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もぎたてのカボチャたちの概要 CBCラジオのAMステレオ放送の開始を記念して番組が開始。各曜日二人ずつのパーソナリティが、左右のスピーカーからリスナーを煽るような立体的放送を展開していた。2016年3月18日と2017年3月10日に放送された「ヨルしげお」の中で「もぎたてのカボチャたち」が復活した。
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マラビーヤ・ワシントンの選手経歴 ワシントンは6歳の時、1975年のウィンブルドン男子シングルス決勝戦で、黒人テニス選手のアーサー・アッシュがジミー・コナーズを破って優勝した試合をテレビで見たことがきっかけでテニスを始めた。1989年に20歳でプロ入りし、同年の全米オープンで4大大会にデビューする。1992年2月、ワシントンはアメリカ・テネシー州メンフィス大会でツアー初優勝を果たす。この年は男子ツアー大会の決勝戦に6度進出し、2つの優勝と4つの準優勝を記録した。1993年、ワシントンは男子テニス国別対抗戦・デビスカップのアメリカ代表選手に初選出された。黒人選手のデ杯米国代表入りは、アッシュ以来2人目であった。1994年全豪オープンで、ワシントンは1回戦で第2シードのミヒャエル・シュティヒを破って波に乗り、一気にトッド・マーティンとの準々決勝まで進出した。この年はチェコ・オストラヴァ大会でツアー3勝目を挙げている。マラビーヤ・ワシントンのテニス経歴最大のハイライトは、1996年のウィンブルドン決勝進出だった。準決勝でトッド・マーティンと対戦した時、試合は度重なる雨の中断により、2セット・オール(2-2)で最終第5セットが日没順延となる。翌日に持ち越された第5セットで、マーティンが優位に試合を進め、一時は 5-1 までリードを奪い、マッチ・ポイント(このポイントを取れば試合の勝利が決まる)を何本か握ったが、ワシントンはマーティンの土壇場での勝負弱さを見逃さず、10-8 で逆転勝利を収めた。こうしてワシントンは、21年前に憧れたアッシュ以来となる黒人男子テニス選手としてのウィンブルドン優勝者を目指して決勝戦に向かう。オランダのリカルト・クライチェクとの決戦は、ウィンブルドン史上初のノーシード同士の決勝となった。ワシントンはクライチェクに 3-6, 4-6, 3-6 のストレートで完敗し、アッシュ以来の黒人優勝者は果たせなかった。ウィンブルドン準優勝の後、ワシントンはアトランタ五輪にも出場し、男子シングルスでスペイン代表のセルジ・ブルゲラとの準々決勝まで進出した。1997年2月、デビスカップの「ワールドグループ」1回戦でアメリカはブラジル・チームを4勝1敗で下したが、シングルス第1試合に出場したワシントンは、グスタボ・クエルテンとの対戦中に左膝の故障を起こした。クエルテンとの試合には勝ったが、この故障が尾を引き、ワシントンは同年4月からシーズンの残りを棒に振った。1998年全米オープンの1回戦敗退が、ワシントンの最後の4大大会出場になる。その後も体調は回復せず、ワシントンは1999年12月3日に30歳で現役引退を発表した。
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津久見南テレビ中継局の概要 津久見市津久見浦字福山3275番地の福山に置かれている。地上アナログテレビ放送において、現在では珍しくなったオールVHFチャンネルの局だが地上デジタルテレビ放送中継局の開局により初めてUHF併用放送を実施することになった。
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矢野機の経歴 東京府出身。本籍は千葉県。矢野正躬(陸軍主計監)の長男として生れる。成城中学校、東京陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1905年11月、陸軍士官学校(第18期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第12連隊付となる。1913年11月、陸軍大学校(第25期)を卒業した。教育総監部付、歩兵第12連隊中隊長、第8師団参謀、教育総監部課員、スイス駐在、チェコスロバキア駐在、教育総監部課員などを経て、1925年8月、東宮武官兼侍従武官となった。さらに、侍従武官、教育総監部庶務課長、歩兵第6連隊長、陸軍歩兵学校教導連隊長、朝鮮軍参謀などを歴任し、1934年3月、陸軍少将に進級。満州事変後に歩兵第8旅団長として満州に出征。関東憲兵隊司令部付などを経て、二・二六事件当時は憲兵司令部総務部長の職に在り、治安の維持回復に尽力した。第3師団司令部付となり、1937年3月、予備役に編入されたが、翌年7月に召集を受け、歩兵第25旅団長を勤めた。1940年2月、召集解除となり、同年8月、陸軍中将となった。1942年4月、大日本翼賛壮年団千葉団長となり、1943年8月、歩兵学校嘱託。1944年10月、再度召集を受け、歩兵学校校長に就任。留守業務部長を経て、1945年12月、召集解除となった。
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武英智の来歴 1980年12月31日に永祥の長男として生まれる。1996年、競馬学校に15期生として入学。同期には北村宏司、高田潤、二本柳壮らがいる。1999年、栗東の領家政蔵厩舎に所属し騎手デビュー。初騎乗は3月1日、高知競馬第3競走の1番人気ミシマリンボスターで、9頭立ての8着。JRAの新人騎手の初騎乗が地方競馬だったのは史上初のことだった。中央競馬初騎乗は3月6日、阪神第2競走のラインフォレストで、10頭立ての5着。4月11日、中京第8競走のユメノセテコウユーで初勝利。この年には22勝を挙げ、中央競馬関西放送記者クラブ賞(新人騎手賞)を受賞した。2012年9月26日、9月30日付で騎手を引退し、木原一良厩舎で調教助手となることがJRAから発表された。2016年12月8日、JRAより2017年度調教師試験に合格したことが発表された。2017年3月1日付で調教師免許を取得したが、暫くは厩舎は開業せず技術調教師として活動していた。なお、同時に親戚(再従兄弟)の幸四郎も調教師試験に合格したことから、2017年は武家の親族2人が同時に調教師として再出発することとなった。2018年3月1日付で厩舎を開業。
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武英智の主な管理馬 ※括弧内は当該馬の優勝重賞競走、太字はGI級競走。
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カーボベルデの文化の文学 カーボベルデ文学はポルトガル語圏アフリカに於いて最も豊かなものの一つである。
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カーボベルデの文化の音楽 カーボベルデはカーボベルデ・クレオール語で歌われ、クラリネット、ヴァイオリン、ギター、カヴァキーニョが伴奏するフォークソングの形式モルナによって国際的に知られている。諸島はフナナー、バトゥーケ、コラデイラ、マズルカなどの土着のジャンルによって特徴づけられている。セザリア・エヴォラは恐らく最も国際的に知られたモルナの実践者である。彼女は世界中で名声を獲得し、マドンナ や フリオ・イグレシアス のような著名人にも彼女のファンは多い。
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カーボベルデの文化の遊戯 ある種の遊技が広場のような共同の会合場所で日常的に行われる。これらは社会的相互作用の強固な形式であり、時々公衆の注意を引く非公式なトーナメントを生み出す。これらの遊戯は、biscaやtxintxon、その他にはurilのような幾つかのカードゲームなどである。
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オレンダ イロコイの設計の経緯 CF-105アロー計画のためにアブロ・カナダ社は元はロールス・ロイス RB.106、ブリストル B.0L.4 オリンパス、またはオリンパスのライセンス生産版であるカーチス・ライト J67の異なる3形式のエンジンの中から一形式を使用する予定だった。RB.106とJ67は新設計用のバックアップとして選択されたが、アローの設計段階で中止され、計画にオリンパスを選択する事はとうてい条件に合わなかった。オレンダ社は即座にPS.13イロクォイの設計に着手した。イロクォイの設計は単純で軽量である事を基本とした。この方針により、オレンダ社は(主に圧縮機の回転翼に)イロクォイの重量の20%にチタンを使用する事により先駆的な成果を挙げた。チタンは軽量で高張力で高温に耐え、耐食性があった。エンジンの重量はこれまでに使用されていた鋼を使用した場合よりも850ポンド (386 kg)軽量化されたと予想される。1950年代の初頭においてはこの素材は供給量が逼迫しており、物理的特性の知識が未熟で、加工技術の問題により開発は予算を超過した。同様に鋼やアルミニウムのような関連する一般的な素材と比較してとても高価だった。チタンを使用したエンジン部品を設計できるか検討され、そのため支持構造体も同様にエンジンによる応力を減らすことにより軽量化が可能で全体の重量を抑えた。ギアボックスの筐体のような他の部品等はマグネシウム合金で製造された。インコネルは低圧タービンやエンジン後部の金属断熱ブランケットに使用された。この耐熱ニッケル‐クロム合金は高温でも強度を維持でき、耐酸化性や耐食性を備えた。これらの先進的な合金を使用した第一の理由は重量を抑えつつ性能を高める事であり、エンジンの推力重量比は5:1で海面高度におけるアフターバーナー未使用時の推力は 19,250 lb (アフターバーナー使用時には26,000 lb)をもたらした。2軸式ターボジェットで10段軸流式で高速アニュラ型燃焼器は32個の上流気化バーナーを備え、単段高圧タービンと2段低圧タービンと60個のノズルを備えるアフターバーナーと完全モジュラー式con-diノズルを備えた。エンジン直径(補機類の直径を含まず)は42インチでアフターバーナーが47インチだった。流量は420lbs/秒で圧縮比は 8:1,燃料消費はアフターバーナーを使用しない時に約 0.85でアフターバーナー使用時に 1.9だった。推力重量比5:1は1960年代末に推力重量比が約7:1(後期型はさらに上回る)の初期のF15とF16戦闘機のエンジンとして開発されたプラット&ホイットニー社のF-100が登場するまでは上回るエンジンは無かった。注意しなければならないのはF-100エンジンは圧縮比がイロクォイよりも大幅に高いという点である。(他にイロクォイはターボジェットでF100はバイパス流を利用できるターボファンという理由もある)設計、開発、製造はこのような先進的なジェットエンジンであるにもかかわらずオレンダ社のチームによって信じられないほど短期間で行われた。詳細設計は1954年5月に完了し1954年12月には試験運転に到達した。初期のオレンダ9はより部品点数が多かったが出力は低かった。一例としてオレンダ9の重量は2,560 lb (1,160 kg)で静止推力は 6,355 lb (2,883 kg)で一方のイロクォイは重量は5,900 lb. (2,675 kg) だが報告によると離陸時のアフターバーナー使用時の静止推力は30,000 lb (13,608 kg) である。(オレンダはアフターバーナーを備えていなかった。)イロクォイは登場時、世界で最も強力なジェットエンジンで推力はアフターバーナーを未使用時にの推力は19,250 lbf (85.6 kN)でアフターバーナー使用時には25,000 lbf (111 kN)だった。空気力学的に最良の性能を発揮するのは高度50,000 feet (15,200 m)でマッハ 2 の速度の時である。
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オレンダ イロコイの試験 風洞実験において高温吸気時や風洞の限界による高度60,000 ft (18,290 m)の状態でのエンジンの運転は成功する事が実証された。1958年時点でイロクォイは5000時間を越える地上試験を完了しさらに数千時間オンタリオ州ノーベルのオレンダ社の試験施設でエンジンの構成要素の試験を行った。1956年にアメリカのB-47がカナダ空軍にCF-105で使用するためにイロクォイの飛行試験のために貸与され、イロクォイは爆撃機の胴体後部の尾翼付近の右側面に備えられた。そこに取り付けられた理由は単に他に取り付けられる場所がなかったからである。カナディアではCL-52として使用され、推力は非対称で操縦に大きな問題を生じた。アロー計画が中止され、B-47B/CL-52の試験飛行時間は約35時間で爆撃機はアメリカに返還され、間もなく解体された。CL-52は外国で運用された唯一のB-47だった。高度70,000 feet (21,300 m) と対気速度マッハ 2.3を含む7000時間の開発試験後、1958年2月20日にアローと共に計画は中止された
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オレンダ イロコイの残存機 オタワのカナダ航空宇宙博物館にアローRL 206の先端部と操縦席が主翼や胴体や完全な番号117イロクォイ-2エンジンと共に保管される。イロクォイ-1エンジンはオンタリオ州ハミルトン近郊のマウントホープのカナダ大戦機博物館に保管される。他のイロクォイ-2エンジンは個人的な収集家がブリティッシュコロンビア州のFort St. Johnに保有する。2011年以降、番号X-116のイロクォイエンジンがカナダのS & Sタービンズで再組み立て中である。
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スタニスラフ・カシュタノフの来歴 2003年7月1日、ドネツィクのスポーツ・パレス・ユノスでデビュー戦を行い、3-0の判定勝ちを収めた。2006年7月21日、マギッド・ベン・ドリスと空位のWBC世界スーパーミドル級ユース王座を賭け対戦し、4回TKO勝ちを収めWBC王座を獲得し、5度防衛した。2008年11月29日、EBU-EEスーパーミドル級王座決定戦でカンスタンツィン・マクハンコフと対戦し、12回3-0(3者とも120-108)の判定勝ちを収め、EBU王座を獲得した。2011年8月26日、ドネツィクにあるドンバス・アリーナで行われたディミトリ・サーティソンの王座返上扱いを受けたことに伴うWBA世界スーパーミドル級王座決定戦でカロリー・バルザイと対戦したが、12回1-2(113-115、114-115、116-113)のプロ初敗戦となる判定負けを喫した。2012年11月10日、ドネツィクにあるスポーツ・パレス“ドラズバ”にて、セルベル・エムルラエフとWBA世界スーパーミドル級暫定王座決定戦を行い、12回2-1(118-110、116-113、113-115)の判定勝ちを収めWBA王座を獲得した。2013年8月24日、ドネツィクにあるドンバス・アリーナでジェイミー・バルボサと対戦し、7回にダウンを奪ってペースを握ると10回にダウンを追加しレフェリーがカウントアウト。初防衛に成功した。2014年7月12日、WBAはWBA世界スーパーミドル級1位でWBA世界スーパーミドル級暫定王者のスタニスラフ・カシュタノフとWBA世界スーパーミドル級2位のヒョードル・チュディノフとの間での指名試合指令を出した。交渉期間は30日間とし、同年8月10日までに対戦交渉で合意できなければ入札になるとのこと。2014年8月18日、カシュタノフとチュディノフとの間で行われる指名試合は同年10月にモナコで行われるとの報道がなされた。2014年9月2日、カシュタノフは現役引退を発表し、WBA世界スーパーミドル級暫定王座を返上した。2014年9月7日、WBAは最新ランキングを発表し、カシュタノフの引退に伴いWBA世界スーパーミドル級1位は空位となった。2015年4月5日、1年4ヶ月ぶりの試合。引退を撤回しモスクワ州ノギンスクでマダ・マウーゴとライトヘビー級契約8回戦を行い、3回30秒KO勝ちを収めた。2015年6月26日、モスクワでコンスタンティン・ピーターノフとロシアライトヘビー級王座決定戦を行い、5回1分35秒TKO勝ちを収め王座獲得に成功した。2015年7月8日、WBAは最新ランキングを発表し、カシュタノフをWBA世界ライトヘビー級7位にランクインした。2015年8月12日、WBAは最新ランキングを発表し、カシュタノフをWBA世界ライトヘビー級5位にランクインした。2015年8月23日、ヤルタのリクソス・ムリーヤ・リゾート・ヤルタでWBA世界ライトヘビー6位のフェリックス・バレラとWBA世界ライトヘビー暫定王座決定戦を行い、12回1-2(112-116、117-111、113-115)の判定負けを喫し2階級制覇に失敗した。
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全日本学生キックボクシング連盟の概要 ルールは防具無しで、パンチング・蹴り技・首相撲が認められている。基本は3分3ラウンド制。プロと異なるのは肘打ち、上段への膝蹴りが禁止である。大学スポーツとしての性格上、メディカルチェック・CTスキャンや減量の健康管理、安全講習等が義務付けられており、安全確保についてはプロ以上の厳重さがある。この各階級での王者を経てプロへ進んだ者もいる( ⇒ #出身者)。各選手権では個人戦で各大学の勝敗をポイント式で積み上げ計算し、大学別の勝敗も同時に競う団体戦方式を採用している。後楽園ホールの試合やチャンピオン決定戦クラスの試合は大学対抗ということで学生キックボクシングのファンも存在する。2013年11月30日に40周年記念祝賀会が東京都内で開かれ、設立者の山崎照朝をはじめ、キックボクシングの創始者・野口修、連盟出身者の土屋ジョー・山田隆博・SHIGERU・黒田アキヒロ・小山泰明・城戸康裕・江畑佳代子・KUDOら130人のOBが出席した。
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2016年のル・マン24時間レースの概要 LMP1クラスでは、レース残り6分の時点まで首位を快走していたトヨタ・ガズー・レーシング5号車が突然スロー・ダウン後停止し、ポルシェチームの2号車に乗って2年連続でポールポジションを獲得したニール・ジャニ/ロマン・デュマ/マルク・リープ組がレース残り3分の時点で大逆転して総合優勝を果たした。ポルシェ勢は前年に引き続き2年連続の総合優勝であり、デュマは2010年大会以来2度目の総合優勝で、ジャニとリープは初の総合優勝を成し遂げた。トヨタ5号車は再始動させることに成功したもののラップ・タイムが11分53秒815もの時間を要し、「最終ラップは6分以内で周回しなければいけない」というル・マン24時間独自の規定を満たすことが出来ずに完走扱いとはならず、384周もの周回を重ねながら失格となった。3周差の2位には、ステファン・サラザン/マイク・コンウェイ/小林可夢偉組のトヨタ6号車が入り、更に9周差(トップから12周差)の3位には、トラブルに苦しんだルーカス・ディ・グラッシ/ロイック・デュバル/オリバー・ジャービス組のアウディ8号車が入った。LMP2クラスでは、ニコラ・ラピエール/グスタヴォ・メネゼス/ステファン・リシェルミ組のシグナテック アルピーヌ・ニッサン36号車が、レース後半196ラップをリードして優勝を飾った。ラピエールは2年連続のクラス優勝となった。ロマン・ルシノフ/レネ・ラスト/ウィル・スティーブンス組のG-ドライブ・レーシング26号車が同一周回の2位に入り、ヴィタリー・ペトロフ/キリル・ラディギン/ヴィクトル・シャイタル組のオール・ロシア人チームであるSMPレーシングの37号車が4周差の3位に入った。LMGTE Proクラスでは、初の総合優勝から50周年を迎えたアメリカのフォードが、ジョーイ・ハンド、セバスチャン・ブルデ、ディルク・ミューラーら3人が乗る68号車がクラス優勝を果たした。ジャンカルロ・フィジケラ、トニ・ヴィランデル、マッテオ・マルチェリが乗るリシ・コンペティツィオーネのフェラーリ・488 GTEの82号車は26周にも渡ってクラス首位の68号車とトップ争いを繰り広げた末にクラス2位となった。フォード68号車の姉妹車の69号車に乗るライアン・ブリスコー、スコット・ディクソン、リチャード・ウェストブルックらはクラス3位に入った。LMGTE Amクラスでは、スクーデリア・コルサ62号車に乗るタウンゼント・ベル、ジェフ・シーガル、ビル・スウィードラーらアメリカ人ドライバーが、エマニュエル・コラール、ルイ・アグアス、フランソワ・ペロドが乗るAFコルセ83号車との接戦を制してクラス優勝を遂げた。ハリド・アル・クバイシ、パトリック・ロング、デイヴィッド・ハイネマイヤー・ハンソンが乗るアブダビ=プロトン88号車がクラス3位に入っている。
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2016年のル・マン24時間レースのエントリー 当初ACOはル・マンの出走枠を2016年に58台、2017年に60台へと段階的に増やす計画を予定していたが、急きょ1年前倒しで本シーズンより60台に出走枠が拡大されている。
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2016年のル・マン24時間レースのガレージ56 新技術を採用した車両に与えられる「ガレージ56」の出場枠については、2015年においては選考自体が見送られたが、2016年の本レースでは2年振りに復活している。炎壊疽性筋膜炎によって四肢を切断したフランス人ドライバーのフレデリック・ソーセ(Frederic Sausset)が率いる「ソーセ・レーシングチーム41」(「SRT41」)は、オンローク・オートモーティヴと共同開発して健常者の2人のドライバーのみならず手足のないソーセでもドライブ出来るように改造したモーガン・LMP2で参戦した。その福祉改造車両は、ソーセの大腿部からアクセルとブレーキを操作可能にしたパドルが搭載された。ハンドルに相当する方向操舵の為の装置は、ソーセのドライブ時について、ソーセの右腕に着用する義肢とつながる特製アダプターに取り換えられるようにした。その車両は、健常者である同僚ドライバーに関しては通常の運転操作で運転できるようにされている。「SRT41」は当初新しいアウディ製エンジンを搭載する予定を立てていたが、その後LMP2カー用標準エンジンとして普及しているニッサン製エンジンに変更している。チームは、ル・マンに先駆けて開催されたヨーロピアン・ル・マン・シリーズの開幕戦のシルバーストン・ラウンドに参戦したが、これはガレージ56枠のエントリー車両がル・マン前に他のレースに出走する初のケースとなった。
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2016年のル・マン24時間レースのエントリーリスト 2016年2月5日、WECとELMSと一緒にエントリーの発表が行われ、ACOはそこでフル・グリッド枠となる60台の車両と10台のリザーブチームから成るエントリーリストを発表した。
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2016年のル・マン24時間レースのリザーブ ACOから公表された10台のリザーブチームは、公式のテスト・セッション前に撤退したエントリーチームが現れた場合、替わって出場機会を得ることが出来る。「グリーヴス・モータースポーツ」、「ライリー・モータースポーツ」、「プロトン・コンペティション」は、後にその予備エントリーを撤回した。「アルガルヴェ・プロ・レーシング」は、LMGTE Amクラスにアストンマーティン車でエントリーしていたTDSレーシングが撤退した時、替わって本戦の出場枠を得ている。6台のリザーブチーム(「ペガサス・レーシング」と「チームAAI」のセカンドチームに1台のみの登録であった「JMWモータースポーツ」、「クラージュ」、「オーク・レーシング」並びに「ドラゴン・スピード」)は、本戦出場の機会を得ないままテストデーを迎えることとなった。
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2016年のル・マン24時間レースのテスト・セッションとフリー・プラクティス 6月5日に公式テストデーが、エントリーしている60台のレースカーの参加により前後2回のセッションに分けて行われた。1回目のセッションでは、ポルシェ2号車のニール・ジャニが3分22秒334のトップタイムを出した。2台のポルシェ車の後に、2台のアウディ車、そして2台のトヨタが続いた。6台レースカーを投入しているオレカ・05はLMP2カテゴリーのタイム上位を独占し、アルピーヌ・A460の名義でオレカ・05を走らせたシグナテック・アルピーヌの36号車に乗ったニコラ・ラピエールが同カテゴリーのトップタイムを出し、同一車両であるユーラシア・モータースポーツとマノー・モータースポーツが後に続いた。LMGTE Proクラスではポルシェが92号車と91号車で1-2を占め、コルベット63号車が続いた。LMGTE Amクラスでは、AFコルセのフェラーリ55号車がトップタイムを出し、スクーデリア・コルサのフェラーリ車が続いた。2回目のセッションでは、アウディ8号車のルーカス・ディ・グラッシが3分21秒375のタイムを出してトップに躍り出た。2番手のタイムは、タイムを更新したポルシェ1号車のマーク・ウェバーが出した。アウディ8号車はサスペンションの不具合による問題が発生し、その修理の為にセッションの時間の多くを費やすことになった。ユーラシア・モータースポーツ33号車のトリスタン・ゴマンディは、LMP2クラスの最速ラップを叩き出してシグナテック・アルピーヌの前に出た。マイケル・シャンク・レーシングのリジェ・ホンダ49号車に乗るオズワルド・ネグリ・ジュニアがセッションの残り1時間を切った時間帯で事故を起こした為、テスト・セッションは早々に切り上げられることになった。コルベット・レーシングの63号車に乗るアントニオ・ガルシアは2台のポルシェを抑えてLMGTE Proクラスのトップタイムを出した。LMGTE Amクラスでは、ラルブル・コンペティションのコルベット50号車をドライブするリザーブ・ドライバーのニック・カッツブルクがセッション1回目の最速タイムを塗り替えている。予選の前に1回のセッションのみが実施されるフリー・プラクティスは、6月15日の16時より4時間の予定で行われた。セッションの途中から雨が降り始め、一時は土砂降りとなるコンディションであった為、クラッシュが相次ぐこととなる。アウディ8号車はセッションの大半の時間をリードしていたが、終盤になってブレンドン・ハートリーがドライブするポルシェ1号車が抜き、更に残り10分を切ったところでニール・ジャニがドライブするポルシェ2号車が3分22秒011のトップタイムを出した。LMP2クラスではKCMG47号車がシグナテック・アルピーヌ36号車とパニス・バルテズ・コンペティションのリジェ23号車を抑えてトップタイムを出した。LMGTE Proクラスでは、フォード・GTとフェラーリ・488 GTEがリードし、AFコルセ51号車とリシ・コンペティツィオーネ82号車の2台のフェラーリ車に抜かれるまで3台のフォード車がクラスを引っ張っていた。LMGTE Amクラスでは、スクーデリア・コルサ62号車がセッションの大半をリードしていたが、残り15分を切った時点でル・マンのルーキー・チームであるクリアウォーター・レーシング61号車のロブ・ベルがクラス最速タイムを出した。ピエーレ・カファーが乗るバイコレス・レーシングチームのCLM・AER4号車はミュルサンヌ・ストレートで出火した為に1回目の赤旗が出された。ルーカス・ディ・グラッシがドライブしていたアウディ8号車もクラッシュし、セッション終了後には40分にも渡って(おそらくサスペンションの問題で)ガレージ作業に追い込まれていた。2回目の赤旗は、終了35分前にRGRスポーツ43号車に乗るブルーノ・セナがインディアナポリス・コーナーでタイヤバリアに突っ込んで出された。セッション終盤にはステファン・サラザンがドライブしていたトヨタ6号車がインディアナポリス・コーナー出口で姿勢を乱してバリアに衝突し損傷した。間もなくペガサス・レーシング28号車に乗るイネス・テッタンジェもインディアナポリス・コーナーでクラッシュして最後の赤旗が出され、セッションはそのまま終了となった。
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2016年のル・マン24時間レースの予選 全60台のレースカーによってトータルで6時間3セッションにも及ぶ予選が実施された。1回目のセッションはフリープラクティスとは異なり、ドライコンディションで行なわれている。翌日の2回目と3回目のセッションではセッション中に雨が降った為、結果的に1回目のみが唯一雨に祟られないセッションとなり、1回目のセッションで決勝のグリッド順位がほぼ確定することになった。フリー・プラクティスの後に行われた予選1回目のセッションでは、ニール・ジャニがドライブするポルシェ2号車が3分19秒733のトップタイムを出し、そのままポールポジションを獲得することになった。ジャニとポルシェチームのポール獲得は2年連続であり、それからほぼ0.5秒差で姉妹車のポルシェが2番手グリッドを得た。トヨタ6号車のステファン・サラザンは更に0.5秒差の3番グリッドを、続いてトヨタ5号車が4番グリッドを獲得した。アウディは2台については1回目のセッションで、7号車は燃料コネクタの問題、8号車はフロントのドライブトレインのトラブルに苦しみ、結局ポールを獲得したポルシェからおよそ3秒差のタイムで5番手と6番手になっている。ドミニク・クライハマーは、レベリオン・レーシング13号車はLMP1のプライベーターの中ではトップタイムを獲得したが、バイコレスはフリー・プラクティスでの出火の修理の対応に追われ、1回目のセッションには出場できずタイム不計測であった。LMP2のカテゴリーでは、G-ドライブ・レーシング26号車のレネ・ラストが1回目のセッションの残り15分の時間帯に3分36秒605のラップタイムを出し、シグナチュール・チームとシグナテック・アルピーヌを抑えて同クラスのポールを獲得した。バシー・DCレーシング・アルピーヌ35号車はクラス2位グリッドを、シグナテック・アルピーヌ36号車はクラス3位グリッドを得た。ユーラシア・モータースポーツ33号車の蒲俊錦はテルトル・ルージュ近くの事故により、車のフロントとリアエンドに深刻なダメージを被ることになった。LMGTE Proのカテゴリーでは、ル・マンでデビューした新型のフォード・GTが席巻し、フォード・チップ・ガナッシ・チームUSA68号車をドライブするシュテファン・ミュッケが3分51秒185のクラストップタイムを出し、69号車も0.3秒差でクラス2番手に入っている。フェラーリの新モデル488 GTEのAFコルセ51号車がクラス3番手に入ったが、その直後にはフォードのフォード・チップ・ガナッシ・チームUKというイギリスチーム2台がクラス4番手と5番手として入り、この後フェラーリをレースカーとするチーム2台が続いた。ポルシェ・モータースポーツ92号車は、クラストップのタイムよりほぼ4秒遅れを取るラップタイムであった。リシ・コンペティツィオーネ82号車のジャンカルロ・フィジケラはポルシェ・カーブでスピンを喫してグラベルに嵌り、この予選のセッションで唯一となる赤旗中断の状況を招いている。LMGTE Amのカテゴリーでは、クリアウォーター・レーシング61号車のフェラーリ・458イタリア・GT2を駆るロブ・ベルが3分56秒827のクラストップタイムを出した。クラス2番手にはアストンマーティン98号車が入り、続いてAFコルセの2台が3番手と4番手に入った。翌日の16日に行われた予選の2回目のセッションでは、セッション開始時はドライの状況であったものの、途中で雨に見舞われることになる。雨が降り始める前のセッション開始およそ30分程の時間帯では、前日の予選タイムを更新出来たLMP2とLMGTEのチームもいくつか現れている。このセッション開始時の貴重なドライの時間帯を活かしてタイムを大幅に更新したチームを次に挙げる。まず一つ目がLMGTE Amクラスの「アブダビ・プロトン・レーシング」の88号車で、クラス3番手までタイムを上げている。1回目のセッションではウェットコンディションの為に1周も出来なかったバイコレス4号車は3分34秒168のタイムを出して総合9番手に食い込む。LMP2クラスのペガサス・レーシング28号車はわずかにタイムを更新してクラス15番手に上げた。ポルシェ1号車は、このセッションにおけるトップタイムを出したが、それでも1回目のセッションの暫定ポールのタイムより3秒強遅れたものであった。2回目のセッションはドライの状態に回復することなく終了し、各カテゴリーのトップタイムはどれも更新されなかった。4台のアストンマーティン車全てがエンジンの交換を選択し、このセッションではタイムを出さなかった。3回目のセッションは、予定開始時間からおよそ1時間15分遅れの午後11時過ぎの天候が小雨となった段階で開始されているが、10分も経過しない内に天候は豪雨に変わり、間もなく数台がハイドロプレーニング現象の状況に陥り、幾つかのコーナーでは霧で視界が遮られるなどの走行に危険な状態となった為、再びセッションが中断された。雨が小降りとなりセッションが再開した時点では、多くのチームがセッションに復帰せず、ラップタイムもほとんど更新されることなく予選は終了した。なお、トヨタ6号車の小林可夢偉がこの3回目のセッションにおいてのトップタイムを出している。予選の結果に基づき、ACOは性能調整の為、LMGTE Proクラスのフォード・GTに10 kg (22 lb)のバラストを課すと共にターボチャージャーの過給圧を下げさせ、フェラーリ・488には25 kg (55 lb)のバラストを課して、そのパフォーマンスを落とさせた。似たように、アストンマーティンとコルベットにはそのパフォーマンスを上げさせる為にエアリストリクターを拡大させて吸気量を増やさせた。ポルシェ・911 RSRには特にパフォーマンスに関する変更はなかった。予選1回目のセッションで、5番手であったアウディ8号車は規定より多くの燃料を使っていたことが分かり、ベスト・タイムを取り消されている。その結果、替わってアウディ7号車が5番手グリッドに上がり、8号車は6番手グリッドに下がった。
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2016年のル・マン24時間レースの決勝 6月18日の午前9時から45分間のウォームアップ走行が行われた。トヨタ6号車のマイク・コンウェイが出したトップタイムを、セッション残り11分の時間帯でアウディ7号車のアンドレ・ロッテラーが1.2秒ほど上回って総合トップのタイムを記録している。3番手のタイムはポルシェ2号車が出した。パニス・バルテズ・コンペティションのリジェ23号車がポルシェ・カーブでクラッシュして15分程赤旗中断されて後に再開されてから約8分後、バシー・DCレーシング・アルピーヌ35号車がインディアナポリス・コーナーでコースオフの後バリアに衝突して2度目の赤旗中断となり、そのままセッションは再開することなく終了した。決勝レースは午後3時にスタートが切られたが、開始直前に降り出した雨は間もなく激しい土砂降りとなり、セーフティカー先導のレーススタートを余儀なくさせられている。レース開始40分過ぎに雨が上がり始めると急速に路面が乾いていき、開始51分後にはセーフティカー・ランも終了して、決勝レースは8周目より実質的なスタートが切られた。グリーン・フラッグが振られると、トヨタ6号車のマイク・コンウェイが前車を抜いてトップに立った。トヨタ5号車はドライバー交代直後にタイヤからの異常振動が生じて緊急ピットインを行ない、そこで1分ほどのピット作業を強いられることとなったが、さほど順位を落とすことなく5位のポジションでコースに戻っている。アウディ7号車はターボチャージャー周りのトラブルによるパーツ交換の為にガレージ作業が必要となり、大きく後れを取ることとなった。LMP1では、トヨタが1スティント14周、ポルシェが1スティント13周、アウディが1スティント12周のペースで走行し、燃費に勝るトヨタが徐々にレースを有利に進め始める。トヨタ6号車が2位に30秒近いギャップを築いてトップを維持し、ポルシェ2号車が2位、ポルシェ1号車が3位、トヨタ5号車が4位を走行した。アウディ8号車は5位を走行するが、ガレージ作業もあってトップから2周差を付けられる。アウディ7号車は8周差とトップから大差を付けられた。LMP2クラスは、トップを走っていたマノー44号車がスタートから5時間を経過しようとする時点でダンロップ・シケインでスピンし、替わってティリエ・バイ・TDSレーシング46号車の平川亮がクラストップに立つ。クラス2番手を走っていたKCMG47号車の松田次生はマシントラブルでリタイアに追い込まれている。LMGTE Proクラスでは、フォード・チップ・ガナッシ・チームUSA68号車と4.7秒差で追いかけるリシ・コンペティツィオーネ82号車との間で接戦が行われる。スタートから8時間半を経過した時点で、3周に渡ってセーフティカー・ランとなり、レース再開直後にトヨタ6号車がドライバー交代の為ピットインし、その後ポルシェ2号車に一時的に先行を許すがすぐにトップを奪還する。ポルシェ1号車は午後11時過ぎに水温が上がりすぎるトラブルでウォーターポンプを交換する1時間以上のガレージ作業を強いられた。ポルシェ1号車の長時間に渡る戦線離脱によりトヨタ5号車が3位、アウディ8号車が4位にポジションを上げた。ポルシェ2号車は215周走行した時点でパンクの為に緊急ピットインを強いられたりもしたが、トヨタを上回るラップスピードですかさずそのタイムロスを挽回し、その結果、1位トヨタ6号車・2位ポルシェ2号車・3位トヨタ5号車の3台の間でのタイム差が1分以内という非常に僅差で激しい上位争が続いた。一方アウディ7号車は16時間30分過ぎに再度ガレージ行きとなっている。LMP2クラスでは、クラス2位を走行中であったティリエ・バイ・TDSレーシング46号車の平川亮がクラッシュし、セーフティカーが導入される事態が生じた。46号車はピットになんとか戻ることが出来たが、直ちにガレージに入り長時間の修復作業が試みられることになった。このセーフティカーが導入されている時間帯に、トヨタの2台は同時にピットインをしてドライバー交代を行なった。セーフティカーがコースの外に出てレースが再開すると、セーフティカー導入の間にトップとの差を詰めていたセバスチャン・ブエミがドライブするトヨタ5号車がマイク・コンウェイがドライブするトヨタ6号車を追い抜いて首位が入れ替わり、首位トヨタ5号車、2位トヨタ6号車、3位ポルシェ2号車の順位となった。首位トヨタ5号車と3位ポルシェ2号車までのタイム差がわずか数秒差しかないという、激しい首位攻防戦が繰り広げられた。バイコレス4号車は火災を起こしてリタイアとなった。小林可夢偉が駆るトヨタ6号車は開始20時間過ぎにスピンを喫して3位でコースに復帰した後、チェッカーを受ける為にガレージでチェックを行い首位から3周遅れに後退した。レース残り1時間半の時点で、首位のトヨタ5号車と2位ポルシェ2号車のタイム差はおよそ30秒となっていた。LMP2クラスに関しては、ティリエ・バイ・TDSレーシング46号車は結局修復できずリタイアに追い込まれている。レース残り11分の時点でポルシェ2号車はスローパンクチャーにより予定外の(前後輪すべての)タイヤ交換を行なった。残り6分30秒の時点で、首位のトヨタ5号車と2位ポルシェ2号車のタイム差は1分14秒にまで広がっていた。それから間もなくをポルシェカーブを立ち上がったところを運転していたトヨタ5号車のドライバーの中嶋一貴からピットに悲痛な叫びの無線が入った。「 I have NO POWER ! NO POWER ! 」 それからトヨタ・TS050 HYBRIDはスローダウンを始め、パワーが上がらず時速200km以上の速度を出せなくなる。トヨタ5号車はなんとかメインストレートまで戻ってくるが、フィニシュラインを超えた地点で停止した。その横をニール・ジャニが運転するポルシェ2号車が一気に抜いていき、首位交代する。レースは残り3分25秒という時間帯の出来事であった。レース後にトヨタ5号車のトラブルの原因はターボチャージャーとインタークーラーを繋ぐ吸気ダクト回りの不具合であったことが判明する。ル・マンでは6分以内に周回しないとリタイアと見なされるという規定があるが、トヨタ5号車はフィニシュラインを超えた地点で停止していた為に、完走扱いになるには6分以内に周回して再びフィニシュラインを超えなければならなかった。中嶋一貴はTS050 HYBRIDのシステムを一旦リセットして通常のスタートの手順で再起動を試みたが、TS050は動き出さなかった。他の手段を色々試行して何とか再始動させたが、時速100kmまでしか速度を上げることが出来なかった。公式には、トヨタ5号車は規定タイムを大幅に超える11分53秒815のタイムで最終ラップを周回した。この為トヨタ5号車は完走扱いにならず順位もつかなかった為、選手権でのポイントも獲得できなかった。ポルシェ2号車がレースを完走して総合優勝を果たし、ポルシェが通算18度目のル・マン制覇を成し遂げた。トヨタ6号車が3周遅れの2位、アウディ8号車が12周遅れの3位に入っている。LMP2クラスは、アルピーヌ・A460のレースカーをドライブしたニコラ・ラピエール/グスタヴォ・メネゼス/ステファン・リシェルミ組のシグナテック・アルピーヌ36号車がクラス優勝した。ラピエールは2年連続のLMP2クラス優勝であった。LMGTE Proクラスは、ジョーイ・ハンド/ディルク・ミューラー/セバスチャン・ブルデー組のフォード・チップ・ガナッシ・チームUSA68号車フォード・GTが、リシ・コンペティツィオーネ82号車フェラーリ・488 GTEとの争いを制しクラス優勝を飾った。LMGTE Amクラスは、ビル・スウィードラー/タウンゼント・ベル/ジェフ・シーガル組のスクーデリア・コルサ62号車のフェラーリ・458イタリア GT2がクラス優勝を果たした。澤圭太が乗り込んだクリアウォーター・レーシング61号車フェラーリはクラス4位、山岸大が乗り込んだラルブル・コンペティション50号車のシボレー・コルベットはクラス8位でレースを終えている。
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2016年のル・マン24時間レースのレース後のトヨタ5号車に関して レース直後、歓喜に沸くポルシェのピットとは対照的にトヨタのピットは重苦しい雰囲気が漂い、溢れる涙をこらえようとする者や人目をはばからず泣く者もいた。5号車から降りるまで比較的冷静だった中嶋一貴も、出迎えたチームメイトのセバスチャン・ブエミとエンジニアの姿を見て感情が抑えきれず、涙が止まらなかった。チームメイトについても、ブエミは口惜しさを怒りに変えているようであったが、アンソニー・デビッドソンは深く落ち込んでいる様子が見られた。ただ、トヨタチームに対してサーキット全体が温かく見守ってくれていることが感じられ、中嶋一貴は心に響いたという。今一歩のところで優勝を逃すこととなったトヨタの健闘を称える賛辞が、優勝したポルシェチームやライバルのアウディチームから相次いでいる。
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潜水反応の生体の反応 名称に「潜水」と付くが、別に潜水を行わなくても単に息(肺への空気の出し入れ)を止めればこの反応がヒトで起こる。息を止めたことによって、心拍数の低下(徐脈)や末梢血管の収縮が起こることを潜水反応と呼んでいる。これは当然のことだがたとえ外呼吸(息を)止めたところで、ヒトが生きている限り内呼吸(細胞での呼吸鎖)は止められないので生体内では酸素が消費される。そして外呼吸を止めている限り、結果として動脈血酸素飽和度(SpO₂)も徐々に低下する。しかしヒトが生きていればいずれ息苦しさを感じ外呼吸を再開する(ヒトは十分な酸素が無いと生命を維持できない)のでいずれ外呼吸を再開し、潜水反応も消失する。ただし外呼吸を止めていた時間や外呼吸を止めていた間に行っていた活動などの条件にもよるが、外呼吸再開後もしばらくの間、普段よりも深く外呼吸を行う(普段よりも肺の1回換気量を上げる)などといった一過性の反応が見られることもある。
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山名豊時の生涯 生年は不明。系図上では山名勝豊の子とされているが、現在勝豊の存在が疑問視されており、山名豊氏との関連も指摘されている。史料上の初見は文明11年(1479年)8月(『大乗院寺社雑事記』同年8月2日条)で第一次毛利次郎の乱鎮圧のため、因幡への下向が伝えられている。豊時の守護就任がいつ頃なのかは不明であるが、当時は守護権力が脆弱であったと推察され、鎮圧に1年近くかかってようやく鎮めた。その後も因幡周辺では不穏な情勢が続き、長享元年(1487年)9月の足利義尚の六角征伐には子息の豊重を派遣していることからも自身は因幡に引き続き在国していたとみられる。長享2年(1488年)8月、因幡では不穏な情勢が頂点に達し、浦上則宗の工作により豊時の守護解任と反守護方に擁立された山名政実の守護補任が決まる事態となり、第二次毛利次郎の乱が起こった。しかし、以前の反乱を教訓に国内での地盤を強化していたため、反乱への同調は広がらず、守護方の圧勝に終わった。2度の反乱を乗り越えて以降は比較的安定した統治がなされたようである。延徳3年(1491年)5月には幕府から因幡岩井庄吉田保内にある北野社領の押領停止などを命じられている。同年8月、惣領・山名政豊の名代・山名俊豊に率いられ上洛。8月23日朝には子・豊重らとともに幕府に出仕し、27日の足利義材の江州出陣に従軍した。明応2年(1493年)2月、義材の河内出陣に豊重とともに従軍。同年4月の明応の政変の際には豊重を義材方に、自身は義澄方に属していたことが伝えられている。ただ、4月下旬に義材が捕らえられた時点ではすでに義材陣営に豊重の姿が見えないことから、家中分裂というものではなく、豊時の指示で両陣営を観察していたとの指摘がある。また、この政変で始まる但馬の惣領家内での争いにも関与した形跡はなく、注意深く物事をよく見極めてから行動する人物という一面も見せている。『後法興院記』(5月7日条)によると明応3年(1494年)5月、理由は不明ながらも因幡へ下向している。没年は不明で文亀元年(1501年)11月9日付けの『石清水八幡宮文書』に「伊予守」としてみえるのが史料上確認できる最後の姿である。永正元年(1504年)3月には因幡守護として豊重がみえるため、その頃までに死没あるいは家督の譲与が行われたと思われる。
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山名豊時の文化人としての一面 文明14年(1482年)9月、歌人の飛鳥井雅親に師事していたことが伝えられているのを皮切りに蹴鞠・犬追物などを興ずる姿が度々確認されている(『親長卿記』など)。明応元年(1492年)3月には二楽邸での歌会に守護代を引き連れて参加、4月には北野社会所において豊時発句による万句興行を行うなど、文化的教養を身につけることで各方面との交流を深めようとしている。なお、第一次毛利次郎の乱が終結した後の文明15年(1482年)7月と11月には伊勢貞宗邸での犬追物に参加している。『伊勢家書』によればこの犬追物には毛利貞元(毛利次郎の乱を起こした中心人物)も参加しており、11月の犬追物では両者が競い合うという興味深い光景が見られたようである。
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馬淵辰郎の来歴・人物 岐阜県出身。旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業。大学では排球部に所属し、のちに東京商科大学排球部監督も務めた。部の後輩に村井勉(元アサヒビール社長)、米倉功(元伊藤忠商事社長)、荒川和夫(元サッポロビール社長)、川勝堅二(元三和銀行頭取)などがいる。三菱石油では経理畑を歩む。常務を経て、1978年、水島製油所原油流出事故で辞任した渡辺武夫前社長の後任として三菱石油社長に就任。約190億円の累積赤字を一掃したが、健康問題もあり、1983年に社長を退任し会長に就任。会長就任後、三菱石油株の50パーセントを有していた米ゲッティ・オイル社が、米メジャーテキサコに買収されたのを機に、石川潔社長とともに、三菱金曜会メンバーを中心として三菱グループ企業から出資を募り、エネルギー安全保障等の観点から、三菱グループでゲッティから三菱石油株を買収し、三菱石油を、ゲッティ・オイル子会社から、三菱グループによる民族系石油会社とした。1986年勲二等瑞宝章受章。1989年、三菱石油相談役。1995年9月28日、東京都杉並区善福寺の自宅で心不全のため死去、享年79。
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アキギリ属の特徴 草本、一部は低木になる。葉は対生、単葉のものもあるが、羽状複葉に避けるものも多い。花は輪生に見えるが、実際には対生でありながら、それぞれが分枝を持つ偽輪生。それが穂状や総状などになる。萼は唇状で、上唇は三裂、下唇は二裂。花冠は唇花状。上唇は幅が狭くて立ち、下唇は幅が広くて三裂し、その中央が大きい。
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アキギリ属の下位分類 日本原産の種類としてはアキノタムラソウ、キバナアキギリ(黄花秋桐)など約10種がある。アキギリやアキノタムラソウは山野に普通な野草である。ミゾコウジュは絶滅危惧種に指定されている。
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ハル・ホルブルックの来歴 オハイオ州クリーヴランドで生まれ、マサチューセッツ州サウス・ウェイマスで育つ。母親のアイリーン(旧姓ダベンポート)はボードヴィルのダンサー。兵学校卒業後、デニソン大学で演劇を学ぶ。シェイクスピア劇やワンマンショーなどの舞台に出演し、1966年に作家マーク・トウェインを演じた『Mark Twain Tonight』でトニー賞 演劇主演男優賞を受賞。1966年にシドニー・ルメット監督の『グループ』で映画デビュー。『ダーティハリー2』や『ウォール街』、『ザ・ファーム 法律事務所』などで印象を残す。1971年放送のテレビシリーズ『The Bold Ones: The Senator』でエミー賞主演男優賞(テレビシリーズ・ドラマ部門)を受賞。テレビ映画でもエミー賞を3回受賞した。2007年公開のショーン・ペン監督作品『イントゥ・ザ・ワイルド』でアカデミー助演男優賞にノミネートされた。この時82歳で同部門の最年長候補者となった。
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トクスイコーポレーションの概要 国内外で水産事業、食品事業を主に行っており、インドネシア共和国、アメリカ合衆国にも拠点を置いている。
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最後の酔いの概要 1956年発表の曲である。カトゥロ・カスティージョ作の詩がついて、歌われる。なお、カトゥロ・カステージョは、タンゴの楽曲 「たそがれのオルガニート」 の作曲を手がけている。アニバル・トロイロ楽団で、エドムンド・リベロ(Edmundo Rivero)の歌の録音が、よく聴かれている。他のタンゴ楽団も録音を残しているが、やはりアニバル・トロイロ楽団の録音が、目立つ。1988年のアルゼンチン映画「スール/その先は…愛」(Sur)で、ロベルト・ゴジェネチェ(Roberto Goyeneche)が歌うシーンがある。最近では、タマンゴ(Tamango)のグループのカロリーナ・ロドリゲス・ラライアの歌が、YouTube でアップロードされている。なお、curda は、ラプラタ近辺の俗語ルンファルド(lunfardo)で、「酔い」であるが、「クルド人」が元の意味で、「酔っ払ったインディオ」、「酔っ払い」、「酔い」となる。
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アナカリス (ヴァンパイア)のキャラクター設定 広くエジプトを支配し、ナイル流域を支配した無敵の王国のファラオ。第11代皇帝ウロスの第一王子として生まれ、12歳で王の座に着く。弟に第二皇子エラトス、第三皇子ヘテロソスがいたが、エラトスは生まれて間もなく、ヘテロソスは20歳で病没している。アナカリスは絶対的なカリスマと統率力で国を纏め上げ、王国の繁栄を永遠のものにするため、自分の死後は復活を果たし、自らが神となり国を守ることを予言し、家臣に命じてピラミッドを築かせた。6000万人の労働力を動員し、3133人の人柱を捧げて16年に亘る建築作業の果てに壮麗なピラミッドが完成した。しかし27歳の時、アナカリスは隣国との戦争で傷を負い、それが元で熱病に侵され没した。家臣たちによってピラミッド内部へ丁重に収められたアナカリスは、数千年の時を経てパイロンの地球への来襲に際し、予言通り復活を果たす。元の体は既に朽ちていたが、肉体の代わりに身に付けた、黄金のマスクと包帯を自分の体のように意のままに操ることができるようになっていた。その体で外に出たアナカリスの目に映ったものは、かつての自分の王国では無く一面に広がる広大な砂漠だった。国は、アナカリスが死んだ後の戦争で侵略されて滅亡し、その存在すらも歴史から忘れ去られていた。そのことを悟ったアナカリスは、滅亡を招いた自分の過ちに気付き、それを正し亡国を復活させるべく動き出す。『ヴァンパイア』および『ハンター』でのエンディングでは、敵に襲われ滅亡の危機にある自国を、過去に戻って自ら救い出す。『セイヴァー』では、未来から送られてきたジェダの声を聞きつけ、自ら魔次元へ出向く。そのエンディングでは、世界の崩壊は回避不能と判断し、地下に新たな王国を建設している。外見は3m近い巨体を持つ、非常に筋肉質な体つきをしたミイラ。体中に包帯が巻かれ、腕輪やアンクレットにスカート、そしてツタンカーメンに代表されるようなファラオの仮面を身に付けている。包帯の下の体はミイラのために干からびている。全く違う形に体を変形させることが可能で、その本体のミイラは一部の攻撃やダメージを負った時のモーション中に、わずかに覗き見ることができる程度。手足の指が非常に大きく、指は長方形のように角ばって見える。初期デザインではマスクやアンクレットのような装飾品はなく、身体に包帯を撒いただけのシンプルなミイラの外観で、体格も痩躯だった。ホームステージは『ヴァンパイアハンター』(以下『ハンター』)まではエジプトのピラミッドの内部。『ヴァンパイアセイヴァー』(以下『セイヴァー』)以降は、「RED THIRST(赤い渇き)」と呼ばれる赤く大きな月の登るスフィンクスを背にした夜の砂漠。『MARVEL VS. CAPCOM 2』(以下『MvsC2』)で初の外部作品への参戦を果たし、その後も『CAPCOM FIGHTING Jam』(以下『CFJ』)に参戦している。また、カプコンの有料携帯サイト「ケータイカプコン」では、アナカリスの名を冠したパズルゲーム『パズル アナカリス ザ カオス ピラミッド』が配信された。初代からあるEX必殺技の「ファラオマジック」は、モリガンの「ダークネスイリュージョン」と同様ボタン順押しコマンドの最初の技である。
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アナカリス (ヴァンパイア)のゲーム上の特徴 人間ではないモンスター同士の戦いを描いた『ヴァンパイア』シリーズの中でもズバ抜けたトリッキーな動きが特徴。包帯に覆われた体自体を全く違う形に変形させて腕や足を大きく伸ばしたり、地面から突然蹴りを出したり、「ミイラドロップ」のように何も無い空間に突然手を伸ばして相手を捕えるなど、物理法則を大きく無視した技が多く、人間らしい動作の攻撃の方が少ない。通常の移動速度が非常に遅い半面、2段ジャンプができたり、他のキャラクターと違って、真上に向かってのジャンプで空中で一定時間浮遊(高さを2段階調節可能)する特殊能力を持つ(一定時間が経過するか、相手の攻撃を食らうまで。『MvsC2』では使用不可)。その他、地縛霊の一種である「カイビト」を使役して、古代エジプトの聖刻文字や装飾に彩られた様々な攻撃を放つ。『ストリートファイターII』のダルシムから派生するイロモノの流れを引き継いでいる。なお、『ヴァンパイア』の登場キャラクターの中で唯一、通常投げを持っていない(相手の通常投げに対して受け身を取ることは可能)。また、『ハンター』では唯一ガードキャンセルが行えず、『セイヴァー』以降はガードキャンセルが搭載されたものの、こちらはアドバンシングガードが行えない。また、空中で口から斜め下方に向かって発射する「王家の裁き」は、相手を一定時間マスコットのようなキャラクターに変え、効果が切れるまでの間前後を低速で移動する以外の動作ができない無防備状態にする。この技で変身させられることを技名からとって「裁かれる」と呼び、ALL ABOUTシリーズ(電波新聞社発行)などの書籍では、他のゲームの同質の技によって相手を無力な姿に変身させること全てにこの用語が用いられている。裁かれた際の姿はキャラクターによって異なる。外部出演した『CFJ』のキャラクターたちにもその姿が用意されている。なお、『MvC2』のみ全キャラ統一の奴隷の姿になる仕様で、攻撃ボタンを押すと土下座をするようになっている。
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キム・ヒョンソク (音楽家)の人物 1988年にキム・グァンソクに提供した「사랑이라는 이유로(愛という理由で)」で作曲家デビューする。(音源発売は1991年)イン・スニ、パク・ジニョン、BoA、シン・スンフン、キム・ゴンモ、キム・ウォンジュン、キム・ジョンミン、イム・チャンジョン、ユ・スンジュン、パク・チユン、キム・ジョハン、Unnies(オンニス)、KAI、など数多くの歌手たちのアルバムやドラマ、映画、ミュージカル音楽を手がけた。2015年8月、光復70周年を記念し、朝鮮半島の統一を願い、世界に支持を呼びかける「ONE K グローバルキャンペーン」の一環として、「新しい時代の統一の歌キャンペーン」テーマソング『One Dream One Korea』を発表する。レコーディングには当時野党党首だった文在寅も参加した。同曲は、2018年南北首脳会談後のレセプションの歓送曲として使用された。2017年9月、欧米諸国に倣い、文在寅大統領に象徴曲「ミスター・プレジデント(Mr.President)」を献呈した。同曲は同年11月7日、ブッシュ米大統領以来25年ぶりに国賓として訪韓したドナルド・トランプ米大統領の青瓦台公式歓迎式退場曲としてKBS交響楽団により演奏された。※入場曲は米大統領公式入場曲の「Hail to the Chief」
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キム・ヒョンソク (音楽家)のエピソード 後のJYPエンターテインメント代表パク・ジニョンに音楽制作のノウハウを指導している。
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HeLa細胞の起源について ヒト子宮頸癌由来の細胞であり、1951年にジョージ・オットー・ゲイ (George Otto Gey) により分離され、細胞株として確立された。動物の生きた細胞を実験室で培養する細胞培養(あるいは組織培養)の技術は、19世紀のシドニー・リンガーによるカエル心臓の培養、1885年ヴィルヘルム・ルーのニワトリ胚神経節の培養などの組織レベルからはじまった。その後、1907年にはロス・ハリソンのカエル神経細胞の培養に成功したことで、細胞レベルで行われるようになり、マウスなどの哺乳類を含め、さまざまな動物の細胞が培養されるようになった。しかしヒト由来の細胞を安定に、数週間程度培養しつづけることには、多くの研究者が挑戦したにもかかわらず、ハリソンの実験以降の約50年間、誰も成功しなかった。ジョージ・ゲイは、1940年にウィルトン・アール (Wilton Earle) とともに世界初の株化細胞(安定して増殖を繰り返す細胞)であるL細胞をマウスから作製することに成功した、当時の細胞培養研究の第一人者であった。彼もまた、ヒト細胞の培養に挑戦していたが、1951年2月8日、勤務していたジョンズ・ホプキンス病院で1つの小さな病理切片を入手した。子宮頸癌で診察を受けた、ヘンリエッタ・ラックスのものであった。彼は、この切片から世界初となるヒト細胞株の培養に成功し、彼女の名からアルファベット2文字ずつを取って、HeLa細胞と名付けて発表した。この細胞は、患者であるヘンリエッタ・ラックスに断りなく培養されたものであった。1950年代当時には、切除された組織や外科手術、治療・診断中に得られた材料は医師及び(または)医療研究所のものであると考えられていたので、患者やその家族に対して説明し、同意を得る必要がなかったからである。このため、最初その細胞株は、ラックスの名前を隠すため、「ヘレン・レーン」あるいは「ヘレン・ラーソン」にちなんで命名されたとされていた。ヘンリエッタ・ラックスは1951年10月4日に子宮頸癌でこの世を去ったが、彼女の子供がこの細胞のことを偶然知ったのは、20年以上経ってからのことであった。この間にも、HeLa細胞はさまざまな実験室で用いられ、また商業的にも扱われていたが、その利益の一部を彼女の家族が受けることもなかった。この問題は、後にジョン・ムーア対カリフォルニア大学の指導教授の訴訟 (en) がカリフォルニア州最高裁判所に提訴された際の参考事例となり、法廷は摘出された組織、細胞はその人のものではなく商業的に扱って構わないと裁定した。HeLa細胞は継代培養されており、HeLaに由来するいくつかの株(HeLa S3など)も存在する。これらを含めて、すべてのHeLa細胞はラックスから切除された同じ腫瘍細胞の子孫である。これまでに世界中で培養されてきたHeLa細胞の塊の総計はヘンリエッタ・ラックスの身体の残りの部分をはるかに凌駕すると推定できる。
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HeLa細胞の特徴 HeLa細胞は付着細胞であり、その形態は上皮様である。増殖能は高く、他の癌細胞と比較してもなお異常に急激な増殖を示す。この増殖能の高さが、ジョージ・ゲイがHeLa細胞の分離に成功した大きな理由であると考えられている。また他の樹立された培養細胞株と同様、不死化しており、細胞分裂を無制限に繰り返すことが可能である。これらの特徴に加えて、HeLa細胞は、足場非依存性増殖が可能である点や、特定の実験動物(抗胸腺細胞処理ハムスター頬袋)で腫瘍を形成することから、がん細胞としての性質を持つことが示されている。
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HeLa細胞のヒトパピローマウイルスによる不死化 HeLa細胞は、ヘンリエッタ・ラックスの子宮頸部の上皮細胞に感染し、がんの原因になったヒトパピローマウイルス18型 (HPV18) の遺伝子の一部(L1、E6、E7を含む領域)が、細胞の染色体に組み込まれたことが、癌化の形質や不死化に関与していると考えられている。マウス由来の細胞などに、HPVのE6、E7遺伝子を遺伝子導入すると、細胞は不死化することが知られている。HPV18の持つE6およびE7と呼ばれるウイルス初期遺伝子(感染後早い段階で発現する遺伝子群)には、それぞれ宿主細胞の細胞増殖を抑制的に制御するp53タンパク質やRbタンパク質と結合して阻害する働きがある。E6タンパク質はp53と結合してユビキチン化を促進する活性があり、これによって細胞内のp53は分解される。E7タンパク質はRbと結合する活性を持っており、転写因子E2FとRbとの結合を阻害することによって、E2Fが活性化され、細胞周期の停止した状態を解除する。これらの働きによって細胞周期チェックポイントの機構やアポトーシスが回避された結果、HeLa細胞は無限増殖性を持ったがん細胞としての性質を持っていると考えられている。一般に、(L細胞の起源となった例のように)マウスなどのげっ歯類由来の細胞は、比較的容易に不死化し、通常の培養過程で自発的 (spontaneous) に不死化することもあるが、これに対してヒト細胞は不死化しにくく、HPV E6E7だけでは不死化が起こらないケースも多い。HeLa細胞では、この機構に加えて、他のがん細胞でもしばしば見られるように、テロメラーゼが活性化されており、老化とその結果として起こる細胞死に関係があるとされるテロメアの漸次的短縮を妨げている。これによって、HeLa細胞はヘイフリック限界を回避している。
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HeLa細胞の染色体数 HeLa細胞は異数性であり、正常なヒトの染色体数 (2n=46) とは異なる、それよりも多い染色体数を持つ。その染色体数には細胞ごとのばらつきが大きく、同じ系統に由来する細胞株であっても、その中にはいろいろな染色体数を持った細胞が含まれている。例えば、代表的な細胞バンクであるアメリカンタイプカルチャーコレクション (ATCC) のHeLa細胞(CCL-2株)の場合、染色体数分布は82を中心にしてばらついており、12番染色体のコピーを4つ、6番、8番、17番の染色体のコピーをそれぞれ3つ持っている。この染色体の異数化は、細胞分裂時の異常(染色体不分離)によって一旦、四倍体細胞が形成された後、それが細胞分裂を行うときに不均一化して生じることが示唆されている。2013年にHela細胞のゲノムが解読され、正常細胞と比較して著しいエラーが生じていることが報告された。
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HeLa細胞の培養 増殖性が高いため培養は容易である。ただし細胞密度が高くなりすぎると、形質が変化したり細胞死を起こすことがある。多くの研究室で独立に継代維持されている培養細胞には、研究室ごとに性質の違いを生じていることが見られる。HeLa細胞は最も古いヒト培養細胞であるため特にこのような違いが多いと言われている。このような問題を避けるため、必要に応じて、ATCCなどの細胞バンクで維持されている素性の明らかな細胞株を入手して利用する。
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HeLa細胞の利用 HeLa細胞はヒトがん細胞のモデルとして、また、最初に樹立されたヒト細胞株であるため、より一般的なヒト細胞のモデルとして、多くの研究において利用された。HeLa細胞はタバコ培養細胞との融合も可能なほど、細胞融合が自由に行える細胞であることや、いろいろな種類のウイルスに感受性であることから、これらの性質を利用した実験にも用いられる。1953年には、ジョージ・ゲイらは、ポリオウイルスをHeLa細胞に感染させて増殖させることが可能であることと、この感染によってHeLa細胞が死ぬことを利用して、簡便なポリオの診断法を開発した。また、1960年代にはRNAの生合成や細胞内局在に関する研究が、また1970年代には細胞融合を利用した細胞周期に関する研究が、それぞれ主にHeLa細胞を用いて行われている。
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HeLa細胞の他の細胞へのコンタミネーション HeLa細胞は、極めて増殖性が高いため、同じ実験室で維持されている他の細胞に紛れ込んで汚染(コンタミネーション)する場合がある。何人かの研究者が既に確立された細胞株の同定と純度の試験を行ったが、この汚染の頻度がどの程度であるのかは不明である。
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HeLa細胞の新生物 Helacyton gartleri HeLa細胞はラックスの子宮頸癌から生じたと信じられており、またがん細胞としての実験室的な特徴をしめすことから、一般的にはがん細胞として扱われている。しかし一部の研究者は、細胞株の分類上の議論をまだ続けている。無限に複製するその細胞の能力とヒトとは異なる染色体数から、リー・ヴァン・ヴェーレンはHeLa細胞を、人間の体細胞とは別種のHelacyton gartleriであると論争的に述べた。
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徳田敦子の歴史 邑はまず新石器時代の華北、黄河中流域の黄土高原に散在して出現する。出現期の邑は仰韶文化に属する陝西省の半坡遺跡や姜寨遺跡で知られており、小高い丘の上に住居が集まり壕と小河川で囲まれて防御されている。防御施設にはやがて黄土製の日乾し煉瓦で築かれた城壁が加わり、この城壁も新石器時代末の頃から黄土を木枠の内側で棒によって層状に硬く突き固める版築によるものが出現する。版築の城壁は河南省淮陽県の平糧台遺跡に最古期のものを見ることができ、厚さ10mの城壁がほぼ正方形の方形プランを成している。この方形プランが以後の中華世界の都市の基本形を成していくことになる。やがて大邑が小邑を従えるようになり、また邑どうしを結ぶネットワーク状の社会が形成されるようになる。またその中から特定の大邑の君主は殷や周の様に王および天子を称して諸々の大邑を従え、邑社会に盟主として臨むようになる。ここで殷王や周王の権威に服した大邑の君主が「諸侯」、王や諸侯の君臨する大邑が「國(コク)」である。殷や周といった古代王朝の実態はこのような邑の連合体であり、その総数は周初で1,700、東周時代で1,200を数えたとされる。邑から成る社会の発展に伴い、君主の在所である大邑を「都(ト)」、それに従属する小邑を「鄙(ヒ)」の字でも表現するようになる。周の行った封建とは、こうした邑に拠る氏族共同体相互の支配被支配関係に他ならない。そのため、王かつ天子として君臨する周王ですら所属する氏族共同体から制約を受け、また支配下の諸侯の大邑たる國に服属する小邑にまでは直接支配の手は及ばなかった。この華北型の都市国家群で形成される社会を中江丑吉は「邑土国家」ないしは「邑制国家」と呼んで後者が普及したが、宮崎市定はこれを批判して全世界的に普遍的な都市国家段階の社会として考察を行った。東周期、春秋時代から戦国時代への変遷はこうした邑のネットワークからなる都市国家社会から領域国家社会への発展期であったが、この変化に伴い邑は都市や集落一般を示すようになった。戦国時代の領域国家の時代から秦漢帝国の統一王朝の時期に出現した県、郷、聚、亭と称せられるものは邑の発展によって規模や性格が分化して成立したものである。こうした邑の後身の都市的集住地のなかでも県の雅称として邑を用いることが多くなっていく。領域国家への発展とは邑の氏族共同体の解体による家父長的支配の台頭であった。まず同姓氏族の共同体は解体して氏族共有地は氏を冠する戸という家族共同体の家父長的土地所有に解体した。同様に氏族共同体に強く拘束されていた諸侯がそこから次第に脱して家父長的支配者に成長した結果、戸に解体された氏族共同体成員の家父長を個別に直接支配するようになった。また、諸侯の私的な従属者から政務に当たる官僚が台頭してくることにもなった。こうして君主による専制が実現していくことになる。しかし、今日でも中国社会には邑制の社会に発した影響が色濃く残っている。前漢末期の紀元前2年の統計で邑の伝統を引く県治とそれに準ずる統治単位が1,588であり、1,200から1,700という周代の邑の数に近似しており、このおよそ1,500の各種規模の都市を基盤とする社会が中国の歴史時代を通じて今日まで維持されている。
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桟熊獅の概要 邑の周囲には氏族共有の農耕地が展開し、集住地は版築などによる方形プランの囲壁である外城によって防御されていた。囲壁内には家屋だけではなく祖先を祀る宗廟と土地神を祀る社が置かれた。邑の宗廟と社、さらに支配層の居住区と官衙は囲壁で囲われた南西の隅に置かれ、そこをさらに強固な囲壁である内城で防御した。内城で区画された領域が「城(ジョウ)」で神聖な領域とされたとともに有事の際には最後の防衛拠点とされた。邑の発展で外城の内側が手狭になると居住区を外側に広げて新たな外城を構築したが、それで間に合わなくなると外城のひとまわり外側を囲う外郭城を設けたり、外城に接して居住区を囲う別城を築いた。原初の邑の立地は水利や木材などの天然資源の立地に恵まれた丘陵地などであったが、社会の発展、人口増加などと共に黄河下流の華北平原など平原部に新たな邑が築かれていった。春秋時代の諸侯直轄の邑が「國」であったが、ここに居住する氏族共同体成員を「國人」と呼んだ。國の城壁から軍の1日行程の距離(1舎=30里)までが宗廟と社の霊威の及ぶ空間とみなされており、ここが「國」の境域である竟とされて門が設けられ、成員の出入りにすら祖先、「國」の先君、宗廟への報告が必要とされた。そのため、外部の者がここを通過するためには「道を假る」すなわち、それな りの礼物を揃えて相手に道を借りる礼が求められた。さらに戦に敗れてこの内側に攻め込まれて盟を結ぶことは「城下の盟」と呼ばれて自國が戦勝國に対して自立性を失って國から鄙邑(属邑)に転落する屈辱的なこととされた。それ故に戦勝國が敗戦國の城壁から軍を1日行程退けて戦後処理の交渉に入る事が「一舎を退く」として双方の國が対等な立場で盟を結ぶ、礼にかなう事とされた。「國」の神官である「祝」は社稷が動かない限りはこの空間を出てはならず、例外的に國君が自ら外征する出陣に際して土地神の祭祀施設である社を祀り、犠牲の血を鼓に塗り、社主を奉じて國君と軍に同行した。
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ジョーイ・ローレンスの略歴 佐世保市出身。県立佐世保中学校(現・佐世保南高校)、第五高等学校文科甲類を経て、東京大学経済学部を卒業。長崎県職員、佐世保市職員、佐世保重工業(SSK)社員を経て、1970年3月に長崎県出納長に就任、1972年3月に副知事に転じ1期を務めた。1979年4月、引退する辻一三市長の後継として佐世保市長選に出馬し当選、4期16年を務める。在任中にテクノポリス指定や西九州自動車道の大塔までの開通、ハウステンボスの誘致などを果たしたが九州新幹線西九州ルートの早岐経由から嬉野温泉経由への経路変更問題で政治姿勢を追及され、1992年12月の定例市議会で異例の「市長に猛省を求める決議」が可決されるに至った。また、1994年には極端な少雨から全市域において時間給水制限を9月から退任直前の翌年4月までの長期にわたり実施せざるを得なくなるという事態にも遭った。1994年10月29日には妻・輝子が逝去し、上記の断水と問責決議などを理由に同年12月に引退を表明して翌1995年4月の市長選には出馬せず退任。同年11月3日に勲三等瑞宝章を受章。1998年から翌年にかけて長崎県教育委員長を務めた。2012年2月3日、胃がんのため死去。88歳没。
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フリーポート・マクモランの私生活 2002年にミシェル・ヴェラと結婚するが、2005年に離婚。その後、キャンディ・ヨーン・ネルソンと再婚し、2人の娘チャールストン(2006年生)とリバティ・グレイス(2010年生)をもうける。
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まれびとの概要 外部からの来訪者(異人、まれびと)に宿舎や食事を提供して歓待する風習は、各地で普遍的にみられる。その理由は経済的、優生学的なものが含まれるが、この風習の根底に異人を異界からの神とする「まれびと信仰」が存在するといわれる。「まれびと」の称は1929年(昭和4年)、民俗学者の折口信夫によって提示された。彼は「客人」を「まれびと」と訓じて、それが本来、神と同義語であり、その神は常世の国から来訪することなどを現存する民間伝承や記紀の記述から推定した。折口のまれびと論は「国文学の発生〈第三稿〉」(『古代研究』所収)によってそのかたちをととのえる。右論文によれば、沖縄におけるフィールド・ワークが、まれびと概念の発想の契機となったらしい。常世とは死霊の住み賜う国であり、そこには人々を悪霊から護ってくれる祖先が住むと考えられていたので、農村の住民達は、毎年定期的に常世から祖霊がやってきて、人々を祝福してくれるという信仰を持つに至った。その来臨が稀であったので「まれびと」と呼ばれるようになったという。現在では仏教行事とされている盆行事も、このまれびと信仰との深い関係が推定されるという。まれびと神は祭場で歓待を受けたが、やがて外部から来訪する旅人達も「まれびと」として扱われることになった。『万葉集』東歌や『常陸国風土記』には祭の夜、外部からやってくる神に扮するのは、仮面をつけた村の若者か旅人であったことが記されている。さらに時代を降ると「ほかいびと(乞食)」や流しの芸能者までが「まれびと」として扱われるようになり、それに対して神様並の歓待がなされたことから、遊行者の存在を可能にし、貴種流離譚(尊貴な血筋の人が漂泊の旅に出て、辛苦を乗り越え試練に打ち克つという説話類型)を生む信仰母胎となった。来訪神のまれびとは神を迎える祭などの際に、立てられた柱状の物体(髯籠・山車など)の依り代に降臨するとされた。その来たる所は海の彼方(沖縄のニライカナイに当たる)、後に山岳信仰も影響し山の上・天から来る(天孫降臨)ものと移り変わったという。オーストリアの民族学者であるアレクサンダー・スラヴィクは、友人の岡正雄により日本における「まれびと信仰」の実態を知り、ゲルマン民族やケルト民族における「神聖なる来訪者」の伝説や風習と比較研究した。
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サーミ人の概要 もともと狩猟・遊牧を行なう民族であるが今日、ほとんどのサーミは定住生活を営んでいる。チェルノブイリ原発事故以降、トナカイの汚染が進み、伝統的な放牧生活を送る事はいっそう難しくなってきている。キノコや地衣類などの菌類は放射性物質を吸収しやすいと言われ、トナカイの主食がハナゴケ(地衣類の一種)であることから、特に汚染が進んだと思われる。ノルウェー語ではかつて「ラップ人」とも呼ばれていたが、現在では古語または蔑称と受け取られる。フィンランド語ではラッピ県にいるフィンランド人はlappilainenを自称し、サーミ人のことをlappalainenと呼びどちらもラップランドに住んでいるため外国人にはわかりにくい違いとなっている。人種はフィン人とともに北ヨーロッパ系の特徴である金髪碧眼のゲルマン系同様にコーカソイドに属するが、モンゴロイド系の父系遺伝子、ハプログループNも多分に見られる(紀元前の中国東北部にある遼河文明人からも発見される)。
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サーミ人の歴史 サーミ人と思われる民族のことが初めて文献上に現れるのは、紀元1世紀に古代ローマの歴史家タキトゥスによって著された『ゲルマーニア』においてである。この文献では、サーミという名前ではなく、フェンニーという名前で呼ばれている。「フェンニー」という名は今日の「フィン(ランド)」に通じるものがある。実際、フィンランド人の間に民族復興の機運が高まった当時、このフェンニーこそが我々の直接の祖先であると主張する動きも存在したが、しかしここで挙げられたフェンニーがフィンランド人の祖であるとは考えられない。今日までに行われた研究によると、ここに言うフェンニーはむしろ、西はヴィスワ川下流からウラル山系に向かう地域を点々と長く居住地とし、後にはフィンランド湾の沿岸に至る方面にも来ていた印欧系以外の若干の民族を広く指したものであるらしい。また、サガの世界にも、交易を行う民として、サーミ人らしき民族について言及している個所もある。いずれにせよ、それ以後スカンディナヴィア半島に移住してきた様々な民族、「国家」が再びこのサーミ人に注目し始めるのは、13世紀以後、北欧諸「国家」が誕生し、その国境を規定する必要が生じた時であった。以下、サーミ人の歴史を大きく3つの時代に分けて説明する。
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サーミ人の1251年から1550年 この時期、ノルウェー、ロシア(ノヴゴロド)王国、スウェーデンの三国間でラップランドにおける国境、徴税権に関する合意が成立する。この合意の下、元々単一の民族であったサーミ人は分断され、異なる国家の、異なる支配体制、徴税体制、司法体制の下に置かれることとなった。現在のフィンランド近郊に居住していたサーミ人は、スウェーデンの支配の下に置かれた。これは、当時フィンランドがスウェーデンの一部に組み込まれていたことに起因する。また、スウェーデンはカトリック教会の支配下にあったが、ラップランドもこの体制に組み込まれた。コラ半島に居住していたサーミ人(skoltサーミと呼ばれる)は正教会とノヴゴロド公国の支配下に置かれた。また、Skoltサーミはツァーに土地、水に関して税を課され、土地登記の義務も負うことになった。現在のフィンマルク県に居住していた全てのノルウェー・サーミ人はロシアの統治下に置かれた。このように様々な国家の統治下に置かれたサーミ人であったが、これに先立つ12世紀頃から、すでにサーミ人はノルウェー国王に対し、「ラップ税」を払うことを求められていた。このラップ税とは、そもそも貢納的、人頭税的性格の強いものであり、支払いはカマス等の乾燥魚、トナカイの仔、クジラやアザラシの皮革ロープ等で求められていた。これは、「ラップ」が17世紀までいずれの「国家」の国民なのか明確には定められていなかったため、従来の農民に対するような徴税を課せなかったことに起因している。また、当時から「ラップ」のトナカイ飼育、狩猟、漁労活動が特別な、「ラップ生活様式」として法律の中にも明記、認識され農地税徴収の対象とはなり得なかったことも、その原因の1つとなっている。
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サーミ人の1551年から1808年 17世紀初頭、「ラップ」はノルウェーもしくはスウェーデン=フィンランドの国民として「国家」に組み込まれた。この帰属の背景には、ノルウェーとスウェーデン両国間の関係が悪化しており、以前のような曖昧な国境規定は両国間の安全保障上好ましくないものであったという事実がある。そして1751年、国境条約が締結された。これはデンマーク=ノルウェー王国とスウェーデン(及びその一部「東部地方」であったフィンランド)の間で交わされたもので、ラップランドにおける北欧諸国家の国境を明確に定めるという性質を持ったものであった。しかしこの条約は、決してサーミ人の権利を侵害するものではなかったのである。国境条約・第二条第二項には、サーミ人はトナカイの遊牧をする民族であり、そのためには両国の土地が必要であるということ。同・第十条には、その生活様式を維持するため、両国が公平な援助を行うことを取り決める旨が記されていた。この国境条約は、サーミ人の権利とその生活様式の正当性を認めるものであったが、しかしこの締結にともない、多くの「ラップ」は定住化の道を選んだ。また、定住化しなかったサーミ人に対しても、相変わらず「ラップ税」は適用され続けたが、この時代になって、「ラップ税」はその本来の貢納的、人頭税的性格のものから、土地や水域の借用税に変化していった。このことが、サーミ人の五つの異なる生活様式を生み出す直接の原因となった。つまり、大規模トナカイ遊牧専業民「山岳サーミ人」、農耕、牧畜、狩猟、漁労を行う定住民としての「海岸サーミ人」、「森林サーミ人」、「河川サーミ人」「湖サーミ人」などを生み出したのである。上記の通り、「山岳サーミ人」は「ラップ税」の対象であったが、定住農民化したサーミ人(主に羊や牛の飼育を専業にしていたと思われる)は、「ラップ」とは見なされなくなった。そして、「ラップ税」を免除され、代わって農地徴収税を課されたのである。この点から、北欧諸国家の「ラップ人」に対する基本的な姿勢をうかがうことができる。つまりこの措置は、北欧諸国家にしてみれば、トナカイ遊牧という「ラップ生活様式」を続ける、ある種異質な文化、生活様式を持っている者こそが「他民族」であり、自分たちと同じ生活(農耕や漁労)を行うようになった民は、すでに自分たちと同じである、という認識の明示にほかならない。18世紀後半になると、スウェーデン領においてスウェーデン人がラップ地域を北上し、開拓や植民を行うために定住したため、この地域のサーミ人はさらに北部や東部へと追いやられることとなった。サーミ人の中には、定住したスウェーデン人と混交してスウェーデン化した者も少なくない。
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サーミ人の1809年以降 1809年、ロシア帝国軍の猛攻の前にスウェーデンは降伏し、フィンランドはフレデリクスハムンの和約においてロシア領に組み込まれた(ロシア・スウェーデン戦争)。そして北欧諸国家の中にロシアという「異質な」国家が入り込んだことにより、ラップ追加条項は事実上その意味を失い、特に「山岳サーミ人」の遊牧生活は窮地に立たされた。またこれに追い討ちをかけるように1852年にはノルウェーとフィンランドの国境が、1888年にはスウェーデンとフィンランドの国境が閉鎖されてしまう。当時、スウェーデンはノルウェーと同君連合を組んでおり(スウェーデン=ノルウェー)、ノルウェーの国境線はロシア領に複雑に食い込んでいた。ロシアに対する安全保障は、クリミア戦争を挟んで切実な問題となったため、スウェーデン政府は1855年にイギリス及びフランスと「11月条約」を締結し、連合王国領土と漁業権をロシアに譲渡しないことを誓約した。ロシアの統治下においても、サーミ人は納税の義務を課されていたが、議会に参加することは許されなかった。代表のいない議会においてサーミ人の権利が議論され、その結果、サーミ人と土地、水使用権は全く無視される事態になったのである。さらに、サーミ人の狩猟文化の経済的基盤は、トナカイやビーバーといった狩猟動物が乱獲されたことにより完全に打ち壊された。そして、狩猟動物の減少に伴い「ラップ税」の納税が不可能となり、ついに1924年、完全に廃止されたのである。これは同時に、彼らの権利の縮小にもつながっていった。以後、サーミ人の課税対象外の土地を求めての移住と、それらの土地を「公地」化しようとする動きが繰り返された。第二次世界大戦後、Skoltサーミ人の土地が旧ソ連に割譲され、その結果、Skoltサーミ人の大多数がフィンランドに移住した。
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サーミ人の衣服と工芸品 サーミ人の民族衣装を特徴付けるのは、特にその色彩豊かな上着、コルト(Kolt)である。フェルト地で作られるこの上着は、主に女性の手によって織られ、地方ごとに細かな差異が見受けられる。例えば、帽子のデザイン、フェルトの地色や飾り付けの違いによって、それを着ている人が、どの村の出身であるのか、大体のことがわかるという。このコルトは、つい十数年前まで、あまり積極的に着られることはなかった。もちろんサーミ民族評議会など、民族としての誇りと自由を訴える組織に参加する一部のサーミ人たちはその限りではなかったが、長年に及んだ先住民族軽視の風潮の中で、自分たちがサーミ民族であることを宣言するのは、並大抵の勇気ではできないことだったのである。その影響からか、コルトを縫える人は減少してしまっていた。しかし、「民族的なもの」が再び見直されつつある中、サーミ人の若年層が中心となり、再び民族衣装を積極的に身に付けていこうという流れが生まれている。現在伝統的なサーミ人の衣装を身に付けているのは、それをずっと着続けている老人や、サーミ人の文化的な自由を支持する若い世代(主に作家や芸術家、インテリなど)なのである。そういった層からはわずかにずれた、「普通のサーミ人」にしても、特別な場合の礼服として、普段着として、民族衣装を着る機会は確実に増えてきている。サーミ人が作る手工芸品は、ドゥオッチ (Duodji) と呼ばれている。工芸品といっても鑑賞のためのものではなく、あくまでも日用品として、機能的、実際的なデザインのものがほとんどである。ドゥオッチには、様々な素材が使われる。木や骨、トナカイの角、動物の毛皮や真珠、ブリキ、刺繍、レースなどが主に挙げられるが、伝統的な素材として説明するとしたら、真珠やブリキといったものは除外される。サーミ人たちは、歴史を通じて、鉄鉱石や金、銀といった鉱物資源を持たなかった。それ故、時に侵略者であった他のスカンディナヴィア人たちがもたらす鉄製品は、サーミ人にとって得難い貴重品として扱われていた。最も伝統的な資源はトナカイである。トナカイを遊牧する習慣のない海岸サーミ、河川サーミ、湖サーミはその限りではなかったが、森林サーミや山岳サーミの間では、トナカイは正に万能の資源だったのである。トナカイの毛皮で遊牧中の住まいであるテント(ラッボ)を、トナカイの角でナイフの柄を作り、トナカイの毛皮で作った衣服や靴を、トナカイの腱で作った糸で縫い合わせていたのである。サメやリャマのように、「捨てるところのない」資源として使われていたトナカイであったが、そのトナカイの皮を剥ぐためのナイフの刃だけは、鉄製品に頼らざるを得なかった。当時鉄製品はスカンディナヴィア人から購入する例がほとんどであったが、サーミ人の中にも、こうした技術を習得するものがいないわけではなかった。彼らは専業の鍛冶屋となったが、サーミ人にとっては神秘的とさえ言える技能のために、鍛冶屋は、偉大な魔法の力を持っているとさえ考えられていた。山岳サーミ人にとって最大の富はトナカイであった。しかし17世紀、スカンディナヴィア半島北部から銀が発掘され始め、山岳サーミ人がその遊牧という特性から銀の運搬を請け負ったことで、サーミ人の間に銀が富の象徴としての意味があることが広がった。その時から、サーミ人は銀細工を所有することで、富を顕示するようになったのである。現在でもその名残は確実に残っており、サーミの人々の間では、銀細工が非常に好まれるという。これら工芸品は、「観光資源・サーミ人」を訪ねて来た観光客は勿論、スカンディナヴィア人たちにも広く販売されている。これらの売上は、地元の経済に大きく貢献し、元々日用品であった手工芸品は、今や売り物としての側面の方が大きくなりつつあるのである。現在、比較的日本でも手に入りやすいサーミの工芸品として、ククサが挙げられる。ククサは白樺の木のこぶから作られたカップで、「これを贈られた人は幸せになる」という言い伝えがあるとされているが、それが実際の伝承であるのか、それとも商業上の宣伝文句に過ぎないのかは定かではない。
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サーミ人の宗教と教会 サーミ人の信仰は、そもそも森羅万象に宿る様々な精霊を対象とした精霊信仰であった。季節、人間や動物の健康や繁栄、自然がもたらす様々な災害や恩恵、あらゆる物が精霊の力によるものと信じていたのである。そのため、全ての事象の根源である精霊の声を聞くシャーマンの存在は、サーミ人の宗教において必要不可欠なものだったのである。精霊たち、また、父であり、母である太陽や大地と交信し、森羅万象の変化の原因を突き止めるために存在していたのが、ノアイデと呼ばれるシャーマンであった。ノアイデは極めて稀な才能であり、それ故に、彼らは常に尊敬と畏怖の対象であり続けていた。サーミ人の社会は、神の意志と、シイーダ内の古老たちの知恵に基づいて運営されていた。古老たちは、現世の問題(人々の諍いや、狩猟、漁労を、いつ、どこで行うかといったようなこと)を解決していたが、神や非現世に関する問題に関しては、ノアイデに一任されていた。ノアイデはシャーマン・ドラムを打ち鳴らしながらトランス状態に陥り、どの精霊が問題を引き起こしているのか、どうすればそれを解決することができるのかを知るのである。誰かが病気になったとき、その魂は肉体を離れているという考え方がサーミには存在しているが、この「盗まれた」魂を取り戻し、病気を治すのも、ノアイデの仕事だったのである。こうした精霊信仰も、16世紀に入り、キリスト教の布教がラップランドまで及んだ時、例外なく弾圧の対象となった。現在サーミ人の大多数がルーテル教会、もしくは正教会に属しているが、17〜18世紀までには、この基盤はすでに出来上がっていたと見られる。この流れに抵抗し、精霊とノアイデへの信仰を忠実に守り続けたサーミ人も、決して少なくはなかったが、宣教師たちは、彼らを迫害し、特にノアイデの改宗、撲滅に努めた。キリスト教布教の動きが最も高まったのが、19世紀、ラエスタジアス牧師(彼自身もサーミ人である)が、サーミ人の改宗に訪れたときであった。彼が創始したラエスタジアス派はノルウェー、スウェーデン、フィンランドで現在でも広く信仰されている。しかしキリスト教のサーミ人への布教は、サーミ固有の文化の破壊を意味していた。他の北欧の民族とは異なり、彼らはそれによって民族的集団を形成することはなかった上に、サーミ人の諸国家への分割帰属へと至ったのである。また、サーミ語による聖書は、まだ出ていない (cf. スカンディナヴィアのキリスト教化#最後の異教徒)。こうしたキリスト教化の流れの中で、それでもノアイデは19世紀半ばまで生き残っていた。精霊に付いての知識や薬草を用いての民間療法の方法は今なお伝承されているが、それと信仰が結びつく、ということは、完全になくなってしまった。
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サーミ人の音楽 サーミ人の音楽を特徴付けるのは、ヨイク (Yoikあるいはjuoiggus)と呼ばれる、基本的に無伴奏の即興歌である。ヨイクは、上述したシャーマニズムと関連して誕生した音楽である。サーミのシャーマン、ノアイデは、トランス状態に陥る時、幻覚作用のあるベニテングタケの一種を服用していた。このキノコに誘発された激しいトランス状態の中、精霊との交信を行うのだが、さらにその状態を深めるため、大声で歌われていた歌、これがヨイクである。シャーマニズムとの関連から、ヨイクは自然界とコミュニケーションを取るための道具、方法としてとらえられる。太陽や月、山、川などを対象に、その成立に関する物語を歌う、叙事詩のような形式を取ることもあれば、対象への賛美と感謝を歌う讃歌のような形式を取ることもある。自然界に対してだけでなく、人間同士のコミュニケーションのためにも用いられる。赤ん坊が誕生した時、その子供に対して歌われたり、親しい人同士で、その人の外観、人格的美点、欠点、人生など描写したヨイクを歌い合うこともある。また、たった一人でトナカイが牽く橇に乗ったとき、その孤独を癒すためにも歌われる。ヨイクは、決して吟唱詩のようなものではない。メロディーだけ、リズムだけで構成されるようなヨイクも存在するが、詩による、“歌う”ヨイクが優勢であることは確かである。しかし、この詩が、実際のサーミ人の口語で行われるということはない。ヨイクを構成する詩の言葉は、極度に省略、簡略化された特別の言葉、あるいは象徴的なイメージ群からなっているのである。そのため、サミ人の自然に対する視点や生活、感性を共有しない非サーミ人にとって、ヨイクをそのままに理解することはほぼ不可能といっていいだろう。この“わかりにくさ”のために、ヨイクはしばしばヨーデルと比較される。しかしこれは大きな誤りである。元々谷と谷の間で羊飼いたちの連絡手段として発生したヨーデルと違い、ヨイクは子音と母音の組み合わせから成り、歌い手はそれを慎重に選択、配列することによって、一言に膨大な情報を持たせるのである。18–19世紀にかけ、他のスカンディナヴィア人の統治下に置かれ、民族的なものを否定する価値観にさらされていた状況の中で、ヨイクを伝えることに執着した者たちは、形を変え、ヨイクを存続させることを選択した。つまり、弦楽器や打楽器、管楽器による伴奏を伴ったヨイクを生み出したのである。元々ヨイクはシャーマン・ドラムを打ち鳴らしながら行われていたため、楽器の伴奏がつくことに何ら不思議はないように思われる。しかし、例えばノルウェー人の民族楽器ランゲレイクやフィンランド人の民族楽器カンテレを使うことで自らの民族的地位を同時に向上させようとしていた節もある。事実、南部スウェーデンにおいて、サーミ人は社交的な場所に積極的に出かけ、ダンスを踊り、ヴァイオリンを演奏することさえしていた。今世紀初めにはコラ半島のスコルト・サーミ人はロシア流のアコーディオンを演奏し、カドリール(一種のスクエア・ダンス)を踊ることがステータスになってもいたのである。老年層のほとんどはヨイクを歌おうとせず、中年層はヨイクを知らないといった状況が生まれつつあった中、ヨイクは復興の兆しを見せる。若いインテリ層が民族的アイデンティティの復興と確立を掲げ、ヨイクを再興し始めたのである。しかし、この流れもすぐには身を結ばなかった。ヨイクをすること、それはキリスト教会と政府によって処罰の対象とされていたのである。民族的アイデンティティ復興の動きは、ニルス=アスラク・ヴァルケアパー(通称:アイル)というフィンランド国籍のサーミ人現代詩人がヨイクを始めたことで一気に進んだ。彼の目的は、古いスタイルのヨイクを、あくまでその基本を損ねることなく復活させることであった。彼の目論見は成功したといえる。ニルスは1994年ノルウェーのリレハンメルで行われた冬季オリンピックの開会式壇上でヨイクを熱唱し、多くのサーミ人に勇気と希望を与えた。民族意識が高まる中、その流れにさらに拍車をかける存在が現れる。それが、マリ・ボイネ (英語) というサーミ人女性である。彼女は政治的メッセージを歌詞に込めたヨイクを次々と発表、自らの政治的立場を明確にすると共に、様々な問題について賛否を要求され始めたサーミ人に訴えかけ始めたのである。彼女のヨイクのスタイルとして特徴的なのは、ギターの伴奏を伴っている、ということである。彼女のメイン・テーマは先住民と植民地主義者、異なる民族間に起きた文化的衝突の悲劇を表現することである。1973年、フィンランドのカウスティネンに民族音楽研究所が開設され、ヘイッキ・ライティネンが初代所長に就任すると、彼は「民族音楽はあまねく博物館から民衆の元へ降りなければならない。それだけが、民族音楽が生き残れる唯一の道である」というスローガンを掲げ、フィンランドの民族音楽を次々と復興し始めた。木の笛、カンテレなどの古代の音楽や民族歌謡が見直され、その研究が行われると共に、それらの音楽を演奏、吟唱するグループができ始めたのである。アンゲリン・テュトット (英語) も、言ってみればこうした流れの中で誕生したグループであった。アンゲリン・テュトット、後にアンゲリットと改名することになるこのグループは、ウルスラとトゥーニのランスマン姉妹によって1982年に結成された。元々少女時代からヨイクに興味を持っていたこの姉妹だったが、最初は学校の先生に命令されるような形で始めたらしい。しかし、そんな事情をよそにやがて二人はヨイクに熱中。89年には現在ソロで活躍中のウッラ・ピルッティヤルヴィを加え三人で活動を始める。その後、やはり現代的民族歌謡のグループとして結成されたヴァルッティナ (英語) のリーダー、サリ・カーシネン (英語) に見出され、彼女が主催しているレーベルからCDを出すことになった。彼女たちのヨイクの特色は、まずその多様な音楽性にある。伝統を重視する一方、様々な音楽、例えばプログラミングを重視したクラブ系サウンドを取り入れてみたり、他のヨーロッパ音楽を取り入れたりもしている。彼女達が尊敬するヨイクの第一人者、ニルス=アスラク・ヴァルケアパーやマリ・ボイネも、ヨイクをジャズロックとあわせるなどして色々な表現スタイルを試みているが、アンゲリットの二人も決してそれにひけをとってはいない。子供の頃から世界各地を回ってジャンルを問わないフェスティバルに参加し、自分達のヨイクを聞かせているほか、地元のクラブ系のKLFのアルバムに参加するなどして広い視野を持ち続けている。このためであろうか、自分達のアルバムにもドラム・ベースやアンビエント・サウンドを取り入れて常に時代性を感じさせるヨイクを発表している。これまでにヨーロッパの国々はもちろん、エストニア、ロシア、アメリカ、中国でも積極的にパフォーマンスを行っている。日本にも二度来日し、その中でアイヌのミュージシャンとの共演も経験している。
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サーミ人の遺伝子 サーミ人は大分類ではコーカソイドに属すが、ウラル語族と関連するモンゴロイド系ハプログループN (Y染色体)が48%の中頻度でみられる。次いで多いのが原スカンジナビア系Y染色体‐I1で、約31%みられる。mtDNAはヨーロッパの古いタイプが多いが、東アジアを起源とするウラル系ハプログループZ (mtDNA)もわずかにみられる。
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セイルフィッシュ級潜水艦の概要 本級は空母機動部隊の前衛として、大型レーダーを装備し、敵の警戒にあたるレーダーピケット潜水艦として構想されたものである。しかし、レーダー能力や早期警戒機の能力が向上するとその存在価値が無くなり、攻撃型潜水艦に艦種変更された。排水量もそれまでのアメリカ潜水艦の中では最大級の大型潜水艦であった。就役時には司令塔のほか、艦の後部に大型レーダー・マストを装備している。司令塔にはBPS-2対空レーダーを装備し、これは司令塔内に格納できた。艦後部のレーダー・マストにはBPS-3高角測定レーダーを装備していた。武装は魚雷発射管6門のみで、砲熕兵器は装備していなかった。
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リムジンの概要 元来は馬車の形式の一つであり、御者と客室の間に仕切りがある、もしくは御者席が客室の外側にあるもののことである。なお、このような仕切り(パーティション)を設けた、つまり運転席・助手席と後部座席が完全に隔離されている形式のリムジンが、現在においても最も格の高い正式なリムジンとされている。ほかにも、後部座席部分を延長して補助座席を設けたものや、後部にドアを追加して3列目のシートを設けたもの(この場合は単純に乗車定員を増やすことが目的の送迎用のものが多い)がある。全長を延ばす理由はさまざまで、送迎用のリムジンとして乗車定員を増やすことや、ロングホイールベースによる揺れの減少させること、さらに後部座席の足元のスペースの拡大やテレビモニターやカクテルキャビネットの設置などの居住性、各種設備の充実を図ること(応接室化)に主眼がおかれるが、トランクスペースを改造してジャクージバスにするなどの変り種もある。国家元首級の要人が用いるリムジンにおいては、狙撃やテロリズムからの防御のために、防弾ガラスや装甲、ランフラットタイヤなどの特別な防御装備を施されることがある。このような装甲リムジンは米国大統領専用車やソビエト連邦のZIL-41047などが著名である。日本でも天皇などの皇族が用いた御料車のうち、初の国産車両となった1967年の日産・プリンスロイヤルでは、当時の日本のモータリゼーションの水準では過剰性能の、排気量6400cc、V型8気筒のW64型が採用された。これも一般車両に比べて大きく重くなった車体を非常時には一般車両以上の高速で走らせ、危機を回避するための装備である。東京空港交通を筆頭に都心や周辺都市からの空港連絡路線バスをリムジンバス (airport limousine bus)と称することがある。これは東京空港交通が都心から空港への送迎車(ハイヤー)をリムジンで運行していたことに由来し、その後航空需要が増大したことによって路線バスを始めたため、リムジンバスという名称を使うようになったのが通説である。リムジンは一般的にはボディ加工の専門的な技術を持つコーチビルダーが既存の市販高級車のボディを改造し、キャビンを延長した(セダンボディを中央から切断し、ニコイチ式加工をする)ストレッチ・リムジンを指すが、一部には自動車メーカーが最初からリムジン専用ボディを製造し、リムジンとして工場出荷される車体もある。こうした自動車メーカー製のリムジンはプルマン・ボディ(Pullman-Body)と呼ばれ、ストレッチ・リムジンとは明確に区別されている。
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リムジンのアメリカにおけるリムジン リムジンの営業免許は基本的に「小型貸切旅客運送業」免許で、各州の関連法により差はあるが、運行には「事前予約」と「貸切」「小型(15名以下)」の条件が付く。タクシー(一般)や空港シャトル(乗り合い)ホテル送迎(自家用)とは業務免許が違うので、流しや混載は違法行為になり、空港や観光地などで客引きをしているようなリムジンは、正式な運行許可もなく、業務保険にも加入していない可能性がある。ラスベガスやロサンゼルスなどでよく見かける、ホテルに待機しているリムジンは、予約なくその場で利用が可能な場合が多いが、ホテルと「事前予約(待機)」を済ませていることが多く、運行業務要件を満たしている。大抵の場合、ドライバーと客の直接交渉ではなく、ホテルのコンシェルジェやドアマンなどが間に入る(顧客からリムジンへ直接料金を支払っても運行免許上の問題はない)。ハマーなど大型のリムジンは、書類上は「貸切バス」に分類されるが、あくまで運営者側の業務免許や業務保険上の違いであり、大手のリムジン会社は1社で黒塗りセダンからストレッチ・リムジン、バス(パーティ・バスやリモ・バスと呼ばれる)まで所有していることも多い。ほぼすべての州の道交法は、運転者のみならず同乗者が車内で飲酒することや酒類の車載を禁止しているが(トランク内積載や封を開けていない酒類は可)、リムジン車内はこの法の適用免除になっている(自動車の形状にかかわらず、旅客運送業免許者が運営する自動車の車内)。レンタカーやホテル所有の送迎車の車内での飲酒は違法。旅客運送業免許を受けている業務用の場合は車種にかかわらず(プリウスでもストレッチ・ハマーでも)法的にリムジンであり、車内の飲酒等も可能であるが、非営利目的で旅客運送業認定外の場合は(社用・私用)ストレッチ・リムジン以外はリムジンと呼ばれずに単にショーファー・ドリブンと呼ばれる。米国では、セレブリティの授賞式や映画のプレミア、パーティなどに加え、中流所得層の冠婚葬祭、コンサート、スポーツ観戦、高校主催のダンスパーティなどの利用も多い。セレブリティのアワード賞やパーティなどの依頼は黒限定、一般顧客の場合(除く葬儀)は白もしくは色にこだわらない依頼が多い。ストレッチ・リムジンでもトランク部分まではストレッチ(拡張)されておらず、ベースとなったセダンと同じサイズであり、トランクには既にクーラーボックスなどが収納されている場合も多いので、ストレッチ・リムジンは4人以上(スーツケース4つ以上)での空港送迎には適していない(拡張された車室内に荷物を置くことはできる)。セレブリティなどが家族での空港送迎でリムジンを利用する場合は、同時に荷物車(SUVなど)を手配するが、多くはビジネスジェットを利用することが多いので、リムジンは飛行機ドアに横付け、荷物車は機体後部荷物ドアに横付けする。
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埋もれ木 (映画)のあらすじ 山に近い小さな町。三人の女子高生が、短い物語を作り、それをリレーして遊ぶことを思いつく。次々と紡がれる物語は、未来へと向かう夢―。
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ヴィトヤ・ヴロンスキーの生涯 イェウパトーリヤにヴィクトリア・ミハイロヴナ・ヴロンスキーロシア語: Виктория Михайловна Вронская, ラテン文字転写例:Viktoria Mikhailovna Vronsky)として生まれる。キエフ音楽院を15歳で卒業後、ベルリンに行ってアルトゥル・シュナーベルの薫陶を受け、ヴィクトル・バビンと出会う。1933年にバビンとデュオを組み、1937年に結婚した。1938年に夫婦でアメリカに亡命し、アメリカを中心に演奏活動を展開した。1961年にバビンと共にクリーヴランド音楽院の教師となり、夫の死後は独奏者として演奏活動を継続した。クリーヴランドにて死去。
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勝沼町の地理 県中央から西部、郡南東部、甲府盆地東端に位置。国中地域と郡内地方の境に位置する。方形の町域で、中央から西部は甲府盆地の平坦地で、突出した東部と南部は山岳地帯。東部の山間部に発する深沢川は日川へ合流して平野部を西流するほか、田草川や北西境には重川が流れる。
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勝沼町の先史・古代 縄文時代中期の遺跡として、勝沼には釈迦堂遺跡群の文化圏に含まれる集落跡である宮之上遺跡がある。甲府盆地東部は古代に仏教文化を先進的に受容した地域であるが、町域には古代豪族三枝氏の氏寺である大善寺をはじめとした古刹が分布する。また、柏尾山頂の柏尾山経塚は東国では早期の康正5年(1103年)銘をもつ鋳銅製経筒が発見されている経塚として知られる。
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勝沼町の中世 中世には石和(笛吹市石和町)に本拠を置いた甲斐国守護・武田氏の所領があり、下岩崎には武田一族の分流で、戦国時代に武田信昌と守護代跡部氏の抗争において滅亡した岩崎氏の館跡がある。町域には戦国期の武家居館である勝沼氏館が所在し、勝沼氏居館と中心とした町割が形成されている。勝沼氏居館は武田信虎が弟の信友を祖とする親族衆・勝沼氏の居館で、武田氏のが郡内領主の小山田氏を服従させると、郡内地方への目付として築造された館であるという。町域は甲州市塩山の黒川金山にも近く、近年には勝沼氏居館から金の加工に関わる金熔融物付着土器が出土していることも注目される。
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勝沼町の近世 江戸時代に成立した九筋二領では、日川を境界に北部が山梨郡栗原筋に、南部が八代郡石和筋に属する。領主支配は江戸時代初期は各村とも幕府直轄領となり石和代官所支配になったと考えられているが、その後の変遷は各村で異なる。勝沼村は宝永2年(1705年)から甲斐一国が幕府直轄領化される享保9年(1724年)まで甲府藩領に属する。柏尾村は勝沼村に属するが大善寺領として独立していた。旗本領、甲府新田藩領、御三家・田安家領も存在している。小佐手村の大半は甲府勤番役知。勝沼村には甲州街道の宿場である勝沼宿が設置される。「辻家文書」に拠れば、等々力村の万福寺では享保17年(1732年)から甲斐国では初となる富くじの興行が行われていたという。勝沼村・上岩崎村・下岩崎村・菱山村の四ヶ村では甲州葡萄の栽培が、「和漢三才図会」『裏見寒話』など地誌類においては梨や柿と共に甲斐特産の果樹の総称である「甲斐八珍果」のひとつとして挙げられている。慶応4年(1868年)、大善寺付近において旧幕府方の近藤勇の率いる甲陽鎮撫隊が新政府板垣退助率いる征東軍に駆逐されて敗走している(甲州勝沼の戦い)。
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勝沼町の近現代 明治にも勝沼宿を中心に繁栄を続けた。1903年(明治36年)に中央線が甲府駅まで開通するが、町域に鉄道駅は設置されなかったため、東山梨郡における交通・経済的中心地は塩山に移った。その後、町域でも駅設置運動が起こり、1913年(大正2年)には菱山に勝沼駅が開設された。江戸時代後期においてブドウ栽培は勝沼の一部でしか行われなかったが、明治初期の山梨県令・藤村紫朗の主導した殖産興業政策においては果樹栽培やワイン醸造業が奨励された。1877年(明治10年)には日本葡萄酒会社が設立され、フランスへも伝習生を派遣して醸造技術やワイン醸造に適した葡萄の栽培や品種改良に取り組んだ。明治20年代から明治30年代にはブドウ栽培農家も増加し、宮光園をははじめ多数の醸造会社も設立された。醸造用品種の品種改良や栽培技術の改良、販売方法など様々な試行錯誤が実施された。戦時下においては減反政策が行われたこともあったが、戦後に飛躍的に発展した。戦後は峡東地域における中核都市として発達し、今日ではぶどうとワインの大産地として知られている。また、街のシンボルマークとして明治時代に当時最先端のワイン醸造の技術を習得するためにフランスに派遣された高野正誠と土屋助次郎の2人の洋服姿の写真をモチーフにしたマークが町の各所に見られる。
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歌川国時の来歴 初代歌川豊国の門人。『浮世絵師伝』によれば歌川の画姓を称し一鐘斎と号す、作画期は文政頃とされる。また文政11年(1828年)建立の豊国先生瘞筆之碑に豊国の門人として「国時」の名が見られるが、その他の経歴や作については不明。
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諫山実生の経歴 幼少時代からピアノに触れ、絶対音感を身に着ける。中学生から作曲に取り組み、高校時代には自作の歌を作ったのをきっかけに老人ホームや児童施設などで演奏活動を行う。短期大学時代に飲食店での弾き語りのアルバイトをしているところでスカウトされ、2002年8月28日にシングル「恋花火」でデビュー。NHK『みんなのうた』にタイトル曲が採用される。なお、このデビュー曲のプロモーションビデオは蛭子能収が監督し、『諌山節考』というタイトルの短編映画として公開・DVD化された。2004年12月1日に発売された「月のワルツ」は湯川れい子の作詞。ミュージック・ビデオはアニメーション作家のいしづかあつこの手によるもの。NHK『みんなのうた』2004年10月-11月期で放送されると、その幻想的な歌とアニメーションの世界観に反響は大きく、問い合わせが相次いだという。地元が一緒で上戸彩とは仲が良い。アルバイトで弾き語りをしていた飲食店に、上戸彩が母親と遊びに来ていたという。上戸は、2ndシングルのリリースの際、音楽雑誌で友人の曲として諌山のデビューシングル「恋花火」をお気に入りの1曲に挙げていたことがある。
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久那土駅の駅構造 単式ホーム1面1線を有する地上駅である。線路は東西に走り、ホームは線路の南側にある。開業当初からの木造駅舎は撤去され、その代わりとして1999年(平成11年)3月に、ホーム上の市ノ瀬寄りに待合所が新築された。この待合所の内部にはいすなどが設置されているだけでなく、業務用の倉庫がある。ホーム上にはこのほか、市ノ瀬方から順番に上屋ともう一つの待合所がある。ホームから外部に出るには待合所脇から降りている階段を使うか、ホームの市ノ瀬方の端に近い場所にあるスロープを使う。開業当初から駅員が配置されてきたが、昭和40年代に合理化の一環として日本交通観光による業務委託駅となった。その後無人駅となって現在に至っている。当駅で切符を購入することはできない。身延駅管理。
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久那土駅の駅周辺 身延線の線路は、かつての西八代郡久那土村の村域を、その西側で南北に貫いている。駅は旧久那土村の西側、北の端に近い場所にあり、久那土の中心部はこの駅から近い。駅の南を現在の市川三郷町と身延町の境界にある蛾ヶ岳(標高1280メートル)に水源を発する三沢川が東西に流れている。駅前の広い広場には公衆トイレがある。駅前広場を抜け、山梨県道9号市川三郷身延線に出ると、そこから東側に300メートルほどこの県道に沿って商店が立ち並らぶ。この商店街は店向という地名である。1927年(昭和2年)に当駅が開業したのち、周辺各地域から多くの人々が駅の近くで商売をするために移転して出来たものである。この駅前は、北川景子主演の映画「チェリーパイ 」の中にも登場した。なお県道を東へ進むと今度は500メートルほどで大草の集落に入る。大草は久那土の行政における中心地で、身延町立久那土小学校、身延町立久那土中学校、身延町役場の久那土出張所などがある。久那土出張所は古くは久那土村の役場だった。久那土村はその後1956年(昭和31年)に古関村、下部町、共和村と合併して西八代郡下部町の一部となった。その下部町も2004年(平成16年)に中富町、身延町と合併して南巨摩郡身延町の一部と成ったのでこの駅は今は身延町に属している。駅から東へおよそ200メートル、店向から南側に折れる道を行くとすぐに山梨県立峡南高等学校である。当駅は朝夕はこの高校に通う生徒によって込み合う。1983年(昭和58年)3月に野球部が選抜高校野球大会に出場する際、当時の国鉄は当駅に急行富士川・静岡行きを臨時停車させ、球児たちはこのホームで地元からの熱い声援を受けて甲子園へ向け出発した。
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西新井消防署の概要 荒川以北の東武伊勢崎線以西地域の大部分を管轄地域とする。
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伊藤理佐の経歴・人物 板金塗装店を経営する両親の元に三姉妹の長女として生まれる。長野県諏訪二葉高等学校を経て、女子美術大学短期大学部彫塑科卒業。猫好きであり、作品内にも猫が描かれることが多い。一度の離婚歴があるが、2007年に漫画家の吉田戦車と再婚した。その後妊娠し、2010年1月14日に女児を出産した。この際、『おんなの窓』は吉田戦車が『おとこの窓』として4回にわたりピンチヒッターを務めた。『やっちまったよ一戸建て!!』で書かれた新築の一戸建てには現在は住んでいない。また『ダ・ヴィンチ』2006年12月号にて、本人は自分を「酒ラン(酒乱)」と考えていることを告白するなど、酒豪である。『おいピータン!!』で第29回講談社漫画賞少女部門受賞。『女いっぴき猫ふたり』など一連の作品で第10回手塚治虫文化賞短編部門受賞。
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Rocket! ぼくらを月につれてって 新・月世界旅行の概要 本作のモチーフはジュール・ヴェルヌの代表作のひとつ「月世界旅行」である。また、フィリアス・フォッグ、アウーダ、パスパルトゥは、同じくヴェルヌの「八十日間世界一周」の登場人物。原作ではフォッグの執事だったパスパルトゥが、本作では少年の設定に変更され、主人公に据えられている。もう一人の主人公マトガワ・エリの姓は的川泰宣から。発端は、ライターの幕田けいたが堀範行に提案した「ヴェルヌ作品の登場人物を使って現代日本の科学技術を紹介する」という企画。ちょうどサイエンスチャンネルでアニメ番組の募集があったため、堀が「月世界旅行」の要素を加えて応募したところ、本作が採択され、2007年7月から制作が開始された。堀は全話の脚本を担当。監督の松澤建一は、本作が監督デビュー。堀範行は、低予算だったにもかかわらず質の高い作品に仕上げることができた理由として、(1)アニメーション制作を担当したトランス・アーツがほぼすべての業務を社内で賄える総合力を持っていたこと (2)オリジナル作品を作れるというスタッフのモチベーションが高かったこと を挙げている。初音ミクが主題歌に使用された最初のアニメ番組でもある。
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Rocket! ぼくらを月につれてって 新・月世界旅行のあらすじ 1882年のロンドン。少年パスパルトゥは、探検家フォッグとその妻のアウーダとともに飛行船に乗って世界探検に出発した。しかし旅の途中、突如発生した嵐に巻き込まれ、2080年の日本にタイムスリップしてしまう。少女エリに助けられたものの、飛行船が壊れてしまったため、エリと一緒にロケットで月に向かうことにする。
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かわたそのこの出演 太字はメインキャラクター。
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佐伯清の来歴・人物 愛媛県立松山中学校卒業後に、同郷の伊丹万作を頼り、片岡千恵蔵の片岡千恵蔵プロダクションに入る。1935年(昭和10年)、『戦国奇譚 気まぐれ冠者』で初めて助監督のクレジットが入る。日活太秦撮影所、新興キネマを経て東宝映画へ移籍した。1945年(昭和20年)1月、榎本健一 の『天晴れ一心太助』で監督デビュー。東宝争議をきっかけに新東宝へ、1952年(昭和27年)に東映へ。主に東映京都撮影所で時代劇を撮るが、1958年(昭和33年)以降は東映東京撮影所での現代劇が中心となる。プログラムピクチャーの監督として、バラエティーに富んだ作品を数多く残している。1963年(昭和38年)は千葉真一主演の『柔道一代』、『白い熱球』を監督した。1965年(昭和40年)、高倉健主演の『昭和残侠伝』を演出。その後も数々の仁侠映画を生み出す。1972年(昭和47年)12月30日に封切られた『昭和残侠伝 破れ傘』が、劇場用映画最後の作品となった。
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福井県道131号勝山停車場線の概要 始点の勝山駅から九頭竜川を渡り、国道157号と接続する長山交差点に至る県道である。
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香坂透の人物・経歴 近畿地方出身。代表作に「お金がないっ」シリーズ等があり主にボーイズラブ漫画を手掛けている。小説の挿画でも活躍中。好きなものはミニチュアなもの、資料本。嫌いなことは部屋の片付け。代表作「お金がないっ」シリーズを中心に篠崎一夜との共同作品がほとんどである。
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崔行功の経歴 若くして学問を好み、唐倹に才能を愛されて、唐倹の娘を妻に迎えた。唐倹の出征にあたっては行功が文章仕事をすべて任された。高宗のとき、吏部郎中に累進した。上奏を評価されて、通事舎人・内供奉を兼ねた。事件に連座して洊安県令に左遷されたが、司文郎中として再び召還された。当時の朝廷の文章は主に行功と李懐儼の筆で書かれた。 太宗のとき、魏徴が四部の群書の書写をおこなって内府に所蔵するよう命じられた。魏徴の失脚後は虞世南と顔師古が事業を引き継いだが、書写事業は完成しなかった。顕慶年間、行功と趙仁本・張文瓘・李懐儼が検校にあてられ、行功は御集を担当した。功労により蘭台侍郎に転じた。674年(上元元年)、在官のまま死去した。文集60巻が残された。兄の崔慎(字は行謹)の子の崔玄暐・崔昇が知られた。
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剣淵駅の駅名の由来 アイヌ語の「ケネ(ペッ)プチ」〔ハンノキ(・川)・その川口〕に由来する、などの説がある。
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剣淵駅の利用状況 2013 - 2017年(平成25 - 29年)の乗車人員(特定の平日の調査日)平均は107.6人。
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クラーク・スティルのキャラクター設定 アーケードゲーム『怒』シリーズの2Pキャラクターとして初登場する(同シリーズの1Pキャラクターはラルフ)。『ザ・キング・オブ・ファイターズ』(以下『KOF』と表記)では、ラルフとともにシリーズ全てに出場している。オールスター作品となる前の『KOF'94』(以下『'94』と表記)企画当初は、近い性能の2人+リーダーという形で全チーム編成される予定だった(怒チームとサイコソルジャーチームはその名残)。『怒』シリーズ時はラルフの色違いだったが、『KOF』以降は帽子(ワークキャップ)とサングラスを着用して、金髪・碧眼の容貌になり、ラルフとは差別化されている。首から下も『KOF'99』(以下『'99』と表記)から『KOF XI』(以下『XI』と表記)までと『KOF XIV』(以下『XIV』と表記)ではラルフとは別の衣装になっている(詳細は後述)。技の内容も『KOF'95』(以下『'95』と表記)以降はラルフとの差別化が顕著になっていった。ラルフと同じくアクションゲーム『メタルスラッグ6』にも登場して、衣装は『'99』から『XI』までの本編や『KOF MAXIMUM IMPACT』(以下『MI』と表記)シリーズに準拠した姿で再現された。『KOF』シリーズをはじめとする対戦格闘ゲームでは、主にプロレスの投げ技を使う。格闘スタイルは「マーシャルアーツ + ハイデルン流暗殺術」となっているが、ハイデルンによる格闘術の指導は、その者の長所を伸ばすことであり、ラルフやクラークの戦闘スタイルがハイデルンと似ても似つかないのはこのためである。『CAPCOM VS. SNK 2』のナイロビステージや『ネオジオバトルコロシアム』の通信基地ステージでは背景キャラクターとして出演している。『激突カードファイターズ』シリーズ全てに個別キャラクターカードが存在する。
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クラーク・スティルの人物 『怒 IKARI』では元情報員で階級は少尉。この時点では、ラルフの部隊に新顔として入ってきたとされる、敵か味方かわからない謎の男だった。『KOF』シリーズではハイデルン率いる傭兵部隊に所属しており、階級は中尉(作品によっては少尉。『メタルスラッグ6』では少佐と記載されている。マルコなどと年齢の関係で階級に差を付ける必要が出たため)であるが、大佐のラルフとは仲の良い相棒と言った間柄。なお、ハイデルン傭兵部隊の階級ではない。性格は冷静沈着で、ラルフにとって信頼のおける相棒であり、階級の差を越えた親友。ラルフ同様、「ハイデルン暗殺術」を習得しているもののハイデルンと同じ技は使わず、プロレスマニアという設定を反映してプロレス技を主に使う。なお、『KOF』シリーズにおいてもラルフとの出会いは『怒 IKARI』と同様の「敵地に向かっていた飛行機の爆破・墜落によって2人だけで敵地を脱出することになった」という経緯であり、過去に参加した作戦として「オペレーション・怒(ラルフとの出会い)」「オペレーション・怒号層圏(詳細不明だが一番辛かったミッション)」という作戦名が明かされている。ハイデルンとは、彼が統括する任務の要員として召集されたことがきっかけで知り合っており、これはラルフとクラークの評判を耳にしたハイデルンによる実質的なスカウトだったとされる。あまり語気の強い言葉は使わないが、勝利台詞の中には理論的かつ厳しい言葉も多い。また、オロチ編での勝利ポーズには戦死した戦友のドッグタグを取り出し、対戦相手を「甘い」と評する言葉を語り掛けるものがある。レイバンのサングラスを愛用。そのサングラスで隠された彼の眉間には傷がある。それは、とある作戦の最中にラルフをかばった際についたもので、ジャングルでの行動中にラルフの足に刺さりかけたブービートラップのナイフを(銃で両手が塞がっていたため)咄嗟に額で弾いた傷である。義理堅いラルフの性格上、事実を知れば恩を返そうと無意識に無理をしてチームワークを乱してしまう可能性があると考え、クラークはそのことをラルフに話していない。なお、サングラスと帽子については「客観的な判断をしやすくするため、目から入ってくる情報に一種のフィルターをかける目的で着用している」という旨の解説もされている。ナメクジが嫌いな理由については「幼児期の体験が原因だが詳細は不明」とされており、『ネオジオフリーク』のキャラクターテキストでは本人からの回答として「理由なんか必要なのか。あんた(質問者)はナメクジが好きなのか」というコメントが掲載されている。『'99』では「ウィップ」という少女が新たに部下となった。「ウィップ」というコードネームは、クラークが付けたもので、彼女はこの名前を「気に入りました」としている。
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クラーク・スティルのゲーム上の特徴 『KOF』シリーズ第1作となる『'94』から、ラルフとは性能の差別化が図られていた。基本的な違いは、斜めジャンプキック攻撃、ヒット効果がラルフとは異なる「バルカンパンチ」、「スーパーアルゼンチンバックブリーカー」の有効間合いの広さ、超必殺技(ラルフは打撃、クラークは投げ技)である。通常必殺技にもグラフィックはほぼ共通ながら、攻撃判定や食らい判定の大きさに細かい違いがある。『'95』では新しいコマンド投げが追加され、さらに「ウルトラアルゼンチンバックブリーカー」の有効間合いが大きく広がった(大門五郎の「天地返し」に肉薄するほど)。『'99』では、『KOF'96』(以下『'96』と表記)で削除された「ガトリングアタック」が復活し、「ナパームストレッチ」による追撃ができるようになるなど、シリーズが進むごとに異なる進化を遂げている。「ガトリングアタック」や「バルカンパンチ」が削除される時期もある。現在ではシリーズ屈指の「投げキャラ」という地位を確立しており、年度毎に性能差はあるものの、常に安定した強さを誇る。クラークの投げ技は、そのほとんどがプロレス技である。女子プロレスの技もあるが、中には実際の技と内容が違うものもある。
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山之口町の交通 最寄り空港は宮崎空港。
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ベンゾオキサゾールの反応 ベンゾオキサゾールの反応はそのほとんどがオキサゾール環上で起こる。ベンゾオキサゾールに強塩基を作用させると、窒素と酸素の間の炭素(2位)上からプロトンが引き抜かれたカルバニオンを与える。求電子置換反応もまた2位の炭素上で起こる。ヒドリド性還元剤を作用させると開環反応が起こり、2-(メチルアミノ)フェノールが生じる。
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江戸相撲安永7年11月場所の歴史 フランクリン市の歴史は、1830年代にブラックウォーター川沿いの鉄道駅として小さな町で始まった。この時代、ブラックウォーター川はノースカロライナ州のアルベマール湾まで品物を運ぶために使われていた。
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北朝鮮によるミサイル発射実験 (2009年)の発射まで ブラックウォーター川は市域の東端を流れ、市の工業化に重要な役割を果たしたが、特に洪水など川に特有のトラブルには無縁でなかった。1999年、ハリケーン・フロイドの後にフランクリン市中心街が12フィート (3.6 m) まで水に浸かった。ブラックウォーター川は水位26.4フィート (8.0 m) と記録的な数値になった。ハリケーンによる洪水で、主に中心街の182の企業と150の家屋が水没した。2006年、暴風雨がこの地域に吹き荒れたあと、ブラックウォーター川の水位は23フィート (7.0 m) 近くとなり、1999年の洪水を除けば1940年以来の最高となった。ハリケーンの名前の「フロイド」は2000年で使い納めとなり、その代わりに選ばれたのが「フランクリン」だった。2006年にフランクリンはまた大規模な洪水に見舞われ、1999年の洪水で設定された23フィートの洪水線よりわずかに下まで達した。この洪水は嵐によるものであり、大量の水をフランクリンのある流域全体に降らせた。
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山崎家盛の経歴 金泳三韓国元大統領は、「金大中元大統領が6億ドル(現在のレートで約603億600万円)もの天文学的な金を北朝鮮に提供し、また盧武鉉前大統領も、詳細は明らかになっていないものの、相当額の金を貢いで北朝鮮へ行ってきた。これらの金がミサイル発射という重大な事件を引き起こす原動力になった」と述べている。
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ジェリー・ジェモットの来歴 ジェモットはニューヨーク市ブロンクス に生まれ、10歳でポール・チェンバースに衝撃を受け、アップライトベースを始める。12歳でセッション・ベーシストとして活動を始め、サックス奏者キング・カーティスに発見されてエレキ・ベースに移行、特に60年代後半から70年代前半にかけて、R&B、ソウル、クロスオーバーなどの分野で活躍した。レイ・チャールズ、アレサ・フランクリン、ウィルソン・ピケット、ロバータ・フラック、ラスカルズ、マージー・ジョセフ、BBキング、フレディー・キング、チャック・ベリー、デュアン・オールマン、オーティス・ラッシュ、マイク・ブルームフィールド、ハービー・ハンコック、フレディー・ハバード、レス・マッキャン、エディー・ハリス、 ジョージ・ベンソン、アーチー・シェップ、ライオネル・ハンプトン、ハービー・マンなどのレコーディングで活躍する。 "Mr. Bojangles"とB.B.キングの『スリル・イズ・ゴーン』のオリジナル・ベースラインは彼によるものである。1975年、映画と芝居のアレンジャー兼コンダクターであるジョン・ウィリアムズと仕事。1985年、ジャコ・パストリアスの教材ヴィデオModern Electric Bassをリリース。2001年、 ベースマガジン / ニューヨークベースコレクレィブ'Life Time achievement賞、Richard Davis Foundation For Young Bass playersでChairman of the Electric Bass Departmentを受賞。ジャコ・パストリアス、ベティー・ミドラー等が彼を最も影響力の強いベース・プレイヤーと名乗っている。P-Vine レコードからソロアルバムをリリース。"Jerry Jemmott & Souler Energy"として"Cool Groove"をリリース、インプロヴィゼーションのクリニックとワークショップで教えている。2009年には、グレッグ・オールマンアンド・フレンズ ("Gregg Allman & Friends") に加入した。
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蘇我比め神社の歴史 創建の年代は不詳である。紀記神話によれば、日本武尊の東征の際、相模から総国に渡ろうとしたとき暴風雨に遭い、それを鎮めるために日本武尊の后の弟橘姫が入水した。社伝によれば、そのとき弟橘姫に付き従ってきた5人の女性も一緒に水に入ったが、そのうちの一人、蘇我大臣の娘の蘇我比咩だけは浜に打ち上げられ、里人の看護により蘇生し、都に帰った。後に里人は、日本武尊が帰途に亡くなったことを聞き、その霊を慰めるために社を建てて祀った。応神天皇はその行為に感激し、蘇我一族をこの周辺の国造として派遣した。蘇我氏は春日大社と比咩神社を信仰しており、両社を勧請して蘇我比咩神社を創建したという。ただしこれには別の伝承もあり、浜に打ち上げられ蘇生したのは弟橘姫であり、弟橘姫が「我、蘇(よみがえ)り」と言ったので「蘇我」という地名となったともいう。延喜式神名帳には「下総国千葉郡 蘇賀比咩神社」と記載され、小社に列している。天正19年(1613年)、徳川家康が社領10石を寄進した。
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グロワ島の地理・自然 長さ8キロ、幅3キロ。面積は15平方キロメートル。ロリアン沿岸から数キロの沖合に浮かぶ。ロリアン=グロワ間には日に数便のフェリーが往復する。行政上は、モルビアン県のコミューンである。島には小さな町がある。島北岸には切り立った高い崖がそびえ、南岸の穏やか入り江には砂浜が広がる。グロワは多種多様な海鳥類の宝庫である。グロワは地質学上、本土と異なる。東岸と南岸は1982年より天然鉱物資源発掘が行われている。島から60種類以上の鉱物が発見され、特に青い藍閃石、緑簾石、石榴石が知られる。島全体は主に結晶片岩からなっている。西岸海洋性気候で、年間平均気温は約12℃、最も寒い12月と1月で平均気温が7℃から8℃である。最も暑い7月から8月の平均気温は17℃から18℃である。グロワ島内にはヘビもキツネもいないが、ヒキガエルをまれに見ることができる。古ノルド語でGroという別称を持つヒキガエルは、Groixの語源になったといわれている。ウサギがとても多く生息しているが、家庭で飼われるネコが急速に増えたため、過去10年間でその頭数は激減した。キジは島のいたるところで年間通してみることができる。
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グロワ島の歴史 グロワ島は2つの地区に分けられてきた。ブルトン語コルヌアイユ方言を話す西部のプイシ(Piwisy)と、ブルトン語ヴァンヌ方言を話す東のプリュムテゥル(Primiture)である。しかし島が2つの教区に分かれていたのではなく、単一の行政体とも見られていなかった。孤立する島民の信仰をまとめていたのは、カンペルレにあるベネディクト会派のサント=クロワ修道院の聖職者たちであった。ヴァイキングたちは島を侵略後、様々な痕跡を残した。長さ14mのボートが収められた埋葬塚もその1つである。墓には人骨や犬の骨の他、剣、盾、盾、斧、槍、矢、ナイフなど多くの武器が収められていた。グロワ島は、エンヌボンを拠点とするケメネ=エボ家を領主としていた。その後、末裔であるロアン家がフランス革命まで島を治めた。
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グロワ島の文化 島で話されていたブルトン語グロワ方言は、1914年以前は5500人あまりの島民が話していたが、20世紀中に消滅した。
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M85 (天体)の概要 数多くの銀河が密集しているおとめ座銀河団の仲間であり、M85以南に特に銀河が密集している。口径5cmの望遠鏡で微かに認めることができる。口径10cmの望遠鏡では外形がやや不規則な点まで観測することができる。口径20cmになると8'東にNGC 4394という11.2等の棒渦巻銀河が見えてくる。口径30cmでは南東から北西にかけて何やら棒構造のようなものが見えてくる。
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M85 (天体)の観測史 1781年にピエール・メシャンによって発見された。同年メシエは「星のない星雲。かみのけ座11番星と14番星の間で、おとめの耳に近い。非常に微かである」とした。スミスは「明るくやや大きな目。中心部が明るい」と記している。ダレストは「大きく明るくとにかく中心が著しい。他の星雲が後続する」としている。
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沼野井春雄の生涯 茨城県水戸市生まれ。東京帝国大学理学部動物学科卒業後、大学院に通いながら旧制浦和高等学校で教鞭をとり、旧制浦和高等学校教授を経て、1949年(昭和24年)に東京大学理学部教授となる。定年退官後は、早稲田大学教育学部理学科生物学専修の教授に就任。。 高校課程の生物教育にも大きく貢献し、旺文社より出版された『生物の研究』は特に有名で、ラジオ生物学講座の講師にもなり、多くの後進の生物学者を育てた。また、早大教授時代は合気道部の部長も務めた。 なお、中学は旧制豊山中学(現日本大学豊山高校)に学んだが、旧制新潟中学から転入してきた作家の坂口安吾とは豊山中学時代の同級生である。
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孤独のカケラの解説 2007年5月23日に発売の6枚目のシングル。規格番号ESCL-2960。楽曲のキャッチコピーは『あなたは、大切な恋を失ったことがありますか?』。このシングルには、初回仕様などの特典はなく、CDのみの販売形態となる。初回DVD付仕様でないのはデビューシングル「HOME」以来のことである。全国ツアー中にもかかわらず、前作「サクラ色」から約2ヶ月というハイペースでの発売となった。ツアーの合間合間にプロモーションビデオの撮影や、楽曲制作が行われていたことが、本人のブログでも明かされている。ちなみにプロモーションビデオに至っては、晴れ男の監督と雨女の自分とはどちらが強いのかと言ったことをブログで語っていたが、その結果は雨女のアンジェラが勝利している(これは「サクラ色」のプロモーションビデオ撮影の際も同様であった)。ほぼ同時期に発表された、フジテレビ系『めざましテレビ』の30代目テーマソング「Again」は本作に未収録となり、これがCD化されるのは4ヵ月後に発売されることになるアルバム『TODAY』まで待たねばならない。ライブでは楽曲の発売前から既に先行披露されており、「サクラ色」が昨年武道館公演で披露されたため実質的に2006年の楽曲であることを考慮すれば、「Again」と共に2007年のアンジェラ・アキの新たなスタートとも言える作品となった。そのためか、CDに付属している帯のデザインがそれまでのシングルからマイナーチェンジされており、今までは上から「アンジェラ・アキ 曲名」という表記であったがこの作品では「曲名 アンジェラ・アキ」という表記に変更されている。本作にはカップリング曲と言える曲は収録されず、全て「孤独のカケラ」のバージョン違いとなっている。このような実質収録した楽曲が1曲3バージョンと言った試みのシングルはアンジェラのシングルでは初となる。また、この作品の発売前週に『サクラ色』のツアーが終了し、月末から2枚目のアルバム制作に入ることが公式に発表された。
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