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アナログ乗算器のアナログ乗算器のデバイス アナログ乗算器はホール効果を使い実現することができる。ギルバートセルは、出力電流が2つの差動入力の4象限乗算である回路である。集積回路のアナログ乗算器は、真のRMSコンバータなど多くの応用に取り込まれているが、線形4象限乗算器のような多くの汎用アナログ乗算器ブロックが利用できる。汎用デバイスは通常、入力か出力に減衰器もしくは増幅器を備え、回路の電圧制限内で信号を拡大縮小することができる。アナログ乗算回路はオペアンプとよく似ているが、電圧関連のノイズやオフセットの誤差が乗算されるおそれがあるので、その問題の影響をオペアンプよりもはるかに受ける。高周波信号を扱う場合、位相関連の問題はかなり複雑になるおそれがある。この理由により、広範囲に汎用なアナログ乗算器を製造することは普通のオペアンプよりはるかに難しく、このようなデバイスは決まって、計装増幅器などの高性能増幅器に使われるものと同様の専門技術及びレーザトリミングを用いて製造される。これは、それらが比較的高いコストを必要とすることを意味し、よって、一般的には必須である回路に対してのみ使われる。一般的に入手可能なアナログ乗算器ICは、MPY634(テキサス・インスツルメンツ製)、AD534、AD632、AD734(アナログ・デバイセズ製)、HA-2556(インターシル)などがある。 |
アナログ乗算器の乗算におけるアナログとデジタルのトレードオフ ほとんどの場合、アナログ乗算器で実行される機能はデジタル信号処理技術を用いてより低コストでより良く実行できる。低周波では、デジタルの手法は安価で効果的であり、回路機能をファームウェアで変更することができる。周波数が上昇するにつれて、デジタルの手法を実装するコストは、アナログの手法よりもはるかに急に増大する。デジタル技術が進歩するにつれて、アナログ乗算器を使うことは、高周波回路もしくは非常に特化した応用に向かってもますます重要性を失う傾向にある。さらに、ほとんどの信号は、信号経路内で遅かれ早かれデジタル化されるようになっており、可能な限り乗算器を必要とする機器はデジタル側に移行する傾向にある。例えば初期のデジタル回路計では、真のRMS機能は外部のアナログ乗算回路により提供されていた。今日では(高周波測定を除いて)RMS及び他の機能の全範囲をデジタルプロセッサにより実行できるよう入力信号をデジタル化するために、ADCのサンプリングレートを増やす傾向にある。しかし、盲目的に信号を経路の早い段階でデジタル化することは、高速ADCに要求されるのには不合理な電力量を必要とする。はるかに効率的な手法は、有用な情報を含む帯域幅をデジタル化するエネルギーのみを使うために、信号を調整して帯域幅を狭めるアナログで前処理するものです。さらにデジタル制御抵抗により、マイクロコントローラはデジタル化された信号を直接処理することなく、音質制御やAGCなどの多くの機能を実装することができる。 |
ハラルト・モルスの生涯 1943年9月12日に実施されたムッソリーニ救出作戦では、降下猟兵及び武装親衛隊からなるコマンド部隊の隊長として部隊を率い、グラン・サッソの山頂にグライダーで降下し、ベニート・ムッソリーニが幽閉されていたホテルへ突入してムッソリーニを救出、保護のために随行していた武装親衛隊のオットー・スコルツェニーに引き渡した。この功績により、同年9月26日にドイツ黄金十字章を授与されている。1945年にモルスは西部戦線でB軍集団に従軍していた。しかしB軍集団はアメリカ軍第3軍にルール工業地帯で包囲され、3月には彼自身も捕虜となった。戦後間もない1945年9月には解放された。再建されたドイツ連邦軍に入隊し、NATO軍の情報部に勤務した。最終階級は大佐。この間にグラン・サッソ襲撃に関する記録を残している。2001年にバイエルン州シュタルンベルクで死去した。 |
網取の概要 西表島表島の南西部、網取湾に面する地域。網取遺跡からは大規模な貝塚が発見されており、相当に古い時期から集落が形成されていたと思われる。琉球王国時代は当初、祖納に置かれた番所の監督下に属していたが、後に鹿川と共に波照間島の島民を強制移住させた開拓村である崎山の番所へ管轄が移った。太平洋戦争が終結し西表炭坑の採掘が中止された後は急速に衰退し、1971年(昭和46年)7月14日に廃村となった。沖縄返還後の1976年、東海大学が竹富町立網取小中学校の跡地を譲り受けて東海大学海洋研究所(現・東海大学沖縄地域研究センター網取施設)を開設。現在は同センターが集落の跡地を管理している。 |
網取のあんとぅりの碑 1996年、旧網取集落出身者が「うるち会」を結成。網取港に旧集落跡を示す「あんとぅりの碑」を建立した。 |
網取の交通 道路が整備されていないため陸路で訪れることは出来ず、船をチャーターする必要が有る。以前は船浮海運が週1便のペースで網取と船浮集落を結ぶ連絡船を発着させていたが、2010年を以て廃止された。石垣港発着で集落付近の網取湾をクルーズするツアーが観光会社により組まれている。 |
日本ロマンス旅行の略歴・概要 新東宝社長の大蔵貢の原作を岡戸利秋が脚色し、大蔵の実弟の歌手・近江俊郎が総監督の立場で、10篇のオムニバスをまとめた。日本の古今の歴史上の人物、架空の人物が登場する劇映画である。1959年(昭和34年)に製作され、同年6月19日に公開された。ヴォードヴィリアンの由利徹と南利明が、新東宝を自らパロディにした「新東京映画」の「大楽所長」と「北田副所長」を演じ、『東海道中膝栗毛』の「弥次さん喜多さん」のような狂言回しとして、各篇を紹介する。舞台になるのは、定山渓、札幌、会津若松、下田、修善寺、京都、大阪、宮島、長崎、高知の10か所である。この作品は新東宝の後身会社・国際放映が著作権などを新東宝から継承しておらず、2018年現在の権利保有者は不明である。 |
日本ロマンス旅行のエピソード 大蔵貢社長の「企画第一主義」と「安く早く」のモットーに則った製作体制だった。十話構成の内容で、一話を二日で撮り上げるという撮影日程だった。空前の大ヒットとなった『明治天皇と日露大戦争』の二番煎じ、三番煎じ企画であり、すっかり「天皇役者」になってしまった嵐寛寿郎は本作で「仁徳天皇」役をつとめている。アラカンの出番は中川信夫担当話だが、大蔵社長自らの企画だけに現場での意気込みも高く、撮影現場にたびたび介入。アラカンは「これも不敬に当たりますけど、アホらして演っておられまへん、大蔵はん撮影にやってくる、中川監督差し置いていちいちダメを出す。もう一人、総監督の近江俊郎はん、監督三人や」と撮影の様子を語っている。アラカンは「そもそも天皇・皇后の衣装は文献も何もおへん。これも高倉みゆき、スケスケ・ルックを着せよるんですわ」と呆れかえっている 。 |
球体ロボットの概要 古くからSFでは球体のロボットが存在したが、近年では各国の研究機関や大学などで開発が進められつつある。日本国内では東北学院大学の熊谷正朗教授のグループが開発を進める。 |
球体ロボットの動力内蔵型 球体の内部に動力を備える機種では防水加工が容易で海底探査や惑星探査等への応用が検討される。高度な姿勢制御装置は不要。 |
球体ロボットの外部動力伝達型 セグウェイと同様に倒立振子制御により、玉乗りのようにバランスを維持する。電動機から摩擦で球体に動力を伝達するか、球体を回転子とした電動機が使用される。 |
図師光博の来歴・人物 大学在学中に、友人の誘いで自主映画を始める。2001年、映像集団ブルースキングを旗上げ。笑いをテーマに数多くの作品を作り、自主映画祭などで、いくつかの賞を得る。大学を卒業後、上京。本格的に俳優の道へ。先輩の芸人コントグループ(フラミンゴ)と出会い、舞台を始める。俳優の他にも、2008年より、辻本耕志(フラミンゴ)、砂川禎一郎(夜ふかしの会)、長谷川大輔(構成作家)と共に「ご当地楽しみ隊」を結成。全国を旅し、ご当地を全力で楽しむという旅番組を、YouTubeにて配信している。身長173cm、体重61kg。血液型はO型。趣味はカメラ。かつてはタンバリンアーティスツに所属していた。 |
立川まつり国営昭和記念公園花火大会の概説 近年、東京湾大華火祭でも立川と同じ大きさの1.5尺玉の花火が上がるようになったが、以前は、広大な立川基地で行う、東京で一番大きな花火が上がる大会として、有名だった。このため、三多摩地区では一番の花火大会と認識されており、立川市の人口が17万人であるところ、主会場である国営昭和記念公園内観客数だけでも33万人、周辺道路を含めると75万人もの観客が訪れる花火大会となっている。花火大会は、広域から多数の動員を図ることができる三多摩地区の中心地としての立川の魅力と広大な国営昭和記念公園の魅力を伝える最大規模の催事として行われている。現在でも、1.5尺玉の大玉が上がる東京の花火大会は、東京湾大華火祭と立川だけであり、東京一の大玉が上がる花火大会であることには変わりない。 |
立川まつり国営昭和記念公園花火大会の歴史 立川の花火大会の開催は、1954年(昭和29年)の第1回立川納涼花火大会が始まり。花火大会は交通量の増加により日野橋河畔から米軍立川基地の敷地を借りる形へと場所を換え実施された。市長に阿部行蔵が就任した際には、立川市は当時隆盛した革新自治体の一つとなり、1972年には、阿部の意向で米軍・自衛隊との共催が拒否され市政が紛糾する事件があった。こうした運動等の理由から花火が打上できない年もあったが、その後あらためて打上会場を設定し、1982年(昭和57年)に「立川まつり花火大会」として復活した。2011年は東日本大震災が発生したことを受け、復興活動を行っている警察および自衛隊の負担軽減や、協賛金を義援金に変えて支援するという理由から中止された。また、2013年は7月27日に開催する予定だったが、大会開始寸前に突然激しい雷雨となったために中止となり、順延もされなかった。2018年は7月28日に開催される予定だったが、台風12号の影響で11月23日に順延となった。 |
立川まつり国営昭和記念公園花火大会の交通規制 当日、周辺道路は、混雑のため全く動かなくなる。このため、車の利用は事実上不可能となる。周辺を運行している立川バスは一部ルートを変更して運行している。 |
マルコム・アーノルドの人物・来歴 作曲家として本格的にデビューする前はトランペット奏者として活動しており、1941年にロンドン・フィルハーモニー管弦楽団に入団、翌年には首席トランペット奏者に抜擢された。ウィリアム・ウォルトン直系のわかりやすさとウィットに富んだリズムとメロディー、迫力あふれるオーケストラといった作風がアーノルド最大の魅力である。作曲家としては映画音楽も手がけ、『戦場にかける橋』においてはアカデミー作曲賞を受賞し、ケネス・アルフォードの行進曲『ボギー大佐』を世界中に知らしめた。9つの交響曲を書き上げ、1993年には大英帝国勲章が授与され、勲爵士に叙された。晩年は認知症などで苦しい闘病生活の後、2006年9月23日、イングランド東部ノーフォークの病院で肺感染症により死去した。84歳没。 |
ABC FCの国際タイトル なし |
レナト・シュテフェンの来歴 2011年、FCゾロトゥルンに加入。2012年夏、FCゾロトゥルンからFCトゥーンに移籍、1年後にはヤングボーイズに移籍した。2016年1月、FCバーゼルに移籍した。 |
レナト・シュテフェンの代表 2015年10月9日、UEFA EURO 2016予選・グループE・サンマリノ戦でスイス代表デビューを果たした。 |
仙台市内の通りの地理 ブリュマトは国道63号線を通じてストラスブールの17km北、アグノーの13km南にある。西にはA4のバイパスがある。ゾルン川がコミューンを横断し、マルヌ・オー・ラン運河が南西部を通過する。 |
三瓶数馬の来歴 ブリュマトは過去5000年以上、中断なしに人が定住してきたアルザスにおける数少ない場所である。ケルト系のトリボシ族の本拠地で、ガロ=ローマ時代はBrocomagusの名であった。紀元前58年、ガイウス・ユリウス・カエサルによってアリオウィストゥスが退けられると、ローマ人によってトリボシ族はライン川右岸での定住を許された。低アルザスはトリボシ族のCivitas Tibocorumとなり、その首都が現在のブリュマトである。ほぼ4世紀にわたるローマの平和な時代にブリュマトは築かれた。しかしローマが衰退すると、ブロコマグスは滅びた。13世紀、ブリュマトは低アルザスの辺境伯領となった。14世紀には町の地位に昇格している。リヒテンベルク家とリナンジュ家がブリュマトの支配権をめぐって絶え間なく衝突した。 |
愛宕グリーンヒルズの概要 小学生の頃から空手をやっていたが、中学卒業のタイミングでチャンピオンと明確な結果が出るもので勝負したいと思い、ボクシングを始める。当時所属の渡部あきのりに憧れたことから協栄ボクシングジムに入門。2012年7月8日に横浜文化体育館で清水海至とスーパーフェザー級4回戦を戦い、4回3-0(39-35、40-35、40-35)の判定勝ちを収めデビュー戦を白星で飾った。2013年東日本スーパーフェザー級新人王として、西軍代表藤本翔平を相手に2R1分22秒KO勝ちを収めて全日本新人王と技能賞を獲得した。2014年6月24日に後楽園ホールで濱名潤とスーパーフェザー級8回戦を戦い、8回3-0(78-77×2、77-75)の判定勝ちを収めた。なおこの試合で東日本ボクシング協会から2014年6月度月間賞新鋭賞を受賞した。しかし同年10月15日に後楽園ホールでさくら淳とスーパーフェザー級8回戦を戦って1回1分28秒TKO負けで初黒星を喫し、続く末吉大戦もTKO負けを喫した。2015年9月17日に後楽園ホールで行われた「DANGAN139」で高畑里望とスーパーフェザー級8回戦を戦い、8回2-0(77-76×2、77-77)の判定勝ちを収め連敗ストップした。その後2連敗を喫したが、2017年8月22日に後楽園ホールで行われた日本ユース初代王座決定トーナメントスーパーフェザー級部門決勝で石井龍誠と戦い、8回2-0(78-75、77-76、76-76)の判定勝ちを収め、日本スーパーフェザー級ユース王座の初代王者となった。同年11月22日に後楽園ホールで行われた「協栄復活祭vol.1」のメインイベントで石井龍輝と日本ユーススーパーフェザー級タイトルマッチを行い、5回2分55秒TKO勝ちを収め日本ユース王座初防衛に成功した。そして5か月ぶりの試合は判定勝ちを収め、2018年7月30日に後楽園ホールで行われた「協栄会2」のメインイベントで木村吉光と日本ユーススーパーフェザー級タイトルマッチを行い、5回1分29秒TKO負けを喫して日本ユース王座2度目の防衛に失敗した。同年12月12日に後楽園ホールで行われた「ザ・グレイテストボクシング」で粟田祐之とスーパーフェザー級8回戦を戦い、7回0分17秒TKO勝ちを収め再起戦を勝利で飾った。 |
銀河の輝映の解説 ツイン高層ビルの愛宕グリーンヒルズMORIタワー(オフィス棟・南側)と愛宕グリーンヒルズフォレストタワー(住居棟・北側)の2棟で構成され、森ビルが管理する。鉄道唱歌に謳われた愛宕山は、江戸時代から眺望と信仰、桜の名所として市民に親しまれてきた。しかし近年来の細分化された無秩序な開発により、中小ビル群に取り囲まれ市民から隔たった存在となっていた。そのような中、愛宕地区の再開発事業が決定される。この事業は「愛宕山の緑と歴史的·文化的環境を保全しつつ、一体的な公園機能を整備し都市の再生をはかる」ことに目標が定められ、愛宕山の自然、伝統、文化との融合をコンセプトとし、曹洞宗青松寺を挟むように建設された。「愛宕グリーンヒルズ」が立地する地区の特徴は、愛宕山の地形と臨海部の緑が醸し出す景観にある。それを基盤として活かし、事務所·住宅からなる高層ツインタワを配置し、伝統的な青松寺の伽藍を複合させたサイトプランである。一方、この愛宕地区は都市計画公園区域、風致地区に指定された規制の厳しい地域でもあり、有効空地等の都市計画上定められる施設を、緑の保全や一体性の工夫によって規制をプラスに働かせ、緑と施設とが無理なく融合した風景として納めるよう計画がなされた。工事着工前の段階で既存樹から採取した実生苗の育成状況で、枯損のリスクと費用のかかる大径木の移植を極力おさえ、その分、若い後継樹を新たな植栽地で健やかに育つよう考えられた。愛宕山の約40度の斜面に築造された公園園路が、緑を保全する必要性から地形を改変しない工法の選択をせまられ、深礎工法による橋梁形式の園路が提案され採用となっている。この事業は開発によって不動産価値を高めたプロジェクトとして評価され、今日不動産業界において国際的に最も権威があるULI Awards for Excellenceを国内初受賞した。なおULI (Urban Land Institute)は1936年に設立された、不動産関連研究および教育のための非営利団体で現在世界70ヶ国から正規会員、特別会員が所属し、開発業1 行政従事者、学識者、設計者、コンサルタントなど、土地活用と開発に関わるあらゆる分野の専門家により構成されている。青松寺と隣接していることにちなみ、仏教で極楽浄土を象徴するハスの花を模した外観デザインは、世界的な建築家シーザー・ペリ率いるシーザー・ペリ・アンド・アソシエーツ(Cesar Pelli & Associates、現 Pelli Clarke Pelli Architects)が監修した。住宅棟フォレストタワーの最上階(42階)にはジムやプールなどを備えたグリーンヒルズスパ(GREEN HILLS SPA)、近接する東京慈恵会医科大学と提携した居住者のための24時間体勢の健康相談室などを備えている。英国ボーダフォンに買収された「J-フォン株式会社」(2003年10月より「ボーダフォン株式会社」)が2001年12月からMORIタワーに本社を置いていた。ソフトバンク(BBモバイル)の買収に伴い、2006年5月に東京汐留ビルディングへ移転。また映画『g@me.』(2003年公開)で、主人公(藤木直人)の自宅としてロケ使用された。MORIタワー最上階付近からは東京タワー大展望台を見下ろすことが出来る。 |
多様体の圏の具体圏として 御多分に漏れず、多様体の圏 Manᵖ は具体圏である。すなわち対象は集合に構造を加えたもの(いまの場合は位相とCᵖ-級可微分構造を定めるチャートの成すアトラスの同値類)であり、かつ射はその構造を保つ写像になっている。可微分構造を忘れることにより、各多様体にその台となる位相空間を対応させ、可微分写像を台となる連続写像に対応させる位相空間の圏への自然な忘却函手 U: Manᵖ → Top が得られる。同様に集合の圏への自然な忘却函手 U′: Manᵖ → Set が、各多様体を単にその台となる集合と見て、可微分写像を単に写像と見ることで与えられる。 |
Cyntiaの概要 ギターのYUIとドラムのKANOKOを中心に結成。バンド名のCyntiaは、Cynthia+Tiaraから生まれた。2012年4月にインディーズレーベルスピニング内に設立されたレーベル「Bright Star Records」からシングル「Run to the Future」をリリースしデビュー。初ライブ直後にベースのAIRIが体調不良で脱退。サポートメンバーとして参加していたLAZYgunsBRISKYのAZUが加入。2012年10月7日、ヴォーカルのSAKIがプロ野球オリックス・バファローズの大阪ドーム公式戦最終戦で国歌斉唱。2013年1月6日、KARAの東京ドーム公演でバックバンドを務めた。2013年3月、アルバム「Lady Made」を119ヶ国のiTunesで配信し世界同時メジャーデビュー。2013年7月、浜田麻里のヒット曲「Return to Myself 〜しない、しない、ナツ。」をカバーしメジャー第1弾シングルとしてリリース。2013年・2014年にロックフェスNAONのYAONに出演。2015年4月、リーダー兼ドラムス担当KANOKOが脱退。2016年10月、ビクター・エンタテイメントからAldiousやRamiらが所属する「Village Again Association」へレーベルを移籍。2016年12月14日、4人体制移行後初のアルバム「Urban Night」発売2017年12月26日、ギタリストのYUIが「フォーカルジストニア」と診断され、メンバー・スタッフ協議の結果、バンドの無期限活動休止に入ることを発表。2018年10月26日、「フォーカルジストニア」のため療養していたYUIの活動再開を公式ホームページで発表。2019年2月11日、ボーカルSAKI初のソロワンマンライブ『これより我ら、修羅に入る!!』を六本木・morph-tokyoにて開催予定。 |
プジョー・607の概要 1930年代になると、軍用機の離陸重量の増加は、長い離陸距離を必要とすることになり、何人かのエンジニアは、スリップ・ウィングの構想を検討した。スーパーマリンの設立者のノエル・ビリング(Noel Pemberton Billing)も航空雑誌に有人で切り離し後、回収し再使用するアイデアや使い捨ての翼のアイデアを寄稿した。ブラックバーンもスリップ・ウィングの研究を行った。マンチェスターのトラフォード・パークで軽飛行機を製造していたヒロソン(F Hills and Son)は第二次世界大戦が勃発した後、航空省に軽戦闘機の提案を行った。構想では安価な戦闘機で狭い飛行場や道路から離陸できるというものであった。離陸性能を得るために使い捨てのスリップ・ウィングを採用する提案であった。航空省は提案を受理しなかったのでヒルソンは自主開発で、スリップ・ウィングの可能性を証明する実験機を製作した。木製主翼の機体で胴体は鋼管羽布張りの単葉機で、ジプシーエンジンを搭載した。投棄される上翼は翼幅の異なる2種類が用意された。1941年中に、飛行テストはバートン飛行場で行われ、単葉機、複葉機のそれぞれの状態で飛行し、翼幅の狭い上翼が選ばれた。上翼の切り離しテストは、切り離された翼の落下によって住民に被害のでることを防ぐためにアイリッシュ海に臨む、ブラックプールのスクェアズゲート飛行場で1941年7月16日に行われた。実験は成功し、翼を切り離すことによる前後の釣合(トリム)の大きな変化はなく、切り離しによる高度の低下も数百フィートで収まった。このテストの結果、航空省はホーカー・ハリケーンにスリップ・ウィングを取り付けるヒルソン FH.40の開発を承認し1942年にカナダ製のハリケーンを供与したが、FH.40の開発の優先順位は低く、開発は遅れ、初飛行は1943年の5月となった。1944年の春までテストされたが、事故を起こした後、開発は中止された。 |
ヒュー・ケアンズ (初代ケアンズ伯爵)の経歴 1819年に軍人ウィリアム・ケアンズとその後妻ロザーナ(旧姓ジョンストン)の間の三男として誕生。1838年にダブリン大学トリニティ・カレッジからバチュラー・オブ・アーツ(BA)やバチュラー・オブ・ローの学位を取得して卒業。1844年にミドル・テンプルに入学して弁護士資格を取得。1852年から1866年にかけてはベルファスト選挙区から選出されて保守党所属の庶民院議員を務めた。法律家としても活躍を続け、1856年には勅選弁護士となり、1858年から1859年にかけては法務次官、1866年には法務総裁、1866年から1868年にかけては上訴法廷の裁判官(法官貴族)となる。1867年にケアンズ・オブ・ガーモイル男爵の爵位を与えられた。政界においてケアンズ卿はベンジャミン・ディズレーリと親しかった。1868年2月から12月にかけて成立した第一次ディズレーリ内閣では、ディズレーリに睨まれて大法官の座を追われた初代チェルムズフォード男爵に代わって大法官(貴族院議長)として入閣している。さらに野党期の1869年には保守党貴族院院内総務となったが、一会期で辞職した。1874年から1880年にかけての第二次ディズレーリ内閣でも大法官として入閣した。閣内でも最も首相ディズレーリと親しい閣僚の一人であった。1878年にはケアンズ伯爵の爵位を与えられた。1885年4月2日にボーンマスで死去した。 |
てんびん座ベータ星の概要 視差から、地球からの距離は185光年と推測される。この星の高温はシンプルなスペクトルの光を生成し、地球とこの星との間の星間ガスと塵を調査するのに理想的である。同種の多くの星のように、高速で回転しており、太陽の100倍以上の自転速度である。主星の角直径は0.801 ミリ秒と測定された。この星の周期的な小さな変光は、直接地球からは観測できない伴星の存在を示唆している、その一方で現在のところ、単一の星に分類されている。 |
てんびん座ベータ星の星の色 この種の星は通常は青白く見えるが、この星は緑色と表現される事がよくあり、これは肉眼で見える唯一の緑色の恒星である。 |
てんびん座ベータ星の明るさ エラトステネスによれば、この星はアンタレスより明るいと観測され、350年後のトレミーは、アンタレスと同じくらいの明るさとしている。R.H.アレンは、この食違いについて、アンタレスが増光したのではないかと推測している。この星が減光した可能性もあるが、現在では0.03等級の変光しかしていない。 |
てんびん座ベータ星の名称 β Lib / β Librae。固有名のズベン・エス・カマリ (Zubeneschamali) ([ˌzuːbənˌɛʃəˈmeɪli]) は、アラビア語で「北の爪」を意味する الزبن الشمالية (al-zuban al-šamāliyya) を由来とする。2016年8月21日、国際天文学連合の恒星の命名に関するワーキンググループ (Working Group on Star Names, WGSN) は、Zubeneschamali をてんびん座β星の固有名として正式に承認した。かつては、ラテン語で「北の(天秤の)皿」を意味する Lanx Borealisと呼ばれることもあった。 |
星屑の狙撃手の解説 おニャン子クラブ在籍時最後に発表されたシングル。本人の希望によってジャケットにモノクローム写真を使い、大人のイメージを強調した。「狙撃手」にちなみ、跪いて銃を構える振り付けを取り入れた。フジテレビのバラエティ番組『とんねるずのみなさんのおかげです』内で、石橋貴明がコントの脈絡に関係なく唐突に真似をしたことがある。 |
ベルタ・フォン・ズルツバッハの生涯 ズルツバッハ伯ベレンガル2世と妻アーデルハイト・フォン・ヴォルフラーツハウゼンの次女。兄はゲブハルト3世、姉は神聖ローマ皇帝コンラート3世の皇后ゲルトルート。シチリア王ルッジェーロ2世と対抗するため、皇帝ヨハネス2世コムネノスはドイツの神聖ローマ皇帝コンラート3世の元へ大使を派遣した。同盟のしるしとして、コンラート3世の縁者の姫を息子の配偶者にしたいと打診されたため、皇后ゲルトルートの妹ベルタを推薦した。婚約が整い、ベルタはヴュルツブルク大司教に伴われてコンスタンティノープルへ出発した。ベルタがコンスタンティノープルへ到着した時に、既にヨハネス2世コムネノスは逝去し、婚約者マヌエル1世コムネノスが既に即位していた。マヌエルは3年もの間ずるずると結婚を延期させたすえ、1146年に結婚した。皇后エイレーネーと呼ばれた彼女は、テッサロニキ大司教にその穏やかさを褒め称えられた。歴史家ニケタス・コニアテスは、彼女が顔にフェイスペイントを施さなかったと記している。二人の間には娘が二人生まれ、長女マリアはモンフェラート公子ラニエリの夫人となった。1159年にベルタは亡くなった。彼女の死に悲嘆にくれたマヌエルは、「ライオンのように泣きわめいた」という。彼は2年後の1161年に、後添えとしてアンティオキア公女マリーを迎えた。 |
粛軍クーデターの概説 1979年10月26日、朴正煕大統領が暗殺(朴正煕暗殺事件)されると、崔圭夏国務総理が大統領権限代行に就任し、12月6日には統一主体国民会議代議員による選挙で第10代大統領に選出された。崔圭夏の選出はあくまで維新体制の枠内でのことだったが、代行就任直後の11月10日に早期の憲法改正と新憲法に基づく大統領選挙を実施することを旨とする談話を発表、また大統領就任直後の12月8日には緊急措置9号の解除と同措置によって拘束されていた政治犯68名を釈放するとともに、金大中の自宅軟禁を解除した事から、独裁体制が緩和されるという期待が膨らみ、ソウルの春と呼ばれる民主化ムードが台頭した。一方、朴正煕暗殺事件の捜査過程において、戒厳司令官の任にある鄭昇和陸軍参謀総長と合同捜査本部長の任にあった国軍保安司令官全斗煥陸軍少将が対立。さらに全斗煥や第9師団長盧泰愚陸軍少将が中心となって組織された秘密組織「ハナフェ(ハナ会・一心会)」を軍中枢より排除しようと試みたことにより、12月12日夕方、鄭昇和参謀総長を公邸で逮捕した(朴正煕暗殺事件の発生時、金載圭から飲食の誘いを受けた事により、事件現場から至近距離にいながらすぐに逮捕しなかったことで、内乱幇助の疑いをかけられた)。戒厳司令官の逮捕には大統領の許可が必要であるため、全斗煥が崔圭夏大統領権限代行に裁可を得ようとするが「国防部長官(第21代長官:盧載鉉)の承認なしには絶対に決裁しない」と拒まれたため、盧の捜索を始める。なお盧本人は陸軍参謀総長公邸への銃撃を共産ゲリラによる襲撃と誤認し家族と一緒に避難していた。また参謀総長公邸を強襲したため、各部隊や警察が現場で入り乱れて公邸のある漢南洞や景福宮一帯では銃撃戦に発展、漢江に架かる11の橋も遮断された。更には米韓連合司令部の統制なしに前線部隊がソウルへ向かうなど内戦寸前の状態に陥るが、その後に全斗煥側の部隊である特殊戦司令部第1空挺旅団により、国防部や陸軍本部が占領され、盧載鉉国防部長官も「確保」されてしまう。盧載鉉は全斗煥らの圧力に屈し、すぐさま戒厳司令官逮捕を決裁し、崔圭夏大統領権限代行に裁可を求めることとなった。崔圭夏は盧載鉉の対応のまずさを非難し、戒厳司令官逮捕後による事後承認は認めないと突っぱねたが、崔圭夏自身が軍部を掌握しておらず事態を収拾するためには、保安司令部と「ハナ会」を中心に決行された反乱を黙認せざるをえなかった。この結果、鄭総長は懲役10年刑を宣告、鄭総長派の鄭柄宙特殊戦司令官や張泰玩首都警備司令官は80年1月20日付で強制的に予備役編入された。ここに全斗煥や盧泰愚たちが軍部の実権を掌握した。ここまでの段階ではクーデターと呼ばれるが軍内部の反乱であった。政権を奪取するという意味でのクーデターに該当するのは、むしろこれ以降の1980年5月の光州事件に至る過程である。これによって崔圭夏を辞任に追い込み、新軍部が実権を握るに至ったからである。朴正煕政権時代に似た軍部独裁を志向する新軍部に抗議して大規模な学生デモが発生したが、1980年5月17日の軍事クーデターによる非常戒厳令全国拡大とそれに抵抗する民主化運動を武力弾圧(光州事件)、同年8月崔圭夏大統領は新軍部の圧力の下に辞任、9月1日には全斗煥将軍が統一主体国民会議代議員会で第11代大統領に選出された。そして1980年10月22日に改憲案に対する賛否を問う国民投票が9割以上の賛成で承認、10月27日に新憲法が公布・発行し、第4共和国体制は終わりを告げた。そして1981年2月25日に行われた大統領選挙に立候補した全斗煥が圧倒的得票で当選、3月3日に第12代大統領に就任し、第五共和国(五共)体制をスタートさせた。後の金泳三政権下で、全斗煥・盧泰愚らは光州事件と政権奪取の首謀者として捜査対象となったが、刑法では時効が援用されて全斗煥・盧泰愚は内乱罪に問われなかった。しかし直後に、粛軍クーデターが全斗煥将軍らの軍刑法における反乱罪にあたると認定された。 |
ギル・ロバーツの経歴 ミルウッド高校 (en) 時代には、2006-2007年シーズンにアメリカンフットボールと陸上競技でオクラホマ州選手権に出場。卒業するまでにナイキ選手権(Nike Outdoor Nationals)を含む5つの全国タイトルを獲得するなど活躍し、卒業後はテキサス工科大学に進学した。しかし、1年時は怪我でほとんどレースに出場できずに終わった。 |
ギル・ロバーツの2009年 3月のNCAA室内選手権男子400mでは優勝したマイケル・ビンガム(45秒69)に0秒02及ばず、初のNCAAタイトルを惜しくも逃した。5月のBig 12選手権では男子400mを今季世界ランク4位(当時)の記録となる44秒86で制し、初のNCAAタイトルを目指して6月のNCAA選手権に出場したが、男子400m準決勝で負傷し途中棄権に終わった。同月の全米選手権男子400mは決勝まで進出し、ラショーン・メリット(44秒50)に次ぐ44秒93で2位に入りベルリン世界選手権アメリカ代表の座を掴んだ。世界大会初出場となった8月のベルリン世界選手権男子400mは46秒41で予選敗退に終わった。 |
ギル・ロバーツの2011年 3月のNCAA室内選手権は男子400mに出場するも不正スタートで予選失格に終わった。6月のNCAA選手権男子400m決勝はキラニ・ジェームスとの同タイム(45秒10)着差ありの優勝争いに0秒003差で敗れ、更にレーン侵害があったとして失格に終わった。 |
ギル・ロバーツの2012年 2月に室内400mで今季世界最高記録(当時)および自己ベストとなる45秒39をマークすると、同月の全米室内選手権男子400m決勝でも45秒39をマークし、カルヴィン・スミス・ジュニア(45秒96)らを抑えて初優勝を成し遂げた。3月のイスタンブール世界室内選手権には400m今季世界ランキング2位(当時)の記録(45秒39)を持って臨んだが、400mは準決勝敗退に終わった。しかし、決勝のみ出場した4×400mリレーではアメリカチームのアンカーを務めて優勝に貢献し、自身初となる世界大会のメダルを獲得した。6月上旬のNCAA選手権は男子400m準決勝を44秒84の自己ベスト(当時)で突破したが、決勝では44秒99とタイムを落として3位に終わり、卒業するまでにNCAAタイトルを獲得することはできなかった。同月下旬の全米選手権男子400mは準決勝で敗退した。 |
ギル・ロバーツの2013年 6月の全米選手権男子200mで準決勝まで進出したが、わずか0秒007差で決勝進出を逃した。 |
ギル・ロバーツの2014年 6月の全米選手権男子400mは予選45秒16、準決勝44秒99と、両ラウンドで全体1位のタイムをマークすると、迎えた決勝は44秒53の自己ベスト(当時)をマークし、ジョシュア・マンス(44秒89)やカイル・クレモンズ(45秒00)などを抑え、2年ぶり2度目となるシニアの全米タイトルを獲得した。 |
ギル・ロバーツの2015年 6月の全米選手権男子400mは46秒02で予選敗退に終わった。 |
ギル・ロバーツの2016年 初のオリンピックアメリカ代表を目指して7月の全米選手権男子400mに出場すると、準決勝では当初不正スタートの判定が下ったが、抗議の末に判定が覆り、準決勝を全体2位となる44秒67で突破。決勝はタイムは落としたものの2ラウンド連続の44秒台となる44秒73をマークし、ラショーン・メリット(43秒97)に次ぐ2位に入り初のオリンピック代表の座を掴んだ。8月のリオデジャネイロオリンピックには男子400mと4×400mリレーに出場すると、400mは準決勝で自己ベスト(44秒53)に迫る44秒65をマークするも全体9位に終わり、決勝に進出するには0秒16及ばなかった。しかし、決勝のみ出場した4×400mリレーはアメリカチームの3走を務めて金メダル獲得に貢献した。 |
ギル・ロバーツの2017年 6月23日の全米選手権男子400m準決勝で自己ベスト(44秒53)を3年ぶりに更新する44秒33をマークすると、翌日の決勝でも44秒22の自己ベストをマークして2位に入り、ロンドン世界選手権アメリカ代表の座を掴んだ。2009年ベルリン大会以来8年ぶりの出場となった8月のロンドン世界選手権男子400mには今季世界ランク5位(44秒22)として臨むと、予選を44秒92で突破し、8年前には進めなかった準決勝に進出した。準決勝では予選よりタイムを縮める44秒84をマークしたが、着順で決勝に進出できる組2着には0秒29、タイムで拾われるには0秒20届かず、組3着(全体10位)で敗退した。決勝のみ出場した男子4×400mリレーはアメリカチームの2走を務めて銀メダル獲得に貢献し、自身初の世界選手権メダルは獲得したが、アメリカチームは大会7連覇を逃した。 |
ギル・ロバーツの人物・エピソード 2017年3月24日のドーピング検査で陽性反応を示したが、恋人とのキスが原因だったため潔白となった。恋人が禁止薬物(プロベネシド)の含まれている鼻炎薬を摂取しており、熱いキスを頻繁に繰り返すうちにロバーツが禁止薬物を取り込んでしまったという。 |
トンボ科の成虫の形態 頑丈な体付きで、前翅よりも後翅の方か幅広である不均翅亜目のグループに属する。大型のヤンマ科と比べて小さく、全長6 cm以下の小型から中型のトンボ。体色は金属光沢の単純な色調、黄色、赤色、青色など変異に富む。ハッチョウトンボのように雌雄で色彩が異なるものや、マユタテアカネのようにメスに色彩が異なる多型のあるものもある。シオカラトンボやハラビロトンボのように羽化した時のオスがメスと同色で、成熟するとオスの体色が大きく変わるものが多い。複眼は発達し大きく左右がくっ付きあって一続きになり、境目が長い線状になっているものが多い。複眼後縁の突起物がなく、腹部の耳状突起などを取り除いた単純な形態。前翅の三角室は著しく縦長となるものが多く変形して、四角室状となるものもある。前翅の三角室と後翅の三角室は形状と向きが異なり、後翅の肛角が突出しない単純な形態。翅脇の肩縫線は多少ともS字状に湾曲する。 |
トンボ科の成虫の生態 平らな姿勢で枝先などに静止する種が多いが、斜めに静止する種や、飛び立つとなかなか静止しない種もある。翅を開いた状態で静止する。大部分の種が池、沼、水溜まり、湿地などの止水域に広く生息しているが、一部のものはゆるやかな流水がある環境に生育する。雄は静止または飛翔しながら水辺の一定空間で縄張りを持つ。雌は短い単純な生殖弁で産卵する種が多いが、長く突き出た生殖弁を泥に差し込んで産卵する種もある。連結状態または雌単独で飛翔しながら連続的あるいは間欠的に打水、打泥して産卵をするものが多い。マユタテアカネとコノシメトンボ、シオカラトンボとシオヤトンボなどのように近縁種間で種間雑種がDNA解析により確認されている。 |
トンボ科の幼虫 幼虫(ヤゴ)の体は太く、腹部末端には3個の長い尾部付属器と1対の尾毛がある。体つきは楕円で、全長が1-2.5 cm、触角は細く小さい。幼虫の足や腹部末端の肛錐が比較的短く、腿節は頭部の幅とほぼ同じ長さ。下唇 はカゴ形で、下唇基節が東部の前面と下面を覆う。7節の触角と直腸鰓がある。 |
トンボ科の種の保全状況評価 多数の種が国際自然保護連合(IUCN)により、レッドリストで軽度懸念(LC)などの指定を受けている。日本では多数の種が、環境省や都道府県によりレッドリストの指定を受けている。 |
安田辰昭の原理 弾力が高く自己拡張性のある輸液チューブを使用し、これを機械に挟み込んでローラーで押すことによって、あらかじめ設定された量を輸注する。輸注速度及び輸注予定量を設定することができる。 |
パトリック・マッカランの初期の経歴 マッカランはネバダ州リノでアイルランド系移民の子供として生まれた。ネバダ大学リノ校に入学したが、父が怪我をして家の羊牧場の面倒を見るために退学しなければならなかった。独学で法律を学び1903年には州下院議員となり、1905年に法曹資格を得た後はナイ郡の地方検事となった(1907年-1909年)。マッカランはネバダ州首席判事(1917年-1918年)、ネバダ州臨時入国許可理事会会長(1913年-1918年)およびネバダ州法廷検査理事会会長(1919年-1932年)も務めた。民主党員として1916年と1926年にネバダ州選出のアメリカ合衆国上院議員選挙に出馬したが落選した。1932年に3回目の出馬を行い民主党の候補指名を得た後に、共和党現職のタスカー・オディーを破って、ネバダ州では初めてのネバダ州生まれの上院議員となった。1930年代、マッカランはニューディール政策に全面的に反対した数少ない民主党議員の1人として知られるようになった。 |
パトリック・マッカランの上院議員 マッカランは、1938年の民間航空法、1945年の連邦空港法および1946年の行政手続法など、国の安全保障に関わる法案を提出した。また早期からアメリカ空軍を分離する提唱者であり、1933年には既にそのための法案を議会に提出していた。マッカランはスペインのフランシスコ・フランコ将軍を称賛しており、スペインに対する対外援助を増やそうとしたことで、コラムニストのドルー・ピアソンから「マドリード選出の上院議員」ど渾名された。マッカランは他の外国指導者として中国の蔣介石総統が好みであり、1949年に蔣介石が中国本土を失った時、国務省の中のソビエト・スパイのせいだと非難した。1952年、マッカランはワシントンD.C.駐在の中国国民党大使が主宰した晩餐会にジョセフ・マッカーシーおよびウィリアム・ノーランド各上院議員と共に出席し、「本土へ戻ろう!」という乾杯で食事を始めた。第二次世界大戦後、マッカランは上院でも最も強烈な反共産主義の者として頭角を現した。上院司法委員会の委員長として、上院国内治安小委員会を創設してその初代委員長になり、フランクリン・ルーズベルトやハリー・S・トルーマン各大統領の統治状況を調査した。1951年、上院国内治安小委員会の調査により、太平洋問題調査会の記録を手に入れた。マッカランは1951年2月に中国学者オーウェン・ラティモアの12日間の辛辣な証言の間に尋問する時にこれらの記録を活用した。マッカランはその後、ラティモアをその証言の間の偽証の罪で告訴すべきと大変強烈に追求した。ラティモアの弁護士エイブ・フォータスは、マッカランがラティモアは1930年代の記憶を適切に想い出せないだろうと期待してその時代に起こった少数の人にしか知られていない曖昧な事項に付いてわざと質問し、それによって太平洋問題調査会とラティモアの証言の間の矛盾の故に偽証告発の根拠を得ようとしたとして非難した。1950年9月、マッカランはマッカラン国内治安法の主提案者となった。この法はアメリカ共産党とその傘下団体のアメリカ合衆国司法長官への届出を要求し、可能性がある共産主義者活動と共産主義前線組織を調査するための破壊工作統制局を設立して、登録を要求できるようにした。多くの公聴、遅れおよび抗告のために、アメリカ共産党自体に関してもこの法は執行されることがなく、法の主要な規定は1965年と1967年に違憲であると裁定された。1952年6月、マッカランはフランシス・ウォルターと共同でマッカラン・ウォルター法の成立を推進した。この法はアメリカ合衆国への出身国による入国割り当てをより厳格に規制するものだった。またマッカラン国内治安法によって定義された「危険な」外国人の入国、排除、および国外退去に関する現行法を強固にするものだった。この法に反応してマッカランは次の有名な声明を出した。私はこの国が西洋文明の最後の期待であると信じ、もしこの世界のオアシスが覆り、貶められ、汚染されあるいは破壊されるようなことがあれば、そのときは人間性の最後の点滅光が消えることになると思う。私は様々な信条と肌の色を持つ多くの人種でできた人民による我々の社会になされた貢献を称賛するような人には問題を見つけない。アメリカは実にアメリカ方式と呼ぶ力強い川を形成することになる多くの流れが縒り合わさっている。しかし今日のアメリカ合衆国にはアメリカ的生活様式に統合されないで、反対にその破壊的な敵である徹底して容易に理解できない塊がある。今日、以前には無かったことだが、無数の人々が入国を求めて我々の門戸に押し寄せており、それらの門戸は歪みの下に砕けようとしている。ヨーロッパとアジアの問題の解決策はそれらの問題を大挙してアメリカ合衆国に植えつけようとしても解決されない。...私は予言をするつもりは無いが、もしこの法の敵達が法を散々にやっつけるにことに成功するならば、あるいは認識できないくらいに改変するならば、彼らは我々がこの国として独立を勝ち得たとき以来のどの集団よりもこの国の低落をより促進することに貢献するだろう。 この法の移民規定は後に1965年移民法で置き換えられたが、政府がイデオロギーを理由としてビザ発行を拒否する権限はその後25年間も残ったままだった。漫画家ウォルト・ケリーは当時の続き漫画「ポゴ」に新しい登場人物「モール・マッカロニー」を登場させた。モールの「細菌」に関して盲目に近いこととその心配はマッカランとその移民規制政策に対する攻撃と見られた。パット・マッカランは1954年にネバダ州ホーソーンに死去するまで上院議員のままだった。1960年、ネバダ州はワシントンD.C.アメリカ合衆国議会議事堂の国立彫像ホール・コレクションに州から寄贈する2体の彫像の1つとしてマッカランの青銅像を寄贈した |
パトリック・マッカランの大衆文化の中で ネバダ州ラスベガスのマッカラン国際空港は、このマッカラン上院議員に因んで名付けられた。マッカラン・ブールバードはネバダ州リノの主要環状道路である。1974年の映画『ゴッドファーザー Part II』に登場するネバダ州のパット・ギアリー上院議員はマッカランがモデルになったと言われている。 |
屋根裏 (ライブハウス)の概要・歴史 1975年創業。渋谷センター街と西武百貨店の間に店舗を構える。ステージに立った有名アーティストは浜田省吾、THE BLUE HEARTS、KENZI & THE TRIPS、BARBEE BOYS、レピッシュ、RCサクセションなど。特にRCサクセションは1980年に4DAYSライブを敢行し、最高動員記録を樹立する。1986年8月31日、渋谷の店舗を閉店し、下北沢へ移転。ステージに立った有名アーティストはthee michelle gun elephant、ゆらゆら帝国、Syrup 16g、スキップカウズ、神聖かまってちゃんなど。なお練習スタジオおよびレコーディングスタジオも併設している。1997年9月、渋谷屋根裏がオープン。渋谷パルコパート3近く(宇田川町13-16 国際ビルB館B1F)に店舗を構える。2013年6月1日の公演を最後に渋谷屋根裏の営業を休止。さらに2015年3月には下北沢屋根裏が閉店となる。 |
わかたか (駆潜艇)の艦歴 「わかたか」は、昭和36年度計画甲型駆潜艇3017号艇として、呉造船所で1962年3月5日に起工され、1962年11月13日に進水、1963年3月30日に就役し、大湊地方隊第5駆潜隊に編入された。1982年3月27日、舞鶴地方隊第4駆潜隊に編入。1985年3月27日、特務艇に種別変更され船籍番号がASU-64となり、舞鶴地方隊直轄艦艇となる。1988年3月17日、除籍。 |
戸田駅 (愛知県)の駅構造 相対式2面2線のホームを持つ地上駅。ホーム有効長は3両分。駅舎と改札口は2番のりば側にあり、反対側の1番のりばへは地下道で連絡している。一番のりばには、スロープがついたバリアフリー経路がある。トイレは改札内にあり、男女別の水洗式。近鉄蟹江駅管理の有人駅で、PiTaPa・ICOCA対応の自動改札機および自動精算機(回数券カードおよびICカードのチャージに対応)が設置されている。 |
戸田駅 (愛知県)のその他 また、1992年(平成4年)運輸政策審議会答申第12号によれば、名古屋市営地下鉄金山線との相互乗り入れ駅となる予定だが、同路線については、ほとんど事業化の動きがない。 |
Electric Moleの概要 本作は椎名が3作目のアルバム『加爾基 精液 栗ノ花』を引っ提げて、2003年8月から9月にかけて行った全国ツアー「椎名林檎 実演ツアー 雙六エクスタシー」より、9月3日に行われた京都会館公演、9月27日に追加公演として行われた日本武道館公演を中心に収録したものである。また、椎名が所属していたバンド東京事変が活動を開始した作品でもある。ただし、このツアーで東京事変は一つのバンドとしてではなく、ツアーのために結成された椎名のバックバンドとして登場した。後に椎名は東京事変での活動を表明した際のインタビューで「このツアーを行った後このメンバーとならやっていけると確信し、バンドとして再出発することを決めた」と語る。実際のライブでは披露された「依存症」、「歌舞伎町の女王」、「本能」が未収録になっているほか、日本武道館公演のみ披露された「幸福論 (悦楽編)」、初披露された新曲「りんごのうた」が途中でぶつ切りの状態で収録されている。 |
Electric Moleの椎名林檎 実演ツアー 雙六エクスタシー このツアーは椎名林檎が2003年8月から9月にかけて行った約2年ぶりとなる全国ツアーである。サポート・アルバムには同年2月に発売したサードアルバム『加爾基 精液 栗ノ花』があたるが、ファーストアルバム『無罪モラトリアム』、セカンドアルバム『勝訴ストリップ』からも数曲披露されている。またカバーアルバム『唄ひ手冥利〜其ノ壱〜』からも数曲披露されており、過去のライブに比べてカバー曲が多く披露されている。9月27日には追加公演として、初の日本武道館公演を行った。この公演で、後に発売する節目シングル「りんごのうた」が初披露された。当日、来場者全員にお土産として椎名の5年間の歩みを記した遊具「雙六エクスタシー」が配布された。また、デビュー5周年を記念して、椎名が愛用しているドイツのギターメーカー・デューゼンバーグ社より、椎名モデルのエレキギター「Duesenberg DSR-SR 椎名林檎モデル“市松”」が、限定生産で発売された。このツアーのメインギターとして椎名も使用している。 |
船頭小唄の解説 1921年(大正10年)1月30日に民謡「枯れすすき」として野口雨情が作詞、同年に中山晋平が作曲した。1922年(大正11年)に神田春盛堂から詩集「新作小唄」の中で、「枯れ芒」を改題し「船頭小唄」として掲載された。1923年(大正12年)、ヒコーキレコードから女優・中山歌子によって初めて吹き込まれ、その他オリエントレコードから演歌師の鳥取春陽、田辺正行、木津豆千代、ニットーレコードで高橋銀声などが歌った曲。同年、松竹から池田義信監督、主演・岩田祐吉、栗島すみ子で映画化された。この歌の大流行の最中、関東大震災が起こり、雨情の暗い歌詞、晋平の悲しい曲調から、この地震を予知していた童謡だったのではという説が流布した。街道演歌師の添田唖蝉坊は「俺は東京の焼け出され、同じお前も焼け出されどうせ二人はこの世では何も持たない焼け出され」という替え歌で歌った。1957年(昭和32年)1月東京映画配給の映画『雨情物語』の主題歌として森繁久彌が歌い、大正から戦後の昭和まで、また現代においても「枯すすき」に人生の哀愁に共感するとしてヒットした流行歌となった。「おれは河原の枯れすすき 同じお前も枯れすすき どうせ二人はこの世では 花の咲かない枯れすすき……」と男女の間柄を歌っている。また、1974年(昭和49年)には類似の哀愁を持つ曲「昭和枯れすすき」、作詞:山田孝雄、作曲:むつひろし、唄:さくらと一郎もあり、翌年の1975年(昭和50年)、同名の映画も作られた。なお、『船頭小唄』は明仁上皇がカラオケの十八番としているという。 |
ブッシュミルズの人口 北アイルランド統計調査局 (NISRA) によると、ブッシュミルズは村である。2001年4月29日の国勢調査では、住人は1319人であった。このうち19.9%は16歳以下、22.1%は60歳以上であり、49.2%が男性、50.8%が女性であった。2011年の国勢調査では、3.5%がカトリック、92.9%がプロテスタントであった。 |
ブッシュミルズの名所旧跡 ブッシュミルズの村には、1608年からウイスキーのブッシュミルズの蒸留所がある。オールド・ブッシュミルズ・ディスティラリーで作られている酒としては、ブッシュミルズ・オリジナルとブラックブッシュブレンド、及び10年もの、12年もの、16年もの、21年もののブッシュミルズ・シングル・モルトがある。蒸留開始400年記念を祝うために、2008年には「1608」という銘のクリスタルモルトを含む特別なウイスキーを生産した。蒸留所はブッシュ川ではなく、セント・コランブズ・リルという支流から水をひいている。毎年、200万人が訪れるジャイアンツ・コーズウェーは3.2キロほど北である。第二次世界大戦の後、ブッシュミルズにはコンソルナビゲーションシステムの送信ステーションがあった。 |
ブッシュミルズの交通 ブッシュミルズ鉄道駅は1883年1月28日にオープンしたが、1949年10月1日に閉鎖となった。夏にはジャイアンツ・コーズウェーからブッシュミルズまで狭軌の蒸気機関車が走る。北アイルランド鉄道が運営しているベルファスト-デリー線はコウルレインでポートラッシュ支線に乗り換えることができる。アルスターバスが駅まで運行している。ポートラッシュからダンルース城に沿ってジャイアンツ・コーズウェー・アンド・ブッシュミルズ鉄道まで11キロほど、景色の良い道を歩けるようになっている。 |
ブッシュミルズの教育 ダンルース学校とブッシュミルズ小学校がある。 |
ブッシュミルズの教会 1646年にできたブッシュミルズ・プレスビテリアン教会、1821年にできたセント・ジョン・ザ・バプティスト・チャーチ・オヴ・アイルランドの他、ブッシュミルズ・ゴスペル・ホール、ブッシュミルズ・フリー・プレスビテリアン教会、聖メアリーローマンカソリック教会がある。 |
ブッシュミルズの出身者 UFCで戦う総合格闘技選手のノーマン・パークはブッシュミルズ出身である。 |
ブッシュミルズの姉妹提携 ブッシュミルズはアメリカ合衆国ケンタッキー州のルイヴィルと姉妹提携している。 |
エアステアの概要 多くの場合、階段は折り畳み式で航空機の客室ドアに組み込まれている。地上設備から独立したまま航空機から搭乗および降機する事ができ、乗客がタラップやボーディング・ブリッジを使わなくて済む。飛行場の地上設備が未整備だった旅客航空輸送の黎明期、あるいは近年でも地方空港や小型機専用空港において有用な装備である。エアステアを搭載したもっとも初期の機体は「マーチン2-0-2」および「マーチン4-0-4」である。また、「ダグラス DC-3」の一部はエアステアを後付した。ボーディング・ブリッジの設置やタラップの配置による空港インフラの整備によって、エアステアの必要性は減少している。ワイドボディ機は、ドアの位置がナローボディ機よりも地上より高い位置にあるため、ほとんどエアステアを採用していない。例外として、ロッキード L-1011 トライスターは唯一ワイドボディ機で客室ドアにエアステアが備えられている。他のワイドボディ機では、「VC-25」や「Il-86」が、客室にアクセスするためのエアステアを貨物室に備え付けられている。航空会社が特注した事例として、パシフィック・サウスウエスト航空が発注したL-1011 トライスターには、VC-25と同様に貨物室へ出入りできる小さなエアステアが左側に1箇所設けられていた。D.B.クーパー事件でハイジャック犯は空中で機体から脱出するのにベントラル・ステアを使用した。その後、飛行中にベントラル・ステアが展開されることを防止するため、「Cooper vanes」が設置された。ボーイング727やマクドネル・ダグラス DC-9のようないくつかの航空機は、航空機が素早くターンアラウンド(折り返し便として出発)できるよう、乗客が航空機の前方から降機している間に、航空機の後方から機内整備ができるように設計された。またエアステアは、例えば米国大統領専用機のような航空機が地上設備なしでもいつでもVIPが搭乗できるために、セキュリティ対策として使用される。 |
エアステアのデザイン ボーイング727、マクドネル・ダグラス DC-9、マクドネル・ダグラス MD-80、マクドネル・ダグラス MD-90、BAC 1-11、Yak-40、Yak-42のようなリアエンジンの航空機のエアステアは、胴体後端の下部、機体の中心線に格納されている。このタイプのエアステアはベントラル・ステアとも呼称される(ventral = 腹部の意)。Il-86は貨物室のポート・サイド(左側)に3個のエアステアが備え付けられている。乗客が降機するための階段がドア内部に組み込まれた最も一般的なエアステアは、ほとんどのビジネス航空機、リージョナルジェット機、およびその他の小型機でみられる。フォッカー F28やVFW 614はこのデザインで普及した。階段は実際にはドアの一部であり、ドア下端に設けられた蝶番を中心にドアを外側に開けて地面に振り下ろすと、ドア裏側がそのまま階段になっている。航空機の床の高さが地上と近く、最も大きな問題の一つであるエアステアの組み立てに関するデザインのために、複雑であったり、重量がかさむことがないため、このデザインは効率的である。他にも、比較的床の高さがある小型ジェット旅客機に普及しているタイプがある。前方の客室ドア下に位置する床下に階段が折りたたんで収納されており、すぐに機体から展開される。このタイプのエアステアは、ボーイング737、マクドネル・ダグラス DC-9、エアバスA320シリーズのような多くの短距離航空機でみられる。しかしこのメカニズムはかなり重く、結果として多くの航空会社は航空機の重量を減らすため、このシステムを取り除いている。ユニークなエアステアのデザインとして、737のコンビ機の後方ドアに使われた。これは多くのビジネス機のように開くと振り下ろされる、クラムシェルドアから成り立っている。しかし地面へ展開する階段は、ドアの曲線に沿って折りたたんで収納されている。このシステムは損傷に非常に影響されやすく、面倒であった。そのためユーザは取り除いている。最も珍しいエアステアのデザインはロッキード L-1011 トライスターでみられる。エアステアが貨物室に保管され、右後方の客室ドアから、地面へアクセス可能である。この設計は最終的に非常に大きく、重たかった。また、ほとんど使用されず、貴重な貨物スペースを使用することになる。YS-11にもエアステアが1基装備されており、形態としてはボーイング737等に近いが、エアステアはドア内側の床上に折りたたんだ状態で設置されておりプラグドアを外側にスライドして開けてから外部に向けて展開された。したがってこのドアを利用する場合は必ずエアステアを展開する必要がある。旅客専用型では左前のドアが、貨物旅客混載(コンビ)型では左後のドアがこのエアステアを装備する位置となっていた。ビッカース ヴァンガードも同様の床置型エアステアを装備できた。 |
畑耕一郎の略歴 大阪生まれ。1967年辻調理師学校(当時)を卒業後、同校に入職、日本料理の専門教育の道を歩む。教壇に立つかたわら、テレビ、ラジオ、出版など、幅広く活躍。 18年間続いたテレビ「料理天国」や「上沼恵美子のおしゃべりクッキング」(朝日放送、テレビ朝日系)を12年間担当。 「料理大学」「料理の「り」」(スカイA)などに出演。 大阪料理を研鑽する「大阪料理会」の相談役、大阪あべの辻調理師専門学校理事・技術顧問、放送大学非常勤講師。 |
羽鳥慎一の来歴 小学生の時、神奈川県横浜市に転居。 横浜市立境木中学校、神奈川県立横浜平沼高等学校時代は野球部所属(中学はセカンド、高校ではアンダースローの投手、2年まではオーバースロー)。後に2年連続でセ・リーグ首位打者を獲得する鈴木尚典(当時横浜高校)と対戦し、2打席連続三振を奪った。エースとして夏の神奈川大会5回戦まで進出した実績がある。一浪を経て早稲田大学政治経済学部経済学科卒業。日本テレビへ1994年4月に入社。志望動機は野球の実況をしたかったためで、第一志望の放送局が日本テレビであった。なお、同年フジテレビに入社したのは、同じ早稲田大学の佐野瑞樹であり、佐野とはフリー転身後にフジテレビ『ボクらの時代』(2015年2月8日放送)で共演を果たしている。入社後は『ズームイン!!サタデー』(以下『ズムサタ』)、『ズームイン!!SUPER』(以下『ズームイン!!』)の司会やプロ野球中継の実況、NNN24の朝のニュース枠『モーニングライブ』のキャスター(平日担当)、『ものまねバトル』の総合司会などを担当する。2009年に第30回NNSアナウンス大賞テレビ部門大賞受賞。2009年12月31日放送のNHK『第60回NHK紅白歌合戦』にFUNKY MONKEY BABYS(後述)の応援でズーミンを連れてゲスト出演。この出演について、上司から「裏でダウンタウン(『ダウンタウンのガキの使い大晦日年越しSP!!絶対に笑ってはいけないホテルマン24時』)が頑張ってるけどしっかりね」と言われたことやノーギャラ出演だったことを明かしている。2011年3月31日を以って日本テレビを退社。その後はフリーとなる。当初、フリーになることは考えていなかったという。2011年1月27日の退社表明会見では、「40という人生の節目に、自分の可能性を試してみようと思い決断しました。柔軟に、体力もあって、いろいろ動けるうちに挑戦してみようという思いがあります」とコメントした。新人時代から番組に関わっており思い入れが強かった『ズームイン!!』の終了が決まったことも退社の理由の1つだったという。その後、『情報満載ライブショー モーニングバード』の司会に就任することが決定。退社直後の起用は放送界の慣例を覆す異例の登板であると報道されたが、テレビ朝日社長の早河洋は会見で「日本テレビの氏家齊一郎会長(当時)をはじめ、関係者の寛大なご判断があった。大変感謝しています」と日本テレビの理解が得られたためと述べた。当初、このオファーに本人も迷ったが『ズームイン』のスタッフに励まされ、受けることを決めた。また、羽鳥のこの離れ業でフリー転身後の身でも他局からの仕事を請けやすくなったという向きもある。フリー転身後は『情報満載ライブショー モーニングバード!』→『モーニングバード』→『モーニングショー』、『未来シアター』の司会などを務めている。局アナ時代から担当していた『人生が変わる1分間の深イイ話』、『ぐるぐるナインティナイン』にもフリーの立場で出演継続している。これ以外にも『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』など古巣・日本テレビの特別番組に多く起用されており、2011年10月からは『1番ソングSHOW』にも起用された。羽鳥の重要な番組での相次ぐ起用に日本テレビ内から不満の声もあるが、女性アナウンサーの流失や器用な男性アナウンサーが育成できていないため、やむを得ず羽鳥が起用されているとの報道がある。an・an調査による2006年度「好きな男性アナウンサーランキング」では1位。オリコン調査による「好きな男性アナウンサーランキング」では長年TBSの安住紳一郎に次いで2位だったが、安住が殿堂入りした2010年には初の1位となった。2013年6月20日、前年を以って司会を退いた小倉智昭の後任として、『サントリー1万人の第九 "10000 Freude"』の新司会者になる事が発表された。現在(2016年7月時点)では、テレビ東京系列の番組の出演歴がない。2013年9月に一人暮らしをしていた父親が、近くに住んでいた姉がたまたま数日連絡を取らなかった間に死亡したため、孤独死になったと公表している。 |
ズブダトゥンニサー・ベーグムの生涯 1651年9月2日、ムガル帝国の第6代皇帝アウラングゼーブとその妃ディルラース・バーヌー・ベーグムの娘としてデリーで生まれた。1673年2月9日、ズブダトゥンニサー・ベーグムアウラングゼーブの甥シピフル・シコー(ダーラー・シコーの息子)と結婚した。1707年2月17日、ズブダトゥンニサー・ベーグムはデリーで死亡した。 |
水木しげるの概要 1922年(大正11年)に大阪で生まれ、鳥取県境港市で育つ。幼少時、まかない婦として家に出入りしていた景山ふさ(のんのんばあ)が語り聞かせた妖怪の話に強い影響を受ける。高等小学校卒業後、画家を目指して大阪で働きながら学ぶ。やがて徴兵年齢に達し、体躯壮健ながら近眼であった事から乙種合格となり補充兵役編入。1943年に召集され、帝国陸軍の軍人(兵)として太平洋戦争下のニューギニア戦線・ラバウルに出征。過酷な戦争体験を重ね、米軍の攻撃で左腕を失う。一方で現地民のトライ族と親しくなり、ニューブリテン島に残ることも希望したが、周囲の説得で日本へ復員した。復員後は貧窮により画家の修行を諦め、生活のために始めた紙芝居作家を経て上京。1958年、貸本漫画『ロケットマン』で貸本漫画家としてデビュー。1960年から断続的に『墓場鬼太郎』シリーズを発表し始める。1961年、飯塚布枝と見合い結婚。1963年、『悪魔くん』を貸本の東考社から出版。1964年、『ガロ』で商業誌デビュー。1965年に『テレビくん』が講談社児童まんが賞を受賞したほか、貸本時代に描いていた『ゲゲゲの鬼太郎』や『河童の三平』といった作品が『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』にそれぞれ掲載され、以降、妖怪を扱った作品により人気作家となった。1966年には『悪魔くん』がテレビドラマ化。最大のヒット作となった『ゲゲゲの鬼太郎』は1968年より6度テレビアニメ化されている。1993年、幼少期を過ごした境港市に町おこしとして水木しげるロードが建設され、2003年には水木しげる記念館が開館した。長年の漫画と妖怪文化への功績が称えられ、1991年に紫綬褒章、2003年に旭日小綬章を受章。2007年、『のんのんばあとオレ』によりフランス・アングレーム国際漫画祭で日本人初の最優秀作品賞を受賞。また1973年に執筆した『総員玉砕せよ!』がアングレーム国際漫画祭遺産賞、米アイズナー賞最優秀アジア作品賞をそれぞれ受賞している。妖怪研究家として、世界妖怪協会会長、日本民俗学会会員、民族芸術学会評議委員などを歴任。調布市名誉市民、東京都名誉都民。2010年に文化功労者にも選ばれた。2013年から『水木しげる漫画大全集』が刊行。2015年11月30日、多臓器不全により死去。93歳没。 |
水木しげるの生い立ち 1922年(大正11年)3月8日、大阪府西成郡粉浜村(現在の大阪市住吉区東粉浜)に生まれた。父・武良亮一、母・琴江の次男。水木によれば、当時父親の亮一は、親戚が大阪の梅田駅近くで経営していた印刷会社で働いていたという。身重の母親・琴江は夫に会うために境港からやってきて、大阪で水木を産んだ。父は共同経営者とともに農機具を輸入販売する会社を興す為に、妻子をいったん故郷の鳥取県西伯郡境町入船町(現在の境港市入船町)に帰した。境港に戻った理由は「大阪は空気が汚れていて乳の飲みが悪い」からという。水木が境港に戻った年齢についてははっきりとわかっていないが、生後まもなくから2歳ぐらいのときとされている。その後間もなく父は事業に失敗して帰郷、結局は一家全員が境港に落ち着くことになった。5歳の頃のある日、「死」に興味を抱き、3歳の弟を海に突き落とそうとするが、近所の大人に見つかり、両親にしかられた上に、当時同居していた「ねーこ」と呼ばれる祖父の妹(大叔母)に「やいと(灸)」をすえられた。 |
水木しげるの少年時代 比較的に恵まれた環境で育つが学校の勉強はできる方ではなく、両親が尋常小学校入学を1年遅らせたほどだった。自身も認めるマイペースぶりから朝寝坊してゆっくり朝食をとり、たいてい2時間目くらいの時間から登校するという変わった生徒だった。当時、「新聞の題字を集める」のが子供たちの間で流行ったが、他の子供が飽きても熱中していた。また、屁を自在に出すことができ、朝礼のおりなどに放屁して子供たちをワッと笑わせるのが得意だった。そんな調子から成績は振るわず体育と図画以外は「総崩れ」だったが、一歳年上で体格が大きかった為に腕っ節は強く、明るい性格もあってガキ大将として君臨した。尋常小学校卒業後は5年制の中等教育学校であった旧制中学校への進学を志望していた。昭和初期の農村部の子供は殆どが初等教育で社会に出たが、水木によれば地元の境港は貧しい港町ながら教育熱心な土地柄であったらしく、多くの者が中等教育に進んでいた。水木の母も学歴を気にする性質であったため教育に熱心で、実際に成績優秀な兄と弟は旧制中学校に進学を果たしていた。勉強そっちのけだった水木も漠然と旧制中学受験を希望したが、進路相談で教師は水木の母に「そりゃあ、無理じゃろう」と即答したという。僅かに将来への不安を覚えたが、中等教育の予備校でもある無試験の高等小学校に進むとすぐに忘れて遊び回る子供に戻っていった。高等小学校時代も図画の成績は良く、小学校の教頭の勧めで公民館で授業で描いた絵の展覧会が開かれ、新聞に掲載されたこともあった。学内コンクールでも金賞を何度も取り、鳥取二科展の審査員でもあった先の教頭からは油絵の道具を譲ってもらったりと可愛がられた。高等小学校卒業後も旧制中学校には進めず、社会に出て働き先を探す為に故郷を離れる事になった。生命保険会社に勤めて神戸に単身赴任していた父を頼りに近畿に移り、親戚の紹介で出生地の大阪に舞い戻った。たった一人でふるさとを離れて働きに出る水木のことを不憫に思う母は、兄や弟と違って要領の悪い次男を心配して「お前はこれからどうなるんだろう」「中学に行く人たちとの差は開くばかりだよ」「務まるかなあ」と心配そうに嘆いたという。しかし当の水木は至って平静で、むしろ田舎から都会に出て働くのを楽しみにしていた。 |
水木しげるの青年時代 大阪では都会の立ち並ぶビルと行き交う人の多さに圧倒され、夜の街の光には「まるで祭りのようだ」と思ったという。谷町(現・大阪市中央区)にあった石版印刷会社の田辺版画社に住み込みで勤務したが、マイペースさから仕事に付いて行けず僅か2ヶ月でクビになった。次は寺田町にある小村版画社に入社したがこれも配達の道順が覚えられず、やっと道を覚えると今度は下町の職人達の手仕事を見物している内に荷物を届けるのを忘れる有り様で、二度目の会社も解雇された。その後、親戚の家に居候している時に体調を崩して黄疸の症状が出た為、療養すべく鳥取へと戻る事になった。帰郷後、息子に労働は向いていないと思った父親は好きな道(絵の勉強)に進ませる事にした。水木は「もう職探しはやめて絵の勉強を…」という父の言葉に躍り上がったと回想している。水木は勉学が苦手な自分の気質を考慮して、様々な美術学校から「試験や入学資格の無い所」を探したという。やがて大阪の上本町で、京都市美術工芸学校(現・京都市立芸術大学)で学んだ画家の松村景春が設立した精華美術学院という、当時としても珍しい無試験の美術専門学校を見つけて入学した。しかし学院は美術学校というには小さな建物で、職員も校長が教員と事務員を兼任するという個人塾のような所で、授業内容も実践的な図案講習会に近かった。立派な画家になるんだと思い詰めて一心不乱に独習を重ねてきた自身の方が、もったいぶって教える先生より技量が上と感じたという。失望から程なく学校には行かなくなり、近所の森や山で時間を潰す日々を送った。ちなみにこの学院には画家の丸木位里も学んでいた記録が残っている。16歳の頃には、父が篠山支店長に転勤になったため、一人で大阪天王寺の桃谷のアパートに住むのも不経済だという理由から、丹波篠山に家を一軒借り、母も境港から出てきて、3人で住んでいた。兄と弟は学校の寮にいた。しかし、篠山から大阪の美術学校まで通うのが一苦労であったらしく、「軽便鉄道という、日本にこんな鉄道がよくあったものだと思われるぐらい、小さな汽車に乗って二、三十分も行くと、国鉄篠山口という乗り換え駅に着く。それから、また大阪まで乗るのだからたいへんなのだ」と語っている。なお、水木は18歳の頃、この篠山の山中の祠で、神社で不心得者や悪戯をする者を見つけると突然上から落ちてきて脅かす妖怪『おとろし』らしきものに出遭ったことがあるという。京都市美術工芸学校での反省から学校を選び直す事を思い立ち、美術系の旧制専門学校である東京美術学校(現・東京藝術大学)で学んで画家になりたいという大きな夢が膨らんだ。高等小学校卒の水木には旧制専門学校の受験資格はなかったので、まずは旧制中学校を再び目指し、精華美術学院を退校して大阪府立園芸学校(現・大阪府立園芸高等学校)を受験した。幸運にも同年の筆記試験は国史(日本史)の一科目だけであり、参考書をほとんど丸暗記して試験に臨んだ。加えて定員50名に対し受験者51名(つまり一人だけが落ちる)という低倍率で、絶対に合格すると自信満々で結果すら見に行かなかったが、父が確認すると不合格だった。水木は不合格の原因について、面接で「卒業したらどうするんだ」と聞かれ、「満蒙開拓義勇軍に入ります」というのが模範回答だが、旧制中学校卒の資格が目当てであって別に園芸や農業に興味はないと正直に答えたためではないかと推測している。流石の水木も惨めな思いをしたが、父は怒らず「本当に満州行きになったらどうするんだ」と優しく慰めてくれたという。1940年(昭和15年)新聞配達で働きながら別の学校(日本鉱業学校採掘科)を受験、今度は合格する。しかし例によって専門科目に全く興味が抱けず、成績不振且つ欠席が多く半年で退学処分となった。間もなく新聞配達も辞め、大阪の朝日ビルディングの中にあった中之島洋画研究所に通っていた。水木は両親と今後を話し合い、両親から日本大学付属の旧制大阪夜間中学校(現・大阪学園大阪高等学校)への進学を勧められ、同校に入学した。昼間には『支那通信』というガリ版新聞を配達する仕事をし、休日には宝塚ファミリーランドの動物園や昆虫館、宝塚歌劇によく足を運んでいた。そうした中、太平洋戦争が勃発する。 |
水木しげるの軍隊時代 20歳になった水木は徴兵検査を受け、結果は体は頑健ながら近眼により乙種合格で、補充兵役に編入され現役入営(入隊)はしなかった。だが戦争が激化する中で(甲種合格の現役兵主体では兵員不足のため)次第に召集対象者の枠は広がっていき、やがて自分も召集され入営する可能性が高まっていった。「出征すれば間違いなく死ぬ」と考えていた水木は哲学書を乱読し、仏教書や聖書など宗教文献を読み漁った。その中で一番気に入ったのが、ドイツの詩人ヨハン・エッカーマン『ゲーテとの対話』で、これは戦地にも持っていった。21歳の時、夜間中学3年生の補充兵役であった水木に召集令状が届き、本籍地の鳥取の歩兵第40連隊留守隊に入営した。なお、在学していた夜間中学は自動的に退校処分となった(後述)。軍隊生活でもマイペース振りはそのままで、その大胆な態度から風呂で幹部と間違われて古年兵に背中を流してもらった。初年兵教育を終えると喇叭手になったが上手く吹けず、自ら配置転換を申し出た。最初は取り合ってもらえなかったが、三度目に曹長から「北がいいか、南がいいか」と尋ねられた。国内配置についての事だと考え、寒いのが嫌いなので「南であります」と答えた。てっきり九州など国内南部の連隊への配属になると思っていたが、南方のニューブリテン島ラバウル行きが決定したと告げられて青ざめた。楽天家の水木も南方戦線の惨状は知っており、異動命令の直後に二泊三日の外泊が許されて両親が戻っている境港に里帰りしたが、お互い何も喋れなかったという。歩兵第229連隊(岐阜県。第38師団隷下)所属となった水木をパラオからラバウルまで輸送したのは、日露戦争で活躍した老朽船の「信濃丸」だった。敵潜水艦の魚雷攻撃をかわしつつ、水木の所属した部隊は何とかラバウルに着いたが、後にラバウルに派遣された部隊は全て途中で沈没させられているため、水木の部隊がラバウルに到着できた最後の部隊であった。ラバウルに着いた時、上陸できた奇跡から気が緩んで「ここは何処でありますか」と尋ねてしまい、上官から猛烈な往復ビンタを食らった。軍内での鉄拳制裁は日常茶飯事で、特に上官から目を付けられていた水木には「ビンタの王様」というあだ名がついた。配属部隊の上官はなぜか茨城県出身者が多く、強い訛り言葉を水木が聞き取れないとそれもまた鉄拳制裁の理由になった。基本的に軍隊生活と馴染めなかった水木だったが、所属していた第2中隊の中隊長である児玉清三中尉(30歳代後半の材木屋出身の予備役将校)からは、その腕を買われ似顔絵を描く事をよく頼まれていた。他に下士官の宮一郎軍曹、砂原勝己軍医大尉などが、水木に親切に接してくれた。ニューブリテン島での戦争体験がその後の水木作品に影響を与えた。ニューブリテン島ズンゲンの戦いにおいて、優れた装備と圧倒的な物量の連合軍の前に、所属する支隊の成瀬懿民少佐は玉砕の命令を出すが、児玉中隊長の機転で遊撃戦(ゲリラ戦)に転じ、そのおかげで生命を拾うこととなる。しかし、支隊本部の総員玉砕報告に反して生存者が出たことから、児玉は責任を取って自決した。また島の住民にも襲われそうになった。バイエンに配属され、決死隊として夜間の見張りをしていたとき、敵の飛行機から機銃掃射された。さらに逃げていた所を原住民ゲリラに発見され、あわてて海に飛び込んで逃げた。水木は銃剣とふんどし一丁でジャングルを数日間逃げ惑い、日本兵への捜索隊をやりすごしつつ、奇跡的に生還した。九死に一生を得て部隊に戻ると仲間達は喜んでくれたが、兵器を捨てて逃げた事を上官にとがめられた。「なぜ死なずに逃げたのか」と不機嫌な態度で詰問され、呆然としていると「死に場所は見つけてやるぞ」と言い捨てられた。これ以降、戦場ですら朗らかだった水木も流石に塞ぎこんで虚無主義的な考え方をするようになった。陰惨な日々は続き、帰還してまもなく行軍中に風邪を引いた際にマラリアを発症、高熱で錯乱状態に陥ってジャングルを彷徨い歩き、危うく行方不明になりそうにもなった。追い討ちをかけるように療養中に敵機の爆撃で左腕に重傷を負い、軍医によって麻酔のない状態で左腕切断手術を受けるなど、再び半死半生の状態に追い込まれた。1945年の初め頃、他の傷病兵と後方に送られる。傷病兵の間では「役立たずになった兵士はまとめてどこかに捨てられる」との噂が立っており、水木も少し不安だったが辿り着いたのはナマレに設置された野戦病院で、治療の傍ら畑仕事などに駆り出された。最前線に比べれば安全な土地で死の恐怖が和らぐと、島の原住民であるトライ族と交流する余裕ができた。他の兵隊の様に威張らない水木を気に入ったトライ族から歓待を受け、水木の側も配給のタバコをお礼に渡すなどしている内に意気投合し、やがて集落の仲間として受け入れられた。軍規違反を承知で理由を付けてトライ族の集落に通い、トライ族の側も水木が再びマラリアで倒れると食料を持って見舞いに来てくれた。事ある毎に自分を罵倒していた上官の大尉からは「あいつは頭がおかしいぞ」と陰口を叩かれたが、先述の砂原勝己大尉が庇ってくれたという。8月25日、部隊長から「ポツダム宣言受諾」についての訓示を受ける。水木も他の兵士達も意味する所が理解できず「戦争に勝ったのか?」との囁きが漏れたが、程なく「戦争に負けた」という話だと判った。軍内では落胆の声が広がったが水木は「生き延びた!」と思い、戦場で死ななかった事に感無量だった。カゼル岬にあった連合軍の捕虜収容所に収監されて本国送還の順番を待つ間、トライ族から農地を分けるから一緒に暮らさないかと誘われ、現地除隊して永住することを真剣に考えたこともあった。砂原から「家族に会ってから決めても遅くないぞ」と助言され、帰国を決意した。1946年3月、24歳の時に駆逐艦「雪風」で浦賀港に入港し、日本へ復員した。 |
水木しげるの美術学校時代 3年振りに帰国した水木は国立相模原病院(旧・神奈川臨時第3陸軍病院、現在の国立病院機構相模原病院)に入院して、応急処置の段階だった片腕の本格的な治療を待っていた。医者や物資の不足で一向に順番が回ってこないので一旦故郷の境港に戻り、養生する日々を送った。両親は水木が片腕を失った事を知らなかった為、事実を知った後に母が片腕を使わずに家事をしたり、父が片腕無しでも務まる仕事を探して「灯台守なんかどうじゃろう」と知恵を絞ったりと、次男の不幸を悲しんでいたという。しかし水木自身は生き抜いた喜びと「絵を続けられる」という希望を胸に抱き、出征前に目に焼き付けておいた故郷の風景を眺め、清々しい気持ちで過ごしたという。翌年、治療の順番が回ってきたので相模原病院に戻った。病院直営の染物工場で絵付けの仕事で入院中の生活費を稼いでいたが、雀の涙にしかならなかった。やがて他の患者と闇米の買い出しで生活費を稼ぐようになり、本格的に闇屋家業で一財産を得ようと目論んで東北に食料の買い付けに向かった事もあったが、見事に失敗して「どんな道でもプロになるのは険しい」と反省した。他に病院仲間から誘われて「新生会」という「傷病兵の明るい未来」をスローガンに掲げ、様々な事業を繰り広げていた傷痍軍人団体に加盟し、復員兵による廃墟ビルへの居座りや募金活動などに参加した。この内、居座りについては政府から軽くあしらわれて失敗したが募金活動は上々の成果を挙げ、元気よく軍歌を歌って募金を集めた。だが上層部の内紛で加盟員の離脱が相次ぐと、水木も配給制において政府の許可制である魚屋の資格を申請して転職した。予め契約を取った家庭に魚を届ける形式で、ようやく復員後の生活が安定するようになった。なお、魚屋をはじめる際に荻洲立兵より「突撃あるのみ」と叱咤激励されている。経済的に余裕が出ると絵に対する思いが湧き上がり、武蔵野美術学校(現在の武蔵野美術大学)が学生を募集中と知る。すぐに入学を思い立つが、旧制専門学校であった同校には旧制中学もしくは新制高校の卒業資格が必要だった。水木は件の夜間学校に掛け合ったが、「出征により退校」となっていた事から卒業資格は与えられないと回答された。それでも在学証明書を貰って美術学校に直談判し、特別に入校を許可される。1948年、26歳の時に入学した美術学校は敗戦直後という事もあって学生の服装は古びていて、技術や年齢層も不揃いだったが懸命に学んでいたという。仕事の方は新たに輪タク業を始めるべく魚売りの権利を売り、その金で輪タクを四台購入して一日五百円で貸し出し、また弟と協力して米軍物資の横流しなど闇市での商売も続けた。学業と仕事に明け暮れたが、商売はやはり素人商売ゆえに大手に押されてどちらもジリ貧になり、店じまいとなった。起死回生を狙って「新生会」の副会長と二人で全国募金行脚を挙行するも、思っていた程に集まらず、神戸に辿り着いた時には這々の体であった。学業の方も絵で食べていく事の経済的な厳しさを痛感する中で徐々に見切りを付け始め、数年後に中退した。これが水木にとって最後の学業への試みとなり、「色々学校に行ったが、結局は高等小学校卒という事になった」と回想している。 |
水木しげるの紙芝居時代 復員後の道が定まらない状況を過ごしていたが、先の募金旅行で辿り着いた神戸市で滞在した安宿の主人から「この建物をアパートとして買ってもらえんやろか」と購入を持ちかけられた。既に抵当が付いていたが、その代わりに格安の値段であったので購入を決意し、輪タク業など今までの事業で貯めた資金をかき集め、足りない分は父に借金して代金を調達した。このアパートが神戸市兵庫区水木通にあった事から「水木荘」と名付け、大家業を始めた。勝手が分からずとにかく不動産屋に頼んで募集の広告を掲載した所、水木と同じ変わり者ばかりが入居し、家賃収入は捗捗しくなかった。大家業が中々軌道に乗らず副業を探していた所、29歳の時に紙芝居作家の弟子をしているという青年がアパートに入居した。一度は諦めた絵に対する熱意もあって、その青年から紹介してもらった紙芝居の貸元に手製の紙芝居を持ち込んで回った。水木曰く「内容がゲイジュツ的」だった為か評価は今ひとつだったが、林画劇社という貸元で演じ手の纏め役をしていた活弁士の鈴木勝丸が水木の作品を気に入り、同社の紙芝居作家として採用された。夢にまで見た絵に係る仕事に付いたが紙芝居業は非常に薄給で、ましてや実績のない無名の新人作家にはまともな代金は支払われなかった。加えて貸元も絶えず夜逃げの危機にある零細企業であり、その僅かな代金の支払いすら滞りがちであった。暫くして鈴木が林画劇社から独立して自身の貸元「阪神画劇社」を設立すると水木も引き抜かれて専属作家の扱いになった。当初は本名で活動していたが、鈴木が水木の本名(武良茂)を覚えてくれずいつまで経っても「水木さん」と間違って呼ぶため、そのまま「水木しげる」のペンネームを使い始めた。専属作家になっても相変わらず薄給のままで、人気の紙芝居作家であった加太こうじの助手なども務めながら本業の収入に頼る状態が続いた。1953年、ついにアパート経営にも行き詰まると水木荘を売却して購入時に引き継いだ借金を精算し、大家業から手を引いて西宮に引っ越した。また、BC級戦犯で巣鴨プリズンに拘留されていた兄・宗平が出所したので一家で同居する。それからは紙芝居の専業作家として脇目も振らずに作品作りに没頭し、少しずつノウハウを掴んで「空手鬼太郎」「河童の三平」など後年の活躍に繋がる作品を制作した。しかし水木が紙芝居作りのコツを覚えるのと平行してテレビや貸本漫画など他の娯楽に押されて紙芝居業界は急速に衰退していった。紙芝居に見切りを付けて漫画家への更なる転身を決め、1957年に西宮から上京して貸本の版元に持ち込みを行った。自身と同じく紙芝居から離れていた加太こうじの推薦もあり、兎月書房という小さな出版社から別の作家が書き残した「赤電話」という漫画を完成させる仕事を受注した。この仕事を無事に終えた後、1958年に正式なデビュー作として『ロケットマン』を出版し、35歳で紙芝居作家から貸本漫画家となった。 |
水木しげるの貸本時代 貸本時代初期の水木は主に戦記漫画やギャグ漫画などを中心に制作しており、『飛び出せピョン助』『戦場の誓い』などを兎月書房から刊行した。他にもホラー漫画、SF漫画、ギャグ漫画、少女漫画、時代劇などの多彩なジャンルをさまざまなタッチで描き分けている。また作家が他の出版社から作品を出すのを嫌がる傾向があったので、水木しげる以外にもむらもてつ、東真一郎など複数のペンネームを使い分けていた。貸本漫画は一冊120ページ程度の作品につき2万5000円から3万円程度の報酬が出版社から支払われたが、これは当時の国家公務員の初任給が1万足らずで、紙芝居が1作200円から1000円であった事を考えればかなりの高給だった。ただしそれは毎月作品を量産でき、なおかつ作品が毎回採用された場合の話であった。遅筆の水木が一ヶ月で作品を仕上げられる事はまずなく、完成しても売れる見込みのある作品でなければ出版社は買い取らなかった。そればかりか他の出版社にも不評の噂が回って締め出しを食らうという過酷な実力社会だった。しかも紙芝居の貸元同様に貸本出版社も零細企業が多く、どうにか納入が決まっても例によって代金の支払いは滞った。懸命に働いても生活は楽にならず、家賃の滞納や質屋通いが続いた。作品が評価されず不遇の生活が続く内に暗く陰惨な作風が強まり、それが出版社から「作風が暗い」と敬遠されて余計に生活が苦しくなるという悪循環に陥っていった。一時は「水木しげるの名では売れない」と堀田弘、竹取おさむなど勝手に作者名を変更される屈辱を味わった。この貧乏生活のさなか、すでに40歳近い水木を心配する両親の強い薦めで、島根県能義郡大塚村(現在の島根県安来市)出身の飯塚布枝と見合いをし、同年に結婚した。間に立ったのは布枝の母の弟で、この叔父の妻の実家が武良家の遠縁だった。結婚する最初で最後の機会と考えた水木は「普通の会社員の二倍稼いでいる」と仲人口で見栄を張って洗練された都会人を装ったが、気が緩んだ拍子に方言を連発してしまったという。見合いから結婚式までわずか5日というスピード婚で、式場は米子の灘町後藤のお屋敷が用いられた。新婚旅行の余裕すらなく大急ぎで東京に戻り、作品制作を再開した。この頃の水木は戦記漫画が一番の売れ筋であり、兎月書房の貸本用雑誌である『少年戦記』で水木しげる作戦シリーズなどを連載し、また雑誌の編集役を請け負って小松崎茂や坂井三郎らとも交流している。しかし肝心の原稿料は出し渋られ、紙芝居業界につづいて貸本漫画業界も衰退すると益々生活が苦しくなっていった。あまりの貧しさに、訪れた税務署員は「こんなに収入が少ないワケがないでしょう?」と疑ったが、水木は質札の束を突きつけ「われわれの生活が、キサマらにわかるか!」と怒って追い返した。結婚の翌年に長女が生まれた時は真剣に漫画家を辞める事も考えたという。そうした中でかつて紙芝居作家時代に描いた「鬼太郎」を題材にする事を思い付いた。1960年、兎月書房から『墓場鬼太郎』シリーズの執筆を開始し、第一作となる「幽霊一家」が貸本雑誌『妖奇伝』に掲載された。後年の鬼太郎とは全く違う、紙芝居時代に近い陰鬱な怪奇物に仕上げ、当初は全く売れず『妖奇伝』も第2号で打ち切りとなった。だが打ち切り後に一部の読者から熱心な連載再開を要望する手紙が届き、倒産間際だった兎月書房は最後の希望を託して『墓場鬼太郎』シリーズの刊行を継続した。これが人気作となり、徐々に水木しげるの名が知られていく契機となった。水木は「窮地に陥るといつも現れて救ってくれるのが鬼太郎だった」と述べている。 |
水木しげるの人気作家へ 名が売れると多少は強気の姿勢に出られるようになり、『墓場鬼太郎』の原稿料を支払わない兎月書房から三洋社に移籍して『鬼太郎夜話』を刊行した。『鬼太郎夜話』も人気を得たが、三洋社の長井勝一社長が結核で入院して経営が混乱した事で打ち切りになってしまい、既に納入していた5巻目の「カメ男の巻」は原稿自体が行方不明という幻の作品と化している。『鬼太郎夜話』打ち切り後、兎月書房と和解して鬼太郎と共に紙芝居時代の作品である『河童の三平』を漫画化したが、1962年に兎月書房が倒産した。兎月書房倒産後は佐藤プロや『悪魔くん』を出版した東考社の貸本漫画に活躍の場を移したが、『悪魔くん』は思ったより人気が出ず、全5巻の予定が3巻目で打ち切りとなった。貸本版の『悪魔くん』は経済的な貧しさから生じた過激な社会風刺に満ちており、「間違っている世の中を倒して、革命を起こす」という過激な思想は当時の水木の「懸命に働いても貧乏が続く」自身の生活の悲しみと憤りから発している。こうして、水木が得意とする妖怪漫画の原型が紙芝居から貸本漫画時代にかけて形作られた。1964年、病気療養から復帰した長井勝一から新しく漫画雑誌を作る予定を聞かされ、水木にも参加して欲しいとの依頼を受けた。同年9月に現代漫画の源流の一つとなる『月刊漫画ガロ』の第1号が出版され、水木は創刊号で「不老不死の術」を掲載した。以降、個性派揃いの作家陣が揃うガロにあって、白土三平やつげ義春らと並んで雑誌の看板作家として名を上げた。1965年には講談社からW3事件の影響で「劇画路線」を採用した『週刊少年マガジン』での連載を依頼されるも、「SF物」との縛りがあった事から悩んだ末に当初は辞退した。しかし、『週刊少年マガジン』の編集長が内田勝に交代した半年後、作風を限定しないとの譲歩を得て執筆を承諾した。貸本時代の絵柄から、「子ども向けのかわいい絵柄」に変えるのに苦労するが、『別冊少年マガジン』に掲載した『テレビくん』が第4回講談社児童漫画賞を受賞し、45歳にして人気作家の仲間入りを果たした。なお、それまでの貧乏生活で、質屋に入れていた物品は質札3cm分にもなっていたが、雑誌連載の原稿料ですべて返済し、質流れになることなく取り戻すことができた。ただ、最初に質屋に入れた背広は、10年経って変形していたので外につるして置いたら、ドロボウに盗まれてしまったという。1966年には急増した仕事に対処するため水木プロダクションを設立。つげ義春や池上遼一、鈴木翁二らが参加し、アシスタントを多数使えるようになったため、水木漫画おなじみの「点描が非常に多い濃厚な背景」を描けるようになった。銅版画を思わせる「絵画的な背景」の前に簡素な線で描かれた「漫画的なキャラクター」が配されるという組み合わせは、水木が発明した非常にユニークなものである。水木の作品の影響で、漫画、TV、映画の世界は一大妖怪ブームとなる。また民俗学での専門用語だった「妖怪」が、一般に伝わる経緯ともなった。また、『週刊少年マガジン』で「大図解」を担当していた大伴昌司も、水木の妖怪画に惚れ込み、何度も妖怪についての特集を組んでいる。1970年には連載が11誌に達してテレビやイベントの仕事も引き受けるなど時間に追われる日々を過ごした。気侭な人生をモットーとする水木はどんな状況でも睡眠時間だけは十分に取っていたが、この時期だけは徹夜に次ぐ徹夜で目眩や耳鳴りの症状が出る程だった。またプロダクション設立後は運営経費の捻出にも悩まされ、「漫画では大金持ちにはなれない」と痛感したという。そんな時に軍隊時代の恩人で、戦後は阪急電車の職員になっていた宮一郎元軍曹と26年振りに再会し、二人で戦地を尋ねる旅行に出向く事になった。再訪したニューブリテン島ではトライ族の集落も訪れ、久しぶりに牧歌的な生活を見るにつれて自身のマイペースさを失っていた事に気付き、帰国後すぐに仕事をセーブする事を決めた。またこの時期に本人が最も思い出深いと語る戦記漫画『総員玉砕せよ!』を執筆している。仕事を抑えた事に加えて初期のブームが一段落した1980年代初期には低迷期を迎え、水木家では夫人が「自分が働きに出ようか」と提案するほど経済的にも遣り繰りが厳しくなったという。一時は水木も「妖怪なんていないんだ」と言い出すなど霊的世界への興味や創作意欲を失ったが、次女が修学旅行で「目々連」を目撃した話をしたところ、水木は喜んで立ち直ったという。それから鬼太郎を筆頭に全盛期に描いた妖怪漫画の度重なる映像化や再放送などで人気が復活し、やがて世代を超えた知名度を得ていった。また連載を減らした時からアシスタントには趣味でもあった妖怪絵巻の制作を手伝ってもらい、膨大な数の妖怪画を蓄積していたが、こうした妖怪に関する考察や資料も作品の再評価に繋がった。 |
水木しげるの晩年の活躍 ブーム再燃後は『のんのんばあとオレ』『コミック昭和史』など自らが描きたいと思う作品を選びながら執筆するようになり、個性派作家としての人気を確固たるものにした。1991年に紫綬褒章を、2003年に旭日小綬章をそれぞれ長年の漫画家としての活躍を讃えられて受章している。水木の特異なキャラクターと昭和と戦後漫画の歴史を生きてきたその数奇な人生が知られるようになったことで、水木自身について興味を抱かれる機会も増えた。1993年、縁の深い鳥取県境港市の町おこしに協力し、水木しげるロードの建設が開始され、2003年に水木しげる記念館の開館によって完成した。同地は鳥取県における観光名所として発展している。2010年、文化功労者に選出される。90歳を超えてなお新作漫画やエッセイを発表し続けた。晩年の主な作品としては、長年の課題としていた出雲を描いた『水木しげるの古代出雲』、泉鏡花の生涯を漫画化した『水木しげるの泉鏡花伝』、最後の連載漫画となった『わたしの日々』、青年期に戦地まで持ち込んだ『ゲーテとの対話』のうち現代社会に活かせる内容を著した『ゲゲゲのゲーテ』などがある。また、映像作品では『ゲゲゲの鬼太郎』の実写映画や貸本版『墓場鬼太郎』のテレビアニメなどが実現した。2010年には、妻・布枝の著書『ゲゲゲの女房』がNHK連続テレビ小説としてテレビドラマ化、および映画化されるなど改めて水木の人生に注目が集まった。海外での評価も高まり、フランス・アングレーム国際漫画賞、米アイズナー賞などを受賞している。2011年、東日本大震災について考察した絵を描き、ニューヨーク・タイムズに掲載された。2013年、自身初の全集となる『水木しげる漫画大全集』が講談社から刊行開始。同年には近況を綴った『わたしの日々』の雑誌連載を『ビッグコミック』誌で開始、90歳を超えて新連載を始めるのは異例の記録となる。その後も、2015年4月より、93歳で『怪』に小泉八雲の原作に絵をつけた作品である『怪画談』の連載を開始(水木しげる+水木プロダクション名義)。同年12月発売の『怪 vol.0046』に発表された第3回が遺作となった。第4回からは水木プロダクション作品として連載が続けられ、2016年7月発売の『怪 vol.0048』に掲載された第5回で完結した。 |
水木しげるの死去 2015年11月11日、東京都調布市の自宅で転倒して頭部を強く打ち、都内の病院に入院した。頭部打撲による硬膜下血腫を治療する為に緊急手術を受け、入院治療中で、頭部打撲は回復したものの、同年11月30日未明に容体が急変し、午前7時18分に多臓器不全のため入院先の東京都三鷹市の杏林大学医学部付属病院で死去した。93歳没。通夜、葬儀・告別式は近親者のみで営まれた。翌年の1月31日には東京・青山葬儀所にて「お別れの会」が開かれ、親交のあった著名人や一般弔問者など約7800人が参列した。祭壇は水木の短編漫画『丸い輪の世界』をイメージして作られ、周囲には鬼太郎や悪魔くんなどのイラストが並んだ。遺影の下には水木の故郷から見える山や海、左右には太平洋戦争時に出征したラバウルをイメージした花が配され、遺影の前には天皇陛下(当時)からの祭粢料が飾られた。戒名は「大満院釋導茂(だいまんいんしゃくどうも)」。弔辞は野沢雅子、さいとう・たかを、松田哲夫らが読み上げた。 |
水木しげるの没後 2016年2月、アニメーション産業・文化の発展に寄与したことが称えられ、「東京アニメアワードフェスティバル2016」でアニメ功労部門を受賞。同月には水木の仕事場から未公開の日記が発見され、2017年1月のNHK『クローズアップ現代+』で特集が組まれた。2017年3月、水木しげるの生涯を回顧する展覧会「追悼水木しげる ゲゲゲの人生展」が東京・松屋銀座で行われ、その後は全国を巡回する。 |
水木しげるの妖怪研究家として 1966年から『週刊少年サンデー』連載の「ふしぎなふしぎなふしぎな話」で妖怪画を発表し始める。やがて、『週刊少年マガジン』増刊の『日本妖怪大全』を経て、1970年に『水木しげる妖怪画集』を刊行。その後も「妖怪図鑑」の類を多数執筆している。水木は妖怪を題材にするにあたり、古い文献や絵巻などから多くの伝承や妖怪画を蒐集してゆく。そして、鳥山石燕など古典の画が存在する場合は参考にして描き、「子泣き爺」「砂かけ婆」「ぬりかべ」「一反木綿」など文字の記録のみで古典の画が存在しないものは、水木によって初めて絵として描かれていった。そのため多くは水木が創造した形であり、現在の日本人が持つ「妖怪」イメージは、水木の作品から大きく影響を受けている。大衆の中で失われていた多くの妖怪を救ったともされ、こうした仕事に対しては、水木を妖怪文化の継承者にして布教者などと評す声もある。一方、出典が不詳のため、創作の可能性を指摘されている妖怪(樹木子など)も幾つか描いている。また、2007年8月に、妖怪研究家の湯本豪一が保有する江戸時代の絵巻に描かれた「四角い犬のような妖怪」が、米国ブリガム・ヤング大学の図書館にあるものと符合され、「ぬりかべ」の絵と判明したように、近年の研究で水木の創作以前の絵が発見された例もある。1980年代には『水木しげるの妖怪事典』(正・続)、『水木しげるの世界妖怪事典』などを発表。1992年には『カラー版 妖怪画談』を岩波新書から刊行して話題となる。1998年からは、1600点以上の妖怪画を収録した『妖鬼化』シリーズの刊行が開始。水木の周囲に妖怪好きの人々たちが集まってきたことから、1995年に世界妖怪協会を設立して会長となる。荒俣宏、京極夏彦、多田克己らが会員となり、「世界妖怪会議」が開催される。1997年からは、世界妖怪協会公認の妖怪マガジン『怪』(角川書店)が刊行開始。水木も漫画を執筆している。それらの「妖怪好き」の人々たちや、ノンフィクション・ライターの大泉実成らと、アフリカ・マリ共和国のドゴン族、マレーシアの夢を自由に見られるセノイ族、オーストラリアのアボリジニ、メキシコのインディオたちの村、アメリカの先住民・ホピ族の村など、世界のあちこちに「冒険旅行」と称したフィールド・ワークに行き、各地のスピリチュアル文化に触れて「妖怪を感じて」いる。その際、祭りなどがあるとビデオ撮影や録音をして、自宅で何度も鑑賞している。旅先で購入した仮面なども蒐集しており、自宅などに展示している。大泉実成『水木しげるの大冒険』によると、マレーシアのジャングルで、現地人に『日本妖怪大全』を見せたところ、「これは知っている」「これも知っている」と、猛烈な反応があった。それらの結果として水木は、「世界の妖怪は1000種類に集約される。世界各地の妖怪はほぼ共通している」という「妖怪千体説」を唱えるようになる。 |
水木しげるののんのんばあと水木 のんのんばあとは彼がベビィ(水木語で“子供”の意味)の頃、武良家に手伝いに来ていた景山ふさという老婆のことである。当時の鳥取では神仏に仕える人を「のんのんさん」と言っていた。景山ふさの素姓について、水木の母・琴江によると「(松江の)士族の娘。貧乏侍。…親父は足軽」という。ふさは子供たちを集めてはお化けや妖怪や地獄の話をしてくれた。彼女の話す妖怪などの話に水木は強い影響を受け、後の水木漫画の原点となった。水木は「この小柄なおばあさんが私の生涯を決めたといっても過言ではない」と述べている。ふさは水木に“もうひとつの世界”を教えてくれたという。ふさは水木が小学5年生の時に死去した。幼少時代の彼は自分の名前を正確に発声できず「げげる」と言っていたため、「ゲゲ」があだ名となった。後に水木はそのあだ名が『ゲゲゲの鬼太郎』のタイトルの原点となったと語っている。『のんのんばあとオレ』には、幼少期の水木の様子が生き生きと描かれている。同作品はNHKで実写ドラマとなって放映された。2015年9月に中四国のTBS系列局とBS-TBSで放送された特番『水木しげる93歳の探検記 〜妖怪と暮らした出雲国〜』では、ふさの出身地でもある島根県出雲地方を訪れた水木が荒俣宏と共に初めてのふさの墓参りを行った。同年11月に水木は死去したため、これが最初で最後の墓参であった。 |
水木しげるの戦争 戦争を主題とする作品も多く描いており、戦記マンガ『総員玉砕せよ!』は9割以上実体験であると語る。2007年(平成19年)8月12日にはNHKスペシャルの終戦記念日関連特番として『総員玉砕せよ!』を原作としたドラマ『鬼太郎が見た玉砕〜水木しげるの戦争〜』が放送された。水木は戦中現地でマラリア熱で倒れ、衰弱による栄養失調状態に陥っていたところを現地住民に助けられたことがある。腕を失ってからも、彼らの助けで生活したという。そこでの彼への待遇は最上級のものであり、敗戦後、上官である砂原勝己軍医大尉に現地除隊を申し込むほどだった。砂原は2004年(平成16年)1月28日に逝去したが、1996年(平成8年)7月26日に放送された『驚きももの木20世紀』では晩年の砂原がニューギニアでの水木のことを詳しく語っており、非常に印象深い患者だったことが分かる。水木は彼らを指して「土人」と呼んでいる。近年では土人という用語は差別用語と見なされるようになっているが、水木はそれも承知の上で土と共に生きる人、大地の民という意味合いで親しみを込めて使用している。また、貸本漫画家時代の一時期、戦記ものを集めた雑誌を主宰していたが、熱心な極わずかな購読者を別にすると売り上げはさほどでもなかった。その頃、『大空のサムライ』を出版したばかりの坂井三郎に「戦記ものは、勝った内容じゃないといけない(=売れない)」というアドバイスを貰った。しかし、開戦から暫く零戦を駆って敵戦闘機を撃墜する勝ち戦を続けガダルカナル島戦初日に重傷を負って実質そこで戦場生活が終わり、結果的にラバウルでの地獄の時期を経験することは無かった坂井に対し、圧倒的な武力の連合軍の前に敗戦への地獄道と化した戦場下を体験した水木とでは実体験が正反対だったが故に、水木にはそのような話を描くことは難しかった。それでも、アドバイスに従い、大戦前期の戦果を挙げた戦闘に取材した漫画も描いたが、題材が敗色濃厚になる末期に移るにつれ、案の定売上は落ちていった。ほどなく、主宰していた雑誌は潰れた。『総員玉砕せよ!』やインタビューに分かる通り、叩き上げの軍人であろうと死んでいった戦友を悼む態度を取っている。「近年自殺者が増えていることに対してどう思うか」との問いには「彼らは死ぬのが幸せなのだから(自分の好きで死ぬのだから)死なせてやればいい。どうして止めるんですか。彼ら(軍人達)は生きたくても生きられなかったんです。」と答えた。片腕を失ったことに対しては「私は片腕がなくても他人の3倍は仕事をしてきた。もし両腕があったら、他人の6倍は働けただろう」と語り、「左腕を失ったことを悲しいと思ったことはありますか」という問いには「思ったことはない。命を失うより片腕をなくしても生きている方が価値がある」と答えている。2015年5月、水木が出征前に書いたとされる手記が発見され、文芸誌『新潮』2015年8月号に掲載された。 |
蕭子ミンの経歴 蕭賾と顔婕妤のあいだの子として生まれた。489年(永明7年)3月、義安王に封じられた。後に永陽王に改封された。建武年間に衡陽元王蕭道度の後を嗣いだ。498年(永泰元年)1月、明帝の命により殺害された。 |
松宮寒骨の経歴 1883年に石川県金沢市で生まれる。開成中学校(現在の開成中学校・高等学校)を経て1908年に早稲田大学大学部商科(現在の早稲田大学商学部)卒業。三越呉服店(現在の三越)入社。学生時代から俳句を始め、新傾向俳句の河東碧梧桐に師事、碧梧桐と中村不折が立ち上げた龍眠会に参加。また久米正雄(三汀)や泉天楼、内田易川が立ち上げた碧梧桐派『朱鞘』の同人となった。石井露月の『俳星』にも投句している。のち碧梧桐が立ち上げた『海紅』の同人となり、自由律俳句を詠む。碧梧桐が海紅を去ると、同じく海紅同人だった風間直得を編集長として『東京俳三昧』を創刊。『碧』を主宰していた碧梧桐と合流する形で『三昧』を立ち上げた。しかしその後、主宰が中塚一碧楼となった海紅に戻り、以降は晩年まで海紅に依った。1968年、85歳で没。 |
松宮寒骨の広告研究家として 俳人、松宮寒骨は長く三越の広告部長でもあった。その関係で三越の越後屋時代からの広告を研究し、数々の日本の広告や宣伝、広報に関する著作を、本名の松宮三郎名義で世に送り出した。また上智大学専門部新聞科(現在の上智大学文学部新聞学科)創設時からの講師(広告論)を始め、母校の早稲田大学でも、創成期よりの早稲田大学広告研究会との関わりから、広告学を教えている。 |
カス郡 (ミネソタ州)の歴史 カス郡は1851年9月1日にミネソタ準州議会によって創設された。正式には1897年になって組織化された。その領域はダコタ郡、マーカータ郡、ペンビナ郡、ワーナタ郡の一部を合わせて作られていた。郡名はルイス・カスに因んで名付けられた。1897年に正式に組織化されるまでに、郡域の大部分が周辺郡を設立するために削り取られた。 |
カス郡 (ミネソタ州)の地理 アメリカ合衆国国勢調査局に拠れば、郡域全面積は2,414.21平方マイル (6,252.8 km²)であり、このうち陸地2,017.60 平方マイル (5,225.6 km²)、水域は396.61平方マイル (1,027.2 km²)で水域率は16.43%である。 |
蒲田重武の概要 蒲田重武は足利義氏の命により左京亮に任じられたほか、北条氏直に仕えて神奈川の戦で功績を挙げ、氏直から感状並びに加恩を賜わったとされる。豊臣秀吉による小田原征伐を受けて後北条氏が滅びると、徳川方である土井氏の家臣となり、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では土井利勝に仕えて、子の重吉とともに従軍し帰陣の後禄百石を賜ったとされる。子孫は土井家を去り、相馬中村藩家臣として続いた。 |
S.Q.Fの概略 2000年、MASCHERA解散後にMICHIのソロプロジェクトとして始動する。ユニット名は「Spinning Q Factor」(スピニング・キュー・ファクター)の略だが、「S.Q.F」(エスキューエフ)が正式名称である。サポートギタリスト・メインコンポーザーとしてiLLUMINA(2002年解散)のNaoが参加。MICHIとNaoは高校生時代にevil eyesというバンドを組んでいた。当初はMICHIのソロプロジェクトであったが、2003年にNAO、愁、池田、鳴瀬が加入しバンド編成となった。2005年4月から8月までメンバーの加入と脱退が相次ぎ、以降はmichiとNaoの音楽ユニットとして活動する。2010年、10周年記念バンドとして「SPINNING Q FACTOR」~「FLASH」期をメインとした「Spinning Q Factor」名義での活動も行い、旧メンバーの池田鷹浩もサポートとして参加した。同年末、Naoが脱退。2011年RYUch.脱退。2012年からはmichi.のソロプロジェクトとして活動している。 |
豊島区立南長崎スポーツ公園の歴史 南長崎スポーツパークは、1950年5月に開校した旧長崎中学校(豊島区立長崎中学校)のサイト上に構築された都市計画公園です。 2006年に生徒数の減少により学校は閉鎖されました。 インターネットアンケートの回答に基づいて、公園はスポーツと防災の場所になりました。 公園には長崎中学校への記念プラークがあります。 |
豊島区立南長崎スポーツ公園の設備 スポーツセンターとフットボール(サッカー)のピッチ(多目的広場)、芝生のある広場があり、夏には小さな噴水と水域( ジャブジャブレイクと呼ばれる)があります。ブランコや滑り台など子供用の遊具があります。 防災施設として、放水口、仮設トイレとして使えるマンホール、小さなオーブンとして使えるベンチがあります。この公園からは、既存の防災井戸や防火用水タンクへのアクセスも提供されています。 |
樋口宗孝の概要 ヘヴィメタルバンドLOUDNESSやレイジー、SLY、BLOOD CIRCUSなどでドラムを担当。日本のHR/HM界を代表するドラマーである。LOUDNESSのオリジナル・メンバーでは最年長で、パワフルなドラミングが持ち味。ジョン・ボーナム(レッド・ツェッペリン)の強い影響から、シングルバスに強いこだわりを持っており(ドラムセットもジョン・ボーナムのセッティングとほぼ同じ。過去に、LOUDNESSのデビュー当時のアーティスト写真では2バスになっていた)2バスのニュアンスを表現する際においてもフロアタムを巧みに使いバスドラム1つのみでプレイをこなすという徹底ぶりである(当時、ラウドドラミングと呼ばれていた)。近年は、ドラムセットに大きいサイズのものを導入(下記機材参照)、スティックにはアメリカ製のイーストンアヘッド社のジュラルミンスティックを使用し、同社から樋口宗孝モデルが販売されている。(詳細は下記参照) |
樋口宗孝の略歴 1958年、奈良県に生まれる。1977年、アイドルバンド「レイジー」のドラマーとしてデビュー。当時のニックネームは「デイビー」。本人は「デレク・ロングミュアー(ベイ・シティ・ローラーズ)に似ている」と言って嫌がり、「12月24日生まれだから"イブ"がいい」と主張したが、「イブは(女性名という事もあり)イメージに合わない」と言われたという。1981年、レイジーが解散。その後、同じくレイジーのギタリスト高崎晃と共にLOUDNESSを結成し、同バンドのドラマーとして再デビュー。1990年にはBLIZARDのアルバム「DANGER LIFE」をプロデュースした。1994年にLOUDNESSを脱退し、同僚の二井原実とSLYを結成。1998年、レイジーを再結成し、BLOOD CIRCUS結成。同時に、はたけ(シャ乱Q)、鮫島秀樹(当時HOUND DOG)らとRose of Roseとして活動。2000年にはLOUDNESSへ電撃復帰を果たした。2008年4月より、肝細胞癌のため活動は中止し治療に専念していたが、同年11月30日朝、自宅で嘔吐して倒れているのを家族が発見、救急搬送されたが午前10時44分大阪市の病院で死去。満49歳没。2008年12月24日、自身の生誕50年に伴い、東京青山にある青山葬儀所にてお別れの会が開催され、LOUDNESSやレイジーのメンバー、飯島直子を初めとする各著名人を含む1,500人を超えるファンが弔問に訪れた。戒名は「宗誉楽音禅定門(しゅうよがくおんぜんじょうもん)」。また、彼と親交のあった山本恭司や真矢、LEVIN、宮脇知史から、かつてBOØWY時代に同じビーイングに所属していた布袋寅泰や高橋まこと、学生時代にLAZYのファンだった奥井雅美、大林素子や、つるの剛士、平野啓一郎などの、様々なジャンルの著名人からもブログを通じて追悼のコメントを出し、海外でもフランキー・バネリ(元クワイエット・ライオット)やショーン・ドローヴァー(メガデス)、ジェイムス・コタック(スコーピオンズ)、シェーン・ガラース(B'zのサポート・ドラマー)らが追悼のコメントを寄せた。 |
樋口宗孝の機材 レイジー時代、初期はラディック社のツーバスセットを使用していたが、後期にはパールのファイバーグラスシェルFXシリーズシステムを使用(シンバル類は不詳)。この当時はツーバスで2タム、2フロアというシステムで、シンバルスタンドがすべてストレートタイプの物を使用していた。このレイアウト構成からコージー・パウエルを髣髴とさせると当時の関係者が語っている。ラウドネス初期についてはヤマハのシステム・キットにジルジャンのシンバルパイステの銅鑼という構成を使用していた。ヤマハシステム使用前期は標準胴サイズだったが後期はYD-9000RDシリーズの超深胴タム、シンバルはA・ジルジャン・ブリリアント、銅鑼についてもジルジャンを使用していた。しかし、1986年からパールと契約、システム・キット、シンバル、銅鑼がすべて入れ替わっている。ヤマハシステム使用時代は、ヘッドにラディック社のシルバードットを使用していたが、パールのシステムに変更してからは、REMO社のCS(黒ドットではなくシルバードット)を使用、その後クリアーエンペラーへと変遷した。パールシステム使用初期にはメイプルシリーズのGXモデルを使用、レイアウトはヤマハから変わらず6.8.10.1213.14のタムに16&18のフロアー・タム、24のバスドラムという組み合わせだが、6インチのタムはGXシリーズには存在しなかったため、同メーカーPXシリーズ(ファイバーシェル)のタムを特注で作製、使用していた。シンバルはセイビアンのブリリアントを使用し、銅鑼もやはりセイビアンの物を使用していた。一般的にメタル系バンドのドラマーはライドシンバルにウエイトの高い(厚く重量の重い)ものを使用する傾向が見られるが、彼は22インチクラッシュライドを使用し、ときにライドシンバルをクラッシュのように使用している。また、同サイズ、同ウエイトのシンバルを複数枚使用している(バスドラム上のメインシンバルに18インチミディアムを左右1枚ずつ使用)が、これは1枚のシンバルを連打した際にシンバル自体の発音が間に合わず濁った音になることを防ぐためである。また、セッティングの特殊性からハードウエアに特注ラックシステムを使用しているが、その安定性からタム類の音質は極めて良くなっていた。ヤマハシステム使用時代のライブ映像ではハードウエアの剛性不足からタム関係が揺れているのを確認できたが、パールの特注ラックシステムに変更されてからはタムの揺れは完全に解消されている。初期、スティックは彼のネーム入りのカラートリーガル5Bのナイロンチップを使用していた。俗にリーガルチップと呼ばれていたがナイロンチップが外れやすく、当時のインタビューで彼もその部分を特に強調していた。LOUDNESSの頃より、アメリカ、イーストンアヘッド社のジュラルミンスティックを使用しており、同社から樋口モデルも販売されている。イーストン社は元々金属バットなどを製造しているメーカーで、1980年代からアヘッドと呼ばれるドラムスティックを作成し、急速な成長を遂げた。1セットあたりの金額は高額だが、サックとチップの交換で折れなければ半永久的に使用出来る。また、LOUDNESSのアメリカツアーの頃、日本では販売されていなかったドラマー用グローヴの存在を知って購入、帰国後すぐは使っていなかったが、日本国外のドラマーが使い出し、「デカくていい音」を出すためにグローヴを使うようになる。その後、パール製のロックグリップの開発に関わり、ロックグリップを愛用することになる。その後のインタビューでは「グローヴがないとあのパワーは出ない」と語る。なお、パール楽器のシステムに変更されてから、シェルの色がミラーボール仕様となり、塗胴からカバリングへと変更される。ミラーボールカバリングの発想は、高速道路を走っているタンクローリーからヒントを得ている。ちなみに彼が使用していたカラーリングは、レイジー時代は白、ラウドネス初期は黒、中期はミラー、そしてミラーボール、晩年はまた白に戻った事になる。現在パール楽器から販売されているバスドラムのミラーヘッド(シルバー&ゴールド)は彼の存在がなければ今の販売には結びつかなかった。晩年もパールのクラシックメイプルシェル(レインフォースメントシェル)を使用するが、システムが大幅に変更され、大口径のシェルにある意味今風の1タム2フロアーというそれまでの多点システムとは正反対になっている。バスドラムは26X18、14タム、16&18のフロアーというセットで、シンバルはやはりセイビアンAAXブリリアントで統一され、銅鑼はKMKの40インチ、ラックは廃止されていたが、2005年のヨーロッパツアー近辺からラックシステムを導入した。ヘッドもREMOからアクエリアンに変更され、トミーリーモデルを良く使用していた(現在は樋口モデルが販売されているのでそれを使用)。また、ティンパニーも2基あるが、基本的にドラムソロで使用している。しかし、バスドラムのフットペダルはパールにエンドースしてからはパールのペダルを使っていたが、当時のパールのペダルは、小さな丸いラバーの配置によってフィーリングが異なる作りだった。リズム&ドラムマガジンで、本人曰く、「おれはこのパターンの配列がベスト。しかしどの配列にしてもあまり変わりはない」などと、頓珍漢なコメントも少なくなかった。その後、ペダルはヤマハ時代に戻り、ヤマハのFP-710を使用しておりスペアを含め同モデルを常時数機所持していた。本人曰く、動きが極めてスムースで高速連打を演奏するにはこのペダル以外は考えられないとまでこのモデルを信頼しきっていた。ドラムシューズはアキレスとクーガーを愛用。このようなことから、機材に関しても一切妥協せず、自身が納得した物しか使用しないという姿勢は昔から一貫している。スネアドラムについても、以前はラディックやスリンガーランドといった海外製を使用していたが80年代から国内製を使用する事になり、パール楽器からカスタムモデルが販売されていた。このカスタムスネアはシェル(胴)本体に大きな穴を4か所あけた物(エキゾーストホール)が限定で発売され話題を呼んだが、このレイアウトはOCDP社から同じようなスネアが一足先に販売されている。以前の樋口と同じレイアウトの大規模システムを継続している日本人ドラマーは新美俊宏(BOWWOW)だけになっている。シンバルについては、1918年12月27日受注締切で樋口宗孝モデルが受注生産されることになった。リズム&ドラムマガジンによると、樋口はシンバルにもこだわりを持っており、サステインが何小節まで響くか、まで検証していたこともあったとのいう記述がある。個人の評論の除去 |
樋口宗孝のドラミング 当時は、ラウドドラミングと呼ばれたぐらい特徴のあるリズムキープを行っている(前述のとおり、特徴のある独特なグルーヴ感を持っていた ジョン・ボーナムに強く影響を受けていたため。詳しくは「ジョン・ボーナム」の項を参照)。あくまでシングルバスにこだわる樋口は、インザミラーのサビの前部分に出てくるツーバスのような連打をバスドラムとフロアータムの裏打ちを利用して、あたかもツーバスのようなドライブ感があるリズムを生み出していると言われるが、実際には裏打ちをしていない場合も多く、この説もオカルトと言えるだろう。得意とするリズムパターンでもある「イン・ザ・ミラー」や「DREAM FANTASY」、「スピード」で叩かれているリズムについても、実は「イン・ザ・ミラー」と「スピード」のドラミングは一見同じように聴こえるが、実は「イン・ザ・ミラー」と「スピード」では手の8ビートは同じものの、バスドラムのリズムに違いがあり「イン・ザ・ミラー」はジョン・ボーナムが当時多用していたリズム構成と同じだが、「スピード」ではバスドラムのリズムを1か所抜き変速している。「クレイジードクター」で行っているバスドラム連打のリズムパターンはレイジー時代のポップソング「ハローハローハロー」で既に使われており、セットこそツーバスではあったが、やはりワンバスでこのフレーズを叩いていた。TUBEの前田亘輝のソロアルバム「SMASH」収録の「いいかげん」という曲のリズムパターンは、LOUDNESSの「Crazy Doctor」(「DISILLUSION 〜撃剣霊化〜」収録)と同じであり、さらに高速フレーズのオンパレードである。これは「SMASH」が「DISILLUSION」よりも後発リリースのアルバムであるため「いいかげん」が「Crazy Doctor」のフレーズを流用している事になる。また、スネア〜タム〜フロアー〜バスドラムを組み合わせた3、4、5、6連符を得意とし、ドラムソロや曲の途中の「オカズ」に頻繁に顔を出す。前述のTUBEの前田のアルバム「SMASH」の他にも浜田麻里のアルバム、B'z結成前の松本孝弘のソロ・アルバム、その他に樋口がドラムスとして参加しているものが多々ある。また、YOSHIKI(X JAPAN)やshuji(Janne Da Arc)も、アマチュア時代から彼のプレイに憧れ、そのプレイスタイルから研究していた。また、ラウドネスと再結成後のレイジーでは、「ラウドネスでのドラムは自分の限界に挑戦している所があるけど、レイジーの場合は楽曲優先という感じで一歩引いて、バンド全体を見渡すような感じで叩いている」と、バンドの音楽性で自身のドラムの叩き方やポジショニングを変えている。晩年は、システム構成上、全盛期のような派手なドラムソロやフィルインなどは少なくなった。 |
砂漠での声の概要 1914年8月、ベルギーはドイツ軍の侵攻を受ける。大都市は壊滅、両陣営からは数えきれない犠牲者を出し、ベルギー国王アルベール1世と彼の軍はウェスト=フランデレン州、イセル川の川岸へと追いやられた。The Pall Mall Gazetteは『砂漠での声』の公演評で、舞台上での情景を次のように評している。緞帳が上がると舞台は夜、荒れ果てた土地に破壊された建物が建っている。遠くにイセル川のキャンプの明りが瞬き、手前には外套をまとった男の姿が、エルガーの音楽に合わせてこの光景について独り語りを行う。彼が話し終えると、小屋から農家の少女の声で戦争が終結する日の訪れを願い信じる歌が聞こえてくる。(中略)旅人は少女の勇敢な歌に聞き入り、釘付けとなって立ちすくむが、その後彼は彼女の見事な勇気と不屈の精神について語り、そして幕がゆっくりと下ろされる。初演は1916年1月29日にロンドンのシャフツベリー・シアターで行われた。朗誦を行ったのはベルギーの舞台俳優であるカルロ・リテンであり、オルガ・リンのソプラノ、そして指揮は作曲者自身であった。テクストを英訳したのはカマルツの妻であるティタ・ブラン(Tita Brand)である。曲はピアノ伴奏版が1916年にエルキン社(Elkin & Co.)から出版されている。 |
Subsets and Splits
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