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ハンス・フランクのポーランド総督 ポーランドを占領した後、1939年10月10日にヒトラーはフランクをポーランド総督に任命した。ポーランド戦後のポーランドは、東部をソビエト連邦が支配し、中央部から西部はドイツが支配した。ドイツの支配地域のうち、西部がドイツ本国の領土に併合され、中央部がポーランド総督府領とされた。総督府領はもともとのポーランド領土全体の四割ほどの面積だった。フランクはそのポーランド総督府領の統治を任されたわけであるが、一部の権限は親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーと共有しなければならなかった。ポーランド人を支配するためには親衛隊の持つゲシュタポや強制収容所など弾圧的装置は必要不可欠だった。フランクはクラクフのヴァーヴェル城に入り、そこからポーランド総督府領の統治にあたった。しかしフランクはポーランドを「ヴァンダル(蛮地)」と呼んで軽蔑しきっていた。ポーランドは単なる奴隷労働力供給地であると考えており、そのような土地に知識人や美術品など不要であると考えていた。ポーランド人知識人は親衛隊により抹殺され、ポーランドの貴重な美術品はフランクの城に接収され私物化された。このため同じく美術品狩りを行ったヘルマン・ゲーリングと競合関係にあった。またフランクは芸術・文化の愛好家で、ピアノ演奏やオペラ鑑賞を好み、ニーチェの哲学に通じ、リヒャルト・シュトラウス、ゲアハルト・ハウプトマン、エリーザベト・シュヴァルツコップ、ヴィニフレート・ヴァーグナー、ハンス・プフィッツナーなどの芸術家を後援した。総督府領内のユダヤ人をゲットーへ隔離し、さらに親衛隊によるゲットー・ユダヤ人の絶滅収容所への移送を容認していた。1941年12月16日、フランクは次のように演説している。「ユダヤ人は消え去らねばならない。奴らは無用の存在である。(略)奴らの姿を見たら必ず撲滅しなければならない。そうしてこそはじめてライヒ全体を安泰に保てるのだ。(略)350万人のユダヤ人を銃殺で始末することは無理であるし、毒殺もできない。しかし、ライヒにおいて目下検討中の大々的方法と組み合わせれば、奴らを抹殺してしまえる手段を講じることができる」フランク自身は酒池肉林の宴会を毎夜のように繰り返した。彼の統治はほとんど専制君主同然であり、党の会計士フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツは彼のことを「フランク国王」と呼んだ。宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスも「フランクは統治(regieren)しているのではない、君臨(herrschen)している」と揶揄した。フランクは自分がヒトラーだけに責任を負う事、ポーランドは自分の私的な領地である事、何者も自分から命令を受けない限りこの領地ではなにも許されない事を強調した。しかし親衛隊についてはフランクに権限がなかった。ポーランド総督府親衛隊及び警察高級指導者フリードリヒ・ヴィルヘルム・クリューガー親衛隊大将を総督府の保安担当次官に任命するなどして何とか親衛隊組織を自らの下に置こうとしたが、すぐにヒムラーと対立を深めた。ヒムラーはフランクとフランクの妻の汚職容疑を掴んでそれをネタに脅迫してくるようになった。もともと権力闘争向きではないフランクの神経は衰弱の一歩手前までいった。ポーランド内の行く先々で敵意を向けられることに疲れた妻ブリギッテはバイエルン州に帰り、そこへポーランドからの略奪品を送らせるようになった。フランク自身もポーランド総督職を辞職したがるようになり、国防軍最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥に自分を兵役に戻してほしいと懇願している。カイテルはヒトラーにこれを取り次いでいるが、ヒトラーから「論外だ」の一言で却下されている。1942年6月にドイツ本国へ戻った際、フランクはドイツ法律学会で「ドイツは法治主義を取り戻さねばなりません。いやしくも文明国ならば、親衛隊とゲシュタポが行うような根拠のない逮捕と適正な手続きを経ない投獄を許してはならないのです」と発言した。これにびっくりしたヒトラーはただちにフランクを招集し、フランクにポーランド以外で演説する事を禁止した。またポーランドでの演説も党の方針に沿うようにと命じられた。またナチ党法務部長、法律学会会長、法務担当国家弁務官などの役職を取り上げられた。ただしポーランド総督には留任した。この後、ハンス・フランクはまったく抵抗の意思を見せずにポーランド総督の職務を淡々とこなした。徴収したポーランド人労働者は労働力配置総監フリッツ・ザウケルのもとへ、ユダヤ人はヒムラーのもとへそれぞれ送りだした。ほとんどのユダヤ人がアウシュヴィッツ強制収容所へ送られることになるのを彼は知っていた。他のナチ党幹部の例にもれず、戦況の悪化とともに趣味の世界へ引きこもるようになった。彼はピアノを弾いたり、『コロンブスに仕えた給仕』という題の小説を書いたりして現実から逃避していた。
ハンス・フランクの逮捕と米兵のリンチ 1945年1月、ソ連軍がポーランドに迫ってくると彼はレンブラント、ダ・ヴィンチ、ルーベンスなどの美術品を持って専用列車で脱出する。1945年5月4日、バイエルンでアメリカ軍によって逮捕された。アメリカ兵に殴られ、蹴られ、唾を吐きかけられるといった暴行を受けた。ミースバッハ収容所へ向かうトラックへ放り込まれ、米兵たちは暴行の傷跡を隠すために彼の上に幌をかぶせた。5月6日にフランクはこの幌を隠れ蓑にナイフで左腕の動脈を切って自殺を図ったが、発見されて失敗した。ミーズバッハの刑務所に到着すると、アメリカ軍第7軍第36歩兵部隊に所属する兵士達にリンチにあった(刑務所の入り口に入ろうとする彼を2列に並んだアメリカ兵が暴行を加え、倒れると無理やり立たせて先に進ませ、また暴行する)。このアメリカ兵たちはダッハウ強制収容所を通過してきた兵士たちでフランクが「クラコウのユダヤ人虐殺者」と呼ばれているのを聞き、義憤に駆られて行った暴行だった。ミースバッハ収容所到着後にもう一度自殺を図ろうとしているが、再び発見されて失敗した。その後、ニュルンベルク裁判にかけるため、ニュルンベルク刑務所へと移送された。
ハンス・フランクのニュルンベルク裁判 ニュルンベルク裁判においてフランクは第一訴因「侵略戦争の共同謀議」と第三訴因「戦争犯罪」、第四訴因「人道に対する罪」で起訴された。裁判中、彼はナチズムの犯罪を認める立場を取った。刑務所付心理分析官グスタフ・ギルバートから起訴状の感想を求められたフランクは「私はこの裁判をアドルフ・ヒトラー支配下の苦難に満ちた、恐ろしい時代を審判し、終止符を打つよう運命づけられた『神の意思による法廷』と考える」と書いている。また判事団の補佐をしていたイギリス軍エアリー・ニーヴ少佐には「まるで私という人間が二人いるようです。今ここにいるフランクとナチ指導者だったフランク。かつてのフランクはなぜあんなことができたのだろうと、今の私は不思議に思っています。ここいるフランクがもう一人の彼を見てこういうのです。『ハンス、お前は人間のクズだ』ってね」と述べている。フランクはナチズムのもとで出世するためにカトリック信仰を捨てて無宗教者になっていたが、ニュルンベルク刑務所収監中にカトリック信仰に戻り、深く依存するようになった。「神から真実を隠すことはできない」という心境のもとに自分に不利な証拠(ポーランド総督当時の執務日記)を法廷に提供した(フランクによればこのことでゲーリングに「何故燃やさなかった」と怒鳴られたという)。法廷の証言台に立ったフランクは最初に「自分の恐るべき罪」を認めた。弁護士ザイドル博士の「ユダヤ人虐殺に参加したか」との質問に対して「私は『はい』と答えます。私が『はい』と答える理由は、5か月の裁判中にアウシュヴィッツ所長ヘスが300万人のユダヤ人殺害を公然と認めたのを耳にして、一切の犯罪の責任をこのような小人物だけに背負わせるのは良心が許さないからです。私自身はユダヤ人虐殺のための収容所を設置したこともなければ、設置を命じたこともありません。しかしもしヒトラーがあの戦慄すべき数々の責任を配下の者に転嫁したなら、私もまた当然罪を負うべきでしょう。我々はユダヤ民族と戦ってきました。多年の間ひたすらに戦ってきました。我々はしばしばあまりにも恐ろしい発言をあえて口にしてきました。だから私が『はい』と答えたのは唯一の義務なのです」と答えた。「ヒトラーとの関係はどうであったか」という質問に対しては「私はドイツの政策にはまるで発言権を持っていませんでした。私は生涯を通じて個人的に6回ヒトラーに会見しただけです。私は政治上の重要問題について相談を受けたことは全くありません。」と答えた。また占領下ポーランドの扱いに抗議して14回辞職を申し出たことを証言し、「私が一兵卒として前線へ出ることを14度希望したのは故なきことではありません。ヒトラーは法律家が嫌いだったのです。あの真に偉大な人物にとって、これは大きな欠点でした。彼は法律専門家を徹底追尾毛嫌いしていたのです。」と述べた。強制収容所については「それは警察の仕事であり、警察を支配していたのはヒムラーでした。私はルブリン、マイダネク、アウシュヴィッツ収容所への視察を何度も思い立ちましたが、ついにしませんでした。一度私は不意にアウシュヴィッツを訪れましたが、疫病が流行していることを理由に収容所の中に入れませんでした。私はヒトラーと会見した時に『総統、あれは一体どういうことですか』と尋ねましたが、ヒトラーは『いやなに処刑をする必要が生じたのだ。暴動が勃発したのだよ』と述べていました。」と述べた。ポーランドからの美術品略奪については「世界的に有名な作品を焼くのは惜しいからです。略奪したという表現はあたらないと思います。モナ・リザは盗むことができるものではありません」と述べた。親衛隊・警察が自分の指揮下になく、ヒムラーの指揮下にあったことは特に強調し、「自分は絶えず孤立している無力者」で「行ったことに影響力はなかった」、「親衛隊を欺き、抑えようとしていた」といった抗弁を多用した。数千人の人々が自分のおかげで命を救われたとも証言した。1946年10月1日に被告全員に判決が下った。まず他の被告人達と一緒に判決文が読み上げられた。フランクの判決文は第一訴因「侵略戦争の共同謀議」について「有罪とするだけに十分に彼が陰謀の共同謀議について知っていたという証拠がない」として無罪とした。しかし「ポーランドへの犯罪的行為は警察が主体であったが、フランクが自発的かつ十分自覚できる協力者であったことは明白」「フランクが総督になった時、ポーランドには250万人のユダヤ人がいたが、彼が去った時、その数は10万人にまで減っていた」として、彼を第三訴因「戦争犯罪」と第四訴因「人道に対する罪」で有罪とした。その後、個別に言い渡される量刑の判決に移り、フランクは夢遊病患者のようにフラフラしながら法廷に入って来て被告席にどさりと腰かけた。彼の受けた判決は絞首刑だった。絞首刑判決を聞いたフランクは神に祈るような仕草をしている。
ハンス・フランクの処刑 フランクは死刑判決に不満を抱いてはいなかった。助命嘆願書も提出することを望まなかった。10月16日に他の死刑囚たちとともに絞首刑が執行された。46歳没。最期の言葉は「拘留中、私に与えられました好意ある全ての取り扱いに感謝いたします。神よ。願わくば、私を慈悲深く迎えて下さらんことを!」だった。回想録である『死に直面して』(未邦訳)を遺している。自殺したゲーリングを含めて、フランクら死刑囚11人の遺体は、アメリカ軍のカメラマンによって撮影された。撮影後、木箱に入れられ、アメリカ軍の軍用トラックでミュンヘンへ運ばれ、そこで火葬された。遺灰はイーザル川の支流コンヴェンツ川に流された。1987年に息子ニクラスは長年の調査や回想に基づいて父親の生涯を綴った評伝『Der Vater (父)』を出版したが、父親がポーランドで行った犯罪行為を赤裸々に描いて話題となった。ニクラスの兄妹の多くは父の罪を認めようとはしなかった。1人の兄はニクラスには虚言癖があり、記述内容は根拠がないと出版社に訴え、2人の姉のうち1人は父より長生きすることを望まず、父が処刑された同じ年齢の時に自殺した。もう1人の姉はアパルトヘイトを支持して夫とともに南アフリカへ移住し、生前最後の会話でもホロコースト否認論を主張していた。もう1人の兄は「それでも私は父を愛しているんだ」としながらもニクラスを称賛し、唯一協力的だったという。
ハンス・フランクの栄典 以下の出典
高萩村の隣接していた自治体 飯能市、入間郡高麗川村、鶴ヶ島村(1966年4月1日町制→1991年9月1日市制)、霞ヶ関村(1955年4月1日、川越市に編入)、柏原村(1954年合併、狭山市となる)、水富村(同左)(1953年当時)
オルテンの歴史  かなり古くから人が居住していたという考古学的な証拠は数多くあるものの、オルテンが"Oltun"の名前で文献に最初に登場するのは1201年のことである。
川崎郷太の生涯 第6代フィッツウィリアム子爵リチャード・フィッツウィリアムとキャサリン・デッカー(Catherine Decker、1710年頃 – 1786年3月8日、初代準男爵マシュー・デッカーの娘)の息子として1745年8月1日に生まれ、22日にリッチモンドで洗礼を受けた。1760年にチャーターハウス・スクールで教育を受けた後、1761年11月14日にケンブリッジ大学トリニティ・ホールに入学、1764年にM.A.の学位を修得した。母方の祖父から多くの絵画を相続し、以降もさらに絵画の購入を続けた。音楽への興味も知られ、パリでジャック・デュフリから音楽を教わったほか、1784年のヘンデル記念祭にも関わった。1776年5月25日に父が死去すると、フィッツウィリアム子爵の爵位を継承、1776年11月26日にアイルランド貴族院議員に就任した。その後、1777年2月8日から1816年2月4日までレンスター副提督を務めた。1789年3月5日、王立協会フェローに選出された。1790年イギリス総選挙でウィルトン選挙区から出馬して当選、以降1806年まで議員を務めたが、その間には投票の記録も演説の記録もなく、庶民院の会議に出席した形跡すらなかった。ただし、『完全貴族名鑑』では「彼が第1次ピット内閣を支持したことは推論できる」とした。1816年2月4日にロンドンのボンド・ストリートで死去、生涯未婚だったため弟ジョンが爵位を継承した。遺言状に基づき、自身が収集した絵画、版画、書籍のコレクション、そして10万ポンドをケンブリッジ大学に寄贈し、コレクションを保存するための建物(後のフィッツウィリアム美術館)を建てるための支出は10万ポンドから得た利子で賄うとされた。それ以外の財産は300ポンドを弟ジョンに残したほか、親族にあたる第11代ペンブルック伯爵ジョージ・ハーバートが相続した(第11代ペンブルック伯爵の父方の祖母は第7代フィッツウィリアム子爵の伯母にあたる)。フィッツウィリアム美術館の建物はその後1837年11月2日にジョージ・バセヴィの設計に基づき建設が開始、1848年に一般公開に至った。
一休さん (2012年のテレビドラマ)の概要 名作『一休さん』4回目のスペシャルドラマ化。『一休さん』のSPドラマは2004年1月8日に同局で放送した『えなりかずきの一休さん』(主演:えなりかずき)以来8年半ぶりだが、これは一休が室町時代から現代(2004年)にタイムスリップするという設定のため、一貫して室町時代が舞台だったのは、1986年11月17日に同局の『月曜ドラマランド』で放送した『一休さんII』(主演:浅香唯)以来、実に約26年ぶり。主演は同局の『マルモのおきて』で人気を上げた鈴木福で、彼にとっては初のゴールデンタイムでの主演作となる。また鈴木は当時8歳であり、1985年8月12日に『月曜ドラマランド』で放送した『一休さん』の主演者・富田靖子(当時16歳)をはるかに下回る最年少記録である。さらに、かつてテレビ朝日系列で放送されたアニメ『一休さん』で一休を演じた藤田淑子が、ナレーターを担当している。なお本作の原作名義は、前述のアニメを製作した「東映アニメーション」(当時:東映動画)となっている。2013年5月5日に続編『一休さん2』が放送された。視聴率8.7%。これに先立ち、前日の5月4日15:00 - 17:00(『土曜ワイド』)で本作が再放送された。
ザルツブルク - ランプレヒツハウゼン線の運行形態 快速と普通について説明する。
ザルツブルク - ランプレヒツハウゼン線の快速(S11) 平日のみの運行で、原則オースターミーティンク方面に直通する。朝は、オスターミーティンク→ビュアモース→ザルツブルクの系統が30分間隔で運行する。うち半数は、ランプレヒツハウゼン始発の車両を併結する。日中は運行せず、午後は2時間毎、夕方は30分毎にザルツブルク→ビュアモース→オースターミーティンクの系統が運行する。なお、午後・夕方はザルツブルク~アンテリンク間各駅に停車する。ビュアモースでは、始発のランプレヒツハウゼン行普通に接続する。2017年以前は、ザルツブルク方面行の全列車がヴァイトヴェルト・ヌスドルフに停車していた(オースターミーティンク方面は全列車通過)。また、LEXの種別名が与えられていた。
三重県医師会の本部所在地 〒514-8538 三重県津市桜橋2丁目191番4
BM-40A型原子炉の来歴・人物 東京都生まれ。東京都立保谷高等学校卒業。1984年 駒澤大学文学部社会学科(心理学コース)卒業。1986年 同大学大学院人文科学研究科心理学専攻修士課程修了。1989年 同博士後期課程単位取得満期退学。同年マイクロシステムズ入社。技術サポート職を経験。1992年 一橋大学商学部助手(情報処理センター付)。1998年 麗澤大学国際経済学部国際経済学科講師、情報システムセンター員。1999年 麗澤大学国際経済学部国際産業情報学科講師、2002年 同助教授、2006年4月 情報システムセンター副センター長を経て、2007年 同教授に就任。2008年 同大学経済学部経営学科教授。研究分野はキャンパス情報ネットワークの構築と運用、情報センター等の運用技術、分散システム、地域ネットワーク、コンピュータの教育利用など。情報処理学会員(DSM研究会会員)、KIU(特定非営利活動法人柏インターネットユニオン)運営委員長・技術部会長、A-TRAIN(東京地域アカデミックネットワーク協会、TRAIN協会)事務局長を歴任。2009年2月11日 急性心筋梗塞のため急逝、享年48歳。
トール・ヘイエルダール (フリゲート)の艦歴 「トール・ヘイエルダール」は、スペイン企業のナバンティアフェロル造船所で建造され、2007年11月23日起工、2009年2月11日進水、2011年1月にノルウェーに引き渡される。沿岸戦隊フリゲート隊に所属し、ハーコンスヴァーン海軍基地を母港とする予定。
ミカライ・シグネヴィチのクラブ歴 FCディナモ・ブレスト出身で2014年にFC BATEボリソフに移籍した。2017年にはFCプラタニアスにレンタル移籍した。
ミカライ・シグネヴィチの代表歴 2014年11月15日に行われたUEFA EURO 2016予選・グループC・スペイン代表戦でセルゲイ・コルニレンコと途中交代して代表初出場。3日後の18日に行われたメキシコ代表戦で初得点を記録した。
ロガエスの書の概要 建築作品として評価できる住宅を、俳優の渡辺篤史が訪問・紹介する番組。ナレーションも渡辺が担当している。通常は東京都内もしくはその近郊に建てられた住宅を訪問するが、まれに特別企画として首都圏外の住宅を取り上げることもある。番組の冒頭には、通算の放送回数が表示される。番組の中盤では、施主およびその同居家族、建物の完成年月、構造、敷地面積、建築面積、延床面積を紹介。番組の最後には物件の間取り図、建築費および坪単価を紹介するが、物件によっては費用が非公開となる場合もある。渡辺自身が建築に深い造詣を持つことから、施主・設計者の建築意図や設計思想にまで踏み込んだインタビューやコメントを行っている。渡辺は先入観を持たないようにするため、事前に資料を見ることなく撮影に臨む。テレビ朝日では1989年(平成元年)4月1日から放送されている長寿番組であり、2008年11月30日に放送1000回を達成し、2009年4月5日に放送20周年を迎えた。2019年2月2日に放送1500回、同年4月に30周年となる。そもそもは、桜前線とともに沖縄県から北上していく形で日本各地の建築物を訪問する旅番組としてスタートしたが、時折住宅にスポットを当てて紹介する回が好評であったため、住宅専門の番組へ軌道修正したという経緯がある。テレビ朝日における前番組も、『いきいき住空間』という新築住宅を紹介する番組であった。放送第1回では那覇市立城西小学校を、第2回では名護市役所庁舎を取り上げた。2003年12月をもって全編ハイビジョン収録となり、2011年7月24日まで行われていた地上アナログ放送およびスカパー!SDで2013年3月31日まで視聴できた朝日ニュースターではレターボックス16:9サイズの状態で放送されていた。一部のネット局限定であるが、字幕放送も行われている。どのような物件でも好意的に解釈する渡辺独特の言い回しは、モノマネ芸人のネタにされることがある。また漫画家の風間やんわりが、この番組を題材にしたギャグ漫画『あつし渡辺の探訪びより』を執筆している。この作品は、「あつし渡辺」というキャラクターが一般的なお宅拝見番組では取り上げられないような住宅(暴力団事務所、欠陥住宅、ゴミ屋敷など)を訪問するというもので、単行本には風間と渡辺による対談も収録されている。物件の部屋などの紹介が終わった後、渡辺が言う「わかりました」は、小堺一機やイジリー岡田がたびたびものまねしているが、これは「次の部屋へ行ってください」という意味のきっかけとして使われている。テレビ朝日系列で不定期放送されている『ダウンタウンがキャスターやりますスペシャル』で、松本人志が「建もの探訪の謎」というタイトルで「なんで建もの探訪のロケは毎回晴れなのか」と発言。これに対し関係者が「渡辺篤史さんが晴れ男だから」という回答をしている。2010年2月28日に、渡辺が同じく「建築物を扱うテレ朝の番組」である『大改造!!劇的ビフォーアフター』(朝日放送)のゲストとして出演し、番組内で渡辺がリフォームした家を訪問する「アフター探訪」という企画が放送された。なお、BGMは本番組のテーマ曲である小田和正の「between the word & the heart -言葉と心-」が使用された。
とるぱの海外での放送 日本国外でも、東南アジアの有料テレビ局 Life Inspired で『House Paradise』(ハウス・パラダイス)と題して放送されている(2017年3月時点)。音声は日本語のまま、英語・マレー語・中国語などの字幕が付く。
豊岡真澄の芸能界入り とるぱは、国土交通省道路局が平成16年度より取り組んでいる施策。撮影スポットと駐車場が整備されている所を「とるぱ」として指定している。なお、「とるぱ」とは、「撮る」「パーキング」の略称である。
臨月 (中島みゆきのアルバム)の解説 2007年11月3日、東京都内の会社員と結婚。2008年2月25日、京浜急行電鉄品川駅での110周年記念イベントにて妊娠5ヶ月目であることを明らかにし、同年3月31日に芸能生活から引退した。ホリプロ所属時最後の鉄道イベント出演は、前日3月30日に東京カルチャーカルチャーで行われたSUPER BELL"Zの『鉄道ナイト』となり、テレビでは2008年4月25日放送の「南田裕介出版記念 手書きポップで二刷を目指せ!!」が、『タモリ倶楽部』への事実上の最終出演となった。2008年6月27日朝、妊娠36週目で破水したものの3000g以上ある男児(長男)を自然分娩で出産。2010年3月2日朝、本人ブログにて二人目を妊娠中であることを公表し、8月23日に女児(長女)を無事出産した。芸能界からは引退したものの、鉄道関連のイベントやテレビには鉄道文化人・ママ鉄の立場で度々出演している。2018年6月現在、クラブサーモスやHanakoママWebでコラムを連載しているほか、様々な雑誌などの媒体で登場することがある。2018年5月に発売したサンデーGXに連載中の鉄子の旅3代目に、10年ぶりにゲスト旅人として登場し箱根を旅した。
台湾国際放送の概要 前作の暗く重い作風は影をひそめ、全体的に軽く吹っ切れた明るさが見られる作品。1981年の年間ヒットチャート第7位にランクイン。また、同年の第23回日本レコード大賞の'81アルバムベスト10に選ばれた。1982年にキャニオン・レコードよりCD化されており、現行盤のCDは2018年にヤマハ・ミュージック・コミュニケーションズから再発売されたもの(デジタルリマスタリングされた)。2011年、Tom Baker at Precision Mastering (Los Angeles) により新たにデジタルリマスタリングされたCDがクリスタルディスクにて発売された(規格品番:YMPCD-10017)。また、デジタルリマスタリングされたCDは、2012年10月25日より8枚組のBOXセット『中島みゆきBOX 私の声が聞こえますか〜臨月』にて通信販売限定にて発売された。
ガンヒルの決斗の概要 起源は、1928年、中華民国(国民政府)が中国・南京で放送を開始した「中央広播電台」(英語: The Central Broadcasting System:CBS)。国共内戦に敗れた中国国民党が台湾・台北市に移転した1949年以後は、党営会社「中国広播公司」が事業主となり、48年間にわたって、「自由中國之聲」(英語: The Voice of Free China、日本語名:自由中国の声)という名称で放送された。この間、中国大陸向け放送部門が独立して国防部の所管に移されたが、民主化が進んだ1998年、再統合されて「財団法人中央広播電台」が発足し、「中央広播電台・台北国際之聲」(Radio Taipei International:RTI、日本語名:台北国際放送)として再スタートした。中国向け放送は「中央広播電台・来自台湾的声音」と呼ばれている。2003年には現在の「英語: Radio Taiwan International:RTI、日本語名:台湾国際放送」に改称した。放送局は、台北市の円山大飯店の隣に位置し、28のスタジオを備えるほか、放送文物館を併設している。台湾の9つの送信所に送られ、総出力量は1万50kWに達し、アジア1位、世界的にも上位10位以内に入るとされる。使用言語は、台湾語、中国語、客家語、広東語、英語、ドイツ語、ロシア語、日本語、ベトナム語、タイ語、インドネシア語で、一週間あたりの放送時間数は2200時間を上回るという。短波放送が主であるが、一部は国内・近隣地域向けに中波でも放送される。また、「RTI FM」としてインドネシア語・タイ語・ベトナム語による国内向けFM放送も行われている。さらに11言語でホームページを開設し、デジタルラジオ放送(DAB)にも力を入れている。ボイス・オブ・アメリカ(VOA)、ドイチェ・ベレ、ラジオ・フランス・インターナショナル、ファミリーラジオ、ボイス・ロシア、ラジオ・オーストラリア、ラジオ・カナダ・インターナショナル、ラジオ・フリー・アジアなどと協力関係を結んでいる。なお、台湾在住のジャーナリスト本田善彦は、台湾国際放送の前身「自由中国の声」の記者兼アナウンサーとして中国広播公司に所属していた。
阿波牛のストーリー 森の中で2人のチンピラがインディアンの女を強姦し殺害する。女は子連れで、子供は難を逃れチンピラの馬を奪って保安官である父のもとに逃げ帰る。保安官は馬の鞍を見て、その持ち主がかつての親友であることに気付く。そして今では牧場主でガンヒル一帯を仕切る親友に会うため保安官は列車に乗る。
被害者非難の歴史 1962年(昭和37年)に小松島市農業協同組合が東京食肉市場での枝肉共励会に出品。1973年(昭和48年)には東京食肉株式会社と全国肉用牛協会主催による全国肉用牛共進会で小松島市農協の出品牛が名誉賞に選ばれた。1989年(平成元年)度の東京食肉市場での全国肉用牛共励会において、阿波牛が最優秀賞を獲得した。
セーブ (コンピュータ)のコンピュータゲーム コンピュータゲームにおいては、プレイを中断する際、現在の進行状態を保存し、次回にプレイするときにその時点から再開できるように処理することをセーブという。主に子どもの間では、この保存されたデータそのものを「セーブ」と呼ぶこともある(「セーブが消えた」など)。時代が進むと、自動的にセーブを行う「オートセーブ」のゲームソフトも増えた。また、2010年代には複数のハードウェアでセーブデータを共有できる「クロスセーブ」機能も登場する。
シレラー (ライフゲーム)の位置・広がり ソンドリオ県中部のコムーネ。ティラーノから西南西へ3km、県都ソンドリオから東へ21km、州都ミラノから北東へ110kmの距離にある。
伊達実元の生涯 大永7年(1527年)、陸奥国の戦国大名・伊達稙宗の子として生まれる。幼名は時宗丸。縁戚(実元の父方の祖母が上杉氏出身)である越後守護・上杉定実の養子に入ることになり(時宗丸の母が越後鳥坂城主・中条藤資の妹であることから選ばれたという)、定実から一字を拝領して上杉実元と名乗るなど準備が進められた。現在伊達氏の家紋として有名な「竹に雀」はこの時に名刀「宇佐美貞光」と共に実元に贈られた引出物である。ところが天文11年(1542年)、稙宗が越後に向かう実元に家中の精鋭100騎を随行させようとしていることを知った実元の兄・晴宗がこれに反発し、かねてから稙宗の政策に不満を抱いていた中野宗時・桑折景長ら重臣の支持を受けて稙宗を西山城に幽閉する。しかし、西山城からの脱出に成功した稙宗は晴宗に対して兵を向け、ここに南奥羽全域を巻き込んだ天文の乱が勃発した。実元は稙宗方に属して信達地方で奮戦したものの、乱が晴宗方の勝利に終わると実元は晴宗に降伏し赦免された。同時に越後でも入嗣反対派が抗争に勝利したため、実元の上杉氏への入嗣案は立ち消えとなった。乱後に晴宗が米沢城へと居城を遷すと、晴宗の二女を娶って大森城主となった実元が晴宗に代わって信達地方の統治を担うことになった。延宝7年(1679年)の「御知行被下置御帳」によれば、当時の実元の所領は信夫郡の内31か村、名取郡の内2か村であったという。甥・輝宗が当主となると、田村氏・相馬氏と戦い、隣接する畠山氏・大内氏ら近隣の小大名を伊達家の支配下へと組み込んでいった。天正11年(1583年)、嫡男・成実に家督を譲って八丁目城に隠居し棲安斎と号したが、隠居後も引き続き一門の長老として外交・調略に従事し、成実と共にたびたび政宗の苦境を救った。天正15年(1587年)4月16日、八丁目城にて死去。享年61。天保7年(1836年)、亘理伊達氏第12代当主・伊達宗恒によって大雄寺に実元の霊屋が建立された。この霊屋は、昭和49年(1974年)に成実霊屋・実氏霊屋と共に亘理町より文化財指定を受けた。
鷲羽山佳和の来歴 岡山県立琴浦高等学校(現・岡山県立倉敷鷲羽高等学校)を中退して、兄(後の十両・常の山)が所属していた出羽海部屋から1967年3月場所で初土俵を踏んだ。初土俵の際に同姓の力士が既に在籍しており四股名選びに困っていたところ、入門前に常ノ山が切り盛りしていた料理店で本人と面識を持った縁で常ノ山の若名乗りである鷲羽山を与えられ、以後引退まで鷲羽山で通す。身長173cmという入門規定ぎりぎりで合格し、小さい体で活躍した。1972年7月場所で十両に昇進、前場所の取組で負傷し、新十両の場所を全休する不運に見舞われたものの、1972年1月場所より採り入れられた公傷制度を十両力士として初めて適用されたことで、「十両の土俵に上がらないまま幕下陥落」という事態を免れ、実質的な新十両場所とされた1972年9月場所でも勝ち越しはできなかったものの、十両残留相当の成績を修めた。以降は負傷も回復し、新入幕を果たした1973年5月場所では、初日から8連勝するとともに大関・清國を破る殊勲の星を挙げるなど11勝4敗と大勝ちし、この好成績で敢闘賞を受賞した。1977年7月場所では、殊勲・敢闘賞が該当なく、技能賞の彼だけが三賞受賞者となるという珍しい状態になったこともあった。小柄ながら正攻法の相撲で、突っ張りや押し、いなしと言った多彩な技で長く土俵を沸かせた。『ちびっ子ギャング』の異名を取り、旭國、北瀬海らとともに小兵旋風を吹かせ技能派力士として人気を博した。北の湖には1975年11月場所8日目に金星を獲得、また新小結だった1976年3月場所4日目にも勝利している。この大横綱をして、「あの人は僕とは相撲の見方が違う」と言わしめた力士だった。ただし輪島に対しては極端に成績が悪く、初顔から18度戦って終に、一度も勝てずに終わった。小兵力士ながら36歳まで現役を務めており、大型力士が輩出した時代の中では特筆される。現役時代晩年には幕内と十両を往復していたが、その当時に黒船と称されるほどの快進撃を続けていた小錦八十吉を破り、話題になった。 1985年11月場所後に現役を引退して年寄・境川を襲名し、以後は出羽海部屋付きの親方として、後進の指導に当たった。1996年2月には、出羽海理事長(横綱・佐田の山)が理事長職に専念するため出羽海部屋の経営から離れることになったことを受けて、出羽海と境川の年寄名跡を交換して10代出羽海を襲名するとともに伝統ある出羽海部屋を継承した。2002年には、出羽海一門を代表して日本相撲協会理事に就任した。直弟子からは、小結・普天王、十両・出羽鳳、出羽平など、多数の関取を育てた。2010年3月31日に大関・把瑠都の昇進伝達式で使者を務めた際には、私服姿で夜の繁華街を闊歩したことなどで過去に2度の厳重注意を受けた例を引き合いにして「相撲も大事だけど、私生活もな。これからは、横綱みたいに注目されるのだから」と把瑠都に苦言を呈する異例の様子を見せた。同年1月場所直後に横綱・朝青龍が一般人への暴力行為を働いた不祥事を受けて引責引退したばかりであっただけにこの時期には外国人力士の品格が厳しく問われていた。出羽海は伝達式から引き揚げる際にも「上を目指して努力してほしいが、私生活でも気を引き締めてもらわないといけない」と改めて訴えた。2010年に発覚した大相撲野球賭博問題では執行部(事業部長)として、また弟子の野球賭博関与の監督責任で、名古屋場所謹慎の処分となる。場所中に入院した武蔵川理事長から場所後の理事長代行の指名を受けていたが、賭博問題を受けて発足した特別調査委員会の山口弘典の暴力団への維持員席のチケットが渡ったとされる問題で、山口の委員就任前に報告を受けながら黙認したことが問題となり、代行は場所中に努めた外部理事の村山弘義がそのまま務めることになった。2014年4月に停年(定年)を迎えることに伴い、同年1月場所後に元前頭2・小城ノ花の高崎親方と名跡を交換し出羽海部屋を継承させ、自身は15代・高崎を襲名した後、予定通り同年4月1日付で日本相撲協会を停年退職した。停年退職後の2016年12月20日、第49回日本プロスポーツ大賞授賞式で、スポーツ功労者文部科学大臣顕彰を受賞した。2018年3月26日、日本相撲協会の評議員に就任。
投入堂の構造 玄武岩層と凝灰岩層の切れ目にある岩陰を利用して、柱で床を支える懸造り(山などの斜面に建てられる半高床式の造り)で建設されている。構造は、懸造平入りで、正面二間、側面一間の母屋に高欄付きの縁を鍵の手状に巡らせている。母屋の屋根は桧皮葺き流れ造りで脇に落ち屋根のひさしが付く。投入堂の西側には、一間四方切り妻屋根の愛染堂が付属している。投入堂内部には7体の蔵王権現立像が安置されていた。岡倉天心、六角紫水らが明治36年に明治政府の依頼で調査した際の記録には「投入堂は丹塗り(朱色)」とあり、平成の保存修理の際に行なわれた塗装調査でも、少なくとも赤と白の顔料で彩られていたことが判明したほか、打越垂木(母屋から向拝柱の上に架け渡した垂木)木口に透かし彫りの飾り金具が取りついていたことがわかった。外部正面東脇間の壁板、正面高欄の平桁などに青色塗装痕も見られたが、これは筆による落書きではないかと見られている。
投入堂の建造時期 三徳山は修験道の開祖と言われる役小角が慶雲3年(706年)に開山し、嘉祥2年(849年)に円仁が三仏を安置して三佛寺と号したとされる。史料上では、寿永3年(1184年)に三徳山に「後白河天皇の御子(院の御子)と称する者がいた」とあり、これが三徳山に関する最初の記載である。投入堂に安置されていた正本尊である木造寄木造りの金剛蔵王権現(国の重要文化財)は仁安3年(1168年)の作である。投入堂の年輪年代学においては1100年前後とされているが、多くの建築史家が増築説を唱えており、堂内に安置されていた1000年前後の蔵王権現立像や長徳3年(997)の年号が残る鸚鵡文銅鏡が現存するなど、建造時期は定かではない。
投入堂の修理 大正3 - 4年(1914 - 1915年)に一部解体修理が行なわれ、平成15 - 18年(2003 - 2006年)にも保存修理が行なわれた。平成の修理では、投入堂の屋根部分葺替えを予定していたが、想定より腐朽が少ないことが判明し、葺替え規模が縮小された。これは、投入堂が北側の岩窟にあり、紫外線や雨水等の影響を受けることが少なく、建物が傷みにくかったことによるものとされている。
投入堂の参拝 投入堂内への入山は禁止されている。三仏寺裏手にある登山道を辿って近くまで行くことは可能だが(投入堂への道参照)、「日本一危険な国宝」と称されるほど危険であり、死亡事故も多発している。三仏寺前を走る県道21号線を三朝温泉方面から三徳山駐車場を過ぎたところに投入堂遥拝所もあり、無料の望遠鏡も設置されている。三徳川を挟んだ三仏寺の対岸の山から見る「投入堂遥拝コース」も設けられている。平成27年に鳥取県中部地震により中腹の岩にひび割れができ立ち入り禁止になったが、クラウドファンディングにより迂回路を設置し現在は参拝登山を行うことができる。
投入堂の評価 懸造りの建造物は全国に多数あるが、投入堂は年代の古さやアクロバティックな立地から、京都の清水寺本堂と並ぶ懸造り建築の双璧と評される。磯崎新、安藤忠雄、土門拳ら多くの人から重要な日本建築と評価されており、鳥取県では投入堂を含む一帯を世界遺産に申請するべく運動を続けている。
72時間の壁の日本での用例 日本のマスメディア報道における「72時間の壁」との表現の使用例はかつて無数に見られ、2016年(平成28年)4月14日発生の熊本地震や同年4月16日発生のエクアドル地震でも見られるが、同年8月24日に発生したイタリア中部地震では使用例が見られなくなった。代わって「発生から72時間」「発生(後)72時間」という表現に収斂した。ただし、極一部のマスメディアが2017年(平成29年)の7月の九州北部豪雨や、9月7日に発生したメキシコ地震(チアパス地震)で「72時間の壁」の表現を使用し、また『「発生後72時間」の壁』といった、イタリア中部地震の以前と以後を混交した表現の使用例も散見される。それでも日本のマスメディアは、発災時刻から72時間目が刻々と近付く状況を、かつては『生存率が急激に低下するとされる「72時間の壁」』、『迫る「72時間の壁」』等と表現していた。熊本地震(2016年4月14日発生)においてマスメディアの取材・報道の仕方に対して多数の批判が集まると、「72時間の壁」との表現は使用されなくなったものの、イタリア中部地震(同年8月24日発生)では『生存率が急激に低下するとされる「発生から72時間」』、『発生72時間迫る』等と表現を変えている。また、圧死の比率が高いという特徴を持つ兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)の統計に基づいたとされる用語を、溺死の比率が高く、津波被災住宅等での孤立が多かったという特徴がある東北地方太平洋沖地震(東日本大震災、2011年3月11日発生)に流用するには根拠の (2) に関する精査が必要であるし、地震に起因する被害ですらないセウォル号沈没事故(2014年4月16日発生)、広島土砂災害(2014年8月20日発生)、御嶽山噴火災害(2014年9月27日発生)、災害発生時刻が不明なサイクロン・パムによるバヌアツの被害(2015年3月15日夜 - 16日にかけて最接近)、小児が山林に置き去りにされた事案(2016年5月28日発生)にまで適用範囲を広げてしまっては、根拠の (2) は存在しないのと同然である。なお、国土交通省関東地方整備局の首都直下型地震への対応においても、「72時間の壁」を根拠として発災後48時間以内に取るべき行動を示したり、防衛白書においても平成25年(2013年)台風第26号における救助活動の考察において「72時間の壁」が用いられたり、政府広報でも「災害医療分野で生死を分けるタイムリミット」として「72時間の壁」が用いられたり、内閣府でも災害対策基本法の説明で「災害発生時の人命救助は、72時間が経過すると生存率が急激に低下するという『72時間の壁』」と記されたりなど、民間に限らず国の機関でもしばしば使用例がある用語となっている。
マローボーン家の掟のストーリー 1968年、ローズは4人の子供たち(ジャック、ジェーン、ビリー、サム)を連れてイギリスからアメリカの田舎町に移住してきた。彼女たちの新居であるマローボーン屋敷はローズの生家でもあった。ローズは子供たちにイギリスでの出来事を全て忘れるようにと強く言い聞かせた。子供たちが新天地での暮らしに慣れた頃、ローズは病に倒れそのまま帰らぬ人となった。亡くなる間際、ローズは長男のジャックを呼び出し「4人で一緒にこの家で暮らし続けなさい」「貴方が21歳になるまで私が死んだことは役所に届けないで。21歳になれば、貴方が3人の面倒を見る法的な権利を得られる。一家が離散しなくて済む。」と言い遺した。ローズの死から1年後、4人は遺言通りにマローボーン屋敷で暮らしていた。その間に幽霊騒ぎが発生したため、家中の鏡は撤去された。生活必需品の買い出しはジャックが行い、他の3人は家の敷地から一歩も出ない生活を送っていた。ジャックは唯一の友人であったアリーの付き添いの下、事務手続きを行うために弁護士(トム)を尋ねた。トムは素性不明のジャックに関心を持ち、ジャックたちの家を直接訪れることにした。手続きのための費用、200ドルを工面する必要に迫られ、ジャックはやむなく隠し財産に手を付けることにした。それはローズが夫から奪った金で、彼女本人はそれを使うことを良しとせず、「呪われた金」と呼んでいた。4人は「呪われた金」を使ったばかりに自分たちが祟られると確信していた。翌日、ビリーは「呪われた金」の残りを焼却したが、屋敷では再び幽霊が目撃されるようになった。幽霊の正体は4人の父親(サイモン)であった。サイモンは凶悪な犯罪者であったが、ジャックの証言がきっかけで有罪判決を受けたものの、後に脱獄したのである。ローズは彼から逃れるためにアメリカへ移住した。ところが、彼女の死の半年後にサイモンは屋敷に姿を現したのである。報復を怖れたジャックは、サイモンを屋根裏部屋に閉じ込めて餓死させた。その頃、トムは4人の過去について独自の調査を進めており、真実の一端に辿り着いていた。しかし、真実はトムが予想していたよりもはるかに闇の深いものであった。
マローボーン家の掟の製作・公開 2016年5月10日、セルヒオ・G・サンチェスが本作の監督に起用されるとの報道があった。7月8日、アニャ・テイラー=ジョイがキャスト入りした。2017年9月11日、本作は第42回トロント国際映画祭でプレミア上映された。
マローボーン家の掟の評価 本作に対する批評家からの評価は伸び悩んでいる。映画批評集積サイトのRotten Tomatoesには63件のレビューがあり、批評家支持率は46%、平均点は10点満点で5.2点となっている。サイト側による批評家の見解の要約は「『マローボーン家の掟』の設定は面白そうなもので、出演者にも実力のある俳優が揃っている。しかし、それらを以てしても、人物造型の薄っぺらさとストーリーに真正の恐怖が欠けているという欠点は補えなかった。」となっている。また、Metacriticには5件のレビューがあり、加重平均値は63/100となっている。
サンセットビーチ銭函の概要 日本海に開けた石狩湾の奥部に形成された長い砂浜の一部を利用した海水浴場(汀線全長 約260m)であり、星置川河口の南に位置する。南に銭函ヨットハーバー(汀線 約250m)と隣接し、さらにその南隣には銭函海水浴場(汀線 約480m)がある。毎年の開設期間は7月初旬から8月末まで。
サンセットビーチ銭函の遊泳区域外 北海道は、2004年(平成16年)4月1日、プレジャーボート等と水域利用者(遊泳者、遊漁従事者、漁業従事者)との間で頻発する水難事故等を未然に防止すべく「北海道プレジャーボート等の事故防止等に関する条例」を施行した。係る条例の指定地となったサンセットビーチ銭函には、指定された他の海水浴場と同様、このとき以来、プレジャーボート等が進入できない「水域利用調整区域」が設けられている。加えて、海水浴場内遊泳区域と隣接するヨットハーバー(全域が水域利用調整区域)との間にバナナボートが通行する水路(バナナボート用水路)を緩衝区域として設けることでも遊泳者の安全が図られている。なお、バナナボート用水路は海水浴場(および、その沖合いに設定された水域利用調整区域)の水域に属する。
チャットルーレットの概要 ロシア連邦・モスクワ在住の17歳の高校生、アンドレイ・テルノフスキー(Andrey Ternovskiy)によって、2009年11月に作成された。サービスを開発した理由はスカイプに飽きたから。開設当初は友人の間で利用されており利用者数も300人程度だったが、2010年2月時点では一晩で2万人からの接続を稼いでいる。Google Zeitgeistで、2010年の急上昇ワード1位に選ばれている。
チャットルーレットの問題点 無料で利用出来るためマナーを守らないユーザーも多く存在する。 中には、下半身を露出させてWebカメラに写すなどわいせつ目的で利用するものも多い。
南末広町の地理 徳島市及び市街地の東部に位置し、吉野川下流デルタ地帯の一角をなす。新町川の河口部に当たり、徳島港の一部をなす。また、かつては一面の湿田、カヤ原・廃塩田で人家もまばらであったが、新町川が埋め立てられ、末広埠頭となった。徳島フェリーが運航され、すぐ下流の沖洲埠頭とともに徳島の新しい海の玄関口となっている。地内西部にはかつて有料道路であった末広大橋が新町川に架かっている。
南末広町の歴史 元は末広町の一部で、昭和41年に現在の町名となった。徳島港の整理が進むにつれ急速に変化・発展した。
白雲宗の開創 清覚(1043年 - 1121年)が、徽宗の大観年間(1107年 - 1110年)に、浙江杭州に「白雲庵」を創建したのに始まり、一時はその勢力が江南で最大となったが、明朝が成立して以後、禁圧を被った。
白雲宗の教義 白雲宗は、『華厳経』を所依の経典としており、儒・仏・道の三教合一を標榜した。清覚は孔氏の出身であったため、孔子の末裔を自称し、また仏教の「四果位」を発展させて「四果十地」を説き、禅宗の思想に反対した。
白雲宗の南宋代 南宋の時代には、白雲宗は合法的な地位を獲得し、菜食を提唱し、妻子を娶らないことを主要な教義として、在家信徒を吸収していった。寧宗の慶元・嘉泰年間(1195年 - 1204年)に、禁止されている。
白雲宗の元代 元朝が南宋を滅した後、白雲宗の勢力は更に発展し、その衆徒は数十万人に達し、全て皆な出家を名目として賦税の納付を拒否した。是に成宗の大徳7年(1303年)、政府が宗派に対する田産輸租及び衆徒に対する賦役の負担を要求した。一定の整頓を経た後、武宗の至大元年(1308年)、白雲宗は再度合法的な地位を獲得した。仁宗の延祐2年(1315年)、宗主の沈明仁が栄禄大夫・司空等の栄誉職を授与された。但だ暫くして、元朝政府は再度白雲宗を弾圧した。延祐6年(1319年)、沈明仁が罪に坐して投獄された。延祐7年(1320年)、朝廷は詔して白雲宗僧を還俗させた。英宗の至治3年(1323年)、今度は白雲宗田を籍没した。明朝が成立して後、白雲宗は禁圧を被り、久しからずして瓦解し、その衆徒の一部は、白蓮教に加入した。
PPARγの遺伝子 PPARγはPPARGと呼ばれる遺伝子によりコードされる。PPARの各アイソフォームは遺伝子の選択的スプライシングの産物である。PPARγの遺伝子は5'末端側からA1,A2,B1と呼ばれるエキソンがあり、それに引き続いて各アイソフォームに共通のエキソン1-6が位置している。PPARγ1-3は5'末端側のエキソンがそれぞれ異なっており、PPARγ1の5'末端はエキソンA1とA2から構成されているのに対して、PPARγ2はエキソンB1、γ3はエキソンA2からなる。なお、PPARγ遺伝子を欠損したマウスは胎生致死である。
PPARγの発現組織 PPARγ1は脂肪組織や免疫系細胞、腎臓、肝臓、骨髄、胎盤、血管平滑筋などに、γ2は脂肪細胞をはじめとして幅広く発現している。
PPARγの転写活性化システム PPARγは9-cis-レチノイン酸をリガンドとし核内受容体の一種であるレチノイドX受容体 (RXR) とヘテロ二量体を形成し(RXRはビタミンD受容体など他の核内受容体とも複合体を形成する)、DNA上のPPAR応答領域 (PPRE) に結合する。PPREはコア配列 (5'-AGGTCA-3') を同一方向に2回繰り返したいわゆるダイレクトリピート型とよばれる型の核酸塩基配列 (DR1) であり、それぞれのコア配列の間には塩基を1つ挟む(5'-AGGTCA-N-AGGTCA-3':Nは任意の塩基)。PPARγは分子構造の変化によりDNAとの相互作用が可能となるが、これを受容体の『活性化』と呼んでいる。PPARγの活性化はリガンド依存的なものと非依存的なものとが存在しており、それぞれAF-1およびAF-2の活性化ドメインが重要となる。リガンド非依存的な活性化に関してはよくわかっていないところが多いが、転写共役制御因子(コリプレッサー)であるN-CoRやSMATの存在下にDNAと結合して標的遺伝子の発現を抑制する。N-CoRやSMATはヒストンの脱アセチル化に関与する酵素HDACと複合体を形成することで発現される酵素活性によってクロマチンを密な状態に保ち、転写を負に制御する。この機構は"Active Repression"と呼ばれる。一方、PPARγのリガンド結合ドメインにリガンドが結合すると受容体蛋白質の構造変化によりN-CoRなどのコリプレッサーが解離する。これによりAF-2領域のLXXLLモチーフに活性化補助因子(コアクチベーター)が結合することができるようになる。コアクチベーターはヒストンアセチル化活性(HAT活性)を有するCBP/p300などから構成される複合体であり、PPARγへリガンドが結合することでリクルートされ、転写の活性化を引き起こす。この複合体は、1) HAT活性を有するタンパク質複合体、2) PPARγと基本転写因子複合体(ホロ酵素)を橋渡しするHAT活性を持たない転写共役因子複合体(TRAP/DRIPなど)、3) クロマチンリモデリングに関与する複合体(SWI/SNF複合体など)から形成される。ヒストンのアセチル化はヒストン構造中にあるリジン残基の正電荷の中和を引き起こし、DNAとの結合が緩められる結果基本転写因子やRNAポリメラーゼがアクセスしやすい状態になる。また、PPARγの活性化レベルはリン酸化により制御されていると考えられている。核内受容体の中ではエストロゲン受容体 (ER) αが比較的研究が進んでおり、ERαのAF-1の中にあるSer118はMAPキナーゼによりリン酸化を受けることが報告されている。一方で、PPARγがリン酸化されることでその活性が抑制されることも報告されている。MAPキナーゼファミリーの一員であるERKはPPARγのA/Bドメインに存在するSer112をリン酸化するとされており、同ファミリーに属するJNKもまたSer82をリン酸化を行い、いずれの場合もPPARγの転写活性を減退させる。
PPARγの抗糖尿病作用 脂肪細胞はレプチンなどのアディポサイトカインと呼ばれる生理活性物質を産生しており、アディポサイトカインはその作用から善玉と悪玉に分けられる。善玉アディポサイトカインの中でもアディポネクチンは膵臓から分泌されるインスリンへの感受性を亢進させる作用を有し、血糖降下作用の発現に寄与することで注目されている。アディポネクチン遺伝子のプロモーター領域にはPPAEが存在し、脂肪細胞の分化に必要不可欠な分子であるPPARγが結合することでアディポネクチンの産生が促進される。また、PPARγアゴニストは前駆脂肪細胞からアディポネクチン産生能を有する小型脂肪細胞への分化誘導と肥大化した脂肪細胞のアポトーシスにより脂肪細胞サイズの小型化を引き起こす。小型化した脂肪細胞はアディポネクチン産生量の亢進に加えて炎症性サイトカインであるTNF-αの産生量低下などインスリン感受性の増強を引き起こす。一方、TNF-αは肥大化した脂肪細胞においては産生量が増加しており、インスリンのシグナルを抑制するため(インスリン抵抗性)、血糖値を上昇させる。
PPARγの抗動脈硬化作用 動脈硬化病巣の形成には血液中の単球に由来するマクロファージが重要な役割を果たしている。単球は血管壁に入り込んだ後にマクロファージへと分化し、細胞表面に発現したスカベンジャー受容体を介して酸化LDLの取り込みを行う。この取り込みに寄与するスカベンジャー受容体の代表的なものとしてCD36やクラスAスカベンジャー受容体(SR-A)が知られており、CD36はPPARγの活性化により発現が増強することが報告されている。大量のコレステロールエステルを取り込むことでマクロファージは細胞内に脂肪滴を蓄積した泡沫細胞に変化する。泡沫細胞が血管壁に蓄積すると血管壁が肥厚化するため、血管内腔が狭くなる。しかし、実際にはPPARγアゴニストは動脈硬化を抑制する作用を示す。そのメカニズムの一つとして提唱されているのがコレステロール逆輸送系の賦活化である。これは組織あるいはマクロファージに発現するABCA1やABCG1とよばれる輸送タンパク質などの働きによりコレステロールを細胞外に排出する経路であり、脂質の沈着を抑制する。PPARγアゴニストによるABCA1の誘導には少なくとも2つの経路が提唱されており、1) PPARγへのリガンドの結合で核内受容体の一つであるLXRαが誘導されることによりABCA1の発現量が亢進するという経路と、2) PPARγが代謝酵素シトクロムP450の一つであるCYP27 (sterol 27-hydroxylase) の発現を誘導し、LXRαのリガンドであるオキシステロールを生成するという経路である。PPARγアゴニストの抗動脈硬化作用はいくつかの大規模な臨床試験でも検討されている。そのひとつとして2型糖尿病患者を対象に行ったPROactive試験が挙げられ、PPARγアゴニストであるピオグリタゾンを使用した患者群において心血管イベントが減少傾向を示している。また、CHICAGO試験ではピオグリタゾンの投与を受けた患者群において動脈硬化度の指標である内中膜複合体厚(IMT)が減少するという結果が得られている。
PPARγの骨代謝 骨代謝に関与する骨芽細胞は転写因子Runx2とOsterixの働きにより分化することが知られている。骨芽細胞は脂肪細胞や筋肉細胞、軟骨細胞と共通の前駆細胞(間葉系幹細胞)を有するため、これらの細胞の分化は互いに関連が見られる。PPARγは間葉系幹細胞から脂肪細胞への分化を促進する一方で骨芽細胞への分化を抑制しており、さらにNF-κBおよびMAPキナーゼの活性化抑制により破骨細胞への分化促進を行うことも報告されている。PPARγアゴニストであるチアゾリジン誘導体の投与は骨折のリスクを上昇させることがRECORD試験やADOPT試験により示されている。
PPARγの抗腫瘍作用 PPARγは乳癌や大腸癌、膵臓癌、前立腺癌、肺癌など様々な癌細胞において発現していることが確認されている。PPARγの抗腫瘍効果発現の機序としてまず挙げられるのが細胞増殖抑制である。細胞の増殖には細胞周期と呼ばれるサイクルが深く関与しており、G1期→S期→G2期→M期の順に進行する。PPARγリガンドはG1期での細胞周期進行を抑制することで細胞増殖抑制を引き起こす。その詳細なメカニズムとして提唱されているのは細胞周期進行に関与し、サイクリン依存性キナーゼ阻害因子の一つであるp27Kip1の発現量亢進であり、ユビキチン-プロテアソーム経路の阻害がその原因であると考えられている。ユビキチン-プロテアソーム経路とはタンパク質の分解を司る系であり、ユビキチン修飾を受けたタンパク質が特異的にプロテアソームと呼ばれる酵素複合体に取り込まれ、分解を受ける。p27Kip1のユビキチン化にはskp1というタンパク質が関与しているが、チアゾリジンジオン系薬剤はskp1の発現量を減少させる効果があり、その結果G1期の進行を停止させる。また、腫瘍細胞のアポトーシス誘導も抗腫瘍効果の一因であると考えられており、そのメカニズムにはp53タンパク質の関与が示唆されている。さらに、血管新生の抑制も引き起こすということが提唱されており、VEGFと呼ばれる増殖因子の働きを抑制すること神経膠芽腫やルイス肺癌細胞において報告されている。その一方で、前立腺癌細胞や骨芽細胞ではVEGFの発現が増強することが報告されており、抗腫瘍効果があると一概にまとめることができるかについてはまだ議論の余地がある。
PPARγの抗炎症作用 PPARγ活性化によりもたらされる抗炎症作用については数多く報告されている。中でも特筆すべき事項として炎症・免疫関連転写因子であるNF-κB活性化抑制作用が挙げられる。関節リウマチや気管支喘息などの炎症性疾患ではNF-κBの活性化が報告されており、NF-κBは炎症性遺伝子プロモーター領域に結合して各種サイトカインや細胞接着分子などの産生を促す。PPARγはリガンド依存的にNF-κBのDNA結合を抑制することで炎症反応に対して抑制的に働く。
尾上部屋の歴史 2006年(平成18年)8月1日に三保ヶ関部屋の部屋付き親方である年寄・17代尾上(元小結・濱ノ嶋)が、幕内・把瑠都ら内弟子6人を連れて三保ヶ関部屋から分家独立する形で尾上部屋を創設した。17代尾上の出身校である日本大学の相撲部出身者を多数入門させており、独立の際には三保ヶ関部屋に在籍していた日本大学出身力士は、柳川を除く全員が尾上部屋へ移籍した。17代尾上は自身の妻の出身地である東京都大田区池上に部屋を構えた。大田区に設立された初の相撲部屋である。当初は仮屋敷だったが、その後、2010年6月12日に正式な部屋開きを行った。現在まで大関・把瑠都など6人の関取を輩出している。所属力士の数は10人に満たず、その半分が関取だった時期もあり、付け人やちゃんこ番の不足に悩まされていた。2011年に発覚した大相撲八百長問題に関しては、所属力士である境澤・山本山・白乃波の3人が引退勧告処分を受け、17代尾上は監督責任として委員から年寄への降格処分を受けた。さらにその直後の4月18日には酒気帯び運転の道路交通法違反の疑いで摘発され、年寄に10年据え置きの処分を受けたが、据え置き処分は2014年に解除された。2017年9月場所で里山が幕下に陥落し、部屋創設以来初めて関取不在となった。
尾上部屋の旧・尾上部屋 年寄・尾上の名跡は以前は高砂系で、10代尾上(元十両・野州山)が1955年に亡くなるまで尾上部屋を経営していた。1957年9月場所に入幕した高砂部屋の及川が入門時には尾上部屋に所属していた。
超高層マンションの世界最高層の超高層マンション 世界最高層の超高層マンションは、世界の超高層マンションの一覧を参照のこと。
超高層マンションのアメリカ合衆国 ニューヨークでは、早くも20世紀前半・世界大恐慌の前後には高層アパートメントの建築ラッシュを迎えている。同時期、同市セントラル・パークの西側沿いには、「サン・レモ(The San Remo)」(1930年、27階建て)、「エルドラード(The Eldorado)」(1931年、30階建て)、「センチュリー・アパートメント(The Century Apartment)」といった、主にアールデコ様式を用いた何れもツイン・タワー形式のアパートが計5施設完成している。これらのアパートは現在でも歴史的建築物として保存され、ステータスを備えた超高級アパートメントとして高額で売買が行われている。第二次世界大戦後には、同市マンハッタンのミッドタウンやアッパーイースト地区には無数の高層アパートメントが林立するようになった。欧米における集合住宅の居住形態ではベランダやバルコニーが必要とされないため、それらの建物の外観はオフィスビルやホテルなどとの区別が付き難いことが多い。2001年、マンハッタン東部、国際連合本部ビルの正面に完成し、不動産王ドナルド・トランプが所有する「トランプ・ワールド・タワー(Trump World Tower)」(262m、72階)は、1990年代以降に西半球で建設された高層ビルとしては最高の高さである。住居専用の建築としては現在でも西半球で最高層となっている。同ビル1階には日本料理店が入居するほか、日本人MLB選手が居住していることでも知られる。
超高層マンションのヨーロッパ 欧州では、1960年代にピークを迎えたが、ロンドンでの爆発事故等1970年代抑制傾向が目立ち、公営住宅が連想されるなど、一般的にはあまりよいイメージを持たれていないという。
超高層マンションの日本 旧来戸建の持ち家に住むことへのこだわりが強く、災害(地震・火災)の面からも高層居住への不安が強かった日本では、高層共同住宅の整備は進まなかった。また、高層建築物に対応できる消防車(高機能なポンプ車・高層用はしご車など)が配備出来ていない自治体も多かった(現在は11階以上にスプリンクラー設備設置が義務化)。しかしながら1974年(昭和49年)、鹿島建設が自社の社宅「椎名町アパート」(東京都豊島区、18階建て)をRC構造で建設したことでマンションの高層化が可能であることが立証された。その後、1976年(昭和51年)に住友不動産が埼玉県与野市(現在のさいたま市中央区)に21階建て、高さ66mの分譲マンション 「与野ハウス」を竣工させ、これが日本における高層マンションの第1号とされる。当初は、容積率や日照権などの問題から、超高層マンションを建てるには広い土地が必要であり、土地取得のし易い郊外や河川沿いなどに立地する例が多かった。1997年(平成9年)、規制緩和の一環として容積率上限を600%まで、日影規制の適用除外とする「高層住居誘導地区」が、第140回国会において議決され、また、廊下・階段等を容積率の計算から除外する建築基準法の改正案が成立した。これにより、超高層マンションの建設は急増、東京都心や湾岸地域などで住居が大量に供給されたことにより、都心回帰と呼ばれる現象も惹起した。その後、大都市近郊の鉄道沿線や地方都市などにも超高層マンションが多く建設されるようになった。現在日本で最高層の超高層マンションは、大阪市中央区の「The Kitahama」(54階建、高さ209m)である。計画中のもので最高層のものは東京都港区の「虎ノ門・麻布台地区 B-1街区」(64階建、高さ262.81m)で2022年度に完成予定となっている。タワーマンションは、デベロッパーによる子育て層を対象にした営業活動もあり、入居者はファミリー層が多い。大型タワーマンションの場合、1棟あたり1,000戸以上あり、一つの町とも言えるものであり、大規模マンション、タワーマンションが丁目を占めている地域もある。周辺に生活に必要な様々な店が開業してコンパクトシティを形成しているが、初期のタワーマンションでは住人の高齢化に伴い、すでに保育所などの数は少ない傾向がある。
超高層マンションの長周期地震動との共振の可能性 超高層建築物の固有振動の周期は低層の建物に比べ長いので、地震動の周期の長い海溝型巨大地震の地震動との共振の可能性が最近は指摘されるようになった。日本の超高層ビルの歴史は浅く、実際の海溝型巨大地震を経験した超高層ビルはない為に経験的予測はできず、シミュレーションに頼るしかない。制震工法や免震工法で建設される超高層マンションが最近では少なくないが、いずれにせよ海溝型巨大地震の長周期地震動との共振に備えて家具の固定が推奨されている。さらには、地震でエレベーターが停止すると、上階の住人が移動手段を失うという「高層難民」の発生も懸念されている。
超高層マンションの管理組合運営の難しさ 超高層マンションは、規模が大きく区分所有者の人数も多くなる。さらに、超高層マンションの購入者が重視するポイントに眺望が挙げられ、低層階と高層階との価格格差が大きくなることが一般的であり(数倍となることも見られる)、それによる区分所有者間の所得・資産格差の大きさが、管理組合運営へ影響しやすい。
超高層マンションの健康面 環境が人体に与える影響を研究する東海大学医学部の逢坂文夫は、高層階に住むと女性の流産率が高まり、子供が低体温やアレルギー疾患になりやすいと述べている。
超高層マンションの高齢化 団地と超高層マンションは、完成年と形状(建築物の構造)こそ異なるが、多数の住民が短期間に増える点は共通しており、同じ問題を抱えている。2016年時点で、既に初期の超高層マンションでは、かつての団地と同じく居住者の高齢化が始まっている。都市の人気エリアであっても、急激な高齢化によって、医療や介護の施設は足りるのかといった、山村と同じ問題に直面するという意見もある。
チ・ボラグの経歴 1974年馬頭琴史上初めての「馬頭琴演奏法」(モンゴル文字・中国文字)を出版1979年三十周年国慶節イベントに「万馬のとどろき」(中国名:万马奔腾)は、作曲二等賞、演奏一等賞を受賞1986年世界で初めて馬頭琴演奏隊を設立 ーー 斉・宝力高野馬馬頭琴演奏隊1988年モンゴル国で中国人として初めての馬頭琴演奏会を開き、モンゴル国首都ウランバートル市で個人馬頭琴独奏会を行われた1993年日本大阪市国際音楽コンクールで特別賞を受賞1993年日本福島市国際青年音楽祭で大使賞を受賞1996年中国全国馬頭琴コンクールで大師賞を受賞1997年日本横浜市国際平和文化音楽芸術祭で国際音楽平和賞を受賞2001年「馬頭琴と私」(モンゴル文字・中国語・日本語)を出版2001年フフホト市で第一回国際馬頭琴芸術祭を開き、ギネス記録を作り、「万馬のとどろき」が国際ギネス大全に収録2003年モンゴル国社会科学院とチンギスハン大学から世界遊牧文化最高賞:チンギスハン賞を受賞2005年世界の最高音楽殿堂:Goldener Saal Wiener Musikvereinsで馬頭琴演奏会を開く2007年中国国家文連、国家文化部から無形文化財人間国宝に認定、文明伝承大師の称号を授与2008年8月8日120名のチームを率いて、中国人民の代表として北京オリンピック開幕式曲を「万馬のとどろき」を演奏した2009年7月15日内モンゴル自治区政府から内モンゴル自治区文学芸術傑作貢献賞を授与、金メダルを受賞2015年1月”2014中華文化人物”という称号を授与チ・ボラグ
徳田良仁の略歴 宅地建物取引士。1984年生まれ、東京都出身。大手広告代理店セプテーニ(株)入社、その後SBIグループを経て2012年よりカンボジアの首都プノンペンの金融機関に勤務。2013年に独立し日本とカンボジアに拠点を持ち、国内・海外の国際不動産サービスを展開。著書『東南アジア投資のラストリゾート カンボジア(黄金律新書)』を幻冬舎より出版。
閉鎖病棟の対象とされる患者 2005年、ネット広告代理店セプテーニ入社。2011年、広告代理店SBIマーケティングへ転職。その後、カンボジアに渡って仕事をしていた元同僚のところへ旅行も兼ねて訪問したところ、活気あふれる魅力的な土地に魅せられ会社を退職、現地在住権を取得し移住した。日本とカンボジアの不動産投資の合弁会社に籍を置き、日本人向けに銀行・証券口座開設や進出支援、サービスアパートの建設などに携わる。また、異国ライフを満喫するとともに、自己資金で現地不動産投資を始める。2012年、合弁会社の日本側企業の撤退で解散を余儀なくされるが、現地の投資環境の良さとカンボジアの成長を肌で感じていたことから、独立を決意。2013年、合弁会社を引き継ぎ、新に金融・不動産投資コンサルティングなどを行う現地法人を設立。2015年、東京に本社を設立し宅地建物取引業を取得。国内不動産・海外不動産を中心に、資産形成のコンサルティングを行う。
そらあすかの呼称をめぐって 呼称をめぐっては富士急ハイランドのお化け屋敷「戦慄の閉鎖病棟 迷宮篇」が患者の家族団体から申し入れにより戦慄迷宮に変更されている。RENEGADE KIDが開発、日本ではインターチャネル・ホロンが販売を担当したニンテンドーDS専用「DEMENTIUM 閉鎖病棟」が日本精神科病院協会(日精協)から販売差し止めなどを求められていた。抗議文によると『「閉鎖病棟」は精神科病棟として法律上認められた治療環境の名称であり、またゲーム内にも、「統合失調症」「抗精神病薬」等、精神科の病名や薬剤名が使用されております。このようなグロテスクなホラーゲームに精神科の固有名称を用いることは、社会復帰に向け、懸命に治療に取り組んでいる患者様、医療関係者を冒涜し、ひいては精神障害者の方々や、精神科医療に対する差別・偏見を助長する虞があります。 』としている。
レオナルド・ウルヘエスの経歴 日本大学芸術学部映画学科卒業。トキワ荘プロジェクト出身で、在荘時に『戦国武女子、参る!〜いっそ武将に仕えたい〜』でデビュー。夫の羽咋あみも漫画家。
同人の同人の来歴 3歳上の兄の影響で二ツ井町立二ツ井中学校(現能代市立)入学後からバレーを始める。この時代からWSだった。中学2年から秋田県選抜に選ばれ、2002年中学3年時にJOCジュニアオリンピックカップに出場している。2003年、強豪・秋田県立雄物川高等学校へ進学する。この頃から名を挙げユース代表候補にも選出、2005年春高バレーでは注目選手の一人としてメディアに扱われている。2006年、筑波大学へ進学する。3年先輩が丸山祥二・三上圭治郎、2年先輩が永野健・菅直哉、1年先輩が鈴木悠二にあたる。同年大学1年時に、全日本インカレ準優勝に貢献している。2010年、V・チャレンジリーグのつくばユナイテッドSun GAIAに入団するも、1年で退団する。2011年、VチャレンジのジェイテクトSTINGSに入団する。このシーズン準優勝に貢献し、同年のVチャレンジ・マッチ(入替戦)でJTサンダーズと対戦するも昇格はならなかった。ここでも1年で退団することになる。2012年、JTサンダーズに入団する。2018/19シーズンをもってJTを退団。
ニコライ・ニコラエヴィチ (1856-1929)の生涯 ニコライ大公はロシア皇帝ニコライ1世の三男ニコライ・ニコラエヴィチ大公と、その妻アレクサンドラ・ペトロヴナ大公妃との間に生まれた。ニコライは父と名前および父称が全く同じであるため、息子のニコライには「若い」を意味するムラーチー(Младший)を付け、父のニコライには「年長」を意味するスタールシー(Старший)を付けて区別する場合がある。父大公も軍人であり、1877年の露土戦争では元帥としてドナウ川方面での戦いを指揮した。また、ニコライはロシア皇帝ニコライ2世の同族の従叔父にあたった。皇帝一族はこの2人をも区別するため、ニコライ大公を「ニコラーシャ」と呼び、皇帝の方を「ニッキー」と呼んでいた。またニコライ大公は長身で、小柄なニコライ2世とは非常に身長差があったため、前者を「背の高いニコライ」、後者を「背の低いニコライ」と呼んで区別する場合もあった。
ニコライ・ニコラエヴィチ (1856-1929)の軍歴、政治的役割 ニコライは、ニコライ工兵学校で学び、1873年に任官した。1876年、ニコライ参謀本部アカデミーを卒業。1877年に始まった露土戦争では総司令官を務める父の参謀を務めた。ニコライはこの戦争で2度戦功を立て、四等聖ゲオルギー勲章と金製武器を授与されている。1878年、近衛驃騎兵連隊に配属され、中隊長、大隊長を務め、1884年には連隊長に任じられた。ニコライは軍人として順調に出世、1890年11月に第2親衛騎兵師団第2旅団長、同年12月に師団長となった。大公は気骨のある司令官と評価され、また麾下の軍隊の尊敬を集めてもいた。彼は戦闘における指揮官というよりは兵士の訓練教官に向いた性格だった。ニコライは非常に信心深い人物であり、朝でも夜でも食前食後は祈りを欠かすことが無かった。田舎にいるのが大好きで、自分の領地の管理をしたり狩猟をするのを趣味にしていた。また穏健派ではあったが、汎スラヴ主義を奉じる国粋主義者だった。1895年、ニコライは騎兵総監を務めることになり、以後10年間この職務にあった。騎兵総監の地位にあるあいだ、ニコライは将兵の訓練と騎兵学校の改革を行い、騎兵と騎馬をより効率よく供給・確保するよう努めて、成功をおさめることが出来た。ニコライ大公は日露戦争では司令官の地位を与えられなかったが、これには皇帝ニコライ2世の思惑があった。皇帝はもし皇族を司令官として敗北した場合にロシア帝室の威信が傷つけられるのを避けようとしたのと、国内情勢が不安な時に、忠誠心厚い将軍をそばに置いておきたいと考えたのだった。このため、ニコライ大公は戦場で采配を振る機会を逸した。1905年6月、陸軍と海軍の活動を調整する国家防衛会議(1908年7月に解散)議長に就任し、参謀本部の軍事省からの分離を実現した。ニコライ大公は1905年のロシア第一革命では極めて重要な役割を果たすことになった。無政府状態が拡大し、ロマノフ王朝の未来が風前のともしびとなりつつある中で、皇帝ニコライ2世はセルゲイ・ヴィッテ伯爵の提案する立憲君主政体への改革案を受け入れるか、軍事独裁体制をしくかの選択を迫られた。大公は皇帝が軍事独裁のクーデタを起こす場合でも、軍隊の忠誠を皇帝につなぎ止めておける唯一の人物であった。皇帝は後者の選択肢を選び、ニコライ大公に軍事独裁官の地位を与えようとした。しかしニコライ大公は独裁官に就任するのを拒否し、おもむろにピストルを取り出すと自分のこめかみに銃口をあて、もしヴィッテ伯爵の改革案を了承しないのならば、この場で自殺すると皇帝を脅したのである。大公の脅しに動揺したニコライ2世は、立憲君主制への改革に踏み出すことを決意した。1905年から第一次大戦開始まで、ニコライ大公は、親衛隊とサンクトペテルブルク軍管区の総司令官を務めていた。大公は低い出自の者でも分け隔てなく高い地位に取り立てたので、評判を高めた。敗北に終わった日露戦争の屈辱を、大公は自分の部下たちにしっかりと覚えておかせた。1907年、ニコライ大公はモンテネグロ王ニコラ1世の娘アナスタシヤ・ニコラエヴナと結婚した。アナスタシヤはニコライ大公自身の弟ピョートル大公の妻ミリツァ・ニコラエヴナ大公妃の妹で、ロイヒテンベルク公爵と離婚したばかりだった。この結婚は幸福なものとなった。大公夫妻はどちらも非常に敬虔な正教徒であり、また二人とも神秘主義に傾倒していた。アナスタシヤは出身国モンテネグロの反トルコ感情の強い環境で育ったためか、極端なスラヴ民族主義者であり、このことは大公の汎スラヴ主義志向にますます拍車をかけた。大公夫妻には子供はいなかった。
ニコライ・ニコラエヴィチ (1856-1929)の第一次世界大戦 第一次世界大戦に向けた作戦計画と戦争準備はウラジーミル・スホムリノフとその幕僚たちの責任のもとで行われていたため、ニコライ大公はこの時点では何の役割も担っていなかった。第一次大戦がいよいよ始まる段になって、自分が最高司令官を務める気でいたニコライ2世は、やめてほしいという大臣たちの懇願に根負けし、1914年7月20日、従叔父のニコライ・ニコラエヴィチ大公を帝国軍最高司令官に任じた。ニコライ大公は57歳になっていたが、まだ戦場で総司令官として采配を振ったことは一度もなかった。彼は自分がこれまで一度も率いたことのない規模の巨大な軍隊を統率する責務を負わされた。ニコライ大公はドイツ、オーストリア=ハンガリー、トルコなど中央同盟国と戦う全ロシア帝国軍の最高責任者だった。大戦開始直後から、ニコライ大公は苦戦を強いられた。タンネンベルクの戦いでは、第1軍と第2軍との連携がうまくいかなかったために、壊滅的な敗北を喫した。一方で続いて起きたヴィスワ川の戦いとウッチの戦いでは、ロシア軍が勝利を得た。大勢のロシア将軍たちが様々な作戦プランを決めていく場において、ニコライ大公の役割は限られたものとなった。大公とその参謀からは勝利する公算の大きそうな、首尾一貫した作戦計画が出されることはなかったが、大公は個人のレベルでは将官にも一般兵士にも好かれていた。ニコライ大公は軍事指導者というより官僚に近い性格だったようで、幅広く戦略的な視点や巨大なロシア全軍を率いる者に求められる冷酷さを持ち合わせていなかった。彼の司令部は、沢山の敗北を喫し大勢の戦死者を出しているにもかかわらず、戦時とは思えないほど平穏な雰囲気であった。このまま大公に任せてもロシア軍の苦境は好転しないと考えたらしい皇帝は、自ら戦争の最高責任者を引き受けようと決意した。1915年3月22日、大公はプシェムィシル攻囲戦に勝利して二等聖ゲオルギー勲章を授与された。しかしその5か月後の8月21日、ロシア軍が戦略的撤退を行った際に、皇帝は(皇帝一家の精神的支柱となっていたグリゴリー・ラスプーチンの助言を受けて)大公を解任し自ら最高司令官に就任した。大公は最高司令官職を解かれてまもなく、カフカース地方の総司令官および副王に任じられた(それまでこの地域で采配を振っていたのはイラリオン・ヴォロンツォフ=ダーシュコフ伯爵だった)。公式にはニコライ大公が総司令官だったものの、オスマン帝国との戦いを担うカフカース方面軍を実質的に指揮していたのはニコライ・ユデーニチ将軍であった。大公の総司令官在職中に、カフカース方面のロシア軍は遠征軍を派遣し、遠征軍はペルシアを通過して南側にいたイギリス軍と合流した。1916年、ロシア軍はエルズルムの戦いに勝利してエルズルム要塞、トレビゾンド港、エルズィンジャンを占拠した。トルコ軍はさらに攻勢をかけ、両軍はヴァン湖周辺で一進一退を繰り返したが、決着はつかなかった。1917年、ニコライ大公はロシア領グルジアから占領地域まで鉄道を敷設し、人員物資の補給ルートを万全にしてさらなる攻勢をかけようとした。しかし1917年3月に皇帝ニコライ2世が退位すると、ロシア帝国軍は徐々に解体し始めた。
ニコライ・ニコラエヴィチ (1856-1929)の帝政崩壊後 2月革命の発生時、ニコライ大公は任地のカフカースにいた。大公は退位直前の皇帝が最後に行った決定により、ロシア帝国軍最高司令官に復帰を命じられたため、大本営のおかれたモギリョフに現れた。しかし大公が到着して24時間も経たないうちに、臨時政府首班のゲオルギー・リヴォフ公爵はニコライ大公を解任した。ニコライは解任後の2年間をクリミアで過ごしたが、自宅軟禁を政府から命じられていた時期もあったため、クリミアで政治的役割を果たすことはほぼ無かった。一時は南ロシアで活動していた白軍の総司令官にニコライ大公を推す声も挙がったが、アントーン・デニーキンを始めとする白軍の指導者たちは、もし元皇族を最高司令官に推戴すれば、白軍内の左派勢力が離反しかねないと心配していたため、ニコライの復帰は実現しなかった。赤軍がクリミアに迫ってきた1919年4月、ニコライは妻アナスタシヤを伴い、弟一家とともにイギリス海軍の戦艦「マールバラ」号に乗り込んでロシアを脱出した。1922年8月8日、ニコライはアムール地方を支配していたミハイル・ディテリフス将軍の開催したゼムスキー・ソボルにより、「全ロシアの皇帝」に推戴された。もっとも、ニコライは3年前に出国していたためその場には居合わせなかった。その2カ月後、アムール地方は赤軍に制圧された。ニコライは義弟のイタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の賓客としてジェノヴァにしばらく身を置いた後、妻を連れてパリ郊外にある小さな城館に移り住んだ。彼はフランス秘密警察の保護下に置かれており、また信頼のおける何人かのコサック退役兵も大公の身辺を警護していた。ニコライ大公は反ソヴィエトの君主制支持運動の中心人物であり、ピョートル・ヴラーンゲリとともにロシア全軍連合を率いていた。全軍連合はソビエト・ロシアに諜報員を送り込むことを計画し、実際に何人かのスパイを送り込むことに成功したが、この任務を引き受けたイギリス人の有名スパイ、シドニー・ライリーは後にソヴィエトに摘発されて処刑された。ソビエト秘密警察の幹部たちは報復にニコライ大公を誘拐しようと試みたが、この作戦は失敗に終わった。1927年には、君主制支持者組織はモスクワのルビャンカ刑務所に爆弾を仕掛けることにも成功した。ニコライ大公は1929年1月5日、避寒のために訪れていた南仏のリヴィエラで、老衰のために亡くなった。
アルキビアデスIIの年代・場面設定 祈願のための神参りに訪れていたアルキビアデスと出くわすソクラテス。ソクラテスはアルキビアデスに、「息子たちの争い」を祈って厄災を招いてしまったオイディプス王のように、悪いものを善いものと思い込んで祈願してしまわないよう用心が必要だと忠告する。アルキビアデスは、ソクラテスが例に出したオイディプス王は気がちがっていたのであって、健全な人ならそのような祈願はしないと応じる。ソクラテスは、気がちがっていることと、思慮を働かせていること(正気)は、正反対のことだと思うか問う。アルキビアデスはその通りだと応じる。更にソクラテスは、思慮がある人と無い人がいると思うか問う。アルキビアデスは当然だと応じる。こうしてその区別を巡って問答が開始される。
アルキビアデスIIの補足 本篇は、『アルキビアデスI』の半分程度の文量なので、『アルキビアデス (小)』とも呼ばれてきた。
アルキビアデスIIの内容 「祈願」のための神殿参りに向かおうとしているアルキビアデスをソクラテスが呼び止め、「祈願」のあり方と関連付けて「無知の無知(無自覚)」や「「正義」「思慮の健全さ」の重要性」を説いていく。「追悼演説」を扱った『メネクセノス』と同じく、「「祈願」のための神殿参り」という古代ギリシア・アテナイの習俗を題材としているが、内容としては『アルキビアデスI』と類似したプロトレプティコス・ロゴス((哲学を)勧奨する言論)になっている。
アルキビアデスIIの導入 ソクラテスが「祈願のための神殿参り」に向かおうとしているアルキビアデスを呼び止め、神々が我々の「祈り」の内、あるものは叶え、他のものは叶えなかったり、ある人々にはそれを与えるが、他の人々には与えないといったことがあると思うか問う。アルキビアデスは同意する。続いてソクラテスは、オイディプスがそうであったように、悪の大いなるものを「善いもの」だと思い込んで「祈願」し、神々の方もうっかり「祈願」されるものを何でも叶えてくれるような状態になっているなんてことがあると困るので、「祈願」には大いに用心が必要だと指摘する。するとアルキビアデスは、ソクラテスが引き合いに出したオイディプスは「気のちがっている人」であり、「健全な人」であれば誰があえてそのような「祈願」をするだろうと疑問を唱える。
アルキビアデスIIの「無思慮」の定義 ソクラテスが「気がちがっていること」と「思慮をはたらかせていること(正気)」は正反対か問うと、アルキビアデスは同意する。さらに「思慮のない人」と「思慮のある人」の区別があることもアルキビアデスは同意する。続いてソクラテスは、「思慮」と「無思慮」が二者択一の相互排除関係にあるのか、すなわち人は必ず「思慮ある者」か「無思慮な者」かのどちらかになるか問うと、アルキビアデスは同意する。するとソクラテスは、以上の内容から論理的に言って「無思慮」と「気がちがっていること」は同じものであることを指摘し、アルキビアデスも同意する。しかしソクラテスは、この国でも「思慮ある人々」は少数派で「無思慮な人々」が多数派なのだから、先の議論通りだと国家の多数が「気がちがった人」になってしまい、現実と合わないと指摘する。アルキビアデスも同意する。そこでソクラテスは、「病気」が「痛風」「熱病」「眼病」など様々な症状の総称であり、「職人」が「靴屋」「大工」「彫像家」などの総称であるのと同じように、「無思慮」も程度によって「気がちがっている」「馬鹿」「阿呆」「意気盛ん」「お人好し」「無邪気」「世間知らず」「愚直」などと様々に呼ばれるものの総称なのではないかと指摘する。アルキビアデスも同意する。
アルキビアデスIIの「無知の無知」 ソクラテスが、「思慮ある人々」が「なすべきこと語るべきことを知っている人々」なら、「無思慮な人々」は「なすべきこと語るべきことを知らない人々」であり、「なしたり語ったりしてはならないこと」を「そうとは知らずにする人々」なのでないかと指摘し、アルキビアデスも同意する。するとソクラテスは、先の話に出てきたオイディプスもまたその1人だったのではないかと述べ、もしアルキビアデスも神に「アテナイの僭主」「ギリシア全土の支配者」「ヨーロッパ全土の王」「万人の王」にしてやると約束されれば有頂天になるだろうが、それが己への「死」や「災い」と引き換えだったら望まないだろうと指摘する。アルキビアデスも同意する。ソクラテスはマケドニアの僭主アルケラオス1世や、アテナイの将軍たちを例に出しつつ、「支配者の地位」「将軍の地位」などが実際には自身に「利得」よりも「損害」をもたらすようなものでありながら、多くの人はそれが与えられるのを避けたりせず、むしろそれを得るために「祈願」したりさえすると指摘する。アルキビアデスはそれに同意しつつ、「無知」というものが人間にとって悪しきことの原因になっており、「無知」なままになされた「祈願」は実際には「呪詛」(呪い)になってしまっていると応じる。
アルキビアデスIIの「無知」の善悪 しかしソクラテスは、「無知」が常に「悪」なのではなく、状況によっては「善」になることもあるのではないかと指摘する。例えば「母殺し」のオレステスのような復讐者が、もし母を見分けることができないという「無知」であったならば「母殺し」という罪を犯さずに済んだのであり、「無知」はある人々、ある状況においては「善いもの」になることもあるとソクラテスは指摘し、アルキビアデスも同意する。他方でソクラテスは、「最も善きもの」について「無知」であったなら、どんなに他のことに関して「知識」を持っていたとしても、人を「益する」ことはほとんどなく「害する」ことの方が多いと指摘する。例えば、どんなに「特定の事柄」「特定の技術」を知っている人々が集まっていても、彼らが「知性」を働かせず「思惑」を信じ込み、「最も善きもの」についての「知識」がなければ、その国家体制は「混乱と不法(無秩序)に満ちた国家体制」であるとソクラテスは指摘し、アルキビアデスも同意する。
アルキビアデスIIの「祈願」のあり方 ソクラテスは、では以上を踏まえた上で、「祈願」はどのようにしたらいいか問うと、アルキビアデスはそれには大きな用心が必要であり、無造作(安易)な答えはできないと窮する。するとソクラテスは、スパルタ人たちが神々に対して「善きものの上に美しきものを与えたまえ」とだけ「祈願」し、それ以上のことは「祈願」しないことを紹介しつつ、さらに昔聞いた話として、「かつてアテナイとスパルタの間に紛争があった頃、どうしても勝てないアテナイ人はアンモン神の神殿に使いを送り、「アテナイ人は一番多く美しい犠牲獣を捧げ、立派に奉納物で神殿を飾り、毎年豪華で厳かな祭列を捧げ、圧倒的な額の金銭を納めているのに、なぜ神々はスパルタ人に勝利を与えるのか」とうかがいを立てたところ、お告げの伝達者は、アンモン神はアテナイ人に「我の欲するところは、スパルタ人の「慎みある言葉」である」とおっしゃったと答えた」という話を紹介し、この「慎みある言葉」とは先に述べたスパルタ人特有の「祈願」の仕方のことであり、やはり何を言うべきか言うべきでないかについては、大いに用心が必要でありよく思案する必要があると指摘する。さらにソクラテスは、ホメロスの『イーリアス』の一節を紹介し、トロイア人が犠牲獣(贄)を捧げても神々がそれを受け入れなかったことを指摘しつつ、神々は「腹黒い高利貸し」のように「贈り物によって心を動かされる」ことはないのであり、それよりは人が「敬虔」であるか「正しく」あるかといった「魂」の方に目を向けることを指摘する。そしてソクラテスは、「神々」にとっても「知性ある人々」にとっても、「正義」と「思慮」こそが特に尊重されるのであり、また「思慮があって正しい人々」とは「神々に対しても人々に対しても、行うべきこと語るべきことを知っている人々」であると指摘し、アルキビアデスも同意する。するとソクラテスは、アルキビアデスが現在のようにその「知識」がないまま、「祈願」のための神殿参りへ行くのは危険なことであり、それを「学び知る」まではじっと待っていなくてはならないと忠告する。アルキビアデスが、その「学び知る」時とは「いつ」やってくるのか、また「誰」が教えてくれるのか問うと、ソクラテスは「アルキビアデスのことを心にかけてくれる人」によってその「魂」から「霞」(かすみ)が拭い去られ、「悪」も「善」も見分けられるようになる時が来ると言い、それを聞いたアルキビアデスは、それを待ちつつ「祈願」を先延ばしにすることにし、持っていた「花の冠」や「贈り物」を善い相談相手になってくれたソクラテスにあげることにする。
出逢い (テレビドラマ)の概要 離婚して12年になる主人公・一色章(あき)は、自立するために美容師の訓練に励み、そして東京・深川に美容室を開店する。その美容室を中心に展開するドラマ。2年後の1983年には、姉妹編として『出逢い・めぐり逢い』が製作されている。
味鋺神社の歴史 創建年代は不明。祭神の宇麻志麻治命は物部氏の祖神とされ、延喜式神名帳にある尾張国春日郡味鋺神社であるとしている。江戸時代には六所明神とも呼ばれた。寛治7年(1093年)に競馬の神事が催されたと伝わり、かつては例祭で流鏑馬神事が行われていたが戦後になって絶えた。なお、流鏑馬は1955年(昭和30年)の名古屋市合併を記念して催され、1998年(平成10年)にも流鏑馬装束の再現が行われている。また、隣接する護国院は天平年間(729年~748年)に行基によって薬師寺として建立されたとされるが、味鋺神社は同寺の鎮守であったと伝わる。周辺はその昔には百塚と呼ばれており、味鋺古墳群と呼ばれる約50基以上の古墳があったが開発によって滅失した。なお、かつて加藤清正によって稲置街道にかけられた清正橋と呼ばれる石橋が1978年(昭和53年)に神社の境内に移設されているが、古墳の石室材を転用した可能性も言われている。
ハロルド・マクスウィーンの歴史 南海四国航路が開設された1956年(昭和31年)に和歌山市駅 - 和歌山港駅(初代、後の築港町駅)間が開業し、1971年(昭和46年)には和歌山港の移転と和歌山県が計画した木材輸送のため築港町駅 - 水軒駅間が延長された。しかし、延伸開業時にはすでに木材輸送がトラック輸送に切り替わっており、一度も木材輸送のための貨物列車が運行されることがなかった。延長区間のうち、和歌山港駅 - 水軒駅間には、前述の通り和歌山市駅からの旅客列車が一日わずか2往復だけ運転されていたが、「同区間にある踏切が交差道路拡張の障害になっている」との理由で、2002年(平成14年)に廃止された。水軒駅廃止直前の同年4月28日には臨時で特急「サザン」が難波駅から水軒駅まで運転された。また、同駅最終営業日の5月25日には、和歌山市駅から水軒駅まで2往復の定期列車に加えて5往復の臨時列車も運転された(「水軒駅」も参照)。なお、開業当初から難波発着の南海四国航路連絡列車が運転されている。当初は1551系を使用した急行「あわ」が運行された。のちに特急「四国」が運行開始され、1985年(昭和60年)からは「サザン」となっている。2005年11月には中間の3駅(前述)が廃止され、和歌山バスの160系統などが事実上中間駅周辺の代行輸送を担っている。
メガロポリスのフィロポイメンの廃止区間 和歌山港駅 - 水軒駅
立川陸軍航空整備学校の概要 シュリア王アンティオコス3世を下した後のギリシアにおけるローマの権勢は日の出の勢いであったが、アカイア同盟がローマに対抗できると最後まで信じていたフィロポイメンは彼が追放したスパルタ人の帰国をローマが迫った時にそれを拒絶するなどローマに楯突いた。フィロポイメンが齢70に達した頃(紀元前183年)、デイノクラテスの先導の下メッセネで反アカイア同盟の反乱が起こり、ディノクラテスはコロニスという町を攻撃しようとしていた。それを聞いた時アルゴスにいたフィロポイメンはメガロポリスへと一日で急行し、すぐに騎兵部隊を率いて出撃した。彼はエウアンドロスという丘の近くでデイノクラテスと戦い、一度は敗走させたものの、敵の新手500人がやってきた。このため、包囲されることを恐れたフィロポイメンは撤退したが、落馬したところを捕えられた。牢獄に入れられたフィロポイメンは毒を飲むよう勧められた。その時彼はリュコルタスという将軍の安否を問い、リュコルタスが逃げおおせたと聞くと「あなたはよい知らせを教えてくれた。我々は全く不幸というわけでもないようだ」と言い、毒を仰いで死んだ。その後、アカイア同盟はフィロポイメン処刑の報復のため兵を起こし、リュコルタス指揮の下でメッセニアを攻撃し、デイノクラテスは自殺した。フィロポイメンは火葬され、その遺骨はメガロポリスまであたかも勝利の末の凱旋のように運ばれ、リュコルタスの子で後に歴史家としてフィロポイメンの活躍を後世に残すポリュビオスがそれに付き添った。
酒井良彦の人物 1943年8月、昭和18年3月27日軍令陸第10号により陸軍立川飛行場(現:立川飛行場)に陸軍航空総監部隷下の立川陸軍航空整備学校が設置された。本校の目的は、学生に火器の装備を含む航空兵器の整備・補給に関する教育、整備補給に関する調査・研究、整備用兵器・資材の研究試験などである。将校学生は年一回、下士官学生は年二回の入校であった。戦局の悪化に伴い、1944年6月、立川教導航空整備師団に改編された。
芹が谷の地理 東京都江戸川区出身。上智大学卒業後、2010年に入局。
少将井の地名の由来 地名研究で「セリ」は「崖(がけ)地」を意味するという。
2014年ヨーロッパ野球選手権大会チェコ代表の地理 アメリカ合衆国国勢調査局に拠れば、郡域全面積は477平方マイル (1,235.4 km²)であり、このうち陸地475平方マイル (1,230.2 km²)、水域は2平方マイル (5.2 km²)で水域率は0.51%である。
京都南インターチェンジの概要 郡管理官は郡政府の全ての部門について管理、人事、監督を行い、予算立案、資金管理、購買、資産管理、法遵守、規制と条例、独立機関や町との調整、委員会への出席など、郡政府がその事業を実行するために委員会と法によって課される全ての任務を遂行する。
三森すずこの略歴 料金が割高になるが、当ICを利用する代わりに、大山崎JCTから京滋バイパス-(久御山JCT)-第二京阪-京都高速と乗り継ぐ事で、京都市街まで一般道路に降りる事なく直接アクセスする事ができる。
Moon Light 〜おもいでのはじまり〜のストーリー 太字はメインキャラクター。
新田宿の概要 廃校になる学園が舞台である。
蒔田光治の人物 宿駅としての起源はよく分かっていない。別称は芋柄新田(いもがらしんでん)、大町新田(おおまちしんでん)。現在は栃木県小山市羽川に相当する。 宿駅の管理は、当初は小山藩、元和5年(1619年)以降は宇都宮藩、元和8年1622年以降は古河藩、貞享2年(1685年)以降は幕府が担った。天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣は1軒、脇本陣は1軒設けられ、旅籠が11軒(大2、中4、小5)あった。宿内の家数は59軒、人口は244人であった。現在の国道4号線沿いに展開し、南端は小山羽川郵便局付近、北端は銅市金属工業付近である。
なまし銅管の概要 友人である「鍵屋さん」から竹林の伐採を頼まれた登美彦氏は、盟友「明石氏」と共に竹林に挑む。竹を伐りながら膨らむ妄想、浮かび上がる回想を綴っている。注目すべき点は、エッセイでありながら三人称で語られていることである。語り手である第三者が森見登美彦について書くというこの手法は、元々は著者ブログで使われていたものである。
橘正忠の来歴・人物 外務省に入省後、1969年に在オーストリア日本大使館参事官、1970年に同公使を経て、1972年にアメリカ局長心得、1975年-1977年に欧亜局長を務めた。1980年10月から在ビルマ日本大使館特命全権大使、同年11月にヤンゴン日本人学校名誉校長に就任する。1983年10月から在タイ日本国大使館特命全権大使となる。後に国立京都国際会館館長、京都市立国際交流会館理事や上場企業役員を歴任した。
滝谷駅 (大阪府)の駅構造 相対式2面2線のホームを持つ地平駅である。有効長は8両。駅舎は高野山方面行ホーム側にあり、互いのホームは跨線橋で繋がっている。なお、難波方面行きホームで下車する場合、難波寄りの方が跨線橋に近い。バリアフリー設備として、改札口付近にスロープを設け、1番線と2番線を往来する陸橋を使用できるエレベーターが設置されているほか、1番線には障害者も利用できる多目的トイレが設置されている。また、駅東側に線路を撤去した跡がわずかながら残っている。