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小林尚臣の人物・来歴 環太平洋地域にペトログリフの文化が点在し、日本においてもペトログリフの存在が確認されており、幾つかの団体が研究を行っている。日本先史岩面画研究会は北海道の手宮洞窟やフゴッペ遺跡の研究から発展している組織で、こちらは主に美術的な観点からの調査を行っている。両会とも世界各地で調査を行っており、海外の学会で発表する等、成果を挙げている。なお、1994年3月28日の読売新聞によると、山口県下関市彦島の市指定文化財「彦島杉田岩刻画」(平成3年5月指定)に傷がつけられているのが発見され、ニュースになった(同新聞によれば、大正13年に地元の人が発見、昭和51年頃から研究があった、とされる)。
上野由恵の経歴 学校法人桐朋学園卒業。1970年、劇団俳優座入団。1985年、現在の事務所に所属。現在は、映画、テレビドラマ、舞台に出演のほか、声優などの活動等を行うなど多方面で活躍。
砂丘館の師事 平尾周用、岩崎範夫、村上成美、中川昌巳、浅生典子、神田寛明、竹澤栄祐、金昌国、寺本義明、パウル・マイゼン、フィリップ・ベルノルドに師事。
フリスト・ズラタノフの来歴 新潟市が所有する旧日本銀行新潟支店長役宅の愛称。1933年(昭和8年)の建設。設計は日本銀行の技師平松浅一、施工は新潟の武田組。当初は西掘前通6番町にあったが、柾谷小路の拡幅により現在地に移転。敷地面積約523坪、延べ床面積約152坪。8代から37代までの30人の支店長が居住した。1999年(平成11年)保有資産見直しを図った日本銀行が役宅を売却することとなったことから新潟市が取得。2000年(平成12年)6月から一般公開された。戦前の日本銀行の役宅として現存するのは新潟市の砂丘館と1927年建造された福島市の御倉邸の2か所だけである。
第28回ベルリン国際映画祭の概要 例年6月に開催されていたベルリン国際映画祭であったが、1978年から2月に開催されることになった。また、青少年のための部門 "Cinema for People Six and up" が新たに設立された。
三木稔の経歴 徳島県出身。旧制六高理科を経て東京芸術大学作曲科卒業。作曲を池内友次郎、伊福部昭に師事する。1953年に《交響的三楽章》がNHK芸術祭管弦楽曲公募で2位入賞、N響が初演。しかし芸大卒業の年に父に逝かれ、短編映画・演劇などの仕事などで一家を支えるため通常の作曲界への登場は同世代の作曲家より大幅に遅れる。1960年から数年、三木自身が高校時代に音楽へのめり込むきっかけとなった合唱に集中的に作品を提供し、《レクイエム》《阿波》などの合唱作曲家としての顔が最初に知られる。1964年、他の14人と日本音楽集団を創立。20年間に亘って音楽監督として箏、尺八、三味線など全ての邦楽器(日本楽器、和楽器)による現代的な合奏分野の確立に《古代舞曲によるパラフレーズ》《ダンス・コンセルタントI―四季》《巨火》(ほて)などの作品を定着させつつ尽力、とくに開発から関わった二十絃、2年後に絃数が増えた新箏(にいごと、21絃)への《天如》《箏譚詩集》などの作品群は後の作曲家が範とする。またこの分野の海外公演を15次170回もプロデュースし、1981年クルト・マズアが指揮するライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団命名200周年記念委嘱初演の《急の曲Symphony for Two Worlds》は、後にニューヨーク・フィルハーモニック等との共演でも好評を得、困難な上演条件にも関わらず内外で30回近く演奏されている。楽器への広範な知識をまとめた著作『日本楽器法』(音楽之友社)は日本音楽の演奏、研究、作曲すべてにおいて参照されることが多く、2000年中国人民音楽出版社から中国語版、2008年には米ロチェスター大学出版局から英訳が刊行され、外国人が日本の楽器に容易に作曲できる環境が作られた。オーケストラ作品は《急の曲》の前に《マリンバ協奏曲》《破の曲》の独自性で注目を受け、《春秋の譜》《舞》のような日本のアイデンティティを花咲かせた作品や、《Z Concerto》《Pacific Rainbow》のような欧米委嘱で快活な現代を訴えた作品など、2007年《ふるさと交響曲》まで、大小さまざまなアプローチを持つ。《序の曲》《破の曲》《急の曲》を合わせ日本楽器と西洋管弦楽を結ぶ『鳳凰三連Eurasian Trilogy』に次いで、アジア楽器と西洋オーケストラを結ぶ2000年《大地の記憶》は、より大きな構造への第1楽章に位置づけられている。アジアの楽器群への作曲は、1983年、日本音楽集団の初中国公演で、史上初の2国間民族楽団共演となった中央民族楽団との共演用に作曲した《彩紅序曲》で始まった。その時北京・上海5公演で演奏された三木の8作が、譚盾はじめ中国の若い作曲家たちに強い影響を残し、民族楽器奏者達、特に新箏と絃数を同じくする古箏奏者たちは三木の《華やぎ》などを挙って演奏するようになり、1993年に韓国も合わせてオーケストラ アジア創立に進んでいった。その編成に残した《夢・楼蘭》等5作の管弦楽曲のほか、中国・韓国・モンゴル伝統楽器個々への作品も多く、特に1997年以降共同作業している中国琵琶の天才奏者シズカ楊静に書いた、世界各地で作品と演奏の両方が抜群の受容をされている《琵琶協奏曲》や、オペラ《源氏物語》《愛 怨》に含まれる作品群が今新しい。楊静を中心としたアジア アンサンブル(2002年に三木が主宰して創立)は、同じく1998年に創立した邦楽創造集団オーラJ、1990年のマルチカルチャー結アンサンブル等と共に現在アクティヴに活動中で、三木が創立した第7番目の組織、「東西音楽交流の聖地創りを目指す」八ヶ岳「北杜国際音楽祭」(2006年以降毎夏)に出演する重要な演奏団体になっている。1968年に安倍圭子リサイタルに書いた《マリンバの時》と1984年の《マリンバ・スピリチュアル》は世界の打楽器界で最重要な作品群にランクされているというが、特に《マリンバ・スピリチュアル》は欧米だけで1万回以上の演奏・録音・録画がなされ、作曲者は引きもきらない英語メールへの対応に追われているという。8000人が集った2007年のPASIC(全米打楽器協会世界大会)では、上記及び協奏曲以外の“Z Conversion”等7作で構成された“New & Unknown Marimba-percussion Works of Minoru Miki”のコンサートが、聴衆全員のスタンディング・オヴェイションで迎えられ、別に録音されたCDが作曲者帰国後に届けられたという。邦楽器・民族楽器、そしてオペラに時間を奪われて西洋楽器の室内楽は比較的寡作だが、書法が自在になった80年代後半に欧米豪委嘱で書かれた《弦楽四重奏曲》《ピアノ三重奏曲》《SPRING for Strings》や、もともと邦楽器に書かれ、欧米の演奏家から彼らの楽器用のヴァージョンを求められた《秋の曲Autumn Fantasy》《しおさいTidal Sounds》《森よode to Forest》は国際的なレパートリーとなっている。日本では珍しいオペラ・アリア集(全音楽譜出版社)が出版されるほど三木アリアが多く、歌曲は地味な存在にされがちだが、22曲の小歌曲集《のはらうた》と14曲の歌曲集《花ものがたり》は、同じく全音の三木歌曲集に含まれる歌曲とならんで、徐々に聞かれるチャンスが多くなってきた。これら全ての作品をあわせても三木の業績のウエイトは近年ますますオペラに傾いていく。作曲者自身がライフワークと公言している『三木稔、日本史オペラ連作』は、1975年日本オペラ協会委嘱で初演され、作曲がジロー・オペラ賞を受けた《春琴抄》に始って、2006年新国立劇場委嘱初演の《愛怨》(瀬戸内寂聴台本)で8連作として5世紀から19世紀までが通貫され、そのDVDが好感してマーケットに迎えられ、2010年2月20日を初日に夏までに10〜15公演がハイデルベルク市劇場でドイツ初演(日本語上演、ドイツ語字幕)されるという国際的な華やかさを持続しているが、20世紀題材での第9作を企図していた作曲者は、2009年2月現在、そのオペラ《幸せのパゴダ》のオーケストレーションをほぼ終え、一箇所入れ替える予定の短い劇中劇の台本を待って、80歳になった頃にはヒマラヤ縦断にも擬せられる『日本史オペラ9連作』の夢を、37年を要して果たすつもりのようである。ベートーヴェンに憧れて第9を尊び、その数の連作を企画してきたオペラ作曲家としての三木は、まだ日本人が外国から委嘱されオペラを書くことがほとんどなかった頃にイギリスから委嘱を受けるなど、日本人としては異例の世界的活躍を行っている。連作第2作《あだAn Actor’s Revenge》は、イギリスオペラ界がウェーバーのオベロン以来153年ぶりに外国作曲家に委嘱したこと、1979年ロンドンでの世界初演はブリテンの数作並みの成功だったなど英紙に報道され、英語で書かれたスコアは81年作曲者の指揮でアメリカ初演(日本での日本語初演84年)、ドイツ語に訳されて87年ドイツ初演。米初演の成功で、演出のコリン・グレアムと三木のチームは85年セントルイス・オペラ劇場で初演する次作を委嘱され、第3作《じょうるり》の台本と作曲に繋がり、その初演はザ・ニューヨーカーとフィナンシャル・タイムズでアンドリュー・ポーターが「全てのクロスカルチャーの作曲家の中で、三木は個性的で、しかも高度に表現力を持った音楽言語をもって、日本と西洋の要素をおそらく最も成功裡に結びつけた作曲家である」と書いたほど、より高い成功に導かれた。それは88年日生劇場での再現で日本人に記憶され、同じチームによるオペラ第7作《源氏物語The Tale of Genji》の2000年世界初演(2001年に日生劇場)まで繋がっていった。このとき、いつもは殆ど誉めず気難し屋で有名なウォールストリート・ジャーナルのハイディ・ウオールソンが「三木の音楽は雰囲気に満ちた傑作」と書き、「舞台にしろ音楽にしろ非常に高いレベルで、心底楽しむことができ、世界初演は稀にみる成功であった」と誉めた。作曲者が古希を迎え、世紀の変わり目だったこの年、《源氏物語》世界初演前後にオーケストラ作品《Pacific Rainbow》がハワイで、《大地の記憶》がクルト・マズア指揮・読売日本交響楽団で世界初演されている。三木はこのように国際的で、多面的な顔を持った作曲家である。91年、徳島県文化賞。94年紫綬褒章、00年旭日小綬章を受章。07年よんでん芸術文化賞、09年第20回福岡アジア文化賞の芸術・文化賞(日本人で初受賞)、徳島県民栄誉賞(2011年12月没後)など受賞。著書:「日本楽器法」「オペラ《源氏物語》ができるまで」「新筝との道行き35年」。東京音楽大学教授、徳島文理大学助教授・四国大学客員教授などを歴任した。2011年12月8日、敗血症のため死去。81歳没。
NEVER SOLD OUTの解説 1999年にLUNA SEAはバンド結成10周年を迎え、その記念として初のライブ盤がリリースされた。LUNA SEA(当時はLUNACY表記)が今の5人編成になって初めてのライブを町田プレイハウスにて行った日が1989年5月29日であり、今作はその日のちょうど10年後にリリースされたことになる。今作はそれまでのLUNA SEAの過去10年間のライブ音源の中から、メンバーの選曲によりCD2枚にピックアップされた作品である(一番古い音源はインディーズ時代の91年、一番新しい音源は98年のものである)。ただし曲順は時系列順ではなく、1枚のCDが実際のライブの流れに近いよう想定しながら並べられているために時代が混在しており、なおかつ曲間を編集で間髪なく繋げている箇所も多々ある。なお、このアルバム発売日の翌日に彼らは東京国際展示場にて10周年記念ライブ「NEVER SOLD OUT CAPACITY∞」を行っている。
Rightfullyの概要 表題曲の「Rightfully」はAT-Xほかで2018年放送のアニメ『ゴブリンスレイヤー』オープニングテーマ。B面の「Mob Mentality」「Region」は、それぞれ同アニメの第1弾、第2弾PVに使用されている。Miliスペシャルパッケージ(SNCL-00020〜21)と初回生産限定アニメパッケージ(SNCL-00022〜23)の2形態で発売される。CDの収録内容は一緒だが、付属するDVDが2形態で異なる。
若隆元渡の来歴 祖父は小結・若葉山(時津風部屋)、父は幕下・若信夫(立田川部屋)、弟は十両・若元春と十両・若隆景(ともに荒汐部屋)という力士一家。学法福島高校在学中は福島県大会優勝の実績を残し、在学中の2009年11月場所で初土俵を踏んだ。2010年1月場所で序ノ口に昇進して1場所で通過、翌3月場所から序二段に上がって2場所で通過し、同年7月場所からは三段目に昇進。2年後の2012年7月場所で幕下に昇進した。2016年9月場所は西幕下11枚目まで番付を上げたが3番目の相撲で左肩を負傷して途中休場し、場所後には手術を受けた。翌11月場所も怪我の治療のため全休し、翌2017年1月場所で復帰。2017年5月場所、末弟の入門に合わせて四股名を本名の「大波」から「若隆元」改名。由来は三子教訓状で知られる戦国武将の毛利隆元で、弟二人も吉川元春と小早川隆景(毛利隆元の弟)から名前を取り、それぞれ「若元春」「若隆景」と名乗った。なお、「若」の字は、祖父の若葉山と父の若信夫から来ている。改名後は、2018年7月場所で2016年9月場所以来となる自己最高位の更新となり、4勝3敗と勝ち越して翌9月場所では幕下1桁台の番付まで上がった。
末田の地理 さいたま市岩槻区南部の沖積平野に位置する。南北に細長い地域で、越谷市と接している。北側は元荒川が流れて自然堤防を造り出し、末田用水が中央を流れ灌漑している。浦和美園駅からは2 kmほど離れている。
末田の交通 鉄道は敷設されていない。2キロほど西に浦和美園駅がある。
サクラソウ属の概要 すべて多年草で、地下に根茎を持つ。葉は根出状に出て、柄があって丸っこい場合と、葉柄が不明瞭で楕円形の場合がある。花茎は葉の間から伸び出し、その先端に散形あるいは輪生状に花序をつける。花には5裂した萼があり、その中から筒状の花弁が出て、その先端は広がって大きく5つに割れる。雄蘂は5本で花弁の中にまとまる。特筆すべき点としては、異形花柱性が挙げられる。これは、同じ種でも個体により花柱(雌蕊の付いている部分)が雄蕊より短く、花筒内に隠れるものと、逆に花柱が雄蕊より長く、開口部まで伸びるものがあるということである(自家不和合性 (植物)の記事でP.vulgarisにおける例を写真で見ることができる)。これは、異なる花柱タイプ同士の受粉を容易にし、近親交配を避ける適応と考えられる。なお、少なくともサクラソウ(P.sieboldii)においては長花柱花の方が短花柱花よりも自家和合性を持っている(つまり自家受粉でも種子を作ることができやすい)。しかし、異型性が崩壊して雌蕊と雄蕊が同じ高さになり、自家受粉を行うものもある。これが種全体のレベルにまで達したものもある。北半球の温帯 - 寒帯を中心に約500種とも600種とも言われる。花が美しいものが多く、観賞用に栽培されるものも多い。ヨーロッパにおいて園芸植物となったものはプリムラと総称される。日本ではサクラソウが江戸時代に古典園芸植物として発展し、多くの品種を擁する。しかし、そのために乱獲されたものも多い。サクラソウの場合、生育環境の開発も大きな影響を持っている。クリンソウ、カッコソウなども乱獲によって絶滅に瀕している。他方、日本のそれ以外の種は高山植物がおおく、もともとの生育地が限定されており、いずれにせよ貴重な植物と見なされている。
武田秀一の履歴 1878年(明治11年)9月、高知県香美郡野市村(現在の野市町)に武田秀山の長男として生まれる。1900年(明治33年)11月、陸軍士官学校(12期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官。千葉陸軍歩兵学校教官などを経て、1923年(大正12年)8月、歩兵大佐に昇進し青森連隊区司令官に就任。1924年(大正13年)8月、歩兵学校教導連隊長となり、豊橋陸軍教導学校長に転じ、1929年(昭和4年)8月、陸軍少将に進級。1930年(昭和5年)8月、歩兵第37旅団長となり、近衛師団司令部付を経て、1933年(昭和8年)8月、陸軍中将に進んだ。同年12月、第3独立守備隊司令官に発令され、1934年(昭和9年)8月に待命、同年9月、予備役に編入となった。1939年(昭和14年)5月に死去。
鶴川 (町田市)の地理 町田市の北東部に位置する。北で町田市真光寺町・真光寺、東で広袴町・広袴・能ヶ谷、西と南で大蔵町と接している。地内のほとんどが鶴川団地で占められている。また旧鶴川村に相当するほぼ全域が鶴川地域とされており、この略称として「鶴川」と呼ばれることもある。
鶴川 (町田市)の地価 住宅地の地価は、2014年(平成26年)1月1日の公示地価によれば、鶴川2丁目16番16の地点で15万6000円/m²となっている。
鶴川 (町田市)の地名の由来 鶴川の名称は合併前の8村が鶴見川水系であることに由来するという。
鶴川 (町田市)の鉄道 小田急電鉄小田原線の鶴川駅が最寄り駅である。
缶切りの概要 1810年、イギリスのピーター・デュラントが、軍用の保存食として画期的な缶詰を発明した。しかし缶詰を容易に開ける手段までは発明した本人も考えていなかった。そのため缶詰は、ハンマーとのみで叩いて開けるか、道具がない戦地では銃剣やナイフを缶に突き立てて無理やりこじ開けたり、銃で撃ち飛ばして開封されていた。しかし、この方法は銃剣が破損したり中身が飛散したりし、あまりにも不便であった。そのため缶を開く道具が工夫され、缶詰の発明から数十年たった1858年、アメリカ合衆国のエズラ・J・ワーナーにより、引き廻して開ける方式の缶切りが発明された。その約10年後、缶の縁を切る方式が発明された。現代の缶きりは、コルク抜付き、栓抜き付き、プルタブ起こし(プルタグ起こし)付きのものもある。栓抜きの機能も合わせ持つ缶切りは、道具の両端にそれぞれ栓抜きと缶切りが位置するため、この道具を指して栓抜きと呼ばれる場合もある。缶切りは、使用者の利き手の違いに対応するため、右利き用と左利き用とがあり、一般に市販されているものの多くは右利き用であるが、少数ながら左手用も存在する。アーミーナイフでも缶切りの付属する物は多いが、こちらも右手用・左手用の両モデルが存在する(一部メーカーのみ)。かつては、缶詰は缶切りが無ければ開けられなかったが、清涼飲料水では1960年代ごろより、1970年代後半よりは小型の缶の缶蓋でもイージーオープンエンドの採用がすすみ(イージーオープン缶)、大抵は缶切りを用いなくても開栓可能となっているため、一般における缶切りの利用頻度は減少している。しかし、未だ開封に缶切りを要する缶詰も流通しており、また、陸上自衛隊の戦闘糧食I型のように、軍事用で空中投下を前提としている為にこのような方式の使えない缶詰では、やはり缶切りが必要であるため、缶に缶切りが付属している場合もある。
缶切りの分類 通常、缶切りはてこ式とねじ式とに分けられる。このほかコンビーフ缶の巻取式などがある。
缶切りのてこ式 鋭利な金属製の刃と、缶の縁(リム)にひっかける金具から構成され、手動で缶の縁を移動しながら円周方向に蓋を切断していく形式(固定刃型)である。てこの原理を用い、少ない力で大きな切開力を生み出しており、作用点は刃の切断点で、支点が縁の引っ掛かりであるが、力点は支点の両側にあるタイプと、缶上部に向かって伸びているハンドル部分のみのタイプがあり、後者は押し下げるタイプと押し上げる(引き上げる)タイプの物がある。缶を切る方向では、押して切るタイプと引いて切るタイプがある。たとえばスイスアーミーナイフに付属の缶切りの場合、ウェンガー社のものは引き、ビクトリノックス社のものは押しタイプである。切断面が鋭利なギザギザになるため、缶の縁の内側に不用意に手をかけた場合、指先に怪我をする場合がある。切り取った蓋の扱いにも同様に注意を要する。
缶切りの電気缶切機 缶の上部にセットしてスイッチを入れると、電動で缶切り作業が行われる器具も市販されている。電気缶切機や電動缶切りなどと呼ばれる。
トロイ郡区 (アイオワ州クラーク郡)の地理 トロイ郡区は、36.1平方マイル (93 km²) で、マレーという一つの非法人地域が含まれる。 USGSによると、マレーとトロイの2つの墓地を含む。 ウェストロングクリークの小川が、この郡区を通り抜ける。
中波の概要 伝播の特徴として、電離層D層のあらわれる昼間は、D層に吸収されるという性質がある。このため、昼間は地表波のみ有効で比較的短距離(但し、超短波などに比べれば伝播距離は長い)しか届かないが、夜間は、D層が消滅しE層で反射するため電離層反射波により遠距離まで到達する。そのため、夜間は昼間より遠方に届くのが利点となるが、混信が問題という欠点ともなる。中波放送・路側帯ラジオ・船舶無線・航空無線航行・アマチュア無線などに利用される。
中波の中波放送 国際電気通信連合(ITU)は、無線通信規則(RR)に放送用として526.5 - 1606.5kHzを分配している。第1地域(アフリカ・ヨーロッパ)、第3地域(アジア・オセアニア<アメリカ合衆国構成州のハワイは除く>)の中波放送は531 - 1602kHz、搬送波間隔9kHz。第2地域(アメリカ大陸=北アメリカ・南アメリカとハワイ州)は530 - 1600kHz、搬送波間隔10kHzである。また、地域により差異はあるが2300 - 2498kHzの中から放送用にも分配できるものとしている。熱帯地方の低周波数には空電による雑音が多いためで、搬送波間隔5kHzで国内放送に用いられる。
新歌舞伎座 (東京)の概要 こけら落とし興行は初代中村吉右衛門一座。歌舞伎を興行の中心として、曾我廼家五郎一座・新派・新国劇などの公演を行っていたが、1933年からは四代目片岡我當、三代目坂東志うかなどの「青年歌舞伎」の常打ち劇場となり、インテリ層が比較的多かった山手の観客に支持された。1934年内部を改造して「新宿第一劇場」と改称、青年歌舞伎に加え松竹少女歌劇団(SSK)の本拠になったが、SSKは1937年に新築開場した浅草・国際劇場に移った。このため1938年より映画館に転身。第二次世界大戦中の1942年には戦時統制が敷かれ、日本におけるすべての映画が同年2月1日に設立された社団法人映画配給社の配給になり、すべての映画館が紅系・白系の2系統に組み入れられるが、同年発行の『映画年鑑 昭和十七年版』によれば、同館は「紅系」に指定されていた。その後1943年から演劇興行を再開するも、1947年再度映画館となる。1958年「新宿松竹座」と改称して歌舞伎を中心とする劇場に戻り、1959年「新宿第一劇場」に復名。1960年閉鎖・廃座。閉鎖後の敷地は三越の所有となり、長らく新宿三越の駐車場となった後、1991年新宿三越南館が建ったが、その後1999年に全館を大塚家具に賃貸し現在に至る。
新歌舞伎座 (東京)の新宿歌舞伎座 なお、1924年四谷永住町(現在の四谷四丁目)に新築開場した大国座が1929年椅子席に改装して山手劇場と改称されたが、これを松竹合名会社(のち松竹興業・松竹興行)が同年から1934年まで賃借し、「新宿松竹座」と改称して洋画館・レビュー劇場として使用していたことがある。松竹から新宿松竹座を返還された所有者はこれを元の名前である大国座に戻したが、この年上京した松尾國三が賃借して「新宿歌舞伎座」と改称、1937年までの3年間経営した。松尾からの返還後「新宿シネマ」と改称して映画館となっていたが、1942年再び松竹が賃借、「新宿大劇場」と改称し、軽演劇・演芸の興行を始めた。1944年新宿松竹座に復名したが、1945年空襲で焼失、その後は再建されなかった。敷地はその後野村総合研究所が長らく所在し、現在はソフトバンクIDCの本社ビルになっている。同じ新宿界隈にあること、どちらも「新宿松竹座」を名乗ったことがあること、「新歌舞伎座」と「新宿歌舞伎座」と名称も紛らわしいものであることなどから、両劇場はしばしば混同されるので注意するべきである。松竹の「新歌舞伎座」は1934年6月の新国劇公演のあと7・8月を休場して内部を改装し、「新宿第一劇場」と改称してSSK公演を開始したのが8月31日、松尾の直営初興行が同年10月であるから、「新宿歌舞伎座」という名称は「商売人」の松尾が新歌舞伎座の客を吸収しようと狙ってつけた可能性はある。
高師浜駅の駅構造 単式1面1線のホームを持つ高架駅で、来た列車がそのまま折り返す構造。ホーム長は4両分程度あるが羽衣側は手前に柵が、終端側はホームの端より手前に車止めが設置されているので、大体ホームの中央部で発着する。ホームそのものは、将来の1面2線化に対応した設計となっているが、当面予定は無い。ホームは2階、線路から見て東側にある。なお、このホームの真下に地上線時代のホームが撤去されずに残っている。トイレは設置されている。駅舎は南側の地上にある。駅舎正面入口上部にはステンドグラスがはめられている。高師浜線高架化時に解体される予定だったが、地元の熱意によりそのまま残されている。改札外にあった売店は閉鎖され、証明写真と飲料の自動販売機コーナーになっている。2011年5月1日より一部の時間帯において無人駅となった。券売機は1つで別に乗車駅証明発行機がある。
水爆打線の概要 1950年、松竹はセ・パ両リーグ分立初年度に圧倒的な打撃力で98勝35敗4引分(勝率.737)で優勝。98勝は現在でもセ・リーグ記録である。球団増による投手力の低下、狭い地方球場の使用が多かったこと、いわゆる飛ぶボールである「ラビットボール」の採用により打者有利になっていたこともあり、137試合で908得点をあげ、チーム打率は.287、チーム安打は1417安打(2010年に阪神が1458安打で更新するまではセ・リーグ記録)、チーム本塁打は179本を数えた。また、盗塁223もリーグ1位であり、機動力も多用した。特にこの年MVPとなった小鶴誠は130試合の出場で打率.355、51本塁打、161打点、143得点(打率が2位の他は全て1位)を記録したほか、28盗塁を記録し、当時MLBにも達成者のいなかった日本球界唯一の50本塁打20盗塁を記録。岩本義行は打率.319(7位)、39本塁打、127打点、121得点、34盗塁を記録し、別当薫(毎日)と共に日本プロ野球最初の「3割30本30盗塁」を達成。大岡虎雄も打率.282、34本塁打、109打点、86得点を記録し、クリーンナップ3人がいずれも30本塁打、100打点を達成したのは、セ・リーグでは後に「ニューダイナマイト打線」と呼ばれた1985年の阪神のトリオ(ランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布)までなかった(現在でもこの2例だけ)。クリーンナップ以外でも、主に一番を務めた本塁打王獲得経験者の金山次郎が全137試合に出場し、打率.311(9位)、7本塁打、67打点、104得点、74盗塁(1位)と活躍した。1試合平均得点は6.63点を記録。先述の通り、打者に有利な条件が揃っていたこともあって一概に比較できないが、1985年の阪神の「ニューダイナマイト打線」が5.62点、DH制が採用されている近年のパ・リーグ球団でも2003年のダイエーの「ダイハード打線」が5.87点、2001年の近鉄の「いてまえ打線」が5.50点と比べれば、1950年の松竹打線の得点力が表れている。翌1951年には39歳の岩本が史上初の1試合4本塁打を記録した。
中田安則の人物・経歴 1972年、上智大学法学部卒業。同年4月、株式会社読売広告社に入社。執行役員第1営業本部長、取締役執行役員、取締役常務執行役員等を経て、2007年、同社代表取締役社長に就任。同年6月、博報堂DYホールディングス取締役(非常勤)に就任。2016年、同社代表取締役会長に就任。2017年、同社取締役会長に就任。2018年、同社取締役相談役に就任。同年6月、同社相談役に就任。2007年、一般社団法人日本広告業協会理事に就任。2010年、同協会役員選挙管理委員会委員に就任。2011年、同協会クリエイティブ委員会担当理事、運営委員会委員に就任。2017年、第52回吉田秀雄記念賞(個人賞)を受賞。同賞は、広告業界の向上・発展に寄与した人物を表彰するものであり、2007年に日本広告業協会理事に就任後の活躍、特にクリエイティブ委員会担当理事としての活躍が評価されての受賞となった。
両丹日日新聞の概要 1945年(昭和20年)10月1日に週2回発行の「両丹時報」として創刊され、1955年(昭和30年)7月から現在の日刊紙として一新。福知山市に本社を置き、同市周辺にあった旧三和町、旧夜久野町、旧大江町の3町の区域(この3町は、2006年(平成18年)1月1日に福知山市と合併し消滅した)を含めた両丹地域を対象に夕刊(日曜祝祭日休刊)で発行している。また関連新聞社として「亀岡市民新聞」(亀岡市の週刊新聞)、「あやべ市民新聞」(綾部市の隔日刊紙=週3回刊)、「北近畿経済新聞」(月3回の旬刊経済紙)、「TOWN TOWN」(両丹アド社発行のフリーペーパー。毎月2回刊)があり、これらで「京都府北部地方新聞連合会」と題した組織を運営している。なお、ウェブページ版(Yahoo!ニュースにも配信)の記事では、基本的に明るい話題を中心として掲載し、政治(選挙も含む)や事件・事故や自然災害などは速報で伝える程度とし、詳細は紙面で見るように促しているが、2004年10月20日 - 21日の台風第23号による暴風雨災害、2013年8月15日に起きたドッコイセ福知山花火大会会場での露店爆発・炎上事件発生後、同9月15日 - 16日の台風第18号による暴風雨災害などの大規模な災害・事故はこの例外として、事故関連の報道を中心にして掲載されている。なお、事件・事故報道の際の被疑者については、紙面では実名で掲載されている場合でも、ウェブページ版では匿名に差し替えて掲載することがある(これは他紙でも同様)。また、記事のものも含めて電話番号を紹介する際、ウェブページ版(Yahoo!ニュース含む)であっても福知山市の市外局番(0773)が割愛されている場合がある。
古賀愛人の略歴 福岡県出身。明治大学政治経済学部に入学後、柔道部に所属し、大学には柔道界の名人・三船久蔵の自宅から通学した。学徒動員で南方戦線に従軍し、九死に一生を得て帰還し、復学。占領軍の指示で柔剣道が禁止されていた中、柔道部の復活に中心的な役割を果し、明柔クラブ監督なども務めた。1949年に明大を卒業し、西日本新聞社に入社。東京政治部で活躍し、内閣記者会の幹事などを務め、大平正芳、佐藤栄作など、多くの大物政治家と交流をもち、一時期は政界進出が検討された。1962年、テレビ西日本に入社し、1985年から6期、社長を務め、その間、日本民間放送連盟副会長に就任。系列を超えて 九州の民間放送全体の発展に尽くした。また、北九州交響楽団の理事長や経営者協会の理事など諸団体の役職を多く務めた。
佐藤好春の人物 神奈川県出身。神奈川県立神奈川工業高等学校を卒業後、大学入学を目指すが頓挫。1978年スタジオ・カーペンターに入社し数作品の動画を担当した後、日本アニメーションに移籍。アニメーター森康二、近藤喜文らに学び、『世界名作劇場シリーズ』のメイン・アニメーターとして永く活躍した。1986年愛少女ポリアンナ物語で、初のキャラクターデザイナーに抜擢される。その後、スタジオジブリに移籍するが、そのきっかけになったのは、1988年公開の高畑勲監督の火垂るの墓の作画監督に決まった近藤喜文の推薦により、宮崎駿監督のとなりのトトロの作画監督に抜擢されたことによる。その後、スタジオジブリで数作、原画、作画監督として参加した後、日本アニメーションに戻る。再び世界名作劇場若草物語 ナンとジョー先生、ロミオの青い空のキャラクターデザインを手がけるが、1997年世界名作劇場シリーズの終了に伴い、フリーランスとなる。ウオルトディズニージャパンなどを経て、2001年、株式会社タイトーのゲームソフト「ガラクタ名作劇場 ラクガキ王国」のアートディレクターに招聘され、同作品のCM映像も手がけている。2009年3月までゲームメーカータイトーに在籍していた。その後、BSでハウス食品世界名作劇場シリーズとして復活したことによる、こんにちはアン参加のため、古巣日本アニメーションに戻り、2018年現在も同社に所属している。そのほか、2005年より有限会社トラッシュスタジオの代表取締役プロデューサーの釘宮陽一郎と組んで、科学館向け短編劇場用映画や、TVCMなどのコンテンツ制作を多数行っている。とくに、九州地区限定の製パンメーカーフランソアのTVアニメCMは、2018年現在30作を越える長期シリーズとなっていて、佐藤の代表作となっている。2017年、フランソアCMは10周年を迎え、10年分のCMを繋いだ「カシスとアルルの物語」がWEBに公開された。また、同年11月、これまでの経験を生かしたアニメーションの参考書(レシピ本)「佐藤好春と考えるキャラクターとアニメーションの描き方」(共著:釘宮陽一郎)をナツメ社から出版する。2018年には、アニメーター画業40周年を迎えた。
滝崎成樹の経歴・人物 茨城県出身。東京大学法学部卒業。1985年外務省入省。1992年外務省条約局国際協定課課長補佐。1996年在パキスタン日本国大使館一等書記官。在英国日本国大使館勤務、外務副大臣秘書官事務取扱、外務省アジア大洋州局南東アジア第二課長等を経て、2006年外務省総合外交政策局国連政策課長。外務省総合外交政策局安全保障政策課長を経て、2010年在アメリカ合衆国日本国大使館公使(広報文化班)。2011年外務省大臣官房人事課長。2014年外務省アジア大洋州局兼南部アジア部参事官。外務省経済局審議官兼伊勢志摩サミット・広島外相会合準備事務局長を経て、2016年外務省アジア大洋州局兼南部アジア部審議官。2017年外務省アジア大洋州局南部アジア部長。2019年外務省アジア大洋州局長。両親や祖父母が愛知県豊橋市の出身であることから中日ドラゴンズのファンであることを公言している。
モーリス・ユーイングの経歴 1906年にテキサス州ロクニー (Lockney) の大規模農家の家の長男として出生。1928年に結婚。奨学金でライス大学に入学し、1931年に同大学で物理学の博士号を取得。1941年にウッズホール海洋研究所に入所と同時に海洋地球物理学をし始める。1949年にラモント地質学研究所を創設。1959年にコロンビア大学の教授に就任。1965年に離婚し、別の女性と再婚した。1972年からテキサス大学医学部門の地球物理学研究室の所長を務めた。1974年にテキサス州ガルベストンで死去。ユーイングは生涯340の論文を発表、50回に及ぶ遠洋調査をした。
アメイロケアリの生態 女王アリはトビイロケアリ、ハヤシケアリに一時的社会寄生をすることがわかっている。7~8月に結婚飛行を終えた新女王はトビイロケアリなどの巣に侵入し、働きアリを1匹殺し匂いをつける。そのまま殺した働きアリを銜えて、巣の奥に進んでいき相手の女王を殺してしまう。自然界ではこの時点でほとんどの新女王が寄生に失敗し、殺される。同じ一時的社会寄生をする種類としてトゲアリ・ヒラアシクサアリなどがいるが、寄生方法はやや異なる。また、本種はクロクサアリに一時的社会寄生されることが知られる。平地でも見られるが働きアリはあまり地表に出ないため、見かけることは少ない。
アメイロケアリの分布 北海道,本州,四国,九州;ヨーロッパ,東アジア,北アメリカ
デスナ川の流路 デスナ川はロシア西部・スモレンスク州にあるスモレンスク高地に発する。水源はスモレンスク市の南東方向の、ナレチ村付近にある森林地帯で、エリニャからも遠くない。デスナ川はエリニャを通った後、沼地の多い谷間を南へと流れブリャンスクに至り、南西へ折れる。ブリャンスクはデスナ川右岸の丘の上に建てられた町である。ロシアとウクライナの国境を超えるとほどなくノーウホロド=シーヴェルシクィイの町がある。チェルニーヒウ州とスムィ州の州境付近を流れた後、西へ向きを変えチェルニーヒウ州に入る。バトゥールィンの北でデスナ川最大の支流セイム川と合流して川幅は広がり、多くの分流をつくりながら氾濫原を流れる。チェルニーヒウを通ると南西へ折れ、オステールでオステール川(ロシア語名: オスチョール川)と合流し、キエフのすぐ北方でドニエプル川に合流している。
レジデン都市505のあらすじ 引越し先を求めてレジデンシティビル南練馬を訪れた桐秋生。見るからに地雷物件だったが、大家・佐倉梓の推しにより住むことに。しかし、桐が漫画家とわかると一転、佐倉はアレルギー反応を示した。原因は既に住んでいる漫画家・御堂華音だった。珍妙なマンションライフがここから始まる!
土佐大津駅の駅構造 相対式ホーム2面2線を持つ地上駅。無人駅で、コンクリート造りの簡易駅舎を有する。駅舎を出て左側に男女兼用のトイレ(汲み取り式)がある。駅舎側の1番線を本線とした一線スルー配線のため、行き違いがない限りは上下線とも1番線に発着する。跨線橋で連絡する。また本線側は2014年2月上旬頃に枕木が木製からコンクリート製のものへと交換されている。
大須賀純の出演 太字はメインキャラクター。
佐藤智之の経歴 大分東明高校卒業後、旭化成に入社。宗茂の指導を受け、日本のトップ選手に成長する。入社4年目の2003年延岡西日本マラソンでは2時間13分02秒で初マラソン初優勝。2004年の東京国際マラソンで2時間9分43秒(自己記録)をマークして5位入賞を果たすが、2005年のびわ湖毎日マラソンは、2時間14分21秒の16位に終わる。2006年、別府大分毎日マラソンでは2時間11分46秒で準優勝。同年12月の福岡国際マラソンでは2時間12分29秒の10位に終わる。2007年2月18日、第1回東京マラソンに出場。2時間09分台で優勝したケニアのダニエル・ジェンガ(ヤクルト所属)に続き、2時間11分22秒の2位でゴールイン。世界陸上大阪大会日本代表補欠に選出された。2007年7月、世界陸上大阪大会の男子マラソン代表に選出されていたSUBARUの奥谷亘が、盲腸炎をこじらせて代表を辞退。補欠だった佐藤が繰上げで正式代表となった。8月25日、世界陸上大阪大会男子マラソンに出場。しかしメダル・入賞争いには加われず、ゴールタイムは2時間20分53秒で13位、日本人4番目でのゴールに終わった。なお、同時開催のマラソンワールドカップ(団体戦)では、日本男子代表で金メダルを獲得した(但し、世界陸上とは別個の大会のためメダリストにはならない)。2008年3月2日のびわ湖毎日マラソンは、2時間9分59秒の7位に終わり、北京オリンピック代表入りはならなかった。2008年12月7日の福岡国際マラソンは、2時間9分59秒の4位。2009年12月6日の福岡国際マラソンは、日本男子唯一の国内招待選手で出場するも、足の痙攣が響いて2時間23分59秒の31位に終わった。2010年3月7日のびわ湖毎日マラソンは、25Km手前で優勝者のイエマネ・ツェガエ(エチオピア)のペースについていけなかったが、日本人トップとなる2時間10分7秒の2位に入った。この結果により広州アジア競技大会の代表に選出される。11月27日のアジア競技大会男子マラソンは、30Km過ぎの登り坂で先頭集団についてゆけず脱落、2時間18分24秒の7位に終わった(同日本代表の北岡幸浩が銀メダル獲得、北岡は翌2011年の世界陸上大邱大会男子マラソン代表に内定)。
ノイドロッセンフェルトの地理 ノイドロッセンフェルトは、バイロイトとクルムバッハを結ぶ道の途中、赤マイン川に突き出すような砂岩質の岩場に位置する。1970年代の自治体再編で以下の村が合併して成立した。
スーパーモールいせさきの概要 キーテナントはベイシア西部モール店、カインズ伊勢崎店。ベイシア西部モール店と同時に、家電販売のプラグシティ(現ベイシア電器)、薬局のBe-Us(現在建物使用店舗はベイシアワールドスポーツ)、ロン都も開業した。遅れてオートアールズ、あかちゃん王国などのグループ企業も出店する。ベイシア西部モール店開業以前は、駒形バイパス沿いにサントノーレやナムコ、セーブオン等が点在しているだけであった。スーパーモールいせさきの開業以降スーパーモール周辺にもアオキ・洋服の青山・ケーズデンキなどの郊外型店舗の出店が加速した。カインズホームは2007年秋頃、伊勢崎オートレース場西側へ移転。旧カインズホーム跡は約20店舗ぐらいの専門店が入居するISESAKI Garden'sとしてオープンしたが、工事が終わらないままのオープンとなった。初期は蔦屋書店等の少数であり、少しずつ工事が進みテナントが増えていった。かつてはモール内にシネマコンプレックスのMOVIX伊勢崎があったが、スマーク伊勢崎への移転に伴い2019年2月28日をもって閉館された。
ベンガル・スルターン朝の前期イリヤース・シャーヒー朝 デリー・スルターン朝のトゥグルク朝の時代、1330年代にムハンマド・ビン・トゥグルクが失政を重ねたことにより、各地で反乱が起きた。南インドではすでに、1334年にマドゥライ・スルターン朝というムスリム王朝が成立し、1336年にはヒンドゥー王朝のヴィジャヤナガル王国が成立するなど、トゥグルク朝の広大な領土は解体しつつあった。そして、1342年にベンガル地方の長官シャムスッディーン・イリヤース・シャーもトゥグルク朝から独立し、ベンガル・スルターン朝を建国した(前期イリヤース・シャーヒー朝)。創始者シャムスッディーン・イリヤース・シャーはベンガルの独立を強く意識し、その正当性と権威と明白にするため、自分の硬貨に「第2のアレクサンドロス、カリフの右腕」と記している。しかし、1353年にトゥグルク朝の君主フィールーズ・シャー・トゥグルクは失地回復のためベンガルへと軍を進め、ベンガルの首都パーンドゥアーを攻め落とした。だが、イリヤース・シャーはエクダーラーの要塞に籠城したため、1354年にトゥグルク朝の軍はデリーへと引き上げた。その息子シカンダル・シャーの時代、1358年にフィールーズ・シャー・トゥグルクが再びベンガルに攻めてきたが、トゥグルク朝の軍は苦戦し、1359年に和平協定が結ばれベンガル王国は独立を認められた。その後、1389年にシカンダル・シャーはその息子ギヤースッディーン・アーザム・シャーによって殺害された。ギヤースッディーン・アーザム・シャーは1405年、1407年に明の永楽帝に使者を送り朝貢するなど、国際的にも広い視野を持っていたことで知られる。また、彼はメッカ、メディナのマドラサ建設費用を負担している。1410年、ギヤースッディーン・アーザム・シャーは死亡し、有力な家臣の一人でヒンドゥー教徒のラージャ・ガネーシャが政治の実権をもつようになった。その後もラージャ・ガネーシャの専横は増し、1414年にシハーブッディーン・バーヤズィード・シャーを殺害し、同年にはその息子アラーウッディーン・フィールーズ・シャーも退位させて王位を簒奪した。こうして、前期イリヤース・シャーヒー朝に代わり、新たにラージャ・ガネーシャを祖とするラージャ・ガネーシャ朝が成立した。
ベンガル・スルターン朝のラージャ・ガネーシャ朝 1414年、創始者ラージャ・ガネーシャは王位を宣し、新たにラージャ・ガネーシャ朝を樹立したが、その継承をめぐり宗教的な問題が発生した。というのは、ゴール朝の侵入以来イスラーム教が根付いて長いベンガルに、ヒンドゥー教徒がベンガルの王となることをムスリムの有力者たちが強く反対していたからだった。一方、ラージャ・ガネーシャも自らのヒンドゥー教の信仰を捨てて改宗する気はなく、両者はラージャ・ガネーシャの死後、その後継者がイスラーム教に改宗することで合意した。ラージャ・ガネーシャの治世は4年と短かったが、その間に隣国のジャウンプル・スルターン朝と領土を争い、ヒンドゥー教の寺院を手厚く保護した。1418年、ラージャ・ガネーシャの死後、その息子ジャラールッディーン・ムハンマド・シャーは父王の約束通りヒンドゥー教からイスラーム教に改宗した。ジャラールッディーン・ムハンマド・シャーの名はその際に改名したものである。ムハンマド・シャーは改宗後、熱烈なイスラーム教徒となり、それを証明するため「アラーのカリフ」自称した。ムハンマド・シャーはその公平さで知られ、軍司令官や裁判長にヒンドゥーを割り当てるなど、ムスリムとヒンドゥー教徒を差別なく平等に扱った。また、彼の代にベンガル王国の領土は広まり、父王と同様にジャウンプルと争い、チッタゴンやファリードプルなどを得て、南ビハールまで版図とした。彼は明に使者を送り朝貢し、マムルーク朝と使節を交換するなど、国際的にも広い視野を持っていたことで知られる。1433年、ムハンマド・シャーの死後、その後を継いだ息子シャムスッディーン・アフマド・シャーは正義感の強さと慈悲の深さで知られたが、1436年に家臣の一人によって暗殺された。こうして、ラージャ・ガネーシャ朝は3代21年という短期間で滅んでしまった。
ベンガル・スルターン朝の後期イリヤース・シャーヒー朝 1436年、ラージャ・ガネーシャ朝が滅亡したのち、ベンガル王国は混乱したが、翌1437年にナーシルッディーン・マフムード・シャーがイリヤース・シャーヒー朝を再興した(後期イリヤース・シャーヒー朝)。しかし、1434年にオリッサでは東ガンガ朝に代わり新たにガジャパティ朝が成立し、それがベンガル王国の脅威となった。ベンガルはガジャパティ朝にオリッサに有する領土、西ベンガルの大部分を奪われ、ガンジス川流域にまでに侵入された。また、ビルマのアラカン王国もチッタゴン方面に進出し、1459年にはチッタゴン港も占領された。その息子ルクヌッディーン・バールバク・シャーの治世も同様に、ガジャパティ朝が南ベンガルに侵入し、その対応に追われた。だが、内政面では、ルクヌッディーン・バルバク・シャーは宗教的には宥和政策をとり、文芸活動を支援し、その業績をたたえた碑文がベンガル各地で見られる。しかし、1481年にその死後に継いだ王シャムスッディーン・ユーフス・シャー、シカンダル・シャー2世は相次いで早世し、1487年に最後の王ジャラールッディーン・ファテー・シャーはアビシニア(エチオピア)人奴隷出身の家臣によって殺された。
ベンガル・スルターン朝のフサイン・シャーヒー朝 1493年、アビシニア人奴隷の王朝(シャーフザーダ朝)は王位をめぐる争いにより滅亡し、同年その宰相アラー・ウッディーン・フサイン・シャーが貴族に選出されて新たな王となり、フサイン・シャーヒー朝を創始した。フサイン・シャー自身はベンガルのムルシダーバード出身だったが、その親はトルキスタンを経由してベンガルに来たメッカ出身のアラブ人だった。1479年、隣国のジャウンプル・スルターン朝がデリー・スルターン朝のローディー朝に滅ぼされたのち、ベンガル王国にもその侵略が及ぶと彼は数次にわたって戦い、1495年にローディー朝と領土の現状維持の協定を結んだ。また、フサイン・シャーはオリッサのガジャパティ朝とも領土を争い、その治世を通して戦い続けた。フサイン・シャーは内政面では成功をおさめ、政治を長年支配してきたアビシニア人を排斥し、ヒンドゥー教徒とムスリムを平等に扱い、ヒンドゥー教徒も政府の重役に任じた。また、その治世は文化が栄え、ベンガル語やベンガル文字が広く使われ、多くの詩人や学者が輩出された。そのため、彼の治世は中世ベンガルの黄金期と評されている。1519年にフサイン・シャーの死後、新たな王となったナーシルッディーン・ヌスラト・シャーは近隣諸国への失敗はしたものの、公共事業を進め、モスクや聖廟を建設し、交易で国家は繁栄した。しかし、1526年にローディー朝がムガル帝国との戦いで滅亡すると、ヌスラト・シャーはイブラーヒーム・ローディーの王弟マフムード・ローディーを支援した。その後、1529年5月6日にムガル帝国の軍とガーガラ川で戦い大敗した(ガーガラ川の戦い)。1532年、ヌスラト・シャーは暗殺され、あとを継いだその息子アラー・ウッディーン・フィールーズ・シャー2世も同年に死亡し、その叔父ギヤースッディーン・ムハンマド・シャーが王となった。しかし、ベンガル・スルターン朝はムガル帝国とアフガン系スール族の族長シェール・ハーンとの争いに挟まれ、1538年にムハンマド・シャーはそうした混乱の中で死亡し、フサイン・シャーヒー朝は滅亡した。
ベンガル・スルターン朝のベンガル・スルターン朝の滅亡 1532年以降、ベンガル王国の領土は徐々にシェール・ハーンの勢力が進出し、1538年のムハンマド・シャーの死をもって完全に王国はその支配下に置かれた。1539年、シェール・ハーンはシェール・シャーとして即位し、スール朝を創始したが、1545年に事故死した。その後、1554年その息子イスラーム・シャーが死亡すると、3人の王ムハンマド・アーディル・シャー、イブラーヒーム・シャー、シカンダル・シャーが争い内紛に陥り、1555年にスール朝はムガル帝国に滅ぼされた。1554年にイスラーム・シャーの死後、スール朝の王族の一人シャムスッディーン・ムハンマド・シャーはスール朝から独立してムハンマド・シャーヒー朝を創始したが、1555年のスール朝の滅亡後、スール朝の3人の王をはじめとするスール朝の一族はベンガルの地をめぐり争った。また、1564年にムハンマド・シャーヒー朝の最後の王が家臣スライマーン・ハーン・カララーニーに殺され、同じアフガン系のカララーニー朝が成立した。こうした混乱により、1576年7月にベンガル・スルターン朝はダーウード・ハーン・カララーニーの治世、ムガル帝国のアクバルに滅ぼされた。
乳児用液体ミルクの概要 乳児用に栄養成分を調整された液状のミルクのことである。乳児用に調整された粉状のものを「粉ミルク」と呼ぶ。粉ミルクは液体より価格が1/3から1/2であるのと、開封後も一定期間保存出来るメリットがあるものの、火傷しないが溶ける程度の温度の水で溶かす必要があった。液体ミルクはそのまま与えられるため、授乳まで約数秒で準備が完了するメリットがある。消費者庁に認可された液体ミルクは常温で未開封なら紙パックで約6か月、缶で約1年保存可能である。ただし、開封後は直ぐに使用し、飲み残しを与えることは衛生上厳禁で捨てることが指導されている。乳児用液体ミルクが日本で販売されていなかった1995年には理由に食品添加物や製造原価だけで粉ミルクの2倍、流通コストなども加わると3倍くらいになるからだとの見方があった。海外では液体ミルクも粉ミルクの2、3倍の値段で販売されている。なお、1981年のWHO(世界保健機関)の基準によって、乳児用液体ミルクのパッケージには、「母乳は赤ちゃんにとって最良の栄養です」という記載が義務付けられている。このため、日本国内でも1982年から記載義務が適用されている。2018年8月8日に『乳及び乳製品の成分規格等に関する省令』に関して、厚生労働省が乳児用液体ミルクの規格基準を定めた改正省令を公布、施行した。これによって、国内メーカーにおいても液体ミルクの製造・販売が可能となった。2019年3月11日、江崎グリコは、日本初の乳児用液体ミルク「アイクレオ赤ちゃんミルク」の全国販売を開始した。また、明治も缶入りの「明治ほほえみ らくらくミルク」を2019年4月26日に全国販売を開始した。乳児用液体ミルクは育児負担の軽減だけでなく、災害時の救援物資としても注目を集めており、今後自治体などでの備蓄が進むとみられる。2019年時点で長期間の保存が可能と認められたグリコと明治の2社に販売を許可されている。
乳児用液体ミルクの災害時・保存 乳児用液体ミルクは、容器内のミルクを乳幼児がそのまま飲むことができるため、災害時においても、衛生的な水や煮沸消毒を必要としないため、阪神・淡路大震災や東日本大震災のような大規模災害が発生する度に、国内販売を求められてきた。また、2016年に発生した熊本地震では、駐日フィンランド大使館から救援物資として配布された。しかし、食品衛生法や省令により乳児用液体ミルクは認められていなかった。阪神・淡路大震災当時の朝日新聞は、乳児用液体ミルクに関して『厚生労働省は「省令は、成分や配合の割合を承認するためのものであり、液体タイプを禁じているわけではない」との見解を発表しているものの、事実上、液体タイプのミルクを生産したり輸入したりしても「乳児用ミルク」としては認められず、単なる乳飲料とされてしまう。』と掲載している。東日本大震災を受けて、2015年5月に日本小児科学会は関係省庁に対し、「災害時の液状ミルクと使い捨て哺乳瓶の確保」を要望している。厚生労働省の省令の改正で、加熱殺菌などの製造方法や常温を超えない温度での保存などが規定され、2019年に販売開始した認可国産液体ミルクは未開封時は海外製品より長期間保存が可能である。しかし、開封後は直ぐに飲みきることが海外製品と同様に必須だが、2019年の販売時には災害備蓄以外にも消毒した哺乳瓶に常温のまま注ぐだけでお湯や水に溶かす必要がないので育児負担を軽減目的に外出時・深夜の利用目的で売り上げが伸びている。
伊藤裕司の概要 日本では古くは禅行と呼ばれる山林修行を行った僧に対する敬称として広く用いられ、僧医として治療活動を行う者に対しても与えられた。道鏡に与えられた「太政大臣禅師」もこれにあたる。禅僧の称号としての禅師号は諡号として贈られる場合が多く、後宇多天皇が、建長寺を創建した蘭渓道隆に対し、没後に「大覚」の禅師号を贈ったのが最初である。生前に贈られる特賜による禅師号の最初は室町時代の養叟宗頤。中国では唐初期の神秀の諡号である「大通」が最初とされている。僧に贈られる諡号としては、他にも大師、国師などがある。
須見千次郎の経歴 住友恵市の次男として美馬郡穴吹町舞中島(現在の美馬市穴吹町三島)で生まれる。後に麻植郡鴨島町敷地(現在の吉野川市鴨島町敷地)の素封家・須見徳平の養子となった。その後、徳島県会議員を経て1902年(明治35年)に第7回衆議院議員総選挙に当選、1917年(大正6年)まで4回の当選を果たす。1926年(大正15年)、憲政会徳島県支部長に就任。他にも阿波紡績、徳島毎日新聞社監査役、第八十九銀行取締役会長を歴任。1927年(昭和2年)4月12日、82歳で没する。
アントステラの概要 1974年4月10日、アメリカ合衆国ペンシルバニア州から来日したジョセフ・リー・ダンクルが株式会社 ローリードールとして設立。設立当初はアイスクリームの製造販売を行っていた。1982年に手焼きクッキー専門店「アントステラ 〜ステラおばさんのクッキー〜」を設立、このクッキー専門店の成功により、以降の事業の主軸はクッキーの製造販売に置かれることとなり、1999年には、社名も「ステラおばさん」を意味する「アントステラ」(英語: Aunt Stella)に商号変更された。なお、「ステラおばさん」は、実在の人物であり、創業者ダンクルのおばで幼稚園の先生をしていた人物の名前に由来し、「ステラおばさんのクッキー」のレシピも「ステラおばさん」直伝のものである。しかし、急速に業容を拡大したため、不採算店が増加、2005年2月には投資ファンド・日興アントファクトリーの傘下に入り、経営の立て直しを図ることとなった。2006年2月期には早くも黒字化を達成。2008年1月には、高価格帯商品への参入を伺っていた森永製菓によって買収され、グループ入りした。2015年12月9日には、東京都港区のデックス東京ビーチに、クッキーバイキングカフェ「アントステラ デックス東京ビーチ台場店」を開店。一品のみの食べ放題サービスブームの火付けに一役買っている。
立沢克美の概要 名前の由来は「(中華民国総統の)蔣介石を援助するためのルート」。中華民国の国民政府は、英米ソなどの援助を受けることで劣勢ながらも徹底抗戦を続けたため、日本は日中戦争勃発から大東亜戦争の終戦までの長期間にわたり、100万以上の兵力を満州国を含む中国大陸に貼り付けて置かねばならず、国力は疲弊した。太平洋戦争の開戦は、中華民国の原動力である援助物資の輸送路である援蔣ルートの遮断もその目的の一つであったと見られている。現在の日本では、単に「援蔣ルート」と言った場合、後述の「ビルマルート」を想定していることが多い。
呉祖強の経歴 1927年、北京生まれ。父の呉瀛は北京市政都辦公署の秘書長で、その第6子である。兄に演劇評論家・書法家の呉祖光(Wu Zuguang)がいる。1947年に南京国立音楽院(現在の中央音楽学院)の理論作曲系に入学し江定仙に師事する。1952年に同音楽院を卒業すると同時にソビエトのモスクワ音楽院に留学した。帰国後、杜鳴心と「紅色娘子軍」「魚美人」などのバレエ音楽を共作。その後、劉徳海らとともに琵琶協奏曲「草原の小姉妹」を作曲した。四人組が倒れると、1978年に母校の中央音楽学院の副院長に任ぜられ、1983年から同音楽院院長を務めた。また中国音楽家協会副主席も務めた。作品は西ヨーロッパ、ロシアのクラシック音楽と中国民俗音楽を融合させたものである。
知識を守るものの概説 エルトダウン・シャーズの第十九粘土板に召喚方法の記述がある生物。記述者に依り、粘土板の知識の管理者とみなされているが、真実その通りかどうか不明。召喚者に対し敵意を持つ。巨大な黒々とした生物で蛇のように長い触腕を持ち、顔は人間の顔に似ているが幅広く無表情で細長い緑色の眼を持つ。
知識を守るものの出典 リチャード・F・シーライト『知識を守るもの』(「クトゥルー11(青心社)」所収)
ザリガニの名称 英名 crayfish 「クレイフィッシュ」は中期フランス語 crevice 「クレヴィース」(現代フランス語: écrevisse)に由来し、後半 -vice の音が fish に似ていることから民間語源的に異分析されたもの。なお、この crevice 自体はフランク語由来で、英語 crab 「蟹」と同じ語源由来である。
ザリガニの日本での呼称 ザリガニの名は元々ニホンザリガニを指したもである。江戸時代の文献から見られ、漢字表記ではほとんど使われなくなったが「喇蛄」と書かれる。江戸期には異称として「フクガニ」「イサリガニ」などとも呼ばれていた。ザリガニの語源は、「いざり蟹」の転訛とする説(「いざる」は「膝や尻を地につけたまま進む」こと)と、「しさり蟹」(しざり蟹)の転訛とする説(「しさる」「しざる」は後退り、後退行すること)とがある。アイヌ語においてもいくつかの呼称があるが、ホロカアムシペ(horkaamuspe)やホロカレイェプ(horkareyep)など「後ずさり」を意味する語源が見られる。ほかに「砂礫質に棲むことから“砂利蟹”」であるとか、体内で生成される白色結石(後述される和漢薬の原料)から仏舎利を連想して“舎利蟹”と呼んだというような説もあるが、前者についていえば、ニホンザリガニはとくに砂礫質の場所を好んで棲むわけではない。地方によってはエビガニと呼ぶ。身近に生息しているためザリ、ザリンコ、マッカチンなど多くの俗称がある。海に住むザリガニ下目で、食用として著名な「ロブスター」を、日本で「ウミザリガニ」と呼ぶことがあるが、淡水に住むニホンザリガニやアメリカザリガニとは生息環境が違うため、調理時や飼育時には注意が必要である。ただし海に住むからといって、ロブスターはエビの仲間ではなく、あくまでロブスターはザリガニ下目である。一方で英語圏において広義の「ロブスター」という言葉には、オーストラリア原産の淡水ザリガニで食用の「マロン」を含むことがあるので、料理の注文時など、これも注意せねばならない。
ザリガニの生態 河川、湖沼、ため池、用水路など、水の流れのゆるい淡水域なら大抵の所に生息する。ほとんどのザリガニが雑食性で、水草、貝類、ミミズ、昆虫類、甲殻類、他の魚の卵や小魚など、様々なものを食べる。生物間の捕食関係では、フナやコイとは相利相害の相互関係で、稚ザリガニや稚魚は、互いの成体に対し捕食される関係で、生息水域や食性が同じため、直接・間接的な利害関係を有する。日本においてアメリカザリガニの生息環境の印象から、ザリガニはあまり綺麗ではない水域でも生息する、と考えられがちだが、清流や清浄な水域でなければ生息できない種も多い。そもそも、アメリカザリガニであっても、あまりに汚れた水域では死滅する。
ザリガニの日本産種 日本では、北日本の固有種であるアメリカザリガニ科の Cambaroides japonicus (De Haan, 1841) が唯一の在来種である。これに「ザリガニ」の標準和名が充てられ、これを狭義のザリガニとして扱う。20世紀初期にアメリカ合衆国からアメリカザリガニ科のアメリカザリガニ、ザリガニ科のウチダザリガニ(シグナルザリガニ)(異名にタンカイザリガニ)の2種が移入され、20世紀後半以降はこの中の1種アメリカザリガニ Procambarus clarkii が日本全土に分布を広げた。そのため、21世紀初頭の段階では単に「ザリガニ」といえばアメリカザリガニを指すことが多い。日本固有種のザリガニは、他のザリガニ類と区別するために「ニホンザリガニ」「ヤマトザリガニ」とも呼ばれる。アメリカザリガニの幼少期の色は灰色から青っぽいのが普通であるが、大きくなるにつれ赤みを増す。このため幼少期のアメリカザリガニをニホンザリガニと間違うことがある。
ザリガニの食材として 海外では食材として利用され、中には、タラバガニに似た味で美味なものもあり、市場では、同じ大きさのエビよりも高値で取引されるものもある。しかし、ザリガニは、種や生育した環境によって大きく味や食感が異なり、日本で一般的に見られるアメリカザリガニなどは、可食部が少なく、泥抜きや殻剥きなどで大変に手間がかかる割に、肉は旨味のないシャコのようなものがほとんどで、他の伝統的な食用甲殻類の料理に慣れた日本人の嗜好にはあまり向かず、日本では、在来種を含めてザリガニ料理が古来より殆どないのはそのためである。また、在来種を脅かすほど増えすぎた場合は、外来種として捕獲後、肥料とされる例も多い。日本では食材というより、ザリガニが脱皮の前後に体内につくる胃石「蜊蛄石」または「オクリカンキリ」が、薬として利用され、北海道(蝦夷地)や東北でニホンザリガニから採取し、特産物として、高値で取引されていた。海産の甲殻類が近年まで一般的ではなく、スパイシーで濃い味付けが好まれる中国では、アメリカザリガニの養殖場も多く作られ、需要に供給が追いつかないほど大変な人気となっている(が、中国でもどちらかと言うとジャンクフードのカテゴリーではある)。養殖が盛んな町のひとつである江蘇省淮安市盱眙県では、毎年夏に「国際ザリガニ祭(簡体字:中国国际龙虾节、繁体字:中國國際龍蝦節)」が開催されている。日本においては、食用として外国から持ち込まれ各地で繁殖しているウチダザリガニは、北海道などでヨーロッパ料理の食材として使用されている。ただし泥の中から捕まえた個体は、3日位真水で泥抜きをしないと泥臭い風味になる。塩茹でや蒸したものをサンドイッチに挟んで食べたり、サラダに混ぜて使われたり、巻き寿司や手巻き寿司に巻いて食べる。ルッコラを添えてパスタなどにも使われる。酢飯と錦糸卵に混ぜてちらし寿司や海鮮丼に使われることもある。多価不飽和脂肪酸、ビタミンE、ナイアシン、葉酸、カリウム、マンガン、タンパク質、リン、セレンなどを多く含む。唐揚げなどの油で揚げる調理の場合、水や酒で洗浄した後、220℃の高温で揚げることで殻ごと食べられる食材となる。ただし、油はねによる火傷や引火に注意。なお、他の淡水生物と同様に、肺吸虫(旧称:肺臓ジストマ)の中間宿主となるので、食べる際はよく火を通すべきである。しかし、カニの吸虫寄生率が高い地域でも、人の感染症が報告されることは稀となった。これらの吸虫が人体に及ぼす病害については、肺吸虫症などを参照。
ザリガニの飼育と生態系への影響 品種によっては上述の食用目的として、世界各地で大規模に養殖されている。観賞用または愛玩用としての場合、種類によって飼い易さには差はあるが、アメリカザリガニなどは他種と比べると比較的丈夫なザリガニであり、飼育しやすい。食性は雑食性で、自然界では、主にデトリタス・水草・小魚(どじょう・メダカ・フナ)・肉(動物の死骸)など何でも食べるが、飼育下においては、沈殿タイプの熱帯魚(コリドラス・プレコ)用や鯉用の人工飼料などが使われている。また、アルビノなどの変色個体は珍重され、高値で取引されることがある。一般的にザリガニは、雑食性で繁殖力・環境適応能力が高い種も多く、世界各国で放流・定住化による従来の生態系や自然環境、田畑などに対する影響などの、地域環境の破壊が不安視されている。日本でも多くの種が2006年2月1日から外来生物法に基づき特定外来生物に指定され、無許可での飼育や遺棄・譲渡・輸入等が禁じられている。適応能力の低い種に関しては輸入販売されている。現代の日本では非常にポピュラーなアメリカザリガニも、販売に対しては対象外であるが、放流は禁止されている。
ザリガニのザリガニ漁 食用として手軽に捕獲されてきたため、地域によっては伝統種が数を減らしており、入れ替わりに流入種が増えている場所が世界中にある。アメリカザリガニはスルメやパンなどを餌にして釣れるため、子供たちの身近な釣りの対象として人気がある。アメリカザリガニを参照。
ザリガニのその他 アメリカザリガニは黒鯛やブラックバスなどの釣りの餌や、肉食鑑賞魚の餌用などとしても養殖されている。日本に持ち込まれたきっかけも、当時日本で食用・輸出用に飼育されていたウシガエルの餌用として、である。
ザリガニのカルチャー アメリカ合衆国ノースカロライナ州ヒッコリーに本拠地を置く、メジャーリーグのテキサス・レンジャーズ傘下1Aマイナーリーグ野球チームが「ヒッコリー・クロウダッズ(Hickory Crawdads)」である。この「Crawdad」はザリガニの意味であり、チームのシンボルマークもザリガニである。リアクション芸人の出川哲朗の持ちネタに『鼻にザリガニを挟む』というものがあり、出川自らもザリガニを「俺の相方」と称している。この様子はバラエティ番組のほか、自身が出演している多摩電子工業のテレビCMでも見ることができる。
アルフレッド・コールの来歴 1989年3月25日、プロデビューを果たし3回1分6秒TKO勝ちで白星でデビューを飾った。1991年3月8日、トランプ・タージマハルでレオン・テイラーとUSBA全米クルーザー級王座決定戦を行った。1990年12月13日に敗れている相手に12回3-0(3者とも116-112)の判定勝ちで王座獲得に成功した。1991年5月9日、ネート・ミラーと対戦し12回3-0(118-110、2者が115-113)の判定勝ちで初防衛に成功した。1991年7月25日、フランキー・スウィンデルと対戦し11回2分8秒TKO勝ちで2度目の防衛に成功した。1992年7月30日、IBF世界クルーザー級王者ジェームズ・ワーリングと対戦し12回3-0(116-111、117-110、114-113)の判定勝ちで王座獲得に成功した。1993年2月28日、ユーライア・グラントと対戦し12回3-0(116-112、115-113、117-111)の判定勝ちで初防衛に成功した。1993年7月16日、元IBF世界クルーザー級王者グレン・マクローリーと対戦し12回3-0(2者が118-109、117-110)の判定勝ちで2度目の防衛に成功した。1993年11月17日、ヴィンセント・ボウルワレと対戦し5回1分8秒TKO勝ちで3度目の防衛に成功した。1994年7月23日、ネート・ミラーと対戦し12回3-0(115-113、2者が117-111)の判定勝ちで4度目の防衛に成功した。1995年6月24日、ユーライア・グラントとリマッチを行い12回3-0(118-110、2者が117-111)の判定勝ちで5度目の防衛に成功した。1996年1月12日、元ヘビー級2冠王者ティム・ウィザスプーンと対戦し10回0-3(2者が90-100、91-99)の判定負け。1996年夏にIBF世界クルーザー級王座を返上した。1997年6月20日、IBU世界ヘビー級王者マイケル・グラントと対戦し10回終了時棄権で王座獲得に失敗した。2000年2月19日、WBU世界ヘビー級王者コーリー・サンダースと対戦するが初回に一撃でダウンを奪われ初回1分13秒TKO負けで王座獲得に失敗した。2001年8月4日、WBC世界クルーザー級王者ファン・カルロス・ゴメスと対戦し5回1分10秒TKO負け。2004年3月11日、ハシーム・ラクマンと対戦し10回0-3(3者とも94-96)の判定負け。2005年3月3日、スルタン・イブラギモフと対戦し3回1分46秒TKO負け。2011年9月3日、ダニー・ウィリアムズと対戦し6回1-2(56-58、58-56、56-59)の判定負けを最後に現役を引退した。
マイケル・ヴァルタンの来歴 1968年フランス・パリ郊外ブローニュ・ビヤンクール生れ。アメリカで活躍する長身で端正な顔立ちの俳優。父親はブルガリア生れのフランス人でジャズ・トランペッター・音楽プロデューサー・作曲家のエディ・ヴァルタン(Eddie Vartan、2001年逝去)、母親はポーランド生まれのアメリカ人。父親エディは、1960年代から現在もなおフランスの国民的人気歌手・アーティストであるシルヴィ・ヴァルタン(Sylvie Vartan)の実兄で、シルヴィを音楽界に導いた人であり彼女のブレーンの一人であった。両親は5歳の時に離婚しているが、叔母であるシルヴィに大変に可愛がられ、彼女が1970年代初めから彼女の一人息子ダヴィド(David Hallyday)をフランス・マスコミの悪影響から避けるためアメリカ西海岸ロサンゼルスで育て始めるが、この頃マイケルもロサンゼルスに渡っており二人の男の子はフランスでもアメリカでも殆ど何時も一緒で兄弟の様に仲良く育つ。父親の住むフランスと母親の住むアメリカを行き来するが、結局18歳の時にアメリカに落ち着く。本人はプロのビリヤード・プレイヤーになりたいと思っていたが、周りに勧められて演技のクラスを取り、1991年にフランス映画でデビュー。『エイリアス』で恋人役だったジェニファー・ガーナーと実生活でも交際し、婚約寸前だったが破局。直後にガーナーはベン・アフレックと交際し、妊娠して結婚してしまった。その時点ではまだ劇中では恋人同士の役であったため、ヴァルタンのその後の出演については色々と囁かれることとなった。アイスホッケーが趣味で、エイリアスでも何度かホッケーをしているシーンがある。『エイリアス』以外のテレビドラマでは『フレンズ』や『アリー my Love』、『エイリアス』で共演したブラッドリー・クーパー主演の『キッチン・コンフィデンシャル』などへのゲスト出演がある。
丸田陽七太のアマチュア 6歳から森岡ボクシングジムでボクシングを始めた。関大北陽高校に進み、2013アジアジュニア選手権で銅メダルを獲得し、インターハイでは2年連続準優勝を果たした。
丸田陽七太のプロ インターハイ後プロ転向を表明し、2014年11月24日に大阪市立住吉区民センターにてB級プロテストを受験し合格した。2015年11月22日、住吉スポーツセンターで行われた「You will be the champion5」でIBF世界バンタム級10位のジェイソン・カノイ(フィリピン)と59.3kg契約6回戦を行い、6回3-0(58-55、59-56、59-54)の判定収めデビュー戦を白星で飾った。2016年3月20日、池田市五月山体育館で行われたアートオブボクシングでクルンシン・ガオラーンレックジム(タイ)と対戦し、 初回1分54秒TKO勝ちを収めデビュー2連勝を飾った。2016年7月31日、住吉区民センターで行われた「Art of Boxing vol.2」でウィルベルト・ベロンド(フィリピン)とWBC世界バンタム級ユース王座決定戦を行い、6回3分3秒KO勝ちを収めプロ3戦目でのユース世界王座獲得に成功した。2016年10月6日、OPBFは最新ランキングを発表し、丸田をOPBF東洋太平洋バンタム級6位にランクインした。2016年10月13日、WBCは最新ランキングを発表し、上述のベロンド戦を制し王座獲得に成功した丸田をWBC世界バンタム級14位にランクインした。2016年11月23日、住吉区民センターでジョー・テホネス(フィリピン)と対戦し、7回2分25秒KO勝ちを収めWBCユース王座の初防衛に成功した。2016年12月、ハリウッドで開催されていたWBC年次総会においてユース部門の年間MVPに選出された。2017年3月26日、池田市五月山体育館で行われた第4回アートオブボクシングでハムソン・タイガー・ラマンダウ(インドネシア)と対戦し、6回1分56秒KO勝ちを収めWBCユース王座の2度目の防衛に成功した。2017年4月7日、OPBFは最新ランキングを発表し、丸田をOPBF東洋太平洋バンタム級1位にランクインした。2017年5月29日、JBCは最新ランキングを発表し、丸田を日本スーパーバンタム級7位にランクインした。2017年10月13日、後楽園ホールで行われた「ゴールデン・チャイルド・ボクシングvol.121/DANGAN196」でOPBF東洋太平洋スーパーバンタム級王者の大竹秀典(金子)と対戦し、プロ初黒星となる10回0-3(111-116が2者、111-117)の判定負けを喫し王座獲得に失敗した。2017年11月9日、WBCは最新ランキングを発表し、上述の大竹戦に敗れOPBF王座の獲得に失敗した丸田をWBC世界スーパーバンタム級30位にランクインした。2017年12月21日、タイ・バンコクでラティポン・ラオバーンコ(タイ)と対戦し、1R1分51秒TKO勝ちを収めた。2018年4月22日、川西市市民体育館でアレガ・ユニアン(インドネシア)と対戦し、3R1分55秒KO勝ちを収めた。2018年8月22日、フィリピン・マニラでOPBF東洋太平洋バンタム級シルバーチャンピオンのベン・マナンクイル(フィリピン)と対戦し、1-1(77-75,75-77,76-76)の引き分けとなった。2018年12月3日、後楽園ホールで初代日本ユースフェザー級チャンピオンの溜田剛士(大橋)と対戦し、5回2分16秒TKO勝ちを収めた。2019年5月1日、後楽園ホールでコーチ義人(Reason大貴)と対戦し、8回3-0(80-72×3)で判定勝ちを収めた。
相原信作の経歴 京都府出身。父親は銀行員、母方の祖父は元貴族院議員。1929年京都帝国大学文学部哲学科卒。真言宗京都大学(種智院大学)講師を経て、1929年より満州医科大学(ドイツ語、倫理、心理)の予科教授となる。作家の網野菊の作品を読んで感激し、手紙で求婚し、お互い顔も知らぬまま1930年に結婚。勤務先の奉天で新婚生活を送ったのち、第三高等学校(修身)講師に転職のため1937年に帰国し、翌年離婚。のちに友人の妹と再婚する。その後東海大学教授を経て、1949年大阪大学文学部教授、68年定年退官、名誉教授となり、晩年は甲南大学教授を務めた。元妻の網野菊は、相原との失敗した結婚をもとにいくつか作品を遺している。また、京大の先輩だった下村寅太郎は相原のことを「俊才だったが少しもそのような風がなく、独自の風格を持っていた。時流の書物には全く関心なく、自分自身の関心のあるものしか読まず、それも大変簡素な種類と数のものであった。(中略)彼ほど寡欲な人間に会ったことはない。簡素質素が努めてするのでなく、それが彼の自然であった」と評している。
ケプラヴィークの概要 レイキャヴィーク市街地からは国道41号線が通っており、片側2車線の快適路になっている。しかし、パトカーの速度取締りが厳しい路線でもある。町は、北から順にケプラヴィーク、Ytri-Njarðvík、インリ・ニャールズヴィーク(Innri-Njarðvík)の地区から構成されており、ケプラヴィークは商業地区、ニャールズヴィーク(Njarðvík)は住居地区となっている。ニャールズヴィークには、ユースホステルがあり、空港を利用するバックパッカー達で賑わっている。また、町のはずれにはNATO軍の基地住宅が広がっているが、軍は既に撤退している。ケフラヴィーク国際空港からケプラヴィーク市街地までは、5kmほどある。
木村耕一の概要 第1義に「風と雨からなる気象現象」を意味し、「風雨注意報」などというように、気象用語としてはもっぱらこれを指す。しかし、一般用語としては、「風雨にさらす」(後述)という表現が含意するように「風」と「雨」という別個の気象現象を組み合わせた語としても用いられる。「極めて強い風をともなって降る雨」を指しては「暴風雨(ぼうふうう)」という語があるほか、類義語に「嵐」がある。ただし、雨を主体とする「暴風雨」に対して、「強い雨をともなう暴風」である「嵐」は風が主体であり、その意味ではいささか遠い。「台風の発生時期以外で発生した台風並みの気象」、「台風の発生時期以外で発生した、(気象庁が定義するところの)暴風をともなう雨」を、日本では「台風並みの暴風雨」などと表現する。
印相の概要 サンスクリットのムドラー(मुद्रा、mudrā)の漢訳であり、本来は「封印」「印章」などを意味する。主に仏像が両手で示す象徴的なジェスチャーのことを指す。寺院その他で見かける仏像には、鎌倉大仏のように両手を膝の上で組み合わせるもの、奈良の大仏のように右手を挙げ、左手を下げるものなど、両手の示すポーズ、すなわち印相には決まったパターンがある。それぞれの印相には諸仏の悟りの内容、性格、働きなどを表す教義的な意味があり、仏像がどの印相を結んでいるかによって、その仏像が何であるか、ある程度推測がつく。密教の曼荼羅などには、さまざまな印相を結ぶ仏、菩薩像が表現されているが、ここでは日本の寺院などで見かける代表的なもの数種類について略説する。
印相の九品往生に基づく印相 東京都世田谷区の九品仏浄真寺(通称九品仏)には9体の阿弥陀如来像が安置され、それぞれが異なった9通りの印相を示している。これは『観無量寿経』に説く九品往生(くほんおうじょう)の思想に基づくものである。極楽往生の仕方には、信仰の篤い者から極悪人まで9通りの段階があるとされ、「上品上生」(じょうぼんじょうしょう)から始まって「上品中生」「上品下生」「中品上生」「中品中生」「中品下生」「下品上生」「下品中生」「下品下生」に至る。浄真寺の九品仏の場合、阿弥陀如来の印相の内、定印を「上生印」、説法印を「中生印」、来迎印を「下生印」とし、親指と人差し指(中指、薬指)を接するものをそれぞれ「上品」「中品」「下品」に充てる。
ジャビット・バイラミの来歴 1975年10月30日に、当時ユーゴスラビアの一部であったコソボに生まれ、格闘技を始める際にスイスに移住した。1998年のK-1スイス大会でプロデビュー。1999年6月20日、K-1 BRAVES '98に参戦。1回戦でシニサ・アンドリヤセビッチに3R2分32秒TKO勝ち。準決勝でミルコ・クロコップに延長R判定勝ち。決勝でロイド・ヴァン・ダムに延長R判定勝ちし優勝。1999年10月3日、K-1 GRAND PRIX '99 開幕戦でアーネスト・ホーストに5R判定0-3負け。2000年9月1日、K-1 WORLD GP ヨーロッパ&ロシア地区C予選に参戦。1回戦でピーター・ハモシ、準決勝でマーク・ディウィットを下すも決勝戦でユルゲン・クルトに3RKO負けし準優勝となった。2001年7月20日、K-1 WORLD GP 2001 in 名古屋のスーパーファイトで参戦。サミール・ベナゾーズに延長1R判定勝ち。2002年4月13日、K-1 WORLD GP 2002 クロアチア大会に参戦。1回戦でドラガン・ヨバノビッチに3RTKO勝ち。準決勝でシニサ・プルヤックに3R2-0判定勝ちするも、決勝でピーター・マエストロビッチに2R2:45KO負けし準優勝となった。2003年5月30日、K-1 WORLD GP 2003 in BASELに参戦。1回戦で ユルゲン・クルトに延長判定2-1で勝利するも、続く準決勝でジェレル・ヴェネチアンに延長判定0-3で敗れた。2004年3月27日、K-1 WORLD GP 2004 in SAITAMAに参戦。負傷欠場したレミー・ボンヤスキーの代打で出場し、アーネスト・ホーストと対戦。判定0-3で敗退。2004年6月6日、K-1 WORLD GP 2004 in NAGOYAに参戦。健康診断の結果欠場したマービン・イーストマンの代打で出場し、マーティン・ホルムとワンマッチで対戦し、判定3-0で勝利。2006年5月26日、スイスの大会でポール・スロウィンスキーと対戦し、判定負け。2006年10月14日、African Bomba-Yaa(K-1南アフリカ大会)に参戦。ティメロ・マピュータと対戦しKO勝ち。2006年11月11日、XPLOSIONマカオ大会に参戦。ポール・スロウィンスキーに判定負け。2009年2月6日、K-1のモバイルサイトのコーナーで谷川貞治イベントプロデューサーから「海外で時々試合をしているみたいですが、もう少し実績を積んでほしいです。」との発言が出る。2009年11月28日、K-1のモバイルサイトのコーナーで谷川貞治イベントプロデューサーからバイラミのISKA王座防衛などの質問の返答で「うん、知ってますよ。彼は本格派だからね。よし、来年出そう!」という発言が出ており、2010年4月3日のタイロン・スポーンの選手紹介映像の中で姿が確認され将来何らかの形でK-1の試合に出場すると思われていた。そして、遂に2011年10月26日のK-1 WORLD GP 2011 in Nanjingに出場が決定したが、大会自体が開催されなくなったため、参戦できなかった。2012年にISKAムエタイ世界スーパーヘビー級王座を賭けてスイスで恩田剛徳と対戦し勝利を収めた。
クラスノダールの名称 都市の建設は1794年1月12日(グレゴリオ暦)で、当時の名前はエカテリノダール(Екатеринода́р Ekaterinodar)だった。これは「エカテリーナの賜物」を意味し(ダール -дар は「贈り物」を意味する)、エカチェリーナ2世がクバーニ地方の広大な土地を黒海コサック軍(後のクバーニ・コサック軍)に与えたことを記念していた。また市の守護聖人にもなっているアレクサンドリアのカタリナをも記念したものであった。十月革命後の1920年12月、エカテリノダールは現在の名称であるクラスノダールに改名された。クラスノ(Красно-)には古語の「美しい」という意味と、「赤い」という意味があり、「美しい賜物」とも「赤い賜物」とも解釈できる。共産主義革命直後の政治的空気から、皇帝にちなんだ名から革命にちなんだ名に変えることが行われたことが背景にある。
クラスノダールの歴史 1793年(ユリウス暦)、チェルケシア(北カフカース西部のチェルケス人らが住む一帯)の領有をオスマン帝国と争っていたロシア帝国の皇帝エカチェリーナ2世は、チェルケシアの国境地帯を防衛するためにウクライナ南部の黒海コサック軍にこれらの地を領地として与え、要塞を築かせた。当時エカテリノダールと呼ばれたクラスノダールは、この時に建設された要塞のひとつである。こうした経緯からクラスノダールも含めクバーニ地方にはウクライナ系住民が多い。エカテリノダールは19世紀前半にはクバーニ・コサック軍の政治・経済の中心地として発展を遂げていた。1860年にはエカテリノダールを州都とするクバン州が設置された。19世紀後半に鉄道が開通してから町は大きくなり、1888年には人口45,000人ほどを擁するロシア南部の交易中心都市のひとつとなった。1897年にはクバーニ・コサック軍の駐屯地建設以来200年を記念してオベリスクが建てられた。ロシア革命後のロシア内戦時には、エカテリノダールは反ボリシェヴィキのクバーニ人民共和国の首都となった。エカテリノダールは赤軍と白軍の間で何度も争奪された。特に、クバーニ・コサックの多くは反革命・反ボリシェヴィキ側を支援し白軍へと身を投じている。1920年12月にエカテリノダールは「クラスノダール」と改称された。第二次世界大戦(大祖国戦争)では、クラスノダールは1942年8月12日から1943年2月12日までの間ドイツ国防軍に占領された。クラスノダールは戦闘で大きな打撃を受けたが、戦後速やかに再建されている。ドイツ軍から解放された後の1943年の夏、ソビエト政権はナチスとの内通や戦争犯罪への関与を巡って、自国民も含めた被告に対し裁判を開始した。これらの裁判の最初となる裁判が1943年7月14日から17日までクラスノダールで開かれた。これはホロコーストにおけるユダヤ人大量殺害に対する最初の公開裁判でもあった。クラスノダールでは8人に死刑が言い渡され、その処刑は数千人の市民が集まる市の広場で公開的に行われた。
クラスノダールの文化・見どころ クラスノダールには、ロシア・アヴァンギャルドの建築家・技術者であるウラジーミル・シューホフが設計した双曲面構造の鉄塔(シューホフ・タワー)が残っている。この塔は1928年に建てられ、クラスノダール・サーカスの近くに現存している。聖エカチェリーナ聖堂、州立美術館、マクシム・ゴーリキーを記念して名づけられた広場と劇場、クラスノダール交響楽団が本拠とする南部屈指の音響を誇るコンサートホール、州立コサック合唱団、クラスノダール・サーカスなど、文化活動は活発で施設も整っている。クラスノダールの名所の多くが集まるのが目抜き通りのクラスナヤ通りで、通りの起点には中央コンサートホールが、終点にはアヴローラ映画劇場がある。また通りの中ほどには凱旋門が建っている。
クラスノダールの交通 クラスノダール国際空港(パシュコフスキー空港)はクバン航空(Kuban Airlines)の本拠となっておりロシア国内外の各地へ定期便が飛ぶ。市内交通はバス、トロリーバス、路面電車、マルシュルートカが担っており、トロリーバスと路面電車が主な交通手段となっている。
クラスノダールの経済 ソビエト連邦時代には工業都市として知られ、今日でも農作業機械などの機械製造や食品加工などが盛ん。黒土地帯にあり土地が肥沃で、トウモロコシやコメなどの穀類やひまわり、果物を耕作する。茶の栽培も盛んで、世界の茶栽培の北限に近い。
クラスノダールのスポーツ サッカーのクラブチームFCクバン・クラスノダールとFCクラスノダールが本拠を置く。女子バレーボールのクラブチームのディナモ・クラスノダールがある。
Shamanippon -ロイノチノイ-の解説 オリジナルアルバムとしては、2012年発売の「shamanippon -ラカチノトヒ-」以来1年10ヶ月ぶりの作品。前作と同一タイトルであり、副題のみ新たなものが名付けられている。 副題の「ロイノチノイ」は、初回盤Aに収録されている同名タイトルから採られたもので、逆さから読むと「いのちのいろ」となる。本アルバムは、大きく二本の柱で構成されており、一方は、2012年に奈良市内に建設された特設会場(名称:shamanippon ship)により、約2ヶ月間に渡り行われたライブにおいて誕生した楽曲、また、それらの経験を経て制作された楽曲などが収録されており、 瞬時に生まれた詞・メロディー・アレンジを大きく反影し、ライブが甦る、ライブに行きたくなる楽曲たちが収録された。 そのため、既に発表済みの楽曲や、別媒体で収録されている楽曲等も含まれている。 もう一方は、堂本が今伝えたい「これからを生きて行くボクたち」をテーマにした楽曲たちである。 また、2013年に発売されたシングル「瞬き」の購入者対象の抽選特典として企画された「大人の社会科見学Part3」では、当選者に対し本アルバムの録音風景の一部が公開され、その際、収録曲「shamadokafunk - 謝 円 音 頭」において当選者がコーラスで参加している。前作発売以降に制作された前記シングル表題曲は通常盤のみの収録であり、アレンジもシングルと異なる。また、同シングルに収録されたカップリング曲が本アルバムに複数収録されているが、堂本のアルバムに先行シングルのカップリング曲が収録されるのは初めてのことである。前作から引き続き、販売形態により各々独自の名称が付されており、初回盤A「どうも とくべつよしちゃん盤」・初回盤B「とくべつよしちゃん盤」・通常版「ふつうよし盤」、全て堂本の名前をもじったものとなっている。 初回盤Aには収録曲「I gotta take you shamanippon」のPV及びメイキング映像が、初回盤Bには収録曲「Ginger」のPV及びメイキング映像がDVDに収録されている。 また、各形態に封入される応募券による抽選で「大人の社会科見学Part4」が企画された。オリコン週間アルバムランキングで首位を獲得した。アルバム首位は、オリジナル作品『shamanippon -ラカチノトヒ-』、カバー作品『カバ』に続いて3作連続6作目。3作連続アルバム首位は、『ROSSO E AZZURRO』(2002年8月発売)、『[si:]』(2004年8月発売)、『Coward』(2006年3月発売)で記録して以来、7年11ヶ月ぶりとなった。
Shamanippon -ロイノチノイ-の収録曲 全曲 作詞・作曲:堂本剛
アップルジャックの歴史 ニュージャージー植民地において、アップルジャックは道路建設隊への賃金として使われ、これは「ジャージー・ライトニング」という俗称へと繋がった 。アメリカで最も古い、認可を受けたアップルジャックの醸造所はニュージャージー州スコベイービルのレアード・アンド・カンパニーであり、これはアメリカ国内に残る唯一のアップルジャックの醸造所でもある。なぜなら凍結濃縮法は一般の蒸留に比べて原始的な手法であり、たとえば熱を作り出すために薪を燃やしたりする必要が無いため、穀物から造る酒類よりも高価ではあるがシードルとアップルジャックは歴史的に製造が容易であるとされてきたからである 。 従ってこれらは植民地時代のアメリカ及び初期のアメリカ合衆国、特に気候が冷涼で衛生的な飲料水を手に入れづらかった北部地域において重要な飲料となった。
アップルジャックの生産 伝統的には、アップルジャックはフルーツビールなどと同様、冬期にシードルを寒中に放置し、成分を濃縮することによって製造される。シードル中に含まれる水分が凍結してできた氷は定期的に取り除かれ、そうすることによって外気の温度で凍結することのないアルコールは濃縮されていく。 当初は10度に満たなかったアルコールの度数は結果として25度から40度近くにまで上昇する。商業生産が始まってからはアップルジャックも一般的な蒸留法を用いて製造されることとなった。現在のアップルジャックは凍結濃縮法ではなくアップル・ブランデーと中性スピリッツの配合によって製造されている。
アップルジャックの人気の減衰 穀物、蒸留器、衛生的な飲料水の可用性の高さ、そして19世紀中葉に始まったパスチャライゼーションの影響、またコスト面の影響によりアップルサイダー、そしてアップルジャックは次第に他の飲料、酒類に移り変わっていった。また伝統的製法で造られたアップルジャックは健康上の問題も抱える。凍結蒸留法では飲用可能なエタノールだけでなくメタノールやフーゼル油などの健康に害を与える成分をも濃縮してしまうのである 。多くの国では健康上の問題から凍結濃縮によって製造されたアップルジャックは法律上禁止されている。分子ふるいに吸着させメタノールを削減する手法は実用的なものであると考えられている。
サンアントニオ・スパーズの初期ABA時代 現在のサンアントニオ・スパーズの原型となったチームは、1967年にNBAに対抗する形で発足したプロバスケットボールリーグABA創設と同時にリーグに加盟した11チームの内の1つ、ダラス・チャパラルズだった。チーム名のチャパラルはアメリカの野鳥ロードランナーの別名で、ウェスタン・ディビジョンに所属し、チームカラーは赤、白、青だった。初代のヘッドコーチは選手を兼任したクリフ・ヘイガンであった。60年代に観客動員数が伸び悩んだため、チャパラルズは1970-71シーズンにホーム戦をテキサス州内の数ヶ所、フォートワース、タラント、ラボック等で行ない、このシーズンのみテキサス・チャパラルズという名称を使ったが失敗に終わり、再びダラスに本拠地を移し、ダラス・チャパラルズに戻った。1973年にはサンアントニオの実業家に買い取られて同地に移転、チーム名を今日のサンアントニオ・スパーズと改めた。チームカラーも赤、白、黒だったものを銀、黒、白に変更した。*ABA時代のスパーズは成績の悪いシーズンは30勝以下、最も成績の良いシーズンで51勝33敗で優勝経験はなく、中堅程度の存在だった。この時期に、後に著名なNBAヘッドコーチとなるジョージ・カールが、ポイントガードプレーヤーとして所属していた。
サンアントニオ・スパーズのNBA加盟 1976年にABAが解散する際、スパーズはABAからNBAに加盟する4チームのうちの1つに決定された。残りの3チームは、デンバー・ナゲッツ、インディアナ・ペイサーズ、ニューヨーク・ネッツ(現:ブルックリン・ネッツであった。加盟後はイースタン・カンファレンスに属した。
サンアントニオ・スパーズの低迷期 1984-85シーズン後にガービンがシカゴ・ブルズに移籍した後は地区でも最下位になるなど低迷の時代となった。続く4シーズン(1988-89シーズンまで)の成績は115勝215敗となった。は、ヘッドコーチに、1988年にカンザス大学をNCAAチャンピオンに導いたラリー・ブラウンが就任し、後のヘッドコーチ、グレッグ・ポポヴィッチがブラウンにアシスタント・コーチとして招かれ、NBAでのキャリアをスタートさせた。当時、核となる選手が1986年にNBA最優秀守備選手賞に選ばれたアルヴィン・ロバートソンぐらいで、低迷していたスパーズは21勝61敗でシリーズを終えた。この年のチャンピオン、デトロイト・ピストンズは、アイザイア・トーマス、ビル・レインビアらのバッドボーイズが揃い、激しいディフェンス、ラフプレイお構いなしの凶暴なチームで、NBAの侵略者と自らを称し、最も嫌われたいわゆるヒールチームであった。このチームは次シーズン連覇を果たしており、只の荒くれチームでは無いことを証明している。
サンアントニオ・スパーズのアドミラル(提督)の時代 この状況が変わるのは、1987年にドラフト1位で指名された海軍兵学校のデビッド・ロビンソンが卒業後2年間海軍で兵役に就いた後1989年よりチームに加わってからだった。ロビンソンは海軍で軍役に就いていたため、提督(The Admiral)のニックネームでも呼ばれることになる。ブラウン体制の2年目の1989-90シーズンには大きく躍進し、ブラウンとポポヴィッチは見事にチームの再建を果たすこととなる。は、待ち望まれていたデビッド・ロビンソンがスパーズに合流し同じ年にドラフト全体3位で指名されたショーン・エリオットやテリー・カミングスの加入によってチームは盛り返し、前年に35勝上乗せした56勝26敗でシーズンを終えた。この年はクライド・ドレクスラーが主力となりウェスタンカンファレンスを制してファイナルに進出したポートランド・トレイルブレイザーズにカンファレンス準決勝で3勝4敗の末敗れた。ロビンソンは新人のセンターとして1試合平均24.3得点、12.0リバウンドをマーク、新人王を獲得した。は、55勝27敗でディビジョンを制してプレイオフに進出したが、1回戦でゴールデンステート・ウォリアーズに1勝3敗で敗れた。このシーズンは、優勝を果たしたシカゴ・ブルズ、マイケル・ジョーダンの時代が始まったシーズンであった。は、47勝35敗と昨シーズンより成績を落とし、ディビジョンの覇権をジャズに奪われ2位となり第5シードでプレイオフに進出したが、プレイオフ1回戦でサンズにスィープされチームは、ラリー・ブラウンを1991-92シーズン終盤に解雇した。このシーズンは開幕直前にマジック・ジョンソンの引退がありウエスタンの勢力図が塗り替わったシーズンでもあった。もう一つの大きな出来事として、バルセロナ五輪代表のかつてない豪華な陣容である「ドリームチーム」結成があった。スパーズからはデビッド・ロビンソンが参加し、NBAの国際的な人気を決定付けると共に、バスケットボールブームを巻き起こした。、ラリー・ブラウンの解雇に伴いポポヴィッチがゴールデンステート・ウォリアーズに移り、こちらも名将の誉れ高いドン・ネルソンのもとでアシスタントコーチとなった。スパーズはカレッジのUNLVのヘッドコーチだったジェリー・ターカニアンと契約したが、序盤の20試合を9勝11敗となったところで解雇した。その後は1試合をおいて、ジョン・ルーカスが引き継ぎ残りシーズンを49勝33敗まで持ち直したものの、このシーズンはディビジョンの覇権をロケッツに奪われ、第5シードでプレイオフに進出、一回戦はブレーザーズを破ったが、またしても、チャールズ・バークレーの活躍で ファイナルに進出したフェニックス・サンズに敗れた。そのサンズもシカゴ・ブルズ、マイケル・ジョーダンの前には、力尽き3連覇を許している。スパーズはシーズン終了後に現在のオーナーグループがチームを購入し、新しく建設されたアラモドームに本拠地を移した。は、オフシーズンにショーン・エリオットとのトレードでデニス・ロッドマンを迎えて55勝27敗を記録したが、プレイオフ1回戦で、ジョン・ストックトンとカール・マローンの強力コンビを擁するユタ・ジャズに完敗し、ルーカスヘッドコーチはすぐに解雇された。
サンアントニオ・スパーズのポポビッチの始動 に、ポポヴィッチが、スパーズのゼネラル・マネージャーに就任する。ポポヴィッチに求められたものはラリー・ブラウンの退任後、成長が横ばい状態にあるスパーズを優勝できるチームにすることだった。スパーズは新たにボブ・ヒルをヘッドコーチに迎え、さらにポポヴィッチがウォリアーズのアシスタントコーチをしていた頃から目を付けていたポイントガードのエイブリー・ジョンソンと契約。また、ショーン・エリオットが復帰して、これまでのチーム最高記録の62勝20敗を記録して、ロビンソンもシーズンMVPを受賞した。しかし、カンファレンス決勝でアキーム・オラジュワンのヒューストン・ロケッツに敗れてまたしてもファイナル進出はならなかった。シーズン中、そしてプレイオフでたびたび問題を起こしたロッドマンをこのシーズンでシカゴ・ブルズに殆ど無償で放出した。は59勝23敗でレギュラーシーズンを終え、カンファレンス準決勝まで進んだが、2シーズン前と同じく、ストックトン、マローンのユタ・ジャズに敗れた。この時点で誰も翌年の不調を予測するものはいなかった。、ロビンソンが背中を痛め、開幕から18試合を欠場し、6試合続けてプレイしただけで左足小指の中足骨を骨折した。手術は無事成功したものの、その後残り試合すべて出場できなかったこともあり、スパーズはチーム史上最低の20勝62敗と一気に凋落した。これはリーグで下から3番目の成績だった。ヒルヘッドコーチは18試合を3勝15敗で終わったところで解雇され、その後をGMであったグレッグ・ポポヴィッチが自ら引き継いだ。しかしこの成績がオフシーズンに幸運をもたらすこととなった。
サンアントニオ・スパーズのツインタワーの君臨 1997年のドラフト全体1位指名権を獲得、ウェイクフォレスト大学でオールアメリカンとなったティム・ダンカンを獲得した。、大学時代はセンターだったダンカンはパワーフォワードとして、ロビンソンとともに「ツインタワー」を形成した。ダンカンは1試合平均21.1得点、11.9リバウンドを記録して、新人ながらオールNBAファーストチームにも選ばれて新人王を獲得した。は、開幕前に経験豊富なベテランのマリオ・エリーとジェローム・カーシーを獲得し、ロックアウトで短縮されたシーズンをリーグ首位タイの37勝13敗で締め、プレイオフではウェスタンカンファレンスを11勝1敗の新記録で制覇して、NBAファイナルに初めて出場しニューヨーク・ニックス(イースタンカンファレンス第8シード)を4勝1敗で破り優勝した。ファイナルのMVPはダンカンが獲得した。スパーズはABAから参加したチームの中で最初のNBAファイナルを制覇したチームとなった。(ファイナル出場も初であった。)は、主力選手は皆30代半ばに入っており、チーム全体に疲弊が見られ、53勝29敗とチャンピオンチームとしてはやや物足りない成績に終わった。また、前シーズンが通常の82試合を戦い抜いた上での優勝ではないため「本物の優勝ではない」という声が周囲からあがっており、連覇の期待が掛かったが、ダンカンがレギュラーシーズン終盤で負った怪我が回復せず、プレーオフ全休という緊急事態に陥ったチャンピオンチーム、スパーズは、1回戦でフェニックス・サンズと対決。サンズもまたジェイソン・キッド不在という不幸に見舞われていたが、サンズはかつての先発ポイントガード、ケビン・ジョンソンに現役復帰を依頼し、ジョンソンはこれを受諾。サンズは3勝1敗で上位シードのスパーズを破るというアップセットを果たした。チャンピオンチームがファイナル連覇を果たせなかったのは、1986-87シーズン以来のことであった。は、58勝24敗を記録しプレーオフでは、ミネソタ・ティンバーウルブズ、ダラス・マーベリックスをそれぞれ1敗しただけで退け、カンファレンスファイナルに進んだが、このシーズンNBAチャンピオンとなったフィル・ジャクソン率いるロサンゼルス・レイカーズに、コービー・ブライアント、シャキール・オニールの活躍で、4連敗スイープで敗れた。は、トニー・パーカーが入団し、ポイントガードのスターターに定着し、オールルーキーファーストチームに選ばれる活躍を見せ、デビッド・ロビンソンが衰えを見せ始めたものの、ダンカンとのツイン・タワーは健在で、昨年同様58勝24敗を記録しディビジョン首位となった。プレーオフは、1回戦のスーパーソニックス戦で、第4戦をダンカンが身内の不幸で欠場したこともあり、ウエスタン1回戦では唯一第5戦まで縺れ、接戦の末、勝利したが、カンファレンス準決勝は、前季カンファレンス決勝の同カードとなったレイカーズとの対戦となり、故障でロビンソンを欠いたこともあり、昨シーズンに続きレイカーズに屈して、カンファレンス決勝に駒を進めることはできなかった。
サンアントニオ・スパーズのビッグスリーの幕開け は開幕前にロビンソンがシーズン終了後の引退を表明、本拠地もアラモドームからSBCセンター(現AT&Tセンター)に移した。2年目のトニー・パーカー、新加入のエマヌエル・ジノビリやスティーブン・ジャクソン、ダニー・フェリー、ブルース・ボウエン、スティーブ・カー、スティーブ・スミスなど多くのシューターが前回優勝時のメンバーに代わって活躍した。インサイドのダンカンとロビンソンに加えて外からのシュート力も武器となって60勝22敗でプレイオフに進出、プレーオフではカンファレンス準決勝で仇敵レイカーズを破ると、カンファレンス決勝ではポポビッチの元上司であるドン・ネルソン率いるノビツキー、フィンリー&ナッシュのダラス・マーベリックスを退け、4シーズンぶりにファイナルに進出。司令塔ジェイソン・キッドに牽引され2年連続ファイナル進出のニュージャージー・ネッツを4勝2敗で降し、ポポヴィッチ指揮の下2度目の優勝を遂げた。「ロックアウトの短縮シーズンでたまたま優勝しただけのチーム」という悪評を見事に覆し黄金時代を築いていく。は、レギュラーシーズンを7割近い勝率で乗り切り、プレーオフへ進んだ。1st.ラウンドはグリズリーズを難なくスイープで下したが、カンファレンス準決勝でシャック&コービーの時代最後のシーズンとなり、何としてもチャンピオンリングを取りたいベテランのカール・マローン、ゲイリー・ペイトンと大物二人を加え「史上最強のチーム」とも呼ばれたロサンゼルス・レイカーズと対戦し、2勝0敗とリードしたものの、その後4連敗を喫して敗れた。この敗北でチームは大幅な改造をすることとなり、ブレント・バリー、ナジー・モハメド、グレン・ロビンソンを獲得した。このシーズンから、基本に忠実ではあるが、圧倒的な支配力を見せるプレースタイルからビッグ・ファンダメンタル(The Big Fundamental)の愛称を得たティム・ダンカンを中心としたチーム構築が始まる。は、新球団の新設に伴いリーグが再編成され、2カンファレンス4デビジョン制から2カンファレンス6ディヴィジョン制となり、スパーズはミッドウエスト・デビジョンから現在の、サウスウエスト・デビジョン所属となり開幕した。4年目パーカーが平均16.6得点、3年目のジノビリが平均16.0得点と、ダンカンの平均20.3得点に加わり、チームの主力としてビッグスリー誕生のシーズンと言える。大黒柱のティム・ダンカンとパーカー、ジノビリに牽引されたチームは、ウェスタンカンファレンス2位の59勝23敗でプレイオフに進出した。デンバー・ナゲッツ、シアトル・スーパーソニックス、スティーブ・ナッシュの活躍で一躍優勝候補に躍り出たフェニックス・サンズを下し、NBAファイナルへと進んだ。イースタン・カンファレンスを制して、2連覇に挑んだデトロイト・ピストンズを接戦の末4勝3敗で破り、2年ぶりの王座奪還、3度目の優勝を果たした。ファイナルMVPには大黒柱のティム・ダンカン(プレーオフ平均23.6得点、12.4リバウンド、2.7アシスト、2.3ブロック)が選ばれた。は、オフに獲得したベテラン、マイケル・フィンリーの活躍や、パーカーが、苦手だったロングレンジからのシュートを封印し、得意のペネトレイトからの得点に、より磨きをかけ、フィールドゴール成功率が急上昇し、PGとしては異例の54.8%を記録したことで、故障を抱え不調だったダンカン、ジノビリに代わりチームのリーディングスコアラーとして活躍し、スパーズはチーム記録となる63勝19敗の成績を残した。ウェスタンカンファレンス第1シードでプレイオフに臨み、一回戦ではキングスを危なげなく下し、カンファレンス準決勝で、かつてスパーズに所属し、ポポビッチの下で優勝を経験したエイブリー・ジョンソンがヘッドコーチのダラス・マーベリックスとの対決となった。このライバル対決は白熱したものとなり、ノヴィツキーとダンカンのエース対決も大いに盛り上がった。最終戦までもつれ、迎えた第7戦、試合終盤でスパーズは3点リードしていた。しかしノヴィツキーが巨体を躍らせながらゴール下に切み執念のダンクを決め、さらにジノビリからファウルを引き出し、ボーナススローも決めた。土壇場で追い付かれたスパーズは、オーバータイムで力尽きシーズンを終えた。
サンアントニオ・スパーズのビッグスリーの時代 は、ジノビリがシックスマンへと移向。スターター級のジノビリがベンチに控えることは相手チームにとっては脅威となり、「行き詰った試合の流れを変える」というシックスマンの仕事はうってつけであった。地味ではあるがファブリシオ・オベルト、マット・ボナーの加入も効果が現れ、7割以上の勝率でプレーオフに進出した。また、このシーズンで、10年間続けて50勝以上に相当する戦績(勝率61%以上)でプレーオフに進出した。1回戦のデンバー・ナゲッツとのシリーズ第5戦ではジノビリに替わりスターターとなったマイケル・フィンリーがスリーポイント9本のうち8本を決めるなど活躍。ナゲッツ、サンズ、ジャズを次々と下し、ウェスタンカンファレンス優勝を勝ち取った。ファイナルでは、レブロン・ジェームズ率いるイースタンカンファレンス優勝のクリーブランド・キャバリアーズを、02年のロサンゼルス・レイカーズ以来の四戦全勝で退け、2年ぶりの王座に返り咲いた。ファイナルでは、レブロン・ジェームズに、強固なディフェンダーであるブルース・ボーエンをマッチアップし、フィールドゴール成功率を35%に抑え込む一方、オフェンスでは、トニー・パーカーが独擅場とも言える働き振りを見せ、平均24.5得点5リバウンド3.3アシスト、フィールドゴール成功率は57%を記録し、ファイナルMVPを受賞した。欧州出身選手としては初受賞となった。これでスパーズは出場した4回のNBAファイナルですべて優勝を成し遂げている。また、4-0、4-1、4-2、4-3と勝利のすべてのケースを経験しており、通算16勝6敗(勝率72.7%)のファイナルに強いチームである。は、例年通りシーズンでは安定した戦いを見せ56勝をあげ、プレーオフに進み、フェニックス・サンズ、ニューオリンズ・ホーネッツを破り、カンファレンスファイナルへと駒を進めたが、このシーズン、シックスマン賞受賞のジノビリがプレーオフ一回戦のサンズ戦で左足首を負傷しており、カンファレンス決勝のロサンゼルス・レイカーズ戦ではその怪我の影響で力が出し切れず意外なほどあっさりと敗れ、またしても連覇を逃した。この年のプレーオフ時点でのロースターの平均年齢は32歳を超えており、チームの若返りがオフの課題となったが、主要な補強は、ロジャー・メイソンとの契約、ジョージ・ヒルのドラフトでの加入程度にとどまった。は、ジノビリが昨シーズンプレーオフで負傷し、北京オリンピックで、さらに悪化した左足首の関節鏡視下手術を9月に受け、チームは73年以来の開幕3連敗をしてしまう。しかし4戦目のウルブズ戦でパーカーがキャリアハイの55得点10アシストの大活躍で連敗を止めた。その後、ジノビリが右腓骨に疲労反応が出たことの影響などで出場試合は自己最低の44試合に終わり、新加入のロジャー・メイソンが71試合に先発、全試合出場し、キャリア最高の成績(平均11.8得点、3ポイント成功率42.1%)を残し、それを補ったものの、チームの勝利数は、昨年を下回り、ウェスタンカンファレンス第3シードでプレーオフに臨んだ。ここでも右の腓骨の疲労骨折で欠場したジノビリ不在が響き、2007-08シーズンに、ベテランPGのジェイソン・キッドを獲得したダラス・マーベリックスに破れ、2000年以来の1回戦敗退となった。この年あたりから、衰えが見え始めたダンカン一人に頼るスタイルは、終わりを告げざるを得ず、パーカー、ジノビリとのビッグ3に、プラスアルファーを求めて、オフには、主力選手の負担軽減を目指し、主力級のリチャード・ジェファーソンをトレードで獲得した。このシーズンで、50勝以上を10年間続けたことになる。は、ディフェンスの要であるブルース・ボーエンの引退と、リチャード・ジェファーソンが、チームにマッチしきれず、期待した程の活躍ができず、またパーカーが怪我のため出場試合数が56に止まり、平均得点も前年より大きく下げた。パーカーの怪我により大幅に出場時間を増やしたジョージ・ヒルが期待を上回る活躍を見せたが、ダンカン時代を通じて最低の勝率に終わったが、なんとか50勝は確保し、50勝以上のシーズンの継続記録を11年に伸ばした。プレーオフには第7シードで進出し、豪華戦力補強を行ったダラス・マーベリックス戦でジノビリは鼻骨を骨折しながらもプレーを続け、スパーズを2回戦へと進めたものの、2回戦で、フェニックス・サンズにあっさりとスィープされシーズンを終えた。は、ジノビリを中心に据えてパーカー、ダンカンとまさにビッグスリー体制で臨んだ。ダンカンは負担軽減でプレー時間を減らし、平均得点・平均リバウンドも最少に終わったにも関わらず、結果的に61勝21敗と強さを見せつけウェスタンカンファレンス第1シードでプレイオフに突入した。この時点でのチーム状況は、アップテンポで攻撃的な試合展開を見せ、得点力は確実に上がった反面、スパーズの最大の強みである強固なディフェンスに隙が見えることも屡々あり、万全とは言い切れないものであった。ジノビリが、右肘を負傷しプレイオフ初戦を欠場し、次戦からも万全な状態でプレーすることができず、またリチャード・ジェファーソンの不振も響き、1戦目で、メンフィス・グリズリーズにグリズリーズ史上初めてのプレイオフでの勝利を許し、そのままグリズリーズの勢いを止められずに2勝4敗で一回戦敗退した。プレイオフで第1シードチームが8位チームに敗退することは、ファーストラウンドが7試合制になって以降としては史上2度目となる失態であった。中心メンバーがベテラン揃いになり、シーズンでは力を発揮するものの長いシーズン後のプレイオフでは疲労が取れずに力を発揮できないシーズンが多くなってきた事と本来のディフェンス力を取り戻すことが課題として残った。しかし、一方では、ジョージ・ヒル、デュワン・ブレア、ゲイリー・ニール、ダニー・グリーンなど他チームからさほど注目されなかった好選手を見い出し育てるスパーズの目利きぶりを発揮しつつ、若返りを進めてはいた。
サンアントニオ・スパーズのレナード入団とチーム再構築 は、順調に成長を遂げてきたジョージ・ヒルの故郷インディアナでの更なる飛躍と、近年不安材料となっていたディフェンス力の立て直しを図るためインディアナ・ペイサーズの2011年ドラフト一巡目指名のカワイ・レナードとジョージ・ヒルとのトレードを敢行した。更に、カナダ人ポイントガードのコーリー・ジョセフを1巡目指名獲得した。補強ではパーカーの控えとなるポイントガードのT.J.フォードと契約した。1998年以来のロックアウトでレギュラーシーズンは全66試合と短縮された。開幕後ジノビリの利き手左手の骨折と、古傷からT.J.フォード突然の引退などアクシデントはあったものの、ベテラン陣の安定した働きと、スプリッターを筆頭に若手も順調に実力を伸ばし、ルーキーレナードも経験不足ながら期待通りのディフェンス力を発揮し、序盤、中盤を勝率約7割で安定して乗り切った。更にシーズン途中のトレード・デッドライン直前には、総合的な貢献に限界が感じられたリチャード・ジェファーソンのトレードで、2002-2003シーズンチャンピオンメンバーのスティーブン・ジャクソンを獲得し、その後も、T.J.フォード引退により待ち望んでいた、控えポイントガードにパトリック・ミルズ、パーカーの旧知であり、リーグ屈指のユーティリティープレーヤーのボリス・ディアウと契約を結んだ。終盤、補強選手がチームにかみ合うと、シーズン途中42勝16敗となった時点で2年連続18度目のサウスウエスト地区優勝を飾り、残り2試合となった時点で48勝16敗でウエスタンカンファレンスのプレーオフ第1シード権を得た。最終的にレギュラーシーズンを50勝16敗で乗り切り、ロックアウトで短縮されたシーズンであったにもかかわらず50勝以上のシーズン継続記録を13年に伸ばした。また、前回のロックアウトシーズンも含め勝率61%以上(50勝以上相当)のシーズンと、プレーオフ進出は、15年連続となった。このシーズンでポポビッチは、11連勝後に、2度にわたりビッグスリーを一度に休ませる策に出て、連勝は伸ばせなくとも、選手全員が、良い体調を維持しプレーオフへ突入する体勢を作り、自身2度目の最優秀監督賞に輝いた。1回戦は、第8シードのユタ・ジャズとの対戦となったが、レギュラーシーズンを10連勝で終えた勢いのままに、4戦連勝し、難なくスイープし、続く2ndラウンドでは、クリス・ポールの加入と、ブレイク・グリフィンの成長により、2006年以来のカンファレンス・セミファイナルへ進出したロサンジェルスクリッパーズにも4連勝した。カンファレンス・ファイナルでは、オクラホマシティ・サンダーとの対戦となり、ホームコートで、幸先良く連勝し、連勝を20に延ばした。しかしながらアウェイでの3戦目を、サンダーのフィジカルなディフェンスにオフェンスリズムを狂わせ大差で落とすと、波に乗ったサンダーの勢いを止める事が出来ず、そのまま4連敗し、2007年以来のカンファレンス優勝を果たすことは出来なかった。
サンアントニオ・スパーズの若返りとチームスタイルの確立 は、アシスタントコーチのジャック・ヴォーンが、オーランド・マジックのヘッドコーチとして転出するなど、コーチ陣に移籍があったが、新ロースターは、フランスナショナルチーム代表のナンド・デ・コロを加えた程度で、昨シーズンと殆ど変わりのない陣容で開幕を迎えた。その分、チームとしての完成度は高く、途中レナードとジャクソンの主力2名を故障で欠いたが、11月終わりまでの17試合を、13勝4敗の好成績でスタートをきった。11月下旬の長期ロードで、スパーズは、全米テレビ放送のあった29日のマイアミ・ヒート戦で、ダンカン、パーカー、ジノビリ、グリーンの主力4選手を遠征から一足先にホームに帰らせ休養を与えた件で、リーグから25万ドルの制裁金処分を受けた。試合はワンサイドゲームとなると予想されたが、主力計6人を欠いた9人編成のチームは、残り1分の時点まではリードし、昨年のチャンピオンを追い込み苦しめたが惜敗に終わった。ヘッドコーチのポポビッチは、予てから主力に休養を与える戦術を用いており、デビッド・スターンの決定については「残念」であるとしたが、テレビ放映権に関わる過密日程が問題視される中では、今後も選手を休養させる可能性のある事を示唆している。12月には、ボブキャッツ戦で19本、マーベリクス戦では、20本の3ポイントショットを決め、フランチャイズ記録を塗り替えるなど、中盤から終盤に掛けて、ジノビリ、パーカー、ディアウなど、主力に故障者が出たものの、総力戦で例年通りの安定した戦いを続け、50勝以上のシーズンを14年連続とした。58勝24敗と60勝には届かなかったが、ウェスタンカンファレンス第2シードで、16シーズン連続でプレーオフ進出を決めた。プレイオフ直前に、フィールドゴール成功率の低迷するスティーブン・ジャクソンを解雇し、前年夏のワークアウトに参加していたトレイシー・マグレディと契約を結びプレーオフに臨んだ。オールNBAファーストチームにダンカンが、2ndチームにパーカーが選出された。プレイオフは、1stラウンドで、コービー・ブライアント(アキレス腱断裂)を筆頭に、主力の故障による離脱が続いた第7シードのレイカーズとの対戦となり、労することなく4戦全勝でスイープした。このシーズン最大の注目トレードでレイカーズに加わったドワイト・ハワードも期待された活躍が出来ず、最終戦では2度のテクニカルファウルで、シーズンの終了を待たず退場となっている。カンファレンス・セミファイナルは、第3シードのデンバー・ナゲッツをアップセットした第6シードのゴールデンステイト・ウォリアーズとの対戦となった。第1戦では、ステフィン・カリーの爆発的な活躍で、4クォーター残り4分で16点差という大量リードを許していた展開から追いつき、2度の延長の末、残り数秒でのジノビリの3ポイントで逆転し、そのまま2点差で逃げ切った。残り4分で16点差からの逆転はプレーオフ史上、初めての出来事であった。次戦では、ウォリアーズ期待の若手クレイ・トンプソンの奮起で、ホームゲームを落としたが、ロードで1勝1敗と粘り、ホーム第5戦、ロード第6戦を連勝し突破した。カンファレンス・ファイナルではサンダーをアップセットで倒したメンフィス・グリズリーズとの対戦となった。この年の最優秀ディフェンシブプレーヤーに選ばれたマルク・ガソルを擁し、強固なディフェンスで定評のあるグリズリーズとの第1戦は、泥臭い試合になると予想されたが、結果はスパーズの安定した試合運びで22点差のワンサイドゲームでスパーズが勝利した。第2戦は、最終クオーター残り26秒4点差で逃げ切りの展開から、ジノビリのトニー・アレンに対するフレグラント・ファウルに伴う2スロー、1ポゼッションで追いつかれ、オーバータイムへ入ったが、ダンカンの6得点で連勝を決めた。後日このフレグラントファールは、アレンのフロッピングと裁定され、5,000ドルの罰金が科された。第3戦は、開始直後からグリズリーズの激しいディフェンスで1stクオーターは、8ターンオーバー、13得点、29失点の16点ビハインドに追い込まれたが、2~4クオーターで地道に追いつき2試合連続オーバータイムとなった。前戦同様ダンカンがゲームを支配し3連勝となった。この試合で、ダンカンはプレーオフでの通算ダブルダブルを144とし、143回のウィルト・チェンバレンを抜き、歴代2位となった。1位はマジック・ジョンソンの157回、4位はシャキール・オニールの142回、5位はビル・ラッセルの137回である。第4戦はパーカーのフィールドゴール成功率7割を超える37得点でグリズリーズを圧倒しスイープする結果となり、2007年以来久々のカンファレンス優勝を飾った。ファイナルを前に、ポポビッチの下で6年間第1アシスタントコーチを務めてきたマイク・ビューデンホルツァーが来期のアトランタ・ホークスのヘッドコーチに就任することが発表された。
サンアントニオ・スパーズの久々のファイナル進出と初の敗退 2013年NBAファイナルは、スパーズが対戦相手決定待ちの間、イースタンカンファレンス決勝は、ヒート対ペイサーズで7戦まで縺れたが、前年王座のヒートが対戦相手となった。レブロンとは7年ぶりのマッチアップとなる。最長と最短の休養での対戦となったアウェイでの第1戦は、ビッグスリーの安定した働きで勝利したが、第2戦は逆にビッグスリーが精彩を欠き、第3クオーターで突き放されるとそのまま敗戦した。ホームに戻った第3戦は、グリーンとニールを中心に、NBAファイナル新記録の3ポイント16本(32投)を決め、レナードのレブロンへのディフェンスも有効に機能しゴール成功率を33%、フリースローなしに抑え、37点差の大量リードで勝利した。第4戦は、ビッグスリーが、パーカーの右ハムストリングの故障とジノビリの長期スランプから、合計40得点に止まったのに反し、ヒートのビッグスリーには合計85得点を許し、16点差で敗れた。この試合では、ヒートのクリス・ボッシュにフロッピングの裁定が下り、ファイナルでは初の罰金が科された。ホームでの最終戦となる第5戦は、ジノビリがスターターで、センターなしのスモールラインアップで臨んだ。ジノビリがこれまでの不調を払拭し24得点10アシストの活躍を見せ、パーカーも故障を抱えながら26得点、ダンカンは安定して17得点、12リバウンドとビッグスリーが本来の姿を取り戻した上に、グリーンが24得点と、しぶといディフェンスで貢献し、対戦成績を3勝2敗とし優位に立った。この試合で6本のスリーポイントを決めたグリーンは、相手チームのレイ・アレンがセルティクスで2008年に記録したファイナル3ポイント総成功数記録22本を超え、更に25本まで記録を伸ばした。この時点で成功率は66%であった。第6戦は、前半はダンカンのハイパフォーマンスで優位にゲームを進め、このまま優勝するかとおもわれたが、グリーンの3ポイントが封じられたこと、ジノビリのターンオーバーの繰り返し、終盤のダンカン、パーカーの消耗が響き、勝利直前のレイ・アレンの劇的な同点3ポイントにより、オーバータイムに縺れた末に敗れ3勝3敗となった。最終戦は、近年希に見る接戦となったが、レブロン・ジェームズに本来の爆発力を取り戻されてしまい、スパーズは、これまで4度のファイナル進出ではすべて優勝していたが、初めてファイナル敗退を喫した。
サンアントニオ・スパーズのチームバスケットの確立 は、開幕前にFAのゲイリー・ニールがミルウォーキー・バックスへ、デュワン・ブレアが同地区のライバルダラス・マーベリックスに移籍し、主な補強は、マルコ・ベリネッリ(前ブルズ)、ジェフ・エイアーズ(前ペイサーズ)の入団となった。オールスター前までの前半戦は、レナード、グリーン、スプリッターなどの故障欠場で、スターターの変更を余儀なくされる中で、層の厚いベンチプレーヤーの活躍で、38勝15敗の成績で乗り切った。中でも、以前ユーロリーグでジノビリと同チームでプレーした経験のあるベリネリが当初からチームに馴染み、高確率で3ポイントを決め貢献した。またベリネリはオールスターのスリーポイントシュートアウトで24得点をあげ優勝した。オールスター明けの後半戦は、当初パーカーが体調万全まで回復するため数試合休養したが、チームは好調を維持した。3月15日のレーカーズ戦での勝利で後半戦を11勝1敗とし、この勝利で、スパーズビッグスリーである、ダンカン、パーカー、ジノビリ、トリオのレギュラーシーズンでの勝利数を491勝とし、ロサンゼルス・レーカーズの、マジック・ジョンソン、カリーム・アブドゥル=ジャバー、マイケル・クーパーを抜きNBA歴代2位となった。歴代首位540勝のトリオはボストン・セルティックスのラリー・バード、ケビン・マクヘイル、ロバート・パリッシュである。スパーズビッグスリーでの試合数は664試合で歴代3位であり、勝率は74%とポポビッチ時代の勝率68%の中でも群を抜いている。プレーオフ試合数は2014年5月6日時点で165試合で歴代1位である。2位はマジックらの157試合、3位はバードらの150試合である。また数あるビッグスリーの中でも、全員が異なる国籍であるのはスパーズビッグスリーのみである。従来から外国籍選手が多いスパーズではあるが、このシーズンはナンド・デ・コロがオースティン・デイと交換トレードされた後でも、フランス2名、オーストラリア2名、カナダ、アルゼンチン、イタリア、ブラジル各1名、合計8名が海外選手で占められた。このシーズン66試合目となるユタ・ジャズ戦を10連勝で勝利し、50勝以上のシーズンを15年連続とした。ここから連勝は更に続き、レギュラーシーズンのフランチャイズ新記録の19連勝まで到達した。ちなみに、レギュラーシーズンからプレーオフを合わせた連勝記録は前シーズンの20連勝である。4月12日、サンズ戦に勝利し、62勝18敗とし、プレイオフ全体の第1シードを確定した。続く2戦は主力を休養させ2敗し、62勝20敗でレギュラーシーズンを終えた。このシーズンのスパーズは従来にも増してチームプレー重視のスタイルが貫かれ、少しでもオープンな選手がいればパスを回し続ける(ワン・モア・パス)プレーで、アシスト数はポイントガードに偏らず、チームとして毎試合多くを記録した。また得点に関しても、スタープレーヤに偏るのではなくチームとして積み上げていく(アンセルフィッシュ)スタイルで強固なオフェンスを作り上げた。ロースターのうち9人が1試合平均8得点以上を記録するという、NBAの歴史でも希にしかない記録を作った。
サンアントニオ・スパーズのトップシードでプレーオフへ プレーオフ1stラウンドはダラス・マーベリックスとの対戦となった。ダラスヘッドコーチのカーライルは、通常のマッチアップでは勝算が薄いと踏んで、ピック・アンド・ロールディフェンスで、スイッチを多用し敢えてミスマッチを作り、スパーズのシステマチックなオフェンスに混乱を生じさせる策に出た。第2戦はこの戦術が当たりダラスが勝利し、第3戦ではヴィンス・カーターのブザービーターで逆転の連敗を喫し、第6戦では、元スパーズのデュワン・ブレアの10得点14リバウンド、4スティールのダブルダブルの活躍で敗れ、最終戦まで縺れたが、本来のリズムを取り戻し最終ゲームを大差で勝ち、4勝3敗で、対ポートランド・トレイルブレイザーズのカンファレンス・セミファイナルへ進んだ。カンファレンス・セミファイナルは、ホーム初戦から3戦まで圧勝し、4勝1敗でカンファレンスファイナルへ進んだ。オクラホマシティ・サンダーとのホームでの第1戦は、122-105で圧勝し、この勝利でスパーズビッグスリーのプレーオフでの勝利数は110となり、ショータイム時代のロサンゼルス・レイカーズの、ジョンソン、ジャバー、クーパートリオと並んだ。第2戦は112対77とさらに大勝し、勝利数を111として、歴代最高記録を達成した。ロードでの第3戦、第4戦は、欠場していたサージ・イバーカの突然の出場に撹乱され連敗を喫したが、第5戦から、イバーカ対策としてマット・ボナーをスターターに起用し、イバーカをペイントエリアからペリメーターに引き出し、ペイントエリアポイントを増やすことに成功し、勝利した。第6戦はオーバータイムまで縺れたが、連勝し2年連続でカンファレンス優勝を勝ち取った。今回から、ホーム・ホーム・アウェイ・アウェイ・ホーム・アウェイ・ホームにフォーマットが変更になり、移動の負担が増えるファイナルは2年連続ディフェンディングチャンピオンのマイアミ・ヒートとの対戦となった。