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キャドバリーワールドの14のゾーン キャドバリーワールドには、現在14のゾーンがあり、様々な展示やアニマトロニクス、ビデオ、マルチメディア、インタラクティブ・ディスプレイ、スタッフの演技などで、チョコレートやキャドバリーの事業についての物語を表現している。
キャドバリーワールドのダニーデン 2003年7月に、新たなキャドバリーワールドが、ニュージーランドのダニーデンに開設された。このキャドバリーワールドは、オクタゴン(The Octagon: ダニーデン中心部の八角形の広場)に近い 280 Cumberland St にあるキャドバリーの工場敷地内に置かれている。この工場は、ダニーデンにある工場としては最も大規模な部類に入り、このツアーはダニーデンを訪れる観光客にも大変人気があるものとなっている。2008年5月に、ビジター・センター内部が改装されて、開設以来の展示が撤去され、アステカや昔のイングランドをテーマにした展示室など、新しいエリアが加えられた。バーミンガムの施設とは異なり、こちらのキャドバリーワールドでは、工場の製造工程を見て回るガイド付きのツアーが用意されている。
キャドバリーワールドのツアー ダニーデンのキャドバリーワールドは、3種類のツアー(工場ツアー、センター・ツアー、早回りツアー)を用意している。工場ツアーは概ね75分かかり、そのうち最初の10分はビジター・センターでの自由見学に宛てられ、続いて稼働している工場の数カ所をガイド付きで回っていく。ツアーの途中では、チョコレートの味見があり(作り立ての液体チョコレートを含む)、5階建ての建物に匹敵するかつての貯蔵サイロの中に設けられた、現在世界最大のチョコレートの滝で、ツアーは一番盛り上がる。工場ツアーは平日のみで、週末には工場は稼働していない。土日には、早回りツアーが提供されており、工場内には入れないが、DVD上映で平日の稼働状況が紹介される。センター・ツアーは、ビジター・センターでの自由見学である。すべてのツアーは、出口の売店で終了する。売店では、ダニーデンのスパーマーケットよりも割り引かれた価格でチョコレートが販売されており、ほかにも、ここでしか買えないノベルティ商品などの土産物が販売されている。
キャドバリーワールドのクリスマス 12月1日から24日まで、ダニーデンのキャドバリーワールドは、「サンタの洞窟 (Santa's Grotto)」という展示をする。これは、クリスマスをテーマとした手作りの動く人形が多数展示されているところを抜けていくと、最後にサンタクロースや、そのお手伝いをする妖精たちと無料で写真を撮ることができ、クリスマス商品を含むチョコレートの見本品のセットがひと袋プレゼントされる、というものである。
ジョン・クランコの生涯 南アの小都市ルステンブルクに長男として生まれる。父親はオランダ系南アフリカ人の事務弁護士、母親はイギリス人で子持ちの再婚だった。両親はかつてロンドンでバレエ・リュスの公演を観たことがあり、異父の姉はバレエを習っていたというバレエ好きの一家だった。しかし8歳のとき父母は離婚し、クランコはやがて父親に引き取られる。その後、学校は嫌いだが人形劇に熱中するという特異な少年時代を過ごした。13歳でバレエを習い始め、17歳でケープタウン大学の舞踊課程の学生となった。この頃早くも自身のバレエ作品としてストラヴィンスキーの 『兵士の物語』 を作り、地元のバレエ団で上演している。1946年2月、18歳のときにプロとしての本格的な舞台を求めてイギリスに渡った。サドラーズ・ウェルズ・バレエ学校で学びながら、同・シアター・バレエ団(現バーミンガム・ロイヤル・バレエ団)の公演にも出演。当初から振付家を志望しており、その才能は間もなくニネット・ド・ヴァロアに認められるところとなった。『別れ』(Adieu、1947年)、『美女と野獣』(1949年)などの短い物語バレエで成功を収める。また失敗作に終わったものの、イギリスを巡演に訪れたニューヨーク・シティ・バレエ団向けにバランシンの依頼で 『魔女』(The Witch、 1950年)を制作した。1950年、23歳でサドラーズ・ウェルズ・シアター・バレエ団の常任振付家となり、翌1951年からは本家のサドラーズ・ウェルズ(現ロイヤル・バレエ団)向けにも振付を行った。しかしアシュトンの存在が大きく、十分な振付の機会がなかったため、1960年にシュトゥットガルト・バレエ団に移籍した。シュトゥットガルトでは抽象作品のほか、ナレーションや映像が入る実験的な作品まで幅広く手掛けたが、今日でも評価が高いのは演劇性の高い物語バレエである。1958年に振付けていた 『ロミオとジュリエット』 は再演されシュトゥットガルトでレパートリーとして定着した。またプーシキンの小説をバレエ化した『オネーギン』はヒット作となり、このためにドイツの一地方都市のバレエ団に過ぎなかったシュトゥットガルト・バレエ団は世界中から招請を受けるカンパニーにまで成長した。1973年6月、成功裡に終わった3度目のニューヨーク公演の帰路、医師から処方されていた睡眠薬・抱水クロラールを飛行機内で服用したところ、その副作用で嘔吐を起こし、窒息して意識不明となった。機長の判断でアイルランドのダブリン空港に緊急着陸したが、このときすでに絶命していた。45歳没。
伊藤範子のバレエダンサーとして 東京都の出身。バレエを始めたのは6歳のときで、友人に誘われたのが契機であった。友人は谷桃子バレエ団研究所でバレエを習っていたため、伊藤の母は「谷桃子先生にお会いできる」と喜んで彼女を研究所に連れて行ったという。それから谷バレエ団研究所に入所して、谷の他に八代清子、高橋清子、村上弘子に師事した。最初に観たバレエ公演は、谷の引退公演となった『ジゼル』だった。伊藤の初となる発表会で振付を手がけたのも谷で、その後も長きにわたって指導を受けた。幼少時はバレエの練習が好きではなかったが、発表会で踊ることは大好きだった。もともと活発な性格で、学校の友達と遊ぶことが楽しかったために、バレエの自習を行うようなこともしなかった。伊藤がバレエに真剣に取り組むようになったのは、中学生くらいになったときであった。この時期に彼女の指導者となった村上弘子は、ワガノワ・メソッドに則った厳格な練習を行った。特に厳しかったのはポール・ド・ブラや身体の向きなどの指導で、一つのことがらをできるまで何度でも繰り返した。ときにはそれが1か月続いたことさえあったが、この時期に正しい指導を受けたことを後に振り返って「じっくりと取り組めたのはよかった」と感謝している。やがて伊藤はバレリーナに憧れをもつようになった。彼女は舞台鑑賞が好きだったため、谷桃子バレエ団や世界各国のバレエ団の公演を見て大きな刺激を受けた。特に憧れたのは、イタリアのバレリーナ、カルラ・フラッチだった。バレエの道を進むことになった伊藤は、高校を卒業する年にイギリスのバレエ・ランベール・スクールに留学した。この学校はランベール・ダンス・カンパニー(en:Rambert Dance Company)の付属で、クラシック・バレエとコンテンポラリー(マーサ・グレアムのメソッド)の技法を一緒に学ぶことが可能だった。イギリスではロイヤル・バレエ団の公演を始め、オペラやミュージカルの舞台を身近で見ることができる環境に恵まれた。この時期は伊藤にとって楽しく実り多いもので、日本人以外の友人も沢山できたという。スクール在学中には、サドラーズウェルズシアターでバレエ・ランベール60周年記念公演に『ソワレ・ミュージカル』(アントニー・チューダー振付)のタランテラで出演を果たすなど舞台に立つ機会もあった。バレエ・ランベール・スクールの卒業時には、スクールパフォーマンスで『眠れる森の美女』からオーロラ姫のパ・ド・ドゥを踊った。1987年に日本へ帰国して、谷桃子バレエ団の団員となった。25歳のとき、初めて全幕バレエの主役(『白鳥の湖』のオデット=オディール)を踊った。このときは相手役を務めた水野英俊も初役であり、2人とも非常に緊張していて谷から教わったとおりに踊るだけで精いっぱいの状態であったという。当時は踊り終えただけで満足していたが、後に「自分の表現をする余裕はなかった」と回想している。以後は谷バレエ団の主力ダンサーとして、端正な表現力と優れたテクニックを持ち味として『白鳥の湖』、『ジゼル』、『パキータ』などの古典から『チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ』(ジョージ・バランシン振付)や『令嬢ジュリー』(ビルギット・クルベリ振付)のような近現代の作品に至る幅広いレパートリーで重要な役を踊った。谷バレエ団のみならず、ゲストとして日本バレエ協会公演等に出演するなど幅広く活動を続けている。コンクールでの入賞歴は、第42回全国舞踊コンクールバレエジュニア部3位(1985年)、第46回全国舞踊コンクールバレエ第一部2位(1989年)がある。1995年には村松賞(音楽新聞社)を受賞した。伊藤はシニアプリンシパルとして谷バレエ団の舞台に立つ他に、後進の指導も手がけている。谷バレエ団で付属アカデミーの芸術監督も務める以外にも、外部でバレエの指導を担当している。
伊藤範子の振付家として 30代に入った頃から、伊藤は現役ダンサーとして踊り続けながら振付を手がけるようになった。もともと谷バレエ団では、アトリエ公演などで若手ダンサーにも積極的に振付発表の場を与えていて、それが伊藤にもよい刺激となっていた。直接の契機となったのは、オペラ関係での仕事を始めたことであった。その理由は、オペラ作品を再演するために新国立劇場が振付助手を探していて、バレエ以外にもコンテンポラリーなどの分野に携わっている伊藤が適任と認められたことであった。彼女は2002年に新国立劇場でルーカ・ロンコーニ(en:Luca Ronconi)演出『椿姫』の初演で振付助手を務め、そのときに振付を担当したティツィアーナ・コロンボ(元ミラノ・スカラ座バレエ団プリンシパル)の知遇を得た。その後もオペラの仕事に幅広く関わり続け、新国立劇場以外でも二期会や藤原歌劇団などで『カルメン』、『仮面舞踏会』、『アイーダ』、『セルセ』などの振付を手がけた。伊藤の創作で基礎となっているのは、谷バレエ団でコールド・バレエから始めてプリマ・バレリーナとしてさまざまな役を踊り演じてきた経験である。本人も「やっぱりドラマ中心の動きをつくりたい。(中略)そういう谷桃子バレエ団での経験が、私の土台になっています。これから年を重ねるに伴い経験することもあると思うので、そこから学び、吸収して作品に生かしていきたいと思っています」とインタビューで述べている。2013年、伊藤はルッジェーロ・レオンカヴァッロのヴェリズモ・オペラ『道化師」をもとにした創作バレエ『道化師-パリアッチ-』を谷バレエ団に振り付けた。この作品は、振付家の望月則彦(元谷バレエ団芸術監督)の勧めで造られたものであった。2014年には世田谷クラシックバレエ連盟と日本バレエ協会の公演で『ホフマン物語』のバレエ化作品『ホフマンの恋』を発表するなど意欲的な創作活動を続けている。『道化師-パリアッチ-』は同年のオンステージ新聞「年間ステージベスト5」、『ホフマンの恋』は2014年と2016年に「年間ステージベスト5」に選出された。2018年の谷バレエ団創作公演15『HOKUSAI』と『道化師-パリアッチ-』の演出・振付で文化庁芸術祭優秀賞を受賞した。この年には『年間ステージベスト5』、ダンスマガジン『年間最も印象に残ったコレオグラファー』に舞踊評論家から選ばれるなどの高い評価を受けている。2016年にはチャコットのバレエ鑑賞普及啓発公演『バレエ・プリンセス』の演出と振付を担当して好評で迎えられ、2017年夏には東京と金沢の2都市での再演が実現した。
伊藤範子のミラノ・スカラ座での研修、そして将来への目標 オペラの仕事を通して、伊藤はイタリアの舞台が持つ強いドラマ性や素晴らしい舞台美術に惹かれるようになった。『道化師-パリアッチ-』などの創作の過程で、さらに舞台芸術を深く学びたいとの希望を持ち、2016年11月中旬から3か月にわたって文化庁の海外特別研修員としてミラノ・スカラ座バレエ団とバレエ学校で振付・演出・教授法を学んだ。伊藤がスカラ座に行った当時、バレエ団では『ロメオとジュリエット』(ケネス・マクミラン振付)のリハーサルに入っていた。彼女が感銘を受けたのは、バレエ団のダンサーたちは一人ひとりがテンションの上げ方やドラマの作り方にそれぞれ長けていて、本番の舞台で見せる表現の素晴らしさであった。さらに舞台衣装や装置、オーケストラなどの総合芸術としての力にも圧倒され、歴史や文化の違いを実感したと語っている。伊藤は「今回の研修で得たものを生かしたドラマを日本で作れたら。逆に海外へもっていくことを視野に入れた日本的な作品も創ってみたい。西洋的な『道化師』と日本的な作品とをパッケージにして、いつか海外で上演するのも夢のひとつです」と将来への目標を述べている。
伊藤範子の人物・評価 10代のころの伊藤は、何度も「バレエをやめたい」と思っていたという。辛い練習やテクニックの問題などがあると気分が落ち込んだが、立ち直りも早く「やっぱり好きなんだからやろう」という想いが勝っていた。恩師の谷は伊藤について「何よりもまずバレエが好きであること、肉体的・感覚的な素質、厳しい稽古に耐える精神的な芯の強さ(中略)そういったバレリーナに必須の要素をすべて兼ね備えた稀なケースで、順調に伸びてきましたね」と高い評価を与えた。伊藤は谷を尊敬し、彼女の芸術に対する価値観に共感している。ダンスマガジンによるインタビュー(2000年)では、「役になりきる姿勢とか、踊りのスタイルの美しさとか、自分の目指しているものを、先生がもっていらっしゃった。だから、これまで続けてこられたんだと思います」とその思いを語っていた。
深セン市の概要 深圳市は香港の新界と接し、経済特区に指定されている。北京市、上海市、広州市と共に、中国本土の4大都市と称される「北上広深」の一つであり、「一線都市」に分類されている。中国屈指の世界都市であり、金融センターとしても重要な機能を果たしている。2010年の近郊を含む都市的地域の人口は1,447万人であり、世界第15位である。アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界80位の都市と評価された。中国本土では北京市、上海市、広州市に次ぐ4位である。深圳市には政府主導で新興事業発展のためのインフラが整えられたことから、シリコンバレーのハードウェアスタートアップや世界のハイテク製品を生産する工場が数多く設置され、「中国のシリコンバレー」「ハードウェアのシリコンバレー」等とも呼ばれた。住民構成の特徴としては移民都市であることがあげられる。元来は宝安県として一集落に過ぎなかったものが、改革開放経済の過程で外部より労働人口が流入して都市が形成され、広東省でありながら広東語が使われる比率が極めて低い地域となっている。元来の地元民はおもに農業・漁業に従事する。地元民は香港の新界地域と同じく、大きく客家語を話す客家と広東語を話す囲頭人の2つのグループに分ける。客家は主に北東部の竜崗区と宝安区の東部、福田区の北部、南山区の北部などの丘陵区域に分布し、囲頭人は主に羅湖区、福田区の中南部、南山区の中南部、宝安区の中西部などの平原地域に居住する。
深セン市の歴史 周代までの深圳は百越部族の支族とされる南越部族の居住地であった。中国の史書に登場するのは前214年の秦代であり、嶺南地区に南海、桂林、象郡の三郡が設置された際に深圳は南海郡に区分され中原文化との交流が開始された。現在の深圳市に相当する行政区分が史書において最初に登場する出来事は、331年の宝安県設置である。東晋はこの地に6県を設置し、それを管轄する郡として東官郡を設置し現在の深圳市、東莞市及び香港がある一帯を管轄しており、群治が宝安県(現在の南頭地区)に設置された。唐の至徳二年(757年)、宝安県は一旦廃止され東莞県に編入された。宋代になると旧宝安県一帯は南方海上交易の拠点となり、また製塩業や米・茶葉栽培で繁栄し、元代には真珠の産地として史書に登場している。更に明代になると東莞守御千戸所ならびに大鵬守御千戸所が設置されると共に、1573年、旧宝安県の部分に新安県が設置され華南地区の海上交通や政治の中心となっていた。清末になると南京条約や北京条約により、新安県の一部であった香港島及び九龍半島をイギリスが植民地とし、さらに新界も租借されるようになり新安県が分割されると同時に、新界との境界付近の深圳墟という墟市(定期市の建つ町)が香港との国境の街として栄えるようになった。深圳墟は現在の深圳中心街の東門商業区にあたる。中華民国が成立すると1913年に新安県は宝安県に改称された。1953年、広深線の開通により、深圳地区の人口は増大し、商工業が発展していくこととなる。また同年県政府を従来の南頭より東に10キロメートルほどの深圳墟へ移動し、現在の都市構成の土台が成立している。その後、イギリスの植民地かつ自由港であり、中国への窓口として経済的に発展していた香港と隣接する地理的重要性から1979年3月、宝安県を省轄市の深圳市に昇格させ、1980年には改革開放路線を採用した鄧小平の指示により深圳経済特区が指定されると急速に発展した。なお、1981年副省級市に昇格し、1988年省級経済管理を認められている。
深セン市の地理 広東省の省都・広州市からほぼ南南東に位置し、珠江デルタ地域に含まれる。九龍半島の西側付根部分に位置し、塩田港など巨大なコンテナ港湾を有する。北は広東省東莞市と恵州市、南は特別行政区・香港と接する。
深セン市の経済特区 深圳市のうち、羅湖区、福田区、南山区、塩田区の4区、市内391.71平方キロメートルが長らく経済特区と指定されていたが、2010年7月1日には市内全域に拡大された。経済特区は中国人でも入境許可が必要な地域となっている。近年はほぼ自由な通行が行われてはいるが、国家行事が行われる場合などは検査站(新城検査站、南頭検査站、布吉検査站、梅林検査站、同楽検査站、白芒検査站、沙湾検査站、塩田検査站、背仔角検査站、渓沖検査站、南光検査站、福竜検査站)で、入境許可証や旅券の提示を求められることがある。
深セン市の観光 錦繍中華テーマパーク世界の窓テーマパークシンセン博物館新館
日本基礎技術の概要 1953年11月、大阪市北区松ケ枝町に日本グラウト工業株式会社が設立。日本各地に支店が開設され、1985年4月に新技術開発株式会社と合併、日本基礎技術株式会社に商号変更。日本グラウト工業の創業者は農林省(現在の農林水産省)出身で、会社の設立当時は米の増産に伴うため池の地盤改良の為のグラウト(薬液投入)工事を行っていた。現在でもため池のグラウト工事の技術を利用したダムのグラウト工事が当社の主要事業の一つとなっている。1988年11月に大阪証券取引所市場第2部に株式を上場。1993年10月に東京証券取引所市場第2部に株式を上場。1995年9月に東京証券取引所および大阪証券取引所市場第1部に昇格。
幕下付出の1966年5月以前 付け出しの制度は大正以前から存在し、その実力に応じて各段の番付上に付け出された。幕下のみに付け出されるようになったのは昭和に入ってからのことである。1960年(昭和35年)の大塚(豊國)範以降、大学を卒業したものは幕下に付け出すという慣例ができた。付け出される枚数はその都度異なり、内田(豊山)勝男は10枚目格で付け出された。なお幕下付出力士が2点以上負け越すと三段目を飛び越して序二段へ、全敗した場合序ノ口まで下げる規定が存在し、1966年3月場所に幕下50枚目格(当時は幕下は100枚)で初土俵を踏んだ山田(山田山)修身は2勝5敗と負け越したため翌5月場所は東序二段50枚目まで下げられた(その場所は7戦全勝で優勝)。
幕下付出の1966年5月 - 2000年(平成12年)9月 山田山のケースをきっかけに、1966年(昭和41年)5月から幕下最下位格付出に固定された。編成上は最下位の枚数(2015年現在は60枚目)と同列に扱われ、負け越しても序二段ではなく成績通りに三段目に陥落するよう改められた。実際、野村双一(出羽の花義貴)のように一度は跳ね返されてしまう力士や十両昇進を果たせなかった力士もいた。2場所連続で全勝、またはそれに近い成績を挙げれば2場所で十両に昇進できる。この期間内に2場所で十両昇進を果たした力士としては輪島博(大士)、長岡末弘(朝潮太郎)、尾曽武人(武双山正士)、竹内雅人(雅山哲士)の4人が知られる。当初は大学相撲の体重別で上位入賞の経験があれば、卒業するとほぼ無条件で幕下最下位格に付け出されたが、1992年(平成4年)に秋本(大凰)紀久が初土俵から3場所連続で負け越すと付出力士の資質が問題となり、同年7月場所から実質無条件が「申請から直前の2ヶ年において全日本選手権ベスト16以上、学生選手権、実業団選手権、国体成年A、東日本学生相撲選手権、西日本学生相撲選手権大会のいずれかに優勝、または3位以内が2回」に基準が厳格化され、さらに1993年(平成5年)1月からは東日本学生相撲選手権、西日本学生相撲選手権大会が対象から除外されると同時に申請可能な年齢が満20歳以上25歳未満と定められた。1992年3月場所には成松(智ノ花)伸哉が27歳で幕下付出で初土俵を踏み、妻子持ちで教職を辞しての初土俵が話題となった(同年中に入門者の年齢制限が20歳未満、幕下付出資格者は23歳未満と設けられたが、年末には23歳未満、幕下付出資格者は25歳未満に緩和)。1993年3月以降で、学生相撲出身ながらも資格が得られず前相撲から取った力士では、堤内(北勝光)康仁が初めて十両に昇進し、さらに谷地(栃乃花)仁が入幕を果たし三役まで昇進するなど活躍した。そのことで下積みの重要性が再認識され、時津風理事長(元・豊山勝男)によって、基準が厳格化されるきっかけとなった。
幕下付出の2000年9月以降 2000年(平成12年)9月から基準をさらに厳格化され現行の規定となり、付け出される枚数が幕下10枚目格付出と幕下15枚目格付出に改められた。当初はタイトルを取った当年度限り有効とされていたが、新制度適用第1号の垣添徹が資格取得後の怪我で初土俵が遅れたため、優勝の日から1年間と有効期間が改められている。幕下15枚目以内で全勝した場合は十両昇進の対象とする内規があるため、最短1場所で関取になることが可能になった。15枚目格付出力士は18人、10枚目格付出力士は、市原(清瀬海)孝行がアマチュア横綱に加え国体成年Aに優勝し、この制度となって初めて10枚目格付出の資格を得て2007年1月場所に初土俵を踏んだ。黒川宏次朗(拓殖大学職員)は、社会人1年目の2018年に実業団横綱とアマチュア横綱の2冠を獲得し幕下10枚目格付出資格を取得したが、大相撲入りしない意思を表明しており、このまま1年が経過すれば10枚目格付出資格を取得しながら行使しなかった初の事例となる。現行の規定になってから2018年現在まで1場所で十両昇進した力士はおらず、2場所で十両に昇進した力士としては成田(豪風)旭、内田(普天王)水、遠藤聖大、アルタンホヤグ・イチンノロブ(逸ノ城駿)、大道(御嶽海)久司、矢後太規の6人がいる(遠藤、御嶽海は10枚目格付出)。一方で、2004年(平成6年)1月場所初土俵の大西(嘉風)雅継は、日本体育大学3年次に付出資格であるアマチュア横綱のタイトルを獲得しながら卒業を優先したため資格が失効し、4年次に3大タイトルを獲得できなかったため前相撲からのデビューとなり、「タイトルホルダー初の前相撲デビュー」として注目された。2015年(平成27年)3月場所初土俵の中村(北勝富士)大輝は、日本体育大学2年次に学生横綱、3年次に国体横綱と付出資格を2度得ながら、4年次に3大タイトルを獲得できず前相撲デビューに。その他、学生横綱では佐久間(常幸龍)貴之(日本大学2年次にタイトル獲得。2011年(平成23年)5月技量審査場所初土俵)、正代直也(東京農業大学2年次にタイトル獲得。2014年(平成26年)3月場所初土俵)が前相撲からデビューしている。2006年(平成18年)に実業団横綱となった石前辰徳(鳥取県体育協会)は幕下付出を申請したが、資格取得時は24歳であったものの2007年(平成19年)1月場所の新弟子検査時に25歳となるため(1981年12月1日生まれ)、年齢制限により入門と付出が承認されず、角界入りを断念した。2006年5月場所において、幕下15枚目格付出で初土俵を踏んだ下田圭将(若圭翔裕樹)が7戦全勝優勝を達成し、内規によってデビュー1場所での十両昇進が有力視されていたが、十両下位の力士の負け越しが少なかったこともあり昇進は見送られた(#幕下付出力士の番付編成上の扱いの例参照)。その後若圭翔は十両に昇進することなく、2016年3月場所限りで引退した。
幕下付出の問題点 日本相撲協会が幕下付出基準を厳格化したのは、下積みの重要性とともに、鳴り物入りで大学卒業後デビューした久島海啓太や琴光喜啓司よりも、タイトル獲得後すぐ大学を中退した武双山正士が一気に番付を駆け上がったことから、真に実力のある者はすぐに関取に昇進できるように優遇し、その他には付け出しを認めないことで、年齢の若いうちにプロデビューさせるいわゆる「叩き上げ力士」の増加も狙ってのことだが、学生相撲出身等の実力者が前相撲でデビューすると序ノ口や序二段の優勝を含めた成績上位者を占めることが多いため、「高校、大学相撲経験があった方が有利」という状況はくつがえることはなく、基準が厳格化しても、相撲協会の思惑に反して中卒の叩き上げで成長する力士は思うように増加していないのが現状である。下級生のタイトル獲得者が大学を中退するケースも出ていない。また、見直しの契機となった栃乃花も3年時に学生選手権で3位に入るなど故障がなければ幕下付出資格を取得していた可能性が高い実力者であり、見直し以降前相撲から初土俵を踏んで関取昇進を果たした力士もほとんどが旧基準を満たしていた。大学で4年間相撲部に在籍し、実績が旧基準にも満たない力士は幕下で壁に当たり低迷するケースが多く、2007年11月場所の磋牙司洋之まで関取昇進者はいなかった。このように、基準見直し以降、数年の前相撲デビュー学生出身関取の増加は「前相撲から取った力士が下積み経験のおかげで昇進を果たした」ことよりも、「付出力士に匹敵する実力者が前相撲から取った」結果といえ、前者に該当する力士は基準改正以前を含めても大翔大豪志、古市貞秀、北勝光程度であった。しかし、2009年以降は旧基準を満たさない力士からも関取が多く出始めており、2010年3月場所で磋牙司が新入幕、2013年1月場所には松鳳山裕也が小結に昇進している。事実上大学4年時の主要大会の成績のみでデビュー時の番付に大差がつくという基準自体も「真に実力のある者はすぐに関取に昇進でき」ているのかという意味で問題視されている。史上最速タイの所要6場所で十両へ昇進した土佐豊祐哉、史上最速タイの十両昇進に加え史上最速の所要9場所で幕内へ昇進した常幸龍、史上2位となる初土俵から12場所で三賞を受賞した正代のような大学相撲の実力者は、少なくとも十両昇進までは前相撲デビューでもそのハンデを感じさせない。一方で、付出力士の中でも学生時代にやや実力が劣ると見られていた大岩戸義之、武誠山一成、吐合明文、朝陽丸勝人、若圭翔らは、十両に定着あるいは昇進できず低迷した。このような事態を懸念してか、大学4年生がタイトルを獲得しても自信がないことなどを理由にプロ入りを断念するケースもみられる。特に2009年は学生選手権、国体、全日本選手権を全て大学4年生が制覇したにもかかわらず、翌年は幕下付出力士がいなかった。なお、仮に現在の基準を過去の力士に適用した場合、出島武春(元大関)は三段目最下位格付出デビュー、同学年の増健亘志(元十両)は幕下15枚目格付出デビュー、出島・増健の3学年後輩となる琴光喜(元大関)は大学3年次に獲得したアマチュア横綱のタイトル失効前に中退して角界入りするという条件付きで幕下10枚目格付出デビューとなる。2000年代以降、若手中堅関取における学生相撲出身者の占める割合は急増し、同年代の関取のうち過半数が外国人や学生相撲出身者で占められていることも珍しくない。付け出し力士の入門先は師匠の出身大学等である程度ルートができている場合も多く、特定の部屋に学生出身力士が集まる傾向が強いが、学生相撲の古豪である日本大学相撲部出身の力士はさまざまな部屋に入門する傾向がある。超大物の場合は引退後の身の振り方まで確約される場合もあるという。
幕下付出の幕下付出力士の番付編成上の扱いの例 大相撲には「幕下15枚目以上で全勝優勝した者は十両に昇進」という内規があるが、2006年5月場所で幕下15枚目格付出で7戦全勝優勝した下田(若圭翔)のケースでは、東幕下筆頭で上林(大岩戸)が5勝2敗、西筆頭の龍皇が4勝3敗で、十両から幕下に陥落する成績の力士が2名であった。1996年1月場所で西幕下筆頭で4勝3敗の琴藤本が昇進を見送られ、西2枚目で5勝2敗の彩豪、西9枚目で7戦全勝の旭天鵬が十両に昇進した例もあったことから下田が十両へ昇進する可能性も低くなかった。この際、放駒審判部長は「昇進の権利があるが、第一優先ではない」と述べ、北の湖理事長は「東西の番付に力士はおり、付出は正位より地位が下である(同等ではない)」との見解を述べた。ただし、龍皇を優先したとしてもこの場所十両東8枚目で5勝10敗であった隆乃若を幕下に陥落させることも可能であったが、幕下15枚目格付出で全勝優勝した下田の翌場所の番付での十両昇進はならなかった。また、翌場所の下田の番付は西幕下3枚目で5勝2敗だった影山の東筆頭より下の西筆頭であったことから、結果として幕下15枚目格での全勝は上位での勝ち越しに劣る扱いとなった。幕下付出は「真に実力のある者はすぐに関取に昇進できるように優遇」する制度であるものの、この件により、幕下15枚目格付出は番付編成上は幕下15枚目より劣ることが既成事実となり、16枚目よりは上だが15枚目よりは下、言うならば15.5枚目のような位置づけになることが明確となった。ただし、審判部は「番付は生き物」という見解を示しており、今後も勝敗のほか十両力士の成績および十両以上の引退力士数との兼ね合いや相撲内容などによって基準が変動することも考えられる。
幕下付出の三段目付出力士の取組編成上の扱いの例 2016年3月場所で制度創設後初めての三段目付出力士として初土俵を踏んだ石橋(朝乃山)と小柳(豊山)の場合は、初日にいきなり対戦が組まれたが、本来は三段目の実力を持っているのか否かを確認するための付出制度であったという理由から、このような取組編成は間違いであったとされている。次に同じ場所で複数人が三段目付出として初土俵を踏んだ2017年3月場所では、若隆景と村田の直接対決はすぐには組まれなかったが、両者とも4連勝として勝ち越した時点で、三段目相応の実力を持っていると判断されて5番目で直接対決が組まれた。
幕下付出の幕下・三段目以外の付出 過去には、非常に実力のある力士の場合、幕内付出にされる場合もあった(由良ノ海楫五郎など)が、2019年現在ではアマチュア時代にどれだけの実績を挙げても、必ず幕下10枚目格または15枚目格、三段目最下位格で初土俵を踏むことが厳格に定められているため、このようなケースは現行の規定ではあり得ない。また、明治から大正にかけて大坂相撲が存在していた頃には、さまざまな事情で大坂相撲から東京相撲へ移籍するケースも多く、その際には幕内をはじめ、実力相応の地位に付け出されることもあったが、2019年現在では興行そのものが日本相撲協会に一元化されているため、このようなケースは完全に消滅している。江戸時代では興行上の都合から、実力すらないにも関わらずいきなり大関に付出される慣行(看板大関)があった。ただし、この場合は番付に大関として記載されているので付出の例とはならない。
佐賀県道236号唐津停車場線の概要 唐津線・筑肥線唐津駅から佐賀県道347号虹の松原線までを結ぶ。
ホーランド・ロップの歴史 ホーランド・ロップは、オランダのウサギブリーダーであるアドリアン・ド・コック(Adriann de Cock)により、当時の最良品種であるフレンチ・ロップ(大型で垂れた耳で知られる)と、ネザーランド・ドワーフ(小型で、現在の最大人気種)の2品種を掛け合わせて作成された品種である。1945年~1950年の冬にコックは、ネザーランド・ドワーフのオスをフレンチ・ロップのメスと交尾させたが、望んだような品種の子供はできなかった。そのため、今度はフレンチ・ロップのオスをネザーランド・ドワーフのメスと交尾させたところ、6匹の小さな垂れ耳の子供ができた。さらに、コックは、イングリッシュ・ロップのオスをネザーランド・ドワーフと交尾させ、2匹の立ち耳の子供と3匹の半垂れ耳の子供を得た。彼は後に、ロップ種と交配させれば、現在のホーランド・ロップのような形態の品種ができると考えたが、望ましい形態のものは得られず、失望に終わった。最後に彼は、半垂れ耳のウサギと最初の6匹の垂れ耳ウサギの一匹と交配させたところ、現在知られる「ホーランド・ロップ」品種が作成された。
ホーランド・ロップの身体的特徴 ホーランド・ロップは、ウサギの愛好家、ペットオーナー、ブリーダーに非常に人気の高い、好まれる品種である。それは、ウサギとしてはコンパクトで、魅力的であり、非常に愛らしいためである。また、頑丈で筋肉質な体格でもある。アメリカのウサギブリーダー協会公認ショーでは、1.4kg程度のものが出場するが、それはあまり一般的とは言えず、大抵のものは1.8kgかそれ以上の体重になる。
ホーランド・ロップの行動 ホーランド・ロップは穏やかな性格で、非攻撃的である。喜びを感じると、キュートなマスコットのように囲いの中でジャンプしたり走り回ったりする。これは特に屋外の開放的空間で観察することができる。逆に、恐れや苛立ちを感じると、後ろ足を強く地面に蹴り付け、シグナルを他個体に伝える行動を取る。これらのウサギは外見上とても落ち着きを払いつつ、醜悪な感情を抱いている。不快な立ち居にいることにより、おびえていることによる。このような場合は、注意して取り扱う必要がある。ネコ、イタチ(フェレット)などのネコ目は、自然界では天敵となるので、同居させるには困難を伴う。
ホーランド・ロップの飼育上の注意 ホーランド・ロップは毛皮が分厚くブラッシング等の定期的な毛並み手入れが必要になる。ウサギは生理学的に、ネコなどと異なり嘔吐が出来ないため、毛玉の飲み込みを防止する上でも重要となる。週一回程度、ネコ用の櫛かウサギ用のものでブラッシングを行う。毛についた干草、糞、付着物を取り除く。 また一年間に四回程大きな換毛期がある。ホーランド・ロップは耳が垂れている為、耳の病気にかかりやすい。
岡本和明の来歴 2006年にRCDエスパニョールのカンテラに入団し、3年間過ごした後、2009年にFCバルセロナの育成組織 ラ・マシア に入所。2017-18シーズンにBチームに昇格。2018年3月17日のロルカFC戦でプロデビュー。2018-19シーズンはセグンダ・ディビシオンBで34試合5得点を記録。同シーズン中にトップチームに昇格。2019年5月4日のセルタ・デ・ビーゴ戦で初のメンバー入り。先発出場していたウスマン・デンベレが、試合開始早々に負傷した関係で、前半7分で交代出場でバルサデビューを果たした。
ミヤシロブルボンの戦績 2017年のU-19のスペイン代表に招集されている。
セガNET麻雀 MJ Arcadeの概要 南部駒賞、東北サラブレッド3歳チャンピオン
布袋線のバージョン情報 稼働開始後もバージョンアップにより仕様の追加・変更が行われている。以下では主な変更点について記述する。
チョーンシー・ハリスの駅一覧 新営 - 廠前 - (南信号所) - 工作站前 - 東太子宮 - 太子宮 - 塩水 - 岸内 - 義竹 - 埤子頭 - 安渓寮 - 前東港 - 振寮 - 布袋 - 半路店
フグの体形的特徴 ユタ州ローガンに、農学者フランクリン・S・ハリスの息子として生まれた。幼い頃から地理に関心を持っていたハリスは、2年生の終わりには、将来は地理学者になると家族に宣言したという。1933年に19歳でブリガムヤング大学(BYU)から学士号(B.A.)を得て卒業生総代を務め、同大学からは初めてのローズ奨学制度の奨学生となった。奨学金を得たハリスは、イギリスのオックスフォード大学に留学して、2つ目の学士号と、修士号を取得した。ハリスは、さらにロンドン大学のロンドン・スクール・オブ・エコノミクスからも修士号(M.A.)を取得し、帰国した。1940年には、シカゴ大学で博士号(Ph.D.)を得たが、博士論文の表題は「Salt Lake City - a Regional Capital in 1940(ソルトレイクシティ - 1940年の地方中心地)」であった。その後、短期間だけインディアナ大学とネブラスカ大学で教鞭を執った後、ハリスは1943年にシカゴ大学で地理学の准教授となった。この頃、ハリスはアメリカ合衆国国務省地理局(Office of the Geographer)の軍事関係業務に召集された。ワシントンD.C.にいる間、ハリスはソ連にまつわる謎に強い興味を抱くようになっていった。ハリスはロシア語を学び始め、ソ連について、入手可能だった地図や統計による情報の研究に取り組んだ。ハリスによる、ソ連に関する著作2冊は、1945年に発表されている。この分野におけるハリスの初期の研究のおかげで、やがて1950年代後半にソ連が外国人に門戸を開き始めたとき、ハリスには十分な準備ができていた。初めてソ連に渡航したとき、ハリスは既に、この分野における専門家としての名声を確たるものとしていた。長い研究生活を通じ、ハリスは14回もソ連へ渡航し、米ソの地理学者たちの間で協力関係を育て、拡張していく上で大きな役割を果たした。ソ連に関する研究業績とは別に、ハリスは、アメリカ合衆国の都市についての都市地理学の分野でも重要な貢献を残した。特に、1945年にエドワード・ウルマン(Edward Ullman)との共著で、『Annals of the American Academy of Political and Social Science』誌に発表された論文「The Nature of Citie」を著し、20世紀後半における米国都市の理解に予言的な参照枠となった、都市の発展についての多核心モデルを提示した。このモデルは、都市における土地利用形態の可能性を示した、それまでの同心円モデルやセクター・モデルに代わり得るものであった。研究者としての経歴の中で、ハリスは数多くの重要な、権威ある地位に就き、シカゴ大学では社会科学部の学部長も務めた(1954年 - 1960年)。ハリスは、1943年から1984年までシカゴ大学の教授陣の一員であったが、その後も、2003年に死去するまで、地理学部門のサミュエル・N・ハーパー(Samuel N. Harper)特任名誉教授(Distinguished Service Professor Emeritus)として在任した。
フレデリック・スタンリー (第16代ダービー伯爵)の経歴 汽水、淡水性のフグの一部の種は、観賞魚として人気がある(淡水フグ参照)。
カルノタウルスの概要 長男エドワードの影響で競馬に熱心だった。ジョージ・ラムトンを調教師として雇い、多数の馬の調教を彼に任せた。1896年のオークスではダービー伯爵の持ち馬「カンタベリーピルグリム」が皇太子バーティの持ち馬「セーイス」を下して優勝を果たしている。ロンドンのフリーメイソンのロイヤル・アルファ・ロッジNo16のメンバーだった。カナダ総督時に、NFLの優勝カップであるスタンレー・カップを寄贈したことでも知られる。
布施有太の経歴 全長は7.5~9m、体重は推定1.35t、1.5t、2t、2.1tと変動している。いずれにしろ、大型だが軽量な種であった。アベリサウルス科の恐竜は研究が進んでいないこともあり、他の種類もカルノタウルスに匹敵する可能性はあるが、現在把握されている範囲ではカルノタウルスは同科でも最大級であり、2016年の研究ではカルノタウルスを体長7.8mと推定すると、この数値よりも大きいのは体長8.9mと推測されたピクノネモサウルスだけである。カルノタウルスは、目の上に大きめの円錐状の角を持つ。角のある肉食の獣脚類としては、「角のあるトカゲ」という意味の名を持つケラトサウルスが存在するが、こちらは鼻先にあるコブ程度のもので、角竜類以外でこの様な特徴を持つものは見られない。この角については「捕食の際、獲物の体腔に傷をつけ、それを押し広げる」「同種族間での儀式的闘争に用いた」等、様々に解釈されているが結論は出ていない。またカルノタウルスの頭蓋骨は前後に極端に短く、長さと高さがほぼ同じで、これだけでも他の獣脚類と区別できる特徴となっている。皮膚の印象化石が残っており、その結果恐竜の皮膚組織について詳しいことが分かったため、それまで想像でしかなかった皮膚組織の詳しい研究が進むことになった。走行に適した発達した後肢を持つ一方で、前肢は4本の指を持つが、ティラノサウルスよりさらに短く、特に前腕部の縮小が著しく、上腕部から直接指が生えているようにも見える。尾大腿筋は地球の生物史上最大であり、小回りが利かないが、大型獣脚類でも最も速く走ることができた一種でもあった。発達した脚部と尾の筋力と構造はティラノサウルスにも似ているとされる。また、同じ科学者の研究により、ティラノサウルスにも強力な尾大腿筋と脚力があることが発見された。
アムチャンダ山の地理 2011年にアルテ高崎に入団すると、新人ながらレギュラーとして定着し、リーグ戦32試合に出場した。2012年よりアルテ高崎の同僚の山藤健太と共にソニー仙台FCに移籍。2014年をもってソニー仙台FCを退団。以後、どこのチームにも所属していないため引退状態となった。
コワイ童話の概要 童話を現代風にアレンジして、残酷性や猟奇性を描いたサスペンス・ホラー作品である。4話完結の話が6作放送された。
北海道道835号釧路阿寒自転車道線の概要 1970年(昭和45年)に廃止された雄別鉄道跡を利用した自転車歩行者専用道路で、冬期は通行止めとなる。
飛行性の安定性との関係 飛行性の概念を理解するためには、航空機の安定性について先に理解する必要がある。安定性は航空機がトリムがとれている状態において定義され、定常時の飛行からそれるような釣り合いのとれていない状態においては定義されない。もし安定性がある場合、航空機が擾乱にあっても安定性がトリム状態に戻ろうとする傾向を示す。もし航空機がトリム状態に戻ろうとしているのなら、統計的に安定である、ということができる。オーバーシュートせずにトリム状態に戻ろうとしているとき、その状態を減衰と呼ぶ。トリム状態からオーバーシュートする場合、前後に振動する。この振動に減衰がある場合、このふるまいのことを減衰振動とよび、動的に安定である、と言う。一方、ふるまいが増幅されていく場合、この航空機は動的に不安定である、という。飛行機の安定性の理論はG.H.Bryan(イギリス、1904)によって始められた。この理論は現在でも学生に教えられているものと同等のもので、Bryanはライト兄弟の初飛行を知らずにこの理論を完成したところが注目に値すべきである。この理論の複雑さと実際に使うときには退屈な計算が必要なことから、航空機設計に携わるものが使うことは少なかった。実際には、ちゃんと飛ぶためには、パイロットがいない航空機が動的に安定になる必要があった。ライト兄弟が飛ばした飛行機、その後に登場した飛行機の多くは安定ではなかったが、試行錯誤を繰り返し設計者たちは飛行性基準を満たす航空機を作ることができるようになった。しかし多くの他の飛行機は低いレベルの飛行性しか持っていなかったため、墜落して終わることがたびたびあった。近年ではフライ・バイ・ワイヤや各種の高揚力装置や推力偏向の導入により、かつては実現不可能だった飛行性を持つ機体もある。
飛行性の飛行性の評価 Gilruthによる飛行性基準は、航空機の位置・力・角速度・線形的な加速度・速度・高度などをはじめに与える。それから飛行機の状態やマニューバを指定し、テストパイロットに航空機を飛ばしてもらう。フライトのあとに、記録したデータを回収し、パイロットのインタビューを行う。このやり方は現在では当たり前のものとなっているが、GilruthがNASALangleyにおいて様々な航空機について飛行試験を行い、比較できるようにしたものである。航空機が曲がる際や引き起こしをする際、ひとつの定量的な飛行性の計測は、飛んでいる方向と垂直な方向に加速するときに1gあたり操縦桿で操縦するときの力である。これは一般的に、1gあたりの操舵力を言われている。
飛行性の飛行性基準 飛行性の基準として、現在までに様々なものが作られている。わかりやすい基準として、米海軍のMIL-F-8785Cや米空軍のMIL-STD-1797Aなどが挙げられる。日本において公式に定義された「飛行性」という用語は存在しない。近いものでは航空法や耐空性審査要領などで定められた「耐空性」という概念があるが、かなり意味合いが違う。したがって基準も存在しないと言える。
飛行性の飛行包絡線 飛行包絡線とはフライトエンベロープとも呼ばれ航空機の飛行可能な速度や荷重や高度の範囲である。これを逸脱すると安定して飛行できないばかりか破損、空中分解に至る場合もある。また、近年のフライ・バイ・ワイヤ機では逸脱しないようにフライトエンベロープ保護装置によってあらかじめ設定された許容値内に機動が制限される。
千鳥のなんしょんなぁ!の概要 楽曲制作においてはギター、ベース、キーボードからミックスダウン、マスタリングまでの全工程を一人でこなすマルチプレイヤーであり、エンジニアでもある。個人サークル「すたじお☆ぺぱーみんと」では、ニコニコ動画YouTube等に初音ミク、メグッポイド、SF-A2 開発コード miki、猫村いろはといったVOCALOIDを使用したオリジナル曲を多数投稿しており、関連する同人イベントにも頻繁に参加している。以前は銀河方面PもしくはTakaJ-Boy等の名義を使い分けていたが、現在はほぼ全ての曲において「銀河方面P@神野貴志」で名義統一されている。
管絃祭の来歴 大阪写真専門学校音響芸術学科(現ビジュアルアーツ大阪)在学中より、元P-MODELの小西健司氏等に作曲を高く評価され、プロとしての活動をスタート。卒業後は関西の音楽制作事務所にて作曲家、マニピュレーターとして様々な音楽制作に携わる。音楽制作事務所を退社後は友人と新たに音楽制作会社を設立し取締役に就任する。その後独立し現在は自らが設立した個人事務所STUDIOPeppermintにてフリーランスの作編曲家として活動。アイドル・声優への楽曲提供やゲーム・CM・有線BGMなど多数手がける等、幅広いジャンルの作曲家として知られる。手がけた代表曲は月・影・舞・華、恋は気まぐれイリュージョン!!等。
1902年ウィンブルドン選手権の場所 厳島神社周辺から対岸の地御前神社周辺
1991年全仏オープンの経歴 ブダペストのリスト音楽アカデミーでエルンスト・フォン・ドホナーニらに師事し、その後は母校でコダーイ・ゾルターンの助手を務める。コダーイからスタインウェイのグランドピアノを贈られた。1948年にブダペストのリスト国際コンクールに優勝するが、1956年にハンガリーを出国してスイスに落ち着き、1960年と1961年に、西欧の主要な都市でデビューを果たす。それからロンドンに定住している。ピアニストとして、ロマン派音楽を中心に、ドイツ・グラモフォン・レーベルに数多くの録音を残しており、とりわけユーリ・アーロノヴィチの指揮によるラフマニノフのピアノ協奏曲の全曲録音が名高い。近年は、ノーザン・シンフォニアの音楽監督や、ボーンマス・シンフォニエッタの首席指揮者に就任し、その他のイギリスやアメリカ合衆国のオーケストラにもピアニストや指揮者として共演している。また、ハンガリーに里帰りして、ブダペスト交響楽団とベートーヴェンやシューベルトの交響曲の全曲録音に取り組み始め、注目を集めている。特にベートーヴェンの交響曲第7番は史上最速とも言われるスピードで、フィナーレを正味6分で仕上げている。
クリストファ・ソグロの概要 源ノ角ゴシックは、Adobeによるオープンソースフォントファミリーの4番目にあたり、日本語と韓国語および中国語で用いる繁体字と簡体字のグリフに可能な限り対応したゴシック体である。加えて欧文としてSource Sansファミリーのラテン文字、ギリシャ文字、キリル文字も含まれる。フォントファミリーとしてExtraLight(ウェイト 250)、Light(同 300)、Normal(同 350)、Regular(同 400)、Medium(同 500)、Bold(同 700)、Heavy(同 900)の7ウェイトが用意され、合計で約46万グリフとなる大規模フォントファミリーである。CIDキー方式(CID-keyed)のCFF(PostScript)アウトラインOpenTypeフォントとして開発・公開されている。フォント名は英語のSource Han Sansに加えて対応する各言語ごとにも付けられており、日本語では「源ノ角ゴシック」、中国語では「思源黑体」(簡体字表記)、「思源黑體」(繁体字表記)、韓国語では「본고딕」となっている。開発はAdobeの西塚涼子を中心に、漢字の日本語部分はAdobe、拡張部分にイワタ、中国語部分にサイノタイプ、韓国語部分にサンドルと各国のフォントメーカーと協力することで各言語への対応を実現している。バージョン 2.0からは中華民国のArphic Technologyが参加し、香港增補字符集-2016に対応した。このフォントはオープンソースのフリーフォントとしてVersion 1.001以前はApache License 2.0で、Version 1.002は他のSourceフォントファミリー同様にSIL Open Font License 1.1のもとで公開されており、ライセンスを守ることで自由に再配布や修正、そして派生版の公開を行うことが可能である。GoogleのNotoフォントファミリーの中では「Noto Sans CJK」として異なったフォント名で公開されている。フォント名と一部のウェイト表記以外はすべて源ノ角ゴシックと同一である。
華鬼のストーリー 源ノ角ゴシックの派生として作られた日本語等幅フォント。英語名はSource Han Code JP。サブセットOTF版の日本語版をベースにして、欧文グリフを「2/3em(3文字で全角2文字分相当)にグリフ幅を変更した「Source Code Pro」に置き換えているのが特徴。Adobeのフォント開発チームに所属する服部正貴が個人的に開発を始めた。Adobeのオープンソースフォントのひとつとして公開されている。なお、OS2テーブルのPANOSEでMonospaceの設定がされていないが、この設定はすべてのグリフが同じ幅である場合にのみ許されるものである。日本語グリフとラテングリフの幅が異なる日本語等幅フォントではそもそもここをMonospaceに設定できない。同じ日本語等幅フォントである「Osaka−等幅」も同様である。そして「Osaka−等幅」がNSFontクラスのfixedPitchプロパティでTureになるのは、単にフォント名に「Mono」があるからである。中には日本語等幅フォントでMonospaceに設定しているものもあるが、これはイレギュラーな実装である。Source Han Code JPがAPIで等幅フォントに分類されないのはこうした事情が背景にある。そして前述の理由で明示的に等幅の情報を設定できないが、服部自身は日本語等幅フォントとして開発している。2019年5月27日に、源ノ角ゴシック CodeをPan-CJK向けに拡大したフォントである、源ノ等幅(英語名はSource Han Mono)がリリースされた。
ドイツ国鉄03形蒸気機関車の概要 2010年7月2日 - 7月11日に、池袋シアターグリーンBIG TREE THEATERで上演。2011年3月21日 - 3月27日には博品館劇場で再演された。原作と舞台では少しストーリーが異なる。
置賜駅の駅構造 ドイツ連邦鉄道では1959年時点でも145両の03形機関車が稼動しており、うち62両(005-122号機)は煙室の上に空気と給水ポンプを設置、直径850mmの小径先輪で最高速度120km/h、16両(127-160号機)は中央と後ろの動輪の間に空気と給水ポンプを、直径850mmの小径先輪で最高速度120km/h、そして、67両の機関車(164-296号機)は中央と後ろの動輪の間に空気と給水ポンプ、シェーレンクロッツ・ブレーキ(Scherenklotzbremsen)、直径1,000mmの大径先輪で最高速度130km/hの陣容であった。東ドイツ国鉄に帰属した03形のうち、52両が1969年から1972年にかけて燃焼室付きの新型ボイラーに交換されて03形の2000番台を名乗った。1968年の時点でも45両が残る03形は、同年の形式称号規定変更で003形に改称された。所属機関区と両数の内訳は、ブラウンシュヴァイクに2両、ブレーメン中央駅に6両、ハンブルク・アルトナに13両、フーズムに1両、メンヒェングラートバッハに16両、ウルムに7両であった。003形として残った最後の10両は1971年にウルムに集結し、1972年に残った003 088、131、268号機の3両を最後に営業を退いた。東ドイツのドイツ国営鉄道(DR)では、86両の03形が使用された。ドイツ国営鉄道では1962年より混合予熱器(de:Mischvorwärmer)を装備した。03形のポーランドでの形式はPm2(34号まで)で、ワルシャワの鉄道博物館に展示されている。
袴田里見の年譜 1904年(明治37年)8月11日、青森県上北郡下田村(現在のおいらせ町)に生まれる。1919年(大正8年)、高等小学校を卒業後、上京して攻玉社中学に入学するが中退。電信労働者、製缶工などの職に就きながら労働運動に関わるようになり、東京合同労働組合に入り活躍する。1925年(大正14年)、ソビエト連邦に渡り、モスクワの東方勤労者共産大学(クートヴェ)に学ぶ。1926年(昭和元年)、ソ連共産党に入党した。1927年(昭和2年)、クートヴェを卒業し、帰国。宮本顕治らと日本共産党の再建に着手する。しかし、治安維持法違反で検挙され、堺刑務所に服役する。1932年(昭和7年)、釈放後は地下に潜伏し東京市委員など共産党運動に取り組む。1933年(昭和8年)日本共産党中央委員に選出される。1935年(昭和10年)、この頃、宮本顕治などの幹部が次々逮捕される中で唯一獄外にいた共産党最後の中央委員であったが、本郷での全協との街頭連絡のさなか再び逮捕される。獄中では非転向を貫く。この逮捕を報道した新聞は最後の大物と称した。1945年(昭和20年)、他の共産党員とともに釈放。以降、中央委員、政治局員、幹部会員を歴任。1950年(昭和25年)、コミンフォルムの批判に端を発する党分裂で国際派に所属。同年末、国際派を代表する形で、中ソの共産党に党分裂問題への介入を要請するため極秘出国し、北京機関のある中国に渡航。1951年(昭和26年)、徳田球一・野坂参三・西沢隆二らとモスクワ訪問。スターリンから党分裂について批判を受けたため、徳田に自己批判書を提出した。この党幹部によるモスクワ訪問は新綱領討議が目的だったが、袴田は討議には参加せず、徳田らとスターリンの会議後に呼ばれて意見を聞かれたという。1955年(昭和30年) 、六全協の決議文作成にかかわる。1959年(昭和34年)、第5回参議院議員通常選挙に立候補するが落選する。1970年(昭和45年)、党副委員長に就任。この間に党を代表してソ連や中国を訪問。1977年(昭和52年)4月、党拡大の路線を巡って宮本顕治の路線を批判したことから党員権制限処分。その後日本共産党スパイ査問事件に関連して週刊誌などで党や宮本を攻撃した。これは党規約の「党内の問題を党外に持ち出さない」という基本原則上問題となり、本人も党の調査に応じなかったことから10月の党大会で党員権剥奪処分、12月30日の党中央統制委員会で本人欠席のまま「規律違反(党外からの党攻撃)」を理由に除名処分を受ける。1978年(昭和53年)、11月に新潮社から手記暴露本「昨日の同志宮本顕治へ」を出版し、反共層を中心に話題を呼んだ。また翌12月には『私の戦後史』を朝日新聞社で出版した。 1988年(昭和63年)、袴田が除名後も党と関係が全くなくなったにも関わらず依然として居住していた共産党所有の家屋の明け渡しをめぐる民事訴訟では、除名処分という政党の内部審査が司法審査に馴染むかが争点となったが、最終的に最高裁判所が袴田の上告を棄却し、敗訴が確定した。詳細は共産党袴田事件を参照。1990年(平成2年)5月10日、死去。没後公開されたソ連の秘密文書により、野坂参三(後に彼も重大な規律違反が判明し当人もそれを認めたため除名処分)とともにソ連からの秘密の接触がしばしばあったことが判明した。実は袴田は日本共産党を除名される前にも野坂に関する疑惑を暴露している。日本共産党は「反共毒素一掃キャンペーン」として多数のパンフレットや書籍を発行していた。
預り (相撲)の家族 弟の袴田陸奥男は、ソ連に亡命した日本共産党員。青山学院大学教授の袴田茂樹とロシアの政治家イリーナ・ムツオヴナ・ハカマダは陸奥男の息子と娘(異母兄妹)である。すなわち里見からみれば甥と姪になる。
セオドア・ニューカムの生い立ち 相撲用語としての預り(あずかり)は、引き分けの一種。
ラボ☆マイスターの放送時間 ニューカムは、ウェスタン・リザーブ大学に在職していた1931年8月27日にオーバリン大学と縁の深い一族の出身であったメアリ・E・シバード (Mary E. Shipherd) と結婚し、やがて1男2女をもうけた。ニューカムは、1984年にミシガン州アナーバーの自宅で死去した。ニューカムは、死去の3週間前に、心臓発作に倒れていた
Hot chocolateの概要 毎週水曜 24:45 - 25:08
伊号第三百六十三潜水艦の歴代艦長 前作「黄昏サラウンド」から約1年3ヶ月ぶりのシングル。これは、RIP SLYMEとしては最長のリリース間隔である。DJ FUMIYAが自律神経失調症の療養で不在のため、4人体制でのシングルとなった。メジャーデビュー後に4人で作品を発売したのは現時点で本作のみである。PVの最後には、FUMIYAへの応援メッセージともとれる文言がある。チョコレートつながりで、初回限定盤のみ明治製菓とコラボレーションし、ジャケットに明治チョコレートの包装、歌詞カードは銀紙、CDは板チョコをそれぞれかたどっている。また、それとは逆に、ジャケットの表裏を逆にし、CDではなくCDをかたどった本物のチョコレートを封入したバージョンと、本作の7インチレコードとのセットがインターネットで限定販売された。本作と同日に布袋寅泰とコラボレーションした「BATTLE FUNKASTIC」が“HOTEI vs RIP SLYME”名義で発売された。なお、本作のc/wに“RIP SLYME vs HOTEI”名義でRIP SLYMEバージョンの「FUNKASTIC BATTLE」が収録されている。初動売上は前作より上がったものの、前作から1つ順位を落とし、初登場6位となった。
粟田人の経歴 ※『艦長たちの軍艦史』444頁による。
銀本位制の中国 明代に一条鞭法という租税銀納制度が洋銀(メキシコドル・墨銀)の流入により実施可能となっており、ここに銀本位制度の下地があった。歴史上代表的な銀本位制国家としては、清ならびに1935年までの中華民国がある。清では、少額の取引には制銭と称される官製の銅貨が流通したが、高額取引においては銀錠(馬蹄銀ともいう)とよばれる高品質の銀塊が秤量して用いられた。銀錠は政府が鋳造するのではなく銭荘という伝統的金融機関において自由鋳造にまかされており、貨幣と言うより銀のインゴットに近いものであった。清末期には洋銀や日本の1円銀貨とほぼ同じ銀含有量の銀元(単位・圓)も発行されるようになり、中華民国においては本位貨幣とされた。後に世界恐慌による金融市場の混乱による銀の流出を受けて1935年に銀本位制を放棄(管理通貨制度に基づく法幣導入)をしたので、最終的に銀本位制を採る国々はほとんど無くなった。
豆腐百珍の日本における事実上の銀本位制 日本の江戸時代においては、金貨(小判)、銀貨(丁銀)、そして小額貨幣として銭貨がそれぞれ無制限通用を認められるという、いわゆる三貨制度が存在していたが、実態は東日本で主に金貨、西日本で主に銀貨が流通するというものであった。ただし必ずしも貨幣価値が地金価値を表していたわけではなく、本位貨幣制度で理解することは難しい。室町時代の守護領国制により各地の鉱山が囲い込まれ、続く安土桃山時代においては分国法により貨幣をふくむ物資の流通が制限された。加え特に織田信長は、領地の通貨供給量がまちまちであることに着目して、領地ごとに租税納入を米にしたり鋳貨にしたり制度を変えた。悪銭も状態と相場をその都度決めて流通させた。そして江戸初期から海舶互市新例を敷かなければならないほどに長崎で金銀比価に混乱が生じ、そのまま進行して幕末まで外交問題として引きずった。このような状態にあって、貨幣の額面価値と金属価値を固定対応させるのは不可能であった。その後1871年6月に「新貨条例」を制定し、形式上は金本位制が採用された。しかし、当時は東洋市場においては銀貨による対外支払いが一般的であったため、1円銀貨(量目は416グレイン)ならびに、当時の洋銀に相当する420グレインの量目の貿易銀を発行し、貿易などの対外支払用貨幣として使用した。1878年には1円銀貨の国内一般通用が認められ、事実上の金銀複本位制となったが、金貨の退蔵と政府不換紙幣の大量発行によって、金貨はほとんど流通しなくなった。さらに松方デフレ後の1885年には、初の日本銀行券(大黒図案の100円、10円、1円の兌換銀券)による銀兌換が開始され、1897年に正式に金本位制を採用するまで、事実上の銀本位制が継続した。第一次世界大戦後の活況期では金本位制を離脱するも銀貨が流通。1930年の金解禁が失敗して再禁止となってからは銀本位制にすら戻れなかった。
チェルヌシュ・シャーンドルの来歴 日本最大の豆腐メーカーである相模屋食料が、現代版の豆腐百珍「とうふ百珍2011」を公開した。和食以外にも、中華やイタリアンの有名料理人が参加している。
隠れ念仏の弾圧の始まり ハンガリーのチョングラード県のアルジェー (ALgyő) 生まれ。1970年にセゲドのヨージェフ・アティッラ大学に入学、1975年に歴史学およびフランス語学の学位を取った。1975年からセゲド大学で教鞭を取った。セゲドのアリアンスフランセーズの会長を務めた。
角田義一の来歴 浄土真宗は一向宗と呼ばれるも、薩摩藩によって禁止令が出された江戸時代には弾圧され続け、後に徹底した廃仏毀釈も行われた薩摩藩では、長いこと密かに隠れ念仏が続いていたこともあり、鹿児島県では昭和に入ってからも隠れ念仏を続けていた地域もあった。鹿児島県生まれで、京セラの名誉会長でもある稲盛和夫は、4歳か5歳だった昭和12年(1937年)頃に自身が体験した隠れ念仏の信仰について語っており、「弾圧からの逃避ではなく、これを守り続けてきた信者同士を結びつける繋がりを確認し、宗教心を強固にするため引き継がれていた。信仰の篤い人たちによって密かに守りつづけられた宗教的習慣で、私が幼い頃には、まだその習わしが残っていたものと思われる」と語っている。西本願寺もあったにも関わらず、その頃はまだ隠れ念仏が色濃く残る地域だった小山田には、稲盛の父方にあたる祖母が住んでおり、そこで伝統として行われていた、子供たちに仏の南無阿弥陀仏という感謝の念を教えるための通過儀礼に参加するため、幼い稲盛は父に連れられ日没後、「静かにしておれ、声を出したらいかん」と言われ無言で、暗い山道を神秘的で恐ろしいような思いをしながら、提灯の灯りを頼りに父親の後を必死で付いていき、他にも隠れ念仏の信者である何組かの親子が、親が子の手を引き登っていく中、村はずれにある登った先の小さな山小屋のような一軒家に連れて行かれる。そこは、中に入ると小さなロウソクが数本灯っているだけで家はひどく暗く、奥まった押入れの中に立派な仏壇が置かれており、その前で袈裟を着た僧侶らしき老人が一人、座って静かに低い声でお経を上げていた。子供たちはその後ろに正座させられ、お経が終わると、全部で4、5人いた子供は並ばされ、一人ずつ仏壇に線香を上げて拝むよう指示される。僧侶らしき老人は1人ずつ短い言葉をかけ、稲盛の父には「ああ、この子はもう連れてこなくていいですよ。今日のお参りで済んだから、明日から朝と晩、仏壇に向かって、なんまんだ、なんまんだ、ありがとうと必ず唱え仏さんに感謝しなさい。生きている間それさえすれば、仏さんが守ってくれるから」と告げ1回でお墨付きを与え、幼い稲盛には、それが免許皆伝と認められたような、何かの試験に合格したような気がして、誇らしくも嬉しく感じたが、中には「この子はまた来週も連れてきてください」と言われた子供もいたという。
リチャード・ダッドの生涯 2007年1月、2001年の第19回参議院議員通常選挙の際、角田の選挙対策本部は個人・企業・団体からの献金の一部を政治資金収支報告書に記載していなかったとの疑惑が報じられた。角田の選挙対策本部が作ったとされる会計帳簿が流出、同帳簿には個人や企業・団体から「陣中見舞い」等の名目で総額2517万円の入金があったと記されていた。しかし、角田の政治団体や当時角田が会長を務めていた民主党群馬県連の政治資金収支報告書等にはこの入金が記載されていなかったため、角田に対する闇献金があったのではないかとの疑惑が浮上した。さらに、朝鮮総連系の商工会や不動産会社、パチンコ業者から計160万円の入金があったとの記載もあり、政治資金規正法によって禁止されている外国人からの献金を受けていた疑いも持たれるに至ったが、当時の角田事務所の会計責任者は「会計帳簿が見当たらない。事実関係を確認するすべがない」と述べ、角田本人も「私は金の出入りは知らない」と説明。不正献金疑惑に対して肯定も否定もしないという釈然としない対応に終始した。流出した帳簿の真偽についても言を左右にし、紛失した本物なのか偽物なのか調査もしないという不可解な態度をとる一方で、疑惑を放置したまま参議院副議長の職に留まる意向を示したため、与野党から批判を浴びるに至った。結局角田は疑惑については釈明せぬまま、「参議院副議長の職に留まることは国会全体の運営に影響する」との理由から参議院副議長を辞任した。角田の副議長辞任後は疑惑そのものも事実がはっきりせぬまま終わった。
キッド (ミサイル駆逐艦・2代)の艦歴 妖精、フェアリーなどの架空の素材を精密描写した油彩画が特に有名で、代表的といわれる作品のほとんどはベドラムの中で描かれた。『お伽の樵の入神の一撃』と題された、妖精の男が胡桃を割る場面を描いた絵は、54cm×39.4cmのサイズの中に、多くの架空の生きものが、同じだけの精密さをもってびっしり描かれているのが特徴的である。この絵はテイト・ギャラリーに展示されており、イギリスのロック・バンドクイーンにはこの絵画をモチーフにした同じタイトルの曲がある。(日本語タイトルは「フェリー・フェラーの神技」のちに「フェアリー・フェラーの神技」)、1974年リリースのセカンドアルバム「クイーンII」に収録されたこの曲は、ダッドの絵と同じように歌詞には架空の生きものが多く登場し、曲調も錯綜した仕上がりになっている。
記号の濫用の関数 キッドは2005年1月22日に、キッド少将の孫のレジーナ・キッド・ウォルバーシュトとメアリー・コリーン・キッド・プラマーによって命名、進水した。ハリケーン・カトリーナによって損害を受け、乾ドックでの修理が必要となった為、就役が遅れた。2007年6月9日、艦長リチャード・E・トーマス中佐の指揮下テキサス州ガルベストンにて就役した。その後、太平洋艦隊に所属しサンディエゴを母港にしている。2012年1月5日、空母ジョン・C・ステニスの艦隊に所属してアラビア海に展開中していたところ、海賊に拿捕されていた漁船を発見。艦載ヘリコプターにより救出作戦を行い、海賊15人を拘束し、40日間以上人質になっていたイラン人船員13人を救出した。2014年3月8日に発生したマレーシア航空370便消息不明事故に対し、マレーシア政府の要請を受て捜索協力の為、インド洋に派遣された。
佐倉藩の概要 用語「用語の濫用」や「記号の濫用」は文脈に依存する。A から B への部分関数を "f: A → B" と書くとほとんどいつも記号の濫用であるが、圏論の文脈において集合と部分関数の圏における射として f を見れば濫用ではない。
津島市立南小学校の歴史 佐倉城の東。現在の印旛郡酒々井町には、下総守護下総千葉氏の家系に連なる佐倉千葉氏の居城本佐倉城跡(国の史跡)がある。印幡浦(現在の印旛沼)に面した本佐倉城は、戦国時代末期には相模国小田原城の後北条氏の支城となり、北条氏直に家督を譲って武蔵国江戸城に隠居した北条氏政によって支配された。佐倉は江戸時代には江戸の東を守る要衝の地であり、徳川一族・譜代大名が入封する重要な藩であった。江戸時代前半は、老中・大老となる幕閣の中心人物が入封し、罷免、致仕、失脚のたびに藩主の入れ替わりが激しい藩で、12回もお家変わりがあった。徳川家康は関東入国後の文禄2年(1593年)、5男の武田信吉を佐倉に4万石で配置する。慶長7年(1602年)に信吉が常陸国水戸藩に移ると、6男の松平忠輝が5万石で入るが、翌慶長8年(1603年)にわずか40日で信濃国川中島へ転封。慶長11年(1606年)小笠原吉次が尾張国犬山藩から入って、慶長13年(1608年)に常陸国笠間藩へ移封。なお、この頃までの藩庁の位置については本佐倉城にあったという説もあるが、確証はなく不明である。慶長15年(1610年)、下総国香取郡の小見川藩から、老中となった土井利勝が3万2000石で入って、佐倉城(現在、城跡の一画に国立歴史民俗博物館が建つ)を築城し、幕閣の重鎮として累進を重ねて、加増され14万2千石を領するに至る。寛永10年(1633年)に下総国古河藩へ転出。同年に豊後国日田藩より石川忠総が7万石で入り、翌寛永11年(1634年)に近江国膳所藩へ移封。寛永12年(1635年)に摂津国高槻藩から松平家信(形原松平家)が4万石で入り、寛永17年(1640年)に次の康信が再び摂津国高槻藩へ戻る。寛永19年(1642年)、信濃国松本藩から堀田正盛が11万石で入るが、慶安4年(1651年)に3代将軍・徳川家光に殉死。子の堀田正信は万治3年(1660年)、幕政に不満を抱き、佐倉に無断帰城したため、改易除封。寛文元年(1661年)、上野国館林藩から松平乗久(大給松平家)が入るが、延宝6年(1678年)に肥前国唐津藩へ移封。同年、肥前国唐津から入れ替わりで、大久保忠朝が8万3000石で入り、老中となって、貞享3年(1686年)に相模国小田原藩へ移封。同年、武蔵国岩槻藩から戸田忠昌が6万1千石で入り、老中となって、7万1000石に加増。次代・忠真は元禄14年(1701年)、越後国高田藩へ移封。同年、越後国高田藩から入れ替わりで稲葉正往が10万2000石で入り、次代・正知は享保8年(1723年)に山城国淀藩へ移封。同年、山城国淀藩から、松平(大給)乗久の孫・松平乗邑が6万石で入り、子の乗祐が延享3年(1746年)に出羽国山形藩へ移封。同年、出羽国山形藩から、堀田正亮が10万石で入封。老中首座をつとめ、1万石が加増されて11万石となる。その後は幕末まで堀田家の支配で定着した。山形藩からの移封に伴い、堀田正信の弟・堀田正俊を祖とする堀田家の佐倉藩領は、下総国の印旛、千葉、埴生、海上、匝瑳、香取各郡のうち、上総国の山辺、武射、長柄、夷隅、望陀、市原各郡のうち、さらに出羽国村山郡にわたり、城付きで7万石、山形分領が4万石あったといい、山形の柏倉陣屋には相当数の家臣を常駐させていた。幕末の藩主で老中を務めた堀田正睦は蘭学を奨励し、医師佐藤泰然を招いて佐倉城下の本町(現・佐倉市本町もとまち)に順天堂を開かせ、学問を奨励する。ペリー来航以降、外国事務取扱の老中となり、ハリスとの日米修好通商条約締結などで、奔走するが、井伊直弼の大老就任で、老中を罷免され、蟄居した。
大久保村 (埼玉県)の概要 延命寺と雲居寺に義校が設置された1872年(明治5年)4月を開校年としている。延命寺には第11義校の擇善学校が設置され、雲居寺には第14義校の春朗学校が設置された。1876年(明治9年)に2つの義校が統合されて津島学校となり、1887年(明治20年)には尋常小学津島学校となった。1892年(明治25年)には津島尋常小学校となり、1912年(大正元年)には津島第一尋常小学校と、1915年(大正4年)には津島第一尋常高等小学校となった。この間の1880年(明治13年)には西福寺に海東郡海西郡共立陶成学校(教員養成学校)が設置されている。1887年(明治20年)には陶成学校が海東郡海西郡立津島高等小学校(第一高等小学校)となった。第二高等小学校は蟹江町に、第三高等小学校は甚目寺町に設置されている。1898年(明治31年)には津島高等小学校から津島女子高等小学校が独立した。1893年(明治26年)には海東郡39ヶ町村組合立高等小学校となった。小説家の坪内鋭雄は名古屋市生まれだが本校出身であり、愛知中学校から早稲田大学に進学した。1925年(大正14年)から1936年(昭和11年)には江上定義が校長を務めた。このように本校は複雑な経緯をたどり、1872年から11度も校名の変更を行っているが、1948年(昭和23年)には現在の津島市立南小学校に改称して落ち着いた。
アルメン・アナニャンの生涯 現在のさいたま市桜区北部にあたる沖積平野に位置する。1889年に9つの村が合併して発足した。これら9つの旧村名は以後も大字として継承され、現在もさいたま市桜区内の町域名(植田谷領在家は「在家」、植田谷領領家は「大久保領家」にそれぞれ変更されている)となっている。2005年現在のこの地区には埼玉大学がある。住宅街が広がっているが荒川河川敷周辺には農地も多く残る。
カニステルの特徴 1896年、ロシア帝国エリザヴェトポリ県ポゴス・キリサの農家に生まれた。1914年には『ムシャク』(en) 紙特派員としてオスマン帝国とイランで活動。同年9月から1918年12月まで従軍していたが、カフカース戦線を追われて同月から翌1919年5月までロリ郡に潜伏。同年2月からボリシェヴィキ党員となり、5月から翌1920年までチフリス県ボルチャルィ郡 (ru) で地下活動に従事し、党チフリス地区委員会教官を務めた。同年にはバクーで靴の職工長も務め、12月まではバクー・ソビエト労農監査部部長でもあった。翌1921年1月から10月までアルメニア社会主義ソビエト共和国でロリ郡労農監査部部長、同年にはロリ・パンバク地区長官も務めた。10月から翌1922年6月までスヴェルドロフ共産大学で学び、翌7月からアルメニアに戻って翌1923年7月までアルメニア共産党ダララギャズ郡委責任書記、同月から1925年9月までノヴォ・バヤゼト郡委責任書記に就いた。翌10月から1926年6月まで全連邦共産党中央委附属郡書記コースで学び、翌7月から1927年3月まではアルメニア共産党中央委責任教官となっている。翌4月から9月まではザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国中央執行委教官、同月から1929年まではアルメニア共和国レニナカン市ソビエト議長、同年から翌1930年2月までレニナカン管区ソビエト執行委議長、翌3月から1931年2月までアルメニア共産党レニナカン市委責任書記を歴任。1928年から1931年までは同党中央委局員でもあった。1931年2月18日から1933年4月23日までアルメニア共和国中央執行委議長、1931年2月27日から1935年1月15日までザカフカース連邦共和国中央執行委議長を務め、1933年4月17日から1934年1月まではアルメニア共和国人民委員会議副議長と農業人民委員を兼務。同月から5月まではアルメニア共産党エリヴァニ市委第二書記、同月から1937年4月まではノヴォ・バヤゼト地区委第一書記、同年3月23日から10月までアルメニア共和国公共サービス人民委員を務めた。しかし、翌1938年1月に逮捕され、党からも除名された。1936年6月には有罪判決を下され、1947年12月までロシア共和国スヴォボードヌイの収容所で縫製工場長を務めることとなった。翌1948年1月にはアルメニアに戻されてカナヴェルで第3靴工場縫製部部長を務めていたが、12月に再逮捕されカザフ共和国に流刑された。翌1949年1月から1951年1月までルゴヴォイの障害者アルテリ「ルーチ」財政部部長を、同月から1954年9月までジャンブールの障害者アルテリ「フペリョード」店長を務めた。その後、同月からアルメニアへ戻ってエレヴァンで年金生活に入り、12月12日には党籍回復がなされた。1958年12月18日にエレヴァンで死去。
山梨県立富士湧水の里水族館の概要 果実はエッグフルーツ、クダモノタマゴとも呼ばれる。果実は甘く、粉質で水分が少なく、ゆで卵の黄身や蒸し芋のようなほくほくした食感がある。一般的なフルーツの芳香や酸味、ジューシーさがなく、食べると口の中の水分を吸うため喉が渇く。食べ頃を判別するのが難しく、完熟にならないと非常に不味である。当たりの果実が数個に1個、または数十個に1個しかないといわれるほど味にバラつきがある果実である。完熟状態になるとマダラ模様の黒いシミが浮き上がり、果皮が弾ける。カニステルは栽培されている台湾や沖縄でもほとんど市場に並ばないマイナーな果実である。近年まで栽培しても売り物にならなかったことから、「蟹捨てる」、「金捨てる」など沖縄の農家の間で揶揄を込めた駄洒落で呼ばれることがあった。
あまつきの登場人物 日本の水族館忍野八海 - 国指定の天然記念物、世界文化遺産富士山標高の高い水族館 - 蓼科アミューズメント水族館(1,750m)、箱根園水族館(723m)
金融安定理事会のテレビアニメ 2008年4月から同年6月まで、KBS京都ほかU局およびAT-Xにて放送された。
宮城大蔵の人物・経歴  金融安定理事会(きんゆうあんていりじかい、Financial Stability Board、FSB)は、金融安定化フォーラム(FSF)が発展して2009年に発足した組織。国際金融に関する措置、規制、監督などの役割を担う。事務局は、スイスにある国際決済銀行内におかれている。
鶴田弥生の人物 東京都生まれ。1992年立教大学法学部卒業。1992年から1996年までNHK記者、1998年一橋大学大学院法学研究科公法・国際関係専攻修士課程修了、2001年一橋大学大学院法学研究科国際関係専攻博士後期課程修了。一橋大学博士(法学)。2000年日本学術振興会特別研究員、2001年から2003年まで財団法人日本国際問題研究所客員研究員、2002年から2004年まで立教大学法学部助手、2004年から2005年まで北海道大学大学院法学研究科リサーチ・フェロー、2005年から2006年まで北海道大学大学院法学研究科専任講師、2006年から2009年まで政策研究大学院大学助教授を経て上智大学外国語学部国際関係副専攻准教授、2015年から現職。2014年、国家安全保障局顧問。2005年、『戦後アジア秩序の模索と日本』でサントリー学芸賞受賞。また同年第1回中曽根康弘賞奨励賞を受賞。『戦後日本のアジア外交』で、2016年度国際開発研究大来賞受賞。
高顕国の経歴 高猛虎(高盛の兄)の子として生まれた。東魏の武定末年、撫軍将軍の位を受け、汶陽男の爵位を受けた。北斉の天保元年(550年)6月、襄楽王に封じられ、右衛将軍の位を受けた。
佐藤英夫 (俳優)の来歴・人物 生まれは、東京都豊多摩郡和田堀町(現・東京都杉並区)。幼少期に横浜に移り住み神奈川県立横浜第一中学校から海軍兵学校(75期)に進む。戦後、慶應義塾大学に進学するが、1947年に中退。東京大学文学部フランス語科に入学。大学在学中に民藝や俳優座の養成所に通う。1953年に大学を卒業後、東映東京撮影所に助監督として入社するも1955年には退社して俳優として舞台に立つようになる。1958年、『バス通り裏』に及川五郎役で出演して人気を得る。1961年、『七人の刑事』に南刑事役でレギュラー出演。誠実・温厚で頼りがいのある役柄が多く、橋田壽賀子・石井ふく子関連作品にたびたび起用された。1966年からは救心のCMに25年間にわたり出演した。2008年11月22日、朝日新聞朝刊文化欄「観流」の記事「役者・佐藤英夫」(29面)にて、「2年前の11月20日、一人の男優が、静かに彼岸へ旅立った。その死が広く報じられることはなかった。佐藤英夫=写真。享年81」(石飛徳樹)として、佐藤の死去が報道された。
サン・ドルリーゴ・デッラ・ヴァッレの名称 町はスロベニア語の名として「ドリーナ」(「谷」を意味する)を持つ。第一次世界大戦後、この町はイタリア王国に編入されたが、当初しばらくは「ドリーナ」が正式名称であった。1923年、イタリア化政策によって町名が「サン・ドルリーゴ・デッラ・ヴァッレ」に改められた。2003年、中心集落の名の正式名称として「ドリーナ」を復活させている。ただし、コムーネの名は従来どおり「サン・ドルリーゴ・デッラ・ヴァッレ」のままである。
サン・ドルリーゴ・デッラ・ヴァッレの位置・広がり トリエステ県東南端のコムーネで、南および東がスロベニアとの国境にあたる。コムーネの中心集落であるドリーナは、県都・州都であるトリエステ中心部の南東約8km、コペルの北東約12km、リエカの北西約55kmに位置する。
サン・ドルリーゴ・デッラ・ヴァッレの歴史 18世紀半ば以降、この地はハプスブルク君主国の統治下に置かれた。1813年から1918年にかけて、サン・ドロリーゴ周辺地域はオーストリア領キュステンラントを構成するイストリア辺境伯国の一部であった。人口の大多数はスロベニア語の話者であった。第一次世界大戦後、イタリア王国に編入され、ヴェネツィア・ジュリアの一部になった。第二次世界大戦後の1945年、ユーゴスラビア人民軍が短い間占領したが、その後アメリカ・イギリス連合軍の占領下に置かれた。1947年のパリ条約により国際連合管轄のトリエステ自由地域A地域(連合軍地区)の一部となった。1954年、イタリア領に復帰した。
サン・ドルリーゴ・デッラ・ヴァッレの民族 1971年の国勢調査によると、住民の70.5%はスロベニア系であった。憲法により、コムーネの活動ではイタリア語とスロベニア語に同様の権利が保証されている。
ギサクの概要 17世紀にスペインを訪問した遣欧使節団をモデルとした武士ヨヘイが時を超え、現在のスペイン各地で闇の勢力と戦うという内容になっている。タイトルの『ギサク』とは、ヨヘイが持っていた「いざなぎの鍵」によってライオンの子供になった闇の大王ゴルカンの手下の名前である。
ギサクのストーリー 西暦1620年の日本。世界の果てを解き放つ扉を封印する「いざなぎの鍵」を手に入れ悪の力から「いざなぎの鍵」を守る使命を負うこととなった武士・ヨヘイ。後に彼は藩主・伊達政宗の命を受け、支倉常長率いる慶長遣欧使節団の一員として海を渡った。常長らは仙台へ引き返すが、扉が再び開くまでヨヘイはスペインで「いざなぎの鍵」の力により再び目覚めるまでの間永き時を待つことになる。それから385年が経過した2005年、ヨヘイは「いざなぎの鍵」の魔力により21世紀のセビリアで目覚める。さまざまな仲間たちとの出会いにより共に困難を乗り越え、闇の大王から「いざなぎの鍵」を守れるだろうか……
FCR2001デュースブルクの経歴 1977年にFC Rumeln-Kaldenhausenの傘下として設立され、2001年6月8日に女子サッカークラブとして独立した。1993年に女子ブンデスリーガに昇格すると、1999-2000シーズンで初優勝を果たした。2008-09シーズンにはUEFA女子チャンピオンズリーグを制するなど、欧州を代表する女子サッカーチームの一つとなった。2009-10シーズン途中より日本女子代表の安藤梢が、日本サッカー協会の海外強化指定制度を利用しながらプレーしていた。女子ブンデスリーガ2部の北ブロックに2軍チーム(FCR 2001 Duisburg II)が所属している。
南小樽の概要 南小樽地区は、かつて小樽の中心として発展し、現在でも小樽市立病院を中心に、市の中核を担っている地区。中央を流れる勝納川沿いには、古くからゴム工場や酒造工場が立地し、今でも北海道はおろか日本国内でもゴム長靴シェアが高い第一ゴムやミツウマが健在している。
日本統計学会の概要 1931年(昭和6年)創設。学会大会は、統計関連学会とともに、年に一回9月頃行われる。2016年5月時点での正会員数は、1,493名。日本学術会議の日本学術会議協力学術研究団体である。日本経済学会連合の一員でもある。現会長は赤平昌文(筑波大学)。
礒野王の経歴 従五位下・駿河守に叙任された後、平城朝の大同3年(808年)図書頭を兼ね、大同4年(809年)には地方官の兼官が武蔵守に遷任している。嵯峨朝に入り、大同5年(810年)4月には藤原真夏・紀田上ら平城上皇派の官人らとともに叙位を受けて従五位上に昇進するが、同年9月に薬子の変が発生すると伊豆権守に左遷された。
クイズ天下一品博物館の概要 世界中のプレミアグッズとその所有者が集結し、「夢のお宝ショップ」をスタジオに開店。コレクターたちが登場し、そのコレクションにまつわるエピソードをクイズ形式で紹介するという内容。『開運!なんでも鑑定団』(テレビ東京)のTBS版といった感じの番組だった。
戦場のヴァルキュリアシリーズの戦場のヴァルキュリア 第1作目は2008年にPlayStation 3専用ゲームソフトとして各地域で発売された。企画自体は2003年時点から既に動いており、キャラクター原案の本庄雷太や、音楽を担当した崎元仁とはこの段階でコンタクトが取られていた。開発は『サクラ大戦シリーズ』や『エターナルアルカディア』などを手掛けた元オーバーワークスのスタッフで構成されており、主要スタッフが集まり開発が始まったのは2005年である。。当初の開発は少人数で行われており、大規模な開発が始まったのは2007年だといわれている。本タイトルの存在は東京ゲームショウを目の前にした2007年の秋にセガから発表され、そのまま東京ゲームショウ2007にもプレイアブルな形で出展された。発売は日本先行で行われ、2008年4月24日に日本市場で発売した後、『Valkyria Chronicles』として欧州で10月31日、北米で11月4日に発売された。発売後もPlayStation Storeにてダウンロードコンテンツが販売された。2014年11月11日にWindows移植版がsteamにて配信(日本は対象外だが海外のダウンロードコード販売サイトでコードを購入すれば導入可)。日本市場では他メディアでの展開も行われており、テレビアニメは2009年4月から10月にかけて独立UHF局にて放送された。
戦場のヴァルキュリアシリーズの戦場のヴァルキュリア2 PlayStation Portableにプラットフォームを移した第2作は2010年に発売された。開発は第1作のダウンロードコンテンツや日本国外へのローカライズを終えてからのスタートとなり、本格的な開発が始まったのは2009年からである。タイトルの発表は日本語版公式サイトの開設と共に2009年7月17日に行われた。日本では2010年1月21日に発売となったが、発売前には他タイトルとのコラボレーションも行われた。日本国外では北米で8月31日に、欧米では9月3日に発売された。発売後もPlayStation Storeにてダウンロードコンテンツが販売されている。
戦場のヴァルキュリアシリーズの戦場のヴァルキュリア3 第3作は前作から引き続きPSPをプラットフォームとし、日本では2011年1月27日に発売された。企画は前作の開発終了後に立ち上げられ、前作から約1年での完成となった。主要スタッフはプロデューサーに本山真二、ディレクターに小澤武、キャラクターデザインに本庄雷太、音楽を崎元仁と前作から引き継がれているが、制作はメディア・ビジョンが務めている。タイトルの発表は2010年9月1日にティザーサイトが開設された後に東京ゲームショウ2010のセガブース内で正式に行われた。前作と同様に他タイトルとの連動が行われたほか、Flash小説も配信されている。OVAによる全2話のアニメ化も行われており、2011年6月29日に発売のパッケージ版に先行する形でPlayStation Storeでは4月13日より先行する形で前編の配信が行われている。ダウンロードコンテンツはPlayStation Storeにて2月10日より配信されている。
戦場のヴァルキュリアシリーズの戦場のヴァルキュリア4 日本国内では2018年3月21日にPS4で発売、9月21日にNintendo Switchで発売された。海外ではPS4、Xbox One、Nintendo Switch、Windows (Steam)で2018年9月25日に発売された。1作目・3作目と同じく第二次ヨーロッパ大戦を舞台に連邦の一部隊の視点から進行する予定。
戦場のヴァルキュリアシリーズの戦場のヴァルキュリア DUEL セガとNHN Japanが開発・運営するシリーズ初のブラウザゲーム。タイトルロゴでは「戦場のヴァルキュリアD」と表示される。2012年6月19日からのPC版ユーザーテストを経て、7月26日にPC(Windows)でサービスを開始し、スマートフォン向けには、同年8月17日にAndroid、同年9月24日にiOSに対応。原作の物語(ガリア戦役など)とは直接の関係は無いが、シリーズに登場するキャラクターでプレイヤーの部隊(主力部隊5名、援護部隊8名)を編成し、対立する東西2つの陣営のどちらかに属して敵軍総司令部の制圧を目指して交戦するカードシミュレーション(トレーディングカードゲーム)。戦闘は自動で進行する、原作ゲームのように3Dで造られたキャラクターや戦車によるバトルが展開される。2015年4月22日にサービス終了。
戦場のヴァルキュリアシリーズの共通の内容 勝利条件と敗北条件の決められた戦闘パートをこなしシナリオを進めていくSRPGである。ストーリーはメインストーリーとなる本章とサブストーリーとなる断章に分かれる。
戦場のヴァルキュリアシリーズの舞台設定 『DUEL』『蒼き』を除きシリーズを共通して、征暦という架空の紀年法が用いられる架空のヨーロッパにある小国が物語の舞台である。この世界ではラグナイトという鉱物資源があらゆるエネルギー資源として使われており、戦場でもラグナイトを動力とした戦車が主力である。現実世界と比べて航空戦力の発達が遅れているため、ゲーム上でも陸軍対陸軍の戦いとなる。この世界にはヴァルキュリア人という伝説的な人種が存在し、その力で超人的な能力を発揮する。しかし、作品舞台の1930年代では既に純血種は残っていないとされ、ヴァルキュリア人は伝説や神話、おとぎ話の存在である。征暦という紀年法もヴァルキュリア人がダルクスという民族を打ち倒したとされる年が紀元とされており、一方のダルクス人は1930年代でも被差別民として存在し続けている。
戦場のヴァルキュリアシリーズの戦闘 本シリーズならではのゲームシステムとしてBLiTZ(Battle of Live Tactical Zone systemsの略)と呼ばれる戦闘システムがある。このBLiTZはターン制ストラテジー的な戦略性とアクションゲーム的な臨場感を併せ持ったシステムで、そのシステムを「コマンドモード」と「アクションモード」の二つのモードに大別することができる。俯瞰視点の地図を使って地形や味方の位置を確認し、動かすユニットを選択するのがコマンドモード、実際に選択されたユニットを3D視点で操作するのがアクションモードである。コマンドモードで操作ユニットを決定するとコマンドポイント(CP)という勲章状のマークが減り、アクションモードに移行する。「アクションモード」ではアクションポイント(AP)というオレンジ色のゲージが0になるまで移動ができる。プレイヤー側のユニットが視認していない敵はコマンドモードでは表示されないため、アクションモードでは移動と同時に索敵も行われる。アクションモードでは索敵ラインという放物線状のラインが自ユニットの頭上に存在し、この索敵ラインを辿ることで発見済みの敵との位置関係がわかるようになっている。索敵ラインは色分けもされており、色によって自ユニットが敵から見つかっていないかなどもわかる。さらに本バトルシステムには「迎撃」があり、移動中に敵兵の迎撃範囲に入ればリアルタイムで攻撃を受け、同様に敵フェイズ中に敵ユニットが自軍の迎撃範囲に入れば自動で迎撃を開始する。。その一方で、操作ユニットが攻撃や回復を行う「ターゲットモード」へ移行すれば迎撃は止み、狙いを定めて行動を取ることが可能である。ターゲットモードで攻撃を行う場合には照準サークルが現れ、攻撃はこのサークル内のどこかへ飛んでいく。アクションゲームとは違い、攻撃がどこへ当たるかは乱数で決定されるため、遠くからの攻撃はそれだけ集弾率が落ちることになる。また、味方ユニットの近くにいる状態で攻撃すると連携攻撃となり、味方が援護攻撃を行う場合がある。原則としてアクションモードで行える攻撃は1回であり、一回の行動で敵を倒しきれなかった場合や攻撃を回避された場合は敵からの反撃を受ける。なお、地形を利用するとしゃがんだり匍匐したりすることが可能で、この状態では被ダメージも減る。「コマンドモード」で使えるCPは複数あり、フェイズの終了を選ぶことで相手のターンへと変わる。なお、プレイヤー側が索敵していない敵は地図に表示されず、相手ターン中の動きも掴めない。CPはターンごとに回復し、次のターンへの持ち越しもできるため、最大で20CPまで溜め込むことができる。ターン中にCPがある限り繰り返し行動できるので、行動済みのユニットでも再度選択することが可能である。ただし、再選択を繰り返す都度アクションポイント(AP)の限界量は減っていく。また、敵味方共にリーダー属性を持つユニットが存在し、該当ユニット参加させるとその分CPが増える。逆にリーダーが撃破されると次のターン以降はその分CPが減る。また、指揮官(自軍では主人公)が戦場にいる場合は、CPを消費することでオーダーという特殊命令を発動することができる。オーダーは困った時の逆転要素としてとして想定されており、自軍を強化・回復したり支援攻撃により敵にダメージを与えたりできる。戦闘はこうしたBLiTZに則って行われ、アクションゲーム的な要素を含む本シリーズではマップに障害物や高低差、地雷などもある。マップには拠点とよばれる場所があり、敵の拠点に戦車以外のユニットで近づくとプレイヤー拠点として占拠することができ、その逆も同様である。占拠が勝利条件や敗北条件に関わってくる拠点は本拠点と呼ばれ、最初のターンの出撃もこの本拠点から行われる。拠点内ではユニットを出し入れすることが可能で、出撃中のユニットをリザーブに戻すのを後方待機、リザーブから新たに出撃させることを増援と呼ぶ。。敵の拠点を制圧すればそこから味方のユニットを新たに出撃させることも可能である。また、敵味方を問わず、歩兵は自軍ターンを迎えるごとに一定量HPが回復し、弾数制限のある弾薬についても1発ずつ補給されるが、自軍の拠点内で次の自軍ターンを迎えた場合、HP回復量は大きくなり、弾薬も最大数まで補給される。戦闘の終了後はプレイ内容に応じてランク分けされた評価が与えられ、経験値や資金の加算もここで行われる。。また、特定の達成条件をクリアするとた場合やその働き勲章が手に入る。
戦場のヴァルキュリアシリーズのユニット 戦闘で使用する歩兵にはそれぞれ兵科が設定されており、兵科によって戦闘で使用する武器や特性も異なるゲームシステムとなっている。兵科はさらに兵種に分けることができ、ゲームを進めていくと初期の兵種から上位の兵種へクラスアップすることができる。『1』では5つの各兵科に対して上位兵種が1つずつある計10兵種だったが、『2』では5兵科に対して兵種が35種までに増えた。また、『3』ではクラスアップだけではなく兵科の変更も可能となり、8兵科24兵種と変化している。歩兵の強化は経験値によるレベルアップのほか、装備の変更によって行う。より高性能な兵器は資金の投入によって開発をしたり、敵から鹵獲したりすることで得られる。鹵獲可能武器を持っているのは「エース」と呼ばれる強力な敵で、エースを倒してミッションをクリアするとその所持する武器を獲得できるようになっている。また各キャラクターには様々なポテンシャルが設定されており、各個人の個性を表すパーソナルポテンシャルと、所属する兵種としての特技を表すバトルポテンシャルとに大別され、一定の確率でステータスの向上や体力回復、弾薬の補給など、様々な効果を発揮する。また、パーソナルポテンシャルの中にはマイナスの効果を持つものも存在する。これらは兵科のレベル上昇や戦場での活躍、ストーリーの進行によって、最大で8つまで獲得できる。なお、ストーリー上の関与は薄いサブキャラクターにも詳細な設定付がされており、ゲーム中に人物総覧を開くことでプロフィールを見ることができる。歩兵とは別に戦車や装甲車といった車両ユニットが存在する。戦車は徹甲弾や大型榴弾、迎撃用機銃を持ち、装甲も固い。その反面、背面のラジエーター部分が弱点となっている。これは装甲車も同様である。自力の耐久力回復はなく、回復のためには味方拠点内に入っているか支援兵で修理する必要がある。『1』では行動にCPを2つ消費していたが、『2』からはCP1つで行動する車両ユニットが登場し、『3』では全ての車両がCP一つで行動できるようになった。戦車のパーツも歩兵と同様に開発や敵から鹵獲が可能。装備できるパーツの総量は予め決められており、そこに収まる範囲でパーツを装着できるようになっている。
戦場のヴァルキュリアシリーズの開発コンセプト 本シリーズは開発スタッフのドラマ性を持つタイトルを作ろうという考えから始まっており、小隊による局地戦がゲームの主軸となっているのも兵士個々の顔が見えるレベルの焦点で戦場を描きたいという思いがあるからである。そのため一般的なウォー・シミュレーションゲームのような戦場を俯瞰しながらプレイし、部隊を使い捨てていくゲームにはしたくなかったとセガの野中竜太郎は語っており、プレイヤーが各ユニットに対して感情移入しやすいよう兵士に近い視線で操作のできるアクションゲーム的な要素が加えられている。ゲームシステムがターンベースとなっているのも、このジャンルでは各ユニットそれぞれをプレイヤー自身で動かすため、戦闘の局面でプレイヤーがユニットに対してドラマを思い描きすいという考えがスタッフにあったからである。とはいえ、最初からBLiTZの構想があったわけではなく、開発当初はより一般的なターン制のシミュレーションRPGであった。そのときのゲームシステムでは、敵からの迎撃もなく接近して攻撃することができるものとなっており、銃を使った戦争という感じはまったくなかったと野中は語っている。その一方で、遠距離からただ撃ち合うだけのゲームでは面白味がないという判断もあり、最終的に迎撃がある中を障害物に隠れながら敵との距離を詰めて攻撃する今のシステムに行き着いたという。また、プレイの自由度を高くしたいという設計思想があり、50名以上のキャラクターから部隊が編成できるようになっているのも、コマンドポイント制によってプレイヤーの動かしたいキャラクターを何度でも行動させらるようになっているのも、こうした設計思想によるものである、『2』以降ではイベントの進行によるパーソナルポテンシャルの上書きや兵種の変更によるバトルポテンシャルの付け替えができるようされた。また、実在する戦争が舞台では先入観が邪魔になるという判断から舞台背景が架空のヨーロッパに設定されており、ファンタジー要素を加えることで、戦争モノに苦手意識のあるユーザーにも抵抗がないようにされている。
カナモトの概要 建設機械レンタル業界ではアクティオ、レンタルのニッケンと並ぶ大手であり、ニトリ、ツルハ、ホーマック等と共に北海道発祥で全国展開する企業として知られる。