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モントルイユ (セーヌ=サン=ドニ県)の歴史 12世紀になって、モントルイユは強力な領主、そして高位聖職者に選ばれる土地となった。サン=ピエール・サン=ポール教会が、ヴァンセンヌに宮廷を置く王の信仰の場所としてモントルイユに建てられたためである。シャルル5世と王妃ジャンヌ・ド・ブルボンはこの教会で洗礼を受けた。パリ郊外においては、野菜の収穫は重要な食糧供給であった。モントルイユの丘陵では、ワイン用ブドウやモモが栽培されていた。モモを冷害の被害から防ぎ収穫量を増やすために、ミュル・ド・ペッシュ(fr)という壁がモモ畑の周りに築かれた。モントルイユのモモは、20世紀初頭までヨーロッパ諸国の王侯の食卓に並んでいた。1260年以降、宮廷のあるヴァンセンヌに飲料水を供給していたモントルイユは、替わりに税や雑役を免除されていた。18世紀のフランス革命後、飢饉、疫病、畑地の荒廃でモントルイユは困窮した。19世紀に産業革命が始まり、モントルイユでは木を用いたおもちゃ製造、石膏の発掘が行われた。パリ・コミューンの時には、モントルイユは革命政府側について戦った。20世紀になってアフリカ、マリ共和国出身の移民が流入した。このため、マリの首都バマコに次ぐ『マリ第2の都市』、またはバマコ=シュル=セーヌ(Bamako-sur-Seine)とも呼ばれている。
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内藤馬蔵の経歴 岡山県出身。1899年(明治32年)、東京帝国大学文科大学史学科を卒業し、大学院に入った。1901年(明治34年)、第六高等学校教授となり、20年余り勤務した。1924年(大正13年)から1927年(昭和2年)まで高知高等学校校長を務めた。
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ウェルトン郡区 (アイオワ州クリントン郡)の歴史 ウェルトン郡区は、1858年に結成された。
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ウェルトン郡区 (アイオワ州クリントン郡)の地理 ウェルトン郡区は、32.15平方マイル (83.3 km²)で、Weltonが含まれる。 USGSによると、オークビュー、ウォロッド、ウェルトンの3つの墓地が含まれる。 ネグロクリークの小川は、この郡を通り抜ける。
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ダニエル・カンブロネロのクラブ デポルティーボ・サプリサを経てプンタレナスFCでプロデビュー。以来、国内のクラブでプレーを続けている。
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ダニエル・カンブロネロの代表 2009年5月に開催された親善試合・ベネズエラ代表戦でA代表初キャップ。試合は1-1のドローに終わった。同年、2009 CONCACAFゴールドカップ参加メンバーに登録されたが、出場機会は無かった。
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中央合同庁舎第5号館の概要 霞が関中央官庁地区で初めての超高層庁舎である。都道301号を挟んで日比谷公園に面する。旧海軍省の建物等を利用していた厚生省(当時)の狭隘解消と、大手町にあった労働省(当時)と麻布台にあった国土庁(当時)の霞が関(中央官衙地区)への集約、さらに暫定的に中央合同庁舎第4号館に仮入居していた環境庁を集約することを目的として1973年(昭和48年)に計画され予算化されたが、オイルショックによる建設費急騰のために予算が他の庁舎の建設に回され、いったん建設が中止された。その後、1978年(昭和53年)に再開され、1983年(昭和58年)に竣工した。労働省及び国土庁の第5号館への入居によって中央官庁の霞が関への集積が概ね完了した。国土庁は防災行政を所管し、災害時には国土庁に内閣総理大臣を本部長とする「災害対策本部」が設置されることとなっていたため、第5号館には高度な耐震性が求められた。また、厚生省が入居することから身障者対策モデル庁舎、環境庁が入居することから省エネモデル庁舎として設計された。また、皇居を見下ろさないように、軒部の高さは100m以内に抑えられているものの、第5号館は官公庁初の超高層庁舎となった。厚生労働省が入居している関係で、第5号館は2006年4月より「建物内全面禁煙」とされており、2016年11月10日からは時間を区切って喫煙所も閉鎖され「完全禁煙」が実施されている。また、環境省が入居している関係で、2006年2月の1週間と、2006年12月1日から2007年3月末までの間、暖房を原則中止した。内部の構造は天井は低く、複数の省庁が入っていることから、広さのわりに職員数は多く、一人あたりのスペースは広くない。加えて入居する環境省が冷房の使用を7月以降としているため、5月-6月の晴天時には内部が非常に暑くなる。
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16歳のティアラの概要 第13回なかよし新人まんが賞入選作品。『なかよしデラックス』1992年春の号に掲載され、そのままデビュー作となる。KCなかよし『怪盗セイント・テール』単行本第6巻に収録。立川恵本人があだち充のファンであるため、登場人物の名が「タッチ」から取られているように思われがちの作品だが、立川曰く「タッチは『達也&南』派だった」ので、当作の登場人物の名前に関しては全くの偶然であるとしている。
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16歳のティアラのあらすじ 高校受験合格発表の日。みなみは雪の降る中、母親に合格報告をするために公衆電話の長蛇の列に並んでいた。傘を無くしていたみなみは頭に雪をかぶり、寒さに震えながら列の中、必死に耐えていた。すると、いきなり列の先頭にいる見知らぬ男の子に大声で呼ばれてしまう。高校入学後、みなみはその男の子が同級生となった新田である事を知る。みなみは事あるごとに自分を気にかけてくれる新田に惹かれるが、自分の鈍さから気後れして、その好意を伝える事が出来ない。みなみは何とかして自分の想いを伝えようと考えるが、勇気が出ずに成果も出せない。また、それに伴う空回りで新田に迷惑をかけてしまうばかり。
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大成池の概要 水源は大山の伏流水が常に安定した水量を保ち、流域の約約水田226haの灌漑を行い、コシヒカリや酒米等が生産されており、「八郷米」やネギ、スイカ、ハクサイ等の産地や効率的な集落営農を取組み付加価値のある特産品の転作を支えている。
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大成池の周辺 周辺はホテルや別荘地となりアカマツコナラ、クヌギ等に囲まれた静観で美しい景観豊かな自然環境が保持され、このため池を会場に、例年、「大成池ふれあい祭」が開催され、多くの行楽客が訪れるなど、都市と農山村の交流の場となっている。
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マクラーレン・M23のM23 1971年から使用されてきたM19Cの後継として1973年にデビュー。前年までのM19は、コークボトルタイプのボディが特徴だった。M23はロータスの影響を強く受け、サイドラジエター、ウェッジタイプのノーズ、角張ったボディへと変わった。基本的な設計は以後も変わることなく1978年まで使用される。サスペンションは、フロントはベラミー式リンクのプログレッシブサスペンション、リヤは不等ピッチコイルによるプログレッシブサスペンションと、特異なものを採用していたが、これらはM19から引き継いだ実績のあるものだった。ホイールベースは2,565mmで、2,387.6mmのブラバムBT37より177mmも長く、俊敏性より安定性を重視した設計だった。搭載するフォード・コスワース・DFVエンジンはジョン・ニコルソンが設立したニコルソン・マクラーレン・エンジンズがチューニングを行った。
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マクラーレン・M23の1973年 デビュー戦の南アフリカGPでデニス・ハルムがPPを獲得。ハルムは1勝、ピーター・レブソンが2勝をあげた。
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マクラーレン・M23の1974年 1972年のチャンピオンを獲得したエマーソン・フィッティパルディがロータスから移籍、いきなりドライバーズチャンピオンを獲得。そしてマクラーレンもチーム初となるコンストラクターズチャンピオンを獲得。この年から、マールボロのスポンサーシップが開始。以後1996年まで続くマールボロ・マクラーレンの誕生である。このシーズンはマールボロ2台とヤードレイ1台の3台体制での参戦だった。
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マクラーレン・M23の1975年 M23はフロントサスをロッキングアームに変更し、また、ホイールベースを80mm延長し2,647mmとした。また、リヤ周りも改修を受け、今まではエンジン部分が外部に露出していたが、リヤタイヤ前方にオイルクーラーを設置。サイドポンツーンなどのボディワークをさらに後方に延長した。加えて、ダウンフォースの増加に努めるため、フロントウイングが大型化され、リヤウイングも厚みを増し、フラップの迎角も大きくなった。フェラーリのニキ・ラウダが新型マシン312Tと共にシーズンを席巻。フィッティパルディは2勝でドライバーズランキング2位となった。彼はこのシーズン終了をもって実兄であるウィルソン・フィッティパルディが興した新チームのコパスカーに移籍した。
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マクラーレン・M23の1976年 この年から施行された新レギュレーションに伴って大型インダクションポッドを撤去。ドライバーの頭部左右から吸気する方式を取った。また、シャーシは14kgもの軽量化がなされた。さらにホイールベースが伸ばされ、2,717.8mmとブラバムBT45より254mmも長くなった。新たにフィッティパルディに代わってヘスケスから移籍してきたジェームス・ハントがフェラーリのニキ・ラウダとチャンピオン争いを展開。第9戦イギリスGP終了時点ではラウダのリードを許していたが、第10戦ドイツGPでのラウダのクラッシュ、以後2戦欠場の間に猛追。最終戦日本GPでラウダが天候悪化によるリタイヤを決断する中走り続け、ハントにとって唯一となるチャンピオンを獲得。コンストラクターズチャンピオンはフェラーリに奪われた。第12戦オランダGPでヨッヘン・マスが新車M26で出走したが、9位完走と結果が良くなかったこともあり、次戦から再びM23となった。
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マクラーレン・M23の1977年 新車M26が開幕戦からデビューする予定だったが、熟成不足のためハントは第1-4,6戦で、マスは第9戦までM23を使用。その後はM26をドライブ。第10戦イギリスGPではジル・ヴィルヌーヴがM23を駆ってF1デビュー。決勝は水温計がどんどん上昇していったため(実際には水温計は故障していた)途中ピットインを余儀なくされたが、それまではM26を駆るハントやマスに引けをとらないタイムで周回していた。M23は唯一ジルがフェラーリ以外でドライブしたマシンでもある。
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マクラーレン・M23の1978年 カスタマーシャーシとして、ネルソン・ピケがBSファブリケーションチームでドライブするなど、長期にわたって活躍したマシンだった。
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蔚山総合運動場の概要 2005年完成。収容人員は19,627人。現在では主にサッカーに使用され、2016年までNリーグの蔚山現代尾浦造船のホームスタジアムとして使用されていた。廃部に伴いしばらくホームとして使用するチームがなかったが、K3リーグに2019年新規加入する蔚山市民サッカークラブのホームとして使用される。2007 FIFA U-17ワールドカップの会場の1つとなっている。2019年7月からはKリーグ1の蔚山現代FCが蔚山文殊サッカー競技場に代わるホーム会場としても使用することになり、蔚山現代ホームゲームでは北側トラックに仮設スタンド席を用意することになっている。なお、屋根は南スタンドを除き3方向にU字型に作られているため、アウェースタンド以外は雨に濡れず観戦が可能である。
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津村記久子の経歴 幼少時には児童書をまねて文章を書いていたが、中学生のころからは音楽に親しむようになる。大学3年のころから本格的に小説を書き始める。2000年、新卒で入社した会社で上司からパワーハラスメントを受け、10か月で退社。その後、職業訓練校などを経て2001年に転職。2005年に「マンイーター」(単行本化の際『君は永遠にそいつらより若い』に改題)で第21回太宰治賞を受賞し、小説家デビュー。兼業作家として、会社から帰った後、睡眠を二回に分けてその合間に小説を執筆していた。2012年、10年半勤めた会社を退職し、専業作家となる。
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ニールス・テンダー・ルンドの歴史 1917年、Jorge Dintilhac神父(聖心修道会)により設立され、その後業績を称えて、ローマ教皇庁より「教皇庁立」の称号が授与された。ペルー初の私立大学であり、ペルーの中でも名門校として知られる。
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つゆのあとさきのあらすじ 5月初め、カフェー「ドンフワン」の女給・君江は、新聞にゴシップを書かれたり、何者かに嫌がらせを受けたり、といったことが続くため、易者に運勢を見てもらうが、答えは要領を得ない。午後3時、店に出勤した君江を客の矢田が待っている。矢田は金回りのよい男で、君江も芝居の切符や羽織、半襟をもらったことがある。その晩、君江が帰るときに、矢田が待ち伏せしていた。矢田は君江につきまとい、結局、神楽坂の待合で一泊する。翌朝、君江が市谷本村町の貸間に帰ると、愛人の清岡がやって来て、占いの結果を問いかける。実は昨年秋、清岡は偶然見かけた君江の後を付けて、老人(松崎)と芸者(君江の友人、京子)の3人が三番町の待合で夜明かししたのを知っていた。新聞記者に君江のゴシップを伝えたり、年下の諸岡を使って嫌がらせをしたりしていたのも清岡だった。そうとは知らない君江は、昨夜の矢田との一件を後悔しており、その日は店を休んで清岡と過ごすことにした。清岡の内縁の妻(鶴子)は、夫が芸者やカフェーで遊んでばかりいるのにあきれ、別れを考えている。ある夜、君江がカフェーに出ている留守に清岡が上がり、帰りを待つことになる。君江はそのことを電話で知らされるが、松崎老人、矢田など指名の客が3人も店に来てしまう。何とか切り抜けた君江は、三番町の待合に清岡を呼んでもらうが、不快に思った清岡は帰ってしまう。代わりに矢田が待合に現れ、君江と一夜を過ごす。清岡は内縁の妻を留学に行かせることにした。ドンフワンにも行かなくなったが、何とか君江を懲らしめてやりたいと考えており、年下の諸岡に対してくどくど愚痴を言う。同じ夜、君江はタクシーから振り落とされてけがを負い、1週間ほど店を休む。傷が治った頃(7月初め)、君江は偶然、かつて世話になった川島に出会う。川島は京子のもと旦那で、会社の金を使い込んで刑務所に入っていた。出獄したばかりらしい川島は、落ちぶれた姿をしていた。君江は川島を自室に誘って酒を飲み、一夜を過ごす。朝起きると、川島の姿はなく、遺書が置いてあった。人生に絶望した川島は死に場所を探していたのだった。遺書には君江への感謝の言葉が記されていた。
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つゆのあとさきの映画 中村登脚本・監督で製作。1956年に公開された。
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つゆのあとさきの概要 原作よりも、銀座で女給になるまでの描写が多くなっている。
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ブル・ショットの由来 作者はレストラン コーカス・クラブの経営者グルーバー兄弟といわれる(1953年、デトロイト)
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ブル・ショットの備考 禁酒日のあるフィンランドではスープ・カップに入れて出すレストランもある。 海外では迎え酒として飲まれている所が多い。
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コールラウシュブリッジの経歴 紀元前311年、ケンソリヌスはルキウス・アティリウスと共に護民官を務めた。この年、彼らの主導で4つの軍団の16人のトリブヌス・ミリトゥムが民会の投票によって選出されたが、リウィウスによると通常は執政官や独裁官に任命されるものであり、投票で選出された非常に珍しい例だという。翌紀元前310年、クィントゥス・ファビウス・マクシムス・ルリアヌスと共に執政官に選出されると、サムニウム人に勝利してアッリファエを陥落させた。しかしながら苦戦したため、その様子が誇張されて報告され、元老院ではケンソリヌスが死亡した可能性もあると考え、独裁官ルキウス・パピリウス・クルソルが任命された。紀元前300年、オグルニウス法の成立によって、神官職がプレブスにも解放され、人員も拡張された。彼はこの時追加されたアウグルと神祇官の一人に任命されている。紀元前295年、ガリア人、サムニウム人、エトルリアなどが連合し、センティヌムの戦いが起こった。この時執政官であったマクシムス・ルリアヌスが、同僚のプブリウス・デキウス・ムスを援護するよう命じた二人のうちの一人、ガイウス・マルキウスは、ケンソリヌスの事ではないかとも考えられている。紀元前294年、プブリウス・コルネリウス・アルウィナと共にケンソルを務め、戸口調査を行った。ローマの人口は262,321人であった。リウィウスによると、彼らは26組目のケンソルであるという。彼は紀元前265年にもケンソルを務め、恐らく紀元前254年に死去した。アウグルと神祇官の後任は、クィントゥス、もしくは紀元前239年の執政官ガイウス・マミリウス・トゥッリヌスと思われる。
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電撃の旅団の概要 電撃PSでは『FFXI』の攻略記事を毎号連載しており、その扱いはかなり大きい。そのため、『FFXI』を担当するライターの数も多く、旅団構成員として紹介されるメンバーの数も約20人とかなりの大人数を誇る。旅団員は一般のプレイヤーと同様のプレイを行いつつも、ゲーム内でのデータの検証を行ったり、旅団員とゲーム内でのボスキャラクターとの対戦模様を、記事や「電撃PS2」の付録DVD映像等で読者に伝えている。
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学校法人神奈川朝鮮学園の有害性 痙攣が報告されており、10mgの低用量でも生じることがある。アメリカ合衆国におけるAM-2201の娯楽的な使用によって、スケジュールIにいくつかの合成薬物を追加するための2011年の規制物質法の修正案に挙げられた。急性毒性と長期的な使用に関連した副作用には、急性腎不全、脳損傷、脳卒中、痙攣、発作、横紋筋融解症、および死亡がある。
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YOU (山下智久のアルバム)の概要 2015年に、向精神薬に関する条約のスケジュールIIに指定された。
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スタヴ・シェレズの略歴 1970年に生まれてロンドンで育ち、レイティマー上級学校を経てリーズ大学に進んだ。シェレズは1999年から2004年までイギリスの音楽雑誌『Comes with a Smile』の主要な寄稿者として活動。2004年にペンギンブックスから出版された処女作の小説『The Devil's Playground』が英国推理作家協会によるCWA賞のニュー・ブラッド・ダガー賞にノミネートされた。2006年12月からカトリック雑誌の『カトリック・ヘラルド』で編集者をしながら小説を発表している。2012年に発表した『A Dark Redemption』と2013年の『Eleven Days』がそれぞれ翌年のシークストン・オールドペキュリア・クライムノベルオブザイヤーアワードにノミネートされ、2017年発表の『The Intrusions』は2018年の同賞を受賞した。2008年に『The Devil's Playground』が松本剛史の訳によりヴィレッジブックスから『野良犬の運河』の邦題で出版されたが、以降の作品については未訳である。
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小塩節の経歴 長崎県佐世保市生まれ。父は牧師小塩力。松本高等学校 (旧制)文科乙類を経て、東京大学独文科卒、同大学院修了。1958年、国際基督教大学専任講師、準教授、1967年からNHKの「ドイツ語講座」を1985年まで担当。1970年、中央大学文学部教授、のち常任理事、在職のまま1985年から1988年まで駐西ドイツ・日本大使館公使、ケルン日本文化会館館長。1997年中大退職、名誉教授、フェリス女学院院長、2003年理事長。国際交流基金理事、ひこばえ幼稚園園長などを歴任。ひこばえ学園長、ケルン大学名誉文学博士。ゲーテなど18世紀ドイツ文学が専門だが、ドイツ語教育、幼児教育、音楽、キリスト教徒としての著作など多数がある。妹は仏文学の久米あつみ、子息に小塩和人(アメリカ史)がいる。
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He 100 (航空機)の概要 ハインケル社が1938年に初飛行させた機体。ドイツ空軍省の分類では、高速研究機としての位置付けであったが、ハインケル社としては不採用におわったHe112の代替機としての実用戦闘機を目指したもので、レシプロエンジンを単発搭載し単座の設計となっていた。世界速度記録樹立時He 112UやHe 113という名称でプロパガンダとして公式発表したケースもあった。計19機が試作されたが、制式採用されずに終わった。大日本帝国海軍が本機を購入したことでも知られる。
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He 100 (航空機)の開発 メッサーシュミット Bf 109 との競争試作に破れた前作 He 112 の捲土重来を期し、ドイツ航空省からの正式な試作下命なきまま社内コード P.1035 の下で自主開発が進められた。双子のギュンター兄弟 (Siegfried and Walter Günter) が設計を指揮し、製作順により当初 He 113 の名が与えられていたが、不吉な番号「13」の通り、完成間近の1937年にヴァルターが交通事故で早世したことで遺作になってしまい、He 100 に改称された試作1号機 (V1) は、翌1938年1月22日に初飛行した。
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He 100 (航空機)の設計 He 112 が Bf 109 より劣速で、上昇力でも運動性でも劣ったことへの反省から、軽量化と徹底的な生産合理化、高速化のための空力的洗練が図られた。抵抗を減ずるため集中冷却器を排し、主翼外板を表面冷却器とした結果、同じダイムラー・ベンツ DB 601A を搭載する当時の新鋭機 Bf 109E より、80km/h優速を示した。He 112 や Bf 109 で離着陸時の事故を多発させていた外側引込式主脚に対し、間隔が広く一般的な内側引込式に改められていたが、過剰な軽量化のため故障が頻発した。また九七式戦闘機以降の一連の中島飛行機製単座戦闘機と同様に、主翼前縁後退角を0とする手法は本機以降ハインケル社でも常套化し、He 280, He 219, He 162 らに受け継がれている。内翼の上反角も0で、軽い逆ガル翼を構成している。1938年6月5日、ドイツ空軍内では異例にハインケル社に好意的だったエルンスト・ウーデット大佐自ら操縦桿を執り、通常型1,175hpエンジンの試作3号機 (V3) で100km周回区間の世界速度記録634.32km/hを出すや、航空省はこれを He 100 ではなく He 112U (U はウーデットの頭文字)の成果として発表した。更に水・メタノール噴射装置付高過給仕様の改造 DB 601 (短時間出力1,750hp)に換装し、翼弦を短縮した増加試作8号機 (V8) は、ハインケル社テストパイロットのハンス・ディターレの操縦で1939年3月10日に高度50m以下1km区間746.606km/hの公認記録を樹立したが、空軍省はこれも実戦配備中の He 112U によるものとして対外宣伝した。
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He 100 (航空機)の不採用、宣伝機へ 期待通りの高性能を発揮した He 100 の制式採用をハインケル社は確信したが、戦闘機をメッサーシュミット社の専任とする事が空軍省の当時の方針とされていた。また、He 100自体の機体設計も、被弾率の高い主翼を表面冷却器に当てたことが脆弱性を高めることは自明であり、高い失速速度と高翼面荷重、発動機架まで廃止してエンジンをバルクヘッドに直付けするなど「凝り過ぎ」と評された生産性・整備性上の問題点も多く、実用性に対する懸念は当初から強く持たれており、前線で活躍中の Bf 109 の大量産を減じてまで He 100 を並行配備すべきとの積極的な支持が得られず(搭載するDB 601エンジンの生産数が限られていたため、He 100を生産すれば、同エンジンを搭載するBf 109/Bf 110の生産減となる)、それまでの努力は水泡に帰した。更に、航空省と宣伝省はメッサーシュミット社に速度記録用の Me 209 (Bf 109R) を特製させて He 100 の記録を塗り替え、これを大々的に対外宣伝したのみならず、記録更新を目指したハインケル社に禁止命令を下した。このMe 209は実用戦闘機化が計画され、製作された4号機にあたるMe 209V4はDB 601Aエンジンを搭載し、トラブルの多い表面冷却をやめ、主翼下面に通常型のラジエーターを備え1939年に初飛行した。しかしHe 100とは異なり、元が速度一辺倒で設計された機体だけに実用機として使用するには問題が多く、肝心の速度性能も機体の改修や武装によって機体重量が増加したためBf 109Eを下回るまでになった。そのため今後改善の見込みがないとされ、開発計画は中止となった。結果としてHe 100はHe 177の開発経緯と同様に様々な説が語られている。
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He 100 (航空機)のHe 100D(He 113)への発展 ハインケル社では A, B, C 各型に続き、自費で増加試作型の He 100D-0 を3機、量産準備型の He 100D-1 を12機製作した。これはレーサー的性格が強かった初期型から、戦闘機としての実用化に転じたもので、尾翼面積を拡大して方向安定性を増し、一部は自社の He 111 など爆撃機に用いられていたユンカース ユモ 211へ換装し、表面冷却器からコンベンショナルな胴体下半埋め込み式の集中冷却器に変更するなど、度重なる改修を施したものの、原設計が DB 601を前提に特化されていた結果、突出した高速性が失われた事もあり、不採用の決定は遂に覆らなかった。しかし He 100D-1 は He 113 の仮名で種々に迷彩され、あたかも実戦配備されているように対外宣伝されたため、連合国側でも He 113 との交戦記録を申請するパイロットが続出した。実際、He 100D-1 の内3機はハインケル社の工場防空に当っていたが、会敵機会はなかった。不採用が確定した後、ハインケル社はジェット戦闘機 He 280 計画に注力することになり、余剰化した He 100 はソ連と日本に放出された。
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He 100 (航空機)の諸外国のHe100 日本海軍は太平洋戦争開戦直前の1941年にHe 100D-0を3機、2機のHe 119と共に購入し、ハインケル社からクルト・シュミット技師を招聘して、ハインケル100型戦闘機(略符号AXHe1)の名称で、日立航空機千葉工場による国産化を前提に評価試験がなされた。小福田晧文(海軍航空技術廠飛行実験部戦闘機担当主務部員)は、相当数購入するという協定があったとしている。日本海軍ではそれ以前に九六式艦上戦闘機との比較のためHe 112を少数購入したものの、高速ではあるが九六戦より上昇力や運動性に劣ると判断され発注をキャンセルしていた。He 100は全備状態で670 km/hもの高速を実地に発揮して関係者にショックを与え、局地戦闘機としての適性を示したが、操縦が困難で航続力に劣ること、生産に要する技術が当時の日本の水準を超越していたこと、輸送中に破損した生産治具類を再手配したところ開戦によって輸送手段を阻まれたこと、緒戦の快進撃の最中で防空思想が薄れていたこと等から再び採用は見送られた。構造はその後の海軍機を設計する上での参考にされている。実際に本機を操縦した小福田は、上昇飛行中に主翼上面前方の孔から蒸気機関車のような蒸気が噴出して驚いたと回想し、無骨で実用的で合理主義、時に搭乗員の意見も量産性のために無視するなど、ドイツらしい戦闘機と述べている。独ソ開戦前のソビエト連邦も、性能を落とす改造を受けた前期試作機(V1, V2, V4, V5, V6, V7) を購入している。
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足尾警察署の概要 足尾署は、古河市兵衛が足尾銅山を買収した1877年に足尾分署として設置され、1907年の足尾暴動事件後に署に昇格した。暴動事件ではサーベル以外の武器がなく、県知事から武器使用を禁じられていたため、逮捕した容疑者を暴徒に奪還されたり放火を傍観する有様で、陸軍の支援を受けてこれを鎮圧した。 当時、足尾町の人口約35,000人に対し署員は55人、うち45人は請願巡査で、主に労働争議対策に従事した。足尾銅山が閉山すると規模を縮小し、「日本一小さい警察署」とされたが、2006年3月31日に日光警察署に統合された。統合前は署長以下およそ10人で、警察官配置数は全国最少だった。なお、現在の「日本一小さい警察署」は警視庁小笠原警察署。現在の足尾交番は足尾署をそのまま転用しているため、一般の交番としてはかなり大きい。
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南足立郡の経歴 因幡山名氏の重臣・武田国信の郎党であった。天文15年(1546年)6月、橋津川の戦いに参加、相手方の大将・尼子豊久を討ち取る功を為した。『陰徳太平記』などによれば、豊久が武田方の放った矢を受け、落馬したところに、すぐさま駆け寄って討ち取ったという。木工允の働きにより、尼子の軍勢は一時、総崩れとなったが、一報を聞いて激怒した尼子国久が軍勢を立て直し、武田軍に猛攻を加えたために、瞬く間に形勢が逆転、武田軍は壊滅するに至った。木工允はそのような中で奮戦していたが、最後には尼子の兵に囲まれ、討ち取られた。尼子国久は敵ながら最期まで首を離さなかった木工允を褒め、禅院において丁重に弔ったと伝えられている。
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ロルフ・エルバーフェルトの略歴 エルバーフェルトはヴュルツブルク大学で神学、哲学、日本学、中国学、宗教史を学んだ。1989年に文部科学省の奨学金を得て京都大学に留学し、その後ボン大学で異文化間宗教学・宗教史について博士研究を行った。宗教史・哲学をヴュルツブルク大学で教えた後、1995年にはハインリヒ・ロムバッハのもとで博士号を取得した。博士論文のタイトルは「西田幾多郎と多文化主義の問題(Kitarō Nishida und die Frage nach der Interkulturalität)」。1997年から2003年まで、ヴッパータール大学の哲学助教授を務めた。ハビリタチオン論文(2001年)は「道元における時間の現象学と比較哲学の方法(Dōgens Phänomenologie der Zeit und die Methoden komparativer Philosophie)」を論じたもので、これによりシュトラニアク哲学賞を受賞した。2002年にはニーダーザクセン基金のカール・ヤスパース賞を受賞した。その後、いくつかの大学で講師を務めた。2008年にはチューリッヒ大学(アジア・ヨーロッパ研究教授)、インスブルック大学(哲学講座)、ヒルデスハイム大学(文化哲学教授)から招聘され、2010年にはウィーン大学(世界哲学教授)で教えた。現在、ヒルデスハイム大学の文化哲学の教授を務めている。研究分野は、現象学、異文化間倫理学・美学、文化哲学、身体の哲学、多文化主義。
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ロルフ・エルバーフェルトの変容的現象学 ハビリタチオン以来、エルバーフェルトは「変容的現象学(transformativen Phänomenologie)」を展開している。これは東アジアとの現象学的出会いによって生まれたアプローチである。「記述的現象学(deskriptiven Phänomenologie)」(フッサール)や「解釈学的現象学(hermeneutischen Phänomenologie)」(ハイデッガー、ガダマー)とは異なり、東アジア思想に由来する変容的現象学は、経験、思考、発話の中心へと現象学的に接近する際、変容的な仕方でアプローチしていく。つまり、現象学的分析それ自体が現象において反省的な生を得る場になるということである。現象は、無規定的かつ時間を超越した境地へと達するための実践的方法になるのである。
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Vivid (平野綾のアルバム)の概要 前作FRAGMENTSからは1年半、オリジナルアルバムとしてはスピード☆スター以来4年3ヶ月ぶりのリリースとなった。ファンの要望が多かったロックを中心にジャズアレンジやボサノヴァといった曲構成となっている。
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Vivid (平野綾のアルバム)の初回盤 初回限定盤には2013年末に開催されたライブ「Aya Hirano Special LIVE 2013 -Promise-」の映像と、今回のジャケット撮影のメイキングを収録したDVDが付属される。
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シドニー・サムの初期 TuSメッテンホフでキャリアをスタートし、後にFCキリア・キール(en)へ移動すると、2002年からはライバルであるホルシュタイン・キールの下部組織に移籍した。2004-05シーズン開幕時にはハンブルガーSVの下部組織に移籍し、2006年にBチームに昇格。2007-08シーズンよりトップチームに昇格を果たした。2007年12月20日のVfBシュトゥットガルト戦でダヴィド・ヤロリームに代わり後半から出場しプロデビューを飾った。2009年7月1日にツヴァイテリーガの1.FCカイザースラウテルンへシーズン終了までのレンタル移籍で加入した。
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シドニー・サムのレバークーゼン 2010年5月19日にバイエル・レバークーゼンと5年契約を締結。2010-11シーズンには主力としてプレー、11月8日に前所属のカイザースラウテルン戦で同点弾を挙げ、さらに84分に22メートルものボレーシュートを決めるなど、同試合のMOMに選ばれる活躍を見せた。また、2011年2月17日に行われたUEFAヨーロッパリーグのメタリスト・ハルキウ戦では後半アディショナルタイム中に2得点を挙げた。
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シドニー・サムのシャルケ 2014年1月8日、2014-15シーズンからシャルケ04に移籍することが発表された。2015年5月11日、ケヴィン=プリンス・ボアテングと共に戦力外通告を受け、シャルケとの契約を解除したことを発表した。
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シドニー・サムのダルムシュタット 2017年1月14日、SVダルムシュタットへ2016-17シーズン終了まで半年間の期限付き移籍をした。
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シドニー・サムのボーフム 2017年8月31日、VfLボーフムへ2019年6月までの2年契約で完全移籍した。
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シドニー・サムの代表 世代別代表としてドイツU-19代表からプレーしてきたサムは、ナイジェリア人の父とドイツ人の母の下で生まれたことでナイジェリア代表としてプレーする資格を有している。そのため、ナイジェリア代表のスティーブン・ケシ監督に誘われて会談を持つ場面も見られたが、最終的に出生国であるドイツを選択。2013年5月17日に同僚のフィリップ・ヴォルシャイトと共にヨアヒム・レーヴ監督の下でドイツA代表に初招集され、5月29日にフロリダ州ボカラトンでのエクアドル戦で初出場を飾った。
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ジョン・ボイド (軍人)の初期の軍歴 1945年、ボイドは19歳でアメリカ陸軍に入隊し、航空軍に配属された。水泳教官として連合国軍占領下の日本への駐留を経験したのち、1947年に除隊し、復員兵援護法を活用してアイオワ大学に入学した。同大では予備役将校訓練課程(ROTC)に所属していたほか、また水泳部にも入部し、妻となるメアリ・ブルースとも出会っている。経済学の学士号を取得したのち、1951年には、ROTCにしたがってアメリカ空軍に再入隊した。当時、アメリカ軍は朝鮮戦争を戦っており、入隊間も無いボイドも朝鮮に派遣された。彼はここでF-86の操縦士として、22回の実戦出撃を経験した。この経験は、ボイドが後に創案した各種の理論の土台となった。終戦後には、アメリカ空軍戦闘機兵器学校(FWS)において、F-100の教官を務めた。まもなくボイドは、FWSにおいてもっとも影響力のある空中戦戦術家と目されるようになった。学生機との模擬空戦において、「不利な位置から開始して、40秒以内に位置を逆転させる(後方の攻撃位置を占位する)」との賭けをたびたび行ない、6年間/3000時間におよぶ戦闘訓練で無敗を誇った。このことから、戦闘機教官としてのボイドには、40秒ボイドという渾名が進呈された。1958年、彼はその戦技をまとめて、空軍初のジェット戦闘機用空戦マニュアルとして『航空攻撃研究』(Aerial Attack Study)を上梓した。同書は空中戦における機動と対抗機動の連続を初めて理論化したものであり、のちのE-M理論の原型が既に含まれていた。
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ジョン・ボイド (軍人)のE-M理論とF-15 1961年、ボイドはジョージア工科大学に入校し、生産工学の学士号を取得した。彼はここで物理学と熱力学の2名の教授と出会い、多くの示唆を受けた。その後、不本意ながらフロリダ州エグリン空軍基地で機体整備に配置されたが、この期間中、ボイドは、のちにエネルギー機動性理論(E-M理論)として知られることになる画期的な理論を創案した。これは、いわば熱力学の考え方を空戦理論に導入したものであり、要すれば、戦闘機の戦闘能力は機体が有するエネルギー量によって決定されるというものであった。ボイドは、同基地に勤務する文官であったトーマス・クリスティの協力を得てこの理論を検証し、外国技術センターのコンピュータにアクセスして、米機と仮想敵機の優劣について検討した。なお、このアクセスが無断で行なわれたため、のちに発覚した際には一時重大な問題となった。1964年、ボイドとクリスティは、E-M理論を完成させ、エグリン、ネリスなど様々な空軍基地や航空機メーカーでブリーフィングを行い、1964年末には戦術航空軍団(TAC)司令官のスウィーニー大将や空軍長官にもブリーフィングを行った。当時、アメリカ空軍は新戦闘機(FX)の開発に向けた準備作業に入っており、1965年4月にはコンセプト研究が開始された。しかし、ベトナム戦争と第三次中東戦争の戦訓、そして後に1967年にドモジェドヴォ空港で開かれた航空ショーでソ連空軍・防空軍の新鋭機としてMiG-23・MiG-25が公開されたことを受けて議論は紛糾していた。空軍参謀部は、この紛糾状態を収拾する手法としてボイドのE-M理論に着目し、1966年、ボイドはF-X運用要求策定チームに発令された。ボイドは、自らのE-M理論を土台としたトレードオフ分析により、コンセプト研究を思い切って見直すこととした。このトレードオフ分析は、当時は理想的翼型と見なされていた可変翼(V-G翼)の棄却やエンジンのバイパス比からの再検討など、非常に思い切ったものであり、この結果、機体重量は27トンから18トンに大幅に軽減された。これによって、FXコンセプト研究の混沌状態は打破され、1968年9月、RFPが発出された。このFX計画は、最終的にはF-15として結実することになった。
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ジョン・ボイド (軍人)の勝敗論 ボイドは、軍事著作家としては珍しく、破壊と創造(Destruction and Creation)以外は、正規の書物ではなく主にスライド・シートの形式をとって発表を行なってきた。その集大成とされるのが勝敗論(A Discourse on Winning and Losing)で、これは327ページ、所要時間15時間の一大ブリーフィングに相当する。その中核となるのが、OODAループとして有名な意思決定理論である。これは、ボイド自身も経験した朝鮮戦争の航空戦についての洞察を基盤にして、指揮官のあるべき意思決定プロセスを分かりやすく理論化したものである。すなわち、監視(Observe)- 情勢判断(Orient)- 意思決定(Decide)- 行動(Act)のサイクルを繰り返すことによって、健全な意思決定を実現するというものであり、理論の名称は、これらの頭文字から命名されている。コリン・グレイは、OODAループについて、「あらゆる領域で適用できる一般理論」 (Grand theory) と評している。1975年、ボイドは退役し、以後、13年間に渡って、国防総省等へのコンサルタント業務に就くこととなった。彼は、非常に質素な住居に住んでいたことからゲットー大佐と渾名されていたにも拘らず、ほぼ無償に等しい給与しか受け取らなかった。
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ジョン・ボイド (軍人)の機略戦理論 ボイドは退役後、孫武や宮本武蔵、カール・フォン・クラウゼヴィッツ、アントワーヌ=アンリ・ジョミニ、カール・マルクス、ウラジーミル・レーニン、毛沢東など著名な軍事著作家の著作や、古代から現代までの戦史について研鑽を重ねた。この成果として創出されたのが機略戦(機動戦闘, Maneuver warfare)理論である。これは、#勝敗論において提唱されたOODAループ理論を中核として、『孫子』のコンセプトを導入した作戦術・戦術レベルの軍事理論であった。ボイドの機略戦理論の影響を受けたのは、空軍よりは、むしろアメリカ陸軍とアメリカ海兵隊であった。ボイドは自ら、バージニア州のクアンティコ海兵隊基地に赴き、基礎課程で年に数回の講義を行なった。1988年、アルフレッド・グレイ海兵隊総司令官は、ポール・ヴァン・ライパー少将に対して、機略戦理論を最重視するよう指示した上で海兵隊指揮幕僚大学教育部長を発令した。そして1990年には、この方針を踏襲して、海兵隊大学内に海兵隊大学校(MCWAR)が創設された。1991年の湾岸戦争においては、ボイドの薫陶を受けた多くの将兵が、機略戦理論を実戦に応用した。
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ジョン・ボイド (軍人)の晩年 ボイドは晩年ガンにおかされ、闘病の末の1997年、70歳で死去した。ボイドは軍葬の礼をもってアーリントン国立墓地に葬られた。彼は#戦闘機マフィアとF-16において見られたようにジンギス・ボイドと渾名される強情さをもって空軍の官僚機構と闘ったこともあり、空軍から出席したのは、軍楽隊と儀仗兵、そして上層部から指示された名代役の中将1名のみであった。しかし海兵隊からは、総司令官が弔電を送ったほか、多くの将兵が参列した。また、軍事著作家としてのボイドを尊敬した陸海軍将校も多くが参列した。
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忌み枝の来歴 1989年、エル・サルバヘ(El Salvaje)のリングネームでプロレスデビュー。レイ・ミステリオ・シニアおよび兄のファビアの元でトレーニングを積んだ後のデビューである。主にインディー団体を転戦した。1992年、AAAに覆面レスラーとして登場。メキシコの団体ではレイ・ミステリオとの抗争を繰り広げていた。1994年には初来日を果たし、新日本プロレスに参戦している。1995年、ECWにレイ・ミステリオと共に参戦。1996年、WCWに入団。シコシス(Psicosis)のリングネームで活動を開始。同年、ミステリオと共にWARに参戦。1998年、LWoの一員として活動。1999年8月、メキシコでレイ・ミステリオ・シニアと対戦して敗れ、素顔を晒した。9月にはアメリカでサンドマンと対戦して敗れ、アメリカでも素顔を晒した。以降素顔で活動。2000年、WCWから解雇となる。2001年、全日本プロレスに参戦後、ECWに復帰。ECW消滅後は、AAAを主戦場とした。2代目シコシスがいたため、ニチョ・エル・ミジョナロ(Nicho el Millonario)のリングネームで活動。2004年、TNAに参戦し、2005年よりWWEと契約を交わし入団。SmackDown!にてメキシクールズの一員となったが2006年11月1日に解雇された。WWE解雇後、CMLLに登場もすぐに退団。2007年2月5日にAAAに登場。出場停止中だったラ・パルカのマスクを被って乱入、大親友コナンの仇を取るためシベルネティコに宣戦布告をした。2012年5月、AAAにてリングネームの権利を獲得してシコシスへと戻す。2014年にはインディー団体に出場する際にはニチョ(Nicho)のリングネームを使用している。
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ナビタンの概要 この機械は小さく軽量で持ち歩くのに向いており、またプリンタも取り付けられるようになっており領収書等の発行ができるようになっている。地域開発スタッフは自分の担当している地域をまわる。各家庭や企業の契約の契約内容もすぐ調べることができる。この機器の操作にはパスワードを入力する必要がある。セキュリティを考慮しパスワードは一人ひとりのスタッフがそれぞれ別々のものを使用している。そのためこの端末が盗難にあったとしても中に記憶された情報を読み出すことはきわめて困難であるとされている。実際にこの端末が盗難に遭ったケースもある。参考リンク また、「外部リンク」にも書かれている「NHKみやざき局をたんけんしよう! 放送局で働く人たち」のナビタンについては「持ち運びが便利なパソコン」と書かれているが、実際はPDAである。 しかし、PDAの意味を分かっていない人にはパソコンといったほうが分かりやすいためそう書いてあるものと思われる。
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スーズ・ランドールの来歴 1970年代初期に最初は看護師として、次にファッションモデルとして働き、ランドールはモデル仲間の友人を撮影したエロチックフォトで注目された。1972年、彼女はエリック・ロメールの映画『愛の昼下がり (L'Amour l'après-midi) 』でオーペア(家事等を手伝い、宿泊費・食事代を無料にしてもらう女子留学生)を演じた。彼女はモデルをあきらめ、エロチックフォトの撮影に時間を注ぎ込んだ。ペントハウス誌やPLAYBOY誌のような一流成人誌で長年働いた後、彼女は現在フリーのカメラマンとして仕事を続けている。近年彼女の仕事は、ボンデージ物が増えている。ランドールの転機は、彼女がピンナップのモデルにリリアン・ミューラーを見出し、PLAYBOY誌のために彼女の写真を撮った時に訪れた。ミュラーは、1975年8月のプレイメイト・オブ・ザ・マンスの後、1976年のプレイメイト・オブ・ザ・イヤーに選出された。PLAYBOY誌の1976年5月号の写真記事で、ランドールはカメラマンとモデルの双方を務めた。彼女は1977年のハスラー誌上で、更に露骨なセルフポートレートを撮り続けた。スーズ・ランドールは、1975年から1977年まで西海岸の写真編集者、マリリン・グラボウスキーの下でPLAYBOY誌のスタッフカメラマンとして働き、1977年から1979年までハスラー誌のスタッフカメラマンを務めた。その後、彼女が撮影した、アリア・ジョバンニ、アレクサス・ウィンストン、ラニー・バービー、ストーミー・ダニエルズ、ニキータ、サニー・レオーネ、レクサス・ロックリア、リリー・アン、シルヴィア・セイント、ズデンカ(ズデンカ・ポドカポーバ)、エリザベス・ヒルデン、ジゼル(ブランディ・レッドフォード)、テラ・パトリック、ジュリー・ストレイン、ラクエル・デーリアン、アイミー・スウィート、スワン(ジャスティン・ジョリー)、パメラがペントハウスペットとして、ペントハウス誌上を飾っている。ランドールは評判が高いイギリスのダークラム酒、ラムスネイビー (Lamb's Navy)のカレンダーを撮影した。また、ピーター・フック(ニュー・オーダー)やロバート・パーマー等のミュージシャンのアルバムジャケットの撮影もしている。スーズ・ランドールの夫は作家ハンフリー・ナイプである。彼は彼女の伝記『スーズ (Suze) 』(1977年 ISBN 978-0900735424)の執筆を手伝った。また彼女の映画の何本かで脚本、監督を務め(ビクター・ナイ名義)、スーズ・ランドール・プロダクションのウェブサイトの管理もしている。彼女の娘、ホリー・ランドール(1978年9月5日 - )もエロチック・カメラマンで、母親と一緒に仕事をしている。また彼女自身のエロチックなウェブサイトも持っている。
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イバン・フェリペ・シルバの人物 2014年のパンナム選手権とユースオリンピック81kg級で3位になった。2015年にはパンアメリカン競技大会で2位、世界ジュニアでは準々決勝で日本の藤原崇太郎に敗れ3位になった。2016年リオデジャネイロオリンピックでは初戦でアブタンディル・チリキシビリに敗れた。その後に階級を90kg級に上げると、2018年にはパンナム選手権で優勝した。世界選手権では準々決勝で日本の長澤憲大に反則勝ちするなどして決勝まで進むが、スペインのニコロス・シェラザディシビリに逆転の一本負けを喫して2位だった。IJF世界ランキングは3995ポイント獲得で5位となっている(19/4/22現在)。
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ユナイテッド・シネマ・インターナショナルの歴史 1983年、UCIはイギリスに映画館を建設するためにパラマウント映画とユニバーサル・ピクチャーズの合弁企業として設立された。トム・マクグラス社長時代に、イギリス、アイルランド、オーストリア、ドイツ、イタリア、ポルトガル、スペイン、日本、中国、台湾、ブラジルに同社は進出し、映画館を運営、展開した。イギリスでは、UCIと(のちに)ザフィルムワークスブランドの下で映画館を運用し、かなり大きいシェアを享受した。1985年にイギリス初のシネマコンプレックスを開館し、世界で30台しかないデジタル映写機(およそ130,000ポンド)の最初の1台を購入する1社だった。これにより衛星経由の映画の受信や、フィルムではなくデジタル媒体での上映が可能となった。2004年後半、UCIのヨーロッパ部門は、競合チェーンのオデオン・シネマズと共にテラファーマ・キャピタル・パートナーズに買収された。イギリスのUCIとザフィルムワークスの大部分はオデオン・シネマズのブランドに改称された。公正取引委員会から科されたオデオン・シネマズへの合併条件に基づき、 UCIクライドバンク、UCIプール、UCIサットン、UCIバジルダン、ザ・エンパイヤー・レスター・スクエア、およびザフィルムワークス・ハイウィカムはエンパイヤー・シネマズへ売却された。合併は最近終了したばかりであり、UCIチェーンを形成していたいくつかの劇場は、未だUCIの外観と雰囲気を残している。UCI、UCI/キノウェルト、キネサのブランドはアイルランドと他のヨーロッパ地域に残る見込みである。UCIハルは再開発事業のために立ち退いた。オデオンが既に出店していたため、移転は行わなかった。アイルランドの劇場は未だUCI名称のままだが、オデオン・シネマズの一部として運営されており、同社が売りとしているプレミアシートや限定雑誌の「オンスクリーン」などを採用ている。広告は多くの場合オデオンのロゴマークを併記している。2007年8月に、UCIはイギリスのオデオンのウェブサイトと同一レイアウトでアイルランドの新ウェブサイトを立ち上げた。このウェブサイトには2006年9月にアイルランドの劇場が同国の企業グループであるエンターテインメント・エンタープライズに売却されたことが記されている。この取引はアイルランドのマスメディアでは報道されずに終わった。また、劇場は運営契約に基づいてオデオンチェーンに残っているとも記されている。2008年4月、エンターテインメント・エンタープライズはベルファストの劇場以外のストーム・シネマズを買収し、オデオンへの運営委託契約を行ったことを発表した。これにより、アイルランドのオデオン/UCIチェーンに8サイト61スクリーンが追加された。しかし、同館がUCIまたはオデオンブランドを採用するかは未定である。
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ユナイテッド・シネマ・インターナショナルの南米 ユナイテッド・シネマ・インターナショナル(現UCI)はバイアコムとCBSコーポレーションを所有するナショナル・アミューズメント社により南米で運営されている映画館のブランドとなっている。
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ユナイテッド・シネマ・インターナショナルの日本 日本ではユナイテッド・シネマ株式会社は2014年以降、ローソングループとなった。
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青山弘之の関連項目 UEFAチャンピオンズリーグ 2015-16
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支店の概要 支店は大都市や地方の中核都市に多く設置される。また主要な取引先の近くに特別に設置されることがある。企業の販売部門の地方拠点としてのみならず、直下の営業所、出張所、駐在所(駐在員事務所)などを統括するための管理部門を内包する。また本社所在地においても、営業機能を集中するために支店を置くことがある。銀行をはじめとする金融機関では、支店は重要な営業施設である。いわゆる担当する地域ごとに支店を展開するほか、法人専門の支店を持つ場合がある。また、金融機関では各支店ごとに顧客の口座が開設され、顧客の取引では金融機関名と共に支店名を指定する。インターネットを用いた電子商取引が発達した現在では、電子決済を目的としたインターネット支店を開設していることもある。
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支店の支社と支店の違い 日本において、支店と支社に法律上の違いはない。会社法では商業登記上の「本店」でない拠点を全て支店と称することとなり、支社とは称しない。なお、どの拠点を支店としてを登記するかは各社の判断で決められ、全ての拠点を支店として登記する必要はない。会社経営上の違いとしては、支店は顧客と相対して営業する店舗形態の場合に専ら用いられ、対して支社は自社のその他の拠点を束ねることに注力した形態に用いられる呼称である。
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あらたえの湯の概要 2012年(平成24年)6月26日に徳島市南田宮1丁目の田宮街道沿いにあるアソビバ!ZEN内に「徳島天然温泉 あらたえの湯」(田宮店)をオープン。近隣には同じくノヴィルが運営するゴルフ施設「ゴルフ&フィットネス ワンポイント」が隣接している他、南田宮2丁目には複合レジャー施設「エンターテインメントガーデン アソビバ!」がある。その後、2014年(平成26年)に同県小松島市に「湯処あらたえ」(小松島店)、2017年(平成29年)に同県鳴門市に「鳴門天然温泉 あらたえの湯」(鳴門店)がそれぞれオープンする。施設名の「あらたえ」とは麻織物の別称で、同県では阿波忌部氏が大嘗祭に際して「あらたえ」を献上しており、かつて吉野川市に存在した麻植郡の由来となっている言葉である。
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マスカットサイダーの概要 2011年3月の東日本大震災における復興のシンボルとして、東京や大阪などの復興市で販売された。
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重松宗育の略歴 静岡県清水市(現静岡市)生まれ。東京外国語大学(英米語科)卒業、京都大学大学院修士課程を修了。静岡女子大学(現静岡県立大学)講師、静岡大学人文学部講師、助教授を経て、教授。2001年、関西医科大学教授として医学英語、こころのセミナーなどを担当し、2006年退職。現在、静岡市清水区にある臨済宗妙心寺派承元寺住職をつとめる。
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法と文学の概要 この問題に関心のある研究者は、次のような2つの観点から、問題対象に迫ろうとしている。第1は、「文学における法(Law in Literature)」という観点であり、これは、名著とされる文学作品の中から法的な論点の存在を明らかにすることである。第2は、「文学としての法(Law as Literature)」であり、これは、文学の解釈・分析・批評の方法論を参考にして、法的文章の理解を試みるものである。この研究領域は、法学に関する教育手法、法理学研究、法解釈論に関する潜在的な可能性を秘めているものとして、注目されている。現実世界において人間の行動を規制する法的枠組みに関して、文学作品を介することで人間の状況を理解する独自の視点を得る文学的素養が結びつくことは、民主主義的な司法制度に対し、正当で道徳的な社会を提供するという新しく劇的な契機を与えるものとされている。人間の在り方を表現する文章の役割を理解することは、法的な修辞法に関する議論においては、実用的で不可欠なものとされている。「法と文学」の研究は、良い文章の執筆法を法的文章にも適用することで、解釈論や法的決定が、より効果的なものになると考えている。法的文章における表現が明確であることは、市民・法曹・政治家・法学者にとって、民主主義を理想的に機能させる権限を拡充するものと成り得る。自己実現・自己統治という観点において、法的文章表現の明確化により、専制と弾圧の回避は、容易になる。すなわち、この研究は、人間性に動揺を及ぼすことがあり得る司法制度に希望を与えるものと考えられている。
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法と文学の沿革 この学際的研究を最も早い時期に構想したのは、ジョン・ヘンリー・ウィグモアとベンジャミン・カードーゾと言われている。彼らは、20世紀の前半に小説家と詩人による修辞法を法曹も見習うべきであることを説いている。しかし、多くの研究者は、ジェイムズ・ボイド・ホワイトを「法と文学」研究の嚆矢とする。ホワイトは、「法と文学」に関する専門的な研究と優れた著作により、この学際的研究領域を急速に拡充していった。特に、彼の著作として最も有名な「法的想像力(The Legal Imagination)」は、「法と文学」研究が本格的に開始される契機を作ったとされる。この本は、1973年に出版された。その内容は、法的文章に対する文学的な分析及び文学的文章に対する法的観点の関係性を広範で多様な文献を用いて、その類似性を明らかにしようとするものである。このように「法と文学」研究は、1970年代より注意を引き始め、1980年代までにアメリカの法学研究において相当な地位を得た。例えば、リチャード・ワイズバーグやロバート・ワイズバーグのような「法と文学」研究の支持者は、特に、法的紛争を取り扱う物語が法曹にも法の本質に関する洞察力を提供すると考えている。この洞察力は、伝統的な法的修辞法の研究においては、見落とされてきたものだと彼らは考えている。この学際的研究は、当初、「文学における法」の領域に多くが集中していた。しかし、1970年代後半からは、「文学としての法」の領域が着目され始め、次第に注目を浴びるようになった。これは、文芸批評の手法を法的文章の解釈にも適用することで法学研究を拡充しようとするものである。文学作品と同様に法的文章の意味は、解釈を通して発見されることから、ホワイトやロナルド・ドゥウォーキンのような研究者は、「文学としての法」という観点を重要視した。このように法学研究者が法的意思決定の過程において、文学的文章と法的文章の相互関係を研究し始めたことにより、この「法と文学」研究は、大きな議論を引き起こしている。
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法と文学の文学における法 「文学における法」という観点は、どのように文学において法的状況が表現されているかに関心を寄せるものである。通常、そこにおいては、作家が思い描くことのできた法に反映される独自の観点に高い価値が置かれる。すなわち、作家は、法曹に対して、人間の在り方を教えるための教訓を表現しており、法は、そのような教訓が反映されたものと考えられている。このような研究においては、フランツ・カフカ、アルベール・カミュ、ハーマン・メルヴィル、フョードル・ドストエフスキー、チャールズ・ディケンズの作品が多く引用される傾向にある。すなわち、これらの作家における作品を根拠にして、文学で示される虚構の状況は、裁判を目の前にした個人の政治的で社会的な状況を反映したものであると主張される。例えば、ロバート・ワイズバーグは、「文学における法」という観点が豊かな可能性を提供すると考えている。彼は、幾つかの文学作品が読者に対して法的状況を指示することができないとしても、多くの名著が人間の在り方を指し示していることを主張している。「法と文学」研究の代表的支持者であるリチャード・ワイズバーグは、ジェイムズ・ボイド・ホワイトに倣い、法的話題を議論する手段として、文学を用いることに固有の価値を見出している。しかし、ホワイトが批評的な能力を鍛えるという意味で文学に価値を置くのと異なり、リチャード・ワイズバーグは、文学が個人と他者とを結び付ける社会的・政治的誘因となり、特に法を扱う文学作品において、そのような傾向が顕著である意味で文学に価値を置いている。すなわち、リチャード・ワイズバーグにとって、そのような文学作品は、人間の在り方に関する正当な結論を示しているとされる。このようにリチャード・ワイズバーグの関心は、文学を利用することで修辞的な表現力を鍛えることに力点を置くホワイトの見解とは異なる。リチャード・ワイズバーグは、むしろ、社会制度と法的規範を批判する手段として文学を用いようとする。彼にとって、それが文学作品の主要な目的であり、修辞的表現法を学ぶということは、ホワイトほど重要視されない。
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法と文学の文学としての法 「文学としての法」を研究する者は、文学研究者が用いる批評的手法にも価値を置いている。一般的に「法と文学」研究の支持者は、文芸批評と分析手法が法的文章にも適用可能であると考えている。ホワイトは、「文学における法」の重要性を指摘する一方で、「文学としての法」という視点は、法学と文学という一見すると異種の専門性を統合化し、相互の関係性を構築するという意味で継続的に取り組むべき課題であると考えている。ロナルド・ドゥウォーキンも、法的理解を改善するために文学研究の成果を利用することを支持している。彼の「解釈としての法」に関する論文では、「法的解釈論を他の学問領域における解釈論の知見と比較することは、私たちの法に対する理解を向上させ得るものである」と述べられている。そのように彼は文学作品に関する解釈論が私達の文化的な環境を向上させ、それにより、より良い法の理解と解釈に至るものと考えている。
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法と文学の「法と文学」研究に対する批判 リチャード・ポズナーは、「法と経済学」研究において、重要な役割を果たしている。彼は、その著書「法と文学」において、「法と文学」研究に対し、徹底した批判を展開している。この著書は、ポズナーの経済分析的な視点に対する批判を展開したロビン・ウェストの著作に対する反論の書として、みなされている。ポズナーは、文学作品自体に高い価値を認める一方で、ホワイト、ワイズバーグ、ウェストに対する批判として、文芸批評は、法的解釈論にとって重要ではないと主張する。ポズナーは、法学上の議論において、文芸批評的な手法を利用するべきではなく、ウェストのような文芸批評的な法解釈論を珍奇なものであると批評している。ポズナーは、文学作品が作家の意図を超えたところで文脈に応じて語義を変化させることから、法的解釈論には有用ではないと考えている。彼は、「文学における法」を補助的な研究領域であると位置付けながら、小説の主要な内容が常に人間と法の在り方に関連しているわけではないことを指摘している。このような観点から、ポズナーは、文学に関して、それが文学的であること以上の価値を認めない。このようなポズナーの主張は、リチャード・ワイズバーグの見解とも対峙するものである。ポズナーは、法学研究における文学の重要性は、個々人の文学的素養を高めるという個人的な価値としての補助的な意味にしか捉えていない。すなわち、ポズナーは、時代を批判する精神の発露として、文学作品に社会的価値があるものとは考えていない。したがって、文芸批評に法理学と法を改革する価値というものをポズナーは認めない。リチャード・デルガードとジーン・ステファンシックは、アメリカ史上、重要で有名な法的事件の分析において、ホワイトに反対し、ポズナーを支持していた。その分析によれば、法的な判決理由の形成において、同時代的な文学作品の影響力は、非常に限定されたものであると指摘されている。すなわち、デルガードとステファンシックによれば、裁判官の道徳的な見解は、文学によるというよりも、むしろ規範的な意味で社会的・政治的視点において決定される。
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向井忠晴の人物 東京市生まれ。開成中学校を経て、東京高等商業学校(現一橋大学)本科卒業。一橋ではテニス部で選手として活躍したほか、学業においては同級の佐藤尚武(元参議院議長)や福島喜三次(元三井合名理事)と首席の座を争った。大の飛行機嫌いで、佐藤から戦後駐アメリカ合衆国特命全権大使就任を打診されたが固辞した。
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張錫元の事績 山海関武備学堂卒業後、定武新建軍の教習に就任する。1911年(宣統3年)、河南新軍第29混成協第58標標統に就任した。同年10月の武昌起義鎮圧に貢献し、第29混成協協統に昇進する。1912年(民国元年)、混成協は混成旅に改組され、張錫元はそのまま同旅長をつとめる。同年12月、河南陸軍第1師師長に昇進した。1914年(民国3年)9月、第9師師長に異動する。1916年(民国5年)、京畿歩兵第2旅旅長に転任した。1917年(民国6年)、第4混成旅旅長に異動する。1918年(民国7年)、胡景翼率いる陝西靖国軍を討伐した。1921年(民国10年)、陝西省で潼関鎮守使を兼任する。民国11年(1922年)5月、察哈爾都統に就任した。1924年(民国13年)12月、国民軍が察哈爾に進軍してくると、圧力を受けて辞任した。以後、張錫元の行方は不明である。
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山本邦義の人物・経歴 1968年、上智大学文学部新聞学科卒業。株式会社高知新聞社にて報道本部長、編集局長、取締役、専務取締役等を歴任。その後、株式会社高知放送代表取締役社長に就任。2015年、同社代表取締役会長に就任。2017年、同社相談役に就任。また、社団法人高知県放送中継施設整備協会理事長等を歴任。
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第18回全日本大学女子サッカー選手権大会のプログラム これまで表紙のみがカラーであったが、今回大会のものから他のページも全てフルカラー印刷となった (価格は従来通り、1部1,000円のままで据え置かれた)。また表紙デザインが、望月三起也による、箒にまたがって空を飛ぶ魔女のイラストから、男子側の全日本大学サッカー選手権大会のプログラム同様、大会出場予定の著名な選手の画像中心のものに変更された 。プログラムには2009年にベオグラードで開催されたユニバーシアードに出場した日本代表選手のうち、井手上麻子 (日本体育大学)・小山季絵 (早稲田大学)・菅原未紗 (吉備国際大学)・高橋奈々 (武蔵丘短期大学)・山内典子 (大阪体育大学)の5選手が選ばれ、ユニフォーム姿の画像が掲載された。
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第18回全日本大学女子サッカー選手権大会の東北 優勝チームが出場権を獲得する。準優勝チームはプレーオフ出場権を獲得する。
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第18回全日本大学女子サッカー選手権大会の北信越 優勝チームが出場権を獲得する。準優勝チームはプレーオフ出場権を獲得する。
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第18回全日本大学女子サッカー選手権大会の関西 関西女子学生サッカーリーグ秋季リーグ1部リーグの優勝~3位チームが出場権を獲得する。
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第18回全日本大学女子サッカー選手権大会の中国 優勝チームが出場権を獲得する。
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第18回全日本大学女子サッカー選手権大会の九州 優勝チームが出場権を獲得する。
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第18回全日本大学女子サッカー選手権大会のプレーオフ 3校総当り1回戦のリーグ戦形式で行われ、1位チームが出場権を獲得する。
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第18回全日本大学女子サッカー選手権大会の武庫川女子大学問題 関西女子学生サッカーリーグ1部リーグは、上記5校に武庫川女子大学サッカー部を加えた6校によって行われた。同大学は例年、大阪体育大学に次ぐ成績を挙げて、大学選手権においても出場の常連校のひとつとみなされていた。武庫川女子大は秋季リーグでリーグ2位となったが、リーグ閉幕後、大学を休学中の選手2名を出場させていた事が発覚した。リーグを運営する関西学生女子サッカー連盟は、2009年度の春季・秋季双方のリーグにおける同大学の成績を取り消した上、同大学に2部リーグに降格させる処分内容を決定したが、11月19日に開催された日本サッカー協会の規律・フェアプレー委員会の会議にて、当該選手の選手登録を有効とする見解が提示された。 これを受けて同大学への処分は撤回される見通しとなったが、選手権出場校が全て決定してしまっていたため、武庫川女子大学の出場は見送られる事となった。
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天神流通戦争の前史 いわゆる天神流通戦争以前から、西鉄のターミナル西鉄福岡(天神)駅(1924年、「福岡駅」として開業)を中心として商業施設の集積があった。百貨店では、いち早く1932年に、松屋百貨店が、後のマツヤレディスの場所に開店した。続いて、岩田屋が1936年に本館を開店させ、戦後になると高度経済成長期の1950年代から1960年代にかけて、増築を重ねて規模を拡大した。
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天神流通戦争の第1次天神流通戦争(1971年~1976年) 1971年6月15日、天神4丁目に、売り場面積が2万平方メートル近い、大規模スーパーマーケットとしてダイエーショッパーズ福岡店(名称は時期により変化している)が開業した。1975年、博多大丸が西日本新聞会館に大丸福岡天神店を開店し、翌1976年には、天神地下街が整備され、ファッションビルの天神コア、天神第1名店ビルのニチイ天神店(天神ビブレの前身)が開業し、さらに岩田屋新館が開店した。この1975年から1976年の動きが、後に「第1次天神流通戦争」と呼ばれるようになった。
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天神流通戦争の第2次天神流通戦争(1989年) きっかけとなったのは、1980年代から1990年代にかけて進んだ西鉄福岡駅の再開発計画であった。1989年、ベスト電器が「九州の秋葉原」を目指すとして取り組んだ、売り場面積およそ5千平方メートルの大型電器店ユーテクプラザ天神を国道202号(国体道路)を超えた天神地区の南側に開店し(後の天神ロフトビル)、ファッションビルのソラリアプラザ、イムズが開業した。短期間のうちに大型店の開業が集中したこの時期の状況は、「第2次天神流通戦争」と呼ばれた。新設された施設が天神地区の南側に偏っていたことから、客足の変化が生じるものとも予想されたが、北側のダイエーショッパーズ福岡店が、1989年には売上の前年比6%増を見込むなど、天神全体として商圏拡大の恩恵を受けることとなった。やはり北側に位置する岩田屋も「売れ行きは順調」と報じられ、2次にわたる天神流通戦争を通して、岩田屋は地域一番店としての地位を確保していた。この時期には天神の商圏の拡大を象徴する現象として、週末に特急かもめを利用して天神での買い物に来福する長崎県などの女性たちを指す「かもめ族」や、同様に熊本県などからの来訪者を指す「つばめ族」、さらには「有明族」、「フェニックス族」などの表現が生まれた。
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天神流通戦争の第3次天神流通戦争(1996年~1999年) 第2次天神流通戦争後、バブル経済の崩壊を受けて、各方面からの大型店出店の動きはしばらく沈静化していたが、福岡三越の進出計画を契機に、再び新規の出店が集中することとなった。1996年、一足早く岩田屋が若者向けの店舗Zサイド(ジーサイド)を開店、翌1997年には博多大丸が福岡・天神店東館エルガーラを開店し、福岡三越がソラリアターミナルビルに核店舗として出店して、再び百貨店間の競争が激化したことを「第3次天神流通戦争」と呼ぶが、実際には計画段階から、商戦の激化を予想して、この表現が用いられていた。1996年には、天神ビブレも隣接していたビルを取り込んで増床した。一連の開店によって、百貨店の売り場面積がおよそ2.7倍になったとも、店舗の延べ床面積がおよそ5万平方メートル増加したとも報じられ、人の流れが、天神の南側に移った。この時期には、高速道路網(九州縦貫自動車道、九州横断自動車道など)の整備など、交通網の整備なども相まって、周辺地域からの買い物客の流入も拡大し、天神流通戦争は、他の商圏に大きく影響し。例えば佐賀県唐津市など近県の中規模都市の商業の落ち込みの一因となった。しかし、バブル崩壊後の経済情勢の中での出店などの動きの中で、岩田屋はZサイドへの過剰投資と、経営政策上の失策が重なって経営危機に陥り、1999年には自社所有であった本館と新館を売却する事態となり、2000年には新館を閉店した。その後は、伊勢丹の支援を受けて経営再建に入り、2005年に連結子会社となる。それ以前の第1次、第2次天神流通戦争が、経済の安定成長期なりバブル期を背景に消費支出の増大傾向がある中で展開されていた「シェア争い」だったのに対し、第3次は「急激な景気後退局面下での消耗戦」であった。なお、この頃には博多区住吉に キャナルシティ博多がオープンしている(1996年)。
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天神流通戦争の第4次流通戦争(2004年~2007年) 2004年、伊勢丹の支援を受けた岩田屋は、売却した本館を閉店し、Zサイドを改装して新本舘とし、隣接するNHK跡地に新設した新館とともに、新たな本店として3月2日に開店した。これに合わせて、福岡三越も博多大丸も店舗の改装などを行なって対抗した。また、同時期には国道202号の南側でも、BiVi福岡が開業した。この動きは、「第4次流通戦争」とも、「第3次天神流通戦争「第2幕」」とも称された。このあおりを受ける形で、2007年には、井筒屋博多店が閉店となった。また、この頃には マツヤレディスが閉店、北天神にミーナ天神、天神南に天神ロフトがオープンしている(2007年)。
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天神流通戦争の第5次流通戦争(2010年~2012年) 2010年、かつての岩田屋本館跡に福岡パルコが進出した。一方で、翌2011年にJR博多駅の改装によってアミュプラザ博多・東急ハンズ・博多阪急を擁したJR博多シティが開業したことにより、博多地区が福岡市の新たな商業中心地となり、さらにキャナルシティ博多イーストビルが開業したことも相まって、天神vs博多の流通戦争が勃発した。こうした事態を「第5次流通戦争」と称することがある。JR博多シティの開業によって、天神地区の百貨店やファッションビルは大きな打撃を受け、前年同月比10%以上の業績悪化を続けた。特に、2010年の開店初年度に好調だったパルコは、テナントが多数共通することも響き、2011年4月には、前年同月比34.1%減と激減、以降も20%前後の落ち込みを続けたとされる。2012年の初売り商戦では、天神地区の岩田屋・三越・大丸の3百貨店の共同企画として「天神御三家袋」という福袋が登場したが、これもJR博多シティへの対抗を意識した企画であった。なお、ダイエーショッパーズ福岡店に隣接したショッパーズ福岡専門店街は、2011年に閉店したが、その跡には、2012年6月28日にノース天神が開店した。
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天神流通戦争の第6次流通戦争(2014年~2016年) 天神地区の北側では、岩田屋が売却したかつての新館の跡地には、隣接する福岡パルコが新館を建設し、2014年11月13日に開業した。2013年、丸井が博多郵便局跡地に出店することが発表され、天神vs博多の流通戦争が激化することが予想された。これを受けて2015年には、3月に福岡パルコが本館を増床し、4月25日にはソラリアプラザが2年間の改装を経て再開店したほか、この前後には周辺各百貨店、ファッションビルの改装が盛んに行なわれ、博多地区の再開発に備えた。2016年、博多駅の横にKITTE博多・博多マルイが開業。福岡大学都市空間情報行動研究所は、本施設の開業によって週末に博多駅周辺を訪れる人が年間で1日平均約1万人増えるとする予測をまとめた。一方、天神地区では1日平均約4千人減少するとの予測を立てた。一部の報道では、これらの競争が「第6次流通戦争」につながっていると報じている。
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茨城県道290号常陸多賀停車場線の歴史 1959年(昭和34年)10月14日、新たな県道として日立市多賀町の常陸多賀停車場を起点とし、一級国道六号線(国道6号)交点を終点とする区間を本路線とする県道常陸多賀停車場線として茨城県が県道路線認定した。1995年(平成7年)に整理番号290となり現在に至る。
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茨城県道290号常陸多賀停車場線の路線状況 全区間2車線。多賀駅前ロータリーから市道「杏子並木通り」交差点までの区間は路側に駐車枠がある。毎年5月に行われる「ひたち国際大道芸」と毎年9月に行われる「よかっぺ祭り」の会場であり、開催中は通行止めとなる。道路法の規定に基づき、日立市千石町(JR常陸多賀駅)- 同(常陸多賀駅入口交差点)間は、緊急輸送道路として機能を維持するため、災害発生時の被害拡大防止を目的に道路用地内に電柱を建てることが制限されている。
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肉体女優殺し 五人の犯罪者の略歴・概要 モダニズムの鬼才・石井輝男の監督デビュー初年度にして、すでに6本目の監督作である。「スーパージャイアンツ」シリーズ以来の宇津井健とのタッグで、同シリーズの合間に撮影されている。脚本を中田勇と共同執筆した三輪彰は、本作以降、石井のチーフ助監督として定着した。DVDは、テック・コミュニケーションズ(現・カラーテック)が、2002年(平成14年)1月1日に「新東宝映画傑作選」シリーズの一つとして発売したが、2010年11月30日に同シリーズが全品廃盤となった事から入手困難となっている。
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肉体女優殺し 五人の犯罪者のストーリー 浅草のストリップ劇場フランス座。スターストリッパーの浜野千鳥(北令子)は、ベテイ桃園(三原葉子)に拳銃で撃たれる小芝居のある舞台で、現実に射殺された。小道具を本物にすりかえられていたのだ。ベティは千鳥の夫・徳島(大江満彦)と関係があった。すりかえ犯は徳島であると断定、警察は徳島を逮捕した。毎朝新聞記者・西村弘二(宇津井健)は、真犯人は別にいると怪しみ、取材のために徳島の実妹・水町かほる(三ツ矢歌子)に接近する。かほるは隅田川畔のアパートに住み、窓からザルのついたロープを川へ降ろし、そこを通りかかる商売舟から、毎日惣菜を買う。この水上の移動商店を西村は怪しむ。やがて、ベテイが惨殺され、ベティにつきまとう男・森元(御木本伸介)の水死体が川べりに上がる。「関根精肉店」店主・関根(林寛)は、フランス座の役者で麻薬患者ハチノキ(小倉繁)をそそのかし、かほるを強姦しようとしていた。千鳥も麻薬常習者であったが、麻薬密輸をやっていたのはこの関根であった。拳銃を本物にすりかえたのは森元で、関根が命令したのだった。ベティと森元を殺したのも関根であった。すべてを知った西村記者は警察に通報、関根はマンホールに逃れるが、下水は時間とともに水で満たされて、溺死した。
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タガメの名称 名前の由来(語源)は「田にいる亀」もしくは「田にいるカメムシ」である。また江戸時代には胸の形が高野聖が被っていた編み笠に似ていたことから、「高野聖」の異名で呼ばれる場合があった。このほか「ミズガッパ」「カッパムシ」「ドンガメムシ」などの異称がある。
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タガメの分布 日本では日本列島各地(北海道・本州・四国・九州・南西諸島)に分布するが、北海道では古い記録がない一方で近年になって増加しているため、人為的な移入の可能性がある。琉球列島では沖縄本島・石垣島・西表島から記録されていたほか、最近では1998年に与那国島からも発見されたが、沖縄県内では繁殖例が確認されていないため、飼育個体の遺失による可能性も指摘されている。なお2019年10月には沖縄本島(国頭郡本部町内)にて1994年以来25年ぶりにタガメが採取・確認されている。日本国外では台湾・朝鮮半島・中国 - インドシナまでの東南アジア・ロシア連邦極東南部に分布する。
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タガメの特徴 成虫の体長は48ミリメートル(mm) - 65mm。♀の方が大型で、♀は体長60mm以上の個体も少なくないが、♂は最大でも57mm - 58mm程度で、通常は体長55mm以下の個体が多い。そのため基本的には「55mm以下の個体は♂、60mm以上は♀」とみなすことができるが、後述のように個体差があるほか、飼育個体の場合は雌雄とも野生個体よりやや小型(♂は50mm弱・♀は60mm弱)である場合が多い。体色は灰褐色 - 褐色で、極めて太い捕獲脚になった前脚の先端には1本の爪があり、その爪で獲物を挟みつけて捕食する。また後脚は遊泳脚になっており、特に脛節は偏平で幅広く長毛が密に列生する。口吻は短く、先端が鋭利な鞘状になった口吻の中には細い針状の「口針」という注射器・ストローのような器官が収納されている。触角は頭部の複眼下に隠れており、通常はその形を外から見ることはできないため「獲物を捕獲する際には主に視覚に依存している」と考えられている。腹端には伸縮自在の呼吸管があり、成虫・幼虫とも水中に潜りながら呼吸する際には呼吸管を伸ばして水面上に突き出して呼吸する。翅は発達し、不透明な白色で大きな後翅を持つ。前翅・後翅は飛行中に前翅裏側の縁にあるフック状の器官で連結されることにより1枚の大きな翅のようになり、力強く飛翔することができる。また翅の裏には水をよく弾く毛が密に生えており、呼吸時には呼吸管を通じて取り込んだ空気を毛の中の隙間に取り入れ、腹部前方(翅の下)の気門から体内に取り入れる。
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タガメの雌雄の判別 タガメなど水生昆虫はカブトムシ・クワガタムシのように一目で雌雄を判別することは難しい。タガメの場合は概して♂より♀の方が大型だが、幼虫期の栄養量により個体差が生じるため決定的な判別方法ではない。大きさだけで判別しきれない場合、腹部末端の中央にある舌状の器官「亜生殖板」の形状を確認して区別する。「亜生殖板」は交尾時・産卵時に展開して中から生殖器官が現れるが、♀の場合はその先端に小さな窪みがあるため、窪みがない♂と区別できる。ただしこの違いは生体では観察しにくく、何度も産卵した♀の場合は先が擦り切れたようになっており窪みがわかりづらい場合もある。なお繁殖期の♀は卵で腹部が膨らんでおり、卵の緑色が透けて腹部が緑色がかって見えるときがあるほか、膨らんだで腹部の縁を指でこすると亜生殖板が開き中から交尾器が現れる。
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タガメの近縁種との区別 後述するタイワンタガメと類似しているが本種の方が一回り小型であるほか、複眼・前胸背の形状で区別できる。また同じコオイムシ科のコオイムシはタガメに比べはるかに小型で、タガメと異なり巻貝を食べることから体長に比してかなり長い口吻を持つ点・成虫になっても前脚の爪が2本ある点から区別できる。
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Subsets and Splits
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