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安部隆也の来歴 『篠原村誌』に「伯母野山 袁婆能(おばの)○牛小屋山ノ北方ニアリ松林タリ。 伯父野山 袁遅能(おじの)○伯母野ノ東ニアリ小嶮タル松山アリ」とある。『神戸の地名 改訂版』によれば「オジ」「オバ」に類似する山名は全国各地にあり、「ウバガフトコロ」に至っては数十ヶ所あるという。兵庫県の例で言えば神戸市北区大沢町の「乳母ヶ懐」「番ケ懐」、加古川市の「乳母が懐」、高砂市の「御乳母の懐」があり、ウバはオバに通じ、いずれも日当たりのいい山間の小平地を指すという。芝晃によれば「ばんのふところ」という字名が北区有野町唐櫃・五社の2箇所にありいずれも「西日を浴びて、北風のあたらぬ日だまりの地」であり、オバノヤマもそうした立地であるとする。オジについては日当たりのいいオバと対照的に「陰地(オンジ)」の事を言い、同様の地名に長田区高取山の北北東にある「爺父ヶ懐(オジガフトコロ)」を挙げている。
バルザノの位置・広がり ヴェルスパ大分、V・ファーレン長崎のアカデミー出身。2018年より、ヴェルスパ大分へ加入したが、同年シーズン終了後に1年で退団した。
MAN WITH A MISSIONの概要 レッコ県南西部のコムーネ。県都レッコから南南西へ15kmの距離にある。
大正郵便局 (高知県)の概要 2012年1月3日より、ニッポン放送『オールナイトニッポン』のジングルを担当。1月27日、メジャーデビューアルバム『MAN WITH A MISSION』が第4回CDショップ大賞に入選。2月10日、日本クラウン主催の第48回日本クラウンヒット賞をJ-POP部門で受賞し、贈呈式に出席。同席した北島三郎から好評と激励を受けた。3月14日、インディーズデビューミニアルバムに楽曲2曲を追加収録した『WELCOME TO THE NEWWORLD -standard edition-』を再発。本作で初出となる新曲「TAKE ME HOME」はミュージックビデオが制作され、日本テレビ系『音龍門』Baby Dragon's Gate(パワープレイ)に起用された。3月20日、カルチュア・コンビニエンス・クラブがTSUTAYA RECORDSで配布するフリーペーパー『VA』2012年4月号誌上より、Jean-Ken Johnnyの初のコラム「MAN WITH A MISSION ジャンケン・ジョニーの“イヤァ〜…映画って本っ当にイイもんですね〜”」が連載開始。4月4日、メジャー初のシングル「distance」を発売。CDフォーマットでは、CDのみの通常盤のほかにDVD付2枚組の初回限定盤の2形態が同時発売となり、本作付属DVDが初の映像作品の製品化となる。タイトル曲「distance」はテレビ朝日系『musicる TV』2012年4月度オープニングテーマ、北海道テレビ放送『夢チカ18』2012年4月度オープニングテーマ、tvk『音楽缶#』2012年4月度テーマソングにそれぞれ起用された。オリコンチャートデイリーランキングでは4月4日付で4位を記録し、自身初のトップ5入りを記録。また、ニルヴァーナのアルバム『Never Mind』のカバーを収録したトリビュートアルバム『NEVERMIND TRIBUTE』も同時発売され、本作で「Lithium」のカバーを収録した。同日より、NANO Media Inc.の提供により、iPhoneおよびAndroid端末向けのアーティスト公式スマートフォンアプリ『MAN WITH A MISSION Official Apps』が無料配信開始。シングル発売を記念し、発売翌日の4月5日にはタワーレコード渋谷店にてメンバーが1日店長に就任し、本作キャンペーンと同時に接客や商品陳列などの営業業務を行った。4月7日には、ニッポン放送『オールナイトニッポンR』にて、Jean-Ken Johnnyがラジオパーソナリティに起用された『MAN WITH A MISSION ジャン・ケン・ジョニーのオールナイトニッポンR』が放送。7月18日2ndフルアルバム『MASH UP THE WORLD』を発売。2ndフルアルバム収録の「FROM YOUTH TO DEATH」がハッピーMusic7月オープニングテーマに起用される。2013年2月22日、テレビ朝日系『ミュージックステーション』に出演。地上波の音楽番組に初めて生出演した。3月7日、全日本CDショップ店員組合の「第5回CDショップ大賞」の大賞を「MASH UP THE WORLD」で受賞。8月19日、ソニー・ミュージックレコーズへの移籍を発表。移籍後初のシングル「database feat. TAKUMA(10-FEET)」はテレビアニメ『ログ・ホライズン』のオープニングテーマとして使われ、同作の第1期第18話にメンバー全員がモブキャラとして登場している。2016年10月からソニー「ハイレゾ級ワイヤレス」キャンペーンCMに起用され、CM初出演を果たす。
アデナ文化のアデナ文化の遺跡の分布範囲 アデナ文化の遺跡は、オハイオ州南部を中心にインディアナ州のオハイオ州との隣接地、ケンタッキー州北部、ペンシルベニア州の南西部、ウェストヴァージニア州の北西部に分布している。アデナ墳丘墓群は、墳丘墓、環状土木遺構(earthworks encloseure)の双方で知られている遺跡である。墳丘墓は、円錐状をなす土盛りの墳墓であり、アデナ文化のもののうちで最も大きく有名なものは、ウェストヴァージニア州にあるGrave Creek Mound(グレイヴ・クリーク・マウンド)である。グレイヴ・クリーク・マウンドは、20mを超える高さを誇る。環状土木遺構は、防御用というよりは儀式的な意味を持つ遺構である。環状土木遺構の多くは、ほぼ完全な円形になっている。このように「神聖な円」は、平均して直径100mで堀を伴う低い土塁で囲まれている。いくつかの出入り口がその土塁を分断するようにつくられている。墳丘墓は、そのような環状土木遺構の内部で見つかることがある。いくつかの環状土木遺構がまとまってひとつの遺跡を構成している。約48km²にわたるアデナ文化最大の遺跡、Wolfes Plains Groupはそのようなアデナ文化の環状土木遺構の分布する様子を示す好例である。
清水信之の幼少・青年期 アデナの尖頭器は、長く直線的な有茎尖頭器であって、古期段階の尖頭器と大きくは変わらない。とぎあげてみがいた石製品のなかには、二つの孔のある棒状ないし糸巻き状などの形をした「のどあて」(ないし「襟章」)が見られる。それらの「のどあて」(ないし「襟章」)は投槍器のおもりであったと考えられる。古期段階の後半に見られるチューブ状のパイプは、アデナ文化では、一般化する。チューブ状のパイプは、吹き口が平坦につくられ、精巧に造られたもののなかには、人間を象ったものもある。アデナ文化の彫刻は小さな石版(石製「護符」)に表現される。その石製「護符」は、小さく平坦なもので、厚さは、1cmをわずかに超えるくらいで、長さは8~10cmほどである。片面ないし両面に様式化した動物や幾何学紋様が刻まれる。
ビールの原料 幼少時よりピアノを習う。なお、小学生の時にピアノを習っていた同級生が後のギタリスト・鳥山雄司である。東京都立松原高等学校に在学中、後輩のEPO、佐橋佳幸らとバンド活動を行う傍ら、ミュージシャンの松岡直也に師事。清水がラテン系のアレンジに強い理由は、この頃の経験によるものだといわれている。
国立考古学博物館 (スペイン)の説明 「ノンアルコールビール」と呼ばれた「ビールテイスト飲料」は、運転をする者や大人たちがビールを飲んで祝い事をする時の子どもたちの飲み物としても販売されている。これらの中にはホップを含まない甘いものもある。以前は「ノンアルコールビール」と呼ばれたが、キリンフリーなど発酵していない商品を除いては、アルコール含有量はゼロではない。酒類に分類されるアルコール1%という基準を下回ってはいるが、たいていの商品はアルコール分を含んでいる。そのため、未成年者やアルコールに敏感な人の飲用や飲用後の運転は控えるよう呼びかけている。また飲食店や販売店においてはドライバーや未成年者への販売を拒否するケースも見られる。「ノンアルコール」という表現は誤解を招くという指摘もあり、日本の業界では名称を「ビアテイスト飲料」又は「ビールテイスト飲料」に改める動きが進んでいる。ホッピーはそれ自体はアルコール1%未満であるが、焼酎などの割り材とするのが一般的である。ルートビアは、ジンジャービアとも呼ばれるジンジャーエール似の飲料で、こどもびいるという飲料も販売されている。
ホワイティ・ロックマンの経歴 イサベル2世の王令によって1867年に設立された。その目的はスペイン君主によって収集された貨幣・考古学・民俗学・装飾芸術のコレクションの保管庫となることである。その後建築家のフランシスコ・ハレーニョによって新たな建物が計画され、1886年に開始された建築工事はクリストファー・コロンブスの新大陸到達400周年である1892年に完成した。現在地であるこの建物は新古典主義を採用しており、1895年にはすべてのコレクションがこの建物に移動された。1968年の改装・拡張工事ではかなり面積が拡大した。2008年には改装工事のために一時閉館した。工事は2013年に完了する予定だったが、2014年4月になって再開館した。再開館した博物館は核となる役割(考古学)に専念し、装飾芸術のコレクションの一部を放出した。マドリード地下鉄4号線のセラーノ駅から徒歩3分。
佐賀北警察署の警察署再編の経緯 1943年にニューヨーク・ジャイアンツと契約、1945年7月にメジャー昇格を果たした。このシーズン32試合に出場し打率.341を記録して将来を期待された。兵役を経て1948年にメジャー定着、キャリア・ハイの18本塁打、68打点を記録した。1951年10月3日のナショナルリーグ優勝決定プレイオフ第3戦では3点ビハインドの9回裏、ブルックリン・ドジャースのエース、ドン・ニューカムからタイムリー二塁打を放つ。これでニューカムはマウンドから降り、ボビー・トムソンの『その一打が世界を変えた("Shot heard 'round the world")』逆転サヨナラスリーランホームランにつながる。1956年途中にジャイアンツはセントルイス・カージナルスとの間でロックマン、アルヴィン・ダーク、レイ・キット、ドン・リドルとジャッキー・ブランド、ジャック・リトルフィールド、ビル・サルニ、レッド・ショーエンディーンスト、ゴードン・ジョーンズの4対5の大型トレードを行った。しかし翌1957年のシーズン前にホイト・ウィルヘルムとのトレードでジャイアンツに戻ったが、1959年はボルチモア・オリオールズに金銭トレードで移籍した。このシーズン途中にシンシナティ・レッズへトレードされ1960年限りで現役を引退した。レッズではフレッド・ハッチンソン監督の下、コーチを兼任。1961年からジャイアンツのコーチに就任した。1972年のシーズン途中、レオ・ドローチャーに代わってシカゴ・カブスの監督に就任し、1974年途中まで務めた。その後は育成部長、スカウトなどを歴任した。2009年スコッツデール (アリゾナ州)で没した。
末吉光徳の来歴 従前の佐賀警察署は、事件・事故の取扱件数が佐賀県内の警察署で最多、また刑法犯の認知件数が佐賀県内全体の4割を占めるなど、警察官1人当たりの業務量が多かった。その一方、諸富警察署は、佐賀県内の警察署で最も署員が少なく、夜間の業務体制も脆弱で、捜査人員を増やして機動力を増強することも求められていた。再編後、管轄の人口は南署約12.7万人・北署10.8万人(2016年)、面積は南署133km²・北署299km²、署員は南署206人・北署165人(2017年4月発足当初)と、両署で業務負担が平準化された。なお、両署の管轄境界は、住民にも警察官にも分かりやすいようJR長崎本線を基本としつつ、防犯や交通安全の活動を担う自治会の区域を分断しないように設定された。
DISCOVERY (Sing Like Talkingのアルバム)の概要 西九州たばこ耕作組合理事、農協理事などを務めたほか、建設会社や贈答品販売会社を創業・経営した。しかし、2008年に義弟に経営を譲っていた建設会社が倒産。多額の負債を信用保証協会に負わせたとして、同じく親族が経営する会社が倒産した長崎県議田中愛国と共に右翼団体から議員辞職を迫られたことがある。
マイク正岡の経歴 カリフォルニア州フレズノにて、広島県出身の父と熊本県出身の母との間に、6男1女の4番目(三男)として生まれる。ユタ州ソルトレイクシティに移り住んだ直後に、一家全員でモルモン教の信者となった。なお、父はマイクが9歳のときに事故により亡くなっている。ユタ大学では、ディベートチャンピオンに選ばれ、1937年に同校を卒業し、政治学と経済学の学位を取得した。太平洋戦争勃発直前の25歳の時には、日系アメリカ人市民同盟(JACL)のNational SecretaryならびにField Executiveとなり、ワシントンD.C.に赴任した。太平洋戦争が始まると、正岡はJACLにおけるキーパーソンの一人となり、当初は日系人の強制収容問題を可能な限り穏便に解決すべく、ルーズベルト政権と幾度と無く交渉を重ねた。正岡は、アメリカの市民権を持つ二世を収容することに異議を唱え、一世のみを収容所送りにして、自分たち二世を兵士として戦場へ派遣する、という案を軍当局に提示したが、かえって政府側との摩擦を悪化させる結果となり、最終的には、戦時転居当局に協力するという姿勢に転じることとなった。その結果、日系人の間では正岡を「親不孝者」「政府に擦り寄る裏切り者」と批判する声が聞かれたが、それでも正岡はJACLのスポークスマンとして、「今犠牲を払わなければ、二世にとって戦後は無い」と主張して、政府への協力を強行し、政府に収容所における被抑留者と運営者側との摩擦を軽減する為の方法を提案した。政府は、正岡を収容所における日系人との間の連絡係として利用したが、彼自身は収容所に収監されることはなかった。戦況の激化に伴い、正岡はかねてより主張していた「二世部隊」の実現に本格的に尽力するようになり、政府も長期化が予測された戦況を鑑みたうえで、日系人からの徴兵も検討するようになり、結果として、正岡の提案は受け入れられることとなった。第442連隊戦闘団の編成に伴い、正岡は真っ先に軍へ志願し、軍への入隊後は、フランス・イタリアへ派遣され、1944年10月下旬の、ヴォージュ山脈における所謂「失われた大隊」の救出作戦にも参加するなど、幾度と無く命の危険に晒されながらも、生還した。因みに、正岡兄弟のうち、年老いた母の生活の面倒を見ていた長兄のジョーを除く5人が軍へ志願し、次兄はフランスで戦死し、弟のうち2人は戦闘で重傷を負い、重度の身体障害者となってしまった。また、1951年の映画『二世部隊』では、技術顧問として製作に携わった。戦後も、「外国で勝利を収めた戦争は、国内においても勝利を収めなければ意味が無い。国民が自由を享受する為には、その自由の為に戦い続けなければならない」という主張のもと、復員後に差別撤廃委員会の委員長に就任したのを皮切りに、JACLの代表として日系人の権利向上の為に活動を続けた。その一方で、議会裏で活動するロビイストとしての資格もこの頃に得ている。活動の中でも代表的なものとしては、国府田敬三郎などとともに自分達の親世代である一世のアメリカ市民権獲得を実現させる為に、帰化権獲得同盟を結成したことが挙げられ、アジア事情に通じていた共和党のウォルター・ジャッド下院議員と提携して「移民帰化法案」を実現させるべく、法案に関係する議員や団体、マスコミ等に法案の趣旨を説明する、といった活動を展開した。その結果、1949年3月に同法案が下院を通過したのを機に、アメリカ国内の有力紙が「アメリカに永住する日系一世に対し、人種平等の立場から帰化権を与えるべき」といった内容の社説を掲載する、という成果を得るにまで至った。途中、民主党のパット・マッカラン上院司法委員長によって、法案の内容を日本からの年間の容認移民者数を、他の国の出身者に比べて少なく割り当てるよう修正されたり、当初の案とマッカランによる修正案をの両方をトルーマン大統領によって拒否権を発動されるなどの紆余曲折を経たものの、1952年6月27日に「移民帰化法」が成立し、マッカランは正岡を「ワシントンで最も成功したロビイスト」と評した。1972年に、ロビー活動に専念する為、JACLの役職を退いた。晩年になると、正岡は太平洋戦争の頃を振り返って、政府から自分達の方針に沿う内容の「提案」を出すよう、圧力を掛けられていたことをほのめかすようになり、PBSの番組のインタビューでは、自身が取り続けていた姿勢を「本当に大掛かりな“芝居”だった」と語っている。1991年に心筋梗塞でワシントンD.C.にて死去(76歳)。死去に際し、ノーマン・ミネタは正岡を「20世紀において最も素晴らしいアメリカ人のうちの一人」と称えるコメントを発表した。
鈴木みほの人物 小学校から始めた新体操では、高校生大会で東京都優勝、テレビ信州杯優勝、全日本クラブ選手権6位入賞。2011年8月21日、日本テレビ『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』内にて「エビぞり卵運び」のギネス記録に挑戦し、ウクライナのタチアナ・タゾサンの持つそれまでの世界記録42秒を破る、27.4秒のギネス世界記録を打ち立てた。
ヴィクター・イグボネフォの代表歴 インドネシアサッカー協会は2011年10月10日に、彼がインドネシアに帰化した事を発表した。2013年3月23日に行われたAFCアジアカップ2015予選のサウジアラビア代表戦で代表初出場を果たした。
ヴィクター・イグボネフォのプレースタイル その身長や体の強さ、決定力の高さからインドネシア有数のディフェンダーとされている。
長野恭紘の経歴 大分県別府市出身。大分県立別府羽室台高等学校、日本文理大学商経学部卒業。小学校から大学まで野球を続けた。大学生の時に下宿先のそばに衆議院議員衛藤征士郎の事務所があったことが契機となり、政治家を志すようになったという。衛藤の秘書を務めていた2002年4月、東京での勤務となった2月以降は「代議士の代理として国防、国土交通、文部科学など自民党のいろいろな部会に顔を出す」とした上で、「そこで感じるのは政策が霞が関主導で立案されているということ」であり「政治主導の理想は道半ばという印象」を受けたと紙上において述べている。2006年の別府市長選に立候補した際には、当時の市長浜田博が推進するイズミの誘致計画への反対を表明していた。2015年の別府市長選では、次世代の党の推薦、公明党大分県本部の支持を受け40歳で初当選。最年少の別府市長となった。
長野恭紘の政策 生活保護受給者の比率が3.3%と全国平均の2倍近くに上る別府市では、1990年以前から別府市内のパチンコ店や別府競輪場といった遊技場を訪れている受給者を調査。発見した受給者には文書で指導し、再び出入りした場合に保護費の支給を1-2ヶ月間停止してきた。長野もこの調査・支給停止を継続しており、2015年度には調査を2回に増やすとともに、2016年度には担当者を増員して調査をさらに強化する方針を示している。
北方地域の概要 北方地域は、いわゆる北方領土のことで、北方領土問題等の解決の促進のための特別措置に関する法律(昭和57年法律第87号)2条1項では「歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島」とされ、「内閣府設置法第四条第一項第十三号に規定する北方地域の範囲を定める政令」(昭和34年政令第33号)では「歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島及び内閣総理大臣が定めるその他の北方の地域」とされる。この地域は、日本の都道府県の区分としては北海道の一部とされ、根室振興局(旧・根室支庁)の所管区域である。市町村の区分としては、色丹郡色丹村、国後郡泊村、同留夜別村、択捉郡留別村、紗那郡紗那村、蘂取郡蘂取村および根室市の一部とされている。なお、戦前において北方領土とは、樺太、千島列島、北海道などを指し、南方領土(沖縄や小笠原諸島など)に対する形で北の領土という意味で用いられていた。北方地域の面積は約5,036 km²で、千葉県(5,081.91 km²)とほぼ同じ広さを有する。その中で最も北海道本島に近い歯舞群島は、北海道根室市の東端である根室半島の納沙布岬の沖合3.7 kmから北東に点在する。なお、現在、北方地域については日本の実効支配が及んでいない状況にあるため、国勢調査の対象地域から除外されている(国勢調査施行規則第1条第1号)。
櫛引パーキングエリアの施設 上り線には第三セクター「株式会社くしびきふるさと振興公社」が運営するハイウェイオアシス「地域ふれあいセンター」がある。下り線施設はトイレと自動販売機のみ設置されている。
櫛引パーキングエリアの生き活きべんとう村 生き活きべんとう村(いきいきべんとうむら)は、本パーキングエリアの西側(下り線施設側)にある鶴岡市の設置した森林公園であり、パーキングエリアから歩いていくことができる。1994年(平成6年)に当時の櫛引町が整備した。約15.2ヘクタールの園内は11のエリアに分割され、そのうちの天望の森からは庄内平野を一望することができる。公園名の「生き活きべんとう村」は、「おいしく弁当を食べられる施設」・「自然と触れ合うことで生きる活力がみなぎる施設」になるよう願いを込めて命名された。四季を通してミズバショウなどの花や山野草などを見ることができ、遠足や山菜取りなどで訪れる人がいる。(冬季は積雪により利用ができないことがある。)2016年(平成28年)、長井市から譲り受けたハナショウブ約150株を地元自治会が植栽し、荒廃したあやめ園の再生が進められている。なお園内に弁当などの物販施設や飲食店はない。
ヒンリヒ・ローゼの略歴 プロイセン王国のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州のミューレンバルベク(de:Mühlenbarbek)で農家の息子として生まれる。1913年からハンブルクのブローム・ウント・フォス造船所の従業員として働く。第一次世界大戦中の1915年9月23日から負傷するまでの1916年10月30日にかけては出征した。1923年に国家社会主義ドイツ労働者党に入党。1925年3月27日にはシュレースヴィヒ=ホルシュタイン大管区指導者となる。1928年と1929年の間にかけてハンブルク大管区指導者の地位も兼任した。1932年7月の選挙で国会議員となる。後の1933年のナチス党の政権掌握後は、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の州総督(Oberpräsident)となった。1942年にはシュレースヴィヒ=ホルシュタインの国家防衛委員(de:Reichsverteidigungskommissar)となる。1941年7月17日に、オストラント国家弁務官(総督)(de:Reichskomissar)に就任し、1944年まで務めた。ラトビアにおけるゲットー建設にハンス・アドルフ・プリュッツマンと共に責任を負う。 1945年5月6日に、カール・デーニッツによってシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州の最高責任者から解任された。戦後まもなくイギリス軍によって逮捕された。1948年に刑務所内で懲役10年に刑を宣告されたが、病のため1951年に釈放された。シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州総督時代の年金はシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州議会によって撤回された。1964年2月25日に死去するまでミューレンバルベクで余生を過ごした。
孫悟飯 (孫悟空の育ての親)の人物像 悟空に「じっちゃん」と呼ばれ慕われた育ての親で、彼にカンフーの基礎を叩き込んだ人物。エイジ658年生まれ。占いババの宮殿で悟空と再会した際の年齢は、生きていれば102歳。身長160cm、体重51kg。趣味は散歩。嫌いなものはこれといってない。ヤムチャの弁によれば、「武術においてその右に出るものはいない」とまで言われた達人で、ウーロンもその名前を聞いたことがあり彼のことを「有名人」と発言しているなど、武道界のみならず世間一般にまでその名は知られているほどだった。死後、占いババにスカウトされた際にも、戦士中最強の実力者として5人目を務めた。また、悟空に素手による格闘術のみならず、如意棒による棒術なども教えた。試合前の一礼をするなど礼儀正しく、礼をしなかった悟空にも注意している。悟空の弁によれば、「女には優しくしろ」とも説いていた。若かりし頃は亀仙人の一番弟子で、牛魔王は弟弟子にあたる。亀仙人が悟空たちに課した牛乳配達などの修行をしている姿を見て、彼ら二人に修行をさせていた頃を懐かしむ場面がある。悟空と対戦した牛魔王は、彼が兄弟子である悟飯に育てられたことや師の亀仙人のことを知っていると聞いた途端に「悟飯さんの孫なら、自分の娘チチを嫁にやってもいい」と発言するなど、彼とは非常に親しい関係だったようである。悟空と孫悟飯は80歳近い年齢差(#略歴参照)があり、彼を知る人物は二人の間柄を「親子」ではなく「祖父と孫」と捉え、牛魔王は先述の通り「悟飯さんの孫」と発言している。また、ウーロンも孫悟飯のことを「アイツ(悟空)のじいさん」と、アニメでは悟飯本人も悟空のことを「ワシの孫」と発言している。亀仙人のように、女性好きな面もあるが師と違いセクハラ的言動は取らない。亀仙人とも戦ったことがあるが、亀仙人の技「萬國驚天掌」に耐え切れず敗れた(亀仙人が「萬國驚天掌」を使用したのは、他には孫悟空だけである)。しかし、その武術における天賦の才は亀仙人も高く評価しており、悟空から悟飯が死んだことを聞いたときにはガックリと肩を落とし「惜しい男を亡くした」と言わしめた。ある満月の夜、小便のため外へ出た悟空が月を見て大猿化した際に踏み殺されてしまう。悟飯の死後、悟空は悟飯が昔拾ってきた四星球のドラゴンボールを形見としている。生前、悟空に満月を見ないように諭していたことから、以前に大猿化した悟空を見ているようである。悟飯を殺した者が自分であるという事実に悟空が気付いたのはサイヤ人、ベジータとの戦いにおいてである。人格者であり、自らを踏み殺した悟空に対しても、ただただ可愛がり彼の身を心配しており、恨むようなことは一切言わなかった。鳥山明は「悟空はどうして神龍に孫悟飯を生き返らせてもらおうと考えなかったのですか?」という質問に、「おじいちゃんに会えたからいいんじゃないかなあ」と答えている。悟空はチチとの間に授かった男児に、自分の育ての親である悟飯の名を与えている。この男児が悟空の長男・孫悟飯であり、悟空は「じっちゃんの形見だから」と、四星球を息子の帽子に付けていた。
孫悟飯 (孫悟空の育ての親)のストーリーへの関わり ストーリー開始時点で故人であり、四星球も当初から彼の形見として設定されている。それゆえ悟空はドラゴンボール集めに際しても四星球だけは別にして持っており、そのことからドラゴンボールが奪われた際にも奪った相手を手こずらせる結果になった。師の姉でもある占いババの力で一日だけこの世に戻り、狐の面で素性を隠して悟空と対決。悟空たちが最後のドラゴンボールのありかを訪ねに占いババの館に来ることを、彼女の占いで事前に知っていた。試合では一進一退の攻防を繰り広げて亀仙人たちを驚かせ、武道家として目覚しい成長を遂げた悟空の前に窮地に陥るが、育ての親だけあり悟空のシッポが弱点であることを知っていたため、それをつかんで形勢逆転に成功する。しかし途中でシッポが切れてしまい、弱点がなくなり悟空が反撃に転じようとしたところで負けを認め、仮面を取って再会を果たす。この時悟空は初めて人前で泣いており、ヤムチャやブルマもそれについて触れている。「ピチピチしたコもいる」と発言しており、天国では、ぴちぴちギャルに囲まれて暮らしているが、我が子同然に育てていた悟空を残してこの世を去ったことが心残りだったらしく、その成長ぶりと彼がドラゴンボールをめぐる冒険を通じてたくさんの友人に囲まれていることを知り、安心してあの世へ帰って行った。サイヤ人編では悟空の回想シーンで登場。悟空は大猿化したベジータとの戦いで、大猿化がサイヤ人の特性の一つであることを知り、即座に昔を思い出し、悟飯を殺したのは自分であることに気付き、「また死んだら謝りに行く」と発言している。アニメ『ドラゴンボール』の終盤エピソード・ウェディング編では、あの世のフリーターとして、あの世とつながる五行山でアルバイトをしており、死後の魂をあの世に運ぶ八卦炉の炎を管理する太上老君ことアンニンの守衛を勤めている。アンニンからはちゃん付けで呼ばれるなど、かなり気に入られている。また、そこでフライパン山の火災原因を突き止めに来た結婚直後の悟空・チチ夫妻とも会い、感慨深い表情を見せていた。悟空の実父・バーダックを主人公としたテレビスペシャル『ドラゴンボールZ たったひとりの最終決戦〜フリーザに挑んだZ戦士 孫悟空の父〜』では、ラストシーンにのみ登場。
孫悟飯 (孫悟空の育ての親)の略歴 エイジ658 - 生誕。エイジ737頃 - 79歳。人里離れた山中に住み、山の中で拾った悟空を育てるとともに、武術の基礎を教えた。後に、大猿と化した悟空に踏み潰されて死んでしまう。エイジ750 - 悟空が出現することを予見した占いババの考慮もあり、この世に戻り、狐の仮面を被って悟空と戦う。戦いが終わった後に正体を明かして再会し、あの世に帰っていった。自分の父だけが生き返ることに気を遣うウパに対しては、「あの世も気に入っている」と発言していた。
孫悟飯 (孫悟空の育ての親)のゲームでの登場 ファミリーコンピュータゲーム『ドラゴンボール 大魔王復活』にて仲間カードとして登場。『ドラゴンボール3 悟空伝』ではボスキャラクターの1人として登場。同作では神経衰弱のガイド役としても登場する。RPGゲーム『ドラゴンボールZ 強襲!サイヤ人』『ドラゴンボールZII 激神フリーザ!!』などではお助けカードとして登場。敵の動きを止めることができる。また『強襲!サイヤ人』では道中のイベントで悟空を応援する場面がある。PlayStation 2ゲーム『ドラゴンボールZ Sparking! NEO』では隠しキャラクターとして登場。『ドラゴンボールZ Sparking! METEOR』では最初から使用可能。
グーグーモンキーズの概要 パーソナリティは、漫才コンビ・麒麟とグラビアアイドル・番ことみ。オープニングトーク後より、漫才コンビ・ソラシドの本坊元児(ほんぼうがんじ)も参加。以前は『Bフライデースペシャル』の中で「45ラジオ」(番ことみが出演)、「02ラジオ」(麒麟が出演)が放送されていたが、『Bフライデースペシャル』の終了後、当番組がスタート。毎週土曜日2時30分(金曜深夜)から放送。2005年秋の改編により、麒麟と番は『ゴーゴーモンキーズ』木曜日に移る。10月から新たにパーソナリティとして千鳥と石井寛子を迎え、放送枠も毎週土曜日3時00分からに変更。2006年春の改編で、4月1日をもって終了となった。
コーネル実在論の内容 個々の論者によって細部の立場は異なるが、コーネル実在論は概ね以下の主張を含んだ学説であると理解されている。
コーネル実在論の動機づけの外在主義 コーネル実在論は動機づけの問題について、「道徳判断と動機づけの間には必然的な連結が存在しない」という外在主義の立場をとり、アモラリスト(動機をともなう道徳感情抜きに道徳判断をおこなう人)の存在可能性を認める。この立場をとることによってコーネル実在論者は、「道徳判断は我々に行為をうながす動機づけの力をもつため、認知的状態ではない」と主張する非認知主義者に対して「道徳判断が動機づけの力を持たないとすれば、道徳判断が非認知的状態であると考える理由もなくなる」という論法で応答し、認知主義を擁護する。またデイヴィド・ブリンクは、動機づけの外在主義に加えて規範的理由の外在主義をも主張する。規範的理由の外在主義とは、「行う理由を持つこと」と「行う動機を持つこと」の間にも必然的な連結を認めない立場である。
コーネル実在論の形而上学における自然主義的非還元主義 コーネル実在論がその実在を主張する道徳的事実はあくまで自然的事実であり、自然科学や社会科学の研究領域に含まれるものである(自然主義)。道徳的事実は超自然的なもの(例えば神命説)でも非自然的なもの(ムーアの『倫理学原理』やマッキーの実在論的世界像)でもないが、この道徳的事実を非道徳的自然的事実(例えば快苦)に還元することはできない(非還元主義)。つまり、道徳的事実とは非道徳的自然的事実に随伴(supervene)する自然的事実なのであって、非道徳的自然的事実と同一視することは出来ないという立場をとる。
コーネル実在論の意味論における非還元主義 コーネル実在論は、道徳語(moral terms)および道徳概念と自然語および自然概念の間に還元可能な関係を認めない。すなわち、「しかじかのものは道徳的に望ましい」という道徳的な(規範についての)言明を「しかじかのものが快を生む」という自然的な(事実についての)言明に還元することは出来ないと主張する。これによりコーネル実在論者は、「自然的誤謬を犯さずに自然主義を主張することはできない」というムーアらによる批判に対して「形而上学的還元は意味論的還元を含意しない」と応答することが出来る。この主張は通常、クリプキ-パトナム流の意味論を伴っている。道徳語および道徳的概念はそれに対応する一定の自然的性質を選び出すが、こうした自然的性質は「我々の語や概念の用法との間に適切な因果関係を構成する性質である」という観点から選ばれるだけであり、道徳的概念が自然的概念に還元されるわけではない。
ショーン・トレビーの略歴 ストーマーズ、ノースハーバーを経て、2018年、Honda HEATに加入。同年9月1日に行われたジャパンラグビートップリーグ第1節のリコーブラックラムズ戦にて先発出場で日本での公式戦初出場を果たす。
アジア開発銀行の概要 本部はフィリピン共和国・マニラ首都圏マンダルーヨン市。ESCAP(アジア太平洋経済社会委員会)の発案により、1966年に発足した。現在67か国/地域で構成される。最大の出資国は日本とアメリカ合衆国(ともに出資比率15.7%を占める)である。中華人民共和国と中華民国(名義は中国台北でこれに抗議して中華民国は1986年と1987年のADB総会をボイコットしたことがある)が共に加盟している、国際機関としては珍しい存在である。2016年には中国主導で設立されたAIIB(アジアインフラ投資銀行)と協調融資の実施で覚書を締結した。設立当時から日本の大蔵省(現・財務省)が深く関わっており、大蔵省OBで大蔵大臣だった福田赳夫と、その盟友の大蔵省OBで初代総裁も務めた渡辺武が作成した私案をもとに、大蔵省の意向を強く反映して設立が進められた。
アジア開発銀行の包括的取組 特にアジア・太平洋地域は、世界の貧困人口の3分の2を抱える地域であり、1日2USドル以下で暮らす貧困人口は19億人に上ります。彼らの生活の質を向上させることに力を入れて活動しています。 — アジア開発銀行1999年ADBは、従来の開発援助の運営方針を貧困削減を最重要目標と定め、それに向けて「貧困層に配慮した持続可能な経済成長」、「社会開発」、及び「グッド・ガバナンス」を戦略の三本の柱とした貧困削減戦略を発表した。この柱を支える指標として、「環境の保護」、「ジェンダーと開発の促進」、「民間セクターの発展」、そして「地域内協力」を挙げている。
アジア開発銀行の組織 本部をフィリピンのマニラ首都圏マンダルーヨン市に据え、世界26か所に事務所を設置している(アジア地域19か所に駐在員事務所、太平洋地域3か所に準地域事務所の他、フランクフルトに欧州代表事務所、東京に駐日代表事務所(代表:児玉治美)とアジア開発銀行研究所(所長:吉野直行)、ワシントンD.C.に北米代表事務所、東チモールに特別リエゾン事務所)。2007年末時点におけるADB の職員数は2,443名であり、出身国は55カ国。このうち経営幹部は5 名、専門職員は847名(上位10カ国は、日本:118名、アメリカ合衆国:103名、インド:58名、中華人民共和国:50名、オーストラリア:50名、カナダ:46名、ドイツ:37名、大韓民国:34名、インドネシア:33名、イギリス:32名)、一般職員は1,591 名。歴代総裁はすべて日本人が就任している。最高政策決定機関は総務会(Board of Governors)で、各加盟国1人の総務で構成される。日本からの総務として財務大臣(現任:麻生太郎)が任命される。総裁は総務会で選出される。また、融資の承認等日常業務の意志決定がなされる理事会(Board of Directors)は、マニラ駐在の12人の理事(域内国から8名、域外国4名)で構成される。理事は隔年選出される。
アジア開発銀行の加盟メンバー 1966年の発足時は31か国/地域(台湾・香港なども加盟メンバーなことから)だったが、新規加盟国アイルランド(2006年7月24日)、ジョージア(2007年2月2日)に迎え、現在加盟メンバーは67か国/地域を数える。域内(アジア・太平洋)48メンバー、域外(ヨーロッパ・北米など)19メンバー。カッコ内は加盟年。
アジア開発銀行の一部の市民・NGOなどの動き 経済発展を目的としたアジア開発銀行が途上国において融資する大型開発プロジェクトは、現地に環境面・社会面への負の影響を与えているという主張があり、意志決定プロセスに現地住民の参加が十分確保されているとも言えないという主張があることからも、融資される側である途上国からだけでなく、一部のNGOから批判の声が上がっている。毎年開催される総会では、問題のあるプロジェクトを扱う政策提言型NGOによるロビー活動はもちろんのこと、アジア開発銀行が取る政策自体に反対表明をする人々のグループが、対抗フォーラムを行うこともある。インドのハイデラバードで開催された第39回には、Peoples Forum against ADBが開催され、2007年5月に開催された第40回京都総会では、ADB京都総会・市民フォーラムが開催され、ADBの融資するプロジェクトの問題点などが話し合われた。
服部武夫の来歴・人物 四日市高から、1950年に南海ホークスへ入団。1951年に31試合登板し、10勝7敗、防御率2.03を記録して南海の優勝に貢献した。防御率2.03はリーグ1位の成績だったが、この年だけ導入された資格投球回数算定法によって南海ホークスの標準回数が164回と決まっており、投球回数が155回だった服部は規定未満として最優秀防御率のタイトルを逃し、2.08で2位だった同僚の柚木進がタイトル獲得となった。日本シリーズにも出場し、第1戦、第2戦はリリーフで登板。第4戦は先発で8回まで無失点だったが9回に読売ジャイアンツ打線に打ち込まれ3点を失って降板。リリーフした柚木が後続をしっかりと抑え、服部が勝ち投手となった。また、同年は南海土建に出向という形で社会人野球でもプレーした翌1952年は自己最多となる16勝を挙げた。この年の日本シリーズも第4戦で先発するが負け投手となっている。1953年は1軍での登板無く、1954年に高橋ユニオンズへ移籍するが勝利できず、1956年に毎日オリオンズへ移籍。1958年に広島カープへ移籍し、同年引退。1952年以降はまったく勝利することができなかった。引退後は、地元の四日市に戻り、服部野球教室を開設。少年たちに野球の指導を行う。
倉岡裕之の概要 1961年8月3日、東京都に生まれる。我孫子市内の小中学校を卒業。中学校時代から丹沢で登山に親しむ。高校進学後、山岳部がなかったために毎日手賀沼で10kmタイムトライアルを行って身体を鍛えた。大学進学後、登攀クラブ蒼氷でクライミングを始め、1984年木本哲らとともにエンゼルフォール(1,283m)を未踏ルートで初登攀成功。1985年、映画「植村直己物語」の撮影スタッフとして5月マッキンリー登頂、10月エベレストロケに参加する。帰国後、懸垂下降時に事故で大怪我を負い、約12年間クライミングから遠ざかる。2003年よりラッセルブライス率いるヒマラヤン・エクスペリエンスに、田村真司と共にガイドとして参加。2006年3月、カルステンツ・ピラミッドに登頂、七大陸最高峰登頂達成(日本人11人目、世界170人目)。2007年5月、71歳の柳沢勝輔をエベレスト登頂に導き、柳沢勝輔はエベレスト登頂最高齢記録を更新した。2013年5月、80歳の三浦雄一郎のエベレスト挑戦プロジェクトに参加、三浦雄一郎はエベレスト登頂に成功し、最高齢記録を更新した。2014年4月、日本テレビ「世界の果てまでイッテQ!」イモトアヤコエベレスト登山企画に参加して現地入りしていたが、大規模な雪崩が発生したために企画自体が中止となった。世界七大陸最高峰のガイディングをはじめ、マナスル、チョオユー、アマ・ダブラムなどをはじめとした海外高峰登山ガイドとして活躍。エベレスト9回、チョ・オユー2回、マナスル2回、エルブルース5回、マッキンリー4回、アコンカグア5回、ヴィンソン・マシフ4回、キリマンジャロ2回、カルステンツ・ピラミッド3回、そのほとんどをガイドとして登頂している。エベレスト登頂9回は、日本人エベレスト最多登頂記録である。現在、我孫子市在住、日本山岳ガイド協会所属、上級山岳登攀ガイド。
ジョン・ウィラード・ミルナーの来歴 ニュージャージー州出身。プリンストン大学在学中から数学の競技会で名を売り、1949年から1950年にはファリー・ミルナー理論を証明した。彼はそのままプリンストン大学の大学院に進み、ラルフ・フォックスの指導の下で「ホモトピーとリンク」という論文を書いた。博士号を得た後も、そのままプリンストン大学で研究を続けた。また1962年からは学術雑誌Annals of Mathematicsの編集も行っている。教え子には秋葉忠利、Jon Folkman、John Mather、Laurence Siebenmann、Jonathan Sondow、and Michael Spivakらがいる。
ジョン・ウィラード・ミルナーの研究 ミルナーの最も大きな業績は、非標準的微分構造を持った7次元エキゾチック球面の存在を証明したことである。後にMichel Kervaireとの共同研究で、彼は7次元球面上には15種類(向きも考えると28種類)の微分構造が存在することを示した。非標準的微分構造を持ったn次元球面は、ミルナーの提唱でエキゾチック球面(Exotic sphere)と呼ばれている。
サンシティ池田の概要 1987年4月15日にオープンした。建物は階段状になっており、阪急宝塚線池田駅に近づくほど低層化する構造をもつ。中核テナントは阪急オアシス池田店。1階の北側入口付近には、「サンサン」という名のゴリラの像があり、その前にある広場は「サンサン広場」と呼ばれている。2018年、主に2階・3階で展開していたダイエー池田駅前店が当施設での営業を終了。2019年にリニューアルオープンし、ソフトバンクやマツモトキヨシ、日本旅行などの店舗が開業した他、池田市立図書館が移転開館された。
ハワーデン子爵の歴史 モード家の歴史は古く17世紀後半まで遡ることができる。サー・ロバート・モード(?-1750)が1705年に(ティペラリー州ダンドラムの)准男爵(Maude Baronetcy, of Dundrum in the County of Tipperary)に叙されたことに端を発する。ロバートの死後はその長男トーマス(1727–1777)が准男爵位を襲った。彼はアイルランド庶民院議員を務めたほかティペラリー州長官職等を歴任したのち、1776年にアイルランド貴族としてティペラリー州ハワーデンのド・モンタルト男爵(Baron de Montalt, of Hawarden in the County of Tipperary)に叙された。しかし彼には子がなかったためこの男爵位は一代で廃絶し、弟が第3代准男爵の地位を承継した。第3代准男爵コーンウォリス(1729–1803)はロスコモン選挙区選出のアイルランド庶民院議員を務めたのち、1785年にティペラリー州ハワーデンのド・モンタルト男爵(Baron de Montalt, of Hawarden in the County of Tipperary)に叙された。ついで1793年にはハワーデン子爵(Viscount Hawarden)を叙爵された。さらに初代子爵のひ孫にあたる4代子爵コーンウォリス(1817–1905)はダービー・ディズレーリ及びソールズベリー内閣で貴族院与党院内幹事(government whip in the House of Lords)を長きにわたり務めたのち、1886年にティペラリー州ダンドラムのド・モンタルト伯爵(Earl de Montalt, of Dundrum in the County of Tipperary,)に叙された。しかし彼には子がなかったため、彼の死とともに伯爵位は廃絶した。その一方で初代子爵の次男の子孫にあたるロバート・ヘンリー・モード(1842–1908)が5代子爵位を承継した。その後、4代子爵の孫にあたる6代子爵ロバート(1890–1914)がコールドストリームズ連隊付将校として第一次世界大戦に従軍し、西部戦線で戦死したため、6代子爵のいとこが7代子爵の地位を相続した。 その後は7代子爵の系統で現在に至っている。 一族の邸宅はケント州エディシャム近郊のグレート・ボシントン・ファーム。なおティペラリー州カッシェルにあるダンドラム・ハウスは子爵家の旧邸宅であった。
ロバート・ドリスデールの来歴 アメリカ人の父とブラジル人の母の間に生まれる。6歳の時にブラジルに移住し、数年後ラスベガスに戻る。16歳の時に柔術を始め、ノヴァウニオンのスティーヴ・ダ・シルバに師事する。2000年に再びブラジルへ。ブラサでトレーニングを積み、2004年にレオナルド・ヴィエイラより黒帯を授与されている。2005年7月、世界柔術選手権の黒帯ペサード(-91kg)級で優勝。2007年5月、アブダビコンバットに出場。99kg未満級で3位に入賞、無差別級では決勝でマルセロ・ガッシアに一本勝ちし優勝を果たした。2008年、総合格闘技の練習のため、エクストリーム・クートゥアに移籍。またThe Ultimate Fighter: Team Nogueira vs. Team Mirではアシスタントコーチを務めた。2009年9月26日、アブダビコンバット2009のスーパーファイトでホナウド・ジャカレイと対戦し、ポイント0-2で敗北した。
ロバート・ドリスデールのUFC 2014年7月6日、UFC初参戦となったThe Ultimate Fighter 19 Finaleでキース・ベリシュと対戦し、リアネイキドチョークで一本勝ち。試合後の薬物検査でテストステロンの陽性反応が検出されたため、ネバダ州アスレチック・コミッションの裁定で試合結果がノーコンテストに変更され、UFCからリリースされた。
Freesta!の概要 “自由な女性”をキーワードにした20代女性のための東京で、いま流行っている最新トレンド情報を発信する番組で、ワンセグ放送では同局初の番組連動データ放送を行っていた。開始当初は朝の帯番組として放送され、同局で平日朝の情報番組では、『情報あさびん』以来2年9ヶ月ぶりであった。帯番組ではあるが生放送ではなく編成の都合上、事前収録されたものを放送されていた。しかしなかなか定着しなかったためか、2006年9月29日をもってわずか3ヶ月で朝の放送から撤退となった。翌週である10月3日より週1回と30分番組として再スタートした。同時に東京メトロポリタンテレビジョン(TOKYO MX)でのネットが開始されたが、半年後の2007年3月27日(制作局放送分)をもって放送を終了した。
Freesta!のネット局 開始当初は埼玉ローカルであったが、2006年10月より放送エリアを拡大した。
キャメルトロフィーの概要 国別対抗戦の形式で行われ、各国で行われる予選会を経て決定された各国2名の参加者が1台の自動車に乗り、世界の秘境を走破しながら、その日毎に与えられるタスクと呼ばれる課題を2名で力を合わせて攻略していくレースである。メインである四輪駆動車による不整地や悪路の走破テクニックを競うのはもちろんのこと、シュノーケリング、スキューバダイビング、クライミング、オリエンテーリング、ラフティング、カヌーなど、到着ポイントによりさまざまなタスクが存在する、アドベンチャーレースのはしりとも言えるレースである。一応はレースという形態をとっており順位も存在はするが、優勝しても賞金や賞品は一切ない。どちらかといえば全チームの全員がコースを完走することに主眼を置いており、本来順位を競い合うチーム同士であっても、完走のために互いが助け合うシーンが随所で見られる。なお、順位はタスクで与えられるポイントの合計で決定される。参加資格は一般のアマチュアドライバーに限られ、プロドライバーの参加は一切認められない。また、一度参加したドライバーが翌年以降に再び参加することも認められておらず、一生に1度しか挑戦できない。1980年に第1回が開催され、この時はジープが車両をサポートした。1981年の第2回からランドローバーが車両をサポートし、1998年の19回まで同社のサポートは続いた。ランドローバーのサポート終了後、2000年にもキャメルトロフィーは開催されたが、この大会を最後にキャメルトロフィーは開催されていない。一方、ランドローバーは2003年、かつてのキャメルトロフィーを彷彿とさせる、四輪駆動車を用いた苛酷なラリーレイド ランドローバー・G4チャレンジを開始した。
野津原町立今市中学校のいまいち山荘 閉校後の校地には、既存の施設を利用した宿泊研修施設「いまいち山荘」が1995年(平成7年)4月に開所した。鉄筋コンクリート構造2階建ての旧校舎を改装して宿泊研修棟とし、他に倉庫、グラウンドがあった。本施設は、老朽化等のため、2017年(平成29年)3月31日を以て閉所した。
UC SPECIAL LIVE ayumi hamasaki limited stage 2000 winterの概要 UC会員限定スペシャルプライベートライブで、2000年7月1日より実施された「UC LUCKY! 入会キャンペーン」期間中にUCカードに新規入会した会員のなかから抽選で選ばれた500組1000名がライブに参加できた。東京国際フォーラムのCホールで開催されたが、開催当初は不明で、参加者のみに通知された。2018年3月現在、このライブの映像化はされていない。
石川宮麻呂の経歴 大宝3年(703年)持統上皇の葬儀に際して御装束司を務める。従四位下に昇叙された後、慶雲2年(705年)大宰大弐に任ぜられ地方官に転じる。元明朝に入り、和銅元年(708年)右大弁に任ぜられると、和銅4年(711年)正四位下、和銅6年(713年)正月には従三位に至る。同年12月6日に薨去。最終官位は右大弁従三位。『万葉集』に、長田王が水島(現在の熊本県八代市植柳。球磨川の支流である南川の河口にある小島とされる)で詠んだ和歌に対する返歌の作者である石川大夫は石川宮麻呂もしくは石川君子と考えられている。
大鉄十字章の1939年章 第二次世界大戦時にはナチス・ドイツが鉄十字章を再度制定し、大鉄十字章はその最高勲章であった。受章者は1940年7月19日に授与されたヘルマン・ゲーリング帝国元帥(空軍総司令官、航空相、プロイセン首相、四ヵ年計画責任者)ただ一人である。なおナチス・ドイツは大鉄十字星章も実際に制作していたが(アメリカ軍が保管している)、受章者はいない。
往十里駅の乗り入れ路線 ソウル交通公社の2号線、5号線、韓国鉄道公社の京義・中央線と盆唐線の合計4路線が乗り入れる。京義・中央線は線路名称上は京元線であるが、運転系統上は京義・中央線として案内される。乗り入れる全ての路線に駅番号が導入されている。2号線は「208」、5号線が「540」、京義・中央線が「K116」、盆唐線が「K210」が割り振られている。
ローズ・グレイの生い立ち グレイは、クレメンシー・アン・ローズマリー・スワン (Clemency Anne Rosemary Swann) としてベッドフォードに生まれたが、彼女が生まれる6か月前に、当時26歳だった父親のクレメント・ネルソン・スワン 空軍大尉 (Flight Lieutenant Clement Nelson Swann) は、生後7か月だったグレイの姉とともに、自宅の火災で命を落としていた。グレイは、スコットランドとサリー州で育った。母親のエリザベス・アン・ローレンス ((Elizabeth) Anne Lawrence)が、ギルフォード近郊に定住していた準男爵サー・ウィリアム・ローレンスの娘だったこともあり、ローズはギルフォード・カレッジ・オブ・アート (the Guildford College of Art) に学び、美術の学士 (BA) を取得した。ローズの料理人としてのキャリアは、ニューヨークのナイトクラブ、ネルズで始まったが、その後、彼女はロンドンに戻った。
ローズ・グレイの晩年 2001年、グレイは乳癌を患った。2004年には、「乳癌大使 (Breast Cancer Ambassador)」となり、慈善団体「the Cooks in Schools」の共同創設者のひとりとなった。5年間にわたって、グレイの乳癌は縮小したが、その後再び悪化し、脳への転移が、2009年末から2010年はじめ頃に起こった。2010年2月28日、71歳となっていたグレイは、ロンドンのメリルボーン (Marylebone) にあった自宅で死去した。この時まで、グレイは彼女にとって最後の料理書となった、ルース・ロジャースとの共著『River Café Classic Italian Cookery Book』の執筆にあたっていた。ルース・ロジャースとの共著も含め、グレイの著作は多く、他にも『River Café Cookbook』、『River Café Cookbook Green』、『River Café Pocket Books: Salads and Vegetables』などがある。
ローズ・グレイの私生活 グレイは、1961年、ないし、1962年に、マイケル・セルビー・グレイ (Michael Selby Gray) と結婚した。ふたりの間には、息子オシアン (Ossian) と、娘2人ヘスター (Hester) とルーシー (Lucy) が生まれたが、この結婚は離婚に終わった。1973年、グレイは内縁関係にあったデヴィッド・ロビン・マキルワイン (David Robin MacIlwaine) との間に息子ダンテ・マキルワイン・グレイ (Dante MacIlwaine Gray) をもうけ、2004年以降は死去するまでマキルワインと正式に結婚していた。グレイとマキルワインは、一緒にイタリアのトスカーナ州に住んでいた時期があり、そこでローズはイタリア料理への関心を広げた。
ジェールETO FCの初期 ジェールは1937年にハンガリー1部リーグに初めて昇格した。しかし1937-38シーズンに13位に終わり、2部リーグに降格した。1946年に再び1部リーグに昇格し、今度は10シーズン連続で参加したものの、1955年にまた降格した。1958年に1部リーグに復帰したが再び降格した。1960年のカムバック以降は一度も1部から降格していない。
ジェールETO FCの1960年代・ヨーロピアンカップでの準決勝進出(1964-65) 1963年、ジェールETO FCはハンガリー1部リーグのタイトルを初めて獲得した。その結果、チームは1964-65シーズンのヨーロピアンカップに出場した。1964年9月2日、ジェールはライプツィヒにてケミー・ライプツィヒを2-0で破った。セカンドレグにも4-2で勝利して1回戦進出を決めた。1回戦ではロコモティフ・ソフィアと対戦し、ホームでの第1戦に5-3で勝ち、ソフィアでは4-3で敗れたもの合計8-7で勝った。準々決勝ではジェールはオランダのドール・ウィルスクラフト・ステルク (DWS) と戦った。アムステルダムのオリンピスフ・スタディオンで行われた第1戦は1-1、ホームでの第2戦には1-0で勝ち、合計2-1で勝利した。準決勝ではポルトガルの巨人ベンフィカとあたり、ジェールは本拠地ネープシュタディオン(現在のプシュカーシュ・フェレンツ・シュタディオン)での第1戦に1-0で敗れ、エスタディオ・ダ・ルスでの第2戦にもベンフィカが4-0で勝ったため、ジェールはヨーロピアンカップから敗退した。
ジェールETO FCの1980年代 1980年代にジェールは頂点に達し、1981-82および1982-83シーズンのハンガリーリーグに優勝した。1981-82シーズンには102点中、ハンニヒ・ペーテルとセンテス・ラーザールが2人で43ゴールを挙げた。監督のヴェレベシュ・ヨーゼフはオランダスタイルのサッカーを標榜し、勝ち点49を積み上げた。翌シーズン、ジェールは最終戦でその勝ち点を44として、2位のフェレンツヴァーロシュの勝ち点43をわずかに上回った。センテスの怪我のため前シーズンよりチーム全体の得点数は20減り、ハンニヒは20ゴールで得点ランキング2位だった。1981-82シーズンの優勝によってチームは1982-83シーズンのヨーロピアンカップに出場した。ジェールは1回戦でベルギーチャンピオンのスタンダール・リエージュと対戦し、アウェーでの試合に5-0で敗れ、その後ホームでは3-0で勝利したものの、このラウンドで敗退した。翌1983-84シーズンのヨーロピアンカップでは、1回戦でアイスランドのヴィーキングルを負かした。ジェールは第1戦ではマジャルとブルチャのゴールによって2-1で勝利し、アウェーでの試合にもマジャルとセンテスのゴールにより2-0で勝利した。2回戦でジェールはより難しい対戦相手であるソビエト連邦のディナモ・ミンスクとあたった。ジェールで行われた第1戦ではディナモが6-3で勝利、ミンスクでのアウェーマッチにはジェールが3-1で勝利したが、ヨーロピアンカップからの敗退が決まった。ジェールは1983-84および1984-85シーズンはブダペスト・ホンヴェードに次ぐ2位、1985-86シーズンは3位となった。1986-87シーズンにクラブは10位に終わったが、翌シーズンは再びリーグのトップに近づき、4位に達した。
ジェールETO FCの1990年代 1990年代は、1990-91と1991-92シーズンに2シーズン連続11位という幸先の悪い始まりだった。1995-96シーズンには15位に沈み、西部ハンガリーのライバル・FCショプロンとプレーオフマッチを戦わなければならなくなった。第1戦にジェールは2-0で勝利し、アウェーでの試合には2-1で敗れたが、この結果によりジェールは1部残留を決めた。クラブの歴史で最底辺の時期を経て、1996-97シーズンは9位、1997-98と1998-99シーズンには1990年代で最高順位となる4位につけた。
ジェールETO FCの2000年代 ピンテール・アッティラは2009年にジェールETO FCの監督になった。彼の監督時代にチームは2009-10シーズンに3位になり、2010-11シーズンのヨーロッパリーグに出場を決めた。予選1回戦でFCニトラと対戦し、第1戦は2-2、ETOパークでの第2戦ではジェールが3-1で勝利した。予選2回戦ではカザフスタンのアティラウと対戦し、第1戦ではジェールがリナス・ピリバイティスとフアド・ブゲラのゴールにより2-0で勝利、第2戦もラティ・アレクシーゼとミハイ・ニコレクのゴールにより2-0で勝利した。予選3回戦ではフランスのモンペリエHSCと対戦し、ETOパークでの第1戦ではモンペリエがオリヴィエ・ジルーのゴールで1-0の勝利、第2戦はジェールがヴァレンティン・バビッチのゴールにより1-0で勝利した。延長戦でも決着せず、PK戦にジェールが4-3で勝利してヨーロッパリーグのプレーオフ進出を決めた。プレーオフでジェールはクロアチアのディナモ・ザグレブと対戦し、第1戦ではディナモ・ザグレブが2-0で勝利、スタディオン・マクシミールで行われた第2戦でもジェールが2-1で敗れ、合計スコア4-1でヨーロッパリーグの敗退が決まった。試合数の増加によりジェールはハンガリーリーグとヨーロッパリーグの両方を成り立たせることができなかった。国内リーグでの結果は経営陣にとって満足のいくものではなく、そのためピンテールと経営陣は両者間の契約を解消した。経営陣は後任監督にチェルトーイ・アウレールを就任させた。
ジェールETO FCの2010年代 2011年6月、UEFAはジェールのライセンス違反を認め、罰金と今後3シーズンのヨーロッパ大会からの追放を決めた。
ジェールETO FCのその他の部門 ジェールETOはいくつかの部門においても成功を収めている。たとえばハンドボールチームが全国選手権で多く優勝している。男子チームは1986年にラーバ・ヴァシャシュETOジェールとしてEHFカップに優勝した。現在ではとりわけ女子チームがよく知られており、2006年にカップウィナーズカップで決勝進出、2007年にチャンピオンズリーグで準決勝に進出した。
三昧塚古墳 (行方市)の概要 茨城県中部、霞ヶ浦北部の鎌田川流域の沖積低地上に築造された古墳である。一帯では勅使塚古墳・権現山古墳・大日塚古墳などとともに沖洲古墳群を形成する(他の古墳はいずれも洪積台地(行方台地)上に所在)。本古墳は1955年(昭和30年)の土取り工事で大きく削平を受け、その時の緊急発掘調査で主体部・副葬品が明らかとされたほか、1994・1999年度(平成6・11年度)に墳丘調査が実施されている。墳形は前方後円形で、前方部を北西方に向ける。墳丘は基段の上に構築され、後円部は2段築成であるが、前方部は段築不明。墳丘表面では円筒埴輪列のほか形象埴輪(人物埴輪・鹿形・牛形・犬形埴輪)が認められる。また墳丘周囲には周堀(形態不明)が巡らされる。主体部の埋葬施設は組合式箱式石棺で、後円部墳頂下に構築される。この石棺内からは、人骨のほか金銅製冠をはじめとする多数の副葬品が出土している。また石棺付近には木製の収納施設があり、こちらからも武具・馬具類が出土している。この三昧塚古墳は、墳丘・埋葬施設・副葬品・埴輪等より古墳時代中期の5世紀中葉-後半頃の築造と推定される。被葬者は明らかでないが、霞ヶ浦を地理的環境を利用して治めた有力首長と想定される。古墳域は1990年(平成2年)に行方市指定史跡に指定され、出土品は2018年(平成30年)に国の重要文化財に指定された。現在は墳丘復元を伴う史跡整備のうえで三昧塚古墳農村公園として公開されている。
三昧塚古墳 (行方市)の埋葬施設 主体部の埋葬施設は組合式箱式石棺で、後円部中央の墳頂下2.7メートル(築造当初は墳頂下約3メートル)において、東西方向(頭位は東)に据えられる。この石棺は棺蓋1枚・左右側壁各2枚・前後両小口板各1枚・底石2枚の変質粘板岩計9枚を組み合わせたもので、長持形石棺の流れをくむものとされる。棺蓋は長さ2.3メートル・幅0.80メートル・厚さ0.10メートルを測り、各長辺には縄掛突起を付す。この石棺の蓋石には鉄製戟が置かれ、石棺内からは伸展葬の人骨とともに多数の副葬品が検出されている(後述)。また石棺の北方約50センチメートルには、副葬品埋納用の別の木製施設(木箱または木板状施設)が認められ、この施設からも多数の副葬品が検出されている。
富岡由紀夫の来歴 埼玉県川口市出身。川口市立朝日東小学校、早稲田中学校・高等学校卒業。1987年(昭和62年)3月、早稲田大学政治経済学部経済学科卒業。同年4月、富士銀行に入行。2003年(平成15年)9月、みずほフィナンシャルグループ退職。2003年(平成15年)11月9日執行の第43回衆議院議員総選挙に、民主党公認で群馬4区から出馬するも、落選。2004年(平成16年)7月11日執行の第20回参議院議員通常選挙に、民主党公認で群馬県選挙区から出馬し、同選挙区トップで初当選。2009年(平成21年)10月7日、民主党副幹事長に就任。2010年(平成22年)7月11日執行の第22回参議院議員通常選挙に、民主党公認で群馬県選挙区から出馬するも、落選。2013年(平成25年)7月21日執行の第23回参議院議員通常選挙に、みんなの党で比例区から出馬し、3年ぶりに返り咲きを目指すも、落選。2015年(平成27年)WELLBEING株式会社 代表取締役就任
三重県道729号東浦田線の地理 志摩町和具の中心市街地(商店街)を貫通し、和具浦(英虞湾側)に至る道路である。終点付近は2車線化しているが、大部分の区間は1車線である。
国府町和田の地理・歴史 徳島市の北部に位置。北は国府町井戸・国府町北岩延、東は国府町南岩延、南は名東町二丁目・国府町早淵、西は国府町府中と接する。鮎喰川左岸に位置し、標高5.0〜7.4m。北からJR徳島線・国道192号・旧伊予街道が東西に走り、都市化が著しい。古代名方郡条理地割が一部に残り、五反田・七反田・八反田などの小字名が残る。当地は江戸期より徳島藩で盛んであった人形芝居に使われる人形を制作する人形師の町として有名。江戸期から昭和にかけて常右衛門・順右衛門・人形富・人形史・人形友・人形専・天狗久・天狗要・三世天狗久などの人形師を輩出した。天狗久の作品50余点が県文化財となっている。国道沿線は商業地区、JR徳島線以北は住宅地区、南の旧伊予街道沿線は街村状の古い街並みが残る。1967年(昭和42年)に名東郡国府町が徳島市に編入し、現在の町名となった。
順天中学校・高等学校のクラブ活動 部活動は活発で、女子陸上競技部は郡を抜き、全国高校駅伝等常連校である。他にも、中高バトン部、高校ダンス部が全国大会出場を果たしている。
順天中学校・高等学校の研修旅行先 中等部は、沖縄。高等部は、・ブリスベン(オーストラリア)・シドニー(オーストラリア)・ニュージーランド・カナダ・タイ・台湾の6つのコースから自らが希望するコースに行く。ブリスベンは理系クラスが中心となりプランも理系ならではである。ニュージーランドは英語クラスの生徒が主体となって行くコース。シドニー、台湾は標準型として多くの生徒が選択する。カナダのコースは現地の生徒と共に学校で学ぶ事ができる。タイでは貧富の差などを現地の人と実際に生活することで身をもって体験できるなど他のコースとは異色である。なお、留学先として、アメリカ、イギリス等がある。他にもフィリピンでのフィールドワークなどがある。
ベタンソスの地理 ベタンソス付近の標高は200 mに満たない。ベタンソスの面積は24.19 km²で、ア・コルーニャ県にある自治体で4番目に小さい。自治体内にはマンデオ川、メンド川、メロ川の各河川が流れている。北は、リア・デ・ベタンソスに面し、ベルゴンドと、東はパデルネと、コイロスと、南はオサ=セスーラスと、西はアベゴンドの各自治体と境界を成す。ベタンソス司法管轄区に属し、同管轄区における中心自治体である。なお、ア・コルーニャ県の県都であるア・コルーニャとの距離は約20 kmである。
ベタンソスの交通 ベタンソスで鉄道路線が分岐しており、ベタンソスからはア・コルーニャ県の県都で大規模な港湾設備も擁するア・コルーニャに向かう路線と、ルーゴ県の県都ルーゴを経由して内陸部のレオンやバレンシア方面へと通ずる路線と、ガリシア州の北海岸を通ってアストゥリアス州のプラビアを経由してアストゥリアス州都のオビエドや港町のヒホンに向かう路線が敷設されている。この他、ベタンソスにはスペインの首都であるマドリードを起点とする高速道路のN-6号線も通っている。
ベタンソスの経済 ベタンソスの経済活動は基本的にサービス業に依拠している。また、ベタンソスはこの地域の行政の中心で、同名のコマルカを対象とする司法管轄区の中心でもあり、商業分野、金融、文化事業、観光産業などもある。産業活動面では、ベタンソスは、その戦略的位置によって、この地域の多くの運輸業者や食品関係業者の物流拠点となっている。
ベタンソスの歴史 ベタンソスについての記録として最古のものは、ローマ帝国時代のプトレマイオスの著書『地理学』(Geographia)にFlavium Brigantiumの名称で記されている。現在のサン・マルティーニョ・デ・ティオブレ教区に、この時代の人口の中心地があった。
サファイア (リボンの騎士)のリボンの騎士 黒髪の美少女サファイア(サファイヤの版もあり)はシルバーランドの王室の正嫡の女子として生まれたが、出生前に天使チンクが天上で起こした悪戯により男女両方の心を持って生まれた。この国の掟では男性だけが王位継承権を持つため、自分の息子を王位に付けることを狙うジュラルミン大公を欺くために、王とその側近により世間を欺き王子であることにして育てられる。舞踏会では身分を隠すためにかつらを被り、亜麻色の髪の乙女となる。事故により国王が崩御したことによりサファイアが王位を継承する式典の中で、ジュラルミン一派の謀略によって実は王子ではないことが暴露されてしまう。罪人として母である太妃と共に棺桶塔に幽閉されたが、こっそりと隙を見て抜け出してはリボンの騎士に扮して国民に圧政を強いるジュラルミンと戦う。以降、母国・シルバーランドを乗っ取ろうとするジュラルミン一派や「女としての心」を奪おうと狙う魔女(アニメ版の悪魔は男の心を狙う)を向こうにして戦うことになる。しかし戦いの中で結局はシルバーランドを追われ、時に隣国にして敵対国でもあるゴールドランドに囚われることにもなった。後に亜麻色の髪の乙女として出会った永遠の恋人フランツ・チャーミング王子(ゴールドランドの王位継承者)をめぐり物語が展開。彼の助力とシルバーランドに在していた彼女の支持者の協力を得て男性のみの王位継承を撤回させてシルバーランドの最初の女王として即位。後に紆余曲折を経てフランツと結婚してシルバーランドとゴールドランドの対等な平和的併合を果たした。なお、原作である『少女クラブ』版とリメイク作である『なかよし』版とでは、以下の点が異なる。『少女クラブ』版では亜麻色の髪の乙女=サファイアという疑いを持ったフランツの手によって逃がされ、彼と互いの身分を隠したまま、ひとつ屋根の下で過ごす期間を持つ。また、メフィストと契約してウサギ・馬・花に変身する能力を得たことも。女王として即位した後、フランツのおじが勝手に軍を動かしてシルバーランドを攻撃してきた事態にフランツとともに協力して対応することになる。フランツたちの協力で、強硬派であるフランツのおじを拉致。フランツとサファイアとおじと3人で生活し、自身の人物を見てもらい、フランツのおじに結婚の許しを得て、これをもって両国の和平と平和的併合の筋道を作る。『なかよし』版では、逃亡の途中で海賊ブラッド(実は政争の果てに故国ゴールドランドを追われたフランツの実兄)と出会う。彼とフランツの両方より求愛されるが、シルバーランドのごたごたでその両方に応えられぬまま、ジュラルミン一派の一人、ナイロン卿の手により瀕死の重傷を負う。ブラッドの命を懸けた活躍により、命を完全に失うことは逃れるが、その代わりにブラッドは死亡。仮死状態となったサファイアを目覚めさせるため、フランツは美の女神・ヴィーナスに、その生還を請う。しかしヴィーナスはフランツに惚れてしまい、サファイアは彼女の嫉妬を買うこととなるが、サファイアを守ってきたチンクらの応援もあり苦難を乗り越えてフランツと結ばれる。
サファイア (リボンの騎士)の双子の騎士 フランツと結婚して後、彼との間にデージィとビオレッタという男女の双子を儲けて、2児の母となる。しかし、再び巻き起こった国の覇権をめぐる騒動に巻き込まれ、デージィが行方不明となる。サファイアはこのことを国民から隠すため、娘のビオレッタにかつての自分と同じく男女の二重生活を強いてしまい、この事に心を痛めるようになる。そして騒動はついに側近・ダリヤ公爵の政治的な反乱という形で破綻をきたし、娘のビオレッタともども城の塔に幽閉される。悲しむビオレッタに力を与え、自ら生きられるようにするため、彼女に剣を教え鍛え上げて「リボンの騎士」の後継者とした。その後、ビオレッタは見事にその役目を果たし「2代目リボンの騎士」として行方不明の兄・デージィを探し出し、彼とともにサファイアたちを助け出すことになる。一方でサファイア自身は助け出される寸前にダリヤによって毒を飲まされ、仮死状態に追い込まれる事となる。母の死に涙するビオレッタだったが、ほかならぬサファイア自身は自らの心臓の拍動を取り戻し、自らがまだ生きていることを無言で娘に伝え、ビオレッタに「解毒剤を与えれば生き返る」という希望を与えた。
サファイア (リボンの騎士)のその他 2009年4月25日、手塚が少年時代を過ごした兵庫県宝塚市より特別住民票の交付を受けた。手塚作品の登場人物に対する特別住民票の交付は埼玉県新座市のアトムに続き2例目。
2015年サンタクロース杯の概要 2015年サンタクロース杯は2015-2016年シーズンのフィギュアスケート競技会サンタクロース杯で、国際スケート連盟の2015-2016年シーズンイベントカレンダーに掲載されたハンガリースケート連盟による主催の国際大会である。シニア、ジュニア、アドバンスドノービス、その他クラスの男女シングル、アイスダンス競技が2015年11月28日から12月4日にかけて、ハンガリー・ブダペストのトゥスケチャルノクにて開催された。
フィギュア萌え族の経緯 「フィギュア萌え族」という言葉が誕生するきっかけとなったのは、2004年11月17日に発生した奈良小1女児殺害事件である。大谷昭宏は、この事件の犯人はアニメや恋愛ゲームに没頭するフィギュアおたくであり、犯行の動機を「少女をフィギュア化して犯人の支配欲や所有欲を満たす為」と推測。これを象徴する言葉として「フィギュア萌え族」という造語を作り、ワイドショーやスポーツ新聞などでしきりにこの言葉を引用し、事件に対する自身の主張を行った。
フィギュア萌え族の大谷昭宏のオタク観 「フィギュア萌え族」という造語を作った大谷昭宏のオタク観について触れる。なお、「フィギュア萌え族」という造語自体を発案したのは、当時、朝日放送おはようコールABC番組担当ディレクターだった田上敦士である。
フィギュア萌え族の実際の事件を基にした漫画 東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件が未だ解決していなかった1988年11月、大谷昭宏が原作を務めた漫画『獅子のごとく』(作画:さだやす圭)が出版される。作品中、警察官である主人公の正義感の強さを示すエピソードにおいて、少女への性犯罪が描かれている。また、後年の原作担当作品『こちら大阪社会部』(作画:大島やすいち)では、性的殺人事件の犯人像をストーカー的な意味合いで、「オタクっぽい奴」等と表現している。の内、1993年に連載された内容は、大谷が過去に取材した「シーヤリング工場羽衣女子寮OL殺人事件」(1976年発生)をアレンジしたものであり、実際の事件と同様に作中でも事件は未解決のまま終わっている。
フィギュア萌え族の恋愛ゲームを基にした漫画 大谷が原作を担当した漫画『こちら社会部』(前述の『こちら大阪社会部』の続編)の中で、『バーチャルアイドル編』と題し、『同級生』や『ときめきメモリアル』を模したと思われる恋愛ゲームのマニアが、ヒロインを演じている声優を拉致し、ヒロインの攻略条件に近い状況に監禁するという架空の事件を描いている。拉致・監禁することにより、声優が自分の事を好きになると思い込んで犯行に及んだという筋立てとなっており、いわゆる「バーチャルリアリティ」や「擬似恋愛」を題材に描いたストーリーであった。
フィギュア萌え族のなぜ「フィギュア」だったのか 主張の中でフィギュアを持ち出しているのは、キャラクターがフィギュアとして商品化されているアダルトアニメや漫画、恋愛ゲームを批判する為である。被害者が「モノ扱い」された凄惨な事件と関連付ける為には、フィギュアすなわち「人形」が丁度良かったのだと思われる。また、インターネット上の一部掲示板サイト等では、以前から大谷の論説、発言に対し多くの考察や批評がされており、大谷はこれに対して一方的に怨恨を抱き、彼らの大多数がアニメ、マンガ等を趣味としているはずと想像し、これを現実の犯罪に関連付けて「自身を批判するネットユーザー=凶悪犯罪者」的な図式を作り出し、マスメディアにおいて喧伝する事で復讐心の満足を得ようとしたと考えられる。しかし社会を納得させ得るまでの論説の構築には遂に至らず、犯人逮捕後には「極端な形のフィギュア」「一部の変なフィギュア」等と曖昧な表現に改めた。しかし、犯人宅からいわゆるダッチワイフが押収されると「フィギュアが出てきた」と盛んに主張を繰り返した。
フィギュア萌え族の奈良小1女児殺害事件に関連する論争 事件に関連する発言とそれに対する各方面からの反応をまとめる。
フィギュア萌え族の犯行の動機について 「犯人は少女をフィギュア化して性的支配欲や所有欲を満たす為に殺害した」と主張。
フィギュア萌え族の犯人の人間像について 犯人逮捕後、大谷昭宏は押収されたダッチワイフを指して、犯人は「フィギュアおたく」だという自説は正しかったと主張。起訴され被告となった犯人自身も、第3回公判の中で少女の遺体を「傷ついた壊れたおもちゃとしか思わなかった」と供述。この発言を、自らが主張した「モノ扱い」説の補強に利用している。
フィギュア萌え族の犯人逮捕前 事件が発生した直後の2004年11月19日、事件の第一報を伝える日刊スポーツの記事に、犯人からのメールの文言「娘をもらった」が「モノ扱い」した表現である事を根拠に、犯人が女児を人形化する為に殺害したと推理し、「人間的感情持たぬフィギュア世代の犯行か」とコメントをよせた。2004年11月22日、ABC(朝日放送)制作のワイドショー『おはようコールABC』において、事件の犯人を「いわゆるロリコン」ではなく「フィギュア萌え族」であると主張。翌日の日刊スポーツ・大阪エリア版の連載コラム『フラッシュアップ』では「対話も感情もない『萌え』のむなしさ」を掲載。この中で事件の犯人像として考えられるのは生身の人間ではなく、恋愛ゲームやアニメ等二次元の少女しか愛せないパソコンオタク、もしくは秋葉原系フィギュアマニアという自論を展開。また、同日の『スーパーモーニング』に電話出演した際、犯人像を「萌えの人」と表現。そして、一連の発言の中で、犯人が女児の遺体を傷つけた事について「フィギュアおたくの非常に特徴的なところ」とコメント。
フィギュア萌え族の犯人逮捕後 2004年12月30日早朝に逮捕された犯人は、小児性犯罪の前科を持っていたが、成人向け恋愛ゲームに必要なパソコンを所持しておらず、フィギュアマニアでもなかった。また取調の中で、犯行動機のひとつとして高校生時代に観たアダルトアニメ『くりいむレモン』の影響を挙げたが、小児性犯罪の初犯はこの作品がまだ販売されていない中学生時代に起こしたものだった。しかし、大谷昭宏は「私は最初からフィギュアオタク的なロリコンが犯人だと言ってきた」と趣旨に変化が見られるものの自説の正当性を主張した(例として、犯人逮捕を報ずる報道特別番組において、「犯人はフィギュア的なオタク」とコメント)。2005年1月13日、朝日放送のワイドショー『ムーブ!』において、「服役している性犯罪者にロリコン雑誌が差し入れられている」という話題に対し、「日本の社会は、グダグダ言ってきてるアホたちをそういう所に放り込んで性欲減退の処置を取れる!」と発言。2005年8月6日、事務所のホームページのコラム『「会えて、よかった」に会えて‥‥。』を執筆。このコラムによると、被告の弁護を担当している高野嘉雄弁護士が被告の反省を促すために、被告に大谷昭宏の恩師である黒田清の著書「会えて、よかった」を読ませ、それを読んだ被告が徐々に反省の意を表すようになったとの事である。大谷は急遽事務所の吉富有治に命じ、8月4日発売分の『週刊FRIDAY』に『奈良女児誘拐殺人被告「獄中で書いた読書感想文」を初公開!』という記事を書かせている。また、2005年8月5日放送のスーパーモーニングでは、恩師の黒田清について「ジャーナリストの仕事はこの様な形で残さなければならない。高野弁護士と巡り合う機会を作ってくれた事に縁を感じる」、また高野弁護士の姿勢について「『社会がどうしたらこういう人間が出てくる事を防御できるのか学習して欲しい』と仰っている」とコメントし、ジャーナリストとして被告自身に向き合う事の重要性を示唆している。
フィギュア萌え族のWeb 2004年12月9日、「表現の自由の保護」を目的に漫画家などクリエイターが中心となって結成したNGO-AMIより、公開質問状が送付されている。大谷が2004年11月23日の日刊スポーツ・大阪エリア版に掲載したコラム『大谷昭宏フラッシュアップ 対話も感情もない「萌え」のむなしさ』について、その見解を問いただす内容であった。しかし大谷の返答は「取材元に関わるため、言及できない」というものであった。これに対しNGO-AMIは『放送レポート』(メディア総合研究所)193号にて強く批判している。精神科医の斎藤環は、上記の殺害事件にまだ何の証拠もない段階でフィギュア萌え族などと言って、容疑者が自作していたダッチワイフを関係もないフィギュアと絡め、まったく外れたにも関わらず主張を続けたようなインチキが賛同を集めてしまう現象が、オタクバッシングに繋がると話している。
フィギュア萌え族の雑誌メディア 2005年1月25日に発売された扶桑社の『週刊SPA!』2月1日号が、『誤解と偏見の「オタク迫害」に異議アリ!』という特集を組んでこの問題を取り上げた。この中で社会民主党の保坂展人衆院議員(当時)は、教育ジャーナリストとして、被疑者逮捕前に予断で犯人像について騒ぎ立てたメディアを、「事件とは関係ないところでロリコンやフィギュア好きを迫害する気分を作ってしまう」と批判し、被疑者逮捕後の報道内容については「被疑者が何故犯行に至ったのかという事件の本質を検証しなければ、報道の意味がない」と指摘した。
フィギュア萌え族のその他 この後、大谷の言説には「自身が攻撃されている」「被害を受けている」などの言葉がしきりに織り交ぜられるようになる。2005年2月14日には、東京で行われた公開シンポジウム「おかしいぞ警察・検察・裁判所」の質疑応答で「『フィギュア萌え族』発言が、権力の腐敗の一因となる『危ない奴へのレッテル貼り』だと批判されている事をどう思うか?」という質問が出た。これに対し大谷は、事件の凄惨さとそれに対する憤りを強調した上で、「事務所が嫌がらせを受けている」「私は『一部の非常に曲がったロリコンのフィギュアのオタクの中に被疑者が居るんじゃないか』と言った」「犯人はスクール水着に少女の下着を詰め込んでフィギュアを作っていた(ダッチワイフであってフィギュアではない)」等と激しく抗弁。2005年2月24日には、大谷はTBSラジオの番組『アクセス』に生出演し、「子供たちは社会が総力を挙げて守るべき。私が一部の変なフィギュアや児童ポルノやアニメを批判したところ、そういう趣味の持ち主から総攻撃された。ミーガン法では住民がパニックになるだけだ」と主張して、2人の子供を持つ聴取者からは「フィギュアやアニメに興味を持つのは、趣味嗜好の問題でそれはそれでいいと思う。ミーガン法で問題になる守秘義務を守る事はできる」と反論された。2005年3月12日に東海テレビの『スーパーサタデー』において、『氾濫児童ポルノ』と題した特集が放送された。番組中では、個人製作のパソコン用ゲーム(同人ゲーム)のアダルト作品の製作元(個人宅)への取材が行われ、また販売店舗の映像と奈良小1女児殺害事件の遺体遺棄現場の映像をオーバーラップさせる等の演出が行われた。この時も「インターネットには自分達の主張が通らないという事で、私を攻撃する者がいる」と、繰り返し主張した。
唐桑半島ビジターセンターの住所 〒988-0554 宮城県気仙沼市唐桑町崎浜4の3(唐桑半島の南端)
デヴィッド・ボウイの出自から初ヒットまで 1947年1月8日、イギリスのロンドン南部ブリクストンにケント出身でウェイトレスをしていたマーガレット・マリー(1913〜2001)と、ヨークシャー出身で子供のためのチャリティー団体Barnardo'sで広報活動をしていたヘイウッド・ステントン・ジョーンズ(?〜1969)の間に生まれた。本名はデヴィッド・ロバート・ヘイウッド・ジョーンズ。一家は、ロンドン南部のブリクストンとストックウェルの境界に近い、40 Stansfield Roadに住んでおり、ボウイは6歳になるまでストックウェルの幼児学校に通っていたが、1953年に一家はブロムリーの郊外に引っ越す。子供の頃から、音楽好きの父親が買ってくるフランキー・ライモン&ザ・ティーンエイジャーズ、プラターズ、ファッツ・ドミノ、リトル・リチャード、エルヴィス・プレスリーなどの、アメリカのポピュラー・ロック音楽に親しむ。ボウイは、異父兄であるテリー・バーンズの影響でモダンジャズに関心を持つようになり、特にチャールズ・ミンガスやジョン・コルトレーンにあこがれるようになった。ボウイが14歳になった1961年、母親はプラスチック製のアルト・サックスを彼に贈り、その後さっそく地元のミュージシャンにレッスンを受けるようになる。1962年、ボウイは重傷を負う。学校でガールフレンドを巡る喧嘩を起こし、その際に彼の友人のジョージ・アンダーウッドが左目を殴ったために、4か月の入院と数度にわたる手術をその左目に受ける羽目になった。結果として医師は、ボウイの視力が完全には回復しそうもなく、左目の知覚能力は不完全で、また常に瞳孔が散大した状態であり続けることを確認した。ボウイの虹彩の色が左右で違うのは目を殴られたためとの説があるが、先天性の虹彩異色症によるものである。なお、この一件にも関わらず、二人の友達づきあいはそれからも続き、アンダーウッドはボウイの初期のアルバムのアートワークを制作した。1962年ボウイが15歳の時に、プラスチック製のアルト・サックスを卒業して、本物の楽器を扱うようになり、また、彼にとっての最初のバンド「Konrads」を結成した。このバンドではギターかベースを担当し、主な演奏場所は若者の集まりか、あるいは結婚式であった。バンドのメンバーは概ね4人から8人の間で、その中にはボウイとガールフレンドを取り合ったアンダーウッドも居た。1964年6月5日に「ディヴィー・ジョーンズ・アンド・ザ・キング・ビーズ」名義で最初のシングル「リザ・ジェーン」を発表。しばらくはヒットに恵まれず、「ザ・マニッシュ・ボーイズ」「ディヴィー・ジョーンズ・アンド・ザ・ロウアー・サード」などと名を変えたが、同じ歌手のデイビー・ジョーンズと紛らわしいことから、1966年4月のシングル「Do Anything You Say」から使い始めた「デヴィッド・ボウイ」でやっと芸名が定着することになる。このボウイの名前は19世紀に活躍したアメリカの開拓者であるジェームズ・ボウイと、彼が愛用していたナイフであるボウイナイフから取られた。1967年6月、デビューアルバム『デヴィッド・ボウイ』を発表。アルバム製作中にチベット仏教に傾倒し、チベット難民救済活動を行うチベット・ソサエティに参加している。同年9月に短編映画『イメージ』(1968年)への出演が決定し、その撮影の際にリンゼイ・ケンプと出会っている。ボウイはロンドン・ダンスセンサーでのケンプのダンスクラスに習い、ケンプの下でコンメディア・デッラルテなどから学んだアバンギャルドとパントマイムによってドラマティックな表現を身につけ、そこから世界に対して見せつける自身のペルソナの制作に熱中した。1969年、前年に公開された映画『2001年宇宙の旅』をモチーフにして、アルバム『スペイス・オディティ』を制作。アポロ11号の月面着陸に合わせて、その直前にシングル「スペイス・オディティ」をリリース。全英チャート5位、全米チャート15位まで上がり、人気ミュージシャンの仲間入りを果たした。
デヴィッド・ボウイのグラム・ロック時代 1970年、ミック・ロンソンをサウンド面での盟友に迎え『世界を売った男』をリリース。歌詞に哲学・美学の要素が含まれるようになり、1971年のアルバム『ハンキー・ドリー』でその路線は更に深まり、サウンドにも哲学・美学の要素が浸透し、ボウイはカウンターカルチャーの旗手としての地位を確立することになった。ミック・ロンソンが後に加入することになるグラムロックバンドのモット・ザ・フープルは1972年3月、解散危機に直面し、ボウイはモット・ザ・フープルに「すべての若き野郎ども」を提供、同バンドの楽曲として大ヒットした。1972年6月、コンセプト・アルバム『ジギー・スターダスト』をリリース。コンセプトに基づいて架空のロックスター「ジギー・スターダスト」を名乗り、そのバックバンドである「スパイダーズ・フロム・マーズ」を従え、世界を股に掛けた1年半もの長いツアーを組んだ。初期はアルバムの設定に従ったものだったが、徐々に奇抜な衣装(山本寛斎の衣装も多く取り上げている)、奇抜なメイクへと変貌していった。アメリカツアーの最中に録音された『アラジン・セイン』は、架空のロックスター「ジギー・スターダスト」を演じるボウイというよりは、架空のロックスター「ジギー・スターダスト」そのもののアルバムになった。しかし、1973年7月3日のイギリスでの最終公演を最後に、ボウイはこの架空のロックスター「ジギー・スターダスト」を永遠に葬った。一連の「ジギー・スターダスト」としての活動で、ボウイはグラム・ロックの代表的ミュージシャンとしての地位を確立することになった。「ジギー・スターダスト」を演じることをやめ、一息ついたボウイは、子供の頃好んで聞いていた楽曲を中心に構成したカバーアルバム『ピンナップス』を発表し、それを最後にジギー・スターダスト時代の唯一の名残であるバックバンド「スパイダーズ・フロム・マーズ」を解散させ、盟友のミック・ロンソンとも離れることになった。
デヴィッド・ボウイのアメリカ時代 1974年、そのような状況の中で、心機一転、原点回帰して、アルバムを制作することになった。作詞の際にウィリアム・バロウズが一躍有名にした「カット・アップ」の手法を導入したコンセプト・アルバム『ダイアモンドの犬』を発表する。ジョージ・オーウェルのSF小説『1984年』をモチーフに作られたアルバムだったが、オーウェルの遺族から正式な許可が下りず、「『1984年』という言葉を大々的に使用してはならない、『1984年』の舞台化も許さない」という制約で縛られることになった。1974年6月に始めた北米ツアーでは、ロック史上空前の巨大な舞台セットを導入し、絶賛されたが、相次ぐ機材のトラブル、ボウイの体調不良などで、2ヶ月程度でツアーは中断することになった。その中断期間中にフィリー・ソウルに傾倒するようになり、6週間の中断を経て再開された北米ツアーは全く別のものになった。1975年、カルロス・アロマーを盟友に迎え、『ヤング・アメリカンズ』を発表する。全米1位を獲得したジョン・レノンとの共作シングル「フェイム」を含むこのアルバムは、フィリー・ソウルからさらに一歩踏み込み「白人はいかに黒人音楽のソウルフルさに近づけるか」というコンセプトで作られた。このアルバムの直後、初の主演映画『地球に落ちて来た男』がクランクインした。1976年、自らの主演映画の内容に影響を受け、また長年の薬物使用/中毒で精神面での疲労が頂点に達していたボウイは、自らのアイデンティティを見直す作業を余儀なくされた。それは、前作と裏返しの「白人である私、ヨーロッパ人である私はいかに黒人音楽を取り入れるべきか」という方向に変わり、コンセプト・アルバム『ステイション・トゥ・ステイション』として結実した。
デヴィッド・ボウイのベルリン時代 ボウイは再び架空のキャラクター「シン・ホワイト・デューク」(痩せた青白き公爵)を名乗り、それを演じた。ドイツでのライブはナチズムを強く意識したステージ構成になった。インタビューではヒトラー擁護発言を行ない、ファンの前ではジークハイルをやったとの騒動が起き、メディアからは激しいバッシングを受け、危険人物とみなされることも多かった。ツアーの終了後、薬物からの更生という目的も兼ねてベルリンに移住し、ひそやかに音楽作りを始めた。1977年から1979年にかけてブライアン・イーノとのコラボレーションで制作されたアルバム『ロウ』、『英雄夢語り』、『ロジャー』は、のちに「ベルリン三部作」と呼ばれることになる。ロンドンパンク/ニューウェーブ全盛期の中で、あえてプロトパンク/オールド・ウェーブを前面に出した。
デヴィッド・ボウイのカルト・スターとの決別 1980年、再びアメリカに戻り、ニューウェーブを前面に出した、RCA時代最後のアルバム『スケアリー・モンスターズ』を発表した。初ヒット曲の「Space Oddity」の登場人物・トム少佐を再び登場させ、「Ashes to ashes」で彼のその後と自分を重ね合わせて歌い、ボウイはカルト・スターとしての「デヴィッド・ボウイ」と決別することになった。一転して1980年代はナイル・ロジャースをプロデューサーに起用したアルバム『レッツ・ダンス』はキャリア最大のヒット・アルバムとなり、ファン層を広げた。1983年の『シリアス・ムーンライトツアー』では新しいファンをも取り込んでの大規模なワールドツアーを大成功させ、カルトヒーローからメジャーロックスターの座につくことになった。ただこのころから以前のようなカルトなアーティスティックな作風からポップロック路線へと作風が変化するが、迷走と模索の時期ともなった。この頃のボウイは俳優としての出演も多い。
デヴィッド・ボウイのティン・マシーン時代 1989年、ボウイはゴージャスなサウンドとステージからイメージチェンジをはかり、シンプルなロックバンド「ティン・マシーン」を結成。スタジオ・アルバムを2枚、ライヴ・アルバムを1枚リリースする。その後、過去のベストヒットメドレー的なコンサートとしては最後と銘打って『サウンドアンドヴィジョン』ワールドツアーを行い、過去の総決算を果たそうとした。
デヴィッド・ボウイのソロ活動再開 1991年に『ティン・マシーンII』を発表。この後、現在までティン・マシーンのアルバムはリリースされておらず、正式な解散発表はないものの、事実上の解散状態となる。1993年にはモデルのイマン・アブドゥルマジドと再婚。そして、ナイル・ロジャースと再び組んで6年ぶりのソロアルバム『ブラック・タイ・ホワイト・ノイズ』を発表、『トゥナイト』以来9年ぶりに全英1位を獲得する。1995年には今度はブライアン・イーノと再び組んで『アウトサイド』をリリース。その後、1997年に『アースリング』、1999年には『アワーズ…』をリリースする。メジャーなロックスターには珍しく、1990年代のボウイはコンスタントに新しい作品の発表とツアー活動を行い、時代の実験的なアプローチを導入し、復調の兆しをみせる。
デヴィッド・ボウイの病気療養と引退報道 2000年代に入っても創作意欲は衰えず、2002年に『ヒーザン』、2003年に『リアリティ』と立て続けにアルバムを発表し、大規模なワールドツアーを開始する。その中で8年ぶりの来日公演も果たした。しかし、このツアー中にハンブルクにて動脈瘤による前胸部の痛みを訴え緊急入院、残りの14公演を急遽中止した。この一件以来、ボウイは創作活動には消極的となり、2004年の「ネヴァー・ゲット・オールド」(『リアリティ』からのシングル・カット)以降は2013年までリリースされていない。公の場に姿を現したのも、2006年にデヴィッド・ギルモアやアリシア・キーズのライブにゲスト出演した程度で、表立った活動はほとんど行われていない。親交の深いブライアン・イーノは2010年初頭のインタビューで「ここ数年のボウイはすっかり創作活動への意欲を削がれてしまったようで、この調子だと新作は当分ないだろう」と語っている。同年秋、妻のイマンのインタビューによると、近年のボウイは自宅でアート作品の制作や執筆に勤しんでおり、その生活に満足していると語っている。現在は自身が蒐集した100個以上のオブジェを撮影し、それに自身のテキストを添えた書籍『Bowie: Object』を執筆中とのことであるが、刊行期日などはまだ明らかにされていない。ボウイが第一線に復帰することについては「本人次第」としている。2011年にはボウイの伝記を手掛けた作家、ポール・トリンカによると「よほど劇的な作品を届けることがない限り、もう一線には戻らないだろう」と、ボウイは実質的にほぼ引退したという見解を述べている。同年3月には、2001年にリリースを予定していたという幻のアルバム『Toy』がインターネット上に流出するという事件が起こった。