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ゲニステインの癌との関連 ゲニステイン及びその他のイソフラボンは、(新しい血管の形成を阻害する)抗血管新生作用を有することが発見され、細胞分裂と細胞の存続(成長因子)をコントロールする体内の物質活性を阻害することにより多分に癌に関連した無秩序な細胞の増殖を阻止する可能性がある。様々な研究が、適切な濃度のゲニステインが前立腺癌 、子宮頸癌、脳腫瘍、乳癌及び大腸癌の防止効果を有していることを示している。エストロゲン拮抗剤を使用しない場合にエストロゲン依存乳癌の増殖速度をゲニステインが増加させるという報告がいくつかある。加えて、ゲニステインが細胞を放射線治療への感受性を高めることが示されているが 、植物エストロゲンの使用タイミングもまた重要である。ゲニステインが白血病を治療することに有効であることがげっ歯類で示されており、他の白血病の治療薬と併用することにより効果を高めることができるとしている。ゲニステインの主な活性作用は、チロシンキナーゼ阻害剤としてである。チロシンキナーゼは、セレン/スレオニンについてのキナーゼよりも広範な酵素ではないが、ほとんどすべての細胞の成長と増殖のシグナル伝達に関わっている。DNAトポイソメラーゼIIの阻害もまた、ゲニステインの細胞毒性作用での主要な役割を演じている 。ゲニステインは、抗CD19(en:CD19)抗体との共役を通じてプレB細胞を選択的にターゲットとしている。
イブラヒマ・トゥーレの経歴 FCメスの下部組織から2005年成都天誠足球倶楽部に移籍。 モロッコのウィダード・カサブランカを経て2007年イランのパイカンFCにレンタルで移籍、21試合で13点を稼ぐ。そこからペルセポリスFC、セパハンFC時代を含め、4シーズン続けて2ケタ得点を記録する安定した活躍を見せる。2011年、UAEのアジュマーンCSCに移籍したのち、リーグ1復帰を目指すASモナコに移籍し17試合で10点を記録。2012-13シーズンは18点をマークして見事にモナコのリーグ1復帰に貢献する。しかし、それに伴う大型補強(ファルカオ・ガルシアやハメス・ロドリゲスなど)のあおりを受け、2013年8月14日、アル・ナスルSCと契約して再びUAEへと渡る。2012年、セネガル代表デビューを果たした。
ドミニク・ウェストのプロフィール ヨークシャー州シェフィールド出身。両親はアイルランド・カトリック系。名門パブリック・スクールであるイートン校を卒業後(デーヴィッド・キャメロンと同級生であった)、ダブリン大学のトリニティ・カレッジで学び、またギルドホール音楽演劇学校で演技を学ぶ。1991年にデビュー。以後、舞台・映画・テレビで活躍。
ドミニク・ウェストの私生活 ナイトの称号を持つ貴族の娘であるCatherine FitzGeraldと2007年に婚約、2010年に結婚。3人の子供がいる。
モントルー・オーベルラン・ベルノワ鉄道GDe4/4形電気機関車の概要 日本での発売日は2001年9月14日。米国とカナダでは11月18日に、ヨーロッパでは2002年5月3日に発売された。日本での発売当時のメーカー希望小売価格は25,000円。略称はゲームキューブ、キューブ、GC、NGC。開発コードネームは「ドルフィン」。本体および関連製品の型番にはDOLが付けられている。日本での販売台数404万台、北米で1294万台、その他477万台。全世界累計販売台数は2174万台(2012年現在)。本体の生産はすでに終了しており、公式修理サポートについても2012年7月に終了した。ソフトの修理サポートは引き続き原則可能となっている。なお、同時にゲームボーイアドバンス(2013年にはゲームボーイアドバンスSPとゲームボーイミクロも修理サポート終了)の修理サポートも終了した。任天堂のゲーム機としては初めて、標準ソフトウェア供給媒体として光ディスクを採用した。使用しているのは任天堂と松下電器産業(後のパナソニック)が共同開発した、DVDを基にした独自のメディアで、ディスクの直径は8センチメートル、また、CAV方式とすることで高速なデータ読み込みを実現している。普及している一般的な規格と違えることで違法コピーを作りにくくするという海賊版対策もあった。データ容量は約1.5GB。松下電器産業の著作権保護技術(→コピーガード)が使われている。当初はMDと同じプラスチック製のカートリッジで覆う予定だったが、DVDとの互換性が取れなくなると松下電器に反対されたため、現在の形になった。前機種NINTENDO64の反省を踏まえ、瞬間最大性能の高さよりも、安定的に高性能を発揮し、ゲームを作りやすいハードウェアとすることを念頭に開発された。岩田聡(当時、任天堂取締役経営企画室室長)によると「開発で最初に重要視したのが「数字主義、スペック主義からの決別」」である。いくらスペックが素晴らしくても、実際にソフトを開発してみると使えないスペックが多く、スペックが嘘になってしまうことを踏まえ、「ピーク性能を重要視するのでなく、現実的にゲームづくりで使える実効性能を重要視」している。ゲームキューブのスペックは、NINTENDO64と比較してCPU速度を10倍、グラフィック処理速度を100倍を念頭に開発されたがピーク性能上はそれを満たしていない。しかし、岩田によると「実効性能としてはまさに依頼したCPU10倍、グラフィック100倍が達成できた」としている。CPUには、PowerPC 750を基にIBMが拡張した独自CPU「Gekko」を使用している。メモリにはMoSys社の開発した1T-SRAMを採用し、DRAM並のコストでSRAM並のアクセス速度を実現しているが、メモリ搭載量は24MBにとどまった。グラフィックチップのダイ上にグラフィックメモリを混載することによって、高速なアクセスを実現している。グラフィックチップである「Flipper」は、ArtX社が開発した。同社がATI社に買収されたことにより「Flipper」はATI製となり、ゲームキューブのパッケージにはATI及びIBMのロゴが印刷されている。製造はNECにより行われた。全体的なグラフィック性能はPlayStation 2より上である。左側には改良型のコントロールスティック・従来通りの十字ボタンに側面のLトリガーボタン、右側には一際大きなAボタン(緑)を中心にして、周囲にBボタン(赤)・Xボタン(灰)・Yボタン(灰)が配されている。他には3Dスティックと同じ構造のCスティック(黄)、側面のRトリガーボタン・Zトリガーボタン(青)を配する。中央にはSTARTボタンがある。L・Rトリガーボタンは押さえる深さによって強弱がつけられ、最後まで押し込むともう一段階クリックできるようになっている。モーターが内蔵され、ゲームに反応してコントローラが振動する。本体色はバイオレット、オレンジ、ブラック、バイオレット&クリア、シルバー、エメラルドブルー、ホワイトの7種。本体には同色のコントローラー1個が同梱。2002年にグッドデザイン賞を受賞した。本体には時刻などの本体設定を記憶しておくためリチウム一次電池を内蔵している。そのため、電池が切れるとそれらを設定しなおしても記憶できなくなる。また、この電池は市販品でないため、任天堂で交換してもらうこととなる(有料サポート)。
西江邸の概要 ゲームキューブは一部のゲームでステージやアイテム等として登場している。ただし、操作の説明や注意書きとして登場しているものはここでは対象にしないものとする。
喜多村久隆の生涯 県道33号線沿いから少し坂を上ったところに位置し、現在も個人宅として維持管理されている。現在で18代目となる。6代目兵右衛門が宝暦年間(1751年 - 1761年)、本山鉱山から採掘された鉄鉱石より、日本で初めて弁柄(酸化第二鉄)の精製に成功した。以来350年にわたり、弁柄の原料となる緑礬(ローハ)と弁柄(酸化鉄)の生産で富を成した。西江邸の母屋等創建は宝永・正徳年間(1704年 - 1715年)である。当時、惣代庄屋で代官を兼ね、白洲跡・郷倉・駅馬舎・手習い場・式台などその当時の社会システム(自主的行政機構)がわかる。江戸期の上層民の暮らしぶり(大名と町屋の中間的存在)を残す貴重な歴史的建造物といえる。敷地は約3000坪、部屋数は41部屋,161畳を数える。邸宅としては珍しく櫓門がある。現在、郷蔵を資料館とし、また、邸内一部・役宅部分を一般公開している。銅山を中心として弁柄産業で栄えた吹屋地区のランドマークのひとつであり、現当主によりベンガラ(弁柄)産業を復興させた。人の住まう活きた文化財である。2012年2月29日、西江邸は東北地方太平洋沖地震に伴う津波で消失した朱塗りの建築物「六角堂」(茨城県北茨城市大津町五浦)の再建を支援するため、六角堂管理者の茨城大学へ江戸時代のベンガラ2.5kgを寄贈した。
ニール・キャプランの人物 父久武が家督を継がなかったため、祖父親守から家督1200石を継いだ。天保14年(1843年)書院番頭から用人兼帯となった。弘化元年(1844年)7月8日より10日までの長雨で俗に「大鰐流れ」と呼ばれる大洪水が発生し、死者49人を数えた。その際、息子の富弥(後の久盛)が弘前で興行していた江戸相撲の見物に行きたいと申し出た。しかし、久隆は民が困っているのにのんびり相撲見物など水害に遭った人たちに申し訳ないといい、許可しなかったという。弘化3年(1846年)には家老となっている。
ローリー・ニコルの経歴 選手時代は女子シングルの選手として全米選手権に出場した。19歳でジョン・カリー率いるアイスショーのメンバーとなり、1983年には世界プロ選手権で銀メダルを獲得している。1996年、世界チャンピオンとなったミシェル・クワンの『サロメ』の振付師として一躍脚光を浴びる。手がけるプログラムの幅は広く、スケーターの個性を強く現したプログラムが多いとされる。音楽の中に自然に要素(エレメンツ)を盛り込み、洗練された振付が評価されている。村主章枝によると、ニコルは選手自身が振り付けを難しくすることには寛容だが、手を抜いているのを見つけるとその選手にメールを送って注意するのだという。
ライトナーシステムの例1 A、B、Cの3箱に問題用紙が入っている。 Aの問題は誤答数が多く、Cの問題には正答数が多い。 Aを毎日、Bは2-3日おき、Cは5日ごとに復習し、A(B)の正答時には当問題をB(C)へ振り分け、BやCの誤答時にはAに差し戻す。この方法により、誤答率が高い問題に集中して取り組むことで 総学習時間が抑えられる。
NHKアニメ劇場の概要 NHK総合テレビとしては『モンタナ・ジョーンズ』の放送終了(1995年4月8日)以来、9年ぶりに新設されたアニメ番組枠である。作品傾向は子供から大人まで楽しめる家族向けの作品が放送された。この番組が新設された背景には政府のアニメ支援策に対応したNHKのアニメ番組強化策があったと言われている。2004年5月28日、放送総局に「アニメーション室」というアニメ番組の専門部署が設置され(後に編成局ソフト開発センターに移管)、初代室長に大河ドラマなどを手掛けてきた浅野加寿子が就任し、『アガサ・クリスティーの名探偵ポワロとマープル』(以下、『ポワロ』)を製作した。従来のNHKアニメは関連会社のNHKエンタープライズと総合ビジョンが中心となって企画製作してきたが、NHKアニメ劇場ではNHK本体が主導的な役割を果たしていると言われている。また、この枠で放送された番組のうち、『ポワロ』と『雪の女王』では声優に有名な俳優を積極的に起用した。しかし、『雪の女王』の後番組の『ジミー・ニュートロン 僕は天才発明家!』では一転して有名俳優の声優起用は全く行わず、この傾向は本枠最終作となった『少女チャングムの夢』に引き継がれた。
NHKアニメ劇場の日曜時代 放送開始から2006年3月12日まで毎週日曜日19時30分 - 19時55分に放送された。初期の2作品はアニメ本編の後に、作品の背景などを紹介する3分の実写ミニ番組が続けて放送された(『火の鳥』は「もっと知りたい 火の鳥物語」、『ポワロ』は「アガサ・クリスティー紀行」)。これに似たようなスタイルは同じNHK総合テレビで1992年4月から1993年3月まで放送された『お〜い!竜馬』でも採用された。しかし、『雪の女王』以降は、他の時間にも放送される世界遺産のミニ番組「シリーズ世界遺産100」が放送されるようになり、作品との関連はなくなった。なお2006年4月9日以降、日曜のこの時間は「ダーウィンが来た! 〜生きもの新伝説〜」が放送される。
NHKアニメ劇場の土曜時代 2006年4月8日からは毎週土曜日19時30分 - 19時55分に移動した。NHK総合テレビにおいてこの時間枠にアニメ番組を放送したのは1979年4月7日 - 1980年4月5日に放送された『アニメーション紀行 マルコ・ポーロの冒険』以来26年ぶりだった。だが『少女チャングムの夢』一作しか放送されず、その作品が終了した同年12月をもってNHKアニメ劇場は廃止された。なお後番組として2007年1月から「THEクイズモンスター」が開始された。また、総合テレビのアニメ枠はこの枠の廃止をもって一度は消滅したが、わずか3か月後の同年4月に『彩雲国物語』が土曜(金曜深夜)1時10分の枠で放送を開始したことで復活した。幾度かの放送日時の移動を経て、2015年4月以降水曜深夜(木曜未明)にアニメ放送枠が設定された。
パンテレイモン=ヴィクトーリヤ (戦列艦)の建造 パンテレイモン=ヴィクトーリヤは、1719年3月22日にサンクトペテルブルクの海軍工廠で起工した。建造は、フランス人の艦船巨匠ブレズ=アントワーヌ・パンガロによって進められた。聖パンテレイモンの聖名日である1721年7月27日に進水し、バルト艦隊に編入された。
パンテレイモン=ヴィクトーリヤ (戦列艦)の設計 パンテレイモン=ヴィクトーリヤは、3本マスト、2層甲板の帆走戦列艦であった。甲板には、66 門の艦砲を搭載した。フランス人のパンガロによって設計されたため、艦はフランス様式をしていた。縦方向への強度を確保するため、国産艦としては初めて対角線状の繋ぎ材を使用した。
パンテレイモン=ヴィクトーリヤ (戦列艦)の活動 レーヴェリに母港を置いた。1722年と1723年、そして1727年には分遣隊および連合艦隊に所属してフィンランド湾での演習航海を行った。1726年には、連合艦隊とともにクロンシュタット港外停泊地にて乗員の訓練を実施したが、出航はしなかった。1728年にはクロンシュタット港に留置され、武装を解除された。1734年9月にはクロンシュタットからレーヴェリに移動した。1736年に解体された。
鼻行類の影響 『鼻行類』は後に著された『平行植物』および『アフターマン』と併せて「生物系三大奇書」と呼ばれることがある。このうち、『平行植物』が民俗学的書籍の、『アフターマン』が一般向け科学解説書(あるいは、子供向け科学図鑑)のパロディーの体裁をとるのに対して、『鼻行類』は徹底して科学分野の専門書のパロディーである。そのため、関わりを持つ人物には生物学の専門家が多い。上記のように本当の作者も動物学者であるし、日本語訳は一級の動物行動学者である日高敏隆が行っている。フランス語版にはフランス動物学会の重鎮グラーセが序文を書き、総合学説で説明できるのか・コビトハナアルキは鼻行類なのか、について否定的な疑問を呈すると、シンプソンが『サイエンス』の書評にてグラーセの見解に対し、総合学説で説明可能でありコビトハナアルキは鼻行類であると反論した。本書の評価本(『シュテンプケ氏の鼻行類 - 分析と試論』ゲーステ著・今泉訳)が出版されている。このほか、片倉・馬渡の『動物の多様性』(2007年、培風館)では標本に関する議論の中でこの書を取り上げ、それが虚構であることには一切触れずに、「標本が存在しないため、これを確認することが不可能であること」を惜しみ、フランスの博物館にて一時展示されていたハナススリハナアルキの剥製(当然作り物である)について「その時に解剖を依頼すればよかった」と悔やんでいる(もちろんこれも手の込んだ冗談である)。ドイツのシュテフェン・ヴォアスは『ジェットハナアルキ Aurivolans propulsator PILOTOVA (哺乳綱,鼻行目)における飛行の原理について』という論文を書き、その中でジェットハナアルキというあたらしい鼻行類について解説している。この論文の和訳は日本語版『鼻行類』の思索社版と博品社版には補遺として掲載されていた。荒俣宏は『世界大博物図鑑』において、「フランスでは鼻行類という分類は認められていない。これは、大統領シャルル・ド・ゴール(在任期間:1958- 1969年)が、巨大な鼻を持つ自分への当てこすりであるとして、パリ植物園への鼻行類の標本搬入を拒否したためである」と記述している。これも分類のくだりは冗談であると思われるが、パリ植物園への標本搬入拒否についての真偽は定かでない。
證願寺の起源と歴史 1600年に上杉民部之輔の三男・證願が湯島に創建。その後、江戸の大火で浅草に移転し、更に関東大震災の区画整理で昭和7年に現在地の葛飾区立石に移転し、現在に至る。
證願寺の歴代住職について 第16代住職は声明・読経・儀式作法などに詳しく、多くの弟子を指導した。第17代住職の春日了は、声楽家・アマチュア天文家・奇術師としても有名。本人の特技を活かしユニークな寺に改革した(詳しくは本人の項目を参照)。声楽家としては日本の他にヨーロッパでも歌い、2002年からは後進の若い歌手のために毎年声楽のコンクールを開いている。(ベルカント・ソプラノ・コンコルソ)。奇術研究家としては(社)日本奇術協会参与としてマジック機関紙『ワン・ツー・スリー』に執筆している。天文家としては境内に春日天文台を持ち、プラネタリウムを建設して公開している。プラネターリアム銀河座館長・解説員、日本プラネタリウム協議会(JPA)正会員。
證願寺の本寺の特徴 本堂に、読経中用として電光掲示板による「お経の同時通訳機」を設置。 見ていればお経の中身がわかる仕組みになっており、中学生以上の日本語能力で理解できるように文章ができている。 1996年には、ペンタックスから試作品のプラネタリウム投影機を譲渡してもらい、「銀河座」を設置。法事の後にはプラネタリウムで星空や宇宙の最新映像による説法をし、仏教を判りやすく解説している。仏教は死後や死期が近づいた人達のものではなく、「日頃のストレスから離れリラックスする人生を送る方法としてある」と力説する。また、毎月第1・第3土曜日の午後3時からは「一般向け」に宗教色のない天文普及のプラネタリウムとして公開している。月2回という少ない公開日だが、毎月番組を更新しており、解説員2人で解説を行っている。寺の外観は中央に本堂があるが、これは古都の風情を醸し出す重厚な木造本堂で、東京では最後期の本式木造本堂。宮大工が手仕事で丸く削った柱をはじめ、日本の木材による総檜造り。十分な前庭にはライオンの石彫刻や木々の間に大型恐竜の模型展示がある。入り口の塀やビルの壁面には壁画が大きく描かれている。自然と宇宙と仏教をイメージした内容となっており、寺の裏の塀40mには古代の森にいろいろな恐竜が遊ぶ姿が描かれている。 それらについては「銀河座」のサイトで見ることが出来る。
證願寺の所在地 東京都葛飾区立石7-11-30
葉室定嗣の経歴 建保2年(1214年)に叙爵。以後但馬国、美濃国などの国司や蔵人頭を歴任し、仁治3年(1242年)に従三位。宝治2年(1248年)には正三位、権中納言に昇る。後嵯峨上皇の院司として重用され、院と六波羅探題との間に立って両者の調整役を務めた。建長2年(1250年)に致仕。弘長年間(1261年-1263年)には出家し、法名を定然と称したとされる。その日記『葉黄記』は、朝廷側の立場から鎌倉中期という時代を活写した史料として貴重である。また晩年には浄住寺の中興を手がけたことでも知られている。
森田遥の人物・来歴 両親は中華人民共和国の卓球選手で、日本で卓球コーチをするために来日し、在住している。遥は生まれも育ちも日本だが、日本の国籍法により国籍は中華人民共和国である。父と練習場に行ったことがきっかけで9歳よりゴルフを始める。香川大学教育学部附属高松小学校、香川大学教育学部附属高松中学校を経て、高松中央高等学校卒業。2013年度(第55回)の日本女子アマチュアゴルフ選手権競技優勝。2013年、2014年と、中国籍でありながら日本ナショナルチームメンバーに選出されている。2015年にプロ転向し、米下部ツアーに当たるシメトラツアーに参戦。転戦にかかる費用約2000万円のうち500万円をクラウドファンディングにより支援を呼びかけ、最終的に773万5000円を集めた。2015年5月には、シメトラクラシックにてプロ初優勝を挙げる。年間賞金ランク10位以上に入ると翌年のレギュラーツアーに参戦できるが、惜しくも11位に終わった。2016年からは、日本のJLPGAツアーツアーに参戦している。2016年、ANAとスポンサー契約。2017年8月6日、北海道meijiカップにてJLPGAツアー初優勝。この優勝により森田は日本女子プロゴルフ協会正会員登録の権利を得た。また、森田は、国籍問題については「(日本と中国の)どちらかを選ばなければならないことは承知しているが、じっくり考えたい。今は自分のゴルフを磨きたい」として、熟考中であることを明らかにしている。2018年から、クラブ、シャフトを含む用具使用契約をヨネックスと締結。
毛利元氏の仁保氏を相続 弘治2年(1556年)、吉川元春の次男として生まれる。永禄11年(1568年)1月21日に毛利輝元の加冠により元服し、毛利元就より「元」の字の一字書出を受け、元棟と名乗った。永禄9年(1566年)11月21日に周防国の仁保隆在が男子のいないままに死去していたため、元亀2年(1571年)に仁保隆在の娘と婚姻し、婿養子として仁保氏の1700貫の所領と家督を相続した。これにより、これ以前に与えられていた300貫と合わせて2000貫を領した。しかし、元棟(以下、元氏と表記)は未だ若年であったために、後見役・毛利氏向名代として吉川氏一族の江田智次(宮内大輔)が付けられた。永禄12年(1569年)に尼子勝久や山中幸盛ら尼子氏再興軍が出雲国へ侵攻したため、父・元春や兄・元長らと共に元氏も出雲国へ出陣した。永禄13年/元亀元年(1570年)には父や兄と共に、尼子勝久や大内輝弘と手を組んで毛利氏の後方を撹乱していた三隅国定を討ち取っている。その後、恩賞として三隅氏の旧領3000貫を得た。天正3年(1575年)12月23日には安芸国上下庄北の北就勝の旧領100貫の地、天正5年(1577年)2月14日には出雲国の秋上氏の旧領を与えられる。また、後に山陰地方の肥中港(現在の山口県下関市豊北町神田肥中)や瀬戸崎港(現在の山口県長門市仙崎)を押さえて、山陰の海運を担うこととなった。出雲国への出陣以降も中国地方各地を転戦し、天正6年(1578年)の播磨国上月城の戦いや、天正9年(1581年)の因幡国鳥取城での戦い等に参加した。父や兄と共に救援として参陣した鳥取城の戦いでは、外曲輪への一番乗りを果たしている。天正10年(1582年)5月13日、吉見広頼と起請文を交わし、今後の昵懇を誓った。
毛利元氏の繁沢元氏へ改名 豊臣秀吉による九州平定に元氏も従軍したが、天正14年(1586年)11月15日に父・元春、天正15年(1587年)6月5日に兄・元長が従軍中に相次いで病死すると、弟の経言(後の広家)が吉川氏を相続し、元氏は輝元の意向によって同年8月に仁保氏の名跡を神田元忠に譲り、苗字と名を改めて繁沢元氏と名乗った。吉川氏の後継が元氏でなかったのは元氏が病がちであったためとされ、後の文禄・慶長の役も病により出陣できず、広家に家臣を遣わしている。また、広家が家督相続した後しばらくは元氏と広家は不仲であったようで、天正19年(1591年)6月13日に小早川隆景が広家へ宛てた書状では、元氏と融和することを勧めている。天正15年9月6日には石見国の福屋隆兼旧領である3000貫の地を与えられて石見国浜田城を築き在城し、天正19年(1591年)には九州平定の手当として長門国豊浦郡殿井龍山城を預けられた。これによって元氏の所領は5100貫の地に秋上氏旧領を加えたものとなり、文禄5年(1596年)3月23日の分限帳では、元氏の本領が10371石6斗5升9合、一所衆の杉元良領1133石3斗2升8合、朝倉元息領824石1斗8升7合、河屋氏領22石7斗3升1合で合計12351石9斗5合が元氏の所領となっている。さらに慶長2年(1597年)に広家から安芸国内の2000石をに元氏一代限りで分与されたが、当初元氏は2000石のうちの500から600石が課役無しであることを望んで受け取りを渋り、隆景から毛利氏の分国内にも課役の無い者はいないので広家が朝鮮に出兵する前に速やかに受け取るようにと説得を受けている。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍が敗れ、毛利氏が長門国と周防国の2か国に減封されると元氏も周防国へと移り、同年11月2日に玖珂郡内に3166石を与えられた。
毛利元氏の関ヶ原以後 慶長18年(1613年)、嫡男の元景が名字を毛利に復することを許され、周防高森から転封、現在の豊北町阿川・滝部地区周辺を治める。子孫は長州藩一門家老の阿川毛利家として存続した。なお、元氏は以後も「繁沢」の苗字で通したようで、慶長20年(1615年)4月14日の、毛利元就の遺訓に従い毛利家へ別心を抱かない旨を誓った連署起請文では「繁澤左近入道立節」と署名している。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、嫡男・元景を大坂へ出陣する毛利秀就に従軍させ、元氏は留守居として萩城へ詰めた。同じく大坂へ出陣したものの病によって帰国した輝元は、元氏の留守居の功を賞して祝儀として小袖一つと両樽折を送っている。元和8年(1622年)3月6日、伊勢守の受領名を輝元から与えられた。寛永2年(1625年)8月13日の御配所付立によると、長門国豊田郡天宮の内の200石を与えられたが、同年12月22日には隠居領として周防国玖珂郡の天野伝三郎先知行地の内の中曽根村200石を与えられた。寛永8年(1631年)閏10月16日に死去。享年76。元氏の200石の隠居領は、末子の繁沢就真が相続した。
ボーイズ (テレビ制作会社)の概要 1998年6月1日設立。朝日放送と松竹芸能が共同出資していた制作プロダクション『ビデオワーク』(現在は解散)に所属していたスタッフが中心となって設立された会社である。また、ビデオワーク時代の番組の復活特番等も制作に携わっている。設立当時は関西テレビの情報番組の制作協力が多かったが、2002年からやしきたかじんの特別番組の番組制作に係る様になった以降、たかじんの冠番組の制作を担当していく。
富士山駅の概要 山梨県富士吉田市の中心駅であり、市内では年間乗降客数が最も多い。沿線住民の通勤・通学のみならず、富士登山や富士山周辺の観光に利用されている。
富士山駅の駅名の改称 開駅当時は富士吉田駅だった。当駅は富士山信仰の面影といえる資産が周辺に多数存在し、また富士山の吉田口登山道を目指す登山者にとっての出発点となっている。こうした背景を受け、富士山の玄関口としてのイメージをさらに高めて国内外から観光客を誘致するとともに、富士登山や富士山観光のターミナルステーションとしての機能の充実を図ることなどを目的として、2011年(平成23年)7月1日に駅名を富士山駅に改称した。この日は2011年の富士山の山開きの日であった。なお、富士急行は「富士山駅」を商標登録している。
富士山駅のバス路線 駅前にバスターミナルがあり、各方面に向かう高速バスや一般路線バスのほか、周辺の観光地へ向かう周遊バスや富士山五合目行きの登山バスが発着する。バスターミナル内にはバスきっぷ売場があり、高速バスの乗車券や路線バスのフリー切符・定期券が販売されている。停留所名は高速バス、一般路線バスとも「富士山駅」となっている。
ブルーノ・カニーノの略歴 地元ナポリでヴィンチェンツォ・ヴィターレにピアノを師事。ミラノ音楽院でエンツォ・カラーチェやブルーノ・ベッティネッリらに師事してピアノと作曲を学ぶ。1956年と1958年にブゾーニ国際ピアノコンクールに、1960年にはダルムシュタット・クラーニヒシュタイナー音楽賞演奏部門の第2等に入賞した。ソリストや室内楽奏者、伴奏者として国際的に速やかに名を揚げ、これまでにイツァーク・パールマンやサルヴァトーレ・アッカルド、ヴィクトリア・ムローヴァ、ピエール・アモワイヤル、ウート・ウーギ、リン・ハレルらと共演してきた。また、ヴァイオリニストのマリーナ・シルブやチェリストのロッコ・フィリッピーニとともに、ミラノ三重奏団を結成している。アントニオ・バリスタと組んだピアノデュオは当時世界で最も優れたピアノデュオとしてルチアーノ・ベリオ、ジェルジ・リゲティの激賞を受け、録音もかなり残されている。現代音楽の熱心な支持者でもあり、ベリオやマウリツィオ・カーゲル、ヴォルフガング・リーム、ヤニス・クセナキスらに作品を献呈されている。自らも数々のピアノ曲や室内楽曲を作曲しているが、作品発表はさほど多くない。演奏する曲目は古典のほうが比重が多く、現代音楽のみのリサイタルは前衛の停滞が叫ばれて以降ほとんどおこなっていない。1999年から2001年までヴェネツィア・ビエンナーレの音楽監督を担当した。主要な録音の一つに、ドビュッシーとカゼッラのピアノ曲全集や『ゴルトベルク変奏曲』がある。ムローヴァと共演したリサイタルの録音は、エジソン賞を獲得した。キャシー・バーベリアンを伴奏した音源も存在する。
ブルーノ・カニーノの日本との関わり 日本とはつながりが古くからあり、日本のレーベルで録音、日本人の弟子と共演、草津のフェスティバルに呼ばれるなど拠点としていた。いずみホールで『ゴルトベルク変奏曲』を演奏したこともある。
アルトマン・ホワイト・イングリッシュ・ブルドッグの概要 出場者は既婚女性者限定で、クイズや実技で料理などを盛り込んだコーナーに挑戦する番組である。
マルクス・ウァレリウス・マクシムス・コッリヌスの経歴 紀元前312年、マルクス・ウァレリウスはプブリウス・デキウス・ムスと共に執政官に就任し、サムニウムに対する軍事作戦の指揮を執ることとなったが、特別な勝利を得ることはできなかった。しかし、凱旋式のファスティには8月13日に凱旋式を実施したと記録されている。他方、プブリウス・デキウスはサムニウムと同盟したと思われたエトルリアに対する作戦の準備を行った。しかしプブリウス・デキウスは病気となり、元老院はガイウス・スルピキウス・ロングスを独裁官(ディクタトル)に任命した。
弁慶橋の歴史 弁慶橋は江戸城普請に携わった大工の棟梁であった弁慶小左衛門が架けた橋に始まり、彼の名から「弁慶橋」と名付けられたと伝えられる。かつては神田松枝町と岩本町との間にある藍染川下流に架かっていたが、1885年(明治18年)に藍染川が下水道工事で埋められると弁慶橋も不要となり、撤去された。しかし、このまま名橋が失われるのは惜しいということで、1889年(明治22年)に紀尾井町から元赤坂一丁目に通じる道筋にある江戸城外堀へ、元の弁慶橋の廃材を利用して架橋された。堀は橋にちなんで弁慶堀と呼ばれるようになり、橋が無くて困っていた両岸の住民は大いに喜んだという。さらに1985年に改築されたのが、現在の弁慶橋である。本体はコンクリート製であるものの、木製の欄干や古風な擬宝珠から、外国人を含む観光客に人気がある。太平洋戦争後に荒廃していた弁慶堀を、小林義光が費用を負担して清掃し、千代田区の許可を得てボート乗り場を開いた。平成時代になってからは釣り堀も併設された。
弁慶橋の藍染川 藍染川は、江戸時代には現在の神田金物通りの一本北の道筋に流れていた、川幅1間(1.8m)ほどの小川であった。谷戸川から流れ出し、下流は不忍池に流れていた。名前の由来は、川の周辺に紺屋が集まっており、その水を使って藍染めをしていたからという説が有力である。1884年(明治17年)、人家が増えたことで下水の通りが悪化した東京で、衛生状態を改善するために初めて近代下水道が建設されることになると藍染川もその対象となり、工事の結果、川やそこに架かっていた橋は姿を消した。弁慶橋のほかには新橋、紺屋橋、汐見橋、白壁橋、掃部橋などがあったというが、詳細についてはあまり分かっていない。
杜預の略歴 杜預は博学で物事に通暁し、興廃の明に長けており、常に「徳は企及を以てすべからず、功を立て言を立つが庶幾(ちか)きなり」と言っていた。祖父が魏の尚書僕射、父が幽州刺史という名門であったが、父は岳父の司馬懿と折り合いが悪く、終には幽死させられた。このため、杜預も長い間不遇をかこっていた。後に義兄の司馬昭が司馬家の当主となると、その妹婿であった杜預は尚書郎となり、父祖の爵位である豊楽亭侯に就いた。尚書郎に四年間在任した後、参相府軍事に転任する。263年の蜀漢攻略の時は、鎮西長史として従軍した。鍾会がクーデターを起こしたとき、同僚たちは軒並み罰せられたが、杜預は計画に与しなかったのを証明したため処罰を免れた。また鄧艾を尊敬していたため、鄧艾を殺した衛瓘・田続らを厳しく非難している。賈充らとともに律令の制定に与り、杜預が注解することとなった時、杜預は次のように奏上した。「法とは、墨縄で筋目をつけるが如き存在であって、理を窮め性を尽くす類の書ではありません。ですから、本文は要約され判例は正しく、また省略は許されても単純化は禁ずるのです。判例が解り易く、且つ見易すければ、人々の知るところとなり、罪を犯すのを避けるでしょう。単純化されず犯し難いとすれば、刑罰を執行する回数は減るでしょう。刑の基は簡潔かつ廉直なことにあるのですから、道徳上の立場を明らかにしなければなりません。古の刑法は、鐘鼎に銘せられ金石に刻まれ(明文化することで)濫用を防ぎました。この法を用いる者は、最善の判例とともに裁判の趣旨を明らかにし、墨縄の真直さで在らしめなくてはなりません。」泰始年間(265年 - 275年)、官吏の貶降と昇進について下問を受けると、次のように述べた。「上古聖代であれば、功績は本人が黙っていても広く詳しく伝わったようです。しかし、今は違います。遠方のことについて、詳しく知ることはできません。人々は心を疑う代わりに耳目を信じ、耳目を疑う代わりに文書を信じます。文書はいよいよ多く、それに従って官による偽造もますます増えます。法令は煩雑になり、文章が飾り立てられるばかりです。優劣を挙げるとすれば、各々監査する官を設けるに越したことはありません。毎年、人望や評判の高い人物に優を一つ、評判の悪い者には劣を一つ加えます。六年して、最も優の多い者は抜擢し、劣ばかりならクビにするのです。優が多めで劣が少ないならそれなりに昇格させ、劣が多めで優が少ないものは左遷します。」この上奏を遺憾とした司隷校尉の石鑒は、杜預の職を免じた。その頃、異民族が隴右に来襲し、杜預は安西軍司として派遣され、長安で秦州刺史・東羌校尉・軽車将軍・仮節を授けられた。安西将軍となった石鑒は、敵の勢いが盛んであるのに、杜預へ出撃を命じた。杜預は、相手が勢いに乗じており装備も固く、対して官軍の装備は乏しいことから、春まで進軍を待たなければ十中八九勝算はないと言った。石鑒は激怒して「杜預は恣に城門や官舎を飾りつけている」と上奏したため、杜預は檻車に収監の上で護送されてしまった。杜預の処遇について議は長引いたが、杜預夫人が司馬炎の叔母であることから、爵位で罪を贖うということで決着が付いた。その後、隴右の情勢は杜預の言葉通りとなり、朝廷では杜預が戦略に明るいと評判になった。やがて匈奴の劉猛が叛き、并州以西や河東郡・平陽県に威を及ぼすと、杜預は度支尚書に任命されて支援対策に当たった。彼は新兵器を開発させる一方、常平倉の設置や穀物の一定買取、塩の定期輸送で農政を安定させ、その上で税制を整えた。これによって、内外五十余条の地域を救済した。ところが、石鑒の論功行賞が不誠実であるのを糾弾したことから激しい口論となり、杜預と石鑒の両名とも免職され、散侯(爵位はあるが官職がない貴族)となった。数年後、杜預は再び度支尚書を拝命した。この頃の孟津は渡航が難しく、しばしば船舶の転覆事故が起きた。杜預は上奏して、富平津へ橋を架けることを請うた。朝議では「殷や周の都において、歴代の聖人賢者は橋を作らなかった」との理由で、橋を造る必要はないとした。しかし、杜預は「『舟を造りて橋と為す』とあるでしょう。これはつまり、舟橋を作ったということです」と反論し、架橋に扱ぎ付けた。橋が完成すると、武帝をはじめ百僚が式典に立会い、武帝は「あなたがいなければ、この橋は建てられなかったな」と称えた。杜預は「陛下のご明断がなければ、私は微力も施すことはできませんでした」と答え、帝の面目を保った。咸寧四年(278年)秋、長雨と蝗害が起こると、『晋書』食貨志に農要が多く記載されていることを提言している。このように、杜預の政策は的確で無駄がないことから、朝野は賞賛して「杜武庫」と呼んだ。咸寧四年(278年)冬、羊祜に代わって荊州に赴任した杜預は、呉を討伐する旨を上奏して許された。翌太康元年、杜預率いる晋軍は大挙して呉を攻め、ついにこれを滅ぼす(#呉征討の過程にて詳述)。凱旋後、杜預はその功績によって当陽県侯に昇格し、食邑は9600戸に及んだ。杜預は「私の家は、代々、官吏の家です。武功は功績になりません」と辞退しようとしたが、許されなかった。その後も江夏・漢口の経営にあたり、住民に大変慕われて「杜父」と呼ばれ、江南では「後世、杜翁に由って叛くこと無かれ。孰れも智名と勇功を識る」と謳われた。杜預は後世に名を残すことを願っており、常に「高岸を谷と為し、深谷を陵と為さん」と言っていた。そして、自分の勲績を刻んだ碑を二つ造らせ、一つは万山の下へ沈め、もう一つを峴山の上に立てた。一方、大功を立てた身として、気をつけなければならなかった。彼がしばしば洛中の貴族要人を饗応するので、人が理由を問うたとき、杜預は「彼らの恨みをかって危害を加えられないためだ」と答えたという。その後、司隷校尉に任じられたが、63歳で死去した。武帝によって、征南大将軍・開府儀同三司を追贈され、「成」と諡された。『晋書』杜預伝は、その人となりを約して「交わりを結び物を接するに、恭にして礼有り。問うに隠す所無く、人を晦するに倦まず。事において敏にして、言において慎たり」と伝える。
杜預の『左氏伝』の研究 杜預は種々の経典を広く修め、特に『春秋』の左氏伝を好んだ。彼は、馬の目利きに優れた王済と蓄財を好んだ和嶠を評して「済に馬癖有り、嶠に銭癖有り」と言っていたが、武帝から「そなたには何癖があるのだ」と尋ねられ、「臣には左伝癖有り」と答えたとの逸話が残る。『春秋』の三伝のうち、『春秋左氏伝』は充分に著者左丘明の考えを究めておらず、また『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』は詭弁によって解釈を混乱させていると考えた。そこで『春秋』の微言を交錯させながら『春秋経伝集解』を書き著した。また、諸家の説を参酌考察し、それを『釈例』と名づけた。そして、『盟会図』と『春秋長暦』を書き、独自の学問を作り上げた。『春秋』の注釈で、君主を弑した(殺した)実行犯の名前が記録されていない場合は君主が悪く、実行犯が記されていれば実行犯である家臣が悪いという説を唱えた。臣下が悪くない事例では、実行犯の名前を記録しなかったという解釈である。また、無道の君主は殺害してもよいということでもあり、渡邉義浩は、司馬昭の曹髦殺害を正当化するための学説だったと推測している。なお、彼の字「元凱」とは、『春秋左氏伝』文公十八年の条にある顓頊の八人の王子(八元)と帝嚳の八人の王子(八凱)に由来する。
山口県道239号銭屋美祢線の概要 発売当初は「フルーツクリームブラン」として、小麦繊維を砂糖と一緒に焼き固めた「オールブラン」をビスケットに使用していた。2004年からは扱いがポーラフーズからアサヒフードアンドヘルスケアに変更。2006年より、ビスケットに玄米を配合した「クリーム玄米ブラン」が初めてラインナップに登場し、以後2007年には全ての商品が「クリーム玄米ブラン」として統一された。2016年に15周年を迎えた。
ベルギーの医療の所管 ベルギーの医療制度は、主にベルギー連邦が所管しているが、予防医療など一部は3つの言語共同体(フラマン語共同体、フランス語共同体、ドイツ語共同体)が所管している。連邦政府および地方自治体の両方にて、公衆衛生大臣のポストが存在する。
ベルギーの医療の公的扶助 社会的責務(social burdens)として補助すべき人(傷病、児童福祉など)や収入の全くない人(失業や年金生活者)には、公的扶助が給付される。
チョン掛けの餌の付け方 エビ、川虫、ゴカイ、ミミズなどの生き餌を、通常のように全体を釣り針に通すのではなく、一部分だけを釣り針に引っかけるように刺す餌の付け方である。生き餌が弱りにくいという利点がある。ただし、体長の長いゴカイやミミズなどの場合には、竿を投げる時などに餌がはずれやすいという欠点もある。
チョン掛けの漁法 細い竹竿の先に返しのない掛け針を付け、箱メガネを使ったり、潜水したりして、水中の魚を見ながら引っかける漁法。鮎漁などでよく用いられる。地域によっては禁止されていることもある。
M1938 76mm山砲の概要 チェコスロバキア製のシュコダM1936 75mm山砲(Skoda 75 mm Model 1936)を基に1937年から開発が始められ、1938年に制式採用された。M1938は高い仰角を取れ、分解と組み立てを短時間で行うことが可能であった上にゴムタイヤを装備していたので牽引速度も高く、戦闘中に要員が運搬することも可能なほどに軽量であった。大祖国戦争勃発時において赤軍は800門のM1938を保有しており、山岳部隊だけでなく一部は空挺部隊でも運用された。フィンランド国防軍に5門が鹵獲され、76 VK 38の制式兵器番号を与えられた。
ピーター・ストラウスの略歴 ユダヤ系。父親はドイツからの移民でワインを扱う貿易商であった。10代後半から俳優としてキャリアを積み、22歳で『マイケル・ダグラス/ヒーロー』で役を得た。本格的に活動するのは70年代以降で、なかでも1970年『ソルジャー・ブルー』、72年の『さらば外人部隊』が知られている。その後はTVドラマで広く知られ、1977年放送の『リッチマン・プアマン/青春の炎』を皮切りに代表作に恵まれる。1880年代以降は、映画、テレビ双方で活躍。渋味のある二枚目としてコミカル、シリアス両面を起用に演じ分ける演技派としてファンを増やし、日本では1983年のSFファンタジー『スペース・ハンター』で冷徹な勇者を演じた。テレビでは1985年の大河ドラマ的作品『ケインとアベル』で主演し、エミー賞を受賞した。1990年代も映画、テレビと活躍の場を両方にもとめ、1999年の『ヴァージン・ブレイド』では、主人公ジャンヌ・ダルクと当初、衝突しながらも後に臣従し彼女を支えた精悍な武将役で登場し、健在ぶりを見せた。2000年代も多くの作品に出演している。
溝手るかの略歴 2006年12月29日、『avex audition 2006』に合格し、エイベックス・アーティストアカデミーにてレッスンを開始。2008年8月17日には、『a-nation'08』のアクトダンサーを務めた。2010年6月12日、『avex アイドルオーディション 2010』に合格し、女性アイドルグループ・SUPER☆GiRLSのメンバーとなる。2017年1月25日、20歳の誕生日当日に初めてのソロライブ『Ruka 1st LIVE "beginning" 〜twenty〜』を開催した。以降、グループ活動の他にRuka名義でソロ活動を始めることとなる。同年6月17日、SUPER☆GiRLSの4代目リーダーに就任したことを発表した。2018年10月1日、SUPER☆GiRLSから卒業することを発表し、2019年1月11日開催の『SUPER☆GiRLS 超LIVE 2019 〜新たなる道へ〜』をもって卒業した。また、同31日付でエイベックス・マネジメントを退所し、ソロのシンガーソングライターとして活動を開始した。
溝手るかの人物 SUPER☆GiRLS時代の公式ニックネームは「るか」。イメージカラー(超絶カラー)はビビッドレッド、キャッチコピーは「背はおっきいけど気はちっちゃい。ピュアなハートと歌声で笑顔の花を咲かせます。」(2014年2月23日までは「ちょっぴりへタレビビリの、全力スマイル!」)。オーディションの投票審査9位通過。2ndアルバム『EveryBody JUMP!!』収録の「My dream」で、SUPER☆GiRLSとしては初となるソロでの楽曲を披露した。2014年、ハワイ・オアフ島で開催された『ホノルルハーフマラソン・ハパルア2014』の盛り上げ隊にSUPER☆GiRLSが就任し、メンバー全員がハーフマラソンに初挑戦したが、15 - 19歳の部で部門優勝した。
カーホップの戦前 カーホップの導入は1921年にテキサス州のダラスで開店したレストラン「ピッグ・スタンド(Pig Stand)」が最初である。同地の実業家J・G・カービーは、自家用車の普及で怠惰になった人々は、やがて食事も車から出ずに済ませたい、と考えるようになるだろう、と見込み、医師のR・W・ジャクソンと組んでこの店を開いた。この店では男性の係がおり、車まで食事を運んだ。この時期にA&Wレストランの創業者ロイ・アレンがカリフォルニア州サクラメントに開店したルートビアスタンドでもトレイボーイと呼ばれる係が接客を行った。配膳係の名称は店によりまちまちで、カーホップ(carhop)の語が最初に文献に現れるのは1923年である。
カーホップの戦後 第二次世界大戦が始まると、戦場に送られた男性に代わって女性のカーホップが登場、店側はカーホップに美貌の女性を揃えて集客を図った。集客面ではカーホップの制服も重要で、軍服や航空会社の乗務員の制服を模したもの、宇宙服風、チアリーダー風など、客の目を引くためにさまざまな制服が用いられた。しかし、ファーストフード店の一般化により、カーホップを置くドライブインは減少した。カリフォルニア州サンバーナーディーノでドライブインを経営していたマクドナルド兄弟は、1948年にカーホップを廃し、セルフサービスを導入した。この措置の背景には、カーホップが異性客との無駄話に時間をつぶし、必ずしも売り上げに結びつかないことがあったという。1960年代にドライブスルーが登場すると、さらにカーホップは減少した。ソニック・ドライブインがフランチャイズ展開する各店でカーホップによる接客を行っているほか、ベビーブーム世代の懐古趣味に訴えるためあえて古い接客方式を採用する店をあるものの、こうした例外を除けばカーホップは地方の一部店舗に残るのみとなっている。一方でカーホップは1950年代から60年代にかけての時代を象徴する風俗として認識されており、1950年代のアメリカを舞台にしたシットコム『ハッピーデイズ』にはカーホップが頻繁に登場する。映画『アメリカン・グラフィティ』でもカーホップを主題にしたポスターが制作されている。
天神山城の戦いの宇喜多直家の独立 浦上宗景は元は赤松氏の重臣であった兄浦上政宗から独立して備前で旗揚げし、毛利元就などの助力を得ながら次第に勢力を広げ、やがて兄の勢力を凌ぐようになると毛利とも手を切り戦国大名となった勢力である。その後、浦上氏は永禄10年(1567年)の明善寺合戦で備中国の三村元親を撃破し、永禄11年(1568年)には備前松田氏を滅ぼし更に勢力を拡大し、備前ほぼ一国と美作・備中・播磨の一部という4ヶ国に跨る所領を持つ大名へと成長した。これらの戦いの中で活躍し、浦上家中で大きく勢力を伸ばしたのが宇喜多直家であり、長船氏や岡氏を傘下に率いて松田氏を滅ぼした後は備中に攻め込み毛利の援護を受けている三村領までも圧迫するなど強勢であったが、この頃から独自に足利義昭に接触するなど独立傾向を強め始める。永禄12年(1569年)に浦上宗景が赤松政秀の所領を圧迫し、足利義昭が織田信長に政秀救援を要請した際にはついに足利義昭を公儀として奉じ、「備前衆」の盟主として浦上氏からの離反を宣言するに至った。同年7月、直家は軍事行動を開始。備前北部で浦上配下の垪和・原田ら美作国衆の軍団と戦って勝利を収め、また美作でも美作三浦氏再興を目指す三浦貞広の軍勢と合流し毛利氏の香川広景の守る高田城を攻めたがこちらは途中で包囲を解き、宇喜多軍は撤退した。その後、播磨で黒田孝高の活躍で打撃を負った赤松政秀が織田氏の救援が届く前に浦上軍に降伏してしまい(青山・土器山の戦いも参照)、直家は孤立。直家はそれ以上の交戦を避けてすぐさま浦上軍に降伏して非礼を詫び、この時の事は宗景と尼子勝久の間で話し合いが行われた結果、罪は赦免された。直家に危害を加えれば公儀や織田氏に明確な敵対の意志が有ると見られる恐れが有ったため、できる限り穏便な措置を執らざるを得なかったのである。直家は浦上氏を倒すことは出来なかったものの事実上の独立はこの時点で果たされた。ただ、浦上・宇喜多両家の関係は悪化したもののこの時点では破綻せず、共通の脅威である毛利氏と対峙するという点で一時的に修復される。宇喜多軍は浦上との停戦後は主戦場を備中に移し、同年12月に毛利元清・熊谷信直・三村元親らが宇喜多に臣従している植木秀長の治める備中佐井田城に肉薄した時には戸川秀安が出陣し、三村元親に傷を追わせ穂井田実近を討ち取る勝利を収め、毛利・三村軍を退かせた。
天神山城の戦いの美作三浦氏の復活と毛利包囲網 一方、美作では撤退した宇喜多軍と入れ替わるような形で尼子再興軍の山中幸盛が高田城攻めに加勢し、永禄12年(1569年)10月に更に浦上から明石氏・岡本氏、宇喜多から長船氏の軍勢が攻め手に加わり、永禄13年(1570年)にはついに香川広景を追い三浦貞広が旧領復帰を果たし、三浦軍はその後も寺畑城など高田城の支城群を回復し同年中に一定の勢力を取り戻す事に成功する。復活した美作三浦氏の中で発言力を持ったのが老臣の牧尚春で、毛利から領地を守るために大友宗麟・浦上宗景・尼子勝久ら反毛利の勢力と積極的に書状を交わして同盟関係を結んだ。こうして三浦氏の復活した元亀元年(1570年)より反毛利の同盟勢力の動きはより活発となる。大友宗麟は既に能島水軍の村上武吉を調略で毛利氏より離反させており、浦上宗景も今井宗久を通じて信長に貢ぎ物を送るなどして関係の改善を図る一方で、三好義継配下の篠原長房や讃岐の香西水軍らに協力を求め、備前の中で未だに支配下に納めていない児島の攻略を狙っていた。更に但馬では織田信長の支援を受けた山名祐豊が所領を回復して尼子再興軍と共闘の姿勢を見せ、因幡でも祐豊の意向で山名豊国が因幡山名氏の家督を相続した。こうして毛利に対して大友・浦上・尼子・宇喜多・美作三浦・山名・三好らが一斉に敵対の姿勢を見せる「毛利包囲網」とも言うべき状況が完成したのである。
天神山城の戦いの備芸・豊芸和平 以後、浦上・宇喜多・能島水軍と毛利・三村の対立が激化。元亀2年(1571年)2月から能島水軍が公然と毛利に反旗を翻し本太城に兵を入れた事に対して小早川隆景が動き、4月までには本太城を攻略。続けて隆景は粟屋就方に兵を与えて児島の救援に向かわせたが5月の備前児島の戦いで浦上軍と援軍に駆けつけた三好氏配下の篠原長房率いる阿波水軍衆に惨敗を喫した。また備中では庄勝資が三村氏の本拠である松山城を占拠して宇喜多に内通し、同時に宇喜多の軍勢が三村領を侵し幸山城を奪取した。9月には再び備中佐井田城で植木秀資(秀長の子)の援軍である浦上・宇喜多と毛利・三村両陣営の武力衝突があったがこれも浦上・宇喜多軍が勝ち、三村元親の実兄庄元祐がこの戦で討ち死にした。この間、毛利包囲網の攻撃が激化する中で毛利元就は病床にあったが、安国寺恵瓊を使者として京の足利義昭へと遣わせて大友・浦上・三好などとの和睦の周旋を依頼していた。しかし、三好が含まれている事に義昭が難色を示し失敗。6月14日には恵瓊の帰国を待たずして死亡し、毛利氏の家督は嫡孫毛利輝元へと移っている。元亀3年(1572年)、今度は足利義昭が和議の周旋に動き、三好を除いた毛利と大友・浦上間の停戦を柳沢元政に準備させていた。一方で毛利輝元は反抗勢力へと反撃を開始し、3月には浦上宗景と不仲になって交戦状態であった美作三星城主後藤勝基に援軍を送って毛利陣営への引き込みを図り、また宇喜多直家に圧迫されていた備中には吉川元春・小早川隆景が着陣するなど軍事行動を起こしている。毛利の脅威に晒された宇喜多直家は同年6月に足利義昭に毛利との和議の周旋を依頼し、義昭もすぐにこれに応じて毛利方に書状を送って輝元の意見と京への安国寺恵瓊の派遣を求めたが難色を示し、この時は和議の締結に至らず毛利方は兵を退くこともなかった。これ以後、むしろ毛利輝元は備前方の討伐に意欲を見せ、9月には輝元自らが出馬して合流し宇喜多に占領されていた備中日幡城・加茂城・蛙ヶ鼻城の諸城の攻略を目指す一方で、美作では三星城に兵糧や銀子を差し入れた上で因幡国より武田高信を呼び寄せて着陣させるなど攻勢に向けて戦力を集中させた。しかし、10月上旬に入ると一転して輝元が和議に応じ、備芸並びに豊芸和平が早急に成立し大友・浦上・宇喜多と毛利・三村との間の戦いは停戦状態に入る。輝元が態度を変えた詳細までは不明であるが、毛利家中にも将軍からの書状に動揺が走っていたようで、安国寺恵瓊の前任の外交僧である竺雲恵心は浦上宗景が実子を将軍に人質に出してまで和議を引き出した事を挙げ、和議が成るかは上意次第なので分別ある行動を取るように警告しており、備前方と事を荒立てず和議を受けるべきと考える穏健派の働きかけも有ったようである。しかし、浦上・宇喜多の要望によって動いた事もあってか備芸和平の内容は毛利方にとっては明らかに不利なものであり、備前方より奪った要害12ヶ所の差し渡しに加えて、救援に力を注いでいた三星城の陣の破却までも行わなければいけなくなった。この和睦によって宇喜多は毛利から城を無血で奪回する事ができ、また浦上も毛利が去った隙に後藤勝基との関係を修復したが、毛利方の小早川隆景は特にこの裁定に不満を持っており、浦上・宇喜多を「毎時裏表之儀」と糾弾した上で和睦の成立後も武田高信の美作進駐を続けさせていた。しかし、この和睦によって毛利包囲網の締め付けが弱まったことは事実であり、荷留などの報復を毛利から受けていた能島水軍は毛利への反抗姿勢を弱めるなど包囲網に綻びが見え始めた。
天神山城の戦いの3ヶ国支配の朱印状 天正元年(1573年)になると毛利と大友・浦上などとの直接の争いは無くなったものの、但馬・因幡の両山名氏や大友・浦上の支援する尼子再興軍や美作三浦氏の反毛利活動は未だに続いており、因幡国で山中幸盛と牧尚春、伯耆日野衆が毛利方の城を攻撃していた。一方で毛利方も状況を打破すべく動き出しており、同年中に宇喜多直家と急接近し、10月には毛利の兵が美作の奥津・才原(現在の岡山県苫田郡付近)に入り、直家と連携する姿勢を見せている。一方で11月に浦上宗景は上洛して織田信長に謁見し、播磨で争っていた別所長治との和平を仲介してもらったが、更にこの席で「備前・播磨・美作安堵の朱印」を得た。同年12月に毛利は安国寺恵瓊を派遣して織田信長に尼子再興軍への対応を求め、信長は恵瓊に「山中幸盛が柴田勝家を通じて取り成しを求めているがこれは許容しない」という旨を記した朱印状を与え、翌年2月の羽柴秀吉の但馬出兵を約束した。また、安国寺恵瓊は派遣された京で信長が浦上宗景に「備前・播磨・美作安堵の朱印」を与えたという情報を仕入れ、これを織田氏の芸州進出の準備であると国元へ警告している。翌天正2年(1574年)になっても秀吉の援軍は無いまま尼子再興軍は山陰で活動し続けており、信長は毛利との約束を反故にした形となった。足利義昭への工作においては浦上宗景に先んじており、幕府より所領の独立性を認められた宇喜多直家であったが織田信長への工作では宗景に逆転された形で、信長が義昭を追放すると浦上氏に3ヶ国安堵の朱印状が発給され、宇喜多氏の独立性が中央に否定されかねない状況に陥っていた。直家は義昭の仲介でようやく結ばれた備芸和平を軽視した宗景の行動を『宗景存外之御覚悟』として驚いたが、織田の後ろ盾を得た宗景に対抗するべく、直家も毛利との連携を強化していく。
天神山城の戦いの直家による国衆切り崩し 天正2年(1574年)3月、浦上宗景との表立った開戦に先立って直家は浦上と同盟している三浦貞広が浦上に味方する事を見越し、連携を断つ為に備前国境付近の美作国衆を重点的に調略を仕掛け、久米郡の領主である原田貞佐・原田行佐親子を味方に付ける事に成功。また、三浦領にほど近い岩屋城を花房職秀と原田貞佐に強襲させ、わずか一日で城を奪取し城を治める芦田一族を追放すると、岩屋城代に浜口家職を送り込み直轄支配に乗り出している。このすぐ後の4月5日には浦上宗景が三浦家臣の牧清冬(尚春の孫)に三浦貞広が味方をしてくれる事に関して謝辞を述べた上で新たに所領を宛がう旨を伝えた書状が残っており、三浦貞広が浦上陣営に参加する事が明確となった。そして4月18日、備前鯛山でついに初めて浦上と宇喜多両軍は衝突し、緒戦は宇喜多軍が勝利を飾った。この直家の挙兵に関して浦上宗景は当初楽観視しており5月の時点で讃岐の安富盛定に宛てた書状では「毎々得勝利候」と報ずるなど余裕を見せていたが、浦上軍はこれ以後、6月には高尾山の合戦で敗れるなど苦戦が続いていた。一方で直家は更に美作の弓削衆を調略で切り崩し菅納・沼本氏を寝返らせ、宇喜多に味方をしなかった小坂氏などを追放し、美作と備前の連絡路を早い段階で差し押さえることに成功し、戦局を優位に展開した。直家の国人衆切り崩しに危機感を抱いた宗景は結束を固めるために9月~10月にかけて段銭や自らが地頭職を務める兵粮料所、公用田などを一斉に配下の国衆に与え引き止め工作を行なっている。その甲斐あってか10月下旬の美作豊田の戦いや備前鳥取の戦いでは石川源助や花房与左衛門の活躍で相次いで浦上方が勝利を収め、以後浦上軍が天神山城とその支城群を中心に堅守し始めると宇喜多軍もここまでのような快進撃とは行かず戦線が膠着し始める。
天神山城の戦いの停戦期間と水面下の外交合戦 こうした状況を打破すべく宇喜多直家は小早川隆景に書状を送り、対して浦上宗景も吉川元春に書状を送ったが、毛利は宇喜多を支援することで決定した。この毛利の決定に反発したのが宇喜多と長年争ってきた備中の三村元親であり、三村との関係を悪化させてまで宇喜多と結ぶ事には吉川元春らが反対したものの小早川隆景・安国寺恵瓊ら賛成派が押し切った。三村元親は天正2年(1574年)8月の時点で既に織田信長から「備中の本領に加えて備後一国を与える」というの条件で調略を受けていたが、毛利が宇喜多と同盟したことにより著しく関係が悪化したに目をつけた大友宗麟の要請で三浦家臣の牧尚春が三村氏に調略を仕掛け毛利との手切れを勧めた。この調略に毛利との関係維持を唱えた三村親成ら一部を除く元親始め三村一門は賛同の意を示し、ついに三村氏は毛利と手切れして織田信長と同盟し、身の危険を感じた親成らは毛利を頼って備中を脱した。三村が毛利から離反した事により宇喜多は三方を敵領に囲まれる事となったが、毛利の対応は迅速であり、同年11月には早くも三村討伐軍を編成し備中に大軍を送り込んだ(備中兵乱)為、三村軍は毛利への対応で手一杯であり、浦上への助けとはならなかった。しかし、天正2年(1574年)11月から毛利と三村の備中の抗争が激化する中で、これ以後5ヶ月ほどの間に渡って浦上・宇喜多両家の戦があった事を示す書状が現在のところ発見されておらず、理由は不明であるが一定の期間停戦していたのではないかと推測されている。ただ、再び開戦する日の為に両家は水面下で諸勢力に働きかけて準備を進めており、浦上宗景は12月に高田城在番の牧清冬に書状を送って備中の戦況を報じるなど情報をやり取りし、宇喜多直家は宗景討伐の大義名分を得るために播磨の小寺氏預かりとなっていた浦上誠宗(宗景の甥で本来の浦上氏嫡流。宗景の手の者に暗殺される)の子である浦上久松丸の身柄を引き取り、小早川隆景も小寺氏が久松丸引渡しに動いてくれたことに感謝の書状を送っている。
天神山城の戦いの美作三浦氏と宇喜多氏の攻防 天正3年(1575年)1月からは宇喜多の美作における前線基地であった岩屋城に寄る浜口家職・花房職秀や原田・沼本・菅納ら宇喜多派の国衆ら「岩屋衆」と美作三浦氏との対立が激化する。1月22日、三浦領内に侵攻して多田山(岡山県大庭郡)の占拠に及んだ岩屋衆に対して三浦方は牧清冬が出陣して夜討ちを仕掛け、敵数十人を討ち取って多田山を奪還し三浦貞広より感状を受けている。同年2月には浦上宗景と岡本氏秀が盛んに牧清冬に書状を送り、織田信長から備前表加勢の了承を取り付けた事と山中幸盛が美作に近く応援に駆けつける事を報じて三浦氏を激励したが、この時期浦上家は直接の軍事行動を一切起こしていない。大友氏も年初より宗麟・義統親子を始めとして吉弘鎮信・志賀親度ら重臣たちが牧尚春に盛んに書状を送り、近く赤間関に出兵する事を約し、浦上・三村とよく連携するように指示している。宇喜多側もこの時期は三浦氏と争う一方で浦上とは戦っておらず、2月下旬には備前を留守にして備中に赴き小早川隆景と対三村のことに関して協議を行うなどしていた。3月16日、三浦軍は伊賀久隆配下の加茂衆が治める美作真木山城に牧清冬が夜討ちを仕掛け、加茂衆を多数討ちとる勝利を収め真木山城を奪い取った。
天神山城の戦いの浦上氏・美作三浦氏の滅亡 実質的な休戦状態であった浦上氏と宇喜多氏であったが、4月についに宇喜多直家が浦上久松丸を奉じて宗景打倒の名分を掲げて再び兵を動かした。4月12日、天神山城の支城の1つである日笠頼房の守る日笠青山城の攻略を狙って、宇喜多軍が兵を動かして城下で野戦が行われたが、日笠勢はこれに勝利し原助十郎などを討って宇喜多軍を撃退した。しかし、5月1日には宇喜多軍が備前佐古谷城を攻略し、またこの頃、浦上方の伊部城主である日笠源太が花房職之に討ち取られ、伊部城が攻略された。5月8日には備中兵乱をほぼ片付けた毛利輝元が備後衆の備前派遣を検討しており、5月22日に三村氏の本拠松山城が陥落して、城主元親が城を捨てた際には美作三浦を頼って落ち延びたという予測を小早川隆景が立て、美作攻めの先鋒を三村親成に命じた。6月2日に三村元親は自刃して果て、6月7日には最後に残った三村の拠点である常山城が陥落し、三村氏は滅亡し備中兵乱は終息した。同年7月、追い詰められた浦上宗景は三浦との連絡が絶たれた状況を解消するべく、重臣の岡本氏秀や美作国人の中島隆重を派兵して宇喜多に味方した美作弓削荘の領主である沼本久家・沼本豊盛・菅納家晴らの守る蓮花寺城・小松城などを攻略し三浦との連携を回復させようとしたが、この戦いで浦上方は延原家次などが負傷させられるなど惨敗を喫し、もはや反抗した小領主を討伐する力も残されていない弱体ぶりを内外に晒け出す結果に終わった。以後の浦上軍は国衆の更なる離脱を食い止められず防戦一方の状況に追い込まれ、ついには本拠天神山城への籠城以外の選択肢を失う事となる。そして同年8月頃より明石行雄(景親)を始めとして岡本氏秀・秀広親子や延原景能・大田原長時などこれまで浦上氏の直轄部隊として抵抗を続けていた天神山衆も相次いで浦上氏を見限り、9月上旬までには天神山城は陥落し浦上宗景は所領を追われた。美作の三浦貞広も牧清冬から宇喜多家臣の江原久清を通じて宇喜多直家に毛利への降伏の周旋を申し入れ、9月11日に本拠高田城を明け渡し投降した。この戦いの結果、宇喜多直家は備前ほぼ全域、美作東部、播磨西部などに大きく所領を拡大した。
天神山城の戦いの合戦後の情勢と影響 この戦で浦上宗景は所領を失って播磨へ逃走し、降伏した三浦貞広も高田城は安堵されず毛利家臣の楢崎元兼が城代として入ることとなり、貞広は一度は毛利氏に身柄を送られたが、やがて宇喜多氏預かりとなり、浦上・美作三浦両氏は勢力として滅亡。浦上旧臣は多くが宇喜多直家に鞍替えしており、三浦旧臣も牧一族などが宇喜多に仕える事となった。領の区分については浦上旧領は宇喜多に服すことを良しとしない三星城主後藤勝基や茶臼山城主笹部勘次郎らの領を除いて宇喜多領に併呑され、三浦旧領は高田城は毛利氏に接収されたものの篠向城・寺畑城などが宇喜多領となった。また、備中は備中兵乱を制した毛利氏が直轄支配するところとなり宇喜多氏も南部の一部を得て、また水運の要衝である備前児島は一時毛利氏が差し押さえたが後に宇喜多氏に譲渡され戸川秀安が領した。反毛利同盟は首魁であった大友宗麟が豊芸和平の締結によって「九州からの毛利勢力の追放」という目的がほぼ果たされていたので美作三浦氏などに約束していた赤間関への出兵は空手形であり、自ら豊芸和平を破棄するような行動は最後まで起こさなかった。また、大友が行動を起こさなかったことで村上武吉は大友と距離を置き毛利との関係修復に動いている。美作への派兵を約束していた山中幸盛も但馬・因幡の両山名氏が毛利に寝返ったことで実際にはとても美作へと兵を割けるような状況ではなく苦戦を強いられており、逆に天正4年(1576年)5月には若桜鬼ヶ城を攻略され、中国地方に拠点を失った尼子再興軍は京へと敗走。中国地方で根強く反毛利活動を行なっていた浦上・美作三浦両氏の滅亡と合わせて反毛利同盟は完全に崩壊した。一方で浦上宗景敗退の報を受けた織田信長は天正3年(1575年)9月中に越前一向一揆鎮圧に向かわせていた荒木村重を急遽呼び戻して播磨に送り込み、小寺政職・別所長治・赤松広秀ら播磨国衆から人質を徴発し、村重に命じて播磨に退去した宗景の館を拵えさせた。天正4年(1576年)には京を追われた足利義昭が備後鞆に入り鞆幕府が作られ、毛利氏と宇喜多氏や石山本願寺が同盟し第三次信長包囲網が形成される。宇喜多氏は播磨へ侵入して八幡山まで兵を進め、毛利氏は毛利水軍を動かして三好氏の衰退によって目立った抵抗勢力の無くなった播磨の制海権を取り、一挙大坂湾にまで進出。同年7月には第一次木津川口の戦いで織田軍を撃破して本願寺との連携をより密なものにした。この合戦によって浦上宗景や三浦貞広が敗れ、代わって備前・美作を掌握した宇喜多直家が毛利に臣従し、大友宗麟の呼びかけた毛利包囲網も完全に崩壊したことで周辺の脅威が無くなった毛利氏は一気に東へと兵を進める事が可能になり、播磨でも英賀城主三木通秋や上月城主赤松政範、長水城主宇野政頼、龍野城主赤松広英が毛利と結び、順調に進みつつあった織田氏による播磨国衆の調略に大きく影を落とし、石山合戦の更なる長期化にも繋がった。
秋田県道278号雄勝湯沢線の概要 湯沢市上院内の国道13号(国道108号の高架下付近)から奥羽本線と交差したのち、北方向へ向かって雄物川水系の松根川の上流まで進み、松根集落まで舗装区間が続く。先の山間部は道路が未舗装となっている区間が残り、舗装されている区間も道幅は全般的に狭く、湯沢市側は急傾斜の九十九折区間があるなど離合が困難な箇所が多い。湯沢市松岡から再び舗装区間になり、切畑川に沿って進む。雄物川を渡って湯沢横手道路を立体交差したのちに奥羽本線と立体交差し、終点で再び国道13号に合流する。起点から奥羽本線交差後に市道を直進すると、奥羽本線 院内駅前に至る。
秋田県道278号雄勝湯沢線の路線状況 終点の国道13号の交差点は右左折時の対歩行者との接触事故、および追突事故が年間を通じて多い地点である。
秋田県道278号雄勝湯沢線の地理 起点の南には、岩井堂洞窟(縄文時代の岩陰遺跡)がある。
エア・ヨーロッパ (スペイン)の概要 北部及び西部ヨーロッパ並びにカナリア諸島及びバレアレス諸島内の行楽地間のツアーサービスを含めた運航を行っている。また、国内線定期便サービス並びに北アメリカ、西インド諸島、南アメリカへの長距離定期便サービスも運航している。航空券の座席予約システム(CRS)は、アマデウスITグループが運営するアマデウスを利用している。
エア・ヨーロッパ (スペイン)の歴史 1986年設立。最初は、British ILG-Air Europe Groupとスペインの銀行の出資によって設立された。ボーイング737を使ってスペインと地中海とを結ぶ便を最初に開設した。それは同社の初めての路線となる。1991年には親会社のILGが消滅し、同年にボーイング737-400の運行を開始。1998年にはイベリア半島における優先運航権を獲得、1990年代終わりにはボーイング737のサービスをさらに充実させた。2007年にはスカイチームにアソシエート・メンバーとして加盟し、2010年にフルメンバーとなった。なお、かつてイギリスの航空会社であったAir Europe、イタリアの航空会社であったAir Europeとは関係がない(スペイン語表記と英語表記でaとeが違う)。
黒竜江省の地理 北はアムール川を隔ててロシア連邦極東連邦管区のハバロフスク地方、アムール州、ユダヤ自治州と接し、東はウスリー川を隔ててロシア極東連邦管区の沿海地方と接する。南は中国の吉林省、西は内モンゴル自治区のフルンボイル市と接す。人口の90%超が漢族でその他に満洲族、モンゴル族、朝鮮族などが住む。中国の重要な食糧生産基地のひとつでもあり、良質な黒豆(黒大豆)、大豆、小豆が栽培されている。
黒竜江省の歴史 先秦時期には、粛慎(勿吉)、濊貊、東胡の三大民族系統の先住民がおり、粛慎は漢代には挹婁、魏晋には勿吉、隋唐には靺鞨、金代には女真と称し、清代になって満洲の名が起こった。黒竜江地区に最初に樹立された政権は濊貊系の夫余国で、後に高句麗が分かれた。唐には渤海が起こり、また北方には室韋都督府、黒水靺鞨都督府が置かれた。契丹は渤海を滅ぼした後、東丹国を樹立した。金王朝は会寧府(今のハルビン阿城区白城)に建都し、後に燕京(北京付近)に遷都した。元代には開元路、水達達路が置かれて遼陽行省に属した。明代には奴児干都指揮使司が置かれて女真族を間接支配し、清初にはニングタ大将軍(ningguta amba janggin、寧古塔昂邦章京)が置かれ、後に吉林(girin ula)に移り、吉林将軍(girin ula i jiyanggiyūn)と改称した。さらに黒竜江将軍(sahaliyan ula i jiyanggiyūn)が増設され、黒竜江流域の広大な地区を管轄した。1680年代に清朝はロシア帝国とネルチンスク条約を結び、ロシアとの国境を画定したが、1858年の璦琿(アイグン)条約と1860年の中露北京条約により黒竜江以北、ウスリー川以東の領土を失った。20世紀初めまでに漢族が大量に移住した黒竜江への行政管理の強化を図った清朝は1907年(光緒33年)4月20日、黒竜江将軍を廃止し新たに黒竜江行省を設置した。設置当初の全省の面積は約57万平方キロメートル、人口は約127万人であり、省会はチチハル城(cicigar hoton)に設置され、下部に府(fu)、庁(tinggin)、県(hiyan)、道(dooli)の行政区画が設置された。翌年8月にはメルゲン副都統(mergen i meiren i janggin、墨爾根副都統)、フルンボイル副都統(kölön buyir i meiren i janggin、呼倫貝爾副都統)、黒竜江(璦琿)副都統(sahaliyan ula i meiren i janggin)が橋となりフルンボイル処、アイフン処はそれぞれフルン兵備道、アイフン兵備道と改称された。1911年(宣統3年)には全省は3道(興東、璦琿、呼倫)、7府(竜江、呼蘭、綏化、海倫、嫩江、黒河、臚浜)、6庁(訥河、璦琿、呼倫、大賚、肇州、安達)、1州(巴彦)、7県(蘭西、木蘭、余慶、青岡、拝泉、大通、湯原)、4旗(郭爾羅斯後、杜爾伯特、扎賚特、伊克明安)を管轄した。1912年、中華民国が成立すると黒河府、興東道が廃止とされ呼瑪庁、蘿北庁が設置され、璦琿道は黒河に移転し黒河道と改称、呼倫道は叛乱を理由に廃止とされた。1913年、行政組織改編に伴い府、庁、州が県に改修され、また翌年には『省官制』の施行により行省の名称が廃止となり黒竜江省が正式名称に定められ、3道、23県、5設治局、4旗を管轄するようになった。1929年2月の行政改革により全省は42県(一等県15、二等県11、三等県16)、11設治局、4旗を管轄するようになった。1933年、満洲国が建国されると大幅な行政組織の変更があり、1932年12月には黒竜江省西部の呼倫県、臚浜県、室韋県、奇乾県に興安北分省、翌年1月には雅魯県、布西県、索倫県に興安東分省が新たに設置され、1934年12月1日には黒竜江省は竜江省と黒河省に分割、更に1939年6月1日には竜江省と浜江省の一部に北安省が新設された。1945年、日本の敗戦により満洲国は解体、国民党政府による統治権が復活すると同年11月に北安省と黒河省が統合され黒竜江省が新たに設置され、北安、徳都、克東、克山、拝泉、依安、明水、望奎、海倫、通北、綏棱、綏化、慶安、璦琿、孫呉、遜克、呼瑪、烏雲、鴎浦、漠河の20県を管轄した。1947年2月2日、黒竜江、嫩江両省政府は合併を決定し黒竜江嫩江聯合省(略称は黒嫩省)を設置したが、同年9月16日に東北行政委員会は両省の分割を決定、1949年4月21日に発布された『重劃東北行政区画令』により再び合併すると同時に、松江省仏山県を黒竜江に統合することが決定し、5月15日に1市41県を管轄する人口552万の黒竜江省が成立した。1954年8月1日、松江省が廃止され黒竜江省に統合されると同時にハルビン市が黒竜江省に移管され、省会もハルビン市に移転している。この際に省南の7県が吉林省に移管されるなどの行政調整が実施され、3専区、5市、64県、2旗、1鉱区を管轄する総面積46万余平方キロメートル、人口1,250万人へと成長している。その後大慶油田が発見されるなど中国の工業化に大きな役割を果たした黒竜江省は、省内の行政区画の変遷を経て現在に至っている。
空軍警備隊の概要 アメリカ空軍の基地施設・重要地点などの警備・防護を行なう兵力である。機密保護や人員防護も担当している。地上戦闘要員で構成された部隊であり、軍用機の運用などは原則として行なっていない。小火器で武装しており、拳銃のほか、M4カービンやブローニングM2重機関銃、グレネードランチャーを装備している。近接格闘術や人質救出手法なども訓練されている。平時の駐屯地のみならず、戦時には前線基地へも展開し、イラクやアフガニスタンにも派遣されている。憲兵業務としては、基地内の法律執行業務や交通統制の実施、更には空軍特別捜査局とともに軍内の犯罪捜査にあたる。
サンサーラ・ナーガの概要 ジャンルはロールプレイングゲーム。監修、脚本を『機動警察パトレイバー』(1988年)や『攻殻機動隊』(1989年)などで知られる、アニメーション監督の押井守と伊藤和典が手掛けた。音楽に川井憲次、キャラクターデザインは桜玉吉。後にスーパーファミコン作品として続編『サンサーラ・ナーガ2』(1994年)、ゲームボーイアドバンス作品として本作と「2」のリメイク作『サンサーラナーガ1×2』(2001年)が発売された。
サンサーラ・ナーガのシステム 本作の最大の特徴は、従来のRPGのシステムに「竜の育成」という独自のシステムを組み込んだ点にある。卵から産まれた竜は一時託児所に預けられ、主人公は保母からの指示によりその都度、竜の成長に合わせた獲物を狩りに出掛けることになる。竜が成長した後は、竜使いとして一緒に世界を旅することになるが、竜には「勇敢さ」や「道徳性」などのパラメータがあり、主人公の行動や食べさせるモンスター(餌)などによってこれらの数値が変化し、竜が命令を聞かなくなったり、臆病な性格になったりする。竜は戦闘によって倒したモンスターを食べることによって成長(レベルアップ)するが、倒したモンスターを食べさせずに獲物として持ち歩き、街の薬屋に売る事で換金することもできる。主人公にレベルの概念はなく、装備品の強化以外に強くなることはない。これは監督である押井守の「人間はそんなに急速に強くはなれない」という考えが反映された結果である。
サンサーラ・ナーガのはらたま 本作の世界には、東西南北の4ヶ所に「はらたま」と呼ばれる立ち食いそばチェーンがあり、ここで食事をすると店主がその時々に合ったゲーム進行のヒントを教えてくれる。各店の奥にあるトイレから各地のはらたまへワープすることができ、これにより、強力なモンスターが出現する急峻な山岳地帯などを避けて移動することができる。なお、「はらたま」の語源・初出についてはうる星やつらの登場人物#サクラを参照のこと。
サンサーラ・ナーガのストーリー 主人公の少年(少女)は、本作の世界において非常な尊敬を集める存在である「竜使い」となるべく、彼の住む村の宝である「竜の卵」を盗み出し、村を抜け出す。しかしそれは実はダチョウの卵であり、途方に暮れた少年は、卵から産まれたダチョウの後を追う。ダチョウが走っていった先には古びた一軒の家があり、そこに住む老人のある依頼を受けた少年は、老人の家から少し離れた「竜の産卵場」からある物を持ち帰り、その礼として老人から本物の竜の卵をもらい、改めて竜使いを目指す旅を始める事となる。
埼玉県の概要 県域は旧国名の武蔵国の北部であり、関東地方では神奈川県以外の1都4県に接する。また、中部地方では長野県、山梨県にも接する。隣に接する県の数は、長野県に次ぐ2位。日本で8つある内陸県の一つ。貿易港や臨海工業地帯を有さないものの、人口は約733万人と全国5位であり、その多くは県南東部に集中している。昼夜間人口比率(15年調査、総務省)では88.5%と昼間の人口流出が全国1位であり、ベッドタウンとしての性質が強い。農業産出額は第18位(2015年)であるが、北部には近郊農業が盛んな地域もあり、ネギやホウレンソウ、ブロッコリーなど産出額が全国3位以内に入る農作物もある。また、面積に占める河川の割合が多く、水の都と呼ばれる大阪府を抜き、全国47都道府県で最大の約3.9%となっている。県西部の秩父地域は山地や丘陵であるが、それ以外の地域は関東平野の一部を成す平地となっている。東京に隣接する東南部は人口が密集し、東京から放射状に伸びた交通網に沿って首都のベッドタウンが形成されている。北部には豊かな農地が広がる。県庁所在地であるさいたま市は内陸県にある最大の都市であり、内陸県唯一の政令指定都市でもある。東北地方、北関東地方、信越地方に至る高速交通網は本県を通っている。
埼玉県の名称 浦和県、岩槻県、忍県が統合してできた旧埼玉県(現在の埼玉県の東側約3分の1)の設置当初、県庁が埼玉郡岩槻町(現:さいたま市岩槻区)に置かれる予定であったため、その郡名から埼玉県と名付けられた。しかし、岩槻には県庁に適した建物が無く、県庁業務は足立郡浦和宿(現:さいたま市浦和区)の旧浦和県庁舎で行われた。一方、現在の埼玉県の西側約3分の2に当たる地域は入間県となり、その後、群馬県と合併して熊谷県となるも僅か3年で熊谷県は解消され、旧入間県地域は旧埼玉県と合併して現在の埼玉県が誕生した。その際に、埼玉県の名称のまま県庁所在地も浦和宿となったため、岩槻町が実質的な県庁として機能することはなかった。1890年(明治23年)9月25日には、勅令により正式に北足立郡浦和町が県庁所在地となった。「埼玉」の地名の発祥地は「埼玉郡埼玉村(さきたま)」(現:行田市大字埼玉)である。その名称の由来は諸説あるが、埼玉古墳群が由来とする説や、幸福をもたらす神の働きを意味する「幸魂」(さきみたま)から名づけられたとする説がある。奈良時代の『万葉集』に「前玉」「佐吉多万」(さきたま)という記述があり、また、平安時代の『和名類聚抄』に「埼玉」「佐伊太末」(さいたま)という郡名がみられる。当時、既に「さいたま」と呼ばれていることが分かる。大観的に「さきたま」「さいたま」どちらの発音も同義として解釈されるが、「さきたま」の方が古い語である。これは日本語発音上でのイ音便と呼ばれる変遷の一例で、大分(碩田:おおきた→おおいた)なども同様の例である。
埼玉県の地理・地域 旧律令国においては、現在の埼玉県の領域は大部分が武蔵国に含まれており、東端部の江戸川沿いの一部地域が下総国に含まれていた。武蔵国には東京都、および神奈川県の北東部も含まれることから、埼玉県は武蔵国の中部・北部にあたると言える。埼玉県の形状は東西約103km、南北約52kmと東西方向に長い。日本の都道府県中面積が9番目に狭いが、最も狭い都道府県である香川県の約2倍の面積を有する。また周囲は7都県と隣接し、長野県の8県に次いで多い。県の東側では江戸川を境に千葉県に接し、北東側には茨城県・栃木県ともわずかに接する。北側および北西側はおおむね利根川、神流川(利根川の支流)といった河川、および荒川・神流川の分水嶺を境として群馬県に接している。南側はほぼ東西に真っ直ぐに東京都・山梨県と接している。この南境は、西部では荒川と多摩川あるいは笛吹川の分水嶺にあたるが、東部では一部が荒川となっている他は河川や分水嶺などの地形に見いだすことは難しい。埼玉県の地形は、児玉・小川・飯能を走る八王子構造線によって、その東側の平地部と西側の山岳部に分けられる。東側の平地部は古来利根川や荒川、入間川などの流域であり、低地や台地(武蔵野台地、大宮台地など)が広がるほか、一部に丘陵(比企丘陵など)もみられる。江戸時代、徳川家康により現在の古利根川の流路に近かった利根川の流路は、渡良瀬川(現在の江戸川の流路に近い)、ついで鬼怒川(毛野川)に導かれ、また現在の元荒川の流路に近かった荒川の流路は入間川に導かれ、現在の河川形態となった(利根川東遷事業)。西側の山地部は関東山地に含まれ、その中央部に秩父盆地がある。秩父盆地東側の比較的標高の低い山塊は特に外秩父山地とも呼ばれる。西側の長野県境は日本海側との分水嶺を形成しており、その南端に位置する甲武信ヶ岳は千曲川、荒川、笛吹川(富士川の支流)の源流であるとともに、埼玉県・長野県・山梨県の県境となっている。その北には県最高峰である三宝山(2,483m)がある。中央部・西部・東部の南側の地域は首都である東京に近く、近代以降の大都市圏の拡大に伴い、1970年代を中心に急激な人口流入と都市化をみてきた。このようにして形成された市街地は、その多くがスプロール現象によるものであり、このような地域では現在も道路などの社会基盤の整備に難を抱える。県内は首都高速・東京外環道・関越・東北・常磐・圏央道といった高速道路が多数整備されているが、一般道については十分に整備されていない地域が多く、自動車の増加や大規模商業施設の郊外立地化に伴い各地で道路渋滞が慢性・深刻化している。県内には全国最多の40の市があり、130万人都市であるさいたま市を筆頭に60万人都市の川口市、30万人都市の川越市・越谷市・所沢市が南部に集中するほか、20万人都市が4市、10万人都市が13市と同等の人口を持つ自治体が多数存在することも特徴として挙げられる。政令指定都市のさいたま市には国などの関東地方出先機関が集まるさいたま新都心が誕生したことで、東京のベッドタウンから関東地方において独自の重要性を持つ地域になりつつある。都営大江戸線の東所沢方面への延伸や埼玉高速鉄道のさいたま市岩槻区方面への延伸も構想されている。埼玉県は、場面や分野に応じて北関東に区分される場合もあれば南関東に区分される場合もある。また、埼玉県は千葉県や東京都、神奈川県とともに「東京圏」を構成し、相互の通勤・通学等の流動が多いことなどを重視し、南関東に区分されることが多いが、衆議院議員総選挙における比例ブロックにおいては北関東に区分されている。
埼玉県の地域 埼玉県には、40の市、22の町、1つの村がある。市の数40は日本の都道府県で最多、市町村数63は北海道、長野県に次いで日本国内第3位である。なお、町はいずれも「まち」、村は「むら」と読む。
埼玉県の先史・古代 県内で旧石器時代の遺跡は、大宮、武蔵野、江南、下総の各台地、秩父盆地の各河川流域に約500が確認されている。この時代の遺跡・遺構は3万年前以降の立川ローム層・大黒ローム層から発見されている。県域は隆起と海退によって形成された。縄文時代において海面は現在よりも高く、東京都東部から県域南東部を中心とした海抜の低い地域は、古東京湾の入り江が大きく入り込んでいたため、海底だったと推定される。その証拠に、川口市の旧鳩ケ谷市域等に貝塚が至る所に発見されており、海岸に近かったことが伺える。縄文時代末期には県域南東部で陸地化が進み、弥生時代には埼玉県全土がほぼ陸地化した(三郷市では弥生時代の土器片が見つかっている)。古代の国撰史書である『日本書紀』の安閑天皇元年(534年?)の記載に、「閏の十二月…(中略)…是の月に武蔵国造笠原直使主と同族小杵と国造を相争いて年経るに定めがたし」云々とあり、現在の鴻巣市笠原地区付近に居を構えていたとされる豪族、笠原直使主と同族の小杵による武蔵国造の勢力争いが起き、朝廷の力を借りた使主が勝利し、国造となった使主は朝廷に横渟(多摩郡または横見郡)・橘花(神奈川県橘樹郡)・多氷(多摩)・倉樔(神奈川県久良郡)の四箇所を屯倉として差し出したと記述されていることや、6世紀に突如現れたこの地の巨大古墳群、および後述の鉄剣などから大和朝廷の直接支配まで、長らく武蔵国における中心だったと考えられる。なお現在の埼玉県にあたる地域には、上述の武蔵国造(无邪志国造)のほかに、のちの秩父郡を本拠とする知々夫国造も存在していた。本域は、律令制以前は、毛野国と呼ばれ、筑紫国や吉備国に比肩する大国であったとされ、大和朝廷との関係において高い地位にあり、現在の東京地域よりも繁栄していた。和銅元年(708年)に、現在の埼玉県秩父市黒谷にある和銅遺跡から、和銅(ニギアカガネ、純度が高く精錬を必要としない自然銅)が産出したことを記念して、「和銅」に改元するとともに、日本最初の流通貨幣となる和同開珎が発行される。1968年(昭和43年)に行田市埼玉にある、さきたま風土記の丘(現:さきたま古墳公園)の稲荷山古墳から出土した鉄剣(金錯銘鉄剣)は、1978年に奈良市にある元興寺文化財研究所で保存処理を行った際、表裏に金象嵌で115文字の銘文があることが分かり注目を浴びた。その文中にある「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)」は『記紀』に登場する雄略天皇であり、『宋書』倭国伝に見える倭王武であって、冒頭の「辛亥の年」は(471年)であるとする学説が主流である。古代史ブームの巻き起こる中で、鉄剣の解釈をめぐりさまざまな議論がある。埼玉県域の郡は、足立・新座・入間・高麗・比企・横見・埼玉・大里・男衾・幡羅・榛沢・那珂・児玉・賀美・秩父郡である。また郷の数は県域で75郷である(『和名類聚抄』)。県域内の郡衙所在地は不明なところが多い。神護景雲3年(769年)9月17日に正倉4倉が焼失し、穀類や人に死傷者が出ている。雷火による天災か神火(じんか)による人災か不明である。
埼玉県の中世 中世には武蔵国で人口の特に多かった北武蔵の丘陵地や台地に武蔵武士が出現し、河越氏や畠山氏ら諸氏を分出した秩父氏の一族が活躍した。また同族集団として形成された武蔵七党など中小規模の在地土豪も出た。平治の乱を経て武蔵国が平氏の知行国になると武蔵守には平氏一門が任じられると武蔵武士は被官化し、新恩地を得て西国へも進出した。治承4年(1180年)の源頼朝の挙兵後に服従した豪族には、県域に勢力を持っていた秩父一族が主に頼朝に味方し、治承・寿永の乱における合戦に参戦した。河越氏や畠山氏、比企氏らは鎌倉幕府の創設期に重用されて政務に参画するが、幕府権力の確立課程では河越氏を除き没落し、武蔵武士の地位は低下した。中世には鎌倉幕府の成立を契機に街道が整備され、西武蔵には南北に鎌倉街道の上道や中道が通じて奥州方面と結ばれ、物資の流通路となったほか軍事的にも重視され、沿道には城館が分布する。幹線道の整備に伴い脇道や水上交通も発達し、多くの市や宿が成立した。河越氏が武蔵平一揆で没落すると戦国期の武蔵は鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏との対立、鎌倉公方・関東管領の分裂などの影響を受けて乱国状態となった。県域は北武蔵(前線拠点は五十戸(今の本庄市))を地盤とし堀越公方方の山内上杉氏、南武蔵(拠点は川越城)に本拠をおいた扇谷上杉氏などが勢力を争った。下総国方面には古河公方が勢力を張った。戦国後期には相模国の後北条氏が台頭する。天文10年(1541年)には最重要拠点の川越城を巡り、川越を後北条氏に奪われた扇谷上杉氏の上杉朝定は関東管領の上杉憲政と古河公方と結び、城の救援に向かった北条氏康との間で川越夜戦が行われた。敗北した扇谷上杉氏は滅亡し、後北条氏の勢力圏となった武蔵には多くの支城が築かれ、氏康は上杉憲政を圧迫する。憲政は越後国守護代の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼り、関東管領職と上杉家家督を譲り受けた景虎は関東出兵を行い氏康と争った。後北条氏は甲斐国の武田氏や駿河国の今川氏と三国同盟を結び景虎と争っていたが、同盟破綻後の永禄12年(1569年)には越後と和睦して越相同盟を結び、武田氏の秩父方面への侵攻を招いており、こうした複雑な外交情勢のなか北関東の国衆は翻弄された。後北条氏は天正年間には関東の大半を支配し、豊臣(羽柴)家に次ぐ全国第二位の勢力となる。
埼玉県の近世 天正18年(1590年)には豊臣秀吉の天下統一における小田原征伐において後北条氏は没落する。後北条氏の没落に際して東海五カ国を支配していた徳川家康が関東へ転封され、武蔵を含む関東地域には徳川氏の家臣団が配置された。関ヶ原の合戦を経て江戸幕府による支配が確立すると、埼玉県域には「武蔵三藩」と呼ばれる川越藩や忍藩・岩槻藩(それに武蔵国には知行地をほとんど持たなかった岡部藩など)が立藩。江戸に近く親藩・譜代の重臣が配されたが、川越藩を除き城下町の形成は小規模であった。川越は江戸北方の防衛拠点として、また武蔵国の商工業の中心地として「小江戸」と呼ばれ繁栄した。江戸幕府により江戸を起点とした五街道の整備が進められ、埼玉県内には中山道に9つの宿場(蕨宿、浦和宿、大宮宿、上尾宿、桶川宿、鴻巣宿、熊谷宿、深谷宿、本庄宿)、日光街道(奥州街道)に6つの宿場(草加宿、越ヶ谷宿、粕壁宿、杉戸宿、幸手宿、栗橋宿)が置かれた。五街道に準ずる脇往還は、県内では川越往還、川越・児玉往還、日光脇往還、日光御成街道、関宿往還、秩父往還、秩父甲州往還が整備された。明暦年間には野火止用水が、享保年間から見沼代用水が開鑿され、元禄年間に三富新田の開発が行われ米麦栽培が増大したほか、養蚕や織物、木綿の栽培や野菜など地域特産物の生産も盛んになり、定期市で販売されたほか、利根川・荒川・新河岸川の舟運を通じて江戸へも移出された。明和元年(1764年)には大規模な百姓一揆である中山道伝馬騒動が発生している。近世後期には幕領と旗本領の錯綜する関東一円で無宿人・浪人が増加したため社会不穏が増大し、幕府では文政の改革に伴い文化2年(1805年)に関東取締出役を設置して警察力の強化が行われ、村々では組合村を形成して対応している。幕末には異国船が日本近海に出没し、嘉永6年6月3日(1853年7月8日)にはアメリカのペリー艦隊が来航し幕府に通商を求めるが、江戸湾の海防は川越藩、忍藩が彦根藩、会津藩を加えた四藩で担当し、藩士の現地派遣や遠見番所の設置などを行った。ペリー艦隊の来航に際しては海防策が修正され、品川台場の防衛を川越藩・忍藩・会津藩が担当した。海防強化は村々へも負担が生じるが、一方で日本が開国し本格的な貿易を開始すると積極的に対外交易を試みる投機商も出現した。近世後期の社会変動、開港前後の諸役負担や経済変動は農村社会に影響を与え没落農民層も発生していたが、慶応2年6月13日(1866年7月24日)には入間郡を中心に中山道以西地域に波及した武州一揆が発生し、関東取締出役の出向により鎮圧される。
埼玉県の平均年齢 41.6歳(男40.7歳、女42.5歳。2006年(平成18年)1月1日現在)
埼玉県の国政 衆議院の小選挙区が15。参議院では、全県で1区を構成。
埼玉県のインターネット放送 埼玉県はインターネット放送を通して知事記者会見、県議会中継などを映像配信し県政の広報に務めている。
埼玉県の産業 2012年(平成24年)度の県内総生産は21兆8428億円であり、アラブ首長国連邦の国内総生産よりやや多い程度である。世界で40位前後の国に相当する経済規模を有している。2014年(平成26年)時点での県内の事業所数は26万6261事業所で、東京都、大阪府、愛知県、神奈川県に次いで全国第5位である。産業別の事業所数では卸売・小売業、サービス業、製造業、飲食店・宿泊業、建設業の順に多く、従業者数では卸売・小売業、製造業、サービス業、医療・福祉、飲食店・宿泊業の順に多い。また、市町村別の事業所数ではさいたま市、川口市、熊谷市、川越市、所沢市と続き、従業者数ではさいたま市、川口市、川越市、所沢市、熊谷市と続く。2007年(平成19年)の年間商品販売額は15兆1,109億5,967万円、製造品出荷額等は、14兆7,302億円である。洋菓子やチョコレート類の生産額は、全国トップクラスで日本有数のスイーツ王国でもある。2014年(平成26年)の観光客入込数は約1億628万人と推計されており、近年増加傾向にある。目的別で最も多いのは各種行事まつり見学客で、スポーツ客、遊園地客がこれに続く。寺社参詣・文化財・産業観光客数は増加傾向にある。
埼玉県の県内の主要企業 Category:埼玉県の企業を参照。
埼玉県の鉄道 県内最大のターミナル駅は大宮駅であり、東日本旅客鉄道の東北新幹線と上越新幹線の全列車が停車して首都圏の玄関口として機能している。一日平均乗降人員は約70万人であり、県内の駅で乗降人員が最も多い。一方で、JTBパブリッシングや交通新聞社(都道府県代表駅の記号がない「東京時刻表」を除く)の時刻表における県の代表駅は浦和駅であり、埼玉県庁およびさいたま市役所の最寄り駅となっている。両駅を結ぶのは宇都宮線(高崎線)と京浜東北線であり、川口市南部で荒川を渡って東京都心へ直結する。2001年12月1日に湘南新宿ラインが、2015年3月14日に上野東京ラインが開業して東京都心への速達性と利便性が大幅に向上し、両者の駅は首都圏の住みたい街ランキングでもベストテンに浮上するようになった。県内にある京浜東北線の各駅は与野駅を除いて乗降人員が10万人を越える駅が連続しており、最も人口密度が高い地域である。1970年代に新幹線の建設計画に伴う東北・上越新幹線反対運動が県南部で行われた。その見返りとして新幹線に並行して通勤新線(埼京線)と新交通システム(埼玉新都市交通伊奈線)を建設し、騒音対策として都市施設帯を設けることで同意し、1980年代にそれぞれの路線が開業した。県の東部は東武伊勢崎線、東武日光線、埼玉高速鉄道線と首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスが、県の西部は東武東上本線、西武新宿線、西武池袋線と西武秩父線がそれぞれ東京都心に直結している。このように東京都心に直結して南北に連絡する路線が多い反面、県内を東西に連絡する路線は少ない。県南部を東西に横断する武蔵野線が最も利用者数が多く、東日本旅客鉄道の東京メガループに指定されている。大宮駅に接続する東武野田線と川越線はどちらも県内を東西に結ぶが、野田線は春日部駅以東に、川越線は日進駅以西に単線区間が残されている。熊谷駅に接続する秩父鉄道秩父本線は県北部を横断しているが、全線単線で利用者数が少なく、県が補助金を交付している。県の西部を南北に縦断する八高線は高麗川駅を境に電化区間と非電化区間が分けられており、高麗川駅より北側は県内で唯一の非電化区間である。
埼玉県のバス 川口市周辺は国際興業バスが、秩父市周辺は西武観光バスが路線バスを一手に引き受けているが、それ以外の地域では路線の競合が見られる。県内最大のターミナル駅である大宮駅では、東口に国際興業バスと東武バスが、西口に東武バスと西武バスがそれぞれ乗り入れている。東武線・東上線沿線は東武バスが、西武線沿線は西武バスが多数の路線を担っている。東武バスは2000年頃に多数の営業所が移管され、越谷市より北側の東部地域で運行されていた路線は朝日自動車と茨城急行自動車に、坂戸市より北側の西部地域で運行されていた路線は川越観光自動車に移管された。2002年に分社化された後、伊勢崎線沿線は東武バスセントラル、東上本線沿線は東武バスウエストにより運行されている。JR高崎線沿線においては熊谷地区で国際十王交通が運行している。2002年に道路運送法の規制緩和により越谷市より南部の東部地域で多数の新規路線が参入し、つくばエクスプレスの開業に伴い路線網が再編された。メートー観光、タローズバス、マイスカイ交通、グローバル交通、京成タウンバス、京成バスが武蔵野線沿線とつくばエクスプレス沿線で運行されている。平日の終電後に運転される深夜急行バスは、大宮駅のほか都内の池袋駅、上野駅、東京駅などを発車して県南部の主要駅へ向かう路線が多数運行されている。羽田空港や成田空港に直結する空港連絡バスもターミナル駅を中心に多数運行されている。
埼玉県の方言 1908年(明治41年)の国語調査委員会報告以来、関東地方において京阪式アクセントに似たアクセントの使用地域(主として旧葛飾郡域にて。実態は東京式アクセントの一段階変化形特殊アクセントであった)として注目を集めたが、退潮が著しく高年層の発話に聞かれるだけになっている。他はほぼ全域にわたって東京式アクセントによる東部方言の西関東方言が用いられる。東京に近い上に県外からの転入者が多いことから共通語の影響が強く、西関東方言も衰退しいわゆる「首都圏方言」が使われているところも多い。
宮崎大学教育学部附属小学校の生活科発祥の地 小学校低学年の科目の一つである生活科の研究校として、1984年度から1986年度にかけて指定されたのに伴い、小学校1・2年の社会科・理科を廃し、試験的に「生活科」と称した科目を導入して、平和台公園の探検など体験的な学習が行われた。その後1989年に正式に「生活科」が小学校1・2年の科目としてスタートした。また、全国の小中学校の総合学習にもいち早く取り組み、総合学習の発展に大きく貢献した。1998年前後にはケナフの植栽やケナフを取り扱った活動を全国に発信した。
朱貴の生涯 沂州沂水県の居酒屋の息子。家を弟の朱富に任せ自身は各地を渡り歩き商売をしていたが元手をすって梁山泊へ登り賊となる。その後は梁山泊の東の対岸に居酒屋を設け、そこで情報収集や訪問者の応接などを担った。ある年の冬、柴進の推薦で梁山泊入りを望む林冲が尋ねてきたので、朱貴は首領の王倫の元へ案内するが、林冲の実力を恐れる王倫はあれこれ理由をつけて彼を追い返そうとした。しかし朱貴は真っ先に反対し、副首領の宋万、杜遷もそれに賛成したため、紆余曲折の末、王倫も渋々入山を認めた。半年ほど後、官憲の追及を逃れてきた晁蓋ら七人の好漢が入山を求めてきた。朱貴は喜んで彼等を迎えるが、王倫はまたしても晁蓋達の入山を拒絶、これに激怒した林冲が王倫を斬殺し晁蓋を頭領に据えるというクーデターが起こった。もとより王倫に不満のあった朱貴はすんなり彼等に従い、引き続き見張り役を任された。一年ほど後、江州の役人で軍師呉用の旧友戴宗にこれと知らず痺れ薬を盛るが、彼とわかると慌てて介抱、晁蓋の恩人宋江が無実の罪で処刑されかかっていることを知りこれを報告、紆余曲折の末晁蓋たちは宋江の救出に成功した。また同郷ということもあり、母親を梁山泊に迎えに行った李逵の目付け役として沂州に出かける。ここで李逵が官憲につかまるが、弟朱富とともに救出、護送役人の李雲も梁山泊に連れて帰った。その後は手伝いとして配属された楽和とともに店番を続け、脱獄した雷横とその母を保護したり、芒碭山の樊瑞一味の梁山泊襲撃計画を察知するなどした。百八星集結後は、相方が杜興に代わり店も南に移る。朝廷に帰順し梁山泊を離れる際、引越しの準備と後始末を行ってから物語の表舞台から姿を消し、方臘討伐戦において杭州で流行った疫病にかかり没した。
サフォークランド士別ハーフマラソン大会のコース アップダウンのある周回コースを2周走るコース。
西国愛染十七霊場の発生学 咽頭嚢は、消化管の内壁が側方へ向かってポケット状にくぼんだもので、尾索動物亜門や頭索動物亜門、また脊椎動物亜門の魚類・両生類幼生および一部の両生類成体では、外界へ開通して「えら穴」(鰓裂:さいれつ)となり、その前後の残存部、つまり鰓弓(さいきゅう)の壁にガス交換面としての「えら」(鰓弁:さいべん)を生ずるものである。本来これらの祖先的な脊索動物において、口から飲み込んだ水を鰓裂に通してガス交換すると共に、ここの腹側にある内柱から分泌される粘液と鰓弁によってプランクトンやデトリタスを濾過補足して摂食するかご状の器官であった。今日でも尾索動物のホヤやサルパ、頭索動物のナメクジウオ、脊椎動物のヤツメウナギの幼生アンモシーテスではこの本来の形態や機能をよく維持している。硬骨魚綱や軟骨魚綱の魚類にも咽頭で濾過摂食するものが多く知られているが、これらでは濾過の主役は鰓弁ではなく鰓弓から伸びた鰓耙(さいは)と呼ばれる突起となり、また内柱からの粘液シートも失われている。空気呼吸をするようになった脊椎動物のうち、幼形成熟しない両生類や有羊膜類では咽頭嚢は原則として外通せず、また、鰓弁も発生せずに、成長にともなって退化消失するが、その付近の組織からは種々の鰓性(さいせい)器官が分化する。また、脊椎動物では内柱は内分泌器官である甲状腺に変化し、代謝調節を担っている。この点では爬虫類や鳥類でもほぼ同様だが、哺乳類の咽頭は、鼻腔、口腔と喉頭の間にあって、呼吸ならびに食物の通路として十字路のような大切な部分であり、ヒトでは抗体をつくって生体を防御する扁桃などのリンパ組織が杯状に配置(ワルダイエル扁桃輪)され、神経の分布は緻密である。また、種々の筋肉の協調により嚥下をもつかさどる。
谷華花の経歴 最下部の下咽頭(hypopharynx)は咽頭喉頭部(laryngopharynx)ともいい、喉頭の後方から両側方にかけて存在する腔で、ここから気道より分かれた消化管となる。炎症が慢性化しやすい部分である。また、大人の場合、舌根にある舌扁桃の増殖が加わって違和感がさらにひどくなる。ここにも悪性腫瘍ができやすく、喉頭の癌と区別しにくいことが多い。また、ここは下咽頭痛のほか、嚥下障害などを訴える部分であり、魚骨などの異物のひっかかりやすい場所でもある。最近は少なくなったが、咽頭結核もみられることがある。これは、たいてい肺結核から二次的に感染したもので、咽頭痛、嚥下痛、微熱、喉の違和感、嚥下困難などを訴えるものであり、咽頭粘膜あるいは軟口蓋に粟粒(ぞくりゅう)状発疹か、潰瘍が見られる。なお、昔多かった咽頭梅毒は、現在ではほとんどみられなくなった。代わりに、オーラルセックスによる性感染症(STD)としては淋菌性咽頭炎などが増加傾向にある。
ボランティア法律家による芸術支援団体のアメリカ NYのVLAは3千人以上の弁護士が在籍している。弁護士による文化芸術分野のプロボノ活動としてVLAは中心的な地位にある。コロンビア大学ではNYのVLAと提携しており、Columbia Journal of Law & the Artsというロー・レビューを発行している(外部リンク参照)。日本でもいくつかの大学図書館で購読している。
歌うトップスター (フジテレビ)の概要 日本人では、NY周辺のロースクール留学中にNYのVLAでインターンシップを経験した弁護士が少なくとも3名いるが、数としては非常に少ない。弁護士を中心とした実務家による同種団体としてArts and Lawがある。
シャイニング パワーの概要 同時期に開始した連ドラ『流れる雲』同様、21:30枠の『スター千一夜』とワンセットになる番組として開始したが、『スタ千』の土曜放送中止(あるいは日曜に移動)に伴い終了した。なお1974年2月から3月まで毎日放送制作・NETテレビ系列の金曜日に放送された『歌うトップスター』とは関係無い。
藤原北家の概要 テレビ東京アニメ『イナズマイレブン』エンディングテーマ。センターは熊井友理奈。メインボーカルは熊井友理奈、夏焼雅、菅谷梨沙子、嗣永桃子であるが、全員にソロパートがある。
コイ・トゥオンの長家流(御子左流)   →(御子左家を参照のこと)
ノルム化可能空間の粛清 1977年前半になると、党内の反インテリ・キャンペーンが盛り上がり、その手始めとして2月にコイ・トゥオンは逮捕され、S21監獄に収監された。トゥオンの逮捕後、北部地域においては後任の地域書記ケ・ポクにより大量粛清が実行された。トゥオンは尋問の結果、CIA要員やベトナムの手先、非共産党員との接触を告白した。3月4日の供述書では、ネイ・サランの提案でカンプチア共産党に対抗する「新カンボジア社会党」の設立を計画し、同党の政治方針が私有財産の復活、市場の再開、通貨の流通、外国からの支援を受けることだったと「自白」し、さらにはポル・ポトの暗殺、部隊の士気阻喪などの計画も「自白」した。また、情報宣伝相フー・ニム、党中央委員会事務局長スア・バ・シ、元内相フー・ユオンらの100人以上の名前を供述し、その後で処刑された。
サモス (スペイン)の地理 コルモゴロフのノルム化可能判定法によれば、ハウスドルフ位相線型空間がノルム化可能となる必要十分条件は、有界凸な零近傍を持つことである。特に、任意のハウスドルフ局所凸空間は有界な零近傍を持てはノルム化可能である。故に、ノルム化可能でない位相線型空間の例は、全て局所凸空間でない。特に、Lᵖ([0, 1]) (0 < p < 1) はそのような例である。また任意の無限次元モンテル空間、特にシュヴァルツ超函数論に現れる試験函数としての隆起函数の空間 D(Ω), 急減少函数の空間 S(Ω), 滑らかな函数の空間 E(Ω), コンパクト台付き超函数の空間 E′(Ω), 緩増加超函数の空間 S′(Ω), シュヴァルツ超函数の空間 D′(Ω) なども同様の例になっている。さらなるノルム化可能でない位相線型空間の例は、弱位相 σ を無限次元ノルム空間 E 上で考えることで与えられる。空間 (E, σ) がノルム化可能であるための必要十分条件は E が有限次元なることである。
ダービーマスターの政治 自治体首長はガリシア社会党(PSdeG-PSOE)のフリオ・ガジェーゴ・モウレ(Julio Gallego Moure)、自治体評議員は、ガリシア国民党(PPdeG):3、ガリシア社会党:3、TEGA(Terra Galega、ガリシアの大地):2、ガリシア主義党(PG):1となっている(2007年の自治体選挙の結果、得票順)。
生名谷川の地理 1回きりの馬消耗品と馬に装備する馬具が販売されている。それぞれにゲーム内の資金で買うことのできるアイテムとDPを使用するアイテムがあり、DPを使用するアイテムのほうが効果が高い。ゲーム内の資金をDPで購入することも可能。
ペトログリフの概要 勝浦郡勝浦町(旧生比奈村大字生名)の水源より勝浦町を経て勝浦川上流に注ぐ。生名谷川には「生名谷川桜ロマン街道」という河川沿いの約1kmに渡ってソメイヨシノやしだれ桜が約300本植えられている桜並木があり、徳島県内随一の桜並木と言われている。