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山崎志郎の略歴 東京都北区出身。1982年早稲田大学政治経済学部経済学科卒業。1988年東京大学経済学研究科理論経済学・経済史学博士課程単位取得満期退学。福島大学経済学部助教授、東京都立大学経済学部助教授、同教授、首都大学東京社会科学研究科教授を経て、大妻女子大学社会情報学部教授。2019年『太平洋戦争期の物資動員計画』で日本学士院賞受賞。 |
テンジクネズミの概要 テンジクネズミはネズミ目ヤマアラシ亜目に分類されることが多い。しかし、テンジクネズミは他の齧歯類とは別に進化してきた生物であり、新しい哺乳類の目として分類されるべきであるとの説もある。体長は約20~40cm。小さくて丸い耳をもち、尾椎はあるものの尾はない。指は前足は4本、後ろ足は3本である。オスメスともに、乳房は1対である。跳躍力はあまりなく、跳躍することはほとんどないが、跳躍したとしても20~30cmほどの高さしか跳ぶことができない。テンジクネズミは胎内ですでに乳歯をもっているが、切歯(前歯)は生まれる前に吸収され、臼歯も生後40日程度で生え替わる。切歯も臼歯も常生歯となっている。上顎の臼歯は外側に傾斜しながら生え、下顎の臼歯は内側に傾斜しながら生えている。切歯は前面のエナメル質が分厚くなっていて、前面と後面に磨耗の差があるため、常に鋭さが維持される。また、胃腸の半分以上が盲腸という構成となっている。環境変化などによるストレスによって胃腸内(とりわけ盲腸内)の細菌のバランスが崩れると、摂取した食物の消化が困難になり衰弱する。タンパク質などの栄養素の摂取を、盲腸内の細菌の働きに頼っているためである。また、一度に消化しきれなかった栄養を吸収するため、ウサギと同様に食糞する。 テンジクネズミの糞の形は、オスとメスとで微妙に異なる。寿命は個体差があるが、5~8年程度とされている。野生のテンジクネズミは、南アメリカ全域の草原などに巣穴を掘って棲んでいる。草食性である。つがいは形成せず、乱婚的に交尾をする。通常1年に1回出産し、一度に2頭から4頭程度の子を産む。生まれた子供は早成であり、誕生の翌日には自分で草などを食べることができる。このため親は子供の世話をほとんどしない。よってメスの乳房が1対しかなくても、子供の成長に問題はない。また子供が早成で胎内で大きく育つために、メスは骨盤の形が固まってしまう生後10か月以内に出産を経験していない場合、子供を生むとき難産になりやすい。テンジクネズミは、現在でもアンデス地方での重要なタンパク源として、食用に利用されている。 |
シッキム州のシッキム王国 シッキムにはもともとレプチャ人が居住していた。しかし、1642年、チベットがチベット仏教ゲルク派が主導する政権であるガンデンポタン(ダライ・ラマ政権)により統一されると、ゲルク派に対立していたチベット仏教ニンマ派の高僧と同派を奉ずるチベット人 の一部(のちのブティヤ人)がシッキムの地に亡命し、プンツォ・ナムゲルを擁立してシッキム王国(ナムゲル朝)を建国した。チベット人の亡命政権だったことからチベットはシッキムを属国とし、チベットを属国としていた清朝もシッキムを自らの属国とみなすという複雑な状況となっていた。1706年、 ブータン王がカリンポン一帯を奪い取り、現在の地名に変更した。1780年代後半、ネパールから来たグルカ族がダージリンとカリンポンに侵攻し、1788年までに一帯を支配した。イギリス領インド帝国時代になると、ネパールがイギリスとシッキムにとって共通の敵とみなされた。イギリス東インド会社がネパール(ゴルカ朝)に侵攻したグルカ戦争(1814年 - 1816年)でスガウリ条約が結ばれ、シッキムの王ツグプ・ナムゲルがダージリンとカリンポンの奪還に成功した。その一方でイギリスはチベットとの交易も模索し始め、シルクロードのあるシッキムはその中継点として理想的といえた。それは南下しつつあるロシア帝国がチベットとの関係を深めようとすることを牽制する意味があった。1840年に隣国の清がアヘン戦争になると、緩衝地帯の西に位置するラダックに当時あったシク王国とチベットの間で清・シク戦争(1841年 - 1842年)が行われた。しかしその直後、イギリスとの間で第一次シク戦争(1845年 - 1846年)及び第二次シク戦争(1848年 - 1849年)が行われ、シク王国は滅亡し、ジャンムー・カシミール藩王国が誕生した。1849年、シッキムは南部のダージリン地方を当時の35,000ルピーでイギリスへ割譲させられた。チベットは、イギリスと隣接する領域が西部だけでなく東部にもできることに脅威を感じ反発したが、イギリス軍がチベット軍を撃退、1861年には清朝との間でシッキムをイギリスの保護国とすることが定められた。1866年、フランスによる雲南省経由通商路の調査がきっかけとなって、雲南問題で知られるイギリス、フランス、中国間の紛争が始まると、イギリスの主な関心はより豊かな雲南方面へと移っていき、この地域に求められる役割はインド総督府の避暑地となったが、1888年のシッキム遠征で初めてチベット軍と戦闘になり、英国のチベット遠征の前哨戦となった。この時期に茶葉栽培のためにネパール人が労働力として大量に移住し、ブティヤ人を凌ぐ人口を擁するようになった。 |
シッキム州のインド編入とシッキム州誕生 1947年にインド連邦が独立すると、シッキムにおけるイギリスの地位はインドが継承することとなった。1950年にシッキムはインド・シッキム条約を結び、外交と防衛、通信をインドに委ねる保護国になった。また同条約に基づき、シッキム王国は民主化を進めることが規定され、参事院(State Council、立法府に相当)と行政参事会(Executive Council、内閣に相当)の設立が決定した。しかし王国を支持するブティヤ・レプチャ・チベット系の人口が25%に対し、労働力として流入していたネパール系が75%を占める人口比率では、民主化が実現した場合はネパール系が主導権を掌握することが王国内で危惧されたことから、シッキム王国政府は参事院議席のコミュナル別割当を実施した。すなわち全17議席のうち6議席を「ブティヤ・レプチャ系」に、6議席を「ネパール系」に分配してこれを選挙議席とし、残る5議席を国王による親任と定めた。ネパール系住民を主体とする政党は不平等な選挙制度に不満を抱いたが、第11代国王タシ・ナムゲルは親インド姿勢をとっていたため、インドも彼の治世においてはコミュナル選挙制度を支持していた。しかし1963年にタシ・ナムゲルが崩御し、皇太子パルデン・トンドゥプ・ナムゲル(以下、「パルデン・トンドゥプ」と略す)が即位すると情勢は変化する。パルデン・トンドゥプはインドの保護下に置かれるシッキムの現状に不満を抱き、王室を支持するブティヤ・レプチャ系のシッキム国民党(SNP)を支援し、タシ・ナムゲル王の親インド路線を反インド、シッキム独立の政治路線へと転換した。このためにインドは、親インド派でネパール系政党のシッキム国民会議派(SNC、1960年結成)などを支持するようになった。参事院選挙制度は何度か改正されたが、コミュナル選挙制度の原則は変わらなかった。そしてついには、反印運動の盛り上がりや他党の足並みの乱れを突く形で、1973年参事院選挙でSNPが選挙議席18議席中11議席を占める勝利を収める。しかし、この勝利はもちろんコミュナル選挙制度の恩恵によるものであり、SNCなどのネパール系政党が「不正選挙」と糾弾したことでデモや武装蜂起が全国規模で発生した。混乱を収拾する力の無かったパルデン・トンドゥプはインドの保護を求めて事態を乗り切ったものの、この結果、シッキムは従前以上のインド属国化を強化する協定にSNCなどの政党と共に署名させられたのである(インド・シッキム三者協定)。三者協定に基づいて参事院に代わりシッキム立法議会(選挙議席30)が創設され、1974年に選挙が実施されることになった。すでに三者協定成立直後には、SNCなど親印のネパール系政党が合併してシッキム会議派(SC)を結成している。インド型の単純小選挙区制が新たな制度として導入されたこともあり、人口構成で優位なSCが29議席を占める圧勝を収め、SNPは僅か1議席へと転落した。新たに首相に就任したSC総裁でブティヤ・レプチャ系のカジ・レンドゥプ・ドルジはインドの意を受けて国王権限を大幅に制限する新憲法(1974年シッキム統治法)を制定した。1975年4月9日、パルデン・トンドゥプの退位を求めるデモ隊に宮廷親衛隊が発砲して混乱し収拾がつかないと、カジ・レンドゥプ・ドルジ首相からのインド軍派兵の要請に基づき、混乱を収束させるためインド軍が介入、王宮軍は武装解除され、パルデン・トンドゥップは幽閉された。翌日の立法議会は王政廃止とインドへの編入を全会一致で議決、14日に行われた国民投票でもインドへの編入が賛成多数で承認された。15日にはシッキムをインドの第22番目の州とする憲法改正案がインドの国会に提出され、26日に両院を通過した。同年5月16日、大統領が憲法改正案を認証し、ここにシッキム王国は滅亡、シッキム州としてインドに編入された。 |
シッキム州の中国によるインド主権の承認 中華人民共和国政府は、シッキムが清の属国であったチベットの属国であったという歴史的経緯から、インドによるシッキムの併合を認めていなかった。このため、中国で発行される地図には長い間シッキムが独立国家として描かれていた。2003年、中国の温家宝首相がインドのアタル・ビハーリー・ヴァージペーイー首相と会談した際、両国の辺境問題 (インドが中国のチベット支配を、中国がインドのシッキム支配をそれぞれ認めていないこと) について議論された。この結果、インドと中国はチベットにおける中国の主権とシッキムにおけるインドの主権を相互承認し、中国で出版される地図でシッキムは独立国家としては描かれなくなった。2005年、中印両国は、チベット・シッキム間のナトゥ・ラ峠(Nathu La)とジェレプ・ラ峠(Jelep La)について、その開放を提案した。チベットを含む中国本土全域を領土と主張する台湾の中華民国政府は、現在もインドによるシッキム支配を公式には認めていない。このため、台湾で出版される地図にはシッキムが独立国家として描かれていることがある。 |
シッキム州の地理 ヒマラヤ山脈に囲まれ、高度280m以上で、カンチェンジュンガ (標高8586m)はインド最高峰、世界第3位である。土地の大部分は岩石の多い斜面で農耕に不適だが、一部段々畑ができている。1/3は森林である。人口が集中する高度の低い南部を除く山地には80もの氷河、100以上の川が流れる。温泉も5つあり、硫黄分が多く、湯治場として知られる。チベット、ブータン、ネパールへ通じる道がある。気候は亜熱帯から寒帯にわたり、北部では1年のうち4か月が雪で覆われる。多くは28度Cを超えない温暖な地域に住む。6月から8月はモンスーンの季節である。 |
シッキム州の住民 75%がネパール人で、イギリス保護国時代の移民である。15%がブティヤ人(チベット系)、7%がレプチャ人。 |
シッキム州の宗教 ネパール人の宗教はヒンドゥー教で州の最大宗教だが、ブティヤ人とレプチャ人の宗教は主にチベット仏教である。レプチャ人にはキリスト教徒も多い。 |
シッキム州の公用語 1977年には州の公用語はネパール語、シッキム語(ブティヤ語)、レプチャ語の3言語であった。1997年にはリンブー語、タマン語、ライ語(キランティ諸語の一部)、ネパール・バサ語(ネワール語)、マガール語、スヌワール語、シェルパ語、グルン語を加えた11言語になった。 |
ヴァルシオンの概要 「プロジェクトUR」で開発された機体。驚異的な戦闘力を持つディバイン・クルセイダーズ(以下DC)の切り札である。ヴァルシオンは特に究極ロボとも呼ばれる。 |
ヴァルシオンのプロジェクトUR アーマードモジュール(AM)の開発と並行して、DC内部で独自で進められた対異星人用兵器開発計画。DCにおける特機構想ともいえる計画である。URとはUltimate Robot(アルティメット・ロボット)の略。スーパーロボットを越える究極ロボを開発することを目的としている。従来の機動兵器とは異なり、知能を持った敵に対する心理的効果を狙い「見た目のインパクト」を重視した外見、フラグシップ的な機体となり得る存在感、単機で戦局を変え得る攻撃力を併せ持つ機体として開発されている。この計画からヴァルシオンとヴァルシオーネが誕生し、そのノウハウは一部アーマードモジュールの開発にも活用されている。後のダイナミック・ゼネラル・ガーディアン(DGG)各機もこの計画の延長線上で開発された。 |
佐々木大輔 (プロデューサー)の経歴 北海道函館市で生まれる。セレクトショップのバイヤーを経て、2000年に札幌市で自身のセレクトショップをオープン 。2006年から毎年開催されている札幌コレクション(2015年度動員9700名)の総合プロデューサー。WWD JAPANが選ぶ「2010年の注目の業界人14人」に選出。 |
つがる (敷設艦)の概要 旧海軍の初島型電纜敷設艇を参考にして旧海軍技術者からなる船舶設計協会に依頼して設計された。基地や港湾の周辺海域に水中聴音監視装置の敷設することを主任務とし、その特性から秘密事項が多く建造当初は補給工作艦と呼称されていた。艦の構造としては艦首にケーブル敷設用のシーブを備え、艦橋下に大型ケーブルドラム、中央部に電線庫が2箇所、5トンデリックが備わっていた。それ以外に特徴的なものは機雷敷設用装備とソナーを含む対潜戦装備が備わっていたが、これらの装備は総花的設計方針の下で求められた結果であり、運用上あまり意味のあるものではなかった。 |
つがる (敷設艦)の艦歴 「つがる」は、昭和28年度計画艦1001号艦として、三菱日本重工業横浜造船所で1954年12月18日に起工され、1955年7月19日に進水、1955年12月15日に就役し、大湊地方隊に編入された。1957年9月1日、横須賀地方隊に編入。1961年9月1日、第2掃海隊群が新編され直轄艦として編入。1967年に深海用精密測深儀が装備され、1969年7月10日から1970年4月20日までの間、三菱重工業横浜造船所において特別改造が実施される。20mm機銃を除く兵装が撤去され、新たに水中器材敷設装備が備えられた。この改造により艦首と艦橋を中心に艦容が大きく様変わりし、排水量も新造時の倍以上となった。1972年8月21日午前0時42分、明石海峡で小型貨物船「第二天神丸」(木造129トン)と衝突した。「つがる」の左艦首と「第二天神丸」の右舷中央部がぶつかり、第二天神丸は沈没し、乗組員3名のうち2名は「つがる」に救助されたが、1名が行方不明となった。なお、「つがる」は左舷艦首がへこんだ程度で他には異常がなかった。1977年1月12日、敷設艦(ARC)は機雷艦艇から特務艦艇に類別変更された。1980年3月17日、老齢化により、敷設艦から特務艦に種別変更され、艦籍番号がASU-7001に変更、海洋業務群に編成替え。1990年3月15日、除籍。翌1991年4月から装備の撤去と加熱板装着による実艦標的への改造が行なわれ、1992年4月に若狭湾へ回航、標的として用いられ、処分された。 |
北海道立野幌総合運動公園総合体育館の概要 北海道立野幌総合運動公園にあり、管理事務所がある。1989年(平成元年)開催の『第44回国民体育大会』(はまなす国体)では、メインアリーナでハンドボール競技が行われた。『第4回公共建築賞』優秀賞受賞。 |
共同正犯の共同正犯の効果 共同正犯は、「すべて正犯」とされ、自ら実行しなかった行為から生じた結果についても刑事責任を負う(同条)。たとえばAとBが結託して共に拳銃を使用してCを殺害した場合、Aの発射した弾丸が命中せず、Bの発射した弾丸でCが死亡した場合であってもAは正犯としての罪責を負う。この共同正犯の効果を一部実行・全部責任の原則という。一部実行・全部責任の原則が認められる根拠は、有力学説によれば、特定の犯罪実現 に向けての相互利用補充関係があるためとされる。すなわち、二人以上の者が、共同実行の意思に支えられ、特定の犯罪実現に向けて共同するという相互利用補充関係によって法益侵害の危険性が増大した点が、全部責任を負わすに値すると評価されるためとされる。 |
共同正犯の共同正犯の成立要件 構成要件段階における共同正犯の成立には、各人の構成要件的故意または構成要件的過失と「共同して犯罪を実行した」ことが必要である。「共同して犯罪を実行」とは、共同実行の意思(意思の連絡)及び共同実行の事実があることを意味するとされる(さらに、結果犯では結果と因果関係が、身分犯の共同正犯については身分者が1人以上いることが必要である。)。しかし、共同実行の事実の具体的意味内容(何を共同するか:共同の対象)については、特に共謀共同正犯の成否と関連して議論がある。刑法の自由主義的見地(罪刑法定主義・謙抑主義)を重視する立場からは、60条の意味を限定的に解し、実行行為を共同することが必要とする(実行行為の共同が必要とする部分的犯罪共同説:共謀共同正犯否定)。刑法の法益保護機能(処罰の必要性)を重視する立場からは、60条の意味を広く解し、犯罪実現に向けての行為を共同することとし、少なくとも一部の者による実行行為は必要であるが、実行行為の共同は必要ではないとする。(構成要件行為の共同が必要とする部分的犯罪共同説あるいは行為共同説:共謀共同正犯肯定)これは結局、自由主義と法益保護(処罰の必要性)のいずれを重視するかという価値判断に依存する問題である。 |
共同正犯の過失の共同正犯 過失の共同正犯には正確に分けるなら2類型あると言える。1つは過失犯の共同正犯、もう1つは結果的加重犯の共同正犯である。 |
共同正犯の過失犯の共同正犯 過失犯の共同正犯が問題となる事例では、各人に過失犯の単独正犯が成立している場合が多いが、各人の行為と結果の間の因果関係が立証できない場合もあり、過失共同正犯が成立しないかが問題とされる。過失共同正犯の成否については、「共同実行の事実」の成否と「共同実行の意思」の成否が問題となる。「共同実行の事実」の成否には、過失犯に関する新旧過失論の立場が影響する。旧過失論の立場では、過失は責任段階での問題にすぎないから、構成要件段階での過失行為の共同は認めがたい。しかし、新過失論によれば、構成要件段階での過失の実行行為を観念できるから過失行為の共同も可能といえる。有力学説によれば、行為者に共同注意義務があるときは過失行為の共同が認められるとされる。「共同実行の意思」が過失犯で認められるかについて、従来、過失犯の共同正犯の成立は共同正犯の成立要件として意思の連絡を必要とするかの議論に帰結すると考えられてきた。犯罪共同説の立場からは、過失犯は無意識を本質とするから共同実行の意思が認められず、過失犯の共同正犯は成立しないとされた。一方伝統的な行為共同説の立場からは共同正犯の成立には意思の連絡は不必要であるから、過失犯の共同正犯の成立に問題はないとしてきた。他方、過失は一次的には無意識的はものであるが、二次的には一定の主観的心情・心理状態とあいまって発現するものであり、過失犯において心情・心理状態も重要な要素であり、これについては相手の行為を利用しあう意思ないし意識を認め得る として犯罪共同説・行為共同説にかかわらず共同実行の意思を認める説もある。 |
共同正犯の結果的加重犯の共同正犯 例えば、甲と乙が傷害の意思で共同してAに傷害を与え死に至らせた場合に、両者に傷害致死罪の共同正犯が成立するかという問題である。結果的加重犯について、加重結果を帰責するには加重結果の過失が必要とする立場からは、上記の過失犯の共同正犯の議論が妥当する。一方で判例などのとるいわゆる故意犯説からは、基本犯についての共同実行の意思と事実があれば加重結果についても共同正犯が認められる。 |
共同正犯の承継的共同正犯 承継的共同正犯とは、先行者が既に実行行為の一部を行い、その実行行為が終了する前に後行者が共同実行の意思を持って実行行為に参加する場合をいう。この場合に、後行者は自らの加功前の事実についても共犯としての罪責を負うのかについて学説上争いがある。判例は、最決平成24年11月6日刑集66巻11号1281頁において、「被告人は,被告人の共謀及びそれに基づく行為と因果関係を有しない共謀加担前に既に生じていた傷害結果については,傷害罪の共同正犯としての責任を負うことはなく,共謀加担後の傷害を引き起こすに足りる暴行によって傷害の発生に寄与したことについてのみ,傷害罪の共同正犯としての責任を負う。」と判示し、少なくとも全面的に承継的共同正犯を肯定する見解に立っていないことを明らかにしている。なお、本決定においては、千葉勝美裁判官の補足意見が付されており、「いわゆる承継的共同正犯において後行者が共同正犯としての責任を負うかどうかについては,強盗,恐喝,詐欺等の罪責を負わせる場合には,共謀加担前の先行者の行為の効果を利用することによって犯罪の結果について因果関係を持ち,犯罪が成立する場合があり得るので,承継的共同正犯の成立を認め得るであろう」と述べている。 |
井本ケイの出演 太字はメインキャラクター。 |
スラフカ・マネヴァの大宮宿の設置 中山道の前身となる街道は、戦国時代に後北条氏によって整備されたが、その時代には浦和宿の次が上尾宿となり、大宮は両者の中間点で馬継ぎをする場であった。またその街道は、一の鳥居から氷川神社の参道を通り、神社の前で折れて迂回していた。神社の鳥居前、参道沿いに既に町と呼べる集落があったようである。大宮宿の脇本陣の主であった栗原家が伝えるところによると、天正19年(1591年)に栗原次右衛門保逢が地子免許と引き替えに宿役を勤めると願いを出した。免税は受け入れられなかったが、これを機に大宮宿が設けられたという。宿の名は氷川の大宮、すなわち氷川神社にちなむ。この年は徳川家康が北条氏にかわって関東地方を支配するようになって間もなく、他の宿場の整備年代との関連で、もう少し年代が下るのではないかと言われる。当初の大宮宿は、大門通りと呼ばれた参道沿いに、宮町、中町、下町と続く3つの町からなった。寛永元年(1624年)には、1キロメートル北東の寿能城跡に屋敷を構えていた北沢甚之丞直元が42軒の村民とともに移住し、大門町を開いて4町となった。 |
オタカル2世の若年期 曹洞宗曹洞宗約15000寺のうち十指に入る北関東の名刹である大宮山東光寺は、もとは大宮黒塚(氷川神社の東側、現・産業道路脇)にあって、天台宗に属していた。徳川家光の頃、中山道の整備にともなって現在地に移されている。寺伝によれば平安時代末期、武蔵坊弁慶の師匠とされる京・鞍馬寺の東光坊祐慶(宥慶)が黒塚の鬼婆(おにばば)を法力をもって退散させ、鬼婆に殺された人々を葬るために庵を結んだことを起縁としている。史実としては、鎌倉時代に梁室元棟禅師がこの地に来錫(らいしゃく)して開山し、曹洞宗寺院に改めたとされている。なお、ここに見る「黒塚の鬼婆」というのは福島県の安達太郎山に伝わる「安達ヶ原(あだち-が-はら)の鬼婆」こと「黒塚の鬼婆」と同一の怪異者である。「安達ヶ原」は陸奥国の話であるが、大宮の堀之内を昔「足立ヶ原(あだち-が-はら)」と呼んでいたことから、混同が起こったらしい。ただし、この種の伝承は日本各地に存在するのであり、いずれが本家・本元と言えるようなものではない。東光坊祐慶が足立ヶ原黒塚の鬼婆を呪伏した際の護身仏と伝えられる、1寸8分の金銅薬師如来像を本尊とする。萬霊塔、庚申塔(延宝8年〈1680年〉)あり。また、東光寺は、中山道を往還する文人墨客が足を留めた所でもあり、漢学者・上山寿山や先述の漫画家・北澤楽天、大宮市発展の礎となった駅の誘致に尽力した白井助七、といった名誉市民の墓碑もある。 |
原の辻遺跡のルドルフ1世との戦い 大空位時代を迎えた神聖ローマ帝国において、オタカルはドイツ王の選挙に積極的に関与し、中心的な役割を果たした。まもなく七選帝侯によってドイツ王が選出される体制が確立されるが、選帝侯の中にボヘミア王が含まれていたのはオタカルの活躍に帰する点が大きいと考えられている。1262年には皇帝候補の一人コーンウォール伯リチャードにバーベンベルク家の所領を授封するが、これは当時の法慣例から外れた行為だった。オタカルは懐妊が期待できないマルガレーテとの結婚を解消し、ハンガリーの王女クニグンデ(クンフタ)と再婚した。オーストリアの貴族は自己の権利の強化を求め、またボヘミア人やモラヴィア人がオーストリア、特にシュタイアーマルクの要職を占めている状況に不満を抱いていた。1265年にオタカルはオーストリアの混乱期に無許可で建てられた城壁を破壊する。オタカルはオーストリアの貴族がズデーテン地方の貴族と同盟していると見なして彼らに攻撃を加え、1268年に多数のシュタイアーマルクの貴族を逮捕した。1272年にオタカルはフリウリ総督に就任し、ボヘミア王国はズデーテンからアドリア海に広がる支配権を有するようになる。1273年にフランクフルトでドイツ王選挙が開かれるが、会議の場にオタカルの姿は無かった。野心的なオタカルを忌避する他の諸侯はハプスブルク家のルドルフ1世をドイツ王に選ぶが、オタカルはルドルフの選出に強く反対し、ルドルフ1世を「貧乏伯」と小ばかにした。ルドルフ1世はオタカルの領土拡大を不法なものだと非難し、ライン宮中伯ルートヴィヒは、オタカルに世襲地であるボヘミア、モラヴィアの受領、オーストリア、シュタイアーマルク、ケルンテンの帝国への返還を求める訴えを起こした。ニュルンベルクでの帝国裁判への出廷の拒否、領土の授封の申請を怠ったことを理由として、1274年11月にオタカルは帝国追放処分を下される。さらに1276年6月には重追放処分が下され、これまでオタカルを支持していたオーストリアの貴族もルドルフの側に傾き始める。また、教皇庁の態度、托鉢修道士による宣伝は民衆の感情を反オタカルの側に揺り動かしたが、オタカルは反対派の行動に厳罰をもって対抗する。ドイツ国王軍と同盟軍がオーストリアに進軍すると、オーストリアの貴族と都市の大部分は降伏し、オタカルは不戦降伏を決意する。オタカルはルドルフ1世にオーストリアとエーガーの放棄を約束し、ボヘミアとモラヴィアの授封を承認した。しかし、依然多くの支持者を擁するオタカルは領地の引渡しを拒否し、ニーダーバイエルンのハインリヒらの貴族、一部のウィーン市民はルドルフ1世に反抗した。また、オタカルの降伏とともにプシェミスル家とハプスブルク家の婚姻が計画されていたが、帝国追放令が解除された後に婚姻の計画はオタカルによって破棄される。オタカルとルドルフは双方とも軍隊を召集し、オタカルの元にはボヘミア、モラヴィアだけでなくブランデンブルク、シレジア、テューリンゲンポーランドからの軍勢も加わった。1278年8月26日にオーストリア東部でボヘミア軍とドイツ軍が交戦するが、ルドルフ1世の配置した伏兵によってボヘミア軍は敗北する(マルヒフェルトの戦い)。敗走中、オタカルはかつて処刑したマーレンベルク家の郎党と思われる人間に捕らえられ、撲殺された。戦後、オタカルの娘アネシュカ(アグネス)とルドルフ1世の子ルドルフ、息子ヴァーツラフとルドルフ1世の娘グータ(ユッタ)の結婚が取り決められた。 |
東吾妻町の歴史 遺跡は1997年(平成9年)に国の史跡に指定された。2000年(平成12年)11月24日には特別史跡となった。史跡公園が計画されているが、遺跡全体の公有化が進んでおらず現在既に発掘された場所は一旦埋め戻されたが、原の辻一支国王都復元公園として再整備されている。出土品は壱岐市芦辺町深江鶴亀触にある「壱岐・原の辻展示館」に収蔵されていたが同館は2009年(平成21年)8月31日で閉館され、遺跡の北方に新しく建設された壱岐市立一支国博物館(2010年3月14日開館)に改めて収蔵されている。なお、原の辻ガイダンスには、発掘調査の様子や代表的な土器などの出土品が展示されており、さらに観光・物産の紹介や壱岐神楽の見学もできるように整備されている。 |
フランス語能力テストの概要 坂上地区の大字大戸には関所があった。この大戸の関所で講談などで知られる国定忠治が捕らえられ、磔に処された。 |
リズバルク郡の近隣の郡 TCFの受験者数は、2004年には、45,000人を超えている。 |
V.DUBBの解説 北東部はバルトシツェ郡、南部はオルシュティン郡、南西部はオストルダ郡、西部はエルブロンク郡とブラニェヴォ郡に接している。 |
大空の遺書の沿革 養老2年(718年)、泰澄が加賀国白山比咩神社より勧請し創建したと伝え、「北陸七白山」の一つという(北陸七白山の他の神社の一つは大山白山神社という)。創建時は「白山妙理権現」といい、虚空蔵菩薩、十一面観世音菩薩、聖観世音菩薩が祀られていたという。明治6年(1873年)6月郷社に列し、同30年(1897年)に現在の社殿が再建され、平成19年(2007年)、本宮の修復が行われる。 |
レオネル・バンジョーニの経歴 現在の本殿は明治30年の再建である。 |
松本市歴史の里の概要 2009年9月30日にアルゼンチン代表として、国際親善試合のガーナ代表戦で代表チームに初招集された。 |
克山県の歴史 アルピコ交通上高地線大庭駅より徒歩約15分。 |
メディアカフェポパイの概要 2000年にレンタルビデオチェーンを展開する広島県の5社(「メディアステーションポパイ」を展開する株式会社サンコー・株式会社よしみつ・株式会社カキタ(2007年に本社機能を東京都に移転)の3社、「じゅげむ」を展開する株式会社あらき、「ムービータイム」を展開する株式会社タイムス)によってグループ展開により広島県で始めたのが発祥。現在では、広島県はもとより、中国、関東を中心に東海、関西、九州など全国に71店舗(2019年5月1日現在)展開し、地域最大級のネットカフェを背景に急速に勢力を伸ばしている。各地域に展開する店舗は別々の資本企業(9社)によって運営されている。株式会社サンコーが幹事企業となっている。かつては、全国にあるほとんどの店舗は非会員制であり特に氏名や職業などの個人情報を聞かれること無く利用できたが、関西地区(大阪府)は、大阪府改正青少年健全育成条例強化により、2006年2月1日から身分証などの掲示が義務付けられたため、会員制システムを導入した。また、大阪府以外では京都府・大分県内の全店舗並びに浜松店(静岡県浜松市中区)・春日店(広島県福山市)でも会員制システムを導入した。さらに一部店舗が加盟している日本複合カフェ協会では、会員制度の採用の努力義務がガイドラインに盛り込まれていることもあり、2008年4月1日(広島県など一部店舗は3月から先行実施)から順次、株式会社サンコー・株式会社あらき・株式会社カキタの3社が運営している全店舗及び株式会社よしみつが運営する一部店舗で会員制システムを導入し、全国にあるほとんどの店舗は会員制となったが、現在は日本複合カフェ協会加盟店舗(共同運営店舗で日本複合カフェ協会加盟事業者が1社でも含まれている場合を含む)・東京都内の店舗など、一部を除き、再び非会員制となった。以前は島根県(アリオン出雲店(出雲市))にも展開していたが、現在は独立している。2017年に、モンテローザから複合カフェ「ワイプ」2店舗(中央林間店・大船東口駅前店(大船店に改称))を譲り受けた(店名も「メディアカフェポパイ」に改称)。 |
対中いずみの経歴 大阪府大阪市生まれ。滋賀県大津市在住。田中裕明に師事。2000年、俳誌「ゆう」に入会。2004年、第4回ゆう俳句賞受賞。2005年、田中裕明の死去にともない「ゆう」終刊。同年、「椋」「晨」入会。森賀まりらと、田中裕明研究と作品を語る雑誌「静かな場所」を発行。また、『田中裕明全句集』(ふらんす堂、2007年)刊行に際しては、同書刊行委員会に参画し、年譜の執筆を担当した。「桜の実ひとつ拾ひて渚まで」「足音のやうに波くる芒種かな」などに見られるように、生活に近い自然の一側面、一側面を大切にした作品が特徴。 |
ブラヴォーグ (カーデュー)のタイトルの由来 タイトルの「ブラヴォーグ」とは、1798年のアイルランド革命運動の挫折から100周年を記念して作られた歌のことで、1898年にパトリック・ジョゼフ・マッコール(Patrick Joseph McCall)によって作曲された。第1主題のテーマにこれが用いられている。その他、第3楽章で19世紀末の炭鉱のスト破りを歌った闘争歌をテーマに用いている。 |
ブラヴォーグ (カーデュー)の構成 完成されているのは第3楽章までである。1970年代以降のカーデューの作曲スタイルを踏襲して、調性作品で曲の構造も単純である。政治的主張が目的であることは明白だが、1970年代の作品とは異なり露骨な共産主義礼賛や毛沢東思想は見られない。 |
ブラヴォーグ (カーデュー)の第1楽章 比較的ゆっくりとした楽章。「ブラヴォーグ」をテーマとした変奏曲である。一方のピアノが「ブラヴォーグ」の旋律を演奏し、もう一方のピアノはアルペジオで伴奏する。その後しばらくはテーマはあまり変形されることなく、主に伴奏が変化しながら何度も繰り返される。短調へ一瞬転調したあたりから複調化が始まり、細分化されたモティーフが重層的に重ねあわせられる。再び、明確な調性感を取り戻し曲想も穏やかになった後、軽くスケールが演奏されて静かに終わる。 |
ブラヴォーグ (カーデュー)の第2楽章 短い早めのテンポの気楽な楽章。絶えず現れる分散和音の中、数個のモティーフが転調を伴いつつ終始繰り返される。 |
ブラヴォーグ (カーデュー)の第3楽章 序奏-ABA'-コーダ(序奏とコーダ付きの三部形式)。遅めのテンポで始まる序奏では主部Aに現れる旋律の予告が行われる。急速な下降グリッサンドが現れて主部に入る。主部Aは2つの旋律が用いられている。次第に集中力を増した後、突然音楽が停止して中間部のBに入る。中間部は3連符を主体とした1種のトリオである。再び下降グリッサンドが現れて、Aの部分の簡潔な再現部になる。第1の旋律が再現され、後半は第2の旋律の要素と合わせて展開される。いったん終結した後、速度を落としてレチタティーヴォ風の旋律でコーダは始まる。この旋律を数回繰り返し、Aの第2の旋律をごく短く再現した後、コーダの最初の旋律をもう一度演奏し急速に加速して曲を閉じる。 |
ブラヴォーグ (カーデュー)の演奏時間 約15分 |
ブラヴォーグ (カーデュー)の初演 作曲者の生前に、第3楽章までが初演されている。1981年3月にスーザン・ブラッドショウ(Susan Bradshaw)とジョン・ティルブリー(John Tilbury)によって初演された。 |
ブラヴォーグ (カーデュー)の楽譜 コーネリアス・カーデュー財団(Cornelius Cardew Foundation)より出版されている。楽譜の販売自体は、EMC(Experimental Music Catalogue)が行っている。 |
ボフダン・フメリニツキーの前半生 1595年にドニプロー川中流域のチヒルィーン近郊にあるスボーチウに生まれた。父ムィハーイロはコサックの小領主であった。フメリニツキーは実家の近所の教会学校で初等教育を受けたあと、ヤロスワフのイエズス会神学校、あるいはポーランドの大将軍スタニスワフ・ジュウキェフスキが自らの地元リヴィウに設立した学校で中・高等教育を受けたとされている。通常のローマ・カトリック教徒の同級生が多いなか、ボフダン少年は正教会に所属しつづけた。学校では世界やポーランドの歴史、ウクライナ語、ポーランド語、ロシア語、トルコ語(オスマン語)、ラテン語を習得したとされる。1620年、父に従いツェツォーラの戦いに従軍し、ポーランド軍の一員としてオスマン帝国軍と戦った。この戦いで父が戦死し、フメリニツキー自身は捕虜となり、イスタンブールに2年間抑留された。この間もトルコ語の習得に余念がなく、オスマン帝国の情勢に精通するようになった。1622年に母親が身代金を工面したため帰国を許された。その後、登録コサックに入り、チヒルィーンの百人隊の隊長兼書記官となった。領地経営の傍らコサックの対外交渉団に加わり、交渉相手のポーランド王からも高い評価を得たとされている。1637年から1638年に起きたウクライナ・コサックのポーランドに対する反乱の際には、オタマーン(コサック指導者)の軍団書記として従軍した。1645年ごろにはコサック傭兵の参加問題でポーランド政府からフランス王国に派遣された他、ポーランド王ヴワディスワフ4世の対クリミア作戦計画にも参加した。 |
ボフダン・フメリニツキーの蜂起 1647年、ポーランドの貴族でチヒルィーンの副長官ダニエル・チャプリンスキが、50歳を超えていたフメリニツキーの領地を奪おうとした。フメリニツキーはチフィルィーンの法廷やポーランド議会、ポーランド王ヴワディスワフ4世に訴えるが、フメリニツキーの主張が支持されることはなかった。秋になると、フメリニツキーはウクライナ中を回って各地方のコサックの有力者に自分の立場を訴えたが、このことでフメリニツキーはポーランド・リトアニア共和国に対して反乱するためにコサックを糾合すべく根回しを行っているのではないかとの嫌疑がかけられることになり、チフィルィーンの代官によって逮捕されてしまう。フメリニツキーには死刑の宣告が下ったが、12月にフメリニツキーは代官を説得して出獄、一方でポーランド・リトアニア共和国に対する蜂起を決意する。フメリニツキーはザポロージャのシーチに逃れ、ポーランド貴族による収奪に不満を蓄積していたコサック達を説得することに成功する。1648年、フメリニツキーは、ムィクィーティンのシーチにおける会議によってザポロージャのコサックのヘーチマンに選出された。フメリニツキーはクリミア・ハン国とも同盟を結び、ジョーウチ・ヴォーディの戦いで政府軍に勝利する。フメリニツキー率いるコサック・タタールの同盟軍は、1648年秋にはワルシャワに達する勢いであった。この年にポーランド王に即位したヤン2世カジミエシによってコサックの伝統的権利の維持などを約束する、コサックは王にのみ従い土地の貴族には従わないとした和平を結び、フメリニツキーは兵を引きキエフに戻った。キエフに凱旋したフメリニツキーは、キエフの正教会府主教や、偶然キエフに滞在中であったエルサレム総主教から「ポーランドからの解放者」「第二のモーゼ」と呼ばれ歓呼の声で迎えられた。フメリニツキーは戦いの意義としてポーランド支配からの脱出を自覚しポーランド軍をズボーリウで破り、ズボーリウ条約(ズボリフ休戦協定)を結んだ。同条約でウクライナ(キエフ州、チェルニヒフ州、ブラツラウ州のこと)はコサック領とされ、ポーランド軍、ユダヤ人、イエズス会の排除が取り決められた。ここにウクライナは事実上のコサック国家となった。 |
ボフダン・フメリニツキーのペレヤースラウ条約 フメリニツキーはこうしてウクライナのポーランドからの自治を勝ち取ったものの、ウクライナは周囲を敵に囲まれており、軍事・外交の面で極めて難しい状況にあった。1651年6月のポーランドとの戦いではタタール軍(クリミア・ハン国)がポーランド側に寝返り、フメリニツキーはタタール軍を説得しようとしたが逆に拘束されたためコサック軍は大敗を喫した。この結果登録コサックの数は2万人にまで減らされ、ヘチマン国家の統治域もキエフ州のみに縮小された。フメリニツキーは同盟国を求めて一時はオスマン帝国の宗主権下に入った。またモルダヴィア公国やスウェーデンとの同盟も求めようとしたが、1654年にはロシア・ツァーリ国とペレヤースラウ条約を結んでその保護下に入った。同じ正教徒であるモスクワとの同盟は、イスラム教徒のオスマン帝国との同盟よりも当時のウクライナでは歓迎されたが、その後は長年にわたるモスクワによるウクライナ支配の口実をも齎してしまった側面がある。ヘーチマン国家は制度上はポーランドに属する自治領でありながらも事実上はモスクワが宗主権を行使することになり、自治権も次第におびやかされることになった。この協定に対する評価もウクライナとロシアではわかれている。ウクライナはこの協定を、フメリニツキーが結んだ多数の短期的な同盟の単なる一つとみなしたが、ロシアおよび後のソ連は、キエフ・ルーシの崩壊以来、歴史の中で別々の道を歩んだロシアとウクライナがこの協定でついに「永続的に」統合されたとみなした。ポーランドから守ってもらうためモスクワの保護下に入ったウクライナであったが、1656年にポーランドとモスクワが対スウェーデン戦争のために同盟を結んだことが、モスクワに対するフメリニツキーの怒りを呼び起こした。彼はその後、ポーランドだけではなくロシア・ツァーリ国からの独立をも目指して再び蜂起しようとしたが失敗し、その直後1657年に病死してしまった。 |
ボフダン・フメリニツキーのウクライナ以外における評価 ポーランド史では、フメリニツキー(ポーランド語ではフミェルニツキ)の名は、ポーランド・リトアニア共和国の繁栄時代を一挙に終わらせ、共和国分割に繋がる国家崩壊を齎した忌まわしき名として思い起こされる。ポーランド史において、フメリニツキーの乱とコサック国家の自立は、フメリニツキー死後のコサック国家内の混乱のためもあり、共和国領内へスウェーデンやロシアなど外国勢力の侵入を招く「大洪水時代」の序幕となった。こののち100年あまりをかけて共和国は凋落の一途を辿り、分割されて国家は消滅する。文化面での扱いは違った。ロマン主義の時代以降、ポーランドの多くの芸術家にとってウクライナという地方はインスピレーションを掻き立てられる憧憬の地となった。そうした中で、フメリニツキーはかつての自由なるコサックの栄華を思い起こさせる代表的な歴史的人物となった。文学では、ヘンリク・シェンキェヴィチの『三部作 Trylogia』の第一作目、『火と剣もて Ogniem i mieczem』(1884年)が最も知られている。この作品ではまさにフメリニツキーの乱が描かれ、その中でフメリニツキーはライバルのヴィシニョヴィェツキとともに物語の中心的な人物とされている。会が芸術の分野では、ヤン・マテイコやユリウシュ・コサックといった著名なポーランド人画伯が、フメリニツキーや彼の時代の出来事を題材とした絵画を多く残している。一方、ロマン主義の入る余地のなかったのが、ユダヤ人であった。1648年にユダヤ教徒に対して行われた大虐殺により、ユダヤ史ではフメリニツキーの乱は最悪の事件の一つとして数えられ、各地の「寛容の博物館(Museum of Torelance)」等ではヒトラーに継ぐ大悪人として紹介されている。 |
ボフダン・フメリニツキーの記念 現在、フメリニツキーはウクライナ最大の英雄として扱われており、首都キエフの中心近くには彼の銅像の立つソフィヤ広場(一時期、フメリヌィーツィクィイ広場と呼ばれた)があり、いすゞ自動車との提携で販売されているマイクロバスにも「ボフダン」という彼の名が付けられたものがある。また、5 フリヴニャ紙幣にも肖像が用いられている。 |
光延東洋の人物 岡山県高梁市出身。大阪府立北野中学校より海軍兵学校第47期に進み首席で卒業した。しかし海軍大学校甲種課程には進まず、ヨーロッパへの出張と駐在を繰返し、井上成美らにその常識的思考を高く評価されていた。イタリアでパドリオ政権が連合国に降伏した際、スイスに業務連絡の為に移動中、フィレンツェ北方のアッペンニーノ山脈を通行中にマンリーコ・ドゥッチェスキ率いるパルチザンの襲撃に遭い、同乗していた山仲伝吾海軍中佐は重傷だったが、光延は射殺され戦死扱となる。同時期にヴェネツィアからミラノに移動のためアッペンニーノを通行していた三菱商事社員牧瀬裕次郎と大倉商事社員浅香光郎もパルチザンの襲撃を受け、使役ののち殺害されている。同行していた妻トヨと子供たちは、ドイツ、スイスを経てアメリカ合衆国へ逃れ、同地で日本の敗戦を知ることとなる。光延の遺体は荼毘に付され、ドイツ・ドレスデン郊外のケーニッヒシュタインに埋葬されたが、50年後の1994年に長女の孝子が母のトヨと共に日本へ持ち帰り、改葬された。 |
山本登朗の3度目の鈴鹿対決 アイルトン・セナとアラン・プロストのドライバーズチャンピオン争いは3年続けて終盤戦の日本GPまでもつれこんだ。選手権ポイントではセナが9点リードし、プロストは逆転に望みをつなぐためにも優勝する必要がある。両者は前年までマクラーレンのチームメイトだったが、今回はプロストがフェラーリに移籍したことで、チーム間の対決という構図も生まれた。前戦スペインGPではフェラーリ勢がワンツー勝利、マクラーレン勢が2台ともリタイアという結果になり、コンストラクターズチャンピオン争いもマクラーレンとフェラーリの差が18点に縮まった。ゲルハルト・ベルガー(マクラーレン)、ナイジェル・マンセル(フェラーリ)には両タイトルへの貢献が求められた。 |
笹野ちはるの略歴 スタートの波乱後、粛々と進むレースを沸かせたのは日本人ドライバーの活躍だった。鈴木は7周目のメインストレートでデレック・ワーウィックに並び、アウト側の芝生にタイヤを落としながらも2コーナーで6位に浮上。アンダーステアに苦しむウィリアムズ勢をファステストラップを連発しながら追いかけ、35周目にリカルド・パトレーゼのピットインで3位に浮上した。終盤はガス欠の不安もあったがペースを緩めず走りきり、地元レースで日本人として(アジア人としても)初のF1表彰台に立った。残り2周は観客席で打ち振られる日の丸をみて涙が止まらなかったという。中嶋も古巣のロータス勢を追い上げ、36周目1コーナーでアウト側から得意の「大外刈り」でワーウィックをかわし、6位に入賞した。後輩鈴木の表彰台については、笑顔交じりで「おめでとう、俺より先行っちゃったな。でも来年はたぶん俺のほうが可能性上がるから、俺も頑張る」とコメントした。 |
HIDEKI LIVE'76の内容 1994年、芳文社まんがタイムスペシャル5月号『新人4コマまんが展』の笹野桂名義で『花の女子高組』にて入選しデビュー。以来芳文社・竹書房・双葉社・ぶんか社などの各4コマ漫画雑誌で執筆している。双葉社まんがタウンにて『せんせといっしょ!』、日本出版社ねこのしっぽにて『猫ねこだより』 、ぶんか社『本当にあった笑える話Pinky』にて投稿ネタを元とした4コマ漫画がそれぞれ掲載されていた。以前別ペンネームとして挙げられていた「鳥井まき」というペンネーム自体では商業活動はしておらず、過去に4コマブログで使用されていたハンドルネームである。2013年6月、健康や生活面での理由による商用誌からの撤退を公式サイトにて告知。2013年8月21日発売の主任がゆく!スペシャルの夜桜パーティーが最後の雑誌掲載作品となっていた。2014年5月にぶんか社『本当にあった笑える話Pinky』にてゲストとして作品を描き、活動を一部再開している。 |
トンブクトゥの戦い (2013年3月末)の経過 西城秀樹が1976年11月3日に日本武道館において開催した、第2回コンサート「ヒデキ・イン・武道館」の模様が収録されている。コーラス スイート・ピー、演奏 稲垣次郎とソウル・メディア、藤丸バンド、ジュエル・ポップス、指揮 中谷勝昭 |
ターフェルムジークの概論 正午までに明らかとなった結果はイスラム戦闘員の死亡2人マリ軍の負傷者は4人であった。午後、マリ軍兵士1人は傷が元で死亡し、イスラム戦闘員3人が死亡、他に人質となったナイジェリア人の民間人1人が死亡している。、4月1日の掃討戦で3人死亡が確認される。戦闘は31日1600時頃に終わり、夕方に結果が明らかとなり、イスラム戦闘員は自爆による2人を含み合計8人が死亡。マリ軍は1人が戦死し8人が負傷する。 |
大衆文化における近親相姦の研究・評論 近親相姦は日本の官能小説の幾分普及した題材である。永田守弘による著書である『日本の官能小説』という新書が朝日新聞出版より2015年に出版され、1991年デビューの牧村僚が母と息子の関係を描いた歴史的な官能小説家として引き合いに出されているが、このような母性を扱った作品が描かれた背景には母と息子の関係の濃密化という実際の社会の変化があると永田守弘は指摘している。官能小説以外ではミステリー小説の分野で描かれる場合が注目されている。島田荘司は、かつてアガサ・クリスティの時代は、母と息子の性的関係や、母と娘の戦いといったことを題材にすることはミステリーの世界では倫理的に敬遠されていたと述べている。近親相姦が喜劇として描かれる場合もあり、マルグリット・ド・ナヴァルの『エプタメロン』では、実母と関係して得た娘と交わった男の話が描かれるが、シリアスなものではなく、一同の笑いを誘う滑稽譚となっている。ドイツのシュトゥルム・ウント・ドラングでは、兄妹、姉弟の間の恋愛感情というのは非常に好まれた主題だった。近親相姦は戦後のカストリ雑誌でも描かれており、戦争直後に流行した軍隊批判を軸として姉弟の近親相姦を描いた作品などがある。少女漫画においても近親相姦は取り上げられやすいテーマであり、昭和47年にも母子相姦を扱った水野英子『ママに青い花を』などの作品が見出される。石子順造は戦前の宝塚歌劇から引き継いで、男装の麗人のイメージを純粋培養している少女漫画に母子相姦が描かれたのは象徴的だと述べ、男性でありながら男性でない兄を原イメージとした男装の麗人に恋人を仮託すれば、予感される母である自分にとってもう一つの決定的な愛は息子への愛情であるので、男装の麗人と母子相姦は日本の思春期の少女にとって深く切実な愛のイメージの二相であると指摘している。藤本由香里はレディースコミックにおいては近親相姦も武器となり得るとした上で、母子相姦ではなく娘が父親を誘惑する父子相姦に着目する。娘に誘惑され、それに応じた父親が破滅させられるというレディースコミックに見られる題材は、「近親相姦」が「父権制」への反逆として姿を現した例であるという。成人向け漫画でも近親相姦は扱われるが、2006年にイースト・プレスより単行本が出版され、2014年に筑摩書房より文庫が出版された、永山薫の著書『エロマンガ・スタディーズ 「快楽装置」としての漫画入門』(文庫版の書名は『増補 エロマンガ・スタディーズ 「快楽装置」としての漫画入門』)では「妹系と近親相姦」という見出しで一章を割いて話題にしている。永山薫は、21世紀初頭の段階ではエロマンガ全体を見ても妹を扱った作品が最も一般的といっていい状態で、母親を扱った作品は目立って多いというほどではなくリアルに描かれることも少ないと書く一方で、文庫版の注ではエロ劇画に類する今の作品では母親をリアルに描くことは一般的としている。兄妹の近親相姦の作品を多数著す成人向け漫画家の三上ミカは、自身が弟に対してブラザーコンプレックスであることが兄と妹という関係性に惹かれる理由の一つになっていると述べている。また、兄妹ゆえに愛情の種類も他のカップルより複雑なはずなので、それを火種にできたら良いと思うとしている。 |
辛威のアニメ 1984年には、義理の兄妹を扱ったアダルトアニメ『くりいむレモンパート1 媚・妹・Baby』(ビー・マイ・ベイビー)が発表された。 |
第5惑星の評価 北魏の河州四面大都督の辛生の子として生まれた。はじめ賀抜岳の西征に従って功績を挙げ、仮の輔国将軍・都督となった。534年、宇文泰が賀抜岳の部衆を引き継ぐと、辛威は召されて帳内となった。まもなく羽林監に任ぜられ、白土県伯に封ぜられた。孝武帝を迎え、回洛城を攻撃するのに、功績は最上とされた。535年、西魏が建国されると、寧遠将軍に任ぜられた。通直散騎常侍に累進し、爵位は侯に進んだ。従軍して竇泰を捕らえ、弘農を奪回し、沙苑に戦い、いずれも先鋒として活躍した。前後の功により、撫軍将軍・銀青光禄大夫の位を受けた。于謹の下で襄城を落とした。また独孤信に従って洛陽に入り、河橋の戦いに参加し、持節を加えられ、爵位は公に進んだ。539年、揚州刺史に任ぜられ、大都督を加えられた。547年、車騎大将軍・儀同三司となり、驃騎大将軍・開府儀同三司に転じ、普屯氏の姓を受け、敷州刺史として出向した。河州刺史に転じ、河州大中正をつとめた。557年、北周の孝閔帝が即位すると、大将軍に任ぜられ、爵位は枹罕郡公に進んだ。北斉の司馬消難が北周に帰順してくると、辛威と達奚武が応接にあたった。561年、兵を率いて丹州の胡族の乱を討ち、これを撃破した。563年、達奚武とともに陽関を攻撃して、これを落とした。564年、尉遅迥の下で洛陽を包囲し、帰還すると小司馬に任ぜられた。566年、位は柱国に進んだ。再び行軍総管となって、綏州・銀州などの胡族の乱を討ち、これらを平定した。571年、斉王宇文憲の東征に従い、伏龍など5城を落とした。572年、大司寇に任ぜられた。574年、少傅に転じ、寧州総管として出向した。578年、位は上柱国に進んだ。580年、宿国公に進み、再び少傅となった。その年の冬、69歳で死去した。子の辛永達が後を嗣ぎ、儀同大将軍に上った。 |
結婚してシマッタ!の概要・あらすじ 第14回アボリアッツ・ファンタスティック映画祭で黄金のアンテナ賞を受賞。第13回サターン賞ではSF映画賞にノミネートされた。 |
勝田車両センターの概要 陣内孝則『辛口』(作詞:松本隆 作曲:織田哲郎 編曲:高橋研 レーベル:ポニーキャニオン) |
田中ひろみ (脚本家)の略歴・人物 常磐線に沿うように設けられ、勝田駅から2本の入出区線により繋がっている。本線側より1番線から19番線の着発線が並び、1番線から13番線が車両留置線。14番線から18番線は検修庫内に通じており、交番検査や機能保全は主に14番線を使用し、軽微な修繕などは15・16番線が使用される。17・18番線は架線が張られていない修繕庫で、クレーンや車体を持ち上げるジャッキなどが配備され、車両の修繕や加工などの作業が行われる。E657系前頭部のFRPカバーもここで取り付けられたものである。18番線の検修庫内には車輪転削機が設置されていたが、2006年4月に新設された内原電留線に10両編成対応の車輪転削線が設けられたために転削機を移設し機能を移転した。この車輪転削機は水郡線営業所の車両も使用する。19番線は着発線の中でも最も短く、3両分の長さしかないためE491系や編成から分割された車両が置かれることが多い。かつて443系電車が配置されていた頃は同車が使用することが多かった。要部検査や全般検査は郡山総合車両センターで行なわれ、車両はその都度、水戸線・東北本線経由で回送される。 |
アラン・プロストの人物 ・『女優 宮崎美子がたどる 南房総八犬伝ロマンの旅』(BS日テレ 2004年12月) |
田中久雄 (中央市長)の来歴 プロストは雨のレースを極端に苦手としている、と評されることが多い。雨を嫌うようになったのは、後述するディディエ・ピローニとの事故(1982年)が契機となっている。本人によるとピローニの事故に遭遇するまでは、雨の方が得意だった。また、滑ることが問題なのでは無く、前車の水煙が前方視界を奪ってしまうリスクを恐れている、と語っている。それを証明するように1984年モナコGPでは雨のなか優勝、1988年イギリスGPでは豪雨の中、良いところなく自主的にピットインしリタイヤしたが、次のドイツGPでは視界に影響しない程度のウエット・コンディションであったため、セナに次ぐ2位でフィニッシュしている。1989年の最終戦オーストラリアGPではあまりにも激しい雨だったため、他のドライバーに出走を取りやめるようスターティンググリッド上を一台一台歩いて回り働きかけを行い、強行された2回目のスタート後もプロストだけがマシンに乗らなかった。バーニー・エクレストンがスタートだけでもしてほしいと説得したが、「レーサーはそのテクニックで給料をもらってるんだ。こんな洪水の中で技量なんか関係ないじゃないか」と怒りをぶつけ意思を曲げなかった。その他、雨だった1991年サンマリノGPや1993年ブラジルGP、ヨーロッパGP、日本GPで勝利を逃している。1982年の西ドイツGP(ホッケンハイムリンク)、第1日目フリー走行は視界が極端に悪い霧雨の中で行われたが、スタジアムセクション手前のストレートでスローダウンした前車をプロストが追い抜いたところ、後ろからアタック中だったピローニがこれを視認できず、ピローニ車の前輪がプロスト車の後輪に乗り上げる事故が発生。ピローニ車はプロスト車を飛び越えて前方の路面に叩きつけられ、ピローニは両足を切断寸前の複雑骨折を負い、レーサー生命を絶たれるという惨事に発展してしまう。プロストに過失は一切なかったが、事故直後に目の当たりにした親友ピローニの惨状が、その後の人生において大きなトラウマとなった。2012年の「F1速報PLUS」Vol.28において、「1980年のワトキンズ・グレンのレースで事故にあった際、負傷により右目の視力が低下していた」ということが発覚している。とくに雨のような薄暗いコンディションでは前がよく見えなかったという。現役時代のプロストはこの症状を抱えていた事を公表していなかった。このほか、サーキットコースの好みでは、「デトロイト市街地コースは嫌い」と発言したことがある。 |
筋短縮症の症状 障害された筋肉の箇所にしこりや、外見的な陥没が見られる。また、部位に応じて様々な運動障害が見られる。大腿四頭筋拘縮症の場合、大腿直筋が障害された直筋型と、中間広筋あるいは外側広筋が障害された広筋型、その両方が障害された混合型があり、それぞれに異なる症状を来す。 |
近代都市の社会問題 抗生物質や解熱剤、栄養剤などを必要以上に注射したことが原因であるとし、注意を喚起しなかった国や製薬会社を相手取って、1973年以来提訴が相次いだ。 |
岡就栄の戦歴 デビューは2006年11月京都1800mの新馬戦。2007年1月デビュー3戦目にして初勝利を記録し、牝馬クラシック路線を視野に入れるも、クイーンカップの熱発による回避やフラワーカップ除外などの不運が重なり桜花賞は断念。その後忘れな草賞を制しオークスに2番人気で挑むも10着敗退、秋には秋華賞15着と3歳クラシック路線では結果を出し得ずに終えた。また、ザレマは3歳までは2000m前後のレースを多く使われたが「距離が伸びると切れ味が鈍る傾向がある」との陣営の判断から4歳以降は1400-1800m戦を主体にレースに使われている。2008年古馬となったザレマは京都牝馬ステークス・福島牝馬ステークスで好走するなど「牝馬同士ならば実績上位」と評価され安定した成績を残し続け、途中準オープンへの降級もあった中、同年12月のターコイズステークスにて久々の勝利を挙げオープンクラスに再昇格を果たす。昇格後の2009年も勝てないながらも入着を繰り返していたが、同年9月京成杯オータムハンデキャップにて重賞勝利を挙げた他、次走富士ステークスでも総崩れとなった先行馬の中で、ただ1頭入着を果たすなど、同馬にとってベストの距離であるマイル戦では牡馬相手にも結果を出している。「詰めが甘いが安定感は抜群」・「切れ味は乏しくも好位からソツなく回れる」と評され33戦中2着7回・3着5回。ヴィクトリアマイル4着などGIでも好走歴がありながら重賞勝利は先述の京成杯オータムハンデキャップ1勝に終わったが、ザレマは6歳春まで大きな故障も無く出走を続け2010年3月の中山牝馬ステークス12着を最後に現役を引退した。 |
OS X El Capitanの概要 同年6月9日に開催されたWWDC 2015の基調講演にて発表された。同日、開発者(Macデベロッパープログラム登録者)へデベロッパープレビュー版も配布された。名前は、ヨセミテ国立公園にある花崗岩の一枚岩、エル・キャピタンから付けられた。 |
ジオコードの社名の由来 「ジオコード」は、直訳すると、住居区分。社員全員でこの私達の場所を、より住みやすく、理想的な場所に作り上げていくという意味が込められている。 |
ルイス・セラーノ・アラルコンの来歴 バレンシアで生まれ、チバの音楽協会で作曲、管弦楽法、ソルフェージュ、音楽理論、初見演奏、移調、ピアノ教育法を学んだ。また、アルボラチェのラ・プリミティバ音楽協会、チバのラ・アルティスティカ音楽協会、ベニマクレートの音楽教育センター交響吹奏楽団の指揮者を歴任した。現在はバレンシア専門音楽院でアナリーゼと作曲を教え、ベテラの音楽芸術センター交響吹奏楽団の首席指揮者を務める。 |
アルト・ハイデルベルクのあらすじ ドイツのザクセン地方のカールブルク公国(架空の国、実際にあるのはコーブルク公国)の王子、カール・ハインリッヒは、両親が早く亡くなったため、後見となった叔父の大公に育てられてきた。学齢に達した王子は、晴れて学生生活を過ごすべく家庭教師の哲学博士とともにハイデルベルクにやってきた。王子の住まいはネッカー川そばのリューダーという下宿屋で、1階は居酒屋兼食堂になっていていつも学生たちで溢れかえっていた。リューダーの遠縁で、ここで女給として働いていたケーティは、たちまち王子に夢中になった。そして、4か月がたち、いっしょにパリに連れていってあげるから、とびきり上等のドレスでおめかしして待っているように言われた直後に、王子の国元から使者がやってきて、大公の容態が悪く、直ちに帰国して欲しいとの知らせを伝えた。王子は1年の予定だった遊学を早々に切り上げて帰国を余儀なくされた。それから2年後、カール・ハインリッヒはカールブルク大公となった。2週間後に不本意な結婚を迎える予定の彼のもとに、ハイデルベルクでの短い学生時代「いつか自分が大公になったら給仕長に取り立ててやるぞ」と約束した相手のケラーマンが訪ねてきて、ハイデルベルクの人々の消息を語った。そこで大公は青春の思い出のハイデルベルクが懐かしくてたまらなくなり、ケラーマンを伴って再びハイデルベルクを訪ねることにした。しかし、ハイデルベルクの街はすっかり変わってしまっており、学生気質も変わり、リューダーの居酒屋も学生たちが寄り付かなくなっていた。ケーティもまもなく結婚を控えていたが、彼女だけは大公のことを忘れずに思ってくれていた。再びハイデルベルクを後にする大公の胸には青春のハイデルベルクの思い出だけが残っていた。 |
アルト・ハイデルベルクの受容史 本作は、20世紀前半において最も数多く上演されたドイツの演劇作品の一つである。この作品が、ハイデルベルクの町を世界的に有名にし、日本では明治時代においてドイツ語を学ぶ学生にとっては必読書になった。昭和時代前期になってもそうした雰囲気は残っていた。一方、ベルトルト・ブレヒトは「駄作」(Saustück) とこき下ろし、アルフレート・デーブリーンは「陳腐な作品」(Leierkasten) といい、クルト・トゥホルスキーまでも「古臭く甘ったるい駄作」(alten Schmachtfetzen) と呼んだ。ブレヒトは、第一次世界大戦後には観客にはもうそれがどういうことなのかわからなくなってしまい知らないままに拍手したりしている若い王子と宿屋の年配の女給の間のエピソードは、あまりにも古臭い身分制度の壁の最たるものだという。しかし、現実の世界でそのような対立を克服してしまった現実の人々の意識が、観客から大いに称賛された。本作は、シグマンド・ロンバーグによるブロードウェイのオペレッタ『学生王子』(1924年)の原作になった。作品中、学生組合の三色のたすきを肩からかけた学生たちの合唱で学生歌により物語の進行が説明される。このシーンはブロードウェイで男性コーラスが好評を博した数少ない場面の一つでもある。この作品は、今日でもハイデルベルク城の恒例の祭りの際にはドイツ語で演じられ、英語の字幕が掲示されている。『学生王子』は何度か映画化もされている。1915年のジョン・エマーソン監督による無声映画、1927年のエルンスト・ルビッチ監督による同じく無声映画、1954年のリチャード・ソープ監督によるミュージカル映画がある。元々の戯曲からも、1959年にドイツでエルネスト・マリシュカ監督、クリスティアン・ヴォルフ主演で映画化されている。 |
多治比広成の経歴 和銅元年(708年)従六位上から三階昇進して従五位下に叙爵され、下野守に任ぜられる。その後、元明朝から元正朝にかけて越前守や能登国・越中国・越後国を管轄する按察使など地方官を歴任する傍ら、和銅5年(712年)従五位上、霊亀3年(717年)正五位下、養老4年(720年)正五位上と順調に昇進する。神亀元年(724年)聖武天皇の即位後まもなく従四位下に叙せられる。天平3年(731年)従四位上。天平4年(732年)兄の縣守(第9次押使)に次いで第10次遣唐使の大使に任ぜられ、翌天平5年(733年)4月に難波津から唐に向けて出発、天平6年(734年)11月に唐から種子島に無事帰着する。帰国翌年の天平7年(735年)遣唐大使の功労により二階昇進して正四位上に叙せられた。なお、唐においては氏として多治比に代えて丹塀を用い、帰国後は元の多治比に戻したという。天平9年(737年)兄の中納言・多治比縣守と当時政権を握っていた藤原四兄弟が相次いで没すると、8月に参議、9月には従三位・中納言に叙任され、知太政官事・鈴鹿王と大納言・橘諸兄に次いで一躍太政官の第三位の席次に昇る。天平11年(739年)4月7日薨去。最終官位は中納言従三位兼式部卿。 |
多治比広成の人物 漢詩人として、『懐風藻』に漢詩作品3首が採録されている。また、広成が遣唐大使として唐に渡る直前、約30年前の第8次遣唐使で渡唐していた山上憶良の邸宅に挨拶に訪れた際に、憶良から広成に贈られた、往来の無事を祈る和歌が『万葉集』に記されている。 |
堀田一郎のプロ入り前 北海高校時代、夏の甲子園出場。中央大学では主将として、4年春に東都大学リーグ二部三冠王に輝く。また、4年時には東都大学リーグのプロ・アマ交流戦に出場し、安打を放つ。1996年にドラフト6位で読売ジャイアンツへ入団。 |
堀田一郎の巨人時代 走攻守3拍子揃った選手として注目され、細身の体型ながら打撃はパンチ力があり、1998年にはフレッシュオールスターゲーム出場果たすも、一軍ではなかなか結果を残せなかった。二軍では2002年に本塁打王、2003年に首位打者に輝くなど毎年のように本塁打、盗塁は常に上位に名を連ねた。2003年5月5日の対広島東洋カープ戦で、プロ入り初本塁打を高橋建から東京ドームのバックスクリーンへ放ち、感極まりベンチ裏で号泣した。堀内恒夫監督時代(2004 - 2005年)は主に試合終盤での代走や守備固めで出場し、手薄な外野陣を走守面でカバーするなど活躍した。2006年シーズン終了後に現役を引退。同年10月15日、神宮球場でのヤクルトスワローズ戦で、山部太投手の引退登板に代打で打席に立ったが、この打席が現役最後の打席となった(結果は三振)。なお、堀田はプロ初安打を山部から打っている。引退会見では球団職員に就職した実弟に記念の花束を渡され、複雑な苦笑いを浮かべながら現役を退いた。 |
堀田一郎の引退後 引退後は、球団職員となり2019年現在は運営部長を務めている。 |
トゥクソム駅の駅構造 相対式ホーム2面2線を有する高架駅で、フルスクリーンタイプのホームドアが設置されている。改札口は2ヶ所あるが、両方とも内回り・外回りホーム別々に設置されており、改札内でのホーム間の移動はできない。化粧室は改札外にある。エレベーター完備。出入口は1番から8番までの計8ヶ所ある。 |
トゥクソム駅の駅名の由来 当駅周辺は昔、纛島と呼ばれており、纛はハングルで転写、島は韓国語の音訓読みで読んでトゥクソム(뚝섬)とした。トゥクソムはかつて漢江の氾濫原であったが、1980年代に流路改良と合わせて陸地化された。開業前は現在のソウルの森の場所に競馬場があったので、暫定駅名が競馬場前駅(경마장앞역)であった。 |
シーブリーズの商標 SEA BREEZE (シーブリーズ) の商標(標準文字および帆の図形)は、 J. W. BROOKS & CO.、シー・ブリーズ・ラボラトリーズ・インコーポレイテッド(米国法人)などから数度の譲渡を経て、現在は、日本及び米国共に株式会社エフティ資生堂が商標権者である。トレードマークは、ヨットの帆(1959年から)。 |
シーブリーズの以前発売されていた商品と付帯情報 BMS時代までは、理美容室ルートでも販売されていたので、整髪料やヘアトニックなども発売されていたと考えられる。資生堂グループに販売権を移管した後は、サンシリーズ(日焼け止め)を始め、固形石鹸(つめたいセッケン)、入浴剤なども一時期発売されていた。現行のカテゴリーでも、以前はスプレー式のアンティセプティック、カラーリング用のリンスインシャンプー、デオ&スプレー(エアゾール式のデオドラント)などが発売されていた。以前はパッケージにFOR SKIN AND SCULPと掲載があり、頭皮をも含む清涼化粧水という性格だったが、現在ではこの表示はなくなっている。 |
ANGEL BEATの概要 「エンゼル・ビート」というラジオ番組で、DJ担当の「千歳まりあ」が、主に高校生世代の様々な恋愛話を伝えていくというカタチの恋愛漫画。だいたい1話ないし2話完結型で、登場人物、主人公は毎回違うが、希に複数回登場したり同じ登場人物だが主人公が変わることもある。毎回、話の冒頭及び終わりに千歳まりあが登場し、コメントする。最終話では、千歳まりあ自身の高校生時代の恋愛話が紹介される。各話のエピソードは読者から募集していた。 |
柳本甚次郎の略歴 父・柳本賢治は、細川晴元に協力して細川高国を打ち破り、新たに樹立された細川晴元政権の一員となっていたが、三好元長との間に軋轢を多く起こしていた。賢治は浦上村宗との戦いの最中刺客に暗殺され、甚次郎が跡目を継いだ。享禄3年(1530年)12月には、高国派の重鎮であった細川元治(玄蕃頭家)を討とうと企てて失敗に終わっている。享禄4年(1531年)、高国を大物崩れで討ち取った後、元長は木沢長政ら晴元の家臣達と対立するに至る。そして享禄5年(1532年)1月、晴元の家臣の一人であった甚次郎にその矛先が向き、元長は甚次郎の居城である京都三条城を攻撃した。三条城は落城し、甚次郎は討死を遂げた。甚次郎を元長が殺害したことで、元長と晴元との対立が激化する。阿波細川家の細川持隆がこれを仲裁し、元長とその家臣達が剃髪して恭順の意を示すことで和睦が成立したが、持隆はその後晴元と義絶して阿波に帰国し、対立は再燃し晴元は元長を討つことになる。 |
徒単皇后 (金海陵王)の生涯 徒単斜也の娘。徒単氏は女真貴族の家系で、海陵王の嫡母(永寿宮皇太后)の他、のちに廃帝衛紹王や哀宗の皇后も出している。諸侯王時代の迪古乃(のちの海陵王)の王妃となり、海陵王が即位すると、まず恵妃に封ぜられた。天徳2年(1150年)3月27日、次男の光英(のちの皇太子)を産んだ。同年9月、皇后に立てられた。寵愛は受けなかったが、太子の母として重んじられた。海陵王が南宋に親征すると、太子の光英とともに留守を守った。世宗が即位して海陵王と太子光英が殺されると、徒単氏は王妃に降格され、中都にうつって海陵王の生母大氏の旧宅に住んだ。その後、世宗は徒単氏をあわれんで上京の実家に帰し、歳幣(年金)2000貫を与えて養わせた。 |
ジレラ・ランナーのランナー50 / 50DD / 50SP / プレジェット50 / シモンセリ50SP 1997年にヨーロッパで50ccが発売されたが、当時の法律で最高速度が28mph(45km/h)に制限されていた。1998年に50ccモデルを一新し、後輪ディスクブレーキを採用した50DDが発売された。カラースキームを変更した50SPも発売された。2003年には低排出ガスを備えたプレジェット50も発売された。50ccで現在、2ストロークは50SPとシモンセリ50SPのみである。 |
ジレラ・ランナーのランナー125FX / 125SP 1998年には50ccと同じ形をした125FXが発売された。1999年にはSPモデルとしても発売された。FX(FXR)とSPの大きな違いとしてFXはスパークプラグと後輪ディスクドラムブレーキの近くに9リットルガソリンタンクとバッテリーを収納できることである。SPは12リットルガソリンタンクとバッテリーを後輪ディスクブレーキの下に収納できる。 |
ジレラ・ランナーのFXR180 1999年にFXR180は200cc4ストロークの新型を含むランナー全車種の中で最速の85mph(137km/h)を記録している。高いパフォーマンスと優れた運転性能が評価されたが、燃費消費量が悪い。 |
下北半島国定公園の自然 恐山山地はブナ、ヒバ林が発達。海岸ではミズナラやシナノキの植生も見られる。また、下北半島南西端のむつ市脇野沢地区(旧脇野沢村)はニホンザルの北限生息地として知られ(北限のサル)、国の天然記念物に指定されている。 |
新妻LOVELY×CATIONの概要 「初恋編」と「新妻編」があり、「初恋編」では出会いから結婚するまでの1年間、「新妻編」では結婚してからの1年間を描く。 |
新妻LOVELY×CATIONのあらすじ 社会人一年目の主人公が急がしい日々を送りながら女の子と恋をして、愛を積み重ねる。 |
ブラッド&チョコレートの解説 エルヴィス・コステロにとって11枚目のアルバム。プロデューサーはニック・ロウとコリン・フェアリー。ロンドンのオリンピック・スタジオで録音された。またプロデューサーのニック・ロウは数曲でギターも弾いている。前作同様、数曲を除き、作曲クレジットはコステロの本名である「デクラン・マクマナス」名義となっている。このアルバムからは「トーキョー・ストーム・ウォーニング - Tokyo Storm Warning」と「アイ・ウォント・ユー - I Want You」がシングルカットされた。ほとんどの曲がオーバーダブをできるだけ抑えたスタジオでのライブレコーディングであり、生々しいサウンドが特徴である。また、「トーキョー・ストーム・ウォーニング - Tokyo Storm Warning」や、イントロのメロディを日本のフォークソングにインスパイアされたという「アイ・ウォント・ユー - I Want You」など、日本に関係した曲が若干見られる。前作「キング・オブ・アメリカ」のセッションで険悪になったコステロとアトラクションズの関係だが、ブルータル・ユースで再共演するまでの間、このアルバムでの共演が最後となった。 |
西谷亮の人物 アマチュア時代はゲームサークル「闘幻狂」に所属しており、高校生の頃から日本ソフトバンクのゲーム誌『Beep』でビデオゲームの攻略記事を執筆していた。1986年春、岡本吉起からカプコンへの誘いの電話を受け即決、すぐに荷物をまとめて大阪へと向かった。『Beep』執筆当時のペンネームは「CPM闘幻狂 NIN」であったが、カプコン入社後もスタッフクレジットには変わらず「NIN」を用いていた。同じカプコン出身である竹中善則は高校時代のゲーマー仲間であり、西谷がライター業を始めたきっかけを作り、岡本に西谷を紹介しカプコン入社へ導いた人物でもある。カプコンの船水紀孝は「西谷は天才」と評している。また、『ファイナルファイト』『ストII』を共同で制作した安田朗は、インタビューで「その頃の西谷君はすごかった」「カプコンにおける神のような存在だった」と述懐している。 |
前田利幹の家督相続 明和8年(1771年)11月28日、加賀大聖寺藩の第5代藩主・前田利道の八男として江戸で生まれる。享和元年(1801年)に富山藩の第8代藩主・前田利謙が死去したとき、次男の利保が2歳の幼年だったため、利謙の養子として迎えられ、家督を継いだ。 |
前田利幹の慢性的な藩財政の危機 藩財政再建のため、有力町人と協力して新田開発を行ない、享和2年(1802年)には恵民倉の設立や商品作物の導入などを行なったが、商品作物の導入はかえって物価を高騰させたために農民の反発を招き、文化10年(1813年)には百姓一揆が発生した。天保2年(1831年)の富山大火、財政難解消のために天保4年(1833年)に発行した銭札により、却って金融恐慌を起こしてしまうなど、藩財政は打つ手がないほど追い込まれていった。 |
前田利幹の改革五か年計画 天保4年(1833年)、利幹は向こう5年間にわたる藩財政再建の号令を発した。摂津国の富農出身で、岸和田藩や西本願寺など10以上の諸藩・旗本・寺院等の財務再建を成功させた財政専門家の大阪商人である石田小右衛門を招致し、藩の財政改革を指導させた。藩領は浄土真宗の強い土地柄でもあり、西本願寺の財務再建を成した当時の著名な財政再建家である小右衛門の入国と指導は熱狂的に受け入れられ、当初は行く先々で小右衛門を一目見ようと民衆が群がり、村々も町衆も皆が熱烈な支援を約束するなど一大ムーヴメントを形成したが、天保4年10月から11月、天保5年(1834年)4月から5月、天保6年(1835年)2月から3月と、3年にわたって毎年入国して指導や施策を行った小右衛門をもってしても富山藩財政の改善は目立った効果が挙げられず、当初は藩に熱狂的に支援を表明していた民衆の熱も徐々に醒め、藩財政は悪化の一途をたどった。 |
前田利幹の頓挫 天保6年(1835年)10月19日、再建目標の5年を待たず、病気を理由に養子の利保に家督を譲って隠居する。天保7年(1836年)7月20日に死去した。享年66。新藩主となった利保も小右衛門の入国・現地指導を望んだが、他藩からの依頼が忙しいとしてこれを断られている。 |
衝立狸の概要 脇町から隣りの新町へ向かう途中にある高須という寂しげな場所に現れたという。人が夜道を歩いていると、大きな衝立となって道の真ん中に現れる。大抵の人は足止めをされたことに驚いて引き返すが、強気な人が丹田(臍)に力を込め、構わずに突き進むと、そのまま通り抜けることができるという。妖怪研究家・多田克己はこれを、同様に道行く人を足止めする妖怪、塗壁の一種としている。かつて多くの人々から恐れられ、この道を夜に通る人は殆どいなくなったため、付近の人々が集まって光明真言を4万8千遍唱え、緑泥片岩で高さ1丈程の石碑を建てて衝立狸を封印した(僧侶が封印したとの説もある)。以来、この怪異は無くなったという。徳島の郷土史家・笠井新也による『阿波の狸の話』(1927年(昭和2年))には、この石碑が現存するとあるものの、その後に妖怪研究家・村上健司が現地調査で土地の人々から取材したところによれば、衝立狸を封じたという石碑は近年まで高須に実在していたが、昭和40年代に心無い者による盗難に遭ってしまったため、現存していないという。 |
川平啓太の人物 血液型はO型。出身地は静岡県の清水市。由緒ある犬神使いの一族・川平家の末裔。享楽的なお調子者だが裏表のない性格。また、歯止めの利かないセクハラ大魔王であるが、いぐさのように嫌がる者や、ともはねのような対象外の子供(あるいはいまりとさよかのように子供同然の容姿な女性)には決して手を出さない。未成年だが酒とタバコが大好き(アニメ版は規制によりこの設定は削除。ただし、劇場版では冒頭に飲酒のシーンがある)。ようことの契約の証として、大型犬用の首輪を巻いている。比較的整った容姿だが、天性的なモノノケ(&ヘンタイ)の類を惹きつける気性の持ち主のため、逆に人間の女性にはまったくと言っていいほどモテたためしがない。「啓太はモノノケに対するのと同じように人間に接する」とは、はけの評で、他人に対する気安さも嫌われる要因となっている。ただし、霊能者としては優秀で、資質だけなら天才と呼ばれる薫にも引けを取らない。また、普段の飄々とした姿とは裏腹にかなりの切れ者である。川平家の慣例として幼少時に仙界で修行を積んでおり、カエルの仙人である白山名君と契約し、蛙を模った消しゴムを媒介に式の力を行使する。またこの時、日常のように女仙にちょっかいをだしては統括者である好天玄女に折檻を受け続けた事で化け物じみた頑丈さを持つようにもなる。 |
川平啓太の第1部 当初は何かとようこに手を焼いていたが、共に暮らす中で次第に心を通わせ、惹かれあっていく。薫の犬神たちにも、最初こそ激しく嫌われていたが、親しくなっていく過程で段々と興味を持たれるようになっていく。川平本家直系の血筋のため、本来ならば有力な後継者候補であった。しかし、啓太を遥かに上回る天才的な犬神使いである川平薫が現れ、更には啓太自身が川平伝統の試験の際に重度の二日酔いで現れ試験の途中で寝てしまったり、川平家の儀式である「犬神選抜の儀」において、一匹も犬神が憑かなかったという前代未聞の醜態を晒した(実際には、ようこの関わる裏事情があるため啓太自身の責任というわけではないが)ため、無能の烙印を押され、主家から勘当されてしまった過去を持つ。現在はようこが憑いた事で一応犬神使いと認められ、仮免許に近い形で勘当が緩和されている。しかしそれでも、宗家や川平薫や彼らに仕える犬神達など、一部の者や犬神達を除き、一族や山の犬神達からは、「川平の落ちこぼれ」として敬遠されており、現在でもしこりが残っている。ようこのせいでストリーキングをやらかすこと数回。猥褻(わいせつ)物陳列罪連続逮捕記録保持者である為、警察官達からも顔馴染みになっている。町の変態たちからは「裸王(ラオウ)」と呼ばれ一目置かれており、常に陰茎を晒している赤道斎に至っては、後継者にならないかと誘われる始末である。その後も河原崎や赤道斎のせいで、時に裸よりひどい様々なコスプレを披露するハメになる。様々な展開を経て、終盤になって遂にようこへの想いを伝えた啓太は、薫の犬神達と力を合わせ、クサンチッペの身体に取り付いた邪星を消滅させる事に成功。同時に、薫が長い事待ち望んでいた「破邪顕正」を達成させ、薫の妹と、川平元也を救い出した。 |
川平啓太の第2部 ようこ、ともはね、川平カオルとの4人で薫の館に在住し、大学の受験勉強(北海道の大学で獣医になるらしい)に専念するが、同居人や来訪者が多くて風呂でも落ち着けなく、あいかわらず波乱の日々を送る。第1部終盤にて、ようこに思いを伝えたものの、「一人の女性にまだ縛られたくない」という欲求と、ふとようことの「愛の結晶」を想像してその容姿に大パニックを起こした経験から、最後の一線を越える気はまだ無いようである。ただし、逆にようこに「だいがくせい」になるまでのおあずけを喰らい、啓太の方から押し倒しても拒否され、生殺しの状況に陥っている。一人っ子だったため、薫やカオルの事を弟や妹のように思い、薫の消失、ひいては彼が抱え続けた苦悩に気づけなかったことに強い自責の念を感じている。12巻では、スイスで「古城の精霊」捕獲に苦戦していたせんだんらに呼ばれ(実際に呼んだのはいまり&さよか)、水際立った指揮で彼女たちをまとめ、精霊たちに勝利。犬神使いとして薫にも引けをとらぬ「戦闘指揮官」としての才能の片鱗を見せた。また、13巻では薫復活の真のキーワードを探るべく新堂ケイやモノノケ、ヘンタイ達の協力を得てなでしこをはめる事に成功している。その後、試練に失敗したなでしこの命を守るための「試練」として、「48時間以内にワープ・縮地を使わず世界一周」という条件を出される。そして、三神の執拗な妨害によって何度も死にかけるも、犬神たちやケイやカオル、ヘンタイたちなどをはじめとした、彼がその生涯の内に知りえた全ての仲間たちの助力の末に何とか日本に帰還。この戦いの中で彼の才能は、単なる「犬神使い」や「戦闘指揮官」としてのそれではなく「戦いの場」を「把握し」「読み上げ」「創り上げ」「支配し」「勝利する」という、いわば戦いの支配者とでも言うべきものへと昇華された。本編中ではこの能力をして「犬神使い」使いと評される。そして彼に使われる者は人間や犬神、その他の妖怪たちの別を問わず、その精神が高揚し究極のハイ状態に置かれる。当初は女性が目前に有ると欲望や煩悩が暴走して、最もデリカシーの無いリアクションを取ってしまう悪癖があったが、ようこに散々ド突かれている内に、そういった言動を控えるようになり、彼自身も、気絶したごきょうやに対して人工呼吸をためらったり、薬によって大人化したともはねに、素っ裸でじゃれ付かれた際にも目を逸らすなど、多少は節操が出て来た風も見られ、それと同時に、その特異なパーソナリティーが周囲に受け入れられるようになった事も相俟って、最後にはレギュラーの女の子の過半数が彼に異性として惹かれ、実質的に彼の当初の目的であったハーレムが達成される。しかし、ようことの関係だけは完全に別格であり、自室で深いキスをする描写もある。また、彼女と性的に関係することに何ら抵抗を感じなくなっていたり、プレゼントを渡したり、エピローグでは宴の席から少し離れて、二人でいちゃついていたりと、彼の中で若干の変化が見られた。 |
春奈るなの人物像 小学校6年生のときに『神風怪盗ジャンヌ』を観てアニメを楽しみ始め、以降アニメと漫画を好み、『機動戦士ガンダムSEED』、『イナズマイレブン』シリーズの愛好家としても知られる。「おそ松さん」の四男である一松を愛してやまない。普段からロリータ・ファッションを好んで着用している。中学校1年生のときにゴスロリ系の漫画キャラクターに熱中したことをきっかけに洋服の収集を始め、ロリータ・ファッションを好むことから読者モデルになった。『KERA』で妹系読者モデルとして人気を博し、マルイのタイアップモデルを務める。ウエディングドレス「LUNAMARIA」をデザインし、サンセルモグループからレンタルしている 。身長は148センチメートルで、愛称は「るなるな」、「るなるー」、「るな氏」、「るーたん」などがある。春奈るなのファンは「るな充」と呼ばれ、春奈るなによって充実する意味である。 |
大韓民国指定宝物の概要 大韓民国文化財保護法では、建造物、典籍、書跡、古文書、絵画、彫刻、工芸品等の有形の文化的所産のうち価値の高いものが有形文化財とされる。文化財庁長は、有形文化財の中でも重要なものを、文化財委員会の審議の上で宝物として指定することができる。なお、宝物に該当する文化財の中でも特に価値の高いものが、文化財委員会の審議の上で国宝として指定される。1963年に興仁之門が宝物第1号に指定され、現在までに1,500件あまりが指定を受けている。指定された宝物の管理は大韓民国文化財庁が所管する。 |
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