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アナキズムの近代日本 日本では、先駆的に江戸時代後期の安藤昌益がアナキズム的な発想で思想を展開したが、近代思想としてのアナキズムの影響ということでいえば、幸徳秋水がいる。秋水はクロポトキンの影響を受けたが、幸徳事件(大逆事件の一つ)で死刑となった。大正時代に入り、ロシア革命が起こると、大杉栄の主張する、労働組合を基盤としたアナルコ・サンディカリスムが一定数の支持を得て、マルクス主義者(ボリシェビキ)との間にアナ・ボル論争と呼ばれる論争が行われたが、大杉は関東大震災後の混乱の中、殺害された(甘粕事件)。大杉の死後、主導的人物を失ったアナキズム運動は個人的な活動から組織的、社会的な運動となっていく。まず、八太舟三に代表される純正アナキズム(アナルコ・サンジカリズムは、サンジカリズムの影響を受けており不純なアナキズムであると批判する)が盛んになり、その後は、アナキズムとしては異例の強固な「党的志向」をもった日本無政府共産党や、全国的な農民運動として、歴史的には「農青イズム」と呼ばれた革命的地理区画を全国に樹立した具体的で実践的な農村青年社の運動が登場する。権藤成卿、橘孝三郎らの超国家主義・農本主義運動らにもアナキズムは影響を与えた。詩人の金子光晴や日本のダダイスムもアナキズムに影響を受けており、その作品のいくつかはアナキズムを謳っている。1935年には日本無政府共産党ギャング事件が、翌1936年に約350名が治安維持法違反として検挙される農村青年社事件が起きる。この事件をもって「戦前のアナキズム活動の終息」と見る向きもある。 |
アナキズムの戦後日本 太平洋戦争敗戦後のアナキストは寧ろプルードンの立場に近く、実力での資本主義制度を打倒よりも地域コミュニティ再建の実現を目指していた。戦後のアナキズムはアナルコ・サンディカリズム系の日本アナキスト連盟と、純正アナキズム系の日本アナキスト・クラブが啓蒙的活動を続けていたが、ほとんど影響力はなく、アナキズムは死んだに等しいと見なされていた。そのようなアナキズムが蘇ったのは1968年から1970年にかけての全国的な学園闘争においてである。学園闘争の中心となった全学共闘会議(全共闘)の多くはノンセクトであり、日大全共闘芸術学部闘争委員会(後期)などのように、旗やヘルメットを黒色とする組織も多く、またその組織形態も、アナキズムに多い自由な評議会的なものであったことから、アナキズムへの関心が芽生えることになった。東京のアナキストは連盟の後継の要素を引き摺り、学習会的・サロン的色彩を払拭出来ず(麦社)、それ以外もテロリスト的な小結社主義(東京行動戦線、背叛社)の域を出なかったが、関西・大阪のアナキストは、小組織・小グループの傾向を離脱してアナキスト革命連合(ARF、アナ革連)という「アナキスト・ブント」とあだ名された統一組織を形成し、各大学や地域において強力な運動を展開した。関西の主要大学にはアナキスト連合の組織や支部が形成され、キャンパスにはアナキストの黒旗が翻り、一部では完全にマルクス主義者を凌駕していた。1974年から1975年にかけて連続企業爆破事件を起こした東アジア反日武装戦線はアナキズム傾向がある組織だった。戦後のアナキストとしては、詩人の秋山清や、後に右翼の立場性を鮮明にする評論家大澤正道らがおり啓蒙的著述を続けていたが、その後、向井孝は自身のミニコミ紙で非暴力直接行動論を粘り強く持論とし、フランスにいた尾関弘はダニエル・ゲランの翻訳を行った。またアナキスト革命連合の活動家だった千坂恭二は『情況』や『映画批評』誌などでバクーニンの思想をベースにブント的アナキズムを精力的に展開し、大島英三郎は黒色戦線社を設立し八太舟三の純正アナキズムの普及に努めた。作家の石川淳や埴谷雄高、俳優の天本英世などがアナキズムに強い関心を示すとともに、映画評論家で『映画批評』編集長の松田政男はアナキズムの立場を明確にしていた。また現在では佐藤優や福田和也らがアナキズムに言及している。 |
ジャック・カロの生涯 ジャック・カロは現在フランス領となっているロレーヌ公国の首都ナンシーで生まれた。カロは身分の高い家柄に生まれ(父はロレーヌ公に仕える式部官であった)、後の自作の署名にも自身を貴族として書き込んでいる。15歳の時に金細工師の徒弟となるが、すぐにローマに出、ここで国外追放されたフランス人フィリップ・トマッサンから版画の技術を学んだ。続いてカロはフィレンツェでアントニオ・テンペスタからエッチングの技法を学び、1612年から21年までこの地で過ごした。なお、カロには2000を越えるスケッチが残っているものの、すべて版画の下描き用のものであり、おそらく絵画の修行は積まなかったものと考えられる。フィレンツェに在住する間に版画家として独立し、特にメディチ家からの注文を受けた。1621年にコジモ2世が死去してのちにナンシーに戻り、残りの生涯をこの地で過ごしたが、晩年はパリやオランダも訪れている。カロはロレーヌやフランス、スペインの宮廷から注文を受けたほか、パリの出版社からも注文を取った。ナンシーの僻地にこもっていたにも拘らず、彼の絵はヨーロッパ中に広まり、レンブラントは熱心なコレクターの一人であった。 |
ジャック・カロのエッチング技法の革新 カロは卓越した版画技術を持っていたが、それは彼自身がおこなった重要な技術革新に支えられていた。カロは「エショップ(échoppe)」という、先端が傾斜した楕円形の断面になっているエッチング針を多用し、これによってそれまでエングレービングでしかできなかったような膨らみのある線を、エッチングにおいても表現できるようになった。 またカロは、エッチングに用いる防蝕剤をそれまで一般に使われていたロウではなく、リュートの制作者が使う硬いニスを使用した。この変更によって彫られた線がより深く腐蝕されるようになり、印刷に使う版の寿命を伸ばすと同時に、酸の過剰な侵食による失敗、ファウル・バイティング(foul-biting)を劇的に減らすことに成功した。ファウル・バイティングはそれまで、版画制作者が一つのエッチングにあまりに多くの時間をかけることを躊躇させていたが、この革新によってそれまでエングレービングの占有物であった高度に細密な表現が、エッチングによっても可能となった。カロはまた「ストッピング・アウト(stoppings-out)」を複数回行なう技術において卓越していた。これは版全体を酸で腐蝕させる際、陰影のトーンを軽くしておきたい部分を防蝕剤で覆っておく技法であり、カロはこの工程で入念な調節を行い、前例のないほどの微妙な距離感や陰影の表現に成功した。これらのカロの技法は、彼の弟子の一人であったアブラム・ボス(Abraham Bosse)によって書かれたエッチングの技法書によって紹介され、イタリア語、オランダ語、ドイツ語、英語に訳されてヨーロッパ中に広まった。 |
ジャック・カロの『戦争の惨禍』 カロのもっともよく知られている作品は『戦争の惨禍』と題されたシリーズである。これは『大きな惨禍』として知られる1633年の18枚の作品と、それ以前に作られた未完の『小さな惨禍』からなる(名称は絵の大きさに由来するが、大きなものでも8×13cm程度である)。これらの絵では戦争のさなかで兵士たちが町や村、修道院で略奪と放火を行い、その末に上官によって処刑され、あるいは農民によって私刑にかけられ、あるいは体の不自由な乞食に成り果てる様が描かれている。『大きな惨禍』のシリーズが出版された1633年は三十年戦争によってロレーヌ地方がフランス軍から侵略を受けていた年であり、カロの『戦争の惨禍』はゴヤの『戦争の惨禍』シリーズと並ぶ、戦争の非人間性に対する芸術による告発の例となっている。 |
カジャグーグーの結成 1979年、ロンドン近郊のレイトン・バザードで同じ学校の友人であったニコラス(ニック)・ベッグス、スチュワート・ニール、マネージャー役のポール・ライアンと、別の学校の友人であったスティーヴ・アスキュー、ジェレミー(ジェズ)・ストロードは、当初、それぞれ別々のバンドで活動をしていたが、ジェズがアルバイトしていた「エンジェルカーズ」という倉庫でジャムセッションを行うことになって、5人は意気投合、アール・ヌーヴォーを結成し本格的なバンド活動を開始した。彼らは、ジンピードレイクレコードから100枚だけプレスしたシングル「Fear Machine」を発表し、パブやクラブを中心にライブ活動をしていたが、アール・ヌーヴォーとして中々芽が出なかった彼らは新たにボーカリストを探し始めていた。1980年、俳優と歌手を目指していたクリストファー・ハミル(Christopher Hamill、後のリマール)は、2枚のシングル「It's Christmas」と「Angel」を発表し、ソロでメジャー・デビューを目指していた。その後もソロ名義で「Who Shall I Be Today」や、「Kris」という名前でデュエットした「Strange Kinda Love」などを歌ったがヒットに結びつかず、新たにバンドのボーカリストとして道を模索し始め、雑誌「Melody Maker」にバンド募集の広告を掲載した。広告を掲載した後、100組近いバンドと会ったがどれもパッとせず、一時渡米し、戻った時にボーカリストを探していたニックから連絡をもらい、ニックが送った「Fear Machine」を聴いて一気に気に入り、バンド加入を決めた(特にB面の「Animal Instincts」が気に入って、後にリマールのボーカルで録音し直し、「Ooh To Be Ah」のカップリングとして収録された)。加入と同時にハミル(Hamill)は名前の綴りの配列を変えてリマール(Limahl)と名乗り、バンド名もその頃のThe Handstandsからカジャグーグー(Kajagoogoo)に変更した。5人になったカジャグーグーはメジャーデビューへ向けて曲作りに励んだ。当時の彼らはエルトン・ジョンのカバーや、「Ever So Lonely」、「Don't You Want Me」など未発表のオリジナル曲を作っていた。中でも「Shy Shy」(後の「Too Shy」)や、「Ooh To Be A」(後の「Ooh To Be Ah」)は完成度が高く、ライブでも評判は良かった。 |
カジャグーグーの1981年 - 1985年 1981年にリマールのガールフレンドがデュラン・デュランのサイモン・ル・ボンと知り合いで、その関係から新たなバンド・プロデュースをしたがっていたニック・ローズを紹介され、ニック・ローズが彼らをEMI ロンドンに紹介する形でメジャーデビューを果たす。1982年デビューに当たってシングルを選曲する際に、プロデューサーを務めたニック・ローズとデュラン・デュランのアルバムのプロデュースをしたコリン・サーストンが共に一番気に入っていた「Shy Shy」を若干、歌い方を変え、タイトルも「Too Shy」(邦題「君はTOO SHY」)として発表、同様に「Ooh To Be A」も「Ooh To Be Ah」と変更して2ndシングルとして準備した。1982年12月、1stシングル「君はTOO SHY」を発表、翌年1月にはUKチャート1位になり、「デビュー曲でNo.1」の快挙をはたす(その他、ヨーロッパ7ヶ国でも1位となる。米国では5位)。同年、4月には2ndシングル「Ooh To Be Ah」と、1stアルバム『君はTOO SHY (White Feathers)』(プロデューサーはニック・ローズとコリン・サーストン)を発表、シングルはチャート7位まで上がる。6月には3rdシングル「ハング・オン・ナウ」を発表、チャート13位まで上がる。その頃、アメリカではイギリスより遅れて発表された「君はTOO SHY」がUSビルボード誌で5位まで上がり、それに気を良くしたリマールはミキサーのティム・パーマーと共に「ハング・オン・ナウ」のリミックス盤をアメリカ版シングル(米国78位)として発表した。同時期に行っていたイギリスツアーも好評で順調に活動している様に思えたが、ツアー終了後の7月に表向きは「音楽の方向性の違い」を理由にリマールが脱退する(実情は「音楽の方向性の違い」ではなく、リマールが「君はTOO SHY」や他の曲の作詞・作曲に関するギャランティの配当を50%という法外な割合をバンドに要求し、均等配当を考えていたニック達やマネージャーのポール・ライアンを困惑させたことが原因。ジェズはリマールの要求にある程度理解を示したものの、マネージャーを含んだ他の4人は否定的だったことから、リマールと彼らの仲に溝ができ、クビにされた)。1983年8月、4人に戻ったカジャグーグーは、ニューヨークに行ったことをモチーフに作った新曲「ビッグ・アップル」を発表、前作と同じくコリン・サーストンをプロデューサーに迎え、前シングルを上回るチャート8位まで上がる(このC/W「Monochromatic」ではニックの声で歌われているが、曲の頭と終わりのライブMCを良く聴くとリマールの声になっている、アール・ヌーヴォー時代の曲)。ソロになったリマールは「ハング・オン・ナウ」で手を組んだティム・パーマーと、ファッションのディー・ハリスと共に12月に1stシングル「オンリー・フォー・ラヴ」を発表する。リマールはこの翌年1月に東京音楽祭に参加、銀賞を受賞する。ここに審査員で来ていたジョルジオ・モロダーと出会い、才能を見出される。カジャグーグーは1984年3月に「ライオンズ・マウス」(英国25位)を発表、ニックはこの曲からギターとベースを兼用した楽器チャップマン・スティックを使い始める。同年5月には2ndアルバム『アイランズ』と6枚目のシングル「バック・オン・ミー」(英国47位)を同時に発表する。ニックはこの頃にファッションのマリガンと組んでIm-Mac Logicを結成し、チャップマン・スティックで弾いた「Bolero」の12インチ・シングルを発表した。その後、アルバムの発表を期にワールドツアーに出て、7月と9月に2度来日し、その9月には来日記念盤として日本用に「パワー・トゥ・フォーギヴ」をシングル・カットしている。一方、リマールの方は5月に2ndシングル「TOO MUCH トラブル」を発表、9月には1stアルバム『ドント・サポーズ』を発表した。カジャグーグーは日本のツアー後、「バック・オン・ミー」のリミックス盤をアメリカ用に発表、当初はミニ・アルバムとして発表する予定を急遽アルバムに入れ直し、タイトルも『アイランズ』から『Extra Play』に変更、過去のイメージを一新しようとバンド名もカジャ(Kaja)と短く改名した(アメリカでは後で同名のミニアルバムも発売された)。改名が功を奏したのか「バック・オン・ミー」の12インチ・シングル(Flipped Disc Mix)は、1985年4月の2週間、ビルボード・ダンスチャートで2位まで上がり、「君はTOO SHY」以来の久々のヒットとなった(当時ブレイクダンスブームで、新宿や六本木のディスコでは良く使われていた)。同じころ、リマールは東京音楽祭で知り合ったジョルジオ・モロダーから映画『ネバーエンディング・ストーリー』のテーマ曲を歌う依頼が入り、その申し入れを受ける形で3rdシングルとして「ネバーエンディング・ストーリーのテーマ」を発表、世界18ヶ国で1位になり「君はTOO SHY」を上回る大ヒットとなった。また、ドイツ語圏を中心に4枚目のシングル「Tar Beach」のリミックス盤を発表、こちらも急遽予定していたミニ・アルバムを変更して、1stアルバム『ドント・サポーズ』に2枚のシングルを入れ直して発表した。1985年7月頃、カジャは3rdアルバムのレコーディング中にドラムスのジェズが脱退、アルバム自身は8割方完成していたが、急遽サポートドラマーにデイヴ・マタックスを迎えて完成にこぎつけ、9月にアルバム『カジャ3 (Crazy Peoples Right To Speak)』と、シングル「涙の傷あと」(英国63位)を発表する(このシングルは当初、映画の挿入歌になる予定だったが、ボツになったという。これはアメリカで「カジャ」と改名した後ヒットした余波は、ヨーロッパではそれ程でもなく、「カジャグーグー」の知名度と比べると見劣りすることで、改名が逆効果となった。またジェズの脱退理由は公式には発表されていないが、過去のリマールの問題が少なからず影響し、バンドの先行きを懸念したことが本当の理由らしい)。その後、アルバム未収録の「Hurricane」と「Whatever You Want」の2曲を加えた「Shouldn't Do That」のダブル・シングルをイギリスで発表したが、プロモート上の問題で「Shouldn't Do That」発表を最後に解散が決まり、年末に解散、メンバーは別々に新たな道を探すべく、ソロ活動を始める。リマールの方は「ネバーエンディング・ストーリーのテーマ」をヒットさせた後に、ニューヨークのミキサー、ジェリー・ビーンと『Compromise』(未発表)を製作、その後ジョルジオ・モロダーと2ndアルバム作りに取り掛かり、1986年にシングル「瞳ときめいて (Love In Your Eyes)」(当時の「三菱・デリカ」のCMソング)を発表、同年5月に2ndアルバム『カラー・オール・マイ・デイズ』と、ソロ6枚目のシングル「Inside To Outside」を発表する。そんな頃、EMIレコードの関係から本田美奈子のアルバム『CANCEL』への作曲の依頼がカジャ解散後のニックとリマールに入り、ニックが「Lovesong For Somebody」を、リマールが「24時間の反抗」を提供している。その後、リマールも1987年にレコード会社との契約が切れて、しばらく活動休止になる。 |
カジャグーグーの解散後1986年以降 ニックは1987年3月、サイモン・エリス(キーボード)とオースティン・ハワード(ボーカル)と3人で、Ellis, Beggs & Howardを結成、BMGと契約し、88年6月、1stシングル「Big Bubbles, No Troubles」(英国59位)を発表する(この曲はドイツ、オランダでヒットし、その後6種類のリミックスが発表された。またニックは公式サイトの中で「この曲が今までで1番気に入っている」と書いている)。同年8月、2ndシングル「Bad Times」、11月には3rdシングル「Where Did Tomorrow Go?」発表。4thシングルには「Big Bubbles, No Troubles」をYouthがミックスし直した「Bubbles」を発表、4枚目発表時にバンド名をEBHと改名、その後ライブを中心に活動を続け、1992年5枚目のシングル「Chocolate Coated Money」を最後に解散する。しかし、解散後の1995年4月に1stアルバム『Homelands』を発表している。また、ニックの自主製作で1991年から1992年の間に作ったEllis, Beggs & Howardの未発表曲を中心としたアルバム『The Lost Years Vol.1』(原題:Clicks, Pops & Drop outs)を自身のレーベルFlying Saucer Musicから売り出した。活動休止をしていたリマールは一時期、アリスタと契約していたが結局レコードは発表せず、この頃仕事も少なめだったリマールが職業安定所に通う姿も見られたが、その後自身の事務所Lamhil Musicを設立し、1991年、久々にBassline Featuring Limahlとしてシングル「Stop」と「Maybe This Time」をドイツで発表、その後もイギリスではメジャー契約をしないまま、1992年にリマールの名前でシングル「ラブ・イズ・ブラインド -愛の行方-」を発表(このシングルには楽器のリース業を始めていたジェズがクレジットに載っている)。さらにはカジャグーグー時代のヒット曲「君はTOO SHY」をリメイクし、元曲の「Shy Shy」の歌い方にAOR調のアレンジを加えた「Too Shy '92 Remix」を発表した。そして1992年末に、4枚のシングルを入れた3rdアルバム『Love Is Blind』を発表。その後のリマールは自身の活動の他に、キム・ワイルドのアルバム作りにも参加しつつ、それとは別にGuy Phetheanと組んだプロデュースチーム「Jupiter」を結成し、1994年にSylvia Mason Jamesをボーカルに据えたシングル「Destiny」を発表、さらに1996年にはGuy Phetheanとの共同名義でShy Guy Featuring Limahlの名前でシングル「Walking In Rhythm」を発表、この曲はリマールのアルバムには入っていないレアな曲となった。一方ニックはその後、アイリッシュ・バンドのアイオナ (Iona)にベーシストとして参加。アルバム『ケルズの書 (The Book Of Kells)』と『ビヨンド・シーズ・ショアーズ』の2枚に参加して脱退する。その後は、デュラン・デュランのギタリストであったウォーレン・ククルロのソロ・アルバムや、EBHのSimonやギターのPaul Harveyと共にゲイリー・ニューマンや、ベリンダ・カーライル、D:reamなど様々なアーティストのプロデュースや、セッションプレイヤーとして参加しながら、雑誌「Bass Guitar Magazine」のスタッフライターとしても活躍していた。また、1996年には日本のアーティストCoziのプロデュースに全面協力し、ミニ・アルバム『Naked Sun』のベース全般と、「Babylon」では作詞を、「SPACE HITCH-HIKER」では日本語でバック・ボーカルも披露している。ジェズは脱退後、ロンドンで楽器のリース業「Atlantic Hire」を経営していて、解散以来ドラム・スティックは握っておらず、他のメンバーとも交流が無いらしい。スティーヴは1986年に、Andy Fitzgerald(ボーカル)とPaul Turley(ドラム)と3人でSmalltown Elephantsを結成、UKポリドールと契約し、a-haのUKツアーの前座を勤めながら同年6月にシングル「Walking On Ice」を発表(レコード会社とのトラブルでアルバムデビューはできずに解散した)。その後、Baby Boomerangや、Christmas Islandを結成したが、現在は1994年に自身の音楽制作会社「Protec Music」をLeighton Buzzardに設立、他のアーティストとのプロデューサー業や、ギター講師、Lu Cozmaとのプロジェクトの傍ら、ニックのソロ活動も支援している。また、1998年にアール・ヌーヴォー時代のシングル「Fear Machine」をリメイクし、自身で歌った「Fear Machine 2000」を作成してインターネットで配信していた(スティーヴはこの曲でニックの歌い方を真似し、それを聴いたニックは大変気に入ったそうだ)。今では時々、ベースプレイヤーとしてスチュワートや地元の音楽仲間と「Malachi」というカバーバンドでプレイしている。スチュワートはカジャ解散後にソロ名義の活動を行ったがどれも上手く行かず、Helen Shapiroと組んだ際にはギタープレイヤーとしての才能を見出したが、財政的な問題が生じた結果、音楽業界から引退した。その後、地元のレイトン・バザードに戻り、「Read Soft」というIT企業でソフトウェアのセールスをしながら、時々スティーヴや地元の音楽仲間と「Malachi」というカバーバンドを組んでいる。1998年頃イギリスでは80'sミュージックのブームが訪れ、カルチャー・クラブや、スパンダー・バレエなどいくつかの1980年代に活躍したバンドが再結成や、期間限定でライブ活動を行った。その当時、活動が下火になっていたリマールも「カジャグーグー再結成」を画策して準備を進め、他のメンバーにも何度かオファーを掛けていた中、映画『ウェディング・シンガー』のサントラに「君はTOO SHY」が使われることになり、再結成の話が現実味を帯び始めた。しかしニックがそれを嫌い、一度目の話は結局流れてしまった(当時ニックはリマールを解雇したことで、本当の解雇理由を知らないファンからマイナスイメージを持たれ、そのことで傷つき、あるTVのインタビューでも「もうカジャの頃には戻りたくない」と語っていた)。ただ、リマール自身その計画を無駄にはできず、1999年に以前作ってお蔵入りになっていた新曲「Rhythm Of Love」と「Lost In Love」の2曲と、カジャ脱退後の曲をリマール自身が歌い、それらを加えたものをベストアルバムとして発表した。また、同年に『12 Of Pleasure』というコンピレーション・アルバムに「Then Suddenly」という曲も発表した。その頃ニックは1997年頃からジョン・ポール・ジョーンズや、ハワード・ジョーンズのツアーに参加する様になり、2000年にはハワード・ジョーンズのリメイクベストアルバム『Perform.00』(※日本盤タイトルは『メタモファシス (Metamorphosis)』)のレコーディングとツアーにベーシストとして参加した。また、以前から計画していたチャップマン・スティックを使ったアルバムの製作に取り掛かり、20曲を完成させ、2000年5月に初のソロ・ライブを行い、翌年5月にその中の15曲を収録したアルバム『Stick Insect』を自主製作第2弾として発売した。その後、雑誌「Guitarist」の企画で新楽器Chapman NS Stickのデモ曲を作曲、雑誌の付録として、正式なタイトルも無い「Chapman NS Stick Demo」(※後にタイトル「Do Wot You Want」)を披露した。2001年3月、リマールは1980年代映画の主題歌を歌うミュージカルに参加、そのステージを収録した『What A Feeling II』が発表され、他のアーティストと一緒に「007/美しき獲物たち (A View To A Kill)」や「ネバーエンディング・ストーリーのテーマ」など数曲を聞かせている。2002年、ニックはジョン・ポール・ジョーンズや、他のアーティストのアルバム製作に参加しながら6月に、以前日本のFM局が放送したテープを元に、1984年9月のツアーファイナルの東京公演を収録した『Kajagoogoo Live In Tokyo 1984』を自主製作第3弾として発売、そして8月にはスティーヴの友人で、カジャのウェブサイトを主催するKen Tidyが『Art Nouveau Live』と、スティーヴのバンドの『Smalltown Elephants 1986-1988』を自主製作で発表した。一方、リマールは久々の新曲「Love That Lasts」を9月に発表した。2003年6月、スティーヴの所でギターを習っていたヘイリー・ボニックの音楽学校卒業制作にニックが加担して新たなバンドプロジェクトを企画、ボーカルを全英の音楽学校から選考してアレックス・スタンプをボーカルとして加えてインダストリアル・ソルトと名づけたバンドプロジェクトを開始した。そして、ニックとスティーヴは共同でプロデュースとバンドのサポートメンバーを勤めた(インダストリアル・ソルトの名前はある日、ヘイリーが宿題をしている時に化学の教科書から拝借したもの)。 |
カジャグーグーの再結成 2003年1月にニックがソロ2ndアルバム『The Maverick Helmsman』を発表した。また、ニックはこの頃、日本のアーティストPOLYSICSのアルバム「カジャカジャグー」や、the brilliant greenの松井亮によるソロユニットmeisterのアルバム『I Met the Music』にもベーシストとして参加した。10月26日、アメリカのケーブルTV「VH1」の番組『Band Reunited』の企画で、ついに1日限定で「Kajagoogoo Together Again」と題した20年ぶりに5人揃ったライブをロンドンで行った。「ハング・オン・ナウ」「君はTOO SHY」「ネバーエンディング・ストーリーのテーマ」の3曲を演奏し、2004年1月にこのライブを含めた特番が放映された。この企画では、最初にロンドンに居たリマールの元をVH1が訪ね、以前、再結成を画策した際に悲観的になっている「ニックがOKしたらいいよ」と条件を出し、その後同じロンドンに居たジェズの元へ向かってから、それからレイトンバザードのニックの元を訪ねて「一晩限り」という条件で渋々OKさせた。映像はそこから撮られており、実際の訪問順や、曲順も感動を呼ぶ様に変えて放映された。VH1の反響は大きく、元の5人としての仕事の依頼が多数寄せられたが、過去の問題、現在の彼らの置かれている其々の立場の違いなどから、元の5人での再結成が見送られ、結果として「束の間の一日」となった。実はこの頃、ニックとスティーヴとスチュワートはリマールと版権闘争をしていて、昔のカジャの未発表曲を自主販売したいニック達に対して、リマールが昔のギャランティ問題を含んだ要求をしたことで再度対立し、結局其々の溝は埋まらずに5人での再結成は叶わなかった。2004年、再結成ライブを放映したVH1のメッセージボードに多くの反響が寄せられたが、結果、5人での再結成を断念しつつも、リマールとジェズを除く3人でカジャグーグーとして再始動した。過去の未発表曲は版権で発売できない為に、新たにニューアルバムの製作に入り、先行して新曲「Tears」を80'sコンピレーション・アルバム『This Is Not Retro』に入れて発表、それに伴い過去にリリースした3枚のアルバムに未発表曲を入れてCD化し、イギリスで8月2日に発売した(ニック達3人は、リマールやジェズの問題が解決するなら、また5人で活動したい意向もあると、後のインタビューで語っている)。また夏頃から、アメリカとイギリスでいくつかのライブの予定が入ったが、アメリカのビザ取得の複雑さや、イギリスのプロモーターの破産で、せっかくの活動再開をアピールするチャンスを失ってしまった。2005年7月、カジャグーグーとしてメジャーレーベルとの契約が難航している中、インダストリアル・ソルトのデビューを控えて、日本のバンドASIAN KUNG-FU GENERATIONの曲「ループ&ループ」をカバーした曲「LOOP&LOOP (UNDER THE THUNDER)」をシングルカットして発表、その関係から彼らのライブ・イベントに参加することになり、インダストリアル・ソルトのサポートメンバーとしてニックとスティーヴが来日してライブを行った。特に先行発表した曲「Sugar Bomb Baby」はスティーヴとニックが10年前に作ったままお蔵入りしていた曲だった。そして9月に、「Sugar Bomb Baby」、「LOOP&LOOP (UNDER THE THUNDER)」を含んだ1stアルバム『ア・ポケット・フル・オブ・マグネティック・レターズ』を日本先行発表した(アルバムタイトルはニックの家の冷蔵庫に張られたメモから、ヘイリーが言葉の音を気に入って決めた名前)。2006年5月、しばらくシングルを作っていなかったリマールが「Tell Me Why」を発表、公式サイト上にも「One Night With You」や「Pride」など数曲の新曲を披露している。一方、カジャグーグーはハワード・ジョーンズや、元スパンダー・バレエのトニー・ハドリーなど1980年代に活躍したアーティストの協力を得て、ニューアルバムの曲は完成しているものの、未だメジャーレーベルとの契約が難航し、それを懸念したスチュワートが一時的にカジャから離れ、元の職へ戻ってしまった。また、ニックとスティーヴはインダストリアル・ソルトのサポートメンバーとしてツアーに参加していたが、年末頃にはサポートメンバーから外れてしまい、最近ではカジャ、ニックの公式サイトはまったく更新されず、スティーヴの公式サイトは閉鎖されて、活動状況がまったく掴めなくなっていた2006年10月頃、雑誌「Industrial Rock」のニックのインタビューには「2007年は、私がプロとなって25年目の節目なので、何とかカジャグーグーのニューアルバムをファンに届けたい」と熱意を語っていた。2007年1月、カジャグーグーのデビュー時にプロデューサーを務めていたコリン・サーストンが他界し、葬儀にはニック達カジャグーグーの3人も参列した。2007年6月、2年ぶりにカジャの公式サイトが更新され、カジャグーグーはアメリカのInfinite Musicと契約がまとまり、23年振りのシングル「Rocket Boy」を発表した(インダストリアル・ソルトも「Rocket Boys Loves Calendar Girl」のタイトルで同曲を歌っており、元々はインダストリアル・ソルトのために作った曲をカジャのシングルとして採用した。またニックはYouTubeに「SenorSenor」の名義で映像を投稿していて、「Rocket Boy」のPVや、ニックのソロアルバムから漏れた曲「Roboslob」などがいち早く放映されている)。同年9月、1980年代に活躍したアーティストが多く参加する「Retro Festival」にカジャグーグーとして出演し、新曲を含め10曲を久々にライブで披露した。2007年11月、インダストリアル・ソルトの2ndアルバム『Trash Pop』が完成した頃、ギターのヘイリーがバンドから脱退した。2008年2月、日本のTV番組のインタビューに答えたリマールから「昔のカジャグーグーのオリジナルメンバーでライブをするよ」とビックリ発言が発表され、リマールとジェズを加えて、再び「カジャグーグー」の名前で「Retrofest」に5人で出演することが決定した。これは「Retrofest」の主催者Bradley Snellingがオリジナルメンバーでライブに出演してくれるように働きかけた結果で、その後、彼はカジャのマネージャー役を務めている。5月、カジャのHPが更新されて、2009年発表予定の5人でのニューアルバムに先行して、全編ニックのボーカルで収録された3人の頃のアルバム『Gone To The Moon』がHP内で発表された。2009年2月、リマールはドイツ人アーティストSara Noxxのシングル曲「Superior Love」に参加した。同年3月、5人としてのニューアルバムの発表が待たれる中、ニューシングルとしてタイトルソングの「Death Defying Headlines」を含む4曲の新曲、リミックスシングル「Gone to the Moon」などを、HP上に立ち上げたネットショップ「Kajashop」から販売し始めた。また9月から「Space Cadet Tour」と題したUKツアーを行うことが決定。それに合わせて「Space Cadet」のPVも作成し、10月に「Space Cadet」と「Dreaming of the Same Thing」を入れたベスト盤を発表した。また12月にPhilip LarsenとChris Smithがプロデュースした「Manhattan Clique」をリミックスした「White Feathers (Manhattan Clique Remixes)」が音楽配信のみで発表された。2010年2月、ニックのHP上でEllis, Beggs & Howard時代の未発表13曲を集めた『The Lost Years vol.2』を音楽配信として発表した。2011年4月ニックとスティーブを中心に「Red dot Music」を立ち上げ、カジャグーグーや、リマールを始め、ニックやスティーブのソロ活動まで、様々な活動を行っていくことをHPで発表。その中にスティーブが2013年にソロ・アルバムを発表することが書かれていた。また同年6月、リマールが久々のソロ・シングル「1983」を発表。続く2012年12月、リマールのソロ・シングル「London for Christmas」を音楽配信にて発表した。再結成後のライブではリマールのソロ曲である「ネバーエンディング・ストーリーのテーマ」もレパートリーに加え、元々は女性の歌唱だったコーラスパートをニックが歌唱している。2013年2月、ニックはジョン・ヤング、マーティン・"フロスティ"・ビードルらとライフサインズを結成、5曲入りのアルバム『LIFESIGNS』を発表した、また同年ニックの過去2枚のソロ・アルバムから選曲し、2曲の新曲を加えた『The Darkness In Men's Hearts』を発表した。2016年1月、ニックは新たなソロ・プロジェクトとして、ロジャー・キング、マルコ・ミンネマンらとザ・ミュート・ゴッズ (The Mute Gods)を立ち上げ、1stアルバム『ドゥ・ナッシング・ティル・ユー・ヒア・フロム・ミー』を発表した。アルバムの最後には歌手になった娘のLula Beggsと「Father Daughter」という曲をデュエットしている。2016年4月、リマールが「Back to 80's」と題したライブを大阪、東京で行う。ライブでは自身の曲や、カジャグーグー、ジョー・ジャクソン、デュラン・デュランの楽曲を披露した。また、ニックは5月にスティーヴ・ハケットのライブにサポートメンバーとして来日。ニックの来日前のインタビュー記事の中で、リマールの来日どころか、2011年以降会っていないこと、カジャグーグーとしての活動再開に関してニック自身は「終わっている」ことと感じていること、過去に出したカジャグーグーのアルバムで気に入っているものはなく、音楽そのものより当時のリマールとの関係や、ジェズの解雇といった辛い思い出が強く残っていることなどを語っている。また、ニック自身はザ・ミュート・ゴッズの2ndアルバムの制作中であることも語られている。 |
名鉄DB3形ディーゼル機関車の概要 1951年(昭和26年)、汽車会社が製造した小型のディーゼル機関車である。汽車会社で戦後に初めて製造したディーゼル機関車とされる。名古屋鉄道のディーゼル機関車は、日本通運、愛知製鋼、東レなどの他社の専用線で運用していたため、名古屋鉄道は車籍のみで所有権は他社ということが多いが、DB3は名古屋鉄道が所有していた。 主に築港線、愛知県営側線で使用され、1966年(昭和41年)10月に廃車となった。 |
長岡京市立長岡中学校の概要 長岡京市で一番歴史が長い中学校。2005年度に創立50周年を迎えた。部活動は吹奏楽と水泳が盛んであり、吹奏楽部は京都府の吹奏楽コンクールで金賞を17年連続受賞。関西大会に3年連続出場し、6回の関西大会出場の経験あり。今は7度目の関西大会出場を目指している。公立の中学校では珍しく全天候型の屋内プールを体育館最上部に設けているため伝統的に水泳部が強い。学校選択制が長岡京市で始まったため、長岡中学校のプールを求めて他の地域の生徒も来るようになったよ! |
トビジロイソウロウグモの特徴 体長は雌で5-6mm。腹部は円筒形で褐色。背面が少し色薄く、その正中線に沿って褐色の斑紋が縦に並んでいる。側面には銀色の斑紋があちこちにある。背甲は細長く、眼の配置する部分の後方に1対のくぼみがあり、その後方中央には中窩がある。雄は体長2.5-3.5mm、中眼域(前後の中眼の範囲)が突出する。なお、雌では前中眼域が突出する。ちなみに腹部は円筒形で後方に尖るが、これは腹部後端より、むしろ背面の後端部が後ろに伸びたもので、糸疣や肛門は腹部の全長の中程やや前にある。 |
トビジロイソウロウグモの分布と生息環境 日本では本州から四国、九州、南西諸島に分布し、国外ではミャンマーから知られる。本州での分布域は近年北上中であると新海は指摘している。山地の、主として渓流沿いや林道に見られる。 |
トビジロイソウロウグモの習性 出現時期は6-9月。卵嚢は本体はほぼ球形、上向きに柄があって吊り下がる。柄の先端はTの字状に伸びる。卵嚢の下は刺には小さく突き出た部分がある。他のイソウロウグモ同様、他の造網性のクモの網に侵入し、そこで生活する。本種が宿主とするのは、オニグモ類やシロカネグモ類である。イソウロウグモは網主の取りこぼしを拾う、というのがイソウロウグモにつきものの説明になっているが、本種の場合はこのような方法以外に網主が捕らえた獲物を盗み食いすることもある。ただし本種で特徴的なのは、網の糸を喰うことが知られていることである。例えば新海(1988)によると、この観察では網主はオニグモで、本種は網の上方の横方向の位置におり、網の横糸をたどるようにして食べていた。その際、クモは独自の支持糸を出してそれで身体を支持し、前方の付属肢で横糸を集めては食べてゆく。クモが食べるのは横糸(同心円に近い螺旋に引かれた粘性のある糸)をのみ食べ、縦糸(中心から放射状に張られた糸)は食べなかった。また、横糸を食うのは小さな昆虫を食べるためである可能性を配慮し、小昆虫をクモの進行方向の横糸に付けた場合、これを避けたという。網食いのイソウロウグモはそれまでに国外で知られていたが、日本では本種が最初であった。クモの糸の成分はタンパク質であり、栄養源とすることは可能である。造網性のクモには網を片づける際に糸を食う例も知られている。ただし、本種のような行動は宿主の生産したものを盗む行為であり、網に掛かった獲物を盗むのとは異なった形での労働寄生と言える。 |
トビジロイソウロウグモの近似種との見分け 日本のイソウロウグモの中では、腹部の形態が独特であり、また褐色の種も他にないため、判別は容易である。 |
いかずきんズの概要 八戸市の鳥であるウミネコのコンビが、八戸市の名産である「イカ」の頭巾をかぶっているキャラクター。イカのかぶりものは蕪嶋神社の弁天様からの授かり物であるとして、頭巾のデザインのうち「80」という数字は市制施行80周年を表し、イカの吸ばんをイメージされたものである。当初は2匹のキャラであるが後に子ども2匹のキャラが加わり、一家で「いかずきんズ」という設定である。 |
神扇池の概要 北側には神扇落が流れ、南側に幸手市立八代小学校、東側に境杉戸線、西側に水田がそれぞれ所在している。周辺はかつて神扇沼(かみおうぎぬま)と呼ばれる、近世初期に古利根川や渡良瀬川の流入する広大な低湿地であった。神扇沼の地形は標高が約6mで、南西に位置している大字平須賀と大字戸島に所在する自然堤防[この自然堤防は権現堂堤が1576年(天正4年)に建設され、渡良瀬川の旧河道が閉め切られる以前の流路跡とみられている]と庄内古川(中川)との間に位置する後背湿地であり、水の引かない沼地であったとされている。この神扇沼やその周辺は主に江戸時代の1658年(万治元年)に掘り上げ田(ほっつけ)形式で新田開発され、沼は面積111.6haの農地と約430の掘り潰れ(クリーク)へと姿を変えた。地域は平須賀村枝郷となり、元禄期には独立した村となっていた。開発に当たっては神扇沼への水の流入を防ぐため、周囲に1m~1.5mの輪中堤が整備された。用水には権現堂川用水や中郷用水・木津内用水から地蔵院落・浅堀に流れてきた水を神扇落へと導水し、神扇落の「天神橋」付近に堰を設け、掘り上げ田の間にある中水路の水位を上昇させ利用していた。排水時は堰を開放することにより水位を下げ流下させていたが、神扇落の流末は庄内古川(中川)へと至るため、降水量が多い場合は排水不良となり耕作地が冠水することもしばしば生じていた。なお、掘り潰れは暗渠によってそれぞれ接続し、年間を通じ水が渇れなかった。このように拓かれた掘り上げ田も昭和40年代に至ると機械による近代農業が行いにくいことから、1967年度(昭和42年度)に埼玉県により制度化された「特殊ほ場整備事業」を埼玉県農林部春日部土地改良事業所が主体となり行い着工し、1972年(昭和47年)に竣工した。総工費は3億8168万円が費やされた。掘り潰れを埋め立てるにあたり、6.9haの採土地を設け、200PSサンドポンプ船を用いて20.9haの掘り潰れを埋め立て、埋め立てられた掘り潰れは農地となった。この工事の際の採土跡が今日の神扇池である。圃場整備の際に道路をはじめ用水路・悪水路の整備、排水機場の設置、輪中堤のかさ上げがなされ、湛水対策が講じられた。こうして現在ではかつて存在していた掘り上げ田は通常の水田などへと改良されていった。今日の神扇池は市営釣り場となっており、桟橋等が整備されている。また魚種はヘラブナ専用となっており、管理棟に休憩室・水洗トイレ・冷暖房が整備されている。神扇池の北西方では首都圏中央連絡自動車道および幸手インターチェンジが建設されており、かつての神扇沼の一部では「幸手中央地区産業団地整備」も進められている。 |
宮澤むじかの経歴 3歳より札幌コンセルヴァトワールにてピアノを始める。藤女子中学校・高等学校卒業後、渡仏しエコールノルマル音楽院に入学。ピアノ科、室内楽科、ピアノ科の演奏家ディプロマを全て審査員満場一致で取得し卒業。これまでにピアノを上杉順子、宮澤功行、マリアン・リビツキー、ジャン・ファシナに、室内楽をセルジュ・ブラン、ニーナ・パターチェックに学ぶ。1993年、ザグレブ国際ピアノコンクール優勝、及びクロアチア人作品最優秀演奏者賞を受賞する他、第15回ポルトー国際コンクール入賞、及び最年少ファイナリスト賞受賞。帰国後はハーモニーレーベルより2枚のCDをリリースし、CD発売記念として東京サントリー小ホール、東京カザルスホール、札幌キタラ大ホール等でリサイタルを開催。2枚のCDはいずれもレコード芸術誌において準特選盤に選出された他、各音楽誌でも高い評価を得ている。DVD「MUSICA Anniversary」も好評発売中。近年は札幌を拠点に日本各地、フランス、ベトナム、ロシア等、海外でも演奏活動を行う他、日本舞踊家の藤間蘭翔や華道家の假屋崎省吾とのコラボレーションステージなども展開している。2010年11月には在日ベルギー大使館にて皇后陛下臨席の下、演奏を行う。尚、これまでにブリュッセル弦楽四重奏団、ヴィルタスクワルテット、ザグレブ国立放送交響楽団、ポルトー国立オーケストラ、キエフ交響楽団、ワルシャワフィルハーモニー管弦楽団等と共演。現在、札幌コンセルヴァトワール専任講師。 |
野呂勝景の人物 『ゲゲゲの鬼太郎』の第1作で砂かけ婆役にて準レギュラーとなり、第2作ではレギュラーヒロインとなった猫娘を担当した。1970年代の末に引退後、二十数年間消息がまるで聞かれなかったが、『鬼太郎 (第1作・第2作)』で共演していた野沢雅子や大塚周夫らの証言(DVDBOX付属の解説ブックの対談)によると、1980年代にフランスへ渡ってそのまま現在も居住しているとのことで、これは野沢雅子、田の中勇、大塚周夫、山本圭子、永井一郎、八奈見乗児ら同時期から活動を続けていた業界関係者、特に小串と共演の多かった役者の間ではよく知られていた。 |
見沼通船堀の通船堀建設の背景 1728年(享保13年)に開削された見沼代用水は、新田の打ち出しのため灌漑用の溜池であった見沼溜井の代わりとして利根川から引かれた用水路である。用水路は、水田等の灌漑目的であったが、利根川と荒川の中間あたりを流れており、年貢米などを江戸に運ぶ水路としても有用であった。1730年(享保15年)に、新田の打ち出しに貢献があった鈴木家および高田家の願い出により、水運利用が許可された。しかし、用水路は江戸まで直接つながっていないため、江戸市中を流れていた隅田川に注ぐ芝川と代用水とを結ぶ必要性があった。一方、2本の用水路は芝川より数100メートル程度しか離れていないが、標高で約3メートルほど高い位置を流れており、直接運河を掘っても水流のため船を通すことが困難であった。このため、閘門式の運河が必要であった。通船堀は、見沼代用水の建設にあたった勘定吟味役格の井沢弥惣兵衛為永が1731年(享保16年)に普請を指揮して行われた。 |
見沼通船堀の全体構造 通船堀は、八丁堤と呼ばれた場所(現在のさいたま市緑区)に設けられた。この付近の見沼代用水は芝川を挟むように、見沼代用水東縁と見沼代用水西縁の2本が流れているが、芝川からそれぞれに対して、東縁通船堀と西縁通船堀が開削された。2本とも構造的には差異はほとんどなく、東西とも2つの閘門(関)が設置された。東縁から西縁までの堀の全長は、約700メートル程度である。閘門式運河は、運河を結ぶ2点間の水位が異なる場合、途中に水門を設けて、そこで水位を調整して船を通過させるものである。同方式のものでは太平洋と大西洋を結ぶパナマ運河が有名である。閘門式運河の歴史は古く、中国では14世紀頃の元朝時代に作られ、ヨーロッパでは15世紀頃から存在していた。見沼通船堀も技術的には、それらと比べても遜色の無いものであった。閘門のことを関とよび、芝川に近い関を一の関、代用水側に近い関を二の関と呼称した。 |
見沼通船堀の閘門の構造 閘門の構造は4つともほとんど同じ構造であった。閘門の設置された場所の底面は、粘土で突き固められ、そこに杭が打ち込まれ、さらにその上に底板が全面に貼り付けられていた。側面も板と杭で全面が囲まれていた。閘門の中心には、鳥居柱とよばれたケヤキの角材が門柱として設置されていた。この門柱の上流側(見沼代用水側)に角落板(かくおとし)とよばれる平板を積み上げて水を貯めたり、板を抜いて排水したりして水位調節を行った。角落板の大きさは幅が約18センチメートル(6寸)、長さ約3.3メートル(1間5尺)だったといわれている。角落板は各関で10枚から12枚程度使用された。角落板は約18センチメートルの幅であるため、水位を1.8メートルから2.1メートル程度まであげることができた。関の中の水位を下げる時、この角落板を両側から鈎(かぎ)のついた長い棒で1枚ずつ引き上げて関から抜き取ることで行っていた。この作業は、枠抜きと呼ばれ、熟練を要したと考えられている。角落板は、前述の鳥居柱の門柱に水圧で押し付けて固定された。大きな板が使われなかったのは、大きな水圧により少人数での取り扱いが難しくなるためである。通船堀をつかった船の運行は、江戸期には10月末から翌年の彼岸頃まで、明治期以降は12月から2月までの、冬の農閑期だけであった。従って、冬に通船堀を使用する期間は、代用水から通船堀側に水が流れるように、代用水を仮仕切りで封鎖した。逆に、通船堀を使用しない農繁期においては、通船堀に水が流れないように通船堀を仮仕切りで封鎖した。それぞれの仮仕切りは土俵を積み上げて作られた。 |
見沼通船堀の船の通過方法 江戸からの船が見沼通船堀を抜ける場合、芝川の通船堀近くの八丁堤に会所が設けられ、そこに船をつけた。江戸から芝川をのぼる時刻は、労力の軽減を図るため江戸湾の潮位が満ちてくる時間に合せられたので一定しなかった。八丁会所についた船は、岸から太い綱で引かれ、一の関へ引き入れられた。船を上流に向かわせるのは自力では困難であったため、見沼通船堀に引き入れるには人力が使われた。1隻につき20人程度の労力が必要であった。船が一の関に入ると、一の関の角落板がはめ込まれて、関内に水をため水位を二の関が通過できるようになるまで上昇させた。同時に二の関の角落板が外されて、船を二の関の中に引き入れた。船が二の関に入ると、二の関の角落板が入れられ。水位が上がり、見沼代用水へと船を引き入れた。代用水側から江戸へ向かう船は、逆に二の関、一の関の順に角落板を一枚ずつ外して水位を下げて芝川へ向った。一の関と二の関の中間には舟溜りと呼ばれる場所があり、ここで上りと下りの船の行き違いや、関の開閉や水位の調整のための待機が行われた。1つの関で水をためるのに40分から50分程度かかり、1艘の船が通船堀を通過するのには、1時間半から2時間程度を要したといわれている。また、江戸から見沼通船堀までは3日程度かかったといわれている。 |
見沼通船堀の現在の状況 1960年(昭和35年)11月4日、見沼通船堀は県立安行武南自然公園の区域に指定された。また、1994年(平成6年)から1997年(平成9年)にかけて、第一次史跡整備工事として関の復元が行われた。2006年(平成18年)現在、東縁の一の関、二の関と西縁の一の関が復元されている。復元から20年が経ち、堤塘の崩落や整備個所の劣化が進んできたため、2016年(平成28年)から再整備工事が開始され、2019年(令和元年)に東縁の工事を終了した。引き続き、西縁の再整備工事に入ることになっている。現在、年に一度(8月下旬)に関の角落板を実際に使用した水位調整の実演が公開されている。ただし、再整備工事の期間中は実演を行わず、工事の現況を報告する現地説明会を開催した。工事の終了を受けて、2019年から水位調整の実演を再開することになっている。なお、2002年(平成14年)、通船関係者の信仰を集めた水神社・木曽呂の富士塚(川口市東内野)が史跡の追加指定を受けた。 |
仙台 - 米沢線の概要 米沢から仙台へはJRの急行「べにばな」が直通運転していたが、山形新幹線の開通などで米沢から仙台までの直通便が消滅し、山形か福島で乗り換えなければならなくなった。1992年4月に仙台 - 米沢線の運行を山形交通(当時)と宮城交通が開始した。しかし、この路線は山形市から国道13号上山市 - 南陽市を経由していた上に、国道13号の渋滞等で定時運行が困難だったため1993年11月に路線休止となった。2002年に、今度は米沢から国道13号栗子峠 - 東北自動車道経由で仙台までの路線を、山交バスとJRバス東北との共同で運行することとなった。2017年11月4日に東北中央自動車道が米沢市まで開通したのを受けて、栗子峠を含む国道13号区間を東北中央自動車道経由に変更した。なお、報道によれば、ルート変更後は利用客が1割弱増加したとのこと。 |
仙台 - 米沢線の山形自動車道経由時代 県庁市役所前 - 仙台駅前 - 広瀬通一番町 - (仙台西道路) - (仙台宮城IC) - (東北自動車道) - (山形自動車道) - (山形蔵王IC) - 山形県庁前 - 南高校前 - 山交ビルバスターミナル - リナワールド前 - 高松葉山温泉 - 赤湯バスターミナル - 糠野目学校前 - 米沢市役所前 - 大町 - 米沢待合所・米沢駅前 |
福山市民球場の歴史 1974年(昭和49年)開場。以来、高校野球広島県予選など、高校・大学・社会人の公式戦などで使用されている。プロ野球では、同県広島市に本拠地を置く広島東洋カープが例年オープン戦、公式戦を開催していた(オープン戦は毎年、公式戦も2002年、2009年以外は日程に組まれていた)が、両翼が狭いことに加えて平成後期ごろからは施設の老朽化が顕著となっているため、2011年以降は公式戦日程から外されている。オープン戦は依然継続中。福山市民球場はこの間、幾度か改修を受けており、1988年(昭和63年)にはナイター設備の増設と内野スタンド席の増築、1996年(平成8年)にはスコアボードをパネル式から磁気反転式に改修、2002年(平成14年)には内外野フェンスのかさ上げ(改修理由としては、観客の安全性の確保とフィールドの狭隘さをカバーするための他に、試合終了後に観客がグラウンドに入り込むなどマナーの悪い状況が続いていたことが背景にあるといわれる)、2006年(平成18年)にはダッグアウトなどスタンド下部分の改修を行っている。内野スタンドの一塁側・三塁側は二層式となっており、ネット裏のメインスタンドよりも収容能力が大きいのが特徴。その一方で、フィールドの両翼は僅か90mしかなく、2016年現在、一軍公式戦が開催可能な野球場としては最も狭い。また、隣接する尾道市には阪神甲子園球場をモデルに造られた広島県立びんご運動公園野球場(尾道しまなみ球場)がある。 |
横山和夫の経歴 広島県比婆郡東城町(現・庄原市)出身。1942年広島文理科大学卒業。翌1943年高文行政科合格後、消防庁総務課長、自治庁官房調査官、滋賀県教育長を経て1961年横須賀市助役。長野正義市長下で3期務め1972年、米国側から出された空母ミッドウェイの母港化要望に対して、外務省その他関係機関との交渉を担当し、米軍提供水域の返還などを条件に、米軍母港化受け入れ決定の中心的役割を果たした。1973年市長選で“長野市政の唯一の後継者”を打ち出し当選、以降1993年まで、歴代最長の5期20年に渡り横須賀市長を務めた。市長在任時の業績として横須賀市中心市街地・三笠公園拡張・横須賀リサーチパーク(YRP)整備などがある。また市制施行75周年を迎えた1982年の「文化元年」、1989年の「核兵器廃絶・平和都市」を宣言し、オーストラリア・フリマントル市姉妹都市(1979年)、英国・ジリンガム市(メッドウェイ市)姉妹都市(1982年)縁組にも尽力した。その他全国基地協議会会長なども務めた。1993年勲二等瑞宝章受章。 |
入江長八の経歴 文化12年(1815年)伊豆国松崎村明地(現在の静岡県賀茂郡松崎町)に貧しい農家の長男として生まれた。6歳で菩提寺の浄感寺塾に学ぶ。11歳のとき同村の左官棟梁、関仁助のもとに弟子入りする。その当時から手先の器用さで知られた。天保4年(1833年)20歳のとき江戸へ出て御用絵師である谷文晁の高弟、狩野派の喜多武清から絵を学ぶ一方、彫刻も学んだ。絵画や彫刻技法を漆喰細工に応用し、従来は建物の外観を装飾する目的で漆喰壁に鏝(こて)で模様を描いていたものを、絵具で彩色して室内観賞用の芸術品に昇華させた。26歳で江戸日本橋茅場町にあった薬師堂の御拝柱の左右に『昇り竜』と『下り竜』を造り上げて、名工「伊豆の長八」として名を馳せた。弘化2年(1845年)31歳の時に弟子2人を連れて生まれ故郷の浄感寺の再建に係わり、鏝絵を作成している。天井に描いた『八方にらみの竜』は傑作とされる。(2007年現在、浄感寺の本堂は長八記念館となっている。)入江は江戸に戻り、東京都台東区の浅草寺観音堂、目黒区の祐天寺などを含む多くの場所で傑作を作り上げたと言われている。明治10年(1877年)に第1回内国勧業博覧会に出品。晩年、明治13年(1880年)にも65歳で故郷を訪れ、岩科町役場や岩科学校などで制作作業を行っている。明治22年(1889年)10月8日、深川八名川町(現江東区深川)の自宅にて74歳で亡くなる。墓は故郷の浄感寺と浅草正定寺の二箇所に設けられている。山光荘をモデルにした、漫画家つげ義春の作品「長八の宿」によって、知名度があがった。 |
入江長八の現存する作品 鑑賞に拡大鏡が必要であるほど緻密な細工をこらした作品が多い。入江の生活拠点が江戸であったため作品は東京地区に集中しており、大半が震災や戦災で焼失してしまっている。現存する約45点は、東京都港区高輪の泉岳寺、品川区東品川の寄木神社、足立区の橋戸稲荷、千葉県の成田山新勝寺などに残っている。故郷の静岡県松崎町には、前述の浄感寺の「長八記念館」に約20点と、1986年に開館した「伊豆の長八美術館」に約50点が展示されている。また重要文化財の岩科学校や、春城院、三島市の龍沢寺など故郷周辺に点在している。 |
バイパス道路の建設の目的 交通量が増加して渋滞が発生している場合、道路交通容量を超える交通集中あるいは交差点など交通処理システムの問題が考えられる。このうち道路交通容量を超える交通集中に対しては、道路拡幅やバイパス道路の建設といった道路改良事業によって道路交通容量を大きくすることで問題解決が図られる。バイパス道路は既存の道路に新たに併設する道路である。市街地中心部では一般に道路に流入する交通量が増えるために交通渋滞が起こりやすくなり、特に渋滞が酷く交通の流れに支障をきたす道路では、並行する形で従来の道路と比較して、より広く信号交差点の少ない道路を造り、全体の交通の流れを改善させようとするものである。また、山岳地の峠道や渓流沿いの曲がりくねった線形の悪い狭隘道路では、トンネルを掘って標高差を少なくしてつづら折れなどのカーブをなくしたり、曲がりくねった道を全体としての直線状の線形に整えて道路を拡幅して、自動車が走りやすく改良することもある。このため、バイパス道路として造られたトンネルの坑口付近には、旧道への分岐点やその痕跡が見られることが多い。 |
バイパス道路の定義 狭義には、本道の2地点間を別経路で接続する道路を指す。本道と同じ路線名が付与され、区別するために「○○バイパス」などの名称が付加される。バイパス道路の起終点のうち、一方あるいは両方が本道と接続していないこともあるが、将来、延伸して接続する構想がある場合や、他の路線を経由した間接接続として建設されたものもある。広義には、「○○バイパス」の名称がついていなくても、実質的にバイパスの役割をしている別の路線のことも指す。バイパスとして建設された道路が本道(現道ともいう)となり、それまで本道だったものが旧道として格下の路線となる場合がある。このように立場が逆転した後も、本道(かつてのバイパス)が事故や災害、交通量の増加に伴い、建設当時の許容量が逼迫するなどが原因で渋滞や通行止めとなった際には、「旧道」(かつての本道)が迂回路としての役割を果たす。バイパスが本道となった場合、通常こちらはバイパスではなくなるが、道路の愛称名がない場合や「バイパス」という呼称が強く浸透している場合などは、引き続きそれが用いられることがある。また、複数の路線を横に接続する道路がバイパスと名付けられることもある。日本の行政上の専門用語では、全線開通したバイパス道路は従来の道路を「旧道」にして新しい「現道」として一般に扱われることが多いが、バイパスとして両端が現道に連結されず全線開通に至らない部分開通したバイパス道路区間は、「新道」に区分される。 |
バイパス道路の構造 基本的には、在来の旧道と比べ、線形改良と拡幅がなされ、カーブや勾配を少なくするためにトンネルや掘割・高架橋を多用したり、信号を少なくするために立体交差構造にしたり、より高規格な道路として開通する。なお、計画時の整備予算の都合や交通量の予測、用地収用の進捗などにより暫定2車線道路として開通し、後に拡幅・完成になる場合や、平面交差で開通し、後に当初計画の通りあるいは計画変更して立体交差化される場合もある。バイパス道路は計画された道路全体が完成してから開通させる場合と、計画したバイパスの延長が長距離のケースなどでは、道路を管理する行政の予算的な都合に応じて、その一部分の区間だけを年度ごとに先行して完成させて、従来の道路とは交差する連絡道路で結び、はしご状に段階的に供用していく場合がある。 |
バイパス道路の都市部での効果 ある市街地に対してバイパス道路を設置することにより、通過交通(その道路を通過するだけの交通)が市街地を通ることによって発生する渋滞・事故・騒音・排気ガスによる大気汚染などの問題を軽減したり防いだりすることができる。市街地では難しい大規模な道路拡幅も可能となる。通過交通のためだけでなく、その市街地を出発地または目的地とする交通を円滑にする役割も持つ。主要道路でありながら車線数が少なかったり線形が悪いなどの要因でボトルネックになっている区間などの交通問題を解消するため、一般的には建造物の密集した市街地を避け、土地取得の比較的容易な郊外部に建設するケースが多い。 |
バイパス道路の山間部での効果 山間部に多くみられる屈曲した狭隘区間に対してバイパス道路を建設することにより、ボトルネックを解消し、疎遠であった地域間交通を促進する効果が発生する。また、大型車の通行を可能とすることで物流の活性化を図ることができる。路肩崩落などの災害が多発する区間に設けられるバイパス道路の場合は、事故発生防止・災害復旧費用の節減・災害復旧のための不通期間の縮小などの効果が期待される事も多い。 |
バイパス道路のバイパス建設後 (日本) バイパス道路がつくられるとそれまでの道路は「旧道」と呼ばれるようになることが多い。また、この「旧道」は行政上移管されて格下の道路区分(例えば、一般国道に対する都道府県道・市町村道)に位置づけられることがある。ただし一般国道のバイパス道路が有料である場合は、償還期限が過ぎて無料化されるまで、旧道も一般国道指定のままであることが通例である。また新しい道路が現道に位置づけられた場合はバイパスという名称は不自然であるが、そのままになっている場合も多い。地方都市では、車の往来がバイパス道路に移ってしまい、本来の国道現道などのメイン道路があまり使われなくなり、寂れてしまうことがある。山岳地帯の場合は交通需要や道路維持費用の都合により旧道が放棄されてそのまま廃道になる場合もある。大都市周辺では、バイパス開通後も旧道の交通量は多く、依然として主要道路として機能することも少なくなく、在来道路が国道であった場合は、都道府県道・市町村道への降格に反対する沿線住民もいることから、路線指定は国道のままとなる場合がある。また、1〜2桁番号の幹線国道にバイパスが開通したときは、旧来の路線番号から3桁の路線番号指定へ変わることもある。バイパス道路は通行料が無料の場合と有料の場合がある。多額の事業費がかかった場合などには、受益者負担の観点により、道路利用者から料金を徴収する有料道路となる場合がある。この場合、償還が終わるなどして有料のバイパス道路が無料開放されるケースもみられる。また、開通時から無料での通行が可能となっているものもあり、新潟県新潟市にある新潟バイパスなどがそれに該当する。近年では交通需要の大幅な伸びにより、以前建設されたバイパス道路が手狭となり、バイパス道路をさらにバイパスする道路の建設も行われている。例えば、建設中の国道17号上尾道路は以前建設された国道17号大宮バイパスとほぼ同じ区間をバイパスする形である。また、国道1号京滋バイパスは五条バイパスの、第二京阪道路は枚方バイパスのさらに外側を迂回するバイパスである。また、高速道路を建設するため、一般国道のバイパスという名目で国土交通省直轄の高速道路が建設されることもある。このような場合は、基幹道路としての国道が格落ちすることはない。例えば、国道2号の広島岩国道路は山陽自動車道と別の道路として事業化されたが、本線が山陽道と直結していて事実上の一部区間となっている。なお、高速道路はそのものが一般道路をバイパスする役割を持っているが、場所によっては地域内の通行が圧倒的に多いことがある。これらの地域では高速道路自体のバイパスを必要とされる一方、有料道路として建設された地域では、無料の一般道路に交通量が増えて渋滞しているのに、有料道路が閑散としている例もある。このような有料道路では夜間に料金を割引もしくは無料にしたり、国や自治体が買い取ることによって償還期限前に無料開放されたりすることがある。暫定2車線(完成4車線)で建設された後、無料開放になっても4車線化されなかったバイパス道路において、有料時代は暫定2車線でも充分な程の交通量だったのが、無料開放によって交通量が激増して渋滞が頻発する場合も見られる。 |
バイパス道路の海のバイパス フェリーの航路であって、陸上交通の道路があるがこれを代替する役割がある場合、これを「海のバイパス」と通称することがある。 |
お客様は王様かよっ!?の概要 「クレーム処理」というテーマに基づいて実在する被験者が語った仰天エピソードを「再現ドラマ」で紹介、または企業や団体のクレーム処理を密着取材も行っている。 |
クレール・ラコンブの背景 クレール・ラコンブは1765年3月4日、パミエ(オクシタニー地域圏アリエージュ県)で商人ベルトラン・ラコンブとジャンヌ=マリー・ゴーシェの間に生まれた。ジロンド派の研究でしばしば言及されるアルフォンス・ド・ラマルティーヌの『ジロンド派の歴史』(1847年) には、「田舎の劇団で生まれた」「母親不明の子」と書かれているが、歴史学者のレオポルド・ラクールは、ラコンブの出生証明書、その他の研究に基づいて、これは誤りであることを証明している。ラコンブはまた、通常「ローズ・ラコンブ」と呼ばれ、本名と混同されることがあるが、「ローズ」の由来についても不明である。1792年にパリに移り住むまでの活動についてはほとんど知られていないが、1790年から91年にかけては、リヨン、マルセイユ、トゥーロンなどの田舎の劇団で女優として活躍し、初演はリヨンで行われた『セミラミス』であったとされる。ラシーヌやコルネイユの悲劇の主役を演じる「美しく、初々しい」女優として人気があり、貴族の館や領地の屋敷に招待されることもあったが、通常は、貧しい庶民が屯す「居酒屋」に宿泊しながら「見世物小屋」のような劇場を転々とする「ドサ回り」の生活であった。 |
クレール・ラコンブの国民議会での演説 1789年7月14日のバスティーユ襲撃から3年が経った1792年にパリに移り住んだラコンブは、場末に宿を借り、パリ庶民の生活、生活必需品の欠乏や価格の高騰、劣悪な生活条件を目の当たりにした。立法議会やジャコバン・クラブに足を運び、同年7月25日には、全国三部会から離脱した第三身分(平民)を中心として形成された国民議会(憲法制定国民議会)で「フランス人女性、芸人、失業者」として、「(隷属に抗議した)古代ローマの女性の勇気と、暴君に対する憎しみをもって」、ネロやカリグラのような暴君・祖国の敵と戦うことが自分の義務であるとし、女性たちに、「子どもに自由への愛と暴君に対する憎しみを教え込むことで、母としての義務を果たすべきである」と訴えた。さらに国民議会に対しては、(共和政ローマを転覆しようとした)カティリナのような敵(共和派を弾圧したラファイエットを指す)を軍の指導者にしておくわけにはいかない、第三身分から指導者を選ぶべきであると主張した。国民議会議長はこれに応えて、「自由のための武装を訴える」ラコンブの「愛国心」を称えた。 |
クレール・ラコンブのテュイルリー宮殿襲撃 革命勢力が立法議会に提出した国王廃止の請願書の期限切れの翌8月10日、サン・キュロットと連盟兵が蜂起してテュイルリー宮殿を襲撃。国王一家を捕えてタンプル塔に幽閉した。この8月10日事件にラコンブも武装して参加し、腕を撃たれたにもかかわらず、最後まで戦闘を続けた。彼女はこの武勲により、連盟兵から「市民の栄冠」と「国民の飾緒」および感状を受け、「この危機に際して勇敢さと愛国心を発揮した」立法議会こそが「市民の栄冠」に値するとして、これを議会に進呈した。ラコンブは、1792年10月21日にフランス制圧下となったマインツ(翌93年3月17日にマインツ共和国成立)で主役を演じる話があり、「契約条件が非常に有利であったにもかかわらず」、これを断ってパリに留まった。 |
クレール・ラコンブのアンラジェ ラコンブはまもなく、ジロンド派の追放、統制経済、買占め・退蔵への厳罰、ブルジョア財産の没収などを求めて後にジャコバン派から分離した急進派・過激派アンラジェの指導者と付き合うようになった。革命家・ジャーナリストのジャン=テオフィル・ルクレールは当時22歳で、すでにマルティニーク島のサトウキビ農場で働く黒人奴隷の現状を知り、彼らの蜂起に加わった経験をもつ。また、産業都市リヨンに派遣され、工場労働者や零細な職人の窮状を目の当たりにしていた。ラコンブとルクレールは1793年の春から生活を共にし、ルクレールはラコンブが「革命的共和主義女性協会」を立ち上げるのを手伝い、新聞に女性運動を支持する記事を発表した。 |
クレール・ラコンブの革命的共和主義女性協会 1793年5月13日付の『モニトゥール』(1789年創刊のフランス政府の機関紙『モニトゥール・ユニヴェルセル』)に、次の5月10日付囲み記事が掲載された。女性市民が市町村事務局に出向き、市町村警察に関する法律に従って、女性のみが参加する協会の設立を申し出た。この協会の目的は、共和国の敵の計画を阻止する方策を検討することである。名称は「革命的共和主義女性協会」とし、集会はサントノレ通りのジャコバン派図書館で行われる。革命的共和主義女性協会は、前年、フランス革命に参加したオランダの女権拡張論者エッタ・パルム・デルデールが結成し、短命に終わった「真実の友協会」を除き、パリで初めて結成された女性クラブ(結社)であった。後にラコンブと別れたルクレールが結婚したチョコレート工場労働者ポーリーン・レオンは、当初からラコンブとともに協会を牽引した。「協会規約」には、会長は月ごとの持ち回りとあり、ラコンブ、レオンのほか、協会の文書には代表としてルーソー、ポトー、モニエ、デュブルイユといった名前があるが、詳細は不明である。アンラジェの指導者はルクレールのほか、ジャック・ルー、ジャン=フランソワ・ヴァルレも革命的共和主義女性協会を支持し、演壇に立った。上記の「共和国の敵」とは「ジロンド派」のことであり、最初にジャコバン派に代表団を派遣したときには、18歳から55歳の女性愛国者が武装し、ヴァンデ反乱軍に対する軍隊を結成することを提案したのみであったが、この後、コルドリエ・クラブの代表団とともに国民公会に対して、「疑わしい人物」の即時逮捕、全県・パリ全地区における革命裁判所の設置、ジャック・ピエール・ブリッソー、ピエール・ヴェルニヨ、アルマン・ジェンソネ、フランソワ・ビュゾー、シャルル・バルバルーらの糾弾、各都市における革命軍の結成、パリ軍の増員、相場師・買い占め人に対する厳罰を求める請願書を提出した。5月31日にはパリ自治市会に代表を派遣し、革命委員会への参加を求めた。48地区の代表によって構成される革命委員会は結社(クラブ)ではないために参加は認められないとされたが、会議への参加は許可された。革命的共和主義女性協会は、1793年5月31日から6月2日にかけてアンラジェの指導者らを中心とする反ジロンド派の蜂起 (Journées du 31 mai et du 2 juin 1793) において重要な役割を果たした。ヴァルレはすでにシャルル・フランソワ・デュムーリエが敵と内通し、国民公会打倒を企てたことを知ったときに革命中央委員会を設置し、ジャック・ルーはパリ革命委員会の総会を呼びかけ、自治市会と検察官ピエール=ガスパール・ショーメットの支持を取り付けていた。5月31日、革命中央委員会が蜂起を呼びかけ、テュイルリー宮殿襲撃に匹敵する事態となった。ブリッソー、ジェンソネ、ビュゾー、ヴェルニヨ、バルバルー、ペティヨンらジロンド派の議員29人が次々と逮捕された。革命的共和主義女性協会におけるラコンブの影響力が強まったのはこの頃からである。彼女は8月26日の国民公会で、恐怖政治の手段、とりわけ反革命容疑者の逮捕を要求する協会の請願書を読み上げ、革命裁判所の増設を訴えた。協会内でラコンブとポーリーヌ・レオンの影響力が強まると、協会自体がアンラジェ系の極左組織と見なされ、その政治思想と女性のみによる結社であるという理由で9月に訴えられ、ジャコバン穏健派から批判を受けるようになった。アンラジェの他の指導者も同様で、マクシミリアン・ロベスピエールが率いる山岳派との対立により、ジャック・ルーが反革命容疑者とされ、9月に逮捕された。ラコンブはルーを助けるために、革命的共和主義女性協会会長として国民公会に逮捕者名簿の点検を申し入れたが、このためにますます国民公会の反感を買うことになり、協会内部でも対立が生じた。協会に対する攻撃の標的はもっぱらラコンブで、ジャコバン穏健派からの「革命政権を崩壊させようとしている」といった非難のほか、『ガゼット・ド・フランス』では「貴族好み、酒好き、男好き、ポーリーヌ・レオンの夫ルクレールの愛人」などと書き立てられた。このような誹謗中傷は、女性結社そのものに対する批判につながり、検察官ショーメットは家庭が女性の「聖域」である以上、家事・育児が「女の仕事」であり、これは創造主が定めたことであると主張し、保安委員会のジャン=ピエール・アンドレ・アマールは「しとやかであるべき女性が公衆の面前で演説したり、男たちと闘争することは許されることであろうか。概して女は高尚なことを考えたり、真剣に物事を考える能力に欠けている。したがって、われわれは、女は政治に口出しすべきではないと考える」と訴えた。ラコンブはこれらすべてに抗議し、反駁し続けた。ルーもまた、革命的共和主義女性協会を「自由の砦」、「革命の守り手」、「圧政者にとっての脅威」として称え続けた(ルーは、1794年2月10日、喉を突き刺して自殺した)。1793年10月28日にはサン・キュロットに抗議するレ・サン・ジノサン市場の女性たちから攻撃を受けた。国民公会が、革命的共和主義女性協会の提案を受けて三色の記章の着用を義務付けたため、フランスの象徴であるフリジア帽(赤い三角帽)を被って市場を訪れた協会員を女性たちが打ちのめし、三色の記章やフリジア帽を引き裂いた。1793年10月30日、国民公会は女性による結社を禁止し、革命的共和主義女性協会は非合法とされた。ラコンブは政治活動から身を引き、生計を立てるために再び女優としてダンケルク劇団に参加するつもりでいたが、1794年4月2日、コルドリエ・クラブに対する弾圧の一環として、協会員2人とともに逮捕された。ラコンブは15か月間収監された。ポール・リーブル監獄、プレシ監獄、サント・ペラジ監獄とたらい回しにされたが、リュクサンブール監獄ではロベスピエールの事実上の妻エレオノール・デュプレ、山岳派のフィリップ=フランソワ=ジョゼフ・ル・バの妻エリザベート・ル・バと一緒であった。ポーリーヌ・レオンとルクレールもいた。ラコンブは監獄の役人と交渉して囚人の世話役を務め、ろうそくなどの必需品を調達した。出獄後は1798年6月にパリで男優と一緒に暮らし、家賃すら滞りがちな生活であったことがわかっているが、以後の消息は不明である。 |
コルビー・ロペスのインディー団体 2003年、SCW(Scott County Wrestling)にてジックス(Gixx)というリングネームでプロレスラーデビュー。SCWヘビー級王座を獲得した際にはベルトを黒のスプレーで塗装する悪行を見せた。後に参戦したIWAミッドサウス(IWA Mid-South)でも獲得したIWAミッドサウスライトヘビー級王座のベルトに同じようにスプレーで黒く塗装した。2006年にはNWAミッドウェストにて出会ったマレック・ブレーブと共に行動するようになり、FIP(Full Impact Pro)やPWG(Pro Wrestling Guerrilla)など多くの団体に参戦。2007年、ROHと契約を交わし入団。ジミー・ジェイコブスとエイジ・オブ・ザ・フォール(The Age of the Fall)なるタッグチームを結成し、タッグ戦線へ進出。ROH世界タッグ王座を2回獲得するなど活躍。2009年よりシングルで活動するようになりメインイベンターへと成長。2010年2月13日、ROH 8th Anniversary ShowにてROH世界ヘビー級王座を保持するオースチン・エリーズに挑戦。勝利してベルトを奪取した。 |
コルビー・ロペスの2010年 2010年9月、WWEと契約を交わし入団。傘下団体のFCWにてセス・ロリンズ(Seth Rollins)のリングネームでデビュー。リッチー・スティムボートと抗争を開始。 |
コルビー・ロペスの2011年 2011年1月、ジェリー・ブリスコ・クラシックトーナメントで優勝を飾る。3月には抗争中であったリッチーと試合中にラッキー・キャノン & ブレット・デビアスが乱入し、襲撃を受けるがリッチーと共闘して撃退。一時的に抗争を中止しタッグを結成。3月25日、FCWフロリダタッグ王座を保持するダミアン・サンドウ & タイタス・オニールに挑戦。勝利してベルトを奪取した。FCWフロリダタッグ王座陥落後、再びリッチーとはライバル関係が継続。また、FCWに入団してきたディーン・アンブローズと抗争を展開。 |
コルビー・ロペスの2012年 2012年3月25日、FCWフロリダヘビー級王座を保持するレオ・クルーガーと対戦して勝利。ベルトを奪取した。5月、新人発掘番組であったNXTとFCWが統合され内容が一新。新たに創設されたNXT王座を争うゴールドラッシュ・トーナメントを制して初代NXT王者となる。以降、王者でありメインイベンターとしてカーティス・アクセル、ジンダー・マハルと対戦してベルトを死守した。 |
コルビー・ロペスの2012年 2012年11月18日、WWEのPPVであるSurvivor Series 2012のメインイベントであるCMパンク、ライバック、ジョン・シナによるトリプルスレットマッチにてディーン・アンブローズ、ロマン・レインズと共に乱入。場外へ逃れてきたライバックを捕え、3人で抱え上げて実況席へとパワーボムを見舞った。同月19日のRAWにも3人で姿を現し、ライバックを強襲した。WWEの不義を正す正義の盾というコンセプトのトリオユニット、ザ・シールド(The Shield)を名乗り蛮行を重ねる。 |
コルビー・ロペスの2013年 2013年1月2日、NXTにてGMであるダスティ・ローデスによってNXT王座防衛戦を組まれ、コリー・グレイブスとの対戦ではシールドの仲間が乱入して反則防衛。同月9日、ビッグ・E・ラングストンとのノーDQ戦ではシールドが乱入するも他のレスラー達によって阻まれてしまい敗戦して王座を奪われることになった。5月19日、Extreme Rules 2013にてレインズとのタッグでチーム・ヘル・ノーとWWEタッグ王座を賭けて対決し勝利。ベルトを奪取した。10月14日のRAWでコーディ・ローデス & ゴールダストとの王座戦の際にビッグ・ショーの介入に邪魔されてしまい敗戦。王座を奪われた。WWEタッグ王座陥落後、上層部派閥であるオーソリティーの手先となり、ダニエル・ブライアンやウーソズ等と抗争を繰り広げたが、オーソリティーに逆らいベビーターンする。 |
コルビー・ロペスの2014年 2014年、エボリューションと抗争して優勢に進めていたものの、6月2日のRAWにアンブローズとレインズを襲撃して再びヒールターン。オーソリティーの一員になる。6月29日、WWE Money in the Bank 2014のマネー・イン・ザ・バンク・ラダー・マッチに出場し、試合中に乱入してきたケインのアシストを受けて勝利し、ミスター・マネー・イン・ザ・バンクとなった。9月21日、Night of Champions 2014ではWWE世界ヘビー級王座戦に乱入し、ジョン・シナを襲撃して試合を成立させなくした上に、オーソリティーと友好関係にあったブロック・レスナーも襲ってマネー・イン・ザ・バンクの権利を行使してベルトを奪おうとしたがシナに阻止された。組織内でランディ・オートンと衝突し、最終的にオートンがオーソリティーから追放されると組織のトップ選手のポジションを奪い、トリプルH達がSurvivor Series 2014終了後から一時表舞台から姿を消した際、組織のトップ代行としてシナ達と戦った。そして12月29日のRAWにて、ゲストGMのエッジ & クリスチャンを襲い、エッジを人質にとってシナにHHH達の復職を要求しそれを飲ませた。 |
コルビー・ロペスの2015年 2015年1月、トリプルH夫妻復帰後、ブロック・レスナーと再び衝突。トリプルH達は同月25日のRoyal Rumble 2015でのシナ vs レスナーのWWE王座戦にてロリンズを加えてのトリプルスレットマッチに変更。試合はシナが脱落状態になったことでレスナーと一騎討ち状態になったが敗戦した。3月29日、WrestleMania 31にてランディ・オートンと対戦。試合は劣勢の状況が続いたもののJ&Jセキュリティ(ジェイミー・ノーブル & ジョーイ・マーキュリー)の加勢があり逆転するかに思われたが最後にカーブストンプを決めようとした際にRKOを喰らい敗戦した。しかし、メインイベントのレスナー vs レインズにて試合中に乱入。マネー・イン・ザ・バンクの権利を使用してレインズにカーブストンプを決めて勝利し、WWE世界ヘビー級王座を奪取した。8月、シナとWWE世界ヘビー級王座とWWE US王座、どちらが権威が高いかを証明する為に抗争へと発展。同月23日、Summer Slam 2015にてダブルタイトルマッチを行い終盤にアティテュード・アジャストメントを喰らいフォールされるがレフェリーが倒れていた事からカウントされず、さらにシナと因縁のあったジョン・スチュワートが乱入してスティールチェアで殴打してアシストすると最後にリングに置かれたスティールチェアに向けてシナをペディグリーで沈めて勝利。2冠王者となった。9月、スティングとの抗争を開始。同月20日、Night of Champions 2015にてジョン・シナとWWE US王座戦を行い敗戦してベルトを失う。満身創痍の状態となっているところへ続けてスティングとのWWE世界ヘビー級王座戦が組まれてしまい連戦となる。試合中にスティングが足を負傷し、チャンスが訪れて攻めるが終盤にスコーピオン・デスロックを決められ逆転されてしまうが切り返して丸め込み勝利した。11月4日、ヨーロッパツアーでのWWE Liveにてケインとの試合にてロープ上での攻防で飛んでリングに着地した際負傷。後日、診断して右脚の前十字靭帯と内側側副靱帯の断裂、また内側半月板の損傷と判明。欠場する事となりWWE世界ヘビー級王座を返上した。 |
コルビー・ロペスの2016年 2016年5月22日、Extreme Rules 2016にてロマン・レインズ vs AJスタイルズのWWEヘビー級王座戦でレインズが勝利後、勝ち名乗りを上げているところで乱入。背後から襲撃するとペディグリーを決め、ベルトを手にすると掲げて復帰をアピールした。6月19日、Money in the Bank 2016にてWWE世界ヘビー級王座を保持するロマン・レインズに挑戦。終盤には両者の得意技であるスピアーとペディグリーの仕掛け合いとなり、最後はスピアーを仕掛けてきたレインズにカウンターのペディグリーを決めるともう一度ペディグリーを決めて勝利。ベルトを奪取するが、直後にディーン・アンブローズにマネー・イン・ザ・バンクの権利を行使され、ダーティ・ディーズを決められると3カウントを取られベルトを奪われた。 |
コルビー・ロペスの2017年 2017年4月2日、WrestleMania 33にてトリプルHと対戦。負傷している左膝を執拗に攻められるが耐え、終盤にペディグリーの掛け合いとなり、トリプルHにスーパーキックを決めるとトリプルHはセコンドに従えていたステファニー・マクマホンと激突。これに動揺したトリプルHの振り返りざまにペディグリーを決めて勝利した。同月30日、Payback 2017にてサモア・ジョーと対戦。負傷している右膝を執拗に狙われ苦戦。終盤にはコキーナ・クラッチを決められ窮地に陥るが極められたまま倒れ込みフォールしてカウント3を奪い勝利した。8月20日、SummerSlam 2017にてディーン・アンブローズと組んでWWEロウタッグ王座を保持するセザーロ & シェイマスに挑戦。終盤にアンブローズが標的とされ自身は場外で襲撃され満身創痍になるが、アンブローズが合体技を喰らおうとした際にコーナーポストに立っていたセザーロにフランケンシュタイナーを仕掛け助けると続けてセザーロとシェイマスにスーパーキックを浴びせ、最後にシェイマスにリップコード・ニーからアンブローズのダーティ・ディーズへと繋げて勝利。ベルトを奪取した。10月9日、RAWにてザ・ミズが行うトークショー、MizTVにてレインズがミズより挑発されているところにアンブローズと共に登場。リングに上がりミズとシェイマス、セザーロ、カーティス・アクセルを襲撃。最後にはミズにトリプル・パワーボムを決めてザ・シールドの復活をアピール。続いてブラウン・ストローマン vs マット・ハーディーの試合でストローマンが勝利。退場しようとしたところ襲撃すると実況席にトリプル・パワーボムを決めた。12月18日、アンブローズが右腕を故障して長期欠場に追い込まれる。同月25日、アンブローズの代役となるジェイソン・ジョーダンと組んでWWEロウタッグ王座を保持するザ・バー(セザーロ & シェイマス)に挑戦。終始ジョーダンが捕まり苦戦する展開が続く中、終盤に場外での攻防となりセザーロにスーパー・アッパーカットを喰らってしまうが直後にリングに上がったセザーロにジョーダンがベリー・トゥ・バック・ネックブリーカーを決めて勝利。ベルトを奪取した。 |
コルビー・ロペスの2018年 2018年4月8日、WrestleMania 34にてWWE IC王座を保持するザ・ミズ、フィン・ベイラーとトリプルスレットマッチで挑戦。終盤にベイラーがミズにクー・デ・グラを決めてフォールをしようとしたところにブラックアウトを打ち込み、最後に倒れていたミズにブラックアウトを決めて勝利。王座を奪取すると共にグランドスラムを達成した。8月19日、SummerSlam 2018にてWWE IC王座を保持するドルフ・ジグラーに復帰したディーン・アンブローズをセコンドに率いて挑戦。終盤にジグラーのセコンドであるドリュー・マッキンタイアが介入しようとしたところにアンブローズが阻止。このアシストを受けてジグラーにスーパーキックからカーブ・ストンプへと繋げて勝利。ベルトを奪取した。10月22日、RAWにてアンブローズと組んでWWE・ロウ・タッグ王座を保持するドルフ・ジグラー & ドリュー・マッキンタイアに挑戦。終盤にブラウン・ストローマンの乱入によりマッキンタイアがリングから除外され、最後にジグラーにスーパーキックからカーブストンプへと繋げて勝利。ベルトを奪取するが、試合後にアンブローズより襲撃を受けた。しかし11月5日にマンチェスター・アリーナで行われた『ロウ』タッグチーム選手権試合では一人で戦ったものの、AOPに敗れ王座から陥落した。 |
コルビー・ロペスの2019年 2019年1月27日、Royal Rumble 2019でロイヤルランブルマッチに10番目に出場。試合途中に場外でボビー・ラシュリーにより実況席にパワーボムを受け離脱するも、復帰するとブラウン・ストローマンと最後まで争い、リングサイドからカーブストンプを決めて場外に落とし勝利。優勝を飾った。同月28日、RAWでWWEユニバーサル王座戦を選択。4月7日、WrestleMania 35でWWEユニバーサル王者のブロック・レスナーに挑戦。序盤より何度もスープレックスを喰らうがレスナーとレフェリーを衝突させるとローブローからカーブ・ストンプを連発して勝利。王座を戴冠した。その後、マネーインザバンクを取得したレスナーが、エクストリームルールズでロリンズ組がコービン組に勝って防衛した直後にキャッシュインして王座を奪還した。8月11日、SummerSlam 2019でWWEユニバーサル王者のブロック・レスナーに挑戦。終盤にカーブ・ストンプを繰り出そうとするとカウンターでF5の体勢にされるが、切り返してスーパーキックからカーブ・ストンプへと繋いで勝利。王座を再戴冠した。 |
クイズ30〜団結せよ!〜の番組概要 「1人のリーダーと29人の仲間」の30人の芸能人・著名人らが一致団結してクイズに挑戦するという体裁である。司会者から出される様々なクイズに、リーダーシップと解答者全員の団結力というチーム戦術が要求される。様々な課題・難問を制覇し、最後にリーダーが指名した解答者が賞金をかけた「ファイナルクイズ」に挑むというものである。2013年5月18日に放送された「クイズ!ダイナマイト30」を2014年3月16日放送の第2弾を経てレギュラー化したもの。この番組の開始により、日曜日のフジテレビでは19-20時台に『日本語探Qバラエティ クイズ!それマジ!?ニッポン』と2本連続でクイズ番組が続いた。なおレギュラー放送前の2014年4月20日と4月27日には直前SPが放送された(いずれも第2弾放送の『日曜α』と同枠)。2014年10月より、現在の本番組放送時間帯において、フリーアナウンサーに転向する田中みな実(同年9月まではTBSアナウンサー)MCの情報バラエティ番組『ニュースな晩餐会』開始に伴い、同年9月14日をもって本番組は終了、最終回では司会の田村淳が自らチームを率いて挑戦した。 |
クイズ30〜団結せよ!〜のスクラッチ30 データ放送内で遊べるゲームで、このゲームで一定以上の成績を収める事が、視聴者プレゼント応募の条件となっている。リアルタイムで番組を見続けるとゲージが貯まり、約5分視聴する度にゲージ1本分が貯まる。ゲージ1本を消費する度に、スクラッチカードを1枚削る事ができ、3つの六角形のうち1つを選んで削り(カーソルを合わせて決定ボタンを押す)、出てきた数字のポイントを獲得。カードは「ノーマルカード」の他にランダムで、出した数字の2倍のポイントを獲得できる「ローラカード」や、0か10しか出ない「淳カード」も出現する。放送時間内に10ポイント以上に到達すればB賞(番組オリジナルグッズ)のキーワードを、30ポイント以上に到達すればA賞(現金30万円)のキーワードを、それぞれ閲覧する事ができ、応募の際にはそれらのキーワードの入力が必須となる。そして放送終了後一定期間が経過するまで、パソコン・スマートフォン・携帯電話から番組サイトにアクセスして、視聴者プレゼントにエントリーする事ができ、応募者の中から抽選で賞品が贈られる。 |
フラワーパーク江南の所在地 愛知県江南市小杁町一色 |
フラワーパーク江南の公共交通機関 名古屋鉄道犬山線、江南駅よりタクシーで約15分 |
付喪神の概要 「つくもがみ」という言葉、ならびに「付喪神」という漢字表記は、室町時代の御伽草子系の絵巻物『付喪神絵巻』に見られるものである。それによると、道具は100年という年月を経ると精霊を得てこれに変化することが出来るという。「つくも」とは、「百年に一年たらぬ」と同絵巻の詞書きにあることから「九十九」(つくも)のことであるとされ、『伊勢物語』(第63段)の和歌にみられる老女の白髪をあらわした言葉「つくも髪」を受けて「長い時間(九十九年)」を示していると解釈されている。『付喪神絵巻』に記された物語は次のようなものである。器物は百年経つと精霊を宿し付喪神となるため、人々は「煤払い」と称して毎年立春前に古道具を路地に捨てていた。廃棄された器物たちが腹を立てて節分の夜に妖怪となり一揆を起こすが、人間や護法童子に懲らしめられ、最終的には仏教に帰依をする。物語のなかで語られている「百年で妖怪になる」などの表現は厳密に数字として受け止める必要はなく、人間も草木、動物、道具でさえも古くなるにつれて霊性を獲得し、自ら変化する能力を獲得するに至るということを示しているのであろうと解釈できる。「つくもがみ」という存在を直接文中に記している文献資料は、『付喪神絵巻』を除くと、『伊勢物語』の古注釈書に「つくも髪」の和歌の関連事項としてその語句の解釈が引かれる以外には確認されておらず、その用例は詳細には伝来していない。『今昔物語集』などの説話集には器物の精をあつかった話が見られたり(巻27「東三条銅精成人形被掘出語」)、おなじく絵巻物である『化物草紙』では、銚子(ちょうし)などが化けた話、かかしが化けた話などが描かれているが、「つくもがみ」といった表現は見られない。江戸時代の草双紙などにもほとんど「付喪神」という表現は使われていない。小松和彦は、器物が化けた妖怪の総称としての「つくも神」は中世に最も流布したものであり、近世には衰退した観念であった。幕末になり浮世絵の題材として器物の妖怪は再浮上したものの、それは「つくも神」の背景にあった信仰とは切り離された表現だった、と考察している。 |
付喪神の絵画作品 付喪神が描かれている『付喪神絵巻』では、物語の冒頭に「陰陽雑記に云ふ。 器物百年を経て、化して精霊を得てより、人の心を誑かす、これを付喪神と号すと云へり」とあり、道具が変化することを「付喪神」としている(ただし『陰陽雑記』および『伊勢物語抄』(冷泉家流伊勢抄)に引用されている『陰陽記』という書物の実在は確認されていない)。本文中、それらの姿は「男女老少の姿」(人間のかたち)「魑魅悪鬼の相」(鬼のかたち)「狐狼野干の形」(動物のかたち)などをとっていると文章には表現され、絵画に描かれている。また、変化したのちの姿は「妖物」などと表記されている(詳しくは付喪神絵巻#付喪神の項を参照)。『付喪神絵巻』よりも先行していると見られる絵巻物にも、道具がモチーフとなっている妖怪を絵画で確認することは出来、『土蜘蛛草紙』には、五徳が頭についているものや、手杵に蛇の体と人の腕が2本くっついたものや、角盥(つのだらい)に歯が生えそのまま顔になっているものなどが描かれている。また、角盥がモチーフとなったとおぼしい顔は『融通念仏縁起』や『不動利益縁起絵巻』に描かれている疫神にほぼ同様のかたちのものが描かれている。ただし、いずれも道具だけではなく、動物や鬼のかたちをしたものと混成している。これは『付喪神絵巻』や『百鬼夜行絵巻』などにも見られる特徴である。室町時代の作例であるとされるとされる現存品も確認されている『百鬼夜行絵巻』は、道具の妖怪と見られるものが多く描かれている。現在ではこれら道具の妖怪たちは「付喪神を描いたもの」であると考えられてもいる。また、もともと『百鬼夜行絵巻』に描かれている行列の様子は『付喪神絵巻』に見られる妖物たち(年を経た古物)の祭礼行列の箇所を描いたものではないかとも考察されている。 |
付喪神の道具をあつかった表現 道具を人格のある存在としてあつかっている作品には、他に『調度歌合』(ちょうどうたあわせ)という道具たちが歌合せをおこなうという形式をとったものも室町時代以前に存在しており、『付喪神絵巻』などで道具が変化する対象としてあつかわれている事と近い発想であるとも考えられる。 |
ゲームEXの番組の内容 前番組の「ゲーム王国」と同様、各ソフトメーカーの広報担当者による新作ゲームソフトの紹介や発売済みゲームソフトの裏技の紹介、中学生以下の子供同士によるゲーム対決などがある。(ゲーム対決の出場希望者の応募は、はがきで受け付けていた。)ゲーム対決では勝ち抜き制度を導入。初期は3週勝ち抜きでドリームキャスト(当時のセガ・エンタープライセズが発売したゲーム機)本体が、中期以降では3週勝ち抜きでワンダースワン(バンダイの携帯ゲーム機)本体が、5週勝ち抜きでニンテンドーゲームキューブ(任天堂のゲーム機)本体かPlayStation 2(当時のソニー・コンピュータエンタテインメントが発売したゲーム機)本体のいずれかがもらえた。エンディングでは視聴者向けのプレゼントコーナーがあり、その週番組で紹介したゲームソフトを抽選でプレゼントしていた。また、一時期ゲーム番組でありながら日本人形や天体望遠鏡、有名温泉旅館のペア宿泊券をプレゼントしていた事もあった。応募ははがきで受け付けていた。 |
宮崎勝の概要 埼玉大学工学部卒業後、公明党の機関紙である公明新聞の記者を務める。2010年、第22回参議院議員通常選挙に参議院比例区より出馬し落選。2015年、公明党中央幹事会の役員となる。2016年、第24回参議院議員通常選挙に参議院比例区より出馬し初当選。党からは重点候補者と見なされていなかったため、比例代表で最も個人得票が少ない当選者となった(18,571票)。なお2017年、長沢広明の参議院議員辞職に伴い、宮崎の得票を下回る個人得票7,489票の竹内真二が繰り上げ当選することになった。 |
横浜市立鴨志田中学校の来歴・人物 津商業高では、四番で捕手。高校卒業後は、電電三重を経て、1968年にドラフト外で南海ホークスへ入団。1970年に現役を引退した。 |
つよがり (中川翔子の曲)の概要 表題曲「つよがり」はテレビアニメ『べるぜバブ』の第2期エンディングテーマ。 仕様は初回生産限定盤(SRCL-7617/8)・通常盤(SRCL-7619)・期間生産限定盤(SRCL-7620)3形態で同時発売。当初は2011年5月4日発売予定であったが、2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震による影響を考慮し、2011年6月8日に延期となった。つよがりの配信収益は中川本人の希望から義援金としている。初回生産限定盤はCD+DVDで、「つよがり」のPVが収録されたDVDが同梱されている。期間生産限定盤は『べるぜバブ』のオリジナルジャケット仕様で、「つよがり」のTVサイズとオリジナルスーパーピクチャーレーベルがそれぞれ」収録、封入されている。なお初回生産限定盤、通常盤とも『べるぜバブ』のオリジナルデカラベルステッカーが封入されている。 |
マウロ・フォルギエリのフェラーリ時代 ボローニャ大学で機械工学の学位を取得。教職に就いたのち、父の伝手でエンツォ・フェラーリと面談し1959年にフェラーリに入社した。カルロ・キティの下で働き、1961年にキティらチーム主要メンバーが離脱すると、26歳でレース部門の開発責任者となった。処女作となる「158F1」で1964年のドライバーズ(ジョン・サーティース)、コンストラクターズ両タイトルを獲得した。1970年には低重心の12気筒水平対向エンジンを開発。熟成に手間どり一時的に開発チームから外されたこともあったが、次第に戦闘力を発揮するようになる。1975年の312T(Tは横置き(Trasversale)の頭文字)では横置き式ギアボックスを採用し、操縦性能を向上させた。312Tシリーズはグラウンド・エフェクト・カーにまで発展しながら3度のドライバーズチャンピオン(1975年、1977年のニキ・ラウダ、1979年のジョディ・シェクター)と4度のコンストラクターズチャンピオン(1975年、1976年、1977年、1979年)を獲得した。312Tシリーズの成功にはエンジニア的な素養をもつラウダの貢献も大きい。情熱的なフォルギエリとクールなラウダの個性が衝突し人目をはばからず口論する場面もあったが、マシン開発においては強力なパートナーとなった。ラウダは自著においてフォルギエリのことを「天才だが狂人でもある」と評している。 1976年のドライバーズチャンピオンを決するF1日本ラウンドにおいて、危険な路面状況を理由にラウダがリタイアを選んだ際、フォルギエリは立場を庇い「記者にはマシントラブルでリタイアしたと言え」と助言したという。1981年にはルノーに次いでターボエンジンを開発したが、増大したエンジンパワーと旧態なシャーシ設計のアンバランスが操縦性能の悪化を招いた。フェラーリはシャーシ設計家としてハーベイ・ポスルスウェイトを招聘し、フォルギエリがエンジン開発に専念する体制で1982年と1983年のコンストラクターズタイトルを獲得した。しかし次第に勝てなくなり、フォルギエリは1985年に市販車技術研究部門へ転属することになった(事実上の左遷)。市販車技術研究部門では4WD及び4WSを採用したコンセプトカーフェラーリ・408を開発した。 |
マウロ・フォルギエリのランボルギーニ時代 フェラーリ・408を開発したものの、フェラーリは4WDを市販車に採用する気は全くなく、また408を市販するつもりもなかった。そのため新天地を求めて1987年に長年在籍したフェラーリを離れ、高級スポーツカーメーカーとしてライバル関係にあるランボルギーニへ移籍した。ランボルギーニのF1計画は親会社のクライスラー主導で、フォルギエリが担当したV型12気筒エンジンをローラ(ラルース)、ロータス、リジェなどに供給した。勝利は挙げられなかったものの、甲高いV12サウンドは本家フェラーリよりも美しいと評された。ランボルギーニはメキシコのグラスチームのF1参戦をバックアップする予定だったが、グラスF1設立を提言したメキシコ人の富豪が資金を持ち逃げしたこともあり、資金が底をつき参戦困難となった。計画の破綻により1991年にモデナとして独自参戦する。フォルギエリが全面的に手がけた291は個性的なデザインであったが競争力は低く、結果的にフォルギエリはチームを去ることになった。その後は1992年から1994年までブガッティに在籍したのち、地元モデナでオーラル・エンジニアリング(Oral Engineering)の運営に参加している。 |
モト・クルブ・ジ・サン・ルイスの歴史 マラニョン州サン・ルイスにて、シクロ・モト (Ciclo Moto) として1937年9月13日に創設された。当初、クラブはオートバイ大会にのみ参戦していた。1938年にサッカー部門がクラブに設置された。1973年、モト・クルブ・ジ・サン・ルイスはカンピオナート・ブラジレイロ・セリエAに初めて参戦し、39位につけた。1982年、カンピオナート・ブラジレイロ・セリエAで28位となった。これが同大会におけるクラブの最高成績である。1944年から1950年まで、モト・クルブはマラニョン州選手権を7連覇した。 |
モト・クルブ・ジ・サン・ルイスのスタジアム ホームマッチは通常、40,000人収容のエスタジオ・ゴヴェルナドール・ジョアン・カステロ(通称:カステロン) で行われる。また、21,000人収容のエスタジオ・ニョジーニョ・サントスでも試合を行う。 |
フレデリック・ロビンソン (初代ゴドリッチ子爵)の生い立ち 1782年11月1日、第2代グランサム男爵トマス・ロビンソンとその妻メアリー(第2代ハードウィック伯爵フィリップ・ヨーク)の次男としてヨークシャーのニュービー・ホールに生まれる。1796年からパブリックスクールのハーロー校、1799年からケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジ、1802年から1809年までリンカーン法曹院に在学した。1806年11月にカーロウ・バラ選挙区から選出されて庶民院議員となる。1807年以降はリポン選挙区から選出される。 |
フレデリック・ロビンソン (初代ゴドリッチ子爵)のリヴァプール伯爵内閣・カニング内閣の閣僚 1812年からリヴァプール伯爵内閣の商務庁副長官に就任(1813年から陸軍支払長官も兼務)。1818年から商務庁長官兼海軍会計長官となり、閣内相へ昇格した。1823年には財務大臣に栄転した。同時期に外務大臣となったジョージ・カニング、商務庁長官ウィリアム・ハスキソンらとともに「トーリー党自由主義派閣僚」として知られ、リヴァプール伯爵内閣が反動から自由主義に路線転換する上で重要な人物の一人となった。ロビンソンは財務大臣として自由貿易を推進し、鉄、石炭、羊毛、麻などの原材料からコーヒーやワインなどの酒類に至るまで様々な品種の関税を切り下げていった。これにより産業は振興し、失業率も減り、景気も回復した。1825年のロンドン金融危機も金融改革を行うことで乗り切った。1827年4月にゴドリッチ子爵に叙され、貴族院議員となる。同月に成立したジョージ・カニング内閣には陸軍・植民地大臣として入閣したが、同年8月8日早朝にカニングは急死した。 |
フレデリック・ロビンソン (初代ゴドリッチ子爵)の首相として 政治の実権力を取り戻そうと画策していた国王ジョージ4世は、カニングが死んだ8月8日のうちに独断でゴドリッチ子爵を後任の首相に決定し、同日午後に組閣の大命を与えた。国王はカトリック解放やホイッグ党から閣僚を入れ過ぎることに反対する立場だったので、大命にあたってトーリー党守旧派のジョン・チャールズ・ヘリスを蔵相として入閣させるようゴドリッチ卿に命じている。ゴドリッチ卿はカニングのカトリック解放の意思を受け継ぐつもりだったのでヘリス登用に難色を示したが、国王はヘリス登用に固執しており、ゴドリッチ卿がこの人事に応じないならベクスレイ男爵ニコラス・ヴァンシッタートに組閣の大命を与えるとの方針を示した。ヘリス登用にはゴドリッチ卿の同志であるトーリー党内自由主義派やカニング内閣時代からの連立相手のホイッグ党穏健派(ランズダウン侯爵派)からの反発が激しかったため、ゴドリッチ卿は彼らの説得に手間取ったが、なんとか説得し、彼らに政権離反させることなく、さらにトーリー党内保守派も一部政権に取り込むことに成功し、9月1日に組閣を達成した。しかし国王から派遣された内閣のお目付け役であるヘリスは、内閣発足後ただちにハスキソンと対立を深めていき、内閣は閣内分裂状態となった。内閣の安定を図りたいゴドリッチ卿は貴族院で大きな勢力を持つトーリー党保守派ウェリントン公爵とホイッグ党急進派グレイ伯爵を牽制する必要性を感じ、12月にウェリントン公爵の兄ウェルズリー侯爵を枢密院議長、グレイ伯爵の親友ホランド卿を無任所大臣として内閣に迎える閣僚人事案を国王に提出したが、これに難色を示した国王は、12月14日にゴドリッチ卿更迭とハロービー伯爵の首相登用を決意した。しかしハロービー卿が組閣の大命を拝辞して上記人事案を受け入れるべき旨を国王に奏上したため、国王も12月19日にゴドリッチ卿更迭の意思を翻意し、ゴドリッチ卿は続投できた。しかし上記人事案をめぐっては閣内からも反発が起こっており、ハスキソンとヘリスがともに辞職を申し出るに至った。これ以上の政権運営は不可能と判断したゴドリッチ卿は、議会開会を二週間後に控えていた1828年1月8日に国王に辞職を表明した。議会開会前に内閣が崩壊するのは前代未聞のことだった。 |
フレデリック・ロビンソン (初代ゴドリッチ子爵)の首相退任後 その後、ホイッグ党へ移籍し、1830年に成立したグレイ伯爵を首相とするホイッグ党政権に陸軍・植民地大臣、ついで王璽尚書として入閣した。王璽尚書になった1833年4月にリポン伯爵に叙された。アイルランド国教会の収入を民間に転用させる問題をめぐる閣内分裂では、スタンリー卿(後のダービー伯爵)らとともに反対の立場を取った。結局この問題でスタンリー卿やリポン伯爵らは閣僚職を辞することになった。これ以降リポン伯爵はじめ80名ほどのホイッグ右派はスタンリー卿を指導者に仰ぐ独立会派ダービー派を形成した。ダービー派は1839年までに保守党に吸収合併された。保守党政権の第2次ロバート・ピール内閣(1841年-1846年)では商務庁長官やインド庁長官を務めた。穀物法廃止をめぐって保守党が分裂すると自由貿易を支持してピール派に属した。1847年5月以降は貴族院欠席が多くなり、事実上引退した。1859年1月28日にロンドン・パットニーのグランサム・ハウスで死去した。 |
大滝奈穂の来歴・人物 1999年、広島テレビ放送に入社。2005年4月1日「テレビ宣言にゅー」最終回の出演を最後に退社し、フリーアナウンサーとしてセント・フォースに移籍し、その後日テレの関連会社であるニチエンプロダクションへ再移籍。2005年4月3日、NNN24(現日テレNEWS24)「アフタヌーンジャーナル24」がフリーとしての初の仕事となる。その後結婚のため、2010年3月24日の仕事を最後にキャスター業には一線を引いて、主婦業に専念する。 |
ちりめん山椒の概要 もともとは旧ウェンブリー・スタジアム内にあった施設を2001年にプレストンのディープデイルに設置。2004年にはFIFAのゼップ・ブラッター会長が訪問し、絶賛した。2010年に閉鎖し、2012年に現在地に移転した。館長は66年のワールドカップの優勝メンバーであるサー・ボビー・チャールトン。 |
玉里町の地理 鹿児島市の中部、甲突川中流域に位置する。町域の北方から西方にかけては下伊敷、南方には草牟田、東方には西坂元町がそれぞれ接している。全体的に台地に位置している。町域の中央部には鹿児島市立鹿児島女子高等学校があり、敷地内には島津斉興が1835年(天保6年)に建設した別邸である玉里邸庭園がある。一部施設は1877年(明治10年)の西南戦争及び1945年(昭和20年)の鹿児島大空襲の際に焼失しており、現在は庭園、茶室、武家長屋が現存している。1974年(昭和49年)に鹿児島市記念物(名勝)に指定され、2007年(平成19年)に国の名勝に指定された。 |
玉里町の歴史 古くは鹿児島郡伊敷村大字下伊敷(現在の鹿児島市下伊敷)の紙屋谷地区であった。1920年(大正9年)に大字下伊敷の紙屋谷地区が伊敷村から鹿児島市に編入され、分割された部分より「玉里町」として成立した。1976年(昭和51年)には玉里町の一部が、草牟田一丁目及び草牟田二丁目、城山一丁目・二丁目、1978年(昭和53年)に玉里団地一丁目及び玉里団地三丁目に分割された。 |
田中誠人の出演 太字はメインキャラクター。 |
プラウドタワー武蔵浦和マークスの概要 浦和市時代から計画されていた再開発事業武蔵浦和駅第1街区第一種市街地再開発事業のB2棟として建設され、1~2階が店舗、3階から28階が住居となっている。武蔵浦和駅からはペデストリアンデッキで直結しており徒歩2分の立地である。同じ第1街区再開発事業ではB1棟のサウスピア、B3-2棟の公共立体駐車場と駅前ロータリーなどが整備された。武蔵浦和駅周辺の再開発ではプラウドタワー武蔵浦和テラスとプラウドタワー武蔵浦和ガーデンから成る4街区やラムザタワーの2街区などの整備が完了している。当初は駅東口の6街区(ライブタワー)と同時に整備する計画であったが、平成不況の影響を受け東口の整備を先行した経緯がある。6街区は2001年に完成しているが、1街区の街びらきは2013年と10年ほどの差が開くこととなった。1街区は武蔵浦和駅周辺の再開発事業の中では4街区に次いで5番目に着手したエリアである。サウスピアを挟んで南側はケーズデンキ閉店の2012年から放置され、駅前にもかかわらず第1街区の再開発からは切り離され、第1-A地区となった。その後2019年に武蔵浦和駅前計画として18階建ての高層マンションが建つことが明らかとなった。2021年着工し、2024年に完成予定となっている。野村不動産とジェイアール東日本都市開発が開発に名を連ね、低層階には商業施設が入居する予定。 |
ヘラチョウザメの分布 北アメリカ大陸ミシシッピー川水域に分布。 |
ヘラチョウザメの特徴・生態 動物プランクトンや小魚などを中層を泳ぎながら捕食する食性をもつ。夜間には小魚などを体を反転するようにして捕食する。長い吻によって小魚の存在を電気信号で感じ取ると考えられ、日中でも水槽内にメダカなどを泳がせておくと反転して捕食する姿を見ることができる。僅かに電流が流れているこの突起物は、かつては泥底の餌を取るために地面を掘削する役割を果たしていたのではないかと推測されていた。また、泳ぐ際に身体を安定させるという機能を有するとも考えられている。多くのチョウザメ類は低層で捕食するが、ヘラチョウザメだけは水面に浮いた餌にも反応する。平均で約1.5メートルほどに成長する。1950年頃はアメリカのミシシッピ水域などで潤沢に漁獲できていたが、年月を経るにつれて環境悪化や乱獲により個体数が激減しており、保護活動がされている。視力に頼って捕食したり外敵を認知することはない。 |
ドクターカーの主要装備 ドクターカーの装備は、医療機関の救急車と同じく 車両を所有する病院によって装備の内容が少しずつ異なっており、画一化されていない。その中でも 代表的な装備としては、以下のようなものがある。 |
ドクターカーの救急車型ドクターカー 既存の高規格救急車をベースにしたものやマイクロバスを特装したもの等、バリエーションは多岐に渡る。また、車体に露骨に「ドクターカーだ」と表示していない車両も多くあり、医療機関の救急車との違いは外見だけでは判別困難である。消防機関より廃車になった高規格救急車をドクターカーとして再利用するケースもある。一例としては弘前大学医学部附属病院救命救急センターのドクターカーは2012年に弘前地区消防事務組合より耐用年数を超えたトヨタ・ハイメディックを無償譲渡してもらい、塗装等の細部を変更した後ドクターカーとして運用している。 |
ドクターカーの乗用車型ドクターカー ベース車種はセダン、ステーションワゴン、軽自動車、SUVと幅広く、実際活動を想定している地域の地理的な特徴や医療機関のニーズに合わせてバラエティに富んでいる。乗用車型ドクターカーは、緊急自動車であるが3ナンバーまたは5ナンバー登録となっているものが多い。乗用車型の多くは医師の搬送が目的であり、患者搬送は消防の救急車に医師も同乗して行けば良いために、近年は乗用車型の導入も増えているようである。ドクターカーは、主として救命救急センターをはじめとする三次救急医療機関、またはこれに準ずる二次救急医療機関などが保有している。また、個人でクリニックを運営する開業医でも、一定の要件を満たせば往診用の自家用車をドクターカーとして緊急自動車の指定を受けることができる。この場合、警察の覆面パトカーさながらに着脱式の警光灯をルーフに載せて緊急走行することとなる。 |
ドクターカーのスポーツ競技におけるドクターカー モータースポーツや自転車ロードレース、マラソン、駅伝ではオフィシャルカーとしてドクターカーを配置することがあり、メディカルカーと呼ばれることがある。競技中の事故が発生したときに医師や救急救命士を乗せて現場へ駆けつけ、救急車やドクターヘリが到着するまでの間に負傷した選手の救護に当たる。特にモータースポーツにおけるメディカルカーには競技の進行を妨げない動力性能と運転技術が求められ、医療器具や救助用の資機材を搭載することからステーションワゴンやクロスオーバーSUV、ミニバンなどが採用される。競技の主催者が専属のメディカルカーを持つことがあり、SUPER GTでは選手の救出と初期医療、競技車両の初期消火を迅速に行えるように2002年にFRO:ファースト・レスキュー・オペレーションを設置、専属のドライバーとドクター、レスキュースタッフを配置している。 |
ロモの歴史 ロシア革命直前の1914年2月4日にサンクトペテルブルクで設立された株式会社・光学器械工場がロモのルーツである。資本金は120万金ルーブルで、シュナイダーから66%の出資を受けた子会社であった。第一次世界大戦とそれに続く1917年の10月革命の勃発により、サンクトペテルブルクの情勢は混乱し工場は休止を余儀なくされた。1918年、工場は国有化されGOIに名称を変更されたが、翌年まで稼働しなかった。1919年、ウラジーミル・レーニンの指示で映画用カメラの製造を開始した。内戦を戦うソヴィエト政府にとって、映画は重要な宣伝手段であり武器に等しいと考えられていた。1921年、GOZ(国営光学工場)に名称を変更。ソヴィエト連邦が成立し社会情勢が安定した1920年代半ばには工場を拡張、光学ガラスの製造を開始した。カメラの試作も行われ、初のカメラ製品「FOTO-GOZ」を製作したが量産はされなかった。1928年、最初に販売された乾板カメラ、「FOTOKOR」を発売した。1928年に始まった第一次五カ年計画に伴う企業再編で会社の名称はまた変わり、1932年からはGOMZ(国営光学器械工場)を名乗った。1935年一眼レフカメラの黎明期の一つである「スポルト」を製作。第二次世界大戦が始まるまで「ツーリスト」、「スメナ」、「リリプット」などの大衆向けカメラと、報道用カメラの「REPORTER」などを製造した。1941年、ナチス・ドイツがソビエト連邦を攻撃、レニングラード(1924年にペトログラードから改名)はドイツ軍の包囲を受け、1944年まで激しい戦闘にさらされた。この間レニングラードは激しい飢餓におそわれ、市内の工場は全力で戦争資材を生産していた。戦争(ソ連では大祖国戦争と呼ぶ)に勝利したソビエト政府は、復興にあたってドイツの光学技術と生産設備を接収して利用した。カール・ツァイスなどのドイツ企業から、技術資料や生産設備がソ連に運ばれた。行き先はレニングラードのGOMZ、モスクワのKMZ、キエフのアーセナル等の工場であった。戦後のGOMZは、軍用光学機器の生産拠点として重点的に復興され、産業用や医療用の光学器械の生産も行った。これと平行して大衆向けのカメラも生産され、二眼レフの「KOMSOMOLETS」(のちにルビテルに発展した)や、一連の「スメナ」シリーズを発売するなど、主に大衆向けの製品を生産・供給した。カメラ製造はGOMZ社の一事業にとどまり、従業員の90%は軍事関係などのカメラ以外の光学機器に関わっていた。企業の合併、再編などの関係から、1962年、名称をLOOMP(レニングラード光学器械工業企業体連合)に変更。1965年、名称をLOMO(レニングラード光学器械連合)に変更している。ロモの製品は天体望遠鏡、顕微鏡、電子顕微鏡などに特徴があり、世界最大級の6m望遠鏡BTA-6を開発するなど西側に匹敵する技術水準を維持していた。1974年、すぐれた業績を賞賛され「レーニン工場」の称号を受けている。ソヴィエト連邦の解体後の1991年、レニングラードはふたたびサンクトペテルブルクに名前を変更したが、ロモは改名することなく現在に至っている。現在はカメラ生産からは撤退しているものの、今なお宇宙開発、軍事、民生の部門でロシア有数の光学工場であることは変わりない。 |
営業税の概説 中世より商工業の発達した国々では商工業者に営業許可の代わりに課税を行う国が存在し、ビザンツ帝国や北宋(免行銭)などが存在した。日本においても酒屋役・土倉役などの役銭や江戸時代の小物成・運上金・冥加金などがこれに相応した。明治維新になって株仲間は廃止されて既存の税制は廃止されたものの、代わりに「営業免許料」などの名目で徴収が行われた。近代的な営業税は、「営業の自由」が確立された西欧で誕生し、1791年にフランスで、1810年にはドイツで営業税が導入された。 |
営業税の営業税 (日本) 1878年に定められた地方税規則によって府県に徴収される地方税として設置される。この時は営業税と雑種税に分けられ、会社・卸売業(第一種、最高税額15円)・仲買商(第二種、同10円)、小売商(第三種、同5円)の3種とこれに当てはめるのに不適切な運輸・飲食・サービス・娯楽などの業者には雑種税を業種ごとに定めたのである。最高税額規定は1880年には営業税は一律15円となり、2年後には廃止された。なお、この時大幅な整理が行われて商業と工業の2本立ての種別となっている。だが、1896年に日清戦争後の財政膨張の対策として営業税を国税とすることとして、営業税法が公布され、翌年実施された。新しい営業税は資本金・売上高・従業員の給与総額に基づいた外形標準課税であり、資本金500円・売上高1,000円・従業員2名以上の業者に適用された。ただし、地方財政への打撃を抑えるために道府県や市町村が地方付加税を加算すること、課税基準を満たさない企業については地方税として従来の営業税(府県営業税)を賦課出来ることとされた。ところが企業の経営実態を反映しない外形標準課税・比例税率を採用したこと、日露戦争時に税率を大幅に引き上げたまま、戦後も維持されたことから、商工会議所や小売業者などを中止に度々撤廃あるいは減税を求める運動(「営業税反対運動」)が発生した。特に新税施行の1897年、第一次護憲運動に伴って通行税・織物消費税とともに悪税として糾弾された1914年、両税委譲議論が本格化された1922年の3度の反対運動は大規模であった。この影響を受けて1926年に営業税法の替わりに営業収益税法が制定されて、営業税は営業収益税へと全面的に改訂される。これは営業純益が400円以上の営利法人と特定業種(適用を受ける19業種は、物品販売業、銀行業、無尽業、金銭貸付業、物品貸付業、製造業、運送業、倉庫業、請負業、印刷業、出版業、写真業、席貸業、旅人宿業、料理店業、周旋業、代理業、仲立業および問屋業。)の個人に対するもので、営業純益に従業員の所得税納付額を元に加減して税率は法人3.6%・個人2.8%(1931年の改訂後は法人2.8%・純利益1,000円以上の個人は2.6%・1,000円以下の個人は2.2%)とされた。1930年の統計では対象法人は3万6千(納付総額3千1百万円)、個人は73万(同2千4百万円)であった。1940年に再度改正が行われて営業収益税は府県営業税を統合して国税として一括され名称も旧称である営業税に戻った。だが、仕組みそのものは営業収益税を引き継ぎ、また税収は目的税化されて国税でありながらその税収全額が徴収した府県に還付される府県還付税となった。なお、税率は営業純益の1.5%でこの他に従来どおり道府県・市町村による付加税が加算された。後に戦局悪化のために税率が引き上げられている(1944年2%、1945年2.5%)。戦後の1947年に地方税として完全に都道府県に移譲されるとともに付加税が廃止され、税率は7.5%に大幅に引き上げられた。1948年に名称を事業税と変更され、2年後にシャウプ勧告に基づく事業税の全面改正が行われて、かつての営業税の体系は大きく変更されることとなった。 |
金茶榮の経歴 2018年に日本ハンドボールリーグのソニーセミコンダクタマニュファクチャリングへ加入。2019年の第9回社会人選手権ではベストセブンに選ばれた。 |
ブーティリシャスのミュージック・ビデオ マシュー・ローストン監督のミュージック・ビデオのDVDは、デスティニーズ・チャイルドのベストアルバム『ナンバーワンズ』に収録されているが、ビヨンセが、「マイケル・ジャクソンっぽいパートもある」と言うように、MVの中では、マイケル・ジャクソンがテレビの特別番組「モータウン25:イエスタデイ、トゥデイ、フォーエバー」(" Motown 25: Yesterday, Today, Forever"」で披露した「ビリー・ジーン」のダンス・パフォーマンス(斜に構えて被っていた帽子を投げる振付)や、マイケルの「スリラー」、「今夜はビート・イット」、「バッド」のMVのダンスの振付の数々や、マイケルがライブで見せた「ゼイ・ドント・ケア・アバウト・アス」のダンスの一部が散見される。MVの冒頭部では、スティーヴィー・ニックス本人が、サンプリングされた「エッジ・オブ・セブンティーン」のギターリフを演奏しながらカメオ出演している。また、MVには、かなり肥った女性や、個性的な男性などが登場したりしているが、「ブーティリシャス」の歌詞を書いたビヨンセは、「女性にも男性にも、自分の欠点を受け入れて自分の身体を愛しなさいってメッセージを届けるようにしてるわ、要するに、自分の外見にこだわりすぎるべきじゃないと思うの。若い子たちにも『自分の個性を大切にすれば、自然と美しさが外に出てくるものよ』って話してるわ」と語っている。 |
中嶋一貴のジュニアフォーミュラ 父のレースを幼少時から見て育ち、1997年にカートレースにデビュー。1999年には鈴鹿選手権シリーズICAクラスでシリーズチャンピオンとなる。その後、父親の七光りと言う評判が付くことを嫌い、ホンダ系ドライバーであった父親とは違い、トヨタが運営するフォーミュラトヨタレーシングスクール(FTRS)を2002年に受講し、スカラシップを獲得した。2003年は、そのスカラシップでエントリーしたフォーミュラ・トヨタにて、見事シリーズチャンピオンに輝いた。 |
中嶋一貴のF3/SUPER GT/スーパー耐久 2004年は全日本F3選手権にステップアップし、いきなり開幕ラウンドで2連勝し、父中嶋悟のDNAを受け継ぐ者として周囲に印象付けた。しかしその後は苦戦し、シリーズ5位に終わる。2005年も引き続き全日本F3に参戦しシリーズ2位となる。この年はマカオグランプリに挑戦するも6位に終わる。かねてから指摘されている、父と同じく予選での速さの不足及び不慣れなサーキットの攻略の遅さが表面化した形となった。また2005年はSUPER GT・GT300クラスにフル参戦し、スーパー耐久・ST-5クラスにも第3戦と第5戦にスポット参戦した。SUPER GTではスポーツランドSUGOで行われたシリーズ第4戦でクラス初優勝を果たし、スーパー耐久では第5戦富士スピードウェイでパートナーの黒澤琢弥と共に優勝を飾った。2006年は平手晃平とともに、F3ユーロシリーズへトヨタ・ヤングドライバーズ・プログラム(TDP)から参戦した(所属はManor Motosport、マシンはダラーラF305 メルセデス)。第2ラウンド・ユーロスピードウェイで行われた第4戦において優勝するも、シーズンを通しては成績が伸び悩みシリーズ7位に終った。決勝ではレースをうまくまとめており、課題はやはり予選の速さである。なお、引き続きマカオグランプリにも参加し、予選7位・決勝リタイヤに終わる。 |
中嶋一貴のGP2 2007年シーズンはTDPドライバーとしてDAMSからGP2に参戦した。初戦となったバーレーンから第2戦スペイン・レース1まで3レース連続で1ポイントを獲得。第5戦イギリス・レース1で3位となり初表彰台。第7戦ハンガリー・レース1ではシーズン最上位の2位に入り、5戦連続表彰台。最終戦バレンシアではP.P.を獲得(決勝レース1は3位・レース2は7位)したが、レース1のチェッカーを受ける直前に前を走っていた車に接触し、フロントウィングを失った。最終的にシーズン44ポイントでシリーズ5位となりルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得した。 |
中嶋一貴の2007年 2006年11月8日にウィリアムズより「2007年シーズンのテストドライバー契約を中嶋との間で締結した」との発表があり、2006年11月16日に富士スピードウェイで開催された「トヨタ・モータースポーツ・フェスティバル 2006」において、ウィリアムズのF1カーであるウィリアムズ・FW28を初ドライブした。2007年シーズンは、GP2を戦いながらウィリアムズチームの第3ドライバーを兼務した。これはTDPの「参加ドライバー」として、初めてF1チームとの契約ドライバーになることであった。このことについては「2007年からウィリアムズのエンジンサプライヤーとなったトヨタの推薦を元に、チームオーナーであるフランク・ウィリアムズが自ら面接を行い決断したものである」と共同オーナー兼エンジニアリングディレクターであるパトリック・ヘッドが明かしている。ドライバーとしての能力は当然として、英語が堪能であることも契約に至る判断材料になったものとされる。F1の開催がGP2と重ならないレースでは、第3ドライバーとして金曜フリー走行に出走しているが、F1とGP2が併催されるレースではリザーブドライバーとして登録されている。なお、ハンガリーGPではそれまで通りウィリアムズのリザーブドライバーとしての登録と同時に、トヨタのリザーブドライバーとしても重複エントリーされた。これは本来のトヨタのリザーブドライバーであるフランク・モンタニーがトレーニング中の怪我のため、サーキットに来られなかったことによる珍事であった。GP2閉幕後の中国GPではシーズンで5度目となる第3ドライバーを務めていたが、アレクサンダー・ヴルツが中国GP限りでの引退を発表したことにより、最終戦ブラジルGPでF1デビューが決定、日本人としては17人目のF1ドライバーが誕生した。また、アジア人では初めての親子2代のF1ドライバーである。このドライバー選考については、GP2最終戦のバレンシアの予選において、ポール・ポジションを獲得したことや、中国GPのフリー走行で9番手タイムを叩き出したことが大きく影響したと考えられており、「ブラジルGPの結果は、2008年シーズンのウィリアムズチームにおけるドライバー選考に大きな判断材料にはならない」と、フランク・ウィリアムズ代表は記者会見で表明した。また、ディレクターのパトリック・ヘッドはエンジンサプライヤーであるトヨタの支援が明確に影響した事を後日認めた(この事との関連は不明だが、中嶋のレーシングスーツの胸の部分にはトヨタの赤いロゴがあるが、ロズベルグの胸にはない)。F1デビュー戦となった2007年ブラジルGPでは、予選においてはタイヤを上手く使いきれず19位に終わった。決勝では、31周目、1回目のピットイン時に、ブレーキングのミスによって停止位置をオーバーランし自らのチームのピットクルーに接触して脚を負傷させるという失態を犯した。また63周目には第1コーナーで9位走行中のデビッド・クルサードをアウト側からオーバーテイクしたが、クルサードの進路を塞ぐという問題のあるライン取りであったため、クルサード車に接触しスピンさせるなど、未熟さが露呈したレースだった。10位で完走し、シリーズ22位の結果を残した。また、レース中のファステストラップは5番手のタイムで、チームメイトのニコ・ロズベルグを0.043秒上回った(ロズベルグはファステストラップ7位、決勝順位4位だった)。 |
中嶋一貴の2008年 2008年シーズンはウィリアムズとレギュラードライバー契約し、日本人8人目のフルタイムドライバーとして参戦することが決まった。一方でクルサードをはじめ、F1ドライバーとして参戦するのは時期尚早ではないかとする意見もあった。しかしこの評判を跳ね除けるかのように、第1戦のオーストラリアGPは7位で完走した。さらに6位フィニッシュのルーベンス・バリチェロの失格(ピットアウト時の赤信号無視)により繰り上がり、6位に入賞した(チェッカーフラッグを受けたドライバー中の最下位)。またこのレースでは、セーフティカー走行中の48周目に第15コーナーでBMWザウバーのロバート・クビサに追突し自身フロントウィングを失うとともに、クビサをリタイヤに追い込んだ。この行為により、第2戦マレーシアGPでは10グリッド降格の処分を受けた。予選は14位(ティモ・グロックの降格により13番手スタート)、レース中のファステストラップは14番手だった。第4戦スペインGPではここまでの自己最高位の予選12位で通過し、初めてチームメイトのロズベルグを上回った。また決勝レースでも初めてトップと同一周回で完走し、7位2ポイントを獲得した。第6戦モナコGPでは、序盤は雨という荒れたレースであったが、安定したドライビングで最後まで走りきり7位フィニッシュ、モナコGPにおける日本人ドライバー初のポイントを獲得した。第15戦シンガポールGPでは、未知のナイトレースで予選で自身初となるQ3に進出し、予選10番グリッドを獲得する。決勝では序盤に順位を落としたものの、最後は見事8位入賞を果たし1ポイントを獲得する。初の母国GPとなった第16戦日本GPでは、フリー走行では好調な結果だったものの、Q3進出はならず、予選14番グリッドを獲得する。決勝では1周目でクルサードに追突し、フロントウイングを破損しピットイン。完走はしたものの、最下位の15位フィニッシュ。フル参戦初年度でクラッシュなども目立ったほか、予選で一発の速さを見せられないなどの課題もあったが、チームメイトのロズベルグを度々上回り、9ポイントを獲得し翌年のシートを得た。 |
中嶋一貴の2009年 2009年シーズンも引き続きウィリアムズのレースドライバーとして参戦。第1戦のオーストラリアGPでは、スタートの混乱をうまく避けて一時は4位を走行していた。しかし、単独でクラッシュし、リタイアした。第7戦トルコGPでは終盤まで入賞圏内を走り、このまま行けば2ポイント確実と言われた状況で、最後のタイヤ交換にピットクルーが手間取ったため時間がかかるというまさかのトラブルで12位に終わってしまった。第8戦イギリスGPの予選では、自己ベストの5位を獲得した。決勝ではスタートで4位に上がったものの、軽い燃料搭載量であったため他のドライバーより早い1回目のピットストップで、なおかつまたピットクルーがタイヤ交換に手間取ったため順位を落とした。また予選ですべてのソフトタイヤを使ったため決勝に新品のソフトタイヤが余っておらず、ハード-ハード-ソフトのタイヤチョイスとなり気温の低いイギリスでハードでのタイムが伸びず、11位でレースを終えた。第16戦ブラジルGPでは、ティモ・グロックの代役としてF1デビューを果たした小林可夢偉にスタート後の3コーナーでオーバーテイクされ、抑え込まれた。皮肉にも同じコーナーにて、第2スティントでピットアウト直後の小林から接触されてレースを終えた。その後もポイント圏内に入る事が出来ず、今年度はノーポイントだった。そしてウィリアムズとの契約更新も出来ず今年度をもってチームから放出された。2008年シーズンでの課題である予選での速さの改善が見られた。しかし、決勝レースでは、ピットクルーの度重なるトラブルや自身のクラッシュなど、うまくかみ合わないままシーズン最高位が9位になり、ノーポイントでシーズンを終えた。なお、名門チームであるウィリアムズでフルシーズン参戦でノーポイントだったのは長い歴史の中で1999年シーズンのアレッサンドロ・ザナルディと中嶋のみである。ただしこの点は、中嶋がF1を去った翌年に入賞が10位までに拡大されていることも考慮に入れる必要がある。 |
中嶋一貴の2010年 ウィリアムズを離脱し、移籍チームの発表がないまま2010年を迎えたが、同年2月には旧トヨタF1の施設やスタッフを受け継ぐ形で同年からのF1参戦を目指しているチームである、セルビアのステファンGPが既に契約済みであることが明るみに出た。ステファンGPのF1参戦が実現すればF1参戦できるはずだったが、3月3日に発表された2010年F1エントリーリストにステファンGPは載っておらず、F1継続参戦もついえた。結局この年は一度もレースに参戦することがなく、いわゆる「浪人」生活に終始した。 |
中嶋一貴の国内レース復帰 2010年11月25日、この月の29日、30日に富士スピードウェイで行われるフォーミュラ・ニッポンの合同テストにトムスから参加することが発表された。 |
中嶋一貴の2011年 2011年は全日本F3時代に所属していたトムスに復帰し、フォーミュラ・ニッポン及びSUPER GT・GT500クラスに参戦する(チームメイトは共にアンドレ・ロッテラー)。この年は弟の大祐も、父・悟が率いるNAKAJIMA Racingからフォーミュラ・ニッポンに参戦するため、初の兄弟・父子対決が実現した。5月15日のフォーミュラ・ニッポン開幕戦は予選14位から追い上げ、表彰台となる3位を獲得した。第2戦オートポリスでは、予選13位からスタートすると、チーム戦略がピタリとはまり、自身もそれを完璧に遂行し、大逆転でトップフォーミュラ初優勝を飾ったほか、全レースで3位以内に入り、チームメイトのアンドレ・ロッテラーに次ぐシリーズ2位でルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得した。 |
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