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タガメの生態 主に水田・水田脇の堀上など生物の生息密度が高く、水草が豊富な止水域に好んで生息する。池沼にも生息するが、タガメなど獲物を待ち伏せて捕食する水生昆虫にとっては水深が5cm - 20cm程度の浅い水深の方が適している。丘陵地 - 低山地の水草が多いため池・水田の用水路などに多い。稀に流れの強い水域で確認される場合もあるが、本来は止水性の水生昆虫であるため偶然流れ着いた場合が多い。 |
タガメの行動 魚類・ゲンゴロウ類などのように素早く泳ぐことはできず、水草・杭・流木などの足場に斜め下向きか逆向きの状態で掴まって静止していることが多い。自然下において人間が接近しても逃げたり隠れたりはせず・広げていた前脚を縮めてそのままじっとしていることが多く、直接体に触れたり、足場となっている水草を動かしたりすると慌てて逃げ出す。都築裕一・谷脇晃徳・猪田利夫(2003)はこのタガメの生態を「枯葉のような体形・地味な色をしたタガメは下手に泳いで鳥類などの天敵から逃げ隠れるより、周囲に紛れてじっとしているほうが天敵に発見されにくいためだろう」と推測しており、実際に自然下で越冬した個体は全身に泥・藻類が付着していることが多い。夜行性で、昼間は体を半分ほど泥の中に潜らせてじっとしていることが多いが、夜間は体を水面に浮かせて獲物を待ち伏せたり、繁殖のために動き回っているため、昼より夜の方が観察しやすい。繁殖期および羽化から数週間後の個体は夜間に水槽内を活発に遊泳したり、エアチューブを登ったりするほか、時には盛んに飛翔行動を取ろうとするが、これは繁殖期の交尾相手および新たな生息地・越冬場所を求めての行動と考えられる。そのため、常温飼育の場合は6月ごろ前後の夜間に活発に活動するようになった場合は繁殖期の目安となる。 |
タガメの飛翔行動 タガメは6月中旬以降から飛翔するようになるが、日中に飛翔した記録がないため「おそらく夜間にしか飛ばない」と考察されているほか、都築(2003)は「タガメの飛翔行動は日没後から数時間の間に集中しているようで、22時以降に街灯に飛来した個体は見たことがない」と述べている。タガメは冬眠から覚めて陸地から水辺に移動する際、餌・繁殖相手を求め別の池・水田へ移動する際、稲刈りの準備で水田の水がなくなった際、越冬場所の陸地へ移動する際などに飛翔し、一夜で3キロメートル(km)ほど移動するほか、前年夏に背番号を着けたタガメが翌年の夏に7km先の小さな山を越えた隣町で捕獲された記録もある。カブトムシのように急に飛翔することはできず、草など足場に登って胸部を前後に動かす準備運動が必要となるほか、飛翔時を含めて日常的に甲羅干しを行う。飛翔前の甲羅干しはゲンゴロウなど水生甲虫類によくみられる習性だが、タガメ以外の水生カメムシ類では滅多に見られない。また、タガメは飛翔行動前以外にも頻繁に甲羅干しを行うほか、飼育下では捕獲した餌を持ったまま上陸して食べる光景も観察される。強い正の走光性を持ち、タガメが多数生息する地域では野球場のナイター照明・パチンコ店・大型スーパーマーケットなど強い光源へ飛来することが多いが、体が大きいタガメにとって長距離飛行はかなり体への負担が大きく、着陸する際にはうまく着陸できず地面に落ちることが多い。地面へ落下した個体は再びすぐ飛翔しようとする個体もいるが、通常はすぐ飛翔・歩行移動せずその場でじっとしていることが多い。飛翔行動にも季節ごとに違いがあり、繁殖期に当たる7月下旬には♂が比較的高い位置を飛行するのに対し、♀は腹に卵を抱えて体重が増しているため低空飛行することが多い。一方で10月初旬には雌雄とも軽快に高い位置を飛行し、外灯周辺を旋回して飛び去る個体が多い。降り立った先がグラウンドなどの場合はしばらくして再び飛翔して水辺へ戻る場合が多いが、パチンコ店駐車場・街灯・道路脇の自動販売機などへ飛来した個体は車に轢かれて死亡(ロードキル)するものも少なくなく、これも個体数減少の一因となっている。実際にタガメの生息地がごくわずかしか残っていない大韓民国(韓国)では最大の生息地付近で水田から遠く離れた住宅地の水銀灯へタガメが多数飛来しており、現地の研究者が「元の水辺に戻れないのではないか?」と懸念しているほか、市川・北添(2009)も「周囲に安全な水辺が多くない場所では強すぎる照明がタガメの生存を脅かす可能性がある」と指摘している。日本でも徳島県徳島市内では1960年代ごろから各地に水銀灯が設置されたが、眉山・徳島駅前のバスターミナルなどでは照明が設置されるとしばらくは付近から大量のタガメが飛来してそこで死亡し、踏みつけられたタガメの死体が山のようになっていたほどだった。しかしわずか1 - 2年で付近のタガメ個体群が絶滅状態になったことでその現象もなくなったほか、山間部でも街路灯・および学校校庭に設置された照明装置がタガメの激減・絶滅の要因となった。また外灯へ飛翔した個体は体力的に衰弱していることが多く、明け方にカラスに捕食される個体もいる。 |
タガメの摂食活動 成虫・幼虫とも獲物を待ち伏せて襲い掛かり捕食する肉食性昆虫で、目の前で動いている捕獲可能なもの(捕食可能な大きさの獲物)ならば何でも襲い掛かって捕食する。大食漢のタガメが生息するには大量の餌が必要で、タガメの存在はその地域の生物相が豊かであることの証となる。かつてはドジョウ・フナなど淡水魚が水田におけるタガメの重要な餌となっており、1980年代ごろまでは日本各地の棚田でドジョウのいる水田が残っていたため、そのような水田ではタガメに食い殺されたドジョウの死体を多数目にすることができたが、ドジョウ・フナが水田から姿を消した近年ではカエル類がタガメにとって最も重要な餌となっている。このほか水田に餌が少ない時はカブトエビを捕食したり、小川の水草の中に潜んで川の小魚(カワムツ)などを捕食する場合もあるほか、ギンヤンマの幼虫など大型のヤゴ類を含めた水生昆虫も食べる。また自分の体長の倍以上ある獲物を捕らえることも珍しくなく、都築(2003)は「『釣り上げられたニゴイ(30cm級)の腹にタガメがしがみついていた』という話もある」と述べている。これらのような無脊椎動物・魚類・両生類だけでなく、ヘビ・カメ(爬虫類)をも捕食する場合がある。陸生の肉食性昆虫には他の昆虫・クモ類を捕食するカマキリ・スズメバチなどがいるが、魚類・両生類ばかりか時には爬虫類といった脊椎動物を常食する昆虫はタガメ類以外にはほとんど例がない。獲物を捕食する際にはイネなどに留まり、獲物が通りかかるまで鎌状の前脚を広げて待ち構える。獲物が接近すると大きな前脚で襲い掛かり、獲物を捕獲するとその直後に針状の口吻を突き刺し、口吻内に収納された口針を伸ばして消火液を注入する。この消化液は肉質を溶かすだけでなく骨までボロボロにしてしまうほど強力なもので、毒性分も含まれているため、大きなトノサマガエルでもタガメに捕まってから数分で動かなくなる。そして「吐き出した消化液で獲物の肉を消化液で溶かして液状にする」という「体外消化」を行い、溶けた肉質を吸収する。獲物を仕留めた後、タガメは時々口吻を刺す場所を換えつつ1,2時間程度でカエル・魚を食べ尽くす。「獲物の血を吸う」という表現がなされる場合があるが、決して血液のみを吸っているわけではなく、タガメに食べられた生物の死骸は小さなものでは溶けかかった骨・皮膚しか残らず、大型の獲物も溶かされた肉質が流れ出しそうなほど柔らかくなる。そのため、タガメの生息地調査をする際にはふやけたカエルの死骸が目印となる。あまり小さな生き物には関心を示さず、1齢幼虫でも自分よりはるかに大きな小魚に集団で襲い掛かり捕食するほどである。 |
タガメの♂による卵塊保護 卵は長径4.4mm・短径2.3mmの大きさで、成長に伴って重くなるほか、孵化が近づくと産卵直後に比べて長さも約1.5倍程度に膨張する。タガメに限らずコオイムシ科昆虫の卵は十分な酸素・水がないと生育できず、コオイムシ類の場合は♂成虫の背中に産み付けられた卵を水中の酸素濃度が高い場所へ持っていくことで水中の溶存酸素を取り込んで生育できるが、よりサイズが大きいタガメの卵は水中で必要な量の酸素を得ることができない。そのためタガメはコオイムシ類と異なり卵を空気中に産むこととなったが、水生昆虫として進化したタガメの卵は他の空気中に産卵する昆虫の卵と異なり卵の表面に乾燥を防ぐワックス層が失われており、仮に♂が世話し続けないと乾燥死してしまうほか、水中でも溺死してしまう。そのため、卵の生育には♂の世話が必要不可欠となる。♀は産卵後にその場から飛び去るが、♂はそのまま卵のそばに留まり、外敵から卵を守るほか、空気中にある卵が乾燥死しないよう孵化するまで卵に水を与えながら育てる。♂の親成虫は卵塊が直射日光を浴びない日陰(植物の茂みなど)にある場合は水中に留まっている場合が多いが、卵塊に直射日光が当たる場合は炎天下でも数時間以上卵塊に覆いかぶさることで卵の乾燥を防ぐ。日が暮れると♂は水中から上がり、卵を通り過ぎたところで向きを変えて卵塊に覆いかぶさり、体表に付着した水を卵につけるほか、自身が飲み込んできた水を吐き出して卵に水分を与える、この時、♂親は時々覆いかぶさる場所を変えて異なる卵に吐き出した水を与えしばらく覆いかぶさってから水中に戻り、一晩に4,5回 - 十数回にわたり卵への給水行動を繰り返す。産卵後に卵塊を♂親から離して放置すると卵は乾燥死してしまうが、親から引き離してもスポイトなどを用いて1日に4,5回水をかけ続ければ無事に孵化させることができる。産卵後の♀は再び盛んに餌を食べ、産卵から約10日前後で再び産卵が可能になる一方、♂は卵が孵化するまで次の繁殖行動を行わない。 |
タガメの孵化 卵の中の胚は♂親から与えられた水を吸収して成長し、繁殖期初期には約2週間・梅雨明け後は約1週間ほどで孵化する。孵化は通常夜間 - 早朝に行われ、卵が割れたから水中へ落ちるまで20 - 30分程度を要する。なお幼虫は必ずあおむけの状態で孵化する。まず先端部分が半球状に割れて黄色い幼虫の頭部が押し出されると、大変ゆっくりとしたペースで幼虫の体が卵殻から出てくる。そして体のほとんどが卵殻から抜けたところで脚が固まるまでしばらく休み、脚が固まると幼虫たちは水面へ散るように落ちていく。孵化直後の1齢幼虫は黄色いが、数時間で1齢幼虫特有の縞模様が現れ、水面へ落下してから半日程度でバラバラに散っていく。♂成虫は幼虫たちが落下地点で留まっている約半日間、近づいてくる外敵を追い払いながら幼虫たちを保護し、幼虫たちがすべて散らばったところを見届けてから卵塊を去る。 |
タガメの♀による卵塊破壊行動 タガメは雌雄ともひと夏に数回繁殖行動を行うが、卵の孵化期間は高温ほど早くなる上、どの温度帯でも♀が次に産卵可能になるまでの期間は卵の孵化期間より短い。そのため、産卵準備のできた♀が♂との交尾を求めても♂は卵を保育している最中となり、♂が不足する事態となる。そのため、♀は限られた期間中に自身の子孫を確実に残す目的で繁殖目的の♂を手に入れる必要があることに加え、仮に♂が先に保育している卵が先に幼虫へ孵化した場合、自分が産卵した卵が孵化した際には先に孵化したその幼虫たちにより共食いされるリスクを抱えることとなる。それらのリスクに対処し、自身の子孫を残すため♀は♂が保育している卵塊を破壊する「子殺し行動」を取る。タガメ以外にも「子殺し行動」はライオン・ハヌマンラングールなど他の動物でも見られるが、その行動理由は「種の繁栄・保存のため」ではなく「自分自身の子孫数を最大にするため」である。体内の卵が成熟した♀は日没後に♂を探して泳ぎ回り、卵の世話をしていない♂と遭遇できればそのオスと交尾できるが、保育中の♂は♀が接近すると前脚を振り上げて♀を追い払おうとする。しかしタガメは通常♀の方が♂より大きいため、前脚を使った争いでは♂を圧倒して追い払うと卵塊のある場所まで登り、それまで♂が守っていた卵塊を前脚で破壊する。♂は卵を守ろうと懸命に抵抗するが、通常は♀より小柄であるためほとんどは失敗に終わり水中へ降ろされてしまい、その間に卵塊を破壊される。♀は左右の前足を交互に動かし、爪で引っ掛けることで卵を剥ぎ取るが、イネなどに産み付けられた卵は棒などに産み付けられた卵より剥がれにくいため、剥がしとれない卵は1つずつ口吻で吸汁して殺していく。♀が卵塊を破壊し続けている間、♂はその♀と交尾する場合もあるが、これは卵を破壊された♂にとって自分の子孫を最も確実に残す方法は「自分が守っていた卵塊を破壊した♀と交尾すること」であるためである。卵数が10個以下になると♂は保護行動を断念してその場でその♀と交尾し、♀も破壊活動を中止して自分の卵を産み付け、♂に保護させる。ただしすべてのタガメ類が卵塊破壊を行うわけではなく、アメリカ合衆国産のタガメの一種 Lethocerus medius の場合は♂が1匹目の♀の産卵した卵を保護している最中に別の♀へ求愛行動を行い、その♀は既存の卵塊を破壊せずその直近に自らの卵塊を産み付け、♂がそれら2個の卵塊を同時に並行して保護する行動が観察されている。この「子殺し行動」とは正反対の「2卵塊並行保護」行動はアメリカタガメ Lethocerus americanus でも観察されたほか、日本でも市川憲平が1997年に鹿児島県内の池で「2卵塊並行保護」と思しき卵塊を観察している。市川はその後、休耕田を活用して造成したタガメ保全用ビオトープで1999年6月に2個の卵塊を並行して同時に保護しているタガメの♂成虫を観察した。しかしこの時は2個の卵塊の位置が上下で離れており、♂は下の卵塊に水を与えただけで水中に降りることが多く、上にあった卵塊は下にあった卵塊(56卵すべて孵化・孵化率100%)と異なり80卵中47卵(孵化率58.75%)しか孵化しなかった。 |
タガメの幼虫 1齢幼虫は孵化して数時間で独特の縞模様が現れるが、脱皮して2齢幼虫に変態するとほとんど消え、3齢幼虫になると完全に消える。1齢幼虫が縞模様を有する理由についてはよくわかっておらず、タイワンタガメ・アメリカコガタタガメの1齢幼虫は縞模様がなく黒っぽい色をしている点から、市川憲平・北添伸夫(2009)は「縞模様よりも体が黒っぽいこと(保護色)が重要なようだ。タガメは大きくなれば天敵はほとんどいないが、1齢幼虫時には天敵が多いため水底にいることが多く、泥の上で目立たないように黒っぽい体色になっている」と考察している。2齢幼虫 - 終齢幼虫(5齢幼虫)は全身が淡緑色である。なお幼虫時には翅は発達していないが、腹側に成虫の翅の下と同じく毛が密生しており、その毛の中に空気を貯蔵して毛の下にある気門で呼吸するため、水中では幼虫の腹が白く光って見える。なお幼虫は水面が揺れているとうまく呼吸ができず、水に入れた状態で運ぶと死亡する恐れがある。幼虫は孵化翌日から盛んに餌を食べ始めるようになり、1齢幼虫の時点で自身より何倍も大きな小魚でも集団で襲い捕食するほか、同種間でも盛んに共食いする。また十分に餌を取り、脱皮が近づくと体に厚みがつく半面、体幅が狭くなるため細くなったように見え、体色も褐色がかったくすんだ色に変化する。市川・北添(2009)は6月に飼育した際の幼虫期間の記録として「1齢幼虫は2 - 3日、2齢幼虫は3 - 4日、3齢幼虫は4 - 6日、4齢幼虫は約1週間、5齢幼虫は約2週間。水温が低かったり餌が少なかったりするとさらに日数がかかる」と述べている。 |
タガメの羽化 孵化 - 羽化までの期間は水温・餌の量などにより異なるが、水温30℃で餌を十分に摂れた場合は約1か月で羽化する。孵化から約40日経過した5齢幼虫(終齢幼虫)は羽化直前(3,4日前)は餌を食べなくなり、薄緑色だった体が次第に赤みを帯びるようになる。21時ごろ、羽化のタイミングを迎えた5齢幼虫は隠れ家から開かれた場所に出て水中で脚を踏ん張り、頭部・胸部の背中が割れると中から黄白色の成虫の頭が出てくる。そして割れ目が大きく広がり、脱皮殻から白い成虫の体が押し出されるように出てくる。羽化は約1時間で終わり、淡かった体色は次第に濃くなって翌朝までには淡褐色になる。羽化直後はしばらく体が柔らかいが、餌を食べることで少しずつ硬くなっていく。羽化に失敗して脱皮殻を脱ぎ捨てられなかったり、羽化中に翅が傷んで溺死するタガメも少なくない。新成虫は通常7月上旬以降に誕生するが、羽化した年は基本的に繁殖活動を行わない。 |
タガメの越冬・寿命 タガメは成虫で越冬する。野生個体は日照時間が短くなり、温度が低下する11月下旬ごろになると活動が鈍り、越冬(冬眠)を開始するが、水中で越冬する個体と陸上()で越冬する個体がいる。都築(2003)は自身らによる調査結果として「活動期に比べ越冬期の場合、水域で確認できるタガメの数が極端に少ないため、ほとんどの個体は陸上で越冬している可能性が高い」と推測している。水中で越冬する場合は流れの緩やかな用水路の淀み・ため池などに複数個体が集まり、水際の枯れた植物の葉陰やアシなど抽水植物の寝際などにしがみついている場合が多い。水中で越冬する個体は水位の増加により押し流されたり、逆に水位が低下して体が直接空気に曝されるリスクがあるため、越冬中でも完全に活動を停止する仮死状態にはならず、人間に捕獲されるとしばらくして動き出す。陸上で越冬する場合は水田脇の泥の中・石の下などのほか、水域から離れた雑木林の落ち葉の中で越冬する場合もある。陸上で越冬する場合は水中越冬と異なり仮死状態に近く、採集されてもほとんど動かない場合が多いが、越冬中に鳥類などの天敵に襲われたり、乾燥死したりする危険が伴う。越冬状態のタガメは日照時間が長くなり温度も上昇する春になると冬眠から目覚め、3月下旬 - 5月上旬ごろにかけて水辺で餌を捕食し始めるようになる。都築(2003)は寿命に関して「自分たちが屋外で飼育している個体は最低2年は生き、3年生きる個体も珍しくない。このことから自然下のタガメも約2,3年は生きると考えられるが、室内飼育の場合は1年で死んでしまう場合も多い」と見解を述べている。一方で海野和男・高嶋清明・筒井学(1999年)は「野生下では羽化した翌年に繁殖を済ませてその年の秋に死んでしまう1年の寿命の成虫が多いと考えられるが、飼育下では2年越しで繁殖を行う個体がいるほか、稀に2回越冬して3年生存する個体もいる」と解説している。 |
タガメの天敵 成虫の天敵はサギなどの鳥類で、かつてトキ・コウノトリ・ツルが日本の水田に多数いた時代には彼らもまたタガメの天敵だった。また近年ではオオクチバス(ブラックバス)・ブルーギル・ウシガエルといった侵略的外来種もタガメにとって脅威となっているが、ウシガエルはオタマジャクシの際にタガメに捕食される。また1齢幼虫にはかなり多くの天敵がおり、同種間で盛んに共食いするほか、タイコウチを筆頭にミズカマキリ・コオイムシ・マツモムシといったタガメと同じ水生カメムシ類やギンヤンマの幼虫(ヤゴ)・ゲンゴロウの幼虫などの水生昆虫たちに捕食される。特に最大の脅威となるタイコウチが多数生息する水田ではタガメは1齢幼虫段階で多くが捕食されてしまいほとんど生育できないが、2齢幼虫に変態するとタイコウチに襲われることは少なくなる。3齢幼虫まで成長すれば同じタガメ以外に天敵はいなくなるが、2齢幼虫以降は同種間の共食いが激しくなり、野生下でも大型の幼虫が小型幼虫を捕食したり、成虫が幼虫を捕食する事例が頻繁に観察されている。このことから繁殖期間中にタガメが頻繁に飛翔移動する理由については「同じ場所で繰り返し繁殖すると、新しい幼虫たちがそれより前に生まれた幼虫たちに捕食されるリスクが高いためだろう」と考察されている。特にコンクリート製水路に流されると隠れる場所がほとんどないため高確率で共食いする。自然下のタガメ成虫の生息密度は季節・場所により異なるがかなり低く、都築(2003)によれば新成虫出現後の1本の堀上(幅約30cm×深さ約15cm)における生息密度は多くて5m/1頭程度で、自然下では繁殖期以外にタガメの成虫同士が遭遇する可能性はかなり低い。通常はタガメ成虫同士が遭遇しても驚いて逃げることが多く、共食いに至ることは少ないが、空腹状態が続いて個体は動くものならばなんでも見境なく襲い掛かるため、餌より先に他個体と遭遇すると共食いが起こる可能性がある。一方でタガメを含め多くの水生昆虫は極端な飢餓状態でない限り陸上で捕食行動を取ることは少ないが、これは「捕食中の個体は無防備で鳥などの外敵に襲われやすいため」と考えられている。 |
タガメの人間との関わり その獰猛さから「水中のギャング」とも呼ばれ、矢崎充彦は『豊田の生きものたち』(2009年・豊田市)にて「三重県のある水田地帯では『かつて田んぼに入るとタガメが足に吸い付きに来た』という話を聞いた」と述べているほか、個体数が多かった1950年代 - 1960年代ごろまでの書籍では「錦鯉などの養魚池に大きな被害をもたらす害虫」と記載されていた。実際に市川・北添(2009)は「1980年代に岐阜県の錦鯉養殖池を観察した際、タガメに食い殺された錦鯉の幼魚の死体が水面に多数浮いていた」と述べている。一方で後述のようにペットとして飼育されるほか(#飼育の節を参照)、江戸時代幕末には旧因幡国(現在の鳥取県東部)で子どもが好んでタガメの卵を火で炙って食べていた。タガメの卵は稲の茎などに帯状に産み付けられるため当時は「イナゴの卵」と信じて食べられていたようだが、タガメの卵であることがわかってからは食べる人が減った。また三宅恒方が1919年(大正8年)に取りまとめた『食用及薬用昆虫に関する調査』(農事試験場特別報告第31号)では「千葉県・静岡県・京都府・岡山県で卵を炙って食べていた」と記録されているほか、民間療法における利用に関しても「茨城県・長野県で本種を焼いたり、乾燥した卵塊を噛み砕いたりして傷・疳などへの薬として用いる」と記録されている。このほか「地方によりイナゴの卵と称し炙って醤油をかけて食べていた」「栃木県那須地方では卵を油で炒めておやつ代わりに食べたほか、同地方のコイ・マス養魚場では稚魚の害虫だったタガメの成虫を捕獲し、味噌と一緒にすり潰し焼いて食べていた」という記録がある。 |
タガメの飼育 「大型で迫力があり大型のカエルまで捕食する獰猛さ」「希少さ」からペットとして人気が高く、クワガタムシ・カブトムシと並んで人気がある昆虫である。近年ではペットショップでも販売されているほか、環境問題を考えるための教材として小学校などで飼育・観察される場合がある。しかしタガメの生態を踏まえた適切な飼育方法を知らずに飼育する飼育者も多いため、適切な飼育方法がわからないまま早死にさせたり、ペットショップでもタガメがプラスチックケースに水とわずかな水草を入れただけで販売されている場合がある。飼育下では適切な方法で飼育すれば約2,3年は生きる昆虫であり、春 - 晩秋にかけて長期間にわたり活動するほか、飼育容器(水槽)内に本来の生息地に近い環境を整えればタガメ本来の生態を観察したり、採卵・幼虫飼育などによる累代飼育を楽しんだりできる。 |
タガメの繁殖 飼育下において産卵・繁殖させる場合は園芸用のヘゴの支柱および木の棒を使用し、水深を5 - 10cm程度にして産卵用の棒が水上へ10cm以上突き出るようにする。産卵場所としては安定した棒を好むため、産卵用の棒はベニヤ板などの台に釘・木ねじなどで固定して垂直にし、砂利に埋めて安定させる。なお産卵用の棒は止まり木も兼ねているため水槽中に2本立てておく。繁殖目的で飼育する場合、日本など温帯に住む昆虫の体内時計は日照時間の影響を受けるため、照明時間の長短により繁殖時期がずれる場合があることから、なるべく自然の日照時間に近い状態で飼育することが望ましい。タガメの繁殖には冬眠は必ずしも必要なく、照明時間を14時間以上に保つことでどの季節でも繁殖できる可能性があるが、時季外れの繁殖は失敗率が高く、成功しても幼虫の餌となるオタマジャクシ・小魚が入手しにくかったり温度管理が難しかったりするため避けた方が良い。♂・♀をそれぞれ単独飼育している場合、6月ごろになったらそれぞれ容器を近接させる。繁殖期を迎えて十分に成熟した雌雄の場合、夜になると互いの匂いを感じ取ってせわしなく動き回るため、そのような行動を観察したら♀の腹部が大きく膨れていることを確認した上で雌雄をペアリングする。♂が未成熟だったり♀の腹部の卵が十分に成熟していない場合は産卵に至らないため、2,3日間ペアリングしても交尾・産卵しない場合は他の雌雄とペアリングさせて再試行する。また、♀は♂と交尾できないまま体内の卵が限界を超えて成熟してしまった場合、不規則な形に産卵したり、水中にばら撒くように卵を放出してしまう。雌雄をペアリングして求愛行動(♂が♀に接近して水面を波立たせる行動)が確認できたら刺激を与えないように観察するが、ペアリング中は共食いを防ぐため多めに餌を入れる。産卵後はそのまま雌雄を一緒にしていると♂が♀に捕食されてしまう危険性があるため、♀を他のケースへ移動させる。♂は卵塊が付着した棒に留まり、卵が孵化するまで卵を世話し続けるが、さらに多くの卵を得たい場合は♂を卵塊から引き離して別の♀とペアリングさせることもできる。ただしその場合は♂がいなくなった卵塊を放置していると乾燥死してしまうため、毎日霧吹き・スポイトなどで1日に4,5回、卵に直接水をかけて人工的に給水する必要がある。なおヘゴの支柱に産み付けられた卵塊の場合、卵塊の5cm程度下まで水を入れておけばヘゴが水を吸い上げ、自然と卵塊まで水分が伝わる。♂がいなくなった卵塊でも毎日給水を続ければ卵は無事に孵化することができる。 |
タガメの幼虫飼育 幼虫は盛んに共食いするため、基本的には小分けにして単独飼育する。20cm程度の飼育容器の場合は1齢幼虫で5頭程度、2齢幼虫で3頭は飼育できるが、3齢幼虫以降は1頭ずつ飼育することが望まれる。幼虫の飼育容器は水深3 - 5cm程度にして水草を入れる。水替えなどの環境変化を少なくし、濾過装置をセットして水草を大量に入れた収納ケース(45cm×60cm程度)など広いスペースで餌を十分に与えて飼育すれば共食いが発生しにくく、大型の成虫が育ちやすい。このような環境の場合、3齢幼虫なら20頭・4齢幼虫以降は10頭程度を飼育できるが、餌を多めに入れ、こまめに食べ残しを除去する必要がある。餌は成虫と全く同一のもので良いが、体が小さいためメダカ・オタマジャクシなど小型のものを与える。 |
慕容契の経歴 慕容白曜の弟の子にあたる。太和初年、名家の子として抜擢されて中散となり、宰官に転じた。雍州刺史の南安王拓跋楨が勝手な収奪をおこなっているという噂があり、中散の閭文祖が長安に派遣されて監察することとなった。閭文祖は拓跋楨から賄賂を受け取って、拓跋楨の非行を隠して報告しなかった。その事が発覚すると、慕容契にもその罪が及んだ。慕容契は退官を求めたが、孝文帝が慰留して、宰官令に進んだ。宮中の厨宰をつかさどって知られた。また遷都後の洛陽の基盤整備や新野・南陽攻撃のための攻城具の準備などに参画した。太和末年、功績により太中大夫・光禄少卿・営州大中正に転じ、定陶男の爵位を受けた。504年(正始元年)、征虜将軍・営州刺史に任じられた。後に征虜将軍のまま、都督沃野薄骨律二鎮諸軍事・沃野鎮将に転じ、次いで都督禦夷懐荒二鎮諸軍事・平城鎮将となった。さらに都督朔州沃野懐朔武川三鎮三道諸軍事・後将軍・朔州刺史に転じた。516年(熙平元年)、死去した。鎮北将軍・并州刺史の位を追贈された。諡は克といった。長男の慕容昇は、字を僧度といい、建興郡太守から鎮遠将軍・沃野鎮将に転じ、征虜将軍に進んだ。 |
口縄坂の概要 天王寺区下寺町2丁目から夕陽丘町にかけて東西にのびている坂で、東側(夕陽丘町)の標高が高くなっており、途中は石畳の階段になっている。前後の道はそのまま西側は松屋町筋、東側は谷町筋(地下鉄四天王寺前夕陽ヶ丘駅付近)につながっている。「口縄」とは大阪の古い言葉で「蛇」のことであり、坂の下から道を眺めると、起伏が蛇に似ていることからそう呼ばれるようになったとされている。 |
口縄坂の周囲 坂下の善龍寺・称名寺が下寺町(25ヶ寺)の一画となる他、谷町筋沿いの六万体町にかけて天王寺寺町(14ヶ寺)が形成されており、仏教寺院が多い。坂を登りきった場所の北側にある梅旧院には松尾芭蕉の供養塔がある。南側に織田作之助の文学碑があり、彼の著書である『木の都』の一節が刻まれている。また、織田作之助が七坂の内、一番愛した坂でもある。 |
孫悟飯の人物像 身長176cm(成人時)、体重61kg(成人時)。誕生年エイジ757。趣味は読書、釣り、研究。食べ物は好き嫌いなし。好きな乗り物はハウスワゴン。第23回天下一武道会で結婚した悟空とチチの息子で、サイヤ人と地球人との最初の混血児。容姿は父(悟空)に似ており、フリーザいわく、伯父(ラディッツ)の面影もある。一人称は基本的に「ボク」だが、魔人ブウと戦う時に「オレ」と言ったこともある。小さい頃は甘やかされ、これからの平和な時代に武術は必要ないと判断した母親のチチによって、学者になるべく山奥の家で勉強中心の生活をさせられる。そのため泣き虫だったが、ラディッツ襲来後にピッコロに連れ去られ、荒野での厳しい修行を経て逞しく成長していく。悟飯という名前は、悟空の育ての親・孫悟飯にあやかり悟空がつけたもの。アニメでは悟飯の赤子時代を回想した場面で、チチや牛魔王からも多々名前の案が出たが悟飯が泣いて嫌がり、「ごはん」という言葉を聞いて悟飯が喜んだため、この名前を悟空が提案したとされている。幼少期は悟空から武術の手ほどきを受けていなかったが、窮地に追い込まれた時に強い力を発揮している。ラディッツ戦以降、戦士としての経験が全くなかった幼い悟飯を鍛えた師匠のピッコロとは互いに強い絆で結ばれている。ピッコロとの絆については、#ピッコロとの師弟関係で後述。後に人造人間編までの3年間、悟空とピッコロと共に修業し、精神と時の部屋で悟空の指導により、超サイヤ人に覚醒。さらに、その状態を超えるため、悟空から本格的に鍛えられた。悟飯自身は本当は戦いたくないこと、父親の悟空と違って自分は戦うことが好きではないことを、セルとの戦闘中に吐露しているが、成り行きとはいえ、第25回天下一武道会に出場することになった際には「ボクだって優勝したい」と発言し、劇場版『ドラゴンボールZ 銀河ギリギリ!!ぶっちぎりの凄い奴』で開催された天下一大武道大会には自らの意思で出場して優勝を狙うなど、命のやり取りではないスポーツとしての戦いには積極的な姿勢も見せている。学業に関してはオレンジスターハイスクールへの編入試験で数学、化学、物理、歴史、国語、外国語では満点を取っている。体育でも野球の試合でホームランを超人的なジャンプ力で阻止し、軽く投げたつもりの送球も剛速球になり、ヘルメットをかぶっていない状態でデッドボールを顔面にぶつけられても平然としていたりと常人離れしたところを見せるが、本人は「目立っていない」と思っている。アニメや劇場版ではグレートサイヤマンの活動のためによく授業を抜け出すため、教師には「非常に優秀だがサボり魔」と思われている。作中終盤、幼少からの夢であった学者になる。後期の主要キャラクターの一人であり、人造人間編では主人公の悟空に代わり、最終的な悪役セルを撃破する。それ以降魔人ブウ編の前半では主役の扱いを受けたが、最終的には悟空に主役の座を返上している。ナメック星編の時期に行われた鳥山明の漫画全般を対象にしたキャラクター人気投票では第5位。セル戦時に行われた人気投票では、悟飯は1位を獲得している。魔人ブウ編時に行われた投票では6位。連載終了後に発売された『ドラゴンボール完全版公式ガイド Dragonball FOREVER 人造人間編〜魔人ブウ編 ALL BOUTS & CHARACTERS』の投票では3位、また同書のベストバウト投票では、悟飯対セルの闘いは悟空対フリーザに次ぐ2位にランク入りしている。『超』ではピッコロから甘いと評されていて指摘(悟空譲りとも)されており、ピッコロとの修行によってその甘さは完全に消え、力の大会では第7宇宙代表の抜擢戦士たちのリーダーを担い、勝負に徹してチームに貢献した。 |
孫悟飯の幼少・少年期 幼少から邪気の全くない性格で父親の悟空同様筋斗雲に乗れる。チチの教育により礼儀正しく、悟空が初めて悟飯を連れてカメハウスを訪問した際には、ブルマが「孫くんの子にしては礼儀正しいわね」と発言した。また、ピッコロに「さっさと上着を脱げ」と言われた時にも服をきちんとたたんでいる。祖父や両親と違って標準語で話し、目上の人はもちろん父親の悟空や母親のチチにも敬語で話すことが多い。ナメック星編までは敵だったベジータに対して敬語を使わなかったが、人造人間編以降はさん付けで敬語を使っている。クリリン、ヤムチャ、天津飯、餃子、未来から来たトランクスなどに対しても、同様にさん付けで敬語を使用している。デンデからは「悟飯さん」と呼ばれているが、デンデに対しては呼び捨てで敬語も使わない。基本的には、非常に温厚で優しい性格だが、仲間が死傷すると激しく怒り、凄まじい戦闘力を発揮し、当時遙かに上だったベジータやフリーザさえも手を焼かせた。単純な潜在能力だけを言うならば悟空やベジータを超えており、ナメック星でも当時のベジータは自分や悟空以上に伝説の超サイヤ人に最も近いと考えたこともある。魔人ブウとの戦いでも戦闘力が衰えながらも逆上したらどうなるか分からないとベジータは指摘しており、逆上して理性を失った時こそが最も悟飯の戦闘力が発揮される時である。そのことをセル編では本人も自覚していた。当初は幼い子供らしく敵に怯えていたばかりだったが、師匠であるピッコロが自分をかばって死んだ時を境に、敵から怯えて逃げることはなくなり、むしろ自分から積極的に向かっていくことが増えた(この時も、ピッコロが死ぬ間際に「逃げろ」と言ったにも関わらず、ナッパへ向けて魔閃光を撃って逃げる体力をも失っている)。ナメック星ではクリリンが制止したにもかかわらず、ドドリアに殺されそうになったデンデを自らの危険も省みずに助けに行っている。フリーザ戦でも、ピッコロやクリリンが大きなダメージを追わされたり、デンデが殺されたりした時などは激しく怒り、戦闘力では敵わないことを承知の上でフリーザに向かって行った。アニメ版では悟空がフリーザに倒されたと思い、フリーザのサイヤ人絶滅への執着を理解し、ブルマとピッコロを宇宙船で逃がし、幼い身で死を覚悟の上でフリーザをナメック星の爆発で道連れにしようと戦った。人造人間戦ではピッコロが人造人間20号(ドクター・ゲロ)に気を吸い取られていることをピッコロからのテレパシーで知ると、いち早く駆けつけて、ピッコロを救っている。セルゲームにおいて超サイヤ人2へと覚醒した際は普段の優しさがなりを潜め、襲い掛かるセルジュニアを躊躇い無く一挙動で引き裂き、逃げようとした個体すら追撃して死滅させた。また、セルよりも力をつけたことに驕り、すぐには止めを刺さずにもっと苦しめようという発言までしている。大人しい性格ではあるものの、年代が違う大人のクリリンやブルマと自然に親しくなったり、回数はさほどではないがヤムチャや天津飯にも自ら話しかけたりしており、人見知りをせず子供ながらに社交的な面もある。特にクリリンとの仲は良く、ナメック星へ向かう宇宙船の中ではピッコロを尊敬していることを見抜かれたり、逆に少年期のセル編終盤においてクリリンが人造人間17号と共に18号に仕掛けられた爆弾の除去を神龍に頼んだ後に、彼が18号を好きだということを見抜いている。また、デンデとも仲が良く、デンデが神様を引き継ぐために地球へ来た時は再会を喜び合ったりセルゲームの後では掌を合わせながら別れるなどしている。また、作者の鳥山明は、作中で友達になりたいキャラクターとして、クリリン、ブルマ、デンデ、亀仙人と共に、悟飯も挙げている。アニメや劇場版ではハイヤードラゴンの背中にまたがって遊んだりなど、動物と戯れることが好きな面や、逃げ回っていた恐竜や豹を追い掛け回したりするやんちゃな一面も見せている。母親であるチチに頭が上がらず、ナメック星編終了時には宿題をやっていなかったために怒られることを不安がっている場面がある。青年時代にもチチに天下一武道会への出場を恐る恐る打診している。ただし、ナメック星編で悟飯がナメック星へ行ってピッコロをこの手で生き返らせたいと伝え、チチが頑なに反対した時に、その迫力で悟空や亀仙人たちが押し黙っている中、「うるさい」と怒鳴りチチを黙らせている。この時悟空は心の中で、悟飯は本当に強くなったと感心していた。劇場版でも、チチが勉強を優先させるため悟空を助けに行こうとするのを反対した際に強く言い返している。また、アニメ『ドラゴンボールZ』では、仲良くなった遺跡探索用のロボットや草食恐竜を失うというショッキングな出来事も経験した後、立ち直ってその後成長していくといった場面や、親を亡くしたピゲロやロムたちと楽しそうに遊ぶといった、子供らしい面も見せている。野沢雅子は幼年期の悟飯を演じるに当たり、「見ている人が「この子は守ってやらなくっちゃ」と思うくらい弱々しい感じにしておくと、後にたくましく成長したときに、よりちがいが出るんじゃないかと思って演じています」とコメントしていた。 |
孫悟飯の青年期以降 純粋で素直な面は変わらず子供時代同様に筋斗雲に乗れる。真面目で優しい優等生だが天然ボケでもある。母であるチチ、ブルマやビーデルなど気の強い女性に頭が上がらなかったり、簡単な誘導尋問に引っかかったりすることもある。ブルマ曰く「しっかりしているように見えて、お父さんの血を継いでいる」。学校では超人的な力を隠しながら生活し(隠し切れていないが)、部活動はクラスメートのシャプナーにボクシング部に誘われたが家が遠いからと言って断っている。面倒見がよく、悟天やトランクスに慕われており、当初は困惑気味に接していたビーデルにも気のコントロールや舞空術を教え、天下一武道会に至る頃には良好な仲になっている。また、この時期になっても、天下一武道会やビーデルの話などをしたりなど、デンデやクリリンとは親しく接している。悪人を放っておけず、金色の戦士(超サイヤ人)やグレートサイヤマンに変身して自主的にサタンシティの治安を守っている。また、グレートサイヤマン時は一人称を「わたし」にすることもあった。悟空のように強さを追求することには関心が無く、修行をするのは強敵の出現など必要に迫られたときのみである。そのため、セルゲーム後の長い平和な時期は勉強優先で武道家としての修行はしておらず、高い戦闘力を持っているもののセルゲーム時よりは弱体化してしまった。しかし魔人ブウ(無邪気)に敗れた後、老界王神に潜在能力を限界以上まで解放してもらう。この潜在能力解放状態は、超サイヤ人3ゴテンクスを凌ぐほどの戦闘力を誇り、身体への負担がなく制限時間もない。以前敗れた魔人ブウ(無邪気)より遥かに強い魔人ブウ(悪)がまるで相手にならない圧倒的な強さを持つ。ピッコロも悟飯特有の甘さが消えたと言い、再会当初は悟空と間違えていた。この際には一人称が「オレ」になり言葉遣いも敵に対しては威圧的になる。老界王神による潜在能力解放後の外見上の変化は、黒目黒髪のままで超サイヤ人のような輪郭線のある鋭い目つきと逆立ったハリのある頭髪に変化する。青年期は悟天と年下のトランクスやデンデ、およびガールフレンドのビーデルには砕けた口調で話す時があり、成長とともに変化している。また、正体を知る前のキビトには「あんた」、スポポビッチには「貴様」「お前」、劇場版ではブロリーに激怒した時に「コノヤロー!」と言っており、悪人や正体不明の相手に対しては乱雑になる時がある。作中終盤、子供の頃からの夢である学者になる。第28回天下一武道会には出場していない。悟空は悟天のことは強引に武道会に参加させているのに対し、悟飯には言及していない。ピッコロもサイヤ人編で悟飯を鍛えようとした際に「サイヤ人を倒した後で(学者に)なればいい」と発言しており、ピッコロは悟飯がセル編後修行をしていなかったことに対しても文句を言っておらず、悟飯が学者になることを容認していた。 |
孫悟飯のピッコロとの師弟関係 その純粋さがピッコロを悪の大魔王から地球を守る戦士へと変える一つの要因となっており、悟飯をかばって死ぬ際、悟空たち親子のせいで甘さが移ったことや、悟飯といた数か月は(ピッコロにとって)悪くなかった旨を涙して語っている。ピッコロにとって悟飯はまともに日常的な会話をしてくれた初めての人間であり、悟飯も師として尊敬している。ナメック星のドラゴンボールを探しに行く息子を心配して猛反対するチチに自分の手でピッコロを復活させたいと説得し、宇宙船の中ではピッコロから貰った服と同じものを作って着用した際には「お父さんと同じくらい(尊敬している)」と明言した。セル編では精神と時の部屋から超サイヤ人になって出てきた悟飯を見て、ピッコロは「見違えた」と感嘆の気持ちを見せていた。またこの時、悟飯はピッコロと同じ服が欲しいとの旨を述べ、ピッコロも喜んで同デザインの服をプレゼントしている。アニメのガーリックJr.編では、操られたフリをして一時的にピッコロに攻撃された悟飯を気遣うクリリンに、「あんな程度の攻撃でへこたれるような、ヤワな鍛え方はしていない」とピッコロが言ったり、パワーダウンしてピンチになったピッコロを守るように立ちはだかったりするシーンがある。アニメでは他にも、人造人間との戦いに備えて悟空と共にピッコロが一緒に修業することが決まった時に大喜びしたり、ピッコロがセルに倒された時に取り乱して助けに行こうとした直後、悟空に強引に制止されて「行ってもセルには勝てない」と論され、四つん這いになって泣き崩れたり、この後現場へ無理に行こうとして悟空に再び止められ殴られた後に、ミスター・ポポからなだめられるシーンもある。劇場版『ドラゴンボールZ この世で一番強いヤツ』ではピッコロと同じマントを身に着けていたことがあり、この作品では夢の中で「ピッコロさんだ〜いすき」を歌っている(後述テーマソング)。セルゲーム終了後は天界で暮らすというピッコロに遊びに来てもいいかと尋ねて承諾された時には笑顔を見せ、魔人ブウ編の天下一武道会でキビトから観客の前で超サイヤ人になるように言われた時に、当初は正体がばれるからと拒否したが、ピッコロが呼びかけ視線を合わせ頷くことにより変身を決意。ピッコロも正体がばれたくない悟飯のために、中継のテレビカメラを壊したりと気遣っている。悟飯がブウに殺されたと思われていた時、あの世へ帰る前の悟空からは、「あいつ(悟飯)死んじまって一番残念なのは、おめえと会えねえことだと思うぜ」と言われている。映画『復活の「F」』では、ピッコロは悟飯夫妻が出かけた際に娘のパンの子守りを任されていた。また、普段は悟飯の家の近くにあるサタン所有の山に住んでおり、毎日悟飯夫妻と夕飯を共にしているなど親類同然の関係となっている。フリーザの部下であるシサミ相手にピッコロが苦戦しているのを見て超サイヤ人に変身しシサミを倒している。テレビシリーズ『ドラゴンボール超』では、復活したフリーザとの戦いで、自身の不甲斐無さからピッコロを死なせてしまったことと家族も失う所だったことから、学者業も大切だが修行も大切だと再認識し、ピッコロに再修業を依頼した。ピッコロの再修業の甲斐あって、第6宇宙選抜との試合開催直前の頃には、悟空も悟飯の姿を見て修行の成果を認めるほどに実力を上げた。悟飯役の野沢は、悟空以外に好きなキャラクターにピッコロを挙げている。野沢はピッコロについて、「最初は凄く憎たらしくてキザで嫌な奴だと思っていたが、段々といい人になっていた」と語っている。また、サイヤ人編でピッコロが悟飯に修業をつける辺りでは、ピッコロ役の古川が野沢に「あんまり悟飯ちゃんをいじめないであげてね」と言われて苦笑したというエピソードもある。公式ガイド『ドラゴンボール フォーエバー』では、悟飯の紹介欄には「ピッコロを尊敬」、ピッコロの紹介欄には「(悟飯に対して)悟空以上の父性愛」と記載されている。 |
孫悟飯のビーデルとの恋愛 当初は、グレートサイヤマンの正体を暴こうとするビーデルに困惑していたが、ビーデルについて「正義感が強くていい子」とブルマに話している。舞空術を教わるために押しかけられた時は、天下一武道会に向けた修行の妨げになるため困惑したものの、武道家としては「ただ者ではない」と実力を認めている。この頃、ビーデルは悟飯を異性として意識しているそぶりを見せるようになったが、恋愛に疎い悟飯は気付かなかった。天下一武道会で悟空からはビーデルは悟飯のガールフレンドとして認識されており、彼女があのミスター・サタンの娘であると知って驚いていた。その後、悟飯は天下一武道会のスポポビッチ戦でビーデルが重傷を負わされた時、悟空が止めるのを聞かずに超サイヤ人に変身して止めに入ろうと飛び出し、ビーデルを抱きかかえて運ぶなどして介抱している。アニメでは一回戦で悟飯が襲われた時に、逆にビーデルが止めに入ろうとして悟空に止められている。魔人ブウとの戦いが始まる中、ビーデルはセルとの戦いの真実を知り、ブウとの戦いが終わったら悟飯とデートしたいと呟いている。悟飯の方からビーデルにアプローチしたことはないが、彼女との仲をクリリンにからかわれて動揺したり、ベジータいわく「レベルの低い戦い」であるはずのビーデルの試合を懸命に応援した。また、悟空が老界王神と悟飯の潜在能力を引き出すかわりに女の胸を触らせるという取引でビーデルを利用しようとした際に強く反対した。 |
孫悟飯のアニメやゲームでの描写 アニメでは少年期にブルマに「お父さんと同じで、女心が分からなくて苦労するタイプ」と言われている。魔人ブウ編においてビーデルと2人でいる所をクリリンにからかわれると動揺したり、ビーデルと接触した時や彼女の言動で頬を染めながら見つめるなど恋心が描写されている。また、ビーデルの死を彼女の父サタンと話している時に、ドラゴンボールで生き返ると分かっていても複雑な表情を浮かべ、仲間たちの元へ戻った時には真っ先にビーデルの所に行ったためチチが悔しがる場面がある。劇場版ではビーデルも戦闘に参加し、また、原作ではグレートサイヤマンを冷めた目で見ていたビーデルも2号として積極的に活動しており、2人の関係が描かれている。『ドラゴンボールZ 危険なふたり!超戦士はねむれない』ではビーデルは満身創痍でありながら悟飯を助けようとし、悟飯は気絶したビーデルを見て奮起している。しかし悟飯の強さは秘密であるため、問い詰められ痴話喧嘩のようなやり取りをしトランクスに呆れられる。『ドラゴンボールZ 復活のフュージョン!!悟空とベジータ』ではポーズを決めフリーザを倒す悟飯にビーデルが見とれている。『ドラゴンボールZ 龍拳爆発!!悟空がやらねば誰がやる』では基本的に一緒に行動する。悟飯はビーデルの強引さに振り回されがちで、ビーデルも悟飯の天然ボケに呆れるものの、以心伝心のような場面もある。また、ヒルデガーンとの戦いでは悟飯のピンチに飛び出すビーデルと、気絶する直前にビーデルを心配する悟飯の姿がある。一部のゲームではビーデルには「敵に吹っ飛ばされると悟飯がお姫様抱っこで助け、二人で反撃する」という技がある。戦闘前の会話ではビーデルがグレートサイヤマンを「かっこいい」と誉め、グレートサイヤマンの必殺技では2人でハートを乱舞させている。魔人ブウ編後の話にあたる『ドラゴンボールZ 真武道会』では少年悟飯をビーデルが「可愛い」と抱きしめたり、ビーデルを避難させるために青年悟飯がお姫様抱っこしている。また、ビーデルが悟空のことを思わず「お父さん」と呼んで慌てて訂正している。また、サイヤ人編の話に繋がる『ドラゴンボール改 サイヤ人来襲』ではハッチャン(人造人間8号)が少年悟飯を悟空だと見間違えるシーンがある。『ドラゴンボール ゼノバース2』では歴史介入により、トランクスがいた未来に人造人間16号が出現。未来の悟飯が襲われたため、主人公(プレイヤー)と未来トランクスが救援に現れる。16号は倒され、悟飯は成長したトランクスの姿を見て「立派になったな」と褒め称えた。今のトランクスなら人造人間たちを倒し、悟飯の運命を変えることができるがそれはタブー。大人になったトランクスを見て未来は続いていることを確信し、主人公にトランクスを任せ人造人間17号と18号との戦いへ向かっていった。条件を満たすことで悟飯生存ルートが出現。主人公の制止を振り切って未来トランクスが戦いの場に駆けつけ、悟飯の援護を行う。これにより人造人間たちを完全に破壊し、悟飯は仲間たちの無念を晴らした。トランクスは元の時代へは戻らず、このまま残って悟飯と共に平和な未来を実現させる。ただしこれは、悟飯と再会したトランクスの葛藤によって生まれてしまったもので、トランクス本人が改変したわけではない。 |
孫悟飯の劇場版 『ドラゴンボールZ』ではガーリックJr.一味にさらわれるが、秘められた潜在能力により、神龍の力で不死を手に入れたガーリックJr.を異空間に閉じ込める。『ドラゴンボールZ この世で一番強いヤツ』ではチチに止められたにもかかわらず、Dr.ウィロー一味と闘っている悟空の許へ向かう。この劇場版では、悟飯は勉強中に居眠りをしており、その夢の中で「ピッコロさんだ〜いすき」と歌っている。『ドラゴンボールZ 地球まるごと超決戦』ではターレスに無理矢理大猿に変身させられ、悟空を襲うが、ハイヤードラゴンを見て大猿のまま穏やかさを取り戻し、悟空を安堵させる。変身が解けた際、悟空に地球の守りを託す。『ドラゴンボールZ 超サイヤ人だ孫悟空』では、メダマッチャと戦うが敗れる。その後ナメック星人の弱点である口笛を吹いてスラッグを怯ませ、ピッコロが悟空にエネルギーを託すことに成功した。『ドラゴンボールZ とびっきりの最強対最強』では、負傷した悟空を助けるため、ハイヤードラゴンに乗ってカリン塔に仙豆を取りに行く。『ドラゴンボールZ 激突!!100億パワーの戦士たち』では、ピッコロ、クリリンとともに、メタルクウラ配下のロボット兵たちを相手に奮戦する。『ドラゴンボールZ 極限バトル!!三大超サイヤ人』では、悟空ら仲間たちと買い物に出かけていたところ、人造人間13号らとの戦いに巻き込まれる。ラストでは他の仲間たちとともに病院に入院しており、病室に居合わせていなかったピッコロとベジータの安否を気遣っていた。『ドラゴンボールZ 燃えつきろ!!熱戦・烈戦・超激戦』では、超サイヤ人として劇場版初登場。悟空に恨みのあるブロリーに「カカロットの息子」と呼ばれ、悟空に次いで狙われる。『ドラゴンボールZ 銀河ギリギリ!!ぶっちぎりの凄い奴』では、自分の不甲斐無さへの怒りで超サイヤ人2への変身を劇場版で初披露する。ベジータやトランクス、ピッコロらが太刀打ちできなかったボージャック一味を実質一人で倒す。それまでのピッコロと同じ道着ではなく、悟空と同じ山吹色の道着とブーツを着用している。『ドラゴンボールZ 危険なふたり!超戦士はねむれない』では7年前に死んだ父・悟空に代わりブロリーと再び闘う。一騎討ちではパワーアップしたブロリーに苦戦を強いられるが、ドラゴンボールによる奇跡が実現した三大親子かめはめ波でブロリーを倒す。この作中で「相変わらず化け物だ。ボクだって、あの時より相当パワーアップしているはずなのに」と自負している。『ドラゴンボールZ 復活のフュージョン!!悟空とベジータ』では、あの世から復活した悪者をビーデルと共に退治し、復活したフリーザを一撃で倒している。『ドラゴンボールZ 龍拳爆発!!悟空がやらねば誰がやる』では、老界王神による潜在能力解放状態を劇場版で初披露。下半身のみの状態のヒルデガーンを圧倒する。終盤では悟空と同じ道着を着用して戦闘している。『ドラゴンボールZ 神と神』ではすでに成人しており、プリンを奪われ暴れ出した破壊神ビルスに対して老界王神の潜在能力解放状態で挑むが返り討ちにされる。また、ピラフ一味に対しグレートサイヤマンに変身し余興として対抗した。その後、超サイヤ人ゴッド覚醒のため、悟空に協力した際には超サイヤ人にも変身した。ビーデルとすでに結婚しており、懐妊していることを知り歓喜している。また、子供の頃からの夢である学者になっている。『ドラゴンボールZ 復活の「F」』では、復活しトレーニングを積んでパワーアップしたフリーザとその軍隊1000人を迎え撃つ。急遽の襲来だったため、武道着が見つけられず緑色のジャージ姿で参戦する。多くの兵士を殺さない程度に手加減しながらも次々と倒し、フリーザ以外では軍最強を誇る幹部シサミを超サイヤ人へ変身して一撃で撃破する活躍を見せる。だが、超サイヤ人化を解いた際、パワーアップしたフリーザの重い一撃を腹部に受け、意識を失うもピッコロの応急処置に救われる。その後は遅れて駆けつけた悟空らの戦闘を見届けた。 |
孫悟飯の老界王神の潜在能力解放 老界王神による儀式を受けて潜在能力を限界以上まで解放した状態。この状態時は、超サイヤ人3ゴテンクスを凌ぐほどの戦闘力を誇るも、この解放状態でいられる制限時間もない。魔人ブウ(悪)がまるで相手にならないほどの圧倒的な強さを持つ。これにより合体しない単独の戦士としては、原作中では最強クラスの戦闘力を手に入れる。この際には一人称が「オレ」になり言葉遣いも敵に対しては威圧的になる。老界王神による潜在能力解放後の外見上の変化は、黒目黒髪のままで超サイヤ人のような輪郭線のある鋭い目つきと逆立ったハリのある頭髪に変化する。また前髪が額中央に一束垂れる。作中、この老界王神による潜在能力解放状態に、明確な名称が与えられておらず、解放直前に悟飯が「どうやったらその“最強の戦士”になれるんですか?」と老界王神に質問したのみだった。関連書籍や関連商品や各種ゲームなどでは「究極(アルティメット)孫悟飯」「究極(アルティメット)悟飯」という呼称が一番多く使用されている。媒介による呼称を挙げると、「ドラゴンボール大全集」などの関連書籍や『ミラクルバトルカードダス』『ドラゴンボール ZENKAIバトルロイヤル』『ドラゴンボールZ ドッカンバトル』やスパイク開発のテレビゲーム『Sparking!』シリーズや『レイジングブラスト』シリーズでは「究極(アルティメット)孫悟飯」「究極(アルティメット)悟飯」、ディンプス開発のテレビゲームシリーズおよび『ドラゴンボールヒーローズ』では「老界王神の潜在能力解放」、劇場版『龍拳爆発!!悟空がやらねば誰がやる』ムックでは「最強バージョン」、ゲーム『偉大なるドラゴンボール伝説』では「最強戦士」、ゲーム『舞空烈戦』では「真の力の解放」などと呼称されている。また『パズル&ドラゴンズ』とのコラボレーションで登場した同様のキャラクターの名称は「アルティメット孫悟飯」であった。原作では、老界王神の潜在能力解放後は超サイヤ人に変身しないが、鳥山明がストーリーを手掛けた劇場版『神と神』やテレビアニメ『ドラゴンボール超』では、破壊神ビルスとの戦闘時には老界王神の潜在能力解放状態で挑み、悟空を超サイヤ人ゴッドへと覚醒させる協力をした際には超サイヤ人に変身するなど、2つの形態を状況に応じて使い分けている。各種ゲームなどでも両形態を任意で切り替えれることがある。『ドラゴンボール超』の「フリーザ復活編」では、学者となったことで武術から遠のき、超サイヤ人に変身するのがやっとの状態で潜在能力解放状態を引き出せずにいた。だがその後、戦闘力を取り戻すべく学者業の合間にピッコロから再修行の手解きを受け、「宇宙サバイバル編」での力の大会開催直前のピッコロによる特訓にて、再びこの潜在能力解放状態への覚醒を成功させた。PSP用ゲームソフト『真武道会2』では、未来の孫悟飯も老界王神の潜在能力解放の儀式を受け、この形態に覚醒している。 |
孫悟飯のビジュアル・容姿について これまで悟飯の通常時の目は、悟空や悟天の平常時と同じく目の内側に輪郭線のない形状に描かれていたが、老界王神の潜在能力解放後の原作や『GT』では、以前と異なり目の全体に輪郭線が描かれるようになるも、戦闘時と異なり鋭さのない穏やかな丸い形状に描かれている。この丸い形状の目で輪郭線がある状態が、通常状態なのか、いわゆる「アルティメット悟飯」なのか作中でも関連書籍でも明言されていないが、ゲーム『ドラゴンボールヒーローズ』の孫悟飯(GT)では「通常」状態として扱われている。また、原作の其之五百十二の扉絵やフルカラーコミックス最終巻の表紙に使用されているイラストでの、魔人ブウ(純粋)により地球ごと消滅させられた後の頭上に天使の輪が浮いた悟飯や、劇場版『神と神』の公開記念に鳥山明が書き下ろしたポスター用イラストでの悟飯、鳥山明が脚本を務めた劇場版『復活の「F」』での平常時の悟飯は、悟空や悟天の平常時と同じ形状の(目の内側に輪郭線がない)目で描かれている。鳥山明がストーリー原案を務めるテレビシリーズ『ドラゴンボール超』では、各話ごとで(場合によっては同話内でも場面によって)目の形状が異なり、描き分けが統一されていなかったが、第88話において「目の全体に輪郭線があり、前髪が額中央に一束垂れた」姿が、ブウと戦った全盛期の力の復活として描かれた(ビジュアル的にも原作終盤の姿とほぼ同一)。なお、この姿自体は第84話からのエンディングパートのイラストにおいてすでに登場していた。一方、同じく潜在能力解放後の時系列に当たる劇場版『龍拳爆発!!悟空がやらねば誰がやる』では【通常時⇒内側に輪郭線のない目で頭髪も普段通り】【潜在能力解放時⇒輪郭線のある鋭い目つきと逆立った頭髪に変化】と描き分けが明確になされていた。 |
孫悟飯の補足 孫親子3人の中で、本格的な戦闘に初参加した年齢は悟飯が最年少。なおベジータ、フリーザ戦で5歳、悟空は連載開始時で12歳、悟天は初登場・魔人ブウ戦で7歳。悟空はセルと戦わせる時に自分と悟飯を比べ「オラが同じ(年齢)くらいの時は、全然たいしたことなかった」と言っている。ベジータも「サイヤ人と地球人との間に子どもが生まれると、強力な雑種ができる」と考えていた。悟空の声を担当していた野沢雅子は息子である悟飯も演じることを『Z』1話のアフレコをするまで知らされず、悟空の子供が登場すると聞いた時に「誰が担当するのだろう?」と思ったという。キャスティングの理由は「悟空の息子だから」だったらしい。野沢は「育ちが違うから」と、子供時代でも悟空と悟飯、悟天の声や演技を変えている。顔は父悟空と瓜二つだが、サイヤ人の特性で髪型が一貫している父とは違い、幾度となく髪型が変わっている。鳥山明は「悟飯の髪型が気に入らなくて、ナメック星編でガラッと変えた」と語っている。高校生になると身長や体格が悟空とほぼ同じになり、悟空がサイヤ人の特性でほとんど老化しないこともあり髪型以外はそっくりになっている。人造人間編の10歳時での身長はクリリンより少し低いくらいで、場面によってはほとんど同じ時もあり、悟空やクリリンと比べると背が伸びる時期は早かった。主要キャラクターの中で唯一学園生活が描かれている。ビーデル役の皆口裕子は印象に残っている話として「『ドラゴンボール』の世界で学園物が面白かった」からと、ビーデル初登場=悟飯の高校編入をあげている。サイヤ人と地球人のハーフで尻尾が生えているのは悟飯のみ。『Z』第18話や劇場版『地球まるごと超決戦』などアニメオリジナルでは大猿化した話が多く、ゲームでの大猿化も悟空やベジータに比べて多い。また、本人の性格や学者となる夢と反して戦いに巻き込まれたりするシーンなどが多く、鳥山いわく「悟飯はつらかったでしょうね。お父さんと違って、戦うのが本当に嫌なんだろうなぁ」と、思いながら描いていたという。「悟空も歳をとってきたし、そろそろ若い世代に変えた方がいいかなって思って当時は悟飯を主人公にという流れだったけど、悟飯の日常を描いていると、どんどん闘いより勉強が好きなんだろうなあってなっていって、後に道着もなくしてるし」と、鳥山も証言している。悟飯の声を担当した野沢は、ファンからはよく「優等生の悟飯がグレートサイヤマンになったりするギャップが魅力」という話を聞いたという。鳥山も「グレートサイヤマンは僕も好き。悟飯は不器用だからあんな感じになるんですよね」と語っていた。グレートサイヤマンは原作でカラーイラストが無かったため、アニメスタッフが鳥山に配色を決めてもらった。 |
山口文憲の来歴・人物 静岡県浜松市生まれ。父の山口文太郎は静岡大学名誉教授で、戦中は浜松高等工業学校で化学を教えていた。その父から「文化国家・平和憲法」から「文憲(ふみのり)」と名付けられた。静岡大学教育学部附属浜松小学校、中学校を経て、静岡県立浜松北高等学校を卒業。東京芸術大学器楽科(トランペット専攻)を受験するが、不合格。高校卒業後、1966年に、東京に上京して予備校に通うが、受験に失敗し、浪人生活がつづく。1967年、トランペットのレッスンの帰りに、「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)の事務所を覗いてみたところ、後にノンフィクション作家となる吉岡忍から「ベ平連ニュース」を封筒に詰める作業を頼まれ、そのままベ平連に入会。ベ平連の活動で、鶴見俊輔、小田実、武藤一羊、鶴見良行、室謙二らを知る。同1967年、20歳にして「朝日ジャーナル」に寄稿し、ライターとなる。1968年、「3浪」の時代に、予備校に新たに浪人生として入ってきた亀和田武に出会う。亀和田によると、このころの山口は、話がうまく、20歳そこそこの若造の話に、30代、40代の大人が笑いころげるというほどの、話芸の天才であった。一方で、他人から話を引き出すのも、非常にうまかった。ベ平連の中の、米兵の脱走を支援する組織「JATEC(反戦脱走米兵援助技術委員会)」に参加するが、1968年11月、北海道の弟子屈で、山口が運転するレンタカーに乗っていた、19歳の米脱走兵のジェラルド・メイヤーズが、日本の警察により逮捕され、アメリカ海軍に引き渡された。また、山口は、自宅でメイヤーズにモデルガンを見せていたが、それを本物の銃と勘違いしたメイヤーズの供述により、1969年2月15日に「銃砲刀剣等取締法違反」容疑で、日本の警察に逮捕された。だが、銃は保有していなかったため、釈放された。また、高橋武智(当時立教大学助教授)宅も、メイヤーズ逮捕の関連で、警察による家宅捜索を受けた。逮捕され、マスコミに大々的に報道されたことにより、音楽家志望は完全にあきらめる。同1969年、新宿西口のベ平連のフォークゲリラたちの運動を助け、音楽家志望を生かしてギターを調弦、また中心にいて歌を歌った。助っ人であるにも係わらず、当時の「フォークゲリラの記録写真」では、山口が真ん中に写っている。1970年には、アルバイトで『週刊ポスト』のデータマンを3ヶ月つとめる。その後は、さまざまなアルバイトを行う。音楽出版社で、渡された演奏テープを聞いて、フォーク歌集一冊分の採譜をするアルバイトをしたこともあったが、その作業の際にたまたま、三上寛と出あった。1974年から1975年にかけて、パリに滞在。帰国後、某新聞社で「アイドルへのインタビュー」の仕事を請け負っていた際、アグネス・チャンのインタビューを行い、「16歳で海外に出稼ぎに出るアイドル」を生んだ香港に興味を抱く。そこで、何ら先の見込みもなく、1976年のクリスマスの朝に、横浜から船に乗り、香港へ着き、そのままそこに1年ほど居つく。生活費の足しにするため、原稿を書いて日本に送り、雑誌『面白半分』に連載エッセイ「香港漫歩」として掲載。その内容はのち、1984年に『香港世界』としてまとめられた。そののちも、香港に滞在し、その魅力のとりことなる。1979年には、玉村豊男『パリ・旅の雑学ノート』(1977年)を刊行していたダイヤモンド社から、『香港・旅の雑学ノート』を刊行。自身で撮った写真や自筆のイラスト満載で、新しい視点から都市・香港を解剖した本であり、話題となる。なお、前書きには、「日本の観光客が香港に求める二つの楽しみ、ショッピングと中国料理の食べ歩き、この本には、この二つについては一切書かれていない。しかし、それ以外はあらゆることを盛り込んだ」とあった。また、当書の文庫化の際の解説は、アグネス・チャンが担当している。以降、ノンフィクション作家、エッセイスト、書評家などとして活躍。新鮮な視点とユーモアに満ちた著書を、刊行し続けている。1980年代には、雑誌「漫画アクション」の名物匿名コラム「アクション・ジャーナル」に、阿奈井文彦、亀和田武、呉智英、関川夏央、堀井憲一郎、村上知彦らとともに、執筆者の一員となった。同世代の関川夏央、呉智英と仲がよく、3人とも独身である(関川は1度結婚したが、離婚)。著書『読ませる技術』は、関川と2人で朝日カルチャーセンターで行っていた、「コラム・エッセイの講座」での体験が、元になっている。また、独身女性である、檀ふみとも仲がよい。 |
国立台湾師範大学の校歌 教育国之本、師範尤尊崇、勤吾学、尽吾徳、健吾躬。院分系別、途轍雖異匯一宗。学成其大用、師資責任重。吾儕相親相勉、終不負初衷。台湾山川気象雄、重帰祖国楽融融。教育会其通,世界進大同。教育会其通,世界進大同。 |
補題の定理との比較 補題と定理の間に形式的な区別は全くなく、意図の違いでしかない。Theorem terminology を参照。しかしながら、補題はそのただ 1 つの目的が定理の証明を助けることであるマイナーな結果 - いわば証明の未知の一歩 - であると考えることができる。 |
補題のよく知られた補題 良い踏み石は多くの他の結果を導ける。数学におけるいくつかの強力な結果は補題として知られている。例えば、ベズーの補題、デーンの補題、ユークリッドの補題、ファルカスの補題、ファトゥの補題、ガウスの補題、Greendlinger's lemma、伊藤の補題、ジョルダンの補題、中山の補題、ポワンカレの補題、リースの補題、シューアの補題、シュワルツの補題、ウリゾーンの補題、米田の補題、ツォルンの補題。これらの結果はもともと独立の興味と保証するにはシンプルすぎるあるいはテクニカルすぎるとみられたが、それらはそれらが現れる理論に中心的であることが判明した。 |
DJ HurryKennの来歴・人物 1996年ポニーキャニオン入社、2001年エイベックス・グループ入社。2007年放送の『仮面ライダー電王』から仮面ライダーシリーズの音楽プロデュースを担当。DJ HurryKenn名義での活動は2009年9月に放送を開始した『仮面ライダーW』以降であり、ディレクターとしての仕事のほか、番組本編と連動したインターネットラジオのDJとして仮面ライダーシリーズの音楽を紹介している。HurryKennという名前は元々は『W』の舞台である街「風都」の住人というコンセプトだったが、『W』終了後もこの名前での活動を続けている。ただし、仕事の内容によっては本名で行う場合もある。2015年5月7日をもってavexを退社。2018年11月20日、テレビ朝日ミュージック、文化放送、セントラルミュージック3社によるコラボ企画、IRONBUNNYを始動。 |
ジャスト・サポージンの解説 本作は、ステイタス・クォーとジョン・エデンの共同プロデュースにより、ダブリンのウィンドミル・レーン・スタジオで収録された。1980年10月にリリースされ、全英アルバムチャートにて4位を記録した。同年に、「ワット・ユア・プロポージング」と両A面の「ライズ」/「ドント・ドライヴ・マイ・カー」の3曲がシングルとしてリリースされた。また、バンドの次作『ネヴァー・トゥー・レイト』がリリースされた後の、1981年の終わりには、バンドとしては珍しいバラード「ロックンロール」のエディテッドヴァージョンがリリースされた。実りの多いレコーディングセッションが行われたため、『ネヴァー・トゥー・レイト』の原作ともなり、わずか5ヶ月の間を空けて、次のアルバムがリリースされることとなった。「Over the Edge」は、ステイタス・クォーのベーシスト、アラン・ランカスターと、イギリスのバンド、ザ・ケースやスリーピー・トーク、ミスター・トードのリードシンガーであり、オーストラリアのグラムロックバンド、ハッシュの創設者であるキース・ラムとの共作である。 |
トゥ・ウォッチ・ザ・ストームズの解説 「ザ・デヴィル・イズ・アン・イングリッシュマン」は、トーマス・ドルビーが映画『ゴシック』に提供した曲のカヴァーで、オリジナル・ヴァージョンは1987年に発売された同作のサウンドトラック・アルバムに収録されている。「ブランド・ニュー」にはイアン・マクドナルドがゲスト参加した。日本初回盤CD (UICE-1064)は、ヨーロッパ盤と異なるボーナス・トラックが収録され、ジャケットも日本盤オリジナルのデザインに変更された。一方、2015年に発売された日本盤SHM-CD (VSCD-4314)は、ヨーロッパ盤と同じジャケットに変更され、ヨーロッパで発売されたスペシャル・エディション盤CDの全17曲に「フレイム」を追加した内容となっている。François Coutureはオールミュージックにおいて5点満点中3.5点を付け「感動的で知的な楽曲、輝くようなギター演奏、それに優れた音作りに満ちた素晴らしいレコードである。ハケットはここでも、『ギター・ノアール』以降の作品で追求してきた、成熟したソングライティング、思索的なアレンジ、プログレッシブ・ロックの要素を持つ風変わりなロック・ナンバーの混合という方向性を継続している」と評している。 |
トゥ・ウォッチ・ザ・ストームズの収録曲 特記なき楽曲はスティーヴ・ハケット作。 |
宇野経済学の三段階論 宇野は経済学の研究を原理論・段階論・現状分析という三つの段階に分けた。原理論は論理的に構成された純粋な形での資本主義経済の法則を解明し、段階論は資本主義経済の歴史的な発展段階を把握し、現状分析では原理論や段階論の研究成果を前提として現実の資本主義経済を分析するものとした。この三段階論により、マルクスの『資本論』は原理論、レーニンの『帝国主義論』は段階論に属する著作として位置づけられ、資本主義経済が19世紀の自由主義段階から20世紀の帝国主義段階に移行しても『資本論』は原理論としての有効性を失わない、とされた。 |
宇野経済学の社会科学としてのマルクス経済学 宇野はマルクス経済学を社会科学として確立することを目指し、社会主義イデオロギーを理論から排除した。原理論は資本主義経済の法則を解明するだけで、社会主義への移行の必然性を論証するものではないと考えた。この見解はマルクス経済学と社会主義イデオロギーを不可分と見なす主流派の見解と対立するものだったため、強い反発を受けた。宇野は主流派の経済学者たちを「マルクス主義経済学者」と呼んで自身と区別した。段階論に属する『経済政策論』でも、資本主義経済の歴史的な発展に対応する典型的な経済政策を記述することを課題とし、望ましい経済政策を提示する一般的な経済政策論とは一線を画した。 |
宇野経済学の「方法の模写」説 古典派経済学はヨーロッパにおいて資本主義経済とともに発展し、イギリスにおいて資本主義経済が自律的に運動するようになった19世紀に完成した。この過程を宇野は、経済学の対象自身が純粋な形へと歴史的に発展したため、対象を模写する方法を対象自身から受け取ることができた、と捉えた。方法の模写説と呼ばれる。この考え方により、原理論の対象である純粋資本主義はマックス・ウェーバーの理念型とは本質的に異なるものとして位置づけられることになった。 |
宇野経済学の価値論の刷新 マルクスは『資本論』冒頭において、商品から使用価値を捨象した場合に残るのは価値実体としての労働のみであるとする、いわゆる「蒸留法」により労働価値論の論証を行った。これに対し宇野は、労働価値論は労働力が商品として売買される資本主義社会において初めて全面的に確立されるのであるから、マルクスのように単なる交換関係から直接労働価値論を説くのは誤りであると考えた。そのため、宇野『経済原論』は、『資本論』と異なり、まず価値実体論を前提とせずに商品、貨幣、資本を説き、その後「生産論」で初めて労働価値論の論証を行う、という編成を取った。そして労働価値論の論拠を、労働力商品を販売する無産労働者が賃金によって生活資料を買い戻さざるを得ないことに求めた。 |
宇野経済学の宇野学派の形成 マルクス経済学から社会主義イデオロギーを排除しようとする姿勢や、『資本論』の様々な難点を指摘して理論の再構築を目指す姿勢は、多くのマルクス主義者やマルクス経済学者から反発を受けた。価値論をめぐる久留間鮫造の批判(『価値形態論と交換過程論』)や経済学方法論をめぐる梅本克己の批判(『社会科学と弁証法』)が代表的なものである。その一方で勤務先の東京大学を中心に継承者も生まれ、宇野学派と呼ばれるグループが形成された。宇野と継承者の共同作業による研究として『資本論研究』(筑摩書房)などがある。宇野の「方法の模写」説では、原理論の対象は資本主義経済の純粋化傾向に即して設定される。しかしその考え方によっては原理論の対象を国民経済として外国貿易を捨象することはできない。この点を批判した宇野学派の一部(鈴木鴻一郎、岩田弘など)は世界資本主義論を唱え、原理論は世界資本主義の発展を内的に模写するべきだと主張した。 |
CAGE FORCE (2009年12月)の大会概要 メインイベントでは1年半ぶりの総合格闘技復帰戦となった戸井田カツヤが高橋渉と対戦し、チョークスリーパーで一本勝ち。セミファイナルで藤井陸平と対戦予定であったKenjiはインフルエンザで欠場となり、ダニエル・ロッキンボーの代理出場が発表されるも、ロッキンボーも負傷欠場となったため、藤井の試合は消滅した。 |
岡山県道275号藤戸連島線の概要 2003年に発売された『CoD』が大ヒットしたことで、続編が制作される人気シリーズとなった。『CoD3』までのシリーズ7作品で累計2,000万本の売り上げを記録。『CoD4』は全世界でPC版の数百万本を含む1,000万本以上を出荷し、2007年で最も出荷されたゲームとなった。また、『CoD:MW3』は発売初日で400万ドル以上の売り上げを達成した。ミリタリー系シューターの「元祖」とも言われることのある『メダル・オブ・オナーシリーズ』とは2000年代においてライバル関係にあった。メダル・オブ・オナーが衰退した2010年代においては、オンライン要素を含めた競合ゲームとして、「バトルフィールド」シリーズと比較されることが多い。 |
エステル・テイラーの生い立ち Sledgehammer Gamesが開発する、ベトナム戦争を題材とした作品として計画。サードパーソン・シューティングゲームでPC・Xbox 360・PS3向けに開発していたが、2011年10月に同社のグレン・スコフィール氏が「最も開発を中止する可能性が高い作品」と述べ、その後正式に開発中止された。 |
師戸の地理 1983年、デンプシーの伝記テレビ映画『ダイナマイト・ヒーロー 恐怖の鉄拳』で、イギリスの女優ヴィクトリア・テナントがエステル・テイラーを演じている。 |
KSP-76の歴史 江戸期は師戸村であり、下総国印旛郡のうち。「寛文印知集」では寛文4年佐倉藩領分の村と見え、「各村級分」では旗本川口氏・永井氏の相給、「旧高旧領」では佐倉藩領。村高は「元禄郷帳」806石余、「天保郷帳」「旧高旧領」ともに810石余。水戸街道我孫子宿の助郷村。延享3年指出帳によれば、家数102・人数599、溜池9か所、郷蔵1、水除堤400間、印旛沼の対岸臼井村間に渡し船があり、馬渡船1・小渡船1・猟船19(馬場家文書)。慶応3年頃の反別田50町余・畑28町余・新田畑1町余、年貢は米229石余・金1分・永3貫余。文化10年新開場検地があった。神社は宗像神社、寺院は真言宗広福寺・長円寺。明治6年千葉県に所属。明治22年宗像村の大字となる。 |
列車防護無線装置の概要 KSP-76の乗員は3名である。乗員は車長兼砲手、砲手兼装填手、および操縦手で構成された。車体は3つの部分に分かれている。主砲は車体前部に搭載され、戦闘室が車体中央に配置された。またエンジンは車体後部に置かれた。燃料タンクは140リットルの容量を持ち、これはエンジンの左側に位置していた。76.2mm砲弾は54発が搭載されていた。 |
藤原鷹取の経歴 1986年11月26日に、綾瀬駅に停車中の常磐線各駅停車の乗務員が誤って発報し、首都圏の10線区23本の列車がこれを受信して緊急停止した事例がある。これは綾瀬駅が高架だったため、想定した到達範囲をはるかに超える広範囲にわたって電波が届いたことによる。2010年5月27日、午前8時30分頃に、東海道本線(JR京都線)摂津富田駅付近を走行していた西明石発京都行の普通電車が、踏切内に人が立ち入ったのを発見し、防護無線を発報したところ、約10km南を走る片町線(学研都市線)を走行中の複数の電車も信号を受信して非常停止した。この日は、たまたま生じていたスポラディックE層が電波を反射し、通常より遠くまで電波が届いたと一部メディアが報じたが、スポラディックE層は1000km程度の距離の電波を反射させるものであり、なおかつ防護無線の電波はスポラディックE層で反射しない周波数帯を使用している。 |
愛宕山 (延岡市)の地理 光仁朝初頭の宝亀2年(771年)従五位下に昇叙し、翌宝亀3年(772年)中務少輔に任ぜられる。左京亮を経て、宝亀6年(775年)遣唐副使に任ぜられる。しかし、大使の佐伯今毛人が病と称し渡海せず、鷹取は大伴益立と共に副使を更迭されてしまい、結局宝亀8年(777年)に小野石根が持節副使として渡唐した。なお、宝亀9年(778年)にはこの遣唐使の帰国に伴い来日した唐使の慰問を行っている。宝亀8年(777年)に右大臣・藤原良継が薨去し、大納言である父・魚名が朝廷の中心的存在となる。鷹取は魚名の威光を背景に、宝亀9年(778年)従五位上、宝亀10年(779年)正五位上、宝亀11年(780年)従四位下と光仁朝末にかけて急速に昇進すると共に、左少弁・左中弁と弁官を歴任した。天応元年(781年)4月に桓武天皇の即位に伴い従四位上、11月には正四位下と桓武朝でも昇進を続け、造宮卿・左京大夫・左兵衛督・侍従・中宮大夫などを務める。しかし、天応2年(782年)父・魚名が左大臣を罷免されると兄弟と共に連座し、鷹取は石見介に左遷される。翌延暦2年(783年)7月に魚名が薨ずる直前に入京を許され、延暦3年(784年)4月に再び左京大夫に任ぜられるが、同年5月10日卒去。最終官位は左京大夫正四位下。 |
岩田規久男の経歴 鰐塚山から送信されるテレビ・FMラジオ放送電波の中継施設が設置されている。山頂周辺に県域放送局(NHK宮崎放送局・MRT宮崎放送・UMKテレビ宮崎・エフエム宮崎)の中継施設が、北東部の愛宕山公園にFMのべおか(コミュニティFM局)の送信施設がある。なお、当山にある施設(放送局ごとに正式名称は異なる)は、延岡市内の各所にあるAMラジオ放送の中継局や、遠見山にある800MHz帯デジタルMCAと共に、延岡中継局と通称がなされている(遠見山にはUMKのFPU基地局も設置されている)。 |
慈城郡の地理 2013年3月20日、日銀副総裁に就任。副総裁として実務を担って岩田は「外部にいたときは金融政策の観点でしか日銀をみていなかったが、信用秩序の維持がなければ物価の安定もできない。そのためには様々な人々の仕事、下支えがある。日本銀行の実務に対する理解を深めつつある状況だ」と述べている。2013年10月4日、投資助言会社アブラハム・プライベートバンクのグループが運営するウェブサイトに、日銀副総裁就任前の岩田のインタビュー記事が掲載されていたことについて、日銀は、岩田が「インタビュー以外の関係はない」「謝礼などは一切受け取っていない」と説明していることを明らかにした。2013年11月7日、参院財政金融委員会で民主党の尾立源幸が「副総裁になって歯切れが悪くなった」と批判したのを受け、岩田は「学者として言う場合にはマーケットに影響を直接与えることは心配する必要がなくて何でも話せた」と説明し「副総裁の立場になると様々な臆測をマーケットに呼んでしまって色々反応する。それがかえって金融政策上2%の物価安定目標を達成する障害になる」と述べている。岩田は「友人の中には、『日銀に取り込まれたのではないか』と心配する人もいるが、これまでの主張はまったく変わっていない」と述べている。2014年5月26日、都内での講演で岩田は「(日本の)潜在成長率の強化が進まなければ、物価安定目標の達成は『マイルドなインフレ下における低成長』をもたらす可能性がある」と述べた。 |
ナンシー・リンチの歴史 1433年慈城郡が設置されたが、1459年に廃止されて江界部に編入された。1869年に慈城郡が再設置され、1895年に二十三府制実施で江界部に編入されてから翌年の1896年に十三道制実施で平安北道に属するようになった。1944年5月10日、三豊面雲峰洞を江界郡満浦邑に編入した。以後、1949年に朝鮮民主主義人民共和国の行政区域改編で慈江道が新設されると、これに編入された。1952年には慈城郡から中江郡と和坪郡が新設・分離した。その後慈城邑が雲峰里に移り、慈城邑が雲峰労働者区に改編すると同時にまた現在の慈城邑になった。 |
ファインモールドの概要 ナンシー・アン・リンチ (英語:Nancy Ann Lynch, 1948年1月19日-)はMIT教授。電気工学及び計算機科学科のソフトウェア科学・工学NEC冠教授でありMITの計算機科学と人工知能研究所(CSAIL)の分散システム理論研究グループ長を務める。分散アルゴリズムとその不可能性(impossibility result)について、また形式的モデル化(formal modeling)と分散システムの妥当性確認(validation)について(例えばI/Oオートマトン参照)の多数の研究論文を著している。大学院レベルの教科書Distributed Algorithmsの著者でもある。米国科学アカデミー、米国工学アカデミーに所属し、ACMフェローに選出されている。ブルックリン出身。ニューヨーク市立大学ブルックリン校とMITで数学を専攻し、Ph.D.をアルバート・メイヤーの指導の下1972年に取得する。タフツ大学、 南カリフォルニア大学、ジョージア工科大学などで数学とコンピュータ科学のファカルティ職を歴任した後、1982年にMITに着任する。以後複雑分散システムの理解と構築に向けた応用数学を研究している。 |
松平頼武の経歴 旧日本軍の兵器については、実際に使用した元兵士にインタビューを行うなどのこだわりを見せる。その考証性の高さは、製品に同封されている内容の濃い解説書からも伺い知れる。その他、ホワイトメタルを用いたメタルキット、第二次世界大戦から現在までの軍用機や戦闘艦艇、軍用車両に用いるエッチングパーツやメタル、レジンキャストを用いた「アフターマーケットパーツ」と呼ばれるディテールアップ用の製品についても積極的に製造販売を行っている。またレーザー彫刻機や超微細領域のプラスチック成形技術を駆使した、他のメーカーが手を付けない領域のパーツを提供している。また社長が顔見知りの漫画家鳥山明にデザインを依頼した1/12? ワールドファイターコレクション、スター・ウォーズシリーズのXウイングやミレニアム・ファルコン、宮崎駿監督作品の紅の豚に出てくるサボイアS.21、押井守監督作品のスカイ・クロラの散香Mk-Bといったキャラクター関連キットの製造も行っている。特にスター・ウォーズシリーズはスケールモデルメーカーならではの考証性の高いアイテムが多いが、ミレニアム・ファルコンのようにメーカーの独自解釈からか、プロポーションがオリジナルのプロップと異なってしまったものも見受けられる。本来、同シリーズはルーカスフィルムとの契約で日本国内の販売に限られていたが、個人輸入などで日本国外へ出回ったキットが、ドイツで「モデル・デス・ヤーレス」(模型誌が選定する年間傑作模型賞)を受賞してしまったという逸話もある。2014年10月以降、ファインモールド製のスター・ウォーズシリーズは全て生産終了となった。かつてはハセガワ経由で商品が流通していたが、後に独立した流通経路を確立している。タミヤのキットに、ファインモールド製の兵士のパーツが入っている商品もある。 |
夏盤の概要 高松松平家の13代当主松平頼明の長男として生まれる。頼明(のちにボーイスカウト日本連盟理事)がスカウト運動に携わっていたことから三島通陽、久留島秀三郎、古田誠一郎、岩波信平、鳴海重和、村山有、中村知らが家に出入りしており、賴武も自身もスカウトとなる。早稲田大学卒業後、東芝に勤める。東芝在職中の1987年、東芝機械ココム違反事件に海外運輸担当者として対応する。1990年に本郷学園理事長となる。2012年の第25回世界スカウト会議にて、長年のスカウト運動への貢献により松平は世界スカウト機構の授けるブロンズ・ウルフ章の337番目の受章者となった。父である松平頼明も1981年に同章を受章している。乗馬・アマチュア無線を趣味とする。 |
河野正孝のやまなみグリーネ管弦楽団 前作『オムライザー』より約7ヶ月後のリリース。大槻ケンヂの小説『ロッキン・ホース・バレリーナ』のイメージアルバムとなっている。廃盤により長らく入手困難となっていたが、2017年6月28日に徳間ジャパンコミュニケーションズからHQCDとして再発された。 |
菅野覚兵衛の維新前 土佐藩の庄屋・千屋民五郎の三男として和食(わじき、現安芸郡芸西村和食)に生まれる。病弱な兄に代わり庄屋業を代行していたが土佐勤王党に加盟し勤王活動を始める。文久2年(1862年)、山内容堂を警護する五十人組に参加し上京する。その時坂本龍馬らともに勝海舟の弟子となる。勝の進言によって幕府が神戸に設置した神戸海軍操練所にも参加した。しかし、禁門の変の影響で勝が軍艦奉行を罷免され、その影響で神戸海軍操練所が閉鎖されると、覚兵衛は龍馬や陸奥宗光ら一部生徒と共に長崎で亀山社中(のちの海援隊)を結成し、物産・武器貿易を行う。また第二次長州征討(四境戦争)では社中の船・乙丑丸(ユニオン号)の艦長となって実戦に加わり長州藩海軍を支援する。その後も海援隊隊士として活躍するが慶応3年(1867年)11月に京都の近江屋で龍馬が暗殺される。 |
織田一朗の経歴 戊辰戦争直前の翌・慶応4年(1868年)3月、生前の龍馬の希望もあり長崎でお龍の妹・起美と結婚。その後戊辰戦争に従軍し奥羽地方を転戦。終結後の明治元年から小松清廉の取計いで元海援隊隊士・白峰駿馬とともにアメリカ合衆国に渡りニュージャージー州のラトガース大学に留学。帰国後は勝海舟の紹介で海軍省に入省し、艦政局運輸課長、横須賀鎮守府建築部長などを歴任して海軍少佐となる。 だが西南戦争勃発直前に海軍造船所次長として鹿児島県に赴任し、その発端となった『弾薬掠奪事件』に係わったため海軍の中での立場は不遇に終わる。 この事件では私学校徒らの襲撃・略奪を防ぐため弾薬を水に浸すなどの処置をし事態の収拾に奔走した。まもなく造船所を閉鎖、官職を離れ同地を去り、のち明治17年(1884年)に辞職。退官後は、龍馬らと抱いた北地開拓の夢の実現のため福島県郡山市の安積原野に入植し開拓事業に参加し活動する。その道半ばに病のため明治26年(1893年)に死去。享年52。墓は東京都港区南麻布四丁目の光林寺境内。 |
尾上久雄の略歴 1880年(明治13年)、東京葛飾小菅生まれ。生家は金工業で氏は桂といい、四谷の中村家に養子になる。旧制東京府第一中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)から旧制第一高等学校をへて、東京帝国大学工科大学に進学。1904年(明治37年)、東京帝国大学工科大学建築学科卒業、卒業後、横河工務所に就職。1917年(大正6年)から1927年(昭和2年)まで、東京高等工業学校講師兼務。1919年(大正8年)横河工務所理事。1934年(昭和9年)旧日本建築士会会長。1914年(大正3年)完成の三越日本橋本店(本館)の設計は、新築から後の昭和の増改築まで横河工務所が一貫して行い、その多くは中村伝治が主担当であった。1934年(昭和9年)日本建築士会会長。以降1936年、1939年、1942年、1944年に歴任。1941年(昭和16年)から1950年(昭和25年)まで、東京美術学校講師。1944年(昭和19年)、日本建築設計監理統制組合理事長。1947年(昭和22年)、日本建築設計監理協会理事長、昭和27年同協会会長。1952年(昭和27年)、東京建築士会会長、日本建築士連合会会長。1953年(昭和28年)、横河工務所代表取締役会長。1961年、同社相談役。1964年(昭和39年)、第1回日本建築祭で日本建築界先覚者遺徳顕彰5氏のうちの1人に師の横河民輔が選出され、故人になった師とその遺族の代わりに記念品贈呈を授与する。1968年(昭和43年)逝去、享年88。 |
蒲田氏の草創期 家祖・蒲田忠武(四郎入道道儀)は、江戸氏12代江戸長門の次男・江戸正長(蔵人入道希全)の子で、南北朝時代に蒲田郷を領有して蒲田氏を興した。また、江戸長門の三男・江戸重道も蒲田入道を称している。江戸長門は、新田氏一族の一井貞政の姉が生母とされるが、人見原の合戦では足利尊氏に従って新田氏と戦った。江戸長門が鎌倉をめざして挙兵した新田義興の迎撃を命じられると、蒲田忠武も首謀者のひとりとして参加し、矢口渡で新田義興を謀殺したとされる。蒲田氏は、応永27年(1420年)の江戸氏名字書立に「蒲田殿一跡(かまたとのいつせき)」と記され、江戸氏代々の相伝の土地を所領としていることからも、他の庶家とは別格扱いであり、江戸氏一門の中でかなり有カな家柄であったことを物語っている。蒲田流江戸氏とも称される。 |
蒲田氏の室町時代 室町時代には本家の江戸氏とともに関東足利氏に仕えた。至徳元年(1384年)には、江戸長門が得た恩賞地の内の稲毛庄渋口郷が岩松直国へ与えられたが、江戸正長、蒲田忠武らが渋口郷の引き渡しを妨害した(「正木文書」)。そして、大慈恩寺領の大杜郷、永富郷を蒲田家の由緒ある土地であるとして押領し、足利満兼から狼藉をやめるよう命じられている。このことから蒲田氏が稲毛方面へも進出したことがわかる。永享10年(1438年)、永享の乱中の早川尻の合戦において、忠武の子である蒲田道秀は足利持氏方の上杉憲直の家臣として激しく戦ったが、敵が余りにも大軍であったため防ぎかねて討死したとされる。本土寺過去帳において「蒲田殿大方」と呼ばれている妙貞尼は蒲田道秀の正室と推定され、「蒲田殿」は蒲田氏の当主や惣領の尊称と考えられる。その後の享徳の乱において、蒲田道景や子の蒲田朗忠など一族の戦死が相次いで蒲田氏は衰退し、新たに勢力を拡大した戦国大名・後北条氏の影響下に入って家系と領地を保った。永禄2年(1559年)に後北条氏が作らせた小田原衆所領役帳には、稲毛庄木月郷を領する蒲田助五郎など、蒲田周辺に所領を有する多くの蒲田氏が記載されていることから、当時蒲田氏の一族がこの地域に分居していたことが分かる。 |
蒲田氏の戦国時代以降 後北条氏の家臣となった蒲田致重は下総守、入道後は重蓮と号して慶長13年3月3日に没した。致重の孫、蒲田重武は北条氏直に仕え、足利義氏の命により左京亮に任じられたほか、神奈川の戦で功績を挙げ、北条氏直から感状並びに加恩を賜わったとされる。重武の正室は梶原景信の娘。また、後北条氏で御家門と同様に尊称されていた「六郷殿」は江戸蒲田氏の当主であるという説もある。天正18年(1590年)に豊臣秀吉による小田原征伐で後北条氏が滅びると、重武は浪人を経て土井利勝に仕え、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣に子の蒲田重吉とともに従軍して禄100石を賜る。子の重吉も50石を賜り納戸奉行を任じられたほか、翌年の大坂夏の陣において江戸邸を守り、帰陣の後戦功の者と等しく恩賞を賜ったとされる。しかし藩主土井氏の一時断絶による藩士削減で浪人し、陸奥相馬中村藩の藩士小島氏に養子入りして近世以降も家系を保った。相馬中村藩の衆臣家譜には「江戸四郎重継後裔江戸新五郎致重武州六郷蒲田に住す、故に氏を蒲田と称す」とあり、「致重(下総守)━定重(下総介)━重武(左京亮)━重吉」と続いたとされる。菩提寺は大田区蒲田にある日蓮宗・妙典寺で、北蒲田村にあった「大屋舗」が江戸蒲田氏の居館跡とする説がある(大田区史)。 |
蒲田氏の室町時代 坂地光広の子・兼光は陸奥国白河郡石川郷内の蒲田村(現・福島県古殿町鎌田)を領して蒲田冠者を称した。その後同地を本拠に陸奥石川氏の有力庶家として活躍した。蒲田兼光は、建武2年(1335年)以来北朝の足利尊氏に従って奥州等を転戦した。奥州管領の吉良貞家からもしばしば所領を安堵されており、使節にも起用されているほか、奥州総大将の石塔義房に従い奉公衆としても活躍している。文和2年(1353年)の宇津峰城攻略では、兼光は柴塚(郡山市栃本)の陣を攻撃して打ち破り、長平城の戦いで子息の蒲田末光が傷を受けた。後に兼光は嫡子の蒲田義光に蒲田村を相続させ、末光にも一部を与えた。応永2年(1395年)には蒲田民部少輔光広が陸奥の田村氏征伐に参加し、佐々河城を堅守した功で斯波氏から知行を安堵され、応永11年(1404年)には、稲村公方の足利満貞と篠川公方の足利満直とに忠誠を誓った傘連判状に蒲田長門守光重の名が見える。 |
蒲田氏の没落 文安6年(1449年)、蒲田道印は結城直朝の攻撃を受けて敗北し、蒲田城は破却、所領と文書は没収されてその家臣となった。有力な一族であった蒲田氏が没落したことで、まもなく陸奥石川氏の惣領(宗家)も結城氏に降った。福島県古殿町には石川蒲田氏の居城であった蒲田城跡があり石垣などが現存しているほか、麓には水堀と土塁がめぐらされた石川蒲田氏平時の際の居館跡が確認されている。 |
蒲田氏の青森県の蒲田氏 弘前藩士に蒲田氏がいる。一族には弘前藩藩校副督学を務めた蒲田多門(諱は利用)や、青森県西津軽郡長を務めた蒲田昌清がいる。 |
蒲田氏の岩手県の蒲田氏 岩手県久慈市山形町の蒲田氏は、武蔵国発祥とされる。蒲田治道は、かつて陸奥国和賀郡(現・岩手県北上市周辺)を治めた和賀氏に従い、和賀・稗貫一揆や岩崎一揆で活躍した。 |
ヴォルテール駅の隣の駅 ■9号線サンタンブロワーズ(Saint-Ambroise) - ヴォルテール駅 - シャロンヌ (Charonne) |
銀の三角 (アルバム)の概要 アルバムタイトルは吉良知彦が萩尾望都の同名漫画に影響を受けたもので、クレジットの“SPECIAL THANKS”にも萩尾の名がみられる。B面3曲目の「チグリスとユーフラテスの岸辺」も同作品中の1話のサブタイトルから取られている。制作において、同漫画と、アメリカ映画『ブレードランナー』に描かれた未来から受けたイメージをZABADAKのメロディと融合させたと吉良は語っている。A面1曲目の「水のソルティレージュ」はノルウェーのポップ・グループ、フラ・リッポ・リッピの楽曲「SHOULDN'T HAVE TO BE LIKE THAT」の日本語詞によるカバー。サポートミュージシャンとして、バッキング・ヴォーカルの安則“CHAKA”まみ(PSY・S)、小峰公子、Darieらが参加している。 |
リーヴァイ・メイエールの経歴 1871年に、故郷のフィラデルフィアで活動していたアスレチックス(現在のオークランド・アスレチックスとは無関係)からプロとしてデビュー。初めは三塁手をしていた。メイエールはこの年26試合に出場、130打数64安打(安打数リーグ2位)で『打率.492』という記録を残し、アメリカ合衆国のプロ野球リーグ最初のシーズン首位打者となった。この年は4本塁打でリーグ最多本塁打も記録している。打つ方で活躍したメイエールだが、同じ年の三塁の守備率は.646と、グラブをつけない時代だったことを差し引いても決して守備が得意とは言えない選手だったようである。その後地元フィラデルフィアの球団(アスレチックス、ホワイトストッキングス)を中心に、ナショナルリーグ設立を跨いで1877年までの7年間、現役選手として活躍したが、シーズン打率は全て3割以上、通算でも.356という高い打率を残した。打撃成績としては、1874年にシカゴに所属した際に打率.394で二度目の首位打者となっている。現役最後の1877年はフィラデルフィアではなくシンシナティ・レッズ(現存球団とは無関係)に所属したが、これは前年所属していたフィラデルフィア・アスレチックスがナショナルリーグから除名処分を受けたための移籍だった。32歳となった1877年を最後に一時期プロ野球から退いたメイエールだったが、7年後の1884年に、ユニオン・アソシエーションのフィラデルフィア・キーストーンズから3試合に出場する。しかしこの復活はキーストーンズの集客のための話題づくりだったらしく、選手としてはメイエールは既に峠を越えており、3試合で放ったヒットはわずか1本だけだった。1921年にフィラデルフィアで死去。 |
国鉄213系電車の概要 国鉄として最後の新規系列車両であり、国鉄時代に岡山地区向けに製造された0番台と、国鉄民営化後にJR東海が関西本線名古屋地区向けに製造した5000番台が存在する。 |
国鉄213系電車の車体 車体は、117系100番台と211系との折衷的な構成となっている。つまり、211系と同様のステンレス製軽量車体ながら、側面は117系100番台と同様の全長 20 m の車体に片側2か所の両開扉と、戸袋部を除いて2枚1組の一段下降式ユニット窓が並ぶ(中間車の場合「21D122221D12」、Dはドア、1は戸袋窓)という窓割り・ドア配置であり、さらに前面は211系に準じたFRP 製のマスクを採用する。ただし国鉄時代に投入された211系と違い、客室からの展望に配慮して、前面窓は助士席側と貫通扉の窓が下方に拡大され、このデザインは民営化後の新型車両(JR東海製造の211系、719系、6000系)にも引き継がれた。列車種別表示器は、415系1500番台と同様の、天地寸法の小さいタイプである。座席は転換クロスシート(先頭車運転台後部戸袋窓部(1・2位)およびクハ212形3位側戸袋窓部は、固定クロスシート)である。 |
国鉄213系電車の主要機器 コストダウンのため、その他の機器も211系と極力統一化が図られていることが特徴である。本系列の最初の投入先となる宇野線(瀬戸大橋線)では、211系のような長大な基本編成での運行は採用されず、基本編成が3両単位とされたが、運用線区が平坦であること、軽量ステンレス車体の採用により編成重量が小さくなったことから、国鉄新性能電車として一般的なMM'ユニット電動車方式ではなく、1両のみで完結する単独電動車(1M)方式を採用して、1M2T (Mc - T - Tc') が基本組成とされた。この組成であっても、25‰の勾配上で運行可能な性能は確保されており、抑速ブレーキも搭載しているため、山陽本線瀬野八の通過も可能である。主制御器は、211系と同様の界磁添加励磁制御を 1M 方式に対応させた電動カム軸方式の CS59 が採用されており、回生ブレーキの使用が可能で、省エネルギーにも配慮されている。本系列での界磁制御を行うため、CS59 主制御器に付随して HS65 励磁装置が搭載されている。この励磁装置は弱め界磁制御と回生ブレーキ使用の際に界磁制御を行うものである。なお、当時の岡山鉄道管理局管内では初の回生ブレーキ搭載車であり、その習熟運転に苦労したという逸話が鉄道趣味雑誌に掲載されていたが、本系列の投入によって岡山運転区所属の運転士は221系などの新系列車両の運転も可能になった。主電動機4個で直並列組合せ制御を行い、主電動機は端子電圧750VのMT64形であるが、歯車比は211系と同一の5.19である。本系列のシステムは、もともと211系の横須賀・総武快速線投入が計画された際に地下線(東京トンネル)を走行する関係で、編成の電動車比率を上げる(4M7T → 5M6T)ために開発されていたもので、ユニット方式の電動車を増結すると性能面で過剰になり、コスト面でメリットがなくなることが背景にある。そのため、本系列は211系と混結(併結)することを前提に開発されている。力行時の速度・引張力特性は極力211系に合わせられている。台車には205系で採用された軽量ボルスタレス台車を引き続き採用している。動力台車はDT50B形、付随台車はTR235B形と称する。205系の台車と同様、軸箱支持方式は円錐積層ゴム方式で、台車枠は側梁をストレートタイプ、横梁にはシームレスパイプを採用するなど構造を大幅に簡素化したものとした。また、軸箱方式と合わせて構成部品数を少なくし、保守性の向上を図っており、合わせて軽量化と新製コストの低減を実現している。この結果、従来の台車よりも1台車あたりの重量は約 1.5 t 軽量化されている。基礎ブレーキ装置は動力台車は片押し式踏面ブレーキ、付随台車は片押し踏面併用ディスクブレーキ方式を採用した。旅客サービス用補助電源装置には電動発電機 (MG) ではなく静止形変換装置 (SIV) が採用された。これは国鉄時代の製造車では本系列のみである。集電装置は、菱形パンタグラフであるPS24を搭載する。冷房装置は集中式ながら、ドア数と乗車定員が少なく、室内の空気の出入りが比較的少ないことから、一般的なAU75形(42,000 kcal/h×1台)ではなく、冷却能力を抑えたAU79A形(33,000 kcal/h×1台)を搭載する。なお、東日本旅客鉄道(JR東日本)にサロ213・212形という形式が存在するが、これらは211系に属する。 |
国鉄213系電車の運用 岡山近郊の山陽本線和気駅 - 糸崎駅間、伯備線岡山駅 - 新見駅間、赤穂線播州赤穂駅以西、宇野線全線、本四備讃線児島駅以北で普通列車として運用されているが、3両編成は原則として山陽本線・赤穂線のみで運用される。本系列の転用により、岡山電車区電車センターの103系の全編成と105系の一部が置き換えられ、転属や廃車が発生したが、103系は宇野線などの朝のラッシュ対策などで阪和線などから転入した車両によりすぐに運用が復活した。また、2009年3月14日のダイヤ改正では「サンライナー」三原行き (2725M) にも運用されていた。2両編成は、伯備線、赤穂線、宇野線での運用が多い。 |
国鉄213系電車の「マリンライナー」代走運用 2007年2月8日に早島駅付近で踏切事故の被害を受けた223系5000番台P3編成が網干総合車両所へ緊急入場。偶然にも他の編成も定期検査中で予備車がなくなってしまい、その間の代走として213系が抜擢され4月中旬ごろまで「マリンライナー」77号(下り最終)と2号(上り始発)の限定運用が復活した。なお、代走にはC04編成のみが使用されたが、代走運用から数日後に3両編成から中間車のサハ213-4を抜いた2両編成となり、山陽新聞など地元のメディアにも取り上げられた。2009年7月11日、12日に223系5000番台P編成の前面窓ガラスが破損したため、急遽213系C05編成がマリンライナー1号で代走を務めた。両日、所定9両のマリンライナー8号は223系を1編成抜いた6両での運転となった。 |
国鉄213系電車の登場までの経緯 国鉄時代、いわゆる国電の設定がなかった名古屋地区では、近郊輸送は並行する私鉄がシェアの大半を占めていたが、その中でも桑名・四日市方面は近畿日本鉄道(近鉄)の独壇場であった。その後、分割民営化で発足したJR東海は、これらの競合私鉄路線に対抗すべく、ダイヤや車両の改善に着手した。本番台は、関西本線の輸送改善にあたり老朽化・陳腐化した165系を置き換えるため、JR東海が投入した車両である。1989年から1991年にかけて2両編成14本(28両)が投入され、関西本線の輸送改善を果たした。2018年4月1日現在、全車が大垣車両区に配置されている。 |
国鉄213系電車の構造 JR東海の独自設計車両であり、0番台を基本としながらも、同社の211系5000番台に準じた仕様の変更がなされている。また当初から2両編成 (1M1T) でサハ213形は存在せず、同社では3両編成に2M1Tの211系5000番台が投入されている。本番台における0番台との仕様の違いを以下に示す。 |
国鉄213系電車の走行機器 空気圧縮機や冷房装置、添加励磁装置、補機類の電源が直流600Vとなったため、補助電源装置がC-SC27形DC-DCコンバータ(GTOサイリスタおよびダイオード使用、連続定格出力90kW)に変更された。さらに、C-SC27形DC-DCコンバータの直流600Vを電源とし、補機類に直流・交流100Vを供給するためにC-SC31形制御用補助電源装置を搭載する。電源電圧の変更により、添加励磁装置もC-HS65形に変更された。空気圧縮機は、短編成化による容量適正化を考慮し、MH3094-C1000MLを搭載する。主電動機は、内扇形構造や冷却風通期構造の改良を施したC-MT64A形とした。性能は0番台に搭載されるMT64と同等である。台車は、牽引装置をZリンク方式としたC-DT56(動力台車)およびC-TR241(付随台車)とした。ブレーキに応荷重装置が付加された。JR東海管内の在来線電化区間全線に対応するため、クモハ211形5600番台と同様にパンタグラフは狭小限界トンネル対応のC-PS24A形とされ、取付部が20mm低くされた。冷房装置がインバータ制御による集約分散式(C-AU711D-G4形×2台)に変更された。静岡地区で使用されている2両編成用のクモハ211形6000番台のシステムは、本番台と共通である。また、211系以降に製造・使用されているJR東海の一般型電車各系列との併結・一括制御が可能である。 |
国鉄213系電車の設備 0番台から変更点として、クハ212形のトイレ設備は省略された。乗降口から外側の車端部がロングシートとなり、転換クロスシートは扉間の8列のみとされ、ドア横には1両あたり4箇所8席分の補助席が設けられた。前面列車種別(行先)窓は、211系5000番台と同様の天地寸法が大きいタイプとなった。側面行先表示幕は、211系5000番台2次車と同様の天地寸法の狭いタイプであったが、2次車以降は天地寸法が拡大された。空調関係では、0番台で省略されていたラインデリアが本番台では設置されている。 |
国鉄213系電車の運用 5000番台は1989年から大垣電車区(現・大垣車両区)に配置されて関西本線(名古屋駅 - 亀山駅)の普通・快速列車や東海道本線の一部の普通列車(主に日中の大垣駅 - 岡崎駅)に充当されたが、2000年より関西本線で閑散時間帯の普通列車においてワンマン運転が開始されるのに先立ち1999年に神領電車区(現・神領車両区)に転属。前後して後継の313系3000番台が投入されると、日中の大多数の列車が置き換えられた。以後は朝と夕方以降の列車と日中の中央本線の一部の普通・快速列車を中心に運用されるようになり、2011年10月1日に関西本線での運用から撤退している。関西本線の撤退に前後し、飯田線で運用されていた119系の置き換え用としてトイレの設置や半自動ドアの設置などの改造工事を施した上で大垣車両区へ再転出し、2011年11月27日より飯田線および中央本線の茅野駅 - 辰野駅間での運用を開始している。その後、119系は2012年3月17日のダイヤ改正で定期運用を終了、全車引退した。 |
ルー・マーシュ賞の出演 太字はメインキャラクター。 |
生田長江の経歴 父喜平治と母かつとの三男一女の末子として、鳥取県日野郡貝原村(現・日野町根雨)に生まれた。1895年(明治28年)(13歳)、地元の日野郡高等小学校を卒業し、翌年、次兄がいる大阪へ出て、1897年、桃山学院の2年生になった。本名は弘法大師に因んだ『弘治』なのに、1898年、プロテスタント系のユニバーサリスト教会で受洗し、聖書に親しんだ。翌年上京して青山学院中学部の4年生となり、1900年、第一高等学校文科に入り、1903年、東京帝国大学文科大学哲学科へ進み、美学を専攻した。一高時代から雑誌へ投稿し始め、大学時代には上田敏・馬場孤蝶の『藝苑』誌の同人となり、上田から『長江』の号を貰った。1906年(明治39年)(24歳)、東大を卒業し、1907年、鳥取県の亀田藤尾と結婚して与謝野鉄幹・晶子夫妻の隣に暮らし、麹町区飯田町にあった成美英語女学校の英語教師を、1909年の閉鎖まで勤めた。この頃の数年間、女性の文学の振興に努めた。1907年夏、一高以来の森田草平と、成美英語女学校の経営主、九段中坂下(現・千代田区九段)のユニヴァーサリスト教会で、女性のための文学講習会『閨秀文学会』を開いた。馬場孤蝶、与謝野晶子、赤司繁太郎らが講義し、大貫かの子、青山菊栄、平塚らいてうらが聴講したが、年内に閉講した。1909年から、ニーチェの『ツァラトゥストラ』を翻訳し、1911年年初に刊行した。その9月に創刊した平塚らいてうらの『青鞜』誌を、1913年まで後押しした。生田春月、佐藤春夫を門弟とした。1914年(大正3年)(32歳)、初めは森田草平と共同編集で、『反響』誌を創刊した。翌年の同誌の廃刊後、ニーチェ全集の翻訳を志し、1916年から1929年までに、全10巻を出版した(訳書の項参照)。また、1914年頃から堺利彦や大杉栄と交わり、批評の目を社会問題へも広げた。1916年、『自然主義前派の跳梁』などで、『白樺派』を論難した。1919年、資本論第一分冊を翻訳出版するなど、社会主義に近付いて、1923年頃から離れた。1919年に島田清次郎の『地上』を、1921年に、高群逸枝の『日月の上に』を評価したが、師弟関係は結ばなかった。1922年(大正11年)(40歳)、『釈尊傳』創作の準備を始めた。1925年から1930年まで、鎌倉の由比ヶ浜に住んだ。ハンセン病が、容貌が崩れるまでに進んでいた。1929年(昭和4年)(49歳)、ニーチェ全集を完結し『釈尊傳』の執筆を始め、1934年の失明にひるまず、1935年、『釈尊上巻』を刊行した。また、『新訳決定普及版 ニイチェ全集 全12巻』を1936年にかけて出版した。1936年(昭和11年)新春、渋谷区の自宅で亡くなった。聖伝院長江棹舟居士。喜福寺(現・東京都文京区本郷5丁目)で葬儀を行い、鎌倉長谷寺の高台の墓域に、1917年に亡くなった藤尾夫人の遺骨と共に埋葬した。 |
生田長江の文業 各列の → は新編再刊・復刻。 |
タイチウト氏の起源及びネグス(チノス)氏との関係 『モンゴル秘史』や『集史』が一致して伝える所によると、モンゴル部中興の祖カイドゥ・カンにはバイシンクル・ドクシン、チャラカイ・リンクゥ、チャウジン・オルテゲイという3人の兄弟がおり、チャラカイの息子セングン・ビルゲの息子のアンバガイ・カンからタイチウト氏が生じたという。『集史』によるとチャラカイはレヴィレイト婚で兄嫁を娶っており、兄嫁との間に生まれたゲンドゥ・チノとウルクチン・チノ兄弟の子孫からネグス/チノス氏(『モンゴル秘史』ではベスト氏)が生じたという。しかし、アンバガイの父セングン・ビルゲもまた別名をソルカクトゥ・チノと言い、実はチャラカイ・リンクゥの息子は全て「チノ(狼)」を名前としていた。そのため、本来はチャラカイ・リンクゥの子孫全体が「ネグス(チノス)」という氏族名を称していたが、アンバガイの子孫のみが後に有力となって「タイチウト氏」と改称したのではないかと考えられている。また、『集史』はモンゴル部族が「ネクズ」と「キヤン」という1組の夫婦から生じたと説明しているが、この始祖伝承は『モンゴル秘史』の伝える「ボルテ・チノ(蒼き狼)」と「コアイ・マラル(白き牝鹿)」がモンゴル部の始祖となったという説話の異説でもある。すなわち、これらの説話は「チノ(狼)」を族霊とするネグス=タイチウト氏と、「マラル(鹿)」を族霊とするキヤン=キヤト[・ボルジギン氏]というモンゴル部族内の2大有力集団をモチーフとして創作されたものと考えられている。 |
タイチウト氏の歴史 未発達な部族社会にあったモンゴル部を始めて統一し、「あまねきモンゴル(カムク・モンゴル)」の初代君主(カン)となったのがキヤト氏の祖カブル・カンで、その地位を継いで2代君主となったのがアンバガイ・カンであった。アンバガイはタタル部の乣の民(ジュイン・イルゲン)によって金に引き渡され、木馬に磔にされて処刑された。アンバガイの死後、彼の家族とタイチウト氏の首領たちは新しい指導者を選出しようとしたが意見は一致せず、誰がアンバガイの後を継いだかは明らかになっていない。山地で隔絶されているキヤト氏が居住するオノン川上流域と異なり、タイチウト氏が居住するオノン川中下流域は中国との交易が盛んに行われており、タイチウト氏には中国の物質文化や製鉄技術が多くもたらされた。このため、タイチウト氏は経済力・軍事力においてキヤト氏よりも優位に立っていたと考えられている。やがてモンゴル部の中心氏族のボルジギン氏族内ではタイチウト氏とキヤト氏の対立が表面化し、キヤト氏のクトラ・カンが没するとタイチウト氏が優位に立った。クトラの甥イェスゲイがキヤト氏の首長だった時代、タイチウト氏の首領はイェスゲイと同盟してモンゴルを統率していた。イェスゲイが亡くなると、イェスゲイの族弟にあたるタイチウト氏の首領タルグタイ・キリルトク(アンバガイ・カンの孫、アダル・カンの子)はイェスゲイの妻ホエルンやテムジン(後のチンギス・カン)らイェスゲイの遺族を見捨て、部民を傘下に加えた。青年時代のテムジンはタイチウト氏に捕らえられ、首に枷をはめられた。この時にタイチウト氏の隷属民だったスルドゥス氏のソルカン・シラは密かにテムジンを逃し、テムジンはソルカン・シラへの恩義を生涯において忘れることはなかった。1189年ごろに起きた十三翼の戦いでは、タイチウト氏はジャダラン氏のジャムカと連合してチンギス・カンと戦い、これを破った。しかしその戦闘後、ジャムカらは同族たるタイチウトを裏切ってチンギス・カン側についたネグス氏のチャカアン・コアとその一族を捕らえ、ネグス一族の者は鍋で煮殺し、チャカアン・コアは首を切られた上馬の尾にくくりつけて引きずり見せしめにしたという。ネグスの民がジャムカからこのように苛烈な仕打ちを受けたのは親族たるタイチウト氏を裏切ってテムジンに味方したためと推測されているが、このような処罰によってかえってジャムカやタイチウト氏は民の信望を失ってしまった。モンゴルと敵対するメルキト部から挙兵の要請を受けると、タルグタイ、アンクゥ・アクチュウ、クリル、クドダルらタイチウト氏の有力な首長たちは会合を開いた。1200年、タイチウト氏はチンギスとケレイト部のオン・カンの連合軍とサアリ平原で戦い、敗れた。タルグタイはソルラン・シラの子チラウンに討ち取られ、クドダルは捕殺された。生き残ったアンクゥ・アクチュウはメルキトの残党とともにバイカル湖東部に逃走し、クリルはナイマン部の元に亡命した。ナイマンの元に逃れた一団も、後にチンギスに降伏する。1206年、チンギス・カンが第2次即位の際に任命した95人の千人隊長の中に、タイチウト氏の人物は1人もいなかった。ただし、かつてタイチウト氏から裏切り者として見せしめに殺されてしまったチャカアン・コアの息子トグリルは千人隊長に取り立てられ、後にコルゲン家の王傅に任ぜられている。 |
あまカラ夫婦の概要 毎回2組のカップルにインタビューをし、その夫婦像を浮き彫りにしていた公開番組である。改編期までのつなぎ番組として制作された。 |
赤沢朝経の生涯 赤沢氏の本拠地は信濃塩崎城で、朝経は家督を嫡子の政経に譲って上洛。本家小笠原氏に倣って「糾法(弓法)的伝」(小笠原流)を室町幕府の管領細川政元に伝授した縁で、8代将軍足利義政の弓道師範、更に武者所を兼任するに至った。 また、既に政元に従っていた一族の縁故を頼ったともいわれている。延徳3年(1491年)に10代将軍足利義稙(義材、義尹)の六角高頼征伐(長享・延徳の乱)に従軍した際、政元に鷹狩の技能を認められてその被官となった。そして外様の内衆として山城・河内・大和など各地を転戦して武功を挙げ、山城上三郡守護代や幕府料所河内十七箇所の給人、妙法院領河内八箇所の代官、近衛家領山城五ケ庄の代官などに任じられている。明応8年(1499年)7月には足利義稙に呼応する動きを見せた比叡山延暦寺を波々伯部宗量と共に焼き討ちするように政元に命ぜられ、11日に一斉に比叡山に攻め上り根本中堂・大講堂・常行堂・法華堂・延命院・四王院・経蔵・鐘楼などの山上の主要伽藍を全焼させた。9月には河内で義稙派として挙兵した畠山尚順に呼応した筒井順賢・十市遠治ら大和国人衆を牽制するため山城南部へ急行、御牧城・水主城・槇島城を落とした。12月に大和国人衆追討に向かい山城から大和へ乱入、喜光寺や法華寺・西大寺・額安寺などを焼き討ちして大和北部を占領し、尚順派の国人の所領を没収した。翌明応9年(1500年)に大和の所領支配を強めたり、9月に畠山尚順を撃破して軍事行動を繰り返した一方、圧力を受けた興福寺は文亀元年(1501年)2月に神木を動座して朝廷から撤退を要求されたが、翌文亀2年(1502年)にも平然と大和に出兵している。また、同年義稙派に接近した近江守護六角高頼に追い込まれた義澄派の守護代伊庭貞隆が挙兵をすると、文亀3年(1503年)3月には朝経が近江に出兵して貞隆とともに高頼が籠城した蒲生氏の音羽城を攻撃しているが、6月に帰洛して政元の仲介で高頼と貞隆は和睦した(伊庭氏の乱)。更に文亀元年には小笠原定基に書状を送り、今川氏親に圧迫を受けた尾張守護斯波義寛への援軍派兵を求めている。永正元年(1504年)3月、政元に反逆するが、薬師寺元一の取り成しによって6月赦免されて上洛。次いで同年9月元一が主君政元の廃立と養子である細川澄元の擁立を企てるとこれと結託したが、元一の弟・薬師寺長忠らによって鎮圧されて捕らえられた。しかしその豪勇を政元から惜しまれて助命され、翌永正2年(1505年)には罪を許され山城上三郡守護代に復帰した。以後も政元の家臣として活動、永正3年(1506年)1月に河内で畠山義英や畠山尚順らを破り、高屋城を占領した。7月に古市澄胤の手引きで再度大和に侵攻、再び法華寺を焼き、菩提山正暦寺、多武峰妙楽寺、龍門寺なども焼いて寺社勢力をも平定する。さらに三好之長と共に畿内各地に転戦して細川氏の勢力拡大に貢献した。永正4年(1507年)、政元の命令を受けて丹後の一色義有を攻めるが、その戦いの最中である6月23日に政元が家臣の薬師寺長忠・香西元長・竹田孫七らによって暗殺された(永正の錯乱)ことを知ると、軍を京都に撤退させようとしたが、一色義有や石川直経ら丹後の国人の反撃を受け、6月26日に丹後九世戸の文殊堂で自刃した(『寛政重修諸家譜』では7月4日)。享年57。この時若狭の粟屋親栄や古市胤盛(澄胤の子)も討ち取られている。従軍していた養子の長経は生還、澄元の部将として仕えた。鷹狩の書『宗益相伝書』が伝わっている。 |
インターカラーの概要 国際流行色委員会は、加盟各国代表の非営利の色彩情報団体(各国1団体ずつ)で構成されており、加盟国でファッションに用いる色を選んでいる。1963年に発足した。発足当初の参加国は、発起国の日本、フランス、スイスに加え、西ドイツ、ベルギー、スペイン、イギリス、イタリア、オランダ、スウェーデン、アメリカの11ヶ国であった。加盟国は変動しており、オーストリア、コロンビア、韓国、チェコ、中国、トルコ、ハンガリー、フィンランド、ポルトガル、ルーマニアの代表である色彩情報団体も参加していた、もしくは、現在も加盟している。 |
インターカラーの選ばれた色の利用 国際流行色委員会で選ばれたファッションに用いる色(以降、選定色)は、早い時期に出される流行色情報とされる。選定色を選ぶ作業は、加盟各国の代表の色彩情報団体が予め選んだ色を提案するところから始まる。選定色が使用された服が加盟各国で着られるようになるまでに、約2年を要する。(逆に2年前の選定色がファッションに用いられているということも言える。)この2年の間に、まず素材や形状が決められ、約1年前に試作された素材の展示会が開催され、約半年前に展示会や発表会などが開催され、その後に大量生産が行われて小売店に並び、一般消費者に最新のファッションとして身につけられている。 |
能島裕介の概要 1995年にSASUKE.FC(サスケエフシー)として創設。1999年に仙台市サッカークラブリーグ1部への昇格を決め、同時にクラブ名を仙台SASUKE.FC(せんだいサスケエフシー)に改称した。2007年に宮城県リーグ初昇格を果たし、2012年には宮城県リーグ1部で2位。翌年からの東北リーグの参加チーム数増に伴う南東北3県リーグチャレンジマッチに進出すると、同大会で優勝、2013年からの東北リーグ2部南への初昇格。以降は宮城県リーグへ1度も降格することはなく、2016年からは東北リーグ1部に所属している。 |
ジェリーとモリーとサムの概要 『パースペクティブ』1972年夏号に掲載されたときのタイトルは "A Dog Story" だった。カーヴァーの最初の短編集である『頼むから静かにしてくれ』(マグロー・ヒル社、1976年3月9日)に収録。日本語版は『新潮』1985年11月号が初出。翻訳は村上春樹。村上が独自に編纂した単行本『夜になると鮭は‥‥』(中央公論社、1985年6月27日)に収録。ここまでの邦題は「犬を捨てる」だったが、『THE COMPLETE WORKS OF RAYMOND CARVER 1 頼むから静かにしてくれ』(中央公論社、1991年2月20日)収録時に原題どおりの「ジェリーとモリーとサム」に戻された。映画監督のロバート・アルトマンはカーヴァーの9つの短編と1編の詩をもとに『ショート・カッツ』(1993年)を作るが、本作品もその中のひとつに選ばれている。 |
ジェリーとモリーとサムのあらすじ アルは妻のベティーにせがまれて一ヵ月の家賃が200ドルという立派な家に引っ越したばかりだった。そこへ来て勤め先がレイオフを始めた。職場で安心していられる人間は一人もいなかった。レイオフの話でもちきりだった頃、気が滅入ったアルはワインストックの店で働いているジルという女と知り合い、浮気を重ねた。また便秘と小さなハゲにもくよくよするようになった。4ヶ月前に妻の妹のサンディーから譲り受けた雑種犬も悩みの種のひとつだった。アルにとって犬は子供たちがわめきたてて奪いあい、なぐりあいをするような類いのものとしか思えなかった。アルは「物事の秩序を正し、すべてのかたをつけるため」、はじめに犬のスージーを捨てることに決めた。昔住んでいたヨロ・カウンティーに入ったばかりのところまで行き車から放り出した。仕事から帰宅すると、そこはまさに修羅場だった。娘のメアリが泣きながら駆けよってきた。「スージーがいなくなっちゃったの。もう戻ってこないわ、お父さん、私わかるの」としくしく泣きながら娘は言った。 |
総合研究大学院大学の概要 日本初の博士課程のみの国立大学院大学として、1988年10月に開学した。大学卒業者、あるいは大学院修士課程(博士前期課程)修了者を対象とし、前者は5年一貫制博士課程に入学し、後者は5年一貫制博士課程の三年次に編入する(文化科学研究科については、博士後期課程のみを設置している。なお、5年一貫制博士課程に入学した学生が、2年以上在籍し所定の単位を取得後、修士論文や特定課題研究の審査・試験に合格し退学する場合には修士の学位を取得することができる)。6研究科で構成され、各研究科はさらに幾つかの専攻に分かれている。各専攻における研究指導は、基盤機関(大学本部(葉山キャンパス)、4つの大学共同利用機関法人に属する16の研究所および国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構宇宙科学研究所)で行われる。 |
総合研究大学院大学の理念および目的 総研大は、国立大学法人法に定められているところの、国立大学院大学である。国立大学院大学の目的は、時代の先を見据え、専門的かつ視野の広い研究者を育成し、公共の利益に資することとされている。総研大は『世界最高水準の国際的な大学院大学として学術の理論及び応用を教育研究して、文化の創造と発展に貢献すること』を理念としている。この理念に基づき、『基礎学術分野において国際的に通用する高度の研究的資質を持つ広い視野を備えた研究者の育成』を大学の目的としている。5年一貫制博士課程の新設は、高い潜在能力を持った人材を早めに確保することによって、より高度な学術研究の実施を行う人材を発掘し養成することである。参考までに、総研大以外の(国立大学法人の)大学院大学には、北陸先端科学技術大学院大学 (JAIST)、奈良先端科学技術大学院大学 (NAIST)、政策研究大学院大学(GRIPS)がある。JAISTとNAISTはそれぞれ博士前期課程および博士後期課程を持ち、地域産業への人材輩出と地域産業振興を目的とした産業基盤強化のための学術研究センターとして、産学および地方自治体の協力によって設立されたものである。また、GRIPSは公共政策の分野における高度学際的政策研究・教育機関を目的として設置された。これらの大学院大学開設時の経験に基づき、一部の国立大学法人、公立大学法人では、大学院重点化が行われている。 |
総合研究大学院大学の基本構成 総合研究大学院大学本部を中心として、各専攻を構成する基盤機関との間で協定を締結し、研究者及び所属学生の受け入れを実施している。総合研究大学院大学では、国立大学法人法の規定により、大学院大学長を中心に各専攻を構成する機関の長が理事として大学理事会に参画している。大学本部における教育研究に関する重要事項は、葉山教授会にて審議される。各研究科は独立しており、それぞれは複数の専攻で構成されている。各専攻は各基盤機関に対応しており、各機関の教員は、各人の培ってきた専門分野に応じた各専攻に配属されている。研究科の教育研究に関する重要事項は、各研究科教授会にて審議される。 |
総合研究大学院大学の葉山キャンパス 葉山キャンパスには大学本部、総合研究大学院大学付属図書館、先導科学研究科が設置されている。入学式・学位記授与式、および学生対象のオリエンテーションが行われたり、国際シンポジウムや学術研究会及び学術成果発表会などが実施されている。また、大学本部の教員の研究組織として機能することを目的として葉山高等研究センターから発展した、学融合推進センターが設置されており、ここでは学際的な研究計画を実施したり、他大学や研究所の研究者との共同研究の機会の提供、通常の科研費等にはなじまない先進的な研究課題や基盤機関において行いにくい研究課題を推進している。 |
総合研究大学院大学の研究の特徴 上記に記述する設置専攻科から明らかなように、文部科学省が所管していた各研究所からなる。各国立研究所は、大学共同利用機関法人として、もしくは設立の目的からして、民間の研究センターとして(経済産業省や総務省管轄の独立行政法人のように)の役割を担ってきた理化学研究所のように独立行政法人として運営が変わったものもある。しかしながら、本大学院大学の場合には、大学共同利用機関法人と同じ機関に宇宙航空研究開発機構が加わり、産官学の連携を踏まえた運営がなされている。具体的には、研究成果の発信、学術研究分野における研究成果の高度化、高度な研究を行う人材の養成及び輩出が目的である。各分野は、日本を代表する研究所としての役割を担う研究機関が担当しているため、高度かつ精密な装置利用研究なども行われている。文化科学研究専攻科においては、科学的成果の活用によって、これまでは文献学的もしくは資料的な研究が中心であった文化研究をさらに進めて、科学的見地からの歴史学的かつ地域学的な研究へと発展させることを目的に運営が行われている。今後は、文系・理系の枠組みにとらわれない総合学術研究発展を目指した総合科学大学院大学としての役割の継続が行われることになる。 |
総合研究大学院大学の将来の計画 2008年2月現在、行政改革の都合によって、官庁主導による研究所の増設計画等はないため、その他の研究機関ならびに大学共同利用機関が本学に加わる予定はない。しかし、今後も、大学や現在加わっていない大学共同利用機関との間で、人的交流や学術交流を始めとして、シンポジウムの共同開催や共同研究の実施を含めて強化する予定である。 |
フェザーミールの呼称の変遷 チャンドラ・モハン・ジャインとして、インドのクチワダに生まれる。1960年代にインド各地で講演するようになると、アチャリヤ・ラジニーシ(ラジニーシ)として知られるようになる。「ラジニーシ」は「月の王」を意味し、生来の名前である「チャンドラ」(月)に由来する。1970年代からは、バグワン・シュリ・ラジニーシとして知られる。1988年、ラジニーシの名前を廃し、その後はたんにOshoとして知られることを望む。日本語では漢字による表記を望んだが、本項では一般名詞の「和尚」との混同を避けるために「ラジニーシ」と表記する。 |
佐浦の概要 1981年5月にラジニーシはインドからアメリカに移った。ラジニーシは3月から講話を休んでおり、身体の治療がアメリカ行きの目的だったが、その背後には、ラジニーシの秘書としての実務的な権限をめぐる、ふたりの女性の間での競合があった。このアメリカ行きにより、実務的な権限は、マ・ヨガ・ラクシミという女性から、マ・アナンド・シーラという女性に移ることになる。ラジニーシはそれから1985年6月まで講話をせず、その間、ごく少数の実務的な責任者と話をするだけであった。オレゴン州でのコミューン建設は、1981年の終りごろに始まった。326km²の広さの乾燥した小高い丘陵と谷間の広がる地域にコミューンは建設された。コミューンの運営はシーラの責任のもとで進められ、ラジニーシはコミューンのゲストという扱いであった。のちに判明したところによると、シーラは「ラジニーシが言った」との説明をもって、ラジニーシが関知しないメッセージをコミューンのメンバーに伝えていた。コミューンは成功しているように見えた。5000人が暮らす市(City)として認められ、自治的な仕組みを整え、小さな飛行場とバス路線を持ち、夏のセレブレーションには2万人の訪問者を迎え入れていた。1984年10月、ラジニーシは、長い沈黙を破り、みずから声明を発するようになる。1985年7月には毎日の講話を再開し、さらにはシーラの主導権を否定するかたちで、みずから報道陣のインタビューに応えるようになる。1985年9月、シーラは側近数名とともにコミューンから姿を消し、彼女らはコミューンの多額の資金をスイスの口座に動かしていたことなどが判明した。その数日後、ラジニーシはシーラとその一味を公開の場で糾弾し、当局による捜査を求めた。捜査の結果、シーラとその一味は、1984年以来、ラジニーシの担当医の暗殺未遂、サルモネラ菌による食中毒の意図的な誘発(ラジニーシによるバイオテロ)、ラジニーシの自室を含むコミューン内での盗聴なども犯していたことが明らかにされた。押収された盗聴テープの解析などから、シーラとその一味の犯罪はラジニーシや他の多数のサニヤシンが関知していないところで犯されたことが確認されたが、この事件を契機として、ラジニーシプーラムを「危険視」する見方が強まった。1985年10月、シーラとその一味の犯罪とは別件として、ラジニーシおよび数名のサニヤシンについて移民法違反などの比較的に軽微な罪を問う起訴状を連邦大陪審が準備したが、これは非公開のまま却下された。しかしまもなく、州兵によるラジニーシプーラムの包囲が計画されているという情報が流れ、ラジニーシ側の弁護団は、ラジニーシの自主的な出頭によってコミューンでの惨事を避けるべく交渉を進めたが、これには正式な逮捕状の発行を待つ必要があった。この交渉を無視するかたちで、1985年10月28日、ラジニーシと数名のサニヤシンは、一時的にラジニーシプーラムを離れた際、ノースカロライナ州の空港で搭乗機を武装した警官に包囲され、逮捕状なしに逮捕された。ものものしい逮捕劇と手足を鎖でつないでの連行は、主として移民法違反を問題とするその後の裁判の内容に見合ったものではなく、これには多分に当局側の演出的な狙いがあったと思われる。その後の10日間に、ラジニーシは、ノースカロライナ州からオクラホマ州へ、そしてポートランドへと、米国各地の留置所を転々と移送された。裁判では、主として移民法に関わることとして、ラジニーシは初回のビザ申請の時点ですでに長期的な滞在を計画していたのではないか、国外からの弟子たちが偽装結婚によって在留権を得ることを奨励していたのではないのかといった点が争われた。1985年11月、申し立てのあった罪状のうちひとつだけでもそれをめぐる抗弁を放棄したならば5年間の国外追放を言い渡し、裁判を短期で終わらせることにするという検察側からの司法取引を受け、アメリカを退去した。長引く裁判によってラジニーシの健康もしくは生命が脅かされることを懸念した弁護側の判断によるものである。最終的にラジニーシは総計21の国々によって、国外追放されるか、入国を拒否されることになる。ラジニーシは、「政府達があのコミューンを恐れるようになったのはあれが、世界の偉大な無政府主義者達、クロポトキン公爵や、他の者達みんなが考えていたこと、どんな政府も必要なくなる日が来るということだったからだ。無政府主義は人がより自由になるのを、より大きな自由を持つのを助ける。最終的にはどんな政府も必要ない。そして私達には政府はなかった。誰もが自分で責任を持っていた。」と、語った。なお、「私がロナルド・レーガン政権下のアメリカで不当に逮捕され、毒をもられたとき、最初の抗議は日本の禅院から出された。これは私に、日本の生きている禅の真のハートはまだ命脈を保っていて、再び鼓動し、人類の新しい夜明けの先駆けとなることを示してくれた。」とも語った。 |
トライローキャ・ラージャ・ラクシュミー・デビーの生涯 創業は「中興の名君」と謳われた仙台藩第4代目藩主・伊達綱村の治世の1724年(享保9年)にさかのぼり、290年以上の歴史をもつ。蔵元として「浦霞」を製造している。近年になり「本社蔵」の他に東松島市に「矢本蔵」を造り、2ヶ所で酒造りを行っている。東北地方初のゴルフ場・仙塩ゴルフ倶楽部は、佐浦家第11代目当主・佐浦菊次郎の創設による。なお、佐浦家の現当主は第13代目・佐浦弘一である。 |
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