な酸素を供給するため、冷却された麦汁に無菌空気が通される。 発酵 空気を通された発酵槽中の麦汁には酵母が添加される。酵母が出芽を開始すると発酵が始まる。発酵熱の発生により液温が上昇するので、冷却により発酵温度をコントロールする必要がある。発酵に必要な時間は酵母の種類やビールの濃さによって変わる。発酵前の麦汁はpH 5.2 〜5.8だが、発酵後には4.0 〜4.6に低下する。発酵が終了した液を若ビールと呼ぶ。アルコール発酵に加え、麦汁内の微粒子が沈降するため一度発酵の終了した若ビールは清澄する。 発酵は一次発酵(主発酵)と二次発酵(熟成)の二段階で行われることがある。アルコール類はほとんど一次発酵で生成される。その発酵液は新しい容器に移され、熟成される。熟成はパッケージングまでに時間を置く必要がある場合、さらなる清澄化が必要な場合に行う。若ビールにはジアセチル前駆体、アセトアルデヒド、硫化水素などの未熟成物質が含まれる。熟成過程では残存物質のさらなる発酵が進み、これらの物質が分解され、発酵によって発生する炭酸ガスによって液外に運び出される。混濁の原因となるタンパク質は、温度を+1〜-1 ℃程度に下げることにより析出し、一部の酵母とともに沈降する。熟成の終了したビールは濾過され、またシリカゲルによってタンパク質を吸着させて製品工程に送られる。 熟成後に酵母の活動を抑えるため、60度前後に加熱する低温殺菌が行われる。この熱処理を行わず、特殊な濾過装置で酵母を取り除くビールがいわゆる生ビールである。ただしこの呼称は日本の基準によるものであり、国によって基準は異なる。また酵母を完全に取り除かないビールもある。 分類 ビールには様々なスタイルが存在するため、特徴によって細かく明確に分類することは非常に困難であり、様々な分類がなされている。有名な分類方法としてマイケル・ジャクソンによる分類がある。 醸造法による分類 醸造法と酵母の種類によって分類する場合は、「上面発酵」の「エール」と「下面発酵」の「ラガー」に大別する方法が一般的である。元々エールという言葉は、上面発酵のビールを指していた言葉ではなく時代によって変遷がある。現在、ビールにはホップが使用されることが多いが、ホップがビールに広く使用されるようになったのは、12〜15世紀の間であり、その当時英語圏では、ホップ入りのものをビール (Beer)、ホップなしのものをエール (Ale) と呼んで区別していたが、その後、ビールは総称となり、上面発酵のものがエールと呼ばれるようになった。 エール 上面発酵のビールを、エールと呼ぶ。出芽酵母(Saccharomyces cerevisiae(サッカロマイセス・セルビシエ)とその亜種)を用い、常温で短い時間で発酵を行う。盛んに炭酸ガスを出すために、最終的に酵母が浮かび上面で層を作るために上面発酵と呼ばれる。 一般に、上面発酵のほうが醸造は容易である。19世紀以降にラガーが爆発的に普及するまでは、ビールといえばエールであった。 複雑な香りと深いコクを特徴にしている。主なスタイルとしてペールエール、スタウト、アルトビール、ケルシュ、ヴァイツェンなどがある。 ラガー 下面(かめん)発酵のビールをラガーと呼ぶ。Saccharomyces carlsbergensis(サッカロマイセス・カールスベルゲンシス)という酵母を用い、低温(10℃以下)で長時間発酵を行う。役目を終えた酵母は沈殿するため、エールの上面発酵に対して下面発酵と呼ばれている。 比較的すっきりした味で、ピルスナー(ピス)、ボックなどのスタイルがあり、もともと中世ドイツのバイエルン地方のローカルなビールだった。この土地の醸造師たちは、低温でも活動する酵母を発見し、変わったビールを醸造していた。秋の終わりにビールの材料を洞窟の中に氷と共に貯蔵し、翌年の春に取り出すと、発酵が終了してビールが完成する。ラガーとは貯蔵されたビールという意味である。 冷蔵庫が発明された19世紀以降、これが瞬く間に世界のビールの主流となった。一定の品質のビールを大量生産するのに最適だったためである。黄金色の美しい色と、ガラス製のグラスやジョッキが普及したことを人気の理由に挙げる人もいる。 自然発酵 酵母発見以前のビールは全て自然発酵であった。現在でもアフリカの伝統的なビールや、ベルギーのパヨッテンラントで製造されるランビックでは培養された酵母を使用しない自然発酵が採用されている。乳酸発酵も行われるため、特有の酸味を持つようになる。 飲み方 20世紀以降の冷蔵技術の進歩により、ビールを冷やして飲む風習は加速度的に広まった。常温のビールを飲む慣習であった中国でも、日本のコンビニエンスストア系企業が進出に乗り出した際に冷蔵のビールを提供したところ人気となり、冷たいビールの需要が上がったという現象も起きている。タイでは冷やした上に氷を入れるのも一般的である。一方でエールビールは常温で飲まれることが多い。また、ドイツやベルギーなどでは温めて飲まれることもあり、グリュークリークのように温めて飲むことが主流のビールもある。またビールをカクテルにして飲むビアカクテルでは、トマトジュースを入れたレッド・アイやレモネードを入れたパナシェ(ドイツではラドラー、イギリスではシャンディ)、ジンジャーエールとのカクテルシャンディ・ガフなどが知られる。またピルスナーとスタウト等、異なる種類のビールを混ぜるハーフ&ハーフもポピュラーな飲み方である。 ラガービールの注ぎ方 ラガービールは豊富な泡を発し、注ぎ方によって味も変化する。泡はビールが空気に触れて酸化されることにより味が変化することを防ぐ役割もある。ビールの苦味成分は液体中に拡散しているが、これは泡によって吸着される。そのため、ビールの炭酸泡の形成過程をコントロールすることにより、ビールの苦味成分を液体上部に浮かぶ泡の層に閉じ込めることができる。 主なビール生産国と銘柄 キリン食生活文化研究所が調査し、ビール酒造組合が公表する集計によると、2007年の世界のビール総生産量は1億7937万klに上る。生産量のベスト10は、中国、アメリカ、ロシア、ドイツ、ブラジル、メキシコ、日本(発泡酒等を含む)、イギリス、ポーランド、スペインの順。オランダは12位、チェコは19位、ベルギーは20位であった。 主な生産国の状況と銘柄は以下の通り。 世界的なビール製造企業・グループ 世界的な規模のビール製造会社は他国へ直接の資本進出を行ったり、各国の地場ビール会社を資本支配下に収め、あるいは資本提携を行う事で進出を行っている。また、世界的なブランドは直接ブランド所有会社との資本関係にはなくとも各国の企業によるライセンス製造が行われるケースもある。 単純に計算すると上位5グループで世界の生産量の50%近くを占めることになる。InBev社の主張によれば2005年には同社グループの生産量は世界のマーケットシェアの14パーセントの生産量を占めていると主張している。ただし、例えばカナダではInBev社系列のラバット社がバドワイザーを製造しているようにブランドと企業の入り繰りも存在している。また、オーストラリアや日本のように民族資本が強力な場合には進出の程度が輸出あるいはライセンス製造に留まっているケースもある。 世界的な大手ビール企業グループの上位5グループは以下の通り。 歴史 日本においてビールは、1613年(慶長18年)に長崎県平戸市に渡り、1724年(享保9年)にオランダの商船使節団が江戸に入府した際には、8代将軍・徳川吉宗に献上された。今村市兵衛の記した『和蘭問答』(1724年)には自身が飲んだ「麦の酒」「ヒイル」という語が記されている。その感想は「殊外悪しき物」「何の味わいもない」と否定的である。文献上確認ができる日本最古のビールの記述である。 日本での外国人による醸造は、1812年に長崎の出島において、オランダ商館長のヘンドリック・ドゥーフの手によるものが最初である。開国後の1869年(明治2年)には、横浜の外国人居留地、山手46番にウィーガントらによって、「ジャパン・ブルワリー」が設立され、翌年にはアメリカ人・コープランドが「スプリング・ヴァレー・ブルワリー」を設立。ビールの醸造製造を始め、主に居留地の外国人や上流階級の日本人向けに販売し、輸出もした(後に、ジャパン・ブルワリーは閉鎖、ウィーガントは別の工場ババリア・ブルワリーを興すが、最終的にはコープランドのスプリング・ヴァレー・ブルワリーと合併する)。 日本人による醸造は、1853年に蘭学者の川本幸民が、江戸で醸造実験を行ったのが最初とされる。川本が実際に醸造したかどうかの確証は無いが、著書のビール醸造法の記述などにより、実際に醸造した可能性が極めて高いと推測されている。産業としての醸造は、1869年(明治2年)に、当時の品川県知事であった古賀一平が土佐藩屋敷跡(現在の東京都品川区大井三丁目付近)にビール工場を建造し製造を開始したのが最初とされる。ただし、商業規模の製造は、1872年に、大阪市で渋谷庄三郎が「渋谷ビール」を販売したのが最初とする説もある。その後、1874年(同7年)には甲府で野口正章により「三ツ鱗ビール」が設立され、1876年(同9年)には北海道の札幌で官営ビール事業として、「開拓使麦酒醸造所」が村橋久成と中川清兵衛を中心に設立された(翌年「札幌ビール」を製造)。 1885(明治18年)、グラバーや三菱の岩崎弥之助らにより、「スプリング・ヴァレー・ブルワリー」は「ジャパン・ブルワリー・リミテッド」に引き継がれ、1888年(同21年)には「キリンビール」が発売された。1886年(同19年)には、北海道開拓使の官有物払下により、開拓使麦酒醸造所は北海道庁から大倉組に払い下げられ、1888年に「札幌麦酒会社」が設立された。1877年(同10年)には「日本麦酒株式会社」が設立され、1890年(同23年)に「ヱビスビール」を発売した。また、1889年(同22年)には「大阪麦酒株式会社」が設立され、1892年(同25年)に「アサヒビール」を発売した。 このように大資本から地方の中小醸造所まで、明治期には地ビールブームが起き、全国で100社近くの醸造所が設立された。しかし、1900年(明治33年)に北清事変(義和団の乱)が起き、軍備増強のため、翌年からビールに酒税が課せられることになると状況は一変する(それまで、酒税は清酒にのみ課されていた)。中小の醸造所は、酒税法に定められた最低製造数量基準を満たすことができず、相次いで倒産、または大資本へと吸収され、ビール業界は再編された。1906年(同39年)には、日本麦酒、札幌麦酒、大阪麦酒が合併して「大日本麦酒」が設立され、また、1907年(同40年)には、三菱財閥がジャパン・ブルワリー・リミテッドを引き継いで「麒麟麦酒」(キリンビール)が設立される。その後、1928年(昭和3年)に「壽屋」(サントリー)が「日英醸造」を買収し、ビール業界に一時参入したものの、1934年(昭和9年)には買収した鶴見工場を「麦酒共同販売」に売却して、ビール業界から撤退した。 第二次世界大戦後、GHQは産業界の独占・寡占の一掃を図って集中排除法を制定させる。ビール業界も集中排除の対象となり、大日本麦酒は「日本麦酒」(サッポロビール)と「朝日麦酒」(アサヒビール)に分割された。1945年9月2日に本土から分割され、米国民政府の統治下に置かれた奄美群島では、日本からの流通がなくなり物資が不足する中、1952年に巴麦酒株式会社(トモエビール)が奄美大島で設立され、直営ビアホールも作られたが、1953年の奄美群島本土復帰で商品の競争力がなくなり廃業となった。1957年(昭和32年)には、同じく米国民政府の統治下の沖縄県で「オリオンビール」が設立され、同年には宝酒造もビール業界に参入して「タカラビール」を発売した(宝酒造は1967年に撤退)。1963年(同38年)にはサントリー(壽屋から社名変更)がビール業界に再び参入した。こうして、いくつかの新規参入はあったものの、1967年の宝酒造撤退後は長らくビール業界はキリン・アサヒ・サッポロ・サントリー・オリオンによる5社(オリオンに対する各種優遇措置などの特殊事情のある沖縄以外では、事実上オリオンを除く4社)の寡占状態にある。 1967年(昭和42年)、新技術(精密濾過機を使用し熱処理を行わず酵母菌を除去)を用いた生ビール、サントリー「純生」が発売されたが、生ビールの解釈(酵母菌の有無)を巡ってサントリーと競合他社が意見を対立させ『生ビール論争』が発生した。この論争は1979年、公正取引委員会が生ビール、ドラフトビールの定義を(酵母菌の有無には関係無く)「熱処理をしないビール」と公示したことにより、結果的にサントリーの主張が認められた形で終末を迎えた。 1987年(昭和62年)に販売したアサヒスーパードライが多く売れ、日本国外では、中国、タイ、イギリス、チェコ、カナダで生産、販売されている。 この頃から暖房機能付きエアコンや石油ファンヒーター等、一般家庭における冬場の暖房設備の充実により、それまでの「夏はビール、冬は日本酒や焼酎」といったスタイルから、冬場でもビールが売れていくように変化していった。この現象はアイスクリームでも見られた。 1994年(平成6年)、酒税法が改正されて最低製造数量基準が緩和された。これにより、一気に全国各地で地ビールが醸造され始め、地ビールブームが再現された。ただ、寡占5社が占めるシェアは依然大きく、2008年現在地ビール全体のビール業界におけるシェアは1%に満たない。 2005年、ザ・プレミアム・モルツがモンドセレクションを受賞し、これまでヱビスビールが圧倒的優位にあったプレミアムビール市場がにわかに活気づいた。 日本での飲まれ方 日本では、ビール自体が高級品扱いの時代が長期間続いていたが、昭和30〜40年代に高度経済成長が進展するに連れて大衆化が進み、庶民が飲む一般的な酒へと変移した。 日本では、しっかり冷やしてコップやジョッキに注いでそのまま飲むのが一般的であり、夏場になると消費量が増大する。日本の多くの料理店・居酒屋では、5社(事実上はキリン・アサヒ・サッポロ・サントリー4社)のうち1社(沖縄県では通常はオリオン)のビールが供された。そのため、「三菱系社員はキリンの出る店でしか飲まない」「サッポロ(あるいはサントリー)の出る店は少ないので、三井系企業の接待の店選びは困る」など、企業グループとビール銘柄に関する噂もまことしやかに語られた。ホテルなどでの企業関係者の会合といった、大人数の集まるイベントなどでは、企業グループによって提供するビールのメーカーを変える(三菱系=キリン、芙蓉系=サッポロ、住友系=アサヒ、三和系=サントリー。ちなみに三井系はサッポロかサントリーのどちらか)ことも多い。また一部の宿泊施設では、部屋付きの冷蔵庫のビールにも同様なことを行っているところもある(ただ、2000年頃から、旧財閥といった従来的な企業グループを超えた企業再編も行われているため、当てはめにくくなっている可能性はある)。 日本のプロ野球では、公式戦や日本選手権シリーズで優勝したチームの監督・選手・コーチたちが、祝勝会でビールをかけ合う風習がある(→ビールかけ)。 類似の飲料 日本の酒税法では、麦芽又は麦を原料の一部とした発泡性の酒類(酒税法第3条第7号から第17号までに掲げる酒類及び麦芽又は麦を原料の一部としたアルコール含有物を蒸留したものを原料の一部としたものを除く)を「発泡酒」として定義している。このため、日本国外産の輸入ビールの中にはこの基準に合致しないために、本国ではビールに分類されていても日本では発泡酒扱いとされる商品も存在する。麦を使用しない発泡性の酒類には「その他の醸造酒(発泡性)(1)」(旧法では「その他の雑酒(2)」)があり「第三のビール」と称するものがある。ビール、又は発泡酒に蒸留酒を組み合わせたものは「リキュール(発泡性)(1)」に属する。 ビアテイスト飲料 「ノンアルコールビール」と呼ばれた「ビールテイスト飲料」は、運転をする者や大人たちがビールを飲んで祝い事をする時の子どもたちの飲み物としても販売されている。これらの中にはホップを含まない甘いものもある。以前は「ノンアルコールビール」と呼ばれたが、キリンフリーなど発酵していない商品を除いては、アルコール含有量はゼロではない。酒類に分類されるアルコール1%という基準を下回ってはいるが、たいていの商品はアルコール分を含んでいる。そのため、未成年者やアルコールに敏感な人の飲用や飲用後の運転は控えるよう呼びかけている。また飲食店や販売店においてはドライバーや未成年者への販売を拒否するケースも見られる。「ノンアルコール」という表現は誤解を招くという指摘もあり、日本の業界では名称を「ビアテイスト飲料」又は「ビールテイスト飲料」に改める動きが進んでいる。ホッピーはそれ自体はアルコール1%未満であるが、焼酎などの割り材とするのが一般的である。ルートビアは、ジンジャービアとも呼ばれるジンジャーエール似の飲料で、こどもびいるという飲料も販売されている。
国立考古学博物館 (スペイン) 説明 イサベル2世の王令によって1867年に設立された。その目的はスペイン君主によって収集された貨幣・考古学・民俗学・装飾芸術のコレクションの保管庫となることである。その後建築家のフランシスコ・ハレーニョによって新たな建物が計画され、1886年に開始された建築工事はクリストファー・コロンブスの新大陸到達400周年である1892年に完成した。現在地であるこの建物は新古典主義を採用しており、1895年にはすべてのコレクションがこの建物に移動された。1968年の改装・拡張工事ではかなり面積が拡大した。 2008年には改装工事のために一時閉館した。工事は2013年に完了する予定だったが、2014年4月になって再開館した。再開館した博物館は核となる役割(考古学)に専念し、装飾芸術のコレクションの一部を放出した。 マドリード地下鉄4号線のセラーノ駅から徒歩3分。
ホワイティ・ロックマン 経歴 1943年にニューヨーク・ジャイアンツと契約、1945年7月にメジャー昇格を果たした。このシーズン32試合に出場し打率.341を記録して将来を期待された。兵役を経て1948年にメジャー定着、キャリア・ハイの18本塁打、68打点を記録した。 1951年10月3日のナショナルリーグ優勝決定プレイオフ第3戦では3点ビハインドの9回裏、ブルックリン・ドジャースのエース、ドン・ニューカムからタイムリー二塁打を放つ。これでニューカムはマウンドから降り、ボビー・トムソンの『その一打が世界を変えた("Shot heard 'round the world")』逆転サヨナラスリーランホームランにつながる。 1956年途中にジャイアンツはセントルイス・カージナルスとの間でロックマン、アルヴィン・ダーク、レイ・キット、ドン・リドルとジャッキー・ブランド、ジャック・リトルフィールド、ビル・サルニ、レッド・ショーエンディーンスト、ゴードン・ジョーンズの4対5の大型トレードを行った。 しかし翌1957年のシーズン前にホイト・ウィルヘルムとのトレードでジャイアンツに戻ったが、1959年はボルチモア・オリオールズに金銭トレードで移籍した。このシーズン途中にシンシナティ・レッズへトレードされ1960年限りで現役を引退した。 レッズではフレッド・ハッチンソン監督の下、コーチを兼任。1961年からジャイアンツのコーチに就任した。1972年のシーズン途中、レオ・ドローチャーに代わってシカゴ・カブスの監督に就任し、1974年途中まで務めた。 その後は育成部長、スカウトなどを歴任した。2009年スコッツデール (アリゾナ州)で没した。
佐賀北警察署 警察署再編の経緯 従前の佐賀警察署は、事件・事故の取扱件数が佐賀県内の警察署で最多、また刑法犯の認知件数が佐賀県内全体の4割を占めるなど、警察官1人当たりの業務量が多かった。その一方、諸富警察署は、佐賀県内の警察署で最も署員が少なく、夜間の業務体制も脆弱で、捜査人員を増やして機動力を増強することも求められていた。 再編後、管轄の人口は南署約12.7万人・北署10.8万人(2016年)、面積は南署133km²・北署299km²、署員は南署206人・北署165人(2017年4月発足当初)と、両署で業務負担が平準化された。なお、両署の管轄境界は、住民にも警察官にも分かりやすいようJR長崎本線を基本としつつ、防犯や交通安全の活動を担う自治会の区域を分断しないように設定された。
末吉光徳 来歴 長崎県南島原市有家町出身。長崎県立島原農業高等学校卒業。長崎県議会議員に6期当選。県連幹事長など党の要職を歴任し、2009年からは第60代県議会議長も務めた。しかし、現職議長として挑んだ2011年の県議会議員選挙で落選する。 2012年、第46回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で比例九州ブロックに初出馬。小選挙区の大勝による議席増を見越した党本部が、比例名簿の登載人数が足りずに他党に議席を譲る事態を回避するための比例名簿登録だった。九州地区の選挙区で敗れた自民党の候補者が2名しかいなかったため、党6人目の順位で初当選。本人も「当選するとは夢にも思わなかった」「宝くじで6億円当たるよりうれしい」と述べる望外の結果を得た。 2014年、第47回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で出馬するも、落選した。 人物 西九州たばこ耕作組合理事、農協理事などを務めたほか、建設会社や贈答品販売会社を創業・経営した。しかし、2008年に義弟に経営を譲っていた建設会社が倒産。多額の負債を信用保証協会に負わせたとして、同じく親族が経営する会社が倒産した長崎県議田中愛国と共に右翼団体から議員辞職を迫られたことがある。
DISCOVERY (Sing Like Talkingのアルバム) 概要 前作から1年4か月ぶりのアルバム。すべてのアルバムで最高の売り上げを記録した。 「瞬く星に」では、Stevie Wonderの『Innervisions』などによる影響のもと、Dean ParksとDavid "T" Walkerの共演を実現させ、西村も大きな収穫を得た。
マイク正岡 マイク・マサル・正岡(Mike Masaru Masaoka、1915年10月15日 - 1991年6月26日)は、アメリカ合衆国のロビイスト。日系二世の中では、最も著名な指導者として知られている。日本名は正岡 優(まさおか まさる)。夫人はノーマン・ミネタ元運輸長官の姉であるエツ・ミネタ。 経歴 カリフォルニア州フレズノにて、広島県出身の父と熊本県出身の母との間に、6男1女の4番目(三男)として生まれる。ユタ州ソルトレイクシティに移り住んだ直後に、一家全員でモルモン教の信者となった。なお、父はマイクが9歳のときに事故により亡くなっている。 ユタ大学では、ディベートチャンピオンに選ばれ、1937年に同校を卒業し、政治学と経済学の学位を取得した。太平洋戦争勃発直前の25歳の時には、日系アメリカ人市民同盟(JACL)のNational SecretaryならびにField Executiveとなり、ワシントンD.C.に赴任した。 太平洋戦争が始まると、正岡はJACLにおけるキーパーソンの一人となり、当初は日系人の強制収容問題を可能な限り穏便に解決すべく、ルーズベルト政権と幾度と無く交渉を重ねた。正岡は、アメリカの市民権を持つ二世を収容することに異議を唱え、一世のみを収容所送りにして、自分たち二世を兵士として戦場へ派遣する、という案を軍当局に提示したが、かえって政府側との摩擦を悪化させる結果となり、最終的には、戦時転居当局に協力するという姿勢に転じることとなった。その結果、日系人の間では正岡を「親不孝者」「政府に擦り寄る裏切り者」と批判する声が聞かれたが、それでも正岡はJACLのスポークスマンとして、「今犠牲を払わなければ、二世にとって戦後は無い」と主張して、政府への協力を強行し、政府に収容所における被抑留者と運営者側との摩擦を軽減する為の方法を提案した。政府は、正岡を収容所における日系人との間の連絡係として利用したが、彼自身は収容所に収監されることはなかった。 戦況の激化に伴い、正岡はかねてより主張していた「二世部隊」の実現に本格的に尽力するようになり、政府も長期化が予測された戦況を鑑みたうえで、日系人からの徴兵も検討するようになり、結果として、正岡の提案は受け入れられることとなった。第442連隊戦闘団の編成に伴い、正岡は真っ先に軍へ志願し、軍への入隊後は、フランス・イタリアへ派遣され、1944年10月下旬の、ヴォージュ山脈における所謂「失われた大隊」の救出作戦にも参加するなど、幾度と無く命の危険に晒されながらも、生還した。因みに、正岡兄弟のうち、年老いた母の生活の面倒を見ていた長兄のジョーを除く5人が軍へ志願し、次兄はフランスで戦死し、弟のうち2人は戦闘で重傷を負い、重度の身体障害者となってしまった。また、1951年の映画『二世部隊』では、技術顧問として製作に携わった。 戦後も、「外国で勝利を収めた戦争は、国内においても勝利を収めなければ意味が無い。国民が自由を享受する為には、その自由の為に戦い続けなければならない」という主張のもと、復員後に差別撤廃委員会の委員長に就任したのを皮切りに、JACLの代表として日系人の権利向上の為に活動を続けた。その一方で、議会裏で活動するロビイストとしての資格もこの頃に得ている。活動の中でも代表的なものとしては、国府田敬三郎などとともに自分達の親世代である一世のアメリカ市民権獲得を実現させる為に、帰化権獲得同盟を結成したことが挙げられ、アジア事情に通じていた共和党のウォルター・ジャッド下院議員と提携して「移民帰化法案」を実現させるべく、法案に関係する議員や団体、マスコミ等に法案の趣旨を説明する、といった活動を展開した。その結果、1949年3月に同法案が下院を通過したのを機に、アメリカ国内の有力紙が「アメリカに永住する日系一世に対し、人種平等の立場から帰化権を与えるべき」といった内容の社説を掲載する、という成果を得るにまで至った。途中、民主党のパット・マッカラン上院司法委員長によって、法案の内容を日本からの年間の容認移民者数を、他の国の出身者に比べて少なく割り当てるよう修正されたり、当初の案とマッカランによる修正案をの両方をトルーマン大統領によって拒否権を発動されるなどの紆余曲折を経たものの、1952年6月27日に「移民帰化法」が成立し、マッカランは正岡を「ワシントンで最も成功したロビイスト」と評した。 1972年に、ロビー活動に専念する為、JACLの役職を退いた。 晩年になると、正岡は太平洋戦争の頃を振り返って、政府から自分達の方針に沿う内容の「提案」を出すよう、圧力を掛けられていたことをほのめかすようになり、PBSの番組のインタビューでは、自身が取り続けていた姿勢を「本当に大掛かりな“芝居”だった」と語っている。 1991年に心筋梗塞でワシントンD.C.にて死去(76歳)。死去に際し、ノーマン・ミネタは正岡を「20世紀において最も素晴らしいアメリカ人のうちの一人」と称えるコメントを発表した。
鈴木みほ 人物 小学校から始めた新体操では、高校生大会で東京都優勝、テレビ信州杯優勝、全日本クラブ選手権6位入賞。 2011年8月21日、日本テレビ『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』内にて「エビぞり卵運び」のギネス記録に挑戦し、ウクライナのタチアナ・タゾサンの持つそれまでの世界記録42秒を破る、27.4秒のギネス世界記録を打ち立てた。
ヴィクター・イグボネフォ 代表歴 インドネシアサッカー協会は2011年10月10日に、彼がインドネシアに帰化した事を発表した。2013年3月23日に行われたAFCアジアカップ2015予選のサウジアラビア代表戦で代表初出場を果たした。 プレースタイル その身長や体の強さ、決定力の高さからインドネシア有数のディフェンダーとされている。
長野恭紘 経歴 大分県別府市出身。大分県立別府羽室台高等学校、日本文理大学商経学部卒業。小学校から大学まで野球を続けた。 大学生の時に下宿先のそばに衆議院議員衛藤征士郎の事務所があったことが契機となり、政治家を志すようになったという。 衛藤の秘書を務めていた2002年4月、東京での勤務となった2月以降は「代議士の代理として国防、国土交通、文部科学など自民党のいろいろな部会に顔を出す」とした上で、「そこで感じるのは政策が霞が関主導で立案されているということ」であり「政治主導の理想は道半ばという印象」を受けたと紙上において述べている。 2006年の別府市長選に立候補した際には、当時の市長浜田博が推進するイズミの誘致計画への反対を表明していた。 2015年の別府市長選では、次世代の党の推薦、公明党大分県本部の支持を受け40歳で初当選。最年少の別府市長となった。 政策 生活保護受給者の比率が3.3%と全国平均の2倍近くに上る別府市では、1990年以前から別府市内のパチンコ店や別府競輪場といった遊技場を訪れている受給者を調査。発見した受給者には文書で指導し、再び出入りした場合に保護費の支給を1-2ヶ月間停止してきた。長野もこの調査・支給停止を継続しており、2015年度には調査を2回に増やすとともに、2016年度には担当者を増員して調査をさらに強化する方針を示している。
北方地域 概要 北方地域は、いわゆる北方領土のことで、北方領土問題等の解決の促進のための特別措置に関する法律(昭和57年法律第87号)2条1項では「歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島」とされ、「内閣府設置法第四条第一項第十三号に規定する北方地域の範囲を定める政令」(昭和34年政令第33号)では「歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島及び内閣総理大臣が定めるその他の北方の地域」とされる。この地域は、日本の都道府県の区分としては北海道の一部とされ、根室振興局(旧・根室支庁)の所管区域である。市町村の区分としては、色丹郡色丹村、国後郡泊村、同留夜別村、択捉郡留別村、紗那郡紗那村、蘂取郡蘂取村および根室市の一部とされている。 なお、戦前において北方領土とは、樺太、千島列島、北海道などを指し、南方領土(沖縄や小笠原諸島など)に対する形で北の領土という意味で用いられていた。 北方地域の面積は約5,036 km²で、千葉県(5,081.91 km²)とほぼ同じ広さを有する。 その中で最も北海道本島に近い歯舞群島は、北海道根室市の東端である根室半島の納沙布岬の沖合3.7 kmから北東に点在する。 なお、現在、北方地域については日本の実効支配が及んでいない状況にあるため、国勢調査の対象地域から除外されている(国勢調査施行規則第1条第1号)。
櫛引パーキングエリア 施設 上り線には第三セクター「株式会社くしびきふるさと振興公社」が運営するハイウェイオアシス「地域ふれあいセンター」がある。下り線施設はトイレと自動販売機のみ設置されている。 生き活きべんとう村 生き活きべんとう村(いきいきべんとうむら)は、本パーキングエリアの西側(下り線施設側)にある鶴岡市の設置した森林公園であり、パーキングエリアから歩いていくことができる。1994年(平成6年)に当時の櫛引町が整備した。約15.2ヘクタールの園内は11のエリアに分割され、そのうちの天望の森からは庄内平野を一望することができる。 公園名の「生き活きべんとう村」は、「おいしく弁当を食べられる施設」・「自然と触れ合うことで生きる活力がみなぎる施設」になるよう願いを込めて命名された。四季を通してミズバショウなどの花や山野草などを見ることができ、遠足や山菜取りなどで訪れる人がいる。(冬季は積雪により利用ができないことがある。)2016年(平成28年)、長井市から譲り受けたハナショウブ約150株を地元自治会が植栽し、荒廃したあやめ園の再生が進められている。なお園内に弁当などの物販施設や飲食店はない。
ヒンリヒ・ローゼ ヒンリヒ・ローゼ(Hinrich Lohse 1896年9月2日 - 1964年2月25日)は、ドイツの政治家。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)の大管区指導者の一人。第二次世界大戦中にはオストラント総督(de:Reichskommissariat Ostland)を務めていた。 略歴 プロイセン王国のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州のミューレンバルベク(de:Mühlenbarbek)で農家の息子として生まれる。1913年からハンブルクのブローム・ウント・フォス造船所の従業員として働く。第一次世界大戦中の1915年9月23日から負傷するまでの1916年10月30日にかけては出征した。 1923年に国家社会主義ドイツ労働者党に入党。1925年3月27日にはシュレースヴィヒ=ホルシュタイン大管区指導者となる。1928年と1929年の間にかけてハンブルク大管区指導者の地位も兼任した。1932年7月の選挙で国会議員となる。後の1933年のナチス党の政権掌握後は、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の州総督(Oberpräsident)となった。1942年にはシュレースヴィヒ=ホルシュタインの国家防衛委員(de:Reichsverteidigungskommissar)となる。 1941年7月17日に、オストラント国家弁務官(総督)(de:Reichskomissar)に就任し、1944年まで務めた。ラトビアにおけるゲットー建設にハンス・アドルフ・プリュッツマンと共に責任を負う。 1945年5月6日に、カール・デーニッツによってシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州の最高責任者から解任された。 戦後まもなくイギリス軍によって逮捕された。1948年に刑務所内で懲役10年に刑を宣告されたが、病のため1951年に釈放された。シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州総督時代の年金はシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州議会によって撤回された。1964年2月25日に死去するまでミューレンバルベクで余生を過ごした。
孫悟飯 (孫悟空の育ての親) 人物像 悟空に「じっちゃん」と呼ばれ慕われた育ての親で、彼にカンフーの基礎を叩き込んだ人物。エイジ658年生まれ。占いババの宮殿で悟空と再会した際の年齢は、生きていれば102歳。身長160cm、体重51kg。趣味は散歩。嫌いなものはこれといってない。 ヤムチャの弁によれば、「武術においてその右に出るものはいない」とまで言われた達人で、ウーロンもその名前を聞いたことがあり彼のことを「有名人」と発言しているなど、武道界のみならず世間一般にまでその名は知られているほどだった。死後、占いババにスカウトされた際にも、戦士中最強の実力者として5人目を務めた。また、悟空に素手による格闘術のみならず、如意棒による棒術なども教えた。試合前の一礼をするなど礼儀正しく、礼をしなかった悟空にも注意している。悟空の弁によれば、「女には優しくしろ」とも説いていた。 若かりし頃は亀仙人の一番弟子で、牛魔王は弟弟子にあたる。亀仙人が悟空たちに課した牛乳配達などの修行をしている姿を見て、彼ら二人に修行をさせていた頃を懐かしむ場面がある。悟空と対戦した牛魔王は、彼が兄弟子である悟飯に育てられたことや師の亀仙人のことを知っていると聞いた途端に「悟飯さんの孫なら、自分の娘チチを嫁にやってもいい」と発言するなど、彼とは非常に親しい関係だったようである。 悟空と孫悟飯は80歳近い年齢差(#略歴参照)があり、彼を知る人物は二人の間柄を「親子」ではなく「祖父と孫」と捉え、牛魔王は先述の通り「悟飯さんの孫」と発言している。また、ウーロンも孫悟飯のことを「アイツ(悟空)のじいさん」と、アニメでは悟飯本人も悟空のことを「ワシの孫」と発言している。 亀仙人のように、女性好きな面もあるが師と違いセクハラ的言動は取らない。亀仙人とも戦ったことがあるが、亀仙人の技「萬國驚天掌」に耐え切れず敗れた(亀仙人が「萬國驚天掌」を使用したのは、他には孫悟空だけである)。しかし、その武術における天賦の才は亀仙人も高く評価しており、悟空から悟飯が死んだことを聞いたときにはガックリと肩を落とし「惜しい男を亡くした」と言わしめた。 ある満月の夜、小便のため外へ出た悟空が月を見て大猿化した際に踏み殺されてしまう。悟飯の死後、悟空は悟飯が昔拾ってきた四星球のドラゴンボールを形見としている。生前、悟空に満月を見ないように諭していたことから、以前に大猿化した悟空を見ているようである。悟飯を殺した者が自分であるという事実に悟空が気付いたのはサイヤ人、ベジータとの戦いにおいてである。 人格者であり、自らを踏み殺した悟空に対しても、ただただ可愛がり彼の身を心配しており、恨むようなことは一切言わなかった。 鳥山明は「悟空はどうして神龍に孫悟飯を生き返らせてもらおうと考えなかったのですか?」という質問に、「おじいちゃんに会えたからいいんじゃないかなあ」と答えている。 悟空はチチとの間に授かった男児に、自分の育ての親である悟飯の名を与えている。この男児が悟空の長男・孫悟飯であり、悟空は「じっちゃんの形見だから」と、四星球を息子の帽子に付けていた。 ストーリーへの関わり ストーリー開始時点で故人であり、四星球も当初から彼の形見として設定されている。それゆえ悟空はドラゴンボール集めに際しても四星球だけは別にして持っており、そのことからドラゴンボールが奪われた際にも奪った相手を手こずらせる結果になった。 師の姉でもある占いババの力で一日だけこの世に戻り、狐の面で素性を隠して悟空と対決。悟空たちが最後のドラゴンボールのありかを訪ねに占いババの館に来ることを、彼女の占いで事前に知っていた。試合では一進一退の攻防を繰り広げて亀仙人たちを驚かせ、武道家として目覚しい成長を遂げた悟空の前に窮地に陥るが、育ての親だけあり悟空のシッポが弱点であることを知っていたため、それをつかんで形勢逆転に成功する。しかし途中でシッポが切れてしまい、弱点がなくなり悟空が反撃に転じようとしたところで負けを認め、仮面を取って再会を果たす。この時悟空は初めて人前で泣いており、ヤムチャやブルマもそれについて触れている。 「ピチピチしたコもいる」と発言しており、天国では、ぴちぴちギャルに囲まれて暮らしているが、我が子同然に育てていた悟空を残してこの世を去ったことが心残りだったらしく、その成長ぶりと彼がドラゴンボールをめぐる冒険を通じてたくさんの友人に囲まれていることを知り、安心してあの世へ帰って行った。 サイヤ人編では悟空の回想シーンで登場。悟空は大猿化したベジータとの戦いで、大猿化がサイヤ人の特性の一つであることを知り、即座に昔を思い出し、悟飯を殺したのは自分であることに気付き、「また死んだら謝りに行く」と発言している。 アニメ『ドラゴンボール』の終盤エピソード・ウェディング編では、あの世のフリーターとして、あの世とつながる五行山でアルバイトをしており、死後の魂をあの世に運ぶ八卦炉の炎を管理する太上老君ことアンニンの守衛を勤めている。アンニンからはちゃん付けで呼ばれるなど、かなり気に入られている。また、そこでフライパン山の火災原因を突き止めに来た結婚直後の悟空・チチ夫妻とも会い、感慨深い表情を見せていた。 悟空の実父・バーダックを主人公としたテレビスペシャル『ドラゴンボールZ たったひとりの最終決戦〜フリーザに挑んだZ戦士 孫悟空の父〜』では、ラストシーンにのみ登場。 略歴 エイジ658 - 生誕。 エイジ737頃 - 79歳。人里離れた山中に住み、山の中で拾った悟空を育てるとともに、武術の基礎を教えた。後に、大猿と化した悟空に踏み潰されて死んでしまう。 エイジ750 - 悟空が出現することを予見した占いババの考慮もあり、この世に戻り、狐の仮面を被って悟空と戦う。戦いが終わった後に正体を明かして再会し、あの世に帰っていった。自分の父だけが生き返ることに気を遣うウパに対しては、「あの世も気に入っている」と発言していた。 ゲームでの登場 ファミリーコンピュータゲーム『ドラゴンボール 大魔王復活』にて仲間カードとして登場。 『ドラゴンボール3 悟空伝』ではボスキャラクターの1人として登場。同作では神経衰弱のガイド役としても登場する。 RPGゲーム『ドラゴンボールZ 強襲!サイヤ人』『ドラゴンボールZII 激神フリーザ!!』などではお助けカードとして登場。敵の動きを止めることができる。また『強襲!サイヤ人』では道中のイベントで悟空を応援する場面がある。 PlayStation 2ゲーム『ドラゴンボールZ Sparking! NEO』では隠しキャラクターとして登場。『ドラゴンボールZ Sparking! METEOR』では最初から使用可能。
グーグーモンキーズ 概要 パーソナリティは、漫才コンビ・麒麟とグラビアアイドル・番ことみ。オープニングトーク後より、漫才コンビ・ソラシドの本坊元児(ほんぼうがんじ)も参加。 以前は『Bフライデースペシャル』の中で「45ラジオ」(番ことみが出演)、「02ラジオ」(麒麟が出演)が放送されていたが、『Bフライデースペシャル』の終了後、当番組がスタート。毎週土曜日2時30分(金曜深夜)から放送。 2005年秋の改編により、麒麟と番は『ゴーゴーモンキーズ』木曜日に移る。10月から新たにパーソナリティとして千鳥と石井寛子を迎え、放送枠も毎週土曜日3時00分からに変更。 2006年春の改編で、4月1日をもって終了となった。
コーネル実在論 コーネル実在論(Cornell Realism)は、リチャード・ボイド、ニコラス・スタージョン、デイヴィド・ブリンクといったコーネル大学に関係する哲学者によって主張されたメタ倫理学の学説である。ピーター・レイルトンらの還元主義とともに、形而上学的自然主義の代表的学説として知られる。 内容 個々の論者によって細部の立場は異なるが、コーネル実在論は概ね以下の主張を含んだ学説であると理解されている。 動機づけの外在主義 コーネル実在論は動機づけの問題について、「道徳判断と動機づけの間には必然的な連結が存在しない」という外在主義の立場をとり、アモラリスト(動機をともなう道徳感情抜きに道徳判断をおこなう人)の存在可能性を認める。この立場をとることによってコーネル実在論者は、「道徳判断は我々に行為をうながす動機づけの力をもつため、認知的状態ではない」と主張する非認知主義者に対して「道徳判断が動機づけの力を持たないとすれば、道徳判断が非認知的状態であると考える理由もなくなる」という論法で応答し、認知主義を擁護する。 またデイヴィド・ブリンクは、動機づけの外在主義に加えて規範的理由の外在主義をも主張する。規範的理由の外在主義とは、「行う理由を持つこと」と「行う動機を持つこと」の間にも必然的な連結を認めない立場である。 形而上学における自然主義的非還元主義 コーネル実在論がその実在を主張する道徳的事実はあくまで自然的事実であり、自然科学や社会科学の研究領域に含まれるものである(自然主義)。道徳的事実は超自然的なもの(例えば神命説)でも非自然的なもの(ムーアの『倫理学原理』やマッキーの実在論的世界像)でもないが、この道徳的事実を非道徳的自然的事実(例えば快苦)に還元することはできない(非還元主義)。つまり、道徳的事実とは非道徳的自然的事実に随伴(supervene)する自然的事実なのであって、非道徳的自然的事実と同一視することは出来ないという立場をとる。 意味論における非還元主義 コーネル実在論は、道徳語(moral terms)および道徳概念と自然語および自然概念の間に還元可能な関係を認めない。すなわち、「しかじかのものは道徳的に望ましい」という道徳的な(規範についての)言明を「しかじかのものが快を生む」という自然的な(事実についての)言明に還元することは出来ないと主張する。これによりコーネル実在論者は、「自然的誤謬を犯さずに自然主義を主張することはできない」というムーアらによる批判に対して「形而上学的還元は意味論的還元を含意しない」と応答することが出来る。この主張は通常、クリプキ-パトナム流の意味論を伴っている。道徳語および道徳的概念はそれに対応する一定の自然的性質を選び出すが、こうした自然的性質は「我々の語や概念の用法との間に適切な因果関係を構成する性質である」という観点から選ばれるだけであり、道徳的概念が自然的概念に還元されるわけではない。
ショーン・トレビー 略歴 ストーマーズ、ノースハーバーを経て、2018年、Honda HEATに加入。同年9月1日に行われたジャパンラグビートップリーグ第1節のリコーブラックラムズ戦にて先発出場で日本での公式戦初出場を果たす。
アジア開発銀行 概要 本部はフィリピン共和国・マニラ首都圏マンダルーヨン市。ESCAP(アジア太平洋経済社会委員会)の発案により、1966年に発足した。現在67か国/地域で構成される。最大の出資国は日本とアメリカ合衆国(ともに出資比率15.7%を占める)である。中華人民共和国と中華民国(名義は中国台北でこれに抗議して中華民国は1986年と1987年のADB総会をボイコットしたことがある)が共に加盟している、国際機関としては珍しい存在である。2016年には中国主導で設立されたAIIB(アジアインフラ投資銀行)と協調融資の実施で覚書を締結した。 設立当時から日本の大蔵省(現・財務省)が深く関わっており、大蔵省OBで大蔵大臣だった福田赳夫と、その盟友の大蔵省OBで初代総裁も務めた渡辺武が作成した私案をもとに、大蔵省の意向を強く反映して設立が進められた。 包括的取組 特にアジア・太平洋地域は、世界の貧困人口の3分の2を抱える地域であり、1日2USドル以下で暮らす貧困人口は19億人に上ります。彼らの生活の質を向上させることに力を入れて活動しています。 — アジア開発銀行 1999年ADBは、従来の開発援助の運営方針を貧困削減を最重要目標と定め、それに向けて「貧困層に配慮した持続可能な経済成長」、「社会開発」、及び「グッド・ガバナンス」を戦略の三本の柱とした貧困削減戦略を発表した。この柱を支える指標として、「環境の保護」、「ジェンダーと開発の促進」、「民間セクターの発展」、そして「地域内協力」を挙げている。 組織 本部をフィリピンのマニラ首都圏マンダルーヨン市に据え、世界26か所に事務所を設置している(アジア地域19か所に駐在員事務所、太平洋地域3か所に準地域事務所の他、フランクフルトに欧州代表事務所、東京に駐日代表事務所(代表:児玉治美)とアジア開発銀行研究所(所長:吉野直行)、ワシントンD.C.に北米代表事務所、東チモールに特別リエゾン事務所)。 2007年末時点におけるADB の職員数は2,443名であり、出身国は55カ国。このうち経営幹部は5 名、専門職員は847名(上位10カ国は、日本:118名、アメリカ合衆国:103名、インド:58名、中華人民共和国:50名、オーストラリア:50名、カナダ:46名、ドイツ:37名、大韓民国:34名、インドネシア:33名、イギリス:32名)、一般職員は1,591 名。歴代総裁はすべて日本人が就任している。 最高政策決定機関は総務会(Board of Governors)で、各加盟国1人の総務で構成される。日本からの総務として財務大臣(現任:麻生太郎)が任命される。総裁は総務会で選出される。また、融資の承認等日常業務の意志決定がなされる理事会(Board of Directors)は、マニラ駐在の12人の理事(域内国から8名、域外国4名)で構成される。理事は隔年選出される。 加盟メンバー 1966年の発足時は31か国/地域(台湾・香港なども加盟メンバーなことから)だったが、新規加盟国アイルランド(2006年7月24日)、ジョージア(2007年2月2日)に迎え、現在加盟メンバーは67か国/地域を数える。域内(アジア・太平洋)48メンバー、域外(ヨーロッパ・北米など)19メンバー。 カッコ内は加盟年。 一部の市民・NGOなどの動き 経済発展を目的としたアジア開発銀行が途上国において融資する大型開発プロジェクトは、現地に環境面・社会面への負の影響を与えているという主張があり、意志決定プロセスに現地住民の参加が十分確保されているとも言えないという主張があることからも、融資される側である途上国からだけでなく、一部のNGOから批判の声が上がっている。 毎年開催される総会では、問題のあるプロジェクトを扱う政策提言型NGOによるロビー活動はもちろんのこと、アジア開発銀行が取る政策自体に反対表明をする人々のグループが、対抗フォーラムを行うこともある。 インドのハイデラバードで開催された第39回には、Peoples Forum against ADBが開催され、2007年5月に開催された第40回京都総会では、ADB京都総会・市民フォーラムが開催され、ADBの融資するプロジェクトの問題点などが話し合われた。
服部武夫 来歴・人物 四日市高から、1950年に南海ホークスへ入団。 1951年に31試合登板し、10勝7敗、防御率2.03を記録して南海の優勝に貢献した。防御率2.03はリーグ1位の成績だったが、この年だけ導入された資格投球回数算定法によって南海ホークスの標準回数が164回と決まっており、投球回数が155回だった服部は規定未満として最優秀防御率のタイトルを逃し、2.08で2位だった同僚の柚木進がタイトル獲得となった。日本シリーズにも出場し、第1戦、第2戦はリリーフで登板。第4戦は先発で8回まで無失点だったが9回に読売ジャイアンツ打線に打ち込まれ3点を失って降板。リリーフした柚木が後続をしっかりと抑え、服部が勝ち投手となった。また、同年は南海土建に出向という形で社会人野球でもプレーした 翌1952年は自己最多となる16勝を挙げた。この年の日本シリーズも第4戦で先発するが負け投手となっている。1953年は1軍での登板無く、1954年に高橋ユニオンズへ移籍するが勝利できず、1956年に毎日オリオンズへ移籍。1958年に広島カープへ移籍し、同年引退。1952年以降はまったく勝利することができなかった。 引退後は、地元の四日市に戻り、服部野球教室を開設。少年たちに野球の指導を行う。
倉岡裕之 概要 1961年8月3日、東京都に生まれる。我孫子市内の小中学校を卒業。中学校時代から丹沢で登山に親しむ。高校進学後、山岳部がなかったために毎日手賀沼で10kmタイムトライアルを行って身体を鍛えた。 大学進学後、登攀クラブ蒼氷でクライミングを始め、1984年木本哲らとともにエンゼルフォール(1,283m)を未踏ルートで初登攀成功。 1985年、映画「植村直己物語」の撮影スタッフとして5月マッキンリー登頂、10月エベレストロケに参加する。帰国後、懸垂下降時に事故で大怪我を負い、約12年間クライミングから遠ざかる。 2003年よりラッセルブライス率いるヒマラヤン・エクスペリエンスに、田村真司と共にガイドとして参加。 2006年3月、カルステンツ・ピラミッドに登頂、七大陸最高峰登頂達成(日本人11人目、世界170人目)。 2007年5月、71歳の柳沢勝輔をエベレスト登頂に導き、柳沢勝輔はエベレスト登頂最高齢記録を更新した。 2013年5月、80歳の三浦雄一郎のエベレスト挑戦プロジェクトに参加、三浦雄一郎はエベレスト登頂に成功し、最高齢記録を更新した。 2014年4月、日本テレビ「世界の果てまでイッテQ!」イモトアヤコエベレスト登山企画に参加して現地入りしていたが、大規模な雪崩が発生したために企画自体が中止となった。 世界七大陸最高峰のガイディングをはじめ、マナスル、チョオユー、アマ・ダブラムなどをはじめとした海外高峰登山ガイドとして活躍。エベレスト9回、チョ・オユー2回、マナスル2回、エルブルース5回、マッキンリー4回、アコンカグア5回、ヴィンソン・マシフ4回、キリマンジャロ2回、カルステンツ・ピラミッド3回、そのほとんどをガイドとして登頂している。エベレスト登頂9回は、日本人エベレスト最多登頂記録である。 現在、我孫子市在住、日本山岳ガイド協会所属、上級山岳登攀ガイド。
ジョン・ウィラード・ミルナー 来歴 ニュージャージー州出身。プリンストン大学在学中から数学の競技会で名を売り、1949年から1950年にはファリー・ミルナー理論を証明した。彼はそのままプリンストン大学の大学院に進み、ラルフ・フォックスの指導の下で「ホモトピーとリンク」という論文を書いた。博士号を得た後も、そのままプリンストン大学で研究を続けた。 また1962年からは学術雑誌Annals of Mathematicsの編集も行っている。 教え子には秋葉忠利、Jon Folkman、John Mather、Laurence Siebenmann、Jonathan Sondow、and Michael Spivakらがいる。 研究 ミルナーの最も大きな業績は、非標準的微分構造を持った7次元エキゾチック球面の存在を証明したことである。後にMichel Kervaireとの共同研究で、彼は7次元球面上には15種類(向きも考えると28種類)の微分構造が存在することを示した。非標準的微分構造を持ったn次元球面は、ミルナーの提唱でエキゾチック球面(Exotic sphere)と呼ばれている。
サンシティ池田 概要 1987年4月15日にオープンした。建物は階段状になっており、阪急宝塚線池田駅に近づくほど低層化する構造をもつ。中核テナントは阪急オアシス池田店。1階の北側入口付近には、「サンサン」という名のゴリラの像があり、その前にある広場は「サンサン広場」と呼ばれている。2018年、主に2階・3階で展開していたダイエー池田駅前店が当施設での営業を終了。2019年にリニューアルオープンし、ソフトバンクやマツモトキヨシ、日本旅行などの店舗が開業した他、池田市立図書館が移転開館された。