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マニラ・ライトレール13000形電車
13000形は、フィリピンの首都・マニラでライト・レール・マニラ・コーポレーション(英語版)(Light Rail Manila Corporation、LRMC)が運営するマニラ・ライトレール・トランジット・システムで使用される電車の1形式。日本の政府開発援助(ODA)により4両編成30本(120両)が導入され、2023年から営業運転を開始した。 LRT1号線のカビテ延伸に伴う必要車両数の確保のため、新型車両の導入が計画された。当初、日本企業に限定される「日本タイド」案件として2015年10月から2016年2月にかけて入札が行われていたが、その際に応札者はなく失敗に終わった。 その後、2017年に入札が再度行われ、現代ロテム・丸紅連合とCAF・三菱商事連合が応札した。2017年11月にCAF・三菱商事連合が300億円で受注内定を獲得し、同年12月1日に調印が行われた。スペインの工場で2編成、メキシコの工場で28編成が製造された。 最初の2編成は2020年7月にフィリピンに到着する予定であったが、新型コロナウイルス感染症の世界的流行の影響により、納入が遅れる事態となった。2021年1月18日に第1編成がマニラ港に到着し、2021年1月26日に一般公開された。 2022年5月よりLRT1号線上で計1,000kmの試運転が行われている。試運転の途中に80両で雨漏りなどの欠陥が発覚し、改修が行われた。 2023年7月19日にボンボン・マルコス大統領が試乗し、翌日の7月20日に営業運転を開始した。 1200形以前は車両形式が4桁であったが、13000形は車両数が99両を超えるため、5桁となっている。 2車体連接車を4両連結した4両編成を基本とし、連接部は貫通幌で繋がっている。車体はステンレス鋼製で、台形の断面形状を持つ。アンチクライマーは前面と車端部に設けられている。 乗降扉は引き戸のものを1車体につき両側それぞれ2ヶ所設けている。また、従来の車両にはなかった乗務員室扉を右側に設置している。 塗装は従来の車両から一新し、主に赤色が用いられ、前面はブラックフェイスとしている。 内材は白色を基調としているが、壁下部、ドア、戸袋内柱はステンレス無地仕上げとなっている。 座席はオールロングシートとし、水色のFRP製である。車椅子スペースは1両あたり1ヶ所設け、車椅子固定ベルトを備えている。 従来の車両では設置されていた貫通路内側のカバーは、本形式では省略された。 通常の運転台に加え、車端部には簡易運転台が設けられている。 制御装置は三菱電機製のVVVFインバータ制御で、主電動機は同じく三菱電機製のかご形三相誘導電動機を搭載している。駆動装置は7.48の減速比を持つ2段減速のWN駆動方式である。 集電装置はシングルアーム式パンタグラフを用い、1両あたり1台搭載されている。
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13000形は、フィリピンの首都・マニラでライト・レール・マニラ・コーポレーションが運営するマニラ・ライトレール・トランジット・システムで使用される電車の1形式。日本の政府開発援助(ODA)により4両編成30本(120両)が導入され、2023年から営業運転を開始した。
{{鉄道車両 |車両名=マニラ・ライトレール13000形電車<div style="font-size:80%;">Fourth Generation</div> |背景色=#ee0010 |文字色=#ffffff |画像=LRT-1_Mitsubishi-CAF_4th_Gen_2023-08-04.jpg |画像幅=280px |画像説明=13000形([[2023年]]撮影) |運用者=[[ライト・レール・マニラ・コーポレーション]](LRMC) |製造所=[[CAF (企業)|CAF]] |製造年=[[2019年]] - [[2022年]] |改造年= |製造数=4両編成30本(120両)<br />(13001 - 13120) |改造数= |運用開始=[[2023年]][[7月20日]] |運用終了= |引退= |廃車= |消滅= |投入先=[[マニラ・ライトレール・トランジット・システム]][[マニラLRT1号線|LRT1号線]](LRT Line 1) |編成=4両編成(Mc + M + M + Mc) |軸配置=Bo′+2′+Bo′([[連接台車|2車体連接車]]) |軌間=[[標準軌|1,435 mm]] |電気方式=[[直流電化|直流]]750 V<br />([[架空電車線方式]]) |最高運転速度= 60 km/h |設計最高速度= 70 km/h |最高速度= |起動加速度 = 1.0 m/s{{sup|2}} |常用減速度 = 1.3 m/s{{sup|2}} |非常減速度 = 1.3 m/s{{sup|2}} |減速度= |編成定員=1,388人(乗客密度7人/m{{sup|2}}時) |車両定員= |荷重=<!-- 郵便・荷物車向け --> |車両重量= 37.4 t(先頭車)<br />36.5 t(中間車) |自重= |積車重量= |編成重量= |編成長=106,000 mm |最大寸法= |長さ= |幅= |高さ= |全長= 26,500 mm(連結器含) |全幅= 2,590 mm |全高= |車体長= |車体幅= |車体高= |床面高さ= 920 mm(車輪新品時) |車体= [[ステンレス鋼]] |台車= |車輪径= 660 mm |固定軸距= 1,900 mm |台車間距離= 10,000 mm |軸重= |動力伝達方式= |機関= |機関出力= |機関出力2=<!-- 1時間定格 --> |機関出力3=<!-- 30分定格 --> |機関出力4=<!-- 連続定格 --> |変速機= |変速段= |発電機= |主電動機=[[かご形三相誘導電動機]] |主電動機出力= |主電動機出力2=<!-- 1時間定格 --> |主電動機出力3=<!-- 30分定格 --> |主電動機出力4= |端子電圧= |搭載数= |駆動方式=2段減速[[WN駆動方式]] |歯車比=7.48 |出力= |編成出力= |定格出力= |定格速度= |引張力= |定格引張力= |制御方式=[[VVVFインバータ制御]] |制動装置=[[電気指令式ブレーキ]] |保安装置=[[ETCS]]レベル1 |備考=主要数値は<ref name=":0">{{Cite news |title=DOTr, Mitsubishi Corp. sign contract for procurement of Light Rail Vehicles for LRT-Line 1 Cavite Extension Project |newspaper=PTV News |date=2017-12-01 |url=https://ptvnews.ph/dotr-mitsubishi-corp-sign-contract-procurement-light-rail-vehicles-lrt-line-1-cavite-extension-project/ |access-date=2023-09-03}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.caf.net/en/soluciones/proyectos/proyecto-detalle.php?p=295 |title=MANILA LINE 1 LRV |access-date=2023-09-07 |publisher=CAF}}</ref><ref name=":1">{{Cite web |url=http://www.cafmiira.com/images/productos/doc/gearboxes.pdf |title=cat tecnico GEARBOXES 2-7 |access-date=2023-08-24 |publisher=CAF}}</ref><ref>{{Facebook post|discoverasean10|1585428318309003}}</ref><ref>{{Cite report|author1 = Department of Transportation and Communications|authorlink = 運輸省 (フィリピン)|author2 = Light Rail Transit Authority|authorlink2 = ライトレール・トランジット・オーソリティ|title = BIDDING DOCUMENTS - Part 2 for Procurement of New Rolling Stock LRV (4th Generation)|work = LRT 1-South (Cavite) Extension Project|date = 2015-12-16|year = 2015|url = https://dotr.gov.ph/images/Foreign_Assisted_Projects/2015/LRT1-CEP-NewRollingStockLRV4G/02-BiddingDocs_LRT1South-NewRS-LRV4G_FINAL-P2.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211216011345/https://dotr.gov.ph/images/Foreign_Assisted_Projects/2015/LRT1-CEP-NewRollingStockLRV4G/02-BiddingDocs_LRT1South-NewRS-LRV4G_FINAL-P2.pdf|archivedate = 2021-12-16|accessdate = 2023-9-9|ref={{SfnRef|DOTC|LRTA|2015}}|pages=99-102}}</ref>に基づく。 | 備考全幅 = }} '''13000形'''は、[[フィリピン]]の首都・[[マニラ]]で{{仮リンク|ライト・レール・マニラ・コーポレーション|en|Light Rail Manila Corporation}}(Light Rail Manila Corporation、LRMC)が運営する[[マニラ・ライトレール・トランジット・システム]]で使用される[[電車]]の1形式。[[日本]]の[[政府開発援助]](ODA)により4両編成30本(120両)が導入され、[[2023年]]から営業運転を開始した<ref name=":0" />。 == 導入の経緯 == [[マニラLRT1号線|LRT1号線]]のカビテ延伸に伴う必要車両数の確保のため、新型車両の導入が計画された。当初、[[日本]]企業に限定される「日本タイド」案件として[[2015年]][[10月]]から[[2016年]][[2月]]にかけて入札が行われていたが、その際に応札者はなく失敗に終わった<ref name=":0" /><ref>{{Cite news|和書 |title=鉄道「オールジャパン」のちぐはぐな実態 日本の鉄道は本当に「世界一」なのか? |newspaper=東洋経済オンライン |date=2016-08-22 |url=https://toyokeizai.net/articles/-/132462 |access-date=2023-09-03}}</ref>。 その後、[[2017年]]に入札が再度行われ、[[現代ロテム]]・[[丸紅]]連合と[[CAF (企業)|CAF]]・[[三菱商事]]連合が応札した<ref>{{Cite news |title=LRT 1 awaits notice to secure new trains |newspaper=Philstar.com |date=2023-09-03 |url=https://www.philstar.com/business/2017/09/03/1735474/lrt-1-awaits-notice-secure-new-trains |access-date=2023-09-03}}</ref>。2017年[[11月]]にCAF・三菱商事連合が300億円で受注内定を獲得し、同年12月1日に調印が行われた<ref name=":0" /><ref>{{Cite news |title=CAF and Mitsubishi win LRV contract in Manila |newspaper=Railway Pro |date=2017-11-21 |url=https://www.railwaypro.com/wp/caf-mitsubishi-win-lrv-contract-manila/ |access-date=2023-09-03}}</ref>。[[スペイン]]の工場で2編成、[[メキシコ]]の工場で28編成が製造された<ref>{{Cite news |title=LRT-1 train set order from Spain, Mexico partially delivered |newspaper=BusinessWorld Online |date=2022-11-07 |url=https://www.bworldonline.com/economy/2022/11/07/485612/lrt-1-train-set-order-from-spain-mexico-partially-delivered/ |access-date=2023-09-03}}</ref>。 最初の2編成は[[2020年]][[7月]]に[[フィリピン]]に到着する予定であったが、[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症の世界的流行]]の影響により、納入が遅れる事態となった<ref>{{Cite news |title=LRT 1 expects new trains from Japan |newspaper=Manila Standard |date=2019-05-07 |url=https://manilastandard.net/business/biz-plus/294155/lrt-1-expects-new-trains-from-japan.html |access-date=2023-09-03}}</ref><ref>{{Cite news |title=New LRT1 train cars start arriving in Philippines |newspaper=Rappler |date=2021-01-26 |url=https://www.rappler.com/business/new-lrt1-train-cars-start-arriving-philippines-january-2021/ |access-date=2023-09-03}}</ref>。[[2021年]][[1月18日]]に第1編成が[[マニラ港]]に到着し、2021年[[1月26日]]に一般公開された<ref>{{Cite web |url=https://www.lrta.gov.ph/wp-content/uploads/2022/03/Accomplishment-Report-2021.pdf |title=YEAR-END ACCOMPLISHMENT REPORT |access-date=2023-09-03 |publisher=Light Rail Transit Authority}}</ref>。 [[2022年]][[5月]]よりLRT1号線上で計1,000kmの試運転が行われている<ref>{{Cite news |title=LRT1 operator begins testing 4th generation trains |newspaper=GMA News Online |date=2022-05-04 |url=https://www.gmanetwork.com/news/money/companies/830587/lrt1-operator-begins-testing-4th-generation-trains/story/ |access-date=2023-09-03}}</ref>。試運転の途中に80両で雨漏りなどの欠陥が発覚し、改修が行われた<ref>{{Cite news|和書 |title=LRT1号線新規購入車両80台に欠陥 |newspaper=「日刊まにら新聞」ウェブ |date=2023-02-19 |url=https://www.manila-shimbun.com/tabloid/tabloid1676732400.html |access-date=2023-09-03}}</ref>。 [[2023年]][[7月19日]]に[[ボンボン・マルコス]]大統領が試乗し、翌日の[[7月20日]]に営業運転を開始した<ref>{{Cite news |title=New, state-of-the-art train sets await LRT-1 riders starting July 20 |newspaper=Manila Bulletin |date=2023-07-19 |url=https://mb.com.ph/2023/7/19/new-state-of-the-art-train-sets-await-lrt-1-riders-starting-july-20 |access-date=2023-09-03}}</ref>。 == 概要 == 1200形以前は車両形式が4桁であったが、13000形は車両数が99両を超えるため、5桁となっている。 === 車体 === 2車体[[連接台車|連接車]]を4両連結した4両編成を基本とし、連接部は貫通幌で繋がっている。車体は[[ステンレス鋼]]製で、台形の断面形状を持つ。アンチクライマーは前面と車端部に設けられている。 乗降扉は引き戸のものを1車体につき両側それぞれ2ヶ所設けている。また、従来の車両にはなかった[[操縦席|乗務員室]]扉を右側に設置している。 塗装は従来の車両から一新し、主に[[赤|赤色]]が用いられ、前面はブラックフェイスとしている。 === 車内 === 内材は白色を基調としているが、壁下部、ドア、戸袋内柱はステンレス無地仕上げとなっている。 座席はオールロングシートとし、水色の[[繊維強化プラスチック|FRP]]製である。車椅子スペースは1両あたり1ヶ所設け、車椅子固定ベルトを備えている。 従来の車両では設置されていた貫通路内側のカバーは、本形式では省略された。 通常の運転台に加え、車端部には簡易運転台が設けられている。 <gallery widths="200"> LRT 1 4th Generation Train (CAF Mitsubishi 13000 Series Manila; 2023-08-03) E911a 10.jpg|車内 </gallery> === 機器 === 制御装置は[[三菱電機]]製の[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]で、主電動機は同じく三菱電機製の[[かご形三相誘導電動機]]を搭載している<ref>{{Cite web |url=https://www.lrta.gov.ph/wp-content/uploads/2021/03/2019-Annual-Report.pdf |title=2019 Annual Report |access-date=2023-08-04 |publisher=LRTA}}</ref>。駆動装置は7.48の減速比を持つ2段減速の[[WN駆動方式]]である<ref name=":1" />。 [[集電装置]]はシングルアーム式パンタグラフを用い、1両あたり1台搭載されている。 == 参考文献 == <references /> {{マニラ・ライトレールの車両}} {{DEFAULTSORT:まにららいとれえる13000}} [[Category:フィリピンの電車]] [[Category:マニラ・ライトレール・トランジット・システム|車13000]] [[Category:2019年製の鉄道車両]] [[Category:CAF製の鉄道車両]] [[Category:連接式の鉄道車両]]
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サーストンコラルド
サーストンコラルド(欧字名:Thurston Collardot、2011年5月9日 - )は、日本の競走馬。主な勝ち鞍は2018年の東京ハイジャンプ、東京ジャンプステークス。 2011年5月9日、北海道新ひだか町の藤沢牧場で生まれる。2012年、1歳時に北海道セレクションセールにおいて1,600万円(税別)で齊藤宣勝に落札される。 美浦トレーニングセンターの戸田博文厩舎に入厩し、2月2日の3歳新馬(東京競馬場ダート1400m)でデビュー。1番人気に支持されたが8着に敗れる。2戦目以降は芝の中距離を使われ、4戦目となった7月6日の3歳未勝利で1着となり、初勝利を挙げる。次走、昇級戦となった3歳上500万下は8着に敗れた。 半年の休養明け、4歳初戦となった4歳上500万下で3着と好走。次走は7着に終わったが、続く4歳上500万下で半馬身差の2着に入ると、続く4歳上500万下を上り最速の脚で勝利し2勝目を飾った。降級戦となった香港ジョッキークラブトロフィーは1.9倍の人気を集めたがクビ差の2着と惜敗。その後は人気は集めるも凡走が続いた。 前走から3か月ぶりとなった5歳初戦の4歳上500万下を後続に3馬身差をつけ快勝。3勝目を挙げる。しかし、その後は勝てない競馬が続いた。2016年2月の冨里特別10着後、栗東トレーニングセンターの橋田満厩舎に転厩。転厩初戦の4歳上1000万下は8着に敗れた。その後は2戦使われ8着、11着にそれぞれ惨敗した。その後、障害に転向する。 転向初戦、障害3歳上未勝利で2着と好走すると、続く障害3歳上未勝利でも2着、3着と結果を残した。4か月半ぶりとなった障害4歳上未勝利を2着に1.9秒差をつける大差で勝ち上がり障害初勝利を挙げる。次走、昇級戦となった障害4歳上オープンは5着に敗れた。重賞挑戦となった東京ジャンプステークスはブービー人気ながら、道中は後方で脚を溜めると、4コーナーで内を突いて直線で脚を伸ばし、2着のマイネルフィエスタに5馬身差つける圧勝。重賞初制覇となった。4か月ぶりとなった東京ハイジャンプは大逃げをうったタマモプラネットが直線の最後のハードル障害で落馬。代わってサーストンコラルドが先頭に立ち、そのまま1馬身半押し切り、重賞連勝を飾った。しかし、このレースが最後の出走となり、繋靭帯炎を発症後は復帰せず、1年後の2019年10月23日付けで競走馬登録を抹消した。引退後はひたちなか市のセント乗馬クラブで乗馬となった。 以下の内容はnetkeiba.comの情報に基づく。
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サーストンコラルドは、日本の競走馬。主な勝ち鞍は2018年の東京ハイジャンプ、東京ジャンプステークス。
{{競走馬 | 名 = サーストンコラルド | 英 = {{lang|en|Thurston Collardot}}<ref name="jbis"/> | 画 = | 説 = | 性 = [[牡馬|牡]]<ref name="jbis"/> | 色 = [[鹿毛]]<ref name="jbis"/> | 種 = [[サラブレッド]]<ref name="jbis"/> | 生 = {{生年月日と馬齢|p=0|2011|05|09}}<ref name="jbis"/> | 死 = | 登 = | 抹 =[[2019年]][[10月23日]] | 父 = [[キングカメハメハ]]<ref name="jbis"/> | 母 = シークレットコサージュ<ref name="jbis"/> | 母父 = Lost Soldier<ref name="jbis"/> | 国 = {{JPN}}([[北海道]][[新ひだか町]]) | 産 = 藤沢牧場<ref name="jbis"/> | 主 = 齊藤宣勝<ref name="jbis"/> | 調 = [[戸田博文]]([[美浦トレーニングセンター|美浦]])<br />→[[橋田満]]([[栗東トレーニングセンター|栗東]])<ref name="jbis"/> | 績 = 36戦6勝<br />平地:29戦3勝<br />障害:7戦3勝<ref name="jbis"/> | 金 = 1億2421万8000円<ref name="jbis"/> | medaltemplates = {{MedalJ・GII|[[東京ハイジャンプ]]|2018年}} {{MedalJ・GIII|[[東京ジャンプステークス]]|2018年}} }} '''サーストンコラルド'''(欧字名:{{lang|en|Thurston Collardot}}、[[2011年]][[5月9日]] - )は、[[日本]]の[[競走馬]]<ref name="jbis">{{Cite web|和書|title=サーストンコラルド |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001142698/ |website=JBISサーチ |accessdate=2023-09-07}}</ref>。主な勝ち鞍は[[2018年]]の[[東京ハイジャンプ]]、[[東京ジャンプステークス]]。 == 戦績 == 2011年5月9日、[[北海道]][[新ひだか町]]の藤沢牧場で生まれる。2012年、1歳時に[[セレクションセール|北海道セレクションセール]]において1,600万円(税別)で齊藤宣勝に落札される<ref>{{Cite web|和書|title=JRA競走に勝ったセール出身馬紹介(2018/10/13-14、ディアドラが重賞制覇!) |url=https://blog.goo.ne.jp/umaichi_news/e/73c0632ffb9fa47b3ce928299b301fe5 |publisher=馬市.com |date=2018-10-14|accessdate=2023-09-08}}</ref>。 [[美浦トレーニングセンター]]の[[戸田博文]]厩舎に入厩し、2月2日の3歳新馬([[東京競馬場]]ダート1400m)でデビュー。1番人気に支持されたが8着に敗れる。2戦目以降は芝の中距離を使われ、4戦目となった7月6日の3歳未勝利で1着となり、初勝利を挙げる。次走、昇級戦となった3歳上500万下は8着に敗れた。 半年の休養明け、4歳初戦となった4歳上500万下で3着と好走。次走は7着に終わったが、続く4歳上500万下で半馬身差の2着に入ると、続く4歳上500万下を上り最速の脚で勝利し2勝目を飾った。降級戦となった香港ジョッキークラブトロフィーは1.9倍の人気を集めたがクビ差の2着と惜敗。その後は人気は集めるも凡走が続いた。 前走から3か月ぶりとなった5歳初戦の4歳上500万下を後続に3馬身差をつけ快勝。3勝目を挙げる。しかし、その後は勝てない競馬が続いた。2016年2月の冨里特別10着後、[[栗東トレーニングセンター]]の[[橋田満]]厩舎に転厩。転厩初戦の4歳上1000万下は8着に敗れた。その後は2戦使われ8着、11着にそれぞれ惨敗した。その後、障害に転向する。 転向初戦、障害3歳上未勝利で2着と好走すると、続く障害3歳上未勝利でも2着、3着と結果を残した。4か月半ぶりとなった障害4歳上未勝利を2着に1.9秒差をつける大差で勝ち上がり障害初勝利を挙げる。次走、昇級戦となった障害4歳上オープンは5着に敗れた。重賞挑戦となった[[東京ジャンプステークス]]はブービー人気ながら、道中は後方で脚を溜めると、4コーナーで内を突いて直線で脚を伸ばし、2着の[[マイネルフィエスタ]]に5馬身差つける圧勝。重賞初制覇となった<ref>{{Cite web|和書|title=【東京ジャンプS】10番人気のサーストンコラルドが障害重賞初制覇!通算2000回騎乗達成でラストランの林は11着 |url=https://umatoku.hochi.co.jp/articles/20180623-OHT1T50122.html |website=スポーツ報知 |date=2018-06-23 |access-date=2023-09-07}}</ref>。4か月ぶりとなった[[東京ハイジャンプ]]は大逃げをうったタマモプラネットが直線の最後のハードル障害で落馬。代わってサーストンコラルドが先頭に立ち、そのまま1馬身半押し切り、重賞連勝を飾った<ref>{{Cite web|和書|title=【東京ハイジャンプ】休養明けも何の! サーストンコラルドが重賞連勝 |url=http://race.sanspo.com/keiba/news/20181014/ope18101414430012-n1.html |website=サンスポZBAT!競馬 |date=2018-10-14 |access-date=2023-09-07}}</ref>。しかし、このレースが最後の出走となり、繋靭帯炎を発症後は復帰せず、1年後の2019年10月23日付けで競走馬登録を抹消した。引退後は[[ひたちなか市]]のセント乗馬クラブで乗馬となった<ref>{{Cite web|和書|title=サーストンコラルド引退、乗馬へ {{!}} 競馬ニュース |url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=162160 |website=netkeiba.com |access-date=2023-09-07}}</ref>。 == 競走成績 == 以下の内容はnetkeiba.comの情報<ref name="netkeiba">{{Cite web|和書|url=https://db.netkeiba.com/horse/2011102512/ |title=サーストンコラルド|work=netkeiba.com |publisher=株式会社ネットドリーマーズ |accessdate=2023-09-07}}</ref>に基づく。 {| style="border-collapse: collapse; font-size: 90%; text-align: center; white-space: nowrap;" !競走日 ! nowrap="" |競馬場 !競走名 !格 !距離<br />(馬場) !頭数 !枠番 !馬番 !オッズ<br />(人気) !着順 !タイム<br />(上り3F<ref group="race">障害戦は平均1F</ref>) !着差 !騎手 !斤量<br />[kg] !1着馬(2着馬) !馬体重<br />[kg] |- |[[2014年|2014.]][[2月2日|{{0}}2.{{0}}2]] |[[東京競馬場|東京]] |[[新馬|3歳新馬]] | |ダ1400m(良) |15 |6 |11 |{{0|00}}2.5{{0}}(1人) |{{0}}8着 |{{0|R}}1:29.9(40.4) |{{0|-}}2.5 |{{0}}[[田辺裕信]] |56 |プレジールシチー |456 |- |{{0|0000.}}[[4月12日|{{0}}4.12]] |[[中山競馬場|中山]] |3歳未勝利 | |芝2000m(良) |18 |6 |12 |{{0}}16.8{{0}}(4人) |{{0}}4着 |{{0|R}}2:02.3(35.3) |{{0|-}}0.6 |{{0}}[[杉原誠人]] |56 |ウインミラグロス |456 |- |{{0|0000.}}[[5月24日|{{0}}5.24]] |東京 |3歳未勝利 | |芝2000m(良) |18 |7 |13 |{{0|00}}3.6{{0}}(2人) |{{0}}{{Color|darkblue|2着}} |{{0|R}}2:03.3(34.2) |{{0|-}}0.2 |{{0}}[[北村宏司]] |56 |ロッカバラード |460 |- |{{0|0000.}}[[7月6日|{{0}}7.{{0}}6]] |[[福島競馬場|福島]] |3歳未勝利 | |芝2000m(良) |16 |7 |14 |{{0|00}}2.3{{0}}(1人) |{{0}}{{Color|darkred|1着}} |{{0|R}}2:01.7(35.1) |{{Nowiki|-}}0.0 |{{0}}北村宏司 |56 |(マルケットリー) |454 |- |{{0|0000.}}[[8月10日|{{0}}8.10]] |[[新潟競馬場|新潟]] |3歳上500万下 | |芝2200m(良) |13 |7 |11 |{{0|00}}4.7{{0}}(2人) |{{0}}8着 |{{0|R}}2:14.2(36.7) |{{0|-}}1.2 |{{0}}北村宏司 |54 |ラストシャングリラ |456 |- |[[2015年|2015.]][[1月25日|{{0}}1.25]] |中山 |4歳上500万下 | |芝1800m(良) |14 |8 |13 |{{0}}19.6(10人) |{{0}}{{Color|darkgreen|3着}} |{{0|R}}1:48.4(34.6) |{{0|-}}0.2 |{{0}}[[岩田康誠]] |56 |ドラゴンレジェンド |466 |- |{{0|0000.}}[[2月7日|{{0}}2.{{0}}7]] |東京 |4歳上500万下 | |芝1800m(良) |16 |8 |15 |{{0|00}}4.7{{0}}(3人) |{{0}}7着 |{{0|R}}1:50.2(34.4) |{{0|-}}0.4 |{{0}}[[川田将雅]] |56 |カレンリスベット |466 |- |{{0|0000.}}[[4月5日|{{0}}4.{{0}}5]] |中山 |4歳上500万下 | |芝2000m(良) |16 |1 |2 |{{0|00}}5.5{{0}}(2人) |{{0}}{{Color|darkblue|2着}} |{{0|R}}1:59.5(34.7) |{{0|-}}0.1 |{{0}}岩田康誠 |57 |マローブルー |466 |- |{{0|0000.}}[[4月25日|{{0}}4.25]] |東京 |4歳上500万下 | |芝2000m(良) |15 |7 |12 |{{0|00}}3.4{{0}}(1人) |{{0}}{{Color|darkred|1着}} |{{0|R}}2:00.8(33.9) |{{Nowiki|-}}0.3 |{{0}}[[武豊]] |57 |(マンインザムーン) |464 |- |{{0|0000.}}[[6月7日|{{0}}6.{{0}}7]] |東京 |ホンコンJCT |{{small|500万下}} |芝2000m(良) |13 |5 |6 |{{0|00}}1.9{{0}}(1人) |{{0}}{{Color|darkblue|2着}} |{{0|R}}2:00.0(34.5) |{{0|-}}0.0 |{{0}}武豊 |57 |ショウナンバッハ |464 |- |{{0|0000.}}[[6月14日|{{0}}6.14]] |東京 |3歳上500万下 | |芝1800m(良) |14 |4 |5 |{{0|00}}2.6{{0}}(2人) |{{0}}5着 |{{0|R}}1:49.9(33.8) |{{0|-}}0.5 |{{0}}武豊 |57 |レアリスタ |462 |- |{{0|0000.}}[[11月14日|11.14]] |東京 |3歳上500万下 | |芝2000m(稍) |18 |2 |3 |{{0|00}}4.0{{0}}(2人) |{{0}}6着 |{{0|R}}2:01.3(35.4) |{{0|-}}0.5 |{{0}}[[クリストフ・ルメール|C.ルメール]] |57 |ディアデルレイ |472 |- |{{0|0000.}}[[11月22日|11.22]] |東京 |3歳上500万下 | |芝2300m(良) |16 |4 |7 |{{0|00}}5.4{{0}}(2人) |{{0}}9着 |{{0|R}}2:21.3(35.4) |{{0|-}}1.1 |{{0}}田辺裕信 |57 |[[クリプトグラム]] |466 |- |{{0|0000.}}[[12月19日|12.19]] |[[中京競馬場|中京]] |3歳上500万下 | |芝2200m(良) |18 |5 |9 |{{0}}12.2{{0}}(6人) |{{0}}6着 |{{0|R}}2:15.2(36.3) |{{0|-}}0.8 |{{0}}[[原田和真]] |57 |スズカビスタ |466 |- |[[2016年|2016.]][[3月21日|{{0}}3.21]] |中山 |4歳上500万下 | |芝1600m(良) |16 |4 |8 |{{0}}13.3{{0}}(3人) |{{0}}{{Color|darkred|1着}} |{{0|R}}1:34.4(35.4) |{{Nowiki|-}}0.5 |{{0}}[[福永祐一]] |57 |(ブレイクザポケット) |470 |- |{{0|0000.}}[[4月10日|{{0}}4.10]] |中山 |隅田川特別 |{{small|1000万下}} |芝1600m(良) |15 |8 |14 |{{0|00}}3.0{{0}}(1人) |{{0}}5着 |{{0|R}}1:35.1(33.8) |{{0|-}}0.4 |{{0}}北村宏司 |55 |メイショウメイゲツ |470 |- |{{0|0000.}}[[5月14日|{{0}}5.14]] |東京 |秋川特別 |{{small|1000万下}} |芝1600m(良) |10 |1 |1 |{{0|00}}4.1{{0}}(2人) |{{0}}7着 |{{0|R}}1:35.2(33.4) |{{0|-}}0.5 |{{0}}福永祐一 |57 |プレミオテーラー |470 |- |{{0|0000.}}[[5月22日|{{0}}5.22]] |東京 |石和特別 |{{small|1000万下}} |芝1800m(良) |10 |2 |2 |{{0|00}}9.3{{0}}(5人) |{{0}}6着 |{{0|R}}1:48.7(33.7) |{{0|-}}0.7 |{{0}}福永祐一 |57 |バンゴール |470 |- |{{0|0000.}}[[7月30日|{{0}}7.30]] |新潟 |古町特別 |{{small|1000万下}} |芝1600m(良) |12 |6 |7 |122.4(10人) |{{0}}8着 |{{0|R}}1:34.3(32.6) |{{0|-}}0.7 |{{0}}[[吉田豊 (競馬)|吉田豊]] |57 |アストラエンブレム |476 |- |{{0|0000.}}[[10月2日|10.{{0}}2]] |中山 |勝浦特別 |{{small|1000万下}} |芝1200m(良) |16 |4 |8 |{{0}}14.7{{0}}(5人) |{{0}}7着 |{{0|R}}1:08.8(33.9) |{{0|-}}0.4 |{{0}}福永祐一 |54 |ペイシャフェリシタ |476 |- |{{0|0000.}}[[10月29日|10.29]] |東京 |国立特別 |{{small|1000万下}} |芝1400m(良) |13 |6 |8 |{{0}}38.1{{0}}(9人) |{{0}}8着 |{{0|R}}1:23.0(33.6) |{{0|-}}0.3 |{{0}}武豊 |57 |マテンロウハピネス |472 |- |[[11月20日|{{0|0000.}}11.20]] |東京 |3歳上1000万下 | |芝1800m(良) |13 |5 |6 |{{0|00}}9.9{{0}}(5人) |{{0}}6着 |{{0|R}}1:50.0(34.0) |{{0|-}}0.6 |{{0}}田辺裕信 |57 |ロッカフェスタ |476 |- |{{0|0000.}}[[12月3日|12.{{0}}3]] |中山 |3歳上1000万下 | |芝1600m(良) |13 |2 |2 |{{0}}43.7{{0}}(9人) |{{0}}6着 |{{0|R}}1:34.6(35.2) |{{0|-}}0.5 |{{0}}吉田豊 |57 |[[グレーターロンドン (競走馬)|グレーターロンドン]] |476 |- |[[2017年|2017.]][[1月22日|{{0}}1.22]] |中山 |東雲賞 |{{small|1000万下}} |芝1600m(良) |13 |8 |13 |{{0}}28.9(10人) |{{0}}4着 |{{0|R}}1:34.3(34.7) |{{0|-}}0.2 |{{0}}吉田豊 |54 |ルグランパントル |472 |- |{{0|0000.}}[[2月12日|{{0}}2.12]] |東京 |4歳上1000万下 | |芝1600m(良) |12 |5 |6 |{{0}}13.2{{0}}(6人) |{{0}}7着 |{{0|R}}1:35.9(33.8) |{{0|-}}0.9 |{{0}}吉田豊 |57 |ペガサスボス |470 |- |{{0|0000.}}[[2月26日|{{0}}2.26]] |中山 |富里特別 |{{small|1000万下}} |芝1800m(良) |11 |2 |2 |{{0}}56.3{{0}}(8人) |10着 |{{0|R}}1:50.1(34.7) |{{0|-}}0.4 |{{0}}吉田豊 |57 |パワースラッガー |470 |- |{{0|0000.}}[[5月28日|{{0}}5.28]] |[[京都競馬場|京都]] |4歳上1000万下 | |芝2000m(良) |12 |1 |1 |{{0}}13.7{{0}}(5人) |{{0}}8着 |{{0|R}}2:01.4(35.8) |{{0|-}}1.6 |{{0}}[[坂井瑠星]] |55 |コウエイワンマン |464 |- |{{0|0000.}}[[6月17日|{{0}}6.17]] |[[阪神競馬場|阪神]] |小豆島特別 |{{small|1000万下}} |芝1600m(良) |8 |3 |3 |178.9{{0}}(8人) |{{0}}8着 |{{0|R}}1:34.2(33.1) |{{0|-}}1.2 |{{0}}[[幸英明]] |57 |ラプソディーア |464 |- |{{0|0000.}}[[7月2日|{{0}}7.{{0}}2]] |[[函館競馬場|函館]] |檜山特別 |{{small|1000万下}} |芝1800m(良) |11 |7 |9 |{{0}}34.2{{0}}(9人) |11着 |{{0|R}}1:48.4(39.7) |{{0|-}}3.1 |{{0}}[[藤岡康太]] |53 |スターストラック |470 |- |{{0|0000.}}[[9月30日|{{0}}9.30]] |中山 |障害3歳上未勝利 | |障2880m(良) |14 |3 |4 |{{0}}12.2{{0}}(6人) |{{0}}{{color|darkblue|2着}} |{{0|R}}3:15.3(13.6) |{{0|-}}0.4 |{{0}}[[北沢伸也]] |60 |アツコ |462 |- |{{0|0000.}}[[10月22日|10.22]] |新潟 |障害3歳上未勝利 | |障2850m(稍) |13 |5 |6 |{{0|00}}2.8{{0}}(1人) |{{0}}{{color|darkblue|2着}} |{{0|R}}3:10.4(13.4) |{{0|-}}0.4 |{{0}}北沢伸也 |60 |リミットブレイク |466 |- |{{0|0000.}}[[11月19日|11.19]] |福島 |障害3歳上未勝利 | |障2750m(良) |14 |4 |5 |{{0|00}}2.0{{0}}(1人) |{{0}}{{color|darkgreen|3着}} |{{0|R}}3:01.6(13.1) |{{0|-}}0.3 |{{0}}北沢伸也 |60 |エアカーディナル |462 |- |[[2018年|2018.]][[4月7日|{{0}}4.{{0}}7]] |福島 |障害4歳上未勝利 | |障2750m(良) |14 |7 |11 |{{0|00}}2.9{{0}}(2人) |{{0}}{{color|darkred|1着}} |{{0|R}}3:03.4(13.3) |{{Nowiki|-}}1.9 |{{0}}北沢伸也 |60 |(メイクアップ) |468 |- |{{0|0000.}}[[4月28日|{{0}}4.28]] |新潟 |障害4歳上OP | |障2890m(良) |14 |7 |11 |{{0|00}}3.2{{0}}(1人) |{{0}}5着 |{{0|R}}3:08.1(13.0) |{{0|-}}1.2 |{{0}}北沢伸也 |60 |ビットアレグロ |470 |- |{{0|0000.}}[[6月23日|{{0}}6.23]] |東京 |[[東京ジャンプステークス|東京ジャンプS]] |J・{{GIII}} |障3110m(良) |11 |3 |3 |{{0}}58.5(10人) |{{0}}{{color|darkred|1着}} |{{0|R}}3:25.8(13.2) |{{Nowiki|-}}0.8 |{{0}}北沢伸也 |60 |([[マイネルフィエスタ]]) |462 |- |{{0|0000.}}[[10月14日|10.14]] |東京 |[[東京ハイジャンプ|東京ハイJ]] |J・{{GII}} |障3110m(稍) |11 |2 |2 |{{0|00}}5.4{{0}}(4人) |{{0}}{{color|darkred|1着}} |{{0|R}}3:28.3(13.4) |{{Nowiki|-}}0.2 |{{0}}北沢伸也 |60 |(ヨカグラ) |468 |} <references group="race" /> == 血統表 == {{競走馬血統表 |name = サーストンコラルド |f = [[キングカメハメハ]]<br />2001 鹿毛 |m = *シークレットコサージュ<br />Secret Corsage<br />2001 芦毛 |ff = [[キングマンボ|Kingmambo]]<br />1990 鹿毛 |fm = *[[マンファス]]<br />Manfath<br />1991 黒鹿毛 |mf = Lost Soldier<br />1990 鹿毛 |mm = Slew's Corsage<br />1993 芦毛 |fff = [[ミスタープロスペクター|Mr. Prospector]] |ffm = [[ミエスク|Miesque]] |fmf = *[[ラストタイクーン (競走馬)|ラストタイクーン]] |fmm = Pilot Bird |mff = [[ダンジグ (競走馬)|Danzig]] |mfm = Lady Winborne |mmf = Secret Slew |mmm = Carnation |ffff = [[レイズアネイティヴ|Raise a Native]] |fffm = [[ゴールドディガー|Gold Digger]] |ffmf = [[ヌレイエフ|Nureyev]] |ffmm = Pasadoble |fmff = *[[トライマイベスト]] |fmfm = Mill Princess |fmmf = [[ブレイクニー|Blakeney]] |fmmm = The Dancer |mfff = [[ノーザンダンサー|Northern Dancer]] |mffm = Pas de Nom |mfmf = [[セクレタリアト|Secretariat]] |mfmm = Priceless Gem |mmff = [[シアトルスルー|Seattle Slew]] |mmfm = Ack's Secret |mmmf = *カーホワイト |mmmm = Emilia |ref1 = <ref name="jbispe">{{Cite web|和書|url= https://www.jbis.or.jp/horse/0001133070/pedigree/ |title= サーストンコラルド 血統情報:5代血統表|work=JBISサーチ |publisher=公益社団法人日本軽種馬協会|accessdate=2023-09-08}}</ref> |mlin = [[キングマンボ系]] |ref2 = <ref name="netpe">{{Cite web|和書|url= https://db.netkeiba.com/horse/ped/2009110053/ |title= サーストンコラルドの5代血統表|work=netkeiba|publisher=Net Dreamers Co., Ltd.|accessdate=2023-09-08}}</ref> |flin = |FN = [[3号族|3-c]] |ref3 = <ref name="jbispe"/> |inbr = Northern Dancer 5 × 5 × 4 = 12.50% |ref4 = <ref name="jbispe"/><ref name="netpe"/> |}} == 脚注 == === 注釈 === === 出典 === <references /> == 外部リンク == {{競走馬成績|netkeiba=2011102512|yahoo=2011102512|jbis=0001142698}} {{DEFAULTSORT:さあすとんこらると}} [[Category:2011年生 (競走馬)|日さあすとんこらると]] [[Category:サラブレッド]] [[Category:日本生産の競走馬]] [[Category:日本調教の競走馬]] [[Category:父内国産の競走馬]] [[Category:障害馬及び障害戦出走経験馬]]
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DIVER (ラジオ番組)
DIVER(ダイバー)はエフエム滋賀(e-radio)で毎週金曜日11:30 - 14:53に放送されている生ワイド番組。 2021年4月2日スタート。 平日の編成が月曜日から木曜日と金曜日に分かれた編成が主流となっている民放FMにおいて、午後の金曜日の放送時間が午後の月曜日から木曜日までの放送時間より短いことが特徴である。 また、13時台に放送する当局唯一の自社制作による生ワイド番組である。 内包されている番組は他の自社制作の生ワイド番組に比べ少ない。
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DIVER(ダイバー)はエフエム滋賀(e-radio)で毎週金曜日11:30 - 14:53に放送されている生ワイド番組。
{{Otheruses|エフエム滋賀(e-radio)で放送している番組|その他の用法|ダイバー}} {{基礎情報 ラジオ番組 | 番組名 = DIVER | 画像 = <!-- [[File:|200px]] ※「File:」の後に画像ファイルを貼る。画像サイズの変更は「200px」の数字を変える。 --> | 画像説明 = | 愛称 = | ジャンル = [[ワイド番組]] | 放送方式 = [[生放送]] | 放送期間 = [[2021年]][[4月2日]] - | 放送時間 = 金曜 11:30 - 14:53 | 放送回数 = | 放送局 = [[エフエム滋賀]] (e-radio) | 制作 = | ネットワーク = | パーソナリティ = [[ムーディ勝山]]<br />[[池田愛恵里]] | 出演 = | テーマ曲 = | 企画 = | プロデューサー = | ディレクター = | スポンサー = | 公式サイト = | 特記事項 = }} '''DIVER'''(ダイバー)は[[エフエム滋賀]](e-radio)で毎週金曜日11:30 - 14:53に放送されている生ワイド番組。 == 概要 == 2021年4月2日スタート。 平日の編成が月曜日から木曜日と金曜日に分かれた編成が主流となっている民放FMにおいて、午後の金曜日の放送時間が午後の月曜日から木曜日までの放送時間より短いことが特徴である。 また、13時台に放送する当局唯一の自社制作による生ワイド番組である。 内包されている番組は他の自社制作の生ワイド番組に比べ少ない。 == パーソナリティ == * [[ムーディ勝山]] * [[池田愛恵里]] == タイムスケジュール == === 11時台 === * 11:37 - [[快適生活ラジオショッピング]] === 12時台 === * 12:15 - Vivace recommend news === 13時台 === * 13:14 - 安全・安心ホットインフォメーション * 13:55 - 交通情報 * 13:57 - 交通情報 === 14時台 === * 14:15 - JFNラジオショッピング * 14:43 - シガスポ == 関連リンク == * [https://www.e-radio.co.jp/personality/ パーソナリティ一覧] {{前後番組 |放送局 = [[エフエム滋賀|e-radio]] |放送枠 = 金曜 11:30 - 14:53 |番組名 = DIVER<br />(2021年4月2日 - ) |前番組 = chai |次番組 = }} {{radio-stub}} {{DEFAULTSORT:たいはあ}} [[Category:エフエム滋賀の番組]] [[Category:2021年のラジオ番組 (日本)]]
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東アジア競技大会ソフトテニス競技
東アジア競技大会におけるソフトテニス競技(ひがしアジアきょうぎたいかいにおけるソフトテニスきょうぎ)は、1997年大会より行われている。1993年大会ではデモンストレーション種目として参加。2009年大会では種目から外れたが、2013年大会で復活。
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東アジア競技大会におけるソフトテニス競技(ひがしアジアきょうぎたいかいにおけるソフトテニスきょうぎ)は、1997年大会より行われている。1993年大会ではデモンストレーション種目として参加。2009年大会では種目から外れたが、2013年大会で復活。
'''[[東アジア競技大会]]'''における'''[[ソフトテニス]]競技'''(ひがしアジアきょうぎたいかいにおけるソフトテニスきょうぎ)は、[[1997年東アジア競技大会|1997年大会]]より行われている。[[1993年東アジア競技大会|1993年大会]]ではデモンストレーション種目として参加。2009年大会では種目から外れたが、2013年大会で復活。 ==獲得メダル総数== {| {{RankedMedalTable}} |- | 1 ||align=left width=200| {{JPN}} || 13 || - || - || - |- | 2 ||align=left| {{KOR}} || 8 || - || - || - |- | 3 ||align=left| {{TPE}} || 3 || - || - || - |- | 4 ||align=left| {{PRC}} || 0 || - || - || - |} ==メダル獲得者== {{DEFAULTSORT:ひがしアジアきょうぎたいかいにおけるソフトテニスきょうぎ}} [[Category:東アジア競技大会における各競技]] [[Category:ソフトテニス]] [[Category:ソフトテニスの国際大会]] [[Category:世界選手権|そふとてにす]]
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理想的観察者理論
理想的観察者理論(りそうてきかんさつしゃりろん、英語: ideal observer theory)は、倫理的な言明は、仮定上の「理想的観察者」の態度に関する真理適合的な命題を表現すると考えるメタ倫理学上の立場。言い換えれば、倫理的判断は、中立的かつ完全な情報を持つ観察者が下すであろう判断に関する言明として解釈すべきと考える。例えば、「Xは善い」は、「理想的観察者がXを是認する」を指す。 理想的観察者理論は、認知主義のうち主観主義および普遍主義に分類される。また、その他の倫理的主観主義(道徳的相対主義など)および道徳的実在論(倫理的命題は、誰かの態度や意見とは無関係の客観的な事実を指すと考える立場)、錯誤説(倫理的命題が真でありうるということを否定する立場)、非認知主義(倫理的言明が命題を表現するということを否定する立場)とは相反する。 理想的観察者理論の支持者は、通常、理想的観察者が実際に存在すると考えるわけではない。
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理想的観察者理論は、倫理的な言明は、仮定上の「理想的観察者」の態度に関する真理適合的な命題を表現すると考えるメタ倫理学上の立場。言い換えれば、倫理的判断は、中立的かつ完全な情報を持つ観察者が下すであろう判断に関する言明として解釈すべきと考える。例えば、「Xは善い」は、「理想的観察者がXを是認する」を指す。 理想的観察者理論は、認知主義のうち主観主義および普遍主義に分類される。また、その他の倫理的主観主義(道徳的相対主義など)および道徳的実在論(倫理的命題は、誰かの態度や意見とは無関係の客観的な事実を指すと考える立場)、錯誤説(倫理的命題が真でありうるということを否定する立場)、非認知主義(倫理的言明が命題を表現するということを否定する立場)とは相反する。 理想的観察者理論の支持者は、通常、理想的観察者が実際に存在すると考えるわけではない。
'''理想的観察者理論'''(りそうてきかんさつしゃりろん、{{Lang-en|ideal observer theory}})は、[[倫理学|倫理]]的な言明は、仮定上の「理想的観察者」の態度に関する真理適合的な命題を表現すると考える[[メタ倫理学]]上の立場。言い換えれば、倫理的判断は、中立的かつ完全な情報を持つ観察者が下すであろう判断に関する言明として解釈すべきと考える。例えば、「Xは善い」は、「理想的観察者がXを是認する」を指す。{{Cquote|[理想的観察者理論の]中核をなす考え方は、倫理的用語は、「XはYよりも善い」=「XおよびYに関して完全な情報を持ち、想像力が豊かで、公平かつ冷静であるがその他の点では普通の人であれば誰でも、XをYよりも選好する」の様式で定義されるというものである<ref>{{Harvnb|Brandt|1959|p=173}}: {{Lang|en|"The main idea [of the ideal observer theory] is that ethical terms should be defined after the pattern of the following example: <nowiki>'</nowiki>''x'' is better than ''y''{{-'}} means 'If anyone were, in respect of ''x'' and ''y'', fully informed and vividly imaginative, impartial, in a calm frame of mind and otherwise normal, he would ''prefer x'' to ''y''.{{'"}}}}</ref>。}} 理想的観察者理論は、[[認知主義]]のうち[[倫理的主観主義|主観主義]]<ref>{{Harvnb|Brandt|1959|p=153}}: {{Lang|en|"[Objectivism and subjectivism] have been used more vaguely, confusedly, and in more different senses than the others we are considering. We suggest as a convenient usage, however, that a theory be called subjectivist if and only if, according to it, any ethical assertion implies that somebody does, or somebody of a certain sort under certain conditions would, take ''some specified attitude'' toward something."}}</ref>および[[道徳的普遍主義|普遍主義]]に分類される。また、その他の倫理的主観主義([[道徳的相対主義]]など)および[[道徳的実在論]](倫理的命題は、誰かの態度や意見とは無関係の客観的な事実を指すと考える立場)、[[錯誤説]](倫理的命題が真でありうるということを否定する立場)、[[非認知主義]](倫理的言明が命題を表現するということを否定する立場)とは相反する。 理想的観察者理論の支持者は、通常、理想的観察者が実際に存在すると考えるわけではない。 == 脚注 == <references /> == 参考文献 == * {{Cite book2|last=Brandt|first=Richard|author-link=Richard Brandt|year=1959|chapter=Ethical Naturalism|title=[[Ethical Theory]]|language=en|location=[[Englewood Cliffs]]|publisher=[[Prentice Hall]]|lccn=59010075}} == 関連文献 == * {{Cite encyclopedia|last=Jollimore|first=Troy|year=2022|title=Impartiality|editor-last=Zalta|editor-first=Edward N.|url=https://plato.stanford.edu/archives/sum2022/entries/impartiality/|encyclopedia=[[Stanford Encyclopedia of Philosophy]]|language=en|edition=Summer 2022}} [[Category:メタ倫理学]] [[Category:倫理学の理論]] {{DEFAULTSORT:りそうてきかんさつしやりろん}}
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鶴田一白
鶴田 一白(つるた かずしろ(「いっぱく」との記載もあり)、1925年11月20日 - 没年不詳)は、日本の実業家。 弁護士鶴田英夫の二男として福岡県に生まれる。1943年福岡県中学修猷館を経て、1950年明治大学商学部を卒業。 1952年日本オイルシール工業(現・NOK)に入社。1964年大阪支店長、1968年大阪支社長兼営業三部長、1969年営業一部長を経て、同年取締役に就任。1977年1月常務取締役、同年2月人事本部長となり、1979年4月専務取締役。 1979年6月イーグル工業副社長を経て、1980年12月同社長に就任。
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鶴田 一白は、日本の実業家。
'''鶴田 一白'''(つるた かずしろ<ref name=jinji35>『人事興信録第35版』(人事興信所、1989年) ツ-76頁</ref>(「いっぱく」との記載もあり<ref>『人事興信録第32版』(人事興信所、1983年) ツ-82頁</ref>)、[[1925年]][[11月20日]]<ref name=jinji35/> - 没年不詳)は、日本の[[実業家]]。 == 経歴 == [[弁護士]]鶴田英夫の二男として[[福岡県]]に生まれる<ref name=jinji35/>。1943年[[福岡県立修猷館高等学校|福岡県中学修猷館]]を経て<ref>『修猷館同窓会名簿 修猷館235年記念』同窓会員52頁</ref>、[[1950年]][[明治大学]][[明治大学大学院商学研究科・商学部|商学部]]を卒業<ref name=jinji35/>。 1952年[[NOK (企業)|日本オイルシール工業]](現・NOK)に入社。1964年大阪支店長、1968年大阪支社長兼営業三部長、1969年営業一部長を経て、同年取締役に就任。1977年1月常務取締役、同年2月人事本部長となり、1979年4月専務取締役<ref name=jinji35/>。 1979年6月[[イーグル工業]]副社長を経て、1980年12月同社長に就任<ref name=jinji35/>。 == 出典 == {{Reflist}} {{DEFAULTSORT:つるた かすしろ}} [[Category:20世紀日本の実業家]] [[Category:明治大学出身の人物]] [[Category:福岡県立修猷館高等学校出身の人物]] [[Category:福岡県出身の人物]] [[Category:1925年生]] [[Category:没年不明]]
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WAKASUGI
株式会社WAKASUGI(ワカスギ)は、大阪府大阪市北区天神橋に本社を置く不動産会社。 大阪市内を中心に「若杉ビル」の名前でオフィスビル、マンションなどを所有・管理している。
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株式会社WAKASUGI(ワカスギ)は、大阪府大阪市北区天神橋に本社を置く不動産会社。 大阪市内を中心に「若杉ビル」の名前でオフィスビル、マンションなどを所有・管理している。
{{基礎情報 会社 |社名 = 株式会社WAKASUGI |英文社名 = |ロゴ = |画像 = WAKASUGI GRAND BUILDING MAIN BUILDING.jpg |画像説明 = 若杉グランドビル本館 |種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] |市場情報 = |略称 = |国籍 = {{JPN}} |本社郵便番号 = 530-0041 |本社所在地 = [[大阪府]][[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]][[天神橋 (大阪市)|天神橋]]2丁目5番25号 |設立 = [[2004年]][[5月24日]] |業種 = 8050 |事業内容 = 賃貸斡旋事業 |代表者 = 加藤淳彌 代表取締役社長 |資本金 = 300万 |発行済株式総数 = |売上高 = |営業利益 = |経常利益 = |純利益 = |純資産 = |総資産 = |従業員数 = |決算期 = |主要株主 = |主要子会社 = |関係する人物 = |外部リンク = [https://www.wakasugi-bldg.jp/ www.wakasugi-bldg.jp/] |特記事項 = }} '''株式会社WAKASUGI'''(ワカスギ)は、[[大阪府]][[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]][[天神橋 (大阪市)|天神橋]]に本社を置く[[不動産会社]]。 大阪市内を中心に「'''若杉ビル'''」の名前でオフィスビル、マンションなどを所有・管理している<ref>{{Cite web|和書|url=https://firstoffice.jp/blog/report/%E3%80%90%E8%8B%A5%E6%9D%89%E3%83%93%E3%83%AB%E3%80%91/|title=【若杉ビル】|publisher=ファーストオフィス|accessdate=2023-9-8}}</ref>。 == 沿革 == * [[2003年]]([[平成]]15年)[[11月5日|11月{{0}}5日]] - 株式会社WAKASUGI BUILDINGを設立<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.wakasugi-bldg.jp/company/|title=会社概要|publisher=若杉ビル|accessdate=2023-9-8}}</ref>。 * [[2004年]](平成16年)[[5月24日|{{0}}5月24日]] - 株式会社WAKASUGIを設立<ref name=":0" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://baseconnect.in/companies/74dc1f7a-7985-43b2-b2af-0c533d239cc5|title=株式会社WAKASUGI|publisher=ナレッジエンジン|accessdate=2023-9-8}}</ref>。 == 事業所 == * 若杉センタービル本館 - [[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]][[東天満]]2丁目9番1号 * 若杉センタービル別館 - 大阪市北区東天満2丁目8番1号 * 若杉グランドビル本館 - 大阪市北区[[天神橋 (大阪市)|天神橋]]2丁目5番25号 * 若杉グランドビル別館 - 大阪市北区東天満1丁目11番15号 * 若杉大阪駅前ビル - 大阪市北区[[曽根崎新地]]2丁目3番13号 * 若杉西梅田ビル - 大阪市[[福島区]][[福島 (大阪市)|福島]]5丁目1番1号 * 若杉東梅田ビル - 大阪市北区[[堂山町]]18番2号 * 若杉ビル - 大阪市北区[[中津 (大阪市)|中津]]1丁目18番18号 * ニュー若杉ビル - 大阪市[[都島区]][[東野田町]]1丁目21番14号 == 脚注 == <references /> == 学部リンク == * [https://www.wakasugi-bldg.jp/ WAKASUGI] {{Company-substub}} {{デフォルトソート:わかすき}} [[Category:日本の不動産会社]] [[Category:大阪市北区の企業]] [[Category:2004年設立の企業]]
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蘇州国際金融中心
蘇州国際金融中心(そしゅうこくさいきんゆうちゅうしん、苏州国际金融中心)は、中華人民共和国江蘇省蘇州市蘇州工業園区にある高さ450mの超高層ビルである。略称は蘇州IFS。 2010年5月に着工し、2018年に完成した。 高さは450m、地上92階建ての建物で、完成時点から江蘇省では最も高い建築物である。 九龍倉集団によるプロジェクトで、設計はコーン・ペダーセン・フォックスである。 魚の尾のようなデザインは、都市の長寿と繁栄の象徴をイメージしている。 最上階には高級ホテルのニッコロ蘇州が入居する。
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蘇州国際金融中心(そしゅうこくさいきんゆうちゅうしん、苏州国际金融中心)は、中華人民共和国江蘇省蘇州市蘇州工業園区にある高さ450mの超高層ビルである。略称は蘇州IFS。
{{出典の明記|date=2023年10月4日 (水) 05:03 (UTC)}} [[File:Suzhou IFS 2018.jpg|thumb|250px|外観]] '''蘇州国際金融中心'''(そしゅうこくさいきんゆうちゅうしん、苏州国际金融中心)は、[[中華人民共和国]][[江蘇省]][[蘇州市]][[蘇州工業園区]]にある高さ450mの[[超高層ビル]]である。略称は'''蘇州IFS'''。 == 概要 == [[2010年]]5月に着工し、[[2018年]]に完成した。 高さは450m、地上92階建ての建物で、完成時点から江蘇省では最も高い建築物である。 九龍倉集団によるプロジェクトで、設計は[[コーン・ペダーセン・フォックス]]である。 [[魚]]の尾のようなデザインは、都市の長寿と繁栄の象徴をイメージしている。 最上階には高級[[ホテル]]のニッコロ蘇州が入居する。 == ギャラリー == <gallery> File:Suzhou IFS 2015-06-06.jpg|建設中 </gallery> == 関連項目 == * [[中華人民共和国の超高層建築物]] * [[アジアの超高層建築物]] {{高さ300m以上の超高層ビル}} {{DEFAULTSORT:そしゆうこくさいきんゆうちゆうしん}} [[Category:中国の超高層ビル]] [[Category:高さ350m以上の超高層ビル]] [[Category:蘇州の建築物]] [[Category:2018年竣工の建築物]] [[Category:超高層ホテル]]
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前田陸
前田 陸(まえだ りく、2003年〈平成15年〉6月28日 - )は日本人の歌手。男性アイドルグループNCTのメンバー。活動名はリク。SMエンタテインメント所属。福井県出身。 2003年6月28日、福井県で生まれる。 2021年10月、従姉妹である高橋愛のコスメブランド「アイムミクス(AIMMX)」のイメージビジュアルに出演した。 2022年、SMグローバルオーディション「KWANGYA」を通じてSMエンタテインメントに練習生として入社した。 7月26日より、プレデビューリアリティ番組『NCT Universe: LASTART』にSM練習生として出演した。 9月7日、NCT NEW TEAMのメンバーとしてデビューが決定した。 10月8日、所属ユニットNCT NEW TEAMがプレデビューシングル「Hands Up」を発売した。 我慢強い性格。自身を表す単語は「忍耐心」。座右の銘は「避けられない痛みなら楽しめ」。 MBTI性格診断はISFP型。 ニックネームは「くり」。身長175cm。血液型はAB型。リクを表す絵文字には動物の「リス」が使われている。チャームポイントは「えくぼ」。 趣味はアニメ・映画鑑賞。特技はポップダンス、バレーボール(小中バレー部)。 ロールモデルはNCTのマーク、姉。 好きなアニメは『呪術廻戦』。 好きな食べ物は和菓子。 歌手にならない場合に就いていたかもしれない職業はパン屋さん。 モーニング娘。の元メンバー(5期、モーニング娘。6代目リーダー、ハロー!プロジェクト2代目リーダー)の高橋愛は従姉妹である。 従兄はお笑い芸人のあべこうじ。
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前田 陸は日本人の歌手。男性アイドルグループNCTのメンバー。活動名はリク。SMエンタテインメント所属。福井県出身。
{{Infobox Musician | 名前 = 前田 陸 | 背景色 = singer | 出身地 = {{JPN}}・[[福井県]] | 著名な家族 = 高橋愛(いとこ) | ジャンル = [[J-POP]]<br/>[[K-POP]] | 活動期間 = [[2023年]] - 現在 | レーベル = [[カカオエンターテインメント]]<br/>[[avex trax]] | 事務所 = [[エスエム・エンタテインメント|SMエンタテインメント]] | URL = [https://nct-jp.net/ nct-jp.net] (日本) | 共同作業者 = [[NCT (音楽グループ)]]<br/>NCT NEW TEAM | 職業 = [[歌手]] | Img = | 出生 = {{生年月日と年齢|2003|6|28}} | 別名 = リク、RIKU }} '''前田 陸'''(まえだ りく、[[2003年]]〈平成15年〉[[6月28日]] - <ref>{{Cite web|title=MUSICIAN|url=https://www.smtown.com/artist/musician/10983|website=SMTOWN|accessdate=2023-10-21}}</ref> )は日本人の[[歌手]]。男性アイドルグループ[[NCT (音楽グループ)|NCT]]のメンバー。活動名は'''リク'''。[[エスエム・エンタテインメント|SMエンタテインメント]]所属。[[福井県]]出身。 == 来歴 == 2003年6月28日、福井県で生まれる。 2021年10月、従姉妹である高橋愛のコスメブランド「アイムミクス(AIMMX)」のイメージビジュアルに出演した<ref>{{Cite web|和書|date=2021-10-30|url=https://www.wwdjapan.com/articles/1282257?utm_source=twitter_wwdjapan_official&utm_medium=social&utm_campaign=1282257&utm_content=tw202110302330|title=高橋愛の初プロデュースコスメから第1弾アイテムが登場 従兄弟と共演したイメージビジュアルにも注目|website=wwdJapan|accessdate=2023-08-04}}</ref>。 === SMエンタ入社 === 2022年、SMグローバルオーディション「KWANGYA」を通じてSMエンタテインメントに練習生として入社した<ref>{{Cite web|date=2023-08-04|url=https://www.youtube.com/watch?v=mn6PuRvi2sc|title=Ep.02 하이라이트 - SM 연습생 공개|website=YouTube|accessdate=2023-08-04}}</ref>。 ===NCTデビュー(2023年 - )=== ==== 2023年 ==== 7月26日より、プレデビューリアリティ番組『[[NCT Universe: LASTART]]』にSM練習生として出演した。 9月7日、'''NCT NEW TEAM'''のメンバーとしてデビューが決定した<ref>{{Cite web|和書|date=2023-09-07|url=https://mdpr.jp/k-enta/detail/3937602|title=NCT新チーム、デビューメンバー決定 緊急会議で1人追加|website=モデルプレス|accessdate=2023-09-09}}</ref>。 10月8日、所属ユニットNCT NEW TEAMがプレデビューシングル'''「[[Hands Up (NCT NEW TEAMの曲)|Hands Up]]」'''を発売した<ref>{{Cite web|和書|date=2023-10-07|url=https://www.wowkorea.jp/news/read/410853.html|title=「NCT NEW TEAM」(仮称)、8日午前0時に日本プレデビューシングル「Hands Up」を発売へ|website=wowKorea|accessdate=2023-10-16}}</ref>。 == 人物 == === 性格・ニックネーム === 我慢強い性格<ref name="universe">{{Cite tweet|user=SM_NCTUniverse|number=1684851437128265728|title=Show Me Your Universe|date=2023-07-28|accessdate=2023-08-03}}</ref>。自身を表す単語は「忍耐心」<ref name="universe"/>。座右の銘は「避けられない痛みなら楽しめ」<ref name="universe"/>。 MBTI性格診断はISFP型<ref name="universe"/>。 ニックネームは「くり」<ref name="universe"/>。身長175cm。血液型はAB型。リクを表す絵文字には動物の「リス」が使われている<ref>{{Cite web|date=2023-10-04|url=https://www.instagram.com/p/Cx-Ws9Ir09i/?hl=ja&img_index=1|title=리쿠예요🐿노란색 배경과 잘 어울리나요?|website=Instagram|accessdate=2023-10-11}}</ref>。チャームポイントは「えくぼ」。 === 趣味・嗜好 === 趣味はアニメ・映画鑑賞<ref>{{Cite tweet|user=SM_NCTUniverse|number=1685213825119780865|title=Show Me Your Taste|date=2023-07-29|accessdate=2023-08-03}}</ref>。特技はポップダンス、バレーボール(小中バレー部)<ref>{{Cite web|date=2023-09-07|url=https://www.youtube.com/watch?v=FjUjpPrUV3Y|title=NCT NEW TEAM 프리 데뷔 멤버를 소개합니다! NCT Universe : LASTART|website=YouTube|accessdate=2023-09-07}}</ref>。 ロールモデルはNCTの[[マーク (NCT)|マーク]]、姉<ref name="story">{{Cite tweet|user=SM_NCTUniverse|number=1685576212788211712|title=Show Me Your Story|date=2023-07-30|accessdate=2023-08-03}}</ref>。 好きなアニメは『呪術廻戦』。 好きな食べ物は団子<ref>{{Cite web|date=2023-11-24|url=https://www.youtube.com/watch?v=1SqkKQdUgYM|title=WE GO! WE FLY! EP. 2|website=YouTube|accessdate=2023-11-24}}</ref>、和菓子。 歌手にならない場合に就いていたかもしれない職業はパン屋さん<ref name="story"/>。 === 親族 === モーニング娘。の元メンバー(5期、モーニング娘。6代目リーダー、ハロー!プロジェクト2代目リーダー)の高橋愛は従姉妹である<ref>{{Cite web|和書|date=2023-09-07|url=https://mdpr.jp/k-enta/detail/3938974|title=高橋愛、NCT新チームでデビュー決定のリクを祝福 “従兄弟”と過去に紹介|website=モデルプレス|accessdate=2023-09-08}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2023-10-10|url=https://mdpr.jp/k-enta/detail/3992776|title=高橋愛、NCT新ユニット・リクとの2ショット公開でツアー参戦報告「自慢の従兄弟」|website=モデルプレス|accessdate=2023-10-10}}</ref>。 従兄はお笑い芸人の[[あべこうじ]]<ref>{{Cite web|和書|date=2023-10-11|url= https://news.kstyle.com/article.ksn?articleNo=2227030|title=NCT NEW TEAM、リクのいとこ・高橋愛&あべこうじ夫妻との記念ショットを公開「来てくれてありがとう」|website=Kstyle|accessdate=2023-10-11}}</ref>。 == 出演 == === テレビ番組 === *日本テレビ『NCT Universe: LASTART』(2023年) *日本テレビ『[[ヒルナンデス!]]』(2023年11月15日)<ref>{{Cite tweet|user=hirunandes_4ntv|number=1724608159699087717|title=本日のタイムスケジュールはこちら|date=2023-11-15|accessdate=2023-11-16}}</ref><ref>{{Cite tweet|user=NCT_OFFICIAL_JP|number=1724746100958216309|title=「ヒルナンデス!」ご覧くださった皆さん、ありがとうございました|date=2023-11-15|accessdate=2023-11-16}}</ref> == 広告 == *「アイムミクス(AIMMX)」(コスメ、高橋愛のブランド) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 外部リンク == {{Commonscat|Riku Maeda}} * [https://nct-jp.net/ 公式ウェブサイト(日本)] {{Normdaten}} {{NCT (音楽グループ)}} {{DEFAULTSORT:まえたりく}} [[Category:韓国の男性ポップ歌手]] [[Category:日本の男性ポップ歌手]] [[Category:福井県出身の人物]] [[Category:2003年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:在韓日本人]] [[Category:NCTのメンバー]]
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濱野力
濱野 力(浜野 力、はまの つとむ、1893年〈明治26年〉9月30日 - 1957年〈昭和32年〉3月4日)は、日本の海軍軍人、電気工学者。海軍航空技術廠電気部部長、海軍第二技術廠電気部長。海兵43期首席。最終階級は海軍少将。 富山県出身。海軍兵学校43期首席入学、同首席卒業。海軍砲術学校普通科学生、海軍水雷学校普通科学生修了。ほか、マサチューセッツ工科大学で電気工学を学ぶ。 1926年、海軍少佐昇任。1929年、欧州に在勤、留学する。1931年、海軍中佐昇任。佐世保海軍工廠造兵部検査官。1936年、海軍大佐昇任。海軍技術研究所電気研究部第三科(無線受信)主任、海軍通信学校教官。1940年、海軍少将。海軍航空技術廠電気部部長。 1945年、予備役編入。
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濱野 力は、日本の海軍軍人、電気工学者。海軍航空技術廠電気部部長、海軍第二技術廠電気部長。海兵43期首席。最終階級は海軍少将。
{{脚注の不足|date=2023年9月7日 (木) 23:13 (UTC)}} {{基礎情報 軍人 | 氏名 = 濱野 力 | 各国語表記 = | 箱サイズ = | 生年月日 = {{生年月日|1893|9|30}} | 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1893|9|30|1957|3|4}} | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = <!-- 画像の説明文 --> | 渾名 = | 生誕地 = {{JPN}}・[[富山県]] | 死没地 = <!-- {{JPN}}・XX都道府県YY市区町村 --> | 所属組織 = {{IJN}} | 軍歴 = [[1915年]] - [[1945年]] | 兵科 = [[兵科]] | 指揮 = | 戦闘 = | 最終階級 = [[ファイル:Imperial Japan-Navy-OF-7-collar.svg|30px]] [[海軍少将]] | 勲章 = | 出身校 = [[マサチューセッツ工科大学]] | 配偶者 = | 子女 = | 親族 = | 除隊後 = | 墓所 = | 署名 = }}'''濱野 力'''(浜野 力、はまの つとむ、[[1893年]]〈[[明治]]26年〉[[9月30日]] - [[1957年]]〈[[昭和]]32年〉[[3月4日]])は、[[日本]]の[[海軍軍人]]、[[電気工学者]]。[[海軍航空技術廠]]電気部部長、[[海軍第二技術廠]]電気部長。[[海軍兵学校 (日本)|海兵]][[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#43期|43期]]首席。最終階級は[[海軍少将]]。 == 経歴 == [[富山県]]出身。[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]][[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#43期|43期]]首席入学、同首席卒業。[[海軍砲術学校]]普通科学生、[[海軍水雷学校]]普通科学生修了。ほか、[[マサチューセッツ工科大学]]で電気工学を学ぶ。 1926年、[[海軍少佐]]昇任。1929年、欧州に在勤、留学する。1931年、[[海軍中佐]]昇任。[[佐世保海軍工廠]]造兵部検査官。1936年、[[海軍大佐]]昇任。海軍技術研究所電気研究部第三科(無線受信)主任、[[海軍通信学校]]教官。1940年、[[海軍少将]]。[[海軍航空技術廠]]電気部部長。 1945年、[[予備役]]編入。 == 参考文献 == * 河村豊「旧日本海軍の電波兵器開発過程を事例とした第2次大戦期日本の科学技術動員に関する分析」[[東京工業大学]]博士論文 * 海軍兵学校『海軍兵学校沿革』1919年 * 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。 * 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。 * 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第9巻、発売:[[第一法規出版]]、1995年。 [[Category:大日本帝国海軍少将]] [[Category:大日本帝国海軍の工学者]] [[Category:日本の電気工学者]] [[Category:海軍通信学校の教員]] [[Category:海軍砲術学校出身の人物]] [[Category:海軍水雷学校出身の人物]] [[Category:海軍兵学校 (日本)出身の人物]] [[Category:富山県出身の人物]] [[Category:マサチューセッツ工科大学出身の人物]] [[Category:1893年生]] [[Category:1957年没]] {{DEFAULTSORT:はまの つとむ}}
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堀内多雄
堀内 多雄(ほりうち かずお、1893年〈明治26年〉7月16日 - 1982年〈昭和57年〉10月11日)は、日本の海軍軍人、軍需官僚。海兵43期次席。軍需省東海北陸軍需監督部富山支部長。最終階級は海軍少将。 香川県出身。海軍兵学校43期次席卒業。海軍砲術学校普通科学生、海軍水雷学校普通科学生、同高等科学生、海軍大学校選科学生修了。 1945年、軍需省東海北陸軍需監督部富山支部長。同年、予備役編入。
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堀内 多雄は、日本の海軍軍人、軍需官僚。海兵43期次席。軍需省東海北陸軍需監督部富山支部長。最終階級は海軍少将。
{{脚注の不足|date=2023年9月7日 (木) 23:11 (UTC)}} {{基礎情報 軍人 | 氏名 = 堀内 多雄 | 各国語表記 = | 箱サイズ = | 生年月日 = {{生年月日|1893|7|16}} | 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1893|7|16|1982|10|11}} | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = <!-- 画像の説明文 --> | 渾名 = | 生誕地 = {{JPN}}・[[香川県]] | 死没地 = <!-- {{JPN}}・XX都道府県YY市区町村 --> | 所属組織 = {{IJN}} | 軍歴 = [[1915年]] - [[1945年]] | 兵科 = [[兵科]] | 指揮 = | 戦闘 = | 最終階級 = [[ファイル:Imperial Japan-Navy-OF-7-collar.svg|30px]] [[海軍少将]] | 勲章 = | 出身校 = | 配偶者 = | 子女 = | 親族 = | 除隊後 = | 墓所 = | 署名 = }}'''堀内 多雄'''(ほりうち かずお、[[1893年]]〈[[明治]]26年〉[[7月16日]] - [[1982年]]〈[[昭和]]57年〉[[10月11日]])は、[[日本]]の[[海軍軍人]]、[[軍需省|軍需]][[官僚]]。[[海軍兵学校 (日本)|海兵]][[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#43期|43期]]次席。[[軍需省]]東海北陸軍需監督部富山支部長。最終階級は[[海軍少将]]。 == 経歴 == [[香川県]]出身。[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]][[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#43期|43期]]次席卒業。[[海軍砲術学校]]普通科学生、[[海軍水雷学校]]普通科学生、同高等科学生、[[海軍大学校]]選科学生修了。 1945年、[[軍需省]]東海北陸軍需監督部富山支部長。同年、[[予備役]]編入。 == 参考文献 == * 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。 * 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。 * 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第9巻、発売:[[第一法規出版]]、1995年。 [[Category:大日本帝国海軍少将]] [[Category:海軍兵学校 (日本)出身の人物]] [[Category:香川県出身の人物]] [[Category:1894年生]] [[Category:1982年没]] {{DEFAULTSORT:ほりうち かすお}} [[Category:海軍大学校出身の人物]] [[Category:海軍水雷学校出身の人物]]
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プリンセスとドラゴンの魔法の本
『プリンセスとドラゴンの魔法の本』(ぷりんせすとどらごんのまほうのほん、英語: The Princess and the Dragon)は、2018年にロシアで公開された3DCGアニメーション映画。1984年の映画「ネバーエンディング・ストーリー」のオマージュ作品であり、エンディング・テーマは同作の主題歌「 THE NEVER ENDING STORY」のカバー曲となっている。日本では劇場未公開であったが、2020年に日本語吹き替え版が収録されたDVDが発売され、一部の定額制動画配信サービスでも配信されている。 ある王国のプリンセスであるバーバラの母親アンナ女王は、ある日、姿を消して行方不明となった。バーバラの父親アリスター国王は必死に女王を探すも見つからず、その間、バーバラは国王の部下である大臣バルタザールによって育てられた。 バーバラは7歳の誕生日に城の古い書庫で1冊の光り輝く魔法の本を見つける。その本を開くと、バーバラは本の中の世界に入ってしまい、小さなドラゴンドラゴーシャと出会う。ドラゴーシャと友達となったバーバラは本の世界を行き来するようになる。 ある日、バーバラは本の世界で魔法の鏡を見つける。バーバラは魔法の鏡に消えた母親の手がかりがあると考え、鏡の謎を探り始める。 括弧内は日本語吹き替え版の声優を指す(下記の2名以外は未公開)。
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『プリンセスとドラゴンの魔法の本』は、2018年にロシアで公開された3DCGアニメーション映画。1984年の映画「ネバーエンディング・ストーリー」のオマージュ作品であり、エンディング・テーマは同作の主題歌「 THE NEVER ENDING STORY」のカバー曲となっている。日本では劇場未公開であったが、2020年に日本語吹き替え版が収録されたDVDが発売され、一部の定額制動画配信サービスでも配信されている。
{{Infobox Film | 作品名 = プリンセスとドラゴンの魔法の本 | 原題 = {{lang-ru|Принцесса и дракон}} | 監督 = マリーナ・ネフヨドヴァ | 脚本 = ヴァシリー・ロヴェンスキー | 製作 = マキシム・ロガルスキー<br/>ロマン・ボリセヴィッチ | 出演者 = {{仮リンク|アニ・ロラック|ru|Ани_Лорак}}<br/>セルゲイ・スミルノフ | 音楽 = アントン・グリズロフ | 主題歌 = [[THE NEVER ENDING STORY]] | 製作会社 = ライセシング・ブランズ(LICENSING BRANDS) | 配給 = {{Flagicon|RUS}}{{仮リンク|Karo Film|ru|Каропрокат}}<br/>{{Flagicon|JPN}}アット・エンタテインメント | 公開 = {{Flagicon|RUS}}[[2018年]][[8月23日]]<br/>{{Flagicon|JPN}}[[2020年]][[8月5日]](DVD発売) | 上映時間 = 75分<ref>{{Cite web|和書|url=https://eiga.com/amp/movie/93393/|title=プリンセスとドラゴンの魔法の本|website=映画.com|accessdate=2023-09-07}}</ref> | 製作国 = {{RUS}} | 言語 = [[ロシア語]] }} 『'''プリンセスとドラゴンの魔法の本'''』(ぷりんせすとどらごんのまほうのほん、{{lang-en|The Princess and the Dragon}})は、[[2018年]]に[[ロシア]]で公開された[[3DCG]][[アニメーション映画]]。[[1984年]]の[[映画]]「[[ネバーエンディング・ストーリー]]」の[[オマージュ]]作品であり、エンディング・テーマは同作の主題歌「 [[THE NEVER ENDING STORY]]」の[[カバー]]曲となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://tower.jp/item/5053327/プリンセスとドラゴンの魔法の本|title=プリンセスとドラゴンの魔法の本|website=TOWER RECORDS Online|accessdate=2023-09-07}}</ref>。[[日本]]では劇場未公開であったが、[[2020年]]に[[日本語]][[吹き替え]]版が収録された[[DVD]]が発売され<ref name="at-e">{{Cite web2 |df=ja |publisher=アット エンタテインメント株式会社|url=http://www.at-e.co.jp/2020/post-398.html|title=プリンセスとドラゴンの魔法の本|accessdate=2023-09-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200710164724/http://www.at-e.co.jp/2020/post-398.html|archivedate=2020-07-10}}</ref>、一部の[[定額制動画配信サービス]]でも配信されている。 == ストーリー == ある[[王国]]の[[プリンセス]]である'''バーバラ'''の母親'''アンナ女王'''は、ある日、姿を消して行方不明となった。バーバラの父親'''アリスター国王'''は必死に女王を探すも見つからず、その間、バーバラは国王の部下である大臣'''バルタザール'''によって育てられた。 バーバラは7歳の[[誕生日]]に城の古い書庫で1冊の光り輝く魔法の本を見つける。その本を開くと、バーバラは本の中の世界に入ってしまい、小さな[[ドラゴン]]'''ドラゴーシャ'''と出会う。ドラゴーシャと友達となったバーバラは本の世界を行き来するようになる。 ある日、バーバラは本の世界で魔法の鏡を見つける。バーバラは魔法の鏡に消えた母親の手がかりがあると考え、鏡の謎を探り始める。 == キャスト == 括弧内は日本語吹き替え版の[[声優]]を指す(下記の2名以外は未公開)。 *'''プリンセス・バーバラ'''…{{仮リンク|アニ・ロラック|ru|Ани_Лорак}}([[小倉唯]]){{R|at-e}} *'''ドラゴーシャ'''…セルゲイ・スミルノフ([[山本和臣]]){{R|at-e}} *'''アンナ女王'''…イリーナ・キリーヴァ *'''アリスター国王'''…ディオミド・ヴィノグラードフ *'''バルタザール'''…コンスタンチン・コジェフニコフ *'''ドラおじさん'''…{{仮リンク|ヴァシリー・ダフネンコ|ru|Дахненко,_Василий_Владимирович}} == 出典 == {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Official websites| https://www.licbrands.eu/Princess_in_Wonderland_3D.html | ロシア}} * [https://www.kinopoisk.ru/film/986638/ Принцесса и дракон (2018)] - [[キノポイスク]] * {{IMDb title |7403574|Printsessa i drakon}} * {{映画.com title|93393}} * {{Allcinema title|373072}} {{デフォルトソート:ぷりんせすとどらごんのまほうのほん}} [[Category:ドラゴン・竜を題材としたアニメ映画]] [[Category:ロシアのアニメ映画]] [[Category:2018年のアニメ映画]] [[Category:3DCGアニメ]]
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スティーブ・ハフマン
スティーブ・ハフマン (英語: Steve Huffman、1983年または1984年生まれ)は、Redditのユーザー名spez(/spɛz/)でも知られるアメリカ合衆国のウェブ開発者、起業家。 ソーシャルニュース&ディスカッションサイトであるRedditの共同設立者兼CEOであり、世界トップ20にランクインしている。また、航空券検索サイトHipmunkを共同設立したが、2020年に閉鎖。 スティーブ・ハフマンはバージニア州ウォレントンで育った。8歳でコンピュータのプログラミングを始める。2001年、バージニア州ザ・プレインズのウェイクフィールド・スクールを卒業。バージニア大学(UVA)ではコンピューターサイエンスを専攻し、2005年に卒業。 UVA大学4年生の春休み、ハフマンと大学のルームメイトであるアレクシス・オハニアンは、プログラマーであり起業家でもあるポール・グラハムの講演会に出席するため、マサチューセッツ州ボストンに車を走らせた。ハフマンは、ユーザーがSMSで食べ物を注文できるようにすることを目的とした、彼らのオリジナルのアイデア「My Mobile Menu」を思いついた。このアイデアは却下されたが、グラハムはハフマンとオハニアンにボストンで会い、別のスタートアップのアイデアを売り込むよう依頼した。このブレインストーミングの場で、グラハムが「インターネットのフロントページ」と呼ぶアイデアが生まれた。ハフマンとオハニアンはYコンビネーターの最初のクラスに受け入れられた。ハフマンはサイト全体をLispでプログラミングした。彼とオハニアンは2005年6月、Y Combinatorの資金提供を受けてRedditを立ち上げた。 サイトの利用者は最初の数ヶ月で急速に増加し、2005年8月までにハフマンは、習慣的な利用者ベースが非常に大きくなり、もはや彼自身がフロントページをコンテンツで埋める必要がなくなったことに気づいた。ハフマンとオハニアンは2006年10月31日、レディットをコンデナストに1000万ドルから2000万ドルで売却した。ハフマンは2009年までRedditに残り、CEO代行を辞めた。 2010年に作家でソフトウェア開発者のアダム・ゴールドスタインと旅行サイト「Hipmunk」を共同設立するまでの数ヶ月間、ハフマンはコスタリカでバックパッキングをした。Y Combinatorから資金提供を受けたHipmunkは2010年8月にローンチし、ハフマンはCTOを務めた。2011年、Inc.はハフマンを30歳以下の30人に選出。 2014年、ハフマンはRedditを売却するという彼の決断は間違いであり、サイトの成長は彼の期待を超えていたと述べた[23]。 2015年7月10日、RedditはEllen Paoの辞任[24]に伴い、同社にとって特に困難な時期にHuffmanをCEOとして雇用した[25]。 再加入後、Huffmanの最重要目標はRedditのiOSとAndroidアプリの立ち上げ、Redditのモバイルウェブサイトの修正、A/Bテストのインフラストラクチャの構築などであった。 Redditに復帰して以来、ハフマンはより良いモバイル体験やより強力なインフラ、新しいコンテンツガイドラインを含む多くの技術的改善を実施した。これには、暴力を扇動するコンテンツの禁止、ユーザーが不快に感じる可能性のある一部の素材の隔離、「Redditを......他のすべての人のために悪化させるためだけに存在する」コミュニティの削除などが含まれる。復帰直後、ハフマンは「アレクシスも私も、言論の自由の砦になるためにRedditを作ったのではなく、オープンで正直な議論ができる場所としてRedditを作ったのです」と書いた。The New YorkerやThe Vergeが指摘したように、オハニアンは2012年のインタビューで、Redditについて特に「言論の自由の砦」という表現を使っていた。 ハフマンはまた、サイトをより広告主にとって使いやすいものにし、サイト上で動画や画像をホストする取り組みを主導した。2016年後半、ハフマンはドナルド・トランプ支持者に人気のあるサブReddit、/r/The_Donaldの投稿を改ざんしたことで物議を醸した。Redditユーザーからの批判を受け、彼は変更を取り消し、謝罪を発表した。2017年、ハフマンはRedditのウェブサイトの再設計を主導し、10年ぶりとなるビジュアルの大幅なアップデートを行った。ハフマンは、サイトが「ディストピアのクレイグズリスト」のように見え、その時代遅れの外観が新規ユーザーを遠ざけていたと述べた。新サイトの開発には1年以上かかり、再設計は2018年4月に開始された。 2020年、フォーチュン誌は彼をテクノロジー部門の「40歳以下の40人」に選出した。 2016年11月23日、ドナルド・トランプ専門のサブレディット「/r/The_Donald」のメンバーが、レディットの管理者がサブレディット内の複数のユーザーコメントを修正したことを示す証拠を投稿した。この投稿の後、ハフマンはコメント修正の責任を取り、"我々のコミュニティ・チームは私にかなり腹を立てているので、二度とこのようなことはしない "と書いた。彼の管理上の修正は、いくつかのコメントの中の特定の侮辱的なフレーズを変更し、あたかも侮辱が彼ではなくサブレディットのモデレーターに向けられたものであるかのように見せるというものだった。ハフマンはRedditの投稿で、いくつかのコメントを "いじった "が、"1時間以内に元のコメントに戻した "と書いている。2016年11月30日、ハフマン氏は/r/The_Donaldからの粘着投稿がr/allに表示されなくなることを発表し、コミュニティのモデレーターが「r/allへの投稿をパチンコのように、しばしば他のコミュニティと敵対するような方法で」行うためにこの機能を悪用していると述べた。 2020年6月1日、ハフマンはRedditのCEOとして「人間であることを忘れるな-黒人の命は重要だ」と題した公開書簡を発表し、プラットフォームにおける人種差別の話題を取り上げた。 元Reddit CEOのエレン・パオは、自身のTwitter公式プロフィール上のツイートでハフマンの手紙を非難し、Redditは長い間人種差別を容認しており、プラットフォームは「白人至上主義を収益化している」と述べた。人気のあるNBAとNFLのサブレディットはパオの意見に賛同し、そのセクションを24時間非公開にした。アレクシス・オハニアンは2020年6月5日に辞任し、黒人ディレクターとの交代を求め、公開書簡で最終的にレディットでのヘイトスピーチとヘイトコミュニティを禁止するよう求めた。 その他の情報: 2023年Reddit API論争 2023年4月、RedditはAPIルールの変更を発表した。一部のサードパーティアプリがAPIへのアクセスに課金し始めると発表されたことを受け、Apolloを含むいくつかのサードパーティアプリがサービスを停止すると発表した。発表された変更により、2023年6月12日に予定されているプラットフォーム全体での抗議活動が計画され、数千のサブレディットが48時間、一時的に非公開アクセスに切り替わるなどした。 「r/placeの2023年7月のキャンバスにRedditユーザーによって書かれた「Fuck spez!」 これに対し、ハフマンは2023年6月9日にAMA(Ask Me Anything)を開催した。The VergeのWes Davisによると、「ハフマンは一見普遍的な怒りに包まれた」「肯定的なコメントがあるとしても、私はそれを見つけられなかった」。 "AMAの中でハフマン氏は、2023年7月1日にReddit APIへのアクセスに対して一部のアプリに課金を開始し、Redditからの成熟したコンテンツへのサードパーティアプリのアクセスを制限する計画はまだ予定されていると述べた 2023年7月、レディットはAPI変更論争の真っ只中に人気のr/placeエクスペリエンスをリニューアルし、ハフマンと彼のredditアカウント、u/spezに関するページで大規模な抗議を巻き起こした。"Fuck Spez!"というスローガンが繰り返し取り上げられ、他の言語で表現された同様の感情も目立っていた。 ハフマン氏はネット中立性規則の擁護者である。 2017年、ハフマン氏はニューヨーク・タイムズ紙に対し、ネット中立性の保護がなければ「インターネット・サービス・プロバイダーに勝者と敗者を選ぶ能力を与えることになる」と語った[。 Redditでハフマン氏は、ネット中立性への支持を表明し、ワシントンD.C.で選出された代表者に連絡するようRedditの利用者に促した。彼とRedditはネット中立性を擁護し続けると述べた。 カリフォルニア州サンフランシスコ在住。ハックブライト・アカデミーなどのコーディング・ブートキャンプでプログラマー志望者を指導している。ハフマンはUdacityによるウェブ開発に関するeラーニングコースの講師を務めた。また、名誉毀損防止リーグの「テクノロジーと社会センター」の顧問を務めている。 ハフマンは社交ダンサーでもある。UVAでは、大学対抗戦に出場した。ハフマンは2009年に結婚したが、現在は離婚している。
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スティーブ・ハフマン は、Redditのユーザー名spez(/spɛz/)でも知られるアメリカ合衆国のウェブ開発者、起業家。 ソーシャルニュース&ディスカッションサイトであるRedditの共同設立者兼CEOであり、世界トップ20にランクインしている。また、航空券検索サイトHipmunkを共同設立したが、2020年に閉鎖。
[[ファイル:Web Summit 2017 - Centre Stage Day 2 CG1 7885 (38232183112) (cropped).jpg|サムネイル|224x224px|スティーブ・ハフマンが[[ウェブサミット]]にいた時の様子]] '''スティーブ・ハフマン''' (英語: [[:en:Steve_Huffman|Steve Huffman]]、1983年または1984年生まれ)は、[[Reddit]]のユーザー名spez(/spɛz/)でも知られるアメリカ合衆国のウェブ開発者、起業家。 ソーシャルニュース&ディスカッションサイトであるRedditの共同設立者兼CEOであり、世界トップ20にランクインしている。また、航空券検索サイト[[Hipmunk]]を共同設立したが、2020年に閉鎖。 == 来歴 == {{出典の明記| date = 2023年12月| section = 1}} === 育ちと教育 === スティーブ・ハフマンは[[バージニア州]]ウォレントンで育った。8歳で[[プログラミング|コンピュータのプログラミング]]を始める。2001年、バージニア州[[ザ・プレインズのウェイクフィールド・スクール]]を卒業。[[バージニア大学]](UVA)ではコンピューターサイエンスを専攻し、2005年に卒業。 === キャリアと仕事 === UVA大学4年生の春休み、ハフマンと大学のルームメイトであるアレクシス・オハニアンは、プログラマーであり起業家でもあるポール・グラハムの講演会に出席するため、マサチューセッツ州ボストンに車を走らせた。ハフマンは、ユーザーが[[SMSデータテック|SMS]]で食べ物を注文できるようにすることを目的とした、彼らのオリジナルのアイデア「My Mobile Menu」を思いついた。このアイデアは却下されたが、グラハムはハフマンとオハニアンにボストンで会い、別のスタートアップのアイデアを売り込むよう依頼した。このブレインストーミングの場で、グラハムが「インターネットのフロントページ」と呼ぶアイデアが生まれた。ハフマンとオハニアンはYコンビネーターの最初のクラスに受け入れられた。ハフマンはサイト全体をLispで[[プログラミング]]した。彼とオハニアンは2005年6月、Y Combinatorの資金提供を受けて[[Reddit]]を立ち上げた。 サイトの利用者は最初の数ヶ月で急速に増加し、2005年8月までにハフマンは、習慣的な利用者ベースが非常に大きくなり、もはや彼自身がフロントページをコンテンツで埋める必要がなくなったことに気づいた。ハフマンとオハニアンは2006年10月31日、レディットをコンデナストに1000万[[ドル]]から2000万[[ドル]]で売却した。ハフマンは2009年まで[[Reddit]]に残り、CEO代行を辞めた。 2010年に作家でソフトウェア開発者のアダム・ゴールドスタインと旅行サイト「Hipmunk」を共同設立するまでの数ヶ月間、ハフマンはコスタリカでバックパッキングをした。Y Combinatorから資金提供を受けたHipmunkは2010年8月にローンチし、ハフマンはCTOを務めた。2011年、Inc.はハフマンを30歳以下の30人に選出。 2014年、ハフマンは[[Reddit]]を売却するという彼の決断は間違いであり、サイトの成長は彼の期待を超えていたと述べた[23]。 2015年7月10日、RedditはEllen Paoの辞任[24]に伴い、同社にとって特に困難な時期にHuffmanをCEOとして雇用した[25]。 再加入後、Huffmanの最重要目標はRedditの[[iOS]]と[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]アプリの立ち上げ、Redditのモバイルウェブサイトの修正、A/Bテストのインフラストラクチャの構築などであった。 Redditに復帰して以来、ハフマンはより良いモバイル体験やより強力なインフラ、新しいコンテンツガイドラインを含む多くの技術的改善を実施した。これには、暴力を扇動するコンテンツの禁止、ユーザーが不快に感じる可能性のある一部の素材の隔離、「Redditを......他のすべての人のために悪化させるためだけに存在する」コミュニティの削除などが含まれる。復帰直後、ハフマンは「アレクシスも私も、言論の自由の砦になるためにRedditを作ったのではなく、オープンで正直な議論ができる場所としてRedditを作ったのです」と書いた。The New YorkerやThe Vergeが指摘したように、オハニアンは2012年のインタビューで、Redditについて特に「言論の自由の砦」という表現を使っていた。 ハフマンはまた、サイトをより広告主にとって使いやすいものにし、サイト上で動画や画像をホストする取り組みを主導した。2016年後半、ハフマンはドナルド・トランプ支持者に人気のあるサブReddit、/r/The_Donaldの投稿を改ざんしたことで物議を醸した。Redditユーザーからの批判を受け、彼は変更を取り消し、謝罪を発表した。2017年、ハフマンはRedditのウェブサイトの再設計を主導し、10年ぶりとなるビジュアルの大幅なアップデートを行った。ハフマンは、サイトが「ディストピアのクレイグズリスト」のように見え、その時代遅れの外観が新規ユーザーを遠ざけていたと述べた。新サイトの開発には1年以上かかり、再設計は2018年4月に開始された。 2020年、フォーチュン誌は彼をテクノロジー部門の「40歳以下の40人」に選出した。 == 論争と批判 == {{出典の明記| date = 2023年12月| section = 1}} === コメント修正論争 === 2016年11月23日、ドナルド・トランプ専門のサブレディット「/r/The_Donald」のメンバーが、レディットの管理者がサブレディット内の複数のユーザーコメントを修正したことを示す証拠を投稿した。この投稿の後、ハフマンはコメント修正の責任を取り、"我々のコミュニティ・チームは私にかなり腹を立てているので、二度とこのようなことはしない "と書いた。彼の管理上の修正は、いくつかのコメントの中の特定の侮辱的なフレーズを変更し、あたかも侮辱が彼ではなくサブレディットのモデレーターに向けられたものであるかのように見せるというものだった。ハフマンはRedditの投稿で、いくつかのコメントを "いじった "が、"1時間以内に元のコメントに戻した "と書いている。2016年11月30日、ハフマン氏は/r/The_Donaldからの粘着投稿がr/allに表示されなくなることを発表し、コミュニティのモデレーターが「r/allへの投稿をパチンコのように、しばしば他のコミュニティと敵対するような方法で」行うためにこの機能を悪用していると述べた。 === ブラック・ライヴズ・マター(黒人の命を軽んじるな) === 2020年6月1日、ハフマンはRedditのCEOとして「人間であることを忘れるな-黒人の命は重要だ」と題した公開書簡を発表し、プラットフォームにおける人種差別の話題を取り上げた。 元Reddit CEOのエレン・パオは、自身のTwitter公式プロフィール上のツイートでハフマンの手紙を非難し、Redditは長い間人種差別を容認しており、プラットフォームは「白人至上主義を収益化している」と述べた。人気のあるNBAとNFLのサブレディットはパオの意見に賛同し、そのセクションを24時間非公開にした。アレクシス・オハニアンは2020年6月5日に辞任し、黒人ディレクターとの交代を求め、公開書簡で最終的にレディットでのヘイトスピーチとヘイトコミュニティを禁止するよう求めた。 === 2023 API の変更 === その他の情報: 2023年Reddit API論争 2023年4月、RedditはAPIルールの変更を発表した。一部のサードパーティアプリがAPIへのアクセスに課金し始めると発表されたことを受け、Apolloを含むいくつかのサードパーティアプリがサービスを停止すると発表した。発表された変更により、2023年6月12日に予定されているプラットフォーム全体での抗議活動が計画され、数千のサブレディットが48時間、一時的に非公開アクセスに切り替わるなどした。 [[ファイル:Fuck spez.png|サムネイル|374x374ピクセル|r/placeで「Fuck spez」が書かれた]] 「r/placeの2023年7月のキャンバスにRedditユーザーによって書かれた「Fuck spez!」 これに対し、ハフマンは2023年6月9日にAMA(Ask Me Anything)を開催した。The VergeのWes Davisによると、「ハフマンは一見普遍的な怒りに包まれた」「肯定的なコメントがあるとしても、私はそれを見つけられなかった」。 "AMAの中でハフマン氏は、2023年7月1日にReddit APIへのアクセスに対して一部のアプリに課金を開始し、Redditからの成熟したコンテンツへのサードパーティアプリのアクセスを制限する計画はまだ予定されていると述べた 2023年7月、レディットはAPI変更論争の真っ只中に人気のr/placeエクスペリエンスをリニューアルし、ハフマンと彼のredditアカウント、u/spezに関するページで大規模な抗議を巻き起こした。"Fuck Spez!"というスローガンが繰り返し取り上げられ、他の言語で表現された同様の感情も目立っていた。 === ネット中立性活動 === ハフマン氏はネット中立性規則の擁護者である。 2017年、ハフマン氏はニューヨーク・タイムズ紙に対し、ネット中立性の保護がなければ「インターネット・サービス・プロバイダーに勝者と敗者を選ぶ能力を与えることになる」と語った[。 Redditでハフマン氏は、ネット中立性への支持を表明し、ワシントンD.C.で選出された代表者に連絡するようRedditの利用者に促した。彼とRedditはネット中立性を擁護し続けると述べた。 == 個人生活 == {{出典の明記| date = 2023年12月| section = 1}} カリフォルニア州サンフランシスコ在住。ハックブライト・アカデミーなどのコーディング・ブートキャンプでプログラマー志望者を指導している。ハフマンはUdacityによるウェブ開発に関するeラーニングコースの講師を務めた。また、名誉毀損防止リーグの「テクノロジーと社会センター」の顧問を務めている。 ハフマンは社交ダンサーでもある。UVAでは、大学対抗戦に出場した。ハフマンは2009年に結婚したが、現在は離婚している。 == 脚注 == <references /> == 出典 == {{参照方法|date=2023年9月|section=1}} * "スティーブ・ハフマン、Redditを公開する計画とTikTokを禁止すべきと考える理由". GQ. April 19, 2023. Archived from the original on May 4, 2023. Retrieved May 4, 2023. * Huffman, Steve (April 26, 2021). "who was going to tell me this". Redditの/r/lansing。2023年5月10日取得。 * Hempel, Jessi (October 6, 2015). "Inside Reddit's plan to recover from its epic meltdown". Wired. Archived from the original on November 8, 2020. 2018年3月13日取得。 * "The top 500 sites on the web". アレクサ・インターネット. 2018年7月15日に原文からアーカイブ。2018年6月11日取得。 * Baran, Michelle (January 18, 2020). "RIP Hipmunk, the Travel Booking Site That took the "Agony" out of Search". AFAR Media. Retrieved June 13, 2023. * Jaffee, Michelle Koidin (Fall 2014). 「The Voice of His Generation". Virginia. Archived from the original on March 10, 2018. 2018年3月13日取得。 * "The Odyssey of an Alum". Wakefield School. 2016年5月3日。Archived from the original on September 15, 2018. 2018年3月13日取得。 * Zak Richards. "Unleashing High-Profile, High-Profit Websites". 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Retrieved May 4, 2018. * Shaw, Dougal (June 2, 2016). "Reddit plans to host videos on its site". BBC News. 2018年10月1日に原文からアーカイブ。2018年3月13日取得。 * Roisin Kiberd (December 5, 2016). "'Spezgiving': How Reddit's CEO Tried And Failed to Trolls". Motherboard. Vice. Archived from the original on December 18, 2017. 2018年5月3日取得。 * Pardes, Arielle (April 2, 2018). "The inside story of Reddit's redesign". Wired. 2019年4月3日に原文からアーカイブ。2018年5月16日取得。 * Loten, Angus (April 10, 2018). "レディットCEO、時代遅れのウェブサイトをIT基盤から刷新". The Wall Street Journal. Archived from the original on May 3, 2018. Retrieved May 17, 2018. == 外部リンク == {{Wikiquote}} * [https://reddit.com/user/spez Reddit account] * {{Triangulation|94|Steve Huffman}} * {{Reddit}} {{Authority control}} {{デフォルトソート:はふまん すていいふ}} [[Category:20世紀生]] [[Category:存命人物]] [[Category:アメリカ合衆国のプログラマ]] [[Category:ウェブデザイナー]]
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木村彩那
木村 彩那(きむら さな、2003年12月17日 - )は、東京都青梅市出身の女子サッカー選手。日テレ・東京ヴェルディベレーザ所属。ポジションはミッドフィールダー。 元なでしこジャパンの原菜摘子の父親からの誘いでサッカーを始める。 日テレ・ベレーザの下部組織である日テレ・メニーナ・セリアスに入団。 2022年3月3日、日テレ・東京ヴェルディベレーザに昇格。
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木村 彩那は、東京都青梅市出身の女子サッカー選手。日テレ・東京ヴェルディベレーザ所属。ポジションはミッドフィールダー。
{{サッカー選手 | 名前 = 木村 彩那 | 画像 = <!-- WEリーグ、なでしこリーグ所属選手の画像を掲載しないで下さい。 --> | 画像サイズ = <!-- デフォルトは200px --> | 画像の説明 = | 本名 = | 愛称 = さな<ref name="beleza">{{Cite web|和書|title=日テレ・東京ヴェルディベレーザ 木村 彩那選手 |url=https://www.verdy.co.jp/beleza/player/1993550816 |website=www.verdy.co.jp |access-date=2023-10-07 |language=ja}}</ref> | カタカナ表記 = キムラ サナ | アルファベット表記 = KIMURA Sana | 原語名 = | 原語表記 = | 国 = {{JPN}} | 生年月日 = {{生年月日と年齢|2003|12|17}}<ref name="beleza" /> | 出身地 = [[東京都]][[青梅市]]<ref name="beleza" /> | 没年月日 = <!-- {{死亡年月日と没年齢||||||}} --> | 身長 = 160cm<ref name="beleza" /> | 体重 = 48kg<ref name="beleza" /> | 所属チーム名 = {{Flagicon|JPN}} [[日テレ・東京ヴェルディベレーザ]] | ポジション = [[ミッドフィールダー|MF]] | 背番号 = 13 | 利き足 = 左<ref name="beleza" /> | ユース年1 = | ユースクラブ1 = 青梅新町FCショコラ<ref name="beleza" /> | ユース年2 = | ユースクラブ2 = 日テレ・メニーナ・セリアス<ref name="beleza" /> | ユース年3 = | ユースクラブ3 = 日テレ・東京ヴェルディメニーナ<ref name="beleza" /> | 年1 = 2022- | クラブ1 = {{flagicon|JPN}} [[日テレ・東京ヴェルディベレーザ]] | 出場1 = 12 | 得点1 = 0 <!-- 国内リーグ戦の成績に限る --> | クラブ成績更新日 = 2022年6月10日 | 代表年1 = 2019 | 代表1 = {{fbwu|17|JPN|name=日本(U-16)}} | 代表出場1 = | 代表得点1 = | 代表年2 = | 代表2 = | 代表出場2 = | 代表得点2 = | 代表成績更新日 = | 監督チーム1 = | 監督年1 = | medaltemplates = }} '''木村 彩那'''(きむら さな、[[2003年]][[12月17日]] - )は、[[東京都]][[青梅市]]出身の[[女子サッカー]]選手。[[日テレ・東京ヴェルディベレーザ]]所属。ポジションは[[ミッドフィールダー]]。 == 経歴 == === ユース === 元[[サッカー日本女子代表|なでしこジャパン]]の[[原菜摘子]]の父親からの誘いでサッカーを始める<ref name="beleza" />。 [[日テレ・東京ヴェルディベレーザ#下部組織|日テレ・ベレーザ]]の下部組織である日テレ・メニーナ・セリアスに入団。 === シニア === ; 日テレ・東京ヴェルディベレーザ 2022年3月3日、[[日テレ・東京ヴェルディベレーザ]]に昇格<ref>{{Cite web|和書|title=日テレ・東京ヴェルディメニーナ木村彩那選手 ベレーザ昇格のお知らせ |url=https://www.verdy.co.jp/beleza/news/10715 |website=www.verdy.co.jp |date=2022-03-03 |access-date=2023-09-07 |language=ja}}</ref>。 == 人物 == * 座右の銘は、明日やろうはバカヤロー!!!<ref name="beleza" /> * 注目の[[東京ヴェルディ1969|東京ヴェルディ]]の選手は、[[谷口栄斗]]、[[佐古真礼]]、[[新井瑞希]]<ref name="beleza" /> * 目標としている選手は、[[サッカーポルトガル代表|ポルトガル代表]] [[ベルナルド・シウバ]]<ref name="beleza" /> * 好きなアーティスト・芸能人は、[[山本舞香]]<ref name="beleza" /> * サッカー以外の特技は、 [[ルービックキューブ]]を全面そろえられること、ハトの察知能力<ref name="beleza" /> == 個人成績 == === クラブ === {{節スタブ}} ; ユース {{サッカー選手国内成績表 top|yy}} {{サッカー選手国内成績表 th|日本|yy|w}} |- |2018||rowspan="2"|[[日テレ・東京ヴェルディベレーザ#日テレ・東京ヴェルディメニーナ|日テレ・メニーナ]]||28|| || || ||colspan="2"|-||2||0||2||0 |- |2019||11|| || || ||colspan="2"|-||1||0||1||0 |- |2020||rowspan="2"|日テレ・東京ヴェルディメニーナ||17|| || || ||colspan="2"|-||2||0||2||0 |- |2021||7|| || || ||colspan="2"|-||5||0||5||0 {{サッカー選手国内成績表 通算始|1|日本|その他}} || || || ||10||0||10||0 {{サッカー選手国内成績表 通算終}} || || || ||10||0||10||0 |} ; シニア {{サッカー選手国内成績表 top|yy}} {{サッカー選手国内成績表 th|日本|yy|w}} |- |[[2021-22シーズンのWEリーグ|2021-22]]||rowspan="3"|[[日テレ・東京ヴェルディベレーザ]]||29||rowspan="3"|[[日本女子プロサッカーリーグ|WE]]||7||0||colspan="2"|-||-||-||7||0 |- |[[2022-23シーズンのWEリーグ|2022-23]]||rowspan="2"|13||5||0||2||0||2||0||9||0 |- |[[2023-24シーズンのWEリーグ|2023-24]]|| || ||3||0|| || ||3||0 {{サッカー選手国内成績表 通算始|1|日本|1部}}12||0||5||0||2||0||19||0 {{サッカー選手国内成績表 通算終}}12||0||5||0||2||0||19||0 |} <!--出場試合数と得点はシーズン後に記入すること--> * [[日本女子プロサッカーリーグ|WEリーグ]] ** 初出場 - [[2022年]][[3月12日]] 第13節 [[サンフレッチェ広島レジーナ]]戦 ([[広島広域公園第一球技場]]) === 代表 === ==== 主な選出歴 ==== * 2019年 - [[U-17サッカー日本女子代表|U-16日本女子代表]] == タイトル == === クラブ === * {{flagicon|JPN}} [[日テレ・東京ヴェルディベレーザ]] ** [[皇后杯 JFA 全日本女子サッカー選手権大会]]: 1回 ([[皇后杯 JFA 第44回全日本女子サッカー選手権大会|2022]]) === 代表 === * [[U-17サッカー日本女子代表|U-16日本女子代表]] ** [[デッレナツィオーニトーナメント]] 女子: 1回 (2019) == 脚注 == === 出典 === {{脚注ヘルプ}} <references /> == 外部リンク == * [https://www.verdy.co.jp/beleza/player/1993550816 日テレ・東京ヴェルディベレーザ 木村 彩那選手] - 日テレ・東京ヴェルディベレーザ公式サイト * {{Instagram|sana_kimura37|KIMURA SANA/木村彩那}} {{日テレ・東京ヴェルディベレーザのメンバー}} {{DEFAULTSORT:きむら さな}} [[Category:2003年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:日本の女子サッカー選手]] [[Category:東京都出身のスポーツ選手]] [[Category:日テレ・東京ヴェルディベレーザの選手]]
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草柳良夫
草柳 良夫(くさやなぎ よしお、1945年1月8日 - )は、神奈川県出身のプロゴルファー。 相模カンツリー倶楽部出身で、1965年にプロ入りする。 1973年の関東オープンでは、上位陣が総崩れの中、通算4アンダーで栗原孝・田中文雄と三つ巴のプレーオフを戦って、田中と共に栗原の2位タイに入る。 1975年の関東オープンでは青木功・小林富士夫・杉本英世・新井規矩雄に次ぐと同時に森憲二、謝敏男・陳健忠(中華民国)、草壁政治・河野高明・安田春雄を抑えての5位に入る。 1977年の日本プロでは2日目に中嶋常幸・島田幸作と並んで首位の竹安孝博から2打差2位に入り、1979年の東北クラシックでは初日に6アンダーで首位に立つ。 1996年の日本プロシニアを最後にシニアツアーから引退し、現在は横浜市神奈川区のトピックゴルフクラブ専属プロ。
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草柳 良夫は、神奈川県出身のプロゴルファー。
{{ゴルファー |名前=草柳 良夫 |ラテン文字=Yoshio KUSAYANAGI |画像= |国籍={{JPN}} |生年月日={{生年月日と年齢|1945|1|8}} |没年月日= |出身地=[[神奈川県]] |身長=169cm |体重=67kg |血液型= |利き手= |経歴= |プロ転向= |優勝歴= |初優勝= |賞金王= |ベストスコア= |世界ランキング最高位= |賞金ランキング最高位= }} '''草柳 良夫'''(くさやなぎ よしお、[[1945年]][[1月8日]] - )は、[[神奈川県]]出身<ref name="草柳良夫プロフィール">[http://www.smile-pga.jp/profile/?id=000309#profile 草柳 良夫 - PGA会員詳細 - 公益社団法人 日本プロゴルフ協会]</ref>の[[プロゴルファー]]。 == 来歴 == [[相模カンツリー倶楽部]]出身<ref name="トピック草柳良夫">[http://www.topic-golf.yokohama/add/1254804336990/HPC-index.html 神奈川県横浜市神奈川区のゴルフ練習場・トピックゴルフクラブ]</ref>で、[[1965年]]にプロ入りする<ref name="草柳良夫プロフィール" />。 [[1973年]]の[[関東オープンゴルフ選手権競技|関東オープン]]では、上位陣が総崩れの中、通算4アンダーで[[栗原孝]]・[[田中文雄 (ゴルファー)|田中文雄]]と三つ巴のプレーオフを戦って<ref name="武蔵カントリークラブ">[https://www.musashi-cc.co.jp/musashi/game/ 競技会開催 | 武蔵カントリークラブ]</ref>、田中と共に栗原の2位タイに入る<ref>[https://www.jgto.org/tournament/2162 関東オープンゴルフ選手権競技 1973 - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site]</ref>。 [[1975年]]の関東オープンでは[[青木功]]・[[小林富士夫]]・[[杉本英世]]・[[新井規矩雄]]に次ぐと同時に[[森憲二]]、[[謝敏男]]・陳健忠(中華民国)、[[草壁政治]]・[[河野高明]]・[[安田春雄]]を抑えての5位に入る<ref>[https://golfdigest-play.jp/membership/17285386 【伝説の名勝負。ヒーローの足跡】姉ケ崎カントリー倶楽部。「シャンメェ」の青木功が我慢のゴルフで大会2連覇。1975年関東オープン]</ref>。 [[1977年]]の[[日本プロゴルフ選手権大会|日本プロ]]では2日目に[[中嶋常幸]]・[[島田幸作]]と並び、首位の[[竹安孝博]]から2打差2位に入る<ref>[https://www.golfdendou.jp/jpga_championship/45-1977.html 第45回日本プロゴルフ選手権(1977年)]</ref>。 [[1979年]]の[[JCBクラシック|東北クラシック]]では初日に6アンダーで首位に立ち<ref>[https://photobank.mainichi.co.jp/kiji_detail.php?id=P20120405dd1dd1phj125000 草柳良夫 男子プロゴルファー 東北クラシックゴルフ 第1日]</ref>、同年の[[ACNチャンピオンシップゴルフトーナメント|三菱ギャラントーナメント]]では[[中村通]]の2位に入った。 [[1996年]]の[[日本プロゴルフシニア選手権大会|日本プロシニア]]<ref name="草柳良夫プロフィール" />を最後にシニアツアーから引退し、現在は[[横浜市]][[神奈川区]]のトピックゴルフクラブ専属プロ<ref name="トピック草柳良夫" />。 == 脚注 == <references /> == 外部リンク == * [https://www.jgto.org/player/309/profile 草柳 良夫選手 プロフィール - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site] {{Normdaten}} {{デフォルトソート:くさやなき よしお}} [[Category:日本の男子プロゴルファー]] [[Category:神奈川県出身の人物]] [[Category:1945年生]] [[Category:存命人物]]
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ティラノミムス
ティラノミムス (Tyrannomimus) は前期白亜紀の日本に生息していたデイノケイルス科の獣脚類。ハルピミムスと姉妹群を成す。 1998年に初めて指先の化石が産出し、後の2018年には28点の追加標本が得られ研究が加速した。2019年までに発見された化石は55個に及ぶ。 ティラノミムスは頭蓋後の部分的な骨格から成るホロタイプFPDM-V-11311に基づき記載された。 属名は腸骨などを中心にティラノサウルス上科と類似した形態を示すことに、種小名は福井県で産出したことに由来する。 全長約2m、体重約20kgと推定される。 上腕骨に直径約1mmの穴がある点で他のオルニトミモサウルス類と区別できる。 以下のクラドグラムは記載論文のもの。 ティラノミムスは、様々な多種多様な恐竜にともに生活しており、そのほとんどは福井県にちなんで名付けられている。これらには、竜脚類のフクイティタン、鳥脚類のフクイサウルスとコシサウルス、獣脚類のフクイラプトル、フクイヴェナトル、フクイプテリクスが含まれた。
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ティラノミムス (Tyrannomimus) は前期白亜紀の日本に生息していたデイノケイルス科の獣脚類。ハルピミムスと姉妹群を成す。
{{生物分類表 | 名称 = ティラノミムス | fossil_range = [[中生代]][[前期白亜紀]][[バレミアン期]], ~{{fossil range|Barremian}} | 画像 = [[File:Tyrannomimus fukuiensis.png|250px|ティラノミムスの復元図]] | 画像キャプション = ティラノミムスの復元図 | 地質時代 = [[前期白亜紀]][[バレミアン期]] | 地質時代2 = 1億2000万年前<ref> {{Cite web|和書|title=国内11例目の新種恐竜「ティラノミムス・フクイエンシス」 1億2000万年前の地層から |url=https://www.fukui-tv.co.jp/?post_type=fukui_news&p=167949 |website=福井テレビ |access-date=2023-09-08 |language=ja}}</ref> | 省略 = 恐竜上目 | 目 = [[竜盤類|竜盤目]] {{sname||Saurischia}} | 亜目 = [[獣脚類|獣脚亜目]] {{sname||Theropoda}} | 亜目階級なし = [[テタヌラ類]] {{sname||Tetanurae}} | 下目階級なし = [[絶滅|†]][[オルニトミモサウルス類]] {{sname||Ornithomimosauria}} | 科 = [[デイノケイルス科]] {{sname||Deinocheiridae}}<br/>{{AUY|[[w:Halszka Osmólska|Osmólska]] & Roniewics.|1970}} | 属 = '''ティラノミムス属''' {{snamei||Tyrannomimus}} | 学名 = '''''Tyrannomimus''''' <br/>{{AUY| Hattori ''et al''.|2023}} | 下位分類名 = [[種 (分類学)|種]] | 下位分類 = * ''Tyrannomimus fukuiensis'' {{AUY|Hattori ''et al''.|2023}} ([[タイプ (分類学)|模式種]]) }} '''ティラノミムス''' <ref> {{Cite web|和書|title=新恐竜はティラノサウルスもどき 98年から発掘の化石、福井 {{!}} 全国のニュース |url=https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/1866084 |website=福井新聞ONLINE |access-date=2023-09-08 |language=ja}}</ref>(''Tyrannomimus'') は[[前期白亜紀]]の[[日本]]に生息していたデイノケイルス科の[[獣脚類]]。[[ハルピミムス]]と姉妹群を成す。 == 発見と命名 == [[File:Tyrannomimus Skeletal.jpg|thumb|ティラノミムスの既知の部位]] 1998年に初めて指先の化石が産出し<ref>{{Cite web|和書|title=新種の恐竜“ティラノミムス”発見!オルニトミモサウルス類では全国初…福井県で7年ぶりの快挙 {{!}} TBS NEWS DIG (1ページ) |url=https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/711894 |website=TBS NEWS DIG |date=2023-09-08 |access-date=2023-09-08 |language=ja}}</ref>、後の2018年には28点の追加標本が得られ研究が加速した<ref name=":1" />。2019年までに発見された化石は55個に及ぶ<ref name=":1" />。 ティラノミムスは頭蓋後の部分的な骨格から成る[[ホロタイプ]]FPDM-V-11311に基づき記載された<ref name=":0" />。 属名は[[腸骨]]の垂直稜などを中心に[[ティラノサウルス上科]]と類似した形態を示すことに、種小名は[[福井県]]で産出したことに由来する<ref name=":0"> {{Cite journal|last=Hattori|first=Soki|last2=Shibata|first2=Masateru|last3=Kawabe|first3=Soichiro|last4=Imai|first4=Takuya|last5=Nishi|first5=Hiroshi|last6=Azuma|first6=Yoichi|date=2023-09-07|title=New theropod dinosaur from the Lower Cretaceous of Japan provides critical implications for the early evolution of ornithomimosaurs|url=https://www.nature.com/articles/s41598-023-40804-3|journal=Scientific Reports|volume=13|issue=1|pages=13842|language=en|doi=10.1038/s41598-023-40804-3|issn=2045-2322}}</ref>。 [[オルニトミモサウルス類]]としては日本初、2023年9月時点で福井県では6種目の恐竜、日本では11種目の恐竜となる。 == 形態 == 全長約2m、体重約20kgと推定される<ref name=":1" /><ref> {{Cite web|和書|title=福井県で新種恐竜化石、学名はティラノミムス・フクイエンシス 県立恐竜博物館発表(福井新聞ONLINE) |url=https://news.yahoo.co.jp/articles/f230e0abc351d91bae75b2680f75bf2ee72ff654 |website=Yahoo!ニュース |access-date=2023-09-08 |language=ja}}</ref>。 上腕骨に直径約1mmの穴がある点で他のオルニトミモサウルス類と区別できる<ref name=":1"> {{Cite web|和書|title=「ティラノもどき」見つけた 福井の羽毛恐竜化石、新種と認定 |url=https://mainichi.jp/articles/20230907/k00/00m/040/343000c |website=毎日新聞 |access-date=2023-09-08 |language=ja}}</ref>。 == 分類 == 以下のクラドグラムは記載論文のもの<ref name=":0" />。 {{clade |label1=[[オルニトミモサウルス類]] |1={{clade |1=''[[ンクウェバサウルス]]'' [[File:Nqwebasaurus.jpg|75px]] |2=''[[ペレカニミムス]]'' [[File:Pelecanimimus restoration.jpeg|55px]] |3=''[[シェンゾウサウルス]]'' [[File:Shenzhousaurus.jpg|65px]] |4=''[[ベイシャンロン]]'' [[File:Beishanlong grandis.jpg|73px]] |5=LH-02-01 |label6=デイノケイルス科 |6={{clade |1={{clade |1='''''ティラノミムス''''' [[File:Tyrannomimus.png|70px]] |2=''[[ハルピミムス]]'' [[File:Harpymimus steveoc (flipped).jpg|70px]] }} |2={{clade |1=''[[ガルディミムス]]'' [[File:Garudimimus Restoration.png|65px]] |2=''[[デイノケイルス]]'' [[File:Deinocheirus Restoration.png|70px]] |3=''[[パラゼニサウルス]]'' [[File:Paraxenisaurus normalensis as Deinocheirid.jpg|60px]] }} }} |label7=[[オルニトミムス科]] |7={{clade |1=''[[アーケオルニトミムス]]'' [[File:Archaeornithomimus.png|70px]] |2={{clade |1=Bissekty ornithomimid |2={{clade |1=''[[シノルニトミムス]]'' [[File:Sinornithomimus.jpg|57px]] |2=''[[ラティヴァテス]]'' [[File:Rativates.png|60px]] |3=''[[ストルティオミムス]]'' [[File:Struthiomimus BW.jpg|65px]] |4=''[[ガリミムス]]'' [[File:Gallimimus Steveoc86 (flipped).jpg|70px]] |5=''[[アンセリミムス]]'' |6=''[[オルニトミムス]]'' [[File:"Ornithomimus" sp. by Tom Parker.png|65px]] |7=''[[キウパロン]]'' [[File:Qiupalong Restoration.png|65px]] }} }} }} }} }} == 古環境 == ティラノミムスは、様々な多種多様な恐竜にともに生活しており、そのほとんどは福井県にちなんで名付けられている。これらには、[[竜脚類]]の[[フクイティタン]]、[[鳥脚類]]の[[フクイサウルス]]と[[コシサウルス]]、獣脚類の[[フクイラプトル]]、[[フクイヴェナトル]]、[[フクイプテリクス]]が含まれた<ref name="AS10">{{Cite journal|author1=Azuma, Y. |author2=Shibata, M. |year=2010 |title=''Fukuititan nipponensis'', a new titanosauriform sauropod from the Early Cretaceous Tetori Group of Fukui Prefecture, Japan |journal=Acta Geologica Sinica - English Edition |volume=84 |issue=3 |pages=454–462 |doi=10.1111/j.1755-6724.2010.00268.x}}</ref><ref name=shibabaetal2015>{{cite journal | last1 = Shibaba | first1 = Masateru | last2 = Azuma | first2 = Yoichi | year = 2015 | title = New basal hadrosauroid (Dinosauria: Ornithopoda) from the Lower Cretaceous Kitadani Formation, Fukui, central Japan. | url = http://www.mapress.com/zootaxa/2015/f/z03914p440f.pdf| journal = Zootaxa | doi = 10.11646/zootaxa.3914.4.3 | volume=3914 | issue = 4 | pages=421–440 | pmid = 25661952}}|</ref><ref name="Fukuipteryx">Imai, T., Azuma, Y., Kawabe, S., Shibata, M., Miyata, K., Wang, M., & Zhou, Z. (2019). [https://www.nature.com/articles/s42003-019-0639-4 An unusual bird (Theropoda, Avialae) from the Early Cretaceous of Japan suggests complex evolutionary history of basal birds]. Communications Biology, 2(1). doi: 10.1038/s42003-019-0639-4</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} {{脚注ヘルプ}} {{DEFAULTSORT:ていらのみむす}} [[Category:オルニトミモサウルス類]] [[Category:白亜紀の恐竜]] [[Category:バレミアンの生物]] [[Category:アジアの恐竜]] [[Category:日本産の化石]] [[Category:2023年に記載された化石分類群]] == 外部リンク== * [https://www.dinosaur.pref.fukui.jp/news/archives/1017 新属新種恐竜「ティラノミムス・フクイエンシス」を発表しました!!] - [[福井県立恐竜博物館]]
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ジョージ・リード (画家)
ジョージ・リード(Sir George Reid PRSA、1841年10月31日 - 1913年2月9日)は、スコットランドの画家である。肖像画や風景画を描いた。スコットランド王立アカデミーの会長を務めた。 アバディーンに生まれた。絵を描くのに熱心で、1854年から7年間、アバディーンの版画出版会社、 Messrs Keith & Gibbで、徒弟として働いた。1861年に各地を旅して肖像画を描いていたウィリアム・ニドリー(William Niddrie)という画家に絵を習った。ニドリーは風景画家のジェームズ・ジャイルス(James Giles)の弟子であった人物である。その後、エディンバラの美術学校で学んだ。 アバディーンに戻り、風景画や肖像画を売って生活するようになった。詩人で小説家のジョージ・マクドナルドの肖像画で肖像画家として注目されるようになった。風景画も描いたが、満足できなかったため、1865年にオランダのユトレヒトに旅し、オランダの風景画家のモリンヘル(Alexander Mollinger: 1836-1867)に学び、その風景画のスタイルを変えた。1868年にパリを訪れ、アカデミック美術の画家、アドルフ・イヴォン(1817-1893)に学んだ。1872年には、デン・ハーグで、ハーグ派の画家、ヨゼフ・イスラエルス(1824-1911)と過ごし、風景画の分野でも評価されるようになった。 1870年に王立スコットランド・アカデミーの準会員に選ばれ、1877年に正会員になった。1891年から1902年までアカデミーの会長を務めた。1900年のパリ万国博覧会の展覧会に出展し金メダルを受賞した。 1902年にナイトの称号も受けた。 晩年までエディンバラで主に暮らしていたが、1913年にイングランド南西部の観光地、サマセットで亡くなった。
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ジョージ・リードは、スコットランドの画家である。肖像画や風景画を描いた。スコットランド王立アカデミーの会長を務めた。
{{Infobox 芸術家 | bgcolour = #6495ED | name = ジョージ・リード<br>George Reid | image = File:George Reid (Scottish artist) 001.jpg | imagesize = 180px | caption = 1907年の書籍に掲載された肖像画 | birthdate = {{birth date|1841|10|31}} | location = [[アバディーン]] | deathdate = {{death date and age|1913|2|9|1841|10|31}} | deathplace = [[サマセット]] | field = | training = | movement = | works = | patrons = | influenced by = | influenced = | awards = }} '''ジョージ・リード'''(Sir George Reid PRSA、[[1841年]][[10月31日]] - [[1913年]][[2月9日]])は、[[スコットランド]]の画家である。肖像画や風景画を描いた。スコットランド王立アカデミーの会長を務めた。 == 略歴 == [[アバディーン]]に生まれた。絵を描くのに熱心で、1854年から7年間、アバディーンの版画出版会社、 Messrs Keith & Gibbで、徒弟として働いた。1861年に各地を旅して肖像画を描いていたウィリアム・ニドリー(William Niddrie)という画家に絵を習った。ニドリーは風景画家のジェームズ・ジャイルス(James Giles)の弟子であった人物である<ref name="BM09">{{cite book|last=Maier|first=Bernhard|title=William Robertson Smith: His Life, His Work and His Times|url=https://books.google.com/books?id=LVoV14uoUAQC&q=George+Reid+Aberdeen+Niddrie&pg=PA145|year=2009|publisher=Mohr Siebeck|page=145|isbn=9783161499951}}</ref>。その後、[[エディンバラ]]の美術学校で学んだ。 アバディーンに戻り、風景画や肖像画を売って生活するようになった。詩人で小説家の[[ジョージ・マクドナルド]]の肖像画で肖像画家として注目されるようになった。風景画も描いたが、満足できなかったため、1865年にオランダの[[ユトレヒト]]に旅し、オランダの風景画家のモリンヘル(Alexander Mollinger: 1836-1867)に学び<ref name="BM09"/>、その風景画のスタイルを変えた。1868年にパリを訪れ、アカデミック美術の画家、[[アドルフ・イヴォン]](1817-1893)に学んだ。1872年には、[[デン・ハーグ]]で、[[ハーグ派]]の画家、[[ヨゼフ・イスラエルス]](1824-1911)と過ごし、風景画の分野でも評価されるようになった。 1870年に王立スコットランド・アカデミーの準会員に選ばれ、1877年に正会員になった。1891年から1902年までアカデミーの会長を務めた。1900年の[[パリ万国博覧会 (1900年)|パリ万国博覧会]]の展覧会に出展し金メダルを受賞した。 1902年にナイトの称号も受けた<ref>[https://collection.sciencemuseumgroup.org.uk/people/cp113597/george-reid Science Museum Groupの略歴] </ref>。 晩年までエディンバラで主に暮らしていたが<ref>Edinburgh and Leith Post Office Directory 1889-90</ref>、1913年にイングランド南西部の観光地、サマセットで亡くなった。 ==作品== <gallery mode="nolines" widths="190" heights="190" style="font-size:smaller"> File:George MacDonald by Sir George Reid.jpg|[[ジョージ・マクドナルド]]の肖像画 <br> [[ナショナル・ポートレート・ギャラリー]] File:Gentleman in Kilt - Sir George Reid - ABDAG008231.jpg|キルトを着た紳士 <br> [[アバディーン美術館]] File:Principal Davidson - Sir George Reid - ABDAG008220.jpg|Principal Davidson <br> アバディーン美術館 File:Woman Wearing Mop Cap And Shawl - Sir George Reid - ABDAG008233.jpg|モップキャップとショールを付けた女性 <br> アバディーン美術館 </gallery> <gallery mode="nolines" widths="210" heights="140" style="font-size:smaller"> File:William Duguid - Sir George Reid - ABDAG003978.jpg|William Duguidの肖像画<br> アバディーン美術館 File:Dunollie Castle - Sir George Reid - ABDAG003958.jpg|風景画[[オーバン (スコットランド)|オーバン]]のダノリー城<br> アバディーン美術館 File:On the Coast near Bervie - Sir George Reid - ABDAG003961.jpg|海岸の風景<br> アバディーン美術館 </gallery> == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Reid, Sir George". Encyclopædia Britannica. Vol. 23 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 50. {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:りいと しよおし}} [[Category:19世紀スコットランドの画家]] [[Category:20世紀スコットランドの画家]] [[Category:アバディーン出身の人物]] [[Category:1841年生]] [[Category:1913年没]]
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亜細亜大博覧会
亜細亜大博覧会(あじあだいはくらんかい)とは、明治政府内で博覧会行政の中核を担っていた佐野常民が提唱した万国博覧会構想に端を発し、1885年に農商務大臣の西郷従道が政府に提出した、アジア諸国並びアジアに植民地を持つヨーロッパ諸国が参加する事実上の万国博覧会構想である。亜細亜大博覧会は日本、そしてアジア初の万国博覧会構想であったが、政治課題が山積している上に財政難の状況下にあり、事実上欧米諸国が参加の主体になる可能性が高いと考えられることにより多額の経費がかかると見込まれるため、開催は困難であるとの大蔵省の意見が通り、構想段階で中止となった。 18世紀末にフランスで始まった、産業の振興を目的として自国内の工業製品を展示、紹介する産業博覧会はヨーロッパ各国に広まり、やがて産業博覧会を国際的に開催する万国博覧会構想が生まれる。万国博覧会は1851年に開催された「ロンドン万博」に始まった。これはイギリスの工業力が当時のヨーロッパ諸国の中でも抜きんでいたことを示している。「ロンドン万博」は会期中約600万人の観客を動員し大成功を収め、以後、欧米各国は競って万国博覧会を開催するようになった。ロンドンやパリなどは万博の開催が都市の近代化の起爆剤となり、開催都市の一種の箔付けにもなっていた。また万国博覧会は出品する諸国の実情を、出品物や展示内容を通して他の参加国や観客にアピールするという一種の外交の場にもなった。 日本の万博参加は1867年の「パリ万博」が初であった。1867年の「パリ万博」に佐賀藩から事務官長として派遣されたのが 佐野常民であった。佐野は明治政府で博覧会に関係する業務の中核を担うことになる。明治政府として初の公式参加を行った1873年の「ウイーン万国博覧会」では、参加に当たり明治政府は太政官正院に博覧会事務局を設置し、総裁に大隈重信、副総裁に佐野常民を任命する。副総裁の佐野は太政官正院に日本という国の宣伝と国威発揚、博覧会に出品した各国の出品内容から学び、日本への技術移転と貿易拡大を図るとの内容のパリ万博参加目的を提出した。そして博覧会事務取扱を兼任した佐野を中心として日本の出品内容を決定し、その後、佐野はウイーンに派遣された。 佐野はウイーンに派遣される直前の1873年1月、日本と通商条約を締結していた各国を招請した国際博覧会を1877年に東京の日比谷で開催することを提案した。幕末に通商条約を締結していたのはアメリカ合衆国、イギリス、フランスなど11か国、明治になってから1872年末までにスウェーデン、ノルウェー、スペイン、オーストリア=ハンガリー帝国などとの締結を済ませていたため、佐野の提案は事実上の万博開催提案であった。 ウイーン万博終了後、佐野は明治政府に1875年に「東京大博物館建設之報告書」を提出する。佐野は報告書の中で「ウイーン万博」派遣前に提案した1877年の国際博覧会開催を、1876年開催の準備が進んでいた「フィラデルフィア万博」の時期が近いことを理由として1880年に延期し、開催までの間に東京に大博物館と術業伝習所を建設し、地方にも博物館と術業伝習所の支所を設け、各地で小規模な博覧会を開催して産業の振興を図り、1880年の国際博覧会で成果を披露するという構想を唱えた。内務卿の大久保利通は佐野の提案を検討したものの、現実的に国際博覧会の開催は難しく、結局、佐野の提案趣旨を生かし、万国博覧会に倣った形の内国勧業博覧会を開催することになった。日本の近代化には産業の育成が極めて重要であると認識していた大久保は、博覧会の重要性は理解していた。そこで自らが総裁に就任して内国勧業博覧会の開催計画を進め、1877年に上野公園にて「第一回内国勧業博覧会」が開催された。博覧会終了後の1877年12月には内国勧業博覧会を4年ごとに開催することが決定され、「第二回内国勧業博覧会」は予定通り1881年に開催された。 「第二回内国勧業博覧会」が終了した1881年7月、博覧会の副総裁兼審査総長を務め、当時大蔵卿を務めていた佐野常民は、1885年に開催予定となる第三回内国勧業博覧会の規模を拡大して、「亜細亜博覧会」として開催する構想を唱えた。佐野はこれまで二回の内国勧業博覧会では日本国内の産物の比較に限定されていたが、「亜細亜博覧会」ではアジア各国の産物との比較を行うとした。諸外国の出品から学ぶことによって日本産製品の品質向上、産業振興を図ると同時に、博覧会で日本製品の宣伝も図れるため、輸入を減らし輸出の増大を達成することが可能であると主張した。さらに日本は他のアジア諸国にさきがけて「亜細亜博覧会」を開催することによって産業、経済の底上げを図り、欧米諸国を凌駕する国力を得ていくことを目指すとした。一方で佐野は当時の日本にとって万国博覧会の開催は時期尚早と判断しており、まずはアジア規模の博覧会を開催することによって足元を固めた上で、万国博覧会の開催を目指す構想を唱えた。つまり内国勧業博覧会、亜細亜博覧会、万国博覧会という形のステップアップを考えていた。しかし佐野の提案は緊縮財政下にあった当時の政府では受け入れられなかった。 1883年5月29日、農商務省は1885年に開催予定の「第三回内国勧業博覧会」の開催延期を提案した、理由としては博覧会の準備には約2年かかってしまい、開催間隔が短すぎて産業の振興や技術改良にかけられる時間が足りず、資金繰りも難しいことを挙げた。一方、農商務省は内国勧業博覧会の代わりとして輸出の花形品目に関する共進会を開催し、産業振興を図ることを提案した。また当時、明治政府は深刻な財政難に悩まされており、農商務省は「第三回内国勧業博覧会」開催に必要な予算の確保が難しいと判断し、予算規模が少なくて済む共進会を開催する方針を立てたという事情もあった。結局1883年7月31日、「第三回内国勧業博覧会」の開催を1889年に延期することと、1885年には「繭糸布帛陶漆器共進会」を開催することが発表されたその後、「第三回内国勧業博覧会」を更に1年順延し、1890年に紀元2550年を記念して事実上の万国博覧会となる「亜細亜大博覧会」を開催する構想が持ち上がった。これは日本、そしてアジア初の万博構想であった。 「亜細亜大博覧会」構想は1885年6月5日、農商務卿の西郷従道が政府に提出した意見書「亜細亜大博覧会開設の件」に端を発した。この構想は農商務省の省内の意向に基づいていたと考えられ、意見書ではこれまでの内国勧業博覧会の開催、欧米諸国が開催した万博への参加が、殖産興業に好影響を与えていることを指摘した上で、アメリカ独立100周年を記念した1876年のフィラデルフィア万博の例などを挙げて、国家的な記念の年に万博を開催している欧米諸国に倣って、朝鮮、清、そしてアジアに植民地を持つ欧米諸国が参加する「亜細亜大博覧会」を開催して、紀元2550年を祝うとともに、国際親善、産業育成、貿易振興を図りたいと主張した。「亜細亜大博覧会」は事実上の万国博覧会構想であったが、欧米諸国並みの万博を行うことが困難であるとの現状認識もあり、アジアの名を冠したものと考えられる。西郷が提出した意見書は事実上1881年に佐野常民が提唱した亜細亜博覧会構想のリニューアル版であった。紀元2550年を祝うという名目に加え、「第三回内国勧業博覧会」が農商務省主導で開催が延期となり共進会の開催となった経緯、そして天津条約の締結に伴い日清間の関係が改善に向かっていたため、明治政府としても亜細亜大博覧会構想を検討せざるを得なかった。 亜細亜大博覧会開催の動きが表面化すると、各マスコミは亜細亜大博覧会についての報道を開始した。まず読売新聞は1890年には国会の開設が予定されており、国会開設と亜細亜大博覧会の開催が重なるため、お祭りと大晦日が一度にやって来るようなものであると論評した。朝野新聞は亜細亜大博覧会の開催に反対の論陣を張った。反対の理由としてはアジア各国の工業力は貧弱であり、各国からの出品が産業振興の起爆剤になるとは思えず、またアジア辺境の日本まで外国からの観覧客が多数来訪するとは考えられないと主張した。そして1890年は国会開設という大事を成し遂げるべき大切な年であり、そのような年に博覧会など行うべきではないとした。東京横浜毎日新聞もまた、日本製品が世界に通用するか疑問であり、博覧会によって世界に日本のことを知らしめるという目的は果たせないとの意見であった。そして政治的な自由が確立されてこそ国家の繁栄が図られるとして、国会の開設後に亜細亜大博覧会を開催する資格が得られるため、まずは国会開設を行うべきと主張した。そして国会を開設することは当時の国家的課題である条約改正の早道であるとの見解を示した。一方、時事新報は亜細亜大博覧会が産業振興に役立つとは考えられないとした上で、博覧会を欧米からの観光客を呼び込む機会と捉え、日本、そして日本人に対して好印象を持ってもらうことにより日本の評価を高め、結果として条約改正に繋げるべきであるとの開催賛成意見を唱えた。各新聞の論調は開催について賛否あるものの、農商務省が唱える産業育成効果に対してはこぞって懐疑的であった。 1885年7月27日、政府は農商務省関係者を主メンバーとした亜細亜大博覧会組織取調委員を任命した。委員は委員長である佐野常民以下、26名で構成されたが、佐野常民以下、これまで博覧会関係の業務に携わってきた人物が多かった。亜細亜大博覧会組織取調委員は1886年6月に委員長の佐野常民名で亜細亜大博覧会組織取調委員報告、亜細亜大博覧会組織取調委員議決案件、そして「亜細亜大博覧会」の経費に関する文書を政府に提出した。 亜細亜大博覧会組織取調委員報告では、これまで日本は万国博覧会に参加してきたが、日本が開催した博覧会といえば国内限定のものであり、また現状ではまだ万国博覧会を開催する実力が備わっていないため、今回は「亜細亜大博覧会」を開催して将来の万国博覧会開催に備えるべきであるとした。博覧会を開催するメリットとしては、「亜細亜大博覧会」である以上、主な出品はアジア各国からのものとなるものの、アジアに関わるものであれば欧米諸国からの出品も受け入れるため、アジアのみならず欧米諸国との友好親善を深め、貿易振興の呼び水になると主張した。経費面に関しては「第二回内国勧業博覧会」の会場は2倍、予算は4倍必要となると推計し、その上で会場として既存の建物を利用したり会期終了後に博覧会用の建物を売却したりすることによって経費削減が可能であるとの見込みを示した。報告の結論としては一刻も早く計画を承認し、準備にかかるべきであるとした。 また亜細亜大博覧会組織取調委員議決案件では博覧会会場は上野公園、会期は1890年4月1日から6か月間とした。会期は当時の万国博覧会並みの長さであった。その他、亜細亜大博覧会組織取調委員議決案件では出品範囲、出品の区分、会場の施設について等、「亜細亜大博覧会」開催に向けて具体的提言がなされていた。取調委員の報告内容は全体として万国博覧会としての開催を意識したものになっていた。 亜細亜大博覧会組織取調委員の報告書提出後、9月1日になって大蔵省から意見書が出された。意見書ではまず外交面、産業振興に対する効果から博覧会の意義自体は認めた。しかしながら外交、軍事など課題が山積しており、財政難に陥っている状況下では政策の優先度的に果たして開催がふさわしいのかとの疑問を投げかけた。その上でアジア諸国の中で日本と通商条約を締結しているのは清と朝鮮のみであり、事実上アジアに植民地を持つ欧米諸国主体の博覧会になるであろうとの見通しを述べ、そうなると多額の経費が掛かることが予想され、開催は非現実的であると主張した。その上で意見書では、「第三回内国勧業博覧会」に一部外国からの参加を認めるという「亜細亜大博覧会」開催に替わる対案を出した。結局明治政府はこの9月1日の大蔵省からの意見書を了承し、10月8日にほぼ大蔵省の意見に沿った訓令が発せられ、訓令に基づき大蔵省、農商務省は「第三回内国勧業博覧会」の準備に着手した。1890年に上野公園を会場として「第三回内国勧業博覧会」が開催されたものの、外国からの参加は実現せず、日本初の万博開催構想は構想のみで終わった。 内国勧業博覧会は日本の国力の伸展とともに規模が拡大する性格のイベントであった。また明治政府内で博覧会行政の中核を担っていた佐野常民は早い段階で万国博覧会開催の構想を持ち、佐野の構想を基に農商務省は「亜細亜大博覧会」を計画するものの、当時の日本の国力不足、そして肝心のアジアからの参加は朝鮮と清のみとなる状況では、アジアをその名に冠する国際博覧会を行う企画自体に無理があり、結局計画倒れに終わった。 しかしその後も日清戦争の勝利、条約改正の進展を契機として万国博覧会開催の機運はより高まっていく。1903年に開催された「第五回内国勧業博覧会」は外国からの参加が実現し、日露戦争の勝利を受けて万国博覧会構想は「日本大博覧会」という形で具体化していく。
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"亜細亜大博覧会組織取調委員の報告書提出後、9月1日になって大蔵省から意見書が出された。意見書ではまず外交面、産業振興に対する効果から博覧会の意義自体は認めた。しかしながら外交、軍事など課題が山積しており、財政難に陥っている状況下では政策の優先度的に果たして開催がふさわしいのかとの疑問を投げかけた。その上でアジア諸国の中で日本と通商条約を締結しているのは清と朝鮮のみであり、事実上アジアに植民地を持つ欧米諸国主体の博覧会になるであろうとの見通しを述べ、そうなると多額の経費が掛かることが予想され、開催は非現実的であると主張した。その上で意見書では、「第三回内国勧業博覧会」に一部外国からの参加を認めるという「亜細亜大博覧会」開催に替わる対案を出した。結局明治政府はこの9月1日の大蔵省からの意見書を了承し、10月8日にほぼ大蔵省の意見に沿った訓令が発せられ、訓令に基づき大蔵省、農商務省は「第三回内国勧業博覧会」の準備に着手した。1890年に上野公園を会場として「第三回内国勧業博覧会」が開催されたものの、外国からの参加は実現せず、日本初の万博開催構想は構想のみで終わった。", "title": "提案の検討と断念" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "内国勧業博覧会は日本の国力の伸展とともに規模が拡大する性格のイベントであった。また明治政府内で博覧会行政の中核を担っていた佐野常民は早い段階で万国博覧会開催の構想を持ち、佐野の構想を基に農商務省は「亜細亜大博覧会」を計画するものの、当時の日本の国力不足、そして肝心のアジアからの参加は朝鮮と清のみとなる状況では、アジアをその名に冠する国際博覧会を行う企画自体に無理があり、結局計画倒れに終わった。", "title": "その後の万博構想" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "しかしその後も日清戦争の勝利、条約改正の進展を契機として万国博覧会開催の機運はより高まっていく。1903年に開催された「第五回内国勧業博覧会」は外国からの参加が実現し、日露戦争の勝利を受けて万国博覧会構想は「日本大博覧会」という形で具体化していく。", "title": "その後の万博構想" } ]
亜細亜大博覧会(あじあだいはくらんかい)とは、明治政府内で博覧会行政の中核を担っていた佐野常民が提唱した万国博覧会構想に端を発し、1885年に農商務大臣の西郷従道が政府に提出した、アジア諸国並びアジアに植民地を持つヨーロッパ諸国が参加する事実上の万国博覧会構想である。亜細亜大博覧会は日本、そしてアジア初の万国博覧会構想であったが、政治課題が山積している上に財政難の状況下にあり、事実上欧米諸国が参加の主体になる可能性が高いと考えられることにより多額の経費がかかると見込まれるため、開催は困難であるとの大蔵省の意見が通り、構想段階で中止となった。
'''亜細亜大博覧会'''(あじあだいはくらんかい)とは、明治政府内で博覧会行政の中核を担っていた[[佐野常民]]が提唱した[[国際博覧会|万国博覧会]]構想に端を発し、1885年に[[農商務大臣]]の[[西郷従道]]が政府に提出した、アジア諸国並びアジアに植民地を持つヨーロッパ諸国が参加する事実上の万国博覧会構想である。亜細亜大博覧会は日本、そしてアジア初の万国博覧会構想であったが、政治課題が山積している上に財政難の状況下にあり、事実上欧米諸国が参加の主体になる可能性が高いと考えられることにより多額の経費がかかると見込まれるため、開催は困難であるとの大蔵省の意見が通り、構想段階で中止となった。 == 佐野常民の構想 == [[ファイル:Tsunetami Sano.jpg|thumb|200px|佐野常民]] 18世紀末に[[フランス]]で始まった、産業の振興を目的として自国内の工業製品を展示、紹介する産業博覧会はヨーロッパ各国に広まり、やがて産業博覧会を国際的に開催する万国博覧会構想が生まれる<ref name="明治日本と万国博覧会12">[[#明治日本と万国博覧会|伊藤(2008)、p.12.]]</ref>。万国博覧会は1851年に開催された「[[ロンドン万国博覧会 (1851年)|ロンドン万博]]」に始まった。これは[[イギリス]]の工業力が当時のヨーロッパ諸国の中でも抜きんでいたことを示している{{refnest|group="注釈"|name="フランス"|フランスでも国際的な規模の産業博覧会の開催構想はあったものの、国内産業の保護に悪影響を及ぼすという反対意見に潰されていた<ref name="明治日本と万国博覧会12" />。}}<ref name="明治日本と万国博覧会12-13">[[#明治日本と万国博覧会|伊藤(2008)、pp.12-13.]]</ref>。「ロンドン万博」は会期中約600万人の観客を動員し大成功を収め、以後、欧米各国は競って万国博覧会を開催するようになった。[[ロンドン]]や[[パリ]]などは万博の開催が都市の近代化の起爆剤となり、開催都市の一種の箔付けにもなっていた<ref name="皇紀・万博・オリンピック14">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)、p.14.]]</ref>。また万国博覧会は出品する諸国の実情を、出品物や展示内容を通して他の参加国や観客にアピールするという一種の外交の場にもなった<ref name="明治日本と万国博覧会15">[[#明治日本と万国博覧会|伊藤(2008)、p.15.]]</ref>。 [[日本]]の万博参加は1867年の「[[パリ万国博覧会 (1867年)|パリ万博]]」が初であった<ref name="皇紀・万博・オリンピック14" />。1867年の「パリ万博」に[[佐賀藩]]から事務官長として派遣されたのが [[佐野常民]]であった。佐野は明治政府で博覧会に関係する業務の中核を担うことになる<ref name="亜細亜大博覧会計画46">[[#亜細亜大博覧会計画|鈴木(1993)、p.46.]]</ref><ref name="明治日本と万国博覧会14">[[#明治日本と万国博覧会|伊藤(2008)、p.14.]]</ref>。明治政府として初の公式参加を行った1873年の「[[ウイーン万国博覧会]]」では、参加に当たり明治政府は[[太政官]]正院に博覧会事務局を設置し、総裁に[[大隈重信]]、副総裁に佐野常民を任命する<ref name="明治日本と万国博覧会17">[[#明治日本と万国博覧会|伊藤(2008)、p.17.]]</ref>。副総裁の佐野は太政官正院に日本という国の宣伝と国威発揚、博覧会に出品した各国の出品内容から学び、日本への技術移転と貿易拡大を図るとの内容のパリ万博参加目的を提出した。そして博覧会事務取扱を兼任した佐野を中心として日本の出品内容を決定し、その後、佐野はウイーンに派遣された<ref name="亜細亜大博覧会計画46" /><ref name="明治日本と万国博覧会17-18">[[#明治日本と万国博覧会|伊藤(2008)、pp.17-18.]]</ref>。 佐野はウイーンに派遣される直前の1873年1月、日本と[[通商条約]]を締結していた各国を招請した国際博覧会を1877年に東京の[[日比谷]]で開催することを提案した<ref name="亜細亜大博覧会計画46" /><ref name="博覧会の時代102">[[#博覧会の時代|國(2005)、p.102.]]</ref>。幕末に通商条約を締結していたのは[[アメリカ合衆国]]、イギリス、フランスなど11か国、明治になってから1872年末までに[[スウェーデン]]、[[ノルウェー]]、[[スペイン]]、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]などとの締結を済ませていたため、佐野の提案は事実上の万博開催提案であった<ref name="博覧会の時代102" />。 ウイーン万博終了後、佐野は明治政府に1875年に「東京大博物館建設之報告書」を提出する。佐野は報告書の中で「ウイーン万博」派遣前に提案した1877年の国際博覧会開催を、1876年開催の準備が進んでいた「[[フィラデルフィア万国博覧会|フィラデルフィア万博]]」の時期が近いことを理由として1880年に延期し、開催までの間に東京に大博物館と術業伝習所を建設し、地方にも博物館と術業伝習所の支所を設け、各地で小規模な博覧会を開催して産業の振興を図り、1880年の国際博覧会で成果を披露するという構想を唱えた{{refnest|group="注釈"|name="博物館"|佐野の提案における博物館とは、文化財を蒐集保存、展示するというよりも産業の育成を支援する施設という位置付けであった<ref name="博覧会の時代102" />。}}<ref name="博覧会の時代102" />。内務卿の[[大久保利通]]は佐野の提案を検討したものの、現実的に国際博覧会の開催は難しく、結局、佐野の提案趣旨を生かし、万国博覧会に倣った形の[[内国勧業博覧会]]を開催することになった<ref name="博覧会の時代102" />。日本の近代化には産業の育成が極めて重要であると認識していた大久保は、博覧会の重要性は理解していた。そこで自らが総裁に就任して内国勧業博覧会の開催計画を進め、1877年に[[上野恩賜公園|上野公園]]にて「第一回内国勧業博覧会」が開催された<ref name="万国博覧会111-113">[[#万国博覧会|吉田(1998)、pp.111-113.]]</ref>。博覧会終了後の1877年12月には内国勧業博覧会を4年ごとに開催することが決定され、「第二回内国勧業博覧会」は予定通り1881年に開催された<ref name="皇紀・万博・オリンピック14-15">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)、pp.14-15.]]</ref>。 「第二回内国勧業博覧会」が終了した1881年7月、博覧会の副総裁兼審査総長を務め、当時[[大蔵卿]]を務めていた佐野常民は、1885年に開催予定となる第三回内国勧業博覧会の規模を拡大して、「亜細亜博覧会」として開催する構想を唱えた<ref name="博覧会の時代103">[[#博覧会の時代|國(2005)、p.103.]]</ref>。佐野はこれまで二回の内国勧業博覧会では日本国内の産物の比較に限定されていたが、「亜細亜博覧会」ではアジア各国の産物との比較を行うとした。諸外国の出品から学ぶことによって日本産製品の品質向上、産業振興を図ると同時に、博覧会で日本製品の宣伝も図れるため、輸入を減らし輸出の増大を達成することが可能であると主張した。さらに日本は他のアジア諸国にさきがけて「亜細亜博覧会」を開催することによって産業、経済の底上げを図り、欧米諸国を凌駕する国力を得ていくことを目指すとした<ref name="博覧会の時代103" />。一方で佐野は当時の日本にとって万国博覧会の開催は時期尚早と判断しており、まずはアジア規模の博覧会を開催することによって足元を固めた上で、万国博覧会の開催を目指す構想を唱えた。つまり内国勧業博覧会、亜細亜博覧会、万国博覧会という形のステップアップを考えていた<ref name="博覧会の時代103-104">[[#博覧会の時代|國(2005)、pp.103-104.]]</ref>。しかし佐野の提案は緊縮財政下にあった当時の政府では受け入れられなかった<ref name="博覧会の時代104">[[#博覧会の時代|國(1998)、p.104.]]</ref>。 == 農商務省の開催提案 == [[File:Navy Minister Saigo Judo (Tsugumichi) CdV 1880s.png|thumb|200px|西郷従道農商務卿は政府に意見書「亜細亜大博覧会開設の件」を提出した。]] 1883年5月29日、[[農商務省 (日本) |農商務省]]は1885年に開催予定の「第三回内国勧業博覧会」の開催延期を提案した、理由としては博覧会の準備には約2年かかってしまい、開催間隔が短すぎて産業の振興や技術改良にかけられる時間が足りず、資金繰りも難しいことを挙げた<ref name="亜細亜大博覧会計画42-43">[[#亜細亜大博覧会計画|鈴木(1998)pp.42-43.]]</ref><ref name="博覧会の時代104-105">[[#博覧会の時代|國(2005)、pp.104-105.]]</ref>。一方、農商務省は内国勧業博覧会の代わりとして輸出の花形品目に関する共進会を開催し、産業振興を図ることを提案した<ref name="亜細亜大博覧会計43">[[#亜細亜大博覧会計画|鈴木(1998)p.43.]]</ref><ref name="博覧会の時代105">[[#博覧会の時代|國(2005)、p.105.]]</ref>。また当時、明治政府は深刻な財政難に悩まされており、農商務省は「第三回内国勧業博覧会」開催に必要な予算の確保が難しいと判断し、予算規模が少なくて済む共進会を開催する方針を立てたという事情もあった<ref name="博覧会の時代105" />。結局1883年7月31日、「第三回内国勧業博覧会」の開催を1889年に延期することと、1885年には「繭糸布帛陶漆器共進会」を開催することが発表された<ref name="亜細亜大博覧会計画42">[[#亜細亜大博覧会計画|鈴木(1998)p.42.]]</ref>その後、「第三回内国勧業博覧会」を更に1年順延し、1890年に[[神武天皇即位紀元|紀元]]2550年を記念して事実上の万国博覧会となる「亜細亜大博覧会」を開催する構想が持ち上がった。これは日本、そしてアジア初の万博構想であった<ref name="皇紀・万博・オリンピック16">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)、p.16.]]</ref>。 「亜細亜大博覧会」構想は1885年6月5日、農商務卿の[[西郷従道]]が政府に提出した意見書「亜細亜大博覧会開設の件」に端を発した<ref name="皇紀・万博・オリンピック15">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)、p.15.]] </ref>。この構想は農商務省の省内の意向に基づいていたと考えられ、意見書ではこれまでの内国勧業博覧会の開催、欧米諸国が開催した万博への参加が、殖産興業に好影響を与えていることを指摘した上で、アメリカ独立100周年を記念した1876年の[[フィラデルフィア万国博覧会|フィラデルフィア万博]]の例などを挙げて、国家的な記念の年に万博を開催している欧米諸国に倣って、[[李氏朝鮮|朝鮮]]、[[清]]、そしてアジアに植民地を持つ欧米諸国が参加する「亜細亜大博覧会」を開催して、[[神武天皇即位紀元|紀元]]2550年を祝うとともに、国際親善、産業育成、貿易振興を図りたいと主張した<ref name="皇紀・万博・オリンピック15-16">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)、pp.15-16.]]</ref>。「亜細亜大博覧会」は事実上の万国博覧会構想であったが、欧米諸国並みの万博を行うことが困難であるとの現状認識もあり、アジアの名を冠したものと考えられる<ref name="皇紀・万博・オリンピック16" />。西郷が提出した意見書は事実上1881年に佐野常民が提唱した亜細亜博覧会構想のリニューアル版であった<ref name="博覧会の時代105-106">[[#博覧会の時代|國(1998)、pp.105-106.]]</ref>。紀元2550年を祝うという名目に加え、「第三回内国勧業博覧会」が農商務省主導で開催が延期となり共進会の開催となった経緯、そして[[天津条約 (1885年4月)|天津条約]]の締結に伴い日清間の関係が改善に向かっていたため、明治政府としても亜細亜大博覧会構想を検討せざるを得なかった<ref name="博覧会の時代106">[[#博覧会の時代|國(2005)、p.106.]]</ref>。 亜細亜大博覧会開催の動きが表面化すると、各マスコミは亜細亜大博覧会についての報道を開始した。まず[[読売新聞]]は1890年には[[帝国議会|国会]]の開設が予定されており、国会開設と亜細亜大博覧会の開催が重なるため、お祭りと大晦日が一度にやって来るようなものであると論評した<ref name="博覧会の時代106" />。[[朝野新聞]]は亜細亜大博覧会の開催に反対の論陣を張った。反対の理由としてはアジア各国の工業力は貧弱であり、各国からの出品が産業振興の起爆剤になるとは思えず、またアジア辺境の日本まで外国からの観覧客が多数来訪するとは考えられないと主張した。そして1890年は国会開設という大事を成し遂げるべき大切な年であり、そのような年に博覧会など行うべきではないとした<ref name="博覧会の時代106-107">[[#博覧会の時代|國(2005)、pp.106-107.]]</ref>。[[横浜毎日新聞|東京横浜毎日新聞]]もまた、日本製品が世界に通用するか疑問であり、博覧会によって世界に日本のことを知らしめるという目的は果たせないとの意見であった。そして政治的な自由が確立されてこそ国家の繁栄が図られるとして、国会の開設後に亜細亜大博覧会を開催する資格が得られるため、まずは国会開設を行うべきと主張した。そして国会を開設することは当時の国家的課題である[[条約改正]]の早道であるとの見解を示した<ref name="博覧会の時代107-108">[[#博覧会の時代|國(2005)、pp.107-108.]]</ref>。一方、[[時事新報]]は亜細亜大博覧会が産業振興に役立つとは考えられないとした上で、博覧会を欧米からの観光客を呼び込む機会と捉え、日本、そして日本人に対して好印象を持ってもらうことにより日本の評価を高め、結果として条約改正に繋げるべきであるとの開催賛成意見を唱えた<ref name="博覧会の時代107">[[#博覧会の時代|國(2005)、p.107.]]</ref>。各新聞の論調は開催について賛否あるものの、農商務省が唱える産業育成効果に対してはこぞって懐疑的であった<ref name="博覧会の時代108">[[#博覧会の時代|國(2005)、p.108.]]</ref>。 == 提案の検討と断念 == 1885年7月27日、政府は農商務省関係者を主メンバーとした亜細亜大博覧会組織取調委員を任命した<ref name="博覧会の時代106" /><ref name="皇紀・万博・オリンピック16-17">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)、pp.16-17.]]</ref>。委員は委員長である佐野常民以下、26名で構成されたが、佐野常民以下、これまで博覧会関係の業務に携わってきた人物が多かった<ref name="亜細亜大博覧会計画46-47">[[#亜細亜大博覧会計画|鈴木(1998)、pp.46-47.]]</ref>。亜細亜大博覧会組織取調委員は1886年6月に委員長の佐野常民名で亜細亜大博覧会組織取調委員報告、亜細亜大博覧会組織取調委員議決案件、そして「亜細亜大博覧会」の経費に関する文書を政府に提出した<ref name="亜細亜大博覧会計画47">[[#亜細亜大博覧会計画|鈴木(1998)、p.47.]]</ref>。 亜細亜大博覧会組織取調委員報告では、これまで日本は万国博覧会に参加してきたが、日本が開催した博覧会といえば国内限定のものであり、また現状ではまだ万国博覧会を開催する実力が備わっていないため、今回は「亜細亜大博覧会」を開催して将来の万国博覧会開催に備えるべきであるとした<ref name="亜細亜大博覧会計画47-48">[[#亜細亜大博覧会計画|鈴木(1998)、pp.47-48.]]</ref>。博覧会を開催するメリットとしては、「亜細亜大博覧会」である以上、主な出品はアジア各国からのものとなるものの、アジアに関わるものであれば欧米諸国からの出品も受け入れるため、アジアのみならず欧米諸国との友好親善を深め、貿易振興の呼び水になると主張した<ref name="亜細亜大博覧会計画48">[[#亜細亜大博覧会計画|鈴木(1998)、p.48.]]</ref>。経費面に関しては「第二回内国勧業博覧会」の会場は2倍、予算は4倍必要となると推計し、その上で会場として既存の建物を利用したり会期終了後に博覧会用の建物を売却したりすることによって経費削減が可能であるとの見込みを示した<ref name="亜細亜大博覧会計画48" />。報告の結論としては一刻も早く計画を承認し、準備にかかるべきであるとした<ref name="亜細亜大博覧会計画49">[[#亜細亜大博覧会計画|鈴木(1998)、p.49.]]</ref>。 また亜細亜大博覧会組織取調委員議決案件では博覧会会場は上野公園、会期は1890年4月1日から6か月間とした。会期は当時の万国博覧会並みの長さであった。その他、亜細亜大博覧会組織取調委員議決案件では出品範囲、出品の区分、会場の施設について等、「亜細亜大博覧会」開催に向けて具体的提言がなされていた<ref name="亜細亜大博覧会計画49-50">[[#亜細亜大博覧会計画|鈴木(1998)、pp.49-50.]]</ref>。取調委員の報告内容は全体として万国博覧会としての開催を意識したものになっていた<ref name="亜細亜大博覧会計画50">[[#亜細亜大博覧会計画|鈴木(1998)、p.50.]]</ref>。 亜細亜大博覧会組織取調委員の報告書提出後、9月1日になって[[大蔵省]]から意見書が出された。意見書ではまず外交面、産業振興に対する効果から博覧会の意義自体は認めた<ref name="亜細亜大博覧会計画50" />。しかしながら外交、軍事など課題が山積しており、財政難に陥っている状況下では政策の優先度的に果たして開催がふさわしいのかとの疑問を投げかけた<ref name="亜細亜大博覧会計画50-51">[[#亜細亜大博覧会計画|鈴木(1998)、pp.50-51.]]</ref>。その上でアジア諸国の中で日本と通商条約を締結しているのは清と朝鮮のみであり、事実上アジアに植民地を持つ欧米諸国主体の博覧会になるであろうとの見通しを述べ、そうなると多額の経費が掛かることが予想され、開催は非現実的であると主張した<ref name="亜細亜大博覧会計画51">[[#亜細亜大博覧会計画|鈴木(1998)、p.51.]]</ref>。その上で意見書では、「第三回内国勧業博覧会」に一部外国からの参加を認めるという「亜細亜大博覧会」開催に替わる対案を出した<ref name="亜細亜大博覧会計画51" /><ref name="皇紀・万博・オリンピック17">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)、p.17.]]</ref>。結局明治政府はこの9月1日の大蔵省からの意見書を了承し、10月8日にほぼ大蔵省の意見に沿った訓令が発せられ、訓令に基づき大蔵省、農商務省は「第三回内国勧業博覧会」の準備に着手した<ref name="亜細亜大博覧会計画51-52">[[#亜細亜大博覧会計画|鈴木(1998)、pp.51-52.]]</ref>。1890年に上野公園を会場として「第三回内国勧業博覧会」が開催されたものの、外国からの参加は実現せず、日本初の万博開催構想は構想のみで終わった{{refnest|group="注釈"|name="第三回内国勧業博覧会"|「第三回内国勧業博覧会」では外国からの参加は実現しなかったが、外国人客誘致のために招待状が送られ、日本政府が購入した外国製品を展示する参考館が設けられた<ref name="博覧会の時代120-121">[[#博覧会の時代|國(2005)、pp.120-121.]]</ref>。}}<ref name="皇紀・万博・オリンピック17">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)、p.17.]]</ref>。 == その後の万博構想 == 内国勧業博覧会は日本の国力の伸展とともに規模が拡大する性格のイベントであった。また明治政府内で博覧会行政の中核を担っていた佐野常民は早い段階で万国博覧会開催の構想を持ち、佐野の構想を基に農商務省は「亜細亜大博覧会」を計画するものの、当時の日本の国力不足、そして肝心のアジアからの参加は朝鮮と清のみとなる状況では、アジアをその名に冠する国際博覧会を行う企画自体に無理があり、結局計画倒れに終わった<ref name="博覧会の時代120">[[#博覧会の時代|國(2005)、p.120.]]</ref>。 しかしその後も[[日清戦争]]の勝利、[[条約改正]]の進展を契機として万国博覧会開催の機運はより高まっていく<ref name="博覧会の時代194">[[#博覧会の時代|國(2005)、p.194.]]</ref>。1903年に開催された「第五回内国勧業博覧会」は外国からの参加が実現し、[[日露戦争]]の勝利を受けて万国博覧会構想は「[[日本大博覧会]]」という形で具体化していく<ref name="皇紀・万博・オリンピック19-20">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)、pp.19-20.]]</ref><ref name="明治日本と万国博覧会159-160">[[#明治日本と万国博覧会|伊藤(2008)、pp.159-160.]]</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|colwidth=25em}} == 参考文献 == * {{Anchors|明治日本と万国博覧会}} 伊藤真実子、『明治日本と万国博覧会』 、吉川弘文館、2008、ISBN 978-4-88065-465-2 * {{Anchors|博覧会の時代}} 國雄行、『博覧会の時代 明治政府の博覧会政策』 、岩田書院、2005、ISBN 4-87294-378-3 * {{Anchors|亜細亜大博覧会計画}} 鈴木宏宗「法政史論」20、『第三回内国勧業博覧会と亜細亜大博覧会計画』 、法政大学大学院日本史学会、1993 * {{Anchors|皇紀・万博・オリンピック}} 古川隆久、『皇紀・万博・オリンピック 皇室ブランドと経済発展』 、中央公論社、1998、ISBN 4-12-101406-5 * {{Anchors|万国博覧会}} 吉田光邦、『改訂版 万国博覧会 技術文明的に』 、日本放送出版協会、1985、ISBN 4-14-001477-6 {{Good article}} {{DEFAULTSORT:あしあたいはくらんかい}} [[Category:日本の国際博覧会]] [[Category:開催中止となったイベント]] [[Category:東京市]] [[Category:上野恩賜公園]]
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日本大博覧会
日本大博覧会(にほんだいはくらんかい)は、1905年の日露戦争勝利後に構想が具体化し、内国勧業博覧会と万国博覧会の折衷的な位置づけで1912年に開催されることが、1907年に正式決定された博覧会である。実質的な内容は万国博覧会であったが、財政難などのため1908年には明治天皇在位50周年となる1917年へと延期され、1911年には中止が決定した。しかし国の正式な計画として決定し、一部工事も始められていた「日本大博覧会」は、その計画内容が明治神宮の内苑と外苑に受け継がれていくなど後世に影響を与えた。 なお、本記事では「日本大博覧会」とともに、1903年に行われた「第五回内国勧業博覧会」など計画のみで終わった「亜細亜大博覧会」後の万博開催に関する動きについても説明する。 万国博覧会は1851年に開催された「ロンドン万博」に始まった。「ロンドン万博」は約600万人の観客を集め大成功を収め、以後、欧米各国は競って万国博覧会を開催していく。日本の万博参加は1867年のパリ万博が初であった。日本では欧米諸国の万博に参加をしながら、1877年から殖産興業政策の後押しを目的とした内国勧業博覧会を開催することになる。 そのような中で日本でも万国博覧会を開催しようとの声が挙がるようになり、1885年には「亜細亜大博覧会」の開催計画が持ち上がった。これは日本初、アジア初の万国博覧会構想であった。財政難等を理由とした大蔵省の反対により、「亜細亜大博覧会」は計画倒れに終わってしまったが、内国勧業博覧会の運営に携わる関係者の間では、「亜細亜大博覧会」の事実上の構想者であった佐野常民のみならず、内国勧業博覧会の先には万国博覧会開催があるとの意識が浸透していった。またマスコミでも万博の開催を見据えた論評が見られるようになる。 そして日清戦争の勝利により、国力の伸展を自覚する中で万国博覧会開催に向けての意識が高まっていく。1895年に開催された「第四回内国勧業博覧会」の審査総長であった九鬼隆一は、日清戦争の勝利後である1895年4月に、日本は既にしてかつての日本ではなく、東洋の日本でもなく世界の日本であるとした上で、「(日清戦争)開戦以来、万国ひとしく我が国に着目せるを機として、更に万国大博覧会を戦争終局の後に開設せんことを希望」するとして、日清戦争勝利の余勢を駆って万博を開催しようと主張した。また大隈重信も日清戦争の勝利により日本は世界の強国入りを果たしたとの認識を示した上で、万国博覧会を開催して日本と欧米の工業製品とを比較する機会を設け、まだ欧米諸国よりも遅れている工業の更なる発展を図り、さらには万国博覧会開催によって世界に列強の仲間入りを披露する機会とすべきと主張した。1898年10月、読売新聞は来る1902年はペリー来航50周年になるので、50周年を記念して「太平洋沿岸諸州博覧会」の開催案を紙上で提案した。なお万国博覧会ではなく「太平洋沿岸諸州博覧会」とした理由は、大規模な万博開催は日本の国力に余る事業であり、内国勧業博覧会と万博との中間的な博覧会がふさわしいとの意図であった。 1898年10月、農商務省は第三回農商工高等会議に「第五回内国勧業博覧会」開催に関する諮問を行った。諮問の内容はまず、1899年に開催予定の「第五回内国勧業博覧会」は、1900年に開催予定が決まっていた「パリ万博」の準備と時期が重なるため1902年に延期することについて。そして次回の内国勧業博覧会は日清戦争勝利後初めての開催となり、1902年はペリー来航50周年でもあり、博覧会の規模を欧米と肩を並べる我が国にふさわしく拡大して、海外の工芸品を収集、展示することについて。また諸外国で開催された万国博覧会の失敗例を参考として、日本と関係がある諸外国に参加を求め、万博よりは規模の小さな博覧会とすることについての3点であった。 農商工高等会議ではまず「第五回内国勧業博覧会」の延期についてはすんなりと認められたものの、万博の要素を加味することになる第二、第三の諮問内容については、1902年の万博開催は時期尚早であるとのコンセンサスは得られたものの、「第五回内国勧業博覧会」にどの程度万博的な要素を入れ込むのか、そしていつ本番の万国博覧会を開催するのかについては意見がまとまらなかった。結局、「第五回内国勧業博覧会」では新たに万国貿易部を設け、万国博覧会開催については後日検討するという形の答申となった。1901年4月、農商務省は第五回内国勧業博覧会開催に向けて評議員会を開催した。評議員会の席で林有造農商務大臣は、これまでの内国勧業博覧会の枠にとらわれず、外国貿易の促進を図るような面目を一新した博覧会にするとの抱負を述べた。 実際問題、万国博覧会開催や内国勧業博覧会に外国が参加するためには法制度の整備も不可欠であった。これまでの不平等条約では外国人は居留地内でのみ商業行為が可能であったため、内国勧業博覧会の会場で外国製品を販売するためには条約改正が必要であった。また外国人は治外法権の特権があった反面、日本国内では工業所有権の保護は適用されなかった。つまり日本では外国から輸入した機械類等を無許可でコピー製品を製作、販売することが可能であった。このような状況下では諸外国に博覧会への出品を求めることは極めて困難であった。結局、1894年に締結された日英通商航海条約の後に諸外国と同等の条約を締結する中で内地雑居が実現し、また1899年にはパリ条約に加入し、同年、特許法、意匠法、商標法の関連法令の整備を行い、諸外国からの博覧会出品に対して工業所有権の保護がなされる環境が整えられた。 第三回農商工高等会議で諮問された万国貿易部は参考館として設置されることになった。参考館の設置は将来の万国博覧会開催を見据えたものであった。1902年の開催予定は1900年「パリ万博」参加準備のため1903年に再延長されたが、19世紀末から20世紀初頭にかけては「パリ万博」の他、「セントルイス・ルイジアナ購買記念万博」、「グラスゴー万博」など欧米諸国の万国博覧会が目白押しであり、各国はそれら万博への出展準備に追われ、第五回内国勧業博覧会への出品に消極的になることが危惧された。 ところが実際ふたを開けてみると諸外国からの出品依頼が殺到することになった。当初、主催の農商務省は参考館の名前通り、諸外国からの出品を参考程度展示する予定であり、規模も300坪の予定であったが、殺到する出品依頼に対応すべく最終的には1750坪にまで広がった。そして参考館以外にも展示を希望する諸外国側が費用を出した独立館を6館設置することになった。「第五回内国勧業博覧会」には日本以外に18の国、地域が参加し、外国企業からも代理店を通じての出品が実現し、さながらミニ万国博覧会の様相を呈した。諸外国からの出品が殺到した理由としては、日本が各国製品を売り込む格好の市場であると見なされていたためであり、政府は諸外国の積極的な参加は、将来の万博開催に向けてのステップとして大変に有効であったと評価した。 また後述の台湾館などとともに参考館、独立館は多くの観客を集め、娯楽性を高めた他の展示内容も相まって、「第五回内国勧業博覧会」は約530万人の観客を動員し、開催地の大阪市に多大な経済効果をもたらした。この「第五回内国勧業博覧会」の成功はその後の博覧会の経済効果を狙った動きへと繋がっていくことになる。 「第五回内国勧業博覧会」では、1900年の「パリ万博」における植民地館をモデルとして、台湾総督府が台湾を内地に紹介することを目的として設置が検討された。台湾総督府の構想は予算不足のためいったんは頓挫したが、1901年度の予算で「第五回内国勧業博覧会」の場で台湾を紹介するための経費が認められ、1901年10月に台湾館の設置が公式に認められた。当時の万国博覧会では植民地館を設けることが特色の一つとなっており、台湾館もその流れに沿って設置されることになった。 予算の関係上、台湾館の建物は新築せずに台湾の既存の建物を博覧会会場に移築して使用した。台湾館は現地そのものの建物の他、併設の食堂や喫茶が人気を集め、主催者側からも「第五回内国勧業博覧会」の中でも最もインパクトが強いものになったと評価された。台湾館の展示や催しは日本国内において台湾への関心を高めることに繋がった。 人類館は「第五回勧業博覧会」の会場外に設けられ、公式の展示場ではなかった。しかし会場案内などでは紹介されており、事実上博覧会を構成する展示と見なされていた。人類館は1889年のパリ万博で行われた、フランス領植民地の集落、住民の大規模な展示以降、欧米で開催される万国博覧会に広まっていた。「第五回内国勧業博覧会」では台湾館と同様、当時の万国博覧会のトレンドに沿った形で設けられることになった。 「第五回内国勧業博覧会」の人類館展示では、展示された清国人、韓国人、そして沖縄の展示がそれぞれ清、韓国、沖縄からの抗議を受けて撤回に追い込まれた。しかし人類館の展示は当時の万国博覧会のトレンドに沿って設けられたものであったため、将来の万国博覧会の開催を見据えていた「第五回内国勧業博覧会」において、展示の一部が撤回に追い込まれながらも人類館自体の閉鎖は行われなかった。 外国からの参加が実現し、これまでの内国勧業博覧会よりも格段に規模が拡大した「第五回内国勧業博覧会」に続いて、万国博覧会を開催すべきであるという意見が世論の中からも現れるようになった。「第五回内国勧業博覧会」の開催に関する雑誌太陽の記事の中で、「第四回内国勧業博覧会」で事務局長を務めた九鬼隆一が「日本もゆくゆくは万国博覧会を開くことになるであろうから、今度の内国博覧会(第四回内国勧業博覧会)も其の下げいこのつもりでやっている」と、万国博覧会開催に向けての意欲を示していた発言が紹介され、雑誌太陽の同じ号では、「第五回内国勧業博覧会」よりも大規模である日本を中心とした世界大博覧会を東京で開催することを求める評論を掲載した。しかしその一方で、博覧会の出品内容を見ると欧米諸国との工業力の格差は歴然としており、国力の増強を背景とした万博開催を唱える自信と、欧米諸国との格差の自覚というある種矛盾した認識が生まれていた。 1904年2月、日露戦争が始まった。1905年に入ると1月に旅順攻囲戦がロシア軍の降伏により終結し、3月に奉天会戦、5月には日本海海戦に勝利した。日本海海戦終了直後の6月1日、日本はアメリカに講和の仲介を求め、日本の求めに応じたアメリカは9日に日本、ロシア両国に対して講和を勧告し、12日にはロシアがアメリカの講和勧告に応じたため、日本、ロシア両国の講和会議が開始される流れとなった。 ロシアがアメリカによる講和勧告の受け入れを決めた直後の1905年6月17日の閣議において、農商務大臣の清浦奎吾は戦争終結後に万博を開催する建議書を提出する。農商務省による万博開催の建議は、万博はこれまで欧米諸国のみで開催されていたため、開催それ自体が一等国の証であるとされており、日露戦争の勝利を記念して日本が世界の一等国であることを示す万博を開催しようともくろんだのである。また戦勝によりロシアから賠償金を得られる期待もあって、賠償金を万博開催費用に充てられるとの目算もあった。 しかし日露戦争の講和条約であるポーツマス条約で、ロシアからの賠償金の支払いはゼロとなった。期待していた賠償金を得られなかった日本は、自力で戦争遂行のために負った多額の債務を返済していかねばならなくなった。講和条約の交渉開始前は賠償金を期待して万博開催の建議を行った農商務省は、主張を後退させざるを得なかった。1905年11月、清浦農商務大臣は桂太郎首相に、次回の博覧会は6月17日の建議書通りに万博の開催を行うのか、内国勧業博覧会に万博の要素を加味するのか、それとも純粋な内国勧業博覧会とするのかについて調査検討が必要であると提案した。そのためまず1907年開催予定の「第六回内国勧業博覧会」の開催を延期し、農商務省内に博覧会調査委員を設けるための予算措置を求める博覧会開設調査委員設置の件を提出して、併せて2万5000円余りの調査費の議会提出を求めた。清浦の建議は認められ、12月27日の閣議で「第六回内国勧業博覧会」の延期と博覧会開設調査委員の設置が認められ、12月28日には勅令で「第六回内国勧業博覧会」の無期限延期が布告された。 一方、民間でも1905年10月に行われた全国商業会議連合会の政府に対する建議の中で、日露戦争の勝利の余勢を駆って、国力の発展と国富を増進させ、世界各国を相手とする商戦に勝ち抜くためにも、準備にある程度の時間を要するにしても数年後までに万国博覧会を開催することを希望するとの主張を行った。そして衆議院でも1906年2月27日に「万国博覧会開設に関する建議」が97名の衆議院議員により提出された。建議は日露戦争の勝利を記念して万国博覧会を開催し、日本の文化、工芸などを世界に広く紹介し、日本の実業家に世界の文化、工芸、美術等に触れる機会を設け、お互いの比較検討を通して日本の国力の更なる発展を目指すべきとの内容であった。この建議は3月10日に衆議院本会議で可決する。なお建議の衆議院での審議において、農商務省は日露戦争勝利記念の名目ではロシアの参加が見込めないなど都合が悪い点があり、1909年ないし1910年に憲法発布20周年記念、1917年の天皇即位50周年記念、1918年の天皇、皇后の結婚50周年記念などといった開催理由が考えられるとの見解を示した。一方、衆議院では万博開催建議に対して、財政難を理由に開催は時期尚早であるとの反対意見も出され、建議案は満場一致での可決とはならなかった。 1905年11月に清浦農商務相が求めた2万5000円余りの調査費が議会を通過したため、1906年6月14日に農商務省内に博覧会調査会が設置され、農商務次官の和田彦次郎委員長ら43名が調査会委員として任命された。なお委員は和田委員長ら農商務省の関係者や、当時東京市長と衆議院議員を兼任していた尾崎行雄ら11名の衆議院議員、そして貴族院議員で構成されていた。博覧会調査会では第一案として万国博覧会の開催。第二案として内国勧業博覧会と万国博覧会の折衷案であり、工芸品と機械関連の品目に関しては外国からの出品を求めて工芸館、機械館に陳列し、東洋からの出品は東洋館、その他の外国からの出品は自費で陳列館を建設してもらうか、外国館にまとめて展示する案。そして第三案は基本的に内国勧業博覧会としての開催として、会場内に東洋館と外国館を設けるというものであった。 博覧会調査会での審議の結果、第二案の内国勧業博覧会と万国博覧会の折衷案が採用された。7月23日の会議において博覧会の名称を「日本大博覧会」として、会期は1912年4月から10月、開催場所は東京として、費用は1000万円を予定し、うち500万円は国費、300万円は東京市が分担し、200万円は入場料収入などで賄い、会場の敷地は約30万坪とした。さらに「日本大博覧会」関連事業として、道路・橋、各種交通機関、水道・排水設備、電燈、ガスといった社会インフラや、公会堂・劇場・音楽堂などの娯楽施設の整備、宿泊施設の充実、博覧会の運営を支える各種協会の設立、そして日本国内、外国からの観光客対応を行う施設の必要性を示した。 万博と内国勧業博覧会の折衷案となった理由は、まず現状では万博開催による十分な成果が得られる見込みが薄いと考えられ、日露戦争の勝利によって日本は世界の一等国になったものの、欧米諸国並みの万国博覧会を開催できる財政的な余裕は無く、しかも現実として日本の商工業は欧米諸国の実力にはまだほど遠く、本格的な万博の前段階として万博と内国勧業博覧会の中間程度の博覧会を開催して、日露戦争後の経済の発展に努めるのが得策であり、そもそも本格的な万博開催には準備期間が長くなってしまうため、戦争後の経済刺激策としての意味が無くなるといったものであった。つまり日露戦争には勝利したものの、欧米諸国の経済力や技術力に比べてまだ大きな差があるという認識に基づく折衷案であった。しかしそれでも第五回内国勧業博覧会の約10倍の経費を想定しており、これは当時パリやロンドンで行われていた万博の約4分の1以下の予算ではあったが、欧米では「日本大博覧会」と同一規模程度の万博も開催されていたため、事実上の万博開催計画であった。この博覧会調査会での審議結果は、これまで行われてきた形での内国勧業博覧会としての博覧会開催の終焉を意味した。 1906年7月28日、農商務大臣の松岡康毅は西園寺公望首相に博覧会調査会の審議結果を報告し、閣議決定を要請した。1906年12月21日、内閣は、内国勧業博覧会と万国博覧会との中間規模の博覧会である「日本大博覧会」を、東京にて開催することを閣議決定した。しかし閣議決定後、議会関係者から巻き返しの動きが起きた。1907年2月7日、8日に行われた衆議院委員会において、「日本大博覧会」は広範囲の外国参加の門戸を閉ざしたままであって内国勧業博覧会の一種にすぎず、1906年3月10日に衆議院において可決された万国博覧会開設に関する決議の趣旨が生かされておらず、国力進展のために純正なる万国博覧会を開催すべきとの決議案が提案され、委員会で満場一致で採択され、2月14日には衆議院本会議において可決された。万国博覧会開催の決議が衆議院で可決されたのを受けて、2月27日に松岡農商務相は西園寺首相に対して既に内国勧業博覧会と万国博覧会との中間規模の博覧会として「日本大博覧会」開催が閣議決定していることを根拠に、決議の不採択を提言し、3月8日の閣議において不採択が決定された。その後議会において「日本大博覧会」関連予算を含む1907年度予算が可決されたことを受けて、1907年3月31日、勅令にて「日本大博覧会」を会期1912年4月1日から10月31日として東京市において開催すること、博覧会調査会の廃止と日本大博覧会事務局官制が公布された。 1907年8月2日、農商務省内に日本博覧会事務局が設置されることが公表され、翌8月3日には総裁に伏見宮貞愛親王、会長金子堅太郎、事務局長は和田彦次郎が就任し、事務局は農商務省からの出向組が多数を占めた。皇族の伏見宮が総裁を務めることは、政府としても「日本大博覧会」開催の意義を重く見ていたことの現れであり、会長の金子はアメリカのハーバード大学留学経験者であり、1876年のフィラデルフィア万博以降、複数の万博の視察を行ってきており、1900年パリ万博では日本の参加準備段階で主要役員を務めているなど、万国博覧会関連の豊富な経験とともに事実上の万国博覧会開催を考慮した人事であった。会長就任後の金子は「日本大博覧会」に関する講演活動を精力的に行っていく。 「日本大博覧会」開催の動きが表面化する中、1906年7月末、東京市は「日本大博覧会」開催の下準備として1907年3月から7月にかけて上野公園において「東京勧業博覧会」を開催する計画を発表する。その一方で東京市は300万円の負担金の減額を画策する。「博覧会調査会」の委員でもあった尾崎行雄は委員会の席で東京府の300万円の負担は過重であると訴えており、政府に負担金の減額を陳情した。これに対して政府は会場を大阪市に変更することをちらつかせながら東京市の要求を拒絶した。結局、1907年1月24日の東京市会において負担金を受け入れる代わりに入場券販売を東京市が請け負う案が可決され、政府も入場券販売の東京市請負いを了承したため、博覧会の東京市開催が確定した。 「日本大博覧会」開催が取り沙汰される中で、東京市内のどこを会場とするのかが問題となった。品川沖を埋め立てる、月島、上野周辺、青山、荏原ないし大森、丸の内、竹橋などが候補に上がり、水族館の横浜設置案も出された。品川沖埋め立てと丸の内は東京市の案であったが、あとは各地元の推薦であり誘致合戦の様相を呈した。各開催候補地とも博覧会開催による経済効果を狙っており、開催候補地以外でも日本橋周辺の商店は当時、日本橋からの交通の便が良くなかった青山にこぞって反対するといった動きも見られた。また各候補地による誘致合戦の中、分散開催案も飛び出し、上野や青山などでは思惑による地価上昇を招いた。このような状況の中、「日本博覧会事務局」は開催地の決定に頭を悩ませることになった。 結局、1907年11月6日に、陸軍の青山練兵場を第一会場、代々木御用地に第二会場を設け、両者の間は中央本線沿いに約1.3キロメートルの連絡通路を設けるという案に決定した。これは青山、代々木は国有地と皇室の御料地であったため、土地の買収費用が最も安く済むという理由であった。しかし会場予定地全てを国有地、皇室御料地で済ますことも出来ず、青山練兵場東側の権田原町の北側と六軒町、南側の青山北町は立ち退き対象となり、政府は土地収用法を適用して土地所有者から強制的に買収することを決定したため、立ち退き対象の住民たちから反対運動が起きたが、東京市長の尾崎行雄は反対を押し切った。そして青山会場から代々木会場へと向かう連絡通路の工事は実際に進められていく。 1908年2月27日、日本大博覧会に出品する外国産品について関税を免税にする法律が公布され、3月17日には博覧会に出品される物品の発明、特許登録、商標登録に関する法律が公布されるなど、博覧会開催に伴う法整備も進められた。 6月27日には日本大博覧会規則が発表された。日本大博覧会規則ではまず会場は青山練兵場と代々木御用地とその両地を繋ぐ土地として、水族館のみ設置場所を後に定めるとした。博覧会の土地は全体として東側が低く、西側が高くなっているため、会場全体の景観の観点から博覧会正門を東側の権田原に建てることが決定され、正門に繋がる大道路の建設が構想された。また会期は1912年4月1日から10月31日まで、出品は21部門、陳列館は16館として、外国からの陳列館への出品は教育、学芸、化学工業、染織工業、製作工業、建築・室内装飾、機械、電気の各部門とし、それ以外の出品は独自の陳列館を設けた上で展示することができると定められた。出品項目は1900年のパリ万博をモデルとして決定したと考えられている。 なお1907年12月に博覧会の終了後、博覧会会場のうち青山練兵場部分に関しては東京市の公園とすることで政府と東京市との間で合意が成立した。そして終了後の公園化が確定している以上、博覧会の美術館は仮設のものではなくて、継続して使用し続けられる恒久的なものとして建てられることが内定した。この青山練兵場の日本大博覧会会場としての利用案とその後の公園化構想は、後の神宮外苑の構想へと繋がっていくことになる。 「日本大博覧会」には数か国が非公式な形で参加の意思を示していた。1907年12月3日にアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領が議会教書において「日本大博覧会」参加の意向を示し、12月7日には公式に参加を表明していた。アメリカが初の公式参加表明であり、結果としては唯一の諸外国からの参加表明となった。1908年5月下旬、連邦議会は他国開催の万国博覧会参加費用としてはこれまでで最高額の150万ドルの「日本大博覧会」参加費を可決し、7月にはアメリカの「日本大博覧会」参加に当たり、前国務次官補フランシス・バトラー・ルーミスという大物が事務官長に就任した。 日本大博覧会事務局会長の金子堅太郎は、ルーズベルト大統領はハーバード大学留学時からの知己であり、大統領に参加を直談判したと回想している。しかし他国開催の万博では最高額となる参加費用を支出し、大物が事務官長に就任するといった厚遇は、当時の日米関係がぎくしゃくしていたことが背景にあると考えられている。日米間の重要課題としては、アメリカの特に西海岸で高まりつつあった日本からの移民排斥運動があった。また日露戦争後の満洲の権益をめぐる問題も両国間の大きな課題であった。日米間に重要課題を抱えている状況下において、ルーズベルト政権としては対決ではなく日米関係を重視し、友好を求めていることを示す必要があった。 そして1908年7月4日には、各国に対して「日本大博覧会」の正式な招請状を送付することが閣議決定された。 衆議院では1907年3月に「日本大博覧会」開催によって外国人観光客の増加を見越した「ホテル開設に関する建議」が提出された。建議では万国博覧会の開催が迫る中、多くの外国人観光客の来遊が予想されるため、博覧会の成功のためには宿泊設備の充実が必要になるのではないかと主張した。翌1908年3月にも衆議院に、日本国内のホテルは数量ともに貧弱なレベルにあり、外国人観光客を満足させられない状況にあり、「日本大博覧会」開催が迫る中、ホテルの増設は急務であるとの内容の、前年の建議とほぼ同趣旨の「来遊外客待遇の設備に関する決議」が提出された。 鉄道庁は「日本大博覧会」開催に向けて鉄道改良計画を立てた。計画には赤羽‐池袋、新橋‐上野、新橋‐国府津間の電化、東海道線、高崎線の複線化、現在の東京駅である中央停車場の完成が取り上げられていた。なお中央停車場の基礎工事は1908年3月25日に、駅の設計の完了を待たずに着工されたが、これは「日本大博覧会」開催を考慮した鉄道庁が早期の完成を望んだことが要因のひとつとされている。 また「日本大博覧会」構想が報道されるようになると、国際博覧会開催ともなれば内外から多くの観覧者が東京に集まってくるため、交通機関、宿泊施設、公衆衛生設備等の整備が急務であるにもかかわらず、行政の動きが鈍いこともあって、東京の商工業者の中から自主的に博覧会開催を念頭に置いた動きが始まっていた。商工業者の狙いはもちろん博覧会開催による経済効果であった。計画の正式決定後、博覧会事務局の金子会長は講演会活動を通じて、産業や技術の交流、文化・学術面での交流、国家的な祝祭、参加各国及び国民同士の交流という「日本大博覧会」の四大目的とともに、開催地の東京、そして日本全体に大きな経済効果をもたらすと主張していた。博覧会の経済効果に期待する声は東京のみならず全国に広まり、東北地方の奥州館、その他、山陰館、九州の鎮西館、山陽の中国館といった地方館の設置計画や、博覧会開催時に来訪する外国人客をあて込んで、奈良や厳島などでは観光設備の整備への取り組みが図られた。 前述のように「日本大博覧会」構想が具体化しつつあった1906年の段階で、厳しい財政難を理由に開催に反対する意見が出されていた。開催計画が正式に決定された後の1907年11月18日、東京朝日新聞は、政府部内から1000万円ではとうてい「日本大博覧会」の開催は無理であり、数倍の予算が必要であるとみられ、財政難の折にそのような費用負担は困難であるため、1917年に明治天皇の在位50周年を記念する形で開催すべきではないかとの延期論が浮上しているとのスクープ記事を掲載した。 当時、西園寺内閣は財政難への対応に苦慮していた。西園寺内閣の与党であった政友会は、日露戦争後の経済政策と政友会の党勢拡大をもくろんだ鉄道や港湾といった社会資本整備の予算拡大に積極的であったが、財政難を理由に井上馨ら元老は行政経費の節減の他、政友会が主張する事業の繰り延べ、増税を求めた。総選挙を控えた政友会は不人気政策である増税や全国への利益誘導に繋がる社会資本整備予算の削減には反対であり、内閣は両者の板挟みになっていた。そのような中でやり玉に挙がったのは「日本大博覧会」計画であった。内閣では政友会の幹部でもある松田正久法務大臣が延期論の口火を切り、やはり政友会幹部の原敬内務大臣が賛成し、井上馨も財政難の折に博覧会を行う必要は無いと主張した。 前述のように1907年12月3日にアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領が議会教書において「日本大博覧会」参加の意向を示し、12月7日には正式参加を表明していた。懸案事項が山積する中でアメリカの参加表明直後に延期を決定するのは両国関係に新たな亀裂を生じさせることになると判断され、この時の延期論は立ち消えとなった。 第1次西園寺内閣は1908年7月4日に総辞職し、同月には第2次桂内閣が発足する。桂内閣は財政問題への対応を最優先課題として掲げ、歳出及び事業の見直しに着手する。見直しの俎上に「日本大博覧会」が挙げられることになり、前内閣の総辞職前に各国に発送することが決定されていた招請状も発送が延期された。また新内閣は日露戦争後、疲弊して困窮化が進んだ地方の立て直し、改良を重点政策課題として掲げていた。そのため日露戦争勝利後の一等国日本の首都東京の社会資本を充実させることになる「日本大博覧会」よりも、地方全体の立て直し、改良を図ることが政策課題として重要視された。 内閣は博覧会事務局の総裁伏見宮貞愛親王、金子会長らにも明かすことなく、秘密裏に「日本大博覧会」の延期の調整を始めた。延期の理由はまず財政面であり、博覧会にかかる直接経費よりもインフラ整備に莫大な経費を要すると見込まれ、延期を行わなければ内閣の致命傷となると判断された。また日露戦争後の困窮し疲弊した地方の立て直し、改良も急務とされ、それも延期の判断材料となった。 延期に当たり問題となったのがアメリカから了承を取り付けることであった。そもそも前内閣時に延期が問題となった際に取りやめとなったのはアメリカの正式参加表明があったためであり、外交面から判断してアメリカから延期についての了承を得ることは極めて重要であった。日米間の懸案となっていた移民問題は日米紳士協約により沈静化してきており、日米間の緊張は緩和しつつあった。日本側からの延期の打診に対してアメリカは了承し、1908年9月2日、「日本大博覧会」の開催を5年延期して1917年開催とする旨の勅令が公布された。延期の理由として準備が間に合わないことが挙げられ、天皇在位50周年となる1917年に万全の準備をもって名実ともに万国博覧会を開催するのがベストであるとした。 全く相談なく一方的に延期の決定を告げられた博覧会事務局は、総裁伏見宮貞愛親王、金子会長、和田事務局長は揃って辞表を提出した。伏見宮、金子の辞表は受理されたが、事務局長の和田は留任することになった。一方的な決定に衆議院、貴族院の中に反発も見られたが、財政状況が逼迫しているのは明らかであったため、延期はやむを得ないとの流れになっていく。また民間でもやはり一方的な延期決定に異議は唱えつつも、多くは日露戦争後の厳しい不況下では開催延期はやむを得ないとの認識で落ち着いていく。一方、既に博覧会開催費用の一部負担を行い、住民の強制移住も実行した東京市は強く延期反対を唱えたが、政府から既負担分の費用返還が認められた。ただし強制移住の対象とされた住民の怒りは容易には収まらなかった。 1908年10月、アメリカからルーミス事務官長らが「日本大博覧会」の打ち合わせのために来日した。ルーミスらは日本政府に対し、延期というのは名ばかりで実際のところ中止するつもりであると思われると批判した。ルーミスらの批判に対し、1909年度の予算には「日本大博覧会」関連予算を計上し、1910年には本格的な準備に取り掛かると釈明した。実際に1909年度予算には「日本大博覧会」の調査費が計上され、博覧会の直接経費も2000万円に増額することを決定する。延期後の「日本大博覧会」も、やはりアメリカとの関係が再スタートのきっかけとなった。 「日本大博覧会」の再スタートの動きを見て、博覧会をあて込んだ動きが再燃する。1909年には「日本大博覧会」の協賛事業として松島の県営公園化の構想が出された。1911年には「日本大博覧会」の催しに合わせ、欧米のナショナルパークに倣って日光の帝国公園化の請願が衆議院、貴族院に提出され、富士山でも「日本大博覧会」を契機として国設大公園を設ける意見が出された。 政府は1910年12月13日に、これまで農商務省内で博覧会行政に携わってきた宮中顧問官の平山成信を、宮中顧問官と兼任の扱いで「日本大博覧会」会長に任命する。さらに1911年度予算に代々木会場、青山会場を繋ぐ連絡通路の整備費用など、「日本大博覧会」関連費用を計上した。平山は1911年7月に宮中顧問官を退任し、博覧会会長専任となり、8月には東京市が博覧会の準備を再開し、9月になると横浜市が博覧会の水族館、京都市が美術館の誘致運動を始めた。このように「日本大博覧会」開催に向けての具体的な動きが活発化していく。 農商務省は省内に「日本大博覧会」の工事に関する準備委員会を立ち上げた。準備委員会は委員長を土木工学者の古市公威を筆頭とし、建築家の片山東熊、辰野金吾、鉄道技術者の増田禮作、電信電話技術者の五十嵐秀助らが博覧会に必要とされる施設の内容、敷地面積を協議、決定した。 1911年5月、「日本大博覧会」の設計競技である「日本大博覧会敷地内配置懸賞計画」が行われることが公表された。設計競技は「日本大博覧会」の工事準備委員会が決定した仕様の博覧会施設を代々木会場、青山会場に割り振り、両会場のバランスを取りながらどのように博覧会施設を配置するのかという会場全体の構成力を競うものとなった。また博覧会施設の仕様以外に、前述の代々木会場、青山会場を繋ぐ連絡通路、青山会場の東側の権田原町に設けられる正門、青山会場に設けられる恒久的な美術館は設計における前提条件とされた。競技参加者は工事規定と敷地図の購入が必要とされ、縮尺1/1200の図面と説明書の提出を求められた。「日本大博覧会」の会場全体の設計という大規模設計が設計競技の対象とされたのは日本では初めてであり、「日本大博覧会敷地内配置懸賞計画」に対する関心は高く、工事規定と敷地図の購入者は240名を超え、設計競技参加者は155名を数えた。 「日本大博覧会敷地内配置懸賞計画」の審査員は博覧会会長の平山成信の他、岡本英太郎、手島精一、古市公威、日下部辨二郎、ジョサイア・コンドル、伊東忠太、片山東熊、塚本靖、福羽逸人といった博覧会関係者、工学者、建築家、造園家らによって構成されていた。1911年11月14日、伊東忠太が「とにかく群を抜き、他のものはいわばどんぐりの背比べ」と激賞した吉武東里の案が、審査員の全員一致で一位当選となった。 吉武東里の案は、まず博覧会という短期集中型のイベントにおいて観客の興味関心を引き付けるべく、バラエティーに富んだ会場作りが必要とされるとの視点で構成されていた。青山会場は西洋風、都会的かつ人工的な構成とし、一方、代々木会場は東洋風、田舎風、自然的な構成として両会場にはっきりとした変化をつけた。 他の設計競技参加者の案は青山、代々木両会場ともに欧米の博覧会会場をモデルとした幾何学的な配置案であったのに対し、吉武の案は青山会場に関しては欧米風の規則正しい直線的な建物配置としたのに対し、代々木会場は曲線的な道路を用い、既存の森林を生かした形になっており、代々木御料地に遺されていた武蔵野の自然を有効活用した設計となっていた。つまり博覧会予定地の現状を的確に分析してその特性を生かし、青山、代々木の両会場に変化をつけて博覧会会場としてまとめ上げた力量が一位当選として評価された。 1911年8月、第2次桂内閣は総辞職し、8月30日に第2次西園寺内閣が成立する。第1次西園寺内閣と同様に、政友会幹部の松田正久は法務大臣、原敬は内務大臣として入閣した。新内閣の1912年度予算編成に際し、元老井上馨は外債の償還のために大幅な歳出削減を主張した意見書を山本達雄大蔵大臣に送っており、井上の意見書の中で「日本大博覧会」は不急の事業であるとして中止すべきとされていた。また第2次西園寺内閣では海軍の拡張案が問題となっており、海軍の拡張を求める齋藤実海軍大臣と公共事業の拡充を求める原内相との間で意見対立が起きていた。 山本蔵相は海軍の拡張案を受け入れ、原の求める事業の中で電話拡張、港湾修築、鉄道拡張は認め、「日本大博覧会」、国勢調査、議院建築の3事業の延期を提案する。11月20日、西園寺と松田、原との三者会談が行われ、山本蔵相の提案が了承された。そして11月24日の閣議の席で、「日本大博覧会」の無期延期という形で中止が決定された。翌1912年3月22日、勅令で正式に「日本大博覧会」の中止が公布され、3月31日には日本博覧会事務局が廃止された。 中止決定に対して1912年2月24日には、衆議院に「明治五十年日本大博覧会開催に関する決議」が提出された。決議は「日本大博覧会」の開催が、日露戦争後の経済発展、産業振興の絶好の機会として予定通りの開催を求めたものであった。この決議は委員会審議の中で修正の上、3月22日の本会議で可決された。修正の中で、政府が博覧会の遂行が困難である場合、地方公共団体や私人が企画し、政府が支援することとの内容が盛り込まれた。これは国主導ではなく、東京市などの地方公共団体や経済団体が主導して博覧会を開催する動きを反映したものであった。 いったん国の正式な計画として準備を始めた「日本大博覧会」であるが、財政難の中、中止という結果になった。しかし計画開始時点から財政難は継続しており、財政難の中にあっても、「日本大博覧会」の場でアピールすべき国家として目指す姿が見い出せなかったことが中止の背景として指摘されている。またこれは明治維新後の国家目標がある程度成就した後、新たな目標自体が捉えられていなかったことを示しているとの意見がある。また維新後、殖産興業政策の後押しとして内国勧業博覧会を開催してきた井上馨らの元老から見て、明治末期の時点では博覧会で産業振興を図る必要性を認めないほど国内産業が成長したという判断を下したとの評価もある。 一方、「亜細亜大博覧会」とは異なり、実施に向けて実際に計画が進められ、一部工事も始められていた「日本大博覧会」は、様々な影響を後に遺すことになった。まず明治天皇の在位50周年等の皇室の慶事が開催の名目として取り上げられたことは、経済発展のシンボルとして皇室ブランドが象徴的な機能を果たすことが認識された。また博覧会開催に向けての準備が行われたため、「日本大博覧会」の関係者の中から、その後、万博計画に携わることになる人材が生まれた。そして「日本大博覧会」以降、万博構想の推進役は国から経済効果を期待する地域や経済団体へと移行することになる。 「日本大博覧会」中止後の1912年7月、明治天皇は崩御した。8月20日に東京商業会議所で行われた各団体連合の協議会の席で、東京府内の代々木御料地と青山練兵場に明治天皇を祀る神宮の造営を求める覚書を採択する。覚書では神宮本体となる内苑は代々木御料地に、一方、外苑は青山練兵場に設け、明治天皇の頌徳を目的とする記念宮殿や、臣民の功績を称える陳列館などを設ける計画であった。代々木の御料地と青山の練兵場は離れた場所の性格の異なる土地であり、しかも「覚書」では代々木と青山で違うタイプの施設を設け、両者をまとめて一つの神社とするという案はこれまでに例のない画期的なものであった。「覚書」作成に中心的に関わった阪谷芳郎東京市長、渋沢栄一、中野武営、角田真平はともに理事官や評議員として「日本大博覧会」に関与しており、博覧会の計画内容を熟知していた。また実際の神宮外苑の設計は古市公威を顧問として、伊東忠太、日下部辨二郎が中心となって行ったが、古市、伊東、日下部とも「日本大博覧会敷地内配置懸賞計画」の審査員を務めており、明治神宮、とりわけ外苑の造営は「日本大博覧会」計画に精通していた人物たちによって行われた。つまり「日本大博覧会」のプランニングが明治神宮に受け継がれたと評価できる。 実際、吉武東里の「日本大博覧会」設計案と明治神宮の内苑、外苑には多くの類似点が指摘できる。まず青山会場は、前述のように博覧会終了後は東京市の公園となる計画であった。吉武は洋式庭園や公園をモデルとした人工的かつ都会的、西洋風な配置計画を立てており、外苑との類似性が高い計画となっている。内苑もやはり鬱蒼とした森を利用した天然的な配置を行った代々木会場の設計案との類似性が指摘できる。中でも鬱蒼とした森に覆われた内苑と都市型の公園である外苑という異なった要素をまとめ上げて明治神宮とした点が、都会的な青山会場、自然的な代々木会場を「日本大博覧会」会場として一つにまとめ上げた手法と一致している。これらのことから吉武東里の「日本大博覧会」設計案が明治神宮の造営に影響を与えたと考えられている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "日本大博覧会(にほんだいはくらんかい)は、1905年の日露戦争勝利後に構想が具体化し、内国勧業博覧会と万国博覧会の折衷的な位置づけで1912年に開催されることが、1907年に正式決定された博覧会である。実質的な内容は万国博覧会であったが、財政難などのため1908年には明治天皇在位50周年となる1917年へと延期され、1911年には中止が決定した。しかし国の正式な計画として決定し、一部工事も始められていた「日本大博覧会」は、その計画内容が明治神宮の内苑と外苑に受け継がれていくなど後世に影響を与えた。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "なお、本記事では「日本大博覧会」とともに、1903年に行われた「第五回内国勧業博覧会」など計画のみで終わった「亜細亜大博覧会」後の万博開催に関する動きについても説明する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "万国博覧会は1851年に開催された「ロンドン万博」に始まった。「ロンドン万博」は約600万人の観客を集め大成功を収め、以後、欧米各国は競って万国博覧会を開催していく。日本の万博参加は1867年のパリ万博が初であった。日本では欧米諸国の万博に参加をしながら、1877年から殖産興業政策の後押しを目的とした内国勧業博覧会を開催することになる。", "title": "第五回内国勧業博覧会と万国博覧会" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "そのような中で日本でも万国博覧会を開催しようとの声が挙がるようになり、1885年には「亜細亜大博覧会」の開催計画が持ち上がった。これは日本初、アジア初の万国博覧会構想であった。財政難等を理由とした大蔵省の反対により、「亜細亜大博覧会」は計画倒れに終わってしまったが、内国勧業博覧会の運営に携わる関係者の間では、「亜細亜大博覧会」の事実上の構想者であった佐野常民のみならず、内国勧業博覧会の先には万国博覧会開催があるとの意識が浸透していった。またマスコミでも万博の開催を見据えた論評が見られるようになる。", "title": "第五回内国勧業博覧会と万国博覧会" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "そして日清戦争の勝利により、国力の伸展を自覚する中で万国博覧会開催に向けての意識が高まっていく。1895年に開催された「第四回内国勧業博覧会」の審査総長であった九鬼隆一は、日清戦争の勝利後である1895年4月に、日本は既にしてかつての日本ではなく、東洋の日本でもなく世界の日本であるとした上で、「(日清戦争)開戦以来、万国ひとしく我が国に着目せるを機として、更に万国大博覧会を戦争終局の後に開設せんことを希望」するとして、日清戦争勝利の余勢を駆って万博を開催しようと主張した。また大隈重信も日清戦争の勝利により日本は世界の強国入りを果たしたとの認識を示した上で、万国博覧会を開催して日本と欧米の工業製品とを比較する機会を設け、まだ欧米諸国よりも遅れている工業の更なる発展を図り、さらには万国博覧会開催によって世界に列強の仲間入りを披露する機会とすべきと主張した。1898年10月、読売新聞は来る1902年はペリー来航50周年になるので、50周年を記念して「太平洋沿岸諸州博覧会」の開催案を紙上で提案した。なお万国博覧会ではなく「太平洋沿岸諸州博覧会」とした理由は、大規模な万博開催は日本の国力に余る事業であり、内国勧業博覧会と万博との中間的な博覧会がふさわしいとの意図であった。", "title": "第五回内国勧業博覧会と万国博覧会" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1898年10月、農商務省は第三回農商工高等会議に「第五回内国勧業博覧会」開催に関する諮問を行った。諮問の内容はまず、1899年に開催予定の「第五回内国勧業博覧会」は、1900年に開催予定が決まっていた「パリ万博」の準備と時期が重なるため1902年に延期することについて。そして次回の内国勧業博覧会は日清戦争勝利後初めての開催となり、1902年はペリー来航50周年でもあり、博覧会の規模を欧米と肩を並べる我が国にふさわしく拡大して、海外の工芸品を収集、展示することについて。また諸外国で開催された万国博覧会の失敗例を参考として、日本と関係がある諸外国に参加を求め、万博よりは規模の小さな博覧会とすることについての3点であった。", "title": "第五回内国勧業博覧会と万国博覧会" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "農商工高等会議ではまず「第五回内国勧業博覧会」の延期についてはすんなりと認められたものの、万博の要素を加味することになる第二、第三の諮問内容については、1902年の万博開催は時期尚早であるとのコンセンサスは得られたものの、「第五回内国勧業博覧会」にどの程度万博的な要素を入れ込むのか、そしていつ本番の万国博覧会を開催するのかについては意見がまとまらなかった。結局、「第五回内国勧業博覧会」では新たに万国貿易部を設け、万国博覧会開催については後日検討するという形の答申となった。1901年4月、農商務省は第五回内国勧業博覧会開催に向けて評議員会を開催した。評議員会の席で林有造農商務大臣は、これまでの内国勧業博覧会の枠にとらわれず、外国貿易の促進を図るような面目を一新した博覧会にするとの抱負を述べた。", "title": "第五回内国勧業博覧会と万国博覧会" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "実際問題、万国博覧会開催や内国勧業博覧会に外国が参加するためには法制度の整備も不可欠であった。これまでの不平等条約では外国人は居留地内でのみ商業行為が可能であったため、内国勧業博覧会の会場で外国製品を販売するためには条約改正が必要であった。また外国人は治外法権の特権があった反面、日本国内では工業所有権の保護は適用されなかった。つまり日本では外国から輸入した機械類等を無許可でコピー製品を製作、販売することが可能であった。このような状況下では諸外国に博覧会への出品を求めることは極めて困難であった。結局、1894年に締結された日英通商航海条約の後に諸外国と同等の条約を締結する中で内地雑居が実現し、また1899年にはパリ条約に加入し、同年、特許法、意匠法、商標法の関連法令の整備を行い、諸外国からの博覧会出品に対して工業所有権の保護がなされる環境が整えられた。", "title": "第五回内国勧業博覧会と万国博覧会" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "第三回農商工高等会議で諮問された万国貿易部は参考館として設置されることになった。参考館の設置は将来の万国博覧会開催を見据えたものであった。1902年の開催予定は1900年「パリ万博」参加準備のため1903年に再延長されたが、19世紀末から20世紀初頭にかけては「パリ万博」の他、「セントルイス・ルイジアナ購買記念万博」、「グラスゴー万博」など欧米諸国の万国博覧会が目白押しであり、各国はそれら万博への出展準備に追われ、第五回内国勧業博覧会への出品に消極的になることが危惧された。", "title": "第五回内国勧業博覧会と万国博覧会" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ところが実際ふたを開けてみると諸外国からの出品依頼が殺到することになった。当初、主催の農商務省は参考館の名前通り、諸外国からの出品を参考程度展示する予定であり、規模も300坪の予定であったが、殺到する出品依頼に対応すべく最終的には1750坪にまで広がった。そして参考館以外にも展示を希望する諸外国側が費用を出した独立館を6館設置することになった。「第五回内国勧業博覧会」には日本以外に18の国、地域が参加し、外国企業からも代理店を通じての出品が実現し、さながらミニ万国博覧会の様相を呈した。諸外国からの出品が殺到した理由としては、日本が各国製品を売り込む格好の市場であると見なされていたためであり、政府は諸外国の積極的な参加は、将来の万博開催に向けてのステップとして大変に有効であったと評価した。", "title": "第五回内国勧業博覧会と万国博覧会" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "また後述の台湾館などとともに参考館、独立館は多くの観客を集め、娯楽性を高めた他の展示内容も相まって、「第五回内国勧業博覧会」は約530万人の観客を動員し、開催地の大阪市に多大な経済効果をもたらした。この「第五回内国勧業博覧会」の成功はその後の博覧会の経済効果を狙った動きへと繋がっていくことになる。", "title": "第五回内国勧業博覧会と万国博覧会" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "「第五回内国勧業博覧会」では、1900年の「パリ万博」における植民地館をモデルとして、台湾総督府が台湾を内地に紹介することを目的として設置が検討された。台湾総督府の構想は予算不足のためいったんは頓挫したが、1901年度の予算で「第五回内国勧業博覧会」の場で台湾を紹介するための経費が認められ、1901年10月に台湾館の設置が公式に認められた。当時の万国博覧会では植民地館を設けることが特色の一つとなっており、台湾館もその流れに沿って設置されることになった。", "title": "第五回内国勧業博覧会と万国博覧会" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "予算の関係上、台湾館の建物は新築せずに台湾の既存の建物を博覧会会場に移築して使用した。台湾館は現地そのものの建物の他、併設の食堂や喫茶が人気を集め、主催者側からも「第五回内国勧業博覧会」の中でも最もインパクトが強いものになったと評価された。台湾館の展示や催しは日本国内において台湾への関心を高めることに繋がった。", "title": "第五回内国勧業博覧会と万国博覧会" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "人類館は「第五回勧業博覧会」の会場外に設けられ、公式の展示場ではなかった。しかし会場案内などでは紹介されており、事実上博覧会を構成する展示と見なされていた。人類館は1889年のパリ万博で行われた、フランス領植民地の集落、住民の大規模な展示以降、欧米で開催される万国博覧会に広まっていた。「第五回内国勧業博覧会」では台湾館と同様、当時の万国博覧会のトレンドに沿った形で設けられることになった。", "title": "第五回内国勧業博覧会と万国博覧会" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "「第五回内国勧業博覧会」の人類館展示では、展示された清国人、韓国人、そして沖縄の展示がそれぞれ清、韓国、沖縄からの抗議を受けて撤回に追い込まれた。しかし人類館の展示は当時の万国博覧会のトレンドに沿って設けられたものであったため、将来の万国博覧会の開催を見据えていた「第五回内国勧業博覧会」において、展示の一部が撤回に追い込まれながらも人類館自体の閉鎖は行われなかった。", "title": "第五回内国勧業博覧会と万国博覧会" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "外国からの参加が実現し、これまでの内国勧業博覧会よりも格段に規模が拡大した「第五回内国勧業博覧会」に続いて、万国博覧会を開催すべきであるという意見が世論の中からも現れるようになった。「第五回内国勧業博覧会」の開催に関する雑誌太陽の記事の中で、「第四回内国勧業博覧会」で事務局長を務めた九鬼隆一が「日本もゆくゆくは万国博覧会を開くことになるであろうから、今度の内国博覧会(第四回内国勧業博覧会)も其の下げいこのつもりでやっている」と、万国博覧会開催に向けての意欲を示していた発言が紹介され、雑誌太陽の同じ号では、「第五回内国勧業博覧会」よりも大規模である日本を中心とした世界大博覧会を東京で開催することを求める評論を掲載した。しかしその一方で、博覧会の出品内容を見ると欧米諸国との工業力の格差は歴然としており、国力の増強を背景とした万博開催を唱える自信と、欧米諸国との格差の自覚というある種矛盾した認識が生まれていた。", "title": "日本大博覧会構想" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1904年2月、日露戦争が始まった。1905年に入ると1月に旅順攻囲戦がロシア軍の降伏により終結し、3月に奉天会戦、5月には日本海海戦に勝利した。日本海海戦終了直後の6月1日、日本はアメリカに講和の仲介を求め、日本の求めに応じたアメリカは9日に日本、ロシア両国に対して講和を勧告し、12日にはロシアがアメリカの講和勧告に応じたため、日本、ロシア両国の講和会議が開始される流れとなった。", "title": "日本大博覧会構想" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ロシアがアメリカによる講和勧告の受け入れを決めた直後の1905年6月17日の閣議において、農商務大臣の清浦奎吾は戦争終結後に万博を開催する建議書を提出する。農商務省による万博開催の建議は、万博はこれまで欧米諸国のみで開催されていたため、開催それ自体が一等国の証であるとされており、日露戦争の勝利を記念して日本が世界の一等国であることを示す万博を開催しようともくろんだのである。また戦勝によりロシアから賠償金を得られる期待もあって、賠償金を万博開催費用に充てられるとの目算もあった。", "title": "日本大博覧会構想" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "しかし日露戦争の講和条約であるポーツマス条約で、ロシアからの賠償金の支払いはゼロとなった。期待していた賠償金を得られなかった日本は、自力で戦争遂行のために負った多額の債務を返済していかねばならなくなった。講和条約の交渉開始前は賠償金を期待して万博開催の建議を行った農商務省は、主張を後退させざるを得なかった。1905年11月、清浦農商務大臣は桂太郎首相に、次回の博覧会は6月17日の建議書通りに万博の開催を行うのか、内国勧業博覧会に万博の要素を加味するのか、それとも純粋な内国勧業博覧会とするのかについて調査検討が必要であると提案した。そのためまず1907年開催予定の「第六回内国勧業博覧会」の開催を延期し、農商務省内に博覧会調査委員を設けるための予算措置を求める博覧会開設調査委員設置の件を提出して、併せて2万5000円余りの調査費の議会提出を求めた。清浦の建議は認められ、12月27日の閣議で「第六回内国勧業博覧会」の延期と博覧会開設調査委員の設置が認められ、12月28日には勅令で「第六回内国勧業博覧会」の無期限延期が布告された。", "title": "日本大博覧会構想" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "一方、民間でも1905年10月に行われた全国商業会議連合会の政府に対する建議の中で、日露戦争の勝利の余勢を駆って、国力の発展と国富を増進させ、世界各国を相手とする商戦に勝ち抜くためにも、準備にある程度の時間を要するにしても数年後までに万国博覧会を開催することを希望するとの主張を行った。そして衆議院でも1906年2月27日に「万国博覧会開設に関する建議」が97名の衆議院議員により提出された。建議は日露戦争の勝利を記念して万国博覧会を開催し、日本の文化、工芸などを世界に広く紹介し、日本の実業家に世界の文化、工芸、美術等に触れる機会を設け、お互いの比較検討を通して日本の国力の更なる発展を目指すべきとの内容であった。この建議は3月10日に衆議院本会議で可決する。なお建議の衆議院での審議において、農商務省は日露戦争勝利記念の名目ではロシアの参加が見込めないなど都合が悪い点があり、1909年ないし1910年に憲法発布20周年記念、1917年の天皇即位50周年記念、1918年の天皇、皇后の結婚50周年記念などといった開催理由が考えられるとの見解を示した。一方、衆議院では万博開催建議に対して、財政難を理由に開催は時期尚早であるとの反対意見も出され、建議案は満場一致での可決とはならなかった。", "title": "日本大博覧会構想" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1905年11月に清浦農商務相が求めた2万5000円余りの調査費が議会を通過したため、1906年6月14日に農商務省内に博覧会調査会が設置され、農商務次官の和田彦次郎委員長ら43名が調査会委員として任命された。なお委員は和田委員長ら農商務省の関係者や、当時東京市長と衆議院議員を兼任していた尾崎行雄ら11名の衆議院議員、そして貴族院議員で構成されていた。博覧会調査会では第一案として万国博覧会の開催。第二案として内国勧業博覧会と万国博覧会の折衷案であり、工芸品と機械関連の品目に関しては外国からの出品を求めて工芸館、機械館に陳列し、東洋からの出品は東洋館、その他の外国からの出品は自費で陳列館を建設してもらうか、外国館にまとめて展示する案。そして第三案は基本的に内国勧業博覧会としての開催として、会場内に東洋館と外国館を設けるというものであった。", "title": "日本大博覧会構想" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "博覧会調査会での審議の結果、第二案の内国勧業博覧会と万国博覧会の折衷案が採用された。7月23日の会議において博覧会の名称を「日本大博覧会」として、会期は1912年4月から10月、開催場所は東京として、費用は1000万円を予定し、うち500万円は国費、300万円は東京市が分担し、200万円は入場料収入などで賄い、会場の敷地は約30万坪とした。さらに「日本大博覧会」関連事業として、道路・橋、各種交通機関、水道・排水設備、電燈、ガスといった社会インフラや、公会堂・劇場・音楽堂などの娯楽施設の整備、宿泊施設の充実、博覧会の運営を支える各種協会の設立、そして日本国内、外国からの観光客対応を行う施設の必要性を示した。", "title": "日本大博覧会構想" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "万博と内国勧業博覧会の折衷案となった理由は、まず現状では万博開催による十分な成果が得られる見込みが薄いと考えられ、日露戦争の勝利によって日本は世界の一等国になったものの、欧米諸国並みの万国博覧会を開催できる財政的な余裕は無く、しかも現実として日本の商工業は欧米諸国の実力にはまだほど遠く、本格的な万博の前段階として万博と内国勧業博覧会の中間程度の博覧会を開催して、日露戦争後の経済の発展に努めるのが得策であり、そもそも本格的な万博開催には準備期間が長くなってしまうため、戦争後の経済刺激策としての意味が無くなるといったものであった。つまり日露戦争には勝利したものの、欧米諸国の経済力や技術力に比べてまだ大きな差があるという認識に基づく折衷案であった。しかしそれでも第五回内国勧業博覧会の約10倍の経費を想定しており、これは当時パリやロンドンで行われていた万博の約4分の1以下の予算ではあったが、欧米では「日本大博覧会」と同一規模程度の万博も開催されていたため、事実上の万博開催計画であった。この博覧会調査会での審議結果は、これまで行われてきた形での内国勧業博覧会としての博覧会開催の終焉を意味した。", "title": "日本大博覧会構想" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1906年7月28日、農商務大臣の松岡康毅は西園寺公望首相に博覧会調査会の審議結果を報告し、閣議決定を要請した。1906年12月21日、内閣は、内国勧業博覧会と万国博覧会との中間規模の博覧会である「日本大博覧会」を、東京にて開催することを閣議決定した。しかし閣議決定後、議会関係者から巻き返しの動きが起きた。1907年2月7日、8日に行われた衆議院委員会において、「日本大博覧会」は広範囲の外国参加の門戸を閉ざしたままであって内国勧業博覧会の一種にすぎず、1906年3月10日に衆議院において可決された万国博覧会開設に関する決議の趣旨が生かされておらず、国力進展のために純正なる万国博覧会を開催すべきとの決議案が提案され、委員会で満場一致で採択され、2月14日には衆議院本会議において可決された。万国博覧会開催の決議が衆議院で可決されたのを受けて、2月27日に松岡農商務相は西園寺首相に対して既に内国勧業博覧会と万国博覧会との中間規模の博覧会として「日本大博覧会」開催が閣議決定していることを根拠に、決議の不採択を提言し、3月8日の閣議において不採択が決定された。その後議会において「日本大博覧会」関連予算を含む1907年度予算が可決されたことを受けて、1907年3月31日、勅令にて「日本大博覧会」を会期1912年4月1日から10月31日として東京市において開催すること、博覧会調査会の廃止と日本大博覧会事務局官制が公布された。", "title": "日本大博覧会構想" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1907年8月2日、農商務省内に日本博覧会事務局が設置されることが公表され、翌8月3日には総裁に伏見宮貞愛親王、会長金子堅太郎、事務局長は和田彦次郎が就任し、事務局は農商務省からの出向組が多数を占めた。皇族の伏見宮が総裁を務めることは、政府としても「日本大博覧会」開催の意義を重く見ていたことの現れであり、会長の金子はアメリカのハーバード大学留学経験者であり、1876年のフィラデルフィア万博以降、複数の万博の視察を行ってきており、1900年パリ万博では日本の参加準備段階で主要役員を務めているなど、万国博覧会関連の豊富な経験とともに事実上の万国博覧会開催を考慮した人事であった。会長就任後の金子は「日本大博覧会」に関する講演活動を精力的に行っていく。", "title": "日本大博覧会構想" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "「日本大博覧会」開催の動きが表面化する中、1906年7月末、東京市は「日本大博覧会」開催の下準備として1907年3月から7月にかけて上野公園において「東京勧業博覧会」を開催する計画を発表する。その一方で東京市は300万円の負担金の減額を画策する。「博覧会調査会」の委員でもあった尾崎行雄は委員会の席で東京府の300万円の負担は過重であると訴えており、政府に負担金の減額を陳情した。これに対して政府は会場を大阪市に変更することをちらつかせながら東京市の要求を拒絶した。結局、1907年1月24日の東京市会において負担金を受け入れる代わりに入場券販売を東京市が請け負う案が可決され、政府も入場券販売の東京市請負いを了承したため、博覧会の東京市開催が確定した。", "title": "博覧会開催に向けて" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "「日本大博覧会」開催が取り沙汰される中で、東京市内のどこを会場とするのかが問題となった。品川沖を埋め立てる、月島、上野周辺、青山、荏原ないし大森、丸の内、竹橋などが候補に上がり、水族館の横浜設置案も出された。品川沖埋め立てと丸の内は東京市の案であったが、あとは各地元の推薦であり誘致合戦の様相を呈した。各開催候補地とも博覧会開催による経済効果を狙っており、開催候補地以外でも日本橋周辺の商店は当時、日本橋からの交通の便が良くなかった青山にこぞって反対するといった動きも見られた。また各候補地による誘致合戦の中、分散開催案も飛び出し、上野や青山などでは思惑による地価上昇を招いた。このような状況の中、「日本博覧会事務局」は開催地の決定に頭を悩ませることになった。", "title": "博覧会開催に向けて" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "結局、1907年11月6日に、陸軍の青山練兵場を第一会場、代々木御用地に第二会場を設け、両者の間は中央本線沿いに約1.3キロメートルの連絡通路を設けるという案に決定した。これは青山、代々木は国有地と皇室の御料地であったため、土地の買収費用が最も安く済むという理由であった。しかし会場予定地全てを国有地、皇室御料地で済ますことも出来ず、青山練兵場東側の権田原町の北側と六軒町、南側の青山北町は立ち退き対象となり、政府は土地収用法を適用して土地所有者から強制的に買収することを決定したため、立ち退き対象の住民たちから反対運動が起きたが、東京市長の尾崎行雄は反対を押し切った。そして青山会場から代々木会場へと向かう連絡通路の工事は実際に進められていく。", "title": "博覧会開催に向けて" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1908年2月27日、日本大博覧会に出品する外国産品について関税を免税にする法律が公布され、3月17日には博覧会に出品される物品の発明、特許登録、商標登録に関する法律が公布されるなど、博覧会開催に伴う法整備も進められた。", "title": "博覧会開催に向けて" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "6月27日には日本大博覧会規則が発表された。日本大博覧会規則ではまず会場は青山練兵場と代々木御用地とその両地を繋ぐ土地として、水族館のみ設置場所を後に定めるとした。博覧会の土地は全体として東側が低く、西側が高くなっているため、会場全体の景観の観点から博覧会正門を東側の権田原に建てることが決定され、正門に繋がる大道路の建設が構想された。また会期は1912年4月1日から10月31日まで、出品は21部門、陳列館は16館として、外国からの陳列館への出品は教育、学芸、化学工業、染織工業、製作工業、建築・室内装飾、機械、電気の各部門とし、それ以外の出品は独自の陳列館を設けた上で展示することができると定められた。出品項目は1900年のパリ万博をモデルとして決定したと考えられている。", "title": "博覧会開催に向けて" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "なお1907年12月に博覧会の終了後、博覧会会場のうち青山練兵場部分に関しては東京市の公園とすることで政府と東京市との間で合意が成立した。そして終了後の公園化が確定している以上、博覧会の美術館は仮設のものではなくて、継続して使用し続けられる恒久的なものとして建てられることが内定した。この青山練兵場の日本大博覧会会場としての利用案とその後の公園化構想は、後の神宮外苑の構想へと繋がっていくことになる。", "title": "博覧会開催に向けて" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "「日本大博覧会」には数か国が非公式な形で参加の意思を示していた。1907年12月3日にアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領が議会教書において「日本大博覧会」参加の意向を示し、12月7日には公式に参加を表明していた。アメリカが初の公式参加表明であり、結果としては唯一の諸外国からの参加表明となった。1908年5月下旬、連邦議会は他国開催の万国博覧会参加費用としてはこれまでで最高額の150万ドルの「日本大博覧会」参加費を可決し、7月にはアメリカの「日本大博覧会」参加に当たり、前国務次官補フランシス・バトラー・ルーミスという大物が事務官長に就任した。", "title": "博覧会開催に向けて" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "日本大博覧会事務局会長の金子堅太郎は、ルーズベルト大統領はハーバード大学留学時からの知己であり、大統領に参加を直談判したと回想している。しかし他国開催の万博では最高額となる参加費用を支出し、大物が事務官長に就任するといった厚遇は、当時の日米関係がぎくしゃくしていたことが背景にあると考えられている。日米間の重要課題としては、アメリカの特に西海岸で高まりつつあった日本からの移民排斥運動があった。また日露戦争後の満洲の権益をめぐる問題も両国間の大きな課題であった。日米間に重要課題を抱えている状況下において、ルーズベルト政権としては対決ではなく日米関係を重視し、友好を求めていることを示す必要があった。", "title": "博覧会開催に向けて" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "そして1908年7月4日には、各国に対して「日本大博覧会」の正式な招請状を送付することが閣議決定された。", "title": "博覧会開催に向けて" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "衆議院では1907年3月に「日本大博覧会」開催によって外国人観光客の増加を見越した「ホテル開設に関する建議」が提出された。建議では万国博覧会の開催が迫る中、多くの外国人観光客の来遊が予想されるため、博覧会の成功のためには宿泊設備の充実が必要になるのではないかと主張した。翌1908年3月にも衆議院に、日本国内のホテルは数量ともに貧弱なレベルにあり、外国人観光客を満足させられない状況にあり、「日本大博覧会」開催が迫る中、ホテルの増設は急務であるとの内容の、前年の建議とほぼ同趣旨の「来遊外客待遇の設備に関する決議」が提出された。", "title": "博覧会開催に向けて" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "鉄道庁は「日本大博覧会」開催に向けて鉄道改良計画を立てた。計画には赤羽‐池袋、新橋‐上野、新橋‐国府津間の電化、東海道線、高崎線の複線化、現在の東京駅である中央停車場の完成が取り上げられていた。なお中央停車場の基礎工事は1908年3月25日に、駅の設計の完了を待たずに着工されたが、これは「日本大博覧会」開催を考慮した鉄道庁が早期の完成を望んだことが要因のひとつとされている。", "title": "博覧会開催に向けて" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "また「日本大博覧会」構想が報道されるようになると、国際博覧会開催ともなれば内外から多くの観覧者が東京に集まってくるため、交通機関、宿泊施設、公衆衛生設備等の整備が急務であるにもかかわらず、行政の動きが鈍いこともあって、東京の商工業者の中から自主的に博覧会開催を念頭に置いた動きが始まっていた。商工業者の狙いはもちろん博覧会開催による経済効果であった。計画の正式決定後、博覧会事務局の金子会長は講演会活動を通じて、産業や技術の交流、文化・学術面での交流、国家的な祝祭、参加各国及び国民同士の交流という「日本大博覧会」の四大目的とともに、開催地の東京、そして日本全体に大きな経済効果をもたらすと主張していた。博覧会の経済効果に期待する声は東京のみならず全国に広まり、東北地方の奥州館、その他、山陰館、九州の鎮西館、山陽の中国館といった地方館の設置計画や、博覧会開催時に来訪する外国人客をあて込んで、奈良や厳島などでは観光設備の整備への取り組みが図られた。", "title": "博覧会開催に向けて" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "前述のように「日本大博覧会」構想が具体化しつつあった1906年の段階で、厳しい財政難を理由に開催に反対する意見が出されていた。開催計画が正式に決定された後の1907年11月18日、東京朝日新聞は、政府部内から1000万円ではとうてい「日本大博覧会」の開催は無理であり、数倍の予算が必要であるとみられ、財政難の折にそのような費用負担は困難であるため、1917年に明治天皇の在位50周年を記念する形で開催すべきではないかとの延期論が浮上しているとのスクープ記事を掲載した。", "title": "1917年への開催延期" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "当時、西園寺内閣は財政難への対応に苦慮していた。西園寺内閣の与党であった政友会は、日露戦争後の経済政策と政友会の党勢拡大をもくろんだ鉄道や港湾といった社会資本整備の予算拡大に積極的であったが、財政難を理由に井上馨ら元老は行政経費の節減の他、政友会が主張する事業の繰り延べ、増税を求めた。総選挙を控えた政友会は不人気政策である増税や全国への利益誘導に繋がる社会資本整備予算の削減には反対であり、内閣は両者の板挟みになっていた。そのような中でやり玉に挙がったのは「日本大博覧会」計画であった。内閣では政友会の幹部でもある松田正久法務大臣が延期論の口火を切り、やはり政友会幹部の原敬内務大臣が賛成し、井上馨も財政難の折に博覧会を行う必要は無いと主張した。", "title": "1917年への開催延期" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "前述のように1907年12月3日にアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領が議会教書において「日本大博覧会」参加の意向を示し、12月7日には正式参加を表明していた。懸案事項が山積する中でアメリカの参加表明直後に延期を決定するのは両国関係に新たな亀裂を生じさせることになると判断され、この時の延期論は立ち消えとなった。", "title": "1917年への開催延期" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "第1次西園寺内閣は1908年7月4日に総辞職し、同月には第2次桂内閣が発足する。桂内閣は財政問題への対応を最優先課題として掲げ、歳出及び事業の見直しに着手する。見直しの俎上に「日本大博覧会」が挙げられることになり、前内閣の総辞職前に各国に発送することが決定されていた招請状も発送が延期された。また新内閣は日露戦争後、疲弊して困窮化が進んだ地方の立て直し、改良を重点政策課題として掲げていた。そのため日露戦争勝利後の一等国日本の首都東京の社会資本を充実させることになる「日本大博覧会」よりも、地方全体の立て直し、改良を図ることが政策課題として重要視された。", "title": "1917年への開催延期" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "内閣は博覧会事務局の総裁伏見宮貞愛親王、金子会長らにも明かすことなく、秘密裏に「日本大博覧会」の延期の調整を始めた。延期の理由はまず財政面であり、博覧会にかかる直接経費よりもインフラ整備に莫大な経費を要すると見込まれ、延期を行わなければ内閣の致命傷となると判断された。また日露戦争後の困窮し疲弊した地方の立て直し、改良も急務とされ、それも延期の判断材料となった。", "title": "1917年への開催延期" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "延期に当たり問題となったのがアメリカから了承を取り付けることであった。そもそも前内閣時に延期が問題となった際に取りやめとなったのはアメリカの正式参加表明があったためであり、外交面から判断してアメリカから延期についての了承を得ることは極めて重要であった。日米間の懸案となっていた移民問題は日米紳士協約により沈静化してきており、日米間の緊張は緩和しつつあった。日本側からの延期の打診に対してアメリカは了承し、1908年9月2日、「日本大博覧会」の開催を5年延期して1917年開催とする旨の勅令が公布された。延期の理由として準備が間に合わないことが挙げられ、天皇在位50周年となる1917年に万全の準備をもって名実ともに万国博覧会を開催するのがベストであるとした。", "title": "1917年への開催延期" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "全く相談なく一方的に延期の決定を告げられた博覧会事務局は、総裁伏見宮貞愛親王、金子会長、和田事務局長は揃って辞表を提出した。伏見宮、金子の辞表は受理されたが、事務局長の和田は留任することになった。一方的な決定に衆議院、貴族院の中に反発も見られたが、財政状況が逼迫しているのは明らかであったため、延期はやむを得ないとの流れになっていく。また民間でもやはり一方的な延期決定に異議は唱えつつも、多くは日露戦争後の厳しい不況下では開催延期はやむを得ないとの認識で落ち着いていく。一方、既に博覧会開催費用の一部負担を行い、住民の強制移住も実行した東京市は強く延期反対を唱えたが、政府から既負担分の費用返還が認められた。ただし強制移住の対象とされた住民の怒りは容易には収まらなかった。", "title": "1917年への開催延期" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1908年10月、アメリカからルーミス事務官長らが「日本大博覧会」の打ち合わせのために来日した。ルーミスらは日本政府に対し、延期というのは名ばかりで実際のところ中止するつもりであると思われると批判した。ルーミスらの批判に対し、1909年度の予算には「日本大博覧会」関連予算を計上し、1910年には本格的な準備に取り掛かると釈明した。実際に1909年度予算には「日本大博覧会」の調査費が計上され、博覧会の直接経費も2000万円に増額することを決定する。延期後の「日本大博覧会」も、やはりアメリカとの関係が再スタートのきっかけとなった。", "title": "開催ムードの再燃" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "「日本大博覧会」の再スタートの動きを見て、博覧会をあて込んだ動きが再燃する。1909年には「日本大博覧会」の協賛事業として松島の県営公園化の構想が出された。1911年には「日本大博覧会」の催しに合わせ、欧米のナショナルパークに倣って日光の帝国公園化の請願が衆議院、貴族院に提出され、富士山でも「日本大博覧会」を契機として国設大公園を設ける意見が出された。", "title": "開催ムードの再燃" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "政府は1910年12月13日に、これまで農商務省内で博覧会行政に携わってきた宮中顧問官の平山成信を、宮中顧問官と兼任の扱いで「日本大博覧会」会長に任命する。さらに1911年度予算に代々木会場、青山会場を繋ぐ連絡通路の整備費用など、「日本大博覧会」関連費用を計上した。平山は1911年7月に宮中顧問官を退任し、博覧会会長専任となり、8月には東京市が博覧会の準備を再開し、9月になると横浜市が博覧会の水族館、京都市が美術館の誘致運動を始めた。このように「日本大博覧会」開催に向けての具体的な動きが活発化していく。", "title": "開催ムードの再燃" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "農商務省は省内に「日本大博覧会」の工事に関する準備委員会を立ち上げた。準備委員会は委員長を土木工学者の古市公威を筆頭とし、建築家の片山東熊、辰野金吾、鉄道技術者の増田禮作、電信電話技術者の五十嵐秀助らが博覧会に必要とされる施設の内容、敷地面積を協議、決定した。", "title": "開催ムードの再燃" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "1911年5月、「日本大博覧会」の設計競技である「日本大博覧会敷地内配置懸賞計画」が行われることが公表された。設計競技は「日本大博覧会」の工事準備委員会が決定した仕様の博覧会施設を代々木会場、青山会場に割り振り、両会場のバランスを取りながらどのように博覧会施設を配置するのかという会場全体の構成力を競うものとなった。また博覧会施設の仕様以外に、前述の代々木会場、青山会場を繋ぐ連絡通路、青山会場の東側の権田原町に設けられる正門、青山会場に設けられる恒久的な美術館は設計における前提条件とされた。競技参加者は工事規定と敷地図の購入が必要とされ、縮尺1/1200の図面と説明書の提出を求められた。「日本大博覧会」の会場全体の設計という大規模設計が設計競技の対象とされたのは日本では初めてであり、「日本大博覧会敷地内配置懸賞計画」に対する関心は高く、工事規定と敷地図の購入者は240名を超え、設計競技参加者は155名を数えた。", "title": "開催ムードの再燃" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "「日本大博覧会敷地内配置懸賞計画」の審査員は博覧会会長の平山成信の他、岡本英太郎、手島精一、古市公威、日下部辨二郎、ジョサイア・コンドル、伊東忠太、片山東熊、塚本靖、福羽逸人といった博覧会関係者、工学者、建築家、造園家らによって構成されていた。1911年11月14日、伊東忠太が「とにかく群を抜き、他のものはいわばどんぐりの背比べ」と激賞した吉武東里の案が、審査員の全員一致で一位当選となった。", "title": "開催ムードの再燃" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "吉武東里の案は、まず博覧会という短期集中型のイベントにおいて観客の興味関心を引き付けるべく、バラエティーに富んだ会場作りが必要とされるとの視点で構成されていた。青山会場は西洋風、都会的かつ人工的な構成とし、一方、代々木会場は東洋風、田舎風、自然的な構成として両会場にはっきりとした変化をつけた。", "title": "開催ムードの再燃" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "他の設計競技参加者の案は青山、代々木両会場ともに欧米の博覧会会場をモデルとした幾何学的な配置案であったのに対し、吉武の案は青山会場に関しては欧米風の規則正しい直線的な建物配置としたのに対し、代々木会場は曲線的な道路を用い、既存の森林を生かした形になっており、代々木御料地に遺されていた武蔵野の自然を有効活用した設計となっていた。つまり博覧会予定地の現状を的確に分析してその特性を生かし、青山、代々木の両会場に変化をつけて博覧会会場としてまとめ上げた力量が一位当選として評価された。", "title": "開催ムードの再燃" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "1911年8月、第2次桂内閣は総辞職し、8月30日に第2次西園寺内閣が成立する。第1次西園寺内閣と同様に、政友会幹部の松田正久は法務大臣、原敬は内務大臣として入閣した。新内閣の1912年度予算編成に際し、元老井上馨は外債の償還のために大幅な歳出削減を主張した意見書を山本達雄大蔵大臣に送っており、井上の意見書の中で「日本大博覧会」は不急の事業であるとして中止すべきとされていた。また第2次西園寺内閣では海軍の拡張案が問題となっており、海軍の拡張を求める齋藤実海軍大臣と公共事業の拡充を求める原内相との間で意見対立が起きていた。", "title": "博覧会の中止決定" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "山本蔵相は海軍の拡張案を受け入れ、原の求める事業の中で電話拡張、港湾修築、鉄道拡張は認め、「日本大博覧会」、国勢調査、議院建築の3事業の延期を提案する。11月20日、西園寺と松田、原との三者会談が行われ、山本蔵相の提案が了承された。そして11月24日の閣議の席で、「日本大博覧会」の無期延期という形で中止が決定された。翌1912年3月22日、勅令で正式に「日本大博覧会」の中止が公布され、3月31日には日本博覧会事務局が廃止された。", "title": "博覧会の中止決定" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "中止決定に対して1912年2月24日には、衆議院に「明治五十年日本大博覧会開催に関する決議」が提出された。決議は「日本大博覧会」の開催が、日露戦争後の経済発展、産業振興の絶好の機会として予定通りの開催を求めたものであった。この決議は委員会審議の中で修正の上、3月22日の本会議で可決された。修正の中で、政府が博覧会の遂行が困難である場合、地方公共団体や私人が企画し、政府が支援することとの内容が盛り込まれた。これは国主導ではなく、東京市などの地方公共団体や経済団体が主導して博覧会を開催する動きを反映したものであった。", "title": "博覧会の中止決定" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "いったん国の正式な計画として準備を始めた「日本大博覧会」であるが、財政難の中、中止という結果になった。しかし計画開始時点から財政難は継続しており、財政難の中にあっても、「日本大博覧会」の場でアピールすべき国家として目指す姿が見い出せなかったことが中止の背景として指摘されている。またこれは明治維新後の国家目標がある程度成就した後、新たな目標自体が捉えられていなかったことを示しているとの意見がある。また維新後、殖産興業政策の後押しとして内国勧業博覧会を開催してきた井上馨らの元老から見て、明治末期の時点では博覧会で産業振興を図る必要性を認めないほど国内産業が成長したという判断を下したとの評価もある。", "title": "日本大博覧会計画の評価と影響" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "一方、「亜細亜大博覧会」とは異なり、実施に向けて実際に計画が進められ、一部工事も始められていた「日本大博覧会」は、様々な影響を後に遺すことになった。まず明治天皇の在位50周年等の皇室の慶事が開催の名目として取り上げられたことは、経済発展のシンボルとして皇室ブランドが象徴的な機能を果たすことが認識された。また博覧会開催に向けての準備が行われたため、「日本大博覧会」の関係者の中から、その後、万博計画に携わることになる人材が生まれた。そして「日本大博覧会」以降、万博構想の推進役は国から経済効果を期待する地域や経済団体へと移行することになる。", "title": "日本大博覧会計画の評価と影響" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "「日本大博覧会」中止後の1912年7月、明治天皇は崩御した。8月20日に東京商業会議所で行われた各団体連合の協議会の席で、東京府内の代々木御料地と青山練兵場に明治天皇を祀る神宮の造営を求める覚書を採択する。覚書では神宮本体となる内苑は代々木御料地に、一方、外苑は青山練兵場に設け、明治天皇の頌徳を目的とする記念宮殿や、臣民の功績を称える陳列館などを設ける計画であった。代々木の御料地と青山の練兵場は離れた場所の性格の異なる土地であり、しかも「覚書」では代々木と青山で違うタイプの施設を設け、両者をまとめて一つの神社とするという案はこれまでに例のない画期的なものであった。「覚書」作成に中心的に関わった阪谷芳郎東京市長、渋沢栄一、中野武営、角田真平はともに理事官や評議員として「日本大博覧会」に関与しており、博覧会の計画内容を熟知していた。また実際の神宮外苑の設計は古市公威を顧問として、伊東忠太、日下部辨二郎が中心となって行ったが、古市、伊東、日下部とも「日本大博覧会敷地内配置懸賞計画」の審査員を務めており、明治神宮、とりわけ外苑の造営は「日本大博覧会」計画に精通していた人物たちによって行われた。つまり「日本大博覧会」のプランニングが明治神宮に受け継がれたと評価できる。", "title": "日本大博覧会計画の評価と影響" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "実際、吉武東里の「日本大博覧会」設計案と明治神宮の内苑、外苑には多くの類似点が指摘できる。まず青山会場は、前述のように博覧会終了後は東京市の公園となる計画であった。吉武は洋式庭園や公園をモデルとした人工的かつ都会的、西洋風な配置計画を立てており、外苑との類似性が高い計画となっている。内苑もやはり鬱蒼とした森を利用した天然的な配置を行った代々木会場の設計案との類似性が指摘できる。中でも鬱蒼とした森に覆われた内苑と都市型の公園である外苑という異なった要素をまとめ上げて明治神宮とした点が、都会的な青山会場、自然的な代々木会場を「日本大博覧会」会場として一つにまとめ上げた手法と一致している。これらのことから吉武東里の「日本大博覧会」設計案が明治神宮の造営に影響を与えたと考えられている。", "title": "日本大博覧会計画の評価と影響" } ]
日本大博覧会(にほんだいはくらんかい)は、1905年の日露戦争勝利後に構想が具体化し、内国勧業博覧会と万国博覧会の折衷的な位置づけで1912年に開催されることが、1907年に正式決定された博覧会である。実質的な内容は万国博覧会であったが、財政難などのため1908年には明治天皇在位50周年となる1917年へと延期され、1911年には中止が決定した。しかし国の正式な計画として決定し、一部工事も始められていた「日本大博覧会」は、その計画内容が明治神宮の内苑と外苑に受け継がれていくなど後世に影響を与えた。 なお、本記事では「日本大博覧会」とともに、1903年に行われた「第五回内国勧業博覧会」など計画のみで終わった「亜細亜大博覧会」後の万博開催に関する動きについても説明する。
[[ファイル:Daihaku-yoshitake1.jpg|thumb|350px|[[吉武東里]]設計、「日本大博覧会」青山会場鳥瞰図。東側から会場を俯瞰している。]] '''日本大博覧会'''(にほんだいはくらんかい)は、1905年の[[日露戦争]]勝利後に構想が具体化し、[[内国勧業博覧会]]と[[国際博覧会|万国博覧会]]の折衷的な位置づけで1912年に開催されることが、1907年に正式決定された博覧会である。実質的な内容は万国博覧会であったが、財政難などのため1908年には[[明治天皇]]在位50周年となる1917年へと延期され、1911年には中止が決定した。しかし国の正式な計画として決定し、一部工事も始められていた「日本大博覧会」は、その計画内容が[[明治神宮]]の内苑と[[明治神宮外苑|外苑]]に受け継がれていくなど後世に影響を与えた。 なお、本記事では「日本大博覧会」とともに、1903年に行われた「第五回内国勧業博覧会」など計画のみで終わった「[[亜細亜大博覧会]]」後の万博開催に関する動きについても説明する。 == 第五回内国勧業博覧会と万国博覧会 == === 国力に対する自信と万博構想 === 万国博覧会は1851年に開催された「[[ロンドン万国博覧会 (1851年)|ロンドン万博]]」に始まった。「ロンドン万博」は約600万人の観客を集め大成功を収め、以後、欧米各国は競って万国博覧会を開催していく<ref name="皇紀・万博・オリンピック14">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)、p.14.]]</ref>。[[日本]]の万博参加は1867年の[[パリ万国博覧会 (1867年)|パリ万博]]が初であった<ref name="皇紀・万博・オリンピック14" />。日本では欧米諸国の万博に参加をしながら、1877年から[[殖産興業]]政策の後押しを目的とした内国勧業博覧会を開催することになる<ref name="皇紀・万博・オリンピック14-15">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)、pp.14-15.]]</ref>。 そのような中で日本でも万国博覧会を開催しようとの声が挙がるようになり、1885年には「亜細亜大博覧会」の開催計画が持ち上がった。これは日本初、アジア初の万国博覧会構想であった<ref name="皇紀・万博・オリンピック15-16">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)、pp.15-16.]]</ref>。財政難等を理由とした[[大蔵省]]の反対により、「亜細亜大博覧会」は計画倒れに終わってしまったが、内国勧業博覧会の運営に携わる関係者の間では、「亜細亜大博覧会」の事実上の構想者であった[[佐野常民]]のみならず、内国勧業博覧会の先には[[万国博覧会]]開催があるとの意識が浸透していった<ref name="博覧会の時代165">[[#博覧会の時代|國(2005)、p.165.]]</ref>。またマスコミでも万博の開催を見据えた論評が見られるようになる<ref name="博覧会の時代165" />。 そして[[日清戦争]]の勝利により、国力の伸展を自覚する中で万国博覧会開催に向けての意識が高まっていく。1895年に開催された「第四回内国勧業博覧会」の審査総長であった[[九鬼隆一]]は、日清戦争の勝利後である1895年4月に、日本は既にしてかつての日本ではなく、東洋の日本でもなく世界の日本であるとした上で、「(日清戦争)開戦以来、万国ひとしく我が国に着目せるを機として、更に万国大博覧会を戦争終局の後に開設せんことを希望」するとして、日清戦争勝利の余勢を駆って万博を開催しようと主張した<ref name="博覧会の時代165-166">[[#博覧会の時代|國(2005)、pp.165-166.]]</ref>。また[[大隈重信]]も日清戦争の勝利により日本は世界の強国入りを果たしたとの認識を示した上で、万国博覧会を開催して日本と欧米の工業製品とを比較する機会を設け、まだ欧米諸国よりも遅れている工業の更なる発展を図り、さらには万国博覧会開催によって世界に[[列強]]の仲間入りを披露する機会とすべきと主張した<ref name="博覧会の時代166">[[#博覧会の時代|國(2005)、p.166.]]</ref>。1898年10月、[[読売新聞]]は来る1902年は[[黒船来航|ペリー来航]]50周年になるので、50周年を記念して「太平洋沿岸諸州博覧会」の開催案を紙上で提案した。なお万国博覧会ではなく「太平洋沿岸諸州博覧会」とした理由は、大規模な万博開催は日本の国力に余る事業であり、内国勧業博覧会と万博との中間的な博覧会がふさわしいとの意図であった<ref name="博覧会の時代166" />。 === 万博開催への模索 === 1898年10月、[[農商務省]]は第三回農商工高等会議に「第五回内国勧業博覧会」開催に関する諮問を行った。諮問の内容はまず、1899年に開催予定の「第五回内国勧業博覧会」は、1900年に開催予定が決まっていた「[[パリ万国博覧会 (1900年)|パリ万博]]」の準備と時期が重なるため1902年に延期することについて。そして次回の内国勧業博覧会は日清戦争勝利後初めての開催となり、1902年は[[黒船来航|ペリー来航]]50周年でもあり、博覧会の規模を欧米と肩を並べる我が国にふさわしく拡大して、海外の工芸品を収集、展示することについて。また諸外国で開催された万国博覧会の失敗例を参考として、日本と関係がある諸外国に参加を求め、万博よりは規模の小さな博覧会とすることについての3点であった<ref name="博覧会の時代166-167">[[#博覧会の時代|國(2005)、pp.166-167.]]</ref>。 農商工高等会議ではまず「第五回内国勧業博覧会」の延期についてはすんなりと認められたものの、万博の要素を加味することになる第二、第三の諮問内容については、1902年の万博開催は時期尚早であるとのコンセンサスは得られたものの、「第五回内国勧業博覧会」にどの程度万博的な要素を入れ込むのか、そしていつ本番の万国博覧会を開催するのかについては意見がまとまらなかった。結局、「第五回内国勧業博覧会」では新たに万国貿易部を設け、万国博覧会開催については後日検討するという形の答申となった<ref name="博覧会の時代167">[[#博覧会の時代|國(2005)、p.167.]]</ref>。1901年4月、農商務省は第五回内国勧業博覧会開催に向けて評議員会を開催した。評議員会の席で[[林有造]]農商務大臣は、これまでの内国勧業博覧会の枠にとらわれず、外国貿易の促進を図るような面目を一新した博覧会にするとの抱負を述べた<ref name="博覧会の時代167-168">[[#博覧会の時代|國(2005)、pp.167-168.]]</ref>。 実際問題、万国博覧会開催や内国勧業博覧会に外国が参加するためには法制度の整備も不可欠であった。これまでの[[不平等条約]]では外国人は[[外国人居留地|居留地]]内でのみ商業行為が可能であったため、内国勧業博覧会の会場で外国製品を販売するためには[[条約改正]]が必要であった。また外国人は[[治外法権]]の特権があった反面、日本国内では工業所有権の保護は適用されなかった。つまり日本では外国から輸入した機械類等を無許可でコピー製品を製作、販売することが可能であった。このような状況下では諸外国に博覧会への出品を求めることは極めて困難であった<ref name="博覧会の時代168-169">[[#博覧会の時代|國(2005)、pp.168-169.]]</ref>。結局、1894年に締結された[[日英通商航海条約]]の後に諸外国と同等の条約を締結する中で[[内地雑居]]が実現し、また1899年には[[工業所有権の保護に関するパリ条約|パリ条約]]に加入し、同年、[[特許法]]、[[意匠法]]、[[商標法]]の関連法令の整備を行い、諸外国からの博覧会出品に対して工業所有権の保護がなされる環境が整えられた<ref name="博覧会の時代167-169">[[#博覧会の時代|國(2005)、pp.167-169.]]</ref>。 === 参考館、台湾館、人類館の設置 === ==== 参考館の設置 ==== 第三回農商工高等会議で諮問された万国貿易部は参考館として設置されることになった<ref name="博覧会の時代169-170">[[#博覧会の時代|國(2005)、pp.169-170.]]</ref>。参考館の設置は将来の万国博覧会開催を見据えたものであった<ref name="万博開催への模索69">[[#万博開催への模索|伊藤(2005)、p.69.]]</ref>。1902年の開催予定は1900年「パリ万博」参加準備のため1903年に再延長されたが、19世紀末から20世紀初頭にかけては「パリ万博」の他、「[[セントルイス万国博覧会|セントルイス・ルイジアナ購買記念万博]]」、「グラスゴー万博」など欧米諸国の万国博覧会が目白押しであり、各国はそれら万博への出展準備に追われ、第五回内国勧業博覧会への出品に消極的になることが危惧された<ref name="博覧会の時代170-171">[[#博覧会の時代|國(2005)、pp.170-171.]]</ref>。 ところが実際ふたを開けてみると諸外国からの出品依頼が殺到することになった。当初、主催の農商務省は参考館の名前通り、諸外国からの出品を参考程度展示する予定であり、規模も300坪の予定であったが、殺到する出品依頼に対応すべく最終的には1750坪にまで広がった。そして参考館以外にも展示を希望する諸外国側が費用を出した独立館を6館設置することになった<ref name="博覧会の時代170-172">[[#博覧会の時代|國(2005)、pp.170-172.]]</ref>。「第五回内国勧業博覧会」には日本以外に18の国、地域が参加し、外国企業からも代理店を通じての出品が実現し、さながらミニ万国博覧会の様相を呈した<ref name="万国博覧会127-128">[[#万国博覧会|吉田(1985)、pp.127-128.]]</ref><ref name="博覧会の時代171-172">[[#博覧会の時代|國(2005)、pp.171-172.]]</ref>。諸外国からの出品が殺到した理由としては、日本が各国製品を売り込む格好の市場であると見なされていたためであり、政府は諸外国の積極的な参加は、将来の万博開催に向けてのステップとして大変に有効であったと評価した<ref name="博覧会の時代173-174">[[#博覧会の時代|國(2005)、pp.173-174.]]</ref>。 また後述の台湾館などとともに参考館、独立館は多くの観客を集め、娯楽性を高めた他の展示内容も相まって、「第五回内国勧業博覧会」は約530万人の観客を動員し、開催地の大阪市に多大な経済効果をもたらした<ref name="博覧会の時代190-195">[[#博覧会の時代|國(2005)、pp.190-195.]]</ref>。この「第五回内国勧業博覧会」の成功はその後の博覧会の経済効果を狙った動きへと繋がっていくことになる<ref name="博覧会の時代194-195">[[#博覧会の時代|國(2005)、pp.194-195.]]</ref>。 ==== 台湾館の設置 ==== 「第五回内国勧業博覧会」では、1900年の「パリ万博」における植民地館をモデルとして、[[台湾総督府]]が台湾を内地に紹介することを目的として設置が検討された<ref name="万博開催への模索71-72">[[#万博開催への模索|伊藤(2005)、pp.71-72.]]</ref>。台湾総督府の構想は予算不足のためいったんは頓挫したが、1901年度の予算で「第五回内国勧業博覧会」の場で台湾を紹介するための経費が認められ、1901年10月に台湾館の設置が公式に認められた<ref name="万博開催への模索72">[[#万博開催への模索|伊藤(2005)、p.72.]]</ref>。当時の万国博覧会では植民地館を設けることが特色の一つとなっており、台湾館もその流れに沿って設置されることになった<ref name="万博開催への模索80">[[#万博開催への模索|伊藤(2005)、p.80.]]</ref>。 予算の関係上、台湾館の建物は新築せずに台湾の既存の建物を博覧会会場に移築して使用した。台湾館は現地そのものの建物の他、併設の食堂や喫茶が人気を集め、主催者側からも「第五回内国勧業博覧会」の中でも最もインパクトが強いものになったと評価された<ref name="万博開催への模索73-74">[[#万博開催への模索|伊藤(2005)、pp.73-74.]]</ref><ref name="博覧会の時代177-178">[[#博覧会の時代|國(2005)、pp.177-178.]]</ref>。台湾館の展示や催しは日本国内において台湾への関心を高めることに繋がった<ref name="博覧会の時代177-178" />。 ==== 人類館の設置 ==== {{See also|人類館事件}} 人類館は「第五回勧業博覧会」の会場外に設けられ、公式の展示場ではなかった。しかし会場案内などでは紹介されており、事実上博覧会を構成する展示と見なされていた<ref name="万博開催への模索75">[[#万博開催への模索|伊藤(2005)、p.75.]]</ref>。人類館は1889年の[[パリ万国博覧会 (1889年)|パリ万博]]で行われた、フランス領植民地の集落、住民の大規模な展示以降、欧米で開催される万国博覧会に広まっていた<ref name="万博開催への模索76-77">[[#万博開催への模索|伊藤(2005)、pp.76-77.]]</ref>。「第五回内国勧業博覧会」では台湾館と同様、当時の万国博覧会のトレンドに沿った形で設けられることになった<ref name="万博開催への模索79-80">[[#万博開催への模索|伊藤(2005)、pp.79-80.]]</ref>。 「第五回内国勧業博覧会」の人類館展示では、展示された清国人、韓国人、そして沖縄の展示がそれぞれ[[清]]、[[大韓帝国|韓国]]、沖縄からの抗議を受けて撤回に追い込まれた<ref name="万博開催への模索77-79">[[#万博開催への模索|伊藤(2005)、pp.77-79.]]</ref>。しかし人類館の展示は当時の万国博覧会のトレンドに沿って設けられたものであったため、将来の万国博覧会の開催を見据えていた「第五回内国勧業博覧会」において、展示の一部が撤回に追い込まれながらも人類館自体の閉鎖は行われなかった<ref name="万博開催への模索79-80" />。 == 日本大博覧会構想 == === 民間からの万博開催構想 === 外国からの参加が実現し、これまでの内国勧業博覧会よりも格段に規模が拡大した「第五回内国勧業博覧会」に続いて、万国博覧会を開催すべきであるという意見が世論の中からも現れるようになった<ref name="万国博覧会133">[[#万国博覧会|吉田(1985)、p.133.]]</ref><ref name="皇紀・万博・オリンピック19-20">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)、pp.19-20.]]</ref>。「第五回内国勧業博覧会」の開催に関する雑誌[[太陽 (博文館)|太陽]]の記事の中で、「第四回内国勧業博覧会」で事務局長を務めた[[九鬼隆一]]が「日本もゆくゆくは万国博覧会を開くことになるであろうから、今度の内国博覧会(第四回内国勧業博覧会)も其の下げいこのつもりでやっている」と、万国博覧会開催に向けての意欲を示していた発言が紹介され<ref name="万国博覧会133">[[#万国博覧会|吉田(1985)、p.133.]]</ref><ref name="博覧会雑言162">[[#博覧会雑言|吉岡(1903)、p.162.]]</ref>、雑誌太陽の同じ号では、「第五回内国勧業博覧会」よりも大規模である日本を中心とした世界大博覧会を東京で開催することを求める評論を掲載した<ref name="万国博覧会133-134">[[#万国博覧会|吉田(1985)、pp.133-134.]]</ref><ref name="第五回勧業博覧会の開場2">[[#第五回勧業博覧会の開場|太陽編集部(1903)、p.2.]]</ref>。しかしその一方で、博覧会の出品内容を見ると欧米諸国との工業力の格差は歴然としており、国力の増強を背景とした万博開催を唱える自信と、欧米諸国との格差の自覚というある種矛盾した認識が生まれていた<ref name="万国博覧会130-133">[[#万国博覧会|吉田(1985)、pp.130-133.]]</ref>。 === 日露戦争と日本大博覧会 === [[ファイル: Kiyoura Keigo 2.jpg|thumb|200px|清浦奎吾]] 1904年2月、日露戦争が始まった。1905年に入ると1月に[[旅順攻囲戦]]が[[ロシア]]軍の降伏により終結し、3月に[[奉天会戦]]、5月には[[日本海海戦]]に勝利した。日本海海戦終了直後の6月1日、日本は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に講和の仲介を求め、日本の求めに応じたアメリカは9日に日本、ロシア両国に対して講和を勧告し、12日にはロシアがアメリカの講和勧告に応じたため、日本、ロシア両国の講和会議が開始される流れとなった<ref name="皇紀・万博・オリンピック22">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)、p.22.]]</ref>。 ロシアがアメリカによる講和勧告の受け入れを決めた直後の1905年6月17日の閣議において、農商務大臣の[[清浦奎吾]]は戦争終結後に万博を開催する建議書を提出する<ref name="皇紀・万博・オリンピック22" /><ref name="明治日本と万国博覧会159">[[#明治日本と万国博覧会|伊藤(2008)、p.159.]]</ref>。農商務省による万博開催の建議は、万博はこれまで欧米諸国のみで開催されていたため、開催それ自体が一等国の証であるとされており、日露戦争の勝利を記念して日本が世界の一等国であることを示す万博を開催しようともくろんだのである<ref name="明治日本と万国博覧会159" />。また戦勝によりロシアから賠償金を得られる期待もあって、賠償金を万博開催費用に充てられるとの目算もあった<ref name="皇紀・万博・オリンピック23">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)、p.23.]]</ref>。 しかし日露戦争の講和条約である[[ポーツマス条約]]で、ロシアからの賠償金の支払いはゼロとなった。期待していた賠償金を得られなかった日本は、自力で戦争遂行のために負った多額の債務を返済していかねばならなくなった<ref name="皇紀・万博・オリンピック23-24">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)、pp.23-24.]]</ref>。講和条約の交渉開始前は賠償金を期待して万博開催の建議を行った農商務省は、主張を後退させざるを得なかった<ref name="明治日本と万国博覧会163">[[#明治日本と万国博覧会|伊藤(2008)、p.163.]]</ref>。1905年11月、清浦農商務大臣は[[桂太郎]]首相に、次回の博覧会は6月17日の建議書通りに万博の開催を行うのか、内国勧業博覧会に万博の要素を加味するのか、それとも純粋な内国勧業博覧会とするのかについて調査検討が必要であると提案した。そのためまず1907年開催予定の「第六回内国勧業博覧会」の開催を延期し、農商務省内に博覧会調査委員を設けるための予算措置を求める博覧会開設調査委員設置の件を提出して、併せて2万5000円余りの調査費の議会提出を求めた<ref name="皇紀・万博・オリンピック24">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)、p.24.]]</ref><ref name="明治日本と万国博覧会162-163">[[#明治日本と万国博覧会|伊藤(2008)、pp.162-163.]]</ref>。清浦の建議は認められ、12月27日の閣議で「第六回内国勧業博覧会」の延期と博覧会開設調査委員の設置が認められ、12月28日には勅令で「第六回内国勧業博覧会」の無期限延期が布告された<ref name="明治日本と万国博覧会163">[[#明治日本と万国博覧会|伊藤(2008)、p.163.]]</ref>。 一方、民間でも1905年10月に行われた全国商業会議連合会の政府に対する建議の中で、日露戦争の勝利の余勢を駆って、国力の発展と国富を増進させ、世界各国を相手とする商戦に勝ち抜くためにも、準備にある程度の時間を要するにしても数年後までに万国博覧会を開催することを希望するとの主張を行った<ref name="皇紀・万博・オリンピック25">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)、p.25.]]</ref>。そして[[衆議院]]でも1906年2月27日に「万国博覧会開設に関する建議」が97名の衆議院議員により提出された。建議は日露戦争の勝利を記念して万国博覧会を開催し、日本の文化、工芸などを世界に広く紹介し、日本の実業家に世界の文化、工芸、美術等に触れる機会を設け、お互いの比較検討を通して日本の国力の更なる発展を目指すべきとの内容であった<ref name="明治日本と万国博覧会163-164">[[#明治日本と万国博覧会|伊藤(2008)、pp.163-164.]]</ref>。この建議は3月10日に衆議院本会議で可決する<ref name="明治日本と万国博覧会164">[[#明治日本と万国博覧会|伊藤(2008)、p.164.]]</ref>。なお建議の衆議院での審議において、農商務省は日露戦争勝利記念の名目ではロシアの参加が見込めないなど都合が悪い点があり、1909年ないし1910年に憲法発布20周年記念、1917年の[[明治天皇|天皇]]即位50周年記念、1918年の天皇、[[昭憲皇太后|皇后]]の結婚50周年記念などといった開催理由が考えられるとの見解を示した<ref name="皇紀・万博・オリンピック26">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)、p.26.]]</ref>。一方、衆議院では万博開催建議に対して、財政難を理由に開催は時期尚早であるとの反対意見も出され、建議案は満場一致での可決とはならなかった<ref name="皇紀・万博・オリンピック26-27">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)、pp.26-27. ]]</ref>。 === 日本大博覧会構想のスタート === [[File:Wada hikojiro.jpg|thumb|200px|和田彦次郎]] 1905年11月に清浦農商務相が求めた2万5000円余りの調査費が議会を通過したため、1906年6月14日に農商務省内に博覧会調査会が設置され、農商務次官の[[和田彦次郎]]委員長ら43名が調査会委員として任命された。なお委員は和田委員長ら農商務省の関係者や、当時東京市長と衆議院議員を兼任していた[[尾崎行雄]]ら11名の[[衆議院議員]]、そして[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]で構成されていた<ref name="皇紀・万博・オリンピック27">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)p.27. ]]</ref><ref name="明治日本と万国博覧会164-165">[[#明治日本と万国博覧会|伊藤(2008)、pp.164-165.]]</ref>。博覧会調査会では第一案として万国博覧会の開催。第二案として内国勧業博覧会と万国博覧会の折衷案であり、工芸品と機械関連の品目に関しては外国からの出品を求めて工芸館、機械館に陳列し、東洋からの出品は東洋館、その他の外国からの出品は自費で陳列館を建設してもらうか、外国館にまとめて展示する案。そして第三案は基本的に内国勧業博覧会としての開催として、会場内に東洋館と外国館を設けるというものであった<ref name="明治日本と万国博覧会165-166">[[#明治日本と万国博覧会|伊藤(2008)、pp.165-166.]]</ref>。 博覧会調査会での審議の結果、第二案の内国勧業博覧会と万国博覧会の折衷案が採用された。7月23日の会議において博覧会の名称を「日本大博覧会」として、会期は1912年4月から10月、開催場所は東京として、費用は1000万円を予定し、うち500万円は国費、300万円は[[東京市]]が分担し、200万円は入場料収入などで賄い、会場の敷地は約30万坪とした<ref name="皇紀・万博・オリンピック27">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)p.27. ]]</ref>。さらに「日本大博覧会」関連事業として、道路・橋、各種交通機関、水道・排水設備、電燈、ガスといった社会インフラや、公会堂・劇場・音楽堂などの娯楽施設の整備、宿泊施設の充実、博覧会の運営を支える各種協会の設立、そして日本国内、外国からの観光客対応を行う施設の必要性を示した<ref name="明治日本と万国博覧会166">[[#明治日本と万国博覧会|伊藤(2008)、p.166.]]</ref>。 万博と内国勧業博覧会の折衷案となった理由は、まず現状では万博開催による十分な成果が得られる見込みが薄いと考えられ、日露戦争の勝利によって日本は世界の一等国になったものの、欧米諸国並みの万国博覧会を開催できる財政的な余裕は無く、しかも現実として日本の商工業は欧米諸国の実力にはまだほど遠く、本格的な万博の前段階として万博と内国勧業博覧会の中間程度の博覧会を開催して、日露戦争後の経済の発展に努めるのが得策であり、そもそも本格的な万博開催には準備期間が長くなってしまうため、戦争後の経済刺激策としての意味が無くなるといったものであった<ref name="皇紀・万博・オリンピック29-30">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)pp.29-30. ]]</ref><ref name="明治日本と万国博覧会167-168">[[#明治日本と万国博覧会|伊藤(2008)、pp.167-168.]]</ref>。つまり日露戦争には勝利したものの、欧米諸国の経済力や技術力に比べてまだ大きな差があるという認識に基づく折衷案であった<ref name="皇紀・万博・オリンピック30">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)p.30. ]]</ref><ref name="明治日本と万国博覧会168">[[#明治日本と万国博覧会|伊藤(2008)、p.168.]]</ref>。しかしそれでも第五回内国勧業博覧会の約10倍の経費を想定しており、これは当時パリやロンドンで行われていた万博の約4分の1以下の予算ではあったが、欧米では「日本大博覧会」と同一規模程度の万博も開催されていたため、事実上の万博開催計画であった<ref name="皇紀・万博・オリンピック30" />。この博覧会調査会での審議結果は、これまで行われてきた形での内国勧業博覧会としての博覧会開催の終焉を意味した<ref name="明治日本と万国博覧会166" />。 [[File:Kaneko Kentaro.jpg|thumb|200px|金子堅太郎]] 1906年7月28日、農商務大臣の[[松岡康毅]]は[[西園寺公望]]首相に博覧会調査会の審議結果を報告し、閣議決定を要請した。1906年12月21日、[[第1次西園寺内閣|内閣]]は、内国勧業博覧会と万国博覧会との中間規模の博覧会である「日本大博覧会」を、東京にて開催することを閣議決定した<ref name="明治日本と万国博覧会167">[[#明治日本と万国博覧会|伊藤(2008)、p.167.]]</ref>。しかし閣議決定後、議会関係者から巻き返しの動きが起きた。1907年2月7日、8日に行われた衆議院委員会において、「日本大博覧会」は広範囲の外国参加の門戸を閉ざしたままであって内国勧業博覧会の一種にすぎず、1906年3月10日に衆議院において可決された万国博覧会開設に関する決議の趣旨が生かされておらず、国力進展のために純正なる万国博覧会を開催すべきとの決議案が提案され、委員会で満場一致で採択され、2月14日には衆議院本会議において可決された<ref name="明治日本と万国博覧会167-168" /><ref name="近代日本公園史の研究279">[[#近代日本公園史の研究|丸山(1994)、p.279.]]</ref>。万国博覧会開催の決議が衆議院で可決されたのを受けて、2月27日に松岡農商務相は西園寺首相に対して既に内国勧業博覧会と万国博覧会との中間規模の博覧会として「日本大博覧会」開催が閣議決定していることを根拠に、決議の不採択を提言し、3月8日の閣議において不採択が決定された<ref name="明治日本と万国博覧会168" />。その後議会において「日本大博覧会」関連予算を含む1907年度予算が可決されたことを受けて、1907年3月31日、勅令にて「日本大博覧会」を会期1912年4月1日から10月31日として東京市において開催すること、博覧会調査会の廃止と日本大博覧会事務局官制が公布された<ref name="明治日本と万国博覧会168" /><ref name="皇紀・万博・オリンピック32">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)p.32. ]]</ref>。 1907年8月2日、農商務省内に日本博覧会事務局が設置されることが公表され、翌8月3日には総裁に[[伏見宮貞愛親王]]、会長[[金子堅太郎]]、事務局長は[[和田彦次郎]]が就任し、事務局は農商務省からの出向組が多数を占めた{{refnest|group="注釈"|name="日本大博覧会事務局人事"|日本大博覧会の事務局人事の決定までには紆余曲折があった。1907年4月8日、松岡農相は西園寺首相に対して、金子会長、和田事務局長の人事案を相談し了承を得た。4月11日には松岡農相は金子に会長就任を要請したところ、就任の条件として事務局の主要メンバーの人事の一任を挙げた、松岡農相は和田事務局長以外の主要メンバー人事を金子に一任する案を提案し、金子が承諾したことによって会長就任が内定した。ところが和田が事務局長就任を固辞し、金子と松岡農相の説得では済まず、西園寺首相の再三の説得の末、ようやく就任を承諾した。金子は自らの説得を聞き入れようとしなかった和田に対して不信感を強め、西園寺首相に和田の事務局長就任を白紙とするよう要求した。結局、金子と和田が直接話し合うことで5月10日にようやく金子会長、和田事務局長の人事が内定した<ref name="明治日本と万国博覧会204">[[#明治日本と万国博覧会|伊藤(2008)、p.204.]]</ref>。}}<ref name="皇紀・万博・オリンピック32" /><ref name="明治日本と万国博覧会169">[[#明治日本と万国博覧会|伊藤(2008)、p.169.]]</ref>。皇族の伏見宮が総裁を務めることは、政府としても「日本大博覧会」開催の意義を重く見ていたことの現れであり、会長の金子はアメリカの[[ハーバード大学]]留学経験者であり、1876年のフィラデルフィア万博以降、複数の万博の視察を行ってきており、1900年パリ万博では日本の参加準備段階で主要役員を務めているなど、万国博覧会関連の豊富な経験とともに事実上の万国博覧会開催を考慮した人事であった<ref name="皇紀・万博・オリンピック32" /><ref name="明治日本と万国博覧会169" />。会長就任後の金子は「日本大博覧会」に関する講演活動を精力的に行っていく<ref name="明治日本と万国博覧会169" />。 == 博覧会開催に向けて == === 開催予定地決定まで === 「日本大博覧会」開催の動きが表面化する中、1906年7月末、東京市は「日本大博覧会」開催の下準備として1907年3月から7月にかけて上野公園において「東京勧業博覧会」を開催する計画を発表する{{refnest|group="注釈"|name="東京勧業博覧会"|「東京勧業博覧会」は計画通り開催され、約680万人の観客を集めた<ref name="皇紀・万博・オリンピック52">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)p.52. ]]</ref>。}}<ref name="皇紀・万博・オリンピック31">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)p.31. ]]</ref>。その一方で東京市は300万円の負担金の減額を画策する。「博覧会調査会」の委員でもあった尾崎行雄は委員会の席で東京府の300万円の負担は過重であると訴えており、政府に負担金の減額を陳情した。これに対して政府は会場を大阪市に変更することをちらつかせながら東京市の要求を拒絶した。結局、1907年1月24日の東京市会において負担金を受け入れる代わりに入場券販売を東京市が請け負う案が可決され、政府も入場券販売の東京市請負いを了承したため、博覧会の東京市開催が確定した<ref name="皇紀・万博・オリンピック31-32">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)pp.31-32. ]]</ref>。 「日本大博覧会」開催が取り沙汰される中で、東京市内のどこを会場とするのかが問題となった。[[品川 (東京都)|品川]]沖を埋め立てる、[[月島]]、上野周辺、[[青山 (東京都港区)|青山]]、[[荏原 (品川区)|荏原]]ないし[[大森 (大田区)|大森]]、[[丸の内]]、[[竹橋]]などが候補に上がり、水族館の横浜設置案も出された<ref name="皇紀・万博・オリンピック33">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)p.33. ]]</ref>。品川沖埋め立てと丸の内は東京市の案であったが、あとは各地元の推薦であり誘致合戦の様相を呈した。各開催候補地とも博覧会開催による経済効果を狙っており、開催候補地以外でも[[日本橋 (東京都中央区) |日本橋]]周辺の商店は当時、日本橋からの交通の便が良くなかった青山にこぞって反対するといった動きも見られた<ref name="皇紀・万博・オリンピック33-36">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)p.33-36. ]]</ref>。また各候補地による誘致合戦の中、分散開催案も飛び出し、上野や青山などでは思惑による地価上昇を招いた。このような状況の中、「日本博覧会事務局」は開催地の決定に頭を悩ませることになった<ref name="皇紀・万博・オリンピック33-35">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)p.33-35. ]]</ref>。 結局、1907年11月6日に、陸軍の[[青山練兵場]]を第一会場、代々木御用地に第二会場を設け、両者の間は[[中央本線]]沿いに約1.3キロメートルの連絡通路を設けるという案に決定した。これは青山、代々木は国有地と皇室の御料地であったため、土地の買収費用が最も安く済むという理由であった<ref name="皇紀・万博・オリンピック37-38">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)pp.37-38. ]]</ref><ref name="明治神宮外苑の成立過程61">[[#明治神宮外苑の成立過程|長谷川(2013)p.61. ]]</ref>。しかし会場予定地全てを国有地、皇室御料地で済ますことも出来ず、青山練兵場東側の権田原町の北側と六軒町、南側の青山北町は立ち退き対象となり、政府は土地収用法を適用して土地所有者から強制的に買収することを決定したため、立ち退き対象の住民たちから反対運動が起きたが、東京市長の尾崎行雄は反対を押し切った<ref name="明治神宮外苑の成立過程61" /><ref name="皇紀・万博・オリンピック38-39">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)pp.38-39. ]]</ref>。そして青山会場から代々木会場へと向かう連絡通路の工事は実際に進められていく<ref name="明治神宮外苑の成立過程61" />。 === 開催計画の具体化 === 1908年2月27日、日本大博覧会に出品する外国産品について関税を免税にする法律が公布され、3月17日には博覧会に出品される物品の発明、特許登録、商標登録に関する法律が公布されるなど、博覧会開催に伴う法整備も進められた<ref name="明治日本と万国博覧会169" /><ref name="日本大博覧会規則127-131">[[#日本大博覧会規則|日本大博覧会事務局(1908)pp.127-131. ]]</ref><ref name="皇紀・万博・オリンピック42">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)p.42. ]]</ref>。 6月27日には日本大博覧会規則が発表された<ref name="明治日本と万国博覧会169" />。日本大博覧会規則ではまず会場は青山練兵場と代々木御用地とその両地を繋ぐ土地として、水族館のみ設置場所を後に定めるとした<ref name="日本大博覧会規則1">[[#日本大博覧会規則|日本大博覧会事務局(1908)p.1. ]]</ref>。博覧会の土地は全体として東側が低く、西側が高くなっているため、会場全体の景観の観点から博覧会正門を東側の権田原に建てることが決定され、正門に繋がる大道路の建設が構想された<ref name="明治神宮外苑の成立過程61" />。また会期は1912年4月1日から10月31日まで<ref name="日本大博覧会規則1" />、出品は21部門、陳列館は16館として<ref name="明治日本と万国博覧会169" /><ref name="万国博覧会140">[[#万国博覧会|吉田(1985)、p.140.]]</ref>、外国からの陳列館への出品は教育、学芸、化学工業、染織工業、製作工業、建築・室内装飾、機械、電気の各部門とし、それ以外の出品は独自の陳列館を設けた上で展示することができると定められた<ref name="日本大博覧会規則16">[[#日本大博覧会規則|日本大博覧会事務局(1908)p.16. ]]</ref>。出品項目は1900年のパリ万博をモデルとして決定したと考えられている<ref name="万国博覧会140" />。 なお1907年12月に博覧会の終了後、博覧会会場のうち青山練兵場部分に関しては東京市の公園とすることで政府と東京市との間で合意が成立した。そして終了後の公園化が確定している以上、博覧会の美術館は仮設のものではなくて、継続して使用し続けられる恒久的なものとして建てられることが内定した<ref name="明治神宮の出現92-94">[[#明治神宮の出現|山口(2005)pp.92-94. ]]</ref>。この青山練兵場の日本大博覧会会場としての利用案とその後の公園化構想は、後の[[明治神宮外苑|神宮外苑]]の構想へと繋がっていくことになる<ref name="明治神宮の出現94-95">[[#明治神宮の出現|山口(2005)pp.94-95. ]]</ref>。 {| class="wikitable" |+ 日本大博覧会出品項目と陳列館 |- !番号!! 出品項目 !! 陳列館 !! 外国出品の有無 !! 備考 |- !1 |教育<ref name="日本大博覧会規則3">[[#日本大博覧会規則|日本大博覧会事務局(1908)p.3. ]]</ref>||教育館<ref name="日本大博覧会規則5">[[#日本大博覧会規則|日本大博覧会事務局(1908)p.5. ]]</ref>||有<ref name="日本大博覧会規則16" />|| |- !2 |学芸<ref name="日本大博覧会規則3" />||学芸館<ref name="日本大博覧会規則5" />||有<ref name="日本大博覧会規則16" />|| |- !3 |美術<ref name="日本大博覧会規則3" />||美術館<ref name="日本大博覧会規則5" />||無<ref name="日本大博覧会規則16" />|| |- !4 |美術工芸<ref name="日本大博覧会規則3" />||美術館<ref name="日本大博覧会規則5" />||無<ref name="日本大博覧会規則16" />|| |- !5 |農業<ref name="日本大博覧会規則3" />||農業館<ref name="日本大博覧会規則5" />||無<ref name="日本大博覧会規則16" />||農業館は7の畜産部門のうち、家畜・家禽等家畜化された動物以外の展示を行う{{refnest|group="注釈"|name="畜産部門"|畜産部門の中で家畜化された動物以外の展示としては、乳製品等の畜産製品などがある<ref name="日本大博覧会規則53-55">[[#日本大博覧会規則|日本大博覧会事務局(1908)pp.53-55. ]]</ref>。}}<ref name="日本大博覧会規則5" />。 |- !6 |園芸<ref name="日本大博覧会規則3" />||園芸館<ref name="日本大博覧会規則5" />||無<ref name="日本大博覧会規則16" />|| |- !7 |畜産<ref name="日本大博覧会規則4">[[#日本大博覧会規則|日本大博覧会事務局(1908)p.4. ]]</ref>||家畜舎<ref name="日本大博覧会規則5" />||無<ref name="日本大博覧会規則16" />||家畜舎は7の畜産部門のうち、家畜・家禽等家畜化された動物の展示を行う<ref name="日本大博覧会規則5" />。 |- !8 |蚕糸業<ref name="日本大博覧会規則4" />||蚕業館<ref name="日本大博覧会規則5" />||無<ref name="日本大博覧会規則16" />|| |- !9 |林業・狩猟<ref name="日本大博覧会規則4" />||林業館<ref name="日本大博覧会規則5" />||無<ref name="日本大博覧会規則16" />|| |- !10 |水産<ref name="日本大博覧会規則4" />||水産館<ref name="日本大博覧会規則5" />||無<ref name="日本大博覧会規則16" />|| |- !11 |飲食品<ref name="日本大博覧会規則4" />||食料館<ref name="日本大博覧会規則5" />||無<ref name="日本大博覧会規則16" />|| |- !12 |採鉱・冶金<ref name="日本大博覧会規則4" />||鉱産館<ref name="日本大博覧会規則5" />||無<ref name="日本大博覧会規則16" />|| |- !13 |化学工業<ref name="日本大博覧会規則4" />||工業館<ref name="日本大博覧会規則5" />||有<ref name="日本大博覧会規則16" />|| |- !14 |染織工業<ref name="日本大博覧会規則4" />||工業館<ref name="日本大博覧会規則5" />||有<ref name="日本大博覧会規則16" />|| |- !15 |製作工業<ref name="日本大博覧会規則4" />||工業館<ref name="日本大博覧会規則5" />||有<ref name="日本大博覧会規則16" />|| |- !16 |建築・室内装飾<ref name="日本大博覧会規則4" />||工業館<ref name="日本大博覧会規則5" />||有<ref name="日本大博覧会規則16" />|| |- !17 |機械・船舶<ref name="日本大博覧会規則4" />||機械館<ref name="日本大博覧会規則6">[[#日本大博覧会規則|日本大博覧会事務局(1908)p.6. ]]</ref>||有<ref name="日本大博覧会規則16" />|| |- !18 |電気<ref name="日本大博覧会規則4" />||電気館<ref name="日本大博覧会規則6" />||有<ref name="日本大博覧会規則16" />|| |- !19 |土木・通運<ref name="日本大博覧会規則4" />||通運館<ref name="日本大博覧会規則6" />||無<ref name="日本大博覧会規則16" />|| |- !20 |経済・衛生<ref name="日本大博覧会規則4" />||||無<ref name="日本大博覧会規則16" />|| |- !21 |陸海軍<ref name="日本大博覧会規則5" />||陸海軍館<ref name="日本大博覧会規則6" />||無<ref name="日本大博覧会規則16" />|| |- |} === 博覧会開催関連の動き === ==== 諸外国の参加 ==== [[File: F. B. Loomis, portrait bust LCCN2014680832 (cropped).jpg|thumb|200px|フランシス・バトラー・ルーミス]] 「日本大博覧会」には数か国が非公式な形で参加の意思を示していた<ref name="皇紀・万博・オリンピック41">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)p.41. ]]</ref>。1907年12月3日にアメリカの[[セオドア・ルーズベルト]]大統領が議会教書において「日本大博覧会」参加の意向を示し、12月7日には公式に参加を表明していた。アメリカが初の公式参加表明であり、結果としては唯一の諸外国からの参加表明となった<ref name="皇紀・万博・オリンピック41" /><ref name="明治日本と万国博覧会171">[[#明治日本と万国博覧会|伊藤(2008)、p.171.]]</ref>。1908年5月下旬、[[アメリカ合衆国議会|連邦議会]]は他国開催の万国博覧会参加費用としてはこれまでで最高額の150万ドルの「日本大博覧会」参加費を可決し、7月にはアメリカの「日本大博覧会」参加に当たり、前[[アメリカ合衆国国務次官補|国務次官補]][[フランシス・バトラー・ルーミス]]という大物が事務官長に就任した<ref name="皇紀・万博・オリンピック41" />。 日本大博覧会事務局会長の金子堅太郎は、ルーズベルト大統領はハーバード大学留学時からの知己であり、大統領に参加を直談判したと回想している<ref name="皇紀・万博・オリンピック41" />。しかし他国開催の万博では最高額となる参加費用を支出し、大物が事務官長に就任するといった厚遇は、当時の日米関係がぎくしゃくしていたことが背景にあると考えられている。日米間の重要課題としては、アメリカの特に西海岸で高まりつつあった日本からの移民排斥運動があった。また日露戦争後の満洲の権益をめぐる問題も両国間の大きな課題であった。日米間に重要課題を抱えている状況下において、ルーズベルト政権としては対決ではなく日米関係を重視し、友好を求めていることを示す必要があった<ref name="皇紀・万博・オリンピック41" /><ref name="明治日本と万国博覧会171" />。 そして1908年7月4日には、各国に対して「日本大博覧会」の正式な招請状を送付することが閣議決定された<ref name="皇紀・万博・オリンピック43">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)p.43. ]]</ref>。 ==== 国内の動き ==== 衆議院では1907年3月に「日本大博覧会」開催によって外国人観光客の増加を見越した「ホテル開設に関する建議」が提出された。建議では万国博覧会の開催が迫る中、多くの外国人観光客の来遊が予想されるため、博覧会の成功のためには宿泊設備の充実が必要になるのではないかと主張した<ref name="近代日本公園史の研究279" />。翌1908年3月にも衆議院に、日本国内のホテルは数量ともに貧弱なレベルにあり、外国人観光客を満足させられない状況にあり、「日本大博覧会」開催が迫る中、ホテルの増設は急務であるとの内容の、前年の建議とほぼ同趣旨の「来遊外客待遇の設備に関する決議」が提出された<ref name="近代日本公園史の研究179-180">[[#近代日本公園史の研究|丸山(1994)、pp.279-280.]]</ref>。 [[鉄道省|鉄道庁]]は「日本大博覧会」開催に向けて鉄道改良計画を立てた。計画には[[赤羽駅|赤羽]]‐[[池袋駅|池袋]]、[[新橋駅|新橋]]‐[[上野駅|上野]]、[[新橋駅|新橋]]‐[[国府津駅|国府津]]間の[[鉄道の電化|電化]]、[[東海道線]]、[[高崎線]]の[[複線]]化、現在の[[東京駅]]である中央停車場の完成が取り上げられていた<ref name="皇紀・万博・オリンピック36">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)p.36. ]]</ref>。なお中央停車場の基礎工事は1908年3月25日に、駅の設計の完了を待たずに着工されたが、これは「日本大博覧会」開催を考慮した鉄道庁が早期の完成を望んだことが要因のひとつとされている<ref name="高架鉄道と東京駅181">[[#高架鉄道と東京駅|小野田(2012)p.181. ]]</ref>。 また「日本大博覧会」構想が報道されるようになると、国際博覧会開催ともなれば内外から多くの観覧者が東京に集まってくるため、交通機関、宿泊施設、公衆衛生設備等の整備が急務であるにもかかわらず、行政の動きが鈍いこともあって、東京の商工業者の中から自主的に博覧会開催を念頭に置いた動きが始まっていた<ref name="皇紀・万博・オリンピック27-28">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)pp.27-28. ]]</ref>。商工業者の狙いはもちろん博覧会開催による経済効果であった<ref name="皇紀・万博・オリンピック28">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)p.28. ]]</ref>。計画の正式決定後、博覧会事務局の金子会長は講演会活動を通じて、産業や技術の交流、文化・学術面での交流、国家的な祝祭、参加各国及び国民同士の交流という「日本大博覧会」の四大目的とともに、開催地の東京、そして日本全体に大きな経済効果をもたらすと主張していた<ref name="明治日本と万国博覧会169" /><ref name="万国博覧会143-149">[[#万国博覧会|吉田(1985)、pp.143-149.]]</ref><ref name="皇紀・万博・オリンピック36-37">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)pp.36-37. ]]</ref>。博覧会の経済効果に期待する声は東京のみならず全国に広まり、東北地方の奥州館、その他、山陰館、九州の鎮西館、山陽の中国館といった地方館の設置計画や、博覧会開催時に来訪する外国人客をあて込んで、奈良や厳島などでは観光設備の整備への取り組みが図られた<ref name="皇紀・万博・オリンピック43-45">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)pp.43-45. ]]</ref>。 == 1917年への開催延期 == === くすぶる順延論 === [[File: Masahisa Matsuda cropped.jpg|thumb|200px|政友会幹部の松田正久法相が「日本大博覧会」延期論の口火を切った。]] 前述のように「日本大博覧会」構想が具体化しつつあった1906年の段階で、厳しい財政難を理由に開催に反対する意見が出されていた<ref name="皇紀・万博・オリンピック26-27" />。開催計画が正式に決定された後の1907年11月18日、[[東京朝日新聞]]は、政府部内から1000万円ではとうてい「日本大博覧会」の開催は無理であり、数倍の予算が必要であるとみられ、財政難の折にそのような費用負担は困難であるため、1917年に明治天皇の在位50周年を記念する形で開催すべきではないかとの延期論が浮上しているとのスクープ記事を掲載した<ref name="皇紀・万博・オリンピック39">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)p.39. ]]</ref>。 当時、西園寺内閣は財政難への対応に苦慮していた。西園寺内閣の与党であった[[立憲政友会|政友会]]は、日露戦争後の経済政策と政友会の党勢拡大をもくろんだ鉄道や港湾といった社会資本整備の予算拡大に積極的であったが、財政難を理由に[[井上馨]]ら[[元老]]は行政経費の節減の他、政友会が主張する事業の繰り延べ、増税を求めた。総選挙を控えた政友会は不人気政策である増税や全国への利益誘導に繋がる社会資本整備予算の削減には反対であり、内閣は両者の板挟みになっていた<ref name="皇紀・万博・オリンピック39-40">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)pp.39-40. ]]</ref>。そのような中でやり玉に挙がったのは「日本大博覧会」計画であった。内閣では政友会の幹部でもある[[松田正久]][[法務大臣]]が延期論の口火を切り、やはり政友会幹部の[[原敬]][[内務大臣 (日本)|内務大臣]]が賛成し、井上馨も財政難の折に博覧会を行う必要は無いと主張した<ref name="皇紀・万博・オリンピック39-40" />。 前述のように1907年12月3日にアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領が議会教書において「日本大博覧会」参加の意向を示し、12月7日には正式参加を表明していた。懸案事項が山積する中でアメリカの参加表明直後に延期を決定するのは両国関係に新たな亀裂を生じさせることになると判断され、この時の延期論は立ち消えとなった<ref name="明治日本と万国博覧会171" /><ref name="皇紀・万博・オリンピック41-42">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)pp.41-42. ]]</ref>。 === 延期の決定 === [[File:Tarō Katsura cropped.jpg|thumb|200px|財政問題への対応と地方の立て直し、改良を政策の重点項目とした第2次桂内閣は「日本大博覧会」の延期を決定する。]] 第1次西園寺内閣は1908年7月4日に総辞職し、同月には[[第2次桂内閣]]が発足する。桂内閣は財政問題への対応を最優先課題として掲げ、歳出及び事業の見直しに着手する<ref name="皇紀・万博・オリンピック46">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)p.46. ]]</ref>。見直しの俎上に「日本大博覧会」が挙げられることになり、前内閣の総辞職前に各国に発送することが決定されていた招請状も発送が延期された<ref name="皇紀・万博・オリンピック46" />。また新内閣は日露戦争後、疲弊して困窮化が進んだ地方の立て直し、改良を重点政策課題として掲げていた。そのため日露戦争勝利後の一等国日本の首都東京の社会資本を充実させることになる「日本大博覧会」よりも、地方全体の立て直し、改良を図ることが政策課題として重要視された{{refnest|group="注釈"|name="戊申詔書"|日露戦争後の社会不安に対応すべく、1908年10月には行財政整理と地方の改良を主題とした[[戊申詔書]]が公布された<ref name="明治日本と万国博覧会171">[[#明治日本と万国博覧会|伊藤(2008)、p.171.]]</ref>。}}<ref name="明治日本と万国博覧会171-172">[[#明治日本と万国博覧会|伊藤(2008)、pp.171-172.]]</ref>。 内閣は博覧会事務局の総裁伏見宮貞愛親王、金子会長らにも明かすことなく、秘密裏に「日本大博覧会」の延期の調整を始めた<ref name="皇紀・万博・オリンピック46" /><ref name="明治日本と万国博覧会172">[[#明治日本と万国博覧会|伊藤(2008)、p.172.]]</ref>。延期の理由はまず財政面であり、博覧会にかかる直接経費よりもインフラ整備に莫大な経費を要すると見込まれ、延期を行わなければ内閣の致命傷となると判断された<ref name="皇紀・万博・オリンピック47-48">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)pp.47-48. ]]</ref>。また日露戦争後の困窮し疲弊した地方の立て直し、改良も急務とされ、それも延期の判断材料となった<ref name="明治日本と万国博覧会171-172" />。 延期に当たり問題となったのがアメリカから了承を取り付けることであった。そもそも前内閣時に延期が問題となった際に取りやめとなったのはアメリカの正式参加表明があったためであり、外交面から判断してアメリカから延期についての了承を得ることは極めて重要であった<ref name="皇紀・万博・オリンピック47-49">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)pp.47-49. ]]</ref>。日米間の懸案となっていた移民問題は[[日米紳士協約]]により沈静化してきており、日米間の緊張は緩和しつつあった<ref name="皇紀・万博・オリンピック48">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)p.48. ]]</ref>。日本側からの延期の打診に対してアメリカは了承し、1908年9月2日、「日本大博覧会」の開催を5年延期して1917年開催とする旨の勅令が公布された。延期の理由として準備が間に合わないことが挙げられ、天皇在位50周年となる1917年に万全の準備をもって名実ともに万国博覧会を開催するのがベストであるとした<ref name="皇紀・万博・オリンピック47">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)p.47. ]]</ref>。 全く相談なく一方的に延期の決定を告げられた博覧会事務局は、総裁伏見宮貞愛親王、金子会長、和田事務局長は揃って辞表を提出した。伏見宮、金子の辞表は受理されたが、事務局長の和田は留任することになった<ref name="明治日本と万国博覧会172" /><ref name="皇紀・万博・オリンピック46-47">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)pp.46-47. ]]</ref>。一方的な決定に衆議院、貴族院の中に反発も見られたが、財政状況が逼迫しているのは明らかであったため、延期はやむを得ないとの流れになっていく。また民間でもやはり一方的な延期決定に異議は唱えつつも、多くは日露戦争後の厳しい不況下では開催延期はやむを得ないとの認識で落ち着いていく<ref name="皇紀・万博・オリンピック48-49">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)pp.48-49. ]]</ref>。一方、既に博覧会開催費用の一部負担を行い、住民の強制移住も実行した東京市は強く延期反対を唱えたが、政府から既負担分の費用返還が認められた{{refnest|group="注釈"|name="延期交渉について"|延期決定後、事前相談無しの頭越しの決定に桂首相に直接抗議した尾崎市長に対し、桂は外交上の問題が絡んでいたので、博覧会会長の金子堅太郎にも相談せずに決めたと説明した<ref name="皇紀・万博・オリンピック46" />。}}。ただし強制移住の対象とされた住民の怒りは容易には収まらなかった<ref name="皇紀・万博・オリンピック49-50">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)pp.49-50. ]]</ref>。 == 開催ムードの再燃 == [[ファイル:Hirayama Shigenobu.jpg |thumb|200px|平山成信]] 1908年10月、アメリカからルーミス事務官長らが「日本大博覧会」の打ち合わせのために来日した。ルーミスらは日本政府に対し、延期というのは名ばかりで実際のところ中止するつもりであると思われると批判した<ref name="皇紀・万博・オリンピック53">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)p.53. ]]</ref>。ルーミスらの批判に対し、1909年度の予算には「日本大博覧会」関連予算を計上し、1910年には本格的な準備に取り掛かると釈明した。実際に1909年度予算には「日本大博覧会」の調査費が計上され、博覧会の直接経費も2000万円に増額することを決定する。延期後の「日本大博覧会」も、やはりアメリカとの関係が再スタートのきっかけとなった<ref name="皇紀・万博・オリンピック53" />。 「日本大博覧会」の再スタートの動きを見て、博覧会をあて込んだ動きが再燃する。1909年には「日本大博覧会」の協賛事業として[[松島]]の県営公園化の構想が出された<ref name="近代日本公園史の研究274">[[#近代日本公園史の研究|丸山(1994)、p.274.]]</ref>。1911年には「日本大博覧会」の催しに合わせ、欧米の[[国立公園|ナショナルパーク]]に倣って[[日光]]の帝国公園化の請願が衆議院、貴族院に提出され<ref name="近代日本公園史の研究328-329">[[#近代日本公園史の研究|丸山(1994)、pp.328-329.]]</ref>、[[富士山]]でも「日本大博覧会」を契機として国設大公園を設ける意見が出された<ref name="近代日本公園史の研究275-276">[[#近代日本公園史の研究|丸山(1994)、pp.275-276.]]</ref>。 政府は1910年12月13日に、これまで農商務省内で博覧会行政に携わってきた[[宮中顧問官]]の[[平山成信]]を、宮中顧問官と兼任の扱いで「日本大博覧会」会長に任命する。さらに1911年度予算に代々木会場、青山会場を繋ぐ連絡通路の整備費用など、「日本大博覧会」関連費用を計上した<ref name="皇紀・万博・オリンピック53-54">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)pp.53-54. ]]</ref>。平山は1911年7月に宮中顧問官を退任し、博覧会会長専任となり、8月には東京市が博覧会の準備を再開し、9月になると横浜市が博覧会の水族館、京都市が美術館の誘致運動を始めた。このように「日本大博覧会」開催に向けての具体的な動きが活発化していく<ref name="皇紀・万博・オリンピック54-55">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)pp.54-55. ]]</ref>。 === 博覧会会場の設計競技 === [[ファイル:Daihaku-yoshitake2.jpg|thumb|250px|吉武東里設計、「日本大博覧会」代々木会場平面図。図の上が北。]] 農商務省は省内に「日本大博覧会」の工事に関する準備委員会を立ち上げた。準備委員会は委員長を土木工学者の[[古市公威]]を筆頭とし、建築家の[[片山東熊]]、[[辰野金吾]]、鉄道技術者の増田禮作、電信電話技術者の[[五十嵐秀助]]らが博覧会に必要とされる施設の内容、敷地面積を協議、決定した<ref name="明治神宮外苑の成立過程62">[[#明治神宮外苑の成立過程|長谷川(2013)p.62. ]]</ref>。 1911年5月、「日本大博覧会」の[[設計競技]]である「日本大博覧会敷地内配置懸賞計画」が行われることが公表された<ref name="明治神宮外苑の成立過程62" /><ref name="日本大博覧会と明治神宮95">[[#日本大博覧会と明治神宮|長谷川(2012)p.95. ]]</ref>。設計競技は「日本大博覧会」の工事準備委員会が決定した仕様の博覧会施設を代々木会場、青山会場に割り振り、両会場のバランスを取りながらどのように博覧会施設を配置するのかという会場全体の構成力を競うものとなった<ref name="明治神宮外苑の成立過程62" /><ref name="日本大博覧会と明治神宮95" />。また博覧会施設の仕様以外に、前述の代々木会場、青山会場を繋ぐ連絡通路、青山会場の東側の権田原町に設けられる正門、青山会場に設けられる恒久的な美術館は設計における前提条件とされた<ref name="明治神宮外苑の成立過程62" />。競技参加者は工事規定と敷地図の購入が必要とされ、縮尺1/1200の図面と説明書の提出を求められた。「日本大博覧会」の会場全体の設計という大規模設計が設計競技の対象とされたのは日本では初めてであり、「日本大博覧会敷地内配置懸賞計画」に対する関心は高く、工事規定と敷地図の購入者は240名を超え、設計競技参加者は155名を数えた<ref name="明治神宮外苑の成立過程62" /><ref name="日本大博覧会と明治神宮95" />。 「日本大博覧会敷地内配置懸賞計画」の審査員は博覧会会長の平山成信の他、[[岡本英太郎]]、[[手島精一]]、古市公威、[[日下部辨二郎]]、[[ジョサイア・コンドル]]、[[伊東忠太]]、片山東熊、[[塚本靖]]、[[福羽逸人]]といった博覧会関係者、工学者、建築家、造園家らによって構成されていた。1911年11月14日、伊東忠太が「とにかく群を抜き、他のものはいわばどんぐりの背比べ」と激賞した[[吉武東里]]の案が、審査員の全員一致で一位当選となった<ref name="明治神宮外苑の成立過程62" /><ref name="日本大博覧会と明治神宮95" /><ref name="皇紀・万博・オリンピック54">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)p.54. ]]</ref>。 === 吉武東里の会場設計案 === 吉武東里の案は、まず博覧会という短期集中型のイベントにおいて観客の興味関心を引き付けるべく、バラエティーに富んだ会場作りが必要とされるとの視点で構成されていた。青山会場は西洋風、都会的かつ人工的な構成とし、一方、代々木会場は東洋風、田舎風、自然的な構成として両会場にはっきりとした変化をつけた<ref name="日本大博覧会と明治神宮96-97">[[#日本大博覧会と明治神宮|長谷川(2012)pp.96-97. ]]</ref><ref name="明治神宮外苑の成立過程62-64">[[#明治神宮外苑の成立過程|長谷川(2013)pp.62-64. ]]</ref>。 他の設計競技参加者の案は青山、代々木両会場ともに欧米の博覧会会場をモデルとした幾何学的な配置案であったのに対し、吉武の案は青山会場に関しては欧米風の規則正しい直線的な建物配置としたのに対し、代々木会場は曲線的な道路を用い、既存の森林を生かした形になっており、代々木御料地に遺されていた武蔵野の自然を有効活用した設計となっていた。つまり博覧会予定地の現状を的確に分析してその特性を生かし、青山、代々木の両会場に変化をつけて博覧会会場としてまとめ上げた力量が一位当選として評価された<ref name="日本大博覧会と明治神宮97">[[#日本大博覧会と明治神宮|長谷川(2012)p.97. ]]</ref><ref name="明治神宮外苑の成立過程64">[[#明治神宮外苑の成立過程|長谷川(2013)p.64. ]]</ref>。 == 博覧会の中止決定 == [[ファイル:Kinmochi Saionji.jpg|thumb|200px|財政問題への対応に追われた第2次西園寺内閣は「日本大博覧会」の中止を決定する。]] 1911年8月、第2次桂内閣は総辞職し、8月30日に[[第2次西園寺内閣]]が成立する。第1次西園寺内閣と同様に、政友会幹部の松田正久は法務大臣、原敬は内務大臣として入閣した<ref name="皇紀・万博・オリンピック55">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)p.55. ]]</ref>。新内閣の1912年度予算編成に際し、元老井上馨は外債の償還のために大幅な歳出削減を主張した意見書を[[山本達雄]]大蔵大臣に送っており、井上の意見書の中で「日本大博覧会」は不急の事業であるとして中止すべきとされていた<ref name="皇紀・万博・オリンピック55" />。また第2次西園寺内閣では海軍の拡張案が問題となっており、海軍の拡張を求める[[齋藤実]]海軍大臣と公共事業の拡充を求める原内相との間で意見対立が起きていた<ref name="明治日本と万国博覧会198">[[#明治日本と万国博覧会|伊藤(2008)、p.198.]]</ref>。 山本蔵相は海軍の拡張案を受け入れ、原の求める事業の中で電話拡張、港湾修築、鉄道拡張は認め、「日本大博覧会」、[[国勢調査]]、議院建築の3事業の延期を提案する。11月20日、西園寺と松田、原との三者会談が行われ、山本蔵相の提案が了承された<ref name="皇紀・万博・オリンピック55" /><ref name="明治日本と万国博覧会198" />。そして11月24日の閣議の席で、「日本大博覧会」の無期延期という形で中止が決定された<ref name="日本大博覧会計画について104">[[#日本大博覧会計画について|古川(1997)pp.104. ]]</ref>。翌1912年3月22日、勅令で正式に「日本大博覧会」の中止が公布され、3月31日には日本博覧会事務局が廃止された<ref name="明治日本と万国博覧会198" /><ref name="皇紀・万博・オリンピック55-56">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)pp.55-56. ]]</ref>。 中止決定に対して1912年2月24日には、衆議院に「明治五十年日本大博覧会開催に関する決議」が提出された。決議は「日本大博覧会」の開催が、日露戦争後の経済発展、産業振興の絶好の機会として予定通りの開催を求めたものであった<ref name="皇紀・万博・オリンピック56">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)p.56. ]]</ref>。この決議は委員会審議の中で修正の上、3月22日の本会議で可決された。修正の中で、政府が博覧会の遂行が困難である場合、地方公共団体や私人が企画し、政府が支援することとの内容が盛り込まれた。これは国主導ではなく、東京市などの地方公共団体や経済団体が主導して博覧会を開催する動きを反映したものであった<ref name="皇紀・万博・オリンピック56-58">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)pp.56-58. ]]</ref>。 == 日本大博覧会計画の評価と影響 == [[ファイル:Daihaku-yoshitake3.jpg|thumb|200px|吉武東里設計、「日本大博覧会」青山会場平面図。図の上が北。]] いったん国の正式な計画として準備を始めた「日本大博覧会」であるが、財政難の中、中止という結果になった。しかし計画開始時点から財政難は継続しており、財政難の中にあっても、「日本大博覧会」の場でアピールすべき国家として目指す姿が見い出せなかったことが中止の背景として指摘されている<ref name="明治日本と万国博覧会200">[[#明治日本と万国博覧会|伊藤(2008)、p.200.]]</ref>。またこれは明治維新後の国家目標がある程度成就した後、新たな目標自体が捉えられていなかったことを示しているとの意見がある<ref name="明治日本と万国博覧会200" />。また維新後、殖産興業政策の後押しとして内国勧業博覧会を開催してきた井上馨らの元老から見て、明治末期の時点では博覧会で産業振興を図る必要性を認めないほど国内産業が成長したという判断を下したとの評価もある<ref name="皇紀・万博・オリンピック56" />。 一方、「亜細亜大博覧会」とは異なり、実施に向けて実際に計画が進められ、一部工事も始められていた「日本大博覧会」は、様々な影響を後に遺すことになった<ref name="皇紀・万博・オリンピック58">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)p.58. ]]</ref>。まず明治天皇の在位50周年等の皇室の慶事が開催の名目として取り上げられたことは、経済発展のシンボルとして皇室ブランドが象徴的な機能を果たすことが認識された<ref name="皇紀・万博・オリンピック58" />。また博覧会開催に向けての準備が行われたため、「日本大博覧会」の関係者の中から、その後、万博計画に携わることになる人材が生まれた<ref name="皇紀・万博・オリンピック58" />。そして「日本大博覧会」以降、万博構想の推進役は国から経済効果を期待する地域や経済団体へと移行することになる<ref name="皇紀・万博・オリンピック58" />。 「日本大博覧会」中止後の1912年7月、明治天皇は崩御した。8月20日に東京商業会議所で行われた各団体連合の協議会の席で、東京府内の代々木御料地と青山練兵場に明治天皇を祀る神宮の造営を求める覚書を採択する<ref name="明治神宮の出現80-84">[[#明治神宮の出現|山口(2005)pp.80-84. ]]</ref>。覚書では神宮本体となる内苑は代々木御料地に、一方、外苑は青山練兵場に設け、明治天皇の頌徳を目的とする記念宮殿や、臣民の功績を称える陳列館などを設ける計画であった<ref name="明治神宮の出現82-84">[[#明治神宮の出現|山口(2005)pp.82-84. ]]</ref><ref name="明治神宮外苑の成立過程69-70">[[#明治神宮外苑の成立過程|長谷川(2013)pp.69-70. ]]</ref>。代々木の御料地と青山の練兵場は離れた場所の性格の異なる土地であり、しかも「覚書」では代々木と青山で違うタイプの施設を設け、両者をまとめて一つの神社とするという案はこれまでに例のない画期的なものであった<ref name="明治神宮の出現82-90">[[#明治神宮の出現|山口(2005)pp.82-90. ]]</ref>。「覚書」作成に中心的に関わった[[阪谷芳郎]]東京市長、[[渋沢栄一]]、[[中野武営]]、[[角田竹冷|角田真平]]はともに理事官や評議員として「日本大博覧会」に関与しており、博覧会の計画内容を熟知していた<ref name="明治神宮の出現90-95">[[#明治神宮の出現|山口(2005)pp.90-95. ]]</ref><ref name="明治神宮外苑の成立過程70">[[#明治神宮外苑の成立過程|長谷川(2013)p.70. ]]</ref>。また実際の神宮外苑の設計は古市公威を顧問として、伊東忠太、日下部辨二郎が中心となって行ったが、古市、伊東、日下部とも「日本大博覧会敷地内配置懸賞計画」の審査員を務めており、[[明治神宮]]、とりわけ外苑の造営は「日本大博覧会」計画に精通していた人物たちによって行われた<ref name="明治神宮外苑の成立過程70" />。つまり「日本大博覧会」のプランニングが明治神宮に受け継がれたと評価できる<ref name="明治神宮の出現94-95" /><ref name="皇紀・万博・オリンピック58-59">[[#皇紀・万博・オリンピック|古川(1998)pp.58-59. ]]</ref><ref name="外苑の創出127">[[#外苑の創出|藤田(2015)p.127. ]]</ref>。 実際、吉武東里の「日本大博覧会」設計案と明治神宮の内苑、外苑には多くの類似点が指摘できる。まず青山会場は、前述のように博覧会終了後は東京市の公園となる計画であった。吉武は洋式庭園や公園をモデルとした人工的かつ都会的、西洋風な配置計画を立てており、外苑との類似性が高い計画となっている。内苑もやはり鬱蒼とした森を利用した天然的な配置を行った代々木会場の設計案との類似性が指摘できる<ref name="日本大博覧会と明治神宮96-97" /><ref name="明治神宮外苑の成立過程61-65">[[#明治神宮外苑の成立過程|長谷川(2013)pp.61-65. ]]</ref>。中でも鬱蒼とした森に覆われた内苑と都市型の公園である外苑という異なった要素をまとめ上げて明治神宮とした点が、都会的な青山会場、自然的な代々木会場を「日本大博覧会」会場として一つにまとめ上げた手法と一致している<ref name="日本大博覧会と明治神宮97">[[#日本大博覧会と明治神宮|長谷川(2012)p.97. ]]</ref>。これらのことから吉武東里の「日本大博覧会」設計案が明治神宮の造営に影響を与えたと考えられている<ref name="日本大博覧会と明治神宮98">[[#日本大博覧会と明治神宮|長谷川(2012)p.98. ]]</ref><ref name="明治神宮外苑の成立過程73-75">[[#明治神宮外苑の成立過程|長谷川(2013)pp.73-75. ]]</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|colwidth=25em}} == 参考文献 == * {{Anchors|万博開催への模索}} 伊藤真実子「日本歴史」686、『第五回内国勧業博覧会と万博開催への模索』 、日本歴史学会、2005 * {{Anchors|明治日本と万国博覧会}} 伊藤真実子、『明治日本と万国博覧会』 、吉川弘文館、2008、ISBN 978-4-88065-465-2 * {{Anchors|高架鉄道と東京駅}} 小野田滋、『高架鉄道と東京駅(下)』 、交通新聞社、2012、{{ISBN2| 978-4330268125}} * {{Anchors|第五回勧業博覧会の開場}} 太陽編集部「太陽」9(4)、『第五回勧業博覧会の開場』 、博文館、1903 * {{Anchors|日本大博覧会規則}} 日本大博覧会事務局、『日本大博覧会規則(等)』 、日本大博覧会事務局、1908 * {{Anchors|博覧会の時代}} 國雄行、『博覧会の時代 明治政府の博覧会政策』 、岩田書院、2005、ISBN 4-87294-378-3 * {{Anchors|日本大博覧会と明治神宮}} 長谷川香「神園」7、『日本大博覧会と明治神宮 明治四十四年博覧会設計競技の分析を通して』 、明治神宮国際神道文化研究所、2012 * {{Anchors|明治神宮外苑の成立過程}} 長谷川香「建築史学」61、『明治神宮外苑の成立過程に関する研究 軍事儀礼・日本大博覧会構想・明治天皇大喪儀』 、建築史学会、2013 * {{Anchors|外苑の創出}} 藤田大誠「神園」13、『帝都東京における「外苑」の創出』 、明治神宮国際神道文化研究所、2015 * {{Anchors|日本大博覧会計画について}} 古川隆久「横浜市立大学論叢」48(1)、『日本大博覧会計画について』 、横浜市立大学学術研究会、1997 * {{Anchors|皇紀・万博・オリンピック}} 古川隆久、『皇紀・万博・オリンピック 皇室ブランドと経済発展』 、中央公論社、1998、ISBN 4-12-101406-5 * {{Anchors|近代日本公園史の研究}} 丸山宏、『近代日本公園史の研究』 、思文閣出版、1994、ISBN 4-7842-0865-8 * {{Anchors|明治神宮の出現}} 山口輝臣、『明治神宮の出現』 、吉川弘文館、2005、ISBN 4-642-05585-1 * {{Anchors|博覧会雑言}} 吉岡芳陵「太陽」9(4)、『博覧会雑言』 、博文館、1903 * {{Anchors|万国博覧会}} 吉田光邦、『改訂版 万国博覧会 技術文明的に』 、日本放送出版協会、1985、ISBN 4-14-001477-6 {{Good article}} {{DEFAULTSORT:にほんたいはくらんかい}} [[Category:日本の国際博覧会]] [[Category:開催中止となったイベント]] [[Category:東京市]] [[Category:明治神宮外苑]] [[Category:代々木]] [[Category:青山]]
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UEFA女子ネーションズリーグ
UEFA女子ネーションズリーグ(英: UEFA Women's Nations League)は、欧州サッカー連盟(UEFA)の主催で西暦奇数年の9月から翌年の3月にかけて行われる、ナショナルチームによる女子サッカーの国際大会である。第1回大会は2023年から2024年にかけて開催される。 大会には3つのリーグがあり、それらの間で昇格と降格が行われるほか、チャンピオンを決定する決勝トーナメント(ファイナルズ)も行われる。また、シーズンによって、UEFA欧州女子選手権、FIFA女子ワールドカップ、オリンピック女子サッカー競技の欧州予選プロセスの一部としても扱われる。 2022年11月2日、UEFA執行委員会は新たな女子代表チームの競技システムを承認し、翌11月3日に公表された。この中には2023年に始まる女子ネーションズリーグ大会の発表も含まれていた。女子ネーションズリーグは2部構成の女子代表チーム競技サイクルの第1フェーズとして機能し、もう1つのフェーズはUEFA女子チャンピオンシップまたはFIFA女子ワールドカップの欧州予選となる。 UEFA女子ネーションズリーグ2023-24では、以下の大会フォーマットが採用された。 ネーションズリーグの結果は、直後に行われる UEFA女子EUROの予選並びに予選プレーオフに大きな影響を与える。 また、FIFA女子ワールドカップのヨーロッパ予選においても同様。
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UEFA女子ネーションズリーグは、欧州サッカー連盟(UEFA)の主催で西暦奇数年の9月から翌年の3月にかけて行われる、ナショナルチームによる女子サッカーの国際大会である。第1回大会は2023年から2024年にかけて開催される。 大会には3つのリーグがあり、それらの間で昇格と降格が行われるほか、チャンピオンを決定する決勝トーナメント(ファイナルズ)も行われる。また、シーズンによって、UEFA欧州女子選手権、FIFA女子ワールドカップ、オリンピック女子サッカー競技の欧州予選プロセスの一部としても扱われる。
{{Otheruses|[[欧州サッカー連盟]]主催の女子の大会|男子の大会|[[UEFAネーションズリーグ]]|その他のネーションズリーグの用例|ネーションズリーグ}} {{国際サッカー大会 |大会名 = UEFA女子ネーションズリーグ<br />{{nowrap|UEFA Women's Nations League}} |画像 = |開始年 = 2023 |終了年 = |主催 = [[欧州サッカー連盟|UEFA]] |地域 = [[ヨーロッパ]] |参加チーム数 = 51 |国 = |前回優勝 = |最多優勝 = |broadcasters = |サイト = [https://www.uefa.com/womensnationsleague/ 公式サイト] |備考 = |current_season = [[UEFA女子ネーションズリーグ2023-24|2023-24]] }} '''UEFA女子ネーションズリーグ'''({{lang-en-short|UEFA Women's Nations League}})は、[[欧州サッカー連盟]](UEFA)の主催で西暦奇数年の9月から翌年の3月にかけて行われる、[[ナショナルチーム]]による[[女子サッカー]]の国際大会である。第1回大会は2023年から2024年にかけて開催される。 大会には3つのリーグがあり、それらの間で昇格と降格が行われるほか、チャンピオンを決定する決勝トーナメント(ファイナルズ)も行われる。また、シーズンによって、[[UEFA欧州女子選手権]]、[[FIFA女子ワールドカップ]]、[[オリンピックのサッカー競技#女子 2|オリンピック女子サッカー競技]]の欧州予選プロセスの一部としても扱われる。 == 概要 == 2022年11月2日、UEFA執行委員会は新たな女子代表チームの競技システムを承認し、翌11月3日に公表された。この中には2023年に始まる女子ネーションズリーグ大会の発表も含まれていた。女子ネーションズリーグは2部構成の女子代表チーム競技サイクルの第1フェーズとして機能し、もう1つのフェーズはUEFA女子チャンピオンシップまたはFIFA女子ワールドカップの欧州予選となる<ref>{{Cite web |title=New women’s national team competition system {{!}} Inside UEFA |url=https://www.uefa.com/returntoplay/news/027b-16802fa89740-23355efda63f-1000--new-women-s-national-team-competition-system/ |website=UEFA.com |date=2022-11-03 |access-date=2023-09-27 |language=en}}</ref>。 == 大会形式 == === 初回大会 === [[UEFA女子ネーションズリーグ2023-24]]では、以下の大会フォーマットが採用された。 * UEFA加盟の55協会のうち女子チームが存在しない3協会及び資格停止中のロシアを除く51協会を[[UEFAランキング]]の順位に基づき、上からリーグA・リーグBを全て16チームとし、リーグCのみ19チームに分ける。 * 各リーグ内をさらに4チームか3チームずつ4つのグループに分け、グループ内で[[ホーム・アンド・アウェー]]2回戦総当たりのリーグ戦を行う。 * 各グループの1位チームが上位リーグへ昇格し、グループ内3位は降格プレーオフ、最下位チームが下位リーグへ降格する。 * 最高位のリーグAではグループ1位の4チームによりシングルイリミネーショントーナメントによる決勝ラウンド(ファイナルズ)を行う。 === 女子EURO予選・W杯予選との関連 === ネーションズリーグの結果は、直後に行われる UEFA女子EUROの予選並びに予選プレーオフに大きな影響を与える。 また、FIFA女子ワールドカップのヨーロッパ予選においても同様。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[UEFAネーションズリーグ]] == 外部リンク == * [http://www.uefa.com/womensnationsleague/ 大会公式サイト] - UEFA.com{{en icon}} {{ヨーロッパのサッカー国際大会}} {{国際サッカー (女子)}} {{デフォルトソート:UEFAしよしねえしよんすりいく}} [[Category:女子サッカーの国際大会]] [[Category:UEFAネーションズリーグ|*]]
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高橋利枝
高橋 利枝(たかはし としえ)は、日本の社会学者。専門はメディア・コミュニケーション研究。早稲田大学文学学術院教授。テレコム社会科学賞受賞。 東京都目黒区出身。お茶の水女子大学理学部数学科卒業、理学士。東京大学大学院社会学研究科修士課程修了、社会学修士。同大学人文社会系研究科博士課程単位取得満期退学。ロンドン大学ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス大学院博士課程修了、Ph.D.(社会科学博士)。 2002年順天堂大学スポーツ健康科学部専任講師。2006年立教大学社会学部メディア社会学科准教授。2010年オックスフォード大学教育学部客員リサーチフェロー、ハーバード大学バークマンセンターファカルティ・フェロー。2012年早稲田大学文学学術院教授、Television and New Media編集委員。 2013年日本民間放送連盟ラジオメディア再価値化研究グループ委員。2015年情報通信学会編集委員。2016年総務省情報通信白書アドバイザリーボード、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会テクノロジー諮問委員会委員。2017年テレコム社会科学賞入賞。 2018年ケンブリッジ大学客員研究員、Global Media and Communication編集委員。2019年コロンビア大学客員研究員、ハーバード大学バークマン・クライン研究所ファカルティ・アソシエイト。2021年ケンブリッジ大学「知の未来」研究所アソシエイト・フェロー。
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高橋 利枝は、日本の社会学者。専門はメディア・コミュニケーション研究。早稲田大学文学学術院教授。テレコム社会科学賞受賞。
'''高橋 利枝'''(たかはし としえ)は、[[日本]]の[[社会学者]]。専門はメディア・コミュニケーション研究。[[早稲田大学文学学術院]]教授。[[テレコム社会科学賞]]受賞。 == 人物・経歴 == [[東京都]][[目黒区]]出身<ref>[https://www.waseda.jp/flas/cms/news/2018/04/27/5125/ 人間にとって幸せなAI/ロボット社会とは 文学学術院・高橋利枝教授、欧州議会主催の国際会議で講演]</ref>。[[お茶の水女子大学]][[理学部]][[数学科]]卒業、[[理学士]]。[[東京大学]][[大学院]][[社会学研究科]]修士課程修了、[[社会学修士]]。同大学[[人文社会系研究科]]博士課程[[単位取得満期退学]]。[[ロンドン大学]][[ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス]]大学院博士課程修了、[[Ph.D.]]([[社会科学博士]])<ref name="wa"/>。 2002年[[順天堂大学]]スポーツ健康科学部専任講師。2006年[[立教大学社会学部]]メディア社会学科准教授。2010年[[オックスフォード大学]]教育学部客員[[リサーチフェロー]]、[[ハーバード大学]]バークマンセンターファカルティ・[[フェロー]]。2012年[[早稲田大学文学学術院]]教授、[[:w:Television and New Media|Television and New Media]][[編集委員]]<ref name="wa"/>。 2013年[[日本民間放送連盟]]ラジオメディア再価値化研究グループ委員。2015年[[情報通信学会]][[編集委員]]。2016年[[総務省]]情報通信[[白書]]アドバイザリーボード、[[東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会]]テクノロジー諮問委員会委員。2017年[[テレコム社会科学賞]]入賞<ref name="wa"/>。 2018年[[ケンブリッジ大学]][[客員研究員]]、[[:w:Global Media and Communication|Global Media and Communication]]編集委員。2019年[[コロンビア大学]]客員研究員、ハーバード大学バークマン・クライン研究所ファカルティ・アソシエイト<ref name="wa">[https://w-rdb.waseda.jp/html/100001154_ja.html タカハシ トシエ 高橋 利枝]早稲田大学研究者データベース</ref>。2021年ケンブリッジ大学「知の未来」研究所アソシエイト・フェロー<ref>[https://blogs.harvard.edu/toshietakahashijp/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB 高橋利枝]</ref>。 == 著作 == === 著書 === *“Audience Studies”[[Routledge]] 2009年 *『デジタル・ウィズダムの時代へ :若者とデジタルメディアのエンゲージメント』新曜社 2016年 === 訳書 === *カレン・ロス, バージニア・ナイチンゲール著『メディアオーディエンスとは何か』([[児島和人]], [[阿部潔]]と共訳)新曜社 2007年 == 脚注 == <references/> {{Normdaten}} {{Academic-bio-stub}} {{デフォルトソート:たかはし としえ}} [[Category:日本の女性社会学者]] [[Category:社会情報学者]] [[Category:コミュニケーション学者]] [[Category:早稲田大学の教員]] [[Category:立教大学の教員]] [[Category:順天堂大学の教員]] [[Category:Doctor of Philosophy取得者]] [[Category:社会学修士取得者]] [[Category:理学士取得者]] [[Category:ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス出身の人物]] [[Category:東京大学出身の人物]] [[Category:お茶の水女子大学出身の人物]] [[Category:東京都区部出身の人物]]
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卵投げつけ
卵投げつけ(たまごなげつけ、英語: Egging=エッギング)とは、人や物に向かって卵を投げる行為である。卵は通常生であるが、固くゆでた卵や腐った卵の場合もある。 政治家への卵投げつけはよく知られた抗議活動であり、理由の有無にかかわらず、車や家へのエギングは破壊行為の一形態として行われる可能性があるが、世界の場所によってはブラジルの誕生日の時のように、お祝いの目的で行われることもある。 卵は物に投げられると簡単に損害を引き起こす可能性があり、卵を投げることは破壊行為とみなされる。また、人の顔に卵をぶつけると、重傷や目の損傷を引き起こす可能性がある。 抗議の一環として、人や建物に卵投げつけが行われることがある。ターゲットにされた著名人には、デビッド・キャメロン、スティーブ・バルマー、ブロニスワフ・コモロフスキ、アーノルド・シュワルツェネッガー、ジョン・プレスコット、ヘルムート・コール、ニコラ・サルコジ、ニック・グリフィン、チャールズ3世、エマニュエル・マクロンなどがいる。 日本では、1996年5月9日に日生球場でのプロ野球・近鉄対ダイエー戦の試合終了直後、敗戦したダイエーの王貞治監督と選手が乗ったバスに対し、ファンが生卵を投げつける事件が発生した。ダイエーは前年1995年に5位に終わり、1996年も最下位で低迷する中での事件であった。 卵投げつけがヨーロッパで政治的抗議活動として定着したのは、19世紀後半に発表されたジョージ・エリオットの人気長編小説『ミドルマーチ』の主人公の一人であるアーサー・ブルックが、法外な公約をする選挙演説をしたので生卵を投げつけられて、大陸に避難する場面の影響があるという。
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卵投げつけとは、人や物に向かって卵を投げる行為である。卵は通常生であるが、固くゆでた卵や腐った卵の場合もある。 政治家への卵投げつけはよく知られた抗議活動であり、理由の有無にかかわらず、車や家へのエギングは破壊行為の一形態として行われる可能性があるが、世界の場所によってはブラジルの誕生日の時のように、お祝いの目的で行われることもある。
[[File:Jiri Paroubek egg attack.jpg|thumb|right|200px|[[イジー・パロウベク]]が卵投げつけを回避中([[2009年欧州議会議員選挙 (チェコ)]]で)]] [[File:2019-10-01 Demonstration Hong Kong 11.jpg|thumb|right|200px|[[習近平]]のポスターへ卵投げつけ(香港で、2019年)]] '''卵投げつけ'''(たまごなげつけ、{{Lang-en|Egging}}=エッギング)とは、人や物に向かって[[卵]]を投げる行為である。卵は通常生であるが、固くゆでた卵や腐った卵の場合もある。 [[政治家]]への卵投げつけはよく知られた抗議活動であり、理由の有無にかかわらず、車や家へのエギングは破壊行為の一形態として行われる可能性があるが、世界の場所によってはブラジルの誕生日の時のように<ref>[https://www.yodoran.com/oshiete-tamago/life/post_24.html たまごを投げて誕生日をお祝いする国(たまご先制)]</ref>、お祝いの目的で行われることもある。 ==破損と傷害== 卵は物に投げられると簡単に損害を引き起こす可能性があり、卵を投げることは破壊行為とみなされる。また、人の顔に卵をぶつけると、重傷や目の損傷を引き起こす可能性がある。 ==抗議として== 抗議の一環として、人や建物に卵投げつけが行われることがある。ターゲットにされた著名人には、[[デビッド・キャメロン]]、[[スティーブ・バルマー]]、[[ブロニスワフ・コモロフスキ]]、[[アーノルド・シュワルツェネッガー]]、[[ジョン・プレスコット]]、[[ヘルムート・コール]]、[[ニコラ・サルコジ]]、ニック・グリフィン、[[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ3世]]<ref>[https://www.bbc.com/japanese/63579571 チャールズ国王に卵投げつけた学生逮捕 英ヨーク(BBC News Japan、2022年)]</ref>、[[エマニュエル・マクロン]]<ref>[https://www.cnn.co.jp/world/35177209.html マクロン仏大統領に男が卵投げ付ける リヨンの見本市で(CNN、2021年)]</ref>などがいる。 日本では、1996年5月9日に[[日本生命球場|日生球場]]でのプロ野球・[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]対[[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]]戦の試合終了直後、敗戦したダイエーの[[王貞治]]監督と選手が乗ったバスに対し、ファンが生卵を投げつける事件が発生した。ダイエーは前年1995年に5位に終わり、1996年も最下位で低迷する中での事件であった<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/202005060000249.html 王ダイエー、屈辱の「生卵事件」/1996・5・9] - 日刊スポーツ、2020年5月9日</ref>。 卵投げつけがヨーロッパで政治的抗議活動として定着したのは、19世紀後半に発表された[[ジョージ・エリオット]]の人気長編小説『[[ミドルマーチ]]』の主人公の一人であるアーサー・ブルックが、法外な公約をする選挙演説をしたので生卵を投げつけられて、大陸に避難する場面の影響があるという。<ref>[https://vpoint.jp/world/korea/197369.html また起きた卵投げ事件(ViewPoint、2021年)]</ref> == 脚注 == {{reflist}} ==参照項目== * 靴投げつけ ([[:en:Shoe tossing|Shoe tossing]]) * [[靴投げ事件]] == 外部リンク == {{Commonscat|Egging}} {{DEFAULTSORT:たまこなけつけ}} [[Category:卵]] [[Category:抗議行動の戦術]]
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シルヴァン・フランシスコ
シルヴァン・フランシスコ(Sylvain Francisco、1997年10月10日-)は、フロリダ州タバレス出身のプロバスケットボール選手。バイエルン・ミュンヘン所属。アメリカとフランス両方の国籍を持っておりバスケットボールフランス代表としてもプレーしている。
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シルヴァン・フランシスコは、フロリダ州タバレス出身のプロバスケットボール選手。バイエルン・ミュンヘン所属。アメリカとフランス両方の国籍を持っておりバスケットボールフランス代表としてもプレーしている。
{{バスケットボール選手 |所属チーム名=バイエルン・ミュンヘン |名前=シルヴァン・フランシスコ |画像= |画像サイズ= |画像説明= |本名= |愛称= |アルファベット表記= Sylvain Francisco |原語名= |原語表記= |国={{FRA}} {{USA}} |誕生日={{生年月日と年齢|1997|10|10}} |出身地=[[フロリダ州]] タバレス |出身= |身長=185cm |体重=77kg |血液型= |足のサイズ= |背番号=0 |ドラフト= |ポジション=[[ポイントガード|PG]] |垂直飛び= |最高到達点= |CAP数= |賞歴= |経歴=[[メトロポリタンズ92]]<br>[[パリス・バスケットボール]]<br>[[コラール・ロアンヌ・バスケット]]<br>[[バスケット・マンレサ]]<br> [[ペリステリBC]]<br>[[バイエルン・ミュンヘン]] |経歴年= 2017-2018<br>2018-2020<br>2020-2021<br>2021-2022<br>2022-2023<br>2023- }} '''シルヴァン・フランシスコ'''(Sylvain Francisco、[[1997年]][[10月10日]]-)は、[[フロリダ州]]タバレス出身のプロ[[バスケットボール]]選手。[[バイエルン・ミュンヘン]]所属。アメリカとフランス両方の国籍を持っており[[バスケットボールフランス代表]]としてもプレーしている<ref>{{Cite web |title=Sylvain Francisco Player Profile, Peristeri BC|url=https://basketball.realgm.com/player/Sylvain-Francisco/Summary/108162 |access-date=28 January 2023 |website=[[RealGM]]}}</ref><ref>{{Cite web |title=Sylvain FRANCISCO at the Basketball Champions League - BCL 2023 |url=https://www.championsleague.basketball/22-23/player/Sylvain-Francisco |access-date=28 January 2023 |website=FIBA.basketball }}</ref>。 == プロとしてのキャリア == {{Empty section|date=2023年9月}} == 代表としてのキャリア == {{Empty section|date=2023年9月}} == プレイスタイル == == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == {{DEFAULTSORT:しるうあん ふらんしすこ}} [[Category:1997年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:フランスの男子バスケットボール選手]] [[Category:アンゴラ系フランス人]] [[Category:2023年FIBAバスケットボール・ワールドカップ出場選手]]
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堀越敦子
堀越 敦子(ほりこし あつこ、1980年8月6日 - )は、広島県出身の女性ソフトテニス選手。ポジションは前衛 2003-2005、2007,2008日本代表。広島女子商業学校-NTT中国。 渡邉梨恵とのペアで果敢に前陣に切り込む攻撃的なスタイルを見せ皇后杯に二連覇。2004アジア選手権、2005東アジア競技大会の団体戦決勝では韓国のエースペア相手に三番勝負で2連勝し、連覇に貢献。
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堀越 敦子は、広島県出身の女性ソフトテニス選手。ポジションは前衛
{{テニス選手 | 選手名(日本語) = 堀越 敦子 | 競技 = | 写真 = HORIKOSHI Atsuko(JAPAN).jpg | 写真サイズ = 250px | 写真のコメント = 2008 ASIAN CHAMPIONSIIPS | 選手名(英語) = ATSUKO HORIKOSHI | フルネーム(英語名) = ATSUKO HORIKOSHI | 愛称 = | 国籍 = {{JPN}} | 出身地 = [[広島県]] | 居住地 = | 誕生日 = {{生年月日と年齢|1980|8|06}} <!-- 亡くなった場合はこちらを使用。{{生年月日と年齢|生年|月|日|no}} --> | 没年日 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|生年|月|日|没年|月|日}} --> | 死没地 = | 身長 = 164 | 体重 = 58 | 利き手 = 右 | バックハンド = | 殿堂入り = | デビュー年 = | 引退年 = 2008 | ツアー通算 = | シングルス = | ダブルス = | 生涯通算成績 = | シングルス通算 = | ダブルス通算 = | 生涯獲得賞金 = | 全豪オープン = | 全仏オープン = | ウィンブルドン = | 全米オープン = | 優勝回数 = | 全豪オープンダブルス = | 全仏オープンダブルス = | ウィンブルドンダブルス = | 全米オープンダブルス = | ダブルス優勝回数 = | 全豪オープン混合ダブルス = | 全仏オープン混合ダブルス = | ウィンブルドン混合ダブルス = | 全米オープン混合ダブルス = | 混合ダブルス優勝回数 = | デビスカップ = | フェドカップ = | ホップマンカップ = | ATPカップ = | シングルス最高 = | ダブルス最高 = | medaltemplates = <!-- メダルを獲得した場合は下記に記入。 --> {{MedalCompetition|[[世界ソフトテニス選手権]]}} {{MedalSilver|2007年|国別対抗団体戦}} {{MedalCompetition|[[アジアソフトテニス選手権]]}} {{MedalGold|2004年|国別対抗団体戦}} {{MedalSilver|2008年|国別対抗団体戦}} {{MedalCompetition|[[東アジア競技大会]]}} {{MedalGold|2005年|国別対抗団体戦}} | 更新日時 = 2023年9月2日 }} '''堀越 敦子'''(ほりこし あつこ、[[1980年]][[8月6日]] -<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.joc.or.jp/games/east_asia/2005/pdf/softtennis.pdf|title=第4回東アジア競技大会(2005/マカオ) 日本代表選手団 名簿 ソフトテニス|accessdate=2021-8-3|publisher=日本オリンピック委員会}}</ref> )は、[[広島県]]出身の[[女性]][[ソフトテニス]]選手。ポジションは前衛 == 来歴 == 2003-2005、2007,2008日本代表。[[広島翔洋高等学校|広島女子商業学校]]-NTT中国。 [[渡邉梨恵]]とのペアで果敢に前陣に切り込む攻撃的なスタイルを見せ皇后杯に二連覇。2004アジア選手権、2005東アジア競技大会の団体戦決勝では韓国のエースペア相手に三番勝負で2連勝し、連覇に貢献。 == 四大国際大会戦績 == *2003[[世界ソフトテニス選手権]] ダブルスベスト16(渡邉・堀越) *2004[[アジアソフトテニス選手権]] 国別対抗団体戦優勝 ダブルスベスト16(渡邉・堀越) *2005東アジア競技大会 国別対抗団体戦優勝 ダブルスベスト8(渡邉・堀越) *2007[[世界ソフトテニス選手権]] ダブルスベスト8([[上原絵里]]・堀越)団体準優勝 ミックスダブルスベスト16([[篠原秀典]]・堀越) *2008アジアソフトテニス選手権 ダブルスベスト8([[佐々木舞]]・堀越)団体準優勝 ミックスダブルスベスト16([[中堀成生]]・堀越) == 主な戦績 == *2003皇后賜杯[[全日本ソフトテニス選手権大会]] ベスト8(渡邉・堀越) *2004皇后賜杯[[全日本ソフトテニス選手権大会]] 優勝(渡邉・堀越) *2005皇后賜杯[[全日本ソフトテニス選手権大会]] 優勝(渡邉・堀越) *2008皇后賜杯[[全日本ソフトテニス選手権大会]] 優勝(佐々木・堀越) *2004[[全日本インドアソフトテニス選手権]] 三位(渡邉・堀越) *2005[[全日本インドアソフトテニス選手権]] 準優勝(渡邉・堀越) *2006[[全日本インドアソフトテニス選手権]] 優勝(渡邉・堀越) *2009[[全日本インドアソフトテニス選手権]] 優勝(佐々木・堀越) *2006全日本シングルス選手権大会 ベスト8 *2008全日本シングルス選手権大会 ベスト8 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == *[https://www.joc.or.jp/games/asia/2006/athlete/pdf/softtennis.pdfJOC選手個人データ - ] {{Sportspeople-stub}} {{DEFAULTSORT:ほりこしあつこ}} [[Category:日本のソフトテニス選手]] [[Category:日本の女子ソフトテニス選手]] [[Category:NTTのスポーツ関係者]] [[Category:広島県出身のスポーツ選手]] [[Category:1980年生]] [[Category:存命人物]]
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アンソニー・ラルストン
アンソニー・ラルストン(Anthony Ralston、1998年11月16日 - )は、スコットランド・ベルズヒル(英語版)出身の同国代表サッカー選手。セルティックFC所属。ポジションはDF。 セルティックFCの下部組織で育成され、2016年5月11日、セント・ジョンストンFCとのリーグ戦にてトップチームデビューを果たした。しかし、デビュー後は十分な出場機会を確保することが難しかったため、2017-18シーズンと2019-20シーズンはそれぞれダンディー・ユナイテッドFCとセント・ジョンストンFCへレンタル移籍をした。 2021-22シーズンからレギュラーに定着すると、2021年11月2日、クラブとの契約を2025年まで延長した。 2016年からスコットランドの世代別代表へ招集されており、世代別代表では通算16試合に出場した。 2021年11月15日、2022 FIFAワールドカップ・予選のデンマーク代表戦にて、試合終了間際にキーラン・ティアニーとの途中交代でスコットランド代表での初キャップを刻んだ。また、代表2試合目となったUEFAネーションズリーグのアルメニア代表戦ではフル代表初得点を挙げている。
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アンソニー・ラルストンは、スコットランド・ベルズヒル出身の同国代表サッカー選手。セルティックFC所属。ポジションはDF。
{{サッカー選手 |名前=アンソニー・ラルストン |画像= |画像の説明= |画像サイズ= |愛称= |アルファベット表記=Anthony Ralston |国={{SCO}} |生年月日={{生年月日と年齢|1998|11|16}} |出身地={{仮リンク|ベルズヒル|en|Bellshill}} |身長=178cm |体重= |所属チーム名={{flagicon|SCO}} [[セルティックFC]] |ポジション=[[ディフェンダー (サッカー)|DF]] (RSB) |背番号=56 |利き足=右足 |ユース年1=2007-2015|ユースクラブ1={{flagicon|SCO}} [[セルティックFC|セルティック]] |年1=2015-|クラブ1={{flagicon|SCO}} [[セルティックFC|セルティック]]|出場1=56|得点1=5 |年2=2015-2016|クラブ2=→{{flagicon|SCO}} [[クイーンズ・パークFC|クイーンズ・パーク]] (loan)|出場2=10|得点2=1 |年3=2018|クラブ3=→{{flagicon|SCO}} [[ダンディー・ユナイテッドFC|ダンディー・ユナイテッド]] (loan)|出場3=11|得点3=1 |年4=2019-2020|クラブ4=→{{flagicon|SCO}} [[セント・ジョンストンFC|セント・ジョンストン]] (loan)|出場4=22|得点4=0 |クラブ成績更新日=2023年6月30日 |代表年1=2016|代表1={{fbu|19|SCO|name=スコットランド U-19}}|代表出場1=6|代表得点1=0 |代表年2=2017|代表2={{fbu|20|SCO|name=スコットランド U-20}}|代表出場2=5|代表得点2=0 |代表年3=2017-2018|代表3={{fbu|21|SCO|name=スコットランド U-21}}|代表出場3=5|代表得点3=0 |代表年4=2021-|代表4={{SCOf}}|代表出場4=6|代表得点4=1 |代表成績更新日=2022年9月27日 }} '''アンソニー・ラルストン'''('''Anthony Ralston'''、[[1998年]][[11月16日]] - )は、[[スコットランド]]・{{仮リンク|ベルズヒル|en|Bellshill}}出身の[[サッカースコットランド代表|同国代表]][[プロサッカー選手|サッカー選手]]。[[セルティックFC]]所属。ポジションは[[ディフェンダー (サッカー)|DF]]。 == クラブ経歴 == [[セルティックFC]]の下部組織で育成され、2016年5月11日、[[セント・ジョンストンFC]]とのリーグ戦にてトップチームデビューを果たした<ref>{{Cite news |title=St Johnstone 2-1 Celtic |url=https://www.bbc.com/sport/football/36200297 |work=BBC Sport |access-date=2023-09-08 |language=en-GB}}</ref>。しかし、デビュー後は十分な出場機会を確保することが難しかったため、2017-18シーズンと2019-20シーズンはそれぞれ[[ダンディー・ユナイテッドFC]]とセント・ジョンストンFCへレンタル移籍をした<ref>{{Cite web |title=Ralston joins on-loan |url=https://www.perthstjohnstonefc.co.uk/ |website=St Johnstone Football Club |access-date=2023-09-08 |language=en}}</ref>。 2021-22シーズンからレギュラーに定着すると、2021年11月2日、クラブとの契約を2025年まで延長した<ref>{{Cite web |title=Anthony Ralston pens Celtic extension as reward for early season heroics |url=https://www.dailyrecord.co.uk/sport/football/football-news/anthony-ralston-pens-celtic-extension-25360715 |website=Daily Record |date=2021-11-02 |access-date=2023-09-08 |language=en |first=Mark |last=Pirie}}</ref>。 == 代表経歴 == 2016年からスコットランドの世代別代表へ招集されており、世代別代表では通算16試合に出場した。 2021年11月15日、[[2022 FIFAワールドカップ・予選]]の[[サッカーデンマーク代表|デンマーク代表]]戦にて、試合終了間際に[[キーラン・ティアニー]]との途中交代で[[サッカースコットランド代表|スコットランド代表]]での初キャップを刻んだ<ref>{{Cite news |title=Scotland beat Danes to earn home play-off |url=https://www.bbc.com/sport/football/59202146 |work=BBC Sport |access-date=2023-09-08 |language=en-GB}}</ref>。また、代表2試合目となった[[UEFAネーションズリーグ]]の[[サッカーアルメニア代表|アルメニア代表]]戦ではフル代表初得点を挙げている<ref>{{Cite news |title=Ralston revels in special first start for Scotland |url=https://www.bbc.com/sport/football/61740982 |work=BBC Sport |access-date=2023-09-08 |language=en-GB}}</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == *{{sports links}} {{セルティックFCのメンバー}} {{デフォルトソート:らるすとん あんそに}} [[Category:スコットランドのサッカー選手]] [[Category:サッカースコットランド代表選手]] [[Category:セルティックFCの選手]] [[Category:クイーンズ・パークFCの選手]] [[Category:ダンディー・ユナイテッドFCの選手]] [[Category:セント・ジョンストンFCの選手]] [[Category:ノース・ラナークシャー出身の人物]] [[Category:1998年生]] [[Category:存命人物]]
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フワモコ
フワモコ(フワワ・アビスガード、モココ・アビスガード、7月31日 - )は、英語圏を中心に活動するバーチャルYouTuber、バーチャルアイドル。所属事務所はホロライブプロダクションで、ホロライブの英語圏を中心に活動する部門「ホロライブEnglish」のグループ「Advent」メンバー。 キャラクターの設定を、それぞれ としている。 イラストレーターはイコモチ、Live2Dモデルの制作はJujubeがそれぞれ担当。 ファンネームは「Ruffians」(日本語で悪党たちの意味)。メンバーシップネームは、それぞれ「Doggy」「Hot dog」「Mad dog」となっている。 Lifetime Showtime
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フワモコは、英語圏を中心に活動するバーチャルYouTuber、バーチャルアイドル。所属事務所はホロライブプロダクションで、ホロライブの英語圏を中心に活動する部門「ホロライブEnglish」のグループ「Advent」メンバー。
{{特筆性|date=2023年9月}} {{Infobox animanga character | color = #2d87f7 | color text = black | name = フワワ・アビスガード | website = {{Official website|https://hololive.hololivepro.com/talents/fuwawa-abyssgard/}} | creator = {{Ublist|イコモチ([[キャラクターデザイン]])|Jujube([[Live2D]]モデル)}} | birthday = [[2月1日]] | age = | height = 155cm | gender = 女性 | species = [[犬]] | nickname = {{ublist|フワワ}} }} {{Infobox animanga character | color = #ff82c9 | color text = black | name = モココ・アビスガード | website = {{Official website|https://hololive.hololivepro.com/talents/mococo-abyssgard/}} | creator = {{Ublist|イコモチ([[キャラクターデザイン]])|Jujube([[Live2D]]モデル)}} | birthday = [[2月2日]] | age = | height = 155cm | gender = 女性 | species = [[犬]] | nickname = {{ublist|モココ|モコちゃん}} }} {{Infobox YouTube personality | name = フワモコ | caption = | logo = | logo caption = | image = | birth_name = | nationality = | occupation = [[バーチャルYouTuber]] | height = | pseudonym = {{Lang-en-short|Mococo Abyssgard}}<br />{{lang-en-short|Fuwawa Abyssgard}} | channel_name = | channel_url = UCt9H_RpQzhxzlyBxFqrdHqA | channel_direct_url = | channel_display_name = FUWAMOCO Ch. hololive-EN | creator = | years_active = 2023年 - | genre = 雑談配信<br>[[ゲーム実況]]<br>[[歌]] | subscribers = <!-- 更新は1か月に1回程度 -->約59.4万人<!-- 更新を行った際はstats_updateを必ず更新してください。--> | subscriber_date = | views = <!-- 更新は1か月に1回程度 -->19,155,500 回<!-- 更新を行った際はstats_updateを必ず更新してください。--> | view_date = | network = [[ホロライブプロダクション]] | associated_acts = {{ublist|シオリ・ノヴェラ|古石ビジュー|ネリッサ・レイヴンクロフト}} | catchphrase(s) = Hello hello! 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浮田 (宮崎市)
浮田(うきた)とは、宮崎県宮崎市内の地名。正式には「宮崎市大字浮田」の表記となる。生目地域自治区に属している。郵便番号は880-2104。 宮崎市の中西部、生目地域自治区に属する。旧国道10号を中心とし、ロードサイド店舗や住宅街が広がるほか、農地となっている地域もある。 北を大字柏原、東を大字小松(上小松)、南東を大塚台西1丁目、南を大字生目、西を大字富吉・大字長嶺・大字細江と接する。 2023年(令和5年)8月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである。 市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。小学校は同一だが、中学校は地域により異なる地区がある。 宮交グループの運営するバスが営業している。
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浮田(うきた)とは、宮崎県宮崎市内の地名。正式には「宮崎市大字浮田」の表記となる。生目地域自治区に属している。郵便番号は880-2104。
{{Infobox settlement | name = 大字浮田 | settlement_type = 大字 | image_skyline = | imagesize = | image_caption = | image_map = | map_caption = 大字浮田の位置 | pushpin_map = Japan Miyazaki | latd = 31 | latm = 55 | lats = 28.7 | latNS = N | longd = 131 | longm = 22 | longs = 24.2 | longEW = E | subdivision_type = [[国の一覧|国]] | subdivision_name = {{JPN}} | subdivision_type1 = [[都道府県]] | subdivision_name1 = [[File:Flag of Miyazaki Prefecture.svg|border|25px]] [[宮崎県]] | subdivision_type2 = [[市町村]] | subdivision_name2 = [[File:Flag of Miyazaki, Miyazaki.svg|border|25px]] [[宮崎市]] | subdivision_type3 = 地区 | subdivision_name3 = [[生目地域自治区]] | established_title1 = | established_date1 = | area_footnotes = <!--- 面積(<ref>) ---> | area_total_km2 = <!--- 面積 ---> | elevation_footnotes = <!--- 標高(<ref>) ---> | elevation_m = <!--- 標高 ---> | population_as_of = [[2023年]]([[令和]]5年)[[8月1日]]現在 | population_footnotes = <ref name="population">{{Cite web|和書|url=https://www.city.miyazaki.miyazaki.jp/city/statistics/population/12314.html|title=地域自治区別・町丁大字別 人口・世帯数 |publisher=宮崎市|language=日本語|accessdate=2023-09-08}}</ref> | population_total = 2268 | population_density_km2 = auto | timezone1 = [[日本標準時]] | utc_offset1 = +9 | postal_code_type = [[日本の郵便番号|郵便番号]] | postal_code = 880-2104<ref name="postal">{{Cite web|和書|url=https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?zip=8802104|title=郵便番号|publisher=[[日本郵便]] |accessdate=2023-09-08}}</ref> | area_code = 0985<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/top/tel_number/shigai_list.html|title=市外局番の一覧|publisher=総務省|accessdate=2023-09-08}}</ref> | registration_plate = [[宮崎運輸支局|宮崎]] | footnotes = }} '''浮田'''(うきた)とは、[[宮崎県]][[宮崎市]]内の地名。正式には「宮崎市'''大字浮田'''」の表記となる。[[生目地域自治区]]に属している。郵便番号は880-2104<ref name="postal" />。 == 地理 == 宮崎市の中西部、生目地域自治区に属する。旧国道10号を中心とし、ロードサイド店舗や住宅街が広がるほか、農地となっている地域もある。 北を[[柏原 (宮崎市)|大字柏原]]、東を[[小松 (宮崎市)|大字小松(上小松)]]、南東を[[大塚台西]]1丁目、南を[[生目|大字生目]]、西を[[富吉 (宮崎市)|大字富吉]]・[[長嶺 (宮崎市)|大字長嶺]]・[[細江 (宮崎市)|大字細江]]と接する。 == 地名の由来 == {{See also|生目地域自治区#地名の由来}} == 歴史 == * [[1889年]]([[明治]]22年)[[5月1日]] - [[町村制]]の施行により、[[宮崎郡]]浮田村・生目村・細江村・長嶺村・跡江村・富吉村・柏原村・小松村の区域をもって生目村が発足。 * [[1963年]]([[昭和]]38年)[[4月1日]] - 宮崎市が生目村を編入。大字浮田が成立。 * [[1975年]](昭和50年) - 浮田から[[大塚台西]]が独立。 * [[2006年]](平成18年)[[1月1日]] - 生目地域自治区に所属となる。 == 世帯数と人口 == 2023年(令和5年)8月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである<ref name="population" />。 {| class="wikitable" ![[町丁]] ![[世帯|世帯数]] ![[人口]] |- |大字浮田 |941世帯 |2268人 |} == 小・中学校の学区 == 市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる<ref>{{Cite web|和書|url=https://ops-jg.d1-law.com/opensearch/SrJbF01/init?jctcd=8A91AC49CB&houcd=H346920100001&no=5&totalCount=20&fromJsp=SrMj |title=宮崎市立小中学校の通学区域に関する規則 |publisher=宮崎市 |accessdate=2023-08-31}}</ref>。小学校は同一だが、中学校は地域により異なる地区がある。 {| class="wikitable" !町名 !小学校 !中学校 |- | rowspan="2" |大字浮田 | rowspan="2" |[[宮崎市立生目小学校]] |[[宮崎市立生目中学校]] |- |[[宮崎市立生目南中学校]] |} == 交通 == === バス === 宮交グループ<ref>宮交グループ http://www.miyakoh.co.jp/ </ref>の運営するバスが営業している。 === 道路 === * [[東九州自動車道]] * [[国道10号]]([[宮崎西バイパス]]) * [[宮崎県道9号宮崎西環状線]] * [[宮崎県道334号生目浮田線]] == 施設 == * 宮崎市役所生目地域センター * [[宮崎市立生目南中学校]] * [[宮崎市立生目小学校]] * 宮崎生目郵便局 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 関連項目 == * [[宮崎市の地名]] == 外部リンク == * [https://www.city.miyazaki.miyazaki.jp/ 宮崎市] * [https://geoshape.ex.nii.ac.jp/ka/resource/45/452011490.html 宮崎県宮崎市大字浮田 (452011490) | 国勢調査町丁・字等別境界データセット] {{宮崎市の町・字}} {{DEFAULTSORT:うきた}} [[Category:宮崎市の町・字]]
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跡江
跡江(あとえ)とは、宮崎県宮崎市内の地名。正式には「宮崎市大字跡江」の表記となる。生目地域自治区に属している。郵便番号は880-2101。 宮崎市の中西部、生目地域自治区に属する。北方を大淀川に面し、主に農地となっている地域である。生目古墳群、宮崎市生目の杜運動公園などの史跡・文教施設にて知られる。 東を大字小松(下小松)、南東を小松台北町、南を大字浮田・大字小松(上小松)、西を大字有田・大字柏原と接する。大淀川を挟んで上北方、瓜生野 (宮崎市)と接する。 2023年(令和5年)8月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである。 市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。 宮交グループの運営するバスが営業している。
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跡江(あとえ)とは、宮崎県宮崎市内の地名。正式には「宮崎市大字跡江」の表記となる。生目地域自治区に属している。郵便番号は880-2101。
{{Infobox settlement | name = 大字跡江 | settlement_type = 大字 | image_skyline = Ivy_Stadium.jpg | imagesize = 250px | image_caption = 宮崎市生目の杜運動公園アイビースタジアム | image_map = | map_caption = 大字跡江の位置 | pushpin_map = Japan Miyazaki | latd = 31 | latm = 56 | lats = 43.3 | latNS = N | longd = 131 | longm = 23 | longs = 14.9 | longEW = E | subdivision_type = [[国の一覧|国]] | subdivision_name = {{JPN}} | subdivision_type1 = [[都道府県]] | subdivision_name1 = [[File:Flag of Miyazaki Prefecture.svg|border|25px]] [[宮崎県]] | subdivision_type2 = [[市町村]] | subdivision_name2 = [[File:Flag of Miyazaki, Miyazaki.svg|border|25px]] [[宮崎市]] | subdivision_type3 = 地区 | subdivision_name3 = [[生目地域自治区]] | established_title1 = | established_date1 = | area_footnotes = <!--- 面積(<ref>) ---> | area_total_km2 = <!--- 面積 ---> | elevation_footnotes = <!--- 標高(<ref>) ---> | elevation_m = <!--- 標高 ---> | population_as_of = [[2023年]]([[令和]]5年)[[8月1日]]現在 | population_footnotes = <ref name="population">{{Cite web|和書|url=https://www.city.miyazaki.miyazaki.jp/city/statistics/population/12314.html|title=地域自治区別・町丁大字別 人口・世帯数 |publisher=宮崎市|language=日本語|accessdate=2023-09-08}}</ref> | population_total = 1914 | population_density_km2 = auto | timezone1 = [[日本標準時]] | utc_offset1 = +9 | postal_code_type = [[日本の郵便番号|郵便番号]] | postal_code = 880-2101<ref name="postal">{{Cite web|和書|url=https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?zip=8802101|title=郵便番号|publisher=[[日本郵便]] |accessdate=2023-09-08}}</ref> | area_code = 0985<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/top/tel_number/shigai_list.html|title=市外局番の一覧|publisher=総務省|accessdate=2023-09-08}}</ref> | registration_plate = [[宮崎運輸支局|宮崎]] | footnotes = }} '''跡江'''(あとえ)とは、[[宮崎県]][[宮崎市]]内の地名。正式には「宮崎市'''大字跡江'''」の表記となる。[[生目地域自治区]]に属している。郵便番号は880-2101<ref name="postal" />。 == 地理 == 宮崎市の中西部、生目地域自治区に属する。北方を[[大淀川]]に面し、主に農地となっている地域である。[[生目古墳群]]、[[宮崎市生目の杜運動公園]]などの史跡・文教施設にて知られる。 東を[[小松 (宮崎市)|大字小松(下小松)]]、南東を[[小松台北町]]、南を[[浮田 (宮崎市)|大字浮田]]・[[小松 (宮崎市)|大字小松(上小松)]]、西を[[有田 (宮崎市)|大字有田]]・[[柏原 (宮崎市)|大字柏原]]と接する。大淀川を挟んで[[上北方]]、[[瓜生野 (宮崎市)]]と接する。 == 地名の由来 == {{See also|生目地域自治区#地名の由来}} == 歴史 == * [[1889年]]([[明治]]22年)[[5月1日]] - [[町村制]]の施行により、[[宮崎郡]]浮田村・生目村・細江村・長嶺村・跡江村・富吉村・柏原村・小松村の区域をもって生目村が発足。 * [[1963年]]([[昭和]]38年)[[4月1日]] - 宮崎市が生目村を編入。大字跡江が成立。 * [[1982年]](昭和57年) - 跡江から[[小松台北町]]が独立。 * [[2006年]](平成18年)[[1月1日]] - 生目地域自治区に所属となる。 == 世帯数と人口 == 2023年(令和5年)8月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである<ref name="population" />。 {| class="wikitable" ![[町丁]] ![[世帯|世帯数]] ![[人口]] |- |大字跡江 |949世帯 |1914人 |} == 小・中学校の学区 == 市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる<ref>{{Cite web|和書|url=https://ops-jg.d1-law.com/opensearch/SrJbF01/init?jctcd=8A91AC49CB&houcd=H346920100001&no=5&totalCount=20&fromJsp=SrMj |title=宮崎市立小中学校の通学区域に関する規則 |publisher=宮崎市 |accessdate=2023-08-31}}</ref>。 {| class="wikitable" !町名 !小学校 !中学校 |- |大字跡江の一部 |[[宮崎市立生目小学校]] | rowspan="2" |[[宮崎市立生目中学校]] |- |大字跡江の一部 |[[宮崎市立小松台小学校]] |} == 交通 == === バス === 宮交グループ<ref>宮交グループ http://www.miyakoh.co.jp/ </ref>の運営するバスが営業している。 === 道路 === * [[宮崎県道9号宮崎西環状線]] * [[宮崎県道17号南俣宮崎線]] == 施設 == * [[宮崎市生目の杜運動公園]] * [[宮崎市生目の杜運動公園アイビースタジアム]] * [[宮崎市立生目中学校]] * [[生目古墳群]] * 宮崎中央家畜市場 * 相生橋 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 関連項目 == * [[宮崎市の地名]] == 外部リンク == * [https://www.city.miyazaki.miyazaki.jp/ 宮崎市] * [https://geoshape.ex.nii.ac.jp/ka/resource/45/452011540.html 宮崎県宮崎市大字跡江 (452011540) | 国勢調査町丁・字等別境界データセット] {{宮崎市の町・字}} {{DEFAULTSORT:あとえ}} [[Category:宮崎市の町・字]]
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羅喜聞
羅喜聞(らきぶん、1888年 - 1972年)、名は承鼎、字は喜聞。大清国湖南省華容県南山郷出身。 1909年(宣統元年)湖南西路師範学校(中国語版)を卒業。1920年に留仏勤工倹学生としてフランスに留学。1924年に帰国。華容県勧学所所長。1927年、上海の国立労働大学で教鞭をとる。1929年、浙江省政府 (中華民国)(中国語版)設計委員会経済調査統計書所所長。1933年、南京建設委員会就任。抗日戦争の1939年には国民政府軍事委員会(中国語版)政治部設計委員。1942年に昆明に赴き中法大学(中国語版)学部長、文学院院長。1945年に辞職して帰郷。翌年、湖南省南県にある私立湖西中学校長に就任。 1948年、中央研究院北平研究所社会科学グループの研究員に選出され、同年、当時の国民政府台湾省主席の魏道明に招かれ、台湾省図書館の研究員として台湾史の改訂に参加した。 羅は教育こそが国家発展の第一歩であると考え、生涯を通じて歴史と地理を熱心に研究したが、特に資治通鑑の研究がその中心で、著書に『資治通鑑 地理考證』、『兩漢郡國疆域表』、『資治通鑑 古今地名對照表』などがある。 1949年の中華人民共和国の成立後は、同郷で留仏勤工倹学時代からの仲間である何長工の招請に応じ、中華人民共和国重工業部(中国語版)教育顧問に任命され、重工業部子弟学校温泉中学校長も兼務した。後に北京市第四十七中学校長。1954年からは北京文学歴史研究所の所員を務めた。 1972年に死去。
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羅喜聞、名は承鼎、字は喜聞。大清国湖南省華容県南山郷出身。
'''羅喜聞'''(らきぶん、1888年 - 1972年)は、教育者。 名は承鼎、[[字]]は喜聞。[[大清国]][[湖南省]][[華容県]]南山郷出身<ref name="岳阳市情网">{{cite web |url=http://www.yysqw.gov.cn/html/main/blqy/content/2015119/n21513383.html |title=罗喜闻 |publisher=岳阳市情网 |access-date=2017-08-02 |archive-date=2017-08-02 |archive-url=https://web.archive.org/web/20170802133431/http://www.yysqw.gov.cn/html/main/blqy/content/2015119/n21513383.html |dead-url=yes}}</ref>。 == 生涯 == 1909年([[宣統]]元年){{仮リンク|湖南西路師範学校|zh|湖南西路师范学堂}}を卒業。1920年に[[留仏勤工倹学運動|留仏勤工倹学]]生としてフランスに留学<ref name=":0">{{Cite book|和書 |title=フランス勤工倹学の回想―中国共産党の一源流 |publisher=[[岩波書店]] |translator=[[河田悌一]]、[[森 時彦]] |year=1976 |author=[[何長工]] |ASIN=B000J9LRSQ}}</ref>。1924年に帰国。華容県勧学所所長。1927年、上海の国立労働大学で教鞭をとる<ref name="岳阳市情网" />。1929年、{{仮リンク|浙江省政府 (中華民国)|zh|浙江省政府 (中华民国)}}設計委員会経済調査統計書所所長<ref name="岳阳市情网" />。1933年、南京建設委員会就任<ref name="岳阳市情网" />。[[日中戦争|抗日戦争]]の1939年には{{仮リンク|国民政府軍事委員会|zh|国民政府军事委员会}}政治部設計委員<ref name="岳阳市情网" />。1942年に[[昆明市|昆明]]に赴き{{仮リンク|中法大学|zh|中法大学}}学部長、文学院院長。1945年に辞職して帰郷。翌年、湖南省[[南県]]にある私立湖西中学校長に就任<ref name="岳阳市情网" />。 1948年、中央研究院北平研究所社会科学グループの研究員に選出され、同年、当時の国民政府台湾省主席の魏道明に招かれ、台湾省図書館の研究員として台湾史の改訂に参加した。 羅は教育こそが国家発展の第一歩であると考え、生涯を通じて歴史と地理を熱心に研究したが、特に[[資治通鑑]]の研究がその中心で、著書に『資治通鑑 地理考證』、『兩漢郡國疆域表』、『資治通鑑 古今地名對照表』などがある<ref>{{cite web |url=http://www.ncl.edu.tw/information_236_7397.html |title=『資治通鑑』地理考證 |publisher=臺灣國家圖書館 |access-date=2017-08-02 |archive-date=2019-06-10 |archive-url=https://web.archive.org/web/20190610111614/https://www.ncl.edu.tw/information_236_7397.html |dead-url=no}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.bjd.com.cn/sy/llzk/201707/24/t20170724_11066144.html |title=赓续前贤,启牖后学 |publisher=北京日報 |access-date=2017-08-02 |archive-url=https://web.archive.org/web/20170802163522/http://www.bjd.com.cn/sy/llzk/201707/24/t20170724_11066144.html |archive-date=2017-08-02 |dead-url=yes}}</ref>。 1949年の[[中華人民共和国]]の成立後は、同郷で留仏勤工倹学時代からの仲間である[[何長工]]<ref name=":0" />の招請に応じ、{{仮リンク|中華人民共和国重工業部|zh|中华人民共和国重工业部}}教育顧問に任命され、重工業部子弟学校温泉中学校長も兼務した<ref name="岳阳市情网" />。後に北京市第四十七中学校長。1954年からは北京文学歴史研究所の所員を務めた<ref name="岳阳市情网" />。 1972年に死去<ref name="岳阳市情网" />。 == 脚注・参考文献 == {{Reflist}} {{DEFAULTSORT:らきふん}} [[Category:20世紀中国の教育者]] [[Category:中華民国の人物]] [[Category:中華人民共和国の人物]] [[Category:1888年生]] [[Category:1972年没]]
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富吉 (宮崎市)
富吉(とみよし)とは、宮崎県宮崎市内の地名。正式には「宮崎市大字富吉」の表記となる。生目地域自治区に属している。郵便番号は880-2114。 宮崎市の中西部、生目地域自治区に属する。北西方を大淀川に面し、主に農地となっている地域である。 東を大字有田・大字柏原、南を大字長嶺・大字浮田・高岡町上倉永、西を高岡町下倉永と接する。大淀川を挟んで大字糸原・高岡町花見と接する。 2023年(令和5年)8月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである。 市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。 宮交グループの運営するバスが営業している。
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富吉(とみよし)とは、宮崎県宮崎市内の地名。正式には「宮崎市大字富吉」の表記となる。生目地域自治区に属している。郵便番号は880-2114。
{{Infobox settlement | name = 大字富吉 | settlement_type = 大字 | image_skyline = | imagesize = | image_caption = | image_map = | map_caption = 大字富吉の位置 | pushpin_map = Japan Miyazaki | latd = 31 | latm = 56 | lats = 14.0 | latNS = N | longd = 131 | longm = 21 | longs = 14.5 | longEW = E | subdivision_type = [[国の一覧|国]] | subdivision_name = {{JPN}} | subdivision_type1 = [[都道府県]] | subdivision_name1 = [[File:Flag of Miyazaki Prefecture.svg|border|25px]] [[宮崎県]] | subdivision_type2 = [[市町村]] | subdivision_name2 = [[File:Flag of Miyazaki, Miyazaki.svg|border|25px]] [[宮崎市]] | subdivision_type3 = 地区 | subdivision_name3 = [[生目地域自治区]] | established_title1 = | established_date1 = | area_footnotes = <!--- 面積(<ref>) ---> | area_total_km2 = <!--- 面積 ---> | elevation_footnotes = <!--- 標高(<ref>) ---> | elevation_m = <!--- 標高 ---> | population_as_of = [[2023年]]([[令和]]5年)[[8月1日]]現在 | population_footnotes = <ref name="population">{{Cite web|和書|url=https://www.city.miyazaki.miyazaki.jp/city/statistics/population/12314.html|title=地域自治区別・町丁大字別 人口・世帯数 |publisher=宮崎市|language=日本語|accessdate=2023-09-08}}</ref> | population_total = 1262 | population_density_km2 = auto | timezone1 = [[日本標準時]] | utc_offset1 = +9 | postal_code_type = [[日本の郵便番号|郵便番号]] | postal_code = 880-2114<ref name="postal">{{Cite web|和書|url=https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?zip=8802114|title=郵便番号|publisher=[[日本郵便]] |accessdate=2023-09-08}}</ref> | area_code = 0985<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/top/tel_number/shigai_list.html|title=市外局番の一覧|publisher=総務省|accessdate=2023-09-08}}</ref> | registration_plate = [[宮崎運輸支局|宮崎]] | footnotes = }} '''富吉'''(とみよし)とは、[[宮崎県]][[宮崎市]]内の地名。正式には「宮崎市'''大字富吉'''」の表記となる。[[生目地域自治区]]に属している。郵便番号は880-2114<ref name="postal" />。 == 地理 == 宮崎市の中西部、生目地域自治区に属する。北西方を[[大淀川]]に面し、主に農地となっている地域である。 東を[[有田 (宮崎市)|大字有田]]・[[柏原 (宮崎市)|大字柏原]]、南を[[長嶺 (宮崎市)|大字長嶺]]・[[浮田 (宮崎市)|大字浮田]]・[[高岡町上倉永]]、西を[[高岡町下倉永]]と接する。大淀川を挟んで[[糸原 (宮崎市)|大字糸原]]・[[高岡町花見]]と接する。 == 地名の由来 == {{See also|生目地域自治区#地名の由来}} == 歴史 == * [[1889年]]([[明治]]22年)[[5月1日]] - [[町村制]]の施行により、[[宮崎郡]]浮田村・生目村・細江村・長嶺村・跡江村・富吉村・柏原村・小松村の区域をもって生目村が発足。 * [[1963年]]([[昭和]]38年)[[4月1日]] - 宮崎市が生目村を編入。大字富吉が成立。 * [[2006年]](平成18年)[[1月1日]] - 生目地域自治区に所属となる。 == 世帯数と人口 == 2023年(令和5年)8月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである<ref name="population" />。 {| class="wikitable" ![[町丁]] ![[世帯|世帯数]] ![[人口]] |- |大字富吉 |602世帯 |1262人 |} == 小・中学校の学区 == 市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる<ref>{{Cite web|和書|url=https://ops-jg.d1-law.com/opensearch/SrJbF01/init?jctcd=8A91AC49CB&houcd=H346920100001&no=5&totalCount=20&fromJsp=SrMj |title=宮崎市立小中学校の通学区域に関する規則 |publisher=宮崎市 |accessdate=2023-08-31}}</ref>。 {| class="wikitable" !町名 !小学校 !中学校 |- |大字富吉 |[[宮崎市立生目小学校]] |[[宮崎市立生目中学校]] |} == 交通 == === バス === 宮交グループ<ref>宮交グループ http://www.miyakoh.co.jp/ </ref>の運営するバスが営業している。 === 道路 === * [[東九州自動車道]]([[宮崎西インターチェンジ]]) * [[国道10号]] == 施設 == * 宮崎市上下水道局 富吉浄水場 * [[宮崎交通]]宮崎中央営業所・貸切高速営業所(富吉車庫) * [[西日本高速道路九州支社]]宮崎高速道路事務所 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 関連項目 == * [[宮崎市の地名]] == 外部リンク == * [https://www.city.miyazaki.miyazaki.jp/ 宮崎市] * [https://geoshape.ex.nii.ac.jp/ka/resource/45/452011510.html 宮崎県宮崎市大字富吉 (452011510) | 国勢調査町丁・字等別境界データセット] {{宮崎市の町・字}} {{DEFAULTSORT:とみよし}} [[Category:宮崎市の町・字]]
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バテン・カイトス I&II HD Remaster
『バテン・カイトス I&II HD Remaster』(バテン・カイトス ワンアンドツー エイチディーリマスター、Baten Kaitos I&II HD Remaster)は、2023年9月14日にバンダイナムコエンターテインメントより発売されたNintendo Switch用ゲームソフト。公称ジャンル名は「君とはじめて出会うRPG。」。 過去にモノリスソフト、トライクレッシェンドらが開発し、ナムコ(現在のバンダイナムコエンターテインメント)がニンテンドーゲームキューブ用ソフトとして2003年に発売した『バテン・カイトス 終わらない翼と失われた海(以下:バテン1)』、同社開発、任天堂が2006年に発売した『バテン・カイトスII 始まりの翼と神々の嗣子(以下:バテン2)』の2タイトルの背景グラフィックや3DモデルなどをHD化し収録。 パッケージ版早期購入特典・ダウンロード版予約特典として、当時の設定資料や最新ビジュアルを収録したデジタルアートブックが付属。 開発担当はロジカルビート。 本作ではグラフィックのHD化のみではなく、オリジナル版にはないゲームを快適に進行するための新機能の追加、UIの刷新などが行われ、画面のアスペクト比が4:3から16:9に変更されている。 キャッチコピーは「すべての命は、いつか海へと還る。 君とはじめて出会うRPG。」。本キャッチコピーはバテン1と同様のものが採用されている。 バンダイナムコエンターテインメントは本作のリマスターの開発に対し、ユーザーからの要望に応える形で実現したと語っている。 また、任天堂やモノリスソフト等の当時制作に携わった関係者の協力の元、本作は開発された。 バテン1、バテン2でディレクションやマップデザインなどを務めた本根康之は、新規イラストの監修、ゲーム内変更箇所における世界観監修などを担当している。 基本的にオリジナル版の要素を継承しているが、ゲームを快適に進行するための新機能が搭載されている。 2023年7月よりTVCMが放送開始され、バテン1の主人公であるカラスのキャラクターボイスを務めた鳥海浩輔が新たにナレーションを担当している。 また、同CMはnamco秋葉原店のビジョンにて2023年8月7日まで放映された。
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『バテン・カイトス I&II HD Remaster』は、2023年9月14日にバンダイナムコエンターテインメントより発売されたNintendo Switch用ゲームソフト。公称ジャンル名は「君とはじめて出会うRPG。」。
{{コンピュータゲーム | Title = バテン・カイトス Ⅰ&Ⅱ<br>HD Remaster | Genre = [[コンピュータRPG|ロールプレイングゲーム]] | Plat = [[Nintendo Switch]] | Dev = ロジカルビート | Pub = [[バンダイナムコエンターテインメント]] | Play = 1人用 | Media = Nintendo Switch専用ゲームカード<br>ダウンロード販売 | Date = [[2023年]][[9月14日]] | Rating = {{CERO-B}}<br />{{ESRB-T}}<br />{{PEGI-12}}<br />{{USK-6}} | Device = | Spec = | Engine = | Sale = | etc = }} 『'''バテン・カイトス I&II HD Remaster'''』(バテン・カイトス ワンアンドツー エイチディーリマスター、Baten Kaitos I&II HD Remaster)は、[[2023年]][[9月14日]]に[[バンダイナムコエンターテインメント]]より発売された[[Nintendo Switch]]用[[ゲームソフト]]。公称ジャンル名は'''「君とはじめて出会うRPG。」'''。 == 概要 == 過去に[[モノリスソフト]]、[[トライクレッシェンド]]らが開発し、ナムコ(現在の[[バンダイナムコエンターテインメント]])が[[ニンテンドーゲームキューブ]]用ソフトとして[[2003年]]に発売した『[[バテン・カイトス 終わらない翼と失われた海]](以下:バテン1)』、同社開発、[[任天堂]]が2006年に発売した『[[バテン・カイトスII 始まりの翼と神々の嗣子]](以下:バテン2)』の2タイトルの背景グラフィックや3DモデルなどをHD化し収録。 パッケージ版早期購入特典・ダウンロード版予約特典として、当時の設定資料や最新ビジュアルを収録したデジタルアートブックが付属。 開発担当はロジカルビート<ref>{{Cite web|和書|url=https://logicalbeat.jp/work-info/14101/ |title=株式会社ロジカルビート |accessdate=2023-09-08}}</ref>。 本作ではグラフィックのHD化のみではなく、オリジナル版にはないゲームを快適に進行するための新機能の追加、UIの刷新などが行われ、画面の[[アスペクト比]]が4:3から16:9に変更されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/news/202302/09292105.html |title=『バテンカイトス1&2 HDリマスター』Switchで2023年夏発売。ゲームスピード変更やエンカウントキャンセルなど便利機能が追加【Nintendo Direct】 |publisher=ファミ通.com |date=2023-02-09|accessdate=2023-09-08}}</ref>。 [[キャッチコピー]]は「'''すべての命は、いつか海へと還る。 君とはじめて出会うRPG。'''」。本キャッチコピーはバテン1と同様のものが採用されている。 == 経緯 == バンダイナムコエンターテインメントは本作のリマスターの開発に対し、ユーザーからの要望に応える形で実現したと語っている<ref name="famitsu_bne">{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/news/202305/12302221.html |title=『【VIPインタビュー】バンダイナムコ・宇田川南欧社長が語る、次世代を見据えたネクストIP軸戦略とは? | ゲーム・エンタメ最新情報のファミ通.com |publisher=ファミ通.com |date=2023-05-12|accessdate=2023-09-10}}</ref>。 また、[[任天堂]]や[[モノリスソフト]]等の当時制作に携わった関係者の協力の元、本作は開発された<ref name="famitsu_bne"></ref>。 バテン1、バテン2でディレクションやマップデザインなどを務めた[[本根康之]]は、新規イラストの監修、ゲーム内変更箇所における世界観監修などを担当している<ref>{{Cite web|url=https://twitter.com/honnesan/status/1699271596987621453 |title=本根 康之 / X |date=2023-09-06|accessdate=2023-09-10}}</ref>。 == ゲームシステム == 基本的にオリジナル版の要素を継承しているが、ゲームを快適に進行するための新機能が搭載されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://btkt.bn-ent.net/remaster/ |title=HD Remaster│ 【公式】バテン・カイトス I & II HD Remaster | バンダイナムコエンターテインメント公式サイト |accessdate=2023-09-08}}</ref>。 ; 調整機能 : 好みの設定を「マイセット」として保存。常時切り替えが可能となっている。 :* エンカウントキャンセル:敵とのエンカウントを無効化 :* インスタントKO:敵を一撃でKO :* ゲームスピード:100%、200%、300%の3段階で調整可能 :* バトルスピード: 100%、200%、300%の3段階で調整可能 :* バトルリザルト簡易表示:バトルのターン終了後に表示されるリザルト画面を簡易化 :* オートバトル:オートでバトルが進行 ; オートセーブ : ゲームの進行情報が自動的に保存される ; ヘルプ : システムメニュー内で用語やゲームの進め方を確認できる機能 ; 「NEW GAME+」モード : クリア後に獲得したマグナス、レベル、ランクを引き継いでゲームを最初から開始できるモード ; 「NEW GAME-」モード : クリア後、制限されたレベルの中で、手ごたえのある戦闘や難易度を楽しむことができるモード == 登場キャラクター == {{Main|バテン・カイトス 終わらない翼と失われた海#登場キャラクター|バテン・カイトスII 始まりの翼と神々の嗣子#登場キャラクター}} == CM == [[2023年]][[7月]]よりTVCMが放送開始され、バテン1の主人公であるカラスのキャラクターボイスを務めた[[鳥海浩輔]]が新たにナレーションを担当している<ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/batenkaitos_Re/status/1675424067275599872 |title=バテン・カイトス Ⅰ&Ⅱ HD Remaster 公式(バテンカイトス) / X |accessdate=2023-09-08}}</ref>。 また、同CMはnamco秋葉原店のビジョンにて2023年8月7日まで放映された<ref>放映開始日は不明</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/batenkaitos_Re/status/1686982702636109824 |title=バテン・カイトス Ⅰ&Ⅱ HD Remaster 公式(バテンカイトス) / X |accessdate=2023-09-10}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://btkt.bn-ent.net/ バテン・カイトス I & II HD Remaster 公式サイト] * {{Twitter|batenkaitos_Re|バテン・カイトス Ⅰ&Ⅱ HD Remaster 公式(バテンカイトス)}} {{トライクレッシェンド}} {{video-game-stub}} {{DEFAULTSORT:はてんかいとすわんあんとつーえいちていいりますたあ}} [[Category:コンピュータRPG]] [[Category:Nintendo Switch用ソフト]] [[Category:バンダイナムコエンターテインメントのゲームソフト]] [[Category:ナムコのオムニバスゲーム]] [[Category:2023年のコンピュータゲーム]] [[Category:ファンタジーコンピュータゲーム]] [[Category:カードバトルゲーム]] [[Category:日本で開発されたコンピュータゲーム]] [[Category:リメイクゲーム]]
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嘉怡路駅
座標: 北緯31度26分10.56秒 東経121度34分14.72秒 / 北緯31.4362667度 東経121.5707556度 / 31.4362667; 121.5707556 嘉怡路駅(かいろえき)は、中華人民共和国上海市嘉定区江橋鎮、曹安公路と華江公路、嘉怡路の交差点にある、上海軌道交通14号線の駅である。 島式ホーム1面2線の地下駅で、出口は2箇所ある。
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嘉怡路駅(かいろえき)は、中華人民共和国上海市嘉定区江橋鎮、曹安公路と華江公路、嘉怡路の交差点にある、上海軌道交通14号線の駅である。
{{coord|31|26|10.56|N|121|34|14.72|E|type:railwaystation|display=title}} {{駅情報 |社色 = #616020 |文字色 = white |駅名 = 嘉怡路駅 |画像 = 嘉怡路站4号口.jpg |pxl = |画像説明 = |よみがな = かいろ |ローマ字 = Jiayi Road |電報略号 = |所属事業者 = [[上海地下鉄|上海地鉄運営有限公司]] |所在地 = {{CHN}}・[[上海市]][[嘉定区]][[江橋鎮]]<br />[[曹安公路]][[華江公路]][[嘉怡路]] |開業年月日 = [[2021年]][[12月30日]]<ref name=開通>{{cite news |title=14号线、18号线一期北段12月30日起开通初期运营 |url=http://www.shmetro.com/node49/202112/con115636.htm |accessdate=2023-09-15 |archive-date=2021-12-30 |archive-url=https://web.archive.org/web/20211230061347/http://www.shmetro.com/node49/202112/con115636.htm }}</ref> |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 島式ホーム1面2線 |廃止年月日 = |乗車人員 = |統計年度 = |乗入路線数 = 1 |所属路線 = {{color|#616020|■}}[[上海地下鉄14号線|14号線]] |駅番号 = |前の駅 = [[臨洮路駅|臨洮路]] |駅間A = 1.55 |駅間B = 1.41 |次の駅 = [[定辺路駅|定辺路]] |キロ程 = 4.81 |起点駅 = [[封浜駅|封浜]] }} {{中華圏の事物 |英文 = Jiayi Road Station |簡体字 = 嘉怡路站 |繁体字 = |ピン音 = |カタカナ = |広東語 = |上海語 = }} '''嘉怡路駅'''(かいろえき)は、[[中華人民共和国]][[上海市]][[嘉定区]][[江橋鎮]]、[[曹安公路]]と[[華江公路]]、[[嘉怡路]]の交差点にある、[[上海軌道交通14号線]]の駅である。 == 駅構造 == 島式ホーム1面2線の地下駅で、出口は2箇所ある。 == 駅出口 == * 1号出口 - 曹安公路、嘉怡路 * 4号出口 - 曹安公路、江佳路 == 隣の駅 == ;上海地下鉄 :[[ファイル:SML14.svg|リンク=|20x20ピクセル|14]] 14号線 ::[[臨洮路駅]] - '''嘉怡路駅''' - [[定辺路駅]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == *[[中華人民共和国の鉄道]] {{上海軌道交通14号線}} {{DEFAULTSORT:かいろえき}} [[Category:嘉定区の鉄道駅]] [[Category:上海地下鉄の駅]]
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臨洮路駅
座標: 北緯31度26分50秒 東経121度32分6.3秒 / 北緯31.44722度 東経121.535083度 / 31.44722; 121.535083 臨洮路駅(りんとうろえき)は、中華人民共和国上海市嘉定区江橋鎮、曹安公路と臨洮路の交差点にある上海軌道交通14号線の駅である。 島式ホーム1面2線の地下駅。出口は4箇所。
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臨洮路駅(りんとうろえき)は、中華人民共和国上海市嘉定区江橋鎮、曹安公路と臨洮路の交差点にある上海軌道交通14号線の駅である。
{{coord|31|26|50|N|121|32|6.3|E|type:railwaystation|display=title}} {{駅情報 |社色 = #616020 |文字色 = white |駅名 = 臨洮路駅 |画像 = 201805_L14_Lintao_Road_Station_under_Construction.jpg |pxl = 300 |画像説明 = |よみがな = りんとうろ |ローマ字 = Lintao Road |電報略号 = |所属事業者 = [[上海地下鉄|上海地鉄運営有限公司]] |所在地 = {{CHN}}・[[上海市]][[嘉定区]][[江橋鎮]]<br />[[曹安公路]][[臨洮路]] |開業年月日 = [[2021年]][[12月30日]]<ref name=開通>{{cite news |title=14号线、18号线一期北段12月30日起开通初期运营 |url=http://www.shmetro.com/node49/202112/con115636.htm |accessdate=2023-09-15 |archive-date=2021-12-30 |archive-url=https://web.archive.org/web/20211230061347/http://www.shmetro.com/node49/202112/con115636.htm }}</ref> |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 島式ホーム1面2線 |廃止年月日 = |乗車人員 = |統計年度 = |乗入路線数 = 1 |所属路線 = {{color|#616020|■}}[[上海地下鉄14号線|14号線]] |駅番号 = |前の駅 = [[楽秀路駅|楽秀路]] |駅間A = 1.65 |駅間B = 1.55 |次の駅 = [[嘉怡路駅|嘉怡路]] |キロ程 = 3.26 |起点駅 = [[封浜駅|封浜]] }} {{中華圏の事物 |英文 = Lintao Road Station |簡体字 = 临洮路駅 |繁体字 = |ピン音 = |カタカナ = |広東語 = |上海語 = }} '''臨洮路駅'''(りんとうろえき)は、[[中華人民共和国]][[上海市]][[嘉定区]][[江橋鎮]]、[[曹安公路]]と[[臨洮路]]の交差点にある[[上海軌道交通14号線]]の駅である。 == 駅構造 == 島式ホーム1面2線の地下駅。出口は4箇所。 == 駅出口 == * 1号~4号出口 - 曹安公路、臨洮路 == 隣の駅 == ;上海地下鉄 :[[ファイル:SML14.svg|リンク=|20x20ピクセル|14]] 14号線 ::[[楽秀路駅]] - '''臨洮路駅''' - [[嘉怡路駅]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == *[[中華人民共和国の鉄道]] {{上海軌道交通14号線}} {{DEFAULTSORT:りんとうろえき}} [[Category:嘉定区の鉄道駅]] [[Category:上海地下鉄の駅]]
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楽秀路駅
座標: 北緯31度16分2.24秒 東経121度18分34.74秒 / 北緯31.2672889度 東経121.3096500度 / 31.2672889; 121.3096500 楽秀路駅(らくしゅうろえき)は中華人民共和国上海市嘉定区江橋鎮、曹安公路と楽秀路の交差点にある、上海軌道交通14号線の駅である。計画時の仮称は「金園五路」であった。将来的には嘉閔線が当駅付近を通過し、乗り換えができる予定である。 島式ホーム1面2線の地下駅で、出口は2箇所ある。
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楽秀路駅(らくしゅうろえき)は中華人民共和国上海市嘉定区江橋鎮、曹安公路と楽秀路の交差点にある、上海軌道交通14号線の駅である。計画時の仮称は「金園五路」であった。将来的には嘉閔線が当駅付近を通過し、乗り換えができる予定である。
{{coord|31|16|2.24|N|121|18|34.74|E|type:railwaystation|display=title}} {{駅情報 |社色 = #616020 |文字色 = white |駅名 = 楽秀路駅 |画像 = |pxl = |画像説明 = |よみがな = らくしゅうろ |ローマ字 = Lexiu Road |電報略号 = |所属事業者 = [[上海地下鉄|上海地鉄運営有限公司]] |所在地 = {{CHN}}[[上海市]][[嘉定区]][[江橋鎮]][[曹安公路]][[楽秀路]] |開業年月日 = [[2021年]][[12月30日]]<ref name=開通>{{cite news |title=14号线、18号线一期北段12月30日起开通初期运营 |url=http://www.shmetro.com/node49/202112/con115636.htm |accessdate=2023-09-15 |archive-date=2021-12-30 |archive-url=https://web.archive.org/web/20211230061347/http://www.shmetro.com/node49/202112/con115636.htm }}</ref> |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 島式ホーム1面2線 |廃止年月日 = |乗車人員 = |統計年度 = |乗入路線数 = 1 |所属路線 = {{color|#616020|■}}[[上海地下鉄14号線|14号線]] |駅番号 = |前の駅 = [[封浜駅|封浜]] |駅間A =1.61 |駅間B =1.65 |次の駅 = [[臨洮路駅|臨洮路]] |キロ程 =1.61 |起点駅 = [[封浜駅|封浜]] }} {{中華圏の事物 |英文 = Lexiu Road Station |簡体字 = 乐秀路站 |繁体字 = 樂秀路站  |ピン音 = Lèxiùlù Zhàn |カタカナ = |広東語 = |上海語 = }} '''楽秀路駅'''(らくしゅうろえき)は、[[中華人民共和国]][[上海市]][[嘉定区]][[江橋鎮]]、[[曹安公路]]と[[楽秀路]]の交差点にある、[[上海軌道交通14号線]]の駅である。計画時の仮称は「'''金園五路'''」であった<ref>{{Cite web |url=http://m.sh.bendibao.com/traffic/110919.html |title=上海地铁14号线规划图及开通时间 |access-date=2023-09-15 |publisher=本地宝}}</ref>。将来的には[[嘉閔線]]が当駅付近を通過し、乗り換えができる予定である。 == 駅構造 == 島式ホーム1面2線の地下駅で、出口は2箇所ある。 == 駅出口 == * 1号出口 - 曹安公路、楽秀路 * 4号出口 - 曹安公路、楽秀路 == 隣の駅 == ;上海地下鉄 :[[ファイル:SML14.svg|リンク=|20x20ピクセル|14]] 14号線 ::[[封浜駅]] - '''楽秀路駅''' - [[臨洮路駅]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == *[[中華人民共和国の鉄道]] {{上海軌道交通14号線}} {{DEFAULTSORT:らくしゆうろえき}} [[Category:上海地下鉄の駅]] [[Category:嘉定区の鉄道駅]]
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アバディーン美術館
アバディーン美術館(アバディーンびじゅつかん、Aberdeen Art Gallery)は、スコットランド、アバディーンの美術館である。1885年に開館した。スコットランドの現代作家の作品も収蔵展示されている。 1884年にアレクサンダー・マーシャル・マッケンジー(Alexander Marshall Mackenzie: 1848–1933)設計の建物内に設立され、1905年は彫刻庭園が追加された。1883年から建設が始まり、1885年に開館した。1901年と1905年に増設工事が行われ、彫刻庭園などが追加された 。1900年に、地元の石材商のアレクサンダー・マクドナルド(Alexander Macdonald)から美術コレクションの寄贈を受けた。ケン・カーリー(Ken Currie: 1960年生まれ)、ギルバート&ジョージ、、アイヴァー・エイブラハムズ(Ivor Abrahams: 1935-2015)、ブリジット・ライリー(1931年生まれ)、ブルース・マクリーン(Bruce McLean: 1944年生まれ)といったスコットランドのモダン・アートの芸術家の作品を収蔵していることで知られている。 1885年の設立後も収蔵品は着実に増加し、クロード・モネやルノワールの作品の他、ジョン・スーター(John Bulloch Souter)やイアン・ハミルトン・フィンレイ、ジェームズ・マクベイ(James McBey)といったスコットランドの現代作家の作品も収蔵された。18世紀の作品やポスト印象派の作品、20世紀初めの「スコティッシュ・カラリストと呼ばれる画家たちの作品が収蔵展示され、また工芸品も収蔵されている。
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アバディーン美術館は、スコットランド、アバディーンの美術館である。1885年に開館した。スコットランドの現代作家の作品も収蔵展示されている。
{{Infobox museum | name = アバディーン美術館<br>Aberdeen Art Gallery | native_name_lang = | 画像 = File:Aberdeen-art-gallery-oct2020.jpg | imagesize = 280px | caption = | alt = | map_type = | map_caption = | map_alt = | map_size = | coordinates = | established = 1885年 | dissolved = | location = [[スコットランド]], [[アバディーン]] | type = | collection = | visitors = | director = | president = | curator = | owner = | publictransit = | car_park = | network = | website = }} '''アバディーン美術館'''(アバディーンびじゅつかん、Aberdeen Art Gallery)は、[[スコットランド]]、[[アバディーン]]の美術館である。1885年に開館した。スコットランドの現代作家の作品も収蔵展示されている。 == 概要 == 1884年にアレクサンダー・マーシャル・マッケンジー(Alexander Marshall Mackenzie: 1848–1933)設計の建物内に設立され、1905年は彫刻庭園が追加された。1883年から建設が始まり、1885年に開館した<ref name="dsa">{{cite web |title=Basic Site Details: Aberdeen Art Gallery |url=http://www.scottisharchitects.org.uk/building_full.php?id=209712 |website=DSA Building/Design Report |publisher=Dictionary of Scottish Architects |access-date=15 June 2022}}</ref>。1901年と1905年に増設工事が行われ、彫刻庭園などが追加された<ref>{{Historic Environment Scotland|desc=Schoolhill and Blackfriars Street, Art Gallery including war memorial and Cowdray Hall, Robert Gordon's College archway and former Gray's School of Art |num=LB19978|access-date=26 March 2021}}</ref> 。1900年に、地元の石材商のアレクサンダー・マクドナルド(Alexander Macdonald)から美術コレクションの寄贈を受けた<ref>{{cite book|last1=Hourihane|first1=Colum|title=The Grove Encyclopedia of Medieval Art and Architecture, Volume 2|date=6 December 2012|page=6|isbn=9780195395365|url=https://books.google.com/books?id=FtlMAgAAQBAJ&q=Aberdeen+Art+Gallery&pg=PA6}}</ref>。ケン・カーリー(Ken Currie: 1960年生まれ)、[[ギルバート&ジョージ]]、、アイヴァー・エイブラハムズ(Ivor Abrahams: 1935-2015)、[[ブリジット・ライリー (画家)|ブリジット・ライリー]](1931年生まれ)、ブルース・マクリーン(Bruce McLean: 1944年生まれ)といったスコットランドのモダン・アートの芸術家の作品を収蔵していることで知られている。 1885年の設立後も収蔵品は着実に増加し、[[クロード・モネ]]や[[ピエール=オーギュスト・ルノワール|ルノワール]]の作品の他、ジョン・スーター(John Bulloch Souter)や[[イアン・ハミルトン・フィンレイ]]、ジェームズ・マクベイ(James McBey)といったスコットランドの現代作家の作品も収蔵された。18世紀の作品やポスト印象派の作品、20世紀初めの「[[スコティッシュ・カラリスト]]と呼ばれる画家たちの作品が収蔵展示され、また工芸品も収蔵されている。 == コレクション == <gallery widths="180" heights="140" style="font-size:smaller"> File:Alexandre-Gabriel Decamps (1803-1860) - The Watering Place - ABDAG003157 - Aberdeen Art Gallery.jpg|[[アレクサンドル=ガブリエル・ドゥカン]] <br> The Watering Place File:Gustave Courbet (1819-1877) - The Stream - ABDAG003054 - Aberdeen Art Gallery.jpg|[[ギュスターヴ・クールベ]] <br> The Stream File:Henri Fantin-Latour (1836-1904) - Dahlias - ABDAG002546 - Aberdeen Art Gallery.jpg|[[アンリ・ファンタン=ラトゥール]] <br> Dahlias File:Stanislas Lépine (1835-1892) - The Shepherdess - ABDAG002511 - Aberdeen Art Gallery.jpg|[[スタニスラス・レピーヌ]] <br> The Shepherdess File:Jules Adolphe Aimé Louis Breton (1827-1906) - The Gleaner - ABDAG002172 - Aberdeen Art Gallery.jpg|[[ジュール・ブルトン]] <br> The Gleaner File:Alfred Sisley (1839-1899) - Les bords du Loing, France - ABDAG003023 - Aberdeen Art Gallery.jpg|[[アルフレッド・シスレー]] <br> Les bords du Loing, France File:Théodore Rousseau (1812-1867) - Un marais dans les Landes, France - ABDAG003933 - Aberdeen Art Gallery.jpg|[[テオドール・ルソー]] <br> Un marais dans les Landes, France File:Chops by Samuel John Peploe - Samuel John Peploe - ABDAG010713.jpg|[[サミュエル・ペプロー]] <br> Chops File:Christopher Wood (1901-1930) - Cornish Fishermen, The Quay, St Ives - ABDAG000003 - Aberdeen City Council (Archives, Gallery and Museums Collection).jpg|[[クリストファー・ウッド (画家)|クリストファー・ウッド]] <br> Cornish Fishermen File:Northern Adventure - Paul Nash - ABDAG002873.jpg|[[ポール・ナッシュ]] <br> Northern Adventure </gallery> == 参考文献 == {{Reflist}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あはていいんひしゆつかん}} [[Category:イギリスの美術館]] [[Category:アバディーン]]
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メアリー・アン・キーリー
メアリー・アン・キーリー(Mary Anne Keeley(旧姓: ゴーワード(Goward))、1805年11月22日 - 1899年3月12日)は、イングランド出身の女優およびアクター・マネージャー(英語版)。 メアリー・アン・ゴーワードはイギリスのサフォーク州イプスウィッチで生を受けた。父親は真鍮細工師やブリキ職人として働いていた。妹のサラ・ジュディス・ゴーワードは女優リディア・フートの母である。 ゴーワードの歌唱の才能にいち早く気づいたイプスウィッチ出身の作家エリザベス・コボルド(英語版)は、ゴーワードに舞台に立つように勧めた。地方で経験を積んだ後に彼女が最初に舞台に姿を見せたのは、1825年6月2日にロンドンで上演された歌劇『ロジーナ(英語版)』である。オペラ女優としての自分を諦め、唄わずに登場人物をそのまま演じることができる力を発揮できるテレビドラマの世界に飛び込んだのはそれから間もなくのことである。 称賛に値する喜劇俳優のロバート・キーリー(英語版)と1829年6月に結婚した。2人は共演経験があった。1832年から1842年にかけてジョン・ボールドウィン・バックストーン(英語版)と共演したコヴェント・ガーデンとアデルファイ劇場(英語版)、チャールズ・マシューズ(英語版)と共演したオリンピック劇場(英語版)、ウィリアム・マクリーディ(英語版)と共演したドルリーレーン劇場(英語版)で舞台に立った。1836年、2人はアメリカを訪問する。1838年、彼女は作家エドワード・ブルワー=リットンの『ポンペイ最後の日』を原作とするテレビドラマで盲目の少女ニディアを演じて大成功を収めた上、その後に出演した『ニコラス・ニクルビー』のスマイク役でも目を見張るほどの演技を披露した。 1839年、歴史小説家のウィリアム・ハリソン・エインズワース(英語版)が著した『ジャック・シェパード(英語版)』に基づく戯曲の主人公を生き生きとした活発な演技で決定的な成功を収めた。脱獄犯を称賛したこの戯曲の人気は危険であるとされ、最終的に式部長官はこの題材を扱った興行を禁じる決定をした。その後、彼女がより卓越した才能で長い間経歴を積んだにもかかわらず、キーリーが演じた中で芝居の常連客の記憶に残っているのはおそらくジャック・シェパード役であろう。 マクリーディの手腕の下、『ヴェニスの商人』のネリッサ役や『お気に召すまま』のオードリー役を演じた。1844年から1847年まで夫とともにロンドンのライシーアム劇場(英語版)を運営し、ヘイマーケット劇場(英語版)でベンジャミン・ウェブスター(英語版)やチャールズ・キーン(英語版)と共演する。その後は5年間ほどアデルファイ劇場に舞い戻り、1859年に生涯最後となる定期公演をライシーアム劇場で行った。 彼女が90歳の誕生日を迎えた際には画家で作家のウォルター・グッドマン(英語版)が企画したレセプションがライシアム劇場で開催された。この誕生日を記念して、キーリーは雑誌「ジ・ジェントルウーマン(英語版)」誌に手紙を送って後輩女優達にメッセージを送り、その手紙の内容がイギリスの新聞「タイムズ」紙の宮廷報告のコラムに掲載された。 1899年に没したキーリーはロンドンのブロンプトン墓地に埋葬されている。 キーリー夫妻は2人の娘をもうけた。メアリー・ルーシー(1830年ごろ - 1870年ごろ)とルイーズ(1835年 - 1877年)はともに両親の後を追うようにして舞台の世界に飛び込んだ。メアリー・ルーシーは作家のアルバート・リチャード・スミスと結婚し、それと同時にルイーズものちに勅選弁護士(英語版)となる刑事弁護士のモンタギュー・ウィリアムズ(英語版)と結婚した。
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メアリー・アン・キーリーは、イングランド出身の女優およびアクター・マネージャー。
[[File:Mary Anne Keeley in a Breeches Role.jpg|thumb|[[ズボン役]]でのメアリー・アン・キーリー]] [[File:Mary Ann Keeley (née Goward) by Julia Bracewell Folkard.jpg|thumb|92歳当時のメアリー・アン・キーリー([[ジュリア・ブレイスウェル・フォーカード]]画)]] '''メアリー・アン・キーリー'''(Mary Anne Keeley(旧姓: '''ゴーワード(Goward)''')、[[1805年]][[11月22日]] - [[1899年]][[3月12日]])は、イングランド出身の女優および{{仮リンク|アクター・マネージャー|en|Actor-manager}}。 == 生涯 == メアリー・アン・ゴーワードはイギリスの[[サフォーク|サフォーク州]][[イプスウィッチ]]で生を受けた。父親は真鍮細工師やブリキ職人として働いていた。妹のサラ・ジュディス・ゴーワードは女優[[リディア・フート]]の母である<ref>Joseph Knight, ‘Foote, Lydia (1843–1892)’, rev. J. Gilliland, first published 2004; online edn, Oct 2007, 365 words, with portrait illustration</ref>。 ゴーワードの歌唱の才能にいち早く気づいたイプスウィッチ出身の作家{{仮リンク|エリザベス・コボルド|en|Elizabeth Cobbold}}は、ゴーワードに舞台に立つように勧めた<ref>J. M. Blatchly, ‘Cobbold , Elizabeth (1765–1824)’, Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, 2004; online edn, Jan 2014 [http://www.oxforddnb.com/view/article/5736, accessed 15 Jan 2015]</ref>。地方で経験を積んだ後に彼女が最初に舞台に姿を見せたのは、1825年6月2日にロンドンで上演された歌劇『{{仮リンク|ロジーナ (歌劇)|en|Rosina (opera)|label=ロジーナ}}』である。オペラ女優としての自分を諦め、唄わずに登場人物をそのまま演じることができる力を発揮できるテレビドラマの世界に飛び込んだのはそれから間もなくのことである。 称賛に値する喜劇俳優の{{仮リンク|ロバート・キーリー (喜劇俳優)|en|Robert Keeley (comedian)|label=ロバート・キーリー}}と1829年6月に結婚した。2人は共演経験があった。1832年から1842年にかけて{{仮リンク|ジョン・ボールドウィン・バックストーン|en|John Baldwin Buckstone|llabel=ジョン・バックストーン}}と共演した[[コヴェント・ガーデン]]と{{仮リンク|アデルファイ劇場|en|Adelphi Theatre}}、{{仮リンク|チャールズ・マシューズ|en|Charles Mathews}}と共演した{{仮リンク|オリンピック劇場|en|Olympic Theatre}}、{{仮リンク|ウィリアム・マクリーディ|en|William Macready}}と共演した{{仮リンク|ドルリーレーン劇場|en|Theatre Royal, Drury Lane}}で舞台に立った。1836年、2人はアメリカを訪問する。1838年、彼女は作家[[エドワード・ブルワー=リットン]]の『[[ポンペイ最後の日 (ブルワー=リットンの小説)|ポンペイ最後の日]]』を原作とするテレビドラマで盲目の少女ニディアを演じて大成功を収めた上、その後に出演した『[[ニコラス・ニクルビー]]』のスマイク役でも目を見張るほどの演技を披露した。 1839年、歴史小説家の{{仮リンク|ウィリアム・ハリソン・エインズワース|en|William Harrison Ainsworth}}が著した『{{仮リンク|ジャック・シェパード (小説)|en|Jack Sheppard (novel)|label=ジャック・シェパード}}』に基づく戯曲の主人公を生き生きとした活発な演技で決定的な成功を収めた。脱獄犯を称賛したこの戯曲の人気は危険であるとされ、最終的に[[式部卿 (イングランド)|式部長官]]はこの題材を扱った興行を禁じる決定をした。その後、彼女がより卓越した才能で長い間経歴を積んだにもかかわらず、キーリーが演じた中で芝居の常連客の記憶に残っているのはおそらく[[ジャック・シェパード]]役であろう。 マクリーディの手腕の下、『[[ヴェニスの商人]]』のネリッサ役や『[[お気に召すまま]]』のオードリー役を演じた。1844年から1847年まで夫とともにロンドンの{{仮リンク|ライシーアム劇場 (ロンドン)|en|Lyceum Theatre, London|label=ライシーアム劇場}}を運営し、{{仮リンク|ヘイマーケット劇場|en|Theatre Royal Haymarket}}で{{仮リンク|ベンジャミン・ノッティンガム・ウェブスター|en|Benjamin Nottingham Webster|label=ベンジャミン・ウェブスター}}や{{仮リンク|チャールズ・キーン|en|Charles Kean}}と共演する。その後は5年間ほどアデルファイ劇場に舞い戻り、1859年に生涯最後となる定期公演をライシーアム劇場で行った。 彼女が90歳の誕生日を迎えた際には画家で作家の{{仮リンク|ウォルター・グッドマン|en|Walter Goodman (artist)|label=ウォルター・グッドマン}}が企画したレセプションがライシアム劇場で開催された。この誕生日を記念して、キーリーは雑誌「{{仮リンク|ジ・ジェントルウーマン|en|The Gentlewoman}}」誌に手紙を送って後輩女優達にメッセージを送り、その手紙の内容がイギリスの新聞「[[タイムズ]]」紙の宮廷報告のコラムに掲載された。 {{Quote|90歳の誕生日において舞台にいる私の姉妹たちへのメッセージを:愛を込めて、神のご加護がありますことを祈ります。そしてあなた方が私と同じように長生きをして、同じように幸せでありますように。{{Small|MARY ANN KEELEY}} 1895年11月22日<ref>'Court Circular' in ''[[The Times]]'', issue 34740 dated 21 November 1895, pg. 5</ref>}}  1899年に没したキーリーはロンドンの[[ブロンプトン墓地]]に埋葬されている。 キーリー夫妻は2人の娘をもうけた。メアリー・ルーシー(1830年ごろ - 1870年ごろ)とルイーズ(1835年 - 1877年)はともに両親の後を追うようにして舞台の世界に飛び込んだ。メアリー・ルーシーは作家の[[アルバート・リチャード・スミス]]と結婚し、それと同時にルイーズものちに{{仮リンク|勅選弁護士|en|Queen's Counsel}}となる刑事弁護士の{{仮リンク|モンタギュー・ウィリアムズ|en|Montagu Williams}}と結婚した。 == 関連項目 == * [[:en:Walter Goodman (artist)|Walter Goodman]],『''The Keeleys On Stage and At Home''』, London: Bentley and Sun(1895年) == 脚注 == *{{EB1911|wstitle=Keeley, Mary Anne|volume=15|page=712}} {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:きいりい あん めありい}} [[Category:イプスウィッチ出身の人物]] [[Category:19世紀イングランドの女優]] [[Category:イングランドの実業家]] [[Category:1805年生]] [[Category:1899年没]]
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朝霞市立朝霞第五小学校
朝霞市立朝霞第五小学校(あさかしりつ あさかだいごしょうがっこう)は、埼玉県朝霞市の公立小学校。市内では「五小」、他市からは「朝五小」と呼ばれる。全校生徒は947人名(2023年4月1日現在)。 学校の象徴として“けやき”を取り入れている。校歌にも出てくるように伸び伸びとした情操教育を積極的に取り入れている。 2011年に新校舎工事によりプールが屋上に設置。既存のプール位置が校庭となり面積が広くなった。 2016年、創立50周年では、鳴子踊りのYOSAKOIで有名な朝霞市の土地柄から五小鳴子チーム「舞い踊れ!けやきっ子」が結成した。 豊かな感性を持ち、主体的に学び、心身ともにたくましく生きる“けやき”の子。 JR武蔵野線 北朝霞駅、東武東上線 朝霞台駅より徒歩8分
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朝霞市立朝霞第五小学校は、埼玉県朝霞市の公立小学校。市内では「五小」、他市からは「朝五小」と呼ばれる。全校生徒は947人名(2023年4月1日現在)。
{{Infobox 日本の学校 |校名 = 朝霞市立朝霞第五小学校 |画像 = |画像説明 = |過去校名 = |併合学校 = |国公私立 = [[公立学校]] |設置者 = [[朝霞市]] |校訓 = |分校 = |設立年月日 = [[1967年]](平成42年) |共学・別学 = [[男女共学]] |学校コード = B111222700050 |郵便番号 = 351-0024 |所在地 = [[埼玉県]][[朝霞市]]泉水3-16-1 |緯度度 = 35|緯度分 = 48|緯度秒 = 38.97 |経度度 = 139|経度分 = 34|経度秒 = 50.5632 |座標右上表示 = No |公式サイト = [http://www.asakadai10shou.city-asaka.ed.jp/ 朝霞第五小学校] }} '''朝霞市立朝霞第五小学校'''(あさかしりつ あさかだいごしょうがっこう)は、[[埼玉県]][[朝霞市]]の公立小学校。市内では「五小」、他市からは「朝五小」と呼ばれる。全校生徒は947人名(2023年4月1日現在)<ref name="number">[http://www.asakadai5shou.city-asaka.ed.jp/zidousuu.html 朝霞第五小学校児童数(令和5年度)]</ref>。 ==概要== 学校の象徴として“けやき”を取り入れている。校歌にも出てくるように伸び伸びとした情操教育を積極的に取り入れている。 2011年に新校舎工事によりプールが屋上に設置。既存のプール位置が校庭となり面積が広くなった。 2016年、創立50周年では、[[鳴子]][[踊り]]の[[YOSAKOI]]で有名な[[朝霞市]]の土地柄から五小鳴子チーム「舞い踊れ!けやきっ子」が結成した。 == 沿革 == *1967年 - 開校 *1968年 - プール完成 *1973年 - 新校舎・室内体育館工事完了 *1984年 - 飼育小屋完成 *1999年 - 第二校庭新設、コンピュータ教室設置 *2001年 - 1・2号館廊下床改修 *2010年 - 新校舎完成、新体育館・プール建設工事着工 *2011年 - 特別支援学級(知的)開設、新体育館およびプール完成 *2016年 - 創立50周年記念式典。50周年を機に五小鳴子チーム「舞い踊れ!けやきっ子」が結成<ref>[https://ameblo.jp/matsushitamasayo/entry-12213807049.html 朝霞第五小学校 創立50周年記念式典に出席いたしました]</ref>。 *2023年 - 男子460名、女子487名、計947名の児童数が通学する(4月1日現在)<ref name="number"/>。 == 教育目標 == 豊かな感性を持ち、主体的に学び、心身ともにたくましく生きる'''“けやき”の子'''。<ref>[http://www.asakadai5shou.city-asaka.ed.jp/ 誇れる「母校」づくり]</ref> *'''「け」'''- 元気な子 *'''「や」'''- 優しい子 *'''「き」'''- 究める子 == その他 == *学校敷地内に「泉水放課後児童クラブ」がある。放課後児童クラブは保護者の就労等の理由により、家庭が常時留守となる児童が、放課後及び学校休業日に安全に楽しく過ごすための施設。小学校1年生から6年生まで利用する<ref>[https://www.asaka-shakyo.or.jp/shisetsu/club/05.html 泉水放課後児童クラブ]</ref>。 *土日に学校グランドを使用するスポーツクラブ(朝霞五小生徒で構成) **三原fc/少年サッカークラブ<ref>[https://www.mihara-fc.org/ 三原fc公式サイト]</ref> **若松ブルーウイングス/少年野球クラブ<ref>[https://wakamatsu.89dream.jp/ 若松ブルーウイングス公式サイト]</ref> *卒業すると大半の生徒が[[朝霞市立朝霞第三中学校]]に進学する。 == 交通 == [[JR武蔵野線]] [[北朝霞駅]]、[[東武東上線]] [[朝霞台駅]]より徒歩8分 == 周辺 == * [[朝霞台駅]] * [[北朝霞駅]] * [[本田技術研究所]] ソリューションシステム開発センター * [[TMGあさか医療センター|TMGサテライトクリニック 朝霞台]] * [[朝霞市役所|朝霞市朝霞台出張所]] * 弁財市民センター * 朝霞三原郵便局 == 著名な卒業生== *[[金子正男]]([[メディア]][[プロデューサー]])<ref>[https://idolnavi.net/masaokaneko/ 【金子正男】日本ご当地アイドル活性協会を創ったオトコ特集~過去の経歴、人との出会い、今後の夢「教えることは学ぶこと。実は1番自分が知りたがりやです。」/坊主からオレンジ長髪に変身!?大量写真・映像初出し]</ref> - 1988年卒 *[[星川あかり]]([[プロ野球選手]])<ref>[https://jimbutsu.jitenon.jp/jimbutsu/p78493.php 朝霞市立朝霞第五小学校出身の有名人]</ref> - 2011年卒 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[埼玉県小学校一覧]] == 外部リンク == * [http://www.asakadai5shou.city-asaka.ed.jp/ 公式ホームページ] {{DEFAULTSORT:あさかしりつあさかたい05}} [[Category:埼玉県の公立小学校]] [[Category:朝霞市の小学校|あさかたい05]] [[Category:学校記事]]
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森川茂
森川 茂(もりかわ しげる、Shigeru Morikawa、1958年 - )は、日本の獣医師、農学者。厚生労働省 国立感染症研究所 名誉所員。学位は農学博士(東京大学・1991年)。専門は人獣共通感染症学など。特に天然痘やエムポックスなどの研究で名高い。 現在は、岡山理科大学 獣医学部獣医学科 微生物学講座 教授を務める。 1981年 東京大学農学部 畜産獣医学科(当時名称)卒業。1983年 同大学農学系大学院(当時名称) 修士課程修了。獣医師国家試験合格。1991年 同大学農学系大学院 博士課程修了、農学博士を取得した。 1991年1月 - 1997年3月 国立予防衛生研究所 外来性ウイルス室 研究官として入所し、その後、主任研究官に昇進した。英国へ留学、オックスフォード大学NERCウイルス研究所において研究をおこなった。 1998年4月 - 2019年3月 国立予防衛生研究所から国立感染症研究所と改称され 同ウイルス第1部 外来性ウイルス室 室長に昇進。同ウイルス第3部 室長、同獣医科学部 部長などを経て、2019年4月より岡山理科大学 獣医学部獣医学科 微生物学講座 教授に着任した。 2005年 - 2011年 世界保健機関(WHO)天然痘研究評価委員会 委員、2007年 - 2019年 岐阜大学大学院 客員教授、2008年 - 2019年 東京大学大学院農学生命科学研究科 連携教授等を兼任した。 日本ウイルス学会 監事、日本バイオセーフティ学会 理事、日本獣医学会 評議委員なども務めている。 など。
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森川 茂は、日本の獣医師、農学者。厚生労働省 国立感染症研究所 名誉所員。学位は農学博士(東京大学・1991年)。専門は人獣共通感染症学など。特に天然痘やエムポックスなどの研究で名高い。 現在は、岡山理科大学 獣医学部獣医学科 微生物学講座 教授を務める。
{{Infobox scientist |name = {{ruby|森川 茂|もりかわ しげる}} |image = {{画像募集中|cat=人物}} |image_width = |alt = |caption = |birth_date = {{Birth year and age|1958}} |birth_place = {{Flagicon|JPN}} |death_date = <!-- {{死亡年月日と没年齢||||||}} --> |death_place = |death_cause = |residence = |citizenship = <!-- 市民権 --> |nationality = |field = [[ウイルス学]]<br />[[人獣共通感染症|人獣共通感染症学]] |workplaces = [[国立感染症研究所]]<br />[[岡山理科大学]] |alma_mater = [[東京大学]][[農学部]]<br />[[東京大学]][[大学院]] |doctoral_advisor = |academic_advisors = <!-- 他の指導教員 --> |doctoral_students = |notable_students = <!-- 他の指導学生 --> |known_for = |influences = |influenced = <!-- 影響を与えた者 --> |awards = |author_abbreviation_bot = <!-- 命名者名略表記(植物学) --> |author_abbreviation_zoo = <!-- 命名者名略表記(動物学) --> |signature = <!-- 署名(ファイル名のみ) --> |signature_alt = |footnotes = <!-- 備考 --> }} '''森川 茂'''(もりかわ しげる、Shigeru Morikawa、[[1958年]] - )は、日本の[[獣医師]]、[[農学|農学者]]。[[厚生労働省]] [[国立感染症研究所]] 名誉所員。[[学位]]は[[博士(農学)|農学博士]]([[東京大学大学院農学生命科学研究科・農学部|東京大学]]・[[1991年]])<ref>{{Cite web|和書|title=変異を繰り返すウイルス|date=2021-05-10|url=https://www.lion.co.jp/ja/rd/topics/01/|accessdate=2021-05-10|publisher= ライオン株式会社}}</ref>。専門は[[人獣共通感染症|人獣共通感染症学]]など。特に[[天然痘]]や[[エムポックス]]などの研究で名高い<ref>{{Cite web|和書|title=サル痘 国内初確認 症状 ワクチン 治療薬は? WHOは緊急事態宣言|date=2022-07-25|url=https://www.nhk.or.jp/shutoken/newsup/20220725b.html|accessdate=2022-07-25|publisher= NHK}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=サル痘|date=2023-03-28|url=https://pro.kao.com/jp/medical-hygiene/gakujutsu/hygiene-solution/no28/001/|accessdate=2023-03-28|publisher= 花王ハイジーンソルーション}}</ref>。近年、SFTSウイルス(血小板減少症)や新型コロナウイルス COVID-19の研究に注目している。 現在は、[[岡山理科大学]] [[獣医学部]]獣医学科 微生物学講座 [[教授]]<ref>{{Cite web|和書|title=森川茂 微生物学講座 研究・教員紹介|date=2019-05-01|url=https://www.vet.ous.ac.jp/seminar-info/morikawa/|accessdate=2019-05-01|publisher= 岡山理科大学獣医学部}}</ref>を務める。 == 略歴 == [[1981年]] [[東京大学大学院農学生命科学研究科・農学部|東京大学農学部]] 畜産獣医学科(当時名称)卒業。[[1983年]] 同大学農学系大学院(当時名称) 修士課程修了。[[獣医師国家試験]]合格。[[1991年]] 同大学農学系大学院 博士課程修了、[[博士(農学)|農学博士]]を取得した。 [[1991年]][[1月]] - [[1997年]][[3月]] [[国立感染症研究所|国立予防衛生研究所]] 外来性ウイルス室 研究官として入所し、その後、主任研究官に昇進した。英国へ留学、[[オックスフォード大学]]NERCウイルス研究所において研究をおこなった。 [[1998年]][[4月]] - [[2019年]][[3月]] 国立予防衛生研究所から国立感染症研究所と改称され 同ウイルス第1部 外来性ウイルス室 室長に昇進。同ウイルス第3部 室長、同獣医科学部 部長などを経て、[[2019年]][[4月]]より[[岡山理科大学]] [[獣医学部]]獣医学科 微生物学講座 [[教授]]に着任した。 [[2005年]] - [[2011年]] [[世界保健機関]](WHO)天然痘研究評価委員会 委員、[[2007年]] - [[2019年]] [[岐阜大学]][[大学院]] [[客員教授]]、[[2008年]] - [[2019年]] [[東京大学大学院農学生命科学研究科・農学部|東京大学大学院農学生命科学研究科]] 連携教授等を兼任した。 [[日本ウイルス学会]] 監事、日本バイオセーフティ学会 理事<ref>{{Cite web|和書|title=学会概要|date=2020-12-10|url=https://jbsa-gakkai.jp/outline.html|accessdate=2020-12-10|publisher= 日本バイオセーフティ学会}}</ref>、[[日本獣医学会]] 評議委員なども務めている。 == 共著書 == *{{cite book|和書 |title=人獣共通感染症|series=畜産学書|publisher=養賢堂|isbn=978-4-8425-0428-5|date=2007-10-31}} など。 == 所属学会 == * [[日本獣医学会]] * [[日本ウイルス学会]] * 日本バイオセーフティ学会 == 関連項目 == * [[再興感染症]] * [[新興感染症]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * {{researchmap|smorikawa}} * {{Kaken|1000000167686}} * [https://www.niid.go.jp/niid/ja/from-vir1/2060.html 国立感染症研究所 ウイルス第1部 OG・OB紹介] - 公式 * [https://www.vet.ous.ac.jp/seminar-info_category/microbe/ 岡山理科大学 獣医学部獣医学科 微生物学講座] - 公式 {{Academic-bio-stub}} {{People-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:もりかわ しける}} [[Category:日本の農学者]] [[Category:日本の獣医師]] [[Category:日本の獣医学者]] [[Category:日本のウイルス学者]] [[Category:国立感染症研究所の人物]] [[Category:岐阜大学の教員]] [[Category:東京大学の教員]] [[Category:岡山理科大学の教員]] [[Category:農学博士取得者]] [[Category:東京大学出身の人物]] [[Category:1958年生]] [[Category:存命人物]]
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ジョン・テータム
"ハリウッド" ジョン・テータム("Hollywood" John Tatum、本名:John Frenkel III、1959年7月18日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。アラバマ州モービル出身。ギミック上の出身地はカリフォルニア州ロサンゼルス。 リック・フレアーの影響下にある金髪の伊達男系ヒールとして、テキサスのダラス地区などアメリカ南部を主戦場に活動した。 ファビュラス・フリーバーズのマイケル・ヘイズやロックンロール・エクスプレスのロバート・ギブソンとは少年時代からの友人。1983年のデビュー当初はヘイズの従兄弟という設定のもと、フランクリン・ヘイズ(Franklin Hayes)のリングネームでテネシーのCWAや地元アラバマのSECWに出場していた。 1985年より、当時のNWAの基幹団体だったジム・クロケット・ジュニア主宰のMACWにおいて、ロサンゼルスのハリウッド出身を自称する "ハリウッド" ジョン・テータム( "Hollywood" John Tatum)として活動。マグナムTAのNWA USヘビー級王座やロニー・ガービンのNWAナショナル・ヘビー級王座にも挑戦した。 同年下期より、フリッツ・フォン・エリックが主宰していたテキサス州ダラスのWCCW(WCWA)に定着。女性マネージャーのミッシー・ハイアットを従え、スコット・ケーシー、ブライアン・アディアス、キング・パーソンズらと抗争を展開する。8月5日には空位となっていたTV王座を獲得、10月21日にパーソンズに敗れるまで戴冠した。 1986年下期からはハイアットと共にビル・ワット主宰のUWFに参戦して、同タイプのジャック・ビクトリーとのタッグチームで活躍。 "ホット・スタッフ" エディ・ギルバートがマネージメントしていた若手ヒール時代のスティングやリック・スタイナーとも共闘して、H&Hインターナショナル(Hot Stuff & Hyatt International)なるユニットのメンバーとしても活動した。10月26日にはビクトリーとのコンビでトミー・ロジャース&ボビー・フルトンのザ・ファンタスティックスからUWF世界タッグ王座を奪取するが、11月9日にビル・アーウィン&レロイ・ブラウンに敗れ、短命王者となっている。 その後はケン・マンテルが旗揚げしたワイルド・ウエスト・レスリングを経て、1988年よりWCWAに復帰。ここでもビクトリーとコンビを組み、UWF時代から因縁のあるファンタスティックスとWCWAテキサス・タッグ王座を争った。ビクトリーとのタッグチームを解散後、1990年からはWCWAとCWAが合併して設立されたUSWAに参戦。ダラスとメンフィスの両エリアにおいて、ビル・ダンディーを相手にUSWA南西部ヘビー級王座を巡る抗争を展開した。 しかし、戴冠中の1990年9月に旧WCWA派がUSWAから脱退したことより、テータムも王座を返上してUSWAを離脱。以降はWCWAの後継団体ともいえるグローバル・レスリング・フェデレーション(GWF)に参戦して、ロッド・プライスを新パートナーにコースト・トゥ・コースト・コネクション(Coast to Coast Connection)なるタッグチームを結成。ワイルド・ビル・アーウィン&ブラック・バートなどのチームを破り、1991年11月から1992年にかけてGWFタッグ王座を2回獲得した。 1995年の引退後は、フロリダ州ペンサコーラにおいてステート・フェア事業に携わっている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "\"ハリウッド\" ジョン・テータム(\"Hollywood\" John Tatum、本名:John Frenkel III、1959年7月18日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。アラバマ州モービル出身。ギミック上の出身地はカリフォルニア州ロサンゼルス。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "リック・フレアーの影響下にある金髪の伊達男系ヒールとして、テキサスのダラス地区などアメリカ南部を主戦場に活動した。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ファビュラス・フリーバーズのマイケル・ヘイズやロックンロール・エクスプレスのロバート・ギブソンとは少年時代からの友人。1983年のデビュー当初はヘイズの従兄弟という設定のもと、フランクリン・ヘイズ(Franklin Hayes)のリングネームでテネシーのCWAや地元アラバマのSECWに出場していた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1985年より、当時のNWAの基幹団体だったジム・クロケット・ジュニア主宰のMACWにおいて、ロサンゼルスのハリウッド出身を自称する \"ハリウッド\" ジョン・テータム( \"Hollywood\" John Tatum)として活動。マグナムTAのNWA USヘビー級王座やロニー・ガービンのNWAナショナル・ヘビー級王座にも挑戦した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "同年下期より、フリッツ・フォン・エリックが主宰していたテキサス州ダラスのWCCW(WCWA)に定着。女性マネージャーのミッシー・ハイアットを従え、スコット・ケーシー、ブライアン・アディアス、キング・パーソンズらと抗争を展開する。8月5日には空位となっていたTV王座を獲得、10月21日にパーソンズに敗れるまで戴冠した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1986年下期からはハイアットと共にビル・ワット主宰のUWFに参戦して、同タイプのジャック・ビクトリーとのタッグチームで活躍。 \"ホット・スタッフ\" エディ・ギルバートがマネージメントしていた若手ヒール時代のスティングやリック・スタイナーとも共闘して、H&Hインターナショナル(Hot Stuff & Hyatt International)なるユニットのメンバーとしても活動した。10月26日にはビクトリーとのコンビでトミー・ロジャース&ボビー・フルトンのザ・ファンタスティックスからUWF世界タッグ王座を奪取するが、11月9日にビル・アーウィン&レロイ・ブラウンに敗れ、短命王者となっている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "その後はケン・マンテルが旗揚げしたワイルド・ウエスト・レスリングを経て、1988年よりWCWAに復帰。ここでもビクトリーとコンビを組み、UWF時代から因縁のあるファンタスティックスとWCWAテキサス・タッグ王座を争った。ビクトリーとのタッグチームを解散後、1990年からはWCWAとCWAが合併して設立されたUSWAに参戦。ダラスとメンフィスの両エリアにおいて、ビル・ダンディーを相手にUSWA南西部ヘビー級王座を巡る抗争を展開した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "しかし、戴冠中の1990年9月に旧WCWA派がUSWAから脱退したことより、テータムも王座を返上してUSWAを離脱。以降はWCWAの後継団体ともいえるグローバル・レスリング・フェデレーション(GWF)に参戦して、ロッド・プライスを新パートナーにコースト・トゥ・コースト・コネクション(Coast to Coast Connection)なるタッグチームを結成。ワイルド・ビル・アーウィン&ブラック・バートなどのチームを破り、1991年11月から1992年にかけてGWFタッグ王座を2回獲得した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1995年の引退後は、フロリダ州ペンサコーラにおいてステート・フェア事業に携わっている。", "title": "来歴" } ]
"ハリウッド" ジョン・テータムは、アメリカ合衆国の元プロレスラー。アラバマ州モービル出身。ギミック上の出身地はカリフォルニア州ロサンゼルス。 リック・フレアーの影響下にある金髪の伊達男系ヒールとして、テキサスのダラス地区などアメリカ南部を主戦場に活動した。
{{Infobox プロレスラー | 名前 = ジョン・テータム | 画像 = | リングネーム = ハリウッド・ジョン・テータム<br />フランクリン・ヘイズ | 本名 = ジョン・フレンケル3世 | ニックネーム = | 身長 = 188cm<ref name="cage"/> - 191cm<ref name="wd"/> | 体重 = 106kg<ref name="cage"/> - 109kg<ref name="wd"/> | 誕生日 = {{生年月日と年齢|1959|07|18}}<ref name="imdb">{{cite web|url=https://www.imdb.com/name/nm1643134/|title=John Tatum|accessdate=2023-09-08|publisher=[[IMDb|Internet Movie Database]]}}</ref> | 死亡日 = | 出身地 = {{USA}}<br />{{Flagicon|Alabama}} [[アラバマ州]]<br />[[モービル郡 (アラバマ州)|モービル郡]][[モービル]]<ref name="cage">{{cite web|url=https://www.cagematch.net/?id=2&nr=2539&gimmick=John+Tatum|title=John Tatum|accessdate=2023-09-08|publisher=Cagematch.net}}</ref> | 所属 = | スポーツ歴 = | トレーナー = [[マイケル・ヘイズ]]<ref name="wd">{{cite web|url=https://www.wrestlingdata.com/index.php?befehl=bios&wrestler=1904|title=John Tatum|accessdate=2023-09-08|publisher=Wrestlingdata.com}}</ref><br />[[テリー・ゴディ]]<ref name="wd"/> | デビュー = [[1983年]]<ref name="cage"/> | 引退 = [[1995年]]<ref name="cage"/> }} '''"ハリウッド" ジョン・テータム'''('''"Hollywood" John Tatum'''、本名:'''John Frenkel III'''、[[1959年]][[7月18日]]<ref name="imdb"/> - )は、[[アメリカ合衆国]]の元[[プロレスラー]]。[[アラバマ州]][[モービル]]出身。[[ギミック (プロレス)|ギミック]]上の出身地は[[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス]]。 [[リック・フレアー]]の影響下にある[[金髪]]の伊達男系[[ヒール (プロレス)|ヒール]]として、[[テキサス州|テキサス]]の[[ダラス]]地区など[[アメリカ合衆国南部|アメリカ南部]]を主戦場に活動した<ref name="oww">{{cite web|url=https://www.onlineworldofwrestling.com/profile/john-tatum/|title=John Tatum|accessdate=2023-09-08|publisher=Online World of Wrestling}}</ref>。 == 来歴 == [[ファビュラス・フリーバーズ]]の[[マイケル・ヘイズ]]や[[ロックンロール・エクスプレス]]の[[ロバート・ギブソン (プロレスラー)|ロバート・ギブソン]]とは少年時代からの友人<ref name="oww"/>。[[1983年]]のデビュー当初はヘイズの従兄弟という設定のもと<ref name="oww"/>、'''フランクリン・ヘイズ'''(''Franklin Hayes'')の[[リングネーム]]で[[テネシー州|テネシー]]の[[コンチネンタル・レスリング・アソシエーション|CWA]]や地元[[アラバマ州|アラバマ]]の[[サウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリング|SECW]]に出場していた<ref name="cage-83-85">{{cite web|url=https://www.cagematch.net/?id=2&nr=2539&page=4&s=400|title=John Tatum: Matches 1983-1985|accessdate=2023-09-08|publisher=Cagematch.net}}</ref>。 [[1985年]]より、当時の[[NWA (プロレス)|NWA]]の基幹団体だった[[ジム・クロケット・ジュニア]]主宰の[[ジム・クロケット・プロモーションズ|MACW]]において、[[ロサンゼルス]]の[[ハリウッド]]出身を自称する''' "ハリウッド" ジョン・テータム'''('' "Hollywood" John Tatum'')として活動。[[マグナムTA]]の[[WWE・ユナイテッドステイツ王座|NWA USヘビー級王座]]や[[ロニー・ガービン]]のNWAナショナル・ヘビー級王座にも挑戦した<ref name="cage-85-86">{{cite web|url=https://www.cagematch.net/?id=2&nr=2539&page=4&s=300|title=John Tatum: Matches 1985-1986|accessdate=2023-09-08|publisher=Cagematch.net}}</ref>。 同年下期より、[[フリッツ・フォン・エリック]]が主宰していた[[テキサス州]][[ダラス]]のWCCW(WCWA)に定着。女性[[マネージャー (プロレス)|マネージャー]]のミッシー・ハイアット<ref>{{cite web|url=https://www.onlineworldofwrestling.com/profile/missy-hyatt/|title=Missy Hyatt|accessdate=2023-09-08|publisher=Online World of Wrestling}}</ref>を従え、[[スコット・ケーシー]]、[[ブライアン・アディアス]]、[[キング・パーソンズ]]らと抗争を展開する<ref>{{cite web|url=https://www.wrestlingdata.com/index.php?befehl=bios&wrestler=1904&bild=0&details=7&liga=172&jahr=1985|title=The WCCW matches fought by John Tatum in 1985|accessdate=2023-09-08|publisher=Wrestlingdata.com}}</ref>。8月5日には空位となっていたTV王座を獲得、10月21日にパーソンズに敗れるまで戴冠した<ref name="am-tv"/>。 [[1986年]]下期からはハイアットと共に[[ビル・ワット]]主宰の[[ビル・ワット#UWF|UWF]]に参戦して、同タイプの[[ジャック・ビクトリー]]との[[タッグチーム]]で活躍<ref>{{cite web|url=https://www.wrestlingdata.com/index.php?befehl=bios&wrestler=1904&bild=0&details=7&liga=167&jahr=1986|title=The UWF matches fought by John Tatum in 1986|accessdate=2023-09-08|publisher=Wrestlingdata.com}}</ref>。[[エディ・ギルバート| "ホット・スタッフ" エディ・ギルバート]]がマネージメントしていた若手ヒール時代の[[スティング (プロレスラー)|スティング]]や[[リック・スタイナー]]とも共闘して、'''H&Hインターナショナル'''(''Hot Stuff & Hyatt International'')なるユニットのメンバーとしても活動した<ref>{{cite web|url=http://www.onlineworldofwrestling.com/profile/hot-stuff-hyatt-international/|title=Hot Stuff & Hyatt International|accessdate=2023-09-08|publisher=Online World of Wrestling}}</ref>。10月26日にはビクトリーとのコンビで[[トミー・ロジャース]]&[[ボビー・フルトン]]の[[ザ・ファンタスティックス]]からUWF世界タッグ王座を奪取するが、11月9日に[[ビル・アーウィン (プロレスラー)|ビル・アーウィン]]&[[レロイ・ブラウン]]に敗れ、短命王者となっている<ref name="uwf-t"/>。 その後は[[ケン・マンテル]]が旗揚げしたワイルド・ウエスト・レスリングを経て、[[1988年]]よりWCWAに復帰。ここでもビクトリーとコンビを組み、UWF時代から因縁のあるファンタスティックスとWCWAテキサス・タッグ王座を争った<ref name="wcwa-tx-t"/>。ビクトリーとのタッグチームを解散後、[[1990年]]からはWCWAとCWAが合併して設立された[[USWA]]に参戦。ダラスと[[メンフィス (テネシー州)|メンフィス]]の両エリアにおいて、[[ビル・ダンディー]]を相手にUSWA南西部ヘビー級王座を巡る抗争を展開した<ref name="uswa-h"/><ref>{{cite web|url=https://www.wrestlingdata.com/index.php?befehl=bios&wrestler=1904&bild=0&details=7&liga=165&jahr=1990|title=The USWA matches fought by John Tatum in 1990|accessdate=2023-09-08|publisher=Wrestlingdata.com}}</ref>。 しかし、戴冠中の1990年9月に旧WCWA派がUSWAから脱退したことより、テータムも王座を返上してUSWAを離脱。以降はWCWAの後継団体ともいえるグローバル・レスリング・フェデレーション(GWF)に参戦して、[[ロッド・プライス]]を新パートナーに'''コースト・トゥ・コースト・コネクション'''(''Coast to Coast Connection'')なるタッグチームを結成<ref name="oww"/>。[[ビル・アーウィン (プロレスラー)|ワイルド・ビル・アーウィン]]&[[リック・ハリス|ブラック・バート]]などのチームを破り、[[1991年]]11月から[[1992年]]にかけてGWFタッグ王座を2回獲得した<ref name="gwf-t"/>。 [[1995年]]の引退後は、[[フロリダ州]][[ペンサコーラ (フロリダ州)|ペンサコーラ]]において[[ステート・フェア]]事業に携わっている<ref name="oww"/>。 == 得意技 == * [[トラース・キック|スーパーキック]]<ref name="wd"/> * [[ブレーンバスター]] * [[エルボー・ドロップ]] == 獲得タイトル == ; [[ビル・ワット#UWF|ユニバーサル・レスリング・フェデレーション]] * UWF世界タッグ王座 : 1回(w / [[ジャック・ビクトリー]])<ref name="uwf-t">{{cite web|url=http://www.wrestling-titles.com/us/midsouth/uwf/uwf-t.html|title=UWF World Tag Team Title|accessdate=2023-09-08|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref> ; [[フリッツ・フォン・エリック|ワールド・クラス・チャンピオンシップ・レスリング(WCCW / WCWA)]] * WCCW TV王座 : 1回<ref name="am-tv">{{cite web|url=http://www.wrestling-titles.com/us/tx/wccw/am-tv.html|title=World Class Television Title|accessdate=2023-09-08|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref> * WCWAテキサス・タッグ王座 : 4回(w / ジャック・ビクトリー×3、[[ジェシー・バー|ジミー・ジャック・ファンク]])<ref name="wcwa-tx-t">{{cite web|url=https://www.wrestling-titles.com/us/tx/wccw/wcwa-tx-t.html|title=WCWA Texas Tag Team Title|accessdate=2023-09-08|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref> ; [[USWA|ユナイテッド・ステーツ・レスリング・アソシエーション]] * USWA南西部ヘビー級王座:3回<ref name="uswa-h">{{cite web|url=https://www.wrestling-titles.com/us/tn/uswa/uswa-h.html|title=USWA Heavyweight Title|accessdate=2023-09-08|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref> ; グローバル・レスリング・フェデレーション * GWFタッグ王座 : 2回(w / [[ロッド・プライス]])<ref name="gwf-t">{{cite web|url=https://www.wrestling-titles.com/us/tx/n/gwf/gwf-t.html|title=GWF Tag Team Title|accessdate=2023-09-08|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref> == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://www.onlineworldofwrestling.com/profile/john-tatum/ Online World of Wrestling] * {{Professional wrestling profiles|cagematch=2539|wrestlingdata=1904|iwd=john-tatum-1091|name=}} * [https://illegalforeignobject.com/2020/01/08/from-alabama-to-hollywood-john-tatum-whined-and-whimpered-his-way-to-championship-gold/ From Alabama to "Hollywood", John Tatum Whined and Whimpered His Way to Championship Gold] {{DEFAULTSORT:てえたむ しよん}} [[Category:アメリカ合衆国のプロレスラー]] [[Category:NWAに参戦したプロレスラー]] [[Category:アラバマ州モービル出身の人物]] [[Category:1959年生]] [[Category:存命人物]]
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リーセンド
株式会社リーセンドは日本の広告・制作会社である。所在地は神奈川県川崎市麻生区上麻生6-30-33。 紙媒体を使用した広告代理業(ポスティング・新聞折込・DM発送・アッセンブリ)と、各種デザイン(広告デザイン・グラフィックデザイン・WEBデザイン)等幅広く事業展開している。ロゴマークのモチーフはひらがなの「り」。一筆書きのように繋げることで、同じ方向を見据え協力し合うという意味が込められている。企業理念は「ありがとうで人生を変える」。 2016年 ・1月 創業。社名の由来は、【読む(read)ものを届ける(send)】の造語 2017年 ・12月 本社移転 2019年 ・8月 本社移転 2021年 ・11月 サラメシ シーズン11 (24)出演 2022年 ・2月 アイミツCLOUDに優良会社として掲載される ・5月 ニコラス・ケンジとスポンサー契約を結ぶ 2023年 ・8月 HP制作.jpに掲載される 三田薫税理士事務所 三田薫 丸茂社会保険労務士事務所 丸茂雅一 やまもと総合法律事務所 細川宗孝 毎週月曜日に社内で加藤社長の手料理を一緒に食べるランチ会、誕生日会を開催している。その様子がNHKの『サラメシ』に取り上げられたことがある。NHK『サラメシ』2021年11月30日 サラメシ シーズン11 (24)「新幹線車両工場の社食▽社長が作る豪華まかない」
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株式会社リーセンドは日本の広告・制作会社である。所在地は神奈川県川崎市麻生区上麻生6-30-33。
'''株式会社リーセンド'''は日本の[[広告]]・制作会社である。 [[所在地]]は[[神奈川県|神奈川県川崎市麻生区上麻生]]6-30-33。 == 概要 == [[ファイル:リーセンドのロゴ.jpg|サムネイル|株式会社リーセンドのロゴマーク<ref>{{Cite web |title=ポスティング、各種デザインなら株式会社リーセンド {{!}} ポスティング、チラシデザイン、印刷、ホームページ制作、WEBデザイン、WEB広告のことなら株式会社リーセンド |url=https://reasend.com/ |website=神奈川県川崎市のポスティング会社・業者をお探しなら株式会社リーセンド {{!}} ポスティング、チラシデザイン、印刷、ホームページ制作、WEBデザイン、WEB広告のことなら株式会社リーセンド |access-date=2023-10-03 |language=ja}}</ref>]] 紙媒体を使用した[[広告代理業]]([[ポスティング]]・[[新聞折込]]・[[ダイレクトメール|DM]]発送・アッセンブリ)と、各種[[デザイン]](広告デザイン・[[グラフィックデザイン]]・[[ウェブデザイン|WEBデザイン]])等幅広く事業展開している。 [[ロゴマーク]]のモチーフは[[平仮名|ひらがな]]の「[[り]]」。[[一筆書き]]のように繋げることで、同じ方向を見据え協力し合うという意味が込められている。[[企業理念]]は「ありがとうで人生を変える」。 == 来歴 == '''2016年''' ・1月 [[創業]]。社名の[[由来]]は、【読む(read)ものを届ける(send)】の[[造語]] '''2017年''' ・12月 本社移転 '''2019年''' ・8月 本社移転 '''2021年''' ・11月 [[サラメシ]] シーズン11 (24)<ref name=":0">{{Citation|title=(24)「新幹線車両工場の社食▽社長が作る豪華まかない」 - サラメシ|last=日本放送協会|url=https://www.nhk.jp/p/salameshi/ts/PVPP6PZNLG/episode/te/LX4X77V3XM/|language=ja|access-date=2023-09-29}}</ref>出演 '''2022年''' ・2月 アイミツCLOUDに優良会社として掲載される<ref>{{Cite web |title=株式会社リーセンドの紹介|PRONIアイミツ |url=https://imitsu.jp/ct-printing/pr-kanagawa/ci-kawasaki-city/supplier/162665 |website=PRONIアイミツ |access-date=2023-09-29 |language=ja}}</ref> ・5月 [[ニコラス・ケンジ]]と[[スポンサー|スポンサー契約]]を結ぶ<ref>{{Cite web |title=ダンス・モデルの依頼ならニコラス・ケンジのオフィシャルサイトへ |url=https://reasend.com/nicolas/ |website=神奈川県川崎市のポスティング会社・業者をお探しなら株式会社リーセンド {{!}} ポスティング、チラシデザイン、印刷、ホームページ制作、WEBデザイン、WEB広告のことなら株式会社リーセンド |access-date=2023-09-29 |language=ja}}</ref> '''2023年''' ・8月 HP制作.jpに掲載される<ref>{{Cite web |title=神奈川県でホームページ制作の一括見積ならホームページ制作.jp {{!}} ホームページ制作.jp |url=https://www.homepage-seisaku.jp/area/kanagawa/ |website=ホームページ制作.jp|全国の業者を比較&選べるホームページ制作の一括見積りサイト |date=2019-07-22 |access-date=2023-09-29 |language=jp}}</ref> == 顧問 == {{出典の明記| date = 2023年10月| section = 1}} * 三田薫税理士事務所 三田薫 * 丸茂社会保険労務士事務所 丸茂雅一 * やまもと総合法律事務所 細川宗孝 == その他 == 毎週月曜日に社内で加藤社長の手料理を一緒に食べるランチ会、誕生日会を開催している。その様子がNHKの『サラメシ』に取り上げられたことがある。NHK『サラメシ』2021年11月30日 サラメシ シーズン11 (24)「新幹線車両工場の社食▽社長が作る豪華まかない」<ref name=":0" /> == 脚注 == <references responsive="" /> == 外部リンク == * https://reasend.com/ * https://www.instagram.com/_reasend_/ * https://twitter.com/reasend_inc {{DEFAULTSORT:りーせんど}} [[Category:日本の広告代理店]] [[Category:日本の株式会社]] [[Category:麻生区の企業]] [[Category:21世紀の日本の設立]] [[Category:2016年設立の企業]]
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エビノコバン
エビノコバン Tachea chinensis Thielemann 1910 は、淡水産の等脚類の1つ。スジエビなどエビ類の外部寄生虫である。 体長10mm程度の動物で、体幅はその約半分程度。概形としては卵長円形をしている。全体に淡黄色で体表には無数の黒い斑点がある。頭部は小さくて三角形をしており、額角の両側に小さな板状の突起がある。7節ある胸部の体節は何れもほぼ同じ長さで、第1節の正中線の両側には2個の顆粒が横に並び、第6節では正中線の両側に1対、後の縁の両側端近くに1対の板状隆起がある。胸部体節の両端にある側板は第2、第3節では四角形で、それ以降の節では後の端が伸びた形になっている。腹部の第1節の全部、それに第2節の両端部分は胸部体節の下に隠れる。また第4節の両端の側板は後ろ向きに湾曲して第5節を囲む形を取る。腹尾節は半円形をしており、後の縁には細かい毛と8つの短い刺がある。 第1触角は短くて小さく、柄の部分は2節からなり、第1柄節は広がって頭部の前の縁から突き出す。この第1柄節の拡張していることはエビノコバン属の形態的に重要な特徴の1つとされている。鞭状部は7節前後からなる。第2触角は柄の部分が5節、鞭状部が16節前後になっている。顎脚は5節。胸肢の指節は鉤状に曲がっている。胸肢のうちの第1~第3肢は短く、その長節から坐節は腹側に疣状隆起が若干数ある。それ以降の胸肢は次第に長くなり、腹部側の縁に強い刺がある。腹肢はその縁の剛毛が短く小さい。尾肢は原節の内側が細く伸びており、内肢は三角形の板状で、外肢は細く短くて紡錘形をしており、それら共に短い毛と刺を備えている。 日本では東北地方から沖縄島までに知られ、国外では中国東部、ベトナム、タイ、マレーシアからの報告がある。日本は本種の分布域の東北端にあり、青森県津軽半島の湖沼群が分布北限とされている。 淡水域のエビ類に寄生するものであるが、汽水域まで見られる。当然エビの体の上に見られるのであるが、成体はエビを離れて底生生活をすることが分かっており、水底の枯れた植物体や転石の下などに見出される。 本種を含むニセウオノエ科の動物についての生態的研究は乏しいとされる中、本種については琵琶湖においてその生活史の概観が分かる研究が行われており、それに基づいて説明する。 宿主である各種のエビの調査では、琵琶湖においては7~8月頃に宿主の体上に本種が見られなくなる時期があり、それを過ぎると小型の本種が多数出現するようになる。この時期に出現する体長1.5~2.5mmのものは第7胸脚がなく、これは等脚類に広く見られるマンカ幼生と判断された。マンカ幼生は少なくとも2期あり、見られる期間は9月までで、そこからも宿主の体上で成長を続ける。ただしそこで見られるのは6mm程度のものまでであった。他方、成体は底生生活するとの情報からヨシの枯れ枝を籠に入れたトラップを仕掛けると、7~9月に6~13mmと一回り大きい個体が採集され、それらは育房が発達してその中に卵や幼生を抱えた雌、ペニスの発達した雄などが見られた。そこから、年を越してある程度成長した個体は宿主を離れて底生生活に入り、そこで繁殖が行われ、幼生が生まれるものと考えられる。生まれた幼生はプランクトンネットでは採集されず、また時期的にも宿主体上に幼生が出現する時期が早いこともあり、おそらくすぐに宿主上に移動するものと考えられる。 本種は上述のように淡水性のエビ類に外部寄生するものである。ただし宿主体上に固着する、といったものではなく、宿主エビ類に刺激を与えただけで自分から宿主を離れて活発に遊泳することが知られている。元々ニセウオノエ科のものは詳しい研究はなされていなかったものの、その発見の状況や口器や付属枝の構造などから一時寄生、あるいは捕食性であるとの判断があり、本種もそう考えられてきた面があるが、琵琶湖での生活史の研究からは宿主を乗り換えることも多くあるようではあるが、幼生がすぐに宿主体上に張り付くらしいこと、脱皮の宿主体上で行うことなどが確認され、むしろ強い寄生性を持つ外部寄生者であると見るべき、との判断を著者は下している。 宿主の範囲としては日本ではテナガエビ科のスジエビ Palaemon paucidens および同属の種、ヒラテテナガエビ Macrobrachium iaponicum 、ヌマエビ科のヌカエビ Paratya improvisa 、ヌマエビ P. compressa 、ツノナガヌマエビ Cardina grandirostris 、ミゾレヌマエビ C. leucosticta 、トゲナシヌマエビ C. typus 、カワリヌマエビ属の複数種 Neocardina spp. があげられている。しかしこれらの宿主となるエビならどれでもいいわけではなく、主たる宿主対象はスジエビであるようである。琵琶湖の調査では宿主エビ毎の寄生率を調べており、カワリヌマエビ属では12.2%、ヌカエビで5.5%に対してスジエビでは24.4%であった。さらにカワリヌマエビ属に寄生しているものでは成熟に近い体長6mmになるものがおらず、スジエビの上では大きいものが発見されることから、小型であるカワリヌマエビは宿主として利用可能ではあるものの、成熟に至るには小さすぎるのではないかと考えられるとし、カワリヌマエビを宿主とする個体はどこかの段階でスジエビに乗り換えるのだろうと推測している。またマンカ幼生が体の大きい宿主エビに食われる事例が知られていることから、本種の要請の段階ではカワリヌマエビのような小型の宿主は危険が少ない攻撃対象となるかもしれないとも述べている。なお長澤、藤本(2021)は採集した本種個体を水槽の中でテナガエビ Macrobrachium nipponense に寄生させることに成功しており、野外でこのエビを宿主としないことについて様々に推察しているが、現時点では分かっていない。 寄生の方法としては、その部位は決まっており、宿主エビの頭胸甲の後端近くの側面で、頭部を頭胸甲と腹部の第1節の間に向ける。その際に胸脚で宿主の頭胸甲に穴を開けるとも言われる。琵琶湖での調査では宿主エビの頭胸甲の左右いずれかに1個体の本種が寄生しているのがほとんどだが、左右に1個体ずつ、合わせて2頭に同時に寄生されている例もあったという。スジエビの養殖場で本種が発生した事例では寄生部位には頭胸甲だけでなく腹部の側面も見られ、やはりエビ1個体に本種1個体の例が多かったものの、3個体に移動時に寄生されていた例もあったという。 なお本種の寄生による宿主への影響についてはあまり触れられていない。宿主となるエビ類も特に重要な資源と見なされていないためもあるのだろうが、通常では目立った害にはならないようである。ただしスジエビを釣り餌として養殖しているところでエビの大量死が発生し、これに本種の寄生が関与している可能性がある、との指摘がある。それによると、この大量死の原因はビブリオ属 Vibrio の細菌の感染によるものだが、この細菌がエビのいる水の中に存在するだけでは感染が成立せず、エビの体内に細菌をごく少量だけ接種することで感染が成立させられた。しかしエビが本種の寄生を受けたものであった場合には水に細菌を含ませるだけで感染、発病が起きる。おそらく本種の寄生による傷が感染の成立の大きく関わっていると考えられるという。
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エビノコバン Tachea chinensis Thielemann 1910 は、淡水産の等脚類の1つ。スジエビなどエビ類の外部寄生虫である。
{{生物分類表 |名称=ウオノコバン属 |色 = 動物界 <!-- ||画像=[[ファイル:Synodus synodus.jpg|240px]] |画像キャプション=ウオノコバン属--> |界 = [[動物界]] {{Sname||Animalia}} |門 = [[節足動物門]] {{Sname||Arthropoda}} |亜門 = [[甲殻亜門]] {{Sname||Crustacea}} |綱 = [[軟甲綱]] {{Sname||Malacostraca}} |目 = [[等脚目]] {{Sname||Isopoda}} |亜目 = [[ウオノエ亜目]] {{Sname||Cymothoida}} |科= [[ニセウオノエ科]] {{Sname||Corallanidae}} |属=[[エビノコバン属]] {{Snamei||Tachaea}}'''' |種='''エビノコバン''' ''Tachea chinensis'' |学名 = {{Snamei||Tachea chinensis}} Thielemann 1910 }} '''エビノコバン''' ''Tachea chinensis'' Thielemann 1910 は、[[淡水]]産の[[等脚類]]の1つ。スジエビなどエビ類の外部寄生虫である。 == 特徴 == 体長10mm程度の[[動物]]で、体幅はその約半分程度<ref>以下、主として岡田他(1975) p.542</ref>。概形としては卵長円形をしている<ref>上野監修(1973) p.475</ref>。全体に淡黄色で体表には無数の黒い斑点がある。[[頭部]]は小さくて三角形をしており、額角の両側に小さな板状の突起がある。7節ある[[胸部]]の体節は何れもほぼ同じ長さで、第1節の正中線の両側には2個の顆粒が横に並び、第6節では正中線の両側に1対、後の縁の両側端近くに1対の板状隆起がある。胸部体節の両端にある側板は第2、第3節では四角形で、それ以降の節では後の端が伸びた形になっている。[[腹部]]の第1節の全部、それに第2節の両端部分は胸部体節の下に隠れる。また第4節の両端の側板は後ろ向きに湾曲して第5節を囲む形を取る。腹尾節は半円形をしており、後の縁には細かい毛と8つの短い刺がある。 第1[[触角]]は短くて小さく、柄の部分は2節からなり、第1柄節は広がって頭部の前の縁から突き出す。この第1柄節の拡張していることはエビノコバン属の形態的に重要な特徴の1つとされている<ref>長澤、藤本(2021) p.142</ref>。鞭状部は7節前後からなる。第2触角は柄の部分が5節、鞭状部が16節前後になっている。顎脚は5節。胸肢の指節は鉤状に曲がっている。胸肢のうちの第1~第3肢は短く、その長節から坐節は腹側に疣状隆起が若干数ある。それ以降の胸肢は次第に長くなり、腹部側の縁に強い刺がある。腹肢はその縁の剛毛が短く小さい。尾肢は原節の内側が細く伸びており、内肢は三角形の板状で、外肢は細く短くて紡錘形をしており、それら共に短い毛と刺を備えている。 == 分布 == [[日本]]では[[東北地方]]から[[沖縄島]]までに知られ、国外では[[中国]]東部、[[ベトナム]]、[[タイ王国|タイ]]、[[マレーシア]]からの報告がある<ref name="名前なし-20231105145649">太田(2023) p.1</ref>。日本は本種の分布域の東北端にあり、[[青森県]][[津軽半島]]の湖沼群が分布北限とされている<ref>長澤、藤本(2021)</ref>。 淡水域のエビ類に寄生するものであるが、汽水域まで見られる<ref name="名前なし-20231105145649"/>。当然エビの体の上に見られるのであるが、成体はエビを離れて底生生活をすることが分かっており、水底の枯れた植物体や転石の下などに見出される<ref>太田(2023) p.3-4</ref>。 == 習性など == === 生活史 === 本種を含むニセウオノエ科の動物についての生態的研究は乏しいとされる中、本種については琵琶湖においてその生活史の概観が分かる研究が行われており、それに基づいて説明する<ref>以下、太田(2023)</ref>。 宿主である各種のエビの調査では、琵琶湖においては7~8月頃に宿主の体上に本種が見られなくなる時期があり、それを過ぎると小型の本種が多数出現するようになる。この時期に出現する体長1.5~2.5mmのものは第7胸脚がなく、これは等脚類に広く見られるマンカ幼生と判断された。マンカ幼生は少なくとも2期あり、見られる期間は9月までで、そこからも宿主の体上で成長を続ける。ただしそこで見られるのは6mm程度のものまでであった。他方、成体は底生生活するとの情報からヨシの枯れ枝を籠に入れたトラップを仕掛けると、7~9月に6~13mmと一回り大きい個体が採集され、それらは育房が発達してその中に卵や幼生を抱えた雌、ペニスの発達した雄などが見られた。そこから、年を越してある程度成長した個体は宿主を離れて底生生活に入り、そこで繁殖が行われ、幼生が生まれるものと考えられる。生まれた幼生はプランクトンネットでは採集されず、また時期的にも宿主体上に幼生が出現する時期が早いこともあり、おそらくすぐに宿主上に移動するものと考えられる。 === 寄生性 === 本種は上述のように淡水性のエビ類に外部寄生するものである。ただし宿主体上に固着する、といったものではなく、宿主エビ類に刺激を与えただけで自分から宿主を離れて活発に遊泳することが知られている<ref>以下も太田(2023) p.1</ref>。元々ニセウオノエ科のものは詳しい研究はなされていなかったものの、その発見の状況や口器や付属枝の構造などから一時寄生、あるいは捕食性であるとの判断があり、本種もそう考えられてきた面があるが、琵琶湖での生活史の研究からは宿主を乗り換えることも多くあるようではあるが、幼生がすぐに宿主体上に張り付くらしいこと、脱皮の宿主体上で行うことなどが確認され、むしろ強い寄生性を持つ外部寄生者であると見るべき、との判断を著者は下している<ref name="名前なし_2-20231105145649">太田(2023) p.6</ref>。 宿主の範囲としては日本では[[テナガエビ科]]の[[スジエビ]] ''Palaemon paucidens'' および同属の種、[[ヒラテテナガエビ]] ''Macrobrachium iaponicum'' 、[[ヌマエビ科]]の[[ヌカエビ]] ''Paratya improvisa'' 、[[ヌマエビ]] ''P. compressa'' 、[[ツノナガヌマエビ]] ''Cardina grandirostris'' 、[[ミゾレヌマエビ]] ''C. leucosticta'' 、[[トゲナシヌマエビ]] ''C. typus'' 、[[カワリヌマエビ属]]の複数種 ''Neocardina'' spp. があげられている<ref>長澤、藤本(2021) p.139-140:なお、種名が確定していないのはこの分野の問題もあるが、近年釣り餌用として外国産のものが持ち込まれ、各地で定着している、という問題も関わっている。</ref>。しかしこれらの宿主となるエビならどれでもいいわけではなく、主たる宿主対象はスジエビであるようである。琵琶湖の調査では宿主エビ毎の寄生率を調べており、カワリヌマエビ属では12.2%、ヌカエビで5.5%に対してスジエビでは24.4%であった<ref>太田(2013) p.2</ref>。さらにカワリヌマエビ属に寄生しているものでは成熟に近い体長6mmになるものがおらず、スジエビの上では大きいものが発見されることから、小型であるカワリヌマエビは宿主として利用可能ではあるものの、成熟に至るには小さすぎるのではないかと考えられるとし、カワリヌマエビを宿主とする個体はどこかの段階でスジエビに乗り換えるのだろうと推測している<ref>太田(2023) p.4-5</ref>。またマンカ幼生が体の大きい宿主エビに食われる事例が知られていることから、本種の要請の段階ではカワリヌマエビのような小型の宿主は危険が少ない攻撃対象となるかもしれないとも述べている<ref name="名前なし_2-20231105145649"/>。なお長澤、藤本(2021)は採集した本種個体を水槽の中で[[テナガエビ]] ''Macrobrachium nipponense'' に寄生させることに成功しており、野外でこのエビを宿主としないことについて様々に推察しているが、現時点では分かっていない。 寄生の方法としては、その部位は決まっており、宿主エビの頭胸甲の後端近くの側面で、頭部を頭胸甲と腹部の第1節の間に向ける<ref name="名前なし-20231105145649"/>。その際に胸脚で宿主の頭胸甲に穴を開けるとも言われる<ref>長澤、藤本(2021) p.144</ref>。琵琶湖での調査では宿主エビの頭胸甲の左右いずれかに1個体の本種が寄生しているのがほとんどだが、左右に1個体ずつ、合わせて2頭に同時に寄生されている例もあったという<ref>太田(2023) p.2</ref>。スジエビの養殖場で本種が発生した事例では寄生部位には頭胸甲だけでなく腹部の側面も見られ、やはりエビ1個体に本種1個体の例が多かったものの、3個体に移動時に寄生されていた例もあったという<ref>植木他(1988) p.177</ref>。 なお本種の寄生による宿主への影響についてはあまり触れられていない。宿主となるエビ類も特に重要な資源と見なされていないためもあるのだろうが、通常では目立った害にはならないようである。ただしスジエビを釣り餌として養殖しているところでエビの大量死が発生し、これに本種の寄生が関与している可能性がある、との指摘がある<ref>以下、植木他(1988)</ref>。それによると、この大量死の原因は[[ビブリオ属]] ''Vibrio'' の細菌の感染によるものだが、この細菌がエビのいる水の中に存在するだけでは感染が成立せず、エビの体内に細菌をごく少量だけ接種することで感染が成立させられた。しかしエビが本種の寄生を受けたものであった場合には水に細菌を含ませるだけで感染、発病が起きる。おそらく本種の寄生による傷が感染の成立の大きく関わっていると考えられるという。 == 出典 == <references /> == 参考文献 == *岡田要他、『新日本動物図鑑 〔中〕』第6版、(1975)、図鑑の北隆館 *上野益三監修、『川村多實二原著 日本淡水生物学』、(1973)、図鑑の北隆館 *太田悠造、「琵琶湖における淡水エビ類に外部寄生するエビノコバン(等脚目:ニセウオノエ科)における生息環境利用と季節性」、(2023)、Cancer 32: p.1-28. *長澤和也、藤本泰文、「岩手県初記録のエビノコバン(等脚目ニセウオノエ科)とテナガエビへの感染実験」、(2021)、 *植木範行他、「スジエビのビブリオ感染症とエビノコバンの寄生」、(1988)、魚病研究 23(3): p.175-178. {{DEFAULTSORT:えひのこはん}} [[Category:等脚類]]
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甲奴村
甲奴村(こうぬむら)は、広島県甲奴郡にあった村。現在の三次市の一部にあたる。 上下川の流域に位置していた。 『和名類聚抄』に記載の備後国甲奴郡三郷の一つ甲奴郷から。
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甲奴村(こうぬむら)は、広島県甲奴郡にあった村。現在の三次市の一部にあたる。
{{日本の町村 (廃止) | 廃止日 = 1955年3月31日 | 廃止理由 = 新設合併 | 廃止詳細 = '''甲奴村'''、[[上川村 (広島県)|上川村]](一部)→ [[甲奴町]] | 現在の自治体 = [[三次市]] | よみがな = こうぬむら | 自治体名 = 甲奴村 | 区分 = 村 | 都道府県 = 広島県 | 郡 = [[甲奴郡]] | 面積 = | 境界未定 = | 人口 = 2588 | 人口の出典 = [[国勢調査 (日本)|国勢調査]] | 人口の時点 = 1950年 | 隣接自治体 = 上川村、[[領家村 (広島県)|領家村]]、[[上下町]]、[[世羅郡]][[広定村]]、[[双三郡]][[吉舎町]] | 所在地 = 甲奴郡甲奴村大字西野 | 座標 = | 位置画像 = | 特記事項 = }} '''甲奴村'''(こうぬむら{{R|変遷}})は、[[広島県]][[甲奴郡]]にあった[[村]]。現在の[[三次市]]の一部にあたる。 == 地理 == 上下川の流域に位置していた{{R|角川}}。 == 歴史 == *[[1889年]](明治22年)4月1日、[[町村制]]の施行により、[[甲奴郡]][[福田村 (広島県)|福田村]]、[[西野村 (広島県甲奴郡)|西野村]]、[[梶田村]]、[[本郷村 (広島県甲奴郡)|本郷村]]が発足<ref>『市町村名変遷辞典』183、596、685、716頁。</ref>。 *[[1895年]](明治28年)10月1日、上記4村が合併して'''甲奴村'''が発足<ref name=変遷>『市町村名変遷辞典』307頁。</ref><ref name=角川>『角川日本地名大辞典 34 広島県』353頁。</ref>。旧村名を継承した福田、西野、梶田、本郷の4大字を編成{{R|角川}}。 *[[1904年]](明治37年)頃、[[耕地整理]]事業開始{{R|角川}}。 *[[1953年]](昭和28年)甲奴[[郵便局]]が大字福田から大字西野に移転{{R|角川}}。 *[[1955年]](昭和30年)3月31日、甲奴郡上川村(一部)と合併し、町制施行して'''[[甲奴町]]'''を新設し廃止された{{R|変遷}}{{R|角川}}。 === 地名の由来 === 『[[和名類聚抄]]』に記載の備後国甲奴郡三郷の一つ甲奴郷から{{R|角川}}。 == 産業 == *農業{{R|角川}} == 交通 == === 鉄道 === *[[1935年]](昭和10年)国有鉄道福塩北線(現[[福塩線]])吉舎~上下間開通し[[甲奴駅]]開設{{R|角川}}。 == 教育 == *1952年(昭和27年)甲奴郡甲奴村上川村世良郡広定村学校組合立・甲奴中学校新校舎落成{{R|角川}} == 脚注 == {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[角川日本地名大辞典]] 34 広島県 * 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。 == 関連項目 == * [[広島県の廃止市町村一覧]] {{デフォルトソート:こうぬむら}} [[Category:甲奴郡]] [[Category:三次市域の廃止市町村]] [[Category:1895年設置の日本の市町村]] [[Category:1955年廃止の日本の市町村]]
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立山城
立山城(たちやまじょう)は、千葉市緑区大木戸町にあった日本の城。 立山城は、大椎城の西方に村田川を挟んで南北に連なる城である。「隠居城」と呼ばれており、村田川が天然の外堀のように城址の北側から東側を通って西側に迂回している。 「立山」は「館山」に通じることから、「やかたの山」、つまり中世に武士団の館跡があったところの「館城」と考えられる。 城址には、「狐塚」などの円墳が多く存在し、その周辺から平安時代や鎌倉時代の陶器の破片が発見されている。 規模は200m×250mほどで、比高35mほどの台地上に郭や空堀の跡が認められる。
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立山城(たちやまじょう)は、千葉市緑区大木戸町にあった日本の城。
{{日本の城郭概要表 | img = ファイル:Tachiyamajo.jpg | img_capt = 立山城 | img_width = 260px | name = 立山城 | pref = 千葉県 | struct = | tower_struct = なし | builders = 不明 | build_y = 不明 | rulers = 不明 | reject_y = | remains = 堀 | latd =35 |latm =31|lats =11.4 | longd=140|longm=15|longs=05.4 | map=Japan Chiba | map_mark=日本の城跡 | map_label=立山城 | map_label_position=top }} '''立山城'''(たちやまじょう)は、[[千葉市]][[緑区 (千葉市)|緑区]]大木戸町にあった[[日本の城]]。 ==歴史== 立山城は、[[大椎城]]の西方に[[村田川]]を挟んで南北に連なる城である。「隠居城」と呼ばれており、村田川が天然の外堀のように城址の北側から東側を通って西側に迂回している。 「立山」は「館山」に通じることから、「やかたの山」、つまり中世に武士団の館跡があったところの「館城」と考えられる。 城址には、「狐塚」などの円墳が多く存在し、その周辺から[[平安時代]]や[[鎌倉時代]]の陶器の破片が発見されている<ref>府馬清 『房総の古城址めぐり 上巻』 有峰書店新社、p100</ref>。 ==構造== 規模は200m×250mほどで、比高35mほどの台地上に郭や空堀の跡が認められる<ref>千葉県教育委員会 『千葉県の中近世城館』 戎光祥出版 P79</ref>。 ==アクセス== *JR[[外房線]]・[[土気駅]]から土気緑の森工業団地行き[[千葉中央バス]] 大木戸第2入口下車 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{デフォルトソート:たちやましよう}} [[category:千葉県の城]] [[Category:下総国の城]] [[Category:現存しない千葉市の建築物]] [[Category:千葉市緑区の建築物|廃たちやましよう]] [[Category:千葉市緑区の歴史]]
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4,825,229
感染症危機管理担当大臣
感染症危機管理担当大臣(かんせんしょうききかんりたんとうだいじん)は、日本の国務大臣で、感染症危機管理に関する施策を総合的に推進するために企画立案及び行政各部の所管する事務の調整を担当することを命じられた者の呼称。 2023年9月1日、新型コロナウイルス禍の教訓を踏まえ、厚生労働省や内閣官房に分散していた感染症対策を一元化する形で内閣感染症危機管理統括庁が発足したことに伴い、統括庁を所管する感染症危機管理担当相が設置された。 新型コロナウイルス禍では、医療体制の整備やワクチン調達では厚労省、水際対策では外務省や法務省出入国在留管理庁、地方自治体との調整では総務省といったように各省が個別に対応していた。統括庁を所管する感染症危機管理担当相の設置で、感染症危機対応の企画立案や調整を内閣に一元化することが可能となり、省庁の縦割りを廃する効果が期待される。 感染症危機管理担当相には厚労省のほか、外務省や国土交通省、総務省、デジタル庁など各省の縦割り行政を抑え込んで感染症対策を指揮する政治力が必要とされ、感染症危機管理担当相は経済再生相と経済財政政策担当の内閣府特命担当大臣を兼務していることにより、法律上も各省庁に睨みが利く強い権限が与えられている。
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感染症危機管理担当大臣(かんせんしょうききかんりたんとうだいじん)は、日本の国務大臣で、感染症危機管理に関する施策を総合的に推進するために企画立案及び行政各部の所管する事務の調整を担当することを命じられた者の呼称。
{{Infobox Political post | 役職 = 国務大臣<br>(感染症危機管理担当) | 団体名 = {{JPN}} | 原語表記 = | 記章 = Cabinet Agency for Infectious Disease Crisis Management logo.svg | 記章サイズ = 300px | 記章キャプション = 内閣感染症危機管理統括庁ロゴタイプ | insigniaalt = 内閣感染症危機管理統括庁ロゴタイプ | 画像 = Yoshitaka Shindō.2023.jpg | 画像サイズ = 210px | alt = 新藤義孝 | 現職者 = [[新藤義孝]] | 就任日 = [[2023年]]([[令和]]5年)[[9月13日]] | 所属機関 = [[内閣 (日本)|内閣]] | 担当機関 = [[内閣感染症危機管理統括庁]] | 任命 = [[内閣総理大臣]]<br/>([[岸田文雄]]) | 根拠法令 = [[内閣法]] | 前身 = [[新型コロナ対策・健康危機管理担当大臣|新型コロナ危機管理担当相]] | 創設 = [[2023年]]([[令和]]5年)[[9月1日]] | 初代 = [[後藤茂之]] | 略称 = 感染症危機管理相<ref name="simei2"/> | 通称 = | 職務代行者 = [[内閣府副大臣]]<br />([[井林辰憲]]) | 俸給 = 年額 約2929万円<ref>{{PDFlink|[https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/jinjikyoku/files/20221118_tokubetsushoku_kyuyo.pdf 主な特別職の職員の給与]}} - 内閣官房</ref> | ウェブサイト = [https://www.cas.go.jp/jp/caicm/index.html 内閣感染症危機管理統括庁] }} '''感染症危機管理担当大臣'''(かんせんしょうききかんりたんとうだいじん)は、[[日本]]の[[国務大臣]]で、[[パンデミック|感染症危機管理]]に関する施策を総合的に推進するために企画立案及び[[日本の行政機関|行政各部]]の所管する事務の調整を担当することを命じられた者の呼称<ref name="官報" >[https://kanpou.npb.go.jp/20230905/20230905h01055/20230905h010550007f.html 令和5年9月5日 火曜日 官報本紙第1055号]</ref>。 ==概説== [[2023年]][[9月1日]]、[[コロナ禍|新型コロナウイルス禍]]の教訓を踏まえ、[[厚生労働省]]や[[内閣官房]]に分散していた[[感染症|感染症対策]]を一元化する形で[[内閣感染症危機管理統括庁]]が発足したことに伴い、統括庁を所管する感染症危機管理担当相が設置された<ref name="simei2">{{Cite web|和書|url= https://web.archive.org/web/20230908054557/https://news.yahoo.co.jp/articles/01ff19cddde82b7c94bf39cb7d05dc23ea0bc504 |title= 感染症統括庁が発足 首相「万全の備えを」 |accessdate=2023-09-22|publisher=産経新聞|website=}}</ref>。 新型コロナウイルス禍では、医療体制の整備や[[COVID-19ワクチン|ワクチン]]調達では厚労省、[[水際作戦|水際対策]]では[[外務省]]や[[法務省]][[出入国在留管理庁]]、[[地方公共団体|地方自治体]]との調整では[[総務省]]といったように各省が個別に対応していた。統括庁を所管する感染症危機管理担当相の設置で、感染症危機対応の企画立案や調整を[[内閣 (日本)|内閣]]に一元化することが可能となり、省庁の縦割りを廃する効果が期待される<ref>{{Cite web|和書|url= https://web.archive.org/web/20230902014116/https://www.yomiuri.co.jp/politics/20230902-OYT1T50030/ |title= 感染症統括庁、緊急時には最大300人態勢…各省庁から職員派遣 |accessdate=2023-10-22|publisher=読売新聞|website=www.yomiuri.co.jp}}</ref>。 感染症危機管理担当相には厚労省のほか、外務省や[[国土交通省]]、総務省、[[デジタル庁]]など各省の[[縦割り行政]]を抑え込んで感染症対策を指揮する政治力が必要とされ<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.nikkei.com/article/DGXZQODK0155Q0R00C23A9000000/ |title= [社説]感染症危機管理は縦割り排除し機動力を |accessdate=2023-09-02|publisher=日本経済新聞}}</ref>、感染症危機管理担当相は経済再生相と[[内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)|経済財政政策担当]]の[[内閣府特命担当大臣]]を兼務していることにより、法律上も各省庁に睨みが利く強い権限が与えられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20220219072215/https://news.yahoo.co.jp/articles/16a777b57dd43f92b494f424d5dea9762bb2bd54 |title= 堀内詔子ワクチン相“岸田派のプリンセス”はコロナ失政のスケープゴートになるのか(抜粋) |accessdate=2021-02-19|publisher= NEWSポストセブン}}</ref>。 == 歴代大臣 == {| class="wikitable" |+ !代 !colspan="2"|氏名 !内閣 !在職期間 !党派 |- !colspan="7" style="background-color:skyblue"|感染症危機管理担当大臣 |- !1 |[[ファイル:Shigeyuki Gotō 20160328 (cropped).jpg|60px]] |[[後藤茂之]] |[[第2次岸田内閣 (第1次改造)|第2次岸田内閣第1次改造内閣]] |2023年9月1日 - 2023年9月13日 |rowspan="2" | 自由民主党 |- !2 |[[ファイル:Yoshitaka Shindō.2023.jpg|60px]] |[[新藤義孝]] |[[第2次岸田内閣 (第2次改造)|第2次岸田内閣第2次改造内閣]] |2023年9月13日 - 現職 |- |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[新型コロナウイルス感染症ワクチン接種推進担当大臣]] * [[内閣感染症危機管理統括庁]] * [[新型インフルエンザ等対策推進会議]] * [[新型インフルエンザ等対策特別措置法]] == 外部リンク == * [https://www.cas.go.jp/jp/caicm/index.html 内閣感染症危機管理統括庁] - [[内閣官房]] * {{Twitter|Kanboukansen|内閣感染症危機管理統括庁(内閣官房)}} {{デフォルトソート:かんせんしようききかんりたんとうたいしん}} [[Category:日本の国務大臣]] [[Category:日本の内閣官房]]
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4,825,234
前川莉珠
前川 莉珠(まえかわ りず、2004年10月24日 - )は、日本のグラビアアイドル、女優。神奈川県出身。 2021年10月31日、松竹、松竹芸能、松竹エンタテインメントによる大型合同オーディション「松竹ジャパングランプリ 全国オーディション」で準グランプリとなり、芸能界入りを果たす。 2023年には美少女図鑑とヤングジャンプが共同で行っている発掘企画第2回「美少女mining」の5人のうちの1人に選出された。 趣味は読書、カラオケ、ドラマ・映画・テレビ鑑賞、散歩。特技はチア、ソーラン節、走ること(運動全般)、大きな声を出すこと。
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前川 莉珠は、日本のグラビアアイドル、女優。神奈川県出身。
{{複数の問題 |存命人物の出典明記=2023-09-08 |特筆性=2023-09-08|分野=人物 }} {{女性モデル | モデル名 = 前川 莉珠 | ふりがな = まえかわ りず | 画像ファイル = | 画像コメント = | 別名義 = | 愛称 = | 生年 = 2004 | 生月 = 10 | 生日 = 24 | 没年 = | 没月 = | 没日 = | 出身地 = {{JPN}}・[[神奈川県]] | 死没地 = | 血液型 = | 瞳の色 = | 毛髪の色 = | 時点 = [[2023年]] | 身長 = 160 | 体重 = | バスト = 80 | ウエスト = 58 | ヒップ = 84 | カップ = | 股下 = | 靴 = 24.5 | 身体備考 = | デビュー = [[2022年]] | モデル内容 = 一般、[[水着]] | 活動備考 = | 他の活動 = [[俳優#性別での分類|女優]] | 事務所 = [[松竹芸能]] | その他 = | FMD = | IMDb = }} '''前川 莉珠'''(まえかわ りず、[[2004年]][[10月24日]] - )は、[[日本]]の[[グラビアアイドル]]、[[俳優#性別での分類|女優]]。[[神奈川県]]出身。 == 経歴 == 2021年10月31日、[[松竹]]、[[松竹芸能]]、[[松竹エンタテインメント]]による大型合同オーディション「松竹ジャパングランプリ 全国オーディション」で準グランプリとなり、芸能界入りを果たす<ref>{{Cite news|url=https://www.oricon.co.jp/news/2212227/full/|title=「松竹オーディション」GPが決定 “約1万人の頂点”に中3美女 芸能界入りに意欲メラメラ|newspaper=ORICON NEWS|publisher=oricon ME|date=2021-10-31|accessdate=2023-09-08}}</ref>。 2023年には[[美少女図鑑]]と[[ヤングジャンプ]]が共同で行っている発掘企画第2回「美少女mining」の5人のうちの1人に選出された<ref>{{Cite news|url=https://www.crank-in.net/news/123523/1|title=「美少女図鑑」×「ヤングジャンプ」共同企画「美少女mining」第2回受賞者の初グラビア|newspaper=クランクイン!|publisher=ブロードメディア|date=2023-03-02|accessdate=2023-09-08}}</ref>。 == 人物 == 趣味は読書、カラオケ、ドラマ・映画・テレビ鑑賞、散歩。特技はチア、ソーラン節、走ること(運動全般)、大きな声を出すこと。 == 出演 == === 映画 === * [[モエカレはオレンジ色]](2022年7月) * [[交換ウソ日記]](2023年7月) === CM === * 明石スクールユニフォームカンパニー「仲間と着る、よろこびを。」篇(2022年) == 書籍 == ; デジタル写真集 :* 透明少女(2023年6月1日、[[集英社]]、YJ PHOTO BOOK、撮影:[[細居幸次郎]])<ref>{{Cite web|publisher=週刊ヤングジャンプ公式サイト|title=前川莉珠写真集「透明少女」|url=https://youngjump.jp/yj_photobook/detail.html?pb_id=307 |accessdate=2023-09-17}}</ref><ref>{{Cite web|publisher=ヤンジャンTV【集英社ヤングジャンプ公式】 - YouTube|url=https://www.youtube.com/watch?v=0hLM7srXE64|title=【4Kムービーグラビア】初々しさあふれる初水着!YJ最新美少女・前川莉珠ちゃんの透明感あふれる水着撮影に最高画質で没入密着!【メイキング】|accessdate=2023-09-17}}</ref><ref>{{Cite web|publisher=週プレ グラジャパ!|title=前川莉珠写真集「透明少女」 - 週プレ グラジャパ! -GRAVURE JAPAN!-|url=https://www.grajapa.shueisha.co.jp/item/detail/gravure/85d262854a3b7d8d3b56646600d9b912 |accessdate=2023-09-17}}</ref><ref>{{ASIN|B0C6QT2RB6}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://www.shochikugeino.co.jp/talents/maekawalizu/ 前川莉珠] - 松竹芸能 * {{Twitter|lizu_maekawa}} * {{Instagram|lizu_maekawa}} {{idol-substub}} {{DEFAULTSORT:まえかわ りす}} [[Category:神奈川県出身の人物]] [[Category:グラビアアイドル]] [[Category:21世紀日本の女優]] [[Category:松竹芸能]] [[Category:2004年生]] [[Category:存命人物]]
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グリズリーズ
グリズリーズ (英: Grizzlies)
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グリズリーズ メンフィス・グリズリーズ - NBA所属のバスケットボールチーム。元々はカナダのバンクーバーに設立されたチームであった。 フレズノ・グリズリーズ - マイナーリーグであるカリフォルニアリーグ所属の野球チーム。2021年からコロラド・ロッキーズ傘下。 ゲートウェイ・グリズリーズ - プロ野球独立リーグのフロンティアリーグに加盟している野球チーム。
'''グリズリーズ''' ({{Lang-en-short|Grizzlies}}) * [[メンフィス・グリズリーズ]] - [[NBA]]所属の[[バスケットボール]]チーム。元々はカナダの[[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]]に設立されたチームであった。 * [[フレズノ・グリズリーズ]] - [[マイナーリーグ]]である[[カリフォルニアリーグ]]所属の[[野球チーム]]。2021年から[[コロラド・ロッキーズ]]傘下。 * [[ゲートウェイ・グリズリーズ]] - [[プロ野球]][[独立リーグ]]の[[フロンティアリーグ]]に加盟している野球チーム。 == 関連項目 == * [[グリズリーズ・スタジアム]] - 上記のフレズノ・グリズリーズの本拠地球場。 * [[グリズリー (曖昧さ回避)]] {{Aimai}} {{DEFAULTSORT:くりすりいす}}
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サンダーボルツ
サンダーボルツ (英: thunderbolts)
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サンダーボルツ バーミンガム・サンダーボルツ - XFLのアメリカンフットボールチーム。 ウィンディシティ・サンダーボルツ - プロ野球独立リーグのフロンティアリーグに加盟している野球チーム。 サンダーボルツ (映画) - 2024年のアメリカ映画。 サンダーボルツ (マーベル・コミック) - マーベル・コミックのキャラクター。
'''サンダーボルツ''' ({{Lang-en-short|thunderbolts}}) * {{仮リンク|バーミンガム・サンダーボルツ|en|Birmingham Thunderbolts}} - [[XFL]]のアメリカンフットボールチーム。 * [[ウィンディシティ・サンダーボルツ]] - [[プロ野球]][[独立リーグ]]の[[フロンティアリーグ]]に加盟している野球チーム。 * {{仮リンク|サンダーボルツ (映画)|en|Thunderbolts (film)}} - 2024年のアメリカ映画。 * {{仮リンク|サンダーボルツ (マーベル・コミック)|en|Thunderbolts (comics)}} - [[マーベル・コミック]]のキャラクター。 == 関連項目 == * [[サンダーボルト]](曖昧さ回避) {{Aimai}} {{DEFAULTSORT:さんたあほるつ}}
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鶴見酒造
鶴見酒造(つるみしゅぞう)は、愛知県津島市に本社および工場を置く、清酒を製造・販売する日本酒の蔵元。 代表銘柄は「我山(がざん)」「山荘(さんそう)」「神鶴(かみつる)」がある。 鶴見酒造がある愛知県津島市百町のあたりは、かつて神守村と呼ばれ佐屋街道の宿場町「神守宿」を中心とした村であった。 鶴見酒造では、神守村の鶴見さんが造ったお酒という事で、「神守鶴(かもりつる)」との銘柄で販売していたが、銘柄を省略して今も販売している「神鶴(かみつる)」となった。 2020年から銘柄に「我山(がざん)」の販売を開始。
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鶴見酒造(つるみしゅぞう)は、愛知県津島市に本社および工場を置く、清酒を製造・販売する日本酒の蔵元。 代表銘柄は「我山(がざん)」「山荘(さんそう)」「神鶴(かみつる)」がある。
{{基礎情報 会社 |社名 = 鶴見酒造株式会社 |英文社名 = |ロゴ = |画像 = |画像説明 = |種類 = 株式会社 |機関設計 = |市場情報 = |略称 = |国籍 = {{JPN}} |本社郵便番号 = 496-0017 |本社所在地 = 愛知県津島市百町字旭46番地 |本社緯度度 = 35|本社緯度分 = 9|本社緯度秒 = 19|本社N(北緯)及びS(南緯) = N |本社経度度 = 136|本社経度分 = 45|本社経度秒 = 51|本社E(東経)及びW(西経) = E |座標右上表示 = No |本社地図国コード = |本店郵便番号 = |本店所在地 = |本店緯度度 = |本店緯度分 = |本店緯度秒 = |本店N(北緯)及びS(南緯) = |本店経度度 = |本店経度分 = |本店経度秒 = |本店E(東経)及びW(西経) = |本店地図国コード = |設立 = 1873年 |業種 = |法人番号 = 9180001096532 |統一金融機関コード = |SWIFTコード = |事業内容 = |代表者 = 和田真輔 |資本金 = |発行済株式総数 = |売上高 = |営業利益 = |経常利益 = |純利益 = |純資産 = |総資産 = |従業員数 = |支店舗数 = |決算期 = |会計監査人 = |所有者 = |主要株主 = |主要部門 = |主要子会社 = |関係する人物 = |外部リンク = https://www.tsurumi-jp.com/ |特記事項 = }} '''鶴見酒造'''(つるみしゅぞう)は、[[愛知県]][[津島市]]に本社および工場を置く、[[清酒]]を製造・販売する日本酒の蔵元<ref>[https://www.tsurumi-jp.com/ 公式サイト]</ref>。 代表銘柄は「我山(がざん)」「山荘(さんそう)」「神鶴(かみつる)」がある。 == 歴史 == 鶴見酒造がある愛知県津島市百町のあたりは、かつて神守村と呼ばれ佐屋街道の宿場町「神守宿」を中心とした村であった。 鶴見酒造では、神守村の鶴見さんが造ったお酒という事で、「神守鶴(かもりつる)」との銘柄で販売していたが、銘柄を省略して今も販売している「神鶴(かみつる)」となった。 2020年から銘柄に「我山(がざん)」の販売を開始。 == 受賞歴 == * 1994年 独立行政法人 酒類総合研究所が主催する全国新酒鑑評会で「神鶴 心」が金賞を受賞 * 2021年 KuraMaster純米大吟醸酒部門にて「純米大吟醸 我山」が金賞を受賞 * 2021年 IWC(インターナショナル ワイン チャレンジ)「SAKE 部門」純米大吟醸の部にて「我山」がゴールドメダルを受賞 * 2022年 独立行政法人 酒類総合研究所が主催する全国新酒鑑評会で「大吟醸 我山」が金賞を受賞 * 2022年 KuraMaster純米大吟醸酒部門にて「我山」が金賞を受賞 * 2023年 独立行政法人 酒類総合研究所が主催する全国新酒鑑評会で「大吟醸 我山」が金賞を受賞 * 2023年 愛知県新酒品評会 純米吟醸の部にて「我山」が愛知県知事賞を受賞 * 2023年 KuraMaster純米大吟醸酒部門にて「我山」が金賞を受賞 * 2023年 全米日本酒歓評会 大吟醸A部門にて「山荘」がグランプリを受賞 == アクセス == * 鉄道 : 近鉄名古屋線 近鉄蟹江駅からタクシーで10分 * バス : 名鉄バスセンター3F - 岩塚・百町経由津島行き(約45分) - 百町下車 徒歩5分 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://www.tsurumi-jp.com/ 鶴見酒造] {{DEFAULTSORT:つるみしゆそう}} [[Category:津島市の企業]] [[Category:日本の酒造業]]
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上川村 (広島県)
上川村(かみかわむら)は、広島県甲奴郡にあった村。現在の三次市の一部にあたる。 上下川支流・抜湯川と田総川の上流域に位置していた。 村域の川の地図上の形状が「上」の字に似ていることから。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "上川村(かみかわむら)は、広島県甲奴郡にあった村。現在の三次市の一部にあたる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "上下川支流・抜湯川と田総川の上流域に位置していた。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "村域の川の地図上の形状が「上」の字に似ていることから。", "title": "歴史" } ]
上川村(かみかわむら)は、広島県甲奴郡にあった村。現在の三次市の一部にあたる。
{{日本の町村 (廃止) | 廃止日 = 1955年3月31日 | 廃止理由 = 分割新設編入合併 | 廃止詳細 = '''上川村'''(一部)、[[甲奴村]] → [[甲奴町]]<br />'''上川村'''(一部)→ [[双三郡]][[吉舎町]] | 現在の自治体 = [[三次市]] | よみがな = かみかわむら | 自治体名 = 上川村 | 区分 = 村 | 都道府県 = 広島県 | 郡 = [[甲奴郡]] | 面積 = | 境界未定 = | 人口 = 2487 | 人口の出典 = [[国勢調査 (日本)|国勢調査]] | 人口の時点 = 1950年 | 隣接自治体 = [[田総村]]、[[領家村 (広島県)|領家村]]、[[甲奴村]]、[[双三郡]][[吉舎町]]・[[三良坂町]] | 所在地 = 甲奴郡上川村大字太郎丸 | 座標 = | 位置画像 = | 特記事項 = }} '''上川村'''(かみかわむら{{R|変遷}})は、[[広島県]][[甲奴郡]]にあった[[村]]。現在の[[三次市]]の一部にあたる。 == 地理 == 上下川支流・抜湯川と田総川の上流域に位置していた{{R|角川}}。 == 歴史 == *[[1889年]](明治22年)4月1日、[[町村制]]の施行により、[[甲奴郡]][[太郎丸村]]、[[知和村]]、[[安田村 (広島県)|安田村]]、[[抜湯村]]、[[有田村 (広島県)|有田村]]が発足<ref>『市町村名変遷辞典』38、477、486、607、807頁。</ref>。 *[[1912年]](大正元年)11月1日、上記5村が合併して'''上川村'''が発足<ref name=変遷>『市町村名変遷辞典』208頁。</ref><ref name=角川>『角川日本地名大辞典 34 広島県』250-251頁。</ref>。旧村名を継承した太郎丸、知和、安田、抜湯、有田の5大字を編成{{R|角川}}。 *[[1955年]](昭和30年)3月31日、上川村を二分割し、大字抜湯・有田・安田(一部)・太郎丸(一部)は甲奴郡甲奴村と合併し、町制施行して'''[[甲奴町]]'''を新設{{R|変遷}}{{R|角川}}。大字知和・安田(一部)・太郎丸(一部)は双三郡'''[[吉舎町]]'''に編入され廃止{{R|変遷}}{{R|角川}}。 === 地名の由来 === 村域の川の地図上の形状が「上」の字に似ていることから{{R|角川}}。 == 産業 == *農業{{R|角川}} == 教育 == *1913年(大正2年)大字抜湯に上川東小学校(抜湯小学校改称)を、大字安田に上川西小学校(安田小学校改称)をそれぞれ開校{{R|角川}}。 *[[1947年]](昭和22年)大字抜湯に上川中学校を、同時に東教場、西教場を開校{{R|角川}}。中学校統合により1951年(昭和26年)西分校が、1952年(昭和27年)上川中学校が廃止された{{R|角川}}。 == 脚注 == {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[角川日本地名大辞典]] 34 広島県 * 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。 == 関連項目 == * [[広島県の廃止市町村一覧]] {{デフォルトソート:かみかわむら}} [[Category:甲奴郡]] [[Category:三次市域の廃止市町村]] [[Category:1912年設置の日本の市町村]] [[Category:1955年廃止の日本の市町村]]
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源氏物語の和歌
源氏物語の和歌(げんじものがたりのわか)では、『源氏物語』の作中歌について解説する。 『源氏物語』全54帖の中で詠まれた作中歌は795首を数える。王朝物語では必ず作中で和歌が詠まれるが、なかでも『源氏物語』の作中歌は評価が高く、後世の歌人の表現・発想の源泉であり続けた。 平安末期に『源氏物語』が古典化してからは歌人の必読書とされ、12世紀の歌人藤原俊成は「源氏見ざる歌詠みは遺恨の事なり」と評した。そうした評価を背景に『源氏釈』を嚆矢として中世には引歌の出典などを記した注釈書が数多く出されたほか、『風葉和歌集』(作中歌から180首を収録)や『物語二百番歌合』(同200首)などに多くの作中歌が採られた。近世でも主要な歌とあらすじをまとめた『源氏小鏡』などが連歌を嗜む町人層の参考書となった。山田俊博は、そうした評価を受けた理由を「歌が下手な登場人物の歌はきちんと下手に作ってあるという点も含めて全てが名歌であり、なおかつその歌が詠まれた状況が説明されている」としている。 『源氏物語』は、散文で書かれた地の文や会話文・内話文に加え、和歌や消息文で構成されている。このうち作中歌は、当時の貴族が日常的に営む和歌文化の表出であると同時に、物語の表現技法のひとつとなっている。たとえば藤壺の思考は散文で書かれるいっぽうで、光源氏への心情は和歌に詠まれるのはその典型である。ただし、そうした役割は和歌単独で行われる事は少なく、その前後の地の文などと協同して表現されていることが『源氏物語』の特徴である。 作中歌の大半は登場人物によって詠まれた和歌である。詠み人について見解が分かれる歌もあるが、光源氏の221首が際立って多く、2番目が57首の薫で、夕霧、浮舟、匂宮の順で続く。それらの作中歌は登場人物の心理描写であるに留まらず、登場人物ごとに書き分けることで個性が表現されている。また和歌は便宜的に詠まれた場面に応じて独詠歌(手習いを含む)・贈答歌・唱和歌の3種に分類されるが、詠まれた場面ややり取りによって人間関係が描写されることもある。尾崎左永子は、そのようなこまやかな心理描写が『源氏物語』の評価を高めているとしている。以下、数例を挙げる。 紫の上が詠む歌については「類型的な恋歌の発想に寄り添い、無難で穏当」と評される事が多いが、そのような特徴について鈴木宏子は、紫の上の力量ではなく物語における彼女の位置づけを表すと評している。また、若菜上巻で紫の上が詠んだ独詠歌がめざとく光源氏に見つけられて返歌が付けられてしまうことも含めて、光源氏への想いを詠む歌の傍らには常に光源氏が居るとしたうえで、紫の上が光源氏の元で生涯を送った幸せと不幸を印象付けているとしている。 いっぽうで光源氏に執着し物の怪となるのが六条御息所である。彼女が11首詠んだ歌のうち7首が贈歌である。一般に贈答歌はまず男性から贈られ、それに女性が答える形で交わされるが、これに反する形で交わされる贈答歌に二人の恋愛関係の主導権を見て取ることが出来る。歌の内容も光源氏にすがる心情を詠ったものが多く、特に葵祭での葵の上と車争いの後日に詠まれた絶唱歌 袖ぬるるこひぢとかつは知りながら下り立つ田子のみづからぞうき(葵巻) は、注釈書『細流抄』で「此物語第一の歌」と称されている。 その後、生霊から死霊へとなった六条御息所が詠む歌は凄みを増していき、最期に取り憑いた女三宮の出家場面では歌を詠む事すらせず悪態をついて消えていく。 紫の上や六条御息所と対照的な意味で注目されるのが、1首も作中歌が詠まれていない葵の上である。和歌を詠まない登場人物は16人を数えるが、それらの人物は光源氏と敵対的あるいは心理的な距離があることが指摘されている。主人公の正妻である葵の上が歌を詠まないことは夫婦関係が冷え切っており、不満も含めて感情を表現する気持ちさえ失われていたことを示唆している。 下手な歌詠みとして描かれるのが末摘花である。末摘花が詠む6首のうち3首で枕詞の「唐衣」が用いられている。たとえば きてみればうらみられけり唐衣返してやりてむ袖を濡らして(玉鬘巻) は「裏見」と「恨み」の掛詞や、「着」「裏」「返す」など「衣」の縁語が用いられており、和歌としての体裁は整っている。しかも唐衣は作中で光源氏が「決まり文句」と評するように『万葉集』からみえる枕詞であり、いかにも古風な作りは末摘花を宮家出身の折り目正しい人物として印象付けている。 しかし決まり文句を繰り返して用いる末摘花に対し、呆れた光源氏は 唐衣またからころもからころもかへすがへすもからころもなる(行幸巻) という皮肉にみちた返歌を詠い、末摘花に対し悪い歌詠みであるという評価を決定づけている。 また教養のない人物として描かれるのが近江の君である。父頭中将は近江の君の品の無さを嘆き、近江の君を異母姉弘徽殿女御のところに行儀見習いに出そうとする。その際に近江の君が弘徽殿女御に対して充てた手紙に記した歌が 草わかみ常陸の浦のいかが崎いかであひ見む田子の浦波(常夏巻) で、1首のうちに「常陸の浦」「いかが崎」「田子の浦」という3か所の歌枕を脈絡もなく入れた歌となっている。この歌に困惑した弘徽殿女御は側近に返歌の代筆を頼んだ。そうして詠まれた返歌 常陸なる駿河の海の須磨の浦に波立ち出でよ筥崎の松(常夏巻) では「常陸」「駿河の海」「須磨の浦」「筥崎」と贈歌を上回る4つの歌枕を入れ、からかいの意味が含まれていた。しかしそれに気づかない近江の君は弘徽殿女御に会えることを喜び、これまた品の無い化粧をするというオチが付いて教養のなさが描き出されている。 また土方洋一(2000年)は登場人物が詠んだ歌とは言い難い歌があると指摘し、これを「画賛的和歌」と称した。土方は画賛的和歌を「登場人物が詠んだ歌ではなく、物語の語り手が半ば作中人物化するなかで詠嘆や感嘆を表現する内省的な歌」としたうえで、「物語の叙情的な場面を高揚する役割を負い、なおかつ『源氏物語』と和歌世界を親和的にする効果を持っている」としている。 『源氏物語』では執筆当時の読者である貴族層において基本的な教養であった『古今和歌集』の歌ことばがあらゆる場所に散りばめられており、それゆえ『古今和歌集』の知識がないと『源氏物語』の原文を理解することは出来ないとされている。このような技巧は引歌と呼ばれ、よく知られた古歌を引用することで古歌のもつ表現や内容を重ね合わせ、文章に奥行きを与える効果をもつ。 作中歌も例外ではなく『古今和歌集』を中心に古歌の伝統的な和歌表現を基本とし、そこに和泉式部ら同時代の歌人が用いた流行用語などを積極的に取り込むことであらたな表現の可能性を模索している。 たとえば桐壺帝が桐壺更衣の母親に送った弔問歌 宮城野の霧吹きむすぶ風の音に小萩がもとを思いこそやれ(桐壺巻) は、『古今和歌集』に採られた 宮木ののもとあらのこはぎつゆをおもみ風をまつごときみをこそまで(恋四・694) を引いて「宮城野」「小萩」「露」「風」を詠み込んでいる。しかし『古今和歌集』の時代では「露」は「置く」ものであって「吹きむすぶ」という表現は同時代には見られない。西山秀人は、この表現について天禄3年(972年)に開催され、一条朝の歌檀に大きな影響を与えた規子内親王前栽歌合で詠進された1首 浅茅生の露ふきむすぶこがらしに乱れても鳴く虫のこゑかな(10番・左) で注目された表現と指摘したうえで、紫式部の作風を「当世風の表現を積極的に取り込んでいる」と評している。 前述のように引歌は古歌のイメージを想起させる手法だが、その対象となるのは物語の読者である。しかし『源氏物語』には登場人物が引歌に込められたイメージを了解したような表現が見える。たとえば光源氏が養女玉鬘に想いを告げる場面で詠まれた歌 うちとけてねもみぬものを若草のことあり顔にむすぼほるらむ(胡蝶巻) は、以下の『伊勢物語』を踏まえた歌である。 うら若み寝よげに見ゆる若草を人のむすばむことをしぞ思ふ(49段) 『伊勢物語』の歌は兄が妹に対して「人の妻になるのは惜しい」と想いを告げる歌であり、これに対する妹の返歌も続いている。光源氏の歌が『伊勢物語』49段を踏まえていることを感じ取った玉鬘は、気分が悪いと答えて歌を返すことを拒否し、光源氏の想いを拒絶している。 また『源氏物語』の作中歌がのちの帖で引歌として用いられることもある。桐壺帝は亡き桐壺更衣を想い次の歌を詠んだ。 たづねゆくまぼろしもがなつてにも魂のありかをそことしるべく(桐壺巻) 幻とは幻術士のことで「更衣の魂がどこにいるのか探してくれる幻術士がいて欲しい」という歌である。この歌を踏まえた歌が光源氏の生涯の最終盤で詠まれる。 大空をかよふまぼろし夢にだに見え来ぬ魂のゆく方をたづねよ(幻巻) 幻巻は光源氏の最愛の人である紫の上が亡くなった翌年の物語で、光源氏も「幻術士に紫の上の魂を探し出してほしい」と詠んでいる。池田彌三郎は、奇しくも父子が共に同じ心境を詠んだことで『源氏物語』は光源氏が父桐壺帝と同じ境遇に至る物語であったことを印象付けているとしている。 『源氏物語』と和歌史の関係は切っても切れない関係にあり、特に『源氏物語』の登場以降はその内容は歌人にとって不可欠な共通の教養となった。山田は、こうした評価を『源氏物語』が受容された理由のひとつとしている。 『源氏物語』の作中歌と和泉式部など同時代の歌人が詠んだ和歌の間に共通点を見出す指摘は多い。ただし『源氏物語』の成立時期は明確ではなく、その先後関係は決定できない。しかし中西智子は、『源氏物語』の執筆当時から第一読者である藤原彰子の周辺で『源氏物語』を摂取した歌が詠まれただけでなく、物語の二次的な解釈を踏まえた歌も詠まれたと指摘している。また瓦井裕子は『源氏物語』成立から1世代を経て、多くの歌人が『源氏物語』を摂取していたとしている。 たとえば寛弘8年(1011年)に崩御した一条天皇の辞世の歌 露の身の草の宿りに君をおきて塵を出でぬることをこそ思へ(『御堂関白記』寛弘8年6月21日条) は、光源氏から紫の上への贈歌である 浅茅生の露のやどりに君をおきて四方の嵐を静心なき(賢木巻) を踏まえたものとされている。 しかししばらくの間は、作中歌の影響は私的な歌に留まるもので、歌合など公的な場で詠まれる歌には及ばなかった。公的な場で作中歌の影響が見出せるようになるのは11世紀中頃で、瓦井は長暦2年(1038年)の歌合で源頼実が詠んだ例が最も早いとしている。また永承5年(1050年)に行われた祐子内親王歌合で紫式部の娘である大弐三位は浮舟の歌を踏まえた歌を詠んだ。中周子は「大弐三位は周囲からの期待に応える形で『源氏物語』の詞を用いて詠んだ」と推測している。 『後鳥羽院御口伝』によれば、公的な歌について 「源氏物語の歌の心をば取らず、詞を取るは苦しからず」と申しき。(中略)近代はその沙汰もなし。 と記され、作中歌の影響は当初は詞の取り込みだけに限定されていたが、堀河朝期には心象風景も踏まえたものが詠まれるようになった。 作中歌の評価で著名なのは藤原俊成の言説である。建久4年(1193年)に行われた六百番歌合の13番(テーマは枯野)で、左方の歌「見るあきをなににのこさむくさのはらひとへにかはる野辺の気色に」について、右方は「草の原」は墓所を連想させるので良くないと批判したが、これに対し判者を務めた藤原俊成は次のように評した。 右方は「草の原」を批判するが、これは『源氏物語』の花宴で朧月夜が詠んだ「憂き身世にやがて消えなば尋ねても草の原をば問わじとや思う」で使われた言葉である。花宴は『源氏物語』でも特に優美な巻であり、これを知らずに「草の原」を批判するのは歌詠みとしてあるまじき事である。 このような評価は、後世の歌人に大きな影響を与えた。たとえば瓦井によれば「一条朝期に女房のあいだで歌に詠み込まれることが好まれた紅葉と菊は、『源氏物語』でも紅葉賀や六条院行幸などで歌に詠み込まれたが、その後一旦は和歌史から姿を消す」としたうえで、13世紀初頭に成立した『新古今和歌集』で再び紅葉と菊が現れるのは『源氏物語』が媒介であった可能性が高いとしている。 また作中歌の影響は歌そのものに留まらない。長谷川範彰は「後朝の別れの歌」について、『源氏物語』は6例と際立って多いのに対し、同時代の日記・和歌集にはみられず他の王朝物語に数例あるのみとしたうえで、平安時代の貴族が後朝に歌を詠み交わし別れを惜しむイメージは『源氏物語』が作り出したとしている。 『源氏物語』の作中歌は、当然ながら著者である紫式部が生み出した歌である。紫式部は私撰集『紫式部集』を編纂し百人一首にも採られる歌人でもあるが、藤原俊成が「紫式部は和歌を詠むより散文を書く方が上手い」と表現したように、歌人としての評価は高くない。渡部泰明は、紫式部は屏風歌や歌合など公的な場で歌を詠むようなタイプではないと指摘したうえで「褻を詠んだ歌は同時代の和泉式部には遠く及ばず、公的な歌も赤染衛門や藤原公任に及ばない」と評している。また尾崎も「歌人としては勢いに欠け、無難な作が多い」としたうえで、作中歌については「登場人物の性格や物語の雰囲気、先行きの暗示などを歌に詠み込むことが巧み」と評価している。 紫式部も自らの力量を自認していたようで、作中歌の前後に「記憶に自信が無く、だいたいこのような類の歌」などと語り手を通じて歌の出来栄えについて弁明が付く場面がみられる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "源氏物語の和歌(げんじものがたりのわか)では、『源氏物語』の作中歌について解説する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "『源氏物語』全54帖の中で詠まれた作中歌は795首を数える。王朝物語では必ず作中で和歌が詠まれるが、なかでも『源氏物語』の作中歌は評価が高く、後世の歌人の表現・発想の源泉であり続けた。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "平安末期に『源氏物語』が古典化してからは歌人の必読書とされ、12世紀の歌人藤原俊成は「源氏見ざる歌詠みは遺恨の事なり」と評した。そうした評価を背景に『源氏釈』を嚆矢として中世には引歌の出典などを記した注釈書が数多く出されたほか、『風葉和歌集』(作中歌から180首を収録)や『物語二百番歌合』(同200首)などに多くの作中歌が採られた。近世でも主要な歌とあらすじをまとめた『源氏小鏡』などが連歌を嗜む町人層の参考書となった。山田俊博は、そうした評価を受けた理由を「歌が下手な登場人物の歌はきちんと下手に作ってあるという点も含めて全てが名歌であり、なおかつその歌が詠まれた状況が説明されている」としている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "『源氏物語』は、散文で書かれた地の文や会話文・内話文に加え、和歌や消息文で構成されている。このうち作中歌は、当時の貴族が日常的に営む和歌文化の表出であると同時に、物語の表現技法のひとつとなっている。たとえば藤壺の思考は散文で書かれるいっぽうで、光源氏への心情は和歌に詠まれるのはその典型である。ただし、そうした役割は和歌単独で行われる事は少なく、その前後の地の文などと協同して表現されていることが『源氏物語』の特徴である。", "title": "作中歌の役割" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": 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"作中歌の役割" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "その後、生霊から死霊へとなった六条御息所が詠む歌は凄みを増していき、最期に取り憑いた女三宮の出家場面では歌を詠む事すらせず悪態をついて消えていく。", "title": "作中歌の役割" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "紫の上や六条御息所と対照的な意味で注目されるのが、1首も作中歌が詠まれていない葵の上である。和歌を詠まない登場人物は16人を数えるが、それらの人物は光源氏と敵対的あるいは心理的な距離があることが指摘されている。主人公の正妻である葵の上が歌を詠まないことは夫婦関係が冷え切っており、不満も含めて感情を表現する気持ちさえ失われていたことを示唆している。", "title": "作中歌の役割" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "下手な歌詠みとして描かれるのが末摘花である。末摘花が詠む6首のうち3首で枕詞の「唐衣」が用いられている。たとえば", "title": "作中歌の役割" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "きてみればうらみられけり唐衣返してやりてむ袖を濡らして(玉鬘巻)", "title": "作中歌の役割" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "は「裏見」と「恨み」の掛詞や、「着」「裏」「返す」など「衣」の縁語が用いられており、和歌としての体裁は整っている。しかも唐衣は作中で光源氏が「決まり文句」と評するように『万葉集』からみえる枕詞であり、いかにも古風な作りは末摘花を宮家出身の折り目正しい人物として印象付けている。", "title": "作中歌の役割" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "しかし決まり文句を繰り返して用いる末摘花に対し、呆れた光源氏は", "title": "作中歌の役割" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "唐衣またからころもからころもかへすがへすもからころもなる(行幸巻)", "title": "作中歌の役割" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "という皮肉にみちた返歌を詠い、末摘花に対し悪い歌詠みであるという評価を決定づけている。", "title": "作中歌の役割" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "また教養のない人物として描かれるのが近江の君である。父頭中将は近江の君の品の無さを嘆き、近江の君を異母姉弘徽殿女御のところに行儀見習いに出そうとする。その際に近江の君が弘徽殿女御に対して充てた手紙に記した歌が", "title": "作中歌の役割" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "草わかみ常陸の浦のいかが崎いかであひ見む田子の浦波(常夏巻)", "title": "作中歌の役割" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "で、1首のうちに「常陸の浦」「いかが崎」「田子の浦」という3か所の歌枕を脈絡もなく入れた歌となっている。この歌に困惑した弘徽殿女御は側近に返歌の代筆を頼んだ。そうして詠まれた返歌", "title": "作中歌の役割" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "常陸なる駿河の海の須磨の浦に波立ち出でよ筥崎の松(常夏巻)", "title": "作中歌の役割" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "では「常陸」「駿河の海」「須磨の浦」「筥崎」と贈歌を上回る4つの歌枕を入れ、からかいの意味が含まれていた。しかしそれに気づかない近江の君は弘徽殿女御に会えることを喜び、これまた品の無い化粧をするというオチが付いて教養のなさが描き出されている。", "title": "作中歌の役割" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "また土方洋一(2000年)は登場人物が詠んだ歌とは言い難い歌があると指摘し、これを「画賛的和歌」と称した。土方は画賛的和歌を「登場人物が詠んだ歌ではなく、物語の語り手が半ば作中人物化するなかで詠嘆や感嘆を表現する内省的な歌」としたうえで、「物語の叙情的な場面を高揚する役割を負い、なおかつ『源氏物語』と和歌世界を親和的にする効果を持っている」としている。", "title": "作中歌の役割" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "『源氏物語』では執筆当時の読者である貴族層において基本的な教養であった『古今和歌集』の歌ことばがあらゆる場所に散りばめられており、それゆえ『古今和歌集』の知識がないと『源氏物語』の原文を理解することは出来ないとされている。このような技巧は引歌と呼ばれ、よく知られた古歌を引用することで古歌のもつ表現や内容を重ね合わせ、文章に奥行きを与える効果をもつ。", "title": "作中歌と先行表現" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "作中歌も例外ではなく『古今和歌集』を中心に古歌の伝統的な和歌表現を基本とし、そこに和泉式部ら同時代の歌人が用いた流行用語などを積極的に取り込むことであらたな表現の可能性を模索している。", "title": "作中歌と先行表現" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "たとえば桐壺帝が桐壺更衣の母親に送った弔問歌", "title": "作中歌と先行表現" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "宮城野の霧吹きむすぶ風の音に小萩がもとを思いこそやれ(桐壺巻)", "title": "作中歌と先行表現" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "は、『古今和歌集』に採られた", "title": "作中歌と先行表現" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "宮木ののもとあらのこはぎつゆをおもみ風をまつごときみをこそまで(恋四・694)", "title": "作中歌と先行表現" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "を引いて「宮城野」「小萩」「露」「風」を詠み込んでいる。しかし『古今和歌集』の時代では「露」は「置く」ものであって「吹きむすぶ」という表現は同時代には見られない。西山秀人は、この表現について天禄3年(972年)に開催され、一条朝の歌檀に大きな影響を与えた規子内親王前栽歌合で詠進された1首", "title": "作中歌と先行表現" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "浅茅生の露ふきむすぶこがらしに乱れても鳴く虫のこゑかな(10番・左)", "title": "作中歌と先行表現" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "で注目された表現と指摘したうえで、紫式部の作風を「当世風の表現を積極的に取り込んでいる」と評している。", "title": "作中歌と先行表現" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "前述のように引歌は古歌のイメージを想起させる手法だが、その対象となるのは物語の読者である。しかし『源氏物語』には登場人物が引歌に込められたイメージを了解したような表現が見える。たとえば光源氏が養女玉鬘に想いを告げる場面で詠まれた歌", "title": "作中歌と先行表現" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "うちとけてねもみぬものを若草のことあり顔にむすぼほるらむ(胡蝶巻)", "title": "作中歌と先行表現" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "は、以下の『伊勢物語』を踏まえた歌である。", "title": "作中歌と先行表現" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "うら若み寝よげに見ゆる若草を人のむすばむことをしぞ思ふ(49段)", "title": "作中歌と先行表現" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "『伊勢物語』の歌は兄が妹に対して「人の妻になるのは惜しい」と想いを告げる歌であり、これに対する妹の返歌も続いている。光源氏の歌が『伊勢物語』49段を踏まえていることを感じ取った玉鬘は、気分が悪いと答えて歌を返すことを拒否し、光源氏の想いを拒絶している。", "title": "作中歌と先行表現" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "また『源氏物語』の作中歌がのちの帖で引歌として用いられることもある。桐壺帝は亡き桐壺更衣を想い次の歌を詠んだ。", "title": "作中歌と先行表現" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "たづねゆくまぼろしもがなつてにも魂のありかをそことしるべく(桐壺巻)", "title": "作中歌と先行表現" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "幻とは幻術士のことで「更衣の魂がどこにいるのか探してくれる幻術士がいて欲しい」という歌である。この歌を踏まえた歌が光源氏の生涯の最終盤で詠まれる。", "title": "作中歌と先行表現" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "大空をかよふまぼろし夢にだに見え来ぬ魂のゆく方をたづねよ(幻巻)", "title": "作中歌と先行表現" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "幻巻は光源氏の最愛の人である紫の上が亡くなった翌年の物語で、光源氏も「幻術士に紫の上の魂を探し出してほしい」と詠んでいる。池田彌三郎は、奇しくも父子が共に同じ心境を詠んだことで『源氏物語』は光源氏が父桐壺帝と同じ境遇に至る物語であったことを印象付けているとしている。", "title": "作中歌と先行表現" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "『源氏物語』と和歌史の関係は切っても切れない関係にあり、特に『源氏物語』の登場以降はその内容は歌人にとって不可欠な共通の教養となった。山田は、こうした評価を『源氏物語』が受容された理由のひとつとしている。", "title": "作中歌の影響と評価" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "『源氏物語』の作中歌と和泉式部など同時代の歌人が詠んだ和歌の間に共通点を見出す指摘は多い。ただし『源氏物語』の成立時期は明確ではなく、その先後関係は決定できない。しかし中西智子は、『源氏物語』の執筆当時から第一読者である藤原彰子の周辺で『源氏物語』を摂取した歌が詠まれただけでなく、物語の二次的な解釈を踏まえた歌も詠まれたと指摘している。また瓦井裕子は『源氏物語』成立から1世代を経て、多くの歌人が『源氏物語』を摂取していたとしている。", "title": "作中歌の影響と評価" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "たとえば寛弘8年(1011年)に崩御した一条天皇の辞世の歌", "title": "作中歌の影響と評価" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "露の身の草の宿りに君をおきて塵を出でぬることをこそ思へ(『御堂関白記』寛弘8年6月21日条)", "title": "作中歌の影響と評価" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "は、光源氏から紫の上への贈歌である", "title": "作中歌の影響と評価" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "浅茅生の露のやどりに君をおきて四方の嵐を静心なき(賢木巻)", "title": "作中歌の影響と評価" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "を踏まえたものとされている。", "title": "作中歌の影響と評価" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "しかししばらくの間は、作中歌の影響は私的な歌に留まるもので、歌合など公的な場で詠まれる歌には及ばなかった。公的な場で作中歌の影響が見出せるようになるのは11世紀中頃で、瓦井は長暦2年(1038年)の歌合で源頼実が詠んだ例が最も早いとしている。また永承5年(1050年)に行われた祐子内親王歌合で紫式部の娘である大弐三位は浮舟の歌を踏まえた歌を詠んだ。中周子は「大弐三位は周囲からの期待に応える形で『源氏物語』の詞を用いて詠んだ」と推測している。", "title": "作中歌の影響と評価" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "『後鳥羽院御口伝』によれば、公的な歌について", "title": "作中歌の影響と評価" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "「源氏物語の歌の心をば取らず、詞を取るは苦しからず」と申しき。(中略)近代はその沙汰もなし。", "title": "作中歌の影響と評価" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "と記され、作中歌の影響は当初は詞の取り込みだけに限定されていたが、堀河朝期には心象風景も踏まえたものが詠まれるようになった。", "title": "作中歌の影響と評価" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "作中歌の評価で著名なのは藤原俊成の言説である。建久4年(1193年)に行われた六百番歌合の13番(テーマは枯野)で、左方の歌「見るあきをなににのこさむくさのはらひとへにかはる野辺の気色に」について、右方は「草の原」は墓所を連想させるので良くないと批判したが、これに対し判者を務めた藤原俊成は次のように評した。", "title": "作中歌の影響と評価" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "右方は「草の原」を批判するが、これは『源氏物語』の花宴で朧月夜が詠んだ「憂き身世にやがて消えなば尋ねても草の原をば問わじとや思う」で使われた言葉である。花宴は『源氏物語』でも特に優美な巻であり、これを知らずに「草の原」を批判するのは歌詠みとしてあるまじき事である。", "title": "作中歌の影響と評価" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "このような評価は、後世の歌人に大きな影響を与えた。たとえば瓦井によれば「一条朝期に女房のあいだで歌に詠み込まれることが好まれた紅葉と菊は、『源氏物語』でも紅葉賀や六条院行幸などで歌に詠み込まれたが、その後一旦は和歌史から姿を消す」としたうえで、13世紀初頭に成立した『新古今和歌集』で再び紅葉と菊が現れるのは『源氏物語』が媒介であった可能性が高いとしている。", "title": "作中歌の影響と評価" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "また作中歌の影響は歌そのものに留まらない。長谷川範彰は「後朝の別れの歌」について、『源氏物語』は6例と際立って多いのに対し、同時代の日記・和歌集にはみられず他の王朝物語に数例あるのみとしたうえで、平安時代の貴族が後朝に歌を詠み交わし別れを惜しむイメージは『源氏物語』が作り出したとしている。", "title": "作中歌の影響と評価" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "『源氏物語』の作中歌は、当然ながら著者である紫式部が生み出した歌である。紫式部は私撰集『紫式部集』を編纂し百人一首にも採られる歌人でもあるが、藤原俊成が「紫式部は和歌を詠むより散文を書く方が上手い」と表現したように、歌人としての評価は高くない。渡部泰明は、紫式部は屏風歌や歌合など公的な場で歌を詠むようなタイプではないと指摘したうえで「褻を詠んだ歌は同時代の和泉式部には遠く及ばず、公的な歌も赤染衛門や藤原公任に及ばない」と評している。また尾崎も「歌人としては勢いに欠け、無難な作が多い」としたうえで、作中歌については「登場人物の性格や物語の雰囲気、先行きの暗示などを歌に詠み込むことが巧み」と評価している。", "title": "歌人としての紫式部" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "紫式部も自らの力量を自認していたようで、作中歌の前後に「記憶に自信が無く、だいたいこのような類の歌」などと語り手を通じて歌の出来栄えについて弁明が付く場面がみられる。", "title": "歌人としての紫式部" } ]
源氏物語の和歌(げんじものがたりのわか)では、『源氏物語』の作中歌について解説する。 『源氏物語』全54帖の中で詠まれた作中歌は795首を数える。王朝物語では必ず作中で和歌が詠まれるが、なかでも『源氏物語』の作中歌は評価が高く、後世の歌人の表現・発想の源泉であり続けた。 平安末期に『源氏物語』が古典化してからは歌人の必読書とされ、12世紀の歌人藤原俊成は「源氏見ざる歌詠みは遺恨の事なり」と評した。そうした評価を背景に『源氏釈』を嚆矢として中世には引歌の出典などを記した注釈書が数多く出されたほか、『風葉和歌集』(作中歌から180首を収録)や『物語二百番歌合』(同200首)などに多くの作中歌が採られた。近世でも主要な歌とあらすじをまとめた『源氏小鏡』などが連歌を嗜む町人層の参考書となった。山田俊博は、そうした評価を受けた理由を「歌が下手な登場人物の歌はきちんと下手に作ってあるという点も含めて全てが名歌であり、なおかつその歌が詠まれた状況が説明されている」としている。
{{Pathnav|源氏物語|frame=1}} [[File:源氏物語歌合絵巻.jpg|360px|thumb|『源氏物語歌合絵巻』(室町時代)<br>『源氏物語』の36人の登場人物を[[三十六歌仙]]になぞらえ、その作中歌を54番の歌合につがえた作品の絵巻。]] '''源氏物語の和歌'''(げんじものがたりのわか)では、『[[源氏物語]]』の作中歌について解説する。 『源氏物語』全54帖の中で詠まれた作中歌は795首を数える{{sfn|山田利博|2017|pp=5-6}}{{Refnest|group=注釈|この他に『[[風葉和歌集]]』には散逸したと思われる巻の作中歌4首が掲載されている{{sfn|志方澄子|1984|pp=33-35}}。散逸した巻については[[源氏物語#巻数はいくつか]]を参照。}}。[[王朝物語]]では必ず作中で[[和歌]]が詠まれるが、なかでも『源氏物語』の作中歌は評価が高く、後世の[[歌人]]の表現・発想の源泉であり続けた{{sfn|山田利博|2017|pp=15-22}}{{sfn|小嶋菜温子,渡部泰明|2008|pp=i-ii}}。 平安末期に『源氏物語』が古典化してからは歌人の必読書とされ、12世紀の歌人[[藤原俊成]]は「源氏見ざる歌詠みは遺恨の事なり」と評した{{sfn|山田利博|2017|pp=7-14}}。そうした評価を背景に『[[源氏釈]]』を嚆矢として中世には引歌{{Refnest|group=注釈|ひきうた。古歌やその一部を引用する和歌・文章の技法{{sfn|コトバンク: 引歌}}。}}の出典などを記した注釈書が数多く出されたほか、『[[風葉和歌集]]』(作中歌から180首を収録)や『[[物語二百番歌合]]』(同200首)などに多くの作中歌が採られた{{sfn|志方澄子|1984|pp=32-33}}{{sfn|田渕句美子|2008|pp=310-319}}。近世でも主要な歌と[[あらすじ]]をまとめた『[[源氏小鏡]]』などが[[連歌]]を嗜む町人層の参考書となった{{sfn|山田利博|2017|pp=7-14}}。山田俊博は、そうした評価を受けた理由を「歌が下手な登場人物の歌はきちんと下手に作ってあるという点も含めて全てが名歌であり、なおかつその歌が詠まれた状況が説明されている」としている{{sfn|山田利博|2017|pp=5-6}}{{sfn|山田利博|2017|pp=7-14}}。 == 作中歌の役割 == 『源氏物語』は、[[散文]]で書かれた地の文や会話文・内話文に加え、和歌や消息文で構成されている{{sfn|土方洋一,渡部泰明,小嶋菜温子|2008|pp=3-11}}。このうち作中歌は、当時の[[貴族]]が日常的に営む和歌文化の表出であると同時に、物語の表現技法のひとつとなっている。たとえば[[藤壺]]の思考は散文で書かれるいっぽうで、[[光源氏]]への心情は和歌に詠まれるのはその典型である{{sfn|鈴木宏子|2007|pp=4-7}}。ただし、そうした役割は和歌単独で行われる事は少なく、その前後の地の文などと協同して表現されていることが『源氏物語』の特徴である{{sfn|山田利博|2017|pp=103-110}}。 === 和歌による人物描写 === 作中歌の大半は登場人物によって詠まれた和歌である。詠み人について見解が分かれる歌もあるが、[[光源氏]]の221首が際立って多く、2番目が57首の[[薫]]で、[[夕霧 (源氏物語)|夕霧]]、[[浮舟 (源氏物語)|浮舟]]、[[匂宮]]の順で続く{{sfn|山田利博|2017|pp=55-62}}{{sfn|山田利博|2017|pp=153-160}}。それらの作中歌は登場人物の心理描写であるに留まらず{{sfn|松井健児|2007|pp=56-61}}、登場人物ごとに書き分けることで個性が表現されている{{sfn|尾崎左永子|2011|pp=139-142}}。また和歌は便宜的に詠まれた場面に応じて独詠歌(手習いを含む)・贈答歌・唱和歌の3種に分類されるが{{sfn|土方洋一|2006|pp=13-19}}{{Refnest|group=注釈|独詠歌:一人の人物が独り言のように詠む和歌{{sfn|土方洋一|2006|pp=13-19}}。手習い:いわゆる習字のことで、続き書きの練習をする際に自作の和歌を書くことがある{{sfn|山田利博|2017|pp=55-62}}。贈答歌:二人のあいだで互いの想いを詠み交わす和歌{{sfn|コトバンク: 贈答歌}}{{sfn|土方洋一|2006|pp=13-19}}。唱和歌:3人以上が宴席などの場で詠み交わす和歌{{sfn|土方洋一|2006|pp=13-19}}。}}、詠まれた場面ややり取りによって人間関係が描写されることもある{{sfn|尾崎左永子|2011|pp=139-142}}。[[尾崎左永子]]は、そのようなこまやかな心理描写が『源氏物語』の評価を高めているとしている{{sfn|尾崎左永子|2011|pp=121-126}}。以下、数例を挙げる。 ==== 紫の上 ==== [[紫の上]]が詠む歌については「類型的な恋歌の発想に寄り添い、無難で穏当」と評される事が多いが、そのような特徴について[[鈴木宏子 (国文学者)|鈴木宏子]]は、紫の上の力量ではなく物語における彼女の位置づけを表すと評している{{sfn|鈴木宏子|2009|pp=26-31}}。また、若菜上巻で紫の上が詠んだ独詠歌がめざとく光源氏に見つけられて返歌が付けられてしまうことも含めて、光源氏への想いを詠む歌の傍らには常に光源氏が居るとしたうえで、紫の上が光源氏の元で生涯を送った幸せと不幸を印象付けているとしている{{sfn|鈴木宏子|2009|pp=36-41}}。 ==== 六条御息所 ==== いっぽうで光源氏に執着し[[物の怪]]となるのが[[六条御息所]]である。彼女が11首詠んだ歌のうち7首が贈歌である。一般に贈答歌はまず男性から贈られ、それに女性が答える形で交わされるが、これに反する形で交わされる贈答歌に二人の恋愛関係の主導権を見て取ることが出来る{{sfn|山田利博|2017|pp=39-46}}。歌の内容も光源氏にすがる心情を詠ったものが多く{{sfn|山田利博|2017|pp=23-30}}、特に[[葵祭]]での[[葵の上]]と車争いの後日に詠まれた絶唱歌 {{Bquote|袖ぬるるこひぢとかつは知りながら下り立つ田子のみづからぞうき([[葵 (源氏物語)|葵巻]])}} は、注釈書『[[細流抄]]』で「此物語第一の歌」と称されている{{sfn|山田利博|2017|pp=39-46}}。 その後、[[生霊]]から[[死霊]]へとなった六条御息所が詠む歌は凄みを増していき、最期に取り憑いた[[女三宮]]の出家場面では歌を詠む事すらせず悪態をついて消えていく{{sfn|山田利博|2017|pp=39-46}}。 ==== 葵の上 ==== 紫の上や六条御息所と対照的な意味で注目されるのが、1首も作中歌が詠まれていない[[葵の上]]である。和歌を詠まない登場人物は16人を数えるが、それらの人物は光源氏と敵対的あるいは心理的な距離があることが指摘されている。主人公の正妻である葵の上が歌を詠まないことは夫婦関係が冷え切っており、不満も含めて感情を表現する気持ちさえ失われていたことを示唆している{{sfn|陣野英則|2009|pp=268-269}}{{sfn|陣野英則|2009|pp=270-272}}。 ==== 末摘花 ==== 下手な歌詠みとして描かれるのが[[末摘花 (源氏物語)|末摘花]]である。末摘花が詠む6首のうち3首で[[枕詞]]の「[[唐衣]]」が用いられている{{sfn|山田利博|2017|pp=23-30}}。たとえば {{Bquote|きてみればうらみられけり唐衣返してやりてむ袖を濡らして([[玉鬘 (源氏物語)|玉鬘巻]])}} は「裏見」と「恨み」の掛詞や、「着」「裏」「返す」など「衣」の縁語が用いられており、和歌としての体裁は整っている。しかも唐衣は作中で光源氏が「決まり文句」と評するように『[[万葉集]]』からみえる枕詞であり、いかにも古風な作りは末摘花を宮家出身の折り目正しい人物として印象付けている{{sfn|山田利博|2017|pp=23-30}}{{sfn|尾崎左永子|2011|pp=139-142}}{{sfn|植田恭代|2013|p=12}}。 しかし決まり文句を繰り返して用いる末摘花に対し、呆れた光源氏は {{Bquote|唐衣またからころもからころもかへすがへすもからころもなる([[行幸 (源氏物語)|行幸巻]])}} という皮肉にみちた返歌を詠い、末摘花に対し悪い歌詠みであるという評価を決定づけている{{sfn|山田利博|2017|pp=23-30}}{{sfn|尾崎左永子|2011|pp=139-142}}。 ==== 近江の君 ==== また教養のない人物として描かれるのが[[近江の君]]である。父[[頭中将]]は近江の君の品の無さを嘆き、近江の君を異母姉[[弘徽殿女御]]のところに行儀見習いに出そうとする。その際に近江の君が弘徽殿女御に対して充てた手紙に記した歌が {{Bquote|草わかみ常陸の浦のいかが崎いかであひ見む田子の浦波([[常夏|常夏巻]])}} で、1首のうちに「常陸の浦」「いかが崎」「田子の浦」という3か所の[[歌枕]]を脈絡もなく入れた歌となっている。この歌に困惑した弘徽殿女御は側近に返歌の代筆を頼んだ。そうして詠まれた返歌 {{Bquote|常陸なる駿河の海の須磨の浦に波立ち出でよ筥崎の松(常夏巻)}} では「常陸」「駿河の海」「須磨の浦」「筥崎」と贈歌を上回る4つの歌枕を入れ、からかいの意味が含まれていた。しかしそれに気づかない近江の君は弘徽殿女御に会えることを喜び、これまた品の無い化粧をするというオチが付いて教養のなさが描き出されている{{sfn|山田利博|2017|pp=23-30}}{{sfn|尾崎左永子|2011|pp=139-142}}。 === 源氏物語にみられる特徴的な和歌 === また土方洋一(2000年)は登場人物が詠んだ歌とは言い難い歌があると指摘し、これを「[[画賛]]的和歌」と称した{{sfn|土方洋一,渡部泰明,小嶋菜温子|2008|pp=3-11}}{{sfn|土方洋一|2006|pp=19-21}}。土方は画賛的和歌を「登場人物が詠んだ歌ではなく、物語の語り手が半ば作中人物化するなかで詠嘆や感嘆を表現する内省的な歌」としたうえで、「物語の叙情的な場面を高揚する役割を負い、なおかつ『源氏物語』と和歌世界を親和的にする効果を持っている」としている{{sfn|土方洋一,渡部泰明,小嶋菜温子|2008|pp=3-11}}{{Refnest|group=注釈|画賛的和歌のひとつとされる橋姫巻の「山おろしに堪えぬ木の葉の露よりもあやなくもろきわが涙かな」は、従来は[[薫]]の独詠歌とされてきた{{sfn|土方洋一,渡部泰明,小嶋菜温子|2008|pp=3-11}}。土方は「画賛的和歌とそれ以外の歌の境界はあいまいであり、画賛的和歌が何首あると数えることは出来ない」としている{{sfn|土方洋一,渡部泰明,小嶋菜温子|2008|pp=11-24}}。}}。 == 作中歌と先行表現 == === 源氏物語の引歌の特徴 === 『源氏物語』では執筆当時の読者である貴族層において基本的な教養であった『[[古今和歌集]]』の歌ことばがあらゆる場所に散りばめられており、それゆえ『古今和歌集』の知識がないと『源氏物語』の原文を理解することは出来ないとされている{{sfn|尾崎左永子|2011|pp=29-32}}。このような技巧は引歌と呼ばれ、よく知られた古歌を引用することで古歌のもつ表現や内容を重ね合わせ、文章に奥行きを与える効果をもつ{{sfn|鈴木宏子|2007|pp=4-7}}。 作中歌も例外ではなく『古今和歌集』を中心に古歌の伝統的な和歌表現を基本とし、そこに和泉式部ら同時代の歌人が用いた流行用語などを積極的に取り込むことであらたな表現の可能性を模索している{{sfn|西山秀人|2008|pp=86-93}}。 たとえば[[桐壺帝]]が[[桐壺更衣]]の母親に送った弔問歌 {{Bquote|宮城野の霧吹きむすぶ風の音に小萩がもとを思いこそやれ([[桐壺|桐壺巻]])}} は、『古今和歌集』に採られた {{Bquote|'''宮木の'''のもとあらの'''こはぎつゆ'''をおもみ'''風'''をまつごときみをこそまで(恋四・694)}} を引いて「宮城野」「小萩」「露」「風」を詠み込んでいる。しかし『古今和歌集』の時代では「露」は「置く」ものであって「吹きむすぶ」という表現は同時代には見られない。西山秀人は、この表現について[[天禄]]3年(972年)に開催され、[[一条天皇|一条朝]]の歌檀に大きな影響を与えた[[規子内親王]]前栽[[歌合]]で詠進された1首 {{Bquote|浅茅生の'''露ふきむすぶ'''こがらしに乱れても鳴く虫のこゑかな(10番・左)}} で注目された表現と指摘したうえで、紫式部の作風を「当世風の表現を積極的に取り込んでいる」と評している{{sfn|西山秀人|2008|pp=86-93}}。 === 引歌を踏まえた登場人物の振る舞い === 前述のように引歌は古歌のイメージを想起させる手法だが、その対象となるのは物語の読者である{{sfn|鈴木宏子|2007|pp=4-7}}。しかし『源氏物語』には登場人物が引歌に込められたイメージを了解したような表現が見える。たとえば光源氏が養女[[玉鬘 (源氏物語)|玉鬘]]に想いを告げる場面で詠まれた歌 {{Bquote|うちとけてねもみぬものを若草のことあり顔にむすぼほるらむ([[胡蝶 (源氏物語)|胡蝶巻]])}} は、以下の『[[伊勢物語]]』を踏まえた歌である。 {{Bquote|うら若み'''寝よ'''げに'''見ゆ'''る'''若草'''を人の'''むすばむ'''ことをしぞ思ふ(49段)}} 『伊勢物語』の歌は兄が妹に対して「人の妻になるのは惜しい」と想いを告げる歌であり、これに対する妹の返歌も続いている。光源氏の歌が『伊勢物語』49段を踏まえていることを感じ取った玉鬘は、気分が悪いと答えて歌を返すことを拒否し、光源氏の想いを拒絶している{{sfn|高田祐彦|2007|pp=78-81}}。 === 登場人物の重ね合わせ === また『源氏物語』の作中歌がのちの帖で引歌として用いられることもある。[[桐壺帝]]は亡き[[桐壺更衣]]を想い次の歌を詠んだ。 {{Bquote|たづねゆくまぼろしもがなつてにも魂のありかをそことしるべく(桐壺巻)}} 幻とは幻術士のことで「更衣の魂がどこにいるのか探してくれる幻術士がいて欲しい」という歌である。この歌を踏まえた歌が光源氏の生涯の最終盤で詠まれる。 {{Bquote|大空をかよふ'''まぼろし'''夢にだに見え来ぬ'''魂のゆく方'''を'''たづね'''よ([[幻 (源氏物語)|幻巻]])}} 幻巻は光源氏の最愛の人である[[紫の上]]が亡くなった翌年の物語で、光源氏も「幻術士に紫の上の魂を探し出してほしい」と詠んでいる。[[池田彌三郎]]は、奇しくも父子が共に同じ心境を詠んだことで『源氏物語』は光源氏が父桐壺帝と同じ境遇に至る物語であったことを印象付けているとしている{{sfn|山田利博|2017|pp=143-151}}{{sfn|池田彌三郎|1979|pp=23-29}}。 == 作中歌の影響と評価 == 『源氏物語』と和歌史の関係は切っても切れない関係にあり、特に『源氏物語』の登場以降はその内容は歌人にとって不可欠な共通の教養となった{{sfn|高田祐彦|2006|pp=5-7}}。山田は、こうした評価を『源氏物語』が受容された理由のひとつとしている{{sfn|山田利博|2017|pp=5-6}}。 『源氏物語』の作中歌と和泉式部など同時代の歌人が詠んだ和歌の間に共通点を見出す指摘は多い。ただし『源氏物語』の成立時期は明確ではなく、その先後関係は決定できない{{sfn|瓦井裕子|2020|pp=154-156}}。しかし中西智子は、『源氏物語』の執筆当時から第一読者である[[藤原彰子]]の周辺で『源氏物語』を摂取した歌が詠まれただけでなく、物語の二次的な解釈を踏まえた歌も詠まれたと指摘している。また瓦井裕子は『源氏物語』成立から1世代を経て、多くの歌人が『源氏物語』を摂取していたとしている{{sfn|瓦井裕子|2020|pp=152-154}}。 たとえば寛弘8年(1011年)に崩御した[[一条天皇]]の辞世の歌 {{Bquote|露の身の草の宿りに君をおきて塵を出でぬることをこそ思へ(『[[御堂関白記]]』寛弘8年6月21日条)}} は、光源氏から[[紫の上]]への贈歌である {{Bquote|浅茅生の'''露'''の'''やどりに君をおきて'''四方の嵐を静心なき(賢木巻)}} を踏まえたものとされている{{sfn|高田祐彦|2009|pp=10-13}}。 しかししばらくの間は、作中歌の影響は私的な歌に留まるもので、歌合など公的な場で詠まれる歌には及ばなかった{{sfn|瓦井裕子|2020|pp=152-154}}。公的な場で作中歌の影響が見出せるようになるのは11世紀中頃で、瓦井は長暦2年(1038年)の歌合で[[源頼実]]が詠んだ例が最も早いとしている{{sfn|瓦井裕子|2020|pp=156-160}}。また永承5年(1050年)に行われた[[祐子内親王 (後朱雀天皇皇女)|祐子内親王]]歌合で紫式部の娘である[[大弐三位]]は浮舟の歌を踏まえた歌を詠んだ。中周子は「大弐三位は周囲からの期待に応える形で『源氏物語』の詞を用いて詠んだ」と推測している{{sfn|瓦井裕子|2020|pp=154-156}}。 『後鳥羽院御口伝』によれば、公的な歌について {{Bquote|「源氏物語の歌の心をば取らず、詞を取るは苦しからず」と申しき。(中略)近代はその沙汰もなし。}} と記され、作中歌の影響は当初は詞の取り込みだけに限定されていたが、堀河朝期には心象風景も踏まえたものが詠まれるようになった{{sfn|瓦井裕子|2020|pp=152-154}}。 作中歌の評価で著名なのは藤原俊成の言説である。[[建久]]4年(1193年)に行われた[[六百番歌合]]の13番(テーマは枯野)で、左方の歌「見るあきをなににのこさむくさのはらひとへにかはる野辺の気色に」について、右方は「草の原」は墓所を連想させるので良くないと批判したが、これに対し判者を務めた藤原俊成は次のように評した{{sfn|山田利博|2017|pp=7-14}}。 {{Bquote|右方は「草の原」を批判するが、これは『源氏物語』の[[花宴]]で[[朧月夜 (源氏物語)|朧月夜]]が詠んだ「憂き身世にやがて消えなば尋ねても'''草の原'''をば問わじとや思う」で使われた言葉である。花宴は『源氏物語』でも特に優美な巻であり、これを知らずに「草の原」を批判するのは歌詠みとしてあるまじき事である{{sfn|山田利博|2017|pp=7-14}}{{Refnest|group=注釈|name=toshinari|原文「右方人草の原難申之条、尤うたたある事にや、紫式部歌よみの程よりも物かく筆は殊勝なり、そのうへ花宴の巻はことにえんなる物なり、源氏見ざる歌よみは遺恨の事なり」{{sfn|山田利博|2017|pp=7-14}}。}}。}} このような評価は、後世の歌人に大きな影響を与えた。たとえば瓦井によれば「一条朝期に女房のあいだで歌に詠み込まれることが好まれた[[紅葉]]と[[キク|菊]]は、『源氏物語』でも紅葉賀や六条院行幸などで歌に詠み込まれたが、その後一旦は和歌史から姿を消す」としたうえで、13世紀初頭に成立した『[[新古今和歌集]]』で再び紅葉と菊が現れるのは『源氏物語』が媒介であった可能性が高いとしている{{sfn|瓦井裕子|2020|pp=3-19}}。 また作中歌の影響は歌そのものに留まらない。長谷川範彰は「後朝の別れの歌{{Refnest|group=注釈|後朝(きぬぎぬ・逢瀬の翌朝のこと)の別れ際に離別を惜しむ男女が詠み交わした和歌。藤岡忠美によれば、一般に後朝の歌に含まれるが、別れた後に送る文の歌(後朝の文の歌)は婚姻儀礼の一種であるのに対し、後朝の別れ歌は別れ際に名残の情を交わす歌である{{sfn|長谷川範彰|2008|pp=105-106}}。}}」について、『源氏物語』は6例と際立って多いのに対し、同時代の日記・和歌集にはみられず他の王朝物語に数例あるのみとしたうえで、平安時代の貴族が後朝に歌を詠み交わし別れを惜しむイメージは『源氏物語』が作り出したとしている{{sfn|長谷川範彰|2008|pp=116-122}}。 == 歌人としての紫式部 == 『源氏物語』の作中歌は、当然ながら著者である[[紫式部]]が生み出した歌である。紫式部は私撰集『[[紫式部集]]』を編纂し[[百人一首]]にも採られる歌人でもあるが、藤原俊成が「紫式部は和歌を詠むより散文を書く方が上手い{{Refnest|group=注釈|name=toshinari|}}」と表現したように、歌人としての評価は高くない{{sfn|山田利博|2017|pp=71-78}}。[[渡部泰明]]は、紫式部は屏風歌{{Refnest|group=注釈|屏風絵を主題として読まれる和歌。ハレの行事などで詠まれる和歌で、[[紀貫之]]など専門歌人に嘱託された{{sfn|コトバンク: 屏風歌}}。}}や[[歌合]]など公的な場で歌を詠むようなタイプではないと指摘したうえで「[[褻]]を詠んだ歌は同時代の[[和泉式部]]には遠く及ばず、公的な歌も[[赤染衛門]]や[[藤原公任]]に及ばない」と評している{{sfn|土方洋一,渡部泰明,小嶋菜温子|2008|pp=11-24}}。また尾崎も「歌人としては勢いに欠け、無難な作が多い」としたうえで、作中歌については「登場人物の性格や物語の雰囲気、先行きの暗示などを歌に詠み込むことが巧み」と評価している{{sfn|尾崎左永子|2011|pp=139-142}}。 紫式部も自らの力量を自認していたようで、作中歌の前後に「記憶に自信が無く、だいたいこのような類の歌」などと語り手を通じて歌の出来栄えについて弁明が付く場面がみられる{{sfn|高田祐彦|2009|pp=10-13}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === <!-- 文献参照ページ --> {{Reflist|20em}} == 参考文献 == ;書籍 * {{Cite book|和書|author=池田彌三郎 |author-link=池田彌三郎 |title=光源氏の一生 |year=1979 |series=講談社現代新書 |publisher=[[講談社]] |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=尾崎左永子 |author-link=尾崎左永子 |title=王朝文学の楽しみ |year=2011 |series=岩波新書 |publisher=[[岩波書店]] |isbn=9784004312949 |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=瓦井裕子 |title=王朝和歌史の中の源氏物語 |year=2020 |publisher=和泉書院 |isbn=9784757609655 |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=山田利博 |title=よく和歌る源氏物語 |year=2017 |publisher=[[武蔵野書院]] |isbn=9784838604753 |ref=harv}} * {{Cite book|和書|editor=青山学院大学文学部日本文学科 |title=源氏物語と和歌世界-国際学術シンポジウム |year=2006 |publisher=新典社 |isbn=4-7879-6769-X |series=新典社選書 |ref=harv}} ** {{Cite book|和書|author=高田祐彦|author-link=高田祐彦|title=はじめに、ほか|ref={{SfnRef|高田祐彦|2006}}}} ** {{Cite book|和書|author=土方洋一|author-link=土方洋一|title=物語作中歌の位相|ref={{SfnRef|土方洋一|2006}}}} * {{Cite book|和書|editor=加藤睦 |editor2=小嶋菜温子 |title=源氏物語と和歌を学ぶ人のために |year=2007 |publisher=[[世界思想社教学社|世界思想社]] |isbn=9784790712879 |ref=harv}} ** {{Cite book|和書|author=鈴木宏子|author-link=鈴木宏子 (国文学者)|title=三代集と源氏物語-引歌を中心として|ref={{SfnRef|鈴木宏子|2007}}}} ** {{Cite book|和書|author=高田祐彦|author-link=高田祐彦|title=恋の歌-胡蝶巻を例に|ref={{SfnRef|高田祐彦|2007}}}} ** {{Cite book|和書|author=松井健児|title=四季の歌-和歌生活としての自然|ref={{SfnRef|松井健児|2007}}}} * {{Cite book|和書|editor=小嶋菜温子 |editor-link=小嶋菜温子 |editor2=渡部泰明 |editor2-link=渡部泰明 |title=源氏物語と和歌 |year=2008 |publisher=青簡舎 |isbn=9784903996134 |ref=harv}} ** {{Cite book|和書|author=小嶋菜温子|author2=渡部泰明|title=序|ref={{SfnRef|小嶋菜温子,渡部泰明|2008}}}} ** {{Cite book|和書|author=土方洋一|author2=渡部泰明|author3=小嶋菜温子|title=『源氏物語』と和歌-「画賛的和歌」からの展開|ref={{SfnRef|土方洋一,渡部泰明,小嶋菜温子|2008}}}} ** {{Cite book|和書|author=長谷川範彰|title=源氏物語と「後朝の別れの歌」序説|ref={{SfnRef|長谷川範彰|2008}}}} ** {{Cite book|和書|author=田渕句美子|author-link=田渕句美子|title=『風葉和歌集』の編纂と特質|ref={{SfnRef|田渕句美子|2008}}}} ** {{Cite book|和書|author=西山秀人|title=源氏物語の和歌-重出表現をめぐって|ref={{SfnRef|西山秀人|2008}}}} * {{Cite book|和書|editor=池田節子 |editor2=久富木原玲 |editor3=小嶋菜温子 |title=源氏物語の歌と人物 |year=2009 |publisher=翰林書房 |isbn=978-4-87737-284-2 |ref=harv}} ** {{Cite book|和書|author=高田祐彦|title=光源氏の歌|ref={{SfnRef|高田祐彦|2009}}}} ** {{Cite book|和書|author=鈴木宏子|author-link=鈴木宏子 (国文学者)|title=紫の上の和歌-育まれ、そして開かれていく歌|ref={{SfnRef|鈴木宏子|2009}}}} ** {{Cite book|和書|author=陣野英則|author-link=陣野英則|title=『源氏物語』における歌わない人々-二つの観点から|ref={{SfnRef|陣野英則|2009}}}} ;論文など * {{Cite journal |和書 |author=志方澄子 |title=源氏物語の作中詠歌について-風葉集における採歌状況を中心に |journal=中古文学 |volume=33 |publisher=中古文学会 |year=1984 |date=1984 |doi=10.32152/chukobungaku.33.0_32 |ref=harv}} * {{Cite journal |和書 |author=植田恭代 |title=『源氏物語』と「からころも」-歌語史からみる末摘花詠歌 |journal=跡見学園女子大学文学部紀要 |volume=48 |publisher=中古文学会 |year=2013 |date=1984 |naid=110009605381 |ref=harv}} ;辞書など * “[[コトバンク]]”. [[朝日新聞社]], [[CARTA HOLDINGS|VOYAGE MARKETING]]. ** {{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E8%B4%88%E7%AD%94%E6%AD%8C-552964 |title=贈答歌 |accessdate=2023-08-16|ref={{sfnref|コトバンク: 贈答歌}}}}(『デジタル大辞泉について』ほかより転載)。 ** {{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E5%B1%8F%E9%A2%A8%E6%AD%8C-613535 |title=屏風歌 |accessdate=2023-08-16|ref={{sfnref|コトバンク: 屏風歌}}}}(『百科事典マイペディア』ほかより転載)。 ** {{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E5%BC%95%E6%AD%8C-608991 |title=引歌 |accessdate=2023-08-16|ref={{sfnref|コトバンク: 引歌}}}}(『精選版 日本国語大辞典』ほかより転載)。 == 関連項目 == * [[源氏物語の登場人物]] * [[源氏物語の古注釈書の一覧]] {{源氏物語|state=uncollapsed}} {{デフォルトソート:けんしものかたりのわか}} [[Category:源氏物語|わか]] [[Category:和歌]] [[Category:紫式部]] [[Category:11世紀の詩]]
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清久町
清久町(きよくちょう)は、埼玉県久喜市の町丁。現行行政地名は清久町のみで、丁目の設定はない。住居表示未実施地区。郵便番号は346-0035。 埼玉県北東部、久喜市中央部(久喜地区〈旧久喜市〉西部)に位置する。南西側から北西側を経て北側にかけて北中曽根に、北側から北東側にかけて所久喜の飛地に、北東側で上清久の飛地および六万部に、北東側から南東側を経て南西側にかけて所久喜に、南西側で上清久の飛地・北中曽根の飛地・菖蒲町三箇に隣接する。北西縁を埼玉県道12号川越栗橋線が通る。清久工業団地が造成された後、周辺地区も土地区画整理事業によりネクストコア清久の名で工業団地として整備された。備前堀川および備前前堀川の河川敷となっている一部地域が市街化調整区域に指定されており、そのほかは市街化区域に指定されている。 2023年(令和5年)9月1日時点の世帯数と人口は、以下のとおりである。 市立小・中学校に通う場合の学区(校区)は示されていない。 地内に鉄道路線は通っていない。最寄り駅は地点によって異なり、東日本旅客鉄道(JR東日本)宇都宮線・東武伊勢崎線の久喜駅、東武伊勢崎線の鷲宮駅、同花崎駅のいずれかである。 朝日自動車菖蒲営業所により、埼玉県道12号川越栗橋線を通る路線バスが運行されている。 また、大和観光自動車により、北中曽根三箇線(清久さくら通り)と清久大池通りを通る路線バスが運行されている。 地内に国道は通っていない。
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清久町(きよくちょう)は、埼玉県久喜市の町丁。現行行政地名は清久町のみで、丁目の設定はない。住居表示未実施地区。郵便番号は346-0035。
{{Pathnav|日本|埼玉県|久喜市|frame=1}} {{Infobox settlement | name = 清久町 | settlement_type = [[町丁]] | image_skyline = Kuki Kiyoku Industrial Park 1.JPG | imagesize = 250 | image_caption = [[清久工業団地]] | image_map = | map_caption = 清久町の位置 | pushpin_map = Japan Saitama | latd = 36 | latm = 04 | lats = 12.00 | latNS = N | longd = 139 | longm = 37 | longs = 53.75 | longEW = E | subdivision_type = [[国の一覧|国]] | subdivision_name = {{JPN}} | subdivision_type1 = [[都道府県]] | subdivision_name1 = [[File:Flag of Saitama Prefecture.svg|border|25px]] [[埼玉県]] | subdivision_type2 = [[市町村]] | subdivision_name2 = [[File:Flag of Kuki Saitama.svg|border|25px]] [[久喜市]] | subdivision_type3 = | subdivision_name3 = | area_total_km2 = | population_as_of = [[2023年]]〈[[令和]]5年〉[[9月1日]]時点 | population_footnotes = <ref name="人口">{{Cite web|和書|title=令和5年度人口 町名別人口統計表(令和5年9月1日現在):久喜市ホームページ |url=https://www.city.kuki.lg.jp/shisei/tokei/jinko/jinnkoR5.files/R5_9_1_1tyomebetsu.pdf |website=www.city.kuki.lg.jp |access-date=2023-09-08 |format=PDF}}</ref> | population_total = 0 | population_density_km2 = auto | timezone1 = [[日本標準時]] | utc_offset1 = +9 | postal_code_type = [[日本の郵便番号|郵便番号]] | postal_code = 346-0035<ref name="郵便番号">{{Cite web|和書|title=郵便番号簿PDF(2022年度版) 埼玉県 - 日本郵便 |url=https://www.post.japanpost.jp/zipcode/dl/bangobo/11.pdf |website=www.post.japanpost.jp |access-date=2023-09-08 |format=PDF}}</ref> | area_code = 0480<ref>{{Cite web|和書|title=総務省|電気通信番号制度|市外局番の一覧 |url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000141817.pdf |website=総務省 |access-date=2023-09-08 |language=ja |format=PDF}}</ref> | registration_plate = [[埼玉運輸支局|春日部]] | footnotes = 座標は[[清久公園]]の位置 }} '''清久町'''(きよくちょう)は、[[埼玉県]][[久喜市]]の[[町丁]]。現行行政地名は清久町のみで、[[丁目]]の設定はない。[[住居表示]]未実施地区<ref>{{Cite web|和書|title=住居表示に関する届出:久喜市ホームページ |url=https://www.city.kuki.lg.jp/kurashi/jyumintoroku/jumin_todokede/jyukyo_hyoji.html |website=www.city.kuki.lg.jp |access-date=2023-09-08}}</ref>。[[日本の郵便番号|郵便番号]]は346-0035<ref name="郵便番号" />。 == 地理 == [[埼玉県]]北東部、[[久喜市]]中央部(久喜地区〈旧久喜市〉西部)に位置する。南西側から北西側を経て北側にかけて[[北中曽根]]に{{Efn|地図によっては南西側から連続して北中曽根に隣接するようには描かれない場合があるが、実際には清久町と[[菖蒲町三箇]]の間の[[備前堀川]]の[[河川敷]]付近に北中曽根が食い込む形となっている<ref name="白図21">{{Cite web|和書|title=白図(地形図)の閲覧 白図21:久喜市ホームページ |url=https://www.city.kuki.lg.jp/shisei/city_plan/toshikeikaku/hakuzu-etsuran.files/hakuzu21.pdf |website=www.city.kuki.lg.jp |access-date=2023-09-08 |format=PDF}}</ref>。}}、北側から北東側にかけて[[所久喜]]の[[飛地]]に、北東側で[[上清久]]の飛地および[[六万部 (久喜市)|六万部]]に、北東側から南東側を経て南西側にかけて所久喜に{{Efn|地図によっては南西側で所久喜に隣接するようには描かれない場合があるが、実際には清久町と[[菖蒲町台]]の間の備前堀川および[[備前前堀川]]の河川敷に所久喜が食い込む形となっている<ref name="白図30">{{Cite web|和書|title=白図(地形図)の閲覧 白図30:久喜市ホームページ |url=https://www.city.kuki.lg.jp/shisei/city_plan/toshikeikaku/hakuzu-etsuran.files/hakuzu30.pdf |website=www.city.kuki.lg.jp |access-date=2023-09-08 |format=PDF}}</ref>。}}、南西側で上清久の飛地・北中曽根の飛地・[[菖蒲町三箇]]に隣接する{{Efn|地図によっては南西側で[[菖蒲町台]]に隣接するように描かれる場合があるが、実際には備前堀川および備前前堀川の河川敷付近は所久喜および上清久の飛地(さらにその中に六万部の飛地がある)となっており<ref name="白図21" /><ref>{{Cite web|和書|title=白図(地形図)の閲覧 白図29:久喜市ホームページ |url=https://www.city.kuki.lg.jp/shisei/city_plan/toshikeikaku/hakuzu-etsuran.files/hakuzu29.pdf |website=www.city.kuki.lg.jp |access-date=2023-09-08 |format=PDF}}</ref><ref name="白図30" />、菖蒲町台には隣接していない。}}。北西縁を[[埼玉県道12号川越栗橋線]]が通る。[[清久工業団地]]が造成された後、周辺地区も[[土地区画整理事業]]により[[清久工業団地#ネクストコア清久|ネクストコア清久]]の名で工業団地として整備された<ref>{{Cite web|和書|title=ネクストコア清久ホームページ│工業団地 |url=https://mk-corp.co.jp/nextcore-kiyoku/ |website=mk-corp.co.jp |access-date=2023-09-08}}</ref>。[[備前堀川]]および[[備前前堀川]]の[[河川敷]]となっている一部地域が[[市街化調整区域]]に指定されており、そのほかは[[市街化区域]]に指定されている<ref>外部リンク節の「都市計画図の閲覧(久喜市全域)」を参照。</ref>。 === 河川 === * [[備前堀川]] * [[備前前堀川]] == 歴史 == * [[1980年]]([[昭和]]55年)[[4月1日]]:久喜市大字[[北中曽根]]・大字[[所久喜]]・大字[[六万部 (久喜市)|六万部]]・大字[[上清久]]の各一部から'''清久町'''が成立<ref>[[#地名大辞典|『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』]] 増補8ページ。</ref>{{Efn|出典には成立の経緯などについて記載がないが、清久町は[[住居表示]]未実施地区であるため、町名地番変更により成立したものと解釈できる。}}。 * [[2010年]]([[平成]]22年)[[3月23日]]:久喜市・[[南埼玉郡]][[菖蒲町]]・[[北葛飾郡]][[栗橋町]]・同[[鷲宮町]]が合併し、新たな久喜市が発足<ref>{{Cite web|和書|title=合併後の住所の表示:久喜市ホームページ |url=https://www.city.kuki.lg.jp/shisei/gaiyo/gappei/gappei_jusho.html |website=www.city.kuki.lg.jp |access-date=2023-09-08}}</ref>。同市の町丁となる。 * [[2013年]](平成25年)[[11月16日]]:前日に清久工業団地周辺土地区画整理事業の換地処分が公告された<ref>{{Cite web|和書|title=久喜市土地区画整理事業施行状況一覧:久喜市ホームページ |url=https://www.city.kuki.lg.jp/shisei/city_plan/kukakuseiri/sekojokyoichiran.html |website=www.city.kuki.lg.jp |access-date=2023-09-08}}</ref>ことに伴い、施行区域で町名地番変更が行われ<ref>{{Cite web|和書|title=清久工業団地周辺土地区画整理地内の町名が変わりました:久喜市ホームページ |url=https://www.city.kuki.lg.jp/shisei/city_plan/toshikeikaku/oshirase/kiyoku_jusho.html |website=www.city.kuki.lg.jp |access-date=2023-09-08}}</ref>、六万部・北中曽根・所久喜・上清久の各一部が清久町に編入される<ref>{{Cite web|和書|title=町及び字の区域図(変更前・変更後):久喜市ホームページ |url=https://www.city.kuki.lg.jp/shisei/city_plan/toshikeikaku/oshirase/kiyoku_jusho.files/kiyoku_kuikizu.pdf |website=www.city.kuki.lg.jp |access-date=2023-09-08 |format=PDF}}</ref>。 == 世帯数と人口 == [[2023年]]([[令和]]5年)[[9月1日]]時点の世帯数と人口は、以下のとおりである<ref name="人口" />。 {| class="wikitable" ![[町丁]]!![[世帯|世帯数]]!![[人口]] |- |清久町 |style="text-align:right"|0世帯 |style="text-align:right"|0人 |} == 小・中学校の学区 == 市立小・中学校に通う場合の[[学区]](校区)は示されていない<ref>{{Cite web|和書|title=久喜市立小・中学校通学区域に関する規則:久喜市ホームページ |url=https://www.city.kuki.lg.jp/kosodate/gakkokyoiku/tetsuduki/siteikougaishuugaku.files/tugakukuikinikannsurukisoku.pdf |website=www.city.kuki.lg.jp |access-date=2023-09-08 |format=PDF}}</ref>。 == 交通 == === 鉄道 === 地内に[[鉄道路線]]は通っていない。最寄り駅は地点によって異なり、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[宇都宮線]]{{Efn|[[東京駅]]と[[黒磯駅]]を[[尾久駅]]経由で結ぶ[[鉄道路線の名称#路線の系統名称・愛称|列車運転系統の愛称]]。線路名称上は[[東北本線]]。}}・[[東武伊勢崎線]]の[[久喜駅]]、東武伊勢崎線の[[鷲宮駅]]、同[[花崎駅]]のいずれかである。 === 路線バス === [[朝日自動車菖蒲営業所]]により、[[埼玉県道12号川越栗橋線]]を通る[[路線バス]]が運行されている<ref>{{Cite web|和書|title=朝日自動車株式会社 菖蒲営業所管内路線図 |url=https://www.asahibus.jp/data/pdf/syobu.pdf?20230127 |website=朝日自動車株式会社 |access-date=2023-09-08 |language=ja |format=PDF}}</ref>。 * KU01:[[久喜駅]]西口 - 橋戸 - [[新久喜総合病院]]前 - 上早見 - 川妻 - [[モラージュ菖蒲]]前 - 菖蒲仲橋 * KU02:久喜駅西口 - 橋戸 - 新久喜総合病院(玄関) - 新久喜総合病院前 - 上早見 - 川妻 - モラージュ菖蒲前 - 菖蒲仲橋 * KU03:久喜駅西口 - 橋戸 - 久喜上町 - 上早見 - 川妻 - モラージュ菖蒲前 - 菖蒲仲橋 また、[[大和観光自動車]]により、北中曽根三箇線(清久さくら通り)と清久大池通りを通る路線バスが運行されている<ref>{{Cite web|和書|title=大和観光バスWebsite ‐路線バス時刻表検索‐ |url=http://daiwakankobus.co.jp/noriai/rosenzu20180528.html |website=daiwakankobus.co.jp |access-date=2023-09-08}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=大和観光バスWebsite ‐清久工業団地 時刻表(管理センター方面)‐ |url=http://daiwakankobus.co.jp/noriai/busstop/kiyokudanchi/20180528_d.pdf |website=daiwakankobus.co.jp |access-date=2023-09-08 |format=PDF}}</ref>。 * 2-1:久喜駅西口 - 本町6丁目 - [[埼玉県立久喜北陽高等学校|北陽高校]]入口 - [[アリオ鷲宮]]前 - [[東京理科大学#久喜キャンパス|東京理科大学]] - 清久工業団地 - 資生堂前 - 向野 - ウェルディングアロイズ - 管理センター * 2-2:久喜駅西口 - 本町6丁目 - 北陽高校入口 - アリオ鷲宮前 - 東京理科大学 - 清久工業団地 - 資生堂前 - 向野 * 2-3:久喜駅西口 - 本町6丁目 - 北陽高校入口 - アリオ鷲宮前 - 東京理科大学 - 清久工業団地 - 資生堂前 * 2-4:久喜駅西口 - 本町6丁目 - 北陽高校入口 - アリオ鷲宮前 - 東京理科大学 - 清久工業団地 - 資生堂前 - 清久工業団地東 === 道路 === 地内に[[国道]]は通っていない。 * [[埼玉県道12号川越栗橋線]] * 北中曽根三箇線(清久さくら通り) * 清久大池通り == 施設 == * [[清久公園]](近隣公園) * [[清久西池]] * 清久町2号緑地 * 久喜市勤労福祉センター * [[清久大池]] * 清久町3号緑地 * 清久町4号緑地 * 久喜市北中曽根地区農業集落排水処理施設 * 北中曽根公園 * 小河原井公園 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会 |title=[[角川日本地名大辞典]] 11 埼玉県 |date=1980-07-08 |publisher=角川書店 |isbn=4040011104 |ref=地名大辞典}} == 関連項目 == * [[埼玉県の土地区画整理事業一覧]] == 外部リンク == * [https://www.city.kuki.lg.jp/shisei/city_plan/toshikeikaku/tokeizu-etsuran0.html 都市計画図の閲覧(久喜市全域):久喜市ホームページ] * [https://www.city.kuki.lg.jp/shisei/city_plan/toshikeikaku/oshirase/kiyoku_jusho.html 清久工業団地周辺土地区画整理地内の町名が変わりました:久喜市ホームページ] {{久喜市の町・字}} {{デフォルトソート:きよくちよう}} [[Category:久喜市の町・字]] [[Category:1980年制定の町・字]]
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GLADIATOR × DEMOLITION
GLADIATOR × DEMOLITIONは、日本の総合格闘技団体「GLADIATOR」の大会の一つ。 2018年6月3日、大阪府大阪市の東成区民センターで開催された。 今大会では関西を中心に活動するMMA団体、GLADIATORとDEMOLITION(DXFC)の対抗戦が実現。メインイベントではDXFCウェルター級王者のグッドマン田中に、元GLADIATORミドル級王者の中村勇太が挑む。セミでは第3代バンタム級王者・角田成健の現役引退を受け、空位になったベルトを中澤伸悟とじゅんが争うことに。このほか全12試合中8試合がGLADIATORとDEMOLITIONの対抗戦となっている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "GLADIATOR × DEMOLITIONは、日本の総合格闘技団体「GLADIATOR」の大会の一つ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "2018年6月3日、大阪府大阪市の東成区民センターで開催された。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "今大会では関西を中心に活動するMMA団体、GLADIATORとDEMOLITION(DXFC)の対抗戦が実現。メインイベントではDXFCウェルター級王者のグッドマン田中に、元GLADIATORミドル級王者の中村勇太が挑む。セミでは第3代バンタム級王者・角田成健の現役引退を受け、空位になったベルトを中澤伸悟とじゅんが争うことに。このほか全12試合中8試合がGLADIATORとDEMOLITIONの対抗戦となっている。", "title": "大会概要" } ]
GLADIATOR × DEMOLITIONは、日本の総合格闘技団体「GLADIATOR」の大会の一つ。 2018年6月3日、大阪府大阪市の東成区民センターで開催された。
{{Infobox MMA event | 大会名 = GLADIATOR × DEMOLITION | シリーズ = [[GLADIATOR]] | 主催 = GLADIATOR実行委員会 | 開催年月日 = [[2018年]][[6月3日]] | 開催地 = {{JPN}}<br />[[大阪府]][[大阪市]] | 会場 = 東成区民センター | 試合数 = 全12試合 | 前大会 = [[GLADIATOR 005 in OSAKA]] | 次大会 = [[GLADIATOR × DEMOLITION Vol.2]] }} '''GLADIATOR × DEMOLITION'''は、[[日本]]の[[総合格闘技]]団体「[[GLADIATOR]]」の大会の一つ。 [[2018年]][[6月3日]]、[[大阪府]][[大阪市]]の東成区民センターで開催された。 == 大会概要 == 今大会では関西を中心に活動するMMA団体、[[GLADIATOR]]とDEMOLITION(DXFC)の対抗戦が実現。メインイベントではDXFCウェルター級王者の[[グッドマン田中]]に、元GLADIATORミドル級王者の[[中村勇太]]が挑む。セミでは第3代バンタム級王者・角田成健の現役引退を受け、空位になったベルトを中澤伸悟とじゅんが争うことに。このほか全12試合中8試合がGLADIATORとDEMOLITIONの対抗戦となっている<ref>[https://mmaplanet.jp/78245 【Gladiator X DXFC】メインはDXFCウェルター級戦。ライト級チャンプ岸本はZST王者・平と対戦!!] MMAPLANET 2018年4月11日</ref>。 == 試合結果 == ; オープニングファイト フライ級 5分1R : ○ {{Flagicon|JPN}} 杉原光世 vs. {{Flagicon|JPN}} 田中勇人 × : 1R 3:17 [[リアネイキドチョーク]] ; オープニングファイト フェザー級 5分1R : ○ {{Flagicon|JPN}} 楠本忍 vs. {{Flagicon|JPN}} 塩田和哉 × : 1R 1:50 [[三角絞め]] ; 第1試合 GLADIATOR×DEMOLITION対抗戦 バンタム級 5分2R : ○ {{Flagicon|JPN}} 四至本ジョリー竜馬 vs. {{Flagicon|JPN}} 井口翔太 × : 2R 0:01 ドクターストップ ; 第2試合 GLADIATOR×DEMOLITION対抗戦 フェザー級 5分2R : ○ {{Flagicon|JPN}} 中川皓貴 vs. {{Flagicon|JPN}} 北崎拓実 × : 判定2-1 ; 第3試合 GLADIATOR公式戦 ライト級 5分2R : ○ {{Flagicon|JPN}} 別府敬祐 vs. {{Flagicon|JPN}} 野副忠佑 × : 判定2-1 ; 第4試合 GLADIATOR×DEMOLITION対抗戦 バンタム級 5分2R : ○ {{Flagicon|JPN}} 吉野光 vs. {{Flagicon|JPN}} 上野暢彦 × : 1R 0:26 [[アームロック]] ; 第5試合 GLADIATOR×DEMOLITION対抗戦 フライ級 5分2R : ○ {{Flagicon|JPN}} 横溝和也 vs. {{Flagicon|JPN}} 大崎勝海 × : 1R 1:27 TKO ; 第6試合 GLADIATOR×DEMOLITION対抗戦 バンタム級 5分2R : ○ {{Flagicon|JPN}} 瀧口脩生 vs. {{Flagicon|KOR}} 前川大輔 × : 1R 1:09 TKO ; 第7試合 DXFC公式戦 ウェルター級 5分2R : ○ {{Flagicon|JPN}} 堂垣善史 vs. {{Flagicon|USA}} イケ・クリス × : 2R 0:53 腕ひしぎ十字固め ; 第8試合 GLADIATOR×DEMOLITION対抗戦<br>GLADIATORフライ級次期挑戦者決定戦 5分2R : ○ {{Flagicon|JPN}} [[NavE]] vs. {{Flagicon|JPN}} 上嶋佑紀 × : 2R 4:31 [[リアネイキドチョーク]]<ref>[https://mmaplanet.jp/80181 【Gladiator X Demolition】NavEが上嶋をRNCで破り、フライ級挑戦権を獲得] MMAPLANET 2018年6月4日</ref> ; 第9試合 GLADIATOR×DEMOLITION対抗戦<br>GLADIATORバンタム級王座決定戦 5分3R : ○ {{Flagicon|JPN}} じゅん vs. {{Flagicon|JPN}} 中澤伸悟 × : 1R 3:19 TKO : ※じゅんが第4代GLADIATORバンタム級王者に<ref>[https://mmaplanet.jp/80187 【Gladiator X Demolition】新グラジエイターバンタム級王者は、中沢に殴り勝った──じゅん] MMAPLANET 2018年6月4日</ref> ; 第10試合 GLADIATOR×DEMOLITION対抗戦<br>DXFCウェルター級タイトルマッチ 5分3R : ○ {{Flagicon|JPN}} [[中村勇太]] vs. {{Flagicon|JPN}} [[グッドマン田中]] × : 1R 1:06 [[リアネイキドチョーク]] : ※中村勇太が第4代DXFCウェルター級王者に<ref>[https://mmaplanet.jp/80194 【Gladiator X Demolition】グッドマンを秒殺、DXFCウェルター級王者になった中村勇太がタイトル返上宣言] MMAPLANET 2018年6月4日</ref> == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == *[[GLADIATOR]] == 外部リンク == * [http://gladiator-fc.com/ GLADIATOR公式サイト] * [https://mmaplanet.jp/80057 MMAPLANETによる試合結果] * [https://www.sherdog.com/events/Gladiator-Gladiator-x-Demolition-Vol-1-68427 SHERDOGによる試合結果] [[Category:GLADIATOR|× DEMOLITION]] [[Category:2018年の総合格闘技]] [[Category:2018年の日本のスポーツ]] [[Category:大阪市のスポーツ競技大会]] [[Category:東成区の歴史]] [[Category:2018年6月]]
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村山千夏 (インフルエンサー)
村山 千夏(むらやま ちなつ、2005年7月14日 - )は、神奈川県出身のインフルエンサー、女優。 2022年、ミス・ティーン・ジャパンファイナリストに選出される。 2023年3月15日から19日にかけ上映された舞台「ゲートシティの恋」で女優デビュー。
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村山 千夏は、神奈川県出身のインフルエンサー、女優。
{{女性アイドル | アイドル名 = 村山 千夏 | ふりがな = むらやま ちなつ | 画像ファイル = | 画像コメント = | 別名義 = | 生年 = 2005 | 生月 = 7 | 生日 = 14 | 没年 = | 没月 = | 没日 = | 出身地 = {{JPN}} [[神奈川県]] | 死没地 = | 血液型 = | 瞳の色 = | 毛髪の色 = | 時点 = 2023年 | 身長 = 164 | 体重 = | バスト = | ウエスト = | ヒップ = | カップ = | 身体備考 = | デビュー = | ジャンル = | 所属グループ = | 活動期間 = | 著名な家族 = | 活動備考 = [[インフルエンサー]] | 他の活動 = [[TikToker]]、[[俳優#性別での分類|女優]]、[[タレント]] | 事務所 = [[GROVE#seju|seju]] | 音楽レーベル = | 公式サイト = | 主な出演作 = <!-- 主演映画・主演テレビドラマなど。脇役の場合、大ヒットした作品で重要な役割であった、またはその出演功績を認められたもの。例えば、日本アカデミー賞優秀助演女優賞を受賞したような役の作品を3作程度まで記載。多い場合は出演欄にリンクするなど羅列にならないように注意。 --> | 主な楽曲 = <!-- 複数の二次情報源によってこの人物の代表的な曲として認められる楽曲を、出典を明記した上で3曲程度まで記載可能 --> | 受賞歴 = }} '''村山 千夏'''(むらやま ちなつ、[[2005年]][[7月14日]] - )は、[[神奈川県]]出身の[[インフルエンサー]]、[[俳優#性別での分類|女優]]。 == 経歴 == 2022年、[[ミス・ティーン・ジャパン]]ファイナリストに選出される<ref>[https://www.excite.co.jp/news/article/Shueishapn_119712/ 「2022ミスティーン・ジャパン」ファイナリストの17歳・村山千夏「特技披露では滑舌練習の"外郎売"を腹筋しながら早口でやりました」]</ref>。 2023年3月15日から19日にかけ上映された舞台「ゲートシティの恋」で女優デビュー。 == 人物 == * 趣味は走ること、映画鑑賞。 * 特技はヨガ、ピラティス、茶道、どこでも寝られること。 == 出演 == === 舞台 === * [[ゲートシティの恋]](2023年3月15日 - 19日)輝人 役 === 映画 === * [[#ミトヤマネ]](2023年8月25日公開) ===ラジオ=== * [[スナックSDGs]] (2023年8月12日・19日)<ref> [https://www.tbsradio.jp/articles/73494/ 第124回「教えて!気候危機!」スナックSDGs powered by みんな電力]</ref><ref>[https://www.tbsradio.jp/articles/73747/ 第125回「教えて!気候危機!」スナックSDGs powered by みんな電力]</ref> ===SNSドラマ=== *[[四谷学院「今日も僕らの放課後は。」]](2023年12月20日公開)<ref>[https://seju.tokyo/topics/topic-5877/ ショートドラマ「今日も僕らの放課後は。」出演]</ref><ref>四谷学院「今日も僕らの放課後は。」公式アカウント https://www.tiktok.com/@yotsuyagakuin55</ref> ==作品== ===デジタル写真集=== * ポラリス 村山千夏<ref>[https://www.grajapa.shueisha.co.jp/item/detail/gravure/9d451df7d1162d03e39d154c92ab1dfe ポラリス 村山千夏]</ref>(2023年3月21日、[[集英社]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist|2}} {{other people|インフルエンサー|剣道家|村山千夏}} == 外部リンク == * [https://seju.tokyo/talents/chinatsu-murayama/ 村山千夏] seju - GROVE株式会社 * {{Instagram|chinatsu___mura}} * {{TikTok|china___tsu}} {{DEFAULTSORT:むらやま ちなつ}} [[Category:日本のTikToker]] [[Category:インフルエンサー]] [[Category:日本の女性タレント]] [[Category:21世紀日本の女優]] [[Category:神奈川県出身の人物]] [[Category:2005年生]] [[Category:存命人物]]
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菊地吉兵衛
菊地 吉兵衛(きくち きちべえ、旧姓・熊谷、1888年(明治21年)7月 - 没年不明)は、日本の実業家、鳥取県多額納税者。合資会社静養館無限責任社員。米子共立検番取締役。皆生温泉土地監査役。 岩手県・熊谷吉右衛門の四男。1911年に菊地甚五郎の養子となり、1929年に家督を相続する。土木建築請負業を営む。また合資会社静養館(目的・旅館及び料理屋営業)の無限責任社員である。 1929年2月20日に菊地甚五郎が死亡したため家督相続人である吉兵衛は、その出資額を承継し、自己の持分と併合し、出資額を金2万8000円と変更する。1936年1月24日にその持分の内金1万5000円を木野吉兵衛に金1万円を木野節に金3000円を松田はるに譲渡して退社する。 直接国税1215円を納め、県下の多額納税者に列する。『商工資産信用録 第30回 大阪府ほか』によると、菊地吉兵衛(調査年月・1929年7月)は「信用程度・C、職業・土木請負」である。住所は鳥取県西伯郡福生村大字皆生(現・米子市)。
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菊地 吉兵衛は、日本の実業家、鳥取県多額納税者。合資会社静養館無限責任社員。米子共立検番取締役。皆生温泉土地監査役。
'''菊地 吉兵衛'''(きくち きちべえ、旧姓・'''熊谷'''、[[1888年]]([[明治]]21年)[[7月]]<ref name="jinji13">[{{NDLDC|3430443/586}} 『人事興信録 第13版 上』]キ47頁([[国立国会図書館デジタルコレクション]])。2023年9月8日閲覧。</ref> - [[没年不明]])は、[[日本]]の[[実業家]]、[[鳥取県]]多額[[租税|納税]]者<ref name="jinji13"/><ref name="jinji11">[{{NDLDC|1072916/766}} 『人事興信録 第11版 上』]キ66頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年9月8日閲覧。</ref>。合資会社静養館無限責任社員<ref name="kanpo19360302">[{{NDLDC|2959227/5}} 『官報 1936年03月02日』]官報 第2747号 8頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年9月9日閲覧。</ref>。米子共立検番取締役<ref name="jinji13"/><ref name="jinji11"/>。[[皆生温泉土地]]監査役<ref name="jinji13"/><ref name="jinji11"/><ref>[{{NDLDC|1077368/730}} 『日本全国諸会社役員録 第41回』]鳥取県 下編385頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年9月8日閲覧。</ref>。 == 人物 == [[岩手県]]・熊谷吉右衛門の四男<ref name="jinji13"/><ref name="jinji11"/>。[[1911年]]に菊地甚五郎の養子となり、[[1929年]]に[[家督]]を相続する<ref name="jinji13"/><ref name="jinji11"/>。土木[[建築]]請負業を営む<ref>[{{NDLDC|1056551/72}} 『鉄道諸規定ト工事控 附・著名請負人名鑑』]請負人広告(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年9月10日閲覧。</ref><ref>[{{NDLDC|1107975/1907}} 『大日本商工録 昭和6年版 全国 13版』]鳥取県 土木建築13頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年9月10日閲覧。</ref>。また合資会社静養館(目的・[[旅館]]及び[[料理]]屋営業)の[[有限責任#無限責任の会社|無限責任]]社員である<ref name="kanpo19360302"/><ref name="kanpo19290307">[{{NDLDC|2957120/8}} 『官報 1929年03月07日』]官報 第654号 170頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年9月9日閲覧。</ref>。 1929年2月20日に菊地甚五郎が死亡したため家督相続人である吉兵衛は、その[[出資]]額を承継し、自己の持分と併合し、出資額を金2万8000円と変更する<ref name="kanpo19291105">[{{NDLDC|2957323/8}} 『官報 1929年11月05日』]官報 第856号 111頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年9月9日閲覧。</ref>。[[1936年]]1月24日にその持分の内金1万5000円を木野吉兵衛に金1万円を木野節に金3000円を松田はるに[[譲渡]]して退社する<ref name="kanpo19360302"/>。 直接国税1215円を納め、県下の多額納税者に列する<ref name="jinji11"/>。『商工資産信用録 第30回 大阪府ほか』によると、菊地吉兵衛(調査年月・1929年7月)は「信用程度・C、職業・土木[[請負]]」である<ref>[{{NDLDC|1032878/568}} 『商工資産信用録 第30回 大阪府ほか』]鳥取県き之部17頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年9月8日閲覧。</ref>。住所は鳥取県西伯郡福生村大字[[皆生]]<ref name="kanpo19290307"/>(現・[[米子市]])。 == 家族 == ; 菊地家 * 養父・'''甚五郎'''<ref name="jinji13"/>(合資会社静養館無限責任社員)<ref name="kanpo19290307"/> - 1929年2月20日に死亡する<ref name="kanpo19291105"/>。 * 養母・'''キサ'''([[1877年]] - ?、岩手、熊谷吉右衛門の長女)<ref name="jinji13"/><ref name="jinji11"/> - 合資会社静養館無限責任社員であったが、1936年にその持分金5000円を泉谷傳四郎に譲渡して退社する<ref name="kanpo19360302"/>。 * 妻・'''千代'''([[1889年]] - ?、鳥取、福田久二郎の二女)<ref name="jinji13"/><ref name="jinji11"/> - 合資会社静養館[[有限責任]]社員であったが、1936年にその持分金2500円を松田はるに譲渡して退社する<ref name="kanpo19360302"/>。 * 養子・'''啓次郎'''([[1903年]] - ?、長女久代の夫、岩手、豊田啓太郎の二男<ref name="jinji13"/><ref name="jinji11"/>) - 合資会社静養館代表社員<ref name="kanpo19290307"/>・無限責任社員であったが、1936年にその持分金2500円を松田はるに譲渡して退社する<ref name="kanpo19360302"/>。 * 長女・'''久代'''([[1909年]] - ?、養子・啓次郎の妻)<ref name="jinji13"/><ref name="jinji11"/> - 合資会社静養館有限責任社員であったが、1936年にその持分金2000円を松田はるに譲渡して退社する<ref name="kanpo19360302"/>。 * 孫<ref name="jinji13"/> == 脚注 == {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[国立印刷局|大蔵省印刷局]]編『[[官報]] 1929年03月07日』日本マイクロ写真、1929年。 * 大蔵省印刷局編『官報 1929年11月05日』日本マイクロ写真、1929年。 * 『商工資産信用録 第30回 大阪府ほか』商業興信所、1929年。 * 大日本商工会編『大日本商工録 昭和6年版 全国 13版』大日本商工会、1931年。 * 商業興信所編『日本全国諸会社役員録 第41回』商業興信所、1933年。 * 大蔵省印刷局編『官報 1936年03月02日』日本マイクロ写真、1936年。 * 『鉄道諸規定ト工事控 附・著名請負人名鑑』事業興信社、1938年。 * 人事興信所編『[[人事興信録]] 第11版 上』人事興信所、1937 - 1939年。 * 人事興信所編『人事興信録 第13版 上』人事興信所、1941年。 {{businessperson-stub}} {{DEFAULTSORT:きくち きちへえ}} [[Category:岩手県出身の人物]] [[Category:日本の建築に関する人物]] [[Category:20世紀日本の実業家]] [[Category:1888年生]] [[Category:没年不明]]
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洋文
洋文(ひろふみ、ひろぶみ、ようぶん)は、日本語の男性名
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洋文(ひろふみ、ひろぶみ、ようぶん)は、日本語の男性名 金子洋文 - プロレタリア文学の小説家、劇作家、日本社会党参議院議員 坪井洋文 - 日本の民俗学者 猪股洋文 - 日本の政治家。元宮城県加美郡加美町長(3期)。 市村洋文 - 日本の起業家 清水洋文 - 日本の消防吏員 四位洋文 - 日本中央競馬会 (JRA) 栗東所属の元騎手で現在は調教師 吉村洋文 - 日本の政治家・弁護士・税理士。大阪府知事(公選第20・21代) 森安洋文 - 東京都出身の元プロサッカー選手 赤池洋文 - 日本のテレビプロデューサー、元編成マン 花岡洋文 - 日本の国土交通官僚
'''洋文'''(ひろふみ、ひろぶみ、ようぶん)は、日本語の男性名 * [[金子洋文]] (1893 - 1985) - プロレタリア文学の小説家、劇作家、日本社会党参議院議員 * [[坪井洋文]] (1929 - 1988) - 日本の民俗学者 * [[猪股洋文]] (1952 - ) - 日本の政治家。元宮城県加美郡加美町長(3期)。 * [[市村洋文]] (1959 - ) - 日本の起業家 * [[清水洋文]] (1963 - ) - 日本の消防吏員 * [[四位洋文]] (1972 - ) - 日本中央競馬会 (JRA) 栗東所属の元騎手で現在は調教師 * [[吉村洋文]] (1975 - ) - 日本の政治家・弁護士・税理士。大阪府知事(公選第20・21代) * [[森安洋文]] (1985 - ) - 東京都出身の元プロサッカー選手 * [[赤池洋文]] (? - ) - 日本のテレビプロデューサー、元編成マン * [[花岡洋文]] (? - ) - 日本の国土交通官僚 == 関連項目 == * {{prefix}} * {{intitle}} {{人名の曖昧さ回避}} {{DEFAULTSORT:ひろふみ}} [[Category:日本語の男性名]]
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石嘉波神社
石嘉波神社(いしかじんじゃ)は、沖縄県国頭郡本部町瀬底島にある神社であり、字瀬底の小字石嘉波村落(方言:イッチャファ)の東南方の小高い森一帯を指す。一帯は御嶽タキサンとも呼ばれている。 根所・神アサギも石嘉波神社(御嶽タキサン)に含まれる。 字瀬底の小字石嘉波村落(方言:イッチャファ)の東南方の小高い森一帯が、石嘉波神社である。森の中にコンクリート造りの祠があり(1928年7月28日建立)西側入口に鳥居が建っている。 神社と呼ばれているが、根所・神アサギも石嘉波神社(御嶽タキサン)を指す森一帯に含まれる。(根所・神アサギについて詳しくは後述) 石嘉波村は伊野波間切創設時からの古村であり、元は健堅村に隣接した石嘉波にあったが、蔡温の山林政策で、尚敬王代の1736年(乾隆元年)に瀬底島の東側に村移しさせられた。石嘉波神社はその際、村人によって作られた拝所である。 以後、村は石嘉波村として存続したが、1903年(明治36年)県令第36号によって石嘉波村が瀬底村に合併して一村となり、さらに1908年(明治41年)本部間切瀬底村から本部村字瀬底に改められ、次いで1940年(昭和15年)本部町字瀬底となった。 石嘉波村落の御嶽タキサンも旧石嘉波村落へのお通し御嶽であり、祭祀も現在に至るまで瀬底村落とは別々に行われている。旧七月二十日には「ウークイ(ウフユミ)」という、豊漁・豊作の感謝と予祝御願を中心に村人の健康、繁栄を御願する儀礼が行なわれる。 なお、『琉球国由来記』(1713年)には「石嘉波村、前之嶽・神名マツノワカッカサノ御イベ、ヨネフサキ嶽・神名カネマツ司ノ御イベ、アラサケ嶽・神名イシノ御イベ」と記されているが、特定出来ない。 根所(方言:ニードゥクール)は、タキサンの北側約30メートルのところに位置する。間口2メートル、奥行160センチメートル、高さ2メートルの破風型コンクリート造りで、祭神は根所火神である。 神アサギとは神を迎え招宴をする場所のことをいう。 石嘉波神社の神アサギは根所の西側、一段低いところにある。柱はコンクリート、屋根はセメント瓦葺きで造られている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "石嘉波神社(いしかじんじゃ)は、沖縄県国頭郡本部町瀬底島にある神社であり、字瀬底の小字石嘉波村落(方言:イッチャファ)の東南方の小高い森一帯を指す。一帯は御嶽タキサンとも呼ばれている。 根所・神アサギも石嘉波神社(御嶽タキサン)に含まれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "字瀬底の小字石嘉波村落(方言:イッチャファ)の東南方の小高い森一帯が、石嘉波神社である。森の中にコンクリート造りの祠があり(1928年7月28日建立)西側入口に鳥居が建っている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "神社と呼ばれているが、根所・神アサギも石嘉波神社(御嶽タキサン)を指す森一帯に含まれる。(根所・神アサギについて詳しくは後述)", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "石嘉波村は伊野波間切創設時からの古村であり、元は健堅村に隣接した石嘉波にあったが、蔡温の山林政策で、尚敬王代の1736年(乾隆元年)に瀬底島の東側に村移しさせられた。石嘉波神社はその際、村人によって作られた拝所である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "以後、村は石嘉波村として存続したが、1903年(明治36年)県令第36号によって石嘉波村が瀬底村に合併して一村となり、さらに1908年(明治41年)本部間切瀬底村から本部村字瀬底に改められ、次いで1940年(昭和15年)本部町字瀬底となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "石嘉波村落の御嶽タキサンも旧石嘉波村落へのお通し御嶽であり、祭祀も現在に至るまで瀬底村落とは別々に行われている。旧七月二十日には「ウークイ(ウフユミ)」という、豊漁・豊作の感謝と予祝御願を中心に村人の健康、繁栄を御願する儀礼が行なわれる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "なお、『琉球国由来記』(1713年)には「石嘉波村、前之嶽・神名マツノワカッカサノ御イベ、ヨネフサキ嶽・神名カネマツ司ノ御イベ、アラサケ嶽・神名イシノ御イベ」と記されているが、特定出来ない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "根所(方言:ニードゥクール)は、タキサンの北側約30メートルのところに位置する。間口2メートル、奥行160センチメートル、高さ2メートルの破風型コンクリート造りで、祭神は根所火神である。", "title": "根所" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "神アサギとは神を迎え招宴をする場所のことをいう。", "title": "神アサギ" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "石嘉波神社の神アサギは根所の西側、一段低いところにある。柱はコンクリート、屋根はセメント瓦葺きで造られている。", "title": "神アサギ" } ]
石嘉波神社(いしかじんじゃ)は、沖縄県国頭郡本部町瀬底島にある神社であり、字瀬底の小字石嘉波村落の東南方の小高い森一帯を指す。一帯は御嶽タキサンとも呼ばれている。 根所・神アサギも石嘉波神社(御嶽タキサン)に含まれる。
{{神社 | 名称 = 石嘉波神社 | 画像 = [[File:Ishika shrine guardframe.jpg|250px]]<br />鳥居 | 所在地 = [[沖縄県]][[国頭郡]][[本部町]]瀬底2261 | 緯度度 = 26 | 緯度分 = 38 | 緯度秒 = 47.2 | 経度度 = 127 | 経度分 = 52 | 経度秒 = 8.7 | 祭神 = 根所火神 | 神体 = | 社格 = | 創建 = [[1928年]]([[昭和]]3年)7月28日([[旧暦]]6月12日)建立 | 本殿 = | 別名 = 御嶽タキサン | 札所等 = | 例祭 = ウークイ(ウフユミ) | 神事 = | 地図 = Japan Okinawa }} '''石嘉波神社'''(いしかじんじゃ)は、[[沖縄県]][[国頭郡]][[本部町]][[瀬底島]]にある神社であり、字瀬底の小字石嘉波村落(方言:イッチャファ)の東南方の小高い森一帯を指す。一帯は'''[[御嶽 (沖縄) |御嶽]]タキサン'''とも呼ばれている<ref name="Document1"></ref>。 根所・神アサギも石嘉波神社(御嶽タキサン)に含まれる。 == 概要 == 字瀬底の小字石嘉波村落(方言:イッチャファ)の東南方の小高い森一帯が、石嘉波神社である。森の中にコンクリート造りの[[祠]]があり(1928年7月28日建立)西側入口に[[鳥居]]が建っている<ref name="Document1">{{Cite book |和書 |author=本部町教育委員会 |title=本部町の文化財 |volume=第5集 |publisher=本部町 |date=1981-03-31 |ncid=BA74524293 |page=28}}</ref>。 神社と呼ばれているが、根所・神アサギも石嘉波神社(御嶽タキサン)を指す森一帯に含まれる。(根所・神アサギについて詳しくは後述) == 歴史 == 石嘉波村は伊野波間切創設時からの古村であり、元は健堅村に隣接した石嘉波にあったが、蔡温の山林政策で、[[尚敬王]]代の[[1736年]]([[乾隆]]元年)に瀬底島の東側に村移しさせられた<ref>『[[球陽]]』巻13「石嘉波邑移建干瀬底島」</ref>。石嘉波神社はその際、村人によって作られた[[拝所]]である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.motobu.okinawa.jp/application/files/3515/8503/3558/HP_.pdf |title=瀬底島GUIDE MAP |website=www.town.motobu.okinawa.jp |accessdate=2023-09-08}}</ref>。 以後、村は石嘉波村として存続したが、[[1903年]]([[明治]]36年)県令第36号によって石嘉波村が瀬底村に合併して一村となり、さらに[[1908年]](明治41年)本部間切瀬底村から本部村字瀬底に改められ、次いで[[1940年]]([[昭和]]15年)本部町字瀬底となった<ref name="Document1"></ref>。 石嘉波村落の御嶽タキサンも旧石嘉波村落へのお通し御嶽であり、[[祭祀]]も現在に至るまで瀬底村落とは別々に行われている<ref name="Document1"></ref>。旧七月二十日には「ウークイ(ウフユミ)」という、豊漁・豊作の感謝と予祝御願を中心に村人の健康、繁栄を御願する儀礼が行なわれる<ref>{{Cite book |和書 |author=仲田善明 |title=本部のシヌグ |publisher=沖縄学研究所 |series=沖縄学研究叢書4 |date=2003-10-16 |id={{NDLbooks|R100000001-I095893908-00}} |pages=57-58}}</ref>。 なお、『[[琉球国由来記]]』([[1713年]])には「石嘉波村、前之嶽・神名マツノワカッカサノ御イベ、ヨネフサキ嶽・神名カネマツ司ノ御イベ、アラサケ嶽・神名イシノ御イベ」と記されているが、特定出来ない<ref name="Document1"></ref>。 == 根所 == [[File:石嘉波神社1.jpg|thumb|根所]] 根所(方言:ニードゥクール)は、タキサンの北側約30メートルのところに位置する。間口2メートル、奥行160センチメートル、高さ2メートルの[[破風]]型[[コンクリート]]造りで、祭神は根所火神である<ref name="Document1"></ref>。 == 神アサギ == [[File:Ishika shrine asagi.jpg|thumb|神アサギ]] 神アサギとは神を迎え招宴をする場所のことをいう。 石嘉波神社の神アサギは根所の西側、一段低いところにある。柱はコンクリート、屋根は[[セメント]][[瓦葺き]]で造られている<ref name="Document1"></ref>。 == 脚注 == ; 出典 {{Reflist}} == 参考文献 == *本部町教育委員会編,『本部町の文化財 第5集』,昭和56年3月31日発行 *仲田善明,『本部のシヌグ』,2003年10月16日初版発行 *瀬底島GUIDE MAP(https://www.town.motobu.okinawa.jp/application/files/3515/8503/3558/HP_.pdf) 2023年9月8日閲覧 == 関連項目 == *[[瀬底島]] *[[本部町]] *[[神社]] *[[拝所]] *[[御嶽 (沖縄)]] {{神道 横}} {{DEFAULTSORT:いしかしんしや}} [[Category:沖縄県の神社]] [[Category:本部町の建築物]] [[Category:本部町の歴史]]
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霞ヶ関文学
霞ヶ関文学 (かすみがせきぶんがく) とは、日本の霞ヶ関、つまり日本の省庁で扱う文書用語表現文を「文芸ジャンル」としてとらえた比喩で、「ありふれたことを滑稽なほどまわりくどく、もったいぶって表現する言葉」のことを指す。その象徴たるポンチ絵は、横向きA4サイズの現代アート」とも称される。 初出は定かではないが、「霞ヶ関文学」という言葉の使用は、少なくとも1938年まで遡ることができる。 しばしば、霞ヶ関言葉の用語集が各省庁によって作られることもある。 ここでのポンチ絵とは、「 西洋風の風刺画・漫画のこと。」ではなく、霞ヶ関文学に特有のパワーポイントで作成されたプレゼンテーション資料のことを指す。その特徴は下記のようなもの。 このような特徴を持つポンチ絵が作成されることの背景にはさまざまな要因が考えられる。 例えば、「行政の業務はどうしてもステークホルダーが多くなりがちです。暮らしのすべてに対応しているので業務範囲もめちゃくちゃ広い。民間であれば、目的や対象や関係者、事業内容などを意図的にしぼることができると思いますが、それが行政になると常にあらゆる関係範囲を網羅的に記載しないといけないので、結果的にポンチ絵と呼ばれるものになるのだと思います」と行政機関の作成する資料である点に着目した意見がある。さらに、『資料だけが庁内で一人歩きしても「過不足なく理解される」ことも重要だ』との意見もある。また、「国の報告書や答申などは、どんな立場の人が見ても『自分が触れてほしいことが載っている』と思えるように、あえて網羅的になっている」とも言われている。 つまり、「いつ、誰が、どこで読んでも内容が伝わる」という非常に高い汎用性が求められた結果、このようなポンチ絵が生まれたのだと考えられている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "霞ヶ関文学 (かすみがせきぶんがく) とは、日本の霞ヶ関、つまり日本の省庁で扱う文書用語表現文を「文芸ジャンル」としてとらえた比喩で、「ありふれたことを滑稽なほどまわりくどく、もったいぶって表現する言葉」のことを指す。その象徴たるポンチ絵は、横向きA4サイズの現代アート」とも称される。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "初出は定かではないが、「霞ヶ関文学」という言葉の使用は、少なくとも1938年まで遡ることができる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "", "title": "霞ヶ関言葉の具体例" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "しばしば、霞ヶ関言葉の用語集が各省庁によって作られることもある。", "title": "霞ヶ関言葉の具体例" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ここでのポンチ絵とは、「 西洋風の風刺画・漫画のこと。」ではなく、霞ヶ関文学に特有のパワーポイントで作成されたプレゼンテーション資料のことを指す。その特徴は下記のようなもの。", "title": "ポンチ絵" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "このような特徴を持つポンチ絵が作成されることの背景にはさまざまな要因が考えられる。 例えば、「行政の業務はどうしてもステークホルダーが多くなりがちです。暮らしのすべてに対応しているので業務範囲もめちゃくちゃ広い。民間であれば、目的や対象や関係者、事業内容などを意図的にしぼることができると思いますが、それが行政になると常にあらゆる関係範囲を網羅的に記載しないといけないので、結果的にポンチ絵と呼ばれるものになるのだと思います」と行政機関の作成する資料である点に着目した意見がある。さらに、『資料だけが庁内で一人歩きしても「過不足なく理解される」ことも重要だ』との意見もある。また、「国の報告書や答申などは、どんな立場の人が見ても『自分が触れてほしいことが載っている』と思えるように、あえて網羅的になっている」とも言われている。", "title": "ポンチ絵" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "つまり、「いつ、誰が、どこで読んでも内容が伝わる」という非常に高い汎用性が求められた結果、このようなポンチ絵が生まれたのだと考えられている。", "title": "ポンチ絵" } ]
霞ヶ関文学 (かすみがせきぶんがく) とは、日本の霞ヶ関、つまり日本の省庁で扱う文書用語表現文を「文芸ジャンル」としてとらえた比喩で、「ありふれたことを滑稽なほどまわりくどく、もったいぶって表現する言葉」のことを指す。その象徴たるポンチ絵は、横向きA4サイズの現代アート」とも称される。
{{重複|date=2023年11月|dupe=お役所言葉}} '''霞ヶ関文学''' (かすみがせきぶんがく) とは、日本の[[霞ヶ関]]、つまり日本の[[省庁]]で扱う文書用語表現文を「[[文芸]][[ジャンル]]」としてとらえた[[比喩]]で、「ありふれたことを[[滑稽]]なほどまわりくどく、もったいぶって表現する言葉」<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=00635_霞が関文学・霞が関言葉 |url=https://9546.jp/2019/10/09/00635_%e9%9c%9e%e3%81%8c%e9%96%a2%e6%96%87%e5%ad%a6%e3%83%bb%e9%9c%9e%e3%81%8c%e9%96%a2%e8%a8%80%e8%91%89/ |website=企業法務大百科® |date=2019-10-09 |access-date=2023-09-08|last=弁護士法人畑中鐵丸法律事務所}}{{信頼性要検証|date=2023-11}}</ref>のことを指す。その象徴たるポンチ絵は、横向きA4サイズの[[現代アート]]」とも称される<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=横向きA4サイズの現代アート。霞が関の「ポンチ絵」はどうして生まれたか? その知られざる使命とは|url=https://note.com/narumi/n/nf4210a6c6051 |author=narumi|website=note(ノート) |date=2023-09-07 |access-date=2023-09-08}}{{信頼性要検証|date=2023-11}}</ref>。 == 歴史 == [[初出]]は定かではないが、「霞ヶ関文学」という言葉の使用は、少なくとも1938年まで遡ることができる<ref>{{Cite web|和書|title=国立国会図書館デジタルコレクション |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1877664 |website=dl.ndl.go.jp |access-date=2023-09-08}}</ref>{{独自研究?|date=2023年11月}}。 == 霞ヶ関言葉の具体例 == {| class="wikitable" |'''日常用語''' |'''霞ヶ関言葉''' |- |ゴミ |一般[[廃棄物]] |- |[[ビジネス街]] |特定商業集積 |- |これから農業をやりたい人 |新規就農希望者 |- |[[マザコン]] |過度な母子の密着 |- |外国語ブーム |語学学習意欲の高まり |- |クビになって職探しをしている人 |非自発的離職求職者 |- |みんな勝手にやればいい |各主体の自主的対応を尊重する |- |簡単な英会話ができるようにする |外国人旅行者への対応能力を整備する |- |普通の[[サラリーマン]]は家が買えない |平均的な勤労者の良質な住宅確保は困難な状況にある |- |転職しやすくする |[[人的資本]]の[[流動性 (経済学)|流動性]]の拡大のため環境整備を行う |- |[[エレベーター]]を入れる |円滑な垂直移動ができるよう施設整備を進めていく |- |家が狭くて子供が作れなくなっている |住宅のあり方が夫婦の出生行動に大きな影響を与えている |} <ref name=":0" /> しばしば、霞ヶ関言葉の用語集が各省庁によって作られることもある<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=霞が関文学って何??|NHK NEWS WEB |url=https://www3.nhk.or.jp/news/special/kasumigaseki/article/article_190624.html |website=www3.nhk.or.jp |access-date=2023-09-08 |last=日本放送協会}}</ref>。 == ポンチ絵 == ここでの[[ポンチ絵]]とは、「 [[西洋]]風の[[風刺画]]・[[漫画]]のこと。」<ref>{{Cite web|和書|title=ポンチ絵(ポンチえ)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%81%E7%B5%B5-632350 |website=コトバンク |access-date=2023-09-08 |language=ja |first=精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,百科事典マイペディア,山川 日本史小辞典 |last=改訂新版,世界大百科事典内言及}}</ref>ではなく、霞ヶ関文学に特有の[[Microsoft PowerPoint|パワーポイント]]で作成された[[プレゼンテーション]]資料のことを指す。その特徴は下記のようなもの。 * '''1ページに説明すべき事柄についての構成要素が「もれなく」含まれている'''<ref name=":1" />'''。''' * '''テキストだけでなく、イラストを使った図解とともに作成されることが多い'''<ref name=":1" />'''。''' * '''原則、横向きA4レイアウト、説明したい文章が細かく書き込まれている'''<ref name=":1" />'''。''' === 背景 === このような特徴を持つポンチ絵が作成されることの背景にはさまざまな要因が考えられる。 例えば、「行政の業務はどうしてもステークホルダーが多くなりがちです。暮らしのすべてに対応しているので業務範囲もめちゃくちゃ広い。民間であれば、[[目的]]や[[対象]]や関係者、事業内容などを意図的にしぼることができると思いますが、それが行政になると常にあらゆる関係範囲を網羅的に記載しないといけないので、結果的にポンチ絵と呼ばれるものになるのだと思います」<ref name=":1" />と[[行政機関]]の作成する資料である点に着目した意見がある。さらに、『[[資料]]だけが庁内で一人歩きしても「過不足なく理解される」ことも重要だ』<ref name=":1" />との意見もある。また、「国の報告書や[[答申]]などは、どんな立場の人が見ても『自分が触れてほしいことが載っている』と思えるように、あえて網羅的になっている」<ref name=":1" />とも言われている。 つまり、「いつ、誰が、どこで読んでも内容が伝わる」という非常に高い汎用性が求められた結果、このようなポンチ絵が生まれたのだと考えられている。 == 霞ヶ関文学への評価 == === 肯定的な評価 === * 「とにかくうつくしい。見とれるほどに。 * [[デザイン]]を学んだ人なら眉をひそめるかもしれない。だが、その複雑怪奇な[[魅力]]にはあらがえない――。」<ref name=":1" /> === 否定的な評価 === * 「どこの業界だって、そこだけで通用する[[話法]]や[[隠語]]はあると思います。ただし、霞が関や[[国会 (日本)|国会]]には、[[森友学園問題|モリカケ問題]]や[[自衛隊日報問題|日報問題]]など、相次いだ不祥事のあと、[[透明性]]や[[説明責任]]が求められているなか、こうした[[内輪]]だけが理解できる“[[文学]]”が広くまかり通るようだと違和感を覚えます。」<ref name=":2" /> == 脚注 == <references /> == 参考文献 == == 関連項目 == *[[お役所言葉]] *[[霞ヶ関]] *[[官僚]] {{DEFAULTSORT:かすみかせきふんかく}} [[Category:日本語の文化]] [[Category:文書作成]] [[Category:日本の官公庁]] [[Category:比喩]]
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英幸
英幸(ひでゆき)は、日本語の男性名。以下の人がいる。
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英幸(ひでゆき)は、日本語の男性名。以下の人がいる。 進藤英幸 - 日本の中国文学学者。 小林英幸 - 日本のプロ野球選手。東京府出身。 高井英幸 - 日本の実業家。元東宝社長。 伊東英幸 - 日本の実業家。ダスキン代表取締役会長。 芦原英幸 - 日本の空手家。 加藤英幸 - 日本のヤクザ。 藤倉英幸 - 日本のイラストレーター、貼り絵作家。 奥江英幸 - 日本の元プロ野球選手(投手)。 徳田英幸 - 日本の計算機科学者、工学者。 村木英幸 - 日本の政治家。前東京都あきる野市長(1期)。 足利英幸 - 日本の実業家。 中野英幸 - 日本の政治家。 松井英幸 - 日本の元競輪選手、元自転車競技選手。 森戸英幸 - 日本の法学者。 栄永英幸 - 日本のテレビプロデューサー。 酒井英幸 - 日本の柔道家。 川上英幸 - 日本の脚本家。 仲城英幸 - 日本のレーシングライダー(ロードレース)。奈良県奈良市出身。 横山英幸 - 日本の政治家。大阪市長(第22代)。 高島英幸 - 日本の英語教育学者。 衛藤英幸 - 大分県出身のゲームミュージックの作曲家、ミニマルテクノのアーティスト。
'''英幸'''(ひでゆき)は、日本語の男性名。以下の人がいる。 * [[進藤英幸]](1929年 - ) - 日本の中国文学学者。 * [[小林英幸]](1940年 - 2014年) - 日本のプロ野球選手。東京府出身。 * [[高井英幸]](1941年 - ) - 日本の実業家。元東宝社長。 * [[伊東英幸]](1943年 - ) - 日本の実業家。ダスキン代表取締役会長。 * [[芦原英幸]](1944年 - 1995年) - 日本の空手家。 * [[加藤英幸]](1947年 - ) - 日本のヤクザ。 * [[藤倉英幸]](1948年 - ) - 日本のイラストレーター、貼り絵作家。 * [[奥江英幸]](1950年 - ) - 日本の元プロ野球選手(投手)。 * [[徳田英幸]](1952年 - ) - 日本の計算機科学者、工学者。 * [[村木英幸]](1957年 - ) - 日本の政治家。前東京都あきる野市長(1期)。 * [[足利英幸]](1960年 - ) - 日本の実業家。 * [[中野英幸]](1961年 - ) - 日本の政治家。 * [[松井英幸]](1964年 - ) - 日本の元競輪選手、元自転車競技選手。 * [[森戸英幸]](1965年 - ) - 日本の法学者。 * [[栄永英幸]](1966年 - ) - 日本のテレビプロデューサー。 * [[酒井英幸]](1967年 - ) - 日本の柔道家。 * [[川上英幸]](1967年 - ) - 日本の脚本家。 * [[仲城英幸]](1968年 - ) - 日本のレーシングライダー(ロードレース)。奈良県奈良市出身。 * [[横山英幸]](1981年 - ) - 日本の政治家。大阪市長(第22代)。 * [[高島英幸]](? - ) - 日本の英語教育学者。 * [[衛藤英幸]](? - ) - 大分県出身のゲームミュージックの作曲家、ミニマルテクノのアーティスト。 == 関連項目 == * {{prefix}} * {{intitle}} {{人名の曖昧さ回避}} {{DEFAULTSORT:ひてゆき}} [[Category:日本語の男性名]]
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BYD・シール
シール(簡: 比亚迪 海豹、英: BYD SEAL)は、BYDによって製造・販売されているセダン型の二次電池式電気自動車(BEV)である。 2021年9月、コンセプトカー「ocean-X」として発表。「e-Platform 3.0」をベースに開発されている。 中国市場向けのラインナップは、150 kWを発揮するシングルモーターを搭載し後輪を駆動する「精英型(Elite)」、170 kWを発揮するシングルモーターを搭載し後輪を駆動する「尊貴型(Prestige)」、230 kWを発揮するシングルモーターを搭載し後輪を駆動する「性能型(Performance)」、フロントに160 kW、リアに230 kWを発揮するモーターを搭載し四輪を駆動する「四駆性能型(4WD Performance)」である。 中国市場向けには61.4 kWhまたは82.5 kWhのLFP(リン酸鉄)リチウムイオンブレードバッテリーを搭載し、航続可能距離は550 kmから700 km(BYD調べ)となる。 2022年7月21日、2023年下半期に日本で展開することを発表した。
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シールは、BYDによって製造・販売されているセダン型の二次電池式電気自動車(BEV)である。
'''シール'''({{Lang-zh-hans-short|''比亚迪 海豹''}}、{{Lang-en-short|''BYD SEAL''}})は、[[比亜迪汽車|BYD]]によって製造・販売されている[[セダン]]型の[[二次電池式電気自動車]](BEV)である。 == 概要 == {{Infobox_自動車のスペック表 |車種=普通自動車 |車名= シール |車名補= |1枚目画像の説明= 中国仕様(フロント) |1枚目画像名= BYD Seal 004.jpg |2枚目画像の説明= リア |2枚目画像名= The rearview of BYD SEAL.jpg |3枚目画像の説明= 内装 |3枚目画像名= The interior of BYD SEAL.jpg |製造国= {{PRC}} |販売期間= 2022年- |設計統括= |デザイン= |乗車定員= |ボディタイプ= 4ドア[[セダン]] |エンジン= |モーター= 交流同期電動機 |最高出力= 230 kW(RWD)<br>390 kW(AWD) |最大トルク= |range= 欧州[[WLTP]] BYD調べ<br>555 km |トランスミッション= |駆動方式= [[後輪駆動]]<br>[[四輪駆動]] |サスペンション= |全長= 4,800 mm |全幅= 1,875 mm |全高= 1,460 mm |ホイールベース= 2,920 mm |車両重量= |最大積載量= |自由項目1(項目名)= |自由項目1(内容)= |自由項目2(項目名)= |自由項目2(内容)= |別名= |先代= |後継= |プラットフォーム= e-Platform 3.0 }} 2021年9月、コンセプトカー「ocean-X」として発表<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.marklines.com/ja/news/258637|title=BYD、eプラットフォーム3.0をベースとするコンセプトカー「ocean-X」を発表|publisher=[[マークラインズ|MARKLiNES]]|date=2021-09-13 |accessdate=2023-08-14}}</ref>。「e-Platform 3.0」をベースに開発されている<ref>{{Cite press release|和書|url=https://en.byd.com/news/byd-launches-e-platform-3-0-with-the-new-concept-car-ocean-x/|title=BYD LAUNCHES E-PLATFORM 3.0 WITH THE NEW CONCEPT CAR OCEAN-X|language=英語|publisher=BYD|date=2022-09-08 |accessdate=2023-09-08}}</ref>。 中国市場向けのラインナップは、150 kWを発揮するシングルモーターを搭載し後輪を駆動する「精英型(Elite)」、170 kWを発揮するシングルモーターを搭載し後輪を駆動する「尊貴型(Prestige)」、230 kWを発揮するシングルモーターを搭載し後輪を駆動する「性能型(Performance)」、フロントに160 kW、リアに230 kWを発揮するモーターを搭載し四輪を駆動する「四駆性能型(4WD Performance)」である。 中国市場向けには61.4 kWhまたは82.5 kWhの[[リチウムイオン二次電池#リン酸鉄リチウムイオン電池|LFP(リン酸鉄)リチウムイオン]]ブレードバッテリーを搭載し、航続可能距離は550 kmから700 km(BYD調べ)となる<ref>{{Cite web|url=https://www.carexpert.com.au/car-news/when-the-byd-atto-3-standard-range-seal-dolphin-will-hit-australia|title=When the BYD Atto 3 Standard Range, Seal, Dolphin will hit Australia|language=英語|publisher=CarExpert|date=2022-09-07|accessdate=2023-09-08}}</ref>。 === 日本での販売 === 2022年7月21日、2023年下半期に日本で展開することを発表した<ref>{{Cite press release|和書|url=https://byd.co.jp/news/2022_0721_94.html|title=最新EV3車種を日本で2023年から順次発売|publisher=ビーワイディージャパン株式会社|date=2022-07-21|accessdate=2023-08-10}} </ref>。 {{-}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[比亜迪汽車]] == 外部リンク == * [https://byd.co.jp/e-life/cars/seal/ SEAL | BYD Auto Japan株式会社]{{ja icon}} {{デフォルトソート:BYDしいる}} [[Category:中国の電気自動車]] [[Category:比亜迪汽車の車種|しいる]] [[Category:セダン]]
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第一レンタル
第一レンタル株式会社(DAIICHI RENTAL CO.,LTD.)は、富山県南砺市に本社を置く、建設工事現場事務所にユニットハウスや、スポーツ・催事・祭事会場にはテント及びオフィス空間を快適にするオフィス家具・パソコン・コピー機等ICT機器をレンタルサービスとして提供する企業。 2012年からは、富山センター(富山市婦中町萩島)にて、中古家具スーパー、オフィス家具・ICT機器のショールームを開設し、展示型リユース販売を開始。 2018年に開業した、つぼやきいも専門店「銀座つぼやきいも」を運営し、2023年からは、アグリ事業「さつまいも栽培」も行っている。
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第一レンタル株式会社は、富山県南砺市に本社を置く、建設工事現場事務所にユニットハウスや、スポーツ・催事・祭事会場にはテント及びオフィス空間を快適にするオフィス家具・パソコン・コピー機等ICT機器をレンタルサービスとして提供する企業。 2012年からは、富山センター(富山市婦中町萩島)にて、中古家具スーパー、オフィス家具・ICT機器のショールームを開設し、展示型リユース販売を開始。 2018年に開業した、つぼやきいも専門店「銀座つぼやきいも」を運営し、2023年からは、アグリ事業「さつまいも栽培」も行っている。
{{特筆性|date=2023年9月24日 (日) 02:37 (UTC)|組織}} {{基礎情報 会社 |社名 = 第一レンタル株式会社 |英文社名 = DAIICHI RENTAL CO.,LTD. |ロゴ = |画像 = ファイル:第一レンタル 本社.jpg|サムネイル |画像説明 = 第一レンタル本社(2023.2.17撮影) |種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] |機関設計 = [[取締役会設置会社]] |市場情報 = |略称 = |国籍 = {{JPN}} |本社郵便番号 = 939-1511 |本社所在地 = [[富山県]][[南砺市]]高堀8番地 |本社緯度度 = 36|本社緯度分 = 36|本社緯度秒 = 13|本社N(北緯)及びS(南緯) = N |本社経度度 = 136|本社経度分 = 56|本社経度秒 = 47|本社E(東経)及びW(西経) = E |座標右上表示 = Yes |本社地図国コード = |本店郵便番号 = |本店所在地 = |本店緯度度 = |本店緯度分 = |本店緯度秒 = |本店N(北緯)及びS(南緯) = |本店経度度 = |本店経度分 = |本店経度秒 = |本店E(東経)及びW(西経) = |本店地図国コード = |設立 = [[1983年]](昭和58年)[[11月1日]] |業種 = 9050 |法人番号 = 5230001008502 |統一金融機関コード = |SWIFTコード = |事業内容 = オフィス家具・ユニットハウス・備品・ICT機器レンタル業 |代表者 = 釋永朋也(代表取締役) |資本金 = 1億円 |発行済株式総数 = |売上高 = |営業利益 = |経常利益 = |純利益 = |純資産 = |総資産 = |従業員数 = 75名(2022年12月) |支店舗数 = |決算期 = 12月31日 |会計監査人 = |所有者 = |主要株主 = |主要部門 = |主要子会社 = 第一トラスト株式会社 |関係する人物 = |外部リンク = https://www.doffice.co.jp/ |特記事項 = }} '''第一レンタル株式会社'''(DAIICHI RENTAL CO.,LTD.)は、[[富山県]][[南砺市]]に本社を置く、[[建設]]工事現場事務所にユニットハウスや、[[スポーツ]]・催事・祭事会場には[[テント]]及び[[オフィス]][[空間]]を快適にするオフィス家具・[[パソコン]]・[[コピー機]]等ICT機器を[[レンタル]]サービスとして提供する企業。<br /> 2012年からは、富山センター(富山市[[婦中町]]萩島)にて、中古家具スーパー、オフィス家具・ICT機器のショールームを開設し、展示型リユース販売を開始。<br /> 2018年に開業した、つぼやきいも専門店「[[銀座]]つぼやきいも」を運営し、2023年からは、[[アグリビジネス]]」[[さつまいも]]栽培も行っている。 == 沿革 == * [[1983年]](昭和58年)- 建設仮設機材のレンタル会社として設立 * [[1985年]](昭和60年)- 下水道関連機材、イベント用品のレンタルを開始 * [[1988年]](昭和63年)- 第一メンテナンス株式会社を設立 * [[1990年]](平成2年)- 本社(南砺市高堀)新築移転 * [[1992年]](平成4年)- 建設現場事務所向け備品及びICT機器のレンタルを開始 * [[1994年]](平成6年)- オフィス向け備品及びICT機器のレンタルを開始 * [[1998年]](平成10年) - イベント向けレンタルを拡充のため第一プロデュース事業部を発足し、広告・印刷・出版を開始 * [[2005年]](平成17年) - 第一メンテナンス株式会社と第一プロデュース事業部を併合し、第一プロデュース株式会社を設立 * [[2006年]](平成18年) - 第一トラスト株式会社を設立 * [[2012年]](平成24年) - 広友リース株式会社(現 [[コーユーレンティア]]株式会社)と業務提携。富山センター(富山市[[婦中町]]萩島)を開設 * [[2014年]](平成26年) - 一般社団法人 什器・備品レンタル協会(現 一般社団法人 [[ジャパン・レンタル・アソシエーション]])に加盟 * [[2018年]](平成30年) - 新規事業「銀座つぼやきいも」(東京都中央区銀座7丁目)開業 * [[2020年]](令和2年) - 富山県[[南砺市]]、[[砺波市]]と「[[災害]]時等におけるレンタル機材の提供に関する協定」を[[ジャパン・レンタル・アソシエーション|一般社団法人ジャパン・レンタル・アソシエーション]]として締結。 * [[2022年]](令和4年) - 第一プロデュース株式会社を併合、プロデュース事業部となる * [[2023年]](令和5年) - 新規事業「[[アグリビジネス]]」[[さつまいも]]栽培開始。[[フェーズフリー]]アクションパートナー登録。 == 事業所一覧 == * 富山センター([[富山県]][[富山市]]) * 金沢支店([[石川県]][[金沢市]]) * 千里整備センター([[富山県]][[富山市]]) * イベント資材センター([[富山県]][[南砺市]]) == 脚注 == * 2018年10月[[月刊「事業構想」オンライン]][https://www.projectdesign.jp/201810/]に「銀座の路面に焼き芋店 富山発ローカルベンチャーの狙い」と新規事業「銀座つぼやきいも」が紹介される。 == 加盟団体 == * [[ジャパン・レンタル・アソシエーション|一般社団法人ジャパン・レンタル・アソシエーション]] == 外部リンク == * [https://www.doffice.co.jp/ 第一レンタル株式会社] * [https://twitter.com/daiichirental8/ ポスト(旧Twitter)] {{DEFAULTSORT:たいいちれんたる}} [[Category:1983年設立の企業]] [[Category:南砺市の企業]]
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ニコラス・ケンジ
ニコラス・ケンジ(NICOLAS KENJI、1993年4月29日 - )は、日本のブレイクダンサー・モデル・タレント・ダンス講師・Youtuber。ダンサーネームはBBOY NICOLAS。「Valuence INFINITIES」、「THE FLOORRIORZ」(第二期)のリーダー。スポンサーは「株式会社リーセンド」、「ゴールデンミッション」。 ハワイ出身。2012年からブレイキンを初め、ダンス歴わずか4年で「THE FLOORRIORZ」に加入。2015年から2017年のBOTY (Battle Of The Year)(世界大会)において3連覇に貢献。2022年、D.LEAGUE 22-23 SEASON「Valuence INFINITIES」リーダーに就任。2023年 、THE FLOORRIORZ(第二期)リーダーに就任。 2015年 ・2015年 THE FLOORRIORZ ブレイクダンス世界大会「Battle of the Year」優勝。 2016年 ・2016年 THE FLOORRIORZ ブレイクダンス世界大会「Battle of the Year」優勝。 ・2016年 「Freestyle Session Japan」優勝。 2017年 ・2017年 THE FLOORRIORZ ブレイクダンス世界大会「Battle of the Year」優勝。 ・2017年 「Freestyle Session Japan」優勝。 ・2017年 「Battle of est (エストニア)」優勝。 2020年 ・2020年 THE FLOORRIORZ 「Super Break」 優勝。 2021年 ・2021年 THE FLOORRIORZ ブレイクダンス世界大会「Battle of the year」Top4入り。 2023年 ・2023年 日本最大級のダンスフェス、「DANCEALIVE Charismax」東京大会優勝。 ・2023年 「DANCEALIVE FINALBREAKING」(ブレイキン) Top 8入り。 ・2023年 「Red Bull BC One Cypher Japan 2023」 大阪大会優勝。 ・2023年 「Red Bull BC One Cypher Japan 2023」 日本大会優勝。 2016年 ・2016年 テレビ朝日「ミュージックステーション」 三浦大知 バックダンサー。 2017年 ・2017年 日本テレビ「ZIP!」生出演。 2018年 ・2018年 NHK「沼にハマって聞いてみた。」出演。 2019年 ・2019年 UNIQLOアンクルパンツWEBムービー出演。 2021年 ・2021年 UQモバイルTVCM出演。 ・2021年 アサヒスーパードライTVCM出演。 ・2021年 ポケモンカードTVCM出演。 ・2021年 ダイハツ アトレーTVCM出演。 ・2021年 Matin Avenirモデル起用。 2022年 ・2022年 舞台「浜村渚の計算ノート」 出演。 ・2022年 UNIQLO TVCM出演。 ・2022年 NEW ERA モデル起用。 2023年 ・2023年 NEW ERA モデル起用。 ・2023年 JBL 夏のON-THE-GOキャンペーン動画出演。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ニコラス・ケンジ(NICOLAS KENJI、1993年4月29日 - )は、日本のブレイクダンサー・モデル・タレント・ダンス講師・Youtuber。ダンサーネームはBBOY NICOLAS。「Valuence INFINITIES」、「THE FLOORRIORZ」(第二期)のリーダー。スポンサーは「株式会社リーセンド」、「ゴールデンミッション」。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ハワイ出身。2012年からブレイキンを初め、ダンス歴わずか4年で「THE FLOORRIORZ」に加入。2015年から2017年のBOTY (Battle Of The Year)(世界大会)において3連覇に貢献。2022年、D.LEAGUE 22-23 SEASON「Valuence INFINITIES」リーダーに就任。2023年 、THE FLOORRIORZ(第二期)リーダーに就任。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2015年 ・2015年 THE FLOORRIORZ ブレイクダンス世界大会「Battle of the Year」優勝。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2016年", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "・2016年 THE FLOORRIORZ ブレイクダンス世界大会「Battle of the Year」優勝。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "・2016年 「Freestyle Session Japan」優勝。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2017年", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "・2017年 THE FLOORRIORZ ブレイクダンス世界大会「Battle of the Year」優勝。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "・2017年 「Freestyle Session Japan」優勝。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "・2017年 「Battle of est (エストニア)」優勝。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2020年", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "・2020年 THE FLOORRIORZ 「Super Break」 優勝。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2021年", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "・2021年 THE FLOORRIORZ ブレイクダンス世界大会「Battle of the year」Top4入り。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2023年", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "・2023年 日本最大級のダンスフェス、「DANCEALIVE Charismax」東京大会優勝。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "・2023年 「DANCEALIVE FINALBREAKING」(ブレイキン) Top 8入り。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "・2023年 「Red Bull BC One Cypher Japan 2023」 大阪大会優勝。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "・2023年 「Red Bull BC One Cypher Japan 2023」 日本大会優勝。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2016年", "title": "タレント経歴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "・2016年 テレビ朝日「ミュージックステーション」 三浦大知 バックダンサー。", "title": "タレント経歴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2017年", "title": "タレント経歴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "・2017年 日本テレビ「ZIP!」生出演。", "title": "タレント経歴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2018年", "title": "タレント経歴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "・2018年 NHK「沼にハマって聞いてみた。」出演。", "title": "タレント経歴" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2019年", "title": "タレント経歴" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "・2019年 UNIQLOアンクルパンツWEBムービー出演。", "title": "タレント経歴" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2021年", "title": "タレント経歴" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "・2021年 UQモバイルTVCM出演。", "title": "タレント経歴" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "・2021年 アサヒスーパードライTVCM出演。", "title": "タレント経歴" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "・2021年 ポケモンカードTVCM出演。", "title": "タレント経歴" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "・2021年 ダイハツ アトレーTVCM出演。", "title": "タレント経歴" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "・2021年 Matin Avenirモデル起用。", "title": "タレント経歴" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2022年", "title": "タレント経歴" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "・2022年 舞台「浜村渚の計算ノート」 出演。", "title": "タレント経歴" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "・2022年 UNIQLO TVCM出演。", "title": "タレント経歴" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "・2022年 NEW ERA モデル起用。", "title": "タレント経歴" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2023年", "title": "タレント経歴" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "・2023年 NEW ERA モデル起用。", "title": "タレント経歴" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "・2023年 JBL 夏のON-THE-GOキャンペーン動画出演。", "title": "タレント経歴" } ]
ニコラス・ケンジは、日本のブレイクダンサー・モデル・タレント・ダンス講師・Youtuber。ダンサーネームはBBOY NICOLAS。「Valuence INFINITIES」、「THE FLOORRIORZ」(第二期)のリーダー。スポンサーは「株式会社リーセンド」、「ゴールデンミッション」。
{{Otheruses|日本のブレイクダンサー|アメリカ合衆国の俳優|ニコラス・ケイジ}} '''ニコラス・ケンジ'''(NICOLAS KENJI、[[1995年4月29日の日食|1993年4月29日]] - )は、[[日本]]の[[ブレイクダンス|ブレイクダンサー]]・[[モデル (職業)|モデル]]・[[タレント]]・[[ダンス講師]]・[[YouTuber|Youtuber]]。ダンサーネームは'''BBOY NICOLAS'''。「Valuence INFINITIES」、「THE FLOORRIORZ」(第二期)のリーダー。スポンサーは「[[株式会社リーセンド]]」、「[[ゴールデンミッション]]」。 == 経歴 == ハワイ出身。2012年から[[ブレイクダンス|ブレイキン]]を初め、ダンス歴わずか4年で「[[THE FLOORRIORZ]]」に加入。2015年から2017年の'''[[BOTY]] (Battle Of The Year)'''(世界大会)において3連覇に貢献。2022年、'''D.LEAGUE 22-23 SEASON「Valuence INFINITIES」'''リーダーに就任。2023年 、'''THE FLOORRIORZ'''(第二期)リーダーに就任。 == 戦績 == '''2015年''' ・2015年 [[THE FLOORRIORZ]] [[ブレイクダンス]][[競技|世界大会]]「[[Battle of the Year]]」優勝。 '''2016年''' ・2016年 [[THE FLOORRIORZ]] [[ブレイクダンス]][[競技|世界大会]]「[[Battle of the Year]]」優勝。 ・2016年 「Freestyle Session Japan」優勝。 '''2017年''' ・2017年 [[THE FLOORRIORZ]] [[ブレイクダンス]][[競技|世界大会]]「[[Battle of the Year]]」優勝。 ・2017年 「Freestyle Session Japan」優勝。 ・2017年 「[[Battle of est]] (エストニア)」優勝<ref>{{Cite web |title=Boe17 / BATTLE OF EST 2017 |url=https://and8.dance/jp/e/1919 |website=and8.dance |access-date=2023-09-08}}</ref>。 '''2020年''' ・2020年 [[THE FLOORRIORZ]] 「Super Break」 優勝。 '''2021年''' ・2021年 [[THE FLOORRIORZ]] [[ブレイクダンス]][[競技|世界大会]]「[[Battle of the Year|Battle of the year]]」Top4入り{{要出典|date=2023年9月}}。 '''2023年''' ・2023年 日本最大級のダンスフェス、「[[ダンスアライブ|DANCEALIVE Charismax]]」東京大会優勝。 ・2023年 「[[ダンスアライブ|DANCEALIVE FINALBREAKING]]」(ブレイキン) Top 8入り。 ・2023年 「[[Red Bull BC One|Red Bull BC One Cypher Japan 2023]]」 大阪大会優勝<ref>{{Cite web|和書|title=Red Bull BC One Cypher Japan 2023|世界最高峰のブレイキンバトルイベント |url=https://www.redbull.com/jp-ja/events/redbull-bc-one-cypher-japan |website=Red Bull |access-date=2023-09-08 |language=ja}}</ref>。 ・2023年 「[[Red Bull BC One|Red Bull BC One Cypher Japan 2023]]」 日本大会優勝<ref>{{Cite web |url=https://www.redbull.com/jp-ja/events/redbull-bc-one-cypher-japan/final-tournament |website=www.redbull.com |access-date=2023-09-12 |title=Red Bull BC One Cypher Japan 2023 決勝結果}}</ref>。 == タレント経歴 == '''2016年''' ・2016年 [[テレビ朝日]]「[[ミュージックステーション]]」 [[三浦大知]] バックダンサー。 '''2017年''' ・2017年 [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]「[[ZIP!]]」生出演。 '''2018年''' ・2018年 [[日本放送協会|NHK]]「沼にハマって聞いてみた。」出演。 '''2019年''' ・2019年 [[ユニクロ|UNIQLO]]アンクルパンツWEBムービー出演。 '''2021年''' ・2021年 [[UQ mobile|UQモバイル]]TVCM出演。 ・2021年 [[アサヒスーパードライ]]TVCM出演。 ・2021年 [[ポケモンカード]]TVCM出演。 ・2021年 [[ダイハツ工業|ダイハツ]] [[ダイハツ・アトレー|アトレー]]TVCM出演。 ・2021年 Matin Avenirモデル起用。 '''2022年''' ・2022年 舞台「[[浜村渚の計算ノート]]」 出演。 ・2022年 [[ユニクロ|UNIQLO]] TVCM出演。 ・2022年 [[NEW ERA]] モデル起用。 '''2023年''' ・2023年 [[NEW ERA]] モデル起用。 ・2023年 [[JBL (企業)|JBL]] 夏のON-THE-GOキャンペーン動画<ref>{{Citation|title=JBL Presents Summer Dance ~Shigekix x Shigekix~ Full Ver.|url=https://www.youtube.com/watch?v=AHS6UVvKeaY|language=ja-JP|access-date=2023-09-12}}</ref>出演。 == 外部リンク == [https://reasend.com/nicolas/ ニコラス・ケンジ オフィシャルウェブサイト] == 脚注 == <references /> {{DEFAULTSORT:けんし にこらす}} [[Category:1993年生]] [[Category:ブレイクダンサー]] [[Category:日本の男性モデル]] [[Category:日本のタレント]] [[Category:日本の男性YouTuber]]
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舒婷
舒 婷 (じょ てい、英語: Shu Ting、仮名転写:シュー・ティン、1952年 - ) は現代の中国詩人で、朦朧詩人の一人である。1970年代に詩作を始め、後に作品を出版した。本名は龔佩瑜 (きょう はいゆ、英語: Gong Peiyu)。 舒婷は福建省晋江市で生まれ育った。しかし彼女が十代の時、父親が思想的異分子として告発されたため、地方へ移住させられた。福建省へ戻った時には彼女はセメント工場で仕事につき、そのほか紡績工場や電球工場で働いた。 彼女は詩を書き始め、1979年に最初の詩を発表し、地下出版の文芸誌『今天』に掲載された最初の一人となった。彼女は朦朧詩人として知られるグループの一員となった。朦朧詩人にはほかに北島、顧城(英語版)、菲野(英語版)、多多(英語版)などがいる。文芸誌『今天』は1978年から1980年まで発行されたが、中国の新しい最高指導者鄧小平によって思想的に問題のある出版物として発行停止となった。 1980年代初頭、彼女は朦朧詩人を代表する女性詩人として有名になった。彼女は政府の支援を受ける唯一の朦朧詩人だった。そのため彼女は顧城や北島などと秘密裏に活動することになった。彼女の最初の詩集『双桅船』が1982年に発表されたが、それは顧城との共著であった。 彼女は1982年にZhongyi Chenと結婚した。 彼女は要請されて中国作家協会へ加入し、1981年と1983年に全国優秀詩歌賞を受賞した。 1983年の「精神汚染一掃運動(英語版)」に際して、他の詩人たちと共に彼女は国家転覆分子として激しく批判された。その後、彼女は『Hui changge de yiweihua』『Shizuniao』という2つの詩集を発表している。 舒婷の作風は、非常にわかりやすいことで知られている。アンドレア・リンゲンフェルターはエヴァ・ハンによる舒婷の『詩選集』の書評の中で、「彼女の態度は理想主義的で、愛国者風で、しかも非政治的である。形式において、詩人はリスクをほとんど取らない」と評している。彼女の作品はまた、女性的な声を持ち、個人の様式に性格づけられている、とも言われる。当時は政府によってすすめられていた様式とは反対であることで目立っていた。 彼女の作品の多くは文化大革命の最中に発表され、たとえ直接的に政治的言及がされなかったとしても、政府によって検閲されていた。
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舒 婷 は現代の中国詩人で、朦朧詩人の一人である。1970年代に詩作を始め、後に作品を出版した。本名は龔佩瑜。
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Hong Kong: Renditions Paperbacks, 1994. *[https://www.worldcat.org/oclc/17075505 Shu,Ting. ''Shuang Wei Chuan'']. Shanghai: Shanghai wen yi chu ban she, 1982. Print. === 作風 === 舒婷の作風は、非常にわかりやすいことで知られている。アンドレア・リンゲンフェルターは''エヴァ・ハンによる''舒婷の『詩選集』の書評の中で、「彼女の態度は理想主義的で、愛国者風で、しかも非政治的である。形式において、詩人はリスクをほとんど取らない」と評している<ref name=":0" />。彼女の作品はまた、女性的な声を持ち、個人の様式に性格づけられている、とも言われる。当時は政府によってすすめられていた様式とは反対であることで目立っていた<ref name=":0" />。 彼女の作品の多くは[[文化大革命]]の最中に発表され、たとえ直接的に政治的言及がされなかったとしても、政府によって検閲されていた<ref>{{Citation|title=37. Misty Poetry|date=2016-12-31|url=https://doi.org/10.7312/dent17008-038|work=The Columbia Companion to Modern Chinese Literature|pages=286–292|publisher=Columbia University Press|doi=10.7312/dent17008-038|isbn=978-0-231-54114-5|access-date=2021-04-27|last1=Yeh|first1=Michelle}}</ref>。 ===作品を含むアンソロジー=== *{{cite journal| url=http://www.bpj.org/PDF/V39N2.pdf#zoom=100&page=1| title=Smoking People| publisher=[[Beloit Poetry Journal]]| volume=39| number=2| date=Winter 1988–1989| url-status=dead| archiveurl=https://web.archive.org/web/20101121020003/http://www.bpj.org/PDF/V39N2.pdf#zoom=100&page=1| archivedate=2010-11-21}} *{{cite book| chapter-url=https://books.google.com/books?id=h2qsBYOcJfQC&dq=shu+ting&pg=PA299| chapter=Perhaps| title= A Book of Luminous Things: An International Anthology of Poetry| editor=Czeslaw Milosz| publisher=Houghton Mifflin Harcourt| year= 1998| isbn= 978-0-15-600574-6 }} *{{cite book| url=https://archive.org/details/redazaleachinese0000unse| url-access=registration| page=[https://archive.org/details/redazaleachinese0000unse/page/99 99]| quote=shu ting.| title=The Red azalea: Chinese poetry since the Cultural Revolution|editor1=Edward Morin |editor2=Fang Dai|translator=Edward Morin |translator2=Fang Dai |translator3=Dennis Ding| publisher=University of Hawaii Press| year= 1990| isbn= 978-0-8248-1320-8 }} *{{cite book| chapter-url=https://books.google.com/books?id=ifNVS7pKjUQC&dq=shu+ting&pg=PA634| chapter=Assembly Line| title=The Giant Book of Poetry| editor=William H. Roetzheim| publisher=Level4Press Inc| year= 2006| isbn= 978-0-9768001-2-5 }} == 関連項目 == * [[朦朧詩人]] * [[北島 (詩人)|北島]] * {{仮リンク|多多|en|Duo Duo}} * {{仮リンク|菲野|en|Fei Ye}} * {{仮リンク|顧城|en|Gu Cheng}} * {{仮リンク|楊煉|en|Yang Lian (poet)}} == 参考文献 == *[http://apostrophecast.com/authors/swierz_xu.html An Apostrophe Cast episode with translations of Shu Ting's poems] by Michael Swierz and Ying Xu. *[http://www.renditions.org/renditions/authors/shuting.html "Shu Ting", Renditions, a Chinese-English translation magazine, last accessed June 5, 2007] *[http://www.poets.org/viewmedia.php/prmMID/21138 "From the Archive: Carolyn Kizer and Shu Ting"], ''poets.org'' *[http://www.china.com.cn/chinese/RS/680084.htm] 舒婷检点自己的爱情* ==外部リンク== {{Wikiquote}} *[http://apostrophecast.com/authors/swierz_xu.html An Apostrophe Cast episode with translations of Shu Ting's poems] by Michael Swierz and Ying Xu. *[http://www.renditions.org/renditions/authors/shuting.html "Shu Ting", Renditions, a Chinese-English translation magazine, last accessed June 5, 2007] *[http://www.poets.org/viewmedia.php/prmMID/21138 "From the Archive: Carolyn Kizer and Shu Ting"], ''poets.org'' *[http://www.china.com.cn/chinese/RS/680084.htm] 舒婷检点自己的爱情 {{Authority control}} ==脚注== {{reflist}} ===書誌=== * Kubin, Wolfgang. “Writing with Your Body: Literature as a Wound— Remarks on the Poetry of Shu Ting.” ''Modern Chinese Literature'', vol. 4, no. 1/2, 1988, pp.&nbsp;149–162. ''JSTOR'', www.jstor.org/stable/41490632. *Lingenfelter, Andrea. ''Modern Chinese Literature'', vol. 9, no. 2, 1996, pp.&nbsp;395–397. ''JSTOR'', www.jstor.org/stable/41490766. * Yeh, Michelle. “Misty Poetry.” ''The Columbia Companion to Modern Chinese Literature'', Columbia University Press, 2016, pp.&nbsp;286–292. *Zhang, Yingjin. ''A Companion to Modern Chinese Literature''. John Wiley & Sons, 2016. {{DEFAULTSORT:しよ てい}} [[Category:中国の女性詩人]] [[Category:20世紀中国の女性著作家]] [[Category:20世紀中国の詩人]] [[Category:20世紀中国の著作家]] [[Category:21世紀中国の女性著作家]] [[Category:21世紀中国の著作家]] [[Category:泉州出身の人物]] [[Category:1952年生]] [[Category:存命人物]]
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フォワーダ
フォワーダ(Forwarder)とは、積載式の集材作業車。 荷台の大きさによっては、短幹材から長材まで積み込むことが可能で、不整地や軟弱地などトラックが入り込めないところでも、接地面の広いクローラや不整地用タイヤを用い安定した重心で高い走行性能を示す。 高性能林業機械に分類され、スキッダ、タワーヤーダ、スイングヤーダなどと同様に集材機械である。 アーティキュレイト式は主にタイヤ式のフォワーダで採用されることが多い。中には後輪の代わりにクローラを装着し、接地圧を下げたモデルも存在する。アーティキュレイト式のメリットは比較的小旋回を行える点にある。 リジット式は主にクローラ式のフォワーダで採用される。リジット式は車体自体がアーティキュレイト式よりも短くなるため、木材を積載した際に車両全体がコンパクトになる。 荷台は主に車両後端部に設置されることが多いが、小型機においては車両横に積載できるモデルもあり、これは小型ながらにして長尺材を積載できるメリットがある。 サイドポールを後端に差し替えることで、長尺材から短管材まで積載できる。最もスタンダードな荷台。ロードデッキのつくものはさらに長尺材を積載することができる。ダンプ機構が備わっていることが多い。荷台を取り外し可能な物もあるが、メジャーではない。 車両フレームにパイプを立てて積載する。又はU字パイプに積載など。平型ボディのように底面を持たないため重量が軽くなる。荷台を持たないため重心を下げることができ、安定性が増す。 用材を積載する機能はそのままに、嵩高い末木や枝葉などをできるだけ多く積載するため、荷台フレームが伸縮し、横方向および上方向から圧縮することによって積載量を確保することができる圧縮機能を装備。 フォワーダでは作業機械が搭載される場合がある。以下は一例。
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フォワーダ(Forwarder)とは、積載式の集材作業車。 荷台の大きさによっては、短幹材から長材まで積み込むことが可能で、不整地や軟弱地などトラックが入り込めないところでも、接地面の広いクローラや不整地用タイヤを用い安定した重心で高い走行性能を示す。 高性能林業機械に分類され、スキッダ、タワーヤーダ、スイングヤーダなどと同様に集材機械である。
{{otheruses||貨物運送業者|フォワーダー}} [[ファイル:フォワーダ.jpg|サムネイル|MST-1000VDL|250x250ピクセル]] '''フォワーダ'''(''Forwarder'')とは、積載式の集材作業車。 荷台の大きさによっては、短幹材から長材まで積み込むことが可能で、不整地や軟弱地などトラックが入り込めないところでも、接地面の広いクローラや不整地用タイヤを用い安定した重心で高い走行性能を示す。 高性能林業機械に分類され、スキッダ、タワーヤーダ、スイングヤーダなどと同様に集材機械である。 == 車体構造の分類 == === アーティキュレイト式 === アーティキュレイト式は主にタイヤ式のフォワーダで採用されることが多い。中には後輪の代わりにクローラを装着し、接地圧を下げたモデルも存在する。アーティキュレイト式のメリットは比較的小旋回を行える点にある。 === リジット式 === リジット式は主にクローラ式のフォワーダで採用される。リジット式は車体自体がアーティキュレイト式よりも短くなるため、木材を積載した際に車両全体がコンパクトになる。 == 走行部の分類 == ;クローラ式 * クローラ式が日本では主流であり、特にゴムクローラを装着することが多い。 * クローラ式のフォワーダは走破性、安定性に優れるため、低規格の道路を開設して使用する例も多く見られる。 ;タイヤ式 * タイヤ式では6輪以上のタイヤを持つものが多い。 * クローラ式に比べると整地された路面が必要になる。 * タイヤ式は走行スピードに優れ、運搬スピードが速い。 == 荷台の分類 == 荷台は主に車両後端部に設置されることが多いが、小型機においては車両横に積載できるモデルもあり、これは小型ながらにして長尺材を積載できるメリットがある。 === 平型ボディ荷台 === サイドポールを後端に差し替えることで、長尺材から短管材まで積載できる。最もスタンダードな荷台。ロードデッキのつくものはさらに長尺材を積載することができる。ダンプ機構が備わっていることが多い。荷台を取り外し可能な物もあるが、メジャーではない。 === パイプ積載 === 車両フレームにパイプを立てて積載する。又はU字パイプに積載など。平型ボディのように底面を持たないため重量が軽くなる。荷台を持たないため重心を下げることができ、安定性が増す。 === バイオマス対応型荷台 === 用材を積載する機能はそのままに、嵩高い末木や枝葉などをできるだけ多く積載するため、荷台フレームが伸縮し、横方向および上方向から圧縮することによって積載量を確保することができる圧縮機能を装備<ref>{{Cite web|和書|title=木質バイオマス資源の安定供給に向けた取組:北海道森林管理局 |url=https://www.rinya.maff.go.jp/hokkaido/sidou/forester/Problem_solution/2017/03_02.html |website=www.rinya.maff.go.jp |access-date=2023-09-08}}</ref>。 == フォワーダに搭載される機構 == フォワーダでは作業機械が搭載される場合がある。以下は一例。 * グラップルクレーン - 木材を荷台から降ろしたり載せたりする。 * ウインチ * クラムバンクスキッダ == メーカー == * [[諸岡]] * イワフジ工業 * [[筑水キャニコム]] * 前田製作所 * 魚谷鉄工 * 加藤製作所 * ヤンマー建機 == 出典 == {{Reflist}} {{DEFAULTSORT:ふおわあた}} [[Category:車両系建設機械]] [[Category:用途別の自動車]]
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EXPLORE
『EXPLORE』(エクスプロア)は、 EXILE TAKAHIROの2枚目のオリジナルアルバム。2023年9月6日にrhythm zoneから発売された。 前作『All-The-Time Memories』から約6年ぶりのアルバム。「3CD+3DVD」「3CD+3Blu-ray」「2CD」の3形態で発売。 CDには2018年から収録したオリジナル楽曲と、EXILEのカバーシリーズ”EXILE RESPECT”の楽曲を収録。 映像DISCには『EXILE TAKAHIRO LIVE TOUR “TAKAHIRO道の駅 2023” 〜Road to EXPLORE〜』の映像、ソロ活動10周年のドキュメント映像、ミュージック・ビデオを収録。 EXILE TAKAHIRO LIVE TOUR "TAKAHIRO 道の駅 2023" ~Road to EXPLORE~ Bonus Track EXILE TAKAHIRO LIVE TOUR "TAKAHIRO 道の駅 2023" ~Road to EXPLORE~
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『EXPLORE』(エクスプロア)は、 EXILE TAKAHIROの2枚目のオリジナルアルバム。2023年9月6日にrhythm zoneから発売された。
{{Infobox Album | Name = EXPLORE | Type = スタジオ・アルバム | Artist = [[EXILE TAKAHIRO]] | Released = [[2023年]][[9月6日]] | Recorded = | Genre = [[J-POP]] | Length = 105分03秒<ref name=":0" /> | Label = [[rhythm zone]] | Producer = | Reviews = | Chart position = | Last album = [[All-The-Time Memories]]<br />([[2017年]]) | This album = '''EXPLORE'''<br />([[2023年]]) | Next album = | Misc = {{Singles | Name = EXPLORE | Type = スタジオ・アルバム | single 1 = Last Night | single 1 date = 2019年7月8日(配信) | single 2 = YOU are ROCK STAR | single 2 date = 2019年10月16日(配信) | single 3 = ON THE WAY 〜愛の光〜 | single 3 date = 2019年11月25日(配信) | single 4 = [[Carry On/運命のヒト#EXILE TAKAHIROによるカバー|運命のヒト]] | single 4 date = 2020年9月28日(配信) | single 5 = [[愛すべき未来へ#EXILE TAKAHIROによるカバー |Heavenly White EXILE RESPECT Ver.]] | single 5 date = 2020年12月21日(配信) | single 6 = [[PARADOX (EXILEの曲)|Lovers Again]] | single 6 date = 2021年4月27日 | single 7 = [[もっと強く#カバー|もっと強く]] - From THE FIRST TAKE | single 7 date = 2021年6月18日(配信) | single 8 = [[THE HURRICANE 〜FIREWORKS〜#EXILE TAKAHIROによるカバー |優しい光]] | single 8 date = 2021年8月9日(配信) | single 9 = [[I Believe (EXILEの曲) #EXILE TAKAHIROによるカバー |I Believe]] | single 9 date = 2021年12月24日(配信) | single 10 = [[道 (EXILEの曲)#EXILE TAKAHIROバージョン|道]] | single 10 date = 2022年11月22日(配信) | single 11 = Spotlight 〜光の先へ〜 | single 11 date = 2023年4月3日(先行配信) }} {{external music video|{{YouTube|JMch_ab-5PI|「Unconditional」}}<br /> {{YouTube|4Ds6-lf85LU|「YOU are ROCK STAR」}}<br /> {{YouTube|RrvUapM6KTE|「Last Night」}}<br /> {{YouTube|fEurHWFXdu8|「ON THE WAY ~愛の光~」}} |Type=album}} }} {{ external media | align = right | video1 = {{YouTube|foKn5h71BJ4|「Spotlight〜光の先へ〜」EXILE TAKAHIRO Solo Work Documentary Video}} | video2 = {{YouTube|gYCDp59L6Kw|「Message」リリックビデオ}} | video3 = {{YouTube|QzmdAU4TIt0|【Special Movie】「Chance}} }} 『'''EXPLORE'''』(エクスプロア)は、 [[EXILE TAKAHIRO]]の2枚目のオリジナルアルバム。[[2023年]][[9月6日]]に[[rhythm zone]]から発売された<ref>{{Cite web|和書|url=https://tower.jp/article/news/2023/04/03/tg014|title=EXILE TAKAHIRO、ニュー・アルバム『EXPLORE』9月6日リリース決定|website=タワーレコード オンライン ニュース|publisher=|date=20230403|accessdate=2023-9-08}}</ref>。 == 概要 == {{節スタブ}} 前作『[[All-The-Time Memories]]』から約6年ぶりのアルバム。「3CD+3DVD」<ref>{{Cite web |title=EXILE TAKAHIRO/EXPLORE [3CD+3DVD] |url=https://tower.jp/item/5698310/ |website=tower.jp |access-date=2023-09-09}}</ref>「3CD+3Blu-ray」<ref>{{Cite web |title=EXILE TAKAHIRO/EXPLORE [3CD+3Blu-ray Disc] |url=https://tower.jp/item/5698312/ |website=tower.jp |access-date=2023-09-09}}</ref>「2CD」<ref name=":0">{{Cite web |title=EXILE TAKAHIRO/EXPLORE |url=https://tower.jp/item/5698314/EXPLORE |website=tower.jp |access-date=2023-09-09}}</ref>の3形態で発売。 CDには2018年から収録したオリジナル楽曲と、EXILEのカバーシリーズ”EXILE RESPECT”の楽曲を収録。 映像DISCには『EXILE TAKAHIRO LIVE TOUR “TAKAHIRO道の駅 2023” 〜Road to EXPLORE〜』の映像、ソロ活動10周年のドキュメント映像、[[ミュージック・ビデオ]]を収録。 == 収録曲 == {{節スタブ}} <ref name=":0" /> === DISC-1(CD)=== # '''Spotlight 〜光の先へ〜''' #:作詞:[[清木場俊介]] #:作曲:[[EXILE ATSUSHI]] #:編曲:SION # '''Unconditional''' #:作詞:[[SUNNY BOY]] #:作曲:Ryan Kim,SOFTSERVEBOY, SQVARE,Joris Daniel,Pablo Groove # '''YOU are ROCK STAR''' #:作詞:[[EXILE TAKAHIRO|TAKAHIRO]] #:作曲:TAKAHIRO,木島靖夫 #:編曲:[[中野雄太]] #'''Last Night''' #:作詞・作曲:TAKAHIRO #:編曲:[[遠山哲朗]] #'''Message''' #:作詞:TAKAHIRO #:作曲:STAND ALONE,Carlos Okabe #:編曲:STAND ALONE # '''THIS IS LOVE''' #:作詞:[[小竹正人]] #:作曲:Ryan Kim,Chris Lee,Joris Daniel,Daan Jansen,Brownboyz # '''Canaria''' #:作詞:小竹正人 #:作曲:[[エリック・リボム|Erik Lidbom]],Chris Hope,Andrew Choi # '''ウソナキ''' #:作詞:TAKAHIRO #:作曲:TAKAHIRO,木島靖夫 #:編曲:中野雄太 # '''Happy Birthday''' #:作詞:TAKAHIRO #:作曲:TAKAHIRO,木島靖夫 #:編曲:木島靖夫 # '''ON THE WAY〜愛の光〜''' #:作詞:TAKAHIRO #:作曲:TAKAHIRO,木島靖夫 #:編曲:TAKAHIRO,木島靖夫,[[庵原良司]],小林岳五郎 # '''《Road to EXPLORE》''' #:作曲・編曲:中野雄太 # '''EXPLORE''' #:作詞:TAKAHIRO #:作曲:TAKAHIRO,木島靖夫 #:編曲:木島靖夫 === Disc-2(CD)EXILE RESPECT === # '''[[Carry On/運命のヒト#EXILE TAKAHIROによるカバー|運命のヒト]]''' #:作詞:EXILE ATSUSHI #:作曲:[[山口寛雄]] #:編曲:遠山哲朗 # '''[[Everything (EXILEの曲)|Everything]]''' #:作詞:EXILE ATSUSHI #:作曲:[[h-wonder]] #:編曲:h-wonder # '''[[THE HURRICANE 〜FIREWORKS〜#EXILE TAKAHIROによるカバー |優しい光]]''' #:作詞:EXILE ATSUSHI #:作曲:春川仁志 #:編曲:遠山哲朗 # '''[[Lovers Again]]''' #:作詞:[[松尾潔]] #:作曲:[[Jin Nakamura]] #:編曲:遠山哲朗 # '''[[The Birthday 〜Ti Amo〜|Ti Amo]]''' #:作詞:松尾潔 #:作曲:Jin Nakamura, 松尾潔 #:編曲:遠山哲朗 # '''[[I Believe (EXILEの曲) #EXILE TAKAHIROによるカバー |I Believe]]''' #:作詞:TAKAHIRO #:作曲:[[浅田将明]] #:編曲:中野雄太 # '''[[愛すべき未来へ#EXILE TAKAHIROによるカバー |Heavenly White]]''' #:作詞:小竹正人 #:作曲:春川仁志 #:編曲:遠山哲朗 # '''[[羽1/2]]''' #:作詞:清木場俊介 #:作曲:[[長岡成貢]] #:編曲:遠山哲朗 # '''[[もっと強く#カバー|もっと強く]] - From [[THE FIRST TAKE]] / EXILE TAKAHIRO×[[ハラミちゃん]]''' #:作詞:EXILE ATSUSHI #:作曲:[[華原大輔]] # '''[[Choo Choo TRAIN#カバー|Choo Choo TRAIN]]''' #:作詞:[[佐藤ありす]] #:作曲:[[中西圭三]] #:編曲:華原大輔 # '''[[道 (EXILEの曲)|道]]''' #:作詞:[[樫田正剛]] #:作曲:miwa furuse #:編曲:中野雄太 === DISC-3(CD)LIVE & Bonus Track === EXILE TAKAHIRO LIVE TOUR "TAKAHIRO 道の駅 2023" ~Road to EXPLORE~ # '''[[EXILE JAPAN/Solo|PLACE]] (LIVE)''' # '''[[the VISIONALUX|三角のオーロラ〜青い春〜]] (LIVE)''' # '''Canaria (LIVE)''' # '''[[一千一秒|with...]] 〜 [[the VISIONALUX|抱きしめたい]] (LIVE)''' Bonus Track *'''[[PHOENIX (アルバム)|アガパンサス]]''' *'''Chance''' *'''[[PHOENIX (アルバム)|STAY WITH ME]]''' === DISC-4 (DVD / Blu-ray) Music Video === # '''Last Night''' # '''YOU are ROCK STAR''' # '''ON THE WAY 〜愛の光〜''' # '''[[Carry On/運命のヒト#EXILE TAKAHIROによるカバー|運命のヒト]]''' # '''[[愛すべき未来へ#EXILE TAKAHIROによるカバー |Heavenly White]]''' # '''EXILE TAKAHIRO - [[Lovers Again]] / THE FIRST TAKE''' # '''EXILE TAKAHIRO×[[ハラミちゃん]] - [[もっと強く#カバー|もっと強く]] / THE FIRST TAKE''' # '''[[THE HURRICANE 〜FIREWORKS〜#EXILE TAKAHIROによるカバー |優しい光]]''' # '''[[I Believe (EXILEの曲) #EXILE TAKAHIROによるカバー |I Believe]]''' # '''Unconditional''' === DISC-5 (DVD / Blu-ray) === EXILE TAKAHIRO LIVE TOUR "TAKAHIRO 道の駅 2023" ~Road to EXPLORE~ # '''Spotlight 〜光の先へ〜''' # '''[[Love Story (TAKAHIROの曲)|Love Story]]''' # '''[[Choo Choo TRAIN#カバー|Choo Choo TRAIN]]''' # '''[[EXILE JAPAN/Solo|PLACE]]''' # '''[[the VISIONALUX|三角のオーロラ〜青い春〜]]''' # '''Canaria''' # '''[[Everything (EXILEの曲)|Everything]]''' # '''[[All-The-Time Memories|Irish Blue]]''' # '''Happy Birthday''' # '''[[一千一秒|with...]]''' # '''[[the VISIONALUX|抱きしめたい]]''' # '''[[Eternal Love|SUNSET KISS]]''' # '''[[THE HURRICANE 〜FIREWORKS〜#EXILE TAKAHIROによるカバー |優しい光]]''' # '''[[Lovers Again]]''' # '''[[The Birthday 〜Ti Amo〜|Ti Amo]]''' # '''[[もっと強く#カバー|もっと強く]] / EXILE TAKAHIRO×[[ハラミちゃん]]''' # '''[[Love Story (TAKAHIROの曲)|Feelings]]''' #:[ENCORE] # '''YOU are ROCK STAR''' # '''[[道 (EXILEの曲)|道]]''' === DISC-6(DVD / Blu-ray) === * '''EXILE TAKAHIRO Solo Work Documentary''' == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===出典=== {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://m.ex-m.jp/ldh_page/discography_takahiro_2023_album_explore_index EXILE TAKAHIRO New Album『EXPLORE』特設ページ] {{TAKAHIRO}} {{デフォルトソート:えくすふろあ}} {{album-stub}} [[Category:2023年のアルバム]] [[Category:エイベックス・グループのアルバム]]
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浩平
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浩平(こうへい)は、日本語の男性名 香椎浩平 - 日本陸軍の軍人 小出浩平 - 日本の音楽教育学者 郷司浩平 - 第3代日本生産性本部会長。経済同友会設立の中心的な人物。 安部浩平 - 日本の経営者。中部電力社長を務めた。 天羽浩平 - 日本の計算機科学者、実業家 久野浩平 - 日本のテレビドラマおよびラジオドラマの演出家、ディレクター 沢崎浩平 - フランス文学者。ロラン・バルトの翻訳で知られる。 鈴木浩平 - 日本の機械工学者 奥浩平 - 日本の学生運動家 川副浩平 - 日本の医師 鈴木浩平 - 日本の空手家 林浩平 - 日本の詩人、文芸評論家、日本文学研究者 宮園浩平 - 日本の医学者(腫瘍生物学) 松田浩平 - 日本の実験心理学者 渡辺浩平 - 中国研究者、北海道大学教授、東アジアメディア研究センター長 佐藤浩平 - 日本の建築家 丸山浩平 - 日本の外交官 近藤浩平 - 日本の現代音楽の作曲家 森川浩平 - 元NHKアナウンサー、元警察庁警部。 上遠野浩平 - 日本の小説家 村川浩平 - 日本の歴史学者 西山浩平 - 日本の実業家 川瀬浩平 - 日本のアニメーションプロデューサー 山下浩平 - 日本のグラフィックデザイナー、イラストレーター、絵本作家 喜安浩平 - 日本の男性俳優、声優、演出家、脚本家 鈴木浩平 - 秋田県出身で三菱電機ドルフィンズに所属していたバスケットボール選手 猪瀬浩平 - 日本の文化人類学者 荒川浩平 - 日本の俳優 望月浩平 - 日本テレビの社員。元アナウンサー。 増本浩平 - 神奈川県藤沢市出身の元サッカー選手、サッカー指導者 有馬浩平 - 福岡県出身のプロバスケットボール選手 1210 原田浩平 - 大阪府・大阪市出身のフットサル選手 北村浩平 - 日本中央競馬会 (JRA) 栗東トレーニングセンター・須貝尚介厩舎所属の元騎手・調教助手 瀧口浩平 - 日本の実業家 工藤浩平 - 千葉県市原市出身のプロサッカー選手 谷口浩平 - 千葉県出身の元サッカー選手、サッカー指導者 大場浩平 - 日本の元プロボクサー 川澄浩平 - 日本の小説家・推理作家 矢野浩平 - 滋賀県出身のサッカー審判員 藤田浩平 - 兵庫県出身のサッカー指導者 山口浩平 - 日本のラグビー選手 郡司浩平 - 神奈川県横浜市出身の競輪選手 松谷浩平 - 日本の陸上競技選手 長谷部浩平 - 栃木県小山市出身の将棋棋士 寺崎浩平 - 日本の競輪選手、自転車競技選手 田村浩平 - 中京テレビ放送 (CTV) のアナウンサー 庄司浩平 - 日本の俳優 寺村浩平 - 大阪府出身のサッカー選手 高橋浩平 - 日本の作曲家、編曲家 果向浩平 - 日本の漫画家
'''浩平'''(こうへい)は、日本語の男性名 * [[香椎浩平]] (1881 - 1954) - 日本陸軍の軍人 * [[小出浩平]] (1897 - 1896) - 日本の音楽教育学者 * [[郷司浩平]] (1900 - 1989) - 第3代日本生産性本部会長。経済同友会設立の中心的な人物。 * [[安部浩平]] (1923 - 2005) - 日本の経営者。中部電力社長を務めた。 * [[天羽浩平]] (1928 - ) - 日本の計算機科学者、実業家 * [[久野浩平]] (1929 - 2010) - 日本のテレビドラマおよびラジオドラマの演出家、ディレクター * [[沢崎浩平]] (1933 - 1988) - フランス文学者。ロラン・バルトの翻訳で知られる。 * [[鈴木浩平 (工学者)|鈴木浩平]] (1942 - ) - 日本の機械工学者 * [[奥浩平]] (1943 - 1965) - 日本の学生運動家 * [[川副浩平]] (1945 - ) - 日本の医師 * [[鈴木浩平 (空手家)|鈴木浩平]] (1946 - ) - 日本の空手家 * [[林浩平]] (1954 - ) - 日本の詩人、文芸評論家、日本文学研究者 * [[宮園浩平]] (1956 - ) - 日本の医学者(腫瘍生物学) * [[松田浩平]] (1956 - ) - 日本の実験心理学者 * [[渡辺浩平]] (1958 - ) - 中国研究者、北海道大学教授、東アジアメディア研究センター長 * [[佐藤浩平]] (1960 - ) - 日本の建築家 * [[丸山浩平]] (1964 - ) - 日本の外交官 * [[近藤浩平]] (1965 - ) - 日本の現代音楽の作曲家 * [[森川浩平]] (1968 - ) - 元NHKアナウンサー、元警察庁警部。 * [[上遠野浩平]] (1968 - ) - 日本の小説家 * [[村川浩平]] (1968 - ) - 日本の歴史学者 * [[西山浩平]] (1970 - ) - 日本の実業家 * [[川瀬浩平]] (1971 - ) - 日本のアニメーションプロデューサー * [[山下浩平]] (1971 - ) - 日本のグラフィックデザイナー、イラストレーター、絵本作家 * [[喜安浩平]] (1975 - ) - 日本の男性俳優、声優、演出家、脚本家 * [[鈴木浩平 (バスケットボール)|鈴木浩平]] (1975 - ) - 秋田県出身で三菱電機ドルフィンズに所属していたバスケットボール選手 * [[猪瀬浩平]] (1978 - ) - 日本の文化人類学者 * [[荒川浩平]] (1979 - ) - 日本の俳優 * [[望月浩平]] (1980 - ) - 日本テレビの社員。元アナウンサー。 * [[増本浩平]] (1982 - ) - 神奈川県藤沢市出身の元サッカー選手、サッカー指導者 * [[有馬浩平]] (1982 - ) - 福岡県出身のプロバスケットボール選手 1210 * [[原田浩平]] (1983 - ) - 大阪府・大阪市出身のフットサル選手 * [[北村浩平]] (1983 - ) - 日本中央競馬会 (JRA) 栗東トレーニングセンター・須貝尚介厩舎所属の元騎手・調教助手 * [[瀧口浩平]] (1984 - ) - 日本の実業家 * [[工藤浩平]] (1984 - ) - 千葉県市原市出身のプロサッカー選手 * [[谷口浩平]] (1984 - ) - 千葉県出身の元サッカー選手、サッカー指導者 * [[大場浩平]] (1984 - ) - 日本の元プロボクサー * [[川澄浩平]] (1986 - ) - 日本の小説家・推理作家 * [[矢野浩平]] (1987 - ) - 滋賀県出身のサッカー審判員 * [[藤田浩平]] (1989 - ) - 兵庫県出身のサッカー指導者 * [[山口浩平]] (1990 - ) - 日本のラグビー選手 * [[郡司浩平]] (1990 - ) - 神奈川県横浜市出身の競輪選手 * [[松谷浩平]] (1990 - ) - 日本の陸上競技選手 * [[長谷部浩平]] (1994 - ) - 栃木県小山市出身の将棋棋士 * [[寺崎浩平]] (1994 - ) - 日本の競輪選手、自転車競技選手 * [[田村浩平]] (1996 - ) - 中京テレビ放送 (CTV) のアナウンサー * [[庄司浩平]] (1999 - ) - 日本の俳優 * [[寺村浩平]] (2000 - ) - 大阪府出身のサッカー選手 * [[高橋浩平]] (? - ) - 日本の作曲家、編曲家 * [[果向浩平]] (? - ) - 日本の漫画家 == 関連項目 == * {{prefix}} * {{intitle}} {{人名の曖昧さ回避}} {{DEFAULTSORT:こうへい}} [[Category:日本語の男性名]]
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ナイエル・メサトゥ
ナイエル・ライアン・メサトゥ・セプルベダ (Nayel Rayan Mehssatou Sepúlveda , 2002年8月8日 - )は、ベルギー・ブリュッセル市出身のプロサッカー選手。ベルギー・ファースト・ディビジョンA・KVコルトレイク所属。チリ代表。ポジションはDF。 2002年にモロッコ系ベルギー人の父とチリ人の母との間にブリュッセル市で生まれる。13歳の時にRSCアンデルレヒトのユースチームに入団。2019年12月にトップチーム昇格が決まり、プロ契約を締結。翌2022年1月21日にはKVコルトレイクと3年半の契約を締結。3月5日のロイヤル・ユニオン・サン=ジロワーズ戦で先発で起用され、プロデビュー。翌2022-23シーズンはリーグ戦27試合に出場した。 その出色から、ベルギー代表の他にモロッコ代表やチリ代表でのプレーが可能となっていたメサトゥだったが、2022年に母親の国籍を行使してチリ代表でプレーすることを決断。同年6月の東アジア遠征でチリ代表に初招集。5日の韓国戦でチリ代表デビュー。その後、キリンカップサッカー2022にも出場した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ナイエル・ライアン・メサトゥ・セプルベダ (Nayel Rayan Mehssatou Sepúlveda , 2002年8月8日 - )は、ベルギー・ブリュッセル市出身のプロサッカー選手。ベルギー・ファースト・ディビジョンA・KVコルトレイク所属。チリ代表。ポジションはDF。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "2002年にモロッコ系ベルギー人の父とチリ人の母との間にブリュッセル市で生まれる。13歳の時にRSCアンデルレヒトのユースチームに入団。2019年12月にトップチーム昇格が決まり、プロ契約を締結。翌2022年1月21日にはKVコルトレイクと3年半の契約を締結。3月5日のロイヤル・ユニオン・サン=ジロワーズ戦で先発で起用され、プロデビュー。翌2022-23シーズンはリーグ戦27試合に出場した。", "title": "クラブ経歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "その出色から、ベルギー代表の他にモロッコ代表やチリ代表でのプレーが可能となっていたメサトゥだったが、2022年に母親の国籍を行使してチリ代表でプレーすることを決断。同年6月の東アジア遠征でチリ代表に初招集。5日の韓国戦でチリ代表デビュー。その後、キリンカップサッカー2022にも出場した。", "title": "代表経歴" } ]
ナイエル・ライアン・メサトゥ・セプルベダは、ベルギー・ブリュッセル市出身のプロサッカー選手。ベルギー・ファースト・ディビジョンA・KVコルトレイク所属。チリ代表。ポジションはDF。
{{スペイン語圏の姓名|メサトゥ|セプルベダ}} {{サッカー選手 | 名前 = ナイエル・メサトゥ | 画像 = | 画像サイズ = | 画像の説明 = | 本名 = ナイエル・ライアン・メサトゥ・セプルベダ <br>Nayel Rayan Mehssatou Sepúlveda | 愛称 = | カタカナ表記 = | アルファベット表記 = Nayel Mehssatou | 原語名 = | 原語表記 = | 国 = {{CHI}}<br>{{BEL}}<br>{{MAR}} | 生年月日 = {{生年月日と年齢|2002|8|8}} | 出身地 = [[ブリュッセル市]] | 身長 = 172cm | 体重 = | ポジション = [[ディフェンダー (サッカー)|DF]] | 所属チーム名 = {{Flagicon|BEL}} [[KVコルトレイク]] | 背番号 = 25 | 利き足 = 右足 | ユース年1 = 2009–2022 | ユースクラブ1 = {{Flagicon|BEL}} [[RSCアンデルレヒト]] | 年1 = 2019–2022 | クラブ1 = {{Flagicon|BEL}} [[RSCアンデルレヒト]] | 出場1 = 0 | 得点1 = 0 | 年2 = 2022– | クラブ2 = {{Flagicon|BEL}} [[KVコルトレイク]] | 出場2 = 38 | 得点2 = 0 | クラブ成績更新日 = 2023年9月8日 | 代表年1 = 2019 | 代表1 = {{CHIf}} U-17 | 代表出場1 = 2 | 代表得点1 = 0 | 代表年2 = 2019 | 代表2 = {{BELf}} U-18 | 代表出場2 = 4 | 代表得点2 = 1 | 代表年3 = 2022– | 代表3 = {{CHIf}} | 代表出場3 = 7 | 代表得点3 = 0 | 代表成績更新日 = 2023年9月8日 | 監督年1 = | 監督チーム1 = | medaltemplates = }} '''ナイエル・ライアン・メサトゥ・セプルベダ''' ('''Nayel Rayan Mehssatou Sepúlveda''' , [[2002年]][[8月8日]] - )は、[[ベルギー]]・[[ブリュッセル市]]出身の[[プロサッカー選手]]。[[ベルギー・ファースト・ディビジョンA]]・[[KVコルトレイク]]所属。[[サッカーチリ代表|チリ代表]]。ポジションは[[ディフェンダー (サッカー)|DF]]。 == クラブ経歴 == 2002年に[[モロッコ人|モロッコ系]][[ベルギー人]]の父と[[チリ人]]の母との間に[[ブリュッセル市]]で生まれる<ref>{{Cite web|url=https://www.archysport.com/2021/07/nayel-mehssatou-can-stay-with-the-a-core-of-anderlecht/|title=Nayel Mehssatou can stay with the A-core of Anderlecht|publisher=Archy Sport|accessdate=2023年9月8日|date=2021年7月15日|language=en}}</ref>。13歳の時に[[RSCアンデルレヒト]]のユースチームに入団。2019年12月にトップチーム昇格が決まり、プロ契約を締結<ref>{{Cite web|url=https://neerpede.rsca.be/nl/news/met-nayel-mehssatou-legt-rsca-opnieuw-jeugdproduct-onder-contract|title=MET NAYEL MEHSSATOU LEGT RSCA OPNIEUW JEUGDPRODUCT ONDER CONTRACT|website=RSC Anderlecht|accessdate=2023年9月8日|date=2019年12月18日|language=nl}}</ref>。翌2022年1月21日には[[KVコルトレイク]]と3年半の契約を締結<ref>{{Cite web|url=https://www.kvk.be/nieuws/mehssatou-naar-kvk/|title=MEHSSATOU VAN RSCA NAAR KVK|website=K.V. Kortrijk|accessdate=2023年9月8日|date=2022年1月21日|language=nl}}</ref>。3月5日の[[ロイヤル・ユニオン・サン=ジロワーズ]]戦で先発で起用され、プロデビュー<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.soccerway.com/matches/2022/03/05/belgium/pro-league/kv-kortrijk/royal-union-st-gilloise/3512318/|title=コルトレイク VS. ユニオン 2 - 3|publisher=Soccerway|accessdate=2023年9月8日|date=2022年3月5日|language=}}</ref>。翌2022-23シーズンはリーグ戦27試合に出場した。 == 代表経歴 == その出色から、[[サッカーベルギー代表|ベルギー代表]]の他に[[サッカーモロッコ代表|モロッコ代表]]や[[サッカーチリ代表|チリ代表]]でのプレーが可能となっていたメサトゥだったが、2022年に[[チリ人|母親]]の[[国籍]]を行使してチリ代表でプレーすることを決断。同年6月の東アジア遠征でチリ代表に初招集<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soccer-king.jp/news/japan/national/20220524/1651488.html|title=チリ代表が6月の来日メンバー24名を発表…A・サンチェス、ビダルは招集されず|publisher=サッカーキング|accessdate=2023年9月8日|date=2022年5月24日|language=}}</ref>。5日の[[サッカー韓国代表|韓国]]戦でチリ代表デビュー<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.soccerway.com/matches/2022/06/06/world/friendlies/korea-republic/chile/3785731/|title=韓国 VS. チリ 2 - 0|publisher=Soccerway|accessdate=2023年9月8日|date=2022年6月6日|language=}}</ref>。その後、[[キリンカップサッカー2022]]にも出場した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soccer-king.jp/news/world/world_other/20220608/1656428.html|title=キリンカップで来日するチリ代表メンバーが確定! 指揮官は韓国戦からの改善を誓う|publisher=サッカーキング|accessdate=2023年9月8日|date=2022年6月8日|language=}}</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == *{{Sports links}} {{デフォルトソート:めさとう ないえる}} {{KVコルトレイクのメンバー}} [[Category:チリのサッカー選手]] [[Category:ベルギーのサッカー選手]] [[Category:サッカーチリ代表選手]] [[Category:RSCアンデルレヒトの選手]] [[Category:KVコルトレイクの選手]] [[Category:チリ系ベルギー人]] [[Category:モロッコ系ベルギー人]] [[Category:多重国籍の人物]] [[Category:ブリュッセル出身の人物]] [[Category:2002年生]] [[Category:存命人物]]
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2023年中国オープン (バドミントン)
2023年中国オープン(VICTOR China Open 2023)は、9月5日から9月10日まで開催された中国オープンである。会場は、常州市、常州オリンピック・スポーツセンター・スタジアム。
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2023年中国オープンは、9月5日から9月10日まで開催された中国オープンである。会場は、常州市、常州オリンピック・スポーツセンター・スタジアム。
{{Infobox badminton event|name=中国オープン 2023|dates=2023年9月5日-9月10日|venue=[[常州オリンピック・スポーツセンター・スタジアム]]|location={{CHN}}、[[江蘇省]]、[[常州市]] |level = |MS={{flagicon|DEN}} [[ビクター・アクセルセン]]|MD1={{flagicon|CHN}} [[梁偉鏗]]<br />{{flagicon|CHN}} [[王昶 (バドミントン選手)|王昶]]|WS={{flagicon|KOR}} [[安洗塋]]|WD1={{flagicon|CHN}} [[陳清晨]]<br/>{{flagicon|CHN}} [[賈一凡]]|XD1={{flagicon|KOR}} [[徐承宰]]<br/>{{flagicon|KOR}} [[蔡侑玎]]}} '''2023年中国オープン'''(VICTOR China Open 2023)は、9月5日から9月10日まで開催された[[中国オープン (バドミントン)|中国オープン]]である。会場は、[[常州市]]、[[常州オリンピック・スポーツセンター・スタジアム]]<ref>[https://www.badminton.or.jp/games/2023/ChinaOpen2023.html/ 中国オープン 2023] - 日本バドミントン協会</ref>。 == 競技結果 == {| {{MedalistTable|type=種目}} |- |rowspan=2|男子シングルス |rowspan=2|{{flagicon|DEN}} [[ビクター・アクセルセン]] |rowspan=2|{{flagicon|CHN}} [[陸光祖]] | {{flagicon|INA}} [[ジョナタン・クリスティー]] |- | {{flagicon|CHN}} [[石宇奇]] |- |rowspan=2|女子シングルス |rowspan=2| {{flagicon|KOR}} [[安洗塋]] |rowspan=2| {{flagicon|JPN}} [[山口茜 (バドミントン選手)|山口茜]] | {{flagicon|CHN}} [[陳雨菲]] |- | {{flagicon|TPE}} [[戴資穎]] |- |rowspan=2|男子ダブルス |rowspan=2| {{flagicon|CHN}} [[梁偉鏗]]<br />{{flagicon|CHN}} [[王昶 (バドミントン選手)|王昶]] |rowspan=2| {{flagicon|MAS}} [[アーロン・チア]]<br />{{flagicon|MAS}} [[ソー・ウーイック]] | {{flagicon|JPN}} [[保木卓朗]]<br />{{flagicon|JPN}} [[小林優吾]] |- | {{flagicon|KOR}} [[姜敏赫]]<br />{{flagicon|KOR}} [[徐承宰]] |- |rowspan=2|女子ダブルス |rowspan=2| {{flagicon|CHN}} [[陳清晨]]<br />{{flagicon|CHN}} [[賈一凡]] |rowspan=2| {{flagicon|KOR}} [[白荷娜]]<br />{{flagicon|KOR}} [[李紹希]] | {{flagicon|JPN}} [[宮浦玲奈]]<br />{{flagicon|JPN}} [[櫻本絢子]] |- | {{flagicon|JPN}} [[松山奈未]]<br />{{flagicon|JPN}} [[志田千陽]] |- |rowspan=2|混合ダブルス |rowspan=2| {{flagicon|KOR}} [[徐承宰]]<br />{{flagicon|KOR}} [[蔡侑玎]] |rowspan=2| {{flagicon|FRA}} [[トム・ジケル]]<br />{{flagicon|FRA}} [[デルフィン・デルリュ]] | {{flagicon|MAS}} [[タン・キャンメン]]<br />{{flagicon|MAS}} [[ライ・ペイジン]] |- | {{flagicon|MAS}} [[チェン・タンジー]]<br />{{flagicon|MAS}} [[トー・イーウェイ]] |} ===男子ダブルス=== {{8TeamBracket-Tennis3 | RD1=準々決勝 | RD2=準決勝 | RD3=決勝 | score-width=20 | team-width=160 | RD1-seed1= | RD1-team1={{flagicon|DEN}} [[キム・アストルプ]]<br />&nbsp;{{flagicon|DEN}} [[アンダース・スカールプ・ラスムセン]] | RD1-score1-1= 12 | RD1-score1-2= 17 | RD1-score1-3= | RD1-seed2= 5 | RD1-team2='''{{flagicon|JPN}} [[保木卓朗]]<br />{{flagicon|JPN}} [[小林優吾]]''' | RD1-score2-1= '''21''' | RD1-score2-2= '''21''' | RD1-score2-3= | RD1-seed3= 3 | RD1-team3='''{{flagicon|CHN}} [[梁偉鏗]]<br />&nbsp;{{flagicon|CHN}} [[王昶 (バドミントン選手)|王昶]]''' | RD1-score3-1= '''21''' | RD1-score3-2= '''21''' | RD1-score3-3= | RD1-seed4= 7 | RD1-team4={{flagicon|CHN}} [[劉雨辰]]<br />&nbsp;{{flagicon|CHN}} [[欧烜屹]] | RD1-score4-1= 18 | RD1-score4-2= 19 | RD1-score4-3= | RD1-seed5= 8 | RD1-team5={{flagicon|MAS}} [[オン・ユーシン]]<br />&nbsp;{{flagicon|MAS}} [[テオ・イーイ]] | RD1-score5-1= '''21''' | RD1-score5-2= 19 | RD1-score5-3= 11 | RD1-seed6= 4 | RD1-team6='''{{flagicon|MAS}} [[アーロン・チア]]<br />&nbsp;{{flagicon|MAS}} [[ソー・ウーイック]]''' | RD1-score6-1= 19 | RD1-score6-2= '''21''' | RD1-score6-3= '''21''' | RD1-seed7= 6 | RD1-team7='''{{flagicon|KOR}} [[姜敏赫]]<br />&nbsp;{{flagicon|KOR}} [[徐承宰]]''' | RD1-score7-1= '''21''' | RD1-score7-2= '''21''' | RD1-score7-3= | RD1-seed8= | RD1-team8={{flagicon|INA}} [[ムハマド・ショヒブル・フィクリ]]<br />&nbsp;{{flagicon|INA}} [[バガス・マウラナ]] | RD1-score8-1= 15 | RD1-score8-2= 17 | RD1-score8-3= | RD2-seed1= 5 | RD2-team1={{flagicon|JPN}} [[保木卓朗]]<br />&nbsp;{{flagicon|JPN}} [[小林優吾]] | RD2-score1-1= 16 | RD2-score1-2= '''22''' | RD2-score1-3= 20 | RD2-seed2= 3 | RD2-team2='''{{flagicon|CHN}} [[梁偉鏗]]<br />&nbsp;{{flagicon|CHN}} [[王昶 (バドミントン選手)|王昶]]''' | RD2-score2-1= '''21''' | RD2-score2-2= 20 | RD2-score2-3= '''22''' | RD2-seed3= 4 | RD2-team3='''{{flagicon|MAS}} [[アーロン・チア]]<br />&nbsp;{{flagicon|MAS}} [[ソー・ウーイック]]''' | RD2-score3-1= '''21''' | RD2-score3-2= '''21''' | RD2-score3-3= | RD2-seed4= 6 | RD2-team4={{Nowrap|{{flagicon|KOR}} [[姜敏赫]]}}<br />&nbsp;{{flagicon|KOR}} [[徐承宰]] | RD2-score4-1= 18 | RD2-score4-2= 17 | RD2-score4-3= | RD3-seed1= 3 | RD3-team1='''{{flagicon|CHN}} [[梁偉鏗]]<br />&nbsp;{{Nowrap|{{flagicon|CHN}} [[王昶 (バドミントン選手)|王昶]]}}''' | RD3-score1-1= '''21''' | RD3-score1-2= '''21''' | RD3-score1-3= | RD3-seed2= 4 | RD3-team2={{flagicon|MAS}} [[アーロン・チア]]<br />&nbsp;{{flagicon|MAS}} [[ソー・ウーイック]] | RD3-score2-1= 12 | RD3-score2-2= 14 | RD3-score2-3= }} == 脚注 == {{Reflist}} {{BWFスーパーシリーズ}} {{BWFワールドツアー}} {{Badminton-stub}} {{デフォルトソート:ちゆうこくおおふん2023 はとみんとん}} [[Category:中国オープン (バドミントン)|2023]] [[Category:2023年のバドミントン]] [[Category:2023年の中国のスポーツ]] [[Category:江蘇省のスポーツ]] [[Category:江蘇省の歴史]] [[Category:常州市]] [[Category:2023年9月]]
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貞次郎
貞次郎(ていじろう)は、日本語の男性名
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貞次郎(ていじろう)は、日本語の男性名 本多貞次郎 - 日本の実業家、政治家 黒澤貞次郎 - 日本の実業家、技術者 上田貞次郎 - 日本の経営学者、経済学者。経営学という概念を命名・提唱した。 豊田貞次郎 - 日本の海軍軍人、政治家、実業家 久保貞次郎 - 日本の美術評論家、小中学生を対象とした創造主義美術教育運動の指導者 前川貞次郎 - 日本の歴史学者(西洋史) 村松貞次郎 - 日本の建築史家
'''貞次郎'''(ていじろう)は、日本語の男性名 * [[本多貞次郎]] (1958 - 1937) - 日本の実業家、政治家 * [[黒澤貞次郎]] (1875 - 1953) - 日本の実業家、技術者 * [[上田貞次郎]] (1879 - 1940) - 日本の経営学者、経済学者。経営学という概念を命名・提唱した。 * [[豊田貞次郎]] (1885 - 1961) - 日本の海軍軍人、政治家、実業家 * [[久保貞次郎]] (1909 - 1996) - 日本の美術評論家、小中学生を対象とした創造主義美術教育運動の指導者 * [[前川貞次郎]] (1911 - 2004) - 日本の歴史学者(西洋史) * [[村松貞次郎]] (1924 - 1997) - 日本の建築史家 == 関連項目 == * {{prefix}} * {{intitle}} {{人名の曖昧さ回避}} {{DEFAULTSORT:ていしろう}} [[Category:日本語の男性名]]
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関口真由
関口 真由(せきぐち まゆ、1994年7月20日 - )は、群馬県出身の女子サッカー選手。オルカ鴨川FC所属。ポジションはディフェンダー。吉備国際大学出身。 前橋育英高等学校を経て、2013年に吉備国際大学に進学し、FC吉備国際大学Charmeでプレー。卒業後も社会人選手として2017年まで在籍していた。 2018年、関東女子サッカーリーグ2部に所属していた地元の群馬FCホワイトスター(現バニーズ群馬FCホワイトスター)に加入。2022年、チームはなでしこリーグ1部に昇格を果たした。 2023年、オルカ鴨川FCに移籍した。
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関口 真由は、群馬県出身の女子サッカー選手。オルカ鴨川FC所属。ポジションはディフェンダー。吉備国際大学出身。
{{複数の問題 |特筆性=2023年9月8日 (金) 11:48 (UTC)|分野=人物 |存命人物の出典明記=2023年9月8日 (金) 11:48 (UTC) |一次資料=2023年9月8日 (金) 11:48 (UTC) }} {{サッカー選手 | 名前 = 関口 真由 | 画像 = <!-- WEリーグ、なでしこリーグ所属選手の画像を掲載しないで下さい。 --> | 画像サイズ = <!-- デフォルトは200px --> | 画像の説明 = | 本名 = | 愛称 = まゆちゃん、せっきー<ref name="Orca">{{Cite web|和書|title=関口 真由 |url=https://orcakamogawafc.com/player/mayu_sekiguchi/ |access-date=2023-11-25 |language=ja |website=オルカ鴨川FCオフィシャルサイト}}</ref> | カタカナ表記 = セキグチ マユ | アルファベット表記 = SEKIGUTCH Mayu | 原語名 = | 原語表記 = | 国 = {{JPN}} | 生年月日 = {{生年月日と年齢|1994|7|20}}<ref name="Orca" /> | 出身地 = [[群馬県]]<ref name="Orca" /> | 没年月日 = <!-- {{死亡年月日と没年齢||||||}} --> | 身長 = 159cm<ref name="Orca" /> | 体重 = 51kg<ref name="Orca" /> | 所属チーム名 = {{Flagicon|JPN}} [[オルカ鴨川FC]] | ポジション = DF | 背番号 = 3 | 利き足 = | ユース年1 = 2001-2004 | ユースクラブ1 = FC前橋南<ref name="Orca" /> | ユース年2 = 2005-2006 | ユースクラブ2 = 前橋エコークラブ<ref name="Orca" /> | ユース年3 = 2007-2009 | ユースクラブ3 = ジェラルド・すばる・伊勢崎<ref name="Orca" /> | ユース年4 = 2010-2012 | ユースクラブ4 = [[前橋育英高等学校]]<ref name="Orca" /> | 年1 = 2013-2017 | クラブ1 = {{Flagicon|JPN}} [[FC吉備国際大学Charme]] | 出場1 = 37 | 得点1 = 1 | 年2 = 2018-2022 | クラブ2 = {{Flagicon|JPN}} [[群馬FCホワイトスター]] | 出場2 = 35 | 得点2 = 1 | 年3 = 2023- | クラブ3 = {{Flagicon|JPN}} [[オルカ鴨川FC]] | 出場3 = 3 | 得点3 = 0 <!-- 国内リーグ戦の成績に限る --> | クラブ成績更新日 = 2023年10月9日 | 代表年1 = | 代表1 = | 代表出場1 = | 代表得点1 = | 代表成績更新日 = | 監督チーム1 = | 監督年1 = | medaltemplates = }} '''関口 真由'''(せきぐち まゆ、[[1994年]][[7月20日]] - )は、[[群馬県]]出身の[[女子サッカー]]選手。[[オルカ鴨川FC]]所属。ポジションは[[ディフェンダー (サッカー)|ディフェンダー]]。[[吉備国際大学]]出身。 == 経歴 == {{年譜のみの経歴|date=2023年9月8日 (金) 11:48 (UTC)}} [[前橋育英高等学校]]を経て、2013年に[[吉備国際大学]]に進学し、[[吉備国際大学Charme岡山高梁|FC吉備国際大学Charme]]でプレー。卒業後も社会人選手として2017年まで在籍していた<ref>{{Cite web|和書|title=社会人選手入団のお知らせ |url=https://www.charmefc.jp/09news/news_2017021602.html |website=www.charmefc.jp |access-date=2023-11-25 |publisher=FC吉備国際大学Charme |date=2017-02-16}}</ref>。 2018年、[[関東女子サッカーリーグ|関東女子サッカーリーグ2部]]に所属していた地元の[[バニーズ群馬FCホワイトスター|群馬FCホワイトスター]](現バニーズ群馬FCホワイトスター)に加入<ref>{{Cite web|和書|title=関口真由選手 退団のお知らせ |url=https://whitestar-sportsclub.com/topics.php?no=177 |website=whitestar-sportsclub.com |access-date=2023-11-25 |publisher=バニーズ群馬FCホワイトスター |date=2023-01-06}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=第24回 関東女子サッカーリーグ |url=http://www.kantolsl.com/2018/team/whitestar.htm |website=www.kantolsl.com |access-date=2023-11-25 |language=ja}}</ref>。2022年、チームはなでしこリーグ1部に昇格を果たした<ref>{{Cite web|和書|title=2022シーズンなでしこリーグ1部昇格正式決定のお知らせ |url=https://whitestar-sportsclub.com/topics.php?no=104 |website=whitestar-sportsclub.com |access-date=2023-11-25 |publisher=バニーズ群馬FCホワイトスター |date=2021-12-17}}</ref>。 2023年、[[オルカ鴨川FC]]に移籍した<ref>{{Cite web|和書|title=関口真由選手 新加入のお知らせ |url=https://orcakamogawafc.com/2023/01/063/ |access-date=2023-09-08 |language=ja |date=2023-01-06 |website=オルカ鴨川FCオフィシャルサイト}}</ref>。 == 個人成績 == === クラブ === {{節スタブ}} {{サッカー選手国内成績表 top|yy}} {{サッカー選手国内成績表 th|日本|yy|w}} |- |[[2013 日本女子サッカーリーグ|2013]]||rowspan="5"|[[吉備国際大学Charme岡山高梁|FC吉備国際大学Charme]]||43||rowspan="2"|[[日本女子サッカーリーグ|なでしこ]]||0||0|| || ||0||0||0||0 |- |[[2014 日本女子サッカーリーグ|2014]]||rowspan="2"|26||0||0||colspan="2"|-||0||0||0||0 |- |[[2015 日本女子サッカーリーグ|2015]]||rowspan="3"|なでしこ2部||7||0||colspan="2"|-||0||0||7||0 |- |[[2016 日本女子サッカーリーグ|2016]]||17||12||1||6||0||2||0||20||1 |- |[[2017 日本女子サッカーリーグ|2017]]||26||18||0||6||0||1||0||25||0 |- |2018||rowspan="3"|[[群馬FCホワイトスター]]||rowspan="2"|19||[[関東女子サッカーリーグ|関東2部]]|| || || || ||-||-|| || |- |2019||rowspan="2"|関東1部|| || || || ||1||0|| || |- |2020||rowspan="3"|2|| || || || ||2||0|| || |- |[[2021 日本女子サッカーリーグ|2021]]||rowspan="2"|[[バニーズ群馬FCホワイトスター]]||なでしこ2部||14||1||colspan="2"|-||-||-||14||1 |- |[[2022 日本女子サッカーリーグ|2022]]||rowspan="2"|なでしこ1部||21||0||colspan="2"|-||0||0||21||0 |- |[[2023 日本女子サッカーリーグ|2023]]||[[オルカ鴨川FC]]||3||3||0||colspan="2"|-||-||-||3||0 {{サッカー選手国内成績表 通算始|4|日本|1部}}0||0||0||0||0||0||0||0 {{サッカー選手国内成績表 通算行|日本|2部}}61||1||12||0||3||0||76||1 {{サッカー選手国内成績表 通算行|日本|3部}}14||1||0||0||0||0||14||1 {{サッカー選手国内成績表 通算行|日本|その他}} || ||0||0||3||0||3||0 {{サッカー選手国内成績表 通算終}}75||2||12||0||6||0||93||2 |} <!--出場試合数と得点はシーズン後に記入すること--> * [[日本女子サッカーリーグ]] ** 初出場 - [[2015年]][[4月5日]] なでしこリーグ2部 第2節 [[ASハリマアルビオン]]戦 ([[姫路市立陸上競技場]]) ** 初得点 - [[2016年]][[9月25日]] なでしこリーグ2部 第15節 [[セレッソ大阪堺レディース]]戦 ([[倉敷運動公園陸上競技場]]) == 脚注 == === 出典 === {{脚注ヘルプ}} <references /> == 外部リンク == * [https://orcakamogawafc.com/player/mayu_sekiguchi/ 関口 真由] - オルカ鴨川FC公式サイト {{オルカ鴨川FCのメンバー}} {{Footybio-stub}} {{DEFAULTSORT:せきくち まゆ}} [[Category:1994年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:群馬県出身の人物]] [[Category:日本の女子サッカー選手]] [[Category:群馬県出身のスポーツ選手]] [[Category:前橋育英高等学校出身の人物]] [[Category:吉備国際大学出身の人物]] [[Category:バニーズ群馬FCホワイトスターの選手]] [[Category:オルカ鴨川FCの選手]]
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荒木健太 (水球選手)
荒木 健太(あらき けんた、1995年4月6日 - )は、日本の水球選手。2020年夏季オリンピックに出場した。 クラブレベルでは、2018年にオーストラリアのUWAトルピードーズでプレーした。
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若い宇和島
「若い宇和島」(わかいうわじま)は、日本の愛媛県宇和島市が制定した市民歌である。作詞・松影マサ子、作曲・西山道貞。 本項では、市民歌と同時に選定された市民音頭「うわじま音頭」(作詞:国村三郎、作曲:杵屋勝世)についても解説する。 1950年(昭和25年)11月の市制30周年記念式典に合わせて市民歌の歌詞を懸賞募集し、市民音頭「うわじま音頭」と併せて選定された。式典では「うわじま音頭」と同じく国村三郎が作詞した「市制実施30周年祝賀の歌」と共に、小学校児童による斉唱が行われている。 タイヘイレコードが藤島桓夫の歌唱によりA面に「若い宇和島」、B面に「うわじま音頭」をそれぞれ吹き込んだSP盤(規格品番:M-40)を製造した。歌詞は全4番で、歌い出しは宇和島城が宇和島藩から兵部省を経て市民の公共財産に帰したことを祝うものとなっている。2番と3番では外堀や海の埋め立てによる市域の拡大、4番では敗戦を経た戦後復興に向けての決意を謳い上げており、歌に合わせた振付も作成された。1974年(昭和49年)刊の『愛媛の観光』では「郷土芸能」の一つに挙げられている。 「若い宇和島」および「うわじま音頭」は昭和27年版の市勢要覧に歌詞が掲載されており、公式の市民歌および市民音頭としての扱いを受けていたが、1970年(昭和45年)に新市民音頭として「宇和島おんど」(作詞:森あやめ、補作:石本美由起、作曲・編曲:和田香苗)が作成されて以降は2曲いずれも演奏の機会が激減した。 なお1950年版の市民音頭はレコードおよび市勢要覧で「うわじま音頭」と地名を平仮名で表記していたが、1960年(昭和35年)公開の日活映画『南海の狼火』で小林旭のカバーが挿入歌として使用された時は「宇和島音頭」と全て漢字でクレジットされており、この頃から地名を含め漢字表記が主流になった。そうした事情により、1970年版の新「宇和島おんど」と混同されることも珍しくない。 また、1988年(昭和63年)から毎年夏に開かれる「うわじまガイヤカーニバル」では、宇崎竜童が作詞・作曲したテーマソング「GAIYA ON THE ROAD」が演奏されている。 「若い宇和島」の制定主体であった(旧)宇和島市は北宇和郡吉田町および三間町、津島町の3町と新設合併し、2005年(平成17年)8月1日を以て(新)宇和島市が発足した。地方自治法上は合併に参加した旧市と同一名称を引き継いでいても別個の自治体として扱われるため、合併協議会で個別に取り決めを行わない場合はいずれの市町歌も自動的に失効した扱いとなるが、宇和島市・吉田町・三間町・津島町合併協議会においては「市の歌等については、合併後必要に応じ制作する。旧市町の歌はそのまま存続するものとする」と取り決められており、この合意に従うと旧市が制定した「若い宇和島」は3町が作成した町民音頭や小唄と共に新市へ引き継がれたものと考えられる(ただし、合併協議会の場で宇和島市が確認の対象として挙げたのは「GAIYA ON THE ROAD」のみであった)。 2001年(平成13年)から合併を挟んで2017年(平成29年)まで市長を務めた石橋寛久は在職中に「市歌の制定」を検討課題として掲げていた。また、市民歌「若い宇和島」と同時に選定された旧市民音頭の「うわじま音頭」についても、合併後に市民や地元出身者の有志が復活演奏を呼びかけて活動を行っている。
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「若い宇和島」(わかいうわじま)は、日本の愛媛県宇和島市が制定した市民歌である。作詞・松影マサ子、作曲・西山道貞。 本項では、市民歌と同時に選定された市民音頭「うわじま音頭」についても解説する。
{{Pathnavbox| {{Pathnav|日本|都道府県|愛媛県|宇和島市}} {{Pathnav|日本|市町村|市町村歌|愛媛県の市町村歌一覧}} }} {{Infobox anthem |題名= 若い宇和島 |翻字= |和訳例= |画像= |画像サイズ= |画像代替= |画像説明= |採用対象= 市民 |採用共同体= [[File:Flag of Uwajima, Ehime.svg|border|25px]] [[宇和島市]] |別名= |別名和訳= |別名2= |別名2和訳= |作詞者= 松影マサ子 |作詞時期= |作曲者= 西山道貞 |作曲時期= |採用時期= [[1950年]] |採用終了= |言語= [[日本語]] |試聴= |試聴タイトル= }} 「'''若い宇和島'''」(わかいうわじま)は、[[日本]]の[[愛媛県]][[宇和島市]]が制定した[[市町村歌|市民歌]]である。作詞・松影マサ子、作曲・西山道貞。 本項では、市民歌と同時に選定された市民[[音頭]]「'''うわじま音頭'''」(作詞:国村三郎、作曲:杵屋勝世)についても解説する。 == 解説 == {{Infobox Single | Name = {{small|市制三十周年記念}} 若い宇和島 | Artist = [[藤島桓夫]] / [[喜代丸]] | Album = | A-side = 若い宇和島(藤島桓夫) | B-side = うわじま音頭<br />(藤島桓夫、喜代丸) | Released = [[1950年]]11月 | Format = [[SPレコード]] | Recorded = | Genre = [[市町村歌|市民歌]] | Length = | Label = [[タイヘイレコード]](M-40) | Writer = A面‥作詞:松影マサ子、選:[[中井コッフ]]、作曲:西山道貞<br />B面‥作詞:国村三郎、作曲:杵屋勝世 | Producer = | Certification = | Chart position = | Last single = | This single = | Next single = | Misc = }} 1950年([[昭和]]25年)11月の市制30周年記念式典に合わせて市民歌の歌詞を懸賞募集し、市民音頭「'''うわじま音頭'''」と併せて選定された。式典では「うわじま音頭」と同じく国村三郎が作詞した「市制実施30周年祝賀の歌」と共に、[[小学校]]児童による斉唱が行われている。 [[タイヘイレコード]]が[[藤島桓夫]]の歌唱により[[A面/B面|A面]]に「若い宇和島」、B面に「うわじま音頭」をそれぞれ吹き込んだ[[SPレコード|SP盤]]([[規格品番]]:M-40)を製造した。歌詞は全4番で、歌い出しは[[宇和島城]]が[[宇和島藩]]から[[兵部省]]を経て市民の公共財産に帰したことを祝うものとなっている。2番と3番では外堀や海の埋め立てによる市域の拡大、4番では[[日本の降伏|敗戦]]を経た戦後復興に向けての決意を謳い上げており、歌に合わせた振付も作成された。1974年(昭和49年)刊の『愛媛の観光』では「郷土芸能」の一つに挙げられている<ref name="pref">愛媛県(1974), p135</ref>。 「若い宇和島」および「うわじま音頭」は昭和27年版の市勢要覧に歌詞が掲載されており<ref>宇和島市(1952), p190</ref>、公式の市民歌および市民音頭としての扱いを受けていたが、1970年(昭和45年)に新市民音頭として「'''宇和島おんど'''」(作詞:森あやめ、補作:[[石本美由起]]、作曲・編曲:[[和田香苗]])が作成されて以降は2曲いずれも演奏の機会が激減した<ref name="enp">{{Cite news|date=2022-10-08|title=「宇和島音頭」に光を 地元出身有志が復活願う会活動|url=https://www.ehime-np.co.jp/article/news202210080019|work=[[愛媛新聞]]|accessdate=2023-09-08}}</ref>。 なお1950年版の市民音頭はレコードおよび市勢要覧で「うわじま音頭」と地名を[[平仮名]]で表記していたが、1960年(昭和35年)公開の[[日活]]映画『[[南海の狼火]]』で[[小林旭]]の[[カバー]]が挿入歌として使用された時は「'''宇和島音頭'''」と全て[[漢字]]でクレジットされており<ref>{{Cite web|和書|title=南海の狼火|url=https://www.nikkatsu.com/movie/20476.html|publisher=日活|accessdate=2023-09-08}}</ref>、この頃から地名を含め漢字表記が主流になった{{R|pref}}{{R|enp}}。そうした事情により、1970年版の新「宇和島おんど」と混同されることも珍しくない。 また、1988年(昭和63年)から毎年夏に開かれる「うわじまガイヤカーニバル」では、[[宇崎竜童]]が作詞・作曲したテーマソング「GAIYA ON THE ROAD」が演奏されている<ref>{{Cite web|title=GAIYA ON THE ROAD|url=http://www.netwave.or.jp/~usyosen/gaiya.pdfl|publisher=宇和島商業専門学校|accessdate=2023-09-08}}</ref>。 === 新設合併後の扱い === 「若い宇和島」の制定主体であった(旧)宇和島市は[[北宇和郡]][[吉田町 (愛媛県)|吉田町]]および[[三間町]]、[[津島町]]の3町と'''新設合併'''し、2005年([[平成]]17年)8月1日を以て(新)宇和島市が発足した。[[地方自治法]]上は合併に参加した旧市と同一名称を引き継いでいても別個の自治体として扱われるため、合併協議会で個別に取り決めを行わない場合はいずれの市町歌も自動的に失効した扱いとなるが、宇和島市・吉田町・三間町・津島町合併協議会においては「市の歌等については、合併後必要に応じ制作する。'''旧市町の歌はそのまま存続する'''ものとする」と取り決められており<ref>{{Wayback|url=http://www.city.uwajima.ehime.jp/uymt-gappei/05kyoutei/kou21.pdf|title=協議第30号 慣行の取扱いについて(宇和島市・吉田町・三間町・津島町合併協議会)|date=20071218163544fw_}}</ref>、この合意に従うと旧市が制定した「若い宇和島」は3町が作成した町民音頭や小唄と共に新市へ引き継がれたものと考えられる(ただし、合併協議会の場で宇和島市が確認の対象として挙げたのは「GAIYA ON THE ROAD」のみであった)。 2001年(平成13年)から合併を挟んで2017年(平成29年)まで[[市町村長|市長]]を務めた[[石橋寛久]]は在職中に「市歌の制定」を検討課題として掲げていた<ref>{{Wayback|url=http://www.city.uwajima.ehime.jp/www/contents/1290596577923/|title=NEXT(つぎの)100|date=20150923204219}}</ref>。また、市民歌「若い宇和島」と同時に選定された旧市民音頭の「うわじま音頭」についても、合併後に市民や地元出身者の有志が復活演奏を呼びかけて活動を行っている{{R|enp}}。 == 参考文献 == * 『宇和島市勢要覧』昭和27年版(宇和島市役所、1952年) {{NCID|BN15251837}} * 愛媛県商工労働部観光課『愛媛の観光』(愛媛県観光協会、1974年) {{NCID|BA44117530}} == 出典 == {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[愛媛県の市町村歌一覧]] {{Song-stub}} {{Pref-stub|pref=愛媛県}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |redirect1=うわじま音頭 |1-1=楽曲 う |1-2=四国地方の音頭 }} {{デフォルトソート:わかいうわしま}} [[Category:楽曲 わ|かいうわしま]] [[Category:愛媛県の市町村歌]] [[Category:昭和時代戦後の自治体歌]] [[Category:宇和島市]] [[Category:タイヘイレコードの楽曲]] [[Category:1950年の楽曲]]
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進め
進め(すすめ、ロシア語: В путь、発音 [f‿ˈputj])とは、ソビエト連邦の軍歌である。邦題では他に兵士の旅路などと称される。この曲は1954年にソ連の作曲家ワシリー・ソロヴィヨフ・セドイと詩人ミハイル・ドゥディンによって書かれた。この曲は元々、レオニード・ブィコフ主演のМаксим Перепелица(マクシム・ペレペリツァ)という1955年公開の映画中で登場する劇中挿入歌であった。1959年ワシリー・ソロヴィヨフ・セドイはこの曲によりレーニン賞を受賞した。 この曲はロシアでは戦勝記念日 (5月9日)などに演奏される。ドイツ語訳はエーリッヒ・ワイナート・アンサンブルによって歌われ、国家人民軍の代表曲「Unterwegs」となった。
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進めとは、ソビエト連邦の軍歌である。邦題では他に兵士の旅路などと称される。この曲は1954年にソ連の作曲家ワシリー・ソロヴィヨフ・セドイと詩人ミハイル・ドゥディンによって書かれた。この曲は元々、レオニード・ブィコフ主演のМаксим Перепелица(マクシム・ペレペリツァ)という1955年公開の映画中で登場する劇中挿入歌であった。1959年ワシリー・ソロヴィヨフ・セドイはこの曲によりレーニン賞を受賞した。 この曲はロシアでは戦勝記念日 (5月9日)などに演奏される。ドイツ語訳はエーリッヒ・ワイナート・アンサンブルによって歌われ、国家人民軍の代表曲「Unterwegs」となった。
{{Infobox musical composition | title = В путь | image = File:Chór aleksandrowa 2009.JPG | caption = [[アレクサンドロフ・アンサンブル]]による演奏 | translation = 進め、兵士の旅路 | key = F♯マイナー、Aマイナー | written = 1954 | text = [[ミハイル・ドゥディン]] | composer = [[ヴァシリー・ソロヴィヨフ・セドイ]] }} '''進め'''(すすめ、{{Lang-ru|В путь}}、{{IPA-ru|f‿ˈputʲ|pron}})とは、ソビエト連邦の軍歌である。邦題では他に'''兵士の旅路'''などと称される。この曲は1954年にソ連の作曲家[[ワシリー・ソロヴィヨフ・セドイ]]と詩人[[ミハイル・ドゥディン]]によって書かれた。この曲は元々、[[レオニード・ブィコフ]]主演の{{lang|ru|Максим Перепелица}}([[マクシム・ペレペリツァ]])という1955年公開の映画中で登場する劇中挿入歌であった。1959年ワシリー・ソロヴィヨフ・セドイはこの曲により[[レーニン賞]]を受賞した<ref>[http://muzruk.info/?p=1166 Creation of the song] (in Russian)</ref><ref>[http://www.glinskie.ru/common/message.php?table=calend&num=89 Solovyov-Sedoi's biography] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120306150821/http://www.glinskie.ru/common/message.php?table=calend&num=89 |date=6 March 2012 }} (in Russian)</ref>。 この曲はロシアでは[[戦勝記念日 (5月9日)]]などに演奏される。ドイツ語訳は[[エーリッヒ・ワイナート・アンサンブル]]によって歌われ、[[国家人民軍]]の代表曲「Unterwegs」となった。 == 歌詞 == {|class="wikitable" !style="background-color:#CD0000;color:#FFD900;"|ロシア語の歌詞 !style="background-color:#CD0000;color:#FFD900;"|ローマ字化 !style="background-color:#CD0000;color:#FFD900;"|[[国際音声記号|IPA]]による発音表記 !style="background-color:#CD0000;color:#FFD900;"|英訳 |- style="vertical-align:top;text-align:center;white-space:nowrap;" |<poem {{Lang属性|ru}}>Путь далёк у нас с тобою, Веселей, солдат, гляди! Вьётся, вьётся знамя полковое, Командиры впереди. {{Small|'''Припев:'''}} Солдаты, в путь, в путь, в путь! А для тебя, родная, Есть почта полевая. Прощай! Труба зовёт, Солдаты - в поход! Каждый воин, парень бравый, Смотрит соколом в строю. Породнились мы со славой, Славу добыли в бою. {{Small|'''''Припев'''''}} Пусть враги запомнят это: Не грозим, а говорим. Мы прошли с тобой полсвета. Если надо - повторим. {{Small|'''''Припев'''''}} А теперь для нас настали Дни учёбы и труда. Год за годом только процветали Наши сёла-города! {{Small|'''''Припев'''''}}<ref>[http://www.sovmusic.ru/text.php?fname=vput10 В путь]. ''SovMusic.ru''.</ref></poem> |<poem {{Lang属性|ru-Latn}}>Putj daljok u nas s toboju, Veselej, soldat, gljadi! Vjjotsja, vjjotsja znamja polkovoje, Komandiry vperedi. {{Small|'''Pripev:'''}} ''Soldaty, v putj, v putj, v putj!'' ''A dlja tebja, rodnaja,'' ''Jestj počta polevaja.'' ''Proščaj! Truba zovjot,'' ''Soldaty – v pohod!'' Každyj voin, parenj bravyj, Smotrit sokolom v stroju. Porodnilisj my so slavoj, Slavu dobyli v boju. {{Small|'''''Pripev'''''}} Pustj vragi zapomnjat eto: Ne grozim, a govorim. My prošli s toboj polsveta. Jesli nado – povtorim. {{Small|'''''Pripev'''''}} A teperj dlja nas nastali Dni učjoby i truda. God za godom toljko procvetali Naši sjola-goroda! {{Small|'''''Pripev'''''}}</poem> |<poem>[putʲ dɐ.ˈlʲok ʊ‿ˈnas s‿tɐ.ˈbo.jʊ ǀ] [ˈvʲe.sʲɪ.lʲɪj sɐɫ.ˈdad‿ɡlʲɪˈdʲi ǁ] [ˌvʲjot.sɐ ǀ ˈvʲjot.sɐ ˈzna.mʲɐ pəɫ.kɐ.ˈvo.jɪ ǀ] [kə.mɐnʲ.ˈdʲi.rɨ ˈfpʲe.rʲɪ.dʲɪ ǁ] '''[prʲɪ.ˈpʲef]''' [sɐɫ.ˈda.tɨ ǀ f‿ˈputʲ ǀ f‿ˈputʲ ǀ f‿ˈputʲ ǁ] [ˈa dlʲə tʲɪ.ˈbʲa ǀ rɐd.ˈna.jə ǀ] [jesʲtʲ ˈpot͡ɕ.tə pɐ.lʲɪ.ˈva.jə ǁ] [prɐ.ˈɕːæj trʊ.ˈba zɐ.ˈvʲot ǀ] [sɐɫ.ˈda.tɨ ǀ f‿pɐ.ˈxot ǁ] [ˈkaʐ.dɨj ˈvo.(j)ɪn ǀ ˈpa.rʲɪnʲ ˈbra.vɨj ǀ] [ˈsmo.trʲɪt ˈso.kə.ɫəm f‿strɐ.ˈju ǁ] [pə.rɐd.ˈnʲi.lʲɪsʲ mɨ sɐ ˈsɫa.vəj ǀ] [ˈsɫa.vʊ dɐ.ˈbɨ.lʲɪ v‿bɐ.ˈju ǁ] '''''[prʲɪ.ˈpʲef]''''' [ˈpusʲtʲ vrɐ.ˈɡʲi zɐ.ˈpom.nʲət ˈɛ.tə ǀ] [ˈnʲe grɐ.ˈzʲim ǀ ˈa ɡə.vɐ.ˈrʲim ǁ] [mɨ prɐʂ.ˈlʲi ǀ prɐʂ.ˈlʲi s‿tɐ.ˈboj pɐɫ.ˈsvʲe.tə ǀ] [ˈje.sʲlʲɪ ˈna.də ǀ pəf.tɐ.ˈrʲim ǁ] '''''[prʲɪ.ˈpʲef]''''' [ˈa‿tʲɪ.ˈpʲerʲ dlʲɐ ˈnas nɐ.ˈsta.lʲɪ ǀ] [ˈdnʲi ʊ.ˈt͡ɕo.bɨ ˈi trʊ.ˈda ǁ] [ˈgod zɐ‿ˈgo.dəm ˈtolʲ.kə ˈprət͡s.vʲɪ.ˈta.lʲɪ ǀ] [ˈna.ʂɨ sʲo.ɫə gə.rɐ.ˈda ǁ] '''''[prʲɪ.ˈpʲef]'''''</poem> |<poem>We still have a long way to go, Cheer up soldier, raise your head! Regimental banners flutter, flutter, And our commanders lead ahead. {{Small|'''Chorus:'''}} ''Soldiers, march, march, march!'' ''And for you, my dearest,'' ''I'll write and send you letters.'' ''Farewell! The [[bugle call]]s,'' ''Soldiers – march on!'' Every warrior, a brave lad Looks like a falcon in the ranks. Intermarried are we with glory, the glory we gained in the battle. {{Small|'''''Chorus'''''}} Let our foes remember this: We are not threatening, but merely saying. Together we crossed half the world. If necessary, we will do it again. {{Small|'''''Chorus'''''}} And now, for us, have arrived Days of study and hard work. Year after year only flourished Our villages and towns! {{Small|'''''Chorus'''''}}<ref>[https://russianenthusiast.com/russian-culture/russian-music/v-put/ В путь]. ''Russian Enthusiast''.</ref></poem> |} == 脚注 == {{Reflist}} [[Category:ソビエト連邦の歌]] {{デフォルトソート:すすめ}} {{Song-stub}} {{RUS-history-stub}} {{Communism-stub}}
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大衆の狂気 ジェンダー・人種・アイデンティティ
『大衆の狂気 ジェンダー・人種・アイデンティティ』(The Madness of Crowds: Gender, Race and Identity)は、イギリスの保守系ジャーナリスト・政治コメンテーターのダグラス・マレー(英語版)の2019年の著書である。イギリスでは2019年9月に出版された。 本書は性的指向、フェミニズム、人種、トランスアイデンティティの問題を検証し、社会正義、アイデンティティ政治、インターセクショナリティの名の下に職場、大学、学校、家庭で繰り広げられる新たな文化戦争について論じられている。マレーはこの本を「ゲイ」「女性」「人種」「トランスジェンダー」の4つのアイデンティティ・グループのテーマごとに章に分け、それぞれに対する現代の姿勢が被害者意識とポリティカル・コレクトネスの悪影響によって歪められていると主張している。 本書でマレーが文化的な変化として捉えているものは、既存の宗教や政治的イデオロギーの様式から離れ、様々な形の被害者意識(英語版)が社会的地位の指標となる社会への移行であるとしている。本書はLGBTのアイデンティティ、フェミニズム、人種政策(英語版)など様々な形のアイデンティティ政治を扱うセクションに分けられている。マレーはフランスの哲学者のミシェル・フーコーの仕事を社会を権力関係のシステムに還元したものとして批判している。 『大衆の狂気』は批評家から様々な反応を受けた。『デイリー・テレグラフ』のティム・スタンリー(英語版)は本書を称賛し、マレーを「ソーシャル・ジャスティス・ウォリアーの時代を見事に洞察したガイド」と評した。『イブニング・スタンダード(英語版)』のケイティ・ロウはマレーを「ウィットと勇気をもって、別の必要かつ挑発的な主題に取り組んだ」と評した。『フィナンシャル・タイムズ』のエリック・カウフマンは「左翼モダニズム信仰の行き過ぎを暴くという大きな役割を果たしている」と評した。 一方で『ガーディアン』のウィリアム・デイヴィス(英語版)はこの本を「抑圧に盲目的な右翼の挑発者の奇妙な空想」と評し、非常に批判的であった。デイヴィスは特にミシェル・フーコーやジュディス・バトラーのような思想家に代表される社会科学がマルクス主義の影響によって支配されるようになったというマレーの考え方に懐疑的であり、彼が権威主義的なハンガリー首相のオルバーン・ヴィクトルを称賛しながらリベラル的価値観を擁護するという皮肉を指摘した。『タイムズ文芸付録』でテリー・イーグルトンはこの本の極論を「上流階級のならず者がオックスフォードのレストランを潰すというレンズを通してほぼ全面的に捉える保守主義の歴史」と例えて批判した。 マイケル・レイヴァーは『ソサエティ(英語版)』誌上にてこの本を、旧世代のリベラルな思想家たちが彼らに取って代わりつつある新世代の思想家に対して持っている不満の羅列とみており、レイヴァーはその過程を自然なものであると考えている。レイヴァーは不寛容の高まりは左派や右派の思想によるものではなく、インターネットという空間によるものであると考えている。レイヴァーはその理由を探ることを怠ったマレーを批判し、「もちろん問題なのは、相手を『狂っている』『悪い』『錯乱している』と決めつけることは相手を理解する努力の放棄を意味するということだ。そして自分の意見に反対する人々を理解する努力の放棄は議論での敗北を意味する」と書いた。
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『大衆の狂気 ジェンダー・人種・アイデンティティ』は、イギリスの保守系ジャーナリスト・政治コメンテーターのダグラス・マレーの2019年の著書である。イギリスでは2019年9月に出版された。
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Books |work=The Guardian |access-date=2 October 2019}}</ref>。デイヴィスは特にミシェル・フーコーや[[ジュディス・バトラー]]のような思想家に代表される社会科学が[[マルクス主義]]の影響によって支配されるようになったというマレーの考え方に懐疑的であり、彼が権威主義的なハンガリー首相の[[オルバーン・ヴィクトル]]を称賛しながらリベラル的価値観を擁護するという皮肉を指摘した<ref name=davies/>。『[[タイムズ文芸付録]]』で[[テリー・イーグルトン]]はこの本の極論を「上流階級のならず者がオックスフォードのレストランを潰すというレンズを通してほぼ全面的に捉える保守主義の歴史」と例えて批判した<ref>{{Cite web | date=2019-09-29 |title=Against the 'wokescenti': More dispatches from the front line of the culture war |url=https://www.the-tls.co.uk/articles/against-the-wokescenti/ |access-date=2022-05-29 |website=tls |language=en }}</ref>。 マイケル・レイヴァーは『{{仮リンク|ソサエティ (学術雑誌)|en|Society (journal)|label=ソサエティ}}』誌上にてこの本を、旧世代のリベラルな思想家たちが彼らに取って代わりつつある新世代の思想家に対して持っている不満の羅列とみており、レイヴァーはその過程を自然なものであると考えている<ref name=Laver>{{Cite journal|last=Laver|first=Michael|journal=Society|issue=58|pages=80–82|title=The Madness of Crowds: Gender, Race, and Identity by Douglas Murray|year=2021 |volume=58 |doi=10.1007/s12115-021-00560-4|doi-access=free}}</ref>。レイヴァーは不寛容の高まりは左派や右派の思想によるものではなく、インターネットという空間によるものであると考えている。レイヴァーはその理由を探ることを怠ったマレーを批判し、「もちろん問題なのは、相手を『狂っている』『悪い』『錯乱している』と決めつけることは相手を理解する努力の放棄を意味するということだ。そして自分の意見に反対する人々を理解する努力の放棄は議論での敗北を意味する」と書いた<ref name=Laver/>。 == 参考文献 == {{Reflist}} {{DEFAULTSORT:たいしゆうのきようき しえんたあしんしゆあいてんていてい}} [[Category:2019年の書籍]] [[Category:イギリスの政治書]] [[Category:イギリスのノンフィクション書籍]]
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地域活性化・こども政策・デジタル社会形成に関する特別委員会
地域活性化・こども政策・デジタル社会形成に関する特別委員会(ちいきかっせいか・こどもせいさく・でじたるしゃかいけいせいにかんするとくべついいんかい)は、日本の衆議院に設置されている特別委員会。国会法第45条の規定に基づき設置されている。 地域活性化・こども政策・デジタル社会形成に関する特別委員会は、衆議院に置かれている特別委員会である。地域活性化・こども政策・デジタル社会形成に関する総合的な対策を樹立するため、第211回国会から設置されている。 210回国会まで地方創生に関する総合的な対策を目的として地方創生に関する特別委員会が設置されていたが、これにこども政策とデジタル社会に関する政策審議を追加した委員会として設置された。 委員の選任は、すべて議長の指名によって行われる(衆議院規則37条・参議院規則30条1項)。実際には、各議院運営委員会において、各会派の議席数に応じて各委員会の委員の員数も配分され、個別の人事は配分された員数の範囲内で各会派によって行われる。 委員長は、委員の互選(国会法45条)で選任されると定められているが、投票によらないで動議によって選出されることがほとんどである。委員長の選挙は年長者が主催することになっている(衆議院規則101条・参議院規則80条)。事前に各会派間で協議された特別委員長各会派割当てと会派申出の候補者に基づいておこなわれる。なお、委員長に事故があった場合は理事が職務を行うことになっている(衆議院規則38条2項・参議院規則31条3項)。 理事の選任は委員の互選(衆議院規則38条1項・参議院規則31条)となっているが、委員会設置以来すべて委員長の指名により行われている。理事の員数および各会派割当ては議院運営委員会で決定した基準により、選挙など会派の構成が大きく変わった際に見直される。 衆議院地域活性化・こども政策・デジタル社会形成に関する特別委員会の員数は35人である(衆議院規則100条)。委員長1名、理事8名が選出または指名される。 委員会が審査又は調査を行うときは、政府に対する委員の質疑は、国務大臣又は内閣官房副長官、副大臣若しくは大臣政務官に対して行う(参議院規則42条の2)。どの国務大臣等に対して出席を求めるかは、各議院の委員会において、委員長及び理事の協議で決定される。地域活性化・こども政策・デジタル社会形成に関する特別委員会において出席を求められる主な国務大臣等は、以下の通り。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "地域活性化・こども政策・デジタル社会形成に関する特別委員会(ちいきかっせいか・こどもせいさく・でじたるしゃかいけいせいにかんするとくべついいんかい)は、日本の衆議院に設置されている特別委員会。国会法第45条の規定に基づき設置されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "地域活性化・こども政策・デジタル社会形成に関する特別委員会は、衆議院に置かれている特別委員会である。地域活性化・こども政策・デジタル社会形成に関する総合的な対策を樹立するため、第211回国会から設置されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "210回国会まで地方創生に関する総合的な対策を目的として地方創生に関する特別委員会が設置されていたが、これにこども政策とデジタル社会に関する政策審議を追加した委員会として設置された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "委員の選任は、すべて議長の指名によって行われる(衆議院規則37条・参議院規則30条1項)。実際には、各議院運営委員会において、各会派の議席数に応じて各委員会の委員の員数も配分され、個別の人事は配分された員数の範囲内で各会派によって行われる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "委員長は、委員の互選(国会法45条)で選任されると定められているが、投票によらないで動議によって選出されることがほとんどである。委員長の選挙は年長者が主催することになっている(衆議院規則101条・参議院規則80条)。事前に各会派間で協議された特別委員長各会派割当てと会派申出の候補者に基づいておこなわれる。なお、委員長に事故があった場合は理事が職務を行うことになっている(衆議院規則38条2項・参議院規則31条3項)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "理事の選任は委員の互選(衆議院規則38条1項・参議院規則31条)となっているが、委員会設置以来すべて委員長の指名により行われている。理事の員数および各会派割当ては議院運営委員会で決定した基準により、選挙など会派の構成が大きく変わった際に見直される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "衆議院地域活性化・こども政策・デジタル社会形成に関する特別委員会の員数は35人である(衆議院規則100条)。委員長1名、理事8名が選出または指名される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "委員会が審査又は調査を行うときは、政府に対する委員の質疑は、国務大臣又は内閣官房副長官、副大臣若しくは大臣政務官に対して行う(参議院規則42条の2)。どの国務大臣等に対して出席を求めるかは、各議院の委員会において、委員長及び理事の協議で決定される。地域活性化・こども政策・デジタル社会形成に関する特別委員会において出席を求められる主な国務大臣等は、以下の通り。", "title": "所管国務大臣等" } ]
地域活性化・こども政策・デジタル社会形成に関する特別委員会(ちいきかっせいか・こどもせいさく・でじたるしゃかいけいせいにかんするとくべついいんかい)は、日本の衆議院に設置されている特別委員会。国会法第45条の規定に基づき設置されている。
'''地域活性化・こども政策・デジタル社会形成に関する特別委員会'''(ちいきかっせいか・こどもせいさく・でじたるしゃかいけいせいにかんするとくべついいんかい)は、[[日本]]の[[衆議院]]に設置されている[[特別委員会]]。[[国会法]]第45条の規定に基づき設置されている。 == 概要 == 地域活性化・こども政策・デジタル社会形成に関する特別委員会は、衆議院に置かれている特別委員会である。地域活性化・こども政策・デジタル社会形成に関する総合的な対策を樹立するため<ref>[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_iinkai.nsf/html/iinkai/iinkai_tokubetu.htm 各特別委員会の名称、委員数、設置目的一覧]衆議院</ref>、[[第211回国会]]から設置されている。 210回国会まで地方創生に関する総合的な対策を目的として[[地方創生に関する特別委員会]]が設置されていたが、これにこども政策とデジタル社会に関する政策審議を追加した委員会として設置された。 委員の選任は、すべて議長の指名によって行われる(衆議院規則37条・参議院規則30条1項)。実際には、各[[議院運営委員会]]において、各[[院内会派|会派]]の議席数に応じて各委員会の委員の員数も配分され、個別の人事は配分された員数の範囲内で各会派によって行われる。 委員長は、委員の互選(国会法45条)で選任されると定められているが、投票によらないで[[動議]]によって選出されることがほとんどである。委員長の選挙は年長者が主催することになっている(衆議院規則101条・参議院規則80条)。事前に各会派間で協議された特別委員長各会派割当てと会派申出の候補者に基づいておこなわれる。なお、委員長に事故があった場合は理事が職務を行うことになっている(衆議院規則38条2項・参議院規則31条3項)。 理事の選任は委員の互選(衆議院規則38条1項・参議院規則31条)となっているが、委員会設置以来すべて委員長の指名により行われている。理事の員数および各会派割当ては議院運営委員会で決定した基準により、[[選挙]]など会派の構成が大きく変わった際に見直される。 === 組織 === 衆議院地域活性化・こども政策・デジタル社会形成に関する特別委員会の員数は35人である(衆議院規則100条)。委員長1名、理事8名が選出または指名される。 ;衆議院地域活性化・こども政策・デジタル社会形成に関する特別委員会の組織 :2023年(令和5年)6月2日現在 *地域活性化・こども政策・デジタル社会形成に関する特別委員長 **[[橋本岳]]([[自由民主党 (日本)|自由民主党]]・無所属の会) *理事 **[[今枝宗一郎]]、[[坂本哲志]]、[[田中英之]]、[[谷川弥一]](自由民主党・無所属の会) **[[坂本祐之輔]]、[[湯原俊二]]([[立憲民主党 (日本 2017)|立憲民主党]]・無所属) **[[中司宏]]([[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]]) **[[中川宏昌]]([[公明党]]) *委員 **[[井原巧]]、[[石田真敏]]、[[今村雅弘]]、[[大野敬太郎]]、[[小寺裕雄]]、[[小森卓郎]]、[[鈴木隼人]]、[[谷川とむ]]、[[土屋品子]]、[[中川郁子]]、[[中曽根康隆]]、[[牧島かれん]]、[[宮路拓馬]]、[[保岡宏武]]、[[渡辺孝一]](自由民主党・無所属の会) **[[末次精一]]、[[堤かなめ]]、[[福田昭夫]]、[[緑川貴士]]、[[森田俊和]](立憲民主党・無所属) **[[住吉寛紀]]、[[堀場幸子]](日本維新の会) **[[輿水恵一]]、[[鰐淵洋子]](公明党) **[[西岡秀子]]([[国民民主党 (日本 2020)|国民民主党]]・無所属クラブ) **[[高橋千鶴子]]([[日本共産党]]) == 所管国務大臣等 == 委員会が審査又は調査を行うときは、政府に対する委員の質疑は、[[国務大臣]]又は[[内閣官房副長官]]、[[副大臣]]若しくは[[大臣政務官]]に対して行う(参議院規則42条の2)。どの国務大臣等に対して出席を求めるかは、各議院の委員会において、委員長及び理事の協議で決定される。地域活性化・こども政策・デジタル社会形成に関する特別委員会において出席を求められる主な国務大臣等は、以下の通り。 *[[内閣府特命担当大臣]]([[内閣府特命担当大臣(地方創生担当)|地方創生]])、[[デジタル田園都市国家構想]]担当大臣 **[[岡田直樹]]([[自由民主党 (日本)|自由民主党]]) *内閣府特命担当大臣([[内閣府特命担当大臣(こども政策担当)|こども政策]]、[[内閣府特命担当大臣(少子化対策担当)|少子化対策]]、若者活躍、男女共同参画) **[[小倉將信]](自由民主党) *以上の国務大臣の下に置かれる内閣官房副長官、副大臣、大臣政務官など。 == 歴代委員長 == {| class="wikitable" style="font-size: smaller; margin-right: 1em;<!--レガシー--> margin-inline: 0;<!--モダン-->" |- !colspan="4"|衆議院地域活性化・こども政策・デジタル社会形成に関する特別委員長 |- | 1 || [[橋本岳]] ||2023年1月23日 - 2023年10月20日||自由民主党 |- | 2 || [[谷公一]] ||2023年10月20日 - 現職||自由民主党 |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == *[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_iinkai.nsf/html/iinkai/iin_t5240.htm 衆議院 地域活性化・こども政策・デジタル社会形成に関する特別委員会 委員名簿] - [[衆議院]] {{DEFAULTSORT:ちいきかっせいかこともせいさくてじたるしゃかいけいせいにかんするとくへついいんかい}} [[Category:衆議院の委員会・審査会]]
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加藤峰男
加藤峰男(かとう みねお、Katō Mineo、1934年3月27日生まれ) は、日本の元水球選手である。彼は 1960 年夏季オリンピックと 1964 年夏季オリンピックに出場した。
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加藤峰男 は、日本の元水球選手である。彼は 1960 年夏季オリンピックと 1964 年夏季オリンピックに出場した。
{{Infobox sportsperson|name=加藤峰男|image=|caption=|nationality={{JPN}}|sport=[[水球]]|birth_date={{birth date and age|1934|3|27|df=yes}}|birth_place={{JPN}}、[[東京都]]|death_date=|death_place=}} {{Nihongo|'''加藤峰男'''|かとう みねお|Katō Mineo|1934年3月27日生まれ}} は、日本の元水球選手である。彼は 1960 年夏季オリンピックと 1964 年夏季オリンピックに出場した。<ref name="SportsRef">{{Cite sports-reference|url=https://www.sports-reference.com/olympics/athletes/ka/mineo-kato-1.html|title=Mineo Kato Olympic Results|accessdate=29 November 2019}}</ref> == こちらも参照 == * {{仮リンク|オリンピック男子水球日本代表チームの記録と統計|en|Japan men's Olympic water polo team records and statistics}} * {{仮リンク|オリンピック男子水球大会ゴールキーパー一覧|en|List of men's Olympic water polo tournament goalkeepers}} == 参考文献 == {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Sports links}} {{デフォルトソート:かとう みねお}} [[Category:21世紀日本の人物]] [[Category:20世紀日本の人物]] [[Category:日本のアジア競技大会金メダリスト]] [[Category:オリンピック水球日本代表選手]] [[Category:日本の男子水球選手]] [[Category:存命人物]] [[Category:1934年生]]
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藤庄印刷
藤庄印刷株式会社(ふじしょういんさつ、英: FUJISHO PRINTING INC.)は、山形県山形市に本社を置く、商業印刷、製本加工等を手掛ける印刷会社である。 webメディア「山形会議」を運営し、山形県の魅力情報の発信を行っている。
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藤庄印刷株式会社は、山形県山形市に本社を置く、商業印刷、製本加工等を手掛ける印刷会社である。 webメディア「山形会議」を運営し、山形県の魅力情報の発信を行っている。
{{複数の問題 |特筆性=2023年9月8日 (金) 11:46 (UTC)|分野=組織 |出典の明記=2023年9月8日 (金) 11:46 (UTC) |宣伝=2023年9月8日 (金) 11:46 (UTC) |wikify=2023年9月8日 (金) 11:46 (UTC) }} {{基礎情報 会社 | 社名 = 藤庄印刷株式会社 | 英文社名 = FUJISHO PRINTING INC. | ロゴ = | 画像 = | 画像説明 = | 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] | 機関設計 = | 市場情報 = <!-- 株式非公開会社において「非上場」などと書く必要はありません --> | 略称 = | 国籍 = {{JPN}} | 本社郵便番号 = 990-0025 | 本社所在地 = [[山形県]][[山形市]]あこや町3丁目18-30 | 本社緯度度 = 38 | 本社緯度分 = 14 | 本社緯度秒 = 31 | 本社N(北緯)及びS(南緯) = N | 本社経度度 = 140 | 本社経度分 = 21 | 本社経度秒 = 25 | 本社E(東経)及びW(西経) = E | 本社地図国コード = | 本店郵便番号 = | 本店所在地 = | 本店緯度度 = | 本店緯度分 = | 本店緯度秒 = | 本店N(北緯)及びS(南緯) = | 本店経度度 = | 本店経度分 = | 本店経度秒 = | 本店E(東経)及びW(西経) = | 本店地図国コード = | 設立 = [[1946年]]1月 | 業種 = 3800 | 統一金融機関コード = | SWIFTコード = | 事業内容 = 商業印刷<br />製本加工<br />出版企画 | 代表者 = 代表取締役会長 小嶋信一<br />代表取締役社長 川村祐一 | 資本金 = | 発行済株式総数 = | 売上高 = | 営業利益 = | 経常利益 = | 純利益 = | 純資産 = | 総資産 = | 従業員数 = 170名 | 支店舗数 = | 決算期 = | 会計監査人 = | 所有者 = | 主要株主 = | 主要部門 = | 主要子会社 = | 関係する人物 = | 外部リンク = https://fujisho.co.jp/ | 特記事項 = | 法人番号 = 2390001009685 | 座標右上表示 = Yes }} '''藤庄印刷株式会社'''(ふじしょういんさつ、{{Lang-en-short|FUJISHO PRINTING INC.}})は、[[山形県]][[山形市]]に本社を置く、商業印刷、製本加工等を手掛ける[[印刷会社]]である。 webメディア「山形会議」を運営し、山形県の魅力情報の発信を行っている。 == 沿革 == * [[1946年]] - [[東村山郡]][[山辺町]]に活版印刷業として発足 * [[1965年]] - ドイツ製ローランド印刷機導入(関東以北最初の導入) * [[1970年]] - 東京支店新設 * [[1980年]] - 仙台支店新設 * [[1984年]] - B半裁4色刷オフセット輪転機増設 * [[1988年]] - 山形県産業賞受賞 * [[1990年]] - 郡山支店新設 * [[1995年]] - 蔵王の森工場完成 * [[2011年]] - 会社分割を実施し、新生「藤庄印刷株式会社」として営業開始 == 事業所 == * 国内工場 ** 蔵王の森工場(山形県[[上山市]]蔵王の森) * 国内支店・事業所 ** 東京支店([[東京都]][[台東区]]) ** 仙台支店([[宮城県]][[仙台市]]) ** 郡山支店([[福島県]][[郡山市]]) ** 北部営業所(山形県[[村山市]]) ** 山辺営業所([[東村山郡]][[山辺町]]) == 外部リンク == * [https://fujisho.co.jp/ 藤庄印刷](公式サイト) * [https://yamagata-kaigi.org/ 山形会議] - 同社が運営するwebメディア {{DEFAULTSORT:ふししよういんさつ}} [[Category:日本の印刷業者]] [[Category:山形市の企業]] [[Category:20世紀の日本の設立]] [[Category:1946年設立の企業]]
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雨ニモマケズ、ダーウィンは来ズ。
雨ニモマケズ、ダーウィンは来ズ。(あめニモマケズ、ダーウィンはこズ。)は、日本のYouTuberグループ。通称「雨来ズ。」。そうた、ケニー、よろず、モトダリョウタによる4人組で、モトダリョウタがリーダーを務めている。YouTubeチャンネルの登録者数は2023年9月8日時点で約31万人。2020年7月30日に初投稿し、2023年9月8日時点で612本の動画を公開し、総再生回数が1億回を超えている。 全員2000年度に生まれた男性の4人組。 2020年7月30日に初投稿し、同年9月20日に動画の総再生回数が10万回になり、同年9月30日に収益化を達成した。 チャンネルの登録者数は2020年12月24日に1万人を超え、2021年7月24日に2万人、2022年2月9日に5万人、同年4月8日に10万人、同年10月19日に20万人、2023年8月15日に30万人を超えた。 2023年6月に「【初デート】肌が黒くなってくドッキリの最後に黒人が出てきたらどんな反応するのかww」と題する動画を雨来ズ。が公開すると、面白がる視聴者の一方で、人種差別や人権の点で批判された。 2023年6月7日に公開した動画「【危険】深夜の心霊スポットに1人でいるヤバい奴に突撃してみたww」については、インタビューに応じた73歳の男性に対する「認知症で深夜徘徊しちゃってる?」などという雨来ズ。の動画における発言が視聴者の批判を呼んだ。この件に関して雨来ズ。はコミュニティ欄で「お年寄りに対しての不適切な発言」を謝罪した。 2023年7月30日に公開した動画「【傷害罪】殴ってきた犯人が捕まったから裁判に行ったらマジで楽しすぎたww」では、メンバーを殴った犯人の裁判を傍聴した報告をした 。 2023年8月21日に公開した動画「【チン凸】未成年に陰部の写真を送る変態おじさんに顔面タトゥーで突撃してみたww」は、被害者の協力を得て雨来ズ。が犯人を追及する様子を扱った 。
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雨ニモマケズ、ダーウィンは来ズ。(あめニモマケズ、ダーウィンはこズ。)は、日本のYouTuberグループ。通称「雨来ズ。」。そうた、ケニー、よろず、モトダリョウタによる4人組で、モトダリョウタがリーダーを務めている。YouTubeチャンネルの登録者数は2023年9月8日時点で約31万人。2020年7月30日に初投稿し、2023年9月8日時点で612本の動画を公開し、総再生回数が1億回を超えている。
{{特筆性|人物|date=2023年9月8日 (金) 11:45 (UTC)}} {{宣伝|date=2023年9月8日 (金) 11:45 (UTC)}} {{Infobox YouTube personality | name = 雨ニモマケズ、ダーウィンは来ズ。 | image = | caption = | pseudonym = | channel_url = UCBBEJ75NP7daMMw7CjNJ0Lw | views = 117,929,388回 <!-- 総再生回数・チャンネル登録者数を更新する際は必ずセットで更新し、かつ stats_update の日付を更新してください --> | nationality = | occupation = | education = | years_active = 2020年 - | genre = | subscribers = 31.4万人<!-- 総再生回数・チャンネル登録者数を更新する際は必ずセットで更新し、かつ stats_update の日付を更新してください --> | creator = {{Plainlist| * モトダリョウタ(リーダー) * そうた * ケニー * よろず }} | silver_year = | gold_year = | stats_update = {{dts|2023-9-8}} <!-- 総再生回数・チャンネル登録者数を更新したときは必ず、ここの日付を更新してください --> | channel_display_name = 【雨来ズ。】雨ニモマケズ、ダーウィンは来ズ。 | silver_button = | gold_button = }} '''雨ニモマケズ、ダーウィンは来ズ。'''(あめニモマケズ、ダーウィンはこズ。)は、[[日本]]の[[YouTuber]]グループ。通称「'''雨来ズ。'''」。そうた、ケニー、よろず、モトダリョウタによる4人組で、モトダリョウタがリーダーを務めている<ref name=mdpr20330822>"[https://mdpr.jp/news/detail/3911376 雨来ズが「YouTubeを変えます」と宣言 「今のYouTubeはつまらない」]"『[[モデルプレス]]』(2023年8月22日)。2023年9月8日閲覧。</ref>。YouTubeチャンネルの登録者数は2023年9月8日時点で約31万人<ref name="概要" />。2020年7月30日に初投稿し、2023年9月8日時点で612本の動画を公開し、総再生回数が1億回を超えている<ref name="概要">"[https://www.youtube.com/@amekoz/about 概要]" 【雨来ズ。】雨ニモマケズ、ダーウィンは来ズ。(2023年9月8日)、[[YouTube]]. 2023年9月8日閲覧。</ref>。 == メンバー == {{節スタブ}} 全員2000年度に生まれた男性の4人組。 ; モトダリョウタ : 2001年2月10日生まれ<ref name=profile>"[https://kiii.co.jp/creators/%E3%80%90%E9%9B%A8%E6%9D%A5%E3%82%BA%E3%80%82%E3%80%91%E9%9B%A8%E3%83%8B%E3%83%A2%E3%83%9E%E3%82%B1%E3%82%BA%E3%80%81%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%81%AF%E6%9D%A5%E3%82%BA%E3%80%82/ 【雨来ズ。】雨ニモマケズ、ダーウィンは来ズ。]" [[Kiii]]. 2023年9月8日閲覧。</ref>。リーダーを務めている<ref name=mdpr20330822 />。 ; そうた : 2000年10月5日生まれ<ref name=profile />。 ; ケニー : 2000年7月23日生まれ<ref name=profile />。 ; よろず : 2000年11月15日生まれ<ref name=profile />。 == 来歴 == {{節スタブ}} 2020年7月30日に初投稿し、同年9月20日に動画の総再生回数が10万回になり、同年9月30日に収益化を達成した<ref name="概要" />。 チャンネルの登録者数は2020年12月24日に1万人を超え、2021年7月24日に2万人、2022年2月9日に5万人、同年4月8日に10万人、同年10月19日に20万人、2023年8月15日に30万人を超えた<ref name="概要" />。 == 主な動画 == {{節スタブ}} 2023年6月<!--1日あるいは4日-->に「【初デート】肌が黒くなってく[[ドッキリ]]の最後に[[黒人]]が出てきたらどんな反応するのか[[(笑)|ww]]」と題する動画を雨来ズ。が公開すると、面白がる視聴者の一方で、[[人種差別]]や[[人権]]の点で批判された<ref>"[https://yutura.net/news/archives/95361 人気YouTuber・雨来ズの黒塗りメイク企画に「人種差別」との指摘 スタッフは「逆差別」と反論]"『モデルプレス』(2023年6月5日)。2023年9月8日閲覧。</ref><ref>國﨑万智 "[https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_647eca1be4b0b4444c80acb5 「ブラックフェイス」なぜ問題?肌の色を揶揄するYouTuberの“ネタ動画”が踏みにじるもの]"『[[ハフポスト]]』(2023年7月2日)。2023年9月8日閲覧。</ref>。 2023年6月7日に公開した動画「【危険】深夜の[[心霊スポット]]に1人でいる[[ヤバい]]奴に突撃してみたww」については、インタビューに応じた73歳の男性に対する「[[認知症]]で深夜徘徊しちゃってる?」などという雨来ズ。の動画における発言が視聴者の批判を呼んだ<ref name=mdpr20230608 />。この件に関して雨来ズ。はコミュニティ欄で「お年寄りに対しての不適切な発言」を謝罪した<ref name=mdpr20230608>"[https://mdpr.jp/news/detail/3788727 雨来ズが高齢男性への不適切発言を謝罪「認知症で深夜徘徊しちゃってる?」]"『モデルプレス』(2023年6月8日)。2023年9月8日閲覧。</ref>。 2023年7月30日に公開した動画「【[[傷害罪]]】殴ってきた犯人が捕まったから裁判に行ったらマジで楽しすぎたww」では、メンバーを殴った犯人の裁判を傍聴した報告をした<ref>"[https://mdpr.jp/news/detail/3873872 YouTuber雨来ズ、メンバーの鼻を折った犯人の逮捕を報告 裁判の傍聴は「めっちゃ楽しかった」]"『モデルプレス』(2023年7月30日)。2023年9月8日閲覧。</ref> 。 2023年8月21日に公開した動画「【チン凸】未成年に陰部の写真を送る変態おじさんに顔面タトゥーで突撃してみたww」は、被害者の協力を得て雨来ズ。が犯人を追及する様子を扱った<ref>"[https://mdpr.jp/news/detail/3917090 YouTuber「雨来ズ」、街なかに“チン凸者”を呼び出し成敗]"『モデルプレス』(2023年7月30日)。2023年9月8日閲覧。</ref> 。 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * {{YouTube|c=UCBBEJ75NP7daMMw7CjNJ0Lw|【雨来ズ。】雨ニモマケズ、ダーウィンは来ズ。}} * [https://kiii.co.jp/creators/%E3%80%90%E9%9B%A8%E6%9D%A5%E3%82%BA%E3%80%82%E3%80%91%E9%9B%A8%E3%83%8B%E3%83%A2%E3%83%9E%E3%82%B1%E3%82%BA%E3%80%81%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%81%AF%E6%9D%A5%E3%82%BA%E3%80%82/ 【雨来ズ。】雨ニモマケズ、ダーウィンは来ズ。] - [[Kiii]] {{DEFAULTSORT:あめにもまけす たあういんはこす}} [[Category:日本のYouTuberグループ]]
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渡部雅浩
渡部 雅浩(わたなべ まさひろ、1971年 - ) は、日本の気象学者。東京大学大気海洋研究所気候システム研究系教授。日本気象学会賞受賞。 神奈川県生まれ。1990年神奈川県立湘南高等学校卒業。1995年東京都立大学理学部地理学科卒業。1997年日本学術振興会特別研究員。2000年東京大学大学院理学系研究科地球惑星物理学専攻博士課程修了、博士(理学)、科学技術振興事業団客員研究員。2001年ハワイ大学客員研究員。 2002年北海道大学大学院地球環境科学研究科大気海洋圏環境科学専攻助教授。2005年北海道大学大学院地球環境科学研究院地球圏科学部門大気海洋物理学分野助教授。2007年東京大学気候システム研究センター准教授、気象庁異常気象分析検討委員会作業部会長。2010年東京大学大気海洋研究所准教授。 2012年気象庁気候問題懇談会検討部会委員。2013年気象庁異常気象分析検討委員会委員。2016年東京大学大気海洋研究所教授、日本気象学会理事、国土交通省交通政策審議会交通体系分科会環境部会委員、気象庁数値予報モデル開発懇談会委員。専門は気象学、気候力学。
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渡部 雅浩 は、日本の気象学者。東京大学大気海洋研究所気候システム研究系教授。日本気象学会賞受賞。
'''渡部 雅浩'''(わたなべ まさひろ、[[1971年]] - ) は、[[日本]]の[[気象学者]]。[[東京大学大気海洋研究所]]気候システム研究系教授。[[日本気象学会]]賞受賞。 == 人物・経歴 == [[神奈川県]]生まれ<ref>[https://www.lib.sagamihara.kanagawa.jp/toshow/asp/WwShousaiKen.aspx?FCode=2119437 絵でわかる地球温暖化  (絵でわかるシリーズ)]相模原市立図書館</ref>。1990年[[神奈川県立湘南高等学校]]卒業。1995年[[東京都立大学 (1949-2011)|東京都立大学]][[理学部]][[地理学科]]卒業。1997年[[日本学術振興会特別研究員]]。2000年[[東京大学大学院理学系研究科]]地球惑星物理学専攻博士課程修了、[[博士(理学)]]、[[科学技術振興事業団]][[客員研究員]]。2001年[[ハワイ大学]]客員研究員<ref name="cc"/>。 2002年[[北海道大学]]大学院地球環境科学研究科大気海洋圏環境科学専攻助教授。2005年北海道大学大学院地球環境科学研究院地球圏科学部門大気海洋物理学分野助教授。2007年[[東京大学気候システム研究センター]]准教授、[[気象庁]][[異常気象]]分析検討委員会作業部会長。2010年[[東京大学大気海洋研究所]]准教授<ref name="cc"/>。 2012年気象庁気候問題懇談会検討部会委員。2013年気象庁異常気象分析検討委員会委員<ref name="cc"/>。2016年東京大学大気海洋研究所教授、[[日本気象学会]][[理事]]、[[国土交通省]][[交通政策審議会]]交通体系分科会環境部会委員、気象庁[[数値予報モデル]]開発懇談会委員<ref name="cc">[https://ccsr.aori.u-tokyo.ac.jp/~hiro/sub/cv-j.html 経歴]東京大学</ref>。専門は[[気象学]]、[[気候力学]]<ref>[https://ntd-future.amebaownd.com/posts/7393292/ 講演者ご紹介(4)]日本学術振興会先導的研究開発委員会 「未来の原子力技術」 公開シンポジウム エネルギー社会と原子力 : 新たな合意をめざして ~ 福島第一原発事故と地球温暖化から考える ~</ref>。 == 著作 == *『地球温暖化: そのメカニズムと不確実性』(分担執筆)朝倉書店 2014年 *『絵でわかる地球温暖化』講談社 2018年 === 監修 === *『文系のためのめっちゃやさしい天気 : 理科が苦手な人でも、どんどん楽しく読める! : 知識ゼロから読めちゃう超入門書!』ニュートンプレス 2021年 === 監訳 === *アンドリュー・レブキン, リサ・メカリー著『天気と気象 : グラフィックヒストリー』ニュートンプレス 2020年 == 受賞 == *2001年度 日本気象学会山本-正野論文賞<ref name="cc"/> *2012年度 日本気象学会学会賞<ref name="cc"/> *2015年度 [[日本地球惑星科学連合]]西田賞<ref name="cc"/> *2018-2021年度 Highly Cited Researcher by Clarivate Analytics<ref name="cc"/> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{Scientist-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:わたなへ まさひろ}} [[Category:日本の気象学者]] [[Category:東京大学大気海洋研究所の人物]] [[Category:東京大学の教員]] [[Category:北海道大学の教員]] [[Category:科学技術振興機構の人物]] [[Category:博士(理学)取得者]] [[Category:修士(理学)取得者]] [[Category:学士(理学)取得者]] [[Category:東京大学出身の人物]] [[Category:東京都立大学出身の人物]] [[Category:神奈川県立湘南高等学校出身の人物]] [[Category:神奈川県出身の人物]] [[Category:1971年生]] [[Category:存命人物]]
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橋田舞子
橋田 舞子(はしだ まいこ、2000年12月23日 - )は、日本の水球選手である。2020年夏季オリンピックの水球女子日本代表に選出された。 彼女は2018年アジア競技大会 と2019年FINA女子水球ワールドリーグに出場した。
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橋田 舞子は、日本の水球選手である。2020年夏季オリンピックの水球女子日本代表に選出された。 彼女は2018年アジア競技大会 と2019年FINA女子水球ワールドリーグに出場した。
{{Infobox sportsperson|name=橋田 舞子|image=|caption=|nationality={{JPN}}|sport=[[水球]]|birth_date={{birth date and age|2000|12|23|df=y}}|birth_place=|death_date=|death_place=}} '''橋田 舞子'''(はしだ まいこ、[[2000年]][[12月23日]] - )は、日本の水球選手である。2020年夏季オリンピックの水球女子日本代表に選出された。<ref>{{Cite web|和書|title=水球日本代表メンバー発表(オリンピック&ワールドリーグスーパーファイナル) |url=https://swim.or.jp/news/19209/ |website=swim.or.jp |publisher=[[Japan Swimming Federation]] |language=Japanese |date=19 May 2021 |access-date=5 July 2021}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=第32オリンピック競技大会(水球) 出場選⼿⼀覧 |url=https://swim.or.jp/tournament/member/19175/ |website=swim.or.jp |publisher=[[Japan Swimming Federation]] |language=Japanese |date=19 May 2021 |access-date=5 July 2021}}</ref> 彼女は2018年アジア競技大会<ref>{{Cite web |title=Olympic Council of Asia |url=https://www.ocagames.com/orb/athlete.php?id_game_edition=4&ctrycod=JPN&person_ln=HASHIDA%20Maiko&sport_code=WPO |access-date=2021-07-06 |website=www.ocagames.com}}</ref> <ref>{{Cite web |author=马艺萌 |title=In pics: women's water polo matches at 18th Asian Games - Xinhua {{!}} English.news.cn |url=http://www.xinhuanet.com/english/2018-08/17/c_137398470_2.htm |archive-url=https://web.archive.org/web/20200813042510/http://www.xinhuanet.com/english/2018-08/17/c_137398470_2.htm |url-status=dead |archive-date=August 13, 2020 |access-date=2021-07-06 |website=www.xinhuanet.com}}</ref>と2019年FINA女子水球ワールドリーグに出場した。<ref>{{Cite web |author=Zaroorat |first=Team |title=FINA World League Super Finals: Day 1 Round-Up - Zaroorat |url=https://zaroorat.in/2021/06/14/fina-world-league-super-finals-day-1-round-up/,%20https://worldinsport.com/fina-world-league-super-finals-day-1-round-up/ |access-date=2021-07-06 |language=en-US}}</ref><ref>{{Cite web |title=USA-Netherlands out for gold in FINA Women's Water Polo Super Final |url=https://boxscorenews.com/usanetherlands-out-for-gold-in-fina-womens-water-polo-super-final-p148926-68.htm |access-date=2021-07-06 |website=boxscorenews.com}}</ref> == 参考文献 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://www.shutterstock.com/editorial/image-editorial/asian-games-water-polo-jakarta-indonesia-21-aug-2018-9795836v Japan's Maiko Hashida, right, scores a goal as Kazakhstan's Anna Turova attempts to block during their women's water polo game at the 18th Asian Games in Jakarta, Indonesia] * [https://www.gettyimages.com/detail/news-photo/maiko-hashida-of-japan-takes-a-shot-against-giulia-emmolo-news-photo/1162325252 Maiko Hashida #7 of Japan takes a shot against Giulia Emmolo #9 of Italy] {{デフォルトソート:はした まいこ}} [[Category:21世紀日本の女性]] [[Category:日本のアジア競技大会銅メダリスト]] [[Category:オリンピック水球日本代表選手]] [[Category:日本の女子水球選手]] [[Category:存命人物]] [[Category:2000年生]]
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橋本博 (曖昧さ回避)
橋本博は、日本の人名のひとつ。
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橋本博は、日本の人名のひとつ。 橋本博 - 日本の生物学者(構造生物学・タンパク質結晶学)。 橋本博 (水球選手) - 日本の水球選手
'''橋本博'''は、日本の人名のひとつ。 *[[橋本博]] - 日本の生物学者(構造生物学・タンパク質結晶学)。 *[[橋本博 (水球選手)]] - 日本の水球選手 {{人名の曖昧さ回避}} {{DEFAULTSORT:はしもと ひろし}}
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サンダースティール
『サンダースティール』(Thundersteel)は、アメリカ合衆国のヘヴィメタル・バンド、ライオットが1988年に発表した6作目のスタジオ・アルバム。 バンドの中心人物マーク・リアリは、マネージメントの問題によりライオット名義で活動できなくなった頃「Narita」というバンドを率いており、同バンドのベーシストであったドン・ヴァン・スタヴァンは、本作にも参加した。なお、スタヴァンが以前に所属していた「S.A.スレイヤー」(スレイヤーとは同名異バンド)は、ツー・バス・ドラムを導入したパワーメタル的な音楽性で、スタヴァンは本作に関して「マークの持っていたメロディのあるロックンロールのスタイルと、俺のアグレッシヴなリフが融合したもの」と説明している。 一部の曲では、当時ライオンのメンバーだったマーク・エドワーズがドラムスを担当した。 アメリカでは10週にわたりBillboard 200入りし、最高150位を記録して、バンドにとって3作目の全米トップ200アルバムとなった。 さこたはつみは『BURRN!』誌1988年6月号のレヴューで100点満点中89点を付け、全体像に関して「スピーディでメロディアスで歌メロがあってギターが泣いて...というHMが好きな人にこの作品は絶対だろう」、トニー・ムーアのボーカルに関して「少しレット・フォリスターの面影を持ちながら、ロブ・ハルフォード調の高音域を持つしっかり歌えるタイプ」と評している。また、ブライアン・オニールはオールミュージックにおいて5点満点中4.5点を付け「ジューダス・プリーストの特にヘヴィな瞬間を思わせる正統派のヨーロピアン・スタイル、当時アンダーグラウンドにおいて発展していたスラッシュメタルを思わせるギターと鼓動の如き打楽器、それに当時チャートを席巻していたヘア・メタル勢の要素を融合し、洗練と凶暴さが同居している」と評している。 特記なき楽曲はマーク・リアリ、トニー・ムーア、ドン・ヴァン・スタヴァンの共作。 アディショナル・ミュージシャン
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『サンダースティール』(Thundersteel)は、アメリカ合衆国のヘヴィメタル・バンド、ライオットが1988年に発表した6作目のスタジオ・アルバム。
{{Infobox Album | Name = サンダースティール | Type = [[スタジオ・アルバム]] | Artist = [[ライオット]] | Released = [[1988年]] | Recorded = [[ニューヨーク]] グリーン・ストリート・レコーディング | Genre = [[ヘヴィメタル]]、[[パワーメタル]] | Length = 46分08秒 | Label = {{flagicon|USA}}CBSレコード<br />{{flagicon|EU}}[[エピック・レコード]] | Producer = マーク・リアリ、スティーヴ・ローブ、Rod Hui | Reviews = *[[オールミュージック|AllMusic]] {{Rating-5|4.5}} [https://www.allmusic.com/album/thundersteel-mw0000652248 link] | Chart position = *150位(アメリカ<ref name=billboard200>{{Cite web |url=https://www.billboard.com/artist/riot/chart-history/tlp/ |title=Riot - Chart History - Billboard 200 |publisher=Billboard |accessdate=2023-09-08}}</ref>) | Certification = | Last album = [[ボーン・イン・アメリカ]]<br />(1983年) | This album = '''サンダースティール'''<br />(1988年) | Next album = ライオット・ライヴ<br />(1989年) }} 『'''サンダースティール'''』(Thundersteel)は、[[アメリカ合衆国]]の[[ヘヴィメタル]]・[[バンド (音楽)|バンド]]、[[ライオット]]が[[1988年]]に発表した6作目の[[スタジオ・アルバム]]。 == 背景 == バンドの中心人物マーク・リアリは、マネージメントの問題によりライオット名義で活動できなくなった頃「Narita」というバンドを率いており、同バンドのベーシストであったドン・ヴァン・スタヴァンは、本作にも参加した<ref name=ohno>日本盤CD (25DP 5080)ライナーノーツ(大野奈鷹美、1988年3月25日)</ref>。なお、スタヴァンが以前に所属していた「S.A.スレイヤー」([[スレイヤー]]とは同名異バンド)は、ツー・バス・ドラムを導入した[[パワーメタル]]的な音楽性で、スタヴァンは本作に関して「マークの持っていたメロディのあるロックンロールのスタイルと、俺のアグレッシヴなリフが融合したもの」と説明している<ref>{{Cite web|和書|url=https://wardlivemedia.com/interview/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88/ |author=川嶋未来|title=ライオット|publisher=Ward Records |work=WARD LIVE MEDIA PORTAL |date=2019-10-31 |accessdate=2023-09-08}}</ref>。 一部の曲では、当時[[ライオン (バンド)|ライオン]]のメンバーだったマーク・エドワーズがドラムスを担当した<ref name=ohno />。 == 反響・評価 == アメリカでは10週にわたり[[Billboard 200]]入りし、最高150位を記録して、バンドにとって3作目の全米トップ200アルバムとなった<ref name=billboard200 />。 さこたはつみは『[[BURRN!]]』誌1988年6月号のレヴューで100点満点中89点を付け、全体像に関して「スピーディでメロディアスで歌メロがあってギターが泣いて…というHMが好きな人にこの作品は絶対だろう」、トニー・ムーアのボーカルに関して「少しレット・フォリスターの面影を持ちながら、[[ロブ・ハルフォード]]調の高音域を持つしっかり歌えるタイプ」と評している<ref>{{Cite book |和書|date=1991-09-25 |title=BURRNIN' VINYL VOL.3 |publisher=バーン・コーポレーション|page=16 |isbn=4-401-61348-1}}</ref>。また、ブライアン・オニールは[[オールミュージック]]において5点満点中4.5点を付け「[[ジューダス・プリースト]]の特にヘヴィな瞬間を思わせる正統派のヨーロピアン・スタイル、当時アンダーグラウンドにおいて発展していた[[スラッシュメタル]]を思わせるギターと鼓動の如き打楽器、それに当時チャートを席巻していたヘア・メタル勢の要素を融合し、洗練と凶暴さが同居している」と評している<ref>{{Cite web |url=https://www.allmusic.com/album/thundersteel-mw0000652248 |last=O'Neill |first=Brian |title=Riot - Thundersteel Album Reviews, Songs & More |publisher=AllMusic |accessdate=2023-09-08}}</ref>。 == 収録曲 == 特記なき楽曲はマーク・リアリ、トニー・ムーア、ドン・ヴァン・スタヴァンの共作。 #サンダースティール - "Thundersteel" (Mark Reale, Don Van Stavern) - 3:50 #ファイト・オア・フォール - "Fight or Fall" (D. Van Stavern) - 4:24 #サイン・オブ・ザ・クリムゾン・ストーム - "Sign of the Crimson Storm" (M. Reale) - 4:39 #フライト・オブ・ザ・ウォリアー - "Flight of the Warrior" - 4:17 #オン・ウィングス・オブ・イーグルス - "On Wings of Eagles" - 5:41 #ジョニーズ・バック - "Johnny's Back" - 5:32 #ブラッドストリーツ - "Bloodstreets" (M. Reale, Tony Moore) - 4:38 #ラン・フォー・ユア・ライフ - "Run for Your Life" - 4:07 #バリッド・アライヴ - "Buried Alive (Tell Tale Heart)" (M. Reale, T. Moore, D. Van Stavern, Bobby Jarzombek, Bob Held, Steve Loeb) - 8:55 == 参加ミュージシャン == *トニー・ムーア - [[ボーカル]] *マーク・リアリ - [[ギター]] *ドン・ヴァン・スタヴァン - [[エレクトリックベース|ベース]] *ボビー・ジャーゾンベク - [[ドラムセット|ドラムス]] '''アディショナル・ミュージシャン''' *マーク・エドワーズ - ドラムス(on #2, #3, #5, #7) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} ==外部リンク== *{{discogs master|master=233890}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:さんたあすていいる}} [[Category:ライオットのアルバム]] [[Category:1988年のアルバム]]
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ボーン・イン・アメリカ
『ボーン・イン・アメリカ』(Born in America)は、アメリカ合衆国のヘヴィメタル・バンド、ライオットが1983年に発表した5作目のスタジオ・アルバム。 バンドはエレクトラ・レコードとの契約を失い、本作はカナダのインディーズ・レーベル「クオリティ・レコード」から発表された。「デヴィル・ウーマン」はクリフ・リチャードのカヴァーである。 アメリカでは1984年2月11日付のBillboard 200で175位に達し、『ファイアー・ダウン・アンダー』(1981年)以来の全米トップ200アルバムとなった。ジェイソン・アンダーソンはオールミュージックにおいて5点満点中2.5点を付け「レット・フォリスターのボーカルに関しては、彼が初参加した『レストレス・ブリード』と同様、良い仕事をしている。本作が今一つとなった原因は、フォリスターの歌唱ではなく、精彩を欠いた陳腐な楽曲である」と評している。 特記なき楽曲はマーク・リアリ作。 メタル・ブレイド・レコーズから1999年に発売された再発CDも、同じ曲順となっている。
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『ボーン・イン・アメリカ』は、アメリカ合衆国のヘヴィメタル・バンド、ライオットが1983年に発表した5作目のスタジオ・アルバム。
{{Infobox Album | Name = ボーン・イン・アメリカ | Type = [[スタジオ・アルバム]] | Artist = [[ライオット]] | Released = [[1983年]][[10月14日]] | Recorded = [[ニューヨーク]] グリーン・ストリート・レコーディング | Genre = [[ヘヴィメタル]] | Length = 39分43秒 | Label = クオリティ・レコード<br />[[ソニー・ミュージックレコーズ|CBSソニー]](1989年日本盤CD)<br />[[メタル・ブレイド・レコーズ]](1999年再発CD) | Producer = スティーヴ・ローブ、Rod Hui | Reviews = *[[オールミュージック|AllMusic]] {{Rating-5|2.5}} [https://www.allmusic.com/album/born-in-america-mw0000204249 link] | Chart position = *175位(アメリカ<ref name=billboard200>{{Cite web |url=https://www.billboard.com/artist/riot/chart-history/tlp/ |title=Riot - Chart History - Billboard 200 |publisher=Billboard |accessdate=2023-09-08}}</ref>) | Certification = | Last album = Riot Live (EP)<br />(1982年) | This album = '''ボーン・イン・アメリカ'''<br />(1983年) | Next album = [[サンダースティール]]<br />(1988年) }} 『'''ボーン・イン・アメリカ'''』(Born in America)は、[[アメリカ合衆国]]の[[ヘヴィメタル]]・[[バンド (音楽)|バンド]]、[[ライオット]]が[[1983年]]に発表した5作目の[[スタジオ・アルバム]]。 == 背景 == バンドは[[エレクトラ・レコード]]との契約を失い、本作はカナダのインディーズ・レーベル「クオリティ・レコード」から発表された<ref name=baphomet>{{Cite web |url=https://metalinvader.net/riot-born-in-america-heavy-metal-machine/ |last=Baphomet |first=Elpida |title=Riot: Born In America - Metal Machine |publisher=Metal Invader |date=2015-03-01 |accessdate=2023-09-08}}</ref>。「デヴィル・ウーマン」は[[クリフ・リチャード]]のカヴァーである<ref name=baphomet />。 == 反響・評価 == アメリカでは1984年2月11日付の[[Billboard 200]]で175位に達し、『[[ファイアー・ダウン・アンダー]]』(1981年)以来の全米トップ200アルバムとなった<ref name=billboard200 />。ジェイソン・アンダーソンは[[オールミュージック]]において5点満点中2.5点を付け「レット・フォリスターのボーカルに関しては、彼が初参加した『[[レストレス・ブリード]]』と同様、良い仕事をしている。本作が今一つとなった原因は、フォリスターの歌唱ではなく、精彩を欠いた陳腐な楽曲である」と評している<ref>{{Cite web |url=https://www.allmusic.com/album/born-in-america-mw0000204249 |last=Anderson |first=Jason |title=Riot - Born in America Album Reviews, Songs & More |publisher=AllMusic |accessdate=2023-09-08}}</ref>。 == 収録曲 == 特記なき楽曲はマーク・リアリ作。 === オリジナルLP === [[メタル・ブレイド・レコーズ]]から1999年に発売された再発CDも、同じ曲順となっている。 ;サイド1 # "Born in America" (Mark Reale, Rhett Forrester, Steve Loab) - 4:33 # "You Burn in Me" - 3:38 # "Wings of Fire" - 4:40 # "Running from the Law" - 4:24 # "Devil Woman" (Terry Britten, Christine Holmes) - 3:57 ;サイド2 #<li value=6> "Vigilante Killer" (R. Forrester) - 3:02 # "Heavy Metal Machine" - 3:35 # "Where Soldiers Rule" (Rick Ventura) - 3:43 # "Gunfighter" - 4:25 # "Promised Land" (R. Ventura) - 3:50 === 1989年再発CD (CSCS 5025) === #ボーン・イン・アメリカ - "Born in America" (M. Reale, R. Forrester, S. Loab) - 4:07 #ユー・バーン・イン・ミー - "You Burn in Me" - 3:40 #ヴィジランティ・キラー - "Vigilante Killer" (R. Forrester) - 3:02 #ヘヴィ・メタル・マシーン - "Heavy Metal Machine" - 3:37 #デヴィル・ウーマン - "Devil Woman" (T. Britten, C. Holmes) - 4:01 #ウィングス・オブ・ファイアー - "Wings of Fire" - 4:39 #ランニング・フロム・ザ・ロウ - "Running from the Law" - 4:24 #ホエア・ソルジャース・ルール - "Where Soldiers Rule" (R. Ventura) - 3:45 #ガンファイター - "Gunfighter" - 4:27 #プロミスト・ランド - "Promised Land" (R. Ventura) - 3:55 == 参加ミュージシャン == *レット・フォリスター - [[ボーカル]] *マーク・リアリ - [[ギター]] *リック・ヴェンチュラ - ギター *キップ・レミング - [[エレクトリックベース|ベース]] *サンディ・スレイヴィン - [[ドラムセット|ドラムス]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} ==外部リンク== *{{discogs master|master=259275}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ほおんいんあめりか}} [[Category:ライオットのアルバム]] [[Category:1983年のアルバム]]
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エージー (企業)
株式会社エージー(AZ,INC.)は、東京都中央区銀座に本社を置く、広告制作プロダクション。 1962年に三菱銀行(現・三菱UFJ銀行)の広告企画制作専属会社として発足。 社名のエージー(AZ)は、広告のAからZまでの意味。 1962年6月4日、富士電機企画部宣伝課でコピーライターをしていた志垣芳星と、今村昌昭、串田武久、田中成典、奥村正光、黒須田伸次郎、沢田真一が発起人となり株式会社エージーを設立。 同年7月、林忠、清水啓一郎が参画し、千代田区神田鎌倉町(現・千代田区内神田)に三菱銀行(現・三菱UFJ銀行)の広告企画制作専属会社として創業。 創業当初より、三菱銀行、京王百貨店、カゴメなど、直クライアントを中心に、専任スタッフによるクリエイティブチームを結成し、コミュニケーション課題に取り組む。 広告のプランニングからプロモーション戦略まで、メディアの枠に捉われず、マーケティング視点からユニークな提案のできるコミュニケーション・クリエイター集団である。 2021年6月、創業60年を迎えるにあたり中央区銀座に移転。
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株式会社エージー(AZ,INC.)は、東京都中央区銀座に本社を置く、広告制作プロダクション。 1962年に三菱銀行(現・三菱UFJ銀行)の広告企画制作専属会社として発足。 社名のエージー(AZ)は、広告のAからZまでの意味。
{{複数の問題 |特筆性=2023年9月8日 (金) 11:41 (UTC)|分野=組織 |出典の明記=2023年9月8日 (金) 11:41 (UTC) |宣伝=2023年9月8日 (金) 11:41 (UTC) |大言壮語=2023年9月8日 (金) 11:41 (UTC) |wikify=2023年9月8日 (金) 11:41 (UTC) |雑多な内容の箇条書き=2023年9月8日 (金) 11:41 (UTC) }} {{基礎情報 会社 |社名 = 株式会社エージー |英文社名 = AZ,INC. |ロゴ = |画像 = |画像説明 = |種類 = 株式会社 |機関設計 = |市場情報 = |略称 = エージー |国籍 = {{JPN}} |本社郵便番号 = 104-0061 |本社所在地 = 東京都中央区銀座3丁目7番3号<br />銀座オーミビル4階 |本社緯度度 = 35|本社緯度分 = 40|本社緯度秒 = 19|本社N(北緯)及びS(南緯) = N |本社経度度 = 139|本社経度分 = 46|本社経度秒 = 1.5|本社E(東経)及びW(西経) = E |座標右上表示 = No |本社地図国コード = |本店郵便番号 = |本店所在地 = |本店緯度度 = |本店緯度分 = |本店緯度秒 = |本店N(北緯)及びS(南緯) = |本店経度度 = |本店経度分 = |本店経度秒 = |本店E(東経)及びW(西経) = |本店地図国コード = |設立 = 1962年7月1日 |業種 = 広告業 |法人番号 = 6010401087365 |統一金融機関コード = |SWIFTコード = |事業内容 = 広告宣伝計画・企画の立案・制作全般に関連する業務 |代表者 = 代表取締役社長 秋元敦 |資本金 = 5005万円 |発行済株式総数 = |売上高 = |営業利益 = |経常利益 = |純利益 = |純資産 = |総資産 = |従業員数 = 60名 |支店舗数 = |決算期 = 3月 |会計監査人 = |所有者 = |主要株主 = |主要部門 = |主要子会社 = |関係する人物 = |外部リンク = https://azinc.co.jp/ |特記事項 = }} '''株式会社エージー'''(AZ,INC.)は、東京都中央区銀座に本社を置く、広告制作プロダクション<ref>[https://azinc.co.jp/ 公式サイト]</ref>。 1962年に三菱銀行(現・三菱UFJ銀行)の広告企画制作専属会社として発足。 社名のエージー('''AZ''')は、広告の'''A'''から'''Z'''までの意味。 == 概要・歴史 == 1962年6月4日、[[富士電機]]企画部宣伝課でコピーライターをしていた志垣芳星と、今村昌昭、串田武久、田中成典、奥村正光、黒須田伸次郎、沢田真一が発起人となり株式会社エージーを設立。 同年7月、林忠、清水啓一郎が参画し、千代田区神田鎌倉町(現・千代田区内神田)に三菱銀行(現・三菱UFJ銀行)の広告企画制作専属会社として創業。 創業当初より、三菱銀行、京王百貨店、カゴメなど、直クライアントを中心に、専任スタッフによるクリエイティブチームを結成し、コミュニケーション課題に取り組む。 広告のプランニングからプロモーション戦略まで、メディアの枠に捉われず、マーケティング視点からユニークな提案のできるコミュニケーション・クリエイター集団である。 2021年6月、創業60年を迎えるにあたり中央区銀座に移転。 == 沿革 == * 1962年(昭和37年)7月 千代田区に[[三菱銀行|株式会社三菱銀行]]を主要顧客とする広告企画制作会社として創業。 * 1965年(昭和40年)4月 株式会社[[京王百貨店]]の取引開始に伴い、新宿オフィスを開設。 * 1967年(昭和42年)7月 中央区銀座に移転。三菱銀行丸の内本店に広宣課分室開設 15名出向。 * 1969年(昭和44年)4月 [[カゴメ|カゴメ株式会社]]との取引開始。新聞、雑誌、TVCM、PKGの制作を開始する。 * 1972年(昭和47年)4月 カゴメ株式会社マーケティング課内に制作ルーム開設 4名出向。 * 1983年(昭和58年)世界的なCIコンサルティング会社AGP(アンスパック・グロスマン・ポーチュガル)社と提携し、通帳から店舗環境まで三菱銀行のCI導入を実施。 * 1983年(昭和58年)カゴメ株式会社のコーポレートロゴマークを[[松永真]]と社名ロゴタイプ・商品ロゴタイプを山口至剛とともに制定、CI導入を実施。 * 1985年(昭和60年)4月 CM制作部門を新設。 * 1999年(平成11年)直取引クライントに加え、広告代理店との協業を進める。 * 2007年(平成19年)4月 新宿オフィスを分社化し、株式会社エージー新宿設立。 * 2010年(平成22年)3月 港区新橋に移転。 * 2012年(平成24年)7月 創業50年を迎える。 * 2021年(令和3年) 6月 中央区銀座に移転。 * 2022年(令和4年) 7月 創業60年を迎える。 == 関連会社 == * 株式会社アンクラウド * 株式会社エージー新宿 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://azinc.co.jp/ エージー株式会社] * [http://www.azsinc.jp/ 株式会社エージー新宿] {{DEFAULTSORT:ええしい}} [[Category:1962年設立の企業]] [[Category:東京都中央区の企業]] [[Category:三菱UFJ銀行]]
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千葉紀佳
千葉 紀佳(ちば のりか、2005年7月13日 - )は、日本のファッションモデル。愛知県名古屋市出身。アイドルグループHACKの元メンバー。 2021年4月18日、東京ガールズコレクションがプロデュースする、オーディションプロジェクト「DUO presents TGC AUDITION 2021」にてエイジアプロモーションに1位指名され芸能界入り。 2023年6月10日、アイドルグループ「HACK」のメンバーとなる。 同年7月6日に体調不良によりHACKのメンバーとしての活動休止を発表し、同月31日にわずか51日間という短すぎる脱退を発表した。 趣味はアニメ鑑賞、メイク。特技はスイーツ作り、鉄棒。
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千葉 紀佳は、日本のファッションモデル。愛知県名古屋市出身。アイドルグループHACKの元メンバー。
{{特筆性|人物|date=2023年9月8日 (金) 11:37 (UTC)}} {{女性モデル |モデル名= 千葉 紀佳 |ふりがな= ちば のりか |画像ファイル= |画像コメント= |別名義= |愛称= |生年=2005 |生月=7 |生日=13 |没年= |没月= |没日= |出身地={{JPN}}[[愛知県]][[名古屋市]] |死没地= |血液型=[[ABO式血液型|O型]] |瞳の色= |毛髪の色= |時点=2023年 |身長=159 |体重= |バスト=75 |ウエスト=56 |ヒップ=78 |カップ= |股下= |靴=23.5 |身体備考= |デビュー=[[2021年]] |ジャンル=[[ファッション]] |モデル内容=一般 |活動備考=[[アイドル]] |他の活動=HACK元メンバー |事務所=[[エイジアプロモーション]] |その他=DUO presents TGC AUDITION 2021 準グランプリ |FMD= |IMDb= }} '''千葉 紀佳'''(ちば のりか、[[2005年]][[7月13日]] - )は、[[日本]]の[[ファッションモデル]]。[[愛知県]][[名古屋市]]出身。アイドルグループHACKの元メンバー。 == 経歴 == 2021年4月18日、[[東京ガールズコレクション]]がプロデュースする、オーディションプロジェクト「DUO presents TGC AUDITION 2021」にて[[エイジアプロモーション]]に1位指名され芸能界入り<ref>[https://mdpr.jp/news/detail/2539251 『TGC AUDITION』準グランプリは15歳・千葉紀佳さん「ボディメイクに励みました」 エイジアが優先交渉権を獲得]</ref>。 2023年6月10日、アイドルグループ「HACK」のメンバーとなる<ref>[https://twitter.com/HACK_idol_/status/1661660246039998464?t=OLQWcvrs2l83hr5T1IJo8g&s=19 2023年5月25日 HACKofficialツイート]</ref>。 同年7月6日に体調不良によりHACKのメンバーとしての活動休止を発表し、同月31日に脱退を発表した<ref>[https://twitter.com/HACK_idol_/status/1685998784759914496?t=3v8Q-YpLqlHn81ptt3a1Cg&s=19 活動休止中の千葉紀佳に関するお知らせ]2023年7月31日HACKofficial</ref>。 == 人物 == 趣味はアニメ鑑賞、メイク。特技はスイーツ作り、鉄棒。 == 出演 == * [[今日、好きになりました。]]第58弾(2023年11月20日 - 、[[AbemaTV]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 外部リンク == * [https://asiapro.co.jp/profile/norika_chiba/ 千葉紀佳] エイジアプロモーション * {{Instagram|norika_girl7}} * {{TikTok|norsoyi00}} {{DEFAULTSORT:ちは のりか}} [[Category:日本のTikToker]] [[Category:日本の女性ファッションモデル]] [[Category:日本の女性アイドル]] [[Category:エイジアプロモーション]] [[Category:愛知県出身の人物]] [[Category:2005年生]] [[Category:存命人物]]
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御猿堂古墳
御猿堂古墳(おさるどうこふん)は、長野県飯田市上川路(かみかわじ)にある古墳。形状は前方後円墳。飯田古墳群(うち竜丘地区)を構成する古墳の1つ。国の史跡(史跡「飯田古墳群」のうち)・長野県指定史跡に指定され、出土画文帯四仏四獣鏡は国の重要文化財に指定されている。 長野県南部、天竜川支流の久米川東岸の段丘上(標高390メートル)に築造された古墳である。現在までに周辺の宅地化によって墳丘周囲の一部は削平されているほか、墳丘上は墓地として利用されている。古くから石室が開口し、これまでに墳丘測量・石室実測調査や、墳丘周囲の試掘調査が実施されている。 墳形は前方部が発達した前方後円形で、前方部を西北西方向に向ける。墳丘外表では葺石のほか、円筒埴輪・形象埴輪(人物(盾持人・女子埴輪)・盾形・靫形・大刀形埴輪など)が検出されている。墳丘南側くびれ部には造出を付す可能性がある。また墳丘周囲には二重の周溝が巡らされる。埋葬施設は無袖式の横穴式石室で、南南西方向に開口する。石室全長13.01メートルを測る大型石室である。石室内からは副葬品として、画文帯四仏四獣鏡のほか装身具・武器・馬具・土師器など多数が出土したという。 築造時期は、古墳時代後期の6世紀中葉(または6世紀前半-中葉)頃と推定される。下伊那地方における代表的な首長墓の1つであり、上位段丘上にある馬背塚古墳とは同一系譜上に位置づけられる。 古墳域は1969年(昭和44年)に長野県指定史跡に、2016年(平成28年)に国の史跡に指定され(史跡「飯田古墳群」のうち)、出土画文帯四仏四獣鏡は1953年(昭和28年)に国の重要文化財に指定されている。 墳丘の規模は次の通り。 墳丘外表では、円筒埴輪が採集されているほか、1987年(昭和62年)の測量調査の際に墳丘北側くびれ部付近で盾持人埴輪が採集され、2015年(平成27年)の試掘調査の際に墳丘南側くびれ部下で女子埴輪・大刀形埴輪が出土している。墳丘南側くびれ部は傾斜が緩くなっているため、造出が存在した可能性が指摘される。 埋葬施設としては後円部において無袖式横穴式石室が構築されており、墳丘主軸に直交して南南西方向に開口する。石室の規模は次の通り。 石室内から出土した副葬品は次の通り。 以上のほか、大鈴・鏡1・金環3・勾玉7・管玉11・剣頭2(龍・鳳凰)・鉄刀・鉄鏃が出土したというが、現在では詳細不明である。 (記事執筆に使用していない関連文献)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "御猿堂古墳(おさるどうこふん)は、長野県飯田市上川路(かみかわじ)にある古墳。形状は前方後円墳。飯田古墳群(うち竜丘地区)を構成する古墳の1つ。国の史跡(史跡「飯田古墳群」のうち)・長野県指定史跡に指定され、出土画文帯四仏四獣鏡は国の重要文化財に指定されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "長野県南部、天竜川支流の久米川東岸の段丘上(標高390メートル)に築造された古墳である。現在までに周辺の宅地化によって墳丘周囲の一部は削平されているほか、墳丘上は墓地として利用されている。古くから石室が開口し、これまでに墳丘測量・石室実測調査や、墳丘周囲の試掘調査が実施されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "墳形は前方部が発達した前方後円形で、前方部を西北西方向に向ける。墳丘外表では葺石のほか、円筒埴輪・形象埴輪(人物(盾持人・女子埴輪)・盾形・靫形・大刀形埴輪など)が検出されている。墳丘南側くびれ部には造出を付す可能性がある。また墳丘周囲には二重の周溝が巡らされる。埋葬施設は無袖式の横穴式石室で、南南西方向に開口する。石室全長13.01メートルを測る大型石室である。石室内からは副葬品として、画文帯四仏四獣鏡のほか装身具・武器・馬具・土師器など多数が出土したという。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "築造時期は、古墳時代後期の6世紀中葉(または6世紀前半-中葉)頃と推定される。下伊那地方における代表的な首長墓の1つであり、上位段丘上にある馬背塚古墳とは同一系譜上に位置づけられる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "古墳域は1969年(昭和44年)に長野県指定史跡に、2016年(平成28年)に国の史跡に指定され(史跡「飯田古墳群」のうち)、出土画文帯四仏四獣鏡は1953年(昭和28年)に国の重要文化財に指定されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "墳丘の規模は次の通り。", "title": "墳丘" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "墳丘外表では、円筒埴輪が採集されているほか、1987年(昭和62年)の測量調査の際に墳丘北側くびれ部付近で盾持人埴輪が採集され、2015年(平成27年)の試掘調査の際に墳丘南側くびれ部下で女子埴輪・大刀形埴輪が出土している。墳丘南側くびれ部は傾斜が緩くなっているため、造出が存在した可能性が指摘される。", "title": "墳丘" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "埋葬施設としては後円部において無袖式横穴式石室が構築されており、墳丘主軸に直交して南南西方向に開口する。石室の規模は次の通り。", "title": "埋葬施設" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "石室内から出土した副葬品は次の通り。", "title": "出土品" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "以上のほか、大鈴・鏡1・金環3・勾玉7・管玉11・剣頭2(龍・鳳凰)・鉄刀・鉄鏃が出土したというが、現在では詳細不明である。", "title": "出土品" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "(記事執筆に使用していない関連文献)", "title": "関連文献" } ]
御猿堂古墳(おさるどうこふん)は、長野県飯田市上川路(かみかわじ)にある古墳。形状は前方後円墳。飯田古墳群(うち竜丘地区)を構成する古墳の1つ。国の史跡(史跡「飯田古墳群」のうち)・長野県指定史跡に指定され、出土画文帯四仏四獣鏡は国の重要文化財に指定されている。
{{日本の古墳 |名称 = 御猿堂古墳 |画像 = [[File:Osarudo Kofun, funkyu.jpg|280px]]<br/>墳丘<br/>(説明板付近から中央奥に望む。<br/>左に前方部、右に後円部) |別名 = |所属 = [[飯田古墳群]](竜丘地区) |所在地 = [[長野県]][[飯田市]]上川路882-1ほか |緯度度 = 35|緯度分 = 27|緯度秒 = 41.92 |経度度 = 137|経度分 = 48|経度秒 = 44.10 |ISO = JP-20 |形状 = [[前方後円墳]] |規模 = 墳丘長65.4m<br/>高さ9m(前方部) |埋葬施設 = 無袖式[[横穴式石室]] |出土品 = 画文帯四仏四獣鏡ほか副葬品多数・[[埴輪]] |陪塚 = |築造時期 = [[6世紀]]中葉 |被葬者 = |陵墓 = |史跡 = 国の[[史跡]]「飯田古墳群」に包含<br/>長野県指定史跡「御猿堂古墳」 |有形文化財 = 画文帯四仏四獣鏡(国の[[重要文化財]]) |特記事項 = |地図 = Japan Nagano |アイコン = 前方後円墳-西北西 |ラベル = 御猿堂古墳 |ラベル位置 = top }} '''御猿堂古墳'''(おさるどうこふん)は、[[長野県]][[飯田市]]上川路(かみかわじ)にある[[古墳]]。形状は[[前方後円墳]]。[[飯田古墳群]](うち竜丘地区)を構成する古墳の1つ。国の[[史跡]](史跡「飯田古墳群」のうち)・長野県指定史跡に指定され、出土画文帯四仏四獣鏡は国の[[重要文化財]]に指定されている。 == 概要 == 長野県南部、[[天竜川]]支流の久米川東岸の段丘上(標高390メートル)に築造された古墳である。現在までに周辺の宅地化によって墳丘周囲の一部は削平されているほか、墳丘上は墓地として利用されている。古くから石室が開口し、これまでに墳丘測量・石室実測調査や、墳丘周囲の試掘調査が実施されている。 墳形は前方部が発達した前方後円形で、前方部を西北西方向に向ける。墳丘外表では[[葺石]]のほか、[[円筒埴輪]]・[[形象埴輪]](人物(盾持人・女子埴輪)・盾形・靫形・大刀形埴輪など)が検出されている。墳丘南側くびれ部には[[造出]]を付す可能性がある{{Sfn|飯田古墳群 範囲確認調査・緊急発掘調査報告書|2019}}。また墳丘周囲には二重の周溝が巡らされる。埋葬施設は無袖式の[[横穴式石室]]で、南南西方向に開口する。石室全長13.01メートルを測る大型石室である。石室内からは副葬品として、画文帯四仏四獣鏡のほか装身具・武器・馬具・[[土師器]]など多数が出土したという。 築造時期は、[[古墳時代]]後期の[[6世紀]]中葉<ref name="飯田市"/>(または6世紀前半-中葉{{Sfn|飯田における古墳の出現と展開 資料編|2007}})頃と推定される。下伊那地方における代表的な首長墓の1つであり、上位段丘上にある[[馬背塚古墳]]とは同一系譜上に位置づけられる{{Sfn|飯田における古墳の出現と展開 資料編|2007}}。 古墳域は[[1969年]]([[昭和]]44年)に長野県指定史跡に、[[2016年]]([[平成]]28年)に国の[[史跡]]に指定され(史跡「飯田古墳群」のうち)、出土画文帯四仏四獣鏡は[[1953年]](昭和28年)に国の[[重要文化財]]に指定されている。 === 来歴 === * [[明治]]期中頃、住民による発掘。画文帯四仏四獣鏡の出土(現在は開善寺保管)<ref name="飯田市 画文帯四仏四獣鏡"/>。 * [[1953年]]([[昭和]]28年)3月31日、画文帯四仏四獣鏡が国の[[重要文化財]]に指定。 * [[1969年]](昭和44年)7月3日、長野県指定史跡に指定。 * [[1983年|1983]]・[[1984年]](昭和58・59年)、石室実測調査([[白石太一郎]]ら、[[1988年]]に報告)。 * [[1987年]](昭和62年)、墳丘測量・石室実測調査{{Sfn|飯田における古墳の出現と展開 資料編|2007}}。 * [[2005年]]、([[平成]]17年度)、民間開発に先立つ古墳北側の試掘調査{{Sfn|飯田における古墳の出現と展開 資料編|2007}}。 * [[2015年]](平成27年)、個人住宅建設に伴う古墳南側の試掘調査(飯田市教育委員会、[[2019年]]に報告){{Sfn|飯田古墳群 範囲確認調査・緊急発掘調査報告書|2019}}。 * [[2016年]](平成28年)10月3日、国の[[史跡]]に指定(史跡「飯田古墳群」のうち)。 == 墳丘 == 墳丘の規模は次の通り{{Sfn|飯田における古墳の出現と展開 資料編|2007}}。 * 墳丘長:65.4メートル * 後円部 ** 直径:31.4メートル ** 高さ:8.5メートル * 前方部 ** 幅:34.8メートル ** 高さ:9メートル 墳丘外表では、円筒埴輪が採集されているほか、1987年(昭和62年)の測量調査の際に墳丘北側くびれ部付近で盾持人埴輪が採集され{{Sfn|飯田における古墳の出現と展開 資料編|2007}}、2015年(平成27年)の試掘調査の際に墳丘南側くびれ部下で女子埴輪・大刀形埴輪が出土している{{Sfn|飯田古墳群 範囲確認調査・緊急発掘調査報告書|2019}}。墳丘南側くびれ部は傾斜が緩くなっているため、造出が存在した可能性が指摘される{{Sfn|飯田古墳群 範囲確認調査・緊急発掘調査報告書|2019}}。 <gallery> Osarudo Kofun, kouenbu.jpg|前方部から後円部を望む Osarudo Kofun, zenpoubu.jpg|後円部から前方部を望む </gallery> == 埋葬施設 == [[File:Osarudo Kofun, 3D-P.jpg|thumb|300px|right|{{center|石室パース図}}]] [[File:Osarudo Kofun, 3D-N.jpg|thumb|250px|right|{{center|石室展開図}}]] 埋葬施設としては後円部において無袖式[[横穴式石室]]が構築されており、墳丘主軸に直交して南南西方向に開口する。石室の規模は次の通り{{Sfn|飯田における古墳の出現と展開 資料編|2007}}。 * 石室全長:13.01メートル * 玄室:長さ10.26メートル、幅1.76-2.35メートル、高さ2.9メートル * 羨道:長さ2.75メートル以上、幅1.5メートル、現状高さ0.6メートル <gallery> Osarudo Kofun, 3D-B.jpg|石室俯瞰図 Osarudo Kofun, sekishitsu-1.jpg|石室内部(奥壁方向) Osarudo Kofun, sekishitsu-2.jpg|石室内部(開口部方向) Osarudo Kofun, entrance.jpg|開口部 </gallery> == 出土品 == 石室内から出土した副葬品は次の通り{{Sfn|飯田における古墳の出現と展開 資料編|2007}}。 * 画文帯四仏四獣鏡(国の[[重要文化財]]) - 直径23.7センチメートル。金剛輪寺旧蔵鏡(現在は京都国立博物館保管)と文様が一致する(同氾鏡または踏返鏡か)<ref name="飯田市 画文帯四仏四獣鏡"/>。 * 鏡片(盤龍鏡片か) 3 * 鉄剣片 1 * 鉄刀片 2 * 鉄製環頭柄頭 1 * 鞘尻 1 * 鞘金具 3 * 桂甲小札 2 * 鉄鏃片 1 * 轡 1以上 * 雲珠 1以上 * 杏葉 1 * 金具 2 * 土師器杯 1 * 座金 1 * 金属薄板 2 * 鉄器片 10 * 切子玉 1 * 勾玉1 * 純金薄板 2 以上のほか、大鈴・鏡1・金環3・勾玉7・管玉11・剣頭2(龍・鳳凰)・鉄刀・鉄鏃が出土したというが、現在では詳細不明である{{Sfn|飯田における古墳の出現と展開 資料編|2007}}。 == 文化財 == === 重要文化財(国指定) === * 画文帯四仏四獣鏡(考古資料) - 所有者は[[開善寺 (飯田市)|開善寺]]。1953年(昭和28年)3月31日指定<ref>{{国指定文化財等データベース|201|9708|画文帯四仏四獣鏡}}</ref><ref>[http://www.82bunka.or.jp/bunkazai/detail.php?no=2375&seq=0 画文帯四仏四獣鏡](公益財団法人 八十二文化財団)。</ref><ref name="飯田市 画文帯四仏四獣鏡">[https://www.city.iida.lg.jp/site/bunkazai/shibutushijuukyou.html 画文帯四仏四獣鏡](飯田市ホームページ)。</ref>。 === 長野県指定文化財 === * 史跡 ** 御猿堂古墳 - 主要部(国の史跡)を除く部分。1969年(昭和44年)7月3日指定<ref name="飯田市">[https://www.city.iida.lg.jp/site/bunkazai/osarudou.html 御猿堂古墳](飯田市ホームページ)。</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 参考文献 == {{small|(記事執筆に使用した文献)}} * 史跡説明板(飯田市教育委員会、2017年設置) * {{Cite book|和書|editor=|author=|year=1979|chapter=御猿堂古墳|title=[[日本歴史地名大系]] 20 長野県の地名|publisher=[[平凡社]]|isbn=4582490204|ref={{Harvid|御猿堂古墳(平凡社)|1979}}}} * {{Cite book|和書|author=|year=1983|chapter=御猿堂古墳|title=長野県史 考古資料編 全1巻(3) 主要遺跡(中・南信)|publisher=長野県|isbn=|ref={{Harvid|長野県史 考古資料編 全1巻(3)|1983}}}} * {{Cite book|和書|editor=|author=|year=2007|chapter=御猿堂古墳|url=http://sitereports.nabunken.go.jp/9271 |title=飯田における古墳の出現と展開 -資料編-|publisher=飯田市教育委員会|isbn=|ref={{Harvid|飯田における古墳の出現と展開 資料編|2007}}}} - リンクは奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」。 * {{Cite book|和書|editor=|author=|year=2019|chapter=御猿堂古墳・開善寺境内遺跡|title=飯田古墳群 範囲確認調査・緊急発掘調査報告書 -平成27年度~29年度-|url=https://sitereports.nabunken.go.jp/71487|publisher=飯田市教育委員会|isbn=|ref={{Harvid|飯田古墳群 範囲確認調査・緊急発掘調査報告書|2019}}}} - リンクは奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」。 == 関連文献 == {{small|(記事執筆に使用していない関連文献)}} * {{Cite journal|和書|author=[[白石太一郎]]|title=伊那谷の横穴式石室(一)|date=1988-7|journal=信濃|publisher=信濃史学会|volume=40|number=7|pages=669-687|url=|naid=|doi=|ref=}} == 外部リンク == {{Commonscat|Osarudo Kofun}} * [https://www.city.iida.lg.jp/site/bunkazai/osarudou.html 御猿堂古墳] - 飯田市ホームページ {{デフォルトソート:おさるとうこふん}} [[Category:飯田古墳群]] [[Category:長野県の古墳]] [[Category:飯田市の歴史]] [[Category:前方後円墳]] [[Category:長野県にある国指定の史跡]] [[Category:長野県指定史跡]]
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中村繁夫
中村 繁夫(なかむら しげお 1947年)は、日本の実業家、僧。 京都府立洛北高等学校を経て静岡大学農学部卒業。大学院に進むが休学して、3年間で30か国を放浪。それから復学して修士課程を修了。旅を続けている中で商社とレアメタルに興味を持ち、27歳で蝶理に新入社員として入社。約30年間勤務するが、55歳でリストラ勧告される。蝶理のレアメタル事業を買収して独立して社長に就任。その会社はアドバンストマテリアルジャパンとなる。 レアメタルの需要が高まり価格急騰して、会社設立の4年目には売り上げが340億円になる。 ガイアの夜明け、カンブリア宮殿、NHK特集、夢の扉などに出演。 2016年8月4日に東本願寺で得度を受ける。
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中村 繁夫は、日本の実業家、僧。
'''中村 繁夫'''(なかむら しげお [[1947年]])は、[[日本]]の[[実業家]]、[[僧]]。 == 概要 == [[京都府立洛北高等学校]]を経て[[静岡大学]][[農学部]]卒業。[[大学院]]に進むが[[休学]]して、3年間で30か国を放浪。それから復学して修士課程を修了。旅を続けている中で[[商社]]と[[レアメタル]]に興味を持ち、27歳で[[蝶理]]に新入社員として入社。約30年間勤務するが、55歳で[[リストラ]]勧告される。蝶理のレアメタル事業を買収して独立して[[社長]]に就任。その会社は[[アドバンストマテリアルジャパン]]となる<ref>{{Cite web|和書|title=第82回 アドバンスト マテリアル ジャパン株式会社 中村繁夫 |url=https://www.dreamgate.gr.jp/contents/case/interview/35235 |website=起業・会社設立ならドリームゲート |date=2009-03-17 |access-date=2023-09-08 |language=ja}}</ref>。 レアメタルの需要が高まり価格急騰して、会社設立の4年目には売り上げが340億円になる<ref>{{Cite web|和書|title=中村繁夫[アドバンスト マテリアル ジャパン社長]54歳でリストラの危機から、レアメタルで年商340億円へ(セオリー) @gendai_biz |url=http://gendai.media/articles/-/843 |website=現代ビジネス |date=2010-07-21 |access-date=2023-09-08 |language=ja}}</ref>。 [[ガイアの夜明け]]、[[カンブリア宮殿]]、[[NHK特集]]、[[夢の扉]]などに出演<ref>{{Cite web|和書|title=中村繁夫 - 日刊工業新聞社 公式オンラインショップ|Nikkan Book Store |url=https://pub.nikkan.co.jp/author/a10030921.html |website=pub.nikkan.co.jp |access-date=2023-09-08 |language=ja}}</ref>。 [[2016年]][[8月4日]]に[[東本願寺]]で[[得度]]を受ける<ref>{{Cite web|和書|title=山師が僧侶になった理由 |url=https://wedge.ismedia.jp/articles/-/7645 |website=Wedge ONLINE(ウェッジ・オンライン) |date=2016-09-01 |access-date=2023-09-08}}</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} [[Category:1947年生]] [[Category:千葉大学出身の人物]] [[Category:日本の実業家]] [[Category:浄土真宗の僧]] {{DEFAULTSORT:なかむらしけお}}
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東原村
東原村(ひがしはらむら)は、広島県安佐郡にあった村。現在の広島市安佐南区の一部にあたる。 太田川と古川に挟まれた中州の南端に位置していた。
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東原村(ひがしはらむら)は、広島県安佐郡にあった村。現在の広島市安佐南区の一部にあたる。
{{日本の町村 (廃止) | 廃止日 = 1920年4月1日 | 廃止理由 = 新設合併 | 廃止詳細 = [[西原村 (広島県)|西原村]]、'''東原村''' → [[原村 (広島県安佐郡)|原村]] | 現在の自治体 = [[広島市]] | よみがな = ひがしはらむら | 自治体名 = 東原村 | 区分 = 村 | 都道府県 = 広島県 | 郡 = [[安佐郡]] | 面積 = | 境界未定 = | 人口 = 553 | 人口の出典 = 『角川日本地名大辞典 34 広島県』668頁 | 人口の時点 = 1915年 | 隣接自治体 = [[長束村]]、[[古市町 (広島県)|三川村]]、[[安芸郡 (広島県)|安芸郡]][[戸坂村]] | 所在地 = 安佐郡西原村(西原・東原各村組合役場) | 座標 = | 位置画像 = | 特記事項 = }} '''東原村'''(ひがしはらむら)は、[[広島県]][[安佐郡]]にあった[[村]]。現在の[[広島市]][[安佐南区]]の一部にあたる。 == 地理 == [[太田川]]と古川に挟まれた中州の南端に位置していた{{R|角川}}。 == 歴史 == *[[1889年]](明治22年)4月1日、[[町村制]]の施行により、[[沼田郡]]東原村が単独で村制施行し、'''東原村'''が発足<ref name=角川>『角川日本地名大辞典 34 広島県』667-668頁。</ref><ref name=変遷>『市町村名変遷辞典』654頁。</ref>。西原村、東原村の[[町村組合]]を結成し役場を西原村に設置{{R|角川}}。 *[[1898年]](明治31年)10月1日、郡の統合により[[安佐郡]]に所属{{R|角川}}{{R|変遷}}。 *[[1920年]](大正9年)4月1日、安佐郡西原村と合併し、'''[[原村 (広島県安佐郡)|原村]]'''を新設して廃止された{{R|角川}}{{R|変遷}}。 == 産業 == *農業、養蚕{{R|角川}} == 脚注 == {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[角川日本地名大辞典]] 34 広島県 * 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。 == 関連項目 == * [[広島県の廃止市町村一覧]] {{デフォルトソート:ひかしはらむら}} [[Category:沼田郡]] [[Category:安佐郡]] [[Category:広島市域の廃止市町村]] [[Category:安佐南区の歴史]] [[Category:1889年設置の日本の市町村]] [[Category:1920年廃止の日本の市町村]]
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台南市私立天仁高級工商職業学校
台南私立天仁工商職業高等専門学校(たいなんしりつてんにんこうしょうしょくぎょうこうとうせんもんがっこう)は、 かつて台南市学甲区に位置し、通称「天仁工商」と略された私立の高等専門学校でありまた台南県内初めての専門学校でもあった。 2015年、学校の理事会は新規入学募集を停止することを決定。 これにより、学校のキャンパスは台南市政府に寄贈された。さらに、2021年に台南市政府の努力によって、 台湾の文化部の承認を得てキャンパスを「台南市伝統的芸術工芸伝習センター」として改装計画が立てられ、2024年に完成する予定である。 台南私立天仁工商職業高等専門学校の敷地は地元の実業家である龔聯禎によって寄付され、大正7年(1918年)に建てられた北門郡学甲公立学校であった。 1957年10月、校舎の建設を準備しており、翌年4月に大部完成された。 1958年10月、学校は正式に登録された。 1960年6月、学校は公益財団法人としての登録も完了した。 1962年7月、名前は「商工」から「工商」に変更され、「私立天仁工商高等専門学校」に改名した。 全盛期には昼間部が1000人以上の生徒がおり、夜間部も400人の生徒がいった。 1969年7月、附設補習学校の設立と、商業科の増設が許可された。 1970年8月、自動車修理科の増設が許可された。 1971年8月、機械科は機械工学科に変更され、機械製図科の増設が許可された。 1973年7月、電気工学科の増設が許可され、商業科は総合商業科に変更した。 1979年7月、機械製図科は電子設備修理科に変更され、8月に附設補習学校が附設進学補習学校に変更した。 1980年7月、附設補習学校は電子設備修理科を増設することが許可された。 1986年には、自動車修理科を自動車科に、電子設備修理科を電子科に変更した。 1991年8月、情報処理科の増設が許可され、機械工学科は1クラスを削減された。 1994年8月、情報科の増設が許可された。 1997年5月、附設補習学校は自動車修理科を増設することが許可された。 1998年5月6日、総合高校が3クラスを追加することが許可された。 1999年9月は、附設進学補習学校は附設研修学校に改称することが許可された。 2000年2月、美容科を増設することが許可され、経営管理科は1クラスを削減された。 2001年5月、コーオプ教育電子専門科は1クラスを追加することが許可された。 2002年5月、コーオプ教育美容専門科は1クラスを追加することが許可され、総合高校は4クラスに調整した。 2003年5月21日、視聴電子修理科と美容技術科がそれぞれ1クラスを追加した。 2006年5月1日、自動車修理科1クラスを追加した。 2008年1月、総合高校4クラスが職業類情報科、自動車科、情報処理科に変更され、観光事業科を増設した。 4月には、産学連携によって電子情報専門1クラスを追加した。 5月には、自動車修理科が商業情報科に変更された。 2010年4月8日に旅行業務科の増設が許可され、1クラスを追加した。 2015年、理事会は2016年度からの募集停止を決定した。
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台南私立天仁工商職業高等専門学校(たいなんしりつてんにんこうしょうしょくぎょうこうとうせんもんがっこう)は、 かつて台南市学甲区に位置し、通称「天仁工商」と略された私立の高等専門学校でありまた台南県内初めての専門学校でもあった。 2015年、学校の理事会は新規入学募集を停止することを決定。 これにより、学校のキャンパスは台南市政府に寄贈された。さらに、2021年に台南市政府の努力によって、 台湾の文化部の承認を得てキャンパスを「台南市伝統的芸術工芸伝習センター」として改装計画が立てられ、2024年に完成する予定である。
{{Rough translation|中国語}} {{Infobox School |校名=台南市私立天仁高級工商職業学校 |国公私立=私立 |設立年月日=1958年 |閉校年月日=2015年 |学区={{ROC-TW}}[[台南市]][[学甲区]] |画像=[[File:20230528-IMG 5729.jpg|280px|天仁工商正門]] |所在地=台湾台南市学甲區天水路30号 |公式サイト=http://www.tjvs.tnc.edu.tw/ }} '''台南市私立天仁高級工商職業学校'''(たいなんしりつてんにんこうきゅうこうしょうしょくぎょうがっこう)は、 かつて[[台南市]]学甲区に位置し、通称「天仁工商」と略された私立の[[高等専門学校]]でありまた台南県内初めての専門学校でもあった<ref>{{Cite web |title=創校57年 天仁工商宣布停止招生 | 公視新聞網 PNN |url=https://news.pts.org.tw/article/289895 |website=公視新聞網 PNN |date=2015-10-28 |access-date=2023-09-08}}</ref>。 2015年、学校の理事会は新規入学募集を停止することを決定。 これにより、学校のキャンパスは台南市政府に寄贈された。さらに、2021年に台南市政府の努力によって、 台湾の文化部の承認を得てキャンパスを「台南市伝統芸術伝習保存中心」として改装計画が立てられ、2024年に完成する予定である<ref>{{Cite web |title=台南籌設傳藝傳習保存中心 (圖) |url=https://tw.news.yahoo.com/%E5%8F%B0%E5%8D%97%E7%B1%8C%E8%A8%AD%E5%82%B3%E8%97%9D%E5%82%B3%E7%BF%92%E4%BF%9D%E5%AD%98%E4%B8%AD%E5%BF%83-%E5%9C%96-044521816.html |website=Yahoo News |date=2021-07-18 |access-date=2023-09-08 |language=zh-Hant-TW}}</ref>。 [[ファイル:20230528-IMG 5730.jpg|サムネイル|天仁工商校門撮影]] == 学校の歴史 == 台南市私立天仁高級工商職業学校の敷地は地元の実業家である龔聯禎によって寄付され、大正7年(1918年)に建てられた北門郡学甲公立学校であった。 1957年10月、校舎の建設を準備しており、翌年4月に大部完成された。 1958年10月、学校は正式に登録された。 1960年6月、学校は公益財団法人としての登録も完了した。 1962年7月、名前は「商工」から「工商」に変更され、「私立天仁工商高等専門学校」に改名した。 全盛期には昼間部が1000人以上の生徒がおり、夜間部も400人の生徒がいった。<ref>{{Cite web |title=台南學甲天仁工商職校創校57年即將走入歷史 - 天眼日報3e傳媒網路電視平台 |url=http://www.tynews.com.tw/news.php?action=show&nid=140515 |website=www.tynews.com.tw |access-date=2023-09-08}}</ref> 1969年7月、附設補習学校の設立と、商業科の増設が許可された。 1970年8月、自動車修理科の増設が許可された。 1971年8月、機械科は機械工学科に変更され、機械製図科の増設が許可された。 1973年7月、電気工学科の増設が許可され、商業科は総合商業科に変更した。 1979年7月、機械製図科は電子設備修理科に変更され、8月に附設補習学校が附設進学補習学校に変更した。 1980年7月、附設補習学校は電子設備修理科を増設することが許可された。 1986年には、自動車修理科を自動車科に、電子設備修理科を電子科に変更した。 1991年8月、情報処理科の増設が許可され、機械工学科は1クラスを削減された。 1994年8月、情報科の増設が許可された。[[ファイル:20230528-IMG 5735.jpg|サムネイル|総合ビル]]1997年5月、附設補習学校は自動車修理科を増設することが許可された。 1998年5月6日、総合高校が3クラスを追加することが許可された。 1999年9月は、附設進学補習学校は附設研修学校に改称することが許可された。 2000年2月、美容科を増設することが許可され、経営管理科は1クラスを削減された。 2001年5月、コーオプ教育電子専門科は1クラスを追加することが許可された。 2002年5月、コーオプ教育美容専門科は1クラスを追加することが許可され、総合高校は4クラスに調整した。 2003年5月21日、視聴電子修理科と美容技術科がそれぞれ1クラスを追加した。 2006年5月1日、自動車修理科1クラスを追加した。 2008年1月、総合高校4クラスが職業類情報科、自動車科、情報処理科に変更され、観光事業科を増設した。[[ファイル:20230528-IMG 5731.jpg|サムネイル|三連館]]4月には、産学連携によって電子情報専門1クラスを追加した。 5月には、自動車修理科が商業情報科に変更された。 2010年4月8日に旅行業務科の増設が許可され、1クラスを追加した。 2015年、理事会は2016年度からの募集停止を決定した。<ref>{{Cite web |title=學生數「從千人降到350人」 台南天仁工商停止招生 {{!}} ETtoday地方新聞 {{!}} ETtoday新聞雲 |url=https://www.ettoday.net/news/20150203/462849.htm |website=www.ettoday.net |date=2015-02-03 |access-date=2023-09-08 |language=zh-Hant |last=https://www.facebook.com/ETtoday}}</ref><ref>{{Cite web |title=天仁工商停止招生 恐走入歷史 - 地方 - 自由時報電子報 |url=https://news.ltn.com.tw/news/local/paper/853263 |website=news.ltn.com.tw |date=2015-02-04 |access-date=2023-09-08 |language=zh-Hant-TW |last=自由時報電子報}}</ref> == 歴代校長 == {| class="wikitable" |任期順番 |名前 |任期 |備考 |- |1 |吳石山 |1958年8月-1962年8月 | |- |2 |高文瑞 |1962年8月-1975年8月 | |- |3 |林秋龍 |1975年8月-1990年6月 | |- |4 |賴英仁 |1990年6月-1996年7月 | |- |5 |楊茂永 |1996年7月-2002年7月 | |- |6 |蔡崇發 |2002年7月-2006年7月 | |- |7 |林英芳 |2006年8月-2014年7月 | |- |8 |王宏仁 |2014年7月-2015年7月 | |} == 参考資料 == <references /> [[Category:学校記事]] [[Category:2015年廃止]] [[Category:台南市の歴史]] [[Category:台南市の建築物]] [[Category:台湾の技術系高等教育機関|廃]] [[Category:台南市の学校|廃]] [[Category:1958年設立|廃]]
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ブルハーン・ニザーム・シャー2世
ブルハーン・ニザーム・シャー2世(在位: 1591年 – 1595年)は、デカン高原付近のアフマドナガル王国の支配者。フサイン・ニザーム・シャー1世(英語版)とクンザ・フマーユーン・ベーグム(英語版)の息子。支配中はアフマドナガルを統治した。 ブルハーン・ニザーム・シャーは虚弱体質で、国家を支配するほどの能力はなかったため支配期間は短かった。また、女性とワインに夢中であったがために結果自身の転落に繋がった。 1595年に死亡した際、権力を巡り内戦が発生した。最終的に実権は幼い娘であったチャンド・ビビ(英語版)に受け継がれた。
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{{出典の明記| date = 2023年9月}} [[File:Portrait_of_Burhan_Nizam_Shah_II.jpg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:Portrait_of_Burhan_Nizam_Shah_II.jpg|サムネイル|ブルハーン・ニザーム・シャー2世の肖像。]] '''ブルハーン・ニザーム・シャー2世'''(在位: [[1591年]] – [[1595年]])は、[[デカン高原]]付近の[[アフマドナガル王国]]の支配者。{{仮リンク|フサイン・ニザーム・シャー1世|en|Hussain Nizam Shah I}}と{{仮リンク|クンザ・フマーユーン・ベーグム|en|Khunza Humayun Begum}}の息子。支配中は[[アフマドナガル]]を統治した。 ブルハーン・ニザーム・シャーは虚弱体質で、国家を支配するほどの能力はなかったため支配期間は短かった。また、女性とワインに夢中であったがために結果自身の転落に繋がった。 1595年に死亡した際、権力を巡り内戦が発生した。最終的に実権は幼い娘であった{{仮リンク|チャンド・ビビ|en|Chand Bibi}}に受け継がれた。 == 脚注 == * John F. Richards. ''The New Cambridge History of India: The Mughals''. New York: Cambridge University Press, 1993. p.&nbsp;51. {{India-hist-stub}} [[Category:アフマドナガル王国]] [[Category:生年不明]] [[Category:1595年没]] {{DEFAULTSORT:ふるはあん にさあむ しやあ2}}
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久里浜台
久里浜台(くりはまだい)は、神奈川県横須賀市の地名。現行行政地名は久里浜台一丁目から久里浜台二丁目。住居表示実施済区域。 横須賀市の南東部にある久里浜地区に属し、北と東に西浦賀、北に南浦賀、南に久比里と接している。 住宅地の地価は、2023年(令和5年)1月1日の公示地価によれば、久里浜台2-6-4の地点で9万円/mとなっている。 2023年(令和5年)4月1日現在(横須賀市発表)の世帯数と人口は以下の通りである。 国勢調査による人口の推移。 国勢調査による世帯数の推移。 市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2022年3月時点)。 2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである。 経済センサスによる事業所数の推移。 経済センサスによる従業員数の推移。
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久里浜台(くりはまだい)は、神奈川県横須賀市の地名。現行行政地名は久里浜台一丁目から久里浜台二丁目。住居表示実施済区域。
{{Pathnav|日本|神奈川県|横須賀市|frame=1}} {{Infobox 日本の町・字 |名称 = 久里浜台 |種類 = [[町丁]] |画像 = <!--- 関連する画像ファイル ---> |画像サイズ = 270px |画像説明 = <!--- 画像の説明 ---> <!--- | 緯度度 = 35 | 緯度分 = 14 | 緯度秒 = 6.96 | 経度度 = 139 | 経度分 = 42 | 経度秒 = 50.84 ---><!--- 座標はwikidataから呼び出してるのでコメントアウトしてますが、万が一に備えて、残してください ---> |座標位置備考=<!--座標位置の情報--> |座標右上表示 = no |地図ズーム = 12 |都道府県 = 神奈川県 |市町村 = [[File:Flag of Yokosuka, Kanagawa.svg|border|25px]] [[横須賀市]] |地区 = [[久里浜|久里浜地区]] |人口 = 1750 |世帯数 = 762 |人口時点 = [[2023年]](令和5年)[[4月1日]]現在<ref name="population">{{Cite web|和書|url=https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/shisei/opendata/documents/j2304b.xlsx|format=XLSX|title=オープンデータライブラリ - 人口情報 - 住民基本台帳登載人口(町丁目別)|publisher=横須賀市|language=日本語|quote=[https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/shisei/opendata/index.html (ファイル元のページ)]|date=2023-04-27|accessdate=2023-08-28}}([[クリエイティブ・コモンズ・ライセンス|CC-BY-4.0]])</ref> |面積 = 0.165 |面積時点 = {{r|population}} |標高 = <!--- 標高 ---> |標高備考 = <!--- 標高(<ref>) ---> |設置日 = <!--- 設置日 ---> |郵便番号 = 239-0827<ref name="postal">{{Cite web|和書|url=https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?zip=2390827|title=久里浜台の郵便番号|publisher=[[日本郵便]]|accessdate=2023-08-29}}</ref> |市外局番 = 046([[日本の市外局番#番号区画|横須賀MA]])<ref name="areacode">{{Cite web|和書|url=https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/top/tel_number/shigai_list.html|title=市外局番の一覧|publisher=総務省|accessdate=2019-06-24}}</ref> |ナンバープレート = [[神奈川運輸支局|横浜]] |備考 = }} '''久里浜台'''(くりはまだい)は、[[神奈川県]][[横須賀市]]の地名。現行行政地名は久里浜台一丁目から久里浜台二丁目。[[住居表示]]実施済区域<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2740/jhyouji/tyoumei.html|title=横須賀市の町名一覧|publisher=横須賀市|accessdate=2023-08-29}}</ref>。 == 地理 == 横須賀市の南東部にある久里浜地区に属し、北と東に[[西浦賀]]、北に[[南浦賀]]、南に[[久比里]]と接している。 === 地価 === 住宅地の地価は、[[2023年]]([[令和]]5年)[[1月1日]]の[[公示地価]]によれば、久里浜台2-6-4の地点で9万円/m{{sup|2}}となっている<ref name="chika">{{Cite web|和書|url=https://www.land.mlit.go.jp/landPrice/AriaServlet?MOD=2&TYP=0|title=国土交通省地価公示・都道府県地価調査|publisher=国土交通省|language=日本語|accessdate=2023-08-09}}</ref>。 == 歴史 == {{節スタブ}} == 世帯数と人口 == [[2023年]](令和5年)[[4月1日]]現在(横須賀市発表)の世帯数と人口は以下の通りである{{r|population}}。 {| class="wikitable" ![[丁目]]!![[世帯|世帯数]]!![[人口]] |- |久里浜台一丁目 |style="text-align:right"|292世帯 |style="text-align:right"|663人 |- |久里浜台二丁目 |style="text-align:right"|470世帯 |style="text-align:right"|1,087人 |- |style="text-align:center"|計 |style="text-align:right"|762世帯 |style="text-align:right"|1,750人 |} === 人口の変遷 === [[国勢調査]]による人口の推移。<!--- data_maxがdataより超えたらdata_maxも変更してください。---> {{Bar chart |title=人口推移 |data_max=3000 |label_type=年 |data_type=人口 |label1=[[1995年]](平成7年)<ref name="jinko1995">{{Cite web|和書|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?stat_infid=000023630093|title=平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|publisher=総務省統計局|date=2014-03-28|accessdate=2019-08-16|language=ja}}</ref> |data1=2,106 |label2=[[2000年]](平成12年)<ref name="jinko2000">{{Cite web|和書|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?stat_infid=000025137597|title=平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|publisher=総務省統計局|date=2014-05-30|accessdate=2019-08-16|language=ja}}</ref> |data2=2,008 |label3=[[2005年]](平成17年)<ref name="jinko2005">{{Cite web|和書|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?stat_infid=000025513790|title=平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|publisher=総務省統計局|date=2014-06-27|accessdate=2019-08-16|language=ja}}</ref> |data3=1,925 |label4=[[2010年]](平成22年)<ref name="jinko2010">{{Cite web|和書|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?stat_infid=000012671702|title=平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|publisher=総務省統計局|date=2012-01-20|accessdate=2019-08-16|language=ja}}</ref> |data4=1,851 |label5=[[2015年]](平成27年)<ref name="jinko2015">{{Cite web|和書|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?stat_infid=000031522046|title=平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|publisher=総務省統計局|date=2017-01-27|accessdate=2019-08-16|language=ja}}</ref> |data5=1,799 |label6=[[2020年]](令和2年)<ref name="jinko2020">{{Cite web|和書|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?stat_infid=000032163289|title=令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) -男女別人口,外国人人口及び世帯数-町丁・字等|publisher=総務省統計局|date=2022-02-10|accessdate=2022-02-20|language=ja}}</ref> |data6=1,720 }} === 世帯数の変遷 === [[国勢調査]]による世帯数の推移。<!--- data_maxがdataより超えたらdata_maxも変更してください。---> {{Bar chart |title=世帯数推移 |data_max=1000 |label_type=年 |data_type=世帯数 |label1=[[1995年]](平成7年){{r|jinko1995}} |data1=625 |label2=[[2000年]](平成12年){{r|jinko2000}} |data2=662 |label3=[[2005年]](平成17年){{r|jinko2005}} |data3=686 |label4=[[2010年]](平成22年){{r|jinko2010}} |data4=699 |label5=[[2015年]](平成27年){{r|jinko2015}} |data5=691 |label6=[[2020年]](令和2年){{r|jinko2020}} |data6=701 }} == 学区 == 市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2022年3月時点)<ref name="school">{{Cite web|和書|url=https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/8115/tugakukuikiitiranhyou.html|title=通学区域一覧表|publisher=横須賀市|date=2022-03-07|accessdate=2023-08-29}}</ref>。 *丁目、番・番地等 : 一丁目〜二丁目、各全域 **小学校 : [[横須賀市立久里浜小学校]] **中学校 : [[横須賀市立久里浜中学校]] == 事業所 == [[2021年]](令和3年)現在の[[経済センサス]]調査による事業所数と従業員数は以下の通りである{{r|keizai2021}}。 {| class="wikitable" ![[丁目]]!!事業所数!!従業員数 |- |久里浜台一丁目 |style="text-align:right"|3事業所 |style="text-align:right"|8人 |- |久里浜台二丁目 |style="text-align:right"|5事業所 |style="text-align:right"|10人 |- |style="text-align:center"|計 |style="text-align:right"|8事業所 |style="text-align:right"|18人 |} === 事業者数の変遷 === 経済センサスによる事業所数の推移。<!--- data_maxがdataより超えたらdata_maxも変更してください。---> {{Bar chart |title=事業者数推移 |data_max=100 |label_type=年 |data_type=事業者数 |label1=[[2016年]](平成28年)<ref name="keizai2016">{{Cite web|和書|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?stat_infid=000031727451|title=経済センサス‐活動調査 / 平成28年経済センサス‐活動調査 / 事業所に関する集計 産業横断的集計 都道府県別結果|publisher=総務省統計局|date=2018-06-28|accessdate=2019-10-23|language=ja}}</ref> |data1=12 |label2=[[2021年]](令和3年)<ref name="keizai2021">{{Cite web|和書|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?stat_infid=000040068160|title=経済センサス‐活動調査 / 令和3年経済センサス‐活動調査 / 事業所に関する集計 産業横断的集計 事業所数、従業者数(町丁・大字別結果)|publisher=総務省統計局|date=2023-06-27|accessdate=2023-09-15|language=ja}}</ref> |data2=8 }} === 従業員数の変遷 === 経済センサスによる従業員数の推移。<!--- data_maxがdataより超えたらdata_maxも変更してください。---> {{Bar chart |title=従業員数推移 |data_max=100 |label_type=年 |data_type=従業員数 |label1=[[2016年]](平成28年){{r|keizai2016}} |data1=27 |label2=[[2021年]](令和3年){{r|keizai2021}} |data2=18 }} == 施設 == {{節スタブ}} == その他 == === 日本郵便 === * 郵便番号 : 239-0827{{r|postal}}(集配局 : [[久里浜郵便局]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.post.japanpost.jp/zipcode/dl/bangobo/zip_bgb.pdf|format=PDF|title=郵便番号簿 2022年度版|publisher=日本郵便|language=日本語|accessdate=2023-07-17}}</ref>)。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist|2}} {{横須賀市の町・字}} {{Japan-block-stub}} {{Pref-stub|pref=神奈川県}} {{DEFAULTSORT:くりはまたい}} [[Category:横須賀市の町・字]] [[Category:久里浜]]
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長束村
長束村(ながつかむら)は、広島県安佐郡にあった村。現在の広島市安佐南区の一部にあたる。 太田川右岸の沖積低地に位置していた。中央部を安川、山本川が南流。 流路に沿う堤防に由来か。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "長束村(ながつかむら)は、広島県安佐郡にあった村。現在の広島市安佐南区の一部にあたる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "太田川右岸の沖積低地に位置していた。中央部を安川、山本川が南流。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "流路に沿う堤防に由来か。", "title": "歴史" } ]
長束村(ながつかむら)は、広島県安佐郡にあった村。現在の広島市安佐南区の一部にあたる。
{{日本の町村 (廃止) | 廃止日 = 1943年11月3日 | 廃止理由 = 新設合併 | 廃止詳細 = 祇園町、'''長束村'''、[[山本村 (広島県)|山本村]]、[[原村 (広島県安佐郡)|原村]] → [[祇園町]] | 現在の自治体 = [[広島市]] | よみがな = ながつかむら | 自治体名 = 長束村 | 区分 = 村 | 都道府県 = 広島県 | 郡 = [[安佐郡]] | 面積 = | 境界未定 = | 人口 = 2188 | 人口の出典 = [[国勢調査 (日本)|国勢調査]] | 人口の時点 = 1940年 | 隣接自治体 = 山本村、祇園町、原村、広島市 | 所在地 = 安佐郡長束村 | 座標 = | 位置画像 = | 特記事項 = }} '''長束村'''(ながつかむら)は、[[広島県]][[安佐郡]]にあった[[村]]。現在の[[広島市]][[安佐南区]]の一部にあたる。 == 地理 == [[太田川]]右岸の沖積低地に位置していた。中央部を安川、山本川が南流{{R|角川}}。 == 歴史 == *[[1889年]](明治22年)4月1日、[[町村制]]の施行により、[[沼田郡]]長束村が単独で村制施行し、'''長束村'''が発足<ref name=角川>『角川日本地名大辞典 34 広島県』583頁。</ref><ref name=変遷>『市町村名変遷辞典』556頁。</ref>。 *[[1898年]](明治31年)10月1日、郡の統合により[[安佐郡]]に所属{{R|角川}}{{R|変遷}}。 *[[1943年]](昭和18年)11月3日、安佐郡祇園町、山本村、原村と合併し、'''[[祇園町]]'''が継続して廃止された{{R|角川}}{{R|変遷}}。 === 地名の由来 === 流路に沿う堤防に由来か{{R|角川}}。 == 産業 == *農業{{R|角川}} == 脚注 == {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[角川日本地名大辞典]] 34 広島県 * 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。 == 関連項目 == * [[広島県の廃止市町村一覧]] {{デフォルトソート:なかつかむら}} [[Category:沼田郡]] [[Category:安佐郡]] [[Category:広島市域の廃止市町村]] [[Category:安佐南区の歴史]] [[Category:1889年設置の日本の市町村]] [[Category:1943年廃止の日本の市町村]]
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三野宮鈴
三野宮 鈴(さんのみや すず、2004年5月17日 - )は、日本のグラビアアイドル、タレント、女優。神奈川県出身。TEENS専属モデル。 2020年、今日、好きになりました。夏空編で芸能界デビュー。 2020年、ティーン向け雑誌媒体TEENSの専属モデルとなる。 今日好きをきっかけに中高生人気インフルエンサーとなり、TGC(東京ガールズコレクション)、TGCteen、関西コレクションなど数々のファッションショーに出演し、専属モデルのTEENS MAGAZINでは表紙を務める。 2022年10月18日、ミスマガジン2022読者特別賞を受賞。 2023年8月11日 映画『さよなら、エリュマントス』で映画デビュー初主演。 特技はスティッチのモノマネ、ルービックキューブ、ピアノ。 趣味は絵を描くこと、歌うこと、アニメ、ゲーム、麻雀。
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三野宮 鈴は、日本のグラビアアイドル、タレント、女優。神奈川県出身。TEENS専属モデル。
{{複数の問題 |特筆性=2023年9月8日 (金) 12:05 (UTC)|分野=人物 |存命人物の出典明記=2023年9月8日 (金) 12:05 (UTC) |wikify=2023年9月8日 (金) 12:05 (UTC) |単一の出典=2023年9月8日 (金) 12:05 (UTC) }} {{女性モデル | モデル名 = 三野宮 鈴 | ふりがな = さんのみや すず | 画像ファイル = | 画像コメント = | 別名義 = | 愛称 = おすず | 生年 = 2004 | 生月 = 5 | 生日 = 17 | 没年 = | 没月 = | 没日 = | 出身地 = {{JPN}}・[[神奈川県]][[横浜市]] | 死没地 = | 血液型 = B型 | 瞳の色 = | 毛髪の色 = | 時点 = [[2023年]] | 身長 = 155 | 体重 = 42 | バスト = 85 | ウエスト = 58 | ヒップ = 88 | カップ = | 股下 = | 靴 = 23.5 | 身体備考 = | デビュー = [[2019年]] | モデル内容 = ファッションモデル、グラビア、YouTuber | 活動備考 = | 他の活動 = 俳優、女優、タレント | 事務所 = HJグループ株式会社LUV所属 | その他 = TEENS専属モデル、ミスマガジン2022 | FMD = | IMDb = }} '''三野宮 鈴'''(さんのみや すず、[[2004年]][[5月17日]] - )は、[[日本]]の[[グラビアアイドル]]、[[タレント]]、[[俳優#性別での分類|女優]]。[[神奈川県]]出身。[[TEENS]]専属モデル。 == 経歴 == 2020年、[[今日、好きになりました。]]夏空編で芸能界デビュー。 2020年、ティーン向け雑誌媒体[[TEENS]]の専属モデルとなる。 今日好きをきっかけに中高生人気インフルエンサーとなり、TGC(東京ガールズコレクション)、TGCteen、関西コレクションなど数々のファッションショーに出演し、専属モデルのTEENS MAGAZINでは表紙を務める。 2022年10月18日、[[ミスマガジン]]2022読者特別賞を受賞<ref>[https://luv.co.jp/2022/10/20/sannomiya2022/ 三野宮鈴『ミスマガジン2022』読者特別賞を受賞!]</ref>。 2023年8月11日 映画『さよなら、エリュマントス』で映画デビュー初主演。 == 人物 == 特技はスティッチのモノマネ、ルービックキューブ、ピアノ。 趣味は絵を描くこと、歌うこと、アニメ、ゲーム、麻雀。 == 出演 == === テレビ === * [[今日、好きになりました。]](2020年7月27日 - 8月31日、[[ABEMA]]) * [[ヒロミ・指原の“恋のお世話始めました”]]([[テレビ朝日]]) * [[超無敵クラス]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) * [[The NIGHT|矢口真里の火曜TheNIGHT]]([[ABEMA]]) === CM === * AbemaTV KOSE「BLENDBERRY」 * SNOW WEB === 映画 === * さよならエリュマントス主演(2023年8月公開) - スズ役 ===ドラマ=== * アップル引越し りんごりくん ショートドラマ * ハイスクール研究所SPドラマ『私立Snow学園』 === ファッションショー === * シンデレラフェス vol.8 オンライン * TGCteen2021 summer * TGCteen2021 winter * 超超十代-ULTRA TEENS FES-2022@TOKYO * シンデレラフェス vol.9 * TGCteen2022 Osaka * シンデレラフェス vol.10 * TGC和歌山2023 * KANSAI COLLECTION2023 S/S * TGCteen2023 ICHINOSEKI == 書籍 == * TEENS MAGAZIN vol.3 表紙 * [[ヤングマガジン]]21.22号 表紙 巻頭、巻中グラビア(2023年4月24日) * [[月刊ヤングマガジン]]12号 表紙、巻頭グラビア * ヤングマガジン47号 表紙、巻頭、巻中、巻末グラビア(2022年10月24日) * [[週刊プレイボーイ]] デジタル写真集(2023年10月9日) * [[B.L.T]] 巻末グラビア(2023年10月23日) * [[週刊少年マガジン]] 「赤羽骨子のボディガード」漫画コラボコスプレグラビア(2023年6月7日) * 週刊プレイボーイ 巻末グラビア(2023年5月29日) * ヤングマガジン19号 巻末グラビア(2023年4月24日) === デジタル写真集 === * ミスマガジン2022ソログラビアSP5(2023年1月13日、[[講談社]]) * ミスマガのアソビバ!年末年始干支コスプレSP(2023年2月10日、講談社) * ミスマガのアソビバ!三野宮鈴 ミスマガ2022とお家で過ごす2人の時間(2023年4月12日、講談社) * ミスマガのアソビバ!ミスマガ2022制服グラビア~卒業の季節~(2023年5月12日、講談社) * 三野宮鈴(ミスマガジン2022読者特別賞)ヤンマガアザーっす!<YM2023年19号未公開カット>(2023年6月9日、講談社) * ミスマガ×『さよならエリュマントス』ミスマガのアソビバ!(2023年9月1日、講談社) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 外部リンク == * [https://luv.co.jp/talent/suzu_sannnomiya/ 三野宮鈴] LUV * {{Twitter|suzuchan0517}} * {{Instagram|suzuchan.1}} * {{TikTok|suzu.sannomiya}}} {{Idol-substub}} {{DEFAULTSORT:さんのみや すす}} [[Category:日本のTikToker]] [[Category:グラビアアイドル]] [[Category:女性向けファッション雑誌のモデル]] [[Category:東京ガールズコレクション出演モデル]] [[Category:ミスマガジン]] [[Category:日本の女性タレント]] [[Category:神奈川県出身の人物]] [[Category:2004年生]] [[Category:存命人物]]
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貝田康則
貝田 康則(かいだ やすのり、1964年5月12日 - )は、日本の実業家。ホテルニューオータニ幕張総支配人、株式会社ニュー・オータニ取締役。 1964年5月12日生まれ。東京都出身。立教大学卒業。1987年4月、株式会社ホテルニューオータニ(現・株式会社ニュー・オータニ)に入社。 2003年5月、ホテルニューオータニ幕張バンケット&ブライダルコーディネーション課長、2007年10月、ホテルニューオータニ(東京)のバンケットサービス課長。 2015年6月、株式会社ニュー・オータニ執行役員、2020年6月、同社取締役・ホテルニューオータニ(東京) 副総支配人に就任。 2023年6月、同社取締役・ホテルニューオータニ幕張総支配人に就任。
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貝田 康則は、日本の実業家。ホテルニューオータニ幕張総支配人、株式会社ニュー・オータニ取締役。
'''貝田 康則'''(かいだ やすのり、[[1964年]]5月12日 - )は、日本の[[実業家]]。[[ホテルニューオータニ幕張]]総支配人、[[ニューオータニ|株式会社ニュー・オータニ]]取締役<ref name="doc1">観光経済新聞 [https://www.kankokeizai.com/%E3%80%90%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E3%80%91%E3%83%9B%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%8B%E5%B9%95%E5%BC%B5%E3%80%80%E6%96%B0%E7%B7%8F%E6%94%AF%E9%85%8D%E4%BA%BA/ 『【人事】ホテルニューオータニ幕張 新総支配人に貝田 康則氏が就任』] 2023年6月11日</ref><ref name="doc2">日本経済新聞 [https://www.nikkei.com/article/DGXZTSJJ10201_R30C23A5000000/ 『人事、ニュー・オータニ』] 2023年5月31日</ref>。 == 人物・経歴 == 1964年5月12日生まれ<ref>IRBANK [https://irbank.net/E04564/officer?m=%E8%B2%9D%E7%94%B0%E5%BA%B7%E5%89%87 『ニュー・オータニ 役員の状況』]</ref>。[[東京都]]出身。[[立教大学]]卒業。1987年4月、[[ホテルニューオータニ|株式会社ホテルニューオータニ]](現・株式会社ニュー・オータニ)に入社<ref name="doc1"/>。 2003年5月、[[ホテルニューオータニ幕張]]バンケット&ブライダルコーディネーション課長、2007年10月、ホテルニューオータニ(東京)のバンケットサービス課長<ref name="doc1"/>。 2015年6月、株式会社ニュー・オータニ執行役員、2020年6月、同社取締役・ホテルニューオータニ(東京) 副総支配人に就任<ref name="doc1"/>。 2023年6月、同社取締役・ホテルニューオータニ幕張総支配人に就任<ref name="doc1"/><ref name="doc2"/>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{businessperson-stub}} {{DEFAULTSORT:かいた やすのり}} [[Category:21世紀日本の実業家]] [[Category:立教大学出身の人物]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:1964年生]] [[Category:存命人物]]
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父娘ぐらし 55歳独身マンガ家が8歳の娘の父親になる話
『父娘ぐらし 55歳独身マンガ家が8歳の娘の父親になる話』(おやこぐらし 55さいどくしんマンガかが8さいのむすめのちちおやになるはなし)は、渡辺電機(株)による日本の漫画。渡辺本人が、娘2人を抱えるシングルマザーと結婚したことで、独身生活から突如として娘と一緒の生活になった実体験を描いた作品であり、渡辺にとって初のエッセイ漫画である。インターネット配信サイトのnoteで、渡辺が個人で『55歳独身ギャグ漫画家 父子家庭はじめました』のタイトルで2021年(令和3年)1月から発表を始めた後、noteやTwitterで大きな反響を呼んだことで、2023年(令和5年)に、加筆と修正を加えた単行本として、KADOKAWAより発行された。 「おれ」こと漫画家の渡辺電機(株)は、デビューから30年以上にわたってギャグ漫画を描きつつ、ヒット作には恵まれないものの、自由で気ままな独身生活を謳歌している。このまま死ぬまで独身と思いきや、55歳の春に16歳年下の大阪のシングルマザーと入籍し、妻の連れ子である2人の娘の父親となる。しかも家族4人で同居するまでしばらくの間、妻の仕事や子供の諸々の事情などで、妻と次女は大阪に住んだまま、長女アユ1人だけが、東京の「おれ」のもとで暮らすことになる。「おれ」の生活はそれまでと一変、思いもよらず小学生の娘と2人暮しとなり、子供の世話、食事の用意、金銭のやりくりなど、育児に孤軍奮闘する生活が始まる。 作者の渡辺電機(株)は、2018年(平成30年)に55歳にしてシングルマザーと結婚し、同2018年4月より妻の連れ子の長女と同居し始めた。冒頭で述べたように、本作はこの渡辺の長女との生活を通じての、驚き、苦労、喜びなどを、飾ることなく本音で綴った作品である。 育児を題材としたエッセイ漫画は、『ママはぽよぽよザウルスがお好き』(青沼貴子)や『毎日かあさん』(西原理恵子)のように母親が主役のもの、『妻と僕の小規模な育児』(福満しげゆき)のように父親目線で妻と子をを描いたもの、『まんが親』(吉田戦車)のように子供の両親に焦点を当てたものが並ぶ中、本作は父親を主役とした珍しい作品である。 基本的には事実に基づいて描かれているが、漫画としての演出、漫画としての脚色されている箇所も存在する。たとえば第3話で、渡辺が初めて長女のために弁当を作るエピソードで、漫画では弁当はひどい出来ばえだが、実際には渡辺は「漫画ほどひどくはないですよ」といい、長女がこの弁当を「まずかった」と言いつつも「(パンよりも)パパのお弁当がいい」と言った場面でも、「実際はあんなに心を刺す会話があったわけではない」と語っている。 また、渡辺はかつてブログで、自分を主人公として他人を攻撃するような架空の作品を多く描いていたが、それを続ける内に、自分が他者を攻撃するより、自分が酷い目に遭う方が読後感が良いことに気づき、そうした手法も本作に活かせているという。 本作の制作前の渡辺は、自分の描きたい漫画が周囲に認められなくなり、編集部への企画の持ち込みも不採用が続き、出版業界の不振の影響などもあって、漫画家として行き詰りつつあった。そんな折に、妻に勧められたのが、本作を描くことになったきっかけである。渡辺は最初は、最初は「試しに1回描いてみようかな」くらいの気持ちであった。 渡辺自身は、育児漫画はある程度の人気が得られることは予想できていたが、子供のことを描いて仕事にすることにはかなりの抵抗があり、当初は育児漫画の制作に対して、それほど積極的ではなかった。しかし2019年に長男が誕生したことを機に、漫画以外の仕事に転職するか、避けていたジャンルの漫画に挑むかの選択を迫られた結果、本作に取り組むこととなった。 長男誕生後に漫画の構想を開始し、出版社やウェブコミック配信サイトに持ち込み始めたものの、絵柄が受け入れられなかったり、「『結婚して即別居、娘だけが同居』という設定に現実感が無く感情移入できない」との意見があったり、「絵が可愛いし『いい話』系で行けそう」と言われながらもその後の連絡がなかったり、といったように、採用に至らない状況が続いていた。また、長女の可愛さだけに焦点をあてて描いたところ、「可愛いだけでなく、生々しいことや感情移入しやすい表現を取り入れるべき」との意見もあったが、涙を誘うような表現は、渡辺は最も避けたい表現と考えていた。 漫画制作を取りやめて、漫画家とは別の仕事に乗り換えようとしたところを、妻に窘められ、2020年より物語を作り直し、上記とは別のウェブコミック配信サイトへ持ち込みをかけた。「可愛いだけで物足りない」との声が多数で採用には至らなかったものの、同社での助言をもとに改稿を重ね、さらに「スマートフォン向けのウェブサイトは読者層が異なる」と指摘を受けたことにより、エッセイ漫画に適した媒体として、noteでの自主連載を考え始めた。 2021年1月より『55歳ギャグ漫画家 父子家庭はじめました』として自主連載を開始した。noteでの無料公開でも、サポートのシステムである程度の収益が見込めること、ターゲット層が幅広いこと、出版業界からの注目度が高いことなどが理由であった。子供たちの育児の合間に執筆するためには、誰にも催促されない、その気になれば執筆せずに済む自主連載が、渡辺にとっては最良の手段であった。 この自主連載が、noteやTwitterで大きな反響を呼んだことで、2023年(令和5年)に、加筆と修正、カラー原稿での書き下ろしを加えた単行本として、KADOKAWAより発行された。 発表時点の本作の内容は、渡辺と長女の2人暮しだが、実際には2018年8月に妻と次女が渡辺と同居、先述の通り翌2019年に長男が誕生、作中で小学生である長女も2022年(令和4年)には中学生になり、渡辺自身も還暦(60歳)を迎えていることから、そうした現在進行形の家族生活を綴ったエッセイ漫画が『還暦子育て日記』の題でnoteで発表されると共に、Amazon Kindleでも発売されている。 渡辺によれば、2021年1月にnoteで自主連載を開始した当時から、それまでとは異なる読者層から反応があり、さらに同2021年5月に文春オンライン(文藝春秋)のインタビューが公開された直後から反響が押し寄せ、複数の出版社から誘いがあったという。テレビ番組出演の依頼まであったが、長女の学校に影響を配慮し、辞退したという。 第1話で、長女がたこ焼きを食べながら、義父である渡辺を信頼しきって寄りかかり、渡辺がそれに幸福を感じる場面がある。渡辺自身はこれについて、「あの行動も感情も一切、嘘はない」「実際にあったこと」というが、子育て漫画を描くという手段は禁じ手とし、敢えて涙を誘うような安直な表現は避けたいと考えていた。そのために、「それを踏み越えたら後戻りできない」という気持ちで、現状を打破するため、断腸の思いで描いたといい、「描いていて恥ずかしかった」とも語っている。そうした渡辺の考えとは裏腹に、その場面は編集者と読者、両方の好評を得た。 第8話で、長女がふざけて渡辺の頬を叩き、渡辺があまりの痛さと驚きで反射的に長女を叩き返し、長女を諭した後でも「暴力、体罰、虐待」と反省する場面が登場する。渡辺によれば、このエピソードの閲覧数も大変な数であり、「普通だったら逃げて描かないところを、あえて描いてる」との声もあったという。 先述の、長女が渡辺の手作りの弁当を「まずかった」と言いつつも「パパのお弁当がいい」と言った場面で「涙した」との声や、「飾らない会話が染みた」、「読んでいて温かい気持ちになるエピソードが多い」などの声が寄せられている。 一方で、渡辺は本作以前には、下ネタを始めとする不道徳なギャグ漫画を得意としていたため、前からのファンには「いつになったらバカなこと描くんだ」との意見が寄せられている。本作発表以降にTwitterで新たなフォロワーとなるのは、そうした渡辺の作風を知らないため本作の読者ばかりであり、「もっと父娘の話を」と希望されていることから、ファンが二極化したと感じているという。 KADOKAWAの担当編集者は、子供の言動のかわいさ、子育てにまつわる悲喜など、育児漫画の王道的な表現以に、50代にして突然小学生の娘ができるという人生の変容が、率直かつ正直に描かれ、それでいて非常にユーモラスに表現されていることの、新鮮さを評価している。 漫画解説者である新保信長は、どちらかといえば不審者のイメージのあった中年期の渡辺が、子供の送り迎え、弁当作り、公園デビューと、それまに比べて異世界ともいえる育児の世界に飛び込んでいく描写について、その勇気と適応力に敬意を表している。 フリーライターのとみさわ昭仁は、それまで下品な作品を多く著していた渡辺の絵柄が、育児を描いたエッセイに合っている様に予想外の喜びを表すと共に、慣れない育児の戸惑いと喜びが交互に訪れる描写の微笑ましさ、思わず長女に手をあげるなど、ともすれば批判を浴びかねないことも包み隠さずに描いている誠実さを評価している。 漫画原作者・評論家である大塚英志は、渡辺と出逢う前の長女が、ずっとゲームばかりの生活だったことを指して、長女にとってそれまではゲームが自身の世界を大きく占めており、新たな父親である渡辺は、現実感を担保してくれる大人の存在、現実の所在を実感させる存在であり、本作を長女の世界が開かれる物語と解釈している。また大塚は、長女が虐めに遭うエピソードにおいて、渡辺が虐めっ子の孤立に気づき、その虐めっ子を友達の仲間に引き入れるエピソードを指し、当り前の関わり方を実直に描いていることし、「育児まんがというよりもっと普遍的な、今読まれるべき作品」と評価している。 漫画編集者の浅田貴典は、ギャグ漫画を多く手がけた渡辺ならではの、観察力の鋭さ、日常を面白く描ける力量を評価している。また、こうした育児漫画は、読者に対して育児の負担や苦労の理解を求め、共感や泣きを誘う内容になりやすいところが、本作では渡辺が、自身の失敗や苦悩を消化して引きずらず、自己解決して、常に飄々としている姿に対し、「私の理想のお父さんのヒーロー像」と語っている。
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"育児を題材としたエッセイ漫画は、『ママはぽよぽよザウルスがお好き』(青沼貴子)や『毎日かあさん』(西原理恵子)のように母親が主役のもの、『妻と僕の小規模な育児』(福満しげゆき)のように父親目線で妻と子をを描いたもの、『まんが親』(吉田戦車)のように子供の両親に焦点を当てたものが並ぶ中、本作は父親を主役とした珍しい作品である。", "title": "作風とテーマ" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "基本的には事実に基づいて描かれているが、漫画としての演出、漫画としての脚色されている箇所も存在する。たとえば第3話で、渡辺が初めて長女のために弁当を作るエピソードで、漫画では弁当はひどい出来ばえだが、実際には渡辺は「漫画ほどひどくはないですよ」といい、長女がこの弁当を「まずかった」と言いつつも「(パンよりも)パパのお弁当がいい」と言った場面でも、「実際はあんなに心を刺す会話があったわけではない」と語っている。", "title": "作風とテーマ" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また、渡辺はかつてブログで、自分を主人公として他人を攻撃するような架空の作品を多く描いていたが、それを続ける内に、自分が他者を攻撃するより、自分が酷い目に遭う方が読後感が良いことに気づき、そうした手法も本作に活かせているという。", "title": "作風とテーマ" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "本作の制作前の渡辺は、自分の描きたい漫画が周囲に認められなくなり、編集部への企画の持ち込みも不採用が続き、出版業界の不振の影響などもあって、漫画家として行き詰りつつあった。そんな折に、妻に勧められたのが、本作を描くことになったきっかけである。渡辺は最初は、最初は「試しに1回描いてみようかな」くらいの気持ちであった。", "title": "制作背景" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": 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"第1話で、長女がたこ焼きを食べながら、義父である渡辺を信頼しきって寄りかかり、渡辺がそれに幸福を感じる場面がある。渡辺自身はこれについて、「あの行動も感情も一切、嘘はない」「実際にあったこと」というが、子育て漫画を描くという手段は禁じ手とし、敢えて涙を誘うような安直な表現は避けたいと考えていた。そのために、「それを踏み越えたら後戻りできない」という気持ちで、現状を打破するため、断腸の思いで描いたといい、「描いていて恥ずかしかった」とも語っている。そうした渡辺の考えとは裏腹に、その場面は編集者と読者、両方の好評を得た。", "title": "社会的評価" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "第8話で、長女がふざけて渡辺の頬を叩き、渡辺があまりの痛さと驚きで反射的に長女を叩き返し、長女を諭した後でも「暴力、体罰、虐待」と反省する場面が登場する。渡辺によれば、このエピソードの閲覧数も大変な数であり、「普通だったら逃げて描かないところを、あえて描いてる」との声もあったという。", "title": "社会的評価" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "先述の、長女が渡辺の手作りの弁当を「まずかった」と言いつつも「パパのお弁当がいい」と言った場面で「涙した」との声や、「飾らない会話が染みた」、「読んでいて温かい気持ちになるエピソードが多い」などの声が寄せられている。", "title": "社会的評価" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "一方で、渡辺は本作以前には、下ネタを始めとする不道徳なギャグ漫画を得意としていたため、前からのファンには「いつになったらバカなこと描くんだ」との意見が寄せられている。本作発表以降にTwitterで新たなフォロワーとなるのは、そうした渡辺の作風を知らないため本作の読者ばかりであり、「もっと父娘の話を」と希望されていることから、ファンが二極化したと感じているという。", "title": "社会的評価" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": 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『父娘ぐらし 55歳独身マンガ家が8歳の娘の父親になる話』は、渡辺電機(株)による日本の漫画。渡辺本人が、娘2人を抱えるシングルマザーと結婚したことで、独身生活から突如として娘と一緒の生活になった実体験を描いた作品であり、渡辺にとって初のエッセイ漫画である。インターネット配信サイトのnoteで、渡辺が個人で『55歳独身ギャグ漫画家 父子家庭はじめました』のタイトルで2021年(令和3年)1月から発表を始めた後、noteやTwitterで大きな反響を呼んだことで、2023年(令和5年)に、加筆と修正を加えた単行本として、KADOKAWAより発行された。
{{Infobox animanga/Header |タイトル=父娘ぐらし<br><small>55歳独身マンガ家が8歳の娘の父親になる話</small> |説明= |ジャンル=[[エッセイ漫画]] }} {{Infobox animanga/Manga |作者=[[渡辺電機(株)]] |出版社=[[KADOKAWA]] |他出版社= |掲載誌=[[note (配信サイト)|note]] |開始日=[[2021年]][[1月31日]]{{R|note20220410}} |終了日= |発表期間= |巻数=既刊1巻(2023年9月8日現在) |話数= |インターネット=1 }} {{Infobox animanga/Footer |ウィキプロジェクト=[[プロジェクト:漫画|漫画]] |ウィキポータル=[[Portal:漫画|漫画]] }} 『'''父娘ぐらし 55歳独身マンガ家が8歳の娘の父親になる話'''』(おやこぐらし{{R|BOOKウォッチ20220428}}<!-- 「父娘」の読みの出典 --> 55さいどくしんマンガかが8さいのむすめのちちおやになるはなし)は、[[渡辺電機(株)]]による[[日本]]の[[漫画]]。渡辺本人が、娘2人を抱える[[シングルマザー]]と結婚したことで、独身生活から突如として娘と一緒の生活になった実体験を描いた作品であり{{R|ウォーカープラス20221219}}、渡辺にとって初の[[エッセイ漫画]]である{{R|BOOKウォッチ20220428}}。インターネット配信サイトの[[note (配信サイト)|note]]で、渡辺が個人で『'''55歳独身ギャグ漫画家 父子家庭はじめました'''』のタイトルで2021年(令和3年)1月から発表を始めた後、noteやTwitterで大きな反響を呼んだことで{{R|文春20210503|ウォーカープラス20221219}}、2023年(令和5年)に、加筆と修正を加えた[[単行本]]として、[[KADOKAWA]]より発行された{{R|父娘ぐらし20220428_p142|文春20220616_p1}}。 == あらすじ== 「おれ」こと漫画家の渡辺電機(株)は、デビューから30年以上にわたって[[ギャグ漫画]]を描きつつ、ヒット作には恵まれないものの、自由で気ままな独身生活を謳歌している{{R|ウォーカープラス20221219}}。このまま死ぬまで独身と思いきや、55歳の春に16歳年下の大阪のシングルマザーと入籍し、妻の[[連れ子]]である2人の娘の父親となる{{R|ウォーカープラス20221219}}。しかも家族4人で同居するまでしばらくの間、妻の仕事や子供の諸々の事情などで、妻と次女は大阪に住んだまま、長女アユ1人だけが、東京の「おれ」のもとで暮らすことになる{{R|note20220410|ウォーカープラス20221219}}。「おれ」の生活はそれまでと一変、思いもよらず小学生の娘と2人暮しとなり、子供の世話、食事の用意、金銭のやりくりなど、育児に孤軍奮闘する生活が始まる{{R|ウォーカープラス20221219}}。 == 登場人物 == ; おれ : 作者の渡辺電機(株)本人。売れないギャグ漫画家。55歳{{R|父娘ぐらし20220428_p12}}。 ; アユ : ママの連れ子、長女。小学3年生、8歳{{R|父娘ぐらし20220428_p12}}。 ; ママ : おれ(渡辺)の16歳年下の再婚相手。大阪出身{{R|父娘ぐらし20220428_p12}}。 ; 妹 : ママの連れ子、次女。4歳の保育園児{{R|父娘ぐらし20220428_p12}}。 == 作風とテーマ == 作者の渡辺電機(株)は、2018年(平成30年)に55歳にしてシングルマザーと結婚し{{R|note20220410|ウォーカープラス20221219}}、同2018年4月より妻の連れ子の長女と同居し始めた{{R|note20220410}}。冒頭で述べたように、本作はこの渡辺の長女との生活を通じての、驚き、苦労、喜びなどを、飾ることなく本音で綴った作品である{{R|NewsCrunch20220618_p1}}。 育児を題材としたエッセイ漫画は、『[[ママはぽよぽよザウルスがお好き]]』([[青沼貴子]])や『[[毎日かあさん]]』([[西原理恵子]])のように母親が主役のもの、『妻と僕の小規模な育児』([[福満しげゆき]])のように父親目線で妻と子をを描いたもの、『まんが親』([[吉田戦車]])のように子供の両親に焦点を当てたものが並ぶ中、本作は父親を主役とした珍しい作品である{{R|UOMO20220625_p142}}。 基本的には事実に基づいて描かれているが、漫画としての演出{{R|ウォーカープラス20221219}}、漫画としての脚色されている箇所も存在する{{R|NewsCrunch20220619_p1}}。たとえば第3話で、渡辺が初めて長女のために[[弁当]]を作るエピソードで、漫画では弁当はひどい出来ばえだが{{R|note20210325|文春20220616_p3}}{{Efn2|name=note|これらの第1話{{R|文春20210503|note20210131}}、第3話は{{R|note20210325|文春20220616_p3}}、[[note (配信サイト)|note]]と[[文春オンライン]]で無料で公開されている(2023年9月8日現在)。}}、実際には渡辺は「漫画ほどひどくはないですよ」といい{{R|CHANTOWEB20220630_p3}}、長女がこの弁当を「まずかった」と言いつつも「(パンよりも)パパのお弁当がいい」と言った場面でも、「実際はあんなに心を刺す会話があったわけではない」と語っている{{R|ウォーカープラス20221219}}。 また、渡辺はかつて[[ブログ]]で、自分を主人公として他人を攻撃するような架空の作品を多く描いていたが、それを続ける内に、自分が他者を攻撃するより、自分が酷い目に遭う方が読後感が良いことに気づき、そうした手法も本作に活かせているという{{R|NewsCrunch20220619_p2}}。 == 制作背景 == 本作の制作前の渡辺は、自分の描きたい漫画が周囲に認められなくなり、編集部への企画の持ち込みも不採用が続き、出版業界の不振の影響などもあって、漫画家として行き詰りつつあった{{R|CHANTOWEB20220630_p3}}。そんな折に、妻に勧められたのが、本作を描くことになったきっかけである。渡辺は最初は、最初は「試しに1回描いてみようかな」くらいの気持ちであった{{R|CHANTOWEB20220630_p3}}。 渡辺自身は、育児漫画はある程度の人気が得られることは予想できていたが、子供のことを描いて仕事にすることにはかなりの抵抗があり、当初は育児漫画の制作に対して、それほど積極的ではなかった{{R|CHANTOWEB20220630_p3}}。しかし2019年に長男が誕生したことを機に、漫画以外の仕事に転職するか、避けていたジャンルの漫画に挑むかの選択を迫られた結果、本作に取り組むこととなった{{R|NewsCrunch20220618_p2}}。 長男誕生後に漫画の構想を開始し、[[出版社]]や[[ウェブコミック配信サイト]]に持ち込み始めたものの、絵柄が受け入れられなかったり、「『結婚して即別居、娘だけが同居』という設定に現実感が無く感情移入できない」との意見があったり{{R|NewsCrunch20220618_p2}}、「絵が可愛いし『いい話』系で行けそう」と言われながらもその後の連絡がなかったり、といったように、採用に至らない状況が続いていた{{R|note20220410}}。また、長女の可愛さだけに焦点をあてて描いたところ、「可愛いだけでなく、生々しいことや感情移入しやすい表現を取り入れるべき」との意見もあったが、涙を誘うような表現は、渡辺は最も避けたい表現と考えていた{{R|NewsCrunch20220618_p2}}。 漫画制作を取りやめて、漫画家とは別の仕事に乗り換えようとしたところを、妻に窘められ、2020年より物語を作り直し、上記とは別のウェブコミック配信サイトへ持ち込みをかけた{{R|note20220410}}。「可愛いだけで物足りない」との声が多数で採用には至らなかったものの、同社での助言をもとに改稿を重ね、さらに「スマートフォン向けのウェブサイトは読者層が異なる」と指摘を受けたことにより、エッセイ漫画に適した媒体として、noteでの自主連載を考え始めた{{R|note20220410}}。 2021年1月より『55歳ギャグ漫画家 父子家庭はじめました』として自主連載を開始した{{R|note20220410}}。noteでの無料公開でも、サポートのシステムである程度の収益が見込めること、ターゲット層が幅広いこと、出版業界からの注目度が高いことなどが理由であった{{R|BOOKウォッチ20220428}}。子供たちの育児の合間に執筆するためには、誰にも催促されない、その気になれば執筆せずに済む自主連載が、渡辺にとっては最良の手段であった{{R|BOOKウォッチ20220428}}。 この自主連載が、noteやTwitterで大きな反響を呼んだことで{{R|ウォーカープラス20221219|文春20210503}}、2023年(令和5年)に、加筆と修正、カラー原稿での[[書き下ろし]]を加えた単行本として{{R|BOOKウォッチ20220428|KADOKAWA2022}}、[[KADOKAWA]]より発行された{{R|父娘ぐらし20220428_p142|文春20220616_p1}}。 発表時点の本作の内容は、渡辺と長女の2人暮しだが、実際には2018年8月に妻と次女が渡辺と同居、先述の通り翌2019年に長男が誕生{{R|note20220410}}、作中で小学生である長女も2022年(令和4年)には中学生になり{{R|NewsCrunch20220619_p1}}、渡辺自身も還暦(60歳)を迎えていることから、そうした現在進行形の家族生活を綴ったエッセイ漫画が『還暦子育て日記』の題でnoteで発表されると共に、[[Amazon Kindle]]でも発売されている{{R|ウォーカープラス20230315}}。 == 社会的評価 == 渡辺によれば、2021年1月にnoteで自主連載を開始した当時から、それまでとは異なる読者層から反応があり、さらに同2021年5月に[[文春オンライン]]([[文藝春秋]])のインタビューが公開された直後から反響が押し寄せ、複数の出版社から誘いがあったという{{R|note20220410}}。テレビ番組出演の依頼まであったが、長女の学校に影響を配慮し、辞退したという{{R|note20220410}}。 第1話で、長女がたこ焼きを食べながら、義父である渡辺を信頼しきって寄りかかり、渡辺がそれに幸福を感じる場面がある{{R|ウォーカープラス20221219|文春20210503}}{{Efn2|name=note}}。渡辺自身はこれについて、「あの行動も感情も一切、嘘はない」「実際にあったこと」というが、子育て漫画を描くという手段は禁じ手とし、敢えて涙を誘うような安直な表現は避けたいと考えていた{{R|NewsCrunch20220618_p2}}。そのために、「それを踏み越えたら後戻りできない」という気持ちで、現状を打破するため、断腸の思いで描いたといい{{R|NewsCrunch20220618_p2}}、「描いていて恥ずかしかった」とも語っている{{R|文春20220616_p1}}。そうした渡辺の考えとは裏腹に、その場面は編集者と読者、両方の好評を得た{{R|NewsCrunch20220618_p2}}。 第8話で、長女がふざけて渡辺の頬を叩き、渡辺があまりの痛さと驚きで反射的に長女を叩き返し、長女を諭した後でも「暴力、体罰、虐待」と反省する場面が登場する{{R|父娘ぐらし20220428_p73}}。渡辺によれば、このエピソードの閲覧数も大変な数であり、「普通だったら逃げて描かないところを、あえて描いてる」との声もあったという{{R|文春20220616_p2}}。 先述の、長女が渡辺の手作りの弁当を「まずかった」と言いつつも「パパのお弁当がいい」と言った場面で「涙した」との声や{{R|ウォーカープラス20221219}}、「飾らない会話が染みた{{R|ウォーカープラス20221219}}」、「読んでいて温かい気持ちになるエピソードが多い{{R|CHANTOWEB20220630_p3}}」などの声が寄せられている。 一方で、渡辺は本作以前には、下ネタを始めとする不道徳なギャグ漫画を得意としていたため、前からのファンには「いつになったらバカなこと描くんだ」との意見が寄せられている{{R|文春20220616_p2}}。本作発表以降にTwitterで新たなフォロワーとなるのは、そうした渡辺の作風を知らないため本作の読者ばかりであり、「もっと父娘の話を」と希望されていることから、ファンが二極化したと感じているという{{R|文春20220616_p2}}。 === 漫画関係者や評論家による評価 === KADOKAWAの担当編集者は、子供の言動のかわいさ、子育てにまつわる悲喜など、育児漫画の王道的な表現以に、50代にして突然小学生の娘ができるという人生の変容が、率直かつ正直に描かれ、それでいて非常にユーモラスに表現されていることの、新鮮さを評価している{{R|BOOKウォッチ20220428}}。 漫画解説者である[[新保信長]]は、どちらかといえば不審者のイメージのあった中年期の渡辺が、子供の送り迎え、弁当作り、[[公園デビュー]]と、それまに比べて異世界ともいえる育児の世界に飛び込んでいく描写について、その勇気と適応力に敬意を表している{{R|フリースタイル20220710_p28}}。 フリーライターの[[とみさわ昭仁]]は、それまで下品な作品を多く著していた渡辺の絵柄が、育児を描いたエッセイに合っている様に予想外の喜びを表すと共に、慣れない育児の戸惑いと喜びが交互に訪れる描写の微笑ましさ、思わず長女に手をあげるなど、ともすれば批判を浴びかねないことも包み隠さずに描いている誠実さを評価している{{R|フリースタイル20220710_p33}}。 漫画原作者・評論家である[[大塚英志]]は、渡辺と出逢う前の長女が、ずっとゲームばかりの生活だったことを指して、長女にとってそれまではゲームが自身の世界を大きく占めており、新たな父親である渡辺は、現実感を担保してくれる大人の存在、現実の所在を実感させる存在であり、本作を長女の世界が開かれる物語と解釈している{{R|週刊ポスト20221219_p99}}。また大塚は、長女が虐めに遭うエピソードにおいて、渡辺が虐めっ子の孤立に気づき、その虐めっ子を友達の仲間に引き入れるエピソードを指し{{R|note20221106}}{{Efn2|単行本には収録されていない{{R|週刊ポスト20221219_p99}}(2023年9月8日現在)。}}、当り前の関わり方を実直に描いていることし、「育児まんがというよりもっと普遍的な、今読まれるべき作品」と評価している{{R|週刊ポスト20221219_p99}}。 漫画編集者の[[浅田貴典]]は、ギャグ漫画を多く手がけた渡辺ならではの、観察力の鋭さ、日常を面白く描ける力量を評価している{{R|UOMO20220625_p142}}。また、こうした育児漫画は、読者に対して育児の負担や苦労の理解を求め、共感や泣きを誘う内容になりやすいところが、本作では渡辺が、自身の失敗や苦悩を消化して引きずらず、自己解決して、常に飄々としている姿に対し、「私の理想のお父さんのヒーロー像」と語っている{{R|UOMO20220625_p142}}。 == 書誌情報 == * [[渡辺電機(株)]] 『父娘ぐらし 55歳独身マンガ家が8歳の娘の父親になる話』 [[KADOKAWA]]、既刊1巻(2023年9月8日現在) *# 2022年4月28日発行(2022年4月28日発売{{R|KADOKAWA2022}}){{ISBN2|978-4-04-681397-8}}{{Anchors|CITEREF渡辺2022}} == 脚注 == === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|30em|refs= <ref name="UOMO20220625_p142">{{Harvnb|浅田|2022|p=142}}</ref> <ref 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|title=「父娘ぐらし 55歳独身マンガ家が8歳の娘の父親になる話」渡辺電機(株)|accessdate=2023-9-8|date=2022|publisher=KADOKAWA}}</ref> <ref name="NewsCrunch20220618_p1">{{Cite web|和書|url=https://wanibooks-newscrunch.com/articles/-/3219 |title=55歳独身マンガ家が8歳の娘の父親となって生きていくために決意したこと|accessdate=2023-9-8|date=2022-6-18|page=1|website=NewsCrunch|publisher=[[ワニブックス]]}}</ref> <ref name="NewsCrunch20220618_p2">{{Cite web|和書|url=https://wanibooks-newscrunch.com/articles/-/3219?page=2 |title=55歳独身マンガ家が8歳の娘の父親となって生きていくために決意したこと|accessdate=2023-9-8|date=2022-6-18|page=2|website=NewsCrunch}}</ref> <ref name="NewsCrunch20220619_p1">{{Cite web|和書|url=https://wanibooks-newscrunch.com/articles/-/3220 |title=「売れない漫画家はいらない」と言われた渡辺電機(株)の土壇場な日々|accessdate=2023-9-8|date=2022-6-19|page=1|website=NewsCrunch}}</ref> <ref name="NewsCrunch20220619_p2">{{Cite web|和書|url=https://wanibooks-newscrunch.com/articles/-/3220?page=2 |title=「売れない漫画家はいらない」と言われた渡辺電機(株)の土壇場な日々|accessdate=2023-9-8|date=2022-6-19|page=2|website=NewsCrunch}}</ref> <ref name="note20220410">{{Cite web|和書|url=https://note.com/w_denki/n/ne8d46579dccc?magazine_key=mf564b3492b5a |title=単行本「父娘ぐらし」発売までの道のり|accessdate=2023-9-8|author=[[渡辺電機(株)]]|date=2022-4-10|website=[[note (配信サイト)|note]]|publisher=note株式会社}}</ref> <ref name="note20210131">{{Cite web|和書|url=https://note.com/w_denki/n/nee80f6b8abeb?magazine_key=mf564b3492b5a |title=父子家庭はじめました 第1話|accessdate=2023-9-8|author=渡辺電機(株)|date=2021-1-31|website=note}}</ref> <ref name="note20210325">{{Cite web|和書|url=https://note.com/w_denki/n/n3aa9ca87ebfa?magazine_key=mf564b3492b5a |title=父子家庭はじめました 第3話|accessdate=2023-9-8|author=渡辺電機(株)|date=2021-3-25|website=note}}</ref> <ref name="note20221106">{{Cite web|和書|url=https://note.com/w_denki/n/nba53b9563491?magazine_key=mf564b3492b5a |title=父子家庭はじめました 第3話|accessdate=2023-9-8|author=渡辺電機(株)|date=2022-11-6|website=note}}</ref> <ref name="ウォーカープラス20221219">{{Cite web|和書|url=https://www.walkerplus.com/article/1114204/ |title=【いきなり父娘】55歳独身男性が8歳の娘のパパに!? 2人暮らしで生活は一変! ワケあって父子家庭はじめました【作者に聞いた】|accessdate=2023-9-8|date=2022-12-19|website=[[ウォーカープラス]]|publisher=[[KADOKAWA]]}}</ref> <ref name="ウォーカープラス20230315">{{Cite web|和書|url=https://www.walkerplus.com/article/1122162/ |title=息子が成人する時“76歳!?”還暦で3歳児の子育て中! ペンより重いものを持ったことないのに…パパの育児奮闘記【漫画家に聞いた】|accessdate=2023-9-8|date=2023-3-15|website=ウォーカープラス}}</ref> <ref name="文春20210503">{{Cite web|和書|url= https://bunshun.jp/articles/-/44983 |title=55歳漫画家に、突然小学生の娘ができて…「おれは全くわかっていなかった」初めての父子生活の顛末|accessdate=2023-9-8|date=2021-5-3|website=[[文春オンライン]]|publisher=[[文藝春秋]]}}</ref> <ref name="文春20220616_p1">{{Cite web|和書|url= https://bunshun.jp/articles/-/55006 |title=ふざけてビンタしてくる子どもについ、カッとなって…55歳で突然、小学生の娘ができたギャグ漫画家におとずれた“試練”|accessdate=2023-9-8|author=平田裕介|date=2022-6-16|page=1|website=文春オンライン}}</ref> <ref name="文春20220616_p2">{{Cite web|和書|url= https://bunshun.jp/articles/-/55006?page=2 |title=ふざけてビンタしてくる子どもについ、カッとなって…55歳で突然、小学生の娘ができたギャグ漫画家におとずれた“試練”|accessdate=2023-9-8|author=平田裕介|date=2022-6-16|page=2|website=文春オンライン}}</ref> <ref name="文春20220616_p3">{{Cite web|和書|url=https://bunshun.jp/articles/-/55009 |title=「俺のグチャグチャ弁当よりはマシだろう」とランチパックを持たせたら…55歳・新米パパの心に突き刺さった娘の“一言”|accessdate=2023-9-8|author=平田裕介|date=2022-6-16|page=3|website=文春オンライン}}</ref> }} == 参考文献 == * {{Cite journal|和書|author=浅田貴典|authorlink=浅田貴典|date=2022-6-25|title=COMIC マンガ編集者を唸らせるこのIPPON|journal=UOMO|volume=18|issue=7|page=142|publisher=[[集英社]]|id={{全国書誌番号|01008353}}|ref={{SfnRef|浅田|2022}}}} * {{Cite journal|和書|author=大塚英志他|authorlink=大塚英志|date=2022-12-19|title=POST Book Review この人に訊け! 拡大版スペシャル 激動の2022年を振り返る「この1冊」|journal=[[週刊ポスト]]|volume=55|issue=1|pages=97-104|publisher=[[小学館]]|crid=1520857623357102464|id={{OYALIB|000069566}}|ref={{SfnRef|大塚|2022}}}} * {{Cite book|和書|title=フリースタイル|date=2022-7-10|publisher=[[フリースタイル (出版社)|フリースタイル]]|volume=52|isbn=978-4-86731-106-6|ref={{SfnRef|フリースタイル|2022}}}} 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虎尾ハルシア
虎尾ハルシア(とらお はるしあ、1902年〈明治35年〉3月20日 - 1991年〈平成3年〉3月4日)はアイヌの口承文芸ユカㇻとウエペケレの伝承者。 北海道静内郡静内町(現在の日高郡新ひだか町)農屋(旧ノヤサルコタン)のオプスケ川の近くで生まれ育つ。父・虎尾桃太郞(とうたろう、アイヌ名イコルパ)はハルシアが4歳の時に亡くなり、その後は母ムメ(アイヌ名シケヌカラ)に育てられた。父方の祖父は南部衆であり、母方の祖母である福島タノペトからウェペケレを伝えられている。9歳の時に学校へ通ったが、一年も行かなかったという。15~16歳の頃に畑作や道路工事の日雇いで働くようになり、川船で船を漕いだり、鱒漁の網を馬で引いたりできるようになった。21歳で豊畑の其浦島太郎と結婚し、子育てをしながら山子や流送、積み込みの仕事で生計を支えた。 1977年からアイヌ民族博物館の前身である白老民族伝承保存財団に招かれ、伝承活動と記録保存の仕事に従事している。残された音声資料・記録の中には其浦ハル(ハルシア)という名前で紹介されているものもある。1984年には北海道文化財保護功労者として表彰された。 国立アイヌ民族博物館アイヌ語アーカイブには、延べ129件の音声資料が公開されている。(、)
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虎尾ハルシアはアイヌの口承文芸ユカㇻとウエペケレの伝承者。
'''虎尾ハルシア'''(とらお はるしあ{{Efn|幼少期はハルと名乗っていたが、彼女の身体が弱いのを気遣った伯父によりシア(アイヌ語で「ウンチが座る」)をつけることにした、という話がある。わざと汚い名をつけることにより病気の神を遠ざける、というアイヌ古来の考え方からである<ref>{{Cite book|和書|author=志賀雪湖・編|year=2001|title=虎尾ハルの伝承 鳥|publisher=財団法人アイヌ民族博物館|pages=viii}}</ref>。}}、[[1902年]]〈明治35年〉[[3月20日]] - [[1991年]]〈平成3年〉[[3月4日]])は[[アイヌ]]の口承文芸[[ユカㇻ]]と[[ウエペケレ]]の伝承者。 ==経歴== [[北海道]][[静内郡]][[静内町]](現在の[[日高郡 (北海道)|日高郡]][[新ひだか町]])農屋(旧ノヤサㇽコタン)のオプスケ川の近くで生まれ育つ{{Efn|nupka生まれとも述べている<ref>{{Cite book|和書|author=北海道教育庁社会教育部文化課・編|year=1980|title=昭和54年度 アイヌ民俗文化財/緊急報告書|publisher=北海道教育委員会|pages=63}}</ref>。}}。父・虎尾桃太郞(とうたろう、アイヌ名イコㇽパ)はハルシアが4歳の時に亡くなり、その後は母ムメ(アイヌ名シケヌカㇻ)に育てられた。父方の祖父は南部衆であり<ref>{{Cite book|和書|author=北海道教育庁社会教育部文化課・編|year=1980|title=昭和54年度 アイヌ民俗文化財/緊急報告書|publisher=北海道教育委員会|pages=63}}</ref>、母方の祖母である福島タノペトからウエペケㇾを伝えられている<ref>{{Cite book|和書|author=志賀雪湖・編|year=1985|title=アイヌの民話2|publisher=(財)アイヌ無形文化伝承保存会|pages=37}}</ref>。9歳の時に学校へ通ったが、一年も行かなかったという。15~16歳の頃に畑作や道路工事の日雇いで働くようになり、川船で船を漕いだり、鱒漁の網を馬で引いたりできるようになった。21歳で豊畑の其浦島太郎と結婚し、子育てをしながら山子や流送、積み込みの仕事で生計を支えた<ref>{{Cite book|和書|author=岡田路明・編|year=1983|title=エカシとフチ|publisher=札幌テレビ放送株式会社|pages=286-290}}</ref>。 1977年から[[アイヌ民族博物館]]の前身である白老民族伝承保存財団に招かれ、伝承活動と記録保存の仕事に従事している。残された音声資料・記録の中には其浦ハル(ハルシア)という名前で紹介されているものもある。1984年には北海道文化財保護功労者として表彰された<ref>{{Cite book|和書|author=社団法人北海道ウタリ協会・編|year=1985|title=先駆者の集い 合本復刻|publisher=社団法人北海道ウタリ協会|pages=40}}</ref>。 国立アイヌ民族博物館アイヌ語アーカイブには、延べ129件の音声資料が公開されている。([https://ainugo.nam.go.jp/search/media?matCd=&keyword=&person=...&dialect=&collection=&typeCont=on/2022/06/02]、[https://ainugo.nam.go.jp/search/media?matCd=&keyword=%28%E3%82%A2%2F%E6%97%A5%29&person=...&dialect=&collection=&typeAudio=on]) ==注釈== {{Notelist}} == 脚注 == <references/> {{デフォルトソート:とらお はるしあ}} [[Category:1902年生]] [[Category:1991年没]] [[Category:北海道出身の人物]] [[Category:アイヌ]]
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児玉久蔵
児玉 久蔵(こだま ひさぞう、1898年(明治31年)9月2日 - 1962年(昭和37年)12月3日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 1898年(明治31年)に宮城県で生まれた。陸軍士官学校第31期、陸軍大学校第44期卒業。1939年(昭和14年)8月に第8師団参謀長に就任し、1940年(昭和15年)3月9日、陸軍歩兵大佐進級と同時に陸軍省兵務局兵務課長に着任。1943年(昭和18年)12月に兼陸軍省兵務局馬政課長となった。 1944年(昭和19年)3月1日に陸軍少将に進級し、陸軍兵器行政本部附兼陸軍省兵務局兵務課長(兼陸軍省兵務局馬政課長如故)となった。同年6月26日に陸軍航空総監部附となり、8月30日に仙台陸軍飛行学校附を経て、1945年(昭和20年)2月20日に仙台陸軍飛行学校長に就任した。終戦後の8月27日に中部憲兵隊京都地区憲兵隊長に就任した。
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児玉 久蔵は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。
{{基礎情報 軍人 | 氏名 = 児玉 久蔵 | 各国語表記 = | 生年月日 = [[1898年]][[9月2日]] | 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1898|9|2|1962|12|3}} | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | 渾名 = | 生誕地 = {{JPN}} [[宮城県]] | 死没地 = | 所属組織 = {{IJARMY}} | 軍歴 = [[1919年]] - [[1945年]] | 最終階級 = [[File:帝國陸軍の階級―肩章―少将.svg|35px]] [[少将|陸軍少将]] | 除隊後 = | 墓所 = | 署名 = }} '''児玉 久蔵'''(こだま ひさぞう、[[1898年]]([[明治]]31年)[[9月2日]]{{sfn|福川|2001|loc=305頁|ref=shokan}} - [[1962年]]([[昭和]]37年)[[12月3日]]{{sfn|福川|2001|loc=305頁|ref=shokan}})は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。[[金鵄勲章|功四級]]{{sfn|外山|1981|loc=431頁|ref=jinji}}。 == 経歴 == [[1898年]](明治31年)に[[宮城県]]で生まれた{{sfn|福川|2001|loc=305頁|ref=shokan}}。[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]第31期、[[陸軍大学校]]第44期卒業{{sfn|福川|2001|loc=305頁|ref=shokan}}。[[1939年]](昭和14年)8月に[[第8師団 (日本軍)|第8師団]]参謀長に就任し{{sfn|外山|1981|loc=431頁|ref=jinji}}、[[1940年]](昭和15年)[[3月9日]]、[[大佐|陸軍歩兵大佐]]進級と同時に[[陸軍省#兵務局|陸軍省兵務局]]兵務課長に着任{{sfn|外山|1981|loc=431頁|ref=jinji}}。[[1943年]](昭和18年)12月に兼陸軍省兵務局馬政課長となった{{sfn|外山|1981|loc=431頁|ref=jinji}}。 [[1944年]](昭和19年)[[3月1日]]に陸軍少将に進級し{{sfn|外山|1981|loc=431頁|ref=jinji}}、[[陸軍兵器行政本部]]附兼陸軍省兵務局兵務課長(兼陸軍省兵務局馬政課長如故)となった<ref>{{アジア歴史資料センター|C12120903800|第38号 昭和19年3月1日 陸軍異動通報}}</ref>。同年[[6月26日]]に[[陸軍航空総監部]]附となり<ref>{{アジア歴史資料センター|C12120912400|第121号 昭和19年6月27日 陸軍異動通報}}</ref>、[[8月30日]]に[[仙台陸軍飛行学校]]附を経て{{sfn|福川|2001|loc=305頁|ref=shokan}}、[[1945年]](昭和20年)[[2月20日]]に仙台陸軍飛行学校長に就任した{{sfn|福川|2001|loc=305頁|ref=shokan}}。終戦後の[[8月27日]]に中部憲兵隊京都地区憲兵隊長に就任した<ref>{{アジア歴史資料センター|C12120963200|第1号 昭和20年8月31日 陸軍異動通報}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} ==参考文献== * {{Citation|和書|author = 福川秀樹 編著|authorlink = | translator = | title = 日本陸軍将官辞典| publisher = 芙蓉書房出版| series = | volume = | edition = | date = 2001| pages = | url = | doi = | id = | isbn = 4829502738| ncid = |ref = shokan}} * {{Citation|和書|author = 外山操 編|authorlink = | translator = | title = 陸海軍将官人事総覧 陸軍篇| publisher = 芙蓉書房出版| series = | volume = | edition = | date = 1981| pages = | url = | doi = | id = | isbn = 4829500026| ncid = |ref = jinji}} {{DEFAULTSORT:こたま ひさそう}} [[Category:大日本帝国陸軍少将]] [[Category:陸軍士官学校 (日本)出身の人物]] [[Category:陸軍大学校出身の人物]] [[Category:功四級金鵄勲章受章者]] [[Category:太平洋戦争の人物]] [[Category:宮城県出身の人物]] [[Category:1898年生]] [[Category:1962年没]]
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岩佐哲也
岩佐 哲也(いわさ てつや、1965年〈昭和40年〉9月25日 - )は、日本の総務官僚。 長崎県長崎市出身。青雲高等学校を経て、1990年(平成2年)、東京大学工学部を卒業。同年4月、総務庁に入庁。 入庁後、人事行政、統計、青少年対策、男女共同参画、規制改革、電子政府などの行政分野に携わり、統計局統計調査部経済統計課長、同局統計調査部経済基本構造統計課長、同局統計調査部国勢統計課長、総務省大臣官房総務課参事官、統計局総務課長、同局統計作成支援課長、同局事業所情報管理課長などを歴任。2011年(平成23年)から4年間に渡って国勢調査を担当。当時スマートフォンの普及やオートロックマンションの増加を受け、オンライン調査を導入することとなり、岩佐は導入に向けた関係各所への説明などに対応した。 2019年(令和元年)7月5日、総務省大臣官房審議官(統計局、統計基準、統計情報戦略推進担当)兼統計改革実行推進室長に就任。 2021年(令和3年)7月1日、統計局統計調査部長に就任。 2023年(令和5年)7月7日、統計局長に就任。
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岩佐 哲也は、日本の総務官僚。
{{官僚 | 人名 = 岩佐 哲也 | 各国語表記 = いわさ てつや | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | 国略称 = {{JPN}} | 生年月日 = {{生年月日と年齢|1965|09|25}}{{sfn|政官要覧社|2023|loc=825頁|ref=政官要覧2023}} | 出生地 = {{JPN}}・[[長崎県]][[長崎市]]<ref name="毎日151110">{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20151109/org/00m/010/051000c|title=毎日フォーラム・霞が関ふるさと記 長崎|date=2015-11-10|accessdate=2023-09-07|newspaper=[[毎日新聞デジタル]]|publisher=[[毎日新聞社]]}}</ref> | 没年月日 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}} --> | 死没地 = | 出身校 = [[青雲中学校・高等学校|青雲高等学校]]<ref name="毎日151110"/><br/>[[東京大学]]<ref name="日経230630">{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA29AS30Z20C23A6000000/|title=総務省事務次官に内藤尚志氏 総務審議官は堀江宏之氏|date=2023-06-30|accessdate=2023-09-08|newspaper=[[日本経済新聞]]電子版|publisher=[[日本経済新聞社]]}}</ref> | 前職 = | 現職 = | 所属政党 = | 称号・勲章 = | 配偶者 = | 子女 = | 親族(政治家) = | サイン = | ウェブサイト = | サイトタイトル = | 国旗 = JPN | 職名 = [[総務省]][[統計局#歴代局長|統計局長]] | 就任日 = [[2023年]][[7月7日]]<ref name="日経230630"/><ref name="総務人事230707">{{Cite press release|title=令和5年7月7日付 総務省人事|publisher=総務省大臣官房秘書課|date=2023-06-30|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000890077.pdf|accessdate=2023-09-08}}</ref> | 退任日 = 現職 }} '''岩佐 哲也'''(いわさ てつや、[[1965年]]〈[[昭和]]40年〉[[9月25日]]{{sfn|政官要覧社|2023|loc=825頁|ref=政官要覧2023}} - )は、[[日本]]の[[総務省|総務]][[官僚]]。 == 来歴 == [[長崎県]][[長崎市]]出身<ref name="毎日151110"/>。[[青雲中学校・高等学校|青雲高等学校]]を経て<ref name="毎日151110"/>、[[1990年]]([[平成]]2年)、[[東京大学大学院工学系研究科・工学部|東京大学工学部]]を卒業<ref name="日経230630"/>。同年4月、[[総務庁]]に入庁<ref name="先輩メッセージ29">{{Cite press release|title=先輩からのメッセージ(平成29年度版) ピンチをチャンスに!|publisher=総務省大臣官房秘書課|pages=7-8|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000485135.pdf|accessdate=2023-09-05}}</ref>。 入庁後、人事行政、[[統計]]、[[青年|青少年対策]]、[[男女共同参画社会|男女共同参画]]、[[規制改革]]、[[電子政府]]などの行政分野に携わり<ref name="先輩メッセージ29"/>、[[統計局]]統計調査部経済統計課長<ref name="先輩メッセージ29"/>、同局統計調査部経済基本構造統計課長<ref name="先輩メッセージ29"/>、同局統計調査部国勢統計課長<ref name="先輩メッセージ29"/>、[[総務省大臣官房]]総務課[[参事官]]<ref name="先輩メッセージ29"/>、統計局総務課長<ref name="日経170401">{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASKJ31H07_R30C17A3EE8000/|title=人事、総務省|date=2017-04-01|accessdate=2023-09-08|newspaper=日本経済新聞電子版|publisher=日本経済新聞社}}</ref><ref name="総務人事170401">{{Cite press release|title=総務省人事(4月1日付)|publisher=総務省大臣官房秘書課|date=2017-04-01|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000476882.pdf|accessdate=2023-09-08}}</ref>、同局統計作成支援課長<ref name="総務人事170401"/>、同局事業所情報管理課長<ref name="日経190401">{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO43125430Z20C19A3905M00/|title=人事、総務省|date=2019-04-01|accessdate=2023-09-08|newspaper=日本経済新聞電子版|publisher=日本経済新聞社}}</ref><ref name="総務人事190401">{{Cite press release|title=総務省人事(4月1日付)|publisher=総務省大臣官房秘書課|date=2019-04-01|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000610885.pdf|accessdate=2023-09-08}}</ref>などを歴任。[[2011年]](平成23年)から4年間に渡って[[国勢調査]]を担当<ref name="先輩メッセージ29"/>。当時[[スマートフォン]]の普及や[[オートロック#マンションのオートロック|オートロックマンション]]の増加を受け、オンライン調査を導入することとなり、岩佐は導入に向けた関係各所への説明などに対応した<ref name="先輩メッセージ29"/>。 [[2019年]]([[令和]]元年)[[7月5日]]、総務省大臣官房[[審議官#大臣(長官)官房審議官|審議官]](統計局、統計基準、統計情報戦略推進担当)兼統計改革実行推進室長に就任<ref name="日経190702">{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO46876940S9A700C1905M00/|title=人事、総務省|date=2019-07-02|accessdate=2023-09-08|newspaper=日本経済新聞電子版|publisher=日本経済新聞社}}</ref><ref name="総務人事190705">{{Cite press release|title=令和元年7月5日付 総務省人事|publisher=総務省大臣官房秘書課|date=2019-07-05|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000631258.pdf|accessdate=2023-09-08}}</ref>。 [[2021年]](令和3年)[[7月1日]]、統計局統計調査部長に就任<ref name="日経210626">{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOH1255S90V20C21A6000000/|title=人事、総務省|date=2021-06-26|accessdate=2023-09-08|newspaper=日本経済新聞電子版|publisher=日本経済新聞社}}</ref><ref name="総務人事210701">{{Cite press release|title=令和3年7月1日付 総務省人事|publisher=総務省大臣官房秘書課|date=2021-06-25|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000756969.pdf|accessdate=2023-09-08}}</ref>。 [[2023年]](令和5年)[[7月7日]]、統計局長に就任<ref name="日経230630"/><ref name="総務人事230707"/>。 == 年譜 == * 1990年(平成2年) ** 東京大学工学部卒業<ref name="日経230630"/> ** 4月 - 総務庁入庁<ref name="先輩メッセージ29"/> * [[1991年]](平成3年)4月 - 総務庁人事局企画調整課 * [[1993年]](平成5年)4月 - 総務庁統計局統計情報課 * [[1995年]](平成7年)4月 - [[総理府]]官房総務課 * [[1997年]](平成9年)6月 - 総務庁青少年対策本部参事官補佐 * [[1999年]](平成11年)12月 - 総務庁青少年対策本部企画調整課(総括) * [[2001年]](平成13年)1月 - [[内閣府]][[男女共同参画局]]課長補佐(総括) * [[2002年]](平成14年)7月 - 総務省[[行政管理局]]行政情報システム企画課課長補佐 * [[2005年]](平成17年)8月 - [[内閣府]]規制改革・民間開放推進室企画官 * [[2007年]](平成19年)7月 - 総務省大臣官房企画課企画官 * [[2009年]](平成21年) ** 1月 - 総務省統計局統計調査部経済統計課長<ref name="先輩メッセージ29"/> ** 4月 - 総務省統計局統計調査部経済基本構造統計課長<ref name="先輩メッセージ29"/> * [[2012年]](平成24年)4月 - 総務省統計局統計調査部国勢統計課長<ref name="先輩メッセージ29"/> * [[2016年]](平成28年)6月 - 総務省大臣官房総務課参事官<ref name="先輩メッセージ29"/> * [[2017年]](平成29年)4月 - 総務省統計局総務課長兼統計作成支援課長<ref name="日経170401"/><ref name="総務人事170401"/> * 2019年(平成31年/令和元年) ** 4月 - 総務省統計局事業所情報管理課長<ref name="日経190401"/><ref name="総務人事190401"/> ** 7月 - 総務省大臣官房審議官(統計局、統計基準、統計情報戦略推進担当)兼統計改革実行推進室長<ref name="日経190702"/><ref name="総務人事190705"/> * 2021年(令和3年)7月 - 総務省統計局統計調査部長<ref name="日経210626"/><ref name="総務人事210701"/> * 2023年(令和5年)7月 - 総務省統計局長<ref name="日経230630"/><ref name="総務人事230707"/> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Citation|和書| title = 政官要覧 令和5年春号| publisher = 政官要覧社| date = 2023-03-07|ref = 政官要覧2023}} == 外部リンク == * {{Facebook|tetsuya.iwasa.73}} {{S-start}} {{S-gov}} {{Succession box |title = {{Flagicon|JPN}} [[総務省]][[統計局#歴代局長|統計局長]] |years = 2023年 - |before = [[井上卓 (総務官僚)|井上卓]] |after = 現職 }} {{S-end}} {{デフォルトソート:いわさ てつや}} [[Category:日本の総務官僚]] [[Category:東京大学出身の人物]] [[Category:長崎県出身の人物]] [[Category:1965年生]] [[Category:存命人物]]
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山下奈々 (ボクサー)
山下 奈々(やました なな、1998年3月2日 - )は、日本の女子プロボクサー。長野県飯田市出身。立教大学卒業。階級はバンタム級。RE:BOOT.IBA BOXING GYM所属。 ニュージーランドの高校に留学した際にキックボクシングジムに通い、帰国後に大学在学中総合格闘技ジムで受け付けのアルバイトをしていた際に井上尚弥や那須川天心らのカットマンとして知られる永末ニック貴之と出会い、ボクシングの世界に誘われる。 2021年5月28日、後楽園ホールにて椙元愛(一力)戦でプロデビューし2回TKO勝利。 2021年9月9日、伊藤沙莉(花形)に1回TKO負けを喫し、2戦目で初黒星。 2022年6月12日、アリーナ立川立飛にて柳尾美佳(花形)を3-0の判定で降し2勝目。 2022年12月1日、樋口藍(ARITOMI)を3-0の判定で降し3勝目。 2023年3月24日、初の6回戦として椙元愛との再戦を4回TKO勝利。 2023年4月15日、エディオンアリーナ大阪第2競技場にて赤林檎(真正)が日本女子バンタム級王座を獲得した試合直後にリングに上がりタイトル挑戦を直訴した。 2023年8月4日、WBO女子世界スーパーフライ級王者晝田瑞希(三迫)のデビュー戦の相手だった山家七恵(EBISU K's BOX)とエキシビション。 2023年9月27日の「VICTRIVA vol.13」にて赤の国内引退により空位となった日本バンタム級王座決定戦として赤の元同門柳井妃奈実と対戦。しかし、1-2判定で2年ぶりの敗戦を喫しプロ初タイトルならず。
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山下 奈々は、日本の女子プロボクサー。長野県飯田市出身。立教大学卒業。階級はバンタム級。RE:BOOT.IBA BOXING GYM所属。
{{複数の問題 |特筆性=2023年9月8日 (金) 13:29 (UTC)|分野=人物 |存命人物の出典明記=2023年9月8日 (金) 13:29 (UTC) }} {{Boxing statsbox |name=山下 奈々 |image= |realname=山下 奈々<br />(やました なな) |nickname= |height=161cm |weight=[[バンタム級]] |nationality={{JPN}} |birth_date={{生年月日と年齢|1998|3|2}} |birth_place={{Flag|長野県}}[[飯田市]] |death_date= |death_place= |style=オーソドックス |total=6 |wins=4 |KO=2 |losses=2 |draws= |no contests= |}} '''山下 奈々'''(やました なな、[[1998年]][[3月2日]] - )は、日本の女子[[プロボクサー]]。[[長野県]][[飯田市]]出身。[[立教大学]]卒業。階級は[[バンタム級]]。RE:BOOT BOXING GYM所属。 == 来歴 == [[ニュージーランド]]の高校に留学した際にキックボクシングジムに通い、帰国後に大学在学中総合格闘技ジムで受け付けのアルバイトをしていた際に[[井上尚弥]]や[[那須川天心]]らのカットマンとして知られる永末ニック貴之と出会い、ボクシングの世界に誘われる<ref>[https://twitter.com/BoxingDangan/status/1706277798846083547 DANGANのXより]</ref>。 2021年5月28日、[[後楽園ホール]]にて椙元愛(一力)戦でプロデビューし2回TKO勝利。 2021年9月9日、伊藤沙莉([[花形ボクシングジム|花形]])に1回TKO負けを喫し、2戦目で初黒星。 2022年6月12日、[[アリーナ立川立飛]]にて柳尾美佳(花形)を3-0の判定で降し2勝目。 2022年12月1日、樋口藍(ARITOMI)を3-0の判定で降し3勝目。 2023年3月24日、初の6回戦として椙元愛との再戦を4回TKO勝利。 2023年4月15日、[[大阪府立体育会館|エディオンアリーナ大阪]]第2競技場にて[[赤林檎]]([[真正ボクシングジム|真正]])が日本女子[[バンタム級]]王座を獲得した試合直後にリングに上がりタイトル挑戦を直訴した<ref>{{Cite news |title=ボクシング・赤林檎が日本女子王座奪取 世界王者・晝田に挑戦状 格闘技から転向で天心に刺激 |url=https://www.daily.co.jp/ring/2023/04/15/0016247800.shtml |newspaper=デイリースポーツ |date=2023-04-15 |accessdate=2023-09-08 }}</ref>。 2023年8月4日、[[世界ボクシング機構|WBO]]女子世界[[スーパーフライ級]]王者[[晝田瑞希]]([[三迫ボクシングジム|三迫]])のデビュー戦の相手だった山家七恵([[加山利治|EBISU K's BOX]])とエキシビション。 2023年9月27日の「VICTRIVA vol.13」にて赤の国内引退により空位となった日本バンタム級王座決定戦として赤の元同門[[柳井妃奈実]]と対戦<ref>{{Cite web |url=https://boxmob.jp/sp/schedule/index.html?sid=6901&s=1 |title=VICTRIVA vol.13 |work=ボクシングモバイル |accessdate=2023-09-08 }}</ref>。しかし、1-2判定で2年ぶりの敗戦を喫しプロ初タイトルならず<ref>{{Cite news |title=女子興行 桺井妃奈実が日本バンタム級新王者、狩野ほのか日本アトム級初防衛 |url=https://boxingnews.jp/news/103211/ |newspaper=BOXING NEWS |date=2023-09-27 |accessdate=2023-09-28 }}</ref>。 == 戦績 == *プロボクシング:6戦 4勝 2KO 2敗 {{Fightstatstop}} {{Fightstatscont|1|2021年5月28日|{{Yes2}}☆|2R 1:10|TKO|椙元愛 (一力)|{{JPN}}|プロデビュー戦}} {{Fightstatscont|2|2021年9月9日|{{No2}}★|1R 0:40|TKO|伊藤沙莉 ([[花形ボクシングジム|花形]])|{{JPN}}|}} {{Fightstatscont|3|2022年6月12日|{{Yes2}}☆|4R|判定3-0|柳尾美佳 (花形)|{{JPN}}|}} {{Fightstatscont|4|2022年12月1日|{{Yes2}}☆|4R|判定3-0|樋口藍 (ARITOMI)|{{JPN}}|}} {{Fightstatscont|5|2023年3月24日|{{Yes2}}☆|4R 1:54|TKO|椙元愛 (一力)|{{JPN}}|}} {{Fightstatscont|6|2023年9月27日|{{No2}}★|6R|判定1-2|[[柳井妃奈実]] ([[真正ボクシングジム|真正]])|{{JPN}}|日本女子バンタム級王座決定戦}} {{Fightstatsbottom}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == *[[女子ボクサー一覧]] *[[長野県出身の人物一覧]] *[[立教大学の人物一覧]] == 外部リンク == * [https://www.ibagym.net/ RE:BOOT.IBA BOXING GYM] * [https://yamashitanana.boxing-ticket.com/ ボクシングチケットドットコム] * * {{Instagram|nana.y.m.s.t}} * {{Boxrec|id=1019534}} {{DEFAULTSORT:やました なな}} [[Category:日本の女子ボクサー]] [[Category:立教大学出身の人物]] [[Category:長野県出身のスポーツ選手]] [[Category:1998年生]] [[Category:存命人物]]
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佐瀬真人
佐瀬 真人(させ まさと、1976年4月5日 - )は、日本のコンサルタント、実業家。デロイトトーマツコンサルティング代表執行役社長。 2000年3月に慶應義塾大学環境情報学部を卒業し、同年4月、デロイトトーマツコンサルティング合同会社に入社。2008年7月、同社の執行役員に就任し、2018年6月、CSO(最高戦略責任者)および経営会議メンバーに就任した後、2019年6月、代表執行役社長に就任(現任)。製造業を中心に事業戦略立案、マーケティング戦略立案、技術戦略立案、組織・プロセス設計に関するコンサルティングに従事。特に自動車業界においては自動車メーカー、自動車部品サプライヤー、販社・ディーラーの領域をカバーする経験を持つ。
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佐瀬 真人は、日本のコンサルタント、実業家。デロイトトーマツコンサルティング代表執行役社長。
{{存命人物の出典明記|date=2023年9月15日 (金) 18:49 (UTC)}} {{Infobox 人物 |氏名=佐瀬 真人 |ふりがな=させ まさと |画像サイズ= |画像説明= |生年月日={{生年月日と年齢|1976|4|5}} |生誕地={{JPN}} |没年月日= |死没地= |職業=[[実業家]] |出身校=[[慶應義塾大学環境情報学部]] |肩書き=[[デロイトトーマツコンサルティング]]代表執行役社長 |配偶者= |子供= }} '''佐瀬 真人'''(させ まさと、[[1976年]][[4月5日]]{{要出典|date=2023年9月15日 (金) 18:49 (UTC)}} - )は、[[日本]]の[[コンサルタント]]、[[実業家]]。[[デロイトトーマツコンサルティング]]代表執行役社長。 == 略歴 == 2000年3月に[[慶應義塾大学環境情報学部]]を卒業し、同年4月、[[デロイトトーマツコンサルティング]]合同会社に入社{{R|rikeinavi}}。2008年7月、同社の執行役員に就任し、2018年6月、CSO(最高戦略責任者)および経営会議メンバーに就任した後、2019年6月、代表執行役社長に就任(現任){{R|rikeinavi}}。製造業を中心に事業戦略立案、マーケティング戦略立案、技術戦略立案、組織・プロセス設計に関するコンサルティングに従事{{R|rikeinavi}}。特に自動車業界においては自動車メーカー、自動車部品サプライヤー、販社・ディーラーの領域をカバーする経験を持つ{{R|rikeinavi}}。 == 著書 == * 『戦略のパラドックスへの解 : 実践手法と業界別ケーススタディ』(松下芳生・高橋淳一・泊輝幸・高橋俊成・細川敦邦・[[大日方隆]]・西川陽介との共著、2008年10月16日、[[翔泳社]]、{{ISBN2|978-4-7981-1772-0}}) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|refs= <ref name="rikeinavi">{{Cite interview|和書|subject=佐瀬 真人|url=https://rikeinavi.com/guide/careerguide_topint_19a/|title=トップインタビュー(デロイト トーマツ コンサルティング合同会社 代表執行役社長 佐瀬 真人)|work=理系ナビ|volume=2019秋号|publisher=株式会社ドリームキャリア|editor=渡辺道也|date=2019-10-10|accessdate=2023-09-16|isbn=978-4908031267|asin=4908031266}}</ref> }} {{People-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:させ まさと}} [[Category:日本のコンサルタント]] [[Category:日本の実業家]] [[Category:慶應義塾大学出身の人物]] [[Category:1976年生]] [[Category:存命人物]]
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真光路駅
座標: 北緯31度15分18.43秒 東経121度22分45.8秒 / 北緯31.2551194度 東経121.379389度 / 31.2551194; 121.379389 真光路駅(しんこうろえき)は中華人民共和国上海市普陀区真如鎮街道、真光路と銅川路の交差点にある、上海軌道交通14号線の駅である。 島式ホーム1面2線の地下駅で、出口は3箇所ある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "座標: 北緯31度15分18.43秒 東経121度22分45.8秒 / 北緯31.2551194度 東経121.379389度 / 31.2551194; 121.379389", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "真光路駅(しんこうろえき)は中華人民共和国上海市普陀区真如鎮街道、真光路と銅川路の交差点にある、上海軌道交通14号線の駅である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "島式ホーム1面2線の地下駅で、出口は3箇所ある。", "title": "駅構造" } ]
真光路駅(しんこうろえき)は中華人民共和国上海市普陀区真如鎮街道、真光路と銅川路の交差点にある、上海軌道交通14号線の駅である。
{{coord|31|15|18.43|N|121|22|45.8|E|type:railwaystation|display=title}}{{駅情報|社色=#616020|文字色=white|駅名=真光路駅|よみがな=しんこうろ|ローマ字=Zhenguang Road|所属路線={{駅番号|#616020|■}}[[上海地下鉄14号線|14号線]]|前の駅=[[真新新村駅|真新新村]]|次の駅=[[銅川路駅|銅川路]]|駅間A=1.00|駅間B=1.31|所在地={{CHN}}[[上海市]][[普陀区]][[真如鎮街道]][[真光路]][[銅川路]]|乗入路線数=1|所属事業者=[[上海地下鉄|上海地鉄運営有限公司]]|キロ程=8.46|起点駅=[[封浜駅|封浜]]|駅構造=[[地下駅]]|ホーム=島式ホーム1面2線|開業年月日=[[2021年]][[12月30日]]<ref name=開通>{{cite news |title=14号线、18号线一期北段12月30日起开通初期运营 |url=http://www.shmetro.com/node49/202112/con115636.htm |accessdate=2023-09-15 |archive-date=2021-12-30 |archive-url=https://web.archive.org/web/20211230061347/http://www.shmetro.com/node49/202112/con115636.htm }}</ref>}}{{中華圏の事物|繁体字=真光路站|簡体字=真光路站|ピン音=Zhēnguānglù Zhàn|カタカナ=|広東語=|上海語=|英文=Zhenguang Station }}'''真光路駅'''(しんこうろえき)は[[中華人民共和国]][[上海市]][[普陀区 (上海市)|普陀区]][[真如鎮街道]]、[[真光路]]と[[銅川路]]の交差点にある、[[上海軌道交通14号線]]の駅である。 == 駅構造 == 島式ホーム1面2線の地下駅で、出口は3箇所ある。 == 駅出口 == * 1号出口 - 真光路、銅川路 * 2号出口 - 真光路、銅川路 * 3号出口 - 高陵路、銅川路 == 隣の駅 == ; 上海地下鉄 : [[ファイル:SML14.svg|リンク=|20x20ピクセル|14]] 14号線 :: [[真新新村駅]] - '''真光路駅''' - [[銅川路駅]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[中華人民共和国の鉄道]] {{上海軌道交通14号線}} {{DEFAULTSORT:しんこうろえき}} [[Category:上海地下鉄の駅]] [[Category:上海市普陀区の鉄道駅]]
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