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4,838,717 | 2023年パレスチナ・イスラエル戦争 | 2023年パレスチナ・イスラエル戦争(2023ねんパレスチナ・イスラエルせんそう)は、2023年10月7日にパレスチナのガザ地区を支配するハマース(ハマス)によるイスラエルへの攻撃によって勃発した、ガザ側の武装勢力とイスラエルの武力紛争、または戦争。7日、ハマースはイスラエル領内に数千発のロケット弾を撃ち込むとともに、ガザ地区近隣のイスラエル南部各地に戦闘員を侵入させて民間人多数を殺傷・拉致した(レイム音楽祭虐殺事件など)。これに対してイスラエルは軍を動員して反撃を開始し、領域内のハマースを押し返した後、ガザ地区を閉鎖し、大規模な空爆及び地上侵攻を行い、ハマース戦闘員のみならず多数の民間人を殺傷し続けている。
なお、パレスチナ自治政府は対イスラエル奇襲には関与をしておらず、パレスチナの大統領マフムード・アッバースは「ハマースはパレスチナ人の代表ではない(後にハマースへの名指しは削除)」「ハマースは人質の即時解放をすべき」「ハマースによるイスラエル南部への攻撃を非難する」と表明している。ただし欧米から要求された、テロ行為と認定しての非難は拒否しており、フランス大統領エマニュエル・マクロンとの会談で「紛争の責任はイスラエルとそれを支援する国々にある」とした。また、ワリード・アリ・シアム駐日パレスチナ常駐総代表部代表は8日、SNSにて「私たちは、パレスチナ人とイスラエル人の両方の民間人の生命の喪失を断固として非難します」とメッセージを投稿している。ただし、以降の投稿は戦闘員と民間人を区別せず殺傷するイスラエルのガザ攻撃に批判的である。
この戦争でイスラエル側は第四次中東戦争以来の死者数を出した。イスラエルは8日、正式にハマースに対して宣戦布告した。イスラエル側は戦時内閣を発足させている。
ハマースは、この戦闘を「アクサーの氾濫作戦」もしくは「アルアクサの洪水作戦(アラビア語: عملية طوفان الأقصى)」とした。一方でイスラエル側は「鉄の剣作戦(ヘブライ語: מבצע חרבות ברזל)」と呼んでいる。
一部メディアは第一次、第二次インティファーダに続くインティファーダとして「第三次インティファーダ」という名称を使用した。また10月に行われる、ユダヤ教の仮庵の祭りになぞらえて「仮庵戦争」(かりいおせんそう)と表現した。
ハマースによる奇襲を受けた直後、イスラエル国民はこれを「イスラエルの9.11」や「イスラエルの真珠湾攻撃」と、過去の奇襲攻撃やイスラム原理主義組織の攻撃にたとえた。また、「ホロコースト以来、これほど多くのユダヤ人が殺害されたことはない」という反応も見られた。ホロコーストのたとえは様々な人が使用しており、The Viewの元プロデューサーであるダニエラ・グリーンバウムや、イスラエル大統領イツハク・ヘルツォグの元スポークスマンであるエイロン・レヴィ、『タイムズ・オブ・イスラエル(Times of Israel(英語版))』の記者ラザール・バーマンなどがホロコーストという言葉を使用した。第四次中東戦争(1973年)のちょうど50周年ということで「'73年の過失、'23年の過失」という言葉も一部メディアで使用された。コロンビア大統領グスタボ・ペトロはイスラエルの行いを、ガザ地区の人質家族はハマースの行いを指して「新たなホロコースト」という言葉を使った。一方、イスラエルによる過度な反撃は国際人道法違反であるとアントニオ・グテーレス国連事務総長は非難し、国連の独立専門家グループは「ジェノサイドの重大なリスク」にさらされていると指摘した。「ジェノサイド」は、ホロコーストを説明するためにユダヤ人が生み出した言葉である。
パレスチナ問題は「世界で最も解決が難しい紛争」と言われている。
2000年以上前の時点におけるパレスチナにはユダヤ人国家であるイスラエル王国があり、諸国家により侵略され、最終的にローマ帝国のユダヤ属州となった。その後ユダヤ人はヨーロッパやアジア、アフリカの各地へ離散し(ディアスポラ)、パレスチナ地域はアラブ・東ローマ戦争などを経てイスラム教圏になり、主にアラブ人が住民となった。
当時ヨーロッパではキリスト教が主流であった。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はともにアブラハムの宗教であるが互いに対立する関係でもあり、ユダヤ教徒はヨーロッパで差別・迫害の対象となった。ユダヤ人は他宗教で禁忌である金融業などで影響を持つようになり、パレスチナに戻って自らの国を持とうという、いわゆるシオニズム運動が19世紀頃に発生する。
シオニズム運動の最中に第一次世界大戦が勃発。連合国側のイギリスは、ロスチャイルド財閥から金銭を引き出すため、パレスチナにユダヤ人の"国民的郷土"を建設することを支持することをバルフォア宣言で約束した(ただし、"国民的郷土"の定義はなく、パレスチナ人の権利を害さないことは明記されている。)。さらに、敵対する中央同盟国であるオスマン帝国を打倒するため、アラブ人に対しても、オスマン帝国に反旗を翻せばオスマン帝国の領域にアラブ諸国を建設することを約束する協定を結んだ(フサイン=マクマホン協定)。そしてフランスとも中東分割を約した(サイクス・ピコ協定)。この「三枚舌外交」と言われる外交政策により事態は混迷を極める。
第一次世界大戦終結時点では中東はフランスらにより分割され、パレスチナ地域はイギリスの委任統治となった。ユダヤ人などからすると裏切られたというような立場となるものの、バルフォア宣言に基づきパレスチナへの入植者が増えた。当初は共存していたが、人口増加と経済問題により摩擦が増大していった。
第二次世界大戦中、ナチス・ドイツによるホロコーストで多くのユダヤ人が殺害される。一部のユダヤ人はパレスチナに逃げるもパレスチナに住むアラブ人は猛反発。これにより各地で戦闘が起きる。
戦後1947年に国際連合総会でパレスチナ分割決議が採択されイスラエルが建国。ユダヤ人からするとついにユダヤ人国家の建設となったが、アラブ人からすると領土が奪われた形となり、第一次中東戦争が勃発。当時のイスラエルは被害者として欧米世論から支持されていた。しかし、第三次中東戦争(1967年)においては国際法を超えた範囲でアラブ人側の領土を支配し始め、一部から加害者側になったと非難を浴びる。
1964年にはパレスチナ解放機構(PLO)が結成された。その後、インティファーダという民衆蜂起が行われ、多くの戦闘が起き、規模は拡大していく。その後湾岸戦争で、イラクのサッダーム・フセイン政権がパレスチナを解放すると称してイスラエルを攻撃、国際社会は「パレスチナ問題を解決しないと何が起きるかわからないのではないだろうか」という反応となり、1993年のオスロ合意により暫定自治政府が認められる。
合意から2000年までは楽観論が広がり、双方が和解すると世論は考えていった。しかし、2000年にイスラエルの首相だったアリエル・シャロンが、ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」のすぐ近くに位置するイスラム教の聖地「岩のドーム」に足を踏み入れ、「私は平和の使者だ」と述べたことによりイスラム教徒の反感を買い、7年間続いた平和は終焉した(第2次インティファーダ)。2006年のパレスチナ国議会選挙でハマースに敗北すると、PLOの主政党であるファタハはハマースをヨルダン川西岸地区から追い出し、統治を続けた。一方、ハマースもガザからファタハを追い出し、パレスチナは分裂状態になり、和平交渉が事実上不可能となった。また、ヨルダン川西岸地区の分離壁がユダヤ人入植地を守るため建設され、2008年から2009年までのガザ紛争などでいくつかの戦闘が行われた。
2014年、イスラエル軍がガザ地区に地上侵攻を行い、空爆作戦でハマースの幹部の自宅や軍事施設を爆撃するとともに、予備役の兵士の招集を進め、ガザ地区との境界線近くに地上部隊を着々と集結させるなどし、捕らえられた兵士やその周辺の民間人への危険に配慮せずに集中砲火で攻撃することができる「ハンニバル指令」が実行された。これによりイスラエル軍は少なくとも135名のパレスチナの民間人を殺害した。この2014年のガザ地区侵攻が「イスラエル軍による最後の地上侵攻」であるとされていた。2014年以降、和平交渉は途切れる。
ユダヤ系の人々が一律にイスラエルの建国やシオニズムを支持していた訳ではなく、ユダヤ教の最右派であるユダヤ教超正統派はイスラエルの建国に関して旧約聖書の「汝、殺すなかれ、盗むなかれ」に違反しているとし、「メシア(救世主)が現れないと真のユダヤ国家は実現できない、しかし、まだメシアは現れていない、だから現在のイスラエル国家は偽物であり、認められない。」「メシアが現れるまで建国は待つべきだ。」という立場をとっている。また「ユダヤ人はイスラエルの残虐行為を糾弾する」と主張するデモや「イスラエルをパレスチナへ返還すべきである」として反シオニズム活動を行っている。
近年のイスラエルにおいては、ポスト・シオニズム(シオニズムは終焉しており、アラブ人やパレスチナとの友好を推進すべきという思想)のユダヤ人の人々に対抗すべく誕生したネオ・シオニズム(イスラエル人によるイスラム教徒や反ユダヤに対する報復や抑圧によって平和が到来するという思想)が政治的影響力を持つとされている。
両国間の緊張状態に加え、イスラエルと、アラブ世界の大国であるサウジアラビアが関係正常化に向けて動き出していることにより「パレスチナ問題、さらにはハマースそのものが見捨てられてしまう」というハマースの危機感が発生。またイスラエルは「司法制度改革問題」により大混乱していたため、ハマースからすると恰好のチャンスとなった。また、パレスチナ市民の若年層は度重なる戦争により失業率が60%を超え、経済も非常に悪い状態であり、加えて封鎖以降の世代は物心ついた時には分断という状況であり、イスラエルに対する恨みも強かったと思われている。
2023年は、いくつかパレスチナ問題が原因となった暴力的な騒動が発生した。2023年10月7日の奇襲前の時点で、2023年の範囲内だけで双方の戦闘員と民間人を含め、少なくとも247人のパレスチナ人がイスラエル軍によって殺害され、32人のイスラエル人と2人の外国人がパレスチナ人の攻撃によって殺害されていた。また、入植者による攻撃が増加し、何百人ものパレスチナ人が避難した。エルサレムの聖地であるアル=アクサー・モスク周辺では激しい衝突があった。
イスラエルとハマースの緊張は2023年9月頃に高まり、アメリカ合衆国(米国)の新聞『ワシントン・ポスト』は両者を「戦争の瀬戸際にある」と表現した。イスラエルはジーンズの積荷に隠された爆発物を発見し、ガザからの全ての輸出を停止した。これに対し、ハマースは厳戒態勢を敷き、イスラエルの入植地を襲撃する練習を公然と行ったり、他の組織と軍事演習を行ったりした。またハマースは、パレスチナ人によるイスラエル・ガザ間の分離壁(鉄の壁)への抗議活動の再開を許可した。9月13日、5人のパレスチナ人が国境で殺害された。9月29日、カタール、国連、エジプトの仲介により、イスラエルとガザ地区のハマス当局者の間で、閉鎖されていた検問所を再開し、緊張を緩和するという合意がなされた。
攻撃の数日前、エジプトはイスラエルに対して「事態の爆発(我慢の限界を超える)が近づいている、それも非常に近いうちに、そしてそれは大きなものになるだろう」と警告したという。イスラエルはそのような警告を受けたことを否定したが、エジプトの主張は、攻撃の3日前に警告がなされたとするアメリカ合衆国下院外交委員会の委員長マイケル・マッコールによって裏付けられた。
そして攻撃は、ユダヤ教の祝日で安息日であるシムハット・トーラー(英語版)の日で、同じく奇襲攻撃から始まった第四次中東戦争開戦50年の翌日である10月7日に行われた。
ユダヤ教の祝日シムハット・トーラーにあたる10月7日現地時間午前6時30分(UTC 3時30分)、パレスチナのガザ地区を支配するハマースのイゼディーン・アル・カッサム旅団(英語版)によるイスラエルへのミサイル攻撃が宣戦布告抜きに開始された。また同時に海上を水上艇が、陸上では歩兵による国境検問所であるケレム・シャローム検問所やエレズ検問所への攻撃や白いピックアップトラックによる7つの検問所を突破してでの越境も開始された。ミサイルの本数についてはハマースが5000発以上、イスラエルが2200発以上としている。この出来事により、イスラエル側で少なくとも1,300人以上が死亡し、パレスチナ側で1,100人が死亡した。テルアビブ、レホヴォト、リション・レジオン、パルマヒム空軍基地などではサイレンが鳴り響いたという。スデロットでは戦争としては初期の戦闘が勃発し、警察署などを制圧された。他いくつものキブツへの攻撃も確認され、人口1000人ほどのベエリでは人口の10分の1にあたる約100人が死亡、ガザ近郊のネティヴ・ハアサラでは15人が射殺、南部のニル・オズでも被害が確認された。ジキムでは同日4時40分(GMT)に海上からの侵攻が確認された(ジキムの戦い)。
同日、イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相は「戦争状態にある。」とする声明を出した。ハマース軍事部門のトップであるモハメド・デイフ司令官は同日を「地上最後の占領を終わらせるための、偉大な戦いの日」と述べた後「私たちは敵に対し、アル=アクサー・モスクに対する侵略を続けないよう警告した......敵が無反応で侵略を続ける時代は終わった。私は、ヨルダン川西岸地区とグリーンライン(英語版)(イスラエル領)内のパレスチナ人に対し、自制することなく攻撃を開始するよう呼びかける。すべての通り道に出て行け。私は、あらゆるイスラム教徒に対し、攻撃を開始するよう呼びかける。」としてパレスチナ人に軍事行動への参加を呼びかけた。この攻撃にはイラン革命防衛隊の関与も疑われている。また、祝日に戦争が起きるのは第4次中東戦争も同様である。
合計で、少なくとも2,200発のロケット弾がガザから発射され、数百人のイスラエル人が犠牲になり、イスラエル政府は緊急事態を宣言した。イスラエルは攻撃開始後の全国演説で「戦争中」であると述べている。イスラエルに潜入したパレスチナ過激派はキブツに侵入、またスデロットを含むガザ地区とイスラエルの都市を取り囲んでいる。パレスチナとイスラエルの両方のメディア情報筋が、イスラエルの兵士と民間人が人質に取られたと報告している。夜、イスラエル国営の電力会社が、電力の80%をイスラエルから供給しているガザ地区への電力供給を停止した。イスラエルの首都テルアビブはロックダウン状態に陥った。
これらの攻撃に対してヨルダン川西岸の都市ナーブルスのパレスチナ人の一部が祝っている写真が撮影されている。
攻撃の映像はドローンによる撮影され保存されており、ABCニュースが映像の一部を公開した。
ロシア連邦の通信社スプートニクはこの奇襲が成功した原因を以下の二つとしている。
また、同じくスプートニクはこの奇襲に対して「ドイツ国防軍の戦術マニュアルを読んで応用したかと思うほどドイツ式電撃作戦に酷似していた」とした。
また7日から数日経ってイスラエル軍スポークスマンのリチャード・ヘクトが開いた記者会見にて、ハマースが占領した町を奪還するのに2日かかったと述べ、これに対し東海大学国際学部教授アルモーメン・アブドーラは「「無敵の軍隊」としてのメンツが打ち砕かれる異例の事態となった。」とした。
7日時点で『フォーリン・アフェアーズ』は、イスラエルのネタニヤフがとれる選択は3つだと述べた。それは
であるとしたが、同誌はこれらの目標の実行は至難の業だとしている。
また、モサドがこの作戦を予知できなかったということを、一部のモサド出身者が「信じられない」と述べていた。日本カウンターインテリジェンス協会の稲村悠代表理事は東洋経済オンラインの記事で、モサドが奇襲を察知できなかった理由を、モサドが人的情報収集を軽視し、デジタルにおける情報収集に重きを置いたため、ハマースがアナログな方法を駆使したことによりデジタルで情報を収集できなかったからだと述べている。
米国紙『ニューヨーク・タイムズ』も10月29日に奇襲の成功理由について見解を示す記事を載せ、「イスラエルは過信と、ハマスの脅威は抑え込んでいるという誤った思い込みから、今回の攻撃を過小評価しただけでなく、情報収集に完全に失敗していた」とした。
詳細に述べると:
なお攻撃により、ネタニヤフなどイスラエルに「被害をなぜ防げなかったのか」と批判が集まった。これに対して10月29日にネタニヤフは「いかなる状況下、どの段階であってもハマスの襲撃について忠告を受けていなかった。情報機関のトップもハマスを抑止できていると信じていて、襲撃が起きるまで軍関係者の評価は変わらなかった」と述べながら謝罪している。
レバノン南部からイスラエル北部へロケット攻撃が発生。同日、レバノンのイスラム教シーア派組織ヒズボラが、イスラエルへの攻撃を実行したとの声明を出した。同日、イスラエルはハマースに対して、7日にイスラエルの基本法第40条によって正式に宣戦布告を決定し、軍事活動を解禁すると発表した。イスラエルが正式に宣戦布告を決定するのは、1973年の第四次中東戦争以来である。
他にもイスラエル側がエジプトに対してハマースとの交渉の仲介役となるように依頼した他、米国は東地中海への原子力空母「ジェラルド・R・フォード」を中核とする第12空母打撃群を派遣することを決定した。打撃群は空母の他、ミサイル巡洋艦やミサイル駆逐艦からなり、中東地域のアメリカ空軍部隊をF-35などで増強するという方針も出した。同日、バイデンはネタニヤフと会談し、防空兵器アイアンドームの補充、弾薬供与、ヒズボラなどの軍事行動をめぐる機密情報協力をイスラエル側がアメリカに対し求めた。
アメリカ合衆国国務長官のアントニー・ブリンケンはこの日、CNNテレビに出演し、ハマースによるイスラエル攻撃について「イランが直接関与したという証拠は確認していない」と述べた一方で、長年ハマースや他のテロ組織を支援してきたとしてイランを批判した。またアメリカ合衆国国防長官のロイド・オースティンは、「イスラエルの軍や国民に対する米国の断固たる支援を強調する」として空母打撃群をイスラエル沖の東地中海に派遣すると発表。地中海に展開中の「ジェラルド・フォード」を基幹とする空母打撃群を東へ移動させるという。また同時に、中東地域でのステルス戦闘機F35やF15戦闘機、F16戦闘機、A-10攻撃機の部隊を増強する方針も明らかにした。
同日には国連安全保障理事会が緊急の非公開会合を開いて対応を協議した。会合に先立ってはイスラエルとパレスチナの代表がそれぞれ記者団を前に声明を読み上げ、相手を糾弾するとともに自らを正当化する一幕があり、イスラエルのギラド・エルダン(英語版)国連大使は被害を伝える写真を掲げながら「われわれが目撃しているのは野蛮な戦争犯罪だ」とハマースを非難し、「野蛮な者たちを説得する時代は終わった。このような恐ろしい事態を決して再び引き起こすことがないよう、ハマースによるテロ行為のインフラを消滅させる時が来た」「イスラエルが(ハマースとの戦いに)負ければ世界がその代償を払うことになる」として、国際社会はハマース壊滅に向けたイスラエルの活動を「全面的に支援しなければならない」と強調した。一方で、パレスチナのリヤド・マンスール(英語版)国連大使は「イスラエルはガザの封鎖やガザへの度重なる攻撃はハマースの軍事力を破壊し安全を確保するためだと言い続けているが、どちらも成し遂げていない」と指摘し、「イスラエルは今、同じ誤った前提で、新たな攻撃を正当化しようとしている。誰もこの道を歩むことを助長するような言動をしてはならない」と述べたほか、過去にパレスチナ人が殺害されても国際社会は行動を起こしてこなかったと不満を示した。また、同会合では、ハマースが連れ去った人質の即時解放についても話し合われたが、非難声明や決議案をはじめとする具体的な対応に関しては議論されなかったという。
前日夜からこの日にかけて、イスラエル軍はガザの約500カ所を空爆した。イスラエル軍は、ハマース戦闘員が侵入したガザ近くの全ての集落を掌握したと発表した。戦闘は継続され、一連の死者も1,300人を突破した。このほか、イスラエル軍の報道官がハマースのガザ地区指導者でもあるヤヒヤ・シンワール(英語版)が死亡したことを発表したとイスラエルのメディアが報じた。同日、イスラエル国防相のヨアブ・ガラント(英語版)はイスラエル軍にガザ地区を完全に包囲するように命令したと発表、「私たちは人間の姿をした獣と戦っており、それに応じて行動しています。」とも付け加えた。イスラエル軍の報道官ダニエル・ハガリは予備役30万人を招集したと発表した。
ハマースの拠点であるとしてガザ中心部のビル「パレスチナ・タワー」をイスラエルの手により破壊した。わかっている範囲では、パレスチナ・タワーの屋上にはハマースのラジオ局があった。なお、イスラエル側もモサドが危険を察知できなかったことで被害を受けた。
米国、イギリス、ドイツ、フランス、イタリアはイスラエル側につくとした共同声明を出した。一方、中華人民共和国(中国)はイスラエル、パレスチナ双方に対して仲裁に入り中立的な立場を見せた。カタールも中立的な立場を取り、双方の拘束された民間人の引き換えなどの交渉に入った。交渉については、10日時点では「前向きに動いている」と関係者がロイター通信に語っている。
戦闘では、パレスチナ・タワーの破壊などの他にイスラエル軍が戦車などを展開して侵入を防ぐといった戦術を見せた。また負傷者のための献血を7日に呼びかけ、9日に献血がエルサレムで開始されると1,000人ものイスラエル人が献血を行った。イスラエル銀行は、通貨シェケルの大幅な下落を防ぐため為替市場へ初介入した。欧州連合(EU)はパレスチナへの資金支払いを即時停止した。EUの行動とは真逆に、ロシアとアラブ連盟は、イスラエルおよびそれを支援する欧米諸国を批判した。
イギリス内ではイギリス政府がイスラエルへの全面的支援を表明し、首都ロンドンでは、#人道上の問題節のようなイスラエルによるパレスチナに対する人道上問題がある行動に対し怒りを見せた人々により、デモが行われた。似たような事例で同日、米国ニューヨークのイスラエル総領事館近くで道路を挟み南北に分かれ、北にイスラエル派100人、南にパレスチナ派300人ほどが集まり大騒動と化した。
ロシアの首都モスクワでは、ロシア外相のセルゲイ・ラブロフとアラブ連盟(21カ国・1機構)事務局長のアハマド・アブルゲイト(英語版)が会談し、民間人の殺害や誘拐は「容認できない」という立場を確認するとともにハマースとイスラエルの双方に即時停戦を要請した。また会談冒頭でアブルゲイト事務局長は「パレスチナ問題の政治解決の見通しや試みがなければ、こうした事態は今後も起こり得る」と指摘している。
ハマースが460発以上のロケット砲を発射した。また、カバティヤではパレスチナ人2人に発砲されたとしてイスラエル軍が2人を殺害した。また後述の#人道上の問題節にもあるようなイスラエルによるガザ包囲が正式に行われ、イスラエル側は「テロリストのインフラを完全に破壊した。何千もの標的を攻撃し、何百トンもの爆弾を投下してきた。最大限の被害を与え続けている」や「ガザ地区への電力供給は終わる。燃料の備蓄がなければ数日以内に地区の電力はなくなり、井戸水も1週間以内にくみ上げられなくなるだろう」との発言を行った。10日時点では医療物資の枯渇や、空爆などによりガザ全体で安全な場所がほとんどないなどといった状況が発生した。
また国境なき医師団はガザ地区内の病院もイスラエル軍の攻撃の被害にあったとし、「医療施設は尊重されるべきで攻撃の対象になってはならない」と訴えた。ハッジタワーというガザ内のタワーへの空爆により、ジャーナリスト3人の死亡などの被害も確認されている。
これらの裏でイスラエル軍はハマースの幹部2人の殺害を発表した。ニューヨークではイスラエル支持派による1万人規模のデモが発生した。
イスラーム聖戦の幹部であるアリ・ハッサン・ガリ司令官が死亡した。国際連合人道問題調整事務所は123,000人以上がガザで国内避難民になっていることを公表した。米国ハーバード大学の学生らはイスラエル側を非難したものの、その結果、幾つもの大企業より、そうした学生は採用しないという宣告を受けた。これに対しハーバード大学内の31の学生サークルが共同声明を発表し批判、ユダヤ人団体である名誉毀損防止同盟はこの声明を反ユダヤ主義的であるとした。
同日、米政府高官が匿名で、イランがハマースのイスラエル攻撃を予測していた可能性があると述べた。一方9日にイラン外務省は関与を否定している。
同日、イスラエル首相のネタニヤフは自身の連立内閣枠組みに国家団結(英語版)を加えた挙国一致内閣の戦時内閣を通常の内閣とは別個に発足させ、以降は戦争の遂行に関係ない法案や政府決定は一切凍結されることなったため、第6次ネタニヤフ内閣は事実上の機能停止状態となった。戦時内閣はネタニヤフ、国防相のヨアブ・ガラント(英語版)、前国防相のベニー・ガンツの3人のみからなり、このほか元国防軍参謀総長のガディ・エイゼンコット議員、戦略担当相のロン・ダーマー(英語版)がオブサーバーとして参加することとなったが、戦争開始初期から挙国一致内閣に前向きだったヤイル・ラピド率いるイェシュ・アティッドは右派政党の排除要望が聞き入れられなかったこともあり、最終的には挙国一致内閣に参加しなかった。戦時内閣樹立の声明発表後、ネタニヤフら3人はテレビ出演を行い、ガラントはハマースを地球上から消し去ると警告した。
国際赤十字・赤新月社連盟(IFRC)はガザ地区でスタッフ4人が活動中に救急車両に対する攻撃より死亡したと発表した。IFRCは「国際法に従って、民間人や医療従事者、医療施設は常に尊重され、守られなければならない」と発言した。同様に国際連合パレスチナ難民救済事業機関 (UNRWA)もガザ地区での活動中にイスラエルによる攻撃によりスタッフ11人が死亡、UNRWAは「国連の職員と民間人は常に守られなければならない。より多くの民間人の命が失われないよう、戦闘の終結を求める」として戦闘の終結を求めた。
アメリカは前述の空母打撃群に加えドワイト・D・アイゼンハワーを主力とする空母打撃群を地中海に派遣していることを発表した。またオースティンはベルギーにて、イスラエルにアイアンドーム防空システムを供与したとした。
同じく、元アメリカ大統領ドナルド・トランプは一連の戦闘を、バイデン政権の外交の失敗であるとし、自身が大統領になれば「私のリーダーシップのもとでイスラエルを全面的に支持し、テログループであるハマースを打ち破って永久的に破壊する」とした。
韓国大統領の尹錫悦は、訪韓したアメリカ上院の民主党トップのシューマー院内総務率いる超党派上院議員団と会談した。両者はイスラエルへの無差別攻撃を非難するとともに、事態の早期収束に向けて米韓両国が「建設的な役割」を果たしていくことで一致した。
ブリンケンがイスラエル入りした。米国とイスラエルの協力関係を強くさせる為と思われており、13日にはアッバス自治政府議長と会談する予定。また、中国の中東問題特使である翟雋がイスラエル政府高官と電話会談を行った。フランスはパレスチナを支持するデモを禁止することを発表し、「片方を禁止して片方を認めるなんて不公平だ」といった非難が集まった。
ハマースの人質の家族2人がロンドンで会見を行い、「ホロコーストの生存者がハマースによる新たなホロコーストに直面している」と語り、即時解放を訴えた。
イラン外相のアミラブドラヒアンがパレスチナ人に対する戦争犯罪が継続されれば「抵抗の枢軸」からの報復を受けることになると発言。「抵抗の枢軸」が指すものについては明確には判明していないがパレスチナ側の勢力のことであると考えられている。
コロンビア大統領のグスタボ・ペトロはガザ地区に対する包囲攻撃と全面封鎖を命じた、イスラエルのガラント国防相に関する記事を掲示した後、「これはナチスがユダヤ人に対して言ったことと同じだ」と指摘。「民主主義市民はナチズムが国際政治舞台に再び登場することを許すことはできない」とし、「(ガラントのように)憎しみ発言が続くなら、ホロコーストだけをもたらしてしまう」と主張した。
またシリア国営のシリア・アラブ通信によると、イスラエルがシリア首都ダマスカスとアレッポの空港に対しミサイル攻撃を行い滑走路が損害を受け、両空港は使用不能となった。
イスラエル軍が、国際法上禁止されている白リン弾を使用していたことがヒューマン・ライツ・ウオッチ(HRW)により発覚した。使用していたのは10から11日の間に使用された都市、HRWは「人口過密なガザでの使用は民間人被害の危険性を増大させ、国際人道法に違反する」と述べ懸念を示した。2008年12月においてもイスラエル軍は白リン弾を使用したとされているが政府は「戦時国際法には違反しない」と発言していた。
また、EUはX(旧Twitter)やFacebookを運営するMetaに対して嘘の情報や暴力的な映像が流れていることに対してデジタルサービス法に基づく初めての調査を行おうとした。これに対してXは11日に、Metaは13日に対応を行ったと報告した。
イスラム教徒は戦争開始後初の金曜日、イスラム教の礼拝の時間が始まった。マレーシアの首都クアラルンプールではイスラム教徒1,000人が祈りの後に集まり、イスラエルの旗がかかった像を破壊する等のデモや暴動を起こした。
国連はイスラエル軍からガザ地区北部の住民が同地区南部(正確にはガザ渓谷以南)に退避する必要があるとの通知を受け取ったことを発表した。国際連合パレスチナ難民救済事業機関のフィリップ・ラザリーニ事務局長は、この退避通知について、「ガザ地区の北部に住む100万人以上の市民を24時間以内に移動させるというイスラエル軍の通告は恐ろしい。前例のないレベルの悲惨さをもたらし、ガザの人たちをさらなる奈落の底に突き落とすだけだ」と強く批判している。また13日に、国連は安全保障理事会の緊急会合を行っている。
元イスラエル首相のナフタリ・ベネットは、英国スカイニュースの司会者から「イスラエルがガザ地区の電力供給を止める事で生命維持装置の民間人や病院で育てられている赤ん坊の被害が出るのではないか」と質問され、「我々はナチスと戦っている。敵に餌を与えるつもりはない」と述べた。
イスラム教徒が多く住むカシミールのカールギル地区ではパレスチナ支持者によるイスラエルに対する大規模な抗議運動が行われた。パレスチナの旗を掲げ、「Down with Israel and Down With America(イスラエルを倒し、そしてアメリカを倒せ)」というプラカードを掲げている人々もいた。イランでも同様のデモが発生した。
12日の確認に続き、アムネスティ・インターナショナルはガザ地区の港と、イスラエルとヨルダン川西岸地区の国境において白リン弾が確認されたと公表した。中東・北アフリカ局長ラマ・ファキは白リン弾について「白リンが混雑した民間人居住区で使用された場合、耐え難い火傷を負い、生涯にわたって苦しむことになる危険性が高い」と懸念を示している。
イギリス政府は2隻のイギリス海軍艦船と観測機が東地中海に配備する予定であることを発表した。米国のオースティン国防長官はテルアビブでの会見において「(ハマースの行動は)ISISを思い出させる行動である」と話した。
中国の首都北京で、イスラエル大使館員の家族が刺されるという事件が発生した。中国政府のしわざではないかという疑いもあるが、当局は否定している。刺された外交官の家族は病院に運ばれ、容態は安定しているとのことである。この事件で、外国籍の53歳の男が北京の警察当局に拘束された。なお、本戦争とこの事件の関係はまだわかっていない。
パレスチナ暫定自治区内であるヨルダン川西岸地区でもベツレヘムを中心に大規模なデモが行われた。デモ内で一部のデモ隊がタイヤを燃やして抗議したほか、治安当局もデモ隊に対して催涙ガスで応戦するなどといった騒ぎとなっていた。
ヒズボラのナイム・カセム副議長は、戦争に参加しないようにという声に動じないと述べ、「(戦闘に貢献する)完全な準備ができている」と語った。
イスラエル軍の激しい空爆で負傷者が急増する中、救急医療などを担うパレスチナ赤新月社は、「患者を見殺しにはできない」として避難を拒否すると表明した。
13日にイスラエル側が通知した退避勧告から24時間経過した。24時間経過時点では「局地的な急襲」をイスラエル側が行ったことは判明しているものの、大規模な攻撃は確認されていない。勧告は地上侵攻を示唆しているのではないかという分析も出ている。
国際連合安全保障理事会の緊急会合が開かれ、ロシアは、即時停戦を求める決議案を各国に提案したが、ハマースは非難しなかった。このことについてネベンジャ国連大使は「これは人道決議であり非難決議ではない」と述べた。一方この会合の後、10月の議長国であるブラジルはハマースを非難する決議案を各国に示した。なお、ロシアの決議案は16日に否決された。
韓国外務省は韓国人を退避させるための輸送機に韓国人162人、日本人51人、シンガポール人8人が搭乗していることを明かした。座席に余裕があったため、日本側に人道支援を提案し、協力が実現した。この輸送機は、14日23時頃にソウル近郊に到着した。
イスラエル軍は、7日の奇襲にかかわったとされるハマース指揮官のアリ・カディと同じくハマース軍幹部のムラド・アブ・ムラドも、空爆によって殺害したと発表した。
イスラエル軍はマルガリオット近郊での無人機による空爆でレバノンからの侵入者(ヒズボラ戦闘員)3人を殺害したと発表した。午後になると、ヒズボラは占領地シェバー・ファームズのイスラエル軍前哨基地5カ所を砲撃した。
シリアの国営通信は、北部アレッポの国際空港がイスラエル軍による攻撃を受け、施設などに被害が出たと報じた。なお、15日時点でけが人は確認されていない。
ガザ地区の保健当局は15日、イスラエル軍とハマースとの衝突で、これまでにガザ地区で2,329人が死亡したと発表した。こうした中イスラエル軍は15日朝にかけて、ガザ地区にある指揮所や発射台など100以上の軍事施設を攻撃したとしたほか、ハマースの幹部1人を殺害したと発表した。
ガザ地区から10kmほどのイスラエル南部のアシュケロン郊外に、イスラエル軍の軍用車などが集まり、近く行われるとみられる地上侵攻へ態勢を整えている。それに合わせスデロトなどでは政府主導で市民の避難が行われた。
ハマースを支援しているイラン外相のホセイン・アミールアブドッラーヒヤーンはドーハを訪れ、ハマースの最高幹部のイスマーイール・ハニーヤと会談した。イラン外務省の声明によると、外相のアミールアブドッラーヒヤーンは「イスラエルの戦争犯罪からガザ地区の人々を守るため、われわれは努力を続ける」と述べ、今後も協力を続けることを確認した。そのうえで、「イスラエルがガザで戦争犯罪を続けるなら、この地域で何が起きてもおかしくない」と、イスラエルを牽制した。これに対しハニーヤは「イスラエルによる残虐な殺人や家の破壊などにもかかわらず、パレスチナの抵抗勢力は強さを保っている」と述べ、徹底抗戦を続ける姿勢を強調した。
パレスチナ自治政府の大統領であるマフムード・アッバースは、「ハマースはパレスチナ人の代表ではない」「ハマースは人質の即時解放をすべき」「ハマースによるイスラエル南部への攻撃を非難する」と声明を出した。
米国は正式にドワイト・D・アイゼンハワーを主力とする空母打撃群をジェラルド・R・フォードを主力とする空母打撃群と合流させようとしていることを発表し、「このような事態をエスカレートさせようとする国家や非国家勢力を抑止する決意を、我々は持っている」とオースティン国防長官は述べた。『THE TIMES OF ISRAEL』は「国家」がイラン、「非国家勢力」がヒズボラを指していると分析している。
米国イリノイ州では本戦争を受けて男性が「イスラム教徒は死ななければならない」と叫びながら、イスラム教徒の親子を襲撃し、6歳の少年を鋸歯状の刃を持つ軍用ナイフで26回刺し殺し、32歳の母親に重傷を負わせた。その後イリノイ州の男性はヘイトクライムで起訴された。刑事によると、本紛争に腹を立てており、そこでイスラム教徒である被害者家族を標的にした。これに対してアメリカ・イスラム関係評議会 (CAIR) シカゴ支部の事務局長は「誰に対しても憎しみの余地はない」と本事件を非難した。
また、イスラエル側が避難勧告において南部へ避難するよう促していながら、カーンユーニス病院などの南部地域にイスラエル側が攻撃を行っていることが判明した。他、ガザ地区外であるヨルダン川西岸地区に対してイスラエル軍が一晩に数十回ものペースで夜間襲撃を行っていることが発表された。
イスラエル大統領府がハマースの戦闘員が所持していた『戦闘員ガイド・ジハード(聖戦)編」』というタイトルの指示書を公開した。7日に同国に侵入した戦闘員を殺害した際の押収物から見つかった。指示書では戦闘員に対して、人質に電気ショックを与えたり、人質を「人間の盾」として使い、戦闘員に刃向かった場合は処刑したりするよう求めていた。また、ヘルツォグは指示書の公開に合わせ「悪を根絶することが、より良い地域と世界を作る方法だ」と述べた。
パレスチナ解放運動などを支援している米国のモデルであるジジ・ハディッドが、Instagramにおいて「パレスチナ支援が反ユダヤ主義やハマス支援だと誤解されている」と投稿し物議を醸した件について、イスラエル政府が直々に「ジジ、ここ1週間、寝ていたの?それとも、ユダヤ人の赤ちゃんが自宅で切り殺されているのを見て見ぬふりをしていいと思っているの?あなたの沈黙は、あなたの立ち位置を明確に示している」と名指しで批判した。
国際連合レバノン暫定駐留軍は、レバノン南部に所在する本部がミサイルにより攻撃されたと発表した。
ヒズボラは、イスラエル北部に向けて対戦車ミサイル5発を発射し、シュトゥラ(英語版)で民間人1人が死亡、3人が負傷した。また、アミタイ・グラノット中尉(イスラエル軍ゴラ二旅団第75大隊長、ラビ・タミール・グラノットの息子)は、レバノンと国境を接するイスラエル軍駐屯地へのミサイル攻撃で死亡した。
中東を訪問中のアントニー・ブリンケン米国務長官は、16日に再びイスラエルを訪れることが決まった。
イスラエルの緊急内閣の閣僚会議が初めて開かれ、ネタニヤフは 「怪物を根絶やしにする準備はできている」と述べた。地上侵攻を示唆していると見られる。
国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)はガザ地区でこの1週間で少なくとも100万人が退避を余儀なくされていると発表した。また世界保健機関(WHO)はガザ地区北部の4つの病院がイスラエル軍による攻撃で標的となり、稼働できなくなっているなど、人道的な問題も発生している。
米国のジョー・バイデン大統領はCBSテレビの取材に対して再び紛争に対して発言し、イスラエルが戦時国際法を守っているかについて「確信している」と述べ、同テレビの『60ミニッツ』のインタビューではハマースは完全に排除されなければならないという一方で、パレスチナ国家までの道のりは残さなければならないという考えを示した。
交渉により、エジプト、イスラエル、米国はガザ南部の停戦で合意した。このことからガザ地区とエジプトの国境沿いに位置し、本戦争で事実上封鎖状態となっていたラファ検問所の期限付きでの解放も行われた。
この日、双方の死者が4200人を超えた。
国連安全保障理事会がロシアの提出した決議案を否決した。中国など5か国が賛成、日米英仏が反対、残り6か国が棄権し、採択に必要な9か国以上の賛成に達しなかった。内容は民間人への暴力とテロ行為を非難し人道支援の提供を求めるもので、人道的停戦を呼び掛けていたが、ハマースには言及していない。米国のトーマスグリーンフィールド国連大使は反対理由を「ハマスを非難しないことで、ロシアはテロリストを擁護している」と説明した。この結果に対しロシアのネベンジャ(英語版)国連大使は「世界は安保理が血で血を洗う事態に終止符を打つことを期待していたが、西側諸国がそれを裏切った」として欧米を批判した。これに対し米国のトーマスグリーンフィールド国連大使は「ハマスによるテロはホロコースト以来最悪のユダヤ人虐殺だった。ハマスは無実の人たちを人質にとり、その残虐行為はガザ地区の人たちの人道危機にもつながっている。ハマスを非難しないことはテロリストを擁護することになり、言語道断だ」としてロシアに反論した。
ハマースのカッサム旅団は人質だとする21歳の女性の映像を公開した。女性は「土曜日の夜明けにガザ地区に近いスデロットでのパーティーから戻っていたところで連れ去られました。手に重傷を負い、3時間におよぶ手術や手当をして薬をもらいました。私は大丈夫ですが、早く家に帰りたいです。家族へ、お父さん、お母さん、きょうだいへ、早くここから出してください。ありがとう」と映像内で話した。
フランスは「10月12日」節のようなパレスチナを支持するデモを禁止する法律に基づき「反ユダヤ主義的」として102人を拘束したことを発表した。102人の中にはフランス人以外の人々27人もいるとされている。地方メディアによるとフランスには50万人ほどの大規模なユダヤ人コミュニティがあり、政府は、ユダヤ教の礼拝所(シナゴーグ)の警備を強化するなどの対策を行っている。
イギリスは「パレスチナの人たちもハマスの被害者だ」としてパレスチナに1000万ポンドの追加支援を行うことを発表した。ロシアもウラジーミル・プーチン大統領が、イスラエルのネタニヤフ首相、パレスチナ暫定自治政府のアッバス議長、イランのライシ大統領、シリアのアサド大統領、エジプトのシシ大統領と、複数の中東首脳と電話会談を行ったことが判明した。
ヒズボラはテレビ番組で「イスラエルに先制攻撃を仕掛ける準備ができている」と述べた。
米国のブリンケン国務長官は訪問先のエルサレムで、18日にバイデン米国大統領がイスラエルを訪問することを発表した。またドイツの首相オラフ・ショルツは訪問先のアルバニアで、イスラエルを訪れることを明らかにした。日程はわかっていない。また、アメリカ中央軍司令官のマイケル・エリック・クリラが、イスラエル軍幹部と会談するためテルアビブに到着した。
午後にはUNRWAが運営する避難所として運用されていたガザ地区中部の国連学校に攻撃があり、6名の死亡が確認された。
17日夜、ガザ市のアル・アハリ病院で爆発があり(アル・アハリ病院爆破事件)、ハマースはイスラエルの攻撃であるとした。一方イスラエルはハマース以外の武装勢力のミサイルの失敗によるものとしている。この爆発により約500人が死亡した。これに対してアッバス議長は「おぞましい戦争の虐殺」「イスラエルはすべてのレッドライン(越えてはならない一線)を越えた」と述べ、ハマースのイスマイル・ハニヤは襲われた責任はアメリカにあると主張した。
この攻撃にWHOは「医療活動(を行う施設や人々)は優先的に保護されなければならないし、攻撃対象としてはならない」として非難し、アントニオ・グテーレス国連事務総長や、ヴォルカー・ターク国連人権高等弁務官も「全く受け入れられない」と述べた。ユニセフのキャサリン・ラッセル事務局長も声明を出し、「攻撃は容認できず、即時停戦求める」と批判した。トルコのエルドアン大統領は「女性や子どもたち、罪なき市民がいる病院を攻撃することは、イスラエルによる人間の尊厳を欠く攻撃の最新の事例だ」とSNSで述べた。
またバイデン米国大統領のヨルダン訪問はこの攻撃により中止となった。
イギリスの首相リシ・スナクは、サウジアラビアのムハンマド皇太子と電話会談を行い、その後カタールのタミム首長とも電話会談を行った。
レバノンとイスラエルの国境に沿って衝突が発生し、5人のヒズボラの戦闘機が損失した。またその戦闘内でレバノン領から発射された対戦車ミサイルがイスラエル北部のメトゥラ(英語版)に直撃し、3人が負傷した。またその後イフタ(英語版)を目標として2発の対戦車ミサイルが発射されるも、負傷者は出なかった。イスラエル軍は報復としてレバノン領に砲撃を行った。ヒズボラは殺害された14人のパイロットをマフムード・バエズ、フッシェン・ファサイ、フセイン・アル・タウィル、マハディ・アトウィ、イブラヒム・アル・ドゥブクと特定したが、彼らの死に対する詳細は明らかにしなかった。またイスラエル軍スポークスマンは、イスラエルの防空システムがレバノンから国境に近づくドローンを迎撃したと述べた。トルコ外相のフィダンは「(本戦争は)より大きな戦争につながる可能性がある」として「戦争が他国に広がらないように、私たちはできる限りのことをする」とした。またこの戦闘中に越境を行おうとした4人のヒズボラ戦闘員は殺害された。
この日にはイスラエル軍によるガザ地区中部への空爆で幹部の最高司令官アイマン・ノファル(英語版)が殺害されたことが発表され、このことはイスラエルとハマースの双方が確認している。
バイデンは大統領専用機で首都ワシントンD.C近郊の空軍基地を出発し、イスラエルのテルアビブに到着。ネタニヤフと会談し、「アメリカはイスラエルとともにある」と述べ、イスラエルへの連帯を示し、ハマースについては「テロリストの集団だ」として非難した。またガザ地区に隣国であるエジプトから人道支援物資が入ることを条件付きで認めるとする声明を発表した。
また17日の病院爆破に対して18日には日本の上川陽子外務大臣が「罪のない一般市民に多大な被害が発生し、強い憤りを覚える」とする談話を発表した。
イスラエル国外の超正統派のラビ(ユダヤ教の宗教指導者)が「私たちはパレスチナの隣人たちと平和に暮らしたいのです。」と声明を出し、イスラエルに対する抗議活動を行った。
アメリカではアメリカ合衆国議会の建物内にデモ隊が侵入して即時停戦を訴えた。これにより300人が逮捕された。
国連安保理ではブラジルが提出した即時停戦案に対して15か国のうち日本を含む12か国が賛成したものの、アメリカが拒否権を発動したことで否決された。アメリカはトーマスグリーンフィールド国連大使が「決議案にはイスラエルの自衛権が言及されておらず失望している」と述べ、それに対しロシアの国連大使ネベンジャは「われわれはアメリカの偽善とダブルスタンダードを目の当たりにした。アメリカは解決策を見つけることを望んでいなかった」してアメリカを非難した。中国の国連大使である張軍も「決議案が採択されなかったことに驚き、失望している。」とコメントをした。楽天ニュースは拒否権の発動を「拒否権を発動したことによりイスラエルによる空爆が続くこととなれば「反イスラエル・反アメリカ感情」がアラブ人に芽生え、第二の9.11が起きても仕方がない」とした。
イランのライシ大統領は演説で、「誰がこんな恐ろしい犯罪を受け入れられるだろうか」とイスラエル側が戦争の原因だとして批判し、アメリカに対しては「世界の人々があなたたちをイスラエルの共犯者だとみなしており、その憎しみを目の当たりにするだろう」と警告を行った。またイスラム協力機構(OIC)もイスラエル側に責任があるとして非難した。
バイデンとシシはエジプトとの境界のラファ検問所からトラック20台をガザ地区に通過させることを合意し、20日にも物資が搬入されるとの見通しを示した。
ドイツのベルリン中心部ミッテ区にあるシナゴーグに火炎瓶2発が投げ込まれた。これにより1人が逮捕された。
避難所として使用されていたガザ市のギリシャ正教会聖ポルフィリウス教会の敷地内にイスラエルによる空爆が起き(聖ポルフィリウス教会空爆)、教会のエリアス神父は「これは宗教に対する攻撃であり、卑劣な行為であるだけでなく、人間性に対する攻撃でもある。」と反発した。教会のファサードが損傷し、隣接する建物が倒壊したことが確認されており、エルサレム正教会総主教庁(英語版)も、教会堂への攻撃を「最も強く非難する」と表明した。
18日のロイターの調査によると、アメリカの高齢者ではイスラエル支持・アメリカのパレスチナ政策に対する支持が多いが、Z世代においてはパレスチナ支持者やアメリカのパレスチナ政策に懐疑的な人が多かった。
WHOは、ガザ地区において戦闘中に26の医療機関が被害にあったことを報告し、国連人口基金(UNFPA)はガザ内で現在妊娠している5万人の内、来月に出産を予定している5500人は安全な出産をするための環境が整っていないことを公表、ユニセフも数百人のガザの子供が死亡し、30万人以上が家を追われているとした。
イギリス政府はスナク首相がイスラエルを19日訪問し、ネタニヤフと戦闘の拡大防止などに向けて会談することを明らかにし、スナクは20日にかけてイスラエルや周辺国を訪れ、戦闘の拡大防止やガザ地区への人道支援の早期実現に向けて話し合うとしている。スナクは声明で、大勢の民間人が犠牲になったガザ地区の病院の爆発について「世界中の指導者が戦闘の拡大を防ぐため、結束する分岐点にするべきだ」と強調した。
ガザ地区南部ハンユニスでは空爆が発生し、10人以上が死亡し、40人が負傷した。ガザ中心部のアパートなどでも空爆が発生した。
イスラエル軍はハマースにより拉致被害者は203人に上ると発表。イスラエル・テルアビブではハマースによる拉致被害者の親族がビラを配るなどし、早期解放を訴えた。またSNSでも解放を呼び掛ける声が発信されている。
フランスではパレスチナ支持のデモは禁止されていながらもパレスチナの旗や、「沈黙はガザの人を殺す」などと書かれたプラカードを掲げ、デモが行われた。18日にはフランスの国務院が「一律に禁止するのではなく個別に審議すべきだ」という見解を発表している。
イスラエルによってヨルダン川西岸一帯への襲撃が行われ、60人以上のハマースのメンバーが逮捕され、その中にはヨルダン川西岸地区におけるハマースのスポークスマンであるハッサン・ユセフも含まれていた。
アメリカ国防総省はアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦カーニーが、紅海上空を北上していた巡航ミサイル3発とドローン8機を撃墜したと発表した。ミサイルはイエメンの武装組織フーシ派が発射したもので、イスラエルに目標があり、それに対して向かっていた可能性があると分析している。
中国外務省は少なくとも1000人の中国人がイスラエルから去ったことを発表し、寧はイスラエル南部の都市スデロットで立ち往生していた280人の中国人も避難したと述べた。
レバノン南部のヒズボラの基地に対してイスラエルは攻撃したことを発表した。またイスラエルの日刊紙『Maariv』によって行われた世論調査では、イスラエル国民の65%がガザ地区での地上攻撃を支持し、21%が反対していることが判明した。一方、イスラエル国民の80%が、ネタニヤフは10月7日のハマス攻撃につながった国の失敗の責任を取るべきだと考えていることが示唆された。ネタニヤフに責任がないと考えている人は、一般国民のわずか8%に過ぎないことがわかった。
ALJAZEERAは「パレスチナへの支持は南アフリカで強い」と報道した。同メディアはこの要因を同国で発生したアパルトヘイトと重ねてのことだと分析している。
ラファ検問所にグテーレス国連事務総長が到着し「この壁の向こうでは200万人の人々が水も食料も、医薬品も燃料もなく、戦火の中で苦しんでいる。なるべく早くできるだけ多くのトラックを動かさなければならない」と発言した。また国連については「すべての当事者と搬入に向けた条件を詰めている」とした。
ハマースは「人道的な理由から」としてアメリカ国籍の母親と娘を解放し、イスラエルはガザ地区の境界で保護したと報告した。ハマースやメディアは解放の理由をカタールによる仲介によるものとしている。これに対しバイデンは「2人はひどい試練に耐えてきた」と解放を歓迎した。残ったアメリカ国籍の約10人の人質の解放についてブリンケンは全人質の解放を求めた。
バイデンはホワイトハウスから、ガザ地区への人道支援物資の搬入について「イスラエル側とエジプトのシシ大統領から確約を得ている。道路を舗装し直さなければならず、非常にひどい状態だ。これから24時間から48時間以内に最初の20台のトラックが通過するだろう」と発言した。
国際連合人道問題調整事務所の広報官は20日にスイスで行われた記者会見で「人道支援物資の搬入は21日以降の見通しである」と発言した。
エジプト外務省の広報官はSNSにて「西洋のメディアはエジプトに検問所閉鎖の責任を押しつけようとしているが、検問所を4回も攻撃し、物資の搬入を拒んでいるのはイスラエルだ。さらに外国人の出国を阻んでいるのもエジプトではない」と投稿した。
パレスチナ暫定自治区では、ガザ地区への連帯を示し、イスラエルに抗議するデモが各地で行われた。特にベツレヘムでは、金曜礼拝のあと大規模な抗議デモが行われた。
アメリカ国防総省報道官のパトリック・ライダー空軍准将は紅海北部で同国の軍艦カーニーによって、フーシ派が発射した巡航ミサイル3発とドローン数機の迎撃に成功したと発表した。
日本では、中核派関連団体により大規模なデモが発生し、そのデモの中でイスラエル大使館前で警察官にのぼり旗のポール部で額を押すなど暴行した疑いで24歳の男が公務執行妨害容疑で現行犯逮捕された。
イスラエル軍の報道官ハガリは21日、記者会見で「ガザ地区の南部の住民に水と食料と医薬品が届けられた」として支援物資がガザ地区に入ったことを明らかにし、軍事目的で使用される可能性のあるガソリンなどの燃料については、引き続きガザ地区への搬入を認めない考えを示した。また、ハガリは、これまでにガザ地区の住民およそ70万人が南部へと向かったとした上で、「戦争の次の段階に向けてガザ地区北部にあるハマースの拠点への攻撃を強化する」と述べ、ガザ地区の住民に対して南部へ向かうよう改めて呼びかけた。一方、ハマースについては「ガザ地区から発射されたロケット弾の5分の1にあたる550発以上がガザ地区内に落下し、誤爆によって罪のない市民を殺している」と主張している。このほか、ハガリは、これまでに210人の人質が確認されたと明らかにした。
複数メディアでラファ検問所の開放が報道され、現地時間午前10時半に開放が確認、30分後に本戦争開始後としては初の支援物資の供給が行われた。
カイロ平和サミットがエジプトの首都カイロで開催され、約30の国・地域、国際機関の代表が参加し、日本からは上川陽子外務大臣が出席し、本戦争についての話し合いも行われた。
ヨルダン川西岸地区では、ガザを支援する抗議デモが発生した。ファタハやロシアの国旗を掲げ、ロシア大統領のプーチンや北朝鮮の最高指導者金正恩の肖像画を掲げる映像もあった。
アメリカのオースティン国防長官は、USSドワイト・D・アイゼンハワー空母打撃群のアメリカ中央軍担当地域への配備を命じ、地中海東部のUSSジェラルド・R・フォード空母打撃群と合流することを発表した。
イラン司令官のエスマイル・カーニがシリアに訪問したという情報も流れた。
イスラエル軍の報道官は22日、ガザ地区への空爆を強化していると明らかにするとともに「政治レベルでの決定に従い、軍にとって最良の状態で次の段階へ移行するだろう」と述べ、地上侵攻を含む大規模な軍事作戦への準備は整っていると強調した。
イスラエル軍はガザ地区で高い建物やトンネルなどハマースの拠点を狙ったとする激しい空爆を続けていて、地元メディアは21日夜から22日にかけて少なくとも50人が死亡したと伝えている。
またガザ地区の周辺ではイスラエル軍が戦車部隊などを展開していて、22日にはガザ地区との境界線のフェンス近くでハマースの戦闘員2人を殺害したと発表した。
イスラエル軍はヨルダン川西岸でも22日、空爆を行った。軍の発表によると空爆されたのはハマースや他の武装組織の拠点として使われていたとするモスクで「最近、テロ攻撃を計画しているという情報を入手した」と主張している。
ラファ検問所に支援物資輸送の第二陣が到着、トラック17台で燃料を積んだものもあった。
イスラエル軍機がシリアのアレッポ空港とダマスカス空港を再び攻撃し、両空港を機能停止に追い込んだ。また攻撃によりダマスカス空港を拠点とするシリア気象局の職員2人が死亡した。
他、イスラエル軍はジェニンのアル・アンサル・モスクを攻撃し、内部で攻撃を計画していたハマースとイスラーム聖戦の「テロ工作員」数名を殺害したと発表した。
フランスの首都パリではパレスチナ支持派のデモは禁止されているが約1万5000人規模のデモが発生し、これは認められた。
イスラエル軍はエジプトとの国境付近でイスラエル軍の戦車がエジプト側の監視塔を誤って砲撃したと発表し、謝罪したのちに原因を調査中とした。これに対しエジプトは「イスラエル軍の誤射によって、エジプト兵数人が軽傷を負った。イスラエル側は誤射について即時に謝罪した」とSNS上で投稿した。
アメリカのオースティン国防長官はイスラエル軍のガザ侵攻計画に対し「市街地での戦闘は非常に難しい。ゆっくりとしたペースで進んでいくものだ」とし、その上で2016年から2017年にかけてイラク軍がイスラミックステート(IS)に対する軍事作戦によって、イラク北部のモスールを解放するのに9か月かかったことを挙げて「今回の戦闘はハマスが地下トンネル網を築き、戦闘準備に長い時間をかけてきたことからもう少し難しいかもしれない」と述べて、難しい作戦になるという認識を示した。
イスラエル軍は23日朝、この24時間でガザ地区で320か所以上の標的を空爆したと発表した。空爆ではハマースによって使われていた地下トンネルや作戦指揮所、監視ポストなどを破壊したとしている。この空爆でガザ地区では多数の死傷者が出ていて、地元メディアはおよそ400人が死亡したと伝えた。こうしたなかイスラエル軍の報道官は23日、地上部隊の作戦開始が政治的な決定で遅れているのかという質問に対して「われわれは作戦への脅威を減らし、与えられた時間を利用して最善の形で作戦を実行できるよう準備を整えていく」と答え、軍としては準備ができていると強調した。
イスラエル軍により、レバノン南部で軍機による夜間攻撃も実施された。
ハマースはイスラエル国籍を持つ、85歳と79歳の高齢の女性を2人解放した。その後ラファ検問所を経由してエジプト側に退避したあと、健康状態を確認するためテルアビブの医療機関に搬送された。一方、人質50人の解放の交渉はハマースの燃料の要求に反対したことから却下された。
EUが外相会議を開催し、ガザ地区で人道支援を行うための一時的な停戦について協議した。
また23日も支援物資がラファ検問所を通りガザへ行き、日本からの支援物資を積んだ日本国旗を掲げたトラックも見られた。
イスラエル軍はハマースによる残虐行為だとする映像を公開した。
フランスのマクロン大統領は、24日朝にイスラエルの空港に到着し、ハマスに捕らえられている人質の家族らと面会した。その後ヘルツォグと会談し、冒頭、マクロンは「まずはフランスとして支援と連帯を示したい。私たちが最初に目指すべきなのはすべての人質の解放だ」と強調した。
アメリカ海兵隊のグリン中将などをイスラエルに派遣したことを発表した。報道官は「彼らは助言しているだけで指示はしていない」とし、「イラクのような密集した市街地での戦闘経験があれば、民間人の犠牲を少なくするためにできる限りのことを行う重要性などの教訓を共有できる」とも述べた。
国連安全保障理事会は閣僚級の公開会合を開いて対応を協議した。その中でイスラエルとパレスチナ双方から外相が出席し、パレスチナ外相は「一般市民を標的にしたもので、非人道的で不法な無差別攻撃だ。これは国際法違反の集団的懲罰にあたる。一般市民の殺害はイスラエル人もパレスチナ人もいっさい正当化できない」とし、イスラエル外相は「この虐殺は歴史に刻まれる。ハマスは新たなナチスだ。文明世界がナチスを打ち負かすために団結したように、ハマスを打ち負かすために、世界は団結しなければならない。イスラエルにとってハマスを破壊することは権利ではなく義務だ」とし、互いを激しく非難する事態となった。
アメリカのバイデン大統領は、サウジアラビアの事実上の最高権力者である、ムハンマド皇太子と電話会談し、ホワイトハウスは両首脳は「地域全体の安定を維持し、紛争の拡大を防ぐため」に、より広範な外交努力を追求することで合意。今後一定期間にわたり両首脳は直接、あるいは両首脳のチームを通じて緊密な連携を維持するとした。また、ガザへの支援物資搬入を双方が歓迎。人質奪還に向けた各国の取り組みを評価しつつ、ハマースには残りの人質の即時解放を求めたということである。
10月24日、シリアから2発のロケット弾が発射された後、イスラエルの空爆によりダルアー県でシリア兵8人が死亡、7人が負傷した。
マクサー・テクノロジーズは戦闘前後のガザ地区北部の衛星画像を公開した。
25日夜、ガザ地区北部に限定的な侵攻を開始するも引き揚げ、イスラエル軍は「次の戦闘の段階に向けた準備だ」とした。また同日にはネタニヤフが演説でガザ地区への地上侵攻について「我々は準備しているが、いつ始めるかなど詳細を説明するつもりはない。タイミングは戦時内閣と軍の幹部たちと決定する」と述べている。
イスラエルのメディア「ハアレツ」はイスラエルなどの関係者の話として「多くの人質の解放が数日以内に実現するかもしれない」とした。一方『ニューヨーク・タイムズ』はアメリカ政府がイスラエルに地上侵攻を遅らせるよう要望しているとした上で、その理由について中東に展開するアメリカ軍を守るための防空ミサイルシステムの配備や人質解放に向けた交渉に時間が必要なためなどと報じた。『ウォール・ストリート・ジャーナル』(WSJ)もアメリカとイスラエルの政府当局者の話として、イスラエルがアメリカからの要請に応じて、ガザ地区への地上侵攻を遅らせることで合意したと伝えた。またWSJはハマースの戦闘員らがイスラエルへの大規模な奇襲攻撃を前にイランで訓練を受けていたと伝え、これに対しイラン側は否定した。
フランスは病院を支援するため、フランス海軍の艦船を派遣するほか、医療物資を積んだ航空機をエジプトに派遣することを明らかにした。派遣される艦船は、多くのベッドや手術室を備え、病院としての機能も持ち合わせていると政府は説明している。またイギリスも21トンの支援物資を送ることを決め、物資を乗せた飛行機が25日、エジプトに到着した。
ロシアのプーチン大統領は「今月7日のテロで殺されたイスラエル人などの遺族に哀悼の意を表したい」と述べた一方で「罪のない人々が他者による犯罪の責任を負うべきでない」と述べ、イスラエルによるガザ地区への地上侵攻の可能性に懸念を示した。その後アメリカを念頭に「特定の勢力がさらなる事態の悪化を誘発し、利己的な利益のために多くの国や民族を巻き込み、中東地域を越えて混乱と憎悪の波を起こそうとしている」などと、批判を展開、「世界中でナショナリズムや宗教的な不寛容をあおる西側勢力は、ロシアに対しても敵対的な目標を追求している」とも述べた。
アメリカのバイデン大統領は、オーストラリアの首相アンソニー・アルバニージーとの首脳会談後に行われた共同記者会見で、イスラエルが自国を防衛するために必要な支援をすると述べる一方で「困難であろうともできるかぎりのことをして罪のない市民を守らなければならない」と述べて、ガザ地区の住民の犠牲を最小限にすべきだと改めて強調した。
東京都目黒区のペットサロンで、ホームページが改ざんされ、英語で「われわれは常にパレスチナのイスラム教徒の同胞に寄り添っている」などといった主張が書かれる事件が発生、「IRoX Team」というハッカー集団が「自分たちがやった」とSNS上で主張した。その他世界でもハクティビストによるサイバー攻撃が行われている。
「戦闘の一時的な停止」などを求めるアメリカが提出した決議案の採決が行われ、15か国のうち10か国が賛成したが、ロシアと中国が拒否権を行使して否決された。これに対し中国の毛寧報道官は「中国側の立場は事実と正義に基づいており、国際社会、特にアラブ諸国の強い声に応えている」と述べ、アメリカの決議案に対して拒否権を行使した中国の立場を強調した。
アメリカのオースティン国防長官は、声明を発表し、イランの革命防衛隊やイランが支援する勢力が使用しているシリア東部の2つの施設を攻撃したと明らかにし、「イランの支援を受けたこれらの攻撃は容認できず、止めなければならない。攻撃が続くようであれば、われわれは自国民を防衛するため、さらに必要な措置をとることをいとわない」と強調し、攻撃の理由を「自衛のため」とした。
ガザ地区の保健当局はイスラエルの空爆などにより死亡した6800人分の名前や年齢、性別などをまとめた資料を公表した。
イスラエル軍はハマースが司令部などを置いているとみられる地下トンネルへの対応を専門とする「ヤハロム」という特殊部隊の映像を公開した。また、ハマースの情報部門ナンバー2であるシャディ・バルードを空爆で殺害したと発表している。
ハマース幹部アブマルズーク率いる代表団がロシアの首都モスクワを訪問し、外務次官のボグダノフと会談を行ったことをロシア連邦外務省が公表した。会談についてSNSでハマースは「イスラエルによるガザ地区への攻撃や、アメリカや西側諸国が支援しているイスラエルの犯罪を阻止するための戦略に焦点が当てられた。代表団はプーチンの姿勢を評価し、ロシア外交の積極的な役割を確認した。」とした。
イランの国営通信はアメリカから自制を求めるメッセージを戦争勃発以降複数回受け取っていたことを発表、国営通信はそれを踏まえて「イランはイスラエルの戦争犯罪が地域の国々の怒りを招き、新たな戦端を開くと警告してきた。イラクやシリア、レバノン、イエメンで起きていることがそれを示している。戦争の拡大を望まないというアメリカの主張が本当なら、ガザ地区で人々を殺すのを止めるべきだ」とした。
国連総会の緊急特別会合も開催され、ヨルダンが決議案を提出した。
国連総会にて、120ヵ国の賛成で「即時かつ持続的な人道的休戦」を求める決議案が採択された。
ハマースにより拉致された人質の数は229人であると発表された。
イスラエル軍はガザへの空爆は激化させ、さらに「地上軍の活動を拡大している」とした。またアル・シファ病院やインドネシア病院などにも攻撃は行われた。一方ハマースもロケット弾による攻撃を行い、テルアヴィヴなどに着弾した。
またイスラエル側は地上侵攻について「あらゆる前線で激しい作戦を展開している」と発表し、北東部ベイト・ハヌーン(英語版)と中部ブレイジ(英語版)に対し地上侵攻を開始、ハマースも「イスラエル軍が侵入し、激しい衝突が起きている」とこれらの戦闘を認めた。
2機の無人偵察機が紅海南部から北方向にイスラエルを目標として発射され、2機のドローンのうち、1機は墜落し、エジプトのタバにある病院に隣接するビルに命中し、6人が負傷した。もう1機は、エジプトのヌウェイバ(英語版)の町に近い砂漠地帯にある発電所の近くで、破片とともに撃墜された。フーシ派の高官はその後、ドローンがタバに墜落した後、X(旧Twitter)に一言投稿し、近くにあるイスラエルの町「エイラート」について言及した。
またガザ地区の携帯電話による通信とインターネットアクセスは遮断され、被害の全容や人々の安否がわからなくなる事態となった。
イスラエル軍は「ガザ地区で活動するジャーナリストの安全を保証できない」とする書簡を、ロイター通信などに送った。また「ハマスは意図的にジャーナリストや市民の周辺で軍事行動を展開している。このような状況のもとで、われわれはあなたたちのスタッフの安全を保証することはできない」とも書かれており、これに対しロイター通信は声明を発表し、「現地の状況は悲惨だ。イスラエル軍がわれわれのスタッフの安全を保証しないことは、戦闘のニュースを伝える力を脅かすことにつながる」として強い懸念を示し、AFP通信の幹部は「非常に危険な状況の中で働いている大勢のジャーナリストのチームがいることを、世界に理解してもらうことが重要だ」と述べた。
ネタニヤフは「昨夜、さらに多くの地上部隊がガザ地区に入った。これは戦争の第2段階だ」と地上侵攻について発言、CNNも28日「ガザ地区との境界に待機していた数百台の戦車や装甲車、それにブルドーザーがいなくなっている」と伝えた。またイスラエルは、前夜ガザ内に配備された部隊がまだ地上に残っており、イスラエルによるガザ地区侵攻が始まったと発表した。
ハマースは「イスラエルの刑務所に収監されているすべてのパレスチナ人受刑者の釈放を条件に、直ちにすべての人質を解放する用意がある」と人質の解放について述べた。
国連レバノン暫定軍本部には砲弾1発が着弾、被害者は出なかったものの、「いま活動している場所がぜい弱で、緊迫していて、極めて不安定な状況に置かれていることを示すものだ」とSNSで国連レバノン暫定軍は発信した。
2024年アメリカ合衆国大統領選挙で返り咲きを狙うドナルド・トランプは、自らが所属する共和党を支持するユダヤ系の団体の会合で演説し「私がホワイトハウスに戻ったら、100%イスラエルの味方になる。残虐な行為への報復を行いハマスを壊滅させるため全面的に支援する」とアピール、「バイデン大統領のようにすり寄るのではなく、テロ資金を調達する能力が完全になくなるまで制裁を加える」「この戦争はイランとの関係修復を模索するなどしたバイデン政権の「弱腰」な外交がもたらしたものだ」と発言した。
イーロン・マスクは自身がCEOを務めるスペースXの衛星通信網「スターリンク」のサービスをガザ地区に提供すると発表した。一方、スターリンクを利用するには専用のアンテナなどが必要で、ガザ地区への物資の搬入が極めて厳しく管理されるなかイスラエルが機器の搬入を認めるかは不透明である。
軍の報道官はガザ地区に追加の部隊を派遣したことを明らかにするとともに「われわれは計画に従って戦争の段階を進めており、地上での軍事行動を徐々に拡大させていく」と述べ今後、地上戦の規模が大きくなるという認識を示した。
米大統領補佐官のジェイク・サリバンは29日、ABCテレビのインタビューでガザ地区への軍事行動を拡大させているイスラエルについて「イスラエルには自国をテロから防衛する権利と義務があるが、同時にテロリストと一般の民間人を区別する責任がある」と述べて民間人の保護に力を尽くす必要があると強調し、イスラエル側に働きかけを続ける考えを示した。
イスラエルと敵対するイランの外相であるアミールアブドッラーヒヤーンは、サウジアラビア外相のファイサルや、カタール外相のムハンマドと会談を行った。
国際刑事裁判所(ICC)は「イスラム組織ハマースが今月7日にイスラエルを襲撃した際に行ったとされる犯罪とイスラエルがパレスチナで行ったとされる犯罪、双方について捜査を行っている」と発表した。加えて「悲惨な人道状況が広がっている」と述べた上でイスラエルを名指しこそしなかったものの「子ども、女性、男性、民間人への人道支援が妨げられることがあってはならない。彼らに罪はなく、国際人道法のもとでの権利がある。こうした権利が奪われれば、刑事責任すら生じる」と述べ、支援物資の搬入を加速させるよう求めた。
バル・イラン大学のジョエル・ロスキンはハマースの地下トンネルについて解析を進め、トンネルの深さは20階建てのビルに相当する70メートル余りに達するとして、長さも300キロメートルから500キロメートルに及ぶとした。そのうえでロスキンは「地下トンネルを軍事やテロのために活用するハマスの手口は非常に巧妙だ。指令やロケット弾の発射、人質の収容にとどまらず、ゲリラ作戦にも使われていて、これほどまで多岐にわたる使い方をしているのはほかに類を見ない」と日本放送協会(NHK)の取材に答えた。
また#10月27日以降に遮断されていたガザの通信サービスが徐々に復旧されていることが確認された。また水を供給するパイプラインのうち3本中2本が復旧したことも確認された。
アメリカ国務省の報道官ミラーはアメリカがイスラエルに対し、電話やインターネットの通信サービスの復旧を要請していたことを明らかにした上で「イスラエルが復旧に向けた措置をとったことを歓迎する」と述べた。また「通信サービスを確保することは、重要な情報を伝達し、人道支援を継続させ、家族が連絡を取り合うために重要だ」ともした。
国連安保理が開かれ、10月27日に国連総会で人道目的での休戦などを求める決議が採択されたことを受けて、各国からイスラエルに対し、ガザ地区の住民の保護を求める意見が相次いだ。ガボンの国連大使ミシェル・グザヴィエ・ビアンは「イスラエルの激しい空爆と地上作戦がこの戦争の死傷者を悲劇的に増加させている」と述べ、決議が求めた休戦に応じるよう訴えた。アメリカの国連大使トーマスグリーンフィールドは「イスラエルにはテロから自国を守る権利はあるが、国際人道法を順守しなければならない」と述べる一方、先の国連総会の決議については「ハマスの行動が非難されていないのは不合理だ」として、改めてイスラエルを擁護する姿勢を見せ、ロシアの国連大使ネベンジャは、総会決議の翌日にイスラエル軍が地上作戦を拡大したと非難したうえで「アメリカはイスラエルによる大規模な報復を支持しているのか」と詰め寄りアメリカも非難した。
ハマースは3人の女性の人質の映像を公開した。また、レイム音楽祭虐殺事件で拉致された23歳のドイツ系のイスラエル人が死亡した。この人質の死亡についてイスラエル外務省は「ハマスによって音楽イベントから誘拐され、拷問され、見せもののようにガザ地区で連れ回され、計り知れない恐怖を経験させられた」と追悼の意を表した。
ガザ地区保健当局は北部にあるトルコ・パレスチナ友好病院が攻撃を受けたと発表した。これに対し病院の建設に携わったトルコの外務省は「ここはガザ地区における唯一のがん治療のための病院だ。病院の位置情報をイスラエル当局に事前に提供したにもかかわらず、攻撃があったことは説明がつかない」「ガザ地区の封鎖や、非人道的な攻撃は明らかに国際法に違反している」とした。
イスラエル軍は「イスラエルに対しロケット弾を発射したシリアの地点に対してイスラエル軍の戦闘機が攻撃した。また、レバノンのヒズボラの関連施設も攻撃した」と公表、シリアの国営通信は30日、軍関係者の話として「イスラエルは30日未明、シリア南部ダラア郊外にある軍事施設2か所に空爆を行った。ある程度の物的被害が出ている」と伝えた。
軍事施設など1日で約300か所攻撃とイスラエル軍が発表した。ガザ地区北部のジャバリア難民キャンプに大規模攻撃が行われ、外国籍3人を含む7人の人質が死亡した。ジャバリア難民キャンプ付近は古いコンクリートの建物が密集し人口密度が特に高くなっていたことから、ジャバリア難民キャンプの映像では地面に爆発によるものとみられる巨大な穴が複数あり、広い範囲が完全に崩れ落ちてがれきと化していた。この難民キャンプへの攻撃に対し国連難民高等弁務官事務所の難民高等弁務官グランディは31日、米国ニューヨークにある国際連合本部で記者団に対し「われわれがこれまで見てきたなかで最悪の事件だ」と述べた。またイラン外務省報道官は「戦争犯罪のリストに加わることになる」と警告、カタール外務省も声明で「多くの罪のない人たちを死傷させたイスラエルの爆撃を、無防備な人々の虐殺だとみなす」と強いことばで非難しイスラエルによる民間施設に対する攻撃の拡大は仲介と緊張緩和の努力を損なうことになる」として、人質解放に向けた交渉にも支障が出るおそれがあると指摘した。
イスラエル軍は「ガザ地区北部でハマスの拠点の一つとなっている建物に大規模な攻撃を行い、10月7日の襲撃で重要な役割を果たした指揮官を多くの戦闘員とともに殺害した」とSNSで投稿した。殺害された指揮官はガザ地区北部でのイスラエル軍に対する作戦を指揮していたとしていて、地下にあるハマスの軍事施設も破壊したとみられる。この攻撃により付近の病院などが被害を受け、病院の担当者は少なくとも50人以上が死亡したとした。
また再び電話とインターネット通信が一時、完全に遮断された。
イエメンのフーシ派は、ガザ地区への軍事作戦を続けるイスラエルに対して弾道ミサイルなどを発射し、ハマス側に加勢すると表明した。
ハマスの軍事部門カッサム旅団の報道官は31日「拘束している何人もの外国人を向こう数日のうちに解放すると仲介者に伝えた」と人質解放に向けた交渉が続いていることを伺わせた。
南米にあるボリビアのプラダ大統領府相(暫定外相を兼務)は、ガザ地区攻撃での民間人被害を「人道に対する罪」として非難し、イスラエルと外交関係断絶を表明した。ボリビアとともにイスラエルを非難してきた同じ南米のコロンビアとチリも協議のため駐イスラエル大使を呼び戻した。
米国務長官のブリンケンなどが出席して開かれたイスラエルへの支援について議論する公聴会では、「イスラエルへの支援はもうやめて」「ガザでの停戦を」と書いたプラカードを掲げたり、「アメリカはガザでの虐殺を支援している」「アメリカ国民は悲惨な戦争への支援を望まない」と叫ぶなど傍聴していた人たちが停戦を訴えたりする騒動が発生し、退席させられた。
エジプトの首相モスタファ・マドブーリーは会見で「われわれの目的は人道危機に対処することだ。国内外からの支援をガザ地区の人々に届けることに最善を尽くしている」と述べガザ地区への支援急ぐ姿勢を強調した。
イスラエル軍は、ジャバリア難民キャンプに対して2日連続で攻撃を行った。この攻撃により195人が死亡し、およそ120人ががれきの下敷きになるなどして行方不明であるとガザ保健相は発表した。
イスラエル軍のハガリ報道官は1日、難民キャンプへの攻撃でハマスの対戦車砲部隊のトップを空爆で殺害したと発表し、「地上作戦は事前の計画と具体的なインテリジェンスに基づき、陸と海、そして空からの合同作戦を遂行している」と説明した。
ジャバリア難民キャンプへの2日連続の攻撃に対して、フランス外務省は「パレスチナの住民が多くの犠牲を強いられたことを深く憂慮する。民間人の保護はあらゆる者に課せられた国際法上の義務だ」と懸念を示したほか、アルゼンチン外務省は1日、声明で、イスラエルの自衛権を認めるとしながらも、「国際人道法の違反は正当化できない。数百人を死傷させたイスラエル軍によるジャバリア難民キャンプへの攻撃を非難する」として、病院や民間のインフラ施設への攻撃を停止するよう訴えた。ヨルダン外務省も1日、「前例のない人道上の大惨事だ」として、イスラエルから大使の召還を決定したと発表した。
また、難民キャンプへの攻撃に対しての避難は国家だけでなく、国際機関にも広がっている。1日には国連人権高等弁務官事務所が、「民間人の多大な犠牲と破壊の規模を考えると、これは戦争犯罪にも該当しうる過度な攻撃だと懸念する」とSNSに投稿し、強く非難している。
ハマースは「イスラエル軍はジャバリア難民キャンプで24時間以内に2度目の犯罪を行った。権威主義的で無法な組織の行動に終止符を打つべく、私たちは国際社会のメンバーなどに対し、政治的・道徳的責任を果たすよう、緊急に呼びかける」としてイスラエル軍を強く非難した。
アメリカのバイデン大統領は演説を行い、演説の中で、外国国籍を持つ人々などの退避は今後、数日間、続くという見通しを示した。バイデンは退避に向けて、イスラエルのネタニヤフ首相、エジプトのシシ大統領などと協議を重ねたほか、カタールからも協力を得たとし、「これはアメリカによる集中的な外交の成果だ」と強調した。
前日に参戦を表明したフーシ派の報道官ナセルディン・アメルがオンラインでのNHKのインタビューに応じ、イスラエルに対して行われた攻撃はすべてイエメン本土から発射されたものだとした上で、「攻撃は始まったばかりだ。今後、これまでとは比べものにならない強力な攻撃をイスラエルに仕掛ける」と述べ、今後も弾道ミサイルなどを使ってイスラエルを攻撃すると明らかにし、「イスラエルが反撃することは想定内だ。それに対する準備も整っている。私たちは4年も5年も前からイスラエルへの攻撃を想定して準備を進めてきた。私たちとイスラエルとでは力の差は大きいが、それでも大きな打撃を与えることができる」と主張した。一方で、フーシ派がイスラエルと敵対するイランの支援を受けていることについては「イランからの支援には感謝している。私たちはイランだけではなく、ハマスやヒズボラなど多くの勢力と協力している」として、イランが中東各地で支援する「抵抗の枢軸」と呼ばれるネットワークの一員として、イスラエルに抵抗し続けると強調した。
3日連続でジャバリア難民キャンプの大勢の住民が避難する国連機関が運営する学校で爆発が起き、保健当局は27人が死亡したと発表した。また、同じガザ地区北部のシャーティ難民キャンプでも学校の校庭に砲弾が着弾したほか、地元当局はガザ地区中部のブレイジ難民キャンプでも空爆があり、少なくとも15人が死亡したとした。ハマスの報道官は現地のテレビ局に、「イスラエル軍によって南北をつなぐ道路が分断され、避難する人のための安全な道路が失われた」と述べ、けが人を南部に運ぶことができないと訴えた。
イスラエルから退避した日本人20人と韓国人やベトナム人など合わせて46人を乗せた航空自衛隊の輸送機が羽田空港に到着した。
CNNは、シリアのアサド政権がヒズボラに対して、ロシア製の防空システム(パーンツィリ-S1)を供与することに同意したことを報道した。
アメリカ合衆国議会下院で共和党がイスラエルに対する支援としておよそ140億ドルを提供する予算案を出し、議会は賛成多数でこれを可決した。同日にはカービー戦略広報調整官が2日の記者会見で、「バイデン大統領はすべてが国の安全保障にとって緊急で重要だと考えている」と述べた。
ブリンケン米国務長官が首都ワシントン近郊の空軍基地を出発し中東訪問が開始された。出発前にブリンケンは「イスラエルには自国を防衛し、このようなことが二度と起きないよう措置を講じる権利と義務がある。ただイスラエルがどのように行うかが重要だ」と述べ、民間人の被害を最小限に抑える方策について議論する考えを示した。
米戦略広報調整官のカービーは、ヒズボラの動きについて、「イスラエル北部でイスラエル軍への攻撃が続いていることを懸念している。しかし、ヒズボラが総攻撃をしかける準備ができているという具体的な兆候はまだ見られない」「もし、ヒズボラがこの戦闘を拡大し、エスカレートさせようと考えているのであればそうすべきではない。ここはわれわれの国家安全保障上、重要な場所で、これまでも守り抜いてきたし、今後もそうするだろう」と指摘・牽制した。
ガザ地区内のAFP通信の事務所がイスラエル軍の攻撃にさらされ破壊されたものの、中にいた8名は全員無事だった。AFP通信は声明で攻撃について「今回の攻撃を可能なかぎり最も強いことばで非難する。事務所は誰でも知っている場所にある。ガザ地区で活動するジャーナリストが保護され、取材活動は尊重されなければならない」とした。
ブリンケン米国務長官は、イスラエルを訪問してネタニヤフ首相やヘルツォグ大統領などと会談した。その後、会見を行い「イスラエルには自衛する権利や義務があるが、どのように行うかが重要だ」と述べ、国際人道法を順守し、ガザ地区の民間人の犠牲を最小限に抑えることや、人道目的での「戦闘の一時停止」を働きかけたことを明らかにした。また、「戦闘の一時停止をどのように人質の解放につなげるかや、ハマスがそれを悪用しないためにはどうすればよいのかは早急に話を詰める必要がある。この問題についてアメリカはイスラエル側と具体的な解決策を見つけるため、議論を続けることで合意した」や「ハマスが燃料を必要とする病院などへの供給を拒んでいる。皮肉にもほどがある。アメリカは国連とともに支援が行き渡るよう話し合いを続ける」とも述べた。
ヒズボラの最高指導者ナスララ師は戦闘後初の会見を開き、この中で、ナスララ師は、最初にハマスが実行した奇襲攻撃「アルアクサの洪水」など一連のイスラエルとの戦闘について、「アルアクサの洪水の戦闘は複数の戦線に拡大した」と述べ、イスラエルとの戦いにはその後、ヒズボラや、イエメンの反政府勢力フーシ派も参戦したと明言し、「イスラエルはガザ地区で虐殺をすることによって成果をあげることはできない」と指摘した。この会見を巨大スクリーンで映していたテヘランでは「イスラエルに死を、アメリカに死を」とヒズボラの旗を振る人々が見られた。
日本の上川陽子外相はイスラエルを訪問してイスラエル外相のコーヘンと40分間会談を行い、上川が「イスラエルの方々との連帯の意を伝えるために訪問した。ハマスの攻撃はテロであり、赤ちゃんから子ども、女性や高齢者も含めて、一般の市民に対する攻撃と誘拐はどのような理由であれ正当化できず、断固非難する。犠牲者に心から哀悼の意を表するとともにハマスによって誘拐された人たちの一刻も早い解放を心から祈っている」、コーヘン外相が「10月7日はユダヤ人にとってホロコースト以来の最悪の日だった。日本のイスラエルに対する支援と連帯に感謝する」述べた。
米政府高官は、記者団に対しハマス側に拘束されている人質を解放しガザ地区から脱出させるには戦闘の一時停止が必要だという認識を示し、すべての人質の解放に向けてあらゆる取り組みが行われているとした上で「人質は200人以上かもしれない。それだけの人質をガザから脱出させるにはかなり大幅な戦闘の一時停止が必要になる。非常に真剣で活発な議論が行われているが合意はまだない」と述べた。
アメリカは人質の解放に向けた支援の一環としてガザ地区上空にアメリカ軍が無人機を飛行させていることを明らかにし、アメリカ海軍は空母ジェラルド・フォードとアイゼンハワーを中心とする空母打撃群が東地中海で3日間にわたって1万1千人以上が参加する合同演習を行ったと発表した。
イスラエルは「ヤハロム」によりガザ地区内でハマスが構築した地下トンネルを破壊する様子を動画で公開した。これに対してハマースのカッサム旅団も、地下トンネルの中を進み、茂みの中からイスラエル軍を攻撃する様子や、住宅地で行われている市街戦の様子をうつした動画を公開して、対抗した。
ガザ北部のシファ病院近くでは2台の救急車がミサイルによる攻撃を受けたと明らかになり、WHOなどから非難が相次いだ。これに対してイスラエル軍は「ハマスが使っていた救急車1台を特定し、攻撃した」と主張した。アルジャジーラは、他の病院近くで撮影されたとする映像を放送し、映像では、地面に大きな穴があき、炎が上がる様子や、多くの人が集まり、けが人を運ぶ様子が確認できる。
マガジ難民キャンプがイスラエル軍により攻撃され、40人以上が死亡した。ジャバリア難民キャンプで爆発があり、15人が死亡し70人が怪我をした。
カッサム旅団はSNSを通じて、戦闘員がガザ地区北部でイスラエル軍と衝突し、車両10両を破壊したとする映像を公開した。11月2日から3日かけて撮影されたとする映像には、ハマスの戦闘員が、複数の場所でイスラエル軍の戦車などに対戦車砲を発射する様子が写っており、いずれも市街地で撮影されたものとみられ、戦闘員が物陰や鉄柵のすき間から狙いを定める姿や、車両のすぐ近くまで近寄って攻撃し、爆発で辺りが煙に包まれる様子が確認できる。また、戦闘員がイスラエル軍の車両によじ登り、火をつけたあと、緑色のハマスの旗をとりつけて立ち去る様子も写っている。
イスラエル軍はハレビ参謀総長がガザ地区に入り地上部隊を視察している様子だとする映像を公開し、集まった将校らを前に「あなたがたのことを誇りに思う」などと激励した。
ブリンケン米国務長官はヨルダンで、エジプトやサウジアラビア、カタールなどアラブ諸国の外相らと会談した。会談後、ブリンケンは、ヨルダンのサファディ外相やエジプト外相のサーメハ・シュクリとともに記者会見を行い、会談で人道支援や戦闘の拡大を防ぐ手だてなどをめぐって、意見を交わしたことを明らかにした。会見でサファディやシュクリが民間人の犠牲を防ぐため即時停戦が必要だと述べたのに対し、ブリンケンはイスラエルの自衛の権利を支持する立場を改めて示した上で「いま停戦を行うと、ハマスがとどまり、再編成し、10月7日の行いが繰り返されるだけだ」と述べ、停戦はハマスを利するだけだと主張し「ガザ地区の民間人の窮状を深く懸念している。だからこそ、人道目的での『戦闘の一時的な停止』が必要だ」と述べ、引き続きイスラエルに対し、ガザ地区への必要な物資の搬入や民間人の避難などのために「戦闘の一時的な停止」を求めていく考えを強調した。
ガザ地区全域で大規模な通信遮断が発生した。
イスラエルのエルサレム問題・遺産相のアミハイ・エリヤフが地元ラジオのインタビューで、ハマスが実効支配するガザでの核兵器使用を容認する考えを示し、これに対し人質の家族らでつくる団体は「ユダヤ人とイスラエルの倫理に反する衝撃的発言だ」と解任を要求した。ネタニヤフも「現実離れしている」と発言した。日本においても非難は相次ぎ、全国の被爆者団体で作る日本被団協の箕牧智之代表委員は「発言がおどしなのか本気なのかは分からないが、『核』と聞いただけで寒気がした。ロシアによるウクライナ侵攻など世界中で争いが起き、いつ核兵器が使われてもおかしくないような状況だが、世界の指導者は核兵器が使われないために動くべきで、こうした発言は慎んでほしい」と非難した。
イスラエル軍は地上侵攻以降2500か所以上のハマス拠点を攻撃したと報告した。また、午前10時から午後2時までの4時間、ガザ地区を南北に貫くサラハディン通りを開放すると2日連続で発表し、住民に南部への退避を呼びかけていて、住民の犠牲を減らす姿勢をアピールした。
ブリンケン米国務長官はキプロスを訪問し、フリストドゥリディス大統領と会談を行った。「キプロスからガザ地区へ人道支援物資を海上輸送する計画についても詳細に話し合った」とされる。またイラクを訪問しイラクとシリアに駐留するアメリカ軍の部隊に対し、無人機やロケット弾による攻撃が相次いでいることに対してはブリンケン米国防長官は「イランと連携する武装勢力からの攻撃や脅迫は、決して容認できない」とけん制した。
イランの最高指導者であるハメネイ師は、ハマースの最高幹部ハニーヤがイランを訪れたことを明らかにした。そのうえで「ハニーヤ氏はガザ地区の情勢などを説明し、これに対してハメネイ師はガザ地区の人々の辛抱強さをたたえるとともに、アメリカなどの直接的な支援を受けたイスラエルの犯罪を強く非難した」としている。
トルコの首都アンカラでフィダンとブリンケンが会談に臨んだ。会談後、ブリンケンは「ガザ地区への人道支援物資は今後数日で、拡大できるだろう」と述べ、ガザ地区への人道支援物資の搬入の状況が改善されることに期待を示した。
国連人道問題調整事務所などの国連機関や国際NGOの代表、18人が連名で声明を発表し、「30日がたった。もう十分だ」として即時の人道的な停戦などを求めた。
IDFはSNSでガザ地区北部にある「インドネシア病院」が、ハマスの地下の指令拠点の隠れみのになっていると主張した。インドネシア病院はインドネシアの人道支援団体が資金援助を行い建設され、パレスチナが運営する病院である。団体側は6日、ジャカルタで会見してイスラエル軍の主張を否定するとともに、「イスラエルの非難は、インドネシア病院を攻撃する前提条件になりかねない」と懸念を示した。その上で「国際社会に対し、法律で明確に保護されている機関や施設、病院を保護するよう強く求める」と訴えた。また、インドネシア外務省も7日に声明を発表し、「インドネシア病院は完全に人道的な目的でパレスチナ人の医療ニーズにこたえるために建設された」と述べIDFの主張を否定した。
ホワイトハウスはバイデン大統領がイスラエルのネタニヤフ首相と電話で会談し、人道支援を目的とした「戦術的な戦闘の一時停止」について協議したと明らかにした。
パレスチナ人が多く住む東エルサレムにある警察署の近くで6日、イスラエルの警察官2人がパレスチナ人の16歳の少年に刃物で刺され、その内20歳の女性の警察官は病院に運ばれたがその後、死亡が確認され、もう1人は軽いけがをした。少年はすぐに射殺されイスラエルの治安部隊は事件に関与したとして複数の容疑者を逮捕した。
戦闘開始から一カ月が経過した。経過時点でIDFが投下した爆弾の量がアフガニスタン戦争において2019年の1年間においてアメリカが投下した爆弾量を超えたことが判明した。
午前5時すぎから対応を協議する安保理の緊急会合が開かれた。非公開の会合は日本時間の7日午前7時すぎに終了し議論の詳しい内容は明らかになっていないが、会合の開催を要請した中国やUAEなどは「即時停戦」を求める安保理決議が必要だと呼びかけたとみられている。一方、イスラエルを擁護するアメリカはこれまで、人道目的の「戦闘の一時的な停止」を行うべきだとする一方、「停戦」については「ハマスを利することになる」と否定的な姿勢を示している。
緊急会合の後、今回の会合を要請した中国の国連大使・張軍とUAEの国連大使ヌサイベがそろって会見し、ガザ地区の民間人を保護するための「人道的な停戦」が必要だと述べた。一方、アメリカのウッド国連次席大使は記者団に対し、「人道的な戦闘の一時停止について協議した。その点を追求することに関心をもっているが、各国の間で意見の相違がある」と述べ、「停戦」を求めるか「戦闘の一時停止」を求めるかで対立があることを明らかにした。
イスラエル軍は、ガザ地区最大のアル・シファ病院での「ハマースに対する標的を絞った作戦」を実行。戦車6台と特殊部隊員約100人が夜間に病院に入った。イスラエル軍が病院を「完全に支配」(病院内のジャーナリスト)した。ハマースの武器や装備を発見したとし、映像を公開したが、ハマースは「ばかげており無価値」。イスラエル軍が「武器を持ち込んで置いた」可能性があるとしたことに触れ、病院地下にはイスラエルが主張するような活動拠点はないとしている。エルサレムで取材中のBBCのオーラ・ゲリン記者は、これらの映像からは、病院内での作戦によってイスラエル軍が主要な武器庫を発見したとは確認できないとした。ガザ地区保健当局は、病院内では「抵抗する人も拘束された人もいない」ので「一発の銃弾も」発射されていないと、語った。アル・シファ病院の外科部長のマルワン・アブ・サアダ医師は、イスラエル軍の襲撃で放射線科が大きく破壊された。イスラエル軍は男性らの手を縛って一つの部屋に隔離し、CTスキャナーやMRI機器などを壊し、メンテナンス担当の職員2人が拘束されたとたと話した。この時点では、イスラエルの報復攻撃で1万1000人以上が殺害され、うち4500人以上が子どもであった。イスラエル軍による病院内の作戦の是非は、世界で激しい議論になった。
安保理にて、ガザ地区の人道的休止と回廊設置を求める決議が採択された(ロシア、イギリス、アメリカ合衆国が棄権)。
イスラエル軍は19日、紅海南部のイエメン沖で船舶が拿捕されたと発表した。日本の国土交通省は、日本郵船から日本時間同日午後10時すぎ、同社運航の自動車運搬船「ギャラクシー・リーダー」が「拿捕されたようだ」との連絡を受けたと明らかにした。船にはウクライナやフィリピン、メキシコなど多国籍の船員25人が乗船。貨物は積まれていない。乗組員に日本人はいない。フーシ派は19日、「イスラエルの船」をイエメンの沿岸へ連行したと発表。「抑圧され、イスラエルの恐ろしい爆撃下にあるパレスチナ人への人道的、道徳的責任に基づく作戦だ」と主張した。船はトルコからインドに向けて航行していた。イスラエル人は乗船していない。
20日に行われた閣議の後松野博一官房長官はイエメンの親イラン武装組織フーシによる日本郵船が運航する自動車輸送船「ギャラクシー・リーダー」の拿捕に関し「断固非難する」と発言した。また「関係省庁が情報収集を進め、関係国と連携しながら船舶および船員の早期解放のため取り組んでいる」「イスラエルとも意思疎通を図り、当事者のフーシ派への直接の働きかけに加え、サウジアラビア、オマーン、イランなどの関係国に船舶および船員の早期釈放をフーシ派に強く求めるよう働きかけている」と説明した。
イスラエルとハマスが50人の人質の解放と引き換えに4日間の停戦に合意したと発表された。
イスラエルとハマースが、午前7時(現地時間)からガザでの4日間の戦闘休止に入った。この合意では、ハマース側が女性と子供計50人を解放し、イスラエル側はパレスチナ人の女性と子供計150人を釈放する。また、ハマースが追加で人質10人を解放するごとに戦闘休止期間が1日延びる。
ハマースに拘束されていた人質24人が解放されたと発表された。内訳はイスラエル人の子供4人、30~50歳代3人、70歳代以上6人とタイ人10人、フィリピン人1人。解放された人質は、ガザから赤十字国際委員会の付き添いでエジプト側境界のラファ検問所に出た後、イスラエルの病院に搬送された。また、人質解放の引き換えとしてハマースが要求したパレスチナ人収監者39人が釈放されたと発表された。内訳は未成年者15人と女性24人で、28人はヨルダン川西岸に、11人は東エルサレムに送還された。この際、釈放される人を迎えようと集まった家族らが警備のイスラエル軍と衝突し、軍の発砲でパレスチナ人31人が負傷した。バイデンは人質解放について、「人質が救出され、愛する人と再会できたことに感謝しなければならない」と歓迎し、「始まったばかりだが、今のところは順調だ」、「あすにはさらに多くの人質が解放され、その後も続くだろう」との見方を示した。
戦闘休止期間2日目
ハマースが、ガザへの援助物資搬入などを巡りイスラエルが合意を守っていないと主張し、人質の解放を遅らせると発表したが、カタールやエジプトの仲介により解消され、人質17人が解放された。内訳はイスラエル人の女性5人、子供8人とタイ人4人。また、イスラエル側もパレスチナ人39人を釈放した。
戦闘休止期間3日目
ハマースが人質17人を解放し、イスラエルもパレスチナ人39人を釈放した。解放された人質の内訳は子供9人を含むイスラエル人14人とタイ人3人。
ネタニヤフが10月7日の戦争開始以降初めて、ガザを訪れた。
翌日に期限切れとなる4日間の戦闘休止について、ハマースが「延長を求めている」とする声明を発表し、ネタニヤフも延長する用意があると述べた。
戦闘休止期間4日目、当初の合意での最終日
ハマースが人質11人を解放し、イスラエルもパレスチナ人33人を釈放した。解放された人質は全員が二重国籍のイスラエル人で、内訳はフランス国籍3人、ドイツ国籍2人、アルゼンチン国籍6人。
イスラエルとハマースがガザでの戦闘休止を2日間延長することで合意した。
戦闘休止期間5日目
ハマースが人質12人を解放し、イスラエルもパレスチナ人30人を釈放した。解放された人質の内訳は未成年者と女性のイスラエル人10人と、タイ人2人。
イスラエルとハマースの間で、戦闘休止の合意に違反する小規模な衝突があった。
戦闘休止期間6日目
ハマースが人質16人を解放し、イスラエルもパレスチナ人30人を釈放した。解放された人質の内訳はイスラエル人12人、タイ人4人。
戦闘休止期間7日目
1度目の延長合意ではこの日の午前7時で期限が切れた。
その後、イスラエルとハマースが戦闘休止を少なくとも1日延長することに合意した。ハマースは、イスラエルが戦闘休止延長に向けた人質解放案を拒否したと述べていたが、その後戦闘休止期間終了の数分前になって、イスラエル軍が戦闘休止を継続すると表明した。
戦闘休止の延長の発表直後に、エルサレムで2人のパレスチナ人が発砲し、3人が死亡し、8人が負傷した。イスラエルは容疑者2人がハマースに関係していると主張している。
イスラエル軍によるガザ南部への侵攻が開始された。これに伴いガザ南部の都市・ハンユニスへの攻撃が開始された。
IDFはハマースが軍事目的に使っていると見られるトンネルを800か所以上発見し、このうちおよそ500か所を破壊したと発表した。
また、フーシ派はバーブルマンデブ海峡でイスラエルの船舶2隻に対する攻撃を行ったと発表。1隻についてはミサイルで、もう1隻については無人機での攻撃を行ったとしていて、「イスラエルがガザ地区への侵攻をやめないかぎり、イスラエルの船舶による紅海などでの航行を阻止し続ける」などと声明を出した。これに対しイスラエル側も声明を発表し「きょう、イスラエルとは関係のない商船2隻にミサイルが発射された。1隻は重大な損傷を受け、沈没の危険にさらされており、もう1隻は軽度の損傷を受けた」とし、船舶はイスラエルとは関係ないとした。このような攻撃に対してアメリカは、国防総省の報道担当者は、「紅海でのアメリカ軍のミサイル駆逐艦『カーニー』と複数の商業船への攻撃に関する情報は把握している」として、何者かによる駆逐艦などへの攻撃があったと明らかにした。
そのほか、アメリカ中央軍は紅海南部の国際水域を航行していた商船3隻が4回にわたって攻撃を受け、アメリカ海軍のミサイル駆逐艦が無人機を撃ち落とすなど対応したとし、フーシ派による別の攻撃があったと述べた。『カーニー』が午前9時すぎ、フーシ派の支配地域からイギリスの会社が所有・運航するバハマ船籍の貨物船に向かって弾道ミサイルが発射され、近くに着弾したのを確認、午後3時半、別のイギリスなどの会社が所有・運航するパナマ船籍の商船は、フーシ派の支配地域からミサイル攻撃を受けて損傷したほか、午後4時半にはパナマ船籍の貨物船で、8か国の船員が乗り組む別の船舶もミサイル攻撃を受けたということである。
イスラエル軍の報道官は記者会見で、ハマースの掃討を目指した地上作戦をパレスチナ自治区ガザ中部にある複数の難民キャンプに拡大したことを明らかにした。加えてIDFは中部ブレイジの難民キャンプで見つかった地下トンネルの入り口や軍事訓練施設だとする写真や映像を公表した。地元紙『タイムズ・オブ・イスラエル』によると、ガザ北部のガザ市付近に展開していた部隊がブレイジに転戦したということである。
ヘルツィ・ハレビ参謀総長は「ガザ北部のハマス部隊の解体完了が近づいている」との見方を示し、「現在は南部のハンユニスや中部の難民キャンプでの活動に集中している」と述べた。
一方ヒズボラからの攻撃も相次ぎ、イスラエル北部の国境近くにあるキリスト教の教会に対戦車ミサイル1発が命中し、住民1人が負傷した。それに対応するようにイスラエル軍もヒズボラ側を砲撃したことが報告されている。
ハマース戦闘員によるイスラエル人や外国人の誘拐が行われている。
また、ハマース戦闘員がイスラエル国内で民間人の虐殺を行ったことが指摘されており、イスラエル南部地区レイムで行われていた音楽祭の会場から250人以上の遺体が発見され、数多くの拉致や残虐行為の目撃が報告されたレイム音楽祭虐殺事件のように、民間のイベント会場や集落をハマース戦闘員が無差別に襲撃している。イスラエル軍報道官の発表によると、一連のハマース戦闘員の行動によってイスラエル史上最大の民間人虐殺が行われたとされており、現時点でもクファルアザ(英語版)で虐殺が確認されている。スデロットでは民家への放火も確認されている。ハマースによる拉致被害は多く確認されており、イスラエル人だけでなくドイツ人1人やタイ人11人なども拉致された。ハマースのロケット弾は主に無誘導爆弾であり、イスラエル国防軍によると戦闘開始から7日間で6000発以上のロケット弾がハマースからイスラエル側の広い範囲に打ち込まれた。また以前からハマースがガザ地区の学校や病院を軍事拠点化しているという指摘も専門家からなされており、イスラエル軍も同様の主張を行っている。
ジュネーヴを拠点とする組織「人質・行方不明家族フォーラム」のハガイ・レヴィン教授を団長とする医療チームが赤十字国際委員会に送った報告書によると、人質にはパーキンソン病、多発性硬化症、心血管疾患、糖尿病、がんのほか、認知症、自閉スペクトラム症、精神疾患を持つ者もおり、「治療と救命処置が緊急に必要」であり、「必要不可欠な薬や治療を受けていないため、即座に死亡する傾向がある」という。報告書はまた、攻撃時に誘発された未治療の負傷(銃創、切断、レイプによる外傷)や、粉ミルクを必要とする乳児についても懸念を表明した。
イスラエルの医療の専門家1500人からなるグループが『ランセット』に発表した公開状は、「イスラエル建国以来最大の民間人命の損失」とし、ハマースによる人道上の問題を「イスラエル南部の村全体を襲った、無差別的な野蛮なハマースの大暴れ」として衝撃を表明し、これを「人道に対する罪」とした。公開状は国際医療界に対し、「野蛮な虐殺を非難し、人質となっているすべての人々の安全と健康の保証を直ちに求め、無残にも人質となった私たちの家族や友人の即時かつ無条件の帰還を明確に求める」よう求めた。
IDFは11月1日にハマスが地区内の病院に燃料の提供を迫っていることを示す内容の電話の会話を傍受したとして音声を公開し、IDFは「ハマスが人々よりもテロリストのニーズを優先させていることを示すものだ」と述べた。
イスラエルによるガザの空爆は集団的懲罰にあたり戦争犯罪であると批判されている。
イスラエルからの空爆は、1日で6000発の爆弾の投下が行われ、10月16日までに、空爆によって700人以上の子どもを含む2750人が死亡し、10000人近くが負傷した。同日には、空爆によって、消防や捜索救助などの緊急対応サービスを担当するパレスチナ民間防衛(PCD)の本部が破壊された。
一方でイスラエル側によるガザ地区に住む民間人への被害も確認されており、8日時点でガザの高層住宅4棟を破壊するなどの被害が確認されている。イスラエル国防相のヨアヴ・ガラント(英語版)はガザ封鎖を宣言した9日、「われわれは「人間の顔をした獣」と戦っており、それにふさわしい行動をする」と述べ、特定集団を非人間化する名称で呼ぶことは「ジェノサイド(集団殺害)の兆候」であると専門家より批判された。また、ガラントがガザへの包囲を宣言し、電気、食料、水、ガスの供給ができなくなる危険性が生じた。ガザ地区内ではすでに40万人以上が水に関するインフラで被害、インターネット通信も危機的状況、唯一の発電所であるガザ発電所も燃料の枯渇が懸念され、結果的に停止した。10日、欧州連合 (EU) のボレル外交安全保障上級代表は「イスラエルは国際人道法(戦時国際法)に従って自衛権を行使しなければならない」と語り、ガザのパレスチナ住民に対する水や食料などの遮断は「国際法違反」との認識を示した。フィリップ・ラッツァリーニは、「ガザは水が不足しており、ガザは生命が不足している」と述べた。
これらに対して国連の世界食糧計画はガザ地区への食糧供給を8倍に、国連パレスチナ難民救済事業機関によるとガザ地区の住民はこれらに恐怖を抱いていると公表した。ユニセフのキャサリン・ラッセル事務局長は「ガザ地区への電力の遮断や、食料、燃料、水の供給を止める措置は、子どもたちの命を危険にさらすことにつながりかねない。人道状況が急速に悪化する中、子どもたちやその家族がどこにいようと、人道支援に携わる人々が安全に、命を守るための活動や、物資を届けることをできるようにしなければならない。」と懸念を表明しながら支援を行うことを誓った。またガザではそもそも病院まで運ぶ道のりが空爆により危険で、そして墓地もスペースが埋まっていることなどから、アイスクリームを冷凍するためのトラックに遺体を入れる例などもあったとガザ保健当局が発表した。10月15日、イスラエルは給水再開に同意したが、対象はガザ南部のみであった。しかし、ガザの給水ポンプは電力に依存しているため、このイスラエル側の同意は、再度の給水アクセスを保証するものではなかった。イスラエルのエネルギー・水省のスポークスマンは、ガザ南部の1カ所でしか水は流れていないと述べた。しかし、ボランティアやガザ政府のスポークスマンは、水はそもそも利用できないと語っている。10月16日、エネルギー相のイスラエル・カッツは、ハーンユーニス南部近郊のブネイ・サヒラで水が利用できるようになったと主張したが、ガザ内務省の報道官エヤド・アル=ボゾムは、ガザのどこであっても水はまだ利用できないと述べた。同日までに、ガザ住民は海水や農業用井戸の汽水を飲むようになり、水系感染症の恐れが高まった。医師や病院スタッフは水の枯渇から、点滴液を飲んだ。
また白リン弾の使用も確認されており、白リン弾の激しい燃焼力で深刻なやけど被害をもたらす危険性から人権団体より批判が集まっている。
11日には国際刑事裁判所が、パレスチナ国で行われた戦争犯罪の疑いを調査する2014年時点のマンデートが、現在の紛争にも及ぶと発表した。
ガザの数百万人に救命支援を届けるための「人道的一時停止」を求める安保理決議案がブラジルにより提出され、理事国15カ国中12カ国から「賛成」票を獲得し、ロシアと英国は棄権したが、米国は決議案の採択を阻止するために拒否権を発動した。
18日にはヨルダン川西岸のラマラ近郊でイスラエル側に抗議する意図でタイヤに火をつけようとした15歳と17歳の少年がイスラエル軍により射殺された。
30日にはトルコ・パレスチナ友好病院が空爆の被害にあい、11月1日、トルコ・パレスチナ友好病院の院長は、ガザで唯一のがん専門病院が発電機の燃料切れで「完全に機能停止」していると述べた。また、ガザ保健省は、アル・ヘロウ国際病院の産科病棟がイスラエル軍の爆撃を受けたと発表した。11月2日、インドネシア病院は主発電機が稼働しなくなったと発表した。ガザ厚労省前述のトルコ・パレスチナ友好病院の爆撃の影響で11月3日時点で12人のガン患者が死亡したと発表した。同省は、800人の重傷患者が治療を受けるためにガザを離れる必要があると述べ、医療システムの崩壊により、過去数日間に多くの重傷患者が死亡したと指摘した。アル・シファ病院前の医療車列がイスラエル軍の無人機ミサイルによって破壊された。アル・クッズ病院とインドネシア病院も攻撃を受けた。11月4日、カマル・アドワン病院の発電機が停止した。またアル・ナセル小児病院の入り口がイスラエルの空爆を受けた。
12月5日、ニューヨーク大学のロバート・ジャクソン・ジュニア教授とコロンビア大学のジョシュア・ミッツ教授は、10月7日の奇襲攻撃に先立ち株式に大幅な空売りが出ていたと報告している。報告書で、米金融取引業規制機構(FINRA)のデータに基づき、MSCIイスラエル上場投信(ETF)の空売りが10月2日に「突然、大幅に」急増したことを挙げ、「奇襲攻撃の数日前から、一部のトレーダーは来るべき出来事を予期していた可能性がある」と指摘。奇襲攻撃の直前にテルアビブ証券取引所(TASE)でイスラエル証券の空売りが急増したことにも言及した。教授らは「私たちの調査結果は、今後の攻撃について情報を得たトレーダーがこれらの悲劇的な出来事から利益を得たことを示唆しており、これまでの文献と一致して、この種の取引は米国および国際的な情報提供取引に対する法的禁止の執行の隙間で行われていることを示しています。」と声明を出した。
CNNによるとX(旧Twitter)などにおいてゲームの映像やシリア内戦の映像「ファウダ -報復の連鎖-」のシーンなどを当戦争の映像としたりするなどといった虚偽の情報が回っている。問題の投稿の多くはコミュニティノート機能により訂正を受けているが、偽情報の拡散に歯止めがかからない状況が続いている。これに対してEUはEU内の法を適応しようとしたことから、各インターネットシステムを運営する企業は対応を行った。また、イラン・イスラム共和国放送によるハマースによるイスラエル司令官の捕獲の報道の映像も、2023年ナゴルノ・カラバフ衝突の際の映像を流したことが判明した。
日本への影響としては中東リスクが再燃していることから、原油価格の高止まりによる貿易収支の悪化により戦争以前より続いていた円安の長期化は避けられないと思われている。
エジプトでもアレクサンドリアで警官がイスラエル人観光客向けのバスに発砲し、イスラエル人2人とエジプト人1人が死亡、13日には中国の首都北京でイスラエル大使館職員が刺され負傷、同日フランスにおいても北部にある高校で教師が刺殺、パリ東部の高校では男が刃物を持って校内に入ろうとする等、当戦争が関係していると思われる事件が相次いだ 。
ブルガリア、スペイン、ポーランド、タイはイスラエルに居住する各邦人らを退避させた。一方イギリスは退避させなかったため、外務・英連邦・開発省には非難が集まった。
イスラエルではタマルガス田の閉鎖が行われた。
10月9日にはニューヨーク・マーカンタイル取引所 (NYMEX) の原油先物相場が1バレル=86.06ドルにまで急伸した。また同日、エヌビディアがイスラエルのテルアビブで15・16日に開催を予定していた「AIサミット」を、「参加者の安全が最優先事項であり、これが最善の行動だと信じている」として中止したと発表した。
10月10日にイスラエルの主要産業の一つでありGDPの5分の1を占めるハイテクノロジー産業は、それまでの混乱による停滞が徐々に回復してくると思われてきたが本戦争により回復が頓挫した。アワークラウドのジョン・メドベド最高経営責任者は「海外からの投資は今後数週間から数カ月間、特に衝突が続く限り、鈍化するだろう」と分析している。
イスラエル国内や国際法上のパレスチナ領であるユダヤ人入植地には、パレスチナ人出稼ぎ労働者がヨルダン川西岸地区から約16万人、ガザ地区から約1万8千人入域を認められていた。出稼ぎの収入は、パレスチナ国内の10倍にもなった。ネタニヤフ首相は以前、非公式にパレスチナのアッバース政権の弱体化を図るためにハマースを利用すると発言しており、ガザ地区からの就労枠拡大もその一環と指摘されていた。開戦後、ガザ地区からの就労許可は全て取り消され、数千人がガザ地区に強制送還された。またパレスチナ政府高官によると、約5000人がイスラエル当局に拘束され、約4950人が西岸地区に逃れたという。ILOによると、ヨルダン川西岸地区からイスラエルや入植地への検問所も閉鎖された。このため、ヨルダン川西岸地区の16万人の出稼ぎ労働者も、すでに失業したか、その瀬戸際に立たされているという。イスラエル企業は、パレスチナ人に代わってインドやスリランカなどの出稼ぎ労働者の受入拡大を政府に要望している。イスラエル建設業協会(ACB)のシェイ・パウズナー副理事長によると、パレスチナ人労働者の穴埋めとして、6万人の外国人出稼ぎ労働者の受入を政府に要望したという。
イギリスの放送局であるBBCは戦争発生以来、ハマースをテロリストとは呼称せず、「武装組織」と呼んでおりこの報道姿勢に政府や英政界の与野党双方から批判の声が上がっている。これに対しBBCの国際報道の責任者を務めるジョン・シンプソンは「誰かをテロリストと呼ぶのは、片方の側に立つことであり、状況を公平・中立に報じないことになる」とXで反論。「わめき散らさず、視聴者に事実を提示すること」がBBCの仕事だと述べている。
米上院商業科学運輸委員会の共和党議員らは20日にX、Meta、TikTok、GoogleのIT4社に対して本戦争に関するSNS上の情報を保全するよう求めた。残虐な内容の投稿の削除には理解を示した上で、戦争犯罪の捜査や報道、情報機関による分析などの目的に限ってアクセスを維持する方策が必要だと指摘し、加えて「歴史の記録」として、情報を保存する必要性も訴えた。
戦争中、主要なソーシャルメディア・プラットフォームであるFacebook、Instagram、YouTube、TikTokが、戦争中に親パレスチナの投稿を検閲したり、リーチを制限したりしていると非難されているときもあった。ユーザーは、「FreePalestine」や「IStandWithPalestine」のような特定のキーワードやハッシュタグを使用すると、コンテンツが非表示になったり、そのリーチが減少したりするシャドウバンニングなどの慣行を主張している。
ロイター通信は10月9日、カタールがイスラエルとハマース間で、イスラエルが36人のパレスチナ人女性と子どもを解放する代わりに、ハマースにイスラエル人女性の人質を解放するという交渉を仲介していると報じた。
AP通信によるエジプト政府関係者への取材によると、イスラエルはハマースに拘束されている人質の安全を確保するためにエジプトに援助を求め、エジプト諜報部長は情報を求めるためにハマースとイスラーム聖戦に接触したという。エジプト当局が、ハマースに捕らえられたイスラエル人女性と引き換えに、イスラエルの刑務所に収容されているパレスチナ人女性の釈放を仲介していることが同じくAP通信により報道された。
またスナクは10月19日にサウジアラビアに仲介役を求めた。
BBCは20日、ハマースが、拘束している人質を解放する代わりに即時停戦を求める交渉を提出したことを発表した。一方イスラエル側はこれに合意していない。これに対しBBCは「人質がイスラエル軍の指揮官にとって 地上侵攻の計画を複雑にする要因となっている」とし、「人質の解放が交渉で実現できれば、一人ひとりが生きて帰れる可能性が高くなることは明らかだ」と述べている。
イスラエル側では11月5日時点で約1400人の死亡が確認されており、内828人の民間人、31人の子供、ホロコースト生存者や女性をも含む。後日数値が修正されている。
キブツ・ベエリやレイム、ガザ地区近隣のイスラエル南部各地にいた民間人が虐殺・拷問・凌辱・拉致・部位の切断および首切りなどをされ、焼死体も見つかっており、2023年10月7日は「イスラエル史上最悪な日」「ユダヤ人にとってのホロコースト以来の惨状」と言われている。上記のテロ行為は生配信され、映像として残っている。
242人が拉致され、その内民間人が大半を占め、約30人の子供(生後10ヶ月から18歳まで)や女性、老人なども含む。
11月2日時点で負傷者は5400人以上と推定されている。
パレスチナ側では、ガザ地区10022人の死者が、ヨルダン川西岸地区でも144人の死亡が確認されている。ガザ地区内の8005人の内2704人が子供であることが判明している。
ガザ地区内の負傷者は12500人以上と推定されており、ガザ地区の全住宅のうち少なくとも30%が、イスラエルの爆撃によって破壊されたか(12,845戸)、住めなくなったか(9,055戸)、軽微な損傷を受けた(121,000戸)。
23日時点で国連人口基金(UNFPA)は、ガザ地区では現在、約5万人の女性が妊娠中と推定され、1日あたり約160人が出産を予定しているものの、安全に出産するための環境が整っていないと指摘、また国連人道問題調整事務所(OCHA)の22日の発表によると、シファ病院は治療の対応が可能とされる基準の7倍以上となる、およそ5000人の治療の対応を強いられているほか、4万5000人の住民が安全な場所を確保するため、病院とその周辺に身を寄せているということである。
23日時点でロイターの報道によるとガザ北部の病院だけでも新生児集中治療室に55人の新生児がいるということも判明した。
ハマース政府は2023年12月19日の時点で1万9667人が亡くなったと主張している。
ジャーナリスト保護委員会は2023年11月6日までに、36人のジャーナリストの死亡が確認されたとした。内訳は31人がパレスチナ人、4人がイスラエル人、1人がレバノン人であった。
また負傷者では、8人のジャーナリストが負傷し、9人が行方不明、または拘束されたことが判明している。
10日には、ハッジタワーというガザ内にあったタワーが空爆により破壊され、3名のジャーナリストが死亡する等、ジャーナリストが殺害されるような事象がいくつも発生している。
これらのジャーナリストの複数名死亡に対してジャーナリスト保護委員会(CPJ)は11月1日、「この地域全体にいるジャーナリストは悲痛な紛争を取材するために大きな犠牲を払っていて、特にガザにいるジャーナリストは前例のない犠牲を払い続けている。ジャーナリストは危機的な状況の中で重要な仕事をしている民間人であり、紛争当事者に狙われてはならない」と懸念を示した。
ワシントンポストは10月11日時点で24か国の人々の死傷者が確認されているとした。
交戦勢力は最新版時点でイスラエル・同国国防軍のみ。
イスラエル側支持国。●は支援を表明した国。
ハマース、ヒズボラ、PIJのほか、DFLP、PFLP、ライオンの巣などの武装勢力の関与も取り沙汰されている。
パレスチナ武装組織側支持国。●は支援を表明した国
これらの国は中立的立場を宣言している。なお、双方に自制を促した国、いずれか一方のみを非難しつつ、もう一方についても肯定的でない立場の国を含む。 | [
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"text": "2023年パレスチナ・イスラエル戦争(2023ねんパレスチナ・イスラエルせんそう)は、2023年10月7日にパレスチナのガザ地区を支配するハマース(ハマス)によるイスラエルへの攻撃によって勃発した、ガザ側の武装勢力とイスラエルの武力紛争、または戦争。7日、ハマースはイスラエル領内に数千発のロケット弾を撃ち込むとともに、ガザ地区近隣のイスラエル南部各地に戦闘員を侵入させて民間人多数を殺傷・拉致した(レイム音楽祭虐殺事件など)。これに対してイスラエルは軍を動員して反撃を開始し、領域内のハマースを押し返した後、ガザ地区を閉鎖し、大規模な空爆及び地上侵攻を行い、ハマース戦闘員のみならず多数の民間人を殺傷し続けている。",
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"text": "なお、パレスチナ自治政府は対イスラエル奇襲には関与をしておらず、パレスチナの大統領マフムード・アッバースは「ハマースはパレスチナ人の代表ではない(後にハマースへの名指しは削除)」「ハマースは人質の即時解放をすべき」「ハマースによるイスラエル南部への攻撃を非難する」と表明している。ただし欧米から要求された、テロ行為と認定しての非難は拒否しており、フランス大統領エマニュエル・マクロンとの会談で「紛争の責任はイスラエルとそれを支援する国々にある」とした。また、ワリード・アリ・シアム駐日パレスチナ常駐総代表部代表は8日、SNSにて「私たちは、パレスチナ人とイスラエル人の両方の民間人の生命の喪失を断固として非難します」とメッセージを投稿している。ただし、以降の投稿は戦闘員と民間人を区別せず殺傷するイスラエルのガザ攻撃に批判的である。",
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"text": "この戦争でイスラエル側は第四次中東戦争以来の死者数を出した。イスラエルは8日、正式にハマースに対して宣戦布告した。イスラエル側は戦時内閣を発足させている。",
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"text": "ハマースは、この戦闘を「アクサーの氾濫作戦」もしくは「アルアクサの洪水作戦(アラビア語: عملية طوفان الأقصى)」とした。一方でイスラエル側は「鉄の剣作戦(ヘブライ語: מבצע חרבות ברזל)」と呼んでいる。",
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"text": "一部メディアは第一次、第二次インティファーダに続くインティファーダとして「第三次インティファーダ」という名称を使用した。また10月に行われる、ユダヤ教の仮庵の祭りになぞらえて「仮庵戦争」(かりいおせんそう)と表現した。",
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"text": "ハマースによる奇襲を受けた直後、イスラエル国民はこれを「イスラエルの9.11」や「イスラエルの真珠湾攻撃」と、過去の奇襲攻撃やイスラム原理主義組織の攻撃にたとえた。また、「ホロコースト以来、これほど多くのユダヤ人が殺害されたことはない」という反応も見られた。ホロコーストのたとえは様々な人が使用しており、The Viewの元プロデューサーであるダニエラ・グリーンバウムや、イスラエル大統領イツハク・ヘルツォグの元スポークスマンであるエイロン・レヴィ、『タイムズ・オブ・イスラエル(Times of Israel(英語版))』の記者ラザール・バーマンなどがホロコーストという言葉を使用した。第四次中東戦争(1973年)のちょうど50周年ということで「'73年の過失、'23年の過失」という言葉も一部メディアで使用された。コロンビア大統領グスタボ・ペトロはイスラエルの行いを、ガザ地区の人質家族はハマースの行いを指して「新たなホロコースト」という言葉を使った。一方、イスラエルによる過度な反撃は国際人道法違反であるとアントニオ・グテーレス国連事務総長は非難し、国連の独立専門家グループは「ジェノサイドの重大なリスク」にさらされていると指摘した。「ジェノサイド」は、ホロコーストを説明するためにユダヤ人が生み出した言葉である。",
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"text": "パレスチナ問題は「世界で最も解決が難しい紛争」と言われている。",
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"text": "2000年以上前の時点におけるパレスチナにはユダヤ人国家であるイスラエル王国があり、諸国家により侵略され、最終的にローマ帝国のユダヤ属州となった。その後ユダヤ人はヨーロッパやアジア、アフリカの各地へ離散し(ディアスポラ)、パレスチナ地域はアラブ・東ローマ戦争などを経てイスラム教圏になり、主にアラブ人が住民となった。",
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"text": "当時ヨーロッパではキリスト教が主流であった。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はともにアブラハムの宗教であるが互いに対立する関係でもあり、ユダヤ教徒はヨーロッパで差別・迫害の対象となった。ユダヤ人は他宗教で禁忌である金融業などで影響を持つようになり、パレスチナに戻って自らの国を持とうという、いわゆるシオニズム運動が19世紀頃に発生する。",
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"text": "シオニズム運動の最中に第一次世界大戦が勃発。連合国側のイギリスは、ロスチャイルド財閥から金銭を引き出すため、パレスチナにユダヤ人の\"国民的郷土\"を建設することを支持することをバルフォア宣言で約束した(ただし、\"国民的郷土\"の定義はなく、パレスチナ人の権利を害さないことは明記されている。)。さらに、敵対する中央同盟国であるオスマン帝国を打倒するため、アラブ人に対しても、オスマン帝国に反旗を翻せばオスマン帝国の領域にアラブ諸国を建設することを約束する協定を結んだ(フサイン=マクマホン協定)。そしてフランスとも中東分割を約した(サイクス・ピコ協定)。この「三枚舌外交」と言われる外交政策により事態は混迷を極める。",
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"text": "第一次世界大戦終結時点では中東はフランスらにより分割され、パレスチナ地域はイギリスの委任統治となった。ユダヤ人などからすると裏切られたというような立場となるものの、バルフォア宣言に基づきパレスチナへの入植者が増えた。当初は共存していたが、人口増加と経済問題により摩擦が増大していった。",
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"text": "第二次世界大戦中、ナチス・ドイツによるホロコーストで多くのユダヤ人が殺害される。一部のユダヤ人はパレスチナに逃げるもパレスチナに住むアラブ人は猛反発。これにより各地で戦闘が起きる。",
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"text": "戦後1947年に国際連合総会でパレスチナ分割決議が採択されイスラエルが建国。ユダヤ人からするとついにユダヤ人国家の建設となったが、アラブ人からすると領土が奪われた形となり、第一次中東戦争が勃発。当時のイスラエルは被害者として欧米世論から支持されていた。しかし、第三次中東戦争(1967年)においては国際法を超えた範囲でアラブ人側の領土を支配し始め、一部から加害者側になったと非難を浴びる。",
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"text": "1964年にはパレスチナ解放機構(PLO)が結成された。その後、インティファーダという民衆蜂起が行われ、多くの戦闘が起き、規模は拡大していく。その後湾岸戦争で、イラクのサッダーム・フセイン政権がパレスチナを解放すると称してイスラエルを攻撃、国際社会は「パレスチナ問題を解決しないと何が起きるかわからないのではないだろうか」という反応となり、1993年のオスロ合意により暫定自治政府が認められる。",
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"text": "合意から2000年までは楽観論が広がり、双方が和解すると世論は考えていった。しかし、2000年にイスラエルの首相だったアリエル・シャロンが、ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」のすぐ近くに位置するイスラム教の聖地「岩のドーム」に足を踏み入れ、「私は平和の使者だ」と述べたことによりイスラム教徒の反感を買い、7年間続いた平和は終焉した(第2次インティファーダ)。2006年のパレスチナ国議会選挙でハマースに敗北すると、PLOの主政党であるファタハはハマースをヨルダン川西岸地区から追い出し、統治を続けた。一方、ハマースもガザからファタハを追い出し、パレスチナは分裂状態になり、和平交渉が事実上不可能となった。また、ヨルダン川西岸地区の分離壁がユダヤ人入植地を守るため建設され、2008年から2009年までのガザ紛争などでいくつかの戦闘が行われた。",
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"text": "2014年、イスラエル軍がガザ地区に地上侵攻を行い、空爆作戦でハマースの幹部の自宅や軍事施設を爆撃するとともに、予備役の兵士の招集を進め、ガザ地区との境界線近くに地上部隊を着々と集結させるなどし、捕らえられた兵士やその周辺の民間人への危険に配慮せずに集中砲火で攻撃することができる「ハンニバル指令」が実行された。これによりイスラエル軍は少なくとも135名のパレスチナの民間人を殺害した。この2014年のガザ地区侵攻が「イスラエル軍による最後の地上侵攻」であるとされていた。2014年以降、和平交渉は途切れる。",
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"text": "ユダヤ系の人々が一律にイスラエルの建国やシオニズムを支持していた訳ではなく、ユダヤ教の最右派であるユダヤ教超正統派はイスラエルの建国に関して旧約聖書の「汝、殺すなかれ、盗むなかれ」に違反しているとし、「メシア(救世主)が現れないと真のユダヤ国家は実現できない、しかし、まだメシアは現れていない、だから現在のイスラエル国家は偽物であり、認められない。」「メシアが現れるまで建国は待つべきだ。」という立場をとっている。また「ユダヤ人はイスラエルの残虐行為を糾弾する」と主張するデモや「イスラエルをパレスチナへ返還すべきである」として反シオニズム活動を行っている。",
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"text": "近年のイスラエルにおいては、ポスト・シオニズム(シオニズムは終焉しており、アラブ人やパレスチナとの友好を推進すべきという思想)のユダヤ人の人々に対抗すべく誕生したネオ・シオニズム(イスラエル人によるイスラム教徒や反ユダヤに対する報復や抑圧によって平和が到来するという思想)が政治的影響力を持つとされている。",
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"text": "両国間の緊張状態に加え、イスラエルと、アラブ世界の大国であるサウジアラビアが関係正常化に向けて動き出していることにより「パレスチナ問題、さらにはハマースそのものが見捨てられてしまう」というハマースの危機感が発生。またイスラエルは「司法制度改革問題」により大混乱していたため、ハマースからすると恰好のチャンスとなった。また、パレスチナ市民の若年層は度重なる戦争により失業率が60%を超え、経済も非常に悪い状態であり、加えて封鎖以降の世代は物心ついた時には分断という状況であり、イスラエルに対する恨みも強かったと思われている。",
"title": "背景"
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"text": "2023年は、いくつかパレスチナ問題が原因となった暴力的な騒動が発生した。2023年10月7日の奇襲前の時点で、2023年の範囲内だけで双方の戦闘員と民間人を含め、少なくとも247人のパレスチナ人がイスラエル軍によって殺害され、32人のイスラエル人と2人の外国人がパレスチナ人の攻撃によって殺害されていた。また、入植者による攻撃が増加し、何百人ものパレスチナ人が避難した。エルサレムの聖地であるアル=アクサー・モスク周辺では激しい衝突があった。",
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"text": "イスラエルとハマースの緊張は2023年9月頃に高まり、アメリカ合衆国(米国)の新聞『ワシントン・ポスト』は両者を「戦争の瀬戸際にある」と表現した。イスラエルはジーンズの積荷に隠された爆発物を発見し、ガザからの全ての輸出を停止した。これに対し、ハマースは厳戒態勢を敷き、イスラエルの入植地を襲撃する練習を公然と行ったり、他の組織と軍事演習を行ったりした。またハマースは、パレスチナ人によるイスラエル・ガザ間の分離壁(鉄の壁)への抗議活動の再開を許可した。9月13日、5人のパレスチナ人が国境で殺害された。9月29日、カタール、国連、エジプトの仲介により、イスラエルとガザ地区のハマス当局者の間で、閉鎖されていた検問所を再開し、緊張を緩和するという合意がなされた。",
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"text": "攻撃の数日前、エジプトはイスラエルに対して「事態の爆発(我慢の限界を超える)が近づいている、それも非常に近いうちに、そしてそれは大きなものになるだろう」と警告したという。イスラエルはそのような警告を受けたことを否定したが、エジプトの主張は、攻撃の3日前に警告がなされたとするアメリカ合衆国下院外交委員会の委員長マイケル・マッコールによって裏付けられた。",
"title": "背景"
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"text": "そして攻撃は、ユダヤ教の祝日で安息日であるシムハット・トーラー(英語版)の日で、同じく奇襲攻撃から始まった第四次中東戦争開戦50年の翌日である10月7日に行われた。",
"title": "背景"
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"text": "ユダヤ教の祝日シムハット・トーラーにあたる10月7日現地時間午前6時30分(UTC 3時30分)、パレスチナのガザ地区を支配するハマースのイゼディーン・アル・カッサム旅団(英語版)によるイスラエルへのミサイル攻撃が宣戦布告抜きに開始された。また同時に海上を水上艇が、陸上では歩兵による国境検問所であるケレム・シャローム検問所やエレズ検問所への攻撃や白いピックアップトラックによる7つの検問所を突破してでの越境も開始された。ミサイルの本数についてはハマースが5000発以上、イスラエルが2200発以上としている。この出来事により、イスラエル側で少なくとも1,300人以上が死亡し、パレスチナ側で1,100人が死亡した。テルアビブ、レホヴォト、リション・レジオン、パルマヒム空軍基地などではサイレンが鳴り響いたという。スデロットでは戦争としては初期の戦闘が勃発し、警察署などを制圧された。他いくつものキブツへの攻撃も確認され、人口1000人ほどのベエリでは人口の10分の1にあたる約100人が死亡、ガザ近郊のネティヴ・ハアサラでは15人が射殺、南部のニル・オズでも被害が確認された。ジキムでは同日4時40分(GMT)に海上からの侵攻が確認された(ジキムの戦い)。",
"title": "経過"
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"text": "同日、イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相は「戦争状態にある。」とする声明を出した。ハマース軍事部門のトップであるモハメド・デイフ司令官は同日を「地上最後の占領を終わらせるための、偉大な戦いの日」と述べた後「私たちは敵に対し、アル=アクサー・モスクに対する侵略を続けないよう警告した......敵が無反応で侵略を続ける時代は終わった。私は、ヨルダン川西岸地区とグリーンライン(英語版)(イスラエル領)内のパレスチナ人に対し、自制することなく攻撃を開始するよう呼びかける。すべての通り道に出て行け。私は、あらゆるイスラム教徒に対し、攻撃を開始するよう呼びかける。」としてパレスチナ人に軍事行動への参加を呼びかけた。この攻撃にはイラン革命防衛隊の関与も疑われている。また、祝日に戦争が起きるのは第4次中東戦争も同様である。",
"title": "経過"
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"text": "合計で、少なくとも2,200発のロケット弾がガザから発射され、数百人のイスラエル人が犠牲になり、イスラエル政府は緊急事態を宣言した。イスラエルは攻撃開始後の全国演説で「戦争中」であると述べている。イスラエルに潜入したパレスチナ過激派はキブツに侵入、またスデロットを含むガザ地区とイスラエルの都市を取り囲んでいる。パレスチナとイスラエルの両方のメディア情報筋が、イスラエルの兵士と民間人が人質に取られたと報告している。夜、イスラエル国営の電力会社が、電力の80%をイスラエルから供給しているガザ地区への電力供給を停止した。イスラエルの首都テルアビブはロックダウン状態に陥った。",
"title": "経過"
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"text": "これらの攻撃に対してヨルダン川西岸の都市ナーブルスのパレスチナ人の一部が祝っている写真が撮影されている。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 27,
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"text": "攻撃の映像はドローンによる撮影され保存されており、ABCニュースが映像の一部を公開した。",
"title": "経過"
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"text": "ロシア連邦の通信社スプートニクはこの奇襲が成功した原因を以下の二つとしている。",
"title": "経過"
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{
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"tag": "p",
"text": "また、同じくスプートニクはこの奇襲に対して「ドイツ国防軍の戦術マニュアルを読んで応用したかと思うほどドイツ式電撃作戦に酷似していた」とした。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "また7日から数日経ってイスラエル軍スポークスマンのリチャード・ヘクトが開いた記者会見にて、ハマースが占領した町を奪還するのに2日かかったと述べ、これに対し東海大学国際学部教授アルモーメン・アブドーラは「「無敵の軍隊」としてのメンツが打ち砕かれる異例の事態となった。」とした。",
"title": "経過"
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"text": "7日時点で『フォーリン・アフェアーズ』は、イスラエルのネタニヤフがとれる選択は3つだと述べた。それは",
"title": "経過"
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"text": "であるとしたが、同誌はこれらの目標の実行は至難の業だとしている。",
"title": "経過"
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"text": "また、モサドがこの作戦を予知できなかったということを、一部のモサド出身者が「信じられない」と述べていた。日本カウンターインテリジェンス協会の稲村悠代表理事は東洋経済オンラインの記事で、モサドが奇襲を察知できなかった理由を、モサドが人的情報収集を軽視し、デジタルにおける情報収集に重きを置いたため、ハマースがアナログな方法を駆使したことによりデジタルで情報を収集できなかったからだと述べている。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 34,
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"text": "米国紙『ニューヨーク・タイムズ』も10月29日に奇襲の成功理由について見解を示す記事を載せ、「イスラエルは過信と、ハマスの脅威は抑え込んでいるという誤った思い込みから、今回の攻撃を過小評価しただけでなく、情報収集に完全に失敗していた」とした。",
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"text": "詳細に述べると:",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 36,
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"text": "なお攻撃により、ネタニヤフなどイスラエルに「被害をなぜ防げなかったのか」と批判が集まった。これに対して10月29日にネタニヤフは「いかなる状況下、どの段階であってもハマスの襲撃について忠告を受けていなかった。情報機関のトップもハマスを抑止できていると信じていて、襲撃が起きるまで軍関係者の評価は変わらなかった」と述べながら謝罪している。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 37,
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"text": "レバノン南部からイスラエル北部へロケット攻撃が発生。同日、レバノンのイスラム教シーア派組織ヒズボラが、イスラエルへの攻撃を実行したとの声明を出した。同日、イスラエルはハマースに対して、7日にイスラエルの基本法第40条によって正式に宣戦布告を決定し、軍事活動を解禁すると発表した。イスラエルが正式に宣戦布告を決定するのは、1973年の第四次中東戦争以来である。",
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"text": "他にもイスラエル側がエジプトに対してハマースとの交渉の仲介役となるように依頼した他、米国は東地中海への原子力空母「ジェラルド・R・フォード」を中核とする第12空母打撃群を派遣することを決定した。打撃群は空母の他、ミサイル巡洋艦やミサイル駆逐艦からなり、中東地域のアメリカ空軍部隊をF-35などで増強するという方針も出した。同日、バイデンはネタニヤフと会談し、防空兵器アイアンドームの補充、弾薬供与、ヒズボラなどの軍事行動をめぐる機密情報協力をイスラエル側がアメリカに対し求めた。",
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"text": "アメリカ合衆国国務長官のアントニー・ブリンケンはこの日、CNNテレビに出演し、ハマースによるイスラエル攻撃について「イランが直接関与したという証拠は確認していない」と述べた一方で、長年ハマースや他のテロ組織を支援してきたとしてイランを批判した。またアメリカ合衆国国防長官のロイド・オースティンは、「イスラエルの軍や国民に対する米国の断固たる支援を強調する」として空母打撃群をイスラエル沖の東地中海に派遣すると発表。地中海に展開中の「ジェラルド・フォード」を基幹とする空母打撃群を東へ移動させるという。また同時に、中東地域でのステルス戦闘機F35やF15戦闘機、F16戦闘機、A-10攻撃機の部隊を増強する方針も明らかにした。",
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"text": "同日には国連安全保障理事会が緊急の非公開会合を開いて対応を協議した。会合に先立ってはイスラエルとパレスチナの代表がそれぞれ記者団を前に声明を読み上げ、相手を糾弾するとともに自らを正当化する一幕があり、イスラエルのギラド・エルダン(英語版)国連大使は被害を伝える写真を掲げながら「われわれが目撃しているのは野蛮な戦争犯罪だ」とハマースを非難し、「野蛮な者たちを説得する時代は終わった。このような恐ろしい事態を決して再び引き起こすことがないよう、ハマースによるテロ行為のインフラを消滅させる時が来た」「イスラエルが(ハマースとの戦いに)負ければ世界がその代償を払うことになる」として、国際社会はハマース壊滅に向けたイスラエルの活動を「全面的に支援しなければならない」と強調した。一方で、パレスチナのリヤド・マンスール(英語版)国連大使は「イスラエルはガザの封鎖やガザへの度重なる攻撃はハマースの軍事力を破壊し安全を確保するためだと言い続けているが、どちらも成し遂げていない」と指摘し、「イスラエルは今、同じ誤った前提で、新たな攻撃を正当化しようとしている。誰もこの道を歩むことを助長するような言動をしてはならない」と述べたほか、過去にパレスチナ人が殺害されても国際社会は行動を起こしてこなかったと不満を示した。また、同会合では、ハマースが連れ去った人質の即時解放についても話し合われたが、非難声明や決議案をはじめとする具体的な対応に関しては議論されなかったという。",
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{
"paragraph_id": 41,
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"text": "前日夜からこの日にかけて、イスラエル軍はガザの約500カ所を空爆した。イスラエル軍は、ハマース戦闘員が侵入したガザ近くの全ての集落を掌握したと発表した。戦闘は継続され、一連の死者も1,300人を突破した。このほか、イスラエル軍の報道官がハマースのガザ地区指導者でもあるヤヒヤ・シンワール(英語版)が死亡したことを発表したとイスラエルのメディアが報じた。同日、イスラエル国防相のヨアブ・ガラント(英語版)はイスラエル軍にガザ地区を完全に包囲するように命令したと発表、「私たちは人間の姿をした獣と戦っており、それに応じて行動しています。」とも付け加えた。イスラエル軍の報道官ダニエル・ハガリは予備役30万人を招集したと発表した。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 42,
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"text": "ハマースの拠点であるとしてガザ中心部のビル「パレスチナ・タワー」をイスラエルの手により破壊した。わかっている範囲では、パレスチナ・タワーの屋上にはハマースのラジオ局があった。なお、イスラエル側もモサドが危険を察知できなかったことで被害を受けた。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 43,
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"text": "米国、イギリス、ドイツ、フランス、イタリアはイスラエル側につくとした共同声明を出した。一方、中華人民共和国(中国)はイスラエル、パレスチナ双方に対して仲裁に入り中立的な立場を見せた。カタールも中立的な立場を取り、双方の拘束された民間人の引き換えなどの交渉に入った。交渉については、10日時点では「前向きに動いている」と関係者がロイター通信に語っている。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 44,
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"text": "戦闘では、パレスチナ・タワーの破壊などの他にイスラエル軍が戦車などを展開して侵入を防ぐといった戦術を見せた。また負傷者のための献血を7日に呼びかけ、9日に献血がエルサレムで開始されると1,000人ものイスラエル人が献血を行った。イスラエル銀行は、通貨シェケルの大幅な下落を防ぐため為替市場へ初介入した。欧州連合(EU)はパレスチナへの資金支払いを即時停止した。EUの行動とは真逆に、ロシアとアラブ連盟は、イスラエルおよびそれを支援する欧米諸国を批判した。",
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{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "イギリス内ではイギリス政府がイスラエルへの全面的支援を表明し、首都ロンドンでは、#人道上の問題節のようなイスラエルによるパレスチナに対する人道上問題がある行動に対し怒りを見せた人々により、デモが行われた。似たような事例で同日、米国ニューヨークのイスラエル総領事館近くで道路を挟み南北に分かれ、北にイスラエル派100人、南にパレスチナ派300人ほどが集まり大騒動と化した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "ロシアの首都モスクワでは、ロシア外相のセルゲイ・ラブロフとアラブ連盟(21カ国・1機構)事務局長のアハマド・アブルゲイト(英語版)が会談し、民間人の殺害や誘拐は「容認できない」という立場を確認するとともにハマースとイスラエルの双方に即時停戦を要請した。また会談冒頭でアブルゲイト事務局長は「パレスチナ問題の政治解決の見通しや試みがなければ、こうした事態は今後も起こり得る」と指摘している。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "ハマースが460発以上のロケット砲を発射した。また、カバティヤではパレスチナ人2人に発砲されたとしてイスラエル軍が2人を殺害した。また後述の#人道上の問題節にもあるようなイスラエルによるガザ包囲が正式に行われ、イスラエル側は「テロリストのインフラを完全に破壊した。何千もの標的を攻撃し、何百トンもの爆弾を投下してきた。最大限の被害を与え続けている」や「ガザ地区への電力供給は終わる。燃料の備蓄がなければ数日以内に地区の電力はなくなり、井戸水も1週間以内にくみ上げられなくなるだろう」との発言を行った。10日時点では医療物資の枯渇や、空爆などによりガザ全体で安全な場所がほとんどないなどといった状況が発生した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "また国境なき医師団はガザ地区内の病院もイスラエル軍の攻撃の被害にあったとし、「医療施設は尊重されるべきで攻撃の対象になってはならない」と訴えた。ハッジタワーというガザ内のタワーへの空爆により、ジャーナリスト3人の死亡などの被害も確認されている。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "これらの裏でイスラエル軍はハマースの幹部2人の殺害を発表した。ニューヨークではイスラエル支持派による1万人規模のデモが発生した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "イスラーム聖戦の幹部であるアリ・ハッサン・ガリ司令官が死亡した。国際連合人道問題調整事務所は123,000人以上がガザで国内避難民になっていることを公表した。米国ハーバード大学の学生らはイスラエル側を非難したものの、その結果、幾つもの大企業より、そうした学生は採用しないという宣告を受けた。これに対しハーバード大学内の31の学生サークルが共同声明を発表し批判、ユダヤ人団体である名誉毀損防止同盟はこの声明を反ユダヤ主義的であるとした。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "同日、米政府高官が匿名で、イランがハマースのイスラエル攻撃を予測していた可能性があると述べた。一方9日にイラン外務省は関与を否定している。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "同日、イスラエル首相のネタニヤフは自身の連立内閣枠組みに国家団結(英語版)を加えた挙国一致内閣の戦時内閣を通常の内閣とは別個に発足させ、以降は戦争の遂行に関係ない法案や政府決定は一切凍結されることなったため、第6次ネタニヤフ内閣は事実上の機能停止状態となった。戦時内閣はネタニヤフ、国防相のヨアブ・ガラント(英語版)、前国防相のベニー・ガンツの3人のみからなり、このほか元国防軍参謀総長のガディ・エイゼンコット議員、戦略担当相のロン・ダーマー(英語版)がオブサーバーとして参加することとなったが、戦争開始初期から挙国一致内閣に前向きだったヤイル・ラピド率いるイェシュ・アティッドは右派政党の排除要望が聞き入れられなかったこともあり、最終的には挙国一致内閣に参加しなかった。戦時内閣樹立の声明発表後、ネタニヤフら3人はテレビ出演を行い、ガラントはハマースを地球上から消し去ると警告した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "国際赤十字・赤新月社連盟(IFRC)はガザ地区でスタッフ4人が活動中に救急車両に対する攻撃より死亡したと発表した。IFRCは「国際法に従って、民間人や医療従事者、医療施設は常に尊重され、守られなければならない」と発言した。同様に国際連合パレスチナ難民救済事業機関 (UNRWA)もガザ地区での活動中にイスラエルによる攻撃によりスタッフ11人が死亡、UNRWAは「国連の職員と民間人は常に守られなければならない。より多くの民間人の命が失われないよう、戦闘の終結を求める」として戦闘の終結を求めた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "アメリカは前述の空母打撃群に加えドワイト・D・アイゼンハワーを主力とする空母打撃群を地中海に派遣していることを発表した。またオースティンはベルギーにて、イスラエルにアイアンドーム防空システムを供与したとした。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "同じく、元アメリカ大統領ドナルド・トランプは一連の戦闘を、バイデン政権の外交の失敗であるとし、自身が大統領になれば「私のリーダーシップのもとでイスラエルを全面的に支持し、テログループであるハマースを打ち破って永久的に破壊する」とした。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "韓国大統領の尹錫悦は、訪韓したアメリカ上院の民主党トップのシューマー院内総務率いる超党派上院議員団と会談した。両者はイスラエルへの無差別攻撃を非難するとともに、事態の早期収束に向けて米韓両国が「建設的な役割」を果たしていくことで一致した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "ブリンケンがイスラエル入りした。米国とイスラエルの協力関係を強くさせる為と思われており、13日にはアッバス自治政府議長と会談する予定。また、中国の中東問題特使である翟雋がイスラエル政府高官と電話会談を行った。フランスはパレスチナを支持するデモを禁止することを発表し、「片方を禁止して片方を認めるなんて不公平だ」といった非難が集まった。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "ハマースの人質の家族2人がロンドンで会見を行い、「ホロコーストの生存者がハマースによる新たなホロコーストに直面している」と語り、即時解放を訴えた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "イラン外相のアミラブドラヒアンがパレスチナ人に対する戦争犯罪が継続されれば「抵抗の枢軸」からの報復を受けることになると発言。「抵抗の枢軸」が指すものについては明確には判明していないがパレスチナ側の勢力のことであると考えられている。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "コロンビア大統領のグスタボ・ペトロはガザ地区に対する包囲攻撃と全面封鎖を命じた、イスラエルのガラント国防相に関する記事を掲示した後、「これはナチスがユダヤ人に対して言ったことと同じだ」と指摘。「民主主義市民はナチズムが国際政治舞台に再び登場することを許すことはできない」とし、「(ガラントのように)憎しみ発言が続くなら、ホロコーストだけをもたらしてしまう」と主張した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "またシリア国営のシリア・アラブ通信によると、イスラエルがシリア首都ダマスカスとアレッポの空港に対しミサイル攻撃を行い滑走路が損害を受け、両空港は使用不能となった。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "イスラエル軍が、国際法上禁止されている白リン弾を使用していたことがヒューマン・ライツ・ウオッチ(HRW)により発覚した。使用していたのは10から11日の間に使用された都市、HRWは「人口過密なガザでの使用は民間人被害の危険性を増大させ、国際人道法に違反する」と述べ懸念を示した。2008年12月においてもイスラエル軍は白リン弾を使用したとされているが政府は「戦時国際法には違反しない」と発言していた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "また、EUはX(旧Twitter)やFacebookを運営するMetaに対して嘘の情報や暴力的な映像が流れていることに対してデジタルサービス法に基づく初めての調査を行おうとした。これに対してXは11日に、Metaは13日に対応を行ったと報告した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "イスラム教徒は戦争開始後初の金曜日、イスラム教の礼拝の時間が始まった。マレーシアの首都クアラルンプールではイスラム教徒1,000人が祈りの後に集まり、イスラエルの旗がかかった像を破壊する等のデモや暴動を起こした。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "国連はイスラエル軍からガザ地区北部の住民が同地区南部(正確にはガザ渓谷以南)に退避する必要があるとの通知を受け取ったことを発表した。国際連合パレスチナ難民救済事業機関のフィリップ・ラザリーニ事務局長は、この退避通知について、「ガザ地区の北部に住む100万人以上の市民を24時間以内に移動させるというイスラエル軍の通告は恐ろしい。前例のないレベルの悲惨さをもたらし、ガザの人たちをさらなる奈落の底に突き落とすだけだ」と強く批判している。また13日に、国連は安全保障理事会の緊急会合を行っている。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "元イスラエル首相のナフタリ・ベネットは、英国スカイニュースの司会者から「イスラエルがガザ地区の電力供給を止める事で生命維持装置の民間人や病院で育てられている赤ん坊の被害が出るのではないか」と質問され、「我々はナチスと戦っている。敵に餌を与えるつもりはない」と述べた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "イスラム教徒が多く住むカシミールのカールギル地区ではパレスチナ支持者によるイスラエルに対する大規模な抗議運動が行われた。パレスチナの旗を掲げ、「Down with Israel and Down With America(イスラエルを倒し、そしてアメリカを倒せ)」というプラカードを掲げている人々もいた。イランでも同様のデモが発生した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "12日の確認に続き、アムネスティ・インターナショナルはガザ地区の港と、イスラエルとヨルダン川西岸地区の国境において白リン弾が確認されたと公表した。中東・北アフリカ局長ラマ・ファキは白リン弾について「白リンが混雑した民間人居住区で使用された場合、耐え難い火傷を負い、生涯にわたって苦しむことになる危険性が高い」と懸念を示している。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "イギリス政府は2隻のイギリス海軍艦船と観測機が東地中海に配備する予定であることを発表した。米国のオースティン国防長官はテルアビブでの会見において「(ハマースの行動は)ISISを思い出させる行動である」と話した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "中国の首都北京で、イスラエル大使館員の家族が刺されるという事件が発生した。中国政府のしわざではないかという疑いもあるが、当局は否定している。刺された外交官の家族は病院に運ばれ、容態は安定しているとのことである。この事件で、外国籍の53歳の男が北京の警察当局に拘束された。なお、本戦争とこの事件の関係はまだわかっていない。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "パレスチナ暫定自治区内であるヨルダン川西岸地区でもベツレヘムを中心に大規模なデモが行われた。デモ内で一部のデモ隊がタイヤを燃やして抗議したほか、治安当局もデモ隊に対して催涙ガスで応戦するなどといった騒ぎとなっていた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "ヒズボラのナイム・カセム副議長は、戦争に参加しないようにという声に動じないと述べ、「(戦闘に貢献する)完全な準備ができている」と語った。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "イスラエル軍の激しい空爆で負傷者が急増する中、救急医療などを担うパレスチナ赤新月社は、「患者を見殺しにはできない」として避難を拒否すると表明した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "13日にイスラエル側が通知した退避勧告から24時間経過した。24時間経過時点では「局地的な急襲」をイスラエル側が行ったことは判明しているものの、大規模な攻撃は確認されていない。勧告は地上侵攻を示唆しているのではないかという分析も出ている。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "国際連合安全保障理事会の緊急会合が開かれ、ロシアは、即時停戦を求める決議案を各国に提案したが、ハマースは非難しなかった。このことについてネベンジャ国連大使は「これは人道決議であり非難決議ではない」と述べた。一方この会合の後、10月の議長国であるブラジルはハマースを非難する決議案を各国に示した。なお、ロシアの決議案は16日に否決された。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "韓国外務省は韓国人を退避させるための輸送機に韓国人162人、日本人51人、シンガポール人8人が搭乗していることを明かした。座席に余裕があったため、日本側に人道支援を提案し、協力が実現した。この輸送機は、14日23時頃にソウル近郊に到着した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "イスラエル軍は、7日の奇襲にかかわったとされるハマース指揮官のアリ・カディと同じくハマース軍幹部のムラド・アブ・ムラドも、空爆によって殺害したと発表した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "イスラエル軍はマルガリオット近郊での無人機による空爆でレバノンからの侵入者(ヒズボラ戦闘員)3人を殺害したと発表した。午後になると、ヒズボラは占領地シェバー・ファームズのイスラエル軍前哨基地5カ所を砲撃した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "シリアの国営通信は、北部アレッポの国際空港がイスラエル軍による攻撃を受け、施設などに被害が出たと報じた。なお、15日時点でけが人は確認されていない。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "ガザ地区の保健当局は15日、イスラエル軍とハマースとの衝突で、これまでにガザ地区で2,329人が死亡したと発表した。こうした中イスラエル軍は15日朝にかけて、ガザ地区にある指揮所や発射台など100以上の軍事施設を攻撃したとしたほか、ハマースの幹部1人を殺害したと発表した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "ガザ地区から10kmほどのイスラエル南部のアシュケロン郊外に、イスラエル軍の軍用車などが集まり、近く行われるとみられる地上侵攻へ態勢を整えている。それに合わせスデロトなどでは政府主導で市民の避難が行われた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "ハマースを支援しているイラン外相のホセイン・アミールアブドッラーヒヤーンはドーハを訪れ、ハマースの最高幹部のイスマーイール・ハニーヤと会談した。イラン外務省の声明によると、外相のアミールアブドッラーヒヤーンは「イスラエルの戦争犯罪からガザ地区の人々を守るため、われわれは努力を続ける」と述べ、今後も協力を続けることを確認した。そのうえで、「イスラエルがガザで戦争犯罪を続けるなら、この地域で何が起きてもおかしくない」と、イスラエルを牽制した。これに対しハニーヤは「イスラエルによる残虐な殺人や家の破壊などにもかかわらず、パレスチナの抵抗勢力は強さを保っている」と述べ、徹底抗戦を続ける姿勢を強調した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "パレスチナ自治政府の大統領であるマフムード・アッバースは、「ハマースはパレスチナ人の代表ではない」「ハマースは人質の即時解放をすべき」「ハマースによるイスラエル南部への攻撃を非難する」と声明を出した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "米国は正式にドワイト・D・アイゼンハワーを主力とする空母打撃群をジェラルド・R・フォードを主力とする空母打撃群と合流させようとしていることを発表し、「このような事態をエスカレートさせようとする国家や非国家勢力を抑止する決意を、我々は持っている」とオースティン国防長官は述べた。『THE TIMES OF ISRAEL』は「国家」がイラン、「非国家勢力」がヒズボラを指していると分析している。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "米国イリノイ州では本戦争を受けて男性が「イスラム教徒は死ななければならない」と叫びながら、イスラム教徒の親子を襲撃し、6歳の少年を鋸歯状の刃を持つ軍用ナイフで26回刺し殺し、32歳の母親に重傷を負わせた。その後イリノイ州の男性はヘイトクライムで起訴された。刑事によると、本紛争に腹を立てており、そこでイスラム教徒である被害者家族を標的にした。これに対してアメリカ・イスラム関係評議会 (CAIR) シカゴ支部の事務局長は「誰に対しても憎しみの余地はない」と本事件を非難した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "また、イスラエル側が避難勧告において南部へ避難するよう促していながら、カーンユーニス病院などの南部地域にイスラエル側が攻撃を行っていることが判明した。他、ガザ地区外であるヨルダン川西岸地区に対してイスラエル軍が一晩に数十回ものペースで夜間襲撃を行っていることが発表された。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "イスラエル大統領府がハマースの戦闘員が所持していた『戦闘員ガイド・ジハード(聖戦)編」』というタイトルの指示書を公開した。7日に同国に侵入した戦闘員を殺害した際の押収物から見つかった。指示書では戦闘員に対して、人質に電気ショックを与えたり、人質を「人間の盾」として使い、戦闘員に刃向かった場合は処刑したりするよう求めていた。また、ヘルツォグは指示書の公開に合わせ「悪を根絶することが、より良い地域と世界を作る方法だ」と述べた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "パレスチナ解放運動などを支援している米国のモデルであるジジ・ハディッドが、Instagramにおいて「パレスチナ支援が反ユダヤ主義やハマス支援だと誤解されている」と投稿し物議を醸した件について、イスラエル政府が直々に「ジジ、ここ1週間、寝ていたの?それとも、ユダヤ人の赤ちゃんが自宅で切り殺されているのを見て見ぬふりをしていいと思っているの?あなたの沈黙は、あなたの立ち位置を明確に示している」と名指しで批判した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "国際連合レバノン暫定駐留軍は、レバノン南部に所在する本部がミサイルにより攻撃されたと発表した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "ヒズボラは、イスラエル北部に向けて対戦車ミサイル5発を発射し、シュトゥラ(英語版)で民間人1人が死亡、3人が負傷した。また、アミタイ・グラノット中尉(イスラエル軍ゴラ二旅団第75大隊長、ラビ・タミール・グラノットの息子)は、レバノンと国境を接するイスラエル軍駐屯地へのミサイル攻撃で死亡した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "中東を訪問中のアントニー・ブリンケン米国務長官は、16日に再びイスラエルを訪れることが決まった。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "イスラエルの緊急内閣の閣僚会議が初めて開かれ、ネタニヤフは 「怪物を根絶やしにする準備はできている」と述べた。地上侵攻を示唆していると見られる。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)はガザ地区でこの1週間で少なくとも100万人が退避を余儀なくされていると発表した。また世界保健機関(WHO)はガザ地区北部の4つの病院がイスラエル軍による攻撃で標的となり、稼働できなくなっているなど、人道的な問題も発生している。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "米国のジョー・バイデン大統領はCBSテレビの取材に対して再び紛争に対して発言し、イスラエルが戦時国際法を守っているかについて「確信している」と述べ、同テレビの『60ミニッツ』のインタビューではハマースは完全に排除されなければならないという一方で、パレスチナ国家までの道のりは残さなければならないという考えを示した。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "交渉により、エジプト、イスラエル、米国はガザ南部の停戦で合意した。このことからガザ地区とエジプトの国境沿いに位置し、本戦争で事実上封鎖状態となっていたラファ検問所の期限付きでの解放も行われた。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "この日、双方の死者が4200人を超えた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "国連安全保障理事会がロシアの提出した決議案を否決した。中国など5か国が賛成、日米英仏が反対、残り6か国が棄権し、採択に必要な9か国以上の賛成に達しなかった。内容は民間人への暴力とテロ行為を非難し人道支援の提供を求めるもので、人道的停戦を呼び掛けていたが、ハマースには言及していない。米国のトーマスグリーンフィールド国連大使は反対理由を「ハマスを非難しないことで、ロシアはテロリストを擁護している」と説明した。この結果に対しロシアのネベンジャ(英語版)国連大使は「世界は安保理が血で血を洗う事態に終止符を打つことを期待していたが、西側諸国がそれを裏切った」として欧米を批判した。これに対し米国のトーマスグリーンフィールド国連大使は「ハマスによるテロはホロコースト以来最悪のユダヤ人虐殺だった。ハマスは無実の人たちを人質にとり、その残虐行為はガザ地区の人たちの人道危機にもつながっている。ハマスを非難しないことはテロリストを擁護することになり、言語道断だ」としてロシアに反論した。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "ハマースのカッサム旅団は人質だとする21歳の女性の映像を公開した。女性は「土曜日の夜明けにガザ地区に近いスデロットでのパーティーから戻っていたところで連れ去られました。手に重傷を負い、3時間におよぶ手術や手当をして薬をもらいました。私は大丈夫ですが、早く家に帰りたいです。家族へ、お父さん、お母さん、きょうだいへ、早くここから出してください。ありがとう」と映像内で話した。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "フランスは「10月12日」節のようなパレスチナを支持するデモを禁止する法律に基づき「反ユダヤ主義的」として102人を拘束したことを発表した。102人の中にはフランス人以外の人々27人もいるとされている。地方メディアによるとフランスには50万人ほどの大規模なユダヤ人コミュニティがあり、政府は、ユダヤ教の礼拝所(シナゴーグ)の警備を強化するなどの対策を行っている。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "イギリスは「パレスチナの人たちもハマスの被害者だ」としてパレスチナに1000万ポンドの追加支援を行うことを発表した。ロシアもウラジーミル・プーチン大統領が、イスラエルのネタニヤフ首相、パレスチナ暫定自治政府のアッバス議長、イランのライシ大統領、シリアのアサド大統領、エジプトのシシ大統領と、複数の中東首脳と電話会談を行ったことが判明した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "ヒズボラはテレビ番組で「イスラエルに先制攻撃を仕掛ける準備ができている」と述べた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "米国のブリンケン国務長官は訪問先のエルサレムで、18日にバイデン米国大統領がイスラエルを訪問することを発表した。またドイツの首相オラフ・ショルツは訪問先のアルバニアで、イスラエルを訪れることを明らかにした。日程はわかっていない。また、アメリカ中央軍司令官のマイケル・エリック・クリラが、イスラエル軍幹部と会談するためテルアビブに到着した。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 103,
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"text": "午後にはUNRWAが運営する避難所として運用されていたガザ地区中部の国連学校に攻撃があり、6名の死亡が確認された。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "17日夜、ガザ市のアル・アハリ病院で爆発があり(アル・アハリ病院爆破事件)、ハマースはイスラエルの攻撃であるとした。一方イスラエルはハマース以外の武装勢力のミサイルの失敗によるものとしている。この爆発により約500人が死亡した。これに対してアッバス議長は「おぞましい戦争の虐殺」「イスラエルはすべてのレッドライン(越えてはならない一線)を越えた」と述べ、ハマースのイスマイル・ハニヤは襲われた責任はアメリカにあると主張した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 105,
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"text": "この攻撃にWHOは「医療活動(を行う施設や人々)は優先的に保護されなければならないし、攻撃対象としてはならない」として非難し、アントニオ・グテーレス国連事務総長や、ヴォルカー・ターク国連人権高等弁務官も「全く受け入れられない」と述べた。ユニセフのキャサリン・ラッセル事務局長も声明を出し、「攻撃は容認できず、即時停戦求める」と批判した。トルコのエルドアン大統領は「女性や子どもたち、罪なき市民がいる病院を攻撃することは、イスラエルによる人間の尊厳を欠く攻撃の最新の事例だ」とSNSで述べた。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 106,
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"text": "またバイデン米国大統領のヨルダン訪問はこの攻撃により中止となった。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "イギリスの首相リシ・スナクは、サウジアラビアのムハンマド皇太子と電話会談を行い、その後カタールのタミム首長とも電話会談を行った。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "レバノンとイスラエルの国境に沿って衝突が発生し、5人のヒズボラの戦闘機が損失した。またその戦闘内でレバノン領から発射された対戦車ミサイルがイスラエル北部のメトゥラ(英語版)に直撃し、3人が負傷した。またその後イフタ(英語版)を目標として2発の対戦車ミサイルが発射されるも、負傷者は出なかった。イスラエル軍は報復としてレバノン領に砲撃を行った。ヒズボラは殺害された14人のパイロットをマフムード・バエズ、フッシェン・ファサイ、フセイン・アル・タウィル、マハディ・アトウィ、イブラヒム・アル・ドゥブクと特定したが、彼らの死に対する詳細は明らかにしなかった。またイスラエル軍スポークスマンは、イスラエルの防空システムがレバノンから国境に近づくドローンを迎撃したと述べた。トルコ外相のフィダンは「(本戦争は)より大きな戦争につながる可能性がある」として「戦争が他国に広がらないように、私たちはできる限りのことをする」とした。またこの戦闘中に越境を行おうとした4人のヒズボラ戦闘員は殺害された。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "この日にはイスラエル軍によるガザ地区中部への空爆で幹部の最高司令官アイマン・ノファル(英語版)が殺害されたことが発表され、このことはイスラエルとハマースの双方が確認している。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 110,
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"text": "バイデンは大統領専用機で首都ワシントンD.C近郊の空軍基地を出発し、イスラエルのテルアビブに到着。ネタニヤフと会談し、「アメリカはイスラエルとともにある」と述べ、イスラエルへの連帯を示し、ハマースについては「テロリストの集団だ」として非難した。またガザ地区に隣国であるエジプトから人道支援物資が入ることを条件付きで認めるとする声明を発表した。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 111,
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"text": "また17日の病院爆破に対して18日には日本の上川陽子外務大臣が「罪のない一般市民に多大な被害が発生し、強い憤りを覚える」とする談話を発表した。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 112,
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"text": "イスラエル国外の超正統派のラビ(ユダヤ教の宗教指導者)が「私たちはパレスチナの隣人たちと平和に暮らしたいのです。」と声明を出し、イスラエルに対する抗議活動を行った。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 113,
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"text": "アメリカではアメリカ合衆国議会の建物内にデモ隊が侵入して即時停戦を訴えた。これにより300人が逮捕された。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 114,
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"text": "国連安保理ではブラジルが提出した即時停戦案に対して15か国のうち日本を含む12か国が賛成したものの、アメリカが拒否権を発動したことで否決された。アメリカはトーマスグリーンフィールド国連大使が「決議案にはイスラエルの自衛権が言及されておらず失望している」と述べ、それに対しロシアの国連大使ネベンジャは「われわれはアメリカの偽善とダブルスタンダードを目の当たりにした。アメリカは解決策を見つけることを望んでいなかった」してアメリカを非難した。中国の国連大使である張軍も「決議案が採択されなかったことに驚き、失望している。」とコメントをした。楽天ニュースは拒否権の発動を「拒否権を発動したことによりイスラエルによる空爆が続くこととなれば「反イスラエル・反アメリカ感情」がアラブ人に芽生え、第二の9.11が起きても仕方がない」とした。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 115,
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"text": "イランのライシ大統領は演説で、「誰がこんな恐ろしい犯罪を受け入れられるだろうか」とイスラエル側が戦争の原因だとして批判し、アメリカに対しては「世界の人々があなたたちをイスラエルの共犯者だとみなしており、その憎しみを目の当たりにするだろう」と警告を行った。またイスラム協力機構(OIC)もイスラエル側に責任があるとして非難した。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 116,
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"text": "バイデンとシシはエジプトとの境界のラファ検問所からトラック20台をガザ地区に通過させることを合意し、20日にも物資が搬入されるとの見通しを示した。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 117,
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"text": "ドイツのベルリン中心部ミッテ区にあるシナゴーグに火炎瓶2発が投げ込まれた。これにより1人が逮捕された。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 118,
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"text": "避難所として使用されていたガザ市のギリシャ正教会聖ポルフィリウス教会の敷地内にイスラエルによる空爆が起き(聖ポルフィリウス教会空爆)、教会のエリアス神父は「これは宗教に対する攻撃であり、卑劣な行為であるだけでなく、人間性に対する攻撃でもある。」と反発した。教会のファサードが損傷し、隣接する建物が倒壊したことが確認されており、エルサレム正教会総主教庁(英語版)も、教会堂への攻撃を「最も強く非難する」と表明した。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 119,
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"text": "18日のロイターの調査によると、アメリカの高齢者ではイスラエル支持・アメリカのパレスチナ政策に対する支持が多いが、Z世代においてはパレスチナ支持者やアメリカのパレスチナ政策に懐疑的な人が多かった。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 120,
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"text": "WHOは、ガザ地区において戦闘中に26の医療機関が被害にあったことを報告し、国連人口基金(UNFPA)はガザ内で現在妊娠している5万人の内、来月に出産を予定している5500人は安全な出産をするための環境が整っていないことを公表、ユニセフも数百人のガザの子供が死亡し、30万人以上が家を追われているとした。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 121,
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"text": "イギリス政府はスナク首相がイスラエルを19日訪問し、ネタニヤフと戦闘の拡大防止などに向けて会談することを明らかにし、スナクは20日にかけてイスラエルや周辺国を訪れ、戦闘の拡大防止やガザ地区への人道支援の早期実現に向けて話し合うとしている。スナクは声明で、大勢の民間人が犠牲になったガザ地区の病院の爆発について「世界中の指導者が戦闘の拡大を防ぐため、結束する分岐点にするべきだ」と強調した。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 122,
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"text": "ガザ地区南部ハンユニスでは空爆が発生し、10人以上が死亡し、40人が負傷した。ガザ中心部のアパートなどでも空爆が発生した。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 123,
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"text": "イスラエル軍はハマースにより拉致被害者は203人に上ると発表。イスラエル・テルアビブではハマースによる拉致被害者の親族がビラを配るなどし、早期解放を訴えた。またSNSでも解放を呼び掛ける声が発信されている。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 124,
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"text": "フランスではパレスチナ支持のデモは禁止されていながらもパレスチナの旗や、「沈黙はガザの人を殺す」などと書かれたプラカードを掲げ、デモが行われた。18日にはフランスの国務院が「一律に禁止するのではなく個別に審議すべきだ」という見解を発表している。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 125,
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"text": "イスラエルによってヨルダン川西岸一帯への襲撃が行われ、60人以上のハマースのメンバーが逮捕され、その中にはヨルダン川西岸地区におけるハマースのスポークスマンであるハッサン・ユセフも含まれていた。",
"title": "経過"
},
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"paragraph_id": 126,
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"text": "アメリカ国防総省はアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦カーニーが、紅海上空を北上していた巡航ミサイル3発とドローン8機を撃墜したと発表した。ミサイルはイエメンの武装組織フーシ派が発射したもので、イスラエルに目標があり、それに対して向かっていた可能性があると分析している。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 127,
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"text": "中国外務省は少なくとも1000人の中国人がイスラエルから去ったことを発表し、寧はイスラエル南部の都市スデロットで立ち往生していた280人の中国人も避難したと述べた。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 128,
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"text": "レバノン南部のヒズボラの基地に対してイスラエルは攻撃したことを発表した。またイスラエルの日刊紙『Maariv』によって行われた世論調査では、イスラエル国民の65%がガザ地区での地上攻撃を支持し、21%が反対していることが判明した。一方、イスラエル国民の80%が、ネタニヤフは10月7日のハマス攻撃につながった国の失敗の責任を取るべきだと考えていることが示唆された。ネタニヤフに責任がないと考えている人は、一般国民のわずか8%に過ぎないことがわかった。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 129,
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"text": "ALJAZEERAは「パレスチナへの支持は南アフリカで強い」と報道した。同メディアはこの要因を同国で発生したアパルトヘイトと重ねてのことだと分析している。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 130,
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"text": "ラファ検問所にグテーレス国連事務総長が到着し「この壁の向こうでは200万人の人々が水も食料も、医薬品も燃料もなく、戦火の中で苦しんでいる。なるべく早くできるだけ多くのトラックを動かさなければならない」と発言した。また国連については「すべての当事者と搬入に向けた条件を詰めている」とした。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 131,
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"text": "ハマースは「人道的な理由から」としてアメリカ国籍の母親と娘を解放し、イスラエルはガザ地区の境界で保護したと報告した。ハマースやメディアは解放の理由をカタールによる仲介によるものとしている。これに対しバイデンは「2人はひどい試練に耐えてきた」と解放を歓迎した。残ったアメリカ国籍の約10人の人質の解放についてブリンケンは全人質の解放を求めた。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 132,
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"text": "バイデンはホワイトハウスから、ガザ地区への人道支援物資の搬入について「イスラエル側とエジプトのシシ大統領から確約を得ている。道路を舗装し直さなければならず、非常にひどい状態だ。これから24時間から48時間以内に最初の20台のトラックが通過するだろう」と発言した。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 133,
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"text": "国際連合人道問題調整事務所の広報官は20日にスイスで行われた記者会見で「人道支援物資の搬入は21日以降の見通しである」と発言した。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 134,
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"text": "エジプト外務省の広報官はSNSにて「西洋のメディアはエジプトに検問所閉鎖の責任を押しつけようとしているが、検問所を4回も攻撃し、物資の搬入を拒んでいるのはイスラエルだ。さらに外国人の出国を阻んでいるのもエジプトではない」と投稿した。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 135,
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"text": "パレスチナ暫定自治区では、ガザ地区への連帯を示し、イスラエルに抗議するデモが各地で行われた。特にベツレヘムでは、金曜礼拝のあと大規模な抗議デモが行われた。",
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"paragraph_id": 136,
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"text": "アメリカ国防総省報道官のパトリック・ライダー空軍准将は紅海北部で同国の軍艦カーニーによって、フーシ派が発射した巡航ミサイル3発とドローン数機の迎撃に成功したと発表した。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 137,
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"text": "日本では、中核派関連団体により大規模なデモが発生し、そのデモの中でイスラエル大使館前で警察官にのぼり旗のポール部で額を押すなど暴行した疑いで24歳の男が公務執行妨害容疑で現行犯逮捕された。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 138,
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"text": "イスラエル軍の報道官ハガリは21日、記者会見で「ガザ地区の南部の住民に水と食料と医薬品が届けられた」として支援物資がガザ地区に入ったことを明らかにし、軍事目的で使用される可能性のあるガソリンなどの燃料については、引き続きガザ地区への搬入を認めない考えを示した。また、ハガリは、これまでにガザ地区の住民およそ70万人が南部へと向かったとした上で、「戦争の次の段階に向けてガザ地区北部にあるハマースの拠点への攻撃を強化する」と述べ、ガザ地区の住民に対して南部へ向かうよう改めて呼びかけた。一方、ハマースについては「ガザ地区から発射されたロケット弾の5分の1にあたる550発以上がガザ地区内に落下し、誤爆によって罪のない市民を殺している」と主張している。このほか、ハガリは、これまでに210人の人質が確認されたと明らかにした。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 139,
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"text": "複数メディアでラファ検問所の開放が報道され、現地時間午前10時半に開放が確認、30分後に本戦争開始後としては初の支援物資の供給が行われた。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 140,
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"text": "カイロ平和サミットがエジプトの首都カイロで開催され、約30の国・地域、国際機関の代表が参加し、日本からは上川陽子外務大臣が出席し、本戦争についての話し合いも行われた。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 141,
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"text": "ヨルダン川西岸地区では、ガザを支援する抗議デモが発生した。ファタハやロシアの国旗を掲げ、ロシア大統領のプーチンや北朝鮮の最高指導者金正恩の肖像画を掲げる映像もあった。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 142,
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"text": "アメリカのオースティン国防長官は、USSドワイト・D・アイゼンハワー空母打撃群のアメリカ中央軍担当地域への配備を命じ、地中海東部のUSSジェラルド・R・フォード空母打撃群と合流することを発表した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 143,
"tag": "p",
"text": "イラン司令官のエスマイル・カーニがシリアに訪問したという情報も流れた。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 144,
"tag": "p",
"text": "イスラエル軍の報道官は22日、ガザ地区への空爆を強化していると明らかにするとともに「政治レベルでの決定に従い、軍にとって最良の状態で次の段階へ移行するだろう」と述べ、地上侵攻を含む大規模な軍事作戦への準備は整っていると強調した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 145,
"tag": "p",
"text": "イスラエル軍はガザ地区で高い建物やトンネルなどハマースの拠点を狙ったとする激しい空爆を続けていて、地元メディアは21日夜から22日にかけて少なくとも50人が死亡したと伝えている。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 146,
"tag": "p",
"text": "またガザ地区の周辺ではイスラエル軍が戦車部隊などを展開していて、22日にはガザ地区との境界線のフェンス近くでハマースの戦闘員2人を殺害したと発表した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 147,
"tag": "p",
"text": "イスラエル軍はヨルダン川西岸でも22日、空爆を行った。軍の発表によると空爆されたのはハマースや他の武装組織の拠点として使われていたとするモスクで「最近、テロ攻撃を計画しているという情報を入手した」と主張している。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 148,
"tag": "p",
"text": "ラファ検問所に支援物資輸送の第二陣が到着、トラック17台で燃料を積んだものもあった。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 149,
"tag": "p",
"text": "イスラエル軍機がシリアのアレッポ空港とダマスカス空港を再び攻撃し、両空港を機能停止に追い込んだ。また攻撃によりダマスカス空港を拠点とするシリア気象局の職員2人が死亡した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 150,
"tag": "p",
"text": "他、イスラエル軍はジェニンのアル・アンサル・モスクを攻撃し、内部で攻撃を計画していたハマースとイスラーム聖戦の「テロ工作員」数名を殺害したと発表した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 151,
"tag": "p",
"text": "フランスの首都パリではパレスチナ支持派のデモは禁止されているが約1万5000人規模のデモが発生し、これは認められた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 152,
"tag": "p",
"text": "イスラエル軍はエジプトとの国境付近でイスラエル軍の戦車がエジプト側の監視塔を誤って砲撃したと発表し、謝罪したのちに原因を調査中とした。これに対しエジプトは「イスラエル軍の誤射によって、エジプト兵数人が軽傷を負った。イスラエル側は誤射について即時に謝罪した」とSNS上で投稿した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 153,
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"text": "アメリカのオースティン国防長官はイスラエル軍のガザ侵攻計画に対し「市街地での戦闘は非常に難しい。ゆっくりとしたペースで進んでいくものだ」とし、その上で2016年から2017年にかけてイラク軍がイスラミックステート(IS)に対する軍事作戦によって、イラク北部のモスールを解放するのに9か月かかったことを挙げて「今回の戦闘はハマスが地下トンネル網を築き、戦闘準備に長い時間をかけてきたことからもう少し難しいかもしれない」と述べて、難しい作戦になるという認識を示した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 154,
"tag": "p",
"text": "イスラエル軍は23日朝、この24時間でガザ地区で320か所以上の標的を空爆したと発表した。空爆ではハマースによって使われていた地下トンネルや作戦指揮所、監視ポストなどを破壊したとしている。この空爆でガザ地区では多数の死傷者が出ていて、地元メディアはおよそ400人が死亡したと伝えた。こうしたなかイスラエル軍の報道官は23日、地上部隊の作戦開始が政治的な決定で遅れているのかという質問に対して「われわれは作戦への脅威を減らし、与えられた時間を利用して最善の形で作戦を実行できるよう準備を整えていく」と答え、軍としては準備ができていると強調した。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 155,
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"text": "イスラエル軍により、レバノン南部で軍機による夜間攻撃も実施された。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 156,
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"text": "ハマースはイスラエル国籍を持つ、85歳と79歳の高齢の女性を2人解放した。その後ラファ検問所を経由してエジプト側に退避したあと、健康状態を確認するためテルアビブの医療機関に搬送された。一方、人質50人の解放の交渉はハマースの燃料の要求に反対したことから却下された。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 157,
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"text": "EUが外相会議を開催し、ガザ地区で人道支援を行うための一時的な停戦について協議した。",
"title": "経過"
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"text": "また23日も支援物資がラファ検問所を通りガザへ行き、日本からの支援物資を積んだ日本国旗を掲げたトラックも見られた。",
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"paragraph_id": 159,
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"text": "イスラエル軍はハマースによる残虐行為だとする映像を公開した。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 160,
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"text": "フランスのマクロン大統領は、24日朝にイスラエルの空港に到着し、ハマスに捕らえられている人質の家族らと面会した。その後ヘルツォグと会談し、冒頭、マクロンは「まずはフランスとして支援と連帯を示したい。私たちが最初に目指すべきなのはすべての人質の解放だ」と強調した。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 161,
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"text": "アメリカ海兵隊のグリン中将などをイスラエルに派遣したことを発表した。報道官は「彼らは助言しているだけで指示はしていない」とし、「イラクのような密集した市街地での戦闘経験があれば、民間人の犠牲を少なくするためにできる限りのことを行う重要性などの教訓を共有できる」とも述べた。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 162,
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"text": "国連安全保障理事会は閣僚級の公開会合を開いて対応を協議した。その中でイスラエルとパレスチナ双方から外相が出席し、パレスチナ外相は「一般市民を標的にしたもので、非人道的で不法な無差別攻撃だ。これは国際法違反の集団的懲罰にあたる。一般市民の殺害はイスラエル人もパレスチナ人もいっさい正当化できない」とし、イスラエル外相は「この虐殺は歴史に刻まれる。ハマスは新たなナチスだ。文明世界がナチスを打ち負かすために団結したように、ハマスを打ち負かすために、世界は団結しなければならない。イスラエルにとってハマスを破壊することは権利ではなく義務だ」とし、互いを激しく非難する事態となった。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 163,
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"text": "アメリカのバイデン大統領は、サウジアラビアの事実上の最高権力者である、ムハンマド皇太子と電話会談し、ホワイトハウスは両首脳は「地域全体の安定を維持し、紛争の拡大を防ぐため」に、より広範な外交努力を追求することで合意。今後一定期間にわたり両首脳は直接、あるいは両首脳のチームを通じて緊密な連携を維持するとした。また、ガザへの支援物資搬入を双方が歓迎。人質奪還に向けた各国の取り組みを評価しつつ、ハマースには残りの人質の即時解放を求めたということである。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 164,
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"text": "10月24日、シリアから2発のロケット弾が発射された後、イスラエルの空爆によりダルアー県でシリア兵8人が死亡、7人が負傷した。",
"title": "経過"
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"text": "マクサー・テクノロジーズは戦闘前後のガザ地区北部の衛星画像を公開した。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 166,
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"text": "25日夜、ガザ地区北部に限定的な侵攻を開始するも引き揚げ、イスラエル軍は「次の戦闘の段階に向けた準備だ」とした。また同日にはネタニヤフが演説でガザ地区への地上侵攻について「我々は準備しているが、いつ始めるかなど詳細を説明するつもりはない。タイミングは戦時内閣と軍の幹部たちと決定する」と述べている。",
"title": "経過"
},
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"paragraph_id": 167,
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"text": "イスラエルのメディア「ハアレツ」はイスラエルなどの関係者の話として「多くの人質の解放が数日以内に実現するかもしれない」とした。一方『ニューヨーク・タイムズ』はアメリカ政府がイスラエルに地上侵攻を遅らせるよう要望しているとした上で、その理由について中東に展開するアメリカ軍を守るための防空ミサイルシステムの配備や人質解放に向けた交渉に時間が必要なためなどと報じた。『ウォール・ストリート・ジャーナル』(WSJ)もアメリカとイスラエルの政府当局者の話として、イスラエルがアメリカからの要請に応じて、ガザ地区への地上侵攻を遅らせることで合意したと伝えた。またWSJはハマースの戦闘員らがイスラエルへの大規模な奇襲攻撃を前にイランで訓練を受けていたと伝え、これに対しイラン側は否定した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 168,
"tag": "p",
"text": "フランスは病院を支援するため、フランス海軍の艦船を派遣するほか、医療物資を積んだ航空機をエジプトに派遣することを明らかにした。派遣される艦船は、多くのベッドや手術室を備え、病院としての機能も持ち合わせていると政府は説明している。またイギリスも21トンの支援物資を送ることを決め、物資を乗せた飛行機が25日、エジプトに到着した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 169,
"tag": "p",
"text": "ロシアのプーチン大統領は「今月7日のテロで殺されたイスラエル人などの遺族に哀悼の意を表したい」と述べた一方で「罪のない人々が他者による犯罪の責任を負うべきでない」と述べ、イスラエルによるガザ地区への地上侵攻の可能性に懸念を示した。その後アメリカを念頭に「特定の勢力がさらなる事態の悪化を誘発し、利己的な利益のために多くの国や民族を巻き込み、中東地域を越えて混乱と憎悪の波を起こそうとしている」などと、批判を展開、「世界中でナショナリズムや宗教的な不寛容をあおる西側勢力は、ロシアに対しても敵対的な目標を追求している」とも述べた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 170,
"tag": "p",
"text": "アメリカのバイデン大統領は、オーストラリアの首相アンソニー・アルバニージーとの首脳会談後に行われた共同記者会見で、イスラエルが自国を防衛するために必要な支援をすると述べる一方で「困難であろうともできるかぎりのことをして罪のない市民を守らなければならない」と述べて、ガザ地区の住民の犠牲を最小限にすべきだと改めて強調した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 171,
"tag": "p",
"text": "東京都目黒区のペットサロンで、ホームページが改ざんされ、英語で「われわれは常にパレスチナのイスラム教徒の同胞に寄り添っている」などといった主張が書かれる事件が発生、「IRoX Team」というハッカー集団が「自分たちがやった」とSNS上で主張した。その他世界でもハクティビストによるサイバー攻撃が行われている。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 172,
"tag": "p",
"text": "「戦闘の一時的な停止」などを求めるアメリカが提出した決議案の採決が行われ、15か国のうち10か国が賛成したが、ロシアと中国が拒否権を行使して否決された。これに対し中国の毛寧報道官は「中国側の立場は事実と正義に基づいており、国際社会、特にアラブ諸国の強い声に応えている」と述べ、アメリカの決議案に対して拒否権を行使した中国の立場を強調した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 173,
"tag": "p",
"text": "アメリカのオースティン国防長官は、声明を発表し、イランの革命防衛隊やイランが支援する勢力が使用しているシリア東部の2つの施設を攻撃したと明らかにし、「イランの支援を受けたこれらの攻撃は容認できず、止めなければならない。攻撃が続くようであれば、われわれは自国民を防衛するため、さらに必要な措置をとることをいとわない」と強調し、攻撃の理由を「自衛のため」とした。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 174,
"tag": "p",
"text": "ガザ地区の保健当局はイスラエルの空爆などにより死亡した6800人分の名前や年齢、性別などをまとめた資料を公表した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 175,
"tag": "p",
"text": "イスラエル軍はハマースが司令部などを置いているとみられる地下トンネルへの対応を専門とする「ヤハロム」という特殊部隊の映像を公開した。また、ハマースの情報部門ナンバー2であるシャディ・バルードを空爆で殺害したと発表している。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 176,
"tag": "p",
"text": "ハマース幹部アブマルズーク率いる代表団がロシアの首都モスクワを訪問し、外務次官のボグダノフと会談を行ったことをロシア連邦外務省が公表した。会談についてSNSでハマースは「イスラエルによるガザ地区への攻撃や、アメリカや西側諸国が支援しているイスラエルの犯罪を阻止するための戦略に焦点が当てられた。代表団はプーチンの姿勢を評価し、ロシア外交の積極的な役割を確認した。」とした。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 177,
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"text": "イランの国営通信はアメリカから自制を求めるメッセージを戦争勃発以降複数回受け取っていたことを発表、国営通信はそれを踏まえて「イランはイスラエルの戦争犯罪が地域の国々の怒りを招き、新たな戦端を開くと警告してきた。イラクやシリア、レバノン、イエメンで起きていることがそれを示している。戦争の拡大を望まないというアメリカの主張が本当なら、ガザ地区で人々を殺すのを止めるべきだ」とした。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 178,
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"text": "国連総会の緊急特別会合も開催され、ヨルダンが決議案を提出した。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 179,
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"text": "国連総会にて、120ヵ国の賛成で「即時かつ持続的な人道的休戦」を求める決議案が採択された。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 180,
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"text": "ハマースにより拉致された人質の数は229人であると発表された。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 181,
"tag": "p",
"text": "イスラエル軍はガザへの空爆は激化させ、さらに「地上軍の活動を拡大している」とした。またアル・シファ病院やインドネシア病院などにも攻撃は行われた。一方ハマースもロケット弾による攻撃を行い、テルアヴィヴなどに着弾した。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 182,
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"text": "またイスラエル側は地上侵攻について「あらゆる前線で激しい作戦を展開している」と発表し、北東部ベイト・ハヌーン(英語版)と中部ブレイジ(英語版)に対し地上侵攻を開始、ハマースも「イスラエル軍が侵入し、激しい衝突が起きている」とこれらの戦闘を認めた。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 183,
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"text": "2機の無人偵察機が紅海南部から北方向にイスラエルを目標として発射され、2機のドローンのうち、1機は墜落し、エジプトのタバにある病院に隣接するビルに命中し、6人が負傷した。もう1機は、エジプトのヌウェイバ(英語版)の町に近い砂漠地帯にある発電所の近くで、破片とともに撃墜された。フーシ派の高官はその後、ドローンがタバに墜落した後、X(旧Twitter)に一言投稿し、近くにあるイスラエルの町「エイラート」について言及した。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 184,
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"text": "またガザ地区の携帯電話による通信とインターネットアクセスは遮断され、被害の全容や人々の安否がわからなくなる事態となった。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 185,
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"text": "イスラエル軍は「ガザ地区で活動するジャーナリストの安全を保証できない」とする書簡を、ロイター通信などに送った。また「ハマスは意図的にジャーナリストや市民の周辺で軍事行動を展開している。このような状況のもとで、われわれはあなたたちのスタッフの安全を保証することはできない」とも書かれており、これに対しロイター通信は声明を発表し、「現地の状況は悲惨だ。イスラエル軍がわれわれのスタッフの安全を保証しないことは、戦闘のニュースを伝える力を脅かすことにつながる」として強い懸念を示し、AFP通信の幹部は「非常に危険な状況の中で働いている大勢のジャーナリストのチームがいることを、世界に理解してもらうことが重要だ」と述べた。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 186,
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"text": "ネタニヤフは「昨夜、さらに多くの地上部隊がガザ地区に入った。これは戦争の第2段階だ」と地上侵攻について発言、CNNも28日「ガザ地区との境界に待機していた数百台の戦車や装甲車、それにブルドーザーがいなくなっている」と伝えた。またイスラエルは、前夜ガザ内に配備された部隊がまだ地上に残っており、イスラエルによるガザ地区侵攻が始まったと発表した。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 187,
"tag": "p",
"text": "ハマースは「イスラエルの刑務所に収監されているすべてのパレスチナ人受刑者の釈放を条件に、直ちにすべての人質を解放する用意がある」と人質の解放について述べた。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 188,
"tag": "p",
"text": "国連レバノン暫定軍本部には砲弾1発が着弾、被害者は出なかったものの、「いま活動している場所がぜい弱で、緊迫していて、極めて不安定な状況に置かれていることを示すものだ」とSNSで国連レバノン暫定軍は発信した。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 189,
"tag": "p",
"text": "2024年アメリカ合衆国大統領選挙で返り咲きを狙うドナルド・トランプは、自らが所属する共和党を支持するユダヤ系の団体の会合で演説し「私がホワイトハウスに戻ったら、100%イスラエルの味方になる。残虐な行為への報復を行いハマスを壊滅させるため全面的に支援する」とアピール、「バイデン大統領のようにすり寄るのではなく、テロ資金を調達する能力が完全になくなるまで制裁を加える」「この戦争はイランとの関係修復を模索するなどしたバイデン政権の「弱腰」な外交がもたらしたものだ」と発言した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 190,
"tag": "p",
"text": "イーロン・マスクは自身がCEOを務めるスペースXの衛星通信網「スターリンク」のサービスをガザ地区に提供すると発表した。一方、スターリンクを利用するには専用のアンテナなどが必要で、ガザ地区への物資の搬入が極めて厳しく管理されるなかイスラエルが機器の搬入を認めるかは不透明である。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 191,
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"text": "軍の報道官はガザ地区に追加の部隊を派遣したことを明らかにするとともに「われわれは計画に従って戦争の段階を進めており、地上での軍事行動を徐々に拡大させていく」と述べ今後、地上戦の規模が大きくなるという認識を示した。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 192,
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"text": "米大統領補佐官のジェイク・サリバンは29日、ABCテレビのインタビューでガザ地区への軍事行動を拡大させているイスラエルについて「イスラエルには自国をテロから防衛する権利と義務があるが、同時にテロリストと一般の民間人を区別する責任がある」と述べて民間人の保護に力を尽くす必要があると強調し、イスラエル側に働きかけを続ける考えを示した。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 193,
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"text": "イスラエルと敵対するイランの外相であるアミールアブドッラーヒヤーンは、サウジアラビア外相のファイサルや、カタール外相のムハンマドと会談を行った。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 194,
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"text": "国際刑事裁判所(ICC)は「イスラム組織ハマースが今月7日にイスラエルを襲撃した際に行ったとされる犯罪とイスラエルがパレスチナで行ったとされる犯罪、双方について捜査を行っている」と発表した。加えて「悲惨な人道状況が広がっている」と述べた上でイスラエルを名指しこそしなかったものの「子ども、女性、男性、民間人への人道支援が妨げられることがあってはならない。彼らに罪はなく、国際人道法のもとでの権利がある。こうした権利が奪われれば、刑事責任すら生じる」と述べ、支援物資の搬入を加速させるよう求めた。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 195,
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"text": "バル・イラン大学のジョエル・ロスキンはハマースの地下トンネルについて解析を進め、トンネルの深さは20階建てのビルに相当する70メートル余りに達するとして、長さも300キロメートルから500キロメートルに及ぶとした。そのうえでロスキンは「地下トンネルを軍事やテロのために活用するハマスの手口は非常に巧妙だ。指令やロケット弾の発射、人質の収容にとどまらず、ゲリラ作戦にも使われていて、これほどまで多岐にわたる使い方をしているのはほかに類を見ない」と日本放送協会(NHK)の取材に答えた。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 196,
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"text": "また#10月27日以降に遮断されていたガザの通信サービスが徐々に復旧されていることが確認された。また水を供給するパイプラインのうち3本中2本が復旧したことも確認された。",
"title": "経過"
},
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"paragraph_id": 197,
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"text": "アメリカ国務省の報道官ミラーはアメリカがイスラエルに対し、電話やインターネットの通信サービスの復旧を要請していたことを明らかにした上で「イスラエルが復旧に向けた措置をとったことを歓迎する」と述べた。また「通信サービスを確保することは、重要な情報を伝達し、人道支援を継続させ、家族が連絡を取り合うために重要だ」ともした。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 198,
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"text": "国連安保理が開かれ、10月27日に国連総会で人道目的での休戦などを求める決議が採択されたことを受けて、各国からイスラエルに対し、ガザ地区の住民の保護を求める意見が相次いだ。ガボンの国連大使ミシェル・グザヴィエ・ビアンは「イスラエルの激しい空爆と地上作戦がこの戦争の死傷者を悲劇的に増加させている」と述べ、決議が求めた休戦に応じるよう訴えた。アメリカの国連大使トーマスグリーンフィールドは「イスラエルにはテロから自国を守る権利はあるが、国際人道法を順守しなければならない」と述べる一方、先の国連総会の決議については「ハマスの行動が非難されていないのは不合理だ」として、改めてイスラエルを擁護する姿勢を見せ、ロシアの国連大使ネベンジャは、総会決議の翌日にイスラエル軍が地上作戦を拡大したと非難したうえで「アメリカはイスラエルによる大規模な報復を支持しているのか」と詰め寄りアメリカも非難した。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 199,
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"text": "ハマースは3人の女性の人質の映像を公開した。また、レイム音楽祭虐殺事件で拉致された23歳のドイツ系のイスラエル人が死亡した。この人質の死亡についてイスラエル外務省は「ハマスによって音楽イベントから誘拐され、拷問され、見せもののようにガザ地区で連れ回され、計り知れない恐怖を経験させられた」と追悼の意を表した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 200,
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"text": "ガザ地区保健当局は北部にあるトルコ・パレスチナ友好病院が攻撃を受けたと発表した。これに対し病院の建設に携わったトルコの外務省は「ここはガザ地区における唯一のがん治療のための病院だ。病院の位置情報をイスラエル当局に事前に提供したにもかかわらず、攻撃があったことは説明がつかない」「ガザ地区の封鎖や、非人道的な攻撃は明らかに国際法に違反している」とした。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 201,
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"text": "イスラエル軍は「イスラエルに対しロケット弾を発射したシリアの地点に対してイスラエル軍の戦闘機が攻撃した。また、レバノンのヒズボラの関連施設も攻撃した」と公表、シリアの国営通信は30日、軍関係者の話として「イスラエルは30日未明、シリア南部ダラア郊外にある軍事施設2か所に空爆を行った。ある程度の物的被害が出ている」と伝えた。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 202,
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"text": "軍事施設など1日で約300か所攻撃とイスラエル軍が発表した。ガザ地区北部のジャバリア難民キャンプに大規模攻撃が行われ、外国籍3人を含む7人の人質が死亡した。ジャバリア難民キャンプ付近は古いコンクリートの建物が密集し人口密度が特に高くなっていたことから、ジャバリア難民キャンプの映像では地面に爆発によるものとみられる巨大な穴が複数あり、広い範囲が完全に崩れ落ちてがれきと化していた。この難民キャンプへの攻撃に対し国連難民高等弁務官事務所の難民高等弁務官グランディは31日、米国ニューヨークにある国際連合本部で記者団に対し「われわれがこれまで見てきたなかで最悪の事件だ」と述べた。またイラン外務省報道官は「戦争犯罪のリストに加わることになる」と警告、カタール外務省も声明で「多くの罪のない人たちを死傷させたイスラエルの爆撃を、無防備な人々の虐殺だとみなす」と強いことばで非難しイスラエルによる民間施設に対する攻撃の拡大は仲介と緊張緩和の努力を損なうことになる」として、人質解放に向けた交渉にも支障が出るおそれがあると指摘した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 203,
"tag": "p",
"text": "イスラエル軍は「ガザ地区北部でハマスの拠点の一つとなっている建物に大規模な攻撃を行い、10月7日の襲撃で重要な役割を果たした指揮官を多くの戦闘員とともに殺害した」とSNSで投稿した。殺害された指揮官はガザ地区北部でのイスラエル軍に対する作戦を指揮していたとしていて、地下にあるハマスの軍事施設も破壊したとみられる。この攻撃により付近の病院などが被害を受け、病院の担当者は少なくとも50人以上が死亡したとした。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 204,
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"text": "また再び電話とインターネット通信が一時、完全に遮断された。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 205,
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"text": "イエメンのフーシ派は、ガザ地区への軍事作戦を続けるイスラエルに対して弾道ミサイルなどを発射し、ハマス側に加勢すると表明した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 206,
"tag": "p",
"text": "ハマスの軍事部門カッサム旅団の報道官は31日「拘束している何人もの外国人を向こう数日のうちに解放すると仲介者に伝えた」と人質解放に向けた交渉が続いていることを伺わせた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 207,
"tag": "p",
"text": "南米にあるボリビアのプラダ大統領府相(暫定外相を兼務)は、ガザ地区攻撃での民間人被害を「人道に対する罪」として非難し、イスラエルと外交関係断絶を表明した。ボリビアとともにイスラエルを非難してきた同じ南米のコロンビアとチリも協議のため駐イスラエル大使を呼び戻した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 208,
"tag": "p",
"text": "米国務長官のブリンケンなどが出席して開かれたイスラエルへの支援について議論する公聴会では、「イスラエルへの支援はもうやめて」「ガザでの停戦を」と書いたプラカードを掲げたり、「アメリカはガザでの虐殺を支援している」「アメリカ国民は悲惨な戦争への支援を望まない」と叫ぶなど傍聴していた人たちが停戦を訴えたりする騒動が発生し、退席させられた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 209,
"tag": "p",
"text": "エジプトの首相モスタファ・マドブーリーは会見で「われわれの目的は人道危機に対処することだ。国内外からの支援をガザ地区の人々に届けることに最善を尽くしている」と述べガザ地区への支援急ぐ姿勢を強調した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 210,
"tag": "p",
"text": "イスラエル軍は、ジャバリア難民キャンプに対して2日連続で攻撃を行った。この攻撃により195人が死亡し、およそ120人ががれきの下敷きになるなどして行方不明であるとガザ保健相は発表した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 211,
"tag": "p",
"text": "イスラエル軍のハガリ報道官は1日、難民キャンプへの攻撃でハマスの対戦車砲部隊のトップを空爆で殺害したと発表し、「地上作戦は事前の計画と具体的なインテリジェンスに基づき、陸と海、そして空からの合同作戦を遂行している」と説明した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 212,
"tag": "p",
"text": "ジャバリア難民キャンプへの2日連続の攻撃に対して、フランス外務省は「パレスチナの住民が多くの犠牲を強いられたことを深く憂慮する。民間人の保護はあらゆる者に課せられた国際法上の義務だ」と懸念を示したほか、アルゼンチン外務省は1日、声明で、イスラエルの自衛権を認めるとしながらも、「国際人道法の違反は正当化できない。数百人を死傷させたイスラエル軍によるジャバリア難民キャンプへの攻撃を非難する」として、病院や民間のインフラ施設への攻撃を停止するよう訴えた。ヨルダン外務省も1日、「前例のない人道上の大惨事だ」として、イスラエルから大使の召還を決定したと発表した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 213,
"tag": "p",
"text": "また、難民キャンプへの攻撃に対しての避難は国家だけでなく、国際機関にも広がっている。1日には国連人権高等弁務官事務所が、「民間人の多大な犠牲と破壊の規模を考えると、これは戦争犯罪にも該当しうる過度な攻撃だと懸念する」とSNSに投稿し、強く非難している。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 214,
"tag": "p",
"text": "ハマースは「イスラエル軍はジャバリア難民キャンプで24時間以内に2度目の犯罪を行った。権威主義的で無法な組織の行動に終止符を打つべく、私たちは国際社会のメンバーなどに対し、政治的・道徳的責任を果たすよう、緊急に呼びかける」としてイスラエル軍を強く非難した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 215,
"tag": "p",
"text": "アメリカのバイデン大統領は演説を行い、演説の中で、外国国籍を持つ人々などの退避は今後、数日間、続くという見通しを示した。バイデンは退避に向けて、イスラエルのネタニヤフ首相、エジプトのシシ大統領などと協議を重ねたほか、カタールからも協力を得たとし、「これはアメリカによる集中的な外交の成果だ」と強調した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 216,
"tag": "p",
"text": "前日に参戦を表明したフーシ派の報道官ナセルディン・アメルがオンラインでのNHKのインタビューに応じ、イスラエルに対して行われた攻撃はすべてイエメン本土から発射されたものだとした上で、「攻撃は始まったばかりだ。今後、これまでとは比べものにならない強力な攻撃をイスラエルに仕掛ける」と述べ、今後も弾道ミサイルなどを使ってイスラエルを攻撃すると明らかにし、「イスラエルが反撃することは想定内だ。それに対する準備も整っている。私たちは4年も5年も前からイスラエルへの攻撃を想定して準備を進めてきた。私たちとイスラエルとでは力の差は大きいが、それでも大きな打撃を与えることができる」と主張した。一方で、フーシ派がイスラエルと敵対するイランの支援を受けていることについては「イランからの支援には感謝している。私たちはイランだけではなく、ハマスやヒズボラなど多くの勢力と協力している」として、イランが中東各地で支援する「抵抗の枢軸」と呼ばれるネットワークの一員として、イスラエルに抵抗し続けると強調した。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 217,
"tag": "p",
"text": "3日連続でジャバリア難民キャンプの大勢の住民が避難する国連機関が運営する学校で爆発が起き、保健当局は27人が死亡したと発表した。また、同じガザ地区北部のシャーティ難民キャンプでも学校の校庭に砲弾が着弾したほか、地元当局はガザ地区中部のブレイジ難民キャンプでも空爆があり、少なくとも15人が死亡したとした。ハマスの報道官は現地のテレビ局に、「イスラエル軍によって南北をつなぐ道路が分断され、避難する人のための安全な道路が失われた」と述べ、けが人を南部に運ぶことができないと訴えた。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 218,
"tag": "p",
"text": "イスラエルから退避した日本人20人と韓国人やベトナム人など合わせて46人を乗せた航空自衛隊の輸送機が羽田空港に到着した。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 219,
"tag": "p",
"text": "CNNは、シリアのアサド政権がヒズボラに対して、ロシア製の防空システム(パーンツィリ-S1)を供与することに同意したことを報道した。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 220,
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"text": "アメリカ合衆国議会下院で共和党がイスラエルに対する支援としておよそ140億ドルを提供する予算案を出し、議会は賛成多数でこれを可決した。同日にはカービー戦略広報調整官が2日の記者会見で、「バイデン大統領はすべてが国の安全保障にとって緊急で重要だと考えている」と述べた。",
"title": "経過"
},
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"paragraph_id": 221,
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"text": "ブリンケン米国務長官が首都ワシントン近郊の空軍基地を出発し中東訪問が開始された。出発前にブリンケンは「イスラエルには自国を防衛し、このようなことが二度と起きないよう措置を講じる権利と義務がある。ただイスラエルがどのように行うかが重要だ」と述べ、民間人の被害を最小限に抑える方策について議論する考えを示した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 222,
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"text": "米戦略広報調整官のカービーは、ヒズボラの動きについて、「イスラエル北部でイスラエル軍への攻撃が続いていることを懸念している。しかし、ヒズボラが総攻撃をしかける準備ができているという具体的な兆候はまだ見られない」「もし、ヒズボラがこの戦闘を拡大し、エスカレートさせようと考えているのであればそうすべきではない。ここはわれわれの国家安全保障上、重要な場所で、これまでも守り抜いてきたし、今後もそうするだろう」と指摘・牽制した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 223,
"tag": "p",
"text": "ガザ地区内のAFP通信の事務所がイスラエル軍の攻撃にさらされ破壊されたものの、中にいた8名は全員無事だった。AFP通信は声明で攻撃について「今回の攻撃を可能なかぎり最も強いことばで非難する。事務所は誰でも知っている場所にある。ガザ地区で活動するジャーナリストが保護され、取材活動は尊重されなければならない」とした。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 224,
"tag": "p",
"text": "ブリンケン米国務長官は、イスラエルを訪問してネタニヤフ首相やヘルツォグ大統領などと会談した。その後、会見を行い「イスラエルには自衛する権利や義務があるが、どのように行うかが重要だ」と述べ、国際人道法を順守し、ガザ地区の民間人の犠牲を最小限に抑えることや、人道目的での「戦闘の一時停止」を働きかけたことを明らかにした。また、「戦闘の一時停止をどのように人質の解放につなげるかや、ハマスがそれを悪用しないためにはどうすればよいのかは早急に話を詰める必要がある。この問題についてアメリカはイスラエル側と具体的な解決策を見つけるため、議論を続けることで合意した」や「ハマスが燃料を必要とする病院などへの供給を拒んでいる。皮肉にもほどがある。アメリカは国連とともに支援が行き渡るよう話し合いを続ける」とも述べた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 225,
"tag": "p",
"text": "ヒズボラの最高指導者ナスララ師は戦闘後初の会見を開き、この中で、ナスララ師は、最初にハマスが実行した奇襲攻撃「アルアクサの洪水」など一連のイスラエルとの戦闘について、「アルアクサの洪水の戦闘は複数の戦線に拡大した」と述べ、イスラエルとの戦いにはその後、ヒズボラや、イエメンの反政府勢力フーシ派も参戦したと明言し、「イスラエルはガザ地区で虐殺をすることによって成果をあげることはできない」と指摘した。この会見を巨大スクリーンで映していたテヘランでは「イスラエルに死を、アメリカに死を」とヒズボラの旗を振る人々が見られた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 226,
"tag": "p",
"text": "日本の上川陽子外相はイスラエルを訪問してイスラエル外相のコーヘンと40分間会談を行い、上川が「イスラエルの方々との連帯の意を伝えるために訪問した。ハマスの攻撃はテロであり、赤ちゃんから子ども、女性や高齢者も含めて、一般の市民に対する攻撃と誘拐はどのような理由であれ正当化できず、断固非難する。犠牲者に心から哀悼の意を表するとともにハマスによって誘拐された人たちの一刻も早い解放を心から祈っている」、コーヘン外相が「10月7日はユダヤ人にとってホロコースト以来の最悪の日だった。日本のイスラエルに対する支援と連帯に感謝する」述べた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 227,
"tag": "p",
"text": "米政府高官は、記者団に対しハマス側に拘束されている人質を解放しガザ地区から脱出させるには戦闘の一時停止が必要だという認識を示し、すべての人質の解放に向けてあらゆる取り組みが行われているとした上で「人質は200人以上かもしれない。それだけの人質をガザから脱出させるにはかなり大幅な戦闘の一時停止が必要になる。非常に真剣で活発な議論が行われているが合意はまだない」と述べた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 228,
"tag": "p",
"text": "アメリカは人質の解放に向けた支援の一環としてガザ地区上空にアメリカ軍が無人機を飛行させていることを明らかにし、アメリカ海軍は空母ジェラルド・フォードとアイゼンハワーを中心とする空母打撃群が東地中海で3日間にわたって1万1千人以上が参加する合同演習を行ったと発表した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 229,
"tag": "p",
"text": "イスラエルは「ヤハロム」によりガザ地区内でハマスが構築した地下トンネルを破壊する様子を動画で公開した。これに対してハマースのカッサム旅団も、地下トンネルの中を進み、茂みの中からイスラエル軍を攻撃する様子や、住宅地で行われている市街戦の様子をうつした動画を公開して、対抗した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 230,
"tag": "p",
"text": "ガザ北部のシファ病院近くでは2台の救急車がミサイルによる攻撃を受けたと明らかになり、WHOなどから非難が相次いだ。これに対してイスラエル軍は「ハマスが使っていた救急車1台を特定し、攻撃した」と主張した。アルジャジーラは、他の病院近くで撮影されたとする映像を放送し、映像では、地面に大きな穴があき、炎が上がる様子や、多くの人が集まり、けが人を運ぶ様子が確認できる。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 231,
"tag": "p",
"text": "マガジ難民キャンプがイスラエル軍により攻撃され、40人以上が死亡した。ジャバリア難民キャンプで爆発があり、15人が死亡し70人が怪我をした。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 232,
"tag": "p",
"text": "カッサム旅団はSNSを通じて、戦闘員がガザ地区北部でイスラエル軍と衝突し、車両10両を破壊したとする映像を公開した。11月2日から3日かけて撮影されたとする映像には、ハマスの戦闘員が、複数の場所でイスラエル軍の戦車などに対戦車砲を発射する様子が写っており、いずれも市街地で撮影されたものとみられ、戦闘員が物陰や鉄柵のすき間から狙いを定める姿や、車両のすぐ近くまで近寄って攻撃し、爆発で辺りが煙に包まれる様子が確認できる。また、戦闘員がイスラエル軍の車両によじ登り、火をつけたあと、緑色のハマスの旗をとりつけて立ち去る様子も写っている。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 233,
"tag": "p",
"text": "イスラエル軍はハレビ参謀総長がガザ地区に入り地上部隊を視察している様子だとする映像を公開し、集まった将校らを前に「あなたがたのことを誇りに思う」などと激励した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 234,
"tag": "p",
"text": "ブリンケン米国務長官はヨルダンで、エジプトやサウジアラビア、カタールなどアラブ諸国の外相らと会談した。会談後、ブリンケンは、ヨルダンのサファディ外相やエジプト外相のサーメハ・シュクリとともに記者会見を行い、会談で人道支援や戦闘の拡大を防ぐ手だてなどをめぐって、意見を交わしたことを明らかにした。会見でサファディやシュクリが民間人の犠牲を防ぐため即時停戦が必要だと述べたのに対し、ブリンケンはイスラエルの自衛の権利を支持する立場を改めて示した上で「いま停戦を行うと、ハマスがとどまり、再編成し、10月7日の行いが繰り返されるだけだ」と述べ、停戦はハマスを利するだけだと主張し「ガザ地区の民間人の窮状を深く懸念している。だからこそ、人道目的での『戦闘の一時的な停止』が必要だ」と述べ、引き続きイスラエルに対し、ガザ地区への必要な物資の搬入や民間人の避難などのために「戦闘の一時的な停止」を求めていく考えを強調した。",
"title": "経過"
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"text": "ガザ地区全域で大規模な通信遮断が発生した。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 236,
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"text": "イスラエルのエルサレム問題・遺産相のアミハイ・エリヤフが地元ラジオのインタビューで、ハマスが実効支配するガザでの核兵器使用を容認する考えを示し、これに対し人質の家族らでつくる団体は「ユダヤ人とイスラエルの倫理に反する衝撃的発言だ」と解任を要求した。ネタニヤフも「現実離れしている」と発言した。日本においても非難は相次ぎ、全国の被爆者団体で作る日本被団協の箕牧智之代表委員は「発言がおどしなのか本気なのかは分からないが、『核』と聞いただけで寒気がした。ロシアによるウクライナ侵攻など世界中で争いが起き、いつ核兵器が使われてもおかしくないような状況だが、世界の指導者は核兵器が使われないために動くべきで、こうした発言は慎んでほしい」と非難した。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 237,
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"text": "イスラエル軍は地上侵攻以降2500か所以上のハマス拠点を攻撃したと報告した。また、午前10時から午後2時までの4時間、ガザ地区を南北に貫くサラハディン通りを開放すると2日連続で発表し、住民に南部への退避を呼びかけていて、住民の犠牲を減らす姿勢をアピールした。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 238,
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"text": "ブリンケン米国務長官はキプロスを訪問し、フリストドゥリディス大統領と会談を行った。「キプロスからガザ地区へ人道支援物資を海上輸送する計画についても詳細に話し合った」とされる。またイラクを訪問しイラクとシリアに駐留するアメリカ軍の部隊に対し、無人機やロケット弾による攻撃が相次いでいることに対してはブリンケン米国防長官は「イランと連携する武装勢力からの攻撃や脅迫は、決して容認できない」とけん制した。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 239,
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"text": "イランの最高指導者であるハメネイ師は、ハマースの最高幹部ハニーヤがイランを訪れたことを明らかにした。そのうえで「ハニーヤ氏はガザ地区の情勢などを説明し、これに対してハメネイ師はガザ地区の人々の辛抱強さをたたえるとともに、アメリカなどの直接的な支援を受けたイスラエルの犯罪を強く非難した」としている。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 240,
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"text": "トルコの首都アンカラでフィダンとブリンケンが会談に臨んだ。会談後、ブリンケンは「ガザ地区への人道支援物資は今後数日で、拡大できるだろう」と述べ、ガザ地区への人道支援物資の搬入の状況が改善されることに期待を示した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 241,
"tag": "p",
"text": "国連人道問題調整事務所などの国連機関や国際NGOの代表、18人が連名で声明を発表し、「30日がたった。もう十分だ」として即時の人道的な停戦などを求めた。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 242,
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"text": "IDFはSNSでガザ地区北部にある「インドネシア病院」が、ハマスの地下の指令拠点の隠れみのになっていると主張した。インドネシア病院はインドネシアの人道支援団体が資金援助を行い建設され、パレスチナが運営する病院である。団体側は6日、ジャカルタで会見してイスラエル軍の主張を否定するとともに、「イスラエルの非難は、インドネシア病院を攻撃する前提条件になりかねない」と懸念を示した。その上で「国際社会に対し、法律で明確に保護されている機関や施設、病院を保護するよう強く求める」と訴えた。また、インドネシア外務省も7日に声明を発表し、「インドネシア病院は完全に人道的な目的でパレスチナ人の医療ニーズにこたえるために建設された」と述べIDFの主張を否定した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 243,
"tag": "p",
"text": "ホワイトハウスはバイデン大統領がイスラエルのネタニヤフ首相と電話で会談し、人道支援を目的とした「戦術的な戦闘の一時停止」について協議したと明らかにした。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 244,
"tag": "p",
"text": "パレスチナ人が多く住む東エルサレムにある警察署の近くで6日、イスラエルの警察官2人がパレスチナ人の16歳の少年に刃物で刺され、その内20歳の女性の警察官は病院に運ばれたがその後、死亡が確認され、もう1人は軽いけがをした。少年はすぐに射殺されイスラエルの治安部隊は事件に関与したとして複数の容疑者を逮捕した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 245,
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"text": "戦闘開始から一カ月が経過した。経過時点でIDFが投下した爆弾の量がアフガニスタン戦争において2019年の1年間においてアメリカが投下した爆弾量を超えたことが判明した。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 246,
"tag": "p",
"text": "午前5時すぎから対応を協議する安保理の緊急会合が開かれた。非公開の会合は日本時間の7日午前7時すぎに終了し議論の詳しい内容は明らかになっていないが、会合の開催を要請した中国やUAEなどは「即時停戦」を求める安保理決議が必要だと呼びかけたとみられている。一方、イスラエルを擁護するアメリカはこれまで、人道目的の「戦闘の一時的な停止」を行うべきだとする一方、「停戦」については「ハマスを利することになる」と否定的な姿勢を示している。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 247,
"tag": "p",
"text": "緊急会合の後、今回の会合を要請した中国の国連大使・張軍とUAEの国連大使ヌサイベがそろって会見し、ガザ地区の民間人を保護するための「人道的な停戦」が必要だと述べた。一方、アメリカのウッド国連次席大使は記者団に対し、「人道的な戦闘の一時停止について協議した。その点を追求することに関心をもっているが、各国の間で意見の相違がある」と述べ、「停戦」を求めるか「戦闘の一時停止」を求めるかで対立があることを明らかにした。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 248,
"tag": "p",
"text": "イスラエル軍は、ガザ地区最大のアル・シファ病院での「ハマースに対する標的を絞った作戦」を実行。戦車6台と特殊部隊員約100人が夜間に病院に入った。イスラエル軍が病院を「完全に支配」(病院内のジャーナリスト)した。ハマースの武器や装備を発見したとし、映像を公開したが、ハマースは「ばかげており無価値」。イスラエル軍が「武器を持ち込んで置いた」可能性があるとしたことに触れ、病院地下にはイスラエルが主張するような活動拠点はないとしている。エルサレムで取材中のBBCのオーラ・ゲリン記者は、これらの映像からは、病院内での作戦によってイスラエル軍が主要な武器庫を発見したとは確認できないとした。ガザ地区保健当局は、病院内では「抵抗する人も拘束された人もいない」ので「一発の銃弾も」発射されていないと、語った。アル・シファ病院の外科部長のマルワン・アブ・サアダ医師は、イスラエル軍の襲撃で放射線科が大きく破壊された。イスラエル軍は男性らの手を縛って一つの部屋に隔離し、CTスキャナーやMRI機器などを壊し、メンテナンス担当の職員2人が拘束されたとたと話した。この時点では、イスラエルの報復攻撃で1万1000人以上が殺害され、うち4500人以上が子どもであった。イスラエル軍による病院内の作戦の是非は、世界で激しい議論になった。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 249,
"tag": "p",
"text": "安保理にて、ガザ地区の人道的休止と回廊設置を求める決議が採択された(ロシア、イギリス、アメリカ合衆国が棄権)。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 250,
"tag": "p",
"text": "イスラエル軍は19日、紅海南部のイエメン沖で船舶が拿捕されたと発表した。日本の国土交通省は、日本郵船から日本時間同日午後10時すぎ、同社運航の自動車運搬船「ギャラクシー・リーダー」が「拿捕されたようだ」との連絡を受けたと明らかにした。船にはウクライナやフィリピン、メキシコなど多国籍の船員25人が乗船。貨物は積まれていない。乗組員に日本人はいない。フーシ派は19日、「イスラエルの船」をイエメンの沿岸へ連行したと発表。「抑圧され、イスラエルの恐ろしい爆撃下にあるパレスチナ人への人道的、道徳的責任に基づく作戦だ」と主張した。船はトルコからインドに向けて航行していた。イスラエル人は乗船していない。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 251,
"tag": "p",
"text": "20日に行われた閣議の後松野博一官房長官はイエメンの親イラン武装組織フーシによる日本郵船が運航する自動車輸送船「ギャラクシー・リーダー」の拿捕に関し「断固非難する」と発言した。また「関係省庁が情報収集を進め、関係国と連携しながら船舶および船員の早期解放のため取り組んでいる」「イスラエルとも意思疎通を図り、当事者のフーシ派への直接の働きかけに加え、サウジアラビア、オマーン、イランなどの関係国に船舶および船員の早期釈放をフーシ派に強く求めるよう働きかけている」と説明した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 252,
"tag": "p",
"text": "イスラエルとハマスが50人の人質の解放と引き換えに4日間の停戦に合意したと発表された。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 253,
"tag": "p",
"text": "イスラエルとハマースが、午前7時(現地時間)からガザでの4日間の戦闘休止に入った。この合意では、ハマース側が女性と子供計50人を解放し、イスラエル側はパレスチナ人の女性と子供計150人を釈放する。また、ハマースが追加で人質10人を解放するごとに戦闘休止期間が1日延びる。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 254,
"tag": "p",
"text": "ハマースに拘束されていた人質24人が解放されたと発表された。内訳はイスラエル人の子供4人、30~50歳代3人、70歳代以上6人とタイ人10人、フィリピン人1人。解放された人質は、ガザから赤十字国際委員会の付き添いでエジプト側境界のラファ検問所に出た後、イスラエルの病院に搬送された。また、人質解放の引き換えとしてハマースが要求したパレスチナ人収監者39人が釈放されたと発表された。内訳は未成年者15人と女性24人で、28人はヨルダン川西岸に、11人は東エルサレムに送還された。この際、釈放される人を迎えようと集まった家族らが警備のイスラエル軍と衝突し、軍の発砲でパレスチナ人31人が負傷した。バイデンは人質解放について、「人質が救出され、愛する人と再会できたことに感謝しなければならない」と歓迎し、「始まったばかりだが、今のところは順調だ」、「あすにはさらに多くの人質が解放され、その後も続くだろう」との見方を示した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 255,
"tag": "p",
"text": "戦闘休止期間2日目",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 256,
"tag": "p",
"text": "ハマースが、ガザへの援助物資搬入などを巡りイスラエルが合意を守っていないと主張し、人質の解放を遅らせると発表したが、カタールやエジプトの仲介により解消され、人質17人が解放された。内訳はイスラエル人の女性5人、子供8人とタイ人4人。また、イスラエル側もパレスチナ人39人を釈放した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 257,
"tag": "p",
"text": "戦闘休止期間3日目",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 258,
"tag": "p",
"text": "ハマースが人質17人を解放し、イスラエルもパレスチナ人39人を釈放した。解放された人質の内訳は子供9人を含むイスラエル人14人とタイ人3人。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 259,
"tag": "p",
"text": "ネタニヤフが10月7日の戦争開始以降初めて、ガザを訪れた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 260,
"tag": "p",
"text": "翌日に期限切れとなる4日間の戦闘休止について、ハマースが「延長を求めている」とする声明を発表し、ネタニヤフも延長する用意があると述べた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 261,
"tag": "p",
"text": "戦闘休止期間4日目、当初の合意での最終日",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 262,
"tag": "p",
"text": "ハマースが人質11人を解放し、イスラエルもパレスチナ人33人を釈放した。解放された人質は全員が二重国籍のイスラエル人で、内訳はフランス国籍3人、ドイツ国籍2人、アルゼンチン国籍6人。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 263,
"tag": "p",
"text": "イスラエルとハマースがガザでの戦闘休止を2日間延長することで合意した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 264,
"tag": "p",
"text": "戦闘休止期間5日目",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 265,
"tag": "p",
"text": "ハマースが人質12人を解放し、イスラエルもパレスチナ人30人を釈放した。解放された人質の内訳は未成年者と女性のイスラエル人10人と、タイ人2人。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 266,
"tag": "p",
"text": "イスラエルとハマースの間で、戦闘休止の合意に違反する小規模な衝突があった。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 267,
"tag": "p",
"text": "戦闘休止期間6日目",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 268,
"tag": "p",
"text": "ハマースが人質16人を解放し、イスラエルもパレスチナ人30人を釈放した。解放された人質の内訳はイスラエル人12人、タイ人4人。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 269,
"tag": "p",
"text": "戦闘休止期間7日目",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 270,
"tag": "p",
"text": "1度目の延長合意ではこの日の午前7時で期限が切れた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 271,
"tag": "p",
"text": "その後、イスラエルとハマースが戦闘休止を少なくとも1日延長することに合意した。ハマースは、イスラエルが戦闘休止延長に向けた人質解放案を拒否したと述べていたが、その後戦闘休止期間終了の数分前になって、イスラエル軍が戦闘休止を継続すると表明した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 272,
"tag": "p",
"text": "戦闘休止の延長の発表直後に、エルサレムで2人のパレスチナ人が発砲し、3人が死亡し、8人が負傷した。イスラエルは容疑者2人がハマースに関係していると主張している。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 273,
"tag": "p",
"text": "イスラエル軍によるガザ南部への侵攻が開始された。これに伴いガザ南部の都市・ハンユニスへの攻撃が開始された。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 274,
"tag": "p",
"text": "IDFはハマースが軍事目的に使っていると見られるトンネルを800か所以上発見し、このうちおよそ500か所を破壊したと発表した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 275,
"tag": "p",
"text": "また、フーシ派はバーブルマンデブ海峡でイスラエルの船舶2隻に対する攻撃を行ったと発表。1隻についてはミサイルで、もう1隻については無人機での攻撃を行ったとしていて、「イスラエルがガザ地区への侵攻をやめないかぎり、イスラエルの船舶による紅海などでの航行を阻止し続ける」などと声明を出した。これに対しイスラエル側も声明を発表し「きょう、イスラエルとは関係のない商船2隻にミサイルが発射された。1隻は重大な損傷を受け、沈没の危険にさらされており、もう1隻は軽度の損傷を受けた」とし、船舶はイスラエルとは関係ないとした。このような攻撃に対してアメリカは、国防総省の報道担当者は、「紅海でのアメリカ軍のミサイル駆逐艦『カーニー』と複数の商業船への攻撃に関する情報は把握している」として、何者かによる駆逐艦などへの攻撃があったと明らかにした。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 276,
"tag": "p",
"text": "そのほか、アメリカ中央軍は紅海南部の国際水域を航行していた商船3隻が4回にわたって攻撃を受け、アメリカ海軍のミサイル駆逐艦が無人機を撃ち落とすなど対応したとし、フーシ派による別の攻撃があったと述べた。『カーニー』が午前9時すぎ、フーシ派の支配地域からイギリスの会社が所有・運航するバハマ船籍の貨物船に向かって弾道ミサイルが発射され、近くに着弾したのを確認、午後3時半、別のイギリスなどの会社が所有・運航するパナマ船籍の商船は、フーシ派の支配地域からミサイル攻撃を受けて損傷したほか、午後4時半にはパナマ船籍の貨物船で、8か国の船員が乗り組む別の船舶もミサイル攻撃を受けたということである。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 277,
"tag": "p",
"text": "イスラエル軍の報道官は記者会見で、ハマースの掃討を目指した地上作戦をパレスチナ自治区ガザ中部にある複数の難民キャンプに拡大したことを明らかにした。加えてIDFは中部ブレイジの難民キャンプで見つかった地下トンネルの入り口や軍事訓練施設だとする写真や映像を公表した。地元紙『タイムズ・オブ・イスラエル』によると、ガザ北部のガザ市付近に展開していた部隊がブレイジに転戦したということである。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 278,
"tag": "p",
"text": "ヘルツィ・ハレビ参謀総長は「ガザ北部のハマス部隊の解体完了が近づいている」との見方を示し、「現在は南部のハンユニスや中部の難民キャンプでの活動に集中している」と述べた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 279,
"tag": "p",
"text": "一方ヒズボラからの攻撃も相次ぎ、イスラエル北部の国境近くにあるキリスト教の教会に対戦車ミサイル1発が命中し、住民1人が負傷した。それに対応するようにイスラエル軍もヒズボラ側を砲撃したことが報告されている。",
"title": "経過"
},
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"paragraph_id": 280,
"tag": "p",
"text": "ハマース戦闘員によるイスラエル人や外国人の誘拐が行われている。",
"title": "人道上の問題"
},
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"paragraph_id": 281,
"tag": "p",
"text": "また、ハマース戦闘員がイスラエル国内で民間人の虐殺を行ったことが指摘されており、イスラエル南部地区レイムで行われていた音楽祭の会場から250人以上の遺体が発見され、数多くの拉致や残虐行為の目撃が報告されたレイム音楽祭虐殺事件のように、民間のイベント会場や集落をハマース戦闘員が無差別に襲撃している。イスラエル軍報道官の発表によると、一連のハマース戦闘員の行動によってイスラエル史上最大の民間人虐殺が行われたとされており、現時点でもクファルアザ(英語版)で虐殺が確認されている。スデロットでは民家への放火も確認されている。ハマースによる拉致被害は多く確認されており、イスラエル人だけでなくドイツ人1人やタイ人11人なども拉致された。ハマースのロケット弾は主に無誘導爆弾であり、イスラエル国防軍によると戦闘開始から7日間で6000発以上のロケット弾がハマースからイスラエル側の広い範囲に打ち込まれた。また以前からハマースがガザ地区の学校や病院を軍事拠点化しているという指摘も専門家からなされており、イスラエル軍も同様の主張を行っている。",
"title": "人道上の問題"
},
{
"paragraph_id": 282,
"tag": "p",
"text": "ジュネーヴを拠点とする組織「人質・行方不明家族フォーラム」のハガイ・レヴィン教授を団長とする医療チームが赤十字国際委員会に送った報告書によると、人質にはパーキンソン病、多発性硬化症、心血管疾患、糖尿病、がんのほか、認知症、自閉スペクトラム症、精神疾患を持つ者もおり、「治療と救命処置が緊急に必要」であり、「必要不可欠な薬や治療を受けていないため、即座に死亡する傾向がある」という。報告書はまた、攻撃時に誘発された未治療の負傷(銃創、切断、レイプによる外傷)や、粉ミルクを必要とする乳児についても懸念を表明した。",
"title": "人道上の問題"
},
{
"paragraph_id": 283,
"tag": "p",
"text": "イスラエルの医療の専門家1500人からなるグループが『ランセット』に発表した公開状は、「イスラエル建国以来最大の民間人命の損失」とし、ハマースによる人道上の問題を「イスラエル南部の村全体を襲った、無差別的な野蛮なハマースの大暴れ」として衝撃を表明し、これを「人道に対する罪」とした。公開状は国際医療界に対し、「野蛮な虐殺を非難し、人質となっているすべての人々の安全と健康の保証を直ちに求め、無残にも人質となった私たちの家族や友人の即時かつ無条件の帰還を明確に求める」よう求めた。",
"title": "人道上の問題"
},
{
"paragraph_id": 284,
"tag": "p",
"text": "IDFは11月1日にハマスが地区内の病院に燃料の提供を迫っていることを示す内容の電話の会話を傍受したとして音声を公開し、IDFは「ハマスが人々よりもテロリストのニーズを優先させていることを示すものだ」と述べた。",
"title": "人道上の問題"
},
{
"paragraph_id": 285,
"tag": "p",
"text": "イスラエルによるガザの空爆は集団的懲罰にあたり戦争犯罪であると批判されている。",
"title": "人道上の問題"
},
{
"paragraph_id": 286,
"tag": "p",
"text": "イスラエルからの空爆は、1日で6000発の爆弾の投下が行われ、10月16日までに、空爆によって700人以上の子どもを含む2750人が死亡し、10000人近くが負傷した。同日には、空爆によって、消防や捜索救助などの緊急対応サービスを担当するパレスチナ民間防衛(PCD)の本部が破壊された。",
"title": "人道上の問題"
},
{
"paragraph_id": 287,
"tag": "p",
"text": "一方でイスラエル側によるガザ地区に住む民間人への被害も確認されており、8日時点でガザの高層住宅4棟を破壊するなどの被害が確認されている。イスラエル国防相のヨアヴ・ガラント(英語版)はガザ封鎖を宣言した9日、「われわれは「人間の顔をした獣」と戦っており、それにふさわしい行動をする」と述べ、特定集団を非人間化する名称で呼ぶことは「ジェノサイド(集団殺害)の兆候」であると専門家より批判された。また、ガラントがガザへの包囲を宣言し、電気、食料、水、ガスの供給ができなくなる危険性が生じた。ガザ地区内ではすでに40万人以上が水に関するインフラで被害、インターネット通信も危機的状況、唯一の発電所であるガザ発電所も燃料の枯渇が懸念され、結果的に停止した。10日、欧州連合 (EU) のボレル外交安全保障上級代表は「イスラエルは国際人道法(戦時国際法)に従って自衛権を行使しなければならない」と語り、ガザのパレスチナ住民に対する水や食料などの遮断は「国際法違反」との認識を示した。フィリップ・ラッツァリーニは、「ガザは水が不足しており、ガザは生命が不足している」と述べた。",
"title": "人道上の問題"
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{
"paragraph_id": 288,
"tag": "p",
"text": "これらに対して国連の世界食糧計画はガザ地区への食糧供給を8倍に、国連パレスチナ難民救済事業機関によるとガザ地区の住民はこれらに恐怖を抱いていると公表した。ユニセフのキャサリン・ラッセル事務局長は「ガザ地区への電力の遮断や、食料、燃料、水の供給を止める措置は、子どもたちの命を危険にさらすことにつながりかねない。人道状況が急速に悪化する中、子どもたちやその家族がどこにいようと、人道支援に携わる人々が安全に、命を守るための活動や、物資を届けることをできるようにしなければならない。」と懸念を表明しながら支援を行うことを誓った。またガザではそもそも病院まで運ぶ道のりが空爆により危険で、そして墓地もスペースが埋まっていることなどから、アイスクリームを冷凍するためのトラックに遺体を入れる例などもあったとガザ保健当局が発表した。10月15日、イスラエルは給水再開に同意したが、対象はガザ南部のみであった。しかし、ガザの給水ポンプは電力に依存しているため、このイスラエル側の同意は、再度の給水アクセスを保証するものではなかった。イスラエルのエネルギー・水省のスポークスマンは、ガザ南部の1カ所でしか水は流れていないと述べた。しかし、ボランティアやガザ政府のスポークスマンは、水はそもそも利用できないと語っている。10月16日、エネルギー相のイスラエル・カッツは、ハーンユーニス南部近郊のブネイ・サヒラで水が利用できるようになったと主張したが、ガザ内務省の報道官エヤド・アル=ボゾムは、ガザのどこであっても水はまだ利用できないと述べた。同日までに、ガザ住民は海水や農業用井戸の汽水を飲むようになり、水系感染症の恐れが高まった。医師や病院スタッフは水の枯渇から、点滴液を飲んだ。",
"title": "人道上の問題"
},
{
"paragraph_id": 289,
"tag": "p",
"text": "また白リン弾の使用も確認されており、白リン弾の激しい燃焼力で深刻なやけど被害をもたらす危険性から人権団体より批判が集まっている。",
"title": "人道上の問題"
},
{
"paragraph_id": 290,
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"text": "11日には国際刑事裁判所が、パレスチナ国で行われた戦争犯罪の疑いを調査する2014年時点のマンデートが、現在の紛争にも及ぶと発表した。",
"title": "人道上の問題"
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"paragraph_id": 291,
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"text": "ガザの数百万人に救命支援を届けるための「人道的一時停止」を求める安保理決議案がブラジルにより提出され、理事国15カ国中12カ国から「賛成」票を獲得し、ロシアと英国は棄権したが、米国は決議案の採択を阻止するために拒否権を発動した。",
"title": "人道上の問題"
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"text": "18日にはヨルダン川西岸のラマラ近郊でイスラエル側に抗議する意図でタイヤに火をつけようとした15歳と17歳の少年がイスラエル軍により射殺された。",
"title": "人道上の問題"
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"text": "30日にはトルコ・パレスチナ友好病院が空爆の被害にあい、11月1日、トルコ・パレスチナ友好病院の院長は、ガザで唯一のがん専門病院が発電機の燃料切れで「完全に機能停止」していると述べた。また、ガザ保健省は、アル・ヘロウ国際病院の産科病棟がイスラエル軍の爆撃を受けたと発表した。11月2日、インドネシア病院は主発電機が稼働しなくなったと発表した。ガザ厚労省前述のトルコ・パレスチナ友好病院の爆撃の影響で11月3日時点で12人のガン患者が死亡したと発表した。同省は、800人の重傷患者が治療を受けるためにガザを離れる必要があると述べ、医療システムの崩壊により、過去数日間に多くの重傷患者が死亡したと指摘した。アル・シファ病院前の医療車列がイスラエル軍の無人機ミサイルによって破壊された。アル・クッズ病院とインドネシア病院も攻撃を受けた。11月4日、カマル・アドワン病院の発電機が停止した。またアル・ナセル小児病院の入り口がイスラエルの空爆を受けた。",
"title": "人道上の問題"
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"text": "12月5日、ニューヨーク大学のロバート・ジャクソン・ジュニア教授とコロンビア大学のジョシュア・ミッツ教授は、10月7日の奇襲攻撃に先立ち株式に大幅な空売りが出ていたと報告している。報告書で、米金融取引業規制機構(FINRA)のデータに基づき、MSCIイスラエル上場投信(ETF)の空売りが10月2日に「突然、大幅に」急増したことを挙げ、「奇襲攻撃の数日前から、一部のトレーダーは来るべき出来事を予期していた可能性がある」と指摘。奇襲攻撃の直前にテルアビブ証券取引所(TASE)でイスラエル証券の空売りが急増したことにも言及した。教授らは「私たちの調査結果は、今後の攻撃について情報を得たトレーダーがこれらの悲劇的な出来事から利益を得たことを示唆しており、これまでの文献と一致して、この種の取引は米国および国際的な情報提供取引に対する法的禁止の執行の隙間で行われていることを示しています。」と声明を出した。",
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"text": "CNNによるとX(旧Twitter)などにおいてゲームの映像やシリア内戦の映像「ファウダ -報復の連鎖-」のシーンなどを当戦争の映像としたりするなどといった虚偽の情報が回っている。問題の投稿の多くはコミュニティノート機能により訂正を受けているが、偽情報の拡散に歯止めがかからない状況が続いている。これに対してEUはEU内の法を適応しようとしたことから、各インターネットシステムを運営する企業は対応を行った。また、イラン・イスラム共和国放送によるハマースによるイスラエル司令官の捕獲の報道の映像も、2023年ナゴルノ・カラバフ衝突の際の映像を流したことが判明した。",
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"text": "日本への影響としては中東リスクが再燃していることから、原油価格の高止まりによる貿易収支の悪化により戦争以前より続いていた円安の長期化は避けられないと思われている。",
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"text": "エジプトでもアレクサンドリアで警官がイスラエル人観光客向けのバスに発砲し、イスラエル人2人とエジプト人1人が死亡、13日には中国の首都北京でイスラエル大使館職員が刺され負傷、同日フランスにおいても北部にある高校で教師が刺殺、パリ東部の高校では男が刃物を持って校内に入ろうとする等、当戦争が関係していると思われる事件が相次いだ 。",
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"text": "ブルガリア、スペイン、ポーランド、タイはイスラエルに居住する各邦人らを退避させた。一方イギリスは退避させなかったため、外務・英連邦・開発省には非難が集まった。",
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"text": "イスラエルではタマルガス田の閉鎖が行われた。",
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"text": "10月9日にはニューヨーク・マーカンタイル取引所 (NYMEX) の原油先物相場が1バレル=86.06ドルにまで急伸した。また同日、エヌビディアがイスラエルのテルアビブで15・16日に開催を予定していた「AIサミット」を、「参加者の安全が最優先事項であり、これが最善の行動だと信じている」として中止したと発表した。",
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"text": "10月10日にイスラエルの主要産業の一つでありGDPの5分の1を占めるハイテクノロジー産業は、それまでの混乱による停滞が徐々に回復してくると思われてきたが本戦争により回復が頓挫した。アワークラウドのジョン・メドベド最高経営責任者は「海外からの投資は今後数週間から数カ月間、特に衝突が続く限り、鈍化するだろう」と分析している。",
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"text": "イスラエル国内や国際法上のパレスチナ領であるユダヤ人入植地には、パレスチナ人出稼ぎ労働者がヨルダン川西岸地区から約16万人、ガザ地区から約1万8千人入域を認められていた。出稼ぎの収入は、パレスチナ国内の10倍にもなった。ネタニヤフ首相は以前、非公式にパレスチナのアッバース政権の弱体化を図るためにハマースを利用すると発言しており、ガザ地区からの就労枠拡大もその一環と指摘されていた。開戦後、ガザ地区からの就労許可は全て取り消され、数千人がガザ地区に強制送還された。またパレスチナ政府高官によると、約5000人がイスラエル当局に拘束され、約4950人が西岸地区に逃れたという。ILOによると、ヨルダン川西岸地区からイスラエルや入植地への検問所も閉鎖された。このため、ヨルダン川西岸地区の16万人の出稼ぎ労働者も、すでに失業したか、その瀬戸際に立たされているという。イスラエル企業は、パレスチナ人に代わってインドやスリランカなどの出稼ぎ労働者の受入拡大を政府に要望している。イスラエル建設業協会(ACB)のシェイ・パウズナー副理事長によると、パレスチナ人労働者の穴埋めとして、6万人の外国人出稼ぎ労働者の受入を政府に要望したという。",
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"text": "イギリスの放送局であるBBCは戦争発生以来、ハマースをテロリストとは呼称せず、「武装組織」と呼んでおりこの報道姿勢に政府や英政界の与野党双方から批判の声が上がっている。これに対しBBCの国際報道の責任者を務めるジョン・シンプソンは「誰かをテロリストと呼ぶのは、片方の側に立つことであり、状況を公平・中立に報じないことになる」とXで反論。「わめき散らさず、視聴者に事実を提示すること」がBBCの仕事だと述べている。",
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"text": "米上院商業科学運輸委員会の共和党議員らは20日にX、Meta、TikTok、GoogleのIT4社に対して本戦争に関するSNS上の情報を保全するよう求めた。残虐な内容の投稿の削除には理解を示した上で、戦争犯罪の捜査や報道、情報機関による分析などの目的に限ってアクセスを維持する方策が必要だと指摘し、加えて「歴史の記録」として、情報を保存する必要性も訴えた。",
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"text": "戦争中、主要なソーシャルメディア・プラットフォームであるFacebook、Instagram、YouTube、TikTokが、戦争中に親パレスチナの投稿を検閲したり、リーチを制限したりしていると非難されているときもあった。ユーザーは、「FreePalestine」や「IStandWithPalestine」のような特定のキーワードやハッシュタグを使用すると、コンテンツが非表示になったり、そのリーチが減少したりするシャドウバンニングなどの慣行を主張している。",
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"text": "ロイター通信は10月9日、カタールがイスラエルとハマース間で、イスラエルが36人のパレスチナ人女性と子どもを解放する代わりに、ハマースにイスラエル人女性の人質を解放するという交渉を仲介していると報じた。",
"title": "交渉"
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"text": "AP通信によるエジプト政府関係者への取材によると、イスラエルはハマースに拘束されている人質の安全を確保するためにエジプトに援助を求め、エジプト諜報部長は情報を求めるためにハマースとイスラーム聖戦に接触したという。エジプト当局が、ハマースに捕らえられたイスラエル人女性と引き換えに、イスラエルの刑務所に収容されているパレスチナ人女性の釈放を仲介していることが同じくAP通信により報道された。",
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"text": "またスナクは10月19日にサウジアラビアに仲介役を求めた。",
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"paragraph_id": 309,
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"text": "BBCは20日、ハマースが、拘束している人質を解放する代わりに即時停戦を求める交渉を提出したことを発表した。一方イスラエル側はこれに合意していない。これに対しBBCは「人質がイスラエル軍の指揮官にとって 地上侵攻の計画を複雑にする要因となっている」とし、「人質の解放が交渉で実現できれば、一人ひとりが生きて帰れる可能性が高くなることは明らかだ」と述べている。",
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"paragraph_id": 310,
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"text": "イスラエル側では11月5日時点で約1400人の死亡が確認されており、内828人の民間人、31人の子供、ホロコースト生存者や女性をも含む。後日数値が修正されている。",
"title": "死傷者"
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"paragraph_id": 311,
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"text": "キブツ・ベエリやレイム、ガザ地区近隣のイスラエル南部各地にいた民間人が虐殺・拷問・凌辱・拉致・部位の切断および首切りなどをされ、焼死体も見つかっており、2023年10月7日は「イスラエル史上最悪な日」「ユダヤ人にとってのホロコースト以来の惨状」と言われている。上記のテロ行為は生配信され、映像として残っている。",
"title": "死傷者"
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{
"paragraph_id": 312,
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"text": "242人が拉致され、その内民間人が大半を占め、約30人の子供(生後10ヶ月から18歳まで)や女性、老人なども含む。",
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"text": "11月2日時点で負傷者は5400人以上と推定されている。",
"title": "死傷者"
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"text": "パレスチナ側では、ガザ地区10022人の死者が、ヨルダン川西岸地区でも144人の死亡が確認されている。ガザ地区内の8005人の内2704人が子供であることが判明している。",
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"paragraph_id": 315,
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"text": "ガザ地区内の負傷者は12500人以上と推定されており、ガザ地区の全住宅のうち少なくとも30%が、イスラエルの爆撃によって破壊されたか(12,845戸)、住めなくなったか(9,055戸)、軽微な損傷を受けた(121,000戸)。",
"title": "死傷者"
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{
"paragraph_id": 316,
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"text": "23日時点で国連人口基金(UNFPA)は、ガザ地区では現在、約5万人の女性が妊娠中と推定され、1日あたり約160人が出産を予定しているものの、安全に出産するための環境が整っていないと指摘、また国連人道問題調整事務所(OCHA)の22日の発表によると、シファ病院は治療の対応が可能とされる基準の7倍以上となる、およそ5000人の治療の対応を強いられているほか、4万5000人の住民が安全な場所を確保するため、病院とその周辺に身を寄せているということである。",
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"text": "23日時点でロイターの報道によるとガザ北部の病院だけでも新生児集中治療室に55人の新生児がいるということも判明した。",
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"text": "ハマース政府は2023年12月19日の時点で1万9667人が亡くなったと主張している。",
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"text": "ジャーナリスト保護委員会は2023年11月6日までに、36人のジャーナリストの死亡が確認されたとした。内訳は31人がパレスチナ人、4人がイスラエル人、1人がレバノン人であった。",
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"text": "また負傷者では、8人のジャーナリストが負傷し、9人が行方不明、または拘束されたことが判明している。",
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"text": "10日には、ハッジタワーというガザ内にあったタワーが空爆により破壊され、3名のジャーナリストが死亡する等、ジャーナリストが殺害されるような事象がいくつも発生している。",
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"paragraph_id": 322,
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"text": "これらのジャーナリストの複数名死亡に対してジャーナリスト保護委員会(CPJ)は11月1日、「この地域全体にいるジャーナリストは悲痛な紛争を取材するために大きな犠牲を払っていて、特にガザにいるジャーナリストは前例のない犠牲を払い続けている。ジャーナリストは危機的な状況の中で重要な仕事をしている民間人であり、紛争当事者に狙われてはならない」と懸念を示した。",
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"text": "ワシントンポストは10月11日時点で24か国の人々の死傷者が確認されているとした。",
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"text": "交戦勢力は最新版時点でイスラエル・同国国防軍のみ。",
"title": "交戦勢力および支持・支援勢力の推移"
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"paragraph_id": 325,
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"text": "イスラエル側支持国。●は支援を表明した国。",
"title": "交戦勢力および支持・支援勢力の推移"
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"text": "ハマース、ヒズボラ、PIJのほか、DFLP、PFLP、ライオンの巣などの武装勢力の関与も取り沙汰されている。",
"title": "交戦勢力および支持・支援勢力の推移"
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"text": "パレスチナ武装組織側支持国。●は支援を表明した国",
"title": "交戦勢力および支持・支援勢力の推移"
},
{
"paragraph_id": 328,
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"text": "これらの国は中立的立場を宣言している。なお、双方に自制を促した国、いずれか一方のみを非難しつつ、もう一方についても肯定的でない立場の国を含む。",
"title": "交戦勢力および支持・支援勢力の推移"
}
] | 2023年パレスチナ・イスラエル戦争(2023ねんパレスチナ・イスラエルせんそう)は、2023年10月7日にパレスチナのガザ地区を支配するハマース(ハマス)によるイスラエルへの攻撃によって勃発した、ガザ側の武装勢力とイスラエルの武力紛争、または戦争。7日、ハマースはイスラエル領内に数千発のロケット弾を撃ち込むとともに、ガザ地区近隣のイスラエル南部各地に戦闘員を侵入させて民間人多数を殺傷・拉致した(レイム音楽祭虐殺事件など)。これに対してイスラエルは軍を動員して反撃を開始し、領域内のハマースを押し返した後、ガザ地区を閉鎖し、大規模な空爆及び地上侵攻を行い、ハマース戦闘員のみならず多数の民間人を殺傷し続けている。 なお、パレスチナ自治政府は対イスラエル奇襲には関与をしておらず、パレスチナの大統領マフムード・アッバースは「ハマースはパレスチナ人の代表ではない(後にハマースへの名指しは削除)」「ハマースは人質の即時解放をすべき」「ハマースによるイスラエル南部への攻撃を非難する」と表明している。ただし欧米から要求された、テロ行為と認定しての非難は拒否しており、フランス大統領エマニュエル・マクロンとの会談で「紛争の責任はイスラエルとそれを支援する国々にある」とした。また、ワリード・アリ・シアム駐日パレスチナ常駐総代表部代表は8日、SNSにて「私たちは、パレスチナ人とイスラエル人の両方の民間人の生命の喪失を断固として非難します」とメッセージを投稿している。ただし、以降の投稿は戦闘員と民間人を区別せず殺傷するイスラエルのガザ攻撃に批判的である。 この戦争でイスラエル側は第四次中東戦争以来の死者数を出した。イスラエルは8日、正式にハマースに対して宣戦布告した。イスラエル側は戦時内閣を発足させている。 | {{Pathnav|中東戦争|frame=1}}
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| battle_name = 2023年パレスチナ・イスラエル戦争
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| image = [[File:October 2023 Gaza−Israel conflict.svg|lang=ja|202px]]
| caption={{Legend2|#F4B7B8|ガザ地区}} {{Legend2|#F9F5AA|イスラエル国内の避難地域}} {{legend-line|red dotted 2px|ハマスの最大占領地域}} {{legend-line|blue dotted 2px|イスラエルが退避勧告を発表したガザ地区内の地域}}
| conflict = [[パレスチナ問題]]<ref name="nhk">{{Cite web |url=https://www3.nhk.or.jp/news/special/international_news_navi/articles/qa/2023/10/16/35127.html |title=最新パレスチナ情勢 なぜイスラエルと衝突?ハマスって?解説 |publisher=[[日本放送協会]] (NHK)|date=2023-10-16 |accessdate=2023-10-17}}</ref>
| date = [[2023年]][[10月7日]] - 現在<ref>{{Cite web |url=https://sp.m.jiji.com/article/show/3067166 |title=ハマスが対イスラエル大規模作戦=空爆で反撃、計298人死亡―「戦争状態」、住民拉致か |publisher=[[時事通信社]] |date=2023-10-07 |accessdate=2023-10-17}}</ref>
| place = [[ガザ地区]]、イスラエル、[[レバノン]]南部など{{R|"nhk"}}。
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| combatant2 = {{Hamas}}<br/>{{flagicon image|Flag of the Islamic Jihad Movement in Palestine.svg}} [[イスラーム聖戦 (パレスチナ)|イスラーム聖戦]]<br/>{{flagicon image|PFLP Infobox Flag.svg}} [[パレスチナ解放人民戦線]]<br/>{{flagicon image|Flag of the Democratic Front for the Liberation of Palestine.svg}} [[パレスチナ解放民主戦線]]<br/>[[アル・アクサ殉教者旅団]]<br/>'''パレスチナ領外の組織:'''<br/>{{HZB}}<br/>{{flagicon image|Houthis emblem.svg}} [[フーシ]]
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| strength2 = アル・カッサム旅団<br/>1万5000〜4万人{{efn|[[イギリス]]の[[シンクタンク]]、[[国際戦略研究所]](IISS)は15,000人とみているほか、アラビア語の一部メディアは40,000人と報じている<ref>{{Cite web|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3487031?page=2|title=【解説】イスラエルとハマスの軍事バランス|publisher=[[フランス通信社|AFPBB News]]|date=2023-10-19|accessdate=2023-10-19}}</ref>。}}<br/>[[ヒズボラ]]<br/>[[戦闘員]]最大4万5000人<br/>うち常勤2万1000人<br/>在シリア部隊5000人<ref>{{Cite web |url=https://www.moj.go.jp/psia/ITH/organizations/ME_N-africa/hizballah.html |title=ヒズボラ |publisher=[[公安調査庁]] |date=2021 |accessdate=2023-10-17}}</ref>
| casualties1 = 約1410人死亡{{efn|2023年10月19日時点}}<ref>{{Cite news ja|url=https://mainichi.jp/articles/20231019/k00/00m/030/355000c|title=イスラエル・ハマス戦闘、死者5100人超える 激しい空爆続く |publisher=[[毎日新聞]]|date=2023-10-19|accessdate=2023-10-19}}</ref>
| casualties2 = ガザ地区: 21110人死亡(7112人の子供を含む){{efn|2023年12月5日時点。ガザ保健省による}}<ref>{{Cite web |publisher=[[時事通信]] |title= イスラエル軍「最も苛烈な攻撃」 衝突2カ月前に、ガザ南部で攻勢拡大―子供の死者7000人 |url= https://www.jiji.com/amp/article?k=2023120600678&g=int|date=2023-12-06|accessdate=2023-12-08}}</ref><br />[[ヨルダン川西岸地区]]: 103人死亡{{efn|2023年10月25日時点。パレスチナ保健省による}}<ref>{{Cite web |publisher=[[Al Jazeera]] |title=At least five killed in Israeli raids in occupied West Bank: Ministry |url=https://www.aljazeera.com/news/2023/10/25/several-palestinians-killed-in-israeli-raids-in-occupied-west-bank-ministry |date=2023-10-25 |accessdate=2023-10-26}}</ref>
}}
'''2023年パレスチナ・イスラエル戦争'''(2023ねんパレスチナ・イスラエルせんそう)は、[[2023年]][[10月7日]]に[[パレスチナ]]の[[ガザ地区]]を支配する[[ハマース]](ハマス)による[[イスラエル]]への攻撃によって勃発した、ガザ側の武装勢力とイスラエルの武力紛争、または戦争。7日、ハマースはイスラエル領内に数千発の[[ロケット弾]]を撃ち込むとともに、ガザ地区近隣のイスラエル南部各地に戦闘員を侵入させて民間人多数を殺傷・[[拉致]]した([[レイム音楽祭虐殺事件]]など)。これに対してイスラエルは[[イスラエル国防軍|軍]]を動員して反撃を開始し<ref>[https://sp.m.jiji.com/article/show/3067683 死者900人超に=ハマス攻撃、100人拉致か―大規模報復へ「戦争」承認・イスラエル] 時事通信(2023年10月9日)2023年10月31日閲覧</ref>、領域内のハマースを押し返した後、ガザ地区を閉鎖し、大規模な[[空襲|空爆]]及び地上侵攻を行い、ハマース戦闘員のみならず多数の民間人を殺傷し続けている<ref>{{Cite web |title=イスラエル、ガザ難民キャンプを空爆 住民ら多数死傷 |url=https://www.bbc.com/japanese/67281987 |website=[[英国放送協会|BBCニュース]] |date=2023-11-01 |access-date=2023-12-13}}</ref>。
なお、[[パレスチナ自治政府]]は対イスラエル奇襲には関与をしておらず、[[パレスチナの大統領]][[マフムード・アッバース]]は「ハマースは[[パレスチナ人]]の代表ではない(後にハマースへの名指しは削除<ref>{{Cite news ja |title=ハマス批判、パレスチナ議長発言から削除 自治政府の通信社 |url=https://jp.reuters.com/world/mideast/RD3YGYCTWBJPVARUNEWXMDV5Y4-2023-10-16/ |work=[[ロイター|Reuters]] |date=2023-10-16 |access-date=2023-10-25 |language=ja}}</ref>)」「ハマースは[[人質]]の即時解放をすべき」「ハマースによるイスラエル南部への攻撃を非難する」と表明している<ref>{{Cite web |title=BREAKING: Palestinian Authority president Mahmoud Abbas says the policies and actions of Hamas do not represent the Palestinian people|url=https://x.com/spectatorindex/status/1713659201929744698?s=46&t=3qODvsVvtzErr0Q1vMohyA |website=Twitter(X) |date=2023-10-15 |access-date=2023-10-16 |last=The Spectator Index}}</ref><ref>{{Cite web |title=The President of Palestine, Mahmoud Abbas stated today during a Phone Call with U.S. President Biden that the Actions of Hamas do not Represent the Palestinian People and that he Condemns their recent Attack on Southern Israel.|url=https://x.com/sentdefender/status/1713659013286469728?s=46&t=3qODvsVvtzErr0Q1vMohyA|website=Twitter(X) |date=2023-10-16|access-date=2023-10-16 |last=OSINTdefender}}</ref><ref name="b">{{Cite web |title=“hamas actions do not represent palestinians.”- palestinian president mahmoud abbas, demanding immediate release of hostages|url=https://x.com/ianbremmer/status/1713666678955913702?s=46&t=3qODvsVvtzErr0Q1vMohyA|website=Twitter(X) |date=2023-10-15 |access-date=2023-10-16 |last=ian bremmer}}</ref>。ただし[[欧米]]から要求された、[[テロリズム|テロ行為]]と認定しての非難は拒否しており<ref>{{Cite web |title=パレスチナ自治政府アッバス議長、ハマスの越境攻撃に沈黙…欧米からの「テロ非難」要請も拒否 |url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20231017-OYT1T50012/ |website=[[読売新聞]]オンライン |date=2023-10-17 |access-date=2023-10-25 |language=ja}}</ref>、[[共和国大統領 (フランス)|フランス大統領]][[エマニュエル・マクロン]]との会談で「紛争の責任はイスラエルとそれを支援する国々にある<ref name=":75">{{Cite web |title=パレスチナ自治政府のアッバス議長が仏大統領と会談 イスラエル軍の攻撃即時停止訴え |url=https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000321311.html |website=[[テレビ朝日|テレ朝news]] |access-date=2023-10-26 |language=ja}}</ref>」とした。また、[[ワリード・アリ・シアム]][[駐日パレスチナ常駐総代表部]]代表は8日、[[ソーシャルネットワークサービス|SNS]]にて「私たちは、パレスチナ人と[[イスラエル人]]の両方の民間人の生命の喪失を断固として非難します」とメッセージを投稿している<ref name="a">{{Cite web |title=https://x.com/ambsiam/status/1710843399342080158?s=46&t=3qODvsVvtzErr0Q1vMohyA|url=https://x.com/ambsiam/status/1710843399342080158?s=46&t=3qODvsVvtzErr0Q1vMohyA |website=X (formerly Twitter) |access-date=2023-10-07 |language=ja}}</ref>。ただし、以降の投稿は戦闘員と民間人を区別せず殺傷するイスラエルのガザ攻撃に批判的である。
この戦争でイスラエル側は[[第四次中東戦争]]以来の死者数を出した<ref name="afpbb20231009">{{Cite web |title=死者双方で1100人超に イスラエルはハマスに宣戦布告|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3485347 |website=AFPBB News |access-date=2023-10-09}}</ref>。イスラエルは8日、正式にハマースに対して[[宣戦布告]]した<ref>{{Cite web |title=イスラム組織ハマスがイスラエルに大規模攻撃、これまでの経緯は |url=https://www.cnn.co.jp/world/35210020.html |website=[[CNN]] |access-date=2023-10-13 |language=ja}}</ref>。イスラエル側は[[イスラエル戦時内閣|戦時内閣]]を発足させている<ref>{{Cite web |url = http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:GXo01n_bikAJ:https:%2F%2Fwww.cnn.co.jp%2Fworld%2F35210145.html&sca_esv=573076625&hl=ja&gl=jp&strip=1&vwsrc=0 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20231013035846/http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:GXo01n_bikAJ:https:%2F%2Fwww.cnn.co.jp%2Fworld%2F35210145.html&sca_esv=573076625&hl=ja&gl=jp&strip=1&vwsrc=0 |author = Cable News Network. A Warner Bros. Discovery Company.|title = イスラエル、戦時内閣樹立 ガザへの攻撃強化|website = www.cnn.co.jp|publisher = CNN|date = 2023-10-12|archivedate = 2023-10-13|accessdate = 2023-10-13}}</ref><ref>{{Cite web |url = https://www.nhk.or.jp/knews/20231012/k10014223451000.html |archiveurl = https://web.archive.org/web/20231013035840/https://www.nhk.or.jp/knews/20231012/k10014223451000.html |author = |title = イスラエル 緊急政府発足へ “ハマスとの戦争を遂行するため” |website = www.nhk.or.jp|publisher = NHK|date = 2023-10-12|archivedate = 2023-10-13|accessdate = 2023-10-13}}</ref>。
== 呼称・表記 ==
ハマースは、この戦闘を「'''アクサーの氾濫作戦'''<ref>[http://www.nids.mod.go.jp/publication/commentary/commentary279.html ハマスの前例のない対イスラエル攻撃] [[防衛研究所]] 西野正巳 2023年10月12日公開</ref>」もしくは「'''アルアクサの洪水作戦'''({{Lang-ar|عملية طوفان الأقصى}})<ref name=":31">{{Cite web |title=イスラエルにイスラム組織「ハマス」が大規模攻撃 何が起きた?|url=https://www3.nhk.or.jp/news/special/international_news_navi/articles/qa/2023/10/10/35010.html |website=NHK NEWS WEB |access-date=2023-10-14 |language=ja |last=日本放送協会}}</ref><ref>{{Cite news ja |title=イスラエルとレバノン武装勢力も衝突 ガザ地区での紛争と並行 |url=https://www.bbc.com/japanese/67074322 |work=BBCニュース |access-date=2023-10-14 |language=ja}}</ref>{{efn|イスラム教の聖地である[[神殿の丘|ハラム・アッシャリフ]]に位置する[[アル=アクサー・モスク|アルアクサ・モスク]]を指しているとされる<ref name=":12" />}}」とした。一方でイスラエル側は「'''鉄の剣作戦'''(ヘブライ語: {{Hebrew|מבצע חרבות ברזל}})」と呼んでいる<ref>[https://www.timesofisrael.com/liveblog_entry/hamas-calims-to-fire-5000-rockets-at-israel-declares-operation-al-aqsa-flood/ Pacchiani, Gianluca (7 October 2023). "Hamas claims to fire 5,000 rockets at Israel, declares 'Operation Al-Aqsa Flood'".] ''Times of Israel''. Archived from the original on 7 October 2023. Retrieved 7 October 2023.</ref><ref>{{Cite news2 |df=ja |date=7 October 2023 |title=Hamas announces 'Al-Aqsa Storm,' claims to have fired 5,000 rockets |url=https://edition.cnn.com/middleeast/live-news/al-aqsa-storm-militants-infiltrate-israel-after-gaza-rockets-10-07-intl-hnk/h_644aa5e5d02286051f5cc307e229566a |url-status=live |archive-url=https://web.archive.org/web/20231007094104/https://edition.cnn.com/middleeast/live-news/al-aqsa-storm-militants-infiltrate-israel-after-gaza-rockets-10-07-intl-hnk/h_644aa5e5d02286051f5cc307e229566a |archive-date=7 October 2023 |access-date=7 October 2023 |work=CNN}}</ref>。
一部メディアは第一次、第二次インティファーダに続く[[インティファーダ#パレスチナのインティファーダ|インティファーダ]]として「'''第三次インティファーダ'''」という名称を使用した<ref>{{Cite news2 |df=ja |title=Civilians will pay price for biggest challenge to Israel since 1973 |url=https://www.theguardian.com/world/2023/oct/07/civilians-will-pay-price-for-biggest-challenge-to-israel-since-1973 |work=The Observer |date=2023-10-07 |access-date=2023-10-14 |issn=0029-7712 |language=en-GB |first=Bethan |last=McKernan}}</ref><ref>{{Cite web |title=Hamas-Israel escalation: What we know so far, and whether it could lead to the Third Intifada |url=https://indianexpress.com/article/explained/explained-global/third-intifada-hamas-israel-escalation-8972498/ |website=The Indian Express |date=2023-10-07 |access-date=2023-10-14 |language=en}}</ref>。また10月に行われる、[[ユダヤ教]]の[[仮庵の祭り]]になぞらえて「'''仮庵戦争'''」(かりいおせんそう)と表現した<ref>{{Cite web |title=Sukkot war ends Hamas’s aspirations for pragmatism |url=https://english.elpais.com/international/2023-10-07/sukkot-war-ends-hamass-aspirations-for-pragmatism.html |website=EL PAÍS English |date=2023-10-07 |access-date=2023-10-14 |language=en-us |first=Juan Carlos |last=Sanz}}</ref><ref>{{Cite news2 |df=ja |title=Waking to an Attack from Hamas |url=https://www.newyorker.com/news/dispatch/waking-to-an-attack-from-hamas |work=The New Yorker |date=2023-10-07 |access-date=2023-10-14 |issn=0028-792X |language=en-US |first=Ruth |last=Margalit}}</ref>。
ハマースによる奇襲を受けた直後、イスラエル国民はこれを「イスラエルの[[アメリカ同時多発テロ事件|9.11]]」や「イスラエルの[[真珠湾攻撃]]」と、過去の奇襲攻撃や[[イスラム原理主義]]組織の攻撃にたとえた。また、「[[ホロコースト]]以来、これほど多くのユダヤ人が殺害されたことはない」という反応も見られた。ホロコーストのたとえは様々な人が使用しており、[[The View]]の元プロデューサーであるダニエラ・グリーンバウムや、[[イスラエル大統領]][[イツハク・ヘルツォグ]]の元スポークスマンであるエイロン・レヴィ、『[[タイムズ・オブ・イスラエル]]({{仮リンク|Times of Israel|en|Times of Israel|label=Times of Israel}})』の記者ラザール・バーマンなどがホロコーストという言葉を使用した。第四次中東戦争(1973年)のちょうど50周年ということで「'73年の過失、'23年の過失」という言葉も一部メディアで使用された<ref>{{Cite web |title=Was Hamas' attack the bloodiest day for Jews since the Holocaust? |url=https://www.jta.org/2023/10/08/israel/was-hamas-attack-the-bloodiest-day-for-jews-since-the-holocaust |website=Jewish Telegraphic Agency |date=2023-10-08 |access-date=2023-10-11 |language=en-US |first=J. T. A. |last=Staff}}</ref>。[[コロンビア大統領]][[グスタボ・ペトロ]]はイスラエルの行いを、ガザ地区の人質家族はハマースの行いを指して「新たなホロコースト」という言葉を使った<ref name=":29" /><ref name=":30" />。一方、イスラエルによる過度な反撃は[[国際人道法]]違反であると[[アントニオ・グテーレス]]国連事務総長は非難し<ref>{{Cite news |title=国連総長、ガザの状況は「国際人道法違反」 イスラエルは強く反発 |url=https://www.bbc.com/japanese/67213313 |work=BBCニュース |access-date=2023-12-13 |date=2023-10-25}}</ref>、国連の独立専門家グループは「[[ジェノサイド]]の重大なリスク」にさらされていると指摘した<ref>{{Cite news |title=ガザのパレスチナ人に「ジェノサイドの危険」、国連専門家が停戦訴え |url=https://jp.reuters.com/world/mideast/5ZDDKM7NUNKLPOLCM2I64WVGOE-2023-11-03/ |work=Reuters |date=2023-11-03 |access-date=2023-12-13}}</ref>。「ジェノサイド」は、ホロコーストを説明するためにユダヤ人が生み出した言葉である。
== 背景 ==
{{Main|パレスチナ問題|中東戦争#背景|イスラエルによるアパルトヘイト}}
パレスチナ問題は「'''世界で最も解決が難しい紛争'''」と言われている{{誰2|date=2023年12月}}<ref name=":19">{{Cite web |title=パレスチナ問題はなぜ世界でもっとも解決が難しい紛争なのか |url=https://diamond.jp/articles/-/286812 |website=[[ダイヤモンド社|ダイヤモンド・オンライン]] |date=2021-11-13 |access-date=2023-10-13 |language=ja}}</ref>。
=== 古代~シオニズム運動の発生 ===
2000年以上前の時点におけるパレスチナにはユダヤ人国家である[[イスラエル王国]]があり、諸国家により侵略され、最終的に[[ローマ帝国]]の[[ユダヤ属州]]となった。その後ユダヤ人はヨーロッパやアジア、アフリカの各地へ離散し([[ディアスポラ]])、パレスチナ地域は[[アラブ・東ローマ戦争]]などを経て[[イスラム教]]圏になり、主に[[アラブ人]]が住民となった<ref name=":19" />。
当時ヨーロッパでは[[キリスト教]]が主流であった。[[ユダヤ教]]、キリスト教、イスラム教はともに[[アブラハムの宗教]]であるが互いに対立する関係でもあり、[[反ユダヤ主義|ユダヤ教徒はヨーロッパで差別・迫害の対象となった]]。ユダヤ人は他宗教で禁忌である金融業などで影響を持つようになり、パレスチナに戻って自らの国を持とうという、いわゆる[[シオニズム運動]]が19世紀頃に発生する<ref name=":20">{{Cite web |title=1からわかる!イスラエルとパレスチナ(1)パレスチナ問題ってなに?|url=https://www3.nhk.or.jp/news/special/news_seminar/jiji/jiji97/ |website=NHK就活応援ニュースゼミ |access-date=2023-10-13 |language=ja |last=日本放送協会}}</ref>。
=== 第一次世界大戦~戦間期 ===
シオニズム運動の最中に[[第一次世界大戦]]が勃発。[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]側の[[イギリス]]は、[[ロスチャイルド家|ロスチャイルド財閥]]から金銭を引き出すため、パレスチナにユダヤ人の"国民的郷土"を建設することを支持することを[[バルフォア宣言]]で約束した(ただし、"国民的郷土"の定義はなく、パレスチナ人の権利を害さないことは明記されている。)。さらに、敵対する[[中央同盟国]]である[[オスマン帝国]]を打倒するため、アラブ人に対しても、オスマン帝国に反旗を翻せばオスマン帝国の領域にアラブ諸国を建設することを約束する協定を結んだ([[フサイン=マクマホン協定]])。そして[[フランス]]とも[[中東]]分割を約した([[サイクス・ピコ協定]])。この「[[三枚舌外交]]」と言われる外交政策により事態は混迷を極める<ref name=":19" /><ref name=":20" />。
第一次世界大戦終結時点では中東はフランスらにより分割され、パレスチナ地域は[[イギリス委任統治領パレスチナ|イギリスの委任統治]]となった。ユダヤ人などからすると裏切られたというような立場となるものの、バルフォア宣言に基づきパレスチナへの入植者が増えた。当初は共存していたが、人口増加と経済問題により摩擦が増大していった<ref name=":19" /><ref name=":20" />。
=== 第二次世界大戦~冷戦 ===
[[第二次世界大戦]]中、[[ナチス・ドイツ]]によるホロコーストで多くのユダヤ人が殺害される。一部のユダヤ人はパレスチナに逃げるもパレスチナに住むアラブ人は猛反発。これにより各地で戦闘が起きる<ref name=":19" /><ref name=":20" />。
戦後1947年に[[国際連合総会]]で[[パレスチナ分割決議]]が採択されイスラエルが建国。ユダヤ人からするとついにユダヤ人国家の建設となったが、アラブ人からすると領土が奪われた形となり、[[第一次中東戦争]]が勃発。当時のイスラエルは被害者として欧米世論から支持されていた。しかし、[[第三次中東戦争]](1967年)においては[[国際法]]を超えた範囲でアラブ人側の領土を支配し始め、一部から加害者側になったと非難を浴びる<ref name=":19" /><ref name=":20" />。
1964年には[[パレスチナ解放機構]](PLO)が結成された。その後、インティファーダという民衆蜂起が行われ、多くの戦闘が起き、規模は拡大していく。その後[[湾岸戦争]]で、[[イラク]]の[[サッダーム・フセイン]]政権がパレスチナを解放すると称してイスラエルを攻撃、国際社会は「パレスチナ問題を解決しないと何が起きるかわからないのではないだろうか」という反応となり、[[1993年]]の[[オスロ合意]]により暫定自治政府が認められる<ref name=":19" /><ref name=":20" />。
=== 冷戦後 ===
合意から2000年までは楽観論が広がり、双方が和解すると世論は考えていった。しかし、2000年に[[イスラエルの首相]]だった[[アリエル・シャロン]]が、ユダヤ教の聖地「[[嘆きの壁]]」のすぐ近くに位置するイスラム教の聖地「[[岩のドーム]]」に足を踏み入れ、「私は平和の使者だ」と述べたことによりイスラム教徒の反感を買い、7年間続いた平和は終焉した([[第2次インティファーダ]])<ref name=":21">{{Cite web |title=1からわかる!イスラエルとパレスチナ(2)なぜ対立が続くの? |url=https://www3.nhk.or.jp/news/special/news_seminar/jiji/jiji98/ |website=NHK就活応援ニュースゼミ |access-date=2023-10-13 |language=ja |last=日本放送協会}}</ref>。2006年の[[立法評議会 (パレスチナ)|パレスチナ国議会]]選挙でハマースに敗北すると、PLOの主政党である[[ファタハ]]はハマースをヨルダン川西岸地区から追い出し、統治を続けた。一方、ハマースもガザからファタハを追い出し、パレスチナは分裂状態になり、和平交渉が事実上不可能となった<ref>{{Cite web |title=最新パレスチナ情勢 なぜイスラエルと衝突?ハマスって?解説 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/special/international_news_navi/articles/qa/2023/10/16/35127.html |website=NHK NEWS WEB |access-date=2023-12-13}}</ref>。また、[[ヨルダン川西岸地区の分離壁]]が[[ユダヤ人入植地]]を守るため建設され、[[ガザ紛争 (2008年-2009年)|2008年から2009年までのガザ紛争]]などでいくつかの戦闘が行われた<ref name=":21" />。
[[ガザ侵攻 (2014年)|2014年、イスラエル軍がガザ地区に地上侵攻]]を行い、空爆作戦でハマースの幹部の自宅や軍事施設を爆撃するとともに、[[予備役]]の兵士の招集を進め、ガザ地区との境界線近くに地上部隊を着々と集結させるなどし、捕らえられた兵士やその周辺の民間人への危険に配慮せずに集中砲火で攻撃することができる「ハンニバル指令」が実行された<ref name=":32">{{Cite web |title=イスラエル軍 2014年にガザへ地上侵攻 激しい市街戦も |url=https://www3.nhk.or.jp/news/special/international_news_navi/articles/qa/2023/10/13/35114.html |website=NHK NEWS WEB |access-date=2023-10-14 |language=ja |last=日本放送協会}}</ref>。これによりイスラエル軍は少なくとも135名のパレスチナの民間人を殺害した<ref>{{Cite web |title=イスラエル/被占領パレスチナ地域/パレスチナ:最先端技術でイスラエルの戦争犯罪が明らかに |url=http://www.amnesty.or.jp/news/2015/0730_5492.html |website=アムネスティ日本 AMNESTY |access-date=2023-10-14 |language=ja}}</ref>。この2014年のガザ地区侵攻が「イスラエル軍による最後の地上侵攻」であるとされていた<ref name=":32" />。2014年以降、和平交渉は途切れる<ref name=":19" />。
ユダヤ系の人々が一律にイスラエルの建国やシオニズムを支持していた訳ではなく、ユダヤ教の最右派である[[超正統派 (ユダヤ教)|ユダヤ教超正統派]]はイスラエルの建国に関して[[旧約聖書]]の「[[モーセの十戒|汝、殺すなかれ、盗むなかれ]]」に違反しているとし、「[[メシア]](救世主)が現れないと真のユダヤ国家は実現できない、しかし、まだメシアは現れていない、だから現在のイスラエル国家は偽物であり、認められない。」「メシアが現れるまで建国は待つべきだ。」という立場をとっている<ref name=":36" /><ref name=":35">{{Citation|title=Rebel Rabbis: Anti-Zionist Jews Against Israel|url=https://www.youtube.com/watch?v=FKplabTRuak|language=ja-JP|access-date=2023-10-14}}</ref><ref name=":47">{{Cite web |title=「パレード」から読み解くニューヨーク|橘宏樹 {{!}} 遅いインターネット |url=https://slowinternet.jp/article/officialsdiary10/ |website=遅いインターネット BY PLANETS |date=2023-10-12 |access-date=2023-10-16 |language=ja}}</ref>。また「ユダヤ人はイスラエルの残虐行為を糾弾する」と主張するデモや「イスラエルをパレスチナへ返還すべきである」として[[反シオニズム]]活動を行っている<ref name=":35" /><ref name=":36">{{Cite web |title=Ultra-Orthodox & Anti-Zionist |url=https://www.myjewishlearning.com/article/ultra-orthodox-anti-zionist/ |website=My Jewish Learning |access-date=2023-10-14 |language=en-US}}</ref><ref name=":47" />。
近年のイスラエルにおいては、[[ポスト・シオニズム]](シオニズムは終焉しており、アラブ人やパレスチナとの友好を推進すべきという思想)のユダヤ人の人々に対抗すべく誕生した[[ネオ・シオニズム]](イスラエル人によるイスラム教徒や反ユダヤに対する報復や抑圧によって平和が到来するという思想)が政治的影響力を持つとされている<ref>{{citenews |url=http://www.haaretz.com/hasen/spages/936471.html |title=Zionism? Post-Zionism? Just give arguments |publisher=[[ハアレツ]] |date=2007-12-20 |accessdate=2010-2-19}}</ref><ref>{{Cite book |title=Making Israel |url=http://dx.doi.org/10.3998/mpub.149007 |publisher=University of Michigan Press |date=2007 |location=Ann Arbor, MI |isbn=978-0-472-11541-9 |editor-first=Benny |editor-last=Morris}}</ref>。
両国間の緊張状態に加え、イスラエルと、アラブ世界の大国である[[サウジアラビア]]が関係正常化に向けて動き出していることにより「パレスチナ問題、さらにはハマースそのものが見捨てられてしまう」というハマースの危機感が発生。またイスラエルは「司法制度改革問題」により大混乱していたため、ハマースからすると恰好のチャンスとなった。また、パレスチナ市民の若年層は度重なる戦争により失業率が60%を超え、経済も非常に悪い状態であり、加えて封鎖以降の世代は物心ついた時には分断という状況であり、イスラエルに対する恨みも強かったと思われている<ref>{{Cite web |title=【解説】イスラエル・ハマス戦闘激化 なぜこのタイミング?専門家に聞く4つの要因|url=https://www.nhk.jp/p/kokusaihoudou/ts/8M689W8RVX/blog/bl/pNjPgEOXyv/bp/pyOJ4gRA2M/ |website=国際報道 2023 - NHK |access-date=2023-10-14 |language=ja |last=日本放送協会}}</ref>。
=== 奇襲直前の情勢 ===
[[ファイル:Timeline of Israel-Palestine fatalities 2008-2023.png|サムネイル|2008年から2023年までのパレスチナ紛争によるイスラエル人とパレスチナ人の死者。]]
[[ファイル:Rocket Attacks fired at Israel from the Gaza Strip by year.png|サムネイル|2001年から2021年にかけてガザ地区からイスラエルに向けて発射されたロケット砲撃の回数。]]
2023年は、いくつかパレスチナ問題が原因となった暴力的な騒動が発生した。2023年10月7日の奇襲前の時点で、2023年の範囲内だけで双方の戦闘員と民間人を含め、少なくとも247人のパレスチナ人がイスラエル軍によって殺害され、32人のイスラエル人と2人の外国人がパレスチナ人の攻撃によって殺害されていた<ref name=":57" /><ref>{{Cite web |title=Palestinian killed in clashes with Israelis in West Bank |url=https://www.france24.com/en/live-news/20231006-palestinian-killed-in-clashes-with-israelis-in-west-bank |website=France 24 |date=2023-10-06 |access-date=2023-10-18 |language=en}}</ref>。また、入植者による攻撃が増加し、何百人ものパレスチナ人が避難した。エルサレムの聖地である[[アル=アクサー・モスク]]周辺では激しい衝突があった<ref name=":58" />。
イスラエルとハマースの緊張は2023年9月頃に高まり、[[アメリカ合衆国]](米国)の新聞『[[ワシントン・ポスト]]』は両者を「戦争の瀬戸際にある」と表現した。イスラエルは[[ジーンズ]]の積荷に隠された爆発物を発見し、ガザからの全ての輸出を停止した。これに対し、ハマースは厳戒態勢を敷き、イスラエルの入植地を襲撃する練習を公然と行ったり、他の組織と[[軍事演習]]を行ったりした。またハマースは、パレスチナ人によるイスラエル・ガザ間の分離壁('''鉄の壁''')への抗議活動の再開を許可した。9月13日、5人のパレスチナ人が国境で殺害された<ref>{{Cite news2 |df=ja |title=What’s behind the violence in Israel and Gaza? Here’s what to know. |url=https://www.washingtonpost.com/world/2023/10/07/israel-gaza-violence-conflict-faq/ |work=Washington Post |date=2023-10-13 |access-date=2023-10-18 |issn=0190-8286 |language=en-US |first=Brian |last=Murphy |first2=Adam |last2=Taylor |first3=Sammy |last3=Westfall |first4=Bryan |last4=Pietsch |first5=Steve |last5=Hendrix}}</ref>。9月29日、[[カタール]]、国連、[[エジプト]]の仲介により、イスラエルとガザ地区のハマス当局者の間で、閉鎖されていた検問所を再開し、緊張を緩和するという合意がなされた<ref>{{Cite web |title=Qatar mediates opening of Gaza-Israel crossing as protests end |url=https://www.aljazeera.com/news/2023/9/29/qatar-mediates-opening-of-gaza-israel-crossing-as-protests-end |website=www.aljazeera.com |access-date=2023-10-18 |language=en}}</ref><ref>{{Cite news2 |df=ja |title=Civilians and soldiers held hostage in Gaza, says Israel – as it happened |url=https://www.theguardian.com/world/live/2023/oct/07/hamas-launches-attack-on-israel-with-5000-rockets-live |work=the Guardian |date=2023-10-08 |access-date=2023-10-18 |issn=0261-3077 |language=en-GB |first=Graham |last=Russell |first2=Nadeem |last2=Badshah |first3=Maya |last3=Yang |first4=Lili |last4=Bayer |first5=Vivian |last5=Ho |first6=Adam |last6=Fulton |first7=Graham Russell (now); Nadeem |last7=Badshah |first8=Adam |last8=Fulton (earlier)}}</ref><ref>{{Cite news2 |df=ja |title=Israel reopens Gaza crossings, lets Palestinians back to work after two weeks |url=https://www.reuters.com/world/middle-east/israel-reopens-gaza-crossings-lets-palestinians-back-work-after-two-weeks-2023-09-28/ |work=Reuters |date=2023-09-28 |access-date=2023-10-18 |language=en |first=Nidal |last=Al-Mughrabi |first2=Nidal |last2=Al-Mughrabi}}</ref>。
攻撃の数日前、エジプトはイスラエルに対して「事態の爆発(我慢の限界を超える)が近づいている、それも非常に近いうちに、そしてそれは大きなものになるだろう」と警告したという<ref>{{Cite web |title=Egypt intelligence official says Israel ignored repeated warnings of ‘something big’ {{!}} The Times of Israel |url=https://web.archive.org/web/20231009113011/https://www.timesofisrael.com/egypt-intelligence-official-says-israel-ignored-repeated-warnings-of-something-big/ |website=web.archive.org |date=2023-10-09 |access-date=2023-10-18}}</ref>。イスラエルはそのような警告を受けたことを否定したが<ref>{{Cite news2 |df=ja |title='Utterly Fake': Israel's National Security Adviser Denies Receiving Egyptian Warning of Hamas Attack |url=https://www.haaretz.com/israel-news/2023-10-13/ty-article/.premium/israels-national-security-adviser-denies-receiving-egyptian-warning-of-hamas-attack/0000018b-28c9-d1bc-a58b-69ef2ed70000 |work=Haaretz |access-date=2023-10-18 |language=en}}</ref>、エジプトの主張は、攻撃の3日前に警告がなされたとする[[アメリカ合衆国下院外交委員会]]の委員長[[マイケル・マッコール]]によって裏付けられた<ref>{{Cite web |title=Senior US lawmaker says Egypt warned Israel 3 days before onslaught |url=https://www.timesofisrael.com/liveblog_entry/senior-us-lawmaker-says-egypt-warned-israel-3-days-before-onslaught/ |website=www.timesofisrael.com |access-date=2023-10-18 |language=en-US |last=AFP}}</ref>。
そして攻撃は、ユダヤ教の祝日で[[安息日]]である{{仮リンク|シムハット・トーラー|en|Simchat Torah}}の日で<ref>{{Cite web |url=https://www.npr.org/2023/10/07/1204436940/palestinian-militants-launch-rockets-into-israel |title=All-out war: Israel pounds Gaza after militants infiltrate in a large-scale attack |access-date=2023-10-18 |publisher=npr}}</ref>、同じく奇襲攻撃から始まった[[第四次中東戦争]]開戦50年の翌日である10月7日に行われた<ref name=":60">{{Cite web |title=Hamas surprise attack out of Gaza stuns Israel and leaves hundreds dead in fighting, retaliation |url=https://apnews.com/article/israel-palestinians-gaza-hamas-rockets-airstrikes-tel-aviv-11fb98655c256d54ecb5329284fc37d2 |website=AP News |date=2023-10-07 |access-date=2023-10-18 |language=en}}</ref>。
== 経過 ==
=== 10月7日 ===
ユダヤ教の祝日シムハット・トーラーにあたる10月7日現地時間午前6時30分([[協定世界時|UTC]] 3時30分)、パレスチナのガザ地区を支配するハマースの{{仮リンク|イゼディーン・アル・カッサム旅団|en|Izz ad-Din al-Qassam Brigades|label=}}によるイスラエルへのミサイル攻撃が宣戦布告抜きに開始された<ref name=":57">{{Cite web |title=Israel retaliation kills 230 Palestinians after Hamas operation |url=https://www.aljazeera.com/news/2023/10/7/sirens-warn-of-rockets-launched-towards-israel-from-gaza-news-reports |website=www.aljazeera.com |access-date=2023-10-11 |language=en}}</ref><ref>{{Cite news ja |title=【写真で見る】「戦争状態」、パレスチナ武装勢力とイスラエルが武力衝突 |url=https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-67044446 |work=BBCニュース |access-date=2023-10-09 |language=ja}}</ref><ref name=":0">{{Cite web |title=ガザ地区からイスラエルへ相次ぐ砲撃、多数死傷 「これは戦争」とイスラエル首相 |url=https://wedge.ismedia.jp/articles/-/31678 |website=Wedge ONLINE(ウェッジ・オンライン) |date=2023-10-07 |access-date=2023-10-09}}</ref>。また同時に海上を[[水上艇]]が、陸上では[[歩兵]]による[[国境検問所]]である[[ケレム・シャローム検問所]]や[[エレズ検問所]]への攻撃や白い[[ピックアップトラック]]による7つの検問所を突破してでの越境も開始された<ref>{{Cite web |title=【社説】ハマス奇襲攻撃の様相、対朝安保には問題はないか |url=https://japanese.joins.com/JArticle/310016?sectcode=120&servcode=100 |website=中央日報 - 韓国の最新ニュースを日本語でサービスします |access-date=2023-10-11 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-67050647 |title=【解説】イスラエルへの急襲、不可能と思われたが……ハマスはどうやって |publisher=BBC |date=2023-10-09 |accessdate=2023-10-10}}</ref><ref name=":22">{{Cite web |title=A detailed look at how Hamas secretly crossed into Israel |url=https://abcnews.go.com/International/detailed-hamas-secretly-crossed-israel/story?id=103917182 |website=ABC News |access-date=2023-10-13 |language=en |first=A. B. C. |last=News}}</ref><ref name=":31" />。ミサイルの本数についてはハマースが5000発以上、イスラエルが2200発以上としている<ref name=":12" />。この出来事により、イスラエル側で少なくとも1,300人以上が死亡し、パレスチナ側で1,100人が死亡した<ref>{{Cite web |url=https://www.asahi.com/articles/ASRB75Q47RB7UHBI00T.html|title=ガザからロケット弾、イスラエルは報復空爆 双方の死者約300人に |publisher=[[朝日新聞]] |date=2023-10-07 |accessdate=2023-10-07}}</ref><ref name=":25">{{Cite web |url=https://www.cnn.co.jp/world/35210249.html|title=イスラエルの死者1300人超える、ハマスの攻撃で|publisher=CNN |date=2023-10-13|accessdate=2023-10-13}}</ref>。[[テルアビブ]]、[[レホヴォト]]、[[リション・レジオン]]、[[パルマヒム空軍基地]]などではサイレンが鳴り響いたという。スデロットでは戦争としては初期の戦闘が勃発し、警察署などを制圧された<ref>{{Cite web |title=Israeli army declares ‘state of readiness’ for war, hits targets in Gaza |url=https://www.aa.com.tr/en/middle-east/israeli-army-declares-state-of-readiness-for-war-hits-targets-in-gaza/3009882 |website=www.aa.com.tr |access-date=2023-10-14}}</ref>。他いくつものキブツへの攻撃も確認され、人口1000人ほどのベエリでは人口の10分の1にあたる約100人が死亡<ref>{{Cite web |title=ハマス攻撃のキブツで100人超の遺体 イスラエル南部 |url=https://www.cnn.co.jp/world/35210085.html |website=CNN.co.jp |access-date=2023-10-11 |language=ja}}</ref>、ガザ近郊のネティヴ・ハアサラでは15人が射殺<ref>{{Cite web |title=イスラエルはハマスと「長く厳しい戦争」に直面=イスラエル首相 双方の死者計1100人以上 |url=https://www.bbc.com/japanese/67045061 |website=BBCニュース |date=2023-10-08 |access-date=2023-10-11 |language=ja}}</ref>、南部のニル・オズでも被害が確認された<ref>{{Cite news ja |title=ハマスのイスラエル攻撃、外国人も犠牲に 「イスラム国」並みに野蛮で残酷と米高官が非難 |url=https://www.bbc.com/japanese/67061817 |work=BBCニュース |access-date=2023-10-11 |language=ja}}</ref>。ジキムでは同日4時40分([[グリニッジ標準時|GMT]])に海上からの侵攻が確認された([[ジキムの戦い]])<ref>{{Cite web |title=What happened in Israel? A breakdown of how Hamas attack unfolded |url=https://www.aljazeera.com/news/2023/10/7/what-happened-in-israel-a-breakdown-of-how-the-hamas-attack-unfolded |website=www.aljazeera.com |access-date=2023-10-15 |language=en}}</ref>。
同日、イスラエルの[[ベンヤミン・ネタニヤフ]]首相は「戦争状態にある。」とする声明を出した<ref>{{Cite web |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR071QM0X01C23A0000000/|title=ハマスがロケット弾数千発 イスラエル首相「戦争状態」 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=2023-10-07 |accessdate=2023-10-07}}</ref>。ハマース軍事部門のトップである[[モハメド・デイフ]]司令官は同日を「地上最後の占領を終わらせるための、偉大な戦いの日」と述べた後「私たちは敵に対し、アル=アクサー・モスクに対する侵略を続けないよう警告した......敵が無反応で侵略を続ける時代は終わった。私は、ヨルダン川西岸地区と{{仮リンク|グリーンライン (イスラエル)|en|Green Line (Israel)|label=グリーンライン}}(イスラエル領)内のパレスチナ人に対し、自制することなく攻撃を開始するよう呼びかける。すべての通り道に出て行け。私は、あらゆるイスラム教徒に対し、攻撃を開始するよう呼びかける。」としてパレスチナ人に軍事行動への参加を呼びかけた<ref name=":0" /><ref>{{Cite news2 |df=ja |title=Israel and Hamas at war after surprise attacks from Gaza Strip |url=https://www.theguardian.com/world/2023/oct/07/hamas-launches-surprise-attack-on-israel-as-palestinian-gunmen-reported-in-south |work=The Guardian |date=2023-10-07 |access-date=2023-10-14 |issn=0261-3077 |language=en-GB |first=Bethan |last=McKernan}}</ref>。この攻撃には[[イラン革命防衛隊]]の関与も疑われている<ref>{{Cite web |title=ワールドミッションレポート(10月10日):イスラエル 停戦と平和のために祈ろう |url=https://www.christiantoday.co.jp/articles/32835/20231010/world-mission-report-october-10.htm |website=[[クリスチャントゥデイ]] |date=2023-10-10 |access-date=2023-10-10 |language=ja |first=執筆者: |last=石野博}}</ref>。また、祝日に戦争が起きるのは[[第4次中東戦争]]も同様である<ref name=":6">{{Cite web |title=イスラエル、情報戦の敗北でハマスから大規模攻撃 1948年の建国以来初めて本土への侵攻許す |url=https://hochi.news/articles/20231009-OHT1T51244.html |website=[[スポーツ報知]] |date=2023-10-10 |access-date=2023-10-10 |language=ja}}</ref>。
合計で、少なくとも2,200発のロケット弾がガザから発射され、数百人のイスラエル人が犠牲になり、イスラエル政府は緊急事態を宣言した。イスラエルは攻撃開始後の全国演説で「戦争中」であると述べている<ref>"Live updates: Militants infiltrate Israel from Gaza as Hamas claims major rocket attack". Archived from the original on 7 October 2023. Retrieved 7 October 2023.</ref><ref>McKernan, Bethan (7 October 2023). "[https://www.theguardian.com/world/2023/oct/07/hamas-launches-surprise-attack-on-israel-as-palestinian-gunmen-reported-in-south Hamas launches surprise attack on Israel as Palestinian gunmen reported in south]". ''The Guardian''. Archived from the original on 7 October 2023. Retrieved 7 October 2023.</ref><ref>Fabian, Emanuel (7 October 2023). [https://www.timesofisrael.com/authorities-name-44-soldiers-30-police-officers-killed-in-hamas-attack/ "IDF declares 'state of readiness for war' amid Hamas infiltrations, rocket barrages".] ''The Times of Israel''. Archived from the original on 7 October 2023. Retrieved 7 October 2023.</ref><ref name=":13">Staff, ToI. [https://www.timesofisrael.com/we-are-at-war-netanyahu-says-after-hamas-launches-devastating-surprise-attack/ "'We are at war,' Netanyahu says, after Hamas launches devastating surprise attack".] ''www.timesofisrael.com''. Retrieved 7 October 2023.</ref>。イスラエルに潜入したパレスチナ過激派は[[キブツ]]に侵入、また[[スデロット]]を含むガザ地区とイスラエルの都市を取り囲んでいる<ref name=":13" />。パレスチナとイスラエルの両方のメディア情報筋が、イスラエルの兵士と民間人が人質に取られたと報告している<ref>[https://unherd.com/2023/10/israel-and-the-rise-of-a-new-world-order/ Israeli family kidnapped to Gaza, "Russia Now" in arabic,] October 7th, 2023</ref>。夜、イスラエル国営の電力会社が、電力の80%をイスラエルから供給しているガザ地区への電力供給を停止した。イスラエルの首都テルアビブはロックダウン状態に陥った<ref name=":0" />。
これらの攻撃に対してヨルダン川西岸の都市[[ナーブルス]]のパレスチナ人の一部が祝っている写真が撮影されている<ref name=":8">{{Cite web |title=In pictures: Scenes of war and chaos after Hamas launch surprise attack on Israel |url=https://www.france24.com/en/middle-east/20231007-in-pictures-hamas-israel-palestine-gaza-attack-netanyahu |website=France 24 |date=2023-10-07 |access-date=2023-10-11 |language=en}}</ref>。
攻撃の映像は[[無人航空機|ドローン]]による撮影され保存されており、[[ABCニュース (アメリカ)|ABCニュース]]が映像の一部を公開した<ref name=":22" />。
[[ロシア連邦]]の通信社[[スプートニク (通信社)|スプートニク]]はこの奇襲が成功した原因を以下の二つとしている<ref name=":51">{{Cite web |title=【解説】ハマスのイスラエル奇襲はなぜ成功したか 破られた壁 |url=https://sputniknews.jp/20231012/17390674.html |website=Sputnik 日本 |date=20231012T1700+0900 |access-date=2023-10-17 |language=jp |first=ドミトリー |last=ヴェルホトゥロフ}}</ref>。
* ハマースの指揮官が、ハッキングすることが難しい[[中華人民共和国|中国]][[ファーウェイ]]製の[[スマートフォン]]を使用しており、さらにハマース内でイスラエル側との接触が疑われた者がハマースから追放されていたため、イスラエルの情報機関[[イスラエル諜報特務庁|モサド]]が事前に察知しづらかった。
* ガザ地区とイスラエルの国境沿いの分離壁に対してイスラエルが自信を持っていたことから警備体制が薄く、ハマースの障壁突破の演習や爆弾を開発に対して対応できなかった。
また、同じくスプートニクはこの奇襲に対して「[[ドイツ国防軍]]の戦術マニュアルを読んで応用したかと思うほど[[電撃戦|ドイツ式電撃作戦]]に酷似していた」とした<ref name=":51" />。
また7日から数日経ってイスラエル軍スポークスマンのリチャード・ヘクトが開いた記者会見にて、ハマースが占領した町を奪還するのに2日かかったと述べ、これに対し[[東海大学]]国際学部教授[[アルモーメン・アブドーラ]]は「「無敵の軍隊」としてのメンツが打ち砕かれる異例の事態となった。」とした<ref>{{Cite web |title=死に絶える中東和平...ハマスとイスラエルの衝突の先にある「最悪のシナリオ」 |url=https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2023/10/post-102843.php |website=Newsweek日本版 |date=2023-10-18 |access-date=2023-10-19 |language=ja}}</ref>。
7日時点で『[[フォーリン・アフェアーズ]]』は、イスラエルのネタニヤフがとれる選択は3つだと述べた<ref name=":61">{{Cite web |title=死に絶える中東和平...ハマスとイスラエルの衝突の先にある「最悪のシナリオ」 |url=https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2023/10/post-102843.php |website=Newsweek日本版 |date=2023-10-18 |access-date=2023-10-19 |language=ja}}</ref>。それは
* パレスチナ人の抵抗勢力に立ち向かい阻止すること
* ハマースや他の勢力のさらなる侵入を阻止すること
* ガザ地区から発射されるロケット弾や砲弾を何としても止めること
であるとしたが、同誌はこれらの目標の実行は至難の業だとしている<ref name=":61" />。
また、モサドがこの作戦を予知できなかったということを、一部のモサド出身者が「信じられない」と述べていた<ref>{{Cite web |title=モサドを出し抜いた「隠密アナログ作戦」の巧妙 |url=https://toyokeizai.net/articles/-/707937 |website=東洋経済オンライン |date=2023-10-12 |access-date=2023-10-19 |language=ja}}</ref>。[[日本カウンターインテリジェンス協会]]の[[稲村悠]]代表理事は[[東洋経済新報社|東洋経済オンライン]]の記事で、モサドが奇襲を察知できなかった理由を、モサドが[[ヒューミント|人的情報収集]]を軽視し、デジタルにおける情報収集に重きを置いたため、ハマースがアナログな方法を駆使したことによりデジタルで情報を収集できなかったからだと述べている<ref>{{Cite web |title=モサドを出し抜いた「隠密アナログ作戦」の巧妙 |url=https://toyokeizai.net/articles/-/707937 |website=東洋経済オンライン |date=2023-10-12 |access-date=2023-10-19 |language=ja}}</ref>。
米国紙『[[ニューヨーク・タイムズ]]』も10月29日に奇襲の成功理由について見解を示す記事を載せ、「イスラエルは過信と、ハマスの脅威は抑え込んでいるという誤った思い込みから、今回の攻撃を過小評価しただけでなく、情報収集に完全に失敗していた」とした<ref name=":80">{{Cite web |title=【31日詳細】イスラエル軍 ガザ地区北部で地上作戦強める構え |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231031/k10014242341000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-31 |access-date=2023-11-06 |last=日本放送協会}}</ref>。
詳細に述べると<ref name=":80" />:
* [[イスラエル情報コミュニティー|イスラエルの情報機関]]はハマスによる無線交信の[[傍受]]を時間の無駄だとみなして1年ほど前にやめていて、ハマスの戦闘員はイスラエル側に気づかれることなく大規模な訓練を行っていたほか、イスラエル軍の基地や住民が暮らす集落の場所に関する詳細な情報を持っていた。
* イスラエルでは過去数年にわたる失敗の連鎖があった。
* イスラエルの国内政治の混乱が安全保障を弱体化させたこと。
* ネタニヤフとイスラエル当局は、イランとイランが支援する[[レバノン]]のイスラム教[[シーア派]]組織[[ヒズボラ]]がイスラエルにとっての最大の脅威と捉え、ハマスへの対応に十分注意を払っていなかったこと。
* イスラエル国防軍(IDF)は「ガザ地区の境界に設置されたフェンスや壁に加えてカメラやセンサーなど遠隔の監視システムと機関銃システムによって、イスラエル側への侵入はほぼ不可能となり、多数の兵士を基地に常駐させる必要性は減る」と考えていた。これによりハマースの軍用ドローンによるシステム破壊に対応できなかった。
なお攻撃により、ネタニヤフなどイスラエルに「被害をなぜ防げなかったのか」と批判が集まった。これに対して10月29日にネタニヤフは「いかなる状況下、どの段階であってもハマスの襲撃について忠告を受けていなかった。情報機関のトップもハマスを抑止できていると信じていて、襲撃が起きるまで軍関係者の評価は変わらなかった」と述べながら謝罪している<ref name=":81">{{Cite web |title=【30日詳細】イスラエル軍ガザ地区北側から南下 約3キロ進軍か |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231030/k10014241711000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-30 |access-date=2023-11-06 |last=日本放送協会}}</ref>。
=== 10月8日 ===
レバノン南部からイスラエル北部へロケット攻撃が発生。同日、レバノンのイスラム教シーア派組織ヒズボラが、イスラエルへの攻撃を実行したとの声明を出した<ref>{{Cite web |title=イスラエルに攻撃とレバノン組織(共同通信) |url=https://news.yahoo.co.jp/articles/4cf57f55a893171f8645c13c3527d0f0e59fa106 |website=Yahoo!ニュース |access-date=2023-10-08 |language=ja}}</ref>。同日、イスラエルはハマースに対して、7日に[[イスラエルの基本法]]第40条によって正式に[[宣戦布告]]を決定し、軍事活動を解禁すると発表した<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://www.foxnews.com/world/israel-strikes-hamas-gaza-surprise-attack-exchanges-fire-hezbollah|title=Israel declares war after Hamas surprise attack, launches retaliatory airstrikes in Gaza|agency=[[FOXニュース]]|date=2023-10-08|accessdate=2023-10-08}}</ref><ref name="afpbb20231009" />。イスラエルが正式に宣戦布告を決定するのは、1973年の第四次中東戦争以来である<ref name="war dec">{{Cite news2 |df=ja |title=Israel officially declares war for 1st time since 1973 as death toll mounts to 600 |url=https://timesofindia.indiatimes.com/world/middle-east/israel-officially-declares-war-for-1st-time-since-1973-as-death-toll-mounts-to-600/articleshow/104261182.cms?from=mdr |access-date=8 October 2023 |work=The Times of India |date=8 October 2023 |archive-date=8 October 2023 |archive-url=https://web.archive.org/web/20231008131015/https://timesofindia.indiatimes.com/world/middle-east/israel-officially-declares-war-for-1st-time-since-1973-as-death-toll-mounts-to-600/articleshow/104261182.cms?from=mdr |url-status=live }}</ref>。
他にもイスラエル側がエジプトに対してハマースとの交渉の仲介役となるように依頼した他、米国は東[[地中海]]への[[原子力空母]]「[[ジェラルド・R・フォード (空母)|ジェラルド・R・フォード]]」を中核とする[[第12空母打撃群]]を派遣することを決定した<ref name=":1">{{Cite web |title=ガザ危機、死者計1000人超に 情勢悪化、米が空母派遣 |url=https://nordot.app/1083858330509755226 |website=共同通信 |date=2023-10-09 |access-date=2023-10-09 |language=ja-JP |last=共同通信}}</ref><ref name=":2">{{Cite web |title=米、東地中海に空母打撃群派遣へ イスラエルに追加武器供与 |url=https://www.sankei.com/article/20231009-I3LHZYPQEFIUFEZDS36C7Z3FNY/ |website=[[産経新聞|産経ニュース]] |date=2023-10-09 |access-date=2023-11-27 |language=ja |first=渡辺 |last=浩生}}</ref>。打撃群は空母の他、[[ミサイル巡洋艦]]や[[ミサイル駆逐艦]]からなり、中東地域の[[アメリカ空軍]]部隊を[[F-35 (戦闘機)|F-35]]などで増強するという方針も出した。同日、バイデンはネタニヤフと会談し、防空兵器[[アイアンドーム]]の補充、弾薬供与、ヒズボラなどの軍事行動をめぐる機密情報協力をイスラエル側がアメリカに対し求めた<ref name=":2" />。
[[アメリカ合衆国国務長官]]の[[アントニー・ブリンケン]]はこの日、[[CNN]]テレビに出演し、ハマースによるイスラエル攻撃について「イランが直接関与したという証拠は確認していない」と述べた一方で、長年ハマースや他のテロ組織を支援してきたとしてイランを批判した<ref>{{Cite web |title=米国務長官、イランの関与「確認せず」 ハマスのイスラエル攻撃 |url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023100800560&g=int |website=時事ドットコム |access-date=2023-11-27 |language=ja |date=2023-10-08}}</ref>。また[[アメリカ合衆国国防長官]]の[[ロイド・オースティン]]は、「イスラエルの軍や国民に対する米国の断固たる支援を強調する」として空母打撃群をイスラエル沖の東地中海に派遣すると発表<ref name=":16">{{Cite web |title=米、空母打撃群を東地中海へ イスラエル支援を強化 |url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023100900152&g=int |website=時事ドットコム |access-date=2023-11-27 |language=ja |date=2023-10-09}}</ref>。地中海に展開中の「ジェラルド・フォード」を基幹とする空母打撃群を東へ移動させるという<ref name=":16" />。また同時に、中東地域でのステルス戦闘機[[F-35 (戦闘機)|F35]]や[[F-15 (戦闘機)|F15]]戦闘機、[[F-16 (戦闘機)|F16]]戦闘機、[[A-10 (航空機)|A-10]]攻撃機の部隊を増強する方針も明らかにした<ref name=":16" />。
同日には[[国際連合安全保障理事会|国連安全保障理事会]]が緊急の非公開会合を開いて対応を協議した<ref name=":14">{{Cite web |title=安保理で非公開の緊急会合 ハマスとイスラエルの戦闘受け |url=https://mainichi.jp/articles/20231009/k00/00m/030/037000c |website=毎日新聞 |access-date=2023-11-27 |language=ja |date=2023-10-09}}</ref><ref name=":15">{{Cite web |title=ハマス攻撃に非難の声 「戦争犯罪」とイスラエル大使―国連安保理 |url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023100900270&g=int |website=時事ドットコム |access-date=2023-11-27 |language=ja |date=2023-10-09}}</ref>。会合に先立ってはイスラエルとパレスチナの代表がそれぞれ記者団を前に声明を読み上げ、相手を糾弾するとともに自らを正当化する一幕があり<ref name=":15" />、イスラエルの{{仮リンク|ギラド・エルダン|en|Gilad Erdan}}国連大使は被害を伝える写真を掲げながら「われわれが目撃しているのは野蛮な[[戦争犯罪]]だ」とハマースを非難し、「野蛮な者たちを説得する時代は終わった。このような恐ろしい事態を決して再び引き起こすことがないよう、ハマースによるテロ行為のインフラを消滅させる時が来た」「イスラエルが(ハマースとの戦いに)負ければ世界がその代償を払うことになる」として、国際社会はハマース壊滅に向けたイスラエルの活動を「全面的に支援しなければならない」と強調した<ref name=":15" />。一方で、パレスチナの{{仮リンク|リヤド・マンスール|en|Riyad Mansour}}国連大使は「イスラエルはガザの封鎖やガザへの度重なる攻撃はハマースの軍事力を破壊し安全を確保するためだと言い続けているが、どちらも成し遂げていない」と指摘し、「イスラエルは今、同じ誤った前提で、新たな攻撃を正当化しようとしている。誰もこの道を歩むことを助長するような言動をしてはならない」と述べた<ref name=":14" />ほか、過去にパレスチナ人が殺害されても国際社会は行動を起こしてこなかったと不満を示した<ref name=":15" />。また、同会合では、ハマースが連れ去った人質の即時解放についても話し合われたが、非難声明や決議案をはじめとする具体的な対応に関しては議論されなかったという<ref name=":15" />。
=== 10月9日 ===
前日夜からこの日にかけて、イスラエル軍はガザの約500カ所を空爆した<ref name=":17">{{Cite web |title=死者1300人以上、戦闘続く 「最悪の虐殺」、音楽祭襲撃―ハマス拠点空爆、一夜で500カ所・イスラエル |url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023100900076&g=int |website=時事ドットコム |access-date=2023-11-27 |language=ja |date=2023-10-09}}</ref>。イスラエル軍は、ハマース戦闘員が侵入したガザ近くの全ての集落を掌握したと発表した<ref name=":17" />。戦闘は継続され、一連の死者も1,300人を突破した<ref name=":17" />。このほか、イスラエル軍の報道官がハマースのガザ地区指導者でもある{{ill2|ヤヒヤ・シンワール|en|Yahya Sinwar}}が死亡したことを発表したとイスラエルのメディアが報じた<ref>{{Cite web |title=【速報】ハマスの指導者シンワル氏が死亡と報道 イスラエルメディア |url=https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000319115.html |website=テレ朝news |access-date=2023-11-27 |language=ja |date=2023-10-09}}</ref>。同日、イスラエル国防相の{{ill2|ヨアブ・ガラント|en|Yoav Gallant}}はイスラエル軍にガザ地区を完全に包囲するように命令したと発表、「私たちは人間の姿をした獣と戦っており、それに応じて行動しています。」とも付け加えた<ref>{{Cite web |title=Defense minister announces ‘complete siege’ of Gaza: No power, food or fuel |url=https://www.timesofisrael.com/liveblog_entry/defense-minister-announces-complete-siege-of-gaza-no-power-food-or-fuel/ |website=www.timesofisrael.com |access-date=2023-10-09 |language=en-US |first=Emanuel |last=Fabian}}</ref>。イスラエル軍の報道官ダニエル・ハガリは予備役30万人を招集したと発表した<ref name=":61" />。
ハマースの拠点であるとしてガザ中心部のビル「パレスチナ・タワー」をイスラエルの手により破壊した。わかっている範囲では、パレスチナ・タワーの屋上にはハマースのラジオ局があった<ref>{{Cite web |title=イスラエル、ハマスに反撃 ガザシティのビル破壊 |url=https://www.bbc.com/japanese/video-67052891 |website=BBCニュース |date=2023-10-09 |access-date=2023-11-27 |language=ja}}</ref>。なお、イスラエル側もモサドが危険を察知できなかったことで被害を受けた<ref name=":6" />。
米国、イギリス、ドイツ、フランス、[[イタリア]]はイスラエル側につくとした共同声明を出した<ref>{{Cite web |title=「イスラエルへの揺るぎない支持を表明」米英独仏伊の首脳が共同声明 |url=https://www.asahi.com/articles/ASRBB3602RBBUHBI00H.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞デジタル |date=2023-10-10 |access-date=2023-11-27 |language=ja}}</ref>。一方、[[中華人民共和国]](中国)はイスラエル、パレスチナ双方に対して仲裁に入り中立的な立場を見せた<ref name=":9">{{Cite web |title=イスラエルとパレスチナ武装勢力“戦争状態” 衝突で浮き彫りになる、中東をめぐる米中のパワーゲーム |url=https://www.daily.co.jp/society/life/2023/10/10/0016900987.shtml |website=[[デイリースポーツ]] online |date=2023-10-10 |access-date=2023-11-27 |language=ja}}</ref>。カタールも中立的な立場を取り、双方の拘束された民間人の引き換えなどの交渉に入った。交渉については、10日時点では「前向きに動いている」と関係者が[[ロイター通信]]に語っている<ref name=":40">{{Cite news2 |df=ja |title=Qatar in talks with Hamas, Israel to swap hostages for prisoners |url=https://www.reuters.com/world/middle-east/qatar-leads-talks-swap-hamas-held-hostages-palestinians-israeli-jails-2023-10-09/ |work=Reuters |date=2023-10-09 |access-date=2023-10-11 |language=en |first=Andrew |last=Mills |first2=Nidal |last2=Al-Mughrabi |first3=Nidal |last3=Al-Mughrabi}}</ref>。
戦闘では、パレスチナ・タワーの破壊などの他にイスラエル軍が戦車などを展開して侵入を防ぐといった戦術を見せた<ref name=":11">{{Cite web |title=【9日詳細】ハマスの攻撃とイスラエルの報復 死者約1200人に |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231009/k10014219441000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-09 |access-date=2023-11-27 |last=日本放送協会}}</ref>。また負傷者のための献血を7日に呼びかけ、9日に献血がエルサレムで開始されると1,000人ものイスラエル人が献血を行った。[[イスラエル銀行]]は、通貨[[シェケル]]の大幅な下落を防ぐため為替市場へ初介入した。[[欧州連合]](EU)はパレスチナへの資金支払いを即時停止した。EUの行動とは真逆に、ロシアと[[アラブ連盟]]は、イスラエルおよびそれを支援する欧米諸国を批判した<ref name=":12">{{Cite web |title=【10日詳細】イスラエル“南部制圧” 双方の死者1600人以上に |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231010/k10014220181000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-10 |access-date=2023-10-12 |last=日本放送協会}}</ref>。
イギリス内ではイギリス政府がイスラエルへの全面的支援を表明し、首都[[ロンドン]]では、[[#人道上の問題]]節のようなイスラエルによるパレスチナに対する人道上問題がある行動に対し怒りを見せた人々により、デモが行われた。似たような事例で同日、米国[[ニューヨーク]]の[[在イスラエルアメリカ合衆国大使館|イスラエル総領事館]]近くで道路を挟み南北に分かれ、北にイスラエル派100人、南にパレスチナ派300人ほどが集まり大騒動と化した<ref name=":12" />。
ロシアの首都[[モスクワ]]では、ロシア外相の[[セルゲイ・ラブロフ]]とアラブ連盟(21カ国・1機構)事務局長の{{仮リンク|アハマド・アブルゲイト|en|Ahmed Aboul Gheit}}が会談し、民間人の殺害や誘拐は「容認できない」という立場を確認するとともにハマースとイスラエルの双方に即時停戦を要請した<ref name=":18">{{Cite web |title=即時停戦を パレスチナ国家樹立で「問題解決」―ロシアとアラブ連盟 |url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023100900730&g=int |website=時事ドットコム |access-date=2023-10-12 |language=ja}}</ref>。また会談冒頭でアブルゲイト事務局長は「パレスチナ問題の政治解決の見通しや試みがなければ、こうした事態は今後も起こり得る」と指摘している<ref name=":18" />。
=== 10月10日 ===
ハマースが460発以上のロケット砲を発射した。また、[[カバティヤ]]ではパレスチナ人2人に発砲されたとしてイスラエル軍が2人を殺害した<ref name=":7">{{Cite news ja |title=イスラエル、ガザ空爆続ける パレスチナ武装組織幹部ら死亡 |url=https://www.bbc.com/japanese/65553956 |work=BBCニュース |access-date=2023-10-11 |language=ja}}</ref>。また後述の[[#人道上の問題]]節にもあるようなイスラエルによるガザ包囲が正式に行われ、イスラエル側は「テロリストのインフラを完全に破壊した。何千もの標的を攻撃し、何百トンもの爆弾を投下してきた。最大限の被害を与え続けている」や「ガザ地区への電力供給は終わる。燃料の備蓄がなければ数日以内に地区の電力はなくなり、[[地下水|井戸水]]も1週間以内にくみ上げられなくなるだろう」との発言を行った。10日時点では医療物資の枯渇や、空爆などによりガザ全体で安全な場所がほとんどないなどといった状況が発生した<ref name=":12" />。
また[[国境なき医師団]]はガザ地区内の病院もイスラエル軍の攻撃の被害にあったとし、「医療施設は尊重されるべきで攻撃の対象になってはならない」と訴えた<ref name=":23">{{Cite web |title=【12日詳細】パレスチナ ガザ地区 唯一の発電所が操業停止|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231012/k10014222521000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-12 |access-date=2023-10-13 |last=日本放送協会}}</ref>。ハッジタワーというガザ内のタワーへの空爆により、ジャーナリスト3人の死亡などの被害も確認されている<ref>{{Cite web |title=Israel-Gaza war: Ten journalists killed in under a week |url=https://pressgazette.co.uk/news/journalists-killed-israel-gaza-war/ |website=Press Gazette |date=2023-10-13 |access-date=2023-10-14 |language=en-US |first=Dominic |last=Ponsford}}</ref>。
これらの裏でイスラエル軍はハマースの幹部2人の殺害を発表した。ニューヨークではイスラエル支持派による1万人規模のデモが発生した<ref>{{Cite web |title=【11日詳細】イスラエル 地上部隊の侵攻辞さず 死者2200人超に {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231011/k10014221541000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-11 |access-date=2023-10-13 |last=日本放送協会}}</ref>。
=== 10月11日 ===
[[イスラーム聖戦 (パレスチナ)|イスラーム聖戦]]の幹部である[[アリ・ハッサン・ガリ]]司令官が死亡した<ref name=":7" />。[[国際連合人道問題調整事務所]]は123,000人以上がガザで[[国内避難民]]になっていることを公表した<ref>{{Cite web |title=Israel-Palestine conflict: Death toll in Israel touches 1200, 900 killed in Gaza {{!}} Indiablooms - First Portal on Digital News Management |url=https://www.indiablooms.com/world-details/F/40582/israel-palestine-conflict-death-toll-in-israel-touches-1200-900-killed-in-gaza.html |website=Indiablooms.com |access-date=2023-10-11 |language=en |last=Indiablooms}}</ref>。米国[[ハーバード大学]]の学生らはイスラエル側を非難したものの、その結果、幾つもの大企業より、そうした学生は採用しないという宣告を受けた。これに対しハーバード大学内の31の学生サークルが共同声明を発表し批判、ユダヤ人団体である[[名誉毀損防止同盟]]はこの声明を[[反ユダヤ主義]]的であるとした<ref>{{Cite web |title=Harvard students will be blacklisted by Wall Street CEO warns |url=https://www.dailymail.co.uk/news/article-12617357/harvard-israel-hamas-ceos-ackman.html |website=Mail Online |date=2023-10-11 |access-date=2023-10-11 |first=Dominic |last=Yeatman}}</ref>。
同日、米政府高官が匿名で、イランがハマースのイスラエル攻撃を予測していた可能性があると述べた<ref>{{Cite news ja |title=イラン、ハマスの「対イスラエル作戦」認識していた可能性=米高官 |url=https://jp.reuters.com/world/us/WFO6744H4NMJVO4SUOTXL6QABI-2023-10-11/ |work=Reuters |date=2023-10-11 |access-date=2023-10-12 |language=ja}}</ref>。一方9日にイラン外務省は関与を否定している<ref name=":11" />。
同日、イスラエル首相のネタニヤフは自身の連立内閣枠組みに{{ill2|国家団結 (政党連合)|en|National Unity (political alliance)|label=国家団結}}を加えた[[挙国一致内閣]]の[[イスラエル戦時内閣|戦時内閣]]を通常の内閣とは別個に発足させ、以降は戦争の遂行に関係ない法案や政府決定は一切凍結されることなったため、[[第6次ネタニヤフ内閣]]は事実上の機能停止状態となった<ref>{{Cite news ja|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR11DCB0R11C23A0000000/|title=イスラエル、挙国一致政権を樹立へ 地上侵攻に備え|newspaper=日本経済新聞(日経電子版)|date=2023-10-12|accessdate=2023-10-12}}</ref><ref>{{Cite news ja|url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2023-10-11/S2DAJ8DWLU6901|title=イスラエル、挙国一致内閣を組閣-ハマスとの戦争遂行で|work=bloomberg.co.jp|agency=[[ブルームバーグ (企業)|ブルームバーグ]]|date=2023-10-11|accessdate=2023-10-12}}</ref>。戦時内閣はネタニヤフ、国防相の{{ill2|ヨアブ・ガラント|en|Yoav Gallant}}、前国防相の[[ベニー・ガンツ]]の3人のみからなり、このほか元国防軍参謀総長の[[ガディ・エイゼンコット]]議員、戦略担当相の{{ill2|ロン・ダーマー|en|Ron Dermer}}がオブサーバーとして参加することとなったが、戦争開始初期から挙国一致内閣に前向きだった[[ヤイル・ラピド]]率いる[[イェシュ・アティッド]]は右派政党の排除要望が聞き入れられなかったこともあり、最終的には挙国一致内閣に参加しなかった。戦時内閣樹立の声明発表後、ネタニヤフら3人はテレビ出演を行い、ガラントはハマースを地球上から消し去ると警告した<ref>{{Cite news ja|url=https://jp.reuters.com/world/us/76FY6F4RGBPTDJMM2U6Z5IO2QI-2023-10-11/|title=イスラエル、挙国一致政権樹立 ハマスを「消し去る」と国防相|agency=ロイター|date=2023-10-12|accessdate=2023-10-12}}</ref>。
[[国際赤十字・赤新月社連盟]](IFRC)はガザ地区でスタッフ4人が活動中に救急車両に対する攻撃より死亡したと発表した。IFRCは「国際法に従って、民間人や医療従事者、医療施設は常に尊重され、守られなければならない」と発言した。同様に[[国際連合パレスチナ難民救済事業機関]] (UNRWA)もガザ地区での活動中にイスラエルによる攻撃によりスタッフ11人が死亡、UNRWAは「国連の職員と民間人は常に守られなければならない。より多くの民間人の命が失われないよう、戦闘の終結を求める」として戦闘の終結を求めた<ref name=":23" />。
アメリカは前述の空母打撃群に加え[[ドワイト・D・アイゼンハワー (空母)|ドワイト・D・アイゼンハワー]]を主力とする空母打撃群を地中海に派遣していることを発表した。またオースティンは[[ベルギー]]にて、イスラエルに[[アイアンドーム]]防空システムを供与したとした<ref name=":23" />。
同じく、元[[アメリカ大統領]][[ドナルド・トランプ]]は一連の戦闘を、[[ジョー・バイデン|バイデン政権]]の外交の失敗であるとし、自身が大統領になれば「私のリーダーシップのもとでイスラエルを全面的に支持し、テログループであるハマースを打ち破って永久的に破壊する」とした<ref name=":23" />。
[[大韓民国|韓国]][[大統領 (大韓民国)|大統領]]の[[尹錫悦]]は、訪韓した[[アメリカ合衆国上院|アメリカ上院]]の民主党トップの[[チャック・シューマー|シューマー]]院内総務率いる超党派上院議員団と会談した<ref name=":37">{{Cite web |title=韓国大統領、ハマスの攻撃非難 米上院議員団と会談 |url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023101101204&g=int |website=時事ドットコム |access-date=2023-10-15 |language=ja}}</ref>。両者はイスラエルへの無差別攻撃を非難するとともに、事態の早期収束に向けて米韓両国が「建設的な役割」を果たしていくことで一致した<ref name=":37" />。
=== 10月12日 ===
ブリンケンがイスラエル入りした。米国とイスラエルの協力関係を強くさせる為と思われており、13日にはアッバス自治政府議長と会談する予定<ref>{{Cite web |title=米国務長官がイスラエル入り=ネタニヤフ首相と会談へ|url=https://news.infoseek.co.jp/article/231012jijiX737/ |website=[[Infoseek]]ニュース |access-date=2023-10-12 |language=ja}}</ref>。また、中国の中東問題特使である[[翟雋]]がイスラエル政府高官と電話会談を行った<ref>{{Cite news ja |title=中国の中東問題特使、12日にイスラエル高官と電話会談=BBG |url=https://jp.reuters.com/world/security/Y7PJ3Q3FDJOHDDYD6SCAYROVYA-2023-10-12/ |work=Reuters |date=2023-10-12 |access-date=2023-10-13 |language=ja}}</ref>。フランスはパレスチナを支持するデモを禁止することを発表し、「片方を禁止して片方を認めるなんて不公平だ」といった非難が集まった<ref>{{Cite web |title=フランス、親パレスチナのデモを禁止 反ユダヤ主義を懸念 |url=https://wedge.ismedia.jp/articles/-/31741 |website=[[Wedge]] ONLINE(ウェッジ・オンライン) |date=2023-10-13 |access-date=2023-10-13}}</ref>。
ハマースの人質の家族2人がロンドンで会見を行い、「ホロコーストの生存者がハマースによる新たなホロコーストに直面している」と語り、即時解放を訴えた<ref name=":30">{{Cite web |title=ハマス攻撃「新たなホロコースト」 ガザ人質の家族、解放訴え |url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023101300231&g=int |website=時事ドットコム |access-date=2023-10-13 |language=ja}}</ref>。
イラン外相のアミラブドラヒアンがパレスチナ人に対する戦争犯罪が継続されれば「抵抗の枢軸」からの報復を受けることになると発言。「抵抗の枢軸」が指すものについては明確には判明していないがパレスチナ側の勢力のことであると考えられている<ref>{{Cite web |title=パレスチナ人への犯罪続けば報復招く、イスラエルに責任=イラン外相 |url=https://www.newsweekjapan.jp/headlines/world/2023/10/467992.php |website=Newsweek日本版 |date=2023-10-13 |access-date=2023-10-13 |language=ja}}</ref>。
[[コロンビア]]大統領の[[グスタボ・ペトロ]]はガザ地区に対する包囲攻撃と全面封鎖を命じた、イスラエルのガラント国防相に関する記事を掲示した後、「これはナチスがユダヤ人に対して言ったことと同じだ」と指摘<ref name=":29">{{Cite web |title=「ナチスのようだ」 コロンビア大統領、「イスラエル非難」発言が論争に |url=https://japanese.joins.com/JArticle/310102?sectcode=A00&servcode=A00 |website=中央日報 |access-date=2023-10-14 |language=ja}}</ref>。「民主主義市民は[[ナチズム]]が国際政治舞台に再び登場することを許すことはできない」とし、「(ガラントのように)憎しみ発言が続くなら、ホロコーストだけをもたらしてしまう」と主張した<ref name=":29" />。
また[[シリア]]国営のシリア・アラブ通信によると、イスラエルがシリア首都[[ダマスカス]]と[[アレッポ]]の空港に対しミサイル攻撃を行い滑走路が損害を受け、両空港は使用不能となった<ref>{{Cite web |title=イスラエル軍、ダマスカス・アレッポ空港をミサイル攻撃=シリア |url=https://www.newsweekjapan.jp/headlines/world/2023/10/467958.php |website=Newsweek日本版 |date=2023-10-13 |access-date=2023-10-14 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite news2 |df=ja |title=Syria says Israeli missiles hit Damascus, Aleppo airports |url=https://www.reuters.com/world/middle-east/syria-state-tv-says-israeli-attack-targets-aleppo-damascus-airports-2023-10-12/ |work=Reuters |date=2023-10-12 |access-date=2023-10-14 |language=en}}</ref>。
イスラエル軍が、国際法上禁止されている[[白リン弾]]を使用していたことが[[ヒューマン・ライツ・ウオッチ]](HRW)により発覚した。使用していたのは10から11日の間に使用された都市、HRWは「人口過密なガザでの使用は民間人被害の危険性を増大させ、[[国際人道法]]に違反する」と述べ懸念を示した。2008年12月においてもイスラエル軍は白リン弾を使用したとされているが政府は「[[戦時国際法]]には違反しない」と発言していた<ref name=":34">{{Cite web |title=イスラエル軍、ガザとレバノンへの砲撃で白リン弾使用か「国際人道法に違反」国際人権団体が指摘 - 社会 |url=https://www.nikkansports.com/general/news/202310130001074.html |website=nikkansports.com |access-date=2023-10-14 |language=ja |last=共同通信社}}</ref>。
また、EUは[[Twitter|X]](旧Twitter)や[[Facebook]]を運営する[[Meta (企業)|Meta]]に対して嘘の情報や暴力的な映像が流れていることに対してデジタルサービス法に基づく初めての調査を行おうとした。これに対してXは11日に、Metaは13日に対応を行ったと報告した<ref name=":39">{{Cite web |title=【14日詳細】イスラエル軍 退避警告 大規模軍事作戦準備か |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231014/k10014225161000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-14 |access-date=2023-10-15 |last=日本放送協会}}</ref>。
=== 10月13日 ===
{{Maplink2|zoom=10|frame=yes|plain=no|frame-align=right|frame-width=280|frame-height=400|frame-lat=31.40|frame-long=34.40|type=line|stroke-color=#00F|stroke-width=3|id=Q2668577|text=ワディガザ(ガザ川・ガザ渓谷)}}
イスラム教徒は戦争開始後初の金曜日、[[サラート|イスラム教の礼拝]]の時間が始まった。[[マレーシア]]の首都[[クアラルンプール]]ではイスラム教徒1,000人が祈りの後に集まり、[[イスラエルの国旗|イスラエルの旗]]がかかった像を破壊する等のデモや暴動を起こした<ref name=":26">{{Cite web |title=1.1m told to leave Gaza in 24 hours in 'devastating' evacuation - updates |url=https://www.mirror.co.uk/news/world-news/israel-palestine-live-hamas-branded-31157933 |website=The Mirror |date=2023-10-13 |access-date=2023-10-13 |language=en |first=Chris Hughes, near Sderot on Israel's frontline close to |last=Gaza}}</ref>。
国連はイスラエル軍からガザ地区北部の住民が同地区南部(正確にはガザ渓谷以南<ref>{{Cite web |title=パレスチナ情勢 10月13日~15日(日本時間)にあったこと|url=https://www.asahi.com/articles/ASRBD7HGRRBDUHBI03R.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞デジタル |date=2023-10-15 |access-date=2023-10-17 |language=ja}}</ref>)に退避する必要があるとの通知を受け取ったことを発表した<ref>{{Cite web |title=“ガザ地区北部 全住民の退避必要”イスラエル軍から通知 国連 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231013/k10014224141000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-13 |access-date=2023-10-13 |last=日本放送協会}}</ref>。国際連合パレスチナ難民救済事業機関のフィリップ・ラザリーニ事務局長は、この退避通知について、「ガザ地区の北部に住む100万人以上の市民を24時間以内に移動させるというイスラエル軍の通告は恐ろしい。前例のないレベルの悲惨さをもたらし、ガザの人たちをさらなる奈落の底に突き落とすだけだ」と強く批判している<ref>{{Cite web |title=【随時更新】イスラエル軍 近く地上侵攻含む大規模作戦実行か|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231014/k10014225161000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-14 |access-date=2023-10-13 |last=日本放送協会}}</ref>。また13日に、国連は安全保障理事会の緊急会合を行っている<ref>{{Cite web |title=国連安保理 ロシアが即時停戦求める決議案 ハマスを非難せず |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231014/k10014225271000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-14 |access-date=2023-10-14 |last=日本放送協会}}</ref>。
元イスラエル首相の[[ナフタリ・ベネット]]は、英国[[Sky News|スカイニュース]]の司会者から「イスラエルがガザ地区の電力供給を止める事で[[生命維持装置]]の民間人や病院で育てられている赤ん坊の被害が出るのではないか」と質問され、「我々は[[ナチズム|ナチス]]と戦っている。敵に餌を与えるつもりはない」と述べた<ref>{{Cite web |title="You Serious? We're Fighting Nazis": Israel Ex PM On Gaza Siege Question |url=https://www.ndtv.com/world-news/israel-hamas-war-israel-gaza-war-naftali-bennett-you-serious-were-fighting-nazis-israel-ex-pm-on-gaza-siege-question-4476869 |website=NDTV.com |access-date=2023-10-13}}</ref>。
イスラム教徒が多く住む[[カシミール]]のカールギル地区ではパレスチナ支持者によるイスラエルに対する大規模な抗議運動が行われた。[[パレスチナの旗]]を掲げ、「''Down with Israel and Down With America''(イスラエルを倒し、そしてアメリカを倒せ)」というプラカードを掲げている人々もいた<ref>{{Cite web |title=Kargil Stands With Palestine, Powerful Protest Against Israel's Actions {{!}} Top News {{!}} Latest Updates |url=https://www.timesnownews.com/videos/times-now/world/kargil-stands-with-palestine-powerful-protest-against-israels-actions-top-news-latest-updates-video-104398587 |website=TimesNow |date=2023-10-13 |access-date=2023-10-13 |language=en}}</ref>。イランでも同様のデモが発生した<ref name=":27">{{Cite web |title=イスラエル軍 パレスチナのガザ地区北部に退避通告 13日動き随時更新 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231013/k10014223621000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-14 |access-date=2023-10-14 |last=日本放送協会}}</ref>。
12日の確認に続き、[[アムネスティ・インターナショナル]]はガザ地区の港と、イスラエルとヨルダン川西岸地区の国境において[[白リン弾]]が確認されたと公表した。中東・北アフリカ局長ラマ・ファキは白リン弾について「白リンが混雑した民間人居住区で使用された場合、耐え難い火傷を負い、生涯にわたって苦しむことになる危険性が高い」と懸念を示している<ref name=":26" />。
イギリス政府は2隻の[[イギリス海軍]]艦船と観測機が東地中海に配備する予定であることを発表した。米国のオースティン国防長官はテルアビブでの会見において「(ハマースの行動は)[[ISIL|ISIS]]を思い出させる行動である」と話した<ref name=":26" />。
中国の首都[[北京]]で、イスラエル大使館員の家族が刺されるという事件が発生した。中国政府のしわざではないかという疑いもあるが、当局は否定している。刺された外交官の家族は病院に運ばれ、容態は安定しているとのことである<ref name=":26" />。この事件で、外国籍の53歳の男が北京の警察当局に拘束された。なお、本戦争とこの事件の関係はまだわかっていない<ref>{{Cite web |title=中国 北京 イスラエル外交官の家族襲われけが 外国人の男拘束 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231014/k10014225181000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-14 |access-date=2023-10-13 |last=日本放送協会}}</ref>。
パレスチナ暫定自治区内であるヨルダン川西岸地区でも[[ベツレヘム]]を中心に大規模なデモが行われた。デモ内で一部のデモ隊がタイヤを燃やして抗議したほか、治安当局もデモ隊に対して[[催涙ガス]]で応戦するなどといった騒ぎとなっていた<ref name=":28">{{Cite web |title=【随時更新】イスラエル軍によるガザ退避通告から24時間経過 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231014/k10014225161000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-14 |access-date=2023-10-14 |last=日本放送協会}}</ref>。
ヒズボラの[[ナイム・カセム]]副議長は、戦争に参加しないようにという声に動じないと述べ、「(戦闘に貢献する)完全な準備ができている」と語った<ref>{{Cite news2 |df=ja |title=Hezbollah says calls for it not to intervene in war 'will have no effect' |url=https://www.reuters.com/world/middle-east/hezbollah-says-when-time-comes-any-action-we-will-carry-it-out-2023-10-13/ |work=Reuters |date=2023-10-13 |access-date=2023-10-14 |language=en}}</ref>。
イスラエル軍の激しい空爆で負傷者が急増する中、救急医療などを担うパレスチナ[[赤新月社]]は、「患者を見殺しにはできない」として避難を拒否すると表明した<ref name=":33">{{Cite web |title=ガザ北部住民、大多数が避難先なく 「自宅で死にたい」と残る人も |url=https://mainichi.jp/articles/20231014/k00/00m/030/041000c |website=毎日新聞 |access-date=2023-10-14 |language=ja}}</ref>。
=== 10月14日 ===
13日にイスラエル側が通知した退避勧告から24時間経過した。24時間経過時点では「局地的な急襲」をイスラエル側が行ったことは判明しているものの、大規模な攻撃は確認されていない<ref>{{Cite web |title=ガザの退避通告、24時間が経過 イスラエル軍は局地作戦 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN140910U3A011C2000000/ |website=日本経済新聞 |date=2023-10-14 |access-date=2023-10-14 |language=ja}}</ref><ref name=":28" />。勧告は地上侵攻を示唆しているのではないかという分析も出ている<ref>{{Cite web |title=イスラエル軍、ガザ北部に退避勧告 地上侵攻を示唆 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR1368U0T11C23A0000000/ |website=日本経済新聞 |date=2023-10-13 |access-date=2023-10-14 |language=ja}}</ref>。
[[国際連合安全保障理事会]]の緊急会合が開かれ、ロシアは、即時停戦を求める決議案を各国に提案したが、ハマースは非難しなかった。このことについて[[ネベンジャ]]国連大使は「これは人道決議であり非難決議ではない」と述べた。一方この会合の後、10月の議長国であるブラジルはハマースを非難する決議案を各国に示した<ref>{{Cite web |title=国連安保理 ロシアが即時停戦求める決議案 ハマスを非難せず {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231014/k10014225271000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-14 |access-date=2023-10-17 |last=日本放送協会}}</ref>。なお、ロシアの決議案は16日に否決された<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023101700281&g=int|title=ロシアのパレスチナ決議案否決 賛成5カ国、日米英仏は反対―国連安保理|newspaper=時事ドットコム|accessdate=2023-10-17}}</ref>。
[[外交部 (大韓民国)|韓国外務省]]は韓国人を退避させるための輸送機に韓国人162人、日本人51人、シンガポール人8人が搭乗していることを明かした。座席に余裕があったため、日本側に[[人道援助|人道支援]]を提案し、協力が実現した<ref>{{Cite web |title=日本人51人、イスラエルから退避 韓国軍が協力 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM140JE0U3A011C2000000/ |website=日本経済新聞 |date=2023-10-14 |access-date=2023-10-14 |language=ja}}</ref>。この輸送機は、14日23時頃に[[ソウル特別市|ソウル]]近郊に到着した<ref>{{Cite web |title=【速報】聯合ニュースによると、日本人を乗せた韓国軍輸送機がソウル郊外に到着した |url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023101400601&g=flash |website=時事ドットコム |access-date=2023-10-14 |language=ja}}</ref>。
イスラエル軍は、7日の奇襲にかかわったとされるハマース指揮官の[[アリ・カディ]]と同じくハマース軍幹部の[[ムラド・アブ・ムラド]]も、空爆によって殺害したと発表した<ref>{{Cite web |title=イスラエル軍“ハマス指揮官の1人を殺害”と発表 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231014/k10014225551000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-14 |access-date=2023-10-14 |last=日本放送協会}}</ref>。
イスラエル軍は[[マルガリオット]]近郊での無人機による空爆でレバノンからの侵入者(ヒズボラ戦闘員)3人を殺害したと発表した<ref>{{Cite web |title=IDF publishes footage of drone strike on Lebanon border infiltrators |url=https://www.timesofisrael.com/liveblog_entry/idf-publishes-footage-of-drone-strike-on-lebanon-border-infiltrators/ |website=www.timesofisrael.com |access-date=2023-10-25 |language=en-US |first=Emanuel |last=Fabian}}</ref>。午後になると、ヒズボラは占領地[[シェバー・ファームズ]]のイスラエル軍前哨基地5カ所を砲撃した<ref>{{Cite news2 |df=ja |title=Hezbollah says it attacked five Israeli outposts in disputed Shebaa Farms area |url=https://www.reuters.com/world/middle-east/hezbollah-says-it-attacked-five-israeli-outposts-disputed-shebaa-farms-area-2023-10-14/ |work=Reuters |date=2023-10-14 |access-date=2023-10-25 |language=en}}</ref>。
=== 10月15日 ===
シリアの国営通信は、北部[[アレッポ]]の国際空港がイスラエル軍による攻撃を受け、施設などに被害が出たと報じた。なお、15日時点でけが人は確認されていない<ref>{{Cite web |title=【随時更新】ガザ地区死者2300人超“最後の地上侵攻時上回る” |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231015/k10014225791000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-15 |access-date=2023-10-15 |last=日本放送協会}}</ref>。
ガザ地区の保健当局は15日、イスラエル軍と[[ハマース]]との衝突で、これまでにガザ地区で2,329人が死亡したと発表した。こうした中イスラエル軍は15日朝にかけて、ガザ地区にある指揮所や発射台など100以上の軍事施設を攻撃したとしたほか、ハマースの幹部1人を殺害したと発表した<ref>{{Cite web |title=【随時更新】ガザ地区死者2300人超“最後の地上侵攻時上回る” |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231015/k10014225791000.html#anchor-02 |website=NHKニュース |date=2023-10-15 |access-date=2023-10-15 |last=日本放送協会}}</ref>。
ガザ地区から10kmほどのイスラエル南部の[[アシュケロン]]郊外に、イスラエル軍の軍用車などが集まり、近く行われるとみられる地上侵攻へ態勢を整えている<ref>{{Cite web |title=【随時更新】ガザ地区死者2300人超“最後の地上侵攻時上回る” |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231015/k10014225791000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-15 |access-date=2023-10-15 |last=日本放送協会}}</ref>。それに合わせ[[スデロット|スデロト]]などでは政府主導で市民の避難が行われた<ref>{{Cite web |title=イスラエル・パレスチナ:イスラエル住民避難 ガザ近接都市 ハマス反撃に備え |url=https://mainichi.jp/articles/20231017/ddm/012/030/084000c |website=毎日新聞 |access-date=2023-10-17 |language=ja}}</ref>。
ハマースを支援しているイラン外相の[[ホセイン・アミールアブドッラーヒヤーン]]は[[ドーハ]]を訪れ、ハマースの最高幹部の[[イスマーイール・ハニーヤ]]と会談した。[[イラン外務省]]の声明によると、外相のアミールアブドッラーヒヤーンは「イスラエルの[[戦争犯罪]]からガザ地区の人々を守るため、われわれは努力を続ける」と述べ、今後も協力を続けることを確認した。そのうえで、「イスラエルがガザで戦争犯罪を続けるなら、この地域で何が起きてもおかしくない」と、イスラエルを牽制した。これに対しハニーヤは「[[イスラエル]]による残虐な殺人や家の破壊などにもかかわらず、パレスチナの抵抗勢力は強さを保っている」と述べ、徹底抗戦を続ける姿勢を強調した<ref>{{Cite web |title=【随時更新】ガザ地区死者2300人超“最後の地上侵攻時上回る” |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231015/k10014225791000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-15 |access-date=2023-10-15 |last=日本放送協会}}</ref>。
[[パレスチナ自治政府]]の大統領である[[マフムード・アッバース]]は、「ハマースはパレスチナ人の代表ではない」「ハマースは人質の即時解放をすべき」「ハマースによるイスラエル南部への攻撃を非難する」と声明を出した<ref>{{Cite web |title=BREAKING: Palestinian Authority president Mahmoud Abbas says the policies and actions of Hamas do not represent the Palestinian people|url=https://x.com/spectatorindex/status/1713659201929744698?s=46&t=3qODvsVvtzErr0Q1vMohyA |website=Twitter(X) |date=2023-10-15 |access-date=2023-10-16 |last=The Spectator Index}}</ref><ref>{{Cite web |title=The President of Palestine, Mahmoud Abbas stated today during a Phone Call with U.S. President Biden that the Actions of Hamas do not Represent the Palestinian People and that he Condemns their recent Attack on Southern Israel.|url=https://x.com/sentdefender/status/1713659013286469728?s=46&t=3qODvsVvtzErr0Q1vMohyA|website=Twitter(X) |date=2023-10-16|access-date=2023-10-16 |last=OSINTdefender}}</ref>{{R|b}}。
米国は正式に[[ドワイト・D・アイゼンハワー (空母)|ドワイト・D・アイゼンハワー]]を主力とする空母打撃群を[[ジェラルド・R・フォード (空母)|ジェラルド・R・フォード]]を主力とする空母打撃群と合流させようとしていることを発表し、「このような事態をエスカレートさせようとする国家や非国家勢力を抑止する決意を、我々は持っている」とオースティン国防長官は述べた<ref name=":44">{{Cite web |title=US sends second aircraft carrier to east Mediterranean to deter Iran, Hezbollah |url=https://www.timesofisrael.com/us-sends-second-aircraft-carrier-to-east-mediterranean-to-deter-iran-hezbollah/ |website=www.timesofisrael.com |access-date=2023-10-16 |language=en-US |last=AFP and ToI Staff}}</ref><ref name=":45">{{Cite web |title=Israel says ‘no truce, humanitarian aid in Gaza’ |url=https://www.aljazeera.com/news/liveblog/2023/10/15/israel-hamas-war-live-gaza-hospitals-fuel-to-last-24-more-hours-un-says |website=www.aljazeera.com |access-date=2023-10-16 |language=en |first=Usaid Siddiqui,Ted Regencia,Hamza Mohamed,Virginia |last=Pietromarchi}}</ref>。『THE TIMES OF ISRAEL』は「国家」がイラン、「非国家勢力」がヒズボラを指していると分析している<ref name=":44" />。
米国[[イリノイ州]]では本戦争を受けて男性が「イスラム教徒は死ななければならない」と叫びながら、イスラム教徒の親子を襲撃し、6歳の少年を鋸歯状の刃を持つ軍用ナイフで26回刺し殺し、32歳の母親に重傷を負わせた。その後イリノイ州の男性は[[ヘイトクライム]]で起訴された。刑事によると、本紛争に腹を立てており、そこでイスラム教徒である被害者家族を標的にした<ref>{{Cite news2 |df=ja |title=Illinois man charged with hate crime in fatal stabbing of Muslim boy |url=https://www.reuters.com/world/us/illinois-man-charged-with-hate-crime-fatal-stabbing-muslim-boy-2023-10-15/ |work=Reuters |date=2023-10-16 |access-date=2023-10-16 |language=en |first=Daniel |last=Trotta |first2=Daniel |last2=Trotta}}</ref><ref>{{Cite web |title=Plainfield man charged with killing boy, mother for being Muslim |url=https://www.chicagotribune.com/news/criminal-justice/ct-6-year-old-stabbed-plainfield-muslim-hate-crime-20231015-ijzqnex7u5ahzc4jnt5wsmyzwy-story.html |website=Chicago Tribune |date=2023-10-15 |access-date=2023-10-16}}</ref><ref>{{Cite news2 |df=ja |title=6-Year-Old Boy Fatally Stabbed in Anti-Muslim Attack, Authorities Say |url=https://www.nytimes.com/2023/10/15/us/muslim-boy-stabbed-landlord-chicago.html |work=The New York Times |date=2023-10-15 |access-date=2023-10-16 |issn=0362-4331 |language=en-US |first=Johnny |last=Diaz |first2=Mitch |last2=Smith |first3=Robert |last3=Chiarito}}</ref>。これに対してアメリカ・イスラム関係評議会 (CAIR) [[シカゴ]]支部の事務局長は「誰に対しても憎しみの余地はない」と本事件を非難した<ref name=":45" />。
また、イスラエル側が避難勧告において南部へ避難するよう促していながら、カーンユーニス病院などの南部地域にイスラエル側が攻撃を行っていることが判明した。他、ガザ地区外であるヨルダン川西岸地区に対してイスラエル軍が一晩に数十回ものペースで夜間襲撃を行っていること''が発表された''<ref name=":45" />''。''
イスラエル大統領府がハマースの戦闘員が所持していた『戦闘員ガイド・ジハード(聖戦)編」』というタイトルの指示書を公開した。7日に同国に侵入した戦闘員を殺害した際の押収物から見つかった。指示書では戦闘員に対して、人質に電気ショックを与えたり、人質を「[[人間の盾]]」として使い、戦闘員に刃向かった場合は処刑したりするよう求めていた。また、ヘルツォグは指示書の公開に合わせ「悪を根絶することが、より良い地域と世界を作る方法だ」と述べた<ref>{{Cite web|url=https://mainichi.jp/articles/20231016/k00/00m/030/147000c|title=イスラエルが“ハマスの指示書”公開 「人質、刃向かえば処刑」 |newspaper=毎日新聞|accessdate=2023-10-16}}</ref>。
パレスチナ解放運動などを支援している米国のモデルである[[ジジ・ハディッド]]が、[[Instagram]]において「パレスチナ支援が反ユダヤ主義やハマス支援だと誤解されている」と投稿し物議を醸した件について、イスラエル政府が直々に「ジジ、ここ1週間、寝ていたの?それとも、ユダヤ人の赤ちゃんが自宅で切り殺されているのを見て見ぬふりをしていいと思っているの?あなたの沈黙は、あなたの立ち位置を明確に示している」と名指しで批判した<ref>{{Cite web |title=「ここ1週間、寝ていたの?」イスラエル政府が米人気女性モデルのハディッドを名指し非難 - ハリウッド |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202310170000365.html |website=日刊スポーツ |access-date=2023-10-17 |language=ja |last=千歳香奈子}}</ref>。
[[国際連合レバノン暫定駐留軍]]は、レバノン南部に所在する本部がミサイルにより攻撃されたと発表した<ref>{{Cite web |url=https://english.alarabiya.net/News/middle-east/2023/10/15/Peacekeeping-force-UNIFIL-says-headquarters-in-south-Lebanon-hit-by-a-rocket |title=Peacekeeping force UNIFIL says headquarters in south Lebanon hit by a rocket |access-date=2023-10-18 |publisher=ALARABIYA NEWS}}</ref>。
ヒズボラは、イスラエル北部に向けて[[対戦車ミサイル]]5発を発射し、{{仮リンク|シュトゥラ|en|Shtula|label=}}で民間人1人が死亡、3人が負傷した<ref>{{Cite web |url=https://english.alarabiya.net/News/middle-east/2023/10/15/Casualties-reported-in-attack-on-Israeli-village-Shtula-near-border-with-Lebanon |title=Israel’s military strikes Lebanon targets after Hezbollah claims fire on border town |access-date=2023-10-18 |publisher=ALARABIYA NEWS}}</ref><ref>{{Cite web |title=Hezbollah claims responsibility for deadly missile attacks on north |url=https://www.timesofisrael.com/liveblog_entry/hezbollah-claims-responsibility-for-deadly-missile-attacks-on-north/ |website=www.timesofisrael.com |access-date=2023-10-18 |language=en-US |first=Emanuel |last=Fabian}}</ref>。また、アミタイ・グラノット中尉(イスラエル軍[[ゴラニ旅団 (イスラエル国防軍)|ゴラ二旅団]]第75大隊長、ラビ・タミール・グラノットの息子)は、レバノンと国境を接するイスラエル軍駐屯地へのミサイル攻撃で死亡した<ref>{{Cite web |title=Two Israelis murdered by Hezbollah anti-tank fire, IDF strikes Lebanon |url=https://www.jpost.com/breaking-news/article-768404 |website=The Jerusalem Post {{!}} JPost.com |date=2023-10-15 |access-date=2023-10-18 |language=en-US}}</ref>。
=== 10月16日 ===
中東を訪問中の[[アントニー・ブリンケン]]米国務長官は、16日に再びイスラエルを訪れることが決まった<ref name=":46">{{Cite web |title=【随時更新】イスラエル首相 ガザ地区大規模地上侵攻 強く示唆 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231016/k10014226221000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-16 |access-date=2023-10-15 |last=日本放送協会}}</ref>。
イスラエルの[[イスラエル戦時内閣|緊急内閣]]の閣僚会議が初めて開かれ、ネタニヤフは 「怪物を根絶やしにする準備はできている」と述べた。地上侵攻を示唆していると見られる<ref>{{Cite web |title=【随時更新】イスラエル首相 ガザ地区大規模地上侵攻 強く示唆 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231016/k10014226221000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-16 |access-date=2023-10-16 |last=日本放送協会}}</ref>。
国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)は[[ガザ地区]]でこの1週間で少なくとも100万人が退避を余儀なくされていると発表した。また[[世界保健機関]](WHO)はガザ地区北部の4つの病院がイスラエル軍による攻撃で標的となり、稼働できなくなっているなど、人道的な問題も発生している<ref>{{Cite web |title=【随時更新】ガザ地区人道危機深刻化 人道回廊など外交動きも |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231016/k10014226221000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-16 |access-date=2023-10-16 |last=日本放送協会}}</ref>。
米国の[[ジョー・バイデン]]大統領は[[CBS]]テレビの取材に対して再び紛争に対して発言し、イスラエルが[[戦時国際法]]を守っているかについて「確信している」と述べ、同テレビの『[[60ミニッツ]]』のインタビューではハマースは完全に排除されなければならないという一方で、[[パレスチナ国|パレスチナ国家]]までの道のりは残さなければならないという考えを示した<ref name=":43">{{Cite news2 |df=ja |title=Israel-Hamas war: Biden says Gaza occupation would be ‘big mistake’ – as it happened |url=https://www.theguardian.com/world/live/2023/oct/15/israel-hamas-war-live-us-sends-second-aircraft-carrier-to-deter-hostile-actions-against-israel-ground-assault-on-gaza-looms |work=the Guardian |date=2023-10-16 |access-date=2023-10-16 |issn=0261-3077 |language=en-GB |first=Helen |last=Livingstone |first2=Maya |last2=Yang |first3=Martin |last3=Belam |first4=Adam |last4=Fulton |first5=Helen Livingstone (now); Maya |last5=Yang |first6=Adam |last6=Fulton (earlier)}}</ref>。
交渉により、[[エジプト]]、イスラエル、米国はガザ南部の停戦で合意した<ref>{{Cite news ja |title=ガザ南部停戦で合意か、検問所再開で避難可能に イスラエル否定 |url=https://jp.reuters.com/world/security/MNWO6DYQUVN4TONFIKUYVIZDVM-2023-10-16/ |work=Reuters |date=2023-10-16 |access-date=2023-10-16 |language=ja}}</ref>。このことからガザ地区とエジプトの国境沿いに位置し、本戦争で事実上封鎖状態となっていた[[ラファ検問所]]の期限付きでの解放も行われた<ref name=":45" /><ref>{{Cite web |title=「どこに行けばいいのか」 安全な場所のなくなったガザ市内、BBC記者が取材 |url=https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-67074321 |website=BBCニュース |date=2023-10-11 |access-date=2023-10-16 |language=ja}}</ref><ref name=":46" />。
この日、双方の死者が4200人を超えた<ref>{{Cite web |url = https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231017/k10014227091000.html |archiveurl = https://web.archive.org/web/20231017033308/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231017/k10014227091000.html |author = |title = 【随時更新】イスラエル パレスチナ ガザ地区 17日の動き|website = www3.nhk.or.jp|publisher = NHKニュース|date = 2023-10-17|archivedate = 2023-10-17|accessdate = 2023-10-17}}</ref>。
国連安全保障理事会がロシアの提出した決議案を否決した。中国など5か国が賛成、日米英仏が反対、残り6か国が棄権し、採択に必要な9か国以上の賛成に達しなかった。内容は民間人への暴力とテロ行為を非難し人道支援の提供を求めるもので、人道的停戦を呼び掛けていたが、ハマースには言及していない。米国の[[リンダ・トマス=グリーンフィールド|トーマスグリーンフィールド]]国連大使は反対理由を「ハマスを非難しないことで、ロシアはテロリストを擁護している」と説明した<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023101700281&g=int|title=ロシアのパレスチナ決議案否決 賛成5カ国、日米英仏は反対―国連安保理|accessdate=2023-10-17}}</ref>。この結果に対しロシアの{{仮リンク|ヴァシリー・A・ネベンジャ|en|Vasily Nebenzya|label=ネベンジャ}}国連大使は「世界は安保理が血で血を洗う事態に終止符を打つことを期待していたが、西側諸国がそれを裏切った」として欧米を批判した。これに対し米国のトーマスグリーンフィールド国連大使は「ハマスによるテロはホロコースト以来最悪のユダヤ人虐殺だった。ハマスは無実の人たちを人質にとり、その残虐行為はガザ地区の人たちの人道危機にもつながっている。ハマスを非難しないことはテロリストを擁護することになり、言語道断だ」としてロシアに反論した<ref name=":48">{{Cite web |title=【随時更新】イスラエル パレスチナ ガザ地区 17日の動き |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231017/k10014227091000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-17 |access-date=2023-10-17 |last=日本放送協会}}</ref>。
ハマースのカッサム旅団は人質だとする21歳の女性の映像を公開した。女性は「土曜日の夜明けにガザ地区に近いスデロットでのパーティーから戻っていたところで連れ去られました。手に重傷を負い、3時間におよぶ手術や手当をして薬をもらいました。私は大丈夫ですが、早く家に帰りたいです。家族へ、お父さん、お母さん、きょうだいへ、早くここから出してください。ありがとう」と映像内で話した<ref name=":48" />。
フランスは「[[#10月12日|10月12日]]」節のようなパレスチナを支持するデモを禁止する法律に基づき「反ユダヤ主義的」として102人を拘束したことを発表した。102人の中にはフランス人以外の人々27人もいるとされている。地方メディアによるとフランスには50万人ほどの大規模なユダヤ人コミュニティがあり、政府は、ユダヤ教の礼拝所([[シナゴーグ]])の警備を強化するなどの対策を行っている<ref name=":48" />。
イギリスは「パレスチナの人たちもハマスの被害者だ」としてパレスチナに1000万[[スターリングポンド|ポンド]]の追加支援を行うことを発表した。ロシアも[[ウラジーミル・プーチン]]大統領が、イスラエルのネタニヤフ首相、パレスチナ暫定自治政府のアッバス議長、イランの[[エブラーヒーム・ライースィー|ライシ大統領]]、シリアの[[バッシャール・アル=アサド|アサド大統領]]、エジプトの[[アブドルファッターフ・アッ=シーシー|シシ大統領]]と、複数の中東首脳と電話会談を行ったことが判明した<ref name=":48" />。
ヒズボラはテレビ番組で「イスラエルに先制攻撃を仕掛ける準備ができている」と述べた<ref name=":62">{{Cite web |title=ヒズボラが本格参戦準備=ハマスと挟撃、イスラエルの脅威に―パレスチナ |url=https://equity.jiji.com/oversea_economies/2023101900962 |website=時事エクイティ |access-date=2023-10-20 |language=ja}}</ref>。
=== 10月17日 ===
米国のブリンケン国務長官は訪問先のエルサレムで、18日にバイデン米国大統領がイスラエルを訪問することを発表した<ref>{{Cite web |title=バイデン大統領 18日にイスラエル訪問と発表 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231017/k10014227401000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-17 |access-date=2023-10-17 |last=日本放送協会}}</ref>。また[[ドイツの首相]][[オラフ・ショルツ]]は訪問先の[[アルバニア]]で、イスラエルを訪れることを明らかにした。日程はわかっていない<ref>{{Cite web |title=【随時更新】イスラエル パレスチナ ガザ地区 17日の動き |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231017/k10014227091000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-17 |access-date=2023-10-17 |last=日本放送協会}}</ref>。また、[[アメリカ中央軍]]司令官のマイケル・エリック・クリラが、イスラエル軍幹部と会談するためテルアビブに到着した<ref name=":48" />。
午後にはUNRWAが運営する避難所として運用されていたガザ地区中部の国連学校に攻撃があり、6名の死亡が確認された<ref name=":53">{{Cite web |title=【随時更新】イスラエル パレスチナ ガザ地区 18日の動き|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231018/k10014228531000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-18 |access-date=2023-10-18 |last=日本放送協会}}</ref>。
17日夜、ガザ市のアル・アハリ病院で爆発があり([[アル・アハリ病院爆破事件]])、ハマースはイスラエルの攻撃であるとした<ref name=":54" />。一方イスラエルはハマース以外の武装勢力のミサイルの失敗によるものとしている<ref name=":53" />。この爆発により約500人が死亡した。これに対してアッバス議長は「おぞましい戦争の虐殺」「イスラエルはすべてのレッドライン(越えてはならない一線)を越えた」と述べ、ハマースのイスマイル・ハニヤは襲われた責任はアメリカにあると主張した<ref name=":54">{{Cite web |title=ガザ市の病院で爆発、約500人死亡か イスラエル軍はパレスチナ武装勢力を非難 |url=https://www.bbc.com/japanese/67142149 |website=BBCニュース |date=2023-10-18 |access-date=2023-10-18 |language=ja}}</ref>。
この攻撃にWHOは「医療活動(を行う施設や人々)は優先的に保護されなければならないし、攻撃対象としてはならない」として非難し、[[アントニオ・グテーレス]][[国連事務総長]]や、[[ヴォルカー・ターク]]国連人権高等弁務官も「全く受け入れられない」と述べた<ref name=":52">{{Cite web |title=ガザ病院への攻撃を非難 国際機関など相次いで |url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/284446 |website=東京新聞 TOKYO Web |access-date=2023-10-18 |language=ja}}</ref><ref name=":53" />。[[ユニセフ]]のキャサリン・ラッセル事務局長も声明を出し、「攻撃は容認できず、即時停戦求める」と批判した<ref>{{Cite web |title=ガザ病院攻撃:ユニセフ事務局長声明「攻撃は容認できず、即時停戦求める」―最新の現地状況・支援内容抜粋 |url=https://www.unicef.or.jp/news/2023/0176.html |website=日本ユニセフ協会(ユニセフ日本委員会)プレスリリース |access-date=2023-10-18 |language=ja}}</ref>。トルコの[[レジェップ・タイイップ・エルドアン|エルドアン大統領]]は「女性や子どもたち、罪なき市民がいる病院を攻撃することは、イスラエルによる人間の尊厳を欠く攻撃の最新の事例だ」とSNSで述べた<ref name=":53" />。
またバイデン米国大統領の[[ヨルダン]]訪問はこの攻撃により中止となった<ref name=":53" />。
[[イギリスの首相]][[リシ・スナク]]は、サウジアラビアの[[ムハンマド・ビン・サルマーン|ムハンマド皇太子]]と電話会談を行い、その後[[カタール]]の[[タミーム・ビン・ハマド・アール=サーニー|タミム首長]]とも電話会談を行った<ref name=":53" />。
レバノンとイスラエルの国境に沿って衝突が発生し、5人のヒズボラの戦闘機が損失した。またその戦闘内でレバノン領から発射された対戦車ミサイルがイスラエル北部の{{仮リンク|メトゥラ|en|Metula}}に直撃し、3人が負傷した。またその後{{仮リンク|イフタ|en|Yiftah}}を目標として2発の対戦車ミサイルが発射されるも、負傷者は出なかった。イスラエル軍は報復としてレバノン領に砲撃を行った。ヒズボラは殺害された14人のパイロットをマフムード・バエズ、フッシェン・ファサイ、フセイン・アル・タウィル、マハディ・アトウィ、イブラヒム・アル・ドゥブクと特定したが、彼らの死に対する詳細は明らかにしなかった。またイスラエル軍スポークスマンは、イスラエルの防空システムがレバノンから国境に近づくドローンを迎撃したと述べた。トルコ外相のフィダンは「(本戦争は)より大きな戦争につながる可能性がある」として「戦争が他国に広がらないように、私たちはできる限りのことをする」とした<ref>{{Cite web |title=5 Hezbollah fighters are killed as tensions flare along the border between Lebanon and Israel |url=https://apnews.com/article/lebanon-israel-hezbollah-clashes-cadccde8c6ce5400ee36fd12d3bfea52 |website=AP News |date=2023-10-17 |access-date=2023-10-18 |language=en}}</ref>。またこの戦闘中に越境を行おうとした4人のヒズボラ戦闘員は殺害された<ref>{{Cite web |title=Israel thwarts infiltration bid from Lebanon, killing four: army |url=https://www.france24.com/en/live-news/20231017-israel-thwarts-infiltration-bid-from-lebanon-killing-four-army |website=France 24 |date=2023-10-17 |access-date=2023-10-18 |language=en}}</ref>。
この日にはイスラエル軍によるガザ地区中部への空爆で幹部の最高司令官{{ill2|アイマン・ノファル|en|Ayman Nofal}}が殺害されたことが発表され、このことはイスラエルとハマースの双方が確認している<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://www.politico.eu/article/ayman-nofal-abu-ahmad-commander-dead-israel-hamas-war/|title=Hamas admits Israel killed a top commander|agency=[[:en:Politico Europe|Politico Europe]]|date=2023-10-17|accessdate=2023-10-18}}</ref>。
=== 10月18日 ===
バイデンは[[エアフォースワン|大統領専用機]]で首都[[ワシントンD.C]]近郊の空軍基地を出発し、イスラエルのテルアビブに到着。ネタニヤフと会談し、「アメリカはイスラエルとともにある」と述べ、イスラエルへの連帯を示し、ハマースについては「テロリストの集団だ」として非難した<ref name=":53" />。またガザ地区に隣国であるエジプトから人道支援物資が入ることを条件付きで認めるとする声明を発表した<ref name=":59" />。
また17日の病院爆破に対して18日には日本の[[上川陽子]][[外務大臣 (日本)|外務大臣]]が「罪のない一般市民に多大な被害が発生し、強い憤りを覚える」とする談話を発表した<ref name=":53" /><ref>{{Cite web |title=【速報】ガザ病院攻撃に強い憤りと上川外相 |url=https://www.47news.jp/10006067.html |website=47NEWS |access-date=2023-10-18 |language=ja}}</ref>。
イスラエル国外の超正統派の[[ラビ]](ユダヤ教の宗教指導者)が''「私たちはパレスチナの隣人たちと平和に暮らしたいのです。」と声明を出し、イスラエルに対する抗議活動を行った''<ref name="theglobalherald20231018">{{Cite web |title='Anti-Zionist' Jewish rabbi calls for peace - The Global Herald |url=https://theglobalherald.com/news/anti-zionist-jewish-rabbi-calls-for-peace/ |date=2023-10-18 |access-date=2023-10-19 |language=en-US |first=News |last=Desk}}</ref>''。''
アメリカでは[[アメリカ合衆国議会]]の建物内にデモ隊が侵入して即時停戦を訴えた。これにより300人が逮捕された<ref name=":59" />。
国連安保理では[[ブラジル]]が提出した即時停戦案に対して15か国のうち日本を含む12か国が賛成したものの、アメリカが[[国際連合安全保障理事会における拒否権|拒否権]]を発動したことで否決された。アメリカはトーマスグリーンフィールド国連大使が「決議案にはイスラエルの自衛権が言及されておらず失望している」と述べ、それに対しロシアの国連大使ネベンジャは「われわれはアメリカの偽善とダブルスタンダードを目の当たりにした。アメリカは解決策を見つけることを望んでいなかった」してアメリカを非難した<ref name=":59" /><ref name=":64">{{Cite web |title=中国国連大使、安保理のパレスチナ・イスラエル関連決議案否決に「驚きと失望」 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3487100 |website=www.afpbb.com |date=2023-10-20 |access-date=2023-10-20 |language=ja}}</ref>。中国の国連大使である張軍も「決議案が採択されなかったことに驚き、失望している。」とコメントをした<ref name=":64" />。楽天ニュースは拒否権の発動を「拒否権を発動したことによりイスラエルによる空爆が続くこととなれば「反イスラエル・反アメリカ感情」がアラブ人に芽生え、第二の9.11が起きても仕方がない」とした<ref>{{Cite web |title=習近平はハマスの奇襲攻撃でニヤニヤしている…「ハマス・イスラエル戦争」が日本に及ぼす4つの影響 |url=https://news.infoseek.co.jp/article/president_75061/ |website=Infoseekニュース |access-date=2023-10-21 |language=ja}}</ref>。
イランのライシ大統領は演説で、「誰がこんな恐ろしい犯罪を受け入れられるだろうか」とイスラエル側が戦争の原因だとして批判し、アメリカに対しては「世界の人々があなたたちをイスラエルの共犯者だとみなしており、その憎しみを目の当たりにするだろう」と警告を行った。また[[イスラム協力機構]](OIC)もイスラエル側に責任があるとして非難した<ref name=":59" />。
バイデンとシシはエジプトとの境界のラファ検問所からトラック20台をガザ地区に通過させることを合意し、20日にも物資が搬入されるとの見通しを示した<ref name=":65">{{Cite web |title=【随時更新】イスラエル地上侵攻への準備進む ガザの人道状況は悪化 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231020/k10014230991000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-20 |access-date=2023-10-20 |last=日本放送協会}}</ref>。
ドイツの[[ベルリン]]中心部[[ミッテ区 (ベルリン)|ミッテ区]]にある[[シナゴーグ]]に火炎瓶2発が投げ込まれた。これにより1人が逮捕された<ref>{{Cite web |title=Germany's Scholz vows action after Molotovs thrown at synagogue |url=https://www.france24.com/en/live-news/20231018-germany-s-scholz-vows-action-after-molotovs-thrown-at-synagogue |website=France 24 |date=2023-10-18 |access-date=2023-10-20 |language=en}}</ref>。
避難所として使用されていたガザ市の[[ギリシャ正教会]][[聖ポルフィリウス教会]]の敷地内にイスラエルによる空爆が起き([[聖ポルフィリウス教会空爆]])、教会のエリアス[[神父]]は「これは宗教に対する攻撃であり、卑劣な行為であるだけでなく、人間性に対する攻撃でもある。」と反発した<ref name=":67">{{Cite web |title=‘Smoke everywhere’: Gaza endures another night of heavy Israeli bombing |url=https://www.aljazeera.com/news/liveblog/2023/10/19/israel-hamas-war-live-condemnation-after-israeli-strike-on-gaza-church |website=www.aljazeera.com |access-date=2023-10-20 |language=en |first=Mersiha Gadzo,Priyanka |last=Shankar}}</ref>。教会の[[ファサード]]が損傷し、隣接する建物が倒壊したことが確認されており、{{仮リンク|エルサレム正教会総主教庁|en|Greek Orthodox Patriarchate of Jerusalem}}も、教会堂への攻撃を「最も強く非難する」と表明した<ref>{{Cite web |title=イスラエルによるガザの教会への攻撃で数人が死傷: ハマス |url=https://www.arabnews.jp/article/middle-east/article_102681/ |website=Arab News |access-date=2023-10-20 |language=ja}}</ref>。
18日の[[ロイター]]の調査によると、アメリカの高齢者ではイスラエル支持・アメリカのパレスチナ政策に対する支持が多いが、[[Z世代]]においてはパレスチナ支持者やアメリカのパレスチナ政策に懐疑的な人が多かった<ref>{{Cite web |title=アングル:イスラエル支持の傾向弱まる米Z世代、友人間で亀裂も |url=https://www.newsweekjapan.jp/headlines/world/2023/10/469236.php |website=Newsweek日本版 |date=2023-10-21 |access-date=2023-10-21 |language=ja}}</ref>。
=== 10月19日 ===
WHOは、ガザ地区において戦闘中に26の医療機関が被害にあったことを報告し、[[国連人口基金]](UNFPA)はガザ内で現在妊娠している5万人の内、来月に出産を予定している5500人は安全な出産をするための環境が整っていないことを公表、ユニセフも数百人のガザの子供が死亡し、30万人以上が家を追われているとした<ref name=":59">{{Cite web |title=【随時更新】イスラエル パレスチナ ガザ地区 19日の動き |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231019/k10014229971000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-19 |access-date=2023-10-19 |last=日本放送協会}}</ref>。
イギリス政府はスナク首相がイスラエルを19日訪問し、ネタニヤフと戦闘の拡大防止などに向けて会談することを明らかにし、スナクは20日にかけてイスラエルや周辺国を訪れ、戦闘の拡大防止やガザ地区への人道支援の早期実現に向けて話し合うとしている。スナクは声明で、大勢の民間人が犠牲になったガザ地区の病院の爆発について「世界中の指導者が戦闘の拡大を防ぐため、結束する分岐点にするべきだ」と強調した<ref name=":59">{{Cite web |title=【随時更新】イスラエル パレスチナ ガザ地区 19日の動き |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231019/k10014229971000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-19 |access-date=2023-10-19 |last=日本放送協会}}</ref>。
ガザ地区南部[[ハーンユーニス|ハンユニス]]では空爆が発生し、10人以上が死亡し、40人が負傷した<ref name=":65" />。ガザ中心部のアパートなどでも空爆が発生した<ref name=":67" />。
イスラエル軍はハマースにより拉致被害者は203人に上ると発表。イスラエル・テルアビブではハマースによる拉致被害者の親族がビラを配るなどし、早期解放を訴えた。またSNSでも解放を呼び掛ける声が発信されている<ref name=":65" />。
フランスではパレスチナ支持のデモは禁止されていながらもパレスチナの旗や、「沈黙はガザの人を殺す」などと書かれたプラカードを掲げ、デモが行われた。18日には[[国務院 (フランス)|フランスの国務院]]が「一律に禁止するのではなく個別に審議すべきだ」という見解を発表している<ref name=":65" />。
イスラエルによってヨルダン川西岸一帯への襲撃が行われ、60人以上のハマースのメンバーが逮捕され、その中にはヨルダン川西岸地区におけるハマースのスポークスマンであるハッサン・ユセフも含まれていた<ref>{{Cite web |title=Hamas spokesman among scores detained in occupied West Bank |url=https://www.cnn.com/2023/10/19/middleeast/hamas-spokesperson-detained-west-bank-intl/index.html |website=CNN |date=2023-10-19 |access-date=2023-10-20 |language=en |first=Kareem Khadder,Abeer Salman,Eyad Kourdi,Jo |last=Shelley}}</ref>。
[[アメリカ国防総省]]は[[カーニー (ミサイル駆逐艦)|アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦カーニー]]が、[[紅海]]上空を北上していた[[巡航ミサイル]]3発とドローン8機を撃墜したと発表した。ミサイルは[[イエメン]]の武装組織[[フーシ|フーシ派]]が発射したもので、イスラエルに目標があり、それに対して向かっていた可能性があると分析している<ref>{{Cite web |title=US Navy destroyer in Red Sea shoots down cruise missiles fired by Houthis in Yemen: Pentagon |url=https://abcnews.go.com/International/security-incident-involving-us-navy-destroyer-red-sea/story?id=104147141 |website=ABC News |access-date=2023-10-20 |language=en |first=A. B. C. |last=News}}</ref><ref>{{Cite web |title=US military shoots down missiles and drones as it faces growing threats in volatile Middle East |url=https://apnews.com/article/yemen-navy-warship-missiles-intercepted-2f5fc9c8a3737f762b29d5c53ec08a5b |website=AP News |date=2023-10-19 |access-date=2023-10-20 |language=en}}</ref>。
[[中華人民共和国外交部|中国外務省]]は少なくとも1000人の中国人がイスラエルから去ったことを発表し、寧はイスラエル南部の都市スデロットで立ち往生していた280人の中国人も避難したと述べた<ref name=":67" />。
レバノン南部のヒズボラの基地に対してイスラエルは攻撃したことを発表した。またイスラエルの日刊紙『Maariv』によって行われた世論調査では、イスラエル国民の65%がガザ地区での地上攻撃を支持し、21%が反対していることが判明した。一方、イスラエル国民の80%が、ネタニヤフは10月7日のハマス攻撃につながった国の失敗の責任を取るべきだと考えていることが示唆された。ネタニヤフに責任がないと考えている人は、一般国民のわずか8%に過ぎないことがわかった<ref name=":67" />。
[[アルジャジーラ|ALJAZEERA]]は「パレスチナへの支持は[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]で強い」と報道した。同メディアはこの要因を同国で発生した[[アパルトヘイト]]と重ねてのことだと分析している<ref name=":67" />。
=== 10月20日 ===
ラファ検問所にグテーレス国連事務総長が到着し「この壁の向こうでは200万人の人々が水も食料も、医薬品も燃料もなく、戦火の中で苦しんでいる。なるべく早くできるだけ多くのトラックを動かさなければならない」と発言した。また国連については「すべての当事者と搬入に向けた条件を詰めている」とした<ref name=":65" />。
ハマースは「人道的な理由から」としてアメリカ国籍の母親と娘を解放し、イスラエルはガザ地区の境界で保護したと報告した。ハマースやメディアは解放の理由をカタールによる仲介によるものとしている<ref name=":68">{{Cite web |title=【随時更新】ガザ地区 人道支援物資搬入 21日以降か|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231021/k10014232581000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-21 |access-date=2023-10-21 |last=日本放送協会}}</ref>。これに対しバイデンは「2人はひどい試練に耐えてきた」と解放を歓迎した。残ったアメリカ国籍の約10人の人質の解放についてブリンケンは全人質の解放を求めた<ref>{{Cite web |title=バイデン氏、人質2人の解放を歓迎 イスラエルの地上侵攻は容認姿勢 |url=https://mainichi.jp/articles/20231021/k00/00m/030/024000c |website=毎日新聞 |access-date=2023-10-21 |language=ja}}</ref>。
バイデンはホワイトハウスから、ガザ地区への人道支援物資の搬入について「イスラエル側とエジプトのシシ大統領から確約を得ている。道路を舗装し直さなければならず、非常にひどい状態だ。これから24時間から48時間以内に最初の20台のトラックが通過するだろう」と発言した<ref name=":68" />。
[[国際連合人道問題調整事務所]]の広報官は20日に[[スイス]]で行われた記者会見で「人道支援物資の搬入は21日以降の見通しである」と発言した<ref name=":68" />。
エジプト外務省の広報官はSNSにて「西洋のメディアはエジプトに検問所閉鎖の責任を押しつけようとしているが、検問所を4回も攻撃し、物資の搬入を拒んでいるのはイスラエルだ。さらに外国人の出国を阻んでいるのもエジプトではない」と投稿した<ref name=":68" />。
[[パレスチナ暫定自治区]]では、ガザ地区への連帯を示し、イスラエルに抗議するデモが各地で行われた。特に[[ベツレヘム]]では、金曜礼拝のあと大規模な抗議デモが行われた<ref name=":68" />。
アメリカ国防総省報道官のパトリック・ライダー[[アメリカ空軍|空軍]][[准将]]は紅海北部で同国の軍艦カーニーによって、フーシ派が発射した巡航ミサイル3発とドローン数機の迎撃に成功したと発表した<ref>{{Cite web |url=https://www.npr.org/2023/10/20/1207523642/yemen-missiles-intercepted |title=Pentagon says it shot down Yemen missiles that may have been headed towards Israel |access-date=2023-10-21 |publisher=npr}}</ref>。
日本では、[[中核派]]関連団体により大規模なデモが発生し、そのデモの中でイスラエル大使館前で警察官に[[のぼり旗]]のポール部で額を押すなど暴行した疑いで24歳の男が公務執行妨害容疑で現行犯逮捕された<ref>{{Cite web |title=イスラエル大使館前で警察官に暴行疑い 「中核派」活動家を逮捕 |url=https://mainichi.jp/articles/20231020/k00/00m/040/224000c |website=毎日新聞 |access-date=2023-10-21 |language=ja}}</ref>。
=== 10月21日 ===
イスラエル軍の報道官[[ハガリ]]は21日、記者会見で「ガザ地区の南部の住民に水と食料と医薬品が届けられた」として支援物資がガザ地区に入ったことを明らかにし、軍事目的で使用される可能性のあるガソリンなどの燃料については、引き続きガザ地区への搬入を認めない考えを示した<ref name=":">{{Cite web |title=【随時更新】ガザ地区に支援物資載せたトラック入る 衝突後初|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231021/k10014232581000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-21 |access-date=2023-10-21 |last=日本放送協会}}</ref>。また、ハガリは、これまでにガザ地区の住民およそ70万人が南部へと向かったとした上で、「戦争の次の段階に向けてガザ地区北部にあるハマースの拠点への攻撃を強化する」と述べ、ガザ地区の住民に対して南部へ向かうよう改めて呼びかけた<ref name=":">{{Cite web |title=【随時更新】ガザ地区に支援物資載せたトラック入る 衝突後初 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231021/k10014232581000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-21 |access-date=2023-10-21 |last=日本放送協会}}</ref>。一方、ハマースについては「ガザ地区から発射されたロケット弾の5分の1にあたる550発以上がガザ地区内に落下し、誤爆によって罪のない市民を殺している」と主張している<ref name=":">{{Cite web |title=【随時更新】ガザ地区に支援物資載せたトラック入る 衝突後初|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231021/k10014232581000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-21 |access-date=2023-10-21 |last=日本放送協会}}</ref>。このほか、ハガリは、これまでに210人の人質が確認されたと明らかにした<ref name=":">{{Cite web |title=【随時更新】ガザ地区に支援物資載せたトラック入る 衝突後初 {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231021/k10014232581000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-21 |access-date=2023-10-21 |last=日本放送協会}}</ref>。
複数メディアでラファ検問所の開放が報道され、現地時間午前10時半に開放が確認、30分後に本戦争開始後としては初の支援物資の供給が行われた<ref name=":" />。
[[カイロ平和サミット]]がエジプトの首都[[カイロ]]で開催され、約30の国・地域、国際機関の代表が参加し、日本からは[[上川陽子]]外務大臣が出席し、本戦争についての話し合いも行われた<ref name=":" />。
ヨルダン川西岸地区では、ガザを支援する抗議デモが発生した。[[ファタハ]]や[[ロシア]]の国旗を掲げ、ロシア大統領の[[ウラジーミル・プーチン|プーチン]]や[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の最高指導者[[金正恩]]の肖像画を掲げる映像もあった<ref>{{Citation|title=Palestinians Wave Russia Flags, Display Putin & Kim Portraits During Anti-Israel Stir In West Bank|url=https://www.youtube.com/watch?v=oeh8MGuQMbI|language=ja-JP|access-date=2023-10-24}}</ref><ref>{{Citation|title=Russian Flags, Posters Of Putin & Kim Jong Un In West Bank As Palestinians Rally In Support Of Gaza|url=https://www.youtube.com/shorts/4lq-ZO36x4A|language=ja-JP|access-date=2023-10-24}}</ref><ref>{{Citation|title=Russian flags and Kim Jong Un posters at Palestinian protest in West Bank|url=https://www.youtube.com/shorts/v4l5lhlbLRE|language=ja-JP|access-date=2023-10-24}}</ref>。
アメリカのオースティン国防長官は、[[ドワイト・D・アイゼンハワー (空母)|USSドワイト・D・アイゼンハワー]]空母打撃群の[[アメリカ中央軍]]担当地域への配備を命じ、地中海東部の[[ジェラルド・R・フォード (空母)|USSジェラルド・R・フォード]]空母打撃群と合流することを発表した<ref>{{Cite web |url=https://www.msn.com/en-us/news/world/us-takes-additional-steps-to-strengthen-mideast-defense-posture/ar-AA1iDqst |title=US Takes Additional Steps to Strengthen Mideast Defense Posture |access-date=2023-10-24 |publisher=Bloomberg}}</ref>。
イラン司令官のエスマイル・カーニがシリアに訪問したという情報も流れた<ref>{{Cite web |title=A Method to Movements? Tracking Quds Force Chief Qaani |url=https://agsiw.org/a-method-to-movements-tracking-quds-force-chief-qaani/ |website=Arab Gulf States Institute in Washington |date=2023-10-23 |access-date=2023-10-24 |language=en-US}}</ref><ref>{{Cite web |title=Tehran Continues To Threaten Washington Over Mideast Conflict |url=https://www.iranintl.com/en/202310220175 |website=Iran International |date=2023-10-24 |access-date=2023-10-24 |language=en}}</ref>。
=== 10月22日 ===
イスラエル軍の報道官は22日、ガザ地区への空爆を強化していると明らかにするとともに「政治レベルでの決定に従い、軍にとって最良の状態で次の段階へ移行するだろう」と述べ、地上侵攻を含む大規模な軍事作戦への準備は整っていると強調した<ref name="69:">{{Cite web |title=【随時更新】イスラエル軍“大規模軍事作戦の準備整っている”|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231022/k10014233161000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-22 |access-date=2023-10-22 |last=日本放送協会}}</ref>。
イスラエル軍はガザ地区で高い建物やトンネルなどハマースの拠点を狙ったとする激しい空爆を続けていて、地元メディアは21日夜から22日にかけて少なくとも50人が死亡したと伝えている<ref name="69:">{{Cite web |title=【随時更新】イスラエル軍“大規模軍事作戦の準備整っている”|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231022/k10014233161000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-22 |access-date=2023-10-22 |last=日本放送協会}}</ref>。
またガザ地区の周辺ではイスラエル軍が戦車部隊などを展開していて、22日にはガザ地区との境界線のフェンス近くでハマースの戦闘員2人を殺害したと発表した<ref name="69:">{{Cite web |title=【随時更新】イスラエル軍“大規模軍事作戦の準備整っている” |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231022/k10014233161000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-22 |access-date=2023-10-22 |last=日本放送協会}}</ref>。
イスラエル軍はヨルダン川西岸でも22日、空爆を行った。軍の発表によると空爆されたのはハマースや他の武装組織の拠点として使われていたとする[[モスク]]で「最近、テロ攻撃を計画しているという情報を入手した」と主張している<ref name="69:">{{Cite web |title=【随時更新】イスラエル軍“大規模軍事作戦の準備整っている”|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231022/k10014233161000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-22 |access-date=2023-10-22 |last=日本放送協会}}</ref>。
ラファ検問所に支援物資輸送の第二陣が到着、トラック17台で燃料を積んだものもあった<ref>{{Cite web |title=Israel confirms two more hostages released from Gaza |url=https://www.bbc.co.uk/news/live/world-middle-east-67185260 |website=BBC News |date=2023-10-22 |access-date=2023-10-24 |language=en-gb}}</ref>。
イスラエル軍機がシリアのアレッポ空港とダマスカス空港を再び攻撃し、両空港を機能停止に追い込んだ。また攻撃によりダマスカス空港を拠点とするシリア気象局の職員2人が死亡した<ref>{{Cite news2 |df=ja |title=Israeli air strikes kill two workers at Syria's Damascus airport, official says |url=https://www.reuters.com/world/middle-east/israeli-air-strikes-kill-two-workers-syrias-damascus-airport-official-2023-10-22/ |work=Reuters |date=2023-10-22 |access-date=2023-10-24 |language=en}}</ref>。
他、イスラエル軍はジェニンのアル・アンサル・モスクを攻撃し、内部で攻撃を計画していたハマースとイスラーム聖戦の「テロ工作員」数名を殺害したと発表した<ref>{{Cite web |title=Israel strikes mosque in occupied West Bank refugee camp |url=https://www.aljazeera.com/news/2023/10/22/israeli-air-strike-kills-two-in-west-bank-palestinian-medics-say |website=www.aljazeera.com |access-date=2023-10-24 |language=en}}</ref>。
フランスの首都パリではパレスチナ支持派のデモは禁止されているが約1万5000人規模のデモが発生し、これは認められた<ref name=":70">{{Cite news ja |title=パリでパレスチナ支持の大規模デモ、衝突発生後警察が初許可 |url=https://jp.reuters.com/economy/LRWCHJZNENPWRO67QJIELLYDPQ-2023-10-23/ |work=Reuters |date=2023-10-23 |access-date=2023-10-24 |language=ja}}</ref>。
イスラエル軍はエジプトとの国境付近でイスラエル軍の戦車がエジプト側の監視塔を誤って砲撃したと発表し、謝罪したのちに原因を調査中とした。これに対しエジプトは「イスラエル軍の誤射によって、エジプト兵数人が軽傷を負った。イスラエル側は誤射について即時に謝罪した」とSNS上で投稿した<ref name=":72" />。
アメリカのオースティン国防長官はイスラエル軍のガザ侵攻計画に対し「市街地での戦闘は非常に難しい。ゆっくりとしたペースで進んでいくものだ」とし、その上で2016年から2017年にかけてイラク軍が[[イスラミックステート]](IS)に対する軍事作戦によって、イラク北部の[[モースル|モスール]]を解放するのに9か月かかったことを挙げて「今回の戦闘はハマスが地下トンネル網を築き、戦闘準備に長い時間をかけてきたことからもう少し難しいかもしれない」と述べて、難しい作戦になるという認識を示した<ref name=":72" />。
=== 10月23日 ===
イスラエル軍は23日朝、この24時間でガザ地区で320か所以上の標的を空爆したと発表した。空爆ではハマースによって使われていた地下トンネルや作戦指揮所、監視ポストなどを破壊したとしている。この空爆でガザ地区では多数の死傷者が出ていて、地元メディアはおよそ400人が死亡したと伝えた。こうしたなかイスラエル軍の報道官は23日、地上部隊の作戦開始が政治的な決定で遅れているのかという質問に対して「われわれは作戦への脅威を減らし、与えられた時間を利用して最善の形で作戦を実行できるよう準備を整えていく」と答え、軍としては準備ができていると強調した<ref name=":72">{{Cite web |title=【随時更新】イスラエル軍 1日でガザ地区320か所以上を空爆 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231023/k10014233981000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-23 |access-date=2023-10-23 |last=日本放送協会}}</ref>。
イスラエル軍により、レバノン南部で軍機による夜間攻撃も実施された<ref>{{Cite news ja |title=イスラエルがガザとレバノン空爆、西岸で衝突 ハマス・イラン協議 |url=https://jp.reuters.com/article/israel-palestinians-lebanon-idJPKBN31N00B |work=Reuters |date=2023-10-23 |access-date=2023-10-24 |language=ja}}</ref>。
ハマースはイスラエル国籍を持つ、85歳と79歳の高齢の女性を2人解放した。その後ラファ検問所を経由してエジプト側に退避したあと、健康状態を確認するためテルアビブの医療機関に搬送された。一方、人質50人の解放の交渉はハマースの燃料の要求に反対したことから却下された<ref>{{Cite web |title=【随時更新】ハマス さらに人質2人を解放 死者は6400人超えに|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231024/k10014235231000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-24 |access-date=2023-10-24 |last=日本放送協会}}</ref>。
EUが外相会議を開催し、ガザ地区で人道支援を行うための一時的な停戦について協議した<ref name=":69">{{Cite web |title=【随時更新】ハマス さらに人質2人を解放 死者は6400人超えに|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231024/k10014235231000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-24 |access-date=2023-10-24 |last=日本放送協会}}</ref>。
また23日も支援物資がラファ検問所を通りガザへ行き、日本からの支援物資を積んだ[[日本の国旗|日本国旗]]を掲げたトラックも見られた<ref name=":72" />。
イスラエル軍はハマースによる残虐行為だとする映像を公開した<ref name=":76">{{Cite web |title=【26日詳細】イスラエル軍 “限定的な地上作戦実施”|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231026/k10014237671000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-26 |access-date=2023-10-27 |last=日本放送協会}}</ref>。
=== 10月24日 ===
フランスのマクロン大統領は、24日朝にイスラエルの空港に到着し、ハマスに捕らえられている人質の家族らと面会した。その後ヘルツォグと会談し、冒頭、マクロンは「まずはフランスとして支援と連帯を示したい。私たちが最初に目指すべきなのはすべての人質の解放だ」と強調した<ref name=":69" />。
[[アメリカ海兵隊]]のグリン中将などをイスラエルに派遣したことを発表した。報道官は「彼らは助言しているだけで指示はしていない」とし、「イラクのような密集した市街地での戦闘経験があれば、民間人の犠牲を少なくするためにできる限りのことを行う重要性などの教訓を共有できる」とも述べた<ref name=":72" />。
国連安全保障理事会は閣僚級の公開会合を開いて対応を協議した。その中でイスラエルとパレスチナ双方から外相が出席し、パレスチナ外相は「一般市民を標的にしたもので、非人道的で不法な無差別攻撃だ。これは国際法違反の[[集団的懲罰]]にあたる。一般市民の殺害はイスラエル人もパレスチナ人もいっさい正当化できない」とし、イスラエル外相は「この虐殺は歴史に刻まれる。ハマスは新たなナチスだ。文明世界がナチスを打ち負かすために団結したように、ハマスを打ち負かすために、世界は団結しなければならない。イスラエルにとってハマスを破壊することは権利ではなく義務だ」とし、互いを激しく非難する事態となった<ref name=":72" /><ref>{{Cite web |title=イスラエルとパレスチナ、非難応酬 米長官は「戦闘停止」検討訴え―国連安保理|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023102500292&g=int |website=時事ドットコム |access-date=2023-10-25 |language=ja}}</ref>。
アメリカのバイデン大統領は、サウジアラビアの事実上の最高権力者である、[[ムハンマド・ビン・サルマーン|ムハンマド]]皇太子と電話会談し<ref name=":73">{{Cite web |title=米大統領とサウジ皇太子、イスラエル・ハマス紛争巡り協議=ホワイトハウス |url=https://www.newsweekjapan.jp/headlines/world/2023/10/469666.php |website=Newsweek日本版 |date=2023-10-25 |access-date=2023-10-25 |language=ja}}</ref><ref name=":74">{{Cite web |title=紛争拡大防止で合意 サウジ皇太子と会談―米大統領 |url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023102500279&g=int |website=時事ドットコム |access-date=2023-10-25 |language=ja}}</ref>、ホワイトハウスは両首脳は「地域全体の安定を維持し、紛争の拡大を防ぐため」に、より広範な外交努力を追求することで合意。今後一定期間にわたり両首脳は直接、あるいは両首脳のチームを通じて緊密な連携を維持するとした<ref name=":73" />。また、ガザへの支援物資搬入を双方が歓迎。人質奪還に向けた各国の取り組みを評価しつつ、ハマースには残りの人質の即時解放を求めたということである<ref name=":74" />。
10月24日、シリアから2発のロケット弾が発射された後、イスラエルの空爆により[[ダルアー県]]でシリア兵8人が死亡、7人が負傷した<ref>{{Cite web |title=Syria says 8 soldiers killed in Israeli strikes |url=https://www.timesofisrael.com/liveblog_entry/syria-says-8-soldiers-killed-in-israeli-strikes/ |website=The Times of Israel |access-date=2023-10-27 |language=en-US |first=Emanuel |last=Fabian}}</ref>。
=== 10月25日 ===
[[マクサー・テクノロジーズ]]は戦闘前後のガザ地区北部の衛星画像を公開した<ref name=":76" />。
25日夜、ガザ地区北部に限定的な侵攻を開始するも引き揚げ、イスラエル軍は「次の戦闘の段階に向けた準備だ」とした。また同日にはネタニヤフが演説でガザ地区への地上侵攻について「我々は準備しているが、いつ始めるかなど詳細を説明するつもりはない。タイミングは戦時内閣と軍の幹部たちと決定する」と述べている<ref name=":76" />。
イスラエルのメディア「[[ハアレツ]]」はイスラエルなどの関係者の話として「多くの人質の解放が数日以内に実現するかもしれない」とした。一方『ニューヨーク・タイムズ』はアメリカ政府がイスラエルに地上侵攻を遅らせるよう要望しているとした上で、その理由について中東に展開するアメリカ軍を守るための防空ミサイルシステムの配備や人質解放に向けた交渉に時間が必要なためなどと報じた。『[[ウォール・ストリート・ジャーナル]]』(WSJ)もアメリカとイスラエルの政府当局者の話として、イスラエルがアメリカからの要請に応じて、ガザ地区への地上侵攻を遅らせることで合意したと伝えた<ref name=":76" />。またWSJはハマースの戦闘員らがイスラエルへの大規模な奇襲攻撃を前にイランで訓練を受けていたと伝え、これに対しイラン側は否定した<ref name=":77">{{Cite web |title=バイデン大統領 イランに米軍への攻撃をやめさせるよう警告 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231027/k10014239011000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-27 |access-date=2023-10-27 |last=日本放送協会}}</ref>。
フランスは病院を支援するため、[[フランス海軍]]の艦船を派遣するほか、医療物資を積んだ航空機をエジプトに派遣することを明らかにした。派遣される艦船は、多くのベッドや手術室を備え、病院としての機能も持ち合わせていると政府は説明している。またイギリスも21トンの支援物資を送ることを決め、物資を乗せた飛行機が25日、エジプトに到着した<ref name=":76" />。
ロシアのプーチン大統領は「今月7日のテロで殺されたイスラエル人などの遺族に哀悼の意を表したい」と述べた一方で「罪のない人々が他者による犯罪の責任を負うべきでない」と述べ、イスラエルによるガザ地区への地上侵攻の可能性に懸念を示した。その後アメリカを念頭に「特定の勢力がさらなる事態の悪化を誘発し、利己的な利益のために多くの国や民族を巻き込み、中東地域を越えて混乱と憎悪の波を起こそうとしている」などと、批判を展開、「世界中でナショナリズムや宗教的な不寛容をあおる西側勢力は、ロシアに対しても敵対的な目標を追求している」とも述べた<ref name=":76" />。
アメリカのバイデン大統領は、[[オーストラリアの首相]][[アンソニー・アルバニージー]]との首脳会談後に行われた共同記者会見で、イスラエルが自国を防衛するために必要な支援をすると述べる一方で「困難であろうともできるかぎりのことをして罪のない市民を守らなければならない」と述べて、ガザ地区の住民の犠牲を最小限にすべきだと改めて強調した<ref name=":76" />。
[[東京都]][[目黒区]]のペットサロンで、ホームページが改ざんされ、英語で「われわれは常にパレスチナのイスラム教徒の同胞に寄り添っている」などといった主張が書かれる事件が発生、「[[IRoX Team]]」というハッカー集団が「自分たちがやった」とSNS上で主張した。その他世界でも[[ハクティビズム|ハクティビスト]]によるサイバー攻撃が行われている<ref name=":76" />。
=== 10月26日 ===
「戦闘の一時的な停止」などを求めるアメリカが提出した決議案の採決が行われ、15か国のうち10か国が賛成したが、ロシアと中国が拒否権を行使して否決された。これに対し中国の[[毛寧 (外交官)|毛寧]]報道官は「中国側の立場は事実と正義に基づいており、国際社会、特にアラブ諸国の強い声に応えている」と述べ、アメリカの決議案に対して拒否権を行使した中国の立場を強調した<ref name=":76" />。
アメリカのオースティン国防長官は、声明を発表し、イランの[[革命防衛隊]]やイランが支援する勢力が使用しているシリア東部の2つの施設を攻撃したと明らかにし、「イランの支援を受けたこれらの攻撃は容認できず、止めなければならない。攻撃が続くようであれば、われわれは自国民を防衛するため、さらに必要な措置をとることをいとわない」と強調し、攻撃の理由を「自衛のため」とした<ref name=":77" />。
ガザ地区の保健当局はイスラエルの空爆などにより死亡した6800人分の名前や年齢、性別などをまとめた資料を公表した<ref name=":77" />。
イスラエル軍はハマースが司令部などを置いているとみられる地下トンネルへの対応を専門とする「[[ヤハロム]]」という特殊部隊の映像を公開した。また、ハマースの情報部門ナンバー2である[[シャディ・バルード]]を空爆で殺害したと発表している<ref name=":77" />。
ハマース幹部アブマルズーク率いる代表団がロシアの首都モスクワを訪問し、外務次官のボグダノフと会談を行ったことを[[ロシア連邦外務省]]が公表した。会談についてSNSでハマースは「イスラエルによるガザ地区への攻撃や、アメリカや西側諸国が支援しているイスラエルの犯罪を阻止するための戦略に焦点が当てられた。代表団はプーチンの姿勢を評価し、ロシア外交の積極的な役割を確認した。」とした<ref name=":77" />。
イランの国営通信はアメリカから自制を求めるメッセージを戦争勃発以降複数回受け取っていたことを発表、国営通信はそれを踏まえて「イランはイスラエルの戦争犯罪が地域の国々の怒りを招き、新たな戦端を開くと警告してきた。イラクやシリア、レバノン、イエメンで起きていることがそれを示している。戦争の拡大を望まないというアメリカの主張が本当なら、ガザ地区で人々を殺すのを止めるべきだ」とした<ref name=":77" />。
国連総会の緊急特別会合も開催され、ヨルダンが決議案を提出した<ref name=":77" />。
=== 10月27日 ===
国連総会にて、120ヵ国の賛成で「即時かつ持続的な人道的休戦」を求める[[国際連合総会決議ES-10/21|決議案]]が採択された<ref name="yomiuri20231028">{{Cite web |url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20231028-OYT1T50050/ |title=国連総会、ガザ情勢巡り「人道的休戦」求める決議採択…イスラエル・米国は反対 |publisher=読売新聞 |date=2023-10-28 |accessdate=2023-10-28}}</ref>。
ハマースにより拉致された人質の数は229人であると発表された<ref name=":78">{{Cite web |title=【28日詳細】イスラエル国防相「戦争の新たな段階に」声明発表 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231028/k10014240131000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-28 |access-date=2023-10-30 |last=日本放送協会}}</ref>。
イスラエル軍はガザへの空爆は激化させ、さらに「地上軍の活動を拡大している」とした<ref>{{Citation|title=Israeli ground forces are ‘expanding their activity’ in Gaza|url=https://www.youtube.com/shorts/afRNl7VY1gU|language=ja-JP|access-date=2023-10-30}}</ref>。また[[アル・シファ病院]]やインドネシア病院などにも攻撃は行われた<ref>{{Citation|title=Israeli Air Strikes hit near Indonesian Hospital in Gaza|url=https://www.youtube.com/shorts/0__P7qQEIc8|language=ja-JP|access-date=2023-10-30}}</ref>。一方ハマースもロケット弾による攻撃を行い、テルアヴィヴなどに着弾した<ref>{{Citation|title=Explosion seen as Hamas rocket hits Tel Aviv apartment block {{!}} AJ #shorts|url=https://www.youtube.com/shorts/c68UszGaWGQ|language=ja-JP|access-date=2023-10-30}}</ref>。
またイスラエル側は地上侵攻について「あらゆる前線で激しい作戦を展開している」と発表し、北東部{{仮リンク|ベイト・ハヌーン|en|Beit Hanoun}}と中部{{仮リンク|ブレイジ|en|Bureij}}に対し地上侵攻を開始、ハマースも「イスラエル軍が侵入し、激しい衝突が起きている」とこれらの戦闘を認めた<ref>{{Cite web |title=イスラエル軍「あらゆる前線で作戦を展開」 越境攻撃が激化:朝日新聞デジタル |url=https://www.asahi.com/articles/ASRBX2PLHRBXUHBI00G.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞デジタル |date=2023-10-28 |access-date=2023-10-30 |language=ja}}</ref>。
2機の[[無人偵察機]]が紅海南部から北方向にイスラエルを目標として発射され、2機のドローンのうち、1機は墜落し、エジプトの[[タバ]]にある病院に隣接するビルに命中し、6人が負傷した。もう1機は、エジプトの{{仮リンク|ヌウェイバ|en|Nuweiba}}の町に近い砂漠地帯にある発電所の近くで、破片とともに撃墜された<ref>{{Cite news2 |df=ja |last1=Hassan |first1=Ahmed Mohamed |last2=Williams |first2=Dan |title=Drone blasts hit two Egyptian Red Sea towns, Israel points to Houthi |url=https://www.reuters.com/world/middle-east/explosion-heard-egyptian-red-sea-town-near-israeli-border-witness-2023-10-27/ |access-date=28 October 2023 |work=[[Reuters]] |date=27 October 2023 |language=en}}</ref><ref>{{Cite news2 |df=ja |title=Blasts hit two Egyptian Red Sea towns near Israel border, six injured |url=https://www.aljazeera.com/news/2023/10/27/missile-strikes-egypts-taba-resort-town-near-israel-border |access-date=28 October 2023 |work=[[Al Jazeera]] |language=en}}</ref><ref>{{Cite news2 |df=ja |last1=Fabian |first1=Emanuel |title=Missile that hit Egypt likely came from Yemen, IDF indicates; 2nd Sinai impact reported |url=https://www.timesofisrael.com/liveblog_entry/missile-that-egypt-likely-came-from-yemen-idf-says-as-second-sinai-impact-reported/ |access-date=28 October 2023 |work=[[The Times of Israel]]}}</ref>。[[フーシ派]]の高官はその後、ドローンがタバに墜落した後、X(旧Twitter)に一言投稿し、近くにあるイスラエルの町「[[エイラート]]」について言及した<ref>{{Cite news2 |df=ja |title=Yemen’s Houthi rebels appear to threaten Israel: ‘Eilat’ |url=https://www.timesofisrael.com/liveblog_entry/yemens-houthi-rebels-appear-to-threaten-israel-eilat/ |access-date=29 October 2023 |date=28 October 2023 |work=[[The Times of Israel]]}}</ref>。
またガザ地区の携帯電話による通信とインターネットアクセスは遮断され、被害の全容や人々の安否がわからなくなる事態となった<ref name=":78" />。
=== 10月28日 ===
イスラエル軍は「ガザ地区で活動するジャーナリストの安全を保証できない」とする書簡を、[[ロイター通信]]などに送った。また「ハマスは意図的にジャーナリストや市民の周辺で軍事行動を展開している。このような状況のもとで、われわれはあなたたちのスタッフの安全を保証することはできない」とも書かれており、これに対しロイター通信は声明を発表し、「現地の状況は悲惨だ。イスラエル軍がわれわれのスタッフの安全を保証しないことは、戦闘のニュースを伝える力を脅かすことにつながる」として強い懸念を示し、AFP通信の幹部は「非常に危険な状況の中で働いている大勢のジャーナリストのチームがいることを、世界に理解してもらうことが重要だ」と述べた<ref name=":78" />。
ネタニヤフは「昨夜、さらに多くの地上部隊がガザ地区に入った。これは戦争の第2段階だ」と地上侵攻について発言、[[CNN]]も28日「ガザ地区との境界に待機していた数百台の戦車や装甲車、それにブルドーザーがいなくなっている」と伝えた<ref name=":79">{{Cite web |title=【29日詳細】イスラエル ネタニヤフ首相「戦争の第2段階だ」 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231029/k10014241021000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-29 |access-date=2023-10-30 |last=日本放送協会}}</ref>。またイスラエルは、前夜ガザ内に配備された部隊がまだ地上に残っており、イスラエルによるガザ地区侵攻が始まったと発表した<ref>{{Cite news2 |df=ja |title=Israel launches Gaza war's second phase with ground operation, Netanyahu says |url=https://www.reuters.com/world/middle-east/eu-calls-humanitarian-pauses-gaza-aid-israel-raids-enclave-2023-10-26/ |work=Reuters |date=2023-10-28 |access-date=2023-10-30 |language=en |first=James |last=Mackenzie |first2=Maayan |last2=Lubell}}</ref>。
ハマースは「イスラエルの刑務所に収監されているすべてのパレスチナ人受刑者の釈放を条件に、直ちにすべての人質を解放する用意がある」と人質の解放について述べた<ref name=":79" />。
[[国際連合レバノン暫定駐留軍|国連レバノン暫定軍]]本部には砲弾1発が着弾、被害者は出なかったものの、「いま活動している場所がぜい弱で、緊迫していて、極めて不安定な状況に置かれていることを示すものだ」とSNSで国連レバノン暫定軍は発信した<ref name=":79" />。
[[2024年アメリカ合衆国大統領選挙]]で返り咲きを狙う[[ドナルド・トランプ]]は、自らが所属する[[共和党 (アメリカ)|共和党]]を支持するユダヤ系の団体の会合で演説し「私がホワイトハウスに戻ったら、100%イスラエルの味方になる。残虐な行為への報復を行いハマスを壊滅させるため全面的に支援する」とアピール、「バイデン大統領のようにすり寄るのではなく、テロ資金を調達する能力が完全になくなるまで制裁を加える」「この戦争はイランとの関係修復を模索するなどしたバイデン政権の「弱腰」な外交がもたらしたものだ」と発言した<ref name=":79" />。
[[イーロン・マスク]]は自身が[[最高経営責任者|CEO]]を務める[[スペースX]]の衛星通信網「[[スターリンク]]」のサービスをガザ地区に提供すると発表した。一方、スターリンクを利用するには専用のアンテナなどが必要で、ガザ地区への物資の搬入が極めて厳しく管理されるなかイスラエルが機器の搬入を認めるかは不透明である<ref name=":79" />。
=== 10月29日 ===
軍の報道官はガザ地区に追加の部隊を派遣したことを明らかにするとともに「われわれは計画に従って戦争の段階を進めており、地上での軍事行動を徐々に拡大させていく」と述べ今後、地上戦の規模が大きくなるという認識を示した<ref name=":81" />。
米大統領補佐官の[[ジェイク・サリバン]]は29日、[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー|ABCテレビ]]のインタビューでガザ地区への軍事行動を拡大させているイスラエルについて「イスラエルには自国をテロから防衛する権利と義務があるが、同時にテロリストと一般の民間人を区別する責任がある」と述べて民間人の保護に力を尽くす必要があると強調し、イスラエル側に働きかけを続ける考えを示した<ref name=":81" />。
イスラエルと敵対するイランの外相であるアミールアブドッラーヒヤーンは、サウジアラビア外相のファイサルや、カタール外相のムハンマドと会談を行った<ref name=":81" />。
[[国際刑事裁判所]](ICC)は「イスラム組織ハマースが今月7日にイスラエルを襲撃した際に行ったとされる犯罪とイスラエルがパレスチナで行ったとされる犯罪、双方について捜査を行っている」と発表した。加えて「悲惨な人道状況が広がっている」と述べた上でイスラエルを名指しこそしなかったものの「子ども、女性、男性、民間人への人道支援が妨げられることがあってはならない。彼らに罪はなく、国際人道法のもとでの権利がある。こうした権利が奪われれば、刑事責任すら生じる」と述べ、支援物資の搬入を加速させるよう求めた<ref name=":81" />。
[[バル=イラン大学|バル・イラン大学]]のジョエル・ロスキンはハマースの地下トンネルについて解析を進め、トンネルの深さは20階建てのビルに相当する70メートル余りに達するとして、長さも300キロメートルから500キロメートルに及ぶとした。そのうえでロスキンは「地下トンネルを軍事やテロのために活用するハマスの手口は非常に巧妙だ。指令やロケット弾の発射、人質の収容にとどまらず、ゲリラ作戦にも使われていて、これほどまで多岐にわたる使い方をしているのはほかに類を見ない」と[[日本放送協会]](NHK)の取材に答えた<ref name=":81" />。
また[[#10月27日]]以降に遮断されていたガザの通信サービスが徐々に復旧されていることが確認された。また水を供給するパイプラインのうち3本中2本が復旧したことも確認された<ref name=":81" />。
=== 10月30日 ===
アメリカ国務省の報道官ミラーはアメリカがイスラエルに対し、電話やインターネットの通信サービスの復旧を要請していたことを明らかにした上で「イスラエルが復旧に向けた措置をとったことを歓迎する」と述べた。また「通信サービスを確保することは、重要な情報を伝達し、人道支援を継続させ、家族が連絡を取り合うために重要だ」ともした<ref name=":80" />。
国連安保理が開かれ、10月27日に国連総会で人道目的での休戦などを求める決議が採択されたことを受けて、各国からイスラエルに対し、ガザ地区の住民の保護を求める意見が相次いだ。[[ガボン]]の国連大使[[ミシェル・グザヴィエ・ビアン]]は「イスラエルの激しい空爆と地上作戦がこの戦争の死傷者を悲劇的に増加させている」と述べ、決議が求めた休戦に応じるよう訴えた。アメリカの国連大使トーマスグリーンフィールドは「イスラエルにはテロから自国を守る権利はあるが、国際人道法を順守しなければならない」と述べる一方、先の国連総会の決議については「ハマスの行動が非難されていないのは不合理だ」として、改めてイスラエルを擁護する姿勢を見せ、ロシアの国連大使ネベンジャは、総会決議の翌日にイスラエル軍が地上作戦を拡大したと非難したうえで「アメリカはイスラエルによる大規模な報復を支持しているのか」と詰め寄りアメリカも非難した<ref name=":80" />。
ハマースは3人の女性の人質の映像を公開した。また、レイム音楽祭虐殺事件で拉致された23歳のドイツ系のイスラエル人が死亡した。この人質の死亡についてイスラエル外務省は「ハマスによって音楽イベントから誘拐され、[[拷問]]され、見せもののようにガザ地区で連れ回され、計り知れない恐怖を経験させられた」と追悼の意を表した<ref name=":80" />。
ガザ地区保健当局は北部にある[[トルコ・パレスチナ友好病院]]が攻撃を受けたと発表した。これに対し病院の建設に携わったトルコの外務省は「ここはガザ地区における唯一の[[がん]]治療のための病院だ。病院の位置情報をイスラエル当局に事前に提供したにもかかわらず、攻撃があったことは説明がつかない」「ガザ地区の封鎖や、非人道的な攻撃は明らかに国際法に違反している」とした<ref name=":80" />。
イスラエル軍は「イスラエルに対しロケット弾を発射したシリアの地点に対してイスラエル軍の戦闘機が攻撃した。また、レバノンのヒズボラの関連施設も攻撃した」と公表、シリアの国営通信は30日、軍関係者の話として「イスラエルは30日未明、シリア南部[[ダルアー|ダラア]]郊外にある軍事施設2か所に空爆を行った。ある程度の物的被害が出ている」と伝えた<ref name=":80" />。
=== 10月31日 ===
軍事施設など1日で約300か所攻撃とイスラエル軍が発表した<ref name=":80" />。ガザ地区北部のジャバリア難民キャンプに大規模攻撃が行われ、外国籍3人を含む7人の人質が死亡した。ジャバリア難民キャンプ付近は古いコンクリートの建物が密集し人口密度が特に高くなっていたことから、ジャバリア難民キャンプの映像では地面に爆発によるものとみられる巨大な穴が複数あり、広い範囲が完全に崩れ落ちてがれきと化していた。この難民キャンプへの攻撃に対し国連難民高等弁務官事務所の難民高等弁務官グランディは31日、米国[[ニューヨーク]]にある[[国際連合本部]]で記者団に対し「われわれがこれまで見てきたなかで最悪の事件だ」と述べた。またイラン外務省報道官は「戦争犯罪のリストに加わることになる」と警告、カタール外務省も声明で「多くの罪のない人たちを死傷させたイスラエルの爆撃を、無防備な人々の虐殺だとみなす」と強いことばで非難しイスラエルによる民間施設に対する攻撃の拡大は仲介と緊張緩和の努力を損なうことになる」として、人質解放に向けた交渉にも支障が出るおそれがあると指摘した<ref name=":82">{{Cite web |title=【1日詳細】イスラエルとハマスの衝突の死者 合わせて1万人超 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231101/k10014243621000.html |website=NHKニュース |date=2023-11-01 |access-date=2023-11-09 |last=日本放送協会}}</ref>。
イスラエル軍は「ガザ地区北部でハマスの拠点の一つとなっている建物に大規模な攻撃を行い、10月7日の襲撃で重要な役割を果たした指揮官を多くの戦闘員とともに殺害した」とSNSで投稿した。殺害された指揮官はガザ地区北部でのイスラエル軍に対する作戦を指揮していたとしていて、地下にあるハマスの軍事施設も破壊したとみられる。この攻撃により付近の病院などが被害を受け、病院の担当者は少なくとも50人以上が死亡したとした<ref name=":82" />。
また再び電話とインターネット通信が一時、完全に遮断された<ref name=":82" />。
イエメンのフーシ派は、ガザ地区への軍事作戦を続けるイスラエルに対して弾道ミサイルなどを発射し、ハマス側に加勢すると表明した<ref name=":84">{{Cite web |title=【2日詳細】ガザ地区難民キャンプで連日イスラエル軍の攻撃 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231102/k10014245151000.html |website=NHKニュース |date=2023-11-02 |access-date=2023-11-12 |last=日本放送協会}}</ref>。
ハマスの軍事部門カッサム旅団の報道官は31日「拘束している何人もの外国人を向こう数日のうちに解放すると仲介者に伝えた」と人質解放に向けた交渉が続いていることを伺わせた<ref name=":82" />。
[[南米]]にある[[ボリビア]]のプラダ大統領府相(暫定外相を兼務)は、ガザ地区攻撃での民間人被害を「[[人道に対する罪]]」として非難し、イスラエルと外交関係断絶を表明した<ref>[https://www.cnn.co.jp/world/35210975.html ボリビア、イスラエルと断交 パレスチナ人への「人道に対する罪」]CNN(2023年11月1日)2023年12月23日閲覧</ref>。ボリビアとともにイスラエルを非難してきた同じ南米の[[コロンビア]]と[[チリ]]も協議のため駐イスラエル大使を呼び戻した<ref>{{Cite web |title=ボリビア、イスラエルと断交 コロンビアとチリも大使呼び戻す |url=https://www.newsweekjapan.jp/headlines/world/2023/11/470916.php |website=Newsweek日本版 |date=2023-11-01 |access-date=2023-11-09 |language=ja}}</ref>。
米国務長官のブリンケンなどが出席して開かれたイスラエルへの支援について議論する公聴会では、「イスラエルへの支援はもうやめて」「ガザでの停戦を」と書いたプラカードを掲げたり、「アメリカはガザでの虐殺を支援している」「アメリカ国民は悲惨な戦争への支援を望まない」と叫ぶなど傍聴していた人たちが停戦を訴えたりする騒動が発生し、退席させられた<ref name=":82" />。
[[エジプトの首相]][[モスタファ・マドブーリー]]は会見で「われわれの目的は人道危機に対処することだ。国内外からの支援をガザ地区の人々に届けることに最善を尽くしている」と述べガザ地区への支援急ぐ姿勢を強調した<ref name=":82" />。
=== 11月1日 ===
イスラエル軍は、ジャバリア難民キャンプに対して2日連続で攻撃を行った。この攻撃により195人が死亡し、およそ120人ががれきの下敷きになるなどして行方不明であるとガザ保健相は発表した<ref name=":84" />。
イスラエル軍のハガリ報道官は1日、難民キャンプへの攻撃でハマスの対戦車砲部隊のトップを空爆で殺害したと発表し、「地上作戦は事前の計画と具体的なインテリジェンスに基づき、陸と海、そして空からの合同作戦を遂行している」と説明した<ref name=":84" />。
ジャバリア難民キャンプへの2日連続の攻撃に対して、[[外務省 (フランス)|フランス外務省]]は「パレスチナの住民が多くの犠牲を強いられたことを深く憂慮する。民間人の保護はあらゆる者に課せられた国際法上の義務だ」と懸念を示したほか、[[アルゼンチン]]外務省は1日、声明で、イスラエルの自衛権を認めるとしながらも、「国際人道法の違反は正当化できない。数百人を死傷させたイスラエル軍によるジャバリア難民キャンプへの攻撃を非難する」として、病院や民間のインフラ施設への攻撃を停止するよう訴えた。ヨルダン外務省も1日、「前例のない人道上の大惨事だ」として、イスラエルから大使の召還を決定したと発表した<ref name=":84" />。
また、難民キャンプへの攻撃に対しての避難は国家だけでなく、国際機関にも広がっている。1日には国連人権高等弁務官事務所が、「民間人の多大な犠牲と破壊の規模を考えると、これは戦争犯罪にも該当しうる過度な攻撃だと懸念する」とSNSに投稿し、強く非難している<ref name=":84" />。
ハマースは「イスラエル軍はジャバリア難民キャンプで24時間以内に2度目の犯罪を行った。権威主義的で無法な組織の行動に終止符を打つべく、私たちは国際社会のメンバーなどに対し、政治的・道徳的責任を果たすよう、緊急に呼びかける」としてイスラエル軍を強く非難した<ref name=":84" />。
アメリカのバイデン大統領は演説を行い、演説の中で、外国国籍を持つ人々などの退避は今後、数日間、続くという見通しを示した。バイデンは退避に向けて、イスラエルのネタニヤフ首相、エジプトのシシ大統領などと協議を重ねたほか、カタールからも協力を得たとし、「これはアメリカによる集中的な外交の成果だ」と強調した<ref name=":84" />。
前日に参戦を表明したフーシ派の報道官[[ナセルディン・アメル]]がオンラインでのNHKのインタビューに応じ、イスラエルに対して行われた攻撃はすべてイエメン本土から発射されたものだとした上で、「攻撃は始まったばかりだ。今後、これまでとは比べものにならない強力な攻撃をイスラエルに仕掛ける」と述べ、今後も弾道ミサイルなどを使ってイスラエルを攻撃すると明らかにし、「イスラエルが反撃することは想定内だ。それに対する準備も整っている。私たちは4年も5年も前からイスラエルへの攻撃を想定して準備を進めてきた。私たちとイスラエルとでは力の差は大きいが、それでも大きな打撃を与えることができる」と主張した。一方で、フーシ派がイスラエルと敵対するイランの支援を受けていることについては「イランからの支援には感謝している。私たちはイランだけではなく、ハマスやヒズボラなど多くの勢力と協力している」として、イランが中東各地で支援する「抵抗の枢軸」と呼ばれるネットワークの一員として、イスラエルに抵抗し続けると強調した<ref name=":84" />。
=== 11月2日 ===
3日連続でジャバリア難民キャンプの大勢の住民が避難する国連機関が運営する学校で爆発が起き、保健当局は27人が死亡したと発表した。また、同じガザ地区北部のシャーティ難民キャンプでも学校の校庭に砲弾が着弾したほか、地元当局はガザ地区中部のブレイジ難民キャンプでも空爆があり、少なくとも15人が死亡したとした。ハマスの報道官は現地のテレビ局に、「イスラエル軍によって南北をつなぐ道路が分断され、避難する人のための安全な道路が失われた」と述べ、けが人を南部に運ぶことができないと訴えた<ref name=":85">{{Cite web |title=【3日詳細】米国務長官 イスラエルで戦闘の一時停止呼びかけ |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231103/k10014246191000.html |website=NHKニュース |date=2023-11-03 |access-date=2023-11-12 |last=日本放送協会}}</ref>。
イスラエルから退避した日本人20人と韓国人やベトナム人など合わせて46人を乗せた[[航空自衛隊]]の輸送機が[[羽田空港]]に到着した<ref name=":85" />。
CNNは、シリアのアサド政権がヒズボラに対して、ロシア製の防空システム([[パーンツィリ-S1]])を供与することに同意したことを報道した<ref name=":85" />。
[[アメリカ合衆国下院|アメリカ合衆国議会下院]]で共和党がイスラエルに対する支援としておよそ140億ドルを提供する予算案を出し、議会は賛成多数でこれを可決した。同日にはカービー戦略広報調整官が2日の記者会見で、「バイデン大統領はすべてが国の安全保障にとって緊急で重要だと考えている」と述べた<ref name=":85" />。
ブリンケン米国務長官が首都ワシントン近郊の空軍基地を出発し中東訪問が開始された。出発前にブリンケンは「イスラエルには自国を防衛し、このようなことが二度と起きないよう措置を講じる権利と義務がある。ただイスラエルがどのように行うかが重要だ」と述べ、民間人の被害を最小限に抑える方策について議論する考えを示した<ref name=":85" />。
米戦略広報調整官のカービーは、ヒズボラの動きについて、「イスラエル北部でイスラエル軍への攻撃が続いていることを懸念している。しかし、ヒズボラが総攻撃をしかける準備ができているという具体的な兆候はまだ見られない」「もし、ヒズボラがこの戦闘を拡大し、エスカレートさせようと考えているのであればそうすべきではない。ここはわれわれの国家安全保障上、重要な場所で、これまでも守り抜いてきたし、今後もそうするだろう」と指摘・牽制した<ref name=":85" />。
ガザ地区内の[[AFP通信]]の事務所がイスラエル軍の攻撃にさらされ破壊されたものの、中にいた8名は全員無事だった。AFP通信は声明で攻撃について「今回の攻撃を可能なかぎり最も強いことばで非難する。事務所は誰でも知っている場所にある。ガザ地区で活動するジャーナリストが保護され、取材活動は尊重されなければならない」とした<ref name=":86">{{Cite web |title=【4日詳細】ガザ地区の学校で爆発 15人死亡 保健当局発表 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231104/k10014246891000.html |website=NHKニュース |date=2023-11-04 |access-date=2023-11-15 |last=日本放送協会}}</ref>。
=== 11月3日 ===
ブリンケン米国務長官は、イスラエルを訪問してネタニヤフ首相や[[イツハク・ヘルツォグ|ヘルツォグ大統領]]などと会談した。その後、会見を行い「イスラエルには自衛する権利や義務があるが、どのように行うかが重要だ」と述べ、国際人道法を順守し、ガザ地区の民間人の犠牲を最小限に抑えることや、人道目的での「戦闘の一時停止」を働きかけたことを明らかにした。また、「戦闘の一時停止をどのように人質の解放につなげるかや、ハマスがそれを悪用しないためにはどうすればよいのかは早急に話を詰める必要がある。この問題についてアメリカはイスラエル側と具体的な解決策を見つけるため、議論を続けることで合意した」や「ハマスが燃料を必要とする病院などへの供給を拒んでいる。皮肉にもほどがある。アメリカは国連とともに支援が行き渡るよう話し合いを続ける」とも述べた<ref name=":85" />。
ヒズボラの最高指導者[[ナスララ師]]は戦闘後初の会見を開き、この中で、ナスララ師は、最初にハマスが実行した奇襲攻撃「アルアクサの洪水」など一連のイスラエルとの戦闘について、「アルアクサの洪水の戦闘は複数の戦線に拡大した」と述べ、イスラエルとの戦いにはその後、ヒズボラや、イエメンの反政府勢力フーシ派も参戦したと明言し、「イスラエルはガザ地区で虐殺をすることによって成果をあげることはできない」と指摘した<ref name=":85" />。この会見を巨大スクリーンで映していた[[テヘラン]]では「イスラエルに死を、アメリカに死を」とヒズボラの旗を振る人々が見られた<ref name=":86" />。
日本の上川陽子外相はイスラエルを訪問してイスラエル外相のコーヘンと40分間会談を行い、上川が「イスラエルの方々との連帯の意を伝えるために訪問した。ハマスの攻撃はテロであり、赤ちゃんから子ども、女性や高齢者も含めて、一般の市民に対する攻撃と誘拐はどのような理由であれ正当化できず、断固非難する。犠牲者に心から哀悼の意を表するとともにハマスによって誘拐された人たちの一刻も早い解放を心から祈っている」、コーヘン外相が「10月7日はユダヤ人にとってホロコースト以来の最悪の日だった。日本のイスラエルに対する支援と連帯に感謝する」述べた<ref name=":85" />。
米政府高官は、記者団に対しハマス側に拘束されている人質を解放しガザ地区から脱出させるには戦闘の一時停止が必要だという認識を示し、すべての人質の解放に向けてあらゆる取り組みが行われているとした上で「人質は200人以上かもしれない。それだけの人質をガザから脱出させるにはかなり大幅な戦闘の一時停止が必要になる。非常に真剣で活発な議論が行われているが合意はまだない」と述べた<ref name=":86" />。
アメリカは人質の解放に向けた支援の一環としてガザ地区上空にアメリカ軍が無人機を飛行させていることを明らかにし、アメリカ海軍は空母ジェラルド・フォードとアイゼンハワーを中心とする空母打撃群が東地中海で3日間にわたって1万1千人以上が参加する合同演習を行ったと発表した<ref name=":86" />。
イスラエルは「ヤハロム」によりガザ地区内でハマスが構築した地下トンネルを破壊する様子を動画で公開した。これに対してハマースのカッサム旅団も、地下トンネルの中を進み、茂みの中からイスラエル軍を攻撃する様子や、住宅地で行われている市街戦の様子をうつした動画を公開して、対抗した<ref name=":86" />。
ガザ北部のシファ病院近くでは2台の救急車がミサイルによる攻撃を受けたと明らかになり、WHOなどから非難が相次いだ。これに対してイスラエル軍は「ハマスが使っていた救急車1台を特定し、攻撃した」と主張した。アルジャジーラは、他の病院近くで撮影されたとする映像を放送し、映像では、地面に大きな穴があき、炎が上がる様子や、多くの人が集まり、けが人を運ぶ様子が確認できる<ref name=":86" />。
=== 11月4日 ===
マガジ難民キャンプがイスラエル軍により攻撃され、40人以上が死亡した。ジャバリア難民キャンプで爆発があり、15人が死亡し70人が怪我をした<ref name=":87">{{Cite web |title=【5日詳細】イスラエル閣僚 “核投下も選択肢” 国内でも批判 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231105/k10014247571000.html |website=NHKニュース |date=2023-11-06 |access-date=2023-11-15 |last=日本放送協会}}</ref>。
カッサム旅団はSNSを通じて、戦闘員がガザ地区北部でイスラエル軍と衝突し、車両10両を破壊したとする映像を公開した。11月2日から3日かけて撮影されたとする映像には、ハマスの戦闘員が、複数の場所でイスラエル軍の戦車などに対戦車砲を発射する様子が写っており、いずれも市街地で撮影されたものとみられ、戦闘員が物陰や鉄柵のすき間から狙いを定める姿や、車両のすぐ近くまで近寄って攻撃し、爆発で辺りが煙に包まれる様子が確認できる。また、戦闘員がイスラエル軍の車両によじ登り、火をつけたあと、緑色のハマスの旗をとりつけて立ち去る様子も写っている<ref name=":87" />。
イスラエル軍はハレビ[[参謀総長 (イスラエル国防軍)|参謀総長]]がガザ地区に入り地上部隊を視察している様子だとする映像を公開し、集まった将校らを前に「あなたがたのことを誇りに思う」などと激励した<ref name=":87" />。
ブリンケン米国務長官はヨルダンで、エジプトやサウジアラビア、カタールなどアラブ諸国の外相らと会談した。会談後、ブリンケンは、ヨルダンのサファディ外相やエジプト外相の[[サーメハ・シュクリ]]とともに記者会見を行い、会談で人道支援や戦闘の拡大を防ぐ手だてなどをめぐって、意見を交わしたことを明らかにした。会見でサファディやシュクリが民間人の犠牲を防ぐため即時停戦が必要だと述べたのに対し、ブリンケンはイスラエルの自衛の権利を支持する立場を改めて示した上で「いま停戦を行うと、ハマスがとどまり、再編成し、10月7日の行いが繰り返されるだけだ」と述べ、停戦はハマスを利するだけだと主張し「ガザ地区の民間人の窮状を深く懸念している。だからこそ、人道目的での『戦闘の一時的な停止』が必要だ」と述べ、引き続きイスラエルに対し、ガザ地区への必要な物資の搬入や民間人の避難などのために「戦闘の一時的な停止」を求めていく考えを強調した<ref name=":87" />。
=== 11月5日 ===
ガザ地区全域で大規模な通信遮断が発生した<ref name=":88">{{Cite web |title=【6日詳細】イスラエル軍“軍事的にガザ地区は南北に分断” |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231106/k10014248231000.html |website=NHKニュース |date=2023-11-06 |access-date=2023-11-15 |last=日本放送協会}}</ref>。
イスラエルのエルサレム問題・遺産相の[[アミハイ・エリヤフ]]が地元ラジオのインタビューで、ハマスが実効支配するガザでの[[核兵器]]使用を容認する考えを示し、これに対し人質の家族らでつくる団体は「ユダヤ人とイスラエルの倫理に反する衝撃的発言だ」と解任を要求した。ネタニヤフも「現実離れしている」と発言した<ref name="sp.m.jiji.com">{{Cite web|date=2023-11-05|url=https://sp.m.jiji.com/article/show/3090951|title=イスラエル閣僚が「ガザに原爆投下」発言=政府会合への出席禁止に|publisher=時事通信社|accessdate=2023-11-5}}</ref>。日本においても非難は相次ぎ、全国の被爆者団体で作る[[日本原水爆被害者団体協議会|日本被団協]]の[[箕牧智之]]代表委員は「発言がおどしなのか本気なのかは分からないが、『核』と聞いただけで寒気がした。ロシアによるウクライナ侵攻など世界中で争いが起き、いつ核兵器が使われてもおかしくないような状況だが、世界の指導者は核兵器が使われないために動くべきで、こうした発言は慎んでほしい」と非難した<ref name=":88" />。
イスラエル軍は地上侵攻以降2500か所以上のハマス拠点を攻撃したと報告した。また、午前10時から午後2時までの4時間、ガザ地区を南北に貫くサラハディン通りを開放すると2日連続で発表し、住民に南部への退避を呼びかけていて、住民の犠牲を減らす姿勢をアピールした<ref name=":87" />。
ブリンケン米国務長官はキプロスを訪問し、[[ニコス・フリストドゥリディス|フリストドゥリディス]]大統領と会談を行った。「キプロスからガザ地区へ人道支援物資を海上輸送する計画についても詳細に話し合った」とされる。またイラクを訪問しイラクとシリアに駐留するアメリカ軍の部隊に対し、無人機やロケット弾による攻撃が相次いでいることに対してはブリンケン米国防長官は「イランと連携する武装勢力からの攻撃や脅迫は、決して容認できない」とけん制した<ref name=":88" />。
[[イランの最高指導者]]である[[ハメネイ師]]は、ハマースの最高幹部ハニーヤがイランを訪れたことを明らかにした。そのうえで「ハニーヤ氏はガザ地区の情勢などを説明し、これに対してハメネイ師はガザ地区の人々の辛抱強さをたたえるとともに、アメリカなどの直接的な支援を受けたイスラエルの犯罪を強く非難した」としている<ref name=":88" />。
=== 11月6日 ===
トルコの首都アンカラでフィダンとブリンケンが会談に臨んだ。会談後、ブリンケンは「ガザ地区への人道支援物資は今後数日で、拡大できるだろう」と述べ、ガザ地区への人道支援物資の搬入の状況が改善されることに期待を示した<ref name=":88" />。
国連人道問題調整事務所などの国連機関や国際NGOの代表、18人が連名で声明を発表し、「30日がたった。もう十分だ」として即時の人道的な停戦などを求めた<ref name=":88" />。
IDFはSNSでガザ地区北部にある「[[インドネシア病院]]」が、ハマスの地下の指令拠点の隠れみのになっていると主張した。インドネシア病院はインドネシアの人道支援団体が資金援助を行い建設され、パレスチナが運営する病院である。団体側は6日、ジャカルタで会見してイスラエル軍の主張を否定するとともに、「イスラエルの非難は、インドネシア病院を攻撃する前提条件になりかねない」と懸念を示した。その上で「国際社会に対し、法律で明確に保護されている機関や施設、病院を保護するよう強く求める」と訴えた。また、インドネシア外務省も7日に声明を発表し、「インドネシア病院は完全に人道的な目的でパレスチナ人の医療ニーズにこたえるために建設された」と述べIDFの主張を否定した<ref name=":89">{{Cite web |title=【7日詳細】イスラエル ハマス 双方の死者1万1000人超 {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231107/k10014248951000.html |website=NHKニュース |date=2023-11-07 |access-date=2023-11-15 |last=日本放送協会}}</ref>。
ホワイトハウスはバイデン大統領がイスラエルのネタニヤフ首相と電話で会談し、人道支援を目的とした「戦術的な戦闘の一時停止」について協議したと明らかにした<ref name=":89" />。
パレスチナ人が多く住む東エルサレムにある警察署の近くで6日、イスラエルの警察官2人がパレスチナ人の16歳の少年に刃物で刺され、その内20歳の女性の警察官は病院に運ばれたがその後、死亡が確認され、もう1人は軽いけがをした。少年はすぐに射殺されイスラエルの治安部隊は事件に関与したとして複数の容疑者を逮捕した<ref name=":89" />。
=== 11月7日 ===
戦闘開始から一カ月が経過した。経過時点でIDFが投下した爆弾の量が[[アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)|アフガニスタン戦争]]において2019年の1年間においてアメリカが投下した爆弾量を超えたことが判明した<ref name=":89" />。
午前5時すぎから対応を協議する安保理の緊急会合が開かれた。非公開の会合は日本時間の7日午前7時すぎに終了し議論の詳しい内容は明らかになっていないが、会合の開催を要請した中国やUAEなどは「即時停戦」を求める安保理決議が必要だと呼びかけたとみられている。一方、イスラエルを擁護するアメリカはこれまで、人道目的の「戦闘の一時的な停止」を行うべきだとする一方、「停戦」については「ハマスを利することになる」と否定的な姿勢を示している<ref>{{Cite web |title=イスラエルとハマスの軍事衝突めぐり国連安保理で緊急会合 {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231107/k10014249301000.html |website=NHKニュース |date=2023-11-07 |access-date=2023-11-15 |last=日本放送協会}}</ref>。
緊急会合の後、今回の会合を要請した中国の国連大使・張軍とUAEの国連大使ヌサイベがそろって会見し、ガザ地区の民間人を保護するための「人道的な停戦」が必要だと述べた。一方、アメリカのウッド国連次席大使は記者団に対し、「人道的な戦闘の一時停止について協議した。その点を追求することに関心をもっているが、各国の間で意見の相違がある」と述べ、「停戦」を求めるか「戦闘の一時停止」を求めるかで対立があることを明らかにした<ref name=":89" />。
=== 11月15日 ===
イスラエル軍は、ガザ地区最大の[[アル・シファ病院]]での「ハマースに対する標的を絞った作戦」を実行<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://jp.reuters.com/world/mideast/ZF4BENWSOFOZJJAOKSAYS24FHU-2023-11-15/|title=イスラエル軍、ガザ最大シファ病院に突入 ハマスに投降呼びかけ|newspaper=[[ロイター|REUTERS]]|date=2023-11-15|accessdate=2023-11-17}}</ref>。[[戦車]]6台と特殊部隊員約100人が夜間に病院に入った。イスラエル軍が病院を「完全に支配」(病院内のジャーナリスト)した。ハマースの武器や装備を発見したとし、映像を公開したが、ハマースは「ばかげており無価値」。イスラエル軍が「武器を持ち込んで置いた」可能性があるとしたことに触れ、病院地下にはイスラエルが主張するような活動拠点はないとしている。[[エルサレム]]で取材中のBBCのオーラ・ゲリン記者は、これらの映像からは、病院内での作戦によってイスラエル軍が主要な武器庫を発見したとは確認できないとした。ガザ地区保健当局は、病院内では「抵抗する人も拘束された人もいない」ので「一発の銃弾も」発射されていないと、語った。アル・シファ病院の外科部長のマルワン・アブ・サアダ医師は、イスラエル軍の襲撃で放射線科が大きく破壊された。イスラエル軍は男性らの手を縛って一つの部屋に隔離し、[[CTスキャナー]]や[[MRI]]機器などを壊し、メンテナンス担当の職員2人が拘束されたとたと話した。この時点では、イスラエルの報復攻撃で1万1000人以上が殺害され、うち4500人以上が子どもであった。イスラエル軍による病院内の作戦の是非は、世界で激しい議論になった<ref name="bbc">{{Cite web|date=|url=https://www.bbc.com/japanese/67435540|title=ガザ病院で「武器発見」、イスラエル軍が映像公開 院内が破壊されたと医師|publisher=BBC NEWS JAPAN|accessdate=2023-11-16}}</ref>。
安保理にて、ガザ地区の人道的休止と回廊設置を求める[[国際連合安全保障理事会決議2712|決議]]が採択された(ロシア、イギリス、アメリカ合衆国が棄権)<ref>{{Cite news2|df=ja|last1=|first1=|last2=|first2=|title=U.N. Security Council calls rare General Assembly session on Ukraine|url=https://english.news.cn/20231116/0abc23221c854c47b38bd9ff560a506e/c.html|accessdate=17 November 2023|work=Xinhuanet|date=16 November 2023}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.un.org/securitycouncil/|title=United Nations Security Council|website=www.un.org|access-date=17 November 2023}}</ref>。
=== 11月19日 ===
イスラエル軍は19日、紅海南部のイエメン沖で船舶が拿捕されたと発表した。日本の国土交通省は、[[日本郵船]]から日本時間同日午後10時すぎ、同社運航の自動車運搬船「ギャラクシー・リーダー」が「拿捕されたようだ」との連絡を受けたと明らかにした。船にはウクライナやフィリピン、メキシコなど多国籍の船員25人が乗船。貨物は積まれていない<ref>{{Cite web|title=当社運航自動車専用船 Galaxy Leaderの拿捕について|url=https://www.nyk.com/news/2023/20231120_01.html|website=日本郵船|date=2023-11-20|access-date=2023-11-21}}</ref>。乗組員に日本人はいない。フーシ派は19日、「イスラエルの船」をイエメンの沿岸へ連行したと発表。「抑圧され、イスラエルの恐ろしい爆撃下にあるパレスチナ人への人道的、道徳的責任に基づく作戦だ」と主張した。船はトルコからインドに向けて航行していた。イスラエル人は乗船していない<ref>{{Cite web |title=イエメン反政府武装組織 日本郵船運航の貨物船拿捕 |url=https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000324843.html |website=テレ朝news |access-date=2023-11-20 |language=ja}}</ref>。
=== 11月20日 ===
20日に行われた閣議の後松野博一官房長官はイエメンの親イラン武装組織フーシによる日本郵船が運航する自動車輸送船「ギャラクシー・リーダー」の拿捕に関し「断固非難する」と発言した。また「関係省庁が情報収集を進め、関係国と連携しながら船舶および船員の早期解放のため取り組んでいる」<ref>{{Cite web|title=イエメン近くの紅海南部で発生した自動車運搬船拿捕事案について|url=https://www.mlit.go.jp/page/daijin231120.html#gm5|website=国土交通省|date=2023-11-20|access-date=2023-11-21}}</ref>「イスラエルとも意思疎通を図り、当事者のフーシ派への直接の働きかけに加え、サウジアラビア、オマーン、イランなどの関係国に船舶および船員の早期釈放をフーシ派に強く求めるよう働きかけている」と説明した<ref>{{Cite web |title=日本郵船運航の貨物船乗っ取り「断固非難」 官房長官 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA201LG0Q3A121C2000000/ |website=日本経済新聞 |date=2023-11-20 |access-date=2023-11-20 |language=ja}}</ref>。
=== 11月22日 ===
イスラエルとハマスが50人の人質の解放と引き換えに4日間の停戦に合意したと発表された<ref>{{Cite web |title=4日間の戦闘休止 人質50人解放へ イスラエルとハマス合意|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231122/k10014265651000.html |website=NHK |date=2023-11-22 |access-date=2023-11-22}}</ref>。{{see|{{仮リンク|2023年イスラエル・ハマース停戦協定|en|2023 Israel–Hamas ceasefire}}}}
=== 11月24日 ===
イスラエルとハマースが、午前7時(現地時間)からガザでの4日間の戦闘休止に入った<ref name="jiji1125">{{Cite news2|df=ja|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023112500207&g=int|title=人質24人解放、収監者39人も ガザで4日間の戦闘休止―イスラエルとハマス|newspaper=時事ドットコム|date=2023-11-25|accessdate=2023-11-25}}</ref>。この合意では、ハマース側が女性と子供計50人を解放し、イスラエル側はパレスチナ人の女性と子供計150人を釈放する。また、ハマースが追加で人質10人を解放するごとに戦闘休止期間が1日延びる<ref name="OYT1T50094">{{Cite news2|df=ja|url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20231125-OYT1T50094/|title=ハマスが人質24人解放、10人追加ごとに戦闘休止1日延長…イスラエルは収監者39人を釈放|newspaper=読売新聞|date=2023-11-25|accessdate=2023-11-25}}</ref>。
ハマースに拘束されていた人質24人が解放されたと発表された。内訳はイスラエル人の子供4人、30~50歳代3人、70歳代以上6人とタイ人10人、フィリピン人1人。解放された人質は、ガザから赤十字国際委員会の付き添いでエジプト側境界のラファ検問所に出た後、イスラエルの病院に搬送された。また、人質解放の引き換えとしてハマースが要求したパレスチナ人収監者39人が釈放されたと発表された。内訳は未成年者15人と女性24人で、28人はヨルダン川西岸に、11人は東エルサレムに送還された{{R|OYT1T50094}}。この際、釈放される人を迎えようと集まった家族らが警備のイスラエル軍と衝突し、軍の発砲でパレスチナ人31人が負傷した<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://nordot.app/1101057784622858978?c=113147194022725109|title=イスラエル軍、迎えの家族に発砲 パレスチナ人釈放で、31人負傷 | 共同通信|date=2023-11-25|accessdate=2023-11-26}}</ref>。バイデンは人質解放について、「人質が救出され、愛する人と再会できたことに感謝しなければならない」と歓迎し、「始まったばかりだが、今のところは順調だ」、「あすにはさらに多くの人質が解放され、その後も続くだろう」との見方を示した<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023112500150&g=int|title=バイデン米大統領、人質解放を歓迎 合意の完全履行注視―パレスチナ:時事ドットコム|date=2023-11-25|accessdate=2023-11-25}}</ref>。
=== 11月25日 ===
戦闘休止期間2日目
ハマースが、ガザへの援助物資搬入などを巡りイスラエルが合意を守っていないと主張し、人質の解放を遅らせると発表したが、カタールやエジプトの仲介により解消され、人質17人が解放された。内訳はイスラエル人の女性5人、子供8人とタイ人4人<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://nordot.app/1101178580728447626|title=ハマスが第2弾の人質解放 イスラエル人とタイ人の計17人 | 共同通信|date=2023-11-26|accessdate=2023-11-26}}</ref>。また、イスラエル側もパレスチナ人39人を釈放した<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/858139?display=1|title=2回目の人質・囚人交換実施 ハマス人質17人を解放 イスラエル側も39人釈放 {{!}} TBS NEWS DIG (1ページ)|date=2023-11-26|accessdate=2023-11-29}}</ref>。
=== 11月26日 ===
戦闘休止期間3日目
ハマースが人質17人を解放し、イスラエルもパレスチナ人39人を釈放した。解放された人質の内訳は子供9人を含むイスラエル人14人とタイ人3人<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://www.bbc.com/japanese/67539972|title=ハマスが人質の第3陣17人を解放、イスラエルは39人釈放 双方が戦闘休止の延長示唆 - BBCニュース|date=2023-11-27|accessdate=2023-11-29}}</ref>。
ネタニヤフが10月7日の戦争開始以降初めて、ガザを訪れた<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://nordot.app/1101600737652589347|title=イスラエル首相がガザ訪問 人質奪還とハマス掃討強調 | 共同通信|date=2023-11-27|accessdate=2023-11-29}}</ref>。
翌日に期限切れとなる4日間の戦闘休止について、ハマースが「延長を求めている」とする声明を発表し<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://nordot.app/1101599490873245995|title=ハマス「戦闘休止延長求める」と声明 | 共同通信|date=2023-11-27|accessdate=2023-11-29}}</ref>、ネタニヤフも延長する用意があると述べた<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://nordot.app/1101614481701143009|title=戦闘休止、延長の用意とイスラエル首相 | 共同通信|date=2023-11-27|accessdate=2023-11-29}}</ref>。
=== 11月27日 ===
戦闘休止期間4日目、当初の合意での最終日
ハマースが人質11人を解放し、イスラエルもパレスチナ人33人を釈放した<ref name="k10014270681000">{{Cite news2|df=ja|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231128/k10014270681000.html|title=イスラエルとハマス 戦闘休止2日間延長で合意 カタール政府 {{!}} NHK {{!}} イスラエル・パレスチナ|date=2023-11-28|accessdate=2023-11-29}}</ref>。解放された人質は全員が二重国籍のイスラエル人で、内訳はフランス国籍3人、ドイツ国籍2人、アルゼンチン国籍6人<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://jp.reuters.com/world/security/7EK73CGK3ZJ35PRWOZLOTS6IFA-2023-11-27/|title=ガザ戦闘休止、2日間延長で合意 ハマスは人質11人解放 {{!}} ロイター|date=2023-11-28|accessdate=2023-11-29}}</ref>。
イスラエルとハマースがガザでの戦闘休止を2日間延長することで合意した{{R|k10014270681000}}。
=== 11月28日 ===
戦闘休止期間5日目
ハマースが人質12人を解放し、イスラエルもパレスチナ人30人を釈放した。解放された人質の内訳は未成年者と女性のイスラエル人10人と、タイ人2人<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023112900138&g=int|title=ハマス、5日連続で人質解放 イスラエル、戦闘休止の再延長協議か:時事ドットコム|date=2023-11-29|accessdate=2023-11-29}}</ref>。
イスラエルとハマースの間で、戦闘休止の合意に違反する小規模な衝突があった<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://www.cnn.co.jp/world/35212064.html|title=イスラエルとハマス、ガザ北部で小規模な交戦 休戦合意に違反 - CNN.co.jp|date=2023-11-29|accessdate=2023-11-29}}</ref>。
=== 11月29日 ===
戦闘休止期間6日目
ハマースが人質16人を解放し、イスラエルもパレスチナ人30人を釈放した<ref name="reuter11-30">{{Cite news2|df=ja|url=https://jp.reuters.com/world/mideast/3FFJXZDC4ZLKZBE7FH6257YJHY-2023-11-30/|title=イスラエルとハマス、ガザ戦闘休止継続で合意 引き続き交渉 {{!}} ロイター|date=2023-11-30|accessdate=2023-11-30}}</ref>。解放された人質の内訳はイスラエル人12人、タイ人4人<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://mainichi.jp/articles/20231129/k00/00m/030/022000c|title=ハマスが6回目の人質解放 新たに16人 一時休戦6日目 {{!}} 毎日新聞|date=2023-11-30|accessdate=2023-11-30}}</ref>。
=== 11月30日 ===
戦闘休止期間7日目
1度目の延長合意ではこの日の午前7時で期限が切れた。
その後、イスラエルとハマースが戦闘休止を少なくとも1日延長することに合意した。ハマースは、イスラエルが戦闘休止延長に向けた人質解放案を拒否したと述べていたが、その後戦闘休止期間終了の数分前になって、イスラエル軍が戦闘休止を継続すると表明した{{R|reuter11-30}}。
戦闘休止の延長の発表直後に<ref name="afpbb11-30">{{Cite news2|df=ja|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3493976?cx_part=top_latest|title=エルサレムで銃撃、3人死亡 戦闘休止の延長発表直後 写真13枚 国際ニュース:AFPBB News|date=2023-11-30|accessdate=2023-11-30}}</ref>、エルサレムで2人のパレスチナ人が発砲し、3人が死亡し、8人{{efn|6人{{R|"ntv11-30"}}や7人{{R|"afpbb11-30"}}とする報道もある}}が負傷した<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://jp.reuters.com/world/security/7LCAREGOTVKTZLZYLVXBUIQ4AM-2023-11-30/|title=エルサレムでパレスチナ人が民間人に発砲、3人死亡=イスラエル {{!}} ロイター|date=2023-11-30|accessdate=2023-11-30}}</ref>。イスラエルは容疑者2人がハマースに関係していると主張している<ref name="ntv11-30">{{Cite news2|df=ja|url=https://news.ntv.co.jp/category/international/08fcfd9bb523463c86802f4a2498390d|title=エルサレムで2人が銃乱射…3人死亡 6人けが イスラエル側“銃撃の2人はハマスに関係”|日テレNEWS NNN|date=2023-11-30|accessdate=2023-11-30}}</ref>。
=== 12月2日 ===
イスラエル軍によるガザ南部への侵攻が開始された。これに伴いガザ南部の都市・[[ハンユニス]]への攻撃が開始された<ref name=":90">{{Cite web |title=【4日詳細】イスラエル軍 “ガザ南部への地上侵攻開始” {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231204/k10014277091000.html |website=NHKニュース |date=2023-12-04 |access-date=2023-12-27 |last=日本放送協会}}</ref>。
=== 12月3日 ===
IDFはハマースが軍事目的に使っていると見られるトンネルを800か所以上発見し、このうちおよそ500か所を破壊したと発表した<ref name=":90" />。
また、フーシ派は[[バーブルマンデブ海峡]]でイスラエルの船舶2隻に対する攻撃を行ったと発表。1隻についてはミサイルで、もう1隻については無人機での攻撃を行ったとしていて、「イスラエルがガザ地区への侵攻をやめないかぎり、イスラエルの船舶による紅海などでの航行を阻止し続ける」などと声明を出した。これに対しイスラエル側も声明を発表し「きょう、イスラエルとは関係のない商船2隻にミサイルが発射された。1隻は重大な損傷を受け、沈没の危険にさらされており、もう1隻は軽度の損傷を受けた」とし、船舶はイスラエルとは関係ないとした。このような攻撃に対してアメリカは、国防総省の報道担当者は、「紅海でのアメリカ軍のミサイル駆逐艦『カーニー』と複数の商業船への攻撃に関する情報は把握している」として、何者かによる駆逐艦などへの攻撃があったと明らかにした<ref name=":90" />。
そのほか、[[アメリカ中央軍]]は紅海南部の国際水域を航行していた商船3隻が4回にわたって攻撃を受け、アメリカ海軍のミサイル駆逐艦が無人機を撃ち落とすなど対応したとし、フーシ派による別の攻撃があったと述べた。『カーニー』が午前9時すぎ、フーシ派の支配地域からイギリスの会社が所有・運航するバハマ船籍の貨物船に向かって弾道ミサイルが発射され、近くに着弾したのを確認、午後3時半、別のイギリスなどの会社が所有・運航するパナマ船籍の商船は、フーシ派の支配地域からミサイル攻撃を受けて損傷したほか、午後4時半にはパナマ船籍の貨物船で、8か国の船員が乗り組む別の船舶もミサイル攻撃を受けたということである<ref name=":90" />。
=== 12月26日 ===
イスラエル軍の報道官は記者会見で、ハマースの掃討を目指した地上作戦をパレスチナ自治区ガザ中部にある複数の難民キャンプに拡大したことを明らかにした。加えてIDFは中部ブレイジの難民キャンプで見つかった地下トンネルの入り口や軍事訓練施設だとする写真や映像を公表した。地元紙『[[タイムズ・オブ・イスラエル]]』によると、ガザ北部のガザ市付近に展開していた部隊がブレイジに転戦したということである<ref name=":91">{{Cite web |title=イスラエル軍の地上作戦、ガザ中部の難民キャンプに拡大…参謀総長「戦争は何か月も続く」 |url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20231227-OYT1T50065/ |website=読売新聞オンライン |date=2023-12-27 |access-date=2023-12-27 |language=ja}}</ref>。
[[ヘルツィ・ハレビ]]参謀総長は「ガザ北部のハマス部隊の解体完了が近づいている」との見方を示し、「現在は南部のハンユニスや中部の難民キャンプでの活動に集中している」と述べた<ref name=":91" />。
一方ヒズボラからの攻撃も相次ぎ、イスラエル北部の国境近くにあるキリスト教の教会に対戦車ミサイル1発が命中し、住民1人が負傷した。それに対応するようにイスラエル軍もヒズボラ側を砲撃したことが報告されている<ref name=":91" />。
== 人道上の問題 ==
=== ハマースによる人道上の問題 ===
[[ファイル:Gaza envelope after coordinated surprise offensive on Israel, October 2023 (KBG GPO14).jpg|サムネイル|{{仮リンク|クファルアザ|en|Kfar Aza}}での[[クファルアザの虐殺|虐殺]]現場。家の壁には弾丸の痕がある。]]
ハマース戦闘員によるイスラエル人や外国人の[[誘拐]]が行われている<ref>{{Cite web |title=Hundreds killed as fighting continues between Israel and Hamas |url=https://www.euronews.com/2023/10/08/just-under-500-people-killed-as-fighting-continues-between-israel-and-hamas |website=euronews |date=2023-10-08 |access-date=2023-10-08 |language=en}}</ref><ref>{{Cite web |title=https://twitter.com/Israel/status/1710888079416844651?t=QbdAYvGajVWg697nFCiJMQ&s=19 |url=https://twitter.com/Israel/status/1710888079416844651?t=QbdAYvGajVWg697nFCiJMQ&s=19 |website=X (formerly Twitter) |access-date=2023-10-08 |language=ja}}</ref>。
また、ハマース戦闘員がイスラエル国内で民間人の虐殺を行ったことが指摘されており、[[南部地区 (イスラエル)|イスラエル南部地区]]レイムで行われていた音楽祭の会場から250人以上の遺体が発見され、数多くの拉致や残虐行為の目撃が報告された[[レイム音楽祭虐殺事件]]のように、民間のイベント会場や集落をハマース戦闘員が無差別に襲撃している<ref name="jiji">{{Cite news2|df=ja|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023100900076|title=死者1100人人超、戦闘続く 「最悪の虐殺」、音楽祭襲撃―ハマス拠点空爆800カ所|newspaper=時事通信|date=2023-10-09|accessdate=2023-10-09}}</ref>。イスラエル軍報道官の発表によると、一連のハマース戦闘員の行動によってイスラエル史上最大の民間人虐殺が行われたとされており<ref name="jiji"/>、現時点でも{{仮リンク|クファルアザ|en|Kfar Aza}}で[[クファルアザの虐殺|虐殺が確認]]されている<ref>{{Cite web |title=イスラエルの集落で住民虐殺か 取材班が現地入り、焼け跡に遺体も |url=https://www.cnn.co.jp/world/35210126.html |website=CNN.co.jp |access-date=2023-10-16 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=ハマスによる乳児の斬首、イスラエル政府は未確認と当局者 首相府の発表と矛盾 |url=https://www.cnn.co.jp/world/35210263.html |website=CNN.co.jp |access-date=2023-10-16 |language=ja}}</ref>。[[スデロット]]では民家への放火も確認されている<ref name=":8" />。ハマースによる拉致被害は多く確認されており、イスラエル人だけでなくドイツ人1人やタイ人11人なども拉致された<ref name=":11" />。ハマースのロケット弾は主に無誘導爆弾であり、イスラエル国防軍によると戦闘開始から7日間で6000発以上のロケット弾がハマースからイスラエル側の広い範囲に打ち込まれた。また以前からハマースがガザ地区の[[学校]]や[[病院]]を軍事拠点化しているという指摘も専門家からなされており<ref>{{Cite web |title=ガザ情勢、住民被害増大の裏にハマスの「人間の盾」戦術 病院・学校に軍事拠点 (1/2ページ) |url=https://www.sankei.com/article/20140729-R443ZDADDFONHD4L5RLMM7BKJI/ |website=産経ニュース |date=2014-07-29 |access-date=2023-10-19 |language=ja |first=SANKEI DIGITAL |last=INC}}</ref>、イスラエル軍も同様の主張を行っている。
[[ジュネーヴ]]を拠点とする組織「人質・行方不明家族フォーラム」のハガイ・レヴィン教授を団長とする医療チームが[[赤十字国際委員会]]に送った報告書によると、人質には[[パーキンソン病]]、[[多発性硬化症]]、[[心血管疾患]]、[[糖尿病]]、[[悪性腫瘍|がん]]のほか、[[認知症]]、[[自閉スペクトラム症]]、[[精神疾患]]を持つ者もおり、「治療と救命処置が緊急に必要」であり、「必要不可欠な薬や治療を受けていないため、即座に死亡する傾向がある」という。報告書はまた、攻撃時に誘発された未治療の負傷([[銃創]]、切断、レイプによる外傷)や、[[粉ミルク]]を必要とする乳児についても懸念を表明した<ref>{{Cite news2 |df=ja |title=Hostages' Families Group to Red Cross: Many of Almost 200 Israelis Held in Gaza in Severe Need of Medical Treatment |url=https://www.haaretz.com/israel-news/2023-10-16/ty-article/.premium/many-of-almost-200-israelis-held-in-gaza-in-severe-need-of-medical-treatment/0000018b-38b8-d0ac-a39f-b9bad3600000 |work=Haaretz |access-date=2023-10-21 |language=en}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://img.mako.co.il/2023/10/17/MedicalreporttoICRC1510.pdf |title=Preliminary Medical Report of the Missing/Abducted people by Hamas |access-date=2023-10-21 |publisher=The Hostages and Missing Families Forum}}</ref>。
イスラエルの医療の専門家1500人からなるグループが『[[ランセット]]』に発表した[[公開状]]は、「イスラエル建国以来最大の民間人命の損失」とし、ハマースによる人道上の問題を「イスラエル南部の村全体を襲った、無差別的な野蛮なハマースの大暴れ」として衝撃を表明し、これを「[[人道に対する罪]]」とした。公開状は国際医療界に対し、「野蛮な虐殺を非難し、人質となっているすべての人々の安全と健康の保証を直ちに求め、無残にも人質となった私たちの家族や友人の即時かつ無条件の帰還を明確に求める」よう求めた<ref>{{Cite web |url=https://www.thelancet.com/journals/lancet/article/PIIS0140-6736(23)02288-2/fulltext |title=An urgent call for the immediate release of Israeli hostages |access-date=2023-10-21 |publisher=THE LANCET}}</ref>。
IDFは11月1日にハマスが地区内の病院に燃料の提供を迫っていることを示す内容の電話の会話を傍受したとして音声を公開し、IDFは「ハマスが人々よりもテロリストのニーズを優先させていることを示すものだ」と述べた<ref name=":84" />。
=== イスラエルによる人道上の問題 ===
{{see|2023年ガザ地区の人道危機}}
[[ファイル:Damage in Gaza Strip during the October 2023.jpg|サムネイル|イスラエル軍によるガザ地区に対する攻撃]]
イスラエルによるガザの空爆は[[集団的懲罰]]にあたり[[戦争犯罪]]であると批判されている<ref>{{Cite web |url=https://jp.reuters.com/economy/MPR5GEAERFPYDMNNTSYMFWLOUU-2023-10-12/ |title=ガザ攻撃は「集団的懲罰」、人質は戦争犯罪と国連専門家 |publisher=[[ロイター]] |date=2023-10-12 |accessdate=2023-10-23}}</ref><ref>{{Cite web |title=More bloodshed will never resolve the Israel-Palestine conflict |url=https://www.moneycontrol.com/news/opinion/more-bloodshed-will-never-resolve-the-israel-palestine-conflict-11515101.html |website=Moneycontrol |date=2023-10-11 |access-date=2023-10-11 |language=en}}</ref>。
イスラエルからの空爆は、1日で6000発の爆弾の投下が行われ<ref>{{Cite news2 |df=ja |title=Evacuation order sets off chaotic scramble as Gazans run for their lives |url=https://www.washingtonpost.com/world/2023/10/13/gaza-evacuation-hamas-israel-invasion/ |work=Washington Post |date=2023-10-14 |access-date=2023-10-17 |issn=0190-8286 |language=en-US |first=Susannah |last=George |first2=Sarah |last2=Dadouch |first3=Steve |last3=Hendrix |first4=Cate |last4=Brown}}</ref>、10月16日までに、空爆によって700人以上の子どもを含む2750人が死亡し、10000人近くが負傷した<ref name=":49">{{Cite news2 |df=ja |title=In Gaza, people resort to drinking salty water, garbage piles up |url=https://www.reuters.com/world/middle-east/gaza-people-resort-drinking-salty-water-garbage-piles-up-2023-10-16/ |work=Reuters |date=2023-10-16 |access-date=2023-10-17 |language=en |first=Nidal |last=Al-Mughrabi |first2=Nidal |last2=Al-Mughrabi}}</ref>。同日には、空爆によって、消防や捜索救助などの緊急対応サービスを担当する[[パレスチナ民間防衛]](PCD)の本部が破壊された<ref>{{Citation|title=Gaza paramedic’s outcry over bombing of civil defence headquarters {{!}} AJ #shorts|url=https://www.youtube.com/watch?v=15vl8ebYQ_I|language=ja-JP|access-date=2023-10-17}}</ref>。
一方でイスラエル側によるガザ地区に住む民間人への被害も確認されており、8日時点でガザの高層住宅4棟を破壊するなどの被害が確認されている<ref name=":4">{{Cite web |title=ハマスとイスラエルの戦闘、死者970人超 国連安保理、対応協議へ |url=https://mainichi.jp/articles/20231008/k00/00m/030/130000c |website=毎日新聞 |access-date=2023-10-10 |language=ja}}</ref>。イスラエル国防相の{{仮リンク|ヨアヴ・ガラント|en|Yoav Gallant}}はガザ封鎖を宣言した9日、「われわれは「人間の顔をした獣」と戦っており、それにふさわしい行動をする」と述べ、特定集団を非人間化する名称で呼ぶことは「[[ジェノサイド]](集団殺害)の兆候」であると専門家より批判された<ref name=":24">{{Cite web |title=ガザの人道危機へ懸念強まる イスラエルが水・食料を遮断、EUは「国際法違反」の認識 |url=https://www.sankei.com/article/20231012-NEXKK3TK7RKH3CA6ZG5FG4ZR3Q/ |website=産経ニュース |date=2023-10-12 |access-date=2023-10-13 |language=ja |first=黒瀬 悦成 |last=平田 雄介}}</ref>。また、ガラントがガザへの包囲を宣言し、電気、食料、水、ガスの供給ができなくなる危険性が生じた。ガザ地区内ではすでに40万人以上が水に関するインフラで被害、インターネット通信も危機的状況、唯一の発電所である[[ガザ発電所]]も燃料の枯渇が懸念され、結果的に停止した<ref name=":5">{{Cite web |title=イスラエル、反撃は「始まったばかり」 ガザ地区「完全包囲」で人道危機の恐れ |url=https://www.bbc.com/japanese/67061974 |website=BBCニュース |date=2023-10-10 |access-date=2023-10-10 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=【12日詳細】パレスチナ ガザ地区 唯一の発電所が操業停止 {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231012/k10014222521000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-12 |access-date=2023-10-13 |last=日本放送協会}}</ref>。10日、欧州連合 (EU) のボレル外交安全保障上級代表は「イスラエルは[[国際人道法]](戦時国際法)に従って自衛権を行使しなければならない」と語り、ガザのパレスチナ住民に対する水や食料などの遮断は「[[国際法|国際法違反]]」との認識を示した<ref name=":24" />。[[フィリップ・ラッツァリーニ]]は、「ガザは水が不足しており、ガザは生命が不足している」と述べた<ref>{{Cite news2 |df=ja |title=‘Why has the world abandoned us?’ Palestinians in Gaza plead for humanitarian relief |url=https://www.ft.com/content/6fbdcd03-3483-4107-ada9-a63a9c5e6806?shareType=nongift |work=Financial Times |date=2023-10-15 |access-date=2023-10-17 |first=Heba |last=Saleh |first2=Mai |last2=Khaled}}</ref>。
[[File:Damage in Gaza Strip during the October 2023 - 36.jpg|thumb|イスラエルによる空爆の後、シファ病院で治療を受ける子供と治療を待つ男性]]
これらに対して国連の[[国際連合世界食糧計画|世界食糧計画]]はガザ地区への食糧供給を8倍に、国連パレスチナ難民救済事業機関によるとガザ地区の住民はこれらに恐怖を抱いていると公表した<ref name=":5" />。ユニセフの[[キャサリン・ラッセル]]事務局長は「ガザ地区への電力の遮断や、食料、燃料、水の供給を止める措置は、子どもたちの命を危険にさらすことにつながりかねない。人道状況が急速に悪化する中、子どもたちやその家族がどこにいようと、人道支援に携わる人々が安全に、命を守るための活動や、物資を届けることをできるようにしなければならない。」と懸念を表明しながら支援を行うことを誓った<ref name=":12" />。またガザではそもそも病院まで運ぶ道のりが空爆により危険で、そして墓地もスペースが埋まっていることなどから、アイスクリームを冷凍するためのトラックに遺体を入れる例などもあったとガザ保健当局が発表した<ref name=":43" />。10月15日、イスラエルは給水再開に同意したが、対象はガザ南部のみであった<ref>{{Cite web |title=Fuel reserves at Gaza hospitals likely to run out in 24 hours, UN warns |url=https://www.bbc.co.uk/news/live/world-middle-east-67108364 |website=BBC News |access-date=2023-10-17 |language=en-gb}}</ref><ref>{{Cite web |title=Israel resumes water supply to southern Gaza after heavy pressure |url=https://www.jpost.com/breaking-news/article-768469 |website=The Jerusalem Post {{!}} JPost.com |date=2023-10-15 |access-date=2023-10-17 |language=en-US}}</ref><ref>{{Cite web |title=Renewed water supply to south Gaza agreed with Joe Biden: Israeli minister |url=https://www.hindustantimes.com/world-news/israelhamas-war-renewed-water-supply-to-south-gaza-agreed-with-joe-biden-israeli-minister-101697380523005.html |website=Hindustan Times |date=2023-10-15 |access-date=2023-10-17 |language=en}}</ref>。しかし、ガザの給水ポンプは電力に依存しているため、このイスラエル側の同意は、再度の給水アクセスを保証するものではなかった<ref name=":50">{{Cite news2 |df=ja |title=Gaza water supplies dwindle as Israel lays siege to strip |url=https://www.ft.com/content/79fb29e1-3867-4f6d-853d-dffa02f38c81?shareType=nongift |work=Financial Times |date=2023-10-16 |access-date=2023-10-17 |first=Simeon |last=Kerr |first2=Mai |last2=Khaled}}</ref><ref>{{Cite web |title=After the bombing, Gaza struggles to restart power, water, hospitals, markets and fishing for its 2.1m people |url=https://www.oxfam.org/en/press-releases/after-bombing-gaza-struggles-restart-power-water-hospitals-markets-and-fishing-its |website=Oxfam International |date=2022-05-25 |access-date=2023-10-17 |language=en}}</ref>。イスラエルのエネルギー・水省のスポークスマンは、ガザ南部の1カ所でしか水は流れていないと述べた。しかし、ボランティアやガザ政府のスポークスマンは、水はそもそも利用できないと語っている<ref>{{Cite web |title=Water runs out at UN shelters in Gaza. Medics fear for patients as Israeli ground offensive looms |url=https://apnews.com/article/israel-gaza-civilians-humanitarian-crisis-shortages-fuel-water-937b474fa16970f36ac44615e9797fbc |website=AP News |date=2023-10-15 |access-date=2023-10-17 |language=en}}</ref>。10月16日、エネルギー相の[[イスラエル・カッツ]]は、[[ハーンユーニス]]南部近郊の[[ブネイ・サヒラ]]で水が利用できるようになったと主張したが、ガザ内務省の報道官[[エヤド・アル=ボゾム]]は、ガザのどこであっても水はまだ利用できないと述べた<ref>{{Cite news2 |df=ja |title=Hamas says Gaza water still cut off; Israel says some provided in south |url=https://www.reuters.com/world/middle-east/hamas-says-gaza-water-still-cut-off-israel-says-some-provided-south-2023-10-16/ |work=Reuters |date=2023-10-16 |access-date=2023-10-17 |language=en}}</ref>。同日までに、ガザ住民は[[海水]]や農業用井戸の[[汽水域|汽水]]を飲むようになり、[[水系感染症]]の恐れが高まった<ref name=":49" /><ref name=":50" />。医師や病院スタッフは水の枯渇から、[[点滴静脈注射|点滴液]]を飲んだ<ref>{{Cite web |url=https://www.washingtonpost.com/world/2023/10/16/israel-gaza-hamas-border-ceasefire/ |title="U.S. seeks Gaza aid, safe zones as Israeli invasion looms" |access-date=2023-10-17 |publisher=ワシントンポスト}}</ref>。
また白リン弾の使用も確認されており、白リン弾の激しい燃焼力で深刻なやけど被害をもたらす危険性から人権団体より批判が集まっている<ref name=":34" />。
11日には国際刑事裁判所が、パレスチナ国で行われた戦争犯罪の疑いを調査する2014年時点のマンデートが、現在の紛争にも及ぶと発表した<ref>{{Cite web |title=Is Israeli bombing of Gaza a violation of international laws? |url=https://www.aljazeera.com/features/2023/10/12/is-israeli-bombing-of-gaza-a-violation-of-international-laws |website=www.aljazeera.com |access-date=2023-10-15 |language=en}}</ref>。
ガザの数百万人に救命支援を届けるための「人道的一時停止」を求める安保理決議案がブラジルにより提出され、理事国15カ国中12カ国から「賛成」票を獲得し、ロシアと英国は棄権したが、米国は決議案の採択を阻止するために[[国際連合安全保障理事会における拒否権|拒否権]]を発動した<ref>{{Cite web |title=US Vetoes Draft Resolution Calling For 'Humanitarian Pauses' for Aid to Gaza |url=https://thewire.in/world/us-vetoes-draft-resolution-calling-for-humanitarian-pauses-for-aid-to-gaza |website=The Wire |access-date=2023-10-19}}</ref><ref>{{Cite web |title=安保理、ガザ戦闘「中断」求める決議案否決 米国が拒否 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN17DVU0X11C23A0000000/ |website=日本経済新聞 |access-date=2023-10-20}}</ref>。
18日にはヨルダン川西岸の[[ラマッラー|ラマラ]]近郊でイスラエル側に抗議する意図でタイヤに火をつけようとした15歳と17歳の少年がイスラエル軍により射殺された<ref name=":66">{{Cite web |title=イスラエル軍、ヨルダン川西岸で10代のパレスチナ人2人を射殺 |url=https://www.newsweekjapan.jp/headlines/world/2023/10/468799.php |website=Newsweek日本版 |date=2023-10-19 |access-date=2023-10-20 |language=ja}}</ref>。
30日にはトルコ・パレスチナ友好病院が空爆の被害にあい<ref>{{Cite web |title=Turkish-Palestinian Friendship Hospital in Gaza severely damaged from Israeli airstrikes |url=https://www.aa.com.tr/en/middle-east/turkish-palestinian-friendship-hospital-in-gaza-severely-damaged-from-israeli-airstrikes/3037514 |website=www.aa.com.tr |access-date=2023-11-06}}</ref>、11月1日、トルコ・パレスチナ友好病院の院長は、ガザで唯一のがん専門病院が発電機の燃料切れで「完全に機能停止」していると述べた<ref>{{Cite web |title=Israel-Hamas war updates: Israel’s Jabalia attacks may be ‘war crimes’ – UN |url=https://www.aljazeera.com/news/liveblog/2023/11/1/israel-hamas-war-live-anger-grows-over-israeli-attack-on-gaza-refugee-camp |website=Al Jazeera |access-date=2023-11-06 |language=en |first=Edna Mohamed,Joseph Stepansky,Farah |last=Najjar}}</ref>。また、ガザ保健省は、アル・ヘロウ国際病院の産科病棟がイスラエル軍の爆撃を受けたと発表した<ref>{{Cite web |title=Israel-Hamas war updates: Israel’s Jabalia attacks may be ‘war crimes’ – UN |url=https://www.aljazeera.com/news/liveblog/2023/11/1/israel-hamas-war-live-anger-grows-over-israeli-attack-on-gaza-refugee-camp |website=Al Jazeera |access-date=2023-11-06 |language=en |first=Edna Mohamed,Joseph Stepansky,Farah |last=Najjar}}</ref>。11月2日、インドネシア病院は主発電機が稼働しなくなったと発表した<ref>{{Cite web |title=Israel-Hamas war updates: Israel says its forces surround Gaza City |url=https://www.aljazeera.com/news/liveblog/2023/11/2/israel-hamas-war-live-195-killed-120-missing-in-jabalia-strikes |website=Al Jazeera |access-date=2023-11-06 |language=en |first=Farah Najjar,Joseph |last=Stepansky}}</ref>。ガザ厚労省前述のトルコ・パレスチナ友好病院の爆撃の影響で11月3日時点で12人のガン患者が死亡したと発表した<ref>{{Cite web |title=Israel-Hamas war updates: Israeli strike hits Gaza medical convoy |url=https://www.aljazeera.com/news/liveblog/2023/11/3/israel-hamas-war-live-israeli-forces-gather-outside-gaza-city |website=Al Jazeera |access-date=2023-11-06 |language=en |first=Farah Najjar,Joseph |last=Stepansky}}</ref>。同省は、800人の重傷患者が治療を受けるためにガザを離れる必要があると述べ、医療システムの崩壊により、過去数日間に多くの重傷患者が死亡したと指摘した<ref>{{Cite web |title=Israel-Hamas war updates: Israeli strike hits Gaza medical convoy |url=https://www.aljazeera.com/news/liveblog/2023/11/3/israel-hamas-war-live-israeli-forces-gather-outside-gaza-city |website=Al Jazeera |access-date=2023-11-06 |language=en |first=Farah Najjar,Joseph |last=Stepansky}}</ref>。アル・シファ病院前の医療車列がイスラエル軍の無人機ミサイルによって破壊された<ref>{{Cite web |title=Israel-Hamas war updates: Israeli strike hits Gaza medical convoy |url=https://www.aljazeera.com/news/liveblog/2023/11/3/israel-hamas-war-live-israeli-forces-gather-outside-gaza-city |website=Al Jazeera |access-date=2023-11-06 |language=en |first=Farah Najjar,Joseph |last=Stepansky}}</ref>。アル・クッズ病院とインドネシア病院も攻撃を受けた<ref>{{Cite web |title=Israel-Hamas war updates: Israeli strike hits Gaza medical convoy |url=https://www.aljazeera.com/news/liveblog/2023/11/3/israel-hamas-war-live-israeli-forces-gather-outside-gaza-city |website=Al Jazeera |access-date=2023-11-06 |language=en |first=Farah Najjar,Joseph |last=Stepansky}}</ref>。11月4日、カマル・アドワン病院の発電機が停止した<ref>{{Cite web |title=Israel-Hamas war updates: Another Gaza school hit by heavy Israeli bombing |url=https://www.aljazeera.com/news/liveblog/2023/11/4/israel-hamas-war-live-20-dead-in-israeli-attack-on-school-ministry |website=Al Jazeera |access-date=2023-11-06 |language=en |first=Mersiha Gadzo,Virginia |last=Pietromarchi}}</ref>。またアル・ナセル小児病院の入り口がイスラエルの空爆を受けた<ref>{{Cite web |title=Israel-Hamas war updates: Another Gaza school hit by heavy Israeli bombing |url=https://www.aljazeera.com/news/liveblog/2023/11/4/israel-hamas-war-live-20-dead-in-israeli-attack-on-school-ministry |website=Al Jazeera |access-date=2023-11-06 |language=en |first=Mersiha Gadzo,Virginia |last=Pietromarchi}}</ref>。
12月5日、[[ニューヨーク大学]]のロバート・ジャクソン・ジュニア教授と[[コロンビア大学]]のジョシュア・ミッツ教授は、10月7日の奇襲攻撃に先立ち株式に大幅な[[空売り]]が出ていたと報告している<ref name=":63">{{Cite news |title=Israel investigates possible trading knowledge ahead of Oct 7 Hamas attack |url=https://www.reuters.com/world/middle-east/israel-investigates-possible-trading-knowledge-ahead-oct-7-hamas-attack-2023-12-04/ |work=Reuters |date=2023-12-04 |access-date=2023-12-06 |language=en |first=Steven |last=Scheer}}</ref>。報告書で、米金融取引業規制機構(FINRA)のデータに基づき、MSCIイスラエル上場投信(ETF)の空売りが10月2日に「突然、大幅に」急増したことを挙げ、「奇襲攻撃の数日前から、一部のトレーダーは来るべき出来事を予期していた可能性がある」と指摘<ref name=":63" />。奇襲攻撃の直前に[[テルアビブ証券取引所]](TASE)でイスラエル証券の空売りが急増したことにも言及した<ref name=":63" />。教授らは「私たちの調査結果は、今後の攻撃について情報を得たトレーダーがこれらの悲劇的な出来事から利益を得たことを示唆しており、これまでの文献と一致して、この種の取引は米国および国際的な情報提供取引に対する法的禁止の執行の隙間で行われていることを示しています。」と声明を出した<ref name=":63" />。
== 影響 ==
[[CNN]]によるとX(旧Twitter)などにおいて[[コンピューターゲーム|ゲーム]]の映像や[[シリア内戦]]の映像「[[ファウダ -報復の連鎖-]]」のシーンなどを当戦争の映像としたりするなどといった虚偽の情報が回っている<ref name="偽情報">{{Cite web |title=X(Twitter)で「パレスチナ・イスラエル戦争」の偽情報が氾濫しまくり、無関係の動画やゲームの映像まで拡散 - GIGAZINE |url=https://gigazine.net/news/20231010-x-israel-hamas-conflict/ |website=gigazine.net |date=2023-10-10 |access-date=2023-10-10 |language=ja}}</ref>。問題の投稿の多くはコミュニティノート機能により訂正を受けているが、[[偽情報]]の拡散に歯止めがかからない状況が続いている<ref name="偽情報" />。これに対してEUはEU内の法を適応しようとしたことから、各インターネットシステムを運営する企業は対応を行った<ref name=":39" />。また、[[イラン・イスラム共和国放送]]によるハマースによるイスラエル司令官の捕獲の報道の映像も、[[2023年ナゴルノ・カラバフ衝突]]の際の映像を流したことが判明した<ref>{{Cite web |title=فیلم خنده دار سوتی شبکه خبر صدا و سیما: پخش تصاویر دستگیری فرماندهان جدائی طلبان قره باغ آذربایجان به جای ژنرال های اسرائیلی {{!}} پایگاه خبری تحلیلی انصاف نیوز |url=http://www.ensafnews.com/447574/%d9%81%db%8c%d9%84%d9%85-%d8%ae%d9%86%d8%af%d9%87-%d8%af%d8%a7%d8%b1-%d8%b3%d9%88%d8%aa%db%8c-%d8%b4%d8%a8%da%a9%d9%87-%d8%ae%d8%a8%d8%b1-%d8%b5%d8%af%d8%a7-%d9%88-%d8%b3%db%8c%d9%85%d8%a7-%d9%be/ |website=انصاف نیوز |date=2023-10-11 |access-date=2023-10-15 |language=fa-IR}}</ref><ref>{{Cite web |title=فیلم خنده دار سوتی شبکه خبر صدا و سیما: پخش تصاویر دستگیری فرماندهان جدائی طلبان قره باغ آذربایجان به جای ژنرال های اسرائیلی |url=https://saednews.com/.post/fylm-khndh-dar-soty-shbkh-khbr-sda-o-syma-pkhsh-tsaoyr-dstgyry-frmandhan-jdaey-tlban-grh-bagh-azrbayjan-bh-jay-zhnral-hay-asraeyly-bx10 |website=saednews.com |date=2023-10-10 |access-date=2023-10-15 |language=fa}}</ref><ref>{{Cite web |title=فیلم خنده دار سوتی شبکه خبر صدا و سیما: پخش تصاویر دستگیری فرماندهان جدائی طلبان قره باغ آذربایجان به جای ژنرال های اسرائیلی |url=http://sahebkhabar.ir/news/62851995/%D9%81%DB%8C%D9%84%D9%85-%D8%AE%D9%86%D8%AF%D9%87-%D8%AF%D8%A7%D8%B1-%D8%B3%D9%88%D8%AA%DB%8C-%D8%B4%D8%A8%DA%A9%D9%87-%D8%AE%D8%A8%D8%B1-%D8%B5%D8%AF%D8%A7-%D9%88-%D8%B3%DB%8C%D9%85%D8%A7-%D9%BE%D8%AE%D8%B4-%D8%AA%D8%B5%D8%A7%D9%88%DB%8C%D8%B1-%D8%AF%D8%B3%D8%AA%DA%AF%DB%8C%D8%B1%DB%8C-%D9%81%D8%B1%D9%85%D8%A7%D9%86%D8%AF%D9%87%D8%A7%D9%86 |website=صاحبخبر |date=2023-10-11 |access-date=2023-10-15 |language=fa}}</ref>。
[[日本]]への影響としては中東リスクが再燃していることから、原油価格の高止まりによる貿易収支の悪化により戦争以前より続いていた[[円安]]の長期化は避けられないと思われている<ref>{{Cite web |title=ハマスによるイスラエル攻撃と中東の不安定化が円相場に与える影響とは 円安を延命させる中東リスク、迫力を失う「リスクオフの円買い」 {{!}} JBpress (ジェイビープレス) |url=https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/77369 |website=JBpress(日本ビジネスプレス) |access-date=2023-10-10 |language=ja}}</ref>。
[[エジプト]]でも[[アレクサンドリア]]で[[警察官|警官]]が[[イスラエル人]]観光客向けのバスに発砲し、イスラエル人2人と[[エジプト人]]1人が死亡、13日には[[中華人民共和国|中国]]の首都[[北京]]でイスラエル大使館職員が刺され負傷、同日[[フランス]]においても北部にある高校で教師が刺殺、[[パリ]]東部の高校では男が刃物を持って校内に入ろうとする等、当戦争が関係していると思われる事件が相次いだ<ref name=":4" />
<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/b8791cddcf68a7821c547ac9cdc68c2a4371dfb0|title=【速報】テロの可能性 イスラエルの大使館職員が北京で刺される 容体は安定|newspaper=FNNプライムオンライン|date=2023-10-13|accessdate=2023-10-14}}</ref><ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231014/k10014225191000.html|title=仏 高校で教師が刺され死亡 「事件は中東と関連ある」内相|newspaper=NHKオンライン|date=2023-10-14|accessdate=2023-10-14}}</ref>。
[[ブルガリア]]、[[スペイン]]、[[ポーランド]]、[[タイ王国|タイ]]は[[イスラエル]]に居住する各邦人らを退避させた。一方[[イギリス]]は退避させなかったため、[[外務・英連邦・開発省]]には非難が集まった<ref>{{Cite web |title=Brits in Israel blast Foreign Office for leaving them 'stranded' |url=https://www.dailymail.co.uk/news/article-12618163/Brits-Israel-blast-Foreign-Office-leaving-stranded-forcing-pay-thousands-pounds-escape-war.html |website=Mail Online |date=2023-10-11 |access-date=2023-10-11 |first=Perkin |last=Amalaraj}}</ref>。
イスラエルではタマルガス田の閉鎖が行われた<ref>{{Cite news2 |df=ja |title=Israel shuts down major offshore gas field amid violence |url=https://www.reuters.com/markets/commodities/israel-shuts-down-offshore-tamar-gas-field-output-2023-10-09/ |work=Reuters |date=2023-10-09 |access-date=2023-10-13 |language=en |first=Ron |last=Bousso |first2=Ari |last2=Rabinovitch |first3=Ron |last3=Bousso}}</ref>。
10月9日には[[ニューヨーク・マーカンタイル取引所]] (NYMEX) の原油先物相場が1バレル=86.06ドルにまで急伸した<ref>{{Cite web |title=NY原油、86ドル台に急伸 中東情勢緊迫化で |url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023100900769&g=int |website=時事ドットコム |access-date=2023-10-12 |language=ja}}</ref>。また同日、[[NVIDIA|エヌビディア]]がイスラエルの[[テルアビブ]]で15・16日に開催を予定していた「[[AIサミット]]」を、「参加者の安全が最優先事項であり、これが最善の行動だと信じている」として中止したと発表した<ref>{{Cite web |title=イスラエルでのAIイベント中止 「参加者の安全優先」―米エヌビディア |url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023101000181&g=int |website=時事ドットコム |access-date=2023-10-12 |language=ja}}</ref>。
10月10日にイスラエルの主要産業の一つでありGDPの5分の1を占める[[ハイテク|ハイテクノロジー]]産業は、それまでの混乱による停滞が徐々に回復してくると思われてきたが本戦争により回復が頓挫した。[[アワークラウド]]の[[ジョン・メドベド]]最高経営責任者は「海外からの投資は今後数週間から数カ月間、特に衝突が続く限り、鈍化するだろう」と分析している<ref>{{Cite news ja |title=焦点:イスラエルのハイテク産業、戦火の影響で資金調達に遅れも |url=https://jp.reuters.com/markets/japan/funds/H5T7RR74PRI3TE3OZEBUESSMSQ-2023-10-13/ |work=Reuters |date=2023-10-13 |access-date=2023-10-13 |language=ja |first=Steven |last=Scheer}}</ref>。
イスラエル国内や国際法上のパレスチナ領である[[ユダヤ人入植地]]には、パレスチナ人出稼ぎ労働者がヨルダン川西岸地区から約16万人、ガザ地区から約1万8千人入域を認められていた。出稼ぎの収入は、パレスチナ国内の10倍にもなった。ネタニヤフ首相は以前、非公式にパレスチナのアッバース政権の弱体化を図るためにハマースを利用すると発言しており、ガザ地区からの就労枠拡大もその一環と指摘されていた<ref>{{Cite news |author=Dmitry Shumsky |title=Opinion Why Did Netanyahu Want to Strengthen Hamas? |url=https://www.haaretz.com/israel-news/2023-10-11/ty-article/.premium/netanyahu-needed-a-strong-hamas/0000018b-1e9f-d47b-a7fb-bfdfd8f30000 |newspaper=Haaretz |date=2023-10-11 |access-date=2023-12-14 |language=en }}</ref><ref>{{Cite news |author= Tal Schneider |title=For years, Netanyahu propped up Hamas. Now it’s blown up in our faces |url=https://www.timesofisrael.com/for-years-netanyahu-propped-up-hamas-now-its-blown-up-in-our-faces/ |newspaper=The Times of Israel |date=2023-10-08 |access-date=2023-12-14 |language=en }}</ref>。開戦後、ガザ地区からの就労許可は全て取り消され、数千人がガザ地区に強制送還された。またパレスチナ政府高官によると、約5000人がイスラエル当局に拘束され、約4950人が西岸地区に逃れたという<ref>{{Cite news |author= |title=Palestinian workers return to Gaza after expulsion from Israel |url=https://www.bbc.com/news/world-middle-east-67306903 |agency=BBC |date=2023-11-03 |access-date=2023-12-14 |language=en }}</ref><ref>{{Cite news ja|author= |title=イスラエル、ガザ出身労働者の送還開始 数千人規模 |url=https://jp.reuters.com/world/mideast/OKNEDMZYEJPYPGT5FBQE2GIV6Q-2023-11-03/ |agency=ロイター |date=2023-11-03 |access-date=2023-12-14 |language=ja }}</ref>。[[国際労働機関|ILO]]によると、ヨルダン川西岸地区からイスラエルや入植地への検問所も閉鎖された。このため、ヨルダン川西岸地区の16万人の出稼ぎ労働者も、すでに失業したか、その瀬戸際に立たされているという。イスラエル企業は、パレスチナ人に代わってインドやスリランカなどの出稼ぎ労働者の受入拡大を政府に要望している。イスラエル建設業協会(ACB)のシェイ・パウズナー副理事長によると、パレスチナ人労働者の穴埋めとして、6万人の外国人出稼ぎ労働者の受入を政府に要望したという<ref>{{Cite news ja|author= Lin Taylor |author2=Nazih Osseiran |title=アングル:「出稼ぎ」パレスチナ人、失業16万人も イスラエル雇用失う |url=https://jp.reuters.com/world/mideast/RQF3NC3SR5PX5IPJA6KCQWF4DE-2023-12-08/ |agency=ロイター |date=2023-12-09 |access-date=2023-12-14 |language=ja }}</ref>。
イギリスの放送局である[[英国放送協会|BBC]]は戦争発生以来、ハマースをテロリストとは呼称せず、「武装組織」と呼んでおりこの報道姿勢に政府や英政界の与野党双方から批判の声が上がっている<ref name="武装組織">{{Cite news2|df=ja|url=https://mainichi.jp/articles/20231014/k00/00m/030/030000c|title=英政界がBBCの報道姿勢を批判 「ハマスをテロリストと呼ぶべきだ」|newspaper=[[毎日新聞]]|date=2023-10-14|accessdate=2023-10-14}}</ref>。これに対しBBCの国際報道の責任者を務める[[ジョン・シンプソン]]は「誰かをテロリストと呼ぶのは、片方の側に立つことであり、状況を公平・中立に報じないことになる」とXで反論。「わめき散らさず、視聴者に事実を提示すること」がBBCの仕事だと述べている<ref name="武装組織" />。
米上院商業科学運輸委員会の共和党議員らは20日に[[X (2023年創業の企業)|X]]、[[Meta (企業)|Meta]]、[[TikTok]]、[[Google]]のIT4社に対して本戦争に関するSNS上の情報を保全するよう求めた。残虐な内容の投稿の削除には理解を示した上で、戦争犯罪の捜査や報道、情報機関による分析などの目的に限ってアクセスを維持する方策が必要だと指摘し、加えて「歴史の記録」として、情報を保存する必要性も訴えた<ref>{{Cite web |title=ハマス攻撃巡る残虐な情報「保全を」 米共和議員がXなど4社に要求 |url=https://mainichi.jp/articles/20231021/k00/00m/030/094000c |website=毎日新聞 |access-date=2023-10-21 |language=ja}}</ref>。
戦争中、主要なソーシャルメディア・プラットフォームであるFacebook、[[Instagram]]、[[YouTube]]、TikTokが、戦争中に親パレスチナの投稿を検閲したり、リーチを制限したりしていると非難されているときもあった。ユーザーは、「FreePalestine」や「IStandWithPalestine」のような特定のキーワードやハッシュタグを使用すると、コンテンツが非表示になったり、そのリーチが減少したりするシャドウバンニングなどの慣行を主張している<ref>{{Cite web |title=‘Significant censorship’ of Palestine on social media sparks outcry |url=https://www.aljazeera.com/features/2023/10/24/shadowbanning-are-social-media-giants-censoring-pro-palestine-voices |website=Al Jazeera |access-date=2023-11-15 |language=en |first=Priyanka Shankar,Pranav Dixit,Usaid |last=Siddiqui}}</ref>。
== 交渉 ==
[[ロイター通信]]は10月9日、カタールがイスラエルとハマース間で、イスラエルが36人のパレスチナ人女性と子どもを解放する代わりに、ハマースにイスラエル人女性の人質を解放するという交渉を仲介していると報じた<ref name=":40" />。
AP通信によるエジプト政府関係者への取材によると、イスラエルはハマースに拘束されている人質の安全を確保するためにエジプトに援助を求め、エジプト諜報部長は情報を求めるためにハマースと[[イスラーム聖戦 (パレスチナ)|イスラーム聖戦]]に接触したという。エジプト当局が、ハマースに捕らえられたイスラエル人女性と引き換えに、イスラエルの刑務所に収容されているパレスチナ人女性の釈放を仲介していることが同じくAP通信により報道された<ref name=":58">{{Cite web |title=Israel declares war, bombards Gaza and battles to dislodge Hamas fighters after surprise attack |url=https://apnews.com/article/israel-palestinians-gaza-hamas-rockets-airstrikes-tel-aviv-ca7903976387cfc1e1011ce9ea805a71 |website=AP News |date=2023-10-08 |access-date=2023-10-15 |language=en}}</ref>。
またスナクは10月19日にサウジアラビアに仲介役を求めた<ref name=":65" />。
BBCは20日、ハマースが、拘束している人質を解放する代わりに即時停戦を求める交渉を提出したことを発表した。一方イスラエル側はこれに合意していない。これに対しBBCは「人質がイスラエル軍の指揮官にとって 地上侵攻の計画を複雑にする要因となっている」とし、「人質の解放が交渉で実現できれば、一人ひとりが生きて帰れる可能性が高くなることは明らかだ」と述べている<ref name=":65" />。
== 死傷者 ==
=== 双方の死傷者 ===
イスラエル側では11月5日時点で約1400人の死亡が確認されており、内828人の民間人、31人の子供、[[ホロコースト]]生存者や女性をも含む<ref name=":83">{{Cite web |title=2023 Hostilities and Escalating Violence in the oPt {{!}} Factual Account of Events |url=https://www.diakonia.se/ihl/news/2023-hostilities-in-gaza-and-israel-factual-account-of-events/ |website=Diakonia International Humanitarian Law Centre |access-date=2023-11-09}}</ref><ref>{{Cite news2 |df=ja |title=Holocaust Survivors in Israel Faced Fresh Horror When Hamas Attacked |url=https://www.nytimes.com/2023/11/09/world/middleeast/israel-holocaust-survivors-hamas.html |work=The New York Times |date=2023-11-09 |access-date=2023-11-09 |issn=0362-4331 |language=en-US |first=Nadav |last=Gavrielov}}</ref>。後日数値が修正されている<ref>{{Cite web |url = https://news.yahoo.co.jp/articles/053338dba79ee1c73b71587ffc3b7d7f3612f583/images/000 |archiveurl = http://web.archive.org/web/20231112030451/https://news.yahoo.co.jp/articles/053338dba79ee1c73b71587ffc3b7d7f3612f583/images/000 |author = AFPBB News|title = イスラエル、10月7日襲撃の死者数1200人に修正|website = news.yahoo.co.jp|publisher = YAHOO|date = 2023-11-11|archivedate = 2023-11-12|accessdate = 2023-11-12}}</ref>。
キブツ・ベエリや[[レイム音楽祭虐殺事件|レイム]]、ガザ地区近隣のイスラエル南部各地にいた民間人が虐殺・拷問・凌辱・拉致・部位の切断および首切りなどをされ、焼死体も見つかっており<ref>{{Cite web |title=Search and rescue teams find 'mutilated' remains in Be'eri kibbutz |url=https://www.euronews.com/2023/10/21/bodies-still-being-recovered-from-israeli-village-two-weeks-after-hamas-attack |website=euronews |date=2023-10-21 |access-date=2023-11-09 |language=en |author=Kristina Harazim & Euronews}}</ref>、2023年10月7日は「イスラエル史上最悪な日」「ユダヤ人にとってのホロコースト以来の惨状」と言われている<ref name=":83" />。上記のテロ行為は生配信され、映像として残っている<ref>{{Cite news2 |df=ja |title=85-Year-Old Held Hostage in Gaza Says She ‘Went Through Hell’ |url=https://www.nytimes.com/2023/10/24/world/middleeast/israeli-hostage-gaza-yocheved-lifshitz.html |work=The New York Times |date=2023-10-24 |access-date=2023-11-09 |issn=0362-4331 |language=en-US |first=Aaron |last=Boxerman |first2=Nadav |last2=Gavrielov}}</ref><ref>{{Cite web |title=Gallant shows NATO allies uncensored footage of Hamas atrocities |url=https://www.israeltoday.co.il/read/gallant-shows-nato-allies-uncensored-footage-of-hamas-atrocities/ |website=Israel Today |access-date=2023-11-09 |language=en-US |first= |last=}}</ref>。
242人が拉致され、その内民間人が大半を占め、約30人の子供(生後10ヶ月から18歳まで)や女性、老人なども含む<ref name=":83" /><ref>{{Cite news2|df=ja|title=Israel Gaza: Children must be off limits, says father of abducted kids |url=https://www.bbc.com/news/world-middle-east-67292422 |work=BBC News |date=2023-11-02 |access-date=2023-11-09 |language=en-GB}}</ref><ref>{{Cite web |title=Holon playground waits for Israel's kidnapped children |url=https://www.jpost.com/j-spot/article-772368 |website=The Jerusalem Post {{!}} JPost.com |date=2023-11-09 |access-date=2023-11-09 |language=en-US}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.timesofisrael.com/bring-them-home-uk-sun-front-page-shows-faces-of-32-children-in-hamas-captivity/ |title=‘Bring them home’: UK Sun front page shows faces of 32 children in Hamas captivity |access-date=2023/11/09 |language=英語 |date=2023/11/02}}</ref>。
11月2日時点で負傷者は5400人以上と推定されている<ref name=":83" />。
パレスチナ側では、ガザ地区10022人の死者が<ref name=":65" />、ヨルダン川西岸地区でも144人の死亡が確認されている<ref name=":66" />。ガザ地区内の8005人の内2704人が子供であることが判明している。
ガザ地区内の負傷者は12500人以上と推定されており、ガザ地区の全住宅のうち少なくとも30%が、イスラエルの爆撃によって破壊されたか(12,845戸)、住めなくなったか(9,055戸)、軽微な損傷を受けた(121,000戸)<ref name=":67" />。
23日時点で[[国連人口基金]](UNFPA)は、ガザ地区では現在、約5万人の女性が妊娠中と推定され、1日あたり約160人が出産を予定しているものの、安全に出産するための環境が整っていないと指摘、また[[国連人道問題調整事務所]](OCHA)の22日の発表によると、[[シファ病院]]は治療の対応が可能とされる基準の7倍以上となる、およそ5000人の治療の対応を強いられているほか、4万5000人の住民が安全な場所を確保するため、病院とその周辺に身を寄せているということである<ref name=":72" />。
23日時点でロイターの報道によるとガザ北部の病院だけでも新生児集中治療室に55人の新生児がいるということも判明した<ref name=":72" />。
2023年12月29日の時点で<ref>{{Cite web |url = https://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:hNbVjeAMYNUJ:https:%2F%2Fnews.goo.ne.jp%2Farticle%2Freuters%2Fworld%2Freuters-20231230011.html&sca_esv=594650452&hl=ja&gl=jp&strip=1&vwsrc=0 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20231230231208/https://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:hNbVjeAMYNUJ:https:%2F%2Fnews.goo.ne.jp%2Farticle%2Freuters%2Fworld%2Freuters-20231230011.html&sca_esv=594650452&hl=ja&gl=jp&strip=1&vwsrc=0 |author = Nidal al-Mughrabi Arafat Barbakh|title = パレスチナ人死者、過去24時間で200人近く イスラエル軍の攻撃で|website = webcache.googleusercontent.com|publisher = news.goo.ne.jp|date = 2023-12-29|archivedate = 2023-12-31|accessdate = 2023-12-31}}</ref>、ガザ保健省当局は「パレスチナ国の死亡者が2万1507人に達した」と発表している。
=== ジャーナリストの死傷者 ===
{{see|{{仮リンク|2023年パレスチナ・イスラエル戦争において死亡したジャーナリストの一覧|en|List of journalists killed in the 2023 Israel–Hamas war}}}}
[[ジャーナリスト保護委員会]]は2023年11月6日までに、36人のジャーナリストの死亡が確認されたとした。内訳は31人がパレスチナ人、4人がイスラエル人、1人がレバノン人であった<ref name=":84" />。
また負傷者では、8人のジャーナリストが負傷し、9人が行方不明、または拘束されたことが判明している<ref name=":84" />。
10日には、ハッジタワーというガザ内にあったタワーが空爆により破壊され、3名のジャーナリストが死亡する等、ジャーナリストが殺害されるような事象がいくつも発生している<ref>{{Cite web |title=Three Palestinian journalists killed in Israel’s Gaza strike |url=https://www.newagebd.net/article/214573/three-palestinian-journalists-killed-in-israels-gaza-strike |website=New Age {{!}} The Most Popular Outspoken English Daily in Bangladesh |access-date=2023-10-19 |language=en}}</ref><ref>{{Cite web |title=3 Palestinian journalists killed, 1 injured, 2 missing, in Gaza-Israel conflict |url=https://cpj.org/2023/10/3-palestinian-journalists-killed-1-injured-2-missing-in-gaza-israel-conflict/ |website=Committee to Protect Journalists |date=2023-10-09 |access-date=2023-10-19 |language=en-US |first=Katy |last=Migiro}}</ref>。
これらのジャーナリストの複数名死亡に対して[[ジャーナリスト保護委員会]](CPJ)は11月1日、「この地域全体にいるジャーナリストは悲痛な紛争を取材するために大きな犠牲を払っていて、特にガザにいるジャーナリストは前例のない犠牲を払い続けている。ジャーナリストは危機的な状況の中で重要な仕事をしている民間人であり、紛争当事者に狙われてはならない」と懸念を示した<ref name=":84" />。
=== 外国人死傷者数 ===
ワシントンポストは10月11日時点で24か国の人々の死傷者が確認されているとした<ref>{{Cite web |title=People from 29 countries killed, missing in Israel-Gaza war: What to know |url=https://www.washingtonpost.com/world/2023/10/11/israel-hamas-war-foreign-nationals/ |website=Washington Post |date=2023-10-11 |access-date=2023-10-18 |language=en}}</ref>。
{| class="wikitable sortable"
|+2023年パレスチナ・イスラエル戦争における外国人犠牲者数
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!scope="col"|行方不明
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|scope="row"|{{flag|France}}
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|8<ref>{{Cite web|url=https://www.radiofrance.fr/franceinter/attaque-du-hamas-en-israel-35-francais-morts-et-neuf-disparus-selon-un-nouveau-bilan-4280179|title=Attaque du Hamas en Israël: 35 Français morts et neuf disparus, selon un nouveau bilan|first=La rédaction numérique de France|last=Inter|date=October 26, 2023|website=France Inter|language=fr|access-date=2023-12-01}}</ref>
|<ref name="f24list">{{Cite web|url=https://www.lemonde.fr/international/live/2023/11/06/guerre-israel-hamas-trop-c-est-trop-ceci-doit-cesser-maintenant-exhortent-les-responsables-des-principales-agences-de-l-onu_6198472_3210.html|title=Quarante Français tués et huit disparus, selon Elisabeth Borne|publisher=France 24|date=18 October 2023|access-date=18 October 2023}}</ref>
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|<ref>[https://www.khaosod.co.th/breaking-news/news_7945340?mibextid=2JQ9oc วิกฤตตัวประกัน! ไทยโดนจับเพิ่มไปอีก 1 ยอด 23 คนแล้ว เสียชีวิตคงเดิม 32]</ref>
|-
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|33<ref>{{Cite web|url=https://www.cbsnews.com/live-updates/israel-hamas-war-palestinians-biden-speech-after-gaza-hospital-blast/|title=Israel-Hamas war: More airstrikes on Gaza as aid remains stuck in Egypt; Israeli troops told to "be ready" to invade|date=October 19, 2023|publisher=CBS News|access-date=October 24, 2023|archive-date=October 19, 2023|archive-url=https://web.archive.org/web/20231019235338/https://www.cbsnews.com/live-updates/israel-hamas-war-palestinians-biden-speech-after-gaza-hospital-blast/|url-status=live}}</ref><ref>[https://www.timesofisrael.com/2-police-officers-hurt-one-critically-in-terror-stabbing-near-jerusalems-old-city/ Officer dies after being critically hurt in terror stabbing near Jerusalem's Old City]</ref>
|不明
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|<ref name="f24list" />
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|<ref>[https://www.pravda.com.ua/eng/news/2023/10/26/7425812/ Number of Ukrainian casualties rises in Israel]</ref><ref>{{Cite news2|df=ja|date=13 October 2023|title=Update: 12 Ukrainians killed in Hamas attack on Israel|language=en|work=[[The Kyiv Independent]]|url=https://kyivindependent.com/update-12-ukrainians-killed-in-hamas-attack-on-israel/|access-date=13 October 2023|archive-date=13 October 2023|archive-url=https://web.archive.org/web/20231013151323/https://kyivindependent.com/update-12-ukrainians-killed-in-hamas-attack-on-israel/|url-status=live}}</ref><ref name="kyiv">{{Cite news2|df=ja|date=19 October 2023|title=Ambassador: Ukrainian killed in Gaza Strip, 18 citizens confirmed killed in Israel|language=en|work=The Kyiv Independent|url=https://kyivindependent.com/ambassador-ukrainian-dies-in-gaza-strip/|access-date=19 October 2023|archive-date=19 October 2023|archive-url=https://web.archive.org/web/20231019101100/https://kyivindependent.com/ambassador-ukrainian-dies-in-gaza-strip/|url-status=live}}</ref>
|-
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|2<ref name="rus19">{{Cite web|date=19 October 2023|title=Число погибших в Израиле россиян увеличилось до 19|url=https://www.kommersant.ru/doc/6283364|access-date=19 October 2023|website=Коммерсантъ|language=ru|archive-date=19 October 2023|archive-url=https://web.archive.org/web/20231019130314/https://www.kommersant.ru/doc/6283364|url-status=live}}</ref>
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|<ref>[https://tass.ru/proisshestviya/19112581 В Израиле сообщили о гибели 23 россиян, четверо пропали без вести]</ref>
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|<ref name="ani">{{Cite news2|df=ja|date=7 October 2023|title=At least 7 Nepali injured, 17 held captive by Hamas in Israel: Nepal's envoy|work=ANI|url=https://www.aninews.in/news/world/asia/at-least-7-nepali-injured-17-held-captive-by-hamas-in-israel-nepals-envoy20231007181710/ |url-status=live |access-date=7 October 2023 |archive-url=https://web.archive.org/web/20231007163708/https://www.aninews.in/news/world/asia/at-least-7-nepali-injured-17-held-captive-by-hamas-in-israel-nepals-envoy20231007181710/ |archive-date=7 October 2023}}</ref>
|-
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|<ref>{{Cite news2|df=ja|last1=Kollmann|first1=Raúl|title=Confirman la novena víctima argentina en Israel|trans-title=Ninth Argentine victim confirmed in Israel|url=https://www.pagina12.com.ar/600749-confirman-la-novena-victima-argentina-en-israel|access-date=21 October 2023|work=[[Página 12]]|date=21 October 2023|language=es|archive-date=21 October 2023|archive-url=https://web.archive.org/web/20231021193302/https://www.pagina12.com.ar/600749-confirman-la-novena-victima-argentina-en-israel|url-status=live}}</ref>
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|{{flag|Portugal}}
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|<ref>{{Cite web|last=Lopes|first=Maria|date=18 October 2023|title=Identificados nove mortos em Israel com passaporte português|url=https://www.publico.pt/2023/10/18/mundo/noticia/identificados-nove-mortos-israel-passaporte-portugues-2067170|access-date=19 October 2023|website=PÚBLICO|language=pt|archive-date=19 October 2023|archive-url=https://web.archive.org/web/20231019014848/https://www.publico.pt/2023/10/18/mundo/noticia/identificados-nove-mortos-israel-passaporte-portugues-2067170|url-status=live}}</ref>
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|<ref name="f24list" /><ref>{{cite web|url=https://www.cbc.ca/news/canada/israel-gaza-vivian-silver-1.7027333|title=Canadian Israeli peace activist Vivian Silver, feared to be held hostage, confirmed killed in Hamas attacks|date=13 November 2023|access-date=2023-11-13|website=[[CBC News]]}}</ref>
|-
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|<ref>{{Cite web|url=https://borkena.com/2023/10/12/israel-hamas-war-seven-ethiopians-reportedly-killed-since-it-started/|title=Seven Ethiopians reportedly killed in Israel-Hamas War|date=12 October 2023|access-date=24 October 2023|archive-date=18 October 2023|archive-url=https://web.archive.org/web/20231018104829/https://borkena.com/2023/10/12/israel-hamas-war-seven-ethiopians-reportedly-killed-since-it-started/|url-status=live}}</ref>
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|<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://www.theguardian.com/uk-news/2023/oct/16/britons-dead-missing-hamas-attack-israel-rishi-sunak|title=Six Britons dead and 10 missing after Hamas attack on Israel, Rishi Sunak says|first=Kiran|last=Stacey|date=16 October 2023|newspaper=The Guardian|access-date=24 October 2023|archive-date=23 October 2023|archive-url=https://web.archive.org/web/20231023182323/https://www.theguardian.com/uk-news/2023/oct/16/britons-dead-missing-hamas-attack-israel-rishi-sunak|url-status=live}}</ref>
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|<ref>{{cite web|url=https://www.euronews.ro/articole/inca-un-cetatean-de-origine-romana-mort-in-conflictul-din-orientul-mijlociu-numar|title=Încă un cetățean de origine română, mort în conflictul din Orientul Mijlociu. Numărul victimelor a ajuns la cinci|agency=[[Euronews|Euronews Romania]]|language=ro|date=22 October 2023|access-date=22 October 2023|archive-date=24 October 2023|archive-url=https://web.archive.org/web/20231024205652/https://www.euronews.ro/articole/inca-un-cetatean-de-origine-romana-mort-in-conflictul-din-orientul-mijlociu-numar|url-status=live}}</ref><ref>{{Cite news2 |df=ja |title=MAE: Un cetățean român a fost răpit de Hamas și luat ostatic în Gaza |url=https://www.digi24.ro/stiri/actualitate/mae-un-cetatean-roman-a-fost-rapit-de-hamas-si-luat-ostatic-in-gaza-2551015 |access-date=22 October 2023 |work=www.digi24.ro |date=22 October 2023 |language=ro |archive-date=24 October 2023 |archive-url=https://web.archive.org/web/20231024205705/https://www.digi24.ro/stiri/actualitate/mae-un-cetatean-roman-a-fost-rapit-de-hamas-si-luat-ostatic-in-gaza-2551015 |url-status=live }}</ref>
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|scope="row"|{{flag|Chile}}
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|<ref>{{cite web|date=11 October 2023|title=Al menos cuatro chilenos muertos por los ataques de Hamás contra Israel|trans-title=|url=https://www.europapress.es/internacional/noticia-menos-cuatro-chilenos-muertos-ataques-hamas-contra-israel-20231011075024.html|access-date=11 October 2023|agency=[[Europa Press]]|language=es|archive-date=12 October 2023|archive-url=https://web.archive.org/web/20231012190352/https://www.europapress.es/internacional/noticia-menos-cuatro-chilenos-muertos-ataques-hamas-contra-israel-20231011075024.html|url-status=live}}</ref><ref>{{Cite news2 |df=ja |url=https://elpais.com/chile/2023-11-08/chile-confirma-la-muerte-de-loren-garcovich-secuestrada-por-hamas-en-israel.html |title=Chile confirma la muerte de Loren Garcovich, desaparecida desde el ataque de Hamás en Israel |first=Rocío |last=Montes |date=8 November 2023 |access-date=10 November 2023 |newspaper=[[El País]] |language=es}}</ref><ref>{{Cite news2 |df=ja |url=https://www.diariovasco.com/internacional/oriente-proximo/apaga-esperanza-danny-garcovich-suegro-ivan-illarramendi-asesinado-hamas-20231108143315-nt.html |title=Se apagó «la esperanza» para Danny Garcovich, el suegro de Iván Illarramendi |author=A.A. |date=8 November 2023 |access-date=10 November 2023 |newspaper=[[Diario Vasco]] |language=es}}</ref>
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|<ref name="MFA_Austria-2023">{{cite tweet|number=1712091489075921205|user=MFA_Austria|title=It is our sad duty to announce that one of the three missing Austrian-Israeli dual citizens was found dead. He is one of the countless victims of the brutal large-scale attack on #Israel by the terrorist organization #Hamas. The family of the deceased informed us about this today|author=Austrian Ministry of Foreign Affairs|author-link=Ministry of Foreign Affairs (Austria)|access-date=11 October 2023|language=en}}</ref><ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://www.derstandard.at/story/3000000190956/zwei-weitere-oesterreicher-nach-hamas-angriff-tot|title=Zwei weitere Österreicher nach Hamas-Angriff tot|newspaper=[[Der Standard]]|date=13 October 2023|access-date=13 October 2023|archive-date=13 October 2023|archive-url=https://web.archive.org/web/20231013183109/https://www.derstandard.at/story/3000000190956/zwei-weitere-oesterreicher-nach-hamas-angriff-tot|url-status=live}}</ref>
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|<ref name="f24list" />
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|scope="row"|{{flag|Philippines}}
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|<ref name="abs4">{{Cite news2|df=ja|date=19 October 2023|title=Fourth Filipino killed in Israel after Hamas attack|publisher=[[ABS-CBN]]|url=https://news.abs-cbn.com/news/10/19/23/fourth-filipino-killed-in-israel-hamas-war|url-status=live|access-date=20 October 2023|archive-date=19 October 2023|archive-url=https://web.archive.org/web/20231019143858/https://news.abs-cbn.com/news/10/19/23/fourth-filipino-killed-in-israel-hamas-war}}</ref>
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|<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://www.france24.com/en/live-news/20231009-foreigners-killed-missing-or-abducted-in-hamas-attack|title=Foreigners killed, abducted or missing in Hamas attack|publisher=[[France 24]]|date=9 October 2023|access-date=14 October 2023|archive-date=14 October 2023|archive-url=https://web.archive.org/web/20231014201332/https://www.france24.com/en/live-news/20231009-foreigners-killed-missing-or-abducted-in-hamas-attack|url-status=live}}</ref>
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|scope="row"|{{flag|Brazil}}
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|不明
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|<ref>{{cite web|date=15 October 2023|title=Guerra de Israel: Itamaraty confirma terceira brasileira morta no conflito|url=https://www.cnnbrasil.com.br/internacional/guerra-de-israel-itamaraty-confirma-terceira-brasileira-morta-no-conflito/|url-status=live|access-date=13 October 2023|publisher=CNN Brasil|language=pt|archive-date=14 October 2023|archive-url=https://web.archive.org/web/20231014024354/https://www.cnnbrasil.com.br/internacional/guerra-de-israel-itamaraty-confirma-terceira-brasileira-morta-no-conflito/}}</ref>
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| scope="row" |{{flag|Turkey}}
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|不明
|<ref>{{Cite news2|df=ja|date=17 October 2023|title=İsrail: Hamas'ın saldırılarında 3 Türk vatandaşı öldü|trans-title=Israel: 3 Turkish citizens died in Hamas attacks|url=https://www.ntv.com.tr/dunya/son-dakika-haberi-israil-hamasin-saldirilarinda-3-turk-vatandasi-oldu,OJhvjwmx2UWUZgwhHUvTdA|language=tr|publisher=[[NTV (Turkish TV channel)|NTV]]|access-date=17 October 2023|archive-date=17 October 2023|archive-url=https://web.archive.org/web/20231017123958/https://www.ntv.com.tr/dunya/son-dakika-haberi-israil-hamasin-saldirilarinda-3-turk-vatandasi-oldu,OJhvjwmx2UWUZgwhHUvTdA|url-status=live}}</ref>
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|2
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|不明
|<ref name="colombia">{{cite web|last=Garcia Castro|first=Sebastian|date=13 October 2023|title=Colombiano Antonio Macías fue asesinado en Israel, era pareja de Ivonne Rubio|url=https://www.eltiempo.com/mundo/medio-oriente/murio-antonio-macias-montano-colombiano-en-israel-y-pareja-de-ivonne-rubio-815842|access-date=13 October 2023|work=[[El Tiempo (Colombia)|El Tiempo]]|language=es-CO|archive-date=13 October 2023|archive-url=https://web.archive.org/web/20231013162837/https://www.eltiempo.com/mundo/medio-oriente/murio-antonio-macias-montano-colombiano-en-israel-y-pareja-de-ivonne-rubio-815842|url-status=live}}</ref>
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|<ref name="bbcforeign9oct2">{{Cite news2|df=ja|date=9 October 2023|title=Hamas Israel attacks: The international victims of the assault on Israel|agency=[[BBC News]]|url=https://www.bbc.com/news/world-middle-east-67054825 |url-status=live |access-date=9 October 2023 |archive-url=https://web.archive.org/web/20231009163704/https://www.bbc.com/news/world-middle-east-67054825 |archive-date=9 October 2023}}</ref>
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|<ref>{{Cite news2|df=ja|title=Australian grandmother Galit Carbone confirmed killed in Israel|url=https://www.abc.net.au/news/2023-10-11/australian-galit-carbone-killed-in-hamas-israel-attack/102955552|publisher=ABC News (Australia)|date=10 October 2023|access-date=10 October 2023|archive-date=10 October 2023|archive-url=https://web.archive.org/web/20231010220414/https://www.abc.net.au/news/2023-10-11/australian-galit-carbone-killed-in-hamas-israel-attack/102955552|url-status=live}}</ref>
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|<ref>{{Cite news2|df=ja|last1=Farge|first1=Emma|last2=Janowski|first2=Tomasz|date=13 October 2023|title=Swiss national dead in Israel violence – foreign minister|url=https://www.reuters.com/article/israel-palestinians-switzerland/swiss-national-dead-in-israel-violence-foreign-minister-idUKL8N3BJ40S|access-date=13 October 2023|publisher=Reuters|language=en-US|archive-date=13 October 2023|archive-url=https://web.archive.org/web/20231013183109/https://www.reuters.com/article/israel-palestinians-switzerland/swiss-national-dead-in-israel-violence-foreign-minister-idUKL8N3BJ40S|url-status=live}}</ref>
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|<ref>{{Cite news2|df=ja|date=9 October 2023|title=Tanzanian students missing in Israel following Hamas attack|work=Africanews|url=https://www.africanews.com/2023/10/09/tanzanian-students-missing-in-israel-following-hamas-attack/ |url-status=live |access-date=9 October 2023 |archive-url=https://web.archive.org/web/20231009170738/https://www.africanews.com/2023/10/09/tanzanian-students-missing-in-israel-following-hamas-attack/ |archive-date=9 October 2023}}</ref>
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|<ref>{{Cite news2 |df=ja |title=International alarm as Polish-Israeli historian abducted by Hamas |work=TVP World |url=https://tvpworld.com/73294388/international-alarm-as-polish-israeli-historian-abducted-by-hamas}}</ref>
|}
== 交戦勢力および支持・支援勢力の推移 ==
[[File:International reactions to the 2023 Gaza–Israel war.svg|thumb|300px|right|2023年パレスチナ・イスラエル戦争に対する国際社会の反応。
----
{{legend|#0099ff|イスラエルを支持またはハマースを非難した国}}
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{{legend|#FF6600|ハマースを支持またはイスラエルを非難した国}}
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{{legend|#FF0000|パレスチナ}}
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===イスラエル側===
交戦勢力は最新版時点でイスラエル・同国国防軍のみ。
====支持国====
イスラエル側支持国。●は支援を表明した国。
*{{Flagicon|EU}} [[欧州連合]]<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20231008-OYT1T50134/ |title=ハマス攻撃、欧州がイスラエル支持…EU委員長「テロリストは罪のない女性や子どもを殺害」 |newspaper=[[読売新聞]] |date=2023-10-08 |accessdate=2023-10-11}}</ref><ref name="israel shiji">{{Cite news2|df=ja|url=https://www.abc.net.au/news/2023-10-07/world-reacts-to-surprise-hamas-attack-on-israel/102947964 |title=United States security officials, Rishi Sunak and other world leaders react to surprise Hamas attack on Israel |newspaper=ABC NEWS |date=2023-10-08 |accessdate=2023-10-11}}</ref>
*{{USA}}●<ref>{{Cite news2|df=ja|url= https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231009/k10014219571000.html|title= 米 イスラエル軍に軍事装備品の供与開始 追加の軍事支援も |newspaper=NHK|date=2023-10-09 |accessdate=2023-10-12}}</ref><ref name="共同声明">{{Cite news2|df=ja|url= https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000319157.html?display=full|title=欧米5カ国共同声明 イスラエルへ「揺るぎない結束した支持」を表明|newspaper=テレ朝news|date=2023-10-10|accessdate=2023-10-12}}</ref>
*{{UK}}●<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/766709 |title=イギリス・スナク首相「イスラエルが望むいかなる支援も行う」 イスラエル・ネタニヤフ首相と電話会談し、支援を表明 |newspaper=TBS NEWS DIG |date=2023-10-09 |accessdate=2023-10-11}}</ref><ref name="共同声明" /><ref>{{Cite web |title=UK will send Royal Navy vessels and spy planes to support Israel - Times|url=https://www.reuters.com/world/uk/uk-will-send-royal-navy-vessels-spy-planes-support-israel-times-2023-10-12/|website=Reuters News|access-date=2023-10-13 |language=en}}</ref>
* {{DEU}}●<ref name="共同声明" /><ref>{{Cite news2|df=ja|url= https://www.dw.com/en/germany-offers-israel-military-help/video-67083430|title= Germany offers Israel military help |newspaper=DW News|date=2023-10-12|accessdate=2023-10-15}}</ref>
* {{FRA}}<ref name="共同声明" />
* {{AUT}}<ref>{{Cite web |date=2023-10-09 |title=Austria Suspends Aid For Palestinians After Hamas Attack |url=https://www.barrons.com/news/austria-suspends-aid-for-palestinians-after-hamas-attack-8ea1a10d |access-date=2023-10-09 |website=Barron's |archive-date=October 9, 2023 |archive-url=https://web.archive.org/web/20231009125807/https://www.barrons.com/news/austria-suspends-aid-for-palestinians-after-hamas-attack-8ea1a10d |url-status=live}}</ref>
* {{ITA}}<ref name="共同声明" />
*{{CAN}}<ref>{{Cite web |title=Statement by the Prime Minister on attacks against Israel |url=https://www.pm.gc.ca/en/news/statements/2023/10/08/statement-prime-minister-trudeau-attacks-against-israel |website=prime minister of canada |access-date=2023-10-11 |language=en}}</ref>
*{{UKR}}<ref name="israel shiji"/><ref name=":10">{{Cite web |title=ロシア「紛争は外交的解決を」 ウクライナ大統領はイスラエル支持 |url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023100800245&g=int |website=時事ドットコム |access-date=2023-10-11 |language=ja}}</ref>
*{{EST}}<ref>{{Cite news2 |df=ja |url=https://www.riigikogu.ee/en/news-from-committees/foreign-affairs-committee/chair-of-the-foreign-affairs-committee-condemns-hamas-attacks-against-israel/ |title=Chair of the Foreign Affairs Committee condemns Hamas attacks against Israel |date=8 October 2023 |access-date=9 October 2023 |author=Riigikogu Press Service |website=riigikogu.ee |archive-date=October 8, 2023 |archive-url=https://web.archive.org/web/20231008185950/https://www.riigikogu.ee/en/news-from-committees/foreign-affairs-committee/chair-of-the-foreign-affairs-committee-condemns-hamas-attacks-against-israel/ |url-status=live}}</ref>
*{{LAT}}<ref>{{Cite news2 |df=ja |url=https://eng.lsm.lv/article/politics/saeima/09.10.2023-latvia-pledges-unwavering-support-to-israels-legitimate-right-to-defend-itself-after-hamas-terror-attack.a527029/ |title=Latvia pledges 'unwavering support to Israel's legitimate right to defend itself' after Hamas terror attack |date=9 October 2023 |access-date=9 October 2023 |author=Eng.LSM.lv (Latvian Public Broadcasting) |archive-date=October 9, 2023 |archive-url=https://web.archive.org/web/20231009105342/https://eng.lsm.lv/article/politics/saeima/09.10.2023-latvia-pledges-unwavering-support-to-israels-legitimate-right-to-defend-itself-after-hamas-terror-attack.a527029/ |url-status=live}}</ref>
*{{LTU}}<ref>{{citation|title=G. Nausėda: Lietuva smerkia "Hamas" atakas, Izraelis turi teisę gintis|url=https://www.lrytas.lt/lietuvosdiena/aktualijos/2023/10/07/news/g-nauseda-lietuva-smerkia-hamas-atakas-izraelis-turi-teise-gintis-28640703|archive-url=https://web.archive.org/web/20231007164955/https://www.lrytas.lt/lietuvosdiena/aktualijos/2023/10/07/news/g-nauseda-lietuva-smerkia-hamas-atakas-izraelis-turi-teise-gintis-28640703|archive-date=2023-10-07|access-date=2023-10-08|url-status=live}}</ref><ref>{{cite web |title=Lithuania's parliament condemns Hamas attacks in Israel |url=https://www.lrt.lt/en/news-in-english/19/2096644/lithuania-s-parliament-condemns-hamas-attacks-in-israel |date=10 October 2023 |access-date=10 October 2023 |website=LRT |archive-date=October 10, 2023 |archive-url=https://web.archive.org/web/20231010233105/https://www.lrt.lt/en/news-in-english/19/2096644/lithuania-s-parliament-condemns-hamas-attacks-in-israel |url-status=live}}</ref>
*{{BUL}}<ref>{{Cite news2 |df=ja |url=https://sofiaglobe.com/2023/10/07/bulgaria-condemns-hamas-terrorist-attack-on-israel/ |title=Bulgaria condemns Hamas terrorist attack on Israel |date=7 October 2023 |access-date=9 October 2023 |publisher=The Sofia Globe |archive-date=October 7, 2023 |archive-url=https://web.archive.org/web/20231007214254/https://sofiaglobe.com/2023/10/07/bulgaria-condemns-hamas-terrorist-attack-on-israel/ |url-status=live}}</ref>
*{{HRV}}<ref>{{Cite news2 |df=ja |date=7 October 2023 |title=Hrvatska snažno osudila napad Hamasa na Izrael: 'Šokantno i neprihvatljivo' |trans-title=Croatia fiercly condemned Hamas' attack on Israel: 'Shocking and unacceptable' |url=https://www.jutarnji.hr/vijesti/svijet/hrvatska-snazno-osudila-napad-hamasa-na-izrael-sokantno-i-neprihvatljivo-15381918 |language=hr |work=Jutarnji list |location=Zagreb |access-date=11 October 2023 |archive-date=October 8, 2023 |archive-url=https://web.archive.org/web/20231008070737/https://www.jutarnji.hr/vijesti/svijet/hrvatska-snazno-osudila-napad-hamasa-na-izrael-sokantno-i-neprihvatljivo-15381918 |url-status=live}}</ref>
*{{CHE}}<ref name="israel shiji"/>
*{{GEO}}<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://agenda.ge/en/news/2023/3742|title=“Deeply concerned” with recent escalation in Israel, Georgia stands in “full solidarity” with country - President|newspaper=AGENDA.GE|date=2023-10-08|accessdate=2023-10-14}}</ref>
*{{NOR}}<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://www.newsinenglish.no/2023/10/07/norway-condemns-attack-on-israel/ |title=norway condemns attacks on Israel |newspaper=NEWSinENGLISH |date=2023-10-07 |accessdate=2023-10-11}}</ref>
*{{ISL}}<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://icelandmonitor.mbl.is/news/news/2023/10/08/condemn_the_attacks_of_hamas/ |title=Condemn the attacks of Hamas |newspaper=iceland monitor |date=2023-10-08 |accessdate=2023-10-11}}</ref>
*{{DEN}}<ref>{{Cite news2 |df=ja |title=Lars Løkke fordømmer angreb på Israel: Terrorisme |url=https://onp.dk/nyheder/politik/lars-loekke-fordoemmer-angreb-paa-israel-terrorisme/ |date=7 October 2023 |publisher=onp.dk |access-date=7 October 2023 |archive-date=7 October 2023 |archive-url=https://web.archive.org/web/20231007163715/https://onp.dk/nyheder/politik/lars-loekke-fordoemmer-angreb-paa-israel-terrorisme/ |url-status=live}}</ref>
*{{Flagicon|Kosovo}} [[コソボ]]<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://www.rtklive.com/sq/news-single.php?ID=648423&fbclid=IwAR3K3dDJfcQPDYSNLJmXmwjVze1NBylamOjU5xlPAlg8fGdLAF3yzj-_UbQ |title= Kosova dënon sulmin terrorist në Izrael |newspaper=RTK LIVE |date=2023-10-07 |accessdate=2023-10-11}}</ref>
*{{MDA}}<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://unimedia.info/ro/news/f7d0de18688dda18/maia-sandu-condamna-atacurile-din-israel-sunt-consternata-gandurile-mele-sunt-la-toti-cei-care-se-apara.html |title=Maia Sandu condamnă atacurile din Israel: Sunt consternată. Gândurile mele sunt la toți cei care se apără |newspaper=UNIMEDIA |date=2023-10-08 |accessdate=2023-10-11}}</ref>
*{{CYP}}<ref>{{Cite X post|number=1710568730378322219|user=CyprusinIsrael|title=Cyprus strongly condemns today's heavy rocket attack against Israel and the terrorist infiltration in the south of the country. We stand with Israel.|work=CyprusinIsrael|date=7 October 2023|access-date=2023-12-01}}</ref><ref>{{Cite web |last=Kades |first=Andria |date=October 7, 2023 |title=Cyprus condemns Hamas attack on Israel (Updated) |url=https://cyprus-mail.com/2023/10/07/cyprus-condemns-hamas-attack-on-israel/ |url-status=live |website=Cyprus Mail |access-date=2023-10-07 |archive-date=October 7, 2023 |archive-url=https://web.archive.org/web/20231007174727/https://cyprus-mail.com/2023/10/07/cyprus-condemns-hamas-attack-on-israel/}}</ref>
*{{ARG}}<ref>{{Cite news2 |df=ja |title=El Gobierno deploró el ataque a Israel y reforzó la seguridad |url=https://www.telam.com.ar/notas/202310/642683-gobierno-argentino-condena-ataques-hamas-israel.html |access-date=8 October 2023 |work=[[Télam]] |date=8 October 2023 |language=es |archive-date=October 8, 2023 |archive-url=https://web.archive.org/web/20231008001924/https://www.telam.com.ar/notas/202310/642683-gobierno-argentino-condena-ataques-hamas-israel.html |url-status=live}}</ref> <ref>{{Cite news2 |df=ja |title=Comunicado de la Cancillería argentina |url=https://cancilleria.gob.ar/es/actualidad/noticias/comunicado-de-la-cancilleria-argentina |access-date=7 October 2023 |publisher=[[Ministry of Foreign Affairs and Worship]] |date=7 October 2023 |language=es |archive-date=7 October 2023 |archive-url=https://web.archive.org/web/20231007134905/https://cancilleria.gob.ar/es/actualidad/noticias/comunicado-de-la-cancilleria-argentina |url-status=live}}</ref>
*{{SLV}}<ref>{{cite web |url=https://diario.elmundo.sv/politica/bukele-llama-bestias-salvajes-a-grupo-terrorista-hamas-y-los-compara-con-la-ms-13 |title=Bukele llama "bestias salvajes" a grupo terrorista Hamás y los compara con la MS-13 |trans-title=Bukele calles terrorist group Hamas "savage beasts" and compares them with MS-13 |language=es |work=[[El Mundo (El Salvador)|El Mundo]] |date=8 October 2023 |access-date=8 October 2023 |archive-date=October 9, 2023 |archive-url=https://web.archive.org/web/20231009061516/https://diario.elmundo.sv/politica/bukele-llama-bestias-salvajes-a-grupo-terrorista-hamas-y-los-compara-con-la-ms-13 |url-status=live}}</ref>
*{{GUA}}<ref>{{Cite web |url=https://prensa.gob.gt/comunicado/el-gobierno-de-guatemala-condena-energicamente-los-ataques-israel-desde-gaza |title=El Gobierno de Guatemala condena enérgicamente los ataques a Israel desde Gaza |trans-title=The Government of Guatemala strongly condemns the attacks on Israel coming from Gaza |author=Ministerio de Relaciones Exteriores |date=8 October 2023 |access-date=8 October 2023 |language=es |website=prensa.gob.gt}}</ref>
*{{IND}}<ref>{{Cite news2|df=ja|url= https://wedge.ismedia.jp/articles/-/31709?layout=b |title= 中立なインドがハマス攻撃でイスラエルを支持する理由|newspaper=WedgeONLINE|date=2023-10-12 |accessdate=2023-10-12}}</ref>
*{{TWN}}<ref>{{Cite X|number=1710574305254285469|user=MOFS_Taiwan|title=#Taiwan strongly condemns the indiscriminate attacks against Israelis carried out by #Hamas. We stand in solidarity with #Israel & denounce all forms of terrorism. Our thoughts are with the victims & families at this tragic juncture.|author=外交部 Ministry of Foreign Affairs, ROC (Taiwan) 🇹🇼|date=7 October 2023 |access-date=2023-12-01}}</ref><ref>{{Cite news2 |df=ja |last1=Yeh |first1=Joseph |last2=Yu |first2=Hsiao-han |title=Taiwan condemns Hamas attack on Israeli civilians, raises travel alert |url=https://focustaiwan.tw/politics/202310080005 |access-date=9 October 2023 |work=[[Central News Agency (Taiwan)]] |date=8 October 2023 |url-status=live |archive-date=October 9, 2023 |archive-url=https://web.archive.org/web/20231009065920/https://focustaiwan.tw/politics/202310080005}}</ref>
*{{AUS}}<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://www.sbs.com.au/news/article/anthony-albanese-condemns-indiscriminate-and-abhorrent-hamas-attack-on-israel/8k0w7uevp|title=Anthony Albanese condemns 'indiscriminate and abhorrent' Hamas attack on Israel|newspaper=SBS News|date=2023-10-08|accessdate=2023-10-14}}</ref>
*{{NZL}}<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://www.1news.co.nz/2023/10/08/hamas-attacks-on-israel-chris-hipkins-nz-leaders-respond/|title=Hamas attacks on Israel: Chris Hipkins, NZ leaders respond|newspaper=1 News|date=2023-10-08|accessdate=2023-10-14}}</ref>
*{{SSD}}<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://sudantribune.com/article278234/|title=South Sudan President writes to Israeli PM over attacks|newspaper=SUDAN TRIBUNE |date=2023-10-11 |accessdate=2023-10-15}}</ref>
*{{KEN}} <ref name ="israel shiji 2">{{Cite news2|df=ja|url=https://www.upi.com/amp/Top_News/World-News/2023/10/07/african-nations-divided-support-israel-palestine-call-for-peace/6481696730095/ |title=African nations divided on support for Israel, Palestine but call for peace |newspaper=UPI |date=2023-10-08 |accessdate=2023-10-11}}</ref>
*{{flag|Ghana}}<ref>{{Cite web |url=https://www.myjoyonline.com/ghana-condemns-israel-gaza-conflict-reaffirms-support-for-israel/ |title=Ghana condemns Israel-Gaza conflict; reaffirms support for Israel - MyJoyOnline.com |date=October 9, 2023 |website=www.myjoyonline.com |access-date=October 10, 2023 |archive-date=October 10, 2023 |archive-url=https://web.archive.org/web/20231010232443/https://www.myjoyonline.com/ghana-condemns-israel-gaza-conflict-reaffirms-support-for-israel/ |url-status=live}}</ref>
*{{COD}}<ref name ="israel shiji 2"/>
*{{flag|Zambia}}<ref name="African_reactions_Oct9">{{Cite web |url=https://www.the-star.co.ke/news/africa/2023-10-09-how-african-countries-have-split-over-israel-gaza-conflict/ |title=How African countries have split over Israel-Gaza conflict |access-date=October 9, 2023 |archive-date=October 9, 2023 |archive-url=https://web.archive.org/web/20231009185403/https://www.the-star.co.ke/news/africa/2023-10-09-how-african-countries-have-split-over-israel-gaza-conflict/ |url-status=live}}</ref>
===パレスチナ武装勢力側===
ハマース、ヒズボラ、PIJのほか、DFLP<ref>{{Cite news2 |df=ja |url=https://english.almayadeen.net/news/politics/al-qassam-fighters-engage-iof-on-seven-fronts-outside-gaza: |title=Al-Qassam fighters engage IOF on seven fronts outside Gaza: Statement |date=8 October 2023 |website=Al Mayadeen English |archive-url=https://web.archive.org/web/20231008121355/https://english.almayadeen.net/news/politics/al-qassam-fighters-engage-iof-on-seven-fronts-outside-gaza: |access-date=8 October 2023 |archive-date=8 October 2023}}</ref>、PFLP<ref>{{Cite news2 |df=ja |url=https://www.alahednews.com.lb/fastnewsdetails.php?fstid=217239|title=الجبهة الشعبية: قرار الإدارة الأمريكية بتوفير الدعم للكيان هدفه تطويق النتائج الاستراتيجية لمعركة طوفان الأقصى|website=alahednews.com.lb|access-date=8 October 2023|archive-date=9 October 2023|archive-url=https://web.archive.org/web/20231009000624/https://www.alahednews.com.lb/fastnewsdetails.php?fstid=217239|url-status=live}}</ref>、[[ライオンの巣]]<ref name="roya">{{Cite news2 |df=ja |title=Qassam Brigades announces control of 'Erez Crossing' |url=https://en.royanews.tv/news/44975/2023-10-07 |work=Roya News |date=7 October 2023 |access-date=7 October 2023 |archive-date=7 October 2023 |archive-url=https://web.archive.org/web/20231007102147/https://en.royanews.tv/news/44975/2023-10-07 |url-status=live}}</ref>などの武装勢力の関与も取り沙汰されている。
====支持国====
パレスチナ武装組織側支持国。●は支援を表明した国
*{{IRN}}●<ref name=":0" /><ref>{{Cite news2|df=ja|url= https://www.yomiuri.co.jp/world/20231012-OYT1T50037/|title= ハマス支援を公言、イランが主導する「イスラム圏結束」…今回の戦闘への「黒幕」疑惑残る |newspaper=讀賣新聞|date=2023-10-12|accessdate=2023-10-12}}</ref>
*{{SYR}}<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://www.reuters.com/world/middle-east/israel-fires-back-after-syrian-shells-land-israeli-territory-military-2023-10-10/ |title=Israel fires back after Syrian shells land in Israeli territory -military |newspaper=[[ロイター]] |date=2023-10-11 |accessdate=2023-10-12}}</ref><ref name="アラブ" />
*{{AFG}}<ref>{{Cite news2 |df=ja |date=2023-10-07 |title=Pakistan, Afghanistan show support to Palestine, calls for "cessation of hostilities" |newspaper=The Economic Times |url=https://economictimes.indiatimes.com/news/defence/pakistan-afghanistan-show-support-to-palestine-calls-for-cessation-of-hostilities/articleshow/104245296.cms?from=mdr%5C |access-date=2023-10-07 |archive-date=2023-10-07 |archive-url=https://web.archive.org/web/20231007183550/https://economictimes.indiatimes.com/news/defence/pakistan-afghanistan-show-support-to-palestine-calls-for-cessation-of-hostilities/articleshow/104245296.cms?from=mdr%5C |url-status=live}}</ref>
*{{PRK}}<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://jp.reuters.com/world/security/IBXFUZDPDBM5FHBT772QAH35ZA-2023-10-10/ |title=北朝鮮国営メディア、イスラエル非難 軍事衝突で |newspaper=[[ロイター]] |date=2023-10-10 |accessdate=2023-10-12}}</ref><ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://www.chosunonline.com/m/svc/article.html?contid=2023101180034|title=ハマスのトンネル建設に北朝鮮の技術|newspaper=[[朝鮮日報]] |date=2023-10-11|accessdate=2023-10-13}}</ref><ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://news.ntv.co.jp/category/international/4d21baf0feba42feb6616a58e340bacd|title=「ハマス」と北朝鮮“武器取引や訓練”で連携 韓国軍が見方示す|newspaper=日テレNEWS NNN|date=2023-10-17|accessdate=2023-10-17}}</ref>
*{{IRQ}}<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://www.france24.com/en/middle-east/20231007-sirens-heard-as-dozens-of-rockets-fired-from-gaza-towards-israel |title=More than 200 Israelis killed in surprise Hamas assault on Israel, 232 killed in Gaza |newspaper=france24 |date=2023-10-10 |accessdate=2023-10-12}}</ref><ref>{{Cite news2 |df=ja |title=Iraq reaffirms 'full solidarity' with Palestine and Gaza, Sadr calls for 'million-strong' protest on Friday|url=https://www.newarab.com/news/iraq-reaffirms-full-solidarity-palestine-and-gaza?amp|work=THE NEW ARAB|date=9 October 2023 |access-date=13 October 2023 }}</ref><ref>{{Cite news ja|url= https://www.jetro.go.jp/biznews/2023/10/be74203f430d34c5.html|title= イラク、パレスチナへの支持を表明|newspaper=JETRO|date=2023-10-12|accessdate=2023-10-13}}</ref><ref name="アラブ" />
*{{YEM}}<ref name ="israel shiji 2"/>
*{{QAT}}<ref>{{Cite news2|df=ja|title=Qatar holds Israel responsible for escalation in Gaza|url=https://www.aa.com.tr/en/middle-east/qatar-holds-israel-responsible-for-escalation-in-gaza/3010716|work=Anadolu Agency|date=7 October 2023 |access-date=11 October 2023 }}</ref><ref name="アラブ" />
*{{KWT}} <ref>{{Cite news2 |df=ja |title= Arab states call for restraint after Hamas attack — but some blame Israel
|url=https://forward.com/fast-forward/563491/arab-states-gaza-hamas-israel-attack-blame-reaction/?amp=1 |work=Forward|date=7 October 2023 |access-date=11 October 2023 }}</ref>
*{{DZA}}<ref name ="israel shiji 2"/>
*{{TUN}}<ref name ="israel shiji 2"/>
*{{CUB}}<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://english.almayadeen.net/news/politics/escalation-is-a-result-of-75-years-of-israeli-violations:-cu |title=Escalation is a result of 75 years of Israeli violations: Cuba |newspaper=almayadeen |date=2023-10-08 |accessdate=2023-10-12}}</ref>
*{{DJI}}<ref name="African_reactions_Oct9" />
*{{SDN}}<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://english.news.cn/20231008/9ec33e9411d54089a6e74457f10e5aa1/c.html#:~:text=%22Sudan%20renews%20its%20support%20for,Ministry%20said%20in%20a%20statement |title=Sudan voices support for Palestinians' legitimate rights |newspaper=XINHUANET |date=2023-10-08 |accessdate=2023-10-12}}</ref>
*{{LBA}}<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://libyaobserver.ly/news/libyas-parliament-expresses-rock-solid-support-palestinian-rights |title=Libya's Parliament expresses rock-solid support for Palestinian rights |newspaper=lybya observer |date=2023-10-08 |accessdate=2023-10-12}}</ref>
*{{ZAF}} <ref name=":41">{{Cite news2 |df=ja |url=https://x.com/visegrad24/status/1713192665007743405?s=46 |title=South Africa's President, Cyril Ramaphosa, appears at an anti-israel protest wearing a Palestinian headscarf, saying South Africa supports the people in Gaza and their demands for national sovereignty |newspaper=Visegrád 24 |date=2023-10-14 |accessdate=2023-10-15}}</ref>
*{{MYS}}<ref name=":42">{{Cite news2 |df=ja |url=https://dunia.rmol.id/read/2023/10/09/592328/malaysia-nyatakan-solidaritas-untuk-perjuangan-rakyat-palestina |title=Malaysia Nyatakan Solidaritas untuk Perjuangan Rakyat Palestina |newspaper=Republik Merdeka Online |date=2023-10-09 |accessdate=2023-10-14}}</ref>
*{{BRN}}<ref>{{Cite news2|df=ja|url= https://borneobulletin.com.bn/brunei-reiterates-solidarity-with-palestinians/|title=Brunei reiterates solidarity with Palestinians|newspaper=Borneo Bulletin|date=2023-10-09|accessdate=2023-10-15}}</ref>
*{{MDV}}<ref>{{Cite news2|df=ja|url= https://edition.mv/news/29564|title= Maldives to show solidarity with Palestine on Friday|newspaper=THE edition|date=2023-10-12|accessdate=2023-10-18}}</ref><ref>{{Cite news2|df=ja|url= https://raajje.mv/143419|title= Maldives holds rally in solidarity with Palestine |newspaper=Raajje.mv|date=2023-10-13|accessdate=2023-10-18}}</ref>
*{{NCA}}<ref name ="israel shiji 2"/>
*{{MTN}}<ref name ="israel shiji 2"/>
=== 中立的立場 ===
これらの国は中立的立場を宣言している。なお、双方に自制を促した国、いずれか一方のみを非難しつつ、もう一方についても肯定的でない立場の国を含む。
*{{SAU}}<ref name="israel shiji"/><ref>{{Cite news2|df=ja|url= https://www.jetro.go.jp/biznews/2023/10/978ee421f5279ee6.html|title= サウジアラビア、イスラエルとハマスの暴力の激化を止めるよう呼びかけ|newspaper=JETRO|date=2023-10-10 |accessdate=2023-10-12}}</ref><ref name="アラブ">{{Cite news2|df=ja|url= https://sp.m.jiji.com/article/show/3068012|title= 割れるアラブ諸国の反応=イスラエル、サウジの正常化に暗雲―ハマス攻撃|newspaper=時事通信|date=2023-10-08|accessdate=2023-10-13}}</ref>
*{{ARE}}<ref>{{Cite news2|df=ja|url= https://www.reuters.com/world/middle-east/uae-calls-hamas-attacks-israel-serious-grave-escalation-2023-10-08/|title=UAE Calls Hamas Attacks on Israel a 'Serious and Grave Escalation' |newspaper=U.S NEWS |date=2023-10-08 |accessdate=2023-10-11}}</ref><ref>{{Cite news2|df=ja|url= https://www.jetro.go.jp/biznews/2023/10/b09a8cfd5eff15f3.html|title= UAE外務省、ハマスとイスラエルの武力衝突について民間人の保護を呼びかける |newspaper=JETRO|date=2023-10-10|accessdate=2023-10-12}}</ref><ref name="中央日報20231010">{{Cite news2|df=ja|url= https://s.japanese.joins.com/JArticle/309976|title= 日本「全ての当事者に自制要求」…ハマス報復の米国と温度差 |newspaper=中央日報|date=2023-10-10|accessdate=2023-10-12}}</ref><ref name="アラブ" />
*{{BHR}}<ref>{{Cite news2 |df=ja |title= Arab states call for restraint after Hamas attack — but some blame Israel
|url=https://forward.com/fast-forward/563491/arab-states-gaza-hamas-israel-attack-blame-reaction/?amp=1 |work=Forward|date=7 October 2023 |access-date=11 October 2023 }}</ref>
*{{EGY}}<ref name="israel shiji"/><ref name="アラブ" />
*{{MAR}}<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://www.moroccoworldnews.com/2023/10/358139/palestine-israel-morocco-expresses-deep-concern-calls-for-de-escalation |title=Palestine-Israel: Morocco Expresses Deep Concern, Calls for De-escalation |newspaper=MOROCCO WORLD NEWS |date=2023-10-07 |accessdate=2023-10-12}}</ref>
*{{NGA}}<ref name ="israel shiji 3">{{Cite web|url=https://leadership.ng/nigeria-reacts-to-israel-palestine-hostilities-calls-for-de-escalation/|title=Nigeria Reacts To Israel, Palestine Hostilities, Calls For De-escalation|first=James|last=Kwen|date=7 October 2023|access-date=8 October 2023|archive-date=8 October 2023|archive-url=https://web.archive.org/web/20231008051308/https://leadership.ng/nigeria-reacts-to-israel-palestine-hostilities-calls-for-de-escalation/|url-status=live}}</ref>
*{{GNB}}<ref name ="israel shiji 2">{{Cite news2|df=ja|url=https://www.upi.com/amp/Top_News/World-News/2023/10/07/african-nations-divided-support-israel-palestine-call-for-peace/6481696730095/ |title=African nations divided on support for Israel, Palestine but call for peace |newspaper=UPI |date=2023-10-08 |accessdate=2023-10-11}}</ref>
*{{TUR}}<ref name="israel shiji"/>
*{{CHN}}<ref name=":9" /><ref>{{Cite web |title=焦点:中国、中東緊迫でも動けず 野心の限界露呈か|url=https://jp.reuters.com/world/security/TXBZWMP6E5OJPKTSET5VOTLKUI-2023-10-11/|website=Reuters|access-date=2023-10-12 }}</ref>
*{{RUS}}<ref name="israel shiji"/><ref>{{Cite web |title=ロシア、イスラエル・ハマスとの対話維持…両にらみ戦略のプーチン大統領「双方に大きな苦しみ|url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20231012-OYT1T50034/|website=讀賣新聞|access-date=2023-10-13}}</ref>
*{{BRA}}<ref name=":29" /><ref>{{Cite web |title=Ataques em território israelense |url=https://www.gov.br/mre/pt-br/canais_atendimento/imprensa/notas-a-imprensa/ataques-em-territorio-israelense |website=Brazilian government |access-date=2023-10-12 |language=PT}}</ref>
*{{VEN}}<ref>{{Cite web |title=Venezuela expresa profunda preocupación por escalada de violencia en Franja de Gaza y aboga por la paz |url=https://mppre.gob.ve/comunicado/venezuela-expresa-profunda-preocupacion-escalada-violencia-franja-gaza-aboga-paz/ |website=Gobierno Bolivariano de Venezuela |access-date=2023-10-12 |language=es}}</ref>
* {{JPN}}{{efn|[[内閣総理大臣]]の[[岸田文雄]]は、ハマースの大規模な攻撃について強く非難する一方で、イスラエルの報復についても深刻に憂慮し、全ての当事者に自制を求めるとした<ref>{{Cite news2|df=ja|url= https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/766365?display=1|title= 岸田総理、ハマス攻撃を「強く非難」イスラエル側の空爆にも「深刻に憂慮」 |newspaper= TBS NEWS DIG |date=2023-10-08|accessdate=2023-10-12}}</ref><ref name="中央日報20231010" />。}}
*{{PSE}} {{efn|[[パレスチナ自治政府]]の大統領である[[マフムード・アッバース]]は、「[[ハマス]]はパレスチナ人の代表ではない」、「ハマスは人質の即時解放をすべき」、「ハマスによるイスラエル南部への攻撃を非難する」と表明している<ref>{{Cite web |title=BREAKING: Palestinian Authority president Mahmoud Abbas says the policies and actions of Hamas do not represent the Palestinian people|url=https://x.com/spectatorindex/status/1713659201929744698?s=46&t=3qODvsVvtzErr0Q1vMohyA |website=Twitter(X) |date=2023-10-15 |access-date=2023-10-16 |last=The Spectator Index}}</ref><ref>{{Cite web |title=The President of Palestine, Mahmoud Abbas stated today during a Phone Call with U.S. President Biden that the Actions of Hamas do not Represent the Palestinian People and that he Condemns their recent Attack on Southern Israel.|url=https://x.com/sentdefender/status/1713659013286469728?s=46&t=3qODvsVvtzErr0Q1vMohyA|website=Twitter(X) |date=2023-10-16|access-date=2023-10-16 |last=OSINTdefender}}</ref>{{R|b}}。また、駐日パレスチナ常駐総代表部は、「75年間のイスラエルによる占領こそが非難されるべき」とし、「パレスチナ人であってもイスラエル人であっても民間人の殺害には反対する」と表明した<ref>{{Cite news2|df=ja|url= https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/772583?display=1 |title= 駐日パレスチナ代表部大使「75年間のイスラエルによる占領こそ非難されるべき」「どこであろうと民間人殺害に反対」 |newspaper= TBS NEWS DIG |date=2023-10-08|accessdate=2023-10-12}}</ref><ref name="a"/>。}}
*{{COL}} <ref name=":29" />
*{{MEX}} <ref name=":29" />
*{{CHI}}<ref name=":29" /><ref>[https://www.minrel.gob.cl/noticias-anteriores/comunicado-de-prensa-22 Comunicado de prensa] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20231007193744/https://www.minrel.gob.cl/noticias-anteriores/comunicado-de-prensa-22|date=2023-10-07}}, Ministerio de Relaciones Exteriores de Chile, 7 October 2023</ref>
== 国際社会の反応 ==
{{see also|{{仮リンク|2023年パレスチナ・イスラエル戦争 国際社会の反応|en|International reactions to the 2023 Israel–Hamas war}}}}
=== 国際機関 ===
*{{UN}}: 10月7日、[[アントニオ・グテーレス]][[国連事務総長|事務総長]]は報道官を通じて声明を出し、「市民が攻撃され、誘拐されたという報道に愕然としている」としたうえで「最も強いことばで非難する」とした。また暴力で紛争は解決できないとして、「さらなる事態の悪化を避けるためあらゆる外交努力を要請する」と強調した<ref name="NHK1">{{Cite news2|df=ja|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231008/k10014218851000.html|publisher=NHK NEWS WEB|accessdate=2023-10-08|title=イスラエル側とパレスチナ側 双方200人以上死亡 “戦争状態”}}</ref>。10月24日、グテーレスは先に大規模攻撃を仕掛けた[[ハマス]]を非難しつつ、[[ガザ地区]]を封鎖するとした[[イスラエル]]に対して[[国際人道法]]違反であると指摘した。イスラエルは猛反発し、同国国連大使は辞任を要求した<ref>{{Cite news |title=国連総長、ガザの状況は「国際人道法違反」 イスラエルは強く反発 |url=https://www.bbc.com/japanese/67213313 |work=BBCニュース |access-date=2023-12-13 |date=2023-10-25}}</ref><ref>{{Cite web |title=国連総長、ガザでの「明白な法律違反」を非難 イスラエルは怒り心頭 |url=https://www.arabnews.jp/article/middle-east/article_103046/ |website=Arab News |access-date=2023-12-13}}</ref>。12月6日、グテーレスは52年ぶりとなる[[国連憲章]]第99条に基づく[[安保理]]要請を行った<ref>{{Cite web |title=国連事務総長、ガザ停戦で安保理に行動要請-憲章99条を50年ぶり発動 |url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2023-12-07/S59P02DWLU6801 |website=Bloomberg.com |date=2023-12-07 |access-date=2023-12-13}}</ref>。ただし、この決議は米国の[[拒否権]]行使により否決された(15か国中13か国賛成、1か国棄権、1か国反対)<ref>{{Cite web |title=安保理 ガザ地区の停戦決議 アメリカ拒否権で否決 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231209/k10014283021000.html |website=NHKニュース |date=2023-12-09 |access-date=2023-12-13}}</ref>。
*{{Flag|NATO}}: 10月12日、ブリュッセルで国防相会合を開き、イスラエルに対するハマースによるテロ攻撃を非難し、「イスラエルには自衛する権利がある」と述べた<ref>{{Cite web |title=ハマスの「残虐行為と暴力」を非難 NATO国防相会合 |url=https://mainichi.jp/articles/20231013/k00/00m/030/007000c |website=毎日新聞 |date=2023-10-13 |access-date=2023-10-13 |language=ja}}</ref>。
*{{Flag|EU}}: [[欧州委員長]]の[[フォンデアライエン]]は10月13日、イスラエルを訪問し、同国のネタニヤフとの共同記者発表で「欧州はイスラエルと共にある」と述べ、ハマースについては「パレスチナ人の正当な願望とは何の関係もない」テロ組織だと断じ、イスラエルとの連帯を示した<ref>{{Cite web |title=EU委員長、イスラエルを訪問 「共にある」と連帯を表明 |url=https://mainichi.jp/articles/20231014/k00/00m/030/013000c |access-date=2023-10-14}}</ref>。ディミテル・ツァンチェフ駐イスラエルEU大使は、この攻撃を非難した<ref>{{Cite news2 |df=ja |title=שגריר האיחוד האירופי בישראל: "נחרד מהמתקפה הקטלנית, מגנים בכל תוקף" |url=https://www.ynet.co.il/news/article/hyl0qkcg6 |work=Ynet |date=2023-10-07 |access-date=2023-10-19 |language=he |last=חדשות}}</ref>。ブリュッセルの欧州委員会本部と欧州議会の外には[[イスラエルの国旗|イスラエル国旗]]が掲げられ、[[欧州議会]]の[[ロベルタ・メツォラ]][[欧州議会議長|議長]]は10月11日、同議場でイスラエル人犠牲者を追悼し、1分間の黙祷と[[ハティクヴァ|イスラエル国歌]]の斉唱を行った。10月9日、EUの共通見解を定めるために招集された[[欧州連合理事会|EU理事会]]に先立ち、オリバー・ヴァルヘイ拡大委員はX(旧Twitter)で、欧州委員会はパレスチナに対する開発援助の支払いを即時停止すると発表した<ref>{{Cite web |title=Where stands Europe as renewed conflict hits the Middle East? |url=https://www.irishtimes.com/world/middle-east/2023/10/14/where-stands-europe-as-renewed-conflict-hits-the-middle-east/ |website=The Irish Times |access-date=2023-10-19 |language=en}}</ref>。10月9日の閣僚会議では、ハマースによる攻撃を非難する一方で、「市民の保護と自制、人質の解放、国際人道法に則ったガザへの食糧、水、医薬品の提供」を求める決議が採択された<ref>{{Cite web |title=Von der Leyen accused of ‘unacceptable bias’ toward Israel |url=https://www.politico.eu/article/von-der-leyen-visit-israel-gaza-hamas-conflict-bias/ |website=POLITICO |date=2023-10-14 |access-date=2023-10-19 |language=en}}</ref>。また、上記のようなヴァルヘイ拡大委員の発表は、スペイン、アイルランド、ベルギー、ルクセンブルクなどのいくつかのEU加盟国の外相から、そのような決定ができるのは個々の国だけだと主張され、批判された。EUはヴァルヘイの発表を訂正したものの、パレスチナへの開発資金については不正利用(軍事利用等)を防ぐために支払いを見直すと述べた<ref>{{Cite web |title=‘I feel like I’m working for an organisation that endorses apartheid’ |url=https://www.aljazeera.com/news/2023/10/11/israeli-flags-adorn-eu-buildings-after-hamas-attacks-is-the-bloc-united |website=www.aljazeera.com |access-date=2023-10-19 |language=en |first=Priyanka |last=Shankar}}</ref>。
*{{LAS}}: アラブ連盟は、「イスラエルが暴力的で過激な政策を継続的に実施していることは、この地域から当面する安定のための真剣な機会を奪う時限爆弾である」と述べイスラエルを非難した<ref>{{Cite web |title=World reaction to surprise attack by Palestinian Hamas on Israel |url=https://www.aljazeera.com/news/2023/10/7/we-are-at-war-reactions-to-palestinian-hamas-surprise-attack-in-israel |website=www.aljazeera.com |access-date=2023-10-19 |language=en}}</ref>。
=== 国家 ===
==== 北米 ====
*{{USA}}: 10月7日、[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]の[[ジョー・バイデン]]は[[ホワイトハウス]]で会見し、「アメリカはイスラエルとともにある。われわれはイスラエルへの支援を惜しまない」と述べた<ref name="NHK1"></ref>。8日には[[アメリカ合衆国国防長官|国防長官]]の[[ロイド・オースティン]]が東地中海に対して地域の緊張の抑止を目的に[[原子力空母]][[ジェラルド・R・フォード (空母)|ジェラルド・R・フォード]]を中核とする[[第12空母打撃群]]、ドワイト・D・アイゼンハワーを中核とするCSG、バターン強襲揚陸艦を中核とする遠征打撃群を派遣することを決定した<ref name=":1" /><ref name=":2" />。また、ハマースの攻撃によりアメリカ人9人が死亡した。国務長官の[[アントニー・ブリンケン]]が12日にイスラエルを訪問し、「米国は常にイスラエルの側にいる」と述べた。その後、パレスチナを含む中東諸国も歴訪した<ref>{{Cite web |title=ブリンケン米国務長官が中東・アフリカ諸国歴訪、バイデン大統領のイスラエル訪問も発表 |url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2023/10/e8829f3afa92c9ac.html |website=ジェトロ |access-date=2023-12-13}}</ref>。19日にはバイデン大統領も訪問し、改めてイスラエル支持を表明したほか、人道支援のための国境検問所開放で合意した<ref>{{Cite web |title=バイデン氏、イスラエル訪問し支持を表明 エジプトは検問所からガザへの物資運搬に同意 |url=https://www.bbc.com/japanese/67153659 |website=BBCニュース |date=2023-10-19 |access-date=2023-12-13}}</ref>。停戦を求める安保理決議や国連総会決議においては必ず反対票を投じ、[[拒否権]]を行使している<ref>{{Cite web |title=国連安保理 人道支援の戦闘一時停止など アメリカの拒否権で否決 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231019/k10014229931000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-19 |access-date=2023-12-13}}</ref><ref>{{Cite web |title=国連安保理、ガザでの即時停戦決議案を否決、米国が拒否権行使 |url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2023/12/8adbc8ee66a583e9.html |website=ジェトロ |access-date=2023-12-13}}</ref>。しかし、国際世論の圧力が高まると停戦を働きかけ、11月後半の一時停戦を仲介した<ref>{{Cite news |title=ハマスとイスラエル、4日間戦闘停止で合意 人質解放・物資輸送へ |url=https://jp.reuters.com/world/security/DP5GZOONPBOL7AMJRBDZXAWTGE-2023-11-22/ |work=Reuters |date=2023-11-22 |access-date=2023-12-13 |last=ロイター編集}}</ref>。戦闘が再開して再び批判が高まると、「無差別的な爆撃によってイスラエルは世界で支持を失いつつある」と苦言を呈した<ref>{{Cite web |title=バイデン大統領「イスラエルは世界で支持を失いつつある」 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231213/k10014286501000.html |website=NHKニュース |access-date=2023-12-13}}</ref>。
*{{CAN}}: 首相の[[ジャスティン・トルドー]]は、「カナダはイスラエルに対するこのテロ攻撃を強く非難する」と述べ、この暴力を「絶対に容認できない」とした。トルドーはさらに、カナダはイスラエルとともに立ち、「自国を防衛する権利」を全面的に支持すると付け加えた<ref>{{Cite web |title=Trudeau, Poilievre condemn Hamas attack on Israel; Ambassador to Canada calls violence 'unimaginable' |url=https://www.ctvnews.ca/politics/trudeau-poilievre-condemn-hamas-attack-on-israel-ambassador-to-canada-calls-violence-unimaginable-1.6593134 |website=CTVNews |date=2023-10-07 |access-date=2023-10-18 |language=en}}</ref>。その後、トルドーは声明を発表し、「ハマースがパレスチナの人々や彼らの真っ当な願いを代表しているわけではない」として、「カナダはイスラエルとパレスチナの人々とともに、平和で安全に、尊厳をもって、恐怖を感じることなく生活する権利において、断固として立ち上がる」とした<ref>{{Cite web |title=Statement by the Prime Minister on the humanitarian situation in the Gaza Strip |url=http://www.pm.gc.ca/en/news/statements/2023/10/14/statement-prime-minister-humanitarian-gaza-strip |website=Prime Minister of Canada |date=2023-10-14 |access-date=2023-10-18 |language=en}}</ref>。一方、イスラエルによる過度な反撃への批判が国際世論で高まると、11月14日にはハマスへの批判もしながら、「世界は女性や子ども、乳児の殺害を目撃している。これを終わらせなければならない」と述べた<ref>{{Cite news |title=「ガザの乳児殺害終わらせる必要」、カナダ首相がイスラエル批判 |url=https://jp.reuters.com/world/mideast/DRDO4HO5WRLD3JDIJ4JQH4FW3E-2023-11-15/ |work=Reuters |date=2023-11-15 |access-date=2023-12-13}}</ref>。[[国連総会]]の停戦要請決議においても、当初は棄権していたが、12月12日の決議では賛成に回った<ref>{{Cite web |title=カナダ、ガザ停戦を支持 米と決別 |url=https://www.cnn.co.jp/world/35212743.html |website=CNN.co.jp |access-date=2023-12-13}}</ref>。
==== カリブ海地域 ====
*{{ATG}}: 政府は声明を発表し、ハマースの攻撃を非難するとともに、犠牲者の家族に哀悼の意を表した<ref name=":55">{{Cite web |title=Caribbean nations push for ceasefire in Israel-Hamas conflict |url=https://writeups24.com/caribbean-nations-push-for-ceasefire-in-israel-hamas-conflict/amp/?fbclid=IwAR0Y02r3whHeHDMMLYGLD-WXAimhy2S75jmIrXxrRv-ib9RHuFreelUcD3Q |access-date=2023-10-15 |language=en-US}}</ref>。
*{{BHS}}: フレッド・ミッチェル外相は、「ハマースとイスラエル間の戦闘停止」を求めた<ref>{{Cite web |title=Bahamian baller stuck in war-torn Israel |url=https://ewnews.com/bahamian-baller-stuck-in-war-torn-israel |website=Eye Witness News |date=2023-10-11 |access-date=2023-10-18 |language=en-US}}</ref>。
*{{CUB}}: 外務省は、被占領パレスチナ地域での暴力度が高まっていることに深刻な懸念を表明し、この事態のエスカレートはパレスチナ人の基本的権利が75年間にわたって侵害され続けてきた結果であり、 「イスラエル」 の攻撃的で拡大主義的な政策課題でもあると強調した<ref>{{Cite web |title=Escalation is a result of 75 years of Israeli violations: Cuba |url=https://english.almayadeen.net/news/politics/escalation-is-a-result-of-75-years-of-israeli-violations:-cu |website=Al Mayadeen English |date=2023-10-08 |access-date=2023-10-18 |language=en-EN |first=Al Mayadeen |last=English}}</ref>。
==== 中米 ====
*{{BLZ}}: 外相のイーモン・コートネイは、エスカレーションをしないよう呼びかけ、[[東エルサレム]]を首都とするパレスチナの国家化を求めた<ref name=":55" />。
*{{CRI}}: 外務省は今回の攻撃を「テロ」として非難し、イスラエルとの連帯を表明した<ref>{{Cite web |url=https://www.rree.go.cr/?sec=servicios&cat=prensa&cont=593&id=7411 |title=Comunicado oficial sobre ataques a Israel |access-date=Ministerio de Relaciones Exteriores y Culto |publisher=2023-10-18}}</ref>。
*{{MEX}}: 大統領の[[アンドレス・マヌエル・ロペス・オブラドール|ロペス・オブラドール]]は「紛争で片方の肩だけを持たない」としながら中立の立場を明らかにした<ref name=":29" />。これに対してメキシコ外相のバルセナは「はっきりさせておこう。メキシコはいかなるニュアンスもなく平和と対話、民間人保護を擁護する」としながら大統領を擁護した<ref name=":29" />。
==== 南米 ====
*{{ARG}}: [[アルゼンチンの大統領|大統領]]の[[アルベルト・フェルナンデス]]はイスラエルに対する攻撃を「残忍なテロ攻撃」として非難し<ref>{{Cite web |title=El Gobierno deploró el ataque a Israel y reforzó la seguridad |url=https://www.telam.com.ar/notas/202310/642683-gobierno-argentino-condena-ataques-hamas-israel.html |website=www.telam.com.ar |access-date=2023-10-15 |language=es-Ar |last=TÉLAM}}</ref>、アルゼンチン外務省も攻撃を「イスラエル領土に対するハマースのテロ行為」として遺憾に思うと述べ、さらにイスラエル国民との連帯を表明し、被害を受けた人々に哀悼の意を表した<ref>{{Cite web |title=Comunicado de la Cancillería argentina |url=https://cancilleria.gob.ar/es/actualidad/noticias/comunicado-de-la-cancilleria-argentina |website=cancilleria.gob.ar |access-date=2023-10-15 |language=es}}</ref>。フェルナンデスはその後、ソーシャルメディア上で、イスラエル大統領のイツハク・ヘルツォグと電話会談を行い、その際にアルゼンチンの「ハマスによる非道なテロ攻撃に対する精力的な否認と非難する」という方針をヘルツォグ大統領に伝えたと述べた<ref>{{Cite web |title=Alberto Fernández habló con el Presidente de Israel tras los ataques de Hamas y envió un mensaje a los argentinos afectados |url=https://www.infobae.com/politica/2023/10/07/alberto-fernandez-hablo-con-el-presidente-de-israel-tras-los-ataques-de-hamas-y-envio-un-mensaje-a-los-argentinos-afectados/ |website=infobae |date=2023-10-07 |access-date=2023-10-15 |language=es-ES}}</ref>。
*{{BOL}}: 政府はこの状況に「深い懸念」を表明し、「国連と安全保障理事会の不作為」を批判した<ref>{{Cite web |title=La mayoría de los gobiernos latinoamericanos condena el ataque de Hamás a Israel, ¿Qué dijo Bolivia? |url=https://eldeber.com.bo/dw/la-mayoria-de-los-gobiernos-latinoamericanos-condena-el-ataque-de-hamas-a-israel-que-dijo-bolivia_342661 |website=El Deber |date=2023-10-08 |access-date=2023-10-18 |language=es-ES}}</ref>。イスラエルによるガザ地区への攻撃激化による住民支障を受けて、10月31日、イスラエルと国交がある各国のうちでは初めて、[[断交]]を表明した<ref name=朝日新聞20231103>[https://www.asahi.com/articles/DA3S15783489.html 南米「反イスラエル」連鎖 ボリビア断交、チリ・コロンビアは大使召還] 朝日新聞デジタル(2023年11月3日)同日閲覧</ref>。
*{{BRA}}: 外務省は、[[国際連合安全保障理事会|国連安全保障理事会]]の議長国として、ブラジルは同理事会の緊急会合を招集し、事態の沈静化を図ると述べた<ref name=":56">{{Cite news2 |df=ja |title=Brazil aims to prevent escalation of Hamas-Israel conflict, Lula says |url=https://www.reuters.com/world/brazil-call-emergency-meeting-un-security-council-over-attack-israel-2023-10-07/ |work=Reuters |date=2023-10-07 |access-date=2023-10-18 |language=en}}</ref>。政府はハマースによるイスラエルへの攻撃を非難し、イスラエル国民に哀悼の意を表明した<ref>{{Cite web |title=Ataques em território israelense |url=https://www.gov.br/mre/pt-br/canais_atendimento/imprensa/notas-a-imprensa/ataques-em-territorio-israelense |website=Ministério das Relações Exteriores |access-date=2023-10-18 |language=pt-br}}</ref>。ブラジルはまた、相互に合意した国境に基づく[[二国家解決]]策を支持した<ref name=":56" />。
*{{CHL}}: [[チリの大統領|大統領]]の[[ガブリエル・ボリッチ]]はソーシャルメディアに「我々はハマスの残酷な攻撃、殺人、拉致を糾弾する」とし「また、ガザ地区でイスラエルが民間人に対して無差別的な攻撃を行ったことと、国際法に違反して数十年間パレスチナ領土を不法に占領したことも問い質したい」と話した<ref name=":29" />。
*{{COL}}: 10月13日、大統領の[[グスタボ・ペトロ]]は特にガザ地区に対する包囲攻撃と全面封鎖を命じたイスラエル国防長官のガラントに関する記事を掲示した後、「これは[[ナチス]]がユダヤ人に対して言ったことと同じだ」と指摘<ref name=":29" />。また、「民主主義市民は[[ナチズム]]が国際政治舞台に再び登場することを許すことはできない」とし「(ガラント長官のように)憎しみ発言が続くなら、[[ホロコースト]]だけをもたらしてしまう」と主張した<ref name=":29" />。
*{{URY}}: 政府は10月14日、イスラエルから90人のウルグアイ人を避難させるため、ウルグアイ空軍の[[C-130ハーキュリーズ]]輸送機を派遣した。空軍機は避難民を乗せてテルアビブを出発し、乗り継ぎ便のためにマドリードへ輸送した<ref>{{Cite web |title=Uruguayos viajaron desde Tel Aviv a Madrid en el Hércules, regresarán a Uruguay en vuelos privados |url=https://www.elpais.com.uy/informacion/politica/bienvenidos-al-hercules-uruguayos-embarcan-en-tel-aviv-hacia-madrid-en-avion-de-la-fuerza-aerea-uruguaya |website=EL PAIS |date=2023-10-14 |access-date=2023-10-27 |language=es-UY}}</ref>。イスラエルには22,000人のウルグアイ国民が住んでおり、政府は、より多くのウルグアイ人が国外への援助を要請しているため、将来的に別の避難フライトが手配される可能性があると述べた<ref>{{Cite web |title="Misión cumplida": el avión de la Fuerza Aérea llegó a Madrid con uruguayos evacuados de Tel Aviv |url=https://www.elobservador.com.uy/nota/bienvenidos-al-hercules-el-avion-de-la-fuerza-aerea-llego-a-tel-aviv-para-evacuar-a-uruguayos-2023101412720 |website=El Observador |access-date=2023-10-27 |last=Redacción}}</ref>。大統領の[[ルイス・ラカジェ・ポー]]は、ハマースの攻撃を強く非難し、「イスラエル国民に対する暴力の即時停止」を求めた<ref>{{Cite web |title=https://twitter.com/LuisLacallePou/status/1710647825699053962 |url=https://twitter.com/LuisLacallePou/status/1710647825699053962 |website=X (formerly Twitter) |access-date=2023-10-27 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=Uruguay expresó su apoyo a Israel y acompañó la condena mundial a los ataques de Hamás |url=https://www.elpais.com.uy/mundo/uruguay-expreso-su-apoyo-a-israel-y-acompano-la-condena-mundial-a-los-ataques-de-hamas |website=EL PAIS |date=2023-10-08 |access-date=2023-10-27 |language=es-UY}}</ref>。外務省は声明を発表し、政府とウルグアイ国民が 「イスラエルとその国民に対して行われているテロ行為に最大の遺憾の意を表明する」と表明しているとし、テロの拒否とイスラエルの安全保障へのコミットメントを強調した<ref>{{Cite web |title=Ataques terroristas contra Israel |url=https://www.gub.uy/ministerio-relaciones-exteriores/comunicacion/comunicados/ataques-terroristas-contra-israel |website=Ministerio de Relaciones Exteriores |access-date=2023-10-27 |language=es}}</ref><ref>{{Cite web |title=Lacalle Pou: “Llamamos al cese inmediato de la violencia contra el pueblo israelí” |url=https://www.subrayado.com.uy/lacalle-pou-llamamos-al-cese-inmediato-la-violencia-contra-el-pueblo-israeli-n927809 |website=subrayado.com.uy |date=2023-10-07 |access-date=2023-10-27 |language=es-UY}}</ref>。
==== ヨーロッパ ====
*{{AUT}}: 外務大臣の[[アレクサンダー・シャレンベルク]]はハマースの攻撃を非難し、資金援助の打ち切りを発表した<ref name=":3" />。
*{{FRA}}: 大統領のエマニュエル・マクロンは「戦争終結のためにあらゆることをする」と発言した<ref name=":26" />。またイスラエルに住むフランス人がハマースの攻撃により複数人死亡していることについて「イスラエル当局や関係国とともに、彼らが安全に帰還できるよう全力を尽くす」と述べた<ref name=":27" />。
*{{GER}}: [[ドイツの首相|首相]]の[[オラフ・ショルツ]]7日、SNSでハマースの攻撃を非難し、イスラエルを支持すると表明した<ref>{{Cite web|title=https://twitter.com/Bundeskanzler/status/1710581415425753150|url=https://twitter.com/Bundeskanzler/status/1710581415425753150|website=X|accessdate=2023-10-08}}</ref>。スヴェンヤ・シュルツェ経済協力・開発相はドイツがパレスチナへ行っている資金援助の停止を検討しているという声明を発表した<ref>{{Cite news2 |df=ja |title=Germany mulls possible aid suspension to Palestinians after Hamas attack |url=https://www.reuters.com/world/german-government-review-aid-palestinians-following-hamas-attack-2023-10-08/ |work=Reuters |date=2023-10-08 |access-date=2023-10-10 |language=en}}</ref><ref name=":3">{{Cite news2 |df=ja |title=Austria suspends aid to Palestinians, Germany reviews support |url=https://www.reuters.com/world/austria-says-it-is-suspending-aid-palestinians-after-hamas-attack-2023-10-09/ |work=Reuters |date=2023-10-09 |access-date=2023-10-10 |language=en |first=Francois |last=Murphy |first2=Sarah |last2=Marsh |first3=Sarah |last3=Marsh}}</ref>。この戦争に巻き込まれて死亡、若しくは行方不明となった自国民が10人以上いるとした。
*{{RUS}}: [[ロシア連邦政府]]は自制を求める声明を発表し、外務副大臣の[[ミハイル・ボグダノフ]]は双方と連絡を取っていると述べた<ref name="Russia3">{{Cite news2 |df=ja |last1=October 2023 |first1=Naharnet Newsdesk 07 |title=Countries condemn 'terrorist attacks' from Gaza, Russia urges 'restraint' |work=Naharnet |url=https://www.naharnet.com/stories/en/300827-countries-condemn-terrorist-attacks-from-gaza |url-status=live |access-date=7 October 2023 |archive-url=https://web.archive.org/web/20231007120820/https://www.naharnet.com/stories/en/300827-countries-condemn-terrorist-attacks-from-gaza |archive-date=7 October 2023}}</ref>。また、少なくとも4人のロシア国民が犠牲となったと発表した。[[ロシア外務省]]の[[マリア・ザハロワ|ザハロワ]]情報局長は軍事衝突について「(長年にわたる紛争は)武力ではなく、外交手段でのみ解決できる」と指摘した上で、「パレスチナとイスラエル双方に暴力を放棄し、必要な自制心を示すよう求めます」とし、国際社会の助けを借り双方が「長年待ち望まれた、包括的かつ持続的な平和の確立に向けた交渉プロセス」に取り組むよう促した<ref name=":10" />。また複数の中東首脳とプーチン大統領が電話会談を行ったほか、否決されたものの、国連安保理に双方の即時停戦を呼び掛ける決議を提出した<ref name=":48" />。
*{{UKR}}: 大統領の[[ウォロディミル・ゼレンスキー]]は、通信アプリ「テレグラム」で「イスラエルに自衛権があることは議論の余地がない」とイスラエル側の反撃を支持し、「テロ行為が金輪際、人の命を奪わぬよう、世界は結束して立ち上がらなければならない」と訴えた<ref name=":10" />。
*{{UK}}: [[イギリスの首相|首相]]の[[リシ・スナク]]は7日、SNSにて「イスラエル市民への攻撃に衝撃を受けている」と投稿し、「イスラエルには自国を防衛する絶対的な権利がある」と強調した<ref>{{Cite news2|df=ja|title=英・スナク首相「ハマスのテロリストによる攻撃に衝撃を受けている」|url=https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/765964?display=1|publisher=TBS NEWS DIG|accessdate=2023-10-08}}</ref>。13日にはイギリス海軍[[揚陸艦]]と[[航空支援艦]]計2隻とP8哨戒機を東地中海に配備した<ref name=":26" /><ref name=":27" />。また「パレスチナ人も被害者である」としてパレスチナ側への支援も行った<ref name=":48" />。
*{{VAT}}: イスラエル外務省と電話会談を行い、イスラエル人に対するテロを明確に批判した<ref name=":43" />。またサン・ピエトロ広場で教皇[[フランシスコ (ローマ教皇)|フランシスコ教皇]]はガザ市民のための[[人道回廊]]を呼びかけた<ref name=":45" />。
==== アフリカ ====
*{{ALG}}: 外務省は、イスラエルによるガザ爆撃を強く非難し、国際機関に紛争への介入を促し、「イスラエルの植民地的入植」と戦うパレスチナ人への同情を表明した<ref>{{Cite web |date=2023-10-07 |title=الجزائر تدين الاعتداءات الإسرائيلية على قطاع غزة |url=https://www.alghad.tv/%d8%a7%d9%84%d8%ac%d8%b2%d8%a7%d8%a6%d8%b1-%d8%aa%d8%af%d9%8a%d9%86-%d8%a7%d9%84%d8%a7%d8%b9%d8%aa%d8%af%d8%a7%d8%a1%d8%a7%d8%aa-%d8%a7%d9%84%d8%a5%d8%b3%d8%b1%d8%a7%d8%a6%d9%8a%d9%84%d9%8a%d8%a9/ |access-date=2023-10-07 |website=قناة الغد |language=ar |archive-date=2023-10-07 |archive-url=https://web.archive.org/web/20231007164731/https://www.alghad.tv/%D8%A7%D9%84%D8%AC%D8%B2%D8%A7%D8%A6%D8%B1-%D8%AA%D8%AF%D9%8A%D9%86-%D8%A7%D9%84%D8%A7%D8%B9%D8%AA%D8%AF%D8%A7%D8%A1%D8%A7%D8%AA-%D8%A7%D9%84%D8%A5%D8%B3%D8%B1%D8%A7%D8%A6%D9%8A%D9%84%D9%8A%D8%A9/ |url-status=live}}</ref>。
*{{DJI}}: ジブチはパレスチナへの支持を表明した<ref name=":38">{{Cite web |title=How African countries have split over Israel-Gaza conflict |url=https://www.the-star.co.ke/news/africa/2023-10-09-how-african-countries-have-split-over-israel-gaza-conflict/ |website=The Star |access-date=2023-10-14 |language=en-KE }}</ref>。
*{{EGY}}: 外務大臣の[[エジプト]]の[[サーメハ・ハサン・シュクリ]]は、危険な展開であるとして全勢力の自制を求めている<ref>{{Cite web |title=イスラエルとハマス衝突 「危険な展開」とエジプト トルコも自制要請|url=https://www.sankei.com/article/20231007-EO6DNCOHQFK4NL2HCS6Y266GQM/|website=産経新聞|access-date=2023-10-07|language=ja}}</ref>。
*{{GHA}}: 外務省は声明を発表し、「ガーナは今回の攻撃を明確に非難し、ハマースの指導者に対し、攻撃を直ちに中止し、武装勢力をイスラエル南部から撤退させるよう求める」と述べた<ref>{{Cite web |title=Ghana condemns Israel-Gaza conflict; reaffirms support for Israel - MyJoyOnline |url=https://www.myjoyonline.com/ghana-condemns-israel-gaza-conflict-reaffirms-support-for-israel/ |website=www.myjoyonline.com |date=2023-10-09 |access-date=2023-10-14 |language=en-US}}</ref>。
*{{KEN}}: 外務・ディアスポラ問題省の主席秘書官コリール・シングオエイは、「イスラエルに対する卑劣なテロ攻撃を強く非難し、殺戮と無差別な人命の損失を遺憾に思う」と述べるとともに、ハマースを「この凶悪な攻撃の計画者、資金提供者、実行者」として非難した。また、イスラエルの「報復する権利」を認めつつも、「この不幸な事態を解決するための平和的な道筋」を促した<ref>{{Cite web |title=Kenya condemns Hamas attack on Israel |url=https://www.standardmedia.co.ke/article/2001483025/kenya-condemns-hamas-attack-on-israel |website=The Standard |access-date=2023-10-14 |language=en |first=Fred |last=Kagonye}}</ref>。
*{{LBY}}: 下院はガザを支持することを表明した<ref>{{Cite web |title=Libya's Parliament expresses rock-solid support for Palestinian rights {{!}} The Libya Observer |url=https://libyaobserver.ly/news/libyas-parliament-expresses-rock-solid-support-palestinian-rights |website=libyaobserver.ly |date=2023-10-13 |access-date=2023-10-14 |language=en}}</ref>。
*{{MAR}}: 外務省は「ガザ地区における状況の悪化と軍事行動の勃発に対する深い懸念」を表明し、どこであろうと民間人に対する攻撃はしてはならないと非難した<ref>{{Cite web |title=How did Arab states react to Hamas attack on Israel? |url=https://www.newarab.com/news/how-did-arab-states-react-hamas-attack-israel |website=https://www.newarab.com/ |date=2023-10-07 |access-date=2023-10-14 |language=en |first=Sarah |last=Khalil}}</ref>。
*{{NAM}}: 政府は戦闘の激化を非難し、外交的解決策を求め、イスラエルに攻撃をやめ、パレスチナ人に対する挑発的行為を控えるよう求めた<ref>{{Cite web |title=Namibia condemns Israel-Hamas violence |url=https://neweralive.na/posts/namibia-condemns-israel-hamas-violence |website=Truth, for its own sake. |access-date=2023-10-14 |language=en}}</ref>。
*{{NGA}}: 外相のユスフ・トゥッガーは戦闘のエスカレーションに対する緩和を呼びかけ、双方に自制し、市民の安全を優先し、人道的配慮の余地を与えるよう求めた<ref>{{Cite web |title=Nigeria Reacts To Israel, Palestine Hostilities, Calls For De-escalation |url=https://leadership.ng/nigeria-reacts-to-israel-palestine-hostilities-calls-for-de-escalation/ |date=2023-10-07 |access-date=2023-10-14 |language=en-US |first=James |last=Kwen}}</ref>。
*{{ZAF}}: 外務省は声明を発表し、「イスラエルによるパレスチナの土地の継続的な不法占拠、入植地の継続的な拡大、アル・アクサ・モスクとキリスト教の聖地に対する冒涜、そしてパレスチナ人に対する継続的な抑圧」が戦争の原因であると非難した。加えて南アフリカは、2国家間の問題解決のサポートをすることを確認した<ref>{{Cite web |title=South Africa calls for the immediate cessation of violence, restraint, and peace between Israel and Palestine – DIRCO |url=https://www.dirco.gov.za/south-africa-calls-for-the-immediate-cessation-of-violence-restraint-and-peace-between-israel-and-palestine/ |access-date=2023-10-14 |language=en-US}}</ref>。11月6日、イスラエル軍によるガザ地区への攻撃で多数の市民が犠牲になっていることについて「ジェノサイドだ」と強く非難し、イスラエルに派遣している外交団を呼び戻し、関係の見直しについて協議すると発表した<ref name=":89" />。
*{{SUD}}: スーダン外務省は、政府が「独立国家を持つというパレスチナ人の正当な権利」を支持し、「国際決議の遵守と罪のない市民の保護」を求めたと述べた<ref>{{Cite web |title=Sudan voices support for Palestinians' legitimate rights-Xinhua |url=https://english.news.cn/20231008/9ec33e9411d54089a6e74457f10e5aa1/c.html#:~:text=%22Sudan%20renews%20its%20support%20for,Ministry%20said%20in%20a%20statement |website=english.news.cn |access-date=2023-10-15}}</ref><ref name=":38" />。
*{{TAN}}: 外務省はすべての暴力を非難し、双方の対話を求めた<ref>{{Cite web |title=Tanzania calls for peace as Israel-Palestine war intensifies |url=https://www.thecitizen.co.tz/tanzania/news/national/tanzania-calls-for-peace-as-israel-palestine-war-intensifies-4394110 |website=The Citizen |date=2023-10-08 |access-date=2023-10-15 |language=en}}</ref>。
*{{TUN}}: [[チュニジアの大統領|大統領]]の[[カイス・サイード]]がパレスチナ人との連帯を宣言<ref>{{Cite web |url=https://www.aa.com.tr/en/middle-east/tunisia-says-palestinians-have-right-to-reclaim-their-occupied-lands/3011099|title=Foreign|access-date=2023-10-11 |language=en}}</ref>。
*{{UGA}}: 大統領の[[ヨウェリ・ムセベニ]]は事態に懸念を示し、双方に対話を呼びかけた<ref>{{Cite news2 |df=ja |title=Uganda: Museveni Urges Implementation of a Two-State Solution to End Palestine-Israel Conflicts |url=https://allafrica.com/stories/202310080044.html |work=Nile Post News |date=2023-10-08 |access-date=2023-10-15 |language=en |first=Muhamadi |last=Matovu}}</ref>。
*{{ZAM}}: 外務・国際協力大臣の[[スタンリー・カソンゴ・カクボ]]は、ハマースの攻撃を非難する声明の中でイスラエルを支持した<ref name=":38" />。
==== アジア ====
*{{CHN}}: [[中華人民共和国外交部|中国外交部]]は「パレスチナとイスラエルの間の現在の緊張と暴力の激化」に深い懸念を表明し、関係者に対し「民間人を保護し、状況のさらなる悪化を避けるために、冷静さを保ち、自制し、戦闘を直ちに終了するよう要請した」と述べ、両勢力の自制を求めた<ref>{{cite web|url=https://www.fmprc.gov.cn/mfa_eng/xwfw_665399/s2510_665401/2535_665405/202310/t20231008_11157299.html|title=Foreign Ministry Spokesperson's Remarks on the Escalation of Tensions Between Palestine and Israel|work=Ministry of Foreign Affairs of the People's Republic of China|date=2023-10-08|access-date=2023-10-08|archive-date=2023-10-08|archive-url=https://web.archive.org/web/20231008045159/https://www.fmprc.gov.cn/mfa_eng/xwfw_665399/s2510_665401/2535_665405/202310/t20231008_11157299.html|url-status=live}}</ref>。なお、未確認の死者・行方不明者が数人いるとした。共産党政治局員兼外相の[[王毅]]は12日、イスラム組織ハマースへの攻撃を受けてパレスチナ自治区ガザに反撃するイスラエルを批判した。「問題の本質はパレスチナ人民に正義が果たされ続けていないことにある」と語った<ref>{{Cite web |title=中国がイスラエル批判「パレスチナに正義果たされず」 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM131990T11C23A0000000/ |website=日本経済新聞 |date=2023-10-13 |access-date=2023-10-13 |language=ja}}</ref>。
*{{IND}}: [[インドの首相|首相]]の[[ナレンドラ・モディ]]は7日、SNSにて「イスラエルでのテロ攻撃のニュースに大きなショックを受けた。私たちの思いと祈りは、罪のない犠牲者とそのご家族とともにあります。この困難な時に私たちはイスラエルと連帯します。」とメッセージを投稿し、イスラエル支持の姿勢を表明した<ref>{{Cite web |title=https://twitter.com/narendramodi/status/1710614655620534296?utm_source=yjrealtime&utm_medium=search |url=https://twitter.com/narendramodi/status/1710614655620534296?utm_source=yjrealtime&utm_medium=search |website=X (formerly Twitter) |access-date=2023-10-07 |language=ja}}</ref>。
*{{IRN}}: 外務省は7日、「今日の作戦は、占領者に対する抵抗の新たなページを作り上げた」と述べ、パレスチナ支持を表明した。ハマース報道官の[[ガジ・ハマド]]はBBCに対して、イラン側は「パレスチナとエルサレムが解放されるまでパレスチナ戦闘員の側にいる」と述べており、協力を約束しているとした<ref name=":0" />。
*{{JPN}}: 10月7日、[[日本国外務省]]はハマースによるロケット弾発射と越境攻撃を非難し、すべての当事者に自制を求めた<ref>{{Cite web|title=ハマス等パレスチナ武装勢力によるイスラエルへの攻撃について(外務報道官談話)|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/page7_000099.html|website=外務省|accessdate=2023-10-08}}</ref>。同国[[内閣総理大臣|首相]]の[[岸田文雄]]は、ハマースによるイスラエル市民への攻撃を「強く非難します」と声明を出した<ref>{{Cite web |title=https://twitter.com/kishida230/status/1710912480141328752?t=jrV4ZC3LHIK3N_qxn_HE4w&s=19 |url=https://twitter.com/kishida230/status/1710912480141328752?t=jrV4ZC3LHIK3N_qxn_HE4w&s=19 |website=X (formerly Twitter) |access-date=2023-10-08 |language=ja}}</ref>。イスラエル支持共同声明には参加しなかった<ref>{{Cite web |title=日本「全ての当事者に自制要求」…ハマス報復の米国と温度差 |url=https://japanese.joins.com/JArticle/309976?sectcode=A00&servcode=A00 |website=中央日報 - 韓国の最新ニュースを日本語でサービスします |access-date=2023-10-11 |language=ja}}</ref>。これまで日本政府は「テロ」と表現していなかったが、13日、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]の[[上川陽子]]はパレスチナ外相の{{仮リンク|リヤド・アル・マリキ|en|Riyad al-Maliki}}との電話会談にて「ハマスなどパレスチナ武装勢力によるテロ攻撃を断固として非難する。事態の早期沈静化に向けて関係者への働きかけをお願いする」と、「テロ」という言葉を用いてハマスを非難した<ref>{{Cite web |title=上川外相 パレスチナ外相と電話会談 早期沈静化で一致|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231013/k10014225031000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-14 |access-date=2023-10-13 |last=日本放送協会}}</ref>。また、上川の要請により防衛相の[[木原稔]]は邦人退避に備え[[自衛隊]]に[[ジブチ]]などに輸送機等の派遣命令を出した<ref name=":27" />。これを受け[[航空支援集団]]司令官の[[森田雄博]]を指揮官とする「[[統合任務部隊_(自衛隊)#在イスラエル国邦人等輸送統合任務部隊|在イスラエル国邦人等輸送統合任務部隊]]」の編成が決定された<ref name="houzinyusougo">{{cite
| title = 在イスラエル国邦人等輸送準備のための国外待機について
| publisher = 防衛省
| date = 2023-10-13
| format = PDF
| url = https://www.mod.go.jp/j/press/news/2023/10/13c.pdf
| accessdate = 2023-10-19
}}</ref>。14日、政府が9日に邦人退避支援のため定期商用機とは別に手配したチャーター機1機が邦人8人を乗せてテルアビブを発ち、翌15日未明にドバイに到着した。これとは別に51人が韓国空軍機(後述)に便乗した<ref>{{Cite web |title=日本政府手配のチャーター機 邦人8人乗せドバイに到着|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231015/k10014225781000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-15 |access-date=2023-10-19 |last=日本放送協会}}</ref>。[[10月17日]]に[[航空自衛隊]]の[[KC-767]]と[[C-2_(航空機・日本)|C-2]]一機ずつが[[ヨルダン]]に到着した<ref>{{Cite news
| url = https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/374126
| title = 空自2機が隣国ヨルダンに イスラエル邦人退避
| newspaper = 中国新聞デジタル
| publisher = [[中国新聞]]
| date = 2023-10-17
| accessdate = 2023-10-20
}}</ref>。[[10月18日]]、上川からの依頼を受け、木原は自衛隊法84条の4の邦人輸送の規定に基づき、自衛隊部隊に輸送活動の実施を命令した<ref name="jisshimeirei">{{cite
| title = 在イスラエル国邦人等輸送の実施について
| publisher = 防衛省
| date = 2023-10-20
| format = PDF
| url = https://www.mod.go.jp/j/press/news/2023/10/20b.pdf
| accessdate = 2023-10-20
}}</ref>(この命令は自衛隊の活動や邦人の安全確保への影響を考慮し[[10月20日]]の輸送の実行を待って公表された)<ref>{{Cite news
| url = https://www.nikkansports.com/general/news/202310200000029.html
| title = 邦人や韓国人ら83人輸送 空自機でヨルダンへ イスラエルから退避 21日未明に羽田到着へ
| newspaper =
| publisher = [[日刊スポーツ]]
| date = 2023-10-20
| accessdate = 2023-10-21
}}</ref>。同日、岸田はヨルダン国王[[アブドゥッラー2世]]と電話協議し、「協力に深く感謝する」と伝達。アブドゥッラー王は邦人の退避に「引き続き協力する」と応じた。また、アラブ首長国連邦(UAE)の[[ムハンマド・ビン・ザーイド・アール・ナヒヤーン|ムハンマド]][[アラブ首長国連邦の大統領|大統領]]、[[カタール]]の[[タミーム・ビン・ハマド・アール=サーニー|タミム]]首長とも個別に電話協議した<ref>{{Cite news
| url = https://mainichi.jp/articles/20231019/k00/00m/030/011000c
| title = 首相、自衛隊機が駐機のヨルダン国王に謝意 邦人退避に協力確認
| newspaper =
| publisher = 毎日新聞
| date = 2023-10-19
| accessdate = 2023-10-21
}}</ref>。同日政府関係者が明らかにしたことによれば、現在輸送実施に向け出国希望調査を進めているが、韓国政府が自国民を輸送機で退避させる際に日本人とその家族を搭乗させた対応を踏まえ、現地の韓国人も輸送対象とする方向で調整を始めた。関係者によると、邦人への調査の結果輸送人数に余裕が出れば、韓国側に搭乗希望の有無を問い合わせるほか、韓国人以外の外国人も対象とする可能性もあるとされた。なお邦人も含めて費用負担は求めない<ref>{{Cite news
| url = https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/374126
| title = イスラエルから邦人退避の自衛隊機で韓国人も輸送へ 政府調整、搭乗者に費用は求めず
| newspaper = 産経ニュース
| publisher = [[産経新聞]]
| date = 2023-10-19
| accessdate = 2023-10-20
}}</ref>。この結果[[10月19日]]、政府関係者によれば韓国人を20人前後搭乗させる調整が開始された。座席は、現地在留邦人と韓国人を乗せても空きがある見通しで、韓国以外の外国人を搭乗させる可能性もある。予定では自衛隊機は現地時間19日(日本時間[[10月20日|20日]]未明)にも[[テルアビブ]]を出発し、複数の給油地を経て、[[10月21日|21日]]日未明に[[羽田空港]]に到着する見通しであるとされた<ref>{{Cite news
| url = https://mainichi.jp/articles/20231019/k00/00m/030/055000c
| title = 自衛隊機に韓国人約20人も搭乗へ イスラエル退避で日韓協力
| newspaper =
| publisher = 毎日新聞
| date = 2023-10-19
| accessdate = 2023-10-20
}}</ref>。10月20日、防衛省と外務省は、日本時間の20日未明KC-767がヨルダンからイスラエルへ移動、出国を希望した日本人60人と外国籍の家族4人のほか、韓国人18人と外国籍の家族1人の合わせて83人([[内閣官房長官|官房長官]]の[[松野博一]]は会見で「韓国のほか、米英仏やカナダ、豪州、フィリピン、台湾、タイに対しても搭乗希望者の有無をたずね、その結果、韓国からのみ要望があった」と明かした)を乗せて、イスラエルを出発し、経由地のヨルダンに到着したと発表した<ref name="jisshimeirei"/><ref>{{Cite news
| url = https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231020/k10014231341000.html
| title = イスラエル滞在の日本人や韓国人など83人 自衛隊機で出国
| newspaper = NHK
| publisher = 日本放送協会
| date = 2023-10-20
| accessdate = 2023-10-20
}}</ref><ref>{{Cite news
| url = https://www.yomiuri.co.jp/national/20231020-OYT1T50184/
| title = 韓国人18人も搭乗の空自輸送機がヨルダン着、21日未明にも羽田空港へ
| newspaper = 読売新聞オンライン
| publisher = [[読売新聞]]
| date = 2023-10-20
| accessdate = 2023-10-21
}}</ref><ref>{{Cite news
| url = https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/press1_001590.html
| title = 自衛隊機によるイスラエルからの邦人等輸送の実施について
| newspaper = 報道発表
| publisher = 日本国外務省
| date = 2023-10-20
| accessdate = 2023-10-20
}}</ref><ref>{{Cite news
| url = https://www.jiji.com/jc/article?k=2023102000117&g=pol
| title = 自衛隊機、イスラエル発 邦人60人、韓国人18人退避
| newspaper = 時事ドットコム
| publisher = [[時事通信]]
| date = 2023-10-20
| accessdate = 2023-10-20
}}</ref>。KC-767は帰国第一陣としてヨルダンから日本に向け移動し、10月21日未明に羽田空港に到着した。外務省によると、イスラエルとパレスチナに滞在する邦人は20日時点、約800人となった。C-2二機はさらなる情勢悪化と邦人等の輸送に備え、引き続きヨルダン及びジブチにおいて待機した<ref>{{Cite news
| url = https://sp.m.jiji.com/article/show/3078766?free=1
| title = イスラエル退避、邦人60人帰国=自衛隊機、韓国人も搭乗
| newspaper =
| publisher = 時事通信
| date = 2023-10-21
| accessdate = 2023-10-21
}}</ref><ref name="jisshimeirei"/>のち、ジブチの機も[[10月24日]]にヨルダンに移動<ref>{{Cite news
| url = https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD247BK0U3A021C2000000/
| title = イスラエルからヨルダンに輸送機2機 邦人退避を迅速に
| newspaper =
| publisher = 日本経済新聞
| date = 2023-10-24
| accessdate = 2023-10-27
}}</ref>、[[10月25日]]には帰国したKC-767が再びヨルダンに派遣された<ref>{{Cite news
| url = https://www.fnn.jp/articles/-/605756
| title = イスラエルからヨルダンに輸送機2機 邦人退避を迅速に
| newspaper = FNNプライムオンライン
| publisher = [[フジテレビ]]
| date = 2023-10-25
| accessdate = 2023-10-27
}}</ref>。また、イスラエルと[[レバノン]]の国境周辺でも戦闘が起きたことから防衛省は[[10月27日]]、レバノンに滞在している日本人およそ70人を自衛隊機で輸送する場合に備えて情報収集にあたる調査チームをレバノンに派遣した<ref>{{Cite news
| url = https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231027/k10014238671000.html
| title = レバノン滞在の邦人輸送に備え 調査チーム現地に派遣 防衛省
| newspaper =
| publisher = NHK
| date = 2023-10-27
| accessdate = 2023-10-27
}}</ref>。
*{{PAK}}: 暫定外務大臣であるジャリル・アッバス・ジラニはガザ地区の包囲と爆撃を「ジェノサイドである」と非難した<ref name=":45" />。
*{{PSE}}([[パレスチナ自治政府]]): [[ワリード・アリ・シアム]][[駐日パレスチナ常駐総代表部]]代表は8日、SNSにて「私たちは、パレスチナ人とイスラエル人の両方の民間人の生命の喪失を断固として非難します。」とメッセージを投稿し、両勢力を非難した{{R|a}}。また、パレスチナ自治政府の大統領である[[マフムード・アッバース]]は、「ハマースはパレスチナ人の代表ではない(※後にハマースへの名指しは削除)」「ハマースは人質の即時解放をすべき」「ハマースによるイスラエル南部への攻撃を非難する」と表明している<ref>{{Cite web |title=BREAKING: Palestinian Authority president Mahmoud Abbas says the policies and actions of Hamas do not represent the Palestinian people|url=https://x.com/spectatorindex/status/1713659201929744698?s=46&t=3qODvsVvtzErr0Q1vMohyA |website=Twitter(X) |date=2023-10-15 |access-date=2023-10-16 |last=The Spectator Index}}</ref><ref>{{Cite web |title=The President of Palestine, Mahmoud Abbas stated today during a Phone Call with U.S. President Biden that the Actions of Hamas do not Represent the Palestinian People and that he Condemns their recent Attack on Southern Israel.|url=https://x.com/sentdefender/status/1713659013286469728?s=46&t=3qODvsVvtzErr0Q1vMohyA|website=Twitter(X) |date=2023-10-16|access-date=2023-10-16 |last=OSINTdefender}}</ref>{{R|b}}。[[マフムード・アッバース|アッバース]]は7日の時点ではパレスチナ自治政府の高官らとの緊急会議て「パレスチナ国民には入植者や占領軍の恐怖(テロ)から身を守る権利がある」と述べており<ref>{{Cite news2 |df=ja |title=Abbas: Palestinian people have the right to defend themselves |url=https://jp.reuters.com/article/israel-palestinians-abbas-idAFS8N3AU0AU |work=Reuters |date=2023-10-07 |access-date=2023-10-26 |language=ja}}</ref>、また、24日にマクロンとの会談で「紛争の責任はイスラエルとそれを支援する国々にある<ref name=":75" />」とした。24日の国連安保理では外相のリヤド・マリキはイスラエル軍の攻撃について、「一般市民を標的にしたもので、非人道的で不法な無差別攻撃だ」と強く非難した<ref>{{Cite web |title=国連安保理 イスラエルとパレスチナが非難の応酬 {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231025/k10014236291000.html |website=NHKニュース |date=2023-10-25 |access-date=2023-10-26 |last=日本放送協会}}</ref>。
*{{PHI}}: [[マラカニアン宮殿]]は「フィリピンは、特に民間人に対する攻撃を非難します」と述べた<ref>{{Cite web |title=Palace condemns attacks on Israel, conveys condolences over deaths |url=https://www.gmanetwork.com/news/topstories/nation/884548/palace-condemns-attacks-on-israel-conveys-condolences-over-deaths/story/ |website=GMA News Online |date=2023-10-08 |access-date=2023-10-11 |language=en |first=GISELLE OMBAY, GMA Integrated |last=News}}</ref>。
*{{SAU}}: 政府は、ハマースとイスラエルの双方に自制を要求している<ref>{{Cite web |title=https://x.com/ksamofaen/status/1710629609757086172?s=46&t=3qODvsVvtzErr0Q1vMohyA|url=https://x.com/ksamofaen/status/1710629609757086172?s=46&t=3qODvsVvtzErr0Q1vMohyA |website=X (formerly Twitter) |access-date=2023-10-08|language=en}}</ref>。
*{{KOR}}: 韓国政府は[[大韓航空]]が安全を理由にイスラエル行きの運航を停止したことを受け、イスラエルから韓国国民などを退避させるための[[大韓民国空軍|軍]]の輸送機([[エアバス_A330_MRTT|KC330]])を派遣した。韓国国民163人に加え、退避を希望した日本人51人とシンガポール人6人のあわせて220人が搭乗した<ref>{{Cite web |title=日本は有料、韓国は無料?危険地域からの避難時の航空機、常に無料ではない |url=https://japan.hani.co.kr/arti/politics/48107.html |website=ハンギョレ |date=2023-10-18 |access-date=2023-10-19 }}</ref>。日本人などの避難も同時に韓国機によって行われる理由であるが、人道的観点から、韓国国民以外の輸送を韓国政府が日本政府に提案したからであると大使館が明らかにしている<ref>{{Cite web |title=イスラエルから退避 韓国軍機に日本人51人が搭乗 今夜韓国へ |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231014/k10014225311000. html|website=NHKニュース |date=2023-10-14 |access-date=2023-10-14 |last=日本放送協会}}</ref>。また、大統領の[[尹錫悦]]は訪韓した米上院民主党トップの[[チャック・シューマー|シューマー]]院内総務率いる超党派上院議員団と10月11日に会談した際に、ハマースによるイスラエルへの無差別攻撃を非難している<ref name=":37" />。
*{{TWN}}: 台湾政府は中東諸国への渡航忠告を行い、外務省は「ハマースが行ったイスラエルの無実の市民に対するテロ攻撃を非難します」と述べた<ref>{{Cite web |title=Taiwan condemns Hamas attack on Israeli civilians, raises travel alert - Focus Taiwan |url=https://focustaiwan.tw/politics/202310080005 |website=Focus Taiwan - CNA English News |date=2023-10-08 |access-date=2023-10-11 |language=en-US}}</ref>。
*{{THA}}: [[外務省 (タイ)|タイ外務省]]は9日、戦闘でイスラエルにいるタイ人12人が死亡したと明らかにした。11人がハマースに拉致されているという。タイ首相の[[セーター・タウィーシン]]は、自国民を保護するため輸送機派遣の準備を指示した<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://www.sankei.com/article/20231009-UZKJ6ZKMVJJFDM27CQAINEJP4Y/|title=イスラエルでタイ人12人死亡 11人が拉致|newspaper=産経新聞|date=2023-10-09|accessdate=2023-10-09}}</ref>。
*{{TUR}}: 大統領の[[レジェップ・タイイップ・エルドアン]]は7日の演説にて、両勢力の自制を求めた<ref>{{Cite web |title=イスラエルとハマス衝突 「危険な展開」とエジプト トルコも自制要請|url=https://www.sankei.com/article/20231007-EO6DNCOHQFK4NL2HCS6Y266GQM/|website=産経新聞|access-date=2023-10-07|language=ja}}</ref>。またエルドアンは8日、イスラエルとパレスチナの緊張緩和に向けて外交努力を加速させると表明した。その上で「二国間共存」が地域の平和を実現する唯一のの道との見解を示した。
*{{JOR}}: 11月6日、アブドラ国王はヨルダン空軍が緊急の医療物資をガザ地区の病院に上空から投下したことをSNSで公表し「ガザ地区の戦争で傷ついた兄弟に手を差し伸べることは、われわれの責務だ」と発言した<ref name=":88" />。
==== オセアニア ====
* {{NZL}}: 10月16日までに、[[ニュージーランド外務・貿易省]]と[[エティハド航空]]が企画した「慈悲のフライト」により、55人のニュージーランド国民が避難した。避難民は[[アブダビ]]に空輸され、そこで各自帰国の手配をすることになった。70人のニュージーランド人が残り、50人がイスラエルに、20人がパレスチナ自治区にいる<ref>{{Cite web |title=55 Kiwis evacuated from Israel but 70 remain, says Mfat |url=https://www.nzherald.co.nz/nz/israel-hamas-war-55-kiwis-evacuated-70-remain-ministry-of-foreign-affairs/VDWBYD2ER5C2BHE7WQNACLKFII/ |website=NZ Herald |date=2023-10-27 |access-date=2023-10-27 |language=en-NZ}}</ref>。
* {{AUS}}: 首相の[[アルバニージー]]は10月13日から[[カンタス航空]]と連携しテルアビブの[[ベン・グリオン国際空港]]からロンドンへ出発する2便の臨時チャーター便を開設し、イスラエルにいるオーストラリア人を退避すると発表した。「民間機で出国の計画を立てられないオーストラリア国民のために、政府が支援する航空便を金曜日から飛ばす。機材を提供してくれたカンタス航空に感謝する」と首相は述べた<ref>{{Cite web |title=イスラエルへ臨時チャーター便 オーストラリア政府、自国民退避させる|url=https://nichigopress.jp/news-item/80824/#google_vignette|website=日豪プレス |date=2023-10-11 |access-date=2023-11-06}}</ref><ref>{{Cite web |title=Prime Minister confirms evacuation flights aim to bring Australians all the way home|url=https://www.9news.com.au/national/israel-hamas-update-anthony-albanese-defends-repatriation-fights-for-australians/4ececac7-973b-4ade-8468-2f37d02cd0a3|website=9News |date=2023-10-13 |access-date=2023-11-06}}</ref>。
=== イスラム勢力 ===
* {{Flagicon|Al-Shabaab}} [[アル・シャバブ (ソマリア)|アル・シャバブ]]はハマースを「すべての勇敢な英雄、勇敢な司令官、聖地に駐留するすべての人々」と呼び敬意を表した。また、イスラム教徒に対し、「ユダヤ人とその同盟国」に対する[[ジハード]]を呼びかけた<ref>{{Cite web |title=Al Shabaab jihadists praise Hamas' attack, Kenya's counter-terrorism unit is on alert |url=https://www.agenzianova.com/en/news/Al-Shabaab-jihadists-praise-Hamas-attack-on-Kenyan-anti-terrorism-alert/ |website=Agenzia Nova |date=2023-10-12 |access-date=2023-10-19 |language=en |first=Redazione Agenzia |last=Nova}}</ref><ref>{{Cite web |title=Somalia: Al-Shabaab praises Hamas attack on Israel {{!}} Somali Guardian |url=https://somaliguardian.com/news/somalia-news/somalia-al-shabaab-praises-hamas-attack-on-israel/ |date=2023-10-12 |access-date=2023-10-19 |language=en-US |first=Somaliguardian |last=news}}</ref>。
* [[ファイル:InfoboxHez.PNG|境界|25x25ピクセル|ヒズボラの旗]] [[ヒズボラ]]はハマースに祝意を表し、「イスラエルの犯罪」に対する反応としてこの攻撃を賞賛し、更にハマースには「神の後ろ盾」があると加えて述べた。またヒズボラは、レバノンの指導部が、この作戦についてハマースと接触していると述べた<ref name=":60" />。10月11日、ヒズボラは、アメリカの空母打撃艦隊の地中海東部への派遣について、「空母をこの地域に派遣しても、勝利が達成されるまで対決する用意のある抵抗派を怯えさせることはできない」と述べた<ref>{{Cite web |title=حزب الله: إرسال حاملات الطائرات للمنطقة لن يخيف فصائل المقاومة المستعدة للمواجهة حتى تحقيق النصر |url=https://www.elnashra.com/news/show/1640285/%D8%AD%D8%B2%D8%A8-%D8%A7%D9%84%D9%84%D9%87-%D8%A3%D9%85%D9%8A%D8%B1%D9%83%D8%A7-%D8%B4%D8%B1%D9%8A%D9%83-%D8%A8%D8%A7%D9%84%D8%B9%D8%AF%D9%88%D8%A7%D9%86-%D8%A7%D9%84%D8%B5%D9%87%D9%8A%D9%88%D9%86%D9%8A-%D9%88%D8%A5%D8%B1%D8%B3%D8%A7%D9%84-%D8%AD%D8%A7%D9%85%D9%84 |website=Elnashra News |access-date=2023-10-19 |language=ar}}</ref>。またヒズボラとイスラエル軍間で非定期的に戦闘が発生している<ref name=":62" />。
=== デモ活動 ===
*{{JPN}}: [[福岡市]]で10月22日、[[福岡県]]内外から集まった約300人がガザ地区への攻撃中止などを求めてデモ行進した。参加者らは「この問題は戦争では解決できない」と訴え、停戦を求めた。参加者らは[[福岡市中央区]]の[[天神中央公園]]を出発後、同区内を約300メートル行進。参加者らは「パレスチナに平和を!」などと書かれた横断幕やカードを掲げ、「フリー パレスチナ(パレスチナに自由を)」「戦争やめろ!」と[[シュプレヒコール]]を上げ、戦闘の終結を求めた<ref>{{Cite web |title=ガザへの攻撃中止を 福岡でパレスチナ支援者ら300人がデモ|url=https://mainichi.jp/articles/20231022/k00/00m/040/170000c |website=毎日新聞 |date=2023-10-22 |access-date=2023-10-22 |last=毎日新聞}}</ref>。11月1日に千代田区のイスラエル大使館の周辺では攻撃をただちにやめるよう訴える抗議行動が行われた<ref name=":82" />。11月11日には広島市原爆ドーム前で「STOP(ストップ) GENOCIDE(ジェノサイド、集団殺害) IN(イン) GAZA(ガザ)」とキャンドルの炎で書き、抗議活動が行われた<ref>{{Cite web |title=ヒロシマ発「即時停戦を」 ガザの友から伝言「人類を失望させるな」:朝日新聞デジタル |url=https://www.asahi.com/articles/ASRCC775DRCCPITB00J.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞デジタル |date=2023-11-11 |access-date=2023-11-12 |language=ja}}</ref>。
*{{USA}}: [[アメリカ合衆国議会議事堂|アメリカの連邦議会議事堂]]の近くで10月18日、戦争に抗議するユダヤ系団体のデモがあり、少なくとも300人が拘束された。警察は、逮捕者は今後も増える可能性があるとしている。また、3人が警官への暴行で起訴されているという。抗議参加者らは大統領の[[ジョー・バイデン]]と連邦議会に対し、ガザ地区での停戦を求めていた。しかし、抗議活動が禁じられている{{仮リンク|Cannon House Office Building|en|Cannon House Office Building|label=キャノン下院議員会館}}に立ち入ったため、逮捕された。この抗議デモは、ユダヤ系の左派活動グループ「平和を求めるユダヤ人の声」と「イフ・ノット・ナウ(今でなくては)」が主催。両グループはイスラエル国家に反対している<ref>{{Cite web |title=ユダヤ系団体が停戦求め米議会周辺でデモ、300人逮捕 イスラエル・ハマス戦争|url=https://www.bbc.com/japanese/67166087.amp |website=BBC NEWS |date=2023-10-22 |access-date=2023-10-22 |last=BBC NEWS}}</ref>。28日にはニューヨークで即時停戦を求める大規模なデモが行われ、1万2000人が参加し、ニューヨーク市南東部の[[ブルックリン区|ブルックリン]]から[[マンハッタン]]の公園までおよそ5時間にわたって行進した。このデモ行進のため、ブルックリンとマンハッタンをつなぐ[[ブルックリン橋]]は、一時通行止めとなった<ref name=":79" />。11月4日、アラブ系団体の呼びかけでホワイトハウス近くの広場に、少なくとも数千人の市民が集まりデモを行った<ref name=":87" />。
*{{UK}}: パレスチナ支持派のデモが10月9日に行われた<ref name=":12" />。28日にロンドンで約10万人のパレスチナ派がデモを行った<ref name=":79" />。10月31日には同日に行われた難民キャンプへの攻撃を受け、政府に対してデモが行われた<ref name=":82" />。11月4日、イギリス国内のおよそ60か所で、即時停戦を求めるデモが行われ、ロンドン中心部トラファルガー広場には、主催者の発表でおよそ5万人が集まった<ref name=":87" />。11月11日にもロンドンで大規模なデモが発生した。警察の発表によると11月11日のデモの参加人数は30万人であった<ref>{{Cite web |title=パレスチナに連帯、欧州各地で大規模デモ 英国は30万人 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB120HA0S3A111C2000000/ |website=日本経済新聞 |date=2023-11-12 |access-date=2023-11-12 |language=ja}}</ref>。
*{{FRA}}: 10月12日にパレスチナ支持の「公共の秩序を乱す恐れがある」として全面禁止を発表したが、22日には1万5000人規模のパレスチナ派デモが行われ、これに対してはパリでは初めて許可された<ref name=":71">{{Cite web |title=パレスチナ支持のデモ禁止、苦慮する欧州 国連が国際法違反を指摘|url=https://www.asahi.com/articles/ASRBQ5R89RBPUHBI00K.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞デジタル |date=2023-10-22 |access-date=2023-10-24 |language=ja}}</ref><ref name=":70" />。そのほかでもフランス内でパレスチナ派のデモは発生している<ref name=":71" />。11月4日にはパリで1万9000人規模のパレスチナ派デモが行われた<ref name=":87" />。
*{{RUS}}: イスラム教徒が多数を占める[[ダゲスタン共和国]]で、イスラエルに抗議するデモが10月29日に発生した。中心都市である[[マハチカラ]]の[[マハチカラ・ウイタシュ国際空港]]では、イスラエルから客機が到着するという話を聞きつけた数百人が抗議しようと空港に殺到し、一部のデモ隊は、滑走路に侵入して到着した機体を取り囲む事態に発展した。抗議中において「お前たちは殺人者だ」などと叫んでいたということで、ロシアの航空当局によると、この騒動によって空港が閉鎖された。これに対し[[ダゲスタンの首長]]である{{ill2|セルゲイ・メリコフ|ru|Меликов, Сергей Алимович}}はSNSで反ユダヤ主義を掲げる過激な動きに同調しないように呼びかけた<ref name=":81" />。
*{{AUT}}: ウィーンでは、反ユダヤ主義とテロリズムに反対し、ハマスに拉致された人質の解放を求めて数千人がデモを行った。11月1日の夜、[[ウィーン中央墓地]]のユダヤ人のエリアに放火があったとされる。墓地の壁には[[ハーケンクロイツ]]とナチスのスローガンがスプレーで描かれていたとされる。10月にはオーストリアのいくつかの都市で公共の建物からイスラエルの国旗が取り外された<ref>{{Cite web |title=Newsblog: Polizei Berlin rüstet sich für Palästina-Großdemos ++ Israel meldet Umzingelung von Gaza-Stadt|url=https://www.berliner-zeitung.de/news/liveticker-israel-hamas-krieg-in-gaza-tag-27-alle-news-li.2154545 |website=Berliner Zeitung |date=2023-11-02 |access-date=2023-11-09 |language=de}}</ref>。
*{{BRA}}: リオデジャネイロでは3日、地元の市民団体が子どもの遺体を模した120体の造形物を[[コパカバーナ海岸]]に並べて抗議した。主催した市民団体のアントニオ・コスタ代表は「イスラエルには自衛の権利があるが、子どもたちの死につながる無差別かつ不当な武力行使には反対だ」と話した<ref name=":86" />。
*{{DEU}}: 11月4日、ベルリンでパレスチナ派によるデモが行われた<ref name=":87" />。
*{{CAN}}: 11月4日、国内のおよそ30の都市でガザ地区での即時停戦を求めるデモが呼びかけられた。このうち最大都市のトロントでは、中心部にあるアメリカ総領事館の前に大勢の人たちが集まり通りを埋め尽くした<ref name=":87" />。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|October 2023 Gaza–Israel conflict}}
*[[イスラエルの歴史]]
*[[パレスチナ問題]]
*[[イスラエルの作戦一覧]]
**[[中東戦争]]
**[[第四次中東戦争]]
**[[ガザ侵攻 (2006年)]]
**[[ガザ侵攻 (2014年)]]
{{DEFAULTSORT:はれすちないすらえるせんそう2023}}
{{2023年パレスチナ・イスラエル戦争}}
{{Normdaten}}
[[Category:2023年パレスチナ・イスラエル戦争|*]]
[[Category:2023年10月]]
[[Category:2023年11月]]
[[Category:2023年12月]]
[[Category:2023年の戦闘]]
[[Category:ベンヤミン・ネタニヤフ]]
[[Category:ハマース]]
[[Category:ヒズボラ]] | 2023-10-07T16:00:42Z | 2023-12-30T23:17:02Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/2023%E5%B9%B4%E3%83%91%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%AB%E6%88%A6%E4%BA%89 |
4,838,729 | 鳥取市国府町中学校組合立邑法第一中学校 | 鳥取市国府町中学校組合立邑法第一中学校(とっとりしこくふちょうちゅうがっこうくみあいりつ おうほうだいいちちゅうがっこう)は、かつて鳥取県鳥取市岩倉(当時)にあった公立中学校である。略称は邑法一中。
1947年(昭和22年)に宇倍野中学校などが設立されたが、その2年後に岩美郡のうち歴史的に関係が深い邑法地区七ヶ村(旧邑美郡・法美郡の宇倍野村・面影村・津ノ井村・米里村・倉田村・成器村・大茅村)が結集して邑法第一・第二・第三の各中学校が設立された。
邑法第一中学校は当時の物資不足や世相不安の中、歩兵第40連隊兵舎建物の一部が払い下げられて設立された。所在地は当時の宇倍野村との境界付近の鳥取市内であったが学区は宇倍野村・面影村・津ノ井村・米里村としていた。その後の合併により最終的には鳥取市と国府町(現・鳥取市)の組合立となっていた。
1980年(昭和55年)に鳥取市側は鳥取市立桜ヶ丘中学校を設立、国府町側は大成中学校と統合して国府町立国府中学校を設立したことで発展的に分離独立し、組合立を解消した。
(参考文献:、)
漢字の「中」を中心に、4つのペン先が放射状に描かれていた。この4つは設立当時の旧4ヶ村をあらわし、邑法一中が4ヶ村の中心となって理想郷を築く高き理想と誇りをあらわしたものであった。
跡地は廃校後の翌年に鳥取市立岩倉小学校となり校舎も引き継がれたが1998年(平成10年)に建て替えられた。校庭内には邑法第一中学校跡の碑が建てられている。 | [
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] | 鳥取市国府町中学校組合立邑法第一中学校は、かつて鳥取県鳥取市岩倉(当時)にあった公立中学校である。略称は邑法一中。 | {{Infobox 日本の学校
|校名 = 鳥取市国府町中学校組合立邑法第一中学校
|画像 =
|過去校名 = 宇倍野村外六ヵ村学校組合立邑法第一中学校
|国公私立 = [[公立学校]]
|設置者=[[鳥取市]][[国府町 (鳥取県)|国府町]]中学校[[一部事務組合|組合]]
|併合学校 = 宇倍野村立宇倍野中学校<br />米里村外三ヵ村学校組合立邑法中学校
|設立年月日 = [[1949年]]
|閉校年月日 = [[1980年]]
|記念日名称=
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|共学・別学 = [[男女共学]]
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|郵便番号 = 680
|所在地=鳥取県鳥取市岩倉454-1<ref name="鳥取県教育委員会告示第21号"/><ref>[https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I002408302-00 交通安全教育 = Traffic safety education 11(8)(119)]71頁(日本交通安全教育普及協会、1976年)</ref><br />(現・鳥取市立川町七丁目110番地<ref>[https://www.city.tottori.lg.jp/www/contents/1637816073064/index.html 町名地番の新旧対照表について](鳥取市総務部総務課)</ref><ref>[https://digital-collection.pref.tottori.lg.jp/search/detail?cls=arc_c103&pkey=0056921 「鳥取県告示第438号・町等の区域の新設等(鳥取市立川町 外)」『鳥取県公報 第5155号』1980年5月20日](鳥取県立公文書館)</ref>)
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'''鳥取市国府町中学校組合立邑法第一中学校'''(とっとりしこくふちょうちゅうがっこうくみあいりつ おうほうだいいちちゅうがっこう)は、かつて[[鳥取県]][[鳥取市]]岩倉(当時)にあった[[公立学校|公立]][[中学校]]である。略称は'''邑法一中'''。
== 概要 ==
[[1947年]](昭和22年)に宇倍野中学校などが設立されたが、その2年後に[[岩美郡]]のうち歴史的に関係が深い邑法地区七ヶ村(旧[[邑美郡]]・[[法美郡]]の[[宇倍野村]]・[[面影村]]・[[津ノ井村]]・[[米里村 (鳥取県)|米里村]]・[[倉田村 (鳥取県)|倉田村]]・[[成器村]]・[[大茅村]])が結集して邑法第一・第二・第三の各中学校が設立された<ref name="国府町誌"/>。
邑法第一中学校は当時の物資不足や世相不安の中、[[歩兵第40連隊]]兵舎建物の一部が払い下げられて設立された。所在地は当時の宇倍野村との境界付近の鳥取市内であったが学区は宇倍野村・面影村・津ノ井村・米里村としていた。その後の合併により最終的には鳥取市と[[国府町 (鳥取県)|国府町]](現・鳥取市)の組合立となっていた。このため[[1974年]](昭和49年)頃から分離問題が起きていた<ref name="国府町誌"/><ref name="邑法新聞">「邑法新聞」で振り返る邑法一中の思い出(2016年、[[鳥取県立図書館]]・[[鳥取市立図書館]]蔵) </ref>。
[[1980年]](昭和55年)に鳥取市側は[[鳥取市立桜ヶ丘中学校]]を設立、国府町側は大成中学校と統合して[[鳥取市立国府中学校|国府町立国府中学校]]を設立したことで発展的に分離独立し、組合立を解消した。なおこの時の協定により旧邑法一中の備品は桜ヶ丘中学校が保管している<ref name="国府町誌"/><ref name="邑法新聞"/>。
== 沿革 ==
* [[1947年]](昭和22年)[[4月1日]] -
** 宇倍野村立宇倍野中学校を宇倍野村大字町屋の農業専修補修学校跡に設立。
** 米里村外三ヵ村学校組合立邑法中学校(米里村・倉田村・津ノ井村・面影村の組合立)を米里村大字古郡家の米里青年学校跡に設立。
** 学校組合立大成中学校(成器村・大茅村の組合立)を成器村大字中河原に設立。
* [[1948年]](昭和23年)[[5月6日]] - 宇倍野村外三ヵ村学校組合立連合中学校(仮称)を旧歩兵第40連隊兵舎に設立。
* [[1949年]](昭和24年)[[4月7日]] - 宇倍野村外六ヵ村学校組合立として以下の中学校が設立<ref name="鳥取県教育委員会告示第21号"/>。
** 邑法第一中学校:宇倍野中学校と邑法中学校を統合(校区:宇倍野村・米里村・津ノ井村・面影村、所在地:歩兵第40連隊跡地)
** 邑法第二中学校:邑法中学校から倉田校区が独立(校区:倉田村、所在地:[[鳥取市立倉田小学校|倉田小学校]]隣接地、鳥取市合併後に倉田中学校となる)
** 邑法第三中学校:大成中学校から改称(校区:成器村・大茅村、所在地:[[国府町立成器小学校|成器小学校]]隣接地、[[大成村 (鳥取県)|大成村]]発足後に再び大成中学校となる)
* [[1953年]](昭和28年)[[7月1日]] - 面影村が鳥取市に編入され、鳥取市・米里村・津ノ井村・宇倍野村の組合立となる。
* [[1955年]](昭和30年)[[7月20日]] - 米里村が鳥取市に編入され、鳥取市・津ノ井村・宇倍野村の組合立となる。
* [[1957年]](昭和32年)[[1月1日]] - 宇倍野村が合併により国府町となり、鳥取市・津ノ井村・国府町の組合立となる。
* [[1961年]](昭和36年) - 木造校舎6教室竣工。
* [[1962年]](昭和37年) - 鉄筋校舎第一期工事9教室竣工。第二期工事9教室竣工。
* [[1963年]](昭和38年)[[4月22日]] - 津ノ井村が鳥取市に編入され、鳥取市・国府町の組合立となる。
* [[1964年]](昭和39年) - 鉄筋校舎第三期工事5教室および管理室等竣工。
* [[1970年]](昭和45年) - 中庭庭園造成。
* [[1980年]](昭和55年)[[3月31日]] - 鳥取市立桜ヶ丘中学校と国府町立国府中学校に分離独立し、閉校。
(参考文献:<ref name="国府町誌"/>、<ref name="米里誌"/>)
== 校章 ==
漢字の「中」を中心に、4つのペン先が放射状に描かれていた。この4つは設立当時の旧4ヶ村をあらわし、邑法一中が4ヶ村の中心となって理想郷を築く高き理想と誇りをあらわしたものであった<ref name="国府町誌"/>。
== 通学区域 ==
* 鳥取市:[[鳥取市立面影小学校|面影小学校]]区、[[鳥取市立津ノ井小学校|津ノ井小学校]]区、[[鳥取市立米里小学校|米里小学校]]区
* 国府町:[[鳥取市立宮ノ下小学校|宮ノ下小学校]]区、[[国府町立谷小学校|谷小学校]]区
== 廃校後 ==
跡地は廃校後の翌年に[[鳥取市立岩倉小学校]]となり校舎も引き継がれたが[[1998年]](平成10年)に建て替えられた。校庭内には邑法第一中学校跡の碑が建てられている<ref>[https://www.cgr.mlit.go.jp/tottori/tono/25shisanmeguri/pdf/children_booklet.pdf 記録集『子供が描く理想郷 私達の邑法郷』]([[中国地方整備局]] [[殿ダム]]工事事務所)</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist
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<ref name="鳥取県教育委員会告示第21号">[https://digital-collection.pref.tottori.lg.jp/search/detail?cls=arc_c103&pkey=0019629 「鳥取県教育委員会告示第21号・中学校の設置並に廃止認可」『鳥取県公報 第2003号』1949年4月19日]([[鳥取県立公文書館]])</ref>
<ref name="国府町誌">[https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I002610165-00 国府町誌](国府町誌編さん・編集委員会、1987年)、[https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I073694985-00 改訂 国府町誌](改訂国府町誌編纂・編集委員会、2004年)</ref>
<ref name="米里誌">[https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I073430340-00 米里誌](米里誌編集委員会、2012年)</ref>
}}
== 関連項目 ==
* [[鳥取県中学校の廃校一覧]]
{{DEFAULTSORT:とつとりしこくふちようちゆうかつこうくみあいりつ おうほうたいいちちゆう}}
[[Category:鳥取県の公立中学校 (廃止)]]
[[Category:鳥取市の公立中学校|廃おうほうたいいち]]
[[Category:鳥取市の歴史|おうほうたいいちちゆう]]
[[Category:日本の組合立学校|廃とつとりしこくふちようちゆうかつこうくみあいりつ おうほうたいいちちゆう]]
[[Category:鳥取県の一部事務組合|廃とつとりしこくふちようちゆうかつこうくみあいりつ おうほうたいいちちゆう]]
[[Category:学校記事]] | 2023-10-07T16:21:37Z | 2023-10-18T10:06:19Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%8F%96%E5%B8%82%E5%9B%BD%E5%BA%9C%E7%94%BA%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%B5%84%E5%90%88%E7%AB%8B%E9%82%91%E6%B3%95%E7%AC%AC%E4%B8%80%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1 |
4,838,731 | 新井道大 | 新井 道大(あらい どうた、2005年1月29日 - )は、日本の柔道家。埼玉県富士見市出身。階級は100kg級。身長187cm。段位は三段。血液型はA型。組み手は左組み。得意技は大外刈。
柔道は7歳の時に祖父が開設した栄武館新井道場で始めた。埼玉栄中学3年の時に全国中学校柔道大会90kg級で5位にとどまったが、団体戦では優勝した。マルちゃん杯でも優勝した。
埼玉栄高校2年の時にはインターハイ100kg級で優勝すると、全日本ジュニアでも2位になった。3年の時には金鷲旗で優勝すると、インターハイでも2連覇を達成した。世界カデの90kg超級では3位に終わった。全日本ジュニアでは決勝で天理大学1年の平見陸を破って優勝した。グランプリ・アルマダでは決勝で世界ランキング1位であるジョージアのイリア・スラマニゼに敗れて2位に終わった。
2023年に東海大学へ進むと、優勝大会で2位だったが、全日本ジュニアでは昨年に続いて決勝で平見を破って2連覇を果たした。続く世界ジュニアでは決勝でウズベキスタンのルスタム・ショラフマトフを小外掛で破るなど、オール一本勝ちして優勝を飾った。団体戦でも優勝したが、準決勝のブラジル戦、決勝のフランス戦とも自分が出場する前にチームが勝利したために出番がなかった。講道館杯では準々決勝でパーク24の増山香補に反則負けするなどして7位に終わった。グランドスラム・東京では2回戦で中立選手(AIN)として出場した世界チャンピオンであるロシアのアルマン・アダミアンを大外刈で破ると、その後の準々決勝ではオランダのミハエル・コレルを技ありで破るなど、強豪選手をことごとく破り決勝まで進んだが、中立選手であるロシアのマトベイ・カニコフスキーに開始早々の引込返で敗れて2位にとどまった。
IJF世界ランキングは1190ポイント獲得で42位(23/11/27現在)。
(出典) | [
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] | 新井 道大は、日本の柔道家。埼玉県富士見市出身。階級は100kg級。身長187cm。段位は三段。血液型はA型。組み手は左組み。得意技は大外刈。 | {{MedalTableTop}}
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'''新井 道大'''(あらい どうた、[[2005年]][[1月29日]] - )は、[[日本]]の[[柔道家]]。[[埼玉県]][[富士見市]]出身。階級は100kg級。身長187cm。段位は三段。血液型はA型。組み手は左組み。得意技は[[大外刈]]<ref name="名鑑">「柔道全日本強化選手名鑑 2022」[[近代柔道]] [[ベースボールマガジン社]]、2022年4月号</ref><ref name="fujimist">[https://mykoho.jp/article/%E5%9F%BC%E7%8E%89%E7%9C%8C%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E8%A6%8B%E5%B8%82/%E5%BA%83%E5%A0%B1%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E8%A6%8B-%E4%BB%A4%E5%92%8C4%E5%B9%B410%E6%9C%88%E5%8F%B7/%E4%BB%8A%E6%9C%88%E3%81%AEfujimist-7/ 今月のFujimist]</ref>。
==経歴==
柔道は7歳の時に祖父が開設した栄武館新井道場で始めた<ref name="名鑑"/><ref name="fujimist"/>。[[埼玉栄中学校・高等学校|埼玉栄中学]]3年の時に[[全国中学校柔道大会]]90kg級で5位にとどまったが、団体戦では優勝した<ref name="名鑑"/><ref name="juniorhigh">[http://www.judo-ch.jp/result/ajjht/ 全国中学校柔道大会]</ref>。[[マルちゃん杯全日本少年柔道大会|マルちゃん杯]]でも優勝した<ref name="名鑑"/>。
[[埼玉栄中学校・高等学校|埼玉栄高校]]2年の時には[[全国高等学校総合体育大会柔道競技大会|インターハイ]]100kg級で優勝すると、[[全日本ジュニア柔道体重別選手権大会|全日本ジュニア]]でも2位になった<ref name="interhigh">[http://www.judo-ch.jp/result/ih/ 全国高等学校総合体育大会柔道競技大会]</ref><ref name="junior">[http://www.judo-ch.jp/result/aj_junior/ 全日本ジュニア柔道体重別選手権大会]</ref>。3年の時には[[金鷲旗全国高等学校柔道大会|金鷲旗]]で優勝すると、インターハイでも2連覇を達成した<ref name="interhigh"/><ref>[https://www.yomiuri.co.jp/sports/interhigh/20220808-OYT1T50126/ 柔道男子100キロ級、埼玉栄・新井道大が連覇…大野将平に憧れガッツポーズ見せず] [[サンケイスポーツ]] 2022年8月8日</ref><ref name="kinshuki">[http://www.judo-ch.jp/result/kinshuki/ 金鷲旗高校柔道大会]</ref>。[[世界カデ柔道選手権大会|世界カデ]]の90kg超級では3位に終わった<ref>[https://www.sanspo.com/article/20220828-TULJUR5VCRKZPMH4BCVZT3W7UE/ 新井道大と中野弥花が3位 世界カデ選手権/柔道] [[サンケイスポーツ]] 2022年8月28日</ref>。全日本ジュニアでは決勝で[[天理大学]]1年の平見陸を破って優勝した<ref name="junior"/>。[[ヨーロッパオープン・リスボン|グランプリ・アルマダ]]では決勝で世界ランキング1位であるジョージアの[[イリア・スラマニゼ]]に敗れて2位に終わった<ref>[https://www.ijf.org/competition/2437 Grand Prix Portugal 2023]</ref>。
2023年に[[東海大学]]へ進むと、[[全日本学生柔道優勝大会|優勝大会]]で2位だったが、全日本ジュニアでは昨年に続いて決勝で平見を破って2連覇を果たした<ref name="junior"/><ref name="yusho">[http://www.judo-ch.jp/result/student/ 全日本学生柔道優勝大会]</ref>。続く[[2023年世界ジュニア柔道選手権大会|世界ジュニア]]では決勝でウズベキスタンのルスタム・ショラフマトフを小外掛で破るなど、オール一本勝ちして優勝を飾った<ref>[https://www.ijf.org/competition/2451 Odivelas World Championships Juniors Individuals 2023]</ref>。団体戦でも優勝したが、準決勝のブラジル戦、決勝のフランス戦とも自分が出場する前にチームが勝利したために出番がなかった<ref>[https://www.sanspo.com/article/20231009-CI6AHRI3IVNOHFIL35V5UXNG2Q/ 日本が混合団体で優勝 世界ジュニア選手権/柔道] [[サンケイスポーツ]] 2023年10月9日</ref><ref>[https://www.ijf.org/competition/2452 Odivelas World Championships Juniors Mixed Teams 2023]</ref>。[[講道館杯全日本柔道体重別選手権大会|講道館杯]]では準々決勝で[[パーク24]]の[[増山香補]]に反則負けするなどして7位に終わった<ref>[https://seikosportslink.com/juju/202/?i=1001023011 2023年度講道館杯全日本柔道体重別選手権大会]</ref>。[[グランドスラム・東京2023|グランドスラム・東京]]では2回戦で中立選手(AIN)として出場した世界チャンピオンであるロシアの[[アルマン・アダミアン]]を[[大外刈]]で破ると、その後の準々決勝ではオランダの[[ミハエル・コレル]]を技ありで破るなど、強豪選手をことごとく破り決勝まで進んだが、中立選手であるロシアの[[マトベイ・カニコフスキー]]に開始早々の[[引込返]]で敗れて2位にとどまった<ref>[https://seikosportslink.com/juju/202/?i=1001023012 グランドスラム東京2023]</ref>。
[[IJF]]世界ランキングは1190ポイント獲得で42位(23/11/27現在)<ref>[http://www.intjudo.eu/fo-Rankingir World ranking list]</ref>。
==戦績==
*[[2019年]] - [[全国中学校柔道大会]] 個人戦 5位(90kg級)団体戦 優勝
*2019年 - [[マルちゃん杯全日本少年柔道大会|マルちゃん杯]] 優勝
*[[2021年]] - [[全国高等学校総合体育大会柔道競技大会|インターハイ]] 優勝
*2021年 - [[全日本ジュニア柔道体重別選手権大会|全日本ジュニア]] 2位
*[[2022年]] - スペインジュニア国際 5位
*2022年 - [[金鷲旗全国高等学校柔道大会|金鷲旗]] 優勝
*2022年 - インターハイ 優勝
*2022年 - [[世界カデ柔道選手権大会|世界カデ]] 3位(90kg超級)
*2022年 - 全日本ジュニア 優勝
*[[2023年]] - [[ヨーロッパオープン・リスボン|グランプリ・アルマダ]] 2位
*2023年 - [[全日本学生柔道優勝大会|優勝大会]] 2位
*2023年 - 全日本ジュニア 優勝
*2023年 - [[2023年世界ジュニア柔道選手権大会|世界ジュニア]] 個人戦 優勝 団体戦 優勝
*2023年 - [[講道館杯全日本柔道体重別選手権大会|講道館杯]] 7位
*2023年 - [[グランドスラム・東京2023|グランドスラム・東京]] 2位
(出典<ref name="名鑑"/>)
== 脚注 ==
{{Reflist}}
==外部リンク==
* {{JudoInside|151233}}
{{DEFAULTSORT:あらい とうた}}
[[Category:日本の男子柔道家]]
[[Category:埼玉県出身の人物]]
[[Category:2005年生]]
[[Category:存命人物]] | 2023-10-07T16:31:15Z | 2023-12-14T02:25:28Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E4%BA%95%E9%81%93%E5%A4%A7 |
4,838,732 | 佐武広命 | 佐武 廣命(さたけ ひろうじ、1839年 - 1912年)は、明治時代の兵士。
和歌山県生まれ。のちに東京へ移住し、東京青山霊園墓地に眠る。
1876年(明治9年)10月24日熊本市で起こった明治政府に対する士族反乱の神風連の乱(または敬神党の乱)にて歩兵第十三聯隊中尉として参画。連隊旗を奪還したのち、再び神風連に奪われるのを防ぐため軍旗を腹に巻いて熊本城に籠城し、奮闘中に負傷。崩壊寸前となった官軍を救い、勝利に導いた。廣命の鮮血が旗に染みたため「血染めの軍旗」と呼ばれた。
廣命は皇居三の丸尚蔵館に明治十二年明治天皇御下命「人物写真帖」『陸軍』に陸軍少将正五位勲三等として写真が収められている。
子孫
以下、保太郎の家族 | [
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] | 佐武 廣命は、明治時代の兵士。 | '''佐武 廣命'''(さたけ ひろうじ、[[1839年]] - [[1912年]])は、[[明治時代]]の兵士。
== 生涯 ==
[[和歌山県]]生まれ。のちに東京へ移住し、東京[[青山霊園]]墓地に眠る。
[[1876年]]([[明治]]9年)10月24日熊本市で起こった[[明治政府]]に対する士族反乱の[[神風連の乱]](または敬神党の乱)にて歩兵第十三聯隊中尉として参画。[[連隊旗]]を奪還したのち、再び[[神風連]]に奪われるのを防ぐため軍旗を腹に巻いて[[熊本城]]に籠城し、奮闘中に負傷<ref>{{Cite web |title=熊本城周辺の「神風連の変」史跡 {{!}} 熊本の観光ガイドタクシー 加来(英)個人タクシー |url=https://kakutaxi.com/%e7%86%8a%e6%9c%ac%e5%9f%8e%e5%91%a8%e8%be%ba%e3%81%ae%e3%80%8c%e7%a5%9e%e9%a2%a8%e9%80%a3%e3%81%ae%e5%a4%89%e3%80%8d%e5%8f%b2%e8%b7%a1/ |website=kakutaxi.com |date=2019-12-09 |access-date=2023-10-08 |language=ja}}</ref>。崩壊寸前となった官軍を救い、勝利に導いた。廣命の鮮血が旗に染みたため「血染めの軍旗」と呼ばれた。
廣命は皇居[[三の丸尚蔵館]]に明治十二年明治天皇御下命「人物写真帖」『陸軍』に陸軍少将正五位勲三等として写真が収められている<ref>{{Cite web |title=佐武広命|皇居三の丸尚蔵館 The Museum of the Imperial Collections, Sannomaru Shozokan |url=https://shozokan.nich.go.jp/collection/object/SZK001476-646 |website=shozokan.nich.go.jp |access-date=2023-10-08}}</ref>。
== 親族 ==
{{出典の明記| date = 2023年10月| section = 1}}
* 母:半(1816年-1886年) 山村家より
* 妻:喜代の(1844年-1932年)和歌山県士族 鈴木源五右衛門長女
* 弟:駒次郎(1866年没)
* 長男:保太郎(1864年-1945年)
* 次男 好三郎
* 長女:政恵(1870年-1869年) [[山田一男]](1854年-1898年)妻
* 次女:敏尾(1876年-1956年) [[山田一男]](1854年-1898年)妻
子孫
* 廣命長男:保太郎 (日本輪友会会員 http://www.eva.hi-ho.ne.jp/ordinary/JP/rekishi/rekishi28.html<nowiki/>・1874年慶応義塾幼稚舎教師 https://books.google.co.jp/books?id=2zTAEAAAQBAJ&pg=PA524&lpg=PA524&dq=%E6%85%B6%E6%87%89%E7%BE%A9%E5%A1%BE%E5%B9%BC%E7%A8%9A%E8%88%8E+%E6%95%99%E5%93%A1%E3%80%80%E4%BD%90%E6%AD%A6&source=bl&ots=uOP_LAvxht&sig=ACfU3U0ZpmsrNiWeeU6L5pcYTGf3dUrPkA&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwi-lbjJpPWBAxWNdfUHHYUkA48Q6AF6BAg7EAM P524・秋田銀行支配人)<ref>{{Cite web |title=佐武保太郞 (第4版) - 『人事興信録』データベース |url=https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who4-11168 |website=jahis.law.nagoya-u.ac.jp |access-date=2023-10-08}}</ref>
以下、保太郎の家族
* 妻:雅(1867年-19313年)和歌山県士族 野口惟和長女
* 長女:喜美(小島千代輔妻)
* 次女:香代(1890年-1984年 中西義栄妻)
* 長男:千代光(1893年-1949年)
* 次男:八千穂(1597年-1903年)
* 三男:巌(1905年-1987年)
== 脚注 ==
<references />
{{DEFAULTSORT:さたけ ひろうし}}
[[Category:明治時代の人物]]
[[Category:和歌山県出身の人物]]
[[Category:大日本帝国陸軍軍人]]
[[Category:1839年生]]
[[Category:1912年没]] | 2023-10-07T16:32:49Z | 2023-11-04T10:56:58Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E6%AD%A6%E5%BA%83%E5%91%BD |
4,838,735 | 花園 (深谷市) | 花園(はなぞの)は、埼玉県深谷市の町名。郵便番号は369-1248。
深谷市の南西部に位置する。ふかや花園駅前土地区画整理事業の換地処分により新町名が成立した。花園地区の中心部は従前大字小前田であり、2006年に深谷市に合併し消滅した花園町時代より、花園が付く地名はなかった。新駅とアウトレットの開業により、今後新しい花園の中心部となることから、「花園」の地名が復活した。なお、市北部の幡羅町も幡羅村時代はなかったものをのちに復活させたものである。
地区境界を超えると秩父鉄道ふかや花園駅があるが、駅は地区内にはない。 | [
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] | 花園(はなぞの)は、埼玉県深谷市の町名。郵便番号は369-1248。 | {{Pathnav|日本|埼玉県|深谷市|'''花園'''|hide=1|frame=1}}
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'''花園'''(はなぞの)は、[[埼玉県]][[深谷市]]の町名。郵便番号は369-1248<ref name="postal" />。
== 地理 ==
深谷市の南西部に位置する。ふかや花園駅前土地区画整理事業の換地処分により新町名が成立した。花園地区の中心部は従前大字小前田であり、[[2006年]]に深谷市に合併し消滅した[[花園町]]時代より、花園が付く地名はなかった。新駅とアウトレットの開業により、今後新しい花園の中心部となることから、「花園」の地名が復活した。なお、市北部の幡羅町も[[幡羅村]]時代はなかったものをのちに復活させたものである。
地区内には、[[ふかや花園プレミアム・アウトレット]]、[[深谷テラスパーク]]、[[深谷テラス ヤサイな仲間たちファーム]]の3施設が所在する。
== 歴史 ==
* [[2019年]](平成31年)[[3月15日]] : ふかや花園駅前土地区画整理事業の都市計画決定告示<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.fukaya.saitama.jp/soshiki/kyoten/kyoten/hanazono_project/1551421036566.html|title=ふかや花園駅前土地区画整理事業について|date=2019-03-19|accessdate=2022-07-31|publisher=深谷市}}</ref>。
* [[2023年]](令和5年)[[10月7日]] ‐ 大字黒田および大字永田より花園が成立。
== 交通 ==
地区境界を超えると秩父鉄道[[ふかや花園駅]]があるが、駅は地区内にはない。
== 施設 ==
<!--以下、チェーン店を含む飲食店、コンビニ、商業施設などは記載しない-->
* [[ふかや花園プレミアム・アウトレット]]
* [[深谷テラスパーク]]
* [[深谷テラス ヤサイな仲間たちファーム]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[埼玉県第11区]]
{{深谷市の町・字}}
{{デフォルトソート:はなその}}
[[Category:深谷市の町・字]]
[[Category:2023年制定の町・字]] | 2023-10-07T16:42:44Z | 2023-11-23T12:13:19Z | false | false | false | [
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"Template:深谷市の町・字",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%9C%92_(%E6%B7%B1%E8%B0%B7%E5%B8%82) |
4,838,741 | ありがとう〜旅立ちの声〜 | 「ありがとう〜旅立ちの声〜」は、ベリーグッドマンのメジャーデビュー1枚目のシングル。2016年3月9日発売。
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] | 「ありがとう〜旅立ちの声〜」は、ベリーグッドマンのメジャーデビュー1枚目のシングル。2016年3月9日発売。 | {{Infobox Single
| Name = ありがとう〜旅立ちの声〜
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| B-side = Mornin'<br />コンパス - 2016 ver. -
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}}「'''ありがとう〜旅立ちの声〜'''」は、[[ベリーグッドマン]]のメジャーデビュー1枚目の[[シングル]]。[[2016年]][[3月9日]]発売。
== 概要 ==
* インディーズ時代の配信限定シングルを含めて通算5枚目のシングルとなる。
* 「ありがとう~旅立ちの声~」のタイトルと所属事務所のARIGATOに合わせてサンキューの日である[[3月9日]]に発売された。同日はメンバーであるHiDEXの母の[[誕生日]]でもある。
* メンバーの[[Rover (ベリーグッドマン)|Rover]]が5歳の時に喉頭癌で闘病生活を送っていた父親が亡くなる前に書いた「旅立ちの声」という手紙をもとに制作された<ref>{{Cite interview|和書|date=2016-03-06 |subject=Rover |subjectlink=Rover (ベリーグッドマン) |subject2=MOCA |subjectlink2=MOCA (ベリーグッドマン) |interviewer=村上順一 |title=【インタビュー】亡父への人間賛歌 ベリーグッドマン、恩返しのデビューシングル |url=https://www.musicvoice.jp/news/36819/ |work=MusicVoice |publisher=アイ・シー・アイ |accessdate=2023-10-08}}</ref>。
* 編曲にはシンガーであり、クリエイターでもあるHiDEXの兄[[NAO (シンガーソングライター)|NAO]]にピアノとストリングスを担当してもらっている<ref>{{Cite interview|和書|date=2016-02-18 |subject=MOCA |subject2=Rover |subject3=HiDEX |title=【インタビュー前編】ベリーグッドマン、メジャーデビュー作が描き出した“感謝”と“旅立ち” |url=https://www.barks.jp/news/?id=1000124395 |work=BARKS |accessdate=2023-10-08}}</ref>。
* 通常盤には[[阿佐ヶ谷姉妹]]が、[[千葉県立幕張総合高等学校|千葉県立幕張総合高校]]合唱団と共に参加したバージョンが収録されている<ref>{{Cite web|和書|title=阿佐ヶ谷姉妹がベリーグッドマンの楽曲に参加、合唱団と「ありがとう」 |url=https://natalie.mu/owarai/news/171875 |website=お笑いナタリー |publisher=ナターシャ |date=2016-01-08 |accessdate=2023-10-08}}</ref>。
* 初回限定版には「ありがとう~旅立ちの声~」の[[ミュージック・ビデオ|ミュージックビデオ]]が収録されたDVDが同梱。またMVにはメンバーの[[MOCA (ベリーグッドマン)|MOCA]]がソロ活動時代より親交のある[[たむらけんじ]]が出演しており、初回限定版のジャケットにも起用<ref>{{Cite web|和書|title=たむけんがベリーグッドマンのMVで結婚する娘を見送る父親役 |url=https://natalie.mu/owarai/news/176648 |website=お笑いナタリー |publisher=ナターシャ |date=2016-02-18 |accessdate=2023-10-08}}</ref>。
* [[オリコンチャート|オリコン・ウィークリーランキング]]最高順位は37位<ref>{{Cite web|和書|title=ありがとう~旅立ちの声~ - ベリーグッドマン |url=https://www.oricon.co.jp/prof/616681/products/1165571/1/ |website=ORICON NEWS |publisher=oricon ME |access-date=2023-10-07}}</ref>。
* [[Uta-Net]]で先行公開され、2016年1月8日付で即日リアルタイムランキング1位を獲得した<ref>{{Cite web |title=ベリーグッドマン、地元・大阪の成人式にて新曲「ありがとう~旅立ちの声~」を披露 |url=https://okmusic.jp/news/107438 |website=OKMusic |date=2016-01-12 |access-date=2023-10-13}}</ref>。
* メジャーデビューにあわせてインディーズでのデビュー曲「[[コンパス (曲)|コンパス]]」をやわらかく響くアコースティックな音色に再アレンジした「コンパス-2016 ver.-」も収録<ref>{{Cite web |title=ありがとう~旅立ちの声~ [通常盤][CD MAXI] - ベリーグッドマン |url=https://www.universal-music.co.jp/berry-goodman/products/upch-5867/ |website=BERRY GOODMAN |publisher=UNIVERSAL MUSIC JAPAN |access-date=2023-10-13}}</ref>。
== 収録曲 ==
=== 通常版 ===
'''CD'''
# ありがとう〜旅立ちの声〜
#* 作詞・作曲 ベリーグッドマン 編曲 NAO・HiDEX
# Mornin’
#* 作詞・作曲 ベリーグッドマン 編曲 HiDEX
# コンパス - 2016 ver. -
#*作詞・作曲 ベリーグッドマン 編曲 HiDEX
# ありがとう~旅立ちの声~ feat. 阿佐ヶ谷姉妹 with 千葉県立幕張総合高校合唱団
# ありがとう~旅立ちの声~ (Instrumental)
# Mornin’ (Instrumental)
=== 初回限定版 ===
'''CD'''
# ありがとう〜旅立ちの声〜
# Mornin’
# コンパス - 2016 ver. -
# ありがとう~旅立ちの声~ (Instrumental)
# Mornin’ (Instrumental)
'''DVD'''
# ありがとう〜旅立ちの声〜(MV)
== タイアップ ==
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| ありがとう〜旅立ちの声〜 |
* [[毎日放送]]『ENT』2016年3月度エンディング・テーマ
* [[東海テレビ放送|東海テレビ]]『[[オトナ養成所 バナナスクール]]』2016年3月度エンディング・テーマ
* [[テレビ金沢]]『マル得配便DX』2016年3月度エンディング・テーマ
}}
== 収録アルバム ==
'''ありがとう〜旅立ちの声〜'''
* 『SING SING SING 4』#10
* 『BEST BEST BEST』LIFE DISC #6
''' Mornin’'''
* 『BEST BEST BEST』LIFE DISC #9
* 『SING SING SING 5』初回限定盤DVD「ベリー・バンド・セッション Vol.1」#2
''' コンパス - 2016 ver. -'''
* 『BEST BEST BEST』LIFE DISC #10
== プロ野球選手登場曲 ==
* [[中日ドラゴンズ]] [[杉山翔大]](2016年)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
{{Single-stub}}
{{デフォルトソート:ありかとうたひたちのこえ}}
[[Category:楽曲 あ|りかとうたひたちのこえ]]
[[Category:ベリーグッドマンの楽曲]]
[[Category:2016年のデビュー・シングル]] | 2023-10-07T16:56:13Z | 2023-10-13T14:44:06Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%82%8A%E3%81%8C%E3%81%A8%E3%81%86%E3%80%9C%E6%97%85%E7%AB%8B%E3%81%A1%E3%81%AE%E5%A3%B0%E3%80%9C |
4,838,742 | 椋木美希 | 椋木 美希(むくのき みき、2003年6月8日 - )は、島根県益田市出身の日本の柔道選手。階級は78kg超級。身長160cm。体重93kg。組み手は左組み。得意技は小外刈。
柔道は6歳の時に益田市柔道教室で始めた。高津中学から創志学園高校へ進むと、2年の時には全国高校選手権の無差別で2位になった。
2022年に環太平洋大学へ進学すると、世界ジュニア78kg超級では準々決勝でトルコのヒラル・オズトゥルクに敗れるもその後の敗者復活戦を勝ち上がって3位、団体戦では優勝した。全日本ジュニアでは決勝で世界ジュニアで優勝した日体大1年の新井万央に技ありで敗れて2位、体重別団体では3位だった。ベルギー国際ジュニアの部では決勝で新井に敗れて2位だったが、オープンの部では決勝で新井を破って優勝した。3年の時には全日本ジュニアの決勝で新井を技ありで破って優勝した。続く世界ジュニアでは準決勝で世界カデチャンピオンである韓国のイ・ヒョンジを合技で破るも、決勝で新井に反則負けを喫して2位だった。団体戦では準決勝のブラジル戦のみ出場して勝利すると、その後チームも優勝した。
IJF世界ランキングは665ポイント獲得で47位(23/10/23現在)。
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] | 椋木 美希は、島根県益田市出身の日本の柔道選手。階級は78kg超級。身長160cm。体重93㎏。組み手は左組み。得意技は小外刈。 | {{MedalTableTop}}
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'''椋木 美希'''(むくのき みき、[[2003年]][[6月8日]] - )は、[[島根県]][[益田市]]出身の[[日本]]の[[柔道]]選手。階級は78kg超級。身長160cm。体重93㎏。組み手は左組み。得意技は[[小外刈]]<ref name="名鑑">「柔道全日本強化選手名鑑 2022」[[近代柔道]] [[ベースボールマガジン社]]、2022年4月号</ref>。
==経歴==
柔道は6歳の時に益田市柔道教室で始めた<ref name="名鑑"/>。高津中学から[[創志学園高等学校|創志学園高校]]へ進むと、2年の時には[[全国高等学校柔道選手権大会|全国高校選手権]]の無差別で2位になった<ref name="名鑑"/><ref name="highschool">[http://www.judo-ch.jp/result/high/women.shtml 全国高等学校柔道選手権大会]</ref>。
2022年に[[環太平洋大学]]へ進学すると、[[2022年世界ジュニア柔道選手権大会|世界ジュニア]]78㎏超級では準々決勝でトルコのヒラル・オズトゥルクに敗れるもその後の敗者復活戦を勝ち上がって3位、団体戦では優勝した<ref>[https://www.sanspo.com/article/20220814-IGXV4LC23VMFTFNOTXIUVW7FKA/ 日本勢が3階級で優勝 世界ジュニア選手権/柔道] [[サンケイスポーツ]] 2022年8月14日</ref><ref>[https://www.sanspo.com/article/20220815-L3P6XQ4IG5PB5CL22YY2JSIMMI/ 混合団体で日本優勝 世界ジュニア選手権/柔道] [[サンケイスポーツ]] 2022年8月15日</ref>。[[全日本ジュニア柔道体重別選手権大会|全日本ジュニア]]では決勝で世界ジュニアで優勝した[[日体大]]1年の[[新井万央]]に技ありで敗れて2位、[[全日本学生柔道体重別団体優勝大会|体重別団体]]では3位だった<ref name="junior">[http://www.judo-ch.jp/result/aj_junior/women.shtml 全日本ジュニア柔道体重別選手権大会]</ref><ref name="weightteam">[http://www.judo-ch.jp/result/ajts/women.shtml 全日本学生柔道体重別団体優勝大会]</ref>。[[ベルギー国際柔道大会|ベルギー国際]]ジュニアの部では決勝で新井に敗れて2位だったが、オープンの部では決勝で新井を破って優勝した<ref>[https://www.sanspo.com/article/20230129-RUWCNYWMOFPSVJPEHPHLUF5AAU/ 宮木果乃らが優勝 ベルギー国際/柔道] [[サンケイスポーツ]] 2023年1月29日</ref><ref>[https://belgiumopenjudo.be/resultats/ International Ethias Belgian Judo Open]</ref>。3年の時には全日本ジュニアの決勝で新井を技ありで破って優勝した<ref name="junior"/>。続く[[2023年世界ジュニア柔道選手権大会|世界ジュニア]]では準決勝で世界カデチャンピオンである韓国のイ・ヒョンジを合技で破るも、決勝で新井に反則負けを喫して2位だった<ref>[https://www.ijf.org/competition/2451 Odivelas World Championships Juniors Individuals 2023]</ref>。団体戦では準決勝のブラジル戦のみ出場して勝利すると、その後チームも優勝した<ref>[https://www.sanspo.com/article/20231009-CI6AHRI3IVNOHFIL35V5UXNG2Q/ 日本が混合団体で優勝 世界ジュニア選手権/柔道] [[サンケイスポーツ]] 2023年10月9日</ref><ref>[https://www.ijf.org/competition/2452 Odivelas World Championships Juniors Mixed Teams 2023]</ref>。
[[IJF]]世界ランキングは665ポイント獲得で47位(23/10/23現在)<ref>[http://www.intjudo.eu/fo-Rankingir World ranking list]</ref>。
==戦績==
*2021年 - [[全国高等学校柔道選手権大会|全国高校選手権]] 2位(無差別)
*2022年 - オーストリアジュニア国際 優勝
*2022年 - [[2022年世界ジュニア柔道選手権大会|世界ジュニア]] 個人戦 3位 団体戦 優勝
*2022年 - [[全日本ジュニア柔道体重別選手権大会|全日本ジュニア]] 2位
*2022年 - [[全日本学生柔道体重別団体優勝大会|体重別団体]] 3位
*2022年 - [[講道館杯全日本柔道体重別選手権大会|講道館杯]] 5位
*2023年 - [[ベルギー国際柔道大会|ベルギー国際]] ジュニアの部 2位 オープンの部 優勝
*2023年 - 全日本ジュニア 2位
*2023年 - [[2023年世界ジュニア柔道選手権大会|世界ジュニア]] 個人戦 2位 団体戦 優勝
*2022年 - 体重別団体 3位
(出典<ref name="名鑑"/>)
== 脚注 ==
{{Reflist}}
==外部リンク==
* {{JudoInside|155444}}
{{DEFAULTSORT:むくのき みき}}
[[Category:日本の女子柔道家]]
[[Category:島根県出身のスポーツ選手]]
[[Category:2003年生]]
[[Category:存命人物]] | 2023-10-07T16:57:35Z | 2023-10-23T02:02:17Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8B%E6%9C%A8%E7%BE%8E%E5%B8%8C |
4,838,743 | 髙木水月 | 髙木 水月(たかき みづき、2003年5月20日 - )は、大分県大分市出身の、日本の女子柔道選手。階級は63kg級。身長164cm。組み手は右組み。得意技は大外刈。
柔道は小学校1年の時に始めた。地元の下郡小学校から福岡県の敬愛中学へ進むと、3年の時に全国中学校柔道大会63kg級で3位になった。敬愛高校3年の時にインターハイの個人戦と団体戦でともに5位だった。
2022年に明治国際医療大学へ進むと、2年の時には全日本ジュニアで優勝した。続く世界ジュニアでは決勝まで進むも、フランスのメルキア・オシュコルヌに技ありで敗れて2位だった。
IJF世界ランキングは490ポイント獲得で65位(23/11/27現在)。
(出典、JudoInside.com) | [
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] | 髙木 水月は、大分県大分市出身の、日本の女子柔道選手。階級は63kg級。身長164㎝。組み手は右組み。得意技は大外刈。 | {{MedalTableTop}}
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'''髙木 水月'''(たかき みづき、[[2003年]][[5月20日]] - )は、[[大分県]][[大分市]]出身の、[[日本]]の[[女子]][[柔道]]選手。階級は63kg級。身長164㎝。組み手は右組み。得意技は[[大外刈]]<ref name="名鑑">「全国高校選手権プレビュー」[[近代柔道]] [[ベースボールマガジン社]]、2020年3月号</ref><ref name="JDC">[https://www.oita-press.co.jp/1010000000/2023/11/19/JDC2023111301879 大分市出身の高木さん、世界ジュニア柔道で準V GS東京大会へ「楽しみたい」] [[大分合同新聞]] 2023年11月19日</ref><ref>[https://www.judo.or.jp/athlete/athlete-category/ace-c/ 強化選手 女子C強化(ジュニア)]</ref>。
==経歴==
柔道は小学校1年の時に始めた<ref name="JDC"/>。地元の[[大分市立下郡小学校|下郡小学校]]から[[福岡県]]の[[敬愛中学校・高等学校|敬愛中学]]へ進むと、3年の時に[[全国中学校柔道大会]]63㎏級で3位になった<ref name="名鑑"/><ref name="JDC"/>。[[敬愛中学校・高等学校|敬愛高校]]3年の時に[[全国高等学校総合体育大会柔道競技大会|インターハイ]]の個人戦と団体戦でともに5位だった<ref>「第70回全国高等学校柔道大会」[[近代柔道]] [[ベースボールマガジン社]]、2021年9月号</ref>。
2022年に[[明治国際医療大学]]へ進むと、2年の時には[[全日本ジュニア柔道体重別選手権大会|全日本ジュニア]]で優勝した<ref name="JDC"/><ref name="junior">[http://www.judo-ch.jp/result/aj_junior/women.shtml 全日本ジュニア柔道体重別選手権大会]</ref>。続く[[2023年世界ジュニア柔道選手権大会|世界ジュニア]]では決勝まで進むも、フランスのメルキア・オシュコルヌに技ありで敗れて2位だった<ref name="JDC"/><ref>[https://www.ijf.org/competition/2451 Odivelas World Championships Juniors Individuals 2023]</ref>。[[グランドスラム・東京2023|グランドスラム・東京]]では準々決勝でカナダの[[カトリーヌ・ボーシュマン=ピナール]]を技ありで破ると、準決勝では[[国士舘大学]]4年の[[山口葵良梨]]に合技で敗れるも、3位決定戦では[[パーク24]]の[[堀川恵]]に反則勝ちして3位になった<ref>[https://seikosportslink.com/juju/202/?i=1001023012 グランドスラム東京2023]</ref>。
[[IJF]]世界ランキングは490ポイント獲得で65位(23/11/27現在)<ref>[http://www.intjudo.eu/fo-Rankingir World ranking list]</ref>。
==戦績==
*2016年 - 全国小学生学年別柔道大会 3位
*2018年 - [[全国中学校柔道大会]] 3位
*2021年 - [[全国高等学校総合体育大会柔道競技大会|インターハイ]] 個人戦 5位 団体戦 5位
*2023年 - [[全日本ジュニア柔道体重別選手権大会|全日本ジュニア]] 優勝
*2023年 - [[2023年世界ジュニア柔道選手権大会|世界ジュニア]] 2位
*2023年 - [[講道館杯全日本柔道体重別選手権大会|講道館杯]] 7位
*2023年 - [[グランドスラム・東京2023|グランドスラム・東京]] 3位
(出典<ref name="名鑑"/>、JudoInside.com)
== 脚注 ==
{{Reflist}}
==外部リンク==
* {{JudoInside|164547}}
{{DEFAULTSORT:たかき みつき}}
[[Category:日本の女子柔道家]]
[[Category:大分県出身のスポーツ選手]]
[[Category:2003年生]]
[[Category:存命人物]] | 2023-10-07T16:59:40Z | 2023-12-03T11:16:52Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%99%E6%9C%A8%E6%B0%B4%E6%9C%88 |
4,838,745 | サイバーボール | サイバーボールは、1988年にアタリゲームズから稼働されたアーケード用のスポーツゲーム。 | [
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"text": "サイバーボールは、1988年にアタリゲームズから稼働されたアーケード用のスポーツゲーム。",
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] | サイバーボールは、1988年にアタリゲームズから稼働されたアーケード用のスポーツゲーム。 | {{コンピュータゲーム
|Title=サイバーボール
|Genre=[[スポーツゲーム|スポーツ]]
|Plat=[[アーケードゲーム|アーケード]]{{Collapsible list |title = 対応機種一覧 |1 = [[メガドライブ]]<br >[[Amiga]]<br />[[Atari ST]]<br />[[Atari Lynx]]<br />[[Amstrad CPC]]<br />[[コモドール64]]<br />[[Nintendo Entertainment System|NES]]<br />[[PC/AT互換機]]<br />[[ZX Spectrum]]}}
|Dev=アタリゲームズ
|Pub=[[アタリ (企業)|アタリゲームズ]]
|Date=1988年9月
}}
'''サイバーボール'''は、1988年に[[アタリ (企業)|アタリゲームズ]]から稼働された[[アーケードゲーム|アーケード]]用の[[スポーツゲーム]]。
== 移植版 ==
{|class="wikitable" style="white-space:nowrap; font-size:85%"
|-
! No.
! タイトル
! 発売日
! 対応機種
! 開発元
! 発売元
! メディア
! 型式
! 売上本数
! 備考
|-
| style="text-align:right" | 1
! CyberBall
| {{vgrelease new|EU|1990年}}
| [[Amiga]]<br />[[Amstrad CPC]]<br />[[Atari ST]]<br />[[コモドール64]]<br />[[PC/AT互換機]]<br />[[ZX Spectrum]]
| [[アイドス|Domark]]
| Domark
| [[フロッピーディスク]]<br />[[コンパクトカセット|カセットテープ]]
| -
| -
| アーケード版の移植
|-
| style="text-align:right" | 2
! サイバーボール
| {{vgrelease new|JP|1990-07-28|NA|1990-09|EU|1990年}}
| [[メガドライブ]]
| [[セガ]]
| セガ
| 4メガビットロムカセット
| {{vgrelease new|JP|G-4027}}
| -
| アーケード版の移植
|-
| style="text-align:right" | 3
! Tournament CyberBall
| {{vgrelease new|NA|1991年}}
| [[Atari Lynx]]
| BlueSky Software
| アタリ
| ロムカセット
| PA2038
| -
| Tournament CyberBall 2072の移植
|-
| style="text-align:right" | 4
! CyberBall
| {{vgrelease new|NA|1992年}}
| [[Nintendo Entertainment System|NES]]
| [[テンゲン]]
| [[ジャレコ]]
| Game Pak
| {{vgrelease new|NA|NES-4Y}}
| -
| アーケード版の移植
|-
| style="text-align:right" | 5
! [[ゲーセンUSA ミッドウェイアーケードトレジャーズ|ゲーセンUSA<br>ミッドウェイアーケードトレジャーズ]]
| {{vgrelease new|JP|2006-09-21}}
| [[PlayStation 2]]
| Digital Eclipse
| [[サクセス (ゲーム会社)|サクセス]]
| DVD-ROM
| SLPM-66467
| -
| CyberBall 2072版の移植
|-
|}
== スタッフ ==
;メガドライブ版<ref name="SPEC 5">Sega Players Enjoy Club 1990年3月20日刊号 5 SPRING SPECIAL 35ページ</ref><ref name="SPEC 6">Sega Players Enjoy Club 1990年9月10日刊号 6 SUMMER 43、46ページ</ref>
*'''設計者''': テリアキファンク
*'''プログラマー''': 苦悩中間管理職A、Y、O、パパ
*'''絵師''': S.RIMO ([[森司]])
*'''未知の役割''': GEN (えを かいたひと)
== 評価 ==
{{コンピュータゲームレビュー
|rev1 = [[メガドライブFAN]]
|rev1Score = 19.59/30点<ref name="MDFAN">メガドライブFAN 1990年10月8日刊号 79ページ</ref>
|rev2 = [[セガサターンマガジン]]
|rev2Score = 6.57/10点<ref name="SSM">セガサターンマガジン 1995年9月8日刊号 87ページ</ref>
}}
;メガドライブのFAN評価
{|class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:center; width:50%"
|-
! 項目
| キャラクタ || 音楽 || 操作性 || 熱中度 || お買得度 || オリジナリティ
! 総合
|-
! 得点
| 3.30 || 3.06 || 3.23 || 3.09 || 3.27 || 3.61
! 19.59
|}
{{-}}
== 関連項目 ==
*[[メガモデム]]
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
*[https://www.success-corp.co.jp/software/ps2/usa/ ゲーセンUSA ミッドウェイアーケードトレジャーズ公式サイト]
{{videogame-stub}}
{{デフォルトソート:てるてるまあしやん}}
[[Category:アタリのゲームソフト]]
[[Category:スポーツゲーム]]
[[Category:1988年のアーケードゲーム]]
[[Category:1988年のコンピュータゲーム]]
[[Category:メガドライブ用ソフト]]
[[Category:コモドール64用ゲームソフト]]
[[Category:ファミリーコンピュータ用ソフト]]
[[Category:Amiga用ゲームソフト]]
[[Category:Amstrad CPC用ゲームソフト]]
[[Category:Atari ST用ゲームソフト]]
[[Category:Atari Lynx用ソフト]]
[[Category:DOSのゲームソフト]]
[[Category:ZX Spectrum用ゲームソフト]]
[[Category:アメリカで開発されたコンピュータゲーム]] | 2023-10-07T17:04:26Z | 2023-10-27T12:16:36Z | false | false | false | [
"Template:Reflist",
"Template:Videogame-stub",
"Template:コンピュータゲーム",
"Template:Vgrelease new",
"Template:コンピュータゲームレビュー",
"Template:-"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB |
4,838,750 | イスラエルによるアパルトヘイト | イスラエルによるアパルトヘイトは、ヨルダン川西岸地区の大部分を実効支配するイスラエルが、パレスチナ人を支配下に置く全地域で実施してきた隔離、没収、排除など、残虐な施策を指す。
国際連合や各国政府、国際人権団体などにより、占領地のパレスチナ人に対する人権侵害は、アパルトヘイトとして人道に対する罪に相当すると認定されている。一方、イスラエルと欧米の同盟国の一部はこの非難に反発しており、イスラエル外務省はアパルトヘイト認定を「虚偽で偏向した反ユダヤ主義」と主張した。
分離政策は、ハフラダ(ヘブライ語:הפרדה, 英語:Hafrada、直訳は「分離」)という名称で施行されている。
イスラエルのパレスチナ市民は国籍を認められず、ユダヤ系イスラエル人との法的差別が出来上がっている。西岸地区とガザ地区では、パレスチナ人は市民権を持たず、ほとんどの人が無国籍とみられ、領域内で暮らし働くにはイスラエル軍が発行するIDカードを必要とする。東エルサレムのパレスチナ人は、市民権の代わりに永住権を得たが、永住権とは名ばかりで、1967年以降、1万4千を超えるパレスチナ人が、内務省(英語版)の裁量で居住権を剥奪され、強制的に市外に移送されてきた。
2002年に建設が始まりパレスチナ自治区ヨルダン川西岸とイスラエルの境界に建つ壁は、「アパルトヘイト・ウォール」とも呼ばれ、パレスチナの市民が日々直面する屈辱と困難の象徴となった。この壁はテロ抑制を理由に建てられたが、グリーンライン(英語版)を無視した入植地の既成事実化や、パレスチナ人の生活の分断などから不当であるとして、国連総会での非難決議可決や国際司法裁判所による違法認定勧告がなされてきた。
イスラエルによる人種隔離政策の最大の柱は、パレスチナ人の不動産の没収と強制移住となっている。イスラエルは建国以来、大規模にパレスチナ人の土地を没収し、何十万ものパレスチナ人の住居や建物を取り崩してきた。さらに、土地へのアクセスを制限することで、強制移住もさせてきた。人種差別的な土地の接収、あるいは土地の割り当て、開発計画、区画整理に関する数々の差別的法律により、イスラエルの国有地の80%は、事実上パレスチナ人が借りることができない。ベンヤミン・ネタニヤフ首相は、パレスチナ人による独立国家設立の大望をイスラエルは「打ち砕く必要がある」と述べ、入植を推し進めようとしている。
イスラエルは、占領地においてイスラエル国防軍軍律を施行している。これは被占領民(パレスチナ人)のみに適用され、イスラエル人入植者は特別法を用いて一部の条項を除き、イスラエル国内法が適用されている(イスラエル人入植者の法制度詳細は、ユダヤ・サマリア入植地規制法(英語版)、ヨルダン川西岸地区入植地におけるイスラエル法(英語版)を参照)。
2007年、国連人種差別撤廃委員会は、占領地ではパレスチナ人とイスラエル人入植者は異なる刑法が適用されるため、同じ犯罪でもイスラエル人よりもパレスチナ人の方が拘束時間が長く、厳しい処罰を受けると報告した。さらに、アムネスティ・インターナショナルの報告によると、ヨルダン川西岸地区では、不法な殺害を含むパレスチナ人に対する虐待を行ったイスラエル人入植者や兵士は処罰の「免罪符」を享受しており、訴追されることはほとんどないが、イスラエル治安部隊に拘束されたパレスチナ人は、長期に渡って投獄されることがあり、彼らが拷問やその他の不当な扱いを受けたとの報告も、本格的に調査されることはない。
ヨルダン川西岸地区では、イスラエル政府がこの地域の主要な帯水層からパレスチナの水資源を奪い続けている。軍律の命令92号・命令158号・命令291号によって、イスラエル国防軍が水利権を独占し、占領以前のあらゆる水利・土地契約を無効として、雨水を含むあらゆる水資源の利用を采配できる仕組みになっている。
1995年のオスロ合意II(英語版)で、イスラエルはパレスチナの水利権を認め、水資源を共同管理するために共同水利委員会(英語版)が組織された。イスラエルはパレスチナ自治区に年間950万m3を給水し、パレスチナ自治区は1920万m3の水を東部帯水層から自給するものとされた。しかし、ヨルダン川表層水の水利権はパレスチナには全く認められず、共同水利委員会はイスラエルの利害を優先することが多かった。また、オスロ合意IIでイスラエル国防軍の完全支配が継続された「C地区_(ヨルダン川西岸)(英語版)」では、IDF及びイスラエル民政局(英語版)の水利権は手つかずで、共同水利委員会にIDF・民政局の決定を翻す権力は無かった。C地区はヨルダン川西岸地区の6割以上を占めており、実質的に水利の共同管理は機能していない。
イスラエルの主要な水道会社であるメコロットは、イスラエル人入植者に優先的に給水し、パレスチナの村や町に法外な金額で売っている。水道管を敷くのも、井戸を掘るのも支配するイスラエルの許可が必要であり、雨水に頼るしかない住民もいる。その雨水も、イスラエル国防軍が水利権を根拠に貯水槽を破壊することがしばしばである。壁で閉鎖されているガザ地区ではより深刻で、ガザで供給される水の98%が飲用に適しておらず、ガザの病気の約4分の1は水質汚染が原因であるとされる。
2009年、世界銀行は、イスラエルが占領地の地下にある帯水層から利用可能水量の8割以上を奪い、イスラエル領内および入植地で消費し、これがパレスチナ人にとって「真の水不足」を生み出していると報告した。2012年1月、仏国民議会の外務委員会は、ヨルダン川西岸地区におけるイスラエルの水政策について、「新たなアパルトヘイトに奉仕する武器」と評する報告書を発表した。報告書は、45万人のイスラエル入植者が「国際法に反して」230万人のパレスチナ人よりも多くの水を使用していること、パレスチナ人が地下帯水層を使用することは許可されていないこと、イスラエルが意図的に井戸、貯水池、浄水場を破壊していることを指摘した。イスラエル政府や同国のシンクタンクは、「悪意のあるプロパガンダ」で、イスラエルが700以上のパレスチナの村に水道インフラを提供しているなどと反発した。しかし、国際連合人道問題調整事務所(OCHA)のデータでも、イスラエルが一日一人当たり約240リットルの水を使用できるのに対して、西岸地区のパレスチナ人は73リットルしか使用できないとされ、これはWHOの必要最低基準をも下回る事態となっている。
ヨルダン川西岸の非併合地域に住むパレスチナ人は、イスラエル国籍もイスラエルでの投票権も持たないが、イスラエル政府による移動制限の対象になっている。イスラエルは、自爆テロや過激派の自由な移動を防ぐためとして、ヨルダン川西岸に道路や検問所を設けている。この制限は1990年に導入され、第2次インティファーダが起きると、2002年4月、イスラエルはWBGSを8つの主要地域に分割し、その外のパレスチナ人は許可なしに居住できないと宣言した。また、パレスチナ人が利用できない道路やバスも設定されている。
国際司法裁判所は、占領地のパレスチナ人の基本的人権は市民的及び政治的権利に関する国際規約によって保障されており、イスラエルが安全保障を理由にそれを否定することはできないと表明した。また、人権団体や学者・政治家などは、これが南アフリカのアパルトヘイトと類似しているか、それ以上のものだと主張した。
この問題は、学者や弁護士、国連の調査官、人権団体、イスラエルの著名な政治家や文化人などの多くの人々により議論されている。イスラエルや欧米の多くの政府や学者は、この問題への非難を拒否したり、「アパルトヘイト」という言葉の使用に異議を唱えている。欧州委員会は、「イスラエル国家に関連して」この言葉を使うのは「適切ではない」と考えている。その理由として、南アフリカ共和国のアパルトヘイトとは比較にならず、イスラエルの政策は主に安全保障上の配慮によるものであり、それに対する非難は事実的にも道徳的にも不正確で、イスラエルを委縮させることを意図していると主張する者もいる。一方、非難を支持する人々は、特定の法律が信条や人種によって明示的または暗黙的に差別しており、事実上ユダヤ系市民を優遇し、非ユダヤ系市民、特にアラブ系市民を不利にしていると主張する。
2021年6月8日、パレスチナ解放機構(PLO)は『アパルトヘイト:イスラエルのパレスチナ植民地占領の現実』と題する報告書を発表した。
イスラエル政府は、問題を全面的に否定している。2022年にアムネスティ・インターナショナルが「アパルトヘイト」であるという報告書を発表した際、イスラエルの外務省報道官は発表前に開いたオンライン記者会見で、アムネスティが「ユダヤ人の故国としてのイスラエルの存在を否定する目的で」二重基準を用いていると非難。外務省は別の声明で「これこそまさに、現代の反ユダヤ主義の構成要素」と位置付けた。野党党首のマンスール・アッバースも「アパルトヘイト国家」であることを否定している。
イスラエルのシンクタンクで会長を務めるマンフレッド・ゲルステンフェルドは、ヘブライ大学名誉教授のギデオン・シモニが2007年のインタビューで語ったことを引用し、パレスチナ少数民族に対する政策が差別的であると言われている近隣のアラブ諸国ではなく、イスラエルに適用された場合、この例えは中傷的であり、二重基準を反映していると述べた。また、イスラエルとパレスチナの紛争は「分離したナショナリズム」を反映していると述べた。
イスラエルの人権団体ベツェレムは、2002年に調査の結論として、「イスラエルは、同じ地域に2つの異なる法体系を適用し、個人の権利を国籍に基づいて決定するという、差別に基づく分離体制を占領地域に作り上げた。このような体制は世界で唯一であり、南アフリカのアパルトヘイト体制のような過去の不愉快な体制を彷彿とさせる。」と表明している。2021年10月、イスラエルはベツェレムをはじめとする5つの人権団体を「テロ組織」であると宣言した。また、パレスチナの人権団体6つも「テロ組織」認定している。
この他にも、過去には現職首相のイツハク・ラビンやエフード・オルメルトが、アパルトヘイト化への危機を表明してきた。また、元司法長官や元大使などもアパルトヘイト化していることを認める発言をしている。2023年3月には、イスラエルの法学者120人からなるグループが、ネタニヤフ政権の方針について、「イスラエルがアパルトヘイトを実践しているという主張を正当化する」と声明を出した。
1975年、「シオニズムは人種差別であり人種差別の一形態である」という国際連合総会決議3379号に対し、当時のダニエル・パトリック・モイニハン国連大使は、シオニズムはアパルトヘイトとは異なり、人種差別イデオロギーではないとし、米国の強い反対を表明した。その根拠として、アパルトヘイトのような人種差別イデオロギーは、生物学的な差異を理由とする差別であるが、ユダヤ人は人種によらないと述べた。
ジミー・カーター元米大統領は、2006年に『カーター、パレスチナを語る――アパルトヘイトではなく平和を』を著した。彼が「アパルトヘイト」という言葉を使ったのは、イスラエル政府に対する人種差別という具体的な非難を避けるためであり、ガザとヨルダン川西岸地区の状況に慎重に限定したものだった。2007年のインタビューでは、「アパルトヘイトという言葉は、ヨルダン川西岸地区で起こっていることを的確に表現するものであり、パレスチナの土地に対する少数派のイスラエル人の欲望や欲望に基づいている。」と語った。
2009年の議会では、国連人権理事会の委託調査の、ガザ紛争においてイスラエルとハマースの双方に人権侵害があったとする調査結果に対する非難決議が可決された。当時のバラク・オバマ米大統領は入植凍結を呼びかけ、これに対しネタニヤフは、ヨルダン川西岸では新しい入植地の建設を当面凍結するが、入植者の「自然増」による拡大は今後も続け、東エルサレムについては入植地建設を続けると主張した。これについて、ヒラリー・クリントンは「前例のない譲歩」をしたと絶賛した。オバマは、任期終盤の2016年に、イスラエルによる入植活動を非難する国連安全保障理事会の決議で、拒否権行使ではなく棄権を選ぶ異例の行動をした。
2020年にトランプ政権が誕生すると、一気にイスラエル側に傾き、米大使館のエルサレム移転や、イスラエル優位の和平案を提示した。
2021年のイスラエル・パレスチナ危機を受け、ユダヤ人選挙民研究所が依頼した世論調査では、「イスラエルのパレスチナ人に対する扱いは、アメリカにおける人種差別と同様である」という意見に34%が同意し、「イスラエルはアパルトヘイト国家である」という意見に25%が同意し、「イスラエルはパレスチナ人に対してジェノサイドを行っている」という意見に22%が同意した。この割合は若い有権者ほど高く、そのうちの3分の1以上が「イスラエルはアパルトヘイト国家である」に同意した。
2022年7月のインタビューで、ジョー・バイデン米大統領は、「イスラエルはアパルトヘイト国家であり、無条件援助の打ち切りを求める民主党内の声」に対し、「何人かはいるが、私は彼らが間違っていると思う。イスラエルは民主主義国家であり、同盟国だ。」と述べた。
2023年7月、米下院は412対9で決議案を可決し、「イスラエルは人種差別国家でもアパルトヘイト国家でもなく、議会はあらゆる形態の反ユダヤ主義と排外主義を拒否し、米国は常にイスラエルの揺るぎないパートナーであり支援者である」と宣言した。
2008年、中東問題を協議していた国連安全保障理事会において、リビア代表がイスラエルのパレスチナ自治区ガザ地区封鎖を強制収容所にたとえて非難すると、フランスなど西欧諸国の代表は退席した。ガザ地区封鎖の停止を求める声明を数回にわたって採択もされなかった。
2021年には仏外相のジャン=イヴ・ル・ドリアンがアパルトヘイト危機を表した一方、22年にはエマニュエル・マクロン仏大統領の声明として、「アラブ国民が政府や議会に代表され、責任とリーダーシップの地位を占めている状態で、どうしてアパルトヘイトについて語る人がいるだろうか?」と述べられた。
カタルーニャ自治州議会は、2022年6月、「イスラエルはパレスチナ人に対するアパルトヘイトの罪を犯している」とする決議案を可決し、カタルーニャ自治州に対し、イスラエル政権へのいかなる支援も避け、人権団体の報告書の勧告の実施を支援するよう求めた。2023年2月8日、同州のバルセロナ市長は「パレスチナ人に対する『アパルトヘイト政策』を理由に」イスラエルの諸機関との関係を断ち、同市はもはやテルアビブとは姉妹関係にないと発表した。これに応じて、スペイン首都のマドリード市長は代わりに提携することを提案し、バルセロナの動きには「明らかな反ユダヤ主義的なニュアンス」があると批判した。
ドイツのオラフ・ショルツ首相は2022年8月、パレスチナのマフムード・アッバース大統領との共同記者会見で、アッバース首相がイスラエルをアパルトヘイトに例えたことを否定し、「イスラエルの政治に関して、我々は異なる評価を持っている。『アパルトヘイト』という言葉は使わないし、この状況を表現するのにこの言葉を使うのは正しいとは思わない」と発言した。
2023年1月13日、EU議会の質問に対しEUのジョセップ・ボレル外務・安全保障政策上級代表は、「欧州委員会は名誉ある議員の言及した報告書を承知しており、それらに十分な注意を払っている。いずれにせよ、欧州委員会は、イスラエル国家に関連してアパルトヘイトという用語を使用することは適切ではないと考えている」と回答した。これに対し、イスラエルの12の人権団体は、ボレルの発言を非難する声明を発表した。
南アフリカ共和国における反アパルトヘイト活動でノーベル平和賞を受賞したデズモンド・ツツは、南アフリカとパレスチナの類似点、そして南アフリカのアパルトヘイトを終わらせた国際的圧力の重要性についてコメントした。彼は、イスラエルが「国境内と占領を通じてアパルトヘイトの現実を作り出した」とし、イスラエルが「永久にアパルトヘイト国家」でありたくないなら、一国解決か二国解決のいずれかによって占領を終わらせることだと述べた。南アフリカの他の著名な反アパルトヘイト活動家たちも、アパルトヘイトとの比較を用いてヨルダン川西岸の占領、特に分離壁の建設を批判している。
同じくノーベル平和賞受賞者のフレデリック・デクラーク元大統領は、「イスラエルには完全な政治的権利を持つパレスチナ人が住んでいる。彼らに対する差別的な法律、つまり特定のビーチで泳がせないとか、そういうことはない。イスラエルをアパルトヘイト国家と呼ぶのは不当だと思う。」と主張した。
2008年、アフリカ民族会議(ANC)の退役軍人の代表団がイスラエルと占領地を訪問し、ある面ではアパルトヘイトよりもひどいと述べた。
イスラエルやイスラエル占領地の状況を「アパルトヘイト」という言葉で表現した外国政府には、アフリカ連合、バーレーン、バングラデシュ、ボリビア、キューバ、イラン、イラク、レバノン、ニカラグア、北朝鮮、パキスタン、カタール、サウジアラビア、ベネズエラなどがある。 | [
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"text": "2009年の議会では、国連人権理事会の委託調査の、ガザ紛争においてイスラエルとハマースの双方に人権侵害があったとする調査結果に対する非難決議が可決された。当時のバラク・オバマ米大統領は入植凍結を呼びかけ、これに対しネタニヤフは、ヨルダン川西岸では新しい入植地の建設を当面凍結するが、入植者の「自然増」による拡大は今後も続け、東エルサレムについては入植地建設を続けると主張した。これについて、ヒラリー・クリントンは「前例のない譲歩」をしたと絶賛した。オバマは、任期終盤の2016年に、イスラエルによる入植活動を非難する国連安全保障理事会の決議で、拒否権行使ではなく棄権を選ぶ異例の行動をした。",
"title": "各国の反応"
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"text": "2020年にトランプ政権が誕生すると、一気にイスラエル側に傾き、米大使館のエルサレム移転や、イスラエル優位の和平案を提示した。",
"title": "各国の反応"
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"text": "2021年のイスラエル・パレスチナ危機を受け、ユダヤ人選挙民研究所が依頼した世論調査では、「イスラエルのパレスチナ人に対する扱いは、アメリカにおける人種差別と同様である」という意見に34%が同意し、「イスラエルはアパルトヘイト国家である」という意見に25%が同意し、「イスラエルはパレスチナ人に対してジェノサイドを行っている」という意見に22%が同意した。この割合は若い有権者ほど高く、そのうちの3分の1以上が「イスラエルはアパルトヘイト国家である」に同意した。",
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"text": "2022年7月のインタビューで、ジョー・バイデン米大統領は、「イスラエルはアパルトヘイト国家であり、無条件援助の打ち切りを求める民主党内の声」に対し、「何人かはいるが、私は彼らが間違っていると思う。イスラエルは民主主義国家であり、同盟国だ。」と述べた。",
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"text": "2023年7月、米下院は412対9で決議案を可決し、「イスラエルは人種差別国家でもアパルトヘイト国家でもなく、議会はあらゆる形態の反ユダヤ主義と排外主義を拒否し、米国は常にイスラエルの揺るぎないパートナーであり支援者である」と宣言した。",
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"text": "2008年、中東問題を協議していた国連安全保障理事会において、リビア代表がイスラエルのパレスチナ自治区ガザ地区封鎖を強制収容所にたとえて非難すると、フランスなど西欧諸国の代表は退席した。ガザ地区封鎖の停止を求める声明を数回にわたって採択もされなかった。",
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"text": "2021年には仏外相のジャン=イヴ・ル・ドリアンがアパルトヘイト危機を表した一方、22年にはエマニュエル・マクロン仏大統領の声明として、「アラブ国民が政府や議会に代表され、責任とリーダーシップの地位を占めている状態で、どうしてアパルトヘイトについて語る人がいるだろうか?」と述べられた。",
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"text": "カタルーニャ自治州議会は、2022年6月、「イスラエルはパレスチナ人に対するアパルトヘイトの罪を犯している」とする決議案を可決し、カタルーニャ自治州に対し、イスラエル政権へのいかなる支援も避け、人権団体の報告書の勧告の実施を支援するよう求めた。2023年2月8日、同州のバルセロナ市長は「パレスチナ人に対する『アパルトヘイト政策』を理由に」イスラエルの諸機関との関係を断ち、同市はもはやテルアビブとは姉妹関係にないと発表した。これに応じて、スペイン首都のマドリード市長は代わりに提携することを提案し、バルセロナの動きには「明らかな反ユダヤ主義的なニュアンス」があると批判した。",
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"text": "ドイツのオラフ・ショルツ首相は2022年8月、パレスチナのマフムード・アッバース大統領との共同記者会見で、アッバース首相がイスラエルをアパルトヘイトに例えたことを否定し、「イスラエルの政治に関して、我々は異なる評価を持っている。『アパルトヘイト』という言葉は使わないし、この状況を表現するのにこの言葉を使うのは正しいとは思わない」と発言した。",
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"text": "2023年1月13日、EU議会の質問に対しEUのジョセップ・ボレル外務・安全保障政策上級代表は、「欧州委員会は名誉ある議員の言及した報告書を承知しており、それらに十分な注意を払っている。いずれにせよ、欧州委員会は、イスラエル国家に関連してアパルトヘイトという用語を使用することは適切ではないと考えている」と回答した。これに対し、イスラエルの12の人権団体は、ボレルの発言を非難する声明を発表した。",
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"text": "南アフリカ共和国における反アパルトヘイト活動でノーベル平和賞を受賞したデズモンド・ツツは、南アフリカとパレスチナの類似点、そして南アフリカのアパルトヘイトを終わらせた国際的圧力の重要性についてコメントした。彼は、イスラエルが「国境内と占領を通じてアパルトヘイトの現実を作り出した」とし、イスラエルが「永久にアパルトヘイト国家」でありたくないなら、一国解決か二国解決のいずれかによって占領を終わらせることだと述べた。南アフリカの他の著名な反アパルトヘイト活動家たちも、アパルトヘイトとの比較を用いてヨルダン川西岸の占領、特に分離壁の建設を批判している。",
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"text": "同じくノーベル平和賞受賞者のフレデリック・デクラーク元大統領は、「イスラエルには完全な政治的権利を持つパレスチナ人が住んでいる。彼らに対する差別的な法律、つまり特定のビーチで泳がせないとか、そういうことはない。イスラエルをアパルトヘイト国家と呼ぶのは不当だと思う。」と主張した。",
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"text": "2008年、アフリカ民族会議(ANC)の退役軍人の代表団がイスラエルと占領地を訪問し、ある面ではアパルトヘイトよりもひどいと述べた。",
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"text": "イスラエルやイスラエル占領地の状況を「アパルトヘイト」という言葉で表現した外国政府には、アフリカ連合、バーレーン、バングラデシュ、ボリビア、キューバ、イラン、イラク、レバノン、ニカラグア、北朝鮮、パキスタン、カタール、サウジアラビア、ベネズエラなどがある。",
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] | イスラエルによるアパルトヘイトは、ヨルダン川西岸地区の大部分を実効支配するイスラエルが、パレスチナ人を支配下に置く全地域で実施してきた隔離、没収、排除など、残虐な施策を指す。 国際連合や各国政府、国際人権団体などにより、占領地のパレスチナ人に対する人権侵害は、アパルトヘイトとして人道に対する罪に相当すると認定されている。一方、イスラエルと欧米の同盟国の一部はこの非難に反発しており、イスラエル外務省はアパルトヘイト認定を「虚偽で偏向した反ユダヤ主義」と主張した。 | [[ファイル:Austin 202 (8469717987).jpg|thumb|237x237px|イスラエルに占領されたパレスチナ自治区ヨルダン川西岸の都市[[ヘブロン]]で、「[[アパルトヘイト]]通り」として知られる[[アル・シュハダ通り]]の通行止め用ブロックに座るパレスチナ人少年]]
'''イスラエルによるアパルトヘイト'''は、[[ヨルダン川西岸地区]]の大部分を実効支配する[[イスラエル]]が、[[パレスチナ人]]を支配下に置く全地域で実施してきた隔離、没収、排除など、残虐な施策を指す。
[[国際連合]]や各国政府、国際[[人権団体]]などにより、占領地のパレスチナ人に対する[[人権侵害]]は、[[アパルトヘイト]]として[[人道に対する罪]]に相当すると認定されている<ref>{{Cite web |title=パレスチナ人、パレスチナ自治区におけるイスラエルのアパルトヘイトを認める国連の報告書を歓迎 |url=https://www.arabnews.jp/article/middle-east/article_63956/ |website=Arab News |date=2022-03-26 |access-date=2023-10-07}}</ref><ref>{{Cite web |title=イスラエル/被占領パレスチナ地域/パレスチナ:イスラエルによるパレスチナ人へのアパルトヘイト 残虐な支配体制と人道に対する罪 |url=https://www.amnesty.or.jp/news/2022/0322_9505.html |website=アムネスティ日本 AMNESTY |access-date=2023-10-07 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=イスラエル政府の人権侵害政策、アパルトヘイトと迫害の罪に該当 {{!}} Human Rights Watch |url=https://www.hrw.org/ja/news/2021/04/27/abusive-israeli-policies-constitute-crimes-apartheid-persecution |date=2021-04-27 |access-date=2023-10-07 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=仏外相、イスラエルでの「アパルトヘイト」を警告 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3348157 |website=www.afpbb.com |date=2021-05-24 |access-date=2023-10-07 |language=ja}}</ref>。一方、イスラエルと欧米の同盟国の一部はこの非難に反発しており、イスラエル外務省はアパルトヘイト認定を「虚偽で偏向した[[反ユダヤ主義]]」と主張した<ref>{{Cite web |author=イスラエル外務省| title=MFA Press release: Amnesty UK expected to publish a false, biased, and antisemitic report tomorrow |url=https://www.gov.il/en/departments/news/amnesty-uk-expected-to-publish-biased-antiemitic-report-31-jan-2022 |website=イスラエル国 | language=英語 |date=2022-01-31 |access-date=2023-12-08}}</ref><ref>{{Cite web |title=イスラエル、「アパルトヘイト」認定に反発 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB025BJ0S2A200C2000000/ |website=日本経済新聞 |date=2022-02-02 |access-date=2023-10-07}}</ref><ref>{{Cite news |title=バイデン氏、イランへの武力行使の「用意ある」 核武装を防ぐため |url=https://www.bbc.com/japanese/62173962 |work=BBCニュース |access-date=2023-10-07 |language=ja}}</ref>。
== 施策内容 ==
分離政策は、[[ハフラダ]]([[ヘブライ語]]:הפרדה, [[英語]]:Hafrada、直訳は「分離」)という名称で施行されている。
=== 構造的差別 ===
イスラエルのパレスチナ市民は国籍を認められず、ユダヤ系イスラエル人との法的差別が出来上がっている<ref>{{Cite web |title=パレスチナ人に対するイスラエルの扱いは、アパルトヘイトのメカニズムの研究と指摘される |url=https://www.arabnews.jp/article/middle-east/article_59923/ |website=Arab News |date=2022-02-02 |access-date=2023-10-07}}</ref><ref>{{Cite web |title=イスラエル:占領地のパレスチナ人に市民権や居住権を許可しない理由 |url=http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/r/http%3A%2F%2Fwww.el.tufs.ac.jp%2Fprmeis%2Fhtml%2Fr%2FNews20210713_103050.html |access-date=2023-10-07 |publisher=東京外国語大学}}</ref>。西岸地区とガザ地区では、パレスチナ人は[[市民権]]を持たず、ほとんどの人が[[無国籍]]とみられ、領域内で暮らし働くにはイスラエル軍が発行するIDカードを必要とする。東エルサレムのパレスチナ人は、市民権の代わりに[[永住権]]を得たが、永住権とは名ばかりで、1967年以降、1万4千を超えるパレスチナ人が、{{仮リンク|イスラエル内務省|en|Ministry of Interior (Israel)|label=内務省}}の裁量で居住権を剥奪され、[[強制移住|強制的に市外に移送]]されてきた。<ref name=":0">{{Cite web |url=https://www.amnesty.or.jp/library/report/2022/apartheid_202202.pdf |title=イスラエルによるパレスチナ人へのアパルトヘイト |access-date=2023-10-8 |publisher=アムネスティ・インターナショナル}}</ref>
=== 分離壁 ===
{{See also|ヨルダン川西岸地区の分離壁}}2002年に建設が始まりパレスチナ自治区[[ヨルダン川西岸地区の分離壁|ヨルダン川西岸とイスラエルの境界に建つ壁]]は、「アパルトヘイト・ウォール」とも呼ばれ、パレスチナの市民が日々直面する屈辱と困難の象徴となった<ref>{{Cite web |title=パレスチナ: 占領下での生活 |url=https://www.mdm.or.jp/news/5046/ |website=国際協力NGO 世界の医療団 |date=2017-08-04 |access-date=2023-10-07 |language=ja}}</ref>。この壁はテロ抑制を理由に建てられたが、{{仮リンク|グリーンライン (イスラエル)|label=グリーンライン|en|Green Line (Israel)}}を無視した入植地の既成事実化や、パレスチナ人の生活の分断などから不当であるとして<ref>{{Cite web |url=https://cdr.c.u-tokyo.ac.jp/RCSP/rcsp_admin/wp-content/uploads/No7.pdf |title=パレスチナの分離壁とその人道的影響 |access-date=2023-10-8 |publisher=東京大学}}</ref>、[[国連総会]]での非難決議可決や[[国際司法裁判所]]による違法認定勧告がなされてきた<ref name=":1">{{Cite web |title=ICJ Advisory Opinion on the Legal Consequences of the Construction of a Wall in the OPT - ICJ document |url=https://www.un.org/unispal/document/auto-insert-204033/ |website=Question of Palestine |access-date=2023-10-08}}</ref>。
=== 土地没収と入植 ===
イスラエルによる人種隔離政策の最大の柱は、パレスチナ人の不動産の没収と[[強制移住]]となっている。イスラエルは建国以来、大規模にパレスチナ人の土地を没収し、何十万ものパレスチナ人の住居や建物を取り崩してきた<ref>{{Cite web |title=イスラエル、エルサレムのパレスチナ人財産の没収再開を発表 |url=http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/http%3A%2F%2Fwww.el.tufs.ac.jp%2Fprmeis%2Fhtml%2Fpc%2FNews20100720_122347.html |access-date=2023-10-07 |publisher=東京外国語大学}}</ref>。さらに、土地へのアクセスを制限することで、強制移住もさせてきた。人種差別的な土地の接収、あるいは土地の割り当て、開発計画、区画整理に関する数々の差別的法律により、イスラエルの国有地の80%は、事実上パレスチナ人が借りることができない<ref name=":0" />。[[ベンヤミン・ネタニヤフ]]首相は、パレスチナ人による独立国家設立の大望をイスラエルは「打ち砕く必要がある」と述べ、[[ユダヤ人入植地|入植]]を推し進めようとしている<ref>{{Cite web |title=アパルトヘイト国家になりつつあるイスラエル |url=https://www.arabnews.jp/article/opinion/article_94315/ |website=Arab News |date=2023-07-03 |access-date=2023-10-09}}</ref>。
=== 不公平な刑法 ===
イスラエルは、占領地において[[イスラエル国防軍軍律]]を施行している。これは被占領民(パレスチナ人)のみに適用され、イスラエル人入植者は特別法を用いて一部の条項を除き、イスラエル国内法が適用されている(イスラエル人入植者の法制度詳細は、{{仮リンク|ユダヤ・サマリア入植地規制法|en|Regulation Law}}、{{仮リンク|ヨルダン川西岸地区入植地におけるイスラエル法|en|Israeli law in the West Bank settlements}}を参照)。
2007年、国連[[人種差別撤廃委員会]]は、占領地ではパレスチナ人とイスラエル人入植者は異なる刑法が適用されるため、同じ犯罪でもイスラエル人よりもパレスチナ人の方が拘束時間が長く、厳しい処罰を受けると報告した<ref>{{Cite web |url=https://www.ohchr.org/en/documents/concluding-observations/cerdcisrco17-19-committee-elimination-racial-discrimination |title=CERD/C/ISR/CO/17-19: Committee on the Elimination of Racial Discrimination: Concluding observations on the combined seventeenth to nineteenth reports of Israel |access-date=2023-10-8 |publisher=United Nations}}</ref>。さらに、[[アムネスティ・インターナショナル]]の報告によると、ヨルダン川西岸地区では、不法な殺害を含むパレスチナ人に対する虐待を行ったイスラエル人入植者や兵士は処罰の「免罪符」を享受しており、訴追されることはほとんどないが、イスラエル治安部隊に拘束されたパレスチナ人は、長期に渡って投獄されることがあり、彼らが拷問やその他の不当な扱いを受けたとの報告も、本格的に調査されることはない<ref>{{Cite web |title=Israel and the Occupied Palestinian Territories {{!}} Amnesty International Report 2009 |url=https://web.archive.org/web/20100702224348/http://report2009.amnesty.org/en/regions/middle-east-north-africa/israel-occupied-territories |website=web.archive.org |date=2010-07-02 |access-date=2023-10-07}}</ref><ref>{{Cite web |title=Creeping annexation of the West Bank |url=https://mondediplo.com/1999/11/08israel |website=Le Monde diplomatique |date=1999-11-01 |access-date=2023-10-07}}</ref><ref>{{Cite web |title=イスラエルのアパルトヘイトはさらに過激になるだろう |url=https://www.arabnews.jp/article/opinion/article_67660/ |website=Arab News |date=2022-05-19 |access-date=2023-10-07}}</ref>。
=== 水資源の利用制限 ===
ヨルダン川西岸地区では、イスラエル政府がこの地域の主要な[[帯水層]]からパレスチナの[[水資源]]を奪い続けている<ref name="Amnesty200910">{{Cite web |url=https://www.amnesty.or.jp/library/report/pdf/troubledwaters_101108.pdf |title=我田引水 公平な水利を得られないパレスチナ人 |data=2009-10 |access-date=2023-10-9 |publisher=アムネスティ・インターナショナル}}</ref><ref name=":2">{{Cite web |title=イスラエルがガザに水戦争を仕掛ける中、パレスチナの人々が生き残りをかけて戦う |url=https://www.arabnews.jp/article/opinion/article_64161/ |website=Arab News |date=2022-03-29 |access-date=2023-10-08}}</ref>。軍律の命令92号<ref>{{Cite web |url=https://www.idf.il/media/w05n0q3l/%D7%97%D7%95%D7%91%D7%A8%D7%AA_6.pdf |title=צו בדבר סמכויות לעניין דיני - מים |date=1967-08-15 |access-date=2023-12-06 |publisher=イスラエル国防軍}}</ref>・命令158号<ref>{{Cite web |url=https://www.idf.il/media/ewjphkbs/%D7%A7%D7%9E%D7%A6%D7%9D-%D7%97%D7%95%D7%91%D7%A8%D7%AA-8-%D7%A6%D7%95-137-164-11101967-03111967.pdf |title=צו בדבר תיקון חוק הפיקוח על המים |date=1967-10-30 |access-date=2023-12-06 |publisher=イスラエル国防軍}}</ref>・命令291号<ref>{{Cite web |url=https://www.idf.il/media/w05n0q3l/%D7%97%D7%95%D7%91%D7%A8%D7%AA_6.pdf |title=צו בדבר הסדר קרקעות ומים |date=1968-09-19 |access-date=2023-12-06 |publisher=イスラエル国防軍}}</ref>によって、イスラエル国防軍が水利権を独占し、占領以前のあらゆる水利・土地契約を無効として、雨水を含むあらゆる水資源の利用を采配できる仕組みになっている。
[[1995年]]の{{仮リンク|オスロ合意Ⅱ|en|Oslo II Accord}}で、イスラエルはパレスチナの水利権を認め、水資源を共同管理するために{{仮リンク|共同水利委員会|en|Israeli–Palestinian Joint Water Committee}}が組織された。イスラエルはパレスチナ自治区に年間950万㎥を給水し、パレスチナ自治区は1920万㎥の水を東部帯水層から自給するものとされた。しかし、[[ヨルダン川]]表層水の水利権はパレスチナには全く認められず、共同水利委員会はイスラエルの利害を優先することが多かった。また、オスロ合意Ⅱでイスラエル国防軍の完全支配が継続された「{{仮リンク|C地区_(ヨルダン川西岸)|en|Area C}}」では、IDF及び{{仮リンク|イスラエル民政局|en|Israeli Civil Administration}}の水利権は手つかずで、共同水利委員会にIDF・民政局の決定を翻す権力は無かった<ref>{{Cite web | author=錦田愛子 |url=https://ifi.u-tokyo.ac.jp/wp/wp-content/uploads/2021/05/sdgs_wp_2020_nishikida_jp.pdf |title=イスラエル・パレスチナの水紛争―技術発展および気候変動がもたらす影響― |date=2021-03 |access-date=2023-12-08 |publisher=東京大学未来ビジョン研究センター}}</ref>。C地区はヨルダン川西岸地区の6割以上を占めており、実質的に水利の共同管理は機能していない。
イスラエルの主要な水道会社であるメコロットは、イスラエル人入植者に優先的に給水し、パレスチナの村や町に法外な金額で売っている。水道管を敷くのも、井戸を掘るのも支配するイスラエルの許可が必要であり、雨水に頼るしかない住民もいる<ref>{{Cite web |title=水を止められたパレスチナの村 イスラエル占領政策 頼みは雨水 |url=https://mainichi.jp/articles/20211123/k00/00m/030/010000c |website=毎日新聞 |access-date=2023-10-08 |language=ja}}</ref>。その雨水も、イスラエル国防軍が水利権を根拠に貯水槽を破壊することがしばしばである<ref name="Amnesty200910" />。壁で閉鎖されているガザ地区ではより深刻で、ガザで供給される水の98%が飲用に適しておらず、ガザの病気の約4分の1は水質汚染が原因であるとされる<ref name=":2" />。
2009年、[[世界銀行]]は、イスラエルが占領地の地下にある帯水層から利用可能水量の8割以上を奪い、イスラエル領内および入植地で消費し、これがパレスチナ人にとって「真の水不足」を生み出していると報告した<ref>{{Cite web |title=ASSESSMENT OF RESTRICTIONS ON PALESTINIAN WATER SECTOR DEVELOPMENT |url=http://siteresources.worldbank.org/INTWESTBANKGAZA/Resources/WaterRestrictionsReport18Apr2009.pdf |website= |access-date=2023-10-08 |publisher=The World Bank |archive-url=https://web.archive.org/web/20100409075502/http://siteresources.worldbank.org/INTWESTBANKGAZA/Resources/WaterRestrictionsReport18Apr2009.pdf |archive-date=2010-4-9}}</ref>。2012年1月、仏[[国民議会 (フランス)|国民議会]]の外務委員会は、ヨルダン川西岸地区におけるイスラエルの水政策について、「新たなアパルトヘイトに奉仕する武器」と評する報告書を発表した。報告書は、45万人のイスラエル入植者が「国際法に反して」230万人のパレスチナ人よりも多くの水を使用していること、パレスチナ人が地下帯水層を使用することは許可されていないこと、イスラエルが意図的に井戸、貯水池、浄水場を破壊していることを指摘した。イスラエル政府や同国のシンクタンクは、「悪意のあるプロパガンダ」で、イスラエルが700以上のパレスチナの村に水道インフラを提供しているなどと反発した<ref>{{Cite news |title=French Parliament Report Accuses Israel of Water 'Apartheid' in West Bank |url=https://www.haaretz.com/2012-01-17/ty-article/french-parliament-report-accuses-israel-of-water-apartheid-in-west-bank/0000017f-ef2b-ddba-a37f-ef6f28c70000 |work=Haaretz |access-date=2023-10-08 |date=2012-1-17}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.jpost.com/MiddleEast/Article.aspx?id=254047 |title=Government slams French water 'apartheid' report |access-date=2023-10-9 |publisher=The Jerusalem Post |archive-url=https://web.archive.org/web/20120119140318/http://www.jpost.com/MiddleEast/Article.aspx?id=254047 |archive-date=2012-1-12}}</ref>。しかし、[[国際連合人道問題調整事務所]](OCHA)のデータでも、イスラエルが一日一人当たり約240リットルの水を使用できるのに対して、西岸地区のパレスチナ人は73リットルしか使用できないとされ、これは[[WHO]]の必要最低基準をも下回る事態となっている<ref>{{Cite journal|author=錦田愛子|year=2021|title=イスラエル・パレスチナの水紛争 ―技術発展および気候変動がもたらす影響―|url=https://ifi.u-tokyo.ac.jp/wp/wp-content/uploads/2021/05/sdgs_wp_2020_nishikida_jp.pdf|journal=IFI-SDGs Unit Working Paper|volume=3}}</ref>。
=== 移動制限 ===
ヨルダン川西岸の非併合地域に住むパレスチナ人は、イスラエル国籍もイスラエルでの投票権も持たないが、イスラエル政府による移動制限の対象になっている。イスラエルは、自爆テロや過激派の自由な移動を防ぐためとして、ヨルダン川西岸に道路や検問所を設けている。この制限は1990年に導入され、[[第2次インティファーダ]]が起きると、2002年4月、イスラエルはWBGSを8つの主要地域に分割し、その外のパレスチナ人は許可なしに居住できないと宣言した。また、パレスチナ人が利用できない道路やバスも設定されている<ref>{{Cite news |title=AG Orders Ya'alon: Explain Why Palestinians Banned From Israeli-run Buses in West Bank |url=https://www.haaretz.com/2014-10-27/ty-article/yaalon-told-to-explain-why-palestinians-banned-from-buses/0000017f-df05-d856-a37f-ffc5c7170000 |work=Haaretz |access-date=2023-10-09 |date=2023-10-9}}</ref><ref>{{Cite web |title=Israel: an apartheid state? |url=https://mondediplo.com/2003/11/04apartheid |website=Le Monde diplomatique |date=2003-11-01 |access-date=2023-10-08 |first=Leila |last=Farsakh}}</ref>。
国際司法裁判所は、占領地のパレスチナ人の基本的人権は[[市民的及び政治的権利に関する国際規約]]によって保障されており、イスラエルが安全保障を理由にそれを否定することはできないと表明した<ref name=":1" />。また、人権団体や学者・政治家などは、これが南アフリカのアパルトヘイトと類似しているか、それ以上のものだと主張した<ref>{{Cite book |title=Beyond Chutzpah: On the Misuse of Anti-Semitism and the Abuse of History |url=https://books.google.co.jp/books?id=qc6Tn-C2B5UC&pg=PR28&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false |publisher=University of California Press |date=2008-06-02 |isbn=978-0-520-24989-9 |first2=Norman |last2=Finkelstein}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.btselem.org/sites/default/files2/publication/200408_forbidden_roads_eng.pdf |title=Forbidden Roads Israel’s Discriminatory Road Regime in the West Bank |access-date=2023-10-8 |publisher=[[ベツェレム]]}}</ref><ref>{{Cite web |title=Israelis adopt what South Africa dropped |url=https://ifamericansknew.org/cur_sit/dugard.html |website=ifamericansknew.org |access-date=2023-10-08}}</ref>。
== 各国の反応 ==
この問題は、学者や弁護士、国連の調査官、人権団体、イスラエルの著名な政治家や文化人などの多くの人々により議論されている<ref>{{Cite news |title=Why Do Americans Get Attacked for Saying What Israelis Say About Israel? |url=https://www.thenation.com/article/politics/pramila-jayapal-israel-vote/ |date=2023-07-20 |access-date=2023-10-09 |issn=0027-8378 |newspaper=The Nations}}</ref><ref name=":3">{{Cite web |title=Top Israelis Have Warned of Apartheid, so Why the Outrage at a UN Report? |url=https://theintercept.com/2017/03/22/top-israelis-have-warned-of-apartheid-so-why-the-outrage-at-a-un-report/ |website=The Intercept |date=2017-03-22 |access-date=2023-10-09}}</ref>。イスラエルや欧米の多くの政府や学者は、この問題への非難を拒否したり、「[[アパルトヘイト]]」という言葉の使用に異議を唱えている。[[欧州委員会]]は、「イスラエル国家に関連して」この言葉を使うのは「適切ではない」と考えている。その理由として、[[南アフリカ共和国]]のアパルトヘイトとは比較にならず、イスラエルの政策は主に安全保障上の配慮によるものであり、それに対する非難は事実的にも道徳的にも不正確で、イスラエルを委縮させることを意図していると主張する者もいる。一方、非難を支持する人々は、特定の法律が信条や人種によって明示的または暗黙的に差別しており、事実上ユダヤ系市民を優遇し、非ユダヤ系市民、特にアラブ系市民を不利にしていると主張する。
=== パレスチナ ===
2021年6月8日、[[パレスチナ解放機構]](PLO)は『アパルトヘイト:イスラエルのパレスチナ植民地占領の現実』と題する報告書を発表した<ref>{{Cite web |url=https://english.wafa.ps/Pages/Details/124933 |title=PLO Negotiations Affairs Department issues a new publication on Israeli apartheid |access-date=2023-10-9 |publisher=WAFA}}</ref>。
=== イスラエル ===
イスラエル政府は、問題を全面的に否定している。2022年にアムネスティ・インターナショナルが「アパルトヘイト」であるという報告書を発表した際、イスラエルの外務省報道官は発表前に開いたオンライン記者会見で、アムネスティが「ユダヤ人の故国としてのイスラエルの存在を否定する目的で」二重基準を用いていると非難。外務省は別の声明で「これこそまさに、現代の反ユダヤ主義の構成要素」と位置付けた<ref>{{Cite web |title=アムネスティ、イスラエルを「アパルトヘイト」と非難、パレスチナ人の処遇めぐり |url=https://www.cnn.co.jp/world/35182966.html |website=CNN.co.jp |access-date=2023-10-09 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=人権団体「イスラエルは差別国家」と非難、政府は反発「反ユダヤ主義」 |url=https://www.sankei.com/article/20220202-7XHEY4E2JVOTBLRYV5D7RAJ74I/ |website=産経ニュース |date=2022-02-02 |access-date=2023-10-09}}</ref>。野党党首のマンスール・アッバースも「アパルトヘイト国家」であることを否定している<ref>{{Cite web |title=Israeli Arab Party Leader Abbas Dismisses Charge of ‘Apartheid’ State: ‘Our Fate Here Is to Live Together’ - Algemeiner.com |url=https://www.algemeiner.com/2022/02/10/israeli-arab-party-leader-abbas-dismisses-charge-of-apartheid-state-our-fate-here-is-to-live-together/ |website=www.algemeiner.com |date=2022-02-10 |access-date=2023-10-09}}</ref>。
イスラエルの[[シンクタンク]]で会長を務めるマンフレッド・ゲルステンフェルドは、[[ヘブライ大学]]名誉教授のギデオン・シモニが2007年のインタビューで語ったことを引用し、パレスチナ少数民族に対する政策が差別的であると言われている近隣の[[アラブ諸国]]ではなく、イスラエルに適用された場合、この例えは中傷的であり、二重基準を反映していると述べた。また、イスラエルとパレスチナの紛争は「分離したナショナリズム」を反映していると述べた。<ref>{{Cite web |title=Deconstructing Apartheid Accusations Against Israel |url=https://jcpa.org/article/deconstructing-apartheid-accusations-against-israel/ |website=Jerusalem Center for Public Affairs |access-date=2023-10-09}}</ref>
イスラエルの人権団体[[ベツェレム]]は、2002年に調査の結論として、「イスラエルは、同じ地域に2つの異なる法体系を適用し、個人の権利を国籍に基づいて決定するという、差別に基づく分離体制を占領地域に作り上げた。このような体制は世界で唯一であり、南アフリカのアパルトヘイト体制のような過去の不愉快な体制を彷彿とさせる。」と表明した。しかしこの時点では、アパルトヘイトとの断定はしなかった。
2021年1月12日、ベツェレムは、イスラエルの諸政策はもはやアパルトヘイトの条件を満たしたとして、「This is Apartheid」と声明を出した<ref>{{Cite web |title=A regime of Jewish supremacy from the Jordan River to the Mediterranean Sea: This is apartheid |url=https://www.btselem.org/publications/fulltext/202101_this_is_apartheid |website=B’Tselem |date=2021-01-12 |access-date=2023-12-12}}</ref>。大きな理由として、2018年の[[ユダヤ人国家法]]制定と、2020年にネタニヤフ政権がヨルダン川西岸地区の一部併合を米国と協議を始めたことを指摘した。10月、イスラエルはベツェレムをはじめとする5つの人権団体を「テロ組織」であると宣言した<ref>{{Cite web |title=イスラエルは人権擁護団体を押さえつけることはできない |url=https://www.arabnews.jp/article/opinion/article_54316/ |website=Arab News |date=2021-11-11 |access-date=2023-10-09}}</ref>。また、パレスチナの人権団体6つも「テロ組織」認定している<ref>{{Cite web |title=イスラエル、パレスチナNGOを「テロ組織」指定 逮捕も可能に |url=https://www.asahi.com/articles/ASPCC4VJ8PCBUHBI042.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞デジタル |date=2021-11-11 |access-date=2023-10-09}}</ref>。
この他にも、過去には現職首相の[[イツハク・ラビン]]や[[エフード・オルメルト]]が、アパルトヘイト化への危機を表明してきた<ref name=":3" />。また、元司法長官や元大使などもアパルトヘイト化していることを認める発言をしている<ref>{{Cite web |title=Former AG of Israel: With great sadness I conclude that my country is now an apartheid regime |url=https://www.thejournal.ie/readme/israel-apartheid-5678541-Feb2022/ |website=TheJournal.ie |date=2022-02-10 |access-date=2023-10-09}}</ref><ref>{{Cite web |title=It’s apartheid, say Israeli ambassadors to South Africa |url=https://www.groundup.org.za/article/israeli-ambassadors-compare-israel-south-africa/ |website=GroundUp News |date=2021-06-08 |access-date=2023-10-09}}</ref>。2023年3月には、イスラエルの法学者120人からなるグループが、ネタニヤフ政権の方針について、「イスラエルがアパルトヘイトを実践しているという主張を正当化する」と声明を出した<ref>{{Cite web |title=‘Israel practices apartheid,’ say Israeli law professors |url=https://www.middleeastmonitor.com/20230330-israel-practices-apartheid-say-israeli-law-professors/ |website=Middle East Monitor |date=2023-03-30 |access-date=2023-10-09}}</ref>。
=== 米国 ===
1975年、「[[反シオニズム#ユダヤ民族主義的シオニズム|シオニズムは人種差別]]であり人種差別の一形態である」という[[国際連合総会決議]][[:en:United Nations General Assembly Resolution 3379|3379号]]に対し、当時の[[ダニエル・パトリック・モイニハン]]国連大使は、シオニズムはアパルトヘイトとは異なり、人種差別イデオロギーではないとし、米国の強い反対を表明した。その根拠として、アパルトヘイトのような人種差別イデオロギーは、生物学的な差異を理由とする差別であるが、ユダヤ人は人種によらないと述べた<ref>{{Cite web |url=http://www.time.com/time/magazine/article/0%2C9171%2C913724-2%2C00.html |title=Zionism Vote: Rage & Discord |access-date=2023-10-9 |publisher=Time |archive-url=https://web.archive.org/web/20080316194039/http://www.time.com/time/magazine/article/0%2C9171%2C913724-2%2C00.html |archive-date=2008-3-16}}</ref>。
[[ジミー・カーター]]元米大統領は、2006年に『カーター、パレスチナを語る――アパルトヘイトではなく平和を』を著した。彼が「アパルトヘイト」という言葉を使ったのは、イスラエル政府に対する人種差別という具体的な非難を避けるためであり、ガザとヨルダン川西岸地区の状況に慎重に限定したものだった。2007年のインタビューでは、「アパルトヘイトという言葉は、ヨルダン川西岸地区で起こっていることを的確に表現するものであり、パレスチナの土地に対する少数派のイスラエル人の欲望や欲望に基づいている。」と語った<ref>{{Cite news |title=Analysis {{!}} Jimmy Carter’s warning: Without peace, Israel must face ‘apartheid’ |url=https://www.washingtonpost.com/world/2023/02/24/jimmy-carter-israel-apartheid-palestine-peace/ |work=Washington Post |date=2023-02-24 |access-date=2023-10-09 |issn=0190-8286}}</ref>。
2009年の議会では、国連人権理事会の委託調査の、ガザ紛争においてイスラエルと[[ハマース]]の双方に人権侵害があったとする調査結果に対する非難決議が可決された。当時の[[バラク・オバマ]]米大統領は入植凍結を呼びかけ、これに対しネタニヤフは、ヨルダン川西岸では新しい入植地の建設を当面凍結するが、入植者の「自然増」による拡大は今後も続け、東エルサレムについては入植地建設を続けると主張した。これについて、[[ヒラリー・クリントン]]は「前例のない譲歩」をしたと絶賛した<ref>{{Cite web |title=イスラエルの人種隔離策を許す米議会 |url=http://www.newsweekjapan.jp/stories/us/2009/11/post-683.php |website=Newsweek日本版 |date=2009-11-04 |access-date=2023-10-09}}</ref>。オバマは、任期終盤の2016年に、イスラエルによる入植活動を非難する国連安全保障理事会の決議で、拒否権行使ではなく棄権を選ぶ異例の行動をした<ref>{{Cite web |title=オバマ政権、イスラエル非難の国連安保理決議に拒否権行使せず |url=https://www.huffingtonpost.jp/2016/12/24/obama-un-israel-settlements-abstain_n_13838064.html |website=ハフポスト |date=2016-12-24 |access-date=2023-10-09}}</ref>。
2020年に[[トランプ政権]]が誕生すると、一気にイスラエル側に傾き、米大使館のエルサレム移転や、イスラエル優位の和平案を提示した<ref>{{Cite web |title=トランプ氏、中東和平案を発表 パレスチナは反発 |url=https://www.bbc.com/japanese/51291425 |website=BBCニュース |date=2020-01-29 |access-date=2023-10-09}}</ref>。
[[2021年のイスラエル・パレスチナ危機]]を受け、ユダヤ人選挙民研究所が依頼した世論調査では、「イスラエルのパレスチナ人に対する扱いは、アメリカにおける人種差別と同様である」という意見に34%が同意し、「イスラエルはアパルトヘイト国家である」という意見に25%が同意し、「イスラエルはパレスチナ人に対してジェノサイドを行っている」という意見に22%が同意した。この割合は若い有権者ほど高く、そのうちの3分の1以上が「イスラエルはアパルトヘイト国家である」に同意した。
2022年7月のインタビューで、[[ジョー・バイデン]]米大統領は、「イスラエルはアパルトヘイト国家であり、無条件援助の打ち切りを求める[[民主党 (アメリカ)|民主党]]内の声」に対し、「何人かはいるが、私は彼らが間違っていると思う。イスラエルは民主主義国家であり、同盟国だ。」と述べた<ref>{{Cite web |title=米国・イスラエル:バイデン大統領のイスラエル訪問(1) |url=https://www.meij.or.jp/kawara/2022_049.html |website=公益財団法人 中東調査会 |access-date=2023-10-09}}</ref>。
2023年7月、米下院は412対9で決議案を可決し、「イスラエルは人種差別国家でもアパルトヘイト国家でもなく、議会はあらゆる形態の反ユダヤ主義と排外主義を拒否し、米国は常にイスラエルの揺るぎないパートナーであり支援者である」と宣言した<ref>{{Cite web |title=US House overwhelmingly passes GOP resolution backing Israel, meant to rebuke Dems |url=https://www.timesofisrael.com/us-house-overwhelmingly-passes-gop-resolution-backing-israel-meant-to-rebuke-dems/ |website=www.timesofisrael.com |access-date=2023-10-09}}</ref>。
=== 欧州 ===
2008年、中東問題を協議していた国連安全保障理事会において、リビア代表がイスラエルのパレスチナ自治区ガザ地区封鎖を強制収容所にたとえて非難すると、フランスなど西欧諸国の代表は退席した。ガザ地区封鎖の停止を求める声明を数回にわたって採択もされなかった<ref>{{Cite web |title=「ガザ封鎖はナチス収容所と同じ」、リビア大使発言に仏など退席 安保理 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2382520 |website=www.afpbb.com |date=2008-04-24 |access-date=2023-10-09}}</ref>。
2021年には仏外相の[[ジャン=イヴ・ル・ドリアン]]がアパルトヘイト危機を表した一方、22年には[[エマニュエル・マクロン]]仏大統領の声明として、「アラブ国民が政府や議会に代表され、責任とリーダーシップの地位を占めている状態で、どうしてアパルトヘイトについて語る人がいるだろうか?」と述べられた<ref>{{Cite web |title=France rejects apartheid label for Israel |url=https://electronicintifada.net/blogs/ali-abunimah/france-rejects-apartheid-label-israel |website=The Electronic Intifada |date=2022-02-25 |access-date=2023-10-09}}</ref>。
[[カタルーニャ自治州議会]]は、2022年6月、「イスラエルはパレスチナ人に対するアパルトヘイトの罪を犯している」とする決議案を可決し、カタルーニャ自治州に対し、イスラエル政権へのいかなる支援も避け、人権団体の報告書の勧告の実施を支援するよう求めた<ref>{{Cite web |title=El Parlament declara que "Israel comet el crim d'apartheid contra el poble palestí" |url=https://www.racocatala.cat/noticia/55696/parlament-declara-israel-comet-crim-dapartheid-contra-poble-palesti |website=RacoCatalà |date=2022-06-16 |access-date=2023-10-09}}</ref>。2023年2月8日、同州の[[バルセロナ]]市長は「パレスチナ人に対する『アパルトヘイト政策』を理由に」イスラエルの諸機関との関係を断ち、同市はもはや[[テルアビブ]]とは姉妹関係にないと発表した。これに応じて、スペイン首都の[[マドリード]]市長は代わりに提携することを提案し、バルセロナの動きには「明らかな反ユダヤ主義的なニュアンス」があると批判した<ref>{{Cite web |title=Madrid offers to partner with Tel Aviv after Barcelona severs 'twin city' ties |url=https://www.jta.org/2023/02/10/global/madrid-offers-to-partner-with-tel-aviv-after-barcelona-severs-twin-city-ties |website=Jewish Telegraphic Agency |date=2023-02-10 |access-date=2023-10-09}}</ref>。
ドイツの[[オラフ・ショルツ]]首相は2022年8月、パレスチナの[[マフムード・アッバース]]大統領との共同記者会見で、アッバース首相がイスラエルをアパルトヘイトに例えたことを否定し、「イスラエルの政治に関して、我々は異なる評価を持っている。『アパルトヘイト』という言葉は使わないし、この状況を表現するのにこの言葉を使うのは正しいとは思わない」と発言した<ref>{{Cite web |title=パレスチナ人はホロコーストの苦しみを認識している |url=https://www.arabnews.jp/article/opinion/article_75461/ |website=Arab News |date=2022-09-02 |access-date=2023-10-09}}</ref><ref>{{Cite web |title=Scholz rejects use of 'apartheid' to describe Israel |url=https://www.dw.com/en/germanys-scholz-rejects-use-of-apartheid-to-describe-israel/a-62828146 |website=dw.com |access-date=2023-10-09}}</ref>。
2023年1月13日、EU議会の質問に対しEUの[[ジョセップ・ボレル]]外務・安全保障政策上級代表は、「欧州委員会は名誉ある議員の言及した報告書を承知しており、それらに十分な注意を払っている。いずれにせよ、欧州委員会は、イスラエル国家に関連してアパルトヘイトという用語を使用することは適切ではないと考えている」と回答した<ref>{{Cite web |title=Amnesty International report on Israeli apartheid against the Palestinian people – EU Commission answer – INSIGHT EU MONITORING |url=https://portal.ieu-monitoring.com/editorial/amnesty-international-report-on-israeli-apartheid-against-the-palestinian-people-eu-commission-answer/398089?utm_source=ieu-portal |website=portal.ieu-monitoring.com |access-date=2023-10-09}}</ref>。これに対し、イスラエルの12の人権団体は、ボレルの発言を非難する声明を発表した<ref>{{Cite web |url=https://english.wafa.ps/Pages/Details/133266 |title=Israeli human rights organizations deplore EU High Representative equating Amnesty with antisemitism |access-date=2023-10-9 |publisher=WAFA}}</ref>。
=== 南アフリカ共和国 ===
[[南アフリカ共和国]]における反アパルトヘイト活動で[[ノーベル平和賞]]を受賞した[[デズモンド・ツツ]]は、南アフリカとパレスチナの類似点、そして南アフリカのアパルトヘイトを終わらせた国際的圧力の重要性についてコメントした。彼は、イスラエルが「国境内と占領を通じてアパルトヘイトの現実を作り出した」とし、イスラエルが「永久にアパルトヘイト国家」でありたくないなら、一国解決か二国解決のいずれかによって占領を終わらせることだと述べた<ref>{{Cite news |title=Desmond Tutu: U.S. Christians Must Recognize Israel as Apartheid State |url=https://www.haaretz.com/2014-06-17/ty-article/tutu-israel-is-apartheid-state/0000017f-db3f-df9c-a17f-ff3ff3f00000 |work=Haaretz |access-date=2023-10-09 |date=2014-6-17}}</ref>。南アフリカの他の著名な反アパルトヘイト活動家たちも、アパルトヘイトとの比較を用いてヨルダン川西岸の占領、特に分離壁の建設を批判している<ref>{{Cite web |url=http://cjpip.org/0609_esack.html |title=Building a Just Peace: Important Perspectives on the Israeli-Palestinian Conflict |access-date=2023-10-9 |archive-url=https://web.archive.org/web/20071021063756/http://cjpip.org/0609_esack.html |archive-date=2007-10-21}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.aljazeerah.info/Opinion%20editorials/2006%20Opinion%20Editorials/September/5%20o/Rage%20of%20the%20Elephant%20Israel%20in%20Lebanon%20By%20Ronnie%20Kasrils%2C%20MP.htm |title=Rage of the Elephant: Israel in Lebanon |access-date=2023-10-9 |publisher=Al-Jazeerah |archive-url=https://web.archive.org/web/20110607180940/http://www.aljazeerah.info/Opinion%20editorials/2006%20Opinion%20Editorials/September/5%20o/Rage%20of%20the%20Elephant%20Israel%20in%20Lebanon%20By%20Ronnie%20Kasrils%2C%20MP.htm |archive-date=2011-6-7}}</ref>。
同じくノーベル平和賞受賞者の[[フレデリック・デクラーク]]元大統領は、「イスラエルには完全な政治的権利を持つパレスチナ人が住んでいる。彼らに対する差別的な法律、つまり特定のビーチで泳がせないとか、そういうことはない。イスラエルをアパルトヘイト国家と呼ぶのは不当だと思う。」と主張した<ref>{{Cite news |title=South Africa’s de Klerk: Israel not an apartheid state |url=https://www.timesofisrael.com/south-africas-de-klerk-israel-not-an-apartheid-state/#ixzz3GrpjBXBe |access-date=2023-10-09 |newspaper=THE TIMES OF ISRAE |date=2014-5-27}}</ref>。
2008年、[[アフリカ民族会議]](ANC)の退役軍人の代表団がイスラエルと占領地を訪問し、ある面ではアパルトヘイトよりもひどいと述べた<ref>{{Cite web |url=http://www.independent.co.uk/news/world/middle-east/this-is-like-apartheid-anc-veterans-visit-west-bank-865063.html |title='This is like apartheid': ANC veterans visit West Bank |access-date=2023-10-9 |publisher=The Independent |archive-url=https://web.archive.org/web/20080729031906/http://www.independent.co.uk/news/world/middle-east/this-is-like-apartheid-anc-veterans-visit-west-bank-865063.html |archive-date=2008-7-29}}</ref>。
=== その他 ===
イスラエルやイスラエル占領地の状況を「アパルトヘイト」という言葉で表現した外国政府には、[[アフリカ連合]]<ref>{{Cite web |title=42725-Assembly_AU_Dec_813-838_XXXV_E.pdf {{!}} African Union |url=https://au.int/pt/file/595792 |website=au.int |access-date=2023-10-09}}</ref>、バーレーン<ref name=":4">{{Cite web |title=Israel accused of apartheid at UN Human Rights Council |url=https://en.shafaqna.com/43809/israel-accused-of-apartheid-at-un-human-rights-council/ |website=International Shia News Agency |date=2017-03-21 |access-date=2023-10-09}}</ref>、バングラデシュ、ボリビア<ref>{{Cite web |url=https://comunicacion.gob.bo/sites/default/files/media/publicaciones/Manifiesto%20Palestina%20REDH%200408%20final.pdf |title=EN DEFENSA DE PALESTINA |access-date=2023-10-9 |publisher=ボリビア政府}}</ref>、キューバ<ref>{{Cite web |title=Cuba reiterates its support for the Palestinian cause and denounces Israel's apartheid practice in the occupied Palestinian territories. |url=https://misiones.cubaminrex.cu/en/articulo/cuba-reiterates-its-support-palestinian-cause-and-denounces-israels-apartheid-practice |website=CUBADIPLOMATICA |date=2022-07-26 |access-date=2023-10-09}}</ref>、イラン<ref name=":5">{{Cite book |title=Patterson of Israel |url=https://books.google.co.il/books?id=wnpREAAAQBAJ&pg=PT292#v=onepage&q&f=false |publisher=Hybrid Publishers |date=2021-11-29 |isbn=978-1-925736-92-2 |first=Henry R. |last=Lew}}</ref>、イラク<ref name=":5" />、レバノン<ref name=":5" />、ニカラグア、北朝鮮<ref name=":5" />、パキスタン<ref name=":4" />、カタール<ref name=":4" />、サウジアラビア<ref>{{Cite web |url=https://www.my.gov.sa/wps/portal/snp/content/news/newsDetails/CONT-news-KSA%20calls%20on%20Security%20Council%20to%20restore%20peoples%20confidence%20international%20institutions/ |title=المملكة تطالب مجلس الأمن بالالتزام بمسؤولياته التاريخية والإنسانية |access-date=2023-10-9 |publisher=サウジアラビア政府}}</ref>、ベネズエラ<ref>{{Cite web |title=Venezuela condemns new military phase in Israel's long colonial war against Palestine - MPPRE |url=https://mppre.gob.ve/en/2021/05/21/venezuela-military-israel-colonial-war-palestine/ |website=mppre.gob.ve |access-date=2023-10-09}}</ref>などがある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[パレスチナ問題]]
* [[アパルトヘイト]]
* [[シオニズム]]
== 外部リンク ==
{{commons cat}}
* International Human Rights Clinic at Harvard Law School and Adameer:[http://hrp.law.harvard.edu/wp-content/uploads/2022/03/IHRC-Addameer-Submission-to-HRC-COI-Apartheid-in-WB.pdf Apartheid in the Occupied West Bank: A Legal Analysis of Israel's Actions] ([[Portable Document Format|PDF]])
*[[名誉毀損防止同盟]]:[https://www.adl.org/resources/glossary-terms/allegation-israel-is-an-apartheid-state Allegation: Israel is an Apartheid State]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:いすらえるによるあはるとへいと}}
[[Category:アパルトヘイト]]
[[Category:イスラエルの歴史]]
[[Category:パレスチナの歴史]]
[[Category:シオニズム]]
[[Category:保守主義]]
[[Category:人種差別]]
[[Category:人権侵害]] | 2023-10-07T17:14:55Z | 2023-12-11T18:38:08Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E3%82%A2%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%98%E3%82%A4%E3%83%88 |
4,838,755 | 根崎町 | 根崎町(ねさきちょう)は、愛知県安城市の地名。
安城市南西端部に位置する。東は城ケ入町・西尾市、西は東端町、南は碧南市、北東は和泉町に接する。
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる。
湾に突出した地形から「出崎」と称していたものが転じた説、根小屋が転じた説があるという。
国勢調査による人口および世帯数の推移。 | [
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] | 根崎町(ねさきちょう)は、愛知県安城市の地名。 | {{Pathnav|日本|愛知県|安城市|'''根崎町'''|hide=1|frame=1}}
{{Infobox settlement
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| image_caption = <!--- 画像の説明 --->
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| map_caption = 根崎町の位置
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| latd = 34 | latm = 54 | lats = 8.71 | latNS = N
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| subdivision_type = [[国の一覧|国]]
| subdivision_name = {{JPN}}
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| subdivision_name2 = [[File:Flag of Anjo, Aichi.svg|border|25px]][[安城市]]
| established_title1 = 町名制定
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| area_footnotes = <ref group=WEB name="area">{{Cite web|url=https://toukei-labo.com/2015/?tdfk=23&city=23212|title=愛知県安城市の町丁・字一覧|publisher=人口統計ラボ|language=日本語|accessdate=2023-08-26}}</ref>
| area_total_km2 = 2.818673912
| elevation_footnotes = <!--- 標高(<ref group=WEB>) --->
| elevation_m = <!--- 標高 --->
| population_as_of= 2020年(令和2年)10月1日現在
| population_footnotes = {{R|group=WEB|R2国勢調査}}
| population_total = 2068
| population_density_km2 = auto
| timezone1 = [[日本標準時]]
| utc_offset1 = +9
| postal_code_type = [[郵便番号]]
| postal_code = 444-1211<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?pref=23&city=1232120&cmp=1&mode=list&addr=|title=愛知県安城市の郵便番号一覧|publisher=日本郵便|accessdate=2023-08-26}}</ref>
| area_code = 0566<ref group=WEB name=areacode>{{Cite web|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000141817.pdf|format=PDF||title=市外局番の一覧|publisher=総務省|date=2022-03-01|accessdate=2022-03-22}}</ref>
| registration_plate = [[愛知運輸支局|三河]]
| footnotes =
}}
'''根崎町'''(ねさきちょう)は、[[愛知県]][[安城市]]の地名。
== 地理 ==
安城市南西端部に位置する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}。東は[[城ケ入町]]・[[西尾市]]、西は[[東端町]]、南は[[碧南市]]、北東は[[和泉町 (安城市)|和泉町]]に接する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}。
=== 学区 ===
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.city.anjo.aichi.jp/manabu/gakko/kyoikushisetsu/gakku.html|title=小中学校区一覧(町別50音順)|author=安城市役所教育振興部学校教育課学事係|publisher=安城市|date=2022-04-07|accessdate=2023-10-08}}</ref>。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.pref.aichi.jp/soshiki/kotogakko/0000080445.html|title=平成29年度以降の愛知県公立高等学校(全日制課程)入学者選抜における通学区域並びに群及びグループ分け案について|publisher=愛知県教育委員会|date=2015-02-16|accessdate=2019-01-14}}</ref>。
{| class="wikitable"
!番・番地等!!小学校!!中学校!!高等学校
|-
||荒子・石ケ入・石谷・石渕・壱丁掛・壱町掛・内浜・大川・上小久戸・萱野・北根・北半場・五佐池・下小久戸・下渡瀬・新石谷・新切・砂子・長配・堤防・西石谷・西石渕・西大川・西新切(市道東端根崎1号線以南)・西出口・西根・東石ヶ入・東石谷・東石渕・東新切(市道東端根崎1号線以南)・東出口・東家下・伏水屋・南荒子・南境目・南根・南半場・南傍示木||[[安城市立明和小学校]]||[[安城市立明祥中学校]]||[[愛知県の高校入試#三河学区|三河学区]]
|-
||西新切(市道東端根崎1号線以北)・東新切(市道東端根崎1号線以北||[[安城市立丈山小学校]]||[[安城市立明祥中学校]]
|}
=== 河川 ===
* 半場川{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* 朝鮮川{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
== 歴史 ==
=== 町名の由来 ===
湾に突出した地形から「出崎」と称していたものが転じた説、根小屋が転じた説があるという{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1037}}。
=== 人口の変遷 ===
[[国勢調査]]による人口および世帯数の推移。
{| class="wikitable"
|-
|1995年(平成7年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000023630251&fileKind=1|format=CSV|title=平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-03-28|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|528世帯<br>2095人||<div style="width:52.8px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:209.5px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2000年(平成12年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025137780&fileKind=1|format=CSV|title=平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-05-30|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|532世帯<br>2014人||<div style="width:53.2px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:201.4px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2005年(平成17年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025514226&fileKind=1|format=CSV|title=平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-06-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|569世帯<br>2005人||<div style="width:56.9px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:200.5px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2010年(平成22年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000012671534&fileKind=1|format=CSV|title=平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2012-01-20|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|612世帯<br>2079人||<div style="width:61.2px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:207.9px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2015年(平成27年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000031522121&fileKind=1|format=CSV|title=平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2017-01-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|643世帯<br>2106人||<div style="width:64.3px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:210.6px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2020年(令和2年)<ref group=WEB name=R2国勢調査>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000032163424&fileKind=1|format=CSV|title=令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口,外国人人口及び世帯数-町丁・字等|author=総務省統計局|date=2022-02-10|accessdate=2023-08-02|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|680世帯<br>2068人||<div style="width:68px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:206.8px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|}
=== 沿革 ===
{{節スタブ}}
* 1889年(明治22年) - 市制町村制施行により、同制度下の碧海郡根崎村となる{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1038}}。
* 1906年(明治39年) - 明治村大字根崎となる{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1038}}。
* 1955年(昭和30年) - 安城市大字根崎となる{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1038}}。
* 1956年(昭和31年) - 安城市大字根崎により、同市根崎町が成立{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1038}}。
* 1975年(昭和50年) - 安城市根崎町の一部が碧南市根崎町となる{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1038}}。
* 1976年(昭和51年) - 碧南市根崎町は同市[[縄手町]]となる{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1038}}。
== 交通 ==
* [[愛知県道安城碧南線]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* [[愛知県道西尾知多線]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* 市道和泉根崎線{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* 市道東端城ヶ入線{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
== 施設 ==
* 根崎公園{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* 根崎簡易郵便局{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* 安城市農協根崎支店{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* 中部電力南安城変電所{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* 亀山製作所{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* 根崎保育園{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* 真宗大谷派宝林寺{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* 八幡神社{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* 稲荷神社{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* 浄土宗観音寺{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== WEB ===
{{Reflist|group="WEB"|refs=}}
=== 書籍 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1989|date=1989-03-08|title=[[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県|publisher=[[角川書店]]|isbn=4-04-001230-5|language=ja|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[安城市の町名]]
{{Geographic Location
| Northwest<!--北西--> =
| North<!--北--> =
| Northeast<!--北東--> = [[和泉町 (安城市)|和泉町]]
| West<!--西--> = [[東端町]]
| Centre<!--中央--> = 根崎町
| East<!--東--> = [[城ケ入町]]・[[西尾市]]
| Southwest<!--南西--> =
| South<!--南--> = [[碧南市]]
| Southeast<!--南東--> =
}}
{{安城市の町・字}}
{{Japan-block-stub}}
{{Pref-stub|pref=愛知県}}
{{デフォルトソート:ねさきちよう}}
[[Category:安城市の町名]] | 2023-10-07T17:29:25Z | 2023-10-07T17:29:25Z | false | false | false | [
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"Template:Sfn",
"Template:節スタブ",
"Template:脚注ヘルプ",
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"Template:Reflist",
"Template:Cite web",
"Template:Cite book",
"Template:Geographic Location",
"Template:Japan-block-stub"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E5%B4%8E%E7%94%BA |
4,838,760 | ガザ・イスラエル軍事衝突 (2023年) | ガザ・イスラエル衝突(ガザ・イスラエルしょうとつ)は、2023年のハマースによるイスラエルへの侵攻作戦。ハマースによる総称は「アクサーの大洪水作戦」
なおイスラエル政府は正式に戦争と公表している。 | [
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] | ガザ・イスラエル衝突(ガザ・イスラエルしょうとつ)は、2023年のハマースによるイスラエルへの侵攻作戦。ハマースによる総称は「アクサーの大洪水作戦」 なおイスラエル政府は正式に戦争と公表している。 | {{Pathnav|中東戦争|frame=1}}
'''ガザ・イスラエル衝突'''(ガザ・イスラエルしょうとつ)<ref>{{Cite web |title=https://twitter.com/IsraelMFA/status/1710525108110967254?t=y9kroL2fEgvHwG9gM2g9Gw&s=19 |url=https://twitter.com/IsraelMFA/status/1710525108110967254?t=y9kroL2fEgvHwG9gM2g9Gw&s=19 |website=X (formerly Twitter) |access-date=2023-10-07 |language=ja}}</ref>は、[[2023年]]のハマースによる[[イスラエル]]への[[侵攻]]作戦。[[ハマース]]による総称は「'''アクサーの大洪水作戦'''」<ref>{{Cite web |title=Over 300 Dead In Israel-Palestine Conflict After Surprise Attack By Hamas |url=https://www.ndtv.com/world-news/israels-forces-say-ready-for-war-after-rocket-attacks-by-gaza-4458496 |website=NDTV.com |access-date=2023-10-07}}</ref><ref>{{Cite web |title=パレスチナ:ハマースが対イスラエル作戦「アクサーの大洪水」を開始(髙岡豊) - エキスパート |url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/3df29bd6621ffe0ddf4a66bf90feafd9285aa019 |website=Yahoo!ニュース |access-date=2023-10-07 |language=ja}}</ref>
[[2021年]]以降最大規模の軍事衝突となった。{{Battlebox|battle_name=ガザ・イスラエル衝突|campaign=|colour_scheme=background:#ffccaa|image=|caption=|conflict=[[第五次中東戦争]]|date=[[2023年]][[10月7日]]-[[継続中]]|place={{PSE}} [[ガザ地区]] |result=継続中|combatant1={{ISR}}|combatant2=[[ファイル:Flag of Hamas.svg|22px]] [[ハマース]]|commander1=|commander2=|strength1=|strength2=|casualties1=|casualties2=}}
[[Category:戦争]]
== 概要 ==
2023年10月7日突如として[[ハマース]]による[[イスラエル]]への奇襲が行われた。<ref>{{Cite web |title=https://twitter.com/no_itsmyturn/status/1710544343239475463?t=7iYx6urs5vsUYLVfm4Vurg&s=19 |url=https://twitter.com/no_itsmyturn/status/1710544343239475463?t=7iYx6urs5vsUYLVfm4Vurg&s=19 |website=X (formerly Twitter) |access-date=2023-10-07 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=https://twitter.com/IDF/status/1710522378860511633?t=LiJW-NbLvqmCFwLXPK4o2w&s=19 |url=https://twitter.com/IDF/status/1710522378860511633?t=LiJW-NbLvqmCFwLXPK4o2w&s=19 |website=X (formerly Twitter) |access-date=2023-10-07 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=https://twitter.com/IsraelMFA/status/1710619910949261736?t=xW97SRZn1dRfVQKD6sRsPA&s=19 |url=https://twitter.com/IsraelMFA/status/1710619910949261736?t=xW97SRZn1dRfVQKD6sRsPA&s=19 |website=X (formerly Twitter) |access-date=2023-10-07 |language=ja}}</ref>
同日、ハマース系武装勢力がガザ地区からイスラエル側に越境し、戦闘が始まった。<ref>{{Cite web |title=Israel PM Netanyahu declares 'war' after attacks from Gaza strip |url=https://www.dailysabah.com/world/mid-east/israel-pm-netanyahu-declares-war-after-attacks-from-gaza-strip |website=Daily Sabah |date=2023-10-07 |access-date=2023-10-07 |language=en-US |first=Daily Sabah with |last=AA}}</ref>
== 脚注 ==
[[Category:中東戦争]]
<references />
[[Category:イスラエル]]
[[Category:ナチス]]
[[Category:パレスチナ]]
[[Category:ガザ地区]]
{{DEFAULTSORT:第五次中東戦争}} | 2023-10-07T17:41:32Z | 2023-10-07T18:48:33Z | false | false | false | [] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%AB%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E8%A1%9D%E7%AA%81_(2023%E5%B9%B4) |
4,838,762 | サンデー島 (シャーク湾) | サンデー島 (Sunday Island) は、ダーク・ハートッグ島の南東530フィート(161.5m)、西オーストラリア州デンハム(英語版)の南西23マイル(37km)のインド洋上、南緯26.124295度、東経113.236538に位置している。島の形状は、おおよそ長辺 263フィート (80.2 m)、短辺 108フィート (33 m) ほどの長方形である。19世紀には、イギリスの商人たちによって、グアノの採集地として利用されていた。現在では、シャーク湾世界遺産の一部となっている。 | [
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] | サンデー島 は、ダーク・ハートッグ島の南東530フィート(161.5m)、西オーストラリア州デンハムの南西23マイル(37km)のインド洋上、南緯26.124295度、東経113.236538に位置している。島の形状は、おおよそ長辺 263フィート、短辺 108フィート ほどの長方形である。19世紀には、イギリスの商人たちによって、グアノの採集地として利用されていた。現在では、シャーク湾世界遺産の一部となっている。 | {{Infobox Islands
| name = サンデー島
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| image_caption = Map of Shark Bay area
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| native_name_link =英語
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| country_admin_divisions_title = [[オーストラリアの州と特別地域|州]]
| country_admin_divisions = [[西オーストラリア州]]
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| ethnic_groups =
}}
'''サンデー島''' (Sunday Island) は、[[ダーク・ハートッグ島]]の南東530フィート(161.5m)、[[西オーストラリア州]]{{仮リンク|デンハム (西オーストラリア州)|label=デンハム|en|Denham, Western Australia}}の南西23マイル(37km)の[[インド洋]]上、南緯26.124295度、東経113.236538に位置している。島の形状は、おおよそ長辺 263フィート (80.2 m)、短辺 108フィート (33 m) ほどの長方形である。19世紀には、[[イギリス]]の商人たちによって、[[グアノ]]の採集地として利用されていた<ref>{{cite book | title=Furthur Papers Relative to the Alterations in the Constitutions of the Australian Colonies | publisher=Her Majesty's Stationery Office | author=Elliot, LR | year=1852 | pages=119}}</ref>。現在では、[[シャーク湾]][[世界遺産]]の一部となっている。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{DEFAULTSORT:さんてえとう}}
[[Category:オーストラリアの島]]
[[Category:西オーストラリア州の地形]]
{{Australia-stub}} | 2023-10-07T18:15:15Z | 2023-10-07T18:15:15Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%BC%E5%B3%B6_(%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%AF%E6%B9%BE) |
4,838,766 | 富士信清 | 富士 信清(ふじ のぶきよ)は、 江戸時代後期の旗本。関東の富士氏の一族。
富士信清は、富士城主であった富士信忠の第二子で後に関東を知行地とした富士信重の系譜(信重-信成-信宗-信良-信久-信清-)にあたる。従って、富士氏の庶流である。
『寛政重修諸家譜』によると、寛政5年(1793年)12月に家督を継ぎ、寛政8年(1796年)11月に初めて徳川家斉に拝謁したという。また家禄は家督を継いだ35歳のとき采地二百石廩米百俵であった。
江戸幕府が旗本・御家人の古文書調査をした際、信清は富士家に伝来していた古文書を書き上げ提出している。その富士信重への徳川家康知行宛行状の前文には「富士又市郎信重拝領、同又一郎信清書上、東照宮御朱印」とある。
文化8年(1811年)、大久保四丁町(現在の東京都新宿区余丁町)に所在する富士又市郎拝領屋敷140坪が、相対替により本所林町(現在の東京都墨田区)のうち250坪余へ屋敷替えしている。
文化9年(1812年)には武蔵国都筑郡久保村のうち35石余も知行地としており、『新編武蔵風土記稿』に「文化9年西尾藤四郎に賜り、同年高三十五石餘、富士又市郎へ賜ふ」とある。
家督は子の信成が継いだ。 | [
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] | 富士 信清は、 江戸時代後期の旗本。関東の富士氏の一族。 | {{基礎情報 武士
|氏名=富士 信清
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|画像説明=
|時代= [[江戸時代]]
|生誕= [[宝暦]]9年([[1759年]])
|死没= 不詳
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|別名= [[仮名 (通称)|通称]]:又市郎
|戒名=
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|官位=
|幕府= [[江戸幕府]]
|主君= [[徳川家斉]]
|氏族= [[富士氏]]
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|妻= 横地安則の娘<ref>『寛政重修諸家譜』巻第千百十 </ref>
|子= [[富士信成 (市十郎)|富士信成]]、富士信乾 <ref name="#1"/>
|特記事項=
}}
'''富士 信清'''(ふじ のぶきよ)は、 [[江戸時代]]後期の[[旗本]]。関東の[[富士氏]]の一族。
== 出自 ==
富士信清は、[[大宮城 (駿河国)|富士城主]]であった[[富士信忠]]の第二子で後に関東を知行地とした[[富士信重]]の系譜(信重-[[富士信成|信成]]-信宗-[[富士信良|信良]]-信久-'''信清'''-)にあたる{{Sfn|小川|2006|p=225}}。従って、富士氏の庶流である。
== 略歴 ==
『[[寛政重修諸家譜]]』によると、[[寛政]]5年([[1793年]])12月に家督を継ぎ、寛政8年([[1796年]])11月に初めて[[徳川家斉]]に拝謁したという<ref name="#1"/>。また家禄は家督を継いだ35歳のとき采地二百石[[蔵米|廩米]]百俵であった。
[[江戸幕府]]が[[旗本]]・[[御家人]]の古文書調査をした際、信清は富士家に伝来していた古文書を書き上げ提出している。その富士信重への[[徳川家康]]知行宛行状の前文には「富士又市郎信重拝領、同'''又一郎信清'''書上、東照宮御朱印」とある{{Sfn|記録御用所本|2001|p=137}}。
[[文化 (元号)|文化]]8年([[1811年]])、[[余丁町|大久保四丁町]](現在の[[東京都]][[新宿区]][[余丁町]])に所在する富士又市郎[[江戸藩邸|拝領屋敷]]140坪が、[[相対替]]により本所林町(現在の東京都[[墨田区]])のうち250坪余へ屋敷替えしている{{Sfn|東京市史稿|1939|p=288}}。
[[文化 (元号)|文化]]9年([[1812年]])には[[武蔵国]][[都筑郡]]久保村{{efn|後の[[三保町]]で現在の[[横浜市]][[緑区 (横浜市)|緑区]]<ref>横浜市市民局総務部住居表示課編『横浜の町名』172頁、1991年</ref>。}}のうち35石余も知行地としており、『[[新編武蔵風土記稿]]』に「文化9年西尾藤四郎に賜り、同年高三十五石餘、富士又市郎へ賜ふ」とある{{Sfn|新編武蔵風土記稿|1934|p=265}}{{Sfn|角川|1984|p=1414}}。
家督は子の[[富士信成 (市十郎)|信成]]が継いだ。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{cite book|和書
|title= [[新編武蔵風土記稿]]第四巻
|series = [[大日本地誌大系]]四
|chapter= 巻之八十八 都筑郡之八 領名未勘 久保村
|id={{NDLJP|1051349/137}}
|publisher=[[雄山閣]]
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}}
*{{Cite book|和書
|author = 東京市役所
|date = 1939
|title = 東京市史稿市街篇第三十四
|series =
|publisher =
|pages =
|url =
|isbn =
|ref = {{SfnRef|東京市史稿|1939}}
}}
*{{Cite book|和書
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|date = 1984
|title = 角川日本地名大辞典14 神奈川県
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|publisher = [[角川書店]]
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|isbn = 4-04-001140-6
|ref = {{SfnRef|角川|1984}}
}}
*{{Cite book|和書
|author = 神崎彰利・下山治久
|date = 2001
|title = 記録御用所本古文書 近世旗本家伝文書集 下巻
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|publisher = [[東京堂出版]]
|pages =
|url =
|isbn = 4-490-20441-8
|ref = {{SfnRef|記録御用所本|2001}}
}}
*{{Cite book|和書
|author = [[小川恭一]]
|date = 2006
|title = 徳川幕府の昇進制度-寛政十年末 旗本昇進表-
|series =
|publisher = 岩田書院
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|isbn = 4-87294-443-7
|ref = {{SfnRef|小川|2006}}
}}
== 関連項目 ==
* [[富士氏]]
{{DEFAULTSORT:ふし のふきよ}}
[[Category:江戸幕府旗本]]
[[Category:富士氏|のふきよ]]
[[Category:1759年生]]
[[Category:没年不明]] | 2023-10-07T18:28:02Z | 2023-11-04T12:22:46Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E4%BF%A1%E6%B8%85 |
4,838,769 | 第122独立空中機動大隊 (ウクライナ空中機動軍) | 第122独立空中機動大隊(だい122どくりつくうちゅうきどうだいたい、ウクライナ語: 122-й окремий аеромобільний батальйон)は、ウクライナ空中機動軍の大隊。第81独立空中機動旅団隷下。
2014年10月7日、ドンバス戦争の影響に伴い、第80独立空中機動旅団隷下の第3空中機動大隊を基幹に、ドネツィク州で創設された。
2014年11月から、ドンバス戦争に投入され、東部ドネツィク州の前線に配置された。
2022年2月24日から、ロシアのウクライナ侵攻では、東部ルハーンシク州セヴェロドネツィク地区に配備されたが、7月上旬にリシチャンシクが陥落し、ルハーンシク州全域が制圧された。
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] | 第122独立空中機動大隊は、ウクライナ空中機動軍の大隊。第81独立空中機動旅団隷下。 | {{軍隊資料
|名称 = 第122独立空中機動大隊
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|画像説明 =
|創設 = 2014年10月7日
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|所属 = {{flagicon image|Flag_of_the_Ukrainian_Air_Assault_Forces.svg}} [[ウクライナ空中機動軍]]
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|兵科 = [[空挺兵]]
|兵種 = [[空中機動作戦]]
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|所在地 = [[ドネツィク州]][[ドルジュキウカ]]
|編成地 =
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|上級部隊 = [[第81独立空中機動旅団 (ウクライナ空中機動軍)|第81独立空中機動旅団]]
|最終上級部隊 =
|担当地域 = [[ドネツィク州]]
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|主な戦歴 = [[ドンバス戦争]]<br />[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアのウクライナ侵攻]]
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}}
'''第122独立空中機動大隊'''(だい122どくりつくうちゅうきどうだいたい、{{Lang-uk|'''122-й окремий аеромобільний батальйон'''}})は、[[ウクライナ空中機動軍]]の[[大隊]]。[[第81独立空中機動旅団 (ウクライナ空中機動軍)|第81独立空中機動旅団]]隷下。
== 概要 ==
=== ドンバス戦争 ===
{{seealso|第二次ドネツク空港の戦い}}
2014年10月7日、[[ドンバス戦争]]の影響に伴い、[[第80独立空中強襲旅団 (ウクライナ空中機動軍)|第80独立空中機動旅団]]隷下の第3空中機動大隊を基幹に、[[ドネツィク州]]で創設された<ref>[https://www.radiosvoboda.org/a/27431404.html «У снах «відпустити» Донецький аеропорт досі не можу» – комбат «кіборгів»] ラジオ・フリー・ヨーロッパ</ref>。
2014年11月から、ドンバス戦争に投入され、東部ドネツィク州の前線に配置された。
=== ロシアのウクライナ侵攻 ===
==== 東部・セベロドネツク戦線 ====
{{seealso|ルビージュネの戦い|セベロドネツクの戦い (2022年)|リシチャンシクの戦い}}
2022年2月24日から、[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアのウクライナ侵攻]]では、東部[[ルハーンシク州]][[セヴェロドネツィク地区]]に配備されたが、7月上旬に[[リシチャンシク]]が陥落し、ルハーンシク州全域が制圧された<ref>[https://t.me/ua_dshv/491 ウクライナ空中機動軍] テレグラム</ref><ref>[https://te.20minut.ua/Podii/buv-smilivim-i-bezstrashnim-voyinom--sokolom-ternopilschina-proschaets-11554426.html Був сміливим і безстрашним воїном – «Соколом». Тернопільщина прощається з військовим Андрієм Теребієм] te.20minut.ua</ref>。
2022年11月17日、[[ウォロディミル・ゼレンスキー]]大統領から、[[勇気と勇気のために勲章]]を授与された<ref>[https://www.president.gov.ua/documents/7842022-44893 ウクライナ大統領令 No. 784/2022] ウクライナ大統領府</ref>。
== 編制 ==
* 大隊本部([[ドルジュキウカ]])
* 第1中隊
* 第2中隊
* 第3中隊
* 迫撃砲中隊
* 防空小隊
* 偵察小隊
* 工兵小隊
* 補給小隊
* 通信小隊
* 衛生班
== ギャラリー ==
<gallery mode="packed" heights="180">
ファイル:Flag-122-batalion.jpg|
</gallery>
== 出典 ==
{{Reflist|2}}
== 外部リンク ==
* [https://www.facebook.com/122oaemb Facebook]
* [https://memorybook.org.ua/units/81br.htm 部隊の戦死者リスト]
* [https://www.ukrmilitary.com/2020/05/air-assault-forces.html Ukrainian Military Pages]
{{ウクライナ軍}}
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[[Category:ウクライナ空中機動軍の大隊]]
[[Category:ドネツィク州]] | 2023-10-07T18:37:46Z | 2023-10-07T18:37:46Z | false | false | false | [
"Template:Seealso",
"Template:Reflist",
"Template:ウクライナ軍",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC122%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E7%A9%BA%E4%B8%AD%E6%A9%9F%E5%8B%95%E5%A4%A7%E9%9A%8A_(%E3%82%A6%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8A%E7%A9%BA%E4%B8%AD%E6%A9%9F%E5%8B%95%E8%BB%8D) |
4,838,773 | Hands Up (NCT NEW TEAMの曲) | 『Hands Up』(ハンズアップ)は、2023年10月8日にavex traxからデジタル・ダウンロードシングルとミュージック・カードとして発売されたNCT NEW TEAMのプレデビューシングル。2023年12月20日にシングルCDが発売される。
オープニングアクト
テレビ出演
イベント
10月19日午後6時、SMTOWNのYouTubeチャンネルなどから「Hands Up」のミュージックビデオが公開された。
NCTのコンセプトである「夢」の中で、何気ない日常を過ごす高校野球部員に変身したメンバー達が、野球ボールに扮した未知の生物体を撃退して地球を守るという、ファンタジーなエピソードを盛り込んでいる。
希望に満ちた新曲の雰囲気とファンタジーなストーリーが出会い、青春と非日常が融合されたユニークな映像となっており、「NCT NEW TEAM(仮)」の爽やかなハイティーンの魅力と奇妙なストーリーテリングのミステリアスな雰囲気が調和している。
2023年11月1日公開、Billboard Japan「Billboard Japan Heatseekers Songs」チャートで14位にチャートインした。
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] | 『Hands Up』(ハンズアップ)は、2023年10月8日にavex traxからデジタル・ダウンロードシングルとミュージック・カードとして発売されたNCT NEW TEAMのプレデビューシングル。2023年12月20日にシングルCDが発売される。 | {{Infobox Single
| Name = Hands Up
| Artist = [[NCT (音楽グループ)|NCT NEW TEAM]]
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| B-side = We Go!
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| Format = [[CD]]<br/>[[音楽配信]]<br/>ミュージック・カード
| Recorded =
| Genre = [[J-POP]]
| Length = 6分
| Label =[[avex trax]]
| Writer =
| Producer =
| Certification =
| Chart position =
*'''Billboard Japan'''
**週間8位([[Billboard Japan Heatseekers Songs|Heatseekers Songs]])<ref>[https://www.billboard-japan.com/charts/detail?a=heat_seekers&year=2023&month=11&day=13 Billboard Japan Heatseekers Songs]</ref>
| Misc = {{Extra chronology 2
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| This album = '''Hands Up'''<br/>(2023年)
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{{external music video|{{YouTube|ZVcy7bQkBhA|「Hands Up」}}|Type=single}}
}}
『'''Hands Up'''』(ハンズアップ)は、[[2023年]][[10月8日]]に[[avex trax]]から[[音楽配信|デジタル・ダウンロードシングル]]と[[ミュージック・カード]]として発売された'''[[NCT (音楽グループ)#NCT_NEW_TEAM(仮)|NCT NEW TEAM]]'''のプレデビューシングル。[[2023年]][[12月20日]]にシングルCDが発売された。
== 概要 ==
*リアリティ番組『[[NCT Universe: LASTART]]』を通じて結成されたNCTの新チーム'''NCT NEW TEAM'''のプレデビューシングル。
*スタジアム公演「NCT NATION」のオープニングアクトで披露した'''「Hands Up」'''と新曲'''「We Go!」'''の2曲が収録されている。
*「Hands Up」の歌詞にある「オルラ オルラ」は韓国語「올라 올라」である。
== プロモーション ==
'''オープニングアクト'''
*9月9日〜10日、大阪・[[長居陸上競技場|ヤンマースタジアム長居]]で開催されたNCTのスタジアム公演'''「NCT NATION: To The World- in JAPAN」'''で、オープニングアクトとして「Hands Up」のステージを初めて公開した<ref>{{Cite web|date=2023-09-11|url=https://news.kstyle.com/article.ksn?articleNo=2225217|title=NCT、大阪・ヤンマースタジアム長居で11万人を動員!最新曲のパフォーマンス&新グループのステージも|website=Kstyle|accessdate=2023-09-24}}</ref>。
*9月16日〜17日、東京・[[東京スタジアム (多目的スタジアム)|味の素スタジアム]]でオープニングアクトとして「Hands Up」のステージを披露した<ref>{{Cite web|date=2023-09-18|url=https://article.auone.jp/detail/1/5/9/202_9_r_20230918_1694979101620913|title=NCT、単独公演初4組勢ぞろい…インスタフォロワー968万人で日本人男性1位のユウタ「感謝」|website=au Webポータル|accessdate=2023-09-24}}</ref>。
*10月6日、公式YouTubeチャンネルより東京・味の素スタジアムでの「Hands Up」のステージ映像を公開した。
'''テレビ出演'''
*9月28日、日本テレビ『NCT Universe: LASTART』で「Hands Up」のステージをテレビ初公開した<ref>{{Cite web|和書|date=2023-09-27|url=https://www.oricon.co.jp/news/2296313/full/|title=NCT NEW TEAM、日本観光でそれぞれの個性があらわに プレデビュー曲「Hands Up」の地上波初披露も|website=オリコンニュース|accessdate=2023-10-07}}</ref>。
'''イベント'''
*10月8日より、東京・兵庫・愛知・大阪・石川・福岡・広島・岡山・北海道の全国9都市24公演を巡るプレデビューイベント'''「NCT Universe: LASTART PRE-DEBUT TOUR」'''を開催し、収録曲「Hands Up」「We Go!」を披露した<ref>{{Cite web|和書|date=2023-10-10|url=https://news.kstyle.com/article.ksn?articleNo=2226906|title=NCT NEW TEAM、日本9都市でのプレデビューツアーが東京でスタート!2日間で約8000人を魅了|website=Kstyle|accessdate=2023-10-11}}</ref>。
== ミュージックビデオ ==
10月19日午後6時、SMTOWNのYouTubeチャンネルなどから「Hands Up」のミュージックビデオが公開された<ref name="mv">{{Cite web|和書|date=2023-10-19|url=https://www.wowkorea.jp/news/read/411942.html|title=「NCT NEW TEAM(仮)」、プレデビュー曲「Hands Up」MVをきょう(19日)公開|website=wowKorea|accessdate=2023-10-19}}</ref><ref name="kstyle">{{Cite web|和書|date=2023-10-19|url=https://news.kstyle.com/article.ksn?articleNo=2227537|title=NCT NEW TEAM、プレデビュー曲「Hands Up」MV公開!青春と非日常が融合されたストーリー|website=Kstyle|accessdate=2023-10-19}}</ref>。
NCTのコンセプトである「夢」の中で、何気ない日常を過ごす高校野球部員に変身したメンバー達が、野球ボールに扮した未知の生物体を撃退して地球を守るという、ファンタジーなエピソードを盛り込んでいる<ref name="mv"/><ref name="kstyle"/>。
希望に満ちた新曲の雰囲気とファンタジーなストーリーが出会い、青春と非日常が融合されたユニークな映像となっており<ref name="mv"/><ref name="kstyle"/>、「NCT NEW TEAM(仮)」の爽やかなハイティーンの魅力と奇妙なストーリーテリングのミステリアスな雰囲気が調和している<ref name="mv"/><ref name="kstyle"/>。
== チャート成績 ==
2023年11月1日公開、[[Billboard Japan]]「[[Billboard Japan Heatseekers Songs]]」チャートで14位にチャートインした<ref>{{Cite web|和書|date=2023-11-01|url=https://www.billboard-japan.com/d_news/detail/131370|title=【Heatseekers Songs】マルシィ「ラブソング」首位獲得 芹澤優/NCT NEW TEAM初チャートイン|website=Billboard Japan|accessdate=2023-11-01}}</ref>。
2023年11月8日公開、Billboard Japan「Billboard Japan Heatseekers Songs」チャートで8位にランクアップした<ref>{{Cite web|和書|date=2023-11-08|url=https://www.billboard-japan.com/d_news/detail/131572/2|title=【Heatseekers Songs】マルシィ「ラブソング」2週連続首位に|website= Billboard Japan|accessdate=2023-11-08}}</ref>。
== リリース ==
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! リリース日
! レーベル
! 規格
! colspan="2"|カタログ番号
|-
| rowspan="3"|2023年10月8日
| rowspan="5"|[[avex trax]]
|ダウンロードシングル
| colspan="2"|ANTCD-A0000011622([[AAC-LC]]・44.1[[サンプリング周波数|kHz]]/16[[量子化|bit]]・128/320[[ビットレート|kbps]])
|-
|ハイレゾダウンロードシングル
|ANTCD-A0000011623(FLAC・96.0kHz・24bit)
|-
|[[ミュージック・カード|ミュージックカード]]
|AVZ1-43249
|-
|rowspan="2"|2023年12月20日
|rowspan="2"|CD
|AVC1-43262<br/>(初回生産限定盤A)
|-
|AVC1-43263<br/>(初回生産限定盤B)
|}
== 収録曲 ==
# '''Hands Up''' [3:15]
#*作詞 :KENZIE、H.Toyosaki
#*作曲 :KENZIE、Moonshine(Ludvig Evers & Jonatan Gusmark)、Adrian Mckinnon
#*編曲 :Moonshine(Ludvig Evers & Jonatan Gusmark)
#:強烈なシンセサウンドとパワフルなベースライン、軽快なリズム楽器に力強いボーカルが調和を成すエネルギッシュなダンス曲<ref name="handsup">{{Cite web|date=2023-10-07|url=https://www.newsen.com/news_view.php?uid=202310071306402410|title=NCT NEW TEAM, 오늘(7일) 日 프리 데뷔 싱글 ‘Hands Up’ 발매|website=Newsen|accessdate=2023-10-07}}</ref>。
#:NCT NEW TEAMと心をひとつに手を上げて、共に高みを目指し遠く羽ばたいていこうという情熱と抱負を歌った<ref name="handsup"/><ref>{{Cite web|和書|date=2023-10-10|url=https://www.oricon.co.jp/news/2298080/full/|title=NCT新ユニット「NCT NEW TEAM(仮)」、プレデビューツアースタート 「これから一緒に高みを目指していきましょう!」|website=オリコンニュース|accessdate=2023-10-10}}</ref>。
# '''We Go!''' [3:02]
#*作詞 :[[MEG.ME]]
#*作曲 :Simon Janlov、Daniel Caesar (Caesar & Loui)
#*編曲 :Simon Janlov
#:生き生きとしたギターリフレインが際立ち、メンバーたちの清涼で澄んだボーカルが爽やかさを加えるポップ曲<ref name="handsup"/>。
#:夢見ていた舞台への旅を始めるためのスタートラインに立った今この瞬間の気持ちを率直に表現した<ref name="handsup"/>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
*[https://nct-jp.net/news/detail.php?id=1111493 NCT(エヌシーティー)Website NEWS]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:はんすあつふ}}
{{NCT (音楽グループ)}}
[[Category:楽曲 は|んすあつふ]]
[[Category:2023年のシングル]]
[[Category:NCTのアルバム]] | 2023-10-07T18:57:42Z | 2023-12-19T14:08:05Z | false | false | false | [
"Template:Infobox Single",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:Cite web",
"Template:Normdaten",
"Template:NCT (音楽グループ)"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Hands_Up_(NCT_NEW_TEAM%E3%81%AE%E6%9B%B2) |
4,838,775 | 小野寺諒 | 小野寺 諒(おのでら りょう、1995年11月15日- )は、日本のマニピュレーター、トラックメーカー。アーティストとしての名義はDERA(でら)。愛称は「デラッチ」「デラちゃん」「デラックス」、GLAYのTERUからは「ブロッコリー」と呼ばれている。
血液型はA型。宮城県栗原市(旧栗原郡金成)出身。
実家は美容室を経営。
岩手県一関市の病院で生まれ、一時幼少期を宮城県仙台市で過ごし、学生時代の大半を同県の栗原市(旧栗原郡金成)で過ごした。
現在は東京在住で、主にコンサート現場でマニピュレーターとして活動し、数々のアーティストのツアーに参加している。 | [
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] | 小野寺 諒は、日本のマニピュレーター、トラックメーカー。アーティストとしての名義はDERA(でら)。愛称は「デラッチ」「デラちゃん」「デラックス」、GLAYのTERUからは「ブロッコリー」と呼ばれている。 血液型はA型。宮城県栗原市(旧栗原郡金成)出身。 | {{存命人物の出典皆無|date=2023年10月}}
'''小野寺 諒'''(おのでら りょう、[[1995年]][[11月15日]]- )は、[[日本]]の[[マニピュレーター]]、[[トラックメーカー]]。アーティストとしての名義は'''DERA'''(でら)。愛称は「'''デラッチ'''」「'''デラちゃん'''」「'''デラックス'''」、GLAYのTERUからは「'''ブロッコリー'''」と呼ばれている。
血液型は[[ABO式血液型|A型]]。[[宮城県]][[栗原市]](旧[[栗原郡]]金成)出身。
== 略歴 ==
実家は美容室を経営。
[[岩手県]][[一関市]]の病院で生まれ、一時幼少期を宮城県[[仙台市]]で過ごし、学生時代の大半を同県の栗原市(旧[[栗原郡]]金成)で過ごした。
現在は東京在住で、主にコンサート現場でマニピュレーターとして活動し、数々のアーティストのツアーに参加している。
== 担当アーティスト ==
* [[THE RAMPAGE from EXILE TRIBE]]
* [[MA55IVE THE RAMPAGE]]
* [[iScream]]
* [[MOONCHILD]]
* [[KAT-TUN]]
* [[亀梨和也]]
== 外部リンク ==
THE RAMPAGE from EXILE TRIBE
RMPG PEEPS -LIVE WITH YOU 2020-
https://tower-s.com/works/live/276/
{{DEFAULTSORT:おのでら りょう}}
[[Category:日本のマニピュレーター]]
[[Category:宮城県出身の人物]]
[[Category:1995年生]]
[[Category:存命人物]] | 2023-10-07T19:41:27Z | 2023-10-11T21:00:53Z | false | false | false | [
"Template:存命人物の出典皆無"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%AF%BA%E8%AB%92 |
4,838,780 | 柳田勝司 | 柳田 勝司(やなぎだ かつじ、1937年10月24日 - )は日本のプロゴルファー。
1964年の日本オープンでは曇から雨にかわり、冷え込んだ初日に4アンダー68をマークし、杉本英世・佐藤精一らに3打差着けて首位に立つ。2日目は68で回って通算4アンダーのベテラン林由郎に首位を譲るも1打差2位、最終日には林と並んでの2位タイと健闘。
1965年の日本オープンでは橘田規・内田繁に次ぐと同時に鈴村久・藤井義将・陳清波(中華民国)・安田春雄・杉原輝雄を抑えての5位 、1969年の日本オープンでは杉本・内田・内田袈裟彦・石井朝夫に次ぐと同時に細石憲二・島田幸作と並んでの5位タイに入る 。
1967年の西日本オープンでは上田鉄弘・藤井・細石を抑えるも、アマチュアの中部銀次郎の優勝を許す3位タイに終わる。
1971年には第1回九州オープンで藤井を抑えて優勝し、その後の同大会では1975年と1976年には鈴木規夫の2位 、1978年には鈴木・秋富由利夫・上田に次ぐ4位タイに入った。
1989年の関西プロを最後にレギュラーツアーから引退。 | [
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] | 柳田 勝司は日本のプロゴルファー。 | {{ゴルファー
|名前=柳田 勝司
|ラテン文字=Katsuji YANAGIDA
|画像=
|国籍={{JPN}}
|生年月日={{生年月日と年齢|1937|10|24}}
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|賞金ランキング最高位=
}}
'''柳田 勝司'''(やなぎだ かつじ、[[1937年]][[10月24日]] - )は[[日本国|日本]]の[[プロゴルファー]]。
== 来歴 ==
[[1964年]]の[[日本オープンゴルフ選手権競技|日本オープン]]では曇から雨にかわり、冷え込んだ初日に4アンダー68をマークし、[[杉本英世]]・[[佐藤精一]]らに3打差着けて首位に立つ<ref name="1964日本オープン">[https://www.golfdendou.jp/jga_jog/29-1964.html 第29回日本オープンゴルフ選手権(1964年)]</ref>。2日目は68で回って通算4アンダーのベテラン[[林由郎]]に首位を譲るも1打差2位、最終日には林と並んでの2位タイと健闘<ref name="1964日本オープン" />。
[[1965年]]の日本オープンでは[[橘田規]]・[[内田繁 (ゴルファー)|内田繁]]に次ぐと同時に[[鈴村久]]・[[藤井義将]]・[[:en:Chen Ching-Po|陳清波]]([[中華民国]])・[[安田春雄]]・[[杉原輝雄]]を抑えての5位<ref>[https://www.golfdendou.jp/jga_jog/30-1965.html 第30回日本オープンゴルフ選手権(1965年)]</ref> <ref name="1965-1969日本オープン">[http://www.jga.or.jp/jga/html/2006/08-0/history/champions.html JGA 日本ゴルフ協会【日本オープンゴルフ選手権競技】]</ref>、[[1969年]]の日本オープンでは杉本・内田・[[内田袈裟彦]]・[[石井朝夫]]に次ぐと同時に[[細石憲二]]・[[島田幸作]]と並んでの5位タイに入る<ref>[https://www.golfdendou.jp/jga_jog/34-1969.html 第34回日本オープンゴルフ選手権(1969年) | 日本プロゴルフ殿堂]</ref> <ref name="1965-1969日本オープン" />。
[[1967年]]の西日本オープンでは[[上田鉄弘]]・藤井・細石を抑えるも、アマチュアの[[中部銀次郎]]の優勝を許す3位タイに終わる<ref>[https://golfdigest-play.jp/membership/17266220 【伝説の名勝負。ヒーローの足跡】門司ゴルフ倶楽部。アマ中部銀次郎がプロを破った1967年、西日本オープン「前編」]</ref>。
[[1971年]]には第1回[[九州オープンゴルフ選手権競技|九州オープン]]で藤井を抑えて優勝し<ref>[https://www.guk.jp/seiseki/148 1971年度連盟主催上位成績表]</ref>、その後の同大会では[[1975年]]と[[1976年]]には[[鈴木規夫]]の2位<ref>[https://www.guk.jp/seiseki/256 1975年度連盟主催上位成績表]</ref> <ref>[https://www.guk.jp/seiseki/258 1976年度連盟主催上位成績表]</ref>、[[1978年]]には鈴木・[[秋富由利夫]]・上田に次ぐ4位タイ<ref>[https://www.guk.jp/seiseki/262 1978年度連盟主催上位成績表]</ref>に入った。
[[1989年]]の[[関西プロゴルフ選手権大会|関西プロ]]<ref>[https://www.jgto.org/player/1578/result 柳田 勝司選手 年度別大会成績 - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site]</ref>を最後にレギュラーツアーから引退。
== 主な優勝 ==
* 1971年 - 九州オープン
== 脚注 ==
<references />
== 外部リンク ==
* [https://www.jgto.org/player/1578/profile 柳田 勝司選手 プロフィール - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site]
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:やなきた かつし}}
[[Category:日本の男子プロゴルファー]]
[[Category:1937年生]]
[[Category:存命人物]] | 2023-10-07T22:01:39Z | 2023-10-14T22:59:53Z | false | false | false | [
"Template:ゴルファー",
"Template:Normdaten"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E7%94%B0%E5%8B%9D%E5%8F%B8 |
4,838,792 | 住宅・土地統計調査 | 住宅・土地統計調査(じゅうたくとちとうけいちょうさ)は、居住その他の目的による建物と土地の所有と利用の状況に関する、日本の基幹統計調査である。統計法に基づいて調査計画を統計委員会が審議し、総務大臣が承認する。調査を担当するのは総務省統計局である。実際の調査は、全国から無作為抽出した住戸を調査員が訪問し、そこに住む世帯に調査票を配布して行われる。この調査票は、インターネット(政政府統計オンライン調査総合窓口 (e-survey))、郵送、あるいは調査員への手渡しの方法で回収する。これとは別に、建物について、外観や管理者からの聞き取りなどに基づいて作成する「建物調査票」がある。
1948年(昭和23年)に、戦後の住宅難に対応するための住宅調査(指定統計14号)が行われた。これを第1回調査としている。その後、住宅統計調査という名称で、住宅に関する調査項目を主体とした調査が5年ごとに実施されてきた。1998年(平成10年)の調査から、土地に関する項目を加えて 住宅・土地統計調査となった。2013年(平成25年)以降は、統計法の全部改正(2007年公布、2009年施行)にともなう経過措置により、基幹統計調査となっている。
1948年(昭和23年)の第1回「住宅調査」は、同年の常住人口調査の付帯調査として実施されたものであり、日本に居住する者全員を対象とした全数調査であった。1953年(昭和28年)の第2回「住宅統計調査」は、市部だけを対象とする標本調査である。
第3回調査(1958年)以降、全国を対象とする標本調査となる。国勢調査のための調査区を第1抽出単位、調査区内の住戸を第2抽出単位とする層化2段無作為抽出で対象を選定する。標本規模は非常に大きい。2023年(令和5年)の第16回住宅・土地統計調査で調査対象となったのは340万世帯 であり、これは全国の世帯数の約1/17に相当する。このように多くの世帯を調査するのは、調査事項である住宅状況には地域による偏りが大きいため、それを地域別にじゅうぶんな精度をもって集計するのに必要だからと説明されている。
この調査結果に基づき、基幹統計である住宅・土地統計が作成される。また、住生活基本法(平成18年法律第61号)に基づいて国土交通省や地方公共団体が作成する住生活基本計画、土地利用計画などの政策に関する基礎資料となっている。 | [
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{{Cite web|url=https://www.stat.go.jp/data/jyutaku/2023/tyougai.html
| title = 令和5年住宅・土地統計調査 調査の概要
| publisher = 総務省統計局
| accessdate = 2023-10-07
}}
</ref>
[[1948年]](昭和23年)に、[[戦後]]の住宅難に対応するための'''住宅調査'''([[指定統計]]14号)が行われた。これを第1回調査としている。その後、'''住宅統計調査'''という名称で、[[住宅]]に関する調査項目を主体とした調査が5年ごとに実施されてきた。[[1998年]](平成10年)の調査から、[[土地]]に関する項目を加えて{{Efn|name=土地基本調査|[[1993年]](平成5年)調査では、その付帯調査として、[[国土庁]]からの委託による「土地基本調査世帯調査」を行っていた([[統計報告調整法]]に基づく[[承認統計]]調査)。次回の[[1998年]](平成10年)調査でその調査内容が取り込まれ、土地関連の調査項目が充実した。{{R|統計実務変遷史}} }} '''住宅・土地統計調査'''となった<ref name="統計実務変遷史">
{{Cite book |和書
| author = 総務省統計局・総務省統計センター
| title = 統計実務変遷史:総務庁時代を中心として (昭和59年7月1日~平成15年3月31日)
| publisher = 総務省統計局・統計センター
| date = 2003
| ncid = BA61449934
}}
</ref>。[[2013年]](平成25年)以降は、[[統計法]]の全部改正(2007年公布、2009年施行)にともなう[[経過措置]]により、[[基幹統計調査]]となっている。
[[1948年]](昭和23年)の第1回「住宅調査」は、同年の[[国勢調査_(日本)#沿革|常住人口調査]]の付帯調査として実施されたものであり、日本に居住する者全員を対象とした全数調査であった。[[1953年]](昭和28年)の第2回「住宅統計調査」は、市部だけを対象とする標本調査である。{{R|統計実務変遷史}}
第3回調査([[1958年]])以降、全国を対象とする標本調査となる。[[国勢調査_(日本)|国勢調査]]のための調査区を第1抽出単位、調査区内の住戸を第2抽出単位とする層化2段無作為抽出で対象を選定する。標本規模は非常に大きい。2023年(令和5年)の第16回住宅・土地統計調査で調査対象となったのは340万世帯{{R|2023概要}} であり、これは全国の世帯数の約1/17に相当する<ref name="2023QA">
{{Cite web|url=https://www.stat.go.jp/data/jyutaku/qa/
| title = 住宅・土地統計調査に関するQ&A
| work = 令和5年住宅・土地統計調査
| publisher = 総務省統計局
| accessdate = 2023-10-15
}}
</ref>。このように多くの世帯を調査するのは、調査事項である住宅状況には地域による偏りが大きいため、それを地域別にじゅうぶんな精度をもって集計するのに必要だからと説明されている{{R|統計実務変遷史}}{{Rp|page=70}}。
[[1988年]](昭和63年)以降の調査では、「甲」「乙」2種類の調査票を対象世帯に配っている(国土庁「土地基本調査世帯調査」{{efn|name=土地基本調査}} のあった1993年をのぞく)。「甲」は項目数が少なく、短い調査票であるため、「ショート・フォーム」(short form) と呼ばれる。「乙」調査票は、項目数が多くて長い「ロング・フォーム」(long form) である。これらは調査区ごとに使い分けられる。{{R|統計実務変遷史}}
世帯向け調査項目は、[[2023年]](令和5年)調査の場合、つぎのとおりである。「乙」調査票には、これらの項目すべてが盛り込まれる。「甲」調査票は、これらから、*印のついている項目をのぞいたものである。{{R|2023QA}}
;世帯に関する事項
:世帯主、世帯構成、年間収入など
:家計を主に支える世帯員に関する事項
:現住居への入居時期と前住居に関する事項
:別居の子供などに関する事項
:同居する他の世帯に関する事項
;現住居に関する事項
:建物の構造、建築時期、設備、建て替え・増改築・改修工事、耐震に関する事項
:床面積、居住室の数及び広さ
:所有関係
:名義*
:家賃
;現住居の敷地に関する事項
:敷地面積
:所有関係、取得方法、取得時期など
:名義*
;現住居以外の住宅に関する事項
:所在地*
:所有関係
:取得方法*
:利用状況
:建て方、建築時期*
:居住世帯のない期間*
;現住居以外の土地に関する事項
:所在地、面積*
:所有関係
:取得方法、取得時期*
:利用状況
調査員は、各世帯に上記の調査票を配布するともに、建物の外観などから状況を調べ、つぎの「建物調査票」に自ら記入する。
* 住宅の種別
* 建物内総住宅数
* 建て方
* 建物全体の階数
* 敷地に接している道路の幅員
* 設備に関する事項
* 腐朽・破損の有無
* (住宅以外で人が居住している場合) 建物の種類
* (世帯の存しない場合) その建物の構造
この調査結果に基づき、[[基幹統計]]である'''住宅・土地統計'''が作成される。また、[[住生活基本法]](平成18年法律第61号)に基づいて[[国土交通省]]や[[地方公共団体]]が作成する住生活基本計画<ref>
{{Cite web|url=https://www.mlit.go.jp/jutakukentiku/house/jutakukentiku_house_tk2_000032.html
| title=住生活基本計画(全国計画)
| work = 政策・仕事>住宅・建築>住宅
| publisher = 国土交通省
| date = 2021-03-19
| accessdate = 2023-10-08
}}
</ref>、土地利用計画などの政策に関する基礎資料となっている。
== 注釈 ==
{{Notelist}}
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[総務省]] - [[統計局]]
* [[日本の公的統計制度]] - [[基幹統計調査]]
* [[統計法]]
== 外部リンク ==
* [https://www.stat.go.jp/data/jyutaku/ 令和5年住宅・土地統計調査] - 総務省統計局
* [https://www.e-stat.go.jp/statistics/00200522 住宅・土地統計調査] (政府統計コード 00200522) - 政府統計の総合窓口 (e-Stat)
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[[Category:総務省]]
[[Category:統計]]
[[Category:調査]]
[[Category:日本の住宅]] | 2023-10-07T23:27:30Z | 2023-10-23T12:05:50Z | false | false | false | [
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4,838,793 | 陸軍予備役制度一覧 | 陸軍予備役制度一覧(りくぐんよびえきせいどいちらん、list of Army Reserve)では、世界各国の陸軍予備役の制度を一覧形式で示す。
陸軍予備役(りくぐんよびえき、Army Reserve)とは、一般社会で生活している陸軍在籍者で有事の際や訓練の時のみ軍隊に戻る者のこと、あるいはその制度のことを指す。
以下は、各国の陸軍予備役制度の一覧である。 | [
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陸軍予備役(りくぐんよびえき、Army Reserve)とは、一般社会で生活している陸軍在籍者で[[有事]]の際や[[訓練]]の時のみ軍隊に戻る者のこと、あるいはその制度のことを指す。
== 各国の陸軍予備役制度 ==
以下は、各国の陸軍予備役制度の一覧である。
* {{仮リンク|アイルランド陸軍予備役|en|Army Reserve (Ireland)}}
* [[国防義勇軍|イギリス国防義勇軍]]
* {{仮リンク|オーストラリア予備役|en|Australian Army Reserve}}
* {{仮リンク|カナダ陸軍予備役|en|Canadian Army Reserve}}
* [[:en:New Zealand Army Reserve#Army Reserve|ニュージーランド陸軍予備役]]
* {{仮リンク|アメリカ陸軍予備役|en|United States Army Reserve}}
== 関連項目 ==
以下は陸軍以外の予備役制度である。
* {{仮リンク|アメリカ海軍予備役|en|United States Navy Reserve}}
* {{仮リンク|アメリカ空軍予備役|en|United States Air Force Reserve}}
* {{仮リンク|アメリカ海兵隊予備役|en|United States Marine Corps Reserve}}
== 外部リンク ==
{{Commons}}
* [https://web.archive.org/web/20120501020327/http://www.usar.army.mil/arweb/organization/commandstructure/Pages/default.aspx Full listings of Reserve units]
[[Category:軍事の一覧]]
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4,838,801 | ジョヴァンニ・ダ・サン・ジョヴァンニ | [] | null | {{Infobox 芸術家
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| name = <small>ジョヴァンニ・ダ・サン・ジョヴァンニ</small><br>Giovanni da San Giovanni
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'''ジョヴァンニ・ダ・サン・ジョヴァンニ'''(Giovanni da San Giovanni、[[1592年]][[3月20日]] - [[1636年]][[12月9日]])は、[[イタリア]]の画家である。本名は'''ジョヴァンニ・マンノツィ'''(Giovanni Mannozzi)である<ref name="Bioffices">Riccardo Spinelli, « Biographies », dans Mina Gregori, Le Musée des Offices et le Palais Pitti, Paris, Editions Place des Victoires, 2000 (ISBN 2-84459-006-3), Furini et Giovanni Da San Giovanni.</ref>。メディチ家の宮廷画家(familiare di corte)になりフィレンツェのピッティ宮殿などの多くの装飾画を描いた。
== 略歴 ==
トスカーナの[[サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノ]]で生まれた。通称のダ・サン・ジョヴァンニは生まれた町の名から来ている。父親のGiovan Battista di Agnolo Mannozziは公証人で、ジョヴァンニ・ダ・サン・ヴァンニは聖職者になることを望まれていたが、画家になる道を選び、1608年から[[フィレンツェ]]の有力な画家、[[マッテオ・ロッセッリ]]の工房で学んだ。トスカーナ大公のために働いた建築家のジュリオ・パリージ(Giulio Parigi: 1571-1635)とも知り合い、遠近法について学んだともされる<ref name="TD">[http://www.treccani.it/enciclopedia/giovanni-mannozzi_%28Dizionario-Biografico%29/ Treccani, Dizionario Biografico]</ref>。フィレンツェに作られたアカデミア・デル・ディセーニョ(Accademia del Disegno)の会員として認められた。
1615年にフィレンツェの[[ミケランジェロ・ブオナローティ・イル・ジョーヴァネ|ブオナローティ邸]](Casa Buonarroti)の展示室の装飾画を描いた画家の一人であり<ref name="TD" />、フィレンツェのオンニサンティ教会(Chiesa di Ognissanti)の壁画も描いた。1617年にメディチ家の宮廷画家(familiare di corte)の称号を与えられた。
1621年に[[フランチェスコ・フリーニ]]とともにローマに移った。ジョヴァンニ・ダ・サン・ジョヴァンニは1628年までローマに滞在し、多くの作品を制作した。
ローマを離れた後、1629年から1631年にかけてイタリアでペストが流行し、フィレンツェにもその兆しがあり、フィレンツェ郊外の教会などの仕事をした後、フィレンツェのメディチ家の一族のべっていなどの装飾画を描いた。ジョヴァンニ・ダ・サン・ジョヴァンニの最後の仕事は、1635年に注文を受けたフィレンツェの[[ピッティ宮殿]]の装飾画の作成であったが、1636年に亡くなりこの仕事を完成できなかったが、後ににフランチェスコ・フリーニらによって完成された。
== 作品 ==
<gallery mode="nolines" widths="180" heights="180">
File:Pitti Giovanni da San Giovanni.jpg|ジョヴァンニ・ダ・サン・ジョヴァンニの最後の仕事となった[[ピッティ宮殿]]の壁画
File:Giovanni da San Giovanni Venus Cupido.jpg|キューピッドの髪をとかすヴィーナス <br> ピッティ宮殿
File:Giovanni da San Giovanni.jpg| La Pintura pintando a la Gloria <br> ピッティ宮殿
File:Giovanni da san giovanni, la quiete che pacifica i venti, 1632, 03.JPG|クイエテ邸(Villa La Quiete)の装飾画
</gallery>
<gallery mode="nolines" widths="240" heights="160">
File:Giovanni da san giovanni, volta della cappella di san paolo a volterra 03.JPG|[[ヴォルテッラ]]の聖堂の装飾画
File:Giovanni da san Giovanni, notte, aurora e un amorino, 1635 ca., da palazzo pucci, 01.jpg| "notte, aurora e un amorino" <br>Museo Bardini
File:Giovanni da san giovanni, gloria di san nicola da tolentino e storie della sua vita, 1623-24, 01.jpg|ローマのサンタ・マリア・デル・ポポロ教会の天井画
</gallery>
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* Anna Banti: Giovanni da San Giovanni. Pittore della contraddizione. Sansoni, Florenz 1977.
* Sandro Bellesi: Catalogo dei pittori fiorentini del ’600 e ’700. Biografie e opere. Edizioni Polistampa, Florenz 2009, Bd. 1, S. 187–189; Bd. 3, S. 62–70.
* Silvia Benassai und Mara Visonà (Hrsg.): Quiete, invenzione e inquietudine. Il Seicento fiorentino intorno a Giovanni da San Giovanni. Centro Di, Florenz 2011.
* Carla Heussler: Giovanni da San Giovanni (Giovanni Mannozzi), in: AKL. Bd. 55, München und Leipzig 2007, S. 84–85.
* Francesco Sorce: Manozzi, Giovanni (Giovanni da San Giovanni). In: Mario Caravale (Hrsg.): Dizionario Biografico degli Italiani (DBI). Band 69: Mangiabotti–Marconi. Istituto della Enciclopedia Italiana, Rom 2007.
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:たさんしよはんに しよはんに}}
[[Category:17世紀イタリアの画家]]
[[Category:トスカーナ州出身の人物]]
[[Category:1592年生]]
[[Category:1636年没]] | 2023-10-08T00:06:11Z | 2023-10-08T00:33:24Z | false | false | false | [] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%8B%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%8B |
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4,838,813 | オタルスゲ | オタルスゲ Carex otaruensis Franch. 1895. はカヤツリグサ科スゲ属の植物の1つ。全体に緑色で、株を作り、上方の小穂は上を向き、下方の小穂はやや垂れる。
まとまった株を作る多年生草本。密集した束になって生える。草丈は30~60cm程度。基部の葉は葉身のない鞘のみとなり、濃褐色で一部は赤く色づき、糸網を形成する。葉身のある葉は幅3~6mm、縁は著しくざらつく。
果実の出来る時期は5~6月。花茎は高さ30~60cm。強いざらつきがある。小穂は4~6個付き、苞には鞘がなく、葉身はよく発達する。頂小穂は雄性で線形をしており、長さは3~6cm。雄小穂の鱗片は先端が鈍く尖る。側小穂は雌性で、長さは3~6cm、幅3~4mm、長い柄があって先端は垂れて俯く。雌花鱗片は狭い長楕円形で先端は尖るか突き出して尖っており、淡緑色で果胞より少しだけ短い。果胞は卵状長楕円形で断面は両凸型、長さは2.5~3mm、淡緑色で表面は滑らかで毛がない。先端の方はやや長い嘴になって突き出し、口部は窪んだ形で、熟しても膨らむことなく果実を緊密に包んだ状態になる。果実は倒卵形でその断面はレンズ状、長さは1.5~2mm、柱頭は2つに裂ける。
和名と学名は北海道の小樽にちなんでつけられたもので、別名にはヒメテキリスゲがある。
日本固有種で、国内では北海道、本州、四国、九州まで分布する。スゲ属は北方系のものが多いことから北海道の地名を名に持つ種が少なからずある(リシリスゲ、アカンスゲ、ネムロスゲ、ラウススゲ等々)が、その中で本種は最も南まで見られ、あえてこの名であることが必要なのかに疑問を感じるものである。ちなみに後述の様に北海道では準絶滅危惧種に指定されており、むしろ数は多くない様である。
湿地や流水の縁に出現する。渓谷や山道脇の湿地などに見られる。愛媛県ではよく似たテキリスゲが湿地だけでなく崩壊地や草地にも出るのに対し、本種は湿地にしか出現しないとしている。
本種は総状花序の頂小穂が雄性、側小穂は雌性、小穂の基部の苞に鞘がなく、果胞は無毛、柱頭は2つに裂けるといった特徴から勝山(2015)はアゼスゲ節 Sect. Phacocystis に含めている。この節には日本に26種ほどが含められているが、アゼスゲ C. thunbergii などその半分ほどの種は小穂の鱗片が褐色に着色しているので混同しない。小穂の鱗片が淡色のものの中でアゼナルコ C. dimorpholepis などは果胞の表面に乳頭状突起が密生していて、肉眼では粉を吹いたように見える。果胞表面が滑らかなもののうちテキリスゲ C. kiotensis などは果胞に嘴がほとんどない。このような特徴で本種と近いのはカワラスゲ C. incisa であるが、この種は全体に草質で柔らかく、小穂もより細長いために判別は容易である。別名はヒメテキリスゲであるが、上記の点以外にもテキリスゲは雌小穂が10cmにもなり、細長くて柔らかくてだらりと垂れ下がる姿は本種とあまり似ていない。星野他(2011)は本種に似たものとしてヤマアゼスゲ C. heterolepis をあげ、匍匐茎の存在や雌花鱗片が着色しないこと、基部の鞘の色などの違いを挙げている。
環境省のレッドデータブックでは取り上げられていないが、都道県別では秋田県、山形県、それに宮崎県で絶滅危惧I類、四国の徳島県、高知県、愛媛県と佐賀県で絶滅危惧II類、北海道、千葉県、新潟県、富山県、島根県、香川県で準絶滅危惧の指定があり、また東京都では絶滅したとされている。ほぼ分布域の北側と南側での指定と見て取れる。愛媛県では本種が湿地にしか出現しないことから川の改修や湿地の改修による環境変化による影響を問題視している。 | [
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"title": "分類、近縁種など"
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"text": "環境省のレッドデータブックでは取り上げられていないが、都道県別では秋田県、山形県、それに宮崎県で絶滅危惧I類、四国の徳島県、高知県、愛媛県と佐賀県で絶滅危惧II類、北海道、千葉県、新潟県、富山県、島根県、香川県で準絶滅危惧の指定があり、また東京都では絶滅したとされている。ほぼ分布域の北側と南側での指定と見て取れる。愛媛県では本種が湿地にしか出現しないことから川の改修や湿地の改修による環境変化による影響を問題視している。",
"title": "保護の状況"
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] | オタルスゲ Carex otaruensis Franch. 1895. はカヤツリグサ科スゲ属の植物の1つ。全体に緑色で、株を作り、上方の小穂は上を向き、下方の小穂はやや垂れる。 | {{生物分類表
|名称 = オタルスゲ
|色 = lightgreen
|画像=[[画像:Carex otaruensis otarusg03.jpg|220px]]
|画像キャプション = オタルスゲ
|分類体系 = [[APG III]]
|界 = [[植物界]] {{Sname||Plantae}}
|門階級なし = [[被子植物]] {{Sname||angiosperms}}
|綱階級なし = [[単子葉類]] {{Sname||monocots}}
|亜綱階級なし = [[ツユクサ類]] {{sname||commelinids}}
|目 = [[イネ目]] {{sname||Poales}}
|科 = [[カヤツリグサ科]] {{sname||Cyperaceae}}
|属 = [[スゲ属]] {{snamei||Carex}}
|種 = オタルスゲ''C. otaruensis''
|学名 = {{snamei||Carex otaruensis}} Franch. 1895.
}}
'''オタルスゲ''' ''Carex otaruensis'' Franch. 1895. は[[カヤツリグサ科]][[スゲ属]]の[[植物]]の1つ。全体に緑色で、株を作り、上方の小穂は上を向き、下方の小穂はやや垂れる。
== 特徴 ==
まとまった株を作る[[多年生]][[草本]]<ref>以下、主として勝山(2015) p.123</ref>。密集した束になって生える。草丈は30~60cm程度。基部の葉は葉身のない鞘のみとなり、濃褐色で一部は赤く色づき、糸網を形成する。葉身のある葉は幅3~6mm、縁は著しくざらつく。
[[果実]]の出来る時期は5~6月。[[花茎]]は高さ30~60cm。強いざらつきがある<ref name="名前なし-20231105145756">星野他(2011) p.194</ref>。[[小穂]]は4~6個付き、苞には鞘がなく、葉身はよく発達する。頂小穂は雄性で線形をしており、長さは3~6cm。雄小穂の鱗片は先端が鈍く尖る<ref name="名前なし-20231105145756"/>。側小穂は雌性で、長さは3~6cm、幅3~4mm、長い柄があって先端は垂れて俯く。雌花鱗片は狭い長楕円形で先端は尖るか突き出して尖っており、淡緑色で果胞より少しだけ短い。果胞は卵状長楕円形で断面は両凸型、長さは2.5~3mm、淡緑色で表面は滑らかで毛がない。先端の方はやや長い嘴になって突き出し、口部は窪んだ形で、熟しても膨らむことなく果実を緊密に包んだ状態になる。果実は倒卵形でその断面はレンズ状、長さは1.5~2mm、柱頭は2つに裂ける。
和名と学名は[[北海道]]の[[小樽]]にちなんでつけられたもので、別名にはヒメテキリスゲがある<ref>大橋他編(2015) p.312</ref>。
<gallery>
File:Carex otaruensis otarusg01.jpg|生育地の様子
File:Carex otaruensis otarusg04.jpg|花茎の先端近く、雄小穂と上位の雌小穂
File:Carex otaruensis otarusg05.jpg|下方の雌小穂
</gallery>
== 分布と生育環境 ==
[[日本]][[固有種]]で、国内では北海道、本州、四国、九州まで分布する<ref name="名前なし_2-20231105145756">勝山(2015) p.123</ref>。スゲ属は北方系のものが多いことから北海道の地名を名に持つ種が少なからずある(リシリスゲ、アカンスゲ、ネムロスゲ、ラウススゲ等々)が、その中で本種は最も南まで見られ、あえてこの名であることが必要なのかに疑問を感じるものである。ちなみに後述の様に北海道では準絶滅危惧種に指定されており、むしろ数は多くない様である。
[[湿地]]や流水の縁に出現する<ref name="名前なし_2-20231105145756"/>。[[渓谷]]や山道脇の湿地などに見られる<ref name="名前なし-20231105145756"/>。愛媛県ではよく似たテキリスゲが湿地だけでなく崩壊地や草地にも出るのに対し、本種は湿地にしか出現しないとしている<ref name="名前なし_3-20231105145756">愛媛県レッドデータブック2014[https://www.pref.ehime.jp/reddatabook2014/detail/09_06_011310_0.html]2023/07/25閲覧</ref>。
== 分類、近縁種など ==
本種は[[総状花序]]の頂小穂が雄性、側小穂は雌性、小穂の基部の苞に鞘がなく、果胞は無毛、柱頭は2つに裂けるといった特徴から勝山(2015)はアゼスゲ節 Sect. Phacocystis に含めている<ref>以下、勝山(2015) p.96-97</ref>。この節には日本に26種ほどが含められているが、アゼスゲ ''C. thunbergii'' などその半分ほどの種は小穂の鱗片が褐色に着色しているので混同しない。小穂の鱗片が淡色のものの中で[[アゼナルコ]] ''C. dimorpholepis'' などは果胞の表面に乳頭状突起が密生していて、肉眼では粉を吹いたように見える。果胞表面が滑らかなもののうち[[テキリスゲ]] ''C. kiotensis'' などは果胞に嘴がほとんどない。このような特徴で本種と近いのは[[カワラスゲ]] ''C. incisa'' であるが、この種は全体に草質で柔らかく、小穂もより細長いために判別は容易である。別名はヒメテキリスゲであるが、上記の点以外にもテキリスゲは雌小穂が10cmにもなり、細長くて柔らかくてだらりと垂れ下がる姿は本種とあまり似ていない。星野他(2011)は本種に似たものとしてヤマアゼスゲ ''C. heterolepis'' をあげ、匍匐茎の存在や雌花鱗片が着色しないこと、基部の鞘の色などの違いを挙げている。
== 保護の状況 ==
[[環境省]]の[[レッドデータブック]]では取り上げられていないが、都道県別では[[秋田県]]、[[山形県]]、それに[[宮崎県]]で絶滅危惧I類、四国の[[徳島県]]、[[高知県]]、[[愛媛県]]と[[佐賀県]]で絶滅危惧II類、北海道、[[千葉県]]、[[新潟県]]、[[富山県]]、[[島根県]]、[[香川県]]で準絶滅危惧の指定があり、また[[東京都]]では絶滅したとされている<ref>日本のレッドデータ検索システム[http://jpnrdb.com/search.php?mode=map&q=06050306260]2023/07/25閲覧</ref>。ほぼ分布域の北側と南側での指定と見て取れる。愛媛県では本種が湿地にしか出現しないことから川の改修や湿地の改修による環境変化による影響を問題視している<ref name="名前なし_3-20231105145756"/>。
== 出典 ==
<references />
== 参考文献 ==
*勝山輝男 、『日本のスゲ 増補改訂版』、(2015)、[[文一総合出版]]
*星野卓二他、『日本カヤツリグサ科植物図譜』、(2011)、[[平凡社]]
{{DEFAULTSORT:おたるすけ}}
[[Category:スゲ属]] | 2023-10-08T01:20:07Z | 2023-11-05T14:57:57Z | false | false | false | [
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4,838,814 | マンガ論争 | 『マンガ論争』(マンガろんそう、manga ronsoh)は、永山薫が編集長、佐藤圭亮が副編集長を務めるミニコミシリーズ。シリーズは2023年9月号で27巻を数え、『2007-2008 マンガ論争勃発』と『マンガ論争勃発2』がマイクロマガジン社から出版されている。
主に漫画における表現の自由について取り組んでおり、東京都青少年の健全な育成に関する条例改正案などを特集してきた。著作権問題に関する記事や漫画評論も掲載しており、みなもと太郎が死去した際は特集を組んだ。「話を聞き、相手の主張に耳を傾ける」を理念としている。
『2007-2008 マンガ論争勃発』ではコミックマーケット準備会と全国同人誌即売会連絡会が全面的な協力を行い、ちばてつやや伊藤剛などの漫画業界人の他、経済産業省や外交官の岡田眞樹にも取材を行っている。
ジャーナリストの昼間たかしが執筆に参加していたが、2015年8月までに降板している。 | [
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| title = 2007-2008 マンガ論争勃発
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{{基礎情報 書籍
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『'''マンガ論争'''』(マンガろんそう、manga ronsoh)は、[[永山薫]]が編集長、佐藤圭亮が副編集長を務める[[ミニコミ]]シリーズ。シリーズは2023年9月号で27巻を数え、『2007-2008 マンガ論争勃発』と『マンガ論争勃発2』が[[マイクロマガジン社]]から出版されている<ref name="ascii">{{Cite web |url=https://ascii.jp/elem/000/000/529/529681/ |title=永山薫氏に聞く非実在青少年問題と「マンガ論争2.5」 |publisher=[[アスキー (企業)|アスキー]] |date=2010-06-14 |accessdate=2023-10-08}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author= |title=マンガとミュージアムが出会うとき|publisher=[[臨川書店]] |date=2009-07-01 |page=194|isbn=978-4653040170}}</ref>。
== 内容 ==
主に[[漫画]]における[[表現の自由]]について取り組んでおり、[[東京都青少年の健全な育成に関する条例]]改正案などを特集してきた<ref name="ascii"/>。著作権問題に関する記事や<ref name="animeanime">{{Cite web |url=https://animeanime.jp/article/2008/01/16/2663.html|title=ロフトプラスワンで『2007-2008マンガ論争勃発』のイベント開催 |publisher=[[イード (企業)|イード]] |date=2008-01-16 |accessdate=2023-10-08}}</ref>漫画評論も掲載しており、[[みなもと太郎]]が死去した際は特集を組んだ<ref>{{Cite web |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2021/12/31/kiji/20211231s00041000181000c.html|title= コミケ 2年ぶり復活に喜びの声「開催に意味がある」「次につながる」 |publisher=[[スポーツニッポン]] |date=2021-12-31 |accessdate=2023-10-08}}</ref>。「話を聞き、相手の主張に耳を傾ける」を理念としている<ref>{{Cite book |和書 |author=[[稀見理都]] |title=[[エロマンガ表現史]]|publisher=[[太田出版]]|date=2017-11-02 |page=380|isbn=978-4778315924}}</ref>。
『2007-2008 マンガ論争勃発』では[[コミックマーケット]]準備会と[[全国同人誌即売会連絡会]]が全面的な協力を行い、[[ちばてつや]]や[[伊藤剛 (評論家)|伊藤剛]]などの漫画業界人の他、[[経済産業省]]や外交官の[[岡田眞樹]]にも取材を行っている<ref name="animeanime"/>。
== 関係者 ==
ジャーナリストの[[昼間たかし]]が執筆に参加していたが<ref>{{Cite web |url=https://www.j-cast.com/2010/12/06082742.html?p=all|title=猪瀬副知事「ネトウヨは夕張で雪かきしろ」 漫画規制の取材申し込みに条件 |publisher=[[ジェイ・キャスト]] |date=2010-12-06 |accessdate=2023-10-08}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://gigazine.net/news/20101210_comic_10sha_taf/|title=角川書店や講談社、集英社などのコミック10社会が東京国際アニメフェアへの参加拒否を発表|publisher=[[ガジェット通信]] |date=2010-12-10|accessdate=2023-10-08}}</ref>、2015年8月までに降板している<ref>{{Cite book |和書 |author=[[昼間たかし]] |title=コミックばかり読まないで |publisher=[[イースト・プレス]] |date=2015-09-17 |isbn=978-4781613642}}</ref>。
== 参考文献 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [http://manronweb.com/mangawars/ 公式ウェブサイト]
{{DEFAULTSORT:まんかろんそう}}
[[Category:日本の漫画]]
[[Category:表現規制]]
[[Category:2007年の書籍]]
[[Category:2009年の書籍]] | 2023-10-08T01:21:50Z | 2023-10-17T13:21:06Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%AC%E8%AB%96%E4%BA%89 |
4,838,819 | 吉田製蝋所 | 吉田製蝋所(よしだせいろうじょ)は、和歌山県海南市にある木蝋製造所。
和歌山県産ブドウハゼの実を伝統的な手法で搾る県内唯一の製蝋所。
5代目吉田忠司が営む。明治13年(1880年)頃から農業と兼業で製蝋を行う。
2017年に和歌山県紀美野町でブドウハゼの原木が発見され2020年に県指定文化財 (天然記念物) に再指定されたことなどを機にりら創造芸術高等学校や県林業試験場などとブドウハゼ産業化の協働をする。
伝統製法などで製造する和蝋燭業者などに木蝋を卸す。
「玉締め式圧搾機」を使用する日本国内に残る数少ない製蝋所のひとつ。 | [
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] | 吉田製蝋所(よしだせいろうじょ)は、和歌山県海南市にある木蝋製造所。 和歌山県産ブドウハゼの実を伝統的な手法で搾る県内唯一の製蝋所。 | '''吉田製蝋所'''(よしだせいろうじょ)は、[[和歌山県]][[海南市]]にある[[木蝋]]製造所<ref name="san">{{Cite web |url=https://www.sankei.com/article/20170527-BMD6AWO52BLEDIZSZAXF2RMDIM/|title=和ろうそくや化粧品の原料、ブドウハゼの栽培など通じて「志賀野」PR 和歌山県事業|website=|publisher=[[産経デジタル|産経ニュース]] |date=2017-05-27|accessdate=2023-10-08}}</ref><ref name="waka">{{Cite web |url=https://www.nwn.jp/education/210213_budohaze/|title=ブドウハゼの灯 消すな|website=|publisher=[[ニュース和歌山]]|date=2021-02-13|accessdate=2023-10-08}}</ref>。
和歌山県産[[ブドウハゼ]]の実を伝統的な手法で搾る県内唯一の製蝋所<ref name="san">{{Cite web |url=https://www.sankei.com/article/20170527-BMD6AWO52BLEDIZSZAXF2RMDIM/|title=和ろうそくや化粧品の原料、ブドウハゼの栽培など通じて「志賀野」PR 和歌山県事業|website=|publisher=[[産経デジタル|産経ニュース]] |date=2017-05-27|accessdate=2023-10-08}}</ref><ref name="waka">{{Cite web |url=https://www.nwn.jp/education/210213_budohaze/|title=ブドウハゼの灯 消すな|website=|publisher=[[ニュース和歌山]]|date=2021-02-13|accessdate=2023-10-08}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://blog.lyra-art.jp/post-7397/|title=第2回 吉田製蝋所見学|website=|publisher=[[りら創造芸術高等学校]] |date=2019-10-24|accessdate=2023-10-08}}</ref>。
== 概要 ==
5代目吉田忠司が営む<ref name="san">{{Cite web |url=https://www.sankei.com/article/20170527-BMD6AWO52BLEDIZSZAXF2RMDIM/|title=和ろうそくや化粧品の原料、ブドウハゼの栽培など通じて「志賀野」PR 和歌山県事業|website=|publisher=[[産経デジタル|産経ニュース]] |date=2017-05-27|accessdate=2023-10-08}}</ref><ref name="waka">{{Cite web |url=https://www.nwn.jp/education/210213_budohaze/|title=ブドウハゼの灯 消すな|website=|publisher=[[ニュース和歌山]]|date=2021-02-13|accessdate=2023-10-08}}</ref>。[[明治]]13年([[1880年]])頃から農業と兼業で製蝋を行う<ref name="gov">{{Cite book |和書 |author1=[[大西暢夫]] ||title=技・匠(47) 和ろうそくの火を灯す 最高級の蝋づくり-吉田製蝋所(和歌山県海南市) |date=2023-02-01 |publisher=[[ガバナンス]]〈[[ぎょうせい]]〉、通巻286号|issn= |at=巻頭}}</ref>。
[[2017年]]に和歌山県[[紀美野町]]でブドウハゼの原木が発見され[[2020年]]に県指定[[文化財]] ([[天然記念物]]) に再指定されたことなどを機に[[りら創造芸術高等学校]]や県[[林業試験場]]などとブドウハゼ産業化の協働をする<ref name="gov">{{Cite book |和書 |author1=[[大西暢夫]] ||title=技・匠(47) 和ろうそくの火を灯す 最高級の蝋づくり-吉田製蝋所(和歌山県海南市) |date=2023-02-01 |publisher=[[ガバナンス]]〈[[ぎょうせい]]〉、通巻286号|issn= |at=巻頭}}</ref><ref name="chi">{{Cite book |和書 |author1=大西暢夫 ||title=地撮り!(24) よみがえったブドウハゼ 和歌山県紀美野町・海南市 |date=2023-08-01 |publisher=季刊地域〈[[農文協]]〉、№54、現代農業2023年8月増刊|issn= |at=115-121頁}}</ref>。
伝統製法などで製造する[[和蝋燭]]業者などに木蝋を卸す<ref name="chi">{{Cite book |和書 |author1=大西暢夫 ||title=地撮り!(24) よみがえったブドウハゼ 和歌山県紀美野町・海南市 |date=2023-08-01 |publisher=季刊地域〈[[農文協]]〉、№54、現代農業2023年8月増刊|issn= |at=115-121頁}}</ref>。
「玉締め式圧搾機」を使用する日本国内に残る数少ない製蝋所のひとつ<ref>{{Cite web |url=https://blog.lyra-art.jp/post-8195/|title=吉田製蝋所の見学|website=|publisher=りら創造芸術高等学校 |date=2022-05-19|accessdate=2023-10-08}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://blog.lyra-art.jp/post-8346/|title=吉田製蝋所での製蝋作業見学|website=|publisher=りら創造芸術高等学校 |date=2022-12-24|accessdate=2023-10-08}}</ref>。
== 参考資料 ==
* 地方自治体・地域自治組織
** [https://www.town.kimino.wakayama.jp/material/files/group/13/budouhaze.pdfl ブドウハゼの原木]紀美野町
** [http://wave.pref.wakayama.lg.jp/news/kensei/print.php?sid=30662l ブドウハゼ産業化情報交換会・接ぎ木研修会]わかやま県政ニュース
** [https://rephotograph20.rssing.com/chan-10702634/all_p622.htmll りら創造芸術高に特別賞 特用林産功労者]わかやま新報
* 新聞
** [https://www.asahi.com/articles/ASM1Q2PQ7M1QPXLB002.htmll 60年前に枯死の原木、生きてた? 女子高校生が大発見][[朝日新聞デジタル]]
** [https://www.sankei.com/article/20171228-DBOUIICKWBLJTDENOKUFD4FNY4/l 枯死した?天然記念物のブドウハゼ 高校生が原木発見 和歌山県は再指定目指す 和ろうそく原料][[産経デジタル|産経ニュース]]
== 関連項目 ==
*[[松井本和蝋燭工房]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
{{DEFAULTSORT:よしだせいろうじょ}}
[[Category:日本の製造業者]]
[[Category:蝋]]
[[Category:海南市の企業]]
[[Category:19世紀の日本の設立]] | 2023-10-08T01:30:30Z | 2023-10-15T03:43:39Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E8%A3%BD%E8%9D%8B%E6%89%80 |
4,838,820 | イ・ソンミン (俳優) | イ・ソンミン(朝: 이 성민、1968年12月4日 - )は、韓国の俳優。HODU&Uエンターテインメント所属。 | [
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] | イ・ソンミンは、韓国の俳優。HODU&Uエンターテインメント所属。 | {{ActorActress
| 芸名 = 이 성민
| ふりがな = イ・ソンミン
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| 事務所 = [[HODU&Uエンターテインメント]]
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| 画像ファイル = 200108 이성민.jpg
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| 本名 =
| 別名義 = <!-- 別芸名がある場合に記載。愛称の欄ではありません -->
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| 没月 =
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}}
{{韓国の人物|title=イ・ソンミン|latin=Lee Sung-min|hangeul=이 성민|hanja=李 成民|hiragana=り せいみん|katakana=イ ソンミン}}
'''イ・ソンミン'''({{lang-ko-short|이 성민}}、[[1968年]][[12月15日]]<ref>{{Cite web |title=Facebook |url=https://www.facebook.com/hodunu/posts/2263499160552412/ |website=www.facebook.com |access-date=2023-10-08}}</ref> - )は、[[大韓民国|韓国]]の[[俳優]]。[[HODU&Uエンターテインメント]]所属。
== 出演作品 ==
=== 映画 ===
* [[初恋のアルバム]](2004年) - 青果店の店主
* [[僕らのバレエ教室]](2004年) - ミスター・キム 役
* [[天国までの60日]](2005年) - 刑事 役
* [[マラソン (映画)|マラソン]](2005年) - ジョンウクの友人 役
* [[ミスター・ロビンの口説き方]](2006年) - ヤン 役
* [[シークレット・サンシャイン]](2007年) - 厨房長 役
* [[グッド・バッド・ウィアード]](2008年) - 厨房長 役
* [[GOGO70s]](2008年) - イ・ビョンウク 役
* [[カフェ・ノワール]](2009年) - ミヨンの夫 役
* [[小さな池 1950年・ノグンリ虐殺事件]](2010年) - クリの父 役
* [[ベストセラー (2010年の映画)|ベストセラー]](2010年) - マ・デユン 役
* [[トラブルシューター 解決士]](2010年) - ユン・デヒ 役
* [[生き残るための3つの取引]](2010年) - 検事部長 役
* [[逮捕王]](2011年) - チョ 役
* [[THE CAT ザ・キャット]](2011年) - ビダンパパ 役
* [[凍える牙]](2012年) - ク・ヨンチョル 役
* [[僕の妻のすべて]](2012年) - ナ 役
* [[弁護人 (映画)|弁護人]](2012年) - イ・ユンテク 役
* [[ヴィーナス・トーク 官能の法則]](2014年) - イ・ジェホ 役
* [[さまよう刃]](2014年) - チャン・オクグァン 役
* [[群盗 (映画)|群盗]](2014年) - テホ 役
* [[世界で一番いとしい君へ]](2014年) - 主治医 役
* [[ビッグマッチ (映画)|ビッグマッチ]](2014年) - チェ・ヨンホ 役
* [[笛を吹く男]](2015年) - 村長 役
* [[ロボット:SORI(音)]](2016年) - キム・へグァン 役
* [[華麗なるリベンジ]](2016年) - ウ・ジョンギル 役
* [[グッバイ・シングル]](2016年) - チュ・ミノ 役
* [[保安官 (映画)|保安官]](2017年) - チェ・デホ 役
* [[リアル (映画)|リアル]](2017年) - チェ・ジンギ博士 役
* [[パラム パラム パラム]](2018年) - イ・ソックン 役
* [[工作 黒金星と呼ばれた男]](2018年) - リ・ミョンウン 役
* [[目撃者 (映画)|目撃者]](2018年) - ハン・サンフン 役
* [[麻薬王 (映画)|麻薬王]](2018年) - ソ・サンフン 役
* [[スピード・スクワッド ひき逃げ専門捜査班]](2019年) - ソ・ジョンチェ 役
* [[ビースト (2019年の映画)|ビースト]](2019年) - チョン・ハンス 役
* [[権力に告ぐ]](2019年) - チェ・ヨンウク 役
* [[SP 国家情報局:Mr.ZOO]](2020年) - チュ・テジュ 役
* [[KCIA 南山の部長たち]](2020年) - パク大統領 役
* [[第8日の夜]](2021年) - パク・ジンス 役
* [[手紙と線路と小さな奇跡]](2021年) - チョン・テユン 役
* [[ハント(映画)|ハント]](2022年) - チョ・ウォンシク 役
* [[復讐の記憶]](2022年) - ハン・ピルジュ 役
=== ドラマ ===
* [[俺たち三人組]](2000年、[[文化放送 (韓国)|MBC]]) - 舞台俳優 役
* [[オー!必勝]](2004年、[[KBS第2テレビジョン|KBS2]]) - パク検品長 役
* [[おはよう、神様]](2006年、KBS2) - 刑事 役
* [[魔王 (2007年のテレビドラマ)|魔王]](2007年、KBS2) - ファン・デピル 役
* [[大王世宗]](2008年、[[KBS 1TV|KBS1]]) - チェ・マンリ 役
* [[オンエアー (テレビドラマ)|オンエアー]](2008年、[[SBS (韓国)|SBS]]) - ソン・スチョル 役
* [[ワーキングママ~愛の方程式~]](2008年、SBS) - カン・チョルミン 役
* [[テロワール (テレビドラマ)|テロワール]](2008年、SBS) - マルチ商法の職員 役
* [[愛は簡単じゃない]](2009年、SBS) - ホ・セドル 役
* [[パートナー (2009年のテレビドラマ)|パートナー]](2009年、KBS2) - ハン・ジュンス 役
* [[熱血商売人]](2009年、KBS2) - ヤン・マンチョル 役
* [[トリプル (テレビドラマ)|トリプル]](2009年、MBC) - チョン局長 役
* [[パスタ〜恋が出来るまで〜]](2010年、MBC) - ソル・ジュンソク 役
* [[グロリア (テレビドラマ)|グロリア]](2010 - 2011年、MBC) - ソン・ジョンボム 役
* [[マイ・プリンセス (テレビドラマ)|マイ・プリンセス]](2011年、MBC) - イ・ヨンチャン 役
* [[私の心が聞こえる?]](2011年、MBC) - イ・ミョンギュン 役
* [[千日の約束]](2011年、SBS)
* [[ブレイン 愛と野望]](2011 - 2011年、KBS2) - コ・ジェハク 役
* [[キング ~Two Hearts]](2012年、MBC) - イ・ジェガン 役
* [[ゴールデンタイム (2012年のテレビドラマ)|ゴールデンタイム]](2012年、MBC) - チェ・インヒョク 役
* [[アラン使道伝]](2012年、MBC) - 守護者 役
* [[モンスター ~私だけのラブスター~]](2013年、[[tvN]]) - クォン・テヒョン 役
* [[男が愛する時]](2013年、MBC) - キム・デグァン 役
* [[ミス・コリア (テレビドラマ)|ミス・コリア]](2013 - 2014年、MBC) - チョン先生 役
* [[ビッグマン (テレビドラマ)|ビッグマン]](2014年、KBS2) - 上級官吏 役
* [[ミセン]](2014年、[[tvN]]) - オ・サンシク 役
* [[華政]](2015年、MBC) - イ・ドクヒョン 役
* [[ホグの愛]](2015年、tvN) - オ・サンシク 役
* [[元カノクラブ]](2015年、tvN) - 映画俳優 役
* [[記憶〜愛する人へ〜]](2016年、tvN) - パク・テソク 役
* [[アントラージュ★オレたちのハリウッド|アントラージュ ~スターの華麗なる人生~]](2016年、tvN) - 本人 役
* [[美しい世界 (テレビドラマ)|凍てついた愛]](2019年、[[JTBC]]) - イ・ソンミン署長 役
* [[マネーゲーム (2020年のテレビドラマ)|マネーゲーム]](2020年、tvN) - ホ・ジェ 役
* [[霊魂修繕工]](2020年、KBS2) - コ・ジェハク 役
* [[未成年裁判]](2022年、[[Netflix]]) - カン・ウォンジュン 役
* [[田舎町ダイアリーズ]](2022年、kakaoTV) - イ・ジャン 役
* [[ナルコの神]](2022 - 2023年、Netflix) - キム・ソンジャン 役
* [[刑事ロク 最後の心理戦]](2022年、[[Disney+|Disney+]]) - キム・テクロク 役
* [[財閥家の末息子]](2022年、JTBC) - チン・ヤンチョル 役
== 脚注 ==
<references />
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[[Category:韓国の男優]]
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4,838,825 | 白雪姫 (ディズニーキャラクター) | 白雪姫(しらゆきひめ、Snow White)は、ウォルト・ディズニー・プロダクション初の長編アニメーション映画『白雪姫』(1937年)の主人公。
アドリアナ・カセロッティが声を担当していた。主にヨーロッパで知られているおとぎ話に由来しており、最もよく知られているのは、グリム兄弟による1812年の物語である。
最初のディズニープリンセスであり、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの星を持つ最初の架空の女性キャラクターである。「この世で一番美しい人」という称号を与えられた彼女は、歌や動物とのコミュニケーションなど、後のディズニーのヒロインたちに同様の特徴を与え続けてきた。
カセロッティの後、ジェーン・パウエル、アイリーン・ウッズ、ドロシー・ワレンショルド(英語版)、ジューン・フォーレイ、メアリー・ケイ・バーグマン、キャロライン・ガードナー、メリッサ・ディズニー(英語版)、キャサリン・フォン・ティル、パメラ・リボン(英語版)らが声を担当し、メアリー・ジョー・サレアノ(ミュージカル)とステファニー・ベネット(英語版)(『ディセンダント』)が実写で演じている。レイチェル・ゼグラーは、1937年のオリジナル映画の実写映画化で白雪姫を演じる予定。
白雪姫が初めて登場するのは、映画『白雪姫』(1937年)である。城、騎士、美しい女性、ロマンス、魔法、魔女といったおとぎ話が語られる頃、"はるか彼方の別の国"、"何年も何年も昔"、不思議な力を持つ氷のように美しい女性(1938年のパンフレットによれば、彼女はドイツのハルツ山地の「悪霊に身も心も」売ったことで、魔術を使えるようになったという)が、妻を亡くしていた国王と結婚して王族の地位を手に入れ、国王が亡くなる前に彼の王国を統治することになった。その時から、残酷な女王は一人ですべてを支配し、彼女の一言一言が法律となり、すべての者は彼女の怒りを恐れて震え上がった。見栄っ張りの女王は、望むものを何でも見ることができる魔法の鏡を持っていた。魔法の鏡には、女王の要求に答える煙のような顔が映し出される。女王は定期的に鏡に、この世で一番美しいのは誰なのかと尋ねるが("Magic mirror on the wall, who is the fairest one of all?"、これはしばしば "Mirror mirror on the wall, who is the fairest of them all "と誤記される)、鏡はいつも女王だと答える。女王が魔法の力を持つのは、自分の領地である城だけである。
白雪姫は当初、自惚れの強い継母である邪悪な女王の下で暮らしている。女王は、白雪姫の美しさがいつか自分を追い抜くことを恐れ、白雪姫に下働きをさせる。長い年月の後、魔法の鏡が白雪姫を"誰よりも美しい"と認めたため、女王は白雪姫を追放し、狩人に白雪姫を殺させようとする。しかし、その気になれなかった狩人は、白雪姫を森に逃がす。白雪姫は7人の小人の家に偶然辿り着き、7人の小人は喜んで彼女を助ける。
白雪姫が生きていることを知った女王は、魔法を使って老婆に変装し、毒リンゴを作る。それを食べた者は、真実の愛のキスだけが蘇らせる"眠れる死"に陥る。小人たちが留守のとき、老婆が小人たちの家にやってきて、白雪姫に毒リンゴを差し出す。白雪姫はリンゴをかじり、深い眠りに落ちる。そこへ戻ってきた小人たちは、老婆を追い詰め、彼女は落雷とともに崖から転落して死亡する。小人たちは白雪姫も死んだと思い込み、棺に彼女を入れる。時が過ぎ、王子が白雪姫の元へやって来る。彼女の死を悲しんだ王子はキスをし、目覚めさせる。7人の小人が喜びのダンスを踊る中、白雪姫と王子は幸せに暮らすために旅立つ。
原題は『The Fairest of All: A Tale of the Wicked Queen』。白雪姫は、セリーナ・バレンチノ(英語版)によるディズニー・ヴィランズ・シリーズの最初の作品に登場する。本作では、白雪姫は脇役で、女王に焦点が当てられている。物語の中で白雪姫と女王は、「奇妙な三姉妹」が魔法の鏡に魔法をかけて女王の嫉妬と白雪姫への憎しみを引き起こすまでは、とても良い関係だった。最終的に白雪姫は鏡を手に入れ、女王は鏡の中の精霊となる。
原題は『Mistress of All Evil: A Tale of the Dark Fairy』。白雪姫は、ヴィランズ・シリーズの4作目で年老いた女王として再登場する。物語では、白雪姫は今でも子供をもうけた王子と幸せな結婚生活を送っている。彼女はまた、初めてキルケと出会い、彼女の過去に関する秘密を暴く手助けをする。また、マレフィセントは願いを叶える妖精の試験で白雪姫を担当することになり、白雪姫を助けるためにグリムヒルデ(先代の女王)の父の邪悪な魂が宿った鏡を破壊して、グリムヒルデを不幸から解放し、白雪姫が知っていた愛情深い継母に戻れるようにしたことも明かされる。
原題は『Mother Knows Best: A Tale of the Old Witch』。女王である白雪姫がキルケとともに登場する。彼女はキルケと一緒に、奇妙な姉妹が保管する絵本の中でゴーテルの旅を追う。
原題は『The Odd Sisters: A Villain's Novel』。白雪姫はヴィランズ・シリーズの6作目にも登場する。白雪姫はキルケとともに、奇妙な三姉妹の出自に関する真実を突き止めると同時に、彼女たちが引き起こしたトラブルと混乱を正すべく旅に出る。その道中、彼女たちは過去のシリーズにも登場した人物たちに出会う。死者の森に行き、プリムローズとヘーゼルに出会って初めて、彼女たちは奇妙な三姉妹の真実、つまり、マネアの母親で強力な魔女であるネスティスによって3人の魔女に分かれたことを知る。赤ん坊たちは、マネアのかつての恋人で今はアンデッドの部下であるジェイコブに引き取られ、ホワイト家で育てられることになった。奇妙な姉妹との1対1の遭遇の結果、鏡からグリムヒルデの魂が引き抜かれ、彼女は白雪姫の前で砕け散って死亡する。動揺した白雪姫は、奇妙な三姉妹の前でキルケが自殺するのを見届け、彼女の懇願にもかかわらず白雪姫の腕の中で死ぬ。
原題は『Mirror Mirror: A Twisted Tale』。「ディズニー ツイステッドテール」シリーズの5作目。白雪姫は専制的な女王を打倒する決意を固めた戦士の王女となり、女王は彼女をおびき出すためにチャーミング王子を毒殺する。
女優でダンサーのジョアン・ディーン・キリングスワース(英語版)は、1955年7月17日のディズニーランド開園時に初めて白雪姫を演じた。キリングスワースが演じた白雪姫は、ディズニーランドの開園日にメインストリートUSAを練り歩くディズニープリンセスの中で唯一、フロートを持っていた。キリングスワースが1955年に白雪姫役でデビューして以来、ディズニーランドでは100人以上の女優が白雪姫を演じてきた。
「白雪姫と七人のこびと」は、ディズニーランド、東京ディズニーランド、ディズニーランド・パリにある『白雪姫』の物語をテーマにしたダークライドである。ファンタジーランドにあり、1955年のディズニーランド開園当日から現在まで稼働している数少ないアトラクションのひとつである。2012年5月、ニューファンタジーランドの拡張工事の一環として、マジック・キングダムでクローズした。
白雪姫はまたマジック・キングダムの「シンデレラのロイヤル・テーブル」やエプコットの「アケシュース・ロイヤル・バンケット・ホール」にも登場する。カリフォルニアでは、ディズニーランド・パークのファンタジーランドの「プリンセス・ミート&グリート」、メインストリートUSA、キャッスル横の「ウィッシング・ウェル」、またはディズニー・カリフォルニア・アドベンチャーの「アリエルのグロット」に登場する。ディズニーランド・パリでは、ファンタジーランドの「プリンセス・パビリオン」か、ディズニーランド・パークの「オーベルジュ・ド・サンドリヨン」に登場することが多い。香港では、「願いの井戸」のそばにいることが多い。東京では、ファンタジーランドやワールドバザールに登場することが多い。ディズニー・クルーズ・ラインでは、出航によって白雪姫が登場することがある。
白雪姫は女児向けの主要なフランチャイズであるディズニー・プリンセスのメンバーである。このフランチャイズは、雑誌、音楽アルバム、玩具、衣料品、文房具を始めとする幅広い商品をカバーしている。
ディズニープリンセスのフランチャイズメディア関連のビデオゲームやテレビシリーズ『ハウス・オブ・マウス』に登場するほか、「キングダム ハーツ」シリーズにもセブンプリンセスの一人として登場する。初代『キングダム ハーツ』では、マレフィセントに捕らえられたプリンセスとして登場。『キングダム ハーツ バース バイ スリープ』では、前作での役割を再現している。ビデオゲーム『ディズニー・マジカル・ワールド(英語版)』にも登場し、白雪姫に関連した家具や衣装が複数登場するほか、『ディズニー・マジック・キングダムズ(英語版)』にもプレイアブルキャラクターとして登場する。
メアリー・ジョー・サレルノは、1970年代のミュージカル(英語版)で白雪姫役を演じた。1980年代初頭にテレビで放映された。
シットコムシリーズ『フルハウス』のシーズン6エピソード『The House Meets The Mouse Part 1 & 2』では、パート2に白雪姫が登場した。また、映画『ロジャー・ラビット』(1988年)にもカメオ出演しており、トゥーンタウンのシーンや映画の最後にトゥーンたちと登場するほか、『ライオン・キング3 ハクナ・マタタ』(2004年)では、彼女と7人の小人、その他のディズニーのキャラクターたちがティモンとプンバァと一緒に劇中の映画を鑑賞した。2014年、白雪姫は『ちいさなプリンセス ソフィア』の「まほうのおもてなし」に登場した。白雪姫は変装した女王に騙されたことをソフィアに話し、ソフィアが魔法使いの訪問が実は昔からの敵ネトルであることを突き止める手助けをする。2018年には、他のディズニープリンセスたちとともに、映画『シュガー・ラッシュ:オンライン』に登場した。彼女や他のプリンセスたちは、『ワシントン・ポスト』が「ディズニーのプリンセス産業のパロディ」と評したように描かれ、後にそれぞれのバックストーリーにインスパイアされた現代的な衣装を身に着けて登場する。
ABCテレビのシリーズ『ワンス・アポン・ア・タイム』では、レオポルド王とエヴァ王妃の娘で、後に悪の女王(レジーナ・ミルズ)の継娘となる白雪姫の別バージョンが登場する。チャーミング王子の真実の愛、エマ・スワンとニール王子の母、エマの息子ヘンリーの祖母である。ストーリーブルックでは、ヘンリー・ミルズの小学校の教師、メアリー・マーガレット・ブランチャードとして登場する。
ディズニー・チャンネルのオリジナル映画『ディセンダント』では、白雪姫はオラドンの出来事を報道するニュースレポーターとして登場する。
2023年8月18日にDisney+で配信されたレゴのアニメスペシャル『LEGO ディズニープリンセス:お城の冒険(英語版)』では、メインキャラクターの一人として登場する。
白雪姫は、ディズニーがアニメーション映画を実写化する予定の作品でレイチェル・ツェグラーが演じることになっている。
白雪姫は女王の魔法の鏡によって、「黒檀のように黒い髪、薔薇のように赤い唇、雪のように白い肌」と表現されるプリンセスである。映画の冒頭では粗末な服をまとった姿で登場するが、白雪姫といえば、青いボディスに赤と青のストライプの袖、くるぶし丈の黄色いスカートに自分で縫った白いペティコートと高い白い襟がついた象徴的なドレス、黄色い靴、内側が赤い茶色のマント、髪の赤いリボンが最もよく知られている。
白雪姫は無邪気で、親切で、優しく、感じがよく、陽気である。気前がよく、人を信頼し、親切にする性格が災いして、見栄っ張りで邪悪な女王など、それを利用する者が現れることもある。繊細で物腰が柔らかいが、小人たちに手を洗うように言ったときや、「かわいそうなおばあさん(物売りの老婆に変装した女王)を怖がらせている」と鳥たちを叱ったときのように、エネルギッシュで厳しく皮肉な面もある。母性にあふれ、思いやりがあり、愛する王子との再会を待つ間、愛すべき7人の小人のために家を守ることを喜びとする。その優しさと美しさで、白雪姫は女王を除く王国のあらゆる生き物を魅了する。彼女はまた、逆境に対する大きな回復力と内なる強さを示している。
アニメーターたちが最初に描いた白雪姫のキャラクタースケッチは、ベティ・ブープに似ているものもあったが、あまりにも戯画的でリアルではなかったため、ウォルト・ディズニーの期待には応えられなかった。ディズニーが白雪姫のキャラクターのスーパーバイジング・アニメーターに選んだハミルトン・ラスクは、白雪姫をディズニー・スタジオのこれまでのどのアニメーション・キャラクターよりも人間的でリアルなものにするという課題を課された。これは、ラスクと共同アニメーターのレス・クラークが以前、『シリー・シンフォニー』の短編作品『はるのめがみ(英語版)』でペルセポネーのキャラクターを製作する際に求められた課題だった。『はるのめがみ』について、クラークは後に「ウォルトが『白雪姫』のために先を見越していたのは確かだ」と語っている。ペルセポネーのキャラクターは、どこか生気がなく、個性がないように見えたが、リアルな人間の動きと解剖学を模倣するこの試みは続けられ、それは『白雪姫』のアニメーション制作技術に生かされた。
実写映像をキャラクターの動きの参考にする(ロトスコープ)という比較的新しい手法は、白雪姫のキャラクターに命を吹き込むために多用された。白雪姫の実写モデルを務めたのは、マージ・チャンピオン(英語版)(愛称マージーベル)という若いダンサーだった(マージーベルは、アニメーターのアーネスト・ベルチャーの娘で、後にディズニーの1940年の映画『ピノキオ』のブルー・フェアリーのモデルも務めた)。ラスクは、彼女に数々の動きの撮影を指示し、アニメーターたちは、白雪姫のアニメーションの動きのリアリズムを高めるために、その映像を研究し、コピーした。アニメーターのオリー・ジョンストンは後に「ラスクが実写の映像がアニメーションでどのように使われるかを常に念頭に置きながら、綿密な計画を立てて撮影した結果、非常に説得力のあるキャラクターが生まれた」と回想している。ただし、アニメーターのグリム・ナトウィック(英語版)とノーム・ファーガソンは、ウォルト・ディズニーの指示に反して白雪姫と女王の動きを描くときにロトスコープを無視することがあった。
当初ディズニーは白雪姫にふさわしいと思われる声を見つけることができなかった。白雪姫役のオーディションには150人ほどの少女が参加した。その中には有名な女優のディアナ・ダービンもいたが、ディズニーにはその声は年を取り過ぎて聞こえた。ディズニーのアシスタントの一人は、音楽教師のグイド・カセロッティに電話をかけ、ハリウッドには歌う少女がいないと訴えた。カセロッティは、生徒たちの歌を聴くために最高の人材を派遣することを提案したかったが、20歳の娘アドリアナ・カセロッティが家の別の電話で会話を耳にし、少女の声で歌い始めた。父親は困惑し、娘に電話から離れるように言ったが、キャスティング・ディレクターは彼女の声を気に入り、オーディションに誘った。彼女の声を聞いたウォルト・ディズニーは、すぐに役を与えた。スタジオはアドリアナと何ページにもわたる契約を交わした。ウォルト・ディズニーは、白雪姫の声を他の場所で聞かれることを望まなかったため、彼女は『白雪姫』公開前も公開後もラジオや別の映画で歌うことを禁じられた。その代わり、彼女は970ドル(現在の価値で約19,746ドル)を受け取った。
映画では物語の舞台となった場所は明言されていない。しかし、小人たちの家は木彫りの家具や楽器で飾られており、山と広大な森に囲まれていることから、木彫りの伝統があるドイツのシュヴァルツヴァルトが舞台であることを示唆している。
『バズフィード』は白雪姫をドイツ人女性と見ており、「歴史的に正確な」白雪姫は、16世紀の神聖ローマ帝国の「厳格で宗教的な」文化の中で育っただろうと示唆している。
白雪姫に対する批評家の評価は二極化している。『TVガイド(英語版)』は、白雪姫を象徴的で、ユニークで、比類のないキャラクターと評し、「ウォルトのヒロインがこれほどファンタジックな歌声を持つことは二度とないだろう」と書いた。『ニュー・リパブリック(英語版)』のオーティス・ファーガソンは「まさにあなたが思い描くようなおとぎ話のプリンセス」と表現した。『バラエティ』のジョン・C・フリンは、「少女らしい甘さと優しさの体現者であり、彼女の友人であり、その後発展するにつれて彼女を助けてくれることになる森の鳥や小動物への愛情に代表される」と評した。
現代の批評家たちは、白雪姫は「後のディズニーのヒロインの多くとは異なり、度胸がない」、王子との関係もしっくりこないと評した。『シカゴ・サンタイムズ』のロジャー・イーバートは、「白雪姫を中心に描いた作品だったとしたら、1937年の公開後すぐに忘れ去られ、今日では歴史的な理由だけで大切にされていたかもしれない」と評した。また、白雪姫は行動するキャラクターではなく、存在することで他人を行動させる退屈なキャラクターであると述べた。さらに、映画のタイトルは白雪姫が主人公であるように思わせるが、主人公はむしろ小人たちや女王ではないかなどと指摘した。『ワシントン・ポスト』のデッソン・ハウ(英語版)は、「魔法の鏡は間違っている。この国で最も美しいのは女王だ」と述べ、白雪姫には「物的財産」が欠けていると書いた。『タイムアウト』は、「白雪姫の愛くるしさはほとんど苛立たしく感じられるかもしれない」と評した。
白雪姫は、ヴェネツィア国際映画祭やニューヨーク映画批評家協会賞などから多くの賞を受賞している。また、標準的なオスカー像と7人の小人を象徴する7つの小さな像がセットになった特注の名誉アカデミー賞もあった。白雪姫は、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに星がある数少ない架空のキャラクターの一人である。
2013年6月18日、米国特許商標庁は、ディズニー・エンタープライゼス社の商標出願(2008年11月19日出願)を認め、「白雪姫」の名称を、フィクションおよびノンフィクションの文学作品を除く、すべてのライブおよび録画の映画、テレビ、ラジオ、舞台、コンピュータ、インターネット、ニュース、写真の娯楽用途に使用することを許可した。
白雪姫は史上初のディズニープリンセスであり、ディズニープリンセスのフランチャイズの先駆者でもある。彼女のキャラクターは、その後のディズニー作品のヒロインの基礎となった。『フィルム・マガジン(英語版)』は、白雪姫を史上最高のディズニー・プリンセスと称え、「白雪姫はディズニープリンセスのパイオニアであり、最も記憶に残るプリンセスだろう。純粋無垢、美しさ、優しさ、気品など、プリンセスといえば思い浮かべるものすべてを体現している」と述べた。『サン・アントニオ・エクスプレス・ニュース(英語版)』は、彼女を史上最も有名な架空のプリンセスの一人に挙げている。『MTV』は、白雪姫を歴代ディズニープリンセスのベスト3位にランクインさせた。『ティーンヴォーグ(英語版)』もまた、彼女を「史上最高のディズニー・プリンセス・トップ10」に挙げ、「白雪姫は、思いがけない場所で友人を作ることができること、そして楽観主義を手放すべきでないことを教えてくれた」と評した。
1987年、白雪姫はハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに星をもらった最初の架空の女性キャラクターとなった。ネバダ州で最も人気のあるディズニープリンセスに選ばれ、2018年にはイギリスで最も愛されているプリンセスにも選ばれた。『タイム』は、彼女を「最も人気のあるディズニープリンセス」第3位にランク付けした(2013年5月以降、eBayで獲得した金額で)。さらに、白雪姫は興行収入で最も成功したディズニープリンセスでもある。
美術史家のカルメニータ・ヒギンボサムは、ウォルト・ディズニーの『白雪姫』は、「1930年代の文化を完璧に体現している」とし、いかにして世界恐慌時代のアメリカ女性(英語版)を映し出す作品となったかを説明した。『ザ・ナショナル』もまた、白雪姫のようなアニメのキャラクターがファッションにどのような影響を与えたかを論じている。ディズニー初のアニメーション映画を記念して1937年に制作されたカルティエのチャームブレスレットは、販売前の予想額の5倍以上の高値で取引された。
2014年、ヴァレンティノは白雪姫にインスパイアされたコレクション「レッド・ヴァレンティノ」を発表し、若者文化を惹きつけることを目的としたディフュージョンラインとした。2018年、コーチは『眠れる森の美女』と『白雪姫』の両方のアイコンをフィーチャーした、ディズニーとの3度目のコラボレーション「ダーク・フェアリーテイル・コレクション」を発表した。『Stylist(英語版)』は、白雪姫のダークなボブと色白の肌を「ディズニーにおけるベスト・ビューティー・ルック」のリストに「理想」として挙げた。セネ・フレールはディズニーとのコラボレーションで、白雪姫、シンデレラ、ベルにインスパイアされたブライダルウェア・コレクションを発表した。 | [
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"text": "原題は『Mistress of All Evil: A Tale of the Dark Fairy』。白雪姫は、ヴィランズ・シリーズの4作目で年老いた女王として再登場する。物語では、白雪姫は今でも子供をもうけた王子と幸せな結婚生活を送っている。彼女はまた、初めてキルケと出会い、彼女の過去に関する秘密を暴く手助けをする。また、マレフィセントは願いを叶える妖精の試験で白雪姫を担当することになり、白雪姫を助けるためにグリムヒルデ(先代の女王)の父の邪悪な魂が宿った鏡を破壊して、グリムヒルデを不幸から解放し、白雪姫が知っていた愛情深い継母に戻れるようにしたことも明かされる。",
"title": "登場"
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"text": "原題は『Mother Knows Best: A Tale of the Old Witch』。女王である白雪姫がキルケとともに登場する。彼女はキルケと一緒に、奇妙な姉妹が保管する絵本の中でゴーテルの旅を追う。",
"title": "登場"
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"paragraph_id": 10,
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"text": "原題は『The Odd Sisters: A Villain's Novel』。白雪姫はヴィランズ・シリーズの6作目にも登場する。白雪姫はキルケとともに、奇妙な三姉妹の出自に関する真実を突き止めると同時に、彼女たちが引き起こしたトラブルと混乱を正すべく旅に出る。その道中、彼女たちは過去のシリーズにも登場した人物たちに出会う。死者の森に行き、プリムローズとヘーゼルに出会って初めて、彼女たちは奇妙な三姉妹の真実、つまり、マネアの母親で強力な魔女であるネスティスによって3人の魔女に分かれたことを知る。赤ん坊たちは、マネアのかつての恋人で今はアンデッドの部下であるジェイコブに引き取られ、ホワイト家で育てられることになった。奇妙な姉妹との1対1の遭遇の結果、鏡からグリムヒルデの魂が引き抜かれ、彼女は白雪姫の前で砕け散って死亡する。動揺した白雪姫は、奇妙な三姉妹の前でキルケが自殺するのを見届け、彼女の懇願にもかかわらず白雪姫の腕の中で死ぬ。",
"title": "登場"
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"text": "原題は『Mirror Mirror: A Twisted Tale』。「ディズニー ツイステッドテール」シリーズの5作目。白雪姫は専制的な女王を打倒する決意を固めた戦士の王女となり、女王は彼女をおびき出すためにチャーミング王子を毒殺する。",
"title": "登場"
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"text": "女優でダンサーのジョアン・ディーン・キリングスワース(英語版)は、1955年7月17日のディズニーランド開園時に初めて白雪姫を演じた。キリングスワースが演じた白雪姫は、ディズニーランドの開園日にメインストリートUSAを練り歩くディズニープリンセスの中で唯一、フロートを持っていた。キリングスワースが1955年に白雪姫役でデビューして以来、ディズニーランドでは100人以上の女優が白雪姫を演じてきた。",
"title": "登場"
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"text": "「白雪姫と七人のこびと」は、ディズニーランド、東京ディズニーランド、ディズニーランド・パリにある『白雪姫』の物語をテーマにしたダークライドである。ファンタジーランドにあり、1955年のディズニーランド開園当日から現在まで稼働している数少ないアトラクションのひとつである。2012年5月、ニューファンタジーランドの拡張工事の一環として、マジック・キングダムでクローズした。",
"title": "登場"
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"text": "白雪姫はまたマジック・キングダムの「シンデレラのロイヤル・テーブル」やエプコットの「アケシュース・ロイヤル・バンケット・ホール」にも登場する。カリフォルニアでは、ディズニーランド・パークのファンタジーランドの「プリンセス・ミート&グリート」、メインストリートUSA、キャッスル横の「ウィッシング・ウェル」、またはディズニー・カリフォルニア・アドベンチャーの「アリエルのグロット」に登場する。ディズニーランド・パリでは、ファンタジーランドの「プリンセス・パビリオン」か、ディズニーランド・パークの「オーベルジュ・ド・サンドリヨン」に登場することが多い。香港では、「願いの井戸」のそばにいることが多い。東京では、ファンタジーランドやワールドバザールに登場することが多い。ディズニー・クルーズ・ラインでは、出航によって白雪姫が登場することがある。",
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"text": "白雪姫は女児向けの主要なフランチャイズであるディズニー・プリンセスのメンバーである。このフランチャイズは、雑誌、音楽アルバム、玩具、衣料品、文房具を始めとする幅広い商品をカバーしている。",
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"text": "ディズニープリンセスのフランチャイズメディア関連のビデオゲームやテレビシリーズ『ハウス・オブ・マウス』に登場するほか、「キングダム ハーツ」シリーズにもセブンプリンセスの一人として登場する。初代『キングダム ハーツ』では、マレフィセントに捕らえられたプリンセスとして登場。『キングダム ハーツ バース バイ スリープ』では、前作での役割を再現している。ビデオゲーム『ディズニー・マジカル・ワールド(英語版)』にも登場し、白雪姫に関連した家具や衣装が複数登場するほか、『ディズニー・マジック・キングダムズ(英語版)』にもプレイアブルキャラクターとして登場する。",
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"text": "メアリー・ジョー・サレルノは、1970年代のミュージカル(英語版)で白雪姫役を演じた。1980年代初頭にテレビで放映された。",
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"text": "シットコムシリーズ『フルハウス』のシーズン6エピソード『The House Meets The Mouse Part 1 & 2』では、パート2に白雪姫が登場した。また、映画『ロジャー・ラビット』(1988年)にもカメオ出演しており、トゥーンタウンのシーンや映画の最後にトゥーンたちと登場するほか、『ライオン・キング3 ハクナ・マタタ』(2004年)では、彼女と7人の小人、その他のディズニーのキャラクターたちがティモンとプンバァと一緒に劇中の映画を鑑賞した。2014年、白雪姫は『ちいさなプリンセス ソフィア』の「まほうのおもてなし」に登場した。白雪姫は変装した女王に騙されたことをソフィアに話し、ソフィアが魔法使いの訪問が実は昔からの敵ネトルであることを突き止める手助けをする。2018年には、他のディズニープリンセスたちとともに、映画『シュガー・ラッシュ:オンライン』に登場した。彼女や他のプリンセスたちは、『ワシントン・ポスト』が「ディズニーのプリンセス産業のパロディ」と評したように描かれ、後にそれぞれのバックストーリーにインスパイアされた現代的な衣装を身に着けて登場する。",
"title": "登場"
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"text": "ABCテレビのシリーズ『ワンス・アポン・ア・タイム』では、レオポルド王とエヴァ王妃の娘で、後に悪の女王(レジーナ・ミルズ)の継娘となる白雪姫の別バージョンが登場する。チャーミング王子の真実の愛、エマ・スワンとニール王子の母、エマの息子ヘンリーの祖母である。ストーリーブルックでは、ヘンリー・ミルズの小学校の教師、メアリー・マーガレット・ブランチャードとして登場する。",
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"text": "ディズニー・チャンネルのオリジナル映画『ディセンダント』では、白雪姫はオラドンの出来事を報道するニュースレポーターとして登場する。",
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"paragraph_id": 21,
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"text": "2023年8月18日にDisney+で配信されたレゴのアニメスペシャル『LEGO ディズニープリンセス:お城の冒険(英語版)』では、メインキャラクターの一人として登場する。",
"title": "登場"
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"text": "白雪姫は、ディズニーがアニメーション映画を実写化する予定の作品でレイチェル・ツェグラーが演じることになっている。",
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"text": "白雪姫は女王の魔法の鏡によって、「黒檀のように黒い髪、薔薇のように赤い唇、雪のように白い肌」と表現されるプリンセスである。映画の冒頭では粗末な服をまとった姿で登場するが、白雪姫といえば、青いボディスに赤と青のストライプの袖、くるぶし丈の黄色いスカートに自分で縫った白いペティコートと高い白い襟がついた象徴的なドレス、黄色い靴、内側が赤い茶色のマント、髪の赤いリボンが最もよく知られている。",
"title": "特徴"
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"text": "白雪姫は無邪気で、親切で、優しく、感じがよく、陽気である。気前がよく、人を信頼し、親切にする性格が災いして、見栄っ張りで邪悪な女王など、それを利用する者が現れることもある。繊細で物腰が柔らかいが、小人たちに手を洗うように言ったときや、「かわいそうなおばあさん(物売りの老婆に変装した女王)を怖がらせている」と鳥たちを叱ったときのように、エネルギッシュで厳しく皮肉な面もある。母性にあふれ、思いやりがあり、愛する王子との再会を待つ間、愛すべき7人の小人のために家を守ることを喜びとする。その優しさと美しさで、白雪姫は女王を除く王国のあらゆる生き物を魅了する。彼女はまた、逆境に対する大きな回復力と内なる強さを示している。",
"title": "特徴"
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"text": "アニメーターたちが最初に描いた白雪姫のキャラクタースケッチは、ベティ・ブープに似ているものもあったが、あまりにも戯画的でリアルではなかったため、ウォルト・ディズニーの期待には応えられなかった。ディズニーが白雪姫のキャラクターのスーパーバイジング・アニメーターに選んだハミルトン・ラスクは、白雪姫をディズニー・スタジオのこれまでのどのアニメーション・キャラクターよりも人間的でリアルなものにするという課題を課された。これは、ラスクと共同アニメーターのレス・クラークが以前、『シリー・シンフォニー』の短編作品『はるのめがみ(英語版)』でペルセポネーのキャラクターを製作する際に求められた課題だった。『はるのめがみ』について、クラークは後に「ウォルトが『白雪姫』のために先を見越していたのは確かだ」と語っている。ペルセポネーのキャラクターは、どこか生気がなく、個性がないように見えたが、リアルな人間の動きと解剖学を模倣するこの試みは続けられ、それは『白雪姫』のアニメーション制作技術に生かされた。",
"title": "製作"
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"text": "実写映像をキャラクターの動きの参考にする(ロトスコープ)という比較的新しい手法は、白雪姫のキャラクターに命を吹き込むために多用された。白雪姫の実写モデルを務めたのは、マージ・チャンピオン(英語版)(愛称マージーベル)という若いダンサーだった(マージーベルは、アニメーターのアーネスト・ベルチャーの娘で、後にディズニーの1940年の映画『ピノキオ』のブルー・フェアリーのモデルも務めた)。ラスクは、彼女に数々の動きの撮影を指示し、アニメーターたちは、白雪姫のアニメーションの動きのリアリズムを高めるために、その映像を研究し、コピーした。アニメーターのオリー・ジョンストンは後に「ラスクが実写の映像がアニメーションでどのように使われるかを常に念頭に置きながら、綿密な計画を立てて撮影した結果、非常に説得力のあるキャラクターが生まれた」と回想している。ただし、アニメーターのグリム・ナトウィック(英語版)とノーム・ファーガソンは、ウォルト・ディズニーの指示に反して白雪姫と女王の動きを描くときにロトスコープを無視することがあった。",
"title": "製作"
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"text": "当初ディズニーは白雪姫にふさわしいと思われる声を見つけることができなかった。白雪姫役のオーディションには150人ほどの少女が参加した。その中には有名な女優のディアナ・ダービンもいたが、ディズニーにはその声は年を取り過ぎて聞こえた。ディズニーのアシスタントの一人は、音楽教師のグイド・カセロッティに電話をかけ、ハリウッドには歌う少女がいないと訴えた。カセロッティは、生徒たちの歌を聴くために最高の人材を派遣することを提案したかったが、20歳の娘アドリアナ・カセロッティが家の別の電話で会話を耳にし、少女の声で歌い始めた。父親は困惑し、娘に電話から離れるように言ったが、キャスティング・ディレクターは彼女の声を気に入り、オーディションに誘った。彼女の声を聞いたウォルト・ディズニーは、すぐに役を与えた。スタジオはアドリアナと何ページにもわたる契約を交わした。ウォルト・ディズニーは、白雪姫の声を他の場所で聞かれることを望まなかったため、彼女は『白雪姫』公開前も公開後もラジオや別の映画で歌うことを禁じられた。その代わり、彼女は970ドル(現在の価値で約19,746ドル)を受け取った。",
"title": "製作"
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"text": "映画では物語の舞台となった場所は明言されていない。しかし、小人たちの家は木彫りの家具や楽器で飾られており、山と広大な森に囲まれていることから、木彫りの伝統があるドイツのシュヴァルツヴァルトが舞台であることを示唆している。",
"title": "製作"
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"text": "『バズフィード』は白雪姫をドイツ人女性と見ており、「歴史的に正確な」白雪姫は、16世紀の神聖ローマ帝国の「厳格で宗教的な」文化の中で育っただろうと示唆している。",
"title": "製作"
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"text": "白雪姫に対する批評家の評価は二極化している。『TVガイド(英語版)』は、白雪姫を象徴的で、ユニークで、比類のないキャラクターと評し、「ウォルトのヒロインがこれほどファンタジックな歌声を持つことは二度とないだろう」と書いた。『ニュー・リパブリック(英語版)』のオーティス・ファーガソンは「まさにあなたが思い描くようなおとぎ話のプリンセス」と表現した。『バラエティ』のジョン・C・フリンは、「少女らしい甘さと優しさの体現者であり、彼女の友人であり、その後発展するにつれて彼女を助けてくれることになる森の鳥や小動物への愛情に代表される」と評した。",
"title": "評価"
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"text": "現代の批評家たちは、白雪姫は「後のディズニーのヒロインの多くとは異なり、度胸がない」、王子との関係もしっくりこないと評した。『シカゴ・サンタイムズ』のロジャー・イーバートは、「白雪姫を中心に描いた作品だったとしたら、1937年の公開後すぐに忘れ去られ、今日では歴史的な理由だけで大切にされていたかもしれない」と評した。また、白雪姫は行動するキャラクターではなく、存在することで他人を行動させる退屈なキャラクターであると述べた。さらに、映画のタイトルは白雪姫が主人公であるように思わせるが、主人公はむしろ小人たちや女王ではないかなどと指摘した。『ワシントン・ポスト』のデッソン・ハウ(英語版)は、「魔法の鏡は間違っている。この国で最も美しいのは女王だ」と述べ、白雪姫には「物的財産」が欠けていると書いた。『タイムアウト』は、「白雪姫の愛くるしさはほとんど苛立たしく感じられるかもしれない」と評した。",
"title": "評価"
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"text": "白雪姫は、ヴェネツィア国際映画祭やニューヨーク映画批評家協会賞などから多くの賞を受賞している。また、標準的なオスカー像と7人の小人を象徴する7つの小さな像がセットになった特注の名誉アカデミー賞もあった。白雪姫は、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに星がある数少ない架空のキャラクターの一人である。",
"title": "評価"
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"paragraph_id": 33,
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"text": "2013年6月18日、米国特許商標庁は、ディズニー・エンタープライゼス社の商標出願(2008年11月19日出願)を認め、「白雪姫」の名称を、フィクションおよびノンフィクションの文学作品を除く、すべてのライブおよび録画の映画、テレビ、ラジオ、舞台、コンピュータ、インターネット、ニュース、写真の娯楽用途に使用することを許可した。",
"title": "評価"
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"text": "白雪姫は史上初のディズニープリンセスであり、ディズニープリンセスのフランチャイズの先駆者でもある。彼女のキャラクターは、その後のディズニー作品のヒロインの基礎となった。『フィルム・マガジン(英語版)』は、白雪姫を史上最高のディズニー・プリンセスと称え、「白雪姫はディズニープリンセスのパイオニアであり、最も記憶に残るプリンセスだろう。純粋無垢、美しさ、優しさ、気品など、プリンセスといえば思い浮かべるものすべてを体現している」と述べた。『サン・アントニオ・エクスプレス・ニュース(英語版)』は、彼女を史上最も有名な架空のプリンセスの一人に挙げている。『MTV』は、白雪姫を歴代ディズニープリンセスのベスト3位にランクインさせた。『ティーンヴォーグ(英語版)』もまた、彼女を「史上最高のディズニー・プリンセス・トップ10」に挙げ、「白雪姫は、思いがけない場所で友人を作ることができること、そして楽観主義を手放すべきでないことを教えてくれた」と評した。",
"title": "文化的影響と重要性"
},
{
"paragraph_id": 35,
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"text": "1987年、白雪姫はハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに星をもらった最初の架空の女性キャラクターとなった。ネバダ州で最も人気のあるディズニープリンセスに選ばれ、2018年にはイギリスで最も愛されているプリンセスにも選ばれた。『タイム』は、彼女を「最も人気のあるディズニープリンセス」第3位にランク付けした(2013年5月以降、eBayで獲得した金額で)。さらに、白雪姫は興行収入で最も成功したディズニープリンセスでもある。",
"title": "文化的影響と重要性"
},
{
"paragraph_id": 36,
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"text": "美術史家のカルメニータ・ヒギンボサムは、ウォルト・ディズニーの『白雪姫』は、「1930年代の文化を完璧に体現している」とし、いかにして世界恐慌時代のアメリカ女性(英語版)を映し出す作品となったかを説明した。『ザ・ナショナル』もまた、白雪姫のようなアニメのキャラクターがファッションにどのような影響を与えたかを論じている。ディズニー初のアニメーション映画を記念して1937年に制作されたカルティエのチャームブレスレットは、販売前の予想額の5倍以上の高値で取引された。",
"title": "文化的影響と重要性"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2014年、ヴァレンティノは白雪姫にインスパイアされたコレクション「レッド・ヴァレンティノ」を発表し、若者文化を惹きつけることを目的としたディフュージョンラインとした。2018年、コーチは『眠れる森の美女』と『白雪姫』の両方のアイコンをフィーチャーした、ディズニーとの3度目のコラボレーション「ダーク・フェアリーテイル・コレクション」を発表した。『Stylist(英語版)』は、白雪姫のダークなボブと色白の肌を「ディズニーにおけるベスト・ビューティー・ルック」のリストに「理想」として挙げた。セネ・フレールはディズニーとのコラボレーションで、白雪姫、シンデレラ、ベルにインスパイアされたブライダルウェア・コレクションを発表した。",
"title": "文化的影響と重要性"
}
] | 白雪姫は、ウォルト・ディズニー・プロダクション初の長編アニメーション映画『白雪姫』(1937年)の主人公。 アドリアナ・カセロッティが声を担当していた。主にヨーロッパで知られているおとぎ話に由来しており、最もよく知られているのは、グリム兄弟による1812年の物語である。 最初のディズニープリンセスであり、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの星を持つ最初の架空の女性キャラクターである。「この世で一番美しい人」という称号を与えられた彼女は、歌や動物とのコミュニケーションなど、後のディズニーのヒロインたちに同様の特徴を与え続けてきた。 カセロッティの後、ジェーン・パウエル、アイリーン・ウッズ、ドロシー・ワレンショルド、ジューン・フォーレイ、メアリー・ケイ・バーグマン、キャロライン・ガードナー、メリッサ・ディズニー、キャサリン・フォン・ティル、パメラ・リボンらが声を担当し、メアリー・ジョー・サレアノ(ミュージカル)とステファニー・ベネット(『ディセンダント』)が実写で演じている。レイチェル・ゼグラーは、1937年のオリジナル映画の実写映画化で白雪姫を演じる予定。 | {{Pathnavbox|
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{{ディズニーキャラクター|日本語名=白雪姫|英語名=Snow White|初登場作品=[[白雪姫 (1937年の映画)|白雪姫]](1937年)|キャラクターデザイン=[[ハミルトン・ラスク]]<br/>[[マーク・デイヴィス (アニメーター)|マーク・デイヴィス]]<br/>[[ウォルト・ディズニー]]|原語版声優=[[アドリアナ・カセロッティ]](1937年/映画)<br/>[[ジェーン・パウエル]](1945年/ラジオ)<br/>[[アイリーン・ウッズ]](1949年/オーディオブック)<br/>{{仮リンク|ドロシー・ワレンショルド|en|Dorothy Warenskjold}}(1953年/ラジオ)<br/>[[ジューン・フォーレイ]](1954年/レコードアルバム)<br/>[[メアリー・ケイ・バーグマン]](1989年 - 1999年)<br/>キャロライン・ガードナー(2000年 - 2010年)<br/>スーザン・スティーブンス・ローガン(歌)<br/>{{仮リンク|メリッサ・ディズニー|en|Melissa Disney}}(2000年 - 2010年/歌)<br/>キャサリン・フォン・ティル(2011年 - 現在)<ref>{{Cite web |title=This Actress Dreamed Of Being A Disney Princess...& She Grew Up To Be Snow White |url=https://www.refinery29.com/en-us/2016/06/114047/snow-white-voice-katherine-von-till |website=www.refinery29.com |access-date=2023-10-04 |language=en |first=Katla |last=McGlynn}}</ref><br/>{{仮リンク|パメラ・リボン|en|Pamela Ribon}}([[シュガー・ラッシュ:オンライン]])<ref>{{Cite web |title=Inside Ralph Breaks the Internet: Wreck It Ralph 2's Disney Princess Scene |url=https://www.ign.com/articles/2018/10/25/ralph-breaks-the-internet-inside-the-disney-princess-scene-everyones-talking-about |website=IGN |date=2018-10-25 |access-date=2023-10-04 |language=en |first=William |last=Bibbiani}}</ref>|画像=SNOW WHITE DISNEY.jpg|日本語版声優=[[富沢志満]](1958年、1969年、1985年)<br/>[[鷲津名都江|小鳩くるみ]](1980年 - 現在)|性別=[[女性]]|種類=[[ヒト]]}}
'''白雪姫'''(しらゆきひめ、''Snow White'')は、[[ウォルト・ディズニー・プロダクション]]初の長編アニメーション映画『[[白雪姫 (1937年の映画)|白雪姫]]』(1937年)の主人公。
[[アドリアナ・カセロッティ]]が声を担当していた。主に[[ヨーロッパ]]で知られている[[おとぎ話]]に由来しており、最もよく知られているのは、[[グリム兄弟]]による[[白雪姫|1812年の物語]]である。
最初の[[ディズニープリンセス]]であり、[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]の星を持つ最初の架空の女性キャラクターである<ref name=":13">{{Cite web |title=Snow White |url=https://walkoffame.com/snow-white/ |website=Hollywood Walk of Fame |date=2019-10-25 |access-date=2023-10-04 |language=en-US |last=Chad}}</ref>。「この世で一番美しい人」という称号を与えられた彼女は、歌や動物とのコミュニケーションなど、後のディズニーのヒロインたちに同様の特徴を与え続けてきた。
カセロッティの後、[[ジェーン・パウエル]]、[[アイリーン・ウッズ]]、{{仮リンク|ドロシー・ワレンショルド|en|Dorothy Warenskjold}}、[[ジューン・フォーレイ]]、[[メアリー・ケイ・バーグマン]]、キャロライン・ガードナー、{{仮リンク|メリッサ・ディズニー|en|Melissa Disney}}、キャサリン・フォン・ティル、{{仮リンク|パメラ・リボン|en|Pamela Ribon}}らが声を担当し、メアリー・ジョー・サレアノ(ミュージカル)と{{仮リンク|ステファニー・ベネット|en|Stephanie Bennett (actress)}}(『[[ディセンダント (ディズニー)|ディセンダント]]』)が実写で演じている。[[レイチェル・ゼグラー]]は、1937年のオリジナル映画の[[スノー・ホワイト (2024年の映画)|実写映画化]]で白雪姫を演じる予定。
== 登場 ==
=== 1937年のオリジナル映画 ===
白雪姫が初めて登場するのは、映画『[[白雪姫 (1937年の映画)|白雪姫]]』(1937年)である。城、騎士、美しい女性、ロマンス、魔法、魔女といった[[おとぎ話]]が語られる頃<ref>{{Cite web |title=Filmic Light - Snow White Archive: Vintage Snow White "Collector Print Primer Cards" |url=https://filmic-light.blogspot.com/2013/07/vintage-snow-white-collector-print.html |website=Filmic Light - Snow White Archive |date=2013-07-13 |access-date=2023-10-04 |first=Snow White |last=Archive}}</ref>、"はるか彼方の別の国"<ref>{{Cite web |title=Disney News {{!}} Disney |url=https://news.disney.com/ |website=Disney News |access-date=2023-10-04 |language=en-US}}</ref>、"何年も何年も昔"、不思議な力を持つ氷のように美しい女性(1938年のパンフレットによれば、彼女は[[ドイツ]]の[[ハルツ山地]]の「悪霊に身も心も」売ったことで、魔術を使えるようになったという<ref name=":4">{{Cite web |title=Filmic Light - Snow White Archive: 1938 UK Snow White Pressbook |url=https://filmic-light.blogspot.com/2016/02/1938-uk-snow-white-pressbook.html |website=Filmic Light - Snow White Archive |date=2016-02-05 |access-date=2023-10-04 |first=Snow White |last=Archive}}</ref>)が、妻を亡くしていた国王と結婚して王族の地位を手に入れ、国王が亡くなる前に彼の王国を統治することになった。その時から、残酷な女王は一人ですべてを支配し、彼女の一言一言が法律となり、すべての者は彼女の怒りを恐れて震え上がった<ref>{{Cite web |title=Filmic Light - Snow White Archive: The Good Housekeeping Serial |url=https://filmic-light.blogspot.com/2012/12/the-good-housekeeping-serial.html |website=Filmic Light - Snow White Archive |date=2012-12-04 |access-date=2023-10-04 |first=Snow White |last=Archive}}</ref>。見栄っ張りの女王は、望むものを何でも見ることができる{{仮リンク|魔法の鏡 (白雪姫)|label=魔法の鏡|en|Magic Mirror (Snow White)}}を持っていた。魔法の鏡には、女王の要求に答える煙のような顔が映し出される<ref name=":4" />。女王は定期的に鏡に、この世で一番美しいのは誰なのかと尋ねるが("Magic mirror on the wall, who is the fairest one of all?"、これはしばしば "Mirror mirror on the wall, who is the fairest of them all "と誤記される<ref>{{Cite web |title=Top 15 Film Misquotes |url=https://listverse.com/2007/10/18/top-15-film-misquotes/ |website=Listverse |date=2007-10-18 |access-date=2023-10-04 |language=en-US}}</ref>)、鏡はいつも女王だと答える。女王が魔法の力を持つのは、自分の領地である城だけである<ref>{{Cite web |title=KenNetti - The Snow White Database |url=https://web.archive.org/web/20080129103805/http://www.kennetti.fi/sw_scariest3.html |website=web.archive.org |date=2008-01-29 |access-date=2023-10-04}}</ref>。
白雪姫は当初、自惚れの強い継母である邪悪な女王の下で暮らしている。女王は、白雪姫の美しさがいつか自分を追い抜くことを恐れ、白雪姫に下働きをさせる。長い年月の後、魔法の鏡が白雪姫を"誰よりも美しい"と認めたため、女王は白雪姫を追放し、狩人に白雪姫を殺させようとする。しかし、その気になれなかった狩人は、白雪姫を森に逃がす。白雪姫は7人の小人の家に偶然辿り着き、7人の小人は喜んで彼女を助ける。
白雪姫が生きていることを知った女王は、魔法を使って老婆に変装し、毒リンゴを作る。それを食べた者は、真実の愛のキスだけが蘇らせる"眠れる死"に陥る。小人たちが留守のとき、老婆が小人たちの家にやってきて、白雪姫に毒リンゴを差し出す。白雪姫はリンゴをかじり、深い眠りに落ちる。そこへ戻ってきた小人たちは、老婆を追い詰め、彼女は落雷とともに崖から転落して死亡する。小人たちは白雪姫も死んだと思い込み、棺に彼女を入れる。時が過ぎ、王子が白雪姫の元へやって来る。彼女の死を悲しんだ王子はキスをし、目覚めさせる。7人の小人が喜びのダンスを踊る中、白雪姫と王子は幸せに暮らすために旅立つ。
=== 書籍 ===
==== ディズニー みんなが知らない白雪姫 なぜ女王は魔女になったのか ====
原題は『''The Fairest of All: A Tale of the Wicked Queen''』。白雪姫は、{{仮リンク|セリーナ・バレンチノ|en|Serena Valentino}}によるディズニー・ヴィランズ・シリーズの最初の作品に登場する。本作では、白雪姫は脇役で、女王に焦点が当てられている。物語の中で白雪姫と女王は、「奇妙な三姉妹」が魔法の鏡に魔法をかけて女王の嫉妬と白雪姫への憎しみを引き起こすまでは、とても良い関係だった。最終的に白雪姫は鏡を手に入れ、女王は鏡の中の精霊となる。
==== ディズニー みんなが知らない眠れる森の美女 カラスの子ども マレフィセント ====
原題は『''Mistress of All Evil: A Tale of the Dark Fairy''』。白雪姫は、ヴィランズ・シリーズの4作目で年老いた女王として再登場する。物語では、白雪姫は今でも子供をもうけた王子と幸せな結婚生活を送っている。彼女はまた、初めてキルケと出会い、彼女の過去に関する秘密を暴く手助けをする。また、[[マレフィセント]]は願いを叶える妖精の試験で白雪姫を担当することになり、白雪姫を助けるために[[王妃 (白雪姫)|グリムヒルデ]](先代の女王)の父の邪悪な魂が宿った鏡を破壊して、グリムヒルデを不幸から解放し、白雪姫が知っていた愛情深い継母に戻れるようにしたことも明かされる。
==== ディズニー みんなが知らない塔の上のラプンツェル ゴーテル ママはいちばんの味方 ====
原題は『''Mother Knows Best: A Tale of the Old Witch''』。女王である白雪姫がキルケとともに登場する。彼女はキルケと一緒に、奇妙な姉妹が保管する絵本の中でゴーテルの旅を追う。
==== ディズニー みんなが知らない奇妙な三姉妹の話 本当の結末 ====
原題は『''The Odd Sisters: A Villain's Novel''』。白雪姫はヴィランズ・シリーズの6作目にも登場する。白雪姫はキルケとともに、奇妙な三姉妹の出自に関する真実を突き止めると同時に、彼女たちが引き起こしたトラブルと混乱を正すべく旅に出る。その道中、彼女たちは過去のシリーズにも登場した人物たちに出会う。死者の森に行き、プリムローズとヘーゼルに出会って初めて、彼女たちは奇妙な三姉妹の真実、つまり、マネアの母親で強力な魔女であるネスティスによって3人の魔女に分かれたことを知る。赤ん坊たちは、マネアのかつての恋人で今はアンデッドの部下であるジェイコブに引き取られ、ホワイト家で育てられることになった。奇妙な姉妹との1対1の遭遇の結果、鏡からグリムヒルデの魂が引き抜かれ、彼女は白雪姫の前で砕け散って死亡する。動揺した白雪姫は、奇妙な三姉妹の前でキルケが自殺するのを見届け、彼女の懇願にもかかわらず白雪姫の腕の中で死ぬ。
==== ゆがめられた世界 ミラー、ミラー ====
原題は『''Mirror Mirror: A Twisted Tale''』。「ディズニー ツイステッドテール」シリーズの5作目。白雪姫は専制的な女王を打倒する決意を固めた戦士の王女となり、女王は彼女をおびき出すためにチャーミング王子を毒殺する<ref>{{Cite book|洋書 |title=Mirror, Mirror: A Twisted Tale |date=2019年4月2日 |publisher=Disney-Hyperion |isbn=9781982520458}}</ref>。
=== その他 ===
[[ファイル:WDW-11610_The_Fairest_of_them_all,_Dopey,_Snow_White,_Disney_World_(NBY_9101).jpg|サムネイル|[[マジック・キングダム]]の白雪姫とドーピー(おとぼけ)]]
女優でダンサーの{{仮リンク|ジョアン・ディーン・キリングスワース|en|JoAnn Dean Killingsworth}}は、1955年7月17日の[[ディズニーランド]]開園時に初めて白雪姫を演じた<ref name=":5">{{Cite web |title=JoAnn Dean Killingsworth dies at 91; Disneyland's first Snow White |url=https://www.latimes.com/local/obituaries/la-me-joann-killingsworth-20150624-story.html |website=Los Angeles Times |date=2015-06-24 |access-date=2023-10-04 |language=en-US}}</ref><ref>{{Cite web |title=JoAnn Dean Killingsworth, Disneyland’s First Snow White, Dies at 91 |url=https://variety.com/2015/biz/news/joann-dean-killingsworth-dead-first-snow-white-1201524855/ |website=Variety |date=2015-06-21 |access-date=2023-10-04 |language=en-US |first=Alex |last=Stedman}}</ref><ref name=":6">{{Cite web |title=Who is the fairest one of all? Disneyland’s first Snow White |url=https://www.ocregister.com/2014/04/21/who-is-the-fairest-one-of-all-disneylands-first-snow-white/ |website=Orange County Register |date=2014-04-21 |access-date=2023-10-04 |language=en-US |first=Lori Basheda {{!}} Orange County |last=Register}}</ref><ref>{{Cite web |title=JoAnn Dean Killingsworth, Disneyland’s first Snow White, dies at 91 |url=https://www.ocregister.com/2015/06/23/joann-dean-killingsworth-disneylands-first-snow-white-dies-at-91/ |website=Orange County Register |date=2015-06-23 |access-date=2023-10-04 |language=en-US}}</ref>。キリングスワースが演じた白雪姫は、ディズニーランドの開園日に[[メインストリートUSA]]を練り歩くディズニープリンセスの中で唯一、フロートを持っていた<ref name=":6" />。キリングスワースが1955年に白雪姫役でデビューして以来、ディズニーランドでは100人以上の女優が白雪姫を演じてきた<ref name=":5" />。
「[[白雪姫と七人のこびと]]」は、ディズニーランド、[[東京ディズニーランド]]、[[ディズニーランド・パリ]]にある『白雪姫』の物語をテーマにしたダークライドである。[[ファンタジーランド]]にあり、1955年のディズニーランド開園当日から現在まで稼働している数少ないアトラクションのひとつである。2012年5月、ニューファンタジーランドの拡張工事の一環として、[[マジック・キングダム]]でクローズした<ref>{{Cite web |url=http://www.orlandosentinel.com/the-daily-disney/os-disney-world-snow-white-closing-20120223,0,3525168.story |title=Snow White's Scary Adventures to close May 31 |access-date=2023-10-4 |publisher=Orlando Sentinel |author=Bevil, Dewayne}}</ref>。
白雪姫はまたマジック・キングダムの「シンデレラのロイヤル・テーブル」や[[エプコット]]の「アケシュース・ロイヤル・バンケット・ホール」にも登場する。カリフォルニアでは、ディズニーランド・パークのファンタジーランドの「プリンセス・ミート&グリート」、メインストリートUSA、キャッスル横の「ウィッシング・ウェル」、または[[ディズニー・カリフォルニア・アドベンチャー]]の「[[アリエルのグロット]]」に登場する。ディズニーランド・パリでは、ファンタジーランドの「プリンセス・パビリオン」か、ディズニーランド・パークの「オーベルジュ・ド・サンドリヨン」に登場することが多い。香港では、「願いの井戸」のそばにいることが多い。東京では、ファンタジーランドや[[ワールドバザール]]に登場することが多い。[[ディズニー・クルーズ・ライン]]では、出航によって白雪姫が登場することがある<ref>{{Cite web |title=Snow White |url=http://www.charactercentral.net/C42_DisneyCharacters_PrincesPrincesses_SnowWhite.aspx |website=Disney Character Central |access-date=2023-10-04 |language=English |first=Jon |last=Fiedler}}</ref>。
白雪姫は女児向けの主要なフランチャイズであるディズニー・プリンセスのメンバーである。このフランチャイズは、雑誌、音楽アルバム、玩具、衣料品、文房具を始めとする幅広い商品をカバーしている<ref>{{Cite web |title=Disney Princess Dresses, Costumes, Toys & More {{!}} shopDisney |url=https://www.shopdisney.com/characters/disney/disney-princess/ |website=shopDisney.com |access-date=2023-10-04 |language=en}}</ref>。
ディズニープリンセスのフランチャイズメディア関連のビデオゲームやテレビシリーズ『[[ハウス・オブ・マウス]]』に登場するほか、[[キングダム ハーツ シリーズ|「キングダム ハーツ」シリーズ]]にもセブンプリンセスの一人として登場する<ref>{{Cite web |title=The Official SQUARE ENIX Website |url=https://square-enix-games.com/ |website=square-enix-games.com |access-date=2023-10-04 |language=en}}</ref>。初代『[[キングダム ハーツ]]』では、[[マレフィセント]]に捕らえられたプリンセスとして登場<ref>Square (2002-11-15). ''Kingdom Hearts'' (PlayStation 2). Square Electronic Arts.</ref>。『[[キングダム ハーツ バース バイ スリープ]]』では、前作での役割を再現している<ref>Square Enix Product Development Division 5 (9 January 2010). ''Kingdom Hearts Birth by Sleep''. Square Enix.</ref>。ビデオゲーム『{{仮リンク|ディズニー・マジカル・ワールド|en|Disney Magical World}}』にも登場し、白雪姫に関連した家具や衣装が複数登場するほか、『{{仮リンク|ディズニー・マジック・キングダムズ|en|Disney Magic Kingdoms}}』にもプレイアブルキャラクターとして登場する<ref>{{Citation|title=Update 16: Snow White {{!}} Livestream|url=https://www.youtube.com/watch?v=HoUlfHjn8OQ|language=ja-JP|access-date=2023-10-04}}</ref>。
メアリー・ジョー・サレルノは、{{仮リンク|1970年代のミュージカル|en|Snow White and the Seven Dwarfs (musical)}}で白雪姫役を演じた。1980年代初頭にテレビで放映された。
シットコムシリーズ『[[フルハウス (1987年のテレビドラマ)|フルハウス]]』のシーズン6エピソード『The House Meets The Mouse Part 1 & 2』では、パート2に白雪姫が登場した。また、映画『[[ロジャー・ラビット]]』(1988年)にも[[カメオ出演]]しており、トゥーンタウンのシーンや映画の最後にトゥーンたちと登場するほか、『[[ライオン・キング3 ハクナ・マタタ]]』(2004年)では、彼女と7人の小人、その他のディズニーのキャラクターたちが[[ティモンとプンバァ]]と一緒に劇中の映画を鑑賞した。2014年、白雪姫は『[[ちいさなプリンセス ソフィア]]』の「まほうのおもてなし」に登場した。白雪姫は変装した女王に騙されたことをソフィアに話し、ソフィアが魔法使いの訪問が実は昔からの敵ネトルであることを突き止める手助けをする。2018年には、他のディズニープリンセスたちとともに、映画『[[シュガー・ラッシュ:オンライン]]』に登場した<ref>{{Cite web |title=Wreck-It Ralph 2 Is Bringing The Original Disney Princesses Back |url=https://www.cinemablend.com/news/1681010/wreck-it-ralph-2-is-bringing-the-original-disney-princesses-back |website=CINEMABLEND |date=2017-07-14 |access-date=2023-10-04 |language=en |first=Adam Holmes |last=published}}</ref>。彼女や他のプリンセスたちは、『[[ワシントン・ポスト]]』が「ディズニーのプリンセス産業のパロディ」<ref>{{cite web|url=https://www.washingtonpost.com/arts-entertainment/2018/11/20/how-ralph-breaks-internet-spoofs-disney-princess-industrial-complex/|accessdate=2023-10-11|title=How ‘Ralph Breaks the Internet’ spoofs the Disney Princess industrial complex |publisher=The Washington Post }}</ref>と評したように描かれ、後にそれぞれのバックストーリーにインスパイアされた現代的な衣装を身に着けて登場する<ref>{{Cite web |title=Disney News {{!}} Disney |url=https://news.disney.com/ |website=Disney News |access-date=2023-10-04 |language=en-US}}</ref>。
[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー|ABCテレビ]]のシリーズ『[[ワンス・アポン・ア・タイム (テレビドラマ)|ワンス・アポン・ア・タイム]]』では、レオポルド王とエヴァ王妃の娘で、後に悪の女王(レジーナ・ミルズ)の継娘となる白雪姫の別バージョンが登場する<ref name=":7">{{Cite web |title=Once Upon a Time: "Fruit of the Poisonous Tree" Review |url=https://www.ign.com/articles/2012/01/30/once-upon-a-time-fruit-of-the-poisonous-tree-review |website=IGN |date=2012-01-30 |access-date=2023-10-04 |language=en |first=Amy |last=Ratcliffe}}</ref><ref>{{Cite web |title=Once Upon a Time Review: Believe in Magic |url=https://www.tvfanatic.com/2011/10/once-upon-a-time-review-pilot/ |website=TV Fanatic |date=2011-10-23 |access-date=2023-10-04 |language=en |first=Christine |last=Orlando}}</ref>。チャーミング王子の真実の愛、エマ・スワンとニール王子の母、エマの息子ヘンリーの祖母である。ストーリーブルックでは、ヘンリー・ミルズの小学校の教師、メアリー・マーガレット・ブランチャードとして登場する<ref name=":7" />。
ディズニー・チャンネルのオリジナル映画『[[ディセンダント (ディズニー)|ディセンダント]]』では、白雪姫はオラドンの出来事を報道するニュースレポーターとして登場する。
2023年8月18日に[[Disney+]]で配信された[[レゴ]]のアニメスペシャル『{{仮リンク|LEGO ディズニープリンセス:お城の冒険|en|Lego Disney Princess: The Castle Quest}}』では、メインキャラクターの一人として登場する<ref>{{Cite web |title=LEGO Disney Princess : The Castle Quest Coming To Disney+ |url=https://www.bsckids.com/2023/08/lego-disney-princess-the-castle-quest-coming-to-disney/ |website=BSCkids |date=2023-08-03 |access-date=2023-10-04 |language=en-US}}</ref>。
白雪姫は、ディズニーが[[スノー・ホワイト (2024年の映画)|アニメーション映画を実写化]]する予定の作品で[[レイチェル・ゼグラー|レイチェル・ツェグラー]]が演じることになっている<ref>{{Cite web |title='West Side Story' breakout tapped to play Disney's live-action Snow White |url=https://ew.com/movies/snow-white-rachel-zegler-disney-live-action/ |website=EW.com |access-date=2023-10-04 |language=en |first=Nick Romano |last=June 22}}</ref>。
== 特徴 ==
白雪姫は女王の魔法の鏡によって、「[[黒檀]]のように黒い髪、薔薇のように赤い唇、雪のように白い肌」と表現されるプリンセスである<ref>{{Cite web |title=Snow White: 15 Things About Disney's First Princess Most Fans Don't Know |url=https://web.archive.org/web/20220307092548/https://www.thethings.com/snow-white-disney-princess-facts/ |website=web.archive.org |date=2022-03-07 |access-date=2023-10-05}}</ref><ref name=":8">{{Cite web |title=Disney Animation Archive: Feature Films/Snow White and the Seven Dwarfs/Script/index.php |url=https://web.archive.org/web/20140315015441/http://animationarchive.net/Feature%20Films/Snow%20White%20and%20the%20Seven%20Dwarfs/Script/ |website=web.archive.org |date=2014-03-15 |access-date=2023-10-05}}</ref>。映画の冒頭では粗末な服をまとった姿で登場するが、白雪姫といえば、青い[[ボディス]]に赤と青のストライプの袖、くるぶし丈の黄色いスカートに自分で縫った白い[[ペティコート]]と高い白い襟がついた象徴的なドレス、黄色い靴、内側が赤い茶色のマント、髪の赤いリボンが最もよく知られている<ref name=":10">{{Cite web |url=https://lib.ugent.be/fulltxt/RUG01/001/414/434/RUG01-001414434_2010_0001_AC.pdf |title=Gender, Class and Ethnicity in the Disney Princesses |access-date=2023-10-6 |publisher=Ghent University |author=Malfroid, Kirsten |year=2008-2009 |format=PDF}}</ref>。
白雪姫は無邪気で、親切で、優しく、感じがよく、陽気である<ref name=":9">{{Cite web |title=Disney Channel {{!}} The Official TV Shows Portal |url=https://tv.disney.co.uk/ |website=Disney TV UK |access-date=2023-10-05 |language=en}}</ref>。気前がよく、人を信頼し、親切にする性格が災いして、見栄っ張りで邪悪な女王など、それを利用する者が現れることもある<ref name=":8" />。繊細で物腰が柔らかいが、小人たちに手を洗うように言ったときや、「かわいそうなおばあさん(物売りの老婆に変装した女王)を怖がらせている」と鳥たちを叱ったときのように、エネルギッシュで厳しく皮肉な面もある<ref name=":8" /><ref>{{Cite book |title=Multimodality across Communicative Settings, Discourse Domains and Genres |url=https://books.google.com/books?id=3TTZDQAAQBAJ&q=%2522snow%2520white%2522%2520%2522sarcastic%2522&pg=PA248 |publisher=Cambridge Scholars Publishing |date=2017-01-06 |isbn=978-1-4438-6265-3 |language=en |first=Veronica |last=Bonsignori |first2=Belinda Crawford |last2=Camiciottoli}}</ref>。母性にあふれ、思いやりがあり、愛する王子との再会を待つ間、愛すべき7人の小人のために家を守ることを喜びとする<ref name=":9" />。その優しさと美しさで、白雪姫は女王を除く王国のあらゆる生き物を魅了する<ref>{{Citation|title=Snow White and the Seven Dwarfs presented by Disney Movies|url=https://movies.disney.com/snow-white-and-the-seven-dwarfs|language=en|access-date=2023-10-10|archivedate=2023-01-05|archiveurl= https://web.archive.org/web/20230105014801/https://movies.disney.com/snow-white-and-the-seven-dwarfs }}</ref>。彼女はまた、逆境に対する大きな回復力と内なる強さを示している。
== 製作 ==
[[ファイル:Original_Snow_White_(15853158752).jpg|サムネイル|白雪姫の初期スケッチ]]
アニメーターたちが最初に描いた白雪姫のキャラクタースケッチは、[[ベティ・ブープ]]に似ているものもあったが、あまりにも戯画的でリアルではなかったため、[[ウォルト・ディズニー]]の期待には応えられなかった<ref>''Still The Fairest of Them All: The Making of Snow White and the Seven Dwarfs''. ''Snow White and the Seven Dwarves: Platinum Edition'': Walt Disney Home Entertainment. 2001.</ref><ref>Dick Van Dyke, Jane Curtin, Sherman Hemsley (1987). ''Golden Anniversary of Snow White and the Seven Dwarfs''. Disney Channel.</ref>。ディズニーが白雪姫のキャラクターのスーパーバイジング・アニメーターに選んだ[[ハミルトン・ラスク]]は、白雪姫をディズニー・スタジオのこれまでのどのアニメーション・キャラクターよりも人間的でリアルなものにするという課題を課された。これは、ラスクと共同アニメーターの[[レス・クラーク]]が以前、『[[シリー・シンフォニー]]』の短編作品『{{仮リンク|はるのめがみ|en|The Goddess of Spring}}』で[[ペルセポネー]]のキャラクターを製作する際に求められた課題だった。『はるのめがみ』について、クラークは後に「ウォルトが『白雪姫』のために先を見越していたのは確かだ」と語っている。ペルセポネーのキャラクターは、どこか生気がなく、個性がないように見えたが、リアルな人間の動きと[[解剖学]]を模倣するこの試みは続けられ、それは『白雪姫』のアニメーション制作技術に生かされた<ref>{{Cite book|洋書 |title=Disney Animation: The Illusion of Life |year=1981 |publisher=Abbeville Press |language=英語 |author=Frank Thomas and Ollie Johnston |isbn=0896592332}}</ref>。<!--出典の "Cartoon Charlie" と "Beaver County Tmes" によると、公式に白雪姫のキャラデザを担当したのはラスクとナトウィック。ファーガソンはナトウィックと一緒にロトスコープの動画のリファインをやった。ソーソンはキャラデザ案に参加していたようだが、どの程度影響力があったのかは要検証。ソーソンに関する記述はコメントアウトしておくので、もっと詳しい人が書き直してほしい--><!--そして{{仮リンク|チャールズ・ソーソン|en|Charles Thorson}}によって改良された<ref>{{Cite book |title=Cartoon Charlie : the life and art of animation pioneer Charles Thorson |url=http://archive.org/details/cartooncharlieli0000walz |publisher=Winnipeg : Great Plains Publications |date=1998 |isbn=978-0-9697804-9-6 |others=Internet Archive |first=Gene |last=Walz}}</ref>-->
実写映像をキャラクターの動きの参考にする([[ロトスコープ]])という比較的新しい手法は、白雪姫のキャラクターに命を吹き込むために多用された。白雪姫の実写モデルを務めたのは、{{仮リンク|マージ・チャンピオン|en|Marge Champion}}(愛称マージーベル)という若いダンサーだった(マージーベルは、アニメーターのアーネスト・ベルチャーの娘で、後にディズニーの1940年の映画『[[ピノキオ (1940年の映画)|ピノキオ]]』のブルー・フェアリーのモデルも務めた)。ラスクは、彼女に数々の動きの撮影を指示し、アニメーターたちは、白雪姫のアニメーションの動きのリアリズムを高めるために、その映像を研究し、コピーした。アニメーターの[[オリー・ジョンストン]]は後に「ラスクが実写の映像がアニメーションでどのように使われるかを常に念頭に置きながら、綿密な計画を立てて撮影した結果、非常に説得力のあるキャラクターが生まれた」と回想している<ref>{{Cite web |title=Disney News {{!}} Disney |url=https://news.disney.com/ |website=Disney News |access-date=2023-10-06 |language=en-US}}</ref>。ただし、アニメーターの{{仮リンク|グリム・ナトウィック|en|Grim Natwick}}と[[ノーム・ファーガソン]]は、ウォルト・ディズニーの指示に反して白雪姫と女王の動きを描くときにロトスコープを無視することがあった<ref>{{Cite web |title=Beaver County Tmes - Google ニュース アーカイブ検索 |url=https://news.google.com/newspapers?nid=2002&dat=19870415&id=yOlVAAAAIBAJ&sjid=z0ANAAAAIBAJ&pg=1114,2955720 |website=news.google.com |access-date=2023-10-06}}</ref>。
当初ディズニーは白雪姫にふさわしいと思われる声を見つけることができなかった。白雪姫役のオーディションには150人ほどの少女が参加した<ref>{{Cite book |title=Disney A to Z : the updated official encyclopedia |url=http://archive.org/details/isbn_9780786863914 |publisher=New York : Hyperion |date=1998 |isbn=978-0-7868-6391-4 |others=Internet Archive |first=Dave |last=Smith}}</ref>。その中には有名な女優の[[ディアナ・ダービン]]もいたが<ref name=":11">{{Cite news |title=Adriana Caselotti, 80, Voice of Snow White |url=https://www.nytimes.com/1997/01/21/arts/adriana-caselotti-80-voice-of-snow-white.html |work=The New York Times |date=1997-01-21 |access-date=2023-10-06 |issn=0362-4331 |language=en-US |first=The Associated |last=Press}}</ref>、ディズニーにはその声は年を取り過ぎて聞こえた<ref>''Audio-Commentary''. ''Snow White and the Seven Dwarfs: Platinum Edition'': Walt Disney Home Entertainment. 2001.</ref>。ディズニーのアシスタントの一人は、音楽教師のグイド・カセロッティに電話をかけ、[[ハリウッド]]には歌う少女がいないと訴えた。カセロッティは、生徒たちの歌を聴くために最高の人材を派遣することを提案したかったが、20歳の娘[[アドリアナ・カセロッティ]]が家の別の電話で会話を耳にし、少女の声で歌い始めた<ref>{{Cite web |title=- YouTube |url=https://www.youtube.com/watch?v=PFfgRmZXJT0 |website=www.youtube.com |access-date=2023-10-06}}</ref>。父親は困惑し、娘に電話から離れるように言ったが、キャスティング・ディレクターは彼女の声を気に入り、オーディションに誘った。彼女の声を聞いたウォルト・ディズニーは、すぐに役を与えた<ref>''Animated Voice Talents'' (Documentary). Snow White and the Seven Dwarfs Platinum Edition (Disc 2): Walt Disney Home Entertainment. 2001.</ref><ref>{{Cite web |title=Disney News {{!}} Disney |url=https://news.disney.com/ |website=Disney News |access-date=2023-10-06 |language=en-US}}</ref><ref>{{Cite web |title=Disney News {{!}} Disney |url=https://news.disney.com/ |website=Disney News |access-date=2023-10-06 |language=en-US}}</ref>。スタジオはアドリアナと何ページにもわたる契約を交わした。ウォルト・ディズニーは、白雪姫の声を他の場所で聞かれることを望まなかったため、彼女は『白雪姫』公開前も公開後もラジオや別の映画で歌うことを禁じられた。その代わり、彼女は970ドル(現在の価値で約19,746ドル)を受け取った<ref name=":11" />。
=== 設定 ===
映画では物語の舞台となった場所は明言されていない。しかし、小人たちの家は木彫りの家具や楽器で飾られており、山と広大な森に囲まれていることから、{{仮リンク|木彫り|en|Wood carving}}の伝統がある[[ドイツ]]の[[シュヴァルツヴァルト]]が舞台であることを示唆している<ref name=":12">{{Cite web |title=If Disney Princesses Were Historically Accurate |url=https://www.buzzfeed.com/eugeneyang/if-disney-princesses-were-historically-accurate |website=BuzzFeed |date=2015-02-20 |access-date=2023-10-06 |language=en |first=Eugene Lee Yang, Kari Koeppel, Mark Celestino, Jody |last=Tixier}}</ref>。
『[[バズフィード]]』は白雪姫をドイツ人女性と見ており、「歴史的に正確な」白雪姫は、16世紀の[[神聖ローマ帝国]]の「厳格で宗教的な」文化の中で育っただろうと示唆している<ref name=":12" />。
== 評価 ==
=== 批評家による評価 ===
白雪姫に対する批評家の評価は二極化している。『{{仮リンク|TVガイド (雑誌)|en|TV Guide (magazine)|label=TVガイド}}』は、白雪姫を象徴的で、ユニークで、比類のないキャラクターと評し、「ウォルトのヒロインがこれほどファンタジックな歌声を持つことは二度とないだろう」と書いた<ref>{{Cite web |url=https://web.archive.org/web/20121025023951/http://movies.tvguide.com/snow-white-and-the-seven-dwarfs/review/118176 |title=Snow White And The Seven Dwarfs |access-date=2023-10-6 |publisher=TV Guide |date=2012年10月25日 |archive-date=2014年6月14日 |archive-url=https://movies.tvguide.com/snow-white-and-the-seven-dwarfs/review/118176}}</ref>。『{{仮リンク|ニュー・リパブリック|en|The New Republic}}』のオーティス・ファーガソンは「まさにあなたが思い描くようなおとぎ話のプリンセス<!--出典の原文は “The fairy-tale princess is just what you would have her” 。構文を正確に理解できたとは言えないが、こういう風に訳せないだろうか -->」と表現した<ref>{{Cite news |title=TNR Film Classics: 'Snow White and the Seven Dwarfs' (January 26, 1938) |url=https://newrepublic.com/article/83251/tnr-film-classics-snow-white-and-the-seven-dwarfs-january-26-1938 |work=The New Republic |date=2011-02-11 |access-date=2023-10-06 |issn=0028-6583 |first=Otis |last=Ferguson}}</ref>。『[[バラエティ (アメリカ合衆国の雑誌)|バラエティ]]』のジョン・C・フリンは、「少女らしい甘さと優しさの体現者であり、彼女の友人であり、その後発展するにつれて彼女を助けてくれることになる森の鳥や小動物への愛情に代表される」と評した<ref>{{Cite web |title=Snow White and the Seven Dwarfs |url=https://variety.com/1937/film/reviews/snow-white-and-the-seven-dwarfs-1200411503/ |website=Variety |date=1937-12-29 |access-date=2023-10-06 |language=en-US |first=John C. Flinn |last=Sr}}</ref>。
現代の批評家たちは、白雪姫は「後のディズニーのヒロインの多くとは異なり、度胸がない」<ref>{{Cite web |title=Cinemaphile.org - Snow White and the Seven Dwarfs / ***1/2 (1937) |url=http://www.cinemaphile.org/reviews/2001/snowwhite.html |website=www.cinemaphile.org |access-date=2023-10-06}}</ref>、王子との関係もしっくりこないと評した<ref>{{Cite web |title=Snow White and the Seven Dwarfs |url=http://www.combustiblecelluloid.com/classic/snowwhite.shtml |website=Combustible Celluloid |access-date=2023-10-06}}</ref>。『[[シカゴ・サンタイムズ]]』の[[ロジャー・イーバート]]は、「白雪姫を中心に描いた作品だったとしたら、1937年の公開後すぐに忘れ去られ、今日では歴史的な理由だけで大切にされていたかもしれない」と評した。また、白雪姫は行動するキャラクターではなく、存在することで他人を行動させる退屈なキャラクターであると述べた。さらに、映画のタイトルは白雪姫が主人公であるように思わせるが、主人公はむしろ小人たちや女王ではないかなどと指摘した<ref>{{Cite web |title=Snow White and the Seven Dwarfs movie review (1937) {{!}} Roger Ebert |url=https://www.rogerebert.com/reviews/great-movie-snow-white-and-the-seven-dwarfs-1937 |website=https://www.rogerebert.com/ |access-date=2023-10-06 |language=en |first=Roger |last=Ebert}}</ref>。『[[ワシントン・ポスト]]』の{{仮リンク|デッソン・ハウ|en|Desson Thomson}}は、「魔法の鏡は間違っている。この国で最も美しいのは女王だ」と述べ、白雪姫には「物的財産<!--"has no real estate" のニュアンスはよく分からないが、女王に比べて「無一文で威厳に欠ける」という感じのことを言っているのではないか-->」が欠けていると書いた<ref>{{Cite web |title=�Snow White and the Seven Dwarfs� (G) |url=https://www.washingtonpost.com/wp-srv/style/longterm/movies/videos/snowwhiteandthesevendwarfsghowe_a0c8a9.htm |website=www.washingtonpost.com |access-date=2023-10-06}}</ref>。『[[タイムアウト (雑誌)|タイムアウト]]』は、「白雪姫の愛くるしさはほとんど苛立たしく感じられるかもしれない」と評した<ref>{{Cite web |title=Snow White and the Seven Dwarfs |url=https://www.timeout.com/movies/snow-white-and-the-seven-dwarfs |website=Time Out Worldwide |date=2014-03-13 |access-date=2023-10-06 |language=en-GB |last=GA}}</ref>。
=== 受賞歴 ===
白雪姫は、[[ヴェネツィア国際映画祭]]や{{仮リンク|ニューヨーク映画批評家協会賞|en|New York Film Critics Circle}}などから多くの賞を受賞している。また、標準的なオスカー像と7人の小人を象徴する7つの小さな像がセットになった特注の名誉[[アカデミー賞]]もあった<ref>{{Cite web |title=Walt Disney's Oscars® {{!}} The Walt Disney Family Museum |url=https://www.waltdisney.org/blog/walt-disneys-oscarsr |website=www.waltdisney.org |access-date=2023-10-06}}</ref>。白雪姫は、[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]に星がある数少ない架空のキャラクターの一人である<ref name=":132">{{Cite web |title=Snow White |url=https://walkoffame.com/snow-white/ |website=Hollywood Walk of Fame |date=2019-10-25 |access-date=2023-10-04 |language=en-US |last=Chad}}</ref>。
=== 商標 ===
2013年6月18日、[[米国特許商標庁]]は、ディズニー・エンタープライゼス社の商標出願(2008年11月19日出願)を認め、「白雪姫」の名称を、フィクションおよびノンフィクションの文学作品を除く、すべてのライブおよび録画の映画、テレビ、ラジオ、舞台、コンピュータ、インターネット、ニュース、写真の娯楽用途に使用することを許可した<ref>{{Cite web |title=Trademark Status & Document Retrieval |url=https://tsdr.uspto.gov/#caseNumber=77618057&caseType=SERIAL_NO&searchType=statusSearch |website=tsdr.uspto.gov |access-date=2023-10-06}}</ref>。
== 文化的影響と重要性 ==
[[ファイル:Snow_White_Walk_of_Fame.jpg|サムネイル|[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]にある白雪姫の星]]
白雪姫は史上初のディズニープリンセスであり、[[ディズニープリンセス]]のフランチャイズの先駆者でもある。彼女のキャラクターは、その後の[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ディズニー]]作品のヒロインの基礎となった。『{{仮リンク|フィルム・マガジン|en|Film Magazine (magazine)}}』は、白雪姫を史上最高のディズニー・プリンセスと称え、「白雪姫はディズニープリンセスのパイオニアであり、最も記憶に残るプリンセスだろう。純粋無垢、美しさ、優しさ、気品など、プリンセスといえば思い浮かべるものすべてを体現している」と述べた<ref>{{Cite web |title=10 of the Best… Disney Princesses {{!}} The Film Magazine |url=https://www.thefilmagazine.com/10-of-the-best-disney-princesses/ |date=2015-03-14 |access-date=2023-10-06 |language=en-GB}}</ref>。『{{仮リンク|サン・アントニオ・エクスプレス・ニュース|en|San Antonio Express-News}}』は、彼女を史上最も有名な架空のプリンセスの一人に挙げている<ref>{{Cite web |title=10 most famous fictional princesses |url=https://www.mysanantonio.com/news/local/article/10-most-famous-fictional-princesses-1402261.php |website=MySA |date=2011-05-31 |access-date=2023-10-06 |language=en}}</ref>。『[[MTV]]』は、白雪姫を歴代ディズニープリンセスのベスト3位にランクインさせた<ref>{{Cite web |title=The Ultimate Ranking Of The Best Disney Princesses Of All Time |url=https://www.mtv.com/news/zzntby/best-disney-princesses-ranked |website=MTV |access-date=2023-10-06 |language=en}}</ref>。『{{仮リンク|ティーンヴォーグ|en|Teen Vogue}}』もまた、彼女を「史上最高のディズニー・プリンセス・トップ10」に挙げ、「白雪姫は、思いがけない場所で友人を作ることができること、そして楽観主義を手放すべきでないことを教えてくれた」と評した<ref>{{Cite web |title=Our Official Ranking of the 10 Best Disney Princesses of All Time |url=https://www.teenvogue.com/gallery/best-disney-princesses |website=Teen Vogue |date=2016-05-12 |access-date=2023-10-06 |language=en-US |first=Condé |last=Nast}}</ref>。
1987年、白雪姫は[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]に星をもらった最初の架空の女性キャラクターとなった<ref>{{Cite web |title=Snow White |url=https://walkoffame.com/snow-white/ |website=Hollywood Walk of Fame |date=2019-10-25 |access-date=2023-10-06 |language=en-US |last=Chad}}</ref>。[[ネバダ州]]で最も人気のあるディズニープリンセスに選ばれ<ref>{{Cite web |title=Snow White ranked Nevada's most popular princess |url=https://www.ktnv.com/now-trending/snow-white-ranked-nevadas-most-popular-disney-princess |website=Channel 13 Las Vegas News KTNV |date=2017-03-16 |access-date=2023-10-06 |language=en}}</ref>、2018年にはイギリスで最も愛されているプリンセスにも選ばれた<ref>{{Cite web |title=Most popular Disney princesses in Great Britain 2018 |url=https://www.statista.com/statistics/879818/most-popular-disney-princesses-in-great-britain/ |website=Statista |access-date=2023-10-06 |language=en}}</ref>。『[[タイム (雑誌)|タイム]]』は、彼女を「最も人気のあるディズニープリンセス」第3位にランク付けした(2013年5月以降、[[eBay]]で獲得した金額で)<ref>{{Cite web |title=And the Most Popular Disney Princess Is... |url=https://time.com/81078/the-most-popular-disney-princess-frozen/ |website=Time |date=2014-04-29 |access-date=2023-10-06 |language=en}}</ref>。さらに、白雪姫は興行収入で最も成功したディズニープリンセスでもある<ref>{{Cite web |title=The Top 10 Disney Princesses at the Box Office |url=https://www.thefiscaltimes.com/Media/Slideshow/2014/04/16/Top-10-Disney-Princesses-Box-Office |website=The Fiscal Times |access-date=2023-10-06 |language=en}}</ref>。
=== ファッション ===
美術史家のカルメニータ・ヒギンボサムは、ウォルト・ディズニーの『白雪姫』は、「1930年代の文化を完璧に体現している」とし、いかにして[[世界恐慌]]時代の{{仮リンク|アメリカ女性|en|Women in the United States}}を映し出す作品となったかを説明した<ref>{{Cite web |title=Snow White: The Ideal 1930s Woman {{!}} American Experience {{!}} PBS |url=https://www.pbs.org/wgbh/americanexperience/features/snow-white-ideal-1930s-woman/ |website=www.pbs.org |access-date=2023-10-06 |language=en}}</ref>。『[[ザ・ナショナル (CBC)|ザ・ナショナル]]』もまた、白雪姫のようなアニメのキャラクターがファッションにどのような影響を与えたかを論じている<ref>{{Cite web |title=Disneyana: How cartoon characters became the height of fashion |url=https://www.thenationalnews.com/lifestyle/luxury/disneyana-how-cartoon-characters-became-the-height-of-fashion-1.982392 |website=The National |date=2020-02-21 |access-date=2023-10-06 |language=en |first=Hafsa |last=Lodi}}</ref>。ディズニー初のアニメーション映画を記念して1937年に制作された[[カルティエ]]のチャームブレスレットは、販売前の予想額の5倍以上の高値で取引された<ref>{{Cite web |title=Snow White Bracelet Sells for a Staggering Six-Figure Sum |url=https://nationaljeweler.com/articles/8207-snow-white-bracelet-sells-for-a-staggering-six-figure-sum |website=nationaljeweler.com |access-date=2023-10-06 |language=en}}</ref>。
2014年、[[ヴァレンティノ (ファッションブランド)|ヴァレンティノ]]は白雪姫にインスパイアされたコレクション「レッド・ヴァレンティノ」を発表し、若者文化を惹きつけることを目的としたディフュージョンラインとした<ref>{{Cite web |title=Disneyana: How cartoon characters became the height of fashion |url=https://www.thenationalnews.com/lifestyle/luxury/disneyana-how-cartoon-characters-became-the-height-of-fashion-1.982392 |website=The National |date=2020-02-21 |access-date=2023-10-06 |language=en |first=Hafsa |last=Lodi}}</ref>。2018年、[[コーチ (企業)|コーチ]]は『[[眠れる森の美女 (1959年の映画)|眠れる森の美女]]』と『[[白雪姫 (1937年の映画)|白雪姫]]』の両方のアイコンをフィーチャーした、ディズニーとの3度目のコラボレーション「ダーク・フェアリーテイル・コレクション」を発表した<ref>{{Cite web |title=The New Disney X Coach "A Dark Fairy Tale" Collection Will Make You So Nostalgic |url=https://www.teenvogue.com/story/disney-x-coach-a-dark-fairy-tale-collection |website=Teen Vogue |date=2018-05-10 |access-date=2023-10-06 |language=en-US |first=Condé |last=Nast}}</ref>。『{{仮リンク|Stylist|en|Stylist (magazine)}}』は、白雪姫のダークなボブと色白の肌を「ディズニーにおけるベスト・ビューティー・ルック」のリストに「理想」として挙げた<ref>{{Cite web |title=Best beauty looks in Disney |url=https://www.stylist.co.uk/beauty/best-beauty-looks-in-disney/134369 |website=www.stylist.co.uk |access-date=2023-10-06}}</ref>。セネ・フレールはディズニーとのコラボレーションで、白雪姫、シンデレラ、ベルにインスパイアされたブライダルウェア・コレクションを発表した<ref>{{Cite web |title=These Disney Dresses by Sennet Frères Will Blow Your Mind |url=https://www.tatlerasia.com/style/fashion/these-disney-dresses-by-sennet-freres-will-blow-your-mind |website=Tatler Asia |access-date=2023-10-06 |language=en |first=Amalissa |last=Hall}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}{{Reflist|5}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Snow White (Disney)}}
* {{Official website|https://www.disney.co.jp/fc/princess/character/snowwhite|白雪姫}} - Disney.jp
{{白雪姫}}{{ディズニープリンセス}}
[[Category:白雪姫]]
[[Category:ディズニープリンセス]]
{{Disney character}}{{DEFAULTSORT:しらゆきひめ ていすにいきやらくたあ}}
[[Category:キングダム ハーツ シリーズのキャラクター]] | 2023-10-08T01:55:42Z | 2023-11-15T02:13:50Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%9B%AA%E5%A7%AB_(%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%83%BC) |
4,838,826 | ワズルス | ワズルス(The Wuzzles)は、作家のフレッド・ウルフとウォルト・ディズニー・テレビジョンによって制作されたアメリカ合衆国のテレビアニメ。アメリカでは1985年9月14日から12月7日までCBSで全13話が放送された。本作はトムス・エンターテインメントとテレコム・アニメーションフィルムがアニメーション制作を担当している。この番組は、ワズルスの街に暮らす動物の妖精たちが大冒険を繰り広げる物語となっている。日本では放送されていない。 | [
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] | ワズルスは、作家のフレッド・ウルフとウォルト・ディズニー・テレビジョンによって制作されたアメリカ合衆国のテレビアニメ。アメリカでは1985年9月14日から12月7日までCBSで全13話が放送された。本作はトムス・エンターテインメントとテレコム・アニメーションフィルムがアニメーション制作を担当している。この番組は、ワズルスの街に暮らす動物の妖精たちが大冒険を繰り広げる物語となっている。日本では放送されていない。 | {{Infobox animanga/Header
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{{Infobox animanga/Footer
| ウィキプロジェクト = [[プロジェクト:アニメ|アニメ]]
| ウィキポータル = [[Portal:アニメ|アニメ]]・[[Portal:ディズニー|ディズニー]]
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{{Portal ディズニー}}
『'''ワズルス'''』(原題:''The Wuzzles'')は、[[ディズニー・テレビジョン・アニメーション|ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ・テレビジョン・アニメーション・グループ]]が制作した[[アメリカ合衆国]]の[[テレビアニメ]]。アメリカでは[[1985年]][[9月14日]]から[[12月7日]]まで[[CBS]]にて全13話が放送された<ref name=bcdb>{{cite web|url=http://www.bcdb.com/cartoons/Walt_Disney_Studios/Television/The_Wuzzles|title=The Wuzzles Episode Guide (1985)|work=BCDB|access-date=August 25, 2013}}</ref>。
==概要==
過去に複数の劇場作品を手掛けた[[ディズニー]]がテレビ放送用にオリジナルアニメ作品として製作し、本作はその第1作目として放映が行われた。
当時、[[:en:Fred Wolf Films|ムラカミ・ウルフ・スウェンソン]]を経営していた作家の[[:en:Fred Wolf (animator)|フレッド・ウルフ]]を製作者として迎え入れるなど、今までとは異なる制作スタッフによって制作され、以降のディズニーテレビシリーズでも本作の制作体制が一部踏襲されている。
本作より、[[東京ムービー新社]]が初めてディズニーとの契約を経てアニメーション制作を担当し、1989年にウォルト・ディズニー・アニメーション・ジャパンに交代するまでディズニーテレビシリーズへの委託作業が続いた。
主な内容として、ワズルスの街に暮らす動物の妖精たちが大冒険を繰り広げる物語となっている。
放送中は[[ハズブロ]]によってぬいぐるみなどの玩具が発売された。
==登場キャラクター==
===ワズルスと仲間たち===
;バンブルライオン
:声 - [[ジム・カミングス]]
;エレルー
:声 - [[ヘンリー・ギブソン]]
;バターベア
:声 - [[キャサリン・ヘルピー・シプリー]]
;ムーセル
:声 - [[ビル・スコット]]
;ホッポポタマス
:声 - [[アンネ・ウーレイ]]
;ライノキー
:声 - [[アラン・オッペンハイマー]]
===悪役===
;クロコサウルス
:声 - アラン・オッペンハイマー
:ワズルズを恨む悪者。
;ブラット
:声 - ビル・スコット
:クロコサウルスの1人目の相棒。
;フリザード
:声 - [[ブライアン・カミングス]]
:クロコサウルスの2人目の相棒。
===その他===
;ナレーション
:声 - [[スタン・フレバーグ]]
:姿の無きナレーターで、いつもワズルズの様子を観察している。
==スタッフ==
*プロデューサー・監督 - [[:en:Fred Wolf (animator)|フレッド・ウルフ]]
*ストーリーエディター - ケン・クーンス、デイビット・ウィーマーズ
*背景 - [[パロ穂積]]
*アニメーション監督 - ヴィンセント・デイビス
*音楽 - トム・チェイス、[[:en:Steve Rucker (composer)|スティーブ・ラッカー]]
*アニメーション制作 - [[東京ムービー新社]]<ref>[https://web.archive.org/web/20110912070753/http://www.telecom-anime.com/telecom/sakuhinreki/nenpyo1_i.html テレコム・アニメーションフィルム]</ref>
*製作 - [[ディズニー・テレビジョン・アニメーション|ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ・テレビジョン・アニメーション・グループ]]
==放映リスト==
{| class="wikitable sortable" style="font-size:small"
!#!!サブタイトル!!放送日<br>{{flagicon|USA}}
|-
|1||Bulls of a Feather||'''1985年'''<br>9月14日
|-
|2||Hooray for Hollywuz||9月21日
|-
|3||In the Money||9月28日
|-
|4||Crock Around the Clock||10月5日
|-
|5||Moosel's Monster||10月12日
|-
|6||Klutz on the Clutch||10月19日
|-
|7||Bumblelion and the Terrified Forest||10月26日
|-
|8||Eleroo's Wishday||11月2日
|-
|9||Ghostrustlers||11月9日
|-
|10||A Pest of a Pet||11月16日
|-
|11||The Main Course||11月23日
|-
|12||Class Dismissed||11月30日
|-
|13||What's Up, Stox?||12月7日
|}
==主題歌==
;オープニングテーマ「The Wuzzles」
:歌 - ステファン・ガイヤー
==カメオ出演==
*[[ダックテイルズ]] - 第71話「キットの消えた荷物」にバターベアーとライノキーが登場。本作とは異なりリアルな動物として描かれており、一言も喋らない。
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{notelist2}}
===出典===
{{Reflist}}
==外部リンク==
*{{IMDb title|id=0088643|title=The Wuzzles}}
{{DEFAULTSORT:わするす}}
[[Category:アニメ作品 わ|するす]]
[[Category:1985年のテレビアニメ]]
[[Category:1980年代のアメリカ合衆国のテレビアニメ]]
[[Category:日本とアメリカ合衆国の合作アニメ]]
[[Category:アメリカ合衆国のアニメーション作品]]
[[Category:ディズニーのアニメ作品]]
[[Category:CBS]] | 2023-10-08T01:56:05Z | 2023-10-08T18:33:28Z | false | false | false | [
"Template:Cite web",
"Template:IMDb title",
"Template:Flagicon",
"Template:Reflist"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%BA%E3%83%AB%E3%82%B9 |
4,838,831 | UFC Fight Night: Dawson vs. Green | UFC Fight Night: Dawson vs. Green(ユーエフシー・ファイトナイト:ドーソン・バーサス・グリーン、別名UFC Fight Night 229、UFC on ESPN+ 87)は、アメリカ合衆国の総合格闘技団体「UFC」の大会の一つ。2023年10月7日、ネバダ州ラスベガスのUFC APEXで開催された。
本大会はグラント・ドーソンとボビー・グリーンのライト級戦が組まれた。
負傷などによるカードの変更は以下の通り。 | [
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] | UFC Fight Night: Dawson vs. Greenは、アメリカ合衆国の総合格闘技団体「UFC」の大会の一つ。2023年10月7日、ネバダ州ラスベガスのUFC APEXで開催された。 | {{Infobox MMA event
| 大会名 = UFC Fight Night: Dawson vs. Green
| 画像 = UFC Fight Night 229 poster.jpg
| シリーズ = [[UFC]]
| 主催 = [[ウィリアム・モリス・エンデヴァー・エンターテイメント|WME]]-[[インターナショナル・マネジメント・グループ|IMG]]
| 開催年月日 = [[2023年]][[10月7日]]
| 開催地 = {{USA}}<br />[[ネバダ州]][[ラスベガス]]
| 会場 = [[UFC APEX]]
| 開始時刻 =
| 試合数 = 全10試合
| 放送局 = [[ESPN+]]
| 日本の放送局 = [[U-NEXT]]
| 入場者数 =
| 入場収益 =
| PPV購入数 =
| PPV収益 =
| 報酬総額 =
| 備考 =
| 前大会 = [[UFC Fight Night: Fiziev vs. Gamrot]]
| 次大会 = [[UFC Fight Night: Yusuff vs. Barboza]]
}}
'''UFC Fight Night: Dawson vs. Green'''(ユーエフシー・ファイトナイト:ドーソン・バーサス・グリーン、別名'''UFC Fight Night 229'''、'''UFC on ESPN+ 87''')は、[[アメリカ合衆国]]の[[総合格闘技]]団体「[[UFC]]」の大会の一つ。[[2023年]][[10月7日]]、[[ネバダ州]][[ラスベガス]]の[[UFC APEX]]で開催された。
== 大会概要 ==
本大会は[[グラント・ドーソン]]と[[ボビー・グリーン]]のライト級戦が組まれた<ref>[https://www.mmafighting.com/2023/9/6/23862349/bobby-green-vs-grant-dawson-headlines-ufc-vegas-80-on-oct-7 Bobby Green vs. Grant Dawson headlines UFC Vegas 80 on Oct. 7] MMA Junkie 2023年9月6日</ref>。
== 試合結果 ==
=== プレリミナリーカード ===
; 第1試合 女子フライ級 5分3R
: ○ {{Flagicon|USA}} JJ・アルドリッチ vs. {{Flagicon|USA}} モンタナ・デ・ラ・ロサ ×
: 3R終了 判定2-1(30-27、30-27、30-27)
; 第2試合 バンタム級 5分3R
: ○ {{Flagicon|CHN}} アオリ・チロン vs. {{Flagicon|USA}} ジョニー・ムニョス ×
: 3R終了 判定3-0(29-28、29-28、29-28)
; 第3試合 女子ストロー級 5分3R
: ○ {{Flagicon|USA}} バネッサ・デモポロス vs. {{Flagicon|JPN}} [[村田夏南子]] ×
: 3R終了 判定3-0(29-28、29-28、29-28)
; 第4試合 フライ級 5分3R
: ○ {{Flagicon|USA}} ネイト・マネス vs. {{Flagicon|BRA}} マテウス・メンドンサ ×
: 1R 4:40 TKO(パウンド)
; 第5試合 女子ストロー級 5分3R
: ○ {{Flagicon|POL}} [[カロリーナ・コバケビッチ]] vs. {{Flagicon|ROM}} ディアナ・ベルビタ ×
: 3R終了 判定3-0(30-27、30-27、30-27)
=== メインカード ===
; 第6試合 女子ストロー級 5分3R
: ○ {{Flagicon|USA}} ビル・アルジオ vs. {{Flagicon|USA}} [[アレクサンダー・ヘルナンデス]] ×
: 3R終了 判定3-0(30-27、30-27、30-27)
; 第7試合 ライト級 5分3R
: ○ {{Flagicon|USA}} [[ドリュー・ドーバー]] vs. {{Flagicon|USA}} リッキー・グレン ×
: 1R 2:36 TKO(左ストレート→パウンド)
; 第8試合 ウェルター級 5分3R
: ○ {{Flagicon|USA}} [[ホアキン・バックリー]] vs. {{Flagicon|USA}} [[アレックス・モロノ]] ×
: 3R終了 判定3-0(30-27、30-27、30-26)
; 第9試合 ミドル級 5分3R
: ○ {{Flagicon|USA}} ジョー・パイファー vs. {{Flagicon|GHA}} [[アブドゥル・ラザク・アルハッサン]] ×
: 2R 2:05 [[肩固め]]
; 第10試合 フェザー級 5分5R
: ○ {{Flagicon|USA}} [[ボビー・グリーン]] vs. {{Flagicon|USA}} [[グラント・ドーソン]] ×
: 1R 0:33 KO(左ストレート→パウンド)
=== 各賞 ===
: '''ファイト・オブ・ザ・ナイト''':該当無し
: '''パフォーマンス・オブ・ザ・ナイト''':[[ボビー・グリーン]]、ジョー・パイファー、[[ドリュー・ドーバー]]、ネイト・マネス
: 各選手にはボーナスとして5万ドルが授与された。
=== カード変更 ===
負傷などによるカードの変更は以下の通り。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[UFCの大会一覧]]
== 外部リンク ==
* {{UFC試合結果|ufc-fight-night-october-7-2023}}
* [https://gonkaku.jp/articles/15026 GONG KAKUTOGIによる試合結果]
* {{バウトレビュー試合結果|98435}}
* {{SHERDOG試合結果|UFC-Fight-Night-229-Dawson-vs-Green-98053}}
{{UFCの大会}}
{{DEFAULTSORT:UFN 229}}
[[Category:UFCの大会]]
[[Category:UFCのネバダ州大会]]
[[Category:2023年のアメリカ合衆国のスポーツ]]
[[Category:2023年の総合格闘技]]
[[Category:ラスベガスのスポーツ競技大会]]
[[Category:2023年10月]] | 2023-10-08T02:23:26Z | 2023-10-08T02:36:01Z | false | false | false | [
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"Template:UFCの大会",
"Template:Infobox MMA event",
"Template:Flagicon",
"Template:Reflist",
"Template:UFC試合結果",
"Template:バウトレビュー試合結果"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/UFC_Fight_Night:_Dawson_vs._Green |
4,838,832 | 忍町 (姫路市) | 忍町(しのぶまち)は兵庫県姫路市の町名。郵便番号670-0917。
忍町は姫路市内の十二所前線の南側、山陽姫路駅の西側、船場川の東側に位置する。ただし十二所神社(敷地の南部を除く)およびお菊神社は北に接する十二所前町に属する。東に南町および西駅前町、南に久保町、船場川を挟んで西に福沢町と接する。
1648年(慶安元年)ごろ、姫路城外曲輪外の飾磨津門西側にあった薬師寺を飾西郡栗山(現在の姫路市手柄付近)に移転させ、その跡地に侍屋敷を置き、忍びの者を配したのが町名の由来とされる。江戸時代の絵図には他に「志のふ町」という表記もある。この場所は外堀に隣接しており外部を巡回するのに適した位置に設けられている。他に本多氏時代(再封時)の城下町絵図には城の東側で外京口門の先にある橋本町付近に「忍」と記された二つの小区画が記されている。またここは姫路城の裏鬼門に相当し、対になる鬼門に相当する竹の門付近に伊賀屋敷を設けたとされる。1755年(宝暦5年)には長屋20戸の家中(藩士)の屋敷があったと記録されている。(姫路藩に忍者がいたこと自体は、池田輝政時代の分限帳に「伊賀者」の存在が、また本多氏時代(初封・再封時共)の分限帳に「忍術同心」の存在が記されている。『姫路城史』において松平明矩の時代に「忍󠄄の者」が用いられた記録や、酒井忠恭が加藤市右衛門という者から忍術を習ったりその養子・加藤傳蔵が忍術をよくするとして召し抱えたといった記述が残っている)
大区小区制については飾磨県にあっては第八大区第六小区に、兵庫県にあっては播磨国第八大区第一小区に属した。1875年(明治8年)、忍町ほか6か町村が合併して豊澤村となり、1889年(明治22年)には合併で国衙村となる。1912年(明治45年)4月に姫路市に合併した際に忍町の町名が復活する。1913年(大正2年)9月から1914年(大正3年)2月にかけて、十二所神社南側から飾磨津門にかけての外堀を埋め立てて忍町に編入する。
第二次世界大戦末期の1945年7月3日深夜の姫路空襲により全域が被災。戦後は大幅な区画整理が行われ、南隣の久保町が卸市場街として発展するのに合わせて忍町にも卸市場が拡大し発展したが、1957年(昭和32年)に東延末に市営の中央卸売市場が開設されたことで忍町の市場街としての機能が低下した。以後も小売店が並ぶ個人向けの市場として、下町的な雰囲気を持つ。
1984年(昭和59年)には久保町・十二所前町および大蔵前町のそれぞれ一部が忍町に編入されている。
令和時代にあっては、地域おこしに際して町名にちなんで三重より伊賀忍者のサークルを招聘するなどの活動も行われている。
(節全体の出典:)
2023年(令和5年)9月30日現在の世帯数と人口は以下の通りである。
それ以前の世帯数と人口は以下の通りである。
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。 | [
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] | 忍町(しのぶまち)は兵庫県姫路市の町名。郵便番号670-0917。 | {{Pathnav|日本|兵庫県|姫路市|frame=1}}{{Infobox settlement
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| area_footnotes = <ref>{{Cite web|url=https://geoshape.ex.nii.ac.jp/ka/resource/28/282010100.html|title=兵庫県姫路市忍町 (282010010)|publisher=国勢調査町丁・字等別境界データセット|accessdate=2023-10-07}}</ref>
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| postal_code = 670-0917<ref name="postal">{{Cite web |url=https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?zip=6700917|title=郵便番号|publisher=[[日本郵便]] |accessdate=2023-10-07}}</ref>
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| registration_plate = [[神戸運輸監理部|姫路]]
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}}'''忍町'''(しのぶまち<ref>播磨地名研究会(2007)p.118、および姫路市町別人口一覧の読み仮名による。橋本(1956)p.19では「シノビマチ」。</ref>)は[[兵庫県]][[姫路市]]の[[町丁|町名]]。[[日本の郵便番号|郵便番号]]670-0917<ref name="postal" />。
== 地理 ==
忍町は姫路市内の[[姫路市道十二所前線|十二所前線]]の南側、[[山陽姫路駅]]の西側、[[船場川]]の東側に位置する。ただし[[十二所神社 (姫路市)|十二所神社]](敷地の南部を除く)およびお菊神社は北に接する[[十二所前町]]に属する。東に[[南町 (姫路市)|南町]]および[[西駅前町 (姫路市)|西駅前町]]、南に[[久保町 (姫路市)|久保町]]、船場川を挟んで西に[[福沢町 (姫路市)|福沢町]]と接する。
== 歴史 ==
[[1648年]]([[慶安]]元年)ごろ、[[姫路城]][[姫路城#外曲輪|外曲輪]]外の飾磨津門西側にあった薬師寺を[[飾西郡]]栗山(現在の姫路市手柄付近)に移転させ、その跡地に侍屋敷を置き{{Sfn|橋本|1974|p=235-236}}、[[忍者|'''忍び'''の者]]を配したのが町名の由来とされる{{Sfn|橋本|1956|p=19}}。江戸時代の絵図には他に「志のふ町」という表記もある。この場所は外堀に隣接しており外部を巡回するのに適した位置に設けられている。他に[[本多氏]]時代(再封時)の城下町絵図には城の東側で外京口門の先にある橋本町付近に「忍」と記された二つの小区画が記されている{{Sfn|上田|2022|p=10}}。またここは姫路城の[[鬼門|裏鬼門]]に相当し、対になる鬼門に相当する竹の門付近に伊賀屋敷を設けたとされる。1755年([[宝暦]]5年)には長屋20戸の家中(藩士)の屋敷があったと記録されている{{Sfn|橋本|1974|p=572}}{{Sfn|姫路郷土資料研究会|1941|p=12-17}}。([[姫路藩]]に忍者がいたこと自体は、[[池田輝政]]時代の分限帳に「伊賀者」の存在が、また本多氏時代(初封・再封時共)の分限帳に「忍術同心」の存在が記されている{{Sfn|上田|2022|p=6,7,8}}。『姫路城史』において[[松平明矩]]の時代に「忍󠄄の者」が用いられた記録{{Sfn|橋本|1974|p=408,414,415}}や、[[酒井忠恭]]が加藤市右衛門という者から忍術を習ったりその養子・加藤傳蔵が忍術をよくするとして召し抱えたといった記述{{Sfn|橋本|1974|p=613}}が残っている)
[[大区小区制]]については[[飾磨県]]にあっては第八大区第六小区に、兵庫県にあっては[[播磨国]]第八大区第一小区に属した{{Sfn|兵庫県総務部地方課(編)|1962|p=694-697}}。[[1875年]](明治8年)、忍町ほか6か町村が合併して豊澤村となり、[[1889年]](明治22年)には合併で[[国衙村]]となる。[[1912年]](明治45年)4月に姫路市に合併した際に忍町の町名が復活する。[[1913年]](大正2年)9月から[[1914年]](大正3年)2月にかけて、十二所神社南側から飾磨津門にかけての外堀を埋め立てて忍町に編入する。
第二次世界大戦末期の[[1945年]]7月3日深夜の[[姫路空襲]]により全域が被災。戦後は大幅な[[土地区画整理事業|区画整理]]が行われ、南隣の久保町が卸市場街として発展するのに合わせて忍町にも卸市場が拡大し発展したが、1957年(昭和32年)に東延末に[[姫路市中央卸売市場|市営の中央卸売市場]]が開設されたことで忍町の市場街としての機能が低下した。以後も小売店が並ぶ個人向けの市場として、下町的な雰囲気を持つ。
[[1984年]](昭和59年)には一部が西駅前町・久保町・十二所前町の一部となり、同時に豆腐町・久保町・千代田町・十二所前町・南町および大蔵前町のそれぞれ一部が忍町に編入されている。
令和時代にあっては、地域おこしに際して町名にちなんで三重より伊賀忍者のサークルを招聘するなどの活動も行われている<ref>{{Cite web |url=https://www.kobe-np.co.jp/news/himeji/202112/0014886320.shtml |title=ろうそくの光を町いっぱいに 4日夜、山陽姫路駅西側でイベント|date=2021/12/3 |access-date=2023/10/08 |publisher=神戸新聞 |website=神戸新聞NEXT}}</ref>。
(節全体の出典:{{Sfn|角川地名兵庫|1988|p=728}}{{Sfn|白鷺中学校区地域夢プラン実行委員会|2006|p=123, 134-135}}{{Sfn|横山|1989|p=110-111}}<ref>{{Cite web |url=https://www.kobe-np.co.jp/news/himeji/202303/0016190620.shtml |title=忍者が江戸期の姫路で暗躍?! 家臣の情報まとめた史料に「伊賀者」、他人の家に堂々侵入できる「鷹匠」も|date=2023/3/29 |access-date=2023/10/08 |publisher=神戸新聞 |website=神戸新聞NEXT}}</ref>{{Sfn|播磨地名研究会|2007|p=118}})
== 世帯数と人口 ==
2023年(令和5年)9月30日現在の世帯数と人口は以下の通りである<ref name="population" />。
{| class="wikitable"
![[丁目]]
![[世帯|世帯数]]
![[人口]]
|-
|忍町
| style="text-align:right" |351世帯
| style="text-align:right" |492人
|}
それ以前の世帯数と人口は以下の通りである。
{| class="wikitable"
!調査年
!世帯数
!人口
!出典・備考
|-
|1921年(大正10年)
| style="text-align:right" |128世帯
| style="text-align:right" |443人
|{{Sfn|姫路市|1921|p=10}}<ref name=":0">1984年編入の区域を除く。</ref>
|-
|1927年(昭和2年)
|141世帯
|522人
|{{Sfn|角川地名兵庫|1988|p=728}}
|-
|1949年(昭和24年)
| style="text-align:right" |73世帯
| style="text-align:right" |323人
|{{Sfn|姫路市調査課|1949|p=72}}<ref name=":0" />
|-
|1951年(昭和26年)
| style="text-align:right" |108世帯
| style="text-align:right" |455人
|{{Sfn|姫路市調査課|1951|p=10}}<ref name=":0" />
|-
|1961年(昭和36年)
|160世帯
|706人
|{{Sfn|角川地名兵庫|1988|p=728}}
|-
|1997年(平成9年)
|248世帯
|485人
|<ref>{{Cite web |url=https://www.city.himeji.lg.jp/shisei/0000004548.html |title=町別人口・年齢別人口-平成9年(1997年)3月末- |access-date=2023/10/08 |publisher=姫路市}}</ref>
|}
== 小・中学校の学区 ==
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる<ref>{{Cite web |url=https://www.city.himeji.lg.jp/bousai/0000003695.html |title=市立小学校・中学校・義務教育学校への入学・転校などのご案内 |publisher=姫路市 |accessdate=2023-10-07}}</ref>。
{| class="wikitable"
!番地
!colspan="2"|義務教育学校/小学校・中学校
!備考
|-
|以下を除く全域
|colspan="2"|[[姫路市立白鷺小中学校]]||
|-
|忍町176~182、186~221<ref>船場川の旧流路西側に相当</ref>||[[姫路市立船場小学校]]||[[姫路市立琴陵中学校]]||校区外就学手続きにより<br/>白鷺小中への変更可
|}
== 交通 ==
=== 道路 ===
* 忍町通り
* [[姫路市道十二所前線]](北辺)
* くまたか門筋
== 施設 ==
* [[十二所神社]](敷地の一部)
* [[伊予銀行]]姫路支店
* [[日本政策金融公庫]]姫路支店
* [[東横イン]]姫路駅新幹線北口
=== かつての施設 ===
* 靄楽園(あいらくえん) - 十二所神社南側にあった姫路藩家老・本多氏の下屋敷を改装した料亭旅館。[[まねき食品]]初代の妻の実家が経営し(後にまねきの前身・ひさごが経営{{Sfn|横山|1989|p=112}})、播州一円の政財界の社交場となり姫路の名所といわれるほどの料理旅館であった<ref>{{Cite web |url=https://think-local.dmdepart.jp/story/20220909hyogo1/ |title=駅から始まる姫路のソウルフード。開拓者精神 受け継ぐ「まねき食品」 |access-date=2023/10/08 |publisher=Think LOCAL |date=2022.09.09}}</ref>が、姫路空襲により焼失{{Sfn|横山|1989|p=112}}。
* [[大劇会館]] - 映画館等のレジャービル。2015年閉鎖。
* 姫路市立高等女学校(現・[[姫路市立琴丘高等学校]]、旧大蔵町域)<ref>{{Cite web |url=https://www.shirasagikai.com/history.html |title=琴丘高校の歴史 |access-date=2023/10/08 |publisher=琴丘しらさぎ会(姫路市立琴丘高校同窓会)}}</ref>
* 姫路電球株式会社(現・[[ウシオ電機]]、旧大蔵町域){{Sfn|姫路興信所|1924|p=141}}
== 関連項目 ==
* [[忍町|忍町 (曖昧さ回避)]]
* [[伊賀町 (曖昧さ回避)]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}{{reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|title=姫路市町名字考|last=橋本|first=政次|year=1956|publisher=|others=}}(再録:{{Citation|和書|title=播磨考・姫路市町名字考|year=1987年|url=https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000001850766-00|publisher=臨川書店|series=兵庫県郷土誌叢刊}})
* {{Citation|和書 |title=姫路城史 中巻 |year=1973 |last=橋本|first=政次| |url=https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000001219145-00|publisher=名著出版}}
* {{Citation|和書 |title=姫路市統計書 大正10年 |year=1921 |publisher=姫路市 |url=https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000000587108-00}}
* {{Citation|和書 |title=市勢要覧 昭和24年版|year=1949 |publisher=姫路市調査課 |url=https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000000940408-00}}
* {{Citation|和書 |title=市勢要覧 昭和26年版|year=1951 |publisher=姫路市調査課 |url=https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000000940409-00}}
* {{Citation|和書|title=兵庫県市町村合併史 上|author=兵庫県総務部地方課(編)|year=1962|url=https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000001045066-00|publisher=兵庫県}}
* {{Citation|和書 |title=播州姫路考略記 |year=1941 |publisher=姫路郷土資料研究会 |url=https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000000666540-00}}
* {{Citation|和書 |title=姫路飾磨神崎紳士大鑑 |year=1924 |publisher=姫路興信所 |url=https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000000539889-00}}
* {{Citation|和書|ref={{SfnRef|角川地名兵庫|1988}}|title=[[角川日本地名大辞典]] 28 (兵庫県)|year=1988|publisher=角川書店|page=728|isbn=4040012801}}
* {{Citation|和書|ref={{SfnRef|横山|1989}}|title=ふるさと城南ものがたり|last=横山|first=忠雄|year=1989|url=https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000001719042-00|publisher=城南地区連合自治会}}
* {{Citation|和書|title=うちまちものがたり 姫路城下町|last=白鷺中学校区地域夢プラン実行委員会|year=2006|url=https://www.library.city.himeji.hyogo.jp/webmuseum/detail?cls=c_old_doc&pkey=0130057961}}
* {{Citation|和書|title=新・姫路の町名|last=播磨地名研究会|year=2007|publisher=神戸新聞総合出版センター|isbn=9784343004444}}
* {{Citation|和書|title=本多家の忍びに関する基礎的研究|last=上田|first=哲也|year=2022|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/ninja/2022/5/2022_1/_article/-char/ja/|journal=忍者研究|edition=巻 5 号|pages=1 - 14|doi=10.34460/ninja.2022.5_1}}
== 外部リンク ==
* {{Cite web |url=https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000225338 |title=姫路に忍町という町名があり、忍者が住んでいたと聞いたが根拠になるような資料はあるか。 |access-date=2023/10/08 |publisher=国立国会図書館 |website=レファレンス協同データベース}}
* {{Cite web |url=https://www.city.himeji.lg.jp/kanko/cmsfiles/contents/0000002/2172/2018831111331.pdf |title=文化財見学シリーズ81 『飾磨街道』をたずねて |access-date=2023/10/08 |publisher=姫路市教育委員会文化財課 |website=姫路市}}
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4,838,834 | グィーディ・ダ・ファエンツァの聖母 | Catégorie:Article utilisant l'infobox Art Catégorie:Article utilisant une Infobox 『グィーディ・ダ・ファエンツァの聖母』は、イタリア・初期ルネサンス絵画の巨匠サンドロ・ボッティチェッリがごく若かった (21-22歳) 1465年ごろ、ポプラ板上にテンペラで描いた作品である。ただし、ボッティチェッリ周辺の画家の作品とする意見もある。かつて、ファエンツァのグィーディ家の所蔵品であったため、この名で呼ばれる。作品は、1914年にバジール・ド・シュリシュタン (Basile de Schlichting) 男爵によりパリのルーヴル美術館に遺贈された。
この作品は、ボッティチェッリの師であったフィリッポ・リッピの『聖母子』 (アルテ・ピナコテーク、ミュンヘン) に触発されている。どちらの作品も、はるか彼方に消えていく風景を背景にしており、額が広く透明なヴェールを被った、優美で少女らしい聖母マリアも共通している。しかし、リッピが描いた非常に赤ん坊らしいイエス・キリストとは違い、この作品のイエスは頬が赤く、しっかりとした鼻があり、たくましく生き生きとしている。マリアはX型の玉座に穏やかに座っているが、イエスは母の膝をよじ登り、抱いてもらおうとしているようである。
母子は互いに一心に見つめあっており、鑑賞者は母子の団欒に引き込まれてしまう。背景には窓枠が描きこまれ、その外には岩山と霊廟のある実在しない風景が広がっている。
『グィーディ・ダ・ファエンツァの聖母』は、2013年と2014年に、ルーヴル美術館ランス別館の「時のギャラリー La Galerie du temps」に展示された。 | [
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『グィーディ・ダ・ファエンツァの聖母』は、イタリア・初期ルネサンス絵画の巨匠サンドロ・ボッティチェッリがごく若かった (21-22歳) 1465年ごろ、ポプラ板上にテンペラで描いた作品である。ただし、ボッティチェッリ周辺の画家の作品とする意見もある。かつて、ファエンツァのグィーディ家の所蔵品であったため、この名で呼ばれる。作品は、1914年にバジール・ド・シュリシュタン 男爵によりパリのルーヴル美術館に遺贈された。 | {{Infobox artwork
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[[ファイル:Fra_Filippo_Lippi-Maria_mit_dem_Kinde.jpg|サムネイル|[[フィリッポ・リッピ]]『{{仮リンク|聖母子 (リッピ)|it|Madonna col Bambino (Filippo Lippi Monaco)}}』(1465年ごろ)、[[アルテ・ピナコテーク]]、[[ミュンヘン]]]]
『'''グィーディ・ダ・ファエンツァの聖母'''』(グィーディ・ダ・ファエンツァのせいぼ、{{lang-fr-short|Madone des Guidi de Faenza }}、{{lang-en-short|Madonna of the Guidi da Faenza}})は、[[イタリア]]・初期[[ルネサンス]]絵画の巨匠[[サンドロ・ボッティチェッリ]]がごく若かった (21-22歳) 1465年ごろ、[[ポプラ]]板上に[[テンペラ]]で描いた作品である<ref name="ReferenceNH">NHKルーブル美術館IV ルネサンスの波動 1985年、126項。</ref><ref name="ReferenceVP">ルーヴル美術館 収蔵絵画のすべて 2011年、55項。</ref>。ただし、ボッティチェッリ周辺の画家の作品とする意見もある<ref name="ReferenceNH" />。かつて、[[ファエンツァ]]のグィーディ家の所蔵品であったため、この名で呼ばれる<ref name="ReferenceNH" />。作品は、1914年にバジール・ド・シュリシュタン (Basile de Schlichting) 男爵により[[パリ]]の[[ルーヴル美術館]]に遺贈された<ref name="ReferenceML">{{Cite web |url=https://collections.louvre.fr/en/ark:/53355/cl010059457|title=La Vierge et l'Enfant, dite Madone des Guidi de Faenza|publisher=[[ルーヴル美術館]]公式サイト (フランス語)|access-date=2023/10/08}}</ref>。
== 作品 ==
この作品は、ボッティチェッリの師であった[[フィリッポ・リッピ]]の『{{仮リンク|聖母子 (リッピ)|it|Madonna col Bambino (Filippo Lippi Monaco)}}』 ([[アルテ・ピナコテーク]]、[[ミュンヘン]]) を踏襲している<ref name="ReferenceNH" /><ref name="ReferenceVP" />。両作とも、はるか彼方に消えていく風景を背景にしている<ref name="ReferenceVP" />が、本作ではリッピの作品には描かれていない窓枠がある。なお、外に広がっている岩山と霊廟のある風景 (後世の補筆がかなり入っている<ref name="ReferenceNH" />) は実在しないものである<ref name="ReferenceVP" />。
額が広く透明なヴェールを被った、優美で少女らしい[[聖母マリア]]もリッピの影響を受けている<ref name="ReferenceVP" />が、[[アンドレア・デル・ヴェロッキオ]]の影響も見られる<ref name="ReferenceNH" />。また、リッピが描いた非常に赤ん坊らしい[[イエス・キリスト]]とは違い、この作品のイエスは頬が赤く、しっかりとした鼻があり、たくましく生き生きとしている<ref name="ReferenceVP" />。マリアはX型の[[玉座]]に穏やかに座っているが、イエスは母の膝をよじ登り、抱いてもらおうとしているようである<ref name="ReferenceVP" />。母子は互いに一心に見つめあっており、鑑賞者は母子の団欒に引き込まれてしまう。
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* ヴァンサン・ポマレッド監修・解説『ルーヴル美術館 収蔵絵画のすべて』、[[ディスカヴァー・トゥエンティワン]]、2011年刊行、ISBN 978-4-7993-1048-9
* [[中山公男]]・[[佐々木英也]]責任編集『NHKルーブル美術館IV ルネサンスの波動』、[[日本放送出版協会]]、1985年刊行 ISBN 4-14-008424-3
== 外部リンク ==
* [https://collections.louvre.fr/en/ark:/53355/cl010059457 ルーヴル美術館公式サイト、ボッティチェッリ『グィーディ・ダ・ファエンツァの聖母』 (フランス語)]
{{サンドロ・ボッティチェッリ}}
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[[Category:1460年代の絵画]]
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4,838,836 | 中津川代官所 | 中津川代官所(なかつがわだいかんしょ)は、美濃国恵那郡の中山道中津川宿(岐阜県中津川市本町)にあった尾張藩重臣の山村甚兵衛家が恵那郡内にある知行所支配のために置いた代官所。
慶長5年(1600年) 徳川家康は木曾義利を不行状の理由により改易し、その領地1万石を没収した。
そのため木曾氏の一族・家臣達は所領を失ってしまったが、同年に家康が会津征伐を行う際に下野国の小山に山村甚兵衛良勝、千村平右衛門良重、馬場半左衛門昌次を召し出し、木曾氏の旧領地を与えることを示したうえで、西軍に就いた木曽の太閤蔵入地の代官で、尾張犬山城主も兼務していた石川貞清から木曽谷を奪還するように命じた。
山村甚兵衛良勝と千村平右衛門良重は、下野国小山で東軍に加わり中山道を先導する時には、数十人に過ぎなかったので、木曾氏が改易された後に甲斐と信濃に潜んでいた木曾氏の遺臣に檄を飛ばして東軍に加わるよう呼びかけた。
塩尻で松本城主石川康長の許にあった山村良勝の弟の山村八郎左衛門が加わり、甲斐の浅野長政の許にいた良勝の弟の山村清兵衛が馳せつけた。
8月12日に、木曽の太閤蔵入地の代官で、尾張犬山城主も兼務していた石川貞清の家臣となって、贅川の砦の中に居た千村次郎右衛門・原図書助・三尾将監長次が内応してきたので、良勝・良重の軍勢は、ほとんど抵抗を受けることなしに贅川の砦を突破し、中山道を通って西へ向けて進軍し、山村甚兵衛良勝は妻籠城に入って城を修築した。
その時、家康の意を受けた大久保長安から軍令状が届き、美濃へ進んで西軍が籠る城の攻略を命じられ、遠山友政・遠山利景らに加勢して苗木城や岩村城を西軍からの奪還に協力した。(東濃の戦い)
関ヶ原の戦いの終結後に、山村甚兵衛良勝は、山村宗家として美濃国の恵那郡・土岐郡・可児郡の中山道沿いの村々の中から4,600石(後に4,400石)を知行地として給された。
当初は、美濃国可児郡久々利村に屋敷を構えたが、木曾代官となったため木曽福島へ帰り、久々利村の屋敷は久々利役所として土岐郡内と可児郡内にあった知行所の支配の拠点とした。
また恵那郡内の知行所については中津川宿に中津川代官所を置いて支配の拠点とした。
父の山村良候には隠居料として1,300石が給されたため、山村甚兵衛家の知行地は5,900石(後に5,700石)となった。
また木曽福島の木曾代官所にて代官としての職務と、幕府管轄の福島関所の管理責任者と公儀御用の材木の伐採を兼務した。
木曾代官の報酬としては、御免白木5,000駄と、木曾住民からの貢物(薪・炭・新蕎麦・木綿・麻布・雉子・松明・人夫・馬・柿渋・飼料・筵の類)を得ていた。
木曾代官に就任すると、山村甚兵衛家の給人の中から「下代官」を任命し、1村または数ヶ村を支配させた。
また江戸幕府からは江戸の金杉(芝の将監橋)に3,423坪の屋敷を拝領し、交代寄合となり、番頭並、江戸城では1万石格の「柳の間詰」で遇せられた。
尾張藩からも城代格・大年寄として名古屋の東片端に3,477坪の屋敷を拝領した。
元和元年(1615年)、大坂の陣終結後に江戸城への帰途、名古屋城に立寄った家康は、山村甚兵衛良勝と|千村平右衛門良重を召し出し、木曽谷を尾張藩に加封する旨を申し渡した。
木曾全域が尾張藩の所領となったため、山村甚兵衛良勝は幕府の交代寄合ではなくなったが、尾張藩付属後も、木曽福島で尾張藩の木曾代官として、また幕命による木曽福島の関所の管理と公儀御用の材木の伐採は変わらず、子孫は代々、尾張藩の重臣として美濃国内の中山道沿いの村々5,700石の知行を行った。
寛文4年(1664年)に尾張藩が行った林政改革後は、木曾の山林は尾張藩の木曾材木奉行所が管轄することとなり、山村甚兵衛家の役割は、美濃国の中山道沿いの村々の支配と、木曽谷の村方の支配及び福島関所の管理に限定された。
享保年間(1716~1736年)の尾張藩の改革において下代官が廃止されたので、それ以降の村方支配は、木曾十一宿支配を兼ねた尾張藩の寺社奉行所や、木曾代官所内の勘定所へ直接村役人を招集するか、または木曾代官所の役人が村々を巡回してこれを行なった。
子孫は代々、尾張藩の重臣として明治維新を迎えた。
山村甚兵衛家は江戸時代初期においては木曾と同様に各村に、村代官を置き、大きい村には村分(むらわけ)代官を置いて支配した。
当初、中津川代官は土着の有力者(地侍や帰農した武士の子孫による庄屋)が中津川宿のみを管轄する村分代官に過ぎなかったが、
寛文2年(1662年)以後は、木曽福島の木曾代官所から代官が中津川へ派遣されるようになった。
中津川代官所は、木曽福島の木曾代官所の支所的なもので、恵那郡内の知行所の年貢収納が第一の用務であり、これを主として春の宗門改め、川除け見分、秋の検見役などを行った。
この様な実務的処理が中心であった。すなわち下役の者が村を廻り年貢米の処置について勘定所へ通知の上で、払下代金を処理して、勘定仕上帳を下役名印奥書で調製し、村方からの請願書も下役宛名で出させており、それぞれを中津川代官所が裁許した。
しかし、重要事項や臨時の事件については木曽福島の木曾代官所に申達して年寄(家老)の指図を請けた。
また年賀の挨拶については、中津川代官所の管轄下であった恵那郡内の村々の庄屋、問屋たちは、木曽福島の木曾代官所に出頭して、山村甚兵衛家当主に賀詞を述べた。
享保8年(1723年)2月に発生した木曾代官所の火災焼失後は御用捨となったが、実際は続いていたようである。
代官の役料については、正徳元年(1711年)までは無く、田畑と屋敷の作徳米と家賃の上りが代官の収入であったが、この時より、これらの収入は請払勘定として代官所の収入に組入れ、改めて役料20石を支給されることになった。
中津川代官所が恵那郡内の山村甚兵衛家の知行所全域を管轄下に置くようになったのは、
享保10年(1725年)に茄子川村の安田作十郎が大借金をして村代官を辞職した後からである。
合計 2,707石7斗3升
中津川代官所は当初は、中津川市北野に設置された。
萬留書 木曽山順見之一巻に、
「惣奉行佐藤半太夫以下大工 絵師を連れた一行十五人 右之衆寛文四辰十日ニ尾州発足十二日ニ落合へ参着 中津川にて富田御屋敷をかり申度由 断って即御屋敷にて土ニテ山形を作り置き夫を木形に作り候をさいしき申され候 谷中(木曽)より肝煎一人年寄一人づつ中津川へ罷越我村々の山形土にて作り立申候事」
とあって、木曽谷中の絵図作りに、中津川の富田御屋敷を使用したことをあげている。
この富田というのは北野地内にあり、寛文(1661年~1673年)の頃は北野に代官所があったことを証している。
御屋敷が代官所であることは、これが地名として残っていることを見ればわかる。
中津川代官所は後に、現在の中津川市西宮町の西生寺の南一帯に移された。
今も残る稲荷社は代官屋敷内に祭祀されていた社である。
これは中津川宿の有力者であった丸山久右衛門の土地であった。
山村甚兵衛良喬が書いた中津川滞留日記の、天保11年(1840年)2月9日のところに
「天気好 一 今日初午ニ付代官鎮守稲荷江まんちう五十供候事 今日は日悪敷参詣は追テ之事 二月十日 昨日稲荷江供候御神酒開ニテ伊東二郎ハ 市岡長右衛門 羽間杢十郎 羽間重蔵 岩井鎌七呼出呉候 長右衛門 重蔵 鎌七より酒二樽上り杢十郎より重詰肴上候事酒壱壺添」
とあって、稲荷社の祭りに中津川宿の有力者が酒肴を出していることがわかる。
中津川代官所の建物は、この一帯に明治時代まで残されていたが、現在は何も残っていない。
市岡家は、戦国時代には美濃恵那郡の支配者であった遠山氏の重臣として、中津川城(徳ノ城)の城主を任されていた旧家で、江戸時代になると中津川宿の名主と中津川宿本陣の当主を兼務した。
尾張藩重臣の千村平右衛門家は可児郡の久々利村に千村陣屋を構えていたが、恵那郡には正家村に400石、駒場村に772石、落合村に240石2斗5升、千旦林村に126石3斗1升、茄子川村に125石の知行所があった。
中津川市駒場町裏と中津川市千旦林新田に御屋敷の地名が残っていることから、千村平右衛門家の代官屋敷があったとみられる。 | [
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"text": "享保年間(1716~1736年)の尾張藩の改革において下代官が廃止されたので、それ以降の村方支配は、木曾十一宿支配を兼ねた尾張藩の寺社奉行所や、木曾代官所内の勘定所へ直接村役人を招集するか、または木曾代官所の役人が村々を巡回してこれを行なった。",
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"text": "中津川代官所は、木曽福島の木曾代官所の支所的なもので、恵那郡内の知行所の年貢収納が第一の用務であり、これを主として春の宗門改め、川除け見分、秋の検見役などを行った。",
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"text": "この様な実務的処理が中心であった。すなわち下役の者が村を廻り年貢米の処置について勘定所へ通知の上で、払下代金を処理して、勘定仕上帳を下役名印奥書で調製し、村方からの請願書も下役宛名で出させており、それぞれを中津川代官所が裁許した。",
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"text": "しかし、重要事項や臨時の事件については木曽福島の木曾代官所に申達して年寄(家老)の指図を請けた。",
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"text": "また年賀の挨拶については、中津川代官所の管轄下であった恵那郡内の村々の庄屋、問屋たちは、木曽福島の木曾代官所に出頭して、山村甚兵衛家当主に賀詞を述べた。",
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"text": "享保8年(1723年)2月に発生した木曾代官所の火災焼失後は御用捨となったが、実際は続いていたようである。",
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"text": "代官の役料については、正徳元年(1711年)までは無く、田畑と屋敷の作徳米と家賃の上りが代官の収入であったが、この時より、これらの収入は請払勘定として代官所の収入に組入れ、改めて役料20石を支給されることになった。",
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"text": "中津川代官所が恵那郡内の山村甚兵衛家の知行所全域を管轄下に置くようになったのは、",
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"text": "享保10年(1725年)に茄子川村の安田作十郎が大借金をして村代官を辞職した後からである。",
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"text": "中津川代官所は当初は、中津川市北野に設置された。",
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"text": "萬留書 木曽山順見之一巻に、",
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"text": "「惣奉行佐藤半太夫以下大工 絵師を連れた一行十五人 右之衆寛文四辰十日ニ尾州発足十二日ニ落合へ参着 中津川にて富田御屋敷をかり申度由 断って即御屋敷にて土ニテ山形を作り置き夫を木形に作り候をさいしき申され候 谷中(木曽)より肝煎一人年寄一人づつ中津川へ罷越我村々の山形土にて作り立申候事」",
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"text": "とあって、木曽谷中の絵図作りに、中津川の富田御屋敷を使用したことをあげている。",
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"text": "この富田というのは北野地内にあり、寛文(1661年~1673年)の頃は北野に代官所があったことを証している。",
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"text": "御屋敷が代官所であることは、これが地名として残っていることを見ればわかる。",
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"text": "中津川代官所は後に、現在の中津川市西宮町の西生寺の南一帯に移された。",
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"text": "今も残る稲荷社は代官屋敷内に祭祀されていた社である。",
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"text": "「天気好 一 今日初午ニ付代官鎮守稲荷江まんちう五十供候事 今日は日悪敷参詣は追テ之事 二月十日 昨日稲荷江供候御神酒開ニテ伊東二郎ハ 市岡長右衛門 羽間杢十郎 羽間重蔵 岩井鎌七呼出呉候 長右衛門 重蔵 鎌七より酒二樽上り杢十郎より重詰肴上候事酒壱壺添」",
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"text": "とあって、稲荷社の祭りに中津川宿の有力者が酒肴を出していることがわかる。",
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"text": "中津川代官所の建物は、この一帯に明治時代まで残されていたが、現在は何も残っていない。",
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"text": "市岡家は、戦国時代には美濃恵那郡の支配者であった遠山氏の重臣として、中津川城(徳ノ城)の城主を任されていた旧家で、江戸時代になると中津川宿の名主と中津川宿本陣の当主を兼務した。",
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"text": "尾張藩重臣の千村平右衛門家は可児郡の久々利村に千村陣屋を構えていたが、恵那郡には正家村に400石、駒場村に772石、落合村に240石2斗5升、千旦林村に126石3斗1升、茄子川村に125石の知行所があった。",
"title": "中津川市内に存在した代官屋敷"
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"text": "中津川市駒場町裏と中津川市千旦林新田に御屋敷の地名が残っていることから、千村平右衛門家の代官屋敷があったとみられる。",
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] | 中津川代官所(なかつがわだいかんしょ)は、美濃国恵那郡の中山道中津川宿(岐阜県中津川市本町)にあった尾張藩重臣の山村甚兵衛家が恵那郡内にある知行所支配のために置いた代官所。 | '''中津川代官所'''(なかつがわだいかんしょ)は、[[美濃国]][[恵那郡]]の[[中山道]][[中津川宿]]([[岐阜県]][[中津川市]]本町)にあった[[尾張藩]]重臣の[[木曾衆#山村甚兵衛家|山村甚兵衛家]]が恵那郡内にある[[知行所]]支配のために置いた[[代官所]]。
== 概要 ==
===山村甚兵衛家===
[[慶長]]5年([[1600年]]) [[徳川家康]]は[[木曾義利]]を不行状の理由により改易し、その領地1万石を没収した。
そのため[[木曾氏]]の一族・家臣達は所領を失ってしまったが、同年に家康が[[会津征伐]]を行う際に[[下野国]]の[[小山市|小山]]に[[山村良勝|山村甚兵衛良勝]]、[[千村良重|千村平右衛門良重]]、[[馬場昌次|馬場半左衛門昌次]]を召し出し、木曾氏の旧領地を与えることを示したうえで、[[西軍]]に就いた木曽の太閤蔵入地の代官で、尾張[[犬山城]]主も兼務していた[[石川貞清]]から[[木曽谷]]を奪還するように命じた。
山村甚兵衛良勝と千村平右衛門良重は、下野国小山で[[東軍]]に加わり中山道を先導する時には、数十人に過ぎなかったので、木曾氏が改易された後に[[甲斐]]と[[信濃]]に潜んでいた木曾氏の遺臣に檄を飛ばして東軍に加わるよう呼びかけた。
[[塩尻市|塩尻]]で[[松本城]]主[[石川康長]]の許にあった山村良勝の弟の山村八郎左衛門が加わり、甲斐の浅野長政の許にいた良勝の弟の山村清兵衛が馳せつけた。
8月12日に、木曽の太閤蔵入地の代官で、尾張犬山城主も兼務していた石川貞清の家臣となって、贅川の砦の中に居た千村次郎右衛門・原図書助・三尾将監長次が内応してきたので、良勝・良重の軍勢は、ほとんど抵抗を受けることなしに贅川の砦を突破し、中山道を通って西へ向けて進軍し、山村甚兵衛良勝は[[妻籠城]]に入って城を修築した。
その時、家康の意を受けた[[大久保長安]]から軍令状が届き、美濃へ進んで西軍が籠る城の攻略を命じられ、[[遠山友政]]・[[遠山利景]]らに加勢して[[苗木城]]や[[岩村城]]を西軍からの奪還に協力した。([[東濃の戦い]])
[[関ヶ原の戦い]]の終結後に、山村甚兵衛良勝は、山村宗家として美濃国の恵那郡・[[土岐郡]]・[[可児郡]]の中山道沿いの村々の中から4,600石(後に4,400石)を知行地として給された。
当初は、美濃国可児郡[[久々利村]]に屋敷を構えたが、木曾代官となったため[[木曽福島]]へ帰り、久々利村の屋敷は久々利役所として土岐郡内と可児郡内にあった知行所の支配の拠点とした。
また恵那郡内の知行所については中津川宿に中津川代官所を置いて支配の拠点とした。
父の[[山村良候]]には隠居料として1,300石が給されたため、山村甚兵衛家の知行地は5,900石(後に5,700石)となった。
また木曽福島の[[山村代官屋敷|木曾代官所]]にて代官としての職務と、幕府管轄の[[福島関所]]の管理責任者と公儀御用の材木の伐採を兼務した。
木曾代官の報酬としては、御免白木5,000駄と、木曾住民からの貢物(薪・炭・新蕎麦・木綿・麻布・雉子・松明・人夫・馬・柿渋・飼料・筵の類)を得ていた。
木曾代官に就任すると、山村甚兵衛家の給人の中から「下代官」<ref>下代官(げだいかん)の職務は庄屋と木曾代官所の間にあって米年貢や木年貢の徴収と木年貢の下用勘定を行い木曾代官所へ納めることであった。代官所からの給与は無かったが、年貢の1.5%を口物として下付された。</ref>を任命し、1村または数ヶ村を支配させた。
また江戸幕府からは江戸の金杉(芝の将監橋)に3,423坪の屋敷を拝領し、[[交代寄合]]となり、番頭並、[[江戸城]]では1万石格の「柳の間詰」で遇せられた。
尾張藩からも城代格・大年寄として名古屋の東片端に3,477坪の屋敷を拝領した。
[[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]])、[[大坂の陣]]終結後に江戸城への帰途、名古屋城に立寄った家康は、山村甚兵衛良勝と|千村平右衛門良重を召し出し、[[木曽谷]]を尾張藩に加封する旨を申し渡した。
木曾全域が尾張藩の所領となったため、山村甚兵衛良勝は幕府の交代寄合ではなくなったが、尾張藩付属後も、木曽福島で尾張藩の木曾代官として、また幕命による木曽福島の関所の管理と公儀御用の材木の伐採は変わらず、子孫は代々、尾張藩の重臣として美濃国内の中山道沿いの村々5,700石の知行を行った。
[[寛文]]4年([[1664年]])に尾張藩が行った林政改革後は、木曾の山林は尾張藩の[[上松材木役所#木曾材木奉行所|木曾材木奉行所]]が管轄することとなり、山村甚兵衛家の役割は、美濃国の中山道沿いの村々の支配と、木曽谷の村方の支配及び福島関所の管理に限定された。
[[享保]]年間(1716~1736年)の尾張藩の改革において下代官が廃止されたので、それ以降の村方支配は、木曾十一宿支配を兼ねた尾張藩の寺社奉行所や、木曾代官所内の勘定所へ直接村役人を招集するか、または木曾代官所の役人が村々を巡回してこれを行なった。
子孫は代々、尾張藩の重臣として[[明治維新]]を迎えた。
===中津川代官所===
山村甚兵衛家は江戸時代初期においては木曾と同様に各村に、'''村代官'''<ref>木曾では下代官と呼んだ</ref>を置き、大きい村には'''村分(むらわけ)代官'''を置いて支配した。
当初、中津川代官は土着の有力者(地侍や帰農した武士の子孫による庄屋)が中津川宿のみを管轄する村分代官に過ぎなかったが、
[[寛文]]2年([[1662年]])以後は、[[福島宿 (中山道)|木曽福島]]の[[山村代官屋敷|木曾代官所]]から代官が中津川へ派遣されるようになった。
中津川代官所は、[[福島宿 (中山道)|木曽福島]]の[[山村代官屋敷|木曾代官所]]の支所的なもので、恵那郡内の知行所の年貢収納が第一の用務であり、これを主として春の[[宗門改め]]、川除け見分<ref>堤防などの水害防止施設の検査</ref>、秋の[[検見法|検見役]]などを行った。
この様な実務的処理が中心であった。すなわち下役の者が村を廻り年貢米の処置について勘定所へ通知の上で、払下代金を処理して、勘定仕上帳を下役名印奥書で調製し、村方からの請願書も下役宛名で出させており、それぞれを中津川代官所が裁許した。
しかし、重要事項や臨時の事件については木曽福島の木曾代官所に申達して年寄(家老)の指図を請けた。
また年賀の挨拶については、中津川代官所の管轄下であった恵那郡内の村々の庄屋、問屋たちは、木曽福島の木曾代官所に出頭して、山村甚兵衛家当主に賀詞を述べた。
[[享保]]8年([[1723年]])2月に発生した木曾代官所の火災焼失後は御用捨となったが、実際は続いていたようである。
===代官の役料===
代官の役料については、[[正徳 (日本)|正徳]]元年([[1711年]])までは無く、田畑と屋敷の作徳米と家賃の上りが代官の収入であったが、この時より、これらの収入は請払勘定として代官所の収入に組入れ、改めて役料20石を支給されることになった。
=== 享保10年(1725年)以後に中津川代官所が管轄した恵那郡内の知行所 ===
中津川代官所が恵那郡内の山村甚兵衛家の知行所全域を管轄下に置くようになったのは、
[[享保]]10年([[1725年]])に[[茄子川村]]の安田作十郎が大借金をして村代官を辞職した後からである。
*[[落合村 (岐阜県恵那郡)|落合村]] 480石5斗の内 240石2斗5升
*中津川宿 1,334石6斗3升の内 1,334石6斗3升
*[[手賀野村|手金野村]] 456石5斗4升の内 456石5斗4升
*[[千旦林村]] 552石6斗2升の内 126石3斗1升
*[[茄子川村]] 1,368石6升の内 350石
*[[正家村]] 873石2斗7升の内 200石
合計 2,707石7斗3升
=== 所在地 ===
中津川代官所は当初は、中津川市北野に設置された。
萬留書 木曽山順見之一巻に、
「惣奉行佐藤半太夫以下大工 絵師を連れた一行十五人 右之衆寛文四辰十日ニ尾州発足十二日ニ落合へ参着 中津川にて富田御屋敷をかり申度由 断って即御屋敷にて土ニテ山形を作り置き夫を木形に作り候をさいしき申され候 谷中(木曽)より肝煎一人年寄一人づつ中津川へ罷越我村々の山形土にて作り立申候事」
とあって、木曽谷中の絵図作りに、中津川の富田御屋敷を使用したことをあげている。
この富田というのは北野地内にあり、[[寛文]](1661年~1673年)の頃は北野に代官所があったことを証している。
御屋敷が代官所であることは、これが地名として残っていることを見ればわかる。
中津川代官所は後に、現在の中津川市西宮町の[[西生寺 (中津川市)|西生寺]]の南一帯に移された。
今も残る稲荷社は代官屋敷内に祭祀されていた社である。
これは中津川宿の有力者であった丸山久右衛門の土地であった。
山村甚兵衛良喬が書いた中津川滞留日記の、[[天保]]11年([[1840年]])2月9日のところに
「天気好 一 今日初午ニ付代官鎮守稲荷江まんちう五十供候事 今日は日悪敷参詣は追テ之事 二月十日 昨日稲荷江供候御神酒開ニテ伊東二郎ハ 市岡長右衛門 羽間杢十郎 羽間重蔵 岩井鎌七呼出呉候 長右衛門 重蔵 鎌七より酒二樽上り杢十郎より重詰肴上候事酒壱壺添」
とあって、稲荷社の祭りに中津川宿の有力者が酒肴を出していることがわかる。
中津川代官所の建物は、この一帯に[[明治時代]]まで残されていたが、現在は何も残っていない。
=== 代官名 ===
市岡家は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には美濃恵那郡の支配者であった[[遠山氏]]の重臣として、中津川城(徳ノ城)の城主を任されていた旧家で、江戸時代になると中津川宿の名主と中津川宿[[本陣]]の当主を兼務した。
*寛永 6年(1629年) 市岡長右衛門
*寛永18年(1641年) 宮川半右衛門 (落合宿代官も兼務)
*寛永21年(1644年) 井沢藤右衛門・丸山久左衛門
*正保3年-明暦 3年(1646年-1657年) 宮川半右衛門 (落合宿・手金野・千旦林の代官も兼務)
*慶安 4年(1651年) 丸山久左衛門・市岡権兵衛
*慶安元年-万治 3年(1648年-1660年) 市岡長右衛門
*万治元年-万治 2年(1658年-1659年) 丸山久右衛門・堀尾作左衛門
*万治 3年-寛文 7年(1660年-1667年) 市岡長右衛門 (下町・中村・薄野・かおれの村分代官も兼務)
*寛文 2年(1662年) 桑原勘兵衛 (木曾代官所から派遣された初めての代官)
*延宝 9年-元禄 5年(1681年-1692年) 原茂右衛門
*元禄 5年-元禄15年(1692年-1702年) 川口茂右衛門
*元禄16年(1703年) 原彦左衛門
*元禄17年-宝永 4年(1704年-1707年) 川崎八郎右衛門
*宝永 5年-宝永 7年(1708年-1710年) 井沢小一郎
*正徳元年(1711年) 向井六内 (これ以後、役料を受け取るようになった)
*正徳 2年-享保11年(1712年-1726年) 沢田与惣左衛門
*享保12年-元文 4年(1727年-1739年) 堀尾作左衛門
*元文 4年(1739年) 山県五太夫
*元文 6年-寛延 2年(1741年-1749年) 向井五右衛門
*寛延 2年-宝暦 2年(1749年-1752年) 磯野郷右衛門
*宝暦 2年-宝暦 6年(1752年-1756年) 大脇文右衛門
*宝暦10年-宝暦13年(1760年-1763年) 平野新五左衛門
*宝暦14年-明和 6年(1764年-1769年) 川口茂左衛門
*明和 6年-天明 6年(1769年-1786年) 宮川弥五右衛門
*寛政元年(1789年) 原彦八郎
*寛政 6年(1794年) 三村与八郎
*寛政 7年(1795年) 原彦八郎
*寛政 9年(1797年) 宮地源右衛門
*寛政10年(1798年) 上田伴右衛門
*文化 6年(1809年) 高坂等作
*文政 2年(1819年) 上田伴右衛門
*文政12年(1829年) 平野文助
*天保元年(1830年) 原九郎左衛門
*天保 7年(1836年) 大脇武一郎
*天保 8年(1837年) 伊藤治八郎
*弘化 3年(1846年) 小島与一右衛門
*その後 三尾勘兵衛
*その後 小野伝右衛門
*明治元年(1868年) 松井八左衛門
== 中津川市内に存在した代官屋敷 ==
尾張藩重臣の[[木曾衆#千村平右衛門家|千村平右衛門家]]は[[可児郡]]の[[久々利村]]に[[千村陣屋]]を構えていたが、恵那郡には正家村に400石、駒場村に772石、落合村に240石2斗5升、千旦林村に126石3斗1升、茄子川村に125石の知行所があった。
中津川市駒場町裏と中津川市千旦林新田に御屋敷の地名が残っていることから、千村平右衛門家の代官屋敷があったとみられる。
== 参考文献 ==
*『中津川市史 中巻Ⅰ 』 第五編 近世(一) -関ヶ原戦から明治維新まで- 第一章 支配体制と村のしくみ 第六節 地方支配 六 山村家の地方支配 p153~p167 1988年
*『恵那市史 通史編 第2巻』 第二章 諸領主の成立と系譜 第二節 正家村と木曾衆 正家村内 山村知行所の支配 p113~p114 恵那市史編纂委員会 1989年
== 脚注 ==
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[[Category:中津川市の建築物|廃なかつかわたいかんしよ]]
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[[Category:美濃国]] | 2023-10-08T02:31:51Z | 2023-12-24T06:16:39Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B4%A5%E5%B7%9D%E4%BB%A3%E5%AE%98%E6%89%80 |
4,838,839 | 白鍵と黒鍵の間に | 『白鍵と黒鍵の間に -ジャズピアニスト・エレジー銀座編-』(はっけんとこっけんのあいだに ジャズピアニスト・エレジーぎんざへん)は、日本のジャズピアニスト・南博によるエッセイ。2008年に小学館から発売された。
南がクラシックピアニストだった青年期にジャズに魅せられ、小岩のキャバレー、六本木のバー、銀座の超高級クラブを渡り歩き、アメリカへジャズ留学するまでの修業時代を描いた回想録。
続編として、アメリカ留学後を綴った『鍵盤上のU.S.A. -ジャズピアニスト・エレジー アメリカ編-』が2009年に出版された。
2023年には『白鍵と黒鍵の間に』として映画化された。
本作を原作として映画化され、『白鍵と黒鍵の間に』(はっけんとこっけんのあいだに)のタイトルで2023年10月6日に公開された。監督は冨永昌敬、主演は池松壮亮。
映画では主人公を、南と博という2人の人物に分け、2人のピアニストの運命が交錯する様を描き、池松壮亮が一人二役を演じている。二人の主人公は「南」が「博」の3年後の姿であり、同一人物のオルター・エゴとして、同じ空間に存在する場面があるというマジックリアリズム的手法により描かれた。
また、この作品の中で鍵を握る曲「ゴッドファーザー 愛のテーマ」は実際に池松がピアノ演奏している。
博のキャバレーバンドの仲間役で、劇中でセッションを繰り広げるK助をサックス奏者の松丸契が演じ、俳優業に初挑戦している。
映画では、原作エッセイで描かれた南博の10代から20代後半までのエピソードを一晩の物語にまとめ、違う時制の主人公が同じ空間に登場する。このあらすじでは主人公の「南」と「博」が同一人物であることを踏まえて、混乱を避けるため「博」に統一する。
ジャズピアニストを目指す博は、師匠の宅見から演奏の硬さを指摘され、「nonchalant」(ノンシャラント)な姿勢を身に着けるためキャバレーでの修業を勧められる。だが修業場となった店は歌謡曲のバックで演奏をする場で、ジャズができないことに不満を持っていた博は、1988年の年の瀬、「あいつ」と呼ばれるヤクザにリクエストされ「ゴッドファーザー 愛のテーマ」(以下「LTG」と略す)を演奏する。しかし博はこの曲を、銀座界隈を牛耳る組織の会長・熊野以外のために演奏することはタブーと知らされ驚愕する。
博は店を辞め、その後も幾度となく現れる「あいつ」をあしらいながら「LTG」のタブー破りに知らぬふりをし、共に宅見に学んだ姉弟子のピアニスト・千香子に紹介され、バンドマスター・三木や曽根の率いるハコバンで、銀座のクラブ2軒での演奏をする。博は3年後には熊野に「LTG」の演奏を許されるただ一人のピアニストとなる。しかしこれらの店ではジャズを演奏できたものの、音楽はあくまでBGMとして扱われ、誰も演奏を聴こうとしない。アメリカから来た歌手・リサは不満をあらわにする。博はリサをなだめるが、状況に流され道を見失っている自分に苛立ち、ボストンの音楽学校への留学を決意していた。それを知ったリサは、音楽学校入試に必要なデモテープの録音を兼ねて、店でのセッションを勧める。博たちの演奏は、以前の仲間・K助のサックス演奏も加わって、ホステスや客たちが近寄って聴き惚れ、ダンスを始める盛り上がりとなる。
しかしその後、酔った熊野が乱入してマイクを手に演歌を歌い出し、周囲は困惑する。博は仕方なく伴奏を続け、やがて熊野とリサとのトラブルをきっかけに「LTG」を演奏し始める。博はいつしかこの曲の演奏そのものに夢中になる。曲が終わり「あいつ」が現れ、博のタブー破りをばらしたうえ、熊野をナイフで襲い乱闘が始まる。混乱の末、ビルの非常階段で二人は殺し合い、熊野に抑圧され不満を抱えていた三木までもが彼を撲殺する。この様子を目の当たりにした博は失神し、三木らによって、非常階段からビルの隙間に熊野と「あいつ」の遺体に続けて投げ捨てられる。
ビルの隙間で目を覚ました博は、音楽を志しながら落ちぶれてこの場から出られず、ここが3年後のアメリカだと主張するホームレス姿の男、生きていて博に語りかける「あいつ」と熊野に会い、彼らと問答する中で音楽への思いをぶちまける。博の言葉を聞いた男は地面のラジカセからデモテープを取り出す。男が顔を表すとそれは博の姿で、彼以外が消えたビルの隙間から、テープを持って外の街へ走り出す。博の前に彼の母が現れ、渡航に必要なワクチン接種の証明のため頼まれていた母子手帳とお守りを手渡す。博は母に見送られて空港へと向かう。ラストシーンでは博の将来性を称える宅見と、博をバンドの仲間たちに紹介する千香子の声をバックに、開店前のクラブでピアノに向かう博の姿で終わり、エンドロールとエンディング音楽に切り替わる。
劇場公開では、テアトルシネマグループによる音響システム「odessa」に対応した「odessa EDITION」での公開が一部劇場で行われた。 | [
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] | 『白鍵と黒鍵の間に -ジャズピアニスト・エレジー銀座編-』は、日本のジャズピアニスト・南博によるエッセイ。2008年に小学館から発売された。 南がクラシックピアニストだった青年期にジャズに魅せられ、小岩のキャバレー、六本木のバー、銀座の超高級クラブを渡り歩き、アメリカへジャズ留学するまでの修業時代を描いた回想録。 続編として、アメリカ留学後を綴った『鍵盤上のU.S.A. -ジャズピアニスト・エレジー アメリカ編-』が2009年に出版された。 2023年には『白鍵と黒鍵の間に』として映画化された。 | {{著作権問題調査依頼}}
{{基礎情報 書籍
| title = 白鍵と黒鍵の間に<br><small>-ジャズピアニスト・エレジー銀座編-</small>
| orig_title = <!-- 書籍の原題 -->
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| image_size = <!-- 画像の幅(「px」は不要) -->
| image_caption = <!-- 画像の概要 -->
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| author = [[南博 (ジャズピアニスト)|南博]]<!-- 著者 -->
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| published = 2008年5月<!-- 発行日 -->
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| id = {{ISBN2|978-4-09-387789-3}}<!-- 基本的に書籍のISBNを記入します。 -->
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『'''白鍵と黒鍵の間に -ジャズピアニスト・エレジー銀座編-'''』(はっけんとこっけんのあいだに ジャズピアニスト・エレジーぎんざへん)は、日本の[[ジャズピアノ|ジャズピアニスト]]・[[南博 (ジャズピアニスト)|南博]]による[[随筆|エッセイ]]。[[2008年]]に[[小学館]]から発売された。
南がクラシックピアニストだった青年期に[[ジャズ]]に魅せられ、[[小岩駅|小岩]]の[[キャバレー (接待飲食店)|キャバレー]]、[[六本木]]の[[バー (酒場)|バー]]、[[銀座]]の超高級[[クラブ (接待飲食店)|クラブ]]を渡り歩き、アメリカへジャズ[[留学]]するまでの修業時代を描いた回想録<ref name="mikiki">{{Cite web|title=映画「白鍵と黒鍵の間に」intoxicate試写会に25組50名様をご招待 池松壮亮が一人二役、南博の著書を大胆アレンジした奇想天外エンタメ|url=https://mikiki.tokyo.jp/articles/-/34749|website=Mikiki|publisher=[[タワーレコード]] |date=2023-07-19|accessdate=2023-10-07}}</ref><ref>{{Cite web|title=白鍵と黒鍵の間に|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09408526|website=小学館|accessdate=2023-10-07}}</ref>。
続編として、アメリカ留学後を綴った『'''鍵盤上のU.S.A. -ジャズピアニスト・エレジー アメリカ編-'''』が2009年に出版された<ref>[https://minamihiroshi.com/?cat=14https://minamihiroshi.com/?cat=14 BOOK]、南博公式サイト、2023年10月15日閲覧。</ref>。
[[2023年]]には『白鍵と黒鍵の間に』として映画化された。
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== 内容 ==
{{節スタブ}}
== 出版の経緯 ==
{{節スタブ}}
== 評価 ==
文芸評論家の[[福田和也]]は、『[[週刊新潮]]』の連載「闘う時評」(2008年6月5日号掲載分)において、文筆家としても活動するミュージシャン・[[菊地成孔]]の人や作品を徹底的に褒める『「ホメ」力』に注目していると語り、菊地による本書への「この本は、僕のどの本よりも面白いです。」との称賛を取り上げたのに続けて、本書の内容をコラム全体で紹介した<ref>{{Cite journal |和書 |last=福田 |first=和也 |authorlink=福田和也 |year=2023 |title=福田和也の闘う時評 連載300 ピアニスト南博の「銀座」 |journal=週刊新潮 |issue=2008年6月5日号 |pages=126-127 |publisher=新潮社 }}</ref>。
== 書誌情報 ==
* 白鍵と黒鍵の間に -ジャズピアニスト・エレジー銀座編-(2008年5月発売、小学館){{ISBN2|978-4-09-387789-3}}
** 文庫版(2010年7月6日発売、[[小学館文庫]]){{ISBN2|978-4-09-408526-6}}
* 鍵盤上のU.S.A. -ジャズピアニスト・エレジー アメリカ編-(2009年4月発売、小学館){{ISBN2|978-4-09-387854-8}}
== 映画 ==
{{Infobox Film
| 作品名 = 白鍵と黒鍵の間に
| 監督 = [[冨永昌敬]]
| 脚本 = 冨永昌敬<br />[[高橋知由]]
| 原作 = [[南博 (ジャズピアニスト)|南博]]<br />『白鍵と黒鍵の間に-ジャズピアニスト・エレジー銀座編-』([[小学館]])
| 製作 = 大熊一成<br />太田和宏<br />[[甲斐真樹]]<br />[[佐藤央]]<br />[[前信介]]<br />澤將晃
| 製作総指揮 = 横山蘭平
| 出演者 =[[池松壮亮]]<br />[[仲里依紗]]<br />[[森田剛]]<br />[[Crystal Kay]]<br />松丸契<br />[[川瀬陽太]]<br />[[佐野史郎]]<br />[[洞口依子]]<br />[[松尾貴史]]<br />[[高橋和也]]
| 音楽 = [[魚返明未]]
| 主題歌 =
| 撮影 = [[三村和弘]]
| 編集 = [[早野亮]]
| 制作会社 = [[東京テアトル]]<br />スタイルジャム
| 製作会社 = 『白鍵と黒鍵の間に』製作委員会
| 配給 = 東京テアトル
| 公開 = {{Flagicon|JPN}} [[2023年]][[10月6日]]
| 上映時間 = 94分
| 製作国 = {{Flagicon|JPN}}
| 言語 = [[日本語]]
| 製作費 =
| 興行収入 =
| 配給収入 =
| 前作 =
| 次作 =
}}
本作を原作として映画化され、『'''白鍵と黒鍵の間に'''』(はっけんとこっけんのあいだに)のタイトルで[[2023年]][[10月6日]]に公開された<ref>{{Cite web|title=池松壮亮が1人2役でピアニストを演じる映画公開。バブル期の札束が飛び交う銀座でもがいた苦しみとは?|url=https://ddnavi.com/review/1192112/a/|website=[[ダ・ヴィンチ (雑誌)|ダ・ヴィンチ]]Web|date=2023-10-06|accessdate=2023-10-07}}</ref>。監督は[[冨永昌敬]]、主演は[[池松壮亮]]{{R|mikiki}}。
=== 製作 ===
映画では主人公を、南と博という2人の人物に分け、2人のピアニストの運命が交錯する様を描き、池松壮亮が一人二役を演じている{{R|mikiki}}。二人の主人公は「南」が「博」の3年後の姿であり、同一人物の[[オルター・エゴ]]として、同じ空間に存在する場面があるという[[マジックリアリズム]]的手法により描かれた<ref>{{Cite web |author=宮代大嗣 |url=https://cinemore.jp/jp/erudition/3169/article_3170_p1.html |title=『白鍵と黒鍵の間に』クロージング・ヴェルヴェッツ、夜明けを待ちながら |website=CINEMORE |publisher=太陽企画 |date=2023-10-10 |accessdate=2023-10-11}}</ref><ref>{{Cite news |和書 |title=池松壮亮がジャズピアニスト2役「白鍵と黒鍵の間に」…半年の猛特訓、鍵握る「ゴッドファーザー」テーマ曲 |newspaper=[[読売新聞オンライン]] |date=2023-09-30 |author=松田拓也 |url=https://www.yomiuri.co.jp/culture/cinema/20230930-OYT1T50140/ |access-date=2023-10-11}}</ref>。
また、この作品の中で鍵を握る曲「[[愛のテーマ (ゴッドファーザー)|ゴッドファーザー 愛のテーマ]]」は実際に池松がピアノ演奏している<ref>{{Cite web|title=池松壮亮、半年かけてピアノ演奏を猛特訓 1人2役それぞれの役柄でピアノと向き合う|url=https://news.mynavi.jp/article/20230720-2730668/|website=マイナビニュース|date=2023-07-20|accessdate=2023-10-07}}</ref><ref name="brutus">{{Cite interview |subject=池松壮亮 |subject2=松丸契 | date =2023-10-05 |interviewer=Katsumi Watanabe |language=ja |title=池松壮亮が、2人のジャズピアニスト役に挑んだ『白鍵と黒鍵の間に』。映画初出演のサックス奏者・松丸契と撮影を振り返る |type= |url=https://brutus.jp/ikematsu_matsumaru/?heading=3 |work=[[BRUTUS]] | number=No.994(2023年10月15日号) |pages=101-102 |publisher=[[マガジンハウス]] |access-date=2023-10-15 }}</ref>。
博のキャバレーバンドの仲間役で、劇中でセッションを繰り広げるK助をサックス奏者の松丸契が演じ、俳優業に初挑戦している<ref name="brutus" />。
=== あらすじ ===
映画では、原作エッセイで描かれた南博の10代から20代後半までのエピソードを一晩の物語にまとめ、違う時制の主人公が同じ空間に登場する<ref>{{Cite interview |language=ja |subject=冨永昌敬 |date=2023-10-03 |interviewer=細谷美香 |title=年代記を無理やり「一晩の物語」に脚本化。異色のジャズ映画『白鍵と黒鍵の間に』冨永昌敬監督インタビュー |url=https://www.pen-online.jp/article/014226.html |work=[[Pen (雑誌)|Pen Online]] |publisher=[[CCCメディアハウス]] |access-date=2023-10-15}}</ref>。このあらすじでは主人公の「南」と「博」が同一人物であることを踏まえて、混乱を避けるため「博」に統一する。
ジャズピアニストを目指す'''博'''は、師匠の'''宅見'''から演奏の硬さを指摘され、「nonchalant」(ノンシャラント){{Efn|日本語では「ノンシャラン」とも表記される。フランス語で「無頓着」「なげやり」な様子を表すが<ref>{{Cite Kotobank |word=ノンシャラン |encyclopedia=デジタル大辞泉 |access-date=2023-10-13}}</ref>、映画中では「日本語に訳すのが難しい」と説明される。}}な姿勢を身に着けるためキャバレーでの修業を勧められる。だが修業場となった店は[[歌謡曲]]のバックで演奏をする場で、ジャズができないことに不満を持っていた博は、[[1988年]]の[[年末年始|年の瀬]]、「'''あいつ'''」と呼ばれる[[ヤクザ]]にリクエストされ「ゴッドファーザー 愛のテーマ」(以下「LTG」と略す)を演奏する。しかし博はこの曲を、銀座界隈を牛耳る組織の会長・'''熊野'''以外のために演奏することは[[タブー]]と知らされ驚愕する。
博は店を辞め、その後も幾度となく現れる「あいつ」をあしらいながら「LTG」のタブー破りに知らぬふりをし、共に宅見に学んだ姉弟子のピアニスト・'''千香子'''に紹介され、[[バンドマスター]]・'''三木'''や'''曽根'''の率いるハコバン{{Efn|[[ディスコ]]や[[水商売]]の店において、専属で演奏をする[[バンド (音楽)|バンド]]<ref>{{Cite web |author=[[中将タカノリ]] |url=https://allabout.co.jp/gm/gc/433946/ |title=稲垣潤一『ハコバン70'S』で考えるバンドシーンの今昔 |website=[[All About]] |publisher=[[オールアバウト]] |date=2013-11-12 |accessdate=2023-10-20}}</ref>。}}で、銀座のクラブ2軒での演奏をする。博は3年後には熊野に「LTG」の演奏を許されるただ一人のピアニストとなる。しかしこれらの店ではジャズを演奏できたものの、音楽はあくまで[[背景音楽|BGM]]として扱われ、誰も演奏を聴こうとしない。アメリカから来た歌手・'''リサ'''は不満をあらわにする。博はリサをなだめるが、状況に流され道を見失っている自分に苛立ち、[[ボストン]]の音楽学校への留学を決意していた。それを知ったリサは、音楽学校入試に必要な[[デモテープ]]の録音を兼ねて、店でのセッションを勧める。博たちの演奏は、以前の仲間・'''K助'''のサックス演奏も加わって、ホステスや客たちが近寄って聴き惚れ、ダンスを始める盛り上がりとなる。
しかしその後、酔った熊野が乱入してマイクを手に[[演歌]]を歌い出し、周囲は困惑する。博は仕方なく伴奏を続け、やがて熊野とリサとのトラブルをきっかけに「LTG」を演奏し始める。博はいつしかこの曲の演奏そのものに夢中になる。曲が終わり「あいつ」が現れ、博のタブー破りをばらしたうえ、熊野をナイフで襲い乱闘が始まる。混乱の末、ビルの[[避難階段|非常階段]]で二人は殺し合い、熊野に抑圧され不満を抱えていた三木までもが彼を撲殺する。この様子を目の当たりにした博は失神し、三木らによって、非常階段からビルの隙間に熊野と「あいつ」の遺体に続けて投げ捨てられる。
ビルの隙間で目を覚ました博は、音楽を志しながら落ちぶれてこの場から出られず、ここが3年後のアメリカだと主張する[[ホームレス]]姿の男、生きていて博に語りかける「あいつ」と熊野に会い、彼らと問答する中で音楽への思いをぶちまける。博の言葉を聞いた男は地面のラジカセからデモテープを取り出す。男が顔を表すとそれは博の姿で、彼以外が消えたビルの隙間から、テープを持って外の街へ走り出す。博の前に彼の母が現れ、渡航に必要な[[予防接種|ワクチン接種]]の証明のため頼まれていた[[母子健康手帳|母子手帳]]と[[お守り]]を手渡す。博は母に見送られて空港へと向かう。ラストシーンでは博の将来性を称える宅見と、博をバンドの仲間たちに紹介する千香子の声をバックに、開店前のクラブでピアノに向かう博の姿で終わり、[[クレジットタイトル|エンドロール]]とエンディング音楽に切り替わる。
=== キャスト ===
* 南 / 博{{Efn|実際の上映におけるクレジットの役名では「南博」。}} - [[池松壮亮]]
* 千香子 - [[仲里依紗]]
* あいつ - [[森田剛]]
* リサ - [[Crystal Kay]]
* K助 - 松丸契
* 曽根 - [[川瀬陽太]]
* 門松 - [[杉山ひこひこ]]
* Y子 - [[中山来未]]
* 福津健創
* 日高ボブ美
* 宅見 - [[佐野史郎]]
* 南の母 - [[洞口依子]]
* 熊野 - [[松尾貴史]]
* 三木 - [[高橋和也]]
=== スタッフ ===
* 監督 - [[冨永昌敬]]
* 原作 - [[南博 (ジャズピアニスト)|南博]]
* 脚本 - 冨永昌敬、[[高橋知由]]
* 製作 - 大熊一成、太田和宏、[[甲斐真樹]]、[[佐藤央]]、[[前信介]]、澤將晃
* プロデューサー - 横山蘭平
* アソシエイトプロデューサー - 白川直人、寺田悠輔
* ラインプロデューサー - 荒木孝眞
* 撮影 - [[三村和弘]]
* 照明 - 中村晋平
* 録音 - 山本タカアキ
* 美術 - 仲前智治
* 装飾 - 須坂文昭
* ヘアメイクデザイン - [[西村佳苗子]]
* 編集 - 堀切基和
* 音楽 - [[魚返明未]]
* エンディング音楽 - 南博「Nonchalant」<ref>{{Cite web |author=|url=https://www.oricon.co.jp/news/2296134/full/ |title=映画『白鍵と黒鍵の間に』ジャズライブ開催 池松壮亮&冨永昌敬監督もトークで参加 |website=Drama&Movie by ORICON NEWS |publisher=オリコン |date=2023-09-27 |accessdate=2023-10-21}}</ref>
* 仕上担当 - 田巻源太
* 助監督 - 久保朝洋
* 制作担当 - [[中村哲也]]
* スクリプター - 押田智子
=== 封切り ===
劇場公開では、[[東京テアトル|テアトルシネマグループ]]による音響システム「odessa」に対応した「odessa EDITION」での公開が一部劇場で行われた<ref>[https://hakkentokokken.com/odessa_edition/ 特別な音響を体感 「odessa EDITION」 上映実施!]、映画『白鍵と黒鍵の間に』オフィシャルサイト、2023年10月21日閲覧。</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}
== 外部リンク ==
* 書籍
** [https://www.shogakukan.co.jp/books/09408526 白鍵と黒鍵の間に | 書籍 | 小学館]
** [https://minamihiroshi.com/?cat=14https://minamihiroshi.com/?cat=14 BOOK] - 南博公式サイト
* 映画
** [https://hakkentokokken.com/ 映画『白鍵と黒鍵の間に』オフィシャルサイト]
** {{Twitter|hakkentokokken|映画『白鍵と黒鍵の間に』公式アカウント}}
** {{Instagram|hakkentokokken|映画『白鍵と黒鍵の間に』公式アカウント}}
** {{Eigacom title|99235|白鍵と黒鍵の間に}}
** {{Allcinema title|388894|白鍵と黒鍵の間に}}
** {{Kinejun title|98315|白鍵と黒鍵の間に}}
** {{シネマトゥデイ|T0028747|白鍵と黒鍵の間に}}
** {{Movie Walker|mv81383|白鍵と黒鍵の間に}}
{{デフォルトソート:はつけんとこつけんのあいたに}}
[[Category:2008年の書籍]]
[[Category:日本の随筆]]
[[Category:日本の自伝・回顧録]]
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[[Category:ピアノやピアニストを題材とした作品]]
[[Category:ジャズを題材とした作品]]
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[[Category:2023年の映画]]
[[Category:日本のドラマ映画]]
[[Category:冨永昌敬の監督映画]]
[[Category:自伝を原作とする映画作品]]
[[Category:随筆を原作とする映画作品]]
[[Category:音楽家を主人公とした映画作品]]
[[Category:ジャズを題材とした映画作品]]
[[Category:ピアノやピアニストを題材とした映画作品]]
[[Category:マジックリアリズム映画]]
[[Category:銀座を舞台とした映画作品]]
[[Category:バブル期の昭和時代を舞台とした映画作品]]
[[Category:年末年始を題材とした映画作品]]
[[Category:東京テアトル配給の映画]] | 2023-10-08T02:45:55Z | 2023-12-06T18:20:11Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%8D%B5%E3%81%A8%E9%BB%92%E9%8D%B5%E3%81%AE%E9%96%93%E3%81%AB |
4,838,840 | 釈家奴 | 釈家奴(漢名:李顕忠) は古倫氏女真族。初代建州衛衛主・阿哈出の子で、二代目衛主。
この代で、代々居住した三姓地方 (現黒龍江省ハルピン市イラン県)から建州衛の設置された鳳州 (現吉林省通化市梅河口市山城鎮) に移徙したとされる。
永楽8年 (1410) 旧暦8月、蒙古 (韃靼) 征討 (永楽帝親征に従軍) での戦功により都指揮僉事 (正三品) に昇格。併せて漢名「李顕忠」を下賜された。
永楽9年 (1411) 年旧暦9月、明朝が釈家奴からの推挙を受諾し、釈家奴の弟・猛哥不花を毛憐衛指揮使 (正三品) に任命。
永楽10年 (1412) 旧暦6月、建州衛に帰順した塔温の民衆への食糧支援を明朝に奏請。粟が配給された。
永楽10年 (1412)、釈家奴らがそれぞれの一家を引率れて三姓地方 (現黒龍江省ハルピン市イラン県) から建州 (現吉林省) に移住したが、凶作で食糧が不足し、明朝に支援を要請。粟が配給された。
永楽11年 (1413) 旧暦10月、毛憐衛主・猛哥不花とともに入貢。
永楽14年 (1416) 旧暦正月、毛憐衛主・猛哥不花とともに入貢。
永楽15年 (1417) 旧暦12月、顔春 (現ロシア連邦ポシェト湾頭)地方の領袖・月児速哥が一族を率いて建州衛への帰属を希望したため、明朝側に奏請。明朝は允許した。
永楽16年 (1418) 旧暦2月、衛内の部下の功労に対する褒賞を奏請。明朝は功労のあった数人の官職を昇格させた。
永楽17年 (1419) 旧暦3月、明朝が釈家奴からの推挙を受諾して27人の官職を昇格させた。
永楽20年 (1422) ごろ、死去。 | [
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] | 釈家奴(漢名:李顕忠) は古倫氏女真族。初代建州衛衛主・阿哈出の子で、二代目衛主。 この代で、代々居住した三姓地方 (現黒龍江省ハルピン市イラン県)から建州衛の設置された鳳州 (現吉林省通化市梅河口市山城鎮) に移徙したとされる。 | {|class=floatright
|+ 釈家奴
|-
! colspan="2" | 名称表記
|-
| 女真名 ||
*釈家奴 (明英宗實錄)
*釈迦奴 (明英宗實錄)
|-
| 漢語名 || 李顕忠
|-
! colspan="2" | 生歿即位
|-
| 出生年 || 不詳
|-
| 死歿年 || 不詳
|-
! colspan="2" | 一族姻戚
|-
| 父 || [[阿哈出]] (初代[[建州衛]]主)
|-
|弟
|猛哥不花 (毛憐衛主)
|-
| 子 || [[李満住]] (三代建州衛主)
|}
'''釈家奴'''<ref>『明實錄』にみられるのは「釈'''家'''奴」と「釋'''迦'''奴」(正統7年2月13日の記事) の二通り。[[:zh:釋加奴|维基百科]]は「釋'''加'''奴」を挙げているが典拠不詳。[[普通話]]では「家」も「加」も同じ「jiā」の音。</ref><ref>[[稲葉岩吉|稻葉岩吉]]は『清朝全史』上巻 (p.32) において「釋家奴<sup>シヤチヤヌ</sup>」とルビを振っている。[[普通話]][[拼音]]では「shìjiānú」。時代が降ってイェヘ西城主・[[チンギヤヌ]]は漢語で「逞家奴」などと表記されるが、その満洲語転写はcinggiyanu。「-家奴」という漢字表記を共有しながらその読みが異なるため、ここではあくまで参考程度の紹介に止める。</ref>([[漢名]]:'''李顕忠''') は古倫氏[[女真族]]。初代[[建州衛]]衛主・[[阿哈出]]の子<ref>[[:zh:釋加奴|维基百科]]は概略で長子としながら、家族構成の章節においては猛哥不花の弟とし、矛盾している上に、どちらも典拠不詳。『明實錄』や『李朝實錄』などをみる限りでは特に兄弟の序列は触れられていない。</ref>で、二代目衛主。
この代で、代々居住した三姓地方 (現[[黒竜江省|黒龍江省]][[ハルビン市|ハルピン市]][[依蘭県|イラン県]])<ref>釈家奴の一族はもともと三姓地方の胡里改[[トゥメン|万戸]]府に住み、その後諸々の原因で南下した。</ref>から建州衛の設置された鳳州 (現[[吉林省]][[通化市]][[梅河口市]]山城鎮) に移徙したとされる。
== 年表 ==
[[永楽 (明)|永楽]]8年 (1410) 旧暦8月、[[蒙古]] ([[タタール#韃靼|韃靼]]) 征討 ([[永楽帝]]親征に従軍) での戦功により[[明朝の官職#都指揮使司|都指揮僉事]] (正三品) に昇格。併せて漢名「李顕忠」を下賜された。<ref>{{Cite book |title=明太宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=永樂八年八月21日段10012 |volume=107 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@17^1158034350^809^^^0211001010012^@@152289981#top}}</ref>
永楽9年 (1411) 年旧暦9月、明朝が釈家奴からの推挙を受諾し、釈家奴の弟・猛哥不花を毛憐衛[[明朝の官職#衛指揮使司|指揮使]] (正三品) に任命。<ref>{{Cite book |title=明太宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=永樂九年九月3日段10286 |volume=119 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@17^1158034350^809^^^0211001010286^@@1259089956#top}}</ref>
永楽10年 (1412) 旧暦6月、[[建州衛]]に帰順した塔温<sup>不詳</sup>の民衆への食糧支援を明朝に奏請。[[アワ|粟]]が配給された。<ref>{{Cite book |title=明太宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=永樂十年六月8日段10531 |volume=129 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@17^1158034350^809^^^0211001010531^@@49567565#top}}</ref>
永楽10年 (1412)、釈家奴らがそれぞれの一家を引率れて三姓地方 (現[[黒竜江省|黒龍江省]][[ハルビン市|ハルピン市]][[依蘭県|イラン県]]) から建州 (現[[吉林省]]) に移住したが、凶作で食糧が不足し、明朝に支援を要請。粟が配給された。<ref>{{Cite book |title=明太宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=永樂十年十一月28日段10646 |volume=134 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@17^1158034350^809^^^0211001010646^@@517547983#top}}</ref>
永楽11年 (1413) 旧暦10月、毛憐衛主・猛哥不花とともに入貢。<ref>{{Cite book |title=明太宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=永樂十一年十月28日段10842 |volume=144 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@17^1158034350^22^^^2@@742518720#top}}</ref>
永楽14年 (1416) 旧暦正月、毛憐衛主・猛哥不花とともに入貢。<ref>{{Cite book |title=明太宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=永樂十四年正月20日段11385 |volume=172 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@17^1158034350^809^^^0211001011385^@@1096243323#top}}</ref>
永楽15年 (1417) 旧暦12月、顔春 (現[[ロシア|ロシア連邦]][[ポシェト湾]]頭)<ref>{{Cite journal|year=1960|title=建州女直の移動問題|url=https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/148180/1/jor019_2_212.pdf|journal=東洋史研究|volume=19|issue=2|page=95|chapter=(2) 毛憐衛 浪ト見看の鳳州移動}}</ref>地方の領袖・月児速哥が一族を率いて建州衛への帰属を希望したため、明朝側に奏請。明朝は允許した。<ref>{{Cite book |title=明太宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=永樂十五年十二月27日段11800 |volume=195 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@17^1158034350^809^^^0211001011800^@@1872722992#top}}</ref>
永楽16年 (1418) 旧暦2月、衛内の部下の功労に対する褒賞を奏請。明朝は功労のあった数人の官職を昇格させた。<ref>{{Cite book |title=明太宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=永樂十六年二月29日段11840 |volume=197 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@17^1158034350^809^^^0211001011840^@@1762774265#top}}</ref>
永楽17年 (1419) 旧暦3月、明朝が釈家奴からの推挙を受諾して27人の官職を昇格させた。<ref>{{Cite book |title=明太宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=永樂十七年三月24日段12042 |volume=210 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@17^1158034350^809^^^0211001012042^@@1891928352#top}}</ref>
永楽20年 (1422) ごろ、死去。<ref>[[:zh:釋加奴|维基百科]]には西暦1422年前後に死去とあり、参照文献として『中国民族史人物辞典』を挙げているが、詳細不明。ただ、『明實錄』では[[宣徳]]元年 (1426) から釈家奴の子・李満住の名が現れ、且つ永楽22年 (1424) には李満住が建州衛を引き連れて婆諸江に移住しているため (李朝世宗實錄24巻)、少なくともこのころまでには死去していた可能性が高い。维基百科は宣徳元年 (1426) をもって李満住が衛主の地位を承継したとしているが、これも典拠なし。</ref>
== 脚註 ==
<references />
== 参照 ==
=== 文献 ===
* [[楊士奇]]『[[明実録|太宗文皇帝實錄]]』1430 (漢文) *中央研究院歴史語言研究所版
* 茅瑞徵『東夷考略』1621 (天啓1) (漢文) *燕京図書館 ([[ハーバード大学]]) 所蔵版
* 楊賓『柳邊紀略』1707 (漢文)
=== 研究書 ===
* [[白鳥庫吉]] 監修, 松井等, [[箭内亙]], [[稲葉岩吉|稻葉岩吉]] 撰『滿洲歷史地理』巻2, [[南満洲鉄道|南満洲鉄道株式会社]], 1914
* 稻葉岩吉『清朝全史』上巻, 早稲田大学出版部, 1914
* [[趙爾巽]], 他100余名『[[清史稿]]』清史館, 1928 (漢文) *[[中華書局]]版
=== 論文 ===
* 『東洋史研究』[[東洋史研究会]], 1960, 巻19, 号2, [[河内良弘]]「[https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/148180/1/jor019_2_212.pdf 建州女直の移動問題]」
=== Webサイト ===
* 「[https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mql/login.html 明實錄、朝鮮王朝実録、清實錄資料庫]」[[中央研究院歴史語言研究所]] ([[台湾]])
[[Category:完顔氏]]
[[Category:明朝女真人]]
[[Category:ヌルハチ]]
[[Category:生没年不詳]] | 2023-10-08T02:46:40Z | 2023-10-21T07:30:44Z | false | false | false | [
"Template:独自研究",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E5%AE%B6%E5%A5%B4 |
4,838,845 | 藤井町 | 藤井町(ふじいちょう、ふじいまち)は、日本の地名。 | [
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] | 藤井町(ふじいちょう、ふじいまち)は、日本の地名。 | '''藤井町'''(ふじいちょう、ふじいまち)は、[[日本]]の[[地名]]。
== ふじいちょう ==
* [[藤井町 (水戸市)]] - [[茨城県]][[水戸市]]の地名。
* [[藤井町 (安城市)]] - [[愛知県]][[安城市]]の地名。
* [[藤井町 (岸和田市)]] - [[大阪府]][[岸和田市]]の地名。
* [[藤井町 (天理市)]] - [[奈良県]][[天理市]]の地名。
== ふじいまち ==
* [[藤井町 (韮崎市)]] - [[山梨県]][[韮崎市]]の地名。
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{{地名の曖昧さ回避}} | 2023-10-08T03:03:45Z | 2023-10-08T03:03:45Z | false | false | false | [
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4,838,846 | 北野まち子 | 北野 まち子(きたの まちこ、1968年(昭和43年)9月23日 - )は、日本の演歌歌手。本名、長尾 恵美子。
1968年(昭和43年)9月23日、青森県弘前市で生まれる。1989年(平成元年)3月、「包丁一代歌手募集コンテスト」でグランプリを獲得。同年8月2日、北乃 町子として『包丁一代』でソニーミュージックより歌手デビュー。1997年(平成9年)5月21日に発売された『しぐれ海峡』から芸名を北乃 町子から北野 まち子に改名。2002年(平成14年)、キングレコードに移籍。2023年(令和5年)8月、デビュー35周年を迎えた。 | [
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] | 北野 まち子は、日本の演歌歌手。本名、長尾 恵美子。 | '''北野 まち子'''(きたの まちこ、[[1968年]]([[昭和]]43年)[[9月23日]] - )は、[[日本]]の[[演歌歌手]]<ref name="tower">{{Cite web |title=北野まち子 - TOWER RECORDS ONLINE |url=https://tower.jp/artist/287312 |website=tower.jp |access-date=2023-10-08}}</ref>。
本名、長尾 恵美子。
== 経歴 ==
[[青森県]][[弘前市]]で生まれる<ref name="tower" />。[[1989年]]([[平成]]元年)3月、「包丁一代歌手募集コンテスト」でグランプリを獲得<ref name="公式">{{Cite web |title=歌手 {{!}} 北野まち子オフィシャルサイト {{!}} プロフィール |url=https://www.machiko-kitano.com/biography |website=北野まちこ オフィシャルサイト |access-date=2023-10-08 |language=ja}}</ref>。同年8月2日、'''北乃 町子'''として『包丁一代』で[[ソニーミュージック]]より歌手デビュー<ref name="公式" />。
[[1998年|1997年]](平成9年)5月21日に発売された『しぐれ海峡』から芸名を北乃 町子から'''北野 まち子'''に改名<ref name="公式" />。
[[2002年]](平成14年)、[[キングレコード]]に移籍<ref name="公式" />。[[2023年]]([[令和]]5年)8月、デビュー35周年を迎えた<ref>{{Cite web |title=北野まち子 デビュー35周年に向けリリース「夫婦風ごよみ」 日本100名城制覇も目指す |url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/256986 |website=東スポWEB |date=2023-03-15 |access-date=2023-10-08 |language=ja}}</ref>。
== ディスコグラフィー ==
=== シングル ===
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|-
!発売日
!タイトル
!規格品番
!備考
|-
|2018年3月21日
| '''冬酒場'''
|KICM-30850
|オリコン最高44位、登場回数17回
|-
|2018年11月7日
| '''こころの灯り'''
|KICM-30886
|オリコン最高44位、登場回数14回
|-
|2019年6月5日
| '''恋々津軽'''
|KICM-30921
|
|-
|2020年2月5日
| '''浮き世橋'''
|KICM-30961
|オリコン最高44位、登場回数8回
|-
|2021年2月24日
| '''ほほえみ坂'''
|KICM-31006
|オリコン最高49位、登場回数10回
|-
|2022年2月23日
| '''高瀬川慕情'''
|KICM-31055
|オリコン最高46位、登場回数14回
|-
|2023年2月15日
| '''夫婦風ごよみ/雪ごもり'''
|KICM-31090
|オリコン最高47位、登場回数13回
|-
|}
=== アルバム ===
{|class="wikitable" style=font-size:small
|-
!発売日
!タイトル
!規格品番
|-
|2019年4月10日
| '''北野まち子 ベストセレクション2019'''
|KICX-4998
|-
|2019年9月4日
| '''北野まち子 全曲集 2020'''
|KICX-5067
|-
|2020年4月8日
| '''北野まち子 ベストセレクション2020'''
|KICX-5162
|-
|2020年9月9日
| '''北野まち子 全曲集 2021'''
|KICX-5214
|-
|2021年4月7日
| '''北野まち子 ベストセレクション2021'''
|KICX-5288
|-
|2021年8月4日
| '''ベストアルバム「おんな春秋」'''
|KICX-5350
|-
|2021年9月8日
| '''北野まち子 全曲集 2022'''
|KICX-5370
|-
|2022年4月6日
| '''北野まち子 ベストセレクション2022'''
|KICX-5485
|-
|2022年9月7日
| '''野まち子 全曲集 ~高瀬川慕情~'''
|KICX-5537
|-
|2023年4月5日
| '''北野まち子 ベストセレクション~夫婦風ごよみ~'''
|KICX-5588
|-
|}
== 脚注 ==
<references />
{{Singer-stub}}
[[Category:演歌歌手]]
[[Category:日本の女性歌手]]
[[Category:青森県出身の人物]]
[[Category:キングレコードのアーティスト]]
[[Category:1968年生]]
[[Category:存命人物]]
{{DEFAULTSORT:きたの まちこ}} | 2023-10-08T03:04:05Z | 2023-11-13T09:13:22Z | false | false | false | [
"Template:Singer-stub",
"Template:Cite web"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%87%8E%E3%81%BE%E3%81%A1%E5%AD%90 |
4,838,847 | アヒルのヤッキー | アヒルのヤッキー(Yakky Doodle)は、ハンナ・バーベラ・プロダクション制作のヨギ・ベア(クマゴロー)(1961年)に登場するキャラクター。ヤッキー・ドゥードルという名前は、ヤンキー・ドゥードルが元となっている。
ヤッキー・ドゥードルは、緑の羽を持った黄色いアヒル。養父で友達のチョッパーと一緒に暮らしている。ヤッキーは、いつも危ない目にあうことが多く、悪いキツネや悪いワニに追われることがある。いつも「君は僕のママ?」と言っているほか、「Ta-ra-ra Coom-de-ay」をよく歌う。
ヤッキーは、クマゴローのエピソードにビディ・バディという名前で「Slumber Party Smarty」と「Duck in Luck」という回に登場したことがある。オギーとダディーのエピソード「Gone to the Ducks」と「Yuk Yuk Duck」「Let's the Duck Out」にも登場したことがあり、ライオンのレオのエピソード「Live and Lion」でも登場したことがある。
他にはまんがおもしろオリンピック、ハンナ・バーベラ秘宝探検団、アニマニアックス、ジェリーストーン!などといった作品にも登場している。
※テレビでの日本語版声優は不明。ただし、2001年4月頃にカートゥーンネットワークの「カートゥーン・カートゥーン・ショー」で放送していたようである(例:「レストランで働くぞ」)。 | [
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] | アヒルのヤッキーは、ハンナ・バーベラ・プロダクション制作のヨギ・ベア(クマゴロー)(1961年)に登場するキャラクター。ヤッキー・ドゥードルという名前は、ヤンキー・ドゥードルが元となっている。 | '''アヒルのヤッキー'''(Yakky Doodle)は、[[ハンナ・バーベラ・プロダクション]]制作の[[ヨギ・ベア|ヨギ・ベア(クマゴロー)]](1961年)に登場するキャラクター。ヤッキー・ドゥードルという名前は、[[ヤンキー・ドゥードル]]が元となっている。
== 詳細 ==
ヤッキー・ドゥードルは、緑の羽を持った黄色いアヒル。養父で友達のチョッパーと一緒に暮らしている。ヤッキーは、いつも危ない目にあうことが多く、悪いキツネや悪いワニに追われることがある。いつも「君は僕のママ?」と言っているほか、「Ta-ra-ra Coom-de-ay」をよく歌う。
ヤッキーは、クマゴローのエピソードにビディ・バディという名前で「Slumber Party Smarty」と「Duck in Luck」という回に登場したことがある。[[オギーとダディー]]のエピソード「Gone to the Ducks」と「Yuk Yuk Duck」「Let's the Duck Out」にも登場したことがあり、ライオンのレオのエピソード「Live and Lion」でも登場したことがある。
他には[[まんがおもしろオリンピック]]、[[ハンナ・バーベラ秘宝探検団]]、[[アニマニアックス]]、[[ジェリーストーン!]]などといった作品にも登場している。
== キャラクター ==
※テレビでの日本語版声優は不明。ただし、2001年4月頃に[[カートゥーンネットワーク]]の「カートゥーン・カートゥーン・ショー」で放送していたようである(例:「レストランで働くぞ」[https://web.archive.org/web/20040610003031fw_/http://anime_list.at.infoseek.co.jp/list/2001/04.html])。
; Chopper
: 声 - [[ヴァンス・コルヴィッグ]]、日本語吹き替え - 不明(テレビ版)、[[丸山裕子]](ビデオ版<ref>ハンナ・バーベラ ホーム・ビデオ「ハックのドタバタ・ピクニック」(発売日:1990年4月21日 型番:HC-518、発売元 - [[日本コロムビア]])</ref>)
: ヤッキーを悪者から救うブルドッグ。
; Fibber Fox
: 声 - [[ドーズ・バトラー]]、日本語吹き替え - 不明(テレビ版)
: ヤッキーを食いに狙う悪いキツネ。
; ネコ
: 声 - ドーズ・バトラー、日本語吹き替え - 不明(テレビ版)
: Fibber Foxの親戚で、ヤッキーを食うことを狙っているが、Chopperや女主人に叱られることがある。
; alffy Gator
: 声 - ドーズ・バトラー、日本語吹き替え - 不明(テレビ版)
: ヤッキーを料理にしようとするゲイター(ワニ)。
== 脚注 ==
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{{ハンナ・バーベラ・プロダクション}}
{{DEFAULTSORT:あひるのやつきい}}
[[Category:ハンナ・バーベラキャラクター]]
[[Category:架空のアヒル]] | 2023-10-08T03:11:39Z | 2023-10-08T03:12:06Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%92%E3%83%AB%E3%81%AE%E3%83%A4%E3%83%83%E3%82%AD%E3%83%BC |
4,838,851 | ハドロサウルス上科 | ハドロサウルス上科(はどろさうるすじょうか、学名 Hadrosauroidea)は、ハドロサウルス科、およびイグアノドンよりもそれらに近縁なすべての恐竜が含まれる、鳥盤目の分類群または上科。カモノハシ恐竜、カモハシ竜としても知られ、化石はアジア・ヨーロッパ・アフリカ・北アメリカ・南アメリカで産出している。アジアのプロバクトロサウルスやアルティリヌスなどの基盤的なハドロサウルス上科の多くは、側系統群(不自然な分類群)イグアノドン科に含まれてきた。分岐学によると、イグアノドン科はほぼ解体されており、おそらくイグアノドンとおそらくその近縁種のみが含まれると考えられる。
ハドロサウルス上科の恐竜は植物食で、アヒルの嘴に似た、幅広で平らなスプーン型の歯のない吻部を持っていた。これらの恐竜の口は、おそらく葉を食べるのに特に適していたと考えられる(デンタルバッテリー)。現在の一部の哺乳類の柔軟な下顎関節とは異なり、ハドロサウルス類は上顎と残りの頭蓋骨の間に特別なヒンジを持っていた。研究者らは、咀嚼の際、恐竜の上顎臼歯が側面に外側に押し出され、下顎が上の歯に向かって働いていることを発見した。属は大きな群れで移動し、世界中に広がっていた。ハドロサウルス上科は、頭頂部に中空の鶏冠または管があるランベオサウルス亜科と、中空の鶏冠のないサウロロフス亜科の2つの亜科に分かれている。この亜科にはエドモントサウルスやパラサウロロフスなどの鳥脚類が含まれており、すべてのは植物食恐竜であり、後期白亜紀にはアジア、ヨーロッパ、北アメリカに生息していた。ハドロサウルス類は、後期ジュラ紀から後期白亜紀にかけて生息していたイグアノドン科の恐竜の姉妹分類群であり、非常によく似た体型をしていた。
最も完全な標本の1つは、1999年にアメリカノースダコタ州のヘルクリーク層で発見され、「ダコタ」と呼ばれた。このハドロサウルスの化石は保存状態が非常に良いため、科学者らは筋肉量を計算することができ、この恐竜にはこれまで考えられていたよりも多くの筋肉があり、ティラノサウルスのような捕食者から逃れる方法を与えた可能性があることがわかった。単なる化石とは異なり、このミイラ化したハドロサウルスには、化石化した皮膚、靱帯、腱、そしておそらくいくつかの内臓がすべて残っていた。ミイラは、ボーイング社の世界最大級のCTスキャナーを使用して分析された。それまで、スキャナーはスペースシャトルのエンジンやその他の大きな物体のエラーを検出するためにのみ使用されていた。CT画像を検査したところ、研究者らは各椎骨の間に約1センチメートルの隙間があることを発見した。これは、それらの間に円盤または他の体節があり、ハドロサウルスがより柔軟になることを可能にしたことを意味している可能性がある。
これらの恐竜の顎には、絶えず成長する歯でできた細長い咀嚼面があり、口をすりつぶす動きで食べ物をよく噛むことができた。ハドロサウルス類は高度に発達した後肢を持っていたが、おそらく主に四足歩行で動いていたと考えられる。逃走中はもっぱら二足歩行で移動していた可能性があるようである。ハドロサウルス科の亜分類群であるランベオサウルス亜科は、頭蓋骨にとさかまたは角を持っていた。研究者らは、これらの恐竜は求愛行動の際、あるいは個々の種間の認識やコミュニケーションの際に、ラッパのような音を出すことができたのではないかと考えている。ハドロサウルス類が大規模な群れで共同生活し、現代の有蹄類と同様の非常に密な社会構造を持っていたことが、数多くの発見によって証明されている。特にマイアサウラの巣の発見を通じて、彼らが大規模な繁殖コロニーで子孫を育てていたことが知られている。
以下の系統は、2012年の解析に従っており、スティラコステルナ内でのハドロサウルス上科の分類群的位置を示している。
以下の系統は、2012年にフー・ウェンハオとパスカル・ゴドフロワ(英語版)による分析に従っている。
プリエト・マルケスおよびノレルによる2010年のクラドグラム。
2012年にラミレス・ベラスコらによって行われた系統解析では、プロバクトロサウルスよりも派生しているが、ハドロサウルス科よりも基盤的なすべてのハドロサウルス類の間で大きな多分岐(英語版)を発見した。クラオサウルス(英語版)、ジェヤワティ、レヴネソヴィア、ナンヤンゴサウルス、シュアンミャオサウルス(英語版)、テルマトサウルスを分析から除外することで、より詳細なトポロジーが得られた。 | [
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] | ハドロサウルス上科は、ハドロサウルス科、およびイグアノドンよりもそれらに近縁なすべての恐竜が含まれる、鳥盤目の分類群または上科。カモノハシ恐竜、カモハシ竜としても知られ、化石はアジア・ヨーロッパ・アフリカ・北アメリカ・南アメリカで産出している。アジアのプロバクトロサウルスやアルティリヌスなどの基盤的なハドロサウルス上科の多くは、側系統群(不自然な分類群)イグアノドン科に含まれてきた。分岐学によると、イグアノドン科はほぼ解体されており、おそらくイグアノドンとおそらくその近縁種のみが含まれると考えられる。 | {{生物分類表
| 名称 = ハドロサウルス上科 <br />Hadrosauroidea
| fossil_range = [[前期白亜紀]] - [[後期白亜紀]], {{fossilrange|130|66|earliest=130|PS=}}
| 画像 = [[File:Probactrosaurus v3.jpg|250px|プロバクトロサウルス]]
| 画像キャプション = [[プロバクトロサウルス]]
| 地質時代 = [[前期白亜紀]]
| 地質時代2 = [[後期白亜紀]]
| ドメイン = [[真核生物]] {{sname||Eukaryota}}
| 省略 = 恐竜上目
| 目 = [[絶滅|†]][[鳥盤類|鳥盤目]] {{sname||Ornithischia}}
| 目階級なし = {{生物分類表/階級なし複数
| [[ゲナサウルス類]] {{sname||Genasauria}}
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| 亜目階級なし = {{生物分類表/階級なし複数
| [[イグアノドン類]] {{sname||Iguanodontia}}
| [[ドリオ形類]] {{sname||Dryomorpha}}
| [[アンキロポレクシア|堅拇指類]] {{sname||Ankylopollexia}}
| [[スティラコステルナ|棘胸骨類]] {{sname||Styracosterna}}
| [[ハドロサウルス型類]] {{sname||Hadrosauriformes}}}}
| 上科 = '''ハドロサウルス上科''' {{sname||Hadrosauroidea}}
| 学名 = '''Hadrosauroidea''' <br/>{{AUY|[[エドワード・ドリンカー・コープ|Cope]]|1869}}
| 和名 = '''ハドロサウルス上科'''
| 下位分類名 = [[属 (分類学)|属]]、下位分類群
| 下位分類 =
* [[アルティリヌス]]
* {{仮リンク|バティロサウルス|en|Batyrosaurus}}
* {{仮リンク|ボーロン (恐竜)|label=ボーロン|en|Bolong}}?
* [[チョイロドン]]
* {{仮リンク|ダトンロン|en|Datonglong}}
* [[エクイジュブス]]
* [[ゴンポクアンサウルス]]
* {{仮リンク|ゴンコケン|en|Gonkoken}}
* [[コシサウルス]]
* [[ジンゾウサウルス]]?
* [[マンテリサウルス]]?
* [[オウラノサウルス]]?
* {{仮リンク|ペネロポグナトゥス|en|Penelopognathus}}
* {{仮リンク|ポーテルサウルス|en|Portellsaurus}}
* [[プロバクトロサウルス]]
* {{仮リンク|シアモドン|en|Siamodon}}
* {{仮リンク|シリンドホルナ|en|Sirindhorna}}
* [[シュウーロン]]
* {{仮リンク|ズオユンロン|en|Zuoyunlong}}
* [[ハドロサウルス形類]]
| シノニム = Trachodontoidea {{AUY|[[リチャード・ライデッカー|Lydekker]]|1888}} <br/>Hadrosauria {{AUY|[[フリードリヒ・フォン・ヒューネ|Huene]]|1956}}
}}
'''ハドロサウルス上科'''(はどろさうるすじょうか、[[学名]] '''Hadrosauroidea''')は、[[ハドロサウルス科]]、および[[イグアノドン]]よりもそれらに近縁なすべての[[恐竜]]が含まれる、[[鳥盤目]]の[[分類群]]または[[科 (分類学)|上科]]。'''カモノハシ恐竜'''、'''カモハシ竜'''としても知られ、化石は[[アジア]]・[[ヨーロッパ]]・[[アフリカ]]・[[北アメリカ]]・[[南アメリカ]]で産出している。アジアの[[プロバクトロサウルス]]や[[アルティリヌス]]などの基盤的なハドロサウルス上科の多くは、[[側系統群]](不自然な分類群)[[イグアノドン科]]に含まれてきた。[[分岐学]]によると、イグアノドン科はほぼ解体されており、おそらくイグアノドンとおそらくその近縁種のみが含まれると考えられる。
== 概要 ==
[[File:Adult and juvenile hadrosaur jawbone.jpg|thumb|[[デンタルバッテリー]]]]
ハドロサウルス上科の[[恐竜]]は[[植物食]]で、[[アヒル]]の[[嘴]]に似た、幅広で平らなスプーン型の[[歯]]のない吻部を持っていた。これらの恐竜の口は、おそらく[[葉]]を食べるのに特に適していたと考えられる([[デンタルバッテリー]])。現在の一部の[[哺乳類]]の柔軟な[[下顎関節]]とは異なり、ハドロサウルス類は[[上顎]]と残りの[[頭蓋骨]]の間に特別なヒンジを持っていた<ref name="FAMILIENLISTE"> {{Cite web |title=FAMILIENLISTE / Hadrosauroidea|url=https://dinodata.de/animals/family_pages/hadrosauroidea.php |website=Dinodeta.de |access-date=2023-10-08 |language=de}}</ref>。研究者らは、咀嚼の際、恐竜の[[上顎臼歯]]が側面に外側に押し出され、[[下顎]]が上の歯に向かって働いていることを発見した。属は大きな群れで移動し、世界中に広がっていた。ハドロサウルス上科は、頭頂部に中空の[[鶏冠]]または管がある[[ランベオサウルス亜科]]と、中空の鶏冠のない[[サウロロフス亜科]]の2つの亜科に分かれている。この亜科には[[エドモントサウルス]]や[[パラサウロロフス]]などの[[鳥脚類]]が含まれており、すべてのは植物食恐竜であり、[[後期白亜紀]]には[[アジア]]、[[ヨーロッパ]]、[[北アメリカ]]に生息していた。ハドロサウルス類は、[[後期ジュラ紀]]から[[後期白亜紀]]にかけて生息していた[[イグアノドン科]]の恐竜の姉妹分類群であり、非常によく似た体型をしていた<ref name="FAMILIENLISTE"/>。
最も完全な[[標本]]の1つは、[[1999年]]に[[アメリカ]][[ノースダコタ州]]の[[ヘルクリーク層]]で発見され、「ダコタ」と呼ばれた。このハドロサウルスの化石は保存状態が非常に良いため、科学者らは筋肉量を計算することができ、この恐竜にはこれまで考えられていたよりも多くの[[筋肉]]があり、[[ティラノサウルス]]のような捕食者から逃れる方法を与えた可能性があることがわかった<ref name="FAMILIENLISTE" />。単なる[[化石]]とは異なり、この[[ミイラ化]]したハドロサウルスには、化石化した[[皮膚]]、[[靱帯]]、[[腱]]、そしておそらくいくつかの[[内臓]]がすべて残っていた。ミイラは、[[ボーイング社]]の世界最大級の[[CTスキャナー]]を使用して分析された。それまで、スキャナーは[[スペースシャトル]]の[[エンジン]]やその他の大きな物体のエラーを検出するためにのみ使用されていた。CT画像を検査したところ、研究者らは各[[椎骨]]の間に約1センチメートルの隙間があることを発見した。これは、それらの間に[[円盤]]または他の[[体節]]があり、ハドロサウルスがより柔軟になることを可能にしたことを意味している可能性がある<ref name="FAMILIENLISTE"/>。
これらの恐竜の[[顎]]には、絶えず成長する歯でできた細長い[[咀嚼面]]があり、口をすりつぶす動きで食べ物をよく噛むことができた。ハドロサウルス類は高度に発達した[[後肢]]を持っていたが、おそらく主に四足歩行で動いていたと考えられる。逃走中はもっぱら二足歩行で移動していた可能性があるようである。ハドロサウルス科の亜分類群であるランベオサウルス亜科は、頭蓋骨にとさかまたは[[角]]を持っていた。研究者らは、これらの恐竜は[[求愛行動]]の際、あるいは個々の種間の認識や[[コミュニケーション]]の際に、[[ラッパ]]のような音を出すことができたのではないかと考えている。ハドロサウルス類が大規模な群れで共同生活し、現代の有蹄類と同様の非常に密な社会構造を持っていたことが、数多くの発見によって証明されている。特に[[マイアサウラ]]の巣の発見を通じて、彼らが大規模な[[繁殖コロニー]]で[[子孫]]を育てていたことが知られている<ref name="FAMILIENLISTE"/>。
== 分類 ==
以下の系統は、[[2012年]]の解析に従っており、[[スティラコステルナ]]内でのハドロサウルス上科の分類群的位置を示している<ref name=McDonaldUpdate>{{Cite journal | last1 = McDonald | first1 = A. T. | editor1-last = Farke| editor1-first =Andrew A| title = Phylogeny of Basal Iguanodonts (Dinosauria: Ornithischia): An Update | doi = 10.1371/journal.pone.0036745 | journal = PLOS ONE | volume = 7 | issue = 5 | pages = e36745 | year = 2012 | pmid = 22629328| pmc =3358318 | doi-access = free }}</ref>。
{{clade| style=font-size:100%;line-height:80%
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以下の系統は、2012年にフー・ウェンハオと{{仮リンク|パスカル・ゴドフロワ|en|Pascal Godefroit}}による分析に従っている<ref name=BolongRev>{{cite book |author1=Wu Wenhao |author2=Pascal Godefroit |year=2012 |chapter=Anatomy and Relationships of ''Bolong yixianensis'', an Early Cretaceous Iguanodontoid Dinosaur from Western Liaoning, China |editor=Godefroit, P. |title=Bernissart Dinosaurs and Early Cretaceous Terrestrial Ecosystems |url=https://archive.org/details/bernissartdinosa00gode |url-access=limited |publisher=Indiana University Press |pages=[https://archive.org/details/bernissartdinosa00gode/page/n309 293]–333}}</ref>。
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プリエト・マルケスおよびノレルによる2010年の[[クラドグラム]]<ref name="Prieto-Marquez2010">{{cite journal |author=Albert Prieto-Marquez |author2=Mark A. Norell |name-list-style=amp |year=2010 |title=Anatomy and Relationships of ''Gilmoreosaurus mongoliensis'' (Dinosauria: Hadrosauroidea) from the Late Cretaceous of Central Asia |journal=American Museum Novitates |issue=3694 |pages=1–52 |issn=0003-0082 |url=http://digitallibrary.amnh.org/dspace/bitstream/2246/6080/1/N3694.pdf |doi=10.1206/3694.2 |s2cid=56372891 }}{{Dead link|date=March 2022 |bot=InternetArchiveBot |fix-attempted=yes }}</ref>。
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|label1='''ハドロサウルス上科'''
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|3={{仮リンク|ロフォロトン|en|Lophorhothon}}
|4=[[ハドロサウルス科]] }} }} }} }} }} }} }} }} }} }}
2012年にラミレス・ベラスコらによって行われた[[系統学|系統解析]]では、[[プロバクトロサウルス]]よりも派生しているが、[[ハドロサウルス科]]よりも基盤的なすべてのハドロサウルス類の間で大きな{{仮リンク|多分岐|en|polytomy}}を発見した。{{仮リンク|クラオサウルス|en|Claosaurus}}、[[ジェヤワティ]]、[[レヴネソヴィア]]、[[ナンヤンゴサウルス]]、{{仮リンク|シュアンミャオサウルス|en|Shuangmiaosaurus}}、[[テルマトサウルス]]を分析から除外することで、より詳細なトポロジーが得られた<ref name=Huehuecanauhtlus>{{Cite journal|author1=Angel Alejandro Ramírez-Velasco |author2=Mouloud Benammi |author3=Albert Prieto-Márquez |author4=Jesús Alvarado Ortega |author5=René Hernández-Rivera |year=2012 |title=''Huehuecanauhtlus tiquichensis'', a new hadrosauroid dinosaur (Ornithischia: Ornithopoda) from the Santonian (Late Cretaceous) of Michoacán, Mexico |journal=Canadian Journal of Earth Sciences |volume=49 |issue=2 |pages=379–395 |doi=10.1139/e11-062 |url=http://www.nrcresearchpress.com/doi/abs/10.1139/e11-062 }}</ref>。
{{clade| style=font-size:90%;line-height:85%
|label1='''ハドロサウルス上科'''
|1={{clade
|1=[[ジンゾウサウルス|ジンゾウサウルス・ヤンギ]]
|2={{clade
|1=[[フクイサウルス|フクイサウルス・テトリエンシス]]
|2={{clade
|1={{仮リンク|ペネロポグナトゥス|label=ペネロポグナトゥスウェイシェンペリ|en|Penelopognathus}}
|2={{clade
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|2={{clade
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|1=[[エオランビア|エオランビア・カロルジョニサ]]
|2={{仮リンク|プロトハドロス|label=プロトハドロス・ビルディ|en|Protohadros}} }}
|2={{clade
|1=[[タニウス|タニウス・シネンシス]]
|2={{clade
|1={{clade
|1=[[バクトロサウルス|バクトロサウルス・ジョンソニ]]
|2=[[グリスハデス|グリスハデス・エリクソニ]] }}
|2={{clade
|1=[[ギルモレオサウルス|ギルモレオサウルス・モンゴリエンシス]]
|2={{clade
|1=[[フエフエカナウトルス|フエフエカナウトルス・ティキチェンシス]]
|2={{clade
|1={{clade
|1={{仮リンク|ジンタサウルス|label=ジンタサウルス・マニスケス|en|Jintasaurus}}
|2=[[テティスハドロス|テティスハドロス・インスラリス]] }}
|2=[[ハドロサウルス科]] }} }} }} }} }} }} }} }} }} }} }} }}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[絶滅した動物一覧]]
*[[化石爬虫類の一覧]]
*[[恐竜の一覧]]
*[[鳥脚類]]
{{Taxonbar|from=Q1032465}}
{{DEFAULTSORT:はとろさうるすしようか}}
[[Category:1969年に記載された化石分類群]]
[[Category:鳥脚類]] | 2023-10-08T03:28:02Z | 2023-11-29T21:55:49Z | false | false | false | [
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"Template:生物分類表"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%89%E3%83%AD%E3%82%B5%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%82%B9%E4%B8%8A%E7%A7%91 |
4,838,854 | 野寺町 | 野寺町(のでらちょう)は、愛知県安城市の地名。
安城市南東部に位置する。東は寺領町、西から南は藤井町、北は小川町に接する。
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる。
野原の中に寺があったことによるという。
国勢調査による人口および世帯数の推移。 | [
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] | 野寺町(のでらちょう)は、愛知県安城市の地名。 | {{Pathnav|日本|愛知県|安城市|'''野寺町'''|hide=1|frame=1}}
{{Infobox settlement
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| established_title1 = 町名制定
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| area_footnotes = <ref group=WEB name="area">{{Cite web|url=https://toukei-labo.com/2015/?tdfk=23&city=23212|title=愛知県安城市の町丁・字一覧|publisher=人口統計ラボ|language=日本語|accessdate=2023-08-26}}</ref>
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| population_as_of= 2020年(令和2年)10月1日現在
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| postal_code = 444-1165<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?pref=23&city=1232120&cmp=1&mode=list&addr=|title=愛知県安城市の郵便番号一覧|publisher=日本郵便|accessdate=2023-08-26}}</ref>
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| registration_plate = [[愛知運輸支局|三河]]
| footnotes =
}}
'''野寺町'''(のでらちょう)は、[[愛知県]][[安城市]]の地名。
== 地理 ==
安城市南東部に位置する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}。東は[[寺領町]]、西から南は[[藤井町 (安城市)|藤井町]]、北は[[小川町 (安城市)|小川町]]に接する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}。
=== 学区 ===
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.city.anjo.aichi.jp/manabu/gakko/kyoikushisetsu/gakku.html|title=小中学校区一覧(町別50音順)|author=安城市役所教育振興部学校教育課学事係|publisher=安城市|date=2022-04-07|accessdate=2023-10-08}}</ref>。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.pref.aichi.jp/soshiki/kotogakko/0000080445.html|title=平成29年度以降の愛知県公立高等学校(全日制課程)入学者選抜における通学区域並びに群及びグループ分け案について|publisher=愛知県教育委員会|date=2015-02-16|accessdate=2019-01-14}}</ref>。
{| class="wikitable"
!番・番地等!!小学校!!中学校!!高等学校
|-
||全域||[[安城市立桜井小学校]]||[[安城市立桜井中学校]]||[[愛知県の高校入試#三河学区|三河学区]]
|}
== 歴史 ==
=== 町名の由来 ===
野原の中に寺があったことによるという{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1047}}。
=== 人口の変遷 ===
[[国勢調査]]による人口および世帯数の推移。
{| class="wikitable"
|-
|1995年(平成7年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000023630251&fileKind=1|format=CSV|title=平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-03-28|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|134世帯<br>533人||<div style="width:13.4px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:53.3px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2000年(平成12年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025137780&fileKind=1|format=CSV|title=平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-05-30|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|137世帯<br>525人||<div style="width:13.7px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:52.5px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2005年(平成17年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025514226&fileKind=1|format=CSV|title=平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-06-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|150世帯<br>525人||<div style="width:15px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:52.5px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2010年(平成22年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000012671534&fileKind=1|format=CSV|title=平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2012-01-20|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|147世帯<br>499人||<div style="width:14.7px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:49.9px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2015年(平成27年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000031522121&fileKind=1|format=CSV|title=平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2017-01-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|149世帯<br>502人||<div style="width:14.9px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:50.2px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2020年(令和2年)<ref group=WEB name=R2国勢調査>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000032163424&fileKind=1|format=CSV|title=令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口,外国人人口及び世帯数-町丁・字等|author=総務省統計局|date=2022-02-10|accessdate=2023-08-02|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|186世帯<br>539人||<div style="width:18.6px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:53.9px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|}
=== 沿革 ===
{{節スタブ}}
* 1878年(明治11年) - 碧海郡[[三ツ川村]]大字野寺となる{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1048}}。
* 1906年(明治39年) - [[桜井町 (愛知県)|桜井町]]大字野寺となる{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1048}}。
* 1956年(昭和31年) - 安城市大字野寺となる{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1048}}。
* 1967年(昭和42年) - 安城市野寺町が成立{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1048}}。
== 施設 ==
* 野寺公民館{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* 真宗大谷派善証寺{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* [[本證寺 (安城市)|本證寺]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== WEB ===
{{Reflist|group="WEB"|refs=}}
=== 書籍 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1989|date=1989-03-08|title=[[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県|publisher=[[角川書店]]|isbn=4-04-001230-5|language=ja|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[安城市の町名]]
== 外部リンク ==
* {{commonscat-inline}}
{{Geographic Location
| Northwest<!--北西--> =
| North<!--北--> = [[小川町 (安城市)|小川町]]
| Northeast<!--北東--> =
| West<!--西--> = [[藤井町 (安城市)|藤井町]]
| Centre<!--中央--> = 野寺町
| East<!--東--> = [[寺領町]]
| Southwest<!--南西--> =
| South<!--南--> = [[藤井町 (安城市)|藤井町]]
| Southeast<!--南東--> =
}}
{{安城市の町・字}}
{{Japan-block-stub}}
{{Pref-stub|pref=愛知県}}
{{デフォルトソート:のてらちよう}}
[[Category:安城市の町名]] | 2023-10-08T03:43:18Z | 2023-10-08T03:43:18Z | false | false | false | [
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"Template:Geographic Location",
"Template:安城市の町・字",
"Template:Pref-stub",
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"Template:Sfn"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%AF%BA%E7%94%BA |
4,838,859 | U-19サッカーマルタ代表 | U-19サッカーマルタ代表(U-19サッカーマルタだいひょう、マルタ語: Tim nazzjonali tal-futbol ta' Malta ta' taħt id-19-il sena, 英語: Malta national under-19 football team)は、マルタサッカー協会によって編成されるマルタのサッカーの19歳以下のナショナルチームである。19歳以下を対象とするUEFA U-19欧州選手権に出場するためのチームである。 | [
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] | U-19サッカーマルタ代表は、マルタサッカー協会によって編成されるマルタのサッカーの19歳以下のナショナルチームである。19歳以下を対象とするUEFA U-19欧州選手権に出場するためのチームである。 | {{サッカーナショナルチーム
|国={{MLT}}
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|国際大会最高成績=グループステージ敗退 (2023)
}}
'''U-19サッカーマルタ代表'''(U-19サッカーマルタだいひょう、[[マルタ語]]: Tim nazzjonali tal-futbol ta' Malta ta' taħt id-19-il sena, ''[[英語]]: Malta national under-19 football team'')は、[[マルタサッカー協会]]によって編成される[[マルタ]]の[[サッカー]]の19歳以下のナショナルチームである。19歳以下を対象とする[[UEFA U-19欧州選手権]]に出場するためのチームである。
== UEFA U-19欧州選手権の成績 ==
{|class="wikitable" style="text-align: center;"
|-
!開催年!!結果!!試!!勝!!分!!負!!得!!失
|-
|{{flagicon|NOR}} [[UEFA U-19欧州選手権2002|2002]]||colspan="7" rowspan="18"|''予選敗退''
|-
|{{flagicon|LIE}} [[UEFA U-19欧州選手権2003|2003]]
|-
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|-
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|-
|{{flagicon|UKR}} [[UEFA U-19欧州選手権2009|2009]]
|-
|{{flagicon|FRA}} [[UEFA U-19欧州選手権2010|2010]]
|-
|{{flagicon|ROU}} [[UEFA U-19欧州選手権2011|2011]]
|-
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|-
|{{flagicon|LTU}} [[UEFA U-19欧州選手権2013|2013]]
|-
|{{flagicon|HUN}} [[UEFA U-19欧州選手権2014|2014]]
|-
|{{flagicon|GRE}} [[UEFA U-19欧州選手権2015|2015]]
|-
|{{flagicon|GER}} [[UEFA U-19欧州選手権2016|2016]]
|-
|{{flagicon|GEO}} [[UEFA U-19欧州選手権2017|2017]]
|-
|{{flagicon|FIN}} [[UEFA U-19欧州選手権2018|2018]]
|-
|{{flagicon|ARM}} [[UEFA U-19欧州選手権2019|2019]]
|-
|{{flagicon|NIR}} [[UEFA U-19欧州選手権2020|2020]]||colspan="7"|'''[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症の世界的流行]]により中止'''<ref>{{cite web|url=https://www.uefa.com/under19/news/025e-0fac6fe40557-8da71e4a1ab1-1000--2020-under-19-euro-cancelled/?iv=true|title=2020 Under-19 EURO cancelled|publisher=UEFA.com|date=2020-10-20|accessdate=2022-7-10}}</ref>
|-
|{{flagicon|ROM}} [[UEFA U-19欧州選手権2021|2021]]||colspan="7"|'''[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症の世界的流行]]により中止'''<ref>{{cite web|url=https://www.uefa.com/under19/news/0266-11a56ec11741-2377dafed677-1000--2020-21-under-19-euro-cancelled/|title=2020/21 Under-19 EURO cancelled|publisher=UEFA.com|date=2021-2-23|accessdate=2022-7-10}}</ref>
|-
|{{flagicon|SVK}} [[UEFA U-19欧州選手権2022|2022]]||colspan="7"|''予選敗退''
|-
|style="border: 3px solid red"|{{flagicon|MLT}} [[UEFA U-19欧州選手権2023|2023]]||グループステージ敗退||3||0||0||3||1||8
|-
!通算!!最高成績 : グループステージ敗退<br />20大会中/1回出場!!3!!0!!0!!3!!1!!8
|}
== 歴代監督 ==
*{{flagicon|POR}} [[トゼ・メンデス]] 2022-
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
*[https://www.rsssf.org/tablese/europe-u18.html U-19マルタ代表] - [[Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation|RSSF]]による大会成績
*[https://www.uefa.com/under19/teams/300088--malta/ U-19マルタ代表] - [[UEFA]]
{{マルタのサッカー}}
[[Category:サッカーマルタ代表|U19]]
[[Category:サッカーのU-19ナショナルチーム|まるた]] | 2023-10-08T03:49:09Z | 2023-10-08T03:49:09Z | false | false | false | [
"Template:Flagicon",
"Template:Reflist",
"Template:Cite web",
"Template:マルタのサッカー",
"Template:サッカーナショナルチーム"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/U-19%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%BF%E4%BB%A3%E8%A1%A8 |
4,838,861 | 池浦町 | 池浦町(いけうらちょう)は、日本の地名。 | [
{
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"text": "池浦町(いけうらちょう)は、日本の地名。",
"title": null
}
] | 池浦町(いけうらちょう)は、日本の地名。 池浦町 (安城市) - 愛知県安城市の地名。
池浦町 (泉大津市) - 大阪府泉大津市の地名。 | '''池浦町'''(いけうらちょう)は、[[日本]]の[[地名]]。
* [[池浦町 (安城市)]] - [[愛知県]][[安城市]]の地名。
* [[池浦町 (泉大津市)]] - [[大阪府]][[泉大津市]]の地名。
{{地名の曖昧さ回避}}
{{デフォルトソート:いけうらちよう}} | 2023-10-08T03:58:53Z | 2023-10-08T03:58:53Z | false | false | false | [
"Template:地名の曖昧さ回避"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E6%B5%A6%E7%94%BA |
4,838,864 | U-19サッカーギリシャ代表 | U-19サッカーギリシャ代表(U-19サッカーギリシャだいひょう、ギリシャ語: Εθνική ομάδα ποδοσφαίρου Ελλάδας κάτω των 19 ετών, 英語: Greece national under-19 football team)は、ギリシャサッカー連盟によって編成されるギリシャのサッカーの19歳以下のナショナルチームである。19歳以下を対象とするUEFA U-19欧州選手権に出場するためのチームである。 | [
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] | U-19サッカーギリシャ代表は、ギリシャサッカー連盟によって編成されるギリシャのサッカーの19歳以下のナショナルチームである。19歳以下を対象とするUEFA U-19欧州選手権に出場するためのチームである。 | {{サッカーナショナルチーム
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|監督={{flagicon|GRE}} [[アナスタシオス・テオス]]
|最多出場選手=[[ソティリオス・リベロプロス]]
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|初の国際試合={{fbu|19|CSK}} 2-0 {{fbu|19|GRE}}<br />([[ハンガリー]], 1956年3月29日)
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|ナショナルチームによる国際大会=[[UEFA U-19欧州選手権]]
|国際大会出場回数=7
|国際大会最高成績=準優勝 (2回)
}}
'''U-19サッカーギリシャ代表'''(U-19サッカーギリシャだいひょう、[[ギリシャ語]]: Εθνική ομάδα ποδοσφαίρου Ελλάδας κάτω των 19 ετών, ''[[英語]]: Greece national under-19 football team'')は、[[ギリシャサッカー連盟]]によって編成される[[ギリシャ]]の[[サッカー]]の19歳以下のナショナルチームである。19歳以下を対象とする[[UEFA U-19欧州選手権]]に出場するためのチームである。
== UEFA U-19欧州選手権の成績 ==
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|-
!開催年!!結果!!試!!勝!!分!!負!!得!!失
|-
|{{flagicon|NOR}} [[UEFA U-19欧州選手権2002|2002]]||colspan="7" rowspan="3"|''予選敗退''
|-
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|-
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|{{flagicon|POL}} [[UEFA U-19欧州選手権2006|2006]]||colspan="7"|''予選敗退''
|-bgcolor=silver
|{{flagicon|AUT}} [[UEFA U-19欧州選手権2007|2007]]||準優勝||5||2||2||1||5||4
|-
|{{flagicon|CZE}} [[UEFA U-19欧州選手権2008|2008]]||グループステージ敗退||3||0||2||1||1||4
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|-
|{{flagicon|ROU}} [[UEFA U-19欧州選手権2011|2011]]||グループステージ敗退||3||1||0||2||2||3
|-bgcolor=silver
|{{flagicon|EST}} [[UEFA U-19欧州選手権2012|2012]]||準優勝||5||3||0||2||10||7
|-
|{{flagicon|LTU}} [[UEFA U-19欧州選手権2013|2013]]||colspan="7" rowspan="2"|''予選敗退''
|-
|{{flagicon|HUN}} [[UEFA U-19欧州選手権2014|2014]]
|-
|style="border: 3px solid red"|{{flagicon|GRE}} [[UEFA U-19欧州選手権2015|2015]]||ベスト4||4||1||1||2||2||6
|-
|{{flagicon|GER}} [[UEFA U-19欧州選手権2016|2016]]||colspan="7" rowspan="4"|''予選敗退''
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|{{flagicon|GEO}} [[UEFA U-19欧州選手権2017|2017]]
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|{{flagicon|ARM}} [[UEFA U-19欧州選手権2019|2019]]
|-
|{{flagicon|NIR}} [[UEFA U-19欧州選手権2020|2020]]||colspan="7"|'''[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症の世界的流行]]により中止'''<ref>{{cite web|url=https://www.uefa.com/under19/news/025e-0fac6fe40557-8da71e4a1ab1-1000--2020-under-19-euro-cancelled/?iv=true|title=2020 Under-19 EURO cancelled|publisher=UEFA.com|date=2020-10-20|accessdate=2022-7-10}}</ref>
|-
|{{flagicon|ROM}} [[UEFA U-19欧州選手権2021|2021]]||colspan="7"|'''[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症の世界的流行]]により中止'''<ref>{{cite web|url=https://www.uefa.com/under19/news/0266-11a56ec11741-2377dafed677-1000--2020-21-under-19-euro-cancelled/|title=2020/21 Under-19 EURO cancelled|publisher=UEFA.com|date=2021-2-23|accessdate=2022-7-10}}</ref>
|-
|{{flagicon|SVK}} [[UEFA U-19欧州選手権2022|2022]]||colspan="7"|''予選敗退''
|-
|{{flagicon|MLT}} [[UEFA U-19欧州選手権2023|2023]]||グループステージ敗退||3||0||1||2||4||10
|-
!通算!!最高成績 : 準優勝<br />20大会中/7回出場!!26!!8!!6!!12!!25!!40
|}
== 歴代監督 ==
*{{flagicon|GRE}} [[ニコス・ニオプリアス]] 2005-2007
*{{flagicon|GRE}} [[アレクサンドロス・アレクシウ]] 2007-2009
*{{flagicon|GRE}} [[レオニダス・ヴォコロス]] 2010-2011
*{{flagicon|GRE}} [[コスタス・ツァナス]] 2011-2012
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
*[https://www.uefa.com/under19/teams/300049--greece/ U-19ギリシャ代表] - [[UEFA]]
*[https://www.epo.gr/TeamHome.aspx?a_id=22531&NewsType=22&Competition=13105&Season=2000000137&Country=7&Team=1000001031&Round=2000000363&Group=1000164534 U-19ギリシャ代表] - [[ギリシャサッカー連盟]]
{{ギリシャのサッカー}}
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[[Category:サッカーギリシャ代表|U19]]
[[Category:サッカーのU-19ナショナルチーム|きりしや]] | 2023-10-08T04:07:46Z | 2023-10-08T04:07:46Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/U-19%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A3%E4%BB%A3%E8%A1%A8 |
4,838,865 | ホーマー・ヴァン・メーター | ホーマー・ヴァン・メーター(Homer Virgil Van Meter, 1905-1934)は1930年代のアメリカのギャング。デリンジャーギャングに加わり複数の銀行強盗を行なった。
1905年12月3日、インディアナ州フォートウェインで生まれた。父親は鉄道の車掌だがアルコール依存性だった。
1924年に12歳で家出をし、シカゴでベルボーイやウェイターとして働き始めるが、10代のうちに飲酒運転や窃盗などで服役した。19歳のとき車泥棒で捕まりサウスイリノイ刑務所(現在のメナード矯正センター)に入れられた。刑務所の記録によると右腕に”HOPE”というタトゥーがあり梅毒に感染していた。
仮釈放されるも、1931年2月にインディアナ州クラウンポイントでの列車強盗で逮捕されペンドルトン厚生施設に入れられた。ここでジョン・デリンジャーとハリー・ピアポントと出会った。
ヴァン・メーターはいつも大声で冗談ばかり放っている騒々しい男だった。デリンジャーとは友人になれたが、物静かなピアポントとは気が合わず互いに嫌っていた。
やがてヴァン・メーターとピアポントの態度があまりに悪く手に負えなくなったので、2人ともほぼ同じ時期にインディアナ州刑務所に移された。デリンジャーも自ら希望して同じ刑務所に移った。1933年5月、9年間の刑期を終え仮釈放が認められた。(デリンジャーも1週間後に仮釈放された)
仮釈放から3ヶ月後、ベイビー・フェイス ・ネルソンとトミー・キャロルと組んで2件の銀行強盗をした。その翌年にはインディアナ州刑務所仲間のデリンジャーやジョン"レッド"・ハミルトンと再会し、銀行強盗や警察署から銃器や防弾チョッキを強奪するなど複数の重犯罪を繰り返す。
1934年3月、捜査局はデリンジャーギャング特捜班を設けた。1934年4月に一味はウィスコンシン州のリトル・ボヘミア・ロッジに隠れるが、ロッジのオーナーの密告により捜査局に包囲された。銃撃戦でレッド・ハミルトンを失いながらもデリンジャーとヴァン・メーターはなんとかシカゴに辿り着いた。
2人は弁護士ルイス・ピケットが手配してくれたマフィア仲間のジミー・プロバスコの家に隠れ、ここでデリンジャーと共に顔の整形手術を受けた。しかしほとんど変わっていないことに怒り狂ったヴァン・メーターは医者を殺そうとするが、一緒にいた仲間に抑えられた。
5月24日にイーストシカゴでパトロール中の警官2名を射殺し、6月30日にはインディアナ州サウスベンドのマーチャンツ国立銀行を襲った際にも警官1名を射殺、数名の通行人を負傷させるなどシカゴに潜伏中にもヴァン・メーターは数々の凶悪犯罪を犯した。彼らの行き過ぎた犯罪行為により捜査当局の目がシカゴに向けられるのをマフィアは恐れ、2人を隠れ家から追放した。
捜査局は執拗な追跡の末に1934年6月にトミー・キャロルを、7月にデリンジャーを射殺した。ヴァン・メーターは恋人のマリー・コンフォーティとミネソタ州セントポールに逃げた。
セントポールでヴァン・メーターは自分のシボレーを売って新車を買うことにした。
1934年8月23日の夕方5時ごろ、彼は紺色の上質なスーツに麦わら帽を被り、地元マフィアのボスのハリー・ソウヤーと強盗仲間トミー・ギャノンを連れて自動車ディーラーを訪れた。
しかし警察は彼の動きを察知しており、店の近くで警察署長とトム・ブラウン刑事ら4人がショットガンやトンプソンを持って5時間も前から待ち伏せしていた。ヴァン・メーターが商談を終え、明日また来る約束をして店を出ると刑事が現れ彼を止めた。咄嗟に自分のシボレーに向かおうとするとソウヤーとギャノンが乗り込み走り去ってしまった。
ヴァン・メーターは走って逃げたが住宅地で射殺された。50発以上の弾丸が発射され26発が命中、そのほとんどが背中側にあり両手の指も何本か千切れかけていた。後に遺体を見た家族は「射撃訓練の標的のようだった」と表現したという。
警察は『ヴァン・メーターは自動拳銃2発を発砲し、その銃は道路脇に落ちていた。現金1,320ドルを回収した』と発表した。検死報告によると茶色の髪を黒く染め口ひげを生やし、顔の皮膚の下にはワックスが注入されていた。指紋は酸で溶かし、右腕の”HOPE”のタトゥーも切除されていた。
遺体は列車で故郷のフォートウェインに運ばれたが、遺族の希望によりメーター家から離れた区画に埋葬された。
警察の発表には疑わしい点が多い。
当時のセントポールは政治家や警察官の汚職が蔓延しており、犯罪者にとって比較的”安全な” 街だった。デリンジャー亡きあと捜査局がセントポールのヴァン・メーターに注目すると厄介なことになるので、マフィアと汚職警官が共謀して彼を排除したと十分に考えられる。
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] | ホーマー・ヴァン・メーター(Homer Virgil Van Meter, 1905-1934)は1930年代のアメリカのギャング。デリンジャーギャングに加わり複数の銀行強盗を行なった。 | {{Infobox 犯罪者|subject_name=ホーマー・ヴァン・メーター<br />Homer Virgil Van Meter|date_of_birth=[[1905年]][[12月3日]]|place_of_birth={{USA}}インディアナ州フォートウェイン|date_of_death=[[1934年]][[8月23日]]|place_of_death={{USA}}ミネソタ州セントポール|alias=|charge=銀行強盗、窃盗、自動車泥棒|conviction=|status=死没(28歳)|occupation=ギャング|spouse=|parents=|children=|画像=Homer Van Meter.jpg|有罪判決=|刑罰=射殺}}
'''ホーマー・ヴァン・メーター'''(Homer Virgil Van Meter 1905-1934)は1930年代のアメリカのギャング。デリンジャーギャングに加わり複数の銀行強盗を行なった。
== 略歴 ==
=== 少年〜青年時代 ===
1905年12月3日、[[インディアナ州]][[フォートウェイン]]で生まれた。父親は鉄道の車掌だがアルコール依存性だった。
1924年に12歳で家出をし、シカゴでベルボーイやウェイターとして働き始めるが、10代のうちに飲酒運転や窃盗などで服役した。19歳のとき車泥棒で捕まりサウスイリノイ刑務所(現在のメナード矯正センター)に入れられた。刑務所の記録によると右腕に”HOPE”というタトゥーがあり[[梅毒]]に感染していた<ref>{{Cite web |title=Homer Van Meter |url=https://www.babyfacenelsonjournal.com/homer-van-meter.html |website=Babyface nelson journal |access-date=2023-10-08 |language=en-AU}}</ref>。
仮釈放されるも、1931年2月にインディアナ州クラウンポイントでの列車強盗で逮捕されペンドルトン厚生施設に入れられた。ここで[[ジョン・デリンジャー]]と[[ハリー・ピアポント]]と出会った。
ヴァン・メーターはいつも大声で冗談ばかり放っている騒々しい男だった。デリンジャーとは友人になれたが、物静かなピアポントとは気が合わず互いに嫌っていた。
やがてヴァン・メーターとピアポントの態度があまりに悪く手に負えなくなったので、2人ともほぼ同じ時期に[[インディアナ州刑務所]]に移された<ref>{{Cite web |title=Homer Van Meter |url=https://www.babyfacenelsonjournal.com/homer-van-meter.html |website=Babyface nelson journal |access-date=2023-10-08 |language=en-AU}}</ref>。デリンジャーも自ら希望して同じ刑務所に移った。1933年5月、9年間の刑期を終え仮釈放が認められた。(デリンジャーも1週間後に仮釈放された)
=== ギャング時代 ===
仮釈放から3ヶ月後、[[ベビーフェイス・ネルソン|ベイビー・フェイス ・ネルソン]]とトミー・キャロルと組んで2件の銀行強盗をした。その翌年には[[インディアナ州刑務所の脱獄事件|インディアナ州刑務所仲間]]のデリンジャーや[[ジョン・ハミルトン (ギャング)|ジョン"レッド"・ハミルトン]]と再会し、銀行強盗や警察署から銃器や防弾チョッキを強奪するなど複数の重犯罪を繰り返す<ref>{{Cite web |title=Homer Van Meter - Alchetron, The Free Social Encyclopedia |url=https://alchetron.com/Homer-Van-Meter |website=Alchetron.com |date=2017-08-18 |access-date=2023-10-08 |language=en-US |first=Name Homer MeterFull Name Homer Virgil Van MeterBorn |last=December 3}}</ref>。
1934年3月、[[連邦捜査局|捜査局]]はデリンジャーギャング特捜班を設けた。1934年4月に一味はウィスコンシン州の[[リトル・ボヘミア・ロッジ]]に隠れるが、ロッジのオーナーの密告により捜査局に包囲された。銃撃戦でレッド・ハミルトンを失いながらもデリンジャーとヴァン・メーターはなんとかシカゴに辿り着いた。
2人は弁護士ルイス・ピケットが手配してくれたマフィア仲間のジミー・プロバスコの家に隠れ、ここでデリンジャーと共に顔の整形手術を受けた。しかしほとんど変わっていないことに怒り狂ったヴァン・メーターは医者を殺そうとするが、一緒にいた仲間に抑えられた。
5月24日に[[イーストシカゴ (インディアナ州)|イーストシカゴ]]でパトロール中の警官2名を射殺し、6月30日にはインディアナ州[[サウスベンド (インディアナ州)|サウスベンド]]のマーチャンツ国立銀行を襲った際にも警官1名を射殺、数名の通行人を負傷させるなどシカゴに潜伏中にもヴァン・メーターは数々の凶悪犯罪を犯した<ref>{{Cite web |title=Homer Van Meter: O temperamental da gangue de Dillinger |url=https://inimigoheroi.wordpress.com/2013/07/19/o-temperamental-homer-van-meter/ |website=Inimigo Herói |date=2013-07-19 |access-date=2023-10-08 |language=pt-BR |last=inimigoheroi}}</ref>。彼らの行き過ぎた犯罪行為により捜査当局の目がシカゴに向けられるのをマフィアは恐れ、2人を隠れ家から追放した。
捜査局は執拗な追跡の末に1934年6月にトミー・キャロルを、7月に[[バイオグラフシアター|デリンジャーを射殺]]した。ヴァン・メーターは恋人のマリー・コンフォーティとミネソタ州[[セントポール (ミネソタ州)|セントポール]]に逃げた。
=== ヴァン・メーターの最期 ===
セントポールでヴァン・メーターは自分のシボレーを売って新車を買うことにした。
1934年8月23日の夕方5時ごろ、彼は紺色の上質なスーツに麦わら帽を被り、地元マフィアのボスのハリー・ソウヤーと強盗仲間トミー・ギャノンを連れて自動車ディーラーを訪れた<ref>{{Cite web |title=The Final Moments of Former Dillinger Gang Lieutenant Homer Van Meter {{!}} Ron Dansley |url=https://original.newsbreak.com/@ron-dansley-1587459/2325118158035-the-final-moments-of-former-dillinger-gang-lieutenant-homer-van-meter |website=NewsBreak Original |access-date=2023-10-07 |language=en}}</ref>。
しかし警察は彼の動きを察知しており、店の近くで警察署長とトム・ブラウン刑事ら4人が[[散弾銃|ショットガン]]や[[トンプソン・サブマシンガン|トンプソン]]を持って5時間も前から待ち伏せしていた。ヴァン・メーターが商談を終え、明日また来る約束をして店を出ると刑事が現れ彼を止めた。咄嗟に自分のシボレーに向かおうとするとソウヤーとギャノンが乗り込み走り去ってしまった。
ヴァン・メーターは走って逃げたが住宅地で射殺された。50発以上の弾丸が発射され26発が命中、そのほとんどが背中側にあり両手の指も何本か千切れかけていた。後に遺体を見た家族は「射撃訓練の標的のようだった」と表現したという<ref>{{Cite web |title=Homer Van Meter - Alchetron, The Free Social Encyclopedia |url=https://alchetron.com/Homer-Van-Meter |website=Alchetron.com |date=2017-08-18 |access-date=2023-10-08 |language=en-US |first=Name Homer MeterFull Name Homer Virgil Van MeterBorn |last=December 3}}</ref>。
警察は『ヴァン・メーターは自動拳銃2発を発砲し、その銃は道路脇に落ちていた。現金1,320ドルを回収した』と発表した。検死報告によると茶色の髪を黒く染め口ひげを生やし、顔の皮膚の下にはワックスが注入されていた。指紋は酸で溶かし、右腕の”HOPE”のタトゥーも切除されていた。
遺体は列車で故郷のフォートウェインに運ばれたが、遺族の希望によりメーター家から離れた区画に埋葬された。
=== ヴァン・メーターの死後 ===
警察の発表には疑わしい点が多い。
*付近にいた4人の目撃者は「男は麦わら帽子を持ち、もう片方の手には何も持っていなかった」と言い、彼が発砲した証拠は見つかっていない。4人の証言は細部に至るまで一致しており信憑性は高い。
*住宅地にいた女性は「道路にうつ伏せに倒れている男にブラウン刑事が機関銃を連射した」と話した。
*ヴァン・メーターをよく知る仲間は「あの日彼は1万ドル以上持ち歩いていたし、アパートには十数万ドルはあったはずだ。警察官が山分けしたに違いない」とマスコミを通して訴えた。
*事件から5年後の1939年、当時ハリー・ソーヤーの部下だったトーマス・カーウィンは捜査局の聞き取り調査でこう証言した。「ソウヤーとギャノンが密告した。ブラウン刑事には1万ドルの賄賂が分配され、ギャノンはヴァン・メーターが持っていた数丁の銃を受け取った」
当時のセントポールは政治家や警察官の汚職が蔓延しており、犯罪者にとって比較的”安全な” 街だった。デリンジャー亡きあと捜査局がセントポールのヴァン・メーターに注目すると厄介なことになるので、マフィアと汚職警官が共謀して彼を排除したと十分に考えられる<ref>{{Cite web |title=Van Meter2 |url=https://www.babyfacenelsonjournal.com/van-meter2.html |website=Babyface nelson journal |access-date=2023-10-10 |language=en-AU}}</ref>。
ヴァン・メーターが射殺された年、FBIはブラウンら警察官4人がマフィアから賄賂を受け取っていたと発表した。(ブラウンは解雇されたものの有罪には至っていない)
恋人のマリー・コンフォーティはヴァン・メーターが死んだ次の日に自首し、恋人を裏切った者たちに復讐するため捜査局への協力を申し出た。しかし犯罪者を匿った罪からは逃れられず、13ヶ月の懲役刑が言い渡された<ref>{{Cite web |title=Don't Call Us Molls: Marie Comforti |url=http://www.dillingerswomen.com/Marie-Comforti.html |website=www.dillingerswomen.com |access-date=2023-10-08}}</ref>。
== 登場する作品 ==
*"''Gang Busters:Homer Van Meter''" 演 - リチャード・クレイン (1952年 テレビドラマ)
*「[[デリンジャー (映画)|デリンジャー]]」”''Dillinger''” 演 - [[ハリー・ディーン・スタントン]] (1973年 映画)
*「FBI対ギャング・カンザスシチーの大虐殺」”''THE KANSAS CITY MASSACRE''” 演 - [[ブライオン・ジェームズ]] (1975年 テレビ映画)
*「[[パブリック・エネミーズ]]」”''Public Enemies''” 演 - [[スティーヴン・ドーフ|スティーブン・ドーフ]] (2009年 映画)
== 脚注 ==
=== 出典 ===
<references />
{{DEFAULTSORT:うあんめえたあ ほおまあ}}
[[Category:ギャング]]
[[Category:アメリカ合衆国の犯罪者]]
[[Category:フォートウェイン出身の人物]]
[[Category:1905年生]]
[[Category:1934年没]] | 2023-10-08T04:15:07Z | 2023-12-26T08:09:27Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC |
4,838,867 | 山代大火 | 山代大火(やましろたいか)は1937年(昭和12年)5月12日に石川県江沼郡山代町で起こった火災のことである。
5月12日午前1時半頃、石川県江沼郡山代町字木谷真宗光楽寺(現13区)後方納屋から出火。目抜き商店街へ延焼し、一帯を焼き払った。同日、4時40分ごろに鎮火。
火災の原因は山代温泉の旅館で仲居をしていた女性による放火である。放火犯と光楽寺住職との間で人間関係がこじれ、住職に恨みを持った女性が放火に及んだ。。犯行は、11日の深夜に行われ、寺院後方の納屋に忍びこんだ放火犯が付近にあった枯葉を集めてマッチで火をつけた。放火犯を逮捕した巡査は表彰された。
被害は全焼 119棟、罹災者700 余名、町役場も全焼と報じられている。主な焼失建物は、山代町役場、光楽寺、山代産業組合、九谷焼工場などである。
この大火により総湯と東口を結ぶ道路が直線化し、温泉通りや加茂道が整備され、現在の街並みの基礎ができた。 | [
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== 経過 ==
5月12日午前1時半頃、石川県江沼郡山代町字木谷真宗光楽寺(現13区)後方納屋から出火<ref name=":1">{{Cite news|和書 |title=今暁山代町の大火、五百餘棟を全半焼 |newspaper=北國新聞 |date=1937-05-13}}</ref><ref name=":0">{{Cite book|和書 |title=やましろ街事典 |publisher=山代温泉開湯1300年記念誌編集委員会 |page=120}}</ref>。目抜き商店街へ延焼し、一帯を焼き払った。同日、4時40分ごろに鎮火<ref name=":1" />。
== 原因 ==
火災の原因は[[山代温泉]]の旅館で仲居をしていた女性による放火である。放火犯と光楽寺住職との間で人間関係がこじれ、住職に恨みを持った女性が放火に及んだ。<ref name=":1" /><ref name=":0" />。犯行は、11日の深夜に行われ、寺院後方の納屋に忍びこんだ放火犯が付近にあった枯葉を集めてマッチで火をつけた<ref name=":1" />。放火犯を逮捕した巡査は表彰された<ref name=":1" />。
== 被害 ==
被害は全焼 119棟、罹災者700 余名、町役場も全焼と報じられている<ref name=":1" /><ref>{{Cite book|和書 |title=石川県災異史 |date=1996-6-1 |publisher=石川県 |page=107}}</ref>。主な焼失建物は、山代町役場、光楽寺、山代産業組合、九谷焼工場などである<ref name=":1" />。
== 復興 ==
この大火により総湯と東口を結ぶ道路が直線化し、温泉通りや加茂道が整備され、現在<small>(2023年10月)</small>の街並みの基礎ができた<ref name=":0" />。
== 脚注 ==
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[[Category:加賀市の歴史]]
[[Category:日本の放火事件]]
[[Category:昭和時代の火災]]
[[Category:1937年の災害]]
[[Category:1937年の日本]]
[[Category:1937年5月]] | 2023-10-08T04:16:07Z | 2023-10-12T13:13:29Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%BB%A3%E5%A4%A7%E7%81%AB |
4,838,869 | ピエール・アゴスティーニ | ピエール・アゴスティーニ(Pierre Agostini、1941年7月23日 - )は、フランス出身でアメリカ合衆国の実験物理学者。オハイオ州立大学の名誉教授であり、高強度場レーザ物理学やアト秒物理学(英語版)における先駆的な研究で知られる。特に超閾イオン化(above-threshold ionization)の観察及びアト秒光パルスの特性評価のためのRABBITT(英語版)の発明で特に知られる。2023年にノーベル物理学賞を共同受賞した。
フランス保護領チュニジアのチュニスで生まれ、1959年にフランス北西部、ラ・フレーシュの軍事学校であるプリタネ国立軍事学校(Prytanée national militaire)でバカロレアを取得した。1961年エクス=マルセイユ大学を卒業、1968年に同大学からPh.D.を取得した。 | [
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] | ピエール・アゴスティーニは、フランス出身でアメリカ合衆国の実験物理学者。オハイオ州立大学の名誉教授であり、高強度場レーザ物理学やアト秒物理学における先駆的な研究で知られる。特に超閾イオン化(above-threshold ionization)の観察及びアト秒光パルスの特性評価のためのRABBITTの発明で特に知られる。2023年にノーベル物理学賞を共同受賞した。 | {{Infobox scientist
| name = ピエール・アゴスティーニ
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| birth_place = [[フランス保護領チュニジア]]、[[チュニス]]
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| thesis_title = Appareillage permettant la réalisation de filtres multidiélectriques UV: Étude des couches Sb<sub>2</sub>O<sub>3</sub> cryolithe
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'''ピエール・アゴスティーニ'''(Pierre Agostini、[[1941年]][[7月23日]] - )は、[[フランス]]出身で[[アメリカ合衆国]]の[[実験物理学|実験物理学者]]<ref>{{Internetquelle |url=https://www.derstandard.at/story/3000000189451/wer-erhaelt-den-diesjaehrigen-nobelpreis-fuer-physik |titel=Physiknobelpreis 2023 für ungarisch-österreichischen Physiker Ferenc Krausz |werk=DerStandard.at |datum=2023-10-03 |abruf=2023-10-03}}</ref>。[[オハイオ州立大学]]の[[名誉教授]]であり、高強度場レーザ物理学や{{仮リンク|アト秒物理学|en|Attosecond physics}}における先駆的な研究で知られる<ref>{{Cite journal |last1=Agostini |first1=Pierre |last2=DiMauro |first2=Louis F |date=1 June 2004 |title=The physics of attosecond light pulses |url=https://iopscience.iop.org/article/10.1088/0034-4885/67/6/R01 |journal=Reports on Progress in Physics |volume=67 |issue=6 |pages=813–855 |doi=10.1088/0034-4885/67/6/R01 |bibcode=2004RPPh...67..813A |s2cid=250879086 |issn=0034-4885}}</ref>。特に超閾イオン化([[:en:Above-threshold ionization|above-threshold ionization]])の観察及びアト秒光パルスの特性評価のための{{仮リンク|二光子遷移の干渉によるアト秒ビートの再構成|en|reconstruction of attosecond beating by interference of two-photon transitions|label=RABBITT}}の発明で特に知られる<ref>{{Cite web |last=Garisto |first=Daniel |title=This Year's Physics Nobel Awards Scientists for Slicing Reality into Attoseconds |url=https://www.scientificamerican.com/article/this-years-physics-nobel-awards-scientists-for-slicing-reality-into-attoseconds/ |access-date=2023-10-04 |website=Scientific American |language=en}}</ref>。2023年に[[ノーベル物理学賞]]を共同受賞した<ref name=":0">{{cite web |title=Nobel Prize in physics goes to Pierre Agostini, Ferenc Krausz and Anne L'Huillier for research into electrons in flashes of light |url=https://edition.cnn.com/2023/10/03/europe/nobel-prize-physics-electrons-flashes-light-intl-scn/index.html |website=[[CNN]] |date=3 October 2023 |access-date=3 October 2023}}</ref>。
== 来歴 ==
[[フランス保護領チュニジア]]の[[チュニス]]で生まれ、1959年にフランス北西部、[[ラ・フレーシュ]]の軍事学校であるプリタネ国立軍事学校(Prytanée national militaire)で[[バカロレア (フランス)|バカロレア]]を取得した。1961年[[エクス=マルセイユ大学]]を卒業、1968年に同大学から[[Ph.D.]]を取得した。
==出典==
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==外部リンク==
*[https://physics.osu.edu/people/agostini.1 オハイオ州立大学のホームページ]
* {{Nobelprize}}
{{ノーベル物理学賞受賞者 (2001年-2025年)}}
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{{DEFAULTSORT:あこすていいに ひええる}}
[[Category:実験物理学者]]
[[Category:フランスの光物理学者]]
[[Category:ノーベル物理学賞受賞者]]
[[Category:フランスのノーベル賞受賞者]]
[[Category:アメリカ合衆国のノーベル賞受賞者]]
[[Category:アメリカ光学会フェロー]]
[[Category:オハイオ州立大学の教員]]
[[Category:20世紀フランスの物理学者]]
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[[Category:チュニス出身の人物]]
[[Category:1941年生]]
[[Category:存命人物]] | 2023-10-08T04:19:34Z | 2023-10-26T08:45:10Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%B4%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%8B |
4,838,870 | フェレンツ・クラウス | フェレンツ・クラウス(Ferenc Krausz、1962年5月17日)は、ハンガリー・オーストリアの物理学者。アト秒物理学(英語版)の研究を行う。マックス・プランク量子光学研究所(英語版)の所長であり、ドイツのルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘンの実験物理学の教授を務める。彼の研究チームは、初めてアト秒光パルスを生成及び測定し、これを用いて原子内部の電子の運動を捕捉した。2023年、ノーベル物理学賞をピエール・アゴスティーニとアンヌ・リュイリエとともに共同受賞した。 | [
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] | フェレンツ・クラウスは、ハンガリー・オーストリアの物理学者。アト秒物理学の研究を行う。マックス・プランク量子光学研究所の所長であり、ドイツのルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘンの実験物理学の教授を務める。彼の研究チームは、初めてアト秒光パルスを生成及び測定し、これを用いて原子内部の電子の運動を捕捉した。2023年、ノーベル物理学賞をピエール・アゴスティーニとアンヌ・リュイリエとともに共同受賞した。 | {{ハンガリー人の姓名|フェレンツ|クラウス}}
{{Infobox scientist
|name = フェレンツ・クラウス<br>Ferenc Krausz
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|image_size = 200px
|birth_date = {{birth date and age|1962|5|17|df=y}}
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|thesis_title = Erzeugung ultrakurzer Lichtimpulse in Neodymium-Glaslasern
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|doctoral_advisor = {{ill|Arnold Schmidt|de|Arnold Schmidt (Physiker)}}<ref>{{Cite web |date=2023-10-03 |title=Das sagt Ferenc Krausz zum Nobelpreis |url=https://www.vienna.at/das-sagt-ferenc-krausz-zum-nobelpreis/8329519 |access-date=2023-10-06 |website=vienna.at}}</ref>
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'''フェレンツ・クラウス'''(Ferenc Krausz、[[1962年]][[5月17日]]<ref name=NobelPrizeInfo>{{Cite web|url=https://www.nobelprize.org/prizes/physics/2023/krausz/facts/|access-date=2023-10-03|title=Ferenc Krausz Facts}}</ref> - )は、[[ハンガリー人民共和国|ハンガリー]]出身で[[オーストリア]]の物理学者。{{仮リンク|アト秒物理学|en|Attosecond physics}}の研究を行う。{{仮リンク|マックス・プランク量子光学研究所|en|Max Planck Institute for Quantum Optics}}の所長であり、ドイツの[[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン]]の[[実験物理学]]の教授を務める。彼の研究チームは、初めて[[アト秒]]光[[パルス]]を生成及び測定し、これを用いて原子内部の[[電子]]の運動を捕捉した<ref name="Krausz Ivanov pp. 163–234">{{cite journal | last1=Krausz | first1=Ferenc | last2=Ivanov | first2=Misha | title=Attosecond physics | journal=Reviews of Modern Physics | publisher=American Physical Society (APS) | volume=81 | issue=1 | date=2 February 2009 | issn=0034-6861 | doi=10.1103/revmodphys.81.163 | pages=163–234 | bibcode=2009RvMP...81..163K | url=https://nrc-publications.canada.ca/eng/view/fulltext/?id=1245a958-9c93-4116-bfdb-f447e8a53c48 | access-date=16 December 2021 | archive-date=14 March 2020 | archive-url=https://web.archive.org/web/20200314105045/https://nrc-publications.canada.ca/eng/view/fulltext/?id=1245a958-9c93-4116-bfdb-f447e8a53c48 | url-status=live }}</ref>。2023年、[[ノーベル物理学賞]]を[[ピエール・アゴスティーニ]]と[[アンヌ・リュイリエ]]とともに共同受賞した。
== 来歴 ==
[[フェイェール県]]Mórに生まれ、[[エトヴェシュ・ロラーンド大学]]で理論物理学を、[[ブダペスト工科経済大学|ブダペスト工科大学]]で電気工学を学んだあと、1991年に[[ウィーン工科大学]]フォトニクス研究所から[[レーザー物理|レーザー物理学]]の[[Ph.D.]]を取得した。1996年にウィーン工科大学准教授、1999年に同教授に就任。
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* {{Nobelprize}}
* [https://www.dfg.de/gefoerderte_projekte/wissenschaftliche_preise/leibniz-preis/archiv/2006/krausz/index.html Portrait at the Deutsche Forschungsgesellschaft]
* [http://www.attoworld.de/Mainpages/PeoplePages/KrauszFerenc/ Homepage of Ferenc Krausz]
* [http://www.attoworld.de Homepage of the group of Ferenc Krausz]
* [http://www.munich-photonics.de/ Munich-Center for Advanced Photonics]
{{ウルフ賞物理学部門}}
{{ノーベル物理学賞受賞者 (2001年-2025年)}}
{{Authority control}}
{{DEFAULTSORT:くらうす ふえれんつ}}
[[Category:20世紀ハンガリーの物理学者]]
[[Category:20世紀オーストリアの物理学者]]
[[Category:ノーベル物理学賞受賞者]]
[[Category:オーストリアのノーベル賞受賞者]]
[[Category:ハンガリーのノーベル賞受賞者]]
[[Category:ウルフ賞物理学部門受賞者]]
[[Category:トムソン・ロイター引用栄誉賞受賞者]]
[[Category:ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ賞の受賞者]]
[[Category:ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘンの教員]]
[[Category:ウィーン工科大学の教員]]
[[Category:ロシア科学アカデミー外国人会員]]
[[Category:国立科学アカデミー・レオポルディーナ会員]]
[[Category:ヨーロッパ・アカデミー会員]]
[[Category:科学教育者]]
[[Category:理論物理学者]]
[[Category:ウィーン工科大学出身の人物]]
[[Category:フェイェール県出身の人物]]
[[Category:1962年生]]
[[Category:存命人物]] | 2023-10-08T04:22:03Z | 2023-10-08T10:42:13Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B9 |
4,838,871 | 橋目町 (安城市) | 橋目町(はしめちょう)は、愛知県安城市の地名。
安城市北東部に位置する。東は岡崎市、南は柿碕町・尾崎町、北西は里町、南西は宇頭茶屋町に接する。
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる。
国勢調査による人口および世帯数の推移。 | [
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] | 橋目町(はしめちょう)は、愛知県安城市の地名。 | {{Pathnav|日本|愛知県|安城市|'''橋目町'''|hide=1|frame=1}}
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| area_footnotes = <ref group=WEB name="area">{{Cite web|url=https://toukei-labo.com/2015/?tdfk=23&city=23212|title=愛知県安城市の町丁・字一覧|publisher=人口統計ラボ|language=日本語|accessdate=2023-08-26}}</ref>
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| registration_plate = [[愛知運輸支局|三河]]
| footnotes =
}}
'''橋目町'''(はしめちょう)は、[[愛知県]][[安城市]]の地名。
== 地理 ==
安城市北東部に位置する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}。東は[[岡崎市]]、南は[[柿碕町]]・[[尾崎町 (安城市)|尾崎町]]、北西は[[里町]]、南西は[[宇頭茶屋町]]に接する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}。
=== 学区 ===
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.city.anjo.aichi.jp/manabu/gakko/kyoikushisetsu/gakku.html|title=小中学校区一覧(町別50音順)|author=安城市役所教育振興部学校教育課学事係|publisher=安城市|date=2022-04-07|accessdate=2023-10-08}}</ref>。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.pref.aichi.jp/soshiki/kotogakko/0000080445.html|title=平成29年度以降の愛知県公立高等学校(全日制課程)入学者選抜における通学区域並びに群及びグループ分け案について|publisher=愛知県教育委員会|date=2015-02-16|accessdate=2019-01-14}}</ref>。
{| class="wikitable"
!番・番地等!!小学校!!中学校!!高等学校
|-
||全域||[[安城市立志貴小学校]]||[[安城市立東山中学校]]||[[愛知県の高校入試#三河学区|三河学区]]
|}
=== 河川 ===
* 茶屋用水{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* 東高根用水{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
== 歴史 ==
=== 町名の由来 ===
{{Seealso|橋目町 (岡崎市)#町名の由来}}
=== 人口の変遷 ===
[[国勢調査]]による人口および世帯数の推移。
{| class="wikitable"
|-
|1995年(平成7年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000023630251&fileKind=1|format=CSV|title=平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-03-28|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|63世帯<br>265人||<div style="width:6.3px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:26.5px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2000年(平成12年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025137780&fileKind=1|format=CSV|title=平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-05-30|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|67世帯<br>257人||<div style="width:6.7px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:25.7px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2005年(平成17年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025514226&fileKind=1|format=CSV|title=平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-06-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|69世帯<br>278人||<div style="width:6.9px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:27.8px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2010年(平成22年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000012671534&fileKind=1|format=CSV|title=平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2012-01-20|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|99世帯<br>337人||<div style="width:9.9px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:33.7px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2015年(平成27年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000031522121&fileKind=1|format=CSV|title=平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2017-01-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|114世帯<br>361人||<div style="width:11.4px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:36.1px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2020年(令和2年)<ref group=WEB name=R2国勢調査>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000032163424&fileKind=1|format=CSV|title=令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口,外国人人口及び世帯数-町丁・字等|author=総務省統計局|date=2022-02-10|accessdate=2023-08-02|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|126世帯<br>391人||<div style="width:12.6px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:39.1px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|}
=== 沿革 ===
* 1960年(昭和35年) - [[岡崎市]][[橋目町 (岡崎市)|橋目町]]の一部により、安城市橋目町が成立する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1066}}。この地域は、1955年(昭和30年)の岡崎市編入時にも安城市編入を望んでいた地域であった{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1066}}。
== 交通 ==
* [[愛知県道76号豊田安城線]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
== 施設 ==
* 東海金属本社
* [[東邦液化ガス]]安城充てん所
* 橋目霊園
* 橋目白山神社遊園
* 白山神社
* 橋目遊園
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== WEB ===
{{Reflist|group="WEB"|refs=}}
=== 書籍 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1989|date=1989-03-08|title=[[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県|publisher=[[角川書店]]|isbn=4-04-001230-5|language=ja|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[安城市の町名]]
{{Geographic Location
| Northwest<!--北西--> = [[里町]]
| North<!--北--> =
| Northeast<!--北東--> =
| West<!--西--> =
| Centre<!--中央--> = 橋目町
| East<!--東--> = [[岡崎市]]
| Southwest<!--南西--> = [[宇頭茶屋町]]
| South<!--南--> = [[柿碕町]]・[[尾崎町 (安城市)|尾崎町]]
| Southeast<!--南東--> =
}}
{{安城市の町・字}}
{{Japan-block-stub}}
{{Pref-stub|pref=愛知県}}
{{デフォルトソート:はしめちよう}}
[[Category:安城市の町名]]
[[Category:1960年制定の町・字]] | 2023-10-08T04:28:35Z | 2023-10-08T04:31:57Z | false | false | false | [
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"Template:脚注ヘルプ",
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"Template:Cite web",
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"Template:Infobox settlement",
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"Template:Geographic Location",
"Template:安城市の町・字",
"Template:Pref-stub"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E7%9B%AE%E7%94%BA_(%E5%AE%89%E5%9F%8E%E5%B8%82) |
4,838,872 | アンヌ・リュイリエ | アンヌ・ジュヌヴィエーヴ・リュイリエ(Anne Geneviève L'Huillier、1958年8月16日 - )は、フランス出身でスウェーデンの物理学者。スウェーデンのルンド大学の原子物理学の教授を務める。
原子レベルでの化学反応を理解するために使用される、電子の運動をリアルタイムで研究するアト秒物理学グループを率いる。彼女の実験的及び理論的研究は、アト秒における化学(attochemistry)の分野の基礎を築いたと考えられている。2003年、彼女とそのグループは、170アト秒という記録で、最短レーザパルスの世界記録を更新した。
パリ生まれ。1986年にピエール・マリー=キュリー大学から実験物理学のPh.D.を取得した後、サクレー研究所に所属した。チャルマース工科大学や南カリフォルニア大学、ローレンスリバモア国立研究所で博士研究員となった。1994 年にはスウェーデンに移り、1997年にルンド大学教授に就任。2004年にスウェーデン王立科学アカデミーの会員となり、2007年から2015年までノーベル物理学賞の選考委員を務めた。
2022年にウルフ賞物理学部門を受賞した。2023年にノーベル物理学賞を受賞した。 | [
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] | アンヌ・ジュヌヴィエーヴ・リュイリエは、フランス出身でスウェーデンの物理学者。スウェーデンのルンド大学の原子物理学の教授を務める。 原子レベルでの化学反応を理解するために使用される、電子の運動をリアルタイムで研究するアト秒物理学グループを率いる。彼女の実験的及び理論的研究は、アト秒における化学(attochemistry)の分野の基礎を築いたと考えられている。2003年、彼女とそのグループは、170アト秒という記録で、最短レーザパルスの世界記録を更新した。 | {{Infobox scientist
| name = アンヌ・リュイリエ
| image = Anne LHuiller 01.JPG
| birth_date = {{birth date and age|df=y|1958|8|16}}
| birth_place = {{FRA}} [[パリ]]
| death_date =
| death_place =
| nationality = {{FRA}}<br>{{SWE}}
| alma_mater = [[:en:École normale supérieure de lettres et sciences humaines|École Normale Supérieure, Fontenay-aux-Roses]] ([[学士(教養)|BA]])<br>[[パリ第6大学|ピエール・マリー=キュリー大学]] ([[修士(理学)|MSc]], [[Doctor of Philosophy|PhD]])
| awards = [[ロレアル-ユネスコ女性科学賞|UNESCO L'Oréal Award]] (2011)<br>[[BBVA Foundation Frontiers of Knowledge Award]] (2022)<br>[[ウルフ賞物理学部門]] (2022)<br>[[ノーベル物理学賞]] (2023)
| fields = {{仮リンク|アト秒物理学|en|Attosecond physics}}
| workplaces = [[ルンド大学]]
| thesis_url = https://www.theses.fr/1986PA066268
| thesis_title = Ionisation Multiphotonique et Multielectronique (Multiphoton and Multielectron Ionization)
| thesis_year = 1986
| doctoral_advisor = [[:fr:Bernard Cagnac]]
| spouse = [[:sv:Claes-Göran Wahlström]]<ref>{{Cite web |last=Svanberg |first=Sune |date=2023-10-04 |title=How we hired 2023 Nobel laureate Anne L'Huillier – and why we knew she was destined for greatness |url=http://theconversation.com/how-we-hired-2023-nobel-laureate-anne-lhuillier-and-why-we-knew-she-was-destined-for-greatness-214867 |access-date=2023-10-05 |website=The Conversation |language=en}}</ref>
}}
{{thumbnail:begin}}
{{thumbnail:ノーベル賞受賞者|2023年|ノーベル物理学賞|物質中の電子ダイナミクスの測定を可能にする[[アト秒]]パルス光を生成する実験手法の開発}}
{{thumbnail:end}}
'''アンヌ・ジュヌヴィエーヴ・リュイリエ'''(Anne Geneviève L'Huillier、[[1958年]][[8月16日]]<ref>{{Cite web |title=The Nobel Prize in Physics 2023 |url=https://www.nobelprize.org/prizes/physics/2023/lhuillier/facts/ |access-date=2023-10-04 |website=NobelPrize.org |language=en-US}}</ref> - )は、[[フランス]]出身で[[スウェーデン]]の[[物理学者]]<ref name=":2">{{Cite web |title=Anne L'Huillier |url=https://www.nasonline.org/member-directory/members/20044049.html |access-date=3 October 2023 |website=National Academy of Sciences}}</ref>。スウェーデンの[[ルンド大学]]の[[原子物理学]]の教授を務める。
原子レベルでの化学反応を理解するために使用される、[[電子]]の運動をリアルタイムで研究するアト秒物理学グループを率いる<ref>{{Cite web |title=Carl Zeiss Research Award |url=https://www.zeiss.com/corporate/int/innovation-and-technology/research-award-winners.html |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20170219003440/https://www.zeiss.com/corporate/int/innovation-and-technology/research-award-winners.html |archive-date=19 February 2017 |access-date=29 April 2017 |website=ZEISS International |language=en}}</ref>。彼女の実験的及び理論的研究は、アト秒における化学(attochemistry)の分野の基礎を築いたと考えられている<ref name="Bubola">{{cite news |last1=Bubola |first1=Emma |last2=Miller |first2=Katrina |title=Nobel Prize in Physics Awarded to 3 Scientists for Illuminating How Electrons Move |url=https://www.nytimes.com/2023/10/03/science/nobel-prize-physics.html |work=The New York Times |date=3 October 2023}}</ref>。2003年、彼女とそのグループは、170[[アト秒]]という記録で、最短レーザパルスの世界記録を更新した<ref name="Fysik">{{Cite book |title=Fysik i Lund: i tid och rum |publisher=Fysiska institutionen i samarbete med Gidlunds förlag |year=2016 |isbn=9789178449729 |editor-last=Forkman |editor-first=Bengt |location=Lund |pages=371, 374 |language=sv |editor-last2=Holmin Verdozzi |editor-first2=Kristina}}</ref>。
== 来歴 ==
[[パリ]]生まれ。1986年に[[パリ第6大学|ピエール・マリー=キュリー大学]]から[[実験物理学]]の[[Ph.D.]]を取得した後、[[サクレー研究所]]に所属した。[[チャルマース工科大学]]や[[南カリフォルニア大学]]、[[ローレンスリバモア国立研究所]]で博士研究員となった。1994 年にはスウェーデンに移り、1997年にルンド大学教授に就任。2004年に[[スウェーデン王立科学アカデミー]]の会員となり<ref name=":2"/>、2007年から2015年まで[[ノーベル物理学賞]]の選考委員を務めた<ref>{{Cite web|url=http://www.academia-net.org/profil/prof-anne-lhuillier/1135203|title=Prof. Anne L'huillier – AcademiaNet|website=www.academia-net.org|language=en|access-date=29 April 2017}}</ref>。
2022年に[[ウルフ賞物理学部門]]を受賞した<ref name=":3">{{Cite web |date=2022-02-08 |title=Anne L'Huillier |url=https://wolffund.org.il/2022/02/08/anne-lhuillier/ |access-date=2023-10-06 |website=Wolf Foundation |language=en-US}}</ref>。2023年にノーベル物理学賞を受賞した<ref name="davis-2023">
{{cite news
| last1 = Davis | first1 = Nicola
| title = Nobel prize in physics awarded to three scientists for work on electrons
| date = 3 October 2023
| work = The Guardian
| location = London, United Kingdom
| issn = 0261-3077
| url = https://www.theguardian.com/science/2023/oct/03/nobel-prize-in-physics-awarded-to-three-scientists-for-work-on-electrons
| access-date = 3 October 2023
}}
</ref>。
==出典==
{{reflist}}
==外部リンク==
*{{commons category-inline|Anne L'Huillier}}
* {{Nobelprize}}
{{ウルフ賞物理学部門}}
{{ノーベル物理学賞受賞者 (2001年-2025年)}}
{{女性のノーベル賞受賞者}}
{{Authority control}}
{{DEFAULTSORT:りゆいりえ あんぬ}}
[[Category:フランスの女性物理学者]]
[[Category:ノーベル物理学賞受賞者]]
[[Category:フランスのノーベル賞受賞者]]
[[Category:スウェーデンのノーベル賞受賞者]]
[[Category:女性のノーベル賞受賞者]]
[[Category:ロレアル-ユネスコ女性科学賞受賞者]]
[[Category:ウルフ賞物理学部門受賞者]]
[[Category:ルンド大学の教員]]
[[Category:アメリカ物理学会フェロー]]
[[Category:アメリカ光学会フェロー]]
[[Category:米国科学アカデミー外国人会員]]
[[Category:米国科学アカデミー会員]]
[[Category:スウェーデン王立科学アカデミー会員]]
[[Category:パリ大学出身の人物]]
[[Category:パリ出身の人物]]
[[Category:1958年生]]
[[Category:存命人物]] | 2023-10-08T04:29:11Z | 2023-10-26T09:31:04Z | false | false | false | [
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"Template:Thumbnail:ノーベル賞受賞者",
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"Template:ノーベル物理学賞受賞者 (2001年-2025年)",
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"Template:ウルフ賞物理学部門",
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"Template:Cite news"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%82%A8 |
4,838,874 | 花ノ木町 (安城市) | 花ノ木町(はなのきちょう)は、愛知県安城市の地名。
安城市中央部に位置する。東は末広町、西は桜町、北は御幸本町に接する。
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる。
国勢調査による人口および世帯数の推移。 | [
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] | 花ノ木町(はなのきちょう)は、愛知県安城市の地名。 | {{Pathnav|日本|愛知県|安城市|'''花ノ木町'''|hide=1|frame=1}}
{{Infobox settlement
| name = 花ノ木町
| settlement_type = [[町丁]]
| image_skyline = <!--- 関連する画像ファイル --->
| imagesize = 270px
| image_caption = <!--- 画像の説明 --->
| image_map =
| map_caption = 花ノ木町の位置
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| subdivision_type = [[国の一覧|国]]
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| area_footnotes = <ref group=WEB name="area">{{Cite web|url=https://toukei-labo.com/2015/?tdfk=23&city=23212|title=愛知県安城市の町丁・字一覧|publisher=人口統計ラボ|language=日本語|accessdate=2023-08-26}}</ref>
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| postal_code_type = [[郵便番号]]
| postal_code = 446-0039<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?pref=23&city=1232120&cmp=1&mode=list&addr=|title=愛知県安城市の郵便番号一覧|publisher=日本郵便|accessdate=2023-08-26}}</ref>
| area_code = 0566<ref group=WEB name=areacode>{{Cite web|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000141817.pdf|format=PDF||title=市外局番の一覧|publisher=総務省|date=2022-03-01|accessdate=2022-03-22}}</ref>
| registration_plate = [[愛知運輸支局|三河]]
| footnotes =
}}
'''花ノ木町'''(はなのきちょう)は、[[愛知県]][[安城市]]の地名。
== 地理 ==
安城市中央部に位置する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}。東は[[末広町 (安城市)|末広町]]、西は[[桜町 (安城市)|桜町]]、北は[[御幸本町 (安城市)|御幸本町]]に接する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}。
=== 学区 ===
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.city.anjo.aichi.jp/manabu/gakko/kyoikushisetsu/gakku.html|title=小中学校区一覧(町別50音順)|author=安城市役所教育振興部学校教育課学事係|publisher=安城市|date=2022-04-07|accessdate=2023-10-08}}</ref>。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.pref.aichi.jp/soshiki/kotogakko/0000080445.html|title=平成29年度以降の愛知県公立高等学校(全日制課程)入学者選抜における通学区域並びに群及びグループ分け案について|publisher=愛知県教育委員会|date=2015-02-16|accessdate=2019-01-14}}</ref>。
{| class="wikitable"
!番・番地等!!小学校!!中学校!!高等学校
|-
||全域||[[安城市立桜町小学校]]||[[安城市立安城南中学校]]||[[愛知県の高校入試#三河学区|三河学区]]
|}
== 歴史 ==
=== 町名の由来 ===
=== 人口の変遷 ===
[[国勢調査]]による人口および世帯数の推移。
{| class="wikitable"
|-
|1995年(平成7年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000023630251&fileKind=1|format=CSV|title=平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-03-28|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|263世帯<br>848人||<div style="width:26.3px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:84.8px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2000年(平成12年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025137780&fileKind=1|format=CSV|title=平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-05-30|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|261世帯<br>766人||<div style="width:26.1px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:76.6px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2005年(平成17年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025514226&fileKind=1|format=CSV|title=平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-06-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|254世帯<br>702人||<div style="width:25.4px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:70.2px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2010年(平成22年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000012671534&fileKind=1|format=CSV|title=平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2012-01-20|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|221世帯<br>552人||<div style="width:22.1px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:55.2px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2015年(平成27年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000031522121&fileKind=1|format=CSV|title=平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2017-01-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|176世帯<br>418人||<div style="width:17.6px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:41.8px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2020年(令和2年)<ref group=WEB name=R2国勢調査>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000032163424&fileKind=1|format=CSV|title=令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口,外国人人口及び世帯数-町丁・字等|author=総務省統計局|date=2022-02-10|accessdate=2023-08-02|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|193世帯<br>423人||<div style="width:19.3px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:42.3px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|}
=== 沿革 ===
* 1960年(昭和35年) - 安城市安城町の一部により、同市花ノ木町が成立{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1086}}。
== 交通 ==
* [[愛知県道豊田安城線]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
== 施設 ==
* 花ノ木公民館{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* 花ノ木老人憩いの家{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* 十六銀行安城支店{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* 三重銀行安城支店{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* 市営花ノ木駐車場{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* 八幡社{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== WEB ===
{{Reflist|group="WEB"|refs=}}
=== 書籍 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1989|date=1989-03-08|title=[[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県|publisher=[[角川書店]]|isbn=4-04-001230-5|language=ja|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[安城市の町名]]
{{Geographic Location
| Northwest<!--北西--> =
| North<!--北--> = [[御幸本町]]
| Northeast<!--北東--> =
| West<!--西--> = [[桜町]]
| Centre<!--中央--> = 花ノ木町
| East<!--東--> = [[末広町]]
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| South<!--南--> =
| Southeast<!--南東--> =
}}
{{安城市の町・字}}
{{Japan-block-stub}}
{{Pref-stub|pref=愛知県}}
{{デフォルトソート:はなのきちよう}}
[[Category:安城市の町名]] | 2023-10-08T04:40:01Z | 2023-10-08T07:04:20Z | false | false | false | [
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"Template:Pref-stub"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E3%83%8E%E6%9C%A8%E7%94%BA_(%E5%AE%89%E5%9F%8E%E5%B8%82) |
4,838,875 | フィリッポ・ミッソーリ | フィリッポ・ミッソーリ(Filippo Missori、2004年3月24日 - )は、イタリア・ローマ出身のサッカー選手。USサッスオーロ・カルチョ所属。ポジションはDF。
2013年にASローマの下部組織へ入団し、2021年11月25日、UEFAヨーロッパカンファレンスリーグのFCゾリャ・ルハーンシク戦にて、後半35分にヘンリク・ムヒタリアンとの途中交代でトップチームデビューを果たした。なお、2004年生まれの選手がローマのトップチームでプレーしたのはこれが初めてであった。
2023年6月29日、同じくセリエAに所属していたUSサッスオーロ・カルチョへ契約年数非公開で移籍した。
2019年よりイタリアの世代別代表でプレーしている。 | [
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] | フィリッポ・ミッソーリは、イタリア・ローマ出身のサッカー選手。USサッスオーロ・カルチョ所属。ポジションはDF。 | {{サッカー選手
|名前=フィリッポ・ミッソーリ
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|画像の説明=
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|愛称=
|アルファベット表記=Filippo Missori
|国={{ITA}}
|生年月日={{生年月日と年齢|2004|3|24}}
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|年1=2021-2023|クラブ1={{flagicon|ITA}} [[ASローマ|ローマ]]|出場1=3|得点1=0
|年2=2023-|クラブ2={{flagicon|ITA}} [[USサッスオーロ・カルチョ|サッスオーロ]]|出場2=|得点2=
|クラブ成績更新日=2023年6月30日
|代表年1=2019|代表1={{fbu|15|ITA|name=イタリア U-15}}|代表出場1=9|代表得点1=2
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}}
'''フィリッポ・ミッソーリ'''('''Filippo Missori'''、[[2004年]][[3月24日]] - )は、[[イタリア]]・[[ローマ]]出身の[[プロサッカー選手|サッカー選手]]。[[USサッスオーロ・カルチョ]]所属。ポジションは[[ディフェンダー (サッカー)|DF]]。
== クラブ経歴 ==
2013年に[[ASローマ]]の下部組織へ入団し<ref>{{Cite web|last=Conflitti|first=Gabriele|date=Nov 25, 2021|title=Chi è Filippo Missori, primo classe 2004 italiano a giocare in Europa|url=https://www.goal.com/it/notizie/chi-e-filippo-missori/bltd414f71235d2aaf4|access-date=2021-11-26|website=Goal}}</ref>、2021年11月25日、[[UEFAヨーロッパカンファレンスリーグ]]の[[FCゾリャ・ルハーンシク]]戦にて、後半35分に[[ヘンリク・ムヒタリアン]]との途中交代でトップチームデビューを果たした<ref>{{Cite web|date=25 Nov 2021|title=Roma, esordio per Missori: ecco chi è il 17enne lanciato da Mourinho|url=https://corrieredellosport.it/news/calcio/serie-a/roma/2021/11/25-87376465/roma_esordio_per_missori_ecco_chi_e_il_17enne_lanciato_da_mourinho|access-date=2021-11-25|website=Corriere dello Sport|language=it}}</ref>。なお、2004年生まれの選手がローマのトップチームでプレーしたのはこれが初めてであった<ref>{{Cite web|last=Canicchio|first=Lorenzo|date=2021-11-25|title=Roma, esordio assoluto per Filippo Missori. Un sogno che s'avvera|url=https://www.gazzettaregionale.it/home/2021/11/25/news/roma-esordio-assoluto-per-filippo-missori-un-sogno-che-savvera-124127/|access-date=2021-11-25|website=Gazzetta Regionale|language=it}}</ref>。
2023年6月29日、同じく[[セリエA (サッカー)|セリエA]]に所属していた[[USサッスオーロ・カルチョ]]へ契約年数非公開で移籍した<ref>{{Cite web |date=29 June 2023 |title=Cristian Volpato e Filippo Missori ceduti a titolo definitivo al Sassuolo |url=https://www.asroma.com/it/notizie/68852/cristian-volpato-e-filippo-missori-ceduti-a-titolo-definitivo-al-sassuolo |access-date=30 June 2023 |website=AS Roma |language=it-IT}}</ref>。
== 代表経歴 ==
2019年よりイタリアの世代別代表でプレーしている。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
*{{sports links}}
{{USサッスオーロ・カルチョのメンバー}}
{{UEFA U-19欧州選手権2023イタリア代表}}
{{デフォルトソート:みつそり ふいりつほ}}
[[Category:イタリアのサッカー選手]]
[[Category:ASローマの選手]]
[[Category:USサッスオーロ・カルチョの選手]]
[[Category:ローマ出身の人物]]
[[Category:2004年生]]
[[Category:存命人物]] | 2023-10-08T04:44:07Z | 2023-10-08T04:44:07Z | false | false | false | [
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"Template:UEFA U-19欧州選手権2023イタリア代表",
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"Template:Sports links"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%9D%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%83%AA |
4,838,877 | 第281リツェイ | 第281リツェイ(ロシア語:Лицей No281)とは2008年以前は第281学校(Школа No 281)だったサンクトペテルブルクのアドミラルテイスキー地区にある自然科学を学ぶ国営の教育機関である。日本の小学校から高校に相当する11年制度の学校である。
正式名称はサンクトペテルブルクのアドミラルテイスキー地区にある国立予算教育機関リツェイNo.281(Государственное бюджетное общеобразовательное учреждение Лицей No 281 Адмиралтейского района Санкт-Петербурга)である。
1948年に初等教育を行う8年制学校として設立された。1954年には男女共学になり、1956年にはポリテクを学ぶ一般的な中等教育校に再編成された。2008年2月26日にリセウムの認定を受けた。現在は初等教育4年、一般教育5年、中等教育2年を行うロシアでは標準的な11年制の学校である。現在は大学進学率の高い進学校になっている。
この学校はソビエトにおけるポリテク教育のパイオニアである。
この学校はでは従来から高度な化学の授業が行われている。1989年には、数学とプログラミングを高度に研究するクラスが追加された。現在、同校ではさまざまな教育課程で学生を育成している。 | [
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] | 第281リツェイ(ロシア語:Лицей №281)とは2008年以前は第281学校(Школа № 281)だったサンクトペテルブルクのアドミラルテイスキー地区にある自然科学を学ぶ国営の教育機関である。日本の小学校から高校に相当する11年制度の学校である。 正式名称はサンクトペテルブルクのアドミラルテイスキー地区にある国立予算教育機関リツェイNo.281(Государственное бюджетное общеобразовательное учреждение Лицей № 281 Адмиралтейского района Санкт-Петербурга)である。 1948年に初等教育を行う8年制学校として設立された。1954年には男女共学になり、1956年にはポリテクを学ぶ一般的な中等教育校に再編成された。2008年2月26日にリセウムの認定を受けた。現在は初等教育4年、一般教育5年、中等教育2年を行うロシアでは標準的な11年制の学校である。現在は大学進学率の高い進学校になっている。 | {{Uncategorized|date=2023年11月}}{{infobox person/Wikidata|fetchwikidata=ALL}}{{Infobox School|画像=Sovetskiy pereulok 4.jpg|校名=第281リツェイ|公式サイト=http://www.school281.spb.ru/|過去校名=第281号学校|設立年月日=1948年|国公私立=公立|所在地=サンクトペテルブルク、ソヴェツキー通り}}'''第281リツェイ''' (ロシア語:Лицей №281、2008年以前は第281学校 〈Школа № 281〉 だった)は、[[サンクトペテルブルク]]のアドミラルテイスキー地区にある自然科学を学ぶ国営の教育機関である。
日本の小学校から高校に相当する11年制度の学校である。
== 解説 ==
{{出典の明記| date = 2023年11月| section = 1}}
正式名称はサンクトペテルブルクのアドミラルテイスキー地区にある国立予算教育機関リツェイNo.281(Государственное бюджетное общеобразовательное учреждение Лицей № 281 Адмиралтейского района Санкт-Петербурга)である。
1948年に初等教育を行う8年制学校として設立された。1954年には男女共学になり、1956年にはポリテクを学ぶ一般的な中等教育校に再編成された。2008年2月26日にリセウムの認定を受けた。現在は初等教育4年、一般教育5年、中等教育2年を行うロシアでは標準的な11年制の学校である。現在は大学進学率の高い進学校になっている<ref name=":0">{{Cite web |title=プーチン大統領が「貧しい家庭出身」は大嘘! 実際は“絶対に当たる宝くじ”を持つ超特権階級の御曹司… デタラメだらけの公式設定とは? 天才・亜留間次郎が解説(2023年2月21日)|BIGLOBEニュース |url=https://news.biglobe.ne.jp/trend/0222/toc_230222_6864029224.html |website=BIGLOBEニュース |access-date=2023-11-05 |language=ja}}</ref>。
== 専門性 ==
{{出典の明記| date = 2023年11月| section = 1}}
この学校はソビエトにおけるポリテク教育のパイオニアである。
この学校はでは従来から高度な化学の授業が行われている。1989年には、数学とプログラミングを高度に研究するクラスが追加された。現在、同校ではさまざまな教育課程で学生を育成している。
* 化学、生物
* 理化学分析
* 情報技術
== 著名な卒業生 ==
* [[ウラジーミル・プーチン]](ロシア連邦大統領)<ref name=":0" /><ref>{{Cite web |url=https://school281.spb.ru/o-licee/istoria-licea |title=リツェイの歴史 |access-date=2023/02/07 |publisher=第281リツェイ}}</ref>
== リファレンス ==
<references group="" responsive="0">
</references>
== 外部リンク ==
* [http://www.school281.spb.ru Официальный сайт ГБОУ Лицея № 281]
[[Category:ロシアの学校]] | 2023-10-08T04:57:57Z | 2023-11-05T11:30:16Z | false | false | false | [
"Template:Cite web",
"Template:Infobox School"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC281%E3%83%AA%E3%83%84%E3%82%A7%E3%82%A4 |
4,838,879 | ルイス・ハサ | ルイス・ハサ(Luis Hasa、2004年1月6日 - )は、イタリア・ラツィオ州ソーラ出身のサッカー選手。ユヴェントス Next Gen所属。ポジションはMF。
アルバニア人の両親の下、ラツィオ州のソーラに生まれた。2012年に地元のアマチュアクラブからユヴェントスFCの下部組織へ移籍し、2022年12月からリザーブチームにあたるユヴェントス Next Genへプレーするようになった。2023-24シーズン開幕前にはマッシミリアーノ・アッレグリによってトップチームのトレーニングへ招集された。2023年9月2日、セリエCのデルフィーノ・ペスカーラ1936戦にてプロデビューを果たした。
2021年からイタリアの世代別代表でプレーしており、U-19イタリア代表の一員として出場したUEFA U-19欧州選手権2023では、レギュラーとして大会制覇に貢献するとともに大会最優秀選手賞を受賞した。 | [
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] | ルイス・ハサは、イタリア・ラツィオ州ソーラ出身のサッカー選手。ユヴェントス Next Gen所属。ポジションはMF。 | {{サッカー選手
|名前=ルイス・ハサ
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|画像の説明=
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|愛称=
|アルファベット表記=Luis Hasa
|国={{ITA}}<br />{{ALB}}
|生年月日={{生年月日と年齢|2004|1|6}}
|出身地=[[ソーラ]]
|身長=170cm
|体重=
|所属チーム名={{flagicon|ITA}} [[ユヴェントス Next Gen]]
|ポジション=[[ミッドフィールダー|MF]]
|背番号=7
|利き足=右足
|ユース年1={{0|0000}}-2012|ユースクラブ1={{flagicon|ITA}} サン・ドメニコ
|ユース年2=2012-2023|ユースクラブ2={{flagicon|ITA}} [[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]
|年1=2023-|クラブ1={{flagicon|ITA}} [[ユヴェントス Next Gen]]|出場1=|得点1=
|クラブ成績更新日=2023年6月30日
|代表年1=2021-2022|代表1={{fbu|18|ITA|name=イタリア U-18}}|代表出場1=6|代表得点1=0
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|代表成績更新日=2023年9月11日
}}
'''ルイス・ハサ'''('''Luis Hasa'''、[[2004年]][[1月6日]] - )は、[[イタリア]]・[[ラツィオ州]][[ソーラ]]出身の[[プロサッカー選手|サッカー選手]]。[[ユヴェントス Next Gen]]所属。ポジションは[[ミッドフィールダー|MF]]。
== クラブ経歴 ==
[[アルバニア人]]の両親の下、[[ラツィオ州]]の[[ソーラ]]に生まれた<ref name="Fams">{{cite web|url=https://pamfleti.net/english/sport/mes-adhurimit-per-cr7-dhe-refuzimit-te-totit-kush-eshte-luis-hasa-djaloshi-i180027|title=Between CR7 adoration and Totti rejection, who is Luis Hasa, the boy from Beijing who sent Italy to the final|date=15 July 2023|accessdate=15 August 2023}}</ref>。2012年に地元のアマチュアクラブから[[ユヴェントスFC]]の下部組織へ移籍し<ref>{{cite web|url=https://www.breakinglatest.news/sports/juve-who-is-hasa-the-10-of-tottis-stable-star-of-italy-under-19/|title=Juve, who is Hasa, the “10” of Totti’s stable, star of Italy Under 19|date=20 November 2022|accessdate=14 August 2023|website=breakinglatest.news}}</ref>、2022年12月からリザーブチームにあたる[[ユヴェントス Next Gen]]へプレーするようになった。2023-24シーズン開幕前には[[マッシミリアーノ・アッレグリ]]によってトップチームのトレーニングへ招集された<ref>{{cite web|url=https://www.juventus.com/en/news/articles/juve-wrap-up-close-season-with-atalanta-draw|title=Juve wrap up close-season with Atalanta draw|publisher=Juventus Football Club|date=12 August 2023|accessdate=15 August 2023}}</ref>。2023年9月2日、[[セリエC (サッカー)|セリエC]]の[[デルフィーノ・ペスカーラ1936]]戦にてプロデビューを果たした<ref>{{Cite web |title=Delfino Pescara 1936 - Juventus Next Gen, Sep 2, 2023 - Serie C - Girone B - Match sheet |url=https://www.transfermarkt.com/delfino-pescara-1936_juventus-next-gen/index/spielbericht/4152473 |website=www.transfermarkt.com |access-date=2023-10-08 |language=en}}</ref>。
== 代表経歴 ==
2021年からイタリアの世代別代表でプレーしており、[[U-19サッカーイタリア代表|U-19イタリア代表]]の一員として出場した[[UEFA U-19欧州選手権2023]]では、レギュラーとして大会制覇に貢献するとともに大会最優秀選手賞を受賞した<ref>{{cite web|url=https://www.uefa.com/under19/news/0283-1889267b0ea3-7c73a0b161ac-1000--luis-hasa-named-2023-under-19-euro-player-of-the-tournament/|title=Luis Hasa named 2023 Under-19 EURO Player of the Tournament|publisher=UEFA.com|date=20 Jul 2023|accessdate=15 August 2023}}</ref>。
== タイトル ==
=== 個人 ===
*[[UEFA U-19欧州選手権#表彰|UEFA U-19欧州選手権大会MVP]] : 1回 ([[UEFA U-19欧州選手権2023|2023]])
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
*{{sports links}}
{{UEFA U-19欧州選手権2023イタリア代表}}
{{デフォルトソート:はさ るいす}}
[[Category:イタリアのサッカー選手]]
[[Category:ユヴェントス Next Genの選手]]
[[Category:アルバニア系イタリア人]]
[[Category:ラツィオ州出身の人物]]
[[Category:2004年生]]
[[Category:存命人物]] | 2023-10-08T05:05:17Z | 2023-10-08T05:05:17Z | false | false | false | [
"Template:Cite web",
"Template:Sports links",
"Template:UEFA U-19欧州選手権2023イタリア代表",
"Template:サッカー選手",
"Template:Reflist"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%B5 |
4,838,880 | 西大分町 | 西大分町(にしおおいたまち)は、大分県大分郡にあった町。現在の大分市の一部にあたる。 | [
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"text": "西大分町(にしおおいたまち)は、大分県大分郡にあった町。現在の大分市の一部にあたる。",
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] | 西大分町(にしおおいたまち)は、大分県大分郡にあった町。現在の大分市の一部にあたる。 | {{日本の町村 (廃止)
| 廃止日 = 1907年4月1日
| 廃止理由 = 新設合併
| 廃止詳細 = 大分町、'''西大分町'''、[[荏隈村]]、[[豊府村]] → [[大分市|大分町]]
| 現在の自治体 = [[大分市]]
| よみがな = にしおおいたまち
| 自治体名 = 西大分町
| 区分 = 村
| 都道府県 = 大分県
| 郡 = [[大分郡]]
| 面積 =
| 境界未定 =
| 人口 = 6466
| 人口の出典 = 『角川日本地名大辞典 44 大分県』624頁
| 人口の時点 = 1903年
| 隣接自治体 = [[東大分村]]、大分町、荏隈村、[[八幡村 (大分県大分郡)|八幡村]]
| 所在地 = 大分郡西大分町大字駄原
| 座標 =
| 位置画像 =
| 特記事項 =
}}
'''西大分町'''(にしおおいたまち{{R|変遷}}{{R|角川}})は、[[大分県]][[大分郡]]にあった[[町]]。現在の[[大分市]]の一部にあたる。
== 地理 ==
*海洋:[[別府湾]]<ref name=角家>「勢家〈大分市〉」『角川日本地名大辞典 44 大分県』461頁。</ref>
*河川:[[住吉川 (大分県)|住吉川]]<ref name=角原>「駄原〈大分市〉」『角川日本地名大辞典 44 大分県』515頁。</ref>、祓川<ref name=角石>「生石〈大分市〉」『角川日本地名大辞典 44 大分県』98頁。</ref>
== 歴史 ==
*[[1889年]](明治22年)4月1日、[[町村制]]の施行により、大分郡勢家町、駄原村、生石村が合併して町制施行し、'''西大分町'''が発足<ref name=変遷>『市町村名変遷辞典』587頁。</ref><ref name=角川>『角川日本地名大辞典 44 大分県』624頁。</ref>。旧村名を継承した勢家、駄原、生石の3大字を編成{{R|角川}}。
*[[1893年]](明治26年)10月14日、大洪水で[[大分港]]が大きな被害を受けた{{R|角川}}。
*[[1907年]](明治40年)4月1日、大分郡大分町、西大分町、荏隈村、豊府村と合併し'''[[大分市|大分町]]'''が存続して廃止された{{R|変遷}}{{R|角川}}。
== 産業 ==
*農業{{R|角家}}、漁業{{R|角石}}、鋳物{{R|角原}}
== 交通 ==
=== 港湾 ===
*[[大分港]]{{R|角川}}
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* [[角川日本地名大辞典]] 44 大分県
* 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。
== 関連項目 ==
* [[大分県の廃止市町村一覧]]
{{デフォルトソート:にしおおいたまち}}
[[Category:大分郡]]
[[Category:大分市域の廃止市町村]]
[[Category:1889年設置の日本の市町村]]
[[Category:1907年廃止の日本の市町村]] | 2023-10-08T05:06:11Z | 2023-10-08T05:06:11Z | false | false | false | [
"Template:日本の町村 (廃止)",
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"Template:Reflist"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%A4%A7%E5%88%86%E7%94%BA |
4,838,881 | キム・ソヒョン (1973年生の女優) | キム・ソヒョン(朝: 김서형、1973年10月28日 - )は、ドラマ『SKYキャッスル』や『Mine 』で知られる韓国の女優。韓国・江原道江陵市出身。趣味は愛犬との散歩や絵を描くこと、ギター。KEYEASTエンターテイメント所属。
1992年ミス・コリア江原で入賞。1994年に KBS 第16期公開採用タレントとしてデビューした。様々なドラマ・映画に脇役として出演したが、当初はあまり注目を集めることができなかった。
転機となったのは2004年に出演したSBS週末ドラマ『パリの恋人』。主人公の元妻役として、クールで洗練された演技で好評を博した。
2008年11月から2009年5月に放送されたSBS連続ドラマ『妻の誘惑』で悪女シン·エリ役を演じ、一気に知名度をあげる。このドラマで2009年 SBS演技大賞の連続ドラマ部門女性演技賞を受賞した。
2010年放送のドラマ『ジャイアント』、2012年のドラマ「サラリーマン楚漢志」、2013年の映画『 ベルリンファイル』、ドラマ『奇皇后』の皇太后役などでキャリアを重ねる。
2014年には『アトリエの春、昼下がりの裸婦』で難病を抱える彫刻家の夫を献身的に支える妻役を演じ、マドリード国際映画祭の外国語映画部門・最優秀女優を受賞。
2017年は映画『悪女/AKUJO』が「第70回カンヌ国際映画祭」に招待され、監督や共演者と共にレッドカーペットを歩いた。フォトコール時のスタイリッシュなファッションに注目が集まった。
2018年、韓国で大反響を呼んだドラマ『SKYキャッスル〜上流階級の妻たち〜』で冷徹な入試コーディネーター・キム・ジュヨン先生役を演じ、ジュヨンのセリフが流行語に、そのヘアスタイルやファッションを真似する人も現れるなど社会現象となった。このドラマで2019年の第55回百想芸術大賞でテレビ番組主演女優賞にノミネートされた。
2020年にドラマ『誰も知らない』で、デビュー以来初の単独主演を果たす。刑事役を演じSBS演技大賞のミニシリーズアクション部門最優秀演技賞を受賞した。
2021年はNetflix で配信されたドラマ『Mine 』に主演。この年の年末には Mnet Asian Music Awards で、ベストバンドパフォーマンス賞のプレゼンターを務めた。
2022年はドラマ『今日は少し辛いかも知れない』で俳優のハン・ソッキュと夫婦役で共演した。余命宣告を受けた出版社の代表役を好演し「青龍ドラマシリーズアワード」にノミネートされた。
2023年4月に放送開始のドラマ『紙の月』にも主役で出演。4月にドラマの原作者角田光代 とソウルでトークショーを行った。『紙の月』は「第6回カンヌ国際ドラマシリーズ」に招待され、カンヌのピンクカーペットを歩いた。
2023年夏、独立映画への出演が話題となった映画『ビニールハウス』が公開された。(韓国映画アカデミー 制作)、事件に巻き込まれていく自傷癖のある訪問介護士の役を演じ、その演技力が高く評価された。この映画で「大鐘賞」 「大韓民国文化芸能大賞」「韓国映画評論家協会賞」 「釜日映画賞」を受賞、 「青龍映画賞」にノミネートされた。 | [
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] | キム・ソヒョンは、ドラマ『SKYキャッスル』や『Mine 』で知られる韓国の女優。韓国・江原道江陵市出身。趣味は愛犬との散歩や絵を描くこと、ギター。KEYEASTエンターテイメント所属。 | {{ActorActress
| 芸名 = ({{lang|ko|김 서형}})
| ふりがな = キム・ソヒョン
| 画像ファイル = File:キムソヒョン 김서형 Kim SeoHyung.jpg
| 画像サイズ = 250px
| 画像コメント = 映画『ビニールハウス』GVにて(2023.8.5)
| 本名 =
| 別名義 =
| 出生地 =
| 出身地 = {{KOR}} [[江原道]][[江陵市]]
| 死没地 =
| 国籍 =
| 民族 =
| 身長 = 168[[cm]]<ref name="marieclairekorea" />
| 血液型 = [[ABO式血液型|O型]]<ref name="namu.wiki " />
| 生年 = 1973
| 生月 = 10
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| 没年 =
| 没月 =
| 没日 =
| 職業 = [[俳優]]
| ジャンル = [[映画]]、[[テレビドラマ]]
| 活動期間 = 1994年 -
| 活動内容 =
| 配偶者 =
| 著名な家族 =
| 所属劇団 =
| 事務所 = KEYEAST(キーイースト
| 公式サイト = [http://www.keyeast.co.kr/page/page.html?mcd=03 키이스트 김서형]
| 主な作品 ='''テレビドラマ'''<br />『[[パリの恋人 (テレビドラマ)|パリの恋人]]』<br />『[[妻の誘惑]]』<br />『[[奇皇后 〜ふたつの愛 涙の誓い〜]]』<br />『[[SKYキャッスル]]』<br />『[[Mine (テレビドラマ) |Mine ]]』<br /> 『[[紙の月]]』 <br />'''映画'''<br />『[[ベルリンファイル]]』<br />『[[悪女/AKUJO]]』<br />『ビニールハウス』
| アカデミー賞 =
| AFI賞 =
| 英国アカデミー賞 =
| セザール賞 =
| エミー賞 =
| ジェミニ賞 =
| ゴールデングローブ賞 =
| ゴールデンラズベリー賞 =
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| グラミー賞 =
| ブルーリボン賞 =
| ローレンス・オリヴィエ賞 =
| 全米映画俳優組合賞 =
| トニー賞 =
| 日本アカデミー賞 =
| その他の賞 ='''[[マドリード国際映画祭]]<br />外国語映画部門 最優秀女優賞'''<br />2014年『アトリエの春』<hr /> '''[[大鐘賞]]<br />主演女優賞'''<br />2023年『ビニールハウス』<hr />'''韓国映画評論家協会賞<br />主演女優賞'''<br />2023年『ビニールハウス』<hr />'''釜日映画賞<br />主演女優賞'''<br />2023年『ビニールハウス』
| 備考 =
}}
{{韓国の人物|
|title=キム・ソヒョン
|latin=Kim Seo-hyung
|hangeul=김 서형
|hanja=金 瑞亨
|katakana=キム ソヒョン
}}
'''キム・ソヒョン'''({{lang-ko-short|김서형}}、[[1973年]][[10月28日]] - )<ref name="daum">{{Cite web |url= https://movie.daum.net/person/main?personId=1229 |title=김서형 |publisher=다음영화 |language=ko |accessdate =2023-10-10}} </ref>は、ドラマ『[[SKYキャッスル]]』や『[[Mine (テレビドラマ) |Mine ]]』で知られる[[大韓民国|韓国]]の[[俳優|女優]]。[[大韓民国|韓国]]・[[江原道]][[江陵市]]出身<ref name="marieclairekorea">{{Cite web |url=
https://www.marieclairekorea.com/tag/%EA%B9%80%EC%84%9C%ED%98%95/ |title=김서형 |publisher=MarieClaireKorea |language=ko |accessdate=2023-10-10}} </ref>。趣味は愛犬との散歩や絵を描くこと、ギター<ref name="ellekorea"/>。KEYEASTエンターテイメント所属<ref name="namu.wiki">{{Cite web |url=
https://namu.wiki/w/%EA%B9%80%EC%84%9C%ED%98%95 |title=김서형| publisher= 나무위키| accessdate =2023-10-10}} </ref>。
== 経歴 ==
=== 1990年代〜2000年代 ===
1992年[[ミス・コリア]]江原で入賞。<ref name="marieclairekorea" />1994年に[[ KBS ]]第16期公開採用タレントとしてデビューした。<ref name="daum" />様々なドラマ・映画に脇役として出演したが、当初はあまり注目を集めることができなかった。<ref name="namu.wiki " />
転機となったのは2004年に出演した[[SBS (韓国)|SBS]]週末ドラマ『[[パリの恋人 (テレビドラマ)|パリの恋人]]』。主人公の元妻役として、クールで洗練された演技で好評を博した。<ref name="namu.wiki " />
2008年11月から2009年5月に放送された[[SBS (韓国)|SBS]]連続ドラマ『[[妻の誘惑]]』で悪女シン·エリ役を演じ、一気に知名度をあげる。<ref name="namu.wiki " />このドラマで2009年[[ SBS演技大賞]]の連続ドラマ部門女性演技賞を受賞。
=== 2010年代 ===
2010年放送のドラマ『[[ジャイアント]]』、2012年のドラマ「サラリーマン楚漢志」、2013年の映画『[[ ベルリンファイル]]』、ドラマ『[[奇皇后]]』の皇太后役などでキャリアを重ねる。
2014年には『アトリエの春、昼下がりの裸婦』で難病を抱える彫刻家の夫を献身的に支える妻役を演じ、[[マドリード国際映画祭]]の外国語映画部門・最優秀女優を受賞。<ref name="chousunonline">{{Cite news |url=
https://ekr.chosunonline.com/m/svc/article.html?contid=2014072201847
|title= 【フォト】チョ・グンヒョン監督&キム・ソヒョン凱旋帰国 | publisher= chousunonline | accessdate =2023-10-10}} </ref><ref name="spring">{{Cite news |url=
https://news.kstyle.com/m/article.ksn?articleNo=2008600 |title= キム・ソヒョン「妻の誘惑」の悪女が献身的な妻になった | publisher= kstyle| accessdate =2023-10-10}} </ref>
2017年は映画『[[悪女/AKUJO]]』が「第70回[[カンヌ国際映画祭]]」に招待され、監督や共演者と共にレッドカーペットを歩いた。<ref name="kstylecanne">{{Cite news |url=
https://news.kstyle.com/m/article.ksn?articleNo=2070466 | title=
【PHOTO】映画「悪女」キム・オクビン&ソンジュン&キム・ソヒョンら、カンヌ国際映画祭レッドカーペットに登場 | publisher= kstyle.com| accessdate =2023-10-11}} </ref>フォトコール時のスタイリッシュなファッションに注目が集まった。<ref name="daumcanne">{{Cite news |url=
https://v.daum.net/v/20170521233003108 | title= 김서형 '칸에서 걸크러시 매력 발산' | publisher= daum.net| accessdate =2023-10-11}} </ref>
2018年、韓国で大反響を呼んだドラマ『[[SKYキャッスル|SKYキャッスル〜上流階級の妻たち〜]]』で冷徹な入試コーディネーター・キム・ジュヨン先生役を演じ、ジュヨンのセリフが流行語に、そのヘアスタイルやファッションを真似する人も現れるなど社会現象となった。<ref name="abema">{{Cite news |url=
https://times.abema.tv/articles/-/8640704 |title= 富裕層しか住めない高級住宅街・SKYキャッスル…セレブたちが繰り広げる大ヒットドラマ『SKYキャッスル~上流階級の妻たち~』 | publisher= times.abema.tv | accessdate =2023-10-10}} </ref><ref name="ddnavi">{{Cite web |url=
https://ddnavi.com/review/773324/a/|title= 熾烈な受験戦争は思わぬ不幸を生み出した。セレブ妻たちを描き社会現象を巻き起こした韓国ドラマ『SKYキャッスル~上流階級の妻たち~』 | publisher= ダヴィンチ | accessdate =2023-10-10}} </ref>このドラマで2019年の第55回[[百想芸術大賞]]でテレビ番組主演女優賞にノミネートされた。<ref name="sportsq">{{Cite news |url=
https://www.sportsq.co.kr/news/articleView.html?idxno=328279
| title= '2019 백상예술대상' 레드카펫 위, 염정아-김서형의 나이 잊은 드레스 패션』 | publisher= 스냅샷Q | accessdate =2023-10-10}} </ref>
=== 2020年代 ===
2020年にドラマ『誰も知らない』で、デビュー以来初の単独主演を果たす。刑事役を演じ[[SBS演技大賞]]のミニシリーズアクション部門最優秀演技賞を受賞。<ref name="culture.pub">{{Cite web |url=
https://www.culture-pub.jp/daremosiranai/| title=誰も知らない| publisher= カルチュア•パブリッシャーズ | accessdate =2023-10-10}} </ref><ref name="cinemacafe">{{Cite web |url=
https://s.cinemacafe.net/article/2021/08/20/74355.html | title=誰も知らない| publisher= cinemacafe.net| accessdate =2023-10-10}} </ref>
2021年は[[Netflix ]]で配信されたドラマ『[[Mine (テレビドラマ) |Mine ]]』に主演。<ref name="marieclairekorea" />この年の年末には[[ Mnet Asian Music Awards ]]で、ベストバンドパフォーマンス賞のプレゼンターを務めた。<ref name="kstylemama">{{Cite news |url=
https://news.kstyle.com/m/article.ksn?articleNo=2182691 | title=
【PHOTO】キム・ソヒョンが「2021 MAMA」レッドカーペットに登場! | publisher= kstyle.com| accessdate =2023-10-11}} </ref>
2022年はドラマ『今日は少し辛いかも知れない』で俳優の[[ハン・ソッキュ]]と夫婦役で共演した。<ref name="spicy">{{Cite news |url=
https://s.cinemacafe.net/article/2022/12/19/82569.html | title= ハン・ソッキュ&キム・ソヒョン、1皿に愛を込めたドラマ「今日は少し辛いかもしれない」配信決定 | publisher= cinemacafe.net| accessdate =2023-10-10}} </ref>余命宣告を受けた出版社の代表役を好演、「青龍ドラマシリーズアワード」にノミネートされた。<ref name="starnews">{{Cite news |url=
https://m.starnewskorea.com/view_amp.html?no=2023071920304318929
| title= 김서형 '카리스마' | publisher= ★포토 | accessdate =2023-10-10}} </ref>
2023年4月に放送開始のドラマ『紙の月』にも主役で出演。<ref name="kstyle.papermoon">{{Cite news |url=https://news.kstyle.com/article.ksn?articleNo=2215336 | title= キム・ソヒョン、6年前に日本原作を視聴?新ドラマ「紙の月」への情熱語る…チョン・ドヨンへの愛情も(総合 | publisher= kstyle.com | accessdate =2023-10-10}} </ref>4月にドラマの原作者[[角田光代]] とソウルでトークショーを行った。<ref name="navar.blog">{{Cite web |url=
https://m.blog.naver.com/thdwldud17/223072181393| title= 지니TV 드라마 종이달 GV 후기, 역대급 웰메이드 4월 드라마 추천
| publisher= 반짝반짝빛나는 | accessdate =2023-10-10}} </ref>『紙の月』は「第6回カンヌ国際ドラマシリーズ」に招待され、カンヌのピンクカーペットを歩いた。<ref name="nate">{{Cite news |url=
https://m.news.nate.com/view/20230420n10352 | title=
'종이달' 김서형, 칸 압도했다 | publisher= nate.com| accessdate =2023-10-11}} </ref>このドラマで、2023年年末に「APAN STAR AWARDS([[アジア太平洋スターアワード]])」の中編ドラマ女優優秀演技賞を受賞。
2023年夏、独立映画への出演が話題となった映画『ビニールハウス』が公開された。([[韓国映画アカデミー ]]制作)<ref name="wowkorea">{{Cite news |url=
https://www.wowkorea.jp/news/read/405604.html | title= 女優キム・ソヒョンの底力が通じた…“観客数1万人突破”映画「ビニールハウス」が残すもの | publisher= wowkorea| accessdate =2023-10-10}} </ref>、事件に巻き込まれていく自傷癖のある訪問介護士の役を演じ、その演技力が高く評価された。この映画で「[[大鐘賞]]」<ref name="kstyle.deajong">{{Cite news |url= https://news.kstyle.com/m/article.ksn?articleNo=2229146&categoryCode=PU |title= イ・ビョンホン&キム・ソヒョン「第59回大鐘賞映画祭」で主演賞を受賞 | publisher= kstyle| accessdate =2023-11-16}} </ref> 「[[大韓民国文化芸能大賞]]」「韓国映画評論家協会賞」<ref name="kstyle">{{Cite news |url=
https://news.kstyle.com/m/article.ksn?articleNo=2226727 |title= イ・ビョンホン&キム・ソヒョン、釜日映画賞で男女主演賞を受賞! | publisher= kstyle| accessdate =2023-10-10}} </ref> 「釜日映画賞」などを受賞、<ref name="buil">{{Cite news |url= https://news.kstyle.com/m/article.ksn?articleNo=2225914 |title= リュ・ジュンヨル&キム・ソヒョンら「第43回韓国映画評論家協会賞」レッドカーペットに登場 | publisher= kstyle| accessdate =2023-10-10}} </ref> 「[[青龍映画賞]]」にもノミネートされた。<ref name="ekr">{{Cite news |url= https://ekr.chosunonline.com/m/svc/article.html?contid=2023112480269 |title=キム・ソヒョン、シックな肩出し黒ドレス=青龍映画賞
| publisher= ekr.chousunonline.com| accessdate =2023-12-27}} </ref>
== 出演作品 ==
=== ドラマ ===
* {{仮リンク|明日は愛|ko| 내일은 사랑|label=}}(1994年、KBS2)
* {{仮リンク| クォン家の娘たち |ko| 딸부잣집 |label=}}(1994年、KBS2)
* {{仮リンク|青空 (ドラマ)|ko|창공 (드라마)|label=青空}}(1995年、KBS2) - 看護将校 キム中尉役
* {{仮リンク| 新世代レポート 大人達は知らない |ko| 신세대 보고 - 어른들은 몰라요 |label=}}(1995年、KBS1)
* {{仮リンク|遥か遠い国|ko| 머나먼 나라 |label=}}(1996年、KBS2)
* {{仮リンク|幸せな朝|ko| 행복한 아침 (드라마) |label=}}(1997年、KBS2)
* {{仮リンク|スター誕生 (ドラマ)|ko|스타 (드라마)|label=スター誕生}}(1997年、KBS2)
* {{仮リンク|疾走(1997)|ko| 질주 (1997년 드라마) |label=}}(1997年、KBS2)
* {{仮リンク| あなたが私を呼ぶ時 |ko| 그대 나를 부를 때 |label=}}(1997年、KBS2)
* {{仮リンク| 母情の川 |ko| 모정의 강 |label=}}(1997年、KBS1)
* {{仮リンク|君と私の歌 (ドラマ)|ko| 너와 나의 노래 |label=君と私の歌}}(1998年、KBS1)
* {{仮リンク| キリマンジャロの豹 |ko| 킬리만자로의 표범 |label=}}(1998年、KBS2)
* {{仮リンク| 風のように 波のように |ko| 바람처럼 파도처럼 |label=}}(1998年、KBS1)
* {{仮リンク|折鶴 (ドラマ)|ko|종이학 (드라마)|label=折鶴}}(1998年、KBS2)
* {{仮リンク|You (1999年のドラマ)|ko|당신 (1999년 드라마)|label=You}}(1999年、KBS1)
* {{仮リンク| 好きなんだもん |ko| 좋은걸 어떡해 (2000년 드라마) |label=}}(2000年、KBS1)
* {{仮リンク| 父のように生きるのは嫌だった |ko| 아버지처럼 살기 싫었어 |label=}}(2001年、KBS2)
* {{仮リンク| 私の恋人、誰かしら |ko| 내사랑 누굴까 |label=}}(2002年、KBS2)
* {{仮リンク| 僕は走る-Breathless- |ko| 나는 달린다|label=}}(2003年、MBC)- ヨジュ役
*[[パリの恋人 (テレビドラマ)|パリの恋人]](2004年、SBS)- ペク・スンギョン役
* {{仮リンク| 愛、坂道に立つ |ko| 사랑, 비탈길에 서다 |label=}}(2004年、MBC)-ユン・ダヒ役
*妻の日記(2004年、KBS2)-ユン・ジェギョン役
*[[がんばれ!クムスン]](2005年、MBC)- ハ・ソンラン役
*[[グリーンローズ]](2005年、SBS)- チャ・ユラン役
* {{仮リンク|恋人よ (ドラマ)|ko|연인이여|label=恋人よ}}(2007年、SBS)-ハ・ジェイン役
*[[妻の誘惑]](2008年、SBS)- シン・エリ役
*[[ ジャイアント (テレビドラマ) |ジャイアント]](2010年、SBS)- ユ・ギョンオク役
* {{仮リンク| サラリーマン楚漢志 |ko| 샐러리맨 초한지 |label=}}(2012年、SBS)-モ・ガビ役
* {{仮リンク| 棚ぼたのあなた |ko| 넝쿨째 굴러온 당신 |label=}}(2012年、KBS2)-チョン・ジェヨンの姉役:特別出演
* {{仮リンク| お母さんが何だって |ko| 엄마가 뭐길래 (시트콤) |label=}}(2012年、MBC)-パク・ソヒョン役
* {{仮リンク| 放課後サプライズ~ハチャメチャ大作戦 |ko| 방과 후 복불복 |label=}}(2013年、ウェブドラマ)-給食室のおばさん役
*[[奇皇后 〜ふたつの愛 涙の誓い〜]](2013年、MBC)- 皇太后役
*[[弁護士の資格]](2014年、MBC)- イ・ソニ:特別出演
* {{仮リンク| ラスト・チャンス!~愛と勝利のアッセンブリー~|ko| 어셈블리 (드라마) |label=}}(2015年、KBS2)-ホン・チャンミ役
*[[グッドワイフ〜彼女の決断〜]](2016年、tvN)- ソ・ミョンヒ役
* {{仮リンク| ウラチャチャ My Love |ko| 으라차차 와이키키 |label=}}(2018年、JTBC)-キム・ヒジャ役:特別出演
*[[偉大な誘惑者]](2018年、MBC)- ミョン・ミリ役
* {{仮リンク| ここに来て抱きしめて |ko| 이리와 안아줘 |label=}}(2018年、MBC)-パク・ヒヨン役
*[[SKYキャッスル | SKYキャッスル〜上流階級の妻たち〜]](2018年、JTBC)- キム・ジュヨン役
* {{仮リンク|誰も知らない (ドラマ)|ko|아무도 모른다 (드라마)|label=誰も知らない}}(2020年、SBS)-チャ・ヨンジン役
*[[Mine (テレビドラマ) |Mine]](2021年、tvN)- チョン・ソヒョン役
* {{仮リンク| 今日は少し辛いかもしれない |ko| 오늘은 좀 매울지도 몰라 |label=}}(2022年、WATCHA)-チョン・ダジョン役
* {{仮リンク| 紙の月(韓国版)|ko| 종이달 (2023년 드라마) |label=}}(2023年、ENA)-ユ・イファ役
=== 映画 ===
* {{仮リンク| REC【レック】 |ko| 찍히면 죽는다 |label=}}(2000年)-養護教諭
* {{仮リンク|ベサメムーチョ (映画)|ko|베사메무쵸|label=ベサメムーチョ}}(2001年)-バレエ教師役
* {{仮リンク|オーバー・ザ・レインボー (映画)|ko|오버 더 레인보우 (영화)|label=オーバー・ザ・レインボー}}(2002年)-キョンヒ役
* {{仮リンク| 恋する婚活プランナー |ko| 좋은사람있으면 소개시켜줘 |label=}}(2002年)-イ・ガンヒョン役
* {{仮リンク| 欲望~Lovers~|ko| 맛있는 섹스, 그리고 사랑 |label=}}(2003年)-チョ・シンア役
* {{仮リンク| VOICE ヴォイス |ko| 여고괴담 4: 목소리 |label=}}(2005年)-音楽教師•ヒヨン役
* {{仮リンク| 4番目の階 |ko| 어느날 갑자기 두 번째 이야기 - 네 번째 층 |label=}}(2006年)-チェ・ミニョン役
* {{仮リンク| 相棒 シティ・オブ・バイオレンス |ko|짝패 (영화) |label=}}(2006年)-チャン・ミラン役:特別出演
* {{仮リンク|黒い家 (2007年の映画)|ko|검은 집 (2007년 영화)|label=黒い家}}(2007年)-チャン・ミナ役
* {{仮リンク| 裸足の夢 |ko| 맨발의 꿈|label=}}(2010年)-ユ・ボヒョン記者役
* {{仮リンク| ダブル・キラー |ko| 죽이고 싶은 |label=}}(2010年)-ペク・クァジャン役:特別出演
* {{仮リンク| 人類滅亡計画書 |ko| 인류멸망보고서 |label=}}(2012年)-ミン本部長役
* {{仮リンク| 結婚式(韓国映画)|ko| 웨딩 세레모니 |label=}}(2012年)-女性役
*[[ベルリンファイル]](2013年)- 北朝鮮大使館秘書役
* {{仮リンク| Short! Short! Short! 2013 |ko| 소설, 영화와 만나다 |label=}}(2013年)-ミジョン役
* {{仮リンク| アトリエの春、昼下がりの裸婦|ko| 봄 (영화) |label=}}(2014年)-ジョンスク役
*[[悪女/AKUJO]](2017年)- クォン部長役
* {{仮リンク| SP 国家情報局:Mr.ZOO |ko| 미스터 주: 사라진 VIP |label=}}(2019年)-ミン・スヒ役
* {{仮リンク| 女子高の怪談 6番目の話:母校 |ko| 여고괴담 여섯번째 이야기: 모교 |label=}}(2021年)-ウンヒ役
* {{仮リンク|ビニールハウス (映画)|ko|비닐하우스 (영화)|label=ビニールハウス}}(2023年)-ムンジョン役
*ドッグデイズ(TBA)-獣医師・動物病院の院長役
== エピソード ==
* 愛犬のヨークシャテリア(名前は꼬맹이・kkomenge)と暮らしている。愛犬をモチーフにした絵を描き、時折Instagramにアップしている。<ref name="ellekorea">{{Cite web |url=
https://www.elle.co.kr/article/55069 | title= 드라마 '마인'의 정서현 vs 배우 김서형 | publisher= ellekorea| accessdate =2023-10-10}} </ref>
* クールな見た目だが気さくな人柄で、お茶目で愛らしい一面も持っている。<ref name="newsrep">{{Cite news |url= http://www.newsrep.co.kr/news/articleView.html?idxno=70174 | title= '쓰앵님' 김서형의 카리스마 애교 | publisher= newsrep.co | accessdate =2023-10-10}} </ref>ファンにとても優しく接し、トークショーや試写会では会場に来たファン一人一人にサインを行ったこともある。2023年の誕生日には、ファンが主催した「センイルカフェ(お誕生日カフェ)」に愛犬と訪れ、ファンとの交流を深めた。
* お気に入りのアーティストは{{仮リンク|Jannabi|ko|잔나비 (밴드)|label=}}。よく聴く音楽にも彼らの曲をあげている。2023年には、{{仮リンク|Jannabi|ko|잔나비 (밴드)|label=}}のチェ・ジョンフンがMCを務める番組で共演も果たした。<ref name="Jannabi">{{Cite news | url=https://m.newsen.com/news_view.php?uid=202307072203442510 | title= 김서형, 잔나비 찐팬 인증 “‘SKY캐슬’로 힘들 때 위로”(밤의공원) | publisher= newsen.com | accessdate =2023-10-10}}</ref>ギターの弾き語りも得意。<ref name="daum.guitar">{{Cite news |url= https://v.daum.net/v/20230708074003952 | title= 김서형 쓰앵님, 노래+기타 실력까지 겸비한 '팔방미인' (더 시즌즈)| publisher= 엑스포츠뉴스 | accessdate =2023-10-10}} </ref>
* 一番好きな映画は日本映画の『[[Love Letter (1995年の映画)|Love Letter]]』。(2020年出演の『イ・ドンウクはトークがしたくて』より)<ref name="post.naver">{{Cite news |url=
https://m.newsen.com/news_view.php?uid=202001160551201710 |title= 김서형 “말할 때부터 탤런트 된다고 해, 배우는 천직” | publisher= Newsen.| accessdate =2023-10-10}} </ref> 日本語を習っていたこともある。
* スタイル維持の秘訣はピラティス。<ref name="m.sports">{{Cite news |url=
https://m.sports.khan.co.kr/amp/view.html?art_id=202304121540003&sec_id=540101 | title= 김서형, 무결점 몸매 비결 “산책과 필라테스, 식단은 NO” | publisher=스포츠경향 | accessdate =2023-10-10}} </ref>(2019年放送『[[知ってるお兄さん]]』でも実演した)
=== 演技について ===
* 作品選びに関する質問には、基本的には『企画した方々が私を選んでくださる』という考え方だとし、『個人的に私は自分自身が難しいと思う役を演じていると思う。いつも“これできるかな?”という出発点から始まります』と答えている。<ref name="allurekorea">{{Cite web |url=
https://www.allurekorea.com/2021/09/24/%EB%8B%A8%EB%8B%A8%ED%95%9C-%EB%A7%88%EC%9D%8C-%EA%B9%80%EC%84%9C%ED%98%95-2/ | title= 단단한 마음,김서형 | publisher= allurekorea| accessdate =2023-10-10}} </ref>
* 作品ごとに主人公のキャラクターの雰囲気・立ち振る舞いに合わせた衣装設定を緻密に行うことで有名。『[[SKYキャッスル]]』の際は、台本1冊が出たら4時間ずつ試着、各シーンの感情によって素材や材質、ディテールを異なるように分類したという。『私は衣装に積極的に意見を出し力を入れる俳優です。 シーンに適した衣装を着ることは感情演技にとても重要な部分なんです』と衣装の重要性について語っている。<ref name="kstyleskycastle">{{Cite news |url=
https://news.kstyle.com/m/article.ksn?articleNo=2109416 | title= キム・ソヒョン、シックな表情&カリスマ性あふれるグラビアを公開…「SKYキャッスル」役作りの裏話 | publisher= kstyle| accessdate =2023-10-10}} </ref> <ref name="gqkoreacastle">{{Cite web |url=
https://www.gqkorea.co.kr/2019/02/25/%EC%8A%A4%EC%B9%B4%EC%9D%B4-%EC%BA%90%EC%8A%AC-%EC%9D%B4%ED%9B%84%EC%9D%98-%EA%B9%80%EC%84%9C%ED%98%95/ | title= [스카이 캐슬] 이후의 김서형 | publisher= gqkorea| accessdate =2023-10-10}} </ref>
* グラビア撮影に関しても『撮影をすることで私の中でビジュアルのデータがたくさん溜まっていく。人物の見た目を気にすることで終わるのではなく、呼吸までどうやって入れるのか悩む』と演技と同じようにアプローチをしていると語っている。<ref name="allurekorea" />
* 演技のインスピレーションは、たくさん歩いてたくさん観察することから受けることが多い。『家の近くにある古い在来市場を一人でふらふら歩くのが好きなんです。市場でたい焼きを売っている方、お店を行き来する人たちを隅々まで見ます』。<ref name="cosmopolitaninspiration">{{Cite web |url=
https://www.cosmopolitan.co.kr/article/76830 | title= 연기는 내 숙명... <종이달> 김서형은 오늘도 꿈을 꾼다 | publisher= cosmopolitan| accessdate =2023-10-10}} </ref>
* ストイックに役作り、演技を行うため『毎作品、体から甘い水、しょっぱい水まで抜けて、作品を終えては結局横になってしまう』と語り、<ref name="hankookilbo">{{Cite news |url=
https://m.hankookilbo.com/News/Read/A2023011614210003136 | title= "끝까지 태우는 촛불처럼 연기한다"는 김서형의 눈물 | publisher= hankookilbo| accessdate =2023-10-10}} </ref>作品を一つ終えたら、疲れ果てて次の作品にすぐ入れないという。『でも、そうやってやり遂げた結果がいいので、そうしないわけにはいかないんです。疲れて簡単じゃないけれど、また気を引き締めて行くんです』。<ref name="gqkorea2023">{{Cite web |url=
https://www.gqkorea.co.kr/2023/07/26/%EA%B9%80%EC%84%9C%ED%98%95-%EC%A0%80%EC%97%90%EA%B2%8C-%EB%B0%B0%EC%9A%B0%EB%8A%94-%EC%9A%B4%EB%AA%85%EC%9D%B4%EA%B3%A0-%EC%88%99%EB%AA%85%EC%9D%B4%EC%97%90%EC%9A%94/ | title= 김서형 “저에게 배우는 운명이고 숙명이에요” | publisher= gqkorea| accessdate =2023-10-10}} </ref>
* 雑誌やテレビのインタビューなどで度々『雪が好き』と答えている。雪に対する気持ちが作品に対する気持ちと同じだからだという。『誰かが踏んでいないきれいな雪なら、私が踏んでみたい気持ち。もし誰かが踏んでいたら、その足跡に私の足を入れてみながら、この人は誰だろうかと想像してみて感じる楽しみ。そんな気持ちが似ている』。<ref name="gqkorea2023"/>
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Kim Seo-hyung|キム・ソヒョン}}
* {{Instagram|kim_seohyung}}
* {{IMDb name}}
{{Actor-stub}}
{{DEFAULTSORT:きむ そひよん}}
[[Category:韓国の女優]]
[[Category:江陵市出身の人物]]
[[Category:1973年生]]
[[Category:存命人物]] | 2023-10-08T05:07:27Z | 2023-12-30T18:33:28Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%92%E3%83%A7%E3%83%B3_(1973%E5%B9%B4%E7%94%9F%E3%81%AE%E5%A5%B3%E5%84%AA) |
4,838,884 | 国家会展中心 (上海) | 国家会展中心(こっかかいてんちゅうしん)は、中華人民共和国上海市虹橋商業地区にあり、世界で2番目に大規模なコンベンションセンターである。
2014年12月31日に完成した。総面積86万平方メートル、建築面積147万平方メートル、そのうち屋内展示場は40万平方メートル、屋外展示場10万平方メートル。中華人民共和国商務部と上海市人民政府が共同で建設した。
2015年から上海モーターショー、2018年から毎年開催される中国国際輸入博覧会などが開催されている。2019年7月、会場に税関を設置することを決定した。2022年3月、上海で新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のクラスターが発生し、臨時病院として使用された。 | [
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] | 国家会展中心(こっかかいてんちゅうしん)は、中華人民共和国上海市虹橋商業地区にあり、世界で2番目に大規模なコンベンションセンターである。 | [[File:Shanghai. China (45877925082).jpg|thumb|300px|国家会展中心]]
'''国家会展中心'''(こっかかいてんちゅうしん)は、[[中華人民共和国]][[上海市]][[青浦区]]虹橋商業地区にあり、世界で2番目に大規模な[[コンベンションセンター]]である。
== 歴史 ==
[[2014年]][[12月31日]]に完成した。総面積86万平方メートル、建築面積147万平方メートル、そのうち屋内展示場は40万平方メートル、屋外展示場10万平方メートル。中華人民共和国商務部と上海市人民政府が共同で建設した。
[[2015年]]から[[上海モーターショー]]、[[2018年]]から毎年開催される[[中国国際輸入博覧会]]などが開催されている。2019年7月、会場に税関を設置することを決定した。[[2022年]]3月、上海で[[新型コロナウイルス感染症]](COVID-19)のクラスターが発生し、臨時[[病院]]として使用された。
== 開催イベント ==
* [[AKB48]](2019年8月24日)
* [[星野源]](2019年11月23日)
== 関連項目 ==
* [[世界のコンベンション・センター一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://www.neccsh.com/cecsh/ 国家会展中心]
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[[Category:2014年竣工の建築物]]
[[Category:青浦区]]
[[Category:中国のコンベンションセンター]]
[[Category:上海の建築物]] | 2023-10-08T05:13:53Z | 2023-10-08T05:20:08Z | false | false | false | [] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E4%BC%9A%E5%B1%95%E4%B8%AD%E5%BF%83_(%E4%B8%8A%E6%B5%B7) |
4,838,886 | 国家会展中心 | 国家会展中心 | [
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] | 国家会展中心 国家会展中心 (上海) 中華人民共和国上海市のコンベンションセンター。
国家会展中心 (天津) 中華人民共和国天津市のコンベンションセンター。 | '''国家会展中心'''
* [[国家会展中心 (上海)]] [[中華人民共和国]][[上海市]]の[[コンベンションセンター]]。
* [[国家会展中心 (天津)]] 中華人民共和国[[天津市]]のコンベンションセンター。
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E4%BC%9A%E5%B1%95%E4%B8%AD%E5%BF%83 |
4,838,887 | 周浦駅 (上海市) | 座標: 北緯31度6分59秒 東経121度33分48.29秒 / 北緯31.11639度 東経121.5634139度 / 31.11639; 121.5634139
周浦駅(しゅうほえき)は中華人民共和国上海市浦東新区周浦鎮、年家浜路と滬南公路の交差点にある、上海軌道交通18号線の駅で、2020年12月26日に開通した。
島式ホーム1面2線の地下駅で、出口は4箇所ある。 | [
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] | 周浦駅(しゅうほえき)は中華人民共和国上海市浦東新区周浦鎮、年家浜路と滬南公路の交差点にある、上海軌道交通18号線の駅で、2020年12月26日に開通した。 | {{Otheruses|中華人民共和国[[上海軌道交通18号線]]の駅|大韓民国[[長項線]]の信号場|周浦駅}}
{{coord|31|6|59|N|121|33|48.29|E|type:railwaystation|display=title}}
{{駅情報|社色=#C4984F|文字色=white|駅名=周浦駅|よみがな=しゅうほ|ローマ字=Zhoupu|所属路線={{駅番号|#C4984F|■}}[[上海軌道交通18号線|18号線]]|前の駅=[[康橋駅|康橋]]|次の駅=[[繁栄路駅|繁栄路]]|駅間A=2.32|駅間B=1.32|所在地={{CHN}}[[上海市]][[浦東新区]][[周浦鎮]][[年家浜路]][[滬南公路]]|乗入路線数=1|所属事業者=[[上海地下鉄|上海地鉄運営有限公司]]|キロ程=26.85|起点駅=[[長江南路駅|長江南路]]|駅構造=[[地下駅]]|ホーム=島式1面2線|開業年月日=[[2020年]][[12月26日]]|画像=Concourse of Zhoupu Station.jpg|画像説明=駅コンコース}}
'''周浦駅'''(しゅうほえき)は[[中華人民共和国]][[上海市]][[浦東新区]]周浦鎮、年家浜路と滬南公路の交差点にある<ref>{{Cite web |title=上海三条在建地铁14/15/18号线将全部无人驾驶 |url=http://sh.bendibao.com/traffic/2018109/198405.shtm |access-date=2023-10-08 |author=上海普陀 |date=2018-10-09 |language=中文 |archive-date=2021-11-13 |archive-url=https://web.archive.org/web/20211113132506/http://sh.bendibao.com/traffic/2018109/198405.shtm}}</ref>、[[上海軌道交通18号線]]の駅で、2020年12月26日に開通した<ref>{{Cite web |url=http://m.sh.bendibao.com/traffic/235853.html |title=上海18号线地铁线开通时间什么时候? |access-date=2023-10-08}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.rail-transit.com/xinwen/show.php?itemid=14623 |title=『上海』地铁10号线二期、18号线一期南段12月26日开通初期运营 |access-date=2023-10-08}}</ref>。
== 駅構造 ==
島式ホーム1面2線の地下駅で、出口は4箇所ある。
== 駅出口 ==
* 1号出口 - 滬南公路、年家浜路
* 2号出口 - 年家浜路
* 3号出口 - 滬南公路
* 5号出口 - 滬南公路
== 隣の駅 ==
; 上海軌道交通
: [[ファイル:SML18.svg|リンク=|20x20ピクセル|18]] 18号線
:: [[康橋駅]] - '''周浦駅''' - [[繁栄路駅]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[中華人民共和国の鉄道]]
{{上海軌道交通18号線}}
{{DEFAULTSORT:しゆうほえき}}
[[Category:上海地下鉄の駅]]
[[Category:浦東新区の鉄道駅]] | 2023-10-08T05:21:06Z | 2023-10-08T09:20:28Z | false | false | false | [
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"Template:Cite web"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%B5%A6%E9%A7%85_(%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E5%B8%82) |
4,838,889 | 南大通 (豊川市の町名) | 南大通(みなみおおどおり)は、愛知県豊川市の町名。現行行政地名は南大通2丁目から6丁目。
豊川市中央部に位置し、南は牛久保町・下長山町、北は諏訪に接する。
愛知県道400号豊橋豊川線(南大通)沿線にある細長い町であり、南から北に向かって2丁目から6丁目の順に配置されている。北端は名鉄豊川線との交差地点で、付近に諏訪町駅がある。
2023年(令和5年)3月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである。
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] | 南大通(みなみおおどおり)は、愛知県豊川市の町名。現行行政地名は南大通2丁目から6丁目。 | {{Pathnav|日本|愛知県|豊川市|this=南大通|frame=1}}
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| established_title1 = 町名制定{{Sfn|新編豊川市史編集委員会|2002|p=1095}}
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| footnotes =
}}
'''南大通'''(みなみおおどおり)は、[[愛知県]][[豊川市]]の町名。現行行政地名は南大通2丁目から6丁目。
== 地理 ==
豊川市中央部に位置し{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1754}}、南は[[牛久保町 (豊川市)|牛久保町]]・[[下長山町]]、北は[[諏訪 (豊川市)|諏訪]]に接する。
[[愛知県道400号豊橋豊川線]]([[南大通 (豊川市)|南大通]])沿線にある細長い町であり、南から北に向かって2丁目から6丁目の順に配置されている。北端は[[名鉄豊川線]]との交差地点で、付近に[[諏訪町駅]]がある。
=== 河川 ===
* 佐奈川
== 世帯数と人口 ==
[[2023年]](令和5年)[[3月31日]]現在の世帯数と人口は以下の通りである<ref name="population"/>。
{| class="wikitable"
![[町丁]]!![[世帯|世帯数]]!![[人口]]
|-
|南大通
|style="text-align:right"|191世帯
|style="text-align:right"|417人
|}
== 学区 ==
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる<ref name="school">{{Cite web|url=http://www.city.toyokawa.lg.jp/kosodate/shochugakko/tugakukuiki.html|title=豊川市立小・中学校の通学区域一覧|publisher=豊川市|date=2023-07-01|accessdate=2023-10-02}}</ref>。また、公立高等学校に通う場合、学区は以下の通りとなる<ref name="school_koko">{{Cite web|url=https://www.pref.aichi.jp/soshiki/kotogakko/0000080445.html|title=平成29年度以降の愛知県公立高等学校(全日制課程)入学者選抜における通学区域並びに群及びグループ分け案について|publisher=愛知県教育委員会|date=2015-02-16|accessdate=2019-01-14}}</ref>。<!--- PDFファイルの元頁 http://www.city.toyokawa.lg.jp/kosodate/shochugakko/tugakukuiki.files/r5.7.1cyoumeibetu.pdf --->
{| class="wikitable"
!区域!!小学校!!中学校!!高等学校
|-
|2~3丁目||[[豊川市立牛久保小学校]]||rowspan=2|[[豊川市立南部中学校]]||rowspan=2|[[愛知県の高校入試#三河学区|三河学区]]
|-
|4~6丁目||[[豊川市立中部小学校]]
|}
== 歴史 ==
=== 沿革 ===
* [[1960年]](昭和35年)[[2月21日]] - 以下の通り、[[牛久保町 (豊川市)|牛久保町]]の一部より南大通2~6丁目が成立{{Sfn|新編豊川市史編集委員会|2002|p=1095}}。
** 2丁目 - 牛久保町稲市場・猿屋敷・西出口の各一部
** 3丁目 - 牛久保町猿屋敷・光輝前・光輝脇の各一部
** 4丁目 - 牛久保町石仏・中野川・光輝脇・光輝西・光輝前の各一部
** 5丁目 - 牛久保町中野川・新切の各一部
** 6丁目 - 牛久保町上野川向・才ノ神・新切の各一部
== 施設 ==
* 豊川南大通郵便局
* [[豊橋信用金庫]]南大通支店
* [[岡崎信用金庫]]豊川支店
== 交通 ==
* [[愛知県道400号豊橋豊川線]]([[南大通 (豊川市)|南大通]])
== その他 ==
=== 日本郵便 ===
* 郵便番号 : 442-0889<ref name="postal"/>(集配局:[[豊川郵便局]]<ref>{{Cite web|url=https://www.post.japanpost.jp/zipcode/dl/bangobo/zip_bgb.pdf|format=PDF|title=郵便番号簿 2018年度版|publisher=日本郵便|language=日本語|accessdate=2019-06-10}}</ref>)。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1989|date=1989-03-08|title=[[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県|publisher=[[角川書店]]|isbn=4-04-001230-5|language=日本語|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|title=新編豊川市史 第八巻 資料編 現代|editor=新編豊川市史編集委員会|year=2002|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[豊川市の地名]]
== 外部リンク ==
* {{Commonscat-inline|Minamiōdōri, Toyokawa}}
{{Japan-block-stub}}
{{Pref-stub|pref=愛知県}}
{{豊川市の町・字}}
{{デフォルトソート:みなみおおとおり}}
[[Category:豊川市の町・字]]
[[Category:1960年制定の町・字]] | 2023-10-08T05:30:44Z | 2023-10-08T05:30:44Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%A4%A7%E9%80%9A_(%E8%B1%8A%E5%B7%9D%E5%B8%82%E3%81%AE%E7%94%BA%E5%90%8D) |
4,838,899 | ちょんまげ小僧 | ちょんまげ小僧(ちょんまげこぞう)は、日本の6人組中学生YouTuber。
12月12日、YouTubeチャンネルを開設。
12月26日、パンダが初登場。
1月24日、イソ・ギンチャクが初登場。
3月11日、ひき肉、右足が初登場。
7月29日、チャンネル登録者数10万人を突破。
8月7日、チャンネル登録者数30万人を突破。
8月13日、チャンネル登録者数50万人を突破。1ヶ月でチャンネル登録者数500倍という結果になった。
8月21日、チャンネル登録者数100万人を突破。
12月9日、NGワードババ抜きでHIKAKINとコラボ。
現時点で投稿されている最初の動画は2022年12月16日に投稿された「【クリスマス】もう来ちゃった、、、」であり、現在メンバーは中学1年生であることから初投稿は小学6年生だったこととなる。
チャンネル開設当初はちょんまげ小僧とナマズのみが出演していたが2022年12月26日公開「【パンダの挑戦】リフティング10回出来るまで終われま10」でパンダが初登場。その後体調を崩しチャレンジ未達成のまま、しばらく出演がなかったが2023年1月24日公開「【帰ってきた】」で復帰。この動画内でチャレンジを成功させる。
2023年01月08日公開「【ちょんまげ食堂】今年初企画!!」でちょんまげ小僧が「メンバーやっぱ増やしたいよね」と語るが、ナマズが「いやメンバーは増やさんでいい」と答える。(この時メンバーは4人と語るが、ナマズ曰く1人はえいたという名の裏方役。)
この次の動画でイソ・ギンチャクが初登場。その後2023年03月11日公開「「友達とのアスレチック鬼ごっこが大盛り上がり!笑いが止まらない動画」」でひき肉と右足が初登場。
現在の右足は、登場当初は「片足」だったが、その後愛国者になり「右足」に変化。
現在のひき肉は、登場当初は人名(自主規制)で名乗っていたが、その後「コング」となり最終的に現在の独特な挨拶(ひき肉です)で知られる「ひき肉」に変化。
現在のえいたは、登場当初は裏方で名乗っていたが、その後「ヨーヨーおじさん」となり最終的に現在の「えいた」に変化。
チャンネル開設当初は年内にチャンネル登録者数100人を目指すも達成出来なかった。その後TikTokを開設し爆発的にバズる。これによりYouTubeも急速に伸び、10日で10万人の登録者数が増加。わずか一週間で登録者数が140倍に増加した。
2023年08月05日公開「【報告】僕たち本気出します!!」で各メンバーのInstagramとTikTokの開設と毎日投稿を発表。なおどちらも悪質な、なりすましアカウントが発生しているためメンバーによる注意喚起が行われている。
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] | ちょんまげ小僧(ちょんまげこぞう)は、日本の6人組中学生YouTuber。 | {{Infobox YouTube personality
| name = ちょんまげ小僧 Kozou tyonmage
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* {{Instagram|tyonmagekozou|ちょんまげ小僧}}
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}}
'''ちょんまげ小僧'''(ちょんまげこぞう)は、[[日本]]の6人組中学生[[YouTuber]]。
== メンバー ==
{| class="wikitable"
|+
!名前
!メンバーカラー
!備考
|-
|ちょんまげ小僧
|{{Colorbox|red}} 赤
|リーダー
|-
|ナマズ
|{{Colorbox|purple}} 紫
|動画編集
X管理者<ref name=":0" />
|-
|イソ・ギンチャク
|{{Colorbox|brown}} 茶
|
|-
|パンダ
|{{Colorbox| orange}} オレンジ
|
|-
|ひき肉
|{{Colorbox|green}} 濃い緑
|
|-
|右足
|{{Colorbox|pink}} ピンク
|
|}
=== 裏方メンバー ===
* '''えいた'''(裏方・カメラマン)
* '''フィリピン'''(裏方・カメラマン)
== 略歴 ==
=== 2022年 ===
[[12月12日]]、[[YouTube]]チャンネルを開設。
[[12月26日]]、'''パンダ'''が初登場<ref name=":2" group="動画">{{Cite web |url=https://www.youtube.com/watch?v=fEsHZrAJDsM |title=【パンダの挑戦】リフティング10回出来るまで終われま10 |access-date=2023/8/12 |publisher=YouTube}}</ref>。
=== 2023年 ===
[[1月24日]]、'''イソ・ギンチャク'''が初登場<ref group="動画" name=":0">{{Cite web |url=https://www.youtube.com/watch?v=ziglJB7Cdvg |title=【帰ってきた】 |access-date=2020/08/10 |publisher=YouTube}}</ref>。
[[3月11日]]、'''ひき肉'''、'''右足'''{{Efn2|右足は、活動当初「片足」という名前で活動していた。}}が初登場<ref group="動画" name=":1">{{Cite web |url=https://www.youtube.com/watch?v=A-8ZC3oBrlc |title=「友達とのアスレチック鬼ごっこが大盛り上がり!笑いが止まらない動画」 |access-date=2023/08/10 |publisher=YouTube}}</ref>'''。'''
[[7月29日]]、チャンネル登録者数10万人を突破。
[[8月7日]]、チャンネル登録者数30万人を突破<ref name=":0">{{Cite web |title=“今1番気になるYouTuber”中学生6人組・ちょんまげ小僧、爆速で登録者数30万人突破 SNS管理者も話題に - モデルプレス |url=https://mdpr.jp/news/detail/3888004 |website=モデルプレス - ライフスタイル・ファッションエンタメニュース |date=2023-08-02 |access-date=2023-08-12 |language=ja}}</ref>。
[[8月13日]]、チャンネル登録者数50万人を突破<ref>{{Cite web |title=中学生グループYouTuber「ちょんまげ小僧」 登録者1000人達成から25日で50万人を突破 - モデルプレス |url=https://mdpr.jp/news/detail/3898163 |website=モデルプレス - ライフスタイル・ファッションエンタメニュース |date=2023-08-14 |access-date=2023-08-15 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=中学生YouTuber「ちょんまげ小僧」チャンネル登録者数50万人突破 |url=https://kai-you.net/article/87479 |website=KAI-YOU.net {{!}} POP is Here . |date=2023-08-14 |access-date=2023-08-15 |language=ja}}</ref>。1ヶ月でチャンネル登録者数500倍という結果になった<ref>{{Cite web |title=1ヶ月でチャンネル登録者数500倍! 今最も熱い中学生YouTuber「ちょんまげ小僧」(KAI-YOU.net) |url=https://news.yahoo.co.jp/articles/b40a892cbbd7b1178851df11f18495686a0a22d4 |website=Yahoo!ニュース |access-date=2023-08-15 |language=ja}}</ref>。
[[8月21日]]、チャンネル登録者数100万人を突破。
[[12月9日]]、NGワードババ抜きで[[HIKAKIN]]とコラボ。
== 概要 ==
現時点で投稿されている最初の動画は2022年12月16日に投稿された「【クリスマス】もう来ちゃった、、、」であり、現在メンバーは中学1年生であることから初投稿は小学6年生だったこととなる。
チャンネル開設当初はちょんまげ小僧とナマズのみが出演していたが2022年12月26日公開「【パンダの挑戦】リフティング10回出来るまで終われま10」でパンダが初登場<ref name=":2" group="動画" />。その後体調を崩しチャレンジ未達成のまま、しばらく出演がなかったが2023年1月24日公開「【帰ってきた】」で復帰。この動画内でチャレンジを成功させる。
2023年01月08日公開「【ちょんまげ食堂】今年初企画!!」でちょんまげ小僧が「メンバーやっぱ増やしたいよね」と語るが、ナマズが「いやメンバーは増やさんでいい」と答える。(この時メンバーは4人と語るが、ナマズ曰く1人はえいたという名の裏方役。)
この次の動画でイソ・ギンチャクが初登場<ref name=":0" group="動画" />。その後2023年03月11日公開「「友達とのアスレチック鬼ごっこが大盛り上がり!笑いが止まらない動画」」でひき肉と右足が初登場<ref name=":1" group="動画" />。
==== メンバー名の変遷 ====
現在の右足は、登場当初は「片足」だったが、その後愛国者になり「右足」に変化。
現在のひき肉は、登場当初は人名(自主規制)で名乗っていたが、その後「コング」となり最終的に現在の独特な挨拶(ひき肉です)で知られる「ひき肉」に変化。
現在のえいたは、登場当初は裏方で名乗っていたが、その後「ヨーヨーおじさん」となり最終的に現在の「えいた」に変化。
==== その他・補足 ====
チャンネル開設当初は年内にチャンネル登録者数100人を目指すも達成出来なかった。その後[[TikTok]]を開設し爆発的にバズる。これによりYouTubeも急速に伸び、10日で10万人の登録者数が増加<ref>{{Cite web |title=話題沸騰の中学生4人組YouTuber「ちょんまげ小僧」って?わずか10日で登録者10万人増(モデルプレス) |url=https://news.yahoo.co.jp/articles/e172b9a105421eb2bf5945748b7b227ff3f08efb |website=Yahoo!ニュース |access-date=2023-08-10 |language=ja}}</ref>。わずか一週間で登録者数が140倍に増加した<ref>{{Cite web |title=次世代のコムドット!? 地元ノリで大ウケの中学生ユーチューバー『ちょんまげ小僧』 |url=https://myjitsu.jp/archives/438726 |website=まいじつ |date=2023-08-08 |access-date=2023-08-11 |language=ja |last=nihonjournal}}</ref>。
2023年08月05日公開「【報告】僕たち本気出します!!」で各メンバーの[[Instagram]]とTikTokの開設と毎日投稿を発表<ref>{{Cite web |title=中学生6人組YouTuber「ちょんまげ小僧」が話題沸騰 等身大なのに、中学生離れした才能に注目(KAI-YOU.net) |url=https://news.yahoo.co.jp/articles/d42fb555a15424402428f4db4f4c0ef7f9f28098 |website=Yahoo!ニュース |access-date=2023-08-11 |language=ja}}</ref><ref group="動画">{{Cite web |url=https://www.youtube.com/watch?v=3tT_JQtAnnE |title=【報告】僕たち本気出します!! |access-date=2023/08/11 |publisher=YouTube}}</ref>。なおどちらも悪質な、なりすましアカウントが発生しているためメンバーによる注意喚起が行われている。
なお、公式[[Twitter|X]]では「Instagramでも投稿させていただきましたが、最近よくTikTokとかでYouTuberさんと比べられます。僕たちにとってその投稿は一ミリも嬉しくありませんし比べられた相手も嬉しい気持ちにはならないと思います。この投稿を見てくれた方は拡散などお願いします」と語る。
== 脚注 ==
=== 出典 ===
<references />
=== 動画 ===
<references group="動画" />
=== 注釈 ===
<references group="注" />
== 関連項目 ==
* [[ひき肉です]]
== 外部リンク ==
* {{YouTube|ちょんまげ小僧 Kozou tyonmage|channel=UCtFb9IIr1gX_J--jR-I6ZRg}}
* {{YouTube|イソギンチャク Ginthaku iso|user=UCYWS79Jhn6c_IApJMM_n6SA}}
* {{Twitter|kozoutyonmage|ちょんまげ小僧【tyonmagekozo】}}
=== TikTok ===
* {{TikTok|id=user5490257029073|name=ちょんまげ小僧【TYONMAGEKOZOU】}}
* {{TikTok|id=user9198506750278|name=ナマズ}}
* {{TikTok|id=userlxy4jn75b8|name=イソ・ギンチャク}}
* {{TikTok|id=user570002204590|name=ひき肉}}
* {{TikTok|id=tyonmagekozooumigiasi|name=右足(ちょんまげ小僧)}}
=== Instagram ===
* {{Instagram|tyonmagekozou|ちょんまげ小僧 Kozou tyonmage}}
* {{Instagram|t126__|ちょん(ちょんまげ小僧)}}
* {{Instagram|namazu_kozou|ナマズ}}
* {{Instagram|2l4soo_|イソ・ギンチャク}}
* {{Instagram|tyonmagekozo_panda|ちょんまげ小僧 パンダ🐼}}
* {{Instagram|jwmgtgmgtmg|ひき肉小僧}}
* {{Instagram|tyonmagekozoumigiasi|右足(ちょんまげ小僧)🦵🐅}}
{{DEFAULTSORT:ちよんまけこそう}}
[[Category:日本のYouTuberグループ]] | 2023-10-08T06:24:05Z | 2023-12-21T22:32:56Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A1%E3%82%87%E3%82%93%E3%81%BE%E3%81%92%E5%B0%8F%E5%83%A7 |
4,838,900 | 河原内村 | 河原内村(かわらうちむら)は、大分県大分郡にあった村。現在の大分市の一部にあたる。
大野川支流・河原内川の中上流域に位置していた。
河原内川に由来。 | [
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] | 河原内村(かわらうちむら)は、大分県大分郡にあった村。現在の大分市の一部にあたる。 | {{日本の町村 (廃止)
| 廃止日 = 1907年4月1日
| 廃止理由 = 新設合併
| 廃止詳細 = 竹中村、'''河原内村''' → [[竹中村]]
| 現在の自治体 = [[大分市]]
| よみがな = かわらうちむら
| 自治体名 = 河原内村
| 区分 = 村
| 都道府県 = 大分県
| 郡 = [[大分郡]]
| 面積 =
| 境界未定 =
| 人口 = 1799
| 人口の出典 = 『角川日本地名大辞典 44 大分県』294頁
| 人口の時点 = 1903年
| 隣接自治体 = [[野津原町]]、[[判田村]]、竹中村、[[大野郡 (大分県)|大野郡]][[長谷村 (大分県)|長谷村]]・[[土師村 (大分県)|土師村]]
| 所在地 = 大分郡河原内村字平原
| 座標 =
| 位置画像 =
| 特記事項 =
}}
'''河原内村'''(かわらうちむら{{R|変遷}})は、[[大分県]][[大分郡]]にあった[[村]]。現在の[[大分市]]の一部にあたる。
== 地理 ==
[[大野川]]支流・河原内川の中上流域に位置していた{{R|角川}}。
*山岳:[[天面山]]{{R|角川}}
== 歴史 ==
*[[1889年]](明治22年)4月1日、[[町村制]]の施行により、大分郡河原内村が単独で村制施行し、'''河原内村'''が発足<ref name=変遷>『市町村名変遷辞典』243頁。</ref><ref name=角川>『角川日本地名大辞典 44 大分県』294頁。</ref>。大字は編成せず{{R|角川}}。
*[[1907年]](明治40年)4月1日、大分郡竹中村と合併し'''[[竹中村]]'''が存続して廃止された{{R|変遷}}{{R|角川}}。
=== 地名の由来 ===
河原内川に由来{{R|角川}}。
== 産業 ==
*農業
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* [[角川日本地名大辞典]] 44 大分県
* 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。
== 関連項目 ==
* [[大分県の廃止市町村一覧]]
{{デフォルトソート:かわらうちむら}}
[[Category:大分郡]]
[[Category:大分市域の廃止市町村]]
[[Category:1889年設置の日本の市町村]]
[[Category:1907年廃止の日本の市町村]] | 2023-10-08T06:30:31Z | 2023-10-08T06:30:31Z | false | false | false | [
"Template:日本の町村 (廃止)",
"Template:R",
"Template:Reflist"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%8E%9F%E5%86%85%E6%9D%91 |
4,838,901 | センチメンタル・シティ・ロマンス (アルバム) | 『センチメンタル・シティ・ロマンス』は、センチメンタル・シティ・ロマンスのデビューアルバム。1975年8月21日発売。発売元はCBSソニー。
デビューシングル「うちわもめ」の1か月後に発売された1stオリジナル・アルバム。
ジャケットは実際に使用されていたツアートラックを背にしたメンバーを描いたイラストでデザインされ、裏ジャケットには5本の木にメンバーの顔が描かれたものとなっている。
本作は当初、細野晴臣をプロデューサーとして迎えて制作していたが、細野自身が、「このバンドには自分が手を加えるところはまったくない」ということからプロデュースを辞退し、“Chief Audience=観客の長”とクレジットしたという逸話が残されているが、メンバーの細井豊は後年、「細野さんにはスタジオの音作りに関して助言を頂いた」とラジオのインタビューで答えている。
収録曲は、練習場所としていた中野督夫の実家のガソリンスタンドの2階で、中野の曲を当時バンドリーダーだった告井延隆がアレンジをし直すという手法で作られた。
オリジナル・アナログ盤では6曲目からがB面となっていた。 | [
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] | 『センチメンタル・シティ・ロマンス』は、センチメンタル・シティ・ロマンスのデビューアルバム。1975年8月21日発売。発売元はCBSソニー。 | {{Infobox Album
| Name = センチメンタル・シティ・ロマンス
| Type = [[スタジオ・アルバム]]
| Artist = [[センチメンタル・シティ・ロマンス]]
| Released = [[1975年]][[8月21日]]
| Recorded = [[1975年]][[4月]]~[[6月]]<br />[[音響ハウス]]第2スタジオ<br />CBSソニー第1、第2スタジオ
| Genre = [[J-POP]]
| Length = 39[[分]]15[[秒]]
| Label = [[ソニー・ミュージックレコーズ|CBSソニー]]
| Producer = [[細野晴臣]](クレジット表記はChief Audience)<br />[[センチメンタル・シティ・ロマンス]]
| Chronology = [[センチメンタル・シティ・ロマンス]] オリジナル・
| Last album = -
| This album = '''センチメンタル・シティ・ロマンス'''<br />([[1975年]])
| Next album = [[ホリデイ (センチメンタル・シティ・ロマンスのアルバム)|ホリデイ]]<br />([[1976年]])
| Misc = {{Singles
| Name = センチメンタル・シティ・ロマンス
| Type = スタジオ・アルバム
| Single 1 = うちわもめ
| Single 1 date = 1975年
| Single 2 = 暖時
| Single 2 date = 1975年
}}
}}
『'''センチメンタル・シティ・ロマンス'''』は、[[センチメンタル・シティ・ロマンス]]の[[デビュー]][[アルバム]]。[[1975年]][[8月21日]]発売。発売元は[[ソニー・ミュージックレコーズ|CBSソニー]]。
== 解説 ==
[[デビュー]][[シングル]]「うちわもめ」の1か月後に発売された1st[[スタジオ・アルバム|オリジナル・アルバム]]。
ジャケットは実際に使用されていたツアートラックを背にしたメンバーを描いたイラストでデザインされ、裏ジャケットには5本の木にメンバーの顔が描かれたものとなっている。
収録曲は、練習場所としていた[[中野督夫]]の実家の[[ガソリンスタンド]]の2階で、中野の曲を当時バンドリーダーだった[[告井延隆]]がアレンジをし直し、ギターソロも事前にフレーズを決めてからスタジオで録音するという手法で作られた<ref>[https://guitarmagazine.jp/interview/2021-1101-sentimental-city-romance-trilogy-story-4/ Interview|告井延隆【Part 1】デビュー作『センチメンタル・シティ・ロマンス』 ギター・マガジンWEB|Guitar magazine]</ref>。
本作は当初、[[細野晴臣]]をプロデューサーとして迎えて制作していたが、上述のように、事前に完璧にアレンジを仕上げていたこともあり、細野自身が、「このバンドには自分が手を加えるところはまったくない」ということからプロデュースを辞退し、“Chief Audience=観客の長”とクレジットしたという逸話が残されているが<ref>[https://okmusic.jp/news/531511 『センチメンタル・シティ・ロマンス』のサウンドから付き付けられる貫禄と奥深さ | OKMusic]</ref>、メンバーの[[細井豊]]は後年、「細野さんにはスタジオの音決めに関して助言を頂いた」とラジオのインタビューで答えている<ref>{{Citation|title=牧村憲一の『シティ・ポップ・クロニクル』music is music #291|url=https://www.youtube.com/watch?v=NOtKSemDsBU|accessdate=2023-10-09}}</ref>。
== 収録曲 ==
オリジナル・アナログ盤では6曲目からがB面となっていた。
* 編曲:センチメンタル・シティ・ロマンス
#'''うちわもめ'''
#*作詞・作曲:中野督夫
#*デビューシングル。
#'''うん、と僕は'''
#*作詞・作曲:中野督夫
#'''あの娘の窓灯り'''
#*作詞:竹内正美/作曲:中野督夫
#'''庄内慕情'''
#*作詞:竹内正美/作曲:告井延隆
#'''籠時'''
#*作詞・作曲:中野督夫
#'''暖時'''
#*作詞・作曲:中野督夫
#*後にシングルカットされる。
#'''恋の季節PART1'''
#*作詞・作曲:告井延隆
#'''小童'''
#*作詞・作曲:中野督夫
#'''おかめひょっとこ'''
#*作詞・作曲:中野督夫
#'''マイ・ウディ・カントリー'''
#*作詞・作曲:告井延隆
#'''ロスアンジェルス大橋Uターン'''
#*作詞・作曲:中野督夫
== 参加ミュージシャン ==
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{{col-break}}
=== うちわもめ ===
*中野督夫 - [[ボーカル]]、[[エレクトリック・ギター|リード・ギター(右)]]
*告井延隆 - ボーカル、リード・ギター(左)、[[アコースティック・ギター]]、[[フラットマンドリン|フラット・マンドリン]]、[[スライドギター|スライド・ギター]]、[[マラカス]]
*細井豊 - [[エレクトリックピアノ|エレクトリック・ピアノ]]
*加藤文敏 - [[ベース (弦楽器)|エレクトリック・ベース]]
*田中毅 - [[ドラムセット|ドラムス]]
=== うん、と僕は ===
*中野督夫 - ボーカル、リード・ギター
*告井延隆 - エレクトリック・ギター、[[ハモンドオルガン|ハモンド・オルガン]]、[[コンガ]]、[[コーラス (ポピュラー音楽)|コーラス]]
*細井豊 - [[エレクトリックピアノ|エレクトリック・ピアノ]]、"Voice From Africa"、ハモンド・オルガン
*加藤文敏 - エレクトリック・ベース
*田中毅 - ドラムス
*ラリー須永 - シェイカー、ビブラステップ
=== あの娘の窓灯り ===
*中野督夫 - ボーカル、アコースティック・ギター
*告井延隆 - [[ペダル・スティール・ギター]]、フラット・マンドリン、コーラス
*細井豊 - [[ピアノ]]、コーラス
*加藤文敏 - エレクトリック・ベース、コーラス
*田中毅 - ドラムス、コーラス
=== 庄内慕情 ===
*告井延隆 - ボーカル、ハモンド・オルガン、アコースティック・ギター、フラット・マンドリン
*中野督夫 - エレクトリック・ギター、コーラス
*細井豊 - ピアノ、コーラス
*加藤文敏 - エレクトリック・ベース、コーラス
*田中毅 - ドラムス、コーラス
=== 籠時 ===
*中野督夫 - ボーカル、アコースティック・ギター(左)
*告井延隆 - アコースティック・ギター、[[トライアングル]]、コーラス
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=== 暖時 ===
*加藤文敏 - ボーカル、エレクトリック・ベース
*告井延隆 - ヤマハ・コンボ・オルガン、ハモンド・オルガン、スライド・ギター、[[モーグ・シンセサイザー|ムーグ・シンセサイザー]]、コーラス
*細井豊 - エレクトリック・ピアノ、コーラス、[[ホイッスル]]
*中野督夫 - エレクトリック・ギター、コーラス
*田中毅 - ドラムス、コーラス
=== 恋の季節Part1 ===
*告井延隆 - ボーカル、エレクトリック・ギター、アコースティック・ギター、ムーグ・シンセサイザー、ストリングス・アレンジ
*細井豊 - エレクトリック・ピアノ、コーラス
*加藤文敏 - エレクトリック・ベース、コーラス
*田中毅 - ドラムス、コーラス
*ストリングス
**井後勝彦 - [[ヴァイオリン|バイオリン]]
**中塚良昭 - [[ヴィオラ|ビオラ]]
**梯孝則 - [[ヴィオラ|ビオラ]]
**矢島富雄 - [[チェロ]]
=== 小童 ===
*中野督夫 - ボーカル、アコースティック・ギター
*細井豊 - エレクトリック・ピアノ、コーラス
*告井延隆 - コーラス
*加藤文敏 - エレクトリック・ベース
*田中毅 - ドラムス
=== おかめひょっとこ ===
*中野督夫 - Lead Vocal、Funky Tokuo Zuibun Guiter
*告井延隆 - Sweet Peda-Rie Steel Guiter
*細井豊 - Reluxl'n Yuts-yan Carnival Piano
*田中毅 - Loving' Yakisoba Pam-Pam Drums
*加藤文敏 - For The Girls Dancing Bass
*吉野五郎 - amaging Banjo
*佐藤桂子 - Cool Smash Castanet
*アリchan - Hsppywedding Harp
*Yanya-Kassai&Sawagi Singers
=== マイ・ウディ・カントリー ===
*告井延隆 - ペダル・スティール・ギター、ボーカル、コーラス
*中野督夫 - エレクトリック・ギター、コーラス
*細井豊 - ピアノ、コーラス
*加藤文敏 - エレクトリック・ベース、コーラス
*田中毅 - ドラムス、コーラス
*[[山下達郎]]([[シュガー・ベイブ]]) - コーラス
=== ロスアンジェルス大橋Uターン ===
*中野督夫 - ボーカル、Rolling Knock Turnギター
*告井延隆 - エレクトリック・ギター(solo)、コーラス
*細井豊 - エレクトリック・ピアノ、[[ヴィブラフォン|ビブラフォン]]、コーラス
*田中毅 - ラスト・トライ(アングル)、[[シンバル|ハンド・シンバル]]、ドラムス
*加藤文敏 - エレクトリック・ベース
{{col-end}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:せんちめんたるしてぃろまんす}}
[[Category:1975年のデビュー・アルバム]]
[[Category:ソニー・ミュージックレコーズのアルバム]] | 2023-10-08T06:35:23Z | 2023-10-09T05:05:26Z | false | false | false | [
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:Normdaten",
"Template:Infobox Album"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B9_(%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%A0) |
4,838,904 | 真藤峨眉 | 真藤 峨眉(しんどう がび、享保15年(1730年)- 文化8年3月(1811年))は、江戸時代中期-後期の儒学者、教育者。福岡藩藩儒。名は世範。字(あざな)は叔度。峨眉はその号にして、のちに漁樵翁と称す。
柴田氏に生まれ、福岡藩士真藤常章の養子となる。
福岡藩藩儒となり、のちに藩校修猷館の教授を務めた。
文化8年3月に没し、妙圓寺(福岡市博多区住吉)に葬られた。 | [
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] | 真藤 峨眉は、江戸時代中期-後期の儒学者、教育者。福岡藩藩儒。名は世範。字(あざな)は叔度。峨眉はその号にして、のちに漁樵翁と称す。 | '''真藤 峨眉'''(しんどう がび、[[享保]]15年([[1730年]])- [[文化]]8年3月([[1811年]]))は、[[江戸時代]]中期-後期の[[儒学者]]、教育者。[[福岡藩]]藩儒。名は世範。[[字]](あざな)は叔度<ref name=jinmei>『日本人名大辞典』(講談社、2001年)988頁</ref>。峨眉はその[[号 (称号)|号]]にして、のちに漁樵翁と称す<ref name=senken>『福岡県先賢人名辞典』(文照堂書店、1933年)30頁</ref>。
==経歴==
柴田氏に生まれ<ref name=senken/>、福岡藩士真藤常章の養子となる<ref name=jinmei/>。
福岡藩藩儒となり、のちに[[藩校]][[福岡県立修猷館高等学校|修猷館]]の教授を務めた<ref name=jinmei/>。
文化8年3月に没し、妙圓寺(福岡市博多区住吉)に葬られた<ref name=senken/>。
== 出典 ==
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{{DEFAULTSORT:しんとう かひ}}
[[Category:江戸時代の儒学者]]
[[Category:18世紀日本の儒学者]]
[[Category:18世紀日本の教育者]]
[[Category:福岡藩の人物]]
[[Category:筑前国の人物]]
[[Category:1730年生]]
[[Category:1811年没]] | 2023-10-08T06:41:51Z | 2023-10-08T06:41:51Z | false | false | false | [
"Template:Reflist"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E8%97%A4%E5%B3%A8%E7%9C%89 |
4,838,909 | 5人の天使に囲まれる聖母子 | 『5人の天使に囲まれる聖母子』は、イタリア・初期ルネサンス絵画の巨匠サンドロ・ボッティチェッリが若い時期(25歳ごろ) の1470年ごろ、ポプラ板上に油彩で制作した絵画である。しかし、全体に補筆が著しいため、作品の判定はかなりむずかしい。かつては、ボッティチェッリの師フィリッポ・リッピの作品とされていた。聖母マリアとザクロを持つ幼子イエス・キリストをユリの枝を持つ天使たちの前に描いている。作品は、1861年にローマのカンパーナ (Giampietro Campana) 侯爵のコレクションからフランス政府に購入され、1863年にパリのルーヴル美術館に収蔵された。
本作は、ボッティチェッリがフィリッポ・リッピの下での徒弟時代を終え、独立してから最初に制作した作品であるのかもしれない。本作の構図はまだぎこちないが、ボッティチェッリ的な繊細なデッサンが随所にうかがわれる。
繊細であどけなさの残るマリアは「謙遜の聖母」の形式をとっており、幼子イエスを抱いて地面に置いたクッションの上に座る姿で表されている。彼女の表情はやや険しく、いくぶんか硬い雰囲気を生み出している。マリアの身体は正面を向いているが、視線は右のほうへ向けられている。右膝に抱いているわが子イエスの将来の「受難」を予見しているのかもしれない。彼女とイエスが手に持つザクロがその根拠になる。ザクロの実は、キリストが死によって贖おうとした「原罪」の象徴である。
背後の若々しい天使たちは、マリアの純潔を象徴するユリを持っているが、赤い服を着た左側手前の天使は王冠を持ち、天国の女王としてのマリアを示唆している。
赤外線とX線を用いた調査により、ボッティチェッリが構図を大幅に修正したことがわかった。とりわけ、マリアの足の位置とイエスの体勢が描きなおされている。 | [
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『'''5人の天使に囲まれる聖母子'''』(ごにんのてんしにかこまれるせいぼし、{{lang-fr-short|La Vierge et l'Enfant entourés de cinq anges}}、{{lang-en-short|The Virgin and Child Surrounded by Five Angels}})は、[[イタリア]]・初期[[ルネサンス]]絵画の巨匠[[サンドロ・ボッティチェッリ]]が若い時期 (25歳ごろ) の1470年ごろ、[[ポプラ]]板上に[[テンペラ]]で制作した絵画である<ref name="ReferenceNH">NHKルーブル美術館IV ルネサンスの波動 1985年、126項。</ref><ref name="ReferenceVP">ルーヴル美術館 収蔵絵画のすべて 2011年、56項。</ref>。しかし、全体に補筆が著しいため、作品の判定はかなりむずかしい<ref name="ReferenceNH" />。かつては、ボッティチェッリの師[[フィリッポ・リッピ]]の作品とされていた。[[聖母マリア]]と[[ザクロ]]を持つ幼子[[イエス・キリスト]]を[[ユリ]]の枝を持つ[[天使]]たちの前に描いている<ref name="ReferenceNH" />。作品は1861年に[[フランス]]政府が購入した[[ローマ]]の{{仮リンク|ジャンピエトロ・カンパーナ|en|Giampietro Campana}}[[侯爵]]のコレクションにあったもので、1863年に[[パリ]]の[[ルーヴル美術館]]に収蔵された<ref name="ReferenceML">{{Cite web |url=https://collections.louvre.fr/en/ark:/53355/cl010064995|title=La Vierge et l'Enfant entourés de cinq anges|publisher=[[ルーヴル美術館]]公式サイト (フランス語)|access-date=2023/10/08}}</ref>。現在、[[ルーヴル美術館ランス別館]]の「{{仮リンク|時のギャラリー|fr|Galerie du Temps}}」に展示されている<ref name="ReferenceML" />。
== 作品 ==
本作は、ボッティチェッリがフィリッポ・リッピの下での徒弟時代を終え、独立してから最初に制作した作品かもしれない<ref name="ReferenceVP" />。本作の構図はまだぎこちないが、ボッティチェッリ的な繊細なデッサンが随所にうかがわれる<ref name="ReferenceNH" />。
繊細であどけなさの残るマリアは「謙遜の聖母」の形式をとっており、幼子イエスを抱いて地面に置いたクッションの上に座る姿で表されている<ref name="ReferenceVP" />。彼女の表情はやや険しく、いくぶんか硬い雰囲気を生み出している<ref name="ReferenceVP" />。マリアの身体は正面を向いているが、視線は右のほうへ向けられている。右膝に抱いているわが子イエスの将来の「[[受難]]」を予見しているのかもしれない<ref name="ReferenceVP" />。彼女とイエスが手に持つザクロがその根拠になる。ザクロの実は、キリストが死によって贖おうとした「[[原罪]]」の象徴である<ref name="ReferenceVP" />。
背後の若々しい天使たちは、マリアの純潔を象徴するユリを持っているが、赤い服を着た左側手前の天使は王冠を持ち、[[天の女王|天国の女王]]としてのマリアを示唆している<ref name="ReferenceVP" />。
[[赤外線]]と[[X線]]を用いた調査により、ボッティチェッリが構図を大幅に修正したことがわかった。とりわけ、マリアの足の位置とイエスの体勢が描きなおされている<ref name="ReferenceVP" />。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* ヴァンサン・ポマレッド監修・解説『ルーヴル美術館 収蔵絵画のすべて』、[[ディスカヴァー・トゥエンティワン]]、2011年刊行、ISBN 978-4-7993-1048-9
* [[中山公男]]・[[佐々木英也]]責任編集『NHKルーブル美術館IV ルネサンスの波動』、[[日本放送出版協会]]、1985年刊行 ISBN 4-14-008424-3
== 外部リンク ==
* [https://collections.louvre.fr/en/ark:/53355/cl010064995 ルーヴル美術館公式サイト、ボッティチェッリ『5人の天使に囲まれる聖母子』 (フランス語)]
{{サンドロ・ボッティチェッリ}}
{{DEFAULTSORT:こにんのてんしにかこまれるせいほし}}
[[Category:1470年代の絵画]]
[[Category:ルーヴル所蔵品]]
[[Category:サンドロ・ボッティチェリの作品]]
[[Category:聖母マリアを描いた絵画]]
[[Category:イエス・キリストを描いた絵画]] | 2023-10-08T06:50:27Z | 2023-10-08T09:09:34Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/5%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%A4%A9%E4%BD%BF%E3%81%AB%E5%9B%B2%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%82%8B%E8%81%96%E6%AF%8D%E5%AD%90 |
4,838,916 | 井上茂亮 | 井上 茂亮(いのうえ しげあき)は、日本の医学者・医師。専門は、救急医学・集中治療医学・麻酔科学。学位は、博士(医学)。
和歌山県立医科大学医学部救急・集中治療医学講座教授、和歌山県立医科大学附属病院高度救命救急センター長。 | [
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] | 井上 茂亮は、日本の医学者・医師。専門は、救急医学・集中治療医学・麻酔科学。学位は、博士(医学)。 和歌山県立医科大学医学部救急・集中治療医学講座教授、和歌山県立医科大学附属病院高度救命救急センター長。 | '''井上 茂亮'''(いのうえ しげあき)は、[[日本]]の[[医学者]]・[[医師]]。専門は、[[救急医学]]・[[集中治療室|集中治療医学]]・[[麻酔科学]]。[[学位]]は、[[博士(医学)]]。
[[和歌山県立医科大学]]医学部救急・集中治療医学講座教授、[[和歌山県立医科大学附属病院]]高度救命救急センター長。
== 略歴 ==
* [[2000年]]3月 - [[香川大学|香川医科大学]]医学部卒業<ref name=":0">{{Cite web |url=http://wave.pref.wakayama.lg.jp/news/file/38968_0.pdf |title=38968_0.pdf |access-date=2023/10/08}}</ref>
* 2000年4月 - [[京都大学医学部附属病院]]整形外科研修医<ref name=":0" />
* [[2001年]]6月 - [[浜松労災病院]]整形外科研修医<ref name=":1">{{Cite web |url=https://kuid-rm-web.ofc.kobe-u.ac.jp/profile/ja.34321d03fcf61f45520e17560c007669.html?mode=pc |title=井上 茂亮 (大学院医学研究科 医科学専攻) {{!}} KUID教員業績管理システム |access-date=2023/10/08}}</ref>
* [[2002年]]4月 - [[東海大学]]医学部専門診療診療学系救急医学臨床研修医<ref name=":0" />
* [[2008年]]6月 - [[セントルイス・ワシントン大学]]医学部麻酔科博士後研究者<ref name=":0" />
* [[2010年]]4月 - 東海大学医学部専門診療診療学系救急医学講師<ref name=":0" />
* [[2014年]]4月 - 東海大学医学部専門診療診療学系救急医学専任准教授<ref name=":0" />
* [[2015年]]4月 - 東海大学医学部専門診療診療学系救急医学専任准教授、[[東海大学医学部付属八王子病院]]救命救急センター長<ref name=":0" />
* [[2018年]]8月 - [[神戸大学]]大学院医学研究科外科系講座災害救急医学分野先進救命救急医学部門特命教授<ref name=":0" />、[[神戸大学医学部附属病院]]救命救急科救急部外来医長<ref name=":1" />
* [[2023年]]10月 - 和歌山県立医科大学医学部救急・集中治療医学講座教授<ref name=":2">{{Cite web |title=センター紹介・実績 {{!}} 和歌山県立医科大学 高度救命救急センター |url=http://www.wakayama-med.ac.jp/med/eccm/info.php |website=和歌山県立医科大学救急集中治療部高度救命救急センター |access-date=2023-10-08 |language=ja}}</ref>、和歌山県立医科大学附属病院高度救命救急センター長<ref name=":2" />
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [https://www.wakayama-med.ac.jp/dept/igakubu/160613/index.html 救急・集中治療医学講座|和歌山県立医科大学]
* [https://www.wakayama-med.ac.jp/med/eccm/info.php#greeting センター紹介・実績 | 和歌山県立医科大学 高度救命救急センター]
* [http://wave.pref.wakayama.lg.jp/news/file/38968_0.pdf 和歌山県立医科大学 救急・集中治療医学講座教授の就任について]
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{{DEFAULTSORT:いのうえ しけあき}}
[[Category:日本の医学者]]
[[Category:日本の救急医]]
[[Category:和歌山県立医科大学の教員]]
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[[Category:東海大学の教員]]
[[Category:香川大学出身の人物]]
[[Category:存命人物]] | 2023-10-08T07:26:45Z | 2023-10-08T07:38:07Z | false | false | false | [
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"Template:Normdaten"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E8%8C%82%E4%BA%AE |
4,838,917 | ロサンゼルス郡都市圏交通局P865形電車 | ロサンゼルス郡都市圏交通局P865形電車(ロサンゼルスぐんとしけんこうつうきょくP865がたでんしゃ)は、かつてアメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス郡で公共交通機関を運営するロサンゼルス郡都市圏交通局が所有していた車両。ライトレールのブルーライン(現:A線)開通に合わせて日本の鉄道車両メーカーである日本車輌製造によって製造された電車で、増備車のP2020形と共に長期に渡って使用されたが、P865形は2018年、P2020形は2021年までに営業運転を終了した。
ロサンゼルス郡都市圏交通局のA線は、ロサンゼルス初のライトレール「ブルーライン(Blue Line)」として1990年に開通した路線である。それに合わせ、日本の鉄道車両メーカーである日本車輌製造への発注が行われたのがP865形である。
両運転台の2車体連接車で、車体は耐候性高張力鋼板を用いた全溶接式構造が採用された他、床下機器を覆うカバーを始めとする一部はアルミが使われた。また車端部の台枠には安全対策としてアンチクライマーが設置された。乗降扉は圧縮空気を用いて開閉する両開き式で、各車体の両側面に2箇所設置されており、プラットホームが存在するという線形条件から扉の位置は床面高さと同じとされた。窓ガラスはFRA(連邦鉄道省)の規定に基づき、一定の速度で銃弾が当たっても貫通しない強度を有していた。連節箇所の下部には動力が設置されていない中央台車が存在し、台枠の結合部分がピンで取り付けられていた。これにより双方の車体の荷重が伝達され、事故時の破損や車体の乗揚げを防ぐ効果があった。この連節部分は再度カバーやトップカバーで覆われており、外見からは目立たないようになっていた。製造当初の塗装はカリフォルニアの明るい街を走る軽快さをイメージし、白色をベースにダークブルー、ミディアムブルー、ライトブルー、クリムゾンレッド、ブラックの5色を車体全体に走らせるというデザインであった。
車内には合計76人分の座席が設置され、ステンレス製のフレームにクッション材入りの布織物で覆った形状となっていた。大半の座席は運転台側を向いた2人掛けのクロスシートであったが、乗降扉付近は中央向きのロングシートで、そのうち運転台側の3人掛け座席は折り畳みが可能であった。また、車内には冷暖房双方に対応した空調装置が完備されていた。
主要機器については、屋根上に各種アンテナや空調装置、抵抗器、集電装置が存在した一方、床下には回生ブレーキに対応した電機子チョッパ制御装置、安全対策のための列車対地上連絡装置(TWC)、補助電源装置、充電池などが搭載された。また、各車体の運転台側に設置された動力台車には1基の主電動機が搭載され(モノモーター方式)、騒音防止の観点から空気ばねや防音車輪が、軽量化の観点からインサイドベアリング方式が用いられた。
ブルーライン(→A線)の開業に備えてP865形は合計54両(100 - 153)が製造され、1990年7月14日の開通に合わせて営業運転を開始した。その後、1995年のグリーンライン(現:C線)の開通に合わせて、前年の1994年に同型車両のP2020形が15両(154 - 168)増備された。これらの車両の基本構造はP865形と同一であったが、グリーンラインの走行に必要な自動列車制御システムが搭載されていた。その後これらの車両は2000年に全てブルーラインへ転属した。
以降は両形式とも主力車両としてブルーラインやエキスポ線(現:E線)で長期に渡り使用されたが、P865形については製造から27年以上が経過し老朽化が進んだため、近畿車輛が製造したP3010形への置き換えが2017年から始まり、2018年9月までに営業運転から撤退した。以降は2両が現存しており、144が南カリフォルニア鉄道博物館で保存されている他、トップナンバーの100も登場時の姿に復元された上でロングビーチで静態保存されている。
P2020形についてはそれ以降も使用されたが、こちらも2021年までに全車両が営業運転を終了した。ほとんどの車両は解体されたが、1両(164)のみ残存しウエスタン鉄道博物館で保存されている。
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] | ロサンゼルス郡都市圏交通局P865形電車(ロサンゼルスぐんとしけんこうつうきょくP865がたでんしゃ)は、かつてアメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス郡で公共交通機関を運営するロサンゼルス郡都市圏交通局が所有していた車両。ライトレールのブルーライン開通に合わせて日本の鉄道車両メーカーである日本車輌製造によって製造された電車で、増備車のP2020形と共に長期に渡って使用されたが、P865形は2018年、P2020形は2021年までに営業運転を終了した。 | {{鉄道車両
| 車両名 = ロサンゼルス郡都市圏交通局P865形電車<br />ロサンゼルス郡都市圏交通局P2020形電車
| 背景色 =
| 文字色 =
| 画像 = File:LongBeach.jpg
| 画像幅 = 280px
| 画像説明 = P865形([[2004年]]撮影)<br />[[File:19951007 12 RTD Green Line, Marine Redondo (5379433148).jpg|280px]]<br />P2020形([[1995年]]撮影)
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| 営業最高速度 = 88 km/h(50 mph)
| 設計最高速度 = 104 km/h(65 mph)
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| 減速度 =
| 定格速度 =
| 編成定員 =
| 車両定員 = 180人(着席76人)
| 荷重 =
| 車両重量 = 42.8 t(94,160 lbs)
| 編成重量 =
| 軸重 =
| 編成長 =
| 全長 = 26,518 mm(87 ft)
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| 全高 = 3,505 mm(11 ft 6 in)
| 車体長 =
| 車体幅 =
| 車体高 =
| 床面高さ =
| 車体 =
| 台車 =
| 車輪径 = 711.2 mm(2 ft 4 in)
| 固定軸距 = 1,900 mm(6 ft 2 51/64 in)
| 台車間距離 =
| 動力伝達方式 =
| 機関 =
| 機関出力 =
| 機関出力2 = <!-- 1時間定格 -->
| 機関出力3 = <!-- 30分定格 -->
| 機関出力4 = <!-- 連続定格 -->
| 変速機 =
| 変速段 =
| 発電機 =
| 主電動機 =
| 主電動機出力 = 217 kw
| 主電動機出力2 = <!-- 1時間定格 -->
| 主電動機出力3 = <!-- 30分定格 -->
| 主電動機出力4 = <!-- 連続定格 -->
| 端子電圧 =
| 搭載数 = 2基
| 駆動方式 = [[直角カルダン駆動方式]]
| 歯車比 =
| 出力 = 434 kw
| 編成出力 =
| 定格出力 =
| 引張力 =
| 制御方式 = [[電機子チョッパ制御|電機子チョッパ制御方式]]
| 定格引張力 =
| 制御装置 =
| 制動装置 = [[回生ブレーキ]]、[[ディスクブレーキ]]、[[電磁吸着ブレーキ]]
| 保安装置 = 列車対地上連絡装置(TWC)、自動列車停止装置(ATC)
| 備考 = 主要数値は{{r|Los_Angeles_Metro_P865_NipponSharyo_en_0}}{{r|Los_Angeles_Metro_P865_Retire_1}}{{r|Los_Angeles_Metro_P865_Retire_2}}{{r|Los_Angeles_Metro_P2020_Western_Railway_Museum_0}}{{r|Los_Angeles_Metro_P2020_Retire_0}}{{sfn|佐々孝光|1989|p=79}}{{sfn|佐々孝光|1989|p=84}}{{sfn|Los Angeles County Metropolitan Transportation Authority|2010|p=7}}{{sfn|Los Angeles County Metropolitan Transportation Authority|2010|p=18}}に基づく。
| 備考全幅 =
}}
'''ロサンゼルス郡都市圏交通局P865形電車'''(ロサンゼルスぐんとしけんこうつうきょくP865がたでんしゃ)は、かつて[[アメリカ合衆国]][[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス郡]]で公共交通機関を運営する[[ロサンゼルス郡都市圏交通局]]が所有していた[[鉄道車両|車両]]。[[ライトレール]]の[[ロサンゼルス郡都市圏交通局A線|ブルーライン]](現:A線)開通に合わせて[[日本]]の鉄道車両メーカーである[[日本車輌製造]]によって製造された[[電車]]で、増備車の'''P2020形'''と共に長期に渡って使用されたが、P865形は[[2018年]]、P2020形は[[2021年]]までに営業運転を終了した{{r|Los_Angeles_Metro_P865_NipponSharyo_en_0}}{{r|Los_Angeles_Metro_P865_Retire_1}}{{r|Los_Angeles_Metro_P865_Retire_2}}{{r|Los_Angeles_Metro_P2020_Western_Railway_Museum_0}}{{r|Los_Angeles_Metro_P2020_Retire_0}}。
== 概要 ==
[[ロサンゼルス郡都市圏交通局]]の[[ロサンゼルス郡都市圏交通局A線|A線]]は、ロサンゼルス初のライトレール「ブルーライン(Blue Line)」として[[1990年]]に開通した路線である{{Refnest|group="注釈"|「ブルーライン」を含めたロサンゼルス郡都市圏交通局のライトレールや地下鉄路線は[[2019年]]から[[2020年]]にかけて系統名の変更が行われており、「ブルーライン」は[[2019年]]にA線に改名された<ref>{{cite web|url = https://www.latimes.com/california/story/2019-10-17/metro-rail-blue-line-closure-construction-los-angeles-long-beach |title = Light rail to Long Beach will reopen soon — but it won’t be called the Blue Line |publisher = Los Angeles Times |date = 2019-10-17 |accessdate = 2023-10-8}}</ref>。}}。それに合わせ、日本の鉄道車両メーカーである日本車輌製造への発注が行われたのがP865形である{{r|Los_Angeles_Metro_P865_Retire_1}}{{r|Los_Angeles_Metro_P865_Retire_2}}{{sfn|佐々孝光|1989|p=78}}<ref>{{cite web|url = https://www.metro.net/riding/guide/a-line/|title = Metro A Line (Blue) |publisher = [[ロサンゼルス郡都市圏交通局|Metro.net]] |accessdate = 2023-10-8}}</ref>。
両運転台の[[連接台車|2車体連接車]]で、車体は耐候性高張力鋼板を用いた全溶接式構造が採用された他、床下機器を覆うカバーを始めとする一部はアルミが使われた。また車端部の台枠には安全対策としてアンチクライマーが設置された。乗降扉は[[圧縮空気]]を用いて開閉する両開き式で、各車体の両側面に2箇所設置されており、[[プラットホーム]]が存在するという線形条件から扉の位置は床面高さと同じとされた。[[ガラス|窓ガラス]]はFRA(連邦鉄道省)の規定に基づき、一定の速度で[[銃弾]]が当たっても貫通しない強度を有していた。連節箇所の下部には動力が設置されていない中央台車が存在し、台枠の結合部分がピンで取り付けられていた。これにより双方の車体の荷重が伝達され、事故時の破損や車体の乗揚げを防ぐ効果があった。この連節部分は再度カバーやトップカバーで覆われており、外見からは目立たないようになっていた。製造当初の塗装はカリフォルニアの明るい街を走る軽快さをイメージし、[[白色]]をベースにダークブルー、ミディアムブルー、ライトブルー、クリムゾンレッド、[[黒色|ブラック]]の5色を車体全体に走らせるというデザインであった{{r|Los_Angeles_Metro_P865_NipponSharyo_en_0}}{{sfn|佐々孝光|1989|p=79}}{{sfn|佐々孝光|1989|p=81}}{{sfn|佐々孝光|1989|p=83}}。
車内には合計76人分の座席が設置され、[[ステンレス]]製のフレームにクッション材入りの布織物で覆った形状となっていた。大半の座席は運転台側を向いた2人掛けのクロスシートであったが、乗降扉付近は中央向きのロングシートで、そのうち運転台側の3人掛け座席は折り畳みが可能であった。また、車内には冷暖房双方に対応した[[空調|空調装置]]が完備されていた{{sfn|佐々孝光|1989|p=81}}{{sfn|佐々孝光|1989|p=82}}{{sfn|佐々孝光|1989|p=83}}。
主要機器については、屋根上に各種アンテナや空調装置、抵抗器、[[集電装置]]が存在した一方、床下には[[回生ブレーキ]]に対応した[[電機子チョッパ制御|電機子チョッパ制御装置]]、安全対策のための列車対地上連絡装置(TWC)、補助電源装置、[[充電池]]などが搭載された。また、各車体の運転台側に設置された動力台車には1基の[[主電動機]]が搭載され(モノモーター方式)、騒音防止の観点から[[空気ばね]]や防音車輪が、軽量化の観点からインサイドベアリング方式が用いられた{{sfn|佐々孝光|1989|p=84}}。
<gallery widths="200">
File:Metro Blue Line train.JPG|車内(P865形)
File:LACMTA Metro Blue Line Nippo Shirayo Car Number 160A.JPG|車内(P2020形)
</gallery>
== 運用 ==
ブルーライン(→A線)の開業に備えてP865形は合計54両(100 - 153)が製造され、[[1990年]][[7月14日]]の開通に合わせて営業運転を開始した。その後、[[1995年]]の[[ロサンゼルス郡都市圏交通局C線|グリーンライン]](現:C線)の開通に合わせて、前年の[[1994年]]に同型車両の'''P2020形'''が15両(154 - 168)増備された。これらの車両の基本構造はP865形と同一であったが、グリーンラインの走行に必要な自動列車制御システムが搭載されていた。その後これらの車両は[[2000年]]に全てブルーラインへ転属した{{r|Los_Angeles_Metro_P865_Retire_1}}{{r|Los_Angeles_Metro_P2020_Western_Railway_Museum_0}}{{sfn|Los Angeles County Metropolitan Transportation Authority|2010|p=7}}{{sfn|Los Angeles County Metropolitan Transportation Authority|2010|p=18}}{{sfn|Los Angeles County Metropolitan Transportation Authority|2010|p=6}}。
以降は両形式とも主力車両としてブルーラインや[[ロサンゼルス郡都市圏交通局E線|エキスポ線]](現:E線)で長期に渡り使用されたが、P865形については製造から27年以上が経過し老朽化が進んだため、[[近畿車輛]]が製造した[[ロサンゼルス郡都市圏交通局P3010形電車|P3010形]]への置き換えが[[2017年]]から始まり、[[2018年]][[9月]]までに営業運転から撤退した。以降は2両が現存しており、144が[[南カリフォルニア鉄道博物館]]で保存されている他、トップナンバーの100も登場時の姿に復元された上でロングビーチで静態保存されている{{r|Los_Angeles_Metro_P865_Retire_1}}{{r|Los_Angeles_Metro_P865_Retire_2}}<ref>{{cite web|url = http://thesource.metro.net/2018/07/11/metro-light-rail-car-114-will-retire-to-the-orange-empire-railway-museum/ |title = Metro light rail car 144 will retire to the Orange Empire Railway Museum |author = Anna Chen|publisher = The Source |date = 2018-7-11|archiveurl = https://web.archive.org/web/20181019110750/http://thesource.metro.net/2018/07/11/metro-light-rail-car-114-will-retire-to-the-orange-empire-railway-museum/ |archivedate = 2018-10-19 |accessdate = 2023-10-8}}</ref><ref>{{cite web|url = https://lbpost.com/news/now-retired-metro-rail-car-may-soon-serve-as-cafe-or-museum-in-long-beach |title = Now-retired Metro rail car may soon serve as cafe or museum in Long Beach|publisher = Long Beach Post News |date = 2021-8-18|accessdate = 2023-10-8}}</ref>。
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File:Metrorail-car6.jpg|塗装が変更されたP865形([[2007年]]撮影)
File:Expo Line and L.A. skyline.jpg|エキスポ線(現:E線)を走行するP865形([[2012年]]撮影)
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P2020形についてはそれ以降も使用されたが、こちらも[[2021年]]までに全車両が営業運転を終了した。ほとんどの車両は解体されたが、1両(164)のみ残存し[[ウエスタン鉄道博物館]]で保存されている{{r|Los_Angeles_Metro_P2020_Western_Railway_Museum_0}}{{r|Los_Angeles_Metro_P2020_Retire_0}}。
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File:Expo & Crenshaw Expo Line Station 2.JPG|エキスポ線(現:E線)で使用されていたP2020形([[2012年]]撮影)
</gallery>
== 関連項目 ==
*'''ロサンゼルス郡都市圏交通局のライトレール車両'''<ref name="Los_Angeles_LRT_Roster_1">{{cite report|author = Impact Recovery Systems|title = Successful Implementation of Station Platform Between Car Barriers |date = 2013-12-19 |year = 2013|url = https://www.impactrecovery.com/assets/uploads/general/Sentinel_BCB_White_Paper_M501.pdf |accessdate = 2023-10-08}}</ref><ref>{{cite web|url = https://www.kinkisharyo.co.jp/english/ourproducts/?cat=2 |title = OUR PRODUCTS |publisher = [[近畿車輛|Kinki Sharyo]] |accessdate = 2023-10-08}}</ref>
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File:Metro Gold Line Pasadena (3967117932).jpg|'''[[ロサンゼルス郡都市圏交通局P2000形電車|P2000形]]'''
File:Metro Gold Line AnsaldoBreda P2550.jpg|'''[[ロサンゼルス郡都市圏交通局P2550形電車|P2550形]]'''
File:Gold Line train on East 1st Street, July 2017.JPG|'''[[ロサンゼルス郡都市圏交通局P3010形電車|P3010形]]'''
</gallery>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{reflist|2
|refs=
<ref name="Los_Angeles_Metro_P865_NipponSharyo_en_0">{{cite web|url = https://www.n-sharyo.co.jp/business/tetsudo_e/pages/zlactc.htm |title = Light Rail Vehicle for LACMTA |publisher = [[日本車輌製造|NIPPON SHARYO,LTD.]] |archiveurl =https://web.archive.org/web/20220302041858/https://www.n-sharyo.co.jp/business/tetsudo_e/pages/zlactc.htm |archivedate = 2022-3-2|accessdate = 2023-10-8}}</ref>
<ref name="Los_Angeles_Metro_P865_Retire_1">{{cite web|url = https://www.progressiverailroading.com/mechanical/article/LA-Metro-to-retire-remaining-P865-light-rail-cars--55101 |title = LA Metro to retire remaining P865 light-rail cars|publisher = Progressive Railroading |date = 2018-7-12|accessdate = 2023-10-8}}</ref>
<ref name="Los_Angeles_Metro_P865_Retire_2">{{cite web|url = http://thesource.metro.net/2018/09/28/last-p865-light-rail-car/ |title = End of an era: the last P865 light rail car has been decommissioned |author = Anna Chen|publisher = The Source |archiveurl = https://web.archive.org/web/20181019122026/http://thesource.metro.net/2018/09/28/last-p865-light-rail-car/ |archivedate = 2018-10-19 |accessdate = 2023-10-8}}</ref>
<ref name="Los_Angeles_Metro_P2020_Western_Railway_Museum_0">{{cite web|url = https://www.wrm.org/fundraising-campaigns/help-save-metro-car-164 |title = Help save Metro car 164 |publisher = [[ウエスタン鉄道博物館|Western Railway Museum]] |accessdate = 2023-10-8}}</ref>
<ref name="Los_Angeles_Metro_P2020_Retire_0">{{Facebook post|losangelesmetro|10159407927596763}}</ref>
}}
== 参考資料 ==
{{commonscat|LACMTA P865|ロサンゼルス郡都市圏交通局P865形電車}}
{{commonscat|LACMTA P2020|ロサンゼルス郡都市圏交通局P2020形電車}}
*{{cite journal|和書
|author = 佐々孝光
|authorlink = 日本車輌製造
|title = ロスアンゼルスの連接式軽快路面電車
|journal = 車両技術
|issue = 188
|date = 1989-10
|year = 1989
|issn = 0559-7471
|doi = 10.11501/3293473
|pages = 78-87
|ref = harv
}}
*{{cite report
|author = Los Angeles County Metropolitan Transportation Authority
|authorlink = ロサンゼルス郡都市圏交通局
|title = Metro Rail Past and Future In Los Angeles
|date = 2010
|year = 2010
|url = https://physics.usc.edu/Undergraduate/temporary/MetroRailHistory%202010.pdf
|accessdate = 2023-10-08
}}
{{DEFAULTSORT:ろさんせるすくんとしけんこうつうきよくP865かたてんしや}}
[[Category:ロサンゼルス郡都市圏交通局|車P865]]
[[Category:アメリカ合衆国の路面電車車両]]
[[Category:日本車輌製造製の電車]]
[[Category:連接式の路面電車車両]]
[[Category:かつて存在した路面電車車両]]
[[Category:1989年製の鉄道車両]]
[[Category:日本の輸出鉄道車両]] | 2023-10-08T07:27:15Z | 2023-10-28T09:26:15Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%BC%E3%83%AB%E3%82%B9%E9%83%A1%E9%83%BD%E5%B8%82%E5%9C%8F%E4%BA%A4%E9%80%9A%E5%B1%80P865%E5%BD%A2%E9%9B%BB%E8%BB%8A |
4,838,922 | 杭州国際博覧中心 | 杭州国際博覧中心(こうしゅうこくさいはくらんちゅうしん、中国語:杭州国际博览中心)は、中華人民共和国杭州市蕭山区にあるコンベンションセンター。2016年9月に、G20杭州サミットの主会場となったことで知られる。
銭江世紀城の杭州オリンピック・スポーツ・エキスポセンター内にあり、建築面積は85万平方メートル(地下は30万8千平方メートル) 。建築物の鉄骨は 145,000トン使用されており、これは北京の北京国家体育場の外部構造に使用される鋼鉄の量の3.5倍の規模である。本体事業は2013年12月に完了し、2015年7月に完成した。屋上庭園は、高さ44メートル、面積6万平方メートルで世界最大である。
19階建てのホテル、北辰大酒店が入居している。 | [
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{{混同|杭州国際会議中心}}
[[File:Hangzhou International Expo Center, Feb 2017 - 02.jpg|thumb|300px|杭州国際博覧中心]]
'''杭州国際博覧中心'''(こうしゅうこくさいはくらんちゅうしん、中国語:杭州国际博览中心)は、[[中華人民共和国]][[杭州市]][[蕭山区]]にある[[コンベンションセンター]]。[[2016年]]9月に、[[G20]]杭州サミットの主会場となったことで知られる。
== 概要 ==
[[File:杭州国际博览中心会议厅.jpg|thumb|250px|G20開催時]]
[[File:杭州国际博览中心宴会厅.jpg|thumb|250px|G20宴会場]]
銭江世紀城の[[杭州オリンピック・スポーツ・エキスポセンター]]内にあり、建築面積は85万平方メートル(地下は30万8千平方メートル) 。建築物の鉄骨は 145,000トン使用されており、これは[[北京]]の[[北京国家体育場]]の外部構造に使用される鋼鉄の量の3.5倍の規模である。本体事業は[[2013年]]12月に完了し、[[2015年]]7月に完成した。[[屋上庭園]]は、高さ44メートル、面積6万平方メートルで世界最大である。
19階建ての[[ホテル]]、北辰大酒店が入居している。
== アクセス ==
* [[杭州地下鉄6号線]]博覧中心駅
== 関連項目 ==
* [[世界のコンベンション・センター一覧]]
{{DEFAULTSORT:こうしゆうこくさいはくらんちゆうしん}}
[[Category:2015年竣工の建築物]]
[[Category:杭州の観光地]]
[[Category:中国のコンベンションセンター]]
[[Category:杭州の建築物]] | 2023-10-08T07:44:20Z | 2023-10-16T08:40:09Z | false | false | false | [
"Template:出典の明記",
"Template:混同"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%AD%E5%B7%9E%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%8D%9A%E8%A6%A7%E4%B8%AD%E5%BF%83 |
4,838,925 | 新白岡 | 新白岡(しんしらおか)は、埼玉県白岡市の町丁。現行行政地名は新白岡一丁目から新白岡九丁目。住居表示未実施地区。郵便番号は349-0212。
埼玉県東部、白岡市北部に位置する。北東側から南東側にかけて白岡市高岩に、南側で白岡市上野田と高岩の飛地に、南西側で白岡市野牛の飛地に、北西側で白岡市篠津に、西側から北側にかけて白岡市野牛に、北側で久喜市太田袋に隣接する。中央西寄りを東日本旅客鉄道(JR東日本)宇都宮線が通り、北西部に新白岡駅がある。新白岡六丁目および九丁目の南西縁を埼玉県道162号蓮田白岡久喜線が通る。東部は「白岡ニュータウン」の名で民間による宅地開発が行われ、新白岡駅周辺を含めた西部は土地区画整理事業により都市基盤整備が行われた。新白岡三丁目のごく一部が市街化調整区域に指定されており、それ以外は全域が市街化区域に指定されている。主に住宅地域となっている。
住宅地の地価は、2023年(令和5年)1月1日時点の公示地価によれば、新白岡八丁目3番14の地点で110,000円/m、新白岡二丁目20番6の地点で96,800円/mとなっている。
総合地所により、1968年(昭和43年)から白岡ニュータウン建設のための本格的な用地買収が開始された。1987年(昭和62年)2月に新白岡駅が開業。住宅地の開発は、同年の第1期地区を手始めに30年以上の時間をかけて進められた。
2023年(令和5年)10月1日時点の世帯数と人口は、以下のとおりである。
市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下のとおりとなる。
新白岡七丁目 - 九丁目の各東縁を東日本旅客鉄道(JR東日本)宇都宮線が通り、新白岡七丁目に新白岡駅がある。最寄り駅は、全域が新白岡駅である。
地内に一般の路線バスは運行されていない。ただし、国際興業バスさいたま東営業所により、深夜急行バス「ミッドナイトアロー蓮田・久喜」が運行されており、「白岡ニュータウン入口」停留所と「新白岡駅東口」停留所がある。
地内に国道は通っていない。
施設は特にない。
施設は特にない。 | [
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"text": "新白岡七丁目 - 九丁目の各東縁を東日本旅客鉄道(JR東日本)宇都宮線が通り、新白岡七丁目に新白岡駅がある。最寄り駅は、全域が新白岡駅である。",
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] | 新白岡(しんしらおか)は、埼玉県白岡市の町丁。現行行政地名は新白岡一丁目から新白岡九丁目。住居表示未実施地区。郵便番号は349-0212。 | {{Pathnav|日本|埼玉県|白岡市|frame=1}}
{{Infobox settlement
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| area_total_km2 =
| population_as_of = [[2023年]]〈[[令和]]5年〉[[10月1日]]時点
| population_footnotes = <ref name="人口">{{Cite web |title=白岡市 地区別 世帯数・人口数{{!}}白岡市 |url=https://www.city.shiraoka.lg.jp/material/files/group/12/ooazabetsuR51001.pdf |website=www.city.shiraoka.lg.jp |access-date=2023-10-08 |language=ja |format=PDF}}</ref>
| population_total = 9140
| population_density_km2 = auto
| timezone1 = [[日本標準時]]
| utc_offset1 = +9
| postal_code_type = [[日本の郵便番号|郵便番号]]
| postal_code = 349-0212<ref name="郵便番号">{{Cite web |title=郵便番号簿PDF(2022年度版) 埼玉県 - 日本郵便 |url=https://www.post.japanpost.jp/zipcode/dl/bangobo/11.pdf |website=www.post.japanpost.jp |access-date=2023-10-08 |format=PDF}}</ref>
| area_code = 0480<ref>{{Cite web |title=総務省|電気通信番号制度|市外局番の一覧 |url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000141817.pdf |website=総務省 |access-date=2023-10-08 |language=ja |format=PDF}}</ref>
| registration_plate = [[埼玉運輸支局|大宮]]
| footnotes = 座標は新白岡駅の位置
}}
'''新白岡'''(しんしらおか)は、[[埼玉県]][[白岡市]]の[[町丁]]。現行行政地名は新白岡一丁目から新白岡九丁目。[[住居表示]]未実施地区{{Efn|白岡市には住居表示実施地区が存在しない。}}。[[日本の郵便番号|郵便番号]]は349-0212<ref name="郵便番号" />。
== 地理 ==
[[埼玉県]]東部、[[白岡市]]北部に位置する。北東側から南東側にかけて白岡市[[高岩 (白岡市)|高岩]]に、南側で白岡市[[上野田 (白岡市)|上野田]]と高岩の[[飛地]]に、南西側で白岡市[[野牛 (白岡市)|野牛]]の飛地に、北西側で白岡市[[篠津 (白岡市)|篠津]]に、西側から北側にかけて白岡市野牛に、北側で[[久喜市]][[太田袋]]に隣接する。中央西寄りを[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[宇都宮線]]{{Efn|name="宇都宮線"|[[東京駅]]と[[黒磯駅]]を[[尾久駅]]経由で結ぶ[[鉄道路線の名称#路線の系統名称・愛称|列車運転系統の愛称]]。線路名称上は[[東北本線]]。}}が通り、北西部に[[新白岡駅]]がある。新白岡六丁目および九丁目の南西縁を[[埼玉県道162号蓮田白岡久喜線]]が通る{{Efn|地図によっては同じ箇所で[[東北自動車道]]も通っているように描かれる場合があるが、実際には東北自動車道の道路敷は高岩および野牛となっており、新白岡は通っていない。}}。東部は「白岡ニュータウン」の名で民間による宅地開発が行われ、新白岡駅周辺を含めた西部は[[土地区画整理事業]]により都市基盤整備が行われた。新白岡三丁目のごく一部{{Efn|高岩公園付近の[[送電塔]]敷地。}}が[[市街化調整区域]]に指定されており、それ以外は全域が[[市街化区域]]に指定されている<ref>{{Cite web |title=白岡市の都市計画図{{!}}白岡市 |url=https://www.city.shiraoka.lg.jp/material/files/group/20/51449563.pdf |website=www.city.shiraoka.lg.jp |access-date=2023-10-08 |language=ja |format=PDF}}</ref>。主に[[住宅地|住宅地域]]となっている。
=== 河川 ===
* [[姫宮落川]]
* [[中島用水路#笠原沼用水|笠原沼用水]]
* [[白石様堀]]
=== 地価 ===
[[住宅地]]の[[地価]]は、[[2023年]]([[令和]]5年)[[1月1日]]時点の[[公示地価]]によれば、新白岡八丁目3番14の地点で110,000円/m{{Sup|2}}<ref>{{Cite web |title=鑑定評価書 |url=https://www.land.mlit.go.jp/landPrice_/html/2023/11/2023112460002.html |website=www.land.mlit.go.jp |access-date=2023-10-08}}</ref>、新白岡二丁目20番6の地点で96,800円/m{{Sup|2}}<ref>{{Cite web |title=鑑定評価書 |url=https://www.land.mlit.go.jp/landPrice_/html/2023/11/2023112460005.html |website=www.land.mlit.go.jp |access-date=2023-10-08}}</ref>となっている。
== 歴史 ==
[[総合地所]]により、[[1968年]]([[昭和]]43年)から白岡ニュータウン建設のための本格的な用地買収が開始された<ref name="研究報告書">{{Cite web |title=平成29年度 政策課題共同研究 研究報告書 持続可能な郊外住環境実現プロジェクト{{~}}空き家、高齢者、働き方から考える{{~}}|彩の国さいたま人づくり広域連合 |url=http://www.hitozukuri.or.jp/wp-content/uploads/2017_kenkyuuhoukokusho_20220303.pdf |website=www.hitozukuri.or.jp |access-date=2023-10-08 |format=PDF}}</ref>。[[1987年]](昭和62年)[[2月]]に[[新白岡駅]]が開業<ref name="研究報告書" />{{Efn|当時の所在地は白岡町大字[[野牛 (白岡市)|野牛]]。}}。住宅地の開発は、同年の第1期地区を手始めに30年以上の時間をかけて進められた<ref name="研究報告書" /><ref name="グッドデザイン賞">{{Cite web |title=白岡ニュータウン |url=https://www.g-mark.org/gallery/winners/9de37045-803d-11ed-af7e-0242ac130002?text=%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%B3 |website=GOOD DESIGN AWARD |access-date=2023-10-08 |language=ja}}</ref>。
* [[1987年]]([[昭和]]62年)
** [[3月31日]]:野牛・高岩土地区画整理事業の都市計画が決定される<ref name="事業概要">{{Cite web |title=事業概要(野牛・高岩土地区画整理事業){{!}}白岡市 |url=https://www.city.shiraoka.lg.jp/soshiki/toshiseibibu/machizukurika/1/1/4/1106.html |website=www.city.shiraoka.lg.jp |access-date=2023-10-08 |language=ja}}</ref>。
** [[4月1日]]:白岡町大字[[高岩 (白岡市)|高岩]]の一部から'''新白岡一丁目 - 三丁目'''が成立<ref>[[#地名大辞典|『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』]] 増補15ページ。</ref>{{Efn|出典には成立の経緯などについて記載がないが、白岡市には現在まで[[住居表示]]実施地区が存在しないため、町名地番変更により成立したものと解釈できる。}}。なお、新白岡三丁目の一部は、前日に都市計画が決定された野牛・高岩土地区画整理事業の施行区域に含まれていた<ref name="事業概要" />。
** [[9月10日]]:野牛・高岩土地区画整理事業の事業計画が決定される<ref name="事業概要" />。
* [[2012年]]([[平成]]24年)[[10月1日]]:白岡町が市制を施行<ref>{{Cite web |title=白岡市とは?{{!}}白岡市 |url=https://www.city.shiraoka.lg.jp/soshiki/keieikikakubu/kikakuseisakuka/25/30/61.html |website=www.city.shiraoka.lg.jp |access-date=2023-10-08 |language=ja}}</ref>。[[白岡市]]の町丁となる。
* [[2015年]](平成27年)[[10月17日]]:前日に野牛・高岩土地区画整理事業の換地処分が公告された<ref name="事業概要" />ことに伴い、施行区域で町名地番変更が行われ、[[野牛 (白岡市)|野牛]]および高岩の各一部から'''新白岡四丁目 - 九丁目'''が成立<ref>{{Cite web |title=野牛・高岩土地区画整理事業 (換地処分済){{!}}白岡市 |url=https://www.city.shiraoka.lg.jp/soshiki/toshiseibibu/machizukurika/1/1/1105.html |website=www.city.shiraoka.lg.jp |access-date=2023-10-08 |language=ja}}</ref><ref name="旧新地番対照表">{{Cite web |title=野牛・高岩土地区画整理事業 旧新地番対照表{{!}}白岡市 |url=https://www.city.shiraoka.lg.jp/material/files/group/20/69911930.pdf |website=www.city.shiraoka.lg.jp |access-date=2023-10-08 |language=ja |format=PDF}}</ref><ref name="新旧地番対照表">{{Cite web |title=野牛・高岩土地区画整理事業 新旧地番対照表{{!}}白岡市 |url=https://www.city.shiraoka.lg.jp/material/files/group/20/76531703.pdf |website=www.city.shiraoka.lg.jp |access-date=2023-10-08 |language=ja |format=PDF}}</ref>。また、高岩の一部が新白岡一丁目および三丁目に編入される<ref name="新旧地番対照表" />。なお、前日限りで新白岡三丁目の一部が消滅<ref name="旧新地番対照表" />。
* [[2017年]](平成29年)[[10月4日]]:白岡ニュータウンが2017年度[[グッドデザイン賞]]を受賞する<ref>{{Cite web |title=事業経緯|2017年度グッドデザイン賞受賞概要|過去受賞や年鑑など|Good Design Award |url=https://archive.g-mark.io/past-awards/2017/project.html |website=Good Design Award |access-date=2023-10-08 |language=ja}}</ref><ref name="グッドデザイン賞" />。
== 世帯数と人口 ==
[[2023年]]([[令和]]5年)[[10月1日]]時点の[[世帯|世帯数]]と[[人口]]は、以下のとおりである<ref name="人口" />。
{| class="wikitable"
!丁目!!世帯数!!人口
|-
|新白岡一丁目
|style="text-align:right"|386世帯
|style="text-align:right"|1,091人
|-
|新白岡二丁目
|style="text-align:right"|522世帯
|style="text-align:right"|1,188人
|-
|新白岡三丁目
|style="text-align:right"|926世帯
|style="text-align:right"|2,158人
|-
|新白岡四丁目
|style="text-align:right"|410世帯
|style="text-align:right"|1,013人
|-
|新白岡五丁目
|style="text-align:right"|353世帯
|style="text-align:right"|865人
|-
|新白岡六丁目
|style="text-align:right"|157世帯
|style="text-align:right"|441人
|-
|新白岡七丁目
|style="text-align:right"|290世帯
|style="text-align:right"|564人
|-
|新白岡八丁目
|style="text-align:right"|432世帯
|style="text-align:right"|1,143人
|-
|新白岡九丁目
|style="text-align:right"|283世帯
|style="text-align:right"|677人
|-
|style="text-align:center"|計
|style="text-align:right"|3,759世帯
|style="text-align:right"|9,140人
|}
== 小・中学校の学区 ==
市立小・中学校に通う場合、[[学区]](校区)は以下のとおりとなる<ref>{{Cite web |title=白岡市立小・中学校通学区域に関する規則 |url=https://www1.g-reiki.net/shiraoka/reiki_honbun/e387RG00001087.html |website=www1.g-reiki.net |access-date=2023-10-08}}</ref>。
{| class="wikitable"
!丁目!!区域!!小学校!!中学校
|-
|新白岡一丁目
|全域
|rowspan="6"|[[白岡市立白岡東小学校]]
|rowspan="10"|[[白岡市立篠津中学校]]
|-
|新白岡二丁目
|全域
|-
|新白岡三丁目
|全域
|-
|新白岡四丁目
|全域
|-
|新白岡五丁目
|全域
|-
|rowspan="2"|新白岡六丁目
|1 - 8
|-
|9 - 13
|rowspan="4"|[[白岡市立篠津小学校]]
|-
|新白岡七丁目
|全域
|-
|新白岡八丁目
|全域
|-
|新白岡九丁目
|全域
|}
== 交通 ==
=== 鉄道 ===
新白岡七丁目 - 九丁目の各東縁を[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[宇都宮線]]{{Efn|name="宇都宮線"}}が通り<ref>{{Cite web |title=野牛・高岩土地区画整理事業 新地番図{{!}}白岡市 |url=https://www.city.shiraoka.lg.jp/material/files/group/20/95230651.pdf |website=www.city.shiraoka.lg.jp |access-date=2023-10-08 |language=ja |format=PDF}}</ref>、新白岡七丁目に[[新白岡駅]]がある<ref>{{Cite web |title=駅の情報(新白岡駅):JR東日本 |url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=868 |website=JR東日本:東日本旅客鉄道株式会社 |access-date=2023-10-08 |language=ja}}</ref>。最寄り駅は、全域が新白岡駅である。
=== 路線バス ===
地内に一般の[[路線バス]]は運行されていない<ref>{{Cite web |title=市の公共交通{{!}}白岡市 |url=https://www.city.shiraoka.lg.jp/kurashi_tetsuzuki/doro_kokyokotsu/1/2480.html |website=www.city.shiraoka.lg.jp |access-date=2023-10-08 |language=ja}}</ref>。ただし、[[国際興業バスさいたま東営業所]]により、深夜急行バス[[国際興業バスさいたま東営業所#深夜急行バス「ミッドナイトアロー」|「ミッドナイトアロー蓮田・久喜」]]が運行されており<ref>{{Cite web |title=【運休中】大宮駅東口 1:00発 深夜急行バス〔ミッドナイトアロー蓮田・久喜〕 |url=https://5931bus.com/midnightbus/detail/kuki100.html |website=国際興業バス |access-date=2023-10-08 |language=ja}}</ref>、「白岡ニュータウン入口」停留所と「新白岡駅東口」停留所がある<ref>{{Cite web |title=白岡ニュータウン入口 |url=https://5931bus.com/map/detail/id=962 |website=国際興業バス |access-date=2023-10-08 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=新白岡駅東口 |url=https://5931bus.com/map/detail/id=972 |website=国際興業バス |access-date=2023-10-08 |language=ja}}</ref>。
* ミッドナイトアロー蓮田・久喜:大宮駅東口 → [[東大宮駅]]西口 → [[蓮田駅]]西口 → 蓮田西新宿 → [[白岡駅]]西口 → 白岡ニュータウン入口 → [[新白岡駅]]東口 → [[久喜駅]]西口
=== 道路 ===
地内に[[国道]]は通っていない。
* [[埼玉県道162号蓮田白岡久喜線]]
* 白岡久喜線
* 新白岡駅東口線
* 新白岡駅西口線
* 野牛篠津線
* 野牛宮代線
* 高岩団地線
== 施設 ==
;新白岡一丁目
* 新白岡つつじ公園(新白岡四丁目にまたがる)
* 新白岡けやき公園
;新白岡二丁目
* 新白岡さざんか公園
* 新白岡中央公園
* 白岡ニュータウンアメニティセンタープラザ
* 新白岡くすのき公園
* [[白岡市立白岡東小学校]]([[高岩 (白岡市)|高岩]]にまたがる)
;新白岡三丁目
* 新白岡さくら公園
* 新白岡もみじ公園
* 高岩公園(近隣公園)
* 勤労者体育センター
;新白岡四丁目
* 新白岡つつじ公園(新白岡一丁目にまたがる)
* 新白岡駅前交番
;新白岡五丁目
* 新白岡駅前郵便局
* 杉の子幼稚園
* 駒形公園
;新白岡六丁目
施設は特にない。
;新白岡七丁目
* 白石様堀公園
;新白岡八丁目
* 中ノ宮公園
;新白岡九丁目
施設は特にない。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会 |title=[[角川日本地名大辞典]] 11 埼玉県 |date=1980-07-08 |publisher=角川書店 |isbn=4040011104 |ref=地名大辞典}}
== 関連項目 ==
* [[埼玉県の土地区画整理事業一覧]]
* [[日本のニュータウン]]
== 外部リンク ==
* [https://www.city.shiraoka.lg.jp/soshiki/toshiseibibu/machizukurika/1/1/1105.html 野牛・高岩土地区画整理事業 (換地処分済)] - 白岡市
{{白岡市の町・字}}
{{デフォルトソート:しんしらおか}}
[[Category:白岡市の町・字]]
[[Category:1987年制定の町・字]]<!-- 新白岡一丁目 - 三丁目 -->
[[Category:2015年制定の町・字]]<!-- 新白岡四丁目 - 九丁目 --> | 2023-10-08T08:03:54Z | 2023-10-08T08:03:54Z | false | false | false | [
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"Template:Infobox settlement",
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"Template:白岡市の町・字",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%99%BD%E5%B2%A1 |
4,838,926 | 西稙田村 | 西稙田村(にしわさだむら)は、大分県大分郡にあった村。現在の大分市の一部にあたる。 | [
{
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"text": "西稙田村(にしわさだむら)は、大分県大分郡にあった村。現在の大分市の一部にあたる。",
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}
] | 西稙田村(にしわさだむら)は、大分県大分郡にあった村。現在の大分市の一部にあたる。 | {{日本の町村 (廃止)
| 廃止日 = 1907年4月1日
| 廃止理由 = 新設合併
| 廃止詳細 = 稙田村、'''西稙田村''' → [[稙田村]]
| 現在の自治体 = [[大分市]]
| よみがな = にしわさだむら
| 自治体名 = 西稙田村
| 区分 = 村
| 都道府県 = 大分県
| 郡 = [[大分郡]]
| 面積 =
| 境界未定 =
| 人口 = 2093
| 人口の出典 = 『角川日本地名大辞典 44 大分県』631頁
| 人口の時点 = 1903年
| 隣接自治体 = [[挾間町|挾間村]]、[[賀来村]]、[[荏隈村]]、[[豊府村]]、稙田村、[[野津原町|野津原村]]、[[谷村 (大分県)|谷村]]
| 所在地 = 大分郡西稙田村大字横瀬
| 座標 =
| 位置画像 =
| 特記事項 =
}}
'''西稙田村'''(にしわさだむら{{R|変遷}}{{R|角川}})は、[[大分県]][[大分郡]]にあった[[村]]。現在の[[大分市]]の一部にあたる。
== 地理 ==
*河川:[[大分川]]<ref>「横瀬〈大分市〉」『角川日本地名大辞典 44 大分県』860頁。</ref>
== 歴史 ==
*[[1889年]](明治22年)4月1日、[[町村制]]の施行により、大分郡小野津留村、田原村、横瀬村、鬼崎村が合併して村制施行し、'''西稙田村'''が発足<ref name=変遷>『市町村名変遷辞典』603頁。</ref><ref name=角川>『角川日本地名大辞典 44 大分県』631頁。</ref>。旧村名を継承した小野津留、田原、横瀬、鬼崎の4大字を編成{{R|角川}}。
*[[1894年]](明治27年)11月29日、大字鬼崎の同尻・小野地区を大分郡[[谷村 (大分県)|谷村]]に編入{{R|変遷}}<ref>『角川日本地名大辞典 44 大分県』513頁。</ref>。
*[[1907年]](明治40年)4月1日、大分郡稙田村と合併し'''[[稙田村]]'''が存続して廃止された{{R|変遷}}{{R|角川}}。
== 産業 ==
*農業
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* [[角川日本地名大辞典]] 44 大分県
* 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。
== 関連項目 ==
* [[大分県の廃止市町村一覧]]
{{デフォルトソート:にしわさたむら}}
[[Category:大分郡]]
[[Category:大分市域の廃止市町村]]
[[Category:1889年設置の日本の市町村]]
[[Category:1907年廃止の日本の市町村]] | 2023-10-08T08:06:33Z | 2023-10-08T08:06:33Z | false | false | false | [
"Template:日本の町村 (廃止)",
"Template:R",
"Template:Reflist"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%A8%99%E7%94%B0%E6%9D%91 |
4,838,927 | 聖アウグスティヌスの幻視 | 『聖アウグスティヌスの幻視』、または『幼子の聖アウグスティヌスへの顕現』は、イタリア・初期ルネサンスの画家フィリッポ・リッピが1452-1465年ごろ、板上にテンペラで制作した絵画である。かつて、この絵画は、特定化されていない複数のパネルからなる祭壇画のプレデッラ (裾絵) であった現在、サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館に所蔵されている。
主題は図像学的に稀なもので、聖アウグスティヌスが柄杓で海の水を汲もうとしている小さな子供 (イエス・キリスト) を幻視するというものである。この逸話によれば、聖人がなぜそんなことをするのかと問うと、子供は、人間の精神が神聖な自然の神秘、すなわち「三位一体」を理解しようとするのは、柄杓で海のすべての水を汲もうとするのと同じくらい無意味で無駄なことであると答える。この幻視を見た当時、聖アウグスティヌスは自身の著作でこの「三位一体」のテーマに没頭していた。
リッピによって描かれている場面は、15世紀独特の書き割り風の人工的な風景表現が非常に興味深い。それは荒涼として、線遠近法の規則に従ったトスカーナ地方の風景であり、遠景左側の町には城塞と塔が見出せる。聖アウグスティヌスの神の国を表しているのかもしれない。海の代わりに、リッピは右側に川を表しており、川べりには青い服を着た子供がいる。聖アウグスティヌスのほうは司教服を纏っている。右側の高いところにある太陽は、「三位一体」を象徴するため3つの顔を持っている。
ボリシェヴィキに没収される以前、この作品はエヴゲニヤ・マクシミリアノヴナ・ロマノフスカヤ (1845-1925年) のコレクションにあった。 | [
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"text": "ボリシェヴィキに没収される以前、この作品はエヴゲニヤ・マクシミリアノヴナ・ロマノフスカヤ (1845-1925年) のコレクションにあった。",
"title": "作品"
}
] | 『聖アウグスティヌスの幻視』、または『幼子の聖アウグスティヌスへの顕現』は、イタリア・初期ルネサンスの画家フィリッポ・リッピが1452-1465年ごろ、板上にテンペラで制作した絵画である。かつて、この絵画は、特定化されていない複数のパネルからなる祭壇画のプレデッラ (裾絵) であった現在、サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館に所蔵されている。 | {{Infobox artwork
|title=聖アウグスティヌスの幻視
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『'''聖アウグスティヌスの幻視'''』(せいアウグスティヌスのげんし、{{Lang-ru-short|Видение блаженного Августина}}、{{Lang-en-short|Vision of St Augustine}})は、[[イタリア]]・初期[[ルネサンス]]の画家[[フィリッポ・リッピ]]が1452-1465年ごろ、板上に[[テンペラ]]で制作した絵画である<ref name="ReferenceHM">{{Cite web |url=https://www.hermitagemuseum.org/wps/portal/hermitage/digital-collection/01.%20Paintings/29497?lng=en|title=Vision of St Augustine|publisher=[[エルミタージュ美術館]]公式サイト (英語)|access-date=2023/10/08}}</ref><ref name="ReferenceNHK">NHK エルミタージュ美術館 2 ルネサンス・バロック・ロココ 1989年、77項。</ref>。かつて、この絵画は、特定化されていない複数のパネルからなる[[祭壇画]]の{{仮リンク|プレデッラ (裾絵)|en|predella}}であった<ref name="ReferenceNHK" />。[[ボリシェヴィキ]]に没収される以前、この作品は[[エヴゲニヤ・マクシミリアノヴナ・ロマノフスカヤ]] (1845-1925年) のコレクションにあった<ref name="ReferenceHM" />。現在、[[サンクトペテルブルク]]の[[エルミタージュ美術館]]に所蔵されている<ref name="ReferenceHM" /><ref name="ReferenceNHK" />。
== 作品 ==
主題は[[図像学]]的に稀なもので、フィリッポ・リッピはおそらくこの主題を取り上げた最初の画家であった<ref name="ReferenceHM" />。逸話によれば、[[アウグスティヌス|聖アウグスティヌス]]が「[[三位一体]]」の[[教義]]を理解しようとして海辺を歩いていると、柄杓で穴の中に海の水を汲もうとしている小さな子供 ([[イエス・キリスト]]) を見た<ref name="ReferenceNHK" />。聖人がなぜそんなことをするのかと問うと、子供は、人間の精神が神聖な自然の神秘、すなわち「三位一体」を理解しようとするのは、柄杓で海のすべての水を汲もうとするのと同じくらい無意味で無駄なことであると答えた<ref name="ReferenceNHK" />後、消える<ref name="ReferenceHM" />。聖アウグスティヌスは自分の試みの無意味さを悟ったという<ref name="ReferenceNHK" />。
リッピによって描かれている場面は、15世紀独特の書き割り風の人工的な風景表現が非常に興味深い<ref name="ReferenceNHK" />。それは荒涼として、線[[遠近法]]の規則に従った<ref name="ReferenceHM" />[[トスカーナ]]地方の風景であり、遠景左側の町には城塞と塔が見出せる<ref name="ReferenceHM" />。[[神の国 (アウグスティヌス)|聖アウグスティヌスの神の国]]を表しているのかもしれない。海の代わりに、リッピは右側に川を表しており、川べりには青い服を着た子供がいる。聖アウグスティヌスのほうは[[司教]]服を纏っている。右側の高いところにある太陽は、「三位一体」を象徴するため3つの顔を持っている<ref name="ReferenceHM" />。
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* [[五木寛之]]編著『NHK エルミタージュ美術館 2 ルネサンス・バロック・ロココ』、[[日本放送出版協会]]、1989年刊行 ISBN 4-14-008624-6
== 外部リンク ==
* [https://www.hermitagemuseum.org/wps/portal/hermitage/digital-collection/01.%20Paintings/29497?lng=en エルミタージュ美術館公式サイト、フィリッポ・リッピ『聖アウグスティヌスの幻視』 (英語)]
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4,838,928 | カシャタグ地区 | カシャタグ地区(カシャタグちく、アルメニア語: Քաշաթաղի շրջան、ロシア語: Кашатагский район)は、2024年1月1日付けで解散を表明した事実上の独立国家アルツァフ共和国(ナゴルノ・カラバフ共和国)の地区(ラヨン)。2020年までの中心都市はベルゾル(ロシア語版)(アゼルバイジャン語名ラチン)。アルツァフとアルメニアを結ぶラチン回廊が地区中部にあった。2020年ナゴルノ・カラバフ紛争の停戦協定でラチン回廊を除く全域をアゼルバイジャンへ返還し、ラチン回廊はロシア平和維持部隊の管理下に置かれた。回廊道路の付け替えに伴い、2022年8月26日にラチン回廊はアゼルバイジャンへ返還され、代わりにアガヌス(ロシア語版)など新道沿いのいくつかの村がロシア平和維持部隊へ移管された(アルツァフ側は「アルツァフ領に復帰した」と表現している)。
アルツァフ西部に位置し、2020年紛争以前は北をシャフミアン地区、北東をマルタケルト地区、東をアスケラン地区(ロシア語版)、シュシー地区、ハドルト地区、南をイラン、西をアルメニアと接していた。なおアルツァフの地区では唯一アゼルバイジャンとの「国境」を持たなかった。全域がアルツァフの前身にあたるナゴルノ・カラバフ自治州に属していない。国際的にはアゼルバイジャンのラチン県、グバドル県、ザンギラン県(英語版)の一部とされている。
2020年紛争以前の面積は3,376.6平方キロメートル。アルツァフの行政区画で最も大きく、国土の3割を占めていた。人口は11,700人。
アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国時代はアゼルバイジャン人が多く居住していた。ナゴルノ・カラバフ戦争(第一次ナゴルノ・カラバフ戦争)中の1992年5月18日にアルメニア軍はラチン(ベルゾル)および回廊地帯を占領し、1993年11月1日までにカシャタグ地区全域を占領した。1993年12月2日、アルツァフ最高評議会幹部会の決議によりカシャタグ地区が創設された。初代行政長官には歴史家のアレクサン・ハコビアン(ロシア語版)が就任した。
2002年から2003年にかけて地区内の洞窟で実施された調査の結果、ウラルトゥ(ヴァン)王国時代の楔形文字の碑文、5つの洞内教会、4つの防衛遺構、30以上の集合住宅跡が新たに発見された。
2020年ナゴルノ・カラバフ紛争(第二次ナゴルノ・カラバフ戦争)ではハドルト地区を突破したアゼルバイジャン軍の攻撃を10月中旬より受けた。10月20日にコヴサカン(ロシア語版)、10月22日にミジナヴァン(ロシア語版)、10月26日にカシュニクを喪失し、前線はベルゾルのすぐ近くまで迫った(ラチン攻勢(英語版))。停戦協定により占領されずに残っていた地域も12月1日にアゼルバイジャンへ返還し、ラチン回廊はロシア平和維持部隊の管理下に置かれた。返還予定の都市ではアルメニア人住民のほぼ全員が脱出した。回廊内のベルゾル、スース(ロシア語版)、アガヴノ(ロシア語版)の3都市は返還されなかったが、住民の多くは略奪を恐れて避難していた。
停戦協定にはラチン回廊のゴリス=ステパナケルト道路に代わる新たな道路を3年以内に建設し、新道完成後はラチン回廊の返還が定められていた。アルメニア・アゼルバイジャン国境危機 (2021年-)(英語版)の影響で両国が新道建設の遅れを非難しあう場面もあったが、2022年9月1日に現道の南に新道が開通した。これに先立ち、8月5日にアゼルバイジャンはラチン回廊の住民に20日間以内の退去を要求した。予定通りラチン回廊はアゼルバイジャンへ返還され、8月26日までにアゼルバイジャン軍がベルゾルなどの都市に進駐した。新道についても停戦協定に基づきロシア平和維持部隊の管理下に置かれるため、道沿いのアガヌス(英語版)、Maratouk、Meghvadzor、Melikashenがアゼルバイジャンからロシア平和維持部隊へ引き渡された。アルツァフ領土行政・インフラ大臣のハイク・ハヌミヤン(アルメニア語版)はこれらの村を「アルツァフの支配下に戻った」と述べた。だが住宅は廃墟と化しており、元住民の中にはアゼルバイジャンへの不信感から帰還を拒む者もいるため、再定住はあまり進んでいない。
地区の北半分は山地である。南半分はバルグシャット山脈(ロシア語版)、メグリ山脈(ロシア語版)の麓で、高低差は小さい。
南を流れるアラス川はイランとの自然国境となっている。他に支流のハカリ川(ロシア語版)とヴォロタン川(ロシア語版)が地区内を流れる。
2023年9月時点で54のコミュニティと108の集落があるとされる。
以下は2005年国勢調査に記載されている都市の一覧である。カッコ内はアゼルバイジャン語名で、説明の無い都市は2020年紛争の停戦協定でアゼルバイジャンへ返還された。
2020年1月1日時点の法定人口は11,700人で、総人口の7.9%を占める。住民のほとんどはアルメニア人である。アルツァフの支配下になる前はアゼルバイジャン人が多数居住していたが、第一次ナゴルノ・カラバフ戦争の際に脱出している。2014年頃からはシリア内戦から逃れてきたアルメニア系シリア人(英語版)難民を受け入れている。
2005年および2015年国勢調査の地区人口および民族別人口の変遷は以下の表のとおり。
なお参考として、アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国のラチン地区、グバドル地区、ザンギラン地区の1979年ソ連国勢調査の結果についても掲載する。
ラチン地区の「その他」のうち、2,437人はクルド人である。1923年から1929年までベルゾルを中心としたクルディスタン郡(ロシア語版)(1930年にクルディスタン共和国として短期間復活)が設置されたこともある。1992年5月20日に70人ほどのクルド人によって「ラチン・クルド人共和国」の建国が宣言されたが、戦争の影響でクルド人のほとんどが避難しており、アルメニア人が増加する中で自然消滅した。共和国消滅後、残っていたクルド人もアゼルバイジャンへ避難した。
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] | カシャタグ地区は、2024年1月1日付けで解散を表明した事実上の独立国家アルツァフ共和国(ナゴルノ・カラバフ共和国)の地区(ラヨン)。2020年までの中心都市はベルゾル(アゼルバイジャン語名ラチン)。アルツァフとアルメニアを結ぶラチン回廊が地区中部にあった。2020年ナゴルノ・カラバフ紛争の停戦協定でラチン回廊を除く全域をアゼルバイジャンへ返還し、ラチン回廊はロシア平和維持部隊の管理下に置かれた。回廊道路の付け替えに伴い、2022年8月26日にラチン回廊はアゼルバイジャンへ返還され、代わりにアガヌスなど新道沿いのいくつかの村がロシア平和維持部隊へ移管された(アルツァフ側は「アルツァフ領に復帰した」と表現している)。 アルツァフ西部に位置し、2020年紛争以前は北をシャフミアン地区、北東をマルタケルト地区、東をアスケラン地区、シュシー地区、ハドルト地区、南をイラン、西をアルメニアと接していた。なおアルツァフの地区では唯一アゼルバイジャンとの「国境」を持たなかった。全域がアルツァフの前身にあたるナゴルノ・カラバフ自治州に属していない。国際的にはアゼルバイジャンのラチン県、グバドル県、ザンギラン県の一部とされている。 2020年紛争以前の面積は3,376.6平方キロメートル。アルツァフの行政区画で最も大きく、国土の3割を占めていた。人口は11,700人。 | {{Infobox Settlement
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[[File:Lachin Corridor 2020.png|300px|thumb|ラチン回廊の地図(2020年 - 2022年)]]
'''カシャタグ地区'''(カシャタグちく、{{lang-hy|Քաշաթաղի շրջան}}、{{lang-ru|Кашатагский район}})は、2024年1月1日付けで解散を表明した事実上の独立国家[[アルツァフ共和国]](ナゴルノ・カラバフ共和国)の地区([[ラヨン]])。2020年までの中心都市は{{仮リンク|ラチン|label= ベルゾル|ru|Лачин}}(アゼルバイジャン語名ラチン)。アルツァフと[[アルメニア]]を結ぶ[[ラチン回廊]]が地区中部にあった。[[2020年ナゴルノ・カラバフ紛争]]の[[2020年ナゴルノ・カラバフ停戦協定|停戦協定]]でラチン回廊を除く全域を[[アゼルバイジャン]]へ返還し、ラチン回廊は[[ロシア]]平和維持部隊の管理下に置かれた<ref name="AlJazeera20" />。回廊道路の付け替えに伴い、2022年8月26日にラチン回廊はアゼルバイジャンへ返還され<ref name="AlJazeera22">{{Cite news |url=https://www.aljazeera.com/news/2022/8/26/azerbaijan-takes-over-lachin-city-in-line-with-armenia-peace-deal |title=Azerbaijan takes over Lachin city in line with Armenia peace deal |publisher=アルジャジーラ |date=2022-08-26 |accessdate=2023-10-06}}</ref>、代わりに{{仮リンク|アガヌス|ru|Ağanus}}など新道沿いのいくつかの村がロシア平和維持部隊へ移管された(アルツァフ側は「アルツァフ領に復帰した」と表現している)。
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2020年紛争以前の面積は3,376.6平方キロメートル<ref name="area" />。アルツァフの行政区画で最も大きく、国土の3割を占めていた。人口は11,700人<ref name="pop2020" />。
== 歴史 ==
[[アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国]]時代は[[アゼルバイジャン人]]が多く居住していた。[[ナゴルノ・カラバフ戦争]](第一次ナゴルノ・カラバフ戦争)中の[[1992年]][[5月18日]]に[[アルメニア軍]]はラチン(ベルゾル)および回廊地帯を占領し<ref name="artsakhtert" />、1993年[[11月1日]]までにカシャタグ地区全域を占領した。[[1993年]][[12月2日]]、アルツァフ最高評議会幹部会の決議によりカシャタグ地区が創設された。初代行政長官には歴史家の{{仮リンク|アレクサン・ハコビアン|ru|Акопян, Алексан Акопович}}が就任した<ref name="artsakhtert" />。
[[2002年]]から[[2003年]]にかけて地区内の洞窟で実施された調査の結果、[[ウラルトゥ]](ヴァン)王国時代の[[楔形文字]]の碑文、5つの洞内教会、4つの防衛遺構、30以上の集合住宅跡が新たに発見された<ref>{{Cite web |url=http://www.ese.edu.gr/media/lipes_dimosiefsis/14isc_proceedings/p/04.pdf |title=The Discovery of VII-XII cc Underground Churches and Settlements in Qasharagh by the 2002-2003 Expedition of ASC |author=Samvel M. Shahinyan |format=pdf |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170803150634/http://www.ese.edu.gr/media/lipes_dimosiefsis/14isc_proceedings/p/04.pdf |archivedate=2017-08-03 |accessdate=2023-10-06}}</ref>。
[[2020年ナゴルノ・カラバフ紛争]](第二次ナゴルノ・カラバフ戦争)ではハドルト地区を突破した[[アゼルバイジャン軍]]の攻撃を10月中旬より受けた。[[10月20日]]に{{仮リンク|ザンギラン|label=コヴサカン|ru|Зангелан}}<ref>{{Cite news |url=https://ria.ru/20201020/zengilan-1580649320.html |title=Алиев заявил о взятии города Зенгилан в Карабахе |publisher=[[RIAノーボスチ]] |date=2020-10-20 |accessdate=2023-10-06}}</ref>、[[10月22日]]に{{仮リンク|ミンチヴァン|label=ミジナヴァン|ru|Миндживан}}<ref>{{Cite news |url=https://tass.com/world/1214867 |title=Aliyev announces control seized over 22 settlements in Karabakh |publisher=[[タス通信]] |date=2020-10-22 |accessdate=2023-10-06}}</ref>、[[10月26日]]に[[グバドル|カシュニク]]<ref>{{Cite news |url=https://www.bbc.com/russian/live/news-54686682?ns_mchannel=social&ns_source=twitter&ns_campaign=bbc_live&ns_linkname=5f97137949467302d61cdebd%26%D0%9C%D0%B8%D0%BD%D0%BE%D0%B1%D0%BE%D1%80%D0%BE%D0%BD%D1%8B%20%D0%90%D1%80%D0%BC%D0%B5%D0%BD%D0%B8%D0%B8%20%D0%BF%D1%80%D0%B8%D0%B7%D0%BD%D0%B0%D0%BB%D0%BE%20%D0%BF%D0%BE%D1%82%D0%B5%D1%80%D1%8E%20%D0%9A%D1%83%D0%B1%D0%B0%D1%82%D0%BB%D1%8B%262020-10-26T18%3A20%3A42.650Z&ns_fee=0&pinned_post_locator=urn:asset:5ba8ccdb-9d0e-45de-bda0-cd4edd7b3ba4&pinned_post_asset_id=5f97137949467302d61cdebd&pinned_post_type=share |title=Минобороны Армении признало потерю Кубатлы |publisher=BBC |date=2023-10-27 |accessdate=2023-10-06}}</ref>を喪失し、前線はベルゾルのすぐ近くまで迫った<ref>{{Cite news |url=https://ru.armeniasputnik.am/20201027/Protivnik-pytalsya-priblizitsya-k-yuzhnym-granitsam-Armenii-no-byl-otbroshen---Ovannisyan-25089684.html |title=Противник пытался приблизиться к южным границам Армении, но был отброшен – Ованнисян |publisher=[[スプートニク (通信社)|スプートニク]] |date=2020-10-27 |accessdate=2023-10-06}}</ref>({{仮リンク|ラチン攻勢|en|Lachin offensive}})。[[2020年ナゴルノ・カラバフ停戦協定|停戦協定]]により占領されずに残っていた地域も[[12月1日]]にアゼルバイジャンへ返還し、ラチン回廊はロシア平和維持部隊の管理下に置かれた<ref name="AlJazeera20" />。返還予定の都市ではアルメニア人住民のほぼ全員が脱出した。回廊内のベルゾル、{{仮リンク|スース (アゼルバイジャン)|label=スース|ru|Сус (село)}}、{{仮リンク|ザブク|label=アガヴノ|ru|Забух}}の3都市は返還されなかったが<ref>{{Cite web |url=https://www.aniarc.am/2023/09/13/syunik-report-ani-2022/ |title=ՍՅՈՒՆԻՔ. ՀԱՅԱՍՏԱՆԻ ՈՂՆԱՇԱՐԸ՝ ՎՏԱՆԳԻ ՏԱԿ |publisher=ANI Armenian Research Center |date=2023-09-13 |accessdate=2023-10-08}}</ref>、住民の多くは略奪を恐れて避難していた<ref>{{Cite web |url=https://www.bbc.com/russian/features-56244970 |title=Лачин: жизнь под надзором российских миротворцев |publisher=BBC |date=2021-03-02 |accessdate=2023-10-06}}</ref>。
停戦協定にはラチン回廊の[[ゴリス]]=[[ステパナケルト]]道路に代わる新たな道路を3年以内に建設し、新道完成後はラチン回廊の返還が定められていた。{{仮リンク|アルメニア・アゼルバイジャン国境危機 (2021年-)|en|Armenia–Azerbaijan border crisis (2021–present)}}の影響で両国が新道建設の遅れを非難しあう場面もあったが、2022年9月1日に現道の南に新道が開通した<ref>{{Cite news |url=https://eurasianet.org/armenians-warily-travel-along-the-new-road-to-karabakh |title=Armenians warily travel along “the new road” to Karabakh |publisher=[[ユーラシアネット]] |date=2022-09-15 |accessdate=2023-10-06}}</ref>。これに先立ち、8月5日にアゼルバイジャンはラチン回廊の住民に20日間以内の退去を要求した<ref>{{Cite news |url=https://oc-media.org/lachin-residents-given-20-days-to-leave-homes-ahead-of-azerbaijan-handover/ |title=Lachin residents given 20 days to leave homes ahead of Azerbaijan handover |publisher=OC Media |date=2022-08-05 |accessdate=2023-10-06}}</ref>。予定通りラチン回廊はアゼルバイジャンへ返還され、8月26日までにアゼルバイジャン軍がベルゾルなどの都市に進駐した<ref name="AlJazeera22" />。新道についても停戦協定に基づきロシア平和維持部隊の管理下に置かれるため、道沿いの{{仮リンク|アガヌス|en|Ağanus}}、[[:en:Malxələf|Maratouk]]、[[:en:Mığıdərə|Meghvadzor]]、[[:en:Məlikpəyə|Melikashen]]がアゼルバイジャンからロシア平和維持部隊へ引き渡された<ref>{{Cite web |url=https://jam-news.net/am/%D5%AB%D5%B6%D5%B9%D5%B8%D5%9E%D6%82-%D5%A5%D5%B6-%D5%A1%D6%80%D5%A3%D5%A5%D5%AC%D5%B8%D6%82%D5%B4-%D5%A1%D5%B5%D6%80%D5%A5%D5%AC-%D5%BF%D5%B6%D5%A5%D6%80%D5%A8-%D5%A6%D5%A1%D6%80%D5%A3%D5%A1%D6%81/ |title=Ինչո՞ւ են արգելում այրել տները. զարգացումներ Արցախի Աղավնո գյուղի շուրջ |publisher=Jam News |date=2022-10-08 |accessdate=2023-10-08}}</ref>。アルツァフ領土行政・インフラ大臣の{{仮リンク|ハイク・ハヌミヤン|hy|Հայկ Խանումյան}}はこれらの村を「アルツァフの支配下に戻った」と述べた<ref>{{Cite news |url=https://armeniatoday.news/hy/republicofartsakh/513287/ |title=Նոր միջանցքի գործարկմամբ Աղանուս համայնքի տարածքը դուրս կգա Ադրբեջանի վերահսկողություն․ Հայկ Խանումյան |publisher=Armenia Today |date=2022-08-09 |accessdate=2023-10-08}}</ref>。だが住宅は廃墟と化しており、元住民の中にはアゼルバイジャンへの不信感から帰還を拒む者もいるため、再定住はあまり進んでいない<ref>{{Cite news |url=https://www.azatutyun.am/a/31983868.html |title=«Մենք մեզ չխաբենք». Աղանուսի գյուղապետը չի հավատում, որ գյուղը դուրս է գալու Ադրբեջանի վերահսկողությունից |publisher=[[ラジオ・フリー・ヨーロッパ]] |date=2022-08-11 |accessdate=2023-10-08}}</ref>。
<gallery>
Artsakh locator Qashatagh.png|旧自治州と2020年までのカシャタグ地区を重ね合わせた地図
Artsakh Region of Qashatagh 2020.png|2020年紛争以降の領域(ラチン回廊)
</gallery>
== 地理 ==
地区の北半分は山地である。南半分は{{仮リンク|バルグシャット山脈|ru|Баргушатский хребет}}、{{仮リンク|メグリ山脈|ru|Мегринский хребет}}の麓で、高低差は小さい<ref name="armedia">{{Cite web |url=https://armedia.am/arm/news/21255/tchanache%D5%9Bnq-arcakhy-qashatax.html |title=Ճանաչե՛նք Արցախը. Քաշաթաղ |publisher=Armedia.am |date=2015-07-23 |accessdate=2023-10-06}}</ref>。
南を流れる[[アラス川]]は[[イラン]]との自然国境となっている。他に支流の{{仮リンク|ハカリ川|ru|Акера}}と{{仮リンク|ヴォロタン川|ru|Воротан}}が地区内を流れる<ref name="armedia" />。
== 都市 ==
2020年1月時点で4都市と50農村共同体が所属していた<ref name="pop2020" />。
以下は2005年国勢調査に記載されている都市の一覧である<ref>{{Cite web |url=http://census.stat-nkr.am/nkr/1-1.pdf |title=De Facto and De Jure Population by Administrative Territorial Distribution and Sex |publisher=アルツァフ国家統計局 |pages=61-69 |format=pdf |archiveurl=http://web.archive.org/web/20220804150710/http://stat-nkr.am/files/publications/2020/Shrjannery_tverov_2020/11-20_bnakchutyun.pdf |archivedate=2022-08-04 |accessdate=2023-10-08}}</ref>。カッコ内はアゼルバイジャン語名で、説明の無い都市は2020年紛争の停戦協定でアゼルバイジャンへ返還された。
; 都市
* {{仮リンク|ラチン|label=ベルゾル|ru|Лачин}}(ラチン)<ref group="ラチン回廊" name="LachinC">2020年にロシア平和維持部隊へ移管、2022年にアゼルバイジャンへ返還</ref>
* {{仮リンク|ザンギラン|label=コヴサカン|ru|Зангелан}}(ザンギラン)
* {{仮リンク|ミンチヴァン|label=ミジナヴァン|ru|Миндживан}}(ミンチヴァン)
; 村
{{Div col|3}}
* {{仮リンク|キラグ・マシュラン|label=アラシュケルト|en|Qıraq Müşlan}}(キラグ・マシュラン)
* [[:en:Üçüncü Ağalı|Aghadzor]](Üçüncü Ağalı)
* {{仮リンク|アガヌス|en|Ağanus}}<ref group="新回廊" name="NewC">2020年にアゼルバイジャンへ返還、2022年にロシア平和維持部隊へ移管(「アルツァフ領に復帰」)</ref>
* [[:en:Quşçular, Lachin|Aghavnatun]](Quşçular)
* {{仮リンク|ザブク|label=アガヴノ|ru|Забух}}(ザブク)<ref group="ラチン回廊" name="LachinC" />
* [[:en:Balasoltanlı|Aygehovit]](Balasoltanlı)
* [[:en:Əfəndilər, Qubadli|Aygek]](Əfəndilər)
* [[:en:Kürd Mahruzlu|Artsvashen]](Kürd Mahruzlu)
* [[:en:Ərdəşəvi|Artashavi]](Ərdəşəvi)
* [[:en:Bülüldüz|Bazmatus]](Bülüldüz)
* [[:en:Həmzəli, Qubadli|Getamej]](Həmzəli)
* [[:en:Qarağac, Qubadli|Getap]](Qarağac)
* [[:en:Pircahan|Goghtanik]](Goghtanik)
* [[:en:Məşədiismayıllı|Ditsmayri]](Məşədiismayıllı)
* [[:en:Ağcakənd, Lachin|Drakhtadzor]](Ağcakənd)
* [[:en:Qarakeçdi|Eznagomer]](Qarakeçdi)
* [[:en:Birinci Alıbəyli, Zangilan|Eritsvank]](Birinci Alıbəyli)
* [[:en:Xanlıq|Ishkhanadzor]](Xanlıq)
* [[:en:Güləbird|Tsaghkaberd]](Güləbird)
* [[:en:Hüsülü, Lachin|Tsitsernavank]](Hüsülü)
* [[:en:Çöpədərə|Tsopaadzor]](Çöpədərə)
* {{仮リンク|ガラゴル|label=ケレン|en|Qaragöl}}(ガラゴル)
* [[:en:Qilican|Kumayri]](Qilican)
* {{仮リンク|ハル (アゼルバイジャン)|label=ハレ|en|Hal, Azerbaijan}}(ハル)
* {{仮リンク|ミンケンド|label=ハク|en|Minkend}}(ミンケンド)
* {{仮リンク|ムラドハンリ|label=ハカリ|en|Muradxanlı, Qubadli}}(ムラドハンリ)
* {{仮リンク|ゴルチュ|label=ハイタグ|en|Qorçu}}(ゴルチュ)
* {{仮リンク|ガジャン|label=ハイガジャン|en|Qəzyan, Qubadli}}(ガジャン)
* [[:en:Aşağı Fərəcan|Harar]](Aşağı Fərəcan)
* [[:en:Əhmədli, Lachin|Herik]](Əhmədli)
* [[:en:Hoçaz|Khochants]](Hoçaz)
* [[:en:Qarakişilər|Dzorap]](Qarakişilər)
* [[:en:Alıqulu|Ghazarapat]](Alıqulu)
* [[:en:Məmər|Mamark]](Məmər)
* [[:en:Malxələf|Maratouk]](Malxələf)<ref group="新回廊" name="NewC" />
** [[:en:Mığıdərə|Meghvadzor]](Mığıdərə)<ref group="新回廊" name="NewC" />
* [[:en:Qaracallı, Qubadli|Martunashen]](Qaracallı)
* [[:en:Malıbəy|Melikashen]](Malıbəy)
* [[:en:Məlikpəyə|Melikashen]](Məlikpəyə)<ref group="新回廊" name="NewC" />
* [[:en:Mirik, Azerbaijan|Mirik]]
* [[:en:Mişni, Lachin|Msheni]](Mişni)
* [[:en:Bozlu, Lachin|Moshatagh]](Bozlu)
* [[:en:Kürdhacı|Movsesashen]](Kürdhacı)
* [[:en:Məlikli, Zangilan|Moush]](Məlikli)
* [[:en:Təzəkənd, Lachin|Norashenik]](Təzəkənd)
* {{仮リンク|シャルヴァ|label=シャルア|en|Şəlvə, Lachin}}(シャルヴァ)
* [[:en:Qiyaslı, Qubadli|Shirak]](Qiyaslı)
* [[:en:Diləli Müskənli|Djanfida]](Diləli Müskənli)
* [[:en:Sarıyataq|Saratak]](Sarıyataq)
* [[:en:Sonasar, Azerbaijan|Sonasar]]
* {{仮リンク|スース (アゼルバイジャン)|label=スース|ru|Сус (село)}}<ref group="ラチン回廊" name="LachinC" />
* [[:en:Hacısamlı|Vazgenashen]](Hacısamlı)
* {{仮リンク|ピチャニス|label=ヴァクニス|en|Piçənis}}(ピチャニス)
* {{仮リンク|ヴァガジン|en|Vağazin}}
* [[:en:Cahangirbəyli|Van]](Cahangirbəyli)
* [[:en:Əbilcə|Vardabats]](Əbilcə)
* [[:en:Məmmədbəyli|Vardanants]](Məmmədbəyli)
* [[:en:Yuxarı Mollu|Verin Kashunik]](Yuxarı Mollu)
* [[:en:Xəndək, Qubadli|Vurgavan]](Xəndək)
* [[:en:Qarıqışlaq|Tandzut]](Qarıqışlaq)
* [[:en:Padar, Qubadli|Tigranavan]](Padar)
* [[:en:İşıqlı, Qubadli|Urekan]](İşıqlı)
* [[:en:Xocahan|Pakahan]](Xocahan)
* [[グバドル|カシュニク]](グバドル)
* [[:en:Kavdadıq|Karotan]](Kavdadıq)
* [[:en:Daşlı|Karut]](Daşlı)
* [[:en:Qarıkaha|Karegah]](Qarıkaha)
* [[:en:Alxaslı|Arvakan]](Alxaslı)
* [[:en:Muğanlı, Qubadli|Mkhants]](Muğanlı)
{{Div col end}}
== 住民 ==
2020年1月1日時点の[[法定人口]]は11,700人で、総人口の7.9%を占める<ref name="pop2020" />。住民のほとんどは[[アルメニア人]]である。アルツァフの支配下になる前は[[アゼルバイジャン人]]が多数居住していたが、第一次ナゴルノ・カラバフ戦争の際に脱出している。2014年頃からは[[シリア内戦]]から逃れてきた{{仮リンク|シリアのアルメニア人|label=アルメニア系シリア人|en|Armenians in Syria}}難民を受け入れている<ref>{{Cite news |url=http://nkr-news.com/arcakh/poselivshiesya-v-arcakhe-sirijjskie-armya.html |title=ПОСЕЛИВШИЕСЯ В АРЦАХЕ СИРИЙСКИЕ АРМЯНЕ ГОВОРЯТ О СВОИХ ЧАЯНИЯХ |publisher=NKR News |date=2014-12-26 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20150928131228/http://nkr-news.com/arcakh/poselivshiesya-v-arcakhe-sirijjskie-armya.html |archivedate=2015-09-28 |accessdate=2023-10-08}}</ref>。
2005年および2015年国勢調査の地区人口および民族別人口の変遷は以下の表のとおり。
{| class="wikitable sortable"
|-
! 民族 !! 2005年<ref>{{Cite web |url=http://www.ethno-kavkaz.narod.ru/rnkarabax.html |title=НАСЕЛЕНИЕ НАГОРНОГО КАРАБАХА |publisher=ethno-kavkaz.com |accessdate=2023-10-08}}</ref> !! 2015年<ref name="area" />
|-
| [[アルメニア人]] ||align="right"|9,724 || -
|-
| [[アゼルバイジャン人]] || - || -
|-
| [[ロシア人]] ||align="right"|20 || -
|-
| その他 ||align="right"|19 || -
|-
! 地区人口 !!align="right"|9,763 !!align="right"|11,400
|}
なお参考として、アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国のラチン地区、グバドル地区、ザンギラン地区の[[1979年ソ連国勢調査]]の結果についても掲載する<ref>{{Cite web |url=http://www.ethno-kavkaz.narod.ru/rnazerbaijan.html |title=НАСЕЛЕНИЕ АЗЕРБАЙДЖАНА |publisher=ethno-kavkaz.com |accessdate=2023-10-04}}</ref>。
{| class="wikitable sortable"
|-
! 民族 !! ラチン地区 !! グバドル地区 !! ザンギラン地区
|-
| [[アルメニア人]] ||align="right"|34 ||align="right"|26 ||align="right"|35
|-
| [[アゼルバイジャン人]] ||align="right"|44,665 ||align="right"|26,537 ||align="right"|28,685
|-
| [[ロシア人]] ||align="right"|27 ||align="right"|41 ||align="right"|488
|-
| その他 ||align="right"|2,535 ||align="right"|69 ||align="right"|169
|-
! 地区人口 !!align="right"|47,261 ||align="right"|26,673 !!align="right"|29,377
|}
ラチン地区の「その他」のうち、2,437人は[[クルド人]]である。1923年から1929年までベルゾルを中心とした{{仮リンク|クルディスタン郡|ru|Курдистанский уезд}}(1930年にクルディスタン共和国として短期間復活)が設置されたこともある。1992年5月20日に70人ほどのクルド人によって「ラチン・クルド人共和国」の建国が宣言されたが、戦争の影響でクルド人のほとんどが避難しており、アルメニア人が増加する中で自然消滅した。共和国消滅後、残っていたクルド人もアゼルバイジャンへ避難した<ref>{{Cite web |url=http://www.kurdmedia.com/article.aspx?id=7857 |title=Lachin Kurdish Republic is declared |publisher=Kurdish Media.com |date=2000-11-30 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20131004234100/http://www.kurdmedia.com/article.aspx?id=7857|archivedate=2013-10-04 |accessdate=2023-10-08}}</ref><ref>{{Cite news |url=http://www.kurdistan24.net/en/news/91e34779-c523-41ae-bf17-fde1340d4b9f |title=Former leader of short-lived Soviet Kurdish republic buried in Erbil |publisher=[[:en:Kurdistan 24|Kurdistan 24]] |date=2019-05-10 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20190510193620/http://www.kurdistan24.net/en/news/91e34779-c523-41ae-bf17-fde1340d4b9f |archivedate=2019-05-10 |accessdate=2023-10-08}}</ref>。
== 観光地 ==
[[File:...Ծիծեռնավանք.jpg|250px|thumb|[[:en:Tsitsernavank Monastery|Tsitsernavank修道院]](2015年撮影)]]
約34の修道院や教会、歴史的建造物が保存されている。中でも5-6世紀ごろに建築された[[アルメニア使徒教会]]の[[:en:Tsitsernavank Monastery|Tsitsernavank修道院]]が有名<ref name="armedia" />。
== 脚注 ==
{{commonscat}}
=== 注釈 ===
<references group="ラチン回廊"/>
<references group="新回廊"/>
=== 出典 ===
<references />
{{アルツァフの行政区画}}
{{DEFAULTSORT:かしやたくちく}}
[[Category:アルツァフ共和国の地方区分]] | 2023-10-08T08:13:00Z | 2023-10-17T14:19:48Z | false | false | false | [
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"Template:Infobox Settlement",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%BF%E3%82%B0%E5%9C%B0%E5%8C%BA |
4,838,931 | フェランテ1世・ゴンザーガ | フェランテ(フェランド)1世・ゴンザーガ(Ferrante(Ferrando) I Gonzaga, conte di Guastalla e principe di Molfetta, 1507年1月28日 マントヴァ - 1557年11月15日 ブリュッセル)は、イタリアの諸侯ゴンザーガ家出身の傭兵隊長(コンドッティエーレ)、芸術後援者。グアスタッラ伯、モルフェッタ公。神聖ローマ皇帝(ハプスブルク君主国)の下で、シチリア副王(在任1535 - 1546年)、ミラノ公領総督(在任1546年 - 1555年)を歴任した。
マントヴァ侯フランチェスコ2世と、その妻でルネサンス文化の庇護者として名高いイザベッラ・デステとの間の第7子・三男。1523年、16歳でスペイン宮廷に赴き、皇帝カール5世に小姓として仕え、以後終生カール5世の忠実な家臣となった。1531年金羊毛騎士団騎士に叙任される。
1527年5月のローマ劫掠に参加し、1530年カール5世のボローニャでの戴冠式にも参列した。1527年のブルボン公爵の死後、皇帝軍のイタリア方面軍司令官となった。ロートレック卿(英語版)率いるフランス軍の攻撃からナポリを防衛することに成功した。またフィレンツェ共和国のメディチ家を降伏させ、これに恐れをなした同家の教皇クレメンス7世は、フェランテを教皇領の一部ベネヴェント公領総督に任命した。その後も皇帝の命令により、3000名の騎兵からなる分遣隊を率いてチュニス遠征(1535年)やアルジェ遠征(1541年)を行った。
1535年、皇帝によってシチリア副王に任じられ、在任中、メッシーナ海峡防衛のため自分の家名を冠したゴンザーガ要塞(英語版)を建設させた。1543年には皇帝に従ってドイツでの軍事行動に参加、クレピー条約締結まで戦闘に従事した。同条約の交渉のため、イングランド王ヘンリー8世の宮廷に皇帝使節として赴いた。1546年よりミラノ総督に転じ、第六次イタリア戦争ではパルマ公国でのフランス軍との戦闘を指揮した。
1529年、裕福な女子相続人イザベッラ・ディ・カプア(イタリア語版)との結婚により、モルフェッタ及びジョヴィナッツォを相続し、ナポリ王国有数の大領主の1人となった。さらに1539年、マントヴァの対岸にあるポー川左岸地帯のグアスタッラ伯領(英語版)を、後継者のいないグアスタッラ女伯ルドヴィーカ・トレッリ(英語版)から2万2280スクーディ(英語版)で購入した。同伯領は非常に小規模ながら神聖ローマ帝国の構成邦の1つであったため、フェランテは領邦君主の格を得ることになり。その地位を高めた。またグアスタッラは、皇帝がエステ家からの没収を企図していたフェラーラ公国に隣接していたため、フェランテのグアスタッラ獲得は皇帝のイタリア政策での戦略上も好都合であった。
ルネサンス期のゴンザーガ家一族の例にもれず、芸術の後援者となった。ミラノ総督就任直後、ミラノ市内に別荘ヴィラ・グアルティエーラを購入し、ドメニコ・ジュンティ(イタリア語版)に依頼して大規模な改築を行わせた。
また彫刻家・メダル彫金師レオーネ・レオーニ(英語版)の初期の後援者となり、1555年に自分の横顔を刻んだメダルを造らせた。ちょうどフェランテはこの頃、自分の身に降りかかった公金横領と汚職の疑いを晴らしたばかりであり、メダルの裏側にはその潔白を仄めかして、ヘラクレスがネメアーの獅子に棍棒を振り上げる場面が描かれ、その周りには「困難に屈せず(イタリア語版)」という『アエネーイス』の一節が銘として刻まれた。
タペストリー制作の注文主ともなり、1544年ブリュッセルの職人ヤン・バウドイン(Jan Baudoyn)に『戦争の果実(Fructus Belli)』と題された連作を作らせ、その後も『プッティ』と名付けた前者よりも小規模な連作を注文している。
1557年8月のサン・カンタンの戦い(英語版)を指揮した際に落馬が原因で四肢麻痺となり、3か月後の11月に滞在地ブリュッセルで客死した。遺骸は郷里まで輸送され、マントヴァ大聖堂(英語版)の聖具室に安置された。1564年、長男で後継者のチェーザレはレオーネ・レオーニに命じてグアスタッラ市街に亡父の記念像を建立させた。
妻との間に11人の子をもうけ、ゴンザーガ家の分枝ゴンザーガ=グアスタッラ家(イタリア語版)を創始した。 | [
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"text": "フェランテ(フェランド)1世・ゴンザーガ(Ferrante(Ferrando) I Gonzaga, conte di Guastalla e principe di Molfetta, 1507年1月28日 マントヴァ - 1557年11月15日 ブリュッセル)は、イタリアの諸侯ゴンザーガ家出身の傭兵隊長(コンドッティエーレ)、芸術後援者。グアスタッラ伯、モルフェッタ公。神聖ローマ皇帝(ハプスブルク君主国)の下で、シチリア副王(在任1535 - 1546年)、ミラノ公領総督(在任1546年 - 1555年)を歴任した。",
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"text": "タペストリー制作の注文主ともなり、1544年ブリュッセルの職人ヤン・バウドイン(Jan Baudoyn)に『戦争の果実(Fructus Belli)』と題された連作を作らせ、その後も『プッティ』と名付けた前者よりも小規模な連作を注文している。",
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"text": "1557年8月のサン・カンタンの戦い(英語版)を指揮した際に落馬が原因で四肢麻痺となり、3か月後の11月に滞在地ブリュッセルで客死した。遺骸は郷里まで輸送され、マントヴァ大聖堂(英語版)の聖具室に安置された。1564年、長男で後継者のチェーザレはレオーネ・レオーニに命じてグアスタッラ市街に亡父の記念像を建立させた。",
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] | フェランテ(フェランド)1世・ゴンザーガは、イタリアの諸侯ゴンザーガ家出身の傭兵隊長(コンドッティエーレ)、芸術後援者。グアスタッラ伯、モルフェッタ公。神聖ローマ皇帝(ハプスブルク君主国)の下で、シチリア副王、ミラノ公領総督を歴任した。 | [[file:Cristofano dell'Altissimo, Ferrante Gonzaga, ante 1568.jpeg|thumb|フェランテ肖像、{{仮リンク|クリストファーノ・デッラルティッシモ|en|Cristofano dell'Altissimo|label=C・デッラルティッシモ}}画、1568年以前]]
[[file:Leone leoni, ferrante I gonzaga domina l'invidia, 1564, 04.jpg|thumb|[[七つの大罪|七罪源]]の1つ「嫉妬」をねじ伏せるフェランテ、[[グアスタッラ]]市街ゴンザーガ広場(Piazza Gonzaga)に建立、{{仮リンク|レオーネ・レオーニ|en|Leone Leoni|label=レオーネ・レオーニ}}作、1594年]]
[[file:Leone leoni, medaglia di ferrante gonzaga di guastalla, 1555-56, verso.JPG|thumb|レオーネ・レオーニが彫ったフェランテのメダルの裏側、1555年]]
'''フェランテ(フェランド)1世・ゴンザーガ'''('''Ferrante(Ferrando) I Gonzaga, conte di Guastalla e principe di Molfetta''', [[1507年]][[1月28日]] [[マントヴァ]] - [[1557年]][[11月15日]] [[ブリュッセル]])は、[[イタリア]]の諸侯[[ゴンザーガ家]]出身の傭兵隊長([[コンドッティエーレ]])、芸術後援者。グアスタッラ伯、モルフェッタ公。神聖ローマ皇帝([[ハプスブルク君主国]])の下で、[[シチリア王国|シチリア]]副王(在任1535 - 1546年)、[[ミラノ公国|ミラノ公領]]総督(在任1546年 - 1555年)を歴任した。
== 生涯 ==
マントヴァ侯[[フランチェスコ2世・ゴンザーガ|フランチェスコ2世]]と、その妻でルネサンス文化の庇護者として名高い[[イザベラ・デステ|イザベッラ・デステ]]との間の第7子・三男。1523年、16歳でスペイン宮廷に赴き、皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]に小姓として仕え、以後終生カール5世の忠実な家臣となった。1531年[[金羊毛騎士団]]騎士に叙任される。
1527年5月の[[ローマ劫掠]]に参加し、1530年カール5世の[[ボローニャ]]での戴冠式にも参列した。1527年の[[シャルル3世 (ブルボン公)|ブルボン公爵]]の死後、皇帝軍のイタリア方面軍司令官となった。{{仮リンク|オデ・ド・フォワ|en|Odet of Foix, Viscount of Lautrec|label=ロートレック卿}}率いるフランス軍の攻撃から[[ナポリ]]を防衛することに成功した。また[[フィレンツェ共和国]]の[[メディチ家]]を降伏させ、これに恐れをなした同家の教皇[[クレメンス7世 (ローマ教皇)|クレメンス7世]]は、フェランテを教皇領の一部[[ベネヴェント公国|ベネヴェント公領]]総督に任命した。その後も皇帝の命令により、3000名の騎兵からなる分遣隊を率いて[[チュニス征服 (1535年)|チュニス遠征]](1535年)や[[アルジェ遠征 (1541年)|アルジェ遠征]](1541年)を行った。
1535年、皇帝によってシチリア副王に任じられ、在任中、[[メッシーナ海峡]]防衛のため自分の家名を冠した{{仮リンク|ゴンザーガ要塞|en|Forte Gonzaga|label=ゴンザーガ要塞}}を建設させた<ref>{{cite web|title=Castel Gonzaga|url=http://www.comune.messina.it/turismo/itinerari-turistici/fortificazioni/castel-gonzaga.aspx|website=Comune di Messina|access-date=18 August 2015|language=it}}</ref>。1543年には皇帝に従ってドイツでの軍事行動に参加、[[第五次イタリア戦争|クレピー条約]]締結まで戦闘に従事した。同条約の交渉のため、イングランド王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]の宮廷に皇帝使節として赴いた<ref>Spanish Chronicle, xxiii</ref>。1546年よりミラノ総督に転じ、[[第六次イタリア戦争]]では[[パルマ公国]]でのフランス軍との戦闘を指揮した。
1529年、裕福な女子相続人{{仮リンク|イザベッラ・ディ・カプア|it|Isabella di Capua|label=イザベッラ・ディ・カプア}}との結婚により、[[モルフェッタ]]及び[[ジョヴィナッツォ]]を相続し、[[ナポリ王国]]有数の大領主の1人となった。さらに1539年、マントヴァの対岸にある[[ポー川]]左岸地帯の{{仮リンク|グアスタッラ伯領|en|County of Guastalla|label=グアスタッラ伯領}}を、後継者のいないグアスタッラ女伯{{仮リンク|ルドヴィーカ・トレッリ|en|Ludovica Torelli|label=ルドヴィーカ・トレッリ}}から2万2280{{仮リンク|スクード (通貨)|en|Italian scudo|label=スクーディ}}で購入した。同伯領は非常に小規模ながら[[神聖ローマ帝国]]の構成邦の1つであったため、フェランテは領邦君主の格を得ることになり。その地位を高めた。またグアスタッラは、皇帝が[[エステ家]]からの没収を企図していた{{仮リンク|フェラーラ公国|en|Duchy of Ferrara|label=フェラーラ公国}}に隣接していたため、フェランテのグアスタッラ獲得は皇帝のイタリア政策での戦略上も好都合であった<ref>[https://www.treccani.it/enciclopedia/ludovica-torelli_%28Dizionario-Biografico%29/ "Ludovica Torelli", ''Dizionario Biografico'']</ref>。
ルネサンス期のゴンザーガ家一族の例にもれず、芸術の後援者となった。ミラノ総督就任直後、ミラノ市内に別荘[[ヴィラ・シモネッタ|ヴィラ・グアルティエーラ]]を購入し、{{仮リンク|ドメニコ・ジュンティ|it|Domenico Giunti|label=ドメニコ・ジュンティ}}に依頼して大規模な改築を行わせた<ref>E. Heydenreich and W. Lotz, ''Architecture in Italy, 1400–1600'' (Harmondsworth: Penguin) 1974:292-93;</ref>。
また彫刻家・メダル彫金師{{仮リンク|レオーネ・レオーニ|en|Leone Leoni|label=レオーネ・レオーニ}}の初期の後援者となり、1555年に自分の横顔を刻んだメダルを造らせた。ちょうどフェランテはこの頃、自分の身に降りかかった公金横領と汚職の疑いを晴らしたばかりであり、メダルの裏側にはその潔白を仄めかして、[[ヘラクレス]]が[[ネメアーの獅子]]に棍棒を振り上げる場面が描かれ、その周りには「{{仮リンク|Tu ne cede malis sed contra audentior ito|it|Tu ne cede malis sed contra audentior ito|label=困難に屈せず}}」という『[[アエネーイス]]』の一節が銘として刻まれた<ref>[http://freenet-homepage.de/seeCoins/KarlV/Ital-Z_E.htm#07c Illustration]</ref>。
タペストリー制作の注文主ともなり、1544年ブリュッセルの職人ヤン・バウドイン(Jan Baudoyn)に『戦争の果実(Fructus Belli)』と題された連作を作らせ、その後も『[[プット|プッティ]]』と名付けた前者よりも小規模な連作を注文している<ref>Clifford M. Brown, Guy Delmarcel and Robert S. Nelson, ''Tapestries for the Courts of Federico II, Ercole, and Ferrante Gonzaga 1522–63'' (1996).</ref>。
1557年8月の{{仮リンク|サン・カンタンの戦い (1557年)|en|Battle of St. Quentin (1557)|label=サン・カンタンの戦い}}を指揮した際に落馬が原因で四肢麻痺となり、3か月後の11月に滞在地ブリュッセルで客死した。遺骸は郷里まで輸送され、{{仮リンク|マントヴァ大聖堂|en|Mantua Cathedral|label=マントヴァ大聖堂}}の[[聖具室]]に安置された<ref>{{Cite book|last1=Artoni|first1=Paola|title=Sepolcri gonzagheschi|last2=Gollinelli Berto|first2=Rosanna|publisher=Associazione per i monumenti domenicani|year=2013|isbn=9788890841507|location=Mantova|pages=34–41}}</ref>。1564年、長男で後継者の[[チェーザレ1世・ゴンザーガ|チェーザレ]]はレオーネ・レオーニに命じてグアスタッラ市街に亡父の記念像を建立させた。
== 子女 ==
妻との間に11人の子をもうけ、[[ゴンザーガ家]]の分枝{{仮リンク|ゴンザーガ=グアスタッラ家|it|Gonzaga di Guastalla|label=ゴンザーガ=グアスタッラ家}}を創始した。
*アンナ(1531年生) - 夭折
*[[チェーザレ1世・ゴンザーガ|チェーザレ]](1533年 - 1575年) - グアスタッラ伯
*{{仮リンク|イッポーリタ・ゴンザーガ (1535-1563)|it|Ippolita Gonzaga|label=イッポーリタ}}(1535年 - 1563年) - 1549年パリアーノ公世子ファブリツィオ・コロンナ([[マルカントニオ2世・コロンナ]]の兄)と初婚(1551年死別)、1554年モンドラゴーネ公アントーニオ・カラファと再婚
*{{仮リンク|フランチェスコ・ゴンザーガ (1538-1566)|en|Francesco Gonzaga (1538–1566)|label=フランチェスコ}}(1538年 - 1566年) - 枢機卿
*{{仮リンク|アンドレア・ゴンザーガ (1539-1586)|it|Andrea Gonzaga (1539-1586)|label=アンドレア}}(1539年 - 1586年) - ナポリ貴族の[[アレッサーノ]]及び[[スペッキア]]侯爵
*{{仮リンク|ジャン・ヴィンチェンツォ・ゴンザーガ|it|Gian Vincenzo Gonzaga|label=ジャン・ヴィンチェンツォ}}(1540年 - 1591年) - 枢機卿
*エルコレ(1545年 - 1549年)
*{{仮リンク|オッターヴィオ・ゴンザーガ|it|Ottavio Gonzaga|label=オッターヴィオ}}(1543年 - 1583年) - [[チェルチェマッジョーレ]]領主
*フィリッポ(夭折)
*ジェローラマ(夭折)
*マリーア(夭折)
== 引用・脚注 ==
{{reflist}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat-inline|Ferrante I Gonzaga, Count of Guastalla|Ferrante I Gonzaga}}
{{先代次代|シチリア副王|1535年 - 1546年|{{仮リンク|エットーレ1世・ピニャテッリ|en|Ettore Pignatelli e Caraffa, 1st Duke of Monteleone|label=モンテレオーネ公爵}}|{{仮リンク|フアン・デ・ベガ|en|Juan de Vega, 1st Count of Grajal|label=グラハル伯爵}}}}
{{先代次代|ミラノ公領総督|1546年 - 1555年|{{仮リンク|アルフォンソ3世・ダヴァロス|en|Alfonso d'Avalos|label=デル・ヴァスト侯爵}}|[[フェルナンド・アルバレス・デ・トレド|アルバ公爵]]}}
{{DEFAULTSORT:ふぇらんて1 こんさか}}
[[Category:コンドッティエーレ]]
[[Category:イタリア戦争の人物]]
[[Category:グアスタッラ伯]]
[[Category:金羊毛騎士団員]]
[[Category:シチリア副王]]
[[Category:ミラノ総督]]
[[Category:マントヴァ出身の人物]]
[[Category:落馬事故死した人物]]
[[Category:ゴンザーガ=グアスタッラ家]]
[[Category:1507年生]]
[[Category:1557年没]] | 2023-10-08T08:15:22Z | 2023-10-08T08:21:12Z | false | false | false | [
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"Template:Commonscat-inline",
"Template:先代次代"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%861%E4%B8%96%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%B3%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%82%AC |
4,838,932 | Phoenix (sumikaの曲) | 『Phoenix』は、sumikaの楽曲。デジタルシングルとして2023年10月1日にリリースされた。
前作『Starting Over』から約4か月ぶりとなるリリース。
「10周年が終わったし新しいやり方で作曲やってみるか」という片岡の思い立ちをもって、日頃一緒にものづくりをしているデザイナー・フォトグラファー・スタイリストと共にフランスへ行き、現地で作曲を行い、帰国後、メンバーと宮田'レフティ'リョウとともに編曲をした。
9月25日深夜24時放送の自身のレギュラーラジオ「Spark」においてサプライズで解禁をした。
10月1日0時より配信リリース、18時よりLyric Videoを自身のYouTubeに公開。
10月2日18時よりPhoenix特設サイトをオープン。 | [
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] | 『Phoenix』は、sumikaの楽曲。デジタルシングルとして2023年10月1日にリリースされた。 | {{Infobox Single
| Name = Phoenix
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| This single = '''Phoenix'''<br />([[2023年]])
| Writer = 片岡健太}}
『'''Phoenix'''』は、[[sumika]]の楽曲。デジタルシングルとして2023年10月1日にリリースされた。
== 概要 ==
前作『[[Starting Over (sumikaの曲)|Starting Over]]』から約4か月ぶりとなるリリース。
「10周年が終わったし新しいやり方で作曲やってみるか」という片岡の思い立ちをもって、日頃一緒にものづくりをしているデザイナー・フォトグラファー・スタイリストと共にフランスへ行き、現地で作曲を行い、帰国後、メンバーと[[宮田“レフティ”リョウ]]とともに編曲をした。<ref>{{Cite web |title=sumika {{!}} Phoenix |url=https://www.sonymusic.co.jp/Music/Info/sumika/phoenix/ |website=sumika {{!}} Phoenix |access-date=2023-10-08 |language=ja}}</ref>
9月25日深夜24時放送の自身のレギュラーラジオ「Spark」においてサプライズで解禁をした。
10月1日0時より配信リリース、18時よりLyric Videoを自身の[[YouTube]]に公開<ref>{{Cite web |title=新曲"Phoenix" のLyric Videoを公開! |url=https://www.sumika-official.com/news/00ae1adf-e599-4140-9597-977ca1f23e5f |website=sumika オフィシャルホームページ |access-date=2023-10-08 |language=ja}}</ref>。
10月2日18時よりPhoenix特設サイトをオープン。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
{{Sumika}}
{{DEFAULTSORT:しんふる}}
[[Category:Sumikaの楽曲]]
[[Category:楽曲 し|んふる]] | 2023-10-08T08:15:40Z | 2023-10-10T02:17:36Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Phoenix_(sumika%E3%81%AE%E6%9B%B2) |
4,838,935 | 海岸 (1954年の映画) | 『海岸』(かいがん、伊: La spiaggia、英: The Beach)は、1954年に公開されたイタリアのコメディ・ドラマ映画。監督はアルベルト・ラトゥアーダ。主演はマルティーヌ・キャロル、ラフ・ヴァローネ、マリオ・カロテヌート(イタリア語版)。高級リゾート地のビーチに幼い娘を連れてきた売春婦の騒動を描いた作品で、リグーリア州で起きた実話を基にしている。
2008年、イタリア文化省が支援する「保存すべきイタリア映画100本(イタリア語版)」に選出された。
日本では劇場未公開だが、テレビ放送が行われている。
※日本語吹替: テレビ版・初回放送1966年8月25日『テレビ名画座』 | [
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] | 『海岸』は、1954年に公開されたイタリアのコメディ・ドラマ映画。監督はアルベルト・ラトゥアーダ。主演はマルティーヌ・キャロル、ラフ・ヴァローネ、マリオ・カロテヌート。高級リゾート地のビーチに幼い娘を連れてきた売春婦の騒動を描いた作品で、リグーリア州で起きた実話を基にしている。 2008年、イタリア文化省が支援する「保存すべきイタリア映画100本」に選出された。 日本では劇場未公開だが、テレビ放送が行われている。 | {{Infobox Film
| 作品名 = 海岸
| 原題 = La spiaggia
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| 画像解説 =
| 監督 = [[アルベルト・ラトゥアーダ]]
| 脚本 = アルベルト・ラトゥアーダ<br />ルイジ・マレルバ<br />[[ロドルフォ・ソネゴ]]<br />シャルル・スパーク
| 原案 = アルベルト・ラトゥアーダ
| 原作 =
| 製作 = ビアンカ・ラトゥアダ<br />クロード・ヘイマン
| 製作総指揮 =
| ナレーター =
| 出演者 = [[マルティーヌ・キャロル]]<br />[[ラフ・ヴァローネ]]<br />クルト・カッツナー
| 音楽 = ピエロ・モルガン
| 主題歌 =
| 撮影 = マリオ・クラヴェリ
| 編集 = マリオ・セランドレイ
| 制作会社 =
| 製作会社 =
| 配給 = {{flagicon|ITA}} [[ティタヌス]]
| 公開 = {{flagicon|ITA}} [[1954年]][[2月25日]]<ref>{{Cite web|url=https://movieplayer.it/film/la-spiaggia_17269/|title=La spiaggia - Film 1954|publisher=Movieplayer.it|language=it|accessdate=2023-10-08}}</ref>
| 上映時間 = 100分
| 製作国 = {{ITA}}<br />{{FRA}}
| 言語 = [[イタリア語]]
| 製作費 =
| 興行収入 =
| 配給収入 =
| 前作 =
| 次作 =
}}
『'''海岸'''』(かいがん、{{lang-it-short|''La spiaggia''}}、{{lang-en-short|''The Beach''}})は、[[1954年]]に公開された[[イタリア]]の[[コメディ映画|コメディ]]・[[ドラマ]][[映画]]。監督は[[アルベルト・ラトゥアーダ]]。主演は[[マルティーヌ・キャロル]]、[[ラフ・ヴァローネ]]、{{仮リンク|マリオ・カロテヌート|it|Mario Carotenuto}}。高級リゾート地のビーチに幼い娘を連れてきた[[売春婦]]の騒動を描いた作品で、[[リグーリア州]]で起きた実話を基にしている。
[[2008年]]、[[文化省 (イタリア)|イタリア文化省]]が支援する「{{仮リンク|保存すべきイタリア映画100本|it|100 film italiani da salvare}}」に選出された<ref>{{Cite web|title=Ecco i cento film italiani da salvare Corriere della Sera|url=https://www.corriere.it/spettacoli/08_febbraio_28/elenco_cento_film_d83cacd8-e5ce-11dc-ab61-0003ba99c667.shtml|language=it|access-date=2023-10-08|website=www.corriere.it}}</ref>。
[[日本]]では劇場未公開だが、テレビ放送が行われている<ref>{{Allcinema title|27095}}</ref>。
== ストーリー ==
{{要あらすじ}}
== キャスト ==
[[ファイル:La spiaggia Lattuada Carol.jpg|thumb|right|268x268px|ラトゥアーダ監督とエキストラ出演者]]
* アンナ: [[マルティーヌ・キャロル]](吹替: [[中西妙子]])
* シルヴィオ市長: [[ラフ・ヴァローネ]]
* カルロ: {{仮リンク|マリオ・カロテヌート|it|Mario Carotenuto}}
* ルイージ: {{仮リンク|カルロ・ロマーノ|it|Carlo Romano}}
* カルロ夫人: {{仮リンク|クレリア・マターニア|it|Clelia Matania}}
* アンナの娘: アンナ・ガブリエラ・ピサーニ
※日本語吹替: テレビ版・初回放送1966年8月25日『[[テレビ名画座]]』
== スタッフ ==
* 監督・原案: [[アルベルト・ラトゥアーダ]]
* 脚本: アルベルト・ラトゥアーダ、{{仮リンク|ルイジ・マレルバ|it|Luigi Malerba}}、[[ロドルフォ・ソネゴ]]、{{仮リンク|シャルル・スパーク|it|Charles Spaak}}
* 撮影: {{仮リンク|マリオ・クラヴェリ|it|Mario Craveri}}
* 美術・衣装: {{仮リンク|ダリオ・チェッキ|it|Dario Cecchi}}、{{仮リンク|マウリツィオ・セーラ|it|Maurizio Serra}}
* 編集: {{仮リンク|マリオ・セランドレイ|it|Mario Serandrei}}
* 音楽: {{仮リンク|ピエロ・モルガン|it|Piero Morgan}}
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* {{Allcinema title|27095}}
* {{IMDb title|0046352|La spiaggia}}
{{Movie-stub}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:かいかん}}
[[Category:1954年の映画]]
[[Category:イタリアのコメディ映画]]
[[Category:イタリアのドラマ映画]]
[[Category:イタリア式コメディ]]
[[Category:実際の出来事に基づいた映画作品]]
[[Category:ティタヌスの作品]]
[[Category:アルベルト・ラットゥアーダの監督映画]] | 2023-10-08T08:21:08Z | 2023-10-08T08:21:08Z | false | false | false | [
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4,838,939 | 世界ぱんぱかパンの旅 | 『世界ぱんぱかパンの旅』は、山本ありによる日本の漫画。パンをめぐる旅をするグルメ漫画。
山本が執筆するパン漫画である『やっぱりパンが好き』『パンは呼んでいる』『京都ご当地サンドイッチめぐり』についてもとりあげる。
パンシリーズは主人公(=作者)のほか、ほぼ友人であるアコが旅の相棒として登場。「やっぱりパンが好き」は山本、アコのコンビで東名阪・広島・北海道・ドイツのパン食レポート。
「イースト・プレス」で出版された「世界ぱんぱかパンの旅・北欧編」に登場した人物。
「イースト・プレス」で出版された「世界ぱんぱかパンの旅・ロンドン編」に登場した人物。
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] | 『世界ぱんぱかパンの旅』は、山本ありによる日本の漫画。パンをめぐる旅をするグルメ漫画。 山本が執筆するパン漫画である『やっぱりパンが好き』『パンは呼んでいる』『京都ご当地サンドイッチめぐり』についてもとりあげる。 | 『'''世界ぱんぱかパンの旅'''』は、[[山本あり]]による[[日本]]の[[漫画]]。パンをめぐる旅をする[[料理・グルメ漫画|グルメ漫画]]。
山本が執筆するパン漫画である『'''やっぱりパンが好き'''』『'''パンは呼んでいる'''』『'''京都ご当地サンドイッチめぐり'''』についてもとりあげる。
== 登場人物 ==
=== 主要人物 ===
パンシリーズは主人公(=作者)のほか、ほぼ友人であるアコが旅の相棒として登場。「やっぱりパンが好き」は山本、アコのコンビで東名阪・広島・北海道・ドイツのパン食レポート。
; 山本あり
: 主人公にして作者。パン好きゆえに一人、あるいは友人・知人とパンをめぐる旅をする。好奇心旺盛な東京都出身だが、一人旅が心配ということで…毎回、アコやほかの人を誘う。
; アコ
: 「世界ぱんぱかパンの旅・北欧編」「やっぱりパンが好き」「京都ご当地サンドイッチめぐり」に登場した、山本の親友。お酒好きな岐阜県出身。山本程パン好きというわけではないが、よくパン旅に同伴。
=== 北欧編 ===
「[[イースト・プレス]]」で出版された「世界ぱんぱかパンの旅・北欧編」に登場した人物。
; 東京⇒コペンハーゲン飛行機のCA
: 彼女の配布した機内食にパンがあり、山本は「コペンに到着するまで食べない」と思っていたが、食指が動いて食べる事にした。
; ヘルシンキ・バンター空港のグランドスタッフ
: コペン乗り継ぎでヘルシンキに到着して早々、「本当にフィンランドの首都ヘルシンキに上陸したか心配」という山本とアコに接した3人。金髪男と茶髪男が「君たちは北極圏にいるよ」というが、すぐ茶髪女が「からかっただけ」とフォロー。実は、バスで20分でヘルシンキに行けることがわかった。
; ヘルシンキ・カワバットリ(マーケット広場)えんどう豆屋台の人
: 市場の客がえんどう豆を食べるのを見かけて、山本とアコはすぐそばのえんどう豆屋台で購入。
; コペンハーゲン・国立博物館付近市場食堂の店員
: サンドイッチを食べようとして待っていたら、コンピューターミスでオーダーが通らず、売り切れと説明。同じ料金でディナーのポークを食べさせてくれた。
; コペンハーゲントラム乗客のおじさん
: 「[[アンデルセン (製パン)|アンデルセン]]」チボリ支店(日本のベーカリーがデンマークに出店)を訪れる為にトラム乗車したが、興奮して声を出してしまい、居合わせたおじさんに「ここはサイレントシートだから静かにしなさい」と注意された。
=== ロンドン編 ===
「[[イースト・プレス]]」で出版された「世界ぱんぱかパンの旅・ロンドン編」に登場した人物。
; マミーナ
: 「世界ぱんぱかパンの旅・ロンドン編」に登場した、山本の友人。海外出張によく行き、英会話を学んでいるが…英国には最近訪問していなかった。山本と英国の話をしている内に尻を叩かれて、同行。
; 東京⇒ロンドン飛行機のCA
: 朝食は彼女が配布した機内食から山本はヌードル(焼きそば)、マミーナはエッグ(スクランブルエッグ)を選んだ。昼食は山本待望のパンだった。
; ロンドン・ホークスムーア=ギルドホールのイケメン店員
: 二日目の朝食、エッグベネディクトを食べに来店。出てきたパンについて山本が尋くと「サワードゥ」と判明した。
; ロンドン・リスボアパティスリーの常連おじさん、店員。
: おじさんは店のエッグタルトを説明、店員はクロワッサンをすすめてくれた。
; ロンドン・クリスタルケバブの店員
: 二日目の夜、酒を飲みたいマミーナのため、山本はケバブの店に入ろうと一緒に入店。ケバブを
: 購入して、ホテルでそれを肴に先に買い込んだビールを飲んだ。
; ロンドン・ブラワンズホテルの「イングリッシュティールーム」スタッフ
: 折角英国へ来たのだからと、山本がアフタヌーンティーを予約。五日目にマミーナと入店。紅茶の敷居の高さに驚くが、スコーン・サンドイッチ・ケーキを楽しんだ。この店は[[アガサ・クリスティ|アガサ・クリスティー]]も来店。
=== パンが呼んでいる ===
「ガイド・ワークス」で出版された「パンは呼んでいる」に登場した人物。
; '''柏手'''重宝(かしわで ちょうほう)
: 山本、ガイド・ワークスと手を組んで一緒にパン店巡り(取材)した「パンラボ」(パンを研究するところ)関係者。「パン店をサーフィンするのに、自転車を利用するのは合理的である。」と山本に助言、山本、松尾と一緒に自転車で鎌倉・東京西部(国立と立川)のベーカリー巡り(取材)をした。
; 松尾憲良(まつお のりよし)
: 柏手と同じく「パンラボ」関係者。山本・柏手と共に自転車でベーカリー巡り(取材)をした、撮影担当。買い食い派の柏手に対して、山本と彼はイートインもしてみたいと思った。
; ジョン・ファブロー
: 映画「[[シェフ 三ツ星フードトラック始めました|シェフ三ツ星フードトラック始めました]]」の監督・主演者。彼が演じたシェフのカール・キャスパーが屋台で売っていたキューバサンドイッチを見て、本場キューバの首都ハバナで食べたいと山本が渡航。しかし、店によってはなかったりして困惑した。
; ミズノメグミ
: 山本、柏手、松尾が鎌倉サイクリングパン旅で訪問した「HONEY&HERB」の店主。「パンラボ」主宰者である池田浩明が以前来店。彼女曰く、坂の上にあるので「電動でないときつい」とか。
; シンボユカ
: 山本、柏手、松尾が国立・立川サイクリングパン旅で訪問した立川市「シンボ」の店主。もともと自転車店だったのをリノベーションして開業、ここでは三人はイートイン。
=== 京都ご当地サンドイッチめぐり ===
「[[産業編集センター]]」で出版された「京都ご当地サンドイッチめぐり」に登場した人物。
; 「ジェムルブルー」店主夫婦
: 御幸町丸太町の、ほぼ週1日しか営業しないベーカリーカフェを営む。定休日は建築の仕事をしている。
; てらいまき
: 山本の友人で京都出身のイラストレーター。彼女から前田珈琲のミックスサンドを紹介され、来店。
; 「たま木亭」の常連客
: 山本が旧店舗時代に来店したとき、常連おじさんは「ここはサンドイッチが好きだが、午前中に売り切れる」と助言。新店舗に変わり、山本はアコを誘い早起きして来店。近所のとある若社長も従業員へのさしいれにと、山本・アコと一緒に行列に並ぶ。
; [[池波正太郎]]
: 山本がアコを伴い、老舗喫茶「イノダコーヒ」へ来店したきっかけとなった文豪。彼が「イノダ」のサンドイッチを賛美したエッセーに惹かれた。二人は彼が食べたクラブサンドイッチを注文。
; [[竹久夢二]]
: アコが山本を伴い、「夢二カフェ」へ来店したきっかけとなった画家。彼の作品が展示されている喫茶店という事で、アコが魅了されてすすめたという。
; [[今いくよ・くるよ]]
: 山本・アコが来店した「まるき製パン」の(学生時代における)常連客であった。
; 長谷川良子
: 老舗果物店「ヤオイソ」の店主。彼女が営むフルーツパーラーに、フルーツサンド目当てで来店。
== 書誌情報 ==
* 山本あり 『世界ぱんぱかパンの旅』 イースト・プレス、2巻
*# 2014年3月14日発行 ISBN 978-4-7816-1145-7
*# 2015年11月11日発行 ISBN 978-4-7816-1145-7
* 山本あり 『世界ぱんぱかパンの旅』 イースト・プレス、1巻
*# 2012年4月20日発行 ISBN 978-4-7816-0761-0
* 山本あり 『世界は呼んでいる』 ガイド・ワークス、1巻
*# 2017年5月28日発行 ISBN 978-4-86535-475-1
* 山本あり 『京都ご当地サンドイッチめぐり』 産業編集センター、1巻
*# 2019年2月14日発行 ISBN 978-4-86311-212-4
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[[Category:2014年の漫画]]
[[Category:漫画作品 せ]]
[[Category:パンを題材とした漫画作品]] | 2023-10-08T08:24:23Z | 2023-10-20T22:43:33Z | false | false | false | [] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%B1%E3%82%93%E3%81%B1%E3%81%8B%E3%83%91%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%97%85 |
4,838,943 | 健康地理学 | 健康地理学(けんこうちりがく、英語: health geography)とは、健康に関わる空間や場所の問題を考察する、地理学の分野である。
健康地理学は医学地理学(medical geography)から発展し、1990年代に成立した分野である。1980年代後半以降ではイギリス医学地理学でも人文主義地理学や文化地理学の影響を受けたことで、絶望の景観(landscapes of despair)や治療の景観(therapeutic landscapes)概念が提示されるとともに、健康と場所の関連性に関心が向けられた。具体的には、構成効果と文脈効果が着目された。構成効果と文脈効果は、地域の健康格差を説明する要因となる。
この動向は、ロビン・ケアンズ(Robin Kearns)のエッセイが発端となった。ケアンズは、健康の社会的な形成プロセスを重視し、健康を研究するうえで場所の重要性を主張した。これにより医学地理学に新たなアプローチが形成され、健康地理学が提起された。
1995年には『Health & Place(英語版)』誌が創刊された。『Health & Place』誌は、健康と場所に関する研究を対象としており、医学地理学のもとでは十分に取り扱えなかった健康地理学の新しい潮流を扱える場となった。
近隣環境研究とは、居住環境が居住者に及ぼす健康への影響を考察する研究のことで、健康地理学の研究の中でも注目されてきた。
先進国であっても居住環境は社会的な健康格差の要因の1つであり続け、社会問題となっていた。健康格差に影響を及ぼす近隣環境として、サリー・マッキンタイア(英語版)ほかは、自然環境、健康的な環境の利用可能性、日常生活を支えるサービス供給、社会・文化的特性、地区の評判の5つに整理した。マッキンタイアほかは、貧困など不健康になりやすい社会経済的条件をもつ人々は不健康になりやすい居住環境をもつ地域に居住することになり、健康格差が拡大することも指摘した。 | [
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] | 健康地理学とは、健康に関わる空間や場所の問題を考察する、地理学の分野である。 | '''健康地理学'''(けんこうちりがく、{{lang-en|health geography|links=no}})とは、[[健康]]に関わる空間や[[場所 (地理学)|場所]]の問題を考察する、[[地理学]]の分野である{{Sfn|村田・埴淵|2011|p=155}}。
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健康地理学は医学地理学({{en|medical geography}})から発展し、1990年代に成立した分野である{{Sfn|梶田|2012|p=143}}。1980年代後半以降ではイギリス医学地理学でも[[人文主義地理学]]や[[文化地理学]]の影響を受けたことで、絶望の景観({{en|landscapes of despair}})や治療の景観({{en|therapeutic landscapes}})概念が提示されるとともに、健康と[[場所 (地理学)|場所]]の関連性に関心が向けられた{{Sfn|梶田|2012|p=146}}。具体的には、構成効果{{Efn|構成効果({{en|compositional effect}})は、居住者属性の地域差により形成される健康状態の地理的差異のことである{{Sfn|中谷|2011|p=363}}。}}と文脈効果{{Efn|文脈効果({{en|contextual effect}})とは、居住環境の地域差が健康格差に及ぼす影響のことである{{Sfn|中谷|2011|p=363}}。}}が着目された{{Sfn|梶田|2012|p=146}}。構成効果と文脈効果は、地域の[[健康格差]]を説明する要因となる{{Sfn|中谷|2011|p=363}}。
この動向は、ロビン・ケアンズ({{en|Robin Kearns}})のエッセイ{{Efn|Kearns, R. A. 1992. Place and Health: Towards a Reformed Medical Geography. ''The Professional Geographer'' 45: 139-147. {{DOI|10.1111/j.0033-0124.1993.00139.x}}}}が発端となった{{Sfn|中谷|2011|p=361}}。ケアンズは、健康の社会的な形成プロセスを重視し、健康を研究するうえで場所の重要性を主張した{{Sfn|中谷|2011|p=361}}。これにより医学地理学に新たなアプローチが形成され、健康地理学が提起された{{Sfn|梶田|2012|p=146}}。
1995年には『{{仮リンク|Health & Place|en|Health & Place}}』誌が創刊された{{Sfn|梶田|2012|p=146}}。『Health & Place』誌は、健康と場所に関する研究を対象としており{{Sfn|中谷|2011|p=361}}、医学地理学のもとでは十分に取り扱えなかった健康地理学の新しい潮流を扱える場となった{{Sfn|梶田|2012|p=147}}。
== 研究対象 ==
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=== 近隣環境研究 ===
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== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{Cite journal|和書|author=梶田真|year=2012|title=1980年代以降のイギリス医学・健康地理学における政策志向的研究の展開|journal=人文地理|volume=64|issue=2|pages=142-164|doi=10.4200/jjhg.64.2_142|ref={{SfnRef|梶田|2012}}}}
* {{Cite journal|和書|author=中谷友樹|year=2011|title=健康と場所――近隣環境と健康格差研究|journal=人文地理|volume=63|issue=4|pages=360-377|doi=10.4200/jjhg.63.4_360|ref={{SfnRef|中谷|2011}}}}
* {{Cite journal|和書|author=村田陽平|author2=埴淵知哉|year=2011|title=保健師による地域診断の現状と課題――「健康の地理学」に向けて|journal=E-journal GEO|volume=5|issue= 2|pages=154-170|doi=10.4157/ejgeo.5.154|ref={{SfnRef|村田・埴淵|2011}}}}
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[[Category:人文地理学]]
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[[Category:場所]] | 2023-10-08T08:25:39Z | 2023-10-09T04:49:10Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%A5%E5%BA%B7%E5%9C%B0%E7%90%86%E5%AD%A6 |
4,838,944 | 高倉透 | 高倉 透(たかくら とおる、1962年(昭和37年)3月10日 - )は、日本の銀行家。三井住友トラスト・ホールディングス取締役執行役社長、一般社団法人信託協会会長を務める。 | [
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] | 高倉 透は、日本の銀行家。三井住友トラスト・ホールディングス取締役執行役社長、一般社団法人信託協会会長を務める。 | '''高倉 透'''(たかくら とおる、[[1962年]]([[昭和]]37年)[[3月10日]] - )は、[[日本]]の[[銀行家]]。[[三井住友トラスト・ホールディングス]][[取締役]][[執行役]][[社長]]、一般社団法人[[信託協会]]会長<ref>[https://www.shintaku-kyokai.or.jp/archives/013/202104/NR20210408-1.pdf 2021年4月8付 信託協会 新会長に高倉透が就任]</ref>。[[大阪府]]出身。
== 経歴 ==
* [[1980年]]3月 - [[大阪府立天王寺高等学校]]卒業<ref>[https://www.mbs.jp/leader/archive/20231008/ 2023年10月8日放送 ザ・リーダー(毎日放送)三井住友トラスト・ホールディングス 高倉 透 社長]</ref>
* [[1984年]]3月 - [[東京大学法学部]]卒業<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUB051FH0V00C21A4000000/ 2021年4月6日付 日本経済新聞 三井住友TH高倉透社長(59)リスク恐れず現場判断大事に]</ref>
* [[1984年]]4月 - [[住友信託銀行]]入行
* [[2005年]]6月 - 高槻支店長
* [[2006年]]6月 - リテール企画推進部長
* [[2009年]]5月 - 人事部長
* [[2009年]]11月 - 統合推進部長
* [[2010年]]6月 - 執行役員 統合推進部長
* [[2012年]]4月 - [[三井住友トラスト・ホールディングス]] 常務執行役員、[[三井住友信託銀行]] 取締役常務執行役員
* [[2013年]]7月 - [[三井住友トラスト・ホールディングス]] 常務執行役員 経営企画部長、[[三井住友信託銀行]] 取締役常務執行役員 経営企画部長
* [[2014年]]1月 - [[三井住友トラスト・ホールディングス]] 常務執行役員、[[三井住友信託銀行]] 取締役常務執行役員
* [[2017年]]4月 - [[三井住友トラスト・ホールディングス]] 専務執行役員、[[三井住友信託銀行]] 取締役専務執行役員
* [[2017年]]6月 - [[三井住友トラスト・ホールディングス]] 取締役執行役専務、[[三井住友信託銀行]] 取締役専務執行役員
* [[2019年]]6月 - [[三井住友トラスト・ホールディングス]] 執行役員、[[三井住友信託銀行]] 取締役専務執行役員
* [[2021年]]4月 - [[三井住友トラスト・ホールディングス]] 執行役社長、[[三井住友信託銀行]] 取締役
* [[2021年]]4月 - 一般社団法人[[信託協会]] 会長
* [[2021年]]6月 - [[三井住友トラスト・ホールディングス]] 取締役執行役社長
== 脚注 ==
<references />
{{先代次代
|三井住友トラスト・ホールディングス社長
|2021年 -
|[[大久保哲夫]]
|-
}}
{{三井住友トラスト・グループ}}
{{DEFAULTSORT:たかくら とおる}}
[[Category:日本の銀行家]]
[[Category:大阪府出身の人物]]
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4,838,945 | 悔悛するマグダラのマリア (カラヴァッジョ) | 『悔悛するマグダラのマリア』(かいしゅんするマグダラのマリア、伊: La Maddalena penitente, 英: The Penitent Magdalene)は、イタリアのバロック期の巨匠ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョが1594年から1595年頃に制作した絵画である。油彩。キリスト教の聖人であるマグダラのマリアを主題とする作品で、おそらくカラヴァッジョが制作した最初の宗教画であり、カラヴァッジョの絵画の中で重要な作品の1つと見なされている。制作された当時、同時代的な写実主義と伝統的なマグダラのマリアの図像からの脱却という点で型破りなものであった。完成した作品は批判と賞賛を招き、21世紀に入ってもカラヴァッジョの意図について憶測が飛び交っている。現在はローマのドーリア・パンフィーリ美術館に所蔵されている。
カラヴァッジョは高価な装飾品を打ち捨てて、ふしだらな生活を置き去りにし、悔い改めて悲しみに身体をかがめたマグダラのマリアを描いている。マグダラのマリアはブルネットの若い女性として描かれ、両手を膝の上に抱えたまま低い椅子にしゃがみこむか、あるいはひざまずいている。視点が高いためマグダラのマリアは圧縮されているようにも見える。傍らの床には彼女の捨てた宝飾品が散らばり、4分の3ほど液体を入れて注ぎ口に栓をしたガラス製の容器が置かれている。彼女は鑑賞者から視線をそらし、頭を下に向けており、一筋の涙が頬を伝って鼻の横に流れている。この姿勢は十字架に磔にされたイエス・キリストの伝統的な描写と比較される。明るい色調は初期の作品の典型で、画面右上に一筋の光が斜めに差し込み、何もない部屋の壁を明と暗に分割している。これは後代の画家に多大な影響を与えた、陰影を用いた後期の劇的な作品の先駆けともいえる表現である。
絵画はカラヴァッジョがジュゼッペ・チェザーリとファンティン・ペトリニャーニ(Fantin Petrignani)とともに住んでいた、1594年から1595年頃に完成した。絵画はほぼ間違いなく、ローマ教皇グレゴリウス13世のグアルダロバ(guardaroba)のピエトロ・ヴィトリチェ(Pietro Vittrice)の注文によって制作された。カラヴァッジョは自身の作品のモデルとして複数の娼婦を用いたことが知られており、美術史家はアンナ・ビアンキーニ(英語版)が本作品で描かれているのではないかと推測している。ビアンキーニは他にもカラヴァッジョの『聖母の死』(La Morte della Vergine)、マルタ役で『マグダラのマリアの回心』(La conversione della Maddalena)、聖母マリア役で『エジプトへの逃避途上の休息』(Riposo durante la fuga in Egitto)のモデルをした可能性があることを指摘している。
この絵画は、マグダラのマリアを同時代的な服装で描写したこと、伝記作家ジョン・ヴァリアーノ(John Varriano, 2006年)の言葉によると同主題が一般的に扱われる「哀愁と気だるい官能性」を回避したことの2点において、カラヴァッジョの時代に描かれた悔悛したマグダラのマリアの標準的な絵画から逸脱している。中世の伝説によると、マグダラのマリアはキリストの昇天後に砂漠で悔い改め、彼女が過ごした30年の間に衣服は散り散りに消えてなくなったとされ、実際に美術における同主題の描写のほとんどは、1533年のティツィアーノの絵画のように、まったく衣服を着ていないマグダラのマリアを描いていた。カラヴァッジョが最初の聴衆に衝撃を与えたのは写実主義への出発であった。ニューヨーク・タイムズに掲載されたヒラリー・スパーリング(英語版)の2001年の書評によると「同時代の人々は、彼のマグダラのマリアが夜に一人で髪を乾かしている、隣の家の女の子に似ていると不満を言いました」。絵画が完成した数十年後、17世紀の美術伝記作家ジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリは、カラヴァッジョは油の入った水差しや捨てられた宝石など、マグダラのマリアに関連する品々を現代的な風俗画のシーンに追加することによって、宗教的な図像のふりをしたと見解を述べた。しかしイエズス会の詩人ジュゼッペ・シロス(英語版)は、明らかにこの作品を偽りの精神性であるとは見なしていなかった。むしろ、1673年に出版した『ピナコテーカあるいはローマの絵画と彫刻』(Pinacotheca sive Romana pictura et sculptura)の中でこの作品とカラヴァッジョを念入りに賞賛した。
オーストラリアの作家ピーター・ロブ(英語版)は物議を醸した2001年の伝記『M』の中で、作品の写実主義と彼が看取した暴力の微妙な兆候(壊れた真珠の宝飾品とモデルの腫れた顔と手)は政治的側面、カラヴァッジョの時代にあった娼婦に対するローマ警察の虐待を暗示しているのではないかと示唆している。ビアンキーニの生涯の記録に基づいて、ロブはビアンキーニが当時の慣習により公の場で鞭で打たれたために怪我をし、その治療のために瓶に入った軟膏を使用したと思われ、そのことがカラヴァッジョのインスピレーションの源になったのではないかと推測している。
本作品はジローラモ・ヴィトリチェ(Girolamo Vittrice)のコレクションに由来し、同じくカラヴァッジョの『エジプトへの逃避途上の休息』や『占い師』(Buona ventura)とともに1650年にローマ教皇インノケンティウス10世の義理の姉ドンナ・オリンピア・マイダルキーニ・パンフィーリによって購入された。
『悔悛するマグダラのマリア』はおそらくジョルジュ・ド・ラ・トゥールにインスピレーションを与え、マグダラのマリアのいくつかのバージョンを制作させたと思われる。ド・ラ・トゥールは絵画の角度を劇的に変化させている。マグダラのマリアは顔をそむけ、両手を膝の上に置いたまま座っているが、鏡の前に置かれた蠟燭の明かりで強い逆光を受け、膝の上に頭蓋骨を抱いている。 | [
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] | 『悔悛するマグダラのマリア』は、イタリアのバロック期の巨匠ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョが1594年から1595年頃に制作した絵画である。油彩。キリスト教の聖人であるマグダラのマリアを主題とする作品で、おそらくカラヴァッジョが制作した最初の宗教画であり、カラヴァッジョの絵画の中で重要な作品の1つと見なされている。制作された当時、同時代的な写実主義と伝統的なマグダラのマリアの図像からの脱却という点で型破りなものであった。完成した作品は批判と賞賛を招き、21世紀に入ってもカラヴァッジョの意図について憶測が飛び交っている。現在はローマのドーリア・パンフィーリ美術館に所蔵されている。 | {{Infobox 絵画作品
| image_file = Michelangelo Caravaggio 063.jpg
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『'''悔悛するマグダラのマリア'''』(かいしゅんするマグダラのマリア、{{lang-it-short|La Maddalena penitente}}, {{lang-en-short|The Penitent Magdalene}})は、[[イタリア]]の[[バロック]]期の巨匠[[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ]]が1594年から1595年ごろに制作した絵画である。[[油彩]]。[[キリスト教]]の[[聖人]]である[[マグダラのマリア]]を主題とする作品で、おそらくカラヴァッジョが制作した最初の宗教画であり<ref name=V110>Varriano 2006, p. 110.</ref><ref name=H37>Harris 2005, p. 37.</ref>、カラヴァッジョの絵画の中で重要な作品の1つと見なされている<ref name=DP>{{cite web|title=Riposo durante la Fuga in Egitto, Maddalena penitente |accessdate=2023/10/07 |url=https://www.doriapamphilj.it/en/portfolio/caravaggio/ |publisher=[[ドーリア・パンフィーリ美術館]]公式サイト}}</ref>。制作された当時、同時代的な[[写実主義]]と伝統的なマグダラのマリアの図像からの脱却という点で型破りなものであった<ref name=V110 /><ref name=S397>Spurling 2001, p. 397.</ref>。完成した作品は批判と賞賛を招き、21世紀に入ってもカラヴァッジョの意図について憶測が飛び交っている。現在は[[ローマ]]の[[ドーリア・パンフィーリ美術館]]に所蔵されている<ref>『西洋絵画作品名辞典』p. 119。</ref><ref name=DP /><ref>Varriano 2006, p. 118.</ref><ref>{{cite web|title=Mary Magdalene |accessdate=2023/10/07 |url=https://www.wga.hu/frames-e.html?/html/c/caravagg/02/12magda.html |publisher=Web Gallery of Art}}</ref>。
== 作品 ==
カラヴァッジョは高価な装飾品を打ち捨てて、ふしだらな生活を置き去りにし、悔い改めて悲しみに身体をかがめたマグダラのマリアを描いている<ref name=PH219>Patton; Hawley 2005, p. 219.</ref>。マグダラのマリアは[[ブルネット]]の若い女性として描かれ、両手を膝の上に抱えたまま低い椅子にしゃがみこむか、あるいはひざまずいている。視点が高いためマグダラのマリアは圧縮されているようにも見える<ref name=DP />。傍らの床には彼女の捨てた宝飾品が散らばり、4分の3ほど液体を入れて注ぎ口に栓をしたガラス製の容器が置かれている。彼女は鑑賞者から視線をそらし、頭を下に向けており、一筋の涙が頬を伝って鼻の横に流れている。この姿勢は[[十字架]]に[[磔]]にされた[[イエス・キリスト]]の伝統的な描写と比較される<ref name=PH219 />。明るい色調は初期の作品の典型で、画面右上に一筋の光が斜めに差し込み、何もない部屋の壁を明と暗に分割している。これは後代の画家に多大な影響を与えた、陰影を用いた後期の劇的な作品の先駆けともいえる表現である<ref name=DP />。
絵画はカラヴァッジョが[[ジュゼッペ・チェザーリ]]とファンティン・ペトリニャーニ({{it|Fantin Petrignani}})とともに住んでいた<ref>Mancini 1617-1621, p. 347.</ref>、1594年から1595年ごろに完成した<ref name=V110 />。絵画はほぼ間違いなく、[[ローマ教皇]][[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]]のグアルダロバ({{it|guardaroba}})のピエトロ・ヴィトリチェ({{it|Pietro Vittrice}})の注文によって制作された<ref>Hunt 2012, p. 173.</ref>。カラヴァッジョは自身の作品の[[モデル (職業)|モデル]]として複数の[[娼婦]]を用いたことが知られており、美術史家は{{ill|アンナ・ビアンキーニ|en|Anna Bianchini}}が本作品で描かれているのではないかと推測している<ref name=V94>Varriano 2006, p. 94.</ref><ref>Rowland 2005, p. 159.</ref><ref>Robb 2001, p. 273.</ref>。ビアンキーニは他にもカラヴァッジョの『[[聖母の死 (カラヴァッジョ)|聖母の死]]』({{it|La Morte della Vergine}})、[[マルタ (マリアの姉)|マルタ]]役で『[[マルタとマグダラのマリア (カラヴァッジョ)|マグダラのマリアの回心]]』({{it|La conversione della Maddalena}})、[[聖母マリア]]役で『エジプトへの逃避途上の休息』({{it|Riposo durante la fuga in Egitto}})のモデルをした可能性があることを指摘している<ref name=V94 /><ref name=R80>Robb 2001, p. 80.</ref>。
<gallery mode="packed" heights="250px" style="font-size:smaller" caption="同じモデルを使ったとされるカラヴァッジョの作品">
Caravaggio FlightIntoEgypt detail Mary and Child.jpg|『エジプトへの逃避途上の休息』(ディテール)1597年ごろ [[ドーリア・パンフィーリ美術館]]所蔵
Michelangelo Merisi da Caravaggio - Martha and Mary Magdalene - WGA04101.jpg|『[[マルタとマグダラのマリア (カラヴァッジョ)|マルタとマグダラのマリア]]』(画面右のマルタ)<br/>1598年ごろ [[デトロイト美術館]]所蔵
Death of the Virgin-Caravaggio (1606).jpg|『[[聖母の死 (カラヴァッジョ)|聖母の死]]』1602年 [[ルーヴル美術館]]所蔵
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この絵画は、マグダラのマリアを同時代的な服装で描写したこと、伝記作家ジョン・ヴァリアーノ({{it|John Varriano}}, 2006年)の言葉によると同主題が一般的に扱われる「哀愁と気だるい官能性」を回避したことの2点において、カラヴァッジョの時代に描かれた悔悛したマグダラのマリアの標準的な絵画から逸脱している<ref name=V110 />。中世の伝説によると、マグダラのマリアはキリストの昇天後に砂漠で悔い改め、彼女が過ごした30年の間に衣服は散り散りになって失われたとされ、実際に美術における同主題の描写のほとんどで、マグダラのマリアは、1533年のティツィアーノの絵画のように、まったく衣服を着ていない姿で描かれた。カラヴァッジョが最初の鑑賞者に衝撃を与えたのは写実主義への出発であった<ref name=S397 />。[[ニューヨーク・タイムズ]]に掲載された{{ill|ヒラリー・スパーリング|en|Hilary Spurling}}の2001年の書評によると「同時代の人々は、彼のマグダラのマリアが夜に一人で髪を乾かしている、隣の家の女の子に似ていると不満を言いました」<ref name=S397 />。絵画が完成した数十年後、17世紀の美術伝記作家[[ジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリ]]は、カラヴァッジョは油の入った水差しや捨てられた宝石など、マグダラのマリアに関連する品々を現代的な[[風俗画]]のシーンに追加することによって、宗教的な図像であるかのように見せかけたと見解を述べた<ref name=H37 />。しかし[[イエズス会]]の詩人{{ill|ジュゼッペ・シロス|en|Giuseppe Silos}}は、明らかにこの作品を偽りの精神性であるとは見なしていなかった。むしろ、1673年に出版した『ピナコテーカあるいはローマの絵画と彫刻』({{la|Pinacotheca sive Romana pictura et sculptura}})の中でこの作品とカラヴァッジョを念入りに賞賛した。{{Quotation|彼女の良心に隠された無言の後悔を見ることができ、深い絶望の中で彼女は秘密の炎に焼かれています。確かにカラヴァッジョの色彩は彼女の最も親密な感情さえも明らかにするほど鮮やかです。良心の盲目的な暗闇の中に隠されているものを、単なるイメージにこれほどはっきりと人の目に触れさせることができる画家は稀です<ref>Warwick 2006, p. 64.</ref>。}}
[[File:Michelangelo Merisi da Caravaggio - Magdalene (detail) - WGA04095.jpg|thumb|床に置かれた宝飾品とガラス製の容器。]]
[[オーストラリア]]の作家{{ill|ピーター・ロブ|en|Peter Robb (author)|label=ピーター・ロブ}}は物議を醸した2001年の伝記『M』の中で<ref>{{cite news | url = https://www.theguardian.com/books/2000/feb/09/1 | last = Moss | first = Stephen | title = M by Peter Robb | work = [[The Guardian]] | date = 9 February 2000 | accessdate = 19 July 2010}}</ref>、作品の写実主義と彼が看取した暴力の微妙な兆候(壊れた真珠の宝飾品とモデルの腫れた顔と手)は政治的側面、カラヴァッジョの時代にあった娼婦に対するローマ警察の虐待を暗示しているのではないかと示唆している<ref name=R80 />。ビアンキーニの生涯の記録に基づいて、ロブはビアンキーニが当時の慣習により公の場で鞭で打たれたために怪我をし、その治療のために瓶に入った軟膏を使用したと思われ、そのことがカラヴァッジョのインスピレーションの源になったのではないかと推測している<ref>Robb 2001, p. 84.</ref>。
== 来歴 ==
本作品はジローラモ・ヴィトリチェ({{it|Girolamo Vittrice}})のコレクションに由来し、同じくカラヴァッジョの『エジプトへの逃避途上の休息』や『占い師』({{it|Buona ventura}})とともに1650年に[[ローマ教皇]][[インノケンティウス10世 (ローマ教皇)|インノケンティウス10世]]の義理の姉[[オリンピア・マイダルキーニ|ドンナ・オリンピア・マイダルキーニ・パンフィーリ]]によって購入された<ref name=DP />。
== 影響 ==
『悔悛するマグダラのマリア』はおそらく[[ジョルジュ・ド・ラ・トゥール]]にインスピレーションを与え、マグダラのマリアのいくつかのバージョンを制作させたと思われる<ref name=S62>Strickland and Boswell 1992, p. 62.</ref>。ド・ラ・トゥールは絵画の角度を劇的に変化させている。マグダラのマリアは顔をそむけ、両手を膝の上に置いたまま座っているが、鏡の前に置かれた蠟燭の明かりで強い逆光を受け、膝の上に頭蓋骨を抱いている。
== ギャラリー ==
'''関連作品'''
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Georges de La Tour 009.jpg|ジョルジュ・ド・ラ・トゥール『[[ふたつの炎のあるマグダラのマリア]]』1640年頃 [[メトロポリタン美術館]]所蔵
Georges de La Tour - Magdalen of Night Light - WGA12337.jpg|[[ジョルジュ・ド・ラ・トゥール]]『[[灯火の前のマグダラのマリア]]』1640年頃 [[ルーヴル美術館]]所蔵
</gallery>
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 『西洋絵画作品名辞典』[[黒江光彦]]監修、[[三省堂]](1994年)
* {{cite book|last=Garrard|first=Mary D.|title=Artemisia Gentileschi around 1622: the shaping and reshaping of an artistic identity|url=https://archive.org/details/artemisiagentile0000garr|url-access=registration|year=2001|publisher=University of California Press|isbn=978-0-520-22841-2}}
* {{cite book|last1=Hunt|first1=Patrick|editor1-last=Erhardt|editor1-first=Michelle|editor2-last=Morris|editor2-first=Amy|title=Mary Magdalene, Iconographic Studies from the Middle Ages to the Baroque|date=2012|publisher=BRILL|isbn=9789004231955|url=https://books.google.com/books?id=Q5eTCY1nZuYC|chapter=Irony and Realism in the Iconography of Caravaggio's Penitent Magdalene}}
* [[Giulio Mancini|Mancini, Giulio]]. (ca. 1617-1621) ''Considerazioni sulla pittura''. Quoted and translated in {{cite book|last=Hibbard|first=Howard|title=Caravaggio|date=5 March 1985|publisher=Westview Press|pages=346 et seq|isbn=978-0-06-430128-2}}
* {{cite book|last1=Patton|first1=Kimberley Christine|author2=John Stratton Hawley|title=Holy tears: weeping in the religious imagination|url=https://books.google.com/books?id=pUXCVC02ZLIC&pg=PA219|date=5 July 2005|publisher=Princeton University Press|isbn=978-0-691-11444-6}}
* {{cite book|last=Robb|first=Peter|author-link=Peter Robb (author)|title=M: The Man Who Became Caravaggio|url=https://books.google.com/books?id=vEUr_dEE9tAC&pg=PA79|date=23 January 2001|publisher=Macmillan|isbn=978-0-312-27474-0}}
* {{cite book|last=Rowland|first=Ingrid Drake|title=From heaven to Arcadia: the sacred and the profane in the Renaissance|url=https://books.google.com/books?id=yke1Kx4v9sYC&pg=PA159|year=2005|publisher=New York Review of Books|isbn=978-1-59017-123-3}}
* {{cite book|last=Spurling|first=Hilary|author-link=Hilary Spurling|chapter=The Other Michelangelo|pages=396 et seq|title=The New York Times Book Reviews 2000|chapter-url=https://books.google.com/books?id=lvmlKidxY0EC&pg=PA397|date=1 June 2001|publisher=Taylor & Francis|isbn=978-1-57958-058-2}}
* {{cite book|last1=Strickland|first1=Carol|author2=John Boswell|title=The annotated Mona Lisa: a crash course in art history from prehistoric to post-modern|url=https://books.google.com/books?id=WEpc5tPgCU8C&pg=PA62|year=1992|publisher=Andrews McMeel Publishing|isbn=978-0-8362-8005-0}}
* {{cite book|last=Varriano|first=John L.|title=Caravaggio: the Art of Realism|url=https://books.google.com/books?id=YMhkLIxpOWkC&pg=PA110|year=2006|publisher=Penn State Press|isbn=978-0-271-02717-3}}
* {{cite book|last=Warwick|first=Genevieve|title=Caravaggio: Realism, Rebellion, Reception|url=https://books.google.com/books?id=vvOqwz1M0BUC&pg=PA18|year=2006|publisher=University of Delaware Press|isbn=978-0-87413-936-5}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Penitent Magdalene by Caravaggio}}
* [https://www.doriapamphilj.it/en/portfolio/caravaggio/ ドーリア・パンフィーリ美術館公式サイト, イル・カラヴァッジョとして知られるミケランジェロ・メリージ『エジプトへの逃避途上の休息』、『悔悛するマグダラのマリア』]
{{ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ}}
{{DEFAULTSORT:かいしゆんするまくたらのまりあ}}
[[Category:ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオの作品]]
[[Category:1590年代の絵画]]
[[Category:マグダラのマリアを描いた絵画]]
[[Category:ドーリア・パンフィーリ美術館の所蔵品]] | 2023-10-08T08:29:00Z | 2023-10-08T11:38:02Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%94%E6%82%9B%E3%81%99%E3%82%8B%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83%80%E3%83%A9%E3%81%AE%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2_(%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%83%E3%82%B8%E3%83%A7) |
4,838,948 | 中江竜太 | 中江 竜太(なかえ りゅうた、1974年7月15日 - )は、日本の医学者・医師。専門は救急医学・脳神経外科学・外傷学・脳卒中医学・脳血管内治療学。博士(医学)。
日本医科大学救急医学教室准教授、日本医科大学付属病院救命救急科(高度救命救急センター)。 | [
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] | 中江 竜太は、日本の医学者・医師。専門は救急医学・脳神経外科学・外傷学・脳卒中医学・脳血管内治療学。博士(医学)。 日本医科大学救急医学教室准教授、日本医科大学付属病院救命救急科(高度救命救急センター)。 | '''中江 竜太'''(なかえ りゅうた)は、[[日本]]の[[医学者]]・[[医師]]。専門は[[救急医学]]・[[脳神経外科学]]・[[外傷学]]・[[脳卒中|脳卒中医学]]・[[脳卒中|脳血管内治療学]]。[[博士(医学)]]。
[[日本医科大学]]救急医学教室准教授、[[日本医科大学付属病院]]救命救急科(高度救命救急センター)。
== 略歴 ==
* [[1995年]]3月 - [[麻布中学校・高等学校|麻布高等学校]]卒業<ref name=":1">{{Cite web |title=中江 竜太 (Ryuta Nakae) - マイポータル - researchmap |url=https://researchmap.jp/nakae |website=researchmap.jp |access-date=2023-10-08}}</ref>
* [[2004年]]3月 - 日本医科大学医学部卒業<ref name=":1" />
* 2004年4月 - 日本医科大学付属病院初期臨床研修医<ref name=":1" />
* [[2006年]]4月 - 日本医科大学付属病院救命救急科(高度救命救急センター)専修医<ref name=":1" />
* [[2007年]]4月 - [[中国労災病院]]脳神経外科医員<ref name=":1" />
* [[2009年]]4月 - 日本医科大学付属病院脳神経外科大学院生<ref name=":1" />
* [[2010年]]9月 - [[川口市立医療センター]]救命救急センター医師<ref name=":1" />
* [[2014年]]4月 - 川口市立医療センター救命救急センター医長<ref name=":1" />
* [[2015年]]11月 - [[獨協医科大学埼玉医療センター|獨協医科大学越谷病院]]脳神経外科助教<ref name=":1" />
* [[2017年]]11月 - 日本医科大学救急医学教室助教・医員、日本医科大学付属病院救命救急科(高度救命救急センター)<ref name=":1" />
* [[2019年]]4月 - 日本医科大学救急医学教室病院講師、日本医科大学付属病院救命救急科(高度救命救急センター)<ref name=":1" />
* [[2020年]]10月 - 日本医科大学救急医学教室講師、日本医科大学付属病院救命救急科(高度救命救急センター)<ref name=":1" />
* [[2023年]]10月 - 日本医科大学救急医学教室准教授、日本医科大学付属病院救命救急科(高度救命救急センター)<ref name=":1" />
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [https://researchmap.jp/nakae 中江 竜太 (Ryuta Nakae) - マイポータル - researchmap]
* [http://www.nms-ccm.jp/staff/ 診療・研究 | 日本医科大学付属病院 高度救命救急センター]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:なかえ りゅうた}}
[[Category:日本の医学者]]
[[Category:日本の医師]]
[[Category:日本の救急医]]
[[Category:日本の脳神経外科医]]
[[Category:日本医科大学の教員]]
[[Category:日本医科大学出身の人物]]
[[Category:存命人物]] | 2023-10-08T08:32:41Z | 2023-10-08T08:33:22Z | false | false | false | [
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"Template:Cite web",
"Template:Normdaten"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B1%9F%E7%AB%9C%E5%A4%AA |
4,838,950 | シェール・エンドゥール | シェール・エンドゥール(Cher Ndour、2004年7月27日 - )は、イタリア・ロンバルディア州ブレシア出身のサッカー選手。パリ・サンジェルマンFC所属。ポジションはMF。
地元のアマチュアクラブでサッカーを始め、ブレシア・カルチョとアタランタBCのユースを経て2020年7月31日、SLベンフィカへ移籍した。加入2シーズン目の2021-22シーズンからBチームで出場機会を掴み始め、2023年3月18日、プリメイラ・リーガのヴィトーリア・ギマラインス戦にて後半終了間際から途中出場してトップチームデビューを飾った。
2023年7月12日、リーグ・アンのパリ・サンジェルマンFCへ移籍し、5年契約を結んだ。
2019年からイタリアの世代別代表でプレーしており、2023年7月にはU-19イタリア代表としてUEFA U-19欧州選手権2023へ出場し、優勝に貢献した。 | [
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] | シェール・エンドゥールは、イタリア・ロンバルディア州ブレシア出身のサッカー選手。パリ・サンジェルマンFC所属。ポジションはMF。 | {{サッカー選手
|名前=シェール・エンドゥール
|画像=Peñarol 0-1 Benfica - Final Intercontinental Sub 20 - 220821-3173-jikatu (Cher Ndour) (cropped).jpg
|画像の説明=[[SLベンフィカ|ベンフィカ]]でのエンドゥール (2022年)
|画像サイズ=200px
|愛称=
|アルファベット表記=Cher Ndour
|国={{ITA}}<br />{{SEN}}
|生年月日={{生年月日と年齢|2004|7|27}}
|出身地=[[ブレシア]]
|身長=190cm
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|所属チーム名={{flagicon|FRA}} [[パリ・サンジェルマンFC]]
|ポジション=[[ミッドフィールダー|MF]]
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|利き足=右足
|ユース年1={{0|0000}}-2009|ユースクラブ1={{flagicon|ITA}} ASDサン・ジャコモ
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|年3=2023-|クラブ3={{flagicon|FRA}} [[パリ・サンジェルマンFC|パリ・サンジェルマン]]|出場3=|得点3=
|クラブ成績更新日=2023年7月12日
|代表年1=2019|代表1={{fbu|15|ITA|name=イタリア U-15}}|代表出場1=10|代表得点1=1
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}}
'''シェール・エンドゥール'''('''Cher Ndour'''、[[2004年]][[7月27日]] - )は、[[イタリア]]・[[ロンバルディア州]][[ブレシア]]出身の[[プロサッカー選手|サッカー選手]]。[[パリ・サンジェルマンFC]]所属。ポジションは[[ミッドフィールダー|MF]]。
== クラブ経歴 ==
地元のアマチュアクラブでサッカーを始め<ref>{{Cite web|url=https://brescia.corriere.it/notizie/sport/20_agosto_07/cher-ndour-16-anni-gia-stella-calcio-3c074770-d8b3-11ea-b97a-cc5341a9eb3f.shtml|title=Cher Ndour, a 16 anni è già una stella del calcio|first=Luca|last=Bertelli|date=8 July 2020|website=Corriere della Sera|accessdate=2023-10-8}}</ref>、[[ブレシア・カルチョ]]と[[アタランタBC]]のユースを経て2020年7月31日、[[SLベンフィカ]]へ移籍した<ref>{{Cite web|url=https://www.slbenfica.pt/en-us/agora/noticias/2020/07/31/futebol-formacao-benfica-cher-ndour-contratacao-juvenis-declaracoes|title=New Signing: Cher Ndour|website=www.slbenfica.pt|accessdate=2023-10-8}}</ref>。加入2シーズン目の2021-22シーズンから[[SLベンフィカB|Bチーム]]で出場機会を掴み始め、2023年3月18日、[[プリメイラ・リーガ]]の[[ヴィトーリアSC|ヴィトーリア・ギマラインス]]戦にて後半終了間際から途中出場してトップチームデビューを飾った<ref>{{cite web |url=https://wiwsport.com/2023/03/18/benfica-cher-ndour-fait-ses-debuts-officiels-avec-lequipe-premiere/ |title=Benfica : Cher Ndour fait ses débuts officiels avec l’équipe première |publisher=wiwsport.com |language=fr |date=18 March 2023 |accessdate=2023-10-8}}</ref>。
2023年7月12日、[[リーグ・アン]]の[[パリ・サンジェルマンFC]]へ移籍し、5年契約を結んだ<ref>{{Cite web |date=12 July 2023 |title=Cher Ndour signs for Paris Saint-Germain |url=https://en.psg.fr/teams/first-team/content/cher-ndour-signs-for-paris-saint-germain-until-2028 |access-date=12 July 2023 |publisher=Paris Saint-Germain F.C. |lang=en}}</ref>。
== 代表経歴 ==
2019年からイタリアの世代別代表でプレーしており、2023年7月には[[U-19サッカーイタリア代表|U-19イタリア代表]]として[[UEFA U-19欧州選手権2023]]へ出場し、優勝に貢献した<ref name=":1">{{Cite web |last=Scognamiglio |first=Pietro |date=July 16, 2023 |title=Gli azzurrini trionfano: campioni d'Europa Under 19. Battuto il Portogallo |url=https://www.gazzetta.it/Calcio/nazionali/16-07-2023/under-19-portogallo-italia-0-1-gli-azzurrini-campioni-d-europa.shtml |access-date=July 17, 2023 |website= |publisher=La Gazzetta dello Sport |language=it-IT}}</ref>。
== タイトル ==
=== クラブ ===
; ベンフィカ
*[[プリメイラ・リーガ]] : 1回 (2022-23)
*[[UEFAユースリーグ]] : 1回 (2021-22)
=== 代表 ===
; U-19イタリア代表
*[[UEFA U-19欧州選手権]] : 1回 ([[UEFA U-19欧州選手権2023|2023]])
== 関連項目 ==
*[[SLベンフィカの選手一覧]]
*[[パリ・サンジェルマンFCの選手一覧]]
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
*{{sports links}}
{{パリ・サンジェルマンFCのメンバー}}
{{UEFA U-19欧州選手権2023イタリア代表}}
{{デフォルトソート:えんとうる しえる}}
[[Category:イタリアのサッカー選手]]
[[Category:SLベンフィカBの選手]]
[[Category:SLベンフィカの選手]]
[[Category:パリ・サンジェルマンFCの選手]]
[[Category:セネガル系イタリア人]]
[[Category:ブレシア出身の人物]]
[[Category:2004年生]]
[[Category:存命人物]] | 2023-10-08T08:38:30Z | 2023-10-08T08:38:30Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%AB |
4,838,951 | マンガアーカイブ機構 | 一般社団法人マンガアーカイブ機構(いっぱんしゃだんほうじんマンガアーカイブきこう)は、2023年5月1日に設立された、日本の漫画のアーカイブ保存を目的とする団体。横手市増田まんが美術館内に設置されている。
横手市増田まんが美術館の館長である大石卓と、講談社の専務取締役である森田浩章によって設立された。漫画の出版社15社からなる「コミック出版社の会」が後援しており、特に大手である講談社、集英社、小学館、KADOKAWAはそれぞれ1000万円ずつ出資している。
京都府を含む全国の漫画を保存する施設のスペースの拡大などに取り組む。5年間で36万枚の漫画原画を収蔵することを目標としている。 | [
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] | 一般社団法人マンガアーカイブ機構(いっぱんしゃだんほうじんマンガアーカイブきこう)は、2023年5月1日に設立された、日本の漫画のアーカイブ保存を目的とする団体。横手市増田まんが美術館内に設置されている。 | {{基礎情報 非営利団体
|名称 = マンガアーカイブ機構
|創立者 =
|団体種類 = [[一般社団法人]]
|設立 = 2023年5月1日
|所在地 = {{JPN}} [[秋田県]][[横手市]]増田町
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}}
'''一般社団法人マンガアーカイブ機構'''(いっぱんしゃだんほうじんマンガアーカイブきこう)は、[[2023年]][[5月1日]]に設立された、[[日本の漫画]]のアーカイブ保存を目的とする団体<ref>{{Cite web |url=https://mainichi.jp/articles/20230822/k00/00m/040/092000c|title=出版大手、漫画原画の保存で連携 秋田の美術館拠点に収集・保管へ|publisher=[[毎日新聞]] |date=2023-08-22|accessdate=2023-10-08}}</ref>。[[横手市増田まんが美術館]]内に設置されている<ref>{{Cite web |url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2308/24/news108.html |title= マンガの原画保存を推進 集英社、講談社など協力「マンガアーカイブ機構」本格始動 |publisher=[[ITmedia]]|date=2023-08-24 |accessdate=2023-10-08}}</ref>。
== 設立 ==
横手市増田まんが美術館の館長である大石卓と、[[講談社]]の専務取締役である[[森田浩章]]によって設立された<ref>{{Cite web |url=https://natalie.mu/comic/pp/manga-archive|title=マンガ原画を1枚でも多く後世へと繋ぎたい「マンガアーカイブ機構」とは?大石卓(横手市増田まんが美術館館長)×森田浩章(講談社専務取締役)対談|publisher=[[ナタリー (ニュースサイト)|ナタリー]] |date=2023-08-21|accessdate=2023-10-08}}</ref>。漫画の出版社15社からなる「[[コミック出版社の会]]」が後援しており、特に大手である講談社、[[集英社]]、[[小学館]]、[[KADOKAWA]]はそれぞれ1000万円ずつ出資している<ref name="yomiuri"/>。
== 活動 ==
[[京都府]]を含む全国の漫画を保存する施設のスペースの拡大などに取り組む<ref>{{Cite web |url=https://www.oricon.co.jp/news/2291660/full/|title=マンガ出版15社が中心となり「一般社団法人マンガアーカイブ機構」設立 原画収蔵の活動を本格化へ |publisher=[[オリコン]] |date=2023-08-21|accessdate=2023-10-08}}</ref>。5年間で36万枚の漫画原画を収蔵することを目標としている<ref name="yomiuri">{{Cite web |url=https://www.yomiuri.co.jp/culture/20230821-OYT1T50270/|title= 漫画の原画、大手出版4社などが協力し収集・保管へ…美術館と協力し5年で36万枚 |publisher=[[読売新聞]] |date=2023-08-22|accessdate=2023-10-08}}</ref>。
== 出典 ==
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[[Category:日本のアーカイブズ]]
[[Category:秋田県の一般社団法人]]
[[Category:2023年設立の組織]]
[[Category:日本の漫画]]
[[Category:漫画に関する組織・団体]] | 2023-10-08T08:38:41Z | 2023-10-08T08:38:41Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%96%E6%A9%9F%E6%A7%8B |
4,838,955 | Grayscale dominator | 「grayscale dominator」(グレイスケール・ドミネーター)は、OxTの楽曲。1作目のデジタル配信限定シングルとして、2023年10月5日に各音楽配信サービスにてKADOKAWAからリリースされた。
OxTとしては初となるデジタルシングルでのリリース。
本楽曲は、テレビアニメ『陰の実力者になりたくて!』2nd seasonオープニングテーマとなっている。
当初はデジタルシングルとしてのリリースのみが公表され、配信開始日が未発表だったが、2023年9月28日に、本楽曲のショートバージョンのミュージックビデオが公開され、同時に配信開始日が公表された。 | [
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] | 「grayscale dominator」(グレイスケール・ドミネーター)は、OxTの楽曲。1作目のデジタル配信限定シングルとして、2023年10月5日に各音楽配信サービスにてKADOKAWAからリリースされた。 | {{小文字}}
{{Infobox Song
| Name = grayscale dominator
| Artist = [[OxT]]
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| Released = [[2023年]][[10月5日]]
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| Length = 3分31秒<ref>{{Cite web |title=grayscale dominator/OxT|url=https://mora.jp/package/43000033/PA00123153-0-1/|website=mora|publisher=mora|accessdate=2023-10-8}}</ref>
| Label = [[KADOKAWA]]
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| Artist = [[OxT]] 配信限定シングル
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}}
「'''grayscale dominator'''」(グレイスケール・ドミネーター)は、[[OxT]]の楽曲。1作目のデジタル[[音楽配信|配信限定]]シングルとして、[[2023年]][[10月5日]]に各音楽配信サービスにて[[KADOKAWA]]からリリースされた。
== 概要 ==
OxTとしては初となるデジタルシングルでのリリース。
本楽曲は、テレビアニメ『[[陰の実力者になりたくて!]]』2nd seasonオープニングテーマとなっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/20231005-2785288/|title=TVアニメ『陰の実力者になりたくて! 2nd season』、ノンクレOP映像を公開 |work=マイナビニュース|accessdate=2023-10-8}}</ref>。
当初はデジタルシングルとしてのリリースのみが公表され<ref>{{Cite web|和書|url=https://dengekionline.com/articles/201127/|title=アニメ『陰の実力者になりたくて!』2期のOP曲がOxT(オクト)の『grayscale dominator』に決定|work=電撃オンライン|accessdate=2023-10-8}}</ref>、配信開始日が未発表だったが<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1694005395|title=秋アニメ『陰の実力者になりたくて! 2nd season』10月4日放送スタート! 追加声優に早見沙織さん・伊藤美来さん、OPテーマは第1期に引き続きOxTが担当|work=アニメイトタイムズ|accessdate=2023-10-8}}</ref>、2023年9月28日に、本楽曲のショートバージョンのミュージックビデオが公開され、同時に配信開始日が公表された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.lisani.jp/0000240322/|title=OxT、TVアニメ『陰の実力者になりたくて! 2nd season』OPテーマ「grayscale dominator」MVショートが公開!|work=リスアニ!|accessdate=2023-10-8}}</ref>。
== 収録内容 ==
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}}
== 脚注 ==
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{{OxT}}
{{デフォルトソート:くれいすけいるとみねえたあ}}
[[Category:楽曲 く|れいすけいるとみねえたあ]]
[[Category:OxTの楽曲]]
[[Category:Hotaruが制作した楽曲]]
[[Category:Tom-H@ckが制作した楽曲]]
[[Category:2023年のシングル]]
[[Category:メディアファクトリーの楽曲]]
[[Category:テレビアニメ主題歌]] | 2023-10-08T08:44:41Z | 2023-11-14T21:06:35Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Grayscale_dominator |
4,838,957 | 750モータークラブ | 750モータークラブ(750 Motor Club, "Seven-Fifty Motor Club")は、イギリスの自動車レースクラブである。
アマチュアによる趣味の集まりとして設立され、主催したレースの参加者の中から、コーリン・チャップマンをはじめ、後にフォーミュラ1(F1)で名を成すことになる自動車技術者を数多く輩出した。
1939年、排気量750 ccのオースチン・7の愛好家の集まりとして、ホリー・バケット(Holly Birkett)らによって設立された。
当初はオースチン・7関連の他愛もない話をしたりする集まりだったが、ほどなく、自然な流れとして、同車による競走も行われるようになった。
オースチン・7は1922年に発売されてから1939年に製造終了となるまでに29万台が製造された小型車で、イギリスにおいては最も販売台数の多い車両である。従って、レースをするといっても、大衆車である同車に多額の出費をして大改造して行うようなレースはクラブの初期の参加者たちには好まれず、当初、少額の支出の範囲で改造したオースチン・7を用いたレースとして始まった。
第二次世界大戦(1939年 - 1945年)の間は、愛車を持ち寄って集まることはできず、会員たちはロンドンのパブに自転車で集まって会合を重ねた。
終戦後の1949年、クラブは新たな方針を打ち立て、シルバーストン・サーキットで「エイトクラブミーティング」(Eight Club Meeting)と呼ばれるレースイベントの開催を始めた。このレースでは、オースチン・7のエンジンと車台をベースにしてさえいれば車体の改造に大幅な自由が許された「750フォーミュラ」クラスが設けられた。このクラスはレーシングカーを作りたいと望んでいた若い技術者や、自動車以外の分野出身でも腕と暇を持て余していた若い技術者たちを惹きつけ、参加者の中から、後にフォーミュラ1(F1)などで知られるようになる技術者たちを数多く輩出した(「#主な会員」を参照)。
彼らエンジニアたちの中で最もよく知られているのは同クラスの開始初期の中心人物でもあったコーリン・チャップマンで、チャップマンはオースチン・7の「スペシャル」を何台も製作し、これらを後にロータス・マーク1(英語版)へと発展させた。
この時期に、オースチン・7以外の市販車も参加でき、ハンディキャップ制により、大衆車からスポーツカーまで、様々な車両が参加する6時間耐久レースも開催されるようになった。
現在も活動を続けており、様々なアマチュアレースの選手権を主催している。
特に1949年から開催している「750フォーミュラ」選手権については、継続して開催されている自動車レースの選手権としては世界最古だと謳っている。
1940年代から1960年代の会員の中で、主だった人物は下記の通り。その後、F1などで活躍した技術者たちが多く、かつ、その多くは車体もしくはエンジンのコンストラクターを設立している。 | [
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] | 750モータークラブは、イギリスの自動車レースクラブである。 アマチュアによる趣味の集まりとして設立され、主催したレースの参加者の中から、コーリン・チャップマンをはじめ、後にフォーミュラ1(F1)で名を成すことになる自動車技術者を数多く輩出した。 | {{Infobox 組織
| 名称 = 750モータークラブ<br/>750 Motor Club
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 略称 = 750MC
| 設立 = [[1939年]]
| 種類 =
| 地位 =
| 目的 =
| 本部 = {{GBR}}
| 位置 =
| 言語 = [[英語]]
| 会長 = [[トニー・サウスゲート]]{{R|750MC-About}}
| 人物 = 「[[#主な会員]]」を参照
| 機関 =
| 設立者 = ホリー・バケット(Holly Birkett)ほか
| 関連組織 =
| ウェブサイト = [https://www.750mc.co.uk/ www.750mc.co.uk]
| 補足 =
|logo=
}}
'''750モータークラブ'''(750 Motor Club, "''Seven-Fifty Motor Club''")は、イギリスの自動車レースクラブである。
アマチュアによる趣味の集まりとして設立され、主催したレースの参加者の中から、[[コーリン・チャップマン]]をはじめ、後に[[フォーミュラ1]](F1)で名を成すことになる自動車技術者を数多く輩出した{{R|750MC-About}}。
== 沿革 ==
=== 設立 ===
[[File:Austin Seven 65 Nippy 2-Seater Sport 1933.jpg|thumb|オースチン・7市販車の2シーター仕様]]
1939年、排気量750 ccの[[オースチン・7]]の愛好家の集まりとして、ホリー・バケット(Holly Birkett)らによって設立された{{R|750MC-About}}。
当初はオースチン・7関連の他愛もない話をしたりする集まりだったが、ほどなく、自然な流れとして、同車による競走も行われるようになった{{R|750MC-About}}。
オースチン・7は1922年に発売されてから1939年に製造終了となるまでに29万台が製造された小型車で、イギリスにおいては最も販売台数の多い車両である。従って、レースをするといっても、大衆車である同車に多額の出費をして大改造して行うようなレースはクラブの初期の参加者たちには好まれず、当初、少額の支出の範囲で改造したオースチン・7を用いたレースとして始まった{{R|750MC-About}}。
=== レースの開催 ===
[[第二次世界大戦]](1939年 - 1945年)の間は、愛車を持ち寄って集まることはできず、会員たちは[[ロンドン]]の[[パブ]]に自転車で集まって会合を重ねた{{R|750MC-About}}。
終戦後の1949年、クラブは新たな方針を打ち立て、[[シルバーストン・サーキット]]で「エイトクラブミーティング」(Eight Club Meeting)と呼ばれるレースイベントの開催を始めた{{R|750MC-About}}。このレースでは、オースチン・7のエンジンと車台をベースにしてさえいれば車体の改造に大幅な自由が許された「750フォーミュラ」クラスが設けられた{{R|750MC-About}}。このクラスはレーシングカーを作りたいと望んでいた若い技術者や、自動車以外の分野出身でも腕と暇を持て余していた若い技術者たちを惹きつけ、参加者の中から、後に[[フォーミュラ1]](F1)などで知られるようになる技術者たちを数多く輩出した{{R|750MC-About}}(「[[#主な会員]]」を参照)。
彼らエンジニアたちの中で最もよく知られているのは同クラスの開始初期の中心人物でもあった[[コーリン・チャップマン]]で、チャップマンはオースチン・7の「スペシャル」を何台も製作し、これらを後に{{仮リンク|ロータス・マーク1|en|Lotus Mark I}}へと発展させた{{R|750MC-About}}。
この時期に、オースチン・7以外の市販車も参加でき、ハンディキャップ制により、大衆車からスポーツカーまで、様々な車両が参加する6時間耐久レースも開催されるようになった{{R|750MC-About}}。
=== 現在 ===
現在も活動を続けており、様々なアマチュアレースの選手権を主催している{{R|750MC-About}}。
特に1949年から開催している「750フォーミュラ」選手権については、継続して開催されている自動車レースの選手権としては世界最古だと謳っている{{R|750MC-750Formula}}。
== 主な会員 ==
1940年代から1960年代の会員の中で、主だった人物は下記の通り。その後、F1などで活躍した技術者たちが多く、かつ、その多くは車体もしくはエンジンのコンストラクターを設立している。
{| class="wikitable"
|-
! 人物
! その後の業績・補足
|-
| [[コーリン・チャップマン]]{{R|750MC-About}}
| [[ロータス・カーズ]]([[チーム・ロータス]])を創業(1952年、ロータス・エンジニアリング社として)。
|-
| [[エリック・ブロードレイ]]{{R|750MC-About}}
| [[ローラ・カーズ]]を創業(1958年)。クラブに参加していた当時の本業は建築技術者([[積算士]])。
|-
| アーサー・マロック{{R|750MC-About}}
| マロック・スポーツを創業(1958年)。後に息子のレイ・マロックが[[RMLグループ|レイ・マロック社]](RML)を設立。
|-
| デレック・ウートン
| チャップマンの友人で、マイク・コスティンや、[[トニー・ヴァンダーヴェル]]といった人物とチャップマンを引き合わせた。
|-
| [[マイク・コスティン]]{{R|Robson2017_15}}
| レーシングエンジンコンストラクターの[[コスワース]]を創業(1958年)。ロータスの創業期の主要エンジニア(チャップマンの片腕)でもある。クラブに参加していた当時の本業は航空機技術者。
|-
| [[フランク・コスティン]]{{R|750MC-About}}
| [[マーコス]]を創業(1959年)。ロータスの設立初期のデザイナーでもある。クラブに参加していた当時の本業は航空機技術者。
|-
| [[レン・テリー]]{{R|750MC-110310}}
| 数々のコンストラクターで車両を設計し、{{仮リンク|1965年のインディ500|en|1965 Indianapolis 500}}優勝車両である{{仮リンク|ロータス・38|en|Lotus 38}}などを設計。クラブに参加していた当時の本業はイラストレーター{{R|Terry1975_18}}。
|-
| [[トニー・サウスゲート]]{{R|750MC-About}}
| 数々のコンストラクターで車両を設計し、[[世界三大レース]]の全てで優勝車両を設計。後にクラブの会長を務めている{{R|750MC-About}}。
|-
| デレック・ベネット{{R|750MC-About}}
| {{仮リンク|シェブロン・カーズ|en|Chevron Cars Ltd}}を創業(1965年)。
|-
| [[ブライアン・ハート]]{{R|750MC-About}}
| レーシングエンジンコンストラクターの[[ブライアン・ハート (企業)|ブライアン・ハート社]]を創業(1969年)。クラブに参加していた当時の本業は航空機技術者。
|-
| [[ジョン・マイルズ]]{{R|750MC-About}}
| レーシングドライバー、エンジニア、テストドライバーとして活躍{{R|750MC-About}}。クラブの発展にも貢献し、ジョン・マイルズ・ヤングドライバー賞が設けられている{{R|750MC-About}}。
|-
| [[エイドリアン・レイナード]]{{R|750MC-About}}
| [[レイナード]]を創業(1973年、セイバー社として)。
|-
| {{仮リンク|マイク・ピルビーム|en|Mike Pilbeam}}{{R|750MC-About}}
| {{仮リンク|ピルビーム|en|Pilbeam Racing Designs}}を創業(1975年)。
|-
| {{仮リンク|リー・ノーブル|en|Lee Noble}}{{R|750MC-About}}
| {{仮リンク|アルティマ・スポーツ|en|Ultima Sports}}(1983年)、[[ノーブル・オートモーティブ]](1999年)、{{仮リンク|フェニックス・オートモーティブ|en|Fenix Automotive}}(2009年)を創業。
|-
| [[ゴードン・マレー]]{{R|750MC-About}}
| [[ブラバム]]、[[マクラーレン]]でF1車両を設計。
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"|refs=
}}-->
=== 出典 ===
{{Reflist|refs=
<!--書籍-->
<ref name="Terry1975_18">[[#テリー1975|レーシングカー:その設計の秘訣]](テリー/ベーカー/武田1975)、「2. レン・テリーの経歴」 pp.17–26中のp.18</ref>
<ref name="Robson2017_15">[[#Robson2017|Cosworth: The Search for Power - 6th Edition]](Robson 2017)、[{{Google books|J7kJDgAAQBAJ|pg=PA15|plainurl=yes}} p.15]</ref>
<!--雑誌-->
<!--ウェブサイト-->
<ref name="750MC-About">{{cite web|url=https://www.750mc.co.uk/about.htm |title=About |publisher=750 Motor Club |language=英語 |date= |accessdate=2023-10-08}}</ref>
<ref name="750MC-750Formula">{{cite web|url=https://www.750mc.co.uk/formulae/750-formula.htm |title=750 Formula |publisher=750 Motor Club |language=英語 |date= |accessdate=2023-10-08}}</ref>
<ref name="750MC-110310">{{cite web|url=https://www.750mc.co.uk/news,len-terry-at-north-herts_37.htm |title=Len Terry at North Herts |publisher=750 Motor Club |language=英語 |date=2011-03-10 |accessdate=2023-10-08}}</ref>
}}
== 参考資料 ==
; 書籍
* {{Cite book|title=Racing Car Design and Development |author=Len Terry, Alan Baker |year=1973-04 |publisher=Motor Racing Publication Ltd. |isbn=978-0837600802 |asin=0837600804 |ref=Terry1973}}
** {{Cite book|和書|title=レーシングカー:その設計の秘訣 |author=レン・テリー(著)、アラン・ベーカー(著)、武田秀夫(訳) |year=1975-12-20 |publisher=二玄社 |isbn= |asin= |ncid=BN04167692 |ref=テリー1975}}
** {{Cite book|和書|title=レーシングカー:その設計の秘訣 |author=レン・テリー(著)、アラン・ベーカー(著)、武田秀夫(訳) |year=1989-06 |publisher=二玄社 |isbn=978-4544040203 |asin=4544040205 |ncid= |ref=テリー1989}}
* {{Cite book|title=Cosworth: The Search for Power - 6th Edition |author=Graham Robson |year=2017-04 |publisher=Veloce Publishing |isbn=978-1845848958 |asin=1845848950 |url={{Google books|J7kJDgAAQBAJ|plainurl=yes}} |ref=Robson2017}}
== 外部リンク ==
* [https://www.750mc.co.uk/ 750 Motor Club] {{En icon}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:750もおたあくらふ}}
[[Category:モータースポーツに関する組織]]
[[Category:イギリスのモータースポーツ]]
[[Category:イギリスのスポーツ組織]]
[[Category:イギリスの自動車技術者|*]]
[[Category:オースチン]]
[[Category:アマチュアスポーツ]] | 2023-10-08T08:45:37Z | 2023-10-22T01:36:43Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/750%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96 |
4,838,958 | 前橋八幡宮 | 前橋八幡宮(まえばしはちまんぐう)は群馬県前橋市本町にある神社。旧社格は県社。前橋の総鎮守とされる。
『前橋風土記』によれば、貞観年間に在原業平の苗裔、業重朝臣の子孫(長野氏の先祖)が奉祀したものという。社伝では貞観年間に男山八幡宮(石清水八幡宮)を勧請したとされ、上野国府の在庁官人に在原氏の名が見えること、国府所在地が元総社町であること、東山道が近隣を通ることなどから、上野国府八幡として勧請されたものとも考えられる。
社殿は古墳とされる小丘上に位置する。
永禄10年(1567年)に兵火に遭う。北条高広の元亀2年(1571年)の寄進状、平岩親吉の天正19年(1591年)の寄進状、酒井重忠の慶長7年(1602年)の寄進并諸役免許状など、戦国時代から江戸時代にかけての前橋城主の書状が残る。
明治6年(1873年)3月30日県社に列せられた。
昭和20年(1945年)8月5日夜の前橋空襲で社殿は全焼し、社殿脇のイチョウの木にも火が燃え移ったが枯死は免れた。
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] | 前橋八幡宮(まえばしはちまんぐう)は群馬県前橋市本町にある神社。旧社格は県社。前橋の総鎮守とされる。 | {{神社|名称=前橋八幡宮|所在地=[[群馬県]][[前橋市]][[本町 (前橋市)|本町]]2丁目7-2|祭神=[[品陀和気命]]|緯度度=36|緯度分=23|緯度秒=20|経度度=139|経度分=04|経度秒=14|社格=県社|画像=[[ファイル:Maebashi-Hachimangu.jpg|250px|前橋八幡宮]]}}
[[ファイル:Maebashi-hachimanguu ginkgo.jpg|サムネイル|前橋八幡宮のイチョウ。]]
'''前橋八幡宮'''(まえばしはちまんぐう)は[[群馬県]][[前橋市]][[本町 (前橋市)|本町]]にある[[神社]]。[[近代社格制度|旧社格]]は[[県社]]。前橋の総[[鎮守神|鎮守]]とされる{{Sfn|野條|1898|p=167}}{{Sfn|丸山|近藤|1978|pp=108-109}}。
== 概要 ==
『前橋風土記』によれば、[[貞観 (日本)|貞観年間]]に[[在原業平]]の苗裔、業重朝臣の子孫([[上野長野氏|長野氏]]の先祖)が奉祀したものという{{Sfn|古市|1913|pp=24-25}}。社伝では貞観年間に男山八幡宮([[石清水八幡宮]])を勧請したとされ、[[上野国|上野]][[国府]]の[[在庁官人]]に[[在原氏]]の名が見えること、国府所在地が[[元総社町]]であること、[[東山道]]が近隣を通ることなどから、上野[[国府八幡宮|国府八幡]]として勧請されたものとも考えられる{{Sfn|前橋市史編さん委員会|1984|pp=657-659}}。
社殿は[[古墳]]とされる小丘上に位置する{{Sfn|豊国|1923|pp=13-15}}{{Sfn|丸山|近藤|1978|pp=108-109}}。
[[永禄]]10年([[1567年]])に兵火に遭う{{Sfn|古市|1913|loc=25丁}}。[[北条高広]]の[[元亀]]2年([[1571年]])の寄進状、[[平岩親吉]]の[[天正]]19年([[1591年]])の寄進状、[[酒井重忠]]の[[慶長]]7年([[1602年]])の寄進并諸役免許状など、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]にかけての[[前橋城]]主の書状が残る{{Sfn|丸山|近藤|1978|pp=108-109}}。
[[明治]]6年([[1873年]])3月30日県社に列せられた{{Sfn|丑木|2001|p=36-38}}。
[[昭和]]20年([[1945年]])8月5日夜の[[前橋空襲]]で社殿は全焼し、社殿脇の[[イチョウ]]の木にも火が燃え移ったが枯死は免れた。
== 文化財 ==
前橋市指定重要文化財<ref>{{Cite web |title=市指定文化財一覧{{!}}前橋市 |url=https://www.city.maebashi.gunma.jp/soshiki/kyoiku/bunkazaihogo/gyomu/3/2/5106.html |website=www.city.maebashi.gunma.jp |access-date=2023-10-07 |language=ja}}</ref>
* 伯牙弾琴鏡(昭和50年12月24日指定)
* 八幡宮文書 一巻九通(昭和50年12月24日指定)
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書 |title=上野国神社明細帳 |date=2001-2-20 |year=2001 |publisher=群馬県文化事業振興会 |pages=36-38 |editor=丑木幸男 |editor-last=丑木 |editor-first=幸男 |editor-link=丑木幸男 |volume=4}}
*{{Cite book|和書 |title=上毛及上毛人 |publisher=上毛郷土史研究会 |date=1923-9-1 |year=1923 |pages=13-15 |editor=豊国義孝 |editor-last=豊国 |editor-first=義孝 |editor-link=豊国覚堂}}
*{{Cite book|和書 |title=前橋案内 |date=1898-11-20 |year=1898 |publisher=前橋 厩城館 |page=167 |editor-last=野條 |editor=野條愛助 |editor-first=愛助 |url=https://www1.library.pref.gunma.jp/winj/archive/jpeg/1101414045/album00001.html}}
*{{Cite book|和書 |title=前橋風土記 |date=1913 |year=1913 |publisher=豊田義孝 |pages=25-26 |editor=古市剛 |editor-last=古市 |editor-first=剛 |doi=10.11501/1183477}}
*{{Cite book|和書 |title=前橋市史 |date=1984-2-1 |year=1984 |publisher=前橋市 |pages=657-659 |volume=第五巻 |editor=前橋市史編さん委員会}}
*{{Cite book|和書 |title=上州のお宮とお寺 神社篇 |date=1978-12-10 |year=1978 |publisher=上毛新聞社 |pages=108-109 |author=丸山知良 |last=丸山 |first=知良 |author2=近藤義雄 |last2=近藤 |first2=義雄}}
== 外部リンク ==
* [https://www.hachiman-sama.or.jp/ 前橋八幡宮]
{{DEFAULTSORT:まえはしはちまんくう}}
[[Category:前橋市の歴史]]
[[Category:前橋市の建築物]]
[[Category:群馬県の旧県社]]
[[Category:群馬県内の市町村指定有形文化財]]
[[Category:八幡宮]] | 2023-10-08T08:46:06Z | 2023-10-08T23:38:09Z | false | false | false | [
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4,838,960 | 浜屋町 | 浜屋町(はまやちょう)は、愛知県安城市の地名。
安城市北部に位置する。東は宇頭茶屋町、西から北は里町、南は東栄町に接する。
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる。
国勢調査による人口および世帯数の推移。 | [
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] | 浜屋町(はまやちょう)は、愛知県安城市の地名。 | {{Pathnav|日本|愛知県|安城市|'''浜屋町'''|hide=1|frame=1}}
{{Infobox settlement
| name = 浜屋町
| settlement_type = [[町丁]]
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| image_caption = <!--- 画像の説明 --->
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| map_caption = 浜屋町の位置
| pushpin_map = Japan Aichi
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| established_title1 = 町名制定
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| area_footnotes = <ref group=WEB name="area">{{Cite web|url=https://toukei-labo.com/2015/?tdfk=23&city=23212|title=愛知県安城市の町丁・字一覧|publisher=人口統計ラボ|language=日本語|accessdate=2023-08-26}}</ref>
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| population_as_of= 2020年(令和2年)10月1日現在
| population_footnotes = {{R|group=WEB|R2国勢調査}}
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| postal_code_type = [[郵便番号]]
| postal_code = 446-0006<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?pref=23&city=1232120&cmp=1&mode=list&addr=|title=愛知県安城市の郵便番号一覧|publisher=日本郵便|accessdate=2023-08-26}}</ref>
| area_code = 0566<ref group=WEB name=areacode>{{Cite web|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000141817.pdf|format=PDF||title=市外局番の一覧|publisher=総務省|date=2022-03-01|accessdate=2022-03-22}}</ref>
| registration_plate = [[愛知運輸支局|三河]]
| footnotes =
}}
'''浜屋町'''(はまやちょう)は、[[愛知県]][[安城市]]の地名。
== 地理 ==
安城市北部に位置する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}。東は[[宇頭茶屋町]]、西から北は[[里町 (安城市)|里町]]、南は[[東栄町 (安城市)|東栄町]]に接する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}。
=== 学区 ===
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.city.anjo.aichi.jp/manabu/gakko/kyoikushisetsu/gakku.html|title=小中学校区一覧(町別50音順)|author=安城市役所教育振興部学校教育課学事係|publisher=安城市|date=2022-04-07|accessdate=2023-10-08}}</ref>。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.pref.aichi.jp/soshiki/kotogakko/0000080445.html|title=平成29年度以降の愛知県公立高等学校(全日制課程)入学者選抜における通学区域並びに群及びグループ分け案について|publisher=愛知県教育委員会|date=2015-02-16|accessdate=2019-01-14}}</ref>。
{| class="wikitable"
!番・番地等!!小学校!!中学校!!高等学校
|-
||全域||[[安城市立安城北部小学校]]||[[安城市立東山中学校]]||[[愛知県の高校入試#三河学区|三河学区]]
|}
=== 河川 ===
* 茶屋用水{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* 松下用悪水{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
== 歴史 ==
=== 町名の由来 ===
=== 人口の変遷 ===
[[国勢調査]]による人口および世帯数の推移。
{| class="wikitable"
|-
|1995年(平成7年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000023630251&fileKind=1|format=CSV|title=平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-03-28|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|177世帯<br>605人||<div style="width:17.7px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:60.5px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2000年(平成12年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025137780&fileKind=1|format=CSV|title=平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-05-30|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|172世帯<br>543人||<div style="width:17.2px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:54.3px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2005年(平成17年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025514226&fileKind=1|format=CSV|title=平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-06-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|176世帯<br>540人||<div style="width:17.6px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:54px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2010年(平成22年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000012671534&fileKind=1|format=CSV|title=平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2012-01-20|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|314世帯<br>652人||<div style="width:31.4px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:65.2px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2015年(平成27年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000031522121&fileKind=1|format=CSV|title=平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2017-01-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|383世帯<br>740人||<div style="width:38.3px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:74px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2020年(令和2年)<ref group=WEB name=R2国勢調査>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000032163424&fileKind=1|format=CSV|title=令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口,外国人人口及び世帯数-町丁・字等|author=総務省統計局|date=2022-02-10|accessdate=2023-08-02|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|338世帯<br>681人||<div style="width:33.8px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:68.1px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|}
=== 沿革 ===
{{節スタブ}}
* 1889年(明治22年) - [[碧海郡]]大浜茶屋村が合併により、[[里村 (愛知県)|里村]]大字大浜茶屋となる{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=290}}。
* 1906年(明治39年) - 合併により、碧海郡安城町大字大浜茶屋となる{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=290}}。
* 1952年(昭和27年) - 市制施行により、安城市大字大浜茶屋となる{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=290}}。
* 1956年(昭和31年) - 安城市大字大浜茶屋が改称され、同市浜屋町となる{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1092}}。
== 交通 ==
* [[愛知県道豊田安城線]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* [[愛知県道豊田安城自転車道線]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
== 施設 ==
* 安城市北部浄水場{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* 曹洞宗永安寺{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* 明治用水通水記念碑{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* 明治用水通水百年記念碑{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* 日吉社{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== WEB ===
{{Reflist|group="WEB"|refs=}}
=== 書籍 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1989|date=1989-03-08|title=[[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県|publisher=[[角川書店]]|isbn=4-04-001230-5|language=ja|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[安城市の町名]]
{{Geographic Location
| Northwest<!--北西--> =
| North<!--北--> = [[里町 (安城市)|里町]]
| Northeast<!--北東--> =
| West<!--西--> = [[里町 (安城市)|里町]]
| Centre<!--中央--> = 浜屋町
| East<!--東--> = [[宇頭茶屋町]]
| Southwest<!--南西--> =
| South<!--南--> = [[東栄町 (安城市)|東栄町]]
| Southeast<!--南東--> =
}}
{{安城市の町・字}}
{{Japan-block-stub}}
{{Pref-stub|pref=愛知県}}
{{デフォルトソート:はまやちよう}}
[[Category:安城市の町名]] | 2023-10-08T08:48:19Z | 2023-10-08T08:48:19Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%9C%E5%B1%8B%E7%94%BA |
4,838,965 | ジャン・サージュ | ジャン・サージュ(Jean Sage、1941年7月5日 - 2009年10月8日)は、フランス出身のレーシングドライバーで、1970年代から1980年代にかけて、フランスの自動車会社であるルノーのフォーミュラ1チーム(ルノーF1)でチームマネージャーだったことで知られる。
フランス中部のピュイ=ド=ドーム県ティエールの裕福な家に生まれた。
10歳の頃はシャンベリに住んでおり、近所に所在していたエクス=レ=バン・サーキット(英語版)へと母親によって散歩がてら連れられていき、そこで開催されるフォーミュラ2(F2)のレースをしばしば観戦するという環境で育った。
父親は自動車には全く関心を持っていなかったが、サージュは車やレースに情熱を注ぐようになり、10代半ばの頃にはラリー競技をしていた友人たちを手伝うようになった。
20歳の時(1960年頃)、エイビスレンタカーのジュネーブ支店で勤務する傍ら、ラリー仕様のフェラーリ・250GT SWBを駆るアンドレ・シモン(英語版)のコ・ドライバーとなり、初めてのラリー(レース)に挑んだ。
その後、ジャン=ピエール・アンリウ(フランス語版)、ジェラール・ラルースとも組んでスポーツカーレースへの参戦を続け、1960年代初めにはF3にも参戦した。
1967年にはエイビスレンタカーのローザンヌ支店長となっていたが、この年から、モータースポーツをフルタイムの仕事にして専念することにした。この時期のサージュは、ルノー・アルピーヌのラリーチームの臨時メンバーをしばしば務めるようになっており、ル・マン24時間レースにおいても3回の参戦を果たした。
1972年、ラルースがポール・アーシャンボー(Paul Archambeaud)が設立したレーシングチームのドライバーとなり、この時にサージュはチームマネージャーにならないかとラルースから誘われ、これを契機にドライバーを引退して、チームマネージャー業を始めた。
1973年にはアーシャンポーのチームをラルースとともに買い取り、「エキュリー・エルフ・チーム・スイス」を立ち上げた。同チームはレーシングスポーツカーの製造を目指したが、ほどなく、フォーミュラ2(F2)におけるレース参戦に注力するようになり、1976年のヨーロッパF2選手権において、サージュとラルースが指導していた若手のジャン=ピエール・ジャブイーユを擁し、チャンピオンへと押し上げた(ラルースは1975年にルノーに引き抜かれたため離脱)。
1976年、ルノーにより同社のモータースポーツ責任者に任命されたラルースが、それまでのルノー・アルピーヌを改組する形で、ルノー・スポールを設立した。
ルノー本社の意向で、ルノーは1977年からF1に参戦することになり、1977年初め、ラルースにより、サージュはルノーF1のチームマネージャーとして雇われた(チーム代表はラルース)。その後、サージュは一貫してルノーのF1チームのマネージャーを務め、この間にルノーは1979年フランスグランプリにおいてF1初優勝を達成し、1983年シーズンにはアラン・プロストがシーズン最終戦までチャンピオンタイトルを争った。1985年限りでルノーのフルワークスチームが撤退した後もサージュはしばらく留まり、1987年末にルノーを去った。
ルノーから去った後は、シャルル・ポッツィ(英語版)のレーシングチームであるフェラーリ・フランスに加入し、チーム運営を任された。このチームでは、1989年から1990年にかけて、北米のIMSA GT選手権にフェラーリ・F40を参戦させており、ジャン・アレジ、ジャン=ルイ・シュレッサーらとも協働した。
サージュは1970年代以前からフェラーリを中心とした自動車コレクターであり、2000年代まで収集家として活動を続け、ヒストリックレースイベントに自らステアリングホイールを握ってたびたび出場した。
晩年は癌との闘病生活を送り、2009年10月8日に68歳で死去した。 | [
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] | ジャン・サージュは、フランス出身のレーシングドライバーで、1970年代から1980年代にかけて、フランスの自動車会社であるルノーのフォーミュラ1チーム(ルノーF1)でチームマネージャーだったことで知られる。 | {{Infobox 人物
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|name = ジャン・サージュ<br/>Jean Sage
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'''ジャン・サージュ'''(Jean Sage、[[1941年]][[7月5日]]{{R|MM-JeanSage}} - [[2009年]][[10月8日]]{{R|GPcom-091008|MM-JeanSage}})は、[[フランス]]出身のレーシングドライバーで、1970年代から1980年代にかけて、フランスの自動車会社である[[ルノー]]の[[フォーミュラ1]]チーム([[ルノーF1]])でチームマネージャーだったことで知られる。
== 経歴 ==
フランス中部の[[ピュイ=ド=ドーム県]][[ティエール]]の裕福な家に生まれた{{R|GPcom-091008|MM-JeanSage}}。
10歳の頃は[[シャンベリ]]に住んでおり、近所に所在していた{{仮リンク|エクス=レ=バン・サーキット|en|Aix-les-Bains Circuit du Lac}}へと母親によって散歩がてら連れられていき、そこで開催される[[フォーミュラ2]](F2)のレースをしばしば観戦するという環境で育った{{R|MotorSportMagazine-1981-06}}。
父親は自動車には全く関心を持っていなかったが、サージュは車やレースに情熱を注ぐようになり、10代半ばの頃にはラリー競技をしていた友人たちを手伝うようになった{{R|MotorSportMagazine-1981-06}}。
=== ドライバー ===
20歳の時(1960年頃)、[[エイビスレンタカー]]のジュネーブ支店で勤務する傍ら{{R|MotorSportMagazine-1981-06}}、ラリー仕様の[[フェラーリ・250GT SWB]]を駆る{{仮リンク|アンドレ・シモン|en|André Simon (racing driver)}}の[[ナビゲーター (モータースポーツ)|コ・ドライバー]]となり、初めての[[ラリー]](レース)に挑んだ{{R|GPcom-091008}}。
その後、{{仮リンク|ジャン=ピエール・アンリウ|fr|Jean-Pierre Hanrioud}}、[[ジェラール・ラルース]]とも組んでスポーツカーレースへの参戦を続け、1960年代初めにはF3にも参戦した{{R|GPcom-091008}}。
1967年にはエイビスレンタカーのローザンヌ支店長となっていたが、この年から、モータースポーツをフルタイムの仕事にして専念することにした{{R|MotorSportMagazine-1981-06}}。この時期のサージュは、[[ルノー]]・[[アルピーヌ]]のラリーチームの臨時メンバーをしばしば務めるようになっており{{R|MotorSportMagazine-1981-06}}、[[ル・マン24時間レース]]においても3回の参戦を果たした{{R|MM-JeanSage}}。
=== チームマネージャー ===
1972年、ラルースがポール・アーシャンボー(Paul Archambeaud)が設立したレーシングチームのドライバーとなり、この時にサージュはチームマネージャーにならないかとラルースから誘われ、これを契機にドライバーを引退して、チームマネージャー業を始めた{{R|MotorSportMagazine-1981-06}}。
1973年にはアーシャンポーのチームをラルースとともに買い取り、「エキュリー・エルフ・チーム・スイス」を立ち上げた{{R|MotorSportMagazine-1981-06|GPcom-091008}}。同チームはレーシングスポーツカーの製造を目指したが、ほどなく、[[フォーミュラ2]](F2)におけるレース参戦に注力するようになり、[[1976年のヨーロッパF2選手権]]において、サージュとラルースが指導していた若手の[[ジャン=ピエール・ジャブイーユ]]を擁し、チャンピオンへと押し上げた{{R|MM-JeanSage|MotorSportMagazine-1981-06|GPcom-091008}}(ラルースは1975年にルノーに引き抜かれたため離脱{{R|MotorSportMagazine-1981-06}})。
=== ルノーF1 (1977年 - 1987年) ===
1976年、ルノーにより同社のモータースポーツ責任者に任命されたラルースが、それまでのルノー・アルピーヌを改組する形で、[[ルノー・スポール]]を設立した。
ルノー本社の意向で、ルノーは1977年からF1に参戦することになり、1977年初め、ラルースにより、サージュはルノーF1のチームマネージャーとして雇われた{{R|GPcom-091008}}([[F1チーム代表|チーム代表]]はラルース)。その後、サージュは一貫してルノーのF1チームのマネージャーを務め、この間にルノーは[[1979年フランスグランプリ]]においてF1初優勝を達成し、[[1983年のF1世界選手権|1983年シーズン]]には[[アラン・プロスト]]がシーズン最終戦までチャンピオンタイトルを争った{{R|MM-JeanSage}}。1985年限りでルノーのフルワークスチームが撤退した後もサージュはしばらく留まり、1987年末にルノーを去った{{R|GPcom-091008}}。
=== その後 ===
ルノーから去った後は、{{仮リンク|シャルル・ポッツィ|en|Charles Pozzi}}のレーシングチームであるフェラーリ・フランスに加入し、チーム運営を任された{{R|GPcom-091008|MM-JeanSage}}。このチームでは、1989年から1990年にかけて、北米の[[IMSA GT選手権]]に[[フェラーリ・F40]]を参戦させており、[[ジャン・アレジ]]、[[ジャン=ルイ・シュレッサー]]らとも協働した{{R|GPcom-091008}}。
サージュは1970年代以前から[[フェラーリ]]を中心とした自動車コレクターであり、2000年代まで収集家として活動を続け、ヒストリックレースイベントに自らステアリングホイールを握ってたびたび出場した{{R|GPcom-091008}}。
晩年は癌との闘病生活を送り、2009年10月8日に68歳で死去した{{R|MM-JeanSage}}。
== レース戦績 ==
=== ル・マン24時間レース ===
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%"
! 年
! チーム
! コ・ドライバー
! 車両
! クラス
! 周回数
! 総合<br>順位
! クラス<br>順位
|-
! [[1970年のル・マン24時間レース|1970年]]
|align="left"| {{flagicon|SWI}} C. Haldi
|align="left"| {{flagicon|SWI}} ピエール・グリューブ(Pierre Greub)
|align="left"| [[ポルシェ・911|ポルシェ・911S]]
| GT2.0
| 254
| NC
| NC
|-
! [[1971年のル・マン24時間レース|1971年]]
|align="left"| {{flagicon|SWI}} Ecurie Porsche Club Romand
|align="left"| {{flagicon|SWI}} パウル・ケラー(Paul Keller)
|align="left"| [[ポルシェ・914|ポルシェ・914/6 GT]]
| GT2.0
| 61
| DNF
| DNF
|-
! [[1972年のル・マン24時間レース|1972年]]
|align="left"| {{flagicon|FRA}} J. Sage<br/>{{flagicon|DEU}} Gelo Racing Team
|align="left"| {{flagicon|DEU}} ゲオルク・ルーズ (Georg Loos)<br/>{{flagicon|DEU}} フランツ・ペッシュ(Franz Pesch)
|align="left"| [[ポルシェ・911|ポルシェ・911S]]
| GTS2.5
| 64
| DNF
| DNF
|}
== エピソード ==
[[File:ELMS 4 Horas Estoril 2016 DSC 4052 (30632615616).jpg|thumb|[[ルノーF1]]の車両]]
* フェラーリ・250GTでレースを始める前年、サージュはある国内ラリーの手伝いで、第1チェックポイントの係員をしていた{{R|MotorSportMagazine-1981-06}}。そこへ、フランス国内ラリーの有力ドライバーだった{{仮リンク|ルネ・トラウトマン|fr|René Trautmann}}の[[シトロエン]]が到着し、その後ろに別の車が到着した{{R|MotorSportMagazine-1981-06}}。その車の[[ナビゲーター (モータースポーツ)|コ・ドライバー]]は初心者で、第1ステージで感じた恐怖のあまり車から逃げ出してしまうという出来事があった{{R|MotorSportMagazine-1981-06}}。サージュとトラウトマンは互いによく知る仲で、トラウトマンが後ろの車のドライバーにサージュを乗せるよう勧め、サージュはコ・ドライバーを体験することができた{{R|MotorSportMagazine-1981-06}}。この出来事により、サージュは翌年に{{仮リンク|アンドレ・シモン|en|André Simon (racing driver)}}からラリー参戦に誘われることになった{{R|MotorSportMagazine-1981-06}}。
* 1966年、映画『[[グラン・プリ]]』(1966年12月公開)の撮影にドライバーとして協力した{{R|MotorSportMagazine-1981-06}}。この際、サージュは、ドライバー時代としては唯一となる、ほぼ最新の[[フォーミュラ1カー]]を運転する機会を得ることになり、{{仮リンク|ロータス・33|en|Lotus 33}}をドライブした{{R|MotorSportMagazine-1981-06}}。しかし、サージュはフォーミュラカーの運転はそれほど上手くなく、やはりスタントドライバーとして参加していた[[ヨッヘン・リント]]が駆るフォーミュラ3カーに付いていくのにも苦労したという{{R|MotorSportMagazine-1981-06}}。
* 1985年限りでルノーのF1ワークスチームを撤退させるにあたり、ルノー本社はそれまでに製造した全てのF1車両を破壊して廃棄するようチームに命じ、サージュがそれを実行することになった{{R|F1C31_109}}。自動車収集を趣味とするほどの自動車愛好家であるサージュとしては、到底承服できない命令だったため、フランスの田舎に大きな倉庫を所有している友人に連絡を取り、20台ほどになるルノーのF1車両全てをその倉庫に密かに隠した{{R|F1C31_109}}。数年後、ルノー本社の新たな経営陣がF1車両を探しているという話を耳にしたサージュは、自分がしたことを彼らに告白し、車両を返却した{{R|F1C31_109}}。サージュは、社命に背いたことについて、逆に感謝される結果となった{{R|F1C31_109}}。
* [[1986年モナコグランプリ]]の予選中、ピットレーンで、[[ステファン・ヨハンソン]]が走らせていたフェラーリの接近にサージュは気づかず、轢かれて転倒し、その一連の様子がテレビ中継のカメラに捉えられている{{R|1986Monaco}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--=== 注釈 ===
{{Notelist}}-->
=== 出典 ===
{{Reflist|refs=
<!--書籍-->
<!--雑誌・ムック-->
<ref name="F1C31_109">[[#F1C31|F1倶楽部 Volume 31]](2000)、「F1マシンを田舎の倉庫に隠し持っていたルノーの幹部」(イワン・ヤング) p.109</ref>
<!--ウェブサイト-->
<ref name="MotorSportMagazine-1981-06">{{cite web|url=https://www.motorsportmagazine.com/archive/article/june-1981/94/jean-sage-2/ |title=Jean Sage |author=Alan Henry |publisher=Motor Sport Magazine |page=|language=英語 |date=1981-06 |accessdate=2023-10-08}}</ref>
<ref name="GPcom-091008">{{cite web|url=https://www.grandprix.com/ns/ns21903.html |title=Jean Sage |publisher=Grandprix.com |language=英語 |date=2009-10-08 |accessdate=2023-10-08}}</ref>
<ref name="MM-JeanSage">{{cite web|url=http://www.motorsportmemorial.org/LWFWIW/focusLWFWIW.php?db=LWF&db2=ms&n=994 |title=Jean Sage |publisher=Motorsportmemorial.org |language=英語 |date= |accessdate=2023-10-08}}</ref>
<ref name="1986Monaco">{{cite web|url=https://www.youtube.com/watch?v=sv7XSaabC0I |archive-url=https://ghostarchive.org/varchive/youtube/20211205/sv7XSaabC0I |title=Monaco 1986 qualifying accident between Johansson and Jean Sage |author=Formula 1 Amarcord |publisher=YouTube |language=英語 |date=2018-10-13 |archive-date=2021-12-06 |accessdate=2023-10-08}}</ref>
}}
== 参考資料 ==
; 雑誌 / ムック
* 『F1倶楽部』
** {{Cite book|和書|title=Volume 31 |year=2000-06-29 |publisher=双葉社 |isbn=4-575-47270-0 |asin=4575472700 |id= |ref=F1C31}}
{{ルノーF1}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:さあしゆ しやん}}
[[Category:フランスのドライバー]]
[[Category:ル・マン24時間レースのドライバー]]
[[Category:スパ24時間レースのドライバー]]
[[Category:F1チームマネージャー]]
[[Category:ルノーのモータースポーツ関係者]]
[[Category:自動車収集家]]
[[Category:ピュイ=ド=ドーム県出身の人物]]
[[Category:1941年生]]
[[Category:2009年没]] | 2023-10-08T08:56:35Z | 2023-11-06T12:59:54Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A5 |
4,838,967 | ジョン・ジャッド | ジョン・ジャッド(John Judd、1942年4月9日 - )はイギリスの自動車技術者である。ジャック・ブラバムとともに、「ジャッド」ブランドで知られるレーシングエンジンビルダーのエンジン・デベロップメント社(EDL)を創業した。
1942年、コヴェントリー空襲(英語版)の最中のコヴェントリーで生まれた。祖父は工具製造を生業とし、父はエンジニアをしているという家系だった。
学校を落第点で出た後、1958年に地元のコヴェントリー・クライマックス社で職を見つけ、見習い製図士として仕事を始めた。同社から奨学金を得たことにより、地元の大学に進学した。
コヴェントリー・クライマックスは1957年からフォーミュラ1(F1)で複数チームへのエンジン供給を始め、ジャッドは1959年から1960年にかけてF1用エンジンのベンチテストを担当した。
しかし、コヴェントリー・クライマックス社は1966年からF1が3リッター規定となることを機にレーシングエンジンの開発を終了することを決定した。そのため、1965年の終わり頃、それまでクライマックスエンジンを使用していたブラバムでオーナー兼ドライバーを務めていたジャック・ブラバムは、1966年から地元オーストラリアのレプコ製エンジンを搭載することにした。その際、ジャッドはブラバムに雇われ、ジャッドはジャック・ブラバムと、エンジン設計者であるフィル・アーヴィング(英語版)と共にエンジン開発に携わることになった。
この時にジャッドとアーヴィングによって開発された3リッターのレプコエンジンは、性能こそ圧倒的なものではなかったが、信頼性に優れ、1966年と1967年にブラバムにドライバーズとコンストラクターズのダブルタイトルを2年連続でもたらすことに貢献した。
ブラバムチームは1966年と1967年にF1でダブルタイトルを獲得したが、1967年に登場したフォード・コスワース・DFVエンジンが急速に有力となったことから、ジャック・ブラバムは1968年限りでレプコエンジンに見切りを付け、1969年からブラバムチームの搭載エンジンをDFVエンジンに切り替えた。
この際、ブラバムはジャック・ブラバム・コンバージョンズ社(Jack Brabham Conversions)を設立し、ジャッドを雇ってブラバムチーム用のDFVエンジンのチューニング(最適化のための開発)を担当させた。しかし、ブラバムは1970年限りでドライバー業とチーム経営の両方を引退し、オーストラリアに帰国することを決めてしまう。
そこで、ジャック・ブラバム・コンバージョンズ社を改組する形で、1971年にイギリスのラグビーにて、ジャッドとジャック・ブラバムを創業者とする形で、エンジン・デベロップメント社(Engine Development Ltd。以下「EDL社」)が設立された。
EDL社は1970年代を通じてフォード・コスワース・DFVエンジンのリビルドやチューニングを手掛け、F1では、ウィリアムズ、アロウズ、チーム・ロータス、ティレル、シャドウ、エイモン、エンサイン、フィッティパルディといったチームを顧客としてリビルドを行い、特にウィリアムズにはチューニングを施したDFVエンジンを供給した。
1982年シーズンにはジャッドチューンによるDFVエンジンを搭載したウィリアムズのケケ・ロズベルグがドライバーズチャンピオンとなり、DFVエンジンとしては最後となるF1世界選手権タイトルを獲得した。この1982年時点で、コスワースによるDFVエンジンは495馬力から500馬力程度を出力したとされるが、ウィリアムズに供給されたジャッドチューンによるDFVエンジンは520馬力は確実に発生し、時には530馬力、個体によっては540馬力を出力することも可能だったと言われている。
1970年代後半にはインディカー用にターボチャージャーを搭載したDFXエンジンのチューニングも手掛けた。
1980年にジャック・ブラバムとロン・トーラナックからの紹介で、本田技研工業(ホンダ)のF2用エンジンのリビルドやチューニングを手掛けるようになり、ホンダとの付き合いが始まった。これはEDL社にとっては事業拡大の契機となった。
ホンダがジャッドと契約したのは、日本の本田技術研究所は市販車開発で多忙だったためレース活動に割り当てられる人員に限りがあったことと、当時の最新のレーシングエンジン技術を知る必要があったためである。ホンダを支援する中でジャッドが披露したチューニングの各種アイデアは当時のホンダのエンジン開発責任者である川本信彦から高く評価され、ホンダからの依頼で、インディカー用V8エンジンの設計・開発を手掛けることになった。この計画はホンダ側の事情(F1への復帰を優先することにした)で中止となるが、ジャッドはそのエンジンの開発を独自に継続することを許され、EDL社単独で2.65リッターV8エンジン(ジャッド・AVエンジン)を開発し、1987年シーズンからインディカーへのエンジン供給を行った。このエンジンにはジャッドは当初「ブラバム=ホンダ」(Brabham-Honda)の名を与えた。
このエンジンは、国際F3000用の3リッター自然吸気(NA)の「ジャッド・BV」や、F1用の3.5リッターNAの「ジャッド・CV」へと発展することになる。
1987年にマーチから要請を受けたことにより、EDL社は1988年シーズンからF1に復帰し、「ジャッド」の名でエンジン供給を行う。初年度は、マーチ(881)のほか、ホンダからの要請によりウィリアムズ(FW12)にも供給することになり、リジェ(JS31)を含めた3チームにエンジンを供給した。
このエンジンではF1では初めてザイテックと契約を結び、同社製の燃料噴射装置を採用した。
1991年、ジャッドは新設計のV型10気筒エンジン(ジャッド・GV)を開発し、EDL社はこのエンジンを1991年シーズンにスクーデリア・イタリア、翌1992年シーズンにはブラバムとアンドレア・モーダに供給した。
1993年からヤマハ発動機との共同開発が始まり、ジャッド・GVエンジンをベースとして「ワークスエンジン」として開発することになり、同社の名の下に1993年から1997年にかけてヤマハ・OX10A(OX10B、OX10C)、ヤマハ・OX11Aとしてティレル、アロウズに供給が行われた。
EDL社のジャッドエンジンは市販レーシングエンジンとして開発されていたが、ヤマハの参画により、それまで鉄製だった部品がチタン製に置き換えられるなどの変更が施された。先端材料についてのノウハウはヤマハが優れていた一方、ジョン・ジャッドはエンジン開発のアイデアで協力した。
ヤマハが1997年限りで供給先を失い、F1から撤退したことに伴い、ジャッドもF1から撤退した。
その後、ジャッドとEDL社はスポーツカーレースに注力している。1992年にマツダ・MX-R01にジャッド・GVをベースとした「マツダMV10」を供給したほか、童夢とワコールが共同開発したジオット・キャスピタ(2号車)にもジャッド・GVが搭載されている。 | [
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] | ジョン・ジャッドはイギリスの自動車技術者である。ジャック・ブラバムとともに、「ジャッド」ブランドで知られるレーシングエンジンビルダーのエンジン・デベロップメント社(EDL)を創業した。 | {{Infobox 人物
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|name = ジョン・ジャッド<br/>John Judd
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|birth_date = {{生年月日と年齢|1942|4|9|yes}}
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}}
'''ジョン・ジャッド'''(John Judd、[[1942年]][[4月9日]] - )はイギリスの自動車技術者である。[[ジャック・ブラバム]]とともに、「[[ジャッド]]」ブランドで知られるレーシングエンジンビルダーのエンジン・デベロップメント社(EDL)を創業した。
== 経歴 ==
1942年、{{仮リンク|コヴェントリー空襲|en|Coventry Blitz}}の最中の[[コヴェントリー]]で生まれた{{R|group="W"|GPcom-Judd}}。祖父は工具製造を生業とし、父はエンジニアをしているという家系だった{{R|group="W"|MotorSportMagazine-1991-07}}。
学校を落第点で出た後、1958年に地元の[[コヴェントリー・クライマックス|コヴェントリー・クライマックス社]]で職を見つけ、見習い製図士として仕事を始めた{{R|GPCS-06_38}}{{R|group="W"|MotorSportMagazine-1991-07}}{{Efn|同じコヴェントリーで操業していた[[ジャガー (自動車)|ジャガー]]にも応募したが不採用で、父親の伝手があったコヴェントリー・クライマックス社で雇われることになった{{R|GPCS-06_38}}。}}。同社から奨学金を得たことにより、地元の大学に進学した{{R|group="W"|GPcom-Judd}}。
=== ブラバム ===
コヴェントリー・クライマックスは{{F1|1957}}から[[フォーミュラ1]](F1)で複数チームへのエンジン供給を始め、ジャッドは1959年から1960年にかけてF1用エンジンのベンチテストを担当した{{R|GPCS-06_38}}。
しかし、コヴェントリー・クライマックス社は1966年からF1が3リッター規定となることを機にレーシングエンジンの開発を終了することを決定した。そのため、1965年の終わり頃{{R|GPCS-06_38}}、それまでクライマックスエンジンを使用していた[[ブラバム]]でオーナー兼ドライバーを務めていた[[ジャック・ブラバム]]は、{{F1|1966}}から地元オーストラリアの[[レプコ]]製エンジンを搭載することにした{{R|group="W"|GPcom-Judd}}。その際、ジャッドはブラバムに雇われ{{Efn|このブラバム・レプコの仕事は元々はコヴェントリー・クライマックスでレース部門を率いていたハリー・スピアーズが務める予定だったが、家族の反対にあったスピアーズが直前で話を断ったため、ブラバムからのオファーがジャッドに回ってきた{{R|GPCS-06_38}}。}}、ジャッドはジャック・ブラバムと、エンジン設計者である{{仮リンク|フィル・アーヴィング|en|Phil Irving}}と共にエンジン開発に携わることになった{{R|GPCS-06_38}}{{R|group="W"|GPcom-Judd}}。
この時にジャッドとアーヴィングによって開発された3リッターのレプコエンジンは、性能こそ圧倒的なものではなかったが、信頼性に優れ、{{F1|1966}}と{{F1|1967}}にブラバムにドライバーズとコンストラクターズのダブルタイトルを2年連続でもたらすことに貢献した{{R|GPCS-06_38}}{{R|group="W"|GPcom-Judd}}。
=== エンジン・デベロップメント社 (EDL) ===
{{seealso|ジャッド}}
==== 設立の経緯 (1971年) ====
ブラバムチームは1966年と1967年にF1でダブルタイトルを獲得したが、1967年に登場した[[フォード・コスワース・DFVエンジン]]が急速に有力となったことから、ジャック・ブラバムは{{F1|1968}}限りでレプコエンジンに見切りを付け、{{F1|1969}}からブラバムチームの搭載エンジンをDFVエンジンに切り替えた{{R|AS117_123}}。
この際、ブラバムはジャック・ブラバム・コンバージョンズ社(Jack Brabham Conversions)を設立し、ジャッドを雇ってブラバムチーム用のDFVエンジンのチューニング(最適化のための開発)を担当させた{{R|group="W"|GPcom-Judd|GPcom-EDL}}。しかし、ブラバムは1970年限りでドライバー業とチーム経営の両方を引退し、オーストラリアに帰国することを決めてしまう。
そこで、ジャック・ブラバム・コンバージョンズ社を改組する形で{{R|group="W"|GPcom-Judd}}、1971年にイギリスの[[ラグビー (イングランド)|ラグビー]]にて、ジャッドとジャック・ブラバムを創業者とする形で、'''エンジン・デベロップメント社'''(Engine Development Ltd。以下「EDL社」)が設立された{{R|GPCS-06_38}}{{R|group="W"|GPcom-Judd}}{{Efn|ブラバムは1970年限りでオーストラリアに帰国したが、その際、ジャッドを放り出すことに罪悪感を感じたため同社へ一部出資することにした(同社への出資を残した)ようだとジャッドは述べている{{R|GPCS-06_38}}。ブラバムは1997年頃まで株主だったが、最終的にはジャッドがブラバムの出資分を買い取った{{R|GPCS-06_38}}。}}。
==== DFVエンジンのチューニング ====
{{CSS image crop
|Image = Keke Rosberg 1982 British GP.jpg
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|Description = [[ウィリアムズ・FW08]]({{F1|1982}})。搭載しているDFVエンジンにはジャッドによるチューニングが施された。
}}
EDL社は1970年代を通じてフォード・コスワース・DFVエンジンのリビルドやチューニングを手掛け{{Efn|コスワース製のDFVエンジンは成功を収めたが、100基以上(1977年までに255基{{R|AS226_95}})のエンジンが出荷され稼働中となったことで、製造元のコスワースだけで全ての調整やオーバーホールなどを行うことは不可能となり{{R|AS226_53}}、ジャッドを含め複数のチューナーが存立する余地があった。}}、F1では、[[ウィリアムズF1|ウィリアムズ]]、[[アロウズ]]、[[チーム・ロータス]]、[[ティレル]]、[[シャドウ・レーシング・カーズ|シャドウ]]、[[エイモン]]、[[エンサイン]]、[[フィッティパルディ]]といったチームを顧客としてリビルドを行い{{R|group="W"|MotorSportMagazine-1991-07|GPcom-Judd}}、特にウィリアムズにはチューニングを施したDFVエンジンを供給した{{R|group="W"|MotorSportMagazine-1991-07}}。
[[1982年のF1世界選手権|1982年シーズン]]にはジャッドチューンによるDFVエンジンを搭載したウィリアムズの[[ケケ・ロズベルグ]]がドライバーズチャンピオンとなり、DFVエンジンとしては最後となるF1世界選手権タイトルを獲得した{{R|group="W"|MotorSportMagazine-1991-07}}。この1982年時点で、コスワースによるDFVエンジンは495馬力から500馬力程度を出力したとされるが、ウィリアムズに供給されたジャッドチューンによるDFVエンジンは520馬力は確実に発生し、時には530馬力、個体によっては540馬力を出力することも可能だったと言われている{{R|AS365_78}}。
1970年代後半にはインディカー用にターボチャージャーを搭載したDFXエンジンのチューニングも手掛けた{{R|group="W"|GPcom-Judd}}。
==== V8エンジン ====
[[File:Judd AV engine 1989 Honda Collection Hall.jpg|thumb|ブラバム=ホンダ・エンジン(ジャッド・AVエンジン)]]
1980年にジャック・ブラバムと[[ロン・トーラナック]]からの紹介で、[[本田技研工業]](ホンダ)のF2用エンジンのリビルドやチューニングを手掛けるようになり、ホンダとの付き合いが始まった{{R|GPCS-06_38}}。これはEDL社にとっては事業拡大の契機となった{{R|GPCS-06_38}}。
ホンダがジャッドと契約したのは、日本の[[本田技術研究所]]は市販車開発で多忙だったためレース活動に割り当てられる人員に限りがあったことと、当時の最新のレーシングエンジン技術を知る必要があったためである{{R|group="W"|MotorSportMagazine-1991-07}}{{Efn|技術動向についての相談を受けたジャック・ブラバムがホンダにジャッドを勧めた{{R|group="W"|MotorSportMagazine-1991-07}}。}}。ホンダを支援する中でジャッドが披露したチューニングの各種アイデアは当時のホンダのエンジン開発責任者である[[川本信彦]]から高く評価され、ホンダからの依頼で、インディカー用V8エンジンの設計・開発を手掛けることになった{{R|GPCS-06_38}}{{R|group="W"|MotorSportMagazine-1991-07}}。この計画はホンダ側の事情(F1への復帰を優先することにした{{R|group="W"|MotorSportMagazine-1991-07}})で中止となるが、ジャッドはそのエンジンの開発を独自に継続することを許され、EDL社単独で2.65リッターV8エンジン('''ジャッド・AVエンジン''')を開発し{{R|GPCS-06_38}}、[[1987年のインディカー・シーズン|1987年シーズン]]からインディカーへのエンジン供給を行った。このエンジンにはジャッドは当初「ブラバム=ホンダ」(Brabham-Honda)の名を与えた{{R|group="W"|MotorSportMagazine-1991-07}}。
このエンジンは、国際F3000用の3リッター[[自然吸気]](NA)の「'''ジャッド・BV'''」や、F1用の3.5リッターNAの「'''ジャッド・CV'''」へと発展することになる{{R|GPCS-06_38}}。
1987年に[[マーチ・エンジニアリング|マーチ]]から要請を受けたことにより{{R|GPCS-06_38}}、EDL社は[[1988年のF1世界選手権|1988年シーズン]]からF1に復帰し、「ジャッド」の名でエンジン供給を行う。初年度は、マーチ([[マーチ・881|881]])のほか、ホンダからの要請により[[ウィリアムズF1|ウィリアムズ]]([[ウィリアムズ・FW12|FW12]])にも供給することになり、[[リジェ]]([[リジェ・JS31|JS31]])を含めた3チームにエンジンを供給した{{R|GPCS-06_38}}。
このエンジンではF1では初めて[[ザイテック]]と契約を結び、同社製の[[燃料噴射装置]]を採用した{{R|GPCS-06_38}}。
==== V10エンジン ====
[[File:Yamaha OX10A engine rear.jpg|thumb|[[ヤマハ・OX10A|ヤマハ・OX10Aエンジン]]]]
1991年、ジャッドは新設計のV型10気筒エンジン('''ジャッド・GV''')を開発し、EDL社はこのエンジンを[[1991年のF1世界選手権|1991年シーズン]]に[[スクーデリア・イタリア]]、[[1992年のF1世界選手権|翌1992年シーズン]]には[[ブラバム]]と[[アンドレア・モーダ]]に供給した。
1993年から[[ヤマハ発動機]]との共同開発が始まり{{Efn|この提携は{{仮リンク|ハービー・ブラッシュ|en|Herbie Blash}}がヤマハにジャッドを勧めたことによる{{R|GPCS-14_58}}。}}、ジャッド・GVエンジンをベースとして「ワークスエンジン」として開発することになり{{R|GPCS-14_58}}、同社の名の下に1993年から1997年にかけて[[ヤマハ・OX10A]](OX10B、OX10C)、[[ヤマハ・OX11A]]として[[ティレル]]、[[アロウズ]]に供給が行われた。
EDL社のジャッドエンジンは市販レーシングエンジンとして開発されていたが、ヤマハの参画により、それまで鉄製だった部品がチタン製に置き換えられるなどの変更が施された{{R|GPCS-14_58}}。先端材料についてのノウハウはヤマハが優れていた一方、ジョン・ジャッドはエンジン開発のアイデアで協力した{{R|GPCS-14_58}}。
ヤマハが1997年限りで供給先を失い、F1から撤退したことに伴い、ジャッドもF1から撤退した。
その後、ジャッドとEDL社はスポーツカーレースに注力している。1992年に[[マツダ・MX-R01]]にジャッド・GVをベースとした「マツダMV10」を供給したほか、[[童夢 (自動車会社)|童夢]]と[[ワコール]]が共同開発した[[ジオット・キャスピタ]](2号車)にもジャッド・GVが搭載されている。
== エピソード ==
* 1967年に登場したフォード・コスワース・DFVエンジンは、当初から高い戦闘力を発揮していたが、初期型にはギアチェンジ後のピックアップ特性が悪い(スロットル操作に対して反応が悪い)という欠点があり、コスワースでも解決方法を見出せず、しばらくそのままとなっていた{{R|group="W"|MotorSportMagazine-2012-02}}。1969年からDFVを使い始めたブラバムではジャッドがチューニングを担当しており、その欠点に気づいたジャッドは、DFVエンジンの[[燃料噴射装置]]に付けられていたストロークを最適化するためのカムを調整することでその問題を早期に解決していた{{R|group="W"|MotorSportMagazine-2012-02}}。各チームからリビルドのため戻されたDFVエンジンを検査する際、ブラバムのエンジンだけカムが違うことに気づいたコスワースは、オリジナルよりもはるかに良く機能することを確認し、そのチューニングを(ブラバムには無断で)取り入れ、他チーム用のエンジンにも適用したという{{R|group="W"|MotorSportMagazine-2012-02}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
; 出版物
{{Reflist|refs=
<!--書籍-->
<!--雑誌・ムック-->
<ref name="AS117_123">[[#AS117|オートスポーツ 1973年5/1号(No.117)]]、「幻の32ポート・DOHC 3L F-1エンジンを見た」(赤井邦彦) pp.123–125</ref>
<ref name="AS226_53">[[#AS226|オートスポーツ 1977年8/1号(No.226)]]、「ジョディに”ニュー”DFVはまわらない?」(Jeff Hutchinson) pp.53–54</ref>
<ref name="AS226_95">[[#AS226|オートスポーツ 1977年8/1号(No.226)]]、「フォード・コスワースDFV、ついに100勝達成」(ダグ・ナイ) pp.95–100</ref>
<ref name="AS365_78">[[#AS365|オートスポーツ 1983年3/1号(No.365)]]、「コスワースあらかると」(Mike Lawrence) pp.78–79</ref>
<ref name="GPCS-06_38">[[#GPCS-06|GP Car Story Vol.06 March 881]]、「ジョン・ジャッドの記憶と半生」(ピーター・ウインザー) pp.38–41</ref>
<ref name="GPCS-14_58">[[#GPCS-14|GP Car Story Vol.14 Tyrrell 022]]、「たどり着いた”軽さ”という解答。」(木村隆昭インタビュー) pp.58–63</ref>
}}
; ウェブサイト
{{Reflist|group="W"|refs=
<ref name="MotorSportMagazine-1991-07">{{cite web|url=https://www.motorsportmagazine.com/archive/article/july-1991/75/british-grand-prix-preview-judd/ |title=British Grand Prix Preview -- Judd |publisher=Motor Sport Magazine |page=|language=英語 |date=1991-07 |accessdate=2023-12-03}}</ref>
<ref name="MotorSportMagazine-2012-02">{{cite web|url=https://www.motorsportmagazine.com/archive/article/february-2012/96/lunch-with-mike-costin/ |author=Simon Taylor |title=Lunch with Mike Costin |publisher=Motor Sport Magazine |page=|language=英語 |date=2012-02 |accessdate=2023-12-03}}</ref>
<ref name="GPcom-Judd">{{cite web|url=https://www.grandprix.com/people/john-judd.html |title=John Judd |publisher=GrandPrix.com |page=|language=英語 |date= |accessdate=2023-12-03}}</ref>
<ref name="GPcom-EDL">{{cite web|url=https://www.grandprix.com/gpe/eng-engin.html |title=Engine Developments Ltd. |publisher=GrandPrix.com |page=|language=英語 |date= |accessdate=2023-12-03}}</ref>
}}
== 参考資料 ==
; 雑誌 / ムック
* 『オートスポーツ』(NCID [https://ci.nii.ac.jp/ncid/AA11437582 AA11437582])
** {{Cite book|和書|title=1973年5/1号(No.117) |year=1973-05-01 |publisher=三栄書房 |isbn= |asin= |id={{ASbook|AST19730501}} |ref=AS117}}
** {{Cite book|和書|title=1977年8/1号(No.226) |year=1977-08-01 |publisher=三栄書房 |isbn= |asin= |id={{ASbook|AST19770801}} |ref=AS226}}
** {{Cite book|和書|title=1983年3/1号(No.365) |year=1983-03-01 |publisher=三栄書房 |isbn= |asin= |id={{ASbook|AST19830301}} |ref=AS365}}
* 『GP Car Story』シリーズ
** {{Cite book|和書|title=Vol.06 March 881 |year=2014-01-20 |publisher=三栄書房 |isbn=978-4-7796-2021-8 |asin=B00HF14JCC |ncid= |id={{ASbook|GPC20131207}} |ref=GPCS-06}}
** {{Cite book|和書|title=Vol.14 Tyrrell 022 |year=2016-01-21 |publisher=三栄書房 |isbn=978-4-7796-2752-1 |asin=B0195XEIVE |ncid= |id={{ASbook|GPC20151208}} |ref=GPCS-14}}
{{ブラバム}}
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4,838,969 | Triad | 『Triad』(トライアード)は、髙橋真梨子の9枚目のスタジオ・アルバム。1984年9月21日にInvitationよりリリースされた。規格品番は、LP:VIH-28187、CT:VCF-10207、CD:VDR-45。
前作『我蘭憧』より11か月ぶりのリリースとなるアルバム。ヒット・シングル「桃色吐息」 とB面曲「もいちどロマンス ~街角物語」を含む全9曲が収録されている。
このアルバムで、ソロとなって初めてのオリコンチャート1位を獲得し、同年末に放送された第26回日本レコード大賞では第1回アルバム大賞を受賞した。
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{{特殊文字|説明=[[Microsoftコードページ932]]([[はしご高]])}}
{{Infobox Album
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| Artist = [[髙橋真梨子]]
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| Next album = [[MELLOW LIPS]]<br/>([[1985年]])
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| Name = Triad
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}}
}}
『'''Triad'''』(トライアード)は、[[髙橋真梨子]]の9枚目の[[スタジオ・アルバム]]。[[1984年]][[9月21日]]に[[Invitation (レーベル)|Invitation]]よりリリースされた。規格品番は、LP:VIH-28187、CT:VCF-10207、CD:VDR-45。
== 概要 ==
前作『[[我蘭憧]]』より11か月ぶりのリリースとなるアルバム。ヒット・シングル「[[桃色吐息]]」 とB面曲「もいちどロマンス ~街角物語」を含む全9曲が収録されている。
このアルバムで、ソロとなって初めてのオリコンチャート1位を獲得し<ref>{{Cite web |url=https://recochoku.jp/album/A2000745322/|title=高橋 真梨子『Triad』のアルバムページ |website= [[レコチョク]] |accessdate=2023-10-07}}</ref>、同年末に放送された[[第26回日本レコード大賞]]では第1回アルバム大賞を受賞した<ref>{{Cite web |url=https://www.jacompa.or.jp/record/26.php|title=第26回日本レコード大賞|website=公益社団法人 [[日本作曲家協会]] |accessdate=2023-10-07}}</ref>。
[[2020年]][[12月16日]]には、オリジナル・アナログ・マスターテープの音源に最新リマスタリングを施し、当時の音を再現した[[Super Audio CD|SACDハイブリッド盤]]が[[タワーレコード]]限定でリリースされた<ref name="Triad">{{Cite web |url=https://tower.jp/item/5129484?recommend=305|title=髙橋真梨子/Triad<タワーレコード限定/完全限定盤>|website=TOWER RECORDS ONLINE|publisher= [[タワーレコード]] |accessdate=2023-10-07}}</ref>。
== 収録曲 ==
#'''祥寺クィーン'''(4:54)
#:作詞:髙橋真梨子 / 作曲:[[松田良]] / 編曲:[[佐藤博 (ミュージシャン)|佐藤博]]
#'''モダン・デジャヴ'''(4:53)
#:作詞:[[松井五郎]] / 作曲・編曲:[[奥慶一]]
#'''忘れない'''(4:16)
#:作詞:松井五郎 / 作曲:[[玉置浩二]] / 編曲:奥慶一
#'''背中から撃たないで'''(4:16)
#:作詞:松井五郎 / 作曲:[[河内淳一]] / 編曲:奥慶一
#'''もいちどロマンス ~街角物語'''(3:57)
#:作詞:[[竜真知子]] / 作曲:[[岡本朗]] / 編曲:奥慶一
#*シングル「桃色吐息」B面曲。
#'''桃色吐息'''(3:34)
#:作詞:[[康珍化]] / 作曲:[[佐藤隆 (シンガーソングライター)|佐藤隆]] / 編曲:奥慶一
#*10枚目のシングルA面曲。
#'''トパーズの湖'''(4:35)
#:作詞:沢田智子 / 補作詞・作曲:[[小椋佳]] / 編曲:奥慶一
#'''新しい五線紙'''(4:58)
#:作詞:[[有川正沙子]] / 作曲:松田良 / 編曲:佐藤博
#'''HEART'''(5:04)
#:作詞:[[大津あきら]] / 作曲:[[鈴木キサブロー]] / 編曲:奥慶一
== 参加ミュージシャン ==
タワーレコードの商品ページより<ref name="Triad"/>
*[[奥慶一]]、[[佐藤博 (ミュージシャン)|佐藤博]]:キーボード
*[[伊藤広規]]、[[美久月千晴]]、[[長岡道夫]]:ベース
*[[鳥山雄司]]、[[愛奴|青山徹]]、[[笛吹利明]]:ギター
*[[林立夫]]、[[青山純]]、[[宮崎全弘]]:ドラム
*[[数原晋]]:トランペット
*[[ジェイク・コンセプション|Jake H.Concepcion]]:サックス
*[[新井英治]]:トロンボーン
*[[斉藤ノヴ]]:パーカッション
*[[ヘンリー広瀬]]:パーカッション、ヴォコーダー
*加藤ジョー・グループ:ストリングス
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[第26回日本レコード大賞]]
== 外部リンク ==
* [https://www.jvcmusic.co.jp/-/Discography/A000950/VICL-5170.html 高橋 真梨子 | トライアード | ビクターエンタテインメント]
* [https://www.kiokunokiroku.jp/artist/000076/archive/001584 Triad 1984.9.21 | 記憶の記録LIBRARY]
* {{Apple Music album|155723473}}
{{髙橋真梨子}}
{{オリコン週間LPチャート第1位 1984年|1984年10月1日 - 10月8日付、2週連続}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:とらいああと}}
[[Category:髙橋真梨子のアルバム]]
[[Category:1984年のアルバム]]
[[Category:ビクターインビテーションのアルバム]] | 2023-10-08T09:03:26Z | 2023-12-26T22:51:26Z | false | false | false | [
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4,838,971 | ジョン・マイルズ | ジョン・ジェレミー・マイルズ(John Jeremy Miles、1943年6月14日 - 2018年4月8日)は、イギリス出身のレーシングドライバーであり、ジョン・マイルズ(John Miles)として知られている。
ドライバーとしては、フォーミュラ1世界選手権(F1)には1969年から1970年にかけて出場した。1970年イタリアGPで死去したヨッヘン・リントの最後のチームメイトとして知られ、マイルズにとっても同GPがF1への最後のエントリーとなった(決勝レースへの出走は棄権)。
レーシングスポーツカーでは活躍したが、F1ドライバーとしての資質は高くなかったと自他ともに認めるところだった。一方、エンジニアリングの知識が豊富で、開発ドライバーとしては優秀で、チーム・ロータスやBRMで開発に貢献した。レーシングドライバーを引退した後は、エンジニアとして30年以上に渡って働き、1970年代にはイギリスの『オートカー』誌で路上テストのレビュー記事の執筆も行った。
父バーナード・マイルズ(英語版)と、母ジョセフィン(英語版)は、どちらもよく知られた俳優だった。(→#家族)
父親は車の運転はできない人物で、一家の車は母親が運転していたが、その母の二人の兄弟はどちらもエンジニアで車好きでもあった。おじたちの話を聞いて影響を受けて育ったマイルズは、手に入る限りの自動車雑誌を読み、後述する最初の車を入手して以降、休日はガレージで作業に勤しむようになった。
16歳の時(1960年頃)に最初の自動車としてオースチン・7(2シーターのNippy)を購入し、スーパースポーツ仕様を手に入れてからはイギリス各地で開催されていたレースへの参戦を始めた。当時のイギリスでこの趣味を持つ者としては当然のように、750モータークラブにも所属した。
1964年には、750 ccのオースチン・7よりも上位のカテゴリーへのステップアップを図り、イギリスの自動車メーカーであるディーヴァ(英語版)の1,000 ccの車両(ディーヴァ・GT)を手に入れた。
イギリス国内のスポーツカー選手権で活躍を始め、スポーツカー世界選手権(国際GTマニュファクチャラーズ選手権)にも数戦スポット参戦し、1964年のニュルブルクリンク1000kmレースでは、1,000 ccクラスでクラス優勝を収めた。
1965年頃のマイルズはフォーミュラカーのレースには興味を持っておらず、スポーツカーレースで更なる成功を収めたいと考えていたことから、イギリスのスポーツカーレースではよく知られたエンジニアだったジェフ・ユーレン(英語版)を訪ね、それがキャリアの転機となる。
当初、マイルズはユーレンにディーヴァ・GT用にエンジンの改造を頼んでいたが、マイルズはユーレンの作業を手伝うようになり、ユーレンに年1,000ポンドで雇われて給料を払われるようになった。ユーレンに雇われて得た資金を元手に、1966年にはロータス・エランに乗り換え、イギリス国内の選手権で出場するレースのほとんどすべてで優勝するほどの活躍をした。
この活躍はロータス・カーズの重鎮たちの目にも留まり、社長のコーリン・チャップマンから直々にスカウトされ、同年中にチーム・ロータスが走らせていたフォード・コルチナやロータス・47(ロータス・ヨーロッパのレース仕様車)のステアリングホイールを任されるようになった。
マイルズの走りはチャップマンらを満足させ、1967年にチーム・ロータスに正式に加入し、スポーツカーと並行してフォーミュラ3(F3)のロータス・41(英語版)の運転も任され、1968年には国際格式のF3レースで4勝を収めた。
1969年のF1世界選手権に向け、ロータスは全輪駆動(4WD)のフォーミュラ1カーであるロータス・63を開発した。しかし、チームの正ドライバーであるグラハム・ヒルとヨッヘン・リントは、世界選手権レースで63を運転することに難色を示し、前年以前から使用されていたロータス・49(49B)で走ることを選んだ。
63を開発したチャップマンは(前年のインディカーのロータス・56はうまく機能したと考えていたことから)全輪駆動車を有望視していたため、同車を出走させることをあきらめず、63の開発ドライバーを任せていたマイルズを乗せてレースに参戦させることにした。
1969年シーズンの第5戦フランスGPで、ロータス・63のドライバーとして、マイルズはF1デビューを果たし、2戦目となる第6戦イギリスGPで最後尾ながら初完走(10位)を記録した。この年はその後、マリオ・アンドレッティがマイルズとレースごとに交代しつつ2戦で63を走らせたが、完走させることはできなかったため、マイルズは63をレースで完走させた唯一のドライバーとなった(非選手権レースを除く)。
ヒルが1969年終盤戦で足を複雑骨折する重傷を負ったことでシートを失ったことにより、翌1970年、マイルズはチームのナンバー2ドライバーに昇格して新シーズンを迎えた。
この年のロータスは4WD車両の投入を一旦あきらめ、開幕戦南アフリカGPで、マイルズはロータス・49Cを駆って参戦し、ロータス勢では最上位となる5位完走を果たした。結果として、マイルズにとって、このレースがF1キャリアにおける唯一のポイント獲得レースとなる。
続く第2戦スペインGPでは、新車ロータス・72がデビューしたが、マイルズは予選落ちを喫してしまう。続く第3戦モナコGPでは、練習走行で72に問題があることが発覚したため、チームは予選で49Cを再投入するが、マイルズはまたしても予選落ちしてしまう(同じく49Cで走ったリントは優勝)。その後のレースでも、リントが再投入された72(72C)で4連勝する活躍を見せる一方、マイルズはノーポイントのレースが続き、チームメイトに大差をつけられてしまう。
リントと大差がついた要因として、ドライビングテクニックの差だけによるものではなく、車両の違いも影響したと考えられている。第2戦で投入されたロータス・72には、減速時に車体前部の沈み込みを押さえるアンチ・ダイブ、加速時に後部の沈み込みを押さえるアンチ・スクワットという新機構が備えられており、これが不具合の原因だった。第3戦で問題が発覚した後、リント車からはその両方が撤去されたが(ロータス内で「72C」と呼ばれた仕様)、チャップマンがこの機構を諦めなかったため、マイルズ車からはアンチ・スクワットのみが取り外され(「72B」)、マイルズは実験的な仕様の車両で走ることを余儀なくされた。この機構は車両のロードホールディングを良くすることを狙ったものだったが、非搭載の場合と比べてラップタイムの向上に寄与しなかったことに加えて、ドライバーが路面状況を感じることを困難にし、安定性を損なうという欠点のみがあるものだった。
9月初めに第10戦イタリアGPが開催され、このレースの土曜日の練習走行で、リントが事故死する悲劇が起き、ロータス勢はレース出走を棄権した。
チーム・ロータスは次の第11戦カナダGPを欠場し、第12戦アメリカGPにはドライバーラインナップを一新して臨むことを決定し、それに伴い、マイルズはドライバーから降ろされた。ロータスはF1以外のシートなら提供できるとマイルズに申し出たが、マイルズは拒否し、チームから去った。
1971年、マイルズはスポーツカーレースに戻り、デニス・ドビー(Denys Dobbie)に雇われ、シェブロン・B19(英語版)を駆り、同年のイギリススポーツカー選手権を制した。BRMとも開発ドライバーとして契約し、F1の非選手権レースの数戦に出走した。
1973年にレーシングドライバーを引退し、元々エンジニアリングの知識は持っていたことから、自動車エンジニアとしての仕事を始めた。この時期、イギリスの『オートカー』誌で、市販車の路上テストの連載コラム『Miles Behind The Wheel』を執筆した。
その後、1980年頃にロータス・エンジニアリング(ロータス・カーズ)にエンジニアとして加入し、18年間勤務した。その間、主にロードカー部門でエンジニアを勤めつつ、1990年代初めには週に2日はF1のチーム・ロータスで勤務し、車体のセットアップの一部を担当した。
さらにアストンマーティンに移って3年間勤務し、DB7 GT、ヴァンキッシュ(初代)といった車種に携わり、2002年頃に引退した。
その後は、ケータハムカーズやマルチマティックでコンサルタントを務め、晩年まで、若いエンジニアたちの指導やサポートにあたった。
2018年、マイルズは軽度の脳卒中を起こし、投薬により昏睡状態に置かれ、そのまま目覚めることなく死去した。
父親のバーナード・マイルズ(英語版)は舞台俳優や映画俳優を仕事としており、性格俳優として有名かつ高名で、1930年代から1980年代末まで長く活躍した人物である。マイルズの誕生後のことになるが、1953年に大英帝国勲章のコマンダー(CBE)、1969年にナイト・バチェラー(下級勲爵士)を授与され、1979年に一代貴族として男爵(マイルズ男爵)に叙された。当時のイギリスで、俳優が一代貴族位を授けられることは稀で、父バーナードはローレンス・オリヴィエ(1970年に授位)に次ぐ2例目にあたる。
母親のジョセフィン・ウィルソン・マイルズはジョセフィン・ウィルソン(英語版)として知られる女優で、1930年代から1950年代にかけて演劇や映画で活躍した。両親はロンドンのマーメイド劇場(英語版)(1951年開場)の創設者としても知られる。
両親にはマイルズのほかに2女あり、一人は両親と同様に俳優となり、もう一人は画家・彫刻家になった。
ロータスでは、グラハム・ヒルとは良好な関係を築いた。これは、ヒルがそもそも社交的な人物であることに加え、ヒルがマイルズのことを自分自身と同じく「苦労人」だと認識したためだろうとマイルズは述べている。
一方、ヨッヘン・リントからは能力的にF1ドライバーとしての資質に欠けるとみなされ、距離を置かれた。マイルズは、リントの評価はおそらく正しかったと認め、他の者にも「F1ドライバーには見えないね、地理の教師のようだ。チョークまみれのツイード製ジャケットを着るべきだったんじゃないか、皮の肘当て付きのさ」と言われたことがあると述べている。
オーナーで設計者のコーリン・チャップマンとは、ロータスで付き合う内にエンジニアリングについての考え方に隔たりが大きいと感じるようになり、マイルズとしては、(チャップマンの対極に位置づけられることが常である)ロン・トーラナックやブルース・マクラーレンのような堅実な手法を身上とする設計者たちにより近い考え方を持っていると自覚するようになった。
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"text": "ジョン・ジェレミー・マイルズ(John Jeremy Miles、1943年6月14日 - 2018年4月8日)は、イギリス出身のレーシングドライバーであり、ジョン・マイルズ(John Miles)として知られている。",
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"text": "ドライバーとしては、フォーミュラ1世界選手権(F1)には1969年から1970年にかけて出場した。1970年イタリアGPで死去したヨッヘン・リントの最後のチームメイトとして知られ、マイルズにとっても同GPがF1への最後のエントリーとなった(決勝レースへの出走は棄権)。",
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"text": "レーシングスポーツカーでは活躍したが、F1ドライバーとしての資質は高くなかったと自他ともに認めるところだった。一方、エンジニアリングの知識が豊富で、開発ドライバーとしては優秀で、チーム・ロータスやBRMで開発に貢献した。レーシングドライバーを引退した後は、エンジニアとして30年以上に渡って働き、1970年代にはイギリスの『オートカー』誌で路上テストのレビュー記事の執筆も行った。",
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] | ジョン・ジェレミー・マイルズは、イギリス出身のレーシングドライバーであり、ジョン・マイルズとして知られている。 | {{Otheruses2|イギリスのレーシングドライバー|アメリカ合衆国の政治家|ジョン・E・マイルズ}}
{{F1ドライバー
| 氏名 = ジョン・マイルズ
| Image = John Miles 1970 Nürburgring.jpg
| image-size = 220px
| 説明 = マイルズ (1970年)
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| 初戦 = [[1969年フランスグランプリ|1969年フランスGP]]
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'''ジョン・ジェレミー・マイルズ'''(John Jeremy Miles、[[1943年]][[6月14日]]{{R|MotorSportMagazine-2014-10}} - [[2018年]][[4月8日]]{{R|OldRacingCars-JohnMiles}})は、イギリス出身のレーシングドライバーであり、'''ジョン・マイルズ'''(John Miles)として知られている。
== 概要 ==
ドライバーとしては、[[フォーミュラ1|フォーミュラ1世界選手権]](F1)には{{F1|1969}}から{{F1|1970}}にかけて出場した。[[1970年イタリアグランプリ|1970年イタリアGP]]で死去した[[ヨッヘン・リント]]の最後のチームメイトとして知られ、マイルズにとっても同GPがF1への最後のエントリーとなった(決勝レースへの出走は棄権)。
レーシングスポーツカーでは活躍したが、F1ドライバーとしての資質は高くなかったと自他ともに認めるところだった{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。一方、エンジニアリングの知識が豊富で、開発ドライバーとしては優秀で、[[チーム・ロータス]]や[[ブリティッシュ・レーシング・モータース|BRM]]で開発に貢献した{{R|OldRacingCars-JohnMiles}}。レーシングドライバーを引退した後は、エンジニアとして30年以上に渡って働き、1970年代にはイギリスの『[[オートカー (雑誌)|オートカー]]』誌で路上テストのレビュー記事の執筆も行った{{R|MotorSportMagazine-2014-10|OldRacingCars-JohnMiles}}。
== 経歴 ==
父{{仮リンク|バーナード・マイルズ|en|Bernard Miles}}と、母{{仮リンク|ジョセフィン・ウィルソン|label=ジョセフィン|en|Josephine Wilson}}は、どちらもよく知られた俳優だった{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。(→[[#家族]])
父親は車の運転はできない人物で、一家の車は母親が運転していたが、その母の二人の兄弟はどちらもエンジニアで車好きでもあった{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。おじたちの話を聞いて影響を受けて育ったマイルズは、手に入る限りの[[自動車雑誌]]を読み、後述する最初の車を入手して以降、休日はガレージで作業に勤しむようになった{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。
=== レースキャリアの始まり ===
16歳の時(1960年頃)に最初の自動車として[[オースチン・7]](2シーターのNippy)を購入し、スーパースポーツ仕様を手に入れてからはイギリス各地で開催されていたレースへの参戦を始めた{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。当時のイギリスでこの趣味を持つ者としては当然のように、[[750モータークラブ]]にも所属した{{R|750MC-About}}。
1964年には、750 ㏄のオースチン・7よりも上位のカテゴリーへのステップアップを図り、イギリスの自動車メーカーである{{仮リンク|ディーヴァ (自動車メーカー)|label=ディーヴァ|en|Diva (car manufacturer)}}の1,000 ㏄の車両(ディーヴァ・GT)を手に入れた{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。
イギリス国内のスポーツカー選手権で活躍を始め、[[スポーツカー世界選手権]](国際GTマニュファクチャラーズ選手権)にも数戦スポット参戦し、1964年のニュルブルクリンク1000kmレースでは、1,000 ccクラスでクラス優勝を収めた{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。
=== ロータス加入 ===
1965年頃のマイルズは[[フォーミュラカー]]のレースには興味を持っておらず、スポーツカーレースで更なる成功を収めたいと考えていたことから、イギリスのスポーツカーレースではよく知られたエンジニアだった{{仮リンク|ジェフ・ユーレン|en|Jeff Uren}}を訪ね、それがキャリアの転機となる{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。
当初、マイルズはユーレンにディーヴァ・GT用にエンジンの改造を頼んでいたが、マイルズはユーレンの作業を手伝うようになり、ユーレンに年1,000ポンドで雇われて給料を払われるようになった{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。ユーレンに雇われて得た資金を元手に、1966年には[[ロータス・エラン]]に乗り換え、イギリス国内の選手権で出場するレースのほとんどすべてで優勝するほどの活躍をした{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。
この活躍は[[ロータス・カーズ]]の重鎮たちの目にも留まり、社長の[[コーリン・チャップマン]]から直々にスカウトされ、同年中に[[チーム・ロータス]]が走らせていた[[フォード・コーティナ|フォード・コルチナ]]やロータス・47([[ロータス・ヨーロッパ]]のレース仕様車)のステアリングホイールを任されるようになった{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。
マイルズの走りはチャップマンらを満足させ、1967年にチーム・ロータスに正式に加入し、スポーツカーと並行して[[フォーミュラ3]](F3)の{{仮リンク|ロータス・41|en|Lotus 41}}の運転も任され、1968年には国際格式のF3レースで4勝を収めた{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。
=== 1969年: 4WD F1 ===
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|Description = [[ロータス・63]](1969年)
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[[1969年のF1世界選手権]]に向け、ロータスは[[全輪駆動]]([[四輪駆動|4WD]])の[[フォーミュラ1カー]]である[[ロータス・63]]を開発した。しかし、チームの正ドライバーである[[グラハム・ヒル]]と[[ヨッヘン・リント]]は、世界選手権レースで63を運転することに難色を示し、前年以前から使用されていた[[ロータス・49]](49B)で走ることを選んだ{{Efn|ヒルはレースで乗ることは拒否したものの、レース前の練習走行では63を走らせた。リントは非選手権レースでは1戦のみ63に乗っている。}}。
63を開発したチャップマンは(前年のインディカーの[[ロータス・56]]はうまく機能したと考えていたことから)全輪駆動車を有望視していたため、同車を出走させることをあきらめず、63の開発ドライバーを任せていたマイルズを乗せてレースに参戦させることにした{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。
1969年シーズンの第5戦[[1969年フランスグランプリ|フランスGP]]で、ロータス・63のドライバーとして、マイルズはF1デビューを果たし、2戦目となる第6戦[[1969年イギリスグランプリ|イギリスGP]]で最後尾ながら初完走(10位)を記録した{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。この年はその後、[[マリオ・アンドレッティ]]がマイルズとレースごとに交代しつつ2戦で63を走らせたが、完走させることはできなかったため、マイルズは63をレースで完走させた唯一のドライバーとなった(非選手権レースを除く)。
=== 1970年: F1 ===
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|Description = [[ロータス・72]]を駆るマイルズ([[1970年オランダグランプリ|1970年オランダGP]])。第4戦以降のマイルズの72は、実験的なアンチ・ダイブ機構を持つ「72B」で、そうした機構を持たないリントの「72C」とは仕様が異なっていた{{R|F1technical-Lotus72}}。
}}
ヒルが1969年終盤戦で足を複雑骨折する重傷を負ったことでシートを失ったことにより、翌1970年、マイルズはチームのナンバー2ドライバーに昇格して新シーズンを迎えた{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。
この年のロータスは4WD車両の投入を一旦あきらめ、開幕戦[[1970年南アフリカグランプリ|南アフリカGP]]で、マイルズは[[ロータス・49|ロータス・49C]]を駆って参戦し、ロータス勢では最上位となる5位完走を果たした{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。結果として、マイルズにとって、このレースがF1キャリアにおける唯一のポイント獲得レースとなる。
続く第2戦[[1970年スペイングランプリ|スペインGP]]では、新車[[ロータス・72]]がデビューしたが、マイルズは予選落ちを喫してしまう。続く第3戦[[1970年モナコグランプリ|モナコGP]]では、練習走行で72に問題があることが発覚したため、チームは予選で49Cを再投入するが、マイルズはまたしても予選落ちしてしまう(同じく49Cで走ったリントは優勝)。その後のレースでも、リントが再投入された72(72C)で4連勝する活躍を見せる一方、マイルズはノーポイントのレースが続き、チームメイトに大差をつけられてしまう。
リントと大差がついた要因として、ドライビングテクニックの差だけによるものではなく、車両の違いも影響したと考えられている。第2戦で投入されたロータス・72には、減速時に車体前部の沈み込みを押さえるアンチ・ダイブ、加速時に後部の沈み込みを押さえるアンチ・スクワットという新機構が備えられており、これが不具合の原因だった{{R|F1technical-Lotus72}}。第3戦で問題が発覚した後、リント車からはその両方が撤去されたが(ロータス内で「72C」と呼ばれた仕様)、チャップマンがこの機構を諦めなかったため、マイルズ車からはアンチ・スクワットのみが取り外され(「72B」){{R|F1technical-Lotus72}}、マイルズは実験的な仕様の車両で走ることを余儀なくされた。この機構は車両のロードホールディングを良くすることを狙ったものだったが、非搭載の場合と比べてラップタイムの向上に寄与しなかったことに加えて、ドライバーが路面状況を感じることを困難にし、安定性を損なうという欠点のみがあるものだった{{R|F1technical-Lotus72}}。
9月初めに第10戦[[1970年イタリアグランプリ|イタリアGP]]が開催され、このレースの土曜日の練習走行で、リントが事故死する悲劇が起き、ロータス勢はレース出走を棄権した{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。
チーム・ロータスは次の第11戦[[1970年カナダグランプリ|カナダGP]]を欠場し、第12戦[[1970年アメリカグランプリ|アメリカGP]]にはドライバーラインナップを一新して臨むことを決定し、それに伴い、マイルズはドライバーから降ろされた{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}{{Efn|「マイルズがシートを降りた」と言われることがしばしばあるが、自身の意思で降りたわけではなく、ロータスによってシートを降ろされたのだとマイルズは述べている{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。この時、ロータスは同年に第3ドライバーとして49Cを3戦走らせて有望さを見せた新人の[[エマーソン・フィッティパルディ]]をエースドライバーに抜擢し、やはり若手の[[レイネ・ウィセル]]をセカンドドライバーとして新たに起用した。}}。ロータスはF1以外のシートなら提供できるとマイルズに申し出たが、マイルズは拒否し、チームから去った{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}{{Efn|この通知はチームマネージャーの[[ピーター・ウォー]]によって行われ、[[F1チーム代表|チーム代表]]であるチャップマンが全く姿を見せなかったことにマイルズは不快感を示している{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。}}。
=== その後 ===
1971年、マイルズはスポーツカーレースに戻り、デニス・ドビー(Denys Dobbie)に雇われ、{{仮リンク|シェブロン・B19|en|Chevron B19}}を駆り、同年のイギリススポーツカー選手権を制した{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。[[ブリティッシュ・レーシング・モータース|BRM]]とも開発ドライバーとして契約し、F1の非選手権レースの数戦に出走した{{R|MotorSportMagazine-2014-10|OldRacingCars-JohnMiles}}。
1973年にレーシングドライバーを引退し、元々エンジニアリングの知識は持っていたことから、自動車エンジニアとしての仕事を始めた{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。この時期、イギリスの『[[オートカー (雑誌)|オートカー]]』誌で、市販車の路上テストの連載コラム『Miles Behind The Wheel』を執筆した{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。
その後、1980年頃にロータス・エンジニアリング([[ロータス・カーズ]])にエンジニアとして加入し、18年間勤務した{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。その間、主にロードカー部門でエンジニアを勤めつつ、1990年代初めには週に2日はF1のチーム・ロータスで勤務し、車体のセットアップの一部を担当した{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。
さらに[[アストンマーティン]]に移って3年間勤務し、[[アストンマーティン・DB7|DB7 GT]]、[[アストンマーティン・ヴァンキッシュ|ヴァンキッシュ]](初代)といった車種に携わり、2002年頃に引退した{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。
その後は、[[ケータハムカーズ]]や[[マルチマティック]]でコンサルタントを務め、晩年まで、若いエンジニアたちの指導やサポートにあたった{{R|MotorSportMagazine-2014-10|OldRacingCars-JohnMiles|Goodwood-200911}}。
=== 死去 ===
2018年、マイルズは軽度の[[脳卒中]]を起こし、投薬により昏睡状態に置かれ、そのまま目覚めることなく死去した{{R|OldRacingCars-JohnMiles}}。
== 人物 ==
=== 家族 ===
父親の{{仮リンク|バーナード・マイルズ|en|Bernard Miles}}は舞台俳優や映画俳優を仕事としており、[[性格俳優]]として有名かつ高名で、1930年代から1980年代末まで長く活躍した人物である。マイルズの誕生後のことになるが、1953年に[[大英帝国勲章]]のコマンダー(CBE)、1969年に[[ナイト・バチェラー]](下級勲爵士)を授与され、1979年に[[一代貴族]]として男爵(マイルズ男爵)に叙された{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。当時のイギリスで、俳優が一代貴族位を授けられることは稀で、父バーナードは[[ローレンス・オリヴィエ]](1970年に授位)に次ぐ2例目にあたる。
母親のジョセフィン・ウィルソン・マイルズは{{仮リンク|ジョセフィン・ウィルソン|en|Josephine Wilson}}として知られる女優で、1930年代から1950年代にかけて演劇や映画で活躍した。両親はロンドンの{{仮リンク|マーメイド劇場|en|Mermaid Theatre}}(1951年開場)の創設者としても知られる。
両親にはマイルズのほかに2女あり、一人は両親と同様に俳優となり、もう一人は画家・彫刻家になった{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。
=== ロータスにおける人間関係 ===
ロータスでは、[[グラハム・ヒル]]とは良好な関係を築いた{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。これは、ヒルがそもそも社交的な人物であることに加え、ヒルがマイルズのことを自分自身と同じく「苦労人」だと認識したためだろうとマイルズは述べている{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。
一方、[[ヨッヘン・リント]]からは能力的にF1ドライバーとしての資質に欠けるとみなされ、距離を置かれた{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。マイルズは、リントの評価はおそらく正しかったと認め、他の者にも「F1ドライバーには見えないね、[[地理]]の教師のようだ。[[チョーク]]まみれの[[ツイード]]製ジャケットを着るべきだったんじゃないか、皮の肘当て付きのさ」と言われたことがあると述べている{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。
オーナーで設計者の[[コーリン・チャップマン]]とは、ロータスで付き合う内にエンジニアリングについての考え方に隔たりが大きいと感じるようになり、マイルズとしては、(チャップマンの対極に位置づけられることが常である)[[ロン・トーラナック]]や[[ブルース・マクラーレン]]のような堅実な手法を身上とする設計者たちにより近い考え方を持っていると自覚するようになった{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。
=== エピソード ===
* 1970年、マイルズはチーム・ロータスからドライバーとして参戦したが、チャップマンはマイルズのことをメカニック(grease monkey)のようなものと見ていた節があり、1レースあたり300ポンド払ったのみだった{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。旅費も自分で工面しなければならず、あるレースの後でマイルズは全くの無一文になってしまい、チャップマンに金銭を要望し、その場で紙幣を渡されたこともあった{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。
* [[1970年イタリアグランプリ|1970年イタリアGP]]の金曜日、[[ヨッヘン・リント]]は車両の前後のウィングを外して走行し、セッション最後の15分でマイルズも同じ仕様で走行を行った{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。結果、車はあまりにもオーバーステアなものとなり、マイルズは運転することは不可能だと言ってチャップマンと口論をした{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。翌朝、リントにもこの仕様で走るのはあまりにも危険だと訴えたが、リントは「大丈夫だよ、ジョン」と答えるのみだった{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。そうして、土曜午前の練習走行のセッションが始まり、マイルズがピットを出ようとした矢先、リントがクラッシュしたとの知らせが届いた{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。マイルズはそう証言する一方で、諸説あるリントの死亡事故の原因について、車両がコントロール不能に陥ったことでクラッシュしたという説{{Efn|ロータスのチームマネージャーの[[ピーター・ウォー]]らがこの説を唱えていた{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。}}は否定しており、右フロントのブレーキシャフト(インボードブレーキのトルクロッド)の破損が原因だろうと述べている{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。また、マイルズ自身もイタリアGPの前戦の[[1970年オーストリアグランプリ|オーストリアGP]]でブレーキトラブルに見舞われているが、このふたつは「全く異なるものだと強調しなければならない」とも述べている{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。
* 1970年、映画『[[栄光のル・マン]]』(1971年公開)の撮影にドライバーとして協力しており、[[フェラーリ・512S]]の運転を担当した{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。
* 1992年頃のある日、『[[オートカー (雑誌)|オートカー]]』誌の路上テストチームが{{仮リンク|へセル|en|Hethel}}のロータス・カーズを訪れ、マイルズは取材者たちにロータスの新型スポーツカーの乗り方についてのレクチャーを行っていた{{R|Goodwood-200911}}。その時、内線通話でF1チームから呼び出され、飛行機の到着が遅れていた[[ミカ・ハッキネン]]に代わって、車両のシェイクダウンを行うよう要請された(この時にF1を運転できる者がマイルズしかいなかった){{R|Goodwood-200911}}。仕事を中断させられたマイルズは憤慨しつつ、渋々引き受け、取材者に一時離席することを謝罪して、同じ施設内のテストコースに行って車を走らせた{{R|Goodwood-200911}}。1時間ほど経った後で戻ってきたマイルズは離席したことを再び謝罪した後、F1車両を走らせた直後であるにもかかわらずそのことには一切触れず、取材への対応を再開したという{{R|Goodwood-200911}}。
* ロータスを去って以降、2000年代は自動車レースとは距離を置き、イギリスの[[モダン・ジャズ]]を専門に扱ったレコードレーベルを立ち上げて運営していた{{R|MotorSportMagazine-2014-10}}。晩年の10年間は若い頃に参加していた[[750モータークラブ]]にも協力し、その貢献により、2018年に死去した後に同クラブにより「ジョン・マイルズ ヤングドライバーアワード」が創設されている{{R|750MC-About}}。
== レース戦績 ==
=== フォーミュラ1 ===
([[Template:F1 driver results legend 2|key]])
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%"
! 年
! エントラント
! シャシー
! エンジン
! 1
! 2
! 3
! 4
! 5
! 6
! 7
! 8
! 9
! 10
! 11
! 12
! 13
! {{Tooltip|WDC|ワールド・ドライバーズ・チャンピオンシップ}}
! [[F1世界選手権ポイントシステム|ポイント]]
|-
! [[1969年のF1世界選手権|1969年]]
!rowspan="5" | [[チーム・ロータス]]
! [[ロータス・63|63]]
! [[フォード・コスワース・DFVエンジン|フォード・コスワース DFV]] 3.0 [[V型8気筒|V8]]
| [[1969年南アフリカグランプリ|RSA]]
| [[1969年スペイングランプリ|ESP]]
| [[1969年モナコグランプリ|MON]]
| [[1969年オランダグランプリ|NED]]
|{{MsStatsC|ret}}| [[1969年フランスグランプリ|FRA]]<br />{{small|Ret}}
|{{MsStatsC|f}}| [[1969年イギリスグランプリ|GBR]]<br />{{small|10}}
| [[1969年ドイツグランプリ|GER]]
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| [[1969年アメリカグランプリ|USA]]
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! –
! 0
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! [[ロータス・49|49C]]
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!rowspan="4"| '''2'''
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! [[ロータス・72|72B]]
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|{{MsStatsC|ret}}| [[1970年ドイツグランプリ|GER]]<br />{{small|Ret}}
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| [[1970年カナダグランプリ|CAN]]
| [[1970年アメリカグランプリ|USA]]
| [[1970年メキシコグランプリ|MEX]]
|}
* '''太字'''は[[ポールポジション]]、''斜字''は[[ファステストラップ]]。([[:Template:F1 driver results legend 2|key]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
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<!--書籍-->
<!--雑誌・ムック-->
<!--ウェブサイト-->
<ref name="750MC-About">{{cite web|url=https://www.750mc.co.uk/about.htm |title=About |publisher=750 Motor Club |language=英語 |date= |accessdate=2023-10-08}}</ref>
<ref name="MotorSportMagazine-2014-10">{{cite web|url=https://www.motorsportmagazine.com/archive/article/october-2014/88/lunch-john-miles/ |author=Simon Taylor |title=Lunch With... John Miles |publisher=Motor Sport Magazine |page=|language=英語 |date=2014-10 |accessdate=2023-10-08}}</ref>
<ref name="OldRacingCars-JohnMiles">{{cite web|url=https://www.oldracingcars.com/driver/John_Miles |title=John Miles |author= |publisher=OldRacingCars.com |language=英語 |date=2018-04-09 |accessdate=2023-10-08}}</ref>
<ref name="F1technical-Lotus72">{{cite web|url=https://www.f1technical.net/f1db/cars/258/lotus-72 |title=Lotus 72 Ford |author= |publisher=F1technical |language=英語 |date=2018-04-09 |accessdate=2023-10-08}}</ref>
<ref name="Goodwood-200911">{{cite web|url=https://www.goodwood.com/grr/f1/john-miles-was-an-uncompromising-lotus-hero--thank-frankel-its-friday/ |title=John Miles was an uncompromising Lotus hero – Thank Frankel it’s Friday |author=Andrew Frankel |publisher=Goodwood |language=英語 |date=2020-09-11 |accessdate=2023-10-08}}</ref>
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4,838,974 | デリック・ホワイト (技術者) | デリック・ホワイト(Derrick White、1929年3月20日 - 1970年9月22日)は、イギリスの自動車技術者である。
1952年に車両設計のエンジニアとして働くためにイギリスに渡り、コンノートに加入した。その後、ジャガーに移り、ジャガー・Eタイプの車体開発にも携わった。
1963年、クーパーでそれまで主任設計者だったオーウェン・マドック(英語版)が去ったことに伴い、ホワイトはその後任となり、F1用にクーパー・T81を設計した。この車両は、1966年シーズンに投入され、同年の最終戦メキシコGPでジョン・サーティースが優勝し、1967年シーズンの開幕戦南アフリカGPではペドロ・ロドリゲスが優勝するなど、一定の成功を収めた。この時のロドリゲスがT81で挙げた優勝は、結果として、クーパーにとってF1における最後の勝利となった。
続いて、T86も設計し、1967年シーズン途中から投入された。T86は翌1968年シーズンも使用されたが、この年限りでクーパーはF1から撤退したため、これも結果として、クーパーにとって最後のF1車両となった。
ホワイトはクーパーにおける縁でジョン・サーティースと親しくなっていたことから、サーティースが1967年末にクーパーを去った際に同道し、彼のチーム・サーティースに加入した。
サーティースは1967年時点で翌年からホンダで走る契約を結んでおり、同時に、彼個人のレーシングチームであるチーム・サーティースがホンダの活動に手助けすることも約束していた。
そうして、1968年シーズンに挑んだサーティースだったが、当時のホンダが使用していたRA273は日本の本田技術研究所製で、一定の速さはあるものの、重量が非常に重い(車両規則の最低重量を200 kg以上も超過している)上に整備性も悪いという欠点を持っており、ほどなくそのことに不満を募らせることになった。ホンダ側の責任者である中村良夫も同意見であり、そこで、サーティースと中村はより軽量な新たな車体をイギリスで開発することを決断し、まず、かねてよりサーティースと関係が深かったローラのエリック・ブロードレイに設計と製造を委託して、RA300を完成させた。
RA300は1968年シーズン後半で投入されたが、並行して翌シーズンに向けて新型車を開発することになり、ホワイトに設計が任された。ローラのブロードレイではなくサーティースのホワイトが設計を任されたのは、突貫工事で開発する必要からローラに開発を委託するほかなかったRA300と異なり、RA301では、ある程度の開発の自主性をホンダとチーム・サーティース側に確保する目論見があったためである。
しかし、RA301はシーズン前に充分なテストを行えなかったことや、エンジン部品の補充が滞ったことなどに祟られ、1968年シーズンに満足な結果を得ることはなかった。
ホンダは1968年限りでF1から撤退したため、ホワイトはサーティースを離れ、その後はブリティッシュ・レイランドで働き、同社傘下のスタンダード・モーター・カンパニーが扱っていたトライアンフの仕事も手掛けた。
しかし、ほどなく、髄膜炎により、1970年に41歳の若さで死去した。 | [
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] | デリック・ホワイトは、イギリスの自動車技術者である。 | {{Infobox 人物
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'''デリック・ホワイト'''(Derrick White、[[1929年]][[3月20日]]{{R|OldRacingCars-White}} - [[1970年]][[9月22日]]{{R|OldRacingCars-White}})は、イギリスの自動車技術者である。
== 来歴 ==
1952年に車両設計のエンジニアとして働くためにイギリスに渡り、[[コンノート・エンジニアリング|コンノート]]に加入した{{R|OldRacingCars-White}}。その後、[[ジャガー (自動車)|ジャガー]]に移り、[[ジャガー・Eタイプ]]の車体開発にも携わった{{R|OldRacingCars-White}}。
=== クーパー ===
[[File:Grand Prix Zandvoort 1966, Siffert (cropped).jpg|thumb|クーパー・T81(1966年)]]
1963年、[[クーパー・カー・カンパニー|クーパー]]でそれまで主任設計者だった{{仮リンク|オーウェン・マドック|en|Owen Maddock}}が去ったことに伴い、ホワイトはその後任となり、F1用に[[クーパー・T81]]を設計した{{R|OldRacingCars-White}}。この車両は、[[1966年のF1世界選手権|1966年シーズン]]に投入され、同年の最終戦[[1966年メキシコグランプリ|メキシコGP]]で[[ジョン・サーティース]]が優勝し、[[1967年のF1世界選手権|1967年シーズン]]の開幕戦[[1967年南アフリカグランプリ|南アフリカGP]]では[[ペドロ・ロドリゲス]]が優勝するなど、一定の成功を収めた{{R|OldRacingCars-White}}。この時のロドリゲスがT81で挙げた優勝は、結果として、クーパーにとってF1における最後の勝利となった。
続いて、[[クーパー・T86|T86]]も設計し、1967年シーズン途中から投入された{{R|OldRacingCars-White}}。T86は[[1968年のF1世界選手権|翌1968年シーズン]]も使用されたが、この年限りでクーパーはF1から撤退したため、これも結果として、クーパーにとって最後のF1車両となった{{R|OldRacingCars-White}}。
=== サーティース / ホンダ ===
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ホワイトはクーパーにおける縁でジョン・サーティースと親しくなっていたことから、サーティースが1967年末にクーパーを去った際に同道し、彼の[[サーティース|チーム・サーティース]]に加入した{{R|OldRacingCars-White}}。
サーティースは1967年時点で翌年から[[ホンダF1|ホンダ]]で走る契約を結んでおり、同時に、彼個人のレーシングチームであるチーム・サーティースがホンダの活動に手助けすることも約束していた{{R|Nakamura1979_172}}。
そうして、1968年シーズンに挑んだサーティースだったが、当時のホンダが使用していた[[ホンダ・RA273|RA273]]は日本の[[本田技術研究所]]製で、一定の速さはあるものの、重量が非常に重い(車両規則の最低重量を200 kg以上も超過している)上に整備性も悪いという欠点を持っており、ほどなくそのことに不満を募らせることになった。ホンダ側の責任者である[[中村良夫 (技術者)|中村良夫]]も同意見であり{{Efn|RA273が開発されていた時期に中村はF1チームからは外れていたため、開発に全く関与しておらず、実車の走りを見たのも1967年最終戦の[[1967年メキシコグランプリ|メキシコGP]]が初めてだった{{R|Nakamura1979_173}}。}}、そこで、サーティースと中村はより軽量な新たな車体をイギリスで開発することを決断し{{Efn|F1の車体開発が日本の本田技術研究所のリソースを圧迫していたことや、予算削減を求められていたという事情もある。}}、まず、かねてよりサーティースと関係が深かったローラの[[エリック・ブロードレイ]]に設計と製造を委託して、[[ホンダ・RA300|RA300]]を完成させた{{R|Nakamura1979_190}}。
RA300は1968年シーズン後半で投入されたが、並行して翌シーズンに向けて新型車を開発することになり、ホワイトに設計が任された{{R|Nakamura1979_211}}。ローラのブロードレイではなくサーティースのホワイトが設計を任されたのは、突貫工事で開発する必要からローラに開発を委託するほかなかったRA300と異なり、RA301では、ある程度の開発の自主性をホンダとチーム・サーティース側に確保する目論見があったためである{{R|Nakamura1984_85}}。
しかし、RA301はシーズン前に充分なテストを行えなかったことや、エンジン部品の補充が滞ったことなどに祟られ{{Efn|いずれも、日本側が[[ホンダ・RA302|RA302]]を開発していたことに起因する。}}、1968年シーズンに満足な結果を得ることはなかった{{R|Nakamura1984_119}}。
=== 死去 ===
ホンダは1968年限りでF1から撤退したため、ホワイトはサーティースを離れ、その後は[[ブリティッシュ・レイランド]]で働き、同社傘下の[[トライアンフ・モーター・カンパニー|トライアンフ]]の仕事を手掛けるようになった{{R|OldRacingCars-White}}。
しかし、ほどなく、[[髄膜炎]]により、1970年に41歳の若さで死去した{{R|OldRacingCars-White}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
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<!--書籍-->
<ref name="Nakamura1979_172">[[#中村1979|グランプリレース]](中村1979)、p.172</ref>
<ref name="Nakamura1979_173">[[#中村1979|グランプリレース]](中村1979)、p.173</ref>
<ref name="Nakamura1979_190">[[#中村1979|グランプリレース]](中村1979)、p.190</ref>
<ref name="Nakamura1979_211">[[#中村1979|グランプリレース]](中村1979)、p.211</ref>
<ref name="Nakamura1984_85">[[#中村1984|HONDA F1 1964-1968]](中村1984)、「二度目のピーク」 pp.76–91中のp.85</ref>
<ref name="Nakamura1984_119">[[#中村1984|HONDA F1 1964-1968]](中村1984)、p.119</ref>
<!--雑誌・ムック-->
<!--ウェブサイト-->
<ref name="OldRacingCars-White">{{cite web|url=https://www.oldracingcars.com/teamboss/Derrick_White |title=Derrick White |author= |publisher=OldRacingCars.com |language=英語 |date=2021-07-20 |accessdate=2023-10-08}}</ref>
}}
== 参考資料 ==
; 書籍
* {{Cite book|和書|title=グランプリレース ──ホンダF-1と共に── |author=中村良夫 |year=1979-12-25 |publisher=山海堂 |isbn= |asin=B000J8BT9O |ncid=BA34300064 |ref=中村1979}}
** {{Cite book|和書|title=F-1グランプリ ──ホンダF-1と共に 1963~1968── |author=中村良夫 |year=1988-08 |publisher=三樹書房 |isbn=978-4895221290 |asin=4895221296 |ncid= |ref=中村1988}}
** {{Cite book|和書|title=F-1グランプリ ──ホンダF-1と共に 1963~1968── 愛蔵版 |author=中村良夫 |year=1998-10 |publisher=三樹書房 |isbn=978-4895222334 |asin=4895222330 |ncid=BA45272539 |ref=中村1998}}
* {{Cite book|和書|title=HONDA F1 1964-1968 |author=中村良夫 |author2=神田重巳 |author3=CAR GRAPHIC |year=1984-07-30 |publisher=二玄社 |isbn= |asin=B000J73UYW |ncid=BN04381353 |ref=中村1984}}
{{サーティース}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%88_(%E6%8A%80%E8%A1%93%E8%80%85) |
4,838,976 | ハリー・ウェスレイク | ハリー・ウェスレイク(Harry Weslake、1897年8月21日 - 1978年9月3日)はイギリスの自動車技術者である。レーシングエンジンビルダーのウェスレイク(英語版)を創業したことで知られる。
父親ヘンリー・ジョン・ウェスレイクは、ガスメーターの製造会社であるウィリー・アンド・カンパニー社(Willey and Co.)という、地元エクセターでは大きな会社を営んでいた人物で、ウェスレイクはその次男として生まれた。
ウェスレイクは勉強よりもスポーツを好み、学生時代に自転車を手に入れたが、ほどなく。オートバイが欲しくなったことで、自身で作ろうと考えた。ウェスレイクは、自転車の後輪の横にエンジンで駆動する補助輪1輪をつけたサイドカーのようなオートバイを考案した。この「オートバイ」は設計したのみで、父親が資金援助を渋ったため、実際に製造はしなかったが、これは後年登場する似たようコンセプトのウォール・オートホイール(英語版)に先んじるものだった。
1912年、15歳の時に運転免許証を取得し、この時期に父親のウィリー・アンド・カンパニー社で見習いとして働き始めた。同社では、父の計らいで、工具室、製図、鋳物、製作、といったあらゆる部門で経験を積み、これが後のエンジニアとしてのウェスレイクの基礎となる。
1914年9月に第一次世界大戦が始まると、ウェスレイクはイギリス陸軍のデヴォンシャー連隊(英語版)にすぐさま志願したが、開戦直後であり、ウィリー・アンド・カンパニー社の仕事も既に持っているということが勘案され、志願を除外される。
1915年から通勤用にオートバイに本格的に乗り始め、レースにも興味を持ち、まずはヒルクライムへの参加を始め、余暇はオートバイを改造して過ごすようになった。
1916年、18歳の時に改めてイギリス陸軍航空隊(2年後にイギリス空軍に改組)に志願し、この時は認められ、ヘイスティングスに配属されてパイロット候補生となった。候補生の訓練には内燃機関についての講習が含まれており、ウェスレイクは筋の良さを認められ、教官から航空エンジン用のキャブレターの設計試作を指示され、この時に初めてキャブレターの設計を行った。
このキャブレターは優秀で、ウェスレイクはそのアイデアを基に熟成を進め、燃料を噴霧する「センススプレー」(Senspray)という機構を備えたキャブレターを設計・開発し、1918年にその特許を取得した。
1919年に除隊したウェスレイクは、ロンドンにて、キャブレター製造会社のウェックス・キャリブレーター社(Wex)を創業した。
この時期のウェスレイクは主にオートバイのエンジンを手掛け、エンジンの中の燃焼ガスの噴流に着目し、その流量を計測・試験し、どういったアプローチが効果的に機能し、あるいは機能しないのか、その感覚を磨いていった。
この時期に、ウェスレイクはウォルター・オーウェン・ベントレーに雇われ、エンジン出力の低さに悩んでいたレース用のベントレーエンジンの開発コンサルタントを務めた。ウェスレイクは、オートバイ用エンジンと同様、エンジン内の気流のテストと調整を行うことで、ベントレーのレース用エンジンの出力を従来よりも20%から40%は向上させた。
こうした改良が奏功し、ベントレーは、1929年のル・マン24時間レースに総合優勝から4位までを独占する圧勝を史、さらに、1930年のル・マン24時間レースでも1-2フィニッシュを達成した。
1934年、ウィリアム・ライオンズと契約を結び、SSカーズのためにコンサルタントとして働き始めた。この際、それまでのSSカーズの2.5リッター直列6気筒エンジンは20馬力程度の出力だったが、ウェスレイクはそれを95馬力まで引き上げることを約束した。
1935年に同社に入社したウィリアム・ヘインズ(英語版)とも協力し、2.7リッターのエンジンを開発し、目標を上回る102馬力を発生させることに成功した。この改良について、従来はサイドバルブだったシリンダーヘッドを、オートバイ用エンジンからの着想で、オーバーヘッドバルブ(OHV)に変更したことが出力向上の決め手となった。このエンジンは、スポーツカーの「SS100」に搭載された。
ウェスレイクは第二次世界大戦(1939年 - 1945年)の戦時中もSSカーズへの協力を続け、戦後の1945年に「ジャガー」と改名された後も関与し、ヘインズやウォルター・ハッサン(英語版)と協力してジャガー・XK120のXKエンジンも手掛けた。ウェスレイクはこのエンジンをさらに発展させ、1955年のル・マン24時間レースで上位3位を独占したジャガー・Dタイプにもこのエンジンが搭載された。
1947年、サセックス州のライにファクトリーを建設し、ウェスレイク社(Weslake and Co, Ltd.)を設立した。
この会社はオースティン、オースチン・ヒーレー、コンノート、コヴェントリー・クライマックス、デイムラー、HWM、ジャガー、MG、ヴァンウォール、ウーズレーといった、イギリスの主だったエンジン製造メーカーのほとんどと取引した。
F1コンストラクターのヴァンウォールを設立したトニー・ヴァンダーヴェルは、少年時代の1930年代からウェスレイクの活躍を知っていた。1950年代に入り、当時始まったばかりのフォーミュラ1(F1)へ参戦するにあたり、自身の「シンウォール・スペシャル」(フェラーリのグランプリ車両がベース)のフェラーリエンジンのシリンダーヘッドの改造を依頼するという形で、ウェスレイクへの依頼を始めた。
その後、ヴァンウォールは独自の車両とエンジンを開発して1954年からF1に参戦を始めたが、1955年シーズンになっても成績は振るわず、エンジンを改良する依頼が再びウェスレイクに持ち込まれた。ウェスレイクは、ヴァンウォールのVバンク角60度のV型12気筒エンジンの吸気特性を改善するためシリンダーヘッドを改修した。このエンジンは285馬力程度を発生するようになり、1958年シーズンにヴァンウォールは初めて設けられたF1のコンストラクターズタイトルを獲得することになる。
オール・アメリカン・レーサーズ(AAR)からの依頼により、F1用の3リッターV型12気筒エンジンを製作することになった。
このエンジンは、当初、F1で3リッター規定が導入される1966年シーズンの序盤から投入される予定だったが、全くの新設計であるため完成が遅れ、デビューは同年9月に開催された第7戦イタリアGPまで遅れた。1966年時点で370馬力、翌1967年時点で417馬力という当時としては高い出力を発生したが、結果として、優勝したのは1967年ベルギーGPの1戦のみとなった(ニュルブルクリンクで開催されたドイツGPではトップを独走したがドライブシャフトを折ってリタイアした)。ガーニーは自製車両とエンジンによる参戦に見切りをつけ、1968年シーズンはマクラーレン・フォード(M7A)を走らせるようになり、それも短期間で終わり、その年限りでF1からは撤退した。
仕事に対しても人々に対しても、無愛想でナンセンスな態度を取ることで知られていた。
ライオンズとの最初の会合でも、SS社(ジャガー)のサイドバルブ式エンジンを酷評した。それでもSS社に協力することにしたのは、その少し前にMGの社長セシル・キンバー(英語版)と不仲になり、その競合であるSS社に協力するったことが要因だった。
エンジン技術者としては、吸入ポートの空気流への着目は1920年代当時としては先進的で、それを用いて多くのエンジンの改良を行った。一方、1960年代頃には、すでに旧式化した吸入ポート理論に傾くあまり、排気脈動の効果的な活用ができていなかったとも指摘されている。 | [
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"text": "エンジン技術者としては、吸入ポートの空気流への着目は1920年代当時としては先進的で、それを用いて多くのエンジンの改良を行った。一方、1960年代頃には、すでに旧式化した吸入ポート理論に傾くあまり、排気脈動の効果的な活用ができていなかったとも指摘されている。",
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] | ハリー・ウェスレイクはイギリスの自動車技術者である。レーシングエンジンビルダーのウェスレイクを創業したことで知られる。 | {{Infobox 人物
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}}
'''ハリー・ウェスレイク'''(Harry Weslake、[[1897年]][[8月21日]]{{R|Jaguar-Weslake}} - [[1978年]][[9月3日]]{{R|Jaguar-Weslake}})はイギリスの自動車技術者である。レーシングエンジンビルダーの{{仮リンク|ウェスレイク|en|Weslake}}を創業したことで知られる。
== 経歴 ==
父親ヘンリー・ジョン・ウェスレイクは、ガスメーターの製造会社であるウィリー・アンド・カンパニー社(Willey and Co.)という、地元[[エクセター]]では大きな会社を営んでいた人物で、ウェスレイクはその次男として生まれた{{R|Jaguar-Weslake}}。
ウェスレイクは勉強よりもスポーツを好み、学生時代に自転車を手に入れたが、ほどなく、オートバイが欲しくなったことで、自身で作ろうと考えた{{R|Jaguar-Weslake}}。ウェスレイクは、自転車の後輪の横にエンジンで駆動する補助輪1輪をつけたサイドカーのようなオートバイを考案した{{R|Jaguar-Weslake}}。この「オートバイ」は設計したのみで、父親が資金援助を渋ったため、実際に製造はしなかったが、これは後年登場する似たようコンセプトの{{仮リンク|アーサー・ウィリアム・ウォール|label=ウォール・オートホイール|en|Arthur William Wall}}に先んじるものだった{{R|Jaguar-Weslake}}。
=== 見習い期間 ===
1912年、15歳の時に[[運転免許証]]を取得し、この時期に父親のウィリー・アンド・カンパニー社で見習いとして働き始めた{{R|Jaguar-Weslake}}。同社では、父の計らいで、工具室、[[製図]]、[[鋳造|鋳物]]、製作といったあらゆる部門で経験を積み、これが後のエンジニアとしてのウェスレイクの基礎となる{{R|Jaguar-Weslake}}。
1914年9月に[[第一次世界大戦]]が始まると、ウェスレイクは[[イギリス陸軍]]の{{仮リンク|デヴォンシャー連隊|en|Devonshire Regiment}}にすぐさま志願したが、開戦直後であり、ウィリー・アンド・カンパニー社の仕事も既に持っているということが勘案され、志願の除外を受ける{{R|Jaguar-Weslake}}。
1915年から通勤用にオートバイに本格的に乗り始め、レースにも興味を持ち、まずはヒルクライムへの参加を始め、余暇はオートバイを改造して過ごすようになった{{R|Jaguar-Weslake}}。
1916年、18歳の時に改めて[[イギリス陸軍航空隊]](2年後に[[イギリス空軍]]に改組)に志願し、この時は認められ、[[ヘイスティングス]]に配属されてパイロット候補生となった{{R|Jaguar-Weslake}}。候補生の訓練には内燃機関についての講習が含まれており、ウェスレイクは筋の良さを認められ、教官から航空エンジン用の[[キャブレター]]の設計試作を指示され、この時に初めてキャブレターの設計を行った{{R|Jaguar-Weslake}}。
このキャブレターは優秀で、ウェスレイクはそのアイデアを基に熟成を進め、燃料を噴霧する「センスプレー」(Senspray)という機構を備えたキャブレターを設計・開発し、1918年にその特許を取得した{{R|Jaguar-Weslake}}。
=== Wex ===
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|Description = 1929年型[[ベントレー・スピードシックス]]の[[直列6気筒]]エンジン
}}
1919年に除隊したウェスレイクは、ロンドンにて、キャブレター製造会社のウェックス・キャリブレーター社(Wex)を創業した{{R|Jaguar-Weslake}}。
この時期のウェスレイクは主にオートバイのエンジンを手掛け、エンジンの中の燃焼ガスの噴流に着目し、その流量を計測・試験し、どういったアプローチが効果的に機能し、あるいは機能しないのか、その感覚を磨いていった{{R|Jaguar-Weslake}}。
この時期に、ウェスレイクは[[ウォルター・オーウェン・ベントレー]]に雇われ、エンジン出力の低さに悩んでいたレース用の[[ベントレー]]エンジンの開発コンサルタントを務めた{{R|Jaguar-Weslake}}。ウェスレイクは、オートバイ用エンジンと同様、エンジン内の気流のテストと調整を行うことで、ベントレーのレース用エンジンの出力を従来よりも20%から40%は向上させた{{R|Jaguar-Weslake}}。
こうした改良が奏功し、ベントレーは、[[1929年のル・マン24時間レース]]で総合優勝から4位までを独占する圧勝をし、さらに、[[1930年のル・マン24時間レース]]でも1-2フィニッシュを達成した{{R|Jaguar-Weslake}}。
=== SSカーズ / ジャガー ===
[[File:1953 Jaguar XK120 engine, right side (Hershey 2019).jpg|thumb|XK120に搭載されたXKエンジン]]
1934年{{R|GPcom-HarryWeslake}}、[[ウィリアム・ライオンズ]]と契約を結び、[[SSカーズ]]のためにコンサルタントとして働き始めた{{R|Jaguar-Weslake}}。この際、それまでのSSカーズの2.5リッター直列6気筒エンジンの最大出力は20馬力程度だったが、ウェスレイクはそれを95馬力まで引き上げることを約束した{{R|Jaguar-Weslake}}。
1935年に同社に入社した{{仮リンク|ウィリアム・ヘインズ (技術者)|label=ウィリアム・ヘインズ|en|William Heynes}}とも協力し、2.7リッターのエンジンを開発し、目標を上回る102馬力を発生させることに成功した{{R|Jaguar-Weslake}}。この改良について、従来は[[サイドバルブ]]だったシリンダーヘッドを、オートバイ用エンジンからの着想で、[[オーバーヘッドバルブ]](OHV)に変更したことが出力向上の決め手となった{{R|Jaguar-Weslake}}。このエンジンは、スポーツカーの「[[ジャガー・SS100|SS100]]」に搭載された{{R|Jaguar-Weslake}}。
ウェスレイクは[[第二次世界大戦]](1939年 - 1945年)の戦時中もSSカーズへの協力を続け、戦後の1945年に同社が「[[ジャガー (自動車)|ジャガー]]」に改名された後も関与し{{Efn|この時期、「SS」は[[親衛隊 (ナチス)|ナチス親衛隊]](SS)を想起させ、好ましく思われなくなっていたため。}}、ヘインズや{{仮リンク|ウォルター・ハッサン|en|Walter Hassan}}と協力して[[ジャガー・XK120]]の[[ジャガー・XKエンジン|XKエンジン]]も手掛けた{{R|GPcom-HarryWeslake}}。ウェスレイクはこのエンジンをさらに発展させ、[[1955年のル・マン24時間レース]]で上位3位を独占した[[ジャガー・Dタイプ]]にもこのエンジンが搭載された{{R|GPcom-HarryWeslake}}。
=== ウェスレイク ===
1947年、サセックス州(現在の[[イースト・サセックス]])の[[ライ (イングランド)|ライ]]にファクトリーを建設し、ウェスレイク社(Weslake and Co, Ltd.)を設立した{{R|Jaguar-Weslake}}。
この会社は[[オースティン]]、[[オースチン・ヒーレー]]、[[コンノート・エンジニアリング|コンノート]]、[[コヴェントリー・クライマックス]]、[[デイムラー]]、[[ハーシャム・アンド・ウォルトン・モータース|HWM]]、ジャガー、[[MG (自動車)|MG]]、[[ヴァンウォール]]、[[ウーズレー]]といった、イギリスの主だったエンジン製造メーカーのほとんどと取引した{{R|Jaguar-Weslake}}。
==== ヴァンウォール ====
F1コンストラクターの[[ヴァンウォール]]を設立した[[トニー・ヴァンダーヴェル]]は、少年時代の1930年代からウェスレイクの活躍を知っていた{{R|Jaguar-Weslake}}。1950年代に入り、当時始まったばかりの[[フォーミュラ1]](F1)へ参戦するにあたり、自身の「シンウォール・スペシャル」([[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]のグランプリ車両がベース)のフェラーリエンジンのシリンダーヘッドの改造を依頼するという形で、ウェスレイクへの依頼を始めた{{R|Jaguar-Weslake}}。
その後、ヴァンウォールは独自の車両とエンジンを開発して1954年からF1に参戦を始めたが、1955年シーズンになっても成績は振るわず、エンジンを改良する依頼が再びウェスレイクに持ち込まれた{{R|Nakamura1981_186}}。ウェスレイクは、ヴァンウォールのVバンク角60度の[[V型12気筒]]エンジンの吸気特性を改善するためシリンダーヘッドを改修した{{R|Nakamura1981_186}}。このエンジンは285馬力程度を発生するようになり{{R|Nakamura1981_186}}、[[1958年のF1世界選手権|1958年シーズン]]にヴァンウォールは初めて設けられたF1のコンストラクターズタイトルを獲得することになる{{R|GPcom-HarryWeslake}}。
==== ガーニー=ウェスレイク・V12 ====
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|Description = ガーニー=ウェスレイク・V12エンジン
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[[オール・アメリカン・レーサーズ]](AAR)からの依頼により、F1用の3リッターV型12気筒エンジンを製作することになった{{R|Nakamura1981_240}}。
このエンジンは、当初、F1で3リッター規定が導入される[[1966年のF1世界選手権|1966年シーズン]]の序盤から投入される予定だったが、全くの新設計であるため完成が遅れ、デビューは同年9月に開催された第7戦[[1966年イタリアグランプリ|イタリアGP]]まで遅れた{{R|Nakamura1981_241}}。1966年時点で370馬力、翌1967年時点で417馬力という当時としては高い出力を発生したが、結果として、優勝したのは[[1967年ベルギーグランプリ|1967年ベルギーGP]]の1戦のみとなった{{R|Nakamura1981_242}}(ニュルブルクリンクで開催された[[1967年ドイツグランプリ|ドイツGP]]ではトップを独走したがドライブシャフトを折ってリタイアした{{R|Nakamura1981_243}})。ガーニーは自製車両とエンジンによる参戦に見切りをつけ、[[1968年のF1世界選手権|1968年シーズン]]は[[マクラーレン]]・[[フォード・コスワース・DFVエンジン|フォード]]([[マクラーレン・M7A|M7A]])を走らせるようになり、それも短期間で終わり、その年限りでF1からは撤退した{{R|Nakamura1981_243}}。
== 人物 ==
仕事に対しても人々に対しても、無愛想でナンセンスな態度を取ることで知られていた{{R|Jaguar-Weslake}}。
ライオンズとの最初の会合でも、SS社(ジャガー)の[[サイドバルブ]]式エンジンを酷評した{{R|Jaguar-Weslake}}。それでもSS社に協力することにしたのは、その少し前に[[MG (自動車)|MG]]の社長{{仮リンク|セシル・キンバー|en|Cecil Kimber}}と不仲になり、その競合であるSS社に協力して意趣返しをすることが大きな動機だった{{R|Jaguar-Weslake}}。
エンジン技術者としては、吸入ポートの空気流への着目は1920年代当時としては先進的で、それを用いて多くのエンジンの改良を行った。一方、1960年代頃には、すでに旧式化した吸入ポート理論に傾くあまり、排気脈動の効果的な活用ができていなかったとも指摘されている{{R|Nakamura1981_244}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|refs=
<!--書籍-->
<ref name="Nakamura1981_186">[[#中村1981|レーシングエンジンの過去・現在・未来]](中村1981)、「2.5 Litre Vanwall」 pp.183–188中のp.186</ref>
<ref name="Nakamura1981_240">[[#中村1981|レーシングエンジンの過去・現在・未来]](中村1981)、「Eagle-Weslake V12」 pp.239–244中のp.240</ref>
<ref name="Nakamura1981_241">[[#中村1981|レーシングエンジンの過去・現在・未来]](中村1981)、「Eagle-Weslake V12」 pp.239–244中のp.241</ref>
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<!--雑誌・ムック-->
<!--ウェブサイト-->
<ref name="Jaguar-Weslake">{{cite web|url=https://www.jaguarheritage.com/jaguar-people/harry-weslake/ |title=Harry Weslake |publisher=Jaguar Daimler Heritage Trust |page=|language=英語 |date= |accessdate=2023-10-08}}</ref>
<ref name="GPcom-HarryWeslake">{{cite web|url=https://www.grandprix.com/gpe/cref-weshar.html |title=Harry Weslake |publisher=GrandPrix.com |page=|language=英語 |date= |accessdate=2023-10-08}}</ref>
}}
== 参考資料 ==
; 書籍
* {{Cite book|和書|title=レーシングエンジンの過去・現在・未来 |author=[[中村良夫 (技術者)|中村良夫]] |year=1981-11-15 |publisher=グランプリ出版 |isbn= |asin=4381004388 |ncid=BN08938229 |ref=中村1981}}
{{オール・アメリカン・レーサーズ}}
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4,838,978 | ハンス・メッツガー | ハンス・メッツガー(Hans Mezger、1929年11月29日 - 2020年6月10日)はドイツの自動車技術者である。ドイツの自動車メーカーであるポルシェのエンジン技術者として知られる。
ポルシェ社の1960年代から1980年代にかけての成功にエンジン面から貢献した人物として知られ、ポルシェ・911の最初の水平対向6気筒・空冷エンジンの設計をしたことは特に知られる。それらポルシェの水平対向6気筒エンジンは同社の代名詞的な製品となり、総称して「メッツガー・エンジン」とも呼ばれている。
同期間に、ポルシェ・956やF1などのレーシングカー用エンジンの設計をし、それらもまた大きな成功を収めた。
ヴァイマル共和政下のドイツ・ヴュルテンベルク自由人民州のオットマルスハイム(ドイツ語版)という小さな村で、旅館を営む両親の下に生まれた。生まれ故郷は州都シュトゥットガルトの北側近郊に位置し、ポルシェ社の本社工場が所在するツッフェンハウゼン地区(英語版)と近いことからポルシェが関与した車両を見かけることが多く、身近に感じる環境で育つ。
同州のシュトゥットガルト工科大学で機械工学を学び、学位を得て1956年に卒業。
1956年にポルシェ社に入社し、同社の第1工場(Works 1)開発部門に配属された。そこでエルンスト・フールマンの設計になるポルシェ・356カレラ用エンジンに携わり、同エンジンの4カムの動弁機構を担当し、特にそのバルブスプリングの不具合に取り組んだ。
1959年に設計部門に移り、F1車両のポルシェ・804用の水平対向8気筒エンジン「タイプ753(英語版)」の開発に携わる。同車は1962年に投入され、フランスGPで優勝した。これはポルシェにとって唯一のF1優勝で、空冷エンジンとしてもF1における唯一の優勝として知られる。F1参戦は十分に成功を収めていたが、ポルシェはスポーツカーレースに集中するため1962年限りでF1におけるワークス活動と開発を終了することを決定し、メッツガーは活動終了まで携わった。
F1の終了により、1963年に最初のポルシェ・911(901(英語版)・1964年発売)の2リッター・水平対向6気筒エンジンの設計を任された。メッツガーはこのエンジンを設計するにあたり、F1のタイプ753エンジンの燃焼室設計で学んだ技術を流用するなど、F1用エンジン開発で学んだテクニックを応用している。
1965年、ポルシェ社の技術部門長に就任したフェルディナント・ピエヒがレーシングカー設計部門を新たに設立し、メッツガーはレース用エンジン開発部門の責任者に任命された。
この時から1980年代にかけて、メッツガーは数々の名機を生み出すことになる。
メッツガーは、ポルシェ・917シリーズ用の4.5リッター水平対向12気筒(180度V12)の「912」エンジンを手始めに、様々なレーシングエンジンの開発を主導した。
912エンジンは自然吸気エンジンとしても大きな成功を収めたが、中でも、ターボエンジンの開発に成功したことはこの時期のメッツガーの業績として特筆される。Can-Amにおいて、大排気量(8リッター超)のシボレー制エンジンに対抗するために考案されたもので、5リッターの水平対向12気筒エンジンに、KKK製のツインターボチャージャーを搭載し、バイパスバルブを使ってターボラグを解消し、1972年(英語版)に初タイトル獲得、1973年(英語版)にポルシェ・917/30が8戦全勝という記録をポルシェにもたらした。
ポルシェ・917/30用に開発したターボエンジンの技術を市販車の911ターボ(1974年。通称「930ターボ」)へと転用する開発も主導した。
1976年にツインカム4バルブ・水平対向6気筒の「935/71」エンジンを開発し、これが後のポルシェのレーシングエンジンの基礎となる。このエンジンは1.4リッターから3.2リッターまで様々な排気量に対応するよう作られ、最初のエンジンは最大の3.2リッター(3,211 cc)のエンジンとして設計された。このエンジンはそれまでのポルシェのエンジンと異なり、バルブヘッドをシリンダーバレルと溶接し、それによってガスケットの吹き抜け(漏れ)という問題を解消したことが大きな特徴だった。クランクシャフトからカムシャフトへの駆動伝達もベルトからギア駆動方式に改め、こうした変更により、エンジンは最大で9,000 rpm程度まで回すことが可能になった。
この中で、当初はインディカー用にメッツガーが設計した2.65リッターのシングルターボエンジン「935/72」から派生する形で、1981年にグループC用の「935/76」を開発した(935/72をツインターボ化)。同エンジンとその発展型は、ポルシェ・956、962(962C)に搭載され、世界耐久選手権(WEC)やIMSA GTP、ル・マン24時間レースといったスポーツカーレースを席巻することになる。
1981年8月26日、マクラーレンのロン・デニスとジョン・バーナードがポルシェを訪れ、当時F1で隆盛を誇り、マクラーレンも使用中だったフォード・コスワース・DFVに代わるエンジンの開発を依頼する。この際、メッツガーも詳細な計画を初めて聞かされた。
この契約は10月12日に結ばれ、設計作業ははメッツガーに一任され、12月にはポルシェがエンジン供給を行うことが正式に発表された(正式な契約は1982年5月)。当時のポルシェはグループCの956向けの開発をワークス活動として行っており、並行してF1でもワークス参戦する予算を捻出できるような環境にはなかった。デニスらもそうした事情は承知の上で、開発と参戦にかかる費用はマクラーレンが負担するという形で契約が結ばれた。
1982年にデニスは出資者のマンスール・オジェとの交渉をまとめ、共同でTAGターボエンジン社(TAG Turbo Engines Ltd.)を設立し、設計図の所有権やエンジンの製造権といった権利は同社が持つことになった。そうした交渉や下準備と並行して、メッツガーはエンジンの開発を進め、1982年10月に最初の試作機が完成した。
メッツガーはグループC用にターボエンジンを設計していたが、それらを引用・転用するという考えはなく、F1用に納得がいくまで図面を作成することに時間を費やした。検討の末、(956の水平対向6気筒とは形式が全く異なる)V型6気筒のターボエンジンを開発することを決め、1982年春に図面を完成させた。メッツガーはこの依頼が舞い込む以前からプライベートで毎年何戦かF1開催中のサーキットに出向いており、他社のF1エンジンを観察することで当時のエンジンのセオリーを自分なりに分析し理解を持っており、このエンジンの開発にあたり、効率的で燃費の良いシンプルなエンジンとする方針とした。
バンク角は60度とし、同じV6エンジンでも、120度を選択したフェラーリ、80度を選択したホンダよりもだいぶ狭い。これは、車体底面のベンチュリー形状に適合させやすくする狙いがあり、Vバンク内の吸気設計に余裕が持てる点も好都合だった。エンジン出力も極端な大馬力は追い求めず、初期の出力は600馬力ほどで、DFVと比べても75馬力ほど上回る程度だった。開発が進んだことで980馬力を出力するようになったが、これも1400馬力以上を出力したとされるBMWなど、他社に比べると控えめな性能だった。一方、パワーバンドが広く、最大出力は10,000 rpmから11,500 rpmという広い範囲のエンジン回転数で発生させることが可能で、8,500 rpmほどでも充分な出力を得ることができ、中速トルクに優れるという特長を持っていた。ボッシュの電子制御によるエンジンマネージメントシステム「モトロニック」が搭載されたことにより、燃料量の調整が可能となり、高い燃費効率を実現し、これもまた大きな武器となった。
メッツガーが開発したこの1.5リッターV型6気筒のターボエンジン「TAGポルシェ・TTE PO1エンジン(イタリア語版)」と名付けられた。このエンジンはマクラーレン・MP4/2に搭載され、1984年から1986年までの3年間で、マクラーレンに3度のドライバーズチャンピオン、2度のコンストラクターズチャンピオンタイトルをもたらした。
その後、TTE PO1エンジンの主機を2基つなげてV型12気筒とした自然吸気エンジンのポルシェ・3512エンジン(英語版)(1991年)の設計も手掛けたが、このエンジンは大きな失敗に終わった。
1994年に引退し、引退後はポルシェのアンバサダーとして活動した。
2020年6月10日に死去した。
謙遜からなのか、メッツガーは、自身が果たしたエンジン開発への貢献について軽視した発言をすることが多かった。
自身がポルシェで携わったエンジンの内、「ベストエンジン」を問われて、F1用のTAGポルシェエンジンと、ポルシェ・914の後期型に搭載された901/36エンジンを挙げている。 | [
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"text": "この中で、当初はインディカー用にメッツガーが設計した2.65リッターのシングルターボエンジン「935/72」から派生する形で、1981年にグループC用の「935/76」を開発した(935/72をツインターボ化)。同エンジンとその発展型は、ポルシェ・956、962(962C)に搭載され、世界耐久選手権(WEC)やIMSA GTP、ル・マン24時間レースといったスポーツカーレースを席巻することになる。",
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"text": "1981年8月26日、マクラーレンのロン・デニスとジョン・バーナードがポルシェを訪れ、当時F1で隆盛を誇り、マクラーレンも使用中だったフォード・コスワース・DFVに代わるエンジンの開発を依頼する。この際、メッツガーも詳細な計画を初めて聞かされた。",
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"text": "この契約は10月12日に結ばれ、設計作業ははメッツガーに一任され、12月にはポルシェがエンジン供給を行うことが正式に発表された(正式な契約は1982年5月)。当時のポルシェはグループCの956向けの開発をワークス活動として行っており、並行してF1でもワークス参戦する予算を捻出できるような環境にはなかった。デニスらもそうした事情は承知の上で、開発と参戦にかかる費用はマクラーレンが負担するという形で契約が結ばれた。",
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"text": "1982年にデニスは出資者のマンスール・オジェとの交渉をまとめ、共同でTAGターボエンジン社(TAG Turbo Engines Ltd.)を設立し、設計図の所有権やエンジンの製造権といった権利は同社が持つことになった。そうした交渉や下準備と並行して、メッツガーはエンジンの開発を進め、1982年10月に最初の試作機が完成した。",
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"text": "メッツガーはグループC用にターボエンジンを設計していたが、それらを引用・転用するという考えはなく、F1用に納得がいくまで図面を作成することに時間を費やした。検討の末、(956の水平対向6気筒とは形式が全く異なる)V型6気筒のターボエンジンを開発することを決め、1982年春に図面を完成させた。メッツガーはこの依頼が舞い込む以前からプライベートで毎年何戦かF1開催中のサーキットに出向いており、他社のF1エンジンを観察することで当時のエンジンのセオリーを自分なりに分析し理解を持っており、このエンジンの開発にあたり、効率的で燃費の良いシンプルなエンジンとする方針とした。",
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"text": "バンク角は60度とし、同じV6エンジンでも、120度を選択したフェラーリ、80度を選択したホンダよりもだいぶ狭い。これは、車体底面のベンチュリー形状に適合させやすくする狙いがあり、Vバンク内の吸気設計に余裕が持てる点も好都合だった。エンジン出力も極端な大馬力は追い求めず、初期の出力は600馬力ほどで、DFVと比べても75馬力ほど上回る程度だった。開発が進んだことで980馬力を出力するようになったが、これも1400馬力以上を出力したとされるBMWなど、他社に比べると控えめな性能だった。一方、パワーバンドが広く、最大出力は10,000 rpmから11,500 rpmという広い範囲のエンジン回転数で発生させることが可能で、8,500 rpmほどでも充分な出力を得ることができ、中速トルクに優れるという特長を持っていた。ボッシュの電子制御によるエンジンマネージメントシステム「モトロニック」が搭載されたことにより、燃料量の調整が可能となり、高い燃費効率を実現し、これもまた大きな武器となった。",
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"text": "メッツガーが開発したこの1.5リッターV型6気筒のターボエンジン「TAGポルシェ・TTE PO1エンジン(イタリア語版)」と名付けられた。このエンジンはマクラーレン・MP4/2に搭載され、1984年から1986年までの3年間で、マクラーレンに3度のドライバーズチャンピオン、2度のコンストラクターズチャンピオンタイトルをもたらした。",
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"text": "自身がポルシェで携わったエンジンの内、「ベストエンジン」を問われて、F1用のTAGポルシェエンジンと、ポルシェ・914の後期型に搭載された901/36エンジンを挙げている。",
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] | ハンス・メッツガーはドイツの自動車技術者である。ドイツの自動車メーカーであるポルシェのエンジン技術者として知られる。 | {{Infobox 人物
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|職業= 自動車エンジン技術者
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}}
'''ハンス・メッツガー'''(Hans Mezger、[[1929年]][[11月29日]]{{R|ROn471_46}} - [[2020年]][[6月10日]]{{R|group="W"|OldRacingCars-HansMezger}})はドイツの自動車技術者である。ドイツの自動車メーカーである[[ポルシェ]]のエンジン技術者として知られる。
== 概要==
ポルシェ社の1960年代から1980年代にかけての成功にエンジン面から貢献した人物として知られ、[[ポルシェ・911]]の最初の[[水平対向6気筒]]・空冷エンジンの設計をしたことは特に知られる。それらポルシェの水平対向6気筒エンジンは同社の代名詞的な製品となり、総称して「メッツガー・エンジン」とも呼ばれている{{R|group="W"|MotorSportMagazine-200616}}{{Efn|「メッツガー・エンジン」の起源をどこに求めるかは諸説あり、4バルブのシリンダー(とシリンダー部に限定した水冷方式)を採用し始めた[[ポルシェ・959]](1986年)だとも言われている{{R|group="W"|MotorSportMagazine-200616}}。}}。
同期間に、[[ポルシェ・956]]やF1などのレーシングカー用エンジンの設計をし、それらもまた大きな成功を収めた{{R|Ludvigsen2004_202}}。
== 経歴 ==
[[ヴァイマル共和政]]下の[[ドイツ国|ドイツ]]・[[ヴュルテンベルク自由人民州]]の{{仮リンク|オットマルスハイム|de|Ottmarsheim (Besigheim)}}という小さな村で、旅館を営む両親の下に生まれた。生まれ故郷は州都[[シュトゥットガルト]]の北側近郊に位置し、[[ポルシェ|ポルシェ社]]の本社工場が所在する{{仮リンク|ツッフェンハウゼン|label=ツッフェンハウゼン地区|en|Zuffenhausen}}と近いことからポルシェが関与した車両を見かけることが多く、身近に感じる環境で育つ{{R|ROn495_27}}{{Efn|ポルシェ社のツッフェンハウゼンの本社工場は1938年に操業開始。同社は、1948年に[[ポルシェ・356]]を発売する以前から、委託を受けて様々な車両を開発・製造していた。}}。
同州の[[シュトゥットガルト大学|シュトゥットガルト工科大学]]で機械工学を学び、学位を得て1956年に卒業{{R|group="W"|MotorSportMagazine-1983-11|Engine-200808}}。
=== ポルシェ入社初期 ===
1956年に[[ポルシェ|ポルシェ社]]に入社し{{R|ROn495_27}}、同社の第1工場(Works 1)開発部門に配属された{{R|group="W"|MotorSportMagazine-1983-11}}。そこで[[エルンスト・フールマン]]の設計になる[[ポルシェ・356|ポルシェ・356カレラ]]用エンジンに携わり、同エンジンの4カムの[[動弁機構]]を担当し、特にそのバルブスプリングの不具合に取り組んだ{{R|group="W"|MotorSportMagazine-1983-11}}。
{{Rquote|right|レース場で空冷のポルシェ・エンジン(753)が敵を負かすことは良いことだ。したがって空冷を諦める理由はない。エンジンは極力コンパクトであるべきで、そうすれば生産車のエンジンルームに搭載するチャンスもあるだろう。{{R|Ludvigsen2004_146}} |メッツガー}}
1959年に設計部門に移り、F1車両の[[ポルシェ・804]]用の[[水平対向8気筒]]エンジン「{{仮リンク|ポルシェ・753エンジン|label=タイプ753|en|Porsche 753 engine}}」の開発に携わる{{R|Ludvigsen2004_146}}{{R|group="W"|MotorSportMagazine-1983-11}}。同車は1962年に投入され、[[1962年フランスグランプリ|フランスGP]]で優勝した{{R|group="W"|MotorSportMagazine-1983-11}}。これはポルシェにとって唯一のF1優勝で、空冷エンジンとしてもF1における唯一の優勝として知られる{{R|group="W"|Engine-200808}}。F1参戦は十分に成功を収めていたが、ポルシェはスポーツカーレースに集中するため1962年限りでF1におけるワークス活動と開発を終了することを決定し、メッツガーは活動終了まで携わった{{R|group="W"|MotorSportMagazine-1983-11}}。
F1の終了により、1963年に最初の[[ポルシェ・911]]([[ポルシェ・901|901]]・1964年発売)の2リッター・水平対向6気筒エンジンの設計を任された{{R|group="W"|Porsche-Mezger|Engine-200808}}。メッツガーはこのエンジンを設計するにあたり、F1のタイプ753エンジンの燃焼室設計で学んだ技術を流用するなど、F1用エンジン開発で学んだテクニックを応用している{{R|group="W"|MotorTrend-200611|Engine-200808}}。
=== エンジン開発責任者 ===
1965年、ポルシェ社の技術部門長に就任した[[フェルディナント・ピエヒ]]がレーシングカー設計部門を新たに設立し、メッツガーはレース用エンジン開発部門の責任者に任命された{{R|group="W"|Octane-190507-2|MotorTrend-200611}}。
この時から1980年代にかけて、メッツガーは数々の名機を生み出すことになる{{R|group="W"|Engine-200808}}。
==== 912エンジン (ポルシェ・917用) ====
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|Description = 912エンジンのカットモデル
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メッツガーは、[[ポルシェ・917]]シリーズ用の4.5リッター水平対向12気筒(180度V12)の「912」エンジンを手始めに{{R|Ludvigsen2004_178}}、様々なレーシングエンジンの開発を主導した。
912エンジンは自然吸気エンジンとしても大きな成功を収めたが、中でも、ターボエンジンの開発に成功したことはこの時期のメッツガーの業績として特筆される{{R|group="W"|Engine-200827}}。[[カナディアン-アメリカン・チャレンジカップ|Can-Am]]において、大排気量(8リッター超)の[[シボレー]]制エンジンに対抗するために考案されたもので、5リッターの水平対向12気筒エンジンに、KKK製の[[ツインターボ|ツインターボチャージャー]]を搭載し、バイパスバルブを使って[[ターボラグ]]を解消し、{{仮リンク|1972年のカナディアン-アメリカン・チャレンジカップ|label=1972年|en|1972 Can-Am season}}に初タイトル獲得、{{仮リンク|1973年のカナディアン-アメリカン・チャレンジカップ|label=1973年|en|1973 Can-Am season}}にポルシェ・917/30が8戦全勝という記録をポルシェにもたらした{{R|group="W"|Engine-200827}}。
ポルシェ・917/30用に開発したターボエンジンの技術を市販車の911ターボ(1974年。通称「930ターボ」)へと転用する開発も主導した{{R|group="W"|Porsche-Mezger|WC-200815|Engine-200827}}。
==== 935系エンジン (グループC) ====
[[File:Porsche 956 962 Group C endurance (6268832416).jpg|thumb|935/76エンジン(1981年)。グループC用。]]
1976年に[[ツインカム]]4バルブ・[[水平対向6気筒]]の「935/71」エンジンを開発し、これが後のポルシェのレーシングエンジンの基礎となる{{R|Bamsey1990_181}}。このエンジンは1.4リッターから3.2リッターまで様々な排気量に対応するよう作られ、最初のエンジンは最大の3.2リッター(3,211 cc)のエンジンとして設計された{{R|Bamsey1990_181}}。このエンジンはそれまでのポルシェのエンジンと異なり、バルブヘッドをシリンダーバレルと溶接し、それによって[[ガスケット]]の吹き抜け(漏れ)という問題を解消したことが大きな特徴だった{{R|Bamsey1990_181}}。クランクシャフトから[[カムシャフト]]への駆動伝達も[[タイミングベルト|ベルト]]から[[カムギアトレーン|ギア駆動方式]]に改め、こうした変更により、エンジンは最大で9,000 rpm程度まで回すことが可能になった{{R|Bamsey1990_181}}。
この中で、当初はインディカー用にメッツガーが設計した2.65リッターのシングルターボエンジン「935/72」から派生する形で、1981年に[[グループC]]用の「935/76」を開発した(935/72を[[ツインターボ]]化){{R|Bamsey1990_181}}。同エンジンとその発展型は、[[ポルシェ・956]]、[[ポルシェ・962|962]](962C)に搭載され、[[スポーツカー世界選手権|世界耐久選手権]](WEC)や[[IMSA GT選手権|IMSA GTP]]、[[ル・マン24時間レース]]といったスポーツカーレースを席巻することになる。
==== F1復帰 ====
[[File:TAG TTE PO1 engine front-right Porsche Museum.jpg|thumb|TAGポルシェ・TTE PO1エンジン({{F1|1983}} - {{F1|1987}})]]
1981年8月26日{{R|Ludvigsen2004_202}}、マクラーレンの[[ロン・デニス]]と[[ジョン・バーナード]]がポルシェを訪れ、当時F1で隆盛を誇り、マクラーレンも使用中だった[[フォード・コスワース・DFVエンジン|フォード・コスワース・DFV]]に代わるエンジンの開発を依頼する{{R|Ludvigsen2004_202}}{{R|group="W"|MotorSportMagazine-1983-11}}。この際、メッツガーも詳細な計画を初めて聞かされた{{R|Ludvigsen2004_202|ROn471_46}}。
この契約は10月12日に結ばれ、設計作業ははメッツガーに一任され{{R|group="W"|MotorSportMagazine-1983-11}}、12月にはポルシェがエンジン供給を行うことが正式に発表された(正式な契約は1982年5月{{R|Ludvigsen2004_202}})。当時のポルシェはグループCの956向けの開発をワークス活動として行っており、並行してF1でもワークス参戦する予算を捻出できるような環境にはなかった{{R|ROn471_46}}。デニスらもそうした事情は承知の上で、開発と参戦にかかる費用はマクラーレンが負担するという形で契約が結ばれた{{R|ROn471_46}}。
1982年にデニスは出資者の[[マンスール・オジェ]]との交渉をまとめ、共同でTAGターボエンジン社(TAG Turbo Engines Ltd.)を設立し、設計図の所有権やエンジンの製造権といった権利は同社が持つことになった{{R|ROn471_46}}{{R|group="W"|MotorSportMagazine-1983-11}}。そうした交渉や下準備と並行して、メッツガーはエンジンの開発を進め、1982年10月に最初の試作機が完成した{{R|group="W"|MotorSportMagazine-1983-11}}。
; TAGエンジンの開発
メッツガーはグループC用にターボエンジンを設計していたが、それらを引用・転用するという考えはなく、F1用に納得がいくまで図面を作成することに時間を費やした{{R|ROn471_46}}。検討の末、(956の水平対向6気筒とは形式が全く異なる)V型6気筒のターボエンジンを開発することを決め、1982年春に図面を完成させた{{R|group="W"|MotorSportMagazine-1983-11}}。メッツガーはこの依頼が舞い込む以前からプライベートで毎年何戦かF1開催中のサーキットに出向いており、他社のF1エンジンを観察することで当時のエンジンのセオリーを自分なりに分析し理解を持っており{{R|ROn471_46}}、このエンジンの開発にあたり、効率的で燃費の良いシンプルなエンジンとする方針とした{{R|group="W"|MotorSportMagazine-1983-11}}。
バンク角は60度とし{{R|Ludvigsen2004_202}}、同じV6エンジンでも、120度を選択した[[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]、80度を選択した[[ホンダF1|ホンダ]]よりもだいぶ狭い。これは、車体底面のベンチュリー形状に適合させやすくする狙いがあり、Vバンク内の吸気設計に余裕が持てる点も好都合だった{{R|Ludvigsen2004_202}}。エンジン出力も極端な大馬力は追い求めず、初期の出力は600馬力ほどで、DFVと比べても75馬力ほど上回る程度だった{{R|Nye1991_281}}。開発が進んだことで980馬力を出力するようになったが{{R|Nye1991_281}}、これも1400馬力以上を出力したとされる[[BMW]]など、他社に比べると控えめな性能だった{{R|group="W"|WC-200815}}{{Efn|TAGエンジンは予選でブースト圧を大きく高めるということができない設計となっており{{R|Nye1991_281}}、この点は{{F1|1986}}以降にドライバーから不満が出るようになったが、決勝レースでは何の問題もなかったため、(出資者のオジェが追加開発のための出費を渋り)予選専用の開発は特に行われなかった。}}。一方、パワーバンドが広く、最大出力は10,000 rpmから11,500 rpmという広い範囲のエンジン回転数で発生させることが可能で、8,500 rpmほどでも充分な出力を得ることができ、中速トルクに優れるという特長を持っていた{{R|Nye1991_281}}。ボッシュの電子制御によるエンジンマネージメントシステム「モトロニック」が搭載されたことにより、燃料量の調整が可能となり、高い燃費効率を実現し、これもまた大きな武器となった{{R|Nye1991_281}}。
メッツガーが開発したこの1.5リッターV型6気筒のターボエンジン「{{仮リンク|TAGポルシェ・TTE PO1エンジン|it|TAG Porsche TTE PO1}}」と名付けられた。このエンジンは[[マクラーレン・MP4/2]]に搭載され、{{F1|1984}}から{{F1|1986}}までの3年間で、マクラーレンに3度のドライバーズチャンピオン、2度のコンストラクターズチャンピオンタイトルをもたらした。
; 3512エンジン
その後、TTE PO1エンジンの主機を2基つなげてV型12気筒とした自然吸気エンジンの{{仮リンク|ポルシェ・3512エンジン|en|Porsche 3512}}(1991年)の設計も手掛けたが{{R|group="W"|Engine-200808}}、このエンジンは大きな失敗に終わった。
=== 引退とその後 ===
1994年に引退し{{R|ROn495_27}}、引退後はポルシェのアンバサダーとして活動した{{R|group="W"|Engine-200808}}。
2020年6月10日に死去した{{R|group="W"|Engine-200808}}。
== 人物 ==
{{Rquote|right|我々(エンジンの開発部門の人々)が使用したパーツはいずれも既に存在していたものだった。それらはそれまで適切に使用されていなかったのだ。我々はそれら部品本来の原理を再発見し、再活用しただけなのだ。{{R|group="W"|WC-200815}} |メッツガー}}
謙遜からなのか、メッツガーは、自身が果たしたエンジン開発への貢献について軽視した発言をすることが多かった{{R|group="W"|WC-200815}}。
自身がポルシェで携わったエンジンの内、「ベストエンジン」を問われて、F1用のTAGポルシェエンジンと、[[ポルシェ・914]]の後期型に搭載された901/36エンジンを挙げている{{R|group="W"|Engine-200808|Engine-200827}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
; 出版物
{{Reflist|refs=
<!--書籍-->
<ref name="Bamsey1990_181">[[#バムゼイ1990|世界のレーシングエンジン]](バムゼイ/三重1990)、p.181</ref>
<ref name="Nye1991_281">[[#ナイ1991|歴史に残るレーシングカー]](ナイ/高齋1991)、「1984年 マクラーレンTAGターボMP4/2」 pp.281–285</ref>
<ref name="Ludvigsen2004_146">[[#ルドヴィクセン2004|勝利のエンジン50選]](ルドヴィクセン/田口/檜垣2004)、「1962年ポルシェ753(1.5L水平対向8気筒)」 pp.146–149</ref>
<ref name="Ludvigsen2004_178">[[#ルドヴィクセン2004|勝利のエンジン50選]](ルドヴィクセン/田口/檜垣2004)、「1969年ポルシェ912(4.5L水平対向12気筒)」 pp.178–181</ref>
<ref name="Ludvigsen2004_202">[[#ルドヴィクセン2004|勝利のエンジン50選]](ルドヴィクセン/田口/檜垣2004)、「1987年TAG-P01(1.5LV型6気筒)」 pp.202–205</ref>
<!--雑誌・ムック-->
<ref name="ROn471_46">[[#RacingOn471|RacingOn No.471 ターボF1の時代]]、「誰にも作れない強靭なエンジンを目指した」(ハンス・メッツガー インタビュー) pp.46–49</ref>
<ref name="ROn495_27">[[#RacingOn495|RacingOn No.495 ポルシェ917]]、「開発者の独白 917の開発は完全極秘だった」(ハンス・メッツガー インタビュー) pp.27–29</ref>
}}
; ウェブサイト
{{Reflist|group="W"|refs=
<ref name="Porsche-Mezger">{{cite web|url=https://www.porsche.com/stories/dreams/dreamer-stories/a-life-full-of-powerful-dreams |title=<nowiki>Hans Mezger: Porsche's dream engineer with an eye for innovation</nowiki> |author= |publisher=Porsche |language=英語 |date= |accessdate=2023-10-08}}</ref>
<ref name="MotorSportMagazine-1983-11">{{cite web|url=https://www.motorsportmagazine.com/archive/article/november-1983/35/interview/ |title=Interview |author=Mike Cotton |publisher=Motor Sport Magazine |language=英語 |date=1983-11 |accessdate=2023-10-08}}</ref>
<ref name="MotorSportMagazine-200616">{{cite web|url=https://www.motorsportmagazine.com/articles/road-cars/the-mezger-engine-porsche-legend-created-by-a-genius/ |title=<nowiki>The Mezger engine: Porsche legend created by a genius</nowiki> |author=Andrew Frankel |publisher=Motor Sport Magazine |language=英語 |date=2020-06-16 |accessdate=2023-10-08}}</ref>
<ref name="MotorTrend-200611">{{cite web|url=https://www.motortrend.com/features/porsche-engineer-hans-mezger-obituary-1929-2020/ |title=Legendary Porsche Engineer Hans Mezger Has Died |author=Nelson Ireson |publisher=Motor Trend |language=英語 |date=2020-06-11 |accessdate=2023-10-08}}</ref>
<ref name="WC-200815">{{cite web|url=https://www.whichcar.com.au/features/hans-mezger |title=How one man built and defined Porsche’s most iconic engines |author=Andy Enright |website=<nowiki>Which Car?</nowiki> |publisher=Wheels Media |language=英語 |date=2020-08-15 |accessdate=2023-10-08}}</ref>
<ref name="Engine-200808">{{cite web|和書|url=https://engineweb.jp/article/detail/3295179 |title=ポルシェのベスト・エンジンは? 90歳で亡くなったポルシェのエンジニア、ハンス・メッツガーの答え |author=藤原よしお |website=Engine |publisher=新潮社 |language=日本語 |date=2020-08-08 |accessdate=2023-10-08}}</ref>
<ref name="Engine-200827">{{cite web|和書|url=https://engineweb.jp/article/detail/3295179 |title=90歳で逝去した“ポルシェ・エンジンの神様”、ハンス・メッツガーが遺したもの |author=藤原よしお |website=Engine |publisher=新潮社 |language=日本語 |date=2020-08-27 |accessdate=2023-10-08}}</ref>
<ref name="Octane-190507-2">{{cite web|和書|url=https://octane.jp/articles/detail/2386/2/1/1 |title=ポルシェ911エンジンの父│伝説のエンジニア、ハンス・メツガーが果たした役割(2/3) |author= |publisher=Octane |language=日本語 |date=2019-05-07 |accessdate=2023-10-09}}</ref>
<ref name="OldRacingCars-HansMezger">{{cite web|url=https://www.oldracingcars.com/teamboss/Hans_Mezger |title=Hans Mezger |author= |publisher=OldRacingCars.com |language=英語 |date=2018-07-10 |accessdate=2023-10-08}}</ref>
}}
== 参考資料 ==
; 書籍
* {{Cite book|title=International Race Engine Directory by Racecar Engineering |author=Ian Bamsey |year=1988 |publisher=G.T. Foulis |isbn=978-0854297122 |asin=085429712X |ref=1988}}
** {{Cite book|和書|title=世界のレーシングエンジン |author=イアン・バムゼイ(著)、三重宗久(訳) |year=1990-07-07 |publisher=グランプリ出版 |isbn=4-906189-99-7 |asin=4906189997 |ncid=BN05243286 |ref=バムゼイ1990}}
* {{Cite book|title=<nowiki>Famous Racing Cars: Fifty of the Greatest, from Panhard to Williams-Honda</nowiki> |author=Doug Nye |year=1989 |publisher=Harpercollins |isbn=978-1852600365 |asin=1852600365 |ref=Nye1989}}
** {{Cite book|和書|title=歴史に残るレーシングカー |author=ダグ・ナイ(著)、[[高斎正|高齋正]] |year=1991-09-21 |publisher=グランプリ出版 |isbn=4-87687-112-4 |asin=4876871124 |ncid=BA62606550 |ref=ナイ1991}}
* {{Cite book|title=Classic Racing Engines- Expert technical analysis of fifty of the greatest motorsport power units |author=Karl Ludvigsen |year=2001-03 |publisher=Haynes Publishing |isbn=978-0837617343 |asin=0837617340 |ref=Ludvigsen2001}}
** {{Cite book|和書|title=勝利のエンジン50選 |author=カール・ルドヴィクセン(著)、田口英治・檜垣和夫(共訳) |year=2004-11-10 |publisher=二玄社 |isbn=978-4544040944 |asin=4544040949 |ncid=BA69954147 |ref=ルドヴィクセン2004}}
; 雑誌 / ムック
* 『Racing On』(NCID [https://ci.nii.ac.jp/ncid/AA12806221 AA12806221])
** {{Cite book|和書|title=No.471 [ターボF1の時代] |year=2014-07-14 |publisher=三栄書房 |isbn=978-4-7796-2175-8 |asin=B00L284MT4 |id={{ASbook|RON20140531}} |ref=RacingOn471}}
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4,838,979 | フィン・ラウジング | フィン・アンダース・エギル・ラウジング(Finn Anders Egil Rausing、1955年9月1日 - )は、スウェーデン出身の実業家、ビリオネアであり、フィン・ラウジング(Finn Rausing)として知られる。テトラパック社の創業一族であり、同社を傘下に置くテトラ・ラバル社(英語版)を姉と弟とともに共同所有している。
ラウジングの祖父ルーベン・ラウジングは無菌包装技術を発明した人物で、テトラパックで事業を起こしたことで知られている。
科学者であるルーベンは1940年代に三角錐の飲料パッケージを発明していたが、無菌包装技術を発明したのは1960年代のことで、ラウジングが子供だったその頃までは祖父の事業は小さく、資金繰りにも苦労していた。
父で学者肌のガド(英語版)は同社で副社長を務め、叔父であるハンス(英語版)は(経営に適性があったことから)社長を任されており、1970年代に同社は大きく発展し、一族には莫大な富がもたらされたが、この頃にはラウジングはすでに成人しており、子供時代にその恩恵はなかった。
ラウジングも家業であるテトラパック社に入社し、1980年代に同社で財務部門の取締役を務めていたが、1990年頃に社長である叔父ハンスによって解任された。その理由は不明だが、叔父との折り合いが悪かったためだと考えられている。そのため、1990年から1993年にかけて、ラウジングはスウェーデンの大手企業であるアトラスコプコで働いた。
その頃、テトラパック社は、1991年に同国の農業機器メーカーであるデラバル社(英語版)を買収し、社名は「テトラ・ラバル」となった。そして、1993年には叔父ハンスが同社の経営から退いた。
1995年、この時点で会社の半分を所有していた叔父ハンスが自身の持ち分を売却したいとガドに申し出て、ガドはこれに応じて、約400億クローナ(約70億米ドル)で買い取った。ラウジングは姉カーステン(英語版) 、弟ヨルン(英語版)と共にそれを等分で相続し、以降はテトラ・ラバル社はラウジングと姉弟の3人によって所有される企業となった。
ガド・ラウジングがハンス・ラウジングの株式持ち分を買い取った1995年当時、テトラ・ラバル社の価値は約800億クローナだった。ラウジングら姉弟が事業を引き継いで以降、弟ヨルンの主導により、戦略的な買収や研究開発への投資によって事業の拡大に成功し、2010年代までにテトラ・ラバル社の売上高は2倍に増え、グループの時価総額は約2000億クローナに達した。同社は非上場だが、仮に上場していたとしたら、株式市場においてエリクソンやハンデルス銀行といった同国の大企業と同程度の地位を占めると考えられている。ラウジングら姉弟は、同社からの配当だけでも巨額の収入を得ることになり、それを投資に回すことでさらに資産を築いた。
2010年代の時点で、一族の中でスウェーデンに留まっているのはラウジングのみであり、ラウジング自身は、テトラ・ラバル社のストックホルム支社(同社の本社はスイス)に執務室を構えていた。その後、ラウジングもスウェーデンを離れ、2023年現在はロンドンを拠点に活動しているとされる。1995年以降、同社の事業に直接は関わっていないと考えられている。
三人全員がビリオネアであるラウジング姉弟は秘密主義であり、それぞれの人物について多くは明かされていない。ラウジングについては、スウェーデンの特殊船舶メーカーであるスウェーデンシップマリン(スウェーデン語版)や、スイスのレーシングチーム(F1チーム)であるザウバー、米国の香料メーカーであるインターナショナル・フレバー・アンド・フレグランス、といった、他の企業への投資家やオーナー(共同オーナー)としてその名が知られている。 | [
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'''フィン・アンダース・エギル・ラウジング'''(Finn Anders Egil Rausing、[[1955年]][[9月1日]] - )は、[[スウェーデン]]出身の実業家、[[ビリオネア]]であり、'''フィン・ラウジング'''(Finn Rausing)として知られる。[[テトラパック|テトラパック社]]の創業一族であり、同社を傘下に置く{{仮リンク|テトラ・ラベル|label=テトラ・ラバル社|en|Tetra Laval}}を姉と弟とともに共同所有している。
== 来歴 ==
ラウジングの祖父[[ルーベン・ラウジング]]は無菌包装技術(無菌充填包装)を発明した人物で、[[テトラパック]]で事業を起こしたことで知られている{{R|Forbes-FinnRausing}}。
科学者であるルーベンは1940年代に[[三角錐]]の飲料パッケージを発明していたが、無菌包装技術を発明したのは1960年代のことで、ラウジングが子供だったその頃までは祖父の事業は小さく、資金繰りにも苦労していた{{R|AffarsVarlden-130629}}。
父で学者肌の{{仮リンク|ガド・ラウジング|label=ガド|en|Gad Rausing}}はテトラパック社の副社長を務め、叔父で経営に適性があった{{仮リンク|ハンス・ラウジング|label=ハンス|en|Hans Rausing}}は社長を任されており、1970年代に同社は大きく発展し、一族には莫大な富がもたらされたるようになった{{R|AffarsVarlden-130629}}。しかし、この頃にはラウジングはすでに成人しており、子供時代にその恩恵はなかった{{R|AffarsVarlden-130629}}。
=== テトラ・ラバル社の買収 ===
ラウジングも家業であるテトラパック社に入社し、1980年代に同社で財務部門の取締役を務めていたが、1990年頃に社長である叔父ハンスによって解任された{{R|AffarsVarlden-130629}}。その理由は不明だが、叔父との折り合いが悪かったためだと考えられている{{R|AffarsVarlden-130629}}。そのため、1990年から1993年にかけて、ラウジングはスウェーデンの大手企業である[[アトラスコプコ]]で働いた{{R|AffarsVarlden-130629}}。
その頃、テトラパック社は、1991年に同国の農業機器メーカーである{{仮リンク|デラバル|label=デラバル社|en|DeLaval}}を買収し、社名は「テトラ・ラバル」となった。そして、1993年には叔父ハンスが同社の経営から退いた{{R|AffarsVarlden-130629}}。
1995年、この時点で会社の半分を所有していた叔父ハンスが自身の持ち分を売却したいとガドに申し出て、ガドはこれに応じて、約400億[[スウェーデン・クローナ|クローナ]]{{R|AffarsVarlden-130629}}(約70億米ドル{{R|Forbes-HansRausing}})で買い取った{{R|Forbes-FinnRausing}}。ラウジングは姉{{仮リンク|カーステン・ラウジング|label=カーステン|en|Kirsten Rausing}} 、弟{{仮リンク|ヨルン・ラウジング|label=ヨルン|en|Jörn Rausing}}と共にそれを等分で相続し、以降はテトラ・ラバル社はラウジングと姉弟の3人によって所有される企業となった{{R|AffarsVarlden-130629}}{{Efn|ハンス一家は1980年代にイギリスに移住しており{{R|Forbes-HansRausing}}、二人の子はどちらも家業に関心を持っていなかった{{R|AffarsVarlden-130629}}。加えて、ハンスの子らはラウジングら姉弟と仲が悪く、ハンスとしては、長期的な事業継続のためには、所有権をガドに全て譲ることでラウジングらに将来を委ねるのが最善という判断があったと考えられている{{R|AffarsVarlden-130629}}。}}。
=== 事業の発展 ===
ガド・ラウジングがハンス・ラウジングの株式持ち分を買い取った1995年当時、テトラ・ラバル社の価値は約800億クローナだった{{R|AffarsVarlden-130629}}。ラウジングら姉弟が事業を引き継いで以降、弟ヨルンの主導により、戦略的な買収や研究開発への投資によって事業の拡大に成功し、2010年代までにテトラ・ラバル社の売上高は2倍に増え、グループの時価総額は約2000億クローナに到達した{{R|AffarsVarlden-130629}}。同社は非上場だが、仮に上場していたとしたら、株式市場において[[エリクソン]]や[[スベンスカ・ハンデルスバンケン|ハンデルス銀行]]といった同国の大企業と同程度の地位を占めると考えられている{{R|AffarsVarlden-130629}}{{Efn|この点について、ラウジングは株式の上場([[株式公開|新規株式公開]])には関心がないと述べている{{R|AffarsVarlden-130629}}。}}。ラウジングら姉弟は、テトラ・ラバル社からの配当だけでも巨額の収入を得ることになり、それを投資に回すことでさらに資産を築いた{{R|Reuters-181025}}。
2010年代の時点で、一族の中でスウェーデンに留まっていたのはラウジングのみであり{{Efn|他の者たちは税制上の理由や平穏な生活のために国外に移住した{{R|AffarsVarlden-130629}}。}}、ラウジング自身は、テトラ・ラバル社の[[ストックホルム]]支社(同社の本社は[[スイス]])に執務室を構えていた{{R|AffarsVarlden-130629}}。その後、ラウジングもスウェーデンを離れ、2023年現在はロンドンを拠点に活動しているとされる{{R|Forbes-FinnRausing}}。1995年以降、同社の事業に直接は関わっていないと考えられている{{R|AffarsVarlden-130629}}。
== 人物 ==
三人全員がビリオネアであるラウジング姉弟は秘密主義であり、それぞれの人物について多くは明かされていない。ラウジングについては、スウェーデンの特殊船舶メーカーである{{仮リンク|スウェーデンシップマリン|sv|Swede Ship Marine}}や、スイスのレーシングチーム([[フォーミュラ1|F1]]チーム)である[[ザウバー]]、米国の[[香料]]メーカーである[[インターナショナル・フレバー・アンド・フレグランス]]、といった、他の企業への投資家やオーナー(共同オーナー)としてその名が知られている{{R|AffarsVarlden-130629|Reuters-181025|Forbes-FinnRausing}}。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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<!--書籍-->
<!--ウェブサイト-->
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<ref name="Forbes-HansRausing">{{cite web|url=https://www.forbes.com/profile/hans-rausing |title=<nowiki>Hans Rausing & family</nowiki> |publisher=Forbes |language=英語 |date=2009-11-03 |accessdate=2023-10-08}}</ref>
<ref name="Reuters-181025">{{cite web|url=https://www.reuters.com/article/us-consumer-goods-investors-exclusive-idUSKCN1MY0CU |title=Exclusive: Billionaire family behind Tetra Pak revealed as mystery IFF shareholder |author=Richa Naidu, Simon Jessop, Silke Koltrowitz |publisher=Reuters |language=英語 |date=2018-10-25 |accessdate=2023-10-08}}</ref>
<ref name="AffarsVarlden-130629">{{cite web|url=http://www.affarsvarlden.se/tidningen/article3531543.ece |archive-url=https://archive.is/20130629174923/http://www.affarsvarlden.se/tidningen/article3531543.ece#selection-691.0-691.287 |title=Förvärva, ärva, fördubbla |author=Birgitta Forsberg |website=Affärsvärlden |publisher=Talentum Media AB |language=スウェーデン語 |date=2012-09-04 |archive-date=2013-06-29 |accessdate=2023-10-08}}</ref>
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== 外部リンク ==
* [https://www.forbes.com/profile/finn-rausing Finn Rausing] - Forbes {{En icon}}
{{ザウバー}}
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4,838,984 | レミ・タフィン | レミ・タフィン(Rémi Taffin、1975年3月14日 - )は、フランス出身の自動車エンジン技術者である。
フランスの工学学校(グランゼコール)のひとつであるESTACA(英語版)で機械工学を学んだ。
1998年にESTACAを卒業し、同年にフランスのレーシングチームであるシグナチュール・チーム(当時はフォーミュラ3を主戦場としていた)にレースエンジニアとして加入し、モータースポーツのキャリアを始めた。
翌1999年、ルノーに移籍した。この頃、ルノー系のスーパーテックがフォーミュラ1(F1)でエンジン供給を行っており、タフィンはエンジン担当レースエンジニアとしてそれに関与し、リカルド・ゾンタ(BAR)、ヨス・フェルスタッペン(アロウズ)の担当エンジニアを務めた。
2000年代になるとルノーがフルワークスチーム(ルノーF1)としてF1に復帰し、タフィンは当初はジェンソン・バトン、次いでフェルナンド・アロンソのエンジン担当レースエンジニアを務めた。アロンソとチームは2005年と2006年にダブルタイトルを獲得した。
2009年にトラックサイドのエンジンパフォーマンスの責任者となり、この間にコンストラクターズタイトルを4連覇(2010年 - 2013年)したレッドブル・レーシングをはじめとする各カスタマーチームへの協力を行った。2014年にはそうしたエンジン供給のオペレーションディレクターに就任した。
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] | レミ・タフィンは、フランス出身の自動車エンジン技術者である。 | {{Infobox 人物
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'''レミ・タフィン'''(Rémi Taffin、[[1975年]][[3月14日]]{{R|OldRacingCars-RemiTaffin}} - )は、[[フランス]]出身の自動車エンジン技術者である。
== 経歴 ==
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1998年にESTACAを卒業し{{R|LinkedIn-Taffin}}、同年にフランスのレーシングチームである[[シグナチュール・チーム]](当時は[[フォーミュラ3]]を主戦場としていた)にレースエンジニアとして加入し、モータースポーツのキャリアを始めた{{R|OldRacingCars-RemiTaffin}}。
=== ルノー ===
翌1999年、[[ルノー]]に移籍した{{R|PF1-210810}}。この頃、ルノー系の[[スーパーテック]]が[[フォーミュラ1]](F1)でエンジン供給を行っており、タフィンはエンジン担当レースエンジニアとしてそれに関与し、[[リカルド・ゾンタ]]([[ブリティッシュ・アメリカン・レーシング|BAR]])、[[ヨス・フェルスタッペン]]([[アロウズ]])の担当エンジニアを務めた{{R|Oreca-211018}}。
2000年代になるとルノーがフルワークスチーム([[ルノーF1]])としてF1に復帰し、タフィンは当初は[[ジェンソン・バトン]]、次いで[[フェルナンド・アロンソ]]のエンジン担当レースエンジニアを務めた{{R|F1-210810}}。アロンソとチームは{{F1|2005}}と{{F1|2006}}にダブルタイトルを獲得した。
2009年にトラックサイドのエンジンパフォーマンスの責任者{{Efn|サーキットに持ち込まれたエンジンについて、その性能を引き出すことに責任を負っている。}}となり{{R|Oreca-211018}}、この間にコンストラクターズタイトルを4連覇({{F1|2010}} - {{F1|2013}})した[[レッドブル・レーシング]]をはじめとする各カスタマーチームへの協力を行った{{R|F1-210810}}。2014年にはそうしたエンジン供給のオペレーションディレクターに就任した{{R|Oreca-211018}}。
2016年にルノーがフルワークスチームを復帰させると、タフィンは当時のルノー・スポールF1の技術面全般の責任者となるテクニカルディレクターに任命された{{R|F1-210810|PF1-210810|Oreca-211018}}{{Efn|F1だけではなく、当時ルノーが参戦していた[[フォーミュラE]]のパワートレイン開発の責任者でもある{{R|LinkedIn-Taffin}}。}}。その後、2021年6月に退任し、20年以上勤めたルノー(この時点でF1では[[アルピーヌF1]])を去った{{R|F1-210810|Oreca-211018}}。
=== オレカ ===
2021年12月、タフィンは[[オレカ]]に加入し、テクニカルディレクターに就任した{{R|Oreca-211018|ASweb-211019|OldRacingCars-RemiTaffin}}。
== エピソード ==
* F1では、[[2006年イギリスグランプリ]]([[フェルナンド・アロンソ]]が優勝)と、[[2013年日本グランプリ (4輪)|2013年日本グランプリ]]([[セバスチャン・ベッテル]]が優勝)の2回、優勝コンストラクターに与えられるトロフィーを受け取るため、表彰台に立っている{{R|RedBull-160803}}。2006年は優勝したのはルノーだったが、2013年の時は優勝したのが[[レッドブル・レーシング]]だったため、レッドブルのシャツに着替える必要があったという{{R|RedBull-160803}}。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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<!--雑誌・ムック-->
<!--ウェブサイト-->
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<ref name="Oreca-211018">{{cite web|url=https://www.oreca.com/en/news_oreca/remi-taffin-named-new-oreca-group-technical-director/ |title=Rémi Taffin named new ORECA Group Technical Director |author= |publisher=Oreca |language=英語 |date=2021-10-18 |accessdate=2023-10-08}}</ref>
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== 外部リンク ==
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4,838,986 | レン・テリー | レオナルド・E・テリー(Leonard E. Terry、1924年2月11日 - 2014年8月25日)は、レン・テリー(Len Terry)として知られる人物で、イギリスの自動車技術者である。
テリーは1960年代から1970年代にかけてレーシングカーの車両設計者として活動し、1965年インディ500(英語版)優勝車両であるロータス・38(英語版)の設計者として特に知られ、イーグル・Mk1(T1G)やロータス・33(英語版)といったF1車両を設計したことでも知られる。
車両設計の手腕には定評があったものの、協調性に問題を抱えていたことからコンストラクター(車両製造者)に所属して設計を行うことは稀だった。キャリアの多くをフリーランスのエンジニアとして送り、設計や完成車を依頼主であるコンストラクターやチームに提供するという形で働いた。そのため、先に挙げた車両のチーム・ロータス、オール・アメリカン・レーサーズ(AAR。車名は「イーグル」)のほか、関与した依頼主はアルピーヌ、アストンマーティン、BMW、BRM、エルヴァ、ギルビ-・エンジニアリング(英語版)、シェルビー・アメリカン、チーム・サーティース(ホンダ・レーシング)、など、多数に及ぶ。
少年時代からブルックランズやクリスタル・パレス(英語版)に通ってレースを観戦し、いずれレーシングカーを設計したいと考えるようになった。
14歳で学校を出て、その後はロンドンの劇団で事務員として働いた。第二次世界大戦(1939年 - 1945年)が始まり、同僚たちが兵役のため劇団を去っていったため、テリーの昇進は速く、元から得意だった絵の腕を買われてポスター描きなどの仕事を任された。1943年、自身も兵役によりイギリス空軍に入り、計器修理班で製図係を務めた。この間、航空機用カメラを専門とする機器メーカーと協働することにもなり、インド北部(後のパキスタンに当たる地域)に展開する部隊に従軍した。
1945年(21歳頃)、兵役が終わって除隊した後、電池製造会社のエバー・レディ社に入社し、バッテリー設計に従事した。テリーはここでも絵の才能を買われ、製品の設計以外に、説明書用の説明図などの仕事も任されるようになった。
この時期に750モータークラブに入り、レースに出場するようになった。しかし、勝てなかったため、車体設計についての書籍を貪るように読み、雑誌にF1のイラストを送って売り込みをするようになった。
そうして、『オートスポーツ(英語版)』誌の編集部で、テクニカルイラストレーション(車両の断面図など)の仕事を任されるようになった。その仕事は副業だったが、次第にイラストによる収入のほうが本業である製図士としての収入よりも大きくなったため、1952年に専業のイラストレーターとなった。この後の数年、テリーはイラストレーターの仕事にたびたび飽き、イラストレーターと他の仕事を2年ほどの周期で行き来する。
1954年にテリーは受託設計を専門に扱う設計会社に入社し、イギリスの自動車会社各社からの依頼に応じて様々な部品の設計を2年ほど手掛けたが、1956年にイラストレーターに戻った。イラストレーターの仕事が暇だったため、750モータークラブで自ら設計・製作した車両で参戦することを決意した。この時に作った車両がテリーにとっての処女作である「テリヤー・マーク1」である。この車両は成功し、テリー自身の運転で活躍したことから、テリーの名は同クラブで知られるようになった。
イラストレーターの仕事に飽きたテリーは再び自動車関連の仕事に就くことにし、1958年に、ちょうど欠員が生じていたロータス・エンジニアリング社に雇われた。ロータスの仕事は忙しいものだったが、ここに至ってテリーはようやく満足できる仕事に出会い、ロータス・11(英語版)、ロータス・エリートなどの設計に製図士として携わった。そうして、短期間の内にロータスの製図チーフに昇進した。
1959年、余暇を再びレーシングカー製作に費やすようになり、「テリヤー・マーク2」を完成させた。同車は設計の依頼者であるブライアン・ハートに駆られてレースに参戦し、ハートはロータスの車両を蹴散らし、同年に開催された21レース中18レースで優勝してしまった。必然的に、アマチュアレーサーたちは(ロータスの車両ではなく)テリーの車を欲しがることになり、テリヤー・マーク2は求めに応じて販売された。テリーはロータスの社長であるコーリン・チャップマンとの折り合いが普段から悪く、そうした中でこの一件が駄目押しとなり、ロータスを追われてしまう。
実力をつけつつあったテリーが次の仕事を見つけるのは容易で、ロータスを追放されてから間を置かず、ギルビ-・エンジニアリング(英語版)にチーフデザイナーとして迎え入れられた。ギルビーには2年ほど在籍し、その間に同社のスポーツカーや、1961年と1962年には同社製のフォーミュラ1カー(F1車両)を設計した。
テリーにとって初のF1車両となった1961年用の車両(ギルビー・B型)について、当初、テリーは先進的なモノコックシャシーとして設計していた。しかし、ギルビー社の技術水準では製造に困難があったため、あえてスペースフレームシャシーに改めた。チーム体制の弱さとドライバーの技量の低さから、この車両は戦績は残せなかったが、設計そのものは高く評価され、ブルース・マクラーレンがこの車両をグッドウッド・サーキットでテストした際にはF1のコースレコードに近いタイムを記録している。
ギルビーにおける仕事も順調だったが、ここでテリーはまたしても奇禍に見舞われる。休日にオウルトン・パークでテリヤー・マーク2を走らせていたところ、路面にこぼれていたオイルを踏んだことでコースアウトし、コース脇の立ち木に激突してしまったのである。この事故により、足を骨折したほか、肺炎と血栓症を併発し、後にテリーが「全快できたのは奇跡に近かった」と述懐するほど重い症状となり、長期の入院が必要となった。
テリーが入院している内に、ギルビー社は売却されることになり、新たな経営者は今後レースを行うつもりはないと発表し、テリーは帰る職場を失った。
退院後、かつての雇い主であるコーリン・チャップマンとの関係を修復させる出来事が1962年の短期間の間に続いた。
1962年にチャップマンはレーシングスポーツカーのロータス・23(英語版)を開発し、その優秀さを認めたフランスのアルピーヌからレーシングスポーツカーの設計を依頼された。チャップマンは、多忙だったため、アルピーヌにテリーを紹介して、その仕事がテリーに回ってきた(1962年後半)。アルピーヌ社長のジャン・レデレはテリーに対して、なるべくルノー(アルピーヌの親会社)の市販車部品を使うよう指示したが、テリーはそれを無視し、ルノーから流用したのはステアリングギアボックスとアップライト(英語版)くらいで、他は独自に設計した。結局、アルピーヌがこの車を実際に製造することはなかった。
チャップマンは、その後も短期間の内にロータス・22(英語版)(フォーミュラ・ジュニア車両)のボディの設計であるとか、ロータス・エランとコルティナ(英語版)用のエンジン部品といったものの図面作成をテリーに依頼するようになった。テリーの仕事の出来栄えに満足したチャップマンは機嫌を直し、それまでロータス社のナンバー2だったマイク・コスティンが離脱(自身が創業したコスワースに専念するため同年8月に移籍)するタイミングだったこともあって、1962年中にテリーをロータスに呼び戻し、チーフデザイナーに任命した。
この招聘により再びロータスで働くことになったテリーは、基本的にインディカーの仕事を任されたが、F1でも、チャップマンの指揮の下、ロータス・25をベースにロータス・33(英語版)を設計した。この車両はロータス・25のホイールベースを伸長した程度のマイナーチェンジ車だが、1964年にダンロップが導入した新タイヤにより最適化したサスペンションを備えるとともに、車体剛性も25より高くなり、製造も簡素化された。投入2年目の1965年シーズンにジム・クラークがこの車両だけでも5勝を挙げ(シーズン通算6勝)、ロータスにダブルタイトルをもたらした。
1960年代初めまで、創設間もないチーム・ロータスはフォーミュラ1などのヨーロッパを中心に開催されている自動車レースカテゴリーを中心に活動していたが、アメリカ合衆国で開催されているインディ500への参戦を1963年から始めるという予定を立てており、チャップマンがテリーを呼び戻したのはその車両開発を任せることが主目的だった。
1962年にロータスに復帰したテリーは、インディカーの設計を全面的に任され、まず、ロータス・29(英語版)の設計を行った。この時の設計はチャップマンの指示に従い、基本的にF1のロータス・25を踏襲し、インディカーの規則に合わせてホイールベースを伸長したり、レースに合わせて燃料タンクの増槽、車体剛性の補強といった変更を加えることが主な作業となった。
この車両は1963年のインディ500(英語版)に投入され、クラークが優勝争いに絡むが、レースリーダーへの不可解な裁定もあって2位に終わった。
翌1964年のインディ500(英語版)では、ロータス・34(英語版)を投入し、予選ではクラークがトップタイムを記録し、ポールポジションを獲得した。しかし、車両完成後にダンロップタイヤを事前テストする時間を確保できていなかったことが災いし、レースでタイヤトラブルを起こして、リタイアに終わった。
1965年のインディ500(英語版)に向け、テリーはロータス・38(英語版)を設計した。ロータス・25を踏襲するよう指示された1963年や、前年型の改良のみ許された1964年とは異なり、1965年用の車両設計はチャップマンから白紙委任を受けたため、テリーはロータス・38をロータスとしては初のフルモノコック車両として設計した。同車は、参戦3年目のクラークに念願のインディ500優勝をもたらした。しかし、レース開催日の数日前にテリーはロータスとの契約を終了し、後述するAARへと移籍したため、実際にこのレースを目にすることはなかった。
1964年、ロータスにいたテリーは、ダン・ガーニーのために、レーシングスポーツカーのロータス・19(英語版)に改良を加えたワンオフ車の「ロータス・19B」を設計した。この縁で、ガーニーが1964年に設立したオール・アメリカン・レーサーズ(AAR)に雇われることになった。
AARはアメリカ合衆国のサンタアナ(カリフォルニア州)を本拠地とする一方、イギリスのライ(イースト・サセックス)にウェスレイク・エンジニアリング社(英語版)を設立して、F1用のV型12気筒エンジンの開発を目指していた。1965年半ばにチーフデザイナーとしてAARに入ったテリーは、2つの拠点の工場を監督しつつ、F1と米国のインディカー(USACチャンピオンシリーズ)の両方に対応できるシングルシーターの車両開発を始めた。
とはいえ、ガーニーはレースの賞金額が大きいインディカーのほうを本命と考えていたことから、テリーもインディカーに寄せて車両を設計し、F1についてはその車両を手直しして対応する方針とし、まずインディ仕様を製作した。続いてF1仕様を製作し、これが3リッターF1車両の「イーグル・Mk1」(T1G)として完成することになる。
イーグル・Mk1はテリーが設計したインディ500優勝車のロータス・38(前述)をベースとして設計されたため、この2車両の車体の基本構成は似通ったものになっている。結果、投入された1966年シーズンの他のF1車両に比べると全幅が広く、車重も重く、テリーの設計により完成した当初は、F1の規定最低重量を82 kgも超過する、といった弊害も生じた。インディカーとしても、燃料タンクをF1用にコンパクトな設計としたため、インディ500を戦うには容量の小ささが不利となり、ドライバーによっては燃料タンクの増設(増槽)を行った。この車両には画期的なチタニウム製の排気システムが開発され、その設計もテリーが行った。
テリーがイーグル・Mk1を完成させるまでには入社から数か月ほどの期間しかかからなかったが、この頃にはガーニーとは仕事を進める上での相性の悪さを感じるようになり、友人であるガーニーとの関係を壊す前にテリーはAARを去った。
AARから離脱することになったショックが尾を引いたことにより、テリーは1966年を無為に過ごすが、1967年初めにエルヴァ社のフランク・ニコルズからの誘いを受け、トランスアトランティック・オートモーティブ・コンサルタンツ社(TAC)を共同で設立して、委託を受けて車両設計と製造を行う事業を始めた。
同社では、シェルビー・アメリカンの依頼によりCan-Am用車両(シェルビー・キングコブラ(英語版))を再設計し、ブリティッシュ・レーシング・モータース(BRM)の依頼により、F1車両のBRM・P126の設計を行った。
どちらの車も見るべき成果はなく、ニコルズとの関係も悪化し、TACは1967年末という設立から1年足らずの内に解散した。
ニコルズと袂を分かったテリーは、独自にデザイン・オート社(Design Auto)を新たに立ち上げ、TACの時と同様の事業を始めた。この間にテリーが手掛けた仕事の内、主だったものは下記の通り。
自身のデザイン・オート社でレーシングカーの設計を依頼を受けて行っていく内、テリーは、設計や完成車を引き渡したり、製造ノウハウや製造に必要な治具を引き渡したりしているだけでは「勝てる車両」の開発には不十分で、その後の走行テストなどの結果をフィードバックして熟成していかない限り、勝てる車を作ることはできないという考えに至り、自身のコンストラクターとして「レダ」(Leda)を創設した。
最初の車両としてF5000の開発を始め、1970年2月にレダ・マーク1が完成した。設計にあたり、テリーは前述したサーティースに配慮し、サーティースに売却したF5000車両のTS5とは似ないよう心掛けた。レダの名を冠したF5000車両は、目論見通り、車体の初期トラブルを解消しつつ熟成が進められていったものの、車体に起因しないトラブルが立て続けに起きたことで最初の2年は冴えない結果に終わった。
4代目となる「LT26」は、F5000のトップクラスのドライバーであるグラハム・マクレー(英語版)によって駆られ、1972年初めに開催されたタスマンシリーズ(1972年シーズン(英語版))を席巻する。しかし、同年7月、テリーの共同出資者が唐突にレース活動の中止を発表し、テリーには何の相談もなくレダ社の設備や、保有する図面、部品といった一切をマクレーに売却してしまった。マクレーはF5000の強豪車となったLT26や、その後継車としてテリーが設計していたLT27をそのまま作り続け、自らのイニシアルから「GM1」と改名して販売するようになった。
この裏切りにより、1972年中にテリーはデザイン・オート社の設備も失ってしまい、設立した会社は解散の憂き目にあう。その後もいくつかの計画に携わることはあったものの、1977年のF1シーズン用に設計したBRM・P207の失敗で評価が地に落ちたことなどもあって、レーシングカーの設計から引退した。
レーシングカーの設計から引退した後、メルセデス・ベンツ・SSKのレプリカや、ヴィンテージバンのレプリカの製作と販売を仕事とした。そうした仕事を68歳の時(1992年頃)に引退するまで続けた。
1993年に軽い脳卒中を起こしたものの、その後も健康に過ごし、2014年に死去するまで、晩年はクラシック・チーム・ロータスの活動(ロータスの古いF1車両を動態保存)にも熱心に協力していた。
テリーが設計した車両には番号(テリヤー・ナンバー、"Terrier Number")が振られている。「13」を忌み数として避けたため、「マーク13」は存在しない。「23」以降は、それまでの「テリヤー・マーク~」という表記から「LT~」という表記に変更している。
直感的な感覚を持ったエンジニアで、設計の速さでも知られ、レーシングカーが急に必要になった際には頼りにされた。一方、率直すぎる物言いなどにより、他者と協調して作業に当たることが難しいという、自他ともに認めるところの欠点があった。
テリーは車両設計については定評があったものの、完成した車両を開発し熟成していくというプロセスには関心がなかった。そのため、チームに所属して設計した車両でも、結果が出る頃にはたいていチームを離脱した後であり、成功すればチームの力によるものとされ、失敗した場合にはテリーが批判されるということになりがちだった。
空力設計は勘に頼って行っていたが、そうして設計した車両の空力も目論見通りに機能させることができていたという。
ロータス時代、コーリン・チャップマン個人との相性は悪かったものの、車両開発においてはうまく協力し、テリーはチャップマンに意見を折れさせることのできる数少ない人物の一人でもあった
テリーは、自身のことは、「夢想家型」のチャップマンと、その対極に位置づけられる「実用設計型」のロン・トーラナックとの中間で、「純デザイナーでもなく、そうかといって純開発屋でもないぬえ的な中途半端な性格」だと評している。 | [
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"text": "ギルビーにおける仕事も順調だったが、ここでテリーはまたしても奇禍に見舞われる。休日にオウルトン・パークでテリヤー・マーク2を走らせていたところ、路面にこぼれていたオイルを踏んだことでコースアウトし、コース脇の立ち木に激突してしまったのである。この事故により、足を骨折したほか、肺炎と血栓症を併発し、後にテリーが「全快できたのは奇跡に近かった」と述懐するほど重い症状となり、長期の入院が必要となった。",
"title": "経歴"
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"text": "テリーが入院している内に、ギルビー社は売却されることになり、新たな経営者は今後レースを行うつもりはないと発表し、テリーは帰る職場を失った。",
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"text": "退院後、かつての雇い主であるコーリン・チャップマンとの関係を修復させる出来事が1962年の短期間の間に続いた。",
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"text": "1962年にチャップマンはレーシングスポーツカーのロータス・23(英語版)を開発し、その優秀さを認めたフランスのアルピーヌからレーシングスポーツカーの設計を依頼された。チャップマンは、多忙だったため、アルピーヌにテリーを紹介して、その仕事がテリーに回ってきた(1962年後半)。アルピーヌ社長のジャン・レデレはテリーに対して、なるべくルノー(アルピーヌの親会社)の市販車部品を使うよう指示したが、テリーはそれを無視し、ルノーから流用したのはステアリングギアボックスとアップライト(英語版)くらいで、他は独自に設計した。結局、アルピーヌがこの車を実際に製造することはなかった。",
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"text": "チャップマンは、その後も短期間の内にロータス・22(英語版)(フォーミュラ・ジュニア車両)のボディの設計であるとか、ロータス・エランとコルティナ(英語版)用のエンジン部品といったものの図面作成をテリーに依頼するようになった。テリーの仕事の出来栄えに満足したチャップマンは機嫌を直し、それまでロータス社のナンバー2だったマイク・コスティンが離脱(自身が創業したコスワースに専念するため同年8月に移籍)するタイミングだったこともあって、1962年中にテリーをロータスに呼び戻し、チーフデザイナーに任命した。",
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"text": "この招聘により再びロータスで働くことになったテリーは、基本的にインディカーの仕事を任されたが、F1でも、チャップマンの指揮の下、ロータス・25をベースにロータス・33(英語版)を設計した。この車両はロータス・25のホイールベースを伸長した程度のマイナーチェンジ車だが、1964年にダンロップが導入した新タイヤにより最適化したサスペンションを備えるとともに、車体剛性も25より高くなり、製造も簡素化された。投入2年目の1965年シーズンにジム・クラークがこの車両だけでも5勝を挙げ(シーズン通算6勝)、ロータスにダブルタイトルをもたらした。",
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"text": "1960年代初めまで、創設間もないチーム・ロータスはフォーミュラ1などのヨーロッパを中心に開催されている自動車レースカテゴリーを中心に活動していたが、アメリカ合衆国で開催されているインディ500への参戦を1963年から始めるという予定を立てており、チャップマンがテリーを呼び戻したのはその車両開発を任せることが主目的だった。",
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"text": "1962年にロータスに復帰したテリーは、インディカーの設計を全面的に任され、まず、ロータス・29(英語版)の設計を行った。この時の設計はチャップマンの指示に従い、基本的にF1のロータス・25を踏襲し、インディカーの規則に合わせてホイールベースを伸長したり、レースに合わせて燃料タンクの増槽、車体剛性の補強といった変更を加えることが主な作業となった。",
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"text": "この車両は1963年のインディ500(英語版)に投入され、クラークが優勝争いに絡むが、レースリーダーへの不可解な裁定もあって2位に終わった。",
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"text": "翌1964年のインディ500(英語版)では、ロータス・34(英語版)を投入し、予選ではクラークがトップタイムを記録し、ポールポジションを獲得した。しかし、車両完成後にダンロップタイヤを事前テストする時間を確保できていなかったことが災いし、レースでタイヤトラブルを起こして、リタイアに終わった。",
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"text": "1965年のインディ500(英語版)に向け、テリーはロータス・38(英語版)を設計した。ロータス・25を踏襲するよう指示された1963年や、前年型の改良のみ許された1964年とは異なり、1965年用の車両設計はチャップマンから白紙委任を受けたため、テリーはロータス・38をロータスとしては初のフルモノコック車両として設計した。同車は、参戦3年目のクラークに念願のインディ500優勝をもたらした。しかし、レース開催日の数日前にテリーはロータスとの契約を終了し、後述するAARへと移籍したため、実際にこのレースを目にすることはなかった。",
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"text": "1964年、ロータスにいたテリーは、ダン・ガーニーのために、レーシングスポーツカーのロータス・19(英語版)に改良を加えたワンオフ車の「ロータス・19B」を設計した。この縁で、ガーニーが1964年に設立したオール・アメリカン・レーサーズ(AAR)に雇われることになった。",
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"text": "AARはアメリカ合衆国のサンタアナ(カリフォルニア州)を本拠地とする一方、イギリスのライ(イースト・サセックス)にウェスレイク・エンジニアリング社(英語版)を設立して、F1用のV型12気筒エンジンの開発を目指していた。1965年半ばにチーフデザイナーとしてAARに入ったテリーは、2つの拠点の工場を監督しつつ、F1と米国のインディカー(USACチャンピオンシリーズ)の両方に対応できるシングルシーターの車両開発を始めた。",
"title": "経歴"
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"text": "とはいえ、ガーニーはレースの賞金額が大きいインディカーのほうを本命と考えていたことから、テリーもインディカーに寄せて車両を設計し、F1についてはその車両を手直しして対応する方針とし、まずインディ仕様を製作した。続いてF1仕様を製作し、これが3リッターF1車両の「イーグル・Mk1」(T1G)として完成することになる。",
"title": "経歴"
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"text": "イーグル・Mk1はテリーが設計したインディ500優勝車のロータス・38(前述)をベースとして設計されたため、この2車両の車体の基本構成は似通ったものになっている。結果、投入された1966年シーズンの他のF1車両に比べると全幅が広く、車重も重く、テリーの設計により完成した当初は、F1の規定最低重量を82 kgも超過する、といった弊害も生じた。インディカーとしても、燃料タンクをF1用にコンパクトな設計としたため、インディ500を戦うには容量の小ささが不利となり、ドライバーによっては燃料タンクの増設(増槽)を行った。この車両には画期的なチタニウム製の排気システムが開発され、その設計もテリーが行った。",
"title": "経歴"
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"text": "テリーがイーグル・Mk1を完成させるまでには入社から数か月ほどの期間しかかからなかったが、この頃にはガーニーとは仕事を進める上での相性の悪さを感じるようになり、友人であるガーニーとの関係を壊す前にテリーはAARを去った。",
"title": "経歴"
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"text": "AARから離脱することになったショックが尾を引いたことにより、テリーは1966年を無為に過ごすが、1967年初めにエルヴァ社のフランク・ニコルズからの誘いを受け、トランスアトランティック・オートモーティブ・コンサルタンツ社(TAC)を共同で設立して、委託を受けて車両設計と製造を行う事業を始めた。",
"title": "経歴"
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"text": "同社では、シェルビー・アメリカンの依頼によりCan-Am用車両(シェルビー・キングコブラ(英語版))を再設計し、ブリティッシュ・レーシング・モータース(BRM)の依頼により、F1車両のBRM・P126の設計を行った。",
"title": "経歴"
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"text": "どちらの車も見るべき成果はなく、ニコルズとの関係も悪化し、TACは1967年末という設立から1年足らずの内に解散した。",
"title": "経歴"
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"text": "ニコルズと袂を分かったテリーは、独自にデザイン・オート社(Design Auto)を新たに立ち上げ、TACの時と同様の事業を始めた。この間にテリーが手掛けた仕事の内、主だったものは下記の通り。",
"title": "経歴"
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"text": "自身のデザイン・オート社でレーシングカーの設計を依頼を受けて行っていく内、テリーは、設計や完成車を引き渡したり、製造ノウハウや製造に必要な治具を引き渡したりしているだけでは「勝てる車両」の開発には不十分で、その後の走行テストなどの結果をフィードバックして熟成していかない限り、勝てる車を作ることはできないという考えに至り、自身のコンストラクターとして「レダ」(Leda)を創設した。",
"title": "経歴"
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"text": "最初の車両としてF5000の開発を始め、1970年2月にレダ・マーク1が完成した。設計にあたり、テリーは前述したサーティースに配慮し、サーティースに売却したF5000車両のTS5とは似ないよう心掛けた。レダの名を冠したF5000車両は、目論見通り、車体の初期トラブルを解消しつつ熟成が進められていったものの、車体に起因しないトラブルが立て続けに起きたことで最初の2年は冴えない結果に終わった。",
"title": "経歴"
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"text": "4代目となる「LT26」は、F5000のトップクラスのドライバーであるグラハム・マクレー(英語版)によって駆られ、1972年初めに開催されたタスマンシリーズ(1972年シーズン(英語版))を席巻する。しかし、同年7月、テリーの共同出資者が唐突にレース活動の中止を発表し、テリーには何の相談もなくレダ社の設備や、保有する図面、部品といった一切をマクレーに売却してしまった。マクレーはF5000の強豪車となったLT26や、その後継車としてテリーが設計していたLT27をそのまま作り続け、自らのイニシアルから「GM1」と改名して販売するようになった。",
"title": "経歴"
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"text": "この裏切りにより、1972年中にテリーはデザイン・オート社の設備も失ってしまい、設立した会社は解散の憂き目にあう。その後もいくつかの計画に携わることはあったものの、1977年のF1シーズン用に設計したBRM・P207の失敗で評価が地に落ちたことなどもあって、レーシングカーの設計から引退した。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 37,
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"text": "レーシングカーの設計から引退した後、メルセデス・ベンツ・SSKのレプリカや、ヴィンテージバンのレプリカの製作と販売を仕事とした。そうした仕事を68歳の時(1992年頃)に引退するまで続けた。",
"title": "経歴"
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"text": "1993年に軽い脳卒中を起こしたものの、その後も健康に過ごし、2014年に死去するまで、晩年はクラシック・チーム・ロータスの活動(ロータスの古いF1車両を動態保存)にも熱心に協力していた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 39,
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"text": "テリーが設計した車両には番号(テリヤー・ナンバー、\"Terrier Number\")が振られている。「13」を忌み数として避けたため、「マーク13」は存在しない。「23」以降は、それまでの「テリヤー・マーク~」という表記から「LT~」という表記に変更している。",
"title": "作品"
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"text": "直感的な感覚を持ったエンジニアで、設計の速さでも知られ、レーシングカーが急に必要になった際には頼りにされた。一方、率直すぎる物言いなどにより、他者と協調して作業に当たることが難しいという、自他ともに認めるところの欠点があった。",
"title": "エンジニアとしての特徴"
},
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"text": "テリーは車両設計については定評があったものの、完成した車両を開発し熟成していくというプロセスには関心がなかった。そのため、チームに所属して設計した車両でも、結果が出る頃にはたいていチームを離脱した後であり、成功すればチームの力によるものとされ、失敗した場合にはテリーが批判されるということになりがちだった。",
"title": "エンジニアとしての特徴"
},
{
"paragraph_id": 42,
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"text": "空力設計は勘に頼って行っていたが、そうして設計した車両の空力も目論見通りに機能させることができていたという。",
"title": "エンジニアとしての特徴"
},
{
"paragraph_id": 43,
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"text": "ロータス時代、コーリン・チャップマン個人との相性は悪かったものの、車両開発においてはうまく協力し、テリーはチャップマンに意見を折れさせることのできる数少ない人物の一人でもあった",
"title": "エンジニアとしての特徴"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "テリーは、自身のことは、「夢想家型」のチャップマンと、その対極に位置づけられる「実用設計型」のロン・トーラナックとの中間で、「純デザイナーでもなく、そうかといって純開発屋でもないぬえ的な中途半端な性格」だと評している。",
"title": "エンジニアとしての特徴"
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] | レオナルド・E・テリーは、レン・テリーとして知られる人物で、イギリスの自動車技術者である。 | {{Infobox 人物
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|name = レン・テリー<br/>Len Terry
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|職業= 自動車技術者
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'''レオナルド・E・テリー'''(Leonard E. Terry、[[1924年]][[2月11日]]{{R|group="W"|OldRacingCars-LenTerry}} - [[2014年]][[8月25日]]{{R|group="W"|OldRacingCars-LenTerry}})は、'''レン・テリー'''(Len Terry)として知られる人物で、イギリスの自動車技術者である。
== 概要 ==
テリーは1960年代から1970年代にかけてレーシングカーの車両設計者として活動し、{{仮リンク|1965年のインディ500|label=1965年インディ500|en|1965 Indianapolis 500}}優勝車両である{{仮リンク|ロータス・38|en|Lotus 38}}の設計者として特に知られ、[[イーグル・Mk1]](T1G)や{{仮リンク|ロータス・33|en|Lotus 33}}といったF1車両を設計したことでも知られる。
車両設計の手腕には定評があったものの、協調性に問題を抱えていたことからコンストラクター(車両の設計製造を行う会社組織)に従業員として所属して設計を行うことは稀だった{{R|group="W"|MotorSportMagazine-140827}}。キャリアの多くをフリーランスのエンジニアとして送り、設計や完成車を依頼主であるコンストラクターやチームに提供するという形で働いた{{R|group="W"|MotorSportMagazine-140827}}。そのため、先に挙げた車両の[[チーム・ロータス]]、[[オール・アメリカン・レーサーズ]](AAR。車名は「イーグル」)のほか、関与した依頼主は[[アルピーヌ]]、[[アストンマーティン]]、[[BMW]]、[[ブリティッシュ・レーシング・モータース|BRM]]、[[エルヴァ (自動車)|エルヴァ]]、{{仮リンク|ギルビ-・エンジニアリング|en|Gilby Engineering}}、[[シェルビー・アメリカン]]、[[サーティース|チーム・サーティース]]([[ホンダF1|ホンダ・レーシング]])、など、多数に及ぶ{{R|group="W"|MotorSportMagazine-140827}}。
== 経歴 ==
=== 初期 ===
少年時代から[[ブルックランズ]]や{{仮リンク|クリスタル・パレス・サーキット|label=クリスタル・パレス|en|Crystal Palace circuit}}に通ってレースを観戦し、いずれレーシングカーを設計したいと考えるようになった{{R|group="W"|MotorSportMagazine-2014-03}}。
14歳で学校を出て、その後はロンドンの劇団で事務員として働いた{{R|group="W"|MotorSportMagazine-2014-03}}。[[第二次世界大戦]](1939年 - 1945年)が始まり、同僚たちが兵役のため劇団を去っていったため、テリーの昇進は速く、元から得意だった絵の腕を買われてポスター描きなどの仕事を任された{{R|group="W"|MotorSportMagazine-2014-03}}。1943年、自身も兵役により[[イギリス空軍]]に入り、計器修理班で製図係を務めた{{R|Terry1975_17}}。この間、航空機用カメラを専門とする機器メーカーと協働することにもなり、[[インド]]北部(後の[[パキスタン]]に当たる地域)に展開する部隊に従軍した{{R|group="W"|OldRacingCars-LenTerry}}。
1945年(21歳頃)、兵役が終わって除隊した後、電池製造会社の[[エナジャイザー|エバー・レディ社]]に入社し、バッテリー設計に従事した{{R|Terry1975_17}}。テリーはここでも絵の才能を買われ、製品の設計以外に、説明書用の説明図などの仕事も任されるようになった{{R|Terry1975_17}}。
この時期に[[750モータークラブ]]に入り、レースに出場するようになった{{R|group="W"|MotorSportMagazine-2014-03}}。しかし、勝てなかったため、車体設計についての書籍を貪るように読み、雑誌にF1のイラストを送って売り込みをするようになった{{R|group="W"|MotorSportMagazine-2014-03}}。
そうして、『{{仮リンク|オートスポーツ (イギリスの雑誌)|label=オートスポーツ|en|Autosport}}』誌の編集部で、[[テクニカルイラストレーション]](車両の[[断面図]]など{{R|group="W"|Autosport-140827}})の仕事を任されるようになった{{R|Terry1975_17}}{{R|group="W"|MotorSportMagazine-2014-03}}。その仕事は副業だったが、次第にイラストによる収入のほうが本業である製図士としての収入よりも大きくなったため、1952年に専業のイラストレーターとなった{{R|Terry1975_17}}。この後の数年、テリーはイラストレーターの仕事にたびたび飽き、イラストレーターと他の仕事を2年ほどの周期で行き来する。
=== ロータス ===
1954年にテリーは受託設計を専門に扱う設計会社に入社し、イギリスの自動車会社各社からの依頼に応じて様々な部品の設計を2年ほど手掛けたが、1956年にイラストレーターに戻った{{R|Terry1975_18}}。イラストレーターの仕事が暇だったため、750モータークラブで自ら設計・製作した車両で参戦することを決意した{{R|Terry1975_18}}。この時に作った車両がテリーにとっての処女作である「テリヤー・マーク1」である{{R|Terry1975_18}}。この車両は成功し、テリー自身の運転で活躍したことから、テリーの名は同クラブで知られるようになった{{R|Terry1975_18}}{{Efn|この後でテリーを雇うロータスの[[コーリン・チャップマン]]は750モータークラブの中心人物。なお、テリーには「レース専用車」を持つような資金的な余裕などなく、テリヤー・マーク1はこの後のロータス社への通勤など、自家用車としても使われた。}}。
イラストレーターの仕事に飽きたテリーは再び自動車関連の仕事に就くことにし、1958年に、ちょうど欠員が生じていた[[ロータス・カーズ|ロータス・エンジニアリング社]]に雇われた{{R|Terry1975_18}}。ロータスの仕事は忙しいものだったが、ここに至ってテリーはようやく満足できる仕事に出会い、{{仮リンク|ロータス・11|en|Lotus Eleven}}、[[ロータス・エリート]]などの設計に製図士として携わった{{R|Terry1975_19}}。そうして、短期間の内にロータスの製図チーフに昇進した{{R|Terry1975_19}}。
1959年、余暇を再びレーシングカー製作に費やすようになり、「テリヤー・マーク2」を完成させた{{R|Terry1975_19}}{{Efn|この時期に知り合ったブライアン・ハートの依頼によるもので、ハートは400~500ポンドという当時のクラブレースでは大金と言える額を開発予算として提示したため、テリーは、市販車を改造しただけのマーク1とは異なり、マーク2をレース専用の車両として新規設計することが可能になった{{R|Terry1975_30}}。製作作業には依頼者のハートも協力し、エンジンのチューニングはハートが行った{{R|Terry1975_35}}。}}。同車は設計の依頼者である[[ブライアン・ハート]]に駆られてレースに参戦し、ハートはロータスの車両を蹴散らし、同年に開催された21レース中18レースで優勝してしまった{{R|Terry1975_19}}{{R|group="W"|MotorSportMagazine-2014-03}}。必然的に、アマチュアレーサーたちは(ロータスの車両ではなく)テリーの車を欲しがることになり、テリヤー・マーク2は求めに応じて販売された{{R|group="W"|MotorSportMagazine-2014-03}}。テリーはロータスの社長である[[コーリン・チャップマン]]との折り合いが普段から悪く、そうした中で起きたこの一件が駄目押しとなり、ロータスを追われてしまう{{R|Terry1975_19}}{{R|group="W"|Autosport-140827}}。
=== ギルビー ===
実力をつけつつあったテリーが次の仕事を見つけるのは容易で、ロータスを追放されてから間を置かず、{{仮リンク|ギルビ-・エンジニアリング|en|Gilby Engineering}}にチーフデザイナーとして迎え入れられた{{R|Terry1975_19}}。ギルビーには2年ほど在籍し、その間に同社のスポーツカーを設計し、{{F1|1961}}と{{F1|1962}}には同社製の[[フォーミュラ1カー]](F1車両)を設計した{{R|Terry1975_19}}。
テリーにとって初の[[フォーミュラ1カー|F1車両]]となった1961年用の車両(ギルビー・B型)について、当初、テリーは先進的な[[モノコック]]シャシーとして設計していた{{R|Terry1975_19|Terry1975_41}}。しかし、ギルビー社の技術水準では製造に困難があったため、あえて[[スペースフレーム]]シャシーに改めた{{R|Terry1975_19|Terry1975_41}}。チーム体制の弱さとドライバーの技量の低さから、この車両は良い戦績を残せなかったが、設計そのものは高く評価され、[[ブルース・マクラーレン]]がこの車両を[[グッドウッド・サーキット]]でテストした際にはF1のコースレコードに近いタイムを記録している{{R|group="W"|Autosport-140827}}。
ギルビーにおける仕事も順調だったが、ここでテリーはまたしても奇禍に見舞われる。休日に[[オウルトン・パーク]]でテリヤー・マーク2を走らせていたところ、路面にこぼれていたオイルを踏んだことでコースアウトし、コース脇の立ち木に激突してしまったのである{{R|Terry1975_19|Terry1975_43}}。この事故により、足を骨折したほか、[[肺炎]]と[[血栓症]]を併発し、後にテリーが「全快できたのは奇跡に近かった」と述懐するほど重い症状となり、長期の入院が必要となった{{R|Terry1975_19}}。
テリーが入院している内に、ギルビー社は売却されることになり、新たな経営者は今後レースを行うつもりはないと発表し、テリーは帰る職場を失った{{R|Terry1975_19}}。
=== ロータスへの復帰 ===
{{CSS image crop
|Image = Grote Prijs van Zandvoort, Jim Clark met Lotus in actie, Bestanddeelnr 917-9752.jpg
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退院後、かつての雇い主である[[コーリン・チャップマン]]との関係を修復させる出来事が1962年の短期間の間に続いた。
1962年にチャップマンはレーシングスポーツカーの{{仮リンク|ロータス・23|en|Lotus 23}}を開発し、その優秀さを認めたフランスの[[アルピーヌ]]からレーシングスポーツカーの設計を依頼された{{R|Higaki2010_141}}。チャップマンは、多忙だったため、アルピーヌにテリーを紹介して、その仕事がテリーに回ってきた{{R|Higaki2010_141}}(1962年後半{{R|group="W"|MotorSportMagazine-2014-03}})。アルピーヌ社長の[[ジャン・レデレ]]はテリーに対して、なるべく[[ルノー]](アルピーヌの親会社)の市販車部品を使うよう指示したが、テリーはそれを無視し、ルノーから流用したのは[[ステアリングギアボックス]]と{{仮リンク|アップライト (自動車部品)|label=アップライト|en|Steering knuckle}}くらいで、他は独自に設計した{{R|Higaki2010_141}}。結局、アルピーヌがこの車を実際に製造することはなかった{{R|Higaki2010_141}}{{Efn|主因として、テリーが指示を無視したからというわけではなく、[[ル・マン24時間レース]]を主催していた[[フランス西部自動車クラブ]](ACO)が、チャップマンのロータス・23の性能の高さを警戒して車両規則を改正して締め出しを図ったことの影響を受けた{{R|Higaki2010_141}}。テリーが設計した車両も同様の箇所で違反があったため、出走させることが不可能となった{{R|Higaki2010_141}}。テリー本人にはこの経緯がきちんと伝わっていなかったようで、アルピーヌが車両規則に合わせて独自に開発した「{{仮リンク|アルピーヌ・M63|label=M63|fr|Alpine M63}}」について、テリーは自著の中で「(アルピーヌが)設計図を勝手に変更してしまった」と書いている{{R|Terry1975_20}}。}}。
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この招聘により再びロータスで働くことになったテリーは、基本的に[[インディカー]]の仕事を任されたが、F1でも、チャップマンの指揮の下、[[ロータス・25]]をベースに{{仮リンク|ロータス・33|en|Lotus 33}}を設計した{{R|group="W"|Autosport-140827}}。この車両はロータス・25のホイールベースを伸長した程度のマイナーチェンジ車だが{{R|AS604_106}}、1964年にダンロップが導入した新タイヤにより最適化したサスペンションを備えるとともに、車体剛性も25より高くなり、製造工程も簡素化された。投入2年目の[[1965年のF1世界選手権|1965年シーズン]]に[[ジム・クラーク (レーサー)|ジム・クラーク]]がこの車両だけでも5勝を挙げ(シーズン通算6勝)、ロータスにダブルタイトルをもたらした{{R|group="W"|Autosport-140827}}。
==== インディ500 ====
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|oLeft = 1
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|Description = {{仮リンク|ロータス・38|en|Lotus 38}}({{仮リンク|1965年のインディ500|label=1965年インディ500|en|1965 Indianapolis 500}}優勝車両)。テリーは、「9割はテリー、1割はチャップマン」の作品だと述べている{{R|Terry1975_244|Terry1975_261}}。
}}
1960年代初めまで、創設間もないチーム・ロータスは[[フォーミュラ1]]などのヨーロッパを中心に開催されている自動車レースカテゴリーを中心に活動していたが、アメリカ合衆国で開催されている[[インディ500]]への参戦を1963年から始めるという予定を立てており{{R|group="W"|MotorSportMagazine-140827}}、チャップマンがテリーを呼び戻したのはその車両開発を任せることが主目的だった。
1962年にロータスに復帰したテリーは、インディカーの設計を全面的に任され、まず、{{仮リンク|ロータス・29|en|Lotus 29}}の設計を行った{{R|group="W"|MotorSportMagazine-2014-03}}。この時の設計はチャップマンの指示に従い、基本的にF1の[[ロータス・25]]を踏襲し、インディカーの規則に合わせてホイールベースを伸長したり、レースに合わせて燃料タンクの増槽、車体剛性の補強といった変更を加えることが主な作業となった{{R|Nye1991_208}}。
この車両は{{仮リンク|1963年のインディ500|en|1963 Indianapolis 500}}に投入され、クラークが優勝争いに絡むが、レースリーダーへの不可解な裁定もあって2位に終わった{{R|group="W"|MotorSportMagazine-2014-03|Autosport-140827}}{{Efn|残り20周の時点でレースをリードしていた{{仮リンク|パーネリ・ジョーンズ|en|Parnelli Jones}}の車両がオイル漏れを起こし、後方ではそのオイルが原因と考えられる事故が発生し、レースは最終盤で一時中断された{{R|group="W"|MotorSportMagazine-2014-03}}。レース主催者はジョーンズを失格とすることも検討したが、何の処分も出さずにレースを再開させ、ジョーンズがトップでゴールした{{R|group="W"|MotorSportMagazine-2014-03}}。}}。
{{仮リンク|1964年のインディ500|label=翌1964年のインディ500|en|1964 Indianapolis 500}}では、{{仮リンク|ロータス・34|en|Lotus 34}}を投入し、予選ではクラークがトップタイムを記録し、[[ポールポジション]]を獲得した。しかし、車両完成後に[[ダンロップ]]タイヤを事前テストする時間を確保できていなかったことが災いし、レースでタイヤトラブルを起こして、リタイアに終わった{{R|group="W"|MotorSportMagazine-2014-03}}。
{{仮リンク|1965年のインディ500|en|1965 Indianapolis 500}}に向け、テリーは{{仮リンク|ロータス・38|en|Lotus 38}}を設計した{{R|group="W"|MotorSportMagazine-2014-03}}。ロータス・25を踏襲するよう指示された1963年や、前年型の改良のみ許された1964年とは異なり、1965年用の車両設計はチャップマンから白紙委任を受けたため、テリーはロータス・38をロータスとしては初のフルモノコック車両として設計した{{R|Terry1975_49}}{{R|group="W"|MotorSportMagazine-140827}}{{Efn|それまでのロータスでは[[ロータス・25]]で導入されたバスタブ式モノコックが踏襲され用いられていた{{R|group="W"|MotorSportMagazine-140827}}。テリーは、チャップマンが[[タスマンシリーズ]]のために4ヶ月ほど留守にしていた間にロータス・38を完成させ、車体の設計を全く変えてしまったことは帰国したチャップマンを驚かせることになる{{R|group="W"|MotorSportMagazine-140827}}。}}。同車は、参戦3年目のクラークに念願のインディ500優勝をもたらした。しかし、レース開催日の数日前にテリーはロータスとの契約を終了し、後述するAARへと移籍したため、実際にこのレースを目にすることはなかった{{R|group="W"|MotorSportMagazine-2014-03}}。
{{quotation|(1962年にロータスに)戻りたくはありませんでした。コーリン・チャップマンと私は異なる惑星から来た人間だとわかっていましたからね。私たちは互いに敬意を払ってはいましたが、波長が合っていたとは言えませんでした。彼は私のユーモアのセンスを理解していませんでしたし、私もまた彼にユーモアのセンスが欠如していることを理解していませんでした。ただ、インディカーの仕事には興味があったから戻ったのです。子供の頃からインディカーの設計をしてみたいと考えていましたし、1962年当時のインディカーの設計が停滞していることは明らかでもありました。F1の手法を用いれば、インディで勝つのは容易だと考えたわけです。{{R|group="W"|MotorSportMagazine-2014-03}} |レン・テリー{{Efn|なお、「容易だと考えた」のはテリーではなく、[[ダン・ガーニー]]で、[[1962年オランダグランプリ]]で[[ロータス・25]]を見たガーニーがその先進性に驚き、チャップマンにインディ500への参戦を勧めたことが、ロータスのインディ500参戦の端緒となった{{R|Nye1991_207}}。}} }}
=== AAR (イーグル) ===
{{CSS image crop
|Image = 1967 AAR Eagle (48853385713).jpg
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|oTop = 42
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|Location = right
|Description = [[イーグル・Mk1]](T1G)。その外観は「史上最も美しいF1車両」としばしば称賛される{{R|group="W"|Autosport-140827}}。ノーズ先端の特徴的な「鷲のクチバシ」はガーニーとテリーが考案した{{R|group="W"|AAR-EagleF1}}。テリーがAARを去った後の[[1967年ベルギーグランプリ|1967年ベルギーGP]]で1勝を挙げた。
}}
1964年、ロータスにいたテリーは、[[ダン・ガーニー]]のために、レーシングスポーツカーの{{仮リンク|ロータス・19|en|Lotus 19}}に改良を加えた[[ワンオフ]]車の「ロータス・19B」を設計した{{R|Terry1975_20}}。この縁で、ガーニーが1964年に設立した[[オール・アメリカン・レーサーズ]](AAR)に雇われることになった{{R|Terry1975_21}}。
AARはアメリカ合衆国の[[サンタアナ (カリフォルニア州)|サンタアナ]]([[カリフォルニア州]])を本拠地とする一方、イギリスの[[ライ (イングランド)|ライ]]([[イースト・サセックス]])に{{仮リンク|ウェスレイク|label=ウェスレイク・エンジニアリング社|en|Weslake}}を設立して、F1用の[[V型12気筒]]エンジンの開発を目指していた{{R|Terry1975_21}}。1965年半ばにチーフデザイナーとしてAARに入ったテリーは、2つの拠点の工場を監督しつつ{{Efn|AARの車両は全てサンタアナで製造されたが、ウェスレイクが所在するライにもF1用車両を整備する施設が置かれた{{R|group="W"|AAR-EagleF1}}。}}、F1と米国の[[インディカー]](USACチャンピオンシリーズ)の両方に対応できるシングルシーターの車両開発を始めた{{R|Terry1975_21|AS614_104}}。
とはいえ、ガーニーはレースの賞金額が大きいインディカーのほうを本命と考えていたことから、テリーもインディカーに寄せて車両を設計し、F1についてはその車両を手直しして対応する方針とし{{R|Terry1975_53}}、まずインディ仕様を設計した{{R|Nye1991_218}}。続いてF1仕様を設計し、これが3リッターF1車両の「[[イーグル・Mk1]]」(T1G)として先に完成することになる{{R|Nye1991_218}}。
イーグル・Mk1はテリーが設計したインディ500優勝車のロータス・38([[#インディ500|前述]])をベースとして設計されたため、この2車両の車体の基本構成は似通ったものになっている{{R|AS614_104}}。結果、投入された[[1966年のF1世界選手権|1966年シーズン]]の他のF1車両に比べると全幅が広く、車重も重く{{R|AS614_104}}、テリーの設計により完成した当初は、F1の規定最低重量を82 kgも超過する{{R|Nye1991_220}}{{Efn|重量については、[[ホンダ・RA273]]や、[[H型エンジン|H16エンジン]]を積んだ{{仮リンク|BRM・P83|en|BRM P83}}といったより重い車両も参戦しており、それらと比較すればまだ軽かった{{R|AS614_104}}。テリーの離脱後に、AARはマグネシウム合金製のモノコックを導入するなどして軽量化を実現した{{R|Nye1991_220}}。}}、といった弊害も生じた。インディカーとしても、燃料タンクをF1用にコンパクトな設計としたため、インディ500を戦うには容量の小ささが不利となり{{R|Terry1975_54}}、ドライバーによっては燃料タンクの増設(増槽)を行った。この車両には画期的な[[チタニウム]]製の排気システムが開発され、その設計もテリーが行った{{R|group="W"|AAR-EagleF1}}。
テリーがイーグル・Mk1を完成させるまでには入社から数か月ほどの期間しかかからなかったが、この頃にはガーニーとは仕事を進める上での相性の悪さを感じるようになり{{Efn|チャップマンの時と異なり、人間関係には問題なかったものの、この頃のテリーは設計後の開発や熟成といった作業には関心がなく、そうしたテリーの不足した部分を、ガーニーとAARには(これもまたチャップマンと異なり)埋めることができそうもなかったため{{R|group="W"|MotorSportMagazine-140827}}、いずれ破綻するとテリーは考えた。}}、友人であるガーニーとの関係を壊す前にテリーはAARを去った{{R|Terry1975_22}}{{R|group="W"|MotorSportMagazine-140827}}。
=== TAC ===
AARから離脱することになったショックが尾を引いたことにより、テリーは1966年を無為に過ごすが、1967年初めに[[エルヴァ (自動車)|エルヴァ社]]のフランク・ニコルズからの誘いを受け、トランスアトランティック・オートモーティブ・コンサルタンツ社(TAC)を共同で設立して、委託を受けて車両設計と製造を行う事業を始めた{{R|Terry1975_22}}。
同社では、[[シェルビー・アメリカン]]の依頼により[[カナディアン-アメリカン・チャレンジカップ|Can-Am]]用車両({{仮リンク|シェルビー・キングコブラ|en|Shelby Monaco King Cobra}})を再設計し、[[ブリティッシュ・レーシング・モータース]](BRM)の依頼により、F1車両の[[BRM・P126]]の設計を行った{{R|Terry1975_22}}。
どちらの車も見るべき成果はなく、ニコルズとの関係も悪化し、TACは1967年末という設立から1年足らずの内に解散した{{R|Terry1975_22}}。
=== デザイン・オート ===
ニコルズと袂を分かったテリーは、独自にデザイン・オート社(Design Auto)を新たに立ち上げ、TACの時と同様の事業を始めた{{R|Terry1975_22}}。この間にテリーが手掛けた仕事の内、主だったものは下記の通り。
* '''JWオートモーティヴ'''
: 1967年中に[[JWオートモーティヴ・エンジニアリング]]からの注文を受け、{{仮リンク|ミラージュ (自動車会社)|label=ミラージュ|en|Mirage (race car)}}製の車両([[ガルフ石油|ガルフ]]・ミラージュ)のプロトタイプ化を依頼され、製造した車両(ミラージュ・M2)をJWオートモーティブに引き渡した{{R|Terry1975_22}}。
: エンジンは当初はBRM製を搭載していたが、1969年には[[フォード・モーター|フォード]]・[[コスワース]]製に換装することになり、車体後部を大きく変更し、クローズドボディだったM2をオープンボディ仕様としたミラージュ・M3も製造している。
* '''サーティース / ホンダF1'''{{multiple image
| direction = horizontal
| total_width =370
| image1 = Honda RA301 1968 Mexico Honda Collection Hall.jpg
| alt1 = ホンダ・RA301の1号車
| caption1 = RA301の1号車(RA301-801){{Efn|チーム・サーティースの[[デリック・ホワイト (技術者)|デリック・ホワイト]]が設計し、車体パーツはイギリスのサーティース(ホンダ・レーシング)とローラで製造され、最終組立は日本の[[本田技術研究所]]で行われた{{R|Nakamura1984_341}}。}}
| image2 = Honda RA301 in the Honda Collection Hall. 02.JPG
| alt2 = ホンダ・RA301の2号車
| caption2 = テリーが製造した2号車(RA301-802){{Efn|車体パーツをテリーのデザイン・オート社で製造し、最終組立はイギリスのサーティース(ホンダ・レーシング)で行われた{{R|Terry1975_64|Nakamura1984_341}}。この車両はホンダ・第1期の終了後はサーティースのショールームでしばらく展示され、その後、日本の自動車コレクターの林良至([[ガレーヂ伊太利屋]]の創業者として知られる)が保有していたが{{R|Nakamura1984_349}}、現在は[[ホンダコレクションホール]]の所蔵品となっている。}}。外観では、コクピット脇に突出部を有する点が1号車との顕著な相違点となる{{R|Nakamura1984_341}}。
| align = right
}}
: 1968年、[[ジョン・サーティース]]からF1車両である[[ホンダ・RA301]]の複製の依頼を受けた{{R|Terry1975_23}}。サーティースは、日本の[[本田技研工業]](ホンダ)のF1参戦プロジェクト([[ホンダF1]]・第1期)に深く関与しており、ホンダの[[中村良夫 (技術者)|中村良夫]]と組み、自身の[[サーティース|チーム・サーティース]]を中核として、イギリスでホンダ・レーシングを運営していた。サーティースと中村は、前年に[[ローラ・カーズ]]と組んで[[ホンダ・RA300]]を完成させたが、ホンダ側の技術的な独立性を確保するため、次のRA301はチーム・サーティースで設計を行っていた{{R|Nakamura1984_85}}。1号車の車体は1968年初めに完成しており、その2号車の製造がテリーに依頼された{{R|Terry1975_23}}。
: 依頼は1号車を手本とした「複製」だったが、テリーに与えられたのは1号車のラフレイアウト図と5、6枚の写真のみで、テリーが手間を惜しんだため、実車は見ず、設計者である[[デリック・ホワイト (技術者)|デリック・ホワイト]]との打ち合わせもしないまま製造が進められた{{R|Terry1975_64|Nakamura1984_341}}{{Efn|テリーが希望すれば実車を見ることもホワイトに構造などを教わることも可能だったのだが、テリーの事務所からサーティースのファクトリーまでは160 kmほどあり、往復4時間ほどかかるため、テリーは「時間がもったいないし面倒くさくもあり」そうした機会を使わずに製造した{{R|Terry1975_64}}。}}。そのため、1号車とは構成がかなり異なっており{{R|Nakamura1984_341}}、下記の違いがある。
:* 1号車は車体(モノコック)が[[マグネシウム合金]]製、2号車は[[アルミニウム合金]]製{{R|Nakamura1984_341}}{{Efn|1号車のボディを製造したローラが持っていた高価な[[TIG溶接|アルゴン溶接機]]を、デザイン・オート社は持っていなかったため、1号車が用いていた鋼板ブラケット類を製作できなかったことから、違いが生じた{{R|Terry1975_64|Nakamura1984_341}}。ブラケット板の組み方が1号車と異なるため、モノコック本体の設計にも多少の違いが生じた{{R|Terry1975_64}}。}}。この違いにより、2号車のコクピット脇には[[肋骨|リブ]]状の突出部がある{{R|Nakamura1984_341}}(画像を参照)。
:* 2号車はリアサスペンションのロアアームをパラレルリンク式に変更し{{R|Terry1975_23|Nakamura1984_341}}、当時一般的だった逆Aアーム(1号車はこの形)ではなく、平行等長の2本のIアームによって支持する形とした{{R|Terry1975_23|Nakamura1984_341}}。この変更は、1号車の完全なコピーとすることをよしとしなかったテリーが加えたもので、この変更によりサスペンション調整を簡素化している{{R|Nakamura1984_341}}{{Efn|テリーはパラレルリンク式サスペンションを以前から他のカテゴリーの車両で用いていたが、他のコンストラクターを含めても、F1でこの方式を採用したのはRA301-2号車が初の例にあたる{{R|Terry1975_23|Nakamura1984_341}}。翌年に[[マトラ (自動車)|マトラ]]も追従し、後に多くのコンストラクターがこの方式を採用するようになる{{R|Terry1975_57|Nakamura1984_341}}。}}。しかし、2号車の完成後にリアサスアームは1号車と同じ逆A型に改められたため{{R|Nakamura1984_341}}、テリーによるこの変更が存在した期間は短い。
:* 前部のアッパー/ダンパーユニットの支点などを補強した{{R|Nakamura1984_341}}。この変更は後に1号車にも取り入れられている{{R|Nakamura1984_341}}。
: 1号車はサーティースのレースカーとなっていたが、セカンドドライバー用に用意された2号車はホンダ側の事情でエンジンの用意がシーズン最終盤まで整わず{{R|Nakamura1979_247}}、車体はサーティース用のTカー(予備車両)として扱われた{{R|Nakamura1984_349}}{{Efn|9月の第9戦[[1968年イタリアグランプリ|イタリアGP]]で初めて運び込まれ、その後、最終戦(第12戦)[[1968年メキシコグランプリ|メキシコGP]]までの4レースでTカーとして扱われた{{R|Nakamura1984_349}}。}}。この2台は水温の特性や車重にも違いがあり、サーティースは1号車を好んだため、テリーが製造した2号車がレースに出走したのは[[ヨアキム・ボニエ]]に貸し出されて出走した1968年シーズンの最終戦[[1968年メキシコグランプリ|メキシコGP]]のみである{{R|Nakamura1984_349}}。
* '''サーティース / F5000'''
: RA301の2号車を引き渡した後、テリーはネーザン・レーシングからの依頼でフォーミュラ5000車両の設計と製造を行っていたが、依頼された3台の完成が間近となった1968年9月にネーザン・レーシングから依頼をキャンセルされてしまう{{R|Terry1975_23}}。折よく、F5000車両を欲しがっていたサーティースがそのことを知り、車両をそっくり引き取った{{R|Terry1975_23}}。
: 「{{仮リンク|サーティース・TS5|en|Surtees TS5}}」と命名されたこの車両は、F5000レースでは無敵の強さを誇り、テリーには続く数か月間の内に追加で4台の完成車、複数のモノコックの製作依頼が舞い込んだ{{R|Terry1975_23}}。
* '''BMW / F2'''
: サーティースにTS5を引き渡した頃、[[BMW]]から[[フォーミュラ2]](F2)車両の設計を依頼され、図面を渡した{{R|Terry1975_23}}。同社は1969年にデビューし、成績も悪くなかったのだが、製造はドイツの航空機メーカーの[[ドルニエ]]によって行われ、モノコックとして設計した車体に無断で大きな開口部を追加された上{{R|Terry1975_77}}、開発テストの様子や不具合などのレポートも得られず、テリーにとっては不満の残る仕事となり{{R|Terry1975_23}}、この経験により、テリーは「レダ」の創設を決断した{{R|Terry1975_24}}。
* '''AAR / インディカー'''
: 1969年、{{仮リンク|1969年のインディ500|label=同年のインディ500|en|1969 Indianapolis 500}}を観戦しに行った際、ダン・ガーニーと偶然再会し、([[トニー・サウスゲート]]が離脱したことでチーフデザイナーが不在だったため)インディカーの設計を依頼され、着手した{{R|Terry1975_24}}。
: この車両({{仮リンク|イーグル・70|en|Eagle 70}})は{{仮リンク|1970年のインディ500|label=翌1970年のインディ500|en|1970 Indianapolis 500}}に投入され、ガーニーが3位を獲得した。
==== レダ ====
[[File:McRae-Chevrolet GM1 - Flickr - exfordy.jpg|thumb|レダ・LT27(マクレー・GM1)]]
自身のデザイン・オート社でレーシングカーの設計を依頼を受けて行っていく内、テリーは、設計や完成車を引き渡したり、製造ノウハウや製造に必要な治具を引き渡したりしているだけでは「勝てる車両」の開発には不十分で、その後の走行テストなどの結果をフィードバックして熟成していかない限り、勝てる車を作ることはできないという考えに至り、自身のコンストラクターとして「レダ」(Leda)を創設した{{R|Terry1975_24}}{{Efn|この名称はAARを成功させていた[[ダン・ガーニー]]にあやかったもので、「{{u|Le}}n」と「{{u|Da}}n」に由来する{{R|group="W"|MotorSportMagazine-2014-03}}。}}。
最初の車両としてF5000の開発を始め、1970年2月にレダ・マーク1が完成した{{R|Terry1975_25}}。設計にあたり、テリーは前述したサーティースに配慮し、サーティースに売却したF5000車両のTS5とは似ないよう心掛けた{{R|group="W"|MotorSportMagazine-2014-03}}。レダの名を冠したF5000車両は、目論見通り、車体の初期トラブルを解消しつつ熟成が進められていったものの、車体に起因しないトラブルが立て続けに起きたことで最初の2年は冴えない結果に終わった{{R|Terry1975_25}}。
4代目となる「LT26」は、F5000のトップクラスのドライバーである{{仮リンク|グラハム・マクレー|en|Graham McRae}}によって駆られ、1972年初めに開催された[[タスマンシリーズ]]({{仮リンク|1972年のタスマンシリーズ|label=1972年シーズン|en|1972 Tasman Series}})を席巻する{{R|Terry1975_25}}。しかし、同年7月、テリーの共同出資者が唐突にレース活動の中止を発表し、テリーには何の相談もなくレダ社の設備や、保有する図面、部品といった一切をマクレーに売却してしまった{{R|Terry1975_25|Terry1975_101}}。マクレーはF5000の強豪車となったLT26や、その後継車としてテリーが設計していたLT27をそのまま作り続け、自らのイニシアルから「GM1」と改名して販売するようになった{{R|Terry1975_26}}。
この裏切りにより、1972年中にテリーはデザイン・オート社の設備も失ってしまい、設立した会社は解散の憂き目にあう。その後もいくつかの計画に携わることはあったものの、[[1977年のF1世界選手権|1977年のF1シーズン]]用に設計した[[BRM・P207]]の失敗で評価が地に落ちたことなどもあって、レーシングカーの設計から引退した{{R|Terry1975_26}}{{R|group="W"|MotorSportMagazine-140827}}。
=== その後 ===
レーシングカーの設計から引退した後、[[メルセデス・ベンツ・SSK]]のレプリカや{{R|group="W"|MotorSportMagazine-2014-03}}、ヴィンテージバンのレプリカの製作と販売を仕事とした{{R|group="W"|Autosport-140827|OldRacingCars-LenTerry}}。そうした仕事を68歳の時(1992年頃)に引退するまで続けた{{R|group="W"|MotorSportMagazine-2014-03}}。
1993年に軽い[[脳卒中]]を起こしたものの、その後も健康に過ごし{{R|group="W"|OldRacingCars-LenTerry}}、2014年に死去するまで、晩年はクラシック・チーム・ロータスの活動(ロータスの古いF1車両を動態保存)にも熱心に協力していた{{R|group="W"|Autosport-140827}}。
== 作品 ==
=== 車両 ===
テリーが設計した車両には番号(テリヤー・ナンバー、"Terrier Number")が振られている{{R|Terry1975_27}}。「[[13 (忌み数)|13]]」を[[忌み数]]として避けたため、「マーク13」は存在しない{{R|Terry1975_64}}。「23」以降は、それまでの「テリヤー・マーク~」という表記から「LT~」という表記に変更している{{R|Terry1975_89}}。
<gallery>
Noimage.svg|'''マーク1'''(1957年)<br/>テリヤー・マーク1<br/><hr>[[750モータークラブ|クラブレース]]用。設計は{{仮リンク|ロータス・マーク3|label=ロータス・マーク3B|en|Lotus Mark III}}に近かった{{R|Terry1975_27}}。
Noimage.svg|'''マーク2'''(1958年)<br/>テリヤー・マーク2<br/><hr>クラブレース用。[[ブライアン・ハート]]からの依頼により設計{{R|Terry1975_30}}。
Noimage.svg|'''マーク3'''(1960年)<br/>ギルビー・A型<br/><hr>クラブレース用
Noimage.svg|'''マーク4'''(1960年)<br/>テリヤー・マーク4<br/><hr>フォーミュラ・ジュニア。ブライアン・ハートからの依頼により設計{{R|Terry1975_39}}。
Noimage.svg|'''マーク5'''(1961年)<br/>ギルビー・B型<br/><hr>テリーにとって初のF1車両で、同じく初のリアミッドシップ車
Noimage.svg|'''マーク6'''(1962年)<br/>テリヤー・マーク6<br/><hr>クラブレース用。入院中に構想を練り、退院直後に製作した車両{{R|Terry1975_43}}。
Noimage.svg|'''マーク7'''(1962年)<br/>テリヤー・マーク7<br/><hr>クラブレース用
Noimage.svg|'''マーク8'''(1962年)<br/>テリヤー・マーク8<br/><hr>アルピーヌの依頼で設計したレーシングスポーツカー
Noimage.svg|'''番外'''(1964年)<br/>キンクラフト<br/><hr>[[フォーミュラ・リブレ]](後に[[フォーミュラ5000|F5000]]){{Efn|[[フォーミュラ・リブレ]]として設計したもので、4.7リッターのフォード・V型8気筒エンジンを搭載したフォーミュラカー{{R|Terry1975_48}}。[[フォーミュラ5000]]が創設される以前の車両であり、このクラスのエンジンを搭載した車両としては、世界初のシングルシーターにあたる{{R|Terry1975_49}}。ロータスに復帰した直後の時期に依頼を受けて設計したもので、テリーはチャップマンと専属契約を結んだばかりだったため、この車両は、ロータスの製図士だったマーティン・ウェイド(Martin Wade)を名目上のチーフデザイナーに据えた{{R|Terry1975_48}}。}}
Lotus 33 Goodwood 2015.jpg|'''番外'''(1965年)<br/>{{仮リンク|ロータス・33|en|Lotus 33}}<br/><hr>{{F1|1965}}にF1でダブルタイトルを獲得
Lotus 38 at Goodwood 2010.jpg|'''番外'''(1965年)<br/>{{仮リンク|ロータス・38|en|Lotus 38}}<br/><hr>インディ500優勝車両{{Efn|部品が全てロータスの既製品であるため、テリヤー・ナンバーは振られていない{{R|Terry1975_49}}。}}
Eagle Weslake T1G at Goodwood Revival 2012.jpg|'''マーク9'''(1965年)<br/>[[イーグル・Mk1]]<br/><hr>F1車両
1967 Shelby King Cobra Can Am at Quail 2022.jpg|'''マーク10'''(1967年)<br/>1967年型{{仮リンク|シェルビー・キングコブラ|en|Shelby Monaco King Cobra}}<br/><hr>Can-Am用車両
1968 BRM P126 Goodwood, 2009.JPG|'''マーク11'''(1967年)<br/>[[BRM・P126]]<br/><hr>F1車両
1969 Mirage M2, front right at Greenwich, 2018.jpg|'''マーク12'''(1967年)<br/>ガルフ・ミラージュ・BRM(ミラージュ・M2)<br/><hr>{{仮リンク|グループ6|en|Group 6 (motorsport)}}車両
Honda RA301 front-left Honda Collection Hall.jpg|'''マーク14'''(1968年)<br/>[[ホンダ・RA301]](2号車)<br/><hr>F1車両。1号車(RA301-801)のレプリカとして製作。
Noimage.svg|'''マーク15'''(1968年)<br/>テリヤー・マーク15<br/><hr>F5000車両。ネーザン・レーシングからの依頼により製作{{R|Terry1975_73}}。
Noimage.svg|'''マーク16'''(1968年)<br/>テリヤー・マーク16<br/><hr>F2車両。マーク15のF2仕様で、設計図のみ存在し、製造はされなかった{{R|Terry1975_73}}。
Noimage.svg|'''マーク17'''(1969年)<br/>{{仮リンク|サーティース・TS5|en|Surtees TS5}}<br/><hr>F5000車両。マーク15をサーティースの要望に合わせて変更{{R|Terry1975_73}}。
BMW Formel 2 - Hubert Hahne 1970-05-01.jpg|'''マーク18'''(1968年)<br/>BMW・F2<br/><hr>F2車両
Noimage.svg|'''マーク19'''(1969年)<br/>ガルフ・ミラージュ・フォード(ミラージュ・M3)<br/><hr>車体はM2のオープンボディ型
Noimage.svg|'''マーク20'''(1969年)<br/>レダ・マーク1<br/><hr>F5000車両
Noimage.svg|'''マーク21'''(1969年)<br/>{{仮リンク|イーグル・70|en|Eagle 70}}<br/><hr>インディカー
Noimage.svg|'''マーク22'''(1970年)<br/>レダ・マーク2<br/><hr>F5000車両
Noimage.svg|'''LT23'''(1970年)<br/>LT23<br/><hr>インディカー。コンセプトは作られたものの出資者が現れず、製造はされなかった{{R|Terry1975_89}}。
Noimage.svg|'''LT24'''(1971年)<br/>LT24<br/><hr>公道用スポーツカー{{R|Terry1975_89}}。レダ社の解散により、開発中止{{R|Terry1975_89}}。
Noimage.svg|'''LT25'''(1971年)<br/>レダ・マーク3<br/><hr>F5000車両
Noimage.svg|'''LT26'''(1971年)<br/>LT26<br/><hr>F5000車両
McRae-Chevrolet GM1 - Flickr - exfordy.jpg|'''LT27'''(1972年)<br/>マクレー・GM1<br/><hr>F5000車両
BRM P207.jpg|'''番外'''(1977年)<br/>[[BRM・P207]]<br/><hr>F1車両
</gallery>
=== 著書 ===
* 『[[#Terry1973|Racing Car Design and Development]]』(1973年刊) - 自身の経歴、設計した車両の詳細のほか、同時代の他の設計者についての評も書いている。
** 『[[#テリー1975|レーシングカー:その設計の秘訣]]』(1975年刊) - 上記書籍の日本語版。武田秀夫([[ホンダ・RA273]]の設計者)が翻訳。
== エンジニアとしての特徴 ==
{{Rquote|right|私には、それを説明しても理解できないと思われる人たちにそれを説明するだけの忍耐力はありませんでした。{{R|group="W"|MotorSportMagazine-140827}} |テリーによる述懐}}
直感的な感覚を持ったエンジニアで、設計の速さでも知られ、レーシングカーが急に必要になった際には頼りにされた{{R|group="W"|MotorSportMagazine-2014-03}}。一方、率直すぎる物言いなどにより、他者と協調して作業に当たることが難しいという、自他ともに認めるところの欠点があった{{R|group="W"|MotorSportMagazine-140827}}。
テリーは車両設計については定評があったものの、完成した車両を開発し熟成していくというプロセスには関心がなかった{{R|group="W"|MotorSportMagazine-140827}}。そのため、チームに所属して設計した車両でも、結果が出る頃にはたいていチームを離脱した後であり、成功すればチームの力によるものとされ、失敗した場合にはテリーが批判されるということになりがちだった{{R|group="W"|MotorSportMagazine-140827}}。
空力設計は勘に頼って行っていたが、そうして設計した車両の空力も目論見通りに機能させることができていたという{{R|group="W"|MotorSportMagazine-2014-03}}。
ロータス時代、[[コーリン・チャップマン]]個人との相性は悪かったものの、車両開発においてはうまく協力し、テリーはチャップマンに意見を折れさせることのできる数少ない人物の一人でもあった{{R|Terry1975_232a}}{{R|group="W"|MotorSportMagazine-140827}}
テリーは、自身のことは、「夢想家型」{{R|Terry1975_232a}}のチャップマンと、その対極に位置づけられる「実用設計型」{{R|Terry1975_233a}}の[[ロン・トーラナック]]との中間で、「純デザイナーでもなく、そうかといって純開発屋でもない[[鵺|ぬえ]]的な中途半端な性格」だと評している{{R|Terry1975_237}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
; 出版物
{{Reflist|60em|refs=
<!--書籍-->
<ref name="Terry1975_17">[[#テリー1975|レーシングカー:その設計の秘訣]](テリー/ベーカー/武田1975)、「2. レン・テリーの経歴」 pp.17–26中のp.17</ref>
<ref name="Terry1975_18">[[#テリー1975|レーシングカー:その設計の秘訣]](テリー/ベーカー/武田1975)、「2. レン・テリーの経歴」 pp.17–26中のp.18</ref>
<ref name="Terry1975_19">[[#テリー1975|レーシングカー:その設計の秘訣]](テリー/ベーカー/武田1975)、「2. レン・テリーの経歴」 pp.17–26中のp.19</ref>
<ref name="Terry1975_20">[[#テリー1975|レーシングカー:その設計の秘訣]](テリー/ベーカー/武田1975)、「2. レン・テリーの経歴」 pp.17–26中のp.20</ref>
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<ref name="Terry1975_89">[[#テリー1975|レーシングカー:その設計の秘訣]](テリー/ベーカー/武田1975)、「3. テリーの作品 テリヤー」 pp.27–101中のp.89</ref>
<ref name="Terry1975_101">[[#テリー1975|レーシングカー:その設計の秘訣]](テリー/ベーカー/武田1975)、「3. テリーの作品 テリヤー」 pp.27–101中のp.101</ref>
<ref name="Terry1975_232a">[[#テリー1975|レーシングカー:その設計の秘訣]](テリー/ベーカー/武田1975)、「15. 第一線デザイナーの評価」 - 「コーリン・チャップマン」 p.232</ref>
<ref name="Terry1975_233a">[[#テリー1975|レーシングカー:その設計の秘訣]](テリー/ベーカー/武田1975)、「15. 第一線デザイナーの評価」 - 「ロン・トーラナック」 p.233</ref>
<ref name="Terry1975_237">[[#テリー1975|レーシングカー:その設計の秘訣]](テリー/ベーカー/武田1975)、「15. 第一線デザイナーの評価」 - 「レン・テリー」 p.237</ref>
<ref name="Terry1975_244">[[#テリー1975|レーシングカー:その設計の秘訣]](テリー/ベーカー/武田1975)、「補足─1 テリーの作品総覧」 pp.244–245</ref>
<ref name="Terry1975_261">[[#テリー1975|レーシングカー:その設計の秘訣]](テリー/ベーカー/武田1975)、「訳者あとがき」 pp.261–262</ref>
<ref name="Nakamura1979_247">[[#中村1979|グランプリレース]](中村1979)、p.247</ref>
<ref name="Nakamura1984_85">[[#中村1984|HONDA F1 1964-1968]](中村1984)、「二度目のピーク」 pp.76–91中のp.85</ref>
<ref name="Nakamura1984_341">[[#中村1984|HONDA F1 1964-1968]](中村1984)、「ホンダF1の技術」(神田重巳) - 「RA301」 - 「テリー製802号機」 pp.341–342</ref>
<ref name="Nakamura1984_349">[[#中村1984|HONDA F1 1964-1968]](中村1984)、「ホンダF1の技術」(神田重巳) - 「RA301」 - 「2台のRA301」 pp.349–350</ref>
<ref name="Nye1991_207">[[#ナイ1991|歴史に残るレーシングカー]](ナイ/高齋1991)、「1963年 インディアナポリス・ロータス・フォード・タイプ29」 pp.207–212中のp.207</ref>
<ref name="Nye1991_208">[[#ナイ1991|歴史に残るレーシングカー]](ナイ/高齋1991)、「1963年 インディアナポリス・ロータス・フォード・タイプ29」 pp.207–212中のp.208</ref>
<ref name="Nye1991_218">[[#ナイ1991|歴史に残るレーシングカー]](ナイ/高齋1991)、「1967~68年 イーグル-ウェスレイク V型12気筒」 pp.218–221中のp.218</ref>
<ref name="Nye1991_220">[[#ナイ1991|歴史に残るレーシングカー]](ナイ/高齋1991)、「1967~68年 イーグル-ウェスレイク V型12気筒」 pp.218–221中のp.220</ref>
<ref name="Higaki2010_141">[[#檜垣2010|マートラ アルピーヌ]](檜垣2010)、p.141</ref>
<!--雑誌・ムック-->
<ref name="AS604_106">[[#AS604|オートスポーツ 1992年4/15号(No.604)]]、「歴史に残る名F1マシン 第8回 ロータス25/33」 pp.106–115</ref>
<ref name="AS614_104">[[#AS614|オートスポーツ 1992年9/1号(No.614)]]、「歴史に残る名F1マシン 第15回 1966~67年 イーグルF1」 pp.104–106</ref>
}}
; ウェブサイト
{{Reflist|group="W"|refs=
<ref name="AAR-EagleF1">{{cite web|url=https://allamericanracers.com/eagle-f1-story/ |title=Eagle F1 Story |author= |publisher=All American Racers |language=英語 |date= |accessdate=2023-10-08}}</ref>
<ref name="MotorSportMagazine-2014-03">{{cite web|url=https://www.motorsportmagazine.com/archive/article/march-2004/62/len-terry/ |author=Gordon Cruickshank |title=Len Terry |publisher=Motor Sport Magazine |page=|language=英語 |date=2014-03 |accessdate=2023-10-08}}</ref>
<ref name="MotorSportMagazine-140827">{{cite web|url=https://www.motorsportmagazine.com/articles/single-seaters/f1/quick-working-len-terry/ |author=Paul Fearnley |title=The quick-working Len Terry |publisher=Motor Sport Magazine |language=英語 |date=2014-08-27 |accessdate=2023-10-08}}</ref>
<ref name="Autosport-140827">{{cite web|url=https://www.autosport.com/f1/news/len-terry-obituary-1924-2014-5048232/5048232/ |title=Len Terry obituary: 1924-2014 |author= |publisher=Autosport |language=英語 |date=2014-08-27 |accessdate=2023-10-08}}</ref>
<ref name="OldRacingCars-LenTerry">{{cite web|url=https://www.oldracingcars.com/teamboss/Len_Terry |title=Len Terry |author= |publisher=OldRacingCars.com |language=英語 |date=2014-08-29 |accessdate=2023-10-08}}</ref>
}}
== 参考資料 ==
; 書籍
* {{Cite book|title=Racing Car Design and Development |author=Len Terry, Alan Baker |year=1973-04 |publisher=Motor Racing Publication Ltd |isbn=978-0837600802 |asin=0837600804 |ref=Terry1973}}
** {{Cite book|和書|title=レーシングカー:その設計の秘訣 |author=レン・テリー(著)、アラン・ベーカー(著)、武田秀夫(訳) |year=1975-12-20 |publisher=二玄社 |isbn= |asin= |ncid=BN04167692 |ref=テリー1975}}
** {{Cite book|和書|title=レーシングカー:その設計の秘訣 |author=レン・テリー(著)、アラン・ベーカー(著)、武田秀夫(訳) |year=1989-06 |publisher=二玄社 |isbn=978-4544040203 |asin=4544040205 |ncid= |ref=テリー1989}}
* {{Cite book|和書|title=グランプリレース ──ホンダF-1と共に── |author=中村良夫 |year=1979-12-25 |publisher=山海堂 |isbn= |asin=B000J8BT9O |ncid=BA34300064 |ref=中村1979}}
** {{Cite book|和書|title=F-1グランプリ ──ホンダF-1と共に 1963~1968── |author=中村良夫 |year=1988-08 |publisher=三樹書房 |isbn=978-4895221290 |asin=4895221296 |ncid= |ref=中村1988}}
** {{Cite book|和書|title=F-1グランプリ ──ホンダF-1と共に 1963~1968── 愛蔵版 |author=中村良夫 |year=1998-10 |publisher=三樹書房 |isbn=978-4895222334 |asin=4895222330 |ncid=BA45272539 |ref=中村1998}}
* {{Cite book|和書|title=HONDA F1 1964-1968 |author=中村良夫 |author2=神田重巳 |author3=CAR GRAPHIC |year=1984-07-30 |publisher=二玄社 |isbn= |asin=B000J73UYW |ncid=BN04381353 |ref=中村1984}}
* {{Cite book|title=<nowiki>Famous Racing Cars: Fifty of the Greatest, from Panhard to Williams-Honda</nowiki> |author=Doug Nye |year=1989 |publisher=Harpercollins |isbn=978-1852600365 |asin=1852600365 |ref=Nye1989}}
** {{Cite book|和書|title=歴史に残るレーシングカー |author=ダグ・ナイ(著)、[[高斎正|高齋正]] |year=1991-09-21 |publisher=グランプリ出版 |isbn=4-87687-112-4 |asin=4876871124 |ncid=BA62606550 |ref=ナイ1991}}
* {{Cite book|和書|title=マートラ アルピーヌ |author=檜垣和夫 |year=2010-03-25 |publisher=二玄社 |isbn=978-4-544-40047-2 |asin=4544400473 |ncid=BB15813036 |ref=檜垣2010}}
; 雑誌 / ムック
* 『オートスポーツ』(NCID [https://ci.nii.ac.jp/ncid/AA11437582 AA11437582])
** {{Cite book|和書|title=1992年4/15号(No.604) |year=1992-04-15 |publisher=三栄書房 |isbn= |asin= |id={{ASbook|AST19920415}} |ref=AS604}}
** {{Cite book|和書|title=1992年9/1号(No.614) |year=1992-09-01 |publisher=三栄書房 |isbn= |asin= |id={{ASbook|AST19920901}} |ref=AS614}}
{{サーティース}}
{{オール・アメリカン・レーサーズ}}
{{ロータス}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:てりい れん}}
[[Category:イギリスの自動車技術者]]
[[Category:レーシングカー・デザイナー]]<!--F1以外にも多数設計-->
[[Category:F1車両設計者]]
[[Category:チーム・ロータスの人物]]
[[Category:イングランドのイラストレーター]]
[[Category:20世紀イギリスのイラストレーター]]
[[Category:ハックニー区出身の人物]]
[[Category:1924年生]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%86%E3%83%AA%E3%83%BC |
4,838,987 | 東端町 | 東端町(ひがしばたちょう)は、愛知県安城市の地名。
安城市南西端部に位置する。東は和泉町・根崎町、西は碧南市、北は榎前町、南西は碧南市に接する。
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる。
長田川を挟み、東側を東端、西側を西端と称していたことによる。
国勢調査による人口および世帯数の推移。 | [
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] | 東端町(ひがしばたちょう)は、愛知県安城市の地名。 | {{Pathnav|日本|愛知県|安城市|'''東端町'''|hide=1|frame=1}}
{{Infobox settlement
| name = 東端町
| settlement_type = [[町丁]]
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| map_caption = 東端町の位置
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| subdivision_type = [[国の一覧|国]]
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| subdivision_name2 = [[File:Flag of Anjo, Aichi.svg|border|25px]][[安城市]]
| established_title1 = 町名制定
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| area_footnotes = <ref group=WEB name="area">{{Cite web|url=https://toukei-labo.com/2015/?tdfk=23&city=23212|title=愛知県安城市の町丁・字一覧|publisher=人口統計ラボ|language=日本語|accessdate=2023-08-26}}</ref>
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| population_as_of= 2020年(令和2年)10月1日現在
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| postal_code = 444-1213<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?pref=23&city=1232120&cmp=1&mode=list&addr=|title=愛知県安城市の郵便番号一覧|publisher=日本郵便|accessdate=2023-08-26}}</ref>
| area_code = 0566<ref group=WEB name=areacode>{{Cite web|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000141817.pdf|format=PDF||title=市外局番の一覧|publisher=総務省|date=2022-03-01|accessdate=2022-03-22}}</ref>
| registration_plate = [[愛知運輸支局|三河]]
| footnotes =
}}
'''東端町'''(ひがしばたちょう)は、[[愛知県]][[安城市]]の地名。
== 地理 ==
安城市南西端部に位置する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}。東は[[和泉町]]・[[根崎町]]、西は[[碧南市]]、北は[[榎前町]]、南西は[[碧南市]]に接する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}。
=== 学区 ===
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.city.anjo.aichi.jp/manabu/gakko/kyoikushisetsu/gakku.html|title=小中学校区一覧(町別50音順)|author=安城市役所教育振興部学校教育課学事係|publisher=安城市|date=2022-04-07|accessdate=2023-10-08}}</ref>。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.pref.aichi.jp/soshiki/kotogakko/0000080445.html|title=平成29年度以降の愛知県公立高等学校(全日制課程)入学者選抜における通学区域並びに群及びグループ分け案について|publisher=愛知県教育委員会|date=2015-02-16|accessdate=2019-01-14}}</ref>。
{| class="wikitable"
!番・番地等!!小学校!!中学校!!高等学校
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||大坪・北荒子・北大坪・新切・中大坪・西大坪・東荒子・南用地・用地||[[安城市立丈山小学校]]
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== 歴史 ==
=== 町名の由来 ===
長田川を挟み、東側を東端、西側を西端と称していたことによる{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1118}}。
=== 人口の変遷 ===
[[国勢調査]]による人口および世帯数の推移。
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|-
|1995年(平成7年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000023630251&fileKind=1|format=CSV|title=平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-03-28|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|832世帯<br>3224人||<div style="width:83.2px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:322.4px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2000年(平成12年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025137780&fileKind=1|format=CSV|title=平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-05-30|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|871世帯<br>3158人||<div style="width:87.1px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:315.8px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2005年(平成17年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025514226&fileKind=1|format=CSV|title=平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-06-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|939世帯<br>3290人||<div style="width:93.9px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:329px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2010年(平成22年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000012671534&fileKind=1|format=CSV|title=平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2012-01-20|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|998世帯<br>3351人||<div style="width:99.8px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:335.1px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2015年(平成27年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000031522121&fileKind=1|format=CSV|title=平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2017-01-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|1047世帯<br>3484人||<div style="width:104.7px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:348.4px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2020年(令和2年)<ref group=WEB name=R2国勢調査>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000032163424&fileKind=1|format=CSV|title=令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口,外国人人口及び世帯数-町丁・字等|author=総務省統計局|date=2022-02-10|accessdate=2023-08-02|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|1102世帯<br>3440人||<div style="width:110.2px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:344px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|}
=== 沿革 ===
{{節スタブ}}
* 1889年(明治22年) - 市制町村制施行による碧海郡東端村が成立{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1118}}。
* 1906年(明治39年) - [[明治村 (愛知県碧海郡)|明治村]]大字東端となる{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1118}}。
* 1955年(昭和30年) - 安城市大字東端となる{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1118}}。
* 1956年(昭和31年) - 安城市東端町が成立{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1118}}。
* 1958年(昭和33年) - 分離独立による碧南市編入を求める住民と安城市残留の現状維持派の抗争が激化し、この年再度住民投票が実施される{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1118}}。投票の結果、碧南市編入賛成票が現状維持票を上回ったものの、3分の2を超えず、現状維持となった{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1118}}。
* 1960年(昭和35年) - 碧南市編入派が[[名古屋高等裁判所]]に提訴{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1118}}。この後、安城市の仲介により和解に至った{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1118}}。
* 1974年(昭和49年) - 安城市東端町の一部が碧南市に編入され、同市東端町が成立{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1118}}。
* 1975年(昭和50年) - 碧南市東端町が同市[[白沢町 (安城市)|白沢町]]に改称{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1118}}。
== 交通 ==
* [[愛知県道安城碧南線]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* [[愛知県道西尾知多線]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* 市道宮裏線{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* 市道東端城ヶ入線{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
== 施設 ==
* 愛三工業安城工場{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* [[安城市立明祥中学校]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* [[安城市立明和小学校]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* 東端保育園{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* 東端貝塚{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* 東端城址{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== WEB ===
{{Reflist|group="WEB"|refs=}}
=== 書籍 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1989|date=1989-03-08|title=[[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県|publisher=[[角川書店]]|isbn=4-04-001230-5|language=ja|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[安城市の町名]]
== 外部リンク ==
* {{commonscat-inline}}
{{Geographic Location
| Northwest<!--北西--> =
| North<!--北--> = [[榎前町]]
| Northeast<!--北東--> =
| West<!--西--> = [[碧南市]]
| Centre<!--中央--> = 東端町
| East<!--東--> = [[和泉町]]・[[根崎町]]
| Southwest<!--南西--> = [[碧南市]]
| South<!--南--> =
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}}
{{安城市の町・字}}
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{{デフォルトソート:ひかしはたちよう}}
[[Category:安城市の町名]] | 2023-10-08T09:23:23Z | 2023-10-08T09:23:23Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E7%AB%AF%E7%94%BA |
4,838,988 | ザ・ロッカーズ (プロレス) | ザ・ロッカーズ(The Rockers)は、プロレスラーのマーティ・ジャネッティとショーン・マイケルズによって結成されたプロレスのタッグチーム。
ロックンロール・エクスプレスの影響下にあるベビーフェイスのアイドル系タッグチームとして、AWAを経てファミリー・エンターテインメント期のWWF(現:WWE)で活躍した。
1985年5月、テキサス州サンアントニオから中西部のNWAセントラル・ステーツ地区(CSW)に転戦してきたショーン・マイケルズが、同地区でトミー・ロジャースとのアップタウン・ボーイズなどで活動していたマーティ・ジャネッティの新パートナーとなって初めてコンビが組まれる。まだ当時は正式なタッグチームを結成していたわけではなく、コンビとしての活動は単発的だったものの、コヨーテ&イーグルのアメリカン・スターシップとも対戦した。
その後、個別での活動(マイケルズはテキサスに戻り、ジャネッティはCSWに残留)を経て、1986年2月にミネアポリスのAWAで両者は再合体。当時のAWAはWWFとの興行戦争で劣勢に置かれ続け、若い人材が不足してベテラン中心のマッチメークに陥っており、若年層のファン動員を図る切り札として二人はブッキングされた。CSWでは正式なチーム名を与えられていなかったため、ブッカーのグレッグ・ガニアは「カントリー・ロッカーズ」なる名前を提案したが、二人はこれに反発。ジューダス・プリーストの "Living After Midnight" からインスピレーションを受け、ミッドナイト・ロッカーズ(The Midnight Rockers)と名付けた。以降、当時ティーンエイジャーの少女たちから熱狂的な人気を博していたロックンロール・エクスプレスにあやかったアイドル系タッグチームとして売り出されるが、AWAの総帥バーン・ガニアは彼らのチームコンセプトを理解できず、ロッキングチェアと混同されるのでは、などと考えていたという。
CSWのリングにも上がり、1986年5月15日にはカンザス州カンザスシティにおいて、バッテン・ツインズ(ブラッド・バッテン&バート・バッテン)を破りNWAセントラル・ステーツ・タッグ王座を獲得。主戦場となったAWAでは、後にマイケルズのマネージャーを務めることになるシェリー・マーテルがマネージメントしていたバディ・ローズ&ダグ・サマーズと抗争を繰り広げ、ラリー・ズビスコ&剛竜馬などのチームとも対戦。1987年1月27日、ミネソタ州セントポールにおいてローズ&サマーズからAWA世界タッグ王座を奪取した。5月25日にボリス・ズーコフ&ソルダット・ユスティノフに敗れて王座から陥落した直後、一旦WWFに移籍。6月3日のニューヨーク州ロチェスターでのTVテーピングでホセ・エストラーダ&ジミー・ジャック・ファンクから勝利を収めたが、不祥事のため2週間でWWFを解雇された。
その後、AWAの提携団体だったテネシー州メンフィスのCWAに参戦。1987年10月26日、同じくロックンロール・エクスプレスのフォロワーだったロックンロールRPMs(トミー・レーン&マイク・デービス)からAWA南部タッグ王座を奪取する。12月27日にはAWA本隊において、"オリジナル" ミッドナイト・エクスプレス(デニス・コンドリー&ランディ・ローズ)を破りAWA世界タッグ王座を再び獲得。以後、AWAとCWAを股に掛けて防衛戦を行い、ジェリー・ローラー&ビル・ダンディーなどのチームの挑戦を受けた。1988年2月15日、メンフィスでの本家ロックンロール・エクスプレス(リッキー・モートン&ロバート・ギブソン)との防衛戦で一旦は王座預かりとなるも、同月22日の再戦に勝利して返り咲き、3月19日にバッド・カンパニー(パット・タナカ&ポール・ダイヤモンド)に敗れるまで保持した。
1988年6月、チーム名をザ・ロッカーズ(The Rockers)と改めてWWFに再登場。7月25日にはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンに初出場して、ファビュラス・ルージョーズ(レイモンド・ルージョー&ジャック・ルージョー)と対戦した。10月24日の定期戦では、デモリッション(アックス&スマッシュ)が保持していたWWF世界タッグ王座に挑戦している。その後はNWAから移籍してきたブレーン・バスターズ(タリー・ブランチャード&アーン・アンダーソン)との抗争を経て、1989年4月2日のレッスルマニアVでは超巨漢コンビのツイン・タワーズ(ビッグ・ボスマン&アキーム)と対戦した。
1990年3月19日にはコロッサル・コネクション(アンドレ・ザ・ジャイアント&ハク)のWWF世界タッグ王座に挑戦。以降はミスター・フジ率いるオリエント・エクスプレス(サトー&タナカ)と抗争し、同年4月1日のレッスルマニアVIでも対戦した。同年下期からは、かつて共闘していたパワー&グローリー(ハーキュリーズ&ポール・ローマ)と抗争を繰り広げ、サマースラム'90からサバイバー・シリーズ'90にかけて両チームの遺恨試合が組まれた。
1990年10月30日、サタデー・ナイト・メイン・イベントにおいて、当時のWWF世界タッグ王者チームだったハート・ファウンデーション(ブレット・ハート&ジム・ナイドハート)に "Best 2-out-of-3 Falls" (3本勝負で2本先取したチームの勝ち)というルールで挑戦。2本取って勝利を収めたが、試合途中でトップロープが切れるアクシデントがあり、王座の移動は認められなかった。
1991年3月24日のレッスルマニアVIIではヒーナン・ファミリーのハク&ザ・バーバリアンを破り、年間最大のイベントであるレッスルマニアでの初勝利を果たした。同年はWWFの日本での提携先だったSWSにも度々来日しており、ジョージ高野&高野俊二、ジェフ・ジャレット&佐野直喜、ハク&谷津嘉章などのチームと対戦。3月30日の東京ドーム大会ではハート・ファウンデーションとの試合が組まれた。
1991年11月27日、サバイバー・シリーズ'91におけるザ・ブッシュワッカーズ(ブッチ・ミラー&ルーク・ウィリアムス)と組んでのナスティ・ボーイズ(ブライアン・ノッブス&ジェリー・サッグス)&ビバリー・ブラザーズ(ボウ・ビバリー&ブレイク・ビバリー)戦での同士討ちを発端に、チームに不協和音が生じる。12月4日、同じベビーフェイス陣営にいたリージョン・オブ・ドゥーム(ホーク&アニマル)のWWF世界タッグ王座に挑戦したが、連携ミスで敗退(ジャネッティを抱えたアニマルの背面にマイケルズが誤ってドロップキックを放ち、そのまま前方に倒れ込んだアニマルがジャネッティをフォール)。試合後、ミスを起こした側のマイケルズがジャネッティを一方的に非難して平手打ちを浴びせ、仲間割れとなった。
翌1992年初頭のブルータス・ビーフケーキのインタビュー・コーナー "バーバーショップ" で一旦は和解したかに見えたが、不意をついたマイケルズがスウィート・チン・ミュージックを放ち、ダウンしたジャネッティを窓ガラスに叩き付けてKO。以降、ロッカーズは解散してマイケルズはヒールに転向。ジャネッティはマイケルズの急襲による負傷というアングルのもと、しばらく諸事情で欠場した後、同年10月より復帰して両者の本格的な抗争がスタート。マイケルズの保持していたインターコンチネンタル王座を賭けての連戦が行われた。1993年5月17日のマンデー・ナイト・ロウにおいて、ジャネッティがマイケルズを下してタイトルを獲得するが、6月6日のリターンマッチではディーゼルの介入によりマイケルズが奪還に成功した。
その後、両者の確執は鎮静化し、ジャネッティは1-2-3キッドと組んで、1994年1月10日にザ・ケベッカーズ(ジャック&ピエール)からWWF世界タッグ王座を奪取したが、ロッカーズ時代に起こしたリング禍の裁判のため再び戦線を離脱。一方、マイケルズはレイザー・ラモンらを新しい抗争相手にヒール人気を高めつつ、後にフェイスターンを行い、ニュー・ジェネレーション期のWWFを代表するスーパースターとなった(マイケルズは以前より、そのスター性をロディ・パイパーからも認められていたが、仲間割れする前の1991年5月、そのことが発端で酒に酔ったジャネッティから喧嘩を売られ、警察が呼ばれるほどの大乱闘を起こしたという)。
復帰後のジャネッティは1996年4月、リーフ・キャシディを新パートナーにニュー・ロッカーズ(The New Rockers)を結成するも、マイケルズの成功とは対照的にポジションには恵まれなかった。同年下期よりヒールターンを決行したが、下位のカードから脱することはできず、同年末をもってWWFを退団した。
以降、2005年3月14日開催のRAWにおいて、ジャネッティが久々にWWEに出場。マイケルズとの一夜限りのロッカーズ再結成が実現し、ラ・レジスタンス(シルヴァン・グラニエ&ロブ・コンウェイ)と対戦。ジャネッティがコンウェイをフィニッシュ・ムーブのロッカー・ドロッパーからフォールして勝利を収めた。これが二人がコンビを組んでの最後の試合となったが、その後も2006年2月20日と2009年10月19日のRAWにジャネッティが登場してマイケルズと共演した。
ロッカーズとしてWWF世界タッグ王座を獲得することはなかったが、1989年にはレスリング・オブザーバー・ニュースレター(英語版)の "Tag Team of the Year" を受賞している。 | [
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] | ザ・ロッカーズは、プロレスラーのマーティ・ジャネッティとショーン・マイケルズによって結成されたプロレスのタッグチーム。 ロックンロール・エクスプレスの影響下にあるベビーフェイスのアイドル系タッグチームとして、AWAを経てファミリー・エンターテインメント期のWWFで活躍した。 | {{Infobox wrestling team
|article_name = ザ・ロッカーズ
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|image = The Rockers, 1987.jpg
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|caption = [[ショーン・マイケルズ|マイケルズ]](左)&[[マーティ・ジャネッティ|ジャネッティ]](右)<br />(1987年、[[AWA世界タッグチーム王座|AWA世界タッグ王座]]戴冠時)
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}}
'''ザ・ロッカーズ'''('''The Rockers''')は、[[プロレスラー]]の'''[[マーティ・ジャネッティ]]'''と'''[[ショーン・マイケルズ]]'''によって結成された[[プロレス]]の[[タッグチーム]]。
[[ロックンロール・エクスプレス]]の影響下にある[[ベビーフェイス (プロレス)|ベビーフェイス]]のアイドル系タッグチームとして、[[アメリカン・レスリング・アソシエーション|AWA]]を経てファミリー・エンターテインメント期の[[WWE|WWF]](現:WWE)で活躍した<ref name="oww">{{cite web|url=https://www.onlineworldofwrestling.com/profile/rockers|title=Rockers|accessdate=2023-10-05|publisher=Online World of Wrestling}}</ref>。
== 来歴 ==
=== ミッドナイト・ロッカーズ ===
[[1985年]]5月、[[テキサス州]][[サンアントニオ]]から[[アメリカ合衆国中西部|中西部]]の[[NWA (プロレス)|NWA]]セントラル・ステーツ地区([[ハート・オブ・アメリカ・スポーツ・アトラクションズ|CSW]])に転戦してきた[[ショーン・マイケルズ]]が、同地区でトミー・ロジャース<ref group="†">[[ザ・ファンタスティックス]]の[[トミー・ロジャース]]とは別人で、後にミッドナイト・ロッカーズとAWA南部タッグ王座を争うロックンロールRPMsのトミー・レーン([http://www.onlineworldofwrestling.com/profile/tommy-lane/ Online World of Wrestling: Tommy Lane])。</ref>とのアップタウン・ボーイズなどで活動していた[[マーティ・ジャネッティ]]の新パートナーとなって初めてコンビが組まれる<ref name="oww-marty">{{cite web|url=https://www.onlineworldofwrestling.com/profile/marty-jannetty/|title=Marty Jannetty|accessdate=2023-10-05|publisher=Online World of Wrestling}}</ref>。まだ当時は正式な[[タッグチーム]]を結成していたわけではなく、コンビとしての活動は単発的だったものの、[[スコット・ホール|コヨーテ]]&[[ダニー・スパイビー|イーグル]]のアメリカン・スターシップとも対戦した<ref>{{cite web|url=https://www.wrestlingdata.com/index.php?befehl=stables&stable=2186&seite=58|title=Tag Team "Rockers"|accessdate=2023-10-29|publisher=Wrestlingdata.com}}</ref>。
その後、個別での活動(マイケルズはテキサスに戻り、ジャネッティはCSWに残留)を経て、[[1986年]]2月に[[ミネアポリス]]の[[アメリカン・レスリング・アソシエーション|AWA]]で両者は再合体<ref>{{cite web|url=https://www.wrestlingdata.com/index.php?befehl=bios&wrestler=50&bild=1&details=7&liga=16&jahr=1986|title=The AWA matches fought by Shawn Michaels in 1986|accessdate=2023-10-05|publisher=Wrestlingdata.com}}</ref>。当時のAWAは[[WWE|WWF]]との興行戦争で劣勢に置かれ続け、若い人材が不足してベテラン中心のマッチメークに陥っており、若年層のファン動員を図る切り札として二人はブッキングされた<ref name="sportster">{{cite web|url=https://www.thesportster.com/facts-trivia-things-the-rockers-wwe-shawn-michaels-marty-jannetty/|title=10 Things WWE Fans Should Know About The Rockers|date=2022-09-30|accessdate=2023-10-05|publisher=The Sportster}}</ref>。CSWでは正式なチーム名を与えられていなかったため、ブッカーの[[グレッグ・ガニア]]は「カントリー・ロッカーズ」なる名前を提案したが、二人はこれに反発<ref name="what">{{cite web|url=https://whatculture.com/wwe/10-wrestling-facts-we-didnt-know-last-week-jan-19?page=10|title=Verne Gagne Was Worried The Rockers Would Be Compared To Chairs|date=2018-01-19|accessdate=2023-10-05|publisher=What Culture}}</ref>。[[ジューダス・プリースト]]の ''"Living After Midnight"'' からインスピレーションを受け、'''ミッドナイト・ロッカーズ'''(''The Midnight Rockers'')と名付けた<ref name="sportster"/>。以降、当時ティーンエイジャーの少女たちから熱狂的な人気を博していた[[ロックンロール・エクスプレス]]にあやかったアイドル系タッグチームとして売り出されるが、AWAの総帥[[バーン・ガニア]]は彼らのチームコンセプトを理解できず、[[ロッキングチェア]]と混同されるのでは、などと考えていたという<ref name="what"/>。
CSWのリングにも上がり、1986年5月15日には[[カンザス州]][[カンザスシティ (カンザス州)|カンザスシティ]]において、バッテン・ツインズ(ブラッド・バッテン&バート・バッテン)を破りNWAセントラル・ステーツ・タッグ王座を獲得<ref name="cs-t"/>。主戦場となったAWAでは、後にマイケルズの[[マネージャー (プロレス)|マネージャー]]を務めることになる[[シェリー・マーテル]]がマネージメントしていた[[バディ・ローズ]]&[[ダグ・サマーズ]]と抗争を繰り広げ<ref name="oww"/>、[[ラリー・ズビスコ]]&[[剛竜馬]]などのチームとも対戦<ref>{{cite web|url=https://www.wrestlingdata.com/index.php?befehl=bios&wrestler=50&bild=1&details=7&liga=16&jahr=1986&seite=3|title=The AWA matches fought by Shawn Michaels in 1986|accessdate=2023-10-05|publisher=Wrestlingdata.com}}</ref>。[[1987年]]1月27日、[[ミネソタ州]][[セントポール (ミネソタ州) |セントポール]]においてローズ&サマーズから[[AWA世界タッグチーム王座|AWA世界タッグ王座]]を奪取した<ref name="awa-t"/>。5月25日に[[ボリス・ズーコフ]]&ソルダット・ユスティノフに敗れて王座から陥落した直後、一旦[[WWE|WWF]]に移籍<ref name="oww"/>。6月3日の[[ニューヨーク州]][[ロチェスター (ニューヨーク州)|ロチェスター]]でのTVテーピングで[[カルロス・ホセ・エストラーダ|ホセ・エストラーダ]]&[[ジェシー・バー|ジミー・ジャック・ファンク]]から勝利を収めたが<ref>{{cite web|url=https://www.cagematch.net/?id=1&nr=16361|title=WWF Wrestling Challenge #41|accessdate=2023-10-05|publisher=Cagematch.net}}</ref>、不祥事のため2週間でWWFを解雇された<ref name="oww"/><ref group="†">酒に酔ってナイトクラブの器物を損壊させたことが原因とされる(『ピュア・ダイナマイト - [[ダイナマイト・キッド]]自伝』P197 / [[2001年]]、[[エンターブレイン]]、ISBN 4-7577-0639-1)。マイケルズは、[[ジェシー・バー|ジミー・ジャック・ファンク]]に挑発されたため、自分がタフであることを示すべく自分の頭にボトルを叩きつけて割ったと語っている([https://www.thesportster.com/wwe-why-the-rockers-tag-team-were-fired-explained/ Why The Rockers Tag Team Were Fired By The WWE, Explained])。</ref>。
その後、AWAの提携団体だった[[テネシー州]][[メンフィス (テネシー州)|メンフィス]]の[[コンチネンタル・レスリング・アソシエーション|CWA]]に参戦。1987年10月26日、同じくロックンロール・エクスプレスのフォロワーだったロックンロールRPMs(トミー・レーン&マイク・デービス)からAWA南部タッグ王座を奪取する<ref name="awa-s-t"/>。12月27日にはAWA本隊において、[[ミッドナイト・エクスプレス (プロレス)|"オリジナル" ミッドナイト・エクスプレス]]([[デニス・コンドリー]]&[[ランディ・ローズ (プロレスラー)|ランディ・ローズ]])を破りAWA世界タッグ王座を再び獲得<ref name="awa-t"/>。以後、AWAとCWAを股に掛けて防衛戦を行い、[[ジェリー・ローラー]]&[[ビル・ダンディー]]などのチームの挑戦を受けた<ref>{{cite web|url=https://www.wrestlingdata.com/index.php?befehl=bios&wrestler=50&bild=1&details=7&liga=165&jahr=1988|title=The USWA matches fought by Shawn Michaels in 1988|accessdate=2023-10-05|publisher=Wrestlingdata.com}}</ref>。[[1988年]]2月15日、メンフィスでの本家ロックンロール・エクスプレス([[リッキー・モートン]]&[[ロバート・ギブソン (プロレスラー)|ロバート・ギブソン]])との防衛戦で一旦は王座預かりとなるも、同月22日の再戦に勝利して返り咲き、3月19日にバッド・カンパニー([[パット・タナカ]]&[[ポール・ダイヤモンド]])に敗れるまで保持した<ref name="awa-t"/>。
=== ザ・ロッカーズ ===
[[Image:The_Rockers_-_Michaels_and_Jannetty.jpg|thumb|260px|right|後方が[[ショーン・マイケルズ]]、手前が[[マーティ・ジャネッティ]](1989年)]]
1988年6月、チーム名を'''ザ・ロッカーズ'''(''The Rockers'')と改めてWWFに再登場<ref name="oww"/>。7月25日には[[ニューヨーク]]の[[マディソン・スクエア・ガーデン]]に初出場して、ファビュラス・ルージョーズ([[レイモンド・ルージョー]]&[[ジャック・ルージョー]])と対戦した<ref>{{cite web|url=https://www.cagematch.net/?id=1&nr=18569|title=WWF on MSG Network|accessdate=2023-10-05|publisher=Cagematch.net}}</ref>。10月24日の定期戦では、[[デモリッション]]([[ビル・イーディー|アックス]]&[[バリー・ダーソウ|スマッシュ]])が保持していた[[WWE・世界タッグチーム王座|WWF世界タッグ王座]]に挑戦している<ref>{{cite web|url=https://www.cagematch.net/?id=1&nr=18571|title=WWF on MSG Network|accessdate=2023-10-05|publisher=Cagematch.net}}</ref>。その後はNWAから移籍してきたブレーン・バスターズ([[タリー・ブランチャード]]&[[アーン・アンダーソン]])との抗争を経て、[[1989年]]4月2日の[[レッスルマニアV]]では超巨漢コンビのツイン・タワーズ([[レイ・トレイラー|ビッグ・ボスマン]]&[[ワンマン・ギャング|アキーム]])と対戦した<ref>{{cite web|url=https://www.cagematch.net/?id=1&nr=1760|title=WWF WrestleMania V "The Mega-Powers Explode"|accessdate=2023-10-05|publisher=Cagematch.net}}</ref>。
[[1990年]]3月19日にはコロッサル・コネクション([[アンドレ・ザ・ジャイアント]]&[[キング・ハク|ハク]])のWWF世界タッグ王座に挑戦<ref>{{cite web|url=https://www.cagematch.net/?id=1&nr=29452|title=WWF House Show|accessdate=2023-10-05|publisher=Cagematch.net}}</ref>。以降は[[ハリー藤原|ミスター・フジ]]率いるオリエント・エクスプレス([[佐藤昭雄|サトー]]&[[パット・タナカ|タナカ]])と抗争し、同年4月1日の[[レッスルマニアVI]]でも対戦した<ref>{{cite web|url=https://www.cagematch.net/?id=1&nr=1764|title=WWF WrestleMania VI "The Ultimate Challenge"|accessdate=2023-10-05|publisher=Cagematch.net}}</ref>。同年下期からは、かつて共闘していた[[パワー&グローリー]]([[レイ・フェルナンデス|ハーキュリーズ]]&[[ポール・ローマ]])と抗争を繰り広げ、[[サマースラム#第3回大会(1990年)WWF Summer Slam 1990 "The Heat Returns"|サマースラム'90]]から[[サバイバー・シリーズ#第4回大会(1990年)WWF Survivor Series 1990|サバイバー・シリーズ'90]]にかけて両チームの遺恨試合が組まれた<ref>{{cite web|url=https://www.cagematch.net/?id=2&nr=988&page=4&year=1990&promotion=1&s=0|title=Marty Jannetty: Matches 1990|accessdate=2023-10-05|publisher=Cagematch.net}}</ref>。
1990年10月30日、[[サタデー・ナイト・メイン・イベント]]において、当時のWWF世界タッグ王者チームだった[[ハート・ファウンデーション]]([[ブレット・ハート]]&[[ジム・ナイドハート]])に "Best 2-out-of-3 Falls" (3本勝負で2本先取したチームの勝ち)というルールで挑戦。2本取って勝利を収めたが、試合途中でトップロープが切れるアクシデントがあり、王座の移動は認められなかった<ref>{{cite web|url=https://prowrestlingstories.com/pro-wrestling-stories/the-rockers/|title=The Rockers and Their Canceled WWF Championship Win|date=2023-02-16|accessdate=2023-10-08|publisher=Pro Wrestling Stories}}</ref>。
[[1991年]]3月24日の[[レッスルマニアVII]]では[[ボビー・ヒーナン|ヒーナン・ファミリー]]のハク&[[シオネ・ヴァイラヒ|ザ・バーバリアン]]を破り、年間最大のイベントである[[レッスルマニア]]での初勝利を果たした<ref>{{cite web|url=https://www.cagematch.net/?id=1&nr=1768|title=WWF WrestleMania VII "Superstars and Stripes Forever"|accessdate=2023-10-05|publisher=Cagematch.net}}</ref>。同年はWWFの日本での提携先だった[[SWS]]にも度々来日しており、[[ジョージ高野]]&[[高野拳磁|高野俊二]]、[[ジェフ・ジャレット]]&[[佐野巧真|佐野直喜]]、ハク&[[谷津嘉章]]などのチームと対戦<ref>{{cite web|url=https://www.wrestlingdata.com/index.php?befehl=bios&wrestler=50&bild=1&details=7&liga=403&jahr=1991|title=The SWS matches fought by Shawn Michaels in 1991|accessdate=2023-10-08|publisher=Wrestlingdata.com}}</ref>。3月30日の[[東京ドーム]]大会ではハート・ファウンデーションとの試合が組まれた<ref>{{cite web|url=https://www.cagematch.net/?id=1&nr=13727|title=SWS Wrestlefest in Tokyo Dome|accessdate=2023-10-05|publisher=Cagematch.net}}</ref>。
1991年11月27日、[[サバイバー・シリーズ#第5回大会(1991年)WWF Survivor Series 1991|サバイバー・シリーズ'91]]における[[ザ・ブッシュワッカーズ]]([[ブッチ・ミラー]]&[[ルーク・ウィリアムス]])と組んでの[[ナスティ・ボーイズ]]([[ブライアン・ノッブス]]&[[ジェリー・サッグス]])&ビバリー・ブラザーズ([[ウェイン・ブルーム|ボウ・ビバリー]]&[[マイク・イーノス|ブレイク・ビバリー]])戦での同士討ちを発端に、チームに不協和音が生じる<ref name="wwf-91">{{cite web|url=https://thehistoryofwwe.com/wwf-results-1991/|title=WWF - 1991 Results|accessdate=2023-10-08|publisher=History of WWE}}</ref>。12月4日、同じベビーフェイス陣営にいた[[ロード・ウォリアーズ|リージョン・オブ・ドゥーム]]([[ロード・ウォリアー・ホーク|ホーク]]&[[ロード・ウォリアー・アニマル|アニマル]])のWWF世界タッグ王座に挑戦したが、連携ミスで敗退(ジャネッティを抱えたアニマルの背面にマイケルズが誤って[[ドロップキック]]を放ち、そのまま前方に倒れ込んだアニマルがジャネッティをフォール)<ref name="wwf-91"/>。試合後、ミスを起こした側のマイケルズがジャネッティを一方的に非難して平手打ちを浴びせ、仲間割れとなった<ref name="wwf-91"/>。
翌[[1992年]]初頭の[[ブルータス・ビーフケーキ]]のインタビュー・コーナー "バーバーショップ" で一旦は和解したかに見えたが、不意をついたマイケルズが[[トラース・キック|スウィート・チン・ミュージック]]を放ち、ダウンしたジャネッティを窓ガラスに叩き付けてKO<ref name="oww-marty"/>。以降、ロッカーズは解散してマイケルズは[[ヒール (プロレス)|ヒール]]に転向。ジャネッティはマイケルズの急襲による負傷という[[アングル (プロレス)|アングル]]のもと、しばらく諸事情で欠場した後、同年10月より復帰して両者の本格的な抗争がスタート<ref name="oww-marty"/>。マイケルズの保持していた[[WWE・インターコンチネンタル王座|インターコンチネンタル王座]]を賭けての連戦が行われた<ref name="wwf-93">{{cite web|url=https://thehistoryofwwe.com/wwf-results-1993/|title=WWF - 1993 Results|accessdate=2023-10-08|publisher=History of WWE}}</ref>。[[1993年]]5月17日の[[WWE・ロウ|マンデー・ナイト・ロウ]]において、ジャネッティがマイケルズを下してタイトルを獲得するが、6月6日のリターンマッチでは[[ケビン・ナッシュ|ディーゼル]]の介入によりマイケルズが奪還に成功した<ref name="wwf-93"/><ref name="ic">{{cite web|url=https://www.wrestling-titles.com/wwe/ic.html|title=WWE Intercontinental Title|accessdate=2023-10-05|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref>。
その後、両者の確執は鎮静化し、ジャネッティは[[ショーン・ウォルトマン|1-2-3キッド]]と組んで、[[1994年]]1月10日にザ・ケベッカーズ([[ジャック・ルージョー|ジャック]]&[[カール・ウエレ|ピエール]])からWWF世界タッグ王座を奪取したが<ref name="wwe-t">{{cite web|url=https://www.wrestling-titles.com/wwe/wwe-world-t.html|title=WWWF/WWF/WWE World Tag Team Title|accessdate=2023-10-05|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref>、ロッカーズ時代に起こした[[リング禍]]の裁判のため再び戦線を離脱<ref name="oww-marty"/>。一方、マイケルズは[[スコット・ホール|レイザー・ラモン]]らを新しい抗争相手にヒール人気を高めつつ、後に[[ベビーフェイス (プロレス)#フェイスターン|フェイスターン]]を行い、ニュー・ジェネレーション期のWWFを代表するスーパースターとなった(マイケルズは以前より、そのスター性を[[ロディ・パイパー]]からも認められていたが、仲間割れする前の1991年5月、そのことが発端で酒に酔ったジャネッティから喧嘩を売られ、警察が呼ばれるほどの大乱闘を起こしたという<ref name="sportster"/>)。
復帰後のジャネッティは[[1996年]]4月、[[アル・スノー|リーフ・キャシディ]]を新パートナーに'''ニュー・ロッカーズ'''(''The New Rockers'')を結成するも、マイケルズの成功とは対照的にポジションには恵まれなかった<ref name="oww-marty"/>。同年下期より[[ヒール (プロレス)#ヒールターン|ヒールターン]]を決行したが、下位のカードから脱することはできず<ref name="sportster"/>、同年末をもってWWFを退団した<ref name="oww-marty"/>。
以降、[[2005年]]3月14日開催の[[WWE・ロウ|RAW]]において、ジャネッティが久々に[[WWE]]に出場<ref name="oww-marty"/>。マイケルズとの一夜限りのロッカーズ再結成が実現し、[[ラ・レジスタンス]]([[シルヴァン・グラニエ]]&[[ロブ・コンウェイ]])と対戦<ref name="sportster"/>。ジャネッティがコンウェイを[[フィニッシュ・ホールド|フィニッシュ・ムーブ]]の[[エース・クラッシャー#ギロチン・エース・クラッシャー|ロッカー・ドロッパー]]からフォールして勝利を収めた<ref>{{cite web|url=https://thehistoryofwwe.com/wwe-results-2005/|title=WWE - 2005 Results|accessdate=2023-10-12|publisher=History of WWE}}</ref>。これが二人がコンビを組んでの最後の試合となったが、その後も[[2006年]]2月20日と[[2009年]]10月19日のRAWにジャネッティが登場してマイケルズと共演した<ref name="oww-marty"/><ref name="sportster"/>。
ロッカーズとしてWWF世界タッグ王座を獲得することはなかったが、1989年には{{仮リンク|レスリング・オブザーバー・ニュースレター|en|Wrestling Observer Newsletter}}の "[[:en:List of Wrestling Observer Newsletter awards#Tag Team of the Year|Tag Team of the Year]]" を受賞している<ref name="sportster"/>。
== 獲得タイトル ==
; [[ハート・オブ・アメリカ・スポーツ・アトラクションズ|セントラル・ステーツ・レスリング]]
* NWAセントラル・ステーツ・タッグ王座:1回<ref name="cs-t">{{cite web|url=https://www.wrestling-titles.com/us/centralstates/nwa/cs-t.html|title=NWA Central States Tag Team Title|accessdate=2023-10-05|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref>
; [[アメリカン・レスリング・アソシエーション]]
* [[AWA世界タッグチーム王座|AWA世界タッグ王座]]:3回<ref name="awa-t">{{cite web|url=http://www.wrestling-titles.com/awa/awa-t.html|title=AWA World Tag Team Title|accessdate=2023-10-05|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref>
; [[コンチネンタル・レスリング・アソシエーション]]
* AWA南部タッグ王座:2回<ref name="awa-s-t">{{cite web|url=http://www.wrestling-titles.com/us/tn/cwa/awa-s-t.html#77|title=AWA Southern Tag Team Title|accessdate=2023-10-05|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref>
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=†}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [https://www.onlineworldofwrestling.com/profile/rockers Online World of Wrestling]
* [https://www.wrestlingdata.com/index.php?befehl=tagteams&team=2044 Tag Team "Midnight Rockers"]
* [https://www.merchandiseandmemories.com/magazine-of-the-month-wwf-wrestling WWF Wrestling Spotlight The Rockers]
* [https://www.merchandiseandmemories.com/tag-team-spotlight-the-rockers Tag Team Spotlight: The Rockers]
* [https://www.thesportster.com/facts-trivia-things-the-rockers-wwe-shawn-michaels-marty-jannetty/ 10 Things WWE Fans Should Know About The Rockers]
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4,838,989 | 岩松あきら | 岩松あきら(いわまつあきら、1967年7月16日 - )は、日本の映画監督、映像制作家、ポートレイト撮影家である。彼の出身地は愛知県岡崎市で、1986年愛知県岡崎北高等学校および1990年国立愛知教育大学を卒業した。初期の経歴では小学校教諭として働きつつ映画製作と映画レビュー執筆活動も行っていたが、2014年 三河映画第二弾『Ben-Joe』の制作を契機に教育職を24年間務めた後、映画製作に専念することになった。2017年株式会社ロッキングパイン・フィルムズを設立。代表取締役に就任する。2018年にはシネマチフォトのサービスを開業し、映像制作、写真撮影に従事する。 2023年11月「Ben-Joe」がカンヌ国際映画祭・ヴェネツィア国際映画祭と並ぶFIAPF(国際映画製作者連盟)認定の「タリン・ブラックナイト映画祭」でワールドプレミア上映される。
岩松の父親は愛知教育大学の名誉教授であり、日本動物学会の評議員である岩松鷹司。母は結婚を機に退職し、専業主婦として家族を支えた。兄には俳優の福山廉士がいる。岩松あきらは愛知県岡崎市で生まれ、幼少期に父親がアメリカのマサチューセッツ州・ウースターの研究所で生物学を研究するために渡米し、その後、帰国してから現在まで愛知県刈谷市に住んでいる。
彼の父親は厳格で、家庭内でのテレビ視聴を制限しており、ニュースと時代劇以外の番組の視聴は許可されていなかった。しかし、小学校5年生の父親の出張時に、母親がテレビで『ローマの休日』を観ている際、彼は浴室に向かうつもりがテレビ画面に引き込まれ、2時間にわたり下着のまま番組を鑑賞した。その後、中学校卒業の祝いに友人と映画館で映画を観る機会があり、スティーブン・スピルバーグの『E.T.』を観る。満席の映画館で立ったまま鑑賞し、後に本屋で『E.T.』に出演したドリュー・バリモアが表紙の映画雑誌『ロードショー』を見つけ購読者となった。これが彼の映画への興味を引き起こし、高校生活が始まってまもなくのゴールデンウィーク公開の『評決』『ガンジー』『トッツィー』を立て続けに観て映画のエンタテインメント性にはまり、学校帰りに映画館へ頻繁に通うようになる。週末には、ビデオレコーダーのある友人の家に入り浸り、友人とお金を出し合い、レンタルビデオ店で映画を借りて、映画を観ていた。ちょうどこの頃、ロードショーでMGM作品のリバイバル上映があり、その中の1本『雨に唄えば』の鑑賞後は、興奮冷めやらぬ状態で友人と抱き合った。この頃、名古屋市には、中日シネラマ劇場、名鉄東宝劇場、名宝スカラ座など、1,000人近く収容できる階段状の座席の映画館がいくつもあり、その巨大画面の迫力と、立ち見でごった返している映画館の活気にも魅了される。その後、彼はさまざまなジャンルの映画を鑑賞するようになったが、ホラー映画だけが苦手で、これまで観たホラー映画は「エクソシスト」と「リング(1作目)」のみである。彼はアート性よりエンターテイメント性の高い作品、ヨーロッパ映画よりもアメリカ映画を好み、好きな映画作家として、デビッド・リンチ、アルフレッド・ヒッチコック、ウッディ・アレン、フェデリコ・フェリーニ、フランク・キャプラ、スティーブン・スピルバーグ、スタンリー・キューブリック、黒澤明、宮崎駿、岩井俊二などを挙げており、人生で最も泣いた映画は南アフリカ共和国映画の『マイウェイ』だと語っている。
高校2年生の文化祭で、友人が父親の8mmフィルムカメラを使用して映画制作の提案をしてきた。映画に熱中していた彼は、即座に了承。友人はカメラマンで、岩松は監督として共同作業し、それぞれ2万円ずつ出し合って、総額4万円の予算を用意した。当時、フィルム代と現像代は1分間千円程度かかっていたが、制作が進行するにつれて予算は急激に膨らみ、友人は不安を感じて撮影から離れた。最終的に制作費は12万5千円にまで膨れ上がり、岩松は親からの借金で賄わざるを得なかった。岩松は監督兼カメラマンとして映画制作を続けたが、途中でカメラが故障して撮影を中断。当時、ビデオカメラが一般的になりつつあり、8mmフィルムカメラはほとんど使われなくなっていたため、新しいカメラを手に入れるのは容易ではなかった。スタッフとキャストは作品が未完のまま終わるだろうと覚悟していたが、岩松は必死に周囲と連絡を取り、翌日には別の8mmフィルムカメラを手に入れて撮影に戻り、周囲を驚かせた。
このとき制作した映画は、勉強も運動も得意でない主人公が、片思いの女子に告白し、彼女のスポーツ選手の彼氏と競争するスポ根映画だった。この頃最も影響を受けていたスピルバーグの影響で、SF映画に興味があったが、予算的に制作は難しいと判断し、その頃好きだった『がんばれ!ベアーズ』『マイウェイ』『ロッキー』のような映画を好んでいたこともあり、スポ根映画をつくろうとする。しかし、脚本担当の友人映画をあまり観ていなかったことや、岩松自身も撮影フィルムを繋げるだけで映画が完成すると楽観的に考えていたため、できあがった50分ほどの作品は質が低く、鑑賞に堪えるものではなかった。誰も作品を褒めることはなく、処女作は完全な失敗に終わった。その後、岩松は壊れたカメラを修理し、撮影中に逃亡した友人のカメラマンにカメラを返却したが、友情の修復には至らなかった。この経験から、岩松は悔しさを感じ、次回作の制作を計画したが、受験勉強のためにその夢を諦めた。
文化祭では友人と漫才コンビを結成し、舞台に立つが、漫才よりも映画制作で感動を伝える方が良いと感じた。体育祭の応援合戦では、毎年クラスの応援団長を務め、1年生から3年生までのクラスが流行のダンスで応援合戦に参戦する中、岩松は「50人ほどの人間が1枚の絵画になって踊る」「壊れたオルゴールのような動きで超スローで踊る」「手だけで踊る」など奇抜なアイディアを連発し、一年生では学年優勝。二年生は全学年で準優勝。三年生では全校優勝を果たす。
1986年大学に入学した際、入学祝いとしてビデオレコーダーをもらう。それからは、『月曜ロードショー(解説:荻昌弘)』や『水曜ロードショー(解説:水野晴郎)』『日曜洋画劇場(解説:淀川長治)』などのテレビ番組を録画したり、レンタルビデオを借りたりして、映画に没頭した。エンターテイメント性の高い作品を見つけると、友人を自宅に招き、強制的に鑑賞させることもあった。その中には、大林宣彦の『さびしんぼう』やスタンリー・ドーネンの『シャレード』があった。さらに、名古屋の映画館にも頻繁に足を運び、映画鑑賞を楽しむ日々が始まる。大学では美術科に進学し、映画研究会にも所属する。しかし、映画研究会の先輩は主に麻雀に夢中で映画制作が滞っていた。そこで、私は8mmカメラを借りて、大学時代には美術科の仲間と毎年1本のペースで計4本の短編映画を制作。当時、大林宣彦の尾道三部作や藤子不二雄の短編集、星新一のショートショートに影響を受け、タイムスリップや身体の入れ替わりなど、少し不思議なSF作品が多かった。途中から映画研究会でも映画制作を行うようになり、偶然にも映画研究会の部室の隣には劇団サークルの部室があったため、演劇部員に映画に出演してもらい、代わりに演劇のスタッフとして協力をした。
愛知教育大学を卒業した後、今村昌平の『日本映画学校』へ進学しようと考えていた。しかし、父親は教育大学の教授であったため、勝手に教員採用試験の願書を提出していた。採用試験の前夜、両親から強い説得を受け、とりあえず受験をすることになる。受験は成功し、合格通知が届いた日から母親は毎日泣きながら、教師の道を歩むように岩松を説得し続けた。その強い説得に押され、岩松は教育の道を選ぶことを決断。
元々美術科を専攻していたため、教師の通常業務の枠を超えて、学校の記念誌の表紙デザインや運動場の遊具、校内の看板の制作など、さまざまな仕事を依頼された。そのため、仕事に追われて夜遅くまで働いていたことが原因で、就職して2か月で肺気胸で入院した。小学校へ就職時は髪を肩まで伸ばし、派手な原色や蛍光色の服を好んで着用していたため、校長からは「教員らしい服装をしなさい」と何度も叱責された。しかし、「教員らしい服装とは何ですか?」と率直に返答し、校長を怒らせていた。 図工の授業では、児童たちに自分のワゴン車にペンキで絵を描かせたり、総合学習の時間には雑草を食べる実験を行ったりしていた。給食は、児童たちの要望に応じて、体育館や運動場、図書館など、好きな場所で食べていた。運動会や長縄大会、ドッジボール大会などのイベントで、クラスを優勝に導くのが常で、児童には慕われていた。
教師になっても、映画制作への夢を捨てなかった。働き始めてからわずか3か月で短編映画を制作し、教師としての日常と平行して、週末にはファミレスで大学時代の映画研究会の仲間たちと脚本会議を夜明けまで続けた。しかし、彼らとの共同作業は困難で、10年以上にわたり、企画を練り、脚本を書き続けたが、結局、制作された映画は一本もなかった。 この間、執筆し続けた映画レビューは、自身のウェブサイトで発表され、毎日3000件以上のアクセスを集め、10以上の雑誌やラジオ番組に取り上げられた。
自身が運営するホームページが大いに盛り上がり、DiscStation(映像ソフト販売会社)、PHP出版(出版社)、東北新社(配給会社)を始め、様々な分野から映画評論の依頼が相次いだ。一時は映画評論家に転身しようと考えもしたが、映画制作の夢を諦めきれず、、30代半ばで映画制作に10年ぶりに復帰することを決意した。復帰後、最初の短編映画『Imomushi』を制作し、これが『シネクエスト映画祭(アメリカ)』で入選するなどの成功を収めた。その後も『昨日の町で、』などで国内外の映画祭で入選を果たした。
2006年、同じく愛知県三河地方で映画制作を行っていた清水雅人と出会い、映画製作グループ『M.I.F.(Mikawa Independent movie Factory)』を設立した。M.I.F.では、地方での映画制作を東京に引けを取らないレベルで行うと同時に、映画祭(小坂本町一丁目映画祭)の運営に携わった。また、映画制作のワークショップの講師として活動したり、芸能プロダクションで若手俳優たちに演技指導を行ったりもした。
『M.I.F.』での映画制作に携わりながら、教育と映画制作を結びつけ、自分たちのいる場所(愛知県三河地方)からも世界へ映画を発信できる可能性を信じ、映画制作チーム『三河映画』を設立。
三河映画には、スタッフに映画制作のプロはいない。十分な制作費もない。高価な撮影機材も揃っていない。この「ないない尽くし」の状態であっても、完全自主制作体制を武器にして、クオリティの高い映画がつくれることを実践中である。
映画制作で頻発する様々な問題は、金銭的手段ではなく、人との繋がりと時間をかけることで克服していくことを信条としているが、これは、金銭的な解決をしないことで、かえって人のつながりが深まり、個々の人間力が培われるのではないかという信念に基づいている。
三河映画では、映画制作を通した人間力の成長を重視しており、単にクオリティの高い映画をつくることができれば目的が達成されるわけではなく、その過程での人間的な成長も不可欠になっている。彼らは映画制作をすることで、地域に人間力の高い人材を増やし、その結果、地域の活性化に貢献することを目指している。
三河映画の最初の作品、『幸福な結末』は、まったくの予算なしで制作が始まった。この物語は、人生に行き詰まった中年の男性が自殺を試みるが、謎の少女に救われ、彼の魂が少女の体に宿り、過去にタイムスリップするというファンタジーだ。最初のアイディアは、全く同じ物語を前半でシリアスに描き、後半でコメディに描くというものだったが、脚本の執筆段階でそれはうまくいかないと判断され、断念された。その後、岩松自身はこの作品が大林宣彦監督の尾道三部作「転校生」「時をかける少女」「さびしんぼう」の設定を混ぜたようなものになったと回想している。脚本には2年間かかり、18稿のリライトが行われた。彼らは黒澤明組と山田洋次組の執筆スタイルを研究し、独自の脚本家としてのスタイルを確立し、アイディアを出し合った。脚本には多くのコミカルなシーンが含まれていたが、主人公を演じた2人のキャラクターから、編集時にコミカルな要素が削除され、シリアスなドラマとして完成した。地元在住者から成る撮影スタッフや無名のキャストは、すべて無償で参加し、撮影は41日間にわたり、愛知県の豊田市、岡崎市、刈谷市などの西三河地域で行われ、撮影地は合計で51か所に及び、地元の協力によって実現した。オーディションには625人以上が参加し、238人のキャストと451人のスタッフが協力し、さらに251の企業、団体、個人からの協力を受け、最終的には1,000人以上の人々が関与し、映画は完成した。
『Ben-Joe』は、教え子の実話に基づいた映画。元教師の岩松は、10数年ぶりに会った教え子から、彼女が10代後半に「摂食障害」を発症し、山奥の施設に治療のために送られ、そこで衝撃的な出来事を体験したという話を聞いた。彼女の話を聞いた彼は、日本の若者の現実、閉塞した社会を描く絶好の機会だと思い、その場で映画化を申し出た。前作『幸福な結末』ではファンタジーを通して家族を描いたが、本作ではまったく逆のアプローチで、再び家族の問題を見つめる。摂食障害や家庭内暴力といった社会問題を通して、人間の心の痛み、分断と和解の模索を描いている。
『幸福な結末』制作時、岩松は教師との二つの仕事を両立させていたが、睡眠不足が度重なり、居眠り運転で自家用車を2台も廃車にしてしまった。同じような状況を避けるため、『Ben-Joe』制作のために教師職を辞職。ゼロから始まり、撮影は愛知県の三河地方を中心に行われた。スタッフ、キャスト、エキストラはみな手弁当(無報酬)で参加。オーディションに参加した女優たちは、ヒロイン役のプレッシャーを感じており、最終選考に残っても辞退する者が相次ぎ、ヒロインの選考は難航した。結局、現役アイドルである石川野乃花が選ばれた。映画の巨大セットは愛知県北設楽郡津具の旧津具小学校の跡地に建てられ、1年間かけて撮影が行われた。セット建設には地元の材木店の協賛や、石川野乃花のファンからの寄付が活用された。
プリプロダクション段階では、短編映画の制作を繰り返し、徹底的なリハーサルを行い、岩松は新たな演出スタイルを獲得する努力をした。撮影現場では、必要なだけリテイクが行われ、最後まで「自分たちのやりたいことをやり切る」姿勢が変わらなかった。特に重要なシーンの撮影時には、現場の緊張感が高まり、ヒロインは熱を出し、過呼吸になり、カメラマンも下痢と帯状疱疹に、岩松もぎっくり腰になって立ち上がれないこともあった。しかし、そうした状況下でも撮影が止まることは一度もなかった。 『Ben-Joe』が、世界15大映画祭の一つであるタリン・ブラックナイト映画祭のコンペティション部門のオフィシャルセレクトになり、地方から海外の映画祭での上映という、三河映画立ち上げ時の目的を達成させる。 現在、三河映画第三弾の企画を構想中。さらなる高みを目指す。 | [
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2023年11月「Ben-Joe」がカンヌ国際映画祭・ヴェネツィア国際映画祭と並ぶFIAPF(国際映画製作者連盟)認定の「タリン・ブラックナイト映画祭」でワールドプレミア上映される。 | {{複数の問題
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{{ActorActress
| 芸名 = 岩松あきら
| ふりがな = いわまつあきら
| 画像ファイル = 岩松あきら.jpg
| 画像サイズ =
| 画像コメント =
| 本名 = 岩松顯
| 別名義 = <!-- 別芸名がある場合に記載。愛称の欄ではありません -->
| 出生地 = 愛知県岡崎市
| 出身地 =
| 死没地 =
| 国籍 = <!--「出生地」からは推定できないときだけ -->
| 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です -->
| 身長 =
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| 生年 = 1967
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| 没年 =
| 没月 =
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| 職業 = 映画監督、映像制作、ポートレイト撮影、三河映画代表
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| 配偶者 =
| 著名な家族 = <!-- 『著名活動をしている人物』で記事対象の家族として公開されている人物がいる場合に記載。単にメディアで紹介された新生児の名前などは書かないように注意 -->
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| 公式サイト = [[三河映画]]<br>
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| 主な作品 = '''映画'''<br>
『[[幸福な結末]]』/監督・プロデューサー
『[[Ben-Joe]]』/監督・プロデューサー<!-- 誰もが認める代表作品を記述 -->
| アカデミー賞 =
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| 英国アカデミー賞 =
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| ゴールデングローブ賞 =
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| ローレンス・オリヴィエ賞 =
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'''岩松あきら'''(いわまつあきら、[[1967年]][[7月16日]] - )は、日本の[[映画監督]]、映像制作家、[[人物写真|ポートレイト]]撮影家である。彼の出身地は[[愛知県]][[岡崎市]]で、1986年愛知県[[岡崎北高等学校]]および1990年国立[[愛知教育大学]]を卒業した。初期の経歴では[[小学校教諭]]として働きつつ映画製作と映画レビュー執筆活動も行っていたが、2014年 三河映画第二弾『[[Ben-Joe]]』の制作を契機に教育職を24年間務めた後、[[映画製作]]に専念することになった。2017年[[株式会社ロッキングパイン・フィルムズ]]を設立。代表取締役に就任する。2018年には[[シネマチフォト]]のサービスを開業し、[[映像制作]]、[[写真撮影]]に従事する。<br>
2023年11月「[[Ben-Joe]]」が[[カンヌ国際映画祭]]・[[ヴェネツィア国際映画祭]]と並ぶFIAPF([[国際映画製作者連盟]])認定の「[[タリン・ブラックナイト映画祭]]」でワールドプレミア上映される。
== 来歴 ==
=== 生い立ち ===
岩松の父親は[[愛知教育大学]]の[[名誉教授]]であり、[[日本動物学会]]の評議員である[[岩松鷹司]]。母は結婚を機に退職し、専業主婦として家族を支えた。兄には俳優の[[福山廉士]]がいる。岩松あきらは[[愛知県]][[岡崎市]]で生まれ、幼少期に父親が[[アメリカ]]の[[マサチューセッツ州]]・ウースターの研究所で生物学を研究するために渡米し、その後、帰国してから現在まで[[愛知県]][[刈谷市]]に住んでいる。
=== 映画に魅了されたきっかけ ===
彼の父親は厳格で、家庭内でのテレビ視聴を制限しており、ニュースと時代劇以外の番組の視聴は許可されていなかった。しかし、小学校5年生の父親の出張時に、母親がテレビで『[[ローマの休日]]』を観ている際、彼は浴室に向かうつもりがテレビ画面に引き込まれ、2時間にわたり下着のまま番組を鑑賞した。その後、中学校卒業の祝いに友人と映画館で映画を観る機会があり、[[スティーブン・スピルバーグ]]の『[[E.T.]]』を観る。満席の映画館で立ったまま鑑賞し、後に本屋で『[[E.T.]]』に出演した[[ドリュー・バリモア]]が表紙の映画雑誌『[[ロードショー (雑誌)|ロードショー]]』を見つけ購読者となった。これが彼の映画への興味を引き起こし、高校生活が始まってまもなくの[[ゴールデンウィーク]]公開の『[[評決]]』『[[ガンジー (映画)|ガンジー]]』『[[トッツィー]]』を立て続けに観て映画のエンタテインメント性にはまり、学校帰りに映画館へ頻繁に通うようになる。週末には、[[ビデオレコーダー]]のある友人の家に入り浸り、友人とお金を出し合い、[[レンタルビデオ]]店で映画を借りて、映画を観ていた。ちょうどこの頃、ロードショーで[[MGM]]作品のリバイバル上映があり、その中の1本『[[雨に唄えば]]』の鑑賞後は、興奮冷めやらぬ状態で友人と抱き合った。この頃、[[名古屋市]]には、[[中日シネラマ劇場]]、[[名鉄東宝劇場]]、[[名宝スカラ座]]など、1,000人近く収容できる階段状の座席の映画館がいくつもあり、その巨大画面の迫力と、立ち見でごった返している映画館の活気にも魅了される。その後、彼はさまざまなジャンルの映画を鑑賞するようになったが、[[ホラー映画]]だけが苦手で、これまで観たホラー映画は「[[エクソシスト]]」と「[[リング (1998年の映画)|リング]](1作目)」のみである。彼はアート性よりエンターテイメント性の高い作品、ヨーロッパ映画よりもアメリカ映画を好み、好きな映画作家として、[[デビッド・リンチ]]、[[アルフレッド・ヒッチコック]]、[[ウッディ・アレン]]、[[フェデリコ・フェリーニ]]、[[フランク・キャプラ]]、[[スティーブン・スピルバーグ]]、[[スタンリー・キューブリック]]、[[黒澤明]]、[[宮崎駿]]、[[岩井俊二]]などを挙げており、人生で最も泣いた映画は[[南アフリカ共和国]]映画の『[[マイウェイ]]』だと語っている。
=== 高校時代の映画制作 ===
高校2年生の文化祭で、友人が父親の[[8mmフィルム]]カメラを使用して映画制作の提案をしてきた。映画に熱中していた彼は、即座に了承。友人はカメラマンで、岩松は監督として共同作業し、それぞれ2万円ずつ出し合って、総額4万円の予算を用意した。当時、フィルム代と現像代は1分間千円程度かかっていたが、制作が進行するにつれて予算は急激に膨らみ、友人は不安を感じて撮影から離れた。最終的に制作費は12万5千円にまで膨れ上がり、岩松は親からの借金で賄わざるを得なかった。岩松は監督兼カメラマンとして映画制作を続けたが、途中でカメラが故障して撮影を中断。当時、ビデオカメラが一般的になりつつあり、8mmフィルムカメラはほとんど使われなくなっていたため、新しいカメラを手に入れるのは容易ではなかった。スタッフとキャストは作品が未完のまま終わるだろうと覚悟していたが、岩松は必死に周囲と連絡を取り、翌日には別の8mmフィルムカメラを手に入れて撮影に戻り、周囲を驚かせた。
このとき制作した映画は、勉強も運動も得意でない主人公が、片思いの女子に告白し、彼女のスポーツ選手の彼氏と競争するスポ根映画だった。この頃最も影響を受けていた[[スティーヴン・スピルバーグ|スピルバーグ]]の影響で、[[SF映画]]に興味があったが、予算的に制作は難しいと判断し、その頃好きだった『[[がんばれ!ベアーズ]]』『[[マイウェイ]]』『[[ロッキー (映画)|ロッキー]]』のような映画を好んでいたこともあり、[[スポ根]]映画をつくろうとする。しかし、脚本担当の友人映画をあまり観ていなかったことや、岩松自身も撮影フィルムを繋げるだけで映画が完成すると楽観的に考えていたため、できあがった50分ほどの作品は質が低く、鑑賞に堪えるものではなかった。誰も作品を褒めることはなく、処女作は完全な失敗に終わった。その後、岩松は壊れたカメラを修理し、撮影中に逃亡した友人のカメラマンにカメラを返却したが、友情の修復には至らなかった。この経験から、岩松は悔しさを感じ、次回作の制作を計画したが、受験勉強のためにその夢を諦めた。
=== 高校時代のエピソード ===
文化祭では友人と漫才コンビを結成し、舞台に立つが、漫才よりも映画制作で感動を伝える方が良いと感じた。体育祭の応援合戦では、毎年クラスの応援団長を務め、1年生から3年生までのクラスが流行のダンスで応援合戦に参戦する中、岩松は「50人ほどの人間が1枚の絵画になって踊る」「壊れたオルゴールのような動きで超スローで踊る」「手だけで踊る」など奇抜なアイディアを連発し、一年生では学年優勝。二年生は全学年で準優勝。三年生では全校優勝を果たす。
=== 大学時代の映画制作 ===
1986年大学に入学した際、入学祝いとして[[ビデオレコーダー]]をもらう。それからは、『[[月曜ロードショー]](解説:[[荻昌弘]])』や『[[水曜ロードショー (日本テレビ)|水曜ロードショー]](解説:[[水野晴郎]])』『日曜洋画劇場(解説:淀川長治)』などのテレビ番組を録画したり、レンタルビデオを借りたりして、映画に没頭した。エンターテイメント性の高い作品を見つけると、友人を自宅に招き、強制的に鑑賞させることもあった。その中には、[[大林宣彦]]の『[[さびしんぼう]]』や[[スタンリー・ドーネン]]の『[[シャレード (1963年の映画)|シャレード]]』があった。さらに、名古屋の映画館にも頻繁に足を運び、映画鑑賞を楽しむ日々が始まる。大学では美術科に進学し、映画研究会にも所属する。しかし、映画研究会の先輩は主に麻雀に夢中で映画制作が滞っていた。そこで、私は8mmカメラを借りて、大学時代には美術科の仲間と毎年1本のペースで計4本の[[短編映画]]を制作。当時、[[大林宣彦]]の[[尾道三部作]]や[[藤子不二雄]]の短編集、[[星新一]]の[[ショートショート]]に影響を受け、[[タイムスリップ]]や身体の入れ替わりなど、少し不思議なSF作品が多かった。途中から映画研究会でも映画制作を行うようになり、偶然にも映画研究会の部室の隣には劇団サークルの部室があったため、演劇部員に映画に出演してもらい、代わりに演劇のスタッフとして協力をした。
=== 教師のエピソード ===
[[愛知教育大学]]を卒業した後、[[今村昌平]]の『[[日本映画学校]]』へ進学しようと考えていた。しかし、父親は教育大学の教授であったため、勝手に教員採用試験の願書を提出していた。採用試験の前夜、両親から強い説得を受け、とりあえず受験をすることになる。受験は成功し、合格通知が届いた日から母親は毎日泣きながら、教師の道を歩むように岩松を説得し続けた。その強い説得に押され、岩松は教育の道を選ぶことを決断。
元々美術科を専攻していたため、教師の通常業務の枠を超えて、学校の記念誌の表紙デザインや運動場の遊具、校内の看板の制作など、さまざまな仕事を依頼された。そのため、仕事に追われて夜遅くまで働いていたことが原因で、就職して2か月で[[肺気胸]]で入院した。小学校へ就職時は髪を肩まで伸ばし、派手な原色や蛍光色の服を好んで着用していたため、校長からは「教員らしい服装をしなさい」と何度も叱責された。しかし、「教員らしい服装とは何ですか?」と率直に返答し、校長を怒らせていた。
図工の授業では、児童たちに自分のワゴン車にペンキで絵を描かせたり、総合学習の時間には雑草を食べる実験を行ったりしていた。給食は、児童たちの要望に応じて、体育館や運動場、図書館など、好きな場所で食べていた。運動会や長縄大会、ドッジボール大会などのイベントで、クラスを優勝に導くのが常で、児童には慕われていた。
=== 教師時代の映画制作 ===
教師になっても、映画制作への夢を捨てなかった。働き始めてからわずか3か月で短編映画を制作し、教師としての日常と平行して、週末にはファミレスで大学時代の映画研究会の仲間たちと脚本会議を夜明けまで続けた。しかし、彼らとの共同作業は困難で、10年以上にわたり、企画を練り、脚本を書き続けたが、結局、制作された映画は一本もなかった。
この間、執筆し続けた映画レビューは、自身のウェブサイトで発表され、毎日3000件以上のアクセスを集め、10以上の雑誌やラジオ番組に取り上げられた。
=== 映画制作へ復帰 ===
自身が運営するホームページが大いに盛り上がり、[[DiscStation]](映像ソフト販売会社)、[[PHP出版]](出版社)、[[東北新社]](配給会社)を始め、様々な分野から[[映画評論]]の依頼が相次いだ。一時は[[映画評論家]]に転身しようと考えもしたが、映画制作の夢を諦めきれず、、30代半ばで映画制作に10年ぶりに復帰することを決意した。復帰後、最初の短編映画『[[Imomushi]]』を制作し、これが『[[シネクエスト映画祭]](アメリカ)』で入選するなどの成功を収めた。その後も『[[昨日の町で、]]』などで国内外の映画祭で入選を果たした。
2006年、同じく[[愛知県]][[三河地方]]で映画制作を行っていた清水雅人と出会い、映画製作グループ『[[M.I.F.]](Mikawa Independent movie Factory)』を設立した。[[M.I.F.]]では、地方での映画制作を東京に引けを取らないレベルで行うと同時に、[[映画祭]]([[小坂本町一丁目映画祭]])の運営に携わった。また、映画制作のワークショップの講師として活動したり、芸能プロダクションで若手俳優たちに演技指導を行ったりもした。
=== 三河映画 ===
『[[M.I.F.]]』での映画制作に携わりながら、教育と映画制作を結びつけ、自分たちのいる場所([[愛知県]][[三河地方]])からも世界へ映画を発信できる可能性を信じ、映画制作チーム『[[三河映画]]』を設立。
[[三河映画]]には、スタッフに映画制作のプロはいない。十分な制作費もない。高価な撮影機材も揃っていない。この「ないない尽くし」の状態であっても、[[完全自主制作体制]]を武器にして、クオリティの高い映画がつくれることを実践中である。
映画制作で頻発する様々な問題は、金銭的手段ではなく、人との繋がりと時間をかけることで克服していくことを信条としているが、これは、金銭的な解決をしないことで、かえって人のつながりが深まり、個々の人間力が培われるのではないかという信念に基づいている。
[[三河映画]]では、映画制作を通した人間力の成長を重視しており、単にクオリティの高い映画をつくることができれば目的が達成されるわけではなく、その過程での人間的な成長も不可欠になっている。彼らは映画制作をすることで、地域に人間力の高い人材を増やし、その結果、地域の活性化に貢献することを目指している。
== 作品 ==
=== 映画「幸福な結末」 ===
三河映画の最初の作品、『[[幸福な結末]]』は、まったくの予算なしで制作が始まった。この物語は、人生に行き詰まった中年の男性が自殺を試みるが、謎の少女に救われ、彼の魂が少女の体に宿り、過去にタイムスリップするというファンタジーだ。最初のアイディアは、全く同じ物語を前半でシリアスに描き、後半でコメディに描くというものだったが、脚本の執筆段階でそれはうまくいかないと判断され、断念された。その後、岩松自身はこの作品が[[大林宣彦]]監督の[[尾道三部作]]「[[転校生 (映画)|転校生]]」「[[時をかける少女]]」「[[さびしんぼう]]」の設定を混ぜたようなものになったと回想している。脚本には2年間かかり、18稿のリライトが行われた。彼らは[[黒澤明]]組と[[山田洋次]]組の執筆スタイルを研究し、独自の脚本家としてのスタイルを確立し、アイディアを出し合った。脚本には多くのコミカルなシーンが含まれていたが、主人公を演じた2人のキャラクターから、編集時にコミカルな要素が削除され、シリアスなドラマとして完成した。地元在住者から成る撮影スタッフや無名のキャストは、すべて無償で参加し、撮影は41日間にわたり、[[愛知県]]の[[豊田市]]、[[岡崎市]]、[[刈谷市]]などの[[西三河]]地域で行われ、撮影地は合計で51か所に及び、地元の協力によって実現した。オーディションには625人以上が参加し、238人のキャストと451人のスタッフが協力し、さらに251の企業、団体、個人からの協力を受け、最終的には1,000人以上の人々が関与し、映画は完成した。
=== 映画「Ben-Joe」 ===
『Ben-Joe』は、教え子の実話に基づいた映画。元教師の岩松は、10数年ぶりに会った教え子から、彼女が10代後半に「[[摂食障害]]」を発症し、山奥の施設に治療のために送られ、そこで衝撃的な出来事を体験したという話を聞いた。彼女の話を聞いた彼は、日本の若者の現実、閉塞した社会を描く絶好の機会だと思い、その場で映画化を申し出た。前作『[[幸福な結末]]』ではファンタジーを通して家族を描いたが、本作ではまったく逆のアプローチで、再び家族の問題を見つめる。[[摂食障害]]や[[家庭内暴力]]といった[[社会問題]]を通して、人間の心の痛み、分断と和解の模索を描いている。
『幸福な結末』制作時、岩松は教師との二つの仕事を両立させていたが、睡眠不足が度重なり、居眠り運転で自家用車を2台も廃車にしてしまった。同じような状況を避けるため、『[[Ben-Joe]]』制作のために教師職を辞職。ゼロから始まり、撮影は[[愛知県]]の[[三河地方]]を中心に行われた。スタッフ、キャスト、エキストラはみな手弁当(無報酬)で参加。オーディションに参加した女優たちは、ヒロイン役のプレッシャーを感じており、最終選考に残っても辞退する者が相次ぎ、ヒロインの選考は難航した。結局、現役[[アイドル]]である[[石川野乃花]]が選ばれた。映画の巨大セットは[[愛知県]][[北設楽郡]][[津具]]の旧津具小学校の跡地に建てられ、1年間かけて撮影が行われた。セット建設には地元の材木店の協賛や、[[石川野乃花]]のファンからの寄付が活用された。
[[プリプロダクション]]段階では、[[短編映画]]の制作を繰り返し、徹底的なリハーサルを行い、岩松は新たな演出スタイルを獲得する努力をした。撮影現場では、必要なだけリテイクが行われ、最後まで「自分たちのやりたいことをやり切る」姿勢が変わらなかった。特に重要なシーンの撮影時には、現場の緊張感が高まり、ヒロインは熱を出し、[[過呼吸]]になり、カメラマンも[[下痢]]と[[帯状疱疹]]に、岩松も[[ぎっくり腰]]になって立ち上がれないこともあった。しかし、そうした状況下でも撮影が止まることは一度もなかった。<br>
『[[Ben-Joe]]』が、世界15大映画祭の一つである[[タリン・ブラックナイト映画祭]]のコンペティション部門のオフィシャルセレクトになり、地方から海外の映画祭での上映という、三河映画立ち上げ時の目的を達成させる。
現在、[[三河映画]]第三弾の企画を構想中。さらなる高みを目指す。
== Filmography ==
* 『[[オ・ハ・ヨ]]』1990年/13min.
* 『[[律子。]]』1995年/17min.
* 『[[Imomushi]]』2005年/21min.
* 『[[昨日の町で、]]』2006年/20min.
* 『[[幸福な結末]]』2022年/113min.
* 『[[Ben-Joe]]』2023年/137min.
== 受賞歴 ==
;オ・ハ・ヨ
:* 第3回インディーズ・ムービー・フェスティバル 短編部門入選
:
;律子。
:* [[東京ビデオフェスティバル]] ビデオケーション賞
:
;Imomushi
:* シネクエスト映画祭2006(USA) ヴュアーズ・ボイス・コンテスト招待/シネクエスト・2006観客賞
:* [[イメージフォーラム]]2006 イメージ・ワンダーランド 名古屋特別プログラム 招待
:
;昨日の町で、
:* 第10回インディーズ・ムービー・フェスティバル 短編部門入選
:* [[SKIPシティ国際Dシネマ映画祭]]2007 短編部門正式ノミネート
:* [[山形国際ムービーフェスティバル]]2007 入選
:* [[新北京国際映画祭]]2007(中国) 正式上映
:* [[東京ビデオフェスティバル]]2008 佳作/ピープル賞
:
;幸福な結末
:* Cuckoo International Film Awards(インド) 最優秀長編映画賞/最優秀主演男優賞/最優秀監督賞/最優秀プロデューサー賞
:* Fantboi/The Sant Boi de Llobregat International Fantastic Film Festival(スペイン) プレミア上映
:* 第14回[[日本映像グランプリ]] 優秀脚本賞
:* 第2回[[宮古島チャリティー国際映画祭]] 長編部門特別賞
:* ※その他、国内・海外103の映画祭で入選・受賞(2023/9/30現在)
:
;Ben-Joe
:* 第27回タリン・ブラックナイト映画祭2023コンペティション部門オフィシャルセレクション ※ワールドプレミア上映
== 参考文献 ==
* t×wang(ティーワン) 2009.10月号
**街のスクープ「地元三河地で生まれる全国公開の劇場映画」
**株式会社ティーワンコミュニケーションズ 2009年9月25日発行
* t×wang(ティーワン) 2009.11&12月号
**岩松監督の「幸福な結末」日記 第1回「夢への切符」
**株式会社ティーワンコミュニケーションズ 2009年10月25日発行
* t×wang(ティーワン) 2010.1&2月号
**岩松監督の「幸福な結末」日記 第2回「箱書き」
**株式会社ティーワンコミュニケーションズ 2009年12月25日発行
* t×wang(ティーワン) 2010.3&4月号
**岩松監督の「幸福な結末」日記 第3回「プレオーディション」
**株式会社ティーワンコミュニケーションズ 2010年2月25日発行
* t×wang(ティーワン) 2010.5&6月号
**岩松監督の「幸福な結末」日記 第4回「オーディション」
**株式会社ティーワンコミュニケーションズ 2010年4月25日発行
* t×wang(ティーワン) 2010.7&8月号
**岩松監督の「幸福な結末」日記 第5回「ついにキャスト決定!」
**株式会社ティーワンコミュニケーションズ 2010年6月25日発行
* t×wang(ティーワン) 2010.9&10月号
**岩松監督の「幸福な結末」日記 第6回「クランクイン」
**株式会社ティーワンコミュニケーションズ 2010年8月25日発行
* t×wang(ティーワン) 2010.11&12月号
**岩松監督の「幸福な結末」日記 第7回「監督どうするんですか⁉︎」
**株式会社ティーワンコミュニケーションズ 2010年10月25日発行
* t×wang(ティーワン) 2011.1&2月号
**岩松監督の映画「幸福な結末」日記 第8回「過酷な夢」
**株式会社ティーワンコミュニケーションズ 2010年12月25日発行
* t×wang(ティーワン) 2011.3&4月号
**岩松監督の映画「幸福な結末」日記 第9回「未解決の問題」
**株式会社ティーワンコミュニケーションズ 2011年2月25日発行
* リバ!! 2010年1月号 Vol.351
**人と人を繋ぐ映画「幸福な結末」
**株式会社リバーシブル 2009年12月20日発行
* リバ!! 2010年5月号 Vol.355
**三河で映画!「幸福な結末」主役が決定!
**株式会社リバーシブル 2010年4月20日
* リバ!! 2010年7月号 Vol.357
**映画/幸福な結末 記者発表
**株式会社リバーシブル 2010年6月20日
* JOL(ジョル) 2012 No.09
**JOLwatvhing「幸福な結末 岩松あきら監督×今井義朗カメラマン×清水史奈 対談」
**株式会社マイナビ 2021年3月1日
== 外部サイト ==
*【[[三河映画]]】 https://www.mikawaeiga.jp/
*【[[シネマチフォト]]】 https://www.cinemachi-photo.com/
*【[[M.I.F.]]】 http://mif.jpn.org/web/
*【[[小坂本町一丁目映画祭]]】 http://kozahon1.jpn.org/ff/
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4,838,991 | 信長の野望 出陣 | 『信長の野望 出陣』(のぶながのやぼう しゅつじん)は、コーエーテクモゲームスによる位置情報ゲームである。略称は『信長出陣』。
信長の野望シリーズの40周年記念作品として、2023年8月31日にリリースされた。歩きながら拠点を制覇し、領地を広げることで、全国制覇を目指す。
メインミッションをクリアすることで、機能が解放される。
獲得したい拠点があるエリアに行き拠点をタップし、敵の戦力に合わせ武将を編成し、兵糧を使用し出陣する。拠点戦に勝利すると領地を獲得することができる。
メインミッション第2章クリアで解放。小判または登用札を使用し、新たな武将を獲得できる。所持している武将は、友好度に変換される。
メインミッション第3章クリアで解放。領地の内政を豊かにし、兵糧収入を増やす。内政を強化したり、内政に武将を任命したりすることができる。
内政には次がある。
メインミッション第5章をクリアすると、本拠を建てることができるようになる。兵糧を使用すれば本拠に隣接した区画をその区画に行かなくても領地にすることができる。
ドラゴンクエストウォークにおける『あるくんですW』のような機能。歩いた距離によって東海道五十三次の踏破を体験できる。
名所や名城をタップするか、所在する区画を領地化すると、名所録・名城図鑑に登録される。タップで訪問した場合は、特別な報酬がもらえることがある。
メインミッション第5章で解放。フィールド上にあるタップ範囲外のスポットに武将を派遣し、報酬を獲得できる。また、派遣時間はアイテムを使用し、短縮できる。 派遣できるスポットは次のスポット。
フィールド上にある野戦場アイコンをタップすると、野戦をすることが可能。野戦に勝利すると武将経験値などを獲得できる。
ドラゴンクエストウォークにおける『WALKモード』のような機能。画面を見なくても農民や商人、武将、早馬、野盗をタップし、派遣や野戦を行う。
この節では武将については解説しない。
プレイヤーとともに歩む案内役。持ち前の純真さで献身的にプレイヤーを支える。 | [
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] | 『信長の野望 出陣』は、コーエーテクモゲームスによる位置情報ゲームである。略称は『信長出陣』。 | {{複数の問題
| 出典の明記 = 2023年10月
| 一次資料 = 2023年10月
| 宣伝 = 2023年10月
| 特筆性 = 2023年10月
}}
『'''信長の野望 出陣'''』(のぶながのやぼう しゅつじん)は、[[コーエーテクモゲームス]]より配信されたスマートフォン向けゲームアプリ。[[2023年]][[8月31日]]サービス開始。基本プレイ無料(アイテム課金制)。略称は『'''信長出陣'''』<ref name=":0">{{Cite web |title=信長の野望 出陣 | コーエーテクモゲームス |url=https://www.gamecity.ne.jp/nobunaga_shutsujin/ |website=信長の野望 出陣 | コーエーテクモゲームス |access-date=2023-10-08 |language=ja}}</ref>。
「[[信長の野望シリーズ]]」の40周年記念作品<ref name=":0" />。ジャンルは[[位置情報ゲーム]]で、歩きながら拠点を制覇し領地を広げることで、全国制覇を目指す。
== ゲームシステム ==
=== メインミッション ===
メインミッションをクリアすることで、機能が解放される。
=== 拠点制圧 ===
獲得したい拠点があるエリアに行き拠点をタップし、敵の戦力に合わせ武将を編成し、兵糧を使用し出陣する。拠点戦に勝利すると領地を獲得することができる。
=== 登用 ===
メインミッション第2章クリアで解放。小判または登用札を使用し、新たな武将を獲得できる。所持している武将は、友好度に変換される。
=== 内政 ===
メインミッション第3章クリアで解放。領地の内政を豊かにし、兵糧収入を増やす。内政を強化したり、内政に武将を任命したりすることができる。
内政には次がある。
* 市場:初回ログイン時受け取れる金銭収入増加
* 水田:初回ログイン時受け取れる兵糧収入増加
* 資材庫:フィールドの『農民』『商人』から受け取れる資材の増加
* 蔵:フィールドの『商人』から受け取れる金銭の増加
* 兵糧庫:フィールドの『農民』から受け取れる兵糧の増加
* 足軽練兵所:兵種が『足軽』の部隊強化
* 弓練兵所:兵種が『弓』の部隊強化
* 騎馬練兵所:兵種が『騎馬』の部隊強化
* 鉄砲練兵所:兵種が『鉄砲』の部隊強化
* 取引所:資材と兵糧を取引する。強化は不可。
=== 遠征 ===
メインミッション第5章をクリアすると、本拠を建てることができるようになる。兵糧を使用すれば本拠に隣接した区画をその区画に行かなくても領地にすることができる。
=== 歴史紀行 ===
[[ドラゴンクエストウォーク]]における『あるくんですW』のような機能。歩いた距離によって東海道五十三次の踏破を体験できる。
=== 名所録・名城図鑑 ===
名所や名城をタップするか、所在する区画を領地化すると、名所録・名城図鑑に登録される。タップで訪問した場合は、特別な報酬がもらえることがある。
=== 派遣 ===
メインミッション第5章で解放。フィールド上にあるタップ範囲外のスポットに武将を派遣し、報酬を獲得できる。また、派遣時間はアイテムを使用し、短縮できる。
派遣できるスポットは次のスポット。
*農民:兵糧が獲得できる。また、領地内であれば資材が獲得可能。
**豪農:農民の獲得アイテムに加え指南書(内政の強化に必要)が獲得できる。農民のアイコンがキラキラ輝いて見える。
*商人:金銭が獲得できる。農民と同様、領地内であれば資材が獲得可能。
**豪商:商人の獲得アイテムに加え指南書が獲得できる。商人のアイコンがキラキラ輝いて見える。
*武将:その武将の武将友好度が獲得できる。
*早馬:実行中の遠征を短縮できる。
*野盗:武将経験値と民忠経験値を獲得できる。
=== 野戦 ===
フィールド上にある野戦場アイコンをタップすると、野戦をすることが可能。野戦に勝利すると武将経験値などを獲得できる。
=== 委任 ===
ドラゴンクエストウォークにおける『WALKモード』のような機能。画面を見なくても農民や商人、武将、早馬、野盗をタップし、派遣や野戦を行う。
== 登場キャラクター ==
本作より登場のオリジナルキャラクターのみ記載。
;はつほ
:プレイヤーとともに歩む案内役。持ち前の純真さで献身的にプレイヤーを支える<ref name=":0" />。
== 脚注 ==
<references />
== 外部リンク ==
* [https://www.gamecity.ne.jp/nobunaga_shutsujin/ 公式サイト]
* {{Twitter|nobu_shutsujin}}
{{信長の野望}}
{{Video-game-substub}}
{{DEFAULTSORT:のふなかのやほうしゆつしん}}
[[Category:信長の野望シリーズ|しゆつしん]]
[[Category:IPhone用ゲームソフト]]
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[[Category:2023年のコンピュータゲーム]]
[[Category:位置情報ゲーム]] | 2023-10-08T09:34:25Z | 2023-10-09T17:13:44Z | false | false | false | [
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"Template:Cite web"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%81%AE%E9%87%8E%E6%9C%9B_%E5%87%BA%E9%99%A3 |
4,838,994 | 事業所・企業統計調査 | 事業所・企業統計調査(じぎょうしょ・きぎょうとうけいちょうさ)は、2006年(平成18年)まで行われていた、日本の事業所(工場・事務所・商店など)の全数調査である。日本の事業所・企業の基本的な趨勢を把握する基礎的な調査であるとともに、事業所の標本調査を行う場合の対象抽出のための名簿を作成する役割もはたしてきた。
日本全国の事業所の全数調査をはじめて実施したのは、戦時中の1944年(昭和19年)に始まった年次勤労統計調査(内閣統計局)である。これを引き継いだ第1回事業所統計調査が、戦後の1947年(昭和22年)に、連合国軍総司令部の指令により計画された。この調査は、同年に成立した統計法(昭和22年法律18号)に基づいて指定統計第2号となり、同年10月、第6回臨時国勢調査と同時に実施された。第2回調査は翌1948年(昭和23年)に行われた。さらに第3回調査を1949年(昭和24年)に行う予定であったが、予算不足により延期となり、結局1951年(昭和26年)実施となった。それ以降1981年(昭和56年)までは、事業所統計調査は3年ごとに行われた。1976年(昭和51年)以降は、全数調査を行わない年にも、事業所名簿を最新の情報に更新するため、一部地域で名簿整理のための現状把握調査を行っている場合がある。1981年(昭和56年)以降は5年ごとに全数調査を行う体制となった。それらの中間年にも、民営事業所だけ対象の簡易調査を行ったり、名簿整理のための部分的調査を実施している。1996年(平成8年)から、企業経営の実態に関する調査事項を充実させたことにともない、事業所・企業統計調査と改称した。
事業所統計調査は7月1日を基準日として実施していることが多いが、これは必ずしも統一されておらず、5月、6月、10月、11月などに基準日を設定した年もある。 調査の計画と実施を担当したのは統計局である。統計局の所属変更にともない、組織名称が総理府統計局、総務庁統計局、総務省統計局と変遷しているが、実質的には同一の組織がずっと継続的に担ってきたと考えてよい。
事業所・企業統計調査は2006年(平成18年)調査をもって終了し、新設の経済センサス(2009-)に統合された。事業所・企業の標本抽出のための名簿としての役割は、事業所母集団データベース(ビジネスレジスター)が引き継いでいる。 | [
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調査の計画と実施を担当したのは統計局である。統計局の所属変更にともない、組織名称が総理府統計局、総務庁統計局、総務省統計局と変遷しているが、実質的には同一の組織がずっと継続的に担ってきたと考えてよい。 事業所・企業統計調査は2006年(平成18年)調査をもって終了し、新設の経済センサス(2009-)に統合された。事業所・企業の標本抽出のための名簿としての役割は、事業所母集団データベース(ビジネスレジスター)が引き継いでいる。 | '''事業所・企業統計調査'''(じぎょうしょ・きぎょうとうけいちょうさ)は、[[2006年]](平成18年)まで行われていた、[[日本]]の[[事業所]](工場・事務所・商店など)の全数調査である。日本の事業所・企業の基本的な趨勢を把握する基礎的な調査であるとともに、事業所の標本調査を行う場合の対象抽出のための名簿を作成する役割もはたしてきた。
日本全国の事業所の全数調査をはじめて実施したのは、[[戦時中]]の[[1944年]](昭和19年)に始まった'''年次勤労統計調査'''(内閣[[統計局]])である<ref>
{{Cite book |和書
| author = 島村史郎
| title = 日本統計発達史
| publisher = 日本統計協会
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| isbn = 9784822334888
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}}</ref>{{Rp|pages=208-209}}。これを引き継いだ第1回'''事業所統計調査'''が、[[戦後]]の[[1947年]](昭和22年)に、[[連合国軍総司令部]]の指令により計画された<ref name="八十年史">
{{Cite book |和書
| author = 総理府統計局
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| publisher = 総理府統計局
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| ncid = BN10748598
| doi = 10.11501/3027573
}}</ref>{{Rp|pages=660,740}}。この調査は、同年に成立した[[旧統計法|統計法]](昭和22年法律18号)に基づいて[[指定統計]]第2号となり、同年10月、[[国勢調査_(日本)#第6回国勢調査|第6回臨時国勢調査]]と同時に実施された{{R|統計実務変遷史}}{{Rp|page=161}}。第2回調査は翌[[1948年]](昭和23年)に行われた。さらに第3回調査を[[1949年]](昭和24年)に行う予定であったが、予算不足により延期となり、結局[[1951年]](昭和26年)実施となった{{R|百二十年史}}{{Rp|page=342}}。それ以降[[1981年]](昭和56年)までは、事業所統計調査は3年ごとに行われた。[[1976年]](昭和51年)以降は、全数調査を行わない年にも、事業所名簿を最新の情報に更新するため、一部地域で名簿整理のための現状把握調査を行っている場合がある<ref name="百二十年史">
{{Cite book |和書
| author = 総務庁統計局
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| publisher = 日本統計協会
| date = 1992
| isbn = 4822313921
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}}
</ref>。1981年(昭和56年)以降は5年ごとに全数調査を行う体制となった。それらの中間年にも、民営事業所だけ対象の簡易調査を行ったり、名簿整理のための部分的調査を実施している。[[1996年]](平成8年)から、企業経営の実態に関する調査事項を充実させたことにともない、'''事業所・企業統計調査'''と改称した<ref name="統計実務変遷史">
{{Cite book |和書
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| publisher = 総務省統計局・統計センター
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}}
</ref>。
事業所統計調査は7月1日を基準日として実施していることが多いが、これは必ずしも統一されておらず、5月、6月、10月、11月などに基準日を設定した年もある{{R|統計実務変遷史}}{{Rp|page=162}}。
調査の計画と実施を担当したのは[[統計局]]である。統計局の所属変更にともない、組織名称が総理府統計局、総務庁統計局、総務省統計局と変遷しているが、実質的には同一の組織がずっと継続的に担ってきたと考えてよい。
事業所・企業統計調査は[[2006年]](平成18年)調査をもって終了し、新設の[[経済センサス]](2009-)に統合された。事業所・企業の標本抽出のための名簿としての役割は、[[事業所母集団データベース]](ビジネスレジスター)が引き継いでいる。<ref name="2006概要">
{{Cite web|url=https://www.stat.go.jp/data/jigyou/2006/gaiyou.html
| title= 平成18年事業所・企業統計調査の概要
| publisher = 総務省統計局
| accessdate = 2023-10-08
}}
</ref>
<ref name="経済構造統計の体系的整備について">{{Cite web |author=総務省統計局・経済産業省調査統計グループ|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000832071.pdf | title=経済構造統計の体系的整備について | publisher=総務省 | accessdate=2023-10-08 | format=PDF | date=2022-08-30}}</ref>
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[日本の公的統計制度の歴史]]
* [[総務省]] - [[統計局]]
* [[経済構造統計]] - [[経済センサス]] - [[事業所母集団データベース]]
== 外部リンク ==
* [https://www.stat.go.jp/data/jigyou/2006/ 平成18年事業所・企業統計調査] - 総務省統計局
* [https://www.e-stat.go.jp/statistics/00200551 事業所・企業統計調査 (政府統計コード 00200551)] - 政府統計の総合窓口 (e-Stat)
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[[Category:総務省]]
[[Category:統計]] | 2023-10-08T09:38:46Z | 2023-10-08T09:38:46Z | false | false | false | [
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4,838,998 | 東別所町 | 東別所町(ひがしべっしょちょう)は、愛知県安城市の地名。
安城市東部に位置する。東・南・北は岡崎市、西は西別所町、南西は別郷町に接する。
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる。
別所は元来の荘園に対して新たに開発された土地を指すという。
国勢調査による人口および世帯数の推移。 | [
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] | 東別所町(ひがしべっしょちょう)は、愛知県安城市の地名。 | {{Pathnav|日本|愛知県|安城市|'''東別所町'''|hide=1|frame=1}}
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}}
'''東別所町'''(ひがしべっしょちょう)は、[[愛知県]][[安城市]]の地名。
== 地理 ==
安城市東部に位置する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}。東・南・北は[[岡崎市]]、西は[[西別所町]]、南西は[[別郷町]]に接する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}。
=== 学区 ===
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.city.anjo.aichi.jp/manabu/gakko/kyoikushisetsu/gakku.html|title=小中学校区一覧(町別50音順)|author=安城市役所教育振興部学校教育課学事係|publisher=安城市|date=2022-04-07|accessdate=2023-10-08}}</ref>。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.pref.aichi.jp/soshiki/kotogakko/0000080445.html|title=平成29年度以降の愛知県公立高等学校(全日制課程)入学者選抜における通学区域並びに群及びグループ分け案について|publisher=愛知県教育委員会|date=2015-02-16|accessdate=2019-01-14}}</ref>。
{| class="wikitable"
!番・番地等!!小学校!!中学校!!高等学校
|-
||全域||[[安城市立安城東部小学校]]||[[安城市立安城北中学校]]||[[愛知県の高校入試#三河学区|三河学区]]
|}
== 歴史 ==
=== 町名の由来 ===
別所は元来の荘園に対して新たに開発された土地を指すという{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1120}}。
=== 人口の変遷 ===
[[国勢調査]]による人口および世帯数の推移。
{| class="wikitable"
|-
|1995年(平成7年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000023630251&fileKind=1|format=CSV|title=平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-03-28|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|388世帯<br>1229人||<div style="width:38.8px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:122.9px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2000年(平成12年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025137780&fileKind=1|format=CSV|title=平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-05-30|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|401世帯<br>1182人||<div style="width:40.1px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:118.2px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2005年(平成17年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025514226&fileKind=1|format=CSV|title=平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-06-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|399世帯<br>1117人||<div style="width:39.9px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:111.7px;height:10px;background:#9999ff"></div>
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|2010年(平成22年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000012671534&fileKind=1|format=CSV|title=平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2012-01-20|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
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|2015年(平成27年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000031522121&fileKind=1|format=CSV|title=平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2017-01-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|411世帯<br>1104人||<div style="width:41.1px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:110.4px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2020年(令和2年)<ref group=WEB name=R2国勢調査>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000032163424&fileKind=1|format=CSV|title=令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口,外国人人口及び世帯数-町丁・字等|author=総務省統計局|date=2022-02-10|accessdate=2023-08-02|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|422世帯<br>1138人||<div style="width:42.2px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:113.8px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|}
=== 沿革 ===
{{節スタブ}}
* 1889年(明治22年) - 碧海郡東別所村が合併により、平貴村大字東別所となる{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1120}}。
* 1906年(明治39年) - 安城町大字東別所となる{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1120}}。
* 1952年(昭和27年) - 安城市大字東別所となる{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1120}}。
* 1956年(昭和31年) - 安城市東別所町となる{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1120}}。
== 交通 ==
* 市道三別郷中線{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
== 施設 ==
* 別所団地{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* 公民館{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* 安城市農協三別支店{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* 神明社{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== WEB ===
{{Reflist|group="WEB"|refs=}}
=== 書籍 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1989|date=1989-03-08|title=[[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県|publisher=[[角川書店]]|isbn=4-04-001230-5|language=ja|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[安城市の町名]]
{{Geographic Location
| Northwest<!--北西--> =
| North<!--北--> = [[岡崎市]]
| Northeast<!--北東--> =
| West<!--西--> = [[西別所町]]
| Centre<!--中央--> = 東別所町
| East<!--東--> = [[岡崎市]]
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| South<!--南--> = [[岡崎市]]
| Southeast<!--南東--> =
}}
{{安城市の町・字}}
{{Japan-block-stub}}
{{Pref-stub|pref=愛知県}}
{{デフォルトソート:ひかしへつしよちよう}}
[[Category:安城市の町名]] | 2023-10-08T09:44:41Z | 2023-10-08T09:44:41Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%88%A5%E6%89%80%E7%94%BA |
4,839,002 | 東町 (安城市) | 東町(ひがしまち)は、愛知県安城市の地名。
安城市南東部に位置する。東は小川町、南は姫小川町、北西は桜井町に接する。
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる。
戦国時代の桜井城下町か、岡崎大浜街道沿道の東側に所在することによるという。対になる西町は桜井町の小字として残る。
国勢調査による人口および世帯数の推移。 | [
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] | 東町(ひがしまち)は、愛知県安城市の地名。 | {{Pathnav|日本|愛知県|安城市|'''東町'''|hide=1|frame=1}}
{{Infobox settlement
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| area_footnotes = <ref group=WEB name="area">{{Cite web|url=https://toukei-labo.com/2015/?tdfk=23&city=23212|title=愛知県安城市の町丁・字一覧|publisher=人口統計ラボ|language=日本語|accessdate=2023-08-26}}</ref>
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| registration_plate = [[愛知運輸支局|三河]]
| footnotes =
}}
'''東町'''(ひがしまち)は、[[愛知県]][[安城市]]の地名。
== 地理 ==
安城市南東部に位置する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}。東は[[小川町 (安城市)|小川町]]、南は[[姫小川町]]、北西は[[桜井町 (安城市)|桜井町]]に接する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}。
=== 学区 ===
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.city.anjo.aichi.jp/manabu/gakko/kyoikushisetsu/gakku.html|title=小中学校区一覧(町別50音順)|author=安城市役所教育振興部学校教育課学事係|publisher=安城市|date=2022-04-07|accessdate=2023-10-08}}</ref>。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.pref.aichi.jp/soshiki/kotogakko/0000080445.html|title=平成29年度以降の愛知県公立高等学校(全日制課程)入学者選抜における通学区域並びに群及びグループ分け案について|publisher=愛知県教育委員会|date=2015-02-16|accessdate=2019-01-14}}</ref>。
{| class="wikitable"
!番・番地等!!小学校!!中学校!!高等学校
|-
||全域||[[安城市立桜林小学校]]||[[安城市立桜井中学校]]||[[愛知県の高校入試#三河学区|三河学区]]
|}
== 歴史 ==
=== 町名の由来 ===
戦国時代の桜井城下町か、岡崎大浜街道沿道の東側に所在することによるという{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1121}}。対になる西町は桜井町の小字として残る{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1121}}。
=== 人口の変遷 ===
[[国勢調査]]による人口および世帯数の推移。
{| class="wikitable"
|-
|1995年(平成7年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000023630251&fileKind=1|format=CSV|title=平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-03-28|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|294世帯<br>1177人||<div style="width:29.4px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:117.7px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2000年(平成12年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025137780&fileKind=1|format=CSV|title=平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-05-30|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|302世帯<br>1120人||<div style="width:30.2px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:112px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2005年(平成17年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025514226&fileKind=1|format=CSV|title=平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-06-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|344世帯<br>1184人||<div style="width:34.4px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:118.4px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2010年(平成22年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000012671534&fileKind=1|format=CSV|title=平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2012-01-20|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|361世帯<br>1133人||<div style="width:36.1px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:113.3px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2015年(平成27年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000031522121&fileKind=1|format=CSV|title=平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2017-01-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|347世帯<br>1091人||<div style="width:34.7px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:109.1px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2020年(令和2年)<ref group=WEB name=R2国勢調査>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000032163424&fileKind=1|format=CSV|title=令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口,外国人人口及び世帯数-町丁・字等|author=総務省統計局|date=2022-02-10|accessdate=2023-08-02|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|379世帯<br>1106人||<div style="width:37.9px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:110.6px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|}
=== 沿革 ===
{{節スタブ}}
* 明和2年 - 三河国碧海郡桜井村から同郡東町村が分離{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1121}}。
* 1889年(明治22年) - 合併により、碧海郡桜井村大字東町となる{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1122}}。
* 1956年(昭和31年) - 桜井町大字東町となる{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1122}}。
* 1967年(昭和42年) - 安城市東町となる{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1122}}。
== 交通 ==
* [[愛知県道岡崎西尾線]](岡崎街道){{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
== 施設 ==
* 安城警察署桜井駐在所{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* 真宗大谷派法行寺{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
* 秋葉神社{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1567}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== WEB ===
{{Reflist|group="WEB"|refs=}}
=== 書籍 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1989|date=1989-03-08|title=[[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県|publisher=[[角川書店]]|isbn=4-04-001230-5|language=ja|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[安城市の町名]]
{{Geographic Location
| Northwest<!--北西--> = [[桜井町 (安城市)|桜井町]]
| North<!--北--> =
| Northeast<!--北東--> =
| West<!--西--> =
| Centre<!--中央--> = 東町
| East<!--東--> = [[小川町 (安城市)|小川町]]
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| Southeast<!--南東--> =
}}
{{安城市の町・字}}
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{{デフォルトソート:ひかしまち}}
[[Category:安城市の町名]] | 2023-10-08T10:03:20Z | 2023-10-08T10:03:20Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E7%94%BA_(%E5%AE%89%E5%9F%8E%E5%B8%82) |
Subsets and Splits
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