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アンコール・アイ
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アンコール・アイ(英語: Angkor Eye)は、カンボジアのシェムリアップに存在する観覧車、及びそれを建設・運営するため2018年6月に設立されたシーキュー・アメニック全額出資の企業である。観覧車は1992年から1998年までは日本の広島県呉市の呉ポートピアランドに「ジャイアントホイール」として、2000年から2018年までは福岡県北九州市八幡東区のスペースワールドに「スペース・アイ」として存在していた。
1992年の呉ポートピアランドの開園と同時に営業を開始。当時世界最大級のスポーク型観覧車で、地上84メートルの高さから瀬戸内海の景色を一望でき、またその大きさから遠くからも見える巨大な観覧車とあって、ポートピアランドの象徴だった。中心部には呉ポートピアランドのスポンサーであったそごうのロゴがあった。1998年の閉園と同時に営業を終了した。
スペースワールドの開業10周年記念イベントの一環として2000年3月1日に開業した。色は太陽をイメージした赤をベースにしたものとなっており、1周約15分で北九州市内の街並みや山、海などを眺められ、休日には家族連れなどが長い列を作った。2017年12月31日の閉園をもって営業を終了し、翌2018年に解体された。
カンボジアにはこれまで小さい人力の観覧車しか存在せず、それも老朽化が進んでいた。
そんな中、2017年12月31日の営業をもって閉園したスペースワールドに存在していた観覧車「スペース・アイ」をシーキュー・アメニックが買い取り、720万ドルを投じてカンボジアの屋外マーケット「BOXVILLE」内に移設した。2019年6月30日に起工式を行い着工し、2020年3月1日に開業した。
本来シェムリアップでは30mを超える高さの建造物は建設できないが、観光産業の振興に寄与するとしてカンボジア政府に認められ建設が可能となった。
出典:
施設名称:アンコール・アイ
全高:85m
観覧車直径:80m
キャビン数:48
許容人員:192人(1キャビン内最大4人)
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アンコール・アイは、カンボジアのシェムリアップに存在する観覧車、及びそれを建設・運営するため2018年6月に設立されたシーキュー・アメニック全額出資の企業である。観覧車は1992年から1998年までは日本の広島県呉市の呉ポートピアランドに「ジャイアントホイール」として、2000年から2018年までは福岡県北九州市八幡東区のスペースワールドに「スペース・アイ」として存在していた。
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[[File:Angkor Eye January 16, 2022 morning.jpg|thumb|250px|アンコール・アイ]]
'''アンコール・アイ'''({{lang-en|Angkor Eye}})は、[[カンボジア]]の[[シェムリアップ]]に存在する[[観覧車]]、及びそれを建設・運営するため[[2018年]]6月に設立された[[シーキュー・アメニック]]全額出資の企業である<ref name="nna">{{Cite web|url=https://www.nna.jp/news/1924045|title=シエムレアプに観覧車、北九州市から輸送|publisher=NNA ASIA|date=2019-07-09|accessdate=2023-10-09}}</ref>。観覧車は[[1992年]]から[[1998年]]までは[[日本]]の[[広島県]][[呉市]]の[[呉ポートピアランド]]に「'''ジャイアントホイール'''」として<ref>{{Cite web|url=http://www.sanoyas.co.jp/rides/business/product/portpialand/index.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181129225211/http://www.sanoyas.co.jp/rides/business/product/portpialand/index.html|title=旧・呉ポートピアランド {{!}} 観覧車 {{!}} サノヤスホールディングス株式会社|archivedate=2018-11-29|accessdate=2023-10-09|website=www.sanoyas.co.jp|language=ja}}</ref>、[[2000年]]から[[2018年]]までは[[福岡県]][[北九州市]][[八幡東区]]の[[スペースワールド]]に「'''スペース・アイ'''」として存在していた<ref name="nishi">{{cite web|url=https://www.nishinippon.co.jp/sp/item/n/381525/|title=【スペワの思い出】(3)太陽イメージの大観覧車|publisher=西日本新聞me|date=2017-12-20|accessdate=2023-10-09}}</ref>。
== 概要 ==
=== ジャイアントホイール ===
1992年の呉ポートピアランドの開園と同時に営業を開始。当時世界最大級のスポーク型観覧車で、地上84メートルの高さから瀬戸内海の景色を一望でき、またその大きさから遠くからも見える巨大な観覧車とあって、ポートピアランドの象徴だった。中心部には呉ポートピアランドのスポンサーであった[[そごう]]のロゴがあった。[[1998年]]の閉園と同時に営業を終了した<ref>{{Twitter status|PortopiaPark|1258224967319093249}}</ref>。
=== スペース・アイ ===
[[ファイル:Ferris wheel of Space World.jpg|thumb|200px|スペースワールドに存在していた「スペース・アイ」]]
スペースワールドの開業10周年記念イベントの一環として[[2000年]][[3月1日]]に開業した。色は[[太陽]]をイメージした[[赤]]をベースにしたものとなっており、1周約15分で北九州市内の街並みや山、海などを眺められ、休日には家族連れなどが長い列を作った。[[2017年]][[12月31日]]の閉園をもって営業を終了し、翌[[2018年]]に解体された<ref name="nishi" />。
=== アンコール・アイ ===
カンボジアにはこれまで小さい人力の観覧車しか存在せず、それも老朽化が進んでいた<ref>[https://kbc.co.jp/shiritaka/detail.php?mid=4&cdid=17001 遠くカンボジアで活躍!スペースワールドの観覧車]</ref>。
そんな中、[[2017年]][[12月31日]]の営業をもって閉園したスペースワールドに存在していた観覧車「スペース・アイ」を[[シーキュー・アメニック]]が買い取り、720万[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]を投じてカンボジアの屋外マーケット「BOXVILLE」内に移設した。[[2019年]][[6月30日]]に起工式を行い着工し<ref name="nna" />、[[2020年]][[3月1日]]に開業した<ref name="koei">[https://www.koei-corp.jp/topics/4272/ カンボジア アンコール・アイ観覧車がオープンいたしました!]</ref>。
本来シェムリアップでは30mを超える高さの建造物は建設できないが、観光産業の振興に寄与するとしてカンボジア政府に認められ建設が可能となった<ref name="koei" />。
== 施設概要 ==
出典:<ref>[https://www.smitravel.jp/archives/36491]</ref>
施設名称:アンコール・アイ
全高:85m
観覧車直径:80m
キャビン数:48
許容人員:192人(1キャビン内最大4人)
== 出典 ==
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== 外部リンク ==
*[https://angkoreye.com/ 公式ウェブサイト]
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4,839,308 |
中華人民共和国の端の一覧
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中華人民共和国の端の一覧(ちゅうかじんみんきょうわこくのはしのいちらん)は、中華人民共和国の領土の東西南北端の一覧である。
中華人民共和国の端。
以下はすべてチベット自治区に一部または全てが存在する。
以下はすべてチベット自治区に一部または全てが存在する。
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中華人民共和国の端の一覧(ちゅうかじんみんきょうわこくのはしのいちらん)は、中華人民共和国の領土の東西南北端の一覧である。
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{{Location map many|China|width=300|caption=中華人民共和国の端(おおよそ)|label1=北|position1=right|lat1_deg=53|lat1_min=33|lat1_dir=N|lon1_deg=123|lon1_min=16|lon1_dir=E|label4=東|position4=right|lat4_deg=39|lat4_min=22|lat4_dir=N|lon4_deg=73|lon4_min=30|lon4_dir=E|label5=最低|position5=right|lat5_deg=42.78|lat5_dir=N|lon5_deg=89.34|lon5_dir=E|label6=最高|position6=bottom|lat6_deg=27|lat6_min=59|lat6_dir=N|lon6_deg=86|lon6_min=55|lon6_dir=E}}'''中華人民共和国の端の一覧'''(ちゅうかじんみんきょうわこくのはしのいちらん)は、[[中華人民共和国]]の[[領土]]の東西南北端の一覧である。
== 最高・最低地点 ==
中華人民共和国の端。
=== 標高・海抜 ===
* 海抜から測定した'''地球上で最も高い地点'''は、中国・ネパール間国境にある[[チベット自治区]]の[[エベレスト]]の山頂である。その標高はわずかに異なるが、その最大の標高は8848.86 [[メートル|m]]とされる。
* [[中央アジア]]において最も低い地点は、[[新疆ウイグル自治区]][[トルファン市]]近郊にある[[トルファン盆地]]内の[[アイディン湖]]で、-154メートルである。
==== 輸送手段によって移動できる標高が高い地点 ====
以下はすべて[[チベット自治区]]に一部または全てが存在する。
* '''道路(峠):'''「交通手段で到達可能」という定義においては{{仮リンク|セモ・ラ|en|Semo La}}{{Citation needed|date=April 2008}}が{{Convert|5565|m|ft|0|abbr=on}}で一番標高が高い地点となる。情報不足やアクセス制限の影響を受けている地域では、チベット内に他の標高が高い地点がある可能性も否めない。詳しくは[[カルドゥン・ラ]]の{{convert|5359|m|abbr=on}}も参照。
* '''電車:''' [[青海省|青海]]・チベットの省の境の[[タングラ山脈]]にある[[タングラ峠]] {{Convert|5072|m|ft|0|abbr=on}}
* '''空路:''' [[四川省]]、[[稲城亜丁空港]] 標高{{Convert|4411|m|ft|0}}<ref>{{cite news |url=https://www.reuters.com/article/us-china-airport-idUSBRE98F0AG20130916 |title=China opens world's highest civilian airport |newspaper=Reuters |date=16 September 2013 |access-date=2013-09-16}}</ref>
==== 最高高度に位置する地理的特徴 ====
以下はすべて[[チベット自治区]]に一部または全てが存在する。
* '''湖:''' エベレスト北東斜面にある、標高{{Convert|6368|m|ft|0}}の{{仮リンク|ラグバ・プール|en|Lhagba Pool}}<ref>{{cite web |url=http://www.highestlake.com/highest-lake-world.html#Lhagba |title=The Highest Lake in the World |access-date=2007-09-07}}</ref>{{better source needed|reason=The existence of the pool is apparently doubtful; government or scientific agency confirmation needed.|date=October 2019}}
* '''川:''' これらも道路と同様どれが一番高度に位置するかは明確に判明していないものの候補として、アッティン・ホー(ホー川の意)があり、アオン・ツォ(別名:ハグン・ツォ)に流れ込んでいる。{{coord|32|49|30|N|81|03|45|E|display=inline|name=Ating Ho (source)}}に位置し、{{Convert|6100|m|ft|0}}である。また、[[ブラマプトラ川]]内の[[ヤルンツァンポ川]]の上流にある{{仮リンク|マカン川|en|Maquan River}}は{{Convert|6020|m|ft|0}}で{{coord|30|48|59|N|82|42|45|E|type:waterbody_region:CN-54|display=inline|name=Maquan River (source)}}に位置する<ref>{{cite web |url=http://www.100gogo.com/bigben.htm |title=The Mystery of World's highest river and largest Canyon |access-date=2007-09-07 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20070921032822/http://www.100gogo.com/bigben.htm |archive-date=September 21, 2007}}</ref>。
* '''島:''' [[オルバ・ツォ]]で、海抜{{Convert|5209|m|ft|0}}<ref>{{cite web |url=http://www.worldislandinfo.com/SUPERLATIVESV2.html |title=Island Superlatives |access-date=2007-09-07}}</ref>。
=== 最遠隔 ===
* [[到達不能極#ユーラシア到達不能極|ユーラシア到達不能極]]は新疆ウイグル自治区の[[ウルムチ]]から約{{convert|320|km|abbr=on}}の地点に位置し、そのユーラシア到達不能極は[[グルバンテュンギュト砂漠]]内{{coord|46|16.8|N|86|40.2|E|}}である。この地点は最も近い海より{{convert|2648|km|abbr=on}}離れている。
== 東西南北端 ==
=== 標高 ===
* 最高: チベット自治区・エベレスト {{convert|8849.87|m|abbr=on}} {{coord|27|59|17|N|86|55|31|E|type:mountain|name=Highest point of China}}
* 最低: 新疆ウイグル自治区・トルファン盆地・アイディン湖 {{convert|−154|m|abbr=on}} {{coord|42.78|N|89.34|E|region:CN-65|name=Lowest point of China}}
=== 東西南北端 ===
[[File:漠河景色_Northernmost_China--Mohe_(1798575160).jpg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:%E6%BC%A0%E6%B2%B3%E6%99%AF%E8%89%B2_Northernmost_China--Mohe_(1798575160).jpg|サムネイル|最北端]]
==== 大陸内 ====
* 最北: [[黒竜江省]]・[[漠河市]] {{coord|53|33|N|123|16|E|region:CN-23|name=Northernmost point of continental China}}
* 最南: [[広東省]]・{{仮リンク|海安鎮|en|Hai'an, Xuwen County}} {{coord|20|14|N|109|56|E|region:CN-44|name=Southernmost point of continental China}}
* 最西: 新疆ウイグル自治区・[[アクト県]]もしくは[[ウルグチャト県]]の[[中国=タジキスタン国境]]に位置するマーカンス川({{lang|zh|瑪爾坎蘇河}}){{coord|39|22|48|N|73|30|00|E|region:CN-65|name=Westernmost point of Chinese territory}}{{citation needed|date=December 2019|reason=This coordinate here is given based off Baidu Maps and Google Maps; the relevant treaty document that gives the exact location of the westermost point of China should be consulted here. Probably mentioned in this treaty: https://zh.wikisource.org/wiki/中华人民共和国和塔吉克斯坦共和国关于中塔国界的协定}}
* 最東: 黒竜江省・[[撫遠市]]の[[ウスリー川]] {{coord|47|44|09|N|134|46|08|E|region:CN-23|name=Easternmost point of continental China}}{{citation needed|date=December 2019|reason=This coordinate here is given based off Baidu Maps and Google Maps; the relevant treaty document that gives the exact location of the westermost point of China should be consulted here. Probably mentioned in this treaty: https://zh.wikisource.org/wiki/中华人民共和国和塔吉克斯坦共和国关于中塔国界的协定}}
==== 領土の全体 ====
* 最北: [[黒竜江省]]・[[漠河市]] {{coord|53|33|N|123|16|E|region:CN-23|name=Northernmost point of continental China}}
* 最南: [[海南省]]の最南端([[三亜市]]、{{coord|18|09|33|N|109|34|27|E|region:CN-46|name=Southernmost point of Chinese territory}})は確定で最南端となる。中国側の主張では[[ジェームズ礁]]({{coord|3|58|26|N|112|20|56|E|region:CN-46|name=Claimed southernmost point of Chinese territory}})が最南端となり、中国が実効支配を行っている地域でいえば[[クアテロン礁]]({{coord|8|51|50|N|112|49|40|E|region:CN-46|name=Effective controlled southernmost point of Chinese territory}})が最南端となる。
* 最西: 新疆ウイグル自治区・[[アクト県]]もしくは[[ウルグチャト県]]の[[中国=タジキスタン国境]]に位置するマーカンス川({{lang|zh|瑪爾坎蘇河}}){{coord|39|22|48|N|73|30|00|E|region:CN-65|name=Westernmost point of Chinese territory}}{{citation needed|date=December 2019|reason=This coordinate here is given based off Baidu Maps and Google Maps; the relevant treaty document that gives the exact location of the westermost point of China should be consulted here. Probably mentioned in this treaty: https://zh.wikisource.org/wiki/中华人民共和国和塔吉克斯坦共和国关于中塔国界的协定}}
* 最東: 黒竜江省・[[撫遠市]]の[[ウスリー川]] {{coord|47|44|09|N|134|46|08|E|region:CN-23|name=Easternmost point of continental China}}{{citation needed|date=December 2019|reason=This coordinate here is given based off Baidu Maps and Google Maps; the relevant treaty document that gives the exact location of the westermost point of China should be consulted here. Probably mentioned in this treaty: https://zh.wikisource.org/wiki/中华人民共和国和塔吉克斯坦共和国关于中塔国界的协定}}
==== 鉄道駅 ====
[[File:Platform_of_Jiangang_Rd._Station_(20230325101145).jpg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:Platform_of_Jiangang_Rd._Station_(20230325101145).jpg|サムネイル|[[三亜有軌電車]]の建港路駅は、2023年現在、中国の全鉄道システムの中で最南端の鉄道輸送駅である。]]
* 最北: 黒竜江省・[[漠河駅]] {{coord|52|59|14|N|122|30|01|E|region:CN-23|name=Northernmost railway station of China}}
* 最南: 海南省・三亜市に位置する古い駅 {{coord|18|15|09|N|109|29|51|E|region:CN-46|name=Southernmost railway station of China}}
* 最西: 新疆ウイグル自治区・[[カシュガル駅]] {{coord|39|29|31|N|76|02|47|E|name=Westernmost railway station of China}}
* 最東: 黒竜江省・[[撫遠市]]の駅(2012年12月19日、中国は[[ハルビン]]から北東へ17時間の場所にある撫遠市まで鉄道を延長した)
==== 自治体 ====
* 最西: 新疆ウイグル自治区もしくはキジルス・キルギス自治州のウルグカット県・ジュグン(ジゲン)郷<ref name="1997xzqhulugqat">{{cite web |url=http://www.xzqh.org/html/show/xj/22309.html |archive-url=https://web.archive.org/web/20171015080753/http://www.xzqh.org/html/show/xj/22309.html |archive-date=15 October 2017 |url-status=live |script-title=zh:1997年乌恰县行政区划 |trans-title=1997 Ulugqat County Administrative Divisions |publisher=XZQH.org |date=31 December 2010 |language=zh-hans |access-date=10 October 2020 |quote=吉根乡 位于县城西94.5千米。是中国最西部的一个乡。 |title=1997年乌恰县行政区划}}</ref>・シムハナ村と考えられている<ref name="xie">{{cite book |script-title=zh:地名中的新疆 |language=zh-hans |date=2003 |isbn=7-228-08004-1 |author=Xie Yuzhong 解玉忠 |location=[[Ürümqi]] |publisher=[[:zh:新疆人民出版社|新疆人民出版社]] |page=196 |quote=斯木哈纳 Simhana 我国最西部村庄。}}</ref><ref name="xjdmycsgs">{{cite book |script-title=zh:新疆地名与传说故事 |language=zh-hans |editor=Wen Hao 文昊 |location=[[Ürümqi]] |date=January 2007 |isbn=978-7-80744-012-3 |publisher=新疆美术摄影出版社, 新疆电子音像出版社 |page=46 |series=走进新疆丛书 |quote=斯木哈纳 我国最西部村庄。}}</ref>。
== 関連項目 ==
* [[中華人民共和国の地理]]
== 脚注 ==
<references />
{{アジアの題材|端の一覧|mode=3}}
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[[Category:中華人民共和国の極と端|*]]
[[Category:中国の地理一覧|はしのいちらん]]
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4,839,315 |
古井町 (安城市)
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古井町(ふるいちょう)は、愛知県安城市の地名。
安城市東部に位置する。東は川島町、西から北は安城町、南は桜井町・堀内町に接する。
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる。
国勢調査による人口および世帯数の推移。
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古井町(ふるいちょう)は、愛知県安城市の地名。
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| area_footnotes = <ref group=WEB name="area">{{Cite web|url=https://toukei-labo.com/2015/?tdfk=23&city=23212|title=愛知県安城市の町丁・字一覧|publisher=人口統計ラボ|language=日本語|accessdate=2023-08-26}}</ref>
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| registration_plate = [[愛知運輸支局|三河]]
| footnotes =
}}
'''古井町'''(ふるいちょう)は、[[愛知県]][[安城市]]の地名。
== 地理 ==
安城市東部に位置する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}。東は[[川島町 (安城市)|川島町]]、西から北は[[安城町]]、南は[[桜井町 (安城市)|桜井町]]・[[堀内町 (安城市)|堀内町]]に接する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}。
=== 学区 ===
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.city.anjo.aichi.jp/manabu/gakko/kyoikushisetsu/gakku.html|title=小中学校区一覧(町別50音順)|author=安城市役所教育振興部学校教育課学事係|publisher=安城市|date=2022-04-07|accessdate=2023-10-09}}</ref>。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.pref.aichi.jp/soshiki/kotogakko/0000080445.html|title=平成29年度以降の愛知県公立高等学校(全日制課程)入学者選抜における通学区域並びに群及びグループ分け案について|publisher=愛知県教育委員会|date=2015-02-16|accessdate=2019-01-14}}</ref>。
{| class="wikitable"
!番・番地等!!小学校!!中学校!!高等学校
|-
||石原・稲尾・井ノ池・上寺・海老良・大久後(名鉄西尾線以東)・大坪・金次・冠木山・神ノ木・上橋下・亀山・軽桶・金蔵塚・桜塚・芝崎(名鉄西尾線以東)・下橋下・釈迦山・十王堂・新道(名鉄西尾線以東)・高見・竹ヶ花・塚越・塚下・天皇・堂前田(名鉄西尾線以東)・豊日・丼・中本神・中屋敷・鍋屋町・西川・野辺・花田(名鉄西尾線以東)・東川・彼岸田・古井堤・文田・本神・松本・松山(名鉄西尾線以東)・三ツ塚・御堂山・南淡良・宮前||[[安城市立安城南部小学校]]||[[安城市立安祥中学校]]|| rowspan="2" | [[愛知県の高校入試#三河学区|三河学区]]
|-
||揚リ登・一本木・大久後(名鉄西尾線以西)・大堀・北畔・北芝崎・甲加勢・五徳山・小仏・芝崎(名鉄西尾線以西)・新道(名鉄西尾線以西)・堂前田(名鉄西尾線以西)・花田(名鉄西尾線以西)・松山(名鉄西尾線以西)・南揚リ登・南畔・山崎根||[[安城市立祥南小学校]]||[[安城市立安祥中学校]]
|}
== 歴史 ==
=== 町名の由来 ===
=== 人口の変遷 ===
[[国勢調査]]による人口および世帯数の推移。
{| class="wikitable"
|-
|1995年(平成7年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000023630251&fileKind=1|format=CSV|title=平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-03-28|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|2065世帯<br>6733人||<div style="width:20.65px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:67.33px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2000年(平成12年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025137780&fileKind=1|format=CSV|title=平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-05-30|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|2323世帯<br>7202人||<div style="width:23.23px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:72.02px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2005年(平成17年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025514226&fileKind=1|format=CSV|title=平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-06-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|2412世帯<br>7367人||<div style="width:24.12px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:73.67px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2010年(平成22年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000012671534&fileKind=1|format=CSV|title=平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2012-01-20|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|2503世帯<br>7252人||<div style="width:25.03px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:72.52px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2015年(平成27年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000031522121&fileKind=1|format=CSV|title=平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2017-01-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|2625世帯<br>7247人||<div style="width:26.25px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:72.47px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2020年(令和2年)<ref group=WEB name=R2国勢調査>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000032163424&fileKind=1|format=CSV|title=令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口,外国人人口及び世帯数-町丁・字等|author=総務省統計局|date=2022-02-10|accessdate=2023-08-02|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|2787世帯<br>7300人||<div style="width:27.87px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:73。0px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|}
=== 沿革 ===
{{節スタブ}}
== 交通 ==
* [[愛知県道岡崎西尾線]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* [[愛知県道安城桜井線]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* [[名鉄西尾線]][[碧海古井駅]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* [[東海道新幹線]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
== 施設 ==
* 県営古井住宅{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* ゆたか保育園{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* 公民館{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* 安城市農協古井支店{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* 真宗大谷派願力寺{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* 憶念寺{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* 曹洞宗法福寺{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* 浄土宗鎮西派法蔵寺{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* 古井神社{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== WEB ===
{{Reflist|group="WEB"|refs=}}
=== 書籍 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1989|date=1989-03-08|title=[[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県|publisher=[[角川書店]]|isbn=4-04-001230-5|language=ja|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[安城市の町名]]
== 外部リンク ==
* {{commonscat-inline}}
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| North<!--北--> = [[安城町]]
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}}
{{安城市の町・字}}
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[[Category:安城市の町名]]
|
2023-10-09T03:51:19Z
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2023-10-09T03:51:19Z
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|
4,839,316 |
別郷町
|
別郷町(べつごうちょう)は、愛知県安城市の地名。
安城市東部に位置する。東は岡崎市、西は北山崎町・高木町、南は山崎町、北は東別所町・西別所町に接する。
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる。
国勢調査による人口および世帯数の推移。
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{
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"title": "歴史"
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] |
別郷町(べつごうちょう)は、愛知県安城市の地名。
|
{{Pathnav|日本|愛知県|安城市|'''別郷町'''|hide=1|frame=1}}
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| area_footnotes = <ref group=WEB name="area">{{Cite web|url=https://toukei-labo.com/2015/?tdfk=23&city=23212|title=愛知県安城市の町丁・字一覧|publisher=人口統計ラボ|language=日本語|accessdate=2023-08-26}}</ref>
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| registration_plate = [[愛知運輸支局|三河]]
| footnotes =
}}
'''別郷町'''(べつごうちょう)は、[[愛知県]][[安城市]]の地名。
== 地理 ==
安城市東部に位置する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}。東は[[岡崎市]]、西は[[北山崎町]]・[[高木町 (安城市)|高木町]]、南は[[山崎町 (安城市)|山崎町]]、北は[[東別所町]]・[[西別所町]]に接する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}。
=== 学区 ===
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.city.anjo.aichi.jp/manabu/gakko/kyoikushisetsu/gakku.html|title=小中学校区一覧(町別50音順)|author=安城市役所教育振興部学校教育課学事係|publisher=安城市|date=2022-04-07|accessdate=2023-10-09}}</ref>。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.pref.aichi.jp/soshiki/kotogakko/0000080445.html|title=平成29年度以降の愛知県公立高等学校(全日制課程)入学者選抜における通学区域並びに群及びグループ分け案について|publisher=愛知県教育委員会|date=2015-02-16|accessdate=2019-01-14}}</ref>。
{| class="wikitable"
!番・番地等!!小学校!!中学校!!高等学校
|-
||全域||[[安城市立安城東部小学校]]||[[安城市立安城北中学校]]||[[愛知県の高校入試#三河学区|三河学区]]
|}
== 河川 ==
* 西鹿乗川{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
== 歴史 ==
=== 町名の由来 ===
=== 人口の変遷 ===
[[国勢調査]]による人口および世帯数の推移。
{| class="wikitable"
|-
|1995年(平成7年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000023630251&fileKind=1|format=CSV|title=平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-03-28|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
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|2000年(平成12年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025137780&fileKind=1|format=CSV|title=平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-05-30|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
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|-
|2005年(平成17年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025514226&fileKind=1|format=CSV|title=平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-06-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
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|-
|2010年(平成22年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000012671534&fileKind=1|format=CSV|title=平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2012-01-20|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|104世帯<br>403人||<div style="width:10.4px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:40.3px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2015年(平成27年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000031522121&fileKind=1|format=CSV|title=平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2017-01-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|103世帯<br>395人||<div style="width:10.3px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:39.5px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2020年(令和2年)<ref group=WEB name=R2国勢調査>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000032163424&fileKind=1|format=CSV|title=令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口,外国人人口及び世帯数-町丁・字等|author=総務省統計局|date=2022-02-10|accessdate=2023-08-02|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|131世帯<br>470人||<div style="width:13.1px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:47px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|}
=== 沿革 ===
{{節スタブ}}
== 交通 ==
* [[愛知県道岡崎半田線]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
== 施設 ==
* 市杵島姫社{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* 別郷廃寺跡{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== WEB ===
{{Reflist|group="WEB"|refs=}}
=== 書籍 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1989|date=1989-03-08|title=[[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県|publisher=[[角川書店]]|isbn=4-04-001230-5|language=ja|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[安城市の町名]]
{{Geographic Location
| Northwest<!--北西--> =
| North<!--北--> = [[東別所町]]・[[西別所町]]
| Northeast<!--北東--> =
| West<!--西--> = [[北山崎町]]・[[高木町]]
| Centre<!--中央--> = 別郷町
| East<!--東--> = [[岡崎市]]
| Southwest<!--南西--> =
| South<!--南--> = [[山崎町]]
| Southeast<!--南東--> =
}}
{{安城市の町・字}}
{{Japan-block-stub}}
{{Pref-stub|pref=愛知県}}
{{デフォルトソート:へつこうちよう}}
[[Category:安城市の町名]]
|
2023-10-09T04:07:37Z
|
2023-10-09T04:07:37Z
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[
"Template:Pathnav",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Cite book",
"Template:Japan-block-stub",
"Template:Geographic Location",
"Template:安城市の町・字",
"Template:Pref-stub",
"Template:Infobox settlement",
"Template:Sfn",
"Template:節スタブ",
"Template:Reflist",
"Template:Cite web"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A5%E9%83%B7%E7%94%BA
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4,839,320 |
弁天町 (安城市)
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弁天町(べんてんちょう)は、愛知県安城市の地名。
安城市中央北部に位置する。東から北西は新田町、西は大東町、南は明治本町、南西は昭和町に接する。
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる。
国勢調査による人口および世帯数の推移。
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弁天町(べんてんちょう)は、愛知県安城市の地名。
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{{Infobox settlement
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| settlement_type = [[町丁]]
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| area_footnotes = <ref group=WEB name="area">{{Cite web|url=https://toukei-labo.com/2015/?tdfk=23&city=23212|title=愛知県安城市の町丁・字一覧|publisher=人口統計ラボ|language=日本語|accessdate=2023-08-26}}</ref>
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| population_density_km2 = auto
| timezone1 = [[日本標準時]]
| utc_offset1 = +9
| postal_code_type = [[郵便番号]]
| postal_code = 446-0064<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?pref=23&city=1232120&cmp=1&mode=list&addr=|title=愛知県安城市の郵便番号一覧|publisher=日本郵便|accessdate=2023-08-26}}</ref>
| area_code = 0566<ref group=WEB name=areacode>{{Cite web|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000141817.pdf|format=PDF||title=市外局番の一覧|publisher=総務省|date=2022-03-01|accessdate=2022-03-22}}</ref>
| registration_plate = [[愛知運輸支局|三河]]
| footnotes =
}}
'''弁天町'''(べんてんちょう)は、[[愛知県]][[安城市]]の地名。
== 地理 ==
安城市中央北部に位置する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}。東から北西は[[新田町 (安城市)|新田町]]、西は[[大東町 (安城市)|大東町]]、南は[[明治本町]]、南西は[[昭和町 (安城市)|昭和町]]に接する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}。
=== 学区 ===
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.city.anjo.aichi.jp/manabu/gakko/kyoikushisetsu/gakku.html|title=小中学校区一覧(町別50音順)|author=安城市役所教育振興部学校教育課学事係|publisher=安城市|date=2022-04-07|accessdate=2023-10-09}}</ref>。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.pref.aichi.jp/soshiki/kotogakko/0000080445.html|title=平成29年度以降の愛知県公立高等学校(全日制課程)入学者選抜における通学区域並びに群及びグループ分け案について|publisher=愛知県教育委員会|date=2015-02-16|accessdate=2019-01-14}}</ref>。
{| class="wikitable"
!番・番地等!!小学校!!中学校!!高等学校
|-
||全域||[[安城市立新田小学校]]||[[安城市立安城北中学校]]||[[愛知県の高校入試#三河学区|三河学区]]
|}
== 歴史 ==
=== 町名の由来 ===
=== 人口の変遷 ===
[[国勢調査]]による人口および世帯数の推移。
{| class="wikitable"
|-
|1995年(平成7年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000023630251&fileKind=1|format=CSV|title=平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-03-28|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|355世帯<br>1013人||<div style="width:35.5px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:101.3px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2000年(平成12年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025137780&fileKind=1|format=CSV|title=平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-05-30|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|387世帯<br>975人||<div style="width:38.7px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:97.5px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2005年(平成17年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025514226&fileKind=1|format=CSV|title=平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-06-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|458世帯<br>1082人||<div style="width:45.8px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:108.2px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2010年(平成22年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000012671534&fileKind=1|format=CSV|title=平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2012-01-20|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|521世帯<br>1072人||<div style="width:52.1px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:107.2px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2015年(平成27年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000031522121&fileKind=1|format=CSV|title=平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2017-01-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|501世帯<br>1041人||<div style="width:50.1px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:104.1px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2020年(令和2年)<ref group=WEB name=R2国勢調査>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000032163424&fileKind=1|format=CSV|title=令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口,外国人人口及び世帯数-町丁・字等|author=総務省統計局|date=2022-02-10|accessdate=2023-08-02|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|526世帯<br>1053人||<div style="width:52.6px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:105.3px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|}
=== 沿革 ===
{{節スタブ}}
== 交通 ==
* [[愛知県道豊田安城線]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* [[名鉄西尾線]][[北安城駅]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
== 施設 ==
* 日本モウルド工業{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* サンメン商事{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* 曹洞宗歓喜院{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== WEB ===
{{Reflist|group="WEB"|refs=}}
=== 書籍 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1989|date=1989-03-08|title=[[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県|publisher=[[角川書店]]|isbn=4-04-001230-5|language=ja|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[安城市の町名]]
{{Geographic Location
| Northwest<!--北西--> = [[新田町 (安城市)|新田町]]
| North<!--北--> =
| Northeast<!--北東--> =
| West<!--西--> = [[大東町 (安城市)|大東町]]
| Centre<!--中央--> = 弁天町
| East<!--東--> = [[新田町 (安城市)|新田町]]
| Southwest<!--南西--> = [[昭和町 (安城市)|昭和町]]
| South<!--南--> = [[明治本町]]
| Southeast<!--南東--> =
}}
{{安城市の町・字}}
{{Japan-block-stub}}
{{Pref-stub|pref=愛知県}}
{{デフォルトソート:へんてんちよう}}
[[Category:安城市の町名]]
|
2023-10-09T04:16:22Z
|
2023-10-09T04:16:22Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E5%A4%A9%E7%94%BA_(%E5%AE%89%E5%9F%8E%E5%B8%82)
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4,839,321 |
嬉野中川新町
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嬉野中川新町(うれしのなかがわしんまち)は、三重県松阪市の町名。一丁目から四丁目まである。
松阪市北部の嬉野地域(旧・嬉野町域)に位置する。町域は元々嬉野中川町・嬉野野田町に属していたが、1990年から2007年にかけて新市街地整備を目的とする土地区画整理事業が行われた際に、両町の一部を分離させる形で制定された。町内にはマンション・アパートなどの共同住宅が立地している。
町内を南北に走る近鉄の線路と、東西に走る三重県道413号・三重県道30号に沿って町内は4つの丁目に区切られており、北西に一丁目、北東に二丁目、南東に三丁目、南西に四丁目が位置する。
北・西・南を嬉野中川町に囲まれており、西側で嬉野野田町と接している。
一丁目の一部を除く町内を対象として、中川駅周辺地区地区計画が制定されている。先述の通り、この町内一帯は土地区画整理事業の施行区域であったが「事業施工後の無計画な市街地形成が予測される」という理由で「市街化を計画的に誘導し、良好な市街地形成を図る」ことを目的として制定された。そのため、この地区計画の対象区域は土地区画整理事業の対象区域と一致している。
地区計画の対象区域面積は50.6haとなっており、これを「低層専用住宅地区」「中低層住宅地区」「沿道サービス地区」「広域核地区」「近隣商業地区」「駅西商業地区」の6つに区分している。このうち、駅西商業地区を除く5つの地区には建築物の高さの最高限度が設定されているほか、6つ全ての区域において、道路の境界線から建築物の外壁までの距離を1メートル以上とするよう定められている。
市立の小学校・中学校に通学する場合、学区は以下の通りとなる。
町内に近畿日本鉄道の伊勢中川駅が所在する。伊勢中川駅には近鉄名古屋線・近鉄大阪線・近鉄山田線の三路線が乗り入れており、甲特急、名阪特急、しまかぜを除く定期旅客列車は全て停車するターミナル駅となっている。
町内に、嬉野地区コミュニティバス・三雲地区コミュニティバス・津市コミュニティバスが乗り入れている。三重交通バスや鈴の音バスの乗り入れは無い。
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嬉野中川新町(うれしのなかがわしんまち)は、三重県松阪市の町名。一丁目から四丁目まである。
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{{Infobox settlement
| name = 嬉野中川新町
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| subdivision_type3 = 管内
| subdivision_name3 = 嬉野管内<ref name="choumei">{{cite web|url=https://www.city.matsusaka.mie.jp/site/toukei/0101.html|title=松阪市の町名|publisher=松阪市経営企画課|date=2023-02-27|accessdate=2023-10-01}}</ref>
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| established_date1 = [[2006年]](平成18年)[[9月29日]]<ref name="kouhou">{{Cite web|url=https://www.pref.mie.lg.jp/common/content/000353570.pdf|title=三重県広報第1817号 三重県告示第646号|publisher=三重県法務・文書課|date=2006-09-29|accessdate=2023-10-01|pages=11-13|format=pdf}}</ref>
| area_footnotes = <ref>{{cite web|url=https://toukei-labo.com/2015/?tdfk=24&city=24204&id=265|title=三重県松阪市嬉野中川新町一丁目 - 人口総数及び世帯総数|work=人口統計ラボ|accessdate=2023-10-01}}</ref><ref>{{cite web|url=https://toukei-labo.com/2015/?tdfk=24&city=24204&id=266|title=三重県松阪市嬉野中川新町二丁目 - 人口総数及び世帯総数|work=人口統計ラボ|accessdate=2023-10-01}}</ref><ref>{{cite web|url=https://toukei-labo.com/2015/?tdfk=24&city=24204&id=267|title=三重県松阪市嬉野中川新町三丁目 - 人口総数及び世帯総数|work=人口統計ラボ|accessdate=2023-10-01}}</ref><ref>{{cite web|url=https://toukei-labo.com/2015/?tdfk=24&city=24204&id=268|title=三重県松阪市嬉野中川新町四丁目 - 人口総数及び世帯総数|work=人口統計ラボ|accessdate=2023-10-01}}</ref><ref group="注">内訳は、一丁目0.102959236、二丁目0.152504562、三丁目0.067257557、四丁目0.190440057平方キロメートル。</ref>
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| population_footnotes = <ref>{{Cite web|url=https://www.city.matsusaka.mie.jp/uploaded/attachment/78939.xlsx|title=町別人口(住民基本台帳) - 令和5年分|publisher=松阪市|language=日本語|date=2023-09-15|accessdate=2023-10-01|page=9|format=xlsx}}</ref><ref group="注">内訳は、一丁目421人、二丁目1,136人、三丁目535人、四丁目860人。</ref>
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| postal_code = 515-2325<ref>{{Cite web|url=https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?zip=5152325|title=嬉野中川新町の郵便番号|publisher=[[日本郵便]]|accessdate=2023-10-01}}</ref>
| area_code = 0598([[日本の市外局番#番号区画|松阪MA]])<ref>{{Cite web|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000141817.pdf|format=pdf|title=市外局番の一覧|publisher=総務省|accessdate=2023-10-01|page=9}}</ref>
| registration_plate = [[三重運輸支局|三重]]
| blank1_name = [[自動車検査登録制度|自動車登録]]住所コード
| blank1_info = 24 503 2545<ref>{{cite web|url=https://www.kodokensaku.mlit.go.jp/motas/addresscodesearch|title=住所コード検索|work=自動車登録関係コード検索システム|publisher=[[国土交通省]]|accessdate=2023-10-01}}</ref>
| blank2_name = 松阪市町名コード<ref name="choumei"/>
| blank2_info = 420 (一丁目) <br/> 421 (二丁目) <br/> 422 (三丁目) <br/> 423 (四丁目)
| footnotes = ※座標・標高は伊勢中川駅西口付近のもの
}}
'''嬉野中川新町'''(うれしのなかがわしんまち)は、三重県[[松阪市]]の[[町丁|町名]]。一丁目から四丁目まである。
== 地理 ==
松阪市北部の嬉野地域(旧・[[嬉野町 (三重県)|嬉野町]]域)に位置する。町域は元々[[嬉野中川町]]・[[嬉野野田町]]に属していたが、[[1990年]]から[[2007年]]にかけて新市街地整備を目的とする[[土地区画整理事業]]が行われた<ref>{{Cite web|url=https://www.pref.mie.lg.jp/common/content/001072943.pdf|title=三重県内の土地区画整理事業 地区一覧|publisher=三重県|date=2023-04-14|accessdate=2023-10-01|page=4|format=pdf}}</ref>際に、両町の一部を分離させる形で制定された<ref name="kouhou"/>。町内にはマンション・アパートなどの共同住宅が立地している<ref>{{Cite web|url= https://www.city.matsusaka.mie.jp/uploaded/attachment/33909.pdf|title=松阪市都市計画マスタープラン 地域別構想 (17〜24)|publisher=松阪市建設部都市計画課|date=2019-03-29|accessdate=2023-10-08|page=25|format=pdf}}</ref>。
町内を南北に走る近鉄の線路と、東西に走る[[三重県道413号]]・[[三重県道30号]]に沿って町内は4つの丁目に区切られており、北西に一丁目、北東に二丁目、南東に三丁目、南西に四丁目が位置する。
北・西・南を嬉野中川町に囲まれており、西側で嬉野野田町と接している。
=== 地区計画 ===
一丁目の一部を除く町内を対象として、中川駅周辺地区[[地区計画]]が制定されている。先述の通り、この町内一帯は土地区画整理事業の施行区域であったが「事業施工後の無計画な市街地形成が予測される」という理由で「市街化を計画的に誘導し、良好な市街地形成を図る」ことを目的として制定された。そのため、この地区計画の対象区域は土地区画整理事業の対象区域と一致している<ref name="地区計画">{{Cite web|url= https://www.city.matsusaka.mie.jp/site/toshikeikaku/nakagawa-tiku-tikukeikaku.html|title=中川駅周辺地区地区計画|publihsher=松阪市建設部都市計画課|date=2017-02-01|accessdate=2023-10-08}}</ref>。
地区計画の対象区域面積は50.6haとなっており、これを「低層専用住宅地区」「中低層住宅地区」「沿道サービス地区」「広域核地区」「近隣商業地区」「駅西商業地区」の6つに区分している。このうち、駅西商業地区を除く5つの地区には建築物の高さの最高限度が設定されているほか、6つ全ての区域において、道路の境界線から建築物の外壁までの距離を1メートル以上とするよう定められている<ref name="地区計画"/>。
=== 小・中学校の学区 ===
[[公立学校|市立]]の[[小学校]]・[[中学校]]に通学する場合、[[学区]]は以下の通りとなる<ref>{{cite web|url=https://www.city.matsusaka.mie.jp/soshiki/75/29shogakkoku.html|title=小学校区一覧|date=2017-05-01|publisher=松阪市学校教育課|accessdate=2023-10-08}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.city.matsusaka.mie.jp/soshiki/75/chugakkoku.html|title=中学校区一覧|date=2017-05-01|publisher=松阪市学校教育課|accessdate=2023-10-08}}</ref>。
{| class="wikitable"
!町名!!地域!!小学校!!中学校
|-
|rowspan="2"|嬉野中川新町||全域||[[松阪市立中川小学校|中川小学校]]||rowspan="2"|[[松阪市立嬉野中学校|嬉野中学校]]
|}
== 交通 ==
=== 鉄道 ===
町内に[[近畿日本鉄道]]の[[伊勢中川駅]]が所在する。伊勢中川駅には[[近鉄名古屋線]]・[[近鉄大阪線]]・[[近鉄山田線]]の三路線が乗り入れており、甲特急、[[近鉄特急#名阪特急(大阪 - 名古屋間)|名阪特急]]、[[近鉄特急#観光特急「しまかぜ」(大阪・京都・名古屋 - 伊勢志摩間)|しまかぜ]]を除く定期旅客列車は全て停車するターミナル駅となっている。
=== 路線バス ===
町内に、嬉野地区コミュニティバス・三雲地区コミュニティバス・津市コミュニティバスが乗り入れている<ref>{{Cite web|url= https://www.city.matsusaka.mie.jp/uploaded/attachment/79050.pdf|title=松阪市公共交通路線図|publisher=松阪市産業文化部商工政策課|date=2023-09-08|accessdate=2023-10-08|format=pdf}}</ref>。[[三重交通]]バスや[[鈴の音バス]]の乗り入れは無い。
== 注釈 ==
{{reflist|group=注}}
== 出典 ==
{{reflist|2}}
== 関連項目 ==
*[[郊外]]
*[[沿線開発]]
{{松阪市の町・字}}
{{DEFAULTSORT:うれしのなかかわしんまち}}
[[Category:松阪市の町・字]]
|
2023-10-09T04:20:22Z
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|
4,839,322 |
アルウィ・ファルハン
|
アルウィ・ファルハン・アルハスニー(英語: Alwi Farhan Alhasny、2005年5月12日 - )は、インドネシアの男子バドミントン選手。
2023年、世界ジュニア選手権では、準決勝で世界ランク62位、世界ジュニアランク1位のアレックス・ラニアーを破り、決勝ではアジアジュニア王者の胡哲安を破って優勝した。
|
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アルウィ・ファルハン・アルハスニーは、インドネシアの男子バドミントン選手。
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|説明 =
|生年月日 = {{生年月日と年齢|2005|5|12}}
|没年月日 =
|性別 = 男性
|国籍 = {{INA}}
|出身地 = [[中部ジャワ州]]、[[スラカルタ]]
|身長 = 171cm
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|血液型 =
|利き腕 = 右
|競技開始年齢 =
|種目 = 男子シングルス
|日本代表歴 =
|世界ランク(最高) = 87
|日本ランク(最高) =
|国際大会 = * [[世界ジュニアバドミントン選手権大会|世界ジュニア選手権]] 優勝(2023年)
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{{MedalCountry|{{INA}}}}
{{MedalCompetition|[[東南アジア競技大会バドミントン競技|東南アジア競技大会]]}}
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'''アルウィ・ファルハン・アルハスニー'''({{Lang-en|Alwi Farhan Alhasny}}、[[2005年]][[5月12日]] - )は、[[インドネシア]]の男子[[バドミントン]]選手<ref>[https://bwf.tournamentsoftware.com/player-profile/943E5403-1C4F-4D68-82C2-52D9C14067D1/ Alwi FARHAN] - BWF</ref>。
==経歴==
[[2023年]]、[[世界ジュニアバドミントン選手権大会|世界ジュニア選手権]]では、準決勝で[[BWF世界ランキング|世界ランク]]62位、世界ジュニアランク1位の[[アレックス・ラニアー]]を破り、決勝では[[アジアユースU19バドミントン選手権大会|アジアジュニア]]王者の[[胡哲安]]を破って優勝した。
==脚注==
{{Reflist}}
{{Badminton-stub}}
{{デフォルトソート:ふあるはん あるうい}}
[[Category:インドネシアのバドミントン選手]]
[[Category:インドネシアの男子バドミントン選手]]
[[Category:2005年生]]
[[Category:存命人物]]
[[Category:中部ジャワ州出身の人物]]
|
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|
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|
4,839,324 |
堀内町
|
堀内町(ほりうちちょう)は、愛知県安城市の地名。
安城市東部に位置する。東から南は桜井町、西は赤松町、北は古井町・安城町に接する。
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる。
国勢調査による人口および世帯数の推移。
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堀内町(ほりうちちょう)は、愛知県安城市の地名。
|
{{Otheruses|愛知県安城市の地名|名古屋市中村区の地名|堀内町 (名古屋市)}}
{{Pathnav|日本|愛知県|安城市|'''堀内町'''|hide=1|frame=1}}
{{Infobox settlement
| name = 堀内町
| settlement_type = [[町丁]]
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| subdivision_type = [[国の一覧|国]]
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| subdivision_name2 = [[File:Flag of Anjo, Aichi.svg|border|25px]][[安城市]]
| established_title1 = 町名制定
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| area_footnotes = <ref group=WEB name="area">{{Cite web|url=https://toukei-labo.com/2015/?tdfk=23&city=23212|title=愛知県安城市の町丁・字一覧|publisher=人口統計ラボ|language=日本語|accessdate=2023-08-26}}</ref>
| area_total_km2 = 0.947956399
| elevation_footnotes = <!--- 標高(<ref group=WEB>) --->
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| population_as_of= 2020年(令和2年)10月1日現在
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| postal_code = 444-1155<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?pref=23&city=1232120&cmp=1&mode=list&addr=|title=愛知県安城市の郵便番号一覧|publisher=日本郵便|accessdate=2023-08-26}}</ref>
| area_code = 0566<ref group=WEB name=areacode>{{Cite web|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000141817.pdf|format=PDF||title=市外局番の一覧|publisher=総務省|date=2022-03-01|accessdate=2022-03-22}}</ref>
| registration_plate = [[愛知運輸支局|三河]]
| footnotes =
}}
'''堀内町'''(ほりうちちょう)は、[[愛知県]][[安城市]]の地名。
== 地理 ==
安城市東部に位置する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}。東から南は[[桜井町 (安城市)|桜井町]]、西は[[赤松町 (安城市)|赤松町]]、北は[[古井町 (安城市)|古井町]]・[[安城町]]に接する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}。
=== 学区 ===
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.city.anjo.aichi.jp/manabu/gakko/kyoikushisetsu/gakku.html|title=小中学校区一覧(町別50音順)|author=安城市役所教育振興部学校教育課学事係|publisher=安城市|date=2022-04-07|accessdate=2023-10-09}}</ref>。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.pref.aichi.jp/soshiki/kotogakko/0000080445.html|title=平成29年度以降の愛知県公立高等学校(全日制課程)入学者選抜における通学区域並びに群及びグループ分け案について|publisher=愛知県教育委員会|date=2015-02-16|accessdate=2019-01-14}}</ref>。
{| class="wikitable"
!番・番地等!!小学校!!中学校!!高等学校
|-
||全域||[[安城市立桜林小学校]]||[[安城市立桜井中学校]]||[[愛知県の高校入試#三河学区|三河学区]]
|}
== 歴史 ==
=== 町名の由来 ===
=== 人口の変遷 ===
[[国勢調査]]による人口および世帯数の推移。
{| class="wikitable"
|-
|1995年(平成7年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000023630251&fileKind=1|format=CSV|title=平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-03-28|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|305世帯<br>1119人||<div style="width:30.5px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:111.9px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2000年(平成12年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025137780&fileKind=1|format=CSV|title=平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-05-30|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|355世帯<br>1230人||<div style="width:35.5px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:123px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2005年(平成17年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025514226&fileKind=1|format=CSV|title=平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-06-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|382世帯<br>1286人||<div style="width:38.2px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:128.6px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2010年(平成22年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000012671534&fileKind=1|format=CSV|title=平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2012-01-20|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|406世帯<br>1293人||<div style="width:40.6px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:129.3px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2015年(平成27年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000031522121&fileKind=1|format=CSV|title=平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2017-01-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|413世帯<br>1272人||<div style="width:41.3px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:127.2px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2020年(令和2年)<ref group=WEB name=R2国勢調査>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000032163424&fileKind=1|format=CSV|title=令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口,外国人人口及び世帯数-町丁・字等|author=総務省統計局|date=2022-02-10|accessdate=2023-08-02|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|428世帯<br>1229人||<div style="width:42.8px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:122.9px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|}
=== 沿革 ===
{{節スタブ}}
== 交通 ==
* [[名鉄西尾線]][[堀内公園駅]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* [[愛知県道桜井岡崎線]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
== 施設 ==
* 天満山古墳{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* 公民館{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* 老人憩いの家{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* 子供薬師{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* 堀内貝塚{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== WEB ===
{{Reflist|group="WEB"|refs=}}
=== 書籍 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1989|date=1989-03-08|title=[[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県|publisher=[[角川書店]]|isbn=4-04-001230-5|language=ja|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[安城市の町名]]
{{Geographic Location
| Northwest<!--北西--> =
| North<!--北--> = [[古井町 (安城市)|古井町]]・[[安城町]]
| Northeast<!--北東--> =
| West<!--西--> = [[赤松町 (安城市)|赤松町]]
| Centre<!--中央--> = 堀内町
| East<!--東--> = [[桜井町 (安城市)|桜井町]]
| Southwest<!--南西--> =
| South<!--南--> = [[桜井町 (安城市)|桜井町]]
| Southeast<!--南東--> =
}}
{{安城市の町・字}}
{{Japan-block-stub}}
{{Pref-stub|pref=愛知県}}
{{デフォルトソート:ほりうちちよう}}
[[Category:安城市の町名]]
|
2023-10-09T04:35:32Z
|
2023-10-09T04:35:32Z
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"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:Cite web",
"Template:安城市の町・字"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E5%86%85%E7%94%BA
|
4,839,327 |
日岡村
|
日岡村(ひおかむら)は、大分県大分郡にあった村。現在の大分市の一部にあたる。
|
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"text": "日岡村(ひおかむら)は、大分県大分郡にあった村。現在の大分市の一部にあたる。",
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}
] |
日岡村(ひおかむら)は、大分県大分郡にあった村。現在の大分市の一部にあたる。
|
{{日本の町村 (廃止)
| 廃止日 = 1943年11月11日
| 廃止理由 = 編入合併
| 廃止詳細 = '''日岡村''' → 大分市
| 現在の自治体 = [[大分市]]
| よみがな = ひおかむら
| 自治体名 = 日岡村
| 区分 = 村
| 都道府県 = 大分県
| 郡 = [[大分郡]]
| 面積 =
| 境界未定 =
| 人口 = 2434
| 人口の出典 = [[国勢調査 (日本)|国勢調査]]
| 人口の時点 = 1940年
| 隣接自治体 = [[鶴崎町]]、[[桃園村 (大分県)|桃園村]]、大分市
| 所在地 = 大分郡日岡村大字原
| 座標 =
| 位置画像 =
| 特記事項 =
}}
'''日岡村'''(ひおかむら{{R|変遷}}{{R|角川}})は、[[大分県]][[大分郡]]にあった[[村]]。現在の[[大分市]]の一部にあたる。
== 地理 ==
*海洋:[[別府湾]]<ref name=角貝>「新貝〈大分市〉」『角川日本地名大辞典 44 大分県』446頁。</ref>
*河川:丹生川<ref name=角原>「原〈大分市〉」『角川日本地名大辞典 44 大分県』670頁。</ref>、佐野川{{R|角原}}、原川<ref>「高松〈大分市〉」『角川日本地名大辞典 44 大分県』491頁。</ref>、裏川{{R|角貝}}
== 歴史 ==
*[[1889年]](明治22年)4月1日、[[町村制]]の施行により、大分郡原村、高松村、新貝村が合併して村制施行し、'''日岡村'''が発足<ref name=変遷>『市町村名変遷辞典』641頁。</ref><ref name=角川>『角川日本地名大辞典 44 大分県』677頁。</ref>。旧村名を継承した原、高松、新貝の3大字を編成{{R|角川}}。
*[[1893年]](明治26年)10月14日、大洪水([[明治26年の台風]])で大きな被害を受けた{{R|角川}}。
*[[1943年]](昭和18年)11月11日、'''[[大分市]]'''に編入され廃止{{R|変遷}}{{R|角川}}。
== 産業 ==
*農業、製塩{{R|角貝}}
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* [[角川日本地名大辞典]] 44 大分県
* 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。
== 関連項目 ==
* [[大分県の廃止市町村一覧]]
{{デフォルトソート:ひおかむら}}
[[Category:大分郡]]
[[Category:大分市域の廃止市町村]]
[[Category:1889年設置の日本の市町村]]
[[Category:1943年廃止の日本の市町村]]
|
2023-10-09T04:38:38Z
|
2023-10-09T04:38:38Z
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[
"Template:日本の町村 (廃止)",
"Template:R",
"Template:Reflist"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%B2%A1%E6%9D%91
|
4,839,329 |
Result型
|
関数型プログラミングにおいて、Result型(英語: Result type)は、戻り値またはエラーコードを保持するモナディック型である。これは、例外処理に頼らないエラー処理の洗練された方法を提供する。失敗する可能性のある関数がResult型を返す場合、プログラマは結果にアクセスする前に、結果が成功であるか失敗であるかを確認することが強制される。これにより、プログラマがエラー処理を忘れる可能性が排除される。
Result型にはis_ok()メソッドとis_err()メソッドがある。
|
[
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"text": "関数型プログラミングにおいて、Result型(英語: Result type)は、戻り値またはエラーコードを保持するモナディック型である。これは、例外処理に頼らないエラー処理の洗練された方法を提供する。失敗する可能性のある関数がResult型を返す場合、プログラマは結果にアクセスする前に、結果が成功であるか失敗であるかを確認することが強制される。これにより、プログラマがエラー処理を忘れる可能性が排除される。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "Result型にはis_ok()メソッドとis_err()メソッドがある。",
"title": "例"
}
] |
関数型プログラミングにおいて、Result型は、戻り値またはエラーコードを保持するモナディック型である。これは、例外処理に頼らないエラー処理の洗練された方法を提供する。失敗する可能性のある関数がResult型を返す場合、プログラマは結果にアクセスする前に、結果が成功であるか失敗であるかを確認することが強制される。これにより、プログラマがエラー処理を忘れる可能性が排除される。
|
{{出典の明記|date=2023年10月}}
{{翻訳直後|1={{revision|:en:Result type|1179286713|英語版 "Result type" 2023年10月9日 (月) 03:37 (UTC)}}|date=2023-10}}
[[関数型プログラミング]]において、'''Result型'''({{lang-en|Result type}})は、戻り値またはエラーコードを保持する[[モナド (プログラミング)|モナディック型]]である。これは、例外処理に頼らないエラー処理の洗練された方法を提供する。失敗する可能性のある関数がResult型を返す場合、プログラマは結果にアクセスする前に、結果が成功であるか失敗であるかを確認することが強制される。これにより、プログラマがエラー処理を忘れる可能性が排除される。
== 例 ==
* [[Elm (プログラミング言語)|Elm]]では、標準ライブラリで{{code|2=elm|1=type Result e v = Ok v {{!}} Err e}}として定義されている<ref>{{cite web |title=Result · An Introduction to Elm |url=https://guide.elm-lang.org/error_handling/result.html |url-status=live |archive-url=https://web.archive.org/web/20231009032650/https://guide.elm-lang.org/error_handling/result.html |archive-date=2023-10-09 |access-date=2023-10-09 |website=guide.elm-lang.org}}</ref>。
* [[Haskell]]では、慣例により、標準ライブラリで{{code|1=data Either a b = Left a {{!}} Right b|2=haskell}}として定義されている{{code|Either|haskell}}型がこの用途に使用される<ref>{{cite web |date=2023-09-22 |title=Data.Either |url=https://hackage.haskell.org/package/base-4.18.1.0/docs/Data-Either.html |url-status=live |archive-url=https://web.archive.org/web/20231009031549/https://hackage.haskell.org/package/base-4.18.1.0/docs/Data-Either.html |archive-date=2023-10-09 |access-date=2023-10-09 |website=hackage.haskell.org}}</ref>。
* [[Kotlin]]では、標準ライブラリで{{code|2=kotlin|1=value class Result<out T>}}として定義されている<ref>{{cite web |title=Result - Kotlin Programming Language |url=https://kotlinlang.org/api/latest/jvm/stdlib/kotlin/-result/ |url-status=live |archive-url=https://web.archive.org/web/20231009032856/https://kotlinlang.org/api/latest/jvm/stdlib/kotlin/-result/ |archive-date=2023-10-09 |access-date=2023-10-09 |website=kotlinlang.org}}</ref>。
* [[OCaml]]では、標準ライブラリで{{code|2=ocaml|1=type ('a, 'b) result = Ok of 'a {{!}} Error of 'b type}}として定義されている<ref>{{cite web |title=Error Handling · OCaml Tutorials |url=https://ocaml.org/docs/error-handling#using-the-result-type-for-errors |url-status=live |archive-url=https://web.archive.org/web/20231009030828/https://ocaml.org/docs/error-handling#using-the-result-type-for-errors |archive-date=2023-10-09 |access-date=2023-10-09 |website=ocaml.org}}</ref>。
* [[Rust (プログラミング言語)|Rust]]では、標準ライブラリで{{code|2=rust|1=enum Result<T, E> { Ok(T), Err(E) } }}として定義されている<ref>{{cite web |title=std::result - Rust |url=https://doc.rust-lang.org/std/result/index.html |url-status=live |archive-url=https://web.archive.org/web/20231009032955/https://doc.rust-lang.org/std/result/index.html |archive-date=2023-10-09 |access-date=2023-10-09 |website=doc.rust-lang.org}}</ref><ref>{{cite web |date=2011-10-29 |title=stdlib: Add result module · rust-lang/rust@c1092fb |url=https://github.com/rust-lang/rust/commit/c1092fb6d88efe51e42df3aae2a321cc669e12a0 |url-status=live |archive-url=https://web.archive.org/web/20231009033047/https://github.com/rust-lang/rust/commit/c1092fb6d88efe51e42df3aae2a321cc669e12a0 |archive-date=2023-10-09 |access-date=2023-10-09 |website=github.com}}</ref>。
* [[Scala]]では、標準ライブラリで{{code|Either|scala}}型が定義されているが<ref>{{cite web |title=Scala Standard Library 2.13.12 - scala.util.Either |url=https://www.scala-lang.org/api/current/scala/util/Either.html |url-status=live |archive-url=https://web.archive.org/web/20231009032237/https://www.scala-lang.org/api/current/scala/util/Either.html |archive-date=2023-10-09 |accessdate=2023-10-09 |website=www.scala-lang.org}}</ref>、従来の[[例外処理]]によるエラー処理も提供している。
* [[Swift (プログラミング言語)|Swift]]では、標準ライブラリで{{code|2=swift|1=@frozen enum Result<Success, Failure> where Failure : Error}}として定義されている<ref>{{cite web |title=Result {{!}} Apple Developer Documentation |url=https://developer.apple.com/documentation/swift/result |url-status=live |archive-url=https://web.archive.org/web/20231009032505/https://developer.apple.com/documentation/swift/result |archive-date=2023-10-09 |access-date=2023-10-09 |website=developer.apple.com}}</ref>。
* [[C++]]では、標準ライブラリで{{code|2=cpp|1=std::expected<T, E>}}として定義されている<ref>{{cite web |date=2023-08-25 |title=std::expected - cppreference.com |url=https://en.cppreference.com/w/cpp/utility/expected |url-status=live |archive-url=https://web.archive.org/web/20231009033232/https://en.cppreference.com/w/cpp/utility/expected |archive-date=2023-10-09 |access-date=2023-10-09 |website=en.cppreference.com}}</ref>。
=== Rust ===
{{code|2=rust|1=Result}}型には<code>is_ok()</code>メソッドと<code>is_err()</code>メソッドがある。
<syntaxhighlight lang="rust">
const CAT_FOUND: bool = true;
fn main() {
let result = pet_cat();
if result.is_ok() {
println!("Great, we could pet the cat!");
} else {
println!("Oh no, we couldn't pet the cat!");
}
}
fn pet_cat() -> Result<(), String> {
if CAT_FOUND {
Ok(())
} else {
Err(String::from("the cat is nowhere to be found"))
}
}
</syntaxhighlight>
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 関連項目 ==
* [[Option型]]
* [[例外処理]]
* {{仮リンク|タグ付き共用体|en|Tagged union}}
* {{仮リンク|Return type|en|戻り型}}
[[Category:関数型プログラミング]]
|
2023-10-09T04:41:32Z
|
2023-10-09T04:41:32Z
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[
"Template:Code",
"Template:Reflist",
"Template:Cite web",
"Template:仮リンク",
"Template:出典の明記",
"Template:翻訳直後",
"Template:Lang-en"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/Result%E5%9E%8B
|
4,839,330 |
美園町 (安城市)
|
美園町(みそのちょう)は、愛知県安城市の地名。
安城市北西部に位置する。西は刈谷市、南は二本木町・緑町、北は知立市、北東は二本木新町に接する。
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる。
国勢調査による人口および世帯数の推移。
|
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美園町(みそのちょう)は、愛知県安城市の地名。
|
{{Pathnav|日本|愛知県|安城市|'''美園町'''|hide=1|frame=1}}
{{Infobox settlement
| name = 美園町
| settlement_type = [[町丁]]
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| imagesize = 270px
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| pushpin_map = Japan Aichi
| latd = 34 | latm = 58 | lats = 35.58 | latNS = N
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| subdivision_type = [[国の一覧|国]]
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| established_title1 = 町名制定
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| area_footnotes = <ref group=WEB name="area">{{Cite web|url=https://toukei-labo.com/2015/?tdfk=23&city=23212|title=愛知県安城市の町丁・字一覧|publisher=人口統計ラボ|language=日本語|accessdate=2023-08-26}}</ref>
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| population_as_of= 2020年(令和2年)10月1日現在
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| postal_code_type = [[郵便番号]]
| postal_code = 446-0076<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?pref=23&city=1232120&cmp=1&mode=list&addr=|title=愛知県安城市の郵便番号一覧|publisher=日本郵便|accessdate=2023-08-26}}</ref>
| area_code = 0566<ref group=WEB name=areacode>{{Cite web|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000141817.pdf|format=PDF||title=市外局番の一覧|publisher=総務省|date=2022-03-01|accessdate=2022-03-22}}</ref>
| registration_plate = [[愛知運輸支局|三河]]
| footnotes =
}}
'''美園町'''(みそのちょう)は、[[愛知県]][[安城市]]の地名。
== 地理 ==
安城市北西部に位置する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}。西は[[刈谷市]]、南は[[二本木町 (安城市)|二本木町]]・[[緑町 (安城市)|緑町]]、北は[[知立市]]、北東は[[二本木新町]]に接する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}。
=== 学区 ===
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.city.anjo.aichi.jp/manabu/gakko/kyoikushisetsu/gakku.html|title=小中学校区一覧(町別50音順)|author=安城市役所教育振興部学校教育課学事係|publisher=安城市|date=2022-04-07|accessdate=2023-10-09}}</ref>。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.pref.aichi.jp/soshiki/kotogakko/0000080445.html|title=平成29年度以降の愛知県公立高等学校(全日制課程)入学者選抜における通学区域並びに群及びグループ分け案について|publisher=愛知県教育委員会|date=2015-02-16|accessdate=2019-01-14}}</ref>。
{| class="wikitable"
!番・番地等!!小学校!!中学校!!高等学校
|-
||全域||[[安城市立二本木小学校]]||[[安城市立篠目中学校]]||[[愛知県の高校入試#三河学区|三河学区]]
|}
=== 河川 ===
* 吹戸川{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
== 歴史 ==
=== 町名の由来 ===
=== 人口の変遷 ===
[[国勢調査]]による人口および世帯数の推移。
{| class="wikitable"
|-
|1995年(平成7年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000023630251&fileKind=1|format=CSV|title=平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-03-28|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|1543世帯<br>4625人||<div style="width:154.3px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:462.5px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2000年(平成12年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025137780&fileKind=1|format=CSV|title=平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-05-30|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|1885世帯<br>5255人||<div style="width:188.5px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:525.5px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2005年(平成17年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025514226&fileKind=1|format=CSV|title=平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-06-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|1863世帯<br>4885人||<div style="width:186.3px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:488.5px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2010年(平成22年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000012671534&fileKind=1|format=CSV|title=平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2012-01-20|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|1915世帯<br>4798人||<div style="width:191.5px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:479.8px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2015年(平成27年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000031522121&fileKind=1|format=CSV|title=平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2017-01-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|2009世帯<br>4952人||<div style="width:200.9px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:495.2px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2020年(令和2年)<ref group=WEB name=R2国勢調査>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000032163424&fileKind=1|format=CSV|title=令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口,外国人人口及び世帯数-町丁・字等|author=総務省統計局|date=2022-02-10|accessdate=2023-08-02|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|2040世帯<br>4842人||<div style="width:204px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:484.2px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|}
=== 沿革 ===
{{節スタブ}}
== 交通 ==
* 東海道新幹線{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* JR東海道本線{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* 市道美園8号線{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* 市道大西線{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
== 施設 ==
* 依佐美団地{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* みその保育園{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* 二本木幼稚園{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* よさみ保育園{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== WEB ===
{{Reflist|group="WEB"|refs=}}
=== 書籍 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1989|date=1989-03-08|title=[[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県|publisher=[[角川書店]]|isbn=4-04-001230-5|language=ja|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[安城市の町名]]
{{Geographic Location
| Northwest<!--北西--> =
| North<!--北--> = [[知立市]]
| Northeast<!--北東--> = [[二本木新町]]
| West<!--西--> = [[刈谷市]]
| Centre<!--中央--> = 美園町
| East<!--東--> =
| Southwest<!--南西--> =
| South<!--南--> = [[二本木町 (安城市)|二本木町]]・[[緑町 (安城市)|緑町]]
| Southeast<!--南東--> =
}}
{{安城市の町・字}}
{{Japan-block-stub}}
{{Pref-stub|pref=愛知県}}
{{デフォルトソート:みそのちよう}}
[[Category:安城市の町名]]
|
2023-10-09T04:44:35Z
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"Template:節スタブ",
"Template:Reflist",
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"Template:Cite book"
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E5%9C%92%E7%94%BA_(%E5%AE%89%E5%9F%8E%E5%B8%82)
|
4,839,337 |
頼柏佑
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頼 柏佑(らい はくゆう、ライ・ポーユー、Lai Poyu、2006年2月1日 - )は、台湾の男子バドミントン選手。
2023年の世界ジュニア選手権では、決勝で馬尚 / 朱一珺に敗れ準優勝となった。
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頼 柏佑は、台湾の男子バドミントン選手。
|
{{バドミントン選手
|名前 = 頼 柏佑
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|説明 =
|生年月日 = {{生年月日と年齢|2006|2|1}}
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|出身地 = [[南投県]]
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}}
'''頼 柏佑'''(らい はくゆう、ライ・ポーユー、Lai Poyu、[[2006年]][[2月1日]] - )は、[[台湾]]の男子[[バドミントン]]選手<ref>[https://bwf.tournamentsoftware.com/player-profile/366EA680-0015-4C3E-8CC5-4F9BC4151E25/ LAI Po Yu] - BWF</ref>。
==経歴==
[[2023年]]の[[世界ジュニアバドミントン選手権大会|世界ジュニア選手権]]では、決勝で[[馬尚]] / [[朱一珺]]に敗れ準優勝となった。
==脚注==
{{Reflist}}
{{Badminton-stub}}
{{デフォルトソート:らい はくゆう}}
[[Category:台湾のバドミントン選手]]
[[Category:2006年生]]
[[Category:存命人物]]
[[Category:南投県出身の人物]]
|
2023-10-09T04:56:00Z
|
2023-10-28T15:13:45Z
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|
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大亀孝裕
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大亀 孝裕(おおがめ たかひろ、1931年6月13日 - 2021年3月14日)は、日本の実業家。
ホームセンターを展開するダイキ(現:DCM)の創業者である。
1931年に愛媛県丹原町(現:西条市丹原町)において生誕。
愛媛県立西条南高等学校(愛媛県立西条農業高等学校)卒業後、1952年に愛媛県庁に入庁。1958年に愛媛県庁を退職し、大亀商事を創業。1962年には株式会社大亀商事を設立し、水まわり商品群の卸販売業タイルと衛生陶器の施工・改修工事を手掛けた。
大亀は住環境の中でもトイレの環境改善に強いこだわりを持っており、コンクリート便槽、無臭便槽などの販売を開始。その後浄化槽の開発・製造に乗り出し、1963年には業界初のFRP製浄化槽の開発に成功し、翌1964年に旧ダイキの前身である「ダイキ株式会社(元ダイキ)」を設立。
1978年にはホームセンター事業にも進出し、株式会社ディックを設立した。1989年に住宅機器の卸売会社である「ダイキ商事株式会社」、水処理プラントメーカーである「ダイキ株式会社(旧ダイキ)」、そして小売業者である「株式会社ディック」の3社合併した「ダイキ株式会社」の代表取締役社長に就任。
1999年にはダイキの代表取締役会長に就任。 2006年9月にはダイキ・カーマ・ホーマックの経営統合に伴い設立された持株会社のDCM Japanホールディングスの取締役会長に就任。2007年には同社代表取締役会長に就任。
2016年6月には愛媛県で生産・収穫される農水産物の加工や流通・海外での販路開拓を支援する新会社「ディック」を全額個人出資で設立。
2019年5月にDCMダイキの名誉会長に就任。2021年3月にはDCMの名誉会長に就任。
2021年3月14日に死去(享年89歳)。
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大亀 孝裕は、日本の実業家。 ホームセンターを展開するダイキの創業者である。
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'''大亀 孝裕'''(おおがめ たかひろ、[[1931年]][[6月13日]] - [[2021年]][[3月14日]])は、[[日本]]の実業家。
[[ホームセンター]]を展開する[[ダイキ]](現:[[DCM (企業)|DCM]])の創業者である。
==経歴==
[[1931年]]に[[愛媛県]][[丹原町]](現:[[西条市]]丹原町)において生誕。
愛媛県立西条南高等学校([[愛媛県立西条農業高等学校]])卒業後、[[1952年]]に愛媛県庁に入庁。[[1958年]]に愛媛県庁を退職し、大亀商事を創業。[[1962年]]には株式会社大亀商事を設立し、水まわり商品群の卸販売業タイルと衛生陶器の施工・改修工事を手掛けた<ref name="dcm">[https://www.daiki-axis.com/actionpost/2060/ すべては衛生陶器からはじまった。住環境への挑戦への軌跡] - 株式会社ダイキアクシス、2023年10月9日閲覧。</ref>。
大亀は住環境の中でもトイレの環境改善に強いこだわりを持っており、コンクリート便槽、無臭便槽などの販売を開始。その後[[浄化槽]]の開発・製造に乗り出し、[[1963年]]には業界初のFRP製浄化槽の開発に成功し、翌[[1964年]]に旧ダイキの前身である「ダイキ株式会社(元ダイキ)」を設立<ref name="dcm"></ref>。
[[1978年]]には[[ホームセンター]]事業にも進出し、株式会社ディックを設立した。[[1989年]]に住宅機器の卸売会社である「ダイキ商事株式会社」、水処理プラントメーカーである「ダイキ株式会社(旧ダイキ)」、そして小売業者である「株式会社ディック」の3社合併した「ダイキ株式会社」の代表取締役社長に就任<ref name="dcm"></ref>。
[[1999年]]にはダイキの代表取締役会長に就任。 [[2006年]]9月にはダイキ・[[カーマ]]・[[ホーマック]]の経営統合に伴い設立された[[持株会社]]の[[DCM Japanホールディングス]]の取締役会長に就任。[[2007年]]には同社代表取締役会長に就任。
[[2016年]]6月には愛媛県で生産・収穫される農水産物の加工や流通・海外での販路開拓を支援する新会社「ディック」を全額個人出資で設立<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXLZO04762430S6A710C1LA0000/ 農水産業振興へ新会社 DCMダイキ会長、愛媛で設立] - 日本経済新聞(2016年7月13日)、2023年10月9日閲覧。</ref>。
[[2019年]]5月にDCMダイキの名誉会長に就任。[[2021年]]3月には[[DCM]]の名誉会長に就任。
[[2021年]][[3月14日]]に死去(享年89歳)<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOHC164980W1A310C2000000/ 大亀孝裕氏が死去 ダイキ(現:DCM)創業者] - 日本経済新聞(2021年3月16日)、2023年10月9日閲覧。</ref>。
===略歴===
*[[1931年]][[6月13日]] - 愛媛県丹原町にて出生。
*[[1950年]] - 愛媛県立西条南高等学校卒業。
*[[1952年]] - 愛媛県庁入庁。
*[[1958年]] - 愛媛県庁を退職し、大亀商事を創業。
*[[1964年]] - ダイキ株式会社を設立し、代表取締役に就任。
*[[1989年]] - ダイキ商事(株)・(株)ディックを合併して設立した、ダイキ株式会社代表取締役社長に就任。
*[[1999年]] - ダイキ代表取締役会長に就任。
*[[2000年]] - [[財団法人]]大亀スポーツ振興財団を設立し、理事長に就任。
*[[2004年]] - ダイキ取締役会長に就任。
*[[2006年]] - DCM Japanホールディングス取締役会長に就任。
*[[2007年]] - DCM Japanホールディングス代表取締役会長に就任。
*[[2019年]] - DCMダイキ名誉会長に就任。
*[[2021年]] - DCM名誉会長に就任。
*[[2021年]][[3月14日]] - 死去(享年89歳)。
===社外===
*[[1971年]] - 愛媛県ソフトボール教会会長に就任。
*[[1996年]] - 松山商工会議所副会頭に就任。
*[[1999年]] - 日本体育教会理事に就任、愛媛県体育協会会長に就任、日本ゴルフ協会理事、四国ゴルフ連盟理事長に就任。
*[[2001年]] - 日本体育協会常務理事・総合企画委員長に就任。
*[[2003年]] - 日本体育協会参与・評議員に就任。
*[[2004年]] - 松山商工会議所会頭、愛媛県商工会議所連合会会頭に就任。
*[[2009年]] - 都道府県体育協会連合会副会長に就任。
==人物==
*スポーツ振興に力を入れ、愛媛県体育協会会長として初の愛媛県単独開催の[[国民体育大会]]([[第72回国民体育大会]])誘致に道筋をつけ、私財を投じて大亀スポーツ振興財団を設立するなど選手や指導者の育成に力を注いだ<ref>『まいたうん』2002年4月16日号「ダイキグループ 大亀会長、お別れの会」</ref>。
*[[2017年]]に出身地の愛媛県西条市の[[名誉市民]]に選出された<ref>[https://www.city.saijo.ehime.jp/soshiki/somu/meiyoshimin-2.html 西条市出身の大亀孝裕氏が名誉市民に選定されました] - 西条市、2023年10月9日閲覧。</ref>。[[2007年]]には[[旭日小綬章]]を授章している。
==著書==
*『素人じゃけんできること : ダイキ創業者・大亀孝裕のフィロソフィー』 PHP研究所 ISBN 978-4569812564
==参考文献==
*西条市『広報さいじょう』2021年5月号、5頁。
*[https://www.php.co.jp/fun/people/person.php?name=%E5%A4%A7%E4%BA%80%E5%AD%9D%E8%A3%95 大亀孝裕] - PHP研究所、2023年10月9日閲覧。
==脚注==
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[[Category:20世紀日本の実業家]]
[[Category:21世紀日本の実業家]]
[[Category:日本の企業創立者]]
[[Category:DCMグループ|人]]
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[[Category:旭日小綬章受章者]]
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ホリデイ (センチメンタル・シティ・ロマンスのアルバム)
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『ホリデイ』は、センチメンタル・シティ・ロマンスの通算2枚目のアルバム。1976年8月21日発売。
前作から1年ぶりのリリースとなった2ndオリジナル・アルバム。
本作より、ドラムスに野口明彦(元シュガー・ベイブ)が加入し、ドラムスに加え、2曲でボーカルを担当している。
レコーディング前に、完璧にアレンジを施してから録音に臨んだ前作と異なり、三重県にあるリゾート宿泊施設・合歓の郷(ねむのさと)に録音機材を持ち込み、合宿のようなかたちでレコーディングが行われた。
細井豊と加藤文敏が作詞や作曲を行った楽曲が初めて収録された。2曲で作詞を担当している「ロマンboys」は、中野督夫とマネージャーの竹内正美が合作した際のペンネームである。
前作よりも間奏パートやギターソロが増え、ロック色を強めたアルバムとなったが、当時はヒットせず、バンドはCBSソニーを離れ、レコード会社を移籍することとなった。
オリジナル・アナログ盤では5曲目からがB面となっていた。
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『ホリデイ』は、センチメンタル・シティ・ロマンスの通算2枚目のアルバム。1976年8月21日発売。
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{{Infobox Album
| Name = ホリデイ
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| Artist = [[センチメンタル・シティ・ロマンス]]
| Released = [[1976年]][[8月21日]]
| Recorded = [[1976年]][[4月]]~[[5月]]<br />[[合歓の郷]]<br />CBSソニー第2スタジオ
| Genre = [[J-POP]]
| Length = 42[[分]]13[[秒]]
| Label = [[ソニー・ミュージックレコーズ|CBSソニー]]
| Producer = [[センチメンタル・シティ・ロマンス]]<br />磯田秀人
| Chronology = [[センチメンタル・シティ・ロマンス]] オリジナル・
| Last album = [[センチメンタル・シティ・ロマンス (アルバム)|センチメンタル・シティ・ロマンス]]<br />([[1975年]])
| This album = '''ホリデイ'''<br />([[1976年]])
| Next album = シティ・マジック<br />([[1977年]])
| Misc =
}}
『'''ホリデイ'''』は、[[センチメンタル・シティ・ロマンス]]の通算2枚目の[[アルバム]]。[[1976年]][[8月21日]]発売。
== 解説 ==
前作から1年ぶりのリリースとなった2nd[[スタジオ・アルバム|オリジナル・アルバム]]。
本作より、[[ドラムセット|ドラムス]]に[[野口明彦]](元[[シュガー・ベイブ]])が加入し、ドラムスに加え、2曲で[[ボーカル]]を担当している。
レコーディング前に、完璧にアレンジを施してから録音に臨んだ前作と異なり、[[三重県]]にあるリゾート宿泊施設・[[合歓の郷|合歓の郷(ねむのさと)]]に録音機材を持ち込み、合宿のようなかたちでレコーディングが行われた<ref>[https://guitarmagazine.jp/interview/2021-1110-sentimental-city-romance-trilogy-story-5/ IInterview|告井延隆【Part 2】センチメンタル・シティ・ロマンス2nd『ホリデイ』 | ギター・マガジンWEB|Guitar magazine]</ref>。
[[細井豊]]と加藤文敏が作詞や作曲を行った楽曲が初めて収録された。2曲で作詞を担当している「ロマンboys」は、[[中野督夫]]とマネージャーの竹内正美が合作した際のペンネームである。
前作よりも間奏パートやギターソロが増え、[[ロック (音楽)|ロック]]色を強めたアルバムとなったが、当時はヒットせず、バンドは[[ソニー・ミュージックレコーズ|CBSソニー]]を離れ、レコード会社を移籍することとなった。
== 収録曲 ==
オリジナル・アナログ盤では5曲目からがB面となっていた。
* 編曲:センチメンタル・シティ・ロマンス
#'''ムーンシャイン&サンシャイン'''
#*作詞・作曲:中野督夫
#'''内海ラヴ'''
#*作詞・作曲:細井豊
#'''ロマンス航路'''
#*作詞:ロマンboys/作曲:[[中野督夫|百点"T"満太郎]]
#'''マンボ・ジャンボ'''
#*作詞:加藤文敏/作曲:加藤文敏、細井豊、[[告井延隆]]
#'''U.S.タイムマシーン'''
#*作詞:TAKE&TOKU/作曲:[[中野督夫|TOKU]]
#'''遊びっこ'''
#*作詞・作曲:告井延隆
#'''魅惑のサンバ流るる今宵'''
#*作詞:ロマンboys/作曲:[[中野督夫|百点満太郎]]
#'''スウィート・アイスクリーム・サンデー'''
#*作詞・作曲:告井延隆
#'''明方小話'''
#*作詞・作曲:中野督夫
== 参加ミュージシャン ==
*中野督夫 - リード・ボーカル(#1,5,7,9)、[[エレクトリック・ギター]]、[[アコースティック・ギター]]、[[コーラス (ポピュラー音楽)|コーラス]]、センシティブ・ドライバー
*告井延隆 - リード・ボーカル(#6,8)、エレクトリック・ギター、アコースティック・ギター、[[ペダル・スティール・ギター]]、[[シンセサイザー]]、[[コンガ]]、[[カバサ]]、[[ティンバレス]]、コーラス、バッキング・ボーカル(#3)、スクランブル・ドライバー
*細井豊 - [[エレクトリックピアノ|エレクトリック・ピアノ]]、[[ピアノ|アコースティック・ピアノ]]、[[モーグ・シンセサイザー|ムーグ・シンセサイザー]]、ソリーナ、コーラス、セーフティー・ドライバー
*加藤文敏 - [[ベース (弦楽器)|エレクトリック・ベース]]、リード・ボーカル(#4)、コーラス、ペーパー・ドライバー
*野口明彦 - リード・ボーカル(#2,3)、[[ドラムセット|ドラムス]]、[[ギロ]]、コーラス、ドライビング・ヘルパー
== 脚注 ==
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[[Category:1976年のアルバム]]
[[Category:ソニー・ミュージックレコーズのアルバム]]
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蔡富丞
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蔡 富丞(さい ふじょう、ツァイ・フーチェン、Tsai Fucheng、2005年6月11日 - )は、台湾の男子バドミントン選手。
2023年の世界ジュニア選手権では、決勝で馬尚 / 朱一珺に敗れ準優勝となった。
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'''蔡 富丞'''(さい ふじょう、ツァイ・フーチェン、Tsai Fucheng、[[2005年]][[11月6日]] - )は、[[台湾]]の男子[[バドミントン]]選手<ref>[https://bwf.tournamentsoftware.com/player-profile/3F0C3BF9-A6B2-4834-B0FB-95972757E47D/ TSAI Fu Cheng] - BWF</ref>。
==経歴==
[[2023年]]の[[世界ジュニアバドミントン選手権大会|世界ジュニア選手権]]では、決勝で[[馬尚]] / [[朱一珺]]に敗れ準優勝となった。
==脚注==
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伊能忠敬記念館
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伊能忠敬記念館(いのうただたかきねんかん)は、千葉県香取市にある記念館。
伊能家の子孫が代々受け継いできた伊能忠敬の地図や測量器具は1957年(昭和32年)2月19日に重要文化財に指定され、 1961年(昭和36年)以降数度にわたってに佐原市に寄贈された。佐原市はこれを受けて伊能忠敬旧宅に隣接して収蔵庫を建設して伊能忠敬記念館と名付け、1961年(昭和36年)に開館した。 その後1998年(平成10年)5月11日に伊能忠敬旧宅が面する小野川の対岸側に鉄筋コンクリート平屋建ての約1,000平方メートルの建物を新築開館した。佐原の町並みは1996年(平成8年)12月に重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けており、建物の外観は町並みに調和した町家・土蔵の造りを模している。
展示室入口正面の『伊能忠敬肖像画』(複製)は測量に同行して風景描写を担当した青木勝次郎が忠敬の死後に描いたものとされており、上部の賛は友人で同郷の儒学者久保木竹窓によるもの。元は商人であった忠敬が、大小の刀を差し士分として描かれている。 『伊能図とランドサットから見た日本』は、伊能図とランドサットによる日本全図を交互に浮かび上がらせ、伊能図の正確さを実感させるものとなっている。
発展する江戸時代の佐原の様子と伊能家の紹介。
50歳で隠居してから天文暦学の勉強を開始。江戸に出て幕府天文方高橋至時に入門。高橋の勧めで蝦夷地や東日本の測量を行い、その成果が認められて幕府の役人に取り立てられ、17年に及ぶ全国測量を成し遂げた。
伊能図の正確さや美しさを鑑賞できる。
伊能図以前の日本の姿や佐原がどのように描かれていたかがわかる。
50歳を越えてから夢を実現した伊能忠敬の生き様をビデオで紹介している。
伊能忠敬記念館所蔵の『伊能忠敬関係資料』2,345点は2010年(平成22年)6月29日に国宝に指定された。
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伊能忠敬記念館(いのうただたかきねんかん)は、千葉県香取市にある記念館。
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'''伊能忠敬記念館'''(いのうただたかきねんかん)は、[[千葉県]][[香取市]]にある[[記念館]]。
== 概要 ==
[[File:Inoh Tadataka’s Former Residence 01.jpg|thumb|250px|[[伊能忠敬旧宅]]入口奥にある1961年開館当初の建物]]
伊能家の子孫が代々受け継いできた[[伊能忠敬]]の[[地図]]や測量器具は[[1957年]]([[昭和]]32年)2月19日に重要文化財に指定され、[[1961年]]([[昭和]]36年)以降数度にわたって[[佐原市]]に寄贈された。佐原市はこれを受けて[[伊能忠敬旧宅]]に隣接して収蔵庫を建設して伊能忠敬記念館と名付け、[[1961年]]([[昭和]]36年)に開館した<ref name="a1">{{Cite Q|Q122979927|page=1}}</ref><ref name="b1">{{Cite Q|Q122980160|page=1}}</ref>。
その後[[1998年]]([[平成]]10年)5月11日、[[伊能忠敬旧宅]]が面する[[小野川 (千葉県)|小野川]]の対岸側に鉄筋コンクリート平屋建ての約1,000平方メートルの建物を新築開館した<ref name="c3">{{Cite Q|Q122979900|page=3}}</ref>。[[佐原の町並み]]は[[1996年]]([[平成]]8年)12月に重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けており、記念館の外観は町並みに調和した町家・土蔵の造りを模している<ref name="c3" />。
== 館内 ==
=== 導入 ===
[[File:Ino Tadataka.jpg|thumb|250px|伊能忠敬肖像画]]
展示室入口正面の『伊能忠敬肖像画』(複製)は測量に同行して風景描写を担当した青木勝次郎が忠敬の没後に描いたものとされており、上部の賛は友人で同郷の儒学者・久保木竹窓によるもの<ref name="c3" />。元は商人であった忠敬が、大小の刀を差し士分として描かれている<ref name="d41">{{Cite Q|Q122980744|page=41}}</ref>。
『[[大日本沿海輿地全図|伊能図]]とランドサットから見た日本』は、[[大日本沿海輿地全図|伊能図]]とランドサットによる日本全図を交互に浮かび上がらせ、[[大日本沿海輿地全図|伊能図]]の正確さを実感させるものとなっている<ref name="c3" />。
=== 佐原時代 ===
発展する江戸時代の佐原の様子と伊能家の紹介。
: 資料紹介『[[高瀬舟]]』:[[江戸]]との物資流通に活躍した[[高瀬舟]]の紹介<ref name="c3" />。
=== 全国測量へ ===
50歳で隠居してから天文暦学の勉強を開始。[[江戸]]に出て幕府[[天文方]][[高橋至時]]に入門。高橋の勧めで[[蝦夷地]]や[[東日本]]の測量を行い、その成果が認められて幕府の役人に取り立てられ、17年に及ぶ全国測量を成し遂げた<ref name="c3" />。
: 資料紹介『忠敬筆写書物』:[[高橋至時]]の下で勉強していた時に筆写した書物<ref name="c3" />。
=== 伊能図の世界 ===
伊能図の正確さや美しさを鑑賞できる<ref name="c3" />。
: 資料紹介『[[大日本沿海輿地全図|伊能図]]』:大図、中図、小図、特別図など<ref name="c3" />。
=== 地図の世界 ===
伊能図以前の日本の姿や佐原がどのように描かれていたかがわかる<ref name="c3" />。
=== その他 ===
50歳を越えてから夢を実現した[[伊能忠敬]]の生き様をビデオで紹介している<ref name="c3" />。
== 文化財 ==
=== 国宝 ===
伊能忠敬記念館所蔵の『伊能忠敬関係資料』2,345点は[[2010年]]([[平成]]22年)6月29日に[[国宝]]に指定された<ref name="b1" />。
* 地図・絵図類:787点
* 文書・記録類:569点
* 書状類:398点
* 典籍類:528点
* 器具類:63点
== 利用案内 ==
* 開館時間:9:00 - 16:30
* 休館日:月曜日(但し、祝日の時は臨時開館)、年末年始
* 入館料:大人500円、小・中学生250円
*: ※団体割引(15名以上):大人450円、小・中学生200円
== アクセス ==
* [[東日本旅客鉄道|JR東日本]][[成田線]][[佐原駅]]下車徒歩10分
* [[東関東自動車道]][[佐原香取インターチェンジ]]から自動車で15分
==出典==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite Q|Q122979927|template=book}}
* {{Cite Q|Q122980160|template=book}}
* {{Cite Q|Q122979900|template=journal}}
* {{Cite Q|Q122980744|template=journal}}
== 外部リンク ==
* [https://www.city.katori.lg.jp/sightseeing/museum/ 伊能忠敬記念館] - 香取市公式サイト
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[[Category:日本の人物記念館]]
[[Category:千葉県の博物館]]
[[Category:伊能忠敬]]
[[Category:1961年開設の博物館]]
[[Category:香取市の建築物]]
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4,839,355 |
大宮家 (閑院流)
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大宮家(おおみやけ)は、藤原北家閑院流西園寺庶流にあたる公家・華族。公家としての家格は羽林家、華族としての家格は子爵家。
西園寺公衡の子季衡を祖とする。季衡は光厳天皇外叔父(生母は同母妹の西園寺寧子)として従一位・右大臣にまで昇り、異母弟にあたる実衡の官位・官職を越した。しかし、その後氏衡、公名が相次いで出家または早世し、公名の子、実尚は貞治5年(1366年)に23歳で権大納言に昇る(当時従二位。後正二位)も、大臣への昇進は実現しなかった。嗣子を残さないまま薨去したので一時断絶したが、実衡の直系子孫である季光が再興した。江戸時代の家禄は130石。
明治維新後の明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると大宮家も公家として華族に列した。明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同8日に大納言直任の例がない旧堂上家として以季が子爵を授けられた。
以季は貴族院の子爵議員に4回当選して務めた。
昭和前期に大宮子爵家の住居は京都市左京区下鴨蓼倉町にあった。
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大宮家(おおみやけ)は、藤原北家閑院流西園寺庶流にあたる公家・華族。公家としての家格は羽林家、華族としての家格は子爵家。
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{{日本の氏族
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'''大宮家'''(おおみやけ)は、[[藤原北家]][[閑院流]][[西園寺家|西園寺]][[庶家|庶流]]にあたる[[公家]]・[[華族]]。公家としての家格は[[羽林家]]、華族としての家格は[[子爵]]家{{sfn|小田部雄次|2006|p=329}}。
== 歴史 ==
[[西園寺公衡]]の子[[大宮季衡|季衡]]を祖とする。季衡は[[光厳天皇]]外叔父(生母は同母妹の[[西園寺寧子]])として[[従一位]]・[[右大臣]]にまで昇り、異母弟にあたる[[西園寺実衡|実衡]]の官位・官職を越した。しかし、その後[[大宮氏衡|氏衡]]、[[大宮公名|公名]]が相次いで[[出家]]または早世し、公名の子、[[大宮実尚|実尚]]は[[貞治]]5年([[1366年]])に23歳で[[大納言|権大納言]]に昇る(当時[[従二位]]。後[[正二位]])も、大臣への昇進は実現しなかった。嗣子を残さないまま[[崩御#薨去|薨去]]したので一時断絶したが、実衡の直系子孫である季光が再興した。江戸時代の家禄は130石{{#tag:ref|[[国立歴史民俗博物館]]の『[[旧高旧領取調帳]]データベース』によると、[[幕末|幕末期]]の大宮家領は[[山城国]][[相楽郡]]千童子村のうち130石であった。|group="注釈"}}。
[[明治維新]]後の明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と[[大名]]家が統合されて[[華族]]制度が誕生すると大宮家も公家として華族に列した{{sfn|浅見雅男|1994|p=24}}{{sfn|小田部雄次|2006|p=13-14}}。明治17年(1884年)7月7日の[[華族令]]の施行で華族が五爵制になると、同8日に[[大納言]]直任の例がない旧[[堂上家]]{{#tag:ref|中納言からそのまま大納言になることを直任といい、中納言を一度辞してから大納言になるより格上の扱いと見なされていた。叙爵内規は歴代当主の中にこの大納言直任の例があるか否かで平堂上家を伯爵家か子爵家かに分けていた{{sfn|浅見雅男|1994|p=118}}。|group="注釈"}}として[[大宮以季|以季]]が[[子爵]]を授けられた{{sfn|小田部雄次|2006|p=330}}。
以季は貴族院の子爵議員に4回当選して務めた{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=376}}。
昭和前期に大宮子爵家の住居は[[京都市]][[左京区]][[下鴨蓼倉町]]にあった{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=376}}。
== 歴代当主 ==
* [[大宮季光]]
* [[大宮季勝]]
* [[大宮実勝]] - ([[姉小路公景]]の子)
* [[大宮公央]]
* [[大宮実堅]]
* [[大宮昌季]]
* [[大宮貞季]] - ([[西園寺致季]]の子)
* [[大宮盛季]]
* [[大宮良季]] - ([[日野資矩]]の子)
* [[大宮政季]]
* [[大宮公典]]
* [[大宮以季]] - ([[小倉輔季]]の子)
== 系譜 ==
; 実線は実子、点線(縦)は養子。<!-- 構成の都合で出生順より組み替え -->
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=== 系譜参考 ===
* [https://web.archive.org/web/20160304095242/http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02010b.htm#002 日本の名字七千傑] {{ja icon}}
* {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/okugesan_com/urinkeo.html#ohmiya |title=公卿類別譜 |date=20080124162449}} {{ja icon}}
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|date=1994年(平成6年)|title=華族誕生 名誉と体面の明治|author=浅見雅男|authorlink=浅見雅男|publisher=[[リブロポート]]|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|date=2006年(平成18年)|title=華族 近代日本貴族の虚像と実像|author=小田部雄次|authorlink=小田部雄次|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公新書]]1836|isbn= 978-4121018366|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|date=1990年(平成2年)|title=華族大鑑|series=日本人物誌叢書7|author=華族大鑑刊行会|publisher=[[日本図書センター]]|isbn=978-4820540342|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[閑院流]]
* [[西園寺家]]
{{堂上家一覧}}
{{Normdaten}}
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[[Category:大宮家 (閑院流)|!]]
[[Category:羽林家]]
[[Category:日本の子爵家]]
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子供のために
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『子供のために』(こどものために、ハンガリー語: Gyermekeknek、チェコ語: Pro děti、英語: For Children)は、ハンガリーの作曲家バルトーク・ベーラ (1881年 - 1945年)がブダペスト音楽院のピアノ科教授に就任した後の20歳台後半に作曲した、子供や初学者を対象としたピアノ曲集である。旋律にはハンガリーとスロバキアの民謡がほぼそのままの形で使われており、音楽教育を目的とした作品としても民謡の編曲作品としても最初の大規模な曲集である。
1908年から1910年にかけて作曲された初版は全4巻、85曲からなり、ブダペストのロジュニャイ・カーロイ社から出版された。第1巻と第2巻がハンガリー民謡、第3巻と第4巻がスロバキア民謡に基づいている。その約30年後、バルトークがアメリカ合衆国に移住していた最晩年の1943年に作曲者自身による改訂版がつくられ、バルトークの死後、1946年にニューヨークのブージー&ホークス社(本社はロンドン)から出版された。改訂版は、初版の第1巻と第2巻、第3巻と第4巻がそれぞれ統合されて全2巻となり、6曲が削除されて79曲となっているほか、一部の曲では和音や拍子が変更されている。
原曲の民謡(わらべ歌や器楽曲も含む)については、バルトーク自身がハンガリー各地の農村を訪れて採集(蝋管式蓄音機による録音および採譜)したもののほか、『ハンガリー子供の遊戯歌集』や『スロバキア歌集』など、先駆者が収集したものが約半数の曲で使われている。バルトークの編曲は民謡の歌詞の内容や雰囲気をよく表現しており、技法の面では後の『ハンガリー農民歌による8つの即興曲(英語版)』などに比べれば単純なものであるが、バルトークは曲が単調に陥らないよう様々な工夫を凝らしており、こうした工夫が以後の作品における作曲技法の出発点となっている。曲集の中には音楽的に高度な曲も含まれており、子供や初学者用の教材にとどまらずプロのピアニストのレパートリーにもなっている。バルトーク自身も生涯この曲に愛着をもっており、その抜粋を自身の演奏会で取り上げた。
バルトークの作品番号には複数の分類方法があるが、セーレーシ番号ではSz 42、ショムファイ・ラースロー(ハンガリー語版)による番号ではBB 53である。
『子供のために』には、1909年~1911年にハンガリーで出版された初版(全4巻、85曲)と、バルトークがアメリカに移住していた1943年に改訂され作曲者の死後に1946年に出版された改訂版(全2巻、79曲)があり、現在流通している楽譜のほとんどは改訂版である。改訂はいわば「マイナーチェンジ」であり、曲の内容そのものに大きな変更はないが、構成や曲の数および順序が変更されている(改訂の詳細については #改訂での主な変更点 参照。)
初版は、第1巻と第2巻がハンガリー民謡、第3巻と第4巻がスロバキア民謡に基づいており、改訂の際に第1巻と第2巻、第3巻と第4巻がそれぞれ統合されて全2巻となった。また、初版に含まれていた6曲が改訂版で削除されたことに伴い、曲の順序や番号が一部で変更となった。
本稿においては、巻数および各曲の番号の混同を避けるため、曲のタイトルも含めて改訂版の番号を用い、初版の巻数や曲番号を使用する必要がある場合は初版であることを併記する。また、初版の第1巻および第2巻(改訂版第1巻)を「ハンガリー編」、第3巻および第4巻(改訂版第2巻)を「スロバキア編」と表記する場合がある。
『子供のために』は、初版の副題に「ピアノ初心者のための小品集(オクターブ内の)」(ハンガリー語: "Apró darabok kezdő zongorázóknak (oktávfogás nélkül)")とあるように、ピアノを学習する子供や経験の浅い初学者が演奏することを前提とした教育的作品である。ただし、体系的なピアノの学習を目的とした教則本や練習曲ではなく、子供や初学者が技術的に無理なく、質の高い現代の音楽に親しむことができる教材という位置づけである。
バルトークは、作曲家としての活動の初期からこうした分野の作品を書くことに関心をもっていたと晩年に述べており、その動機として、子供や初学者向けの易しい楽曲に優れた作品がほとんどないことを懸念していたからだと説明している。また、同時にバルトークは、そのわずかな例外である優れた作品として、J.S.バッハの簡単な楽曲やシューマンの『ユーゲントアルバム』を挙げている。
自身が優れたピアニストであり音楽大学のピアノ科教授でもあったバルトークは、『子供のために』においては、子供や初学者のために指づかいを細かく配慮している。副題の「オクターブ内の」という言葉どおり、手が小さくて1オクターブ離れた鍵盤に指が届かなくても全ての曲が演奏できるように書かれており、1オクターブ離れた鍵盤を同時に押さえる音を使う場合は、譜例のように()で省略しても構わない音が示されている。
(ハンガリー編 第23番 第56小節-、左手)
指づかいを示す「指番号」が細かく丁寧に記入されている。次の譜例の3小節目は、1小節目と全く同じ音の動きと指づかいであるため、本来は指番号の必要はないが、子供向けの配慮としてここにも指番号を記している。なお、教育を目的としないバルトークのピアノ曲では指番号の記入は必要最小限にとどめられており、例えば『ピアノソナタ』第1楽章の場合、指番号が最初に出てくるのは楽譜が6ページ目に入ってからである。
(ハンガリー編 第17番「ラウンド・ダンス」 第1小節-)
指づかいについては、演奏のしやすさだけでなく音楽表現も考慮されており、次の譜例では、山型のアクセント(とフェルマータ)がつけられている高い嬰ハ音を、前後の音とつながりの良い小指ではなく、力の入れやすい中指(指番号「3」)で弾かせることで、指番号のとおりに演奏すれば無意識のうちにアクセントがつくように工夫されている。
(ハンガリー編 第25番「ラウンド・ダンス」 第3小節-)
テンポについても子供にとっての弾きやすさが考慮されており、改訂の際には一部の速いテンポの曲で初版よりも遅い指示に改められている。ただし、バルトークの自作自演の録音(後述)では、改訂版で「♩=140」の指定がある第1巻第6曲「左手の練習」を「♩=169」で演奏しているように、一部の曲では楽譜の指定と異なるテンポが採られている。
曲集の難易度は「初級向け」とされるが、実際には意外に難しいとされる。その要因としては、対位法的な書法や伴奏におけるリズムの変化といった技術的なことのほか、独特なリズムなど東欧の民俗音楽の特徴の表現や、外国の民謡における言葉のイントネーションの理解など文化的なことが挙げられる。また、曲集中には後年の作品を先取りしたような曲も含まれており 、そうした一部の曲は音楽的には子供向けの域を超えたものになっているが、かえって、この曲集が子供に限らず大人も含めた幅広い層に愛好されることになっている。
バルトークは『子供のために』以外にも、子供や楽器の初学者を対象とした教育的な作品を複数作曲している(下の表を参照)。バルトーク自身が、教育目的の曲には民謡が適していると語っているとおり、それらの作品では曲集の全部または一部に民謡が使われている。中でも、『子供のために』は全曲が民謡の編曲であり、教育目的の作品としても民謡の編曲作品としても初の大規模な作品である。なお、バルトークの最後の教育的な作品となったピアノ曲集『ミクロコスモス』の場合は、体系的にピアノのテクニックを学ぶことを目的としているためオリジナルのテーマが中心に使われており、民謡編曲はごくわずかにとどめられている。
民謡を教育的な音楽に使うというアイデアはバルトークに始まったものではなく、ヨーロッパ各地で革命が起こった1848年以降、ヨーロッパの各国では民謡を編曲したピアノ用の教材が目立つようになっていた。1860年代のハンガリーでは、バルタルシュ・イシュトヴァーン(ハンガリー語版)が、収集した民謡を編曲したピアノ曲集”Gyermek lant”(直訳すれば『子供の竪琴』)、”Gyermek dalhon”(直訳すれば『子供の歌』)という、『子供のために』を先取りしたような作品を出版している。
ランペルト・ヴェラ(ハンガリー語版)の研究によれば、バルトークが生涯に編曲した民謡は約310曲あるが、79曲(初版では85曲)の民謡が編曲された『子供のために』はその約4分の1を占めており、数の上で群を抜いている。『子供のために』の原曲となった民謡は、バルトークが自らの足でハンガリー各地の農村を回って採集(録音・採譜)したもののほか、先駆者が採集したものが使われている。
1904年、作曲家兼ピアニストとして活動していた若きバルトークは、ゲメル県(ハンガリー語版)のゲルリツェ(現在はスロバキアの Hrlica)に滞在していたときに、トランシルヴァニア出身の女性ドーサ・リディが口ずさんでいたハンガリー民謡を聴いてその価値に気づいた。バルトークは、すでに民謡研究を始めていたコダーイ・ゾルターンに研究の方法を学ぶと、1906年の夏以降、蝋管式蓄音機(フォノグラフ)を携えて各地の農村をめぐり、本格的な民謡採集を行った。
当時のハンガリー(ハンガリー王国)は、現在のスロバキアやルーマニア西部など広い範囲を領域とするオーストリア=ハンガリー帝国の一部であり、バルトークが採集した民謡には狭義のハンガリー民謡(マジャル民謡)のみならず、スロバキア民謡、ルーマニア民謡など様々な民謡が含まれている。
バルトークは、1906年にはドゥナーントゥール(ハンガリー語版)やペシュト県などで1000曲以上のハンガリー民謡を、現在はスロバキアに含まれるゲメル-キシュホント県(ハンガリー語版)で約300曲のスロバキア民謡を採集し、翌1907年にはトルナ県のフェルシェーイレグ (現在のイレグセムチェ(ハンガリー語版))や、現在はルーマニアに含まれるトランシルヴァニア地方において約700曲のハンガリー民謡を採集した。『子供のために』には、こうした時期に採集された民謡が使われており、特に、民謡の宝庫であったフェルシェーイレグ(Felsőireg)で採集された民謡は、ハンガリー編の9曲に使われている。
バルトークは、相当な数の民謡を採集していたが、『子供のために』を構成する曲の約半数を、すでに出版されていた民謡集などから選んで編曲した。
ハンガリー編では、キシュ・アーロン(ハンガリー語版)が1891年に出版した『ハンガリー子供の遊戯歌集』(ハンガリー語: Magyar gyermekjáték-könyv) から10曲が使用されているほか、同時代の作曲家でバルトークにとって民謡研究の先輩であるコダーイ・ゾルターンが収集した民謡が3曲、クン・ラースロー(ドイツ語版)収集のものが2曲、バルタルシュ・イシュトヴァーン、ヴィカール・ベーラ(ハンガリー語版)、セベスチェン・ジュラ(ハンガリー語版)収集のものがそれぞれ1曲ずつ使われている。
スロバキア編では39曲(改訂版)のうち20曲で『スロバキア歌集』(ハンガリー語: Slovenské spevy )に掲載された民謡が使われている。同書は、ヤン・カダヴィ(スロバキア語版)が編纂した1882年の 『スロバキア歌集I』と、カロル・ルッペルト(スロバキア語版)他が編纂した1889年の 『スロバキア歌集II』があり、 『スロバキア歌集I』からは12曲、 『スロバキア歌集II』からは8曲が使われている。
スロバキア編ではこのほか、カロル・アントン・メドヴェツキー(スロバキア語版)の『ジェトヴァ論集』から3曲、ミクラーシュ・シュナイダー=トラナヴィスキー(スロバキア語版)収集によるものが1曲使われている。
『子供のために』に使われた民謡は多岐にわたっており、わらべ歌から、滑稽な冗談歌、兵士の望郷の歌、恋愛の歌、さらには飲酒、殺人や死、下品で猥雑な内容など、子供向けでない内容の歌も含まれている。また、器楽曲が2曲含まれている。
バルトークは、『子供のために』を練習する子供たちがオリジナルの民謡も歌えるよう、初版の楽譜の巻末に民謡の歌詞を掲載した。出版にあたり下品な歌詞や性的な歌詞については「不適切」として割愛されたが、バルトークはそうした内容の歌の価値も認めていたため割愛を残念がったという。なお、ハンガリーやスロバキアで歌われていた「教育的に好ましくない」とされる民謡について、バルトークは著作の中で次のように記している。
十六、七歳の娘たちでさえもが、そうした信じがたいまでにあけすけな歌詞の歌を、最も自然に、およそ淑女ぶることなく私に歌ってくれたものでした。(略)しかし農民たちは、はっきりと「自然なことは決していやらしいことではない」という考えを支持しています。(略)そのような歌は、それを公にするのは困難ですが、学術的観点からは非常に価値のあるものですし、また重要なものです。 — 『バルトーク音楽論集』(スロバキアの民族音楽)pp.156-157
バルトークの民謡編曲は、民謡の旋律をほぼそのまま使い、そこに独自の簡潔な伴奏を加える手法が採られており、バルトークはこうした編曲方法を「宝石の台づくり」に例えていた。「宝石の台」である伴奏は、主に和音や分散和音、対旋律であるが、そこにはF.リストのピアノ曲のようなロマン派風の華麗な装飾は排されている。
後にバルトークは「旋律がプリミティヴなものであれば、それだけ風変りな和声や伴奏をつける事が出来る」と述べているが、そうした民謡編曲の究極の姿である『ハンガリー農民歌による8つの即興曲(英語版)』(1920年)では、伴奏がもはや旋律と無関係な独自の音響を作り出すまでになっている。
そうした後の作品に比べれば『子供のために』の編曲は単純明解であり、民謡に歌われている、娘を結婚で手放す親の悲しみや恋人の行方を探す少年の不安、酔っ払いの醜態など、歌詞の内容や雰囲気がうまく表現されており、歌詞がバラード風に進む民謡では、ストーリーに合わせて音楽を展開させる工夫がされている。
バルトークは作品が単調なものとならないよう様々な工夫を行っており、単純な構造の短い民謡であっても、旋律全体、あるいは旋律後半が繰り返されるときはほとんどの場合で伴奏に変化をつけている。また、三部形式やカノン、ラプソディ(狂詩曲)、変奏曲などの既存の様式に民謡を当てはめた例もある。このうち変奏の手法については、「変奏曲」というタイトルのついたスロバキア編 第5番「変奏曲」だけでなく、ハンガリー編 第39番、スロバキア編 第21番「冗談I」、第35番「バラード」などにも使われており、スロバキア編 第21番「冗談I」では長調の旋律が途中で短調に移調されている。この他、ハンガリー編 第29番「五音音階の旋律」では、民謡の旋律を別の旋律による前奏・間奏・後奏で挟み込む形式をとっている。
その一方で『子供のために』には、民謡の特徴に基づいた、バルトーク独自の近代的な技法も使われている。
バルトークは民謡の採集・研究を通じて、ハンガリー民謡に原始的な五音音階や古い教会旋法が使われていることを見出していたが、『子供のために』の作曲に着手する前年の1907年、バルトークはドビュッシーの音楽の中にも五音音階や旋法が使われていることを「発見」し、ハンガリー民謡が、長調・短調という古典的な調性から解放された新しい音楽をつくる糸口となることに気づいた。
ここにはまだ民俗音楽が豊かにある。それがドイツにおいて危険な程に老化してしまった音楽に新鮮な血を注ぎ込むだろう。 — 1909年にバルトークが妻にあてた手紙
このため、『子供のために』の各曲の伴奏は、必ずしも古典的な和声法に従っていない。次の譜例では、ミクソリディア旋法による旋律を、四度の積み重なった和音の転回形が伴奏している。
(ハンガリー編 第40番「豚飼いの踊り」 第16小節-)
また、次の譜例では、7の和音の転回形が連続して使われており、旋律の音は全て和音の第7音が当てられている。
(ハンガリー編 第13番「バラード」第14小節-)
こうした様々な編曲の工夫は、後年のバルトークの作曲技法の出発点となっている。
バルトークが『子供のために』を民謡編曲作品として作曲した動機については、当時のハンガリー社会における民謡の扱い、出版社との関係、さらにはバルトーク自身の教育用レパートリーに対する考え(前述)など、複数の要素が関係している。
ハンガリーでは前述のとおり先駆者が民謡の収集・研究を行っていたが、20世紀初頭の段階において民謡の音楽的な価値は一般の人々に認知されておらず、都市部でジプシーバンドによって演奏される大衆歌・流行歌が「ハンガリー伝統の民俗音楽」であると誤解されていた。若き日のバルトークも例外ではなく、ドーサ・リディの歌う民謡に出会う1年間(1903年)に作曲した交響詩『コシュート』(ハンガリー語版)には、そうした「ジプシー音楽」の影響が見られていた。
バルトークが本格的に民謡採集を始めた1906年、バルトークとコダーイは共著により、歌とピアノのための民謡編曲集『20のハンガリー民謡(ハンガリー語版)』を作成し、その年の12月にブダペストのロジュニャイ・カーロイ社(Rozsnyai Károly、以下「ロジュニャイ社」)から出版した。この民謡集の出版には、ハンガリーの真の民俗音楽である民謡の価値を人々に知らせようという意図があったが、世間からはほとんど注目されず、印刷された500部を完売するまでに32年間を要した。バルトークの弟子の一人であったセーケイ・ユーリア(ハンガリー語版)は著作において次のように記述している。
『20のハンガリー民謡』それは幅広い層の人々に、探し当てた宝の一部分を紹介するために書いたのです。(略)しかしみんなは何のことだかわかりませんでした。長い間、反響もありませんでした。
『20のハンガリー民謡』の失敗は、バルトークが大人達への「啓蒙」をあきらめて将来の聴衆となる子供たちの耳を養うことに目を向ける契機となったとの指摘がある。なお、後年のバルトークは、ピアノを学習する子供たちに、「民謡のもつ簡素で感傷的ではない美しさ」を知ってもらうために『子供のために』を作曲したと述べている。
『20のハンガリー民謡』の版元であり『子供のために』を出版することになるロジュニャイ社は、もともと音楽関係の出版社ではなく、外国語学習のテキスト『ロジュニャイ外国語速習(ハンガリー語版)』シリーズを主力商品のひとつとする教育関係の出版社であったが、当時のハンガリーで流通している楽譜がドイツ語解説の輸入楽譜であった上、音楽大学にも大作曲家の全集が揃っていないという状況から、楽譜に対する国内の需要は高いと判断して音楽関係の出版も手がけるようになった。
『20のハンガリー民謡』出版の翌月にあたる1907年1月、当時25歳のバルトークはブダペスト音楽院のピアノ科教授に就任した。この頃、ロジュニャイ社は過去の大作曲家のピアノ曲にハンガリー語の注釈をつけた教育目的の楽譜を販売するため、当時活躍中であったピアニストやピアノ教師に協力を依頼しており、バルトークにも校訂作業の依頼が行われた。その結果、ロジュニャイ社からはバルトークが運指やアーティキュレーションに手を入れた校訂版のバッハの『平均律クラヴィーア曲集』(1908年)、モーツァルトのピアノソナタ集(1912年)などが出版された。
また、この頃ロジュニャイ社からはバルトークが作曲したピアノ曲も出版されるようになっており、1908年には『3つのチーク県の民謡(ハンガリー語版)』(1907年作曲)、1909年には『14のバガテル(ハンガリー語版)』および『10のやさしい小品(ハンガリー語版)』(いずれも1908年作曲)が出版された。
1909年に出版された『10のやさしい小品』は、バルトークが音楽教育を目的として作曲した最初の作品である。『子供のために』と同様に1オクターブでの打鍵がなく、民謡の編曲(第6曲、第8曲)や民謡を模倣したオリジナル曲が使われており、『子供のために』の前身とも言える作品である。
おそらく、この『10のやさしい小品』がきっかけとなり、ロジュニャイ社はバルトークに『子供のために』の作曲を依頼したと考えられる。このことを裏付けるバルトークによる言及やロジュニャイ社との書簡などの直接的な証拠は存在していないが、後年のバルトークとロジュニャイ社のやり取りからは、ロジュニャイ社はバルトークに、何曲かがアタッカでつながっている、子供向けのやさしいピアノ曲集を求めたことが窺える。
『子供のために』の初版は1908年から1910年にかけて、まずハンガリー編が、次いでスロバキア編が作曲・出版された。
ハンガリー編の作曲は『14のバガテル』や『10のやさしい小品』の作曲が終わった後、1908年後半から開始され、バルトークはまず自らが採集した民謡の中から9曲を選んで編曲し、次の曲順で曲集を構想した。なお、これらの曲には I - IX の番号が付けられており、2曲を除いてバルトークが採集した民謡(下線)である。
第15番、第16番「古いハンガリーの旋律」、第14番、第17番「ラウンド・ダンス」、第13番「バラード」、第18番「兵士の歌」、第19番、第20番「お酒の歌」、第21番
しかし、バルトークはこのままでは子供には難しすぎると考え、ロジュニャイ社が求める簡単な曲集にふさわしいシンプルな旋律10曲をキシュ・アーロンの『ハンガリー子供の遊戯歌集』から探し出して編曲し、曲集の前半に組み込んだ。なお、バルトークの民謡編曲においてわらべ歌からの編曲は異例である。ロジュニャイ社とバルトークとの間では1909年の3月に初版第1巻の出版契約が交わされており、そこに「21曲の子供向けのピアノ作品」とあることから、21曲ある初版第1巻はこの時点で完成していたことが窺える。
初版第2巻は第1巻とは対照的に、コダーイの『ハンガリー民謡のストローフ構造』など、複数の書物からとられた民謡から編曲が始められ、同年6月に出版契約が交わされた。
初版第1巻・第2巻はいずれも1909年の年末までに出版された。曲集のタイトルはハンガリー語による”Gyermekeknek”(子供のために)とされ、楽譜の表紙には、バルトークのいとこにあたるヴォイト・アービン(Voit Ervin)によるアール・ヌーボー調のデザインが使われた。
楽譜の巻末には、楽曲に使用した民謡の歌詞がハンガリー語とドイツ語で掲載された。民謡の歌詞が各曲の内容を表しているため、曲ごとのタイトルは特に付けられなかった。また、テンポの指定についても大まかな指示のみで、同時期の作品に見られるメトロノーム記号はつけられなかった。
『子供のために』スロバキア編の制作は、バルトークの方からロジュニャイ社に提案したと考えられ、ロジュニャイ社が制作に同意する旨をバルトークに伝える1909年12月6日付けの書簡が存在している。おそらく、スロバキア編の作曲はこの書簡の後に本格的に進められたものと考えられる。なお、この書簡の段階では続編のタイトルを『子供のために』とするか別のタイトルにするかは決まっていなかった。
バルトークは当初、スロバキア民謡編を全1巻25曲として構想していた。その曲順は以下のとおりであり、バルトークが採集した民謡(下線)はこのうちの12曲である。なお、この段階ではフィナーレの2曲の順番が逆になっていた。
第6番「ラウンド・ダンスI」、第5番「変奏曲」、第4番「婚礼の歌」、第8番「踊り」、第19番「ロマンス」、第30番「バグパイプII」、第18番「おはやし歌」、第9番「ラウンド・ダンスII」、第20番「鬼ごっこ」、第29番「カノン」、第28番、第22番「ばかさわぎ」、第32番、第13番、第25番「スケルツァンド」、第27番「冗談II」、第33番、初版第23番(改訂時に削除) 第23番、第24番、初版第27番(改訂時に削除)、第26番「農夫の縦笛」、第35番「バラード」、第39番「哀悼歌」、第38番「悲歌」
最終的には曲数が増やされるとともに構成も変更され、1910年に全2巻43曲として完成した。ただし、その中にはバルトークやコダーイから作曲を教わったコダーイ・エンマ(1910年8月にコダーイと結婚するまではグリューバー・エンマ)による編曲作品も2曲含まれていた。
出版契約は、初版第3巻が1910年、初版第4巻が1911年に行われ、いずれも1911年にロジュニャイ社から出版された。1909年末には未定であった曲集のタイトルは、チェコ語による”Pro děti”(子供のために)とされ、楽譜の表紙はハンガリー編と同じデザインが使われた。曲集のタイトルにスロバキア語ではなくチェコ語が選ばれたのは、ロジュニャイ社が楽譜のマーケティングを考慮した結果である。
ハンガリー編と同様、民謡の歌詞が巻末に掲載され、言語についてはスロバキア語、ハンガリー語、ドイツ語の3か国語で記された。メトロノーム記号はハンガリー編と同様に付けられていないが、ハンガリーの人々に馴染みが薄いスロバキア民謡への理解を助けるため、いくつかの曲にはハンガリー語、フランス語、チェコ語の3か国語によるタイトルが記された。
『子供のために』スロバキア編は、バルトークの出版作品のうち、ハンガリー人(マジャル人)以外の民謡をもとにした曲集としては最初のものである。ハンガリー民謡を生涯にわたって研究したコダーイとは対照的に、スロバキア、ルーマニア、後にはトルコや北アフリカの民謡にまで対象を広げることになるバルトークにとって、スロバキア編は最初の第一歩ともいうべき重要な作品である。ただし、ハンガリー国内には、バルトークが「少数民族」であるスロバキア人の民謡をハンガリー民謡と対等に扱ったことを快く思わない者がいたことも事実である。
ロジュニャイ社とバルトークは、『子供のために』ハンガリー編、スロバキア編のさらなる続編としてルーマニア編の出版を計画した。1915年4月22日付けのロジュニャイ社からバルトークへの書簡では、ルーマニア民謡の編曲による若者向けの簡単なピアノ曲集のことが話題となっており、ロジュニャイ社は「『子供のために』と同じ程度の編曲で、何曲かがアタッカで連続して演奏できる曲」を求めている。
バルトークは同年のうちに32曲のルーマニア民謡を簡単なピアノ曲に編曲し、民謡のジャンルごとに分かれた3つの曲集『ルーマニアのクリスマスの歌(ハンガリー語版)』、『ルーマニア民俗舞曲』、『ソナチネ』として完成させた。しかし、前年に始まった第一次世界大戦の影響で出版は見送られ、最終的にはロジュニャイ社でなく、『ルーマニアのクリスマスの歌』と『ルーマニア民俗舞曲』が1918年にウィーンのユニヴァーサル社から、『ソナチネ』が1919年にブダペストのロージャヴェルジ社(ハンガリー語版)から出版された。
初版は全4巻、85曲で構成されており、第1巻と第2巻がハンガリー民謡、第3巻と第4巻がスロバキア民謡に基づいている。
初版の第1巻・第2巻・第3巻は、いずれも平易で親しみやすい子供の歌から始まり、曲集の最後にはフィナーレにふさわしい快活な楽曲が配置されているが、初版 第4巻は抒情歌に始まり「死」をモチーフとしたテンポの遅い楽曲で静かに曲集を終える構成となっている。
なお、ロジュニャイ社の要望どおり、いくつかの曲はアタッカでつながっており、その部分だけを取り出して小さな組曲のように演奏できるようになっている。なお、アタッカを実行するかどうかは任意(ad lib.)である。
(接続されている曲については #改訂版の構成#アタッカによる接続 参照。)
一部の国粋主義的な人たちがスロバキア編に反感を示したとは言え、『子供のために』は発売直後から人気のある作品となった。
ハンガリー国内では、全4巻が完結するより早い段階から、『子供のために』を好意的に取り上げた評論が発表された。その最初のものは、作曲家でピアニスト、文筆家のザーゴン・ヴィルモス・ゲーザ(Zágon Vilmos Géza)が1911年3月に発表した"Gondolatok régi és új muzsikáról"(英語: Thoughts on Old and New Music)であり、ザーゴンはハンガリー民謡における教会旋法の豊かな使用などの特徴について触れつつ、民謡を見事に編曲した作品として『子供のために』を紹介している。ザーゴンの同年にモルナール・アンタル(ハンガリー語版)が1911年6月に"Zenekozlöny"で『子供のために』初版第1巻~第3巻を取り上げており、コダーイはやや遅れて1921年に『子供のために』についての論文"Bartok's compositions for Children"を発表し、作品の音楽的、社会的な意義を説明している。
ロジュニャイ社を含め、当時のハンガリーの楽譜出版社は国外へ販売ルートを持っていなかった。それにもかかわらず、『子供のために』は出版から数年のうちにフランスに紹介された。その立役者となったのは前述のザーゴンである。
バルトーク、コダーイらが1911年に結成しザーゴンもメンバーとして加わった新ハンガリー音楽協会(UMZE)(ハンガリー語版)の活動がわずか1年で頓挫した後、ザーゴンはブダペスト市の奨学金を得て1912年から1914年までフランスに留学した。ザーゴンはそれ以前、1910年にパリでハンガリー音楽を特集した演奏会が開催された際にもフランスを訪れており、この演奏会の企画に関与していた。再びフランスを訪れたザーゴンは、ルイ・ラロワ(フランス語版)やミシェル・ディミトリー・カルヴォコレッシといった音楽関係者に『子供のために』などのバルトークの新作を紹介し、1914年1月23日にはハンガリーの作曲家を特集した演奏会を行って『子供のために』(抜粋)のパリ初演を果たした。
ザーゴンを通じて『子供のために』などのバルトーク作品を知ったラロワは、『子供のために』を特に高く評価し、カルヴォコレッシは、雑誌『ミュージカル・タイムズ』1913年11月号に"Folk-Song in Modern Music"と題した記事を発表し、『子供のために』を譜例つきで紹介した。
『子供のために』はピアニスト以外の演奏家からも注目され、1920年代から1930年代には、独奏ヴァイオリンとピアノのための二種類の編曲版(いずれもハンガリー編からの抜粋)が作られた。
その最初のものは、ヴァイオリン奏者のヨーゼフ・シゲティ編曲による1926年の『ハンガリー民謡集』(ハンガリー語: Magyar népdalok hegedűre és zongorára)であり、『子供のために』のハンガリー編から7曲が抜粋されており、1927年にユニヴァーサル社から出版された。バルトークはシゲティに多くの助言を与えるとともに、ピアノパートをヴァイオリンに合うように修正を加えている。
二つ目は、ヴァイオリン奏者のオルサーグ・ティヴァダル(ハンガリー語版)編曲による1934年の『ハンガリー民謡集』(ハンガリー語: Magyar népdalok hegedűre és zongorára)であり、ハンガリー編から9曲が抜粋されており、1934年にロージャヴェルジ社から出版された。この編曲にはバルトークの手が相当入っており、オルサーグ編曲による『ハンガリー民謡集』には「BB109」の作品番号が付けられている。
また、編曲は実現しなかったが、1930年にドイツの音楽教育学者エーリヒ・ドフライン(ドイツ語版)は、『子供のために』の抜粋をヴァイオリン二重奏用に編曲することの許可をバルトークに申し出ている。バルトークはこれに対して、新たに民謡の編曲作品を書き下ろすことを提案し、その結果、『44のヴァイオリン二重奏曲』が作曲された。
『子供のために』が本来の対象としているピアノを学ぶ子供たちの受容については、それを窺い知ることができる資料として、音楽教師 Jolán Bacher によって発行された "Csabai Akkordok"(直訳すれば『ベーケーシュチャバの和音』)という、青少年向けのローカルな音楽雑誌がある。1935年10月の同誌には Éva Adler という名の10歳の子供が書いた『子供のために』に関する文章が掲載されており、ピアノを習い始めて1年目には『子供のために』を弾いていたことや、この作品が大好きで、一日中ピアノで弾いたり、ハンガリーやスロバキアの民謡を歌ったりしているという感想が書かれている。なお、第一次世界大戦後生まれの子供にとって、スロバキア(当時はチェコスロバキア)はすでにハンガリー内の地域でなく、外国である。
これとは別に、7歳からピアノを習い始めたというパーストリ・ディッタは、幼い頃に『子供のために』を練習していたと後年に述べている。1903年生まれのディッタが7歳になるのは、『子供のために』スロバキア編出版の1年前にあたる1910年である。なお、この作品を通じてバルトークを知ったディッタは、その後ピアノの腕前を上げて1922年にブダペスト音楽院のバルトークのクラスに入学し、翌1923年にはバルトークの二番目の妻となって周囲を驚かせた。
『子供のために』は、教育的な目的で書かれた作品であるが、ピアニストとしての活動も行ったバルトークは、1920年代を中心に自身のレパートリーに組み込んでコンサートで取り上げた。なお、何曲かを抜粋して演奏する場合、バルトークはハンガリー編とスロバキア編を混ぜることはしなかった。
『子供のために』の改訂作業は1943年に行われているが、初版の発行以来、前述のシゲティやオルサーグのヴァイオリン編曲への助言、バルトーク自身による演奏活動や、以下に述べる『若いピアノ弾き』の編集などを通してバルトークは作品に関与し続け、改訂のアイデアが温められていた。
1938年、ブダペストのロージャヴェルジ社から、バルトークの過去の教育的作品の抜粋をおさめたピアノ曲集『若いピアノ弾き』(ハンガリー語: Zongorázó ifjúságba、英語: Young People at the Piano)が出版された。この曲集はバルトーク自身が1937年に編集したものであり、『子供のために』からは以下の18曲が収められた。
バルトークはこの曲集を編むにあたって、後の改訂版に引き継がれる重要な変更を行っており、その一つは、初版にはなかったメトロノーム記号と演奏時間を各曲に記載したことである。また、ハンガリー編の第26番は初版では全て3拍子で書かれていたが、「3拍子+3拍子+2拍子」という、バルトークが言うところの「ブルガリアン・リズム」 に変更された。なお、これより先に書かれた『44のヴァイオリン二重奏曲』(1932年)の第19曲「おとぎ話」に同じ旋律が使われており、そこですでに「ブルガリアン・リズム」が採用されている。
バルトークは、第二次世界大戦が勃発した翌年の1940年に、妻ディッタとともに祖国を離れアメリカ合衆国に移住するが、1945年9月26日、白血病のため他界した。バルトークによる『子供のために』の改訂作業は、アメリカ在住中の1943年11月から12月にかけて行われた。『管弦楽のための協奏曲』の作曲を終え、『無伴奏ヴァイオリンソナタ』に着手した頃である。バルトークは1942年には白血病を発症し常に微熱に悩まされていたが、この時期は一時的な小康状態にあった。
バルトークは、当時契約していたブージー&ホークス社から『子供のために』の改訂を打診されるとこれに応えた。アメリカ移住後のバルトークは、ハンガリーやオーストリアからの印税収入が途絶えており、『子供のために』の楽譜をブージー&ホークス社から販売するためには、そのためには改訂版をつくることで新たな著作権を得る必要があったという経済的な事情もある。
バルトークは1944年末に弟子のピアニスト、ヴィルヘルミン・クリールにあてて改訂版出版の見通しを伝えていたが、大戦の影響から出版は遅れ、バルトークの死後、1946年になってニューヨークのブージー&ホークス社(Boosey & Hawks Inc.。ロンドンに本社がある Boosey & Hawks Ltd. のニューヨーク支社。)から出版された。
ハンガリー編、スロバキア編がそれぞれ統合されて、全2巻、79曲で構成された。初版の4つの巻はそれぞれに構成が工夫されていたが、その構成感は失われることとなった。
原曲である民謡自体に、アジアに起源をもつマジャル人(ハンガリー人)と、スラブ系西スラブ族であるスロバキア人という民族のルーツの違いが現れていることに加え、バルトークが選択した民謡や編曲の違いによって、第1巻と第2巻は全体的な曲想に違いがある。
第1巻はテンポの速い躍動感のある曲が多く、第2巻はテンポが遅めで情緒豊かな表現の曲が多い。また、わらべ歌や子供の遊び歌は第1巻には12曲含まれているが第2巻には4曲しかない。こうしたことから、ハンガリー民謡独特のリズムやアクセントのあるエネルギッシュな性格をもつ第1巻に対し、第2巻は渋い印象を与える。また、バルトークの編曲の技法はスロバキア編の方が進んでおり、多声的な処理や、形式面での工夫、より大胆な和音の使用などが見られる。
前述のとおり、いくつかの曲は任意のアタッカでつながっており、以下の9つの小グループを形成している。なお、第2巻の第23番-第24番(初版では第24番-第25番)のグループについては、初版では3曲が接続されていたが、その先頭にあった初版第23番が改訂時に削除され、2曲のグループとなっている。
第1巻
第2巻
改訂にあたり、初版第2巻から2曲(初版第25番、初版第29番)、初版第4巻から4曲(初版第23番、初版第27番、初版第33番、初版第34番)、計6曲が削除された。このうち、初版第4巻の初版第33番と第34番の2曲はコダーイ・エンマ(グリューバー・エンマ)が編曲したもので、残りの4曲は民謡研究を進める中で、古来から伝承された民謡でないとバルトークが判断したものである。
改訂版はアメリカでの販売や演奏を前提としていたことから、巻末に掲載されていたハンガリー語などによる民謡の歌詞は削除され、曲の理解を助けるための代替策として英語のタイトルが一部の曲につけられた。なお、スロバキア編にもとからあったタイトルは一部が変更されている。民謡の歌詞を削除したことにより、改訂版はハンガリーのローカル色が後退し、国際的な性格をもつことになった。
『若いピアノ弾き』と同様に、メトロノーム記号と演奏時間が全ての曲に付けられた。ただし、バルトークは『若いピアノ弾き』の楽譜をアメリカに持ってきていなかったため、両者のメトロノーム記号は必ずしも一致していない。なお、楽譜に記載された演奏時間をトータルすると、第1巻が約35分、第2巻が約36分である。
初学者にとって演奏や読譜が容易になるよう、記譜方法などに変更が加えられた。
一部の曲では拍子や和音などが変更されており、その大きなものは以下のとおりである。
戦後、社会主義国となったハンガリーでは約20年間にわたって改訂版が流通せず、国営の出版社(Zeneműkiadó Vállalatot。現在のエディツィオ・ムジカ・ブダペスト社(ハンガリー語版))が初版に若干の修正を加えた楽譜を出版していたが、1967年になってブージー&ホークス社の改訂版に民謡の歌詞を掲載した、新しい版を出版した。
バルトークの次男ピーター・バルトーク(ハンガリー語版)は、ハンガリーの新しい版をもとにして独自の校訂を行い、1998年に『子供のために I-II』(ハンガリー編)、2000年に『子供のために III-IV』(スロバキア編)を、いずれもエディツィオ・ムジカ・ブダペスト社から出版した。
21世紀に入り、日本では、2005年~2006年にパップ昌子の校訂による音楽之友社版が、2008年には山崎孝の校訂による春秋社版が相次いで出版された。いずれもバルトークの自筆譜などをもとに校訂が行われている。音楽之友社版は民謡の歌詞が原語と日本語の対訳付きで掲載されており、春秋社版は、一部の曲で改訂版と初版が比較できるようになっている。なお、一部とはいえ改訂版と初版の比較が行われた楽譜は春秋社のものが世界初である。
2016年には、ドイツのヘンレ社とエディツィオ・ムジカ・ブダペスト社との共同によるバルトークの批判校訂全集(Complete Edition)の一環として、ヴィカーリウシュ・ラースローとランペルト・ヴェラの校訂による楽譜 "For Children, for Piano , Early Version and Revised Version" が出版されている 。この楽譜では全ての曲について改訂版と初版の両方が掲載され、見開きで比較ができるようになっている。また、翌2017年には、ヘンレ社からは全集版に依拠した「原典版」(Urtext)が2分冊で出版されている。原典版では初版と比較する体裁は採られていないが、大きな変更があった曲、改訂版で割愛された曲、バルトークの録音から採譜した楽譜が付録として掲載されている。
前述のとおり、バルトークは改訂の際に調号を付けたが、その際、臨時記号のつけ忘れを見落としてしまったのではないかと疑われる音がいくつかある。その一例としては、第1巻 第15番の途中に出てくる左手の和音(譜例)があり、(1)が初版、(2)が改訂版で、ニ長調の調号(#×2)が付けられている。和音の上から2番目の音は、(1)ではハ音であったが、(2)では調号が適応されて嬰ハ音になっており、(1)と同じ音のまま調号を付けたのであれば(3)のようにナチュラル(♮)が必要となる。1945年のバルトークの自演録音(後述)は、改訂が終わっていた時期であるが、初版と同じハ音で弾いている。
この音について、春秋社版は、改訂版のとおり(2)の嬰ハ音を採用しており、校訂者の山崎はハ音であるとする主張は疑わしいとしている。音楽之友社版の場合は、楽譜は(2)の嬰ハ音を採用しつつ校訂報告でナチュラルのつけ忘れの可能性を指摘している。一方、ヘンレ版では(3)のハ音を採用している。
バルトークが演奏した『子供のために』の録音は、作曲時期に近い1910年代のプライベートなものが2曲、死去の年にあたる1945年に行われたラジオ放送用のものが15曲残されている。
最も古い録音は1910年8月に録音されたスロバキア編 第22番「ばかさわぎ」であり、蝋管式蓄音機に吹き込まれ、同月にあったコダーイとシャーンドル・エンマの結婚祝いとして贈られた。なお、バルトークは驚異的な猛スピードでこの曲を演奏している。蝋管式蓄音機に吹き込まれた録音はもう一曲、1912年5月1日に録音されたと思われるハンガリー編 第10番「子供の遊び」があり、この曲については1945年の録音でも取り上げられている。
1945年の録音はアメリカ合衆国ニュージャージー州で放送されたラジオ番組「コシュート・ハンガリー・ラジオアワー」の放送用音源であり、ハンガリー編からの抜粋が以下のように5曲ずつ3つのセットで演奏されている。なお、アタッカでつながっている曲はハイフンで示している。
1945年の録音については正確な日付が確定しておらず、「1月2日(?)」と疑問符つきでクレジットされてきたが、近年の研究では「5月7日」という説も登場している。いずれにせよ、すでに2年間公式な演奏活動を行っておらず死を数か月後に控えたバルトークが遺した録音であり、戦後に行われた校訂や研究における貴重な資料となっている。
バルトークの死の翌年(1946年)、未亡人となったパーストリ・ディッタは12月にハンガリーに帰国した。帰国後のディッタは15年以上にわたってピアニストとしては引退状態にあったが1950年代末からはレコーディング活動を再開する。その最初となったのが1958年から1959年にかけて行われた『ミクロコスモス』全曲と『子供のために』全曲の録音であり、『子供のために』全曲は1964年にハンガリーのクォリトン・レーベル(英語版)から組み物のLPレコードとして発売された 。
ディッタは『子供のために』改訂版の楽譜を所有していたがこれを使用せず、初版をベースにしつつ一部に改訂版を反映させて演奏した。前述のとおり冷戦下のハンガリーでは1967年までは改訂版の楽譜が販売されておらず、ディッタは国営出版社の利益を考慮して初版を使用した。なお、バルトークの妻であり生徒であったディッタの演奏が、バルトークの理想とする音楽を忠実に再現しているかどうかについては議論が分かれるところである。
LPレコード発売と同年に、ハンガリーの有名な画家レイク・カーロイ(ハンガリー語版)が挿絵を描いたレコード付きの絵本 "Képeskönyv gyermekeknek"が出版され、付属するレコードにはディッタの演奏する『子供のために』からの抜粋が収められた。この絵本は2017年にブダペストのMóra社からCDつき絵本として再販されている。
バルトークの死後に生まれたハンガリーのピアニストでは、バルトークのピアノ曲演奏に定評のあるコチシュ・ゾルターン(1952年 - 2016年)が『子供のために』(改訂版全曲)の録音を2回にわたって行っている。旧録音は1981年にハンガリーのフンガロトン(ハンガリー語版)、新録音は1995年にオランダのフィリップス(現在はデッカ)から発売された。また、コチシュと同世代のラーンキ・デジェー(1951年-)は、1977年に『子供のために』全曲を録音している。ハンガリーではその10年前から改訂版に基づく楽譜が出回っていたが、ラーンキは初版で演奏している。
生前のバルトークにとって、『子供のために』は特別な思い入れのある作品であった。
ピアノ教師時代、バルトークは自分の曲をレッスンの教材とすることはほとんどなかったが、生徒がバルトークの曲での指導を強く希望した場合には『子供のために』を指定した。普段のレッスンでは、人を寄せつけない冷酷といえるほどの眼差しで厳しい指導を行うバルトークであったが、『子供のために』を指導するときだけは別で、生徒のそばに立ち、あたかも子供がお気に入りの玩具を見せびらかすときのように、生き生きとした口調で嬉しそうに曲について説明したという。
バルトークの顔に微笑みを見たことのある人はきわめてわずかでした。しかし『子供のために』を教えている時、それを見ることができたのです。。
バルトークは『子供のために』を「私の心にもっとも近い存在」であるとし、また、生涯にわたって「最も好きな作品」と呼んでいた。その理由について、バルトークの生徒であったセーケイ・ユーリアは次のように推測している。
その理由はたぶんこの曲集の中で、彼の最愛の人たち、つまり農民と子供たちをつなげることができたからでしょう。彼自身が年老いた農民から受けた財産を子供たちに、新しい世代へ引き渡すことがこの曲集の目的でしたから。
バルトークの祖国ハンガリーでは第二次世界大戦後、コダーイが提唱した理念に基づく、民謡やわらべ歌を重視した独特の教育が行われ、20世紀末に政治体制が変わった後も引き継がれている。その中にあって、バルトークの作品は高い評価と特別な扱いがなされており、『子供のために』は、コダーイの『ピアノの学校』(ハンガリー語: Zongora Iskola)やバルトークの『ミクロコスモス』を教本としてピアノを学習する初学者が使う併用教材とされたほか、公教育では「国家基準カリキュラム」(ハンガリー語: Nemzeti alaptanterv)において、1-4年生が学ぶ伝統音楽の一つに『子供のために』が位置づけられている。
若い世代のピアニストの中には、幼少時に『子供のために』に触れたことが音楽家の道に進むきっかけの一つになったと公言している者もいる。日本生まれのピアニスト金子三勇士(1989年-)はハンガリー人で教育者でもあった祖母からコチシュが演奏する『子供のために』のCDを贈られるとともにハンガリー式の音楽教育の手ほどきを受けて2歳でピアノを始め、6歳から10年間ハンガリーに留学 、2011年にプロデビューを果たした。デビュー後にはアウトリーチ活動にも力を入れ、『子供のために』を紹介するレクチャーも行っている。また、金子より若いハンガリーのベレッツ・ミハーイ (ハンガリー語版)(1997年-)は6歳でヴァイオリンを始めたが、コチシュの『子供のために』を聴いたことでピアノの練習も始め、デビュー後にはバルトークのピアノ曲の全曲演奏会も行っている。
かつてピアノ教育を専門とする国際的な研究者ヴァロー・マルギット(ハンガリー語版)(1881年-1978年)が、教育音楽にとって革命的であったと高く評価したように、作曲から1世紀以上が経過した今日、『子供のために』は、世界中のピアノを学ぶ人々の糧となっており、コンサート・ピースとしても定着して幅広い層に愛好されている。
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"text": "『子供のために』(こどものために、ハンガリー語: Gyermekeknek、チェコ語: Pro děti、英語: For Children)は、ハンガリーの作曲家バルトーク・ベーラ (1881年 - 1945年)がブダペスト音楽院のピアノ科教授に就任した後の20歳台後半に作曲した、子供や初学者を対象としたピアノ曲集である。旋律にはハンガリーとスロバキアの民謡がほぼそのままの形で使われており、音楽教育を目的とした作品としても民謡の編曲作品としても最初の大規模な曲集である。",
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"text": "1908年から1910年にかけて作曲された初版は全4巻、85曲からなり、ブダペストのロジュニャイ・カーロイ社から出版された。第1巻と第2巻がハンガリー民謡、第3巻と第4巻がスロバキア民謡に基づいている。その約30年後、バルトークがアメリカ合衆国に移住していた最晩年の1943年に作曲者自身による改訂版がつくられ、バルトークの死後、1946年にニューヨークのブージー&ホークス社(本社はロンドン)から出版された。改訂版は、初版の第1巻と第2巻、第3巻と第4巻がそれぞれ統合されて全2巻となり、6曲が削除されて79曲となっているほか、一部の曲では和音や拍子が変更されている。",
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"text": "原曲の民謡(わらべ歌や器楽曲も含む)については、バルトーク自身がハンガリー各地の農村を訪れて採集(蝋管式蓄音機による録音および採譜)したもののほか、『ハンガリー子供の遊戯歌集』や『スロバキア歌集』など、先駆者が収集したものが約半数の曲で使われている。バルトークの編曲は民謡の歌詞の内容や雰囲気をよく表現しており、技法の面では後の『ハンガリー農民歌による8つの即興曲(英語版)』などに比べれば単純なものであるが、バルトークは曲が単調に陥らないよう様々な工夫を凝らしており、こうした工夫が以後の作品における作曲技法の出発点となっている。曲集の中には音楽的に高度な曲も含まれており、子供や初学者用の教材にとどまらずプロのピアニストのレパートリーにもなっている。バルトーク自身も生涯この曲に愛着をもっており、その抜粋を自身の演奏会で取り上げた。",
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"text": "バルトークの作品番号には複数の分類方法があるが、セーレーシ番号ではSz 42、ショムファイ・ラースロー(ハンガリー語版)による番号ではBB 53である。",
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"text": "『子供のために』には、1909年~1911年にハンガリーで出版された初版(全4巻、85曲)と、バルトークがアメリカに移住していた1943年に改訂され作曲者の死後に1946年に出版された改訂版(全2巻、79曲)があり、現在流通している楽譜のほとんどは改訂版である。改訂はいわば「マイナーチェンジ」であり、曲の内容そのものに大きな変更はないが、構成や曲の数および順序が変更されている(改訂の詳細については #改訂での主な変更点 参照。)",
"title": "版による構成の違いと本稿での扱い"
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"text": "初版は、第1巻と第2巻がハンガリー民謡、第3巻と第4巻がスロバキア民謡に基づいており、改訂の際に第1巻と第2巻、第3巻と第4巻がそれぞれ統合されて全2巻となった。また、初版に含まれていた6曲が改訂版で削除されたことに伴い、曲の順序や番号が一部で変更となった。",
"title": "版による構成の違いと本稿での扱い"
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"text": "本稿においては、巻数および各曲の番号の混同を避けるため、曲のタイトルも含めて改訂版の番号を用い、初版の巻数や曲番号を使用する必要がある場合は初版であることを併記する。また、初版の第1巻および第2巻(改訂版第1巻)を「ハンガリー編」、第3巻および第4巻(改訂版第2巻)を「スロバキア編」と表記する場合がある。",
"title": "版による構成の違いと本稿での扱い"
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"text": "『子供のために』は、初版の副題に「ピアノ初心者のための小品集(オクターブ内の)」(ハンガリー語: \"Apró darabok kezdő zongorázóknak (oktávfogás nélkül)\")とあるように、ピアノを学習する子供や経験の浅い初学者が演奏することを前提とした教育的作品である。ただし、体系的なピアノの学習を目的とした教則本や練習曲ではなく、子供や初学者が技術的に無理なく、質の高い現代の音楽に親しむことができる教材という位置づけである。",
"title": "教育的作品として"
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"text": "バルトークは、作曲家としての活動の初期からこうした分野の作品を書くことに関心をもっていたと晩年に述べており、その動機として、子供や初学者向けの易しい楽曲に優れた作品がほとんどないことを懸念していたからだと説明している。また、同時にバルトークは、そのわずかな例外である優れた作品として、J.S.バッハの簡単な楽曲やシューマンの『ユーゲントアルバム』を挙げている。",
"title": "教育的作品として"
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"paragraph_id": 9,
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"text": "自身が優れたピアニストであり音楽大学のピアノ科教授でもあったバルトークは、『子供のために』においては、子供や初学者のために指づかいを細かく配慮している。副題の「オクターブ内の」という言葉どおり、手が小さくて1オクターブ離れた鍵盤に指が届かなくても全ての曲が演奏できるように書かれており、1オクターブ離れた鍵盤を同時に押さえる音を使う場合は、譜例のように()で省略しても構わない音が示されている。",
"title": "教育的作品として"
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"text": "(ハンガリー編 第23番 第56小節-、左手)",
"title": "教育的作品として"
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"text": "指づかいを示す「指番号」が細かく丁寧に記入されている。次の譜例の3小節目は、1小節目と全く同じ音の動きと指づかいであるため、本来は指番号の必要はないが、子供向けの配慮としてここにも指番号を記している。なお、教育を目的としないバルトークのピアノ曲では指番号の記入は必要最小限にとどめられており、例えば『ピアノソナタ』第1楽章の場合、指番号が最初に出てくるのは楽譜が6ページ目に入ってからである。",
"title": "教育的作品として"
},
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"text": "(ハンガリー編 第17番「ラウンド・ダンス」 第1小節-)",
"title": "教育的作品として"
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"text": "指づかいについては、演奏のしやすさだけでなく音楽表現も考慮されており、次の譜例では、山型のアクセント(とフェルマータ)がつけられている高い嬰ハ音を、前後の音とつながりの良い小指ではなく、力の入れやすい中指(指番号「3」)で弾かせることで、指番号のとおりに演奏すれば無意識のうちにアクセントがつくように工夫されている。",
"title": "教育的作品として"
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"text": "(ハンガリー編 第25番「ラウンド・ダンス」 第3小節-)",
"title": "教育的作品として"
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"paragraph_id": 15,
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"text": "テンポについても子供にとっての弾きやすさが考慮されており、改訂の際には一部の速いテンポの曲で初版よりも遅い指示に改められている。ただし、バルトークの自作自演の録音(後述)では、改訂版で「♩=140」の指定がある第1巻第6曲「左手の練習」を「♩=169」で演奏しているように、一部の曲では楽譜の指定と異なるテンポが採られている。",
"title": "教育的作品として"
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"text": "曲集の難易度は「初級向け」とされるが、実際には意外に難しいとされる。その要因としては、対位法的な書法や伴奏におけるリズムの変化といった技術的なことのほか、独特なリズムなど東欧の民俗音楽の特徴の表現や、外国の民謡における言葉のイントネーションの理解など文化的なことが挙げられる。また、曲集中には後年の作品を先取りしたような曲も含まれており 、そうした一部の曲は音楽的には子供向けの域を超えたものになっているが、かえって、この曲集が子供に限らず大人も含めた幅広い層に愛好されることになっている。",
"title": "教育的作品として"
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"text": "バルトークは『子供のために』以外にも、子供や楽器の初学者を対象とした教育的な作品を複数作曲している(下の表を参照)。バルトーク自身が、教育目的の曲には民謡が適していると語っているとおり、それらの作品では曲集の全部または一部に民謡が使われている。中でも、『子供のために』は全曲が民謡の編曲であり、教育目的の作品としても民謡の編曲作品としても初の大規模な作品である。なお、バルトークの最後の教育的な作品となったピアノ曲集『ミクロコスモス』の場合は、体系的にピアノのテクニックを学ぶことを目的としているためオリジナルのテーマが中心に使われており、民謡編曲はごくわずかにとどめられている。",
"title": "教育的作品として"
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"paragraph_id": 18,
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"text": "民謡を教育的な音楽に使うというアイデアはバルトークに始まったものではなく、ヨーロッパ各地で革命が起こった1848年以降、ヨーロッパの各国では民謡を編曲したピアノ用の教材が目立つようになっていた。1860年代のハンガリーでは、バルタルシュ・イシュトヴァーン(ハンガリー語版)が、収集した民謡を編曲したピアノ曲集”Gyermek lant”(直訳すれば『子供の竪琴』)、”Gyermek dalhon”(直訳すれば『子供の歌』)という、『子供のために』を先取りしたような作品を出版している。",
"title": "教育的作品として"
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"paragraph_id": 19,
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"text": "ランペルト・ヴェラ(ハンガリー語版)の研究によれば、バルトークが生涯に編曲した民謡は約310曲あるが、79曲(初版では85曲)の民謡が編曲された『子供のために』はその約4分の1を占めており、数の上で群を抜いている。『子供のために』の原曲となった民謡は、バルトークが自らの足でハンガリー各地の農村を回って採集(録音・採譜)したもののほか、先駆者が採集したものが使われている。",
"title": "民謡編曲作品として"
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"paragraph_id": 20,
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"text": "1904年、作曲家兼ピアニストとして活動していた若きバルトークは、ゲメル県(ハンガリー語版)のゲルリツェ(現在はスロバキアの Hrlica)に滞在していたときに、トランシルヴァニア出身の女性ドーサ・リディが口ずさんでいたハンガリー民謡を聴いてその価値に気づいた。バルトークは、すでに民謡研究を始めていたコダーイ・ゾルターンに研究の方法を学ぶと、1906年の夏以降、蝋管式蓄音機(フォノグラフ)を携えて各地の農村をめぐり、本格的な民謡採集を行った。",
"title": "民謡編曲作品として"
},
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"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "当時のハンガリー(ハンガリー王国)は、現在のスロバキアやルーマニア西部など広い範囲を領域とするオーストリア=ハンガリー帝国の一部であり、バルトークが採集した民謡には狭義のハンガリー民謡(マジャル民謡)のみならず、スロバキア民謡、ルーマニア民謡など様々な民謡が含まれている。",
"title": "民謡編曲作品として"
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"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "バルトークは、1906年にはドゥナーントゥール(ハンガリー語版)やペシュト県などで1000曲以上のハンガリー民謡を、現在はスロバキアに含まれるゲメル-キシュホント県(ハンガリー語版)で約300曲のスロバキア民謡を採集し、翌1907年にはトルナ県のフェルシェーイレグ (現在のイレグセムチェ(ハンガリー語版))や、現在はルーマニアに含まれるトランシルヴァニア地方において約700曲のハンガリー民謡を採集した。『子供のために』には、こうした時期に採集された民謡が使われており、特に、民謡の宝庫であったフェルシェーイレグ(Felsőireg)で採集された民謡は、ハンガリー編の9曲に使われている。",
"title": "民謡編曲作品として"
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"paragraph_id": 23,
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"text": "バルトークは、相当な数の民謡を採集していたが、『子供のために』を構成する曲の約半数を、すでに出版されていた民謡集などから選んで編曲した。",
"title": "民謡編曲作品として"
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"paragraph_id": 24,
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"text": "ハンガリー編では、キシュ・アーロン(ハンガリー語版)が1891年に出版した『ハンガリー子供の遊戯歌集』(ハンガリー語: Magyar gyermekjáték-könyv) から10曲が使用されているほか、同時代の作曲家でバルトークにとって民謡研究の先輩であるコダーイ・ゾルターンが収集した民謡が3曲、クン・ラースロー(ドイツ語版)収集のものが2曲、バルタルシュ・イシュトヴァーン、ヴィカール・ベーラ(ハンガリー語版)、セベスチェン・ジュラ(ハンガリー語版)収集のものがそれぞれ1曲ずつ使われている。",
"title": "民謡編曲作品として"
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"paragraph_id": 25,
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"text": "スロバキア編では39曲(改訂版)のうち20曲で『スロバキア歌集』(ハンガリー語: Slovenské spevy )に掲載された民謡が使われている。同書は、ヤン・カダヴィ(スロバキア語版)が編纂した1882年の 『スロバキア歌集I』と、カロル・ルッペルト(スロバキア語版)他が編纂した1889年の 『スロバキア歌集II』があり、 『スロバキア歌集I』からは12曲、 『スロバキア歌集II』からは8曲が使われている。",
"title": "民謡編曲作品として"
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"paragraph_id": 26,
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"text": "スロバキア編ではこのほか、カロル・アントン・メドヴェツキー(スロバキア語版)の『ジェトヴァ論集』から3曲、ミクラーシュ・シュナイダー=トラナヴィスキー(スロバキア語版)収集によるものが1曲使われている。",
"title": "民謡編曲作品として"
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"paragraph_id": 27,
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"text": "『子供のために』に使われた民謡は多岐にわたっており、わらべ歌から、滑稽な冗談歌、兵士の望郷の歌、恋愛の歌、さらには飲酒、殺人や死、下品で猥雑な内容など、子供向けでない内容の歌も含まれている。また、器楽曲が2曲含まれている。",
"title": "民謡編曲作品として"
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"paragraph_id": 28,
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"text": "バルトークは、『子供のために』を練習する子供たちがオリジナルの民謡も歌えるよう、初版の楽譜の巻末に民謡の歌詞を掲載した。出版にあたり下品な歌詞や性的な歌詞については「不適切」として割愛されたが、バルトークはそうした内容の歌の価値も認めていたため割愛を残念がったという。なお、ハンガリーやスロバキアで歌われていた「教育的に好ましくない」とされる民謡について、バルトークは著作の中で次のように記している。",
"title": "民謡編曲作品として"
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"paragraph_id": 29,
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"text": "十六、七歳の娘たちでさえもが、そうした信じがたいまでにあけすけな歌詞の歌を、最も自然に、およそ淑女ぶることなく私に歌ってくれたものでした。(略)しかし農民たちは、はっきりと「自然なことは決していやらしいことではない」という考えを支持しています。(略)そのような歌は、それを公にするのは困難ですが、学術的観点からは非常に価値のあるものですし、また重要なものです。 — 『バルトーク音楽論集』(スロバキアの民族音楽)pp.156-157",
"title": "民謡編曲作品として"
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"text": "バルトークの民謡編曲は、民謡の旋律をほぼそのまま使い、そこに独自の簡潔な伴奏を加える手法が採られており、バルトークはこうした編曲方法を「宝石の台づくり」に例えていた。「宝石の台」である伴奏は、主に和音や分散和音、対旋律であるが、そこにはF.リストのピアノ曲のようなロマン派風の華麗な装飾は排されている。",
"title": "民謡編曲作品として"
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"text": "後にバルトークは「旋律がプリミティヴなものであれば、それだけ風変りな和声や伴奏をつける事が出来る」と述べているが、そうした民謡編曲の究極の姿である『ハンガリー農民歌による8つの即興曲(英語版)』(1920年)では、伴奏がもはや旋律と無関係な独自の音響を作り出すまでになっている。",
"title": "民謡編曲作品として"
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"text": "そうした後の作品に比べれば『子供のために』の編曲は単純明解であり、民謡に歌われている、娘を結婚で手放す親の悲しみや恋人の行方を探す少年の不安、酔っ払いの醜態など、歌詞の内容や雰囲気がうまく表現されており、歌詞がバラード風に進む民謡では、ストーリーに合わせて音楽を展開させる工夫がされている。",
"title": "民謡編曲作品として"
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"paragraph_id": 33,
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"text": "バルトークは作品が単調なものとならないよう様々な工夫を行っており、単純な構造の短い民謡であっても、旋律全体、あるいは旋律後半が繰り返されるときはほとんどの場合で伴奏に変化をつけている。また、三部形式やカノン、ラプソディ(狂詩曲)、変奏曲などの既存の様式に民謡を当てはめた例もある。このうち変奏の手法については、「変奏曲」というタイトルのついたスロバキア編 第5番「変奏曲」だけでなく、ハンガリー編 第39番、スロバキア編 第21番「冗談I」、第35番「バラード」などにも使われており、スロバキア編 第21番「冗談I」では長調の旋律が途中で短調に移調されている。この他、ハンガリー編 第29番「五音音階の旋律」では、民謡の旋律を別の旋律による前奏・間奏・後奏で挟み込む形式をとっている。",
"title": "民謡編曲作品として"
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"paragraph_id": 34,
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"text": "その一方で『子供のために』には、民謡の特徴に基づいた、バルトーク独自の近代的な技法も使われている。",
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"text": "バルトークは民謡の採集・研究を通じて、ハンガリー民謡に原始的な五音音階や古い教会旋法が使われていることを見出していたが、『子供のために』の作曲に着手する前年の1907年、バルトークはドビュッシーの音楽の中にも五音音階や旋法が使われていることを「発見」し、ハンガリー民謡が、長調・短調という古典的な調性から解放された新しい音楽をつくる糸口となることに気づいた。",
"title": "民謡編曲作品として"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "ここにはまだ民俗音楽が豊かにある。それがドイツにおいて危険な程に老化してしまった音楽に新鮮な血を注ぎ込むだろう。 — 1909年にバルトークが妻にあてた手紙",
"title": "民謡編曲作品として"
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"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "このため、『子供のために』の各曲の伴奏は、必ずしも古典的な和声法に従っていない。次の譜例では、ミクソリディア旋法による旋律を、四度の積み重なった和音の転回形が伴奏している。",
"title": "民謡編曲作品として"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "(ハンガリー編 第40番「豚飼いの踊り」 第16小節-)",
"title": "民謡編曲作品として"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "また、次の譜例では、7の和音の転回形が連続して使われており、旋律の音は全て和音の第7音が当てられている。",
"title": "民謡編曲作品として"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "(ハンガリー編 第13番「バラード」第14小節-)",
"title": "民謡編曲作品として"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "こうした様々な編曲の工夫は、後年のバルトークの作曲技法の出発点となっている。",
"title": "民謡編曲作品として"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "バルトークが『子供のために』を民謡編曲作品として作曲した動機については、当時のハンガリー社会における民謡の扱い、出版社との関係、さらにはバルトーク自身の教育用レパートリーに対する考え(前述)など、複数の要素が関係している。",
"title": "初版の成立"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "ハンガリーでは前述のとおり先駆者が民謡の収集・研究を行っていたが、20世紀初頭の段階において民謡の音楽的な価値は一般の人々に認知されておらず、都市部でジプシーバンドによって演奏される大衆歌・流行歌が「ハンガリー伝統の民俗音楽」であると誤解されていた。若き日のバルトークも例外ではなく、ドーサ・リディの歌う民謡に出会う1年間(1903年)に作曲した交響詩『コシュート』(ハンガリー語版)には、そうした「ジプシー音楽」の影響が見られていた。",
"title": "初版の成立"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "バルトークが本格的に民謡採集を始めた1906年、バルトークとコダーイは共著により、歌とピアノのための民謡編曲集『20のハンガリー民謡(ハンガリー語版)』を作成し、その年の12月にブダペストのロジュニャイ・カーロイ社(Rozsnyai Károly、以下「ロジュニャイ社」)から出版した。この民謡集の出版には、ハンガリーの真の民俗音楽である民謡の価値を人々に知らせようという意図があったが、世間からはほとんど注目されず、印刷された500部を完売するまでに32年間を要した。バルトークの弟子の一人であったセーケイ・ユーリア(ハンガリー語版)は著作において次のように記述している。",
"title": "初版の成立"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "『20のハンガリー民謡』それは幅広い層の人々に、探し当てた宝の一部分を紹介するために書いたのです。(略)しかしみんなは何のことだかわかりませんでした。長い間、反響もありませんでした。",
"title": "初版の成立"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "『20のハンガリー民謡』の失敗は、バルトークが大人達への「啓蒙」をあきらめて将来の聴衆となる子供たちの耳を養うことに目を向ける契機となったとの指摘がある。なお、後年のバルトークは、ピアノを学習する子供たちに、「民謡のもつ簡素で感傷的ではない美しさ」を知ってもらうために『子供のために』を作曲したと述べている。",
"title": "初版の成立"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "『20のハンガリー民謡』の版元であり『子供のために』を出版することになるロジュニャイ社は、もともと音楽関係の出版社ではなく、外国語学習のテキスト『ロジュニャイ外国語速習(ハンガリー語版)』シリーズを主力商品のひとつとする教育関係の出版社であったが、当時のハンガリーで流通している楽譜がドイツ語解説の輸入楽譜であった上、音楽大学にも大作曲家の全集が揃っていないという状況から、楽譜に対する国内の需要は高いと判断して音楽関係の出版も手がけるようになった。",
"title": "初版の成立"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "『20のハンガリー民謡』出版の翌月にあたる1907年1月、当時25歳のバルトークはブダペスト音楽院のピアノ科教授に就任した。この頃、ロジュニャイ社は過去の大作曲家のピアノ曲にハンガリー語の注釈をつけた教育目的の楽譜を販売するため、当時活躍中であったピアニストやピアノ教師に協力を依頼しており、バルトークにも校訂作業の依頼が行われた。その結果、ロジュニャイ社からはバルトークが運指やアーティキュレーションに手を入れた校訂版のバッハの『平均律クラヴィーア曲集』(1908年)、モーツァルトのピアノソナタ集(1912年)などが出版された。",
"title": "初版の成立"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "また、この頃ロジュニャイ社からはバルトークが作曲したピアノ曲も出版されるようになっており、1908年には『3つのチーク県の民謡(ハンガリー語版)』(1907年作曲)、1909年には『14のバガテル(ハンガリー語版)』および『10のやさしい小品(ハンガリー語版)』(いずれも1908年作曲)が出版された。",
"title": "初版の成立"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "1909年に出版された『10のやさしい小品』は、バルトークが音楽教育を目的として作曲した最初の作品である。『子供のために』と同様に1オクターブでの打鍵がなく、民謡の編曲(第6曲、第8曲)や民謡を模倣したオリジナル曲が使われており、『子供のために』の前身とも言える作品である。",
"title": "初版の成立"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "おそらく、この『10のやさしい小品』がきっかけとなり、ロジュニャイ社はバルトークに『子供のために』の作曲を依頼したと考えられる。このことを裏付けるバルトークによる言及やロジュニャイ社との書簡などの直接的な証拠は存在していないが、後年のバルトークとロジュニャイ社のやり取りからは、ロジュニャイ社はバルトークに、何曲かがアタッカでつながっている、子供向けのやさしいピアノ曲集を求めたことが窺える。",
"title": "初版の成立"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "『子供のために』の初版は1908年から1910年にかけて、まずハンガリー編が、次いでスロバキア編が作曲・出版された。",
"title": "初版の成立"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "ハンガリー編の作曲は『14のバガテル』や『10のやさしい小品』の作曲が終わった後、1908年後半から開始され、バルトークはまず自らが採集した民謡の中から9曲を選んで編曲し、次の曲順で曲集を構想した。なお、これらの曲には I - IX の番号が付けられており、2曲を除いてバルトークが採集した民謡(下線)である。",
"title": "初版の成立"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "第15番、第16番「古いハンガリーの旋律」、第14番、第17番「ラウンド・ダンス」、第13番「バラード」、第18番「兵士の歌」、第19番、第20番「お酒の歌」、第21番",
"title": "初版の成立"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "しかし、バルトークはこのままでは子供には難しすぎると考え、ロジュニャイ社が求める簡単な曲集にふさわしいシンプルな旋律10曲をキシュ・アーロンの『ハンガリー子供の遊戯歌集』から探し出して編曲し、曲集の前半に組み込んだ。なお、バルトークの民謡編曲においてわらべ歌からの編曲は異例である。ロジュニャイ社とバルトークとの間では1909年の3月に初版第1巻の出版契約が交わされており、そこに「21曲の子供向けのピアノ作品」とあることから、21曲ある初版第1巻はこの時点で完成していたことが窺える。",
"title": "初版の成立"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "初版第2巻は第1巻とは対照的に、コダーイの『ハンガリー民謡のストローフ構造』など、複数の書物からとられた民謡から編曲が始められ、同年6月に出版契約が交わされた。",
"title": "初版の成立"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "初版第1巻・第2巻はいずれも1909年の年末までに出版された。曲集のタイトルはハンガリー語による”Gyermekeknek”(子供のために)とされ、楽譜の表紙には、バルトークのいとこにあたるヴォイト・アービン(Voit Ervin)によるアール・ヌーボー調のデザインが使われた。",
"title": "初版の成立"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "楽譜の巻末には、楽曲に使用した民謡の歌詞がハンガリー語とドイツ語で掲載された。民謡の歌詞が各曲の内容を表しているため、曲ごとのタイトルは特に付けられなかった。また、テンポの指定についても大まかな指示のみで、同時期の作品に見られるメトロノーム記号はつけられなかった。",
"title": "初版の成立"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "『子供のために』スロバキア編の制作は、バルトークの方からロジュニャイ社に提案したと考えられ、ロジュニャイ社が制作に同意する旨をバルトークに伝える1909年12月6日付けの書簡が存在している。おそらく、スロバキア編の作曲はこの書簡の後に本格的に進められたものと考えられる。なお、この書簡の段階では続編のタイトルを『子供のために』とするか別のタイトルにするかは決まっていなかった。",
"title": "初版の成立"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "バルトークは当初、スロバキア民謡編を全1巻25曲として構想していた。その曲順は以下のとおりであり、バルトークが採集した民謡(下線)はこのうちの12曲である。なお、この段階ではフィナーレの2曲の順番が逆になっていた。",
"title": "初版の成立"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "第6番「ラウンド・ダンスI」、第5番「変奏曲」、第4番「婚礼の歌」、第8番「踊り」、第19番「ロマンス」、第30番「バグパイプII」、第18番「おはやし歌」、第9番「ラウンド・ダンスII」、第20番「鬼ごっこ」、第29番「カノン」、第28番、第22番「ばかさわぎ」、第32番、第13番、第25番「スケルツァンド」、第27番「冗談II」、第33番、初版第23番(改訂時に削除) 第23番、第24番、初版第27番(改訂時に削除)、第26番「農夫の縦笛」、第35番「バラード」、第39番「哀悼歌」、第38番「悲歌」",
"title": "初版の成立"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "最終的には曲数が増やされるとともに構成も変更され、1910年に全2巻43曲として完成した。ただし、その中にはバルトークやコダーイから作曲を教わったコダーイ・エンマ(1910年8月にコダーイと結婚するまではグリューバー・エンマ)による編曲作品も2曲含まれていた。",
"title": "初版の成立"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "出版契約は、初版第3巻が1910年、初版第4巻が1911年に行われ、いずれも1911年にロジュニャイ社から出版された。1909年末には未定であった曲集のタイトルは、チェコ語による”Pro děti”(子供のために)とされ、楽譜の表紙はハンガリー編と同じデザインが使われた。曲集のタイトルにスロバキア語ではなくチェコ語が選ばれたのは、ロジュニャイ社が楽譜のマーケティングを考慮した結果である。",
"title": "初版の成立"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "ハンガリー編と同様、民謡の歌詞が巻末に掲載され、言語についてはスロバキア語、ハンガリー語、ドイツ語の3か国語で記された。メトロノーム記号はハンガリー編と同様に付けられていないが、ハンガリーの人々に馴染みが薄いスロバキア民謡への理解を助けるため、いくつかの曲にはハンガリー語、フランス語、チェコ語の3か国語によるタイトルが記された。",
"title": "初版の成立"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "『子供のために』スロバキア編は、バルトークの出版作品のうち、ハンガリー人(マジャル人)以外の民謡をもとにした曲集としては最初のものである。ハンガリー民謡を生涯にわたって研究したコダーイとは対照的に、スロバキア、ルーマニア、後にはトルコや北アフリカの民謡にまで対象を広げることになるバルトークにとって、スロバキア編は最初の第一歩ともいうべき重要な作品である。ただし、ハンガリー国内には、バルトークが「少数民族」であるスロバキア人の民謡をハンガリー民謡と対等に扱ったことを快く思わない者がいたことも事実である。",
"title": "初版の成立"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "ロジュニャイ社とバルトークは、『子供のために』ハンガリー編、スロバキア編のさらなる続編としてルーマニア編の出版を計画した。1915年4月22日付けのロジュニャイ社からバルトークへの書簡では、ルーマニア民謡の編曲による若者向けの簡単なピアノ曲集のことが話題となっており、ロジュニャイ社は「『子供のために』と同じ程度の編曲で、何曲かがアタッカで連続して演奏できる曲」を求めている。",
"title": "初版の成立"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "バルトークは同年のうちに32曲のルーマニア民謡を簡単なピアノ曲に編曲し、民謡のジャンルごとに分かれた3つの曲集『ルーマニアのクリスマスの歌(ハンガリー語版)』、『ルーマニア民俗舞曲』、『ソナチネ』として完成させた。しかし、前年に始まった第一次世界大戦の影響で出版は見送られ、最終的にはロジュニャイ社でなく、『ルーマニアのクリスマスの歌』と『ルーマニア民俗舞曲』が1918年にウィーンのユニヴァーサル社から、『ソナチネ』が1919年にブダペストのロージャヴェルジ社(ハンガリー語版)から出版された。",
"title": "初版の成立"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "初版は全4巻、85曲で構成されており、第1巻と第2巻がハンガリー民謡、第3巻と第4巻がスロバキア民謡に基づいている。",
"title": "初版の成立"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "初版の第1巻・第2巻・第3巻は、いずれも平易で親しみやすい子供の歌から始まり、曲集の最後にはフィナーレにふさわしい快活な楽曲が配置されているが、初版 第4巻は抒情歌に始まり「死」をモチーフとしたテンポの遅い楽曲で静かに曲集を終える構成となっている。",
"title": "初版の成立"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "なお、ロジュニャイ社の要望どおり、いくつかの曲はアタッカでつながっており、その部分だけを取り出して小さな組曲のように演奏できるようになっている。なお、アタッカを実行するかどうかは任意(ad lib.)である。",
"title": "初版の成立"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "(接続されている曲については #改訂版の構成#アタッカによる接続 参照。)",
"title": "初版の成立"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "一部の国粋主義的な人たちがスロバキア編に反感を示したとは言え、『子供のために』は発売直後から人気のある作品となった。",
"title": "初版に対する反応"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "ハンガリー国内では、全4巻が完結するより早い段階から、『子供のために』を好意的に取り上げた評論が発表された。その最初のものは、作曲家でピアニスト、文筆家のザーゴン・ヴィルモス・ゲーザ(Zágon Vilmos Géza)が1911年3月に発表した\"Gondolatok régi és új muzsikáról\"(英語: Thoughts on Old and New Music)であり、ザーゴンはハンガリー民謡における教会旋法の豊かな使用などの特徴について触れつつ、民謡を見事に編曲した作品として『子供のために』を紹介している。ザーゴンの同年にモルナール・アンタル(ハンガリー語版)が1911年6月に\"Zenekozlöny\"で『子供のために』初版第1巻~第3巻を取り上げており、コダーイはやや遅れて1921年に『子供のために』についての論文\"Bartok's compositions for Children\"を発表し、作品の音楽的、社会的な意義を説明している。",
"title": "初版に対する反応"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "ロジュニャイ社を含め、当時のハンガリーの楽譜出版社は国外へ販売ルートを持っていなかった。それにもかかわらず、『子供のために』は出版から数年のうちにフランスに紹介された。その立役者となったのは前述のザーゴンである。",
"title": "初版に対する反応"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "バルトーク、コダーイらが1911年に結成しザーゴンもメンバーとして加わった新ハンガリー音楽協会(UMZE)(ハンガリー語版)の活動がわずか1年で頓挫した後、ザーゴンはブダペスト市の奨学金を得て1912年から1914年までフランスに留学した。ザーゴンはそれ以前、1910年にパリでハンガリー音楽を特集した演奏会が開催された際にもフランスを訪れており、この演奏会の企画に関与していた。再びフランスを訪れたザーゴンは、ルイ・ラロワ(フランス語版)やミシェル・ディミトリー・カルヴォコレッシといった音楽関係者に『子供のために』などのバルトークの新作を紹介し、1914年1月23日にはハンガリーの作曲家を特集した演奏会を行って『子供のために』(抜粋)のパリ初演を果たした。",
"title": "初版に対する反応"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "ザーゴンを通じて『子供のために』などのバルトーク作品を知ったラロワは、『子供のために』を特に高く評価し、カルヴォコレッシは、雑誌『ミュージカル・タイムズ』1913年11月号に\"Folk-Song in Modern Music\"と題した記事を発表し、『子供のために』を譜例つきで紹介した。",
"title": "初版に対する反応"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "『子供のために』はピアニスト以外の演奏家からも注目され、1920年代から1930年代には、独奏ヴァイオリンとピアノのための二種類の編曲版(いずれもハンガリー編からの抜粋)が作られた。",
"title": "初版に対する反応"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "その最初のものは、ヴァイオリン奏者のヨーゼフ・シゲティ編曲による1926年の『ハンガリー民謡集』(ハンガリー語: Magyar népdalok hegedűre és zongorára)であり、『子供のために』のハンガリー編から7曲が抜粋されており、1927年にユニヴァーサル社から出版された。バルトークはシゲティに多くの助言を与えるとともに、ピアノパートをヴァイオリンに合うように修正を加えている。",
"title": "初版に対する反応"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "二つ目は、ヴァイオリン奏者のオルサーグ・ティヴァダル(ハンガリー語版)編曲による1934年の『ハンガリー民謡集』(ハンガリー語: Magyar népdalok hegedűre és zongorára)であり、ハンガリー編から9曲が抜粋されており、1934年にロージャヴェルジ社から出版された。この編曲にはバルトークの手が相当入っており、オルサーグ編曲による『ハンガリー民謡集』には「BB109」の作品番号が付けられている。",
"title": "初版に対する反応"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "また、編曲は実現しなかったが、1930年にドイツの音楽教育学者エーリヒ・ドフライン(ドイツ語版)は、『子供のために』の抜粋をヴァイオリン二重奏用に編曲することの許可をバルトークに申し出ている。バルトークはこれに対して、新たに民謡の編曲作品を書き下ろすことを提案し、その結果、『44のヴァイオリン二重奏曲』が作曲された。",
"title": "初版に対する反応"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "『子供のために』が本来の対象としているピアノを学ぶ子供たちの受容については、それを窺い知ることができる資料として、音楽教師 Jolán Bacher によって発行された \"Csabai Akkordok\"(直訳すれば『ベーケーシュチャバの和音』)という、青少年向けのローカルな音楽雑誌がある。1935年10月の同誌には Éva Adler という名の10歳の子供が書いた『子供のために』に関する文章が掲載されており、ピアノを習い始めて1年目には『子供のために』を弾いていたことや、この作品が大好きで、一日中ピアノで弾いたり、ハンガリーやスロバキアの民謡を歌ったりしているという感想が書かれている。なお、第一次世界大戦後生まれの子供にとって、スロバキア(当時はチェコスロバキア)はすでにハンガリー内の地域でなく、外国である。",
"title": "初版に対する反応"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "これとは別に、7歳からピアノを習い始めたというパーストリ・ディッタは、幼い頃に『子供のために』を練習していたと後年に述べている。1903年生まれのディッタが7歳になるのは、『子供のために』スロバキア編出版の1年前にあたる1910年である。なお、この作品を通じてバルトークを知ったディッタは、その後ピアノの腕前を上げて1922年にブダペスト音楽院のバルトークのクラスに入学し、翌1923年にはバルトークの二番目の妻となって周囲を驚かせた。",
"title": "初版に対する反応"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "『子供のために』は、教育的な目的で書かれた作品であるが、ピアニストとしての活動も行ったバルトークは、1920年代を中心に自身のレパートリーに組み込んでコンサートで取り上げた。なお、何曲かを抜粋して演奏する場合、バルトークはハンガリー編とスロバキア編を混ぜることはしなかった。",
"title": "バルトークによる実演"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "『子供のために』の改訂作業は1943年に行われているが、初版の発行以来、前述のシゲティやオルサーグのヴァイオリン編曲への助言、バルトーク自身による演奏活動や、以下に述べる『若いピアノ弾き』の編集などを通してバルトークは作品に関与し続け、改訂のアイデアが温められていた。",
"title": "改訂版の成立"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "1938年、ブダペストのロージャヴェルジ社から、バルトークの過去の教育的作品の抜粋をおさめたピアノ曲集『若いピアノ弾き』(ハンガリー語: Zongorázó ifjúságba、英語: Young People at the Piano)が出版された。この曲集はバルトーク自身が1937年に編集したものであり、『子供のために』からは以下の18曲が収められた。",
"title": "改訂版の成立"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "バルトークはこの曲集を編むにあたって、後の改訂版に引き継がれる重要な変更を行っており、その一つは、初版にはなかったメトロノーム記号と演奏時間を各曲に記載したことである。また、ハンガリー編の第26番は初版では全て3拍子で書かれていたが、「3拍子+3拍子+2拍子」という、バルトークが言うところの「ブルガリアン・リズム」 に変更された。なお、これより先に書かれた『44のヴァイオリン二重奏曲』(1932年)の第19曲「おとぎ話」に同じ旋律が使われており、そこですでに「ブルガリアン・リズム」が採用されている。",
"title": "改訂版の成立"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "バルトークは、第二次世界大戦が勃発した翌年の1940年に、妻ディッタとともに祖国を離れアメリカ合衆国に移住するが、1945年9月26日、白血病のため他界した。バルトークによる『子供のために』の改訂作業は、アメリカ在住中の1943年11月から12月にかけて行われた。『管弦楽のための協奏曲』の作曲を終え、『無伴奏ヴァイオリンソナタ』に着手した頃である。バルトークは1942年には白血病を発症し常に微熱に悩まされていたが、この時期は一時的な小康状態にあった。",
"title": "改訂版の成立"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "バルトークは、当時契約していたブージー&ホークス社から『子供のために』の改訂を打診されるとこれに応えた。アメリカ移住後のバルトークは、ハンガリーやオーストリアからの印税収入が途絶えており、『子供のために』の楽譜をブージー&ホークス社から販売するためには、そのためには改訂版をつくることで新たな著作権を得る必要があったという経済的な事情もある。",
"title": "改訂版の成立"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "バルトークは1944年末に弟子のピアニスト、ヴィルヘルミン・クリールにあてて改訂版出版の見通しを伝えていたが、大戦の影響から出版は遅れ、バルトークの死後、1946年になってニューヨークのブージー&ホークス社(Boosey & Hawks Inc.。ロンドンに本社がある Boosey & Hawks Ltd. のニューヨーク支社。)から出版された。",
"title": "改訂版の成立"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "ハンガリー編、スロバキア編がそれぞれ統合されて、全2巻、79曲で構成された。初版の4つの巻はそれぞれに構成が工夫されていたが、その構成感は失われることとなった。",
"title": "改訂版の成立"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "原曲である民謡自体に、アジアに起源をもつマジャル人(ハンガリー人)と、スラブ系西スラブ族であるスロバキア人という民族のルーツの違いが現れていることに加え、バルトークが選択した民謡や編曲の違いによって、第1巻と第2巻は全体的な曲想に違いがある。",
"title": "改訂版の成立"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "第1巻はテンポの速い躍動感のある曲が多く、第2巻はテンポが遅めで情緒豊かな表現の曲が多い。また、わらべ歌や子供の遊び歌は第1巻には12曲含まれているが第2巻には4曲しかない。こうしたことから、ハンガリー民謡独特のリズムやアクセントのあるエネルギッシュな性格をもつ第1巻に対し、第2巻は渋い印象を与える。また、バルトークの編曲の技法はスロバキア編の方が進んでおり、多声的な処理や、形式面での工夫、より大胆な和音の使用などが見られる。",
"title": "改訂版の成立"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "前述のとおり、いくつかの曲は任意のアタッカでつながっており、以下の9つの小グループを形成している。なお、第2巻の第23番-第24番(初版では第24番-第25番)のグループについては、初版では3曲が接続されていたが、その先頭にあった初版第23番が改訂時に削除され、2曲のグループとなっている。",
"title": "改訂版の成立"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "第1巻",
"title": "改訂版の成立"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "第2巻",
"title": "改訂版の成立"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "改訂にあたり、初版第2巻から2曲(初版第25番、初版第29番)、初版第4巻から4曲(初版第23番、初版第27番、初版第33番、初版第34番)、計6曲が削除された。このうち、初版第4巻の初版第33番と第34番の2曲はコダーイ・エンマ(グリューバー・エンマ)が編曲したもので、残りの4曲は民謡研究を進める中で、古来から伝承された民謡でないとバルトークが判断したものである。",
"title": "改訂版の成立"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "改訂版はアメリカでの販売や演奏を前提としていたことから、巻末に掲載されていたハンガリー語などによる民謡の歌詞は削除され、曲の理解を助けるための代替策として英語のタイトルが一部の曲につけられた。なお、スロバキア編にもとからあったタイトルは一部が変更されている。民謡の歌詞を削除したことにより、改訂版はハンガリーのローカル色が後退し、国際的な性格をもつことになった。",
"title": "改訂版の成立"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "『若いピアノ弾き』と同様に、メトロノーム記号と演奏時間が全ての曲に付けられた。ただし、バルトークは『若いピアノ弾き』の楽譜をアメリカに持ってきていなかったため、両者のメトロノーム記号は必ずしも一致していない。なお、楽譜に記載された演奏時間をトータルすると、第1巻が約35分、第2巻が約36分である。",
"title": "改訂版の成立"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "初学者にとって演奏や読譜が容易になるよう、記譜方法などに変更が加えられた。",
"title": "改訂版の成立"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "一部の曲では拍子や和音などが変更されており、その大きなものは以下のとおりである。",
"title": "改訂版の成立"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "戦後、社会主義国となったハンガリーでは約20年間にわたって改訂版が流通せず、国営の出版社(Zeneműkiadó Vállalatot。現在のエディツィオ・ムジカ・ブダペスト社(ハンガリー語版))が初版に若干の修正を加えた楽譜を出版していたが、1967年になってブージー&ホークス社の改訂版に民謡の歌詞を掲載した、新しい版を出版した。",
"title": "校訂版"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "バルトークの次男ピーター・バルトーク(ハンガリー語版)は、ハンガリーの新しい版をもとにして独自の校訂を行い、1998年に『子供のために I-II』(ハンガリー編)、2000年に『子供のために III-IV』(スロバキア編)を、いずれもエディツィオ・ムジカ・ブダペスト社から出版した。",
"title": "校訂版"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "21世紀に入り、日本では、2005年~2006年にパップ昌子の校訂による音楽之友社版が、2008年には山崎孝の校訂による春秋社版が相次いで出版された。いずれもバルトークの自筆譜などをもとに校訂が行われている。音楽之友社版は民謡の歌詞が原語と日本語の対訳付きで掲載されており、春秋社版は、一部の曲で改訂版と初版が比較できるようになっている。なお、一部とはいえ改訂版と初版の比較が行われた楽譜は春秋社のものが世界初である。",
"title": "校訂版"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "2016年には、ドイツのヘンレ社とエディツィオ・ムジカ・ブダペスト社との共同によるバルトークの批判校訂全集(Complete Edition)の一環として、ヴィカーリウシュ・ラースローとランペルト・ヴェラの校訂による楽譜 \"For Children, for Piano , Early Version and Revised Version\" が出版されている 。この楽譜では全ての曲について改訂版と初版の両方が掲載され、見開きで比較ができるようになっている。また、翌2017年には、ヘンレ社からは全集版に依拠した「原典版」(Urtext)が2分冊で出版されている。原典版では初版と比較する体裁は採られていないが、大きな変更があった曲、改訂版で割愛された曲、バルトークの録音から採譜した楽譜が付録として掲載されている。",
"title": "校訂版"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "前述のとおり、バルトークは改訂の際に調号を付けたが、その際、臨時記号のつけ忘れを見落としてしまったのではないかと疑われる音がいくつかある。その一例としては、第1巻 第15番の途中に出てくる左手の和音(譜例)があり、(1)が初版、(2)が改訂版で、ニ長調の調号(#×2)が付けられている。和音の上から2番目の音は、(1)ではハ音であったが、(2)では調号が適応されて嬰ハ音になっており、(1)と同じ音のまま調号を付けたのであれば(3)のようにナチュラル(♮)が必要となる。1945年のバルトークの自演録音(後述)は、改訂が終わっていた時期であるが、初版と同じハ音で弾いている。",
"title": "校訂版"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "この音について、春秋社版は、改訂版のとおり(2)の嬰ハ音を採用しており、校訂者の山崎はハ音であるとする主張は疑わしいとしている。音楽之友社版の場合は、楽譜は(2)の嬰ハ音を採用しつつ校訂報告でナチュラルのつけ忘れの可能性を指摘している。一方、ヘンレ版では(3)のハ音を採用している。",
"title": "校訂版"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "バルトークが演奏した『子供のために』の録音は、作曲時期に近い1910年代のプライベートなものが2曲、死去の年にあたる1945年に行われたラジオ放送用のものが15曲残されている。",
"title": "主な録音"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "最も古い録音は1910年8月に録音されたスロバキア編 第22番「ばかさわぎ」であり、蝋管式蓄音機に吹き込まれ、同月にあったコダーイとシャーンドル・エンマの結婚祝いとして贈られた。なお、バルトークは驚異的な猛スピードでこの曲を演奏している。蝋管式蓄音機に吹き込まれた録音はもう一曲、1912年5月1日に録音されたと思われるハンガリー編 第10番「子供の遊び」があり、この曲については1945年の録音でも取り上げられている。",
"title": "主な録音"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "1945年の録音はアメリカ合衆国ニュージャージー州で放送されたラジオ番組「コシュート・ハンガリー・ラジオアワー」の放送用音源であり、ハンガリー編からの抜粋が以下のように5曲ずつ3つのセットで演奏されている。なお、アタッカでつながっている曲はハイフンで示している。",
"title": "主な録音"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "1945年の録音については正確な日付が確定しておらず、「1月2日(?)」と疑問符つきでクレジットされてきたが、近年の研究では「5月7日」という説も登場している。いずれにせよ、すでに2年間公式な演奏活動を行っておらず死を数か月後に控えたバルトークが遺した録音であり、戦後に行われた校訂や研究における貴重な資料となっている。",
"title": "主な録音"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "バルトークの死の翌年(1946年)、未亡人となったパーストリ・ディッタは12月にハンガリーに帰国した。帰国後のディッタは15年以上にわたってピアニストとしては引退状態にあったが1950年代末からはレコーディング活動を再開する。その最初となったのが1958年から1959年にかけて行われた『ミクロコスモス』全曲と『子供のために』全曲の録音であり、『子供のために』全曲は1964年にハンガリーのクォリトン・レーベル(英語版)から組み物のLPレコードとして発売された 。",
"title": "主な録音"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "ディッタは『子供のために』改訂版の楽譜を所有していたがこれを使用せず、初版をベースにしつつ一部に改訂版を反映させて演奏した。前述のとおり冷戦下のハンガリーでは1967年までは改訂版の楽譜が販売されておらず、ディッタは国営出版社の利益を考慮して初版を使用した。なお、バルトークの妻であり生徒であったディッタの演奏が、バルトークの理想とする音楽を忠実に再現しているかどうかについては議論が分かれるところである。",
"title": "主な録音"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "LPレコード発売と同年に、ハンガリーの有名な画家レイク・カーロイ(ハンガリー語版)が挿絵を描いたレコード付きの絵本 \"Képeskönyv gyermekeknek\"が出版され、付属するレコードにはディッタの演奏する『子供のために』からの抜粋が収められた。この絵本は2017年にブダペストのMóra社からCDつき絵本として再販されている。",
"title": "主な録音"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "バルトークの死後に生まれたハンガリーのピアニストでは、バルトークのピアノ曲演奏に定評のあるコチシュ・ゾルターン(1952年 - 2016年)が『子供のために』(改訂版全曲)の録音を2回にわたって行っている。旧録音は1981年にハンガリーのフンガロトン(ハンガリー語版)、新録音は1995年にオランダのフィリップス(現在はデッカ)から発売された。また、コチシュと同世代のラーンキ・デジェー(1951年-)は、1977年に『子供のために』全曲を録音している。ハンガリーではその10年前から改訂版に基づく楽譜が出回っていたが、ラーンキは初版で演奏している。",
"title": "主な録音"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "生前のバルトークにとって、『子供のために』は特別な思い入れのある作品であった。",
"title": "新しい世代へ"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "ピアノ教師時代、バルトークは自分の曲をレッスンの教材とすることはほとんどなかったが、生徒がバルトークの曲での指導を強く希望した場合には『子供のために』を指定した。普段のレッスンでは、人を寄せつけない冷酷といえるほどの眼差しで厳しい指導を行うバルトークであったが、『子供のために』を指導するときだけは別で、生徒のそばに立ち、あたかも子供がお気に入りの玩具を見せびらかすときのように、生き生きとした口調で嬉しそうに曲について説明したという。",
"title": "新しい世代へ"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "バルトークの顔に微笑みを見たことのある人はきわめてわずかでした。しかし『子供のために』を教えている時、それを見ることができたのです。。",
"title": "新しい世代へ"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "バルトークは『子供のために』を「私の心にもっとも近い存在」であるとし、また、生涯にわたって「最も好きな作品」と呼んでいた。その理由について、バルトークの生徒であったセーケイ・ユーリアは次のように推測している。",
"title": "新しい世代へ"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "その理由はたぶんこの曲集の中で、彼の最愛の人たち、つまり農民と子供たちをつなげることができたからでしょう。彼自身が年老いた農民から受けた財産を子供たちに、新しい世代へ引き渡すことがこの曲集の目的でしたから。",
"title": "新しい世代へ"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "バルトークの祖国ハンガリーでは第二次世界大戦後、コダーイが提唱した理念に基づく、民謡やわらべ歌を重視した独特の教育が行われ、20世紀末に政治体制が変わった後も引き継がれている。その中にあって、バルトークの作品は高い評価と特別な扱いがなされており、『子供のために』は、コダーイの『ピアノの学校』(ハンガリー語: Zongora Iskola)やバルトークの『ミクロコスモス』を教本としてピアノを学習する初学者が使う併用教材とされたほか、公教育では「国家基準カリキュラム」(ハンガリー語: Nemzeti alaptanterv)において、1-4年生が学ぶ伝統音楽の一つに『子供のために』が位置づけられている。",
"title": "新しい世代へ"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "若い世代のピアニストの中には、幼少時に『子供のために』に触れたことが音楽家の道に進むきっかけの一つになったと公言している者もいる。日本生まれのピアニスト金子三勇士(1989年-)はハンガリー人で教育者でもあった祖母からコチシュが演奏する『子供のために』のCDを贈られるとともにハンガリー式の音楽教育の手ほどきを受けて2歳でピアノを始め、6歳から10年間ハンガリーに留学 、2011年にプロデビューを果たした。デビュー後にはアウトリーチ活動にも力を入れ、『子供のために』を紹介するレクチャーも行っている。また、金子より若いハンガリーのベレッツ・ミハーイ (ハンガリー語版)(1997年-)は6歳でヴァイオリンを始めたが、コチシュの『子供のために』を聴いたことでピアノの練習も始め、デビュー後にはバルトークのピアノ曲の全曲演奏会も行っている。",
"title": "新しい世代へ"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "かつてピアノ教育を専門とする国際的な研究者ヴァロー・マルギット(ハンガリー語版)(1881年-1978年)が、教育音楽にとって革命的であったと高く評価したように、作曲から1世紀以上が経過した今日、『子供のために』は、世界中のピアノを学ぶ人々の糧となっており、コンサート・ピースとしても定着して幅広い層に愛好されている。",
"title": "新しい世代へ"
}
] |
『子供のために』は、ハンガリーの作曲家バルトーク・ベーラ がブダペスト音楽院のピアノ科教授に就任した後の20歳台後半に作曲した、子供や初学者を対象としたピアノ曲集である。旋律にはハンガリーとスロバキアの民謡がほぼそのままの形で使われており、音楽教育を目的とした作品としても民謡の編曲作品としても最初の大規模な曲集である。 1908年から1910年にかけて作曲された初版は全4巻、85曲からなり、ブダペストのロジュニャイ・カーロイ社から出版された。第1巻と第2巻がハンガリー民謡、第3巻と第4巻がスロバキア民謡に基づいている。その約30年後、バルトークがアメリカ合衆国に移住していた最晩年の1943年に作曲者自身による改訂版がつくられ、バルトークの死後、1946年にニューヨークのブージー&ホークス社(本社はロンドン)から出版された。改訂版は、初版の第1巻と第2巻、第3巻と第4巻がそれぞれ統合されて全2巻となり、6曲が削除されて79曲となっているほか、一部の曲では和音や拍子が変更されている。 原曲の民謡(わらべ歌や器楽曲も含む)については、バルトーク自身がハンガリー各地の農村を訪れて採集(蝋管式蓄音機による録音および採譜)したもののほか、『ハンガリー子供の遊戯歌集』や『スロバキア歌集』など、先駆者が収集したものが約半数の曲で使われている。バルトークの編曲は民謡の歌詞の内容や雰囲気をよく表現しており、技法の面では後の『ハンガリー農民歌による8つの即興曲』などに比べれば単純なものであるが、バルトークは曲が単調に陥らないよう様々な工夫を凝らしており、こうした工夫が以後の作品における作曲技法の出発点となっている。曲集の中には音楽的に高度な曲も含まれており、子供や初学者用の教材にとどまらずプロのピアニストのレパートリーにもなっている。バルトーク自身も生涯この曲に愛着をもっており、その抜粋を自身の演奏会で取り上げた。 バルトークの作品番号には複数の分類方法があるが、セーレーシ番号ではSz 42、ショムファイ・ラースローによる番号ではBB 53である。
|
{{Portal クラシック音楽}}
[[File:Bartók Béla Csík megyei vándorútján.jpg|right|thumb|212px|旅行姿のバルトーク(1907年、トランシルヴァニアへの民謡採集旅行){{Sfn|グリフィス|1986|p=41}}]]
『'''子供のために'''』(こどものために、{{lang-hu}}''Gyermekeknek''、{{lang-cz}}''Pro děti''、{{lang-en}}''For Children'')は、[[ハンガリー]]の作曲家[[バルトーク・ベーラ]] ([[1881年]] - [[1945年]])が[[リスト・フェレンツ音楽大学|ブダペスト音楽院]]のピアノ科教授に就任した後の20歳台後半に作曲した、子供や初学者を対象としたピアノ曲集である{{Sfn|伊東|1997|pp=320-321}}。旋律には'''[[ハンガリー]]'''と'''[[スロバキア]]'''の民謡がほぼそのままの形で使われており、音楽教育を目的とした作品としても民謡の編曲作品としても最初の大規模な曲集である{{Sfn|伊東|1997|p=320}}。
[[1908年]]から[[1910年]]にかけて作曲された'''初版'''は全4巻、85曲からなり、ブダペストのロジュニャイ・カーロイ社から出版された{{Sfn|Bartók-Compositions|loc=BB 53}}。第1巻と第2巻がハンガリー民謡、第3巻と第4巻がスロバキア民謡に基づいている{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=77}}。その約30年後、バルトークがアメリカ合衆国に移住していた最晩年の1943年に作曲者自身による'''改訂版'''がつくられ、バルトークの死後、[[1946年]]にニューヨークの[[ブージー・アンド・ホークス|ブージー&ホークス社]](本社はロンドン)から出版された{{Sfn|Bartók-Compositions|loc=BB 53}}。改訂版は、初版の第1巻と第2巻、第3巻と第4巻がそれぞれ統合されて全2巻となり、6曲が削除されて79曲となっているほか、一部の曲では和音や拍子が変更されている{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=77}}。
原曲の民謡(わらべ歌や器楽曲も含む)については、バルトーク自身がハンガリー各地の農村を訪れて採集([[蓄音機|蝋管式蓄音機]]による録音および採譜)したもののほか、『ハンガリー子供の遊戯歌集』や『スロバキア歌集』など、先駆者が収集したものが約半数の曲で使われている{{Sfn|Vikárius|2018|p=206}}。バルトークの編曲は民謡の歌詞の内容や雰囲気をよく表現しており{{Sfn|Parakilas|1995|p=491}}、技法の面では後の『{{仮リンク|ハンガリー農民歌による8つの即興曲|en|Eight Improvisations on Hungarian Peasant Songs}}』などに比べれば単純なものであるが{{Sfn|Lampert|2018|p=197}}、バルトークは曲が単調に陥らないよう様々な工夫を凝らしており{{Sfn|Lampert|2018|p=196}}、こうした工夫が以後の作品における作曲技法の出発点となっている{{Sfn|春秋社版|2008|loc=演奏ノート p. 15}}。曲集の中には音楽的に高度な曲も含まれており、子供や初学者用の教材にとどまらずプロのピアニストのレパートリーにもなっている{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=76}}。バルトーク自身も生涯この曲に愛着をもっており{{Sfn|セーケイ|1992|p=157}}、その抜粋を自身の演奏会で取り上げた{{Sfn|Lampert|2018|p=197}}。
バルトークの作品番号には複数の分類方法があるが、セーレーシ番号では'''Sz 42'''、{{仮リンク|ショムファイ・ラースロー|hu|Somfai László}}による番号では'''BB 53'''である{{Sfn|Bartók-Compositions|loc=BB 53}}{{Refnest|group="注"|ショムファイ・ラースローは[[ハンガリー科学アカデミー]]音楽学研究所バルトーク・アーカイブの元所長(1972年-2004年)であり<ref>{{Cite web|title=Members of the Archives : SOMFAI, László |author =The Budapest Bartók Archives |publisher=Magyar Tudományos Akadémia|year=2023|url=https://zti.hu/index.php/en/ba/staff/70-somfai-laszlo|accessdate=2023-07-02}}</ref>、彼の作品番号(BB)は最も信頼のおけるものとされている{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=95}}。|}}。
== 版による構成の違いと本稿での扱い ==
『子供のために』には、[[1909年]]~[[1911年]]にハンガリーで出版された'''初版'''(全4巻、85曲)と、バルトークがアメリカに移住していた[[1943年]]に改訂され作曲者の死後に[[1946年]]に出版された'''改訂版'''(全2巻、79曲)があり、現在流通している楽譜のほとんどは改訂版である{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=77}}{{Sfn|Ludmany|2019|p=35}}。改訂はいわば「マイナーチェンジ」であり{{Sfn|伊東|1997|p=323}}、曲の内容そのものに大きな変更はないが{{Sfn|春秋社版|2008|loc=演奏ノート p. 14}}、構成や曲の数および順序が変更されている(改訂の詳細については [[#改訂での主な変更点]] 参照。)
初版は、第1巻と第2巻が'''ハンガリー民謡'''、第3巻と第4巻が'''スロバキア民謡'''に基づいており、改訂の際に第1巻と第2巻、第3巻と第4巻がそれぞれ統合されて全2巻となった{{Sfn|伊東|1997|p=322}}。また、初版に含まれていた6曲{{Refnest|group="注"|初版第2巻の2曲および初版第4巻の4曲。}}が改訂版で削除されたことに伴い、曲の順序や番号が一部で変更となった{{Sfn|伊東|1997|p=322}}。
本稿においては、巻数および各曲の番号の混同を避けるため、曲のタイトルも含めて'''改訂版の番号'''を用い、初版の巻数や曲番号を使用する必要がある場合は初版であることを併記する。また、初版の第1巻および第2巻(改訂版第1巻)を「'''ハンガリー編'''」、第3巻および第4巻(改訂版第2巻)を「'''スロバキア編'''」と表記する場合がある。
{| class="wikitable" style="font-size:small"
|+ 改訂による構成の変更{{Sfn|伊東|1997|p=322}}
! colspan="2"|初版 !! colspan="2"|改訂版 !! 備考
|-
| 第1巻 || 第1番~第21番 || rowspan="7"|第1巻 || 第1番~第21番 ||番号に変更なし。
|-
| rowspan="6"|第2巻 || 第22番~第24番 || 第22番~第24番 ||番号に変更なし。
|-
| 第25番 || '''削除''' ||
|-
| 第26番~第27番 || 第26番~第27番 ||番号に変更なし。
|-
| 第28番 || 第'''25'''番 || 改訂版では番号が3つ繰り上がる。
|-
| 第29番 || '''削除'''
|-
| 第30番~第42番 || 第'''28'''番~第'''40'''番 || 改訂版では番号が2つ繰り上がる。
|-
| 第3巻 || 第1番~第22番 ||rowspan="8"| 第2巻|| 第1番~第22番 ||番号に変更なし。
|-
| rowspan="7"| 第4巻|| 第23番 || '''削除'''
|-
| 第24番~第26番 || 第'''23'''番~第'''25'''番 || 改訂版では番号が1つ繰り上がる。
|-
| 第27番 || '''削除'''
|-
| 第28番~第32番 || 第'''26'''番~第'''30'''番 || 改訂版では番号が2つ繰り上がる。
|-
| 第33番 || '''削除''' ||
|-
| 第34番 || '''削除'''
|-
| 第35番~第43番 || 第'''31'''番~第'''39'''番 || 改訂版では番号が4つ繰り上がる。
|}
== 教育的作品として ==
=== 教育的作品に対するバルトークの考え ===
[[File:Robert-schumann.jpg|right|thumb|110px|シューマン]]
『子供のために』は、初版の副題に「ピアノ初心者のための小品集(オクターブ内の){{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=7}}」({{lang-hu}}"''Apró darabok kezdő zongorázóknak (oktávfogás nélkül)''"{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=54}})とあるように、ピアノを学習する子供や経験の浅い初学者が演奏することを前提とした教育的作品である{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=76}}。ただし、体系的なピアノの学習を目的とした教則本や[[練習曲]]ではなく{{Sfn|加勢|1981|p=38}}{{Sfn|Lampert|2018|p=196}}、子供や初学者が技術的に無理なく、質の高い現代の音楽に親しむことができる教材という位置づけである{{Sfn|加勢|1981|p=38}}{{Sfn|Lampert|2018|p=193}}。
バルトークは、作曲家としての活動の初期からこうした分野の作品を書くことに関心をもっていたと晩年に述べており{{Refnest|group="注"|バルトークが[[1940年]]にアメリカで行った講演 "Contemporary Music in Piano Teaching" による{{Sfn|Parakilas|1995|p=497}}。}}{{Sfn|Parakilas|1995|p=476}}、その動機として、子供や初学者向けの易しい楽曲に優れた作品がほとんどないことを懸念していたからだと説明している{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=76}}。また、同時にバルトークは、そのわずかな例外である優れた作品として、[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|J.S.バッハ]]の簡単な楽曲や[[ロベルト・シューマン|シューマン]]の『[[子供のためのアルバム|ユーゲントアルバム]]』を挙げている{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=76}}{{Sfn|Parakilas|1995|p=476}}{{Refnest|group="注"|『[[ミクロコスモス (バルトーク)|ミクロコスモス]]』には、バッハとシューマンをそれぞれ讃えた曲がある{{Sfn|グリフィス|1986|p=183}}。}}。
=== 技術面での教育的配慮 ===
[[File:Piano practice hands.jpg|right|thumb|200px|ピアノを弾く子供]]
==== オクターブへの配慮 ====
自身が優れたピアニストであり音楽大学のピアノ科教授でもあったバルトークは、『子供のために』においては、子供や初学者のために[[運指#鍵盤楽器|指づかい]]を細かく配慮している。副題の「[[オクターヴ|オクターブ]]内の」という言葉どおり、手が小さくて1オクターブ離れた鍵盤に指が届かなくても全ての曲が演奏できるように書かれており{{Sfn|Ludmany|2019|p=37}}、1オクターブ離れた鍵盤を同時に押さえる音を使う場合は、譜例のように()で省略しても構わない音が示されている{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=19}}。
(ハンガリー編 第23番 第56小節-、左手)
:<score>
\relative {\clef bass \time 2/4
<g, \parenthesize g'>-. <g \parenthesize g'>-. |<g \parenthesize g'>_( <g' c,>) \bar "|."
}
</score>
==== 指番号 ====
指づかいを示す「指番号」{{Refnest|group="注"|「1-5」の数字が親指から小指に対応している。}}が細かく丁寧に記入されている。次の譜例の3小節目は、1小節目と全く同じ音の動きと指づかいであるため、本来は指番号の必要はないが、子供向けの配慮としてここにも指番号を記している{{Sfn|Ludmany|2019|p=61}}。なお、教育を目的としないバルトークのピアノ曲では指番号の記入は必要最小限にとどめられており、例えば『[[ピアノソナタ (バルトーク)|ピアノソナタ]]』第1楽章の場合、指番号が最初に出てくるのは楽譜{{Refnest|group="注"|[[ウニヴェルザール出版社|ユニヴァーサル社]]の出版譜{{Sfn|Ludmany|2019|p=18}}。}}が6ページ目に入ってからである{{Sfn|Ludmany|2019|p=18}}。
(ハンガリー編 第17番「ラウンド・ダンス」 第1小節-)
:<score>
\relative c' { \time 4/4 \clef treble \key e \minor \tempo "Lent" 4 = 70
e4-1( b'8-4) b-4 b4-3( a) | b4( g8-1) g-3 fis4( e) | e4-1( b'8-4) b-4 b4-3( a)
}
</score>
指づかいについては、演奏のしやすさだけでなく音楽表現も考慮されており{{Sfn|Ludmany|2019|p=46}}、次の譜例では、山型のアクセント(とフェルマータ)がつけられている高い[[嬰ハ]]音を、前後の音とつながりの良い小指ではなく、力の入れやすい中指(指番号「3」)で弾かせることで、指番号のとおりに演奏すれば無意識のうちにアクセントがつくように工夫されている{{Sfn|Ludmany|2019|p=54}}。
(ハンガリー編 第25番「ラウンド・ダンス」 第3小節-)
:<score>
\relative c'' {
\new Staff
{ \key b \minor \time 3/4
b8-3[ b-2 cis b b\>-3 e,] | g4-3( fis2)\! |
cis'4.\fermata^^-3 b8 e,\>-1 fis | g e e-2\! g-4~ g4\fermata \bar "||" }}
</score>
==== テンポ設定 ====
テンポについても子供にとっての弾きやすさが考慮されており{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=77}}、改訂の際には一部の速いテンポの曲で初版よりも遅い指示に改められている{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=94}}。ただし、バルトークの自作自演の録音(後述)では、改訂版で「♩=140」の指定がある第1巻第6曲「左手の練習」を「♩=169」で演奏しているように{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=52}}、一部の曲では楽譜の指定と異なるテンポが採られている{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=52}}{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=77}}。
==== 曲集の難易度 ====
曲集の難易度は「初級向け」とされるが{{Refnest|group="注"|例えば、[[音楽之友社]]の場合、15段階のうち「初級1から初級2」に設定している{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=96}}。}}、実際には意外に難しいとされる{{Sfn|春秋社版|2008|loc=演奏ノート p. 15}}{{Sfn|結束|2017|p=141}}{{Sfn|加勢|1981|p=38}}{{Sfn|Lampert|2018|p=197}}。その要因としては、[[対位法]]的な書法や伴奏におけるリズムの変化といった技術的なことのほか{{Sfn|結束|2017|p=141}}、独特なリズムなど東欧の民俗音楽の特徴の表現や、外国の民謡における言葉のイントネーションの理解など文化的なことが挙げられる{{Sfn|結束|2017|p=141}}{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=77}}。また、曲集中には後年の作品を先取りしたような曲も含まれており{{Refnest|group="注"|伴奏の和音が主題の旋律から独立的な音響となっているスロバキア編 第34番「お別れ」など{{Sfn|伊東|1997|p=326}}、スロバキア編の後半に多く見られる{{Sfn|春秋社版|2008|loc=演奏ノート p. 15}}。}}
{{Sfn|春秋社版|2008|loc=演奏ノート p. 15}}{{Sfn|Lampert|2018|p=198}}、そうした一部の曲は音楽的には子供向けの域を超えたものになっているが{{Sfn|春秋社版|2008|loc=演奏ノート p. 15}}、かえって、この曲集が子供に限らず大人も含めた幅広い層に愛好されることになっている{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=76}}。
=== 教育的作品と民謡 ===
[[File:Bartalus István.jpg|right|thumb|120px|バルタルシュ・イシュトヴァーン]]
バルトークは『子供のために』以外にも、子供や楽器の初学者を対象とした教育的な作品を複数作曲している(下の表を参照){{Sfn|パップ|2016|p=55}}。バルトーク自身が、教育目的の曲には民謡が適していると語っているとおり{{Sfn|Parakilas|1995|p=477}}{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=76}}、それらの作品では曲集の全部または一部に民謡が使われている。中でも、『子供のために』は全曲が民謡の編曲であり、教育目的の作品としても民謡の編曲作品としても初の大規模な作品である{{Sfn|パップ|2016|p=76}}。なお、バルトークの最後の教育的な作品となったピアノ曲集『[[ミクロコスモス (バルトーク)|ミクロコスモス]]』の場合は、体系的にピアノのテクニックを学ぶことを目的としているためオリジナルのテーマが中心に使われており、民謡編曲はごくわずかにとどめられている{{Sfn|NAKAHARA|2016|p=10}}{{Sfn|伊東|2012a|p=321}}{{Sfn|春秋社版|2008|loc=演奏ノート p. 14}}{{Refnest|group="注"|{{仮リンク|ランペルト・ヴェラ|hu|Lampert Vera}}の研究によれば、全153曲ある『ミクロコスモス』のうち「民謡編曲」と呼べるものは4曲のみである{{Sfn|Folk Music (Intro)|loc=table2}}{{Sfn|伊東|2012a|p=321}}。}}。
民謡を教育的な音楽に使うというアイデアはバルトークに始まったものではなく{{Refnest|group="注"|シューマンの『ユーゲントアルバム』(第二版)に収録された、若い音楽家に向けた箴言集『音楽的家訓と処世訓』(『音楽の座右銘』{{Sfn|結束|2017|p=143}})({{lang-de}}''Musikalische Haus- und Lebensregeln'')(もともとはシューマンが自身の雑誌『新音楽時報』({{lang-de}}''Neue Zeitschrift für Musik''))』で発表した文章{{Sfn|土井|2017|p=49}})には、「あらゆる民謡を熱心に聴きなさい。それらは美しい旋律の宝庫でもあり、またあなたに様々な国民性を見せてくれます{{Sfn|土井|2017|p=49}}。」というメッセージがある{{Sfn|Parakilas|1995|p=484}}。}}、ヨーロッパ各地で[[1848年革命|革命]]が起こった1848年{{Refnest|group="注"|シューマンが『ユーゲントアルバム』を作曲した年でもある{{Sfn|土井|2017|p=49}}。}}以降、ヨーロッパの各国では民謡を編曲したピアノ用の教材が目立つようになっていた{{Sfn|Parakilas|1995|p=485}}。1860年代のハンガリーでは、{{仮リンク|バルタルシュ・イシュトヴァーン|hu|Bartalus István}}が、収集した民謡を編曲したピアノ曲集”Gyermek lant”(直訳すれば『子供の竪琴』){{Sfn|Parakilas|1995|p=482}}、”Gyermek dalhon”(直訳すれば『子供の歌』)という{{Sfn|Parakilas|1995|p=497}}、『子供のために』を先取りしたような作品を出版している{{Sfn|Parakilas|1995|p=482}}。
{| class="wikitable" style="font-size:small"
|+ バルトークの教育的作品{{Sfn|パップ|2016|p=55}}
! 作曲年 !! タイトル !! ジャンル !! 備考
|-
| style="width:7em;"|1908年 || style="width:26em;"|『{{仮リンク|10のやさしい小品|hu|10 könnyű zongoradarab (Bartók)}}』BB 51||style="width:6em;"|ピアノ||
|-
| 1908-1910年 || 『'''子供のために'''』BB 53||ピアノ||
|-
|1913年 || 『ピアノ教本』{{Refnest|group="注"|『ピアノ教本』という訳は英語版のタイトルによる。ハンガリー語のタイトルは"Zongora Iskola"(『ピアノの学校』)であり、戦後のハンガリーで使用されている教本と同名であるが全くの別物である<ref> {{Cite journal|和書|author=吉名重美|title=ピアノ教則本についての考察 I : バルトークとレショフスキーのピアノメソードについて|journal=島根大学教育学部紀要(人文・杜会科学)|volume=22|issue=1|publisher=島根大学教育学部|year=1988|pages=7-15|url=https://ir.lib.shimane-u.ac.jp/949}}p. 8</ref>。}}BB 66 || ピアノ || {{仮リンク|レショフスキー・シャンドール|hu|Reschofsky Sándor}}との共著
|-
| rowspan="3"|1915年 || 『{{仮リンク|ルーマニアのクリスマスの歌|hu|Román kolindadallamok}}』BB 67 ||ピアノ||
|-
|『[[ルーマニア民俗舞曲]]』BB 68 || ピアノ||
|-
|『[[ソナチネ (バルトーク)|ソナチネ]]』BB 69|| ピアノ||
|-
|1929年||『ピアノ初心者のために』BB 66|| ピアノ || 『ピアノ教本』から18曲を抜粋
|-
|1931-1932年 || 『[[44のヴァイオリン二重奏曲]]』BB 104||ヴァイオリン||
|-
|1935-1936年||『27の二部および三部の合唱曲』BB 111a||児童合唱||
|-
|1938年||『若いピアノ弾き』 || ピアノ ||『10のやさしい小品』からの4曲および『子供のために』からの18曲。全2巻
|-
|1926年、<br />1936-1939年||『[[ミクロコスモス (バルトーク)|ミクロコスモス]]』BB 105 ||ピアノ ||全6巻、153曲
|}
==民謡編曲作品として==
=== 『子供のために』に使われた民謡 ===
==== 大規模な民謡編曲作品 ====
{{仮リンク|ランペルト・ヴェラ|hu|Lampert Vera}}の研究によれば、バルトークが生涯に編曲した民謡は約310曲あるが{{Sfn|Folk Music (Intro)|loc=table2}}、79曲(初版では85曲)の民謡が編曲された『子供のために』はその約4分の1を占めており{{Sfn|Lampert|2018|p=193}}、数の上で群を抜いている{{Sfn|Lampert|2018|p=193}}{{Sfn|Folk Music (Intro)|loc=table2}}。『子供のために』の原曲となった民謡は、バルトークが自らの足でハンガリー各地の農村を回って採集(録音・採譜)したもののほか、先駆者が採集したものが使われている{{Sfn|Vikárius|2018|p=206}}。
==== バルトークの民謡採集 ====
[[File:Austria Hungary ethnic.svg|right|thumb|300px|1910年頃の[[オーストリア=ハンガリー帝国]]における民族分布。緑色が[[マジャル人]](ハンガリー人)、ハンガリー北方の茶色が[[スロバキア人]]、ハンガリー東方のオレンジ色が[[ルーマニア人]]。]]
[[1904年]]、作曲家兼ピアニストとして活動していた若きバルトークは{{Sfn|グリフィス|1986|p=55}}、{{仮リンク|ゲメル県|hu|Gömör és Kishont vármegye}}のゲルリツェ(現在はスロバキアの [[:sk:Hrlica|Hrlica]])に滞在していたときに、[[トランシルヴァニア]]出身の女性ドーサ・リディが口ずさんでいたハンガリー民謡を聴いてその価値に気づいた{{Sfn|グリフィス|1986|pp=34-34}}{{Sfn|伊東|1997|pp=20-22}}{{Sfn|パップ|2015|p=10}}。バルトークは、すでに民謡研究を始めていた[[コダーイ・ゾルターン]]に研究の方法を学ぶと、[[1906年]]の夏以降{{Refnest|group="注"|バルトークは1905年にパリで開催された{{仮リンク|ルビンシュタイン・コンクール|en|Anton Rubinstein Competition}}で入賞できなかった{{Sfn|グリフィス|1986|pp=60-61}}ことをきっかけとして民謡採集と研究にのめり込んだ{{Sfn|小畑|1981|p=114}}。}}、[[蓄音機|蝋管式蓄音機(フォノグラフ)]]を携えて各地の農村をめぐり{{Refnest|group="注"|バルトークは都市文化の影響を受けていない民謡を集めるため、主要な交通路からできるだけ離れた村をめぐった{{Sfn|グリフィス|1986|p=37}}{{Sfn|太田|2007|p=165}}。}}、本格的な民謡採集を行った{{Sfn|横井|2006|pp=116-117}}。
当時のハンガリー([[ハンガリー王国]])は、現在のスロバキアやルーマニア西部など広い範囲を領域とする[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の一部であり{{Sfn|パップ|2015|pp=4-5}}、バルトークが採集した民謡には狭義のハンガリー民謡(マジャル民謡)のみならず、スロバキア民謡、ルーマニア民謡など様々な民謡が含まれている{{Refnest|group="注"|[[第一次世界大戦]]後の[[トリアノン条約]]でハンガリーの領土が縮小すると民謡採集は困難なものとなった。なお、バルトークが生涯に採集した民謡の数は、ハンガリー民謡が2721だったのに対し、スロバキア民謡が約3200、ルーマニア民謡が約3500と、非マジャル系がハンガリー民謡を上回っている{{Sfn|パップ|2016|p=54}}。}}。
バルトークは、1906年には{{仮リンク|ドゥナーントゥール|hu|Dunántúl}}や[[ペシュト県]]などで1000曲以上のハンガリー民謡を、現在は[[スロバキア]]に含まれる{{仮リンク|ゲメル-キシュホント県|hu|Gömör és Kishont vármegye}}で約300曲のスロバキア民謡を採集し{{Sfn|Richter|2021}}、翌1907年には[[トルナ県]]のフェルシェーイレグ (現在の{{仮リンク|イレグセムチェ|hu| Iregszemcse}})や、現在は[[ルーマニア]]に含まれる[[トランシルヴァニア|トランシルヴァニア地方]]において約700曲のハンガリー民謡を採集した{{Sfn|Richter|2021}}。『子供のために』には、こうした時期に採集された民謡が使われており、特に、民謡の宝庫{{Sfn|グリフィス|1986|p=40}}であったフェルシェーイレグ(''Felsőireg'')で採集された民謡は{{Refnest|group="注"|フェルシェーイレグでは、1906年9月に66曲{{Sfn|collections|loc=1906}}、1907年3月から4月にかけて258曲の民謡を採集している{{Sfn|collections|loc=1907}}。}}、ハンガリー編の9曲に使われている{{Refnest|group="注"|フェルシェーイレグで採集した民謡に基づく作品は、ハンガリー編の第30番「ひやかし歌」、第39番(以上、1906年9月に採集)、第7番「遊びの歌」、第15番、第17番「ラウンド・ダンス」、第20番「お酒の歌」、第21番、第37番「豚飼いの歌」、第40番「豚飼いの踊り」(以上、1907年4月に採集)。}}。
==== 先駆者が収集した民謡 ====
[[File:Kiss Áron 1908-43.JPG|right|thumb|140px|キシュ・アーロン]]
バルトークは、相当な数の民謡を採集していたが{{Sfn|Lampert|2018|p=193}}、『子供のために』を構成する曲の約半数を、すでに出版されていた民謡集などから選んで編曲した{{Sfn|Vikárius|2018|p=206}}。
ハンガリー編では、{{仮リンク|キシュ・アーロン|hu|Kiss Áron (tanár)}}が1891年に出版した『ハンガリー子供の遊戯歌集』({{lang-hu}}''Magyar gyermekjáték-könyv''){{Sfn|Kiss Áron}} {{Refnest|group="注"|キシュは1883年の全国教員大会において、教育のために全国のわらべ歌と子供の遊びを収集することを提案し{{Sfn|室町|2013|p=50}}、全国の教師の協力を得てわらべ歌や子供の遊びを収録した{{Sfn|Kiss Áron}}。}}から10曲が使用されているほか{{Refnest|group="注"|ハンガリー編の第2番「子供の歌」、第3番、第4番、第5番「遊び」、第6番「左手の練習」、第8番「子供の遊び」、第9番「歌」、第10番「子供の踊り」、第11番、第12番。}}、同時代の作曲家でバルトークにとって民謡研究の先輩である[[コダーイ・ゾルターン]]{{Refnest|group="注"|コダーイはバルトークより1歳年下であったが{{Sfn|伊東|1997|p=23}}、すでに論文『ハンガリー民謡のストローフ構造』を発表しており{{Sfn|伊東|1997|p=24}}、バルトークは民謡研究の方法についてコダーイから指導を受けた{{Sfn|太田|2017|p=31}}。}}が収集した民謡が3曲{{Refnest|group="注"|ハンガリー編の第24番、第27番「冗談」、第28番「合唱曲」。}}、{{仮リンク|クン・ラースロー|de|László Kún}}収集のものが2曲{{Refnest|group="注"|第1巻の第19番と第22番}}、バルタルシュ・イシュトヴァーン、{{仮リンク|ヴィカール・ベーラ|hu|Vikár Béla}}{{Refnest|group="注"|ヴィカール・ベーラは、ハンガリーにおいて蝋管式蓄音機を使った民謡収集の方法を初めて確立した言語学者である{{Sfn|鈴木|2020|p=19}}{{Sfn|太田|2007|p=145}}。}}、{{仮リンク|セベスチェン・ジュラ|hu|Sebestyén Gyula (folklorista)}}収集のものがそれぞれ1曲ずつ使われている{{Refnest|group="注"|バルタルシュ・イシュトヴァーン:ハンガリー編の第26番。ヴィカール・ベーラ:ハンガリー編の第36番「酔っぱらいの歌」、セバスチェン・ジュラ:ハンガリー編の第38番「レゲシュの歌」。}}{{Refnest|group="注"|改訂版で削除された初版第29番は、{{仮リンク|パローチ・ホルヴァート・アダム|hu|Pálóczi Horváth Ádám}}が収集したものが使われていた。}}。
スロバキア編では39曲(改訂版)のうち20曲で『スロバキア歌集』({{lang-hu}}''Slovenské spevy'' )に掲載された民謡が使われている{{Refnest|group="注"|初版では43曲中の21曲。改訂で削除された初版第33番の原曲が『スロバキア歌集II』から採られている。}}。同書は、{{仮リンク|ヤン・カダヴィ|sk|Ján Kadavý}}が編纂した1882年の 『スロバキア歌集I』と{{Sfn|Ambrózová|2021|p=106}}、{{仮リンク|カロル・ルッペルト|sk|Karol Ruppeldt}}他が編纂した1889年の 『スロバキア歌集II』があり{{Sfn|Ambrózová|2021|p=106}}{{Refnest|group="注"|1926年に『スロバキア歌集III』が出版されている{{Sfn|Ambrózová|2021|p=106}}。}}、 『スロバキア歌集I』からは12曲{{Refnest|group="注"|スロバキア編の第1番、第2番、第6番「ラウンド・ダンスI」、第10番「埋葬の歌」、第12番、第13番、第15番「バグパイプI」、第17番、第19番「ロマンス」、第20番「鬼ごっこ」、第22番「ばかさわぎ」、第28番。}}、 『スロバキア歌集II』からは8曲が使われている{{Refnest|group="注"|スロバキア編の第5番、第7番「悲しみ」、第8番「踊り」、第9番「ラウンド・ダンスII」、第18番「おはやし歌」、第30番「バグパイプII」、第32番。}}。
スロバキア編ではこのほか、{{仮リンク|カロル・アントン・メドヴェツキー|sk|Karol Anton Medvecký}}の『ジェトヴァ論集』から3曲{{Refnest|group="注"|スロバキア編の第31番、第36-37番「ラプソディ」。}}、{{仮リンク|ミクラーシュ・シュナイダー=トラナヴィスキー|sk|Mikuláš Schneider-Trnavský}}収集によるものが1曲使われている{{Refnest|group="注"|スロバキア編の第34番}}。
=== 使われた民謡の種類 ===
[[File:Bartok recording folk music.jpg|right|thumb|300px|スロバキアの農村で民謡を録音するバルトーク(左から4人目)(1907年){{Sfn|伊東|1997|p=25}}]]
『子供のために』に使われた民謡{{Refnest|group="注"|バルトークは民謡のことを、「民俗音楽」({{lang-hu}}''népzene'')ではなく、「'''農民音楽'''」({{lang-hu}}''parasztzene'')という呼び方を好んで使った{{Sfn|太田|2007|p=153}}。}}は多岐にわたっており、わらべ歌から、滑稽な冗談歌、兵士の望郷の歌、恋愛の歌、さらには飲酒、殺人や死、下品で猥雑な内容など、子供向けでない内容の歌も含まれている{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=79}}。また、器楽曲が2曲含まれている{{Refnest|group="注"|ハンガリー編の第40番「豚飼いの踊り」、スロバキア編の第26番「農夫の縦笛」は、笛の旋律が原曲である。}}。
バルトークは、『子供のために』を練習する子供たちがオリジナルの民謡も歌えるよう{{Sfn|Parakilas|1995|p=490}}、初版の楽譜の巻末に民謡の歌詞を掲載した{{Sfn|Parakilas|1995|p=490}}。出版にあたり下品な歌詞や性的な歌詞については「不適切」として割愛されたが{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=80}}、バルトークはそうした内容の歌の価値も認めていたため割愛を残念がったという{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=80}}{{Refnest|group="注"|歌詞が不適切とされた民謡についても、ランペルト・ヴェラとヴィーカリウシュ・ラースローの研究によって明らかになっている{{Sfn|Ludmany|2019|p=35}}。}}{{Refnest|group="注"|バルトークは機嫌がよいときにはこうした民謡を皆の前で歌い、上品なご婦人がたを困らせたという{{Sfn|P.バルトーク|1992|pp=261-264}}。}}。なお、ハンガリーやスロバキアで歌われていた「教育的に好ましくない」とされる民謡について、バルトークは著作の中で次のように記している{{Refnest|group="注"|引用した文章はスロバキアの農民について書かれたもの。バルトークによれば、こうした歌詞の民謡が歌われていたことはハンガリーでも同様であったが、ハンガリーよりもスロバキアの方がそうした民謡が多かったと記している{{Sfn|バルトーク音楽論集|1988|pp=156-157}}。}}。
{{Quotation|
十六、七歳の娘たちでさえもが、そうした信じがたいまでにあけすけな歌詞の歌を、最も自然に、およそ淑女ぶることなく私に歌ってくれたものでした。(略)しかし農民たちは、はっきりと「自然なことは決していやらしいことではない」という考えを支持しています。(略)そのような歌は、それを公にするのは困難ですが、学術的観点からは非常に価値のあるものですし、また重要なものです{{Sfn|バルトーク音楽論集|1988|pp=156-157}}。
|『バルトーク音楽論集』(スロバキアの民族音楽)pp.156-157
}}
=== 『子供のために』における民謡編曲 ===
==== バルトークの民謡編曲 ====
[[File:A natural opal gemstone in a silver ring.jpg|right|thumb|220px|バルトークは民謡の旋律を宝石に例えた{{Sfn|グリフィス|1986|p=40}}。]]
バルトークの民謡編曲は、民謡の旋律をほぼそのまま使い{{Sfn|グリフィス|1986|p=40}}{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=76}}、そこに独自の簡潔な伴奏を加える手法が採られており{{Sfn|伊東|1997|p=326}}、バルトークはこうした編曲方法を「宝石の台づくり」に例えていた{{Sfn|グリフィス|1986|p=39}}{{Sfn|Lampert|2018|p=192}}。「宝石の台」である伴奏は、主に和音や分散和音、対旋律であるが{{Sfn|春秋社版|2008|loc=演奏ノート p. 15)}}{{Sfn|Lampert|2018|pp=200-201}}、そこには[[フランツ・リスト|F.リスト]]のピアノ曲のような[[ロマン派]]風の華麗な装飾は排されている{{Sfn|小畑|1981|p=114}}{{Sfn|グリフィス|1986|p=40}}。
後にバルトークは「旋律がプリミティヴなものであれば、それだけ風変りな和声や伴奏をつける事が出来る{{Sfn|太田|2007|p=165}}」と述べているが{{Refnest|group="注"|バルトークが1931年に行った講演{{Sfn|太田|2007|p=165}}。}}{{Sfn|太田|2007|p=165}}、そうした民謡編曲の究極の姿である{{Sfn|伊東|1997|p=331}}{{Sfn|Lampert|2018|p=198}}『{{仮リンク|ハンガリー農民歌による8つの即興曲|en|Eight Improvisations on Hungarian Peasant Songs}}』(1920年)では、伴奏がもはや旋律と無関係な独自の音響を作り出すまでになっている{{Sfn|伊東|1997|p=331}}。
そうした後の作品に比べれば『子供のために』の編曲は単純明解であり{{Sfn|Lampert|2018|p=197}}、民謡に歌われている、娘を結婚で手放す親の悲しみや{{Refnest|group="注"|ハンガリー編 第3番、第11番、第17番「ラウンド・ダンスI」{{Sfn|Parakilas|1995|p=491}}。}}恋人の行方を探す少年の不安{{Refnest|group="注"|スロバキア編 第19番「ロマンス」、第24番{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=74}}。}}、酔っ払いの醜態{{Refnest|group="注"|ハンガリー編 第36番「酔っぱらいの歌」{{Sfn|Parakilas|1995|p=491}}。}}など、歌詞の内容や雰囲気がうまく表現されており{{Sfn|Parakilas|1995|p=491}}{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=74}}、歌詞がバラード風に進む民謡では、ストーリーに合わせて音楽を展開させる工夫がされている{{Refnest|group="注"|ハンガリー編 第39番やスロバキア編 第35番「バラード」{{Sfn|Parakilas|1995|p=491}}。}}{{Sfn|Parakilas|1995|p=491}}。
==== 単調さを避けるための工夫 ====
バルトークは作品が単調なものとならないよう様々な工夫を行っており{{Sfn|Lampert|2018|p=196}}、単純な構造の短い民謡であっても、旋律全体、あるいは旋律後半が繰り返されるときは{{Refnest|group="注"|ハンガリー民謡の慣例として後半の旋律がリフレインされる{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=77}}。}}ほとんどの場合で伴奏に変化をつけている{{Sfn|Lampert|2018|p=198}}。また、[[三部形式]]{{Refnest|group="注"|ハンガリー編 第5番「遊び」}}や[[カノン (音楽)|カノン]]{{Refnest|group="注"|スロバキア編 第29番「カノン」}}、ラプソディ([[狂詩曲]]){{Refnest|group="注"|スロバキア編 第36-37番「ラプソディ」}}、[[変奏曲]]などの既存の様式に民謡を当てはめた例もある{{Sfn|Lampert|2018|pp=197-198}}。このうち変奏の手法については、「変奏曲」というタイトルのついたスロバキア編 第5番「変奏曲」だけでなく、ハンガリー編 第39番、スロバキア編 第21番「冗談I」、第35番「バラード」などにも使われており{{Sfn|Lampert|2018|pp=197-198}}、スロバキア編 第21番「冗談I」では長調の旋律が途中で短調に移調されている{{Sfn|Lampert|2018|p=198}}。この他、ハンガリー編 第29番「五音音階の旋律」では、民謡の旋律を別の旋律による前奏・間奏・後奏で挟み込む形式をとっている{{Sfn|Lampert|2018|p=198}}。
==== ドビュッシーの「発見」と民謡に基づく新しい響き ====
[[File:Claude Debussy ca 1908, foto av Félix Nadar.jpg|right|thumb|140px|ドビュッシー(1908年)]]
その一方で『子供のために』には、民謡の特徴に基づいた、バルトーク独自の近代的な技法も使われている。
バルトークは民謡の採集・研究を通じて、ハンガリー民謡に原始的な[[五音音階]]や古い[[教会旋法]]が使われていることを見出していたが{{Sfn|小畑|1981|p=116}}、『子供のために』の作曲に着手する前年の[[1907年]]、バルトークは[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]の音楽の中にも五音音階や旋法が使われていることを「発見」し{{Refnest|group="注"|1907年の夏にコダーイがパリから持ち帰ったドビュッシーの楽譜を見たことによる{{Sfn|グリフィス|1986|pp=70-72}}。}}{{Sfn|バルトーク音楽論集|1988|p=19}}{{Sfn|グリフィス|1986|p=72}}{{Sfn|小畑|1981|p=116}}、ハンガリー民謡が、[[長調]]・[[短調]]という古典的な[[調性]]から解放された新しい音楽をつくる糸口となることに気づいた{{Sfn|グリフィス|1986|p=77}}{{Sfn|小畑|1981|p=114}}{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=74}}{{Sfn|バルトーク音楽論集|1988|p=18}}。
{{Quotation|
ここにはまだ民俗音楽が豊かにある。それがドイツにおいて危険な程に老化してしまった音楽に新鮮な血を注ぎ込むだろう{{Sfn|太田|2007|p=156}}。
|1909年にバルトークが妻にあてた手紙{{Sfn|太田|2007|p=155}}
}}
このため、『子供のために』の各曲の伴奏は、必ずしも古典的な[[和声法]]に従っていない{{Sfn|小畑|1981|p=116}}{{Refnest|group="注"|「V([[属和音]])→IV([[下属和音]])→I([[主和音]])」という進行や{{Sfn|小畑|1981|p=116}}、旋法に由来する[[非和声音|変位音]]などが見られる{{Sfn|小畑|1981|p=116}}。}}。次の譜例では、[[ミクソリディア旋法]]による旋律を{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=92}}、[[完全四度|四度]]の積み重なった和音の転回形が伴奏している{{Sfn|小畑|1981|p=116}}。
(ハンガリー編 第40番「豚飼いの踊り」 第16小節-)
:<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c'''' { \clef treble \key c \major \time 2/4
g4-^( d8-.) g | f-. e-. d4^^-- | c8-.^> b16( c d c b c | d4--) d-- | }
\new Staff = "LH" \relative c' { \key c \major \time 2/4 \clef bass
<g f c>8^^ <c g f>4 <c g f>8 |<g f c>8^^ <c g f>4 <c g f>8 |<g f c>8^^ <c g f>4 <c g f>8 |<g f c>8^^ <c g f>4 <c g f>8 |}
>> }
</score>
また、次の譜例では、[[7の和音]]の転回形が連続して使われており、旋律の音は全て和音の第7音が当てられている{{Sfn|Lampert|2018|p=199}}。
(ハンガリー編 第13番「バラード」第14小節-)
:<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c' { \clef treble \key d \minor \time 4/4 \numericTimeSignature
f4.( g8 a <d g,>4.-\dim | <c f,>4-.( <a d,>-. <f bes,>-. <d g,>)-.\pp\fermata | }
\new Staff = "LH" \relative c' { \clef bass \key d \minor \time 4/4 \numericTimeSignature
r2 r8 <e bes!>4. | <d a>4-.( <bes f> <g d>-. <e bes>)\fermata |}
>> }
</score>
こうした様々な編曲の工夫は、後年のバルトークの作曲技法の出発点となっている{{Sfn|小畑|1981|p=116}}{{Sfn|春秋社版|2008|loc=演奏ノート p. 15}}{{Sfn|Lampert|2018|p=202}}{{Sfn|田代|2021|p=79}}。
== 初版の成立 ==
=== 作曲の動機 ===
バルトークが『子供のために』を民謡編曲作品として作曲した動機については、当時のハンガリー社会における民謡の扱い、出版社との関係、さらにはバルトーク自身の教育用レパートリーに対する考え(前述)など、複数の要素が関係している{{Sfn|Ludmany|2019|p.=33}}。
==== 「ハンガリーの民俗音楽」に対する誤解 ====
ハンガリーでは前述のとおり先駆者が民謡の収集・研究を行っていたが、20世紀初頭の段階において民謡の音楽的な価値は一般の人々に認知されておらず、都市部で[[ジプシー]]バンドによって演奏される大衆歌・流行歌が「ハンガリー伝統の民俗音楽」であると誤解されていた{{Refnest|group="注"|こうしたジプシーバンドの音楽は、[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]の『[[ハンガリー舞曲]]』や[[フランツ・リスト|リスト]]の『[[ハンガリー狂詩曲]]』などにも影響を与えていた{{Sfn|太田|2017|p=37}}。}}{{Sfn|横井|2006|p=131}}{{Sfn|パップ|2015|p=10}}{{Sfn|P.バルトーク|1992|p=186}}。若き日のバルトークも例外ではなく、ドーサ・リディの歌う民謡に出会う1年間(1903年)に作曲した{{仮リンク|交響詩『コシュート』|hu|Kossuth-szimfónia}}には、そうした「[[ロマ音楽|ジプシー音楽]]」の影響が見られていた{{Sfn|太田|2017|pp=114-116}}。
==== 『20のハンガリー民謡』の失敗 ====
[[File:Bartok kodaly.jpg|right|thumb|200px|バルトーク(左)とコダーイ(1908年)]]
バルトークが本格的に民謡採集を始めた1906年{{Sfn|グリフィス|1986|p=35}}、バルトークとコダーイは共著により、歌とピアノのための民謡編曲集『'''{{仮リンク|20のハンガリー民謡|hu|Magyar népdalok BB42}}'''』を作成し、その年の12月に[[ブダペスト]]のロジュニャイ・カーロイ社(''Rozsnyai Károly''、以下「ロジュニャイ社」)から出版した{{Sfn|Bartók-Compositions|loc=BB 42}}。この民謡集の出版には、ハンガリーの真の民俗音楽である民謡の価値を人々に知らせようという意図があったが{{Sfn|グリフィス|1986|p=35}}{{Sfn|太田|2007|p=165}}{{Sfn|NAKAHARA|2016|p=7}}、世間からはほとんど注目されず{{Sfn|伊東|2012a|p=321}}、印刷された500部{{Sfn|Bartók Jr.|1981|p=89}}を完売するまでに32年間を要した{{Sfn|NAKAHARA|2016|p=7}}{{Refnest|group="注"|中原グリフィス(1986)や伊東(2012a)では「500部」ではなく「1500部」となっている{{Sfn|グリフィス|1986|p=35}}{{Sfn|伊東|2012a|p=321}}。}}。バルトークの弟子の一人であった{{仮リンク|セーケイ・ユーリア|hu|Székely Júlia (zongoraművész)}}は著作において次のように記述している。
{{Quotation|
『20のハンガリー民謡』それは幅広い層の人々に、探し当てた宝の一部分を紹介するために書いたのです。(略)しかしみんなは何のことだかわかりませんでした。長い間、反響もありませんでした{{Sfn|セーケイ|1992|p=157}}。
|セーケイ・ユーリア|『バルトーク物語』p.157
}}
『20のハンガリー民謡』の失敗は、バルトークが大人達への「啓蒙」をあきらめて将来の聴衆となる子供たちの耳を養うことに目を向ける契機となったとの指摘がある{{Sfn|伊東|2012a|pp=320-321}}{{Sfn|NAKAHARA|2016|p=7}}。なお、後年のバルトークは、ピアノを学習する子供たちに、「民謡のもつ簡素で感傷的ではない美しさ{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=76}}{{Refnest|group="注"|"''simple and non-romantic beauties of folk music''" {{Sfn|Parakilas|1995|p=477}}}}」を知ってもらうために『子供のために』を作曲したと述べている{{Sfn|Parakilas|1995|pp=476-477}}{{Sfn|Ludmany|2019|p.=33}}{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=76}}{{Refnest|group="注"|1940年にアメリカで行った講演"Contemporary Music in Piano Teaching"による{{Sfn|Parakilas|1995|p=497}}。}}。
==== ロジュニャイ社とバルトーク ====
[[File:Cover of Rozsnyai gyors nyelvmesterei - Japán.jpg|right|thumb|150px|『ロジュニャイ外国語速習(日本語編)』]]
『20のハンガリー民謡』の版元であり『子供のために』を出版することになるロジュニャイ社は、もともと音楽関係の出版社ではなく{{Refnest|group="注"|1889年の創業当時は古書店であった<ref name="日本語速習">{{Cite journal|和書|author=アルベケルアンドラーシ |date=2011-09 |url=https://doi.org/10.14989/150448 |title=ロジュニャイ『日本語速習』の著者と出典について |journal=京都大学國文學論叢 |ISSN=1345-1723 |publisher=京都大学大学院文学研究科国語学国文学研究室 |volume=26 |pages=23-24 |doi=10.14989/150448 |hdl=2433/150448 |CRID=1390853649769575552}}</ref>。}}、外国語学習のテキスト『{{仮リンク|ロジュニャイ外国語速習|hu|Rozsnyai gyors nyelvmesterei}}』シリーズ{{Refnest|group="注"|1905年(もしくは1906年)には、[[日露戦争]]を契機に日本に対する関心が高まったことを背景として、シリーズ第15作目となる『日本語編』が出版されている<ref name="日本語速習" />。これはハンガリーにおける初の日本語学習用のテキストとなった<ref name="日本語速習" />。}}を主力商品のひとつとする教育関係の出版社であったが<ref name="日本語速習" />{{Sfn|Vikárius|2018|p=205}}、当時のハンガリーで流通している楽譜がドイツ語解説の輸入楽譜であった上{{Sfn|Ludmany|2019|p.=16}}、音楽大学にも大作曲家の全集が揃っていないという状況から{{Sfn|Ludmany|2019|p=17}}、楽譜に対する国内の需要は高いと判断して音楽関係の出版も手がけるようになった{{Sfn|Ludmany|2019|p=16}}。
『20のハンガリー民謡』出版の翌月にあたる[[1907年]]1月、当時25歳のバルトークは[[リスト・フェレンツ音楽大学|ブダペスト音楽院]]のピアノ科教授に就任した{{Sfn|Ludmany|2019|p=16}}{{Sfn|田中|2013|p=119}}。この頃、ロジュニャイ社は過去の大作曲家のピアノ曲にハンガリー語の注釈をつけた教育目的の楽譜を販売するため、当時活躍中であったピアニストやピアノ教師に協力を依頼しており{{Refnest|group="注"|{{仮リンク|チョバン・カールマーン|hu|Chován Kálmán}}など<ref>{{cite journal|first=Noémi |last=Maczelka|title=Bartók Mozart-játéka és instruktív kiadványai||journal=Zenetudomány és társadalomismeret|publisher=Művészeti Intézet|year=2016|pages=383-387|url=http://acta.bibl.u-szeged.hu/64237/1/tudomanyos_es_muveszeti_muhelymunkak_383-387.pdf|}}p. 385</ref>。}}、バルトークにも校訂作業の依頼が行われた{{Sfn|Ludmany|2019|p=16}}。その結果、ロジュニャイ社からはバルトークが運指やアーティキュレーションに手を入れた校訂版の[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]の『[[平均律クラヴィーア曲集]]』(1908年){{Sfn|田中|2013|p=120}}、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の[[ピアノソナタ]]集(1912年){{Sfn|田中|2013|p=119}}などが出版された。
==== 作曲の依頼 ====
また、この頃ロジュニャイ社からはバルトークが作曲したピアノ曲も出版されるようになっており、1908年には『{{仮リンク|3つのチーク県の民謡|hu|3 csíkmegyei népdal}}』(1907年作曲{{Sfn|Bartók-Compositions|loc=BB 45b}})、1909年には『{{仮リンク|14のバガテル|hu|14 bagatell}}』および『{{仮リンク|10のやさしい小品|hu|10 könnyű zongoradarab (Bartók)}}』(いずれも1908年作曲{{Sfn|Bartók-Compositions|loc= BB 50-51}})が出版された{{Refnest|group="注"|『14のバガテル』を気に入った[[フェルッチョ・ブゾーニ|ブゾーニ]]が[[ライプツィヒ]]の[[ブライトコプフ・ウント・ヘルテル|ブライトコプフ&ヘルテル社]]に出版を推薦していたが{{Sfn|Bartók Jr.|1981|p=100}}、出版を断られたためロジュニャイ社から出版された{{Sfn|Bartók Jr.|1981|p=100}}。}}。
1909年に出版された『10のやさしい小品』は、バルトークが音楽教育を目的として作曲した最初の作品である{{Sfn|パップ|2016|p=55}}{{Sfn|Ludmany|2019|p=16}}。『子供のために』と同様に1オクターブでの打鍵がなく{{Sfn|Lampert|2018|p=193}}、民謡の編曲(第6曲、第8曲)や民謡を模倣したオリジナル曲が使われており{{Sfn|春秋社版|2008|loc=作品解説(伊東) p. 4}}、『子供のために』の前身とも言える作品である{{Sfn|Vikárius|2018|p=205}}。
おそらく、この『10のやさしい小品』がきっかけとなり{{Sfn|Lampert|2018|p=193}}、ロジュニャイ社はバルトークに『子供のために』の作曲を依頼したと考えられる{{Refnest|group="注"|コダーイは1946年に出した回想録で、出版社の要請があって『子供のために』が作曲されたと述べている{{Sfn|Ludmany|2019|p=33}}{{Sfn|Vikárius|2011|p=239}}。}}{{Sfn|Ludmany|2019|p=33}}{{Sfn|Vikárius|2011|p=239}}{{Sfn|Lampert|2018|p=193}}。このことを裏付けるバルトークによる言及やロジュニャイ社との書簡などの直接的な証拠は存在していないが{{Sfn|Vikárius|2011|p=239}}、後年のバルトークとロジュニャイ社のやり取りからは{{Refnest|group="注"|1915年4月22日付けの「ルーマニア編」をめぐる書簡など(後述)。}}、ロジュニャイ社はバルトークに、何曲かが[[アタッカ]]でつながっている、子供向けのやさしいピアノ曲集を求めたことが窺える{{Sfn|Vikárius|2011|p=248}}{{Sfn|Lampert|2018|p=197}}{{Refnest|group="注"|アタッカの要求について、ランペルト(2009)は、2曲ずつをつなぐアタッカが含まれる[[エドヴァルド・グリーグ|グリーグ]]のピアノ曲『{{仮リンク|ノルウェー民謡と踊り|nl|Nitten norske folkeviser}}』作品66の楽譜をロジュニャイ社が入手していた可能性を指摘している{{Sfn|Lampert|2009|p=8}}。}}。
=== 作曲・出版の経緯 ===
==== ハンガリー編の作曲と出版 ====
[[File:Bartók Béla.jpg|right|thumb|150px|作曲当時のバルトーク]]
『子供のために』の初版は1908年から1910年にかけて、まずハンガリー編が、次いでスロバキア編が作曲・出版された。
ハンガリー編の作曲は『14のバガテル』や『10のやさしい小品』の作曲が終わった後、1908年後半から開始され{{Sfn|伊東|2012a|pp=320-321}}、バルトークはまず自らが採集した民謡の中から9曲を選んで編曲し{{Sfn|Lampert|2018|p=194}}、次の曲順で曲集を構想した{{Sfn|Vikárius|2018|p=207}}。なお、これらの曲には I - IX の番号が付けられており、2曲を除いてバルトークが採集した民謡({{Underline|下線}})である{{Sfn|Folk Music|loc=L 41-49}}。
{{Quotation|
{{Underline|第15番}}、{{Underline|第16番「古いハンガリーの旋律」}}、{{Underline|第14番}}、{{Underline|第17番「ラウンド・ダンス」}}、第13番「バラード」、{{Underline|第18番「兵士の歌」}}、第19番、{{Underline|第20番「お酒の歌」}}、{{Underline|第21番}}
}}
しかし、バルトークはこのままでは子供には難しすぎると考え、ロジュニャイ社が求める簡単な曲集にふさわしいシンプルな旋律10曲をキシュ・アーロンの『ハンガリー子供の遊戯歌集』から探し出して編曲し、曲集の前半に組み込んだ{{Sfn|Lampert|2018|p=194}}。なお、バルトークの民謡編曲においてわらべ歌からの編曲は異例である{{Sfn|Lampert|2018|p=193}}。ロジュニャイ社とバルトークとの間では[[1909年]]の3月に初版第1巻の出版契約が交わされており{{Sfn|伊東|2012a|pp=320-321}}、そこに「21曲の子供向けのピアノ作品」とあることから、21曲ある初版第1巻はこの時点で完成していたことが窺える{{Sfn|伊東|2012a|pp=320-321}}。
初版第2巻は第1巻とは対照的に、コダーイの『ハンガリー民謡のストローフ構造』など、複数の書物からとられた民謡から編曲が始められ{{Sfn|Lampert|2018|p=194}}、同年6月に出版契約が交わされた{{Sfn|伊東|2012a|pp=320-321}}。
初版第1巻・第2巻はいずれも1909年の年末までに出版された{{Sfn|Vikárius|2011|p=241}}。曲集のタイトルはハンガリー語による”'''Gyermekeknek'''”(子供のために)とされ{{Sfn|Vikárius|2011|p=241}}、楽譜の表紙には、バルトークのいとこにあたるヴォイト・アービン(''Voit Ervin''){{Sfn|Fazekas}}による[[アール・ヌーボー]]調のデザインが使われた{{Sfn|Vikárius|2018|p=213}}。
楽譜の巻末には、楽曲に使用した民謡の歌詞がハンガリー語とドイツ語で掲載された{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=93}}{{Sfn|Lampert|2018|p=196}}{{Sfn|Vikárius|2018|p=213}}。民謡の歌詞が各曲の内容を表しているため、曲ごとのタイトルは特に付けられなかった{{Sfn|Vikárius|2011|p=241}}。また、テンポの指定についても大まかな指示のみで、同時期の作品に見られるメトロノーム記号はつけられなかった{{Refnest|group="注"|『14のバガテル』や『10のやさしい小品』にはメトロノーム記号がつけられている{{Sfn|Vikárius|2018|p=215}}。}}{{Sfn|Vikárius|2018|p=215}}。
==== スロバキア編の作曲・出版 ====
『子供のために』スロバキア編の制作は、バルトークの方からロジュニャイ社に提案したと考えられ{{Sfn|Lampert|2009|p=8}}、ロジュニャイ社が制作に同意する旨をバルトークに伝える1909年12月6日付けの書簡が存在している{{Sfn|Vikárius|2011|pp=240-241}}。おそらく、スロバキア編の作曲はこの書簡の後に本格的に進められたものと考えられる{{Sfn|Vikárius|2011|p=248}}。なお、この書簡の段階では続編のタイトルを『子供のために』とするか別のタイトルにするかは決まっていなかった{{Sfn|Vikárius|2011|pp=240-241}}。
バルトークは当初、スロバキア民謡編を'''全1巻25曲'''として構想していた{{Sfn|Vikárius|2011|pp=245-246}}。その曲順は以下のとおりであり{{Sfn|Vikárius|2011|p=243}}、バルトークが採集した民謡({{Underline|下線}})はこのうちの12曲である。なお、この段階ではフィナーレの2曲の順番が逆になっていた。
{{Quotation|
第6番「ラウンド・ダンスI」、第5番「変奏曲」、{{Underline|第4番「婚礼の歌」}}、第8番「踊り」、第19番「ロマンス」、第30番「バグパイプII」、第18番「おはやし歌」、第9番「ラウンド・ダンスII」、第20番「鬼ごっこ」、{{Underline|第29番「カノン」}}、第28番、第22番「ばかさわぎ」、第32番、第13番、{{Underline|第25番「スケルツァンド」}}、{{Underline|第27番「冗談II」}}、{{Underline|第33番}}、{{Underline|初版第23番(改訂時に削除)}} {{Underline|第23番}}、{{Underline|第24番}}、{{Underline|初版第27番(改訂時に削除)}}、{{Underline|第26番「農夫の縦笛」}}、{{Underline|第35番「バラード」}}、{{Underline|第39番「哀悼歌」}}、第38番「悲歌」
}}
[[File:Slovakia topo.jpg|right|thumb|320px|現在のスロバキアの地形。険しい山岳地帯が大部分を占める{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=65}}。南にハンガリーがある。]]
最終的には曲数が増やされるとともに構成も変更され、[[1910年]]に'''全2巻43曲'''として完成した{{Sfn|Vikárius|2011|pp=248-249}}{{Refnest|group="注"|かつては、スロバキア編の作曲年代は「1908年~1909年」とされてきたが{{Sfn|伊東|2012a|pp=320-321}}{{Sfn|Vikárius|2011|p=243}}、[[ハンガリー科学アカデミー]]のバルトーク・アーカイブ所長(2005年~<ref>{{Cite web|title=Members of the Archives : VIKÁRIUS, László |author =The Budapest Bartók Archives |publisher=Magyar Tudományos Akadémia|year=2023|url=https://zti.hu/index.php/en/ba/staff/69-vikarius-laszlo|accessdate=2023-07-02}}</ref>)ヴィカーリウシュ・ラースロー(''Vikárius László'' )は、スロバキア民謡編の作曲が本格化したのは12月6日付けの書簡の後であり、スロバキア編の作曲年代は「1909年~1910年」だとしてそれまでの定説を覆した{{Sfn|Vikárius|2011|p=243}}。バルトーク・アーカイブの作品リストでは『子供のために』全編の作曲年は「1908-1910」とされている{{Sfn|Bartók-Compositions|loc=BB 53}}。}}。ただし、その中にはバルトークやコダーイから作曲を教わった[[シャーンドル・エンマ|コダーイ・エンマ]](1910年8月にコダーイと結婚するまではグリューバー・エンマ)による編曲作品も2曲含まれていた{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=93}}{{Sfn|Farkas|2017|p=12}}{{Refnest|group="注"|エンマは、バルトークに作曲を師事した数少ない生徒の一人である{{Sfn|Vikárius|2011|p=238}}。なお、バルトークが1905年にコダーイと出会ったのもエンマを通じてである{{Sfn|グリフィス|1986|p=35}}。}}。
出版契約は、初版第3巻が1910年、初版第4巻が1911年に行われ、いずれも[[1911年]]にロジュニャイ社から出版された{{Sfn|Vikárius|2011|p=241}}。1909年末には未定であった曲集のタイトルは、'''チェコ語'''による”'''Pro děti'''”(子供のために)とされ{{Sfn|Vikárius|2011|p=241}}、楽譜の表紙はハンガリー編と同じデザインが使われた{{Sfn|Vikárius|2018|p=213}}{{Refnest|group="注"|スロバキア編の表紙写真は、ヴィカーリウシュ・ラースローの2018年の論文„Felnõtteknek”: Bartók Gyermekeknek címû sorozatának kritikai közreadásárólの214ページに掲載されている{{Sfn|Vikárius|2018|p=214}}。}}。曲集のタイトルにスロバキア語ではなくチェコ語が選ばれたのは、ロジュニャイ社が楽譜のマーケティングを考慮した結果である{{Sfn|Vikárius|2011|p=241}}{{Sfn|Vikárius|2018|p=213}}。
ハンガリー編と同様、民謡の歌詞が巻末に掲載され、言語についてはスロバキア語、ハンガリー語、ドイツ語の3か国語で記された{{Sfn|Vikárius|2011|p=241}}{{Refnest|group="注"|ハンガリー語訳は[[バラージュ・ベーラ]]、ドイツ語訳はコダーイ・エンマが行った{{Sfn|Vikárius|2011|p=241}}{{Sfn|Ludmany|2019|p=35}}。}}。メトロノーム記号はハンガリー編と同様に付けられていないが、ハンガリーの人々に馴染みが薄いスロバキア民謡への理解を助けるため{{Sfn|Vikárius|2011|p=249}}{{Sfn|Lampert|2018|p=196}}、いくつかの曲にはハンガリー語、フランス語、チェコ語の3か国語によるタイトルが記された{{Sfn|Vikárius|2011|p=241}}。
==== 「スロバキア編」出版の意義 ====
『子供のために』スロバキア編は、バルトークの出版作品のうち、ハンガリー人(マジャル人)以外の民謡をもとにした曲集としては最初のものである{{Sfn|グリフィス|1986|p=40}}{{Sfn|伊東|2012a|p=320}}{{Refnest|group="注"|バルトークは『子供のために』に先立ち1907年に{{Sfn|Bartók-Compositions|loc=BB 46}}、声とピアノのための『4つのスロバキア民謡』を作曲しているが、これはバルトークの生前には出版されていない{{Sfn|伊東|2012a|p=320}}。また、『14のバガテル』にスロバキア民謡からの編曲が1曲だけ含まれている{{Sfn|Folk Music (Intro)|loc=table2}}。}}。ハンガリー民謡を生涯にわたって研究したコダーイとは対照的に{{Sfn|伊東|1997|p=36}}、スロバキア、ルーマニア、後にはトルコや北アフリカの民謡にまで対象を広げることになるバルトークにとって{{Sfn|バルトーク音楽論集|1988|p=196}}{{Sfn|バルトーク音楽論集|1988|p=217}}{{Sfn|横井|2006|p=123}}{{Sfn|パップ|2015|pp=4-5}}、スロバキア編は最初の第一歩ともいうべき重要な作品である{{Sfn|伊東|2012a|p=320}}{{Sfn|グリフィス|1986|pp=38-41}}{{Refnest|group="注"|バルトークは、諸国民が戦争と争いにもかかわらず相互にいだく「兄弟愛」に音楽で奉仕したいと考えていた{{Sfn|グリフィス|1986|p=203}}{{Sfn|NAKAHARA|2016|p=3}}。}}。ただし、ハンガリー国内には、バルトークが「少数民族」であるスロバキア人の民謡をハンガリー民謡と対等に扱ったことを快く思わない者がいたことも事実である{{Refnest|group="注"|ブダペスト音楽院の要職にあった''[[:hu:Szendy Árpád|Szendy Árpád]]''は、バルトークとレショフスキー共著による『ピアノ教本』をブダペスト音楽院で使用したいという出版社の申し出を却下したが、その背景には『子供のために』でスロバキア民謡を使ったことに対する反感があったと考えられる{{Sfn|NAKAHARA|2016|p=8}}。}}{{Refnest|group="注"|少数民族に注目したバルトークの姿勢は、しばしば「非ハンガリー的」として批判された{{Sfn|グリフィス|1986|p=162}}。}}。
==== 別の作品となった「ルーマニア編」 ====
ロジュニャイ社とバルトークは、『子供のために』ハンガリー編、スロバキア編のさらなる続編として'''ルーマニア編'''の出版を計画した{{Sfn|Biró|2018|p=97}}。[[1915年]]4月22日付けのロジュニャイ社からバルトークへの書簡では、ルーマニア民謡の編曲による若者向けの簡単なピアノ曲集のことが話題となっており{{Sfn|Vikárius|2011|pp=239-240}}{{Sfn|Biró|2018|p=97}}、ロジュニャイ社は「『子供のために』と同じ程度の編曲で、何曲かがアタッカで連続して演奏できる曲」を求めている{{Sfn|Vikárius|2011|pp=239-240}}{{Sfn|Biró|2018|p=97}}{{Sfn|Lampert|2018|p=197}}。
バルトークは同年のうちに32曲のルーマニア民謡を簡単なピアノ曲に編曲し{{Sfn|Lampert|2018|p=195}}、民謡のジャンルごとに分かれた3つの曲集{{Sfn|Lampert|2018|p=195}}『{{仮リンク|ルーマニアのクリスマスの歌|hu|Román kolindadallamok}}』、『[[ルーマニア民俗舞曲]]』、『[[ソナチネ (バルトーク)|ソナチネ]]』として完成させた{{Sfn|Vikárius|2011|pp=239-240}}{{Sfn|パップ|2000|p=73}}{{Sfn|Biró|2018|p=98}}。しかし、前年に始まった[[第一次世界大戦]]の影響で出版は見送られ{{Sfn|Somfai|2015|p=39}}{{Sfn|Biró|2018|p=97}}、最終的にはロジュニャイ社でなく、『ルーマニアのクリスマスの歌』と『ルーマニア民俗舞曲』が1918年にウィーンの[[ウニヴェルザール出版社|ユニヴァーサル社]]から、『ソナチネ』が1919年にブダペストの{{仮リンク|ロージャヴェルジ社|hu|Rózsavölgyi és Társa Kiadó}}から出版された{{Sfn|Bartók-Compositions|loc=BB 67-69}}。
=== 初版の構成 ===
初版は'''全4巻'''、'''85曲'''で構成されており、第1巻と第2巻が'''ハンガリー民謡'''、第3巻と第4巻が'''スロバキア民謡'''に基づいている。
*'''初版 第1巻'''(ハンガリー民謡に基づく)21曲(初版 第1番~第21番)
*'''初版 第2巻'''(ハンガリー民謡に基づく)21曲(初版 第22番~第42番)
*'''初版 第3巻'''(スロバキア民謡に基づく)22曲(初版 第1番~第22番)
*'''初版 第4巻'''(スロバキア民謡に基づく)21曲(初版 第23番~第43番){{Refnest|group="注"|初版第40・41番(改訂版では第38・39番)「ラプソディ」は、1つの曲の中で2つの民謡が交互に奏でられる構成となっているが2曲として数えている。}}
初版の第1巻・第2巻・第3巻は、いずれも平易で親しみやすい子供の歌から始まり、曲集の最後にはフィナーレにふさわしい快活な楽曲が配置されているが{{Sfn|Vikárius|2011|p=252}}、初版 第4巻は抒情歌に始まり「死」をモチーフとしたテンポの遅い楽曲で静かに曲集を終える構成となっている{{Sfn|Vikárius|2011|p=252}}。
なお、ロジュニャイ社の要望どおり、いくつかの曲は[[アタッカ]]でつながっており、その部分だけを取り出して小さな組曲のように演奏できるようになっている{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=77}}。なお、アタッカを実行するかどうかは任意(''ad lib.'')である{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=77}}。
(接続されている曲については [[#アタッカによる接続|#改訂版の構成#アタッカによる接続]] 参照。)
== 初版に対する反応 ==
一部の国粋主義的な人たちがスロバキア編に反感を示したとは言え、『子供のために』は発売直後から人気のある作品となった{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=76}}。
=== 好意的な評論 ===
ハンガリー国内では、全4巻が完結するより早い段階から、『子供のために』を好意的に取り上げた評論が発表された。その最初のものは、作曲家でピアニスト、文筆家の'''ザーゴン・ヴィルモス・ゲーザ'''(''Zágon Vilmos Géza''){{Sfn|Vikárius|2011|p=241}}{{Sfn|Illyés|2017|p=255}}が1911年3月に発表した"Gondolatok régi és új muzsikáról"({{lang-en}}''Thoughts on Old and New Music''{{Sfn|Hooker|2005|p=296}})であり{{Sfn|Illyés|2017|p=262}}、ザーゴンはハンガリー民謡における[[教会旋法]]の豊かな使用などの特徴について触れつつ、民謡を見事に編曲した作品として『子供のために』を紹介している{{Sfn|Hooker|2005|p=296}}{{Refnest|group="注"|ザーゴンがここで取り上げたのは、初版の第1巻・第2巻である{{Sfn|Vikárius|2011|p=241}}。}}。ザーゴンの同年に{{仮リンク|モルナール・アンタル|hu|Molnár Antal (zenetörténész)}}が1911年6月に"Zenekozlöny"で『子供のために』初版第1巻~第3巻を取り上げており{{Sfn|Vikárius|2011|p=241}}{{Sfn|Csilla|2016|pp=60-61}}、コダーイはやや遅れて1921年に『子供のために』についての論文"Bartok's compositions for Children"を発表し、作品の音楽的、社会的な意義を説明している{{Sfn|Henle版(I)|2017|loc=序文V}}。
=== フランスへの紹介 ===
[[File:Michel-Dimitri Calvocoressi 001.jpg|right|thumb|110px|M.D.カルヴォコレッシ(1913年)]]
ロジュニャイ社を含め、当時のハンガリーの楽譜出版社は国外へ販売ルートを持っていなかった{{Sfn|Somfai|2015|p=38}}。それにもかかわらず、『子供のために』は出版から数年のうちにフランスに紹介された。その立役者となったのは前述のザーゴンである。
バルトーク、コダーイらが1911年に結成しザーゴンもメンバーとして加わった{{Sfn|Illyés|2017|p=263}}{{仮リンク|新ハンガリー音楽協会(UMZE)|hu|UMZE Kamaraegyüttes}}{{Sfn|グリフィス|1986|p=105}}の活動がわずか1年で頓挫した後{{Sfn|Illyés|2017|p=264}}、ザーゴンはブダペスト市の奨学金を得て1912年から1914年までフランスに留学した{{Sfn|Illyés|2017|p=264}}。ザーゴンはそれ以前、1910年にパリでハンガリー音楽を特集した演奏会が開催された際にもフランスを訪れており{{Refnest|group="注"|このとき、バルトークの自演による『2つのルーマニア舞曲』第1曲の世界初演が行われている{{Sfn|Illyés|2017|p=258}}。}}、この演奏会の企画に関与していた{{Sfn|Illyés|2017|p=258}}。再びフランスを訪れたザーゴンは、{{仮リンク|ルイ・ラロワ|fr|Louis Laloy}}や[[ミシェル・ディミトリー・カルヴォコレッシ]]といった音楽関係者に『子供のために』などのバルトークの新作を紹介し{{Sfn|Illyés|2017|pp=267-268}}、1914年1月23日にはハンガリーの作曲家を特集した演奏会を行って{{Sfn|Illyés|2017|p=269}}『子供のために』(抜粋)のパリ初演を果たした{{Sfn|Bartók-Compositions|loc=BB 53}}{{Refnest|group="注"|ザーゴンは1913年に、バルトークなどハンガリーの作曲家をパリに招いて彼らを紹介するイベントを計画したが、賛同を得られず実現しなかった{{Sfn|Illyés|2017|p=268}}。当時、バルトークはアルジェリアへの民謡取材旅行を計画しており{{Sfn|グリフィス|1986|p=105}}{{Sfn|Illyés|2017|p=268}}、作品を海外に紹介することには消極的であった{{Sfn|Illyés|2017|p=268}}。}}{{Refnest|group="注"|ザーゴンは第一次世界大戦中の戦場において、29歳の若さで病死した{{Sfn|Illyés|2017|p=270}}。}}。
ザーゴンを通じて『子供のために』などのバルトーク作品を知ったラロワは、『子供のために』を特に高く評価し{{Sfn|Illyés|2017|p=268}}、カルヴォコレッシは、雑誌『[[ミュージカル・タイムズ]]』1913年11月号に"Folk-Song in Modern Music"と題した記事を発表し{{Refnest|group="注"|カルヴォコレッシは記事の中で、[[ヴァンサン・ダンディ|ダンディ]]の『[[フランスの山人の歌による交響曲]]』、[[ミリイ・バラキレフ|バラキレフ]]の『[[イスラメイ]]』、[[アレクサンドル・グラズノフ|グラズノフ]]の『[[ステンカ・ラージン (グラズノフ)|ステンカ・ラージン]]』、[[アレクサンドル・ボロディン|ボロディン]]の『[[交響曲第2番 (ボロディン)|交響曲第2番]]』、[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]の『[[春の祭典]]』を紹介している{{Sfn|Calvocoressi|1913|p=717-718}}。ハンガリーの作曲家ではコダーイとバルトークが取り上げられているが、紹介されている楽曲は『子供のために』のみである{{Sfn|Calvocoressi|1913|p=718}}。}}、『子供のために』を譜例つきで紹介した{{Refnest|group="注"|第1巻第37番「豚飼いの歌」、第2巻第26番「農夫の縦笛」の楽譜の一部が掲載されている{{Sfn|Calvocoressi|1913|p=718}}。}}{{Sfn|Illyés|2017|p=268}}。
=== ヴァイオリンのための編曲 ===
[[File:Szigeti József.jpg|right|thumb|160px|ヨーゼフ・シゲティ(1910年)]]
『子供のために』はピアニスト以外の演奏家からも注目され、1920年代から1930年代には、独奏ヴァイオリンとピアノのための二種類の編曲版(いずれもハンガリー編からの抜粋)が作られた{{Sfn|Henle版(I)|2017|loc=序文VI}}。
その最初のものは、ヴァイオリン奏者の[[ヨーゼフ・シゲティ]]編曲による1926年の『'''ハンガリー民謡集'''』({{lang-hu}}''Magyar népdalok hegedűre és zongorára'')であり{{Refnest|group="注"|このタイトルはバルトークが決めたものである{{Sfn|Koslovsky|2012|p=142}}。}}、『子供のために』のハンガリー編から7曲が抜粋されており{{Refnest|group="注"|ハンガリー編の第25番、第18番「兵士の歌」、第40番「豚飼いの踊り」、第31番、第6番「左手の練習」、第13番「バラード」、第36番「酔っぱらいの歌」の7曲{{Sfn|Koslovsky|2012|p=144}}。}}、1927年に[[ウニヴェルザール出版社|ユニヴァーサル社]]から出版された{{Sfn|Bartók-Compositions|loc=BB 53}}。バルトークはシゲティに多くの助言を与えるとともに{{Refnest|group="注"|シゲティが最初に編曲したのは6曲であったが、バルトークが第6番「左手の練習」を編曲して加えるシゲティに助言し7曲となった{{Sfn|Koslovsky|2012|p=143}}。また、バルトークはシゲティに曲順を変更することも指示している{{Sfn|Koslovsky|2012|p=143}}。}}、ピアノパートをヴァイオリンに合うように修正を加えている{{Sfn|Koslovsky|2012|p=146}}。
二つ目は、ヴァイオリン奏者の{{仮リンク|オルサーグ・ティヴァダル|hu|Országh Tivadar}}編曲による1934年の『'''ハンガリー民謡集'''』({{lang-hu}}''Magyar népdalok hegedűre és zongorára'')であり、ハンガリー編から9曲が抜粋されており{{Refnest|group="注"|ハンガリー編の第32番、第35番、第17番「ラウンド・ダンス」、第29番「五音音階の旋律」、第16番「古いハンガリーの旋律」、第14番、第19番、第8番「子供の遊び」、第21番の9曲。}}、1934年にロージャヴェルジ社から出版された{{Sfn|Bartók-Compositions|loc=BB 53}}。この編曲にはバルトークの手が相当入っており{{Sfn|Henle版(I)|2017|loc=序文VI}}、オルサーグ編曲による『ハンガリー民謡集』には「BB109」の作品番号が付けられている{{Sfn|Bartók-Compositions|loc=BB 109}}。
また、編曲は実現しなかったが、1930年にドイツの音楽教育学者{{仮リンク|エーリヒ・ドフライン|de|Erich Doflein}}は、『子供のために』の抜粋をヴァイオリン二重奏用に編曲することの許可をバルトークに申し出ている{{Sfn|グリフィス|1986|pp=200-201}}。バルトークはこれに対して、新たに民謡の編曲作品を書き下ろすことを提案し、その結果、『[[44のヴァイオリン二重奏曲]]』が作曲された{{Sfn|グリフィス|1986|pp=200-201}}{{Sfn|パップ|2016|p=54}}。
=== 子供たちの受容 ===
[[File:Ditta Pásztory.jpg|right|thumb|120px|1920年代のディッタ]]
『子供のために』が本来の対象としているピアノを学ぶ子供たちの受容については、それを窺い知ることができる資料として、音楽教師 Jolán Bacher によって発行された "Csabai Akkordok"(直訳すれば『[[ベーケーシュチャバ]]の和音』{{Sfn|NAKAHARA|2020|p=36}})という、青少年向けのローカルな音楽雑誌がある{{Sfn|NAKAHARA|2016|p=9}}。1935年10月の同誌には Éva Adler という名の10歳の子供が書いた『子供のために』に関する文章が掲載されており{{Sfn|NAKAHARA|2016|p=9}}、ピアノを習い始めて1年目には『子供のために』を弾いていたことや、この作品が大好きで、一日中ピアノで弾いたり、ハンガリーやスロバキアの民謡を歌ったりしているという感想が書かれている{{Sfn|NAKAHARA|2016|p=9}}。なお、第一次世界大戦後生まれの子供にとって、スロバキア(当時は[[チェコスロバキア]])はすでにハンガリー内の地域でなく、外国である{{Sfn|NAKAHARA|2016|p=9}}。
これとは別に、7歳からピアノを習い始めたという[[パーストリ・ディッタ]]は{{Sfn|Büky|2021|p=1}}{{Sfn|Büky|2021|p=216}}、幼い頃に『子供のために』を練習していたと後年に述べている{{Sfn|Büky|2021|p=217}}{{Refnest|group="注"|1976年11月10日、[[シェルイ・ティボール]]との対談{{Sfn|Büky|2021|p=216}}。}}。1903年生まれのディッタが7歳になるのは、『子供のために』スロバキア編出版の1年前にあたる1910年である{{Sfn|Büky|2021|p=175}}。なお、この作品を通じてバルトークを知ったディッタは{{Sfn|Büky|2021|p=217}}、その後ピアノの腕前を上げて1922年にブダペスト音楽院のバルトークのクラスに入学し、翌1923年にはバルトークの二番目の妻となって周囲を驚かせた{{Sfn|グリフィス|1986|p=152}}{{Sfn|Büky|2021|p=3}}{{Refnest|group="注"|バルトークは同年、最初の妻マルタと離婚した{{Sfn|グリフィス|1986|p=152}}。}}。
== バルトークによる実演 ==
『子供のために』は、教育的な目的で書かれた作品であるが、ピアニストとしての活動も行ったバルトークは、1920年代を中心に自身のレパートリーに組み込んでコンサートで取り上げた。なお、何曲かを抜粋して演奏する場合、バルトークはハンガリー編とスロバキア編を混ぜることはしなかった{{Sfn|Lampert|2018|p=197}}。
{| class="wikitable" style="font-size:small"
|+ バルトークが演奏会で演奏した「子供のために」の記録(ヴァイオリン編曲版を含む)
! 年 !! 月日 !! 都市 !! 備考(アタッカで接続されている曲はハイフンで示している)
|-
| 1911 || 11/23 ||style="width:20em;"| [[スボティツァ]](現在の[[セルビア]]){{Sfn|Bartók Jr.|1981|p=123}}
|| スロバキア編第19番「ロマンス」のみの初演{{Sfn|Bartók-Compositions|loc=BB 53}}{{Refnest|group="注"|この時の演奏会では、{{仮リンク|ラーニ|hu|Lányi Ernő}}の指揮でベートーヴェンの[[ピアノ協奏曲第5番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲変ホ長調]]なども演奏した{{Sfn|Bartók Jr.|1981|p=123}}。}}
|-
| 1913 || 2/1 || [[ケチケメート]](ハンガリー){{Sfn|Bartók Jr.|1981|p=132}}
|| 抜粋版としての初演{{Sfn|Bartók-Compositions|loc=BB 53}}
|-
| 1920 || 4/16 || [[ブラチスラヴァ]](チェコスロバキア){{Sfn|Bartók Jr.|1981|p=179}}
|| スロバキア編から9曲を抜粋{{Sfn|Bartók-Compositions|loc=BB 53}}
|-
| rowspan="3"| 1922 || 2/26 || [[クルジュ=ナポカ]](ルーマニア){{Sfn|Bartók Jr.|1981|p=193}}||ハンガリー編から、第3番、第10番「子供の踊り」、第30番「ひやかし歌」、第31番、第34番 - 第35番 - 第36番「酔っぱらいの歌」の7曲を抜粋{{Sfn|Bartók-Compositions|loc=BB 53}}
|-
| 3/31 || [[ロンドン]](イギリス){{Sfn|Bartók Jr.|1981|p=195}} || 同上{{Sfn|Bartók-Compositions|loc=BB 53}}
|-
| 10/31 || クルジュ=ナポカ(ルーマニア){{Sfn|Bartók Jr.|1981|p=200}} ||スロバキア編から、第16番「嘆き」 - 第17番、第8番「踊り」、第18番「おはやし歌」、第26番「農夫の縦笛」、第30番「バグパイプⅡ」、第35番「バラード」、第37・38番「ラプソディ」の9曲を抜粋{{Sfn|Bartók-Compositions|loc=BB 53}}
|-
| rowspan="7"|1923 || 2/27 || ブダペスト(ハンガリー){{Sfn|Bartók Jr.|1981|p=203}} || 9曲を 抜粋
|-
| 5/7 || ロンドン(イギリス){{Sfn|Bartók Jr.|1981|p=205}} || スロバキア編から8曲を抜粋
|-
| 5/11 || ロンドン(イギリス){{Sfn|Bartók Jr.|1981|p=206}} || スロバキア編から8曲を抜粋
|-
| 11/6 || ブダペスト(ハンガリー){{Sfn|Bartók Jr.|1981|p=210}} || ハンガリー編から、第3番、第10番「子供の踊り」、第31番 - 第32番、第30番「ひやかし歌」の5曲を抜粋{{Sfn|Bartók-Compositions|loc=BB 53}}
|-
| 11/20 || [[セゲド]](ハンガリー){{Sfn|Bartók Jr.|1981|p=211}} || 9曲を抜粋
|-
| 12/3 || ロンドン(イギリス){{Sfn|Bartók Jr.|1981|p=211}} || 9曲を抜粋
|-
| 12/12 || {{仮リンク|モルバーン|en|Malvern, Worcestershire}}(イギリス){{Sfn|Bartók Jr.|1981|p=212}} || 9曲を抜粋
|-
| rowspan="4" |1924 || 2/5 || [[コマールノ]](チェコスロバキア){{Sfn|Bartók Jr.|1981|p=214}} || 8曲を抜粋
|-
| 3/21 || [[ティミショアラ]](ルーマニア){{Sfn|Bartók Jr.|1981|pp=215-216}} || 7曲を抜粋
|-
| 3/22 || [[オラデア]](ルーマニア){{Sfn|Bartók Jr.|1981|p=216}} || 10曲を抜粋
|-
| 10/10 || ティミショアラ(ルーマニア){{Sfn|Bartók Jr.|1981|p=219}} || 10曲を抜粋
|-
|1925 || 4/2 || セゲド(ハンガリー){{Sfn|Bartók Jr.|1981|p=224}} || 5曲を抜粋
|-
| rowspan="3" |1926 || 1/14 || ブダペスト(ハンガリー){{Sfn|Bartók Jr.|1981|p=230}} || 8曲を抜粋(主催の異なる2つの演奏会において{{Sfn|Bartók Jr.|1981|p=230}})
|-
|2/24 || クルジュ=ナポカ(ルーマニア){{Sfn|Bartók Jr.|1981|p=231}} || 8曲を抜粋
|-
|3/24 || ブダペスト(ハンガリー){{Sfn|Bartók Jr.|1981|p=233}} || 5曲を抜粋
|-
| rowspan="2"|1927 || 2/21 || [[ブラショヴ]](ルーマニア){{Sfn|Bartók Jr.|1981|p=242}} || 抜粋を演奏
|-
| 3/2 || [[スフントゥ・ゲオルゲ]](ルーマニア){{Sfn|Bartók Jr.|1981|p=242}} || 2曲を抜粋
|-
|1928 || 2/5 || [[ニューヨーク]](アメリカ){{Sfn|Bartók Jr.|1981|p=255}} || シゲティ編曲版(シゲティとの共演)
|-
| rowspan="2" | 1929 ||3/4 ||[[ニューヨーク]](アメリカ){{Sfn|Bartók Jr.|1981|p=271}} || シゲティ編曲版([[セーケイ・ゾルターン]]との共演)
|-
| 4/12 || [[ローマ]](イタリア){{Sfn|Bartók Jr.|1981|p=273}} || シゲティ編曲版(シゲティとの共演)
|-
|1930 || 1/6 || ロンドン(イギリス){{Sfn|Bartók Jr.|1981|p=281}} || シゲティ編曲版(シゲティとの共演)。なお、バルトークとシゲティは翌1月7日に同曲のレコーディングを行っている(Columbia Graphophone Company){{Sfn|Bartók Jr.|1981|p=281}} 。
|-
| rowspan="2" |1934 || 2/15 || [[ベーケーシュチャバ]](ハンガリー){{Sfn|Bartók Jr.|1981|p=335}} || 3曲を抜粋
|-
| 3/18 || [[ソンバトヘイ]](ハンガリー){{Sfn|Bartók Jr.|1981|pp=336-337}} || シゲティ編曲版(バルドス・アリス''Bárdos Alice''との共演)
|-
| 1936 || 5/11 || [[ケチケメート]](ハンガリー){{Sfn|Bartók Jr.|1981|pp=362-363}}|| オルサーグ編曲版([[ザトゥレツキー・エデ]]との共演)
|-
| rowspan="2" | 1939 || 3/31 || [[ミラノ]](イタリア){{Sfn|Bartók Jr.|1981|pp=406-407}}|| オルサーグ編曲版(ザトゥレツキー・エデとの共演)
|-
| 11/4 || [[コシツェ]](チェコスロバキア){{Sfn|Bartók Jr.|1981|p=414}} || オルサーグ編曲版(ザトゥレツキー・エデとの共演)
|-
|1940 ||11/5 || {{仮リンク|ハケッツタウン|en|Hackettstown, New Jersey}}(アメリカ){{Sfn|Bartók Jr.|1981|p=425}} || 8曲を抜粋
|-
| rowspan="2" | 1941 ||2/18 || [[デンバー]](アメリカ){{Sfn|Bartók Jr.|1981|p=430}} || シゲティ編曲版(シゲティとの共演)
|-
| 2/26 || [[オークランド (カリフォルニア州)|オークランド]](アメリカ){{Sfn|Bartók Jr.|1981|p=431}} ||16曲を抜粋
|-
|}
== 改訂版の成立 ==
『子供のために』の改訂作業は1943年に行われているが、初版の発行以来、前述のシゲティやオルサーグのヴァイオリン編曲への助言、バルトーク自身による演奏活動や、以下に述べる『若いピアノ弾き』の編集などを通してバルトークは作品に関与し続け{{Sfn|Ludmany|2019|P=35}}、改訂のアイデアが温められていた{{Sfn|Henle版(I)|2017|loc=序文VI}}。
=== 『若いピアノ弾き』 の編集===
[[File:Wittner metronome.jpg|right|thumb|200px|『若いピアノ弾き』でメトロノーム記号が追加された。]]
[[1938年]]、ブダペストのロージャヴェルジ社{{Refnest|group="注"|ロージャヴェルジ社はロジュニャイ社を買収した{{Sfn|Henle版(I)|2017|loc=序文VI}}。}}から、バルトークの過去の教育的作品の抜粋をおさめたピアノ曲集『'''若いピアノ弾き'''』({{lang-hu}}''Zongorázó ifjúságba''、{{lang-en}}''Young People at the Piano'')が出版された。この曲集はバルトーク自身が1937年に編集したものであり{{Sfn|Vikárius|2018|p=212}}、『子供のために』からは以下の18曲が収められた{{Sfn|Bartók-Compositions|loc=BB 53}}{{Refnest|group="注"|他には『10のやさしい小品』からの4曲が収録された{{Sfn|Bartók-Compositions|loc=BB 51}}。}}。
*ハンガリー編:第1番「遊んでいる子供たち」、第2番「子供の歌」、第3番、第4番「枕踊り」、第6番「左手の練習」、第10番「子供の踊り」、第15番、第22番、第26番{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=94}}。
*スロバキア編:第6番「ラウンド・ダンスI」、第7番「悲しみ」、第8番「踊り」、第14番、第18番「おはやし歌」、第23番、第24番、第26番「農夫の縦笛」、第30番「バグパイプII」 {{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=82}}。
バルトークはこの曲集を編むにあたって、後の改訂版に引き継がれる重要な変更を行っており、その一つは、初版にはなかった[[メトロノーム]]記号と演奏時間を各曲に記載したことである{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=94}}{{Refnest|group="注"|バルトークは、1930年に耳にした吹奏楽編曲版の『[[アレグロ・バルバロ]]』の演奏が、楽譜にメトロノーム記号がついていたにもかかわらずテンポが全く違っていたことから、演奏時間を楽譜に記すようになったと言われている{{Sfn|グリフィス|1986|pp=167-170}}。}}。また、ハンガリー編の第26番は初版では全て3拍子で書かれていたが、「3拍子+3拍子+2拍子」という、バルトークが言うところの「'''ブルガリアン・リズム'''」{{Refnest|group="注"|「ブルガリアン・リズム」<br/>
:<score>
{ \new RhythmicStaff \time3/8 c8[ c c] | c[ c c] | \time2/8 c[ c] | }
</score>}}
に変更された{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=94}}。なお、これより先に書かれた『[[44のヴァイオリン二重奏曲]]』(1932年)の第19曲「おとぎ話」に同じ旋律が使われており、そこですでに「ブルガリアン・リズム」が採用されている{{Sfn|パップ|2016|p=59}}。
=== 改訂版の制作 ===
[[File:Bartok Pásztory.jpg|right|thumb|200px|バルトーク(右)と妻のディッタ(1945年)]]
バルトークは、[[第二次世界大戦]]が勃発した翌年の1940年に、妻[[パーストリ・ディッタ|ディッタ]]とともに祖国を離れアメリカ合衆国に移住するが、1945年9月26日、[[白血病]]のため他界した{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=75}}{{Refnest|group="注"|バルトークの遺骨は1988年にハンガリーに戻っている{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=75}}。}}。バルトークによる『子供のために』の改訂作業は、アメリカ在住中の[[1943年]]11月から12月にかけて行われた{{Sfn|Vikárius|2018|p=212}}。『[[管弦楽のための協奏曲]]』の作曲を終え、『[[無伴奏ヴァイオリンソナタ (バルトーク)|無伴奏ヴァイオリンソナタ]]』に着手した頃である{{Sfn|グリフィス|1986|p=256}}。バルトークは1942年には白血病を発症し{{Sfn|P.バルトーク|1992|p=131}}常に微熱に悩まされていたが、この時期は一時的な小康状態にあった{{Sfn|P.バルトーク|1992|p=145}}{{Refnest|group="注"|バルトークの体重は一時期40kgまで落ちていたが、この頃は45kgに戻っていた{{Sfn|P.バルトーク|1992|p=147}}。}}。
バルトークは、当時契約していた'''[[ブージー・アンド・ホークス|ブージー&ホークス社]]'''{{Refnest|group="注"|ブージー&ホークス社は、1937年以降、バルトークの作品を扱うようになっていた{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=75}}。}}から『子供のために』の改訂を打診されるとこれに応えた{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=77}}{{Sfn|Lampert|2018|p=201}}。アメリカ移住後のバルトークは、ハンガリーやオーストリアからの印税収入が途絶えており{{Sfn|P.バルトーク|1992|p=135}}{{Sfn|Henle版(I)|2017|loc=序文VI}}、『子供のために』の楽譜をブージー&ホークス社から販売するためには、そのためには改訂版をつくることで新たな著作権を得る必要があったという経済的な事情もある{{Sfn|Farkas|2017|p=6}}{{Sfn|Büky|2021|p=76}}{{Refnest|group="注"|印税収入や演奏会での収入が途絶えた上に高額な治療費のため、バルトークの収入はハンガリー時代の数分の一になっており、1943年頃にはかなり家計が苦しくなっていた{{Sfn|P.バルトーク|1992|pp=136-138}}。}}。
バルトークは1944年末に弟子のピアニスト、ヴィルヘルミン・クリールにあてて改訂版出版の見通しを伝えていたが{{Sfn|Vikárius|2018|p=212}}、大戦の影響から出版は遅れ{{Sfn|Henle版(I)|2017|loc=序文VI}}、バルトークの死後、1946年になってニューヨークのブージー&ホークス社(''Boosey & Hawks Inc.''。ロンドンに本社がある Boosey & Hawks Ltd. のニューヨーク支社。)から出版された{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=51}}{{Sfn|Bartók-Compositions|loc=BB 53}}{{Refnest|group="注"|翌年にブージー&ホークス社のロンドン本店から出版された際に著作権は1947年となった{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=51}}{{Sfn|Vikárius|2011|p=233}}。}}。
=== 改訂版の構成 ===
==== 全2巻での構成 ====
ハンガリー編、スロバキア編がそれぞれ統合されて、'''全2巻'''、'''79曲'''で構成された{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=77}}。初版の4つの巻はそれぞれに構成が工夫されていたが、その構成感は失われることとなった{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=77}}。
*'''第1巻'''(ハンガリー民謡に基づく)40曲
*'''第2巻'''(スロバキア民謡に基づく)39曲
原曲である民謡自体に、アジアに起源をもつマジャル人(ハンガリー人)と、スラブ系西スラブ族であるスロバキア人という民族のルーツの違いが現れていることに加え{{Sfn|パップ|2015|p=110}}、バルトークが選択した民謡や編曲の違いによって、第1巻と第2巻は全体的な曲想に違いがある。
第1巻はテンポの速い躍動感のある曲が多く、第2巻はテンポが遅めで情緒豊かな表現の曲が多い{{Sfn|田代|2021|pp=91-92}}{{Refnest|group="注"|テンポ指示ごとの曲数では、第1巻ではアレグロの曲が14曲と最も多いが、第2巻ではアンダンテの曲が14曲で最も多い{{Sfn|田代|2021|pp=91-92}}。}}{{Refnest|group="注"|スタッカート主体の曲は第1巻が27曲に対して第2巻が13曲である。一方、レガート主体の曲は第1巻が19曲に対して第2巻が30曲となっている{{Sfn|田代|2021|p=92}}。}}。また、わらべ歌や子供の遊び歌は第1巻には12曲含まれているが第2巻には4曲しかない{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=66}}。こうしたことから、ハンガリー民謡独特のリズムやアクセントのあるエネルギッシュな性格をもつ第1巻に対し{{Sfn|田代|2021|p=91}}、第2巻は渋い印象を与える{{Sfn|伊東|1997|p=327}}。また、バルトークの編曲の技法はスロバキア編の方が進んでおり、多声的な処理や{{Sfn|田代|2021|p=92}}、形式面での工夫{{Sfn|伊東|1997|p=326}}、より大胆な和音の使用などが見られる{{Sfn|春秋社版|2008|loc=演奏ノート p. 15}}{{Sfn|伊東|1997|p=326}}。
==== アタッカによる接続 ====
前述のとおり、いくつかの曲は任意の[[アタッカ]]でつながっており、以下の9つの小グループを形成している。なお、第2巻の第23番-第24番(初版では第24番-第25番)のグループについては、初版では3曲が接続されていたが、その先頭にあった初版第23番が改訂時に削除され{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=39}}、2曲のグループとなっている。
'''第1巻'''
* 第13番「バラード」 - 第14番 - 第15番
* 第18番「兵士の歌」 - 第19番
* 第20番「お酒の歌」 - 第21番
* 第31番 - 第32番
* 第34番 - 第35番 - 第36番「酔っぱらいの歌」
'''第2巻'''
* 第1番 - 第2番 - 第3番
* 第11番 - 第12番 - 第13番
* 第16番「嘆き」 - 第17番
* 第23番 - 第24番
=== 改訂での主な変更点 ===
==== 6曲の削除 ====
改訂にあたり、初版第2巻から2曲(初版第25番、初版第29番)、初版第4巻から4曲(初版第23番、初版第27番、初版第33番、初版第34番)、計6曲が削除された{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=93}}。このうち、初版第4巻の初版第33番と第34番の2曲はコダーイ・エンマ(グリューバー・エンマ)が編曲したもので、残りの4曲は民謡研究を進める中で、古来から伝承された民謡でないとバルトークが判断したものである{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=93}}{{Sfn|Farkas|2017|p=12}}。
==== ローカル色の後退 ====
改訂版はアメリカでの販売や演奏を前提としていたことから、巻末に掲載されていたハンガリー語などによる民謡の歌詞は削除され{{Refnest|group="注"|おそらく、歌詞の英語訳が現実的ではないとして断念されたと思われる{{Sfn|Vikárius|2018|p=213}}。}}{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=77}}{{Sfn|Vikárius|2018|p=213}}、曲の理解を助けるための代替策として英語のタイトルが一部の曲につけられた{{Sfn|Farkas|2017|p=10}}{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=77}}{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=81}}。なお、スロバキア編にもとからあったタイトルは一部が変更されている{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=81}}。民謡の歌詞を削除したことにより、改訂版はハンガリーのローカル色が後退し、国際的な性格をもつことになった{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=93}}。
==== テンポと演奏時間の指定 ====
『若いピアノ弾き』と同様に、メトロノーム記号と演奏時間が全ての曲に付けられた{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=94}}{{Sfn|Ludmany|2019|p=36}}。ただし、バルトークは『若いピアノ弾き』の楽譜をアメリカに持ってきていなかったため、両者のメトロノーム記号は必ずしも一致していない{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=94}}。なお、楽譜に記載された演奏時間をトータルすると、第1巻が約35分、第2巻が約36分である{{Sfn|小畑|1981|p=116}}。
==== 子供や初学者への配慮 ====
初学者にとって演奏や読譜が容易になるよう、記譜方法などに変更が加えられた。
* 全ての曲において指番号が見直された{{Sfn|Ludmany|2019|P=59}}。
* 一部の曲が、演奏しやすいテンポに変更された{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=94}}。
* 初版では[[調号]]を用いず、各音符に#や♭などの[[臨時記号]]を付けていたが、改訂版では一部の曲において調号が用いられた{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=94}}{{Sfn|Vikárius|2018|p=215}}。なお、臨時記号の位置は曲で実際に出てくる音高に合わせられており、ト音記号の五線譜で通常は第5線につくシャープ(#)が曲によっては1オクターブ下の第1間に付けられている{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=34}}。
* リズムを読みやすくするため、民謡の歌詞の一音節が[[十六分音符]]に対応している曲の{{Refnest|group="注"|ハンガリー編の7曲(第13番「バラード」、第14番、第17番「ラウンド・ダンス」、第18番「兵士の歌」、第19番、第31番、第32番{{Sfn|Vikárius|2018|p=215}})、スロバキア編の4曲(第11番、第16番「嘆き」、第32番、第33番{{Sfn|Vikárius|2018|p=215}}){{Sfn|Büky|2021|p=77}}。これらの初版の楽譜は春秋社版に掲載されている。}}音価を2倍に拡大し、下の譜例のように[[四分音符]]や[[八分音符]]中心の記譜に改めた{{Refnest|group="注"|ハンガリー編の第22番だけが例外である{{Sfn|Vikárius|2018|p=215}}。}}{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=93}}{{Sfn|Vikárius|2018|p=215}}。
:<score>
{ \new RhythmicStaff \time2/4 c8^\markup {\teeny "初版"} c16 c16 c8 c8 | c8 c16 c16 c8 c8
\bar "||" \numericTimeSignature \time4/4
\time4/4 c4^\markup {\teeny "改訂版"} c8 c8 c4 c | c4 c8 c8 c4 c | }
</score>
==== その他の変更点 ====
一部の曲では拍子や和音などが変更されており{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=93}}、その大きなものは以下のとおりである。
* ハンガリー編 第26番:『若いピアノ弾き』と同様に「ブルガリアン・リズム」となった(前述){{Sfn|Henle版(I)|2017|p=43}}。
* ハンガリー編 第17番「ラウンド・ダンス」:短い間奏が差し替えとなった{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=42}}。
* ハンガリー編 第34番:短調の和音が長調の和音になるなど、和音が大きく変更となった{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=44}}。
* スロバキア編 第5番「変奏曲」:第1変奏の対旋律が差し替えとなった{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=43}}{{Refnest|group="注"|以上の初版の楽譜は、ヘンレ社の原典版(2017)に付録として掲載されている。}}。
* ハンガリー編 第34番、第35番、第36番「酔っぱらいの歌」:2拍子の拍節が4拍子に変更となった{{Sfn|Vikárius|2018|p=215}}。
:<score>
{ \new RhythmicStaff \time2/4 c8.[^\markup {\teeny "初版"} c16 c8 c8] | c8[ c8 c8 c8]
\bar "||" \numericTimeSignature \time4/4
c8.[^\markup {\teeny "改訂版"} c16 c8 c8] c8 c8 c8 c8 | }
</score>
== 校訂版 ==
=== 各種の校訂版 ===
==== ムジカ・ブダペスト版 ====
戦後、社会主義国となったハンガリーでは約20年間にわたって改訂版が流通せず、国営の出版社(''Zeneműkiadó Vállalatot''。現在の{{仮リンク|エディツィオ・ムジカ・ブダペスト社|hu|Editio Musica Budapest Zeneműkiadó}})が初版に若干の修正を加えた楽譜を出版していたが{{Sfn|Vikárius|2011|p=233}}、[[1967年]]になってブージー&ホークス社の改訂版に民謡の歌詞を掲載した、新しい版を出版した{{Sfn|Vikárius|2011|p=233}}。
バルトークの次男{{仮リンク|ピーター・バルトーク|hu|Bartók Péter}}は、ハンガリーの新しい版をもとにして独自の校訂を行い{{Sfn|Vikárius|2011|p=233}}、1998年に『子供のために I-II』(ハンガリー編)、2000年に『子供のために III-IV』(スロバキア編)を、いずれも'''''エディツィオ・ムジカ・ブダペスト社'''''から出版した{{Sfn|Vikárius|2011|p=233}}{{Sfn|Bartók-Compositions|loc=BB 53}}。
==== 音楽之友社版と春秋社版 ====
21世紀に入り、日本では、2005年~2006年に[[パップ昌子]]の校訂による'''''[[音楽之友社]]'''''版が、2008年には[[山崎孝]]の校訂による'''''[[春秋社]]'''''版が相次いで出版された。いずれもバルトークの自筆譜などをもとに校訂が行われている{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=94}}{{Sfn|春秋社版|2008|loc=校訂報告 pp.10-13}}。音楽之友社版は民謡の歌詞が原語と日本語の対訳付きで掲載されており{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=80}}{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=68}}、春秋社版は、一部の曲で改訂版と初版が比較できるようになっている。なお、一部とはいえ改訂版と初版の比較が行われた楽譜は春秋社のものが世界初である{{Sfn|Vikárius|2011|p=233}}。
==== 批判校訂全集 ====
2016年には、ドイツの'''''[[ヘンレ (出版社)|ヘンレ社]]'''''とエディツィオ・ムジカ・ブダペスト社との共同によるバルトークの批判校訂全集(''Complete Edition'')の一環として、ヴィカーリウシュ・ラースローとランペルト・ヴェラの校訂による楽譜 "For Children, for Piano , Early Version and Revised Version" が出版されている<ref name="カタログ全集版">{{Cite web|title=BÉLA BARTÓK For Children, Early Version and Revised Version|publisher=G. HENLE VERLAG|url=https://www.henle.de/jp/For-Children-Early-Version-and-Revised-Version/HN-6200|accessdate=2023-10-01}}</ref>
<ref>{{Cite web||title=【独占インタビュー】バルトーク全集 校訂者・中原佑介氏に聞く||publisher=アカデミア・ミュージック||url=https://www.academia-music.com/user_data/bartok_interview||accessdate=2023-10-01}}</ref>。この楽譜では全ての曲について改訂版と初版の両方が掲載され、見開きで比較ができるようになっている{{Refnest|group="注"|ハンガリー編とスロバキア編があわせて一冊となっており、価格は2023年10月現在、411ユーロと<ref name="カタログ全集版" />、ヘンレ社の原典版が各16.50ユーロであることからすると
<ref name="カタログ原典版I"> {{Cite web|title=BÉLA BARTÓK For Children, Volume I|publisher=G. HENLE VERLAG|url=https://www.henle.de/jp/For-Children-Volume-I/HN-1225|accessdate=2023-10-01}}</ref>、かなり高額である。}}。また、翌2017年には、ヘンレ社からは全集版に依拠した「原典版」(''Urtext'')が2分冊で出版されている{{Sfn|Henle版(I)|2017|loc=序文VI}}<ref name="カタログ原典版I" />。原典版では初版と比較する体裁は採られていないが、大きな変更があった曲、改訂版で割愛された曲、バルトークの録音から採譜した楽譜が付録として掲載されている{{Sfn|Henle版(I)|2017|loc=序文VI}}。
=== 校訂版による見解の相違 ===
前述のとおり、バルトークは改訂の際に調号を付けたが、その際、臨時記号のつけ忘れを見落としてしまったのではないかと疑われる音がいくつかある。その一例としては、第1巻 第15番の途中に出てくる左手の和音(譜例)があり、(1)が初版、(2)が改訂版で、ニ長調の調号(#×2)が付けられている。和音の上から2番目の音は、(1)では'''''ハ音'''''であったが、(2)では調号が適応されて'''''嬰ハ音'''''になっており、(1)と同じ音のまま調号を付けたのであれば(3)のようにナチュラル(♮)が必要となる。1945年のバルトークの自演録音(後述)は、改訂が終わっていた時期であるが、初版と同じハ音で弾いている{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=94}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \clef bass \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key c \major \time 1/2 <e c g>2^"(1)" \bar"||" \key d \major <e cis g>^"(2)" \bar"||" \key d \major <e c g>^"(3)" }
}
</score>
この音について、春秋社版は、改訂版のとおり(2)の嬰ハ音を採用しており{{Sfn|春秋社版|2008|loc=校訂報告 p. 37}}、校訂者の山崎はハ音であるとする主張は疑わしいとしている{{Sfn|山崎|2010|p=43}}。音楽之友社版の場合は、楽譜は(2)の嬰ハ音を採用しつつ{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=34}}校訂報告でナチュラルのつけ忘れの可能性を指摘している{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=94}}。一方、ヘンレ版では(3)のハ音を採用している{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=13}}。
== 主な録音==
=== バルトークの自作自演 ===
バルトークが演奏した『子供のために』の録音は、作曲時期に近い1910年代のプライベートなものが2曲、死去の年にあたる[[1945年]]に行われたラジオ放送用のものが15曲残されている。
最も古い録音は1910年8月に録音されたスロバキア編 第22番「ばかさわぎ」であり{{Refnest|group="注"|この段階ではスロバキア編は未出版である。}}{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=52}}、蝋管式蓄音機に吹き込まれ、同月にあったコダーイとシャーンドル・エンマの結婚祝いとして贈られた{{Sfn|Vikárius|2018|p=210}}{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=75}}。なお、バルトークは驚異的な猛スピードでこの曲を演奏している{{Refnest|group="注"|改訂版では「♩=150、50秒」と指定されているが、バルトークの演奏は「♩=c.a.220、34秒」である{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=50}}。}}{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=50}}。蝋管式蓄音機に吹き込まれた録音はもう一曲、1912年5月1日に録音されたと思われるハンガリー編 第10番「子供の遊び」があり{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=52}}、この曲については1945年の録音でも取り上げられている。
'''1945年の録音'''はアメリカ合衆国[[ニュージャージー州]]で放送されたラジオ番組「コシュート・ハンガリー・ラジオアワー」の放送用音源であり{{Sfn|P.バルトーク|1992|p=131}}{{Sfn|Vikárius|2018|p=211}}、ハンガリー編からの抜粋が以下のように5曲ずつ3つのセットで演奏されている{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=52}}{{Sfn|Vikárius|2018|p=211}}{{Refnest|group="注"|録音した段階ではバルトークは改訂版の校正も終えていたが、出版されたのはバルトークの死後であった。}}{{Refnest|group="注"|この録音は『10のやさしい小品』の抜粋(「トランシルヴァニアの夕べ」、「熊の踊り」)とともに、{{仮リンク|ヴォックス社|en|Vox Records}}から2枚組のSPレコードとして発売された{{Sfn|P.バルトーク|1992|p=131}}。}}。なお、アタッカでつながっている曲はハイフンで示している。
* 第3番、第4番「枕踊り」、第6番「左手の練習」、第10番「子供の踊り」、第12番
* 第13番「バラード」、第15番、第18番「兵士の歌」 - 第19番、第21番
* 第26番、第34番 - 第35番、第31番、第30番「ひやかし歌」
1945年の録音については正確な日付が確定しておらず{{Sfn|Vikárius|2018|p=211}}、「1月2日(?)」と疑問符つきでクレジットされてきたが、近年の研究では「5月7日」という説も登場している{{Sfn|Vikárius|2018|p=211}}。いずれにせよ、すでに2年間公式な演奏活動を行っておらず{{Sfn|Vikárius|2018|p=211}}死を数か月後に控えたバルトークが遺した録音であり、戦後に行われた校訂や研究における貴重な資料となっている{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=52}}{{Refnest|group="注"|バルトークの放送用録音よりも古い録音としては、1940年に[[ルイス・ケントナー]]による抜粋がある{{Sfn|Büky|2021|p=76}}。}}。
=== ディッタの全曲録音 ===
バルトークの死の翌年(1946年)、未亡人となったパーストリ・ディッタは12月にハンガリーに帰国した{{Sfn|Büky|2021|p=57}}。帰国後のディッタは15年以上にわたってピアニストとしては引退状態にあったが{{Sfn|Büky|2021|p=65}}{{Sfn|Büky|2012|p=193}}1950年代末からはレコーディング活動を再開する{{Refnest|group="注"|商業用の録音については、アメリカに住んでいた1942年以来とだえていた{{Sfn|Büky|2021|p=193}}。なお、本格的に聴衆の前で演奏するのは1964年のことである{{Sfn|Büky|2021|p=60}}。}}。その最初となったのが1958年から1959年にかけて行われた『ミクロコスモス』全曲と'''『子供のために』全曲'''の録音であり{{Sfn|Büky|2021|p=59}}{{Sfn|Büky|2021|p=194}}{{Refnest|group="注"|レコーディングは録音技師であった息子のペーテル・バルトークらがディッタの自宅に機材を持ち込んで行われた{{Sfn|Büky|2012|p=193}}。}}、『子供のために』全曲は[[1964年]]にハンガリーの{{仮リンク|クォリトン・レーベル|en|Qualiton Records}}から組み物のLPレコードとして発売された{{Refnest|group="注"|『ミクロコスモス』全曲は『子供のために』より2年早く、1962年にクォリトンレーベルから発売されている{{Sfn|Büky|2021|p=194}}。}}
{{Refnest|group="注"|ディッタの録音より前にも全曲録音は行われており、例えば、[[アンダ・ゲーザ]]の改訂版による全曲録音が、1954年から1955年にかけて巻別に[[コロムビア・レコード]]から発売されている<ref> {{Cite journal|first=JUDIT | last=KERTÉSZ|title=ANDA GÉZA, A ZONGORA TRUBADÚRJA DLA DOKTORI ÉRTEKEZÉS|publisher= Liszt Ferenc Zeneművészeti Egyetem|year=2011|page=69|url=http://real-phd.mtak.hu/298/1/Kertesz_J.pdf|}}</ref>。}}{{Refnest|group="注"|ディッタによる『子供のために』は、2021年の段階で、抜粋のみがCD化されており、全曲についてはCD化されていない{{Sfn|Büky|2021|p=194}}。}}{{Sfn|Büky|2021|p=59}}{{Sfn|Büky|2021|p=194}}。
ディッタは『子供のために』改訂版の楽譜を所有していたがこれを使用せず、初版をベースにしつつ一部に改訂版を反映させて演奏した{{Sfn|Büky|2021|p=77}}{{Sfn|Büky|2012|p=195}}。前述のとおり冷戦下のハンガリーでは1967年までは改訂版の楽譜が販売されておらず、ディッタは国営出版社の利益を考慮して初版を使用した{{Sfn|Büky|2021|p=77}}。なお、バルトークの妻であり生徒であったディッタの演奏が、バルトークの理想とする音楽を忠実に再現しているかどうかについては議論が分かれるところである{{Sfn|Ludmany|2019|p=66}}{{Refnest|group="注"|Büky(2012)は『子供のために』のバルトークとディッタの録音を比較し{{Sfn|Büky|2012|p=197}}、ディッタは楽譜の指定よりも、バルトークの採ったものに近いテンポで演奏している曲があると指摘している{{Sfn|Büky|2012|pp=194-195}}。その一方でBüky(2012)、Ludmany(2019)ともに、ディッタの演奏には「固さ」があり、バルトークの演奏にある遊び心や自由さ、優しさ、自発性などが欠けていると指摘している{{Sfn|Büky|2012|p=195}}{{Sfn|Ludmany|2019|p=67}}。}}。
LPレコード発売と同年に、ハンガリーの有名な画家<ref> {{Cite web|title=レイク・カーロイ|publisher=偕成社|url=https://www.kaiseisha.co.jp/authors/13568
|accessdate=2023-10-01|}}</ref>{{仮リンク|レイク・カーロイ|hu|Reich Károly}}が挿絵を描いたレコード付きの絵本 "Képeskönyv gyermekeknek"が出版され{{Sfn|Büky|2021|p=194}}、付属するレコードにはディッタの演奏する『子供のために』からの抜粋が収められた{{Sfn|Büky|2021|p=194}}。この絵本は2017年にブダペストのMóra社からCDつき絵本として再販されている{{Sfn|Büky|2021|p=194}}。
=== コチシュとラーンキの全曲録音 ===
バルトークの死後に生まれたハンガリーのピアニストでは、バルトークのピアノ曲演奏に定評のある<ref> {{Cite web|title=BARTÓK For Children|publisher=Gramophone|author=Rob Cowan|url=https://www.gramophone.co.uk/review/bart%C3%B3k-for-children
|accessdate=2023-10-01|}}</ref>[[コチシュ・ゾルターン]](1952年 - 2016年)が『子供のために』(改訂版全曲)の録音を2回にわたって行っている{{Refnest|group="注"|『子供のために』を複数回録音したピアニストとしては、バルトークに師事しバルトークの死後に『[[ピアノ協奏曲第3番 (バルトーク)|ピアノ協奏曲第3番]]』の世界初演を行った[[シャーンドル・ジェルジ]]がおり、『子供のために』を含むバルトークのピアノ作品全集を2回録音している。}}。旧録音は1981年にハンガリーの{{仮リンク|フンガロトン|hu|Hungaroton}}<ref> {{Cite web|title=Bartók: For Children|publisher=music.apple.com|url=https://music.apple.com/gb/album/bart%C3%B3k-for-children/374444034
|accessdate=2023-10-01|}}</ref>、新録音は1995年にオランダの[[フィリップス・レコード|フィリップス]](現在は[[デッカ・レコード|デッカ]])から発売された<ref> {{Cite web|title=Bartók: Works for Solo Piano, Vol. 3|publisher=music.apple.com|url=https://music.apple.com/gb/album/bart%C3%B3k-works-for-solo-piano-vol-3/1452170315
|accessdate=2023-10-01|}}</ref>。また、コチシュと同世代の[[ラーンキ・デジェー]](1951年-)は、1977年に『子供のために』全曲を録音している。ハンガリーではその10年前から改訂版に基づく楽譜が出回っていたが、ラーンキは初版で演奏している<ref> {{Cite web|title=Bartók: Gyermekeknek (For Children)|publisher=music.apple.com|url=https://music.apple.com/jp/album/bart%C3%B3k-gyermekeknek-for-children/189609108
|accessdate=2023-10-07|}}</ref>{{Refnest|group="注"|ラーンキ・デジェーの息子フュロップが録音したバルトークのピアノ曲集には、初版のうち、改訂版で大きな変更のあった曲や削除された曲を抜粋して収録している<ref> {{Cite web|title=Bartók: Piano Works|publisher=music.apple.com|url=https://music.apple.com/us/album/bart%C3%B3k-piano-works/1594429992
|accessdate=2023-10-07|}}</ref>。}}。
== 新しい世代へ ==
=== バルトークと『子供のために』 ===
[[File:Bartók Béla 1927.jpg|right|thumb|200px|バルトーク(1927年)]]
生前のバルトークにとって、『子供のために』は特別な思い入れのある作品であった。
ピアノ教師時代、バルトークは自分の曲をレッスンの教材とすることはほとんどなかったが{{Sfn|セーケイ|1992|p=185}}{{Refnest|group="注"|ハンガリーの音楽を選ぶ必要がある場合はコダーイの作品を推していた{{Sfn|セーケイ|1992|p=185}}。}}、生徒がバルトークの曲での指導を強く希望した場合には『子供のために』を指定した{{Sfn|セーケイ|1992|p=186}}。普段のレッスンでは、人を寄せつけない冷酷といえるほどの眼差しで{{Sfn|セーケイ|1992|p=187}}厳しい指導を行うバルトークであったが{{Refnest|group="注"|バルトークのレッスンでは、特にリズムとアクセントについては間違いを絶対に見逃さず、「人間の聴覚ではほとんど知覚できない音の違い{{Sfn|セーケイ|1992|p=174}}」を修正するために何十回も自ら手本を示し、同じ音になるまで繰り返し弾き直させた{{Sfn|セーケイ|1992|p=174}}{{Sfn|セーケイ|1992|p=186}}{{Sfn|Büky|2021|p=43}}。}}、『子供のために』を指導するときだけは別で、生徒のそばに立ち、あたかも子供がお気に入りの玩具を見せびらかすときのように{{Sfn|Büky|2021|p=65}}、生き生きとした口調で嬉しそうに曲について説明したという{{Sfn|セーケイ|1992|p=186}}。
{{Quotation|
バルトークの顔に微笑みを見たことのある人はきわめてわずかでした。しかし『子供のために』を教えている時、それを見ることができたのです{{Sfn|セーケイ|1992|p=187}}。
|セーケイ・ユーリア|『バルトーク物語』p.187
}}
バルトークは『子供のために』を「私の心にもっとも近い存在{{Sfn|セーケイ|1992|p=186}}」であるとし{{Sfn|セーケイ|1992|p=186}}、また、生涯にわたって「最も好きな作品」と呼んでいた{{Sfn|セーケイ|1992|p=157}}。その理由について、バルトークの生徒であったセーケイ・ユーリアは次のように推測している。
{{Quotation|
その理由はたぶんこの曲集の中で、彼の最愛の人たち、つまり農民と子供たちをつなげることができたからでしょう。彼自身が年老いた農民から受けた財産を子供たちに、新しい世代へ引き渡すことがこの曲集の目的でしたから{{Sfn|セーケイ|1992|pp=157-158}}。
|セーケイ・ユーリア|前掲書、pp.157-158
}}
=== 新しい世代へ ===
====ハンガリーの音楽教育====
バルトークの祖国ハンガリーでは第二次世界大戦後、コダーイが提唱した理念に基づく、民謡やわらべ歌を重視した独特の教育が行われ{{Refnest|group="注"|「{{仮リンク|コダーイ・メソッド|hu|Kodály-módszer}}」と呼ばれる}}{{Sfn|尾見|2017|p=68}}、20世紀末に政治体制が変わった後も引き継がれている{{Sfn|尾見|2017|p=69}}。その中にあって、バルトークの作品は高い評価と特別な扱いがなされており{{Sfn|加勢|1981|p=37}}、『子供のために』は、コダーイの『ピアノの学校』({{lang-hu}}''Zongora Iskola'')やバルトークの『ミクロコスモス』を教本としてピアノを学習する初学者が使う併用教材とされたほか{{Sfn|加勢|1981|p=36}}、公教育では「国家基準カリキュラム」({{lang-hu}}''Nemzeti alaptanterv'')において、1-4年生が学ぶ伝統音楽の一つに『子供のために』が位置づけられている{{Sfn|尾見|2017|p=74}}<ref>{{Cite web|title=Kerettanterv az általános iskola 1–4. évfolyama számára|publisher=Oktatási Hivatal|url=https://www.oktatas.hu/kozneveles/kerettantervek/2020_nat/kerettanterv_alt_isk_1_4_evf|accessdate=2023-10-01|}},"Ének-zene 1–4. évfolyam", p.-5, p.=11</ref>。
====新しい世代のピアニスト====
{{External media
| width = 280px
| video1 = [https://www.youtube.com/watch?v=bNl9plPckH8 1996年、当時6歳の金子三勇士がハンガリーで演奏した『子供のために』抜粋] - [[金子三勇士]]公式YouTube。}}
若い世代のピアニストの中には、幼少時に『子供のために』に触れたことが音楽家の道に進むきっかけの一つになったと公言している者もいる。日本生まれのピアニスト[[金子三勇士]](1989年-)はハンガリー人で教育者でもあった祖母からコチシュが演奏する『子供のために』のCDを贈られるとともにハンガリー式の音楽教育の手ほどきを受けて<ref name=金子インタビュー1> {{Cite web|title=『InfoMart』 vol.108|date = 2020-07-15|
|publisher=所沢市民文化センター ミューズ|url=https://www.muse-tokorozawa.or.jp/infomart/pdf/infomart_vol108.pdf|pages=1-2
|accessdate=2023-10-01|}}</ref>2歳でピアノを始め<ref name=金子インタビュー2> {{Cite web|title=フィリア通信 vol.84 - 彗星のごとく現れた、超大型新人ピアニスト|date = 2011-01-20|
|publisher=青葉区民文化センター フィリアホール|url=https://www.philiahall.com/archive/interview/110120/index.shtml
|accessdate=2023-10-01|}}</ref>、6歳から10年間ハンガリーに留学<ref name=金子インタビュー1 /> 、2011年にプロデビューを果たした。デビュー後にはアウトリーチ活動にも力を入れ、『子供のために』を紹介するレクチャーも行っている<ref name=金子講義チラシ> {{Cite web|title=金子三勇士講義2022年度講義第2弾-「バルトークを消化しよう !」|year = 2023
|publisher=東邦音楽大学|url=https://www.toho-music.ac.jp/extension/wp-content/uploads/sites/7/2022/09/TOHOad_2022_S22v2.pdf
|accessdate=2023-10-01|}}</ref>。また、金子より若いハンガリーの{{仮リンク|ベレッツ・ミハーイ |hu|Berecz Mihály}}(1997年-)は6歳でヴァイオリンを始めたが<ref name=berecz_bio>{{Cite web|title=Biography|publisher=mihalyberecz.com|url=https://mihalyberecz.com/en/bio_en/
|accessdate=2023-10-01|}}</ref>、コチシュの『子供のために』を聴いたことでピアノの練習も始め<ref name=berecz_interview> {{Cite web|title=A Magyar Nemzet - A kotta kelepcéje|publisher=Mediaworks Hungary Zrt|url=https://magyarnemzet.hu/lugas-rovat/2019/08/a-kotta-kelepceje
|accessdate=2023-10-01|}}</ref>、デビュー後にはバルトークのピアノ曲の全曲演奏会も行っている<ref name=berecz_bio />。
====今日における位置づけ====
かつてピアノ教育を専門とする国際的な研究者{{仮リンク|ヴァロー・マルギット|hu|Varró Margit}}(1881年-1978年)が、教育音楽にとって革命的であったと高く評価したように{{Sfn|Lampert|2018|p=202}}、作曲から1世紀以上が経過した今日、『子供のために』は、世界中のピアノを学ぶ人々の糧となっており{{Sfn|Lampert|2018|p=202}}{{Refnest|group="注"|日本においても、1981年出版の『最新名曲解説全集』(音楽之友社)では「ピアノ教育のための標準的な作品としてその評価はほぼ定着した{{Sfn|小畑|1981|p=114}}」とされている{{Sfn|小畑|1981|p=114}}。}}、コンサート・ピースとしても定着して幅広い層に愛好されている{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=76}}。
== 各曲の概要 ==
*タイトル:基本的にパップ(2005、2006)の日本語訳タイトルに倣い、一部で山崎(2010)の訳を用いた。
*速度:楽譜に明示されているテンポを記載し、リタルダンドなどの変化については記載していない。
*拍子:頻繁に拍子を交代する曲については、全てを記載していない。
*時間:バルトークが楽譜に記した演奏時間を記載した。
*調号:曲頭の調号の数を記載した。また、音階や旋法については、旋律に使われているものを原則として記載した。音階の譜例のうち、変異音や派生音には※印を付した。
*原曲:"Research Centre for the Humanities, Institute for Musicology" の "FOLK MUSIC IN BARTÓK'S COMPOSITIONS" に掲載されている情報(ランペルト・ヴェラの研究)に基づき記載した。初版の楽譜に記載されている地名と異なっている場合がある。
=== 第1巻(ハンガリー編)===
====第1巻 第1番「遊んでいる子供たち」====
[[File:Retes.jpg|right|thumb|170px|渦巻きパイを焼こう。]]
*速度:アレグロ(♩=92){{Sfn|Henle版(I)|2017|p=1}}。『若いピアノ弾き』では♩=112{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=1}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=1}}。
*時間:32秒{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=1}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=1}}。[[ハ長調]]([[ハ (音名)|ハ音]]から始まる{{仮リンク|Hexachord|en|Hexachord|label=ヘクサコード}}{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=11}}){{Sfn|山崎|2010|p=4}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key c \major \time 1/1 \cadenzaOn c1 d e f g a \bar"|" c \bar"|"}
}
</score>
*原曲:バルトークが1907年8月に{{仮リンク|チーク県|hu|Csík vármegye}}の{{仮リンク|ジェルジョーウーイフィル|hu|Gyergyóújfalu}}(現:ルーマニアの{{仮リンク|スセニ|ro|Comuna Suseni, Harghita}})で採集した、14歳の少女による歌{{Sfn|Folk Music|loc=L 29}}{{Refnest|group="注"|「Mrs.János Jakabの娘」と記録されている{{Sfn|Folk Music|loc=L 29}}。}}。
*概要:この曲の旋律はハンガリー民謡の典型とは言えないものだが{{Sfn|Lampert|2018|p=195}}、おそらくバルトークは14歳の子供から採集したこの歌から曲集を開始しようとしたものと考えられる{{Sfn|Lampert|2018|p=195}}。なお、バルトークがこの曲を初版第1巻に組み込んだのは最後の段階になってからであった{{Sfn|Lampert|2018|p=195}}。原曲は、手をつないだ子供たちが渦巻きを作りながら「カタツムリ型のパイを焼こう」と歌いながら遊ぶときの歌である{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=80}}。[[強弱法#五線譜における強弱記号|デュナーミク]]は終始 '''''p''''' の範囲内にあり、「センプリーチェ(素朴に)」の指示がある旋律が奏でられる{{Sfn|山崎|2010|p=4}}。左手の伴奏の動きは、シューマンの『ユーゲントアルバム』の第1曲「メロディ」との類似が指摘されている{{Sfn|Parakilas|1995|pp=488-489}}{{Sfn|NAKAHARA|2020|pp=274-275}}。
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c''' { \clef treble \key c \major \time 2/4
[ g8-\markup { \dynamic p \italic { ,semplice} }-. g( a-.) a( ] | g-.) g( e4--) | [ f8-. f( d-.) d( ] | e-.) e( c4-- |}
\new Staff = "LH" \relative c' { \clef treble \key c \major \time 2/4
[ e8-\markup { \italic {sempre legato} } g f g ] | [ e g c, g' ] | [ d g f g ] | [ c, g' d g ] |}
>> }
</score>
:(参考)シューマン作曲「メロディ」(『ユーゲントアルバム』第1曲)の伴奏
::<score>
\relative c' {
\new Staff
{ \key c \major \time 4/4 (c8 g' f g e g c, e | f d g f e f e d) | }
}
</score>
====第1巻 第2番「子供の歌」====
[[File:Little lamb (2953360890).jpg|right|thumb|170px|小さな子羊]]
*速度:アンダンテ(♩=74){{Sfn|Henle版(I)|2017|p=2}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=2}}。
*時間:48秒{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=2}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=2}}。ハ長調(ハ音から始まるヘクサコード{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=12}}){{Sfn|山崎|2010|p=6}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key c \major \time 1/1 \cadenzaOn c1 d e f g a \bar"|" c \bar"|"}
}
</score>
*原曲:キシュ・アーロン『ハンガリー子供の遊戯歌集』より{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=81}}。
*概要:まだ寒い日が続くハンガリーの4月{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=81}}。[[ゲオルギオスの日#ハンガリー|聖ジェルジの日]]に{{Sfn|山崎|2010|p=6}}子供たちが凍える子羊のため、暖かい日差しを願って歌う{{Sfn|パップ|2015|p=50}}。譜例(上)の第5小節から始まるクレッシェンドは、歌詞のイントネーションに合わせ、"kis bárány"(小さな子羊)という言葉の始まりに頂点が来るように書かれている{{Sfn|結束|2017|p=144}}(譜例・下)。
:(冒頭)
::<score>
\relative c' {
\new Staff { \key c \major \time 2/4 g'4-- -\markup { \dynamic p \italic {, dolce}} f8( g8) | g4-- r | g4-- f8( g8) | g4-- r |
[g8\<( a g f] | [e d\! e\> f) ] | e4( d4) | c2\! }
}
</score>
:(第5小節からの歌詞{{Sfn|Folk Music|loc=L 30}})
::<score>
\relative b' { \key c \major \time 2/4 \autoBeamOff
g8 a g f | e d e f | e4 d4 | c2 | }
\addlyrics { ker tek a- latt a kis bár- rány Majd meg- fagy.}
</score>
====第1巻 第3番====
*速度:クワジ・アダージョ(♩=65){{Sfn|Henle版(I)|2017|p=2}}。初版ではアンダンテ{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=52}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=2}}。
*時間:45秒{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=2}}。バルトークによる1945年の録音では50秒{{Sfn|Bartók-Compositions|loc=BB 53}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=2}}。[[イ短調]]([[イ (音名)|イ音]]から始まる[[ペンタコルド|ペンタコード]]{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=81}}){{Sfn|山崎|2010|p=8}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key c \major \time 1/1 \cadenzaOn a'1 b c d e \bar "|" a \bar"|"}
}
</score>
*原曲:キシュ・アーロン『ハンガリー子供の遊戯歌集』より{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=83}}
*概要:日本の「[[はないちもんめ]]」に似た子供たちの遊びで歌われる曲であるが{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=83}}、歌詞は、娘が結婚して家から出て行ってしまったことを悲しむ親の気持ちを歌うものである{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=81}}。伴奏の[[オスティナート]]にはイ短調に含まれない、ドリア旋法に由来する[[嬰ヘ|嬰ヘ音]]が使われている{{Sfn|小畑|1981|p=114}}。なお、歌詞の前半は第11番と同一である{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=83}}。
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c'' { \clef treble \key a \minor \time 2/4
a8(-\markup { \dynamic p \italic { ,dolce} }[ e'\<) e( d) ] | e4\>( c8 a)\! |
a8(\<[ e') e( d) ] | e4\>( c8 a)\! |
d4(\> c8 b | a4 b | c8)\![ c( b) b ] | a4 a4-^~ | a2~ | a2 | }
\new Staff = "LH" \relative c' { \clef treble \key a \minor \time 2/4
r4 <e a,>4( | <fis d>2) ] | r4 <e a,>4( | <fis d>2) ] | r4 <e a,>4( | <fis d>2) ] | r4 <e a,>4( | <fis d>2) ] |r4 <e a,>4( | <fis d>2) ] |}
>> }
</score>
====第1巻 第4番「枕踊り」====
[[File:Hímzettpárna.jpg|right|thumb|220px|刺繍が施された枕([[トランシルヴァニア|トランシルヴァニア地方]])]]
*速度:アレグロ(♩=120){{Sfn|Henle版(I)|2017|p=3}}。『若いピアノ弾き』では♩=144{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=3}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=3}}。
*時間:58秒{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=3}}。『若いピアノ弾き』では50秒{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=3}}、バルトークによる1945年の録音では46秒{{Sfn|Bartók-Compositions|loc=BB 53}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=3}}。ハ長調(ハ音から始まるペンタコード{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=81}}){{Sfn|山崎|2010|p=10}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key c \major \time 1/1 \cadenzaOn c1 d e f g \bar"|" c \bar"|"}
}
</score>
*原曲:キシュ・アーロン『ハンガリー子供の遊戯歌集』より{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=81}}。
*概要:「[[ハンカチ落とし]]」に似た子供の遊びにおいて歌われ{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=81}}、歌詞の大意は、失くしたハンカチを拾ってくれた人にはキスしてあげる、というもの{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=81}}。元々は婚礼の出席者が、嫁入り道具である枕を落としたり拾ったりしながら歌い踊る「枕踊り」の歌であったものが{{Sfn|パップ|2015|p=46}}、子供の遊び歌として受け継がれたものである{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=81}}。デュナーミクは '''''pp''''' から '''''f''''' まで幅が広く、速いテンポの中で激しく変化する{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=81}}。なお、第29番「五音音階の旋律」も枕踊りの曲である。
::<score>
\relative c'' {
\new Staff { \key c \major \time 2/4
[ g8\p( e f d ] | [ e d e c) ] | [ d( f e d ] | g4--) g4-- |
[ g8( e f d ] | [ e d e c) ] | [ d( f e d ] | c4--) c4-- | }
}
</score>
====第1巻 第5番「遊び」====
*速度:アレグレット(♩=106)- ピウ・モッソ(♩=130)- テンポ・プリモ - トランクィロ{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=4}}。冒頭のテンポについては、初版ではポコ・アレグレット{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=4}}、『若いピアノ弾き』でのメトロノーム記号は♩=120{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=4}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=4}}。
*時間:1分05秒{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=4}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=4}}。ハ長調(ハ音から始まるヘクサコード{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=81}}){{Sfn|山崎|2010|p=10}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key c \major \time 1/1 \cadenzaOn c1 d e f g a \bar"|" c \bar"|"}
}
</score>
*原曲:キシュ・アーロン『ハンガリー子供の遊戯歌集』より{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=82}}
*概要:この民謡は、ハンガリーの「断食の日」の行事で歌われていた2つの歌(譜例上・下)が、連続して歌われているうちに1つの曲となってしまい、その形で伝承されたものである{{Sfn|パップ|2015|p=47}}。バルトークは最初の部分を回想するように再現することで、中間部をもつ[[三部形式]]の曲のように仕上げた{{Sfn|Lampert|2018|p=197}}。こうした編曲の工夫は、後の『[[15のハンガリーの農民の歌]]』にも見られる{{Sfn|Lampert|2018|p=197}}。
::<score>
\relative c'' {
\new Staff { \key c \major \time 2/4 \tempo Allegretto
c4-\markup { \dynamic mf \italic { ,dolce} }( g) | c( g) | [ g8( f e d ] | e4 c4) |
} }
</score>
::<score>
\relative c'' { \new Staff { \key c \major \time 2/4 \tempo "Più mosso"
[ <g e>8\f <g e> <g e> <g e> ] | [ <g e> <g e> <g e> <g e> ] | <c e,>4-- <g e>-- | <g e>-- e-- |
[ <e c>8 <e c> <e c> <e c> ] | [ <e c> <e c> <e c> <e c> ] | <f d>4-- <e c>-- | <d bes>-- c-- |
} }
</score>
====第1巻 第6番「左手の練習」====
[[File:Red and yellow tulips.jpg|right|thumb|140px|ヘイ、チューリップ、チューリップ]]
*速度:アレグロ(♩=144){{Sfn|Henle版(I)|2017|p=5}}。『若いピアノ弾き』では♩=160{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=5}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=5}}。
*時間:50秒{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=6}}。バルトークによる1945年の録音では43秒{{Sfn|Bartók-Compositions|loc=BB 53}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=5}}。[[ニ短調]]([[ニ (音名)|ニ音]]から始まるペンタコード{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=82}}。){{Sfn|山崎|2010|p=16}}。
::<score>
\relative c {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key c \major \time 1/1 \cadenzaOn d'1 e f g a \bar "|" d \bar"|"}
}
</score>
*原曲:キシュ・アーロン『ハンガリー子供の遊戯歌集』より{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=82}}。
*概要:原曲の「{{仮リンク|ヘイ、チューリップ、チューリップ|hu|Hej, tulipán, tulipán}}」は、[[チューリップ]]、[[カーネーション]]、[[ヒヤシンス]](デルフィニウム)など花の名が次々に登場する歌で{{Sfn|山崎|2010|p=16}}、子供たちが手をつないでつくったブリッジを次々にくぐる遊びの歌{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=82}}。左手が五度や六度、四度の重音を常に[[スタッカート (音楽)|スタッカート]]で連打し続け、最後は '''''ppp''''' からディミニュエンドして消えるように終わる{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=6}}。なお、日本においては、1981年度(昭和56年度)から2005年度(平成17年度)まで20年以上にわたり、[[教育出版]]の教科書『中学生の器楽』にリコーダー三重奏{{Refnest|group="注"|ソプラノリコーダー2本・アルトリコーダー1本の三重奏<ref name="器楽1992">{{Cite book|和書|author = 三善晃|year = 1992|title = 改訂 中学生の器楽|publisher = 教育出版社}}pp. 58-59</ref>。}}に編曲された楽譜が「バルトーク作曲イエネイ編曲・アレグロ」というタイトルで掲載されていた<ref name="教科書DB">{{Cite web|title=教科書掲載楽曲データベース(中学校音楽)|publisher=[[教育出版]]|url=https://www.kyoiku-shuppan.co.jp/textbook/chuu/ongaku/document/ducu2/doc202/sbjdb-16042158.html |accessdate=2023-09-23|}}</ref>{{Refnest|group="注"|昭和62年度で明記されるまでは「編曲者不明」となっていた<ref name="教科書DB" />。}}{{Refnest|group="注"|原曲について、「バルトークとコダーイ共作のピアノ曲集『ハンガリーの歌と踊り』」と誤って紹介されている<ref name="器楽1992" />。}}。
:(第17小節~)
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c'' { \clef treble \key a \minor \time 2/4
[a8-.-\markup { \dynamic mf \italic {(molto marcato)} } a-. a-. a-.] | g( a) f4-- | [a8-. a-. a-. a-.] | g( a) f4-- | [ g8( f) f( e) ] e( f) d4-- | [ g8( f) f( e) ] | e( f) d4\sf~| d2~ | }
\new Staff = "LH" \relative c' { \clef bass \key a \minor \time 2/4
[ <a d,>8_\markup { \italic {(sempre staccato)} } <a d,> <a d,> <a d,> ] | [ <a d,> <a d,> <a d,> <a d,> ] | [ <a d,> <a d,> <a d,> <a d,> ] |
[ <bes d,>-> <bes d,> <bes d,> <bes d,> ] | [ <bes d,> <bes d,> <bes d,> <bes d,> ] |
[ <a c,>-> <a c,> <a c,> <a c,> ] |[ <a c,> <a c,> <a c,> <a c,> ] |
[ <g b,>-> <g b,> <g b,> <g b,> ] | [ <g b,> <g b,> <g b,> <g b,> ] | }
>> }
</score>
====第1巻 第7番「遊びの歌」====
*速度:アンダンテ・グラツィオーソ(♩=74){{Sfn|Henle版(I)|2017|p=6}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=6}}。
*時間:28秒{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=6}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=6}}。ハ長調(ハ音から始まるヘクサコード{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=82}}){{Sfn|山崎|2010|p=18}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key c \major \time 1/1 \cadenzaOn c1 d e f g a \bar"|" c \bar"|"}
}
</score>
*原曲:バルトークが1907年4月にトルナ県のフェルシェーイレグで採集した、女性による歌{{Sfn|Folk Music|loc=L 35}}。
*概要:「グラツィオーソ(優美に)」の指示がある子供の遊び歌{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=82}}。旋律はハ長調であるが、伴奏は#や♭の臨時記号によって豊かな陰影に彩られている{{Sfn|山崎|2010|p=18}}。
:(後半の8小節。発想記号は一部省略。)
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c'' { \clef treble \key c \major \time 2/4
[c8---\p c( e\cresc c ] | g2) | [c8-- c( e\< c ] | g2) | [f'8---\mf f( a\dim f] | [e--) e( g e] | [d--) d( f d] | c2-\p) \bar "|." }
\new Staff = "LH" \relative c' { \clef bass \key c \major \time 2/4
r4 <fis c a>4( | <e c g>2) | r4 <fis c a>4( | <\parenthesize e b e,>2) |
r4 <b d,>( | <gis e>-.) <bes c,>( | <a f>-.) <b! g>8( f') | <e c>2 }
>> }
</score>
====第1巻 第8番「子供の遊び」====
*速度:アレグレット(♩=120)、一部でアダージオとなる{{Sfn|Henle版(I)|2017|pp=7-8}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=7}}。
*時間:1分30秒{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=8}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=7}}。ニ音を終止音とする[[ドリア旋法]]{{Sfn|山崎|2010|p=22}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key c \major \time 1/1 \cadenzaOn d1 e f g a b c \bar "|" d \bar"|"}
}
</score>
*原曲:キシュ・アーロン『ハンガリー子供の遊戯歌集』より{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=82}}
*概要:輪の中にいる子供が、周りを囲んでいる子供たちから身に付けているものや食べ物をもらうという遊びで歌われる{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=3}}。歌詞は物乞いと村人たちのやり取りになっており{{Sfn|山崎|2010|p=22}}、冒頭は物乞いに冷ややかな態度をとる村人{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=3}}、第13小節からは「芸を披露するから笑ったらご褒美を」とユーモラスに歌う物乞いを表している{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=3}}。フレーズの末尾には原曲の民謡にはないアダージョの部分があり{{Sfn|田代|2021|p=75}}{{Sfn|Folk Music|loc=L 36 - Comparison}}、この部分が「ものをもらう」場面になっている{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=83}}。
:(第1小節~)
::<score>
\relative c' {
\new Staff { \key a \minor \time 2/4
[ f8-.\mf f( e-.) e( ] | [ d-.) d-. d-.] r | [ f8-. f( e-.) e-. ] | d4-_ e-_ | f8-. g-. a4-- | f8-. g-. a4-- | [a8-. g-. f-. e-. ] | d4-- d-- |
} }
</score>
:(第13小節~)
::<score>
\relative c'' {
\new Staff { \key a \minor \time 2/4
a4(\p g8 f | a)[ a( g\cresc f)] | a4( g8 f | a)[ a( g f)] | a([\mf c b a] | g4)-- g-- |
a8-\markup { \dynamic p \italic { ,smorz.}}([ c b a] | g4)-- g-- | R2 |
\tempo Adagio <f'~ d~>2\ppp | <f d>\fermata | <e~ a,~ > | <e a, >\fermata | R |
} }
</score>
====第1巻 第9番「歌」====
*速度:アダージョ(♩=84)とポコ・ヴィーヴォ(♩=112)が交替する{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=8}}。冒頭のテンポについては、初版ではモルト・アダージョ{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=52}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=8}}。
*時間:1分00秒{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=25}}
*調号:#×2{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=8}}。ニ音を終止音とする[[リディア旋法]]・[[ニ長調]]{{Sfn|山崎|2010|p=25}}。パップ(2005)は[[嬰ト|嬰ト音]]をニ長調の派生音として扱っている{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=25}}。
:(リディア旋法)
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key d \major \time 1/1 \cadenzaOn d1 e fis gis a b cis \bar"|" d \bar"|"}
}
</score>
:(ニ長調)
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key d \major \time 1/1 \cadenzaOn d1 e fis g? a b cis \bar "|" d \bar"|"}
}
</score>
*原曲:キシュ・アーロン『ハンガリー子供の遊戯歌集』より{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=83}}。
*概要:子供に洗顔をしつける歌が遊びとなったもの{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=83}}。エプロンをつけた子供たちが輪をつくり、その中に入った子供が誰かのエプロンで顔を拭いたらその子供と交代する{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=83}}。ゆったりとした「モルト・エスプレッシーボ(とても感情を込めて)」の部分(譜例・上)と、「ポコ・スケルツァンド(少しおどけて)」の部分(譜例・下)とが交互に現れる{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|pp=24-25}}。
:(第1小節~)
::<score>
\relative c'' {
\new Staff { \key d \major \time 2/4 \tempo Adagio
a4-\markup { \dynamic p \italic { ,molto esp.}}--\< a\( | b a\) | gis2^^~\!( | gis\> | a) | R\! |
}}
</score>
:(第13小節~)
::<score>
\relative c'' {
\new Staff { \key d \major \time 2/4 \tempo "Poco più vivo"
a4-\markup { \italic { più } \dynamic p \italic { , poco scherzando }}-_ a8( b | a-.)\< g4. | fis2(\> | d4)\! r4 |
}}
</score>
====第1巻 第10番「子供の踊り」====
*速度:アレグロ・モルト(♩=160){{Sfn|Henle版(I)|2017|p=9}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=9}}。
*時間:40秒{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=9}}。バルトークによる演奏の録音は2種類あり、1912年のプライベートな録音では30秒{{Sfn|Bartók-Compositions|loc=BB 53}}、1945年の録音では42秒{{Sfn|Bartók-Compositions|loc=BB 53}}。
*調号:#×1{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=9}}。イ音を終止音とするドリア旋法{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=83}}。山崎(2010)は「ドリア旋法・イ短調」としている{{Sfn|山崎|2010|p=27}}。
::<score>
\relative c'' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key e \minor \time 1/1 \cadenzaOn a1 b c d e fis g \bar "|" a \bar"|"}
}
</score>
*原曲:キシュ・アーロン『ハンガリー子供の遊戯歌集』より{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=83}}。
*概要:独り身の男が、恋人のいるワラキア人(ルーマニア人)を羨ましがるという内容の歌詞で{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=83}}、もともとは大人の歌だったものが子供の踊りの歌に転化したものである{{Sfn|パップ|2015|p=55}}。旋律は「'''{{仮リンク|コロメイカ|uk|Коломийка}}'''のリズム{{Refnest|group="注"|「コロメイカのリズム」。ルテニア(現在の[[ウクライナ]])発祥のリズムで{{Sfn|パップ|2015|p=26}}、バルトークは、このリズムの旋律をパルランド様式の曲と同じく古いタイプのものに分類した{{Sfn|パップ|2015|p=55}}。
:<score>
{ \new RhythmicStaff \time2/4 [ c8 c c c ] c [ c c c] c [ c c c ] c4-- c-- }
</score>}}で」{{Sfn|パップ|2015|p=54}}「インペトゥオーソ(激しく)」の指示がある{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=26}}。デュナーミクは '''''mf''''' から '''''ff''''' の間にあり{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=9}}、[[ペダル#ピアノのペダル|ペダル]]が多く使われ響きが豪華である{{Sfn|山崎|2010|p=27}}{{Sfn|パップ|2015|p=55}}。
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c'' { \clef treble \key e \minor \time 2/4
R2 R2 R2 R2
[ e8-\markup { \italic {impetuoso }}( g fis e) ] | [ e( g fis e) ] | [ e( g fis e) ] | e4-- e-- | }
\new Staff = "LH" \relative c' { \clef bass \key e \minor \time 2/4
[ a8^\markup { \dynamic f \italic { , sempre legato}}-> b e b ] | [ a-> b e b ] | [ a-> b e b ] | [ a-> b e b ] |
[ a-> b e b ] | [ a-> c e c ] | [ a-> d e d ] | [ a-> c e c ] | }
>> }
</score>
====第1巻 第11番====
*速度:レント(♩=66)- ピウ・ソステヌート{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=10}}。冒頭のテンポについては、初版ではモルト・ソステヌート{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=52}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=10}}。
*時間:56秒{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=10}}。
*調号:#×2{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=10}}。ニ長調{{Sfn|山崎|2010|p=29}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key d \major \time 1/1 \cadenzaOn d1 e fis g a b cis \bar "|" d \bar"|"}
}
</score>
*原曲:キシュ・アーロン『ハンガリー子供の遊戯歌集』より{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=83}}。
*概要:子供の遊び歌であるが{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=83}}、歌詞の前半は第3番と同一であり{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=83}}、嫁いでいってしまった娘のことを思い悲しむ親の気持ちが歌われている{{Sfn|山崎|2010|p=29}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff { \key d \major \time 2/4
[ d8-\markup { \dynamic p \italic { , dolce }}(\< g fis g ] | a4\> fis8 d) | [ d(\< g fis g ] | a4\> fis8 d) |
d'4\mf^\markup { \italic { molto espr. }}(\> cis8 b | a4 fis8 d)\! | [ e\>( g fis e ] | d4)\! d8-- d--|
}}
</score>
====第1巻 第12番====
[[ファイル:Sárközi kislányok játéka.jpg|right|thumb|200px|輪、輪、エシュテの輪(Lánc, lánc, eszterlánc)]]
*速度:アレグロ(♩=126){{Sfn|Henle版(I)|2017|p=10}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=10}}。
*時間:1分20秒{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=11}}。バルトークによる1945年の録音では1分18秒{{Sfn|Bartók-Compositions|loc=BB 53}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=10}}。ハ長調(ハ音から始まるヘクサコード{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=84}}){{Sfn|山崎|2010|p=31}}。
::<score>
\relative c'' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key c \major \time 1/1 \cadenzaOn c1 d e f g a \bar"|" c \bar"|"}
}
</score>
*原曲:キシュ・アーロン『ハンガリー子供の遊戯歌集』より{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=84}}
*概要:原曲となった「{{仮リンク|輪、輪、エシュテの輪|hu|Lánc, lánc, eszterlánc}}」は、現在もハンガリーで人気のある子供の歌{{Sfn|パップ|2015|p=51}}。子供たちが輪になって回り、名前を呼ばれた子から輪の外側を向いていくという遊びで歌われる{{Sfn|パップ|2015|p=51}}。躍動感のある前奏に続き旋律(譜例・上)が歌われる{{Sfn|パップ|2015|p=51}}。「~~ちゃん」と名前を呼ぶ部分の音形を様々に変化させるなど(譜例・下){{Sfn|パップ|2015|p=51}}、子供が遊んでいる様子そのものを表現した編曲となっている{{Sfn|パップ|2015|p=53}}。
::<score>
\relative c''' {
\new Staff { \key c \major \time 2/4
g-\markup { \italic {poco} \dynamic f \italic { , grazioso }}( e) | g8-. g( e4) |
a8[( g f e ] | d4--) d-- |
g4( e8) e( | g8) g( e4) | a8([ g f e ] | d4--) d-- |
}}
</score>
:(名前を呼ぶ音形。左から、第17小節、第45小節{{Refnest|group="注"|実際の譜面ではト音は左手で弾く。}}、第62-63小節。)
::<score>
\relative c''' {
\new Staff { \key c \major \time 2/4
g8-. c-. g4-- \bar "||"
g,8-. <bes' e, c>-. g,4-- \bar "||"
g'8-.[^\markup {\italic {ritard.}} c-. g8-. c-.] | g8-. c-. g4--^\fermata |}}
</score>
====第1巻 第13番「バラード」====
*速度:アンダンテ(♩=100){{Sfn|Henle版(I)|2017|p=12}}。
*拍子:4分の4拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=12}}。初版は音価が半分で4分の2拍子{{Sfn|春秋社版|2008|p=35}}。
*時間:52秒{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=12}}。バルトークによる1945年の録音では54秒{{Sfn|Bartók-Compositions|loc=BB 53}}。
*調号:♭×1{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=12}}。ニ音を終止音とする[[エオリア旋法]]{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=84}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key d \minor \time 1/1 \cadenzaOn d1 e f g a bes c \bar "|" d \bar"|"}
}
</score>
*原曲:不明{{Sfn|Folk Music|loc=L 41}}。初版の楽譜には「広く知られた旋律と歌詞」と記載されている{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=84}}。
*概要:第1番から第12番までは連続して子供の歌であったが{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=77}}、ここからは大人の歌となる。その歌詞は悲痛な内容であり、殺されて[[ドナウ川]]に投げ込まれた若者と、許嫁でないために葬儀への出席を許されない、若者の恋人のことが歌われる{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=84}}{{Sfn|山崎|2010|pp=34-35}}。冒頭部分(譜例)では、「エスプレッシーヴォ(感情を込めて)」の指示がある旋律が左手で歌われ、右手は弔いの鐘の音を模した音形で伴奏する{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=84}}。この曲から第15曲までの3曲はアタッカでつながっている。
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c'' { \clef treble \key d \minor \numericTimeSignature \time 4/4
r4 <a f>2-_( <a f>4-_~ | <a f >-_ <a f>2-_ <a~ f>4-_ | a4 a2-_ <a f >4~ | <a f >-_ <a f>2-_ <a f>4-_~) | }
\new Staff = "LH" \relative c' { \clef bass \key d \minor \numericTimeSignature \time 4/4
d4.^\p_\markup { \italic { espr.}}( a8 d\< a4. | d2 c) | f8(\> f4. e4 d | a2 f)\! | }
>> }
</score>
====第1巻 第14番====
[[ファイル:Domestic Goose (5425053488).jpg|right|thumb|150px|ハンガリーやルーマニアは、[[フォアグラ]]・[[羽毛布団]]用のガチョウの産地である{{Sfn|パップ|2015|p=32}}。]]
*速度:アレグレット(♩=120){{Sfn|Henle版(I)|2017|p=12}}。
*拍子:4分の4拍子、一部で4分の2拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=12}}。初版は音価が半分で4分の2拍子{{Sfn|春秋社版|2008|p=36}}。
*時間:32秒{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=12}}。
*調号:♭×1{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=12}}。ニ短調(「ハンガリーの[[五音音階]]{{Refnest|group="注"|「ハンガリーの五音音階」{{Sfn|パップ|2015|p=15}}(イ音から開始した場合)<br/>
:<score>
\relative c' { \new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key a \minor \time 1/1 \cadenzaOn a1 c d e g \bar "|" a \bar"|"} }
</score>
}}」+派生音の[[ホ (音名)|ホ音]]{{Sfn|パップ|2015|p=31}}。山崎(2010)は「ニ短調・リディア旋法・[[変ロ長調]]」としている{{Sfn|山崎|2010|p=37}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key d \minor \time 1/1 \cadenzaOn d1 e^"※" f g a c \bar "|" d \bar"|" }
}
</score>
*原曲:バルトークが1906年8月に{{仮リンク|チャナード県|hu|Csanád vármegye}}の{{仮リンク|アパートファルヴァ|hu|Apátfalva}}で採集した、若者による歌{{Sfn|Folk Music|loc=L 42}}。初版の楽譜には「広く知られた旋律」と記載されている{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=84}}。
*概要:アタッカでつながった3曲の中央に位置している。これも短調に近い響きの曲であるが{{Sfn|パップ|2015|p=32}}、歌詞の内容は「バラード」とは全く異なっており、「チャナードの若者がガチョウを捕まえた」という他愛ない冗談の歌で{{Sfn|パップ|2015|p=32}}、途中には[[ガチョウ]]の鳴き声を模した動きが出てくる(譜例の5小節目、'''''f''''' の箇所)。アタッカで第15番につながる。
::<score>
\relative c'' {
\new Staff { \key d \minor \numericTimeSignature \time 4/4
a8\p( f4. d4 f) | a8->( g4. d2) |
e'8\mf( c4. a4 c) | e8->( d4. a2) |
[ <d bes f>8\f <d bes f> <d bes f> <d bes f> ] <e c f,>-^ <e c f,> <d bes f>4-- |
\time 2/4 <e c f,>8-^ <e c f,> <d bes f>4-- |
\time 4/4 a4\mf-.(\> f-. d2--)\! |
}}
</score>
====第1巻 第15番====
*速度:アレグロ・モデラート(♩=112)- ソステヌート - テンポ・プリモ - ソステヌート - テンポ・プリモ{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=13}}。冒頭のテンポについては、初版ではアレグロ{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=52}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=13}}。
*時間:28秒{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=13}}。バルトークによる1945年の録音では31秒{{Sfn|Bartók-Compositions|loc=BB 53}}。
*調号:#×2{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=13}}。ニ長調{{Sfn|山崎|2010|p=42}}
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key d \major \time 1/1 \cadenzaOn d1 e fis g a b cis \bar "|" d \bar"|"}
}
</score>
*原曲:バルトークが1907年4月にトルナ県のフェルシェーイレグで採集した、17歳の少女による歌{{Refnest|group="注"|Etel Németh という名前が記録されている{{Sfn|Folk Music|loc=L 43}}。}}{{Sfn|Folk Music|loc=L 43}}。初版の楽譜には「広く知られた旋律と歌詞」と記載されている{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=85}}。
*概要:アタッカでつながる3曲を締めくくる。作曲の初期段階ではこの曲が第1曲として構想されていた{{Sfn|Vikárius|2018|p=207}}。24小節の中で「グラツィオーソ(優美に)」、「エスプレッシーヴォ(感情を込めて)」、「レジェロ(軽く)」と曲想が変化し、テンポも揺らぐ{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=34}}。長調の明るい曲調であるが、歌詞は恋しい女性に会えない悲しさを歌ったものである{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=85}}。
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c' { \clef treble \key d \major \time 2/4
d8-.(-\markup { \dynamic p \italic { grazioso } } d-. d4--) | g8-. fis-. e4-- |
a8-.[ d,( cis d)] | <e cis>4-_ d-_ |
a'8-. a a4-- | d8-. cis-. b4-- | g8([ fis) g-. a-.] | b4-_ a-_ |}
\new Staff = "LH" \relative c' { \clef bass \key d \major \time 2/4
r4 <a fis d>-. | r <b g d>-. | r <a fis d>-. | <g a,>-_ <fis d>-_ ||
r4 <d' cis fis >-.| r <d b g>-. | r <d~ a~ e>( | <d a eis> <d a fis>) | }
>> }
</score>
====第1巻 第16番「古いハンガリーの旋律」====
[[File:A Kettős-körös hídja Doboznál - panoramio.jpg|right|thumb|240px|ドボズの風景]]
*速度:アンダンテ・ルバート(♩=70){{Sfn|Henle版(I)|2017|p=13}}。
*拍子:4分の3拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=13}}。
*時間:40秒{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=13}}。
*調号:♭×1{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=13}}。[[ト音]]を終止音とするドリア旋法{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=85}}。山崎(2010)は「ドリア旋法・ト短調」としている{{Sfn|山崎|2010|p=44}}。
::<score>
\relative c'' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key d \minor \time 1/1 \cadenzaOn g1 a bes c d e f \bar "|" g \bar"|"}
}
</score>
*原曲:バルトークが1906年8月に[[ベーケーシュ県]]の[[:hu:Doboz|ドボズ]]で採集した、35歳前後の女性による歌{{Refnest|group="注"|Mrs. Szolnoki という名前が記録されている{{Sfn|Folk Music|loc=L 44}}。}}{{Sfn|Folk Music|loc=L 44}}。
*概要:19世紀後半以前の古い時代におけるハンガリー民謡の典型である{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=78}}、'''パルランド・ルバート'''(''Parlando rubato'')の曲である。その特徴は、正確なビートによらず歌詞に合わせて自由に伸び縮みするリズムや、フレーズ間のブレスなどにあり{{Sfn|パップ|2015|p=16}}、バルトークはこうした様式の民謡を芸術的に価値あるものと位置づけていた{{Sfn|山崎|2010|p=45}}。民謡の歌詞は貧しい人々が英雄視していた[[義賊]]について歌ったものである{{Sfn|パップ|2015|p=18}}。なお、第25番もドボズで採集された民謡に基づいた、パルランド様式による曲である。
::<score>
\relative c'' {
\new Staff
{ \key d \minor \time 3/4
[ d8---\markup { \dynamic p \italic { ,esp.} }( d-- d c d\< d ] | g g~g2\f) \mark \markup { \musicglyph "rests.4" }
[ a8(\> g f f a g ]| d8\p d~d2) \mark \markup { \musicglyph "rests.3" } |
g4.\f-^( e8 [ f\> g] | [ d d c f~] f4) \mark \markup { \musicglyph "rests.4" } |
[ d8\p( d f d bes a ] | g4 g2) \mark \markup { \musicglyph "rests.3" } |
} }
</score>
====第1巻 第17番「ラウンド・ダンス」====
*速度:レント(♩=76){{Sfn|Henle版(I)|2017|p=14}}。初版ではアダージョ{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=52}}。
*拍子:4分の4拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=14}}。初版は音価が半分で4分の2拍子{{Sfn|春秋社版|2008|p=39}}。
*時間:1分00秒{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=14}}。
*調号:#×1{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=14}}。[[ホ短調]](ホ音から始まるペンタコード{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=85}}){{Sfn|山崎|2010|p=47}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key e \minor \time 1/1 \cadenzaOn e1 fis g a b \bar "|" e \bar"|" }
}
</score>
*原曲:バルトークが1907年4月にトルナ県のフェルシェーイレグで採集した、年配の女性による歌{{Sfn|Folk Music|loc=L 45}}。
*概要:タイトルは春秋社版では「輪舞」となっている{{Sfn|山崎|2010|p=47}}。子供が輪になって踊るときの歌{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=85}}。元々は婚礼の歌であり{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=85}}、親が花嫁衣装に身を包んだ娘を見てこれからの別れを悲しむ内容の歌詞である{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=85}}。8小節からなる美しい旋律{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=85}}が2回演奏されるが、短い間奏部分(初版は3小節、改訂版は2小節)は改訂の際に全く違うものに差し替えられている{{Sfn|山崎|2010|p=47}}。もともとは、バルトークが『20のハンガリー民謡』(コダーイとの共著、1906年)の続編とするつもりで1907年に書いた民謡集の第10曲であったが{{Sfn|Vikárius|2011|p=235}}、売れる見込みがないため民謡集の出版を見送り、『子供のために』に転用したものである{{Sfn|Vikárius|2011|p=235}}。cf. [[:hu:Szellő zúg távol]] (Kis kece lányom)
::<score>
\relative c' { \time 4/4 \clef treble \key e \minor \numericTimeSignature
e4-\markup { \dynamic p \italic { ,dolce} }( b'8)\< b b4( a) | b(\! g8\>) g fis4( e)\! |
e4(\< b'8) b b4( a) | b(\! g8\>) g fis4( e)\! |
}
</score>
====第1巻 第18番「兵士の歌」====
[[File:K.u. Honved Infanterie.png|right|thumb|160px|{{仮リンク|ハンガリー王国軍|en|Royal Hungarian Honvéd}}の兵士]]
*速度:アンダンテ・ノン・トロッポ(♩=100){{Sfn|Henle版(I)|2017|p=14}}。初版ではアンダンテ・ノン・モルト{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=52}}。
*拍子:4分の4拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=14}}。初版は音価が半分で4分の2拍子{{Sfn|春秋社版|2008|p=41}}。
*時間:1分02秒{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=15}}。バルトークによる1945年の録音では1分05秒{{Sfn|Bartók-Compositions|loc=BB 53}}。
*調号:#×1{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=14}}。[[ト長調]]([[ト (音名)|ト音]]から始まるヘクサコード{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=85}})。山崎(2010)は「ニ長調」としている{{Sfn|山崎|2010|p=50}}。
::<score>
\relative c'' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key g \major \time 1/1 \cadenzaOn g1 a b c d e \bar "|" g \bar"|" }
}
</score>
*原曲:バルトークが1906年7月にベーケーシュ県の Békésgyula(現:[[:hu:Gyula (Magyarország)|Gyula]])で採集した、17歳の少女による歌{{Refnest|group="注"|Panna Illés という名前が記録されている{{Sfn|Folk Music|loc=L 46}}}}{{Sfn|Folk Music|loc=L 46}}。
*概要:兵役から解放されて故郷に帰還する日が来ることを願う兵士の歌である{{Refnest|group="注"|兵役の期間は約十年間であった{{Sfn|パップ|2015|p=34}}。}}{{Sfn|パップ|2015|p=34}}。ハンガリー民謡の特徴の一つである'''逆付点'''のリズム{{Refnest|group="注"|「逆付点のリズム」<br/>
:<score>
{ \new RhythmicStaff \with { \remove "Time_signature_engraver" } \with { \hide BarLine }
\time2/4 c8 c4. }
</score>}}が使われ、いきなり1オクターブ跳躍する力強い旋律が「ソノーロ(響かせながら)」で歌われる{{Sfn|パップ|2015|p=34}}。後半、旋律は低音(左手)で繰り返されるが、バルトークの自演では、低音のメロディーをオクターブ重ねる編曲を行っている{{Sfn|パップ|2015|p=34}}。[[アタッカ]]で第19番につながる{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=37}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff
{ \key g \major \numericTimeSignature \time 4/4
d8-\markup { \dynamic f \italic { ,sonoro} }( d4. d'8 d4. | d4. c8 b8 a4. | g4. b8 a8 g4.| d2 d) |
} }
</score>
====第1巻 第19番====
*速度:アレグレット(♩=126){{Sfn|Henle版(I)|2017|p=15}}。
*拍子:4分の2拍子/4分の4拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=15}}。初版は音価が半分で8分の2拍子/8分の4拍子{{Sfn|春秋社版|2008|p=43}}。
*時間:40秒{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=15}}。バルトークによる1945年の録音では38秒{{Sfn|Bartók-Compositions|loc=BB 53}}。
*調号:#×1{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=15}}。ニ音を終止音とする[[ミクソリディア旋法]]{{Sfn|パップ|2015|p=34}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key g \major \time 1/1 \cadenzaOn d1 e fis g a b c \bar "|" d \bar"|"}
}
</score>
*原曲:{{仮リンク|クン・ラースロー|de|László Kún}}が1902年7月にベーケーシュ県の Gyomaで採集した歌{{Sfn|Folk Music|loc=L 47}}。初版の楽譜には「広く知られた旋律」と記載されている{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=86}}。
*概要:アタッカで第18番「兵士の歌」からつながっている。酒好きの農民が居酒屋に立ち寄り、これから一杯注文するという陽気な歌である{{Sfn|パップ|2015|p=35}}。歌詞の内容的には以降の第20番「お酒の歌」、第21番とつながっている。3小節目の運指はとても複雑である{{Sfn|Ludmany|2019|P=14}}。初版では冒頭の旋律に「スケルツァンド(おどけて)」の指示があったが改訂版では削られた{{Sfn|Ludmany|2019|p=50}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff
{ \key g \major \numericTimeSignature \time 2/4 [ d8-.\p d-. d-. d-. ] | \time 4/4 b'4-. b( a) g-. | [ a8-.-2 a8-.-1 b8-.-4 b8-.-3 ] [ a8-.-2 e8-.-1 a8-.^4 g8-. ] | fis8-. d4. d2|
} }
</score>
====第1巻 第20番「お酒の歌」====
*速度:アレグロ(♩=126){{Sfn|Henle版(I)|2017|p=16}}。初版ではポコ・アレグロ{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=52}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=16}}。
*時間:25秒{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=16}}{{Refnest|group="注"|「35秒」となっている版{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=39}}もあるが誤りである{{Sfn|山崎|2010|p=56}}。}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=16}}。ト音を終止音とするドリア旋法+派生音のロ音{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=86}}。山崎(2010)は「リディア旋法・ト短調」としている{{Sfn|山崎|2010|p=55}}。
::<score>
\relative c'' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key c \major \time 1/1 \cadenzaOn g1 a bes b^\markup{※} c d e f \bar "|" g \bar"|"}
}
</score>
*原曲:バルトークが1907年4月にトルナ県のフェルシェーイレグで採集した、50歳前後の男性による歌{{Refnest|group="注"|Mihály Simon という名前が記録されている{{Sfn|Folk Music|loc=L 48}}。}}{{Sfn|Folk Music|loc=L 48}}。初版の楽譜では歌詞は掲載不適当として割愛されている{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=86}}。
*概要:英語のタイトルは ”Drinking Song”{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=39}}で、音楽之友社版では「ぶどう酒の歌」と訳されている{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=39}}。歌詞が掲載されなかった民謡("Az ürögi ucca sikeres"{{Sfn|NAKAHARA|2020|pp=308-309}})は3小節単位のフレーズとなっており{{Sfn|山崎|2010|p=35}}、コダーイの管弦楽曲『[[ハンガリー民謡「孔雀は飛んだ」による変奏曲|孔雀変奏曲]]』(1939年)のフィナーレにもこの民謡が使われている<ref>{{Cite web|title=A múlt magyar tudósa - KODÁLY ZOLTÁN - III. KODÁLY TUDOMÁNYOS MUNKÁSSÁGÁNAK HATÁSA|author =Eősze László|publisher=Arcanum Adatbázis Kft
|year = 1971|url=https://www.arcanum.com/en/online-kiadvanyok/MuMaTu-a-mult-magyar-tudosai-1/kodaly-zoltan-3621/iii-kodaly-tudomanyos-munkassaganak-hatasa-3695/|accessdate=2023-09-28}}</ref>。アタッカで第21曲につながる{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=16}}。
::<score>
\relative c'' {
\new Staff
{ \key c \major \time 2/4
<<
{ \voiceOne |
g'8-.\f[ a-. g-. f-. ] | d4-- c-- | d8-. e-. f4-- |
g8-.[ a-. g-. f-. ] | d4-- c-- | d8-. c-. b4-- |}
\new Voice {
R2 | \stemDown g2 | g2 | R2 | g2 |g2 |}
>> \oneVoice
c8-.\mf[ c-. d-. c-. ] | bes4-- f-- | g8-. a-. bes4-- |
c8-.[ c-. d-. c-. ] | bes4-- g-- | f8-. g-. g4-- | }
}
</score>
====第1巻 第21番====
*速度:アレグロ・ロブスト(♩=138){{Sfn|Henle版(I)|2017|p=17}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=17}}。
*時間:2×21秒(全体がリピートされる){{Sfn|Henle版(I)|2017|p=17}}。バルトークによる1945年の録音では47秒{{Sfn|Bartók-Compositions|loc=BB 53}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=17}}。イ短調(「ハンガリーの五音音階」+派生音のヘ 音{{Sfn|パップ|2015|p=24}}。山崎(2010)は「エオリア旋法・イ短調」としている{{Sfn|山崎|2010|p=38}}。
::<score>
\relative c'' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key a \minor \time 1/1 \cadenzaOn a1 c d e f^\markup{※} g \bar "|" a \bar"|"}
}
</score>
*原曲:第20番と同じ男性による歌{{Sfn|パップ|2015|p=27}}{{Sfn|Folk Music|loc=L 49}}。なお、この曲も歌詞が掲載不適当として割愛されている{{Sfn|パップ|2015|p=24}}。
*概要:アタッカで第20番「お酒の歌」からつながっており、この曲も酒に関する歌とされる{{Refnest|group="注"|改訂版の校正刷では第20番ではなく、第21番が”Drinking Song”となっていた{{Sfn|春秋社版|2008|p=59}}。}}。初版では第1巻を締めくくるフィナーレに位置づけられていた{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=77}}。「ロブスト(力強く)」の指示があり{{Sfn|パップ|2015|p=24}}、冒頭はコロメイカのリズムによる旋律がスフォルツァンドやアクセントを伴って登場する{{Sfn|パップ|2015|p=26}}。バルトークの自演(1945年)では、9小節目で一旦テンポを落としてから次第に加速したりオクターブを付加したりするなど演奏会用の派手なアレンジが加えられており{{Sfn|パップ|2015|p=26}}、[[コチシュ・ゾルターン]]の演奏もこれに倣っている{{Sfn|春秋社版|2008|p=59}}。なお、ヘンレ社の原典版にはバルトークの演奏を採譜した楽譜が付録として収録されている{{Sfn|Henle版(I)|2017|pp=45-46}}。
:(冒頭)
::<score>
\relative c'' {
\new Staff
{ \key c \major \time 2/4
<g' e c>8\f[ <g e c> <g e c>\sf( a)] | <f a,>[ <f a,> <f a,>\sf( d)] | <c a>[ <c a>\sf( d) <e a,>]| <f a,>4^^ <f a,>^^ |
<g e>8[ <g e> <g e>\sf( <a f>)] | <a f>^^_[( <g e>) <g e>^^_( <f d>)] | <f d>^^_([ <d bes>) <d bes> <c a> ]| <d a fis>4^^ <d a fis>^^ |
}}
</score>
:(第9小節目-、旋律のみ)
::<score>
\relative c'' {
\new Staff
{ \key c \major \time 2/4
a8-.\p d-. d4^^ | c8-. a-. a4^^ | [ g8-. g-. a^^( g)] | c-. c-. c4^^|
[ d8-. d e^^_( d)] | c-. a-. a4^^ | [ g8-. g-. g-> g-. ] | a-. a-. a4^^|
}}
</score>
====第1巻 第22番====
[[File:Male wild turkey (Meleagris gallopavo) strutting.jpg|right|thumb|150px|七面鳥を買いに市場へ]]
*速度:アレグレット(♪=114){{Sfn|Henle版(I)|2017|p=18}}。
*拍子:4分の3拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=18}}。
*時間:52秒{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=18}}。
*調号:♭×1{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=18}}。[[ヘ長調]]{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=86}}
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key f \major \time 1/1 \cadenzaOn f1 g a bes c d e \bar "|" f \bar"|"}
}
</score>
*原曲:{{仮リンク|クン・ラースロー|de|László Kún}}が採集した歌のコレクションより{{Sfn|Folk Music|loc=L 50}}。初版の楽譜には「広く知られた子供の歌」と記載されている{{Sfn|Folk Music|loc=L 50}}。
*概要:初版第2巻の第1曲であり、ここで再び子供の歌となる。[[デブレツェン]]の市場へ七面鳥を買いに行くが、鳥かごに穴が空いているので鳥が逃げ出しそうになってる、というユーモラスな歌詞{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=86}}。歌詞の1音節が十六分音符に対応している曲は改訂時に音価が拡大されたが([[#子供や初学者への配慮|#改訂での主な変更点#子供や初学者への配慮]] 参照)、この曲だけはその変更が適応されなかった{{Sfn|Vikárius|2018|p=215}}。
::<score>
\relative c'' {
\new Staff
{ \key f \major \time 3/4
c16-\markup { \dynamic p \italic { , grazioso}}-.\< c-. c-. c-. a8(\> c f,--) f-- | d'16-.\< d-. d-. d-. bes8(\> d c--)\< c-- | f16\>( c f c a8 c f, a)\! | bes16(\> g bes g e8 g f--) f--\! |
}}
</score>
====第1巻 第23番「踊りの歌」====
*速度:アレグロ・グラツィオーソ(♩=152)- ヴィーヴォ{{Sfn|Henle版(I)|2017|pp=18-19}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=18}}。
*時間:50秒{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=19}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=18}}。ハ長調(ハ音から始まるヘクサコード{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=87}}){{Sfn|山崎|2010|p=65}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key c \major \time 1/1 \cadenzaOn c1 d e f g a \bar"|" c \bar"|"}
}
</score>
*原曲:バルトークが1908 年に[[クルジュ県]]のケレシュフェー (現:ルーマニアの{{仮リンク|イズボル・クリシュルイ|ro|Comuna Izvoru Crişului, Cluj}})で採集した、34歳前後の女性による歌{{Refnest|group="注"|Mrs.György Péntek Gyugyiと記録されている{{Sfn|Folk Music|loc=L 51}}。}}{{Sfn|Folk Music|loc=L 51}}。
*概要:子供が輪になってステップを踏みながら踊って遊ぶときの歌{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=87}}。伴奏は[[アルベルティ・バス]]風であるが、和音の主音(譜例では[[ハ (音名)|ハ音]])が裏拍におかれている{{Sfn|山崎|2010|p=65}}。終盤でテンポが緩やかになるが、最後の2小節でヴィーヴォ(活発に)となり締めくくる{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=43}}。
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c'' { \key c \major \time 2/4
c4\p-.-> g-. | g( e) | c'-.-> g-.| g( e) |[f8\p(\< e f g] | a4\> g)\! | d4-. d-. | d( c) | }
\new Staff = "LH" \relative c { \clef bass \key c \major \time 2/4
e8[ c d c ] | e[ c g' c,] | e[ c d c] | e[ c c' c,] |
b'[ c, g' c,] | f[ c e c] | a'[ c, f c] | d[ c e c] |}
>> }
</score>
====第1巻 第24番====
*速度:アンダンテ・ソステヌート(♩=79){{Sfn|Henle版(I)|2017|p=20}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=20}}。
*時間:52秒{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=20}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=20}}。イ短調{{Sfn|山崎|2010|p=68}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key a \minor \time 1/1 \cadenzaOn a1 b c d e f gis \bar "|" a \bar"|"}
}
</score>
*原曲:[[コダーイ・ゾルターン|コダーイ]]が[[ニトラ県]]の Deáki(現:スロバキアの Diakovce)で採集した歌{{Sfn|Folk Music|loc=L 52}}。初版の楽譜には「コダーイがゾボルウィデークで採集した」と記載されている{{Sfn|Folk Music|loc=L 52}}。
*概要:地元にある川の水を讃える内容の歌詞{{Sfn|パップ|2015|p=42}}。始まりの8分音符3つの動機には"Viz, Viz, Viz"(水、水、水)という言葉が当てはまる{{Sfn|パップ|2015|p=42}}。第1巻の中で唯一、この曲だけが短音階によっている{{Sfn|パップ|2015|p=42}}。
::<score>
\relative c'' {
\new Staff
{ \key a \minor \time 2/4
a8\p-_ r b-_ r | c-_ r r4 | [ e8 e( d c ] | b) r r4 | [a8 a( gis) gis( ] | a) r r4 |
}}
</score>
====第1巻 第25番(初版:第28番)====
*速度:パルランド(♩=88-75){{Sfn|Henle版(I)|2017|p=20}}。
*拍子:4分の3拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=20}}。
*時間:37秒{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=20}}。
*調号:#×2{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=20}}。ホ音を終止音とするドリア旋法{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=87}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key b \minor \time 1/1 \cadenzaOn e1 fis g a b cis d \bar "|" e \bar"|"}
}
</score>
*原曲:バルトークが1906 年11月にベーケーシュ県のドボズで採集した、年配の女性による歌{{Sfn|Folk Music|loc=L 56}}。
*概要:第16番「古いハンガリーの旋律」と同様の「パルランド・ルバート」様式の曲である{{Sfn|パップ|2015|p=19}}、歌詞は、捕まって絞首刑となった義賊と、兄を助けようとして裁判官に純潔を奪われた妹の悲しい物語が歌われている{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=87}}。もともとは、バルトークが『20のハンガリー民謡』(コダーイとの共著、1906年)の続編とするつもりで1907年に書いた民謡集の第5曲であったが{{Sfn|Vikárius|2011|p=235}}、売れる見込みがないため民謡集の出版を見送り、『子供のために』に転用したものである{{Sfn|Vikárius|2011|p=235}}。初版では第27番「冗談」の後に置かれていたが初版第25番が改訂で削除されたために曲順が変更となった{{Sfn|伊東|1997|p=322}}。なお、シゲティ編曲によるヴァイオリンとピアノのための『ハンガリー民謡集』ではこの曲が最初に置かれている{{Sfn|Koslovsky|2012|p=144}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff
{ \key b \minor \time 3/4
[ e8\p-_\< e-_ e-_ fis-_ g-_ e-_ ] | e-_ g-_~\! g2 |
b8-\markup { \italic {simile} } b cis b b\> e, | g4( fis2)\! |
cis'4.\fermata^^ b8 e,\> fis | g e e\! g~ g4\fermata \bar "||"
\time 2/4 [fis8\<( g a b ] | <g e>\>) <g e >-_ <fis dis >4-- | \time 3/4 <e b>2-- r4 |
}}
</score>
====第1巻 第26番====
*速度:モデラート(♪=150){{Sfn|Henle版(I)|2017|p=21}}。初版ではアンダンテ{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=52}}。『若いピアノ弾き』のメトロノーム記号は♪=184{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=21}}。
*拍子:8分の3拍子 + 8分の3拍子 + 8分の2拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=21}}。初版では8分の3拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=43}}。
*時間:40秒{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=21}}。バルトークによる1945年の録音では41秒{{Sfn|Bartók-Compositions|loc=BB 53}}。
*調号:♭×2{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=21}}。4音の音階{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=87}}。山崎(2010)は「リディア旋法・ト短調」としている{{Sfn|山崎|2010|p=74}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key g \minor \time 1/1 \cadenzaOn d1 g bes c \bar "|" d \bar"|"}
}
</score>
*原曲:{{仮リンク|バルタルシュ・イシュトヴァーン|hu|Bartalus István}}の著作より{{Sfn|Folk Music|loc=L 54}}{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=87}}。
*概要:「3拍子+3拍子+2拍子」の、バルトークが言うところの「'''ブルガリアン・リズム'''」による曲であり(譜例・上){{Sfn|パップ|2016|p=59}}、同一の旋律に基づく『[[44のヴァイオリン二重奏曲]]』の第19曲「おとぎ話」{{Refnest|group="注"|旋律は同一であるが歌詞は異なっている{{Sfn|パップ|2016|p=59}}。}}も同様の拍子になっている。初版では全て3拍子で書かれていたが(譜例・下)、『若いピアノ弾き』を出版する際に現行のリズムに改められた{{Sfn|パップ|2016|p=59}}。なお、バルトークの自演録音(1945年)では、3小節の前奏を繰り返して6小節にし、旋律の第2フレーズを1オクターブ重ねて演奏している{{Sfn|Vikárius|2018|p=217}}。
:(改訂版)
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c'' { \clef treble \key g \minor \tempo Moderato
\time 3/8 R4. | R4. | \time 2/8 R4 |
\time 3/8 d8 d8\<( bes8 | d8) d4\>( | \time 2/8 c4) | \! }
\new Staff = "LH" \relative c' { \clef bass \key g \minor
\time 3/8 <bes g >8\p( d4) | <bes g >4( d8) | \time 2/8 [ <bes g >8( d8) ] |
\time 3/8 <bes g >8( d4) | <a g >4( ees'8) | \time 2/8 [ <a, g >8( ees'8)] | }
>> }
</score>
:(初版)
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c'' { \clef treble \key a \minor \tempo Andante \time 3/8
R4. | R4. | R4. |
d8-\markup { \dynamic p \italic {semplice.}}\< d8( bes8 | d8)\> d4( | c4.\!) | }
\new Staff = "LH" \relative c' { \clef bass \key a \minor \time 3/8
<bes g >8\p( d4) | <bes g >8( d4) | <bes g >8( d4) |
<bes g >8( d4) | <a g >8( ees'4) | <a, g >8( ees'4) | }
>> }
</score>
====第1巻 第27番「冗談」====
*速度:アングラメンテ(♩=138){{Sfn|Henle版(I)|2017|p=22}}。音楽之友社は♩=ca.132{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=48}}、春秋社版では♩=138[ca.132]{{Sfn|山崎|2010|p=78}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=22}}。
*時間:50秒{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=22}}。
*調号:#×2{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=22}}。ロ音を含まないニ長調{{Sfn|山崎|2010|p=78}}{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=88}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key d \major \time 1/1 \cadenzaOn d1 e fis g a cis \bar "|" d \bar"|"}
}
</score>
*原曲:コダーイが1905年にニトラ県の Zsigárd(現:スロバキアの [[:sk:Žihárec|Žihárec]] )で採集した歌{{Sfn|Folk Music|loc=L 55}}。下品な内容を含んでおり、初版の楽譜には歌詞が掲載されていない。
*概要: '''''f''''' の序奏で明るく始まり{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=88}}、「ジョコーソ(陽気に)」と指示された快活な旋律が続く{{Sfn|田代|2021|p=79}}(譜例・上)。意表を突く全休止や転調があり{{Sfn|山崎|2010|p=79}}、2回目の旋律の締めくくりでは、ニ長調のドミナントがトニックに進行すると見せかけて全休止し、突然ロ短調に転じている{{Sfn|山崎|2010|p=79}}(譜例・下)。最後は大爆笑を表現するかのように曲を閉じる{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=88}}。
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c'' { \key d \major \time 2/4
R2 | R2 | R2 | R2 |
a8-\markup { \italic {giocoso}}-.[ d-. cis-. d-. ] | e( fis) d4-- | a8-.[ d-. cis-. d-. ] | e( fis) d4-- |
g8[( fis e fis ] | g4-> a-- | e--) r |
}
\new Staff = "LH" \relative c' { \clef bass \key d \major \time 2/4
<a fis d>8-.^\f r <a fis d>-. r| <a fis d>8-. r <a fis d>-. r|
<a fis d>8-. r <a fis d>-. r| <a fis d>8-. r <a fis d>-. r|
<a fis d>8-. r <a fis d>-. r| <a g d>8-. r <a fis d>-. r|
<a fis d>8-. r <a fis d>-. r | <a g d>8-. r <a fis d>-. r|
<a e d>8-. r <a d,>-. r| <a e d>8-. r <a fis d>-. r| <cis a>4-- r | }
>> }
</score>
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c'' { \key d \major \time 2/4
e8\f([ d cis d]) | <e cis >4( fis) | R2\fermata | <d b>4\f r4 |}
\new Staff = "LH" \relative c' { \clef bass \key d \major \time 2/4
R2 | \clef treble g'!4( a,) | R2\fermata | <d b>8([ fis <d b> fis)]|}
>> }
</score>
====第1巻 第28番「合唱曲」(初版:第30番)====
[[File:It is a cooked chicken for Christmas 2014-01-02 15-46.jpg|right|thumb|240px|「雄鶏を生かしておこう」]]
*速度:アンダンテ(♩=116){{Sfn|Henle版(I)|2017|p=23}}。
*拍子:4分の3拍子、2分の3拍子、4分の4拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=23}}。
*時間:1分30秒{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=23}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=23}}。ニ音を終止音とするドリア旋法{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=88}}。山崎(2010)は「ドリア旋法・ニ短調」としている{{Sfn|山崎|2010|p=81}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key a \minor \time 1/1 \cadenzaOn d1 e f g a b c \bar "|" d \bar"|"}
}
</score>
*原曲:コダーイが1907年にニトラ県の{{仮リンク|ニトラエゲルセグ|hu|Nyitraegerszeg}}(現:スロバキアの{{仮リンク|イェルショフツェ|sk|Jelšovce}})で採集した歌{{Sfn|Folk Music|loc=L 58}}。
*概要:合唱曲(コラール)というタイトルだが[[賛美歌]]ではない{{Sfn|パップ|2015|p=43}}。婚礼の宴席で客に[[ローストチキン|雄鶏の丸焼き]]を振る舞う際に歌われ、歌詞は「雄鶏を生かしておこう、生かしておこう」と繰り返す、ブラックジョークのような内容である{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=88}}{{Sfn|パップ|2015|p=43}}。変拍子の旋律は3回奏でられ、全て異なる伴奏がつけられている{{Sfn|田代|2021|p=80}}。
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c' { \clef treble \key a \minor \time 3/4
\numericTimeSignature
d4\p--( d-- d-- | a'2-\markup { \italic {esp.}}\< b4 | c\> b a | g2 g4\!--) |
\time 3/2 a-- a-- a--( g--^\> f-- f--) | \time 4/4 e2-- e4\!-- e-- |}
\new Staff = "LH" \relative c' { \clef bass \key a \minor \time 3/4
\numericTimeSignature
<a f d >4\arpeggio r4 r4 | f'4(\> e d |\!
<<
{ \voiceOne |
e4) \hideNotes r r \unHideNotes |
e( d e | \time 3/2 c2.) b4( e d~ | }
\new Voice {
a2_( b4 |
c) \hideNotes r r \unHideNotes | \time 3/2
f,2_( g2) r | }
>> \oneVoice
\time 4/4 d'4\> c b e,) |\!
}
>> }
</score>
====第1巻 第29番「五音音階の旋律」(初版:第31番)====
*速度:アレグロ・スケルツァンド(♩=138){{Sfn|Henle版(I)|2017|p=24}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=24}}。
*時間:50秒{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=24}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=24}}。ホ音から始まる「ハンガリーの五音音階」{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=88}}。山崎(2010)は「ホ短調・ト長調」としている{{Sfn|山崎|2010|p=85}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key c \major \time 1/1 \cadenzaOn e1 g a b d \bar "|" e \bar"|"}
}
</score>
*原曲:バルトークが1907年8月にチーク県の{{仮リンク|ジェルジョーチョマファルヴァ|hu|Gyergyócsomafalva}}(現:ルーマニアの{{仮リンク|チュマニ|ro|Ciumani, Harghita}})で採集した、女性による歌{{Sfn|Folk Music|loc=L 59}}。
*概要:原曲である「{{仮リンク|お母さん、お母さん、ブーツが破れちゃった|hu|Anyám, édesanyám, elfeslett a csizmám}}」は、婚礼の際の枕踊り(第4番「枕踊り」参照)で歌われる歌であり{{Sfn|パップ|2015|p=46}}、結婚したらもう母親には頼れないのだと新婦を戒める内容となっている{{Sfn|パップ|2015|p=47}}。五音音階による旋律(譜例・上)はト長調に始まりホ短調に落ち着く{{Sfn|山崎|2010|p=85}}。また、主題とは異なる五音音階の旋律(譜例・下)による前奏、間奏、後奏があり、主題の旋律を挟み込む構造となっている{{Sfn|山崎|2010|p=85}}。
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c'' { \clef treble \key c \major \time 2/4
r8 <d b g>-.[ r <d b g>-.] | r8 <d b g>-.[ r <d b g>-.] |
r8 <d c fis,>-.[ r <d b g>-.] | r8 <d b g>-.[ r <d b g>-.]
r8 <d b g>-.[ r <d b g>-.] | r8 <d b g>-.[ r <e b g>-.] |
r8 <e b g>-.[ r <e b g>-.] | r8 <e b g>-.[ r <e b g>-.] }
\new Staff = "LH" \relative c' { \clef bass \key c \major \time 2/4
g8^\p-\markup { \italic {un poco marcato il tema}}-.[ g-. g-. d-. ] | g4-- a4-- |
b8-.[ g-. b-. a-. ] | g4-- g4-- | g8-.[ g-. g-. d-. ] | g4-- a4-- |
b8-.[^\> g-. a-. g-. ] | e4-- e4-- |\!}
>> }
</score>
:(前奏。この旋律が間奏と後奏にも使われる。)
::<score>
\relative c {
\new Staff
{ \clef bass \key c \major \time 2/4
e,4-\p-- e8-. d-. | e2^^ | \acciaccatura g8 e8-.->\< [ e-. e-. d-. ]| e2^^ |
\acciaccatura g8 e8-.\! [ e-. e-. d-. ]|\acciaccatura g8 e8-.\> [ e-. e-. d-. ]|\acciaccatura g8 e8-.[ e-. e-. d-.\! ]|
}}
</score>
====第1巻 第30番「ひやかし歌」(初版:第32番)====
*速度:アレグロ・イロニコ(♩=160){{Sfn|Henle版(I)|2017|p=25}}。
*拍子:4分の3拍子/4分の2拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=25}}。
*時間:36秒{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=25}}。バルトークによる1945年の録音では33秒{{Sfn|Bartók-Compositions|loc=BB 53}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=25}}。ハ長調(ハ音から始まるヘクサコード{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=89}}){{Sfn|山崎|2010|p=88}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key c \major \time 1/1 \cadenzaOn c1 d e f g a b\bar "|" c \bar"|"}
}
</score>
*原曲:バルトークが1906年9月にトルナ県のフェルシェーイレグで採集した、少女による歌{{Sfn|Folk Music|loc=L 60}}。
*概要:「遅すぎた結婚」を茶化して歌う滑稽なバラード{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=89}}。あからさまなハ長調の調性が、かえって「イロニコ(皮肉な)」の雰囲気につながっている{{Sfn|山崎|2010|p=90}}。ほぼ全ての小節にアクセントがついた音符があり、後半ではアクセントの位置が2拍目にずらされる{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=89}}。3拍子と2拍子が2小節ずつ交替し、2拍子の部分は「イハヤ、チュハヤ」("''ihajja, csuhajja''"、日本語なら「エイサ、ホイサ」{{Sfn|山崎|2010|p=90}})という掛け声である{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=89}}。
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c' { \key c \major
\time 3/4 c8-\f-.^> e-. g4-. c-. | a8-.^> g-. a4-. f-. |
\time 2/4 d8-.^> d-. d4-. | d8-.^> d-. d4-. |
\time 3/4 d8-.^> e-. f4-. a-. | g8-.^> f-. g4-. e-. |
\time 2/4 c8-.^> c-. c4-. | c8-.^> c-. c4-. | }
\new Staff = "LH" \relative c { \clef bass \key c\major
\time 3/4 <c e g>8-. <c e g>-. <c e g>4-. <c e g>-. | <c d f>8-. <c d f>-. <c d f>4-. <c d f>-. |
\time 2/4 <c f a>8-. <c f a>-. <c f a>4-. | <c e gis>8-. <c e gis>-. <c e gis>4-. |
\time 3/4 <c f a>8-.-> <c f a>-. <c f a>4-. <c f a>-. | <c g' b>8-.-> <c g' b>-. <c g' b>4-. <c g' b>-. |
\time 2/4 <c f a>8-. <c f a>-. <c f a>4-. | <c e g>8-. <c e g>-. <c e g>4-. | }
>> }
</score>
====第1巻 第31番(初版:第33番)====
{{External media
| width = 310px
| video1 = [https://www.youtube.com/watch?v=8Wc4CSj6Tcs シフ・アンドラーシュによる第31番の解説(シフの歌つき)] - Explore The Score — Klavier-Festival Ruhr公式YouTube。
}}
[[File:Comet-Hale-Bopp-29-03-1997 hires adj.jpg|right|thumb|160px|星よ、星よ]]
*速度:アンダンテ・トランクィロ(♩=88){{Sfn|Henle版(I)|2017|p=26}}。初版ではアンダンテ・ソステヌート{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=52}}。
*拍子:4分の4拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=26}}。初版は音価が半分で4分の2拍子{{Sfn|春秋社版|2008|p=56}}。
*時間:1分30秒{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=26}}。バルトークによる1945年の録音では1分31秒{{Sfn|Bartók-Compositions|loc=BB 53}}。
*調号:♭×4{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=26}}。音階の第6音(ここでは変イ音)を欠いたヘ短調{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=89}}{{Sfn|山崎|2010|p=91}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key f \minor \time 1/1 \cadenzaOn f1 g aes bes c ees \bar "|" f \bar"|"}
}
</score>
*原曲:バルトークが1907年5月にペスト・ピリス・ゾルト・キスクン県のフォートで採集した、男性による歌{{Sfn|Folk Music|loc=L 61}}。初版の楽譜には「[[ケストヘイ]]で採集した」と記載されている{{Sfn|Folk Music|loc=L 61}}。
*概要:原曲である「{{仮リンク|星よ、星よ|hu|Csillagok, csillagok}}」の歌詞は「恋人の家にたどり着けるよう、夜の道を照らしてください」と星に願う内容であり、圧政に苦しんでいた頃のハンガリーの人々の自由への想いの暗喩でもある{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=89}}。この美しい旋律はバルトークも特に好んだとされ{{Sfn|パップ|2015|p=36}}、アメリカに移住することになったバルトークがハンガリーで行った告別演奏会(1940年10月8日)では、終演後に残ったわずかな客の拍手に応えてこの曲が演奏されたという{{Sfn|山崎|2010|p=91}}。アタッカで第32番につながる{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=57}}。
::<score>
\relative c'' {
\new Staff { \key f \minor \numericTimeSignature \time 4/4
f8-\markup { \dynamic p \italic {, dolce}}-.([ f-. g-. f-.] c-. as4.-_ ) | \slurDown
f'8-_( ees4.-_ c8-_ bes4.-_) | f2-- f2-- | \slurUp
aes'8-.([ g-. f-. g-.] ees-. ees4.-_) | \slurDown
f4.-_( g8-_ aes-_ f4.-_) | c2-- c2-- |
}}
</score>
====第1巻 第32番(初版:第34番)====
[[File:Fabales - Phaseolus vulgaris - 13.jpg|right|thumb|140px|白い豆の花]]
*速度:アンダンテ(♩=104){{Sfn|Henle版(I)|2017|p=27}}。
*拍子:4分の4拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=27}}。初版は音価が半分で4分の2拍子{{Sfn|春秋社版|2008|p=58}}。
*時間:1分15秒{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=27}}。
*調号:♭×4{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=27}}。ヘ短調(ヘ音から始まる「ハンガリーの五音音階」{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=89}}){{Sfn|山崎|2010|p=94}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key f \minor \time 1/1 \cadenzaOn f1 aes bes c ees \bar "|" f \bar"|"}
}
</score>
*原曲:バルトークが1908年10月に[[トランシルヴァニア|トランシルヴァニア地方]]の{{仮リンク|トラダ・アラニョシュ県|hu|Torda-Aranyos vármegye}}トロツコー(現:ルーマニアの{{仮リンク|ルメテア|ro|Comuna Rimetea, Alba}})で採集した歌{{Sfn|Folk Music|loc=L 62}}。
*概要:アタッカで第31番からつながっている。原曲の「{{仮リンク|白い豆の花|hu|Fehér fuszulykavirág}}」は情熱的な愛の歌であり{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=90}}、仕事を終えた後の逢引きの時間を心待ちにする少年の熱い心が歌われている{{Sfn|パップ|2015|p=28}}。この曲は改訂の際の変更が大きく{{Sfn|Vikárius|2018|p=217}}、拍子の変更だけでなく、初版ではヘ短調の主和音の連続であった序奏が改訂版ではヘ長調の主和音から始まり、長調と短調を揺らぎながらクレッシェンドして主題を導くようになっている{{Sfn|Vikárius|2018|p=216}}。なお、この曲にアタッカでつながっている第31番の最終和音も、初版ではヘ短調の主和音であったものが、改訂版ではヘ長調の主和音に変更されている{{Sfn|春秋社版|2008|pp=55-56}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff { \key f \minor \numericTimeSignature \time 4/4
f4-\mf-- f(\< f') f | f8(\> c4.) bes2\! | c4.( f8 c8-\dim aes4.) | c8( bes4. f2--) |
c'8(-\p c4. bes4 aes) | c8( bes4.\< f2) | ees8-\mf ees ees4-- <aes d,>8 <aes d,>( <bes des,>) <bes des,> | <f c>8-> <f c>4. <f des>2 |}}
</score>
:(初版の序奏)
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c' { \key a \minor \numericTimeSignature \time 2/4
R2 |R2 |f8-\mf--[ f(\< f') f] | f16(\> c8.) bes4\!-- |}
\new Staff = "LH" \relative c' { \clef bass \key a \minor \numericTimeSignature \time 2/4
r8 <aes f>(_[^\mp f,) <aes' f>(] | f,)_[ <aes' f>( f,) <aes' f>(] | f,)_[ <aes' f> f, <bes' g>] | f,_[ <c'' aes> f,, <des'' g,>] | }
>> }
</score>
:(改訂版の序奏)
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c' { \key f \minor \numericTimeSignature \time 4/4
R1 |R1 |f4-\mf-- f(\< f') f | f8(\> c4.) bes2\! |}
\new Staff = "LH" \relative c' { \clef bass \key f \minor \numericTimeSignature \time 4/4
r4 <a f>^\p( f,^\<) <a' f>( | f,) <aes'! f>( f,) <a' f>( | f,\!) <aes'! f> f, <bes' g> | f, <c'' aes> f,, <des'' g,> | }
>> }
</score>
====第1巻 第33番(初版:第35番)====
*速度:アレグロ・ノン・トロッポ(♩=104){{Sfn|Henle版(I)|2017|p=28}}。
*拍子:4分の4拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=28}}。
*時間:45秒{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=28}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=28}}。イ音を終止音とするエオリア旋法{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=90}}。山崎(2010)は「エオリア旋法・リディア旋法・複調・多調」としている{{Sfn|山崎|2010|p=102}}。
::<score>
\relative c'' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key a \minor \time 1/1 \cadenzaOn a1 b c d e f g \bar "|" a \bar"|"}
}
</score>
*原曲:バルトークが1907年7月にチーク県のチークヴァチャールチ(現:ルーマニアの{{仮リンク|バカレシュティ|ro|Văcăreşti, Harghita}})で採集した、年配の男性による歌{{Refnest|group="注"|Miklós Pap という名前が記録されている{{Sfn|Folk Music|loc=L 63}}。}}{{Sfn|Folk Music|loc=L 63}}。
*概要:未婚のまま歳を重ねた女性の、自嘲気味な{{Sfn|山崎|2010|p=102}}開き直り(譜例・上)と、孤独(譜例・下)が表現されている{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=90}}。
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c'' { \key a \minor \numericTimeSignature \time 4/4
[ a8\f-. a-. a-. a-. ] b-. a-. g4-- | [ e8-. e-. e( a) ] | e-. e-. e4-- | }
\new Staff = "LH" \relative c' { \clef bass \key a \minor \numericTimeSignature \time 4/4
f,,4-^ <e'' c a > c,,-^ <e'' b g > | f,,-^ <b' a > e,,-^ <b'' g > | }
>> }
</score>
::<score>
\new Staff <<
\new Voice = "first"
\relative { \clef bass \key a \minor \numericTimeSignature \time 4/4
\voiceOne a1^^ fis1 a1^^ f!1^^~( f1~\> f4 e4-\ppp) r r \bar "|."}
\new Voice= "second"
\relative { \voiceTwo g8-.(-\pp f8-.) e4-_ c8-.( b8-.) a4-_ | [ d8-.( d-. c-. b-.) ] a4-_ a4-_
g'8-.( f8-.) e4-_ c8-.( b8-.) a4-_ | [ d8-.( d-. c-. b-.) ] a4-_ a4-_ R1 R1 }
>>
</score>
====第1巻 第34番(初版:第36番)====
*速度:アレグレット(♩=126){{Sfn|Henle版(I)|2017|p=28}}。
*拍子:4分の4拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=28}}。初版では音価はそのままで4分の2拍子{{Sfn|Folk Music|loc=L 64}}。
*時間:30秒{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=29}}。バルトークによる1945年の録音では32秒{{Sfn|Bartók-Compositions|loc=BB 53}}。
*調号:♭×2{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=28}}。ト音を終止音とするエオリア旋法{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=90}}。山崎(2010)は「変ロ長調・ト短調・エオリア旋法」としている{{Sfn|山崎|2010|p=103}}。
::<score>
\relative c'' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key g \minor \time 1/1 \cadenzaOn g1 a bes c d ees f \bar "|" g \bar"|"}
}
</score>
*原曲:バルトークが1906 年7月にベーケーシュ県の{{仮リンク|ヴェーステー|hu|Vésztő}}で採集した、18歳の女性による歌{{Refnest|group="注"|Jutka Kiszely という名前が記録されている{{Sfn|Folk Music|loc=L 64}}。}}{{Sfn|Folk Music|loc=L 64}}。
*概要:故郷を離れて兵役についている若者が恋人を想って歌う愛の歌である{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=90}}。ト短調の響きが支配的だが、三度の重音で始まる旋律は変ロ長調のような響きも有している{{Sfn|山崎|2010|p=103}}。懐古的でロマンチックな表情である{{Sfn|山崎|2010|p=103}}。この曲から第36番「酔っぱらいの歌」までの3曲はアタッカでつながっている。
::<score>
\relative c'' {
\new Staff { \key g \minor \numericTimeSignature \time 4/4
[ <d bes>8-\p-.( <c a>-. <f d>-.\< <ees c >) ] <d bes>4.( <c a>8) | <d bes >8->\! g,4. g2 |
<f' c>4.-- -\mf\< <g d>8-- <a e>8-- <g d>4. |
<d a >2--\! <g d>2-- | <c, g>4(\> <d a>4) <bes d,>4\! r4 |
}}
</score>
====第1巻 第35番(初版:第37番)====
[[File:Petrich Andras-View of Pest-Buda from the Gellerthegy.jpg|right|thumb|260px|[[ブダ]]と[[ペシュト]]の眺望(1840年頃の絵画)]]
*速度:コン・モート(♩=138){{Sfn|Henle版(I)|2017|p=29}}。初版ではポコ・ヴィヴァーチェ{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=52}}。
*拍子:4分の4拍子と4分の3拍子の交替。時折4分の2拍子も挿入される{{Sfn|Henle版(I)|2017|pp=28-29}}。4拍子の部分については、初版では4分の2拍子×2小節で書かれていた{{Sfn|Folk Music|loc=L 65}}。
*時間:27秒{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=29}}。バルトークによる1945年の録音では28秒{{Sfn|Bartók-Compositions|loc=BB 53}}。
*調号:♭×2{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=28}}。ト音を終止音とするエオリア旋法+派生音のホ音{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=90}}。山崎(2010)は「ト短調・複調・エオリア旋法」としている{{Sfn|山崎|2010|p=107}}。
::<score>
\relative c'' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key g \minor \time 1/1 \cadenzaOn g1 a bes c d ees e^"※" f \bar "|" g \bar"|"}
}
</score>
*原曲:バルトークが1906 年11月にベーケーシュ県のドボズで採集した、18歳前後の女性による歌{{Refnest|group="注"|Zsófi Vas という名前が記録されている{{Sfn|Folk Music|loc=L 65}}。}}{{Sfn|Folk Music|loc=L 65}}。初版の楽譜では、民謡の採集場所は[[ペシュト県]]の{{仮リンク|ターピオーセレ|hu|Tápiószele}}となっている{{Sfn|Folk Music|loc=L 65}}{{Sfn|パップ|2015|p=38}}{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=90}}。
*概要:アタッカでつながった3曲の中央に位置する。原曲の歌詞は、兵役で任地へ赴く若者が[[ブダ]]の山から街を見下ろしながら恋人のことを想い、「これから僕は森の中にある兵舎に閉じ込められる」と前途を悲観するという内容である{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=90}}。バルトークによる自演の録音では第34番と第35番の2曲をアタッカとしているが、次の第36番「酔っぱらいの歌」は演奏していない。
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c'' { \clef treble \key g \minor \numericTimeSignature
\time 4/4 [ g8-.\p g-. g-. g-. ] [ c-. c-. e-. d-. ] | <bes g>4-- <a fis>4-- <g d>4-- r4 |
\time 3/4 <d' bes g>4.( d8-.\< bes-. d-. |<f d bes>4.( f8-. e-. f-.) |
\time 4/4 <g ees!>4--\> <ees c>-- <d bes>-- r\! |}
\new Staff = "LH" \relative c' { \clef bass \key g \minor \numericTimeSignature
\time 4/4 r2 <c g ees>4-. r | d,-- < c' d, >-- <bes g>-- r |
\time 3/4 g,4-> <d'' bes g> r | d,,-> <d'' bes f> r |
\time 4/4 <g, ees>4-- <a f>-- <bes g>-- r |}
>> }
</score>
====第1巻 第36番「酔っぱらいの歌」(初版:第38番)====
[[File:Egerváry Company drinking Wine.jpg|right|thumb|260px|酔っぱらいを描いた絵画(ハンガリーの画家Ágost Egerváry Potemkinによる)]]
*速度:ヴィヴァーチェ(♩=144)- ピウ・モッソ(♩=168){{Sfn|Henle版(I)|2017|p=30}}。初版では冒頭のテンポ指定がなく{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=52}}、ピウ・モッソの部分はピウ・ヴィーヴォ{{Sfn|Folk Music|loc=L 66}}。
*拍子:4分の4拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=30}}。初版は音価はそのままで4分の2拍子{{Sfn|山崎|2010|p=109}}。
*時間:35秒{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=30}}。
*調号:♭×2{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=30}}。ト音を終止音とするエオリア旋法+派生音のホ音{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=90}}。山崎(2010)は「ト短調・エオリア旋法」としている{{Sfn|山崎|2010|p=109}}。
::<score>
\relative c'' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key g \minor \time 1/1 \cadenzaOn g1 a bes c d ees e^"※" f \bar "|" g \bar"|"}
}
</score>
*原曲:{{仮リンク|ヴィカール・ベーラ|hu|Vikár Béla}}が1900 年3月17日に{{仮リンク|ウドヴァルヘイ県|hu|Udvarhely vármegye}}の Firtosváralja(現:ルーマニアのフィルトゥシュ(''Firtuşu''))で採集した、男性による歌{{Refnest|group="注"|Simon Bálint という名前が記録されている{{Sfn|Folk Music|loc=L 65}}。}}{{Sfn|Folk Music|loc=L 66}}。
*概要:アタッカでつながった3曲を締めくくる。酒にまつわる歌は第19番、第20番「お酒の歌」、第21番に次いで4曲目であり{{Sfn|パップ|2015|p=26}}、ここでは10リットルもの酒を飲んだ酔っ払いが気炎を挙げる{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=91}}。バルトークの編曲は歌詞の内容をうまく表現しており{{Sfn|Parakilas|1995|p=491}}、冒頭の[[装飾音|装飾音符]]はあたかも酔っ払いの「べらんめえ口調」のようであり{{Sfn|山崎|2010|p=109}}、ピウ・モッソでテンポが上がり '''''ff''''' で終わる終結部分は、酔いが回って倒れ込む様子を表現するかのようである{{Sfn|パップ|2015|p=54}}。旋律にはハンガリー民謡特有の逆付点のリズム{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=78}}が使われている。
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c'' { \clef treble \key g \minor \numericTimeSignature \time 4/4
\partial8 \afterGrace s8 { \slurNeutral d16(\< e fis } <g d bes>8^^-\f) <d bes>4. <g d bes>4..( <a ees! c >16)
<g d bes>8^^ <d bes>4. <g d bes>2 | <f bes,>8.\p-_ [<e bes>16-. <f bes,>8-. <g bes,>-.] <f bes,>8-.\cresc <e bes>-. <f bes,>-. <g bes,>-. |<f a,>8.-_[ <e a,>16-. <f a,>8-. <g a,>-.] <f a,>8-. <ees a,>-. <d a>-. <c a>-.\! | }
\new Staff = "LH" \relative c' { \clef bass \key g \minor \numericTimeSignature \time 4/4
\partial8 s8 <d, g,>4 <d' g,>2 d,4~ | <d g,>4 <d' g,>2 g,,4 |<ees''! a,>8.-_[ <ees a,>16-. <ees a,>8-. <ees a,>-.] <ees g,>-. <ees g,>-. <ees g,>-. <ees g,>-.| <ees f,>8.-_[ <ees f,>16-. <ees f,>8-. <ees f,>-.] <c fis,>-. <c fis,>-. <d fis,>-. <ees fis,>-.| }
>> }
</score>
====第1巻 第37番「豚飼いの歌」(初版:第39番)====
*速度:アレグロ(♩=132)- ピウ・ヴィーヴォ(♩=152){{Sfn|Henle版(I)|2017|p=31}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=31}}。
*時間:36秒{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=31}}。
*調号:♭×2{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=31}}。ト音を終止音とするエオリア旋法{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=91}}。山崎(2010)は「ト短調・エオリア旋法」としている{{Sfn|山崎|2010|p=109}}。
::<score>
\relative c'' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key g \minor \time 1/1 \cadenzaOn g1 a bes c d ees f \bar "|" g \bar"|"}
}
</score>
*原曲:バルトークが1907年4月にトルナ県のフェルシェーイレグで採集した、年配の男性による歌{{Sfn|Folk Music|loc=L 67}}。
*概要:民謡「{{仮リンク|コオロギが結婚する|hu|Házasodik a tücsök}}」の旋律はハンガリーの民俗舞曲の一つである「”'''豚飼いの踊り'''”のリズム{{Refnest|group="注"|「”豚飼いの踊り”のリズム」<br/>
:<score>
{ \new RhythmicStaff \time2/4 [ c8 c c c ] c c c4 c8 [ c c c ] c4 c }
</score>}}」に基づいている{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=91}}。なお、「豚飼い」とは豚に限らず牛や羊などの家畜を飼育する牧夫のことである{{Sfn|パップ|2015|p=61}}。第40番「豚飼いの踊り」は、「コオロギが結婚する」の変奏が原曲となっている{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=92}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff
{ \key g \minor \time 2/4
[g''8-\markup { \dynamic f }( f) es( d)] | c( d) <bes g>4-- | [ <c a g>8-> <c a g> <c a g> <c a g>] | <d a f>4-^ <d a f> |
[<g es>8( <f d>) <es c>( <d bes>)] | <c a>( <d bes>) <bes g>4-- | [ <g es>8-. <g es>( <f d>) <f d>-.] | <g d bes>4-^ <g d bes> }
}
</score>
====第1巻 第38番「冬至の歌」(初版:第40番)====
*速度:モルト・ヴィヴァーチェ(♩=160){{Sfn|Henle版(I)|2017|p=32}}。
*拍子:4分の4拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=32}}。
*時間:1分17秒{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=32}}。
*調号:♭×1{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=32}}。ヘ長調(ヘ音から始まるヘクサコード{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=91}}){{Sfn|山崎|2010|p=114}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key f \major \time 1/1 \cadenzaOn f1 g a bes c d \bar "|" f \bar"|"}
}
</score>
*原曲:セベスチェン・ジュラの著作から、[[ザラ県]]の{{仮リンク|ジェネシュ・ディアーシュ|hu|Gyenesdiás}}で採集された歌{{Sfn|Folk Music|loc=L 68}}。初版の楽譜には、「レゲシュの歌:{{仮リンク|ハンガリー民俗詩集|hu|Magyar Népköltési Gyüjtemény}}第4巻、ザラ県ジェネシュ・ディアーシュ」と記載されている{{Sfn|Folk Music|loc=L 68}}{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=91}}。
*概要:英語のタイトルは"Winter Solstice Song"で「冬至の歌」の意味であるが{{Sfn|山崎|2010|p=114}}、ハンガリー語では「レゲシュの歌」、ドイツ語では「クリスマスの奇跡の歌」と訳されており{{Sfn|山崎|2010|p=114}}、音楽之友社版では「レゲシュの歌」、春秋社版では「レゲシュの歌」が採られている。ハンガリーの一部地域で冬至から新年の頃に行われる祝賀行事「{{仮リンク|レゲレーシュ|hu|Regölés}}」では、子供や若者が家々を回って鎖のついた杖や楽器を打ち鳴らして歌い、その家の幸運を祈る{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=80}}。曲中において右手の親指と人差し指で同時に鳴らされる低いヘ音(譜例・上)は、レゲーシュで打ち鳴らす鎖のついた杖の音を表していると考えられる{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=91}}。主題の旋律にはアクセントが多用されており(譜例・下){{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=91}}、にぎやかで祝祭的な編曲になっている{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=91}}。
:(冒頭)
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative b' { \clef bass \key f \major \numericTimeSignature \time 2/4
R2 | R2 | R2 | R2 | f,,2^\markup {1+2}^\markup { \italic {marcato}} | f2 | f2| f2 | }
\new Staff = "LH" \relative b' { \clef bass \key f \major \numericTimeSignature \time 2/4
[ f,8^\p e d c^\cresc ] | [ f8 e d c ] | [ f8 e d c ] | [ f8 e d c ] |
[ f8 e d c ] | [ f8 e d c ] | [ f8 e d c ] | [ f8^\f e d c ] | }
>> }
</score>
:(主題の旋律)
::<score>
\relative c' {
\new Staff { \key f \major \time 2/4
[ f8-\p g a bes ] | c4.---> d8 | [c8-> d c bes ] | [a g a f ] | a4---> g-- | f-- c'---^ |
bes4-> a8 g | f4--
}}
</score>
====第1巻 第39番(初版:第41番)====
*速度:アレグロ・モデラート(♩=84)- ウン・ポコ・ピウ・モデラート(♩=76)- レント(♩=70)- プレスト(♩=138){{Sfn|Henle版(I)|2017|p=34}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=34}}。
*時間:1分35秒{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=35}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=34}}。イ音を終止音とし、ロ音を含まないエオリア旋法+派生音の嬰ハ音{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=92}}。山崎(2010)は「イ短調・エオリア旋法」としている{{Sfn|山崎|2010|p=116}}。
::<score>
\relative c'' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key a \minor \time 1/1 \cadenzaOn a1 c cis^"※" d e f g \bar "|" a \bar"|"}
}
</score>
*原曲:バルトークが1906年9月にトルナ県のフェルシェーイレグで採集した、年配の男性による歌{{Sfn|Folk Music|loc=L 69}}。
*概要:許されない恋愛の果てに駆け落ちを決意する男女の会話が歌詞の歌をもとにした{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=92}}ドラマチックな音楽である{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=92}}{{Sfn|山崎|2010|p=116}}。声楽において[[バス (声域)|バス]]と[[ソプラノ]]の二重唱で男女の会話を表現するように{{Sfn|Parakilas|1995|p=491}}{{Sfn|山崎|2010|p=116}}、旋律は左手(低音)と右手(高音)に現れ、時には両手で同時に演奏される{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|pp=68-69}}。テンポが次第に遅くなっていき '''''pp''''' のフェルマータで休止した後は、駆け落ちを決意したかのように一転して音楽は加速してプレストとなり、最後は '''''ff''''' で曲を閉じる{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=92}}。同じ旋律を7回繰り返してストーリーを紡ぐ手法は、後の『[[15のハンガリーの農民の歌]]』(1918年)の「バラード」に通じる{{Sfn|Lampert|2018|p=198}}。
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff << \time 2/4 \relative c''
\new Voice = "first" { \voiceOne [d8-\pp-\markup { \italic {legatissimo}} f e d ] | e4 d8 cis |[d8 f e d ] | e4 d8 cis |
[d8 a a g ] | c4 c8 d8 | [e d d g, ] | a4 a8 a8~| a2\fermata }
\new Voice= "second" { \voiceTwo r8 a'4.~ | a'2~ | a'8 a'4.~ | a'2 |
r8 f'4.~ | f'2~ | f'8 f'4.~ | f'2 | e'2 }
>>
\new Staff << \relative b, \clef bass
\new Voice = "first" { \voiceOne r8 a,4.~ | a,2~ | a,8 a,4.~ | a,2 |
r8 f,4.~ | f,2~ | f,8 f,4.~ | f,2 | e,2 }
\new Voice= "second" { \voiceTwo [d,8_\markup { \italic {legatissimo}} f, e, d, ] | e,4 d,8 cis, |[d,8 f, e, d, ] | e,4 d,8 cis, |
[d,8 a,, a,, g,, ] | c,4 c,8 d,8 | [e, d, d, g,, ] | a,,4 a,,8 a,,8~| a,,2\fermata }
>>
>> }
</score>
====第1巻 第40番「豚飼いの踊り」(初版:第42番)====
[[File:Juhász. Fortepan 86882.jpg|right|thumb|300px|ハンガリーの羊飼い(1908年)]]
*速度:アレグロ・ヴィヴァーチェ(♩=132){{Sfn|Henle版(I)|2017|p=36}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=36}}。
*時間:1分45秒{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=38}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=36}}。ト音を終止音とするミクソリディア旋法{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=92}}。山崎(2010)は「ト長調、ミクソリディア旋法」としている{{Sfn|山崎|2010|p=119}}。
::<score>
\relative c'' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key c \major \time 1/1 \cadenzaOn g1 a b c d e f \bar "|" g \bar"|"}
}
</score>
*原曲:バルトークが1907年4月にトルナ県のフェルシェーイレグで採集した、60歳前後の男性による笛の演奏{{Sfn|Folk Music|loc=L 70}}。初版の楽譜には、「フェルシェーイレグの最後の笛吹きは、"コオロギが結婚する・・・"という歌詞の旋律をこう演奏した{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=92}}。」と記載されている。
*概要:初版では無題であったが、1931年に『[[ハンガリーの風景]]』の終曲としてバルトーク自身によって管弦楽編曲された際に「豚飼いの踊り」というタイトルが付けられた{{Sfn|Lampert|2009|p=9}}。右手の旋律は第37番「豚飼いの歌」の旋律の自由な変奏であり{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=92}}、左手の伴奏は[[バグパイプ]]の響きを表現するように[[空虚五度]]の響きが使われている{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=92}}。旋律の断片が「可能な限りの '''''ppp''''' 」で演奏されて始まり、盛り上がって '''''ff''''' になった後は次第に弱まっていき '''''pppp''''' で終止するという構成は{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|pp=70-72}}、豚飼いに連れられた家畜の群れが遠くからやってきて目の前を通り過ぎ、去って行くという情景を表現している{{Sfn|音楽之友社版(1)|2005|p=92}}。なお、この構成については、[[エドヴァルド・グリーグ|グリーグ]]が1902年に作曲したピアノ組曲『[[スロッテル]]』の第1曲「ギボエンの婚礼行列」との類似が指摘されている{{Sfn|Lampert|2009|p=9}}{{Refnest|group="注"|バルトークはグリーグのことを重要な作曲家の一人として高く評していた{{Sfn|Lampert|2009|p=2}}。}}。
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c'' { \clef treble \key c \major \time 2/4
[ g''8-. f8-. \tuplet 3/2 { e16( f e } d8-.) ] | c16( b a b) b4---> | g8->( a16 b d c b c | d4) d4-- | }
\new Staff = "LH" \relative c' { \clef bass \key c \major \time 2/4
<d, g,>8^^ g4 g8 | <d g,>8^^ g4 g8 |<d g,>8^^ g4 g8 |<d g,>8^^ g4 g8 | }
>> }
</score>
===第2巻(スロバキア編)===
====第2巻 第1番 ====
*速度:アレグロ(♩=132){{Sfn|Henle版(II)|2017|pp=2-3}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=2}}。
*時間:30秒{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=3}}。
*調号:♭×1{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=2}}。ヘ長調(ヘ音から始まるペンタコード{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=69}}){{Sfn|山崎|2010|p=128}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key f \major \time 1/1 \cadenzaOn f1 g a bes c \bar "|" f \bar"|"}
}
</score>
*原曲:ヤン・カダヴィ『スロバキア歌集I』より{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=69}}。
*概要:ユーモラスな子供の歌が原曲{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=69}}。[[アルベルティ・バス]]を組み替えた左手の伴奏にのって、「3小節+2小節」の5小節構造の旋律が歌われる{{Sfn|山崎|2010|p=128}}。冒頭、旋律は[[ヘ (音名)|ヘ音]]から[[ハ (音名)|ハ音]]まで音階を駆け上がるが、上昇音型で始まるフレーズは「ハンガリー編」にはあまり見られない、スロバキア民謡の特徴のひとつである{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=66}}。第1番から第3番までの3曲がアタッカでつながっており{{Sfn|山崎|2010|p=134}}「急 - 緩 - 急」の構成になっている{{Sfn|山崎|2010|p=131}}。
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c' { \clef treble \key f \major \time 2/4
f8-\f([ g a bes ] | c4-.--^^) c8( a8) | c4-_c8( a8) | bes4^^( g | f a) | }
\new Staff = "LH" \relative c' { \clef bass \key f \major \time 2/4
a8([ c f, c'] | a[ c f, c'] | a[ c f, c']) | bes([ d f, d'] | a[ c f, c']) |}
>> }
</score>
====第2巻 第2番 ====
*速度:アンダンテ(♩=96){{Sfn|Henle版(II)|2017|p=3}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=3}}。
*時間:43秒{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=3}}。
*調号:♭×1{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=3}}。ヘ長調(ヘ音から始まるヘクサコード{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=69}}){{Sfn|山崎|2010|p=130}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key f \major \time 1/1 \cadenzaOn f1 g a bes c d \bar "|" f \bar"|"}
}
</score>
*原曲:ヤン・カダヴィ『スロバキア歌集I』より{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=69}}。
*概要:アタッカでつながった3曲の中央に位置する。長調の穏やかで美しい叙情的な旋律だが{{Sfn|山崎|2010|pp=130-131}}、兵役に行ったまま帰ってこない婚約者のことを思う歌である{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=69}}。冒頭の旋律は左手で演奏され、繰り返されるときに右手の高音部に移る{{Sfn|山崎|2010|p=130}}。アタッカで第3番につながる{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=3}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff { \key f \major \time 2/4 \clef bass
a4-\p-\< a8( c8) | bes4(\> g | f)\! r | a4--\< a8( c8) | bes4(\> g | f)\! r |
c'4\mp--( c8 a | bes c d4) | bes4--(\dim bes8 g | a bes c4) |\!
}}
</score>
====第2巻 第3番 ====
[[File:Hrlica - ulica obce -1.jpg|right|thumb|280px|ゲルリツェ(現在はスロバキアのHrlica)]]
*速度:アレグレット(♩=126){{Sfn|Henle版(II)|2017|p=4}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=4}}。
*時間:28秒{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=4}}。
*調号:♭×1{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=4}}。ヘ長調(ヘ音から始まるヘクサコード{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=69}}){{Sfn|山崎|2010|p=132}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key f \major \time 1/1 \cadenzaOn f1 g a bes c d \bar "|" f \bar"|"}
}
</score>
*原曲:バルトークが1906年8月にゲメル県のゲルリツェで採集した、17歳の少女による歌{{Refnest|group="注"|Zuzana Drábová という名前が記録されている{{Sfn|Folk Music|loc=L 73}}。}}{{Sfn|Folk Music|loc=L 73}}。初版の楽譜には「ゲメル県の{{仮リンク|フィレール|hu|Ratkósebes#Fillér}}で採集した」と記載されている{{Sfn|Folk Music|loc=L 73}}。
*概要:アタッカでつながった3曲を締めくくる。バラの花をプレゼントしてくれた少女にもう1本欲しいとねだるが、少女は「だめよ、私の分がなくなっちゃう」と断る様子が「スケルツァンド(おどけて)」で軽快に奏でられる{{Sfn|パップ|2015|p=115}}。終盤で次第に弱まりテンポも緩まるが、最後の2小節はア・テンポとなり '''''f''''' できっぱり断るように決然と終わる{{Sfn|山崎|2010|p=133}}。
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c' { \clef treble \key f \major \time 2/4
f8-\markup { \dynamic p \italic { , scherzando}}-. f-. g4-- | c8-. c-. bes4-- |
a8([ bes) a-. g-. ] | f4-- r | }
\new Staff = "LH" \relative c' { \clef bass \key f \major \time 2/4
r8 <a f>-. <bes f>4-- | r8 <e f,>-. <d f,>4-- | r8 <c f,>-. r <bes f>-. | <a f>4-- r |}
>> }
</score>
====第2巻 第4番「婚礼の歌」 ====
*速度:アンダンテ(♩=72){{Sfn|Henle版(II)|2017|p=4}}。
*拍子:4分の2拍子。第9小節のみ4分の3拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=4}}。
*時間:30秒{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=4}}。
*調号:♭×1{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=4}}。[[ヘ長調]](ヘ音から始まるペンタコード{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=69}}){{Sfn|山崎|2010|p=134}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key f \major \time 1/1 \cadenzaOn f1 g a bes c \bar "|" f \bar"|"}
}
</score>
*原曲:バルトークが1906 年10月にゲメル県の Ratkósebes(現:Ratkovské Bystré)で採集した、子供による歌。初版の楽譜には「ゲメル県のフィレールで採集した」と記載されている{{Sfn|Folk Music|loc=L 74}}。
*概要:これから嫁いでいく娘のために服を縫う母と、娘とのやり取りを描いた{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=69}}、スロバキアに古くから伝わる婚礼歌{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=69}}。譜例は冒頭部分で、二つの声部のうち「ドルチェ(優しく)」と指示された右手の声部が民謡の旋律である{{Sfn|Folk Music|loc=L 74}}。終始 '''''p''''' で演奏され{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=4}}、最後の1小節は新郎新婦の退場を表すかのように全休符になっている{{Sfn|山崎|2010|p=134}}。この曲は旋律の後半がリフレインされない{{Sfn|Lampert|2018|p=198}}。
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c' { \clef treble \key f \major \time 2/4
[ f8-\markup { \dynamic p \italic { , dolce}}--( f-- f--\< g-- ] | a2) |
[g8--( g-- g-- g-- ] | c2) | [c8(\> a g c ] | a2 | g2)\! | }
\new Staff = "LH" \relative c { \clef bass \key f \major \time 2/4
R2 [f8-- f( g f) ] | f( c4.) | [c'8( d c bes) ] | a8( f4 e8) | c8( f4 d8) | f8( e4 c8) | }
>> }
</score>
====第2巻 第5番「変奏曲」 ====
[[File:Peacock Flying.jpg|right|thumb|280px|孔雀は幸せの象徴とされる{{Sfn|パップ|2015|p=143}}。]]
*速度:モルト・アンダンテ(♩=112){{Sfn|Henle版(II)|2017|p=5}}。
*拍子:4分の3拍子 ー 4分の2拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|pp=5-6}}。
*時間:2分15秒{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=6}}。
*調号:#×1{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=5}}。ト長調(ト音から始まるヘクサコード+派生音の嬰ハ音{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=70}}){{Sfn|山崎|2010|p=136}}。
::<score>
\relative c'' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key g \major \time 1/1 \cadenzaOn g1 a b c cis^\markup{※} d \bar "|" g \bar"|"}
}
</score>
*原曲:カロル・ルッペルト他『スロバキア歌集II』より{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=69}}。
*概要:4節からなる婚礼の歌をバルトークは「主題+3つの変奏」の形に編曲した{{Sfn|パップ|2015|p=143}}。「孔雀が飛んでいった」と歌い出される'''主題'''は{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=70}}(譜例・上)、[[嬰ハ|嬰ハ音]]と[[ハ (音名)|ハ音]]の揺らぎが特徴的で{{Sfn|パップ|2015|p=143}}、[[リディア旋法]]に由来する嬰ハ音は旋律の開始音であるト音と[[三全音]]の関係にあるため、不思議な響きになる{{Sfn|パップ|2015|p=143}}。'''第1変奏'''では旋律が左手に移り、右手は{{仮リンク|対旋律|en|Counter-melody}}を奏でる{{Sfn|パップ|2015|p=143}}。なお、バルトークは改訂の際に第1変奏の対旋律を初版と全く異なるものに変更している{{Sfn|山崎|2010|p=137}}{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=43}}。'''第2変奏'''は反復される三度の重音による[[オスティナート]]に乗って旋律が歌われ{{Sfn|山崎|2010|p=137}}後半は四声体になる{{Sfn|パップ|2015|p=143}}。'''第3変奏'''はテンポ(♩=112)を維持したま3拍子から2拍子に変わり、軽快で陽気な踊りになる{{Sfn|山崎|2010|p=137}}{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=70}}(譜例・下)。
:(主題の冒頭)
::<score>
\relative c' {
\new Staff { \key g \major \time 3/4
g'4-\markup { \dynamic p \italic { dolce}}(\<( g a |b2 cis4 | d2\> c!4 | b2) r4\! |
}}
</score>
:(第3変奏)
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c'' { \clef treble \key g \major \time 2/4
g4-\f g8-.\< <a g>-. | <b g>4-- <cis g>-- | <d a>--\> <c! a>-- | <b g>-- r\! |}
\new Staff = "LH" \relative c' { \clef bass \key g \major \time 2/4
R2 | g4-- <g fis>8-. <g e>-. | <fis d>4-- <e d>8-. <fis d>-. | g4-- g8-. a-. |}
>> }
</score>
====第2巻 第6番「ラウンド・ダンスI」(初版:「遊びの歌」) ====
[[File:Bratislava, Bratislavský Hrad.jpg|right|thumb|240px|[[ブラチスラヴァ城]]にある魔女の像]]
*速度:アレグロ(♩=138){{Sfn|Henle版(II)|2017|p=7}}。『若いピアノ弾き』では♩=150{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=7}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=7}}。初版では音価は同じで8分の4拍子{{Sfn|Folk Music|loc=L 76}}。
*時間:40秒{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=7}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=7}}。ハ長調(ハ音から始まるペンタコード{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=70}})。山崎(2010)は「ハ長調・リディア旋法」としている{{Sfn|山崎|2010|p=144}}。
::<score>
\relative c'' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key c \major \time 1/1 \cadenzaOn c1 d e f g \bar "|" c \bar"|"}
}
</score>
*原曲:ヤン・カダヴィ『スロバキア歌集I』より{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=69}}。
*概要:原曲のスロバキア民謡「{{仮リンク|魔女がいる|hu|Egy boszorka van}}」はハンガリーでも人気が高い子供の歌である{{Sfn|パップ|2015|p=115}}。歌詞の内容は、魔女とその3人の子供がおり、1人は学校へ、1人は靴職人、もう1人はバグパイプを吹くという愉快なもので{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=70}}、譜例の最後2小節('''''mf''''' の部分)には「トゥララララ」という歌詞が当てはまっている{{Sfn|Folk Music|loc=L 76}}。なお、バルトークはスロバキア編を25曲で構成することを考えていた段階では、この曲を1曲目とする予定であった{{Sfn|Vikárius|2011|p=246}}。
::<score>
\relative c'' { \new Staff { \key c \major \time 2/4
[c8-\p->( d e d ] | c4) r | [c8->( d e d ] | c4) r |
[e8-. e( f-.) f( ] | e8-.) e-. d4-- | [e8-. e( f-.) f( ] | e8-.) e-. d4-- |
[e8(\< d e f ] ] | [ g\> f e d) ] | [e8(\< d e f ] ] | [ g\> f e d) ] |
[c8->(\! d e d ] | c4) r | [c8-\mf^^( d e d ] | c4^^) r |
}}
</score>
====第2巻 第7番「悲しみ」(初版:「義賊の歌」) ====
*速度:アンダンテ(♩=84){{Sfn|Henle版(II)|2017|p=8}}。
*拍子:4分の4拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=8}}。
*時間:50秒{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=8}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=8}}。イ音を終止音とするエオリア旋法+派生音の嬰ヘ音および嬰ト音{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=70}}。山崎(2010)は「イ短調・エオリア旋法」としている{{Sfn|山崎|2010|p=147}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key a \minor \time 1/1 \cadenzaOn a1 b c d e f fis^\markup{※} g gis^\markup{※} \bar "|" a \bar"|"}
}
</score>
*原曲:カロル・ルッペルト他『スロバキア歌集II』より{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=69}}。
*概要:優雅な曲想だが{{Sfn|山崎|2010|p=151}}、殺人の罪で絞首刑を宣告された男が少女たちの命乞いによって助かるという歌詞である{{Sfn|山崎|2010|p=147}}。歌詞にはユダヤ人差別につながる内容が含まれており{{Sfn|山崎|2010|p=148}}、山崎(2010)は訳詞を掲載しているが、パップ(2006)は掲載を見合わせている{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=70}}。初版のタイトルは『義賊の歌』であったが改訂後は『悲しみ』となったため、初版で『もう一人の義賊の歌』というタイトルであった第31番(初版:第35番)が改訂版では『義賊の歌』に変更されている{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=81}}。
::<score>
\relative c'' { \new Staff { \key a \minor \time 4/4 \numericTimeSignature
a8-\markup { \dynamic p \italic { dolce}}( gis a b g4 e) | g8(\> fis e4\!) g8(\> fis e4\!) |
a8( gis a b g4 e) | g8(\> fis e4\!) g8(\> fis e4\!) |
}}
</score>
====第2巻 第8番「踊り」 ====
[[File:Love (52868692877).jpg|right|thumb|180px|鳩のつがい]]
*速度:アレグロ・ノン・トロッポ(♩=120){{Sfn|Henle版(II)|2017|p=8}}。初版ではアレグロ{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=50}}、『若いピアノ弾き』のメトロノーム記号は♩=144{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=8}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=8}}。
*時間:37秒{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=9}}。
*調号:#×1{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=8}}。ホ音を終止音とし、ニ音を含まないエオリア旋法{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=70}}。山崎(2010)は「ホ短調」としている{{Sfn|山崎|2010|p=150}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key e \minor \time 1/1 \cadenzaOn e1 fis g a b c \bar "|" e \bar"|"}
}
</score>
*原曲:カロル・ルッペルト他『スロバキア歌集II』より{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=70}}。
*概要:仲睦まじい鳩のつがいにも嫉妬してしまう人たちに向けて愛は素敵だと説く歌詞{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=70}}。毎小節の頭にアクセントのついた歯切れのよい伴奏にのった{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=70}}無骨で粗野な舞曲となっているが{{Sfn|山崎|2010|p=150-151}}、後半ではテンポが揺らぎながら静まっていき最後は '''''pp''''' で静かに終わる{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=9}}。
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c'' { \clef treble \key e \minor \time 2/4
R2 R2 R2 R2
b4-\mp---> b8-.[ b8-.] | [ c-.-> b-. a( g) ] fis8-. g-. a4---> g8-. a-. b4--->|}
\new Staff = "LH" \relative c' { \clef bass \key e \minor \time 2/4
<b g e>8-\p-.-> <b g e>-. r <b g e>-. |<b g e>8-.-> <b g e>-. r <b g e>-. |
<b g e>8-.-> <b g e>-. r <b g e>-. |<b g e>8-.-> <b g e>-. r <b g e>-. |
<b g e>8-.-> <b g e>-. r <b g e>-. |<b g e>8-.-> <b g e>-. r <b g e>-. |
<c a e>8-.-> <c a e>-. r <c fis, e>-. | <b g e>8-.-> <b g e>-. r <b g e>-. |}
>> }
</score>
====第2巻 第9番「ラウンド・ダンスII」(初版:「子供の歌」) ====
*速度:アンダンテ(♩=88){{Sfn|Henle版(II)|2017|p=9}}。
*拍子:4分の3拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=9}}。
*時間:30秒{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=9}}。
*調号:♭×1{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=9}}。変ロ音を終止音とし、ト音およびイ音を含まないリディア旋法+派生音の変ホ音{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=71}}。山崎(2010)は「変ロ長調・リディア旋法」としている{{Sfn|山崎|2010|p=152}}。
::<score>
\relative c'' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key f \major \time 1/1 \cadenzaOn bes1 c d ees^\markup{※} e? f \bar "|" bes \bar"|"}
}
</score>
*原曲:カロル・ルッペルト他『スロバキア歌集II』より{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=71}}。
*概要:原曲は子供の歌{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=71}}。音階の4番目の音が長調由来の[[変ホ|変ホ音]]とリディア旋法由来の[[ホ (音名)|ホ音]]の間で揺らぐのは第5番「変奏曲」と同様であり{{Sfn|パップ|2015|p=116}}、そのことがこの曲に蠱惑的な魅力をもたらしている{{Sfn|山崎|2010|p=152}}。
::<score>
\relative c'' { \new Staff { \key f \major \time 3/4 \numericTimeSignature
bes8-\markup { \dynamic p \italic {, semplice}}( d f4 d) |
f8(\> ees d2)\! | f8(\> ees d2)\! |
c8( d ees4 c) | f8\cresc( ees d4. f8) | e!2-\f-\>( c4) | bes2-\p r4 |
}}
</score>
====第2巻 第10番「埋葬の歌」 ====
*速度:ラルゴ(♩=80){{Sfn|Henle版(II)|2017|p=10}}。
*拍子:2分の3拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=10}}。
*時間:1分12秒{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=10}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=10}}。イ音を終止音とし、ヘ音を含まないエオリア旋法で、ト音が嬰ト音に変位している{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=72}}。山崎(2010)は「イ短調・エオリア旋法」としている{{Sfn|山崎|2010|p=154}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key a \minor \time 1/1 \cadenzaOn a1 b c d e gis^\markup{※} \bar "|" a \bar"|"}
}
</score>
*原曲:ヤン・カダヴィ『スロバキア歌集I』より{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=71}}。
*概要:戦死した恋人の亡骸が冷たい兵舎の床に横たえられている、という歌詞の悲痛な抒情歌であり{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=71}}{{Sfn|パップ|2015|p=131}}、間奏部分で右手で弾く低音の[[空虚五度]]は「弔いの鐘」の音を模している{{Sfn|Vikárius|2011|p=251}}。冒頭の左手の伴奏にあるディミヌエンドしながら下降する「ハ - ロ - イ - 嬰ト」の動きは旋律にも含まれており、オクターブ離れた[[カノン (音楽)|カノン]]を形成している{{Sfn|山崎|2010|p=154}}。
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c'' { \clef treble \key a \minor \time 3/2
R1. R1.
a8^\markup { \italic {molto espr.}}-\p\<( gis a b c4\> b a gis) |
a8\<( gis a b c4\> b a gis) |
e'8\!\cresc( d c b c4 d e2) |
e8\>( d c d c4 b a)\! r |
\clef bass <e, a,>1.-\p | <e a,>1. |}
\new Staff = "LH" \relative c' { \clef bass \key a \minor \time 3/2
c4-\markup { \italic {espr.}}\>( b a gis a b)\! |c4\>( b a gis a b)\! |
c4\>( b a gis\! a b) |c4\>( b a gis\! a b) |
c4 g!\<( a b c d) | e2.^^\>( d4 c b) |
c4\>( b a gis\! a b) |c4\>( b a fis\! a b) | }
>> }
</score>
====第2巻 第11番 ====
[[File:Garden roses - UK 28062023.png|right|thumb|200px|香り高いバラの花]]
{{External media
| width = 310px
| video1 = [https://www.youtube.com/watch?v=DlTKlHO2X9U 『4つのスロバキア民謡』BB46より第1曲] - {{仮リンク|アンドレア・メラース|hu|Meláth Andrea}}公式YouTube。
}}
*速度:レント(二分音符=58){{Sfn|Henle版(II)|2017|p=10}}。
*拍子:2分の3拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=10}}。初版は音価が半分で4分の2拍子{{Sfn|春秋社版|2008|p=81}}。
*時間:1分00秒{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=10}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=10}}。ニ音を終止音とするドリア旋法{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=71}}。山崎(2010)は「ニ短調・ドリア旋法」としている{{Sfn|山崎|2010|p=157}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key a \minor \time 1/1 \cadenzaOn d1e f g a b c \bar "|" d \bar"|"}
}
</score>
*原曲:バルトークが1906年10月にゲメル県のゲルリツェで採集した、40歳前後の女性による歌{{Sfn|Folk Music|loc=L 81}}。初版の楽譜には「ゲメル県のフィレールで採集した」とある{{Sfn|Folk Music|loc=L 81}}。
*概要:ビストリッツェのはずれに咲いている3本の[[薔薇|バラ]]の香りが遠くから漂ってくる、という内容が歌われる{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=71}}。旋律は繰り返され、1回目は左手により '''''f''''' で、2回目は右手に移り '''''p''''' で奏される。バルトークが1907年に作曲していた、独唱とピアノのための『4つのスロバキア民謡』BB46(死後に出版された{{Sfn|伊東|2012a|p=330}})の第1曲と同じ民謡を用いているが{{Sfn|伊東|2012a|p=324}}、『子供のために』では極めてシンプルな編曲に進化しており、清潔な響きとなっている{{Sfn|伊東|2012a|p=326}}。山崎(2010)は「ピアノという楽器の表現能力を最大限に生かした佳作{{Sfn|山崎|2010|p=158}}」と高く評価している{{Sfn|山崎|2010|p=158}}。第11番から第13番までの3曲はアタッカでつながっている{{Sfn|Henle版(II)|2017|pp=10-11}}。
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c'' { \clef treble \key a \minor \time 3/2
\partial 2 <a f>2~\f | <a f>1 <a f>2~ | <a f>1 <a f>2~ | <a f>1 <a f>2~ |
<a f>2 << { \voiceOne a1~ | a2 a1 }
\new Voice { \voiceTwo f2( e~ | e2) f( e) } >> | }
\new Staff = "LH" \relative c' { \clef bass \key a \minor \time 3/2
\partial 2 r2 | R1. |
d8-\markup { \dynamic f \italic {, sonoro}}-- d( e d) a-- c2.. |
d8-- d( e d) a-- c2.. | b8^\dim-- a4.~a1 |a1 r2\! | }
>> }
</score>
====第2巻 第12番 ====
*速度:アンダンテ・ルバート(♩=ca.84){{Sfn|Henle版(II)|2017|p=11}}。初版ではポコ・アンダンテ{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=50}}。
*拍子:4分の2拍子。一部で4分の3拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=11}}。
*時間:40秒{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=11}}。
*調号:♭×1{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=11}}。ニ音を終止音とするエオリア旋法+派生音の嬰ハ音{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=71}}。山崎(2010)は「ト短調・ニ短調・エオリア旋法」としている{{Sfn|山崎|2010|p=162}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key d \minor \time 1/1 \cadenzaOn d1 e f g a bes c cis^\markup{※} \bar "|" d \bar"|"}
}
</score>
*原曲:ヤン・カダヴィ『スロバキア歌集I』より{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=71}}。
*概要:アタッカでつながった3曲の中央に位置する。結婚を許してくれない、恋人の母親を呪う若い女性の歌{{Sfn|山崎|2010|p=162}}。小節ごとに細かくデュナーミクが変化して感情を表現しており{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=72}}、3小節目にある最高音のヘ音は、歌詞が "''ej''"(ああ!)という[[間投詞]]であり、バルトークはここを '''''f''''' にして女性の怒りを表わしている{{Sfn|パップ|2015|pp=129-130}}。嗚咽を表現するように '''''pp''''' で静かに曲を締めくくり{{Sfn|パップ|2015|p=130}}、アタッカで第13番につながる{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=11}}。
::<score>
\relative c'' { \new Staff { \key f \major \time 2/4 \numericTimeSignature
[ g8-\markup { \dynamic mp \italic {, molto espr.}}( g a bes ] | a8 g4.) |
f'4-\f\>( e8 d | [ cis8 d e d\!\fermata) ] |
[c!8\dim( c d bes ] | \time 3/4 a4 g4) r4\p\< |
g8-- g8-- d'4.-\mf\>( cis8) | bes4( a2\!\fermata) |
}}
</score>
====第2巻 第13番====
*速度:アレグロ(♩=132){{Sfn|Henle版(II)|2017|p=11}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=11}}。
*時間:2×20秒(全体がリピートされる){{Sfn|Henle版(II)|2017|p=11}}。
*調号:♭×1{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=11}}。ト音を終止音とするドリア旋法+派生音の変ホ音および嬰ヘ音{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=72}}。山崎(2010)は「ト短調・ミクソリディア旋法」としている{{Sfn|山崎|2010|p=162}}。
::<score>
\relative c'' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key d \minor \time 1/1 \cadenzaOn g1 a bes c d e es^\markup{※} f fis^\markup{※} \bar "|" g \bar"|"}
}
</score>
*原曲:ヤン・カダヴィ『スロバキア歌集I』より{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=72}}。
*概要:アタッカでつながった3曲を締めくくる。若い男性が恋人に呼びかける愛の歌{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=72}}。前曲の曲想から一転して気分が吹っ切れたように{{Sfn|山崎|2010|p=163}}、アクセントと連打音が多く使われており{{Sfn|山崎|2010|p=163}}、活気のある舞曲調の音楽となっている{{Sfn|田代|2021|p=85}}。
::<score>
\relative c'' { \new Staff { \key f \major \time 2/4 \numericTimeSignature
g'4-^-\f( d8) d8-. | d([ e f d) ] | e4-^( c8) c8-. | c([ d ees c) ] | d4->\>( bes | a g) |\!
}}
</score>
:(13小節目~、旋律線のみ)
::<score>
\relative c' { \new Staff { \key f \major \time 2/4 \numericTimeSignature
d8([ fis a)-.\< a-.] | a-.[ a-. a-. a-.] | d4^^^-\! bes-- | a-- g-- |
}}
</score>
====第2巻 第14番====
*速度:モデラート(♩=84)とピウ・モッソ(♩=108)が交替する{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=12}}。『若いピアノ弾き』では、冒頭のメトロノーム記号は♩=96{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=12}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=12}}。
*時間:34秒{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=12}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=12}}。ニ音を終止音とするエオリア旋法+3つの派生音(嬰ヘ音、ロ音、嬰ハ音){{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=72}}。山崎(2010)は「ニ長調・ニ短調・エオリア旋法」としている{{Sfn|山崎|2010|p=166}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key a \minor \time 1/1 \cadenzaOn d1 e f fis^\markup{※} g a bes b^\markup{※} c cis^\markup{※} \bar "|" d \bar"|"}
}
</score>
*原曲:バルトークが1906年10月にゲメル県の Ratkósebes で採集した、年配の女性による歌。初版の楽譜には「ゲメル県のビストローで採集した」と記載されている{{Sfn|Folk Music|loc=L 84}}。
*概要:農夫のヤニチカは家族が代わる代わる昼食を持ってきても仕事をやめないが、恋人が来た途端、仕事をそっちのけにして恋人の元に飛んでいってしまう、という歌詞{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=72}}。緩急の変化が激しく、数小節の間でテンポやデュナーミクが頻繁に変化する(譜例){{Sfn|山崎|2010|p=166}}。なお、冒頭のモデラートの部分は前奏ではなく歌の部分である{{Sfn|Folk Music|loc=L 84}}。
::<score>
\relative c' { \new Staff { \key c \major \time 2/4 \numericTimeSignature
\tempo moderato [ d8-\f( e fis g) ] | a-_ g4.-_ | a2\fermata \breathe |
[ a8^\markup { \bold {Più mosso}} -\p( b cis d) ] | c!( b-. c4-- | [ bes8( a-.) g( a-.) ] | f^^_. e_. d4-- |
[ g8^\markup { \bold {Tempo I}}-\mf\<-- bes-- a-- g-- ] | fis8\>-- g4.-- |d2\fermata |\! }}
</score>
====第2巻 第15番「バグパイプI」(初版:「バグパイプの歌」)====
[[ファイル:Ľubomír Párička - Slovakian bagpipes and traditional pipes maker.jpg|right|thumb|180px|バグパイプ]]
*速度:モルト・トランクィロ(♩=52){{Sfn|Henle版(II)|2017|p=12}}。
*拍子:4分の3拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=12}}。
*時間:55秒{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=12}}。
*調号:#×1{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=12}}。ト長調(ト音から始まるペンタコード{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=73}}){{Sfn|山崎|2010|p=169}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key g \major \time 1/1 \cadenzaOn g1 a b c d \bar "|" g \bar"|"}
}
</score>
*原曲:ヤン・カダヴィ『スロバキア歌集I』より{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=73}}。
*概要:踊り続ける少女に「靴底がすり減っても恋人の靴屋が修理してくれるぞ」と囃したてる陽気な冗談歌である{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=73}}。デュナーミクは '''''f''''' から '''''ff''''' の範囲にあり{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=28}}、最後は短い曲に似合わずアラルガンドで壮大に終わる{{Sfn|山崎|2010|p=169}}。速度の指定に「トランクィロ」(「静かに」)とあるのは曲想に合っておらず、音楽之友社版(2006)では「ペザンテ」(重々しく)の間違いではないかと推測している{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=82}}。なお、この曲は自筆譜が存在せず、バルトークの最初の妻マルタが写譜した楽譜から出版譜が作られた{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=82}}。
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c' { \clef bass \key g \major \time 3/4
r8 <d b g>4-- <d b g>4-- <d c fis,>8-. | r8 <d b g>4-- <d b g>4-- <d c fis,>8-. |
}
\new Staff = "LH" \relative c { \clef bass \key g \major \time 3/4
g8^\markup { \dynamic f \italic { molto pesante}}( a b a g8.^^ d16) |
g8( a b a g8.^^ d16) | }
>> }
</score>
====第2巻 第16番「嘆き」====
*速度:レント(♩=100)とピウ・レント(♩=84)が交替する{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=13}}。
*拍子:2分の3拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=13}}。初版は音価が半分で4分の3拍子{{Sfn|春秋社版|2008|p=85}}。
*時間:50秒{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=13}}。
*調号:#×1{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=13}}。ホ音を終止音とするエオリア旋法{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=73}}。山崎(2010)は「ホ短調」としている{{Sfn|山崎|2010|p=171}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key e \minor \time 1/1 \cadenzaOn e1 fis g a b c d \bar "|" e \bar"|"}
}
</score>
*原曲:バルトークが1908年10月にニトラ県の Tőkésújfalu(現:[[:sk:Klátova Nová Ves|Klátova Nová Ves]]) で採集した、少女による歌{{Sfn|Folk Music|loc=L 86}}。初版の楽譜では歌詞は掲載不適当として削除されている{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=73}}。
*概要:掲載されていない歌詞の内容は、思春期の娘の素行が改まらないことを母親が嘆くという内容である{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=73}}。持続する重音の伴奏にのって旋律が「エスプレッシーボ(感情を込めて)」で歌われ、編曲の傾向としては第11番と似ている{{Sfn|山崎|2010|p=171}}。アタッカで第17番につながる{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=13}}。
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c'' { \key e \minor \time 3/2 \numericTimeSignature
b8-\markup { \dynamic mf \italic { espr.}}--[ b-- b( a) ] b8 e2.. |
d8--[ e( d c) ] b8 g2.. | a8--[ a-- a( g) ] a8 b2.. | b8--[ a( b g) ] e8 d2.. | }
\new Staff = "LH" \relative c' { \key e \minor \time 3/2 \clef bass
r2 <g e>1_\sf~|<g e>1.~|<g e>2 <fis d>1~|<e c>2 <fis b,>1|}
>> }
</score>
====第2巻 第17番====
*速度:アンダンテ(付点四分音符=50){{Sfn|Henle版(II)|2017|p=13}}。
*拍子:8分の3拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=13}}。
*時間:45秒{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=13}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=13}}。ホ音を終止音とし、嬰ヘ音を含まない[[フリギア旋法]]{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=73}}。山崎(2020)は「ホ短調・フリギア旋法」としている{{Sfn|山崎|2010|p=173}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key a \minor \time 1/1 \cadenzaOn e1 g a b c d \bar "|" e \bar"|"}
}
</score>
*原曲:ヤン・カダヴィ『スロバキア歌集I』より{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=73}}。
*概要:アタッカで第16番からつながっている。神父の召使いとなっている孤児の少女が、12人の盗賊が閉じ込められている塔に忍び込み、1人の盗賊を除いて残り全員を殺した、という残虐な内容の歌詞である{{Sfn|山崎|2010|p=173}}{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=73}}。繰り返しでは[[短三度]]高く移調して変ロ音から旋律が始まるが{{Sfn|田代|2021|p=86}}、低音ではホ音がペダルで残っているため緊張感のある響きが作りだされる{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=73}}。
::<score>
\relative c'' { \new Staff { \key a \minor \time 3/8 \numericTimeSignature
g8-\p( g e | a8 g4 | e8 d4 | e4.) |
b'8\<( b a | c8 b4 | a8 a b | g\> g e | a8 g4 | e8 d e) |\!
}}
</score>
====第2巻 第18番「おはやし歌」====
[[File:A monkey in Pakistan trained to get tips.jpg|right|thumb|180px|スロバキアに野生の猿は生息していない{{Sfn|パップ|2015|p=125}}。]]
*速度:ソステヌート(♩=126) - アレグロ・ヴィヴァーチェ(♩=144){{Sfn|Henle版(II)|2017|p=14}}。『若いピアノ弾き』では冒頭のメトロノーム記号は♩=116{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=14}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=14}}。
*時間:36秒{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=14}}。
*調号:#×4{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=14}}。ホ長調{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=73}}。山崎(2010)は「ホ長調・多調」としている{{Sfn|山崎|2010|p=175}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key e \major \time 1/1 \cadenzaOn e1 fis gis a b cis dis \bar "|" e \bar"|"}
}
</score>
*原曲:カロル・ルッペルト他『スロバキア歌集II』より{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=73}}。
*概要:恋人に振られた男が悔し紛れに「お前なんかより、町にいる猿の方がよっぽどましだ」と強がる、滑稽な歌詞の冗談歌{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|pp=73-74}}。短い序奏の後アレグロ・ヴィヴァーチェとなり、軽快な2拍子のリズムに乗って旋律が歌われる{{Sfn|パップ|2015|p=125}}。旋律は間奏を挟まずに3回奏でられ、2回目は[[ロ長調]]、3回目は[[ト長調]]に[[転調]]しホ長調に戻る{{Sfn|パップ|2015|p=125}}。最後は一旦テンポが遅くなってから加速し{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=14}}、自暴自棄気味に '''''f''''' で終わる{{Sfn|パップ|2015|p=125}}。
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c' { \clef treble \key e \major \time 2/4 \tempo Sostenuto
e16\<( fis gis ais b4-\f^^~|b4\>) b4~|b4 b4~|b4 b4~|
\tempo "Allegro vivace"
b8\mf <b gis e>-.[ r <b gis e>-.] | r <b gis e>-.[ r <b gis e>-.] |
r <b a dis,>-.[ r <b a dis,>-.] | r <b gis e>-.[ r <b gis e>-.] |
r\< <b a dis,>-.[ r <b a dis,>-.] | r <b gis e>4--\! r8 | }
\new Staff = "LH" \relative c' { \key e \major \time 2/4 \clef bass
R2 | R2 | R2 | R2 |
b4-\mf-- b8-. cis-. | b8-. a-. gis4-- | a8-. gis-. fis4-- |
e8-. gis-. b4-- | a8-. gis-. fis4-- | e4.^^ r8 | }
>> }
</score>
====第2巻 第19番「ロマンス」====
*速度:アッサイ・レント(♪=ca.125){{Sfn|Henle版(II)|2017|p=15}}。
*拍子:8分の6拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=15}}。
*時間:1分25秒{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=15}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=15}}。イ音を終止音とし、ヘ音を含まないエオリア旋法で、ト音が嬰ト音に変位している{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=74}}。山崎(2010)は「イ短調・エオリア旋法」としている{{Sfn|山崎|2010|p=180}}。
::<score>
\relative c'' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key a \minor \time 1/1 \cadenzaOn a1 b c d e gis^\markup{※} \bar "|" a \bar"|"}
}
</score>
*原曲:ヤン・カダヴィ『スロバキア歌集I』より{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=74}}。
*概要:所在の分からなくなった恋人の姿を求めて少年は夜の町をさまよい、宿屋の女将に「僕の恋人がここに来なかったか」と尋ねる{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=74}}。恋人が他の男と一緒にいるのではないかという不安に襲われる少年の気持ちが '''''p''''' で繊細に奏でられる{{Sfn|パップ|2015|p=119}}。二重唱のような編曲になっており{{Sfn|山崎|2010|p=180}}少年と女将とのやりとりを表すかのようである{{Sfn|田代|2021|p=87}}。なお、右手の「センプリーチェ(純粋に)」の旋律が民謡である{{Sfn|Folk Music|loc=L 89}}。バルトークは第24番において、全く同じ歌詞で異なる旋律の民謡を編曲している{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=74}}。
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c'' { \clef treble \key a \minor \time 6/8
R2. R2. R2.
b8-\p^\markup { \italic {semplice}}-- b-- b-- gis(\< e4) | e'8-- e-- e-- d( e4) |
d8\>-- d-- c-- d( c4) | b8-- b-- a--\! gis( e4) |
\override BreathingSign.text =
\markup { \musicglyph "scripts.rvarcomma" }
<c' e,>4.-\pp-- \breathe <b e,>-- \breathe | <a c,>2. | }
\new Staff = "LH" \relative c { \clef bass \key a \minor \time 6/8
e8^\markup { \dynamic p \italic {, sonoro, espr.}}( fis e d8 e4 |
fis8 e d 8e b4 | dis2.->~ | dis4.) d4( c8 | b4 a8 b4 gis8) |
a4( e'8 g,!4 e'8 | f,!4 d'8) e,4( e'8) |
\override BreathingSign.text =
\markup { \musicglyph "scripts.rvarcomma" }
<g! c,>4. \breathe <g e>4. \breathe | <e a,>2. | }
>> }
</score>
====第2巻 第20番「鬼ごっこ」====
[[File:Jongensspelen 10.jpg|right|thumb|240px|鬼ごっこ]]
*速度:プレスト(♩=176) - アダージョ(♩=76) - テンポ・プリモ{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=16}}。冒頭のテンポについては初版ではプレスティッシモ{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=16}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=16}}。
*時間:25秒{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=16}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=16}}。ヘ音を終止音とするリディア旋法{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=74}}。山崎(2010)は「ヘ長調・リディア旋法」としている{{Sfn|山崎|2010|p=134}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key c \major \time 1/1 \cadenzaOn f1 g a b c d e \bar "|" f \bar"|"}
}
</score>
*原曲:ヤン・カダヴィ『スロバキア歌集I』より{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=74}}。
*概要:英語のタイトルは"Game of Tag"で、音楽之友社版では「追いかけっこ」と訳されている。子供の[[鬼ごっこ]]の歌で{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=74}}、逃げていく子に「イバラの茂みに行くとスカートが破れちゃうよ」と歌う{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=74}}。旋律はスロバキア民謡に特徴的なリディア旋法{{Sfn|バルトーク音楽論集|1988|p=163}}で、開始のヘ音と[[ロ (音名)|ロ音]]が三全音の関係になっている{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=66}}。活気とユーモアのある曲想で{{Sfn|田代|2021|p=87}}、伴奏が多彩に変化していく{{Sfn|山崎|2010|p=134}}。
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c' { \clef treble \key c \major \time 2/4
[ f8-\f\<( g a b ] | [ c d e d ] | c4^^\! d4 | c8 b8 a4-.) |
a4^^( g4 | a8 b8 c4-.) | c4^^( b4 | a8 g8 f4-.) | }
\new Staff = "LH" \relative c' { \key c \major \time 2/4 \clef bass
<c a>8[( f, <c' a> f,] | <b g>[ f <b g> f] | <c' a>[ f, <c' a> f,] | <c' a>[ f, <c' a> f,]) |
<d' b>[( f, <d' b> f,] | <c' a>[ f, <c' a> f,] | <b g>[ f <b g> f] | <c' a>[ e, <c' a> e,]) |}
>> }
</score>
====第2巻 第21番「冗談I」====
*速度:アレグロ・モデラート(♩=126)- ピウ・モッソ(♩=144)- テンポ・プリモ{{Sfn|Henle版(II)|2017|pp=16-17}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=16}}。
*時間:1分00秒{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=17}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=16}}。ハ長調(ハ音から始まり、ヘ音を含まないペンタコード{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=74}}){{Sfn|山崎|2010|p=185}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key c \major \time 1/1 \cadenzaOn c1 d e g \bar "|" c \bar"|"}
}
</score>
*原曲:バルトークが1907年11月にニトラ県の Lapáš で採集した、年配の女性による歌{{Sfn|Folk Music|loc=L 91}}。
*概要:腹を空かせた男が料理を次から次へと平らげ、最後にはビールをバケツごと飲んだらバケツが壊れてしまった、という他愛もない冗談歌{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=75}}。低音で提示される躍動感のある旋律{{Sfn|田代|2021|p=87}}が変奏されて様々に表情を変え、最後は豪快に終わる{{Sfn|パップ|2015|pp=126-127}}{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=75}}。なお、初版ではこの曲が「冗談」、第27番が「もう一つの冗談」であり、改訂時には第27番が「冗談II」に改められたが第21番は「冗談」のままであった{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=82}}。音楽之友社やヘンレ社の校訂版では「冗談I」に修正されている{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=82}}{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=16}}。
::<score>
\relative c { \new Staff { \key c \major \time 2/4 \numericTimeSignature \clef bass
[ e,8-\f( g-.) g-. g-. ] | e( g-.) c,4-- | d-- d-- | c8( e8-.) g4-- |
[ e8( g-.) g-. g-. ] | e( g-.) c,4-- | d-- g,-- | c8-. c-. c4-- | }}
</score>
====第2巻 第22番「ばかさわぎ」====
*速度:モルト・アレグロ(♩=152){{Sfn|Henle版(II)|2017|p=18}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=18}}。
*時間:50秒{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=19}}。バルトークの1910年の録音では34秒{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=50}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=18}}。イ音を終止音とし、ホ音およびヘ音を含まないエオリア旋法+派生音の嬰ト音{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=75}}。山崎(2010)は「イ短調・エオリア旋法」としている{{Sfn|山崎|2010|p=134}}。
::<score>
\relative c'' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key a \minor \time 1/1 \cadenzaOn a1 b c d g gis^\markup{※} \bar "|" a \bar"|"}
}
</score>
*原曲:ヤン・カダヴィ『スロバキア歌集I』より{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=75}}。
*概要:英語のタイトルは"Revelry"で、春秋社版では「浮かれて」と訳されている{{Sfn|山崎|2010|p=134}}。初版では第3巻を締めくくるフィナーレであり、五度の動きを組み合わせた前奏(譜例・上)に始まり、ハンガリーの「豚飼いの踊り」のリズムをもつ旋律(譜例・下){{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=75}}が転調しながら繰り返され、'''''ff''''' で終わる{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=37}}。山崎(2010)は『子供のために』の中で有数の難しい曲としている{{Sfn|山崎|2010|p=134}}。1910年8月にコダーイがシャーンドル・エンマと結婚する際{{Sfn|Vikárius|2018|p=210}}、バルトークはまだ出版されていないこの曲を蓄音機に吹き込んでプレゼントした{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=75}}。
::<score>
\relative c { \new Staff { \key c \major \time 2/4 \numericTimeSignature \clef bass
[ a8-\f( e'\> d\! g, ] | [ a8 e'\> d\! g, ] | [a e'\< d g ] | [e\> a, d g,) ] | \! }}
</score>
::<score>
\relative c'' { \new Staff { \key c \major \time 2/4 \numericTimeSignature
[ c8-\f-. c( d c ] | b8 a g4--) | [ g8\<( c b c) ] | d4--\! d-- |
[ c8-\>-. c( d c ] | b8 a g4--) | [ c8\<-. c( b gis) ] | a4--\! a-- | }}
</score>
====第2巻 第23番(初版:第24番)====
*速度:アンダンテ・トランクィロ(♩=72){{Sfn|Henle版(II)|2017|p=20}}。初版ではポコ・アンダンテ{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=50}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=20}}。
*時間:40秒{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=20}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=20}}。ニ音を終止音とするドリア旋法+派生音の変ロ音{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=75}}。山崎(2010)は「ニ短調・ドリア旋法」としている{{Sfn|山崎|2010|p=134}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key a \minor \time 1/1 \cadenzaOn d1 e f g a bes^\markup{※} b? c \bar "|" d \bar"|"}
}
</score>
*原曲:バルトークが1906年8月にゲメル県のゲルリツェで採集した、17歳の少女による歌{{Refnest|group="注"|Zuzana Drábová という名前が記録されている{{Sfn|Folk Music|loc=L 94}}。}}{{Sfn|Folk Music|loc=L 94}}。初版の楽譜には「ゲメル県のフィレールで採集した」とある{{Sfn|Folk Music|loc=L 94}}。
*概要:初版では第4巻の2曲目であり、1曲目(改訂で削除された初版第23番)から3曲目までがアタッカでつながっていた{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=39}}。針葉樹の森の奥深くの情景が{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|pp=75-76}}しっとりと歌われる{{Sfn|田代|2021|p=87}}。バルトークは採集したパルランド風の民謡のリズムを変えてハンガリー風の逆付点のリズムとしている{{Sfn|Folk Music|loc=L 94 - Comparison}}{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=76}}。アタッカで第24番につながる{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=20}}。
::<score>
\relative c' { \new Staff { \key a \minor \time 2/4 \numericTimeSignature
[ f16-\p( f8.\< e8 d ] | a'16 a8. d4) | [ c16\>( c8. b8 a ] | g16 g8. a4\!) | f8( d4.)| g8-.(\< a-. bes4-_ | a2\>) |\! }}
</score>
====第2巻 第24番(初版:第25番)====
*速度:アンダンテ(♩=80)- トランクィロ{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=20}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=20}}。
*時間:50秒{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=20}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=20}}。イ音を終止音とし、ロ音を含まないエオリア旋法{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=76}}。山崎(2010)は「ニ短調・イ短調・ドリア旋法」としている{{Sfn|山崎|2010|p=196}}。
::<score>
\relative c'' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key a \minor \time 1/1 \cadenzaOn a1 c d e f g \bar "|" d \bar"|"}
}
</score>
*原曲:第23番と同じく1906年8月にバルトークがゲメル県のゲルリツェで採集した、17歳の少女による歌{{Refnest|group="注"|Zuzana Drábová という名前が記録されている{{Sfn|Folk Music|loc=L 95}}。}}{{Sfn|Folk Music|loc=L 95}}。初版の楽譜には「ゲメル県のフィレールで採集した」と記載されている{{Sfn|Folk Music|loc=L 95}}。
*概要:アタッカで第23番からつながっている。旋律は異なるが、歌詞は第19番「ロマンス」と同じであり{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=76}}、少年の心細い気持ちが悲しげに表現されている{{Sfn|山崎|2010|p=196}}。伴奏は終始下降する動きで{{Sfn|山崎|2010|p=196}}、旋律と応答するように書かれている{{Sfn|田代|2021|p=87}}。
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c'' { \clef treble \key a \minor \time 2/4
[ d8-\p^\markup { \italic {dolce}}( d e d ] | a2) | [ a'8\( a( g--) g-- ] | a2\) |
[ g8( f e d ] | a2) | [ d8(\< d c d ] | e2)\! | }
\new Staff = "LH" \relative c' { \clef bass \key a \minor \time 2/4
R2 |
<<
{ \voiceOne |
f2~ | f2 | e~e | <fis~ d~>( | fis4 g) | }
\new Voice {
f8_([ e e d~] | d2) | e8_([ d d c~] |c2) | d8_([ c c bes~] | <d bes>2) |}
>>
gis8[( e b gis]) |
}
>> }
</score>
====第2巻 第25番「スケルツァンド」(初版:第26番)====
*速度:アレグレット(付点四分音符=58){{Sfn|Henle版(II)|2017|p=21}}。
*拍子:8分の3拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=21}}。
*時間:45秒{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=21}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=21}}。ト音を終止音とするミクソリディア旋法{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=76}} 山崎(2010)は「ハ長調・ミクソリディア旋法」としている{{Sfn|山崎|2010|p=199}}。
::<score>
\relative c'' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key c \major \time 1/1 \cadenzaOn g1 a b c d e f \bar "|" g \bar"|"}
}
</score>
*原曲:バルトークが1906年10月にゲメル県のゲルリツェで採集した歌{{Sfn|Folk Music|loc=L 96}}。初版の楽譜では歌詞は掲載不適当として削除されている{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=76}}。
*概要:英語のタイトルは"Scherzando"で、春秋社版では「たわむれて」と訳されている{{Sfn|山崎|2010|p=199}}。なお、バルトークがスロバキア編を全1巻25曲で構想していた段階では、この曲は無題であり、後付けされたタイトルである{{Sfn|Vikárius|2011|p=248}}。削除された歌詞は、独り身の男性が夜更けに自分の境遇を自嘲気味に歌う内容であった{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=76}}。意味ありげな冗談のように{{Sfn|田代|2021|p=88}}、終始 '''''p''''' の範囲内で演奏され、最後は '''''pp''''' で消え入るように終わる{{Sfn|山崎|2010|p=200}}。
::<score>
\relative c'' { \new Staff { \key a \minor \time 3/8 \numericTimeSignature
g'8-\markup { \dynamic p \italic {, non troppo leggiero.}} f e | d d e | c-> a4 | g4. |
g'8 f e | d d e | c-> a4 | g4. | }}
</score>
====第2巻 第26番「農夫の縦笛」(初版:第28番「縦笛の旋律」)====
[[File:Fujarista Folklórny festival Východná.JPG|right|thumb|160px|フヤラ]]
*速度:アンダンテ・モルト・ルバート(♩=ca.63){{Sfn|Henle版(II)|2017|p=22}}。
*拍子:4分の3拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=22}}。
*時間:1分00秒{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=22}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=22}}。ホ音を終止音とし、嬰ヘ音を含まないフリギア旋法で、ト音が嬰ト音に変位している{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=76}}。山崎(2010)は「ホ長調・フリギア旋法」としている{{Sfn|山崎|2010|p=202}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key c \major \time 1/1 \cadenzaOn e1 gis^\markup{※} a b c d \bar "|" e \bar"|"}
}
</score>
*原曲:バルトークが1906年10月にゲメル県の Ratkósebes で採集した、[[フヤラ]](スロバキアの笛)の音{{Sfn|Folk Music|loc=L 98}}。笛の旋律なので歌詞はない{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=76}}。
*概要:[[テンポ・ルバート|モルト・ルバート]]の指示があり、自由な息づかいによる羊飼い笛の旋律が即興的に演奏される{{Sfn|山崎|2010|p=202}}{{Sfn|田代|2021|p=88}}。
::<score>
\relative c'' { \new Staff { \key a \minor \time 3/4 \numericTimeSignature
e16-\f-- e-- gis-- e-- gis16-- e8.--~e4 |
d16-\mf( c b a) b16-- a8.~a4 |}}
</score>
====第2巻 第27番「冗談II」(初版:第29番「もう一つの冗談」)====
*速度:アレグロ(♩=132)- ウン・ポコ・ソステヌート - テンポ・プリモ{{Sfn|Henle版(II)|2017|pp=22-23}}。
*拍子:4分の4拍子、最後の2小節のみ2分の3拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|pp=22-23}}。
*時間:50秒{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=23}}。
*調号:#×3{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=22}}。イ長調{{Sfn|山崎|2010|p=205}}+派生音の嬰ニ音{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=76}}。
::<score>
\relative c'' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key a \major \time 1/1 \cadenzaOn a1 b cis d dis^\markup{※} e fis gis \bar "|" a \bar"|"}
}
</score>
*原曲:バルトークが1907年11月にニトラ県の Zobordarázs(現:スロバキアの [[:sk:Dražovce|Dražovce]]) で採集した、少女による歌{{Sfn|Folk Music|loc=L 99}}。初版の楽譜では歌詞は掲載不適当として割愛されている{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=76}}。
*概要:趣向がこらされた編曲となっている{{Sfn|山崎|2010|p=205}}。左手の伴奏に含まれる4分音符の動きは「ニ - 嬰ハ - ロ - イ」と、3小節目の旋律と同じ音であり、疑似的なカノンとなっている{{Sfn|山崎|2010|p=205}}(譜例・上)。後半ではテンポを落として '''''ff''''' の和音で盛り上がる(譜例・下){{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=76}}。なお、冒頭の8分音符は前奏ではなく歌詞がついている{{Sfn|Folk Music|loc=L 99 - Comparison}}。
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c''
{ \clef treble \key a \major \time 4/4 \numericTimeSignature
e8[-\f\<-. e( fis e) ] dis([ e fis e) ] |
dis^\markup { \italic {poco rit.}}([ e fis e) ] dis([ e fis e) ] |
d!4-\markup { \italic {più} \dynamic f }^\markup { \italic {a tempo}}^^(\! cis b a) |
b2-- b2-- | }
\new Staff = "LH" \relative c'
{ \clef bass \key a \major \time 4/4 \numericTimeSignature
R2 r8 <<
{ \voiceOne \hideNotes r8 \unHideNotes d!4 |
\hideNotes r4 \unHideNotes cis \hideNotes r \unHideNotes b |
a' \hideNotes r \unHideNotes gis \hideNotes r |
\unHideNotes fis \hideNotes r \unHideNotes fis \hideNotes r |}
\new Voice {
\voiceTwo e8_\markup { \italic {legato} } d8 e |
fis d cis d gis d b d | a' e a, e' g e a, e' |
fis dis a dis fis dis a dis |}
>> }
>> }
</score>
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c'' { \clef treble\key a \major
\time 4/4 \numericTimeSignature \tempo "un poco sostenuto"
<d! g, e>4^^-\ff <cis g e>^^ <b e, cis>^^ <a e cis>^^ | <b a dis,>1^^ | <b a dis,>1^^ | }
\new Staff = "LH" \relative c' { \clef bass \key a \major
\time 4/4 \numericTimeSignature
<g e b>4^^ <g e b>^^ <e cis g>^^ <e cis g>^^ |
r2 eis,8( fis gis! fis) | eis'^^( fis gis b gis fis dis b) | }
>> }
</score>
====第2巻 第28番(初版:第30番)====
*速度:アンダンテ、モルト・ルバート(♩=ca.70){{Sfn|Henle版(II)|2017|p=23}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=23}}。
*時間:55秒{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=23}}。
*調号:♭×1{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=23}}。ト音を終止音とするドリア旋法で、ハ音が嬰ハ音に変位している{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=76}}。山崎(2010)は「ト短調・ドリア旋法」としている{{Sfn|山崎|2010|p=208}}。
::<score>
\relative c'' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key d \minor \time 1/1 \cadenzaOn g1 a bes cis^\markup{※} d e f \bar "|" g \bar"|"}
}
</score>
*原曲:ヤン・カダヴィ『スロバキア歌集I』より{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=76}}。
*概要:「寒い夜、ぬかるんだ道を何度も通ったが一度も嫌だと思わなかった」といった内容の歌詞{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=76}}。「モルト・ルバート」、「モルト・エスプレッシーヴォ」の指示があり、デュナーミクも '''''pp''''' から '''''f''''' まで幅広く{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=76}}、陰影が豊かである{{Sfn|田代|2021|p=88}}。伴奏には終始、[[七の和音]]とその転回形が使われている{{Sfn|山崎|2010|p=134}}。
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c'' { \clef treble \key d \minor \time 2/4
R2 | d8-\markup { \dynamic p \italic { , molto espr.}}--[ f( e d) ]
f4\>( e8 d8)\! |
d8--[ e( d cis) ] | bes4\>( a | g) r\! | }
\new Staff = "LH" \relative c' { \clef bass \key d \minor \time 2/4
<d~ bes~ g~ e~>2^^ | <d~ bes~ g~ e~>2 | <d~ bes~ g~ e~>2 | <d bes g e>2 |
<<
{ \voiceOne |
d2->( | d4 c4) |}
\new Voice {
<g ees>2~ | <g ees> |}
>>
}
>> }
</score>
====第2巻 第29番「カノン」(初版:第31番)====
*速度:アレグロ・ノン・トロッポ(♩=120)- ソステヌート(♩=100)- テンポ・プリモ{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=24}}。冒頭のテンポについては初版ではポコ・ヴィヴァーチェ{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=50}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=24}}。
*時間:52秒{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=24}}。
*調号:#×1{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=24}}。ホ音を終止音とするエオリア旋法{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=77}}。山崎(2010)は「ホ短調・エオリア旋法・フリギア旋法」としている{{Sfn|山崎|2010|p=212}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key e \minor \time 1/1 \cadenzaOn e1 fis g a b c d \bar "|" e \bar"|"}
}
</score>
*原曲:1906年10月にバルトークがゲメル県のゲルリツェで採集した、女性による歌{{Sfn|Folk Music|loc=L 101}}。初版の楽譜では歌詞は掲載不適当として割愛されている{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=77}}。
*概要:右手が先行する[[カノン (音楽)|カノン]]。和音や重音によって豪快な響きになっておりカノンに聴こえにくい{{Sfn|山崎|2010|p=212}}。曲想はハンガリー風で激しい{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=77}}。
:(第5小節~)
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c'' { \clef treble \key e \minor \time 2/4
e4-\markup { \italic {sempre} \dynamic f }-- e-- | <d g,>8-. c8-. <b g>4-- |
<b g>8-.[ c-. <d b g>->( e) ] | <d g,>8-. c8-. <b g>4-- |
<b g>8( a) <g d>( fis) | <e c>4-- <e c>-- | [<a e c>8-. <a e c>8-. <a e c>8^^( g) ] | }
\new Staff = "LH" \relative c' { \clef bass \key a \minor \time 2/4
<b,a e>8^^( g) r4 | e''4-- e-- | d8-. c8-. b4-- | [ b8-. c-. d->( e) ] | d8-. c8-. b4-- |
[ b8( a) g( fis) ] | e4-- e-- | }
>> }
</score>
====第2巻 第30番「バグパイプII」(初版:第32番「バグパイプは歌う」)====
*速度:ヴィヴァーチェ(♩=138){{Sfn|Henle版(II)|2017|p=25}}。『若いピアノ弾き』では♩=160{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=25}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=25}}。
*時間:57秒{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=26}}。
*調号:#×1{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=25}}。ト長調{{Sfn|山崎|2010|p=215}}。
::<score>
\relative c'' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key g \major \time 1/1 \cadenzaOn g1 a b c d e fis \bar "|" g \bar"|"}
}
</score>
*原曲:カロル・ルッペルト他『スロバキア歌集II』より{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=77}}。
*概要:少女が恋人に向けて歌う恋の歌{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=77}}。旋律はコロメイカのリズム(ハンガリー編の第10番「子供の踊り」参照)による。陽気な踊りの曲{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=77}}。バグパイプ風の保続音は旋律の1回目はト音、2回目はニ音である{{Sfn|田代|2021|p=89}}。
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c'' { \clef treble \key g \major \time 2/4
R2 R2 R2 R2
g'8-\mp( b8) g4-- | g8( b8) g4-- | [ e8-. e( fis-.) fis-.] | g4-- g-- | }
\new Staff = "LH" \relative c' { \clef bass \key g \major \time 2/4
<b g>8^\p->( d) r4 | <b g>8( d) r4 | [ <c g>8^^( d <b g> d ] | [ <b g> d <b g> d ] |
[ <b g> d <b g> d ] | [ <b g> d <b g> d) ] | [ <c g>8( d <a g> d ] | [ <c g>8 d <b g> d) ] | }
>> }
</score>
====第2巻 第31番「義賊の歌」(初版:第35番「もう一人の義賊の歌」)====
[[ファイル:Juraj-Jánošík-Smetanovy-sady-Hořice2011c.jpg|right|thumb|160px|[[ユライ・ヤーノシーク]]の像]]
*速度:アレグロ(♩=126)- トランクィロ{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=27}}。
*拍子:4分の4拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=27}}。
*時間:42秒{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=27}}。
*調号:♭×1{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=27}}。ヘ長調(ヘ音から始まるペンタコード{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=77}}){{Sfn|山崎|2010|p=218}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key f \major \time 1/1 \cadenzaOn f1 g a bes c e \bar "|" f \bar"|"}
}
</score>
*原曲:カロル・アントン・メドヴェツキー『ジェトヴァ論集』より{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=77}}。
*概要:初版でのタイトルは「もう一人の義賊の歌」であったが{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=82}}、第7番「義賊の歌」のタイトルが改訂版で「悲しみ」に変更されたことに伴い、この曲のタイトルが「義賊の歌」となった{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=82}}。スロバキアで[[義賊]]として英雄視されている[[ユライ・ヤーノシーク]]のことが歌われる{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=77}}。旋律と同じリズムによる[[空虚五度]]の響きをもった前奏(譜例・上)で勇ましく始まるが{{Sfn|パップ|2015|p=138}}、最後は25歳で処刑されたヤーノシークを追悼するかのように「トランクィロ(静かに)」で終わる{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=77}}。
::<score>
\relative c { \new Staff { \key f \major \time 4/4 \numericTimeSignature \clef bass
<f, c'>4-\f---> <f c'>8 <f c'>8 <f c'>8 <f c'>8 <f c'>4---> |
<f c'>4---> <f c'>8 <f c'>8 <f c'>8 <f c'>8 <f c'>4---> | }}
</score>
::<score>
\relative c'' { \new Staff { \key f \major \time 4/4 \numericTimeSignature
c4^^-\f c8^\markup { \italic {non legato}} bes a bes c4-- | a4^^-- a8 bes a g f4-- |
[ f8->\< c f g ] [ a g a c] | a4^^--\! a8 bes a g f4-- | }}
</score>
====第2巻 第32番(初版:第36番)====
*速度:ペザンテ(♩=84){{Sfn|Henle版(II)|2017|p=27}}。初版ではラルゴ{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=50}}。
*拍子:4分の4拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=27}}。初版は音価が半分で4分の2拍子{{Sfn|春秋社版|2008|p=103}})
*時間:55秒{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=28}}。
*調号:♭×1、ただし♭は第3線(ロ音)ではなく第2間(イ音)につく特殊な調号である{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=27}}。ハ音を終止音とし、変ホ音を含まないエオリア旋法{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=77}}。山崎(2010)は「ハ長調・イオニア旋法・エオリア旋法・ドリア旋法」としている{{Sfn|山崎|2010|p=220}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key a \minor \time 1/1 \cadenzaOn c1 d f g aes bes b^\markup{※} \bar "|" c \bar"|"}
}
</score>
*原曲:カロル・ルッペルト他『スロバキア歌集II』より{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=77}}。
*概要:特殊な調号が用いられており、ジプシー音階風である{{Sfn|田代|2021|p=89}}。女性による「好きなあの人が今どこで何をしているか分かればエプロンいっぱいの花を持って行くのに」という愛の歌が力強く歌われる{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|pp=77-78}}。ハンガリー民謡風の逆付点のリズムが使われている{{Sfn|田代|2021|p=89}}。左手の伴奏はこの曲集では珍しく終始同じ音形が繰り返される{{Sfn|山崎|2010|p=220}}。
:(特殊な調号のため、臨時記号で譜例を記載している。)
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c'' { \clef treble \key c \major \time 4/4 \numericTimeSignature
c8-\markup { \dynamic f \italic { , sonoro}}-- c4. b8-- c4. | b8->( f4.) g2 | }
\new Staff = "LH" \relative c { \clef bass \key c \major \time 4/4 \numericTimeSignature
r2 f,8->( c'4 aes'8) | r2 d,,8( b'4 f'8) | }
>> }
</score>
====第2巻 第33番(初版:第37番「兵士の歌」)====
*速度:アンダンテ・トランクィロ(♩=120){{Sfn|Henle版(II)|2017|p=28}}。
*拍子:4分の4拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=28}}。初版は音価が半分で4分の2拍子{{Sfn|春秋社版|2008|p=105}}。
*時間:45秒{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=28}}。
*調号:♭×3{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=28}}。ハ音を終止音とし、変イ音を含まないエオリア旋法{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=78}}。山崎(2010)は「ハ短調・エオリア旋法」としている{{Sfn|山崎|2010|p=223}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key c \minor \time 1/1 \cadenzaOn c1 d ees f g bes \bar "|" c \bar"|"}
}
</score>
*原曲:バルトークが1906年9月にゲメル県のフィレール(現:スロバキアの [[:hu:Ratkósebes|Ratkovské Bystré]])で採集した、16歳前後の女性による歌{{Sfn|Folk Music|loc=L 107}}。
*概要:初版のタイトルが改訂版では削除された{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=45}}{{Sfn|Farkas|2017|p=6}}。バルトークが採集した民謡は、1904年にバルトークが民謡の価値に気づくきっかけとなった、ドーサ・リディが歌っていたハンガリー民謡 "Piros alma"(「赤いリンゴ」)のさらに長いバージョンであり{{Sfn|Farkas|2017|p=6}}{{Sfn|Vikárius|2011|p=235}}{{Sfn|Lampert|2018|p=195}}、旋律にはハンガリー風の逆付点のリズムが含まれている{{Sfn|田代|2021|p=89}}。民謡の歌詞は、自分に尊大な態度をとる若い兵士と3年間交際した女性が、鞍つきの馬をプレゼントしてくれた優しい大尉に乗り換えるという内容である{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=78}}{{Sfn|パップ|2015|p=121}}。伴奏の和声づけは次の第34番「お別れ」とは対照的に機能和声的であり{{Sfn|山崎|2010|p=223}}、最後は[[ピカルディ終止]]で静かに曲を終える{{Sfn|山崎|2010|p=223}}。
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c' { \clef treble \key c \minor \time 4/4 \numericTimeSignature
ees8-\p ees4. d8 c4. | c'8 c4. g8 f4. | c2-- c2-- |
<c' aes>4--\cresc <c aes>4-- <c aes>4-- <bes g>4-- | ees8(->\mf d c d c bes4.) |
g8\dim g4. g8 f4. |\! }
\new Staff = "LH" \relative c { \clef bass \key c \minor \time 4/4 \numericTimeSignature
r2 <es g, c,>4\arpeggio r | r2 <es a,! c,>4\arpeggio r | r2 <es g, c,>4\arpeggio r |
<c aes>4-- <c aes>-- <c aes>-- <bes ees> |
<<
{ \voiceOne |
ees'1 | }
\new Voice {
c8_>_( bes aes bes aes g4.) |}
>> \oneVoice
r4 <ees' a, f>2( <d bes aes>4) |
}
>> }
</score>
{{External media
| width = 260px
| video1 = [https://www.youtube.com/watch?v=N7-NrXCmJpQ ハンガリー民謡 "Piros alma"(「赤いリンゴ」)] - [[リスト・ハンガリー文化センター東京]]公式YouTube。}}
:("Piros alma"(「赤いリンゴ」){{Sfn|グリフィス|1986|p=34}})
::上の譜例の第3-5小節と対応している{{Sfn|Vikárius|2011|p=236}}。)
::<score>
\relative c''' { \new Staff { \key f \major \time 4/4 \numericTimeSignature
g4 g g g | a8 g f e f4 g4 |d8 d4. d8 c4.|}}
</score>
====第2巻 第34番「お別れ」(初版:第38番)====
*速度:アダージォ(♩=46)- トランクィロ - ピウ・トランクィロ{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=29}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=29}}。
*時間:1分35秒{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=29}}。
*調号:♭×1{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=29}}。ニ音を終止音とするフリギア旋法{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=78}}。山崎(2010)は「イ短調・ドリア旋法・フリギア旋法」としている{{Sfn|山崎|2010|p=228}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key a \minor \time 1/1 \cadenzaOn d1 e f g a bes c \bar "|" a \bar"|"}
}
</score>
*原曲:ミクラーシュ・シュナイダー=トラナヴィスキーが採譜したコレクションより{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=78}}。
*概要:英語のタイトルは ”Farewel” で、春秋社版や伊東(2012a)では「葬送」と訳されている{{Sfn|山崎|2010|p=228}}{{Sfn|伊東|2012a|p=327}}。元の民謡は、これから兵役で任地に赴く若者が、故郷[[ズヴォレン]]の山々と恋人に思いをはせるという内容の歌詞である{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=78}}。曲は譜例のように、左手で奏でられる旋律に右手が和音を添えるが、古典的な和声進行によらず{{Sfn|Parakilas|1995|P=491}}、元の旋律とほとんど無関係な音響を作り出している{{Sfn|伊東|2012a|p=330}}。伊東(2012a)は、この曲における編曲を非常に高度なものと位置づけ、「曲集中の白眉」と高く評している{{Sfn|伊東|2012a|p=327}}。
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c'' { \clef treble \key f \major \time 2/4
\partial4 <c f,_~ d~>4-\markup { \dynamic p \italic {, dolce}}^\>^( | <g f d>4 <a~ f^~ d_~ c~>|<a f d c>)\! <c f,_~ d~>^\>^( |
<g f d>4 <a~ f^~ d_~ c~>|<a f d c>)\! <d f,~>^\>^( | <g, f d>4 <a~ f^~ d_~ c~>|<a f d c>)\! <d g, e> | }
\new Staff = "LH" \relative c { \clef bass \key f \major \time 2/4
r4 | R2 | R2 |
f8.-\mp-\markup {\italic {espr.}}\>[(
\set stemLeftBeamCount = #2 \set stemRightBeamCount = #1
g16 \set stemLeftBeamCount = #1 \set stemRightBeamCount = #2
f16 e8.] | d16 a8. a4\!--) |
f'8.[\>( \set stemLeftBeamCount = #2 \set stemRightBeamCount = #1
g16 \set stemLeftBeamCount = #1 \set stemRightBeamCount = #2
f16 e8.] | d16 a8. a4\!--) | }
>> }
</score>
====第2巻 第35番「バラード」(初版:第39番)====
*速度:モデラート(♩=100)- ウン・ポコ・ピウ・モッソ(♩=112)- アレグロ(♩=132)- トランクィロ - センプレ・ピウ・トランクィロ - ソステヌート(♩=84){{Sfn|Henle版(II)|2017|pp=30-31}}。冒頭のテンポについては初版ではポコ・ラルゴ{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=50}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=30}}。
*時間:1分30秒{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=31}}。
*調号:♭×1{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=30}}。ニ音を終止音とするエオリア旋法{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=78}}。山崎(2010)は「ニ短調・ドリア旋法・イオニア旋法」としている{{Sfn|山崎|2010|p=231}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key d \minor \time 1/1 \cadenzaOn d1 e f g a bes c \bar "|" d \bar"|"}
}
</score>
*原曲:第23番・第24番と同じく、バルトークが1906年8月にゲメル県のゲルリツェで採集した、17歳の少女による歌{{Refnest|group="注"|Zuzana Drábová という名前が記録されている{{Sfn|Folk Music|loc=L 95}}。}}{{Sfn|Folk Music|loc=L 95}}。初版の楽譜には「ゲメル県のフィレールで採集した」と記載されている{{Sfn|Folk Music|loc=L 95}}。
*概要:大金持ちが遭遇した盗賊団と押し問答の末に殴り殺されるという歌詞であるが{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=78}}、農民の視点は金持ちを殺す盗賊の側にあり、豊かな者に対する貧しい農民の恨みが表現されている{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=78}}。旋律(譜例)が歌詞の筋書に合わせてテンポや曲想を変えながら5回奏でられる{{Sfn|パップ|2015|p=141}}。冒頭部分では両手のオクターブユニゾンで旋律を弾くが、両手とも、1つの鍵盤を親指と人差し指の2本で同時に押さえる特殊な運指が指定されており{{Sfn|パップ|2015|p=141}}、子供であっても「ペザンテ」(重々しく)の効果を出しやすくしている{{Sfn|Ludmany|2019|pp=45-46}}。
::<score>
\relative c' { \new Staff { \key d \minor \time 2/4 \numericTimeSignature \clef bass
d,8-\markup { \dynamic f \italic {, pesante}}--[ d-- d-- d-- ] | d8-- e-- c4-- |
c'4--^^ bes8-- a-- | g4-- c-- | bes8---> a-- g4-- |
d8-- [ d-- d-- d-- ] | d-- e-- c4-- | f8\<-- [ g-- a-- bes-- ] |
a4-- g4-- | d2_\markup { \dynamic sff} \fermata\! | }}
</score>
====第2巻 第36-37番「ラプソディ」(初版:第40番-第41番)====
[[File:Centro de distrikto Detva.JPG|right|thumb|260px|ジェトヴァ村は山々に囲まれた谷間にある{{Sfn|パップ|2015|p=146}}。]]
*速度:パルランド、モルト・ルバート(付点四分音符=ca.69-58)とアレグロ・モデラート(♩=116)が交替する{{Sfn|Henle版(II)|2017|pp=32-34}}。
*拍子:8分の6拍子と4分の2拍子が交替する{{Sfn|Henle版(II)|2017|pp=32-34}}。
*時間:2分05秒{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=34}}。
*調号:#×1{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=32}}。ニ音を終止音とするミクソリディア旋法で、第37番では派生音の嬰ハ音が加わる{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|pp=79}}。山崎(2010)は「ト長調・ミクソリディア旋法・ニ短調・リディア旋法」としている{{Sfn|山崎|2010|p=234}}。なお、調号は 「#×1 → #×5 → #×2 → ♭×1 → #×1」と変化する{{Sfn|Henle版(II)|2017|pp=32-34}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key g \major \time 1/1 \cadenzaOn d1 e fis g a b c cis^\markup{※} \bar "|" d \bar"|"}
}
</score>
*原曲:カロル・アントン・メドヴェツキー『ジェトヴァ論集』より{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|pp=79-80}}。
*概要:『子供のために』で唯一、2つの民謡が組み合わされている{{Sfn|田代|2021|p=90}}。遅いテンポの「ラッサン」(第36番)と、速いテンポの「フリシュカ」(第37番)が交替する{{Sfn|山崎|2010|p=234}}ハンガリーのラプソディ([[狂詩曲]])の様式で書かれており、全体の構成は「緩 - 急 - 緩 - 急 - 緩 - 急 - コーダ」となっている{{Sfn|パップ|2015|p=145}}。ジプシー音楽に見られるような過度な感情移入や超絶技巧を避けた、民謡に基づいたバルトーク独自のラプソディとなっている{{Sfn|パップ|2015|p=147}}。パルランド・ルバート様式の第36番(譜例・上)はジェトヴァ村の夏の風景が描かれる愛の歌、テンポ・ジュストの第37番(譜例・下)は「悪党は牢屋行き」とはやし立てる冗談歌である{{Sfn|パップ|2015|p=146}}。冒頭のフェルマータのついた音符は、"Hej !"(ヘイ !)という引き延ばされた掛け声であり{{Sfn|山崎|2010|p=237}}、こうした歌い出しはジェトヴァ地方の民謡に特有のものである{{Sfn|バルトーク音楽論集|1988|p=161}}。曲の終結部分では[[ジャズ]]風の和音が使われている{{Sfn|田代|2021|p=90}}。
::<score>
\relative c'' { \new Staff { \key g \major \time 6/8 \numericTimeSignature
\tempo "Parlando, molto rubato"
d2.-\sf\fermata | b8-\markup { \italic {sempre} \dynamic f }-- g-- g-- g-- b---> a-- |
g-- b---> a-- g-- b---> a-- | g-.-\dim( fis-. e-. d-. c4-- | d4.-\p~ d4) r8 | }}
</score>
::<score>
\relative c' { \new Staff { \key g \major \time 2/4 \numericTimeSignature
\tempo "Allegro moderato"
d8-\markup { \dynamic f \italic {, pesante}}[( e) fis d ] | g4^^( b8) g | b8[ cis d b ] | d4^^( a-.) | }}
</score>
====第2巻 第38番「悲歌」(初版:第42番)====
*速度:レント(♩=ca.60-66){{Sfn|Henle版(II)|2017|p=35}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=35}}。
*時間:1分30秒{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=35}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=35}}。ト音を終止音とし、変ロ音がロ音に変位したフリギア旋法+派生音のホ音{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=80}}。山崎(2010)は「フリギア旋法・複調」としている{{Sfn|山崎|2010|p=240}}。
::<score>
\relative c'' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key a \minor \time 1/1 \cadenzaOn g1 aes b!^\markup{※} c d ees e!^\markup{※} f \bar "|" g \bar"|"}
}
</score>
*原曲:1880年に{{仮リンク|リプトー県|hu|Liptó vármegye}}の[[:hu:Lucsivna|Lucsivna]]で採集された歌{{Sfn|Folk Music|loc=L 112}}。初版の楽譜では「歌詞は旋律の性質と一致しない」として掲載されていない{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=80}}。
*概要:英語のタイトルは"Dirge"で、音楽之友社版では「泣き歌」と訳されている{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=58}}。右手による鐘の音を模した伴奏を背景に{{Sfn|Vikárius|2011|p=251}}、半音階的な旋律が即興風に歌われる{{Sfn|パップ|2015|p=137}}。バルトークがスロバキア編を25曲で構成していた段階では、次の第39番と曲順が反対になっており、この曲が曲集の最後に置かれていた{{Sfn|Vikárius|2011|p=246}}。原曲は愛の歌であったものを、バルトークは全く性質の異なる音楽に編曲している{{Sfn|Vikárius|2011|p=246}}。
::<score>
{ \new PianoStaff <<
\new Staff = "RH" \relative c'' { \clef treble \key a \minor \time 2/4
<c aes>4-\markup { \dynamic mp \italic {, dolce}}( <ees bes> | <c aes> <bes f>) |
<c aes>4( <ees bes> | <c aes> <bes f>) |
<c aes>4^\markup { ( \italic {sempre} \dynamic mp \italic {ed egualmente} ) }( <ees bes> | <c aes> <bes f>) |
<c aes>4( <ees f,> | <c aes> <bes f>) |
<c aes>4( <ees f,> | <c aes> <d f,> |
<c aes>4 <ees f,> | <c aes> <bes f'>) | }
\new Staff = "LH" \relative c { \clef bass \key a \minor \time 2/4
R2 | R2 | R2 | R2 |
ees8-\markup { \dynamic f \italic {, molto espr. , sonoro, poco rubato}}--[ ees-- d-- c--] |
d8-- c4. | d8--[ c-- b!-- aes16( g)] | f8-- e-- f4-- |
f8--[ g-- a-- b--] | d8-- ees4. | d2~| d4 r | }
>> }
</score>
====第2巻 第39番「哀悼歌」(初版:第43番)====
[[File:Köztemető, szerb sír †1917, 2020 Százhalombatta.jpg|right|thumb|160px|ハンガリーの墓石(バルトークとは無関係)]]
*速度:レント(♩=54)- ♩=66 - ♩=54 - ポコ・アジタート(♩=76) - ♩=66 - ピウ・トランクィロ(♩=60)- モルト・トランクィロ(♩=54){{Sfn|Henle版(II)|2017|p=36}}。
*拍子:4分の2拍子、部分的に4分の4拍子、4分の3拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=36}}。
*時間:2分05秒{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=36}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=36}}。ホ音を終止音とするドリア旋法{{Sfn|山崎|2010|p=231}}{{Sfn|音楽之友社版(2)|2006|p=80}}。
::<score>
\relative c' {
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" }
{ \key a \minor \time 1/1 \cadenzaOn e1 fis g a b cis d \bar "|" e \bar"|"}
}
</score>
*原曲:バルトークが1906年10月にゲメル県のフィレールで採集した、少女による歌{{Sfn|Folk Music|loc=L 113}}。初版の楽譜には「ゲメル県のゲルリツェで採集した」と記載されている{{Sfn|Folk Music|loc=L 113}}。
*概要:スロバキア編は、息子が父親の墓前で在りし日を偲ぶ悲痛な歌で締めくくられる{{Sfn|パップ|2015|p=133}}{{Sfn|山崎|2010|p=231}}。短い序奏の後、「クワジ・レチタンド(朗読するように)」と指示された旋律が奏でられ、テンポや曲想、拍子が次々と変化しながら進行する。'''''f''''' でクライマックスを築いた後、音楽は静まり、'''''ppp''''' で消え入るように終わる{{Sfn|パップ|2015|pp=133-134}}。このようなフィナーレはシューマンの『[[子供の情景]]』の構成を意識した可能性や{{Sfn|Vikárius|2011|p=252}}、7歳のときに父親を亡くしたバルトーク{{Sfn|グリフィス|1986|pp=12-13}}の個人的な体験が影響している可能性が指摘されている{{Sfn|Vikárius|2011|p=262}}{{Refnest|group="注"|バルトークの父親は33歳で他界した{{Sfn|Vikárius|2011|p=262}}。}}。
::<score>
\relative c' { \new Staff { \key a \minor \time 2/4 \numericTimeSignature
e8-\mp^\markup { \italic {quasi recitando}}--[\< fis-- g-- a--] |
\time 4/4 b4--\! e,2.-- | \time 2/4 e'8-- d-- e4-- | d8-- b-- a4-- | b2-\fermata
d8--[ d-- cis-- e--] | \time 3/4 a,4-- e2-- | \time 2/4 a8-- a-- b4-- | g8-- e-- d4--\< | e2-\mf -\fermata | }}
</score>
=== 改訂版で削除された曲 ===
====初版第2巻 第25番====
*速度:アレグロ - ピウ・レント - テンポ・プリモ{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=40}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=40}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=40}}。
*原曲:初版の楽譜には「広く知られている」と記載されている{{Sfn|Folk Music|loc=L 53}}。
::<score>
\relative c' { \new Staff { \key c \major \time 2/4 \numericTimeSignature
fis8\p[\< fis( g) g]( | a\mf\>[) a a] r\! | fis8\p[\< fis( g) g]( | a\>[) a a] r\! |
fis8[\< fis( a g] | e[)\> e( d)] r\! | a'[(\< g e fis)] | d[\> d d] r\! | }}
</score>
====初版第2巻 第29番====
*速度:アレグロ - レント - ヴィヴァーチェ{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=41}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=41}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(I)|2017|p=41}}。
*原曲:{{仮リンク|パローチ・ホルヴァート・アダム|hu|Pálóczi Horváth Ádám}}が18世紀に収集したコレクションより{{Sfn|Folk Music|loc=L 57}}。
::<score>
\relative c' { \new Staff { \key c \major \time 2/4 \numericTimeSignature
fis4\f-- fis-- | e8-. fis-. g4-- | g8([ e)-. e-. e-.] |
d8-. e-. fis4-- | d8([ b)-. cis cis] | b4-- b4\fermata^\markup { \italic "(lunga)" } | }}
</score>
====初版第4巻 第23番====
*速度:モルト・ルバート、ノン・トロッポ・レント{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=38}}。
*拍子:4分の2拍子。4分の3拍子や8分の拍子が挿入される{{Sfn|Henle版(II)|2017|pp=38-39}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=38}}。
*原曲:バルトークが1906年10月にゲメル県のゲルリツェで採集した歌{{Sfn|Folk Music|loc=L 93}}。
*概要:初版第4巻の第1曲であり、アタッカで次の曲(改訂版第23番)につながっていた{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=39}}。
::<score>
\relative c' { \new Staff { \key c \major \time 2/4 \numericTimeSignature
d2~\mf^\markup { \italic "parlando" } | d~ | d~ | d8[ e-_ f-_ g-_] | a-_[ a-_ f-_ d~-^] | d2~ | d2 | }}
</score>
====初版第3巻 第27番「ひやかし歌」====
*速度:アレグロ{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=40}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=40}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=40}}。
*原曲:バルトークが1906年10月にゲメル県のゲルリツェで採集した、若い男性による歌{{Sfn|Folk Music|loc=L 97}}。初版の楽譜では歌詞は不適切として削除された{{Sfn|Folk Music|loc=L 97}}。
*概要:タイトルはスロバキア編第18番と同一である{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=14}}{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=40}}。
::<score>
\relative c'' { \new Staff { \key c \major \time 2/4 \numericTimeSignature
c4\f^\markup { \italic "non legato" }-- c8 c | b[\< c d c] | bes[ aes g f] | <c' e,>4^^^-\! <f, c>4-. | }}
</score>
====初版第3巻 第33番 "D'orphelin"====
[[File:Schlesinger, Emma.jpg|right|thumb|110px|コダーイ・エンマ(1920年代)]]
*速度:ポコ・アンダンテ{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=41}}。
*拍子:4分の2拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=41}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=41}}。
*原曲:カロル・ルッペルト他『スロバキア歌集II』より{{Sfn|Folk Music|loc=L 103}}。
*概要:タイトルは直訳すれば「孤児」。コダーイ・エンマ(グリューバー・エンマ)の編曲であった。
::<score>
\relative c' { \new Staff { \key c \major \time 2/4 \numericTimeSignature
f8^\markup { \dynamic {p} \italic ", expressivo" }([ g16 f e8 d ] |
a'8( bes16\< a g fis g8 | a8[\! g16 f e8 d8] | a'8[ g16 f e8 d]) | }}
</score>
====初版第4巻 第34番「ロマンス」====
*速度:ポコ・アレグレット{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=42}}。
*拍子:4分の4拍子{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=42}}。
*調号:#♭なし{{Sfn|Henle版(II)|2017|p=42}}。
*原曲:バルトークが1907年11月にニトラ県の Zobordarázs(現:スロバキアの Dražovce)で採集した、少女による歌{{Refnest|group="注"|Matilda Kolárová という名前が記録されている{{Sfn|Folk Music|loc=L 104}}。}}{{Sfn|Folk Music|loc=L 104}}。
*概要:コダーイ・エンマ(グリューバー・エンマ)の編曲作品であった。
::<score>
\relative c'' { \new Staff { \key c \major \time 4/4 \numericTimeSignature
g8^\markup { \dynamic {p} \italic ", parlando" } g d' d e d c4 |e8 d e f g4 d4~ |
d1^\markup { \italic "poco rit." } | g4^\markup { \italic "a tempo" } f e d | d16( c) bes( a) g4 r2 | }}
</score>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}
== 参考文献 ==
=== 『子供のために』の楽譜 ===
* {{Cite book|和書
|author = バルトーク・ベーラ
|editor = パップ晶子
|year = 2005
|title = バルトーク : 子供のために1
|publisher = 音楽之友社
|isbn = 978-4-276-43582-7
|ref={{SfnRef|音楽之友社版(1)|2005}}
}}
* {{Cite book|和書
|author = バルトーク・ベーラ
|editor = パップ晶子
|year = 2006
|title = バルトーク : 子供のために2
|publisher = 音楽之友社
|isbn = 978-4-276-43587-2
|ref={{SfnRef|音楽之友社版(2)|2006}}
}}
* {{Cite book|和書
|author = バルトーク・ベーラ
|editor = 山崎孝
|year = 2008
|title = バルトーク集7
|publisher = 春秋社
|isbn = 978-4-393-91080-1
|ref={{SfnRef|春秋社版|2008}}
}}
* {{Cite book
|first=Béla | last=Bartók
| editor = Vikárius László, Lampert Vera
|year = 2017
|title = Bartók : For Children, Volume I (Urtext)
|publisher = G.Henle Verlag
|ismn = 979-0-2018-1225-0
|ref={{SfnRef|Henle版(I)|2017}}
}}
* {{Cite book
|first=Béla | last=Bartók
| editor = Vikárius László, Lampert Vera
|year = 2017
|title = Bartók : For Children, Volume II (Urtext)
|publisher = G.Henle Verlag
|ismn =979-0-2018-1226-7
|ref={{SfnRef|Henle版(II)|2017}}
}}
=== 書籍・論文 ===
<!--Ambrózová:スロバキア歌集 -->
* {{Cite journal
|first=Jana |last=Ambrózová
|title=Slovenské Spevy Online: Project Ľudo Slovenský and the Crowdsourced Digitization of a Folk Song Collection
|journal=Culturologica Slovaca
|publisher= Constantine the Philosopher University in Nitra
|year=2021
|pages=101-118
|url=https://www.academia.edu/49483069/Slovensk%C3%A9_Spevy_Online_Project_%C4%BDudo_Slovensk%C3%BD_and_the_Crowdsourced_Digitization_of_a_Folk_Song_Collection
|ref={{SfnRef|Ambrózová|2021}}
}}
<!-- バルトークJr. 年代記 -->
* {{Cite book
|first=Béla | last=ifj. Bartók
|title=Chronicle of Béla Bartók's Life
|publisher= Magyarságkutató Intézet
|year=2021
|origyear= 1981
|url=http://mek.oszk.hu/22000/22043/22043.pdf
|isbn=978-615-6117-25-0
|ref={{SfnRef|Bartók Jr.|1981}}
}}
<!-- Biró ルーマニア音楽-->
* {{Cite journal
|first=Viola | last=Biró
|title=BARTÓK ÉS A ROMÁN NÉPZENE KUTATÁS ÉS KOMPONÁLÁS - 1909–1918 KÖZÖTT
|journal=DLA Doktori értekezés
|publisher=Liszt Ferenc Zeneművészeti Egyetem
|year=2018
|url=https://apps.lfze.hu/netfolder/PublicNet/Doktori%20dolgozatok/biro_viola
|ref={{SfnRef|Biró|2018}}
}}
<!-- Büky:ディッタ(2012)-->
* {{Cite journal
|first= Virág| last=Büky
|title=Bartók's Heiress
|journal=Studia Musicologica
|publisher=Akadémiai Kiadó
|year=2012
|pages=pp.187-197
|url=https://apps.lfze.hu/netfolder/PublicNet/Doktori%20dolgozatok/buky_virag
|ref={{SfnRef|Büky|2012}}
}}
<!-- Büky:ディッタ(2021)-->
* {{Cite journal
|first= Virág| last=Büky
|title=„Különleges tanítványa voltam” – Bartók Béláné Pásztory Ditta, zongoraművész és művésztárs
|journal=DLA Doktori értekezés
|publisher=Liszt Ferenc Zeneművészeti Egyetem
|year=2021
|url=https://apps.lfze.hu/netfolder/PublicNet/Doktori%20dolgozatok/buky_virag
|ref={{SfnRef|Büky|2021}}
}}
<!--カルヴォコレッシ:Musical Times -->
* {{Cite journal
|first= Michel-Dimitri | last=Calvocoressi
|title=Folk-Song in Modern Music
|journal=The Musical Times
|publisher=Musical Times Publications Ltd.
|volume=54
|issue=849
|year=1913
|pages=716-719
|url=https://www.jstor.org/stable/907946
|ref={{SfnRef|Calvocoressi|1913}}
}}
<!--Csilla:モレナール -->
* {{Cite journal
|first=Mária |last=Csilla
|title=Modern magyar ritmustan 1911/1927 : Molnár Antal: A zenei ritmus alapfogalma
|journal=MAGYAR ZENE
|volume=54
|issue=1
|year=2016
|pages=60-68
|issn=0025-0384
|url=http://real.mtak.hu/89557/1/EPA02557_magyar_zene_2016_01_060-068.pdf
|ref={{SfnRef|Csilla|2016}}
}}
<!-- Farkas ヴィーカリウシュとの対話-->
* {{Cite journal
|first= Zoltán | last= Farkas
|title=„…Hogy megismertessem a zongorázni tanuló gyermekeket a népzene egyszerû és nem-romantikus szépségeivel” Beszélgetés Vikárius Lászlóval és Kerékfy Mártonnal a Bartók-összkiadás elsô kötetérôll
|journal=Magyar Zene
|volume=4
|publisher=Magyar zenemüvészek szövetsége
|year=2017
|pages=5-28
|url=http://real.mtak.hu/72628/1/Bartok_OK_Farkas_Vikarius_Kerekfy_MZ2017_1_005_028_u.pdf
|ref={{SfnRef|Farkas|2017}}
}}
<!--Hooker:UMZE -->
* {{Cite journal
|first=Lynn |last= Hooker
|title=Modernism on the Periphery: Béla Bartók and the New Hungarian Music Society of 1911-1912
|journal=The Musical Quarterly
|volume=88
|issue=2
|publisher= Oxford University Press
|year=2005
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|url=https://www.jstor.org/stable/4123224
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<!--Illyés:ザーゴン -->
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|first= Boglárka |last=Illyés
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|journal=Studia Musicologica
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<!-- Koslovsky:シゲティ編 -->
* {{Cite journal
|first=John | last=Koslovsky
|title=Tonal Prolongations in Bartók's Hungarian Folktunes for Violin and Piano: A Case Study
|journal=Theory and Practice , 2012-13
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|publisher=Music Theory Society of New York State
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|url=https://www.jstor.org/stable/43864909
|ref={{SfnRef|Koslovsky|2012}}
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<!-- ランペルト2009:グリーグとバルトーク-->
* {{Cite journal
|first= Vera | last=Lampert
|title=“Grieg Has To Be Taken Seriously”:The Influence of Grieg‟s Music on Béla Bartók‟s For Children
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|publisher=THE INTERNATIONAL EDVARD GRIEG SOCIETY
|year=2009
|url=http://griegsociety.com/wp-content/uploads/2015/08/Vera-Lampert-paper-2009.pdf
|ref={{SfnRef|Lampert|2009}}
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<!--ランペルト2018:子供のために使われた民謡-->
* {{Cite journal
|first=Vera|last=Lampert
|title=A Gyermekeknek helye Bartók népdalfeldolgozásainak sorában
|journal=Zenetudományi Dolgozatok 2015-2016
|publisher=Magyar Tudományos Akadémia Bölcsészettudományi Kutatóközpont
|year=2018
|pages=191-203
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|issn= 0139-0732
|ref={{SfnRef|Lampert|2018}}
}}
<!-- Ludmány 運指-->
* {{Cite journal
|first= János | last=Ludmány
|title=AZ UJJREND JELENTÉSE ÉS JELENTŐSÉGE BARTÓK BÉLA GYERMEKEKNEK CÍMŰ MŰVÉNEK ELSŐ ÉS REVIDEÁLT KIADÁSÁNAK TÜKRÉBEN
|journal=DLA Doktori értekezés
|publisher=Liszt Ferenc Zeneművészeti Egyetem
|year=2019
|url=https://apps.lfze.hu/netfolder/PublicNet/Doktori%20dolgozatok/ludmany_janos/disszertacio.pdf
|ref={{SfnRef|Ludmany|2019}}
}}
<!-- 中原祐介 :ミクロコスモス(2016)-->
* {{Cite journal
|first=Yusuke | last=NAKAHARA
|title=Mikrokosmos: Companion for Later Generations from the Years of Crisis
|journal=ZENEPEDAGÓGIAI FOLYÓIRAT
|issue=4
|year=2016
|issn= 0133-2767
|url=http://real.mtak.hu/90157/1/Bartok-NAKAHARA_Yusuke-Microcosmos.pdf
|ref={{SfnRef|NAKAHARA|2016}}
}}
<!-- 中原祐介 :ミクロコスモス(2020)-->
* {{Cite journal
|first=Yusuke | last=NAKAHARA
|title=Genesis and the "Spirit" of Bartók's Mikrokosmos
|journal=DLA Doktori értekezés
|publisher=Liszt Ferenc Zeneművészeti Egyetem
|year=2020
|url=https://apps.lfze.hu/netfolder/PublicNet/Doktori%20dolgozatok/nakahara_yusuke/disszertacio.pdf
|ref={{SfnRef|NAKAHARA|2020}}
}}
<!-- Parakilas:『子供のために』の起源 -->
* {{Cite journal
|first=James | last=Parakilas
|title=Folk Song as Musical Wet Nurse: The Prehistory of Bartók's "For Children"
|journal=The Musical Quarterly
|volume=79
|issue=3
|publisher= Oxford University Press
|year=1995
|pages=476-499
|url=https://www.jstor.org/stable/742440?seq=1&cid=pdfreference#
|ref={{SfnRef|Parakilas|1995}}
}}
<!-- ショムファイ:第一次世界大戦とバルトーク -->
* {{Cite journal
|first=László |last= Somfai
|title=Komponálás a kiadás esélye nélküli években : Bartók és a Nagy Háború
|journal=Magyar Zene
|volume=53
|issue=1
|publisher=Magyar zenemüvészek szövetsége
|year=2015
|pages=38-47
|url=http://docplayer.hu/33615237-Komponalas-a-kiadas-eselye-nelkuli-evekben.html
|ref={{SfnRef|Somfai|2015}}
}}
<!--ヴィーカリウシュ2011:スロバキア編-->
* {{Cite journal
|first=László | last= Vikárius
|title=Bartók „Halotti ének”-e és a „szlovák” Gyermekeknek születése
|journal=DOLGOZATOK
|publisher=Magyar Tudományos Akadémia Zenetudományi Intézetének
|year=2011
|pages=233-269
|url=http://real.mtak.hu/160923/
|issn= 0139-0732
|ref={{SfnRef|Vikárius|2011}}
}}
<!--ヴィーカリウシュ2018:大人のために-->
* {{Cite journal
|first=László | last= Vikárius
|title=„Felnõtteknek”: Bartók Gyermekeknek címû sorozatának kritikai közreadásáról
|journal=Zenetudományi Dolgozatok 2015-2016
|publisher=Magyar Tudományos Akadémia Bölcsészettudományi Kutatóközpont
|year=2018
|pages=204-232
|url=https://www.academia.edu/87128111/Zenetudom%C3%A1nyi_dolgozatok_2015_2016_In_memoriam_Kiss_G%C3%A1bor
|issn= 0139-0732
|ref={{SfnRef|Vikárius|2018}}
}}
* {{Cite book|和書
|author = 伊東信弘
|year = 1997
|title = バルトーク : 民謡を「発見」した辺境の作曲家
|publisher = 中央公論社
|isbn = 4-12-101370-0
|ref={{SfnRef|伊東|1997}}
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* {{Cite book|和書
|author = 伊東信弘
|editor = 細川周平
|title = バルトーク『子供のために』をめぐって
|year = 2012
|series = 民謡からみた世界音楽:うたの地脈を探る
|publisher = ミネルヴァ書房
|isbn = 978-4-623-06150-1
|ref={{SfnRef|伊東|2012a}}
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* {{Cite book|和書
|author = 伊東信弘
|year = 2012
|title = バルトークの民俗音楽編曲
|publisher =大阪大学出版会
|isbn = 978-4-87259-347-1
|ref={{SfnRef|伊東|2012b}}
}}
* {{Cite journal|和書
| author = 太田峰夫
|title=「他者」としての農民達--バルトークの農民観と作曲家のアイデンティティをめぐる一考察
|journal=美学芸術学研究
|volume=21
|publisher=東京大学大学院人文社会系研究科・文学部美学芸術学研究室
|year=2007
|pages=138-165
|url=http://hdl.handle.net/2261/6752
|ref={{SfnRef|太田|2007}}
}}
* {{Cite book|和書
|author = 太田峰夫
|year = 2017
|title = バルトーク : 音楽のプリミティズム
|publisher = 慶應義塾大学出版会
|isbn = 978-4-7664-2472-0
|ref={{SfnRef|太田|2017}}
}}
* {{Cite journal|和書
|author = 尾見敦子
|title=ハンガリーの幼稚園・小学校の音楽教育における伝承の歌遊びの意義
|journal=川村学園女子大学研究紀要
|volume=28
|issue=2
|publisher=川村学園女子大学
|year=2017
|pages=67-84
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|CRID=1050282812583225728
|ref={{SfnRef|尾見|2017}}
}}
* {{Cite book|和書
|author = 加勢るり子
| editor = 音楽之友社
|year = 1981
|title = 最新ピアノ講座 2 : 世界のピアノ教育とピアノ教本
|publisher = 音楽之友社
|isbn = 4-276-02502-8
|ref={{SfnRef|加勢|1981}}
}}
* {{Cite book|和書
|author = グリフィス, ポール
|authorlink= ポール・グリフィス (作家)
|translator = 和田旦
|year = 1986
|title = バルトーク : 生涯と作品
|publisher = 泰流社
|isbn = 4-88470-559-9
|ref={{SfnRef|グリフィス|1986}}
}}
* {{Cite journal|和書
| author = 結束麻紀
|title=バルトーク『子供のために』におけるピアノ演奏の指導法
|journal=東京未来大学研究紀要
|volume=12
|publisher=東京未来大学
|year=2017
|pages=141-148
|url=https://www.tokyomirai.ac.jp/info/research/bulletin/pdf/12/note/2.pdf
|ref={{SfnRef|結束|2017}}
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* {{Cite book|和書
|author =小畑郁男
|year =1981
|title =子供のために
|series =最新名曲解説全集17-独奏曲IV
|publisher = 音楽之友社
|isbn = 4-276-01017-9
|ref={{SfnRef|小畑|1981}}
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* {{Cite journal|和書
| author = 鈴木啓資
|title=民謡を取り入れた音楽による表現 : Ernő Dohnányiの民謡に対する姿勢に基づく考察
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|publisher=東京音楽大学
|year=2020
|pages=18-30
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|ref={{SfnRef|鈴木|2020}}
}}
* {{Cite book|和書
|author = セーケイ・ユーリア
|translator = 羽仁協子
|year = 1992
|title = バルトーク物語
|publisher = 音楽之友社
|isbn = 4-276-37062-0
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* {{Cite journal|和書
| author = 田代慎之介
|title=バルトーク《子供のために》の演奏法への提言:実践と分析を通して
|journal=武蔵野音楽大学研究紀要
|volume=52
|publisher=武蔵野音楽大学
|year=2021
|pages=73-96
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* {{Cite journal|和書
| author = 田中宏明
|title=バルトーク校訂版 モーツァルト《ピアノソナタ》:バルトークがピアノ教育者として伝えたこと
|journal=藤女子大学人間生活学部紀要
|volume=50
|publisher=藤女子大学
|year=2013
|pages=119-127
|url=https://fujijoshi.repo.nii.ac.jp/records/824
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* {{Cite journal|和書
| author = 土居知子
|title=R. シューマン《ユーゲントアルバム》Op. 68をめぐる一考察(Ⅰ):包括的な学びへと導くピアノ指導法を探る
|journal=京都女子大学発達教育学部紀要
|volume=13
|publisher=京都女子大学発達教育学部
|year=2017
|pages=43-51
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}}
* {{Cite book|和書
|author = バルトーク・ベーラ
|translator = 岩城肇
|year = 1988
|title = バルトーク音楽論集(あごら叢書)
|publisher = 御茶の水書房
|isbn = 4-275-00798-0
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* {{Cite book|和書
|author = バルトーク・ベーラ
|editor = パップ晶子
|year = 2000
|title = バルトーク : ピアノ作品集1
|publisher = 音楽之友社
|isbn = 978-4-276-43572-8
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* {{Cite book|和書
|author = バルトーク・ベーラ
|editor = パップ晶子
|year = 2016
|title = バルトーク : 44のデュオ BB104 2本のヴァイオリンのための
|publisher = 音楽之友社
|isbn = 978-4-276-47664-6
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* {{Cite book|和書
|author = 横井雅子
|year = 2006
|title = ハンガリー音楽の魅力 :リスト・バルトーク・コダーイ
|publisher = 東洋書店
|isbn = 4-88595-619-6
|ref={{SfnRef|横井|2006}}
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* {{Cite book|和書
|author = パップ晶子
|year = 2015
|title = バルトークの民族音楽の世界 : 子供のためのピアノ作品を題材に
|publisher = 音楽之友社
|isbn = 978-4-276-14372-2
|ref={{SfnRef|パップ|2015}}
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* {{Cite book|和書
|author = ペーテル・バルトーク
|translator = 村上泰裕
|year = 2013
|title = 父・バルトーク : 息子による大作曲家の思い出
|publisher = スタイルノート
|isbn = 978-4-7998-0119-2
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| author = 室町さやか
|title=幼児教育におけるわらべうたの意義と指導法:コダーイ・メソッドに鑑みて
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|publisher=千葉経済大学短期大学部
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* {{Cite book|和書
|author = 山崎孝
|year = 2010
|title = バルトーク 子供のために : 演奏と解釈
|publisher = 春秋社
|isbn = 978-4-393-93783-9
|ref={{SfnRef|山崎|2010}}
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=== webサイト ===
<!--バルトーク・アーカイブ:作品一覧-->
* {{Cite web
|title=The Budapest Bartók Archives - Béla Bartók's Compositions
|publisher=Magyar Tudományos Akadémia
|year=2023
|url=https://zti.hu/index.php/en/ba/bartok-compositions/chronology
|accessdate=2023-07-02
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<!--ランペルト:バルトークの民謡編曲-序文-->
* {{Cite web
|title=Folk Music in Bartók's Compositions (Introduction)
|author = Lampert Vera
|publisher=Research Centre for the Humanities, Institute for Musicology
|year=2020
|url=http://bartok-nepzene.zti.hu/en/introduction/
|accessdate=2023-07-02
|ref={{SfnRef|Folk Music (Intro)}}
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<!--バルトークの民謡編曲-->
* {{Cite web
|title=Folk Music in Bartók's Compositions (BB 53)
|publisher=Research Centre for the Humanities, Institute for Musicology
|year=2020
|url=http://bartok-nepzene.zti.hu/en/browse/record/BB053-L029-01/
|accessdate=2023-07-02
|ref={{SfnRef|Folk Music}}
}}
<!--バルトークの民謡採集(年代別・場所別一覧)-->
* {{Cite web
|title=BÉLA BARTÓK, THE ETHNOMUSICOLOGIST - Collections
|publisher=Research Centre for the Humanities, Institute for Musicology
|year=2021
|url=https://bartok-gyujtesek.zti.hu/en/browse/28
|accessdate=2023-09-30
|ref={{SfnRef|collections}}
}}
<!--民謡研究におけるバルトーク-->
* {{Cite web
|title=BÉLA BARTÓK, THE ETHNOMUSICOLOGIST- Béla Bartók's Significance in Hungarian Folk Music Research
|author =Pál Richter
|publisher=RCH Institute for Musicology
|year = 2021
|url=https://bartok-gyujtesek.zti.hu/en
|accessdate=2023-09-23
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}}
<!--バルトーク展(ヴォイト・アービン)-->
* {{Cite web
|title=Bartók - haladóknak : Bartók útján - az MTA Zenetudományi Intézetének kiállítása
|author =Fazekas Gergely
|publisher=A Muzsika
|year = 2006
|url=https://epa.oszk.hu/00800/00835/00102/2107.html
|accessdate=2023-07-25
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}}
<!--キシュ・アーロンの業績-->
* {{Cite web
|title=Kiss Áron, hegymegi
|author =Kozák Péter
|publisher=nevpont.hu
|year = 2015
|url=https://nevpont.hu/palyakep/kiss-aron-83d3d
|accessdate=2023-08-05
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}}
== 外部リンク ==
*{{IMSLP2|work=For_Children%2C_Sz.42_(Bart%C3%B3k%2C_B%C3%A9la)|cname=『子供のために』}}
* [https://zti.hu/index.php/en/ba ハンガリー科学アカデミー音楽学研究所バルトーク・アーカイブ]
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半田滋
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半田 滋(はんだ しげる、1955年 - )は、日本の防衛ジャーナリスト。元東京新聞論説兼編集委員。獨協大学非常勤講師。法政大学兼任講師。
栃木県宇都宮市生まれ。下野新聞社を経て、1991年に中日新聞社入社。1993年、防衛庁防衛研究所特別課程修了。1992年より防衛庁取材を担当。
2004年、中国が東シナ海の日中中間線付近に建設を開始した春暁ガス田群をスクープ。2007年、東京新聞と中日新聞で連載の「新防人考」で、第13回平和・協同ジャーナリスト基金賞(大賞)を受賞。2019年よりYouTube番組であるデモクラシータイムスにて『半田滋の眼』に出演。
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'''半田 滋'''(はんだ しげる、[[1955年]] - )は、[[日本]]の防衛[[ジャーナリスト]]。元[[東京新聞]]論説兼編集委員。[[獨協大学]]非常勤講師。[[法政大学]]兼任講師<ref>{{Cite web |title=「半田 滋」の記事一覧 |url=https://president.jp/list/author/半田%20滋 |website=PRESIDENT Online |access-date=2023-10-09 |date=2023-10-09}}</ref>。
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2004年、中国が[[東シナ海]]の[[日中中間線]]付近に建設を開始した春暁ガス田群をスクープ。2007年、[[東京新聞]]と[[中日新聞]]で連載の「新防人考」で、第13回平和・協同ジャーナリスト基金賞(大賞)を受賞<ref>{{Cite web |title=半田滋 |url=https://synodos.jp/expert/handashigeru/ |website=SYNODOS |access-date=2023-10-10 |date=2023-10-10}}</ref>。2019年より[[YouTube]]番組である[[デモクラシータイムス]]にて『半田滋の眼』に出演<ref>{{Cite web |title=半田滋の眼 |url=https://democracytimes-l.sakura.ne.jp/prg028_handa.html |website=Democracy Times |access-date=2023-10-09 |date=2023-10-09}}</ref>。
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4,839,370 |
ST-39
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プラガ V-8-H、または、ST-39(1939年型中戦車、チェコスロバキア軍名称 Střední tank vzor 39、ST vz. 39、STvz.39)は、第二次世界大戦前の1936年から1938年にかけて、チェコのČKD(チェスコモラスカー コーベン ダニック、略称:チェーカーデー、チェコダ)社が開発した、中戦車である。
2輌のプロトタイプのみが製造された。
1934年に、チェコスロバキア軍における初期の戦車の分類である、カテゴリーII(軽戦車)を、IIa(騎兵戦車)とIIb(歩兵戦車)に分割することが決定された。
1935年に、ČKD社(≒プラガ社)とシュコダ社の間で、カテゴリーIIa(騎兵戦車)の新型戦車の開発計画のコンペティションが行われ、1935年5月、LTvz.34(P-II)の改良型「P-IIa」(PはPraga=プラガ社を表す)を提示したČKD社に対し、シュコダ社はヴィッカース 6トン戦車を参考にした新型の「Š-IIa」(ŠはŠkoda=シュコダ社を表す)を提示し、シュコダ社の「Š-IIa」が「LTvz.35」として制式採用された。
一方、1935年1月に、軍事技術航空機研究所(VTLU)によって、カテゴリーIIb(歩兵戦車)の要件(仕様)が設定され、ČKD社(≒プラガ社)とシュコダ社は、競い合ったが、今回はコンペティションそのものが失敗に終わった。
1935年10月に、ČKD社(≒プラガ社)は陸軍に、新型歩兵戦車の最初の提案と技術的コンセプトを提案し、同年12月にも、再度行った。交渉の末、1936年1月13日に、ČKD社(≒プラガ社)はVTLUと契約を結び、軟鋼製で、武装、光学系、無線機、その他の付属品を一切搭載しない試作車「P-IIb」(PはPraga=プラガ社を表す)1輌を製作し、4ヶ月以内(1936年5月中旬)に引き渡すことになった。それまで全く準備がされていなかったにもかかわらず、1936年5月末までに、試作車「P-IIb」(車両番号13.636)の最初の運転試験の準備が整い、プラハ近郊のミロヴィツェ試験場の第1戦車連隊に移管された。
一方、1935年1月のVTLUの要件に基づき、同年1月末までに、新型歩兵戦車のシュコダ社の試作車の設計作業が開始された。それは「Š-IIa」の設計と並行して進められ、先行するŠ-IIaの設計は、新型歩兵戦車の試作車の設計にも影響を与え、両設計のサスペンションに改良が加えられた。
1935年9月に、シュコダ社は陸軍への提案書を完成させ、同年11月にシュコダ社と陸軍の間で交渉が行われ、陸軍は比較的満足し、1936年1月13日に、シュコダ社はVTLUと契約を結び、武装、無線機を搭載しない試作車「Š-IIb」1輌が発注され、引き渡し日は1936年1月20日に設定された。実は、試作車は既に製作されており、後はそれを陸軍に引き渡すだけであった。試作車「Š-IIb」(車両番号13.637)は、ミロヴィツェ試験場の第1戦車連隊に移管された。
そして、VTLUの監督下で、P-IIbとŠ-IIbの両試作車の比較試験が行われたが、両車とも陸軍の要求事項を満たさず(実際には、比較的満たしていたが、機械的な問題に悩まされていた)、両車とも試験に不合格となり、陸軍には採用されなかった。その結果、チェコスロバキアがドイツ軍に占領されるまで、陸軍は歩兵戦車を欠いたまま、その役割は、カテゴリーIIaの騎兵戦車、つまり、LTvz.35やLTvz.38が、代わりを務めた。
ČKD社は外国にP-IIbを売却しようとしたが、またしても成功しなかった。シュコダ社は、既に軍から代金を支払われていたので、Š-IIbを外国に売却することもできなかった。
その後、P-IIbとŠ-IIbは、1937年に、ヴィシュコフの搭乗員訓練中隊の訓練車として配属されて使用され、チェコスロバキアがドイツに占領された1939年3月まで、そこに留まった。両車のその後の運命は不明である。
ドイツ占領下におけるP-IIbの写真が残されており、サスペンションや砲塔は最初の物とは異なるタイプで、ドイツ軍が何をしていたのかは、明らかではない。
両車の構成は似ており、P-IIbとŠ-IIbの砲塔は交換可能であった。
1936年6月30日(7月30日とも)、シュコダ社とČKD社(≒プラガ社)は、「ŠP-IIb 軽歩兵戦車」の共同開発に関する協定を締結した。
ŠP-IIbは、その名が示すように、チェコスロバキアの軍事産業の2つの主要なライバルである、シュコダ社=ŠとČKD社(≒プラガ社)=Pの間の協力の試みであった。
1930年代半ば、両社は「カテゴリーIIb」(歩兵戦車)開発計画で失敗に終わり(ČKD社(≒プラガ社)はP-IIb、シュコダ社はŠ-IIb)、その結果、両社は(不本意ながらも)、次の歩兵戦車を設計する試みで、協力することに合意した。陸軍が、そうした協力に反対していなかったため、共同開発計画は開始された。
両社の当初の希望は、試作車が1937年7月に完成することであったが、両社間にはしばしば意見の相違があり、車両の仕様が絶えず変更されていたため、これは楽観的すぎることが判明した。
契約によると、シュコダ社は、砲塔、武装、サスペンション、空気圧式操舵の、ČKD社は、車体、トランスミッション、エンジン、電気機器の、開発を担当することになっていた。最終組み立てはシュコダ社が行うことになっていたが、最終生産は両社で50/50の割合で行われることになっていた。
(ŠP-IIbのその後・・・ŠP-IIbの試作車は1937年末に完成した。陸軍の公式試験は1938年3月5日に開始され、1938年3月24日に終了した。試験中、この車両は700 km以上走行せず、故障やその他の問題に常に悩まされていた。1938年の大半をプルゼニの修理工場で過ごした後、1939年2月に修理されたが、その時点では時代遅れと見なされ、ヴィシュコフの第2装甲車大隊に訓練車両として送られた。ドイツ軍がチェコスロバキアを占領した際も、砲塔の前面装甲と主砲が取り除かれていた。最終的な運命は不明だが、試験のためにクンマースドルフ試験場に移され、その後、スクラップにされた可能性が高い。)
しかし、その後、間も無く、「ŠP-IIb 軽歩兵戦車」の開発と並行して、両社は各々、開発中の「ŠP-IIb 軽歩兵戦車」をベースにした、独自の中戦車の開発に取り組み始めた(最終的には政府が費用を負担したため、150万コルナもかかり、当時としてはかなり高額であった)。試作名称は、ČKD社は「V-8-He」、シュコダ社は「Š-IIc」(後のT-21 試作中戦車)であった。
「V-8-He」のプロトタイプは1936年10月から開発された。主任設計者は、アレクセイ・ミハリョヴィッチ・スリンとカレル・エクスナーであった。戦車は、遊星ギアボックス、気密加圧内部、ジャイロコンパスなど、多くの高度な技術によって特徴付けられた。プロトタイプは1937年の夏に完成し、その後、工場での運転と技術試験を受けた。5か月の間に、3,900 km以上を走行した。
1937年10月26日、チェコスロバキア国防省は、突撃車両部隊(戦車部隊)用の新しい兵器を購入することを決定した。1937年12月21日に、未武装のプロトタイプは軍の試験の最初の段階を実行するために、ミロビッツェ試験場に送られた。試験は1938年1月4日から5月21日まで行われ、その間、戦車は様々な難易度の地形で4,555 kmを走行した。車両は多くの故障と運用上の欠陥に見舞われたが、それらの内のいくつかだけが深刻な性質のものであった。当初、主にエンジン、操向クラッチ、転輪のゴムタイヤに問題があった。 1938年2月と4月に、プロトタイプは親工場で多くの修正を受けた。その後、車両は試験中に高い動作信頼性を示した。にもかかわらず、突撃車両訓練学校の試験部門の経営陣は、「V-8-He」の使用開始を推奨しなかった。
中戦車の緊急の必要性と、シュコダ社の「Š-IIc」がまだ開発段階にあったため、「V-8-H」を大量生産することが決定された。1938年4月20日、チェコスロバキア陸軍参謀本部は300 輌のV-8-Hを予約発注した。生産はČKD社(95輌)とシュコダ社(205輌)の間で分担され(ČKD社の方が割り当てが少ないのは、当時、同社が、「LT vz. 38」の生産と、外国からの注文で、過負荷であったことによる)、最初の10輌は1939年4月15日までに引き渡された。
1938年5月、陸軍試験部門は、ČKD社が迅速に実装しようとした設計への、多くの(ほとんど些細な)変更に関する推奨事項を発行した。
シュコダ社から供給された戦車砲は、1938年6月に取り付けられ、射撃試験が行われた。初期設計段階であった「V-8-He」は、改修以降は「V-8-H」と呼称される。
主武装は、旋回砲塔に装備された、半自動の「シュコダ A9 47 mm 戦車砲」で、後に改良型である「シュコダ A11 47 mm 戦車砲」に置き換えられた。副武装は、主砲の右側と胴体前面左側に、「ZB vz.37 7.92 mm 重機関銃」が1挺ずつ装備されていた。
車体は、スチールアングルフレームに、厚さ10~32 mmの装甲板(プロトタイプは軟鋼製)をリベット留めまたはねじ留めして製造された。前方に誘導輪(アイドラーホイール)、後方に起動輪(スプロケットホイール)を持つ、後輪駆動方式あった。
1938年9月に動員が発表された後、注文数は400輌に増加した。しかし、1938年10月のミュンヘン会談後、国防省は全注文を撤回した。
プロトタイプの試験は1938年11月17日に完了した。ČKD社は、ČKD社からの輸出の申し出を支援するために、「Střední tank vzor. 39、ST vz. 39」(1939年型中戦車)の名称でV-8-Hを制式装備に含めることを、軍から提案された。引き換えに、軍は戦車の販売価格の5 %を要求した。
1939年3月のドイツ軍によるチェコスロバキアの占領後、「V-8-H」のプロトタイプは14日間の試験のために、アイゼナハに送られた。1939年11月2日、ドイツ軍は、砲塔や武装の無い、2番目のプロトタイプを発注し、「V-8-H II」、または、「V-8-Hz」と名付けた。その車両は、1940年半ばに完成し、クンマースドルフ試験場に送られた。III号戦車との比較試験の上、III号戦車と類似した性能だったため、量産には至らなかった。
オリジナルのV-8-Hのプロトタイプは、ČKD社によって、他の外国のバイヤーに提案された。
1939年5月、V-8-Hはルーマニア軍の代表団によって見られた。1939年の秋、V-8-Hとシュコダ T-21 試作中戦車(Š-IIc)はルーマニアで比較試験を受けた。どちらも試験に成功したが、ルーマニア側はT-21を好んだ。ただし、最終的には購入されなかった。
1941年、V-8-Hがイタリアに提案されたが、この交渉も失敗した。
1941年、スウェーデンの会社スカニア=ヴァビス(Scania-Vabis)は、V-8-Hのライセンス生産に関心を示したが、1942年、スウェーデン陸軍は、国内企業ランツヴェルクにStrv m/42を発注し、V-8-Hの製造ライセンス購入はキャンセルされた。
他の国(トルコ・中国・ソ連)にも提案されたが、失敗に終わった。V-8-Hのプロトタイプは終戦までČKD工場に残っていたが、終戦直後に廃棄された。
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"text": "プラガ V-8-H、または、ST-39(1939年型中戦車、チェコスロバキア軍名称 Střední tank vzor 39、ST vz. 39、STvz.39)は、第二次世界大戦前の1936年から1938年にかけて、チェコのČKD(チェスコモラスカー コーベン ダニック、略称:チェーカーデー、チェコダ)社が開発した、中戦車である。",
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"text": "1934年に、チェコスロバキア軍における初期の戦車の分類である、カテゴリーII(軽戦車)を、IIa(騎兵戦車)とIIb(歩兵戦車)に分割することが決定された。",
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"text": "1935年に、ČKD社(≒プラガ社)とシュコダ社の間で、カテゴリーIIa(騎兵戦車)の新型戦車の開発計画のコンペティションが行われ、1935年5月、LTvz.34(P-II)の改良型「P-IIa」(PはPraga=プラガ社を表す)を提示したČKD社に対し、シュコダ社はヴィッカース 6トン戦車を参考にした新型の「Š-IIa」(ŠはŠkoda=シュコダ社を表す)を提示し、シュコダ社の「Š-IIa」が「LTvz.35」として制式採用された。",
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"text": "一方、1935年1月に、軍事技術航空機研究所(VTLU)によって、カテゴリーIIb(歩兵戦車)の要件(仕様)が設定され、ČKD社(≒プラガ社)とシュコダ社は、競い合ったが、今回はコンペティションそのものが失敗に終わった。",
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"text": "1935年10月に、ČKD社(≒プラガ社)は陸軍に、新型歩兵戦車の最初の提案と技術的コンセプトを提案し、同年12月にも、再度行った。交渉の末、1936年1月13日に、ČKD社(≒プラガ社)はVTLUと契約を結び、軟鋼製で、武装、光学系、無線機、その他の付属品を一切搭載しない試作車「P-IIb」(PはPraga=プラガ社を表す)1輌を製作し、4ヶ月以内(1936年5月中旬)に引き渡すことになった。それまで全く準備がされていなかったにもかかわらず、1936年5月末までに、試作車「P-IIb」(車両番号13.636)の最初の運転試験の準備が整い、プラハ近郊のミロヴィツェ試験場の第1戦車連隊に移管された。",
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"text": "1935年9月に、シュコダ社は陸軍への提案書を完成させ、同年11月にシュコダ社と陸軍の間で交渉が行われ、陸軍は比較的満足し、1936年1月13日に、シュコダ社はVTLUと契約を結び、武装、無線機を搭載しない試作車「Š-IIb」1輌が発注され、引き渡し日は1936年1月20日に設定された。実は、試作車は既に製作されており、後はそれを陸軍に引き渡すだけであった。試作車「Š-IIb」(車両番号13.637)は、ミロヴィツェ試験場の第1戦車連隊に移管された。",
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"text": "1936年6月30日(7月30日とも)、シュコダ社とČKD社(≒プラガ社)は、「ŠP-IIb 軽歩兵戦車」の共同開発に関する協定を締結した。",
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"text": "1930年代半ば、両社は「カテゴリーIIb」(歩兵戦車)開発計画で失敗に終わり(ČKD社(≒プラガ社)はP-IIb、シュコダ社はŠ-IIb)、その結果、両社は(不本意ながらも)、次の歩兵戦車を設計する試みで、協力することに合意した。陸軍が、そうした協力に反対していなかったため、共同開発計画は開始された。",
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"text": "両社の当初の希望は、試作車が1937年7月に完成することであったが、両社間にはしばしば意見の相違があり、車両の仕様が絶えず変更されていたため、これは楽観的すぎることが判明した。",
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"text": "(ŠP-IIbのその後・・・ŠP-IIbの試作車は1937年末に完成した。陸軍の公式試験は1938年3月5日に開始され、1938年3月24日に終了した。試験中、この車両は700 km以上走行せず、故障やその他の問題に常に悩まされていた。1938年の大半をプルゼニの修理工場で過ごした後、1939年2月に修理されたが、その時点では時代遅れと見なされ、ヴィシュコフの第2装甲車大隊に訓練車両として送られた。ドイツ軍がチェコスロバキアを占領した際も、砲塔の前面装甲と主砲が取り除かれていた。最終的な運命は不明だが、試験のためにクンマースドルフ試験場に移され、その後、スクラップにされた可能性が高い。)",
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"text": "しかし、その後、間も無く、「ŠP-IIb 軽歩兵戦車」の開発と並行して、両社は各々、開発中の「ŠP-IIb 軽歩兵戦車」をベースにした、独自の中戦車の開発に取り組み始めた(最終的には政府が費用を負担したため、150万コルナもかかり、当時としてはかなり高額であった)。試作名称は、ČKD社は「V-8-He」、シュコダ社は「Š-IIc」(後のT-21 試作中戦車)であった。",
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"text": "「V-8-He」のプロトタイプは1936年10月から開発された。主任設計者は、アレクセイ・ミハリョヴィッチ・スリンとカレル・エクスナーであった。戦車は、遊星ギアボックス、気密加圧内部、ジャイロコンパスなど、多くの高度な技術によって特徴付けられた。プロトタイプは1937年の夏に完成し、その後、工場での運転と技術試験を受けた。5か月の間に、3,900 km以上を走行した。",
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"text": "中戦車の緊急の必要性と、シュコダ社の「Š-IIc」がまだ開発段階にあったため、「V-8-H」を大量生産することが決定された。1938年4月20日、チェコスロバキア陸軍参謀本部は300 輌のV-8-Hを予約発注した。生産はČKD社(95輌)とシュコダ社(205輌)の間で分担され(ČKD社の方が割り当てが少ないのは、当時、同社が、「LT vz. 38」の生産と、外国からの注文で、過負荷であったことによる)、最初の10輌は1939年4月15日までに引き渡された。",
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"text": "1938年5月、陸軍試験部門は、ČKD社が迅速に実装しようとした設計への、多くの(ほとんど些細な)変更に関する推奨事項を発行した。",
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"text": "シュコダ社から供給された戦車砲は、1938年6月に取り付けられ、射撃試験が行われた。初期設計段階であった「V-8-He」は、改修以降は「V-8-H」と呼称される。",
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"text": "主武装は、旋回砲塔に装備された、半自動の「シュコダ A9 47 mm 戦車砲」で、後に改良型である「シュコダ A11 47 mm 戦車砲」に置き換えられた。副武装は、主砲の右側と胴体前面左側に、「ZB vz.37 7.92 mm 重機関銃」が1挺ずつ装備されていた。",
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"text": "1938年9月に動員が発表された後、注文数は400輌に増加した。しかし、1938年10月のミュンヘン会談後、国防省は全注文を撤回した。",
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"text": "プロトタイプの試験は1938年11月17日に完了した。ČKD社は、ČKD社からの輸出の申し出を支援するために、「Střední tank vzor. 39、ST vz. 39」(1939年型中戦車)の名称でV-8-Hを制式装備に含めることを、軍から提案された。引き換えに、軍は戦車の販売価格の5 %を要求した。",
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"text": "1939年3月のドイツ軍によるチェコスロバキアの占領後、「V-8-H」のプロトタイプは14日間の試験のために、アイゼナハに送られた。1939年11月2日、ドイツ軍は、砲塔や武装の無い、2番目のプロトタイプを発注し、「V-8-H II」、または、「V-8-Hz」と名付けた。その車両は、1940年半ばに完成し、クンマースドルフ試験場に送られた。III号戦車との比較試験の上、III号戦車と類似した性能だったため、量産には至らなかった。",
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"text": "オリジナルのV-8-Hのプロトタイプは、ČKD社によって、他の外国のバイヤーに提案された。",
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"text": "1939年5月、V-8-Hはルーマニア軍の代表団によって見られた。1939年の秋、V-8-Hとシュコダ T-21 試作中戦車(Š-IIc)はルーマニアで比較試験を受けた。どちらも試験に成功したが、ルーマニア側はT-21を好んだ。ただし、最終的には購入されなかった。",
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プラガ V-8-H、または、ST-39は、第二次世界大戦前の1936年から1938年にかけて、チェコのČKD社が開発した、中戦車である。 2輌のプロトタイプのみが製造された。
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{{出典の明記|date=2023-10}}
{{戦車
| 名称=ST vz. 39
| 画像=[[ファイル:Obraz1262.jpg|300px]]
| 説明=
| 全長=5.35 m
| 全幅=2.34 m
| 全高=2.27 m
| 重量=16.2 t
| 懸架方式=[[リーフ式サスペンション|リーフスプリング方式ボギー型]]
| 速度=
| 整地時速度=45 [[キロメートル毎時|km/h]]
| 不整地時速度=25 km/h
| 行動距離=150 [[キロメートル|km]](整地)、80~120 km(不整地)
| 主砲=シュコダ A11 43.4口径 47 mm 戦車砲(80 発)
| 副武装=[[ブルーノVz.37重機関銃|ZB vz.37 7.92 mm 重機関銃]] ×2(3000 発)
| 装甲=13~32 mm
| エンジン名=プラガ NR<br />[[4ストローク機関|4ストローク]][[水冷]][[V型8気筒]][[ガソリンエンジン|ガソリン]]
| 出力=225~260 馬力
| 乗員=4 名(車長、砲手、操縦手、機銃手兼無線手)
| 備考=
}}
'''プラガ V-8-H'''、または、'''ST-39'''(1939年型中戦車、チェコスロバキア軍名称 '''Střední tank vzor 39'''、'''ST vz. 39'''、'''STvz.39''')は、[[第二次世界大戦]]前の1936年から1938年にかけて、[[チェコスロバキア|チェコ]]の[[ČKD]](チェスコモラスカー コーベン ダニック、略称:チェーカーデー、チェコダ)社が開発した、[[中戦車]]である。
2輌のプロトタイプのみが製造された。
== 概要 ==
=== 開発前史 ===
1934年に、チェコスロバキア軍における初期の戦車の分類である、カテゴリーII(軽戦車)を、IIa(騎兵戦車)とIIb(歩兵戦車)に分割することが決定された。
1935年に、ČKD社(≒プラガ社)とシュコダ社の間で、カテゴリーIIa(騎兵戦車)の新型戦車の開発計画のコンペティションが行われ、1935年5月、LTvz.34(P-II)の改良型「P-IIa」(PはPraga=プラガ社を表す)を提示したČKD社に対し、シュコダ社はヴィッカース 6トン戦車を参考にした新型の「Š-IIa」(ŠはŠkoda=シュコダ社を表す)を提示し、シュコダ社の「Š-IIa」が「[[LT-35|LTvz.35]]」として制式採用された。
=== P-IIbとŠ-IIbの開発 ===
一方、1935年1月に、軍事技術航空機研究所(VTLU)によって、カテゴリーIIb(歩兵戦車)の要件(仕様)が設定され、ČKD社(≒プラガ社)とシュコダ社は、競い合ったが、今回はコンペティションそのものが失敗に終わった。
1935年10月に、ČKD社(≒プラガ社)は陸軍に、新型歩兵戦車の最初の提案と技術的コンセプトを提案し、同年12月にも、再度行った。交渉の末、1936年1月13日に、ČKD社(≒プラガ社)はVTLUと契約を結び、軟鋼製で、武装、光学系、無線機、その他の付属品を一切搭載しない試作車「P-IIb」(PはPraga=プラガ社を表す)1輌を製作し、4ヶ月以内(1936年5月中旬)に引き渡すことになった。それまで全く準備がされていなかったにもかかわらず、1936年5月末までに、試作車「P-IIb」(車両番号13.636)の最初の運転試験の準備が整い、[[プラハ]]近郊のミロヴィツェ試験場の第1戦車連隊に移管された。
一方、1935年1月のVTLUの要件に基づき、同年1月末までに、新型歩兵戦車のシュコダ社の試作車の設計作業が開始された。それは「Š-IIa」の設計と並行して進められ、先行するŠ-IIaの設計は、新型歩兵戦車の試作車の設計にも影響を与え、両設計のサスペンションに改良が加えられた。
1935年9月に、シュコダ社は陸軍への提案書を完成させ、同年11月にシュコダ社と陸軍の間で交渉が行われ、陸軍は比較的満足し、1936年1月13日に、シュコダ社はVTLUと契約を結び、武装、無線機を搭載しない試作車「Š-IIb」1輌が発注され、引き渡し日は1936年1月20日に設定された。実は、試作車は既に製作されており、後はそれを陸軍に引き渡すだけであった。試作車「Š-IIb」(車両番号13.637)は、ミロヴィツェ試験場の第1戦車連隊に移管された。
そして、VTLUの監督下で、P-IIbとŠ-IIbの両試作車の比較試験が行われたが、両車とも陸軍の要求事項を満たさず(実際には、比較的満たしていたが、機械的な問題に悩まされていた)、両車とも試験に不合格となり、陸軍には採用されなかった。その結果、チェコスロバキアがドイツ軍に占領されるまで、陸軍は歩兵戦車を欠いたまま、その役割は、カテゴリーIIaの騎兵戦車、つまり、LTvz.35や[[LT-38|LTvz.38]]が、代わりを務めた。
ČKD社は外国にP-IIbを売却しようとしたが、またしても成功しなかった。シュコダ社は、既に軍から代金を支払われていたので、Š-IIbを外国に売却することもできなかった。
その後、P-IIbとŠ-IIbは、1937年に、[[ヴィシュコフ]]の搭乗員訓練中隊の訓練車として配属されて使用され、チェコスロバキアがドイツに占領された1939年3月まで、そこに留まった。両車のその後の運命は不明である。
ドイツ占領下におけるP-IIbの写真が残されており、サスペンションや砲塔は最初の物とは異なるタイプで、ドイツ軍が何をしていたのかは、明らかではない。
両車の構成は似ており、P-IIbとŠ-IIbの砲塔は交換可能であった。
=== ŠP-IIbの開発 ===
1936年6月30日(7月30日とも)、シュコダ社とČKD社(≒プラガ社)は、「'''ŠP-IIb 軽歩兵戦車'''」の共同開発に関する協定を締結した。
'''ŠP-IIb'''は、その名が示すように、チェコスロバキアの軍事産業の2つの主要なライバルである、シュコダ社=ŠとČKD社(≒プラガ社)=Pの間の協力の試みであった。
1930年代半ば、両社は「カテゴリーIIb」(歩兵戦車)開発計画で失敗に終わり(ČKD社(≒プラガ社)はP-IIb、シュコダ社はŠ-IIb)、その結果、両社は(不本意ながらも)、次の歩兵戦車を設計する試みで、協力することに合意した。陸軍が、そうした協力に反対していなかったため、共同開発計画は開始された。
両社の当初の希望は、試作車が1937年7月に完成することであったが、両社間にはしばしば意見の相違があり、車両の仕様が絶えず変更されていたため、これは楽観的すぎることが判明した。
契約によると、シュコダ社は、砲塔、武装、サスペンション、空気圧式操舵の、ČKD社は、車体、トランスミッション、エンジン、電気機器の、開発を担当することになっていた。最終組み立てはシュコダ社が行うことになっていたが、最終生産は両社で50/50の割合で行われることになっていた。
(ŠP-IIbのその後・・・ŠP-IIbの試作車は1937年末に完成した。陸軍の公式試験は1938年3月5日に開始され、1938年3月24日に終了した。試験中、この車両は700 km以上走行せず、故障やその他の問題に常に悩まされていた。1938年の大半をプルゼニの修理工場で過ごした後、1939年2月に修理されたが、その時点では時代遅れと見なされ、ヴィシュコフの第2装甲車大隊に訓練車両として送られた。ドイツ軍がチェコスロバキアを占領した際も、砲塔の前面装甲と主砲が取り除かれていた。最終的な運命は不明だが、試験のためにクンマースドルフ試験場に移され、その後、スクラップにされた可能性が高い。)
=== V-8-HeとŠ-IIcの開発 ===
しかし、その後、間も無く、「ŠP-IIb 軽歩兵戦車」の開発と並行して、両社は各々、開発中の「ŠP-IIb 軽歩兵戦車」をベースにした、独自の中戦車の開発に取り組み始めた(最終的には政府が費用を負担した)。試作名称は、ČKD社は「'''V-8-He'''」、シュコダ社は「'''Š-IIc'''」(後の[[LT-35|T-21 試作中戦車]])であった。
「V-8-He」のプロトタイプは1936年10月から開発された。主任設計者は、アレクセイ・ミハリョヴィッチ・スリンとカレル・エクスナーであった。戦車は、遊星ギアボックス、気密加圧内部、ジャイロコンパスなど、多くの高度な技術によって特徴付けられた。プロトタイプは1937年の夏に完成し、その後、工場での運転と技術試験を受けた。5か月の間に、3,900 km以上を走行した。
1937年10月26日、チェコスロバキア国防省は、突撃車両部隊(戦車部隊)用の新しい兵器を購入することを決定した。1937年12月21日に、未武装のプロトタイプは軍の試験の最初の段階を実行するために、ミロビッツェ試験場に送られた。試験は1938年1月4日から5月21日まで行われ、その間、戦車は様々な難易度の地形で4,555 kmを走行した。車両は多くの故障と運用上の欠陥に見舞われたが、それらの内のいくつかだけが深刻な性質のものであった。当初、主にエンジン、操向クラッチ、転輪のゴムタイヤに問題があった。 1938年2月と4月に、プロトタイプは親工場で多くの修正を受けた。その後、車両は試験中に高い動作信頼性を示した。にもかかわらず、突撃車両訓練学校の試験部門の経営陣は、「V-8-He」の使用開始を推奨しなかった。
中戦車の緊急の必要性と、シュコダ社の「Š-IIc」がまだ開発段階にあったため、「V-8-H」を大量生産することが決定された。1938年4月20日、チェコスロバキア陸軍参謀本部は300 輌のV-8-Hを予約発注した。生産はČKD社(95輌)とシュコダ社(205輌)の間で分担され(ČKD社の方が割り当てが少ないのは、当時、同社が、「[[LT-38|LT vz. 38]]」の生産と、外国からの注文で、過負荷であったことによる)、最初の10輌は1939年4月15日までに引き渡された。
1938年5月、陸軍試験部門は、ČKD社が迅速に実装しようとした設計への、多くの(ほとんど些細な)変更に関する推奨事項を発行した。
シュコダ社から供給された戦車砲は、1938年6月に取り付けられ、射撃試験が行われた。初期設計段階であった「V-8-He」は、改修以降は「'''V-8-H'''」と呼称される。
主武装は、旋回砲塔に装備された、半自動の「シュコダ A9 47 mm 戦車砲」で、後に改良型である「シュコダ A11 47 mm 戦車砲」に置き換えられた。副武装は、主砲の右側と胴体前面左側に、「ZB vz.37 7.92 mm 重機関銃」が1挺ずつ装備されていた。
車体は、スチールアングルフレームに、厚さ10~32 mmの装甲板(プロトタイプは軟鋼製)をリベット留めまたはねじ留めして製造された。前方に誘導輪(アイドラーホイール)、後方に起動輪(スプロケットホイール)を持つ、後輪駆動方式あった。
1938年9月に動員が発表された後、注文数は400輌に増加した。しかし、1938年10月の[[ミュンヘン会談]]後、国防省は全注文を撤回した。
プロトタイプの試験は1938年11月17日に完了した。ČKD社は、ČKD社からの輸出の申し出を支援するために、「Střední tank vzor. 39、ST vz. 39」(1939年型中戦車)の名称でV-8-Hを制式装備に含めることを、軍から提案された。引き換えに、軍は戦車の販売価格の5 %を要求した。
1939年3月のドイツ軍によるチェコスロバキアの占領後、「V-8-H」のプロトタイプは14日間の試験のために、[[アイゼナハ]]に送られた。1939年11月2日、ドイツ軍は、砲塔や武装の無い、2番目のプロトタイプを発注し、「'''V-8-H II'''」、または、「'''V-8-Hz'''」と名付けた。その車両は、1940年半ばに完成し、[[クンマースドルフ]]試験場に送られた。[[III号戦車]]との比較試験の上、III号戦車と類似した性能だったため、量産には至らなかった。
オリジナルのV-8-Hのプロトタイプは、ČKD社によって、他の外国のバイヤーに提案された。
1939年5月、V-8-Hはルーマニア軍の代表団によって見られた。1939年の秋、V-8-Hとシュコダ [[LT-35|T-21 試作中戦車]](Š-IIc)はルーマニアで比較試験を受けた。どちらも試験に成功したが、ルーマニア側はT-21を好んだ。ただし、最終的には購入されなかった。
1941年、V-8-Hがイタリアに提案されたが、この交渉も失敗した。
1941年、スウェーデンの会社スカニア=ヴァビス(Scania-Vabis)は、V-8-Hのライセンス生産に関心を示したが、1942年、スウェーデン陸軍は、国内企業ランツヴェルクに[[Strv m/42]]を発注し、V-8-Hの製造ライセンス購入はキャンセルされた。
他の国(トルコ・中国・ソ連)にも提案されたが、失敗に終わった。V-8-Hのプロトタイプは終戦までČKD工場に残っていたが、終戦直後に廃棄された。
== 関連項目 ==
* [[Vz.33豆戦車]]
* [[LT-34]]
* [[LT-35]]
* [[LT-38]]
* [[戦車]]
* [[戦車一覧]]
== 外部リンク ==
* [http://ftr.wot-news.com/wp-content/uploads/2014/05/p2b-001-uprav_528.jpg] - P-IIb 軽歩兵戦車
* [http://ftr.wot-news.com/wp-content/uploads/2014/05/P-II-b.jpg] - P-IIb 軽歩兵戦車
* [http://ftr.wot-news.com/wp-content/uploads/2014/05/untitled7.jpg] - P-IIb 軽歩兵戦車
* [http://ftr.wot-news.com/wp-content/uploads/2014/05/skoda_s2b.jpg] - Š-IIb 軽歩兵戦車
* [http://ftr.wot-news.com/wp-content/uploads/2014/08/skoda_sp2b_2.jpg] - ŠP-IIb 軽歩兵戦車
* [https://warspot-asset.s3.amazonaws.com/articles/pictures/000/020/548/source/stvz39s04-bc5b0263c1a50fada21493b8991c68a7.jpg] - ŠP-IIb 軽歩兵戦車
* [http://ftr.wot-news.com/wp-content/uploads/2014/08/skoda_sp2b_4.jpg] - ŠP-IIb 軽歩兵戦車
* [http://ftr.wot-news.com/wp-content/uploads/2014/08/skoda_sp2b_8.jpg] - ŠP-IIb 軽歩兵戦車
* [http://ftr.wot-news.com/wp-content/uploads/2014/08/skoda_sp2b_5.jpg] - ŠP-IIb 軽歩兵戦車
* [http://ftr.wot-news.com/wp-content/uploads/2014/08/skoda__p_2_b.jpg] - ŠP-IIb 軽歩兵戦車
* [https://warspot-asset.s3.amazonaws.com/articles/pictures/000/020/549/source/stvz39s05-b07ef97ad1b04be1051b6dd14fc0c199.jpg] - 初期設計であるV-8-Heの三面図
* [https://storage.googleapis.com/wot-cz/media/images/ehmi7xu8bqiag5o6066f59e8b234556406276.webp] - ST vz. 39の三面図
* [https://i.redd.it/ksr5zr3ok3c81.jpg] - ST vz. 39
* [https://cdn.wikiwiki.jp/to/w/wotanks/ST%20vz.%2039/::attach/ST_vz_39_history.jpg?rev=479799fe70afc25a052743b24265e05b&t=20161031204858] - ST vz. 39
* [https://cdn.wikiwiki.jp/to/w/wotanks/ST%20vz.%2039/::attach/ST_vz_39_history2.jpg?rev=dc58cd95bda0da47b8cc24d62f9d2d06&t=20161031204910] - V-8-H(上)とV-8-H II(下)
* [https://warspot-asset.s3.amazonaws.com/articles/pictures/000/020/553/source/stvz39s07-6c13e86fbb5ca4cbad4adae4fdf0531d.jpg] - 再設計されたV-8-H。ST vz. 39として採用された。
* [https://warspot-asset.s3.amazonaws.com/articles/pictures/000/020/552/source/stvz39s08-cc17e726e5c74ba9d24a868c079da98c.jpg] - 試験中のV-8-H。
* [https://warspot-asset.s3.amazonaws.com/articles/pictures/000/020/554/source/stvz39s09-6d1785db1a60a10768544aeefba2cf44.jpg] - ドイツの発注で製造された2番目のプロトタイプ「'''V-8-H II'''」、または、「'''V-8-Hz'''」。砲塔の代わりに、コンクリートブロックの重しが載せられている。
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光サーキュレータ
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光サーキュレータ(ひかりサーキュレータ)は、任意のポートに入った光が次のポートから出るように設計された3ポートまたは4ポートの光学デバイスである。これは、光がポート1に入るとポート2から出るが、出た光の一部が反射してサーキュレータに戻る場合、光はポート1ではなくポート3から出る。これは、電子サーキュレータの動作に似ている。光ファイバサーキュレータは、光ファイバ内で反対方向に伝播する光信号を分けるために使用される。例えば、単一ファイバで双方向伝送を達成するために使用される。入力光パワーと反射光パワーの分離性(英語版)が高く、挿入損失が低いため、光サーキュレータは高度な通信システムやファイバ光学センサ(英語版)の用途で広く使われている。
光サーキュレータは、非可逆の光学系であり、装置を通過する光の特性の変化が、光が逆方向に通過しても元に戻らないことを意味する。これは、外部磁場などにより系の対称性が破れた場合のみ生じる。ファラデー回転子は、非可逆の光学デバイスの別の例である。ファラデー回転子に基づき光サーキュレータを作ることができる。
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'''光サーキュレータ'''(ひかりサーキュレータ)は、任意のポートに入った[[光]]が次のポートから出るように設計された3ポートまたは4ポートの[[光学]]デバイスである。これは、光がポート1に入るとポート2から出るが、出た光の一部が反射してサーキュレータに戻る場合、光はポート1ではなくポート3から出る。これは、電子[[サーキュレータ]]の動作に似ている。光ファイバサーキュレータは、[[光ファイバ]]内で反対方向に伝播する光信号を分けるために使用される。例えば、単一ファイバで双方向伝送を達成するために使用される<ref>{{cite book|last1=IBM|first1=Redbooks|title=Understanding Optical Communications|date=9 November 1998|publisher=IBM Corporation|location=5.4.6|isbn=0738400580|url=http://imedea.uib-csic.es/~salvador/coms_optiques/addicional/ibm/ch05/05-16.html |archive-url=https://web.archive.org/web/20150710105519/http://imedea.uib-csic.es/~salvador/coms_optiques/addicional/ibm/ch05/05-16.html |archive-date=2015-07-10 |accessdate=10 July 2015}}</ref>。入力光パワーと反射光パワーの{{仮リンク|光アイソレータ|en|optical isolator|label=分離性}}が高く、[[挿入損失]]が低いため、光サーキュレータは高度な[[光通信|通信システム]]や{{仮リンク|ファイバ光学センサ|en|fiber-optic sensor}}の用途で広く使われている。
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==関連項目==
*{{仮リンク|光アイソレータ|en|optical isolator|label=}}
==出典==
{{Reflist}}
==外部リンク==
* [http://patft.uspto.gov/netacgi/nph-Parser?Sect1=PTO2&Sect2=HITOFF&p=1&u=%2Fnetahtml%2FPTO%2Fsearch-adv.htm&r=1&f=G&l=50&d=PTXT&S1=5909310.PN.&OS=pn/5909310&RS=PN/5909310 US Patent 5,909,310 (USPTO)] [https://patents.google.com/patent/US5909310A/en (Google Patents)]
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知利別町
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知利別町(ちりべつちょう)は北海道室蘭市の町名およびかつて存在した字名。現行行政地名は知利別町一丁目から四丁目。住居表示実施済み。郵便番号は050-0076。
室蘭市の東部に位置し、北に天神町、東に高砂町、東から南東に宮の森町、南に中島町、南西から西に中島本町と接する。
室蘭市の都市計画マスタープランでは蘭東地域に属する。
西側の丘陵地帯と東側の楽山に挟まれた地域で、中央部から知利別川が南西流する。町域中央および西側の丘陵地帯を道道107号室蘭環状線が縦断する。町域の南東からは道道911号大津旅来線が北西に走り、道道107号室蘭環状線に接続する。
日本製鉄の社宅を中心として発達した住宅街で、南から順に一丁目から四丁目が並んでいる。 一丁目に製鉄記念室蘭病院,室蘭市立桜蘭中学校、二丁目に室蘭めばえ幼稚園,室蘭市知利別集会所,楽山ケ丘自治会会館,稲荷神社、三丁目に室蘭知利別郵便局などがある。
江戸期は森林地帯で、1881年(明治14年)、仙台藩支藩の角田藩主石川邦光の実弟石川俊在が30戸で入植した土地という。1938年(昭和13年)以降は日鉄輪西製作所(現日本製鉄)が社宅を建設しはじめ、1957年(昭和32年)頃には町内人口の6割がその家族であったという。
一丁目にある桜蘭中学校はかつて蘭東中学校という名前だったが、2013年(平成25年)、中島町二丁目にあった向陽中学校と統合して名称変更した。
アイヌ語のチㇽ・ペッ(cir-pet)でそれぞれ鳥・川を表す。昔は数万の鴨が川に群集して真っ黒に見えるほどだったという。
2023年(令和5年)9月30日現在(室蘭市発表)の世帯数と人口は以下の通りである。
国勢調査による人口の推移。
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知利別町(ちりべつちょう)は北海道室蘭市の町名およびかつて存在した字名。現行行政地名は知利別町一丁目から四丁目。住居表示実施済み。郵便番号は050-0076。
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'''知利別町'''(ちりべつちょう)は[[北海道]][[室蘭市]]の[[町丁|町名]]およびかつて存在した[[字]]名。現行行政地名は知利別町一丁目から四丁目。[[住居表示]]実施済み。郵便番号は050-0076。
== 地理 ==
室蘭市の東部に位置し、北に[[天神町 (室蘭市)|天神町]]、東に[[高砂町 (室蘭市)|高砂町]]、東から南東に[[宮の森町 (室蘭市)|宮の森町]]、南に[[中島町 (室蘭市)|中島町]]、南西から西に[[中島本町]]と接する。
=== 河川 ===
* [[二級河川]] [[知利別川]]
== 地域の特徴 ==
室蘭市の都市計画マスタープランでは蘭東地域に属する<ref>{{Cite web|和書| url=https://www.city.muroran.lg.jp/main/org7310/documents/toshimas.pdf |title=室蘭市都市計画マスタープラン |access-date=2023-10-08 |publisher=都市建設部都市政策推進課都市政策推進係}}</ref>。
西側の丘陵地帯と東側の楽山に挟まれた地域で、中央部から知利別川が南西流する。町域中央および西側の丘陵地帯を[[北海道道107号室蘭環状線|道道107号室蘭環状線]]が縦断する。町域の南東からは[[北海道道911号大津旅来線|道道911号大津旅来線]]が北西に走り、道道107号室蘭環状線に接続する。
[[日本製鉄]]の社宅を中心として発達した住宅街で、南から順に一丁目から四丁目が並んでいる。
一丁目に製鉄記念室蘭病院,室蘭市立桜蘭中学校、二丁目に室蘭めばえ幼稚園,室蘭市知利別集会所,楽山ケ丘自治会会館,稲荷神社、三丁目に室蘭知利別郵便局などがある。
== 歴史 ==
江戸期は森林地帯で、[[1881年]]([[明治]]14年)、仙台藩支藩の角田藩主石川邦光の実弟石川俊在が30戸で入植した土地という<ref name=日本地名大辞典下巻>{{Cite book|和書|author=角川日本地名大辞典編纂委員会|title=[[角川日本地名大辞典]] 1.北海道 下巻|publisher=[[角川書店]]|year=1987|isbn=4040010124|pages=430}}</ref>。[[1938年]](昭和13年)以降は日鉄輪西製作所(現[[日本製鉄]])が社宅を建設しはじめ、[[1957年]](昭和32年)頃には町内人口の6割がその家族であったという<ref name=日本地名大辞典下巻 />。
一丁目にある桜蘭中学校はかつて蘭東中学校という名前だったが、[[2013年]]([[平成]]25年)、中島町二丁目にあった向陽中学校と統合して名称変更した。
=== 地名の由来 ===
アイヌ語の{{lang|ain-Kana|チㇽ}}・{{lang|ain-Kana|ペッ}}(cir-pet)でそれぞれ鳥・川を表す<ref name=新室蘭市史1>{{Cite book|和書|author=室蘭市市史編さん委員会|title=新室蘭市史 第1巻|publisher=室蘭市役所|date=1981-03-25|page=173}}</ref>。昔は数万の鴨が川に群集して真っ黒に見えるほどだったという<ref name=新室蘭市史1 />。
=== 沿革 ===
* [[1929年]](昭和4年)10月16日 - 字名改正により室蘭市大字輪西村の一部が知利別町となる<ref name=日本地名大辞典上巻>{{Cite book|和書|author=角川日本地名大辞典編纂委員会|title=[[角川日本地名大辞典]] 1.北海道 上巻|publisher=[[角川書店]]|year=1987|isbn=4040010116|pages=888}}</ref><ref name=新室蘭市史2>{{Cite book|和書|author=室蘭市市史編さん委員会|title=新室蘭市史 第2巻|publisher=室蘭市役所|date=1981-03-25|pages=109-123}}</ref>。
* [[1963年]](昭和38年)5月1日 - 知利別町一丁目 - 三丁目新設<ref name=日本地名大辞典上巻 /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.muroran.lg.jp/main/org1400/documents/1963_05_06.pdf |title=むろらん市政だより 昭和38年5、6月号 |access-date=2023-10-08 |publisher=室蘭市}}</ref><ref name=新室蘭市史2 />。
* [[1967年]](昭和42年)7月1日 - 知利別町四丁目新設<ref name=日本地名大辞典上巻 /><ref name=新室蘭市史2 />。
* [[1981年]](昭和56年)2月1日 - 知利別町一丁目の一部が中島本町三丁目に編入<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.muroran.lg.jp/main/org1400/documents/1981_02_01.pdf |title=むろらん市政だより 昭和56年2月1日号 |access-date=2023-10-08 |publisher=室蘭市}}</ref>。
=== 町名の変遷 ===
{| class="wikitable"
!実施内容
!実施年月日
!実施後
!実施前
|-
|style="white-space:nowrap;" |字名改正
|style="white-space:nowrap;" |1929年(昭和4年)10月16日
|style="white-space:nowrap;" |知利別町
|大字輪西村の字、<br />チリベツ,熊谷,八丁平,天神山,奥ワシベツ<ref name=新室蘭市史2 />
|-
|style="white-space:nowrap;" rowspan="4"|町名新設<br />住居表示
|style="white-space:nowrap;" rowspan="3"|1963年(昭和38年)5月1日
|style="white-space:nowrap;"|知利別町一丁目
|rowspan="4"|中島町,知利別町の各一部<ref name=日本地名大辞典上巻 />
|-
|知利別町二丁目
|-
|知利別町三丁目
|-
|1967年(昭和42年)7月1日
|知利別町四丁目
|}
== 世帯数と人口 ==
[[2023年]](令和5年)[[9月30日]]現在(室蘭市発表)の世帯数と人口は以下の通りである<ref name="population" />。
{| class="wikitable"
![[町丁]]
![[世帯|世帯数]]
![[人口]]
|-
|知利別町一丁目
| style="text-align:right" | 374世帯
| style="text-align:right" | 677人
|-
|知利別町二丁目
| style="text-align:right" | 857世帯
| style="text-align:right" | 1,588人
|-
|知利別町三丁目
| style="text-align:right" | 339世帯
| style="text-align:right" | 761人
|-
|知利別町四丁目
| style="text-align:right" | 408世帯
| style="text-align:right" | 1,223人
|-
| style="text-align:center" |計
| style="text-align:right" | 1,978世帯
| style="text-align:right" | 4,249人
|}
=== 人口の変遷 ===
[[国勢調査]]による人口の推移。<!--- 10人あたり1pxでグラフ作成しています。--->
{|
|[[1995年]](平成7年)
| style="text-align:right" |4,090人
|<ref name="jinko1995">{{Cite web|和書|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00200521&tstat=000001064072&cycle=0&tclass1=000001064137&tclass2=000001064180&stat_infid=000023630510&tclass3val=0 |title=平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等 |publisher=総務省統計局 |date=2014-03-28 |accessdate=2023-07-17 |language=ja}}</ref>
|<div style="width:409px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|[[2000年]](平成12年)
| style="text-align:right" |3,823人
|<ref name="jinko2000">{{Cite web|和書|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00200521&tstat=000000030001&cycle=0&tclass1=000001048665&tclass2=000001064799&stat_infid=000025138126&tclass3val=0 |title=平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等 |publisher=総務省統計局 |date=2014-05-30 |accessdate=2023-07-17 |language=ja}}</ref>
|<div style="width:382.3px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|[[2005年]](平成17年)
| style="text-align:right" |3,728人
|<ref name="jinko2005">{{Cite web|和書|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00200521&tstat=000001007251&cycle=0&tclass1=000001048664&tclass2=000001065223&stat_infid=000025514454&tclass3val=0 |title=平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等 |publisher=総務省統計局 |date=2014-06-27 |accessdate=2023-07-17 |language=ja}}</ref>
|<div style="width:372.8px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|[[2010年]](平成22年)
| style="text-align:right" |4,099人
|<ref name="jinko2010">{{Cite web|和書|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00200521&tstat=000001039448&cycle=0&tclass1=000001047504&tclass2=000001047974&stat_infid=000012671594&tclass3val=0 |title=平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等 |publisher=総務省統計局 |date=2012-01-20 |accessdate=2023-07-17 |language=ja}}</ref>
|<div style="width:409.9px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|[[2015年]](平成27年)
| style="text-align:right" |4,137人
|<ref name="jinko2015">{{Cite web|和書|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00200521&tstat=000001080615&cycle=0&tclass1=000001094495&tclass2=000001094539&stat_infid=000031522264&tclass3val=0 |title=平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等 |publisher=総務省統計局 |date=2017-01-27 |accessdate=2023-07-17 |language=ja}}</ref>
|<div style="width:413.7px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|[[2020年]](令和2年)
| style="text-align:right" |4,119人
|<ref name="jinko2020">{{Cite web|和書|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00200521&tstat=000001136464&cycle=0&tclass1=000001136472&tclass2=000001159913&stat_infid=000032163679&cycle_facet=tclass1%3Acycle&tclass3val=0 |title=令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等 |publisher=総務省統計局 |date=2022-02-10 |accessdate=2023-07-17 |language=ja}}</ref>
|<div style="width:411.9px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|}
=== 世帯数の変遷 ===
[[国勢調査]]による世帯数の推移。<!--- 10世帯あたり1pxでグラフ作成しています。--->
{|
|[[1995年]](平成7年)
| style="text-align:right" |1,579世帯
|<ref name="jinko1995" />
|<div style="width:157.9px;height:10px;background:#66dd66"></div>
|-
|[[2000年]](平成12年)
| style="text-align:right" |1,511世帯
|<ref name="jinko2000" />
|<div style="width:151.1px;height:10px;background:#66dd66"></div>
|-
|[[2005年]](平成17年)
| style="text-align:right" |1,534世帯
|<ref name="jinko2005" />
|<div style="width:153.4px;height:10px;background:#66dd66"></div>
|-
|[[2010年]](平成22年)
| style="text-align:right" |1,704世帯
|<ref name="jinko2010" />
|<div style="width:170.4px;height:10px;background:#66dd66"></div>
|-
|[[2015年]](平成27年)
| style="text-align:right" |1,728世帯
|<ref name="jinko2015" />
|<div style="width:172.8px;height:10px;background:#66dd66"></div>
|-
|[[2020年]](令和2年)
| style="text-align:right" |1,746世帯
|<ref name="jinko2020" />
|<div style="width:174.6px;height:10px;background:#66dd66"></div>
|}
== 学区 ==
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.muroran.lg.jp/main/org9200/h21kuiki.html|title=室蘭市内小中学校通学区域 |publisher=室蘭市 教育部・学校教育課 |accessdate=2023-10-09 |language=ja}}</ref>。
{| class="wikitable"
!丁目
!街区
!小学校
!中学校
|-
|知利別町一丁目
|全域
|rowspan="4"|室蘭市立旭ヶ丘小学校
|rowspan="4"|室蘭市立桜蘭中学校
|-
|知利別町二丁目
|全域
|-
|知利別町三丁目
|全域
|-
|rowspan="2"|知利別町四丁目
|1 - 39番, 44番
|-
|40 - 43番
|室蘭市立天神小学校
|室蘭市立東明中学校
|}
== 交通 ==
<!--
=== 鉄道 ===
-->
=== バス ===
{| class="wikitable"
!運行事業者
!停留所
!系統
|-
|style="white-space:nowrap;" rowspan="10"|[[道南バス]]
|知利別1丁目
|循1/1 / 循2/2/3 / 7/9
|-
|知利別2丁目
|循1/1 / 循2/2/3 / 7/9
|-
|知利別会館前
|循1/1 / 循2/2/3 / 7/9
|-
|style="white-space:nowrap;"|知利別郵便局前
|循1/1 / 循2/2/3 / 7/9 / 高速蘭東ライナー号 / 高速室蘭サッカー号
|-
|東通
|循1/1 / 循2/2/3 / 7/9 / 21 / 22 / 23 / 24 / 25 / 30 /36 / 洞爺湖温泉・豊浦-伊達駅前-室蘭駅前広場 / 八丁平循環線 / 白鳥台線 / 高速蘭東ライナー号 / 高速室蘭サッカー号
|}
=== 道路 ===
* 道道107号室蘭環状線
* 道道911号大津旅来線
== 施設 ==
=== 役所・公的機関 ===
* 知利別浄水場
=== 公共施設 ===
* 室蘭市知利別集会所
* 楽山ケ丘自治会会館
=== 医療施設 ===
* 製鉄記念室蘭病院
=== 教育施設 ===
* 室蘭市立桜蘭中学校
* 室蘭めばえ幼稚園
=== 金融機関 ===
* 室蘭知利別郵便局
=== 商業施設 ===
<!--
=== 社会福祉施設 ===
=== 文化施設 ===
=== 娯楽施設 ===
-->
=== 公営住宅 ===
* 市営知利別町団地
=== 寺社 ===
* 稲荷神社
<!--
=== 教会 ===
-->
=== 公園 ===
* 知利別公園
* 知利別町4丁目公園
* 知利別南公園
* バラ公園
* 楽山公園
<!--
=== その他 ===
-->
== 脚注 ==
<!--
=== 注釈 ===
<references group="注" />
=== 出典 ===
-->
<references />
== 関連項目 ==
{{Geographic Location
| Northwest =
| North = [[天神町 (室蘭市)|天神町]]
| Northeast =
| West = [[中島本町]]
| Center = 知利別町
| East = [[高砂町 (室蘭市)|高砂町]]・[[宮の森町 (室蘭市)|宮の森町]]
| Southwest = [[中島本町]]
| South = [[中島町 (室蘭市)|中島町]]
| Southeast = [[宮の森町 (室蘭市)|宮の森町]]
}}
{{室蘭市の町名}}
{{Japan-block-stub}}
{{Pref-stub|pref=北海道}}
{{DEFAULTSORT:ちりへつちよう}}
[[Category:室蘭市の町・字]]
[[Category:1963年制定の町・字]]
|
2023-10-09T05:57:22Z
|
2023-11-23T08:25:09Z
| false | false | false |
[
"Template:Pathnav",
"Template:Cite book",
"Template:室蘭市の町名",
"Template:Japan-block-stub",
"Template:Infobox 日本の町・字",
"Template:Lang",
"Template:Cite web",
"Template:Geographic Location",
"Template:Pref-stub"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E5%88%A9%E5%88%A5%E7%94%BA
|
4,839,377 |
川本耕史
|
川本 耕史(かわもと こうじ)(生年月日非公表)は、日本のアクション監督・スタントマン・俳優である。ユーデンフレームワークス所属。
大阪府出身。大阪府立茨田高等学校卒業。
大阪でキャラクターショーのアクションなどを経験し、上京。フリーのスタントマンとして多くのアクション監督の下で経験を積み、海外作品にも参加している。中華圏で絶大な人気を誇る香港のアクション俳優、ドニー・イェンとの協業経験を多数有する。
「龍が如く」シリーズなどのゲームや、CG映画のモーションキャプチャーも多く担当している。
2023年に公開されたアメリカ映画『ジョン・ウィック:コンセクエンス』では、「大阪コンチネンタル・ホテル」の格闘シーンのファイトコレオグラファーを務めた。この仕事はチャド・スタエルスキ監督から「日本的な要素を入れたい」というオファーを受けた谷垣健治に紹介されて、担当することになった。
ユーデンフレームワークス公式サイトに掲載されている情報に基づく。(2023年10月)
|
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川本 耕史(生年月日非公表)は、日本のアクション監督・スタントマン・俳優である。ユーデンフレームワークス所属。
|
{{Otheruses|アクション監督の'''川本耕史'''|「やまだひろなが」のペンネームを持つ編集者・作家|川本耕次}}
{{複数の問題
|特筆性=2023年10月9日 (月) 11:51 (UTC)|分野=人物
|存命人物の出典明記=2023年10月9日 (月) 11:51 (UTC)
|単一の出典=2023年10月9日 (月) 11:51 (UTC)
}}
{{ActorActress
| 芸名 = 川本 耕史
| ふりがな = かわもと こうじ
| 画像ファイル =
| 画像サイズ =
| 画像コメント =
| 本名 = 川本 耕史
| 別名義 = <!-- 別芸名がある場合記載。愛称の欄ではありません。 -->
| 出生地 =
| 死没地 =
| 国籍 =
| 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です。 -->
| 身長 =
| 血液型 =
| 生年 =
| 生月 =
| 生日 =
| 没年 =
| 没月 =
| 没日 =
| 職業 = [[アクション監督]]・[[俳優]]・[[スタントマン]]
| ジャンル = [[アクション]]
| 活動期間 =
| 活動内容 =
| 配偶者 =
| 著名な家族 =
| 所属劇団 =
| 事務所 =
| 公式サイト =
| 主な作品 = 本文参照
| アカデミー賞 =
| AFI賞 =
| 英国アカデミー賞 =
| セザール賞 =
| エミー賞 =
| ジェミニ賞 =
| ゴールデングローブ賞 =
| ゴールデンラズベリー賞 =
| ゴヤ賞 =
| グラミー賞 =
| ブルーリボン賞 =
| ローレンス・オリヴィエ賞 =
| 全米映画俳優組合賞 =
| トニー賞 =
| 日本アカデミー賞 =
| その他の賞 =
| 備考 =
}}
'''川本 耕史'''(かわもと こうじ)(生年月日非公表)は、[[日本]]の[[アクション監督]]・[[スタントマン]]・[[俳優]]である。ユーデンフレームワークス所属。
== 来歴 ==
[[大阪府]]出身。[[大阪府立茨田高等学校|大阪府立{{ruby|茨田|まった}}高等学校]]卒業。
大阪でキャラクターショーのアクションなどを経験し、上京。フリーのスタントマンとして多くのアクション監督の下で経験を積み、海外作品にも参加している。中華圏で絶大な人気を誇る香港のアクション俳優、[[ドニー・イェン]]との協業経験を多数有する。
「龍が如く」シリーズなどのゲームや、CG映画のモーションキャプチャーも多く担当している。
2023年に公開されたアメリカ映画『[[ジョン・ウィック:コンセクエンス]]』では、「大阪コンチネンタル・ホテル」の格闘シーンの[[振付師|ファイトコレオグラファー]]を務めた。この仕事は[[チャド・スタエルスキ]]監督から「日本的な要素を入れたい」というオファーを受けた[[谷垣健治]]に紹介されて、担当することになった<ref name="Official Brochure JW4">{{Cite
| author = [[東宝|東宝ステラ]]
| title = ジョン:ウィック コンセクエンス 公式パンフレット
| publisher = [[ポニーキャニオン]]
| date = 2023-09-22
| pages =
}}</ref>。
== 主な参加作品 ==
ユーデンフレームワークス公式サイトに掲載されている情報に基づく。(2023年10月)
=== ファイトコレオグラファー ===
* [[ジョン・ウィック:コンセクエンス]](2023年)
=== アクション監督 ===
* 時間創造部/HERO(2014年)
* 夢王 MUOH(2014年)
* -S- 最後の警官 RECOVERY OF OUR FUTURY(2015年)
* [[螻蛄_(小説)#テレビドラマ|螻蛄]](2016年/BSスカパー)
* NHK土曜ドラマ『4号警備』(2017年/NHK)
* 先生!口裂け女です!(2023年)
=== アクションコーディネーター ===
* 安堂ロイド〜A.I. Knows LOVE?〜(2013年/TBS)
* S-最後の警官-(2014年/TBS)
* [[バクマン。#実写映画|バクマン。]](2014年)
* オー!ファーザー(2014年)
* [[マンハント_(2017年の映画)|マンハント]](2017年、中国)
* [[:zh:邪不压正|邪不圧正]](2018年、中国)
* [[スーパーティーチャー 熱血格闘]](2018年、香港・中国、ドニー・イェン主演)
* [[るろうに剣心_(実写映画)#るろうに剣心_最終章_The_Final_/_The_Beginning|るろうに剣心 最終章 The Final]](2021年)
* [[るろうに剣心_(実写映画)#るろうに剣心_最終章_The_Final_/_The_Beginning|るろうに剣心 the beginning]](2021年)
* [[レイジング・ファイア]](2021年、香港・中国、ドニー・イェン主演)
=== スタント(映画) ===
* お姉チャンバラ2(2005年)
* [[西遊記 (2007年の映画)|西遊記]](2007年)
* 芸者VS忍者(2008年)
* [[片腕マシンガール]](2008年)
* [[赤んぼ少女#映画版|赤んぼ少女]](2008年)
* [[ボディ・ジャック#映画|ボディ・ジャック]](2008年)
* 斬〜KILL〜/キリコ(2008年)
* [[エリートヤンキー三郎#映画|激情版!エリートヤンキー三郎]](2009年)
* [[カムイ外伝#実写映画|カムイ外伝]](2009年)
* [[大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE]](2009年)
* [[新宿インシデント]](2009年、香港、ジャッキー・チェン主演)
* [[ゴスロリ処刑人]](2010年)
* [[私の優しくない先輩#映画|私の優しくない先輩]](2010年)
* [[極道兵器#実写映画版|極道兵器]](2011年)
* [[GANTZ_(映画)|GANTZ]](2011年)
* [[GANTZ_(映画)|GANTZ /PERFECT ANSWER]](2011年)
* [[アンフェア the answer]](2011年)
* [[デンデラ_(小説)#映画|デンデラ]](2011年)
* [[仮面ライダー×仮面ライダー フォーゼ&オーズ MOVIE大戦MEGA MAX]](2011年)
* [[タイガーマスク#実写映画|タイガーマスク]](2013年)
* [[スペシャルID 特殊身分]](2013年、香港・中国、ドニー・イェン主演)
* [[ガッチャマン_(映画)|ガッチャマン]](2013年)
* [[G.I.ジョー:漆黒のスネークアイズ]](2021年)
=== スタント(テレビ) ===
* [[ライオン丸G]](2006年 テレビ東京)
* [[エリートヤンキー三郎#テレビドラマ|エリートヤンキー三郎]](2007年 テレビ東京)
* [[パワーレンジャー・RPM]](2008年 アメリカ・ニュージーランド)
* [[大魔神カノン]](2010年 テレビ東京)
* [[トラブルマン]](2010年 テレビ東京)
* [[パワーレンジャー・サムライ]](2011年 アメリカ・ニュージーランド)
* [[猿飛三世]](2012年 BS時代劇)
* [[ラッキーセブン (テレビドラマ)|ラッキーセブン]](2012年 フジテレビ)
=== モーションキャプチャー(映画・ゲーム) ===
* [[バイオハザード ディジェネレーション]](2008年)
* [[ベヨネッタ]](2010年)
* [[鉄拳タッグトーナメント2]](2011年)
* [[鉄拳 ブラッド・ベンジェンス]](2011年)
* [[バイオハザード ダムネーション]](2012年)
* [[龍が如くシリーズ]]
* [[メタルギア ライジング リベンジェンス]](2013年)
=== アクション監督補、助手 ===
* [[ストレイヤーズ・クロニクル#映画|ストレイヤーズ・クロニクル]](2015年)
* 忍者狩り(2015年)
== 脚注 ==
<!-- === 注釈 === -->
<!-- {{Notelist}} -->
<!-- -->
=== 出典 ===
{{Reflist}}
==外部リンク==
* [https://udenflameworks.com/member/kawamoto/ ユーデンフレームワークス 公式サイト]
* {{Allcinema name|921635}}
* {{imdb name|nm10470043|Koji Kawamoto}}
{{Film-director-stub}}
{{DEFAULTSORT:かわもと こうし}}
[[Category:日本の映画監督]]
[[Category:アクション監督]]
[[Category:日本の男優]]
[[Category:日本のスタントマン]]
[[Category:存命人物]]
|
2023-10-09T06:26:01Z
|
2023-10-09T11:52:06Z
| false | false | false |
[
"Template:Imdb name",
"Template:Film-director-stub",
"Template:Otheruses",
"Template:ActorActress",
"Template:Ruby",
"Template:Reflist",
"Template:Cite",
"Template:Allcinema name"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E6%9C%AC%E8%80%95%E5%8F%B2
|
4,839,378 |
緑町 (安城市)
|
緑町(みどりちょう)は、愛知県安城市の地名。
安城市北西部に位置する。東から南は二本木町、西は刈谷市、北は美園町に接する。
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる。
国勢調査による人口および世帯数の推移。
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緑町(みどりちょう)は、愛知県安城市の地名。
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| postal_code = 446-0055<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?pref=23&city=1232120&cmp=1&mode=list&addr=|title=愛知県安城市の郵便番号一覧|publisher=日本郵便|accessdate=2023-08-26}}</ref>
| area_code = 0566<ref group=WEB name=areacode>{{Cite web|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000141817.pdf|format=PDF||title=市外局番の一覧|publisher=総務省|date=2022-03-01|accessdate=2022-03-22}}</ref>
| registration_plate = [[愛知運輸支局|三河]]
| footnotes =
}}
'''緑町'''(みどりちょう)は、[[愛知県]][[安城市]]の地名。
== 地理 ==
安城市北西部に位置する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}。東から南は[[二本木町 (安城市)|二本木町]]、西は[[刈谷市]]、北は[[美園町 (安城市)|美園町]]に接する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}。
=== 学区 ===
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.city.anjo.aichi.jp/manabu/gakko/kyoikushisetsu/gakku.html|title=小中学校区一覧(町別50音順)|author=安城市役所教育振興部学校教育課学事係|publisher=安城市|date=2022-04-07|accessdate=2023-10-09}}</ref>。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.pref.aichi.jp/soshiki/kotogakko/0000080445.html|title=平成29年度以降の愛知県公立高等学校(全日制課程)入学者選抜における通学区域並びに群及びグループ分け案について|publisher=愛知県教育委員会|date=2015-02-16|accessdate=2019-01-14}}</ref>。
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!番・番地等!!小学校!!中学校!!高等学校
|-
||全域||[[安城市立二本木小学校]]||[[安城市立安城西中学校]]||[[愛知県の高校入試#三河学区|三河学区]]
|}
== 河川 ==
* 新道用水{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
== 歴史 ==
=== 町名の由来 ===
=== 人口の変遷 ===
[[国勢調査]]による人口および世帯数の推移。
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|1995年(平成7年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000023630251&fileKind=1|format=CSV|title=平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-03-28|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
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|2005年(平成17年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025514226&fileKind=1|format=CSV|title=平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-06-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
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|2015年(平成27年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000031522121&fileKind=1|format=CSV|title=平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2017-01-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|1207世帯<br>2929人||<div style="width:120.7px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:292.9px;height:10px;background:#9999ff"></div>
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|style="text-align:right"|1333世帯<br>3127人||<div style="width:133.3px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:312.7px;height:10px;background:#9999ff"></div>
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=== 沿革 ===
{{節スタブ}}
== 交通 ==
* [[愛知県道岡崎刈谷線]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
== 施設 ==
* [[安城市立二本木小学校]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* わかば保育園{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== WEB ===
{{Reflist|group="WEB"|refs=}}
=== 書籍 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1989|date=1989-03-08|title=[[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県|publisher=[[角川書店]]|isbn=4-04-001230-5|language=ja|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[安城市の町名]]
{{Geographic Location
| Northwest<!--北西--> =
| North<!--北--> = [[美園町 (安城市)|美園町]]
| Northeast<!--北東--> =
| West<!--西--> = [[刈谷市]]
| Centre<!--中央--> = 緑町
| East<!--東--> = [[二本木町 (安城市)|二本木町]]
| Southwest<!--南西--> =
| South<!--南--> = [[二本木町 (安城市)|二本木町]]
| Southeast<!--南東--> =
}}
{{安城市の町・字}}
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{{デフォルトソート:みとりちよう}}
[[Category:安城市の町名]]
|
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%91%E7%94%BA_(%E5%AE%89%E5%9F%8E%E5%B8%82)
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4,839,379 |
ダヴィデ・バルテサーギ
|
ダヴィデ・バルテサーギ(Davide Bartesaghi, 20050年12月29日 - )は、イタリア・エルバ出身のサッカー選手。セリエA・ACミラン所属。ポジションはポジションはDF(LSB)。
2021年7月1日にACミランのユースに入団。2022年7月1日にプリマヴェーラへ昇格。
2023年にトップチームのプレシーズンツアーに参加していたバルテサーギは、2023年8月21日、開幕戦となる第1節ボローニャFC戦にてトップチーム初招集、同年9月23日、セリエA第5節エラス・ヴェローナ戦にて後半75分、アレッサンドロ・フロレンツィと交代でトップチームデビューを果たす。10月2日、ACミランはバルテサーギと2026年6月30日までのプロ契約を締結したことを発表した。
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ダヴィデ・バルテサーギは、イタリア・エルバ出身のサッカー選手。セリエA・ACミラン所属。ポジションはポジションはDF(LSB)。
|
{{サッカー選手
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}}
'''ダヴィデ・バルテサーギ'''(Davide Bartesaghi, [[2005年]][[12月29日]] - )は、[[イタリア]]・[[エルバ (ロンバルディア州)|エルバ]]出身の[[サッカー選手]]。[[セリエA (サッカー)|セリエA]]・[[ACミラン]]所属。ポジションはポジションは[[ディフェンダー (サッカー)|DF]](LSB)。
== 経歴 ==
2021年7月1日に[[ACミラン]]のユースに入団。2022年7月1日に[[イタリアのサッカークラブの下部組織|プリマヴェーラ]]へ昇格。
2023年にトップチームのプレシーズンツアーに参加していたバルテサーギは、2023年8月21日、開幕戦となる第1節[[ボローニャFC]]戦にてトップチーム初招集を受ける<ref>{{Cite web|title=Bologna FC 1909 - AC Milan, Aug 21, 2023 - Serie A - Match sheet|url=https://www.transfermarkt.com/spielbericht/index/spielbericht/4103472|website=transfermarkt.com|accessdate=2023-8-22}}</ref>。同年9月23日、[[セリエA (サッカー)|セリエA]]第5節[[エラス・ヴェローナFC|エラス・ヴェローナ]]戦にて後半75分、[[アレッサンドロ・フロレンツィ]]と交代でトップチームデビューを果たした<ref>{{Cite web|title=AC Milan - Hellas Verona, Sep 23, 2023 - Serie A - Match sheet|url=https://www.transfermarkt.com/spielbericht/index/spielbericht/4103517|website=transfermarkt.com|accessdate=2023-10-9}}</ref>。10月2日、2026年6月30日までのプロ契約を締結した<ref>{{cite web|url=https://www.acmilan.com/en/news/articles/media/2023-10-02/official-statement-davide-bartesaghi|title=OFFICIAL STATEMENT: DAVIDE BARTESAGHI|publisher=AC Milan|language=en|date=2023-10-2|accessdate=2023-10-9}}</ref>。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
*{{sports links}}
{{ACミランのメンバー}}
{{Footybio-substub}}
{{DEFAULTSORT:はるてさあき たういて}}
[[Category:イタリアのサッカー選手]]
[[Category:ACミランの選手]]
[[Category:ロンバルディア州出身の人物]]
[[Category:2005年生]]
[[Category:存命人物]]
|
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|
4,839,382 |
南町 (安城市)
|
南町(みなみまち)は、愛知県安城市の地名。
安城市中央部に位置する。東から南は安城町、西は錦町、北は日の出町に接する。
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる。
国勢調査による人口および世帯数の推移。
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南町(みなみまち)は、愛知県安城市の地名。
|
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| area_code = 0566<ref group=WEB name=areacode>{{Cite web|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000141817.pdf|format=PDF||title=市外局番の一覧|publisher=総務省|date=2022-03-01|accessdate=2022-03-22}}</ref>
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'''南町'''(みなみまち)は、[[愛知県]][[安城市]]の地名。
== 地理 ==
安城市中央部に位置する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}。東から南は[[安城町]]、西は[[錦町 (安城市)|錦町]]、北は[[日の出町 (安城市)|日の出町]]に接する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}。
=== 学区 ===
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.city.anjo.aichi.jp/manabu/gakko/kyoikushisetsu/gakku.html|title=小中学校区一覧(町別50音順)|author=安城市役所教育振興部学校教育課学事係|publisher=安城市|date=2022-04-07|accessdate=2023-10-09}}</ref>。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.pref.aichi.jp/soshiki/kotogakko/0000080445.html|title=平成29年度以降の愛知県公立高等学校(全日制課程)入学者選抜における通学区域並びに群及びグループ分け案について|publisher=愛知県教育委員会|date=2015-02-16|accessdate=2019-01-14}}</ref>。
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!番・番地等!!小学校!!中学校!!高等学校
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||全域||[[安城市立錦町小学校]]||[[安城市立安城南中学校]]||[[愛知県の高校入試#三河学区|三河学区]]
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== 歴史 ==
=== 町名の由来 ===
=== 人口の変遷 ===
[[国勢調査]]による人口および世帯数の推移。
{| class="wikitable"
|-
|1995年(平成7年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000023630251&fileKind=1|format=CSV|title=平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-03-28|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
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|2000年(平成12年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025137780&fileKind=1|format=CSV|title=平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-05-30|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
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|2005年(平成17年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025514226&fileKind=1|format=CSV|title=平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-06-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
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|2015年(平成27年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000031522121&fileKind=1|format=CSV|title=平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2017-01-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
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|2020年(令和2年)<ref group=WEB name=R2国勢調査>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000032163424&fileKind=1|format=CSV|title=令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口,外国人人口及び世帯数-町丁・字等|author=総務省統計局|date=2022-02-10|accessdate=2023-08-02|language=ja}}</ref>
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=== 沿革 ===
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== 交通 ==
* [[名鉄西尾線]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* [[愛知県道刈谷岡崎線]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
== 施設 ==
* 民声新聞社{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== WEB ===
{{Reflist|group="WEB"|refs=}}
=== 書籍 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1989|date=1989-03-08|title=[[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県|publisher=[[角川書店]]|isbn=4-04-001230-5|language=ja|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[安城市の町名]]
== 外部リンク ==
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[[Category:安城市の町名]]
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2023-10-09T06:36:24Z
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4,839,383 |
シェリー・コン
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シェリー・デボラ・コン(Shelley Deborah Conn、1976年9月21日生)は、イギリスの女優。Netflixのヒットドラマ、『ブリジャートン家』のレディ・メアリー・シャルマ役、映画『ノッティングヒルの洋菓子店(英語版)』でのイザベラ役、スピルバーグのテレビドラマ『Terra Nova 〜未来創世記』のエリザベス・シャノン医師役、ニール・ゲイマンの『グッド・オーメンズ』でのベルゼブブ役、Amazon Prime Videoの『ザ・ボーイズ』およびスピンオフ作品『ジェン・ブイ』への出演などで知られている。
コンはロンドン北部のバーネット・ロンドン自治区で英印系両親のもとに生まれた。ポルトガル、ビルマ、およびインドの血を引いている。ベイジングストークのクイーン・メアリー大学(英語版)およびウェッバー・ダグラス演劇学校(英語版)でまなんだ。コンはブレトン・ホール(英語版)で訓練された。ベイジングストークでクランボーン・スクール(英語版)に通った。
演劇学校卒業後は、BBCのドラマ Party Animals のアシーカ・チャンディラマニ役で人気をつかむまでは、さまざまなイギリス映画に端役として出演した。2001年に、BBC1の Mersey Beat のミリアム・ダ・シルヴァ巡査役に抜擢され、 Casualty にも不定期に繰り返し出演した。2002年、コンはギールグッド・シアター(英語版)でのロイヤル・シェイクスピア・カンパニーがジャコビアン・シーズンにストラトフォード=アポン=エイヴォンから移った後に、202年12月にウェスト・エンドで上演された The Island Princess、「東行きだよーお!」(Eastward Ho!)および The Roman Actor の3作の舞台にたった。
コンはテレビ、映画および舞台に出演し、さまざまな低予算のヨーロッパ映画やイギリス映画、それにBBCの The Innocence Project などのキャラクタードラマで一連の主役を演じており、時にはロイヤル・シェークスピア・カンパニーでも出演した。2004年にはBBC Oneの人気シリーズ Down to Earth の第5シーズンに参加した。2008年前半には、The Palace にミランダ・ヒル役で出演し、『ミストレス 愛人たちの秘密』のジェシカ役、『ロンドン警視庁犯罪ファイル(英語版)』のニーラ・サンジャニ役を演じた。2008年に、Dead Set にクレア役で出演した。2010年、トレビドラマ『反撃のレスキュー・ミッション』にダニー・プレンディヴィル役で出演した。
2011年9月16日に初放送された予算1,500万ドルのテレビドラマ『Terra Nova 〜未来創世記』の主要登場人物の一人にスピルバーグによって選ばれた。2014年、アメリカのテレビドラマ The Lottery に出演した。
コンは、ジュリア・クインのブリジャートン・シリーズの2冊目『不機嫌な子爵の見る夢は(英語版)』をもとしにした、Netflixの恋愛時代ドラマ『ブリジャートン家』の第2シーズンにメアリー・シャルマ役で出演した。このシリーズは2022年3月に公開された。
コンはロンドン在住で、俳優仲間のジョナサン・ケリガン(英語版)と結婚し、2012年に男児を出産した。
2006年のロンドンマラソンに出場した。
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シェリー・デボラ・コンは、イギリスの女優。Netflixのヒットドラマ、『ブリジャートン家』のレディ・メアリー・シャルマ役、映画『ノッティングヒルの洋菓子店』でのイザベラ役、スピルバーグのテレビドラマ『Terra Nova 〜未来創世記』のエリザベス・シャノン医師役、ニール・ゲイマンの『グッド・オーメンズ』でのベルゼブブ役、Amazon Prime Videoの『ザ・ボーイズ』およびスピンオフ作品『ジェン・ブイ』への出演などで知られている。
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{{Infobox person
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| caption = 2016年のテレビシリーズ ''[[:en:Heartbeat (2016 TV series)|Heartbeat]]'' のセットでのコン
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'''シェリー・デボラ・コン'''('''Shelley Deborah Conn'''、[[1976年]][[9月21日]] - )は、イギリスの女優。[[Netflix]]のヒットドラマ、『[[ブリジャートン家]]』のレディ・メアリー・シャルマ役、映画『{{仮リンク|ノッティングヒルの洋菓子店|en|Love Sarah}}』でのイザベラ役、[[スティーヴン・スピルバーグ|スピルバーグ]]のテレビドラマ『[[Terra Nova 〜未来創世記]]』のエリザベス・シャノン医師役、[[ニール・ゲイマン]]の『[[グッド・オーメンズ (テレビドラマ)|グッド・オーメンズ]]』でのベルゼブブ役、[[Amazon Prime Video]]の『[[ザ・ボーイズ (テレビドラマ)|ザ・ボーイズ]]』およびスピンオフ作品『[[ジェン・ブイ]]』への出演などで知られている。
== 生い立ちと教育 ==
コンはロンドン北部の[[バーネット区|バーネット・ロンドン自治区]]で英印系両親のもとに生まれた。ポルトガル、ビルマ、およびインドの血を引いている<ref>{{cite news|last1=Hahn|first1=Katie|title='Terra Nova' next stop on Conn's acting journey|url=https://variety.com/2011/tv/news/terra-nova-next-stop-on-conn-s-acting-journey-1118042120/|accessdate=25 August 2014|work=[[Variety (magazine)|Variety]]|date=9 September 2011}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.freebmd.org.uk/cgi/information.pl?cite=D%2FsFaLuVbGINKdhbxJxekQ&scan=1|title=Index entry|accessdate=12 March 2017|work=FreeBMD|publisher=ONS}}</ref>。[[ベイジングストーク]]の{{仮リンク|クイーン・メアリー大学|en|Queen Mary's College, Basingstoke}}および{{仮リンク|ウェッバー・ダグラス演劇学校|en|Webber Douglas Academy of Dramatic Art}}でまなんだ<ref>{{cite web|title=What Shelley Conn has to say about QMC|url=http://www.destinationbasingstoke.co.uk/?page=StaticPage-1363|website=Destination Basingstoke|accessdate=25 August 2014}}</ref>。コンは{{仮リンク|ブレトン・ホール|en|Bretton Hall, West Yorkshire}}で訓練された。ベイジングストークで{{仮リンク|クランボーン・スクール|en|Cranbourne School}}に通った。
== キャリア ==
演劇学校卒業後は、[[BBC]]のドラマ ''[[:en:Party Animals (TV series)|Party Animals]]'' のアシーカ・チャンディラマニ役で人気をつかむまでは、さまざまなイギリス映画に端役として出演した。2001年に、BBC1の ''[[:en:Merseybeat (TV series)|Mersey Beat]]'' のミリアム・ダ・シルヴァ巡査役に抜擢され、 ''[[:en:Casualty (TV series)|Casualty]]'' にも不定期に繰り返し出演した。2002年、コンは{{仮リンク|ギールグッド・シアター|en|Gielgud Theatre}}での[[ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー]]がジャコビアン・シーズンに[[ストラトフォード=アポン=エイヴォン]]から移った後に、202年12月にウェスト・エンドで上演された ''[[:en:The Island Princess|The Island Princess]]''、「東行きだよーお!」(''Eastward Ho!'')および ''The Roman Actor'' の3作の舞台にたった。
コンはテレビ、映画および舞台に出演し、さまざまな低予算のヨーロッパ映画やイギリス映画、それにBBCの ''[[:en:The Innocence Project|The Innocence Project]]'' などのキャラクタードラマで一連の主役を演じており、時にはロイヤル・シェークスピア・カンパニーでも出演した。2004年には[[BBC One]]の人気シリーズ ''[[:en:Down to Earth (2000 TV series)|Down to Earth]]'' の第5シーズンに参加した。2008年前半には、''[[:en:The Palace|The Palace]]'' にミランダ・ヒル役で出演し、『[[ミストレス 愛人たちの秘密]]』のジェシカ役、『{{仮リンク|ロンドン警視庁犯罪ファイル|en|Trial & Retribution}}』のニーラ・サンジャニ役を演じた。2008年に、''[[:en:Dead Set (TV series)|Dead Set]]'' にクレア役で出演した。2010年、トレビドラマ『[[反撃のレスキュー・ミッション]]』にダニー・プレンディヴィル役で出演した。
2011年9月16日に初放送された予算1,500万ドルのテレビドラマ『[[Terra Nova 〜未来創世記]]』の主要登場人物の一人に[[スティーヴン・スピルバーグ|スピルバーグ]]によって選ばれた<ref>{{cite news|last1=Adams|first1=Guy|title=Spielberg picks new leading lady from wards of 'Casualty'|url=https://www.independent.co.uk/arts-entertainment/films/news/spielberg-picks-new-leading-lady-from-wards-of-casualty-2094579.html|accessdate=25 August 2014|work=[[The Independent]]|date=1 October 2010}}</ref>。2014年、アメリカのテレビドラマ ''[[:en:The Lottery (TV series)|The Lottery]]'' に出演した<ref>{{cite news|title=Lincolnshire actor Jonathan Kerrigan to star in BBC drama starting tonight|url=http://www.lincolnshireecho.co.uk/Lincolnshire-actor-Jonathan-Kerrigan-star-BBC/story-22049886-detail/story.html|accessdate=25 August 2014|work=[[Lincolnshire Echo]]|date=5 August 2014}}</ref>。
コンは、[[ジュリア・クイン]]のブリジャートン・シリーズの2冊目『{{仮リンク|不機嫌な子爵の見る夢は|en|The Viscount Who Loved Me}}』をもとしにした、Netflixの恋愛時代ドラマ『[[ブリジャートン家]]』の第2シーズンにメアリー・シャルマ役で出演した<ref>{{cite journal |last=Andreeva |first=Nellie |date=15 February 2021 |title='Bridgerton': Simone Ashley Lands Female Lead In Season 2 Of Netflix Hit From Shondaland |url=https://deadline.com/2021/02/bridgerton-simone-ashley-cast-female-lead-season-2-kate-sharma-sheffield-netflix-shondaland-anthony-1234693368/ |journal=Deadline |access-date=15 February 2021}}</ref>。このシリーズは2022年3月に公開された。
== 私生活 ==
コンはロンドン在住で、俳優仲間の{{仮リンク|ジョナサン・ケリガン|en|Jonathan Kerrigan}}と結婚し、2012年に男児を出産した。
2006年の[[ロンドンマラソン]]に出場した<ref>{{cite news|title=Flora London Marathon 2006 – 07 Celebrities and Politicians – Celebrities Running in 2006|url=http://www.london-marathon.co.uk/site/media_centre/pdf/media_pack/celebs_and_politicians.pdf|accessdate=25 August 2014|work=[[London Marathon]]|year=2006|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070927195026/http://www.london-marathon.co.uk/site/media_centre/pdf/media_pack/celebs_and_politicians.pdf|archivedate=27 September 2007}}</ref>。
== 出演作品 ==
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| ''The Last Musketeer''
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|
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| ''City Central''
| Naz
|
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| ''[[:en:Maybe Baby (2000 film)|Maybe Baby]]''
| Nurse 2
|
|-
| ''[[:en:Attachments (TV series)|Attachments]]''
| Carrie Knowles
|
|-
| ''[[:en:Down to Earth (2000 TV series)|Down to Earth]]''
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| Series 5
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| {{dts|2000}}—2002
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| Daljit Ramanee
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| Sharim Raziq
|
|-
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|
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| ''[[:en:Man and Boy (2002 film)|Man and Boy]]''
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|
|-
| {{dts|2007}}
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| Ashika Chandiramani
|
|-
| {{dts|2008}}–2010
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|-
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|
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|
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|
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| ''[[:en:The Lottery (TV series)|The Lottery]]''
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|
|-
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| {{dts|2015}}
| ''[[:en:W1A (TV series)|W1A]]''
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|-
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|
|-
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|
|-
|2022
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|主要人物(シーズン2)
|-
|2023
|『[[グッド・オーメンズ]]』
|ベルゼブブ
|
|-
| 2023
| 『[[ジェン・ブイ]]』
| インディラ・シェティ
| 主要人物
|}
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
*{{IMDb name|174909}}
{{Authority control}}
{{DEFAULTSORT:こん しえりい}}
[[Category:1976年生]]
[[Category:21世紀イングランドの女優]]
[[Category:インド系イングランド人]]
[[Category:ポルトガル系イングランド人]]
[[Category:バーネット区出身の人物]]
[[Category:存命人物]]
|
2023-10-09T06:41:16Z
|
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"Template:IMDb name"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3
|
4,839,387 |
島村彬
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島村 彬(しまむら あきら、安永6年(1777年) - 弘化2年(1845年)は、江戸時代後期の儒学者、教育者。号は儺川。字(あざな)は子質。通称は孫六。
福岡藩士秋吉代蔵の子として生まれ、福岡藩の藩校修猷館教授島村遜の養嫡子となる。
文化10年(1813年)修猷館の指南本役助を経て教授となり、藩主の伴読役をつとめた。福岡藩主黒田家の家譜の編修にも携わった。
弘化2年6月(1845年)致仕して後に死去。
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島村 彬(しまむら あきら、安永6年 - 弘化2年は、江戸時代後期の儒学者、教育者。号は儺川。字は子質。通称は孫六。
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'''島村 彬'''(しまむら あきら、[[安永]]6年([[1777年]]) - [[弘化]]2年([[1845年]])は、[[江戸時代]]後期の[[儒学者]]、教育者。[[号 (称号)|号]]は儺川。[[字]](あざな)は子質。[[通称]]は孫六<ref name=jinmei>『日本人名大辞典』(講談社、2001年)936頁</ref>。[[福岡藩]]藩儒<ref name=kinsei>笠井助治『近世藩校に於ける学統学派の研究 下』(吉川弘文館、1970年)1562頁</ref>。
==経歴==
福岡藩士秋吉代蔵の子として生まれ、福岡藩の[[藩校]][[福岡県立修猷館高等学校|修猷館]]教授島村遜の養嫡子となる<ref name=senken>『福岡県先賢人名辞典』(文照堂書店、1933年)30頁</ref>。
文化10年(1813年)修猷館の指南本役助を経て教授となり、藩主の伴読役をつとめた<ref name=senken/>。福岡藩主[[黒田氏|黒田家]]の[[家譜]]の編修にも携わった<ref name=jinmei/>。
弘化2年6月(1845年)致仕して後に死去<ref name=senken/>。
== 出典 ==
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{{DEFAULTSORT:しまむら あきら}}
[[Category:江戸時代の儒学者]]
[[Category:19世紀日本の儒学者]]
[[Category:19世紀日本の教育者]]
[[Category:福岡藩の人物]]
[[Category:筑前国の人物]]
[[Category:1777年生]]
[[Category:1845年没]]
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四角大輔
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四角 大輔(よすみ だいすけ, 1970年 - )は、日本の文筆家。
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四角 大輔は、日本の文筆家。
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'''四角 大輔'''(よすみ だいすけ、[[1970年]] - )は、日本の文筆家。
== 著作 ==
=== 単著 ===
* 『やらなくてもいい、できなくてもいい』サンマーク出版、2010年
* 『自由であり続けるために 20代で捨てるべき50のこと』サンクチュアリ出版、2012年
* 『人生やらなくていいリスト』講談社、2018年
* 『バックパッキング登山入門』エイ出版社、2018年
* 『バックパッキング登山紀行』エイ出版社、2018年
* 『超ミニマル主義』ダイヤモンド社、2022年
* 『超ミニマル・ライフ』ダイヤモンド社、2023年
=== 共著 ===
* 『FLY FISHING TRIP〈01〉18人の釣りの旅』渡渉舎、2010年
* 『モバイルボヘミアン 旅するように働き、生きるには』ライツ社、2017年
* 『LOVELY GREEN NEW ZEALAND 未来の国を旅するガイドブック』学研プラス、2021年
== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
* [https://daisukeyosumi.com/ Daisuke YOSUMI 四角大輔Official HP]
* {{Twitter|DaisukeYosumi}}
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[[Category:存命人物]]
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深圳世界大学生運動会体育中心
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深圳世界大学生運動会体育中心(シンセンせかいだいがくせいうんどうかいたいいくちゅうしん、深圳世界大学生运动会体育中心、深圳大运中心)は、中華人民共和国広東省深圳市龍崗区に位置する競技場(スタジアム)。2011年夏季ユニバーシアード主会場として整備された。コンサート会場としても利用されている。
ユニバーシアード夏季大会開催に合わせ、2011年に完成した。総面積は52万平方メートル、総建築面積は29万平方メートルで、メインスタジアム、体育館、プールに分かれている。中央には湖がある。座席数は、スタジアム6万席、体育館1万8千席、プール3,000席となっている。施設の形状から「水晶石」の別名がある。設計はゲルカン・マルク・アンド・パートナー。
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[[File:Shenzhen Universiade Sports Centre 20170730.jpg|thumb|300px|深圳世界大学生運動会体育中心]]
'''深圳世界大学生運動会体育中心'''(シンセンせかいだいがくせいうんどうかいたいいくちゅうしん、深圳世界大学生运动会体育中心、深圳大运中心)は、[[中華人民共和国]][[広東省]][[深圳市]][[龍崗区]]に位置する[[競技場]](スタジアム)。[[2011年夏季ユニバーシアード]]主会場として整備された。[[コンサート]]会場としても利用されている。
== 概要 ==
[[File:大运中心游泳馆.jpg|thumb|遊泳館]]
[[File:深圳龙岗大运中心体育馆内部.jpg|thumb|スタジアム内部]]
ユニバーシアード夏季大会開催に合わせ、[[2011年]]に完成した。総面積は52万平方メートル、総建築面積は29万平方メートルで、メインスタジアム、体育館、プールに分かれている。中央には[[湖]]がある。座席数は、スタジアム6万席、体育館1万8千席、プール3,000席となっている。施設の形状から「[[水晶]]石」の別名がある。設計は[[ゲルカン・マルク・アンド・パートナー]]。
== 使用イベント ==
[[File:26 Universiade memorial in Shenzhen Universiade Center.jpg|thumb|記念碑]]
* [[深圳市足球倶楽部]] - ホームスタジアム
* [[深圳新世紀烈豹籃球倶楽部]] - ホームスタジアム
* [[2011年夏季ユニバーシアード]] - 主会場
* [[2019年FIBAバスケットボール・ワールドカップ]] - 一部試合が行われた。
== 関連項目 ==
* [[中国のスポーツ]]
== 外部リンク ==
* [http://www.szad.com.cn/tyjz/91.html 深圳市世界大学生运动会体育中心]
{{中国サッカー・スーパーリーグスタジアム}}
{{DEFAULTSORT:しんせんせかいたいかくせいうんとうかいたいいくちゆうしん}}
[[Category:深圳の競技場]]
[[Category:中国のバスケットボール競技施設]]
[[Category:中国のサッカー競技施設]]
[[Category:国際プール]]
[[Category:2011年竣工の建築物]]
[[Category:中国のコンサート会場]]
[[Category:広東省のスポーツ]]
[[Category:竜崗区]]
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塚本邦雄賞
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塚本邦雄賞(つかもとくにおしょう)は、日本の短歌の賞である。歌人・作家で前衛短歌の旗手・塚本邦雄の生誕百年を記念して創設された。第1回の発表は2020年。
短歌研究社が主催し、塚本青史が顧問を務める。「短歌という文学の可能性を広げ、深化させ得た短歌歌集作品とその作者を顕彰する」としており、「選考会の前年4月1日から当年3月31日までに刊行された歌集」が対象となる。「第二歌集以降」という条件があり、独自の歌風と実力を有する、新鋭~中堅歌人が選出されている。
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'''塚本邦雄賞'''(つかもとくにおしょう)は、[[日本]]の[[短歌]]の賞である。[[歌人]]・[[作家]]で[[前衛短歌]]の旗手・[[塚本邦雄]]の生誕百年を記念して創設された。第1回の発表は2020年。
==概要==
[[短歌研究社]]が主催し、[[塚本青史]]が顧問を務める。「短歌という文学の可能性を広げ、深化させ得た短歌歌集作品とその作者を顕彰する」としており、「選考会の前年4月1日から当年3月31日までに刊行された歌集」が対象となる<ref>[https://www.tankakenkyu.co.jp/%E7%9F%AD%E6%AD%8C%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%A4%BE%E3%81%AE%E8%B3%9E/| 「短歌研究社HP」短歌研究社の賞]</ref>。「第二歌集以降」という条件があり、独自の歌風と実力を有する、新鋭~中堅歌人が選出されている。
==歴代受賞者==
*第一回(2020年):[[石川美南]]『体内飛行』短歌研究社。ISBN 978-4-86272-640-7
**次席:[[楠誓英]]『禽眼圖』[[書肆侃侃房]]<ref>[https://www.chunichi.co.jp/article/103100| 『中日新聞』「<大波小波>塚本邦雄賞が生まれた夏」2020年8月11日]2023年10月9日閲覧。</ref>。ISBN 978-4-86385-386-7
**選考委員:[[坂井修一]]、[[水原紫苑]]、[[穂村弘]]、[[北村薫]]。
*第二回(2021年):[[高木佳子]]『玄牝』[[砂子屋書房]]。ISBN 978-4-7904-1762-0 [[永井祐]]『広い世界と2や8や7』[[左右社]]。ISBN 978-4-86528-005-0
**選考委員:坂井修一、水原紫苑、穂村弘、北村薫<ref>[http://tankaful.net/awards/a27| web「tankaful」塚本邦雄賞の記録]2023年10月9日閲覧。</ref>。
*第三回(2022年):[[山崎聡子 (歌人)|山崎聡子]]『青い舌』書肆侃侃房。ISBN 978-4-86385-470-3
**第三回特別賞:(受賞者)[[島内景二]]、(対象作品)『[文庫版]塚本邦雄全歌集』(全8巻)短歌研究社。第一巻 ISBN 978-4-86272-551-6
**選考委員:坂井修一、水原紫苑、穂村弘、北村薫<ref>[http://bookpooh.com/archives/41171| web「本のページ」2022年8月号12日]2023年10月9日閲覧。</ref>。
*第四回(2023年):[[大森静佳]]『ヘクタール』[[文藝春秋]]。ISBN 978-4-16-391573-9
**選考委員:坂井修一、水原紫苑、穂村弘。
==脚注==
{{Reflist}}
==外部リンク==
*[https://www.tankakenkyu.co.jp/%E7%9F%AD%E6%AD%8C%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%A4%BE%E3%81%AE%E8%B3%9E/%E5%A1%9A%E6%9C%AC%E9%82%A6%E9%9B%84%E8%B3%9E/| 短歌研究社公式サイト内「塚本邦雄賞」]
{{DEFAULTSORT:つかもとくにおしよう}}
[[Category:短歌の賞]]
[[Category:人名を冠した文学賞]]
[[Category:塚本邦雄]]
[[Category:2020年開始のイベント]]
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李満住
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李満住は、明朝初期の女真族。初代建州衛主・阿哈出の孫、二代目衛主・釋家奴の子。初代建州左衛主・猛哥帖木児の外甥。三代目建州衛主。
父・釈家奴の死後に建州衛指揮使を承襲し、当初は「回波江」の「方州」に住んだ。「方州」は「房州」とも称され、輝発河流域の鳳州 (奉州とも、現吉林省通化市梅河口市山城鎮に比定)と同じ土地を指すとされる。その後、忽剌温野人や韃靼の騒擾をうけて永楽21年 (1424, 李朝世宗6) 旧暦4月、鴨緑江支流の一つ婆猪江 (佟佳江とも、現渾江) の多回坪などへの移住を勅許され、指揮・沈時里哈、沈者羅老、盛舍歹、童所老ら1,000余戸を率いて、婆猪江 (現渾江) 江畔にある兀喇山城 (現遼寧省本渓市桓仁満族自治県桓仁鎮五女山城南麓) 一帯まで南遷した。
正統7年 (1442)、都指揮僉事 (正三品) から都督僉事 (正二品) に昇格。正統12年 (1447)、都督僉事から都督同知 (従一品) に昇格。
成化3年 (1467) 旧暦4月、董山らは明朝の懐柔を受け容れ、李古納哈らを派遣して入貢させた。同年旧暦8月、董山が広寧で殺害され、李古納哈は建州に逃げ帰った。同年旧暦9月、明朝は靖虜将軍・趙輔らに命じて50,000の大軍を分隊させ、建州の大本営である仏阿拉 (フェアラ) を襲撃させた。その一方で、明朝は李朝の兵に建州を挟撃させた。李朝は康純らに10,000以上の兵馬を率いて掃討に向かわせ、同年旧暦9月2日、朝鮮軍は鴨緑江を渡り、29日、婆猪江 (現渾江) 沿岸に住む李満住らの諸集落を襲撃した。30日、兀弥府をおとされた李満住および子・李古納哈と、管下の286人が殺害、捕縛され、成化4年 (1468) 旧暦正月、俘虜は成化帝に引き渡された。成化5年 (1469)、古納哈の子・完者禿が都督僉事を承襲した。
宣徳元年 (1426) 旧暦正月、建州衛の「舍人」として入朝。
宣徳4年 (1429) 旧暦3月、朝廷の侍衛職を要望したが、部曲を統御する人物がいなくてはならないことを理由に明朝に却下された。
宣徳5年 (1430) 旧暦3月、入貢。
宣徳5年 (1430) 旧暦3月、毛憐衛の官保奴 (都督・莽哥不花の遺子) らと入貢。
宣徳5年 (1430) 旧暦4月、朝鮮域内での交易を希望するも李朝が許可しない為、上奏。明朝は李朝側の方針を尊重し、妄りに境界を侵犯せぬよう李満住に釘を差す一方で、遼東辺境での交易を許可した。
宣徳10年 (1435) 旧暦正月、宣徳帝崩御。正統帝即位。
宣徳10年 (1435) 旧暦2月、忽剌温 (海西) 境內の野人女直・那列禿らが群衆を率いて那顔集落を掠奪した為、毛憐衞都督・撒満答失里とともに使者を派遣して上奏。明朝は使者をして那列禿を勅諭せしめ、掠奪物および虜囚の返還を命じた。
宣徳10年 (1435) 旧暦6月、東寧衛からの逃亡者を返還するという李満住からの申し出を承け、明朝はその忠誠を嘉するとともに、本籍地への返還を命じた。
宣徳10年 (1435) 旧暦11月、李満住らが忽剌温の野人女直と結託して朝鮮辺境を度々侵犯していると、朝鮮国王・李祹が討伐を奏請した。明朝は、出兵に値しないとして斥けた。
正統元年 (1436) 旧暦閏6月、使者を派遣し入貢。
正統元年 (1436) 旧暦閏6月、婆猪江 (現渾江) の住居が忽剌温野人女直の騒擾をうけるようになった為、遼陽草河への移住を奏請した。
正統元年 (1436) 旧暦閏6月、子・古納哈らを派遣し入貢。併せて東寧衛からの逃亡者48人を本籍地に返還。明朝はこれを聞き嘉した。
正統3年 (1438) 旧暦2月、建州衛の農民が朝鮮軍に謂れなく殺害され、建州軍が報復に李朝の必屯城を襲撃したという事件を承けて、明朝は李満住に朝鮮側と和睦するよう諭した。
正統3年 (1438) 旧暦6月、指揮・趙歹因哈を派遣し、1移住の許可を奏請。建州衛は婆猪江 (現渾江) 江畔の住居が度々朝鮮軍の襲撃を受けたため、倉皇として竈突山東南の渾河上流 (蘇子河)に避難していた。併せて、2毛憐衛の衛印の再賜与を奏請。衛主・猛哥不花 (李満住の叔父) の死後、指揮・阿里が衛印を占有した為、後を継いだ猛哥不花の子・撒満荅失里が衛事を処理するのに支障を来していた。明朝は、移住は許諾したが、衛印の再賜与については、阿里が毛憐衛の本拠にいたのに対し、撒満荅失里は建州衛に滞在していたことから斥けた上で、上奏の際は李満住を介するよう命じた。
正統6年 (1441) 旧暦正月、明朝は、開原から逃亡した土兵・馬哈剌らの内、その舍人二人が建州衛に拘留されていると聞き、李満住に返還を命じた。
正統6年 (1441) 旧暦2月、明朝は、建州左衞の凡察が朝鮮襲撃を企てていると聞き及び、凡察に計画の中止を諭す一方で、凡察の計画に加担せぬよう李満住らを諭した。
正統6年 (1441) 旧暦7月、朝鮮側が建州左衛の属民を拘留して返還しようとしないと凡察らが主張していることについて、明朝は李満住らに、暫くは動静を見守り、決して妄りに朝鮮と事を構えるような挙動をとらぬよう釘を差した。
正統7年 (1442) 旧暦正月、李満住が派遣した建州衛指揮・安屯らが毛憐衛都督・李撒満荅失里らとともに入貢。
正統7年 (1442) 旧暦正月、都指揮僉事から都督僉事に昇格。
正統7年 (1442) 旧暦2月、三万衛 (現遼寧省鉄嶺市開原市) から逃亡した土兵の内、一部が未だ本地に帰還していないとして、明朝はその返還を求めた。また、李満住の奏請を受け容れて、建州衛の指揮同知・劄剌兀 (故人) の子・鎖羅幹、沈保奴 (故人) の子・咬納、黄福羊姑 (故人) の子・阿哈出、指揮僉事・禿迷剌 (故人) の子・卜郎哈らにそれぞれ襲職させ、指揮同知・王吉散禿を指揮使に昇格させ、千戸百戸の舍人・伯克ら10人に官職を授けた。
正統7年 (1442) 旧暦5月、李満住は曩きに朝鮮の軍馬に11人を拉致されたと上奏していたが、明朝は朝鮮国王・李祹からの上奏として、死亡した一名を除いた10名が建州衛の卜剌兀の引率で遼東都司に引き渡されたことを伝えた。
正統8年 (1443) 旧暦10月、兀良哈 (朶顔衛) の遼東侵犯を事前に通報。
正統9年 (1444) 旧暦正月、明朝は、李満住の奏請を受け容れ、安禿を指揮同知から指揮使に、黄罕を千戸から指揮僉事に昇格させ、趙章加、官音不花、昌塔らに百戸を授けた。
正統9年 (1444) 旧暦正月、指揮・郎克苦らが前年高麗から220名余りを引き連れて帰還したが、食糧が不足しているとして支援を要請。明朝は糧米を配給した。
正統9年 (1444) 旧暦11月、使者を派遣し入貢。
正統9年 (1444) 旧暦12月、明朝は、李満住の奏請を受け容れ、子・都喜に副千戸を授けた。
正統11年 (1446) 旧暦6月、茂昌郡 (現朝鮮民主主義人民共和国両江道金亨稷郡)が野人女直50余人に急襲されて人畜が掠奪され、朝鮮側は李満住の属部に嫌疑をかけた。明朝は李満住の許へ使者を派遣するとともに、属部の取り締まりを強めるよう勅諭を出した。
正統11年 (1446) 旧暦11月、明朝は朝鮮に対し、女真の者児兀歹ら10名を遼東に引き渡すよう諭した。朝鮮側は遡ること同年旧暦4月に、女直が朝鮮辺境を侵犯した挙句に人畜を掠奪したと上奏し、更に李満住の管轄下の者が朝鮮に復讐すると息巻いているのを聞いていた。そこで明朝が官吏を派遣して調査を進めていた折り、肥河衛の都督僉事・別里格らは掠奪した10名を遼東まで送致させ、その際、建州に住んでいた者児兀歹らが宣徳8年に朝鮮の軍馬に多数を殺戮され、10名が拉致されたと上奏した。明朝は朝鮮側に対する女真の復讐であると結論づけた。
正統11年 (1446) 旧暦12月、李満住と凡察らが使者を派遣し入貢。
正統12年 (1447) 旧暦正月、都督僉事から都督同知に昇格。
正統12年 (1447) 旧暦7月、兀良哈の入朝者が、瓦剌 (オイラト) による侵掠を上奏し、明朝側は女真各部にも注意を促すとともに、侵略者は捕らえて誅殺するよう命じた。
正統13年 (1448) 旧暦正月、北虜 (オイラト) が女真各部に叛乱を唆していることをうけ、明朝は女真各部に誘いに乗らぬよう釘をさした。
正統14年 (1449)、土木の変。
景泰元年 (1450) 旧暦5月、北虜 (オイラト) の脅迫を受けた建州三衛など諸衛が15,000余人を率いて開原、瀋陽などを襲撃して人畜を掠奪し、撫順を包囲したという情報を得た明朝は、素より朝鮮を仇敵視している建州からの攻撃に備えるよう朝鮮國王・李珦に通達した。
景泰元年 (1450) 旧暦5月、李満住が胡虜 (オイラト) 都督・剌塔と内通していることをうけ、機密の漏洩を恐れた明朝は鎮守遼東太監・易信を北京に召還した。
景泰元年 (1450) 旧暦6月、提督遼東軍務左都御史の王翺は、李満住と剌塔らが度々辺境を恣に掠奪していることを承け、軍を三路にわけてまづは李満住、凡寨、董山の三者を補殺することを上奏した。
景泰2年 (1451) 旧暦2月、李満住らが奸計をつくし、俘虜を送還しながら属部を野放図に掠奪させていることを承け、王翺らは、怪しい動きをすれば機を捉えて掃滅するよう下達した。
景泰2年 (1451) 旧暦10月、李満住が自ら入貢し謝罪。
景泰3年 (1452) 旧暦7月、北京に召還された都御史・王翺の遼東鎮守再任を奏請するも、明朝は王翺が既に別の職に任じているとして却下。また、趙安禿を建州衛指揮使から都指揮僉事に昇格。
景泰6年 (1455) 旧暦12月、明朝は古納哈に父・李満住の職を承襲させた。
天順2年 (1458) 旧暦正月、使者を派遣し入貢。
天順4年 (1460) 旧暦10月、朝鮮世祖・李瑈より、会寧鎮 (現朝鮮民主主義人民共和国咸鏡北道会寧) に代々居住してきた斡朵里の一派が阿比車と辺境侵犯を企図した末に建州衛の李満住の許に遁走したと上奏した。李満住と共謀して襲撃するつもりだとする朝鮮側の主張をうけて、明朝は建州衛に使者を遣った。
成化4年 (1468) 旧暦正月、朝鮮世祖・李瑈は陪臣・高台弼を派遣し、建州衛が俘虜とした東寧衛の属民を献上した。これに先立って明朝は建州征討に際して朝鮮に出兵を要請し、朝鮮は兵10,000余をつけて中枢府知事・康純らを派遣した。朝鮮軍は鴨緑江、潑豬江 (=婆猪江、現渾江) を渡って兀獮府 (=吾彌府、現遼寧省本渓市) の諸集落を襲撃し、李満住および子・古納哈らを殺害して首級386をあげ、23名を捕縛、牛馬200余を接収した上で、集落217箇所を焼燬した。
満洲族の祖先は始祖・ブクリ・ヨンションの代から絶えずサハリヤン・ウラ (黒龍江)、スンガリ・ウラ (松花江) 流域を南に移徙し、猛哥帖木児と凡察の代にウスリ・ウラ (烏蘇里江) 南東と朝鮮半島北東部 (現北朝鮮咸鏡南道会寧市一帯) に定住した。永楽4年 (1406)、初代建州衛主・阿哈出の推挙を承けて、明朝は猛哥帖木児を建州衛都指揮使 (李朝からは建州衛斡朵里と呼称された) に任命し、このことが李朝側の不満を買った。永楽9年 (1411)、猛哥帖木児の一行が鳳州に移住した。李朝側は、かつて慶源を侵犯した猛哥帖木児らが李朝からの報復を恐れたためと考えた。永楽14年 (1416)、明朝は建州左衞を鳳州に正式に設置し、猛哥帖木児に左衛の事務を任せた。永楽22年 (1424)、建州衛とともに婆猪江に移住しつつ、猛哥帖木児は属部を率いて李朝国境内の故地・阿木河 (現会寧市) へ戻った。宣徳8年 (1433)、楊木答兀が嫌真兀狄哈の首領・弗答哈、葛多介らと結託して建州を襲撃し、猛哥帖木児とその長子・阿古らが犠牲となった。
正統5年 (1440)、凡察と猛哥帖木児の次子・査山 (清代には充善、董山とも) は兀狄哈による掠奪を懼れ、資財も底をつきかけ食べ物に飢えていたことから、会寧から西遷し遼東へ向った。同行した300余戸を除いた別の100余戸は会寧に残留した。渾河上流の蘇子河に行き着いた一行は、これより早く会寧を発った別の一派と合流し、阿古の妻は遺子を妊ったまま李満住に再嫁した。外部の敵から身を守る必要から建州衛と建州左衛は再び手を組み、異なる部落間における満洲族祖先の血縁関係に新たな進展を齎した。
猛哥帖木児と凡察の姉は李満住の母にあたり、阿古、董山は李満住の従兄弟にあたる。但し、董山 (ヌルハチの五世祖) は李満住の娘を娶った為、猛哥帖木儿と李満住は血縁関係上、いづれもヌルハチの祖先とみることができる。
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"text": "李満住は、明朝初期の女真族。初代建州衛主・阿哈出の孫、二代目衛主・釋家奴の子。初代建州左衛主・猛哥帖木児の外甥。三代目建州衛主。",
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"text": "父・釈家奴の死後に建州衛指揮使を承襲し、当初は「回波江」の「方州」に住んだ。「方州」は「房州」とも称され、輝発河流域の鳳州 (奉州とも、現吉林省通化市梅河口市山城鎮に比定)と同じ土地を指すとされる。その後、忽剌温野人や韃靼の騒擾をうけて永楽21年 (1424, 李朝世宗6) 旧暦4月、鴨緑江支流の一つ婆猪江 (佟佳江とも、現渾江) の多回坪などへの移住を勅許され、指揮・沈時里哈、沈者羅老、盛舍歹、童所老ら1,000余戸を率いて、婆猪江 (現渾江) 江畔にある兀喇山城 (現遼寧省本渓市桓仁満族自治県桓仁鎮五女山城南麓) 一帯まで南遷した。",
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"text": "正統7年 (1442)、都指揮僉事 (正三品) から都督僉事 (正二品) に昇格。正統12年 (1447)、都督僉事から都督同知 (従一品) に昇格。",
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"text": "成化3年 (1467) 旧暦4月、董山らは明朝の懐柔を受け容れ、李古納哈らを派遣して入貢させた。同年旧暦8月、董山が広寧で殺害され、李古納哈は建州に逃げ帰った。同年旧暦9月、明朝は靖虜将軍・趙輔らに命じて50,000の大軍を分隊させ、建州の大本営である仏阿拉 (フェアラ) を襲撃させた。その一方で、明朝は李朝の兵に建州を挟撃させた。李朝は康純らに10,000以上の兵馬を率いて掃討に向かわせ、同年旧暦9月2日、朝鮮軍は鴨緑江を渡り、29日、婆猪江 (現渾江) 沿岸に住む李満住らの諸集落を襲撃した。30日、兀弥府をおとされた李満住および子・李古納哈と、管下の286人が殺害、捕縛され、成化4年 (1468) 旧暦正月、俘虜は成化帝に引き渡された。成化5年 (1469)、古納哈の子・完者禿が都督僉事を承襲した。",
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"text": "宣徳元年 (1426) 旧暦正月、建州衛の「舍人」として入朝。",
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"text": "宣徳4年 (1429) 旧暦3月、朝廷の侍衛職を要望したが、部曲を統御する人物がいなくてはならないことを理由に明朝に却下された。",
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"text": "宣徳5年 (1430) 旧暦3月、入貢。",
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"text": "宣徳5年 (1430) 旧暦3月、毛憐衛の官保奴 (都督・莽哥不花の遺子) らと入貢。",
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"text": "宣徳5年 (1430) 旧暦4月、朝鮮域内での交易を希望するも李朝が許可しない為、上奏。明朝は李朝側の方針を尊重し、妄りに境界を侵犯せぬよう李満住に釘を差す一方で、遼東辺境での交易を許可した。",
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"text": "宣徳10年 (1435) 旧暦正月、宣徳帝崩御。正統帝即位。",
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"text": "宣徳10年 (1435) 旧暦2月、忽剌温 (海西) 境內の野人女直・那列禿らが群衆を率いて那顔集落を掠奪した為、毛憐衞都督・撒満答失里とともに使者を派遣して上奏。明朝は使者をして那列禿を勅諭せしめ、掠奪物および虜囚の返還を命じた。",
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"text": "宣徳10年 (1435) 旧暦6月、東寧衛からの逃亡者を返還するという李満住からの申し出を承け、明朝はその忠誠を嘉するとともに、本籍地への返還を命じた。",
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"text": "宣徳10年 (1435) 旧暦11月、李満住らが忽剌温の野人女直と結託して朝鮮辺境を度々侵犯していると、朝鮮国王・李祹が討伐を奏請した。明朝は、出兵に値しないとして斥けた。",
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"text": "正統元年 (1436) 旧暦閏6月、使者を派遣し入貢。",
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"text": "正統元年 (1436) 旧暦閏6月、婆猪江 (現渾江) の住居が忽剌温野人女直の騒擾をうけるようになった為、遼陽草河への移住を奏請した。",
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"text": "正統元年 (1436) 旧暦閏6月、子・古納哈らを派遣し入貢。併せて東寧衛からの逃亡者48人を本籍地に返還。明朝はこれを聞き嘉した。",
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"text": "正統3年 (1438) 旧暦2月、建州衛の農民が朝鮮軍に謂れなく殺害され、建州軍が報復に李朝の必屯城を襲撃したという事件を承けて、明朝は李満住に朝鮮側と和睦するよう諭した。",
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"text": "正統3年 (1438) 旧暦6月、指揮・趙歹因哈を派遣し、1移住の許可を奏請。建州衛は婆猪江 (現渾江) 江畔の住居が度々朝鮮軍の襲撃を受けたため、倉皇として竈突山東南の渾河上流 (蘇子河)に避難していた。併せて、2毛憐衛の衛印の再賜与を奏請。衛主・猛哥不花 (李満住の叔父) の死後、指揮・阿里が衛印を占有した為、後を継いだ猛哥不花の子・撒満荅失里が衛事を処理するのに支障を来していた。明朝は、移住は許諾したが、衛印の再賜与については、阿里が毛憐衛の本拠にいたのに対し、撒満荅失里は建州衛に滞在していたことから斥けた上で、上奏の際は李満住を介するよう命じた。",
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"text": "正統6年 (1441) 旧暦正月、明朝は、開原から逃亡した土兵・馬哈剌らの内、その舍人二人が建州衛に拘留されていると聞き、李満住に返還を命じた。",
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"text": "正統6年 (1441) 旧暦2月、明朝は、建州左衞の凡察が朝鮮襲撃を企てていると聞き及び、凡察に計画の中止を諭す一方で、凡察の計画に加担せぬよう李満住らを諭した。",
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"text": "正統6年 (1441) 旧暦7月、朝鮮側が建州左衛の属民を拘留して返還しようとしないと凡察らが主張していることについて、明朝は李満住らに、暫くは動静を見守り、決して妄りに朝鮮と事を構えるような挙動をとらぬよう釘を差した。",
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"text": "正統7年 (1442) 旧暦正月、李満住が派遣した建州衛指揮・安屯らが毛憐衛都督・李撒満荅失里らとともに入貢。",
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"text": "正統7年 (1442) 旧暦正月、都指揮僉事から都督僉事に昇格。",
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"text": "正統7年 (1442) 旧暦2月、三万衛 (現遼寧省鉄嶺市開原市) から逃亡した土兵の内、一部が未だ本地に帰還していないとして、明朝はその返還を求めた。また、李満住の奏請を受け容れて、建州衛の指揮同知・劄剌兀 (故人) の子・鎖羅幹、沈保奴 (故人) の子・咬納、黄福羊姑 (故人) の子・阿哈出、指揮僉事・禿迷剌 (故人) の子・卜郎哈らにそれぞれ襲職させ、指揮同知・王吉散禿を指揮使に昇格させ、千戸百戸の舍人・伯克ら10人に官職を授けた。",
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"text": "正統7年 (1442) 旧暦5月、李満住は曩きに朝鮮の軍馬に11人を拉致されたと上奏していたが、明朝は朝鮮国王・李祹からの上奏として、死亡した一名を除いた10名が建州衛の卜剌兀の引率で遼東都司に引き渡されたことを伝えた。",
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"text": "正統8年 (1443) 旧暦10月、兀良哈 (朶顔衛) の遼東侵犯を事前に通報。",
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"text": "正統9年 (1444) 旧暦正月、明朝は、李満住の奏請を受け容れ、安禿を指揮同知から指揮使に、黄罕を千戸から指揮僉事に昇格させ、趙章加、官音不花、昌塔らに百戸を授けた。",
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"text": "正統9年 (1444) 旧暦正月、指揮・郎克苦らが前年高麗から220名余りを引き連れて帰還したが、食糧が不足しているとして支援を要請。明朝は糧米を配給した。",
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"text": "正統9年 (1444) 旧暦11月、使者を派遣し入貢。",
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"text": "正統9年 (1444) 旧暦12月、明朝は、李満住の奏請を受け容れ、子・都喜に副千戸を授けた。",
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"text": "正統11年 (1446) 旧暦6月、茂昌郡 (現朝鮮民主主義人民共和国両江道金亨稷郡)が野人女直50余人に急襲されて人畜が掠奪され、朝鮮側は李満住の属部に嫌疑をかけた。明朝は李満住の許へ使者を派遣するとともに、属部の取り締まりを強めるよう勅諭を出した。",
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"text": "正統11年 (1446) 旧暦11月、明朝は朝鮮に対し、女真の者児兀歹ら10名を遼東に引き渡すよう諭した。朝鮮側は遡ること同年旧暦4月に、女直が朝鮮辺境を侵犯した挙句に人畜を掠奪したと上奏し、更に李満住の管轄下の者が朝鮮に復讐すると息巻いているのを聞いていた。そこで明朝が官吏を派遣して調査を進めていた折り、肥河衛の都督僉事・別里格らは掠奪した10名を遼東まで送致させ、その際、建州に住んでいた者児兀歹らが宣徳8年に朝鮮の軍馬に多数を殺戮され、10名が拉致されたと上奏した。明朝は朝鮮側に対する女真の復讐であると結論づけた。",
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"text": "正統11年 (1446) 旧暦12月、李満住と凡察らが使者を派遣し入貢。",
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"text": "正統12年 (1447) 旧暦正月、都督僉事から都督同知に昇格。",
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"text": "正統12年 (1447) 旧暦7月、兀良哈の入朝者が、瓦剌 (オイラト) による侵掠を上奏し、明朝側は女真各部にも注意を促すとともに、侵略者は捕らえて誅殺するよう命じた。",
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"text": "正統13年 (1448) 旧暦正月、北虜 (オイラト) が女真各部に叛乱を唆していることをうけ、明朝は女真各部に誘いに乗らぬよう釘をさした。",
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"text": "正統14年 (1449)、土木の変。",
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"text": "景泰元年 (1450) 旧暦5月、北虜 (オイラト) の脅迫を受けた建州三衛など諸衛が15,000余人を率いて開原、瀋陽などを襲撃して人畜を掠奪し、撫順を包囲したという情報を得た明朝は、素より朝鮮を仇敵視している建州からの攻撃に備えるよう朝鮮國王・李珦に通達した。",
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"text": "景泰元年 (1450) 旧暦5月、李満住が胡虜 (オイラト) 都督・剌塔と内通していることをうけ、機密の漏洩を恐れた明朝は鎮守遼東太監・易信を北京に召還した。",
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"text": "景泰元年 (1450) 旧暦6月、提督遼東軍務左都御史の王翺は、李満住と剌塔らが度々辺境を恣に掠奪していることを承け、軍を三路にわけてまづは李満住、凡寨、董山の三者を補殺することを上奏した。",
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"text": "景泰2年 (1451) 旧暦2月、李満住らが奸計をつくし、俘虜を送還しながら属部を野放図に掠奪させていることを承け、王翺らは、怪しい動きをすれば機を捉えて掃滅するよう下達した。",
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"text": "景泰2年 (1451) 旧暦10月、李満住が自ら入貢し謝罪。",
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"text": "景泰3年 (1452) 旧暦7月、北京に召還された都御史・王翺の遼東鎮守再任を奏請するも、明朝は王翺が既に別の職に任じているとして却下。また、趙安禿を建州衛指揮使から都指揮僉事に昇格。",
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"text": "景泰6年 (1455) 旧暦12月、明朝は古納哈に父・李満住の職を承襲させた。",
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"text": "天順2年 (1458) 旧暦正月、使者を派遣し入貢。",
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李満住は、明朝初期の女真族。初代建州衛主・阿哈出の孫、二代目衛主・釋家奴の子。初代建州左衛主・猛哥帖木児の外甥。三代目建州衛主。
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<!-- 翻訳元の维基百科「李满住」に情報誤認、典拠不詳の記述が多くみられる為、追って書き換え予定。 -->
{{wikify|date=2023年10月14日 (土) 18:26 (UTC)}}
{{言葉を濁さない|date=2023年10月14日 (土) 18:26 (UTC)}}
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|+ 李満住
|-
! colspan="2" | 出生死歿
|-
| 出生年 || 不詳
|-
| 死歿年 || [[成化]]3 (1467)
|-
! colspan="2" | 一族姻戚
|-
| 祖父 || 初代[[建州衛]]主・[[阿哈出]]
|-
| 父 || 二代建州衛主・[[釈家奴]]
|-
| 子 || 古納哈
|}
'''李満住'''<ref>[[:zh:李满住|维基百科]]は別表記として「李瞞咄」をあげているが、典拠不詳。『明實錄』と『李朝實錄』にはみあたらない。</ref>(りまんじゅう)は、[[明|明朝]]初期の[[女真|女真族]]。初代[[建州衛]]主・[[阿哈出]]の孫、二代目衛主・[[釈家奴|釋家奴]]の子。初代[[建州左衛]]主・[[孟特穆|猛哥帖木児]]の外甥。<ref name=":0">[[:zh:李满住|维基百科]]より引用。典拠不詳。</ref>三代目建州衛主。
== 略歴 ==
父・[[釈家奴]]の死後に建州衛指揮使を承襲し、当初は「回波江」の「方州」に住んだ。「方州」は「房州」とも称され、[[輝発河]]流域の鳳州 (奉州とも、現[[吉林省]][[通化市]][[梅河口市]]山城鎮に比定)<ref>[[:zh:李满住|维基百科]]は「其居地“原住回波江方州”,方州又称房州,即[[輝発河|辉发河]]流域的凤州 (奉州),在今[[黒竜江省|黑龙江省]][[東寧市|东宁县]]大城子古城。」としているが、①まづその典拠不詳。②[[輝発河]] (回波江) は、現[[遼寧省]][[撫順市]]に発し、東北方の現[[吉林省]][[通化市]]に向って流れ、[[松花江]] (第二松花江) に合流する河川である為、[[黒竜江省|黒龍江省]]はその流域にかすりもしない。③[[永楽 (明)|永楽]]10年 (1412) に[[釈家奴]]が三姓地方 (現[[黒竜江省|黒龍江省]][[ハルビン市|ハルピン市]][[依蘭県|イラン県]]) から[[建州衛]]のある土地 (現吉林省) へ移住したという記事が『[[明実録|明實錄]]』にみえるため、李満住の代で現黒龍江省域内に住んでいたとは考えにくい。④[[稲葉岩吉|稻葉岩吉]]、[[箭内亙]]らの研究により鳳州は山城子 (現通化市梅河口市山城鎮) に比定されている。以上の理由から、鳳州を黒龍江省東寧県とする説は採用しない。ただ、満洲語で大きい水流を「ula」と謂い、漢語は「江」が充てられるのに対して、それより規模の小さい水流は「bira」と謂い、「河」があてられる。{{独自研究範囲|輝発河は満洲語で「hoifa bira」であり、「河」と一致するが、「回波江」は「江」があてられていて一致しない。原典は『李朝實錄』であるため、或いはその言語規則を知らず「江」をあてたとも考えられるが、不詳。|date=2023年10月}}</ref>と同じ土地を指すとされる。その後、忽剌温野人や[[タタール#韃靼|韃靼]]の騒擾をうけて[[永楽 (明)|永楽]]21年 (1424, [[李朝]][[世宗 (朝鮮王)|世宗]]6) 旧暦4月、[[鴨緑江]]支流の一つ婆猪江 (佟佳江とも、現[[渾江 (鴨緑江支流)|渾江]]) の多回坪などへの移住を勅許され、指揮・沈時里哈、沈者羅老、盛舍歹、童所老ら1,000余戸を率いて、婆猪江 (現[[渾江 (鴨緑江支流)|渾江]]) 江畔にある兀喇山城 (現[[遼寧省]][[本渓市]][[桓仁満族自治県]][[桓仁鎮]][[五女山]]城南麓) 一帯まで南遷した。
正統7年 (1442)、[[明朝の官職#都指揮使司|都指揮僉事]] (正三品) から[[明朝の官職#五軍都督府|都督僉事]] (正二品) に昇格。正統12年 (1447)、都督僉事から[[明朝の官職#五軍都督府|都督同知]] (従一品) に昇格。
[[成化]]3年 (1467) 旧暦4月、董山らは明朝の懐柔を受け容れ、李古納哈らを派遣して入貢させた。同年旧暦8月、董山が広寧で殺害され、李古納哈は建州に逃げ帰った。同年旧暦9月、明朝は靖虜将軍・趙輔らに命じて50,000の大軍を分隊させ、[[建州]]の大本営である仏阿拉 (フェアラ) を襲撃させた。その一方で、明朝は李朝の兵に建州を挟撃させた。李朝は康純らに10,000以上の兵馬を率いて掃討に向かわせ、同年旧暦9月2日、朝鮮軍は[[鴨緑江]]を渡り、29日、婆猪江 (現[[渾江]]) 沿岸に住む李満住らの諸集落を襲撃した。30日、兀弥府をおとされた李満住および子・李古納哈と、管下の286人が殺害、捕縛され、成化4年 (1468) 旧暦正月、俘虜は[[成化帝]]に引き渡された。成化5年 (1469)、古納哈の子・完者禿が[[都督]]僉事を承襲した。
== 年表 ==
[[宣徳]]元年 (1426) 旧暦正月、[[建州衛]]の「[[舎人|舍人]]」<ref>{{Cite book |title=日本国語大辞典 |publisher=小学館 |chapter=しゃ-じん【舎人】 |quote=〘名〙①王侯らの食客・門下。また、家来。めしつかい。家人。 |url=https://kotobank.jp/word/舎人-105550}}</ref>として入朝。<ref>{{Cite book |title=明宣宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=宣德元年正月24日段13608 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@1^1153496832^809^^^0211001013608^@@63528330#top |volume=13 |quote=○賜……建州衛舍人李滿住……等鈔幣襲衣靴韈有差}}</ref><ref>[[:zh:李满住|维基百科]]は「1425年 ([[洪熙]]元年),首次向明朝进贡马匹方物。」としているが、『明實錄』で確認できる李満住の[[朝貢]]の初出は一年後の1426年 ([[宣徳]]元年)。</ref>
宣徳4年 (1429) 旧暦3月、朝廷の侍衛職を要望したが、[[部曲]]を統御する人物がいなくてはならないことを理由に明朝に却下された。<ref>{{Cite book |title=明宣宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=宣德四年三月1日段14669 |volume=52 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@1^1153496832^809^^^0211001014669^@@179445049#top}}</ref>
宣徳5年 (1430) 旧暦3月、入貢。<ref>{{Cite book |title=明宣宗實錄 |publisher=不詳 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@1^1153496832^809^^^0211001015014^@@237643608#top |chapter=宣德五年三月14日段15014 |volume=64}}</ref>
宣徳5年 (1430) 旧暦3月、毛憐衛の官保奴 ([[都督]]・莽哥不花の遺子) らと入貢。<ref>{{Cite book |title=明宣宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=宣德五年三月27日段15026 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@1^1153496832^809^^^0211001015026^@@65088818#top |volume=64}}</ref>
宣徳5年 (1430) 旧暦4月、朝鮮域内での交易を希望するも[[李氏朝鮮|李朝]]が許可しない為、上奏。明朝は李朝側の方針を尊重し、妄りに境界を侵犯せぬよう李満住に釘を差す一方で、遼東辺境での交易を許可した。<ref>{{Cite book |title=明宣宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=宣德五年四月9日段15039 |volume=65 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@1^1153496832^809^^^0211001015039^@@1749580125#top}}</ref>
宣徳10年 (1435) 旧暦正月、[[宣徳帝]]崩御。[[英宗 (明)|正統帝]]即位。
宣徳10年 (1435) 旧暦2月、忽剌温 (海西) 境內の[[野人女直]]・那列禿らが群衆を率いて那顔集落を掠奪した為、毛憐衞[[都督]]・撒満答失里とともに使者を派遣して上奏。明朝は使者をして那列禿を勅諭せしめ、掠奪物および虜囚の返還を命じた。<ref>{{Cite book |title=明英宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=宣德十年二月6日段16609 |volume=2 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@1^1153496832^809^^^0211001016609^@@1778732179#top}}</ref>
宣徳10年 (1435) 旧暦6月、東寧衛からの逃亡者を返還するという李満住からの申し出を承け、明朝はその忠誠を嘉するとともに、本籍地への返還を命じた。<ref>{{Cite book |title=明英宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=宣德十年六月18日段16718 |volume=6 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@1^1153496832^809^^^0211001016718^@@1171087172#top}}</ref>
宣徳10年 (1435) 旧暦11月、李満住らが忽剌温の野人女直と結託して朝鮮辺境を度々侵犯していると、朝鮮国王・[[世宗 (朝鮮王)|李祹]]が討伐を奏請した。明朝は、出兵に値しないとして斥けた。<ref>{{Cite book |title=明英宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=宣德十年十一月25日段16853 |volume=11 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@1^1153496832^809^^^0211001016853^@@1441878378#top}}</ref>
[[正統 (明)|正統]]元年 (1436) 旧暦[[閏]]6月、使者を派遣し入貢。<ref>{{Cite book |title=明英宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=正統元年閏六月11日段17063 |volume=19 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@1^1153496832^809^^^0211001017063^@@477657922#tree007}}</ref>
正統元年 (1436) 旧暦閏6月、婆猪江 (現[[渾江 (鴨緑江支流)|渾江]]) の住居が忽剌温野人女直の騒擾をうけるようになった為、遼陽草河<sup>不詳</sup>への移住を奏請した。<ref>{{Cite book |title=明英宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=正統元年閏六月18日段17068 |volume=19 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@1^1153496832^809^^^0211001017068^@@883430365#top}}</ref>
正統元年 (1436) 旧暦閏6月、子・古納哈らを派遣し入貢。併せて東寧衛からの逃亡者48人を本籍地に返還。明朝はこれを聞き嘉した。<ref name=":1">{{Cite book |title=明英宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=正統元年閏六月27日段17077 |volume=19 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@1^1153496832^809^^^0211001017077^@@1239371912#top}}</ref>
正統3年 (1438) 旧暦2月、建州衛の農民が朝鮮軍に謂れなく殺害され、建州軍が報復に李朝の必屯城を襲撃したという事件を承けて、明朝は李満住に朝鮮側と和睦するよう諭した。<ref>{{Cite book |title=明英宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=正統三年二月24日段17606 |volume=39 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@1^1153496832^809^^^0211001017606^@@2046113765#top}}</ref>
正統3年 (1438) 旧暦6月、指揮・趙歹因哈を派遣し、①移住の許可を奏請。建州衛は婆猪江 (現[[渾江 (鴨緑江支流)|渾江]]) 江畔の住居が度々朝鮮軍の襲撃を受けたため、倉皇として竈突山東南の[[渾河]]上流 ([[蘇子河]])<ref>[[:zh:李满住|维基百科]]には「……迁居[[渾江 (鴨緑江支流)|佟佳江]][[蘇子河|苏子河]] (灶突山东南[[渾河|浑河]]) ……」とあるが、[[渾江 (鴨緑江支流)|佟佳江]]と[[蘇子河]]は水源も流れる方向も全く異なる。佟佳江 (婆猪江とも、現[[渾江 (鴨緑江支流)|渾江]]) は現[[吉林省]][[白山市 (吉林省)|白山市]]に発し、南西方に流れつつ遼寧省の南東隅を通って[[鴨緑江]]に合流する。[[蘇子河]]は[[遼寧省]][[撫順市]]に発し、真西に向って流れ、[[渾河]]に合流する。</ref>に避難していた。併せて、②毛憐衛の衛印の再賜与を奏請。衛主・猛哥不花 (李満住の叔父) の死後、指揮・阿里が衛印を占有した為、後を継いだ猛哥不花の子・撒満荅失里が衛事を処理するのに支障を来していた。明朝は、移住は許諾したが、衛印の再賜与については、阿里が毛憐衛の本拠にいたのに対し、撒満荅失里は建州衛に滞在していたことから斥けた上で、上奏の際は李満住を介するよう命じた。<ref>{{Cite book |title=明英宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=正統三年六月16日段17698 |volume=43 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@1^1153496832^809^^^0211001017698^@@184012136#top}}</ref>
正統6年 (1441) 旧暦正月、明朝は、開原から逃亡した土兵・馬哈剌らの内、その舍人二人が建州衛に拘留されていると聞き、李満住に返還を命じた。<ref>{{Cite book |title=明英宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=正統六年正月7日段18529 |volume=75 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@1^1153496832^809^^^0211001018529^@@1208568978#top}}</ref>
正統6年 (1441) 旧暦2月、明朝は、建州左衞の凡察が朝鮮襲撃を企てていると聞き及び、凡察に計画の中止を諭す一方で、凡察の計画に加担せぬよう李満住らを諭した。<ref>{{Cite book |title=明英宗實錄 |publisher=不詳 |volume=76 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@12^6421294^809^^^0211001018572^@@25680251#top |chapter=正統六年二月25日段18572}}</ref>
正統6年 (1441) 旧暦7月、朝鮮側が建州左衛の属民を拘留して返還しようとしないと凡察らが主張していることについて、明朝は李満住らに、暫くは動静を見守り、決して妄りに朝鮮と事を構えるような挙動をとらぬよう釘を差した。<ref>{{Cite book |title=明英宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=正統六年七月21日段18701 |volume=81 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@12^6421294^809^^^0211001018701^@@1637040314#top}}</ref>
正統7年 (1442) 旧暦正月、李満住が派遣した建州衛指揮・安屯らが毛憐衛都督・李撒満荅失里らとともに入貢。<ref>{{Cite book |title=明英宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=正統七年正月7日段18872 |volume=88 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@12^6421294^809^^^0211001018872^@@1575538666#top}}</ref>
正統7年 (1442) 旧暦正月、都指揮僉事から都督僉事に昇格。<ref>{{Cite book |title=明英宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=正統七年正月22日段18886 |volume=88 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@12^6421294^809^^^0211001018886^@@1966305766#top}}</ref><ref>[[:zh:李满住|维基百科]]は記事冒頭で「1426年,袭封[[建州衛|建州卫]]都督僉事。」といい、本文では「1442年,擢升为都督佥事。」といい、情報が一致しない。</ref>
正統7年 (1442) 旧暦2月、三万衛 (現[[遼寧省]][[鉄嶺市]][[開原市]]) から逃亡した土兵の内、一部が未だ本地に帰還していないとして、明朝はその返還を求めた。また、李満住の奏請を受け容れて、建州衛の指揮同知・劄剌兀 (故人) の子・鎖羅幹、沈保奴 (故人) の子・咬納、黄福羊姑 (故人) の子・阿哈出、指揮僉事・禿迷剌 (故人) の子・卜郎哈らにそれぞれ襲職させ、指揮同知・王吉散禿を指揮使に昇格させ、千戸百戸の舍人・伯克ら10人に官職を授けた。<ref>{{Cite book |title=明英宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=正統七年二月13日段18906 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@12^6421294^809^^^0211001018906^@@1821415882#top |volume=89}}</ref>
正統7年 (1442) 旧暦5月、李満住は曩きに朝鮮の軍馬に11人を拉致されたと上奏していたが、明朝は朝鮮国王・李祹からの上奏として、死亡した一名を除いた10名が建州衛の卜剌兀の引率で遼東都司に引き渡されたことを伝えた。<ref>{{Cite book |title=明英宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=正統七年五月1日段18979 |volume=92 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@17^1908345847^809^^^0211001018979^@@1097330277#top}}</ref>
正統8年 (1443) 旧暦10月、兀良哈 ([[朶顔衛]]<sup>?</sup>) の遼東侵犯を事前に通報。<ref>{{Cite book |title=明英宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=正統八年十月26日段19454 |volume=109 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@17^1908345847^809^^^0211001019454^@@892970678#top}}</ref>
正統9年 (1444) 旧暦正月、明朝は、李満住の奏請を受け容れ、安禿を指揮同知から指揮使に、黄罕を千戸から指揮僉事に昇格させ、趙章加、官音不花、昌塔<ref>原文「授頭目趙章加官音不花昌塔俱為百戶」。「趙章加官音不花昌塔」の区切位置不詳。</ref>らに百戸を授けた。<ref>{{Cite book |title=明英宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=正統九年正月13日段19527 |volume=112 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@17^1908345847^809^^^0211001019527^@@373459983#top}}</ref>
正統9年 (1444) 旧暦正月、指揮・郎克苦らが前年高麗から220名余りを引き連れて帰還したが、食糧が不足しているとして支援を要請。明朝は糧米を配給した。<ref>{{Cite book |title=明英宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=正統九年正月27日段19540 |volume=112 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@17^1908345847^809^^^0211001019540^@@319514235#top}}</ref>
正統9年 (1444) 旧暦11月、使者を派遣し入貢。<ref>{{Cite book |title=明英宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=正統九年十一月21日段19824 |volume=123 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@17^1908345847^809^^^0211001019824^@@1213794729#top}}</ref>
正統9年 (1444) 旧暦12月、明朝は、李満住の奏請を受け容れ、子・都喜に副千戸を授けた。<ref name=":2">{{Cite book |title=明英宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=正統九年十二月29日段19856 |volume=124 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@17^1908345847^809^^^0211001019856^@@1977318383#top}}</ref>
正統11年 (1446) 旧暦6月、茂昌郡 (現[[朝鮮民主主義人民共和国]][[両江道]][[金亨稷郡]])<ref>…「今改爲二邑厚昌慈城」との記入があるが、これは1869年に厚州郡と茂昌郡が合併し…</ref><ref>{{Cite journal|last=楊|first=普景|last2=渋谷|first2=鎮明|month=9|year=2003|title=日本に所蔵される19世紀朝鮮全図に関する書誌学的研究 -『大東輿地図』および関連地図を中心に -|url=http://hist-geo.jp/img/archive/215_015.pdf|journal=歴史地理学|volume=45|issue=4 (215)|page=20|chapter=Ⅲ. 日本に所蔵される『大東輿地図』および関連地図|publisher=歴史地理学会}}</ref>が野人女直50余人に急襲されて人畜が掠奪され、朝鮮側は李満住の属部に嫌疑をかけた。明朝は李満住の許へ使者を派遣するとともに、属部の取り締まりを強めるよう勅諭を出した。<ref>{{Cite book |title=明英宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=正統十一年六月12日段20330 |volume=142 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@17^1908345847^809^^^0211001020330^@@855410855#top}}</ref>
正統11年 (1446) 旧暦11月、明朝は朝鮮に対し、女真の者児兀歹ら10名を遼東に引き渡すよう諭した。朝鮮側は遡ること同年旧暦4月に、女直が朝鮮辺境を侵犯した挙句に人畜を掠奪したと上奏し、更に李満住の管轄下の者が朝鮮に復讐すると息巻いているのを聞いていた。そこで明朝が官吏を派遣して調査を進めていた折り、肥河衛の都督僉事・別里格らは掠奪した10名を遼東まで送致させ、その際、建州に住んでいた者児兀歹らが宣徳8年に朝鮮の軍馬に多数を殺戮され、10名が拉致されたと上奏した。明朝は朝鮮側に対する女真の復讐であると結論づけた。<ref>{{Cite book |title=明英宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=正統十一年十一月28日段20465 |volume=147 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@17^1908345847^809^^^0211001020465^@@1365389111#top}}</ref>
正統11年 (1446) 旧暦12月、李満住と凡察らが使者を派遣し入貢。<ref>{{Cite book |title=明英宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=正統十一年十二月25日段20490 |volume=148 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@17^1908345847^809^^^0211001020490^@@1018382646#top}}</ref>
正統12年 (1447) 旧暦正月、都督僉事から都督同知に昇格。<ref>{{Cite book |title=明英宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=正統十二年正月20日段20513 |volume=149 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@4^1093056779^809^^^0211001020513^@@1306917899#top}}</ref>
正統12年 (1447) 旧暦7月、[[ウリャンカイ|兀良哈]]の入朝者が、瓦剌 ([[オイラト]]) による侵掠を上奏し、明朝側は女真各部にも注意を促すとともに、侵略者は捕らえて誅殺するよう命じた。<ref>{{Cite book |title=明英宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=正統十二年七月20日段20687 |volume=156 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@4^1093056779^809^^^0211001020687^@@444451459#top}}</ref><ref>[[:zh:李满住|维基百科]]には「1447年,進李满住為都督同知。六月,受命抵御瓦剌进攻。」とあるが、「六月,受命抵御瓦剌进攻」の典拠不詳。『明實錄』にその記載はみあたらない。</ref>
正統13年 (1448) 旧暦正月、北虜 (オイラト<sup>?</sup>) が女真各部に叛乱を唆していることをうけ、明朝は女真各部に誘いに乗らぬよう釘をさした。<ref>{{Cite book |title=明英宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=正統十三年正月18日段20836 |volume=162 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@4^1093056779^809^^^0211001020836^@@1470879611#top}}</ref>
正統14年 (1449)、土木の変。<ref>{{独自研究範囲|[[:zh:李满住|维基百科]]には「1451年,因为蒙古[[トクトア・ブハ|脱脱不花]]东侵,他移居兀喇山瓮村。」とあるが、「兀喇山瓮村」([[遼寧省]][[本渓市]][[桓仁満族自治県]][[桓仁鎮]][[五女山]]) に移住したのは[[永楽 (明)|永楽]]22年 (1424)。また、トクトア・ブハ ([[トクトア・ブハ|脱脱不花]]) の東侵が[[土木の変]]を指すとすれば、[[正統 (明)|正統]]14年 (1449) のことなので、やはり年次が合わない。|date=2023年10月}}</ref>
[[景泰]]元年 (1450) 旧暦5月、北虜 (オイラト<sup>?</sup>) の脅迫を受けた建州三衛など諸衛が15,000余人を率いて開原、瀋陽などを襲撃して人畜を掠奪し、撫順を包囲したという情報を得た明朝は、素より朝鮮を仇敵視している建州からの攻撃に備えるよう朝鮮國王・李珦に通達した。<ref>{{Cite book |title=明英宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=廢帝郕戾王附錄第十 (景泰元年五月10日段21624) |volume=192 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@4^1093056779^809^^^0211001021624^@@1276678503#top}}</ref>
景泰元年 (1450) 旧暦5月、李満住が胡虜 (オイラト<sup>?</sup>) 都督・剌塔と内通していることをうけ、機密の漏洩を恐れた明朝は鎮守遼東太監・易信を北京に召還した。<ref>{{Cite book |title=明英宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=廢帝郕戾王附錄第十 (景泰元年五月15日段21628) |volume=192 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@4^1093056779^809^^^0211001021628^@@1116701142#top}}</ref>
景泰元年 (1450) 旧暦6月、提督遼東軍務左都御史の王翺は、李満住と剌塔らが度々辺境を恣に掠奪していることを承け、軍を三路にわけてまづは李満住、凡寨、董山の三者を補殺することを上奏した。<ref>{{Cite book |title=明英宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=廢帝郕戾王附錄第十一 (景泰元年六月/11日/段21650) |volume=193 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@4^1093056779^809^^^0211001021650^@@1380148902#top}}</ref>
景泰2年 (1451) 旧暦2月、李満住らが奸計をつくし、俘虜を送還しながら属部を野放図に掠奪させていることを承け、王翺らは、怪しい動きをすれば機を捉えて掃滅するよう下達した。<ref>{{Cite book |title=明英宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=廢帝郕戾王附錄第十九 (景泰二年二月18日段21871) |volume=201 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@4^1093056779^809^^^0211001021871^@@676557999#top}}</ref>
景泰2年 (1451) 旧暦10月、李満住が自ら入貢し謝罪。<ref>{{Cite book |title=明英宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=廢帝郕戾王附錄第二十七 (景泰二年十月20日段22093) |volume=209 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@4^1093056779^809^^^0211001022093^@@998911097#top}}</ref>
景泰3年 (1452) 旧暦7月、北京に召還された都御史・王翺の遼東鎮守再任を奏請するも、明朝は王翺が既に別の職に任じているとして却下。また、趙安禿を建州衛指揮使から都指揮僉事に昇格。<ref>{{Cite book |title=明英宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=廢帝郕戾王附錄第三十六 (景泰三年七月16日段22329) |volume=218 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@7^854366116^809^^^0211001022329^@@367882129#top}}</ref>
景泰6年 (1455) 旧暦12月、明朝は古納哈に父・李満住の職を承襲させた。<ref>{{Cite book |title=明英宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=廢帝郕戾王實附錄第七十九 (景泰六年十二月26日段23474) |volume=261 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@1^1153496832^809^^^0211001023474^@@2065271464#top}}</ref>
[[天順 (明)|天順]]2年 (1458) 旧暦正月、使者を派遣し入貢。<ref>{{Cite book |title=明英宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=天順二年正月22日段24147 |volume=286 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@7^854366116^809^^^0211001024147^@@863722978#top}}</ref>
天順4年 (1460) 旧暦10月、朝鮮世祖・[[世祖 (朝鮮王)|李瑈]]より、会寧鎮 (現[[朝鮮民主主義人民共和国]][[咸鏡北道]][[会寧市|会寧]]) に代々居住してきた斡朵里の一派が阿比車<sup>人名</sup>と辺境侵犯を企図した末に建州衛の李満住の許に遁走したと上奏した。李満住と共謀して襲撃するつもりだとする朝鮮側の主張をうけて、明朝は建州衛に使者を遣った。<ref>{{Cite book |title=明英宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=天順四年十月13日段25045 |volume=320 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@7^854366116^809^^^0211001025045^@@360124411#top}}</ref>
[[成化]]4年 (1468) 旧暦正月、朝鮮世祖・李瑈は陪臣・高台弼を派遣し、建州衛が俘虜とした東寧衛の属民を献上した。これに先立って明朝は建州征討に際して朝鮮に出兵を要請し、朝鮮は兵10,000余をつけて[[中枢院 (李氏朝鮮)|中枢府]]知事・康純らを派遣した。朝鮮軍は[[鴨緑江]]、潑豬江 (=婆猪江、現[[渾江 (鴨緑江支流)|渾江]]) を渡って兀獮府 (=吾彌府、現[[遼寧省]][[本渓市]]) の諸集落を襲撃し、李満住および子・古納哈らを殺害して首級386をあげ、23名を捕縛、牛馬200余を接収した上で、集落217箇所を焼燬した。<ref name=":3">{{Cite book |title=明憲宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=成化四年正月7日段27308 |volume=50 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@7^854366116^809^^^0211001027308^@@2072848478#top}}</ref>
== 満洲族の由来 ==<!-- 翻訳元の维基百科「李满住」に情報誤認、典拠不詳の記述が多くみられる為、追って書き換え予定。 -->
満洲族の祖先は始祖・ブクリ・ヨンションの代から絶えずサハリヤン・ウラ ([[アムール川|黒龍江]])、スンガリ・ウラ ([[松花江]]) 流域を南に移徙し、[[孟特穆|猛哥帖木児]]と凡察の代にウスリ・ウラ ([[ウスリー川|烏蘇里江)]] 南東と[[朝鮮半島]]北東部 (現[[北朝鮮]][[咸鏡南道]][[会寧市]]一帯) に定住した。永楽4年 (1406)、初代[[建州衛]]主・[[阿哈出]]の推挙を承けて、明朝は猛哥帖木児を建州衛都指揮使 (李朝からは建州衛斡朵里と呼称された) に任命し、このことが李朝側の不満を買った。永楽9年 (1411)、猛哥帖木児の一行が鳳州に移住した。李朝側は、かつて慶源を侵犯した猛哥帖木児らが李朝からの報復を恐れたためと考えた。永楽14年 (1416)、明朝は建州左衞を鳳州に正式に設置し、猛哥帖木児に左衛の事務を任せた。永楽22年 (1424)、建州衛とともに婆猪江に移住しつつ、猛哥帖木児は属部を率いて李朝国境内の故地・阿木河 (現[[会寧市]]) へ戻った。宣徳8年 (1433)、楊木答兀が嫌真[[野人女直|兀狄哈]]の首領・弗答哈、葛多介らと結託して建州を襲撃し、猛哥帖木児とその長子・阿古らが犠牲となった。
[[正統 (明)|正統]]5年 (1440)、凡察と猛哥帖木児の次子・査山 (清代には充善、董山とも) は[[野人女直|兀狄哈]]による掠奪を懼れ、資財も底をつきかけ食べ物に飢えていたことから、会寧から西遷し遼東へ向った。同行した300余戸を除いた別の100余戸は会寧に残留した。[[渾河]]上流の[[蘇子河]]に行き着いた一行は、これより早く会寧を発った別の一派と合流し、阿古の妻は遺子を妊ったまま李満住に再嫁した。<ref name=":0" />外部の敵から身を守る必要から[[建州衛]]と[[建州左衛]]は再び手を組み、異なる部落間における満洲族祖先の血縁関係に新たな進展を齎した。
[[孟特穆|猛哥帖木児]]と凡察の姉は李満住の母にあたり、阿古、董山は李満住の従兄弟にあたる。<ref name=":0" />但し、董山 (ヌルハチの五世祖) は李満住の娘を娶った為、<ref name=":0" />[[孟特穆|猛哥帖木儿]]と李満住は血縁関係上、いづれもヌルハチの祖先とみることができる。
== 子孫 ==
* 子・古納哈<ref name=":1" />:李姓を冠して李古納哈とも。[[建州衛]]第四代衛主。[[明朝の官職#五軍都督府|都督同知]] (従一品)。李満住とともに朝鮮軍によって殺害された。<ref name=":3" />
** 孫・完者禿:古納哈の子、<ref>{{Cite book |title=清史稿 |publisher=清史館 |chapter=阿哈出 |volume=222 |url=https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷222#誅戮董山}}</ref>または甥とも。<ref>{{Cite book |title=明憲宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=成化五年七月24日段27788 |volume=69 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@4^716890740^809^^^0211001027788^@@195471369#top}}</ref>建州衛第五代衛主。[[明朝の官職#都指揮使司|都指揮僉事]] (正三品)。<ref>{{Cite book |title=明武宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=正德八年三月9日段41468 |volume=98 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@4^716890740^809^^^0211001041468^@@1345212523#top}}</ref><ref>『清史稿』巻222は「[[弘治 (明)|弘治]] (註:1488-1505) 初,脫羅、完者禿皆進都督。」とし、『明實錄』は[[成化]]末、23年 (1487) 旧暦正月以降の記事で「建州衛女直都督完者禿」としているが、昇格を伝える記事はみあたらない。また『明實錄』[[正徳 (明)|正徳]]8年 (1513) の記事では「建州等衛女直都指揮僉事完者禿」としている。</ref>
*** 曾孫・弗喇答:完者禿の子。[[明朝の官職#五軍都督府|都督僉事]] (正二品)。夭折した。<ref>{{Cite book |title=明孝宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=弘治十四年四月3日段37504 |volume=173 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@4^716890740^809^^^0211001037504^@@1084667874#top}}</ref>
* 子・都喜:[[明朝の官職#千戸所|副千戸]] (従五品)。<ref name=":2" />
* 子・亦的哈<ref>{{Cite book |title=明英宗實錄 |publisher=不詳 |chapter=正統十一年正月25日段20207 |volume=137 |url=https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@4^716890740^809^^^0211001020207^@@356929233#top}}</ref>
== 脚註 ==
<references />
== 参照 ==
=== 文献 ===
* 『明實錄』
* 『朝鮮王朝實錄』
* 茅瑞徵『東夷考略』1621 (天啓1) (漢文) *燕京図書館 ([[ハーバード大学]]) 所蔵版
* 楊賓『柳邊紀略』1707 (漢文)
=== 研究書 ===
* [[白鳥庫吉]] 監修, 松井等, [[箭内亙]], [[稲葉岩吉|稻葉岩吉]] 撰『滿洲歷史地理』巻2, [[南満洲鉄道|南満洲鉄道株式会社]], 1914 ([[大正]]3)
* [[稲葉岩吉|稻葉岩吉]]『清朝全史』上巻, [[早稲田大学]]出版部, 1914 ([[大正]]3)
* [[趙爾巽]], 他100余名『[[清史稿]]』清史館, 1928 (漢文) *[[中華書局]]版
=== Webサイト ===
* 「[https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mql/login.html 明實錄、朝鮮王朝実録、清實錄資料庫]」[[中央研究院歴史語言研究所]] ([[台湾]])
[[Category:明朝女真人]]
[[Category:完顔氏]]
[[Category:ヌルハチ]]
[[Category:生年不明]]
[[Category:1467年没]]
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フィリップ1世 (ポメラニア公)
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フィリップ1世(Philipp I., 1515年7月14/15日 - 1560年2月14日)は、ポメラニア公(在位:1531年 - 1560年)。ポメラニア公ゲオルク1世とアマーリエ・フォン・デア・プファルツの息子。
フィリップ1世はポメラニア公ゲオルク1世とアマーリエ・フォン・デア・プファルツの第2子、次男(成人に達した長男)として生まれた。母の父プファルツ選帝侯フィリップにちなんで名付けられ、ハイデルベルクでの留学中に祖父フィリップのもてなしを受けた。1531年に父が亡くなった後、叔父のバルニム9世敬虔公とともにポメラニア公領の共同統治者となった。
1532年10月21日に行われた公領の分割の結果、フィリップ1世はヴォルガスト公となり、オーデル川西岸とリューゲン島の領地を統治した。さらに、1541年にはティヴァ川とオーデル川の間の地、グリフィノとスボブニツァの領地を自らの領土に併合した。
1534年12月13日、トシェビャトゥフで開催された議会中に、フィリップ1世とバルニム9世は西ポメラニアにルター派を国教として導入した。宗教の変更は、議会の大多数の反対にもかかわらず、特権を利用したポメラニア公たちの決定の結果として行われた。西ポメラニアの宗教改革では、とりわけ、教会財産の世俗化とポメラニア福音教会の設立が計画された。
1535年のポメラニアとザクセンの同盟をきっかけに、フィリップ1世は翌年、ザクセン選帝侯ヨハンの娘マリアと結婚した。1536年2月26日に指輪が交換され民事婚が行われ、翌日、つまり2月26日に結婚の儀式が行われた。2月27日にトルガウにおいてマルティン・ルターにより結婚式のミサが厳粛に執り行われた。
1537年にシュマルカルデン同盟に加わり、1537年2月27日からカトリックの皇帝カール5世に対抗するプロテスタント諸侯が団結することとなった。フィリップ1世は後にバルニム9世とともに反逆罪で皇帝に告発されたが、ポーランド王ジグムント1世のとりなしのおかげで許された。
フィリップ1世はヴォルガスト公領を統治している間に、公領の管理を再編し、そのおかげで領内の歳入が大幅に増加し、領地の防衛を強化させることができた(ウエッカーミュンデの城を再建した)。また、フィリップ1世は科学の発展にも関心を持っていた。ヴォルガストの城に図書館をつくり、シュチェチンのギムナジウムの設立にも貢献した。
フィリップ1世は1560年2月14日にヴォルガストにおいて45歳で死去し、2月21日に同地の聖ペテロ教区教会に埋葬された。公位は2人の息子、ヨハン・フリードリヒとボギスラフ13世が継承した。息子らは成年に達するまで、バルニム9世の後見下に置かれた。
フィリップ1世はザクセン選帝侯ヨハンとマルガレーテ・フォン・アンハルト=ケーテンの娘マリアと結婚した。2人の間には多くの子女が生まれた。
同時代の資料ではフィリップ2世とゾフィーの息子もフィリップ1世とマリア・フォン・ザクセンのものであるとされているが、これについては異論が唱えられている。ゲオルク1世とホーエンシュタイン・ナ・フィエラデン伯爵夫人アンナ・カタリーナの息子プトブス領主ルートヴィヒ(1549年 - 1594年8月10日)は、フィリップ1世の隠し子とされているが、フィリップ1世とアンナ・カタリーナの間でこのような関係が築かれた経緯は不明である。
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フィリップ1世は、ポメラニア公。ポメラニア公ゲオルク1世とアマーリエ・フォン・デア・プファルツの息子。
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{{基礎情報 皇族・貴族
| 人名 = フィリップ1世
| 各国語表記 = Philipp I.
| 家名・爵位 = [[ポメラニア公]]
| 画像 = Philipp I. von Pommern.png
| 画像サイズ =
| 画像説明 = フィリップ1世([[ルーカス・クラナッハ (子)]] 画)
| 在位 = [[1531年]] - [[1560年]]
| 続柄 =
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| 全名 =
| 身位 =
| 敬称 =
| 出生日 = {{生年月日と年齢|1515|7|14|no}}/15日
| 生地 = {{HRR}}<br>[[File:Grunwald Słupsk i Szczecin.svg|25px]] [[ポメラニア公国|ポメラニア公領]]、[[シュチェチン]]{{Sfn|Rymar|2005|pp=438-440}}
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1515|5|14|1560|2|14}}
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| 埋葬日 = [[1560年]][[2月21日]]
| 埋葬地 = {{HRR}}<br>[[File:Grunwald Słupsk i Szczecin.svg|25px]] [[ポメラニア公国|ポメラニア公領]]、[[ヴォルガスト]]、聖ペテロ教区教会
| 配偶者1 = [[マリア・フォン・ザクセン (1515-1583)|マリア・フォン・ザクセン]]
| 子女 = [[#結婚と子女|本文参照]]
| 家名 = [[ポメラニア家|グリフ家]]
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| 宗教 =
| サイン =
}}
'''フィリップ1世'''(Philipp I., [[1515年]][[7月14日|7月14]]/[[7月15日|15日]]<ref>誕生日は7月14日から15日にかけての夜であったが、正確な時間は不明である。いくつかの資料では真夜中の2時とされている(Rymar (1995), pp. 160-165 および Rymar (2005), pp. 438-440 を参照)。</ref> - [[1560年]][[2月14日]])は、[[ポメラニア公]](在位:[[1531年]] - 1560年)。[[ポメラニア公]][[ゲオルク1世 (ポメラニア公)|ゲオルク1世]]と[[アマーリエ・フォン・デア・プファルツ]]の息子。
== 生涯 ==
フィリップ1世は[[ポメラニア公]][[ゲオルク1世 (ポメラニア公)|ゲオルク1世]]と[[アマーリエ・フォン・デア・プファルツ]]の第2子、次男(成人に達した長男)として生まれた。母の父[[プファルツ選帝侯]][[フィリップ (プファルツ選帝侯)|フィリップ]]にちなんで名付けられ、[[ハイデルベルク]]での留学中に祖父フィリップのもてなしを受けた。1531年に父が亡くなった後、叔父の[[バルニム9世 (ポメラニア公)|バルニム9世]]敬虔公とともにポメラニア公領の共同統治者となった{{Sfn|Kozłowski|1985|p=111}}。
1532年10月21日に行われた公領の分割の結果、フィリップ1世はヴォルガスト公となり、[[オーデル川]]西岸と[[リューゲン島]]の領地を統治した。さらに、1541年にはティヴァ川とオーデル川の間の地、グリフィノとスボブニツァの領地を自らの領土に併合した{{Sfn|Rymar|2005|p=438}}。
1534年12月13日、トシェビャトゥフで開催された議会中に、フィリップ1世とバルニム9世は西ポメラニアに[[ルター派]]を国教として導入した{{Sfn|Kozłowski|1985|p=111}}<ref>{{ADB|26|31|34|Philipp I., Herzog von Pommern-Wolgast|Gottfried von Bülow|ADB:Philipp I. (Herzog von Pommern-Wolgast)}}</ref>{{Sfn|Wesołowska|2001|p=81}}。宗教の変更は、議会の大多数の反対にもかかわらず、特権を利用したポメラニア公たちの決定の結果として行われた<ref name=Madsen>{{cite web|author=Madsen U. |url=http://www.ruegenwalde.com/greifen/phi-1/phi-1.htm |title=Philipp I. Herzog von Pommern-Wolgast |language=de |accessdate=2012-03-30}}</ref>。西ポメラニアの宗教改革では、とりわけ、教会財産の世俗化とポメラニア福音教会の設立が計画された<ref>この新しい宗教の導入を最初に提案したのは、ポメラニア公ゲオルク1世であった(Szymański (2006), pp. 239-240)。</ref>。
1535年のポメラニアとザクセンの同盟をきっかけに、フィリップ1世は翌年、[[ザクセン選帝侯]][[ヨハン (ザクセン選帝侯)|ヨハン]]の娘[[マリア・フォン・ザクセン (1515-1583)|マリア]]と結婚した。1536年2月26日に指輪が交換され民事婚が行われ、翌日、つまり2月26日に結婚の儀式が行われた。2月27日に[[トルガウ]]において[[マルティン・ルター]]により結婚式のミサが厳粛に執り行われた{{Sfn|Rymar|2005|pp=438-439}}。
1537年に[[シュマルカルデン同盟]]に加わり、1537年2月27日から[[カトリック]]の皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]に対抗するプロテスタント諸侯が団結することとなった。フィリップ1世は後にバルニム9世とともに反逆罪で皇帝に告発されたが、[[ポーランド王]][[ジグムント1世 (ポーランド王)|ジグムント1世]]のとりなしのおかげで許された{{Sfn|Kozłowski|1985|p=111}}。
フィリップ1世はヴォルガスト公領を統治している間に、公領の管理を再編し、そのおかげで領内の歳入が大幅に増加し、領地の防衛を強化させることができた(ウエッカーミュンデの城を再建した<ref name=Madsen />)。また、フィリップ1世は科学の発展にも関心を持っていた。ヴォルガストの城に図書館をつくり、シュチェチンの[[ギムナジウム]]の設立にも貢献した{{Sfn|Kozłowski|1985|p=111}}。
フィリップ1世は1560年2月14日に[[ヴォルガスト]]において45歳で死去し、2月21日に同地の聖ペテロ教区教会に埋葬された{{Sfn|Rymar|2005|p=438}}<ref name=Madsen />。公位は2人の息子、[[ヨハン・フリードリヒ (ポメラニア公)|ヨハン・フリードリヒ]]と[[ボギスラフ13世 (ポメラニア公)|ボギスラフ13世]]が継承した。息子らは成年に達するまで、バルニム9世の後見下に置かれた{{Sfn|Szymański|2006|p=200}}。
== 結婚と子女 ==
フィリップ1世は[[ザクセン選帝侯]][[ヨハン (ザクセン選帝侯)|ヨハン]]と[[マルガレーテ・フォン・アンハルト=ケーテン]]の娘[[マリア・フォン・ザクセン (1515-1583)|マリア]]と結婚した{{Sfn|Rymar|2005|pp=438-440}}。2人の間には多くの子女が生まれた。
* ゲオルク(1540年2月13日 - 1544年11月16日)
* [[ヨハン・フリードリヒ (ポメラニア公)|ヨハン・フリードリヒ]](1542年 - 1600年) - ポメラニア=ヴォルガスト公
* [[ボギスラフ13世 (ポメラニア公)|ボギスラフ13世]](1544年 - 1606年) - ポメラニア=バルト公
* [[エルンスト・ルートヴィヒ (ポメラニア公)|エルンスト・ルートヴィヒ]](1545年 - 1592年) - ポメラニア=ヴォルガスト公
* アマーリエ(1547年1月28日 - 1580年9月16日)
* [[バルニム10世 (ポメラニア公)|バルニム10世]](1549年 - 1603年) - ポメラニア=リューゲンヴァルデ公
* エーリヒ(1551年8月22日 - 12月12/13日)
* マルガレーテ(1553年3月19日 - 1581年9月5日) - 1574年に[[ザクセン=ラウエンブルク]]公[[フランツ2世 (ザクセン=ラウエンブルク公)|フランツ2世]]と結婚
* アンナ(1554年9月18日 - 1626年9月10日) - 1588年に[[メクレンブルク公|メクレンブルク=ギュストロー公]][[ウルリヒ3世 (メクレンブルク公)|ウルリヒ3世]]と結婚
* [[カジミール6世 (ポメラニア公)|カジミール6世]](1557年 - 1605年) - ポメラニア=リューゲンヴァルデ公、ビトゥフ公、シュチェチン公{{Sfn|Rymar|2005|pp=460-464}}、カミエン[[監督 (キリスト教)|監督]]
同時代の資料ではフィリップ2世とゾフィーの息子もフィリップ1世とマリア・フォン・ザクセンのものであるとされているが、これについては異論が唱えられている{{Sfn|Rymar|2005|pp=464-465}}。ゲオルク1世とホーエンシュタイン・ナ・フィエラデン伯爵夫人アンナ・カタリーナの息子プトブス領主ルートヴィヒ(1549年 - 1594年8月10日)は、フィリップ1世の隠し子とされているが、フィリップ1世とアンナ・カタリーナの間でこのような関係が築かれた経緯は不明である{{Sfn|Rymar|2005|pp=459-460}}。
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{cite book|first1=Kazimierz |last1=Kozłowski |first2=Jerzy |last2=Podralski |title=Gryfici. Książęta Pomorza Zachodniego |year=1985 |isbn=83-03-00530-8 |location=Szczecin |publisher=Krajowa Agencja Wydawnicza |oclc=189424372}}
* {{cite book|last=Rymar |first=E. |title=Rodowód książąt pomorskich |volume=T. II |location=Szczecin |year=1995 |ISBN=83-902780-0-6}}
* {{cite book|last=Rymar |first=E. |title=Rodowód książąt pomorskich |year=2005 |isbn=83-87879-50-9 |location=Szczecin |publisher=Książnica Pomorska im. Stanisława Staszica |oclc=69296056}}
* {{cite book|last=Szymański |first=J.W. |title=Książęcy ród Gryfitów |location=Goleniów |publisher=Kielce |year=2006 |ISBN=83-7273-224-8}}
* {{cite book|last=Wesołowska |first=S. |chapter=Szkic do dziejów szkolnictwa w Trzebiatowie od XIV wieku do czasów współczesnych |others=Łysiak W. (ed.) |title=Trzebiatów – historia i kultura II |location=Poznań |year=2001 |ISBN=83-87437-08-5}}.
* {{ADB|26|31|34|Philipp I., Herzog von Pommern-Wolgast|Gottfried von Bülow|ADB:Philipp I. (Herzog von Pommern-Wolgast)}}
* {{cite web|author=Madsen U. |url=http://www.ruegenwalde.com/greifen/phi-1/phi-1.htm |title=Philipp I. Herzog von Pommern-Wolgast |language=de |accessdate=2012-03-30}}
{{先代次代|[[ポメラニア公の一覧|ポメラニア公]]|1531年 - 1532年|[[ゲオルク1世 (ポメラニア公)|ゲオルク1世]]<br>[[バルニム9世 (ポメラニア公)|バルニム9世]]|(分割)}}
{{先代次代|[[ポメラニア公の一覧|ポメラニア=ヴォルガスト公]]|1532年 - 1560年|(分割)|[[ヨハン・フリードリヒ (ポメラニア公)|ヨハン・フリードリヒ]]<br>[[ボギスラフ13世 (ポメラニア公)|ボギスラフ13世]]<br>[[エルンスト・ルートヴィヒ (ポメラニア公)|エルンスト・ルートヴィヒ]]<br>[[バルニム10世 (ポメラニア公)|バルニム10世]]}}
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茅ヶ崎ライブ2023
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『茅ヶ崎ライブ2023』(ちがさきライブ2023)は、サザンオールスターズのライブ・ビデオ。2024年3月20日にDVDとBlu-rayで発売予定。発売元はタイシタレーベル / JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント / SPEEDSTAR RECORDS。
本作は2023年9月27日から10月1日にかけて茅ヶ崎公園野球場にて開催した『茅ヶ崎ライブ2023』の模様を映像化したものである。
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『茅ヶ崎ライブ2023』(ちがさきライブ2023)は、サザンオールスターズのライブ・ビデオ。2024年3月20日にDVDとBlu-rayで発売予定。発売元はタイシタレーベル / JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント / SPEEDSTAR RECORDS。
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{{Infobox Album
| Name = 茅ヶ崎ライブ2023
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| Genre = [[ロック (音楽)|ロック]]
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| This album = '''茅ヶ崎ライブ2023'''<br />(2024年)
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{{イベントインフォメーション
|イベント名称= サザンオールスターズ 茅ヶ崎ライブ2023
|英文表記=
|種類= 音楽系イベント
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|画像説明=
|通称=
|正式名称= サザンオールスターズ 茅ヶ崎ライブ2023 powered by ユニクロ
|旧名称=
|開催時期= 後述
|初回開催= 後述
|会場= [[茅ヶ崎公園野球場]]
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{{Infobox concert tour
| concert_tour_name = サザンオールスターズ 茅ヶ崎ライブ2023
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| artist = サザンオールスターズ
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| number_of_shows = 全4公演<ref group="注釈">9月29日を除く。</ref>
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supported by [[SOMPOホールディングス|SOMPO]]グループ<ref group="注釈">配信ライブ</ref><br/>([[2020年]])
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| next_tour =
| Misc =
}}
『'''茅ヶ崎ライブ2023'''』(ちがさきライブ2023)は、[[サザンオールスターズ]]のライブ・ビデオ。[[2024年]][[2月3日]]に[[Netflix]]にて期間限定で先行配信される予定であり、同年[[3月20日]]には[[DVD-Video|DVD]]と[[Blu-ray Disc|Blu-ray]]で発売予定。発売元は[[タイシタレーベル]] / [[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント]] / [[SPEEDSTAR RECORDS]]。
== 背景 ==
本作は2023年9月27日から10月1日にかけて[[茅ヶ崎公園野球場]]にて開催した『茅ヶ崎ライブ2023』の模様を映像化したものである<ref name="Oricon">[https://natalie.mu/music/news/554812 サザンオールスターズ45周年記念ワンマン「茅ヶ崎ライブ」がBlu-ray&DVDに] 音楽ナタリー 2023年12月26日配信・閲覧</ref>。同年12月27日にはソフト化、12月30日にはNetflixでの先行配信が発表された<ref name="Oricon" /><ref>[https://twitter.com/sasfannet/status/1741105922800582997?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Etweet 2023年12月30日の投稿]サザンオールスターズ official @sasfannet</ref>。
== ライブ ==
=== スケジュール ===
※ライブ会場は茅ヶ崎公園野球場である<ref name="Oricon"/>。
*9月27日・28日・30日・10月1日:開場15時、開演17時
=== エピソード ===
* 本公演の開催の経緯としてメンバーは「われわれもメンバー全員が無事に前期高齢者となりました(笑)長い間音楽活動をやらせていただいていると、この国に生まれたこと、そして自分の『ふるさと』に対しての感謝や愛郷の念が、より一層深まっているように感じております{{Refnest|group="注釈"|かねてから桑田は2000年の『茅ヶ崎ライブ』での「茅ヶ崎に生まれて良かったです!!」<ref name="感謝">「[[この青い空、みどり 〜BLUE IN GREEN〜]]」CD盤収録。</ref><ref name = "250万枚">[https://www.zakzak.co.jp/ent/amp/190415/ent1904150001-a.html 【サザンオールスターズ40周年への轍】2000年 悲願の茅ヶ崎“凱旋”コンサート 最大のヒット曲『TSUNAMI』発売3カ月で250万枚を突破]zakzak 2019年4月15日配信 2021年5月5日閲覧。</ref>や、[[東日本大震災]]発生から一週間後に放送された『[[桑田佳祐のやさしい夜遊び]]』([[エフエム東京|TOKYO FM]])での「日本の国民のみなさんは素敵で優しい人たちだと思う。この国に生まれて良かったなと思います」などのような生まれ育った日本及び茅ヶ崎市への愛と感謝の念を発言している<ref name="yoshida japan">[http://japan.techinsight.jp/2011/03/kuwata-takurou-record.html 桑田佳祐と吉田拓郎との隠された過去。今日までそして明日から。] - [[Techinsight]] 2011年3月20日配信 2022年5月5日閲覧。</ref>。また、地元である[[神奈川県]]の地名や[[日本の文化]]を歌詞やライブの演出に取り入れたり<ref name = "TAISA">[https://news.allabout.co.jp/articles/o/59975/ さすが「神奈川県出身」だと思う芸能人ランキング! 2位「中居正広」に大差をつけた1位は?]AllAbout NEWS 2023年4月23日配信 2023年4月27日閲覧。</ref><ref>[https://southernallstars.jp/lyrics/detail/350/ サザンオールスターズ - 通りゃんせ] SOUTHERN ALL STARS OFFICIAL SITE</ref><ref name="PV" />、バックモニターに[[日本の国旗|日の丸]]を掲揚したり<ref name="PV">[https://www.youtube.com/watch?v=kEaIjvPBqrM 桑田佳祐 – 涙をぶっとばせ!!(Full ver.)] Youtube 2020年5月5日配信 2020年12月9日閲覧。2:15 - 2:17を参照。</ref><ref>[https://lp.p.pia.jp/shared/cnt-s/cnt-s-11-02_2_e76690a6-cd3d-45f3-aee9-5f019e01099c.html ぴあDay(1984年)1984年7月の「ぴあ」] [[ぴあ]]DAY 2019年7月5日配信 2020年12月8日閲覧。</ref>、国歌「[[君が代]]」を歌唱するなどのパフォーマンスも行っている<ref name="kimigayo 1">[https://southernallstars.jp/discography/artist/1/detail/296/ シークレットライブ '99 SAS 事件簿 in 歌舞伎町] SOUTHERN ALL STARS OFFICIAL SITE</ref>。}}」とコメントしている<ref name = "里帰り" />。
* 2023年に発表された三部作の一つ「[[歌えニッポンの空]]」は本公演のテーマソングとして扱われており<ref name = "テーマソング">[https://rockinon.com/news/detail/207105 サザンオールスターズ、撮り下ろし映像で制作された「45周年!!愛と感謝の“ありがっとう!!”歌えニッポンの空45秒スペシャルムービー」が公開。「茅ヶ崎ライブ2023」ライブビューイングも決定]ロッキング・オン 2023年8月4日配信・閲覧。</ref>、[[桑田佳祐]]もMCで「ここ([[茅ヶ崎市]])で生まれて良かったという実に他愛もない新曲を歌わせてください」と前置きして歌唱している<ref name = "里帰り">[https://web.archive.org/web/20231010210938/https://news.yahoo.co.jp/articles/1cc107659515f9f141408e8c3b5dfc2bfb4339b2 サザンオールスターズ桑田佳祐「里帰りさせていただきました」茅ケ崎ライブ2023がファイナル【セットリストつき】]Yahoo! JAPANニュース 2023年10月1日配信 2023年10月11日閲覧</ref>{{Refnest|group="注釈"|演奏の際には、2番の「ここが故郷(ふるさと)」の所を茅ヶ崎に変えて演奏された。}}。
* オープニングでは[[加山雄三]]の「夕陽は赤く」「[[君といつまでも]]」がSEとして流れた<ref>[https://realsound.jp/2023/10/post-1453801.html サザンオールスターズ、一曲も例外なく観客を熱狂させた2時間半 45年の重みを感じさせる地元・茅ヶ崎での特別なライブ]Real Sound 2023年10月6日配信 2023年10月7日閲覧。</ref>。
* 最終日は[[アントニオ猪木]]の一周忌でもあり、桑田がそのことに触れたほか、エンディングでは「1、2、3、ダーッ!」の掛け声でライブ全体を締めた<ref>[https://realsound.jp/2023/10/post-1453801_2.html サザンオールスターズ、一曲も例外なく観客を熱狂させた2時間半 45年の重みを感じさせる地元・茅ヶ崎での特別なライブ]Real Sound 2023年10月6日配信 2023年10月7日閲覧。</ref>。
* 2023年に発表された三部作では唯一「[[Relay〜杜の詩]]」が生演奏されなかったが、終演時の出演者・スタッフクレジットのエンドロールとして用いられた<ref>[https://www.barks.jp/news/?id=1000240548#utm_source=tw_BARKS_NEWS&utm_medium=social&utm_campaign=tw_auto サザンオールスターズ、どこへ行ってもいつかここへ帰って来る、砂まじりの茅ヶ崎へ]BARKS 2023年10月4日配信 2023年10月6日閲覧</ref><ref name="southernchigasakilivedata3504" />。
* 最終日には『[[週刊ナイナイミュージック]]』([[フジテレビジョン|フジテレビ]][[フジネットワーク|系列]])の企画で[[ナインティナイン]]・[[ファーストサマーウイカ]]・[[玉井詩織]]([[ももいろクローバーZ]])が会場を訪れている。この企画ではライブ会場を訪れた観客への取材及び本公演の模様のダイジェストのほか、終演後のメンバーとの対談が行われており、同番組の2023年10月11日放送分にてオンエアされた<ref>[https://tower.jp/article/news/2023/10/03/tg008 サザンオールスターズ、「茅ヶ崎ライブ2023」を新音楽番組「週刊ナイナイミュージック」初回放送で特集。ナインティナイン、ファーストサマーウイカ、玉井詩織(ももいろクローバーZ)がライヴ現場に潜入取材]TOWER RECORDS ONLINE 2023年10月3日配信 2023年10月6日閲覧</ref><ref>[https://www.thefirsttimes.jp/news/0000334828/ 『茅ヶ崎ライブ2023』終演直後のサザンメンバーと対面! ナイナイ&ももクロ・玉井&ウイカが大興奮]THE FIRST TIMES 2023年10月9日配信・閲覧</ref>。なお、[[矢部浩之]]にとっては2013年8月7日に放送された『[[1番ソングSHOW]]』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]][[日本テレビネットワーク協議会|系列]])以来10年ぶり、[[岡村隆史]]にとっては2018年12月31日に放送された『[[第69回NHK紅白歌合戦]]』以来4年10ヶ月ぶりのサザンとの共演となった<ref>[https://web.archive.org/web/20220102000127/https://datazoo.jp/tv/1%E7%95%AA%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%82%B0SHOW/660780/3 1番ソングSHOW 日本全国47都道府県 地元スター総選挙&サザン緊急出演SP]TVでた蔵 2013年8月7日配信 2021年1月2日時点の[https://datazoo.jp/tv/1%E7%95%AA%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%82%B0SHOW/660780/3 オリジナル]よりアーカイブ</ref><ref>[https://www.allnightnippon.com/okamura/okamura_blog/20190110-36489/ 第215回 楽しかった紅白の話&恒例大阪同級生話]ニッポン放送 2019年1月10日配信 2023年10月9日閲覧</ref>。
* 茅ヶ崎公園野球場での公演は2013年のスタジアムツアー『[[SUPER SUMMER LIVE 2013 「灼熱のマンピー!! G★スポット解禁!!」 胸熱完全版|灼熱のマンピー!! G★スポット解禁!!]]』に組み込まれて以来10年ぶり3回目であり、桑田は本公演を「[[茅ヶ崎ライブ|1回目]]、[[SUPER SUMMER LIVE 2013 「灼熱のマンピー!! G★スポット解禁!!」 胸熱完全版#スケジュール|2回目]]はこうしたら良かったと思うことはそれなりにあったが、やっと3回目で、のびのびやらせてもらった」と振り返る発言を先述の『週刊ナイナイミュージック』内で述べている<ref name="玉井詩織">[https://s.rbbtoday.com/article/2023/10/12/213275.html ももクロ・玉井詩織、桑田佳祐と対面し感激「サザンさんのお陰で…」]エンタメRBB 2023年10月12日配信・閲覧。</ref>。
* 会場では4日間で7万2000人を動員し、9月30日と10月1日は全国約270の映画館でもライブ・ビューイングで生中継され、合わせて27万2000人もの動員数になった<ref name = "里帰り" />。また、このライブにおける事業費は本公演とライブ・ビューイングの合計でおよそ15億円、経済波及効果は神奈川県内でおよそ59億5600万円、全国で179億5700万円となった<ref>[https://kyodonewsprwire.jp/release/202310010485 「サザンオールスターズ茅ヶ崎ライブ2023」経済波及効果179.5億円]共同通信PRワイヤー 2023年10月1日配信 2023年11月1日閲覧。</ref>。
== 収録曲 ==
※曲順出典<ref name="nikkan20231001">[https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202310010001709.html サザン茅ヶ崎ライブ「C調~」で開幕 本編ラスト「マンピー」オーラス「シンドバッド」/セトリ],2023年10月1日,日刊スポーツ</ref><ref name="ORICON20231001">[https://www.oricon.co.jp/news/2296840/full/ サザン45周年「茅ヶ崎ライブ」で27万人が熱狂 重み、深み、華やかさが詰まった26曲],2023年10月1日,ORICON MUSIC</ref><ref name="southernchigasakilivedata3504">[https://southernallstars.jp/news/detail/3504?categoryId=6%2C7%2C8 サザンオールスターズ 茅ヶ崎ライブ2023],SOUTHERN ALL STARS OFFICIAL SITE</ref>。
#'''[[C調言葉に御用心]]'''
#'''[[熱い胸さわぎ#収録曲|女呼んでブギ]]'''
#;MC
#'''[[Southern All Stars (アルバム)#収録曲|YOU]]'''
#'''[[栞のテーマ|My Foreplay Music]]'''
#'''[[涙のキッス]]'''
#'''[[夏をあきらめて]]'''
#'''[[Young Love#収録曲|Moon Light Lover]]'''
#'''[[栄光の男]]'''
#'''[[I AM YOUR SINGER#収録曲|OH!! SUMMER QUEEN 〜夏の女王様〜]]'''
#'''[[そんなヒロシに騙されて]]'''
#'''[[いとしのエリー]]'''
#;MC(メンバー紹介)
#'''[[歌えニッポンの空]]'''
#'''[[シュラバ★ラ★バンバ#収録曲|君だけに夢をもう一度]]'''
#'''[[東京VICTORY]]'''
#'''[[栞のテーマ]]'''
#'''[[太陽は罪な奴]]'''
#'''[[真夏の果実]]'''
#'''[[LOVE AFFAIR 〜秘密のデート]]'''
#'''[[ミス・ブランニュー・デイ]]'''
#'''[[盆ギリ恋歌]]'''
#'''[[みんなのうた (サザンオールスターズの曲)|みんなのうた]]'''
#'''[[マンピーのG★SPOT]]'''
'''ENCORE'''
#'''[[キラーストリート#Disc 1|ロックンロール・スーパーマン 〜Rock'n Roll Superman〜]]'''
#'''[[Ya Ya (あの時代を忘れない)]]'''
#;MC
#'''[[希望の轍]]'''
#'''[[勝手にシンドバッド]]'''
'''END'''
#'''[[Relay〜杜の詩]]'''
== 関連項目 ==
* [[茅ヶ崎市]]
* [[茅ヶ崎ライブ]]
* [[歌えニッポンの空]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [https://southernallstars.jp/news/detail/3504 サザンオールスターズ 茅ヶ崎ライブ2023] - SOUTHERN ALL STARS OFFICIAL SITE
* [https://special-sas45.southernallstars.jp/chigasakilive/ サザンオールスターズ 茅ヶ崎ライブ2023] - 特設サイト
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笠波峠除雪拡幅
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笠波峠除雪拡幅(かさなみとうげじょせつかくふく)は、兵庫県美方郡香美町村岡区八井谷から同町村岡区日影までの国道9号の現道除雪拡幅事業である。
笠波峠付近の国道9号は急カーブや急勾配、大規模な地滑り危険箇所があり、冬季は積雪により通行止めが発生するなどの課題が存在している。当事業は、積雪などによる通行止めの回避、交通事故の減少を目的にすすめられている。
現在は全体延長4.6 kmのうち、3.9 kmが開通している。2023年(令和5年)10月22日に笠波トンネルを含む区間である村岡区福岡 - 村岡区日影の2.4 kmが開通した。開通後も、村岡区福岡に残る未供用区間0.7 kmで事業が継続される。
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'''笠波峠除雪拡幅'''(かさなみとうげじょせつかくふく)は、[[兵庫県]][[美方郡]][[香美町]]村岡区八井谷から同町村岡区日影までの[[国道9号]]の現道除雪拡幅事業である。
== 概要 ==
笠波峠付近の国道9号は急カーブや急勾配<ref name="press20230908">{{Cite web|和書|url=https://www.kkr.mlit.go.jp/toyooka/topics/pdf/kisha230908.pdf|title=国道9号 笠波峠除雪拡幅 令和5年10月22日(日)に開通します 〜冬期でも安全に通行できます〜|date=2023-09-08|accessdate=2023-10-09|publisher=国土交通省近畿地方整備局 豊岡河川国道事務所|format=PDF}}</ref>、大規模な[[地すべり|地滑り]]危険箇所があり<ref name="saihyoka">{{Cite web|和書|url=https://www.kkr.mlit.go.jp/plan/ippan/zigyohyoka/ol9a8v000000dh62-att/4.pdf|title=国道9号笠波峠除雪拡幅【再評価】|date=2013-12|accessdate=2023-10-09|publisher=国土交通省近畿地方整備局|format=PDF}}</ref>、冬季は積雪により通行止めが発生するなどの課題が存在している<ref name="press20230908" />。当事業は、積雪などによる通行止めの回避、交通事故の減少を目的にすすめられている<ref name="press20230908" /><ref name="kuruma">{{Cite news|title=「兵庫〜鳥取」の動脈が改善! 国道9号笠波峠に新トンネル開通 冬の事故&通行止めリスク減|newspaper=くるまのニュース|date=2023-09-17|accessdate=2023-10-09|url=https://kuruma-news.jp/post/687392}}</ref><ref name="norimono-news">{{Cite news|title=「こんなに雪あるの!?」立ち往生多発のヤバイ峠、トンネルでぶち抜き! 国道9号の豪雪地帯に10月開通|newspaper=乗りものニュース|date=2023-09-12|accessdate=2023-10-09|url=https://trafficnews.jp/post/128050}}</ref>。
現在は全体延長4.6 kmのうち、3.9 kmが開通している<ref name="press20230908" />。[[2023年]]([[令和]]5年)[[10月22日]]に笠波トンネルを含む区間である村岡区福岡 - 村岡区日影の2.4 kmが開通した<ref name="press20230908" /><ref name="kuruma" /><ref name="norimono-news" />。開通後も、村岡区福岡に残る未供用区間0.7 kmで事業が継続される<ref name="kuruma" /><ref name="norimono-news" />。
=== 路線データ ===
* 起点 : [[兵庫県]][[美方郡]][[香美町]]村岡区八井谷<ref name="saihyoka" /><ref name="press20230908" />
* 終点 : 兵庫県美方郡香美町村岡区日影<ref name="saihyoka" /><ref name="press20230908" />
* 延長 : 4.6 km<ref name="saihyoka" /><ref name="press20230908" />
* [[道路構造令#道路の区分|道路規格]] : 第3種第2級<ref name="saihyoka" /><ref name="press20230908" />
* 道路幅員 : 13.0 [[メートル|m]]<ref name="saihyoka" /><ref name="press20230908" />
* 車線数 : 2[[車線]]<ref name="saihyoka" /><ref name="press20230908" />
* 車線幅員 : 3.5 m<ref name="saihyoka" /><ref name="press20230908" />
* 設計速度 : 60 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="saihyoka" /><ref name="press20230908" />
== 沿革 ==
* [[1987年]]([[昭和]]62年)度 : 事業化<ref name="saihyoka" /><ref name="press20230908" /><ref name="kuruma" />。
* [[1988年]](昭和63年)度 : 用地着手<ref name="saihyoka" /><ref name="press20230908" />。
* [[1993年]]([[平成]]5年)度 : 工事着手<ref name="saihyoka" /><ref name="press20230908" />。
* [[1998年]](平成10年)[[4月27日]] : 村岡区八井谷 - 村岡区福岡 (1.0 km) が開通<ref name="press20230908" />。
* [[2000年]](平成12年)[[3月31日]] : 村岡区福岡 (0.5 km) が開通<ref name="press20230908" />。
* [[2022年]]([[令和]]4年)[[6月27日]] : 笠波トンネルが貫通<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kkr.mlit.go.jp/toyooka/topics/pdf/oshirase220711.pdf|title=笠波峠除雪拡幅(仮称)笠波トンネル貫通|date=2022-07-11|accessdate=2023-10-09|publisher=国土交通省近畿地方整備局 豊岡河川国道事務所|format=PDF}}</ref>。
* [[2023年]](令和5年)[[10月22日]] : 村岡区福岡 - 村岡区日影 (2.4 km) が開通<ref name="press20230908" /><ref name="kuruma" /><ref name="norimono-news" />。
== 道路施設 ==
=== 主要構造物 ===
* 笠波トンネル(1,744 m)<ref name="press20230908" />
* 作山川橋(17.5 m)(作山川)<ref name="press20230908" />
=== 道の駅 ===
* [[道の駅ハチ北|ハチ北]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[国道9号]]
* [[近畿地方の道路一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://www.kkr.mlit.go.jp/toyooka/index.php 国土交通省近畿地方整備局 豊岡河川国道事務所]
** [https://www.kkr.mlit.go.jp/toyooka/jigyo/route9-kasa/route9.html 国道9号笠波峠除雪拡幅]
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[[Category:兵庫県の道路]]
[[Category:香美町の交通]]
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アイギナのパウロス
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アイギナのパウロス(古代ギリシア語: Παῦλος Αἰγινήτης, Paulos Aiginētēs; ラテン語: Paulus Aegineta; アイギナ島、625年頃 – 690年頃)は、7世紀ビザンツのギリシア人医師。医学の百科事典『医学綱要七巻』(Medical Compendium in Seven Books) の著作で知られ、「初期医学著作の父」とみなされている。ビザンツ帝国においては長いあいだ、彼の著作は西方の医学知識のすべてを含んでおり、その正確さと完全さにおいて比肩するものがなかった。
彼の生涯については、アイギナ島で生まれ、アレクサンドリアを始めとして多くの場所を旅したということ以外なにも知られていない。彼はときに「医賢」(Iatrosophistes) や「巡行医師」(Periodeutes) と呼ばれる。これは専門職の実践をしながら土地から土地へ旅する医師を意味している。彼の生きた正確な年代については知られていない。しかし彼はトラッレイスのアレクサンドロスを引用しており、また彼自身はヤフヤー・ブン・サラフィユーン(大セラピオン)によって引用されているところから、彼を7世紀後半に位置づけたアブ・ル゠ファラジは正しそうである。
スーダによれば彼はいくつかの医学書を著したということで、それらのうちで主著たる1点がいまに伝存している。正確なタイトルはついていないが、ふつう『医学綱要七巻』(Medical Compendium in Seven Books, ギリシア語: Ἐπιτομῆς Ἰατρικῆς βιβλία ἑπτά, Epitomēs īātrikēs biblia hepta) と呼びならわされている。この書は主としてそれ以前の著作家たちの編纂物である。じっさいそのギリシア語の書題はそれが医学のエピトメー(綱要、摘要)であることを主張している。
ウィリアム・アレクサンダー・グリーンヒル (William Alexander Greenhill) の書くところでは、イスラム世界におけるアイギナのパウロスの評判はきわめて大であったようである。彼はとりわけ産婆たちによって参照されていたと言われ、そこから彼は「産科医」を意味する Al-kawabeli という名を得ている。アラビアの著作家たちによれば、彼は『婦人病について』(De Mulierum Morbis) と、さらにまた『小児の生存率と世話について』(De Puerulorum Vivendi Ratione atque Curatione) という書を書いたといわれる。彼の大著はフナイン・ブン・イスハークによってアラビア語に翻訳された。
とりわけ外科に関する第6巻は、ヨーロッパとアラビア世界で中世を通して参照され、外科学の歴史にとって格別の興味あるものである。全巻のギリシア語原典はヴェネツィアで1528年に、それからべつの版がバーゼルで1538年に出版された。いくつかのラテン語訳も刊行された。最初の完全な英訳はフランシス・アダムズにより1834年になされた。
この書において彼は、現代の手法に似たヘルニアの治療手術を描写して次のように書いている:「腫瘍を横切るように指3本分の幅で鼠径部まで切開し、膜と脂肪を除去したのち、腹膜を中央に露出させ、そこを一点まで持ち上げ、探針のつまみを当てて腸を深く押しこむ。そして、探針のつまみの両側にできた腹膜の隆起を縫合糸でつなぎあわせ、腹膜を切ったり精巣を摘出したりといったことは何もせずに探針を抜きとり、生傷に用いる塗布剤で傷を治す」。
1753年に植物学者カール・リンネは、ハマウツボ科に属す被子植物でもっぱら熱帯アジアに自生するナンバンギセル属 (Aeginetia) を発表した。これはアイギナのパウロスを記念した命名であった。
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アイギナのパウロスは、7世紀ビザンツのギリシア人医師。医学の百科事典『医学綱要七巻』(Medical Compendium in Seven Books) の著作で知られ、「初期医学著作の父」とみなされている。ビザンツ帝国においては長いあいだ、彼の著作は西方の医学知識のすべてを含んでおり、その正確さと完全さにおいて比肩するものがなかった。
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[[ファイル:Paulus_Aegineta_initial.jpg|サムネイル|16 世紀の印刷本の飾り頭文字。]]
'''アイギナのパウロス'''({{Lang-grc|Παῦλος Αἰγινήτης}}, ''{{transl|grc|Paulos Aiginētēs}}''; {{Lang-la|Paulus Aegineta}}; [[アイギナ島]]、625年ごろ – 690年ごろ)は、7世紀[[ビザンツ]]の[[ギリシア人]][[医師]]。医学の百科事典『医学綱要七巻』(''Medical Compendium in Seven Books'') の著作で知られ、「初期医学著作の父」とみなされている<ref>{{Cite book |last=Güzey |first=Demet |url=https://books.google.com/books?id=4HeqDwAAQBAJ&dq=Paul+of+Aegina&pg=PT97 |title=Mustard: A Global History |date=2019-09-15 |publisher=Reaktion Books |isbn=978-1-78914-175-7 |language=en}}</ref>。ビザンツ帝国においては長いあいだ、彼の著作は西方の医学知識のすべてを含んでおり、その正確さと完全さにおいて比肩するものがなかった<ref>{{Cite book |last=Jütte |first=Robert |url=https://books.google.com/books?id=djB3SmeevRIC |title=Contraception: A History |date=2008-05-12 |publisher=Polity |isbn=978-0-7456-3270-4 |pages=36 |language=en}}</ref>。
== 生涯 ==
彼の生涯については、[[アイギナ島]]で生まれ、[[アレクサンドリア]]を始めとして多くの場所を旅したということ以外なにも知られていない<ref>{{Harvnb|Smith|1870|p=152}} cites: Paul of Aegina, iv. 49, p. 526</ref>。彼はときに「医賢」(''Iatrosophistes'') や「巡行医師」(''Periodeutes'') と呼ばれる。これは専門職の実践をしながら土地から土地へ旅する医師を意味している。彼の生きた正確な年代については知られていない。しかし彼は[[トラッレイスのアレクサンドロス]]を引用しており<ref>{{Harvnb|Smith|1870|p=152}} cites: Paul of Aegina, iii. 28, 78, pp. 447, 495, vii. 5, 11, 19, pp. 650, 660, 687</ref>、また彼自身は[[ヨハンネス・セラピオン|ヤフヤー・ブン・サラフィユーン]](大セラピオン)によって引用されているところから<ref>{{Harvnb|Smith|1870|p=152}} cites: Ibn Sarafyun, ''Pract.'' vii. 9, pp. 73, 74, ed. Lugd. 1525</ref>、彼を7世紀後半に位置づけたアブ・ル゠ファラジは正しそうである<ref name="faraj">{{Harvnb|Smith|1870|p=152}} cites: Abu-al-Faraj, ''Hist. Dynast.'' p. 114.</ref>。
== 著作 ==
[[スーダ辞典|スーダ]]によれば彼はいくつかの医学書を著したということで、それらのうちで主著たる1点がいまに伝存している。正確なタイトルはついていないが、ふつう『医学綱要七巻』(''Medical Compendium in Seven Books'', {{Lang-el|Ἐπιτομῆς Ἰατρικῆς βιβλία ἑπτά}}, ''Epitomēs īātrikēs biblia hepta'') と呼びならわされている<ref>{{Cite web |url=http://nbn-resolving.de/urn:nbn:de:hbz:061:2-19794 |title=Digital German edition |website=[[University and State Library Düsseldorf]] |accessdate=20 October 2023}}</ref>。この書は主としてそれ以前の著作家たちの編纂物である{{Sfn|Smith|1870|p=152}}。じっさいそのギリシア語の書題はそれが医学のエピトメー(綱要、摘要)であることを主張している。
ウィリアム・アレクサンダー・グリーンヒル (William Alexander Greenhill) の書くところでは、イスラム世界におけるアイギナのパウロスの評判はきわめて大であったようである。彼はとりわけ[[産婆]]たちによって参照されていたと言われ、そこから彼は「産科医」を意味する ''Al-kawabeli'' という名を得ている{{Sfn|Smith|1870|p=153}}。アラビアの著作家たちによれば、彼は『婦人病について』(''De Mulierum Morbis'') と、さらにまた『小児の生存率と世話について』(''De Puerulorum Vivendi Ratione atque Curatione'') という書を書いたといわれる。彼の大著は[[フナイン・イブン・イスハーク|フナイン・ブン・イスハーク]]によってアラビア語に翻訳された{{Sfn|Smith|1870|p=153}}。
とりわけ[[外科学|外科]]に関する第6巻は、ヨーロッパと[[アラブ世界|アラビア世界]]で[[中世]]を通して参照され{{Sfn|Pormann|2004}}、外科学の歴史にとって格別の興味あるものである。全巻のギリシア語原典は[[ヴェネツィア]]で1528年に、それからべつの版が[[バーゼル]]で1538年に出版された。いくつかの[[ラテン語]]訳も刊行された。最初の完全な英訳はフランシス・アダムズにより1834年になされた{{Sfn|Aegineta|1834|p=[https://archive.org/stream/medicalworksofpa01pauluoft#page/v/mode/1up v] (The Editor's Prefix)}}。
この書において彼は、現代の手法に似た[[ヘルニア]]の治療手術を描写して次のように書いている:「腫瘍を横切るように指3本分の幅で[[鼠径部]]まで切開し、膜と脂肪を除去したのち、[[腹膜]]を中央に露出させ、そこを一点まで持ち上げ、[[探針]]のつまみを当てて腸を深く押しこむ。そして、探針のつまみの両側にできた腹膜の隆起を[[縫合糸]]でつなぎあわせ、腹膜を切ったり[[精巣]]を摘出したりといったことは何もせずに探針を抜きとり、生傷に用いる塗布剤で傷を治す」<ref>{{Cite book |title=Medical Epitome |last=Aegineta |first=Paulus |publisher=Heiberg |year=1921–24 |location=Leipzig and Berlin |pages=9–17}}</ref>。
== 栄誉 ==
1753年に植物学者[[カール・フォン・リンネ|カール・リンネ]]は、[[ハマウツボ科]]に属す[[被子植物]]でもっぱら熱帯アジアに自生する[[ナンバンギセル属]] (''Aeginetia'') を発表した。これはアイギナのパウロスを記念した命名であった<ref>{{Cite web |title=''Aeginetia'' |website=[[Plants of the World Online]] |publisher=[[Royal Botanic Gardens, Kew]] |url=https://powo.science.kew.org/taxon/urn:lsid:ipni.org:names:30973-1 |access-date=20 May 2020}}</ref>。
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |last=Aegineta |first=Paulus |editor-first=Francis |editor-last=Adams |editor-link=Francis Adams (translator) |year=1834 |edition=First |title=The Medical Works of Paulus Aegineta, the Greek Physician: Tr. Into English; with a Copious Commentary Containing a Comprehensive View of the Knowledge Possessed by the Greeks, Romans, and Arabians, on All Subjects Connected with Medicine and Surgery |volume=1 |publisher=Welsh, Treuttel, Würtz |url=https://archive.org/details/medicalworksofpa01pauluoft}} ({{Cite book |url=https://books.google.com/books?id=mmgFAAAAQAAJ |title=The Medical Works of Paulus Aegineta, the Greek Physician: Tr. Into English; with a Copious Commentary Containing a Comprehensive View of the Knowledge Possessed by the Greeks, Romans, and Arabians, on All Subjects Connected with Medicine and Surgery |last=Paulus (Aegineta_ |last2=Adams |first2=Francis |year=1834}})
* {{Cite book |last=Keyser |first=Paul T. |last2=Irby-Massie |first2=Georgia L. |title=Encyclopedia of Ancient Natural Scientists: The Greek Tradition and its Many Heirs |url=https://books.google.com/books?id=VQy6b2g3TtQC |access-date=19 October 2013 |date=2012-11-12 |publisher=Routledge |isbn=9781134298020}}
* {{Cite book |last=Pormann |first=Peter E. |title=The Oriental Tradition of Paul of Aegina's Pragmateia |url=https://books.google.com/books?id=SszCRRlW5asC&pg=PA297 |access-date=1 December 2012 |year=2004 |publisher=BRILL |isbn=9789004137578}}
* {{Cite book |last=al-Zahrāwī |first=Abū al-Qāsim Khalaf ibn ʻAbbās |title=مقالة في العمل باليد: A Definitive Edition of the Arabic Text |url=https://books.google.com/books?id=mjVra87nRScC&pg=PR8 |access-date=1 December 2012 |year=1973 |publisher=University of California Press |isbn=9780520015326}}
* This article incorporates text from a publication now in the public domain: Smith, William, ed. (1870). "Paulus Aegineta". Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology. Vol. 3. pp. 146, 152, 153.
== 関連図書 ==
* {{Cite book |last=Aegineta |first=Paulus |editor-first=Francis |editor-last=Adams |editor-link=フランシス・アダムズ |year=1844 |edition=Second |title=The seven books of Paulus Ægineta (in 3 volumes) |url=https://archive.org/details/sevenbooksofpaul01pauluoft |volume=1 |publisher=Printed for the Sydenham Society}} ({{Cite book |url=https://books.google.com/books?id=AFdhAAAAIAAJ&pg=PR3 |title=The Seven Books of Paulus Ægineta |last=Paulus (Aegineta0 |year=1844}})
* {{Cite book |last=Aegineta |first=Paulus |editor-first=Francis |editor-last=Adams |year=1846 |edition=Second |title=The seven books of Paulus Ægineta |url=https://archive.org/details/sevenbooksofpaul02pauluoft |volume=2 |publisher=Printed for the Sydenham Society}} ({{Cite book |url=https://books.google.com/books?id=GIBhAAAAIAAJ&pg=PR3 |title=The Seven Books of Paulus Ægineta |last=Paulus (Aegineta) |last2=Adams |first2=Francis |year=1846}})
* {{Cite book |last=Aegineta |first=Paulus |editor-first=Francis |editor-last=Adams |year=1847 |edition=Second |title=The seven books of Paulus Ægineta |url=https://archive.org/details/sevenbooksofpaul03pauluoft |volume=3 |publisher=Printed for the Sydenham Society}} ({{Cite book |url=https://books.google.com/books?id=gYo-AAAAcAAJ&pg=PR3 |title=The Seven Books of Paulus Aegineta: Translated from the Greek. With a Commentary Embracing a Complete View of the Knowledge Possessed by the Greeks, Romans, and Arabians on All Subjects Connected with Medicine and Surgery by Francis Adams. III |last=Paulus |first=Aegineta |year=1847}})
* {{Cite web |url=http://cmg.bbaw.de/epubl/online/editionen.html |title=Heiberg's ''CMG' Greek text (Index entry IX) |editor=Heiberg |date=1921–1924 |publisher=The Berlin-Brandenburg Academy of Sciences and Humanities |access-date=May 20, 2012}}
* {{Cite encyclopedia |authorlink=Emilie Savage-Smith |title=Islamic Medical Manuscripts at the National Library of Medicine: Bio-Bibliographies: Paul of Aegina |encyclopedia=U.S. National Library of Medicine}}
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[[Category:東ローマ帝国の人物]]
[[Category:625年生]]
[[Category:690年没]]
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コマンダー・コーディ
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CT-2224 "コマンダー・コーディ"(Commander Cody)は、アメリカのSF映画『スターウォーズ』シリーズの映画『スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ』およびそのテレビシリーズ、『スター・ウォーズ: バッド・バッチ』、その他のスピンオフ作品に登場する架空のキャラクターである。
コマンダー・コーディは銀河共和国における「共和国グランド・アーミー」のクローン・トルーパーであり、他のクローン・トルーパーと同様に惑星カミーノで生まれ、マンダロリアンの賞金稼ぎ「ジャンゴ・フェット」の遺伝子を持つ。
クローン戦争期、コマンダー・コーディはジェダイ将軍オビ=ワン・ケノービに仕え、ケノービの元弟子であるアナキン・スカイウォーカー将軍や彼の弟子(コマンダー)アソーカ・タノによって指揮された第501軍団(第501大隊)らと共に数多くの戦闘を共にしている。ゆえに第501軍団(第501大隊)の指揮官である「キャプテン・レックス」とは深い友情を築いている。
銀河共和国の共和国グランド・アーミーでは、クローン・マーシャル・コマンダーの階級に位置し、第212突撃大隊および第7空挺兵団の指揮を務めた。上官であるケノービからの信頼は厚く、彼の優れた戦術や戦闘スタイルは他のジェダイや仲間のクローンからも尊敬を集めていた。
クローン戦争末期、ケノービのグリーヴァス将軍討伐作戦に同行した第212突撃大隊は惑星ウータパウでの任務のさなか、銀河元老院のシーヴ・パルパティーン最高議長(ダース・シディアス)からジェダイの抹殺を指示する特別命令「オーダー66」が発令された。
オーダー66のプロトコルが確実に実行されるよう、全クローン・ユニットの脳内にはあらかじめ行動制御用のバイオチップが胎児の段階から埋め込まれていた(これはシスの陰謀であり、ダース・シディアスの声によって起動した脳内のチップはクローンを一時的なトランス状態に陥らせることで自由意志を即座に排除し、命令を強制する効力を有していた)。
コーディも例外ではなく、バイオチップが起動した後に長年戦いを共にしてきた戦友ケノービに砲撃を命じることとなった。
共和国グランド・アーミーが解体/再編された帝国の黎明期、コーディは帝国軍におけるクローン・コマンダーとしての指揮任務を継続した。
再編された帝国軍では虐殺や武力行使による統治が進められ、共和国軍におけるクローン・トルーパーの存在理由であった「治安維持」とはかけ離れた任務形態に疑問を呈するクローン・トルーパーも増えていた。同時に、バイオチップの効力が時と共に薄れたこともあり、かつて仕えていたジェダイ将軍の抹殺に盲目的に従った正当性が見いだせず、苦悩するトルーパーも増加した。
こういった影響もあり、帝国軍は従来までのクローン・トルーパーから、募兵制の(ストーム・トルーパーの前身となる)TKトルーパーへの置き換えを始めていた。こうしたクローン・トルーパーの退役プロジェクト(ウォー=マントル計画)の一貫として彼らの多くは最前線に配備され、樹立後から徐々に数を減らしていった。
本来、忠誠を誓ったはずの銀河共和国における「秩序の維持」という目的が失われている状況での任務を重ねるうちに、コーディ自身も上官であるインペリアル・オフィサーからの命令に強く疑問を抱くようになった。クローン・ウォーズの正式な続編にあたる「スター・ウォーズ: バッド・バッチ」では、クローン・コマンダーとしての軍務を放棄し、後に帝国軍から逃亡している。
2005年の映画、エピソード3『シスの復讐』以来、2008年のアニメーション映画『スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ』、続く全7シーズン、クローン・ウォーズの正式な続編にあたる2021年の『スター・ウォーズ: バッド・バッチ』など、新三部作/プリクエル・トリロジーに関連する数多くの作品に出演する。
初登場となる2005年のエピソード3『シスの復讐』では、クローンの遺伝子ホストであるジャンゴ・フェットおよびボバ・フェット、全クローン・トルーパーを演じたテムエラ・モリソンが実写版のコーディを演じている。
エピソード3でのセリフは実写を演じたテムエラ・モリソンが担当しているが、続くアニメーション作品では、声優のディー・ブラッドリー・ベイカーが全てのクローン・トルーパーの声を務めている。日本語吹替版においては、全作品を金田明夫が担当した。
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CT-2224 "コマンダー・コーディ"は、アメリカのSF映画『スターウォーズ』シリーズの映画『スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ』およびそのテレビシリーズ、『スター・ウォーズ: バッド・バッチ』、その他のスピンオフ作品に登場する架空のキャラクターである。
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{{架空の人物
|名前= コマンダー・コーディ<br/>Commander Cody
|演= [[テムエラ・モリソン]]<br/>([[ジャンゴ・フェット]]/[[クローン・トルーパー]])
|声= [[ディー・ブラッドリー・ベイカー]] (英語版)<br/>[[金田明夫]](吹替版)
|性別= 男性
|生年月日= 32 BBY
|誕生日=
|干支=
|星座=
|年齢=
|出身地= カミーノ
|職業=
|所属= - 銀河共和国<br/>- 共和国グランド・アーミー<br/>- 第212突撃大隊<br/>- 第7空挺兵団<br/>- 銀河帝国<br/>- 帝国軍<br/>- ストームトルーパー兵団
|階級= クローン・オフィサー<br/>クローン・マーシャル・コマンダー
|学年=
|機体=
|身長= 1.83メートル
|体重= 79キログラム
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|種族= 人間(クローン)
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|misc0_data=
|キャラクターデザイン= George Lucas<br/>[[ジョージ・ルーカス]]<br/>Dave Filoni<br/>[[デイブ・フィローニ]]
|備考=
|出典=
}}
CT-2224 '''"コマンダー・コーディ"'''(Commander Cody)は、[[アメリカ]]の[[SF映画]][[スターウォーズシリーズ|『スターウォーズ』シリーズ]]の映画『[[スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ]]』およびその[[スターウォーズ/クローン・ウォーズ (テレビアニメ)|テレビシリーズ]]、『[[スター・ウォーズ: バッド・バッチ]]』、その他のスピンオフ作品に登場する架空のキャラクターである。
== 概要 ==
コマンダー・コーディは銀河共和国における「共和国グランド・アーミー」のクローン・トルーパーであり、他のクローン・トルーパーと同様に惑星カミーノで生まれ、マンダロリアンの賞金稼ぎ「[[ジャンゴ・フェット]]」の遺伝子を持つ<ref name="名前なし-20231105145806">https://www.starwars.com/databank/clone-commander-cody</ref>。
クローン戦争期、コマンダー・コーディはジェダイ将軍[[オビ=ワン・ケノービ]]に仕え、ケノービの元弟子である[[アナキン・スカイウォーカー]]将軍や彼の弟子(コマンダー)[[アソーカ・タノ]]によって指揮された第501軍団(第501大隊)らと共に数多くの戦闘を共にしている。ゆえに第501軍団(第501大隊)の指揮官である「[[キャプテン・レックス]]」とは深い友情を築いている<ref name="名前なし-20231105145806"/>。
銀河共和国の共和国グランド・アーミーでは、クローン・マーシャル・コマンダーの階級に位置し、第212突撃大隊および第7空挺兵団の指揮を務めた。上官であるケノービからの信頼は厚く、彼の優れた戦術や戦闘スタイルは他のジェダイや仲間のクローンからも尊敬を集めていた<ref>https://www.starwars.com/databank/obi-wan-kenobi</ref>。
クローン戦争末期、ケノービのグリーヴァス将軍討伐作戦に同行した第212突撃大隊は惑星ウータパウでの任務のさなか、銀河元老院の[[シーヴ・パルパティーン]]最高議長([[ダース・シディアス]])からジェダイの抹殺を指示する特別命令「[[オーダー66 (スターウォーズ)|オーダー66]]」が発令された。
[[オーダー66]]のプロトコルが確実に実行されるよう、全クローン・ユニットの脳内にはあらかじめ行動制御用のバイオチップが胎児の段階から埋め込まれていた(これはシスの陰謀であり、ダース・シディアスの声によって起動した脳内のチップはクローンを一時的なトランス状態に陥らせることで自由意志を即座に排除し、命令を強制する効力を有していた)。
コーディも例外ではなく、バイオチップが起動した後に長年戦いを共にしてきた戦友ケノービに砲撃を命じることとなった<ref>https://www.starwars.com/databank/utapau</ref>。
共和国グランド・アーミーが解体/再編された帝国の黎明期、コーディは帝国軍におけるクローン・コマンダーとしての指揮任務を継続した。
再編された帝国軍では虐殺や武力行使による統治が進められ、共和国軍におけるクローン・トルーパーの存在理由であった「治安維持」とはかけ離れた任務形態に疑問を呈するクローン・トルーパーも増えていた。同時に、バイオチップの効力が時と共に薄れたこともあり、かつて仕えていたジェダイ将軍の抹殺に盲目的に従った正当性が見いだせず、苦悩するトルーパーも増加した。
こういった影響もあり、帝国軍は従来までのクローン・トルーパーから、募兵制の([[ストーム・トルーパー]]の前身となる)[[TKトルーパー]]への置き換えを始めていた。こうしたクローン・トルーパーの退役プロジェクト([[ウォー=マントル計画]])の一貫として彼らの多くは最前線に配備され、樹立後から徐々に数を減らしていった。
本来、忠誠を誓ったはずの銀河共和国における「秩序の維持」という目的が失われている状況での任務を重ねるうちに、コーディ自身も上官であるインペリアル・オフィサーからの命令に強く疑問を抱くようになった。クローン・ウォーズの正式な続編にあたる「[[スター・ウォーズ: バッド・バッチ]]」では、クローン・コマンダーとしての軍務を放棄し、後に帝国軍から逃亡している<ref name="名前なし-20231105145806"/>。
== アニメーション ==
2005年の映画、エピソード3『[[シスの復讐]]』以来、2008年のアニメーション映画『[[スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ]]』、続く全7シーズン、クローン・ウォーズの正式な続編にあたる2021年の『[[スター・ウォーズ: バッド・バッチ]]』など、新三部作/プリクエル・トリロジーに関連する数多くの作品に出演する。
初登場となる2005年のエピソード3『[[シスの復讐]]』では、クローンの遺伝子ホストである[[ジャンゴ・フェット]]および[[ボバ・フェット]]、全クローン・トルーパーを演じた[[テムエラ・モリソン]]が実写版のコーディを演じている。
エピソード3でのセリフは実写を演じたテムエラ・モリソンが担当しているが、続くアニメーション作品では、声優の[[ディー・ブラッドリー・ベイカー]]が全てのクローン・トルーパーの声を務めている。日本語吹替版においては、全作品を[[金田明夫]]が担当した<ref>https://m.imdb.com/name/nm0048389/</ref>。
== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
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[[Category:スター・ウォーズの登場人物]]
[[Category:架空のクローン]]
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ツァール・カロヤン
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ツァール・カロヤン(ブルトン語: Цар Калоян, Tsar Kaloyan, [ˈt͡sar kɐɫoˈjan])は、ブルガリア北東部のラズグラト州にある町。ラズグラトの町の近くに位置する。ツァール・カロヤン市の行政上の中心地で、人口は3,856人(2009年12月時点)である。
かつてはトルラク (Torlak) という地名だったが、1934年にツァール・カロヤンに改称された。その後、1951年にフレバロヴォ (Hlebarovo) と再度改称されたが、1991年にツァール・カロヤンに戻されている。
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ツァール・カロヤンは、ブルガリア北東部のラズグラト州にある町。ラズグラトの町の近くに位置する。ツァール・カロヤン市の行政上の中心地で、人口は3,856人(2009年12月時点)である。 かつてはトルラク (Torlak) という地名だったが、1934年にツァール・カロヤンに改称された。その後、1951年にフレバロヴォ (Hlebarovo) と再度改称されたが、1991年にツァール・カロヤンに戻されている。
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'''ツァール・カロヤン'''({{lang-br|Цар Калоян}}, Tsar Kaloyan<ref>{{GEOnet2|32FA883BAEBB3774E0440003BA962ED3|Tsar Kaloyan, Razgrad, Bulgaria}}</ref>, {{IPA-bg|ˈt͡sar kɐɫoˈjan|}})は、[[ブルガリア]]北東部の[[ラズグラト州]]にある町。[[ラズグラト]]の町の近くに位置する。ツァール・カロヤン市の行政上の中心地で、人口は3,856人(2009年12月時点)である<ref name="statistika">{{in lang|en}} [http://www.nsi.bg/otrasalen.php?otr=53&a1=1583&a2=1584&a3=1588#cont Bulgarian National Statistical Institute - towns in 2009]</ref>。
かつてはトルラク (Torlak) という地名だったが、1934年にツァール・カロヤンに改称された。その後、1951年にフレバロヴォ (Hlebarovo) と再度改称されたが、1991年にツァール・カロヤンに戻されている。
== 脚注 ==
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[[Category:ラズグラト州]]
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ソコオキアミ
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ソコオキアミ(英語: deep sea krill, 学名: Bentheuphausia amblyops)とは、オキアミの1種。本種のみでソコオキアミ科およびソコオキアミ属を構成する。本種以外のオキアミ85種はすべてオキアミ科に属する。
本種は大西洋・北緯40度線以南およびインド洋・太平洋に生息する。海底1,000 m以下の漂泳区分帯で暮らしている。
本種はオキアミ科とはいくつかの形態学的差異によって区別される。中でも顕著なものとして本種は発光せず、また腹肢第一対は交接器官に変化していない。また、眼はオキアミ科より小型である。成体は体長4-5 cmほどになる。
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ソコオキアミとは、オキアミの1種。本種のみでソコオキアミ科およびソコオキアミ属を構成する。本種以外のオキアミ85種はすべてオキアミ科に属する。
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{{生物分類表
|名称 = ソコオキアミ
|色 = 動物界
|画像 =[[ファイル:Bentheuphausia amblyops.png|250px]]
|画像キャプション = after Mauchline, 1971; after Sars, 1885
|ドメイン = [[真核生物]] [[:w:Eukaryota|Eukaryota]]
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|亜門 = [[甲殻亜門]] [[w:Crustacea|Crustacea]]
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|目 = [[オキアミ目]] [[:w:Euphausiacea|Euphausiacea]]
|科 = [[ソコオキアミ科]] [[:w:Bentheuphausiidae|Bentheuphausiidae]]<br><small>{{仮リンク|ジュゼッペ・コローシ|it|Giuseppe Colosi|label=Colosi}}, 1917</small>
|属 = '''ソコオキアミ属''' [[:w:Bentheuphausia|{{Snamei|Bentheuphausia}}]]<br><small>[[ゲオルク・オシアン・サーシュ|G. O. Sars]], 1885</small>
|種 = '''ソコオキアミ''' [[:w:Bentheuphausia amblyops|{{Snamei|B. amblyops}}]]
|学名 = {{Snamei|Bentheuphausia amblyops}}<br>(G. O. Sars, 1883) <ref>{{ITIS |id=95499 |taxon=''Bentheuphausia amblyops'' (G. O. Sars, 1883) |accessdate=July 6, 2011}}</ref>
|和名 = ソコオキアミ
|英名 = Deep sea krill
|シノニム = ''Thysanopoda amblyops'' <br><small>G. O. Sars, 1883</small> <ref>{{cite web |title=Species ''Bentheuphausia amblyops'' (Sars, 1883) |url=http://www.environment.gov.au/biodiversity/abrs/online-resources/fauna/afd/taxa/Bentheuphausia_amblyops |work=Australian Faunal Directory |publisher=[[Department of the Environment, Water, Heritage and the Arts]] |date=October 9, 2008 |accessdate=July 6, 2011 |archive-url=https://web.archive.org/web/20121013192206/http://www.environment.gov.au/biodiversity/abrs/online-resources/fauna/afd/taxa/Bentheuphausia_amblyops |archive-date=October 13, 2012 |url-status=dead }}</ref>
}}
'''ソコオキアミ'''({{lang-en|deep sea krill}}, [[学名]]: {{Snamei|Bentheuphausia amblyops}})とは、[[オキアミ]]の1種。本種のみでソコオキアミ科およびソコオキアミ属を構成する<ref>{{cite WoRMS |author=Volker Siegel |year=2011 |title=''Bentheuphausia'' Sars, 1885 |id=110672 |accessdate=November 25, 2011 |db=krill}}</ref><ref>{{cite WoRMS |author=Volker Siegel |year=2011 |title=Bentheuphausiidae |id=110670 |accessdate=November 25, 2011 |db=krill}}</ref>。本種以外のオキアミ85種はすべて[[オキアミ科]]に属する。
== 分布 ==
本種は[[大西洋]]・[[北緯40度線]]以南および[[インド洋]]・[[太平洋]]に生息する<ref name="Mauchline">{{cite web |author=J. Mauchline |url=http://www.ices.dk/products/fiche/Plankton/SHEET134.PDF |title=Euphausiacea: Adults |publisher=[[Conseil International pour l'Exploration de la Mer]] |year=1971 |format=[[Portable Document Format|PDF]] |access-date=2005-06-16 |archive-url=https://web.archive.org/web/20110515085757/http://www.ices.dk/products/fiche/Plankton/SHEET134.PDF |archive-date=2011-05-15 |url-status=dead }}</ref>。海底1,000 m以下の[[漂泳区分帯]]で暮らしている。
== 概要 ==
本種はオキアミ科とはいくつかの形態学的差異によって区別される。中でも顕著なものとして本種は[[生物発光|発光]]せず、また腹肢第一対は交接器官に変化していない。また、眼はオキアミ科より小型である。成体は体長4-5 cmほどになる<ref name="Mauchline"/>。
== 脚注 ==
{{Reflist|32em}}
== 外部リンク ==
*[http://www.marine.csiro.au/cgi-bin/cs_map.pl?csq=7000:459:2|7101:209:2|7101:209:4|7101:219:2|7102:100:1|7102:100:3|7301:394:2|7301:394:4|7301:495:1|7301:495:3|7302:215:1|7303:122:3|7303:353:1|7306:113:4|7401:104:4|7401:134:3|7401:353:4|7401:354:3|7401:479:1|7401:479:2|7513:236:3&title=OBIS%20stored%20distribution%20-%20%3Ci%3EBentheuphausia%20amblyops%3C/i%3E Distribution data set of ''Bentheuphausia ambylops'']{{dead link|date=October 2016 |bot=InternetArchiveBot |fix-attempted=yes }} from [https://web.archive.org/web/20050405123031/http://www.iobis.org/IndexSearch?category=IArCrME OBIS].
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アロダポスクス
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アロダポスクス(学名:Allodaposuchus)は、後期白亜紀のヨーロッパに生息した、正鰐類に属するワニ形上目新鰐類の絶滅した属。他のワニ形類との間での類縁関係は諸説あり、ワニ目の外部でハイラエオチャンプサと並ぶ正鰐類の基盤的位置に置くもの、ハイラエオチャンプサよりも派生的な位置に置くもの、ワニ目の内部に置くものがある。
他の白亜紀のワニ形類の多くと同様に、アロダポスクスは現生のワニと比較して小型であった。本属について既知の範囲内で最大の標本は全長約3メートルに達する。形態は種間で異なるが、一般にアロダポスクスの頭蓋骨は短く平坦でかつ丸みを帯びる。Allodaposuchus precedensの頭蓋骨は吻部が短く、その長さは頭蓋天井(英語版)と同程度である。A. subjuniperusは吻部が中程度に伸びてり、頭蓋天井よりも長い。アロダポスクスの種を他のワニ形類から区別する主な特徴としてはcranioquadrate passageと呼称される頭蓋骨の背側に走る溝の角度が挙げられ、他のワニのcranioquadrate passageが頭蓋骨背側から僅かに視認できる程度なのに対し、アロダポスクスのcranioquadrate passageは外側からも見て取ることが可能である。
アロダポスクスの種のうち少なくともA. hulkiにおいては、長期間陸上で生活するための適応を遂げていた可能性がある。A. hulkiの頭蓋骨には大型の洞が存在しており、これは現生のワニや化石種のワニには見られないものであり、頭蓋骨の軽量化の他にも水に由来する音を聞き取ることに寄与した可能性がある。加えて、A. hulkiは肩甲骨・上腕骨・尺骨上の筋肉の付着面がよく発達しており、前肢は陸上での歩行に適した半直立姿勢を維持することが可能であった。A. hulkiの骨格は層状の砂岩と泥岩の堆積物から発見されており、この地層は車軸藻植物に基づいて河川や湖沼のような恒久的な水場から遠く離れた大型の氾濫原に存在する一時的な池で形成された可能性が高い。A. hulkiは水の外で長い時間を過ごし、食餌を求めてこれらの池の間を移動した可能性がある。
アロダポスクスは複数の種が記載されているが、その位置づけには議論がある。
アロダポスクスのタイプ種A. precedensはルーマニアで化石が産出し、1928年にハンガリーの古生物学者フランツ・ノプシャが命名した。ノプシャが上部白亜系マーストリヒチアン階にあたるハツェグ盆地の堆積物中で発見した標本は骨の断片であった。2001年にはスペインとフランスから産出した部分的な頭蓋骨が本種に分類された。これらの頭蓋骨のいくつかはルーマニアの地層よりも古いカンパニアン階のものであり、このため本種は約500万年に亘って存続していたことが示唆される。
2013年の研究では、2001年に本種に分類されたフランスとスペインの化石が実際にはアロダポスクスの未記載種である可能性が提唱され、Allodaposuchus sp.として同定された。また2005年の研究ではこれらの化石は異なるワニ形類の属に属することが提唱され、またルーマニア産の化石が自身の属を設立するにはあまりに断片的であると指摘されたことにより、アロダポスクスを疑問名とする提案がなされている。しかし2013年の研究ではルーマニア産標本は他のヨーロッパの白亜紀のワニ形類から区別できるものであると主張され、属としてのアロダポスクスの有効性が再確認された。
2013年にはアロダポスクス属の第二の種であるA. subjuniperusがスペイン・ウエスカ県に分布する上部マーストリヒチアン階のトレンプ層群(英語版)Conquès層から産出した頭蓋骨に基づいて命名された。本標本はビャクシン属の樹木の下で発見され、骨の間にはその根が食い込んで成長していたため、ラテン語で「ビャクシンの下で」を意味する種小名が命名された。しかし2016年に本種はA. precedensと十分な区別が可能と判断されたため、新属アガレスクス(英語版)にそのタイプ種Agaresuchus fontisensisと共に再分類された。2021年にはBlanoによる系統解析がこの結果に異を唱えることになり、A. fontisensisとA. subjuniperusのいずれもがロフエコスクス(英語版)のL. megadontosとL. mechinorumと共にアロダポスクス属に属することが示された。
ピレネー山脈南部のFumanya Sudと呼ばれる化石産地においてトレンプ層(英語版)で発見された部分的な頭蓋骨と他の骨格断片に基づき、2014年にはA. palustrisが記載された。これらの骨格により、初めてアロダポスクスの体骨格の詳細な記載が可能となった。
アロダポスクス属の第四の種であるA. hulkiは2015年に記載された。産出層準は同じくトレンプ層であるが、産地はCasa Fabàであった。本種の種小名はマーベル・コミックの超人ハルクにちなんでおり、本種が強い筋肉を有したことを示す骨格の特徴を反映している。
2021年にBlancoが命名したA. palustrisは、南フランスのブーシュ=デュ=ローヌ県に分布する上部カンパニアン階の河川堆積物中に発見された化石に基づいて記載が行われた。本種の種小名は白亜紀のヨーロッパの群島の一つであったIbero-Armorican島にちなむ。
2016年に新属新種Agaresuchus fontisensisが発見・記載された。本種の種小名は化石産地Lo Huecoが位置するスペイン・クエンカ県のFuentesにちなんでおり、fontisはFuentesのラテン語名である。これに伴ってA. subjuniperusも新属アガレスクス属に再分類されたが、Blancoの2021年の研究はこれに異論を投げかけており、アガレスクスをアロダポスクスのジュニアシノニムとして扱いこれら2種をアロダポスクス属に再分類することを提唱している。
2015年に命名された属であるロフエコスクス(英語版)にはL. megadontosとL. mechinorumの2種が含まれており、これらはスペインと南フランスから産出したものである。Blancoの2021年の研究ではこれら2種はアロダポスクス属に再分類することが提唱されており、またロフエコスクスはアロダポスクスのジュニアシノニムと考えられている。
アロダポスクスはアロダポスクス科の分岐群に属すが、アロダポスクス科の厳密な位置付けについてはいまだ議論がある。Narváez et al. はアロダポスクス科をハイラエオチャンプサ科の姉妹群とした上でこれら2科を纏めてワニ目の姉妹群としており、Salisbury et al. (2006)やそれに準拠する小林快次『ワニと恐竜の共存』も同様の樹形を採用している。別の研究ではこれら2科は姉妹群ではなくワニ目に向かう進化的段階として扱われ、ハイラエオチャンプサ科はアロダポスクス科よりも基盤的とされている。2021年には体骨格の情報を組み込んだ系統解析により、アロダポスクス科はワニ目の内部に位置付けられている。
以下は2021年のBlancoの研究に基づく、アロダポスクス科内の類縁関係を示すクラドグラム。
2021年の研究においてアロダポスクスはアガレスクス(英語版)やロフエコスクス(英語版)と共に側系統群として扱われており、Blancoはこれら2種をアロダポスクスのジュニアシノニムにすべきであると主張している。
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アロダポスクスは、後期白亜紀のヨーロッパに生息した、正鰐類に属するワニ形上目新鰐類の絶滅した属。他のワニ形類との間での類縁関係は諸説あり、ワニ目の外部でハイラエオチャンプサと並ぶ正鰐類の基盤的位置に置くもの、ハイラエオチャンプサよりも派生的な位置に置くもの、ワニ目の内部に置くものがある。
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{{生物分類表
|地質時代 = [[後期白亜紀]][[カンパニアン]]
|地質時代2 = [[マーストリヒチアン]]
|名称 = アロダポスクス
|画像 = [[File:Allodaposuchus precedens.jpg|250px]]
|画像キャプション = ''A. precedens''の頭蓋骨
|上綱 = [[四肢動物|四肢動物上綱]] {{sname||Tetrapoda}}
|省略 = 爬虫綱
|亜綱 =[[双弓類|双弓亜綱]] {{sname|en|Diapsid|Diapsida}}
|下綱 = [[主竜類|主竜型下綱]] {{sname||Archosauromorpha}}
|下綱階級なし = [[クルロタルシ類]] {{sname||Crurotarsi}}
|上目 = [[ワニ形上目]] {{sname||Crocodylomorpha}}
|上目階級なし = [[新鰐類]] {{sname||Neosuchia}}
|目階級なし = [[正鰐類]] {{sname||Eusuchia}}
|科 = [[アロダポスクス科]] {{sname||Allodaposuchidae}}
|属 = '''アロダポスクス属''' {{snamei||Allodaposuchus}}
|学名 = '''''Allodaposuchus''''' {{AUY|Nopsca|1928}}
|下位分類名 = [[種 (分類学)|種]]
|下位分類 =
* '''''A. precedens''''' {{small|Nopcsa, 1928}}
* '''''A. subjuniperus'''''? {{small|Puértolas ''et al.'', 2013 (also ''Agaresuchus'')}}
* '''''A. palustris''''' {{small|Blanco ''et al.'', 2014}}
* '''''A. hulki''''' {{small|Blanco ''et al.'', 2015}}
* '''''A. iberoarmoricanus''''' {{small|Blanco, 2021}}
* '''''A. fontisensis'''''? {{small|(Narváez ''et al.'', 2016; originally ''Agaresuchus'')}}
* '''''A. megadontos'''''? {{small|(Narváez ''et al.'' 2015; originally ''Lohuecosuchus'')}}
* '''''A. mechinorum'''''? {{small|(Narváez ''et al.'' 2015; originally ''Lohuecosuchus'')}}
| シノニム =
* '''''{{仮リンク|アガレスクス|label=Agaresuchus|en|Agaresuchus}}'''''? {{small|Narváez ''et al.'', 2016}}
* '''''{{仮リンク|ロフエコスクス|label=Lohuecosuchus|en|Lohuecosuchus}}'''''? {{small|Narváez ''et al.'' 2015}}
}}
'''アロダポスクス'''([[学名]]:'''''Allodaposuchus''''')は、[[後期白亜紀]]の[[ヨーロッパ]]に生息した、[[正鰐類]]に属する[[ワニ形上目]][[新鰐類]]の[[絶滅]]した[[属 (分類学)|属]]<ref name=小林2013>{{Cite book|和書|author=[[小林快次]] |title=ワニと恐竜の共存 巨大ワニと恐竜の世界 |pages=34-36 |isbn=978-4-8329-1398-1 |date=2013-07-25 |publisher=[[北海道大学出版会]]}}</ref>。他のワニ形類との間での類縁関係は諸説あり、ワニ目の外部で[[ハイラエオチャンプサ]]と並ぶ正鰐類の基盤的位置に置くもの、ハイラエオチャンプサよりも派生的な位置に置くもの、ワニ目の内部に置くものがある。
== 特徴 ==
[[File:Allodaposuchus BW.jpg|thumb|left|''A. precedens''の復元図]]
他の白亜紀のワニ形類の多くと同様に、アロダポスクスは現生のワニと比較して小型であった。本属について既知の範囲内で最大の標本は全長約3メートルに達する<ref name=PCM13>{{cite journal |first1=E. |last1=Puértolas-Pascual |first2=J.I. |last2=Canudo |first3=M. |last3=Moreno-Azanza |year=2014 |title=The eusuchian crocodylomorph ''Allodaposuchus subjuniperus'' sp. nov., a new species from the latest Cretaceous (upper Maastrichtian) of Spain |journal=Historical Biology |volume=26 |issue=1 |pages=91–109 |doi=10.1080/08912963.2012.763034 |s2cid=85004774 }}</ref>。形態は種間で異なるが、一般にアロダポスクスの頭蓋骨は短く平坦でかつ丸みを帯びる。''Allodaposuchus precedens''の頭蓋骨は吻部が短く、その長さは{{仮リンク|頭蓋天井|en|skull roof}}と同程度である。''A. subjuniperus''は吻部が中程度に伸びてり、頭蓋天井よりも長い<ref name=PCM13 /><ref name=MJE10>{{cite journal |last=Martin |first=J.E. |year=2010 |title=''Allodaposuchus'' Nopsca, 1928 (Crocodylia, Eusuchia), from the Late Cretaceous of southern France and its relationships to Alligatoroidea |journal=Journal of Vertebrate Paleontology |volume=30 |pages=756–767 |doi=10.1080/02724631003758318 }}</ref>。アロダポスクスの種を他のワニ形類から区別する主な特徴としてはcranioquadrate passageと呼称される頭蓋骨の背側に走る溝の角度が挙げられ、他のワニのcranioquadrate passageが頭蓋骨背側から僅かに視認できる程度なのに対し、アロダポスクスのcranioquadrate passageは外側からも見て取ることが可能である<ref name=Detal08>{{cite journal |last=Delfino |first=M. |last2=Codrea |first2=V. |last3=Folie |first3=A. |last4=Dica |first4=P. |last5=Godefroit |first5=P. |last6=Smith |first6=T. |year=2008 |title=A complete skull of ''Allodaposuchus precedens'' Nopcsa, 1928 (Eusuchia) and a reassessment of the morphology of the taxon based on the Romanian remains |journal=Journal of Vertebrate Paleontology |volume=28 |pages=111–122 |doi=10.1671/0272-4634(2008)28[111:ACSOAP]2.0.CO;2 |url=https://www.researchgate.net/publication/234072017_A_Complete_Skull_of_Allodaposuchus_precedens_Nopcsa_1928_Eusuchia_and_a_Reassessment_of_the_Morphology_of_the_Taxon_Based_on_the_Romanian_Remains }}</ref>。
アロダポスクスの種のうち少なくとも''A. hulki''においては、長期間陸上で生活するための適応を遂げていた可能性がある。''A. hulki''の頭蓋骨には大型の洞が存在しており、これは現生のワニや化石種のワニには見られないものであり、頭蓋骨の軽量化の他にも水に由来する音を聞き取ることに寄与した可能性がある。加えて、''A. hulki''は[[肩甲骨]]・[[上腕骨]]・[[尺骨]]上の筋肉の付着面がよく発達しており、前肢は陸上での歩行に適した半直立姿勢を維持することが可能であった。''A. hulki''の骨格は層状の[[砂岩]]と[[泥岩]]の堆積物から発見されており、この地層は[[車軸藻植物門|車軸藻植物]]に基づいて河川や湖沼のような恒久的な水場から遠く離れた大型の[[氾濫原]]に存在する一時的な池で形成された可能性が高い。''A. hulki''は水の外で長い時間を過ごし、食餌を求めてこれらの池の間を移動した可能性がある<ref name=Betal15>{{cite journal |last=Blanco |first=Alejandro |last2=Fortuny |first2=Josep |last3=Vicente |first3=Alba |last4=Luján |first4=Angel H. |last5=García Marçà |first5=Jordi Alexis |last6=Sellés |first6=Albert G. |year=2015 |title=A new species of ''Allodaposuchus'' (Eusuchia, Crocodylia) from the Maastrichtian (Late Cretaceous) of Spain: phylogenetic and paleobiological implications |journal=[[PeerJ]] |volume=3:e1171 |pages=1–35 |doi=10.7717/peerj.1171 |doi-access=free |pmid=26339549 |pmc=4558081 }}</ref>。
== 発見史 ==
アロダポスクスは複数の種が記載されているが、その位置づけには議論がある。
===''A. precedens''===
アロダポスクスのタイプ種''A. precedens''は[[ルーマニア]]で化石が産出し、1928年に[[ハンガリー]]の古生物学者[[フランツ・ノプシャ]]が命名した<ref name=Nopcsa1928>{{cite journal |last=Nopcsa |first=F |year=1928 |title=Paleontological notes on Reptilia. 7. Classification of the Crocodilia |journal=Geologica Hungarica, Series Palaeontologica |volume=1 |pages=75–84}}</ref>。ノプシャが[[後期白亜紀|上部白亜系]][[マーストリヒチアン]]階にあたるハツェグ盆地の堆積物中で発見した標本は骨の断片であった。2001年には[[スペイン]]と[[フランス]]から産出した部分的な頭蓋骨が本種に分類された<ref name=BOWJ01>{{cite journal |last=Buscalioni |first=A.D. |last2=Ortega |first2=F. |last3=Weishampel |first3=D.B. |last4=Jianu |first4=C.M. |year=2001 |title=A revision of the crocodyliform ''Allodaposuchus precedens'' from the Upper Cretaceous of the Hateg Basin, Romania. Its relevance in the phylogeny of Eusuchia |journal=[[Journal of Vertebrate Paleontology]] |volume=21 |pages=74–86 |doi=10.1671/0272-4634(2001)021[0074:AROTCA]2.0.CO;2}}</ref>。これらの頭蓋骨のいくつかはルーマニアの地層よりも古い[[カンパニアン]]階のものであり、このため本種は約500万年に亘って存続していたことが示唆される<ref name=PCM13 />。
2013年の研究では、2001年に本種に分類されたフランスとスペインの化石が実際にはアロダポスクスの未記載種である可能性が提唱され、''Allodaposuchus'' sp.として同定された<ref name=PCM13 />。また2005年の研究ではこれらの化石は異なるワニ形類の属に属することが提唱され、またルーマニア産の化石が自身の属を設立するにはあまりに断片的であると指摘されたことにより、アロダポスクスを[[疑問名]]とする提案がなされている<ref name=MB05>{{cite journal |last=Martin |first=J.E. |last2=Buffetaut |first2=E. |year=2005 |title=An overview of the Late Cretaceous crocodilian assemblage from Cruzy, southern France |journal=Kaupia |volume=14 |pages=33–40}}</ref>。しかし2013年の研究ではルーマニア産標本は他のヨーロッパの白亜紀のワニ形類から区別できるものであると主張され、属としてのアロダポスクスの有効性が再確認された<ref name=PCM13 />。
===''A. (Agaresuchus) subjuniperus'' ?===
2013年にはアロダポスクス属の第二の種である''A. subjuniperus''がスペイン・[[ウエスカ県]]に分布する上部マーストリヒチアン階の{{仮リンク|トレンプ層|label=トレンプ層群|en|Tremp Formation}}Conquès層から産出した頭蓋骨に基づいて命名された。本標本は[[ビャクシン属]]の樹木の下で発見され、骨の間にはその根が食い込んで成長していたため、[[ラテン語]]で「ビャクシンの下で」を意味する種小名が命名された<ref name=PCM13 />。しかし2016年に本種は''A. precedens''と十分な区別が可能と判断されたため、新属{{仮リンク|アガレスクス|en|Agaresuchus}}にそのタイプ種''Agaresuchus fontisensis''と共に再分類された<ref name="narvaez2016">{{cite journal|first1=I. |last1=Narváez |first2=C.A. |last2=Brochu |first3=F. |last3=Escaso |first4=A. |last4=Pérez-García |first5=F. |last5=Ortega |year=2016 |title=New Spanish Late Cretaceous eusuchian reveals the synchronic and sympatric presence of two allodaposuchids |journal=Cretaceous Research |volume=65 |pages=112–125 |doi=10.1016/j.cretres.2016.04.018 |doi-access=free }}</ref>。2021年にはBlanoによる系統解析がこの結果に異を唱えることになり、''A. fontisensis''と''A. subjuniperus''のいずれもが{{仮リンク|ロフエコスクス|en|Lohuecosuchus}}の''L. megadontos''と''L. mechinorum''と共にアロダポスクス属に属することが示された<ref name="blanco2021">{{cite journal |last=Blanco |first=A. |title=Importance of the postcranial skeleton in eusuchian phylogeny: Reassessing the systematics of allodaposuchid crocodylians |year=2021 |journal=PLOS ONE |volume=16 |issue=6 |page=e0251900 |doi=10.1371/journal.pone.0251900|pmid=34106925 |pmc=8189472 |bibcode=2021PLoSO..1651900B |doi-access=free }}</ref>。
===''A. palustris''===
[[ピレネー山脈]]南部のFumanya Sudと呼ばれる化石産地において{{仮リンク|トレンプ層|en|Tremp Formation}}で発見された部分的な頭蓋骨と他の骨格断片に基づき、2014年には''A. palustris''が記載された<ref name=Blancoetal2014>{{cite journal |last=Blanco |first=Alejandro |last2=Puértolas Pascual |first2=Eduardo |last3=Marmi |first3=Josep |last4=Vila |first4=Bernat |last5=Sellés |first5=Albert G. |year=2014 |title=''Allodaposuchus palustris'' sp. nov. from the Upper Cretaceous of Fumanya (South Eastern Pyrenees, Iberian Peninsula): Systematics, Palaeoecology and Palaeobiogeography of the Enigmatic Allodaposuchian Crocodylians |url=http://journals.plos.org/plosone/article/file?id=10.1371/journal.pone.0115837&type=printable |journal=[[PLoS One]] |volume=9 |pages=1–34 |doi=10.1371/journal.pone.0115837|doi-access=free }}</ref>。これらの骨格により、初めてアロダポスクスの体骨格の詳細な記載が可能となった。
===''A. hulki''===
アロダポスクス属の第四の種である''A. hulki''は2015年に記載された。産出層準は同じくトレンプ層であるが、産地はCasa Fabàであった。本種の種小名は[[マーベル・コミック]]の超人[[ハルク (マーベル・コミック)|ハルク]]にちなんでおり、本種が強い筋肉を有したことを示す骨格の特徴を反映している<ref name=Betal15 />。
===''A. iberoarmoricanus''===
2021年にBlancoが命名した''A. palustris''は、[[南フランス]]の[[ブーシュ=デュ=ローヌ県]]に分布する上部[[カンパニアン]]階の河川堆積物中に発見された化石に基づいて記載が行われた<ref name="blanco2021"/>。本種の種小名は[[白亜紀]]のヨーロッパの群島の一つであったIbero-Armorican島にちなむ<ref name="blanco2021"/>。
===''A. (Agaresuchus) fontisensis'' ?===
2016年に新属新種''[[アガレスクス|Agaresuchus fontisensis]]''が発見・記載された。本種の種小名は化石産地Lo Huecoが位置するスペイン・[[クエンカ県]]のFuentesにちなんでおり、''fontis''はFuentesのラテン語名である<ref name="narvaez2016"/>。これに伴って''A. subjuniperus''も新属アガレスクス属に再分類されたが<ref name="narvaez2016"/>、Blancoの2021年の研究はこれに異論を投げかけており、アガレスクスをアロダポスクスのジュニアシノニムとして扱いこれら2種をアロダポスクス属に再分類することを提唱している<ref name="blanco2021"/>。
===''A. (Lohuecosuchus) megadontos'' と ''A. (Lohuecosuchus) mechinorum'' ?===
2015年に命名された属である{{仮リンク|ロフエコスクス|en|Lohuecosuchus}}には''L. megadontos''と''L. mechinorum''の2種が含まれており、これらはスペインと南フランスから産出したものである<ref name="narvaez2015">{{cite journal |last1=Narváez |first1=I. |last2=Brochu |first2=C.A. |last3=Escaso |first3=F. |last4=Pérez-García |first4=A. |last5=Ortega |first5=F. |year=2015 |title=New crocodyliforms from southwestern Europe and definition of a diverse clade of european Late Cretaceous basal eusuchians |journal=PLOS ONE |volume=10 |issue=11 |page=e0140679 |doi=10.1371/journal.pone.0140679|pmid=26535893 |pmc=4633049 |bibcode=2015PLoSO..1040679N |doi-access=free }}</ref>。Blancoの2021年の研究ではこれら2種はアロダポスクス属に再分類することが提唱されており、またロフエコスクスはアロダポスクスのジュニアシノニムと考えられている<ref name="blanco2021"/>。
== 分類 ==
[[File:Allodaposuchus palustris.png|thumb|''A. palustris''の顎の断片と歯]]
[[File:Allodaposuchus palustris skeletal diagram.png|thumb|''A. palustris''の基地の部位を示す骨格ダイアグラム]]
アロダポスクスは[[アロダポスクス科]]の分岐群に属すが、アロダポスクス科の厳密な位置付けについてはいまだ議論がある。Narváez ''et al.'' はアロダポスクス科を[[ハイラエオチャンプサ科]]の姉妹群とした上でこれら2科を纏めて[[ワニ|ワニ目]]の姉妹群としており<ref name="narvaez2015"/>、Salisbury ''et al.'' (2006)やそれに準拠する[[小林快次]]『ワニと恐竜の共存』も同様の樹形を採用している<ref name=小林2013/>。別の研究ではこれら2科は姉妹群ではなくワニ目に向かう進化的段階として扱われ、ハイラエオチャンプサ科はアロダポスクス科よりも基盤的とされている<ref name="LeeYates2018">{{cite journal | author1=Michael S. Y. Lee |author2=Adam M. Yates |date=27 June 2018 |title=Tip-dating and homoplasy: reconciling the shallow molecular divergences of modern gharials with their long fossil |journal=[[Proceedings of the Royal Society B]] |volume=285 |issue=1881 |doi=10.1098/rspb.2018.1071 |pmid=30051855 |pmc=6030529 |doi-access=free}}</ref><ref name="Rio2021">{{cite journal |last1=Rio |first1=Jonathan P. |last2=Mannion |first2=Philip D. |date=6 September 2021 |title=Phylogenetic analysis of a new morphological dataset elucidates the evolutionary history of Crocodylia and resolves the long-standing gharial problem |journal=[[PeerJ]] |volume=9 |pages=e12094 |doi=10.7717/peerj.12094 |pmid=34567843 |pmc=8428266 |doi-access=free}}</ref>。2021年には体骨格の情報を組み込んだ系統解析により、アロダポスクス科はワニ目の内部に位置付けられている<ref name="Blanco2021">{{Cite journal |last=Blanco |first=Alejandro |date=2021-06-09 |title=Importance of the postcranial skeleton in eusuchian phylogeny: Reassessing the systematics of allodaposuchid crocodylians |journal=[[PLOS ONE]] |language=en |volume=16 |issue=6 |pages=e0251900 |doi=10.1371/journal.pone.0251900 |issn=1932-6203 |pmc=8189472 |pmid=34106925 |bibcode=2021PLoSO..1651900B |doi-access=free}}</ref>。
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'''Cladogram 1''': Narváez ''et al.'', 2015
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|1={{clade
|1=[[ハイラエオチャンプサ科]]
|2='''[[アロダポスクス科]]''' }}
|2=[[ワニ目]] }} }}
{{col-3}}
'''Cladogram 2''': Rio & Mannion, 2021
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|label1=[[正鰐類]]
|1={{clade
|1=[[ハイラエオチャンプサ科]]
|2={{clade
|1='''[[アロダポスクス科]]'''
|2=[[ワニ目]] }} }} }}
{{col-3}}
'''Cladogram 3''': Blanco, 2021
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|label1=[[正鰐類]]
|1={{clade
|1=[[ハイラエオチャンプサ科]]
|label2=[[ワニ目]]
|2={{clade
|1=[[インドガビアル上科]]
|2={{clade
|1='''[[アロダポスクス科]]'''
|2=[[ブレヴィロストレス類]] }} }} }} }}
{{col-end}}
以下は2021年のBlancoの研究に基づく、アロダポスクス科内の類縁関係を示す[[クラドグラム]]<ref name="Blanco2021"/>。
{{clade
|label1='''[[アロダポスクス科]]'''
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|1=''[[アレニスクス|Arenysuchus gascabadiolorum]]''
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|1={{clade
|1='''''Allodaposuchus precedens'''''
|2='''''Allodaposuchus iberoarmoricanus''''' }}
|2={{clade
|1='''''Allodaposuchus subjuniperus'''''
|2={{clade
|1={{clade
|1='''''Allodaposuchus palustris'''''
|2='''''Allodaposuchus hulki''''' }}
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|1=''[[アガレスクス|Agaresuchus fontisensis]]''
|2={{clade
|1=''[[ロフエコスクス|Lohuecosuchus mechinorum]]''
|2=''[[ロフエコスクス|Lohuecosuchus megadontos]]'' }} }} }} }} }} }} }}
2021年の研究においてアロダポスクスは{{仮リンク|アガレスクス|en|Agaresuchus}}や{{仮リンク|ロフエコスクス|en|Lohuecosuchus}}と共に[[側系統群]]として扱われており、Blancoはこれら2種をアロダポスクスのジュニアシノニムにすべきであると主張している<ref name="Blanco2021"/>。
== 出典 ==
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[[Category:化石偽鰐類]]
[[Category:1928年に記載された化石分類群]]
[[Category:スペイン産の化石]]
[[Category:フランス産の化石]]
[[Category:ルーマニア産の化石]]
[[Category:カンパニアンの生物]]
[[Category:マーストリヒチアンの生物]]
[[Category:白亜紀の爬虫類]]
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4,839,412 |
スリヴォ・ポレ
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スリヴォ・ポレ(ブルガリア語: Сливо поле, Slivo Pole, 発音 [ˈslivo poˈlɛ])は、ブルガリア北東部のルセ州にある町。州の北東部に位置する、スリヴォ・ポレ市の行政上の中心地である。ドナウ川から5キロメートルほど離れた、ルセからシリストラへの街道上に位置する。人口は3,169人(2009年12月時点)。
2002年11月29日に町制施行した。クリミア戦争後にタタール人がこの地に移住し、1863年以降はルセやルーマニアからのブルガリア人がこれに加わった。かつてはイスレポル (Islepol) やスレポヴォ (Slepovo) という村名だったが、広大なスモモの果樹園を持つ宿屋があったことから、スモモ園を意味するスリヴォ・ポレと旅行者から呼ばれるようになり、1912年に正式に改称された。
スリヴォ・ポレ市は面積276平方キロメートルで、下記の11の地区からなる。
市内の民族構成はブルガリア人が44%、トルコ人が32%、ロマが18%、ムスリム・ブルガリア人が6%などとなっている。
シリストラ州のトゥトラカン市にまたがるカリモク=ブラシュレン自然保護区には、絶滅危惧種に指定されている鳥類が多数棲息しており、有名な観光地となっている。
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スリヴォ・ポレは、ブルガリア北東部のルセ州にある町。州の北東部に位置する、スリヴォ・ポレ市の行政上の中心地である。ドナウ川から5キロメートルほど離れた、ルセからシリストラへの街道上に位置する。人口は3,169人(2009年12月時点)。 2002年11月29日に町制施行した。クリミア戦争後にタタール人がこの地に移住し、1863年以降はルセやルーマニアからのブルガリア人がこれに加わった。かつてはイスレポル (Islepol) やスレポヴォ (Slepovo) という村名だったが、広大なスモモの果樹園を持つ宿屋があったことから、スモモ園を意味するスリヴォ・ポレと旅行者から呼ばれるようになり、1912年に正式に改称された。
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'''スリヴォ・ポレ'''({{lang-bg|Сливо поле}}, Slivo Pole, {{IPA-bg|ˈslivo poˈlɛ|pron}})は、[[ブルガリア]]北東部の[[ルセ州]]にある町。州の北東部に位置する、スリヴォ・ポレ市の行政上の中心地である。[[ドナウ川]]から5キロメートルほど離れた、[[ルセ]]から[[シリストラ]]への街道上に位置する。人口は3,169人(2009年12月時点)<ref name="statistika">{{in lang|en}} [http://www.nsi.bg/otrasalen.php?otr=53&a1=1583&a2=1584&a3=1588#cont Bulgarian National Statistical Institute - Bulgarian towns in 2009]</ref>。
2002年11月29日に町制施行した。[[クリミア戦争]]後に[[タタール人]]がこの地に移住し、1863年以降はルセや[[ルーマニア]]からのブルガリア人がこれに加わった。かつてはイスレポル (Islepol) やスレポヴォ (Slepovo) という村名だったが、広大なスモモの果樹園を持つ宿屋があったことから、スモモ園を意味するスリヴォ・ポレと旅行者から呼ばれるようになり、1912年に正式に改称された。
== スリヴォ・ポレ市 ==
スリヴォ・ポレ市は面積276平方キロメートルで、下記の11の地区からなる。
*バボヴォ (Babovo)
*ボリソヴォ (Borisovo)
*ブラシュレン (Brashlen)
*チェレショヴォ (Chereshovo)
*ゴリャモ・ヴラノヴォ (Golyamo Vranovo)
*コシャルナ (Kosharna)
*マルコ・ヴラノヴォ (Malko Vranovo)
*リャホヴォ (Ryahovo)
*スリヴォ・ポレ (Slivo Pole)
*スタンボロヴォ (Stambolovo)
*ユデルニク (Yudelnik)
市内の民族構成はブルガリア人が44%、[[トルコ人]]が32%、[[ロマ]]が18%、[[ムスリム・ブルガリア人]]が6%などとなっている。
[[シリストラ州]]のトゥトラカン市にまたがるカリモク=ブラシュレン自然保護区には、[[絶滅危惧種]]に指定されている鳥類が多数棲息しており、有名な観光地となっている。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{Bulgaria-stub}}
{{DEFAULTSORT:すりうおほれ}}
[[Category:ブルガリアの都市]]
[[Category:ルセ州]]
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2023-10-09T08:01:14Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%AC
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八村義郎
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八村 義郎(はちむら よしろう、1934年(昭和9年)12月19日 - 2008年(平成20年)7月24日)は、日本の実業家。秩父小野田顧問。
鳥取県出身。八村信三の長男。1957年、京都大学法学部卒業、小野田セメントに入社。1989年、取締役に就任。1992年、日本石膏ボード社長に就任。1994年、内山アドバンス専務に就任。趣味はゴルフ、囲碁。住所は東京都狛江市東野川1丁目。
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八村 義郎は、日本の実業家。秩父小野田顧問。
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'''八村 義郎'''(はちむら よしろう、[[1934年]]([[昭和]]9年)[[12月19日]]<ref name="jinji38">『人事興信録 第38版 上』は84頁。</ref> - [[2008年]]([[平成]]20年)7月24日)は、[[日本]]の[[実業家]]。[[太平洋セメント|秩父小野田]]顧問<ref name="jinji38"/>。
== 人物 ==
[[鳥取県]]出身<ref name="jinji38"/>。八村信三の長男<ref name="jinji38"/>。[[1957年]]、[[京都大学大学院法学研究科・法学部|京都大学法学部]]卒業<ref>[{{NDLDC|9673875/432}} 『京都大学一覧 昭和31-32年』]卒業生姓名 法学部852頁([[国立国会図書館デジタルコレクション]])。2023年10月9日閲覧。</ref>、小野田セメントに入社<ref name="jinji38"/>。[[1989年]]、取締役に就任<ref name="jinji38"/>。[[1992年]]、日本石膏ボード社長に就任<ref name="jinji38"/>。[[1994年]]、内山アドバンス専務に就任<ref name="jinji38"/>。趣味は[[ゴルフ]]、[[囲碁]]<ref name="jinji38"/>。住所は東京都狛江市[[東野川 (狛江市)|東野川]]1丁目<ref name="jinji38"/>。
== 家族・親族 ==
; 八村家
* 父・'''信三'''(鳥取銀行会長、鳥取商工会議所会頭) - 大阪府[[布施市]]出身、旧姓は山田<ref>[{{NDLDC|1108789/50}} 『鳥取県名士百伝』]47頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年10月9日閲覧。</ref>。鳥取県経済界の重鎮である<ref name="nikkei1989">[{{NDLDC|2867793/12}} 『日経地域情報(87)』]23頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年10月9日閲覧。</ref>。住所は鳥取県鳥取市大榎町。
* 弟
** '''[[八村輝夫|輝夫]]'''([[鳥取銀行]]頭取)<ref name="jinji38"/><ref name="nikkei1989"/>
** '''広三郎'''<ref name="jinji38"/>(工学博士[[立命館大学]]教授)
* 妻(鳥取、石破二朗の長女、[[1940年]] - )<ref name="jinji38"/>
* 長男([[東ソー]]勤務、[[1964年]] - )<ref name="jinji38"/>
* 二男([[横浜銀行]]勤務、[[1967年]] - )<ref name="jinji38"/>
* 三男([[1974年]] - )<ref name="jinji38"/>
; 親戚
* 妻の父・'''[[石破二朗]]'''(鳥取県知事、参議院議員、自治大臣、国家公安委員会委員長)
* 妻の弟・'''[[石破茂]]'''(衆議院議員)<ref name="jinji38"/>
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* 『鳥取県名士百伝』新鳥取社、1937年。
* 『京都大学一覧 昭和31-32年』京都大学事務局庶務課、1958年。
* 日経産業消費研究所編『日経地域情報(87)』日経産業消費研究所 日経出版販売、1989年。
* 人事興信所編『[[人事興信録]] 第38版 下』人事興信所、1995年。
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[[Category:鳥取県出身の人物]]
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[[Category:2008年没]]
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武州千住
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「武州千住」(ぶしゅうせんじゅ)は、葛飾北斎の名所浮世絵揃物『冨嶽三十六景』全46図中の1図。落款は「北斎改為一筆」とある。
本作品は、江戸四宿のひとつである千住宿近郊の農村風景を描いた一図である。千住宿は現代の東京都足立区千住にあたり、江戸から日光街道や奥州街道を通って日光へ至る最初の宿であり、水戸街道などとも接続している交通の要所であった。
水路に腰掛け釣りに興じる二人の男と、馬を牽いて木造堰枠越しに、隅田川とその向こうの富士山を眺める農夫の後ろ姿が描かれており、堰枠の直線と富士山の三角形で幾何学的な構図を表現している。また、頭を下げた馬の斜線や草鞋で引っ張られた手綱と富士山の稜線を対比させて描いている点も構図的な妙味が窺える。
農夫が牽く馬の背に取り付けられた農具は駄付けモッコあるいはスカリなどと呼ばれる運搬具で、馬の飼料に使う草を刈って運んでいるものと思われる。
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「武州千住」(ぶしゅうせんじゅ)は、葛飾北斎の名所浮世絵揃物『冨嶽三十六景』全46図中の1図。落款は「北斎改為一筆」とある。
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| year = [[1830年]]([[天保]]元年)から[[1834年]](天保5年)ごろ<ref name="shimane">{{cite web|title=北斎年譜|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/nenpyo/index.html|access-date=2023-09-03|website=島根県立美術館の浮世絵コレクション|publisher=島根県立美術館|archive-date=2022-09-26|archive-url=https://web.archive.org/web/20220926022226/https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/nenpyo/index.html}}</ref>{{efn|刊行年については[[柳亭種彦]]が出版した『正本製』に掲載された広告を根拠とする天保2年(1831年)に刊行したとする説、[[エドモン・ド・ゴンクール]]の著した『北斎』の記述を根拠とする文政6年(1823年)から文政12年(1829年)に刊行したとする説などもある{{Sfn|磯崎|2021|p=124}}。}}。
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「'''武州千住'''」(ぶしゅうせんじゅ)は、[[葛飾北斎]]の[[名所絵|名所]][[浮世絵]]揃物『[[富嶽三十六景|冨嶽三十六景]]』全46図中の1図{{Sfn|日野原|2019|pp=38-39}}。落款は「北斎改為一筆」とある{{Sfn|日野原|2019|p=40}}。
== 概要 ==
本作品は、[[江戸四宿]]のひとつである[[千住宿]]近郊の農村風景を描いた一図である{{Sfn|日野原|2019|p=40}}。千住宿は現代の[[東京都]][[足立区]][[千住]]にあたり、江戸から[[日光街道]]や[[奥州街道]]を通って[[日光市|日光]]へ至る最初の宿であり、[[水戸街道]]などとも接続している交通の要所であった{{Sfn|日野原|2019|p=40}}。
水路に腰掛け釣りに興じる二人の男と、馬を牽いて木造堰枠{{efn|[[隅田川]]の水が逆流しないよう設けられた制水門で、本作品に描かれた堰枠は[[元宿圦]]に設けられた[[元宿堰]]ではないかとされている{{Sfn|日野原|2019|p=41}}。}}越しに、[[隅田川]]とその向こうの[[富士山]]を眺める農夫の後ろ姿が描かれており、堰枠の直線と富士山の三角形で幾何学的な構図を表現している{{Sfn|日野原|2019|p=40}}。また、頭を下げた馬の斜線や草鞋で引っ張られた手綱と富士山の稜線を対比させて描いている点も構図的な妙味が窺える<ref>{{cite web|title=冨嶽三十六景 武州千住|url=https://www.fujibi.or.jp/our-collection/profile-of-works.html?work_id=6148|access-date=2023-10-09|website=東京富士美術館}}</ref><ref>{{cite web|title=冨嶽三十六景《武州千住》|url=https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/246800|access-date=2023-10-09|website=文化遺産オンライン}}</ref>。
農夫が牽く馬の背に取り付けられた農具は駄付けモッコあるいはスカリなどと呼ばれる運搬具で、馬の飼料に使う草を刈って運んでいるものと思われる<ref>{{cite web|title=武州千住 冨嶽三十六景と千住|url=https://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/2015hugakubusyuusennjyu.html|access-date=2023-10-09|website=足立区公式ホームページ}}</ref>。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|last=日野原|first=健司|authorlink=日野原健司|year=2019 |title=富嶽三十六景 |publisher=岩波書店 |isbn=978-4-00-335811-5|ref={{SfnRef|日野原|2019}}}}
* {{Citation|和書|last=磯崎|first=康彦|authorlink=磯崎康彦|year=2021 |chapter=北斎の風景・風俗版画 |chapterurl=http://hdl.handle.net/10270/5478 |title=福島大学人間発達文化学類論集 |volume=34 |publisher=福島大学人間発達文化学類 |pages=124-109 |ref={{SfnRef|磯崎|2021}}}}
== 外部リンク ==
* {{kotobank|武州千住}}
{{葛飾北斎}}
{{DEFAULTSORT:ふしゆうせんしゆ}}
[[Category:葛飾北斎の作品]]
[[Category:1830年代の絵画]]
[[Category:富嶽三十六景]]
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アロダポスクス科
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アロダポスクス科(アロダポスクスか、学名:Allodaposuchidae)は、後期白亜紀のサントニアン期からマーストリヒチアン期にかけてヨーロッパに生息していた、正鰐類の絶滅した分岐群。
アロダポスクス科のタイプ属であるアロダポスクスはルーマニアのトランシルヴァニアのハツェグ盆地に分布するマーストリヒチアン階のサルド層で化石が発見され、1928年にフランツ・ノプシャが北アメリカのレイディオスクスに近縁な属として記載・分類した。アロダポスクスが2001年の論文でワニ目に属さない正鰐類として分類された後、他の多数のヨーロッパの正鰐類であるアレニスクス(英語版)、イスキロチャンプサ(英語版)、マッサリアスクス(英語版)、ムスツルザバルスクス(英語版)も発見され、アロダポスクスとそれに近縁な全てのヨーロッパの正鰐類を収容するアロダポスクス科という分岐群が設立されるに至った。Narváez et al. (2015)は分岐学的にアロダポスクス科を定義した。その内容は、Allodaposuchus precedensと、Hylaeochampsa vectiana・Shamosuchus djadochtaensis・Borealosuchus sternbergii・Planocrania datangensis・Alligator mississippiensis・Crocodylus niloticus・Gavialis gangeticusよりもそれに近縁な全てのワニ形類というものであった。
アロダポスクス科の正確な位置付けはいまだ議論が続いている。Narváez et al. はアロダポスクス科をハイラエオチャンプサ科の姉妹群とし、さらにそれら2科を纏めてワニ目の姉妹群とした。別の研究では、これら2科は姉妹群ではなくワニ目に至る進化的段階を示すものとして扱われ、またアロダポスクス科はハイラエオチャンプサ科よりも派生的とされた。体骨格の情報を組み込んだ2021年の研究ではアロダポスクス科はワニ目の内部に位置付けられた。
以下のクラドグラムは2021年のBlancoの研究に基づきアロダポスクス科内の類縁関係を示す。
2021年の研究においてBlancoアロダポスクスをアガレスクス(英語版)やロフエコスクス(英語版)と共に側系統群として扱い、後者2種をアロダポスクスのジュニアシノニムにすべきであると主張している。
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アロダポスクス科は、後期白亜紀のサントニアン期からマーストリヒチアン期にかけてヨーロッパに生息していた、正鰐類の絶滅した分岐群。 アロダポスクス科のタイプ属であるアロダポスクスはルーマニアのトランシルヴァニアのハツェグ盆地に分布するマーストリヒチアン階のサルド層で化石が発見され、1928年にフランツ・ノプシャが北アメリカのレイディオスクスに近縁な属として記載・分類した。アロダポスクスが2001年の論文でワニ目に属さない正鰐類として分類された後、他の多数のヨーロッパの正鰐類であるアレニスクス、イスキロチャンプサ、マッサリアスクス、ムスツルザバルスクスも発見され、アロダポスクスとそれに近縁な全てのヨーロッパの正鰐類を収容するアロダポスクス科という分岐群が設立されるに至った。Narváez et al. (2015)は分岐学的にアロダポスクス科を定義した。その内容は、Allodaposuchus precedensと、Hylaeochampsa vectiana・Shamosuchus djadochtaensis・Borealosuchus sternbergii・Planocrania datangensis・Alligator mississippiensis・Crocodylus niloticus・Gavialis gangeticusよりもそれに近縁な全てのワニ形類というものであった。 アロダポスクス科の正確な位置付けはいまだ議論が続いている。Narváez et al. はアロダポスクス科をハイラエオチャンプサ科の姉妹群とし、さらにそれら2科を纏めてワニ目の姉妹群とした。別の研究では、これら2科は姉妹群ではなくワニ目に至る進化的段階を示すものとして扱われ、またアロダポスクス科はハイラエオチャンプサ科よりも派生的とされた。体骨格の情報を組み込んだ2021年の研究ではアロダポスクス科はワニ目の内部に位置付けられた。 以下のクラドグラムは2021年のBlancoの研究に基づきアロダポスクス科内の類縁関係を示す。 2021年の研究においてBlancoアロダポスクスをアガレスクスやロフエコスクスと共に側系統群として扱い、後者2種をアロダポスクスのジュニアシノニムにすべきであると主張している。
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{{生物分類表
|地質時代 = [[後期白亜紀]][[サントニアン]]
|地質時代2 = [[マーストリヒチアン]]
|名称 = アロダポスクス科
|画像 = [[File:Allodaposuchus precedens.jpg|250px]]
|画像キャプション = ''A. precedens''の頭蓋骨
|上綱 = [[四肢動物|四肢動物上綱]] {{sname||Tetrapoda}}
|省略 = 爬虫綱
|亜綱 =[[双弓類|双弓亜綱]] {{sname|en|Diapsid|Diapsida}}
|下綱 = [[主竜類|主竜型下綱]] {{sname||Archosauromorpha}}
|下綱階級なし = [[クルロタルシ類]] {{sname||Crurotarsi}}
|上目 = [[ワニ形上目]] {{sname||Crocodylomorpha}}
|上目階級なし = [[新鰐類]] {{sname||Neosuchia}}
|目階級なし = [[正鰐類]] {{sname||Eusuchia}}
|科 = '''アロダポスクス科''' {{snamei||Allodaposuchidae}}
|学名 = '''''Allodaposuchus''''' {{AUY|Nopsca|1928}}
|下位分類名 = [[属 (分類学)|属]]
|下位分類 =
*''[[アガレスクス|Agaresuchus]]''
*''[[アロダポスクス|Allodaposuchus]]''
*''[[アレニスクス|Arenysuchus]]''
*''[[イスキロチャンプサ|Ischyrochampsa]]''
*''[[ロフエコスクス|Lohuecosuchus]]''
*''[[マッサリアスクス|Massaliasuchus]]''
*''[[ムスツルザバルスクス|Musturzabalsuchus]]''
}}
'''アロダポスクス科'''(アロダポスクスか、[[学名]]:'''Allodaposuchidae''')は、[[後期白亜紀]]の[[サントニアン]]期から[[マーストリヒチアン]]期にかけて[[ヨーロッパ]]に生息していた、[[正鰐類]]の[[絶滅]]した分岐群<ref name=Lohuecosuchus>{{cite journal | last1 = Narváez | first1 = Iván | last2 = Brochu | first2 = Christopher A. | last3 = Escaso | first3 = Fernando | last4 = Pérez-García | first4 = Adán | last5 = Ortega | first5 = Francisco | year = 2015 | title = New crocodyliforms from southwestern Europe and definition of a diverse clade of European Late Cretaceous basal eusuchians | journal = PLOS ONE | volume = 10 | issue = 11| page = e0140679 | doi = 10.1371/journal.pone.0140679 | pmid=26535893 | pmc=4633049| bibcode = 2015PLoSO..1040679N | doi-access = free }}</ref><ref name=Agaresuchus>{{cite journal | last1 = Narváez | first1 = I. | last2 = Brochu | first2 = C.A. | last3 = Escaso | first3 = F. | last4 = Pérez-García | first4 = A. | last5 = Ortega | first5 = F. | title = New Spanish Late Cretaceous eusuchian reveals the synchronic and sympatric presence of two allodaposuchids | journal = Cretaceous Research | year = 2016 | volume = 65| pages = 112–125| doi = 10.1016/j.cretres.2016.04.018 | doi-access = free }}</ref>。
アロダポスクス科のタイプ属である[[アロダポスクス]]は[[ルーマニア]]の[[トランシルヴァニア]]のハツェグ盆地に分布するマーストリヒチアン階のサルド層で化石が発見され、1928年に[[フランツ・ノプシャ]]が北アメリカの[[レイディオスクス]]に近縁な属として記載・分類した<ref>Nopcsa F., 1928 – Paleontological notes on Reptilia. 7. Classification of the Crocodilia – Geologica Hungarica, Series Palaeontologica 1: 75–84.</ref>。アロダポスクスが2001年の論文で[[ワニ|ワニ目]]に属さない[[正鰐類]]として分類された後<ref>{{cite journal | last1 = Buscalioni | first1 = A. D. | last2 = Ortega | first2 = F. | last3 = Weishampel | first3 = D. B. | last4 = Jianu | first4 = C. M. | year = 2001 | title = A revision of the crocodyliform Allodaposuchus precedens from the Upper Cretaceous of the Hateg Basin, Romania. Its relevance in the phylogeny of Eusuchia | journal = Journal of Vertebrate Paleontology | volume = 21 | pages = 74–86 | doi = 10.1671/0272-4634(2001)021[0074:AROTCA]2.0.CO;2 }}</ref>、他の多数のヨーロッパの正鰐類である{{仮リンク|アレニスクス|en|Arenysuchus}}、{{仮リンク|イスキロチャンプサ|en|Ischyrochampsa}}、{{仮リンク|マッサリアスクス|en|Massaliasuchus}}、{{仮リンク|ムスツルザバルスクス|en|Musturzabalsuchus}}も発見され、アロダポスクスとそれに近縁な全てのヨーロッパの正鰐類を収容するアロダポスクス科という分岐群が設立されるに至った<ref name=Lohuecosuchus/><ref name=Agaresuchus/><ref>{{cite journal | last1 = Martin | first1 = J. E. | last2 = Delfino | first2 = M. | last3 = Garcia | first3 = G. | last4 = Godefroit | first4 = P. | last5 = Berton | first5 = S. | last6 = Valentin | first6 = X. | year = 2016 | title = New specimens of Allodaposuchus precedens from France: intraspecific variability and the diversity of European Late Cretaceous eusuchians | journal = Zoological Journal of the Linnean Society | volume = 176 | issue = 3 | pages = 607–631 | doi = 10.1111/zoj.12331 | doi-access = free }}</ref><ref>{{cite journal | last1 = Blanco | first1 = Alejandro | last2 = Fortuny | first2 = Josep | last3 = Vicente | first3 = Alba | last4 = Luján | first4 = Àngel H. | last5 = García-Marçà | first5 = Jordi Alexis | last6 = Sellés | first6 = Albert G. | year = 2015 | title = A new species of Allodaposuchus (Eusuchia, Crocodylia) from the Maastrichtian (Late Cretaceous) of Spain: Phylogenetic and paleobiological implications | journal = PeerJ | volume = 3 | page = e1171 | doi = 10.7717/peerj.1171 | pmid = 26339549 | pmc=4558081}}</ref><ref>{{cite journal | last1 = Blanco | first1 = A. | last2 = Puértolas-Pascual | first2 = E. | last3 = Marmi | first3 = J. | last4 = Vila | first4 = B. | last5 = Sellés | first5 = A. G. | year = 2014 | title = Allodaposuchus palustris sp. nov. From the Upper Cretaceous of Fumanya (South-Eastern Pyrenees, Iberian Peninsula): Systematics, Palaeoecology and Palaeobiogeography of the Enigmatic Allodaposuchian Crocodylians | journal = PLOS ONE | volume = 9 | issue = 12| page = e115837 | doi = 10.1371/journal.pone.0115837 | pmid = 25551630 | pmc=4281157| bibcode = 2014PLoSO...9k5837B | doi-access = free }}</ref>。Narváez ''et al.'' (2015)は分岐学的にアロダポスクス科を定義した。その内容は、''[[アロダポスクス|Allodaposuchus precedens]]''と、''[[ハイラエオチャンプサ|Hylaeochampsa vectiana]]''・''[[シャモスクス|Shamosuchus djadochtaensis]]''・''[[ボレアロスクス|Borealosuchus sternbergii]]''・''[[プラノクラニア|Planocrania datangensis]]''・''[[アメリカアリゲーター|Alligator mississippiensis]]''・''[[ナイルワニ|Crocodylus niloticus]]''・''[[インドガビアル|Gavialis gangeticus]]''よりもそれに近縁な全てのワニ形類というものであった<ref name=Lohuecosuchus/><ref name="Rio2021">{{cite journal |last1=Rio |first1=Jonathan P. |last2=Mannion |first2=Philip D. |date=6 September 2021 |title=Phylogenetic analysis of a new morphological dataset elucidates the evolutionary history of Crocodylia and resolves the long-standing gharial problem |journal=[[PeerJ]] |volume=9 |pages=e12094 |doi=10.7717/peerj.12094 |pmid=34567843 |pmc=8428266 |doi-access=free}}</ref>。
アロダポスクス科の正確な位置付けはいまだ議論が続いている。Narváez ''et al.'' はアロダポスクス科を[[ハイラエオチャンプサ科]]の姉妹群とし、さらにそれら2科を纏めて[[ワニ|ワニ目]]の姉妹群とした<ref name=Lohuecosuchus/>。別の研究では、これら2科は姉妹群ではなくワニ目に至る進化的段階を示すものとして扱われ、またアロダポスクス科はハイラエオチャンプサ科よりも派生的とされた<ref name="LeeYates2018">{{cite journal | author1=Michael S. Y. Lee |author2=Adam M. Yates |date=27 June 2018 |title=Tip-dating and homoplasy: reconciling the shallow molecular divergences of modern gharials with their long fossil |journal=[[Proceedings of the Royal Society B]] |volume=285 |issue=1881 |doi=10.1098/rspb.2018.1071 |pmid=30051855 |pmc=6030529 |doi-access=free}}</ref><ref name="Rio2021"/>。体骨格の情報を組み込んだ2021年の研究ではアロダポスクス科はワニ目の内部に位置付けられた<ref name="Blanco2021">{{Cite journal |last=Blanco |first=Alejandro |date=2021-06-09 |title=Importance of the postcranial skeleton in eusuchian phylogeny: Reassessing the systematics of allodaposuchid crocodylians |journal=[[PLOS ONE]] |language=en |volume=16 |issue=6 |pages=e0251900 |doi=10.1371/journal.pone.0251900 |issn=1932-6203 |pmc=8189472 |pmid=34106925 |bibcode=2021PLoSO..1651900B |doi-access=free}}</ref>。
{{col-begin|width=70%}}
{{col-3}}
'''クラドグラム1''': Narváez ''et al.'', 2015
{{clade
|label1=[[正鰐類]]
|1={{clade
|1={{clade
|1=[[ハイラエオチャンプサ科]]
|2='''アロダポスクス科''' }}
|2=[[ワニ目]] }} }}
{{col-3}}
'''クラドグラム2''': Rio & Mannion, 2021
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|label1=[[正鰐類]]
|1={{clade
|1=[[ハイラエオチャンプサ科]]
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|1='''アロダポスクス科'''
|2=[[ワニ目]] }} }} }}
{{col-3}}
'''クラドグラム3''': Blanco, 2021
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|label1=[[正鰐類]]
|1={{clade
|1=[[ハイラエオチャンプサ科]]
|label2=[[ワニ目]]
|2={{clade
|1=[[インドガビアル上科]]
|2={{clade
|1='''アロダポスクス科'''
|2=[[ブレヴィロストレス類]] }} }} }} }}
{{col-end}}
以下の[[クラドグラム]]は2021年のBlancoの研究に基づきアロダポスクス科内の類縁関係を示す<ref name="Blanco2021"/>。
{{clade
|label1='''アロダポスクス科'''
|1={{clade
|1=''[[アレニスクス|Arenysuchus gascabadiolorum]]''
|2={{clade
|1={{clade
|1=''[[アロダポスクス|Allodaposuchus precedens]]''
|2=''[[アロダポスクス|Allodaposuchus iberoarmoricanus]]'' }}
|2={{clade
|1=''[[アロダポスクス|Allodaposuchus subjuniperus]]''
|2={{clade
|1={{clade
|1=''[[アロダポスクス|Allodaposuchus palustris]]''
|2=''[[アロダポスクス|Allodaposuchus hulki]]''''' }}
|2={{clade
|1=''[[アガレスクス|Agaresuchus fontisensis]]''
|2={{clade
|1=''[[ロフエコスクス|Lohuecosuchus mechinorum]]''
|2=''[[ロフエコスクス|Lohuecosuchus megadontos]]'' }} }} }} }} }} }} }}
2021年の研究においてBlanco[[アロダポスクス]]を{{仮リンク|アガレスクス|en|Agaresuchus}}や{{仮リンク|ロフエコスクス|en|Lohuecosuchus}}と共に[[側系統群]]として扱い、後者2種をアロダポスクスのジュニアシノニムにすべきであると主張している<ref name="Blanco2021"/>。
== 出典 ==
{{Reflist}}
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[[Category:化石偽鰐類]]
[[Category:1928年に記載された化石分類群]]
[[Category:白亜紀の爬虫類]]
|
2023-10-09T08:16:37Z
|
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|
4,839,423 |
箕輪町 (安城市)
|
箕輪町(みのわちょう)は、愛知県安城市の地名。
安城市中央西部に位置する。東は安城町、南は福釜町、北西は二本木町、南西は刈谷市・高棚町に接する。
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる。
国勢調査による人口および世帯数の推移。
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箕輪町(みのわちょう)は、愛知県安城市の地名。
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{{Infobox settlement
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| area_footnotes = <ref group=WEB name="area">{{Cite web|url=https://toukei-labo.com/2015/?tdfk=23&city=23212|title=愛知県安城市の町丁・字一覧|publisher=人口統計ラボ|language=日本語|accessdate=2023-08-26}}</ref>
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| area_code = 0566<ref group=WEB name=areacode>{{Cite web|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000141817.pdf|format=PDF||title=市外局番の一覧|publisher=総務省|date=2022-03-01|accessdate=2022-03-22}}</ref>
| registration_plate = [[愛知運輸支局|三河]]
| footnotes =
}}
'''箕輪町'''(みのわちょう)は、[[愛知県]][[安城市]]の地名。
== 地理 ==
安城市中央西部に位置する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}。東は[[安城町]]、南は[[福釜町]]、北西は[[二本木町 (安城市)|二本木町]]、南西は[[刈谷市]]・[[高棚町]]に接する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}。
=== 学区 ===
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.city.anjo.aichi.jp/manabu/gakko/kyoikushisetsu/gakku.html|title=小中学校区一覧(町別50音順)|author=安城市役所教育振興部学校教育課学事係|publisher=安城市|date=2022-04-07|accessdate=2023-10-09}}</ref>。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.pref.aichi.jp/soshiki/kotogakko/0000080445.html|title=平成29年度以降の愛知県公立高等学校(全日制課程)入学者選抜における通学区域並びに群及びグループ分け案について|publisher=愛知県教育委員会|date=2015-02-16|accessdate=2019-01-14}}</ref>。
{| class="wikitable"
!番・番地等!!小学校!!中学校!!高等学校
|-
||全域||[[安城市立三河安城小学校]]||[[安城市立安城西中学校]]||[[愛知県の高校入試#三河学区|三河学区]]
|}
=== 河川 ===
* 長田川{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
== 歴史 ==
=== 町名の由来 ===
=== 人口の変遷 ===
[[国勢調査]]による人口および世帯数の推移。
{| class="wikitable"
|-
|1995年(平成7年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000023630251&fileKind=1|format=CSV|title=平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-03-28|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|1087世帯<br>3494人||<div style="width:108.7px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:349.4px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2000年(平成12年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025137780&fileKind=1|format=CSV|title=平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-05-30|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|1731世帯<br>4908人||<div style="width:173.1px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:490.8px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2005年(平成17年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025514226&fileKind=1|format=CSV|title=平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-06-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|2159世帯<br>5709人||<div style="width:215.9px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:570.9px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2010年(平成22年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000012671534&fileKind=1|format=CSV|title=平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2012-01-20|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|809世帯<br>2571人||<div style="width:80.9px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:257.1px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2015年(平成27年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000031522121&fileKind=1|format=CSV|title=平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2017-01-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|848世帯<br>2547人||<div style="width:84.8px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:254.7px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2020年(令和2年)<ref group=WEB name=R2国勢調査>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000032163424&fileKind=1|format=CSV|title=令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口,外国人人口及び世帯数-町丁・字等|author=総務省統計局|date=2022-02-10|accessdate=2023-08-02|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|917世帯<br>2617人||<div style="width:91.7px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:261.7px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|}
=== 沿革 ===
{{節スタブ}}
== 交通 ==
* [[東海道新幹線]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* [[国道23号]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* [[愛知県道岡崎半田線]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* 愛知県道丸山後安城線{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* 市道箕輪高棚線{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* 市道横山古井線{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
== 施設 ==
* 真宗大谷派光明寺{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* 箕輪城跡{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* みのわ保育園{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* 安城市現業事務所{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* 神明神社{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* [[安城市立三河安城小学校]]
{{Gallery
|Anjo-City-Mikawa-Anjo-Elementary-School-2.jpg|三河安城小学校
}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== WEB ===
{{Reflist|group="WEB"|refs=}}
=== 書籍 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1989|date=1989-03-08|title=[[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県|publisher=[[角川書店]]|isbn=4-04-001230-5|language=ja|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[安城市の町名]]
== 外部リンク ==
* {{commonscat-inline}}
{{Geographic Location
| Northwest<!--北西--> = [[二本木町 (安城市)|二本木町]]
| North<!--北--> =
| Northeast<!--北東--> =
| West<!--西--> =
| Centre<!--中央--> = 箕輪町
| East<!--東--> = [[安城町]]
| Southwest<!--南西--> = [[刈谷市]]・[[高棚町]]
| South<!--南--> = [[福釜町]]
| Southeast<!--南東--> =
}}
{{安城市の町・字}}
{{Japan-block-stub}}
{{Pref-stub|pref=愛知県}}
{{デフォルトソート:みのわちよう}}
[[Category:安城市の町名]]
|
2023-10-09T08:26:10Z
|
2023-10-09T16:12:15Z
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"Template:Reflist",
"Template:Cite book",
"Template:Geographic Location",
"Template:Pathnav",
"Template:Infobox settlement"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%95%E8%BC%AA%E7%94%BA_(%E5%AE%89%E5%9F%8E%E5%B8%82)
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4,839,424 |
ピルドプ
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ピルドプ(ブルガリア語: Пирдоп, Pirdop, [pirˈdɔp])は、ブルガリア南西部のソフィア州にある町。同名のピルドプ市の行政の中心地である。
ズラティツァ=ピルドプ峡谷南東部の標高670メートル地点に位置し、北にはバルカン山脈、南にはスレドナ・ゴラ山脈、東にはコズニツァ山、西にはガラベツ山がそれぞれある。人口は8,040人。
町内にはアルーマニア人が一定数居住している。
南極のサウスシェトランド諸島のリヴィングストン島にあるピルドプ峠は、この町の名前に由来する。
非鉄金属が主要な産業で、バルカン半島のみならず南東欧全域で最大規模の銅の精錬所がある。1997年に8000万ドルで民間に払い下げられ、現在はドイツのアウルビスが所有している精錬所は、一日16万トンの銅が生産可能である。さらに8200万ユーロを投資し、18万トンの銅が生産可能な別の精錬所も建設されている。副産物として、83万トンの硫酸も産出されている。従業員数は1420人である。
工場の最も高い煙突は325メートルで、マリツァ東発電所の煙突とともにブルガリアで最も高い人工構造物となっている。
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ピルドプは、ブルガリア南西部のソフィア州にある町。同名のピルドプ市の行政の中心地である。 ズラティツァ=ピルドプ峡谷南東部の標高670メートル地点に位置し、北にはバルカン山脈、南にはスレドナ・ゴラ山脈、東にはコズニツァ山、西にはガラベツ山がそれぞれある。人口は8,040人。 町内にはアルーマニア人が一定数居住している。 南極のサウスシェトランド諸島のリヴィングストン島にあるピルドプ峠は、この町の名前に由来する。
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[[Image:BUL Пирдоп COA.gif|right|120px|thumb|町章]]
'''ピルドプ'''({{lang-bg|Пирдоп}}, Pirdop, {{IPA-bg|pirˈdɔp|}})は、[[ブルガリア]]南西部の[[ソフィア州]]にある町。同名のピルドプ市の行政の中心地である。
ズラティツァ=ピルドプ峡谷南東部の標高670メートル地点に位置し、北には[[バルカン山脈]]、南には[[スレドナ・ゴラ山脈]]、東にはコズニツァ山、西にはガラベツ山がそれぞれある。人口は8,040人。
町内には[[アルーマニア人]]が一定数居住している<ref>{{cite journal|url=https://www.degruyter.com/document/doi/10.1515/IJSL.2006.029/pdf|title=The Aromânians: an ethnos and language with a 2000-year history|first=Nikolai|last=Kyurkchiev|journal=International Journal of the Sociology of Language|issue=179|pages=115–129|year=2006|volume=2006|doi=10.1515/IJSL.2006.029|s2cid=144939846}}</ref>。
[[南極]]の[[サウスシェトランド諸島]]の[[リヴィングストン島]]にあるピルドプ峠は、この町の名前に由来する。
== 経済 ==
[[非鉄金属]]が主要な産業で、[[バルカン半島]]のみならず[[南東欧]]全域で最大規模の[[銅]]の精錬所がある。1997年に8000万ドルで民間に払い下げられ<ref>{{cite web
|url=http://www.easibulgaria.org/Privatization_KRassen.doc
|title=Политическа икономия на раздържавяването в България
|access-date=2007-03-16
}}</ref>、現在は[[ドイツ]]のアウルビスが所有している精錬所は、一日16万トンの銅が生産可能である。さらに8200万ユーロを投資し、18万トンの銅が生産可能な別の精錬所も建設されている。副産物として、83万トンの[[硫酸]]も産出されている。従業員数は1420人である。
工場の最も高い煙突は325メートルで、マリツァ東発電所の煙突とともにブルガリアで最も高い人工構造物となっている<ref>{{cite web
|url = http://www.aurubis.com/en/corporate-group/group-structure/sites/
|title = Pirdop Aurubis Med
|access-date = 2007-01-03
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|archive-date = 2011-03-08
}}</ref>。
== ギャラリー ==
<gallery>
Image:Todor_Genchov_Vlaikov,_Bulgarian_writer.jpg|作家トドル・ヴライコフの記念碑
Image:Church of the Assumption in Pirdop.jpg|昇天教会
Image:Railway station in Pirdop.jpg |町内の鉄道駅
Image:Sequoias on Pirdop railway platform.jpg|線路のそばにそびえる[[セコイア]]
Image:Pirdop below Stara Planina.jpg|町内から見たバルカン山脈
Image:Elenska bazilika.JPG|エレンスカ教会跡
Image:Pirdop-Bank building.jpg|町内の銀行の建物
</gallery>
== 脚注 ==
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{{DEFAULTSORT:ひるとふ}}
[[Category:ソフィア州の都市]]
|
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4,839,426 |
河野町
|
河野町は、日本の地名。
|
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河野町は、日本の地名。 河野町 (見附市) - 新潟県見附市の地名。(がわのまち)
河野町 (安城市) - 愛知県安城市の地名。(かわのちょう)
河野町 (江南市) - 愛知県江南市の地名。(こうのちょう)
|
'''河野町'''は、[[日本]]の[[地名]]。
* [[河野町 (見附市)]] - [[新潟県]][[見附市]]の地名。(がわのまち)
* [[河野町 (安城市)]] - [[愛知県]][[安城市]]の地名。(かわのちょう)
* [[河野町 (江南市)]] - [[愛知県]][[江南市]]の地名。(こうのちょう)
{{地名の曖昧さ回避}}
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幸神社
|
幸神社
|
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幸神社 幸神社 (文京区)(こうじんじゃ) - 東京都文京区にある神社
幸神社 (佐久市) - 長野県佐久市にある神社
幸神社 (玉城町)(こうじんじゃ) - 三重県度会郡玉城町にある神社
幸神社 (京都市上京区)(さいのかみのやしろ) - 京都府京都市上京区にある神社
幸神社 (京都市北区) - 京都府京都市北区にある神社
幸神社 (泉佐野市) (みゆきじんじゃ)- 大阪府泉佐野市にある火走神社の摂社。本殿は国の重要文化財
幸神社 (神戸市) - 兵庫県神戸市西区にある住吉神社の境内社
幸神社 (広島市安佐南区)(さいのかみしゃ) - 広島県広島市安佐南区にある神社 - 幸神社 (広島市西区)(こうじんじゃ) - 広島県広島市西区にある神社
幸神社 (廿日市市)(さいわいじんじゃ) - 広島県廿日市市にある厳島神社の境外末社
出雲路幸神社(いずもじさいじんじゃ) - 島根県安来市にある神社
|
'''幸神社'''
* [[幸神社 (文京区)]](こうじんじゃ) - [[東京都]][[文京区]]にある神社
* [[幸神社 (佐久市)]] - [[長野県]][[佐久市]]にある神社<ref>{{Cite web|url=https://www.nagano-jinjacho.jp/shibu/kitasaku.htm |title=神社紹介 |publisher=長野県神社庁 |date=2019-07-02 |accessdate=2023-10-09}}</ref>
* [[幸神社 (玉城町)]](こうじんじゃ) - [[三重県]][[度会郡]][[玉城町]]にある神社<ref>{{Cite web|url=https://www.iseshima-kanko.jp/spot/1794 |title=幸神社 |publisher=伊勢志摩観光ナビ |accessdate=2023-10-09}}</ref>
* [[幸神社 (京都市上京区)]](さいのかみのやしろ) - [[京都府]][[京都市]][[上京区]]にある神社<ref>{{Cite web|url=http://www.kyoto-jinjacho.or.jp/shrine/02.html |title=京都市上京区 |publisher=京都府神社庁 |date=2020-01-23 |accessdate=2023-10-09}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.city.kyoto.lg.jp/kamigyo/page/0000012298.html |title=上京区の史蹟百選/幸神社 |publisher=京都市 |date=2008-10-21 |accessdate=2023-10-09}}</ref>
* [[幸神社 (京都市北区)]] - 京都府京都市[[北区 (京都市)|北区]]にある神社
* 幸神社 (泉佐野市) (みゆきじんじゃ)- [[大阪府]][[泉佐野市]]にある[[火走神社]]の境内摂社。本殿は国の重要文化財<ref>{{Cite web|url=https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/186326 |title=火走神社摂社幸神社本殿 |publisher=文化遺産オンライン |accessdate=2023-10-08}}</ref>
* 幸神社 (神戸市) - [[兵庫県]][[神戸市]][[西区 (神戸市)|西区]]にある[[住吉神社 (神戸市西区)|住吉神社]]の境内社
* [[幸神社 (広島市安佐南区)]](さいのかみしゃ) - [[広島県]][[広島市]][[安佐南区]]にある神社 - <ref>{{Cite web|url=https://www.city.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/101412.pdf |title=あさみなみ散策マップ |publisher=広島市安佐南区 |accessdate=2023-10-09 |format=PDF }}</ref>
* [[幸神社 (広島市西区)]](こうじんじゃ) - 広島県広島市[[西区 (広島市)|西区]]にある神社<ref>{{Cite web|url=https://www.city.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/20072.pdf |title=草津まち 歴史の散歩道 |publisher=広島市草津公民館・広島市西区役所 ||accessdate=2023-10-09 |format=PDF }}</ref>
* [[幸神社 (廿日市市)]](さいわいじんじゃ) - 広島県[[廿日市市]]にある[[厳島神社]]の境外末社<ref>{{Cite web|url=https://www.itsukushimajinja.jp/jp/setumatusya.html |title=境外摂末社 |publisher=厳島神社 |date=2023-05-07 |accessdate=2023-10-09}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.miyajima.or.jp/sightseeing/ss_goju.html |title=千畳閣&五重塔&多宝塔 他 |publisher=宮島観光協会 |date=2023-07-19 |accessdate=2023-10-09}}</ref>
* [[出雲路幸神社]](いずもじさいじんじゃ) - [[島根県]][[安来市]]にある神社<ref>{{Cite web|url=https://www.shimane-jinjacho.or.jp/yasugi/c4f34ef2c8b708d66c4545649a64a0bf06ee4cc0.html |title=出雲路幸神社 |publisher=島根県神社庁 |date=2022-10-03 |accessdate=2023-10-09}}</ref>
== 脚注 ==
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{{aimai}}
[[Category:同名の神社]]
|
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|
4,839,428 |
ツノナシオキアミ
|
ツノナシオキアミ(英語: North Pacific krill, 学名: Euphausia pacifica)は北太平洋に生息しているオキアミの1種。
日本において、本種はツノナシオキアミあるいはイサダと呼ばれる。駿河湾以北に生息し、日本海全域およびオホーツク海南西部で見られる。ツノナシオキアミは犬吠埼以北で漁獲(英語版)される。政府によって日本沿岸での漁獲量は年間70,000 t 以内に制限されている。より小規模ではあるが、カナダ・ブリティッシュコロンビア州でも漁獲される。
ツノナシオキアミはマダラ、スケトウダラ、マサバ、イカナゴ類、シロガネダラ、ニシン、ツノザメ、ギンダラ、タイヘイヨウオヒョウ(英語版)、マスノスケやギンザケなど様々な魚類にとって主要な餌となる。
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ツノナシオキアミは北太平洋に生息しているオキアミの1種。 日本において、本種はツノナシオキアミあるいはイサダと呼ばれる。駿河湾以北に生息し、日本海全域およびオホーツク海南西部で見られる。ツノナシオキアミは犬吠埼以北で漁獲される。政府によって日本沿岸での漁獲量は年間70,000 t 以内に制限されている。より小規模ではあるが、カナダ・ブリティッシュコロンビア州でも漁獲される。 ツノナシオキアミはマダラ、スケトウダラ、マサバ、イカナゴ類、シロガネダラ、ニシン、ツノザメ、ギンダラ、タイヘイヨウオヒョウ、マスノスケやギンザケなど様々な魚類にとって主要な餌となる。
|
{{生物分類表
|名称 = ツノナシオキアミ
|色 = 動物界
|画像 =[[ファイル:Nauplius_Hatching.jpg|250px]]
|画像キャプション = 卵から孵化するツノナシオキアミの[[ノープリウス]]幼生
|ドメイン = [[真核生物]] [[:w:Eukaryota|Eukaryota]]
|界 = [[動物界]] [[w:Animalia|Animalia]]
|門 = [[節足動物門]] [[w:Arthropoda|Arthropoda]]
|亜門 = [[甲殻亜門]] [[w:Crustacea|Crustacea]]
|綱 = [[軟甲綱]] [[w:Malacostraca|Malacostraca]]
|目 = [[オキアミ目]] [[:w:Euphausiacea|Euphausiacea]]
|科 = [[オキアミ科]] [[:w:Euphausiidae|Euphausiidae]]
|属 = '''オキアミ属''' [[:w:Euphausia|{{Snamei|Euphausia}}]]
|種 = '''ツノナシオキアミ''' [[:w:Euphausia pacifica|{{Snamei|E. pacifica}}]]
|学名 = {{Snamei|Euphausia pacifica}}<br>{{仮リンク|H・J・ハンセン|da|H.J. Hansen (zoolog)|label=Hansen}}, 1911 <ref>{{ITIS |taxon=''Euphausia pacifica'' Hansen, 1911 |id=95502}}</ref>
|和名 = ツノナシオキアミ
|英名 = North Pacific krill
}}
'''ツノナシオキアミ'''({{lang-en|North Pacific krill}}, [[学名]]: {{Snamei|Euphausia pacifica}})は北[[太平洋]]に生息しているオキアミの1種<ref name="FAO">{{cite book |author=Stephen Nicol & Yoshinari Endo |year=1997 |title=Krill fisheries of the world |series=Volume 367 of FAO fisheries technical paper |publisher=[[Food and Agriculture Organization]] |isbn=978-92-5-104012-6 |chapter=North Pacific krill |pages=17–30}}</ref>。
[[日本]]において、本種はツノナシオキアミあるいはイサダと呼ばれる。[[駿河湾]]以北に生息し、[[日本海]]全域および[[オホーツク海]]南西部で見られる。ツノナシオキアミは[[犬吠埼]]以北で{{仮リンク|オキアミ漁|en|Krill fishery|label=漁獲}}される<ref name="FAO"/>。政府によって日本沿岸での漁獲量は年間70,000 [[トン|t]] 以内に制限されている。より小規模ではあるが、[[カナダ]]・[[ブリティッシュコロンビア州]]でも漁獲される<ref name="FAO"/>。
ツノナシオキアミは[[マダラ]]、[[スケトウダラ]]、[[マサバ]]、[[イカナゴ科|イカナゴ類]]、[[シロガネダラ]]、[[ニシン]]、[[ツノザメ目|ツノザメ]]、[[ギンダラ]]、{{仮リンク|タイヘイヨウオヒョウ|en|Pacific halibut}}、[[マスノスケ]]や[[ギンザケ]]など様々な[[魚類]]にとって主要な餌となる<ref name="FAO"/>。
[[File:Euphausia gills.jpg|thumb|left|鰓]]
{{clear}}
== 脚注 ==
{{Commons category|Euphausia pacifica}}
{{Reflist}}
{{Taxonbar|from=Q992625}}
{{DEFAULTSORT:つのなしおきあみ}}
[[Category:甲殻類]]
|
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|
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|
4,839,430 |
村高町
|
村高町(むらだかちょう)は、愛知県安城市の地名。
安城市東部に位置する。東は岡崎市、西から南は川島町、北は河野町・岡崎市に接する。
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる。
国勢調査による人口および世帯数の推移。
|
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"text": "市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる。",
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] |
村高町(むらだかちょう)は、愛知県安城市の地名。
|
{{Pathnav|日本|愛知県|安城市|'''村高町'''|hide=1|frame=1}}
{{Infobox settlement
| name = 村高町
| settlement_type = [[町丁]]
| image_skyline = <!--- 関連する画像ファイル --->
| imagesize = 270px
| image_caption = <!--- 画像の説明 --->
| image_map =
| map_caption = 村高町の位置
| pushpin_map = Japan Aichi
| latd = 34 | latm = 55 | lats = 33.85 | latNS = N
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| subdivision_type = [[国の一覧|国]]
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| subdivision_name2 = [[File:Flag of Anjo, Aichi.svg|border|25px]][[安城市]]
| established_title1 = 町名制定
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| area_footnotes = <ref group=WEB name="area">{{Cite web|url=https://toukei-labo.com/2015/?tdfk=23&city=23212|title=愛知県安城市の町丁・字一覧|publisher=人口統計ラボ|language=日本語|accessdate=2023-08-26}}</ref>
| area_total_km2 = 0.667388281
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| elevation_m = <!--- 標高 --->
| population_as_of= 2020年(令和2年)10月1日現在
| population_footnotes = {{R|group=WEB|R2国勢調査}}
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| postal_code_type = [[郵便番号]]
| postal_code = 444-1151<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?pref=23&city=1232120&cmp=1&mode=list&addr=|title=愛知県安城市の郵便番号一覧|publisher=日本郵便|accessdate=2023-08-26}}</ref>
| area_code = 0566<ref group=WEB name=areacode>{{Cite web|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000141817.pdf|format=PDF||title=市外局番の一覧|publisher=総務省|date=2022-03-01|accessdate=2022-03-22}}</ref>
| registration_plate = [[愛知運輸支局|三河]]
| footnotes =
}}
'''村高町'''(むらだかちょう)は、[[愛知県]][[安城市]]の地名。
== 地理 ==
安城市東部に位置する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}。東は[[岡崎市]]、西から南は[[川島町 (安城市)|川島町]]、北は[[河野町 (安城市)|河野町]]・[[岡崎市]]に接する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}。
=== 学区 ===
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.city.anjo.aichi.jp/manabu/gakko/kyoikushisetsu/gakku.html|title=小中学校区一覧(町別50音順)|author=安城市役所教育振興部学校教育課学事係|publisher=安城市|date=2022-04-07|accessdate=2023-10-09}}</ref>。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.pref.aichi.jp/soshiki/kotogakko/0000080445.html|title=平成29年度以降の愛知県公立高等学校(全日制課程)入学者選抜における通学区域並びに群及びグループ分け案について|publisher=愛知県教育委員会|date=2015-02-16|accessdate=2019-01-14}}</ref>。
{| class="wikitable"
!番・番地等!!小学校!!中学校!!高等学校
|-
||全域||[[安城市立桜林小学校]]||[[安城市立桜井中学校]]||[[愛知県の高校入試#三河学区|三河学区]]
|}
=== 河川 ===
* [[矢作川]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
== 歴史 ==
=== 町名の由来 ===
=== 人口の変遷 ===
[[国勢調査]]による人口および世帯数の推移。
{| class="wikitable"
|-
|1995年(平成7年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000023630251&fileKind=1|format=CSV|title=平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-03-28|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|60世帯<br>270人||<div style="width:6px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:27px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2000年(平成12年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025137780&fileKind=1|format=CSV|title=平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-05-30|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|62世帯<br>248人||<div style="width:6.2px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:24.8px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2005年(平成17年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025514226&fileKind=1|format=CSV|title=平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-06-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|70世帯<br>272人||<div style="width:7px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:27.2px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2010年(平成22年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000012671534&fileKind=1|format=CSV|title=平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2012-01-20|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|76世帯<br>271人||<div style="width:7.6px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:27.1px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2015年(平成27年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000031522121&fileKind=1|format=CSV|title=平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2017-01-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|75世帯<br>266人||<div style="width:7.5px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:26.6px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2020年(令和2年)<ref group=WEB name=R2国勢調査>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000032163424&fileKind=1|format=CSV|title=令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口,外国人人口及び世帯数-町丁・字等|author=総務省統計局|date=2022-02-10|accessdate=2023-08-02|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|77世帯<br>260人||<div style="width:7.7px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:26px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|}
=== 沿革 ===
{{節スタブ}}
== 施設 ==
* 愛知経済連西三河家畜市場{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* 村高町農民センター{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* 天神社{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== WEB ===
{{Reflist|group="WEB"|refs=}}
=== 書籍 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1989|date=1989-03-08|title=[[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県|publisher=[[角川書店]]|isbn=4-04-001230-5|language=ja|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[安城市の町名]]
{{Geographic Location
| Northwest<!--北西--> =
| North<!--北--> = [[河野町 (安城市)|河野町]]・[[岡崎市]]
| Northeast<!--北東--> =
| West<!--西--> = [[川島町 (安城市)|川島町]]
| Centre<!--中央--> = 村高町
| East<!--東--> = [[岡崎市]]
| Southwest<!--南西--> =
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| Southeast<!--南東--> =
}}
{{安城市の町・字}}
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{{デフォルトソート:むらたかちよう}}
[[Category:安城市の町名]]
|
2023-10-09T08:41:56Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E9%AB%98%E7%94%BA
|
4,839,431 |
ドラゴマン (ブルガリア)
|
ドラゴマン(ブルガリア語: Драгоман, Dragoman, [drɐɡoˈman])は、ブルガリアのソフィア州にある町。同名のドラゴマン市の行政の中心地である。
セルビアとの国境近くに位置する。人口は5,362人(2011年)。
南極のサウスシェトランド諸島にあるスミス島のドラゴマン氷河は、この町の名前に由来する。
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ドラゴマンは、ブルガリアのソフィア州にある町。同名のドラゴマン市の行政の中心地である。 セルビアとの国境近くに位置する。人口は5,362人(2011年)。 南極のサウスシェトランド諸島にあるスミス島のドラゴマン氷河は、この町の名前に由来する。
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{{Infobox settlement
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}}
{{Commonscat|Dragoman}}
'''ドラゴマン'''({{lang-bg|Драгоман}}, Dragoman, {{IPA-bg|drɐɡoˈman|}})は、[[ブルガリア]]の[[ソフィア州]]にある町。同名のドラゴマン市の行政の中心地である。
[[セルビア]]との国境近くに位置する。人口は5,362人(2011年)<ref>{{cite web|title=Население местоживеене, пол и възраст: Област: Софийска Община: Драгоман|url=http://censusresults.nsi.bg/Census/Reports/2/2/R1.aspx?OBS=SFO16|work=2011 Bulgarian Census|publisher=National Statistics Institute|access-date=January 25, 2012|language=bg}}</ref>。
[[南極]]の[[サウスシェトランド諸島]]にある[[スミス島 (サウス・シェトランド諸島)|スミス島]]のドラゴマン氷河は、この町の名前に由来する。
== 脚注 ==
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{{Bulgaria-stub}}
{{DEFAULTSORT:とらこまん}}
[[Category:ソフィア州の都市]]
|
2023-10-09T08:42:24Z
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|
4,839,433 |
鈴の家りん
|
鈴の家 りん(すずのや りん、2002年9月10日 - )は、日本のAV女優。兵庫県出身。ティーパワーズ所属。
2023年1月30日、同年2月24日にプレステージ専属女優としてデビューすることを発表。
趣味は映画鑑賞、特技は食べること。
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鈴の家 りんは、日本のAV女優。兵庫県出身。ティーパワーズ所属。
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{{AV女優|
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'''鈴の家 りん'''(すずのや りん、[[2002年]][[9月10日]] - )は、[[日本]]の[[AV女優]]。[[兵庫県]]出身。[[ティーパワーズ]]所属。
== 経歴 ==
2023年1月30日、同年2月24日に[[プレステージ (アダルトビデオ)|プレステージ]][[AV女優#単体(専属)女優|専属女優]]としてデビューすることを発表<ref>[https://twitter.com/rinrin_dayou/status/1619979067025162241?t=cJTXapSSU8DnQV5DJjK2gw&s=19 2022年1月30日ツイート]</ref>。
== 人物 ==
趣味は映画鑑賞、特技は食べること。
== 作品 ==
=== アダルトビデオ ===
{{hidden begin
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|title = 2023年
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}}
* 新人 プレステージ専属デビュー 嵐の予感… この女の子、可愛いだけじゃ、ない。(2月24日、[[プレステージ (アダルトビデオ)|プレステージ]])
* 顔射の美学 23 美女の顔面に溜まりに溜まった白濁男汁をぶちまけろ!!(3月31日、プレステージ)
* 新・絶対的美少女、お貸しします。116 鈴の家りん(AV女優)20歳。(4月21日、プレステージ)
* アオハル 制服美少女と完全主観で過ごす性春3SEX。#12 鈴の家りん(5月19日、プレステージ)
* 天然成分由来 鈴の家りん汁 120% 81(6月23日、プレステージ)
* 美少女と、貸し切り温泉と、濃密性交と。 23 鈴の家りん(7月21日、プレステージ)
* 女子マネージャーは、僕達の性処理ペット。046 鈴の家りん(8月18日、プレステージ)
* 風俗タワー 性感フルコース3時間SPECIAL ACT.43 鈴の家りん(9月22日、プレステージ)
* スポコス汗だくSEX4本番! 体育会系・鈴の家りん act.30(10月20日、プレステージ)
* 義理の妹が完堕ちするまでぶっ壊された ずぶ濡れ性交 鈴の家りん(11月17日、プレステージ)
* 鈴の家りん 8時間 BEST PRESTIGE PREMIUM EXCLUSIVE vol.01(11月24日、プレステージ)※単体ベスト
* なまなかだし 鈴の家りん(12月22日、プレステージ)
{{hidden end}}
=== イメージビデオ ===
; 2023年
* Rin Tinkling bells・鈴の家りん(8月3日、REbecca)
* 美・ボディ 鈴の家りん(11月26日、スパークビジョン)
=== デジタル写真集 ===
* はじめての裸 初脱ぎ 鈴の家りん(2023年1月6日、[[プレステージ (アダルトビデオ)|プレステージ出版]]、撮影:黒澤奨平)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* {{Twitter|rinrin_dayou}}
* {{Instagram|rinrin._.insta}}
* {{TikTok|rinrin_suzunoya}}
* [https://www.t-powers.co.jp/talent/%E9%88%B4%E3%81%AE%E5%AE%B6%E3%82%8A%E3%82%93/ 鈴の家りん]ティーパワーズ公式
{{デフォルトソート:すすのや りん}}
[[Category:日本のAV女優]]
[[Category:ティーパワーズ]]
[[Category:プレステージ女優]]
[[Category:兵庫県出身の人物]]
[[Category:日本のTikToker]]
[[Category:2002年生]]
[[Category:存命人物]]
|
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|
4,839,434 |
明治本町
|
明治本町(めいじほんまち)は、愛知県安城市の地名。
安城市中央部に位置する。東は新田町、南は朝日町に接する。
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる。
国勢調査による人口および世帯数の推移。
|
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明治本町(めいじほんまち)は、愛知県安城市の地名。
|
{{Pathnav|日本|愛知県|安城市|'''明治本町'''|hide=1|frame=1}}
{{Infobox settlement
| name = 明治本町
| settlement_type = [[町丁]]
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| image_map =
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| area_footnotes = <ref group=WEB name="area">{{Cite web|url=https://toukei-labo.com/2015/?tdfk=23&city=23212|title=愛知県安城市の町丁・字一覧|publisher=人口統計ラボ|language=日本語|accessdate=2023-08-26}}</ref>
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| elevation_m = <!--- 標高 --->
| population_as_of= 2020年(令和2年)10月1日現在
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| utc_offset1 = +9
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| postal_code = 446-0062<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?pref=23&city=1232120&cmp=1&mode=list&addr=|title=愛知県安城市の郵便番号一覧|publisher=日本郵便|accessdate=2023-08-26}}</ref>
| area_code = 0566<ref group=WEB name=areacode>{{Cite web|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000141817.pdf|format=PDF||title=市外局番の一覧|publisher=総務省|date=2022-03-01|accessdate=2022-03-22}}</ref>
| registration_plate = [[愛知運輸支局|三河]]
| footnotes =
}}
'''明治本町'''(めいじほんまち)は、[[愛知県]][[安城市]]の地名。
== 地理 ==
安城市中央部に位置する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}。東は[[新田町 (安城市)|新田町]]、南は[[朝日町 (安城市)|朝日町]]に接する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}。
=== 学区 ===
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.city.anjo.aichi.jp/manabu/gakko/kyoikushisetsu/gakku.html|title=小中学校区一覧(町別50音順)|author=安城市役所教育振興部学校教育課学事係|publisher=安城市|date=2022-04-07|accessdate=2023-10-09}}</ref>。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.pref.aichi.jp/soshiki/kotogakko/0000080445.html|title=平成29年度以降の愛知県公立高等学校(全日制課程)入学者選抜における通学区域並びに群及びグループ分け案について|publisher=愛知県教育委員会|date=2015-02-16|accessdate=2019-01-14}}</ref>。
{| class="wikitable"
!番・番地等!!小学校!!中学校!!高等学校
|-
||全域||[[安城市立安城中部小学校]]||[[安城市立安城北中学校]]||[[愛知県の高校入試#三河学区|三河学区]]
|}
=== 河川 ===
* 追田悪水{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
== 歴史 ==
=== 町名の由来 ===
=== 人口の変遷 ===
[[国勢調査]]による人口および世帯数の推移。
{| class="wikitable"
|-
|1995年(平成7年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000023630251&fileKind=1|format=CSV|title=平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-03-28|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|452世帯<br>1303人||<div style="width:45.2px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:130.3px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2000年(平成12年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025137780&fileKind=1|format=CSV|title=平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-05-30|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|435世帯<br>1252人||<div style="width:43.5px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:125.2px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2005年(平成17年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025514226&fileKind=1|format=CSV|title=平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-06-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|442世帯<br>1216人||<div style="width:44.2px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:121.6px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2010年(平成22年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000012671534&fileKind=1|format=CSV|title=平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2012-01-20|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|488世帯<br>1208人||<div style="width:48.8px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:120.8px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2015年(平成27年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000031522121&fileKind=1|format=CSV|title=平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2017-01-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|564世帯<br>1294人||<div style="width:56.4px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:129.4px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2020年(令和2年)<ref group=WEB name=R2国勢調査>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000032163424&fileKind=1|format=CSV|title=令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口,外国人人口及び世帯数-町丁・字等|author=総務省統計局|date=2022-02-10|accessdate=2023-08-02|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|667世帯<br>1359人||<div style="width:66.7px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:135.9px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|}
=== 沿革 ===
{{節スタブ}}
== 交通 ==
* [[名鉄西尾線]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* JR東海道本線{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* [[愛知県道豊田安城線]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* [[愛知県道岡崎半田線]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
== 施設 ==
* 市営飛越住宅{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
* 稲荷社{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1568}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== WEB ===
{{Reflist|group="WEB"|refs=}}
=== 書籍 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1989|date=1989-03-08|title=[[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県|publisher=[[角川書店]]|isbn=4-04-001230-5|language=ja|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[安城市の町名]]
== 外部リンク ==
* {{commonscat-inline}}
{{Geographic Location
| Northwest<!--北西--> =
| North<!--北--> =
| Northeast<!--北東--> =
| West<!--西--> =
| Centre<!--中央--> = 明治本町
| East<!--東--> = [[新田町 (安城市)|新田町]]
| Southwest<!--南西--> =
| South<!--南--> = [[朝日町 (安城市)|朝日町]]
| Southeast<!--南東--> =
}}
{{安城市の町・字}}
{{Japan-block-stub}}
{{Pref-stub|pref=愛知県}}
{{デフォルトソート:めいしほんまち}}
[[Category:安城市の町名]]
|
2023-10-09T08:48:51Z
|
2023-10-09T08:48:51Z
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4,839,437 |
大野別府
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大野別府(大野荘)は9~16世紀の頃、熊本県玉名市一帯にあった荘園 (日本)。京都の石清水八幡宮を本家、福岡の筥崎宮(筥崎八幡宮)を領家として荘園の特権を得た。
別府とは別勅符によって不輸不入権を許された不輸租(無税)地。
『熊本県玉名郡誌』大正12年4月18日
『岱明町地方史』昭和44年7月4日 門岡 久著
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大野別府(大野荘)は9~16世紀の頃、熊本県玉名市一帯にあった荘園 (日本)。京都の石清水八幡宮を本家、福岡の筥崎宮(筥崎八幡宮)を領家として荘園の特権を得た。 別府とは別勅符によって不輸不入権を許された不輸租(無税)地。
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'''大野別府'''(おおのべっぷ)は、9~16世紀の頃、熊本県[[玉名市]]一帯にあった[[荘園 (日本)]]<ref name=":0">『熊本県玉名郡誌』大正12年4月18日</ref><ref name=":1">『岱明町地方史』昭和44年7月4日 門岡 久著</ref>。京都の[[石清水八幡宮]]を本家、福岡の[[筥崎宮]](筥崎八幡宮)を領家として荘園の特権を得た<ref name=":0" /><ref name=":1" />。
別府とは別勅符によって[[不輸不入権]]を許された不輸租(無税)地<ref name=":0" /><ref name=":1" />。
== 概要 ==
※<ref name=":0" /><ref name=":1" />
* 天長元年(824) 加善大徳が[[大野氏 (肥後国)]]の氏寺として寿福寺を開山。
* 応和元年(961) 紀大野隆村(きのおおのたかむら)は、第62代・村上天皇の勅願で山城国 石清水八幡宮を歓請し現在の熊本県[[玉名市]]、繁根木(はねぎ)八幡宮を創建、大野別符250町歩(250ヘクタール)の総鎮守にした。
* 建久4年(1193) 鎌倉幕府は紀国隆(きのくにたか)を大野別府の[[地頭]]に任命した。国隆の子、大野十郎秀隆は[[大野氏 (肥後国)]]の居城であった[[日嶽城]](ひだけじょう)の城主となり、大野別府の[[惣領]](一族の指揮者、一地域の全所領知行者)となった。
* 天正9年(1581) 大野別府を代々治めた[[大野氏 (肥後国)]]は隣接した野原荘 小代氏侵攻を受け、大野別府は小代氏の領有となった。
* 天正16年(1588) [[肥後国]]を拝領した[[加藤清正]]は野原荘と大野別府を領有していた小代氏を遠方の熊本県[[葦北郡]]へ移した。小代氏の後、加藤清正は一族で第一の重臣、加藤美作守正次を置いた。
* 慶長8年(1603) [[徳川家康]]が江戸に幕府を開き、慶長の[[検地]]が行われ、従来の荘園的な土地所有関係が否定された。以降、大野別府であった地域は玉名郡坂下郷、[[岱明町]]、[[玉名市]]へと変遷した。
== 脚注 ==
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[[Category:肥後国の荘園]]
[[Category:玉名市の歴史]]
[[Category:玉名市の地理]]
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2023-10-09T08:54:47Z
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4,839,438 |
Youmenosay
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youmenosay(ゆめのせい)は、日本のアイドルユニット。
元清竜人25の清可恩が、バンド「Dreamy Melts」の活動後、オーディションで出会ったメンバーと結成。グループの目標として、自分たちのアイドル活動を“原作”に「ノンフィクションでのアニメ化」を目指す。活動はセルフプロデュース。
2022年5月7日、SHIBUYA DIVEにて初ライブ。
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youmenosay(ゆめのせい)は、日本のアイドルユニット。
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{{Infobox Musician <!-- プロジェクト:音楽家 を参照 -->
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* {{Color sample|#FDB9C8|border=0}} 北郷 可恩
* {{Color sample|#FFEF6C|border=0}} 逢花 ゆま
* {{Color sample|#A3D8F6|border=0}} 雪乃 さり
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'''youmenosay'''(ゆめのせい)は、日本の[[アイドルグループ|アイドルユニット]]。
== 沿革 ==
元[[清竜人25]]の清可恩が、バンド「Dreamy Melts」の活動後、オーディションで出会ったメンバーと結成。グループの目標として、自分たちのアイドル活動を“原作”に「ノンフィクションでの[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]化」を目指す<ref>{{Cite web |title=清 竜人25の第6夫人・可恩、2次元になりたいアイドルyoumenosayセルフプロデュース |url=https://natalie.mu/music/news/471236 |website=音楽ナタリー |access-date=2023-10-09 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref><ref>{{Cite web |title=🍭 元・清 竜人25の可恩、セルフアイドルグループyoumenosay結成! - Pop'n'Roll(ポップンロール) |url=https://popnroll.tv/articles/24380 |website=popnroll.tv |access-date=2023-10-09}}</ref>。活動はセルフプロデュース。
2022年5月7日、SHIBUYA DIVEにて初ライブ<ref>{{Cite web |title=《☁デビューしました☁》 |url=https://twitter.com/youmenosay/status/1522931466774413313?s=20 |website=X (formerly Twitter) |access-date=2023-10-09 |language=ja}}</ref>。
== メンバー ==
{| class="wikitable"
!氏名
!推し色!!生年月日
!血液型!!出身地!!備考<ref>{{Cite web |title=youmenosay《公式》 |url=https://youmenosay2022.bitfan.id/contents/menu/30494 |website=youmenosay《公式》 |access-date=2023-10-09 |language=ja}}</ref>
|-
!<span style="white-space:nowrap">'''北郷 可恩(ほんごう かのん)'''</span>
|style="background-color:#FDB9C8;color:black"|ドリーミーピンク||5月29日
|B型||東京都||元[[清竜人25]]の第6夫人。解散後は「可恩」名義で、バンド「Dreamy Melts」のヴォーカルとして活動。youmenosayでは総合プロデュース、リーダーを担当。
|-
!'''逢花 ゆま(あいはな ゆま)'''
|style="background-color:#FFF1AB;color:black"|スマイルイエロー||11月14日
|A型||島根県||「BabyHolic」というアイドルグループ、「NoA」という派生ユニットで活動。渋谷eggmanでのライブにて解散。解散後 とあるオーディションで北郷と出会う。
|-
!'''雪乃 さり(ゆきの さり)'''
|style="background-color:#A3D8F6;color:black"|スノーブルー||5月29日
|不明||苺県(栃木県)||高校生の時にアイドルライブを観に行ったことをきっかけにアイドルを志す。オーディションでの配信をキッカケに可恩からスカウトを受ける。
|}
== 作品 ==
=== シングル ===
{| class="wikitable" style="font-size:95%"
!#!!タイトル!!収録曲!!リリース日!!仕様
|-
!1st
|夢のせい<ref>{{Cite web |title=youmenosay 2022年5月8日から1stシングル『夢のせい』の配信開始 |url=https://idol-report.com/2022/05/08/youmenosay-may-8-2022-to-begin-distribution-of-1st-single-youmenosay.html |website=IDOL REPORT.com |date=2022-05-08 |access-date=2023-10-09 |language=ja}}</ref>||
#夢のせい
#君はふわふわ
#白いサイリウム
*《DLカード限定特典》レコーディングオフショット映像
|2022年6月29日||DLカード
|-
!2nd
|がんばれ、ゆめのせい!<ref>{{Cite web |title=アニメ化を目標に掲げるyoumenosayの2ndシングルは戦隊モノ×魔法少女! 次元の壁と戦う主人公の3人にインタビュー {{!}} dot yell web - エンタメ情報を毎日お届けするWEBメディア |url=https://dot-yell.com/archives/44361/ |date=2022-10-28 |access-date=2023-10-09 |language=ja}}</ref>||
#がんばれ、ゆめのせい!〜アニメ化するその日まで〜
#taikutsu
#未来へ
*《DLカード限定特典》レコーディングオフショット映像
|2022年10月26日||DLカード
|-
!3rd
|ゆめのせい体操<ref>{{Cite web |title=youmenosay インタビュー 「いっぱい協力してくれる人が出てきて、超マジ感謝感謝!」 |url=https://idol-report.com/2023/03/30/youmenosay-interview-a-lot-of-people-have-come-out-to-help-and-im-super-seriously-grateful-and-thankful.html |website=IDOL REPORT.com |date=2023-03-30 |access-date=2023-10-09 |language=ja}}</ref>||
#ゆめのせい体操
#Believe(仮)
#TAKAI$USHI
*《DLカード限定特典》ゆめのせい体操アザーショット
|2023年3月28日<ref>{{Cite web |title=https://twitter.com/youmenosay/status/1640685281606258688?s=20 |url=https://twitter.com/youmenosay/status/1640685281606258688?s=20 |website=X (formerly Twitter) |access-date=2023-10-09 |language=ja}}</ref>
2023年4月25日(CD)
|DLカード
|}
=== アルバム ===
{| class="wikitable" style="font-size:95%"
!#!!タイトル!!収録曲!!リリース日!! 仕様
|-
!1st
|'''START'''||
#夢のせい
#しゅき♡︎帯び運転
#ゆめのせい体操
#がんばれ、ゆめのせい!〜アニメ化するその日まで〜
#TAKAI $USHI
#Believe(仮)
#taikutsu
#キミはふわふわ
#未来へ
#何かになれたのなら
#白いサイリウム
#Dream Parade
*《特典映像》 2023.5.7 @渋谷DIVE 1st Anniversary Oneman Live「START」収録
|2023年10月26日
|
|}
=== 限定CD ===
{| class="wikitable" style="font-size:95%"
!#!!タイトル!!収録曲!!備考
|-
!
|闇のせい〜Because of Darkness〜||
#闇のせい(夢のせい Metal Remix ver.)
#闇のせい(instrument)
|2023年4月1日の[[エイプリルフール]]に1日限定でグループ名を変えた事によるリリース<ref>{{Cite web |title=https://twitter.com/82e57_a/status/1641828227353309184?s=20 |url=https://twitter.com/82e57_a/status/1641828227353309184?s=20 |website=X (formerly Twitter) |access-date=2023-10-09 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=https://twitter.com/youmenosay/status/1642091217910636549?s=20 |url=https://twitter.com/youmenosay/status/1642091217910636549?s=20 |website=X (formerly Twitter) |access-date=2023-10-09 |language=ja}}</ref>。
"yaminosay"名義唯一の作品。
|}
== ライブ・イベント ==
=== 主要ライブ ===
{| class="wikitable" style="font-size:95%"
!公演日!!タイトル!!会場
|-
|2022年5月7日||youmenosay debut live「RE:START」||渋谷DIVE
|-
|2023年5月7日
|1st Anniversary Oneman Live「START」||渋谷DIVE
|-
|2023年10月7日
| Dream Parade Tour Final||[[Shibuya O-EAST|渋谷O-crest]]
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===出典===
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
*[https://youmenosay2022.bitfan.id/ youmenosay] - 公式[[ホームページ]]
*[https://www.youtube.com/channel/UCO2NDT3SOeImJjl0ZPHf5OA youmenosay] - 公式[[YouTube]]チャンネル
*[https://timetreeapp.com/public_calendars/youmenosay/ youmenosay] - schedule
*[https://youmenosay.official.ec/ youmenosay] - BASE
;X(Twitter)
:* {{Twitter|youmenosay|youmenosay}}
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:* {{Twitter|cv_yuma_|逢花ゆま}}
:* {{Twitter|sarikin_0|雪乃さり}}
:
;Instagram
:* {{Instagram|youmenosay|youmenosay《公式》}}
:* {{Instagram|dreamy_canon|北郷可恩}}
:* {{Instagram|cv_yuma_|逢花ゆま}}
:* {{Instagram|sarikin0|雪乃さり}}
{{Idol-stub}}
{{デフォルトソート:ゆめのせい}}
[[Category:日本の女性アイドルグループ]]
[[Category:2022年に結成した音楽グループ]]
[[Category:3人組の音楽グループ]]
|
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2023-10-10T20:30:05Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Youmenosay
|
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桃園村 (大分県)
|
桃園村(ももぞのむら)は、大分県大分郡にあった村。現在の大分市の一部にあたる。
|
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桃園村(ももぞのむら)は、大分県大分郡にあった村。現在の大分市の一部にあたる。
|
{{日本の町村 (廃止)
| 廃止日 = 1944年2月11日
| 廃止理由 = 編入合併
| 廃止詳細 = '''桃園村''' → [[鶴崎町]]
| 現在の自治体 = [[大分市]]
| よみがな = ももぞのむら
| 自治体名 = 桃園村
| 区分 = 村
| 都道府県 = 大分県
| 郡 = [[大分郡]]
| 面積 =
| 境界未定 =
| 人口 = 2632
| 人口の出典 = [[国勢調査 (日本)|国勢調査]]
| 人口の時点 = 1940年
| 隣接自治体 = 鶴崎町、[[明治村 (大分県大分郡)|明治村]]、大分市
| 所在地 = 大分郡桃園村大字千歳
| 座標 =
| 位置画像 =
| 特記事項 =
}}
'''桃園村'''(ももぞのむら{{R|変遷}}{{R|角川}})は、[[大分県]][[大分郡]]にあった[[村]]。現在の[[大分市]]の一部にあたる。
== 地理 ==
*河川:七瀬川<ref name=角千>「千歳〈大分市〉」『角川日本地名大辞典 44 大分県』466頁。</ref>、乙津川<ref>「乙津〈大分市〉」『角川日本地名大辞典 44 大分県』227頁。</ref>
== 歴史 ==
*[[1889年]](明治22年)4月1日、[[町村制]]の施行により、大分郡千歳村、乙津村、三川村が合併して村制施行し、'''桃園村'''が発足<ref name=変遷>『市町村名変遷辞典』797頁。</ref><ref name=角川>『角川日本地名大辞典 44 大分県』814頁。</ref>。旧村名を継承した千歳、乙津、三川の3大字を編成{{R|角川}}。
*[[1944年]](昭和19年)2月11日、'''[[鶴崎町]]'''に編入され廃止{{R|変遷}}{{R|角川}}。
== 産業 ==
*農業{{R|角千}}
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* [[角川日本地名大辞典]] 44 大分県
* 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。
== 関連項目 ==
* [[大分県の廃止市町村一覧]]
{{デフォルトソート:ももそのむら}}
[[Category:大分郡]]
[[Category:大分市域の廃止市町村]]
[[Category:1889年設置の日本の市町村]]
[[Category:1944年廃止の日本の市町村]]
|
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"Template:日本の町村 (廃止)",
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|
4,839,442 |
樋口正人
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樋口 正人(ひぐち まさと、1960年〈昭和35年〉8月17日 - )は、日本の起業家・研究者である。 2009年(平成21年)より株式会社ダステック代表取締役社長。新潟県新潟市生まれ、事業拠点は石川県金沢市。
一般社団法人日本ファンクショナルダイエット協会の「シニアケトジェニックアドバイザー」(認定証発行2016年3月20日)。 および一般社団法人AGE研究協会の「AGE研究協会認定講師」(認定証発行2016年4月1日)。 1998年(平成10年)4月 - 2001年(平成13年)3月は、通商産業省工業技術院生命工学工業技術研究所の技術研修員もつとめた。先生は岡修一。
ペンネーム「純炭社長」としてブログやSNSの発信もおこなっている(「純炭社長の徒然起業日誌」など)。 夢は「この世から透析患者をなくすこと」。
所属団体は、一般社団法人日本透析医学会、一般社団法人日本抗加齢医学会、一般社団法人日本糖質制限医療推進協会など。
趣味は、料理や読書。 AGEやケトジェニックダイエットに関する資格を取得し、低AGE食やケトン食を調理した写真をブログやFacebookページで掲載している。
「自分の人生を変えた作家」は庄司薫と回答している。 血液型はAB型で、星座は獅子座。
佐中孜(1946年〈昭和21年〉 - 医療法人刀水会齋藤記念病院名誉院長)、山岸昌一(1963年〈昭和38年〉 - 昭和大学医学部内科学講座糖尿病・代謝・内分泌内科学部門教授)といった、親交のある医学者・科学者とは、対談もおこなっており、書籍にまとめられている。
「この世から透析患者を無くしたい!」という社会起業家としての四苦八苦ぶりや解決策は、ブログ「純炭社長の徒然起業日誌」で吐露している。 「駄菓子菓子(だがしかし)、商人の子供でもなく研究畑しか知らない中年男にとって会社経営は知らないコトばかり」 「100個の作業仮説を立てて実験しても、たった1回しか思い通りの結果が出ないのだから、如何に短時間に99回失敗するかが成功への近道」。
以上。
|
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"title": "略歴"
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] |
樋口 正人は、日本の起業家・研究者である。
2009年(平成21年)より株式会社ダステック代表取締役社長。新潟県新潟市生まれ、事業拠点は石川県金沢市。 一般社団法人日本ファンクショナルダイエット協会の「シニアケトジェニックアドバイザー」(認定証発行2016年3月20日)。
および一般社団法人AGE研究協会の「AGE研究協会認定講師」(認定証発行2016年4月1日)。
1998年(平成10年)4月 - 2001年(平成13年)3月は、通商産業省工業技術院生命工学工業技術研究所の技術研修員もつとめた。先生は岡修一。 ペンネーム「純炭社長」としてブログやSNSの発信もおこなっている(「純炭社長の徒然起業日誌」など)。
夢は「この世から透析患者をなくすこと」。 所属団体は、一般社団法人日本透析医学会、一般社団法人日本抗加齢医学会、一般社団法人日本糖質制限医療推進協会など。
|
{{Infobox 人物
|氏名= 樋口 正人
|ふりがな= ひぐち まさと
|画像= <!-- 画像ファイル名 -->
|画像サイズ=
|画像説明=
|生年月日= [[1960年]](昭和35年)[[8月17日]]
|生誕地= {{JPN}}・[[新潟県]][[新潟市]]
|国籍= {{JPN}}
|出身校= [[千葉大学]]理学部生物学科卒業<br />千葉大学大学院理学研究科生物学専攻修了
|職業=起業家<br />研究者
|肩書き= 株式会社ダステック 代表取締役社長
}}
'''樋口 正人'''(ひぐち まさと、[[1960年]]〈昭和35年〉[[8月17日]] - )は、日本の起業家・研究者である。<br />
2009年(平成21年)より[[株式会社ダステック]]代表取締役社長。<br />[[新潟県]][[新潟市]]生まれ、事業拠点は石川県金沢市<ref name=":01" /><ref name=":02" />。
一般社団法人日本ファンクショナルダイエット協会の「シニアケトジェニックアドバイザー」(認定証発行2016年3月20日)<ref name=":01" />。
および一般社団法人AGE研究協会の「AGE研究協会認定講師」(認定証発行2016年4月1日)<ref name=":01" />。
1998年(平成10年)4月 - 2001年(平成13年)3月は、通商産業省工業技術院生命工学工業技術研究所の技術研修員もつとめた。先生は岡修一<ref name=":01" />。
ペンネーム「純炭社長」としてブログやSNSの発信もおこなっている(「純炭社長の徒然起業日誌」など)<ref name=":02" /><ref name=":03" /><ref name=":04" />。<br />
夢は「この世から透析患者をなくすこと」<ref name=":01" />。
所属団体は、一般社団法人日本透析医学会、一般社団法人日本抗加齢医学会、一般社団法人日本糖質制限医療推進協会など<ref name=":05" />。
== 経歴 ==
=== 生い立ち ===
* 1960年(昭和35年)8月17日 - 新潟県新潟市に生まれる<ref name=":01" /><ref name=":03" />。
* 1979年(昭和54年) - [[群馬県立前橋高等学校]]を卒業<ref name=":01" />。
* 1983年(昭和58年) - [[千葉大学]]理学部生物学科を卒業<ref name=":01" />。同年に千葉大学大学院に入学。
* 1985年(昭和60年)3月 - 理学研究科生物学専攻終了<ref name=":01" />。<br />研究テーマは「Ca依存性骨格筋収縮に対するC蛋白質〈筋構造維持蛋白質〉の機能解析」<ref name=":01" />。
=== 研究者・会社員時代 ===
* 1985年(昭和60年) - 中外製薬株式会社に入社し、バイオ医薬品のプロジェクトチームに配属される。ミッションは、腎臓病に起因する貧血の新薬の開発。高田馬場の研究所で「天然型エリスロポエチン(EPO)精製」に取り組む<ref name=":01" /><ref name=":02" /><ref name=":16" />。
* 1990年(平成2年) - 医薬品化に成功。腎性貧血治療薬「エポジン®」として発売される。プロジェクトメンバーの一員として、社内功労賞を受賞<ref name=":01" /><ref name=":16" />。
* 2006年(平成18年) - 株式会社エムシープロット・バイオテクノロジーの設立に参加。そのきっかけになったのは、「新規鉄制御因子(ヘプシジン)」の研究である<ref name=":17" />。
* それに伴い中外製薬株式会社は2007年(平成19年)10月に退社<ref name=":01" />。
* 2008年(平成20年)2月 - 石川県金沢市に拠点を置く、株式会社エムシープロット・バイオテクノロジーに入社。取締役およびライフサイエンス研究所長に就任する。「プロテオミクス技術」を活用した診断システムや疾患マーカー探索に取り組む。および、医薬品や健康食品素材の研究開発も並行しておこなった<ref name=":01" />。
=== 研究者・起業家時代 ===
* 2009年(平成21年)5月 - 株式会社エムシープロット・バイオテクノロジーの吸着素材研究部門を独立させるカタチで株式会社ダステックを創立。代表取締役社長に就任<ref name=":01" /><ref name=":18" />。
* 2015年(平成27年)5月 - 吸着炭及び吸着剤に関して、米国の特許を取得(ADSORPTION CARBON, AND ADSORBENT Patent No.: US 9,034,789 B2)<ref name=":01" />。
* 同年6月。日本の特許を取得(吸着炭及び吸着剤 特許第5765649号)<ref name=":01" />。
* 起業後は、AGEs(Advanced Glycation End Products:エージーイー:終末糖化産物)、および糖質制限やケトジェニックダイエットの啓蒙にも取り組んでいる<ref name=":01" /><ref name=":06" /><ref name=":07" />。
== 講演 ==
* 2005年(平成17年)10月 - 札幌コンベンションセンター。<br />ランチョンセミナー「エリスロポエチン最近の話題 エリスロポエチンは臓器保護・臓器再生に応用可能か?」<br />中外製薬育薬研究部主席研究員樋口正人として。<br />「第16回社団法人北海道臨床工学技士会学術大会」にて<ref name=":08" />。
* 2014年(平成26年)12月20日 - ホテル京阪京都。<br />特別講演「CKD治療に対する新規吸着炭ダイエタリーカーボンの可能性」<br />「第17回腎と栄養代謝研究会in京都」にて<ref name=":09" />。
* 2016年(平成28年)5月14日 - パソナグループ本部イベントホール(東京都千代田区大手町2-6-4)。<br />パネルディスカッション「石川県と東京都それぞれの起業環境」<br />「いしかわ地方創生ベンチャー創出セミナー~革新的ベンチャーがつくる地方の未来~」にて<ref name=":10" />。
* 2019年(平成31年・令和元年)12月21日 - 秋葉原UDX NXET。<br />講演「結晶セルロース由来吸着炭(ダイエタリーカーボン純炭粉末)の特性と抗加齢医学分野への応用」<br />日本抗加齢協会第4回学術フォーラム「臓器連関とアンチエイジング」2日目の合同シンポジウム2のテーマ「アンチメタボによる抗加齢医学」にて。<br />合同シンポジウムは、日本抗加齢協会・脳心血管抗加齢研究会による合同の開催<ref name=":11" />。
== 人物 ==
趣味は、料理や読書。<br />
AGEやケトジェニックダイエットに関する資格を取得し、低AGE食やケトン食を調理した写真をブログやFacebookページで掲載している<ref name=":02" /><ref name=":12" /><ref name=":13" /><ref name=":19" />。
「自分の人生を変えた作家」は庄司薫と回答している<ref name=":12" />。<br />
血液型はAB型で、星座は獅子座<ref name=":03" />。
佐中孜(1946年〈昭和21年〉 - 医療法人刀水会齋藤記念病院名誉院長)、山岸昌一(1963年〈昭和38年〉 - 昭和大学医学部内科学講座糖尿病・代謝・内分泌内科学部門教授)といった、親交のある医学者・科学者とは、対談もおこなっており、書籍にまとめられている<ref name=":14" /><ref name=":15" />。
「この世から透析患者を無くしたい!」という社会起業家としての四苦八苦ぶりや解決策は、ブログ「純炭社長の徒然起業日誌」で吐露している。<br />
「駄菓子菓子(だがしかし)、商人の子供でもなく研究畑しか知らない中年男にとって会社経営は知らないコトばかり」<br />
「100個の作業仮説を立てて実験しても、たった1回しか思い通りの結果が出ないのだから、如何に短時間に99回失敗するかが成功への近道」<ref name=":03" />。
== 略歴 ==
* 1960年(昭和35年) - 新潟県新潟市にて誕生。
* 1973年(昭和48年) - 東京都武蔵村山市立第六小学校卒業。
* 1976年(昭和51年) - 千葉県我孫子市立我孫子中学校卒業。
* 1979年(昭和54年) - 群馬県立前橋高等学校卒業。
* 1983年(昭和58年) - 千葉大学理学部生物学科卒業。
* 1985年(昭和60年) - 千葉大学大学院理学研究科生物学専攻修了。
* 1985年(昭和60年) - 中外製薬株式会社入社 新薬研究所配属。
* 1998年(平成10年) - 通商産業省工業技術院生命工学工業技術研究所(岡修一先生)技術研修員。
* 1999年(平成11年) - 筑波大学先端学際領域研究センター(山本雅之教授)客員研究員。
* 2007年(平成19年) - 金沢医科大学医学部(腎臓内科)非常勤講師。
* 2007年(平成19年) - 株式会社中外製薬退社。
* 2008年(平成20年) - 株式会社エムシープロット・バイオテクノロジー入社。
* 2009年(平成21年) - 株式会社ダステック設立。
以上<ref name=":01" />。
== 著作 ==
=== 共著 ===
* 『エリスロポエチンのすべて』(監修:平澤由平、平嶋邦猛、メディカルレビュー社、2006年〈平成18年〉1月、ISBN978-4896009132)、2023年8月28日閲覧。<br />https://publish.m-review.co.jp/book/detail/978-4-89600-913-2
* 『読むデトックスVol.1 透析を受けずに人生を楽しむ3つの方法』(著:佐中孜、樋口正人、ダステック、2016年〈平成28年〉9月、ISBN978-4991105609)、2023年8月28日閲覧。<br />https://juntan.net/c/books_category/items_n_yd1
* 『読むデトックスVol.2 糖化を防いで透析を防ぐ3つのアプローチ(基礎編)』(著:山岸昌一、樋口正人、ダステック、2019年〈平成31年・令和元年〉12月、ISBN978-4991105616)、2023年8月28日閲覧。<br />https://juntan.net/c/books_category/items_n_yd2
* 『読むデトックスVol.3 糖化を防いで透析を防ぐ3つのアプローチ(実践編)』(著:山岸昌一、樋口正人、ダステック、2019年〈平成31年・令和元年〉12月、ISBN978-4991105623)、2023年8月28日閲覧。<br />https://juntan.net/c/books_category/items_n_yd3
=== 主要な論文 ===
* M.Higuchi,M.Oh-eda,et al."Role of Sugar Chains in the Expression of the Biological Activity of Human Erythropoietin.",Journal of Biological Chemistry 267(11),1992,7703-7709<br />https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=200902004876470109
* 樋口正人,今井信雄,"腎性貧血 エリスロポエチンレセプター",腎と透析39(1),1995,23-28<br />https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=200902168054374950
* 鈴木教郎,樋口正人,高橋智,山本雅之,"エリスロポエチン受容体欠損マウスの赤血球特異的トランスジーンレスキュー",生化学72(8),2000,1091<br />https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=200902108802951733
* 樋口正人,今井信雄,"エリスロポエチン産生調節と酸素分圧感知機構",月刊細胞33(11),2001,424-427<br />https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=200902128406979057
* 樋口正人,根市知宏,"rHuEPO療法 新しいrHuEPO療法 経口製剤開発の可能性",腎と透析51(2),2001,223-227<br />https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=200902161923179823
* 出口喜三郎,樋口正人,友杉直久,"EPO製剤の糖鎖プロファイルと薬効に関する検討",日本透析医学会雑誌44(sup1),2011,567<br />https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=201102232224742744
* 出口喜三郎,樋口正人,"エリスロポエチン(EPO)製剤の糖鎖プロファィル解析",Bio Clinica28(1),2013,65-71<br />https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=201202229576795038
* 樋口正人,” 新しい炭素材ダイエタリーカーボンの生理機能“, FOOD STYLE 21 17(5),2013 ,76-77<br />https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=201302283061920192
== 脚注 ==
<references>
<ref name=":01">[https://juntan.net/f/about/prof 純炭粉末公式専門店、開発者プロフィール]、2023年7月30日閲覧。</ref>
<ref name=":02">[https://juntan.net/blog/author/higuchi/ 純炭粉末公式専門店、樋口正人(純炭社長)]、2023年7月30日閲覧。</ref>
<ref name=":03">[https://profile.ameba.jp/ameba/dastec-ceo 純炭社長の徒然起業日誌]、2023年7月30日閲覧。</ref>
<ref name=":04">[https://twitter.com/Higuchimon 純炭社長@糖質制限中]、2023年7月30日閲覧。</ref>
<ref name=":05">[https://dastec.co.jp/?companyprofile=president-profile 株式会社ダステック公式サイト、歴史・沿革]、2023年7月30日閲覧。</ref>
<ref name=":06">[https://www.reage.jp/adviser/ 一般社団法人AGE研究協会公式サイト、AGE研究協会認定講師]、2023年7月30日閲覧。</ref>
<ref name=":07">[http://www.agebarrier.jp/news/20171018.html エイジバリア公式サイト、第22回「AGE無料測定会」in東京は11月25日(土)10時~17時に開催します]、2023年7月30日閲覧。</ref>
<ref name=":08">[http://hcea.umin.ac.jp/files/16th_HACET_program.pdf 第16回(社)北海道臨床工学技士会 学術大会プログラム]、2023年8月28日閲覧。</ref>
<ref name=":09">[https://www.kaikou.or.jp/jyosai/jinkin/17th.pdf 第17回腎と栄養代謝研究会in京都]、2023年7月30日閲覧。</ref>
<ref name=":10">[https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kisya/h28/documents/0512sangyouseisaku.pdf 「いしかわ地方創生ベンチャー創出セミナー2016」の開催について]、2023年8月28日閲覧。</ref>
<ref name=":11">[http://www.jtbw-mice.com/ccvaa/data/program.pdf プログラム]、2023年7月30日閲覧。</ref>
<ref name=":12">[https://www.facebook.com/masato.higuchi.39?locale=ja_JP 樋口正人純炭]、2023年7月30日閲覧。</ref>
<ref name=":13">[http://blog.livedoor.jp/higuchimon/ 「純炭粉末」の純炭社長ブログ]、2023年7月30日閲覧。</ref>
<ref name=":14">[https://med.m-review.co.jp/article_detail?article_id=J0111_0202_0010-0013 対談② 炭の科学から健康を考える―株式会社ダステックの取り組み―]、2023年8月28日閲覧。</ref>
<ref name=":15">[https://juntan.net/c/books_category/items_n_yd1 『読むデトックスVol.1 透析を受けずに人生を楽しむ3つの方法』(著:佐中孜、樋口正人、ダステック、2016年〈平成28年〉9月、ISBN978-4991105609)]、[https://juntan.net/c/books_category/items_n_yd2 『読むデトックスVol.2 糖化を防いで透析を防ぐ3つのアプローチ(基礎編)』(著:山岸昌一、樋口正人、ダステック、2019年〈平成31年・令和元年〉12月、ISBN978-4991105616)]、[https://juntan.net/c/books_category/items_n_yd3 『読むデトックスVol.3 糖化を防いで透析を防ぐ3つのアプローチ(実践編)』(著:山岸昌一、樋口正人、ダステック、2019年〈平成31年・令和元年〉12月、ISBN978-4991105623)]、2023年8月28日閲覧。</ref>
<ref name=":16">[https://cir.nii.ac.jp/crid/1580854560934273280 樋口正人(CiNii Research-国立情報学研究所)]、2023年8月28日閲覧。</ref>
<ref name=":17">[https://www.micenavi-archives.jp/jsdt/search/detail_program/id:4626 一般社団法人日本透析医学会抄録アーカイブ]、2023年8月28日閲覧。</ref>
<ref name=":18">[https://shindofuji-nippon.com/ventures/527/ 体内を浄化しようか純炭で “出す”に特化した世界でいちばん安全な食べる炭(日本の身土不二)]、2023年8月28日閲覧。</ref>
<ref name=":19">[https://www.facebook.com/juntan.net/photos/a.665542803483415/2114763008561380/ 株式会社ダステックFacebookページ]、2023年8月28日閲覧。</ref>
</references>
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押小路家
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中原氏嫡流押小路家(おしこうじけ/おしのこうじけ)は、大外記、特に外記(事務官・書記官)の首座である局務を世襲した地下家。室町時代、15世紀後半の師富の代から押小路家を名乗った。江戸期の家禄76石。本来の家学は明経道で、初期には広澄流清原氏嫡流と共に明経博士・局務を世襲するも、清原氏の昇格に伴い、博士家としての地位を喪失。代わりに、江戸期は単独で局務を世襲したことから、押小路家そのものが局務(きょくむ)と呼ばれるようになった。造酒正・大炊頭・掃部頭・穀倉院別当も多く兼任。このため、地下家ながら公卿に列すことも不可能ではなく、小槻氏嫡流官務壬生家と共に、地下官人の棟梁(じげかんにんのとうりょう)と称された。ここに中原氏庶流出納平田家も加えて「三催」(さんもよおし)とも呼ぶ。また、師武養女の甫子は孝明天皇の御乳人(乳母)・大御乳人(命婦次席)を務めた。明治維新後、華族に列し男爵に叙された。一族の多くが職務記録や日記を残し、師成はそれらを内閣文庫等に寄贈したため、歴史研究上の貢献は極めて大きい。
押小路家の本姓中原氏は、10世紀の明経博士中原有象から始まる学者の名門で、中原氏の本流は明経道(儒学)を家学とし、傍流は明法道(法学)を家学とした。押小路家は明経道系統、引いては中原氏全体の嫡流である。なお、氏(うじ)全体の当主は、藤原氏・源氏・橘氏・王氏などでは氏長者と言われるが、他氏では氏長者制度は顕著ではなかった。中原氏第17代当主、中原師富(押小路師富、1434–1508年)の代から、押小路の家名を名乗るようになった。江戸時代における家禄76石。分家に同じく地下家の志水家と山口家がある。なお、南北朝時代、『師守記』の著者として知られる中原師守や子孫数代も押小路家を名乗ったことがあるが、同名別家である。
本来、中原氏嫡流は、平安時代中期から、広澄流清原氏嫡流と共に、明経博士および局務(外記=事務官・書記官の最上首)となるものを輩出する家系だった。ところが、好敵手の清原氏は室町時代に中上級の貴族である公卿に列する家格に昇り(堂上家)、さらに明経博士の地位も清原氏から嫡流舟橋家・庶流伏原家の二家が独占することになった。その代わり、下級貴族が担当する局務の地位は、江戸時代から押小路家が単独で世襲するようになった。やがて、押小路家そのものが局務と呼ばれるようになった。
中原氏嫡流は、局務だけではなく鎌倉時代初期の中原氏第9代当主の中原師季(1175–1239年)から掃部頭(かもんのかみ、掃部寮の長官(かみ))も兼任した。また、鎌倉時代以来、穀倉院別当の官職は、局務が兼ねるのを慣例とした。さらに第17代/押小路家初代の師富の代からは、造酒正(みきのかみ、造酒司の長官)も兼ねた。地下家だったが、江戸時代後期の押小路家第11代当主師資・第14代師徳は従三位に叙され公卿となっている。このような特殊な地位から、左大史の上首である官務を務めた小槻氏嫡流壬生家と共に、地下官人の棟梁と称された。ここに、出納を務めた中原氏庶流平田家も加えて、三催(さんもよおし)とも言う。儀式・公事の際には、下級官人たちは、押小路家の外記方、壬生家の官方、平田家の蔵人方に分かれて催沙汰(もよおしざた、統轄)を受けたからである。
押小路家第12代当主の師武の養女甫子(なみこ、1808–1884)は、孝明天皇の御乳人(おちのひと、乳母)、のち大御乳人(中級女官である命婦の次席)となった。また、日記『大御乳人甫子記』や、随筆『大御乳人甫子雑記』などの著作がある。
明治維新後、明治12年(1879年)に明治天皇の特旨によって華族に列し、17年(1884年)の華族令で師成が男爵に叙爵された。
師成二男の押小路師保の妻ふぢは斎藤善八の従妹で、師保次代の押小路昌信は師成及び鍋島茂昌の孫である。
明治19年(1886年)、師成は押小路家の蔵本242部を内閣文庫に献納。このうち『(押小路師成献納本)書記類目録』の110番までは外記として行ってきた公事の記録であり、『押小路文書』全98冊としてまとめられた。また、110番以降は外記としての日記類である。押小路家は大外記だけではなく造酒正・大炊頭・掃部頭も兼ねたため、『押小路文書』には酒屋や米屋等、寮役料足に関する記録も多く貴重である。押小路家の関連文書はこの他にも宮内庁書陵部や東京大学史料編纂所にあり、また『師守記』50巻は国立国会図書館所蔵である。
国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』より算出した幕末期の押小路家(地下家)領は以下の通り。(5村・69石4斗5升4合)
凡例
村上もとかの漫画『龍-RON-』で、主人公・押小路龍が男爵家であり財閥家でもある押小路家の子息という設定になっているが、この押小路家は上記の押小路男爵家には該当しない架空の家系である。
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"text": "師成二男の押小路師保の妻ふぢは斎藤善八の従妹で、師保次代の押小路昌信は師成及び鍋島茂昌の孫である。",
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"text": "明治19年(1886年)、師成は押小路家の蔵本242部を内閣文庫に献納。このうち『(押小路師成献納本)書記類目録』の110番までは外記として行ってきた公事の記録であり、『押小路文書』全98冊としてまとめられた。また、110番以降は外記としての日記類である。押小路家は大外記だけではなく造酒正・大炊頭・掃部頭も兼ねたため、『押小路文書』には酒屋や米屋等、寮役料足に関する記録も多く貴重である。押小路家の関連文書はこの他にも宮内庁書陵部や東京大学史料編纂所にあり、また『師守記』50巻は国立国会図書館所蔵である。",
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"text": "国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』より算出した幕末期の押小路家(地下家)領は以下の通り。(5村・69石4斗5升4合)",
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"text": "村上もとかの漫画『龍-RON-』で、主人公・押小路龍が男爵家であり財閥家でもある押小路家の子息という設定になっているが、この押小路家は上記の押小路男爵家には該当しない架空の家系である。",
"title": "その他"
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] |
中原氏嫡流押小路家(おしこうじけ/おしのこうじけ)は、大外記、特に外記(事務官・書記官)の首座である局務を世襲した地下家。室町時代、15世紀後半の師富の代から押小路家を名乗った。江戸期の家禄76石。本来の家学は明経道で、初期には広澄流清原氏嫡流と共に明経博士・局務を世襲するも、清原氏の昇格に伴い、博士家としての地位を喪失。代わりに、江戸期は単独で局務を世襲したことから、押小路家そのものが局務(きょくむ)と呼ばれるようになった。造酒正・大炊頭・掃部頭・穀倉院別当も多く兼任。このため、地下家ながら公卿に列すことも不可能ではなく、小槻氏嫡流官務壬生家と共に、地下官人の棟梁(じげかんにんのとうりょう)と称された。ここに中原氏庶流出納平田家も加えて「三催」(さんもよおし)とも呼ぶ。また、師武養女の甫子は孝明天皇の御乳人(乳母)・大御乳人(命婦次席)を務めた。明治維新後、華族に列し男爵に叙された。一族の多くが職務記録や日記を残し、師成はそれらを内閣文庫等に寄贈したため、歴史研究上の貢献は極めて大きい。
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'''押小路家'''(おしこうじけ / おしのこうじけ)は、「押小路」を家名とする家系。以下の系統がある。
#[[押小路家 (中原氏)]]:本姓[[中原氏]]。[[地下家]]、華族([[男爵]]家)。
#[[押小路家 (閑院流)]]:本姓[[藤原氏]]。[[堂上家]]([[羽林家]])、華族([[子爵]]家)。
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喜茂別岳
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喜茂別岳(きもべつだけ)は、北海道札幌市南区定山渓と喜茂別町の境界にある山。標高1177メートル。
南西に流れ下る喜茂別川の源にあたることから名づけられた。
「喜茂別」はアイヌ語のキモペッ(山奥にある川)に由来する。
札幌市の南西端、京極町や喜茂別町との境界には、無意根山や中岳などが連なるなだらかな山稜が走っており、その南端に位置するのが喜茂別岳である。国道230号の中山峠から見える山と言えば第一に羊蹄山の名が挙がるが、その右手の前景をなしている。
無意根山溶岩と同時期に生成された、古い火山である。
なお、南東には標高970メートルの小喜茂別岳(しょうきもべつだけ)がある。
登山道そのものは開かれていないが、森林管理署の作業用歩道が2本あるため、これを利用して登ることができる。ただし山の最高地点は踏まず、三角点の設けられた箇所を山頂としている。
国道230号を、中山峠から喜茂別町方向に約9キロメートル下り、喜茂別一号川に沿った林道中岳線に入る。この林道は約2.4キロメートル進んだあたりで大きくカーブして京極町方面へと向かっており、そのカーブから分岐してほぼ水平に走る道の終点、黒川の上流部に登山口があった。
しかし2021年(令和3年)の時点で上記の黒川(裏ノ沢)コースは荒廃しており、登山よりもタケノコ採り目的で利用されている。代わって登山者の間で主流となっているのは、カーブの分岐をたどらず行き過ぎて、さらに約1.4キロメートル進んだ先に登山口がある短縮コースである。
どちらの登山口を利用するにせよ、道はやがて合流し、喜茂別岳の南尾根に乗ったあたりで見晴らし台に着く。そこから1062メートル標高点の西側を巻き、ジグザグを切りながら急斜面を登って、最高地点の南側をトラバースすることで山頂に至る。
中山峠から、NTTが管理する電波塔への車道に入る。はじめは砂利道だが、途中からは舗装が施されている。電波塔が近くなると、右手に中山湿原への分岐路がある。
電波塔から先も単調な道のりで、急斜面に設けられた階段を上り、小湿地を行き過ぎて山頂に至る。
2021年(令和3年)現在、このコースにはササが覆いかぶさり、事実上の廃道となっている。
ただ、積雪期のスキー登山であれば利用に問題ない。喜茂別岳だけを目標とするのみならず、北方の無意根山まで足を延ばすこともできるし、さらにそこから余市岳を目指す、札幌近郊の山々で最大級の縦走行も可能である。
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喜茂別岳(きもべつだけ)は、北海道札幌市南区定山渓と喜茂別町の境界にある山。標高1177メートル。
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{{Infobox 山
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|画像キャプション = 中山峠より望む喜茂別岳
|標高 = 1177
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'''喜茂別岳'''(きもべつだけ)は、[[北海道]][[札幌市]][[南区 (札幌市)|南区]][[定山渓]]と[[喜茂別町]]の境界にある山{{Sfn|札幌の山々|1977|p=73}}。[[標高]]1177メートル{{Sfn|長谷川|2022|p=110}}。
== 名称について ==
南西に流れ下る[[喜茂別川]]の源にあたることから名づけられた{{Sfn|札幌の山々|1977|p=73}}。
「喜茂別」は[[アイヌ語]]の'''キモペッ'''(山奥にある川)に由来する{{Sfn|関|2018|p=362}}。
== 地形と地質 ==
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無意根山溶岩と同時期に生成された、古い火山である{{Sfn|関|2018|p=362}}。
なお、南東には標高970メートルの'''小喜茂別岳'''(しょうきもべつだけ)がある{{Sfn|関|2018|p=362}}。
== 登山ルート ==
登山道そのものは開かれていないが、[[森林管理署]]の作業用歩道が2本あるため、これを利用して登ることができる{{Sfn|梅沢|菅原|2015|p=148}}。ただし山の最高地点は踏まず、[[三角点]]の設けられた箇所を山頂としている{{Sfn|梅沢|菅原|2015|p=148}}。
=== 中岳林道(黒川短縮)コース ===
国道230号を、中山峠から喜茂別町方向に約9キロメートル下り、喜茂別一号川に沿った林道中岳線に入る{{Sfn|長谷川|2022|p=110}}。この林道は約2.4キロメートル進んだあたりで{{Sfn|長谷川|2022|p=110}}大きくカーブして京極町方面へと向かっており、そのカーブから分岐してほぼ水平に走る道の終点、黒川の上流部に登山口があった{{Sfn|梅沢|菅原|2015|pp=151 - 152}}。
しかし[[2021年]](令和3年)の時点で上記の黒川(裏ノ沢)コースは荒廃しており{{Sfn|長谷川|2022|p=111}}、登山よりも[[タケノコ]]採り目的で利用されている{{Sfn|長谷川|2022|p=113}}。代わって登山者の間で主流となっているのは、カーブの分岐をたどらず行き過ぎて、さらに約1.4キロメートル進んだ先に登山口がある短縮コースである{{Sfn|長谷川|2022|pp=110 - 111}}。
どちらの登山口を利用するにせよ、道はやがて合流し、喜茂別岳の南尾根に乗ったあたりで見晴らし台に着く{{Sfn|長谷川|2022|p=112}}。そこから1062メートル標高点の西側を巻き、ジグザグを切りながら急斜面を登って、最高地点の南側をトラバースすることで山頂に至る{{Sfn|長谷川|2022|p=112}}。
=== 中山峠コース ===
中山峠から、[[日本電信電話|NTT]]が管理する電波塔への車道に入る{{Sfn|梅沢|菅原|2015|p=148}}。はじめは砂利道だが、途中からは舗装が施されている{{Sfn|梅沢|菅原|2015|p=150}}。電波塔が近くなると、右手に中山湿原への分岐路がある{{Sfn|梅沢|菅原|2015|p=150}}。
電波塔から先も単調な道のりで、急斜面に設けられた階段を上り、小湿地を行き過ぎて山頂に至る{{Sfn|梅沢|菅原|2015|p=150}}。
2021年(令和3年)現在、このコースには[[チシマザサ|ササ]]が覆いかぶさり、事実上の廃道となっている{{Sfn|長谷川|2022|p=110}}。
ただ、積雪期のスキー登山であれば利用に問題ない。喜茂別岳だけを目標とするのみならず、北方の無意根山まで足を延ばすこともできるし、さらにそこから[[余市岳]]を目指す、札幌近郊の山々で最大級の縦走行も可能である{{Sfn|札幌の山々|1977|p=73}}。
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File:Nakayama Wetland.jpg|中山湿原
File:NTT Nakayama Pass Wireless Relay Station.jpg|NTT中山峠無線中継所
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== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|title=札幌の山々|date=1989-03-27|series=さっぽろ文庫48|publisher=北海道新聞社|isbn=4-89363-047-4|ref={{SfnRef|札幌の山々|1989}}}}
*{{Cite book|和書|author=梅沢俊|author2=菅原靖彦|title=北海道夏山ガイド|date=2015-09-10|edition=最新第4版|publisher=北海道新聞社|isbn=978-4-89453-795-8|ref={{SfnRef|梅沢|菅原|2015}}}}
*{{Cite book|和書|title=新 夏山ガイド1 道央|volume=|author=長谷川哲|date=2022-04-28|publisher=北海道新聞社|isbn=978-4-86721-062-8|ref={{SfnRef|長谷川|2022}}}}
*{{Cite book|和書|title=札幌の地名がわかる本|author=関秀志 編|date=2018-11-16|publisher=亜璃西社|isbn=978-4-906740-34-5|ref={{SfnRef|関|2018}}}}
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4,839,447 |
シクイシクエスクス
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シクイシクエスクス(学名:Siquisiquesuchus)は、新第三紀中新世の南アメリカ大陸に生息していた、インドガビアル上科に属するワニの絶滅した属。ベネズエラ北西部に分布する前期中新世のCastillo層の岩石中に発見されたシクイシクエスクスのホロタイプ標本 MBLUZ–P–5050 は完全な頭蓋骨と下顎からなる。また他の産地からは2個の部分的な頭蓋骨、部分的な椎骨、1本の大腿骨、部分的な上腕骨、部分的な脛骨が発見されている。これらの骨は2004年にChristopher BrochuとAscanio Rincónによって記載され、タイプ種S. venezuelensisが命名された。
他のインドガビアル上科の属と同様に、シクイシクエスクスの吻部は細長く、頭蓋骨長の約60%を占める。前上顎骨歯の本数は不明であるが、吻部の大部分を形成する上顎骨の歯は最低でも左右それぞれ20本におよび、また下顎を形成する歯骨の歯は最低でも23本におよぶ。縫合線が視認不可能であるため、頭蓋骨の詳細に関しては不明な点もある。
シクイシクエスクスは南アメリカ大陸から産出した最古のインドガビアル上科の動物であり、グリポスクスや他の南アメリカ産インドガビアル上科の属と細かな解剖学的特徴が共通する。その後の研究でもインドガビアル上科に属することが確かめられ、インドガビアル属やグリポスクス、イカノガビアリス(英語版)およびピスコガビアリスと近縁とされている。Vélez–Juarbe et al. (2007)は本属をインドガビアル科グリポスクス亜科としたが、Jouve et al. (2008)は特定の科あるいは亜科に分類していない。BrochuとRincónはシクイシクエスクスの化石が海成層から発見されたことを指摘し、旧世界のインドガビアル上科の属との類似性も踏まえ、インドガビアル上科が第三紀の間に海洋の障壁を乗り越えて拡散した証拠としてこれを扱った。
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{{生物分類表
|省略=爬虫綱
|名称 = シクイシクエスクス
|地質時代 = [[新第三紀]][[中新世]]
|上綱 = [[四肢動物|四肢動物上綱]] {{sname|en|Tetrapod|Tetrapoda}}
|亜綱 =[[双弓類|双弓亜綱]] {{sname|en|Diapsid|Diapsida}}
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|下位分類 =
*†'''''Siquisiquesuchus venezuelensis''''' {{AUY|Brochu & Rincón|2004}}
}}
'''シクイシクエスクス'''([[学名]]:'''''Siquisiquesuchus''''')は、[[新第三紀]][[中新世]]の[[南アメリカ大陸]]に生息していた、[[インドガビアル上科]]に属する[[ワニ]]の[[絶滅]]した[[属 (分類学)|属]]<ref name=小林2013>{{Cite book|和書|author=[[小林快次]] |title=ワニと恐竜の共存 巨大ワニと恐竜の世界 |page=36 |isbn=978-4-8329-1398-1 |date=2013-07-25 |publisher=[[北海道大学出版会]]}}</ref>。[[ベネズエラ]]北西部に分布する前期[[中新世]]のCastillo層の岩石中に発見されたシクイシクエスクスのホロタイプ標本 MBLUZ–P–5050 は完全な頭蓋骨と下顎からなる。また他の産地からは2個の部分的な頭蓋骨、部分的な[[椎骨]]、1本の[[大腿骨]]、部分的な[[上腕骨]]、部分的な[[脛骨]]が発見されている。これらの骨は2004年にChristopher BrochuとAscanio Rincónによって記載され、タイプ種''S. venezuelensis''が命名された<ref name=CBJR04>{{cite journal |last1=Brochu |first1=Christopher A. |last2=Rincón |first2=Ascanio D. |year=2004 |title=A gavialoid crocodylian from the Lower Miocene of Venezuela |journal=Special Papers in Palaeontology |volume=71 |pages=61–79 }}</ref>。
他のインドガビアル上科の属と同様に、シクイシクエスクスの吻部は細長く、頭蓋骨長の約60%を占める。[[前上顎骨]]歯の本数は不明であるが、吻部の大部分を形成する[[上顎骨]]の歯は最低でも左右それぞれ20本におよび、また下顎を形成する[[歯骨]]の歯は最低でも23本におよぶ。縫合線が視認不可能であるため、頭蓋骨の詳細に関しては不明な点もある<ref name=CBJR04/>。
シクイシクエスクスは南アメリカ大陸から産出した最古のインドガビアル上科の動物であり、[[グリポスクス]]や他の南アメリカ産インドガビアル上科の属と細かな解剖学的特徴が共通する<ref name=CBJR04/>。その後の研究でもインドガビアル上科に属することが確かめられ、[[インドガビアル属]]や[[グリポスクス]]、{{仮リンク|イカノガビアリス|en|Ikanogavialis}}および[[ピスコガビアリス]]と近縁とされている<ref name=JVJetal07/><ref name=SJetal08/>。Vélez–Juarbe et al. (2007)は本属を[[インドガビアル科]][[グリポスクス亜科]]としたが<ref name=JVJetal07>{{cite journal |last=Vélez–Juarbe |first=Jorge |author2=Brochu, Christpher A. |author3= Santos, Hernán |year=2007 |title=A gharial from the Oligocene of Puerto Rico: transoceanic dispersal in the history of a non–marine reptile |journal=[[Proceedings of the Royal Society B]] |volume=274 |pages=1245–1254 |issue=1615 |doi=10.1098/rspb.2006.0455 |pmid=17341454 |pmc=2176176}}</ref>、Jouve et al. (2008)は特定の科あるいは亜科に分類していない<ref name=SJetal08>{{cite journal |last=Jouve |first=Stéphane |author2=Bardet, Nathalie |author3=Jalil, Nour-Eddine |author4=Suberbiola, Xabier Pereda |author5=Bouya |author6=Baâda |author7= Amaghzaz, Mbarek |year=2008 |title=The oldest African crocodylian: phylogeny, paleobiogeography, and differential survivorship of marine reptiles through the Cretaceous-Tertiary Boundary |journal=Journal of Vertebrate Paleontology |volume=28 |issue=2 |pages=409–421 |doi=10.1671/0272-4634(2008)28[409:TOACPP]2.0.CO;2 |s2cid=86503283 |url=http://doc.rero.ch/record/16384/files/PAL_E3543.pdf }}</ref>。BrochuとRincónはシクイシクエスクスの化石が海成層から発見されたことを指摘し、[[旧世界]]のインドガビアル上科の属との類似性も踏まえ、インドガビアル上科が[[第三紀]]の間に海洋の障壁を乗り越えて拡散した証拠としてこれを扱った<ref name=CBJR04/>。
== 出典 ==
{{Reflist|2}}
{{デフォルトソート:しくいしくえすくす}}
[[Category:中新世の生物]]
[[Category:化石ワニ目]]
[[Category:ベネズエラ産の化石]]
[[Category:2004年に記載された化石分類群]]
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4,839,450 |
桜井町 (安城市)
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桜井町(さくらいちょう)は、愛知県安城市の地名。
安城市南部に位置する。東は川島町・東町、南は姫小川町、北は堀内町に接する。
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる。
国勢調査による人口および世帯数の推移。
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桜井町(さくらいちょう)は、愛知県安城市の地名。
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}}
'''桜井町'''(さくらいちょう)は、[[愛知県]][[安城市]]の地名。
== 地理 ==
安城市南部に位置する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}。東は[[川島町 (安城市)|川島町]]・[[東町 (安城市)|東町]]、南は[[姫小川町]]、北は[[堀内町]]に接する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}。
=== 学区 ===
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.city.anjo.aichi.jp/manabu/gakko/kyoikushisetsu/gakku.html|title=小中学校区一覧(町別50音順)|author=安城市役所教育振興部学校教育課学事係|publisher=安城市|date=2022-04-07|accessdate=2023-10-09}}</ref>。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.pref.aichi.jp/soshiki/kotogakko/0000080445.html|title=平成29年度以降の愛知県公立高等学校(全日制課程)入学者選抜における通学区域並びに群及びグループ分け案について|publisher=愛知県教育委員会|date=2015-02-16|accessdate=2019-01-14}}</ref>。
{| class="wikitable"
!番・番地等!!小学校!!中学校!!高等学校
|-
||稲荷西・稲荷東・小三尻・雨池下・伝佐・五ケ野・塔見塚・咽首・蜂ケ尻・林・半抜・新田||[[安城市立桜井小学校]]|| rowspan="2" |[[安城市立桜井中学校]]|| rowspan="2" |[[愛知県の高校入試#三河学区|三河学区]]
|-
||雨池・阿原・入越上・印内北分・印内南分・太田・大橋・大役田・小原薮・貝戸尻・上小縄手・干地・北阿原下・北新田・蟻路・グテ・小縄手・小社・桜林・寒池・三度山・下谷・城阿原・城向・新左・雑用山・高見・立園・茶木原・茶屋坊・土取・塔元・中開道・中新田・中狭間・西天上・西徳・西町上・西町下・西町中・東天上・東徳・二タ子・古井堤・坊主山・宮下・宮西・元山・森田・門原・薬師田・山ノ寺・蓮台||[[安城市立桜林小学校]]
|}
== 歴史 ==
=== 町名の由来 ===
=== 人口の変遷 ===
[[国勢調査]]による人口および世帯数の推移。
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|-
|1995年(平成7年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000023630251&fileKind=1|format=CSV|title=平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-03-28|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|1705世帯<br>5417人||<div style="width:17.05px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:54.17px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2000年(平成12年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025137780&fileKind=1|format=CSV|title=平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-05-30|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|1721世帯<br>5378人||<div style="width:17.21px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:53.78px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2005年(平成17年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025514226&fileKind=1|format=CSV|title=平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-06-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|1995世帯<br>5717人||<div style="width:19.95px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:57.17px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2010年(平成22年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000012671534&fileKind=1|format=CSV|title=平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2012-01-20|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|2309世帯<br>6392人||<div style="width:23.09px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:63.92px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2015年(平成27年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000031522121&fileKind=1|format=CSV|title=平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2017-01-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|2633世帯<br>7135人||<div style="width:26.33px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:71.35px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2020年(令和2年)<ref group=WEB name=R2国勢調査>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000032163424&fileKind=1|format=CSV|title=令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口,外国人人口及び世帯数-町丁・字等|author=総務省統計局|date=2022-02-10|accessdate=2023-08-02|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|3656世帯<br>9417人||<div style="width:36.56px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:94.17px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|}
=== 沿革 ===
{{節スタブ}}
== 交通 ==
* [[名鉄西尾線]][[桜井駅 (愛知県)|桜井駅]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
* [[愛知県道岡崎西尾線]](岡崎街道){{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
* [[愛知県道碧海桜井停車場石井線]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
== 施設 ==
* 桜井城址{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
* [[近藤紡績所]]桜井工場{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
* 城山団地{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
* 安城市役所桜井支所{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
* 桜井公民館{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
* 桜井郵便局{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
* 桜井農協桜井本店{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
* 桜井農協Aコープ店{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
* 安城学園桜井幼稚園{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
* [[愛知学泉女子短期大学]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
* [[愛知県立安城南高等学校]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
* [[愛知県立安城特別支援学校]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
* 西町公民館{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
* 桜井農協桜井支店{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
* [[碧海信用金庫]]桜井支店{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
* 城向公民館{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
* 城向公会堂{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
* 城向老人クラブ向上会憩の家{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
* 城山公民館{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
* 城山保育園{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
* 下谷公会堂{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
* 下谷老人憩の家{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
* 下谷農事生産組合{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
* 八幡社{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
* 浄土宗鎮西派菩提寺{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
* 中開道公会堂{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
* 中開道老人憩の家{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
* 真宗大谷派円光寺{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
* [[安城市立桜林小学校]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
* 桜井保育園{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
* 印内公民館{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
* 印内子供会の家{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
* 印内老人憩の家{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
* 桜井神社{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
* 二子古墳{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== WEB ===
{{Reflist|group="WEB"|refs=}}
=== 書籍 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1989|date=1989-03-08|title=[[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県|publisher=[[角川書店]]|isbn=4-04-001230-5|language=ja|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[安城市の町名]]
== 外部リンク ==
* {{commonscat-inline}}
{{Geographic Location
| Northwest<!--北西--> =
| North<!--北--> = [[堀内町]]
| Northeast<!--北東--> =
| West<!--西--> =
| Centre<!--中央--> = 桜井町
| East<!--東--> = [[川島町 (安城市)|川島町]]・[[東町 (安城市)|東町]]
| Southwest<!--南西--> =
| South<!--南--> = [[姫小川町]]
| Southeast<!--南東--> =
}}
{{安城市の町・字}}
{{Japan-block-stub}}
{{Pref-stub|pref=愛知県}}
{{デフォルトソート:さくらいちよう}}
[[Category:安城市の町名]]
|
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E4%BA%95%E7%94%BA_(%E5%AE%89%E5%9F%8E%E5%B8%82)
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4,839,451 |
2023年の宝塚歌劇公演一覧
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本項目では2023年の宝塚歌劇公演一覧(2023ねんのたからづかかげきこうえんいちらん)について示す。
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本項目では2023年の宝塚歌劇公演一覧(2023ねんのたからづかかげきこうえんいちらん)について示す。
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本項目では'''[[2023年]]の宝塚歌劇公演一覧'''(2023ねんのたからづかかげきこうえんいちらん)について示す。
==宝塚大劇場公演==
===花組===
*1月1日 - <s>1月30日</s>1月9日、1月18日 - 1月30日
**『上うたかたの恋』(原作/クロード・アネ、脚本/[[柴田侑宏]]、潤色・演出/[[小柳奈穂子]])
**『ENCHANTEMENT(アンシャントマン) -華麗なる香水(パルファン)-』(作・演出/[[野口幸作]])
**[https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2023/utakatanokoi/index.html 公演案内]
===月組===
*2月4日 - 3月6日
**『応天の門』-若き日の菅原道真の事-(原作/[[灰原薬]]「[[応天の門]]」([[新潮社]][[バンチコミックス]]刊)、脚本・演出/[[田渕大輔]])
**『Deep Sea -海神たちのカルナバル-』(作・演出/[[稲葉太地]])
**[https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2023/outennomon/index.html 公演案内]
===宙組===
*3月11日 - 4月17日
**『カジノ・ロワイヤル ~我が名はボンド~』(原作/[[イアン・フレミング]]「[[カジノ・ロワイヤル (小説)|007/カジノ・ロワイヤル]]」([[白石朗]]訳、[[創元推理文庫]]刊)、脚本・演出/[[小池修一郎]])
**[https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2023/casinoroyale/index.html 公演案内]
===雪組===
*4月22日 - 5月28日
**『Lilac(ライラック)の夢路』-ドロイゼン家の誇り-(作・演出・振付/[[謝珠栄]])
**『ジュエル・ド・パリ!!』-パリの宝石たち-(作・演出/[[藤井大介]])
**[https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2023/lilacnoyumeji/index.html 公演案内]
===星組===
*6月2日 - 7月2日
**『[[1789 -バスティーユの恋人たち- (宝塚歌劇)|1789-バスティーユの恋人たち-]]』(潤色・演出/[[小池修一郎]])
**[https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2023/1789/index.html 公演案内]
===花組===
*7月7日 - 8月13日
**『鴛鴦歌合戦(おしどりうたがっせん)』~原作 映画「[[鴛鴦歌合戦]]」日活株式会社(監督/[[マキノ正博]]、脚本/[[江戸川浩二]]、脚本・演出/[[小柳奈穂子]])
**『GRAND MIRAGE!』(作・演出/[[岡田敬二]])
**[https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2023/oshidori/index.html 公演案内]
===月組===
*8月18日 - 9月24日
**『フリューゲル -君がくれた翼-』(作・演出/齋藤吉正)
**『万華鏡百景色(ばんかきょうひゃくげしき)』(作・演出/栗田優香)
**[https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2023/fluegel/index.html 公演案内]
===宙組===
*9月29日 - <s>11月5日</s> 9月30日
**『PAGAD(パガド)』~世紀の奇術師カリオストロ~(原作/小説「Joseph Balsamo」アレクサンドル・デュマ・ペール著、映画「BLACK MAGIC」グレゴリー・ラトフ監督、脚本・演出/田渕大輔)
**『Sky Fantasy!』(作・演出/中村一徳)
**[https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2023/pagado/index.html 公演案内]
===雪組===
*<s>11月10日 11月24日</s> 12月1日 - 12月13日<ref>{{Cite web |url=https://kageki.hankyu.co.jp/news/20231117_1.html|title=<公演実施(12月1日~)>雪組 宝塚大劇場公演『ボイルド・ドイル・オンザ・トイル・トレイル』『FROZEN HOLIDAY』|publisher=宝塚歌劇団 |accessdate=2023-11-17}}</ref>
**『ボイルド・ドイル・オンザ・トイル・トレイル』-Boiled Doyle on the Toil Trail-(作・演出/生田大和)
**『FROZEN HOLIDAY(フローズン・ホリデイ)』-Snow Troupe 100th Anniversary-(作・演出/野口幸作)
**[https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2023/boileddoyleonthetoiltrail/index.html 公演案内]
==東京宝塚劇場公演==
===星組===
*1月2日 - 2月12日
**『ディミトリ~曙光に散る、紫の花~』─並木陽作「斜陽の国のルスダン」より─(脚本・演出/[[生田大和]])
**『JAGUAR BEAT-ジャガービート-』(作・演出/[[齋藤吉正]])
**[https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2022/syayounokuninorusudan/index.html 公演案内]
===花組===
*2月18日 - 3月19日
**『上うたかたの恋』(原作/クロード・アネ、脚本/[[柴田侑宏]]、潤色・演出/[[小柳奈穂子]])
**『ENCHANTEMENT(アンシャントマン) -華麗なる香水(パルファン)-』(作・演出/[[野口幸作]])
**[https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2023/utakatanokoi/index.html 公演案内]
===月組===
*3月25日 - 4月30日
**『応天の門』-若き日の菅原道真の事-(原作/[[灰原薬]]「[[応天の門]]」([[新潮社]][[バンチコミックス]]刊)、脚本・演出/[[田渕大輔]])
**『Deep Sea -海神たちのカルナバル-』(作・演出/[[稲葉太地]])
**[https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2023/outennomon/index.html 公演案内]
===宙組===
*5月6日 - 6月11日
**『カジノ・ロワイヤル ~我が名はボンド~』(原作/[[イアン・フレミング]]「[[カジノ・ロワイヤル (小説)|007/カジノ・ロワイヤル]]」([[白石朗]]訳、[[創元推理文庫]]刊)、脚本・演出/[[小池修一郎]])
**[https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2023/casinoroyale/index.html 公演案内]
===雪組===
*6月17日 - 7月16日
**『Lilac(ライラック)の夢路』-ドロイゼン家の誇り-(作・演出・振付/[[謝珠栄]])
**『ジュエル・ド・パリ!!』-パリの宝石たち-(作・演出/[[藤井大介]])
**[https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2023/lilacnoyumeji/index.html 公演案内]
===星組===
*6月2日 - 7月2日
**『[[1789 -バスティーユの恋人たち- (宝塚歌劇)|1789-バスティーユの恋人たち-]]』(潤色・演出/[[小池修一郎]])
**[https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2023/1789/index.html 公演案内]
===花組===
*9月2日 - 10月8日
**『鴛鴦歌合戦(おしどりうたがっせん)』~原作映画「[[鴛鴦歌合戦]]」日活株式会社(監督/[[マキノ正博]]、脚本/[[江戸川浩二]]、脚本・演出/[[小柳奈穂子]])
**『GRAND MIRAGE!』(作・演出/岡田敬二)
**[https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2023/oshidori/index.html 公演案内]
===月組===
*10月14日 - 11月19日
**『フリューゲル -君がくれた翼-』(作・演出/齋藤吉正)
**『万華鏡百景色(ばんかきょうひゃくげしき)』(作・演出/栗田優香)
**[https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2023/fluegel/index.html 公演案内]
===宙組===
*全公演中止
**『PAGAD(パガド)』~世紀の奇術師カリオストロ~(原作/小説「Joseph Balsamo」アレクサンドル・デュマ・ペール著、映画「BLACK MAGIC」グレゴリー・ラトフ監督、脚本・演出/田渕大輔)
**『Sky Fantasy!』(作・演出/中村一徳)
**[https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2023/pagado/index.html 公演案内]
==宝塚バウホール公演==
===宙組===
*1月5日 - 1月21日
**『夢現(ゆめうつつ)の先に』(作・演出/[[生駒怜子]])
**[https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2023/yumeutsutsunosakini/index.html 公演案内]
===星組===
*4月1日 - 4月9日
**『Stella Voice』(構成・演出/[[中村一徳]])
**[https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2023/stellavoice/index.html 公演案内]
===花組===
*5月3日 - 5月14日
**『舞姫』-MAIHIME-~[[森鴎外]]原作「[[舞姫 (森鷗外)|舞姫]]」より~(脚本・演出/[[植田景子]])
**[https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2023/maihime/index.html 公演案内]
===月組===
*6月14日 - 6月25日
**『月の燈影(ほかげ)』(作・演出/[[大野拓史]])
**[https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2023/tsukinohokage/index.html 公演案内]
===星組===
*10月18日 - 10月29日
**『My Last Joke-虚構に生きる-』(作・演出/竹田悠一郎)
**[https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2023/mylastjoke/index.html 公演案内]
==その他の公演==
===宙組===
*1月9日 - 1月19日 [[東京国際フォーラム]]ホールC
**『MAKAZE IZM』(構成・演出/[[石田昌也]])
**[https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2023/makazeizm/index.html 公演案内]
===雪組===
*2月6日 - 3月1日 [[御園座]]
**『BONNIE & CLYDE』(潤色・演出/[[大野拓史]])
**[https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2023/bonnieandclyde/index.html 公演案内]
*2月3日 - 2月12日 [[KAAT神奈川芸術劇場]]
*2月24日 - 3月2日 [[梅田芸術劇場]]シアター・ドラマシティ
**『海辺のストルーエンセ』(作・演出/[[指田珠子]])
**[https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2023/umibenostruensee/index.html 公演案内]
===星組===
*3月21日 - 3月29日 [[梅田芸術劇場]]シアター・ドラマシティ
*4月4日 - 4月10日 [[日本青年館]]ホール
**『Le Rouge et le Noir ~赤と黒~』(潤色・演出/[[谷貴矢]])
**[https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2023/lerougeetlenoir/index.html 公演案内]
*3月26日 - 4月11日 全国ツアー
**『[[バレンシアの熱い花]]』(作/[[柴田侑宏]]、演出/[[中村暁]])
**『パッション・ダムール・アゲイン!』(作・演出/[[岡田敬二]])
**[https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2023/valencia/index.html 公演案内]
{| CLASS= wikitable softtable
|+公演日程
|-
|公演日
|公演場所
|-
|3月26日
| rowspan="4" |[[梅田芸術劇場]]メインホール
|-
|3月27日
|-
|3月28日
|-
|3月29日
|-
|4月1日
|rowspan="2"|[[市川市文化会館]]
|-
|4月2日
|-
|4月4日
|rowspan="2"|[[広島県立文化芸術ホール|上野学園ホール]]
|-
|4月5日
|-
|4月6日
|[[周南市文化会館]]
|-
|4月8日
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|-
|4月9日
|-
|4月10日
|-
|4月11日
|-
|}
===花組===
*4月29日 - 5月6日 [[梅田芸術劇場]]メインホール
*5月13日 - 5月19日 [[東京建物 Brillia HALL]]
**『[[二人だけの戦場]]』(作・演出/[[正塚晴彦]])
**[https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2023/futaridakenosenjou/index.html 公演案内]
===月組===
*6月12日 - 6月28日 [[東急シアターオーブ]]
**『DEATH TAKES A HOLIDAY』(潤色・演出/[[生田大和]])
**[https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2023/deathtakesaholiday/index.html 公演案内]
===宙組===
*7月23日 - 8月5日 [[東京建物 Brillia HALL]]
**『Xcalibur エクスカリバー』(潤色・演出/[[稲葉太地]])
**[https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2023/xcalibur/index.html 公演案内]
*7月19日 - 7月26日 [[梅田芸術劇場]]シアター・ドラマシティ
*8月1日 - 8月8日 [[KAAT神奈川芸術劇場]]
**『大逆転裁判 -新・蘇る真実-』(原作・監修・制作協力/株式会社カプコン、脚本・演出/[[鈴木圭]])
**[https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2023/daigyakutensaiban/index.html 公演案内]
===雪組===
*8月25日 - 9月18日 全国ツアー
**『[[愛するには短すぎる]]』(原案/[[小林公平]]、脚本・演出/[[正塚晴彦]])
**『ジュエル・ド・パリ!!』-パリの宝石たち-(作・演出/[[藤井大介]])
**[https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2023/aisurunihamijikasugiru/index.html 公演案内]
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|+公演日程
|-
|公演日
|公演場所
|-
|8月25日
| rowspan="4" |[[梅田芸術劇場]]メインホール
|-
|8月26日
|-
|8月27日
|-
|8月28日
|-
|8月31日
|rowspan="4"|[[神奈川県民ホール]]
|-
|9月1日
|-
|9月2日
|-
|9月3日
|-
|9月5日
|[[宇都宮市文化会館]]
|-
|9月6日
|[[白河文化交流館コミネス|白河文化交流館]] コミネス
|-
|9月7日
|けんしん郡山文化センター
|-
|9月9日
|[[あきた芸術劇場ミルハス|あきた芸術劇場 ミルハス]]
|-
|9月11日
|北上さくらホール
|-
|9月13日
|rowspan="2"|[[名取市文化会館]]
|-
|9月14日
|-
|9月16日
|rowspan="3"|[[札幌文化芸術劇場|札幌文化芸術劇場 hitaru]]
|-
|9月17日
|-
|9月18日
|-
|}
*8月28日 - 9月5日 [[梅田芸術劇場]]シアター・ドラマシティ
*9月11日 - 9月19日 [[日本青年館]]ホール
**『双曲線上のカルテ』~[[渡辺淳一]]作「無影燈」より~(監修・脚本/[[石田昌也]]、潤色・演出/[[樫畑亜依子]])
**[https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2023/soukyokusenjounokarute/index.html 公演案内]
===星組===
*10月9日 - 11月2日 博多座
**『ME AND MY GIRL』(脚色/小原弘稔、脚色・演出/三木章雄)
**[https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2023/meandmygirl/index.html 公演案内]
===花組===
*11月17日 - 12月12日 全国ツアー
**『激情』-ホセとカルメン-(脚本/柴田侑宏、演出・振付/謝珠栄)
**『GRAND MIRAGE!』(作・演出/岡田敬二)
**[https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2023/gekijo/index.html 公演案内]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
==外部リンク==
*[https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2023/index.html 2023年宝塚歌劇公演案内]
{{宝塚歌劇団|公演一覧}}
[[Category:宝塚歌劇団の作品一覧|2023年]]
[[Category:2023年の舞台作品|*たからつか]]
[[Category:2023年の日本|*たからつか]]
|
2023-10-09T09:19:29Z
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|
4,839,452 |
ウッドプレイス
|
株式会社ウッドプレイス(WOOD PLACE)は、かつて存在したゲーム関連会社。本社は東京都江東区木場にあった
日本物産 (ニチブツ)を退社した鈴木正夫によって1982年6月に設立され1984年8月にに法人化したゲーム関連会社 主にアーケードゲームの開発•販売 ゲームセンターの経営 電子機器の開発•販売•リースを行っていた 社名はかつて本社があった東京都江東区木場に由来する 1988年3月3日倒産
アーケードゲームの主な流通はデータイーストが行っており日本国外では発売もデータイーストが行っていた(Ring Kingやファイヤートラップのタイトル画面のロゴもデータイーストのものに差し替えられている)
倒産後、移植や復刻が行われることはなかったが2017年10月28日に株式会社JENNEXより発売されたレトロビット ジェネレーション2ににウッドプレイスの作品が収録されている他 2019年12月10日よりプロジェクトEGGにてウッドプレイスの作品が配信されている
ウッドプレイス倒産後、版権は代表の鈴木正夫が保有・管理している
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株式会社ウッドプレイスは、かつて存在したゲーム関連会社。本社は東京都江東区木場にあった
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{{出典の明記|date=2023年10月10日 (火) 04:09 (UTC)}}
{{基礎情報 会社
|社名= 株式会社 ウッドプレイス
|英文社名= WOOD PLACE
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|代表者= 鈴木正夫(創業者•代表取締役)
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|特記事項=1988年3月3日倒産
}}
'''株式会社ウッドプレイス'''(WOOD PLACE)は、かつて存在したゲーム関連会社。本社は[[東京都]][[江東区]][[木場]]にあった
== 概要 ==
[[日本物産]] (ニチブツ)を退社した鈴木正夫によって1982年6月に設立され1984年8月にに法人化したゲーム関連会社 主にアーケードゲームの開発•販売 ゲームセンターの経営 電子機器の開発•販売•リースを行っていた 社名はかつて本社があった東京都江東区木場に由来する 1988年3月3日倒産
アーケードゲームの主な流通は[[データイースト]]が行っており日本国外では発売もデータイーストが行っていた([[ファミリーボクシング|Ring King]]や[[ファイヤートラップ]]のタイトル画面のロゴもデータイーストのものに差し替えられている)
倒産後、移植や復刻が行われることはなかったが2017年10月28日に[[株式会社JENNEX]]より発売された[[8ビット/16ビットコレクション|レトロビット ジェネレーション2に]]にウッドプレイスの作品が収録されている他
2019年12月10日より[[プロジェクトEGG]]にてウッドプレイスの作品が配信されている
ウッドプレイス倒産後、版権は代表の鈴木正夫が保有・管理している
== 主な開発ゲーム ==
* ファイアバトル(1984年)- 発売はタイトー
* [[ファミリーボクシング|キングオブボクサー]](国内1985年)
* [[アルファックスZ]]- 開発エレクトロデザイン(カネコ)(1986年)
* ミッション660 - 発売はタイトー(1986年)
* クラッシュロード(1986年)
* S.R.Dミッション(九娯貿易との共同開発)- 発売はタイトー(ウッドプレイスが関わっているかは未確定)
* ファイヤートラップ(1986年)
* [[ディープスキャン| ザ・ディープ]](1987年)
== 関連人物 ==
== 関連項目 ==
*[[日本物産]]
*[[データイースト]]
*[[プロジェクトEGG]]
==脚注==
{{Reflist}}
{{DEFAULTSORT:うつとふれいす}}
[[Category:コンピュータゲーム関連企業]]
[[Category:1982年設立の企業]]
[[Category:1988年廃止の企業]]
[[Category:江東区の企業|廃]]
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|
4,839,454 |
デ・ノラ
|
デ・ノラ(伊: Industrie De Nora S.p.A.)は、ミラノに本社を置く、電気化学産業にて事業展開をしているイタリアの多国籍企業である。デ・ノラ社は、あらゆる主要な工業電解用プロセスに用いられる電極を供給する世界有数のサプライヤーである。
デ・ノラ社は1923年、アムチーナ(消毒薬)などを発明したイタリア人技師オロンツィオ・デ・ノラによって設立された。
1969年、デ・ノラ社は事業エリア拡大を突き進め、日本を皮切りに、シンガポール、ブラジル、インド、中国、ドイツなど、さまざまな海外市場に進出し、子会社と合弁会社を設立した。
2015年からは、水処理・ろ過分野における技術的専門知識を活用し、この分野でも事業を展開している。
2021年12月、デ・ノラ社はドイツのティッセンクルップ社との合弁事業を通じて、サウジアラビアのネオム・プロジェクトの一環である世界最大のグリーン水素製造プラント建設に必要な電解システムの供給を受注したと発表した。
2022年にはイタリア証券取引所に上場を果たした。
デ・ノラ社は、電極製造を通じて様々な分野の電気化学産業を牽引している。電極が使用される用途は主に次の3つの分野に関連している。工業分野、上下水処理分野、グリーン水素製造におけるエネルギー分野。
2022年の売上高は8億5,282万6,000ユーロ、純利益は8,966万5,000ユーロである。イタリア、ドイツ、イギリス、アメリカ、ブラジル、アラブ首長国連邦、インド、中国、日本、シンガポールを含むさまざまな地域で事業を展開している。
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デ・ノラは、ミラノに本社を置く、電気化学産業にて事業展開をしているイタリアの多国籍企業である。デ・ノラ社は、あらゆる主要な工業電解用プロセスに用いられる電極を供給する世界有数のサプライヤーである。
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{{基礎情報 会社
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'''デ・ノラ'''({{lang-it-short|Industrie De Nora S.p.A.}})は、[[ミラノ]]に本社を置く、電気化学産業にて事業展開をしている[[イタリア]]の多国籍企業である。デ・ノラ社は、あらゆる主要な工業電解用プロセスに用いられる[[電極]]を供給する世界有数のサプライヤーである<ref name=":0">{{Cite web |title=De Nora, gli elettrodi sbarcano in Borsa: l’idrogeno verde è il futuro |url=https://www.corriere.it/economia/aziende/22_febbraio_21/de-nora-elettrodi-sbarcano-borsa-l-idrogeno-verde-futuro-da0cd3a6-931d-11ec-b122-b524cba6b0f8.shtml |website=[[コリエーレ・デラ・セラ]] |date=2022-02-21 |access-date=2023-06-12 |language=it |first=Fausta |last=Chiesa}}</ref><ref>{{Cite web |title=L'idrogeno italiano sbarca a Piazza Affari: De Nora verso un'Ipo da 5 miliardi di euro |url=https://forbes.it/2022/02/22/de-nora-lidrogeno-verde-sbarca-in-borsa-con-snam-ipo-da-5-miliardi/ |website=Forbes Italia |date=2022-02-22 |access-date=2023-06-05 |language=it-IT |first=Edoardo |last=Prallini}}</ref>。
== 沿革 ==
デ・ノラ社は1923年、アムチーナ(消毒薬)などを発明したイタリア人技師オロンツィオ・デ・ノラによって設立された<ref name=":1">{{Cite web |url=https://www.denora.com/who-we-are/our-history.html |website=De Nora |access-date=2023-06-25 |title=Our History |language=en}}</ref>。
1969年、デ・ノラ社は事業エリア拡大を突き進め、日本を皮切りに、シンガポール、ブラジル、インド、中国、ドイツなど、さまざまな海外市場に進出し、子会社と[[合弁事業|合弁会社]]を設立した<ref name=":1" />。
2015年からは、水処理・ろ過分野における技術的専門知識を活用し、この分野でも事業を展開している<ref name=":1" />。
2021年12月、デ・ノラ社はドイツの[[ティッセンクルップ]]社との合弁事業を通じて、[[サウジアラビア]]の[[ネオム]]・プロジェクトの一環である世界最大の[[グリーン水素]]製造プラント建設に必要な[[電気分解|電解]]システムの供給を受注したと発表した<ref>{{Cite web |title=Da Thyssen-De Nora impianti elettrolisi in Arabia Saudita |url=https://www.ansa.it/canale_ambiente/notizie/energia/2021/12/14/da-thyssen-de-nora-impianti-elettrolisi-in-arabia-saudita_5660b6e2-2ab6-4862-84a6-d38c74421f7b.html |website=[[ANSA通信]] |date=2021-12-14 |access-date=2023-06-12 |language=it}}</ref><ref>{{Cite web |title=Un po' di Italia nell'idrogeno verde della smart city in Arabia Saudita |url=https://www.repubblica.it/green-and-blue/2021/12/15/news/accordo_de_nora_snam_arabia_saudita_elettrolizzatori_neom_smart_city_idrogeno-330246836/ |website=[[ラ・レプッブリカ]] |date=2021-12-15 |access-date=2023-06-12 |language=it |last=Fraioli |first=Luca}}</ref>。
2022年にはイタリア証券取引所に上場を果たした<ref name=":0" /><ref>{{Cite web |title=Per De Nora esordio sotto prezzo Ipo in una giornata complessa per Piazza Affari |url=https://www.ilsole24ore.com/art/per-de-nora-esordio-sotto-prezzo-ipo-una-giornata-complessa-piazza-affari-AEmGdKjB |website=Il Sole 24 Ore |date=2022-06-30 |access-date=2023-06-05 |language=it |last=Fontana |first=Andrea}}</ref>。
== 事業内容 ==
デ・ノラ社は、電極製造を通じて様々な分野の電気化学産業を牽引している。電極が使用される用途は主に次の3つの分野に関連している。工業分野、上下水処理分野、グリーン水素製造におけるエネルギー分野<ref name=":2">{{Cite web |url=https://www.denora.com/dam/jcr:20c47be4-f9b1-4ca4-8a6e-463943fca4e1/Annual%20Report%202022.pdf |website=De Nora |access-date=2023-06-25 |title=2022 Annual Financial Report |language=en}}</ref>。
2022年の売上高は8億5,282万6,000ユーロ、純利益は8,966万5,000ユーロである<ref name=":2" />。イタリア、ドイツ、イギリス、アメリカ、ブラジル、アラブ首長国連邦、インド、中国、日本、シンガポールを含むさまざまな地域で事業を展開している<ref>{{Cite web |url=https://www.denora.com/info/contact-us/our-locations.html |website=De Nora |access-date=2023-06-25 |title=Our Locations |language=en}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
{{commons|Category:Industrie De Nora}}
* [https://denora.com/ デ・ノラ]
[[Category:イタリアの多国籍企業]]
[[Category:ミラノの企業]]
[[Category:1923年設立の企業]]
|
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|
4,839,456 |
寺領町
|
寺領町(じりょうちょう)は、愛知県安城市の地名。
安城市南東部に位置する。東から南は木戸町、西は野寺町、北は小川町に接する。
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる。
国勢調査による人口および世帯数の推移。
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寺領町(じりょうちょう)は、愛知県安城市の地名。
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| area_footnotes = <ref group=WEB name="area">{{Cite web|url=https://toukei-labo.com/2015/?tdfk=23&city=23212|title=愛知県安城市の町丁・字一覧|publisher=人口統計ラボ|language=日本語|accessdate=2023-08-26}}</ref>
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| registration_plate = [[愛知運輸支局|三河]]
| footnotes =
}}
'''寺領町'''(じりょうちょう)は、[[愛知県]][[安城市]]の地名。
== 地理 ==
安城市南東部に位置する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}。東から南は[[木戸町 (安城市)|木戸町]]、西は[[野寺町]]、北は[[小川町 (安城市)|小川町]]に接する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}。
=== 学区 ===
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.city.anjo.aichi.jp/manabu/gakko/kyoikushisetsu/gakku.html|title=小中学校区一覧(町別50音順)|author=安城市役所教育振興部学校教育課学事係|publisher=安城市|date=2022-04-07|accessdate=2023-10-09}}</ref>。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.pref.aichi.jp/soshiki/kotogakko/0000080445.html|title=平成29年度以降の愛知県公立高等学校(全日制課程)入学者選抜における通学区域並びに群及びグループ分け案について|publisher=愛知県教育委員会|date=2015-02-16|accessdate=2019-01-14}}</ref>。
{| class="wikitable"
!番・番地等!!小学校!!中学校!!高等学校
|-
||全域||[[安城市立桜井小学校]]||[[安城市立桜井中学校]]||[[愛知県の高校入試#三河学区|三河学区]]
|}
=== 河川 ===
* 鹿乗川{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
== 歴史 ==
=== 町名の由来 ===
=== 人口の変遷 ===
[[国勢調査]]による人口および世帯数の推移。
{| class="wikitable"
|-
|1995年(平成7年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000023630251&fileKind=1|format=CSV|title=平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-03-28|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|73世帯<br>311人||<div style="width:7.3px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:31.1px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2000年(平成12年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025137780&fileKind=1|format=CSV|title=平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-05-30|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|75世帯<br>287人||<div style="width:7.5px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:28.7px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2005年(平成17年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025514226&fileKind=1|format=CSV|title=平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-06-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|73世帯<br>270人||<div style="width:7.3px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:27px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2010年(平成22年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000012671534&fileKind=1|format=CSV|title=平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2012-01-20|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|81世帯<br>282人||<div style="width:8.1px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:28.2px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2015年(平成27年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000031522121&fileKind=1|format=CSV|title=平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2017-01-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|81世帯<br>264人||<div style="width:8.1px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:26.4px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2020年(令和2年)<ref group=WEB name=R2国勢調査>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000032163424&fileKind=1|format=CSV|title=令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口,外国人人口及び世帯数-町丁・字等|author=総務省統計局|date=2022-02-10|accessdate=2023-08-02|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|99世帯<br>292人||<div style="width:9.9px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:29.2px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|}
=== 沿革 ===
{{節スタブ}}
== 施設 ==
* [[安城警察署]]寺領駐在所{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
* 三ツ川保育園{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
* 寺領集会場{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1565}}
* 真宗大谷派松韻寺{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 素戔嗚神社{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 寺領廃寺跡{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== WEB ===
{{Reflist|group="WEB"|refs=}}
=== 書籍 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1989|date=1989-03-08|title=[[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県|publisher=[[角川書店]]|isbn=4-04-001230-5|language=ja|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[安城市の町名]]
== 外部リンク ==
* {{commonscat-inline}}
{{Geographic Location
| Northwest<!--北西--> =
| North<!--北--> = [[小川町 (安城市)|小川町]]
| Northeast<!--北東--> =
| West<!--西--> = [[野寺町]]
| Centre<!--中央--> = 寺領町
| East<!--東--> = [[木戸町 (安城市)|木戸町]]
| Southwest<!--南西--> =
| South<!--南--> = [[木戸町 (安城市)|木戸町]]
| Southeast<!--南東--> =
}}
{{安城市の町・字}}
{{Japan-block-stub}}
{{Pref-stub|pref=愛知県}}
{{デフォルトソート:しりようちよう}}
[[Category:安城市の町名]]
|
2023-10-09T09:30:39Z
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2023-10-09T09:30:39Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E9%A0%98%E7%94%BA
|
4,839,457 |
ペッセ・カヌー
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ペッセ・カヌー(英: Pesse canoe、蘭: Kano van Pesse)は、オランダのペッセ(英語版、オランダ語版)で発見された、知られている限り世界最古のボートと考えられているもの。同時に知られている最古のカヌーであるとも考えられており、炭素年代測定法によると、このボートが建造されたのは紀元前8040年から紀元前7510年の中石器時代初期という。現在は、オランダのアッセンにあるドレンテ博物館(英語版)に展示されている。
長さ298センチメートル(117インチ)、幅44センチメートル(17インチ)の丸木舟で、ヨーロッパアカマツの大木1本から作られた。空洞には、燧石ないしは枝角から作った道具により作られたと思しき跡が残されている。
1万年前に氷河期(最終氷期)が終わると、地球全体で氷が溶けるとともに海面が上昇し、現在のオランダ北部にあたる低地ではそれまでの狩猟に加えて木の実の採取や漁撈が可能になった反面、洪水が多発するようになった。氷河期終了とほぼ同時期に作られたペッセ・カヌーは、その大半の時間を沼地や小川・湖などの水辺での狩猟や漁撈に費やしていた当時の住民にとって誂え向きの乗り物であった。このことは、オランダを流れるマース川、ライン川、ワール川の流域で発見された、紀元前5500年から紀元前5000年前の墳墓からも確認できる。墓の近くにあった食べ物の跡から判断すると、彼らは燧石で矢を射て鳥を捕り、果物や野菜、木の実を採っていただけでなく、安全な砂丘の高台に住み、カヌーを使って川でカワカマスを捕っていたという。
この船は1955年、オランダの高速道路A28の建設中に発見された。このルートはホーヘフェーンのペッセ村の南を通り、泥炭地(ボグ)だった場所を通る。車道を建設するためには泥炭を除去する必要があり、掘削中にクレーンの運転手が地表より2メートル(6フィート7インチ)下にある木の幹と思われるものに出くわした。地元の農夫ヘンドリック・ワンダース(Hendrik Wanders)がその丸太に気づき、さらに詳しく調べるために持ち帰った。彼はボートをフローニンゲン大学にこれを寄贈、そこでカヌーは検査を受け、保存のために凍結乾燥(フリーズドライ)された。その後、発見現場の近くにあるドレンツ博物館に移送された。
デンマークの考古学者は、これほど小さな船で航海に耐えられるのかと疑問を呈したことがある。2001年、考古学者ヤープ・ボイカー(Jaap Beuker)によって作られた正確なレプリカを、カヌーイストが漕ぐことに成功し、真に舟としてペッセ・カヌーが機能していたことが示された。このほか、ペッセ・カヌーは動物の餌箱(給餌器)のような別の物体だったのではないかという説もある。ボイカー氏は、この船の時代の人々は動物を飼っていなかった(実際、中石器時代のヨーロッパでは、家畜化された農耕動物や使役動物はまだどこにも飼われていなかった)ので、桶であるはずがないと指摘した。またこの船は他の国で発見された先史時代のカヌーと構造が似ている。
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"text": "デンマークの考古学者は、これほど小さな船で航海に耐えられるのかと疑問を呈したことがある。2001年、考古学者ヤープ・ボイカー(Jaap Beuker)によって作られた正確なレプリカを、カヌーイストが漕ぐことに成功し、真に舟としてペッセ・カヌーが機能していたことが示された。このほか、ペッセ・カヌーは動物の餌箱(給餌器)のような別の物体だったのではないかという説もある。ボイカー氏は、この船の時代の人々は動物を飼っていなかった(実際、中石器時代のヨーロッパでは、家畜化された農耕動物や使役動物はまだどこにも飼われていなかった)ので、桶であるはずがないと指摘した。またこの船は他の国で発見された先史時代のカヌーと構造が似ている。",
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ペッセ・カヌーは、オランダのペッセで発見された、知られている限り世界最古のボートと考えられているもの。同時に知られている最古のカヌーであるとも考えられており、炭素年代測定法によると、このボートが建造されたのは紀元前8040年から紀元前7510年の中石器時代初期という。現在は、オランダのアッセンにあるドレンテ博物館に展示されている。
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== 概要 ==
長さ298センチメートル(117インチ)、幅44センチメートル(17インチ)の[[丸木舟]]で<ref name="nvhn">{{Cite news |last=Wierenga |first=Jan |date=12 April 2001 |title=Kano Van Pesse Kon Echt Varen |language=nl |newspaper=Nieuwsblad van het Noorden |url=http://www.archeoforum.nl/Pesse9.html |access-date=4 December 2011}}</ref>、[[ヨーロッパアカマツ]]の大木1本から作られた<ref name="BeukerNiekus">{{Cite news |last=Beuker |first=J.R. |author2=Niekus |first2=M.J.L.Th. |title=De Kano Van Pesse - De Bijl Erin |language=nl |newspaper=De Nieuwe Drentse Volksalmanak |url=http://www.archeoforum.nl/Pesse1.html |access-date=4 December 2011}}</ref>。空洞には、[[燧石]]ないしは[[枝角]]から作った道具により作られたと思しき跡が残されている<ref name="BeukerNiekus" />。
1万年前に氷河期([[最終氷期]])が終わると、地球全体で氷が溶けるとともに海面が上昇し、現在のオランダ北部にあたる低地ではそれまでの狩猟に加えて木の実の採取や漁撈が可能になった反面、洪水が多発するようになった<ref name=":0">{{Cite book|和書 |title=一冊でわかるオランダ史 |date=2023-8-30 |publisher=河出書房新社 |page=20 |author=水島治郎 |edition=1 |isbn=978-4-309-81117-8}}</ref>。氷河期終了とほぼ同時期に作られたペッセ・カヌーは、その大半の時間を沼地や小川・湖などの水辺での狩猟や漁撈に費やしていた当時の住民にとって誂え向きの乗り物であった。このことは、オランダを流れる[[マース川]]、[[ライン川]]、[[ワール川]]の流域で発見された、紀元前5500年から紀元前5000年前の墳墓からも確認できる。墓の近くにあった食べ物の跡から判断すると、彼らは[[燧石]]で矢を射て鳥を捕り、果物や野菜、木の実を採っていただけでなく、安全な砂丘の高台に住み、カヌーを使って川で[[カワカマス]]を捕っていたという<ref>James C. Kennedy (2017) ''A Concise History of the Netherlands'' Cambridge : Cambridge University Press</ref>。
== 研究史 ==
この船は[[1955年]]、オランダの高速道路[[A28]]の建設中に発見された。このルートは[[ホーヘフェーン]]の[[ペッセ]]村の南を通り、泥炭地([[ボグ]])だった場所を通る。車道を建設するためには泥炭を除去する必要があり、掘削中にクレーンの運転手が地表より2メートル(6フィート7インチ)下にある木の幹と思われるものに出くわした。地元の農夫ヘンドリック・ワンダース(Hendrik Wanders)がその丸太に気づき、さらに詳しく調べるために持ち帰った。彼はボートを[[フローニンゲン大学]]にこれを寄贈、そこでカヌーは検査を受け、保存のために凍結乾燥([[フリーズドライ]])された。その後、発見現場の近くにあるドレンツ博物館に移送された<ref name="pb">{{Cite web |title=Boot van Pesse |language=en |url=http://bootvanpesse.com |access-date=17 October 2020}}</ref><ref name="bvp">{{Cite web |author=Wanders |first=Rene |title=Boot van Pesse |language=nl |url=http://www.bootvanpesse.nl |access-date=4 December 2011}}</ref>。
== 議論 ==
デンマークの考古学者は、これほど小さな船で航海に耐えられるのかと疑問を呈したことがある。2001年、考古学者[[ヤープ・ボイカー]](Jaap Beuker)によって作られた正確なレプリカを、カヌーイストが漕ぐことに成功し、真に舟としてペッセ・カヌーが機能していたことが示された<ref name="courant" />。このほか、ペッセ・カヌーは動物の餌箱(給餌器)のような別の物体だったのではないかという説もある<ref name="letter">{{Cite news |last=Niekus |first=Marcel J.Th. |date=4 April 1998 |title=INGEZONDEN BRIEF (1) |trans-title=Letter to the Editor |language=nl |newspaper=Nieuwsblad van het Noorden |url=http://www.archeoforum.nl/Pesse4.html |access-date=4 December 2011}}</ref>。ボイカー氏は、この船の時代の人々は動物を飼っていなかった(実際、中石器時代のヨーロッパでは、家畜化された農耕動物や[[使役動物]]はまだどこにも飼われていなかった<ref name="letter" />)ので、桶であるはずがないと指摘した。またこの船は他の国で発見された先史時代のカヌーと構造が似ている<ref name="nvhn" />。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
[[Category:オランダの考古資料]]
[[Category:中石器時代]]
[[Category:ドレンテ州]]
[[Category:先史時代のオランダ]]
[[Category:ボート]]
{{DEFAULTSORT:へつせかぬう}}
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中岳 (札幌市・京極町)
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中岳(なかだけ)は、北海道札幌市南区定山渓と京極町の境界にある山。標高1387.5メートル。
山名は無意根山と喜茂別岳の中間に座することに由来する。
無意根山溶岩によって形成された山のひとつ。
頂上の周辺には高さ5 - 10メートルほどの岩壁がめぐらされ、あたかも古城のような姿をしており、主要峰のかたわらの目立たない山が多い「中岳」の中では、秀峰の部に属すると言える。
南西側のワッカタサップ川源頭寄りは、深くえぐられた急崖となっている。
登山道は存在しない。隣の無意根山から縦走路が開削されたことがあったが、それほどの年月を経ずして藪の中へと消えた。
夏期には白水川を遡行する沢登りで登頂できる。
冬期には中山峠から無意根山への縦走途中に通過するか、あるいは逆に無意根山側から往復するパターンが多くみられる。
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中岳(なかだけ)は、北海道札幌市南区定山渓と京極町の境界にある山。標高1387.5メートル。 山名は無意根山と喜茂別岳の中間に座することに由来する。
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{{Infobox 山
|名称 = 中岳
|画像 = [[File:Mount Naka of Sapporo.jpg|280px]]
|画像キャプション = 中山峠より望む中岳
|標高 = 1387.5
|座標 = {{ウィキ座標2段度分秒|43|54|48.534|N|141|01|35.758|E|type:mountain_region:JP-01|display=inline,title}}
|所在地 = {{JPN}}<br />[[北海道]][[札幌市]][[南区 (札幌市)|南区]][[定山渓]]・[[虻田郡]][[京極町]]
|種類 =
|初登頂 =
|地図 = {{Location map | Sapporo#Japan Hokkaido#Japan
| lat_deg = 42.913482
| lon_deg = 141.026599
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}}
'''中岳'''(なかだけ)は、[[北海道]][[札幌市]][[南区 (札幌市)|南区]][[定山渓]]と[[京極町]]の境界にある山。[[標高]]1387.5メートル{{Sfn|関|2018|p=361}}。
山名は[[無意根山]]と[[喜茂別岳]]の中間に座することに由来する{{Sfn|関|2018|p=361}}。
== 地形と地質 ==
無意根山溶岩によって形成された山のひとつ{{Sfn|関|2018|p=361}}。
頂上の周辺には高さ5 - 10メートルほどの岩壁がめぐらされ、あたかも古城のような姿をしており、主要峰のかたわらの目立たない山が多い「中岳」の中では、秀峰の部に属すると言える{{Sfn|札幌の山々|1989|p=72}}。
南西側のワッカタサップ川源頭寄りは、深くえぐられた急崖となっている{{Sfn|札幌の山々|1989|p=72}}。
== 登山ルート ==
登山道は存在しない。隣の無意根山から縦走路が開削されたことがあったが、それほどの年月を経ずして藪の中へと消えた{{Sfn|札幌の山々|1989|p=228}}。
夏期には白水川を遡行する沢登りで登頂できる{{Sfn|札幌の山々|1989|p=72}}。
冬期には[[中山峠 (国道230号)|中山峠]]から無意根山への縦走途中に通過するか、あるいは逆に無意根山側から往復するパターンが多くみられる{{Sfn|札幌の山々|1989|p=72}}。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|title=札幌の山々|date=1989-03-27|series=さっぽろ文庫48|publisher=北海道新聞社|isbn=4-89363-047-4|ref={{SfnRef|札幌の山々|1989}}}}
*{{Cite book|和書|title=札幌の地名がわかる本|author=関秀志 編|date=2018-11-16|publisher=亜璃西社|isbn=978-4-906740-34-5|ref={{SfnRef|関|2018}}}}
{{札幌50峰}}
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[[Category:山岳名目録]]
[[Category:北海道の山]]
[[Category:定山渓]]
[[Category:京極町]]
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デリック・ホワイト (曖昧さ回避)
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デリック・ホワイト (Derrick White) は、人名。
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デリック・ホワイト は、人名。 デリック・ホワイト - アメリカ合衆国の元プロ野球選手
デリック・ホワイト (バスケットボール) - アメリカ合衆国のプロバスケットボール選手
デリック・ホワイト (技術者) - イギリスの自動車技術者
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'''デリック・ホワイト''' (Derrick White) は、人名。
* [[デリック・ホワイト]] - アメリカ合衆国の元プロ野球選手
* [[デリック・ホワイト (バスケットボール)]] - アメリカ合衆国のプロバスケットボール選手
* [[デリック・ホワイト (技術者)]] - イギリスの自動車技術者
{{人名の曖昧さ回避}}
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ヴァルビツァ
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ヴァルビツァ(ブルガリア語: Върбица, Varbitsa または Vǎrbica, [vɐrˈbit͡sɐ])は、ブルガリア東部のシュメン州にある町。州の南西部に位置する、同名のヴァルビツァ市の行政の中心地である。人口は3,585人(2009年12月)。町名は「小さなヤナギ」を意味する。
ドナウ平原の南東部、バルカン山脈東部の裾野のゲリラ川両岸に位置する。古代にはトラキア人やローマ人が定住していたが、中世初期にスラヴ人とブルガール人が到来した。第一次ブルガリア帝国の初代指導者であるアスパルフは7世紀、ヴァルビツァ峠を守るため、この地域にシヴェーリア族を入植させたと考えられている。ヴァルビツァ峠は811年、ブルガリア帝国軍が東ローマ帝国のニケフォロス1世を敗死させたプリスカの戦いの舞台となった。
ヴァルビツァ市は、下記の16地区からなる。
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ヴァルビツァは、ブルガリア東部のシュメン州にある町。州の南西部に位置する、同名のヴァルビツァ市の行政の中心地である。人口は3,585人(2009年12月)。町名は「小さなヤナギ」を意味する。 ドナウ平原の南東部、バルカン山脈東部の裾野のゲリラ川両岸に位置する。古代にはトラキア人やローマ人が定住していたが、中世初期にスラヴ人とブルガール人が到来した。第一次ブルガリア帝国の初代指導者であるアスパルフは7世紀、ヴァルビツァ峠を守るため、この地域にシヴェーリア族を入植させたと考えられている。ヴァルビツァ峠は811年、ブルガリア帝国軍が東ローマ帝国のニケフォロス1世を敗死させたプリスカの戦いの舞台となった。
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{{Infobox settlement
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|
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}}
'''ヴァルビツァ'''({{lang-bg|Върбица}}, Varbitsa または Vǎrbica, {{IPA-bg|vɐrˈbit͡sɐ|}})は、[[ブルガリア]]東部の[[シュメン州]]にある町。州の南西部に位置する、同名のヴァルビツァ市の行政の中心地である。人口は3,585人(2009年12月)<ref name="statistika">{{in lang|en}} [http://www.nsi.bg/otrasalen.php?otr=53&a1=1583&a2=1584&a3=1588#cont Bulgarian National Statistical Institute - Bulgarian towns in 2009]</ref>。町名は「小さなヤナギ」を意味する。
ドナウ平原の南東部、[[バルカン山脈]]東部の裾野のゲリラ川両岸に位置する。古代には[[トラキア人]]や[[ローマ人]]が定住していたが、[[中世初期]]に[[スラヴ人]]と[[ブルガール人]]が到来した。[[第一次ブルガリア帝国]]の初代指導者である[[アスパルフ]]は7世紀、ヴァルビツァ峠を守るため、この地域に[[シヴェーリア族]]を入植させたと考えられている。ヴァルビツァ峠は811年、ブルガリア帝国軍が[[東ローマ帝国]]の[[ニケフォロス1世]]を敗死させた[[プリスカの戦い]]の舞台となった。
== ヴァルビツァ市 ==
ヴァルビツァ市は、下記の16地区からなる。
* ボジュロヴォ (Bozhurovo)
* ビャラ・レカ (Byala Reka)
* チェルノーコヴォ (Chernookovo)
* イヴァノヴォ (Ivanovo)
* コネヴォ (Konevo)
* クライゴルツィ (Kraygortsi)
* キョルメン (Kyolmen)
* ロヴェツ (Lovets)
* マロミル (Malomir)
* メンギシェヴォ (Mengishevo)
* メトディエヴォ (Metodievo)
* ノヴァ・ビャラ・レカ (Nova Byala Reka)
* スタニャンツィ (Stanyantsi)
* スシナ (Sushina)
* トゥショヴィツァ (Tushovitsa)
* ヴァルビツァ (Varbitsa)
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
*[http://www.varbitsa.org/ 公式サイト] {{Bg icon}}
{{Bulgaria-stub}}
{{DEFAULTSORT:うあるひつあ}}
[[Category:シュメン州の都市]]
|
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|
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WRESTLE PRINCESS 4
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『WRESTLE PRINCESS IV』(レッスルプリンセス・フォー)は、日本の女子プロレス団体東京女子プロレスが東京たま未来メッセで行った興行。
東京女子プロレスの東京たま未来メッセ初進出となる興行。動画配信サイトWRESTLE UNIVERSEでのゲスト解説を、GRAND PRINCESS '23に続きアイドルグループOCHA NORMAの中山夏月姫が担当。
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"title": "概要"
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『WRESTLE PRINCESS IV』(レッスルプリンセス・フォー)は、日本の女子プロレス団体東京女子プロレスが東京たま未来メッセで行った興行。
|
{{Infobox MMA event
|大会名 = WRESTLE PRINCESS IV
|シリーズ = WRESTLE PRINCESS
|主催 = [[東京女子プロレス]]
|開催年月日 = [[2023年]][[10月9日]]
|開催地 = {{JPN}} [[東京都]][[八王子市]]
|会場 = [[東京都立多摩産業交流センター|東京たま未来メッセ]]
|試合数 = 10試合
|放送局 =
|入場者数 = 868人
|備考 =
}}
『'''WRESTLE PRINCESS IV'''』(レッスルプリンセス・フォー)は、日本の女子プロレス団体[[東京女子プロレス]]が[[東京都立多摩産業交流センター|東京たま未来メッセ]]で行った興行。
== 概要 ==
東京女子プロレスの東京たま未来メッセ初進出となる興行。動画配信サイト[[WRESTLE UNIVERSE]]でのゲスト解説を、[[GRAND PRINCESS '23]]に続きアイドルグループ[[OCHA NORMA]]の[[中山夏月姫]]が担当<ref>{{Cite video|url=https://www.youtube.com/watch?v=VQxN35b928U|title=【LIVE】第2試合までを生配信!Oct.9『WRESTLE PRINCESS Ⅳ』@TOKYO TAMA MIRAI MESSE <13:40頃~>|publisher=東京女子プロレスofficial - TJPW|medium=YouTube|date=2023-10-09|accessdate=2023-10-09}}</ref>。
== 試合 ==
{| class="wikitable" style="width: 100%;"
|-
|colspan="3" style="background-color: YELLOWGREEN;"|オープニングマッチ 15分一本勝負 シングルマッチ
|-
|style="text-align: right;"|●'''[[風城ハル]]'''<br />
|style="text-align: center;"|5分16秒<br />逆片エビ固め
|style="text-align: left;"|'''[[大久保琉那]]'''〇
|-
|colspan="3" style="background-color: YELLOWGREEN;"|第二試合 20分一本勝負 6人タッグマッチ
|-
|style="text-align: right;"|〇'''[[遠藤有栖]]'''<br />'''[[鳥喰かや]]'''<br />'''[[佐藤向日葵|HIMAWARI]]'''
|style="text-align: center;"|12分7秒<br />キャメルクラッチ
|style="text-align: left;"|'''[[加藤悠|HARUKAZE]]'''<br />'''[[長谷川美子]]'''●<br />'''[[リアラ]]'''
|-
|colspan="3" style="background-color: YELLOWGREEN;"|第三試合 15分一本勝負 シングルマッチ
|-
|style="text-align: right;"|〇'''[[宮本もか]]'''
|style="text-align: center;"|6分28秒<br />鴻臚館→体固め
|style="text-align: left;"|'''[[長野じゅりあ]]'''●
|-
|colspan="3" style="background-color: YELLOWGREEN;"|第四試合 20分一本勝負 6人タッグマッチ
|-
|style="text-align: right;"|〇'''[[アジャコング]]'''<br />'''[[らく (プロレスラー)|らく]]'''<br />'''[[鈴木志乃]]'''
|style="text-align: center;"|11分4秒<br />バックドロップ→片エビ固め
|style="text-align: left;"|'''[[ハイパーミサヲ]]'''<br />'''[[上原わかな]]'''●<br />'''[[凍雅]]'''
|-
|colspan="3" style="background-color: YELLOWGREEN;"|第五試合 20分一本勝負 タッグマッチ
|-
|style="text-align: right;"|'''[[水波綾]]'''<br />●'''[[愛野ユキ]]'''
|style="text-align: center;"|13分10秒<br />Finally→片エビ固め
|style="text-align: left;"|'''[[渡辺未詩]]'''<br />'''[[荒井優希]]'''〇
|-
|colspan="3" style="background-color: YELLOWGREEN;"|第六試合 20分一本勝負 8人タッグマッチ
|-
|style="text-align: right;"|〇'''[[赤井沙希|沙希様]]'''<br />'''[[駿河メイ|メイ・サン=ミッシェル]]'''<br />'''[[高梨将弘|マーサ]]'''<br />'''[[坂口征夫|ユキオ・サン=ローラン]]'''
|style="text-align: center;"|14分45秒<br />アカデミー賞→片エビ固め
|style="text-align: left;"|'''[[中島翔子]]'''<br />'''[[原宿ぽむ]]'''●<br />'''[[鈴芽]]'''<br />'''[[アントーニオ本多]]'''
|-
|colspan="3" style="background-color: YELLOWGREEN;"|第七試合 20分一本勝負 スペシャルシングルマッチ
|-
|style="text-align: right;"|〇'''{{仮リンク|ナイラ・ローズ|en|Nyla Rose}}'''
|style="text-align: center;"|12分20秒<br />ビーストボム→エビ固め
|style="text-align: left;"|'''[[伊藤麻希]]'''●
|-
|colspan="3" style="background-color: YELLOWGREEN;"|第八試合 30分一本勝負 プリンセスタッグ王座決定戦
|-
|style="text-align: right;"|'''[[上福ゆき]]'''<br />●'''[[桐生真弥]]'''<br />(東洋盟友)
|style="text-align: center;"|13分37秒<br />紫電改→片エビ固め
|style="text-align: left;"|'''[[乃蒼ヒカリ]]'''<br />'''[[角田奈穂]]'''〇<br />(ふりーWiFi)
|-
|colspan="3"|ふりーWiFiが第14代王者組となる。
|-
|colspan="3" style="background-color: YELLOWGREEN;"|セミファイナル 30分一本勝負 インターナショナル・プリンセス&NWA世界女子TV両選手権試合
|-
|style="text-align: right;"|●'''[[辰巳リカ]]'''<br />(インターナショナル・プリンセス第10代王者)
|style="text-align: center;"|13分42秒<br />ショートレンジ・ラリアット→体固め
|style="text-align: left;"|'''[[マックス・ジ・インペイラー]]'''〇<br />(NWA世界女子TV第2代王者)
|-
|colspan="3"|第10代インターナショナル・プリンセス王者が5度目の防衛に失敗、インペイラーが第2代NWA世界女子TV王座3度目の防衛に成功するとともに、第11代インターナショナル・プリンセス王者となる。
|-
|colspan="3" style="background-color: YELLOWGREEN;"|メインイベント 30分一本勝負 プリンセス・オブ・プリンセス選手権試合
|-
|style="text-align: right;"|●'''[[瑞希]]'''<br />(第11代王者)
|style="text-align: center;"|21分24秒<br />クラッシュ・ラビットヒート→体固め
|style="text-align: left;"|'''[[山下実優]]'''〇<br />(挑戦者)
|-
|colspan="3"|第12代王者が4度目の防衛に失敗、山下が第13代王者となる。
|-
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [https://www.ddtpro.com/results/21405 WRESTLE PRINCESS IV]
{{DDTプロレスリング}}
{{DEFAULTSORT:WRESTLE PRINCESS 4}}
[[Category:東京女子プロレスの興行]]
[[Category:2023年の日本のスポーツ]]
[[Category:2023年10月]]
|
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青山円座松
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「青山円座松」(あおやまえんざまつ)は、葛飾北斎の名所浮世絵揃物『冨嶽三十六景』全46図中の1図。落款は「北斎改為一筆」とある。
本作品は現代の東京都渋谷区神宮前にある龍巌寺にあった銘木・円座松(笠松とも)と、その背後に聳える富士山を描写した図。円座松は岡山鳥の『江戸名所花暦』や斎藤月岑の『江戸名所図会』などでも江戸の名所として取り上げられた銘木で、「枝のわたり三間あまりあり」と言われるほどの大木であった。画面右下の丘には毛氈を敷いた子連れの見物人たちが酒を酌み交わして眼下の松とすやり霞の中に佇む富士を眺めている。
松と富士の対比構造は河村岷雪の『百富士』「松間」で試みられており、その影響も垣間見えるが、岷雪の図は場所を特定しておらず、円座松と富士山の組み合わせは北斎独自のアイデアとされる。山のように盛り上がった円座松と、背後の富士の対比構造を強調した構成を採用しており、実際には江戸からの富士山は本図のような大きさで見えることもなければ、円座松を見下ろす小高い丘なども存在しない。
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「青山円座松」(あおやまえんざまつ)は、葛飾北斎の名所浮世絵揃物『冨嶽三十六景』全46図中の1図。落款は「北斎改為一筆」とある。
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| year = [[1830年]]([[天保]]元年)から[[1834年]](天保5年)ごろ<ref name="shimane">{{cite web|title=北斎年譜|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/nenpyo/index.html|access-date=2023-09-03|website=島根県立美術館の浮世絵コレクション|publisher=島根県立美術館|archive-date=2022-09-26|archive-url=https://web.archive.org/web/20220926022226/https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/nenpyo/index.html}}</ref>{{efn|刊行年については[[柳亭種彦]]が出版した『正本製』に掲載された広告を根拠とする天保2年(1831年)に刊行したとする説、[[エドモン・ド・ゴンクール]]の著した『北斎』の記述を根拠とする文政6年(1823年)から文政12年(1829年)に刊行したとする説などもある{{Sfn|磯崎|2021|p=124}}。}}。
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「'''青山円座松'''」(あおやまえんざまつ){{efn|表記は「青山圓座枩」{{Sfn|日野原|2019|p=42}}。}}は、[[葛飾北斎]]の[[名所絵|名所]][[浮世絵]]揃物『[[富嶽三十六景|冨嶽三十六景]]』全46図中の1図{{Sfn|日野原|2019|pp=42-43}}。落款は「北斎改為一筆」とある{{Sfn|日野原|2019|p=212}}。
== 概要 ==
本作品は現代の[[東京都]][[渋谷区]][[神宮前 (渋谷区)|神宮前]]にある[[龍巌寺 (渋谷区)|龍巌寺]]にあった銘木・円座松(笠松とも)と、その背後に聳える[[富士山]]を描写した図{{Sfn|日野原|2019|p=44}}。円座松は[[岡山鳥]]の『江戸名所花暦』や[[斎藤月岑]]の『[[江戸名所図会]]』などでも江戸の名所として取り上げられた銘木で、「枝のわたり三間あまりあり」と言われるほどの大木であった{{Sfn|日野原|2019|p=44}}<ref>{{cite web|title=冨嶽三十六景 青山円座松|url=https://www.fujibi.or.jp/our-collection/profile-of-works.html?work_id=6260|access-date=2023-10-09|website=東京富士美術館}}</ref>。画面右下の丘には毛氈を敷いた子連れの見物人たちが酒を酌み交わして眼下の松と[[すやり霞]]の中に佇む富士を眺めている{{Sfn|日野原|2019|p=44}}。
[[ファイル:Minsetsu(河村岷雪) One Hundred Views of Mt.Fuji(百富士) Between the Pines(松間).jpg|thumb|left|150px|[[河村岷雪]]『百富士』巻一「松間」]]
松と富士の対比構造は[[河村岷雪]]の『百富士』「松間」で試みられており、その影響も垣間見えるが、岷雪の図は場所を特定しておらず、円座松と富士山の組み合わせは北斎独自のアイデアとされる{{Sfn|日野原|2019|p=45}}。山のように盛り上がった円座松と、背後の富士の対比構造を強調した構成を採用しており、実際には江戸からの富士山は本図のような大きさで見えることもなければ、円座松を見下ろす小高い丘なども存在しない{{Sfn|日野原|2019|p=45}}。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|last=日野原|first=健司|authorlink=日野原健司|year=2019 |title=富嶽三十六景 |publisher=岩波書店 |isbn=978-4-00-335811-5|ref={{SfnRef|日野原|2019}}}}
* {{Citation|和書|last=磯崎|first=康彦|authorlink=磯崎康彦|year=2021 |chapter=北斎の風景・風俗版画 |chapterurl=http://hdl.handle.net/10270/5478 |title=福島大学人間発達文化学類論集 |volume=34 |publisher=福島大学人間発達文化学類 |pages=124-109 |ref={{SfnRef|磯崎|2021}}}}
== 外部リンク ==
* {{kotobank|青山円座松}}
{{葛飾北斎}}
{{DEFAULTSORT:あおやまえんさまつ}}
[[Category:葛飾北斎の作品]]
[[Category:1830年代の絵画]]
[[Category:富嶽三十六景]]
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2023年FIBAバスケットボール・ワールドカップ日本代表
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2023年FIBAバスケットボール・ワールドカップ日本代表(2023ねんFIBAバスケットボールワールドカップにほんだいひょう)は、2023年FIBAバスケットボール・ワールドカップに出場したバスケットボール男子日本代表である。
今大会はフィリピン・日本・インドネシアの3国共催となったため、開催国として出場。
1次ラウンドは今大会で優勝したドイツと東京オリンピック銅メダルのオーストラリアに敗れるも、フィンランドに逆転で2006年大会のパナマ戦以来、対ヨーロッパ相手に初の勝利を挙げた。2次ラウンド進出はならなかったものの、順位決定ラウンドでベネズエラ、カーボベルデに連勝し、過去最高となる3勝2敗でアジア最上位の19位で終え、2024年パリオリンピック出場を決めた。
なお、日本の5試合はすべて沖縄アリーナで行われた。
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2023年FIBAバスケットボール・ワールドカップ日本代表(2023ねんFIBAバスケットボールワールドカップにほんだいひょう)は、2023年FIBAバスケットボール・ワールドカップに出場したバスケットボール男子日本代表である。 今大会はフィリピン・日本・インドネシアの3国共催となったため、開催国として出場。 1次ラウンドは今大会で優勝したドイツと東京オリンピック銅メダルのオーストラリアに敗れるも、フィンランドに逆転で2006年大会のパナマ戦以来、対ヨーロッパ相手に初の勝利を挙げた。2次ラウンド進出はならなかったものの、順位決定ラウンドでベネズエラ、カーボベルデに連勝し、過去最高となる3勝2敗でアジア最上位の19位で終え、2024年パリオリンピック出場を決めた。 なお、日本の5試合はすべて沖縄アリーナで行われた。
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'''2023年FIBAバスケットボール・ワールドカップ日本代表'''(2023ねんFIBAバスケットボールワールドカップにほんだいひょう)は、[[2023年FIBAバスケットボール・ワールドカップ]]に出場した[[バスケットボール男子日本代表]]である。
今大会は[[フィリピン]]・[[日本]]・[[インドネシア]]の3国共催となったため、開催国として出場。
1次ラウンドは今大会で優勝した[[バスケットボールドイツ代表|ドイツ]]と[[2020年東京オリンピックのバスケットボール競技|東京オリンピック]]銅メダルの[[バスケットボールオーストラリア代表|オーストラリア]]に敗れるも、[[バスケットボールフィンランド代表|フィンランド]]に逆転で2006年大会の[[バスケットボールパナマ代表|パナマ]]戦以来、対ヨーロッパ相手に初の勝利を挙げた。2次ラウンド進出はならなかったものの、順位決定ラウンドで[[バスケットボールベネズエラ代表|ベネズエラ]]、[[バスケットボールカーボベルデ代表|カーボベルデ]]に連勝し、過去最高となる3勝2敗でアジア最上位の19位で終え、[[2024年パリオリンピックのバスケットボール競技|2024年パリオリンピック]]出場を決めた<ref>{{Cite news |title=ドイツの初優勝で幕を閉じた祭典、日本代表はアジア最上位の19位…バスケW杯最終順位一覧 |url=https://basketballking.jp/news/world/wc/20230911/450862.html |newspaper=バスケットボールキング |date=2023-09-11 |accessdate=2023-10-09 }}</ref>。
なお、日本の5試合はすべて[[沖縄アリーナ]]で行われた。
== スタッフ ==
<ref name="日本代表メンバー">{{Cite news |title=【バスケW杯】日本代表メンバー一覧・試合日程・結果|FIBAワールドカップ2023 |url=https://www.sportingnews.com/jp/basketball/news/fiba-world-cup-2023-japan-mens-national-team-players-list/rqlepdsmo3awgsmsxjevmzns |newspaper=The Sporting News |date=2023-09-02 |accessdate=2023-10-09 }}</ref>
*ヘッドコーチ:[[トム・ホーバス]]
*アソシエイトヘッドコーチ:[[コーリー・ゲインズ]]
*アシスタントコーチ:[[勝久ジェフリー]]
*アシスタントコーチ:[[佐々宜央]]
== 選手 ==
<ref name="日本代表メンバー" />
{| class=wikitable
!No.!!氏名!!P!!身長/体重!!生年月日!!所属!!備考
|-
|align=center|'''2'''||[[富樫勇樹]]||PG||167cm/65kg||1993/7/30||[[千葉ジェッツふなばし|千葉ジェッツ]]||
|-
|align=center|'''5'''||[[河村勇輝]]||PG||172cm/68kg||2001/5/2||[[横浜ビー・コルセアーズ]]||
|-
|align=center|'''6'''||[[比江島慎]]||SG||191cm/88kg||1990/8/11||[[宇都宮ブレックス]]||
|-
|align=center|'''12'''||[[渡邊雄太]]||SF||206cm/97kg||1994/10/13||[[フェニックス・サンズ]]||唯一の[[NBA]]所属
|-
|align=center|'''18'''||[[馬場雄大]]||SG||195cm/90kg||1995/11/7||[[日本バスケットボール協会]]||
|-
|align=center|'''19'''||[[西田優大]]||SG||190cm/90kg||1999/3/13||[[シーホース三河]]||
|-
|align=center|'''24'''||[[ジョシュ・ホーキンソン]]||C/PF||208cm/106kg||1995/6/23||[[サンロッカーズ渋谷]]||[[帰化選手#バスケットボール|帰化選手]]枠
|-
|align=center|'''30'''||[[富永啓生]]||SG||188cm/80kg||2001/2/1||[[ネブラスカ大学リンカーン校|ネブラスカ大学]]||唯一の大学生
|-
|align=center|'''31'''||[[原修太]]||SF||187cm/96kg||1993/12/17||千葉ジェッツ||
|-
|align=center|'''75'''||[[井上宗一郎]]||PF||201cm/105kg||1999/5/7||[[越谷アルファーズ]]||
|-
|align=center|'''91'''||[[吉井裕鷹]]||SF||196cm/94kg||1998/6/4||[[アルバルク東京]]||
|-
|align=center|'''99'''||[[川真田紘也]]||C||204cm/110kg||1998/6/16||[[滋賀レイクスターズ|滋賀レイクス]]||
|}
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[バスケットボール男子日本代表]]
*[[2019年FIBAバスケットボール・ワールドカップ]]
*[[1998年バスケットボール世界選手権日本代表]]
*[[2006年バスケットボール世界選手権日本代表]]
*[[2019年FIBAバスケットボール・ワールドカップ日本代表]]
{{2023年FIBAバスケットボール・ワールドカップ日本代表}}
{{Basketball-stub}}
[[Category:FIBAバスケットボール・ワールドカップ日本代表|2023]]
[[Category:2023年の日本のスポーツ|はすけつとほおるせかいせんしゆけんにほんたいひよう]]
[[Category:2023年FIBAバスケットボール・ワールドカップ|にほん]]
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2023-10-09T10:27:30Z
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4,839,474 |
新田町 (安城市)
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新田町(しんでんちょう)は、愛知県安城市の地名。
安城市東部に位置する。東は尾崎町・北山崎町・大岡町、西は大東町・弁天町、南は上条町、北は池浦町に接する。
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる。
国勢調査による人口および世帯数の推移。
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新田町(しんでんちょう)は、愛知県安城市の地名。
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| established_title1 = 町名制定
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| area_footnotes = <ref group=WEB name="area">{{Cite web|url=https://toukei-labo.com/2015/?tdfk=23&city=23212|title=愛知県安城市の町丁・字一覧|publisher=人口統計ラボ|language=日本語|accessdate=2023-08-26}}</ref>
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| postal_code = 446-0061<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?pref=23&city=1232120&cmp=1&mode=list&addr=|title=愛知県安城市の郵便番号一覧|publisher=日本郵便|accessdate=2023-08-26}}</ref>
| area_code = 0566<ref group=WEB name=areacode>{{Cite web|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000141817.pdf|format=PDF||title=市外局番の一覧|publisher=総務省|date=2022-03-01|accessdate=2022-03-22}}</ref>
| registration_plate = [[愛知運輸支局|三河]]
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}}
'''新田町'''(しんでんちょう)は、[[愛知県]][[安城市]]の地名。
== 地理 ==
安城市東部に位置する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}。東は[[尾崎町 (安城市)|尾崎町]]・[[北山崎町]]・[[大岡町]]、西は[[大東町 (安城市)|大東町]]・[[弁天町 (安城市)|弁天町]]、南は[[上条町 (安城市)|上条町]]、北は[[池浦町 (安城市)|池浦町]]に接する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}。
=== 学区 ===
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.city.anjo.aichi.jp/manabu/gakko/kyoikushisetsu/gakku.html|title=小中学校区一覧(町別50音順)|author=安城市役所教育振興部学校教育課学事係|publisher=安城市|date=2022-04-07|accessdate=2023-10-09}}</ref>。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.pref.aichi.jp/soshiki/kotogakko/0000080445.html|title=平成29年度以降の愛知県公立高等学校(全日制課程)入学者選抜における通学区域並びに群及びグループ分け案について|publisher=愛知県教育委員会|date=2015-02-16|accessdate=2019-01-14}}</ref>。
{| class="wikitable"
!番・番地等!!小学校!!中学校!!高等学校
|-
||大山田上・小山(市道大東住吉線以西)・小山西(市道大東住吉線以西)・丼東・弁天前・丸畔||[[安城市立安城中部小学校]]||[[安城市立安城北中学校]]|| rowspan="2" |[[愛知県の高校入試#三河学区|三河学区]]
|-
||池田上・稲恵・追田・・郷西・郷東・小山(市道大東住吉線以東)・小山西(市道大東住吉線以東)新栄・新定・新定山・縦町・出郷・弁天・宮町・吉池||[[安城市立新田小学校]]||[[安城市立安城北中学校]]
|}
=== 河川 ===
* 松下用悪水{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 追田用悪水{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 柳原用水{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
== 歴史 ==
=== 町名の由来 ===
=== 人口の変遷 ===
[[国勢調査]]による人口および世帯数の推移。
{| class="wikitable"
|-
|1995年(平成7年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000023630251&fileKind=1|format=CSV|title=平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-03-28|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|845世帯<br>2758人||<div style="width:84.5px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:275.8px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2000年(平成12年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025137780&fileKind=1|format=CSV|title=平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-05-30|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|896世帯<br>2680人||<div style="width:89.6px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:268px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2005年(平成17年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025514226&fileKind=1|format=CSV|title=平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-06-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|1003世帯<br>2855人||<div style="width:100.3px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:285.5px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2010年(平成22年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000012671534&fileKind=1|format=CSV|title=平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2012-01-20|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|988世帯<br>2833人||<div style="width:98.8px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:283.3px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2015年(平成27年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000031522121&fileKind=1|format=CSV|title=平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2017-01-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|1083世帯<br>2990人||<div style="width:108.3px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:299px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2020年(令和2年)<ref group=WEB name=R2国勢調査>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000032163424&fileKind=1|format=CSV|title=令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口,外国人人口及び世帯数-町丁・字等|author=総務省統計局|date=2022-02-10|accessdate=2023-08-02|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|1122世帯<br>3012人||<div style="width:112.2px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:301.2px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|}
=== 沿革 ===
{{節スタブ}}
== 交通 ==
* JR東海道本線{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* [[名鉄西尾線]][[北安城駅]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* [[愛知県道鴛鴨安城線]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 明治緑道([[愛知県道豊田安城自転車道線]]){{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* [[愛知県道豊田安城線]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* [[愛知県道岡崎半田線]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 市道安城新田線{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 市道安城池浦線{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
== 施設 ==
* 中部浄水場{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 青少年の家{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 北部給食センター{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 安城市体育館{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 安城市総合運動公園{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* [[安城市立安城北中学校]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* [[安城市立新田小学校]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 新田保育園{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 安城青果市場{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 安城市農協新田支店{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 市営新田住宅{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 曹洞宗慈光院{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 市杵島姫神社{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 市政功労者大見為次胸像{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== WEB ===
{{Reflist|group="WEB"|refs=}}
=== 書籍 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1989|date=1989-03-08|title=[[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県|publisher=[[角川書店]]|isbn=4-04-001230-5|language=ja|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[安城市の町名]]
== 外部リンク ==
* {{commonscat-inline}}
{{Geographic Location
| Northwest<!--北西--> =
| North<!--北--> = [[池浦町 (安城市)|池浦町]]
| Northeast<!--北東--> =
| West<!--西--> = [[大東町 (安城市)|大東町]]・[[弁天町 (安城市)|弁天町]]
| Centre<!--中央--> = 新田町
| East<!--東--> = [[尾崎町 (安城市)|尾崎町]]・[[北山崎町]]・[[大岡町]]
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| South<!--南--> = [[上条町 (安城市)|上条町]]
| Southeast<!--南東--> =
}}
{{安城市の町・字}}
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[[Category:安城市の町名]]
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|
4,839,475 |
ドヴェ・モギリ
|
ドヴェ・モギリ(ブルガリア語: Две могили, Dve Mogili, 発音 [ˈdvɛ moˈɡili])は、ブルガリア北東部のルセ州にある町。同名のドヴェ・モギリ市の行政の中心地である。
州都ルセの南32キロメートルに位置する。人口は4,342人(2009年12月)。
町名は「ふたつの丘」という意味で、郊外にある丘に由来する。15世紀初頭の記録に、はじめて地名が登場する。1877年の露土戦争時には、550人の人口と100頭の馬がいた。戦後はブルガリア人のハイドゥクであるフィリプ・トチュ(1830年 - 1907年)が妻と晩年を過ごしたことで知られる。
市街の東11キロメートルには、ブルガリアで2番目に長い洞窟であるオルロヴァ・チュカ(総延長13,437メートル)がある。
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ドヴェ・モギリは、ブルガリア北東部のルセ州にある町。同名のドヴェ・モギリ市の行政の中心地である。 州都ルセの南32キロメートルに位置する。人口は4,342人(2009年12月)。 町名は「ふたつの丘」という意味で、郊外にある丘に由来する。15世紀初頭の記録に、はじめて地名が登場する。1877年の露土戦争時には、550人の人口と100頭の馬がいた。戦後はブルガリア人のハイドゥクであるフィリプ・トチュが妻と晩年を過ごしたことで知られる。 市街の東11キロメートルには、ブルガリアで2番目に長い洞窟であるオルロヴァ・チュカ(総延長13,437メートル)がある。
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}}
'''ドヴェ・モギリ'''({{lang-bg|Две могили}}, Dve Mogili, {{IPA-bg|ˈdvɛ moˈɡili|pron}})は、[[ブルガリア]]北東部の[[ルセ州]]にある町。同名のドヴェ・モギリ市の行政の中心地である。
州都[[ルセ]]の南32キロメートルに位置する。人口は4,342人(2009年12月)<ref name="statistika">{{in lang|en}} [http://www.nsi.bg/otrasalen.php?otr=53&a1=1583&a2=1584&a3=1588#cont Bulgarian National Statistical Institute - Bulgarian towns in 2009] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20101113165731/http://www.nsi.bg/otrasalen.php?otr=53&a1=1583&a2=1584&a3=1588#cont |date=November 13, 2010 }}</ref>。
町名は「ふたつの丘」という意味で、郊外にある丘に由来する。15世紀初頭の記録に、はじめて地名が登場する。[[露土戦争 (1877年-1878年)|1877年の露土戦争]]時には、550人の人口と100頭の馬がいた。戦後は[[ブルガリア人]]の[[ハイドゥク]]であるフィリプ・トチュ(1830年 - 1907年)が妻と晩年を過ごしたことで知られる。
市街の東11キロメートルには、ブルガリアで2番目に長い洞窟であるオルロヴァ・チュカ(総延長13,437メートル)がある<ref>{{cite web |url=http://www.dvemogili.bg/index.php?option=com_content&view=article&id=7&catid=3&Itemid=15&lang=bg |title=Orlova Chuka Cave|website=Official Site of Dve Mogili Municipality|access-date=24 June 2015}}</ref>。
== ギャラリー ==
<gallery>
File:Dve mogili Townhall.JPG|ドヴェ・モギリ町役場
File:Chitalishte in Dve Mogili.JPG|町内の文化クラブ(チタリシュテ)
</gallery>
== 脚注 ==
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{{DEFAULTSORT:とうえもきり}}
[[Category:ルセ州]]
[[Category:ブルガリアの都市]]
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|
4,839,482 |
メリチレリ
|
メリチレリ(ブルガリア語: Меричлери, Merichleri, [mɛrit͡ʃˈlɛri])は、ブルガリアのハスコヴォ州ディミトロヴグラト市にある小さな町。
マリツァ川近くの、標高150メートル地点に位置する。人口は2,011人(2006年)。
古代から湯治などに利用されてきた鉱泉や、アーティストのダン・テネフが2010年に制作した巨大なランド・アート Numerical Rows などで知られる。
|
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メリチレリは、ブルガリアのハスコヴォ州ディミトロヴグラト市にある小さな町。 マリツァ川近くの、標高150メートル地点に位置する。人口は2,011人(2006年)。 古代から湯治などに利用されてきた鉱泉や、アーティストのダン・テネフが2010年に制作した巨大なランド・アート Numerical Rows などで知られる。
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[[File:Merichleri location in Bulgaria.png|thumb|350px|メリチレリの位置]]
'''メリチレリ'''({{lang-bg|Меричлери}}, Merichleri, {{IPA-bg|mɛrit͡ʃˈlɛri|}})は、[[ブルガリア]]の[[ハスコヴォ州]]ディミトロヴグラト市にある小さな町<ref name="merichleri">[http://bulgariatravel.org/en/object/410/Merichleri Portal of Bulgaria—Merichleri] . accessed 6.1.2012</ref>。
[[マリツァ川]]近くの、標高150メートル地点に位置する<ref name="merichleri"/>。人口は2,011人(2006年)。
古代から湯治などに利用されてきた鉱泉や、アーティストのダン・テネフが2010年に制作した巨大な[[ランド・アート]] ''Numerical Rows'' などで知られる。
== 脚注 ==
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[[Category:ハスコヴォ州の都市]]
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|
4,839,484 |
末広町 (安城市)
|
末広町(すえひろちょう)は、愛知県安城市の地名。
安城市中央部に位置する。東は相生町、西は花ノ木町、北は御幸本町に接する。
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる。
国勢調査による人口および世帯数の推移。
|
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末広町(すえひろちょう)は、愛知県安城市の地名。
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| image_caption = <!--- 画像の説明 --->
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| area_footnotes = <ref group=WEB name="area">{{Cite web|url=https://toukei-labo.com/2015/?tdfk=23&city=23212|title=愛知県安城市の町丁・字一覧|publisher=人口統計ラボ|language=日本語|accessdate=2023-08-26}}</ref>
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| timezone1 = [[日本標準時]]
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| postal_code = 446-0038<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?pref=23&city=1232120&cmp=1&mode=list&addr=|title=愛知県安城市の郵便番号一覧|publisher=日本郵便|accessdate=2023-08-26}}</ref>
| area_code = 0566<ref group=WEB name=areacode>{{Cite web|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000141817.pdf|format=PDF||title=市外局番の一覧|publisher=総務省|date=2022-03-01|accessdate=2022-03-22}}</ref>
| registration_plate = [[愛知運輸支局|三河]]
| footnotes =
}}
'''末広町'''(すえひろちょう)は、[[愛知県]][[安城市]]の地名。
== 地理 ==
安城市中央部に位置する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}。東は[[相生町 (安城市)|相生町]]、西は[[花ノ木町 (安城市)|花ノ木町]]、北は[[御幸本町 (安城市)|御幸本町]]に接する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}。
=== 学区 ===
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.city.anjo.aichi.jp/manabu/gakko/kyoikushisetsu/gakku.html|title=小中学校区一覧(町別50音順)|author=安城市役所教育振興部学校教育課学事係|publisher=安城市|date=2022-04-07|accessdate=2023-10-09}}</ref>。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.pref.aichi.jp/soshiki/kotogakko/0000080445.html|title=平成29年度以降の愛知県公立高等学校(全日制課程)入学者選抜における通学区域並びに群及びグループ分け案について|publisher=愛知県教育委員会|date=2015-02-16|accessdate=2019-01-14}}</ref>。
{| class="wikitable"
!番・番地等!!小学校!!中学校!!高等学校
|-
||全域||[[安城市立錦町小学校]]||[[安城市立安城南中学校]]||[[愛知県の高校入試#三河学区|三河学区]]
|}
=== 河川 ===
* 追田悪水{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
== 歴史 ==
=== 町名の由来 ===
=== 人口の変遷 ===
[[国勢調査]]による人口および世帯数の推移。
{| class="wikitable"
|-
|1995年(平成7年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000023630251&fileKind=1|format=CSV|title=平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-03-28|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|228世帯<br>646人||<div style="width:22.8px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:64.6px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2000年(平成12年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025137780&fileKind=1|format=CSV|title=平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-05-30|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|216世帯<br>572人||<div style="width:21.6px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:57.2px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2005年(平成17年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025514226&fileKind=1|format=CSV|title=平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-06-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|216世帯<br>522人||<div style="width:21.6px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:52.2px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2010年(平成22年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000012671534&fileKind=1|format=CSV|title=平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2012-01-20|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|197世帯<br>448人||<div style="width:19.7px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:44.8px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2015年(平成27年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000031522121&fileKind=1|format=CSV|title=平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2017-01-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|138世帯<br>322人||<div style="width:13.8px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:32.2px;height:10px;background:#9999ff"></div>
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|style="text-align:right"|196世帯<br>477人||<div style="width:19.6px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:47.7px;height:10px;background:#9999ff"></div>
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=== 沿革 ===
{{節スタブ}}
== 交通 ==
* [[愛知県道安城碧南線]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
== 施設 ==
* 公民館{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 老人憩の家{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 浄土宗受頭院{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 浄閑寺{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== WEB ===
{{Reflist|group="WEB"|refs=}}
=== 書籍 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1989|date=1989-03-08|title=[[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県|publisher=[[角川書店]]|isbn=4-04-001230-5|language=ja|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[安城市の町名]]
== 外部リンク ==
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| North<!--北--> = [[御幸本町 (安城市)|御幸本町]]
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[[Category:安城市の町名]]
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ヴェトレン
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ヴェトレン(ブルガリア語: Ветрен, Vetren, [ˈvɛtrɛn])は、ブルガリアのパザルジク州にある小さな町。2003年に町制施行された、国内で最も新しい町のひとつである。人口は3,355人。豊かな農業地域で、トラキア高速道路にも近い。
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ヴェトレンは、ブルガリアのパザルジク州にある小さな町。2003年に町制施行された、国内で最も新しい町のひとつである。人口は3,355人。豊かな農業地域で、トラキア高速道路にも近い。
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'''ヴェトレン'''({{lang-bg|Ветрен}}, Vetren, {{IPA-bg|ˈvɛtrɛn|}})は、[[ブルガリア]]の[[パザルジク州]]にある小さな町。2003年に町制施行された、国内で最も新しい町のひとつである。人口は3,355人。豊かな農業地域で、トラキア高速道路にも近い。
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カブレシュコヴォ
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カブレシュコヴォ(ブルガリア語: Каблешково, Kableshkovo, [kɐbˈlɛʃkovo])は、ブルガリアのブルガス州ポモリエ市にある小さな町。人口は2,866人(2005年)。
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カブレシュコヴォは、ブルガリアのブルガス州ポモリエ市にある小さな町。人口は2,866人(2005年)。
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{{Commonscat|Kableshkovo}}
'''カブレシュコヴォ'''({{lang-bg|Каблешково}}, Kableshkovo, {{IPA-bg|kɐbˈlɛʃkovo|}})は、[[ブルガリア]]の[[ブルガス州]]ポモリエ市にある小さな町。人口は2,866人(2005年)。
== ギャラリー ==
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File:Kableshkovo, Каблешково - panoramio.jpg|カブレシュコヴォの街並み
File:Kableshkovo cultural club.jpg|町内の文化センター(チタリシュテ)
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4,839,494 |
エオトラコサウルス
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エオトラコサウルス(学名:Eothoracosaurus)は、アメリカ合衆国ミシシッピ州に分布する後期白亜紀マーストリヒチアン期の地層から化石が産出した、正鰐類に属する絶滅したワニ形上目の属。現生種のインドガビアルと同様に吻部が細長く伸びており、化石種ではトラコサウルスと類似する。陸に近い海成層から化石が産出しており、海棲の属であったかは定かではないものの、海岸線の環境を好んでいたことが示唆される。
エオトラコサウルスの化石は上部白亜系下部マーストリヒチアン階にあたるアメリカ合衆国ミシシッピ州のリプリー層(英語版)で発見されており、テネシー州西部に分布する上部カンパニアン階の可能性のあるクーンクリーク層(英語版)からも断片的な化石が知られている。1931年に発見されたホロタイプ標本 MSU 3293 は頭蓋骨と体骨格からなり、1983年にケネス・カーペンターが記載してThoracosaurus neocesariensisに分類した。その後2004年にクリストファー・ブローシュが本標本を再調査し、他のトラコサウルスとの間の差異を特筆し、別属としての正当な根拠となるには十分であると判断した。こうして新属エオトラコサウルスが命名された。
属名はThoracosaurusと「夜明け」を意味する接頭辞 "eos" に由来しており、トラコサウルスと比較して層序的に低い位置で発見され、系統発生的により基盤的な位置にあることを踏まえている。種小名mississippiensisはホロタイプ標本が発見されたミシシッピ州と、確実に本属の生息域が広がっていたミシシッピ湾にちなむ。
現生のインドガビアルと同様にエオトラコサウルスの頭蓋骨は長く伸びており、頭部は遥かに後方で幅広になる。外鼻孔は完全に前上顎骨に囲まれている。前上顎骨は上顎骨の間で遥かに後側に伸び、腹側から見た際には第三歯、背側から見た際には第四歯の位置まで伸びる。左右の前上顎骨には5本の歯が生えており、前側の4本の大きさはほぼ等しいが、5本目の歯は顕著に小型化している。前上顎骨と上顎骨の間には外側に小さな切痕が存在する。左右の上顎骨にはそれぞれ21本から22本の歯が存在し、最初の歯は後側の歯よりも小さく、最後の7本の歯まで大まかに一貫して大きさを増した後、最後の7本で次第に小型化する。保存された歯は細長く、等間隔で配列する。頭蓋骨は全体的に広がるが、上顎骨の幅はそれにかかわらずほぼ一定である。対をなす鼻骨は吻部の大部分を被覆し、前上顎骨に小さな楔を作るように伸びる。鼻骨は上顎骨と平行に第十一歯まで伸びており、その時点で涙骨とほぼ接するまで拡大する。鼻骨の後側は前頭骨の細長い前頭突起が接する。エオトラコサウルスの前頭突起の長さは前頭骨本体の2倍に達するが、トラコサウルスでは突起と本体の比率は1:1に近く、インドガビアルではさらに突起が短縮する。側頭窓の間に存在する、頭頂骨からなる骨のバーの形状はエオトラコサウルスを区別するもう一つの重要な特徴であり、本属においては側頭窓の長さの約半分に達するほど比較的幅広である。一方トラコサウルスでは種によって幅が1/3から1/4の間で変化し、現生のインドガビアルでは年齢によって異なるものの一般に窓の幅に対して小さい。
エオトラコサウルスやトラコサウルスと現生のワニの関係は長らく不確かであり、議論が続けられてきた。初期の研究においてトラコサウルスは、当時はクロコダイル科の下位分類として扱われていた、現生のマレーガビアルやその類縁種を含むトミストマ亜科と関連づけられた。その後、2004年にブローシュはエオトラコサウルスを記載した際に彼らがインドガビアル科の基盤的位置で側系統群をなすと判断した。この研究においてトミストマ亜科とトラコサウルス類を結びつける形質の大部分は共有原始形質であると指摘され、仮にマレーガビアルとインドガビアルが系統樹上で想定されるよりも近縁であったとしてもエオトラコサウルスはインドガビアルに近い位置に置かれるであろうと考えられた。この可能性は、トミストマ亜科をインドガビアル上科の基盤的位置での側系統群とした分子系統解析によって繰り返し支持されることになる。
以下のクラドグラムは、トラコサウルス類を基盤的なインドガビアル上科のグループとして扱った、形態情報に基づくRio and Mannion (2021)の系統解析で得られたものである。ただし、解剖学的特徴はインドガビアル上科との類似性に一致するが、これらの固有派生形質は一般に曖昧であり、独自に吻部の長いグループの頭蓋骨の形態が進化したことによる収斂進化に関係する可能性があると著者らは指摘している。
形態情報・分子情報・層序情報を組み合わせた系統研究からは、トラコサウルス類をインドガビアル上科ではなく基盤的な正鰐類とし、ワニ目の外に置く見解もある。以下のクラドグラムが一例である。
エオトラコサウルスのようなトラコサウルス類は一般に海洋環境や沿岸の生息地と関連する。クーンクリーク層(英語版)から産出した脊椎動物の属には、サメのオトドゥスやスクアリコラックス、ウミガメのトクソケリス(英語版)、モササウルス科のプリオプラテカルプスやグロビデンスがいる。
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"text": "エオトラコサウルスのようなトラコサウルス類は一般に海洋環境や沿岸の生息地と関連する。クーンクリーク層(英語版)から産出した脊椎動物の属には、サメのオトドゥスやスクアリコラックス、ウミガメのトクソケリス(英語版)、モササウルス科のプリオプラテカルプスやグロビデンスがいる。",
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エオトラコサウルスは、アメリカ合衆国ミシシッピ州に分布する後期白亜紀マーストリヒチアン期の地層から化石が産出した、正鰐類に属する絶滅したワニ形上目の属。現生種のインドガビアルと同様に吻部が細長く伸びており、化石種ではトラコサウルスと類似する。陸に近い海成層から化石が産出しており、海棲の属であったかは定かではないものの、海岸線の環境を好んでいたことが示唆される。
|
{{生物分類表
|省略=爬虫綱
|名称 = エオトラコサウルス
|地質時代 = [[後期白亜紀]][[カンパニアン]]?
|地質時代2 = [[マーストリヒチアン]]
|画像=[[File:Eothoracosaurus size.png|250px]]
|画像キャプション = エオトラコサウルスとヒトの大きさ比較
|上綱 = [[四肢動物|四肢動物上綱]] {{sname|en|Tetrapod|Tetrapoda}}
|亜綱 =[[双弓類|双弓亜綱]] {{sname|en|Diapsid|Diapsida}}
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|上目階級なし = [[新鰐類]] {{sname||Neosuchia}}
|目階級なし = [[正鰐類]] {{sname||Eusuchia}}
|属 = '''エオトラコサウルス属''' {{snamei||Eothoracosaurus}}
|学名 = '''''Eothoracosaurus''''' {{AUY|Brochu|2004}}
|下位分類名 = [[種 (分類学)|種]]
|下位分類 =
*'''''Eothoracosaurus mississippiensis''''' {{AUY|Brochu|2004}}
}}
'''エオトラコサウルス'''([[学名]]:'''''Eothoracosaurus''''')は、[[アメリカ合衆国]][[ミシシッピ州]]に分布する[[後期白亜紀]][[マーストリヒチアン]]期の[[地層]]から[[化石]]が産出した、[[正鰐類]]に属する[[絶滅]]した[[ワニ形上目]]の[[属 (分類学)|属]]。現生種の[[インドガビアル]]と同様に吻部が細長く伸びており、化石種では[[トラコサウルス]]と類似する。陸に近い海成層から化石が産出しており、海棲の属であったかは定かではないものの、海岸線の環境を好んでいたことが示唆される<ref name=小林2013>{{Cite book|和書|title=ワニと恐竜の共存 巨大ワニと恐竜の世界 |author=小林快次|authorlink=小林快次 |publisher=[[北海道大学出版会]] |isbn=978-4-8329-1398-1 |page=38 |date=2013-07-25}}</ref>。
== 発見と命名 ==
エオトラコサウルスの化石は上部白亜系下部マーストリヒチアン階にあたるアメリカ合衆国ミシシッピ州の{{仮リンク|リプリー層|en|Ripley Formation}}で発見されており、[[テネシー州]]西部に分布する上部[[カンパニアン]]階の可能性のある{{仮リンク|クーンクリーク層|en|Coon Creek Formation}}からも断片的な化石が知られている<ref name="Brochu2004"/>。1931年に発見されたホロタイプ標本 MSU 3293 は頭蓋骨と体骨格からなり、1983年に[[ケネス・カーペンター (古生物学者)|ケネス・カーペンター]]が記載して''[[トラコサウルス|Thoracosaurus neocesariensis]]''に分類した<ref name=Kenneth>{{Cite journal|last1=Carpenter|first1=K.|year=1983|title=Thoracosaurus neocesariensis (De Kay , 1842) (Crocodylia: Crocodylidae) from the Late Cretaceous Ripley Formation of Mississippi|url=https://www.mdeq.ms.gov/wp-content/uploads/2013/10/Vol_4_1.pdf|journal=Mississippi Geology|volume=4|issue=1}}</ref>。その後2004年にクリストファー・ブローシュが本標本を再調査し、他のトラコサウルスとの間の差異を特筆し、別属としての正当な根拠となるには十分であると判断した。こうして新属エオトラコサウルスが命名された<ref name="Brochu2004"/>。
属名は''Thoracosaurus''と「夜明け」を意味する接頭辞 "eos" に由来しており、トラコサウルスと比較して層序的に低い位置で発見され、系統発生的により基盤的な位置にあることを踏まえている。種小名''mississippiensis''はホロタイプ標本が発見されたミシシッピ州と、確実に本属の生息域が広がっていたミシシッピ湾にちなむ<ref name="Brochu2004"/>。
== 特徴 ==
現生のインドガビアルと同様にエオトラコサウルスの頭蓋骨は長く伸びており、頭部は遥かに後方で幅広になる。外鼻孔は完全に[[前上顎骨]]に囲まれている。前上顎骨は[[上顎骨]]の間で遥かに後側に伸び、腹側から見た際には第三歯、背側から見た際には第四歯の位置まで伸びる。左右の前上顎骨には5本の歯が生えており、前側の4本の大きさはほぼ等しいが、5本目の歯は顕著に小型化している。前上顎骨と上顎骨の間には外側に小さな切痕が存在する。左右の上顎骨にはそれぞれ21本から22本の歯が存在し、最初の歯は後側の歯よりも小さく、最後の7本の歯まで大まかに一貫して大きさを増した後、最後の7本で次第に小型化する。保存された歯は細長く、等間隔で配列する。頭蓋骨は全体的に広がるが、上顎骨の幅はそれにかかわらずほぼ一定である。対をなす[[鼻骨]]は吻部の大部分を被覆し、前上顎骨に小さな楔を作るように伸びる。鼻骨は上顎骨と平行に第十一歯まで伸びており、その時点で[[涙骨]]とほぼ接するまで拡大する。鼻骨の後側は[[前頭骨]]の細長い前頭突起が接する。エオトラコサウルスの前頭突起の長さは前頭骨本体の2倍に達するが、トラコサウルスでは突起と本体の比率は1:1に近く、インドガビアルではさらに突起が短縮する。[[側頭窓]]の間に存在する、[[頭頂骨]]からなる骨のバーの形状はエオトラコサウルスを区別するもう一つの重要な特徴であり、本属においては側頭窓の長さの約半分に達するほど比較的幅広である。一方トラコサウルスでは種によって幅が1/3から1/4の間で変化し、現生のインドガビアルでは年齢によって異なるものの一般に窓の幅に対して小さい<ref name="Brochu2004">{{Cite journal |last1=Brochu |first1=Christopher A. |year=2004 |title=A new Late Cretaceous gavialoid crocodylian from eastern North America and the phylogenetic relationships of thoracosaurs |url=https://www.researchgate.net/publication/40662929_A_new_Late_Cretaceous_gavialoid_crocodylian_from_eastern_North_America_and_the_phylogenetic_relationships_of_Thoracosaurs |journal=[[Journal of Vertebrate Paleontology]] |volume=24 |issue=3 |pages=610–633 |doi=10.1671/0272-4634(2004)024[0610:ANLCGC]2.0.CO;2}}</ref>。
== 系統 ==
エオトラコサウルスやトラコサウルスと現生の[[ワニ]]の関係は長らく不確かであり、議論が続けられてきた。初期の研究においてトラコサウルスは、当時は[[クロコダイル科]]の下位分類として扱われていた、現生の[[マレーガビアル]]やその類縁種を含む[[トミストマ亜科]]と関連づけられた。その後、2004年にブローシュはエオトラコサウルスを記載した際に彼らが[[インドガビアル科]]の基盤的位置で側系統群をなすと判断した。この研究においてトミストマ亜科とトラコサウルス類を結びつける形質の大部分は[[共有原始形質]]であると指摘され、仮に[[マレーガビアル]]と[[インドガビアル]]が系統樹上で想定されるよりも近縁であったとしてもエオトラコサウルスはインドガビアルに近い位置に置かれるであろうと考えられた<ref name="Brochu2004"/>。この可能性は、トミストマ亜科をインドガビアル上科の基盤的位置での[[側系統群]]とした分子系統解析によって繰り返し支持されることになる<ref name="LeeYates2018">{{cite journal | author=Michael S. Y. Lee |author2=Adam M. Yates |date=27 June 2018 |title=Tip-dating and homoplasy: reconciling the shallow molecular divergences of modern gharials with their long fossil |journal=[[Proceedings of the Royal Society B]] |volume=285 |issue=1881 |doi=10.1098/rspb.2018.1071 |pmid=30051855 |pmc=6030529 |doi-access=free}}</ref>。
以下の[[クラドグラム]]は、トラコサウルス類を基盤的なインドガビアル上科のグループとして扱った、形態情報に基づくRio and Mannion (2021)の系統解析で得られたものである。ただし、解剖学的特徴はインドガビアル上科との類似性に一致するが、これらの[[固有派生形質]]は一般に曖昧であり、独自に吻部の長いグループの頭蓋骨の形態が進化したことによる[[収斂進化]]に関係する可能性があると著者らは指摘している<ref name="Rio2021">{{cite journal |last1=Rio |first1=Jonathan P. |last2=Mannion |first2=Philip D. |date=6 September 2021 |title=Phylogenetic analysis of a new morphological dataset elucidates the evolutionary history of Crocodylia and resolves the long-standing gharial problem |journal=[[PeerJ]] |volume=9 |pages=e12094 |doi=10.7717/peerj.12094 |pmid=34567843 |pmc=8428266 |doi-access=free}}</ref>。
{{clade| style=font-size:85%;line-height:85%
|label1=[[インドガビアル科]]
|1={{clade
|label1=[[トミストマ亜科]]
|1={{clade
|1=''[[パラトミストマ|Paratomistoma courti]]''
|2=''Tomistoma schlegelii'', '''[[マレーガビアル]]'''
}}
|2={{clade
|1=''[[マチカネワニ|Toyotamaphimeia machikanensis]]''
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|1=''[[ペンフースクス|Penghusuchus pani]]''
|2={{clade
|1={{clade
|1=''[[マレーガビアル属|"Tomistoma" cairense]]''
|2={{clade
|1=''[[トラコサウルス|Thoracosaurus isorhynchus]]''
|2={{clade
|1=''[[エオスクス|Eosuchus minor]]''
|2=''[[エオスクス|Eosuchus lerichei]]''
}}}}}}
|2={{clade
|1={{clade
|1=''[[ポルトガロスクス|Portugalosuchus azenhae]]''
|2={{clade
|1=''[[トラコサウルス|Thoracosaurus neocesariensis]]''
|2='''''Eothoracosaurus mississippiensis'''''
}}}}
|2={{clade
|1=''[[マレーガビアル属|Tomistoma dowsoni]]''
|2={{clade
|1=''[[エオガビアリス|Eogavialis africanum]]''
|2={{clade
|1=''[[アクチオガビアリス|Aktiogavialis caribesi]]''
|2={{clade
|1=''[[アルゴチャンプサ|Argochampsa krebsi]]''
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|1={{clade
|1=''[[ピスコガビアリス|Piscogavialis jugaliperforatus]]''
|2={{clade
|1=''[[シクイシクエスクス|Siquisiquesuchus venezuelensis]]''
|2=''[[イカノガビアリス|Ikanogavialis gameroi]]''
}}}}
|2={{clade
|1=''[[ダダガビアリス|Dadagavialis gunai]]''
|2={{clade
|1={{clade
|1=''[[グリポスクス|Gryposuchus pachakamue]]''
|2=''[[グリポスクス|Gryposuchus colombianus]]''
}}
|2={{clade
|1=''[[グリポスクス|Gryposuchus neogaeus]]''
|2={{clade
|1=''[[グリポスクス|Gryposuchus croizati]]''
|2={{clade
|1=''[[インドガビアル属|Gavialis lewisi]]''
|2={{clade
|1=''[[インドガビアル属|Gavialis browni]]''
|2=''Gavialis gangeticus'', '''[[インドガビアル]]'''
}}}}}}}}}}}}}}}}}}}}}}}}}}}}}}}}}}
形態情報・分子情報・層序情報を組み合わせた系統研究からは、トラコサウルス類をインドガビアル上科ではなく基盤的な[[正鰐類]]とし、ワニ目の外に置く見解もある<ref name="LeeYates2018"/><ref name=Darlim>{{Cite journal|last1=Darlim|first1=G.|last2=Lee|first2=M.S.Y.|last3=Walter|first3=J.| last4=Rabi| first4=M.|year=2022|title=The impact of molecular data on the phylogenetic position of the putative oldest crown crocodilian and the age of the clade|url=https://royalsocietypublishing.org/doi/10.1098/rsbl.2021.0603|journal=The Royal Society|volume=18|issue=2|doi= 10.1098/rsbl.2021.0603|pmc=8825999}}</ref>。以下のクラドグラムが一例である<ref name="LeeYates2018"/>。
{{clade| style=font-size:85%;line-height:85%
|1={{clade
|1={{clade
|1=''[[アロダポスクス|Allodaposuchus palustris]]''
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|2={{clade
|1={{clade
|1={{clade
|1=''[[ボレアロスクス|Borealosuchus sternbergii]]''
|2={{clade
|1=''[[ボレアロスクス|Borealosuchus formidabilis]]''
|2={{clade
|1=''[[ボレアロスクス|Borealosuchus acutidentatus]]''
|2=''[[ボレアロスクス|Borealosuchus wilsoni]]''
}}}}}}
|label2=トラコサウルス類
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|1=''[[トラコサウルス|Thoracosaurus neocesariensis]]''
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}}
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|1=''[[アルゴチャンプサ|Argochampsa krebsi]]''
|2={{clade
|1=''[[エオガビアリス|Eogavialis africanum]]''
|2={{clade
|1=''[[エオスクス|Eosuchus minor]]''
|2=''[[エオスクス|Eosuchus lerichei]]''
}}}}}}}}}}}}
|2={{clade
|1={{仮リンク|プラノクラニア科|en|Planocraniidae}}
|label2='''[[ワニ|ワニ目]]'''
|2={{clade
|1=[[アリゲーター上科]]
|2={{clade
|1=[[インドガビアル上科]]
|2=[[クロコダイル科]]
}}}}}}}}}}}}
== 古環境 ==
エオトラコサウルスのようなトラコサウルス類は一般に海洋環境や沿岸の生息地と関連する。{{仮リンク|クーンクリーク層|en|Coon Creek Formation}}から産出した脊椎動物の属には、[[サメ]]の[[オトドゥス]]や[[スクアリコラックス]]、[[ウミガメ]]の{{仮リンク|トクソケリス|en|Toxochelys}}、[[モササウルス科]]の[[プリオプラテカルプス]]や[[グロビデンス]]がいる<ref>{{Cite journal | last1 = Gibson | first1 = M. A | year = 2008 | title = Review of vertebrate diversity in the Coon Creek Formation lagerstätte (Late Cretaceous) of western Tennessee | journal = Geological Society of America Abstracts with Programs | volume = 40 | issue = 3| page = 8 }}</ref>。
== 出典 ==
{{Reflist|2}}
{{デフォルトソート:えおとらこさうるす}}
[[Category:化石偽鰐類]]
[[Category:マーストリヒチアンの生物]]
[[Category:アメリカ合衆国産の化石]]
[[Category:2004年に記載された化石分類群]]
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4,839,497 |
甗
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甗(げん)は、古代中国で用いられていた炊器、祭祀用の礼器(中国語版)。主に穀物を蒸すために用いられたが、肉類の煮炊きにも用いられた。銘文などから、時期によっては獻や鬳と表記されることもある。基本的に青銅製もしくは陶製だった。
新石器時代には既に陶製の甗が登場しており、黄河流域で新石器時代末期~殷、周代にかけて流行した。
青銅製の甗は殷代初期に登場して以降、春秋戦国時代末期までの長い間用いられた。殷代初期は生産量も少なかったが、末期には増産されるようになった。出土した殷代の甗のほとんどは簀が欠落しているが、西周以降の甗には銅製の簀が付いているものも多い。殷周時代の甗は連体型と分体型の2種類に分類でき、春秋戦国時代までは甑と鬲をそれぞれ単独で用いることはなかったと推定される。春秋戦国時代中期~末期になると、円形の分体甗は鬲部の袋足が縮小して底面は平らに近くなり、甑部と鬲部を併せもつ甗は次第に姿を消していった。一部地域では、甑を指して甗と呼称することもあった。秦、前漢時代になると、甗の下部は釜型に変形していき、釜の中部にはかまどに引っかけられるような溝が施されるようになった。
甗には、上下が接続された連体甗と、上下が分かれた分体甗が存在する。分体甗は上部が甑、下部が鬲から成っており、連体甗も上部と下部がそれぞれ甑と鬲に類似している。なお、これまでに発見された青銅製の甗は、その大半が連体甗である。陶製の甗は灰色もしくは黒灰色で、器に縄目の文が施されており、口縁部には鶏冠状の隆起線文が見られる。
甗は蒸し器としての役割を有しており、下部の鬲で水を沸かし、上部の甑で食物を蒸すことができた。甗の上下の連結部分は簀で分けられており、甑には蓋を設置することもできた。発掘された甗には、このような簀や蓋が存在しないものもあったが、竹や木など他の素材で作られていたか、埋蔵前に失われた可能性が考えられる。簀には直線状もしくは十字状の穴が開いているが、この穴から蒸気を通していた。
殷代に製作された甗は、ほとんどが甑と鬲をつなぎ合わせて鋳造されていた。甑には多くの立耳があり、甑本体は深く作られている。このような特徴をもつ甗は、中原だけでなく、遠く離れた地域でも発掘されている。一般的に甑と鬲は一対だが、殷代の末期になると一つの鬲に三つの甑が付いた甗が登場するようになった。この甗を「三連甗」と呼ぶ。1976年、河南省安陽市にある殷墟の婦好墓(中国語版)から発見された、「婦好三連甗」などが知られる。
西周初期には、鬲の足部に饕餮文を施した甗が多く製造されるようになった。
春秋戦国時代以降、炊具としての利用頻度が増すと、鬲部の袋足が次第に失われて「釜」に変化していき、甗は甑の別称として捉えられるようになった。甑と釜から構成される炊具は、甗鍑(げんふく)と呼称されることもある。
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甗(げん)は、古代中国で用いられていた炊器、祭祀用の礼器。主に穀物を蒸すために用いられたが、肉類の煮炊きにも用いられた。銘文などから、時期によっては獻や鬳と表記されることもある。基本的に青銅製もしくは陶製だった。
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[[File:CMOC Treasures of Ancient China exhibit - bronze yan.jpg|thumb|150px|青銅連体甗(周代)]]
'''甗'''(げん)は、[[古代]][[中国]]で用いられていた炊器、{{仮リンク|中国の礼器|zh|中國禮器|label=祭祀用の礼器}}。主に穀物を蒸すために用いられたが、肉類の煮炊きにも用いられた<ref>{{Cite journal|和書|title=殷王朝滅亡の原因を探る|author=[[飯島武次]]|journal=駒澤史学|publisher=駒沢史学会|volume=98|page=43|crid=1050291768316543616|url=http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/MD40140629/rsg098-03-iijima.pdf}}</ref>。銘文などから、時期によっては'''獻'''や'''鬳'''と表記されることもある。基本的に[[青銅器|青銅]]製もしくは[[陶器|陶]]製だった。
== 歴史 ==
[[File:Gray Pottery Yan, Henan Museum.jpg|thumb|150px|[[鄭州市]][[二里岡文化|二里崗]]出土の灰陶甗(殷代前期、河南博物院所蔵)]]
[[File:Bronze Rectangular Yan with Wave Design.jpg|thumb|150px|分体甗]]
[[新石器時代]]には既に陶製の甗が登場しており、[[黄河]]流域で新石器時代末期~殷、[[周]]代にかけて流行した。
青銅製の甗は[[殷]]代初期に登場して以降、[[春秋戦国時代]]末期までの長い間用いられた。殷代初期は生産量も少なかったが、末期には増産されるようになった。出土した殷代の甗のほとんどは[[簀]]が欠落しているが、[[西周 (王朝)|西周]]以降の甗には銅製の簀が付いているものも多い。殷周時代の甗は連体型と分体型の2種類に分類でき、春秋戦国時代までは甑と鬲をそれぞれ単独で用いることはなかったと推定される。春秋戦国時代中期~末期になると、円形の分体甗は鬲部の袋足が縮小して底面は平らに近くなり、甑部と鬲部を併せもつ甗は次第に姿を消していった。一部地域では、甑を指して甗と呼称することもあった。[[秦]]、[[前漢]]時代になると、甗の下部は釜型に変形していき、釜の中部にはかまどに引っかけられるような溝が施されるようになった<ref name=zhuf/>。
== 形状 ==
[[File:Grate of a Bronze Yan.jpg|thumb|150px|十字状の穴が開けられた簀]]
甗には、上下が接続された連体甗と、上下が分かれた分体甗が存在する。分体甗は上部が[[甑]]、下部が[[鬲]]から成っており、連体甗も上部と下部がそれぞれ甑と鬲に類似している<ref name="bunka">{{Cite web|和書|url=https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/148847|title=甗|publisher=文化遺産オンライン(文化庁)|accessdate=2023-10-09}}</ref>。なお、これまでに発見された青銅製の甗は、その大半が連体甗である<ref name=zhuf>{{Cite book|title=中国青铜器综论 |author=朱凤瀚|isbn=978-7-5325-5055-5|publisher=上海古籍出版社|date=2009年12月}}</ref>。陶製の甗は灰色もしくは黒灰色で、器に縄目の文が施されており、[[口縁部]]には鶏冠状の隆起線文が見られる。
甗は蒸し器としての役割を有しており、下部の鬲で水を沸かし、上部の甑で食物を蒸すことができた。甗の上下の連結部分は簀で分けられており、甑には蓋を設置することもできた。発掘された甗には、このような簀や蓋が存在しないものもあったが、[[竹]]や[[木材|木]]など他の素材で作られていたか、埋蔵前に失われた可能性が考えられる。簀には直線状もしくは十字状の穴が開いているが、この穴から[[蒸気]]を通していた<ref name="bunka"/><ref>{{Citeweb |title=春秋晚期青铜带流甗 |url=http://collection.sina.com.cn/jczs/20130914/1814127347.shtml |publisher=新浪收藏-收藏快报 |author=张剑 |access-date=2013-12-26 |archive-date=2019-06-11 |archive-url=https://web.archive.org/web/20190611140218/http://collection.sina.com.cn/jczs/20130914/1814127347.shtml |dead-url=no }}</ref>。
[[殷]]代に製作された甗は、ほとんどが甑と鬲をつなぎ合わせて鋳造されていた。甑には多くの立耳があり、甑本体は深く作られている。このような特徴をもつ甗は、[[中原]]だけでなく、遠く離れた地域でも発掘されている。一般的に甑と鬲は一対だが、殷代の末期になると一つの鬲に三つの甑が付いた甗が登場するようになった。この甗を「三連甗」と呼ぶ。[[1976年]]、[[河南省]][[安陽市]]にある[[殷墟]]の{{仮リンク|婦好墓|zh|妇好墓}}から発見された、「婦好三連甗」などが知られる<ref>{{Citeweb|title=“妇好”青铜三联甗|url=http://www.chnmuseum.cn/zp/zpml/201812/t20181218_25864.shtml|publisher=中国国家博物馆官网|author=苏强等|access-date=2020-10-17|archive-date=2020-11-01|archive-url=https://web.archive.org/web/20201101161422/http://www.chnmuseum.cn/zp/zpml/201812/t20181218_25864.shtml|dead-url=yes}}</ref>。
西周初期には、鬲の足部に{{仮リンク|饕餮文|zh|饕餮纹}}を施した甗が多く製造されるようになった<ref name="bunka"/>。
春秋戦国時代以降、炊具としての利用頻度が増すと、鬲部の袋足が次第に失われて「釜」に変化していき、甗は甑の別称として捉えられるようになった。甑と釜から構成される炊具は、'''甗鍑'''(げんふく)と呼称されることもある<ref name=zhuf/>。
== 主な甗 ==
<gallery>
Bronze Yan with Animal-mask Motif.jpg|饕餮文銅甗(西周)
Gefujia Yan Steamer.jpg|戈父甲甗(西周早期)
Bronze Yan with Beast-face Design.jpg|饕餮文甗(西周早期)
Fuyi Yan.jpg|父乙甗(西周中期)
Yubo Yan.jpg|𢐗伯甗(西周中期)
Square Yan with Interlaced-hydras Design.jpg|蟠螭文方甗(春秋時代)
Bronze Yan, Baoji Bronze Ware Museum.jpg|銅甗(春秋時代)
Painted Pottery Yan, Western Han.jpg|彩絵陶甗(前漢)
</gallery>
== 脚注 ==
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{{中国の礼器}}
{{デフォルトソート:けん}}
[[Category:夏殷周]]
[[Category:祭器]]
[[Category:青銅器]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%97
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4,839,498 |
住吉町 (安城市)
|
住吉町(すみよしちょう)は、愛知県安城市の地名。
安城市北西部に位置する。
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる。
国勢調査による人口および世帯数の推移。
|
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住吉町(すみよしちょう)は、愛知県安城市の地名。
|
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| timezone1 = [[日本標準時]]
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| postal_code = 446-0072<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?pref=23&city=1232120&cmp=1&mode=list&addr=|title=愛知県安城市の郵便番号一覧|publisher=日本郵便|accessdate=2023-08-26}}</ref>
| area_code = 0566<ref group=WEB name=areacode>{{Cite web|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000141817.pdf|format=PDF||title=市外局番の一覧|publisher=総務省|date=2022-03-01|accessdate=2022-03-22}}</ref>
| registration_plate = [[愛知運輸支局|三河]]
| footnotes =
}}
'''住吉町'''(すみよしちょう)は、[[愛知県]][[安城市]]の地名。
== 地理 ==
安城市北西部に位置する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}。
=== 学区 ===
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.city.anjo.aichi.jp/manabu/gakko/kyoikushisetsu/gakku.html|title=小中学校区一覧(町別50音順)|author=安城市役所教育振興部学校教育課学事係|publisher=安城市|date=2022-04-07|accessdate=2023-10-09}}</ref>。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.pref.aichi.jp/soshiki/kotogakko/0000080445.html|title=平成29年度以降の愛知県公立高等学校(全日制課程)入学者選抜における通学区域並びに群及びグループ分け案について|publisher=愛知県教育委員会|date=2015-02-16|accessdate=2019-01-14}}</ref>。
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!番・番地等!!小学校!!中学校!!高等学校
|-
||1丁目・2丁目・5丁目・6丁目・7丁目・荒曽根・小根・茅原・長根・南長根||[[安城市立作野小学校]]||[[安城市立篠目中学校]]|| rowspan="2" | [[愛知県の高校入試#三河学区|三河学区]]
|-
||3丁目||[[安城市立今池小学校]]||[[安城市立安城北中学校]]
|}
== 歴史 ==
=== 町名の由来 ===
=== 人口の変遷 ===
[[国勢調査]]による人口および世帯数の推移。
{| class="wikitable"
|-
|1995年(平成7年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000023630251&fileKind=1|format=CSV|title=平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-03-28|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|1550世帯<br>4205人||<div style="width:155px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:420.5px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2000年(平成12年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025137780&fileKind=1|format=CSV|title=平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-05-30|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|1922世帯<br>5118人||<div style="width:192.2px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:511.8px;height:10px;background:#9999ff"></div>
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|2005年(平成17年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025514226&fileKind=1|format=CSV|title=平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-06-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|2480世帯<br>6671人||<div style="width:248px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:667.1px;height:10px;background:#9999ff"></div>
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|2010年(平成22年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000012671534&fileKind=1|format=CSV|title=平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2012-01-20|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|2846世帯<br>7178人||<div style="width:284.6px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:717.8px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2015年(平成27年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000031522121&fileKind=1|format=CSV|title=平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2017-01-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|2946世帯<br>7296人||<div style="width:294.6px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:729.6px;height:10px;background:#9999ff"></div>
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|2020年(令和2年)<ref group=WEB name=R2国勢調査>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000032163424&fileKind=1|format=CSV|title=令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口,外国人人口及び世帯数-町丁・字等|author=総務省統計局|date=2022-02-10|accessdate=2023-08-02|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|3216世帯<br>7630人||<div style="width:321.6px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:763px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|}
=== 沿革 ===
{{節スタブ}}
== 交通 ==
* [[愛知県道竜神安城線]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 市道大東住吉線{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 市道新安城箕輪線{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* [[名鉄名古屋本線]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
== 施設 ==
* 愛知県西三河水道事務所{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 市営荒曽根住宅{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 愛知機器工場{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* [[マキタ]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* ワシノ機械{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 菅鉄工{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== WEB ===
{{Reflist|group="WEB"|refs=}}
=== 書籍 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1989|date=1989-03-08|title=[[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県|publisher=[[角川書店]]|isbn=4-04-001230-5|language=ja|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[安城市の町名]]
== 外部リンク ==
* {{commonscat-inline}}
{{安城市の町・字}}
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[[Category:安城市の町名]]
|
2023-10-09T11:08:16Z
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2023-10-09T11:08:16Z
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|
4,839,500 |
大東町 (安城市)
|
大東町(だいとうちょう)は、愛知県安城市の地名。
安城市中央部に位置する。東は昭和町、南は桜町、北は池浦町・新田町に接する。
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる。
国勢調査による人口および世帯数の推移。
|
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大東町(だいとうちょう)は、愛知県安城市の地名。
|
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| area_code = 0566<ref group=WEB name=areacode>{{Cite web|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000141817.pdf|format=PDF||title=市外局番の一覧|publisher=総務省|date=2022-03-01|accessdate=2022-03-22}}</ref>
| registration_plate = [[愛知運輸支局|三河]]
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}}
'''大東町'''(だいとうちょう)は、[[愛知県]][[安城市]]の地名。
== 地理 ==
安城市中央部に位置する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}。東は[[昭和町 (安城市)|昭和町]]、南は[[桜町 (安城市)|桜町]]、北は[[池浦町 (安城市)|池浦町]]・[[新田町 (安城市)|新田町]]に接する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}。
=== 学区 ===
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.city.anjo.aichi.jp/manabu/gakko/kyoikushisetsu/gakku.html|title=小中学校区一覧(町別50音順)|author=安城市役所教育振興部学校教育課学事係|publisher=安城市|date=2022-04-07|accessdate=2023-10-09}}</ref>。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.pref.aichi.jp/soshiki/kotogakko/0000080445.html|title=平成29年度以降の愛知県公立高等学校(全日制課程)入学者選抜における通学区域並びに群及びグループ分け案について|publisher=愛知県教育委員会|date=2015-02-16|accessdate=2019-01-14}}</ref>。
{| class="wikitable"
!番・番地等!!小学校!!中学校!!高等学校
|-
||全域||[[安城市立安城中部小学校]]||[[安城市立安城北中学校]]||[[愛知県の高校入試#三河学区|三河学区]]
|}
=== 河川 ===
* 大池{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
== 歴史 ==
=== 町名の由来 ===
=== 人口の変遷 ===
[[国勢調査]]による人口および世帯数の推移。
{| class="wikitable"
|-
|1995年(平成7年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000023630251&fileKind=1|format=CSV|title=平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-03-28|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
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|2005年(平成17年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025514226&fileKind=1|format=CSV|title=平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-06-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
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|2015年(平成27年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000031522121&fileKind=1|format=CSV|title=平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2017-01-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
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|2020年(令和2年)<ref group=WEB name=R2国勢調査>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000032163424&fileKind=1|format=CSV|title=令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口,外国人人口及び世帯数-町丁・字等|author=総務省統計局|date=2022-02-10|accessdate=2023-08-02|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|1429世帯<br>3496人||<div style="width:142.9px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:349.6px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|}
=== 沿革 ===
{{節スタブ}}
== 交通 ==
* JR東海道本線{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* [[愛知県道安城八ツ田知立線]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* [[愛知県道豊田安城自転車道線]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* [[愛知県道岡崎半田線]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
== 施設 ==
* [[安城市立安城中部小学校]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* [[倉敷紡績]]安城工場{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 曹洞宗太平寺{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 日本基督教団安城教会{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 天理教城三分教会{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== WEB ===
{{Reflist|group="WEB"|refs=}}
=== 書籍 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1989|date=1989-03-08|title=[[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県|publisher=[[角川書店]]|isbn=4-04-001230-5|language=ja|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[安城市の町名]]
== 外部リンク ==
* {{commonscat-inline}}
{{Geographic Location
| Northwest<!--北西--> =
| North<!--北--> = [[池浦町 (安城市)|池浦町]]・[[新田町 (安城市)|新田町]]
| Northeast<!--北東--> =
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}}
{{安城市の町・字}}
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[[Category:安城市の町名]]
|
2023-10-09T11:13:14Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E7%94%BA_(%E5%AE%89%E5%9F%8E%E5%B8%82)
|
4,839,501 |
スラヴャノヴォ
|
スラヴャノヴォ(ブルガリア語: Славяново, Slavyanovo, [sɫɐˈvjanovo])は、ブルガリアのプレヴェン州プレヴェン市にある町。
州都プレヴェンの北から北東に広がるドナウ平原に位置する。標高は114メートル。人口は4,422人(2009年12月)で、町長はアセン・バチェフである。
かつてはトゥルスキー・トラステニク (Turski Trastenik) という地名で、18世紀には存在したことがわかっている。1974年に正式に町制施行された。町民の大多数は東方正教会の信者であるが、1930年代にはプロテスタントのコミュニティも存在した。民族構成はほとんどがブルガリア人で占められるが、クリミア・タタール人の末裔もおり、またロマも増加傾向にある。
|
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スラヴャノヴォは、ブルガリアのプレヴェン州プレヴェン市にある町。 州都プレヴェンの北から北東に広がるドナウ平原に位置する。標高は114メートル。人口は4,422人(2009年12月)で、町長はアセン・バチェフである。 かつてはトゥルスキー・トラステニク という地名で、18世紀には存在したことがわかっている。1974年に正式に町制施行された。町民の大多数は東方正教会の信者であるが、1930年代にはプロテスタントのコミュニティも存在した。民族構成はほとんどがブルガリア人で占められるが、クリミア・タタール人の末裔もおり、またロマも増加傾向にある。
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[[Image:Slavyanovo location in Bulgaria.png|right|frame|スラヴャノヴォの位置]]
'''スラヴャノヴォ'''({{lang-bg|Славяново}}, Slavyanovo, {{IPA-bg|sɫɐˈvʲanovo|}})は、[[ブルガリア]]の[[プレヴェン州]]プレヴェン市にある町。
州都[[プレヴェン]]の北から北東に広がるドナウ平原に位置する。標高は114メートル。人口は4,422人(2009年12月)<ref name="statistika">{{in lang|en}} [http://www.nsi.bg/otrasalen.php?otr=53&a1=1583&a2=1584&a3=1588#cont Bulgarian National Statistical Institute - towns in 2009]</ref>で、町長はアセン・バチェフである。
かつてはトゥルスキー・トラステニク (Turski Trastenik) という地名で、18世紀には存在したことがわかっている<ref>{{cite web |url=http://www.digsys.bg/bgnews/show_story.html?issue=48926606&media=10190876&class=14906058&story=89207418 |title=Archived copy |website=www.digsys.bg |access-date=22 May 2022 |archive-url=https://web.archive.org/web/20070926235325/http://www.digsys.bg/bgnews/show_story.html?issue=48926606&media=10190876&class=14906058&story=89207418 |archive-date=26 September 2007 |url-status=dead}}</ref>。1974年に正式に町制施行された。町民の大多数は[[東方正教会]]の信者であるが、1930年代には[[プロテスタント]]のコミュニティも存在した<ref>http://www.protestantstvo.com/pdf/M.Petrov_SvetovniVoini.pdf</ref>。民族構成はほとんどが[[ブルガリア人]]で占められるが、[[クリミア・タタール人]]の末裔もおり、また[[ロマ]]も増加傾向にある。
== 姉妹都市 ==
*{{Flagicon|DEU}} [[カイザースラウテルン]]([[ドイツ]])<ref>{{cite web |url=http://standartnews.com/archive/2003/10/03/reportage/index.htm |title=Рейтингът на Стефан продължава да расте - Standart / Стандарт |access-date=2007-04-15 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20070518055822/http://www.standartnews.com/archive/2003/10/03/reportage/index.htm |archive-date=2007-05-18 }}</ref>
== 脚注 ==
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[[Category:プレヴェン州の都市]]
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ウーヒンゲン
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ウーヒンゲンまたはウーインゲン (ドイツ語: Uhingen, 発音) はドイツ連邦共和国バーデン=ヴュルテンベルク州シュトゥットガルト行政管区のゲッピンゲン郡に属す市である。この街はシュトゥットガルトの東 35 km、ゲッピンゲンの西 6 km のフィルスタールに位置している。
主邑は、2つの山(ハルデンベルク/ヴルムベルクとヴァッサーベルク)の斜面とその間のフィルスタールに位置しており、高度は 256 m から 483 m である。市域は北西のシュールヴァルトにまで広がる。本市はゲッピンゲン郡に属し、従ってレギオン・シュトゥットガルト(シュトゥットガルト地方(ドイツ語版、英語版))およびシュトゥットガルト行政管区に含まれる。
本市は、中核市区のウーヒンゲンと、ディーゲルスベルク、ナッサハミューレ、ナッサハ、バイアーレック、ホルツハウゼン、シュパールヴィーゼンの各市区からなる。ウーヒンゲンにはかつて独立した町村であったバイアーレック、ホルツハウゼン、シュパールヴィーゼンが含まれる。旧自治体バイアーレックには、バイアーレック村落と小集落のナッサハ、ウンターヒュット、廃村のフリーゲンホーフが含まれていた。旧自治体ホルツハウゼンにはホルツハウゼン村落と廃村エルレンシュヴァングが属した。旧自治体シュパールヴィーゼンにはシュパールヴィーゼン村落が属し1971年8月31日時点のウーヒンゲンには、ウーヒンゲンの保管に小集落ディーゲルスベルク、ナッサハミューレ、フィルゼック城およびフィルゼック集落、ヴァイレンベルガー・ホーフ、ホイザー・シャルロッテンホーフおよびキースが属していた。
2022年現在の州統計局のデータに基づく。
ネッカー川の支流であるフィルス川が市域を東から西に流れている。この川から約870 m の運河が北側に掘られている。また、以下の川が合流する(流れに従って東から西に列記する): プフールバッハ(左岸側)、ブラウバッハ(右岸側)、トーベルバッハ(左岸側)、ブッツバッハ(左岸側)、ウンターロッホバッハ(右岸側)、リーデンバッハ(右岸側)、レネンバッハ(左岸側)、ナッサハ川(右岸側)。
市の西端にエップレゼー(エップレ湖)が、中核市区とシュパールヴィーゼンとの間の南側に自然保護区に含まれるシャルロッテンゼー(シャルロッテン湖)がある。エップレゼーはカワセミの営巣地で、シャルロッテンゼーではセイヨウコウホネが見られる。
1934年、バート・カンシュタット(ドイツ語版、英語版)のカール・エップレ社は、建築資材としてコンクリートの使用が増加する事に伴い、原料の需要が高まったことから、ウンターラー・ヴァーゼンで砂利の採取を開始した。ウーヒンゲン市との賃借契約は1935年3月29日に締結された。賃借料は1 m あたり75帝国プフェニヒであった。エップレはこの町に5,000帝国マルクをすぐに支払った。賃貸の他の条件としてエップレ社はウーヒンゲン出身の労働者のみを雇用することとされていた。1954年の時点でも18人の雇用者のうち、16人がこの町の人間であった。土地の採掘は、区画を分けて実施された。これは、市が四半期あたり約60アールにあたる収入を期待できることを意味している。ブライヒェライまでの採掘要請を市が却下したため採掘活動はフィルス川の南のウンターツェール採掘場およびプフィングストヴァーゼン採掘場で行われた。採掘した砂利を工場に運ぶトロッコのためにヒルトシェ橋に線路が敷設され活用された。採掘終了後、掘られた穴はすぐに地下水で満たされたが、再び埋め戻された。選鉱場、洗浄場、積載場に隣接する池だけは保存されている。採取された砂利を洗浄するために毎日約150万リットルの水が、この作業を行うために必要であったからである。1955年8月にレストラン「ギューターバーンホーフ」でウーヒンゲン釣りクラブが発足した。このクラブは「エップレゼー」の釣魚権を賃貸しして、岸辺を藪や木立で堅め、湖が埋め戻されることを防ぐために他のクラブと協力した。エップレ社は1961年と1962年にも砂利採掘のため追加の土地申請を行った。おそらく1963年から1965年までの間に砂利採掘は終了した。エップレ社は1965年に違約金を支払い、契約が解除された。
ウーヒンゲン (Uhingen) という地名はメロヴィング朝時代にまで遡る。これは古代にジッペの長老として、土地領主として、あるいは集落建設者として重要な役割を担った Uigo という人物にちなんだ地名である。
6世紀から7世紀の墓の発掘によって定住は裏付けられている。当時の集落は、中世後期の集落とは異なり、フィルス川北側のゲヴァン・ゾイヴァーゼンにあった。これは、1976年に地元企業アルガイアーの建設工事前の考古学的発掘によって明らかとなった。発掘では約10件の墓穴が見つかり、一部には副葬品もあった。
最初の文献記録は、1275年のコンスタンツ司教区(ドイツ語版)の十分の一税台帳になされている。当時は集落の大部分がアイヒェルベルク伯の所領で、1332年に債権者のヴュルテンベルク伯に売却された。
当初ウーヒンゲンには他の土地も含まれていた。その範囲は現在のファウルンダウのマールバッハからヴァンゲン=ニーダーヴェルデンやホルツハウゼンを経由してディーゲルスベルクまで、さらにはアルバースハウゼン近郊のシャーフホーフを経てシュパールヴィーゼンにまで達した。ハッテンホーフェン近郊のロイシュタットやベツゲンリートが中世にはウーヒンゲン教区に属していたという事実は、これらの集落もウーヒンゲンと緊密に関係にあったことを示している。三十年戦争の時代、1634年のネルトリンゲンの戦いの後に、勝った皇帝軍がヴュルテンベルクに侵攻し、多くの都市、村、農地を荒廃させた。この際、ウーヒンゲンも焼き討ちに遭った。旧ヴュルテンベルク時代、ウーヒンゲンはシュパールヴィーゼンやディーゲルスベルクとともにアプト・ゲッピンゲンでシュタープアムトを形成しており、その長はヴュルテンベルク公の役人が務めた。
19世紀初めのヴュルテンベルク王国建国に伴う新制度でウーヒンゲンはオーバーアムト・ゲッピンゲンに留まった。19世紀には(ドイツの多くの街がそうであったように)人口が増加し、いくつかの家族や個人が移住していった。
1845年から1850年にフィルスタール鉄道が建設された。この路線はシュトゥットガルトから建設され、部分的に開業していた。1847年10月11日にプロヒンゲンからジューセンまでが開業した。これによりウーヒンゲンはヴュルテンベルクの鉄道網に接続した。1850年半ばにシュトゥットガルトからウルムまでの路線とウルムからフリードリヒスハーフェンへの路線が完成し、全線で運行が開始した。この頃にテキスタイル業者(織布およびテキスタイル製品加工)がこの地域に定着した。
第一次世界大戦では多くのウーヒンゲン出身者が亡くなった。戦間期にモータリゼーションに伴って金属加工業者がこの地域で発展した。ナチ時代のヴュルテンベルクの行政改革によりウーヒンゲンは1938年にゲッピンゲン郡に編入された。第二次世界大戦後、1945年から1952年までウーヒンゲンはアメリカ占領地区(ドイツ語版、英語版)の一部となり、新設されたヴュルテンベルク=バーデン州(ドイツ語版、英語版)の一部となった。この州は1952年に現在のバーデン=ヴュルテンベルク州に再編された。
ウーヒンゲンの教会は1275年に初めて記録されている。教会の権利はアーデルベルク修道院が有していた。ディーゲルスベルク、ホルツハウゼン、シュパールヴィーゼンは昔からウーヒンゲンの支部集落であった。教会組織上、2016年にウーヒンゲン福音主義教会組織に統合されてゲッピンゲン教会管区に属すこととなったバイアーエックは、初めはエーバースバッハ・アン・デア・フィルスの支部集落で、1848年から独自の教会区となり、2015年までショルンドルフ教会管区に属していた。
宗教分布は以下の通りである。
出典: 1961年以後のデータはバーデン=ヴュルテンベルク州統計局による。
エーインゲンの市議会は、選挙で選ばれた名誉職の議員と議長を務める市長で構成される。市長は市議会において投票権を有している。
ウーヒンゲンでは、Unechte Teilortswahl という方式で選挙が行われる。この方式では Überhangmandate という超過議席が生じ、このため市議会の議席数はその都度変化する。2019年の選挙結果に基づく議席数は28である(前回2014年の選挙結果に基づく議席数は30であった)。
市長は任期の8年ごとに選挙が行われる。歴代の市長を列記する。
図柄: 赤地に銀の波帯と向かって左上に銀の正方形。
境界石にも刻まれているこの地域のマークは18世紀には「ゲンスフス」(直訳: ガチョウの足)であった。現在の紋章は1912年のシュトゥットガルト文書館館長の提案に基づいている。赤地で向かって左上の銀の正方形は1332年までこの街の大部分を領したアイヒェルベルク伯の紋章で、これに街を貫くフィルス川の象徴として波帯を組み合わせたものである。
ウーヒンゲンへは、この街を通る連邦道(ドイツ語版、英語版)10号線と連邦道297号線(ロルヒ - テュービンゲン)を利用する。
ウーヒンゲンにはフィルスタール鉄道(シュトゥットガルト - ウルム)の駅があり、シュトゥットガルトやガイスリンゲン/ウルムへ向かうメトロポールエクスプレスが30分間隔で発着する。シュトゥットガルトやウルムへの本線の他に、1990年代までは日々利用されていたローカル線がいくつかあった。また、アルガイアー社は独自の引き込み線を持っており、原料や完成した建築資材を運搬するのに現在も利用されている。このための入換機関車として Köf(小型牽引機関車)が使われている。2005年半ばまでは、プラットホームのある第3の路線も利用されていた。DBネッツ(ドイツ語版、英語版)は、近年では必要なくなった多くの路線やスイッチ類と同様にこの路線も撤去した。このためウーヒンゲンで列車追い越しのための停車ができなくなり、列車遅延が発生し、あるいは深刻化する。現在追い越しはゲッピンゲン駅とエーバースバッハ (フィルス) 駅においてのみ可能である。
ウーヒンゲンからシュトゥットガルト国際空港までは、直線距離で約 35 km である。
この街最大の企業が、自動車産業向けの工具、プレス製品やコンポーネント、さらにフィルター装置や浄化装置を製造しているアルガイアー社である。この会社は、かつてトラクターを造っていたことでも知られている。
シュヴァーベンの焼き菓子ヴィベーレを製造しているアドルフ・ボッシュ KG は地域を超えて有名である。
ウーヒンゲンには様々な分野の主に中小企業が存在している。合計約3,700人の職場がある。
500年以上にわたる行政の中心である。1972年に公開された美しいファサードを持つ。
福音主義の教会は、以下がある。
この城館は、1230年頃に城砦として建設された。ブルクハルト・ベルリヒンゲンの下で1597年/1598年に城館に改築された。1971年に事務翼が大火の犠牲となった。1989年から1994年にやっと元の姿に修復された。現在はゲッピンゲン郡貯蓄銀行のフィルスエック城財団が所有しており、イベント会場や集会所として利用されている。2019年に、いくつかの学習路や周回路を持つ景観公園が公開された。
この建物は1477年に初めて言及されている。現在は市立図書館となっている。
ウーヒンゲンとその地区部では活発なクラブ活動が行われており、住民の 80 % 近くが、73あるスポーツ、音楽、文化、慈善活動、その他のクラブや団体のいずれか、あるいは複数に参加している。
ウーヒンゲンのクラブが共同で開催する最大のイベントが「カンデルホック」で、毎年6月の最終週末に開催され、数千人の見物客がウーヒンゲンを訪れる。
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"title": "経済と社会資本"
},
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"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "500年以上にわたる行政の中心である。1972年に公開された美しいファサードを持つ。",
"title": "文化と見所"
},
{
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"text": "福音主義の教会は、以下がある。",
"title": "文化と見所"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "この城館は、1230年頃に城砦として建設された。ブルクハルト・ベルリヒンゲンの下で1597年/1598年に城館に改築された。1971年に事務翼が大火の犠牲となった。1989年から1994年にやっと元の姿に修復された。現在はゲッピンゲン郡貯蓄銀行のフィルスエック城財団が所有しており、イベント会場や集会所として利用されている。2019年に、いくつかの学習路や周回路を持つ景観公園が公開された。",
"title": "文化と見所"
},
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"text": "この建物は1477年に初めて言及されている。現在は市立図書館となっている。",
"title": "文化と見所"
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"text": "ウーヒンゲンとその地区部では活発なクラブ活動が行われており、住民の 80 % 近くが、73あるスポーツ、音楽、文化、慈善活動、その他のクラブや団体のいずれか、あるいは複数に参加している。",
"title": "文化と見所"
},
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"paragraph_id": 34,
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"text": "ウーヒンゲンのクラブが共同で開催する最大のイベントが「カンデルホック」で、毎年6月の最終週末に開催され、数千人の見物客がウーヒンゲンを訪れる。",
"title": "文化と見所"
}
] |
ウーヒンゲンまたはウーインゲン はドイツ連邦共和国バーデン=ヴュルテンベルク州シュトゥットガルト行政管区のゲッピンゲン郡に属す市である。この街はシュトゥットガルトの東 35 km、ゲッピンゲンの西 6 km のフィルスタールに位置している。
|
{{Infobox GER Gemeinde
| 紋章 = Wappen Uhingen.svg
| 郡の位置 = Locator map GP in Germany.svg
| 郡内の位置 = Uhingen in GP.svg
| 行政管区 = シュトゥットガルト行政管区
| 郡 = ゲッピンゲン郡
| ザムトゲマインデ =
| 市町村連合 = ウーヒンゲン行政共同体:
| 緯度_度 = 48 | 緯度_分 = 42 | 緯度_秒 = 21
| 経度_度 = 09 | 経度_分 = 35 | 経度_秒 = 31
| 標高 = 295
| 郵便番号 = 73066
| 市外局番 = 07161, 07163
| ナンバープレート = GP
| 自治体コード = 08117051
| 行政庁舎の住所 = Kirchstraße 2<br />73066 Uhingen
| ウェブサイト = [https://www.uhingen.de/ uhingen.de]
| 首長_転写 = マティアス・ヴィトリンガー
| 首長 = Matthias Wittlinger
| 地図のズーム = 10
}}
'''ウーヒンゲン'''または'''ウーインゲン''' ({{lang-de|Uhingen}}, {{audio|De-Uhingen.ogg|発音}}) は[[ドイツ連邦共和国]][[バーデン=ヴュルテンベルク州]][[シュトゥットガルト行政管区]]の[[ゲッピンゲン郡]]に属す市である。この街は[[シュトゥットガルト]]の東 35 km、[[ゲッピンゲン]]の西 6 km の[[フィルス川|フィルスタール]]に位置している。
== 地理 ==
=== 位置 ===
主邑は、2つの山(ハルデンベルク/ヴルムベルクとヴァッサーベルク)の斜面とその間のフィルスタールに位置しており、高度は 256 m から 483 m である。市域は北西のシュールヴァルトにまで広がる<ref>{{cite web|url=https://www.leo-bw.de/web/guest/detail-gis/-/Detail/details/ORT/labw_ortslexikon/824/Uhingen|title=Uhingen / leo BW|accessdate=2023-09-30}}</ref>。本市はゲッピンゲン郡に属し、従ってレギオン・シュトゥットガルト({{仮リンク|シュトゥットガルト地方|de|Region Stuttgart|en|Stuttgart Region}})および[[シュトゥットガルト行政管区]]に含まれる。
=== 市の構成 ===
本市は、中核市区のウーヒンゲンと、ディーゲルスベルク、ナッサハミューレ、ナッサハ、バイアーレック、ホルツハウゼン、シュパールヴィーゼンの各市区からなる<ref>§ 12 Benennung der Stadtteile in {{cite web|url=https://www.uhingen.de/site/Uhingen-Internet/get/documents_E1744413988/uhingen/Uhingen-Satzungen/Satzungen/Hauptsatzung.pdf|format=PDF|title=Hauptsatzung Stadt Uhingen|accessdate=2023-09-30}}</ref>。ウーヒンゲンにはかつて独立した町村であったバイアーレック、ホルツハウゼン、シュパールヴィーゼンが含まれる。旧自治体バイアーレックには、バイアーレック村落と小集落のナッサハ、ウンターヒュット、廃村のフリーゲンホーフが含まれていた。旧自治体ホルツハウゼンにはホルツハウゼン村落と廃村エルレンシュヴァングが属した。旧自治体シュパールヴィーゼンにはシュパールヴィーゼン村落が属し1971年8月31日時点のウーヒンゲンには、ウーヒンゲンの保管に小集落ディーゲルスベルク、ナッサハミューレ、フィルゼック城およびフィルゼック集落、ヴァイレンベルガー・ホーフ、ホイザー・シャルロッテンホーフおよびキースが属していた<ref>{{cite book|title=Das Land Baden-Württemberg. Amtliche Beschreibung nach Kreisen und Gemeinden. Band III: Regierungsbezirk Stuttgart, Regionalverband Mittlerer Neckar|publisher=Kohlhammer|location=Stuttgart|year=1978|ISBN= 978-3-17-004758-7|pages=341–344}}</ref>。
=== 土地利用 ===
{| class="wikitable" style="text-align:right"
|-
! 用途 !! 面積 (ha) !! 占有率 (%)
|-
| align="left" | 住宅地 || 190 || 7.7
|-
| align="left" | 商工業地 || 85 || 3.4
|-
| align="left" | レクリエーション用地 || 23 || 0.9
|-
| align="left" | その他市街地 || 52 || 2.1
|-
| align="left" | 交通用地 || 183 || 7.4
|-
| align="left" | 農業用地 || 980 || 39.5
|-
| align="left" | 森林 || 922 || 37.2
|-
| align="left" | 水域 || 28 || 1.1
|-
| align="left" | その他 || 16 || 0.6
|-
| align="left" | '''合計''' || '''2,479''' || '''100'''
|}
2022年現在の州統計局のデータに基づく<ref>{{cite web|url=https://www.statistik-bw.de/BevoelkGebiet/GebietFlaeche/01515277.tab?R=GS117051|title= Fläche seit 1996 nach tatsächlicher Nutzung / Stadt Uhingen (Kreis Göppingen)|accessdate=2023-09-30|publisher=Statistisches Landesamt Baden-Württemberg}}</ref>。
=== 水域 ===
[[ネッカー川]]の支流である[[フィルス川]]が市域を東から西に流れている。この川から約870 m の運河が北側に掘られている。また、以下の川が合流する(流れに従って東から西に列記する): プフールバッハ(左岸側)、ブラウバッハ(右岸側)、トーベルバッハ(左岸側)、ブッツバッハ(左岸側)、ウンターロッホバッハ(右岸側)、リーデンバッハ(右岸側)、レネンバッハ(左岸側)、ナッサハ川(右岸側)。
市の西端にエップレゼー(エップレ湖)が、中核市区とシュパールヴィーゼンとの間の南側に自然保護区に含まれるシャルロッテンゼー(シャルロッテン湖)がある。エップレゼーは[[カワセミ]]の営巣地で、シャルロッテンゼーでは[[セイヨウコウホネ]]が見られる。
1934年、{{仮リンク|バート・カンシュタット|de|Bad Cannstatt|en|Bad Cannstatt}}のカール・エップレ社は、建築資材として[[コンクリート]]の使用が増加する事に伴い、原料の需要が高まったことから、ウンターラー・ヴァーゼンで[[砂利]]の採取を開始した。ウーヒンゲン市との賃借契約は1935年3月29日に締結された。賃借料は1 m{{sup|2}} あたり75帝国プフェニヒであった。エップレはこの町に5,000帝国マルクをすぐに支払った。賃貸の他の条件としてエップレ社はウーヒンゲン出身の労働者のみを雇用することとされていた。1954年の時点でも18人の雇用者のうち、16人がこの町の人間であった。土地の採掘は、区画を分けて実施された。これは、市が四半期あたり約60[[アール (単位)|アール]]にあたる収入を期待できることを意味している。ブライヒェライまでの採掘要請を市が却下したため採掘活動はフィルス川の南のウンターツェール採掘場およびプフィングストヴァーゼン採掘場で行われた。採掘した砂利を工場に運ぶ[[トロッコ]]のためにヒルトシェ橋に線路が敷設され活用された。採掘終了後、掘られた穴はすぐに地下水で満たされたが、再び埋め戻された。選鉱場、洗浄場、積載場に隣接する池だけは保存されている。採取された砂利を洗浄するために毎日約150万[[リットル]]の水が、この作業を行うために必要であったからである。1955年8月にレストラン「ギューターバーンホーフ」でウーヒンゲン釣りクラブが発足した。このクラブは「エップレゼー」の釣魚権を賃貸しして、岸辺を藪や木立で堅め、湖が埋め戻されることを防ぐために他のクラブと協力した。エップレ社は1961年と1962年にも砂利採掘のため追加の土地申請を行った。おそらく1963年から1965年までの間に砂利採掘は終了した。エップレ社は1965年に違約金を支払い、契約が解除された。
== 歴史 ==
=== 18世紀以前 ===
ウーヒンゲン (Uhingen) という地名は[[メロヴィング朝]]時代にまで遡る。これは[[古代]]に[[ジッペ]]の長老として、土地領主として、あるいは集落建設者として重要な役割を担った ''Uigo'' という人物にちなんだ地名である。
[[6世紀]]から[[7世紀]]の墓の発掘によって定住は裏付けられている。当時の集落は、[[中世]]後期の集落とは異なり、[[フィルス川]]北側のゲヴァン・ゾイヴァーゼンにあった。これは、1976年に地元企業アルガイアーの建設工事前の[[考古学]]的発掘によって明らかとなった。発掘では約10件の墓穴が見つかり、一部には副葬品もあった。
最初の文献記録は、[[1275年]]の{{仮リンク|コンスタンツ司教区|de|Bistum Konstanz}}の[[十分の一税]]台帳になされている。当時は集落の大部分がアイヒェルベルク伯の所領で、[[1332年]]に債権者の[[ヴュルテンベルク|ヴュルテンベルク伯]]に売却された。
[[File:Uhingen, Andreas Kieser.png|right|240px|thumb|1683年にアンドレアス・キーザーの森林簿に描かれたウーヒンゲン]]
当初ウーヒンゲンには他の土地も含まれていた。その範囲は現在のファウルンダウのマールバッハからヴァンゲン=ニーダーヴェルデンやホルツハウゼンを経由してディーゲルスベルクまで、さらにはアルバースハウゼン近郊のシャーフホーフを経てシュパールヴィーゼンにまで達した。ハッテンホーフェン近郊のロイシュタットやベツゲンリートが中世にはウーヒンゲン教区に属していたという事実は、これらの集落もウーヒンゲンと緊密に関係にあったことを示している。[[三十年戦争]]の時代、[[1634年]]の[[ネルトリンゲンの戦い]]の後に、勝った皇帝軍がヴュルテンベルクに侵攻し、多くの都市、村、農地を荒廃させた。この際、ウーヒンゲンも焼き討ちに遭った。旧ヴュルテンベルク時代、ウーヒンゲンはシュパールヴィーゼンやディーゲルスベルクとともにアプト・ゲッピンゲンでシュタープアムトを形成しており、その長はヴュルテンベルク公の役人が務めた。
=== 19世紀から20世紀 ===
[[19世紀]]初めの[[ヴュルテンベルク王国]]建国に伴う新制度でウーヒンゲンはオーバーアムト・ゲッピンゲンに留まった。19世紀には(ドイツの多くの街がそうであったように)人口が増加し、いくつかの家族や個人が移住していった<ref name="Geschichte">{{cite web|url=https://www.uhingen.de/13676333.html|title=Geschichte / Stadt Uhingen|accessdate=2023-10-03}}</ref>。
[[1845年]]から[[1850年]]に[[フィルス谷線|フィルスタール鉄道]]が建設された。この路線は[[シュトゥットガルト]]から建設され、部分的に開業していた。[[1847年]]10月11日に[[プロヒンゲン]]から[[ジューセン]]までが開業した。これによりウーヒンゲンはヴュルテンベルクの鉄道網に接続した。1850年半ばにシュトゥットガルトから[[ウルム]]までの路線とウルムから[[フリードリヒスハーフェン]]への路線が完成し、全線で運行が開始した。この頃にテキスタイル業者(織布およびテキスタイル製品加工)がこの地域に定着した<ref name="Geschichte" />。
[[第一次世界大戦]]では多くのウーヒンゲン出身者が亡くなった<ref>{{cite web|url=http://www.denkmalprojekt.org/2020/uhingen-m-diegelsberg_lk-goeppingen_wk1_bw.html|title=Onlineprojekt Gefallenendenkmäler - Uhingen (1870-71; 1. Weltkrieg), Landkreis Göppingen, Baden-Württemberg|accessdate=2023-10-03}}</ref>。戦間期に[[モータリゼーション]]に伴って金属加工業者がこの地域で発展した。[[ナチス・ドイツ|ナチ時代]]のヴュルテンベルクの行政改革によりウーヒンゲンは[[1938年]]にゲッピンゲン郡に編入された。[[第二次世界大戦]]後、[[1945年]]から[[1952年]]までウーヒンゲンは{{仮リンク|アメリカ占領地区|de|Amerikanische Besatzungszone|en|American occupation zone in Germany}}の一部となり、新設された{{仮リンク|ヴュルテンベルク=バーデン州|de|Württemberg-Baden|en|Württemberg-Baden}}の一部となった。この州は1952年に現在の[[バーデン=ヴュルテンベルク州]]に再編された。
=== 町村合併 ===
* 1971年9月1日: バイアーエック(およびアーデルベルクの一部)<ref name="Gemeindeverzeichnis">{{cite book|editor=Statistisches Bundesamt|title=Historisches Gemeindeverzeichnis für die Bundesrepublik Deutschland. Namens-, Grenz- und Schlüsselnummernänderungen bei Gemeinden, Kreisen und Regierungsbezirken vom 27.5.1970 bis 31.12.1982|publisher=W. Kohlhammer|location=Stuttgart / Mainz|year=1983|ISBN=978-3-17-003263-7|page=449}}</ref>
* 1972年1月1日: ホルツハウゼン<ref name="Gemeindeverzeichnis" />
* 1972年3月15日: シュパールヴィーゼン<ref name="Gemeindeverzeichnis" />
== 住民 ==
=== 宗教 ===
ウーヒンゲンの教会は1275年に初めて記録されている。教会の権利はアーデルベルク修道院が有していた。ディーゲルスベルク、ホルツハウゼン、シュパールヴィーゼンは昔からウーヒンゲンの支部集落であった。教会組織上、2016年にウーヒンゲン[[福音主義#ドイツ語圏における「evangelisch」|福音主義]]教会組織に統合されてゲッピンゲン教会管区に属すこととなったバイアーエックは、初めは[[エーバースバッハ・アン・デア・フィルス]]の支部集落で、1848年から独自の教会区となり、2015年までショルンドルフ教会管区に属していた。
宗教分布は以下の通りである<ref>{{cite web|url=https://www.uhingen.de/start/kirchen_+bildung_+kultur/kirchen.html|title=Kirchen / Stadt Uhingen|accessdate=2023-10-07}}</ref>。
* 53.4 % 福音主義
* 31.1 % [[カトリック教会|ローマ=カトリック]]
* 5.8 % [[イスラム教|イスラム系宗教団体]]
=== 人口推移 ===
出典: 1961年以後のデータはバーデン=ヴュルテンベルク州統計局による。
{| style="text-align:center"
|
{| class="wikitable"
|-
! 時期
! 人口(人)
|-
| 1837年 || {{0}}2,093
|-
| 1907年 || {{0}}3,429
|-
| 1939年05月17日 || {{0}}4,851
|-
| 1950年09月13日 || {{0}}7,493
|-
| 1961年06月06日 || 10,200
|-
| 1970年05月27日 || 11,986
|-
| 1983年12月31日 || 11,834
|}
|
|
| valign=top |
{| class="wikitable"
|-
! 時期
! 人口(人)
|-
| 1987年05月25日 || 12,090
|-
| 1991年12月31日 || 12,710
|-
| 1995年12月31日 || 13,385
|-
| 2005年12月31日 || 13,895
|-
| 2010年12月31日 || 13,555
|-
| 2015年12月31日 || 14,036
|-
| 2020年12月31日 || 14,479
|}
|}
== 行政 ==
[[File:Rathaus Uhingen.jpg|right|220px|thumb|ウーヒンゲン市庁舎]]
=== 議会 ===
エーインゲンの市議会は、選挙で選ばれた名誉職の議員と議長を務める市長で構成される。市長は市議会において投票権を有している。
ウーヒンゲンでは、Unechte Teilortswahl という方式で選挙が行われる。この方式では Überhangmandate という超過議席が生じ、このため市議会の議席数はその都度変化する。2019年の選挙結果に基づく議席数は28である(前回2014年の選挙結果に基づく議席数は30であった)。
=== 首長 ===
市長は任期の8年ごとに選挙が行われる。歴代の市長を列記する。
* 1964年まで: アドルフ・コッホ
* 1964年-1981年: カール・ゲルハルト・ヤーン
* 1981年-2005年: クラウス・ヴァルター (FW)
* 2005年から: マティアス・ヴィットリンガー ([[ドイツキリスト教民主同盟|CDU]])
=== 紋章 ===
図柄: [[ギュールズ|赤地]]に[[アージェント (紋章学)|銀]]の[[フェス (紋章学)|波帯]]と向かって左上に銀の[[クォーター (紋章学)|正方形]]。
[[境界標|境界石]]にも刻まれているこの地域のマークは18世紀には「ゲンスフス」(直訳: [[ガチョウ]]の足)であった。現在の紋章は1912年のシュトゥットガルト文書館館長の提案に基づいている。赤地で向かって左上の銀の正方形は1332年までこの街の大部分を領したアイヒェルベルク伯の紋章で、これに街を貫くフィルス川の象徴として波帯を組み合わせたものである<ref>{{cite web|url=https://www.leo-bw.de/web/guest/detail-gis/-/Detail/details/ORT/labw_ortslexikon/824/Uhingen|title=Uhingen / leo BW|accessdate=2023-10-07}}</ref>。
== 経済と社会資本 ==
=== 交通 ===
==== 道路 ====
ウーヒンゲンへは、この街を通る{{仮リンク|連邦道 (ドイツ)|de|Bundesstraße|en|Bundesstraße|label=連邦道}}10号線と連邦道297号線([[ロルヒ]] - [[テュービンゲン]])を利用する。
==== 鉄道駅 ====
ウーヒンゲンには[[フィルス谷線|フィルスタール鉄道]]([[シュトゥットガルト]] - [[ウルム]])の駅があり、シュトゥットガルトや[[ガイスリンゲン・アン・デア・シュタイゲ|ガイスリンゲン]]/ウルムへ向かうメトロポールエクスプレスが30分間隔で発着する。シュトゥットガルトやウルムへの本線の他に、1990年代までは日々利用されていたローカル線がいくつかあった。また、アルガイアー社は独自の[[専用鉄道|引き込み線]]を持っており、原料や完成した建築資材を運搬するのに現在も利用されている。このための入換機関車として Köf(小型牽引機関車)が使われている。2005年半ばまでは、プラットホームのある第3の路線も利用されていた。{{仮リンク|DBネッツ|de|DB Netz|en|DB Netz}}は、近年では必要なくなった多くの路線やスイッチ類と同様にこの路線も撤去した。このためウーヒンゲンで列車追い越しのための停車ができなくなり、列車遅延が発生し、あるいは深刻化する。現在追い越しはゲッピンゲン駅とエーバースバッハ (フィルス) 駅においてのみ可能である。
==== バス ====
; 公共近郊旅客交通
: ウーヒンゲンは地方の近郊交通の結節点である。ここには[[ドイツ鉄道]] (DB) のローカル線だけでなく、フィルスタール下流域の地方バス路線がおおむね停車する。[[ゲッピンゲン]]へは地方バス路線261番、7672番、178番が運行しており、[[エーバースバッハ・アン・デア・フィルス|エーバースバッハ]]へはバス路線261番、7673番で速やかに移動できる。[[キルヒハイム・ウンター・テック|キルヒハイム]]行きは178番、ナッサハタール地区とディーゲルスベルク地区は7672番と7673番を利用する。シュパールヴィーゼン経由で[[ハッテンホーフェン]]へ行くのは22番、ホルツハウゼンおよび[[アルバースハウゼン]]へは2番路線が運行している。これらのバス路線は2021年1月からいずれもシュトゥットガルト交通・運賃連合に組み込まれた。
; 市民バス
: 2008年12月22日から[[コミュニティバス|市民バス]] ULi(Uhinger Linie) が1時間ごとに3路線でウーヒンゲンを運行している。運賃は距離に関係なく1[[ユーロ]]である。乗客はボランティアの運転手によって運行される。経営母体はウーヒンゲン市民バス協会の ULi で、会費によって運営されている。ロゴはシューラー AG によってデザインされ、名称は市民の一般公募から選ばれた。
==== 航空 ====
ウーヒンゲンから[[シュトゥットガルト空港|シュトゥットガルト国際空港]]までは、直線距離で約 35 km である。
[[File:Allgaier Uhingen.jpg|right|240px|thumb|アルガイアー本社]]
=== 地元企業 ===
この街最大の企業が、自動車産業向けの工具、プレス製品やコンポーネント、さらにフィルター装置や浄化装置を製造しているアルガイアー社である。この会社は、かつて[[トラクター]]を造っていたことでも知られている。
シュヴァーベンの焼き菓子ヴィベーレを製造しているアドルフ・ボッシュ KG は地域を超えて有名である。
ウーヒンゲンには様々な分野の主に中小企業が存在している。合計約3,700人の職場がある。
[[File:Uditorium.jpg|right|240px|thumb|ウーディトリウム]]
=== 公共施設 ===
* 教会 7(このうち2つが中核市区)
* 屋外プール
* 屋内プールを持つハルデンベルクハレ
* ハルデンベルク=シュターディオン
* 市立ホール「ウーディトリウム」、大ホール(約600席)と小ホール(180席)がある。
* 市立図書館
* マルタ救護サービスの救急監視所
* 消防団の6つの消防署(ウーヒンゲン、バイアーエック、ディーゲルスベルク、ホルツハウゼン、ナッサハ、シュパールヴィーゼン)
=== 教育 ===
* ヒーバーシューレ・ウーヒンゲン: 職業実科学校を含む基礎課程・本課程学校
* ホルツハウゼン基礎課程学校
* シュパールヴィーゼン基礎課程学校
* ナッサハミューレ基礎課程学校
* ハルデンベルク実科学校
* フィルスエックシューレ(学習障害者のための特別学校)
* 音楽学校
* 市民大学
* 幼稚園11園(合計21グループ、520人。中核市区には6園、10グループ、245人。)
* 託児所1箇所(4グループ、86人)
== 文化と見所 ==
=== 博物館 ===
* 郷土博物館(ベルヒトルツホーフ)
* 写真歴史博物館(市庁舎内)
=== 建築 ===
==== ウーヒンゲン市庁舎 ====
500年以上にわたる行政の中心である。1972年に公開された美しい[[ファサード]]を持つ。
==== 福音主義の教会 ====
[[福音主義#ドイツ語圏における「evangelisch」|福音主義]]の教会は、以下がある<ref>{{cite web|url=https://www.kirche-uhingen.de/evangelisch-uhingen/|title=Evangelische Kirchengemeinde Uhingen|accessdate=2023-10-09}}</ref>。
* ウーヒンゲンのツェツィーリエン教会<ref>{{cite book|author1=Otmar Traub|author2=Gerhard Höfle|title=Die Cäcilienkirche in Uhingen|location=Uhingen|year=2008}}</ref>: 市庁舎とともにウーヒンゲンで最も古い建物の1つである。この教会は、1519年の網状の[[ヴォールト]]を持つ[[内陣]]を備えた15世紀の{{仮リンク|教会等|de|Kirchturm|en|Steeple|label=西塔}}建築である(塔は1495年以前の建築)。基礎のコンクリート工事前に行われた2020年5月の考古学的発掘により、先代の教会の遺構が発見された。1693年に長堂が北側に向かってわずかに拡張され、その部分と西側に入口が設けられた。この頃に豊かに装飾された[[バロック建築|バロック様式]]の[[講壇|説教壇]]も設けられた。塔は1823年に改築された。この教会は1912年と1964年に改修された。この改修で、[[オルガン]]の回廊が[[ゴシック建築|ゴシック様式]]の内陣から離された。ウーヒンゲンの福音主義の建物はいずれも[[第二次世界大戦]]後に[[シュトゥットガルト]]のガラス工芸家アドルフ・ヴァーレンティーン・ザイレによって制作された[[ステンドグラス]]を有している。ツェツィーリエン教会も1964年に3枚の内陣窓が設置された。左: 降誕祭、中央: 受難と復活祭、右: Majestas Domini(天の王)と Werke der Barmherzigkeit(病人の世話)が描かれている。福音主義の教会集会所(1959年、大天使ミカエルの頭部と悪魔)や墓地の建物(1949年、降架と復活。1981年に祈祷ホールに移された。そこには Lichtband(光の帯)も設置されている)にもステンドグラス作品がある。
* バイアーエックの教会: バイアーエックの教会は1595年に建設され、1849年に改築された。この教会には屋根上の小塔がある。祭壇の壁にはアドルフ・ヴァーレンティーン・ザイレのステンドグラス(受難と復活)が嵌め込まれている。
* ディーゲルスベルクのパウルス教会: 1957年建造。この教会および以下の2つの教会の建築家はいずれもヴァルター・ルフである。アドルフ・ヴァーレンティーン・ザイレは内陣窓「Majestas Domini / 最後の審判」を創り、塔の「パウルの[[ズグラッフィート]]」も制作した。
* ホルツハウゼンのクリストゥス教会<ref>{{citation|title=50 Jahre Christuskirche|periodical=Der Gockel – Gemeindebrief der Ev. Kirchengemeinde Uhingen|issue=149|year=2014}}</ref>: この教会は1964年に建設され、2003年に改築された。アドルフ・ヴァーレンティーン・ザイレは1964年にガラス・コンクリート(ダルグラス)製の彩色された南壁を制作した。ウーヒンゲンのガラス工芸家ヘルムート・エーデルマンは、集会ホールのために、板ガラス・[[エッチング]]の手法を用いて4枚の大きなガラスモザイクの窓(福音史家の象徴)をホールに制作した。
* シュパールヴィーゼンの復活教会<ref>{{cite book|title=50 Jahre Auferstehungskirche Sparwiesen – 1960–2010|editor=Ev. Kirchengemeinde Uhingen|location=Uhingen|year=2010}}</ref>: この教会は1960年に建設され、2004年に拡張と改造が行われた。アドルフ・ヴァーレンティーン・ザイレは[[ラザロ|ラザロの復活]]を描いた祭壇壁の窓と聖具室の窓を制作した。シュトゥットガルトの画家レギーネ・シェーンターラーは1996年に北壁の天地一杯にイエスの誕生から復活までの生涯を非具象的に象徴する絵画を描いた(2001年に改訂された)。
==== カトリック教会 ====
* ウーヒンゲンの聖十字架教会
* シュパールヴィーゼンのボニファティウス教会
[[File:Schloß Filseck.jpg|right|240px|thumb|フィルスエック城]]
==== フィクスエック城 ====
この城館は、1230年頃に城砦として建設された。ブルクハルト・ベルリヒンゲンの下で1597年/1598年に城館に改築された。1971年に事務翼が大火の犠牲となった。1989年から1994年にやっと元の姿に修復された。現在はゲッピンゲン郡貯蓄銀行のフィルスエック城財団が所有しており、イベント会場や集会所として利用されている。2019年に、いくつかの学習路や周回路を持つ景観公園が公開された。
==== ベルヒトルツホーフ ====
この建物は1477年に初めて言及されている。現在は市立図書館となっている。
=== クラブ、団体 ===
ウーヒンゲンとその地区部では活発なクラブ活動が行われており、住民の 80 % 近くが、73あるスポーツ、音楽、文化、慈善活動、その他のクラブや団体のいずれか、あるいは複数に参加している<ref>{{cite web|url=https://www.uhingen.de/start/freizeit_+buerger+aktiv/vereinsliste.html|title=Vereinsliste / Stadt Uhingen|accessdate=2023-10-09}}</ref>。
=== 年中行事 ===
ウーヒンゲンのクラブが共同で開催する最大のイベントが「カンデルホック」で、毎年6月の最終週末に開催され、数千人の見物客がウーヒンゲンを訪れる<ref>{{cite web|url=https://www.uhingen.de/site/Uhingen-Internet/node/21090189?QUERYSTRING=Kandelhock|title=Quietschgelbe Raser auf der Fils, Gemütlichkeit entlang der Kirchstraße und sommerliche Partystimmung|publisher=Stadt Uhingen|accessdate=2023-10-09}}</ref>。
== 人物 ==
=== ゆかりの人物 ===
* {{仮リンク|ヨハネス・フォン・ヒーバー|de|Johannes von Hieber}}(1862年 - 1951年)政治家。[[ヴュルテンベルク自由人民州]]首相。ウーヒンゲンで亡くなった。
* {{仮リンク|ジーモン・シェンプ|de|Simon Schempp|en|Simon Schempp}}(1988年 - )[[バイアスロン]]選手。[[2014年ソチオリンピックのバイアスロン競技・男子4×7.5kmリレー]]および[[2014年ソチオリンピックのバイアスロン競技・男子15kmマススタート]]の銀メダリスト、[[2018年平昌オリンピックのバイアスロン競技]]・男子4×7.5kmリレーの銅メダリスト。ウーヒンゲンで育った。
== 関連図書 ==
* {{cite book|chapter=Gemeinde Uhingen|editor=Rudolf Moser|title=Beschreibung des Oberamts Göppingen|series=Die Württembergischen Oberamtsbeschreibungen 1824–1886. Band 20|publisher=Cotta’sche Verlagsbuchhandlung|location=Stuttgart / Tübingen|year=1844|pages=291–298}}
== 脚注 ==
=== 出典 ===
<references responsive />
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Uhingen}}
* {{cite web|url=http://www.uhingen.de/|title=ウーヒンゲン市のウェブサイト|accessdate=2023-10-09}}
{{ゲッピンゲン郡の市町村}}
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[[Category:ゲッピンゲン郡]]
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4,839,506 |
高木町 (安城市)
|
高木町(たかぎちょう)は、愛知県安城市の地名。
安城市東部に位置する。東は別郷町・山崎町、西は山崎町・大岡町、南は山崎町、北は北山崎町・別郷町に接する。
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる。
国勢調査による人口および世帯数の推移。
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高木町(たかぎちょう)は、愛知県安城市の地名。
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}}
'''高木町'''(たかぎちょう)は、[[愛知県]][[安城市]]の地名。
== 地理 ==
安城市東部に位置する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}。東は[[別郷町]]・[[山崎町 (安城市)|山崎町]]、西は[[山崎町 (安城市)|山崎町]]・[[大岡町 (安城市)|大岡町]]、南は[[山崎町 (安城市)|山崎町]]、北は[[北山崎町]]・[[別郷町]]に接する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}。
=== 学区 ===
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.city.anjo.aichi.jp/manabu/gakko/kyoikushisetsu/gakku.html|title=小中学校区一覧(町別50音順)|author=安城市役所教育振興部学校教育課学事係|publisher=安城市|date=2022-04-07|accessdate=2023-10-09}}</ref>。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.pref.aichi.jp/soshiki/kotogakko/0000080445.html|title=平成29年度以降の愛知県公立高等学校(全日制課程)入学者選抜における通学区域並びに群及びグループ分け案について|publisher=愛知県教育委員会|date=2015-02-16|accessdate=2019-01-14}}</ref>。
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!番・番地等!!小学校!!中学校!!高等学校
|-
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|}
== 歴史 ==
=== 町名の由来 ===
=== 人口の変遷 ===
[[国勢調査]]による人口および世帯数の推移。
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|2005年(平成17年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025514226&fileKind=1|format=CSV|title=平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-06-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
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|2010年(平成22年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000012671534&fileKind=1|format=CSV|title=平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2012-01-20|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
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|-
|2015年(平成27年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000031522121&fileKind=1|format=CSV|title=平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2017-01-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
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|}
=== 沿革 ===
{{節スタブ}}
== 施設 ==
* 公民館{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 老人憩の家{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 消防団平貴分団詰所{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 真宗高田派貞印寺{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 日長神社{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== WEB ===
{{Reflist|group="WEB"|refs=}}
=== 書籍 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1989|date=1989-03-08|title=[[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県|publisher=[[角川書店]]|isbn=4-04-001230-5|language=ja|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[安城市の町名]]
{{Geographic Location
| Northwest<!--北西--> =
| North<!--北--> = [[北山崎町]]・[[別郷町]]
| Northeast<!--北東--> =
| West<!--西--> = [[山崎町 (安城市)|山崎町]]・[[大岡町 (安城市)|大岡町]]
| Centre<!--中央--> = 高木町
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| South<!--南--> = [[山崎町 (安城市)|山崎町]]
| Southeast<!--南東--> =
}}
{{安城市の町・字}}
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[[Category:安城市の町名]]
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|
4,839,511 |
高棚町
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高棚町(たかたなちょう)は、愛知県安城市の地名。
安城市西部に位置する。東は榎前町・福釜町、西は高浜市、北は刈谷市、南西は碧南市に接する。
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる。
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高棚町(たかたなちょう)は、愛知県安城市の地名。
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| registration_plate = [[愛知運輸支局|三河]]
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}}
'''高棚町'''(たかたなちょう)は、[[愛知県]][[安城市]]の地名。
== 地理 ==
安城市西部に位置する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}。東は[[榎前町]]・[[福釜町]]、西は[[高浜市]]、北は[[刈谷市]]、南西は[[碧南市]]に接する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}。
=== 学区 ===
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.city.anjo.aichi.jp/manabu/gakko/kyoikushisetsu/gakku.html|title=小中学校区一覧(町別50音順)|author=安城市役所教育振興部学校教育課学事係|publisher=安城市|date=2022-04-07|accessdate=2023-10-09}}</ref>。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.pref.aichi.jp/soshiki/kotogakko/0000080445.html|title=平成29年度以降の愛知県公立高等学校(全日制課程)入学者選抜における通学区域並びに群及びグループ分け案について|publisher=愛知県教育委員会|date=2015-02-16|accessdate=2019-01-14}}</ref>。
{| class="wikitable"
!番・番地等!!小学校!!中学校!!高等学校
|-
||全域||[[安城市立高棚小学校]]||[[安城市立安城西中学校]]||[[愛知県の高校入試#三河学区|三河学区]]
|}
=== 河川 ===
* 芦池用水{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 稗田川{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
== 歴史 ==
=== 町名の由来 ===
=== 人口の変遷 ===
[[国勢調査]]による人口および世帯数の推移。
{| class="wikitable"
|-
|1995年(平成7年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000023630251&fileKind=1|format=CSV|title=平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-03-28|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|973世帯<br>3869人||<div style="width:97.3px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:386.9px;height:10px;background:#9999ff"></div>
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|2005年(平成17年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025514226&fileKind=1|format=CSV|title=平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-06-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
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|}
=== 沿革 ===
{{節スタブ}}
== 交通 ==
* [[国道23号]]バイパス(名豊道路){{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* [[愛知県道南中根小垣江線]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* [[愛知県道岡崎半田線]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* [[愛知県道小垣江安城線]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
== 施設 ==
* [[安城市立高棚小学校]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 第二慈恵幼稚園{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 高棚保育園{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* [[デンソー]]高棚製作所{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 久田製作所{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 石川喜平像{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 石川喜平頌徳碑{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 真宗大谷派空臨寺{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 神明神社{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== WEB ===
{{Reflist|group="WEB"|refs=}}
=== 書籍 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1989|date=1989-03-08|title=[[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県|publisher=[[角川書店]]|isbn=4-04-001230-5|language=ja|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[安城市の町名]]
== 外部リンク ==
* {{commonscat-inline}}
{{Geographic Location
| Northwest<!--北西--> =
| North<!--北--> = [[刈谷市]]
| Northeast<!--北東--> =
| West<!--西--> = [[高浜市]]
| Centre<!--中央--> = 高棚町
| East<!--東--> = [[榎前町]]・[[福釜町]]
| Southwest<!--南西--> = [[碧南市]]
| South<!--南--> =
| Southeast<!--南東--> =
}}
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[[Category:安城市の町名]]
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4,839,515 |
モミン・プロホド
|
モミン・プロホド(ブルガリア語: Момин проход, Momin Prohod, [ˈmɔmin ˈprɔxot])は、ブルガリア西部のソフィア州コステネツ市にある町。首都ソフィアの南東70キロメートルに位置し、スレドナ・ゴラ山脈の南西部にあたる。2006年に町制施行された。
湯治場として人気がある。モミン・プロホドの鉱泉はヨーロッパで3番目、世界でも25番目に放射線量が高い。年間平均気温は10.5°Cである。
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モミン・プロホドは、ブルガリア西部のソフィア州コステネツ市にある町。首都ソフィアの南東70キロメートルに位置し、スレドナ・ゴラ山脈の南西部にあたる。2006年に町制施行された。 湯治場として人気がある。モミン・プロホドの鉱泉はヨーロッパで3番目、世界でも25番目に放射線量が高い。年間平均気温は10.5℃である。
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}}
'''モミン・プロホド'''({{lang-bg|Момин проход}}, Momin Prohod, {{IPA-bg|ˈmɔmin ˈprɔxot|}})は、[[ブルガリア]]西部の[[ソフィア州]]コステネツ市にある町。首都[[ソフィア (ブルガリア)|ソフィア]]の南東70キロメートルに位置し、[[スレドナ・ゴラ山脈]]の南西部にあたる。2006年に町制施行された<ref>{{in lang|bg}}[http://www.dnes.bg/article.php?cat=64&id=27712 Момин проход вече е град], dnes.bg, 21 September 2006</ref>。
湯治場として人気がある。モミン・プロホドの鉱泉は[[ヨーロッパ]]で3番目、世界でも25番目に放射線量が高い{{要出典|date=2023年10月}}。年間平均気温は10.5℃である。
== ギャラリー ==
<gallery>
Image:Momin-prohod-main-street.jpg|メインストリート
Image:Momin-Prohod-culture-club.jpg|町内の文化クラブ
Image:Mineral water fountain, Momin prohod.jpg|鉱泉のくみ取り場
Image:Momin-Prohod-sanatorium.jpg|温泉療法の病院
Image:Park 1.JPG|町内の公園。後ろの建物は文化センター
Image:The-old-baths.jpg|現役の古い浴場
</gallery>
== 脚注 ==
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[[Category:ソフィア州の都市]]
[[Category:ブルガリアの温泉地]]
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|
4,839,517 |
伊澤直乙斗
|
伊澤 直乙斗(いざわ なおと、2004年9月24日 - )は、千葉県出身の日本の柔道選手。階級は81kg級。身長171cm組み手は左組み。得意技は背負投。
柔道は5歳の時に地元の山武少年柔道クラブ(現在は閉団)で始め、小学校3年の時に明心館関本道場に移籍した。小学校6年の時に全国小学生学年別柔道大会50kg級で3位になった。山武中学3年の時に全国中学校柔道大会の73kg級決勝で東海大相模中学2年の木原慧登に大腰で敗れて2位だった。 習志野高校へ進むと、2年の時にインターハイ81kg級で2位だったが、3年の時には優勝した。さらにその年の全日本ジュニアでも優勝を飾った。グランプリ・アルマダでは2回戦で敗れた。2023年に明治大学へ進学すると、全日本ジュニアでは決勝で東海大学2年の天野開斗を技ありで破って2連覇を達成した。世界ジュニアでは準決勝でジョージアのアレクサンドレ・ロラーゼに技ありで敗れて3位だった。体重別団体では2位だった。
IJF世界ランキングは434ポイント獲得で85位(23/10/23現在)。
(出典)
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'''伊澤 直乙斗'''(いざわ なおと、[[2004年]][[9月24日]] - )は、[[千葉県]]出身の[[日本]]の[[柔道]]選手。階級は81kg級。身長171cm組み手は左組み。得意技は[[背負投]]<ref name="名鑑">「柔道全日本強化選手名鑑 2022」[[近代柔道]] [[ベースボールマガジン社]]、2022年4月号</ref>。
==経歴==
柔道は5歳の時に地元の山武少年柔道クラブ(現在は閉団)で始め、小学校3年の時に明心館関本道場に移籍した<ref name="名鑑"/>。小学校6年の時に[[全国小学生学年別柔道大会]]50kg級で3位になった<ref name="名鑑"/>。[[山武市立山武中学校|山武中学]]3年の時に[[全国中学校柔道大会]]の73㎏級決勝で[[東海大学付属相模高等学校・中等部|東海大相模中学]]2年の[[木原慧登]]に[[大腰]]で敗れて2位だった<ref name="名鑑"/>。
[[習志野市立習志野高等学校|習志野高校]]へ進むと、2年の時に[[全国高等学校総合体育大会柔道競技大会|インターハイ]]81㎏級で2位だったが、3年の時には優勝した<ref>[https://www.sanspo.com/article/20220808-5KDT3HJVUVNQTGV2XLPFU6PGJE/ 柔道100キロ級は新井道大が2連覇 体操は市船橋、鯖江が予選1位/高校総体] [[サンケイスポーツ]] 2022年8月8日</ref>。さらにその年の[[全日本ジュニア柔道体重別選手権大会|全日本ジュニア]]でも優勝を飾った<ref name="junior">[http://www.judo-ch.jp/result/aj_junior/ 全日本ジュニア柔道体重別選手権大会]</ref>。[[ヨーロッパオープン・リスボン|グランプリ・アルマダ]]では2回戦で敗れた<ref>[https://www.ijf.org/competition/2437 Grand Prix Portugal 2023]</ref>。2023年に[[明治大学]]へ進学すると、全日本ジュニアでは決勝で[[東海大学]]2年の[[天野開斗]]を技ありで破って2連覇を達成した<ref name="junior"/>。[[2023年世界ジュニア柔道選手権大会|世界ジュニア]]では準決勝でジョージアのアレクサンドレ・ロラーゼに技ありで敗れて3位だった<ref>[https://www.sanspo.com/article/20231007-DT622T7IAZOENPIWEEAPCP3TXA/ 天野開斗、川端倖明、本田万結が優勝 世界ジュニア選手権/柔道] [[サンケイスポーツ]] 2023年10月7日</ref><ref>[https://www.ijf.org/competition/2451 Odivelas World Championships Juniors Individuals 2023]</ref>。[[全日本学生柔道体重別団体優勝大会|体重別団体]]では2位だった<ref>[https://www.jiji.com/jc/article?k=2023102200443 筑波大、東海大が優勝 全日本学生柔道] [[時事通信]] 2023年10月22日</ref><ref>[https://seikosportslink.com/juju/202/?i=1001023010 2023年度全日本学生柔道体重別団体優勝大会]</ref>。
[[IJF]]世界ランキングは434ポイント獲得で85位(23/10/23現在)<ref>[http://www.intjudo.eu/fo-Rankingir World ranking list]</ref>。
==戦績==
*2016年 - [[全国小学生学年別柔道大会]] 3位(50kg級)
*2019年 - [[全国中学校柔道大会]] 2位(73㎏級)
*2021年 - [[全国高等学校総合体育大会柔道競技大会|インターハイ]] 2位
*2022年 - インターハイ 優勝
*2022年 - [[全日本ジュニア柔道体重別選手権大会|全日本ジュニア]] 優勝
*2023年 - フランスジュニア 国際 優勝
*2023年 - 全日本ジュニア 優勝
*2023年 - [[2023年世界ジュニア柔道選手権大会|世界ジュニア]] 個人3位 団体 優勝
*2023年 - 全日本学生[[全日本学生柔道体重別団体優勝大会|体重別団体]] 2位
(出典<ref name="名鑑"/>)
== 脚注 ==
{{Reflist}}
==外部リンク==
* {{JudoInside|159599}}
{{DEFAULTSORT:いさわ なおと}}
[[Category:日本の男子柔道家]]
[[Category:千葉県出身の人物]]
[[Category:2004年生]]
[[Category:存命人物]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%BE%A4%E7%9B%B4%E4%B9%99%E6%96%97
|
4,839,518 |
羽田野啓太
|
羽田野 啓太(はだの けいた、2003年1月29日 - )は、愛知県出身の日本の柔道選手。階級は66kg級。組み手は左組み。得意技は背負投。
羽田野道場で柔道を始めた。一宮中学から四日市中央工業高校へ進むと、2年の時にインターハイ66kg級で5位になった。2021年に國學院大学へ進学すると、2年の時には全日本ジュニアで2位となった。3年の時にはフランスジュニア国際で優勝するも、全日本ジュニアでは決勝で東海大学2年の福田大和に技ありで敗れて2位だった。世界ジュニアでは準々決勝でエストニアのビルジャル・リパルドに敗れるも、その後の敗者復活戦を勝ち上がって3位となった。団体戦では決勝のフランス戦で勝利すると、チームも優勝を飾った。
IJF世界ランキングは350ポイント獲得で111位(23/10/23現在)。
(出典)
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羽田野 啓太は、愛知県出身の日本の柔道選手。階級は66kg級。組み手は左組み。得意技は背負投。
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'''羽田野 啓太'''(はだの けいた、[[2003年]][[1月29日]] - )は、[[日本]]の[[柔道家]]。階級は66kg級。組み手は左組み。得意技は[[背負投]]<ref name="hadano">[https://hadanosekkotuin-doujyo.com/doujyotayori.html 道場便り・羽田野道場(少年少女柔道教室)]</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20230327101557/https://www.judo.or.jp/athlete/athlete-category/ace-c/ 強化選手 男子C強化(ジュニア)]</ref>。
== 経歴 ==
[[愛知県]]出身。同県[[豊川市]]の羽田野道場で柔道を始めた<ref name="hadano"/>。一宮中学から[[三重県立四日市中央工業高等学校|四日市中央工業高校]]へ進むと、2年の時に[[全国高等学校総合体育大会柔道競技大会|インターハイ]]66㎏級で5位になった<ref name="hadano"/>。2021年に[[國學院大學]]へ進学すると、2年の時には[[全日本ジュニア柔道体重別選手権大会|全日本ジュニア]]で2位となった<ref name="junior">[http://www.judo-ch.jp/result/aj_junior/ 全日本ジュニア柔道体重別選手権大会]</ref>。3年の時にはフランスジュニア国際で優勝するも、全日本ジュニアでは決勝で[[東海大学]]2年の[[福田大和 (2004年生の柔道家)|福田大和]]に技ありで敗れて2位だった<ref name="junior"/><ref>[https://www.ijf.org/competition/2483 Paris Junior European Cup 2023]</ref>。[[2023年世界ジュニア柔道選手権大会|世界ジュニア]]では準々決勝でエストニアのビルジャル・リパルドに敗れるも、その後の敗者復活戦を勝ち上がって3位となった<ref>[https://www.sanspo.com/article/20231005-DKPUA3P52JMHLPJBZZEAYF6WNU/ 福田大和らが優勝 世界ジュニア選手権/柔道] [[サンケイスポーツ]] 2023年10月5日</ref><ref>[https://www.ijf.org/competition/2451 Odivelas World Championships Juniors Individuals 2023]</ref>。団体戦では決勝のフランス戦で勝利すると、チームも優勝を飾った<ref>[https://www.sanspo.com/article/20231009-CI6AHRI3IVNOHFIL35V5UXNG2Q/ 日本が混合団体で優勝 世界ジュニア選手権/柔道] サンケイスポーツ 2023年10月9日</ref><ref>[https://www.ijf.org/competition/2452 Odivelas World Championships Juniors Mixed Teams 2023]</ref>。
[[国際柔道連盟|IJF]]世界ランキングは350ポイント獲得で111位(23/10/23現在)<ref>[http://www.intjudo.eu/fo-Rankingir World ranking list]</ref>。
== 戦績 ==
*2019年 - [[全国高等学校総合体育大会柔道競技大会|インターハイ]] 5位
*2022年 - [[全日本ジュニア柔道体重別選手権大会|全日本ジュニア]] 2位
*2022年 - [[講道館杯全日本柔道体重別選手権大会|講道館杯]] 7位
*2023年 - フランスジュニア国際 優勝
*2023年 - 全日本ジュニア 2位
*2023年 - [[2023年世界ジュニア柔道選手権大会|世界ジュニア]] 個人戦 3位、団体戦 優勝
(出典<ref name="hadano"/>)
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* {{JudoInside|161035}}
{{DEFAULTSORT:はたの けいた}}
[[Category:日本の男子柔道家]]
[[Category:愛知県出身の人物]]
[[Category:2003年生]]
[[Category:存命人物]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E7%94%B0%E9%87%8E%E5%95%93%E5%A4%AA
|
4,839,522 |
東栄町 (安城市)
|
東栄町(とうえいちょう)は、愛知県安城市の地名。
安城市北部に位置する。
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる。
国勢調査による人口および世帯数の推移。
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東栄町(とうえいちょう)は、愛知県安城市の地名。
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| postal_code = 446-0007<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?pref=23&city=1232120&cmp=1&mode=list&addr=|title=愛知県安城市の郵便番号一覧|publisher=日本郵便|accessdate=2023-08-26}}</ref>
| area_code = 0566<ref group=WEB name=areacode>{{Cite web|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000141817.pdf|format=PDF||title=市外局番の一覧|publisher=総務省|date=2022-03-01|accessdate=2022-03-22}}</ref>
| registration_plate = [[愛知運輸支局|三河]]
| footnotes =
}}
'''東栄町'''(とうえいちょう)は、[[愛知県]][[安城市]]の地名。
== 地理 ==
安城市北部に位置する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}。
=== 学区 ===
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.city.anjo.aichi.jp/manabu/gakko/kyoikushisetsu/gakku.html|title=小中学校区一覧(町別50音順)|author=安城市役所教育振興部学校教育課学事係|publisher=安城市|date=2022-04-07|accessdate=2023-10-09}}</ref>。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.pref.aichi.jp/soshiki/kotogakko/0000080445.html|title=平成29年度以降の愛知県公立高等学校(全日制課程)入学者選抜における通学区域並びに群及びグループ分け案について|publisher=愛知県教育委員会|date=2015-02-16|accessdate=2019-01-14}}</ref>。
{| class="wikitable"
!番・番地等!!小学校!!中学校!!高等学校
|-
||全域||[[安城市立安城北部小学校]]||[[安城市立東山中学校]]||[[愛知県の高校入試#三河学区|三河学区]]
|}
== 歴史 ==
=== 町名の由来 ===
=== 人口の変遷 ===
[[国勢調査]]による人口および世帯数の推移。
{| class="wikitable"
|-
|1995年(平成7年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000023630251&fileKind=1|format=CSV|title=平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-03-28|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|1670世帯<br>4547人||<div style="width:167px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:454.7px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2000年(平成12年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025137780&fileKind=1|format=CSV|title=平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-05-30|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|1879世帯<br>5221人||<div style="width:187.9px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:522.1px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2005年(平成17年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025514226&fileKind=1|format=CSV|title=平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-06-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|2226世帯<br>5771人||<div style="width:222.6px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:577.1px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2010年(平成22年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000012671534&fileKind=1|format=CSV|title=平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2012-01-20|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|2746世帯<br>6586人||<div style="width:274.6px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:658.6px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2015年(平成27年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000031522121&fileKind=1|format=CSV|title=平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2017-01-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|2873世帯<br>6899人||<div style="width:287.3px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:689.9px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2020年(令和2年)<ref group=WEB name=R2国勢調査>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000032163424&fileKind=1|format=CSV|title=令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口,外国人人口及び世帯数-町丁・字等|author=総務省統計局|date=2022-02-10|accessdate=2023-08-02|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|3057世帯<br>7020人||<div style="width:305.7px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:702px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|}
=== 沿革 ===
{{節スタブ}}
== 交通 ==
* [[名鉄名古屋本線]][[新安城駅]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* [[国道1号]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 旧[[東海道]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
== 施設 ==
* [[日本水産]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 東栄幼稚園{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 明治川神社{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 消防署北分署{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== WEB ===
{{Reflist|group="WEB"|refs=}}
=== 書籍 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1989|date=1989-03-08|title=[[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県|publisher=[[角川書店]]|isbn=4-04-001230-5|language=ja|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[安城市の町名]]
== 外部リンク ==
* {{commonscat-inline}}
{{安城市の町・字}}
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{{Pref-stub|pref=愛知県}}
{{デフォルトソート:とうえいちよう}}
[[Category:安城市の町名]]
|
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A0%84%E7%94%BA_(%E5%AE%89%E5%9F%8E%E5%B8%82)
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4,839,525 |
箕虫
|
もしかして
ではありませんか?
|
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もしかして ミノムシ ではありませんか?
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{{もしかして|ミノムシ|ref1=1文字目は「箕」ではなく「蓑」であり、雨具の[[蓑]]に由来する。[[箕]]の読みは「みの」ではなく「み」であり、穀物に混じったゴミなどを振るい落とす農具を意味する。}}
{{Short pages monitor}}<!--
以下のコメントは、[[Template:Long comment]]をsubst展開(ソースに「subst:Long comment」を二重の中括弧で括った上で追加)することによって挿入された長いコメント(<!--と-->(実際には不等号は半角です)で囲まれた部分のことです)です。このコメントは、編集画面においてのみ表示され、閲覧画面においては表示されないような仕組みになっています。このコメントは、ソフトリダイレクトなどの、特別な事情があるために、どうしても非常に短い状態にならざるを得ない記事に挿入されています。[[特別:短いページ]]には、テスト投稿やサブスタブ記事のように、メンテナンスを必要とする極めて短い記事がページサイズの小さい順に並べられています。しかし、この特別ページにソフトリダイレクトなどの、必然的にページサイズが小さくなってしまうようなページへのリンクが大量に並んでしまうと、[[特別:短いページ]]本来の役割を損なってしまう恐れがあります。この長いコメントを挿入していることで、ソフトリダイレクトのようなページが[[特別:短いページ]]に載らないようにし、[[特別:短いページ]]が使いやすく保たれています。このコメントの必要性・有用性を理解しないままコメントや{{Short pages monitor}}を除去したり、短く改変したりすることは、どうか控えてくださるようご協力をお願い申し上げます。それを理解した上で、もし除去する必要がある場合は、必ずこのコメントと一緒に、{{Short pages monitor}}も除去するようにしてください。なお、{{Short pages monitor}}は、[[Template:Long comment]]をsubst展開して使用した記事を追跡するためのテンプレートです。
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4,839,526 |
Bun (ソフトウェア)
|
Bunとは、プログラミング言語Zigを用いてゼロから構築されたJavaScriptランタイム、パッケージマネージャー、テストランナービルダーである。Jarred SumnerによってNode.jsの完全互換として設計された。Node.jsやDenoがJavaScriptエンジンとしてV8を利用しているのに対し、BunはJavaScriptCoreを採用している。
バンドル、縮小化、サーバーサイドレンダリング(SvelteKit、Nuxt.js、Vite) がサポートされている。
ランタイムではForeign function interface (FFI)、SQLite3、TLS 1.3、DNS解決がサポートされている。 また、ファイル編集、HTTPサーバー、WebSocket、ハッシュ関数などの一般的なツールも提供されている。
|
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Bunとは、プログラミング言語Zigを用いてゼロから構築されたJavaScriptランタイム、パッケージマネージャー、テストランナービルダーである。Jarred SumnerによってNode.jsの完全互換として設計された。Node.jsやDenoがJavaScriptエンジンとしてV8を利用しているのに対し、BunはJavaScriptCoreを採用している。 バンドル、縮小化、サーバーサイドレンダリング(SvelteKit、Nuxt.js、Vite) がサポートされている。 ランタイムではForeign function interface (FFI)、SQLite3、TLS 1.3、DNS解決がサポートされている。 また、ファイル編集、HTTPサーバー、WebSocket、ハッシュ関数などの一般的なツールも提供されている。
|
{{Infobox Software
| 名称 = Bun
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| 最新版 = {{wikidata|property|preferred|references|edit|Q113048518|P348|P548=Q2804309}}
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| プログラミング言語 = [[Zig (プログラミング言語)|Zig]]
| 種別 = [[ランタイムシステム|ランタイム環境]]
| ライセンス = [[MIT license]]<ref>{{Cite web |last=Sumner |first=Jarred |date=2023-07-02 |title=License |url=https://bun.sh/docs/project/licensing |access-date=2023-07-07 |website=Bun Docs}}</ref>
| 公式サイト = {{Official URL}}
}}
'''Bun'''とは、プログラミング言語[[Zig (プログラミング言語)|Zig]]を用いてゼロから構築された[[JavaScript]][[ランタイムシステム|ランタイム]]、[[パッケージマネージャー]]、テストランナービルダーである<ref>{{Cite web |title=Explore Bun.js: The all-in-one JavaScript runtime |url=https://www.infoworld.com/article/3688330/explore-bunjs-the-all-in-one-javascript-runtime.html |website=InfoWorld |date=2023-02-23 |access-date=2023-10-09 |language=en |first=Matthew |last=Tyson}}</ref>。Jarred Sumnerによって[[Node.js]]の完全互換として設計された。[[Node.js]]や[[Deno]]が[[JavaScriptエンジン]]として[[V8 (JavaScriptエンジン)|V8]]を利用しているのに対し、Bunは[[WebKit|JavaScriptCore]]を採用している<ref>{{Cite web |date=2022-08-02 |title=What Is Bun.js and Why Is the JavaScript Community Excited About It? |url=https://www.makeuseof.com/what-is-bunjs-why-the-javascript-community-excited/ |access-date=2023-05-30 |language=en |first=Timilehin |last=Omolana |website=makeuseof.com}}</ref>。
バンドル、縮小化、サーバーサイドレンダリング([[Svelte|SvelteKit]]、[[Nuxt.js]]、[[Vite]]) がサポートされている。
ランタイムでは[[Foreign function interface]] (FFI)、[[SQLite|SQLite3]]、[[Transport Layer Security|TLS]] 1.3、[[Domain Name System|DNS]]解決がサポートされている。 また、ファイル編集、[[Hypertext Transfer Protocol|HTTP]]サーバー、[[WebSocket]]、[[ハッシュ関数]]などの一般的なツールも提供されている<ref>{{Cite web |url=https://bun.sh/docs/runtime/bun-apis |title=Bun APIs |access-date=September 11, 2023 |website=Bun Docs}}</ref>。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[Vite]]
== 外部リンク ==
* {{Official website}}
* {{GitHub|oven-sh/bun}}
{{JavaScript}}
[[Category:MITライセンスを利用するソフトウェア]]
[[Category:2022年のソフトウェア]]
[[Category:JavaScript]]
|
2023-10-09T11:49:24Z
|
2023-12-21T14:16:39Z
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[
"Template:Infobox Software",
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"Template:GitHub",
"Template:JavaScript"
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Bun_(%E3%82%BD%E3%83%95%E3%83%88%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A2)
|
4,839,527 |
西別所町
|
西別所町(にしべっしょちょう)は、愛知県安城市の地名。
安城市東部に位置する。東は東別所町、西は北山崎町、南は別郷町、北は岡崎市に接する。
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる。
国勢調査による人口および世帯数の推移。
|
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西別所町(にしべっしょちょう)は、愛知県安城市の地名。
|
{{Pathnav|日本|愛知県|安城市|'''西別所町'''|hide=1|frame=1}}
{{Infobox settlement
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| area_code = 0566<ref group=WEB name=areacode>{{Cite web|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000141817.pdf|format=PDF||title=市外局番の一覧|publisher=総務省|date=2022-03-01|accessdate=2022-03-22}}</ref>
| registration_plate = [[愛知運輸支局|三河]]
| footnotes =
}}
'''西別所町'''(にしべっしょちょう)は、[[愛知県]][[安城市]]の地名。
== 地理 ==
安城市東部に位置する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}。東は[[東別所町]]、西は[[北山崎町]]、南は[[別郷町]]、北は[[岡崎市]]に接する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}。
=== 学区 ===
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.city.anjo.aichi.jp/manabu/gakko/kyoikushisetsu/gakku.html|title=小中学校区一覧(町別50音順)|author=安城市役所教育振興部学校教育課学事係|publisher=安城市|date=2022-04-07|accessdate=2023-10-09}}</ref>。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.pref.aichi.jp/soshiki/kotogakko/0000080445.html|title=平成29年度以降の愛知県公立高等学校(全日制課程)入学者選抜における通学区域並びに群及びグループ分け案について|publisher=愛知県教育委員会|date=2015-02-16|accessdate=2019-01-14}}</ref>。
{| class="wikitable"
!番・番地等!!小学校!!中学校!!高等学校
|-
||全域||[[安城市立安城東部小学校]]||[[安城市立安城北中学校]]||[[愛知県の高校入試#三河学区|三河学区]]
|}
=== 河川 ===
* 西鹿乗川{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
== 歴史 ==
=== 町名の由来 ===
=== 人口の変遷 ===
[[国勢調査]]による人口および世帯数の推移。
{| class="wikitable"
|-
|1995年(平成7年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000023630251&fileKind=1|format=CSV|title=平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-03-28|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|238世帯<br>793人||<div style="width:23.8px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:79.3px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2000年(平成12年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025137780&fileKind=1|format=CSV|title=平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-05-30|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|238世帯<br>775人||<div style="width:23.8px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:77.5px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2005年(平成17年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025514226&fileKind=1|format=CSV|title=平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-06-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|269世帯<br>813人||<div style="width:26.9px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:81.3px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2010年(平成22年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000012671534&fileKind=1|format=CSV|title=平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2012-01-20|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|256世帯<br>750人||<div style="width:25.6px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:75px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2015年(平成27年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000031522121&fileKind=1|format=CSV|title=平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2017-01-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|281世帯<br>815人||<div style="width:28.1px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:81.5px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2020年(令和2年)<ref group=WEB name=R2国勢調査>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000032163424&fileKind=1|format=CSV|title=令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口,外国人人口及び世帯数-町丁・字等|author=総務省統計局|date=2022-02-10|accessdate=2023-08-02|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|303世帯<br>866人||<div style="width:30.3px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:86.6px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|}
=== 沿革 ===
{{節スタブ}}
== 交通 ==
* 市道別所団地南線{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 市道三別郷中線{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
== 施設 ==
* 別所団地{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 慈恵幼稚園{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 曹洞宗水月寺{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 神明社{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== WEB ===
{{Reflist|group="WEB"|refs=}}
=== 書籍 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1989|date=1989-03-08|title=[[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県|publisher=[[角川書店]]|isbn=4-04-001230-5|language=ja|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[安城市の町名]]
{{Geographic Location
| Northwest<!--北西--> =
| North<!--北--> = [[岡崎市]]
| Northeast<!--北東--> =
| West<!--西--> = [[北山崎町]]
| Centre<!--中央--> = 西別所町
| East<!--東--> = [[東別所町]]
| Southwest<!--南西--> =
| South<!--南--> = [[別郷町]]
| Southeast<!--南東--> =
}}
{{安城市の町・字}}
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4,839,529 |
阪急電鉄2300系 (2代)
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阪急2300系電車 (2代目)(はんきゅう2300けいでんしゃ)は、阪急電鉄が2024年夏に導入予定の電車。阪急電鉄において初めて有料座席指定サービスを導入予定。
開発コンセプトは「安心と快適、そして環境に配慮した新しい阪急スタイル」。
2024年度は1編成が導入予定。1960年にデビューした初代2300系と区別するため、「新2300系」と呼ばれる場合もある。
2023年10月6日、京都線用に2300系の導入を発表した。同時に発表された2000系の京都線仕様に位置づけられている。
編成は8両固定編成である。2003年にデビューした9300系以来の特急運用を専門に行うクロスシート車で、特急用車両は9300系以来、21年ぶりの導入となる。また、4号車において阪急初の有料座席指定サービスが開始される。アテンダントが乗務する形で、京阪のプレミアムカー的存在である。
また、登場時から防犯カメラの設置や、阪急初の車内空気清浄機とインバーター式空調装置が導入される。側面の種別行先表示器は走行中消灯するようになった。
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阪急2300系電車 (2代目)(はんきゅう2300けいでんしゃ)は、阪急電鉄が2024年夏に導入予定の電車。阪急電鉄において初めて有料座席指定サービスを導入予定。 開発コンセプトは「安心と快適、そして環境に配慮した新しい阪急スタイル」。 2024年度は1編成が導入予定。1960年にデビューした初代2300系と区別するため、「新2300系」と呼ばれる場合もある。
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#転送 [[阪急2300系電車 (2代)]]
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アブデ・レバシュ
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アブデ・レバシュ(Abde Rebbach、1998年8月11日 - )は、アルジェリア・ブリダ出身のサッカー選手。デポルティーボ・アラベス所属。ポジションはFW。
アルジェリアのブリダに生まれ、12歳の時にスペインへ移住した。2017-18シーズンに4部に相当するテルセーラ・ディビシオンに所属していたアマチュアクラブの選手としてキャリアをスタートさせると、2020年8月18日、3部に所属していたデポルティーボ・アラベスのBチームへ加入した。2022-23シーズン開幕前の5月22日、クラブとの契約を2年間延長するとともに正式にトップチームへの昇格が決定した。
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アブデ・レバシュは、アルジェリア・ブリダ出身のサッカー選手。デポルティーボ・アラベス所属。ポジションはFW。
|
{{サッカー選手
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|画像の説明=
|画像サイズ=
|本名=アブデラマン・レバシュ<br />Abderrahman Rebbach
|愛称=
|アルファベット表記=Abde Rebbach
|国={{ALG}}<br />{{ESP}}
|生年月日={{生年月日と年齢|1998|8|11}}
|出身地=[[ブリダ]]
|身長=176cm
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|所属チーム名={{flagicon|ESP}} [[デポルティーボ・アラベス]]
|ポジション=[[フォワード (サッカー)|FW]] (WG)
|背番号=21
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|ユース年1=|ユースクラブ1={{flagicon|ESP}} CDアリスナバラ
|ユース年2=|ユースクラブ2={{flagicon|ESP}} [[CDアウレラ・デ・ビトーリア|アウレラ・ビトーリア]]
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}}
'''アブデ・レバシュ'''('''Abde Rebbach'''、[[1998年]][[8月11日]] - )は、[[アルジェリア]]・[[ブリダ]]出身の[[プロサッカー選手|サッカー選手]]。[[デポルティーボ・アラベス]]所属。ポジションは[[フォワード (サッカー)|FW]]。
== クラブ経歴 ==
アルジェリアの[[ブリダ]]に生まれ、12歳の時にスペインへ移住した<ref>{{cite web|url=https://www.noticiasdealava.eus/deportes/2022/07/10/quiero-demostrar-valgo-primer-equipo-5796672.html|title="Quiero demostrar que valgo para el primer equipo"|publisher=Noticias de Álava|language=es|date=10 July 2022|accessdate=17 August 2022}}</ref>。2017-18シーズンに4部に相当する[[テルセーラ・ディビシオン]]に所属していたアマチュアクラブの選手としてキャリアをスタートさせると、2020年8月18日、3部に所属していた[[デポルティーボ・アラベス]]のBチームへ加入した<ref>{{cite web|url=https://www.deportivoalaves.com/noticia/el-miniglorias-confecciona-su-plantilla|title=El Miniglorias confecciona su plantilla|publisher=Deportivo Alavés|language=es|date=18 August 2020|accessdate=17 August 2022}}</ref>。2022-23シーズン開幕前の5月22日、クラブとの契約を2年間延長するとともに正式にトップチームへの昇格が決定した<ref>{{cite web|url=https://www.deportivoalaves.com/noticia/abde-rebbach-firma-su-contrato-con-el-primer-equipo-del-deportivo-alaves|title=Abde Rebbach firma su contrato con el primer equipo del Deportivo Alavés|publisher=Deportivo Alavés|language=es|date=25 May 2022|accessdate=17 August 2022}}</ref>。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
*{{BDFutbol|19122}}
*{{Soccerway|abderrahman-rebbach/583213}}
{{デポルティーボ・アラベスのメンバー}}
{{デフォルトソート:れはしゆ あふて}}
[[Category:アルジェリアのサッカー選手]]
[[Category:スペインのサッカー選手]]
[[Category:デポルティーボ・アラベスの選手]]
[[Category:アルジェリア系スペイン人]]
[[Category:ブリダ県出身の人物]]
[[Category:1998年生]]
[[Category:存命人物]]
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ブホヴォ
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ブホヴォ(ブルガリア語: Бухово, Buhovo, [ˈbuxovo])は、ブルガリアの首都ソフィア市内にある町。ソフィアの中心市街の北東24キロメートルに位置する。
新石器時代の中期から後期には、現在地の1.5キロメートル東にブホヴォの集落が存在した。陶器の破片や槌、斧、千枚通しなどが出土している。
1928年には、聖ニコラ教会が建立された。1938年にはドイツの支援を受けて、ウラン鉱山が開発された。
1974年4月9日、ブルガリア人民共和国国家評議会政令1942号により町制施行された。
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ブホヴォは、ブルガリアの首都ソフィア市内にある町。ソフィアの中心市街の北東24キロメートルに位置する。
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'''ブホヴォ'''({{lang-bg|Бухово}}, Buhovo, {{IPA-bg|ˈbuxovo|}})は、[[ブルガリア]]の首都[[ソフィア (ブルガリア)|ソフィア]]市内にある町。ソフィアの中心市街の北東24キロメートルに位置する。
== 歴史 ==
[[新石器時代]]の中期から後期には、現在地の1.5キロメートル東にブホヴォの集落が存在した。陶器の破片や槌、斧、千枚通しなどが出土している。
1928年には、聖ニコラ教会が建立された。1938年には[[ドイツ]]の支援を受けて、[[ウラン]]鉱山が開発された<ref name=":0">{{Cite web|title=Град Бухово - СВЕТИ МЕСТА|url=http://svetimesta.com/%D0%91%D1%8A%D0%BB%D0%B3%D0%B0%D1%80%D0%B8%D1%8F/%D0%A1%D0%BE%D1%84%D0%B8%D1%8F-%D0%B3%D1%80%D0%B0%D0%B4%20%D0%B3%D0%BE%D0%BB%D1%8F%D0%BC%D0%B0%20%D0%BE%D0%B1%D1%89%D0%B8%D0%BD%D0%B0/Buhovo|access-date=2020-07-03|website=svetimesta.com}}</ref>。
1974年4月9日、[[ブルガリア人民共和国]]国家評議会政令1942号により町制施行された<ref>{{Cite web|title=НСИ • НАЦИОНАЛЕН РЕГИСТЪР НА НАСЕЛЕНИТЕ МЕСТА •|url=https://www.nsi.bg/nrnm/show2.php?sid=57392&ezik=bul&e=61254|access-date=2020-07-03|website=www.nsi.bg}}</ref>。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{Bulgaria-stub}}
{{DEFAULTSORT:ふほうお}}
[[Category:ソフィア]]
[[Category:ブルガリアの都市]]
|
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|
4,839,533 |
ユースワーク
|
ユースワークとは年長の子どもや思春期の若者を対象としたコミュニティでの支援活動である。地域や文化圏によって、ユースワークにはさまざまなサービスや機関が存在している。一般的には、ユースワークは若者がインフォーマルな学びを得られる環境を提供する。活動への参加を通じてユースワークは若者が自分の声を見つけ、影響や社会での居場所を見つけ、自立していくことを可能とする 。ユースワークの活動は若者を教育し、エンパワーメントする包括的なものであり、さまざまな人たちの協働や、機会平等の確保、多様性の尊重に基づいている。
「ユースワーク」は、若者に影響を与えることを目的とした活動である。ユースワークはゆるやかに関連する一連の活動であり、その定義は時代に応じて定義や検討が繰り返されてきた。アイルランドで2001年に制定されたユースワーク法によれば、次のように言及されている。
「ユースワーク」とは青少年の自発的な参加を通じて青少年の人格的・社会的発達を助け、向上させることを目的とした計画的な教育プログラムであって(a)正式な、学術的な、または職業的な教育や訓練を補完するもの(b)主として自発的なユースワーク組織によって提供されるものをいう。
一方で、この定義はユースワークを狭く定義しすぎているとの批判もある。Hilary Jenkinsonは「ユースワークは社会と関わり、不平等な社会に社会変革をもたらすことを目指すべきだ」と述べる。また、ジュリアス・ニエレレのように、ユースワークにおける教育とは、若者の自発的な追求に基づくものでなくてはならず、それが個人的・社会的解放のツールとなると定義する人もいる。
2010年に開かれた第一回欧州ユースワーク大会宣言では「ユースワークはどのような若者集団であっても、それを包摂や参加の対象としてのみみたりせず、逆に社会の多様性を促進する運動のパートナーと見るべきである」と触れられている
日本では2021年にユースワーカー養成研究会によって「ユースワークは、若者を子どもから大人への移行期にいるすべての人と捉え、若者が権利主体として自己選択と決定が保障される自由な活動の場を若者とともに形成し、若者及び若者と関わる大人やコミュニティ、社会システムに働きかける実践である」と定義が試みられている。
ユースワーカーとは、ユースワークの分野で活躍する人々のことである。その仕事には、若者を社会の一員として包摂し、成長と発達に必要な社会資源と結びつけることが含まれる。イギリスの全国青少年機関では、ユースワークにおける倫理規定として、若者に敬意をもって接すること、若者の自己決定や選択を尊重すること、若者の福祉や安全を保障すること、違いを尊重し社会の中にある差別的な構造に立ち向かい社会正義に貢献することことなどを挙げている。
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ユースワークとは年長の子どもや思春期の若者を対象としたコミュニティでの支援活動である。地域や文化圏によって、ユースワークにはさまざまなサービスや機関が存在している。一般的には、ユースワークは若者がインフォーマルな学びを得られる環境を提供する。活動への参加を通じてユースワークは若者が自分の声を見つけ、影響や社会での居場所を見つけ、自立していくことを可能とする。ユースワークの活動は若者を教育し、エンパワーメントする包括的なものであり、さまざまな人たちの協働や、機会平等の確保、多様性の尊重に基づいている。
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{{Short description|Community support activity}}
'''ユースワーク'''とは年長の子どもや[[思春期]]の若者を対象としたコミュニティでの支援活動である。地域や文化圏によって、ユースワークにはさまざまなサービスや機関が存在している。一般的には、ユースワークは若者がインフォーマルな学びを得られる環境を提供する。活動への参加を通じてユースワークは若者が自分の声を見つけ、影響や社会での居場所を見つけ、自立していくことを可能とする<ref name=":0">{{Cite web |last=PAULO |first=NTO |date=2002 |title=National Occupational Standards for Youth Work |url=https://www.youthworkwales.org.uk/wp-content/uploads/2017/11/National-Occupational-Standards-for-Youth-Work-2002.pdf |website=Youth Work Wales – Resources for youth workers in Wales |access-date=2023/10/09}}</ref> 。ユースワークの活動は若者を教育し、エンパワーメントする包括的なものであり、さまざまな人たちの協働や、機会平等の確保、多様性の尊重に基づいている。
==概要==
「ユースワーク」は、若者に影響を与えることを目的とした活動である。ユースワークはゆるやかに関連する一連の活動であり、その定義は時代に応じて定義や検討が繰り返されてきた<ref>Smith, M. (2001) [http://www.infed.org/archives/developing_youth_work/dyw3.htm Definition, tradition and change in youth work] ''Encyclopedia of Informal Education.''</ref>。[[アイルランド]]で2001年に制定されたユースワーク法によれば、次のように言及されている。<blockquote>「ユースワーク」とは青少年の自発的な参加を通じて青少年の人格的・社会的発達を助け、向上させることを目的とした計画的な教育プログラムであって(a)正式な、学術的な、または職業的な教育や訓練を補完するもの(b)主として自発的なユースワーク組織によって提供されるものをいう。<ref>[http://www.irishstatutebook.ie/ZZA42Y2001S3.html Irish Statute Book] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20050508032322/http://www.irishstatutebook.ie/ZZA42Y2001S3.html |date=May 8, 2005 }} Government of Ireland.</ref></blockquote>一方で、この定義はユースワークを狭く定義しすぎているとの批判もある。Hilary Jenkinsonは「ユースワークは社会と関わり、不平等な社会に社会変革をもたらすことを目指すべきだ」と述べる<ref name=":1">{{Cite journal|last=Jenkinson|first=Hilary|date=2000-01-01|title=Youth Work in Ireland: The Struggle for Identity|url=https://arrow.tudublin.ie/ijass/vol2/iss2/6|journal=Irish Journal of Applied Social Studies|volume=2|issue=2|doi=10.21427/D7S15K|issn=2009-8642}}</ref>。また、ジュリアス・ニエレレのように、ユースワークにおける教育とは、若者の自発的な追求に基づくものでなくてはならず、それが個人的・社会的解放のツールとなると定義する人もいる<ref>{{Cite journal|last=Nyerere|first=Julius K.|date=1976|title=Declaration of Dar es Salaam: 'Liberated Man--the Purpose of Development'|url=https://eric.ed.gov/?id=EJ160043|journal=Convergence|language=en}}</ref>。
2010年に開かれた第一回欧州ユースワーク大会宣言では「ユースワークはどのような若者集団であっても、それを包摂や参加の対象としてのみみたりせず、逆に社会の多様性を促進する運動のパートナーと見るべきである」と触れられている<ref>{{Cite web |url=https://pjp-eu.coe.int/documents/42128013/47262202/Declaration/2f264232-7324-41e4-8bb6-404c75ee5b62 |title=DECLARATION of THE 1ST EUROPEAN YOUTH WORK CONVENTION |access-date=2023/10/09 |publisher=Council of Europe and the European Union}}</ref>
日本では2021年にユースワーカー養成研究会によって「ユースワークは、若者を子どもから大人への移行期にいるすべての人と捉え、若者が権利主体として自己選択と決定が保障される自由な活動の場を若者とともに形成し、若者及び若者と関わる大人やコミュニティ、社会システムに働きかける実践である」と定義が試みられている<ref>{{Cite web |url=https://www.ritsumeihuman.com/wp-content/uploads/2017/04/dbe8bf04d0b5240f6ea3fb7c8d7bab59.pdf |title=ユースワークの定義(ユースワーカー養成研究会版 2021 |access-date=2023/10/09 |publisher=立命館大学人間科学研究所}}</ref>。
==ユースワーカー==
ユースワーカーとは、ユースワークの分野で活躍する人々のことである。その仕事には、若者を社会の一員として包摂し、成長と発達に必要な社会資源と結びつけることが含まれる。[[イギリス]]の全国青少年機関では、ユースワークにおける倫理規定として、若者に敬意をもって接すること、若者の自己決定や選択を尊重すること、若者の福祉や安全を保障すること、違いを尊重し社会の中にある差別的な構造に立ち向かい社会正義に貢献することことなどを挙げている<ref>{{Cite web |url=https://www.nya.org.uk/resource/ethical-conduct-youth-work/ |title=Ethical Conduct in Youth Work |access-date=2023/10/9 |publisher=The national youth agency}}</ref>。
== 参考文献 ==
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[[Category:青年]]
[[Category:青少年組織]]
[[Category:少年]]
[[Category:子どもの権利]]
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4,839,534 |
二本木新町
|
二本木新町(にほんぎしんまち)は、愛知県安城市の地名。
安城市北西部に位置する。東は篠目町・井杭山町、南は二本木町、北は知立市、南西は美園町、南東は箕浦町・池浦町に接する。
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる。
国勢調査による人口および世帯数の推移。
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二本木新町(にほんぎしんまち)は、愛知県安城市の地名。
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}}
'''二本木新町'''(にほんぎしんまち)は、[[愛知県]][[安城市]]の地名。
== 地理 ==
安城市北西部に位置する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}。東は[[篠目町]]・[[井杭山町]]、南は[[二本木町 (安城市)|二本木町]]、北は[[知立市]]、南西は[[美園町 (安城市)|美園町]]、南東は[[箕輪町 (安城市)|箕浦町]]・[[池浦町 (安城市)|池浦町]]に接する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}。
=== 学区 ===
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.city.anjo.aichi.jp/manabu/gakko/kyoikushisetsu/gakku.html|title=小中学校区一覧(町別50音順)|author=安城市役所教育振興部学校教育課学事係|publisher=安城市|date=2022-04-07|accessdate=2023-10-09}}</ref>。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる<ref group="WEB">{{Cite web|url=https://www.pref.aichi.jp/soshiki/kotogakko/0000080445.html|title=平成29年度以降の愛知県公立高等学校(全日制課程)入学者選抜における通学区域並びに群及びグループ分け案について|publisher=愛知県教育委員会|date=2015-02-16|accessdate=2019-01-14}}</ref>。
{| class="wikitable"
!番・番地等!!小学校!!中学校!!高等学校
|-
||全域||[[安城市立梨の里小学校]]||[[安城市立篠目中学校]]||[[愛知県の高校入試#三河学区|三河学区]]
|}
== 河川 ==
* 吹戸川{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
== 歴史 ==
=== 町名の由来 ===
=== 人口の変遷 ===
[[国勢調査]]による人口および世帯数の推移。
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|-
|1995年(平成7年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000023630251&fileKind=1|format=CSV|title=平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-03-28|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|1012世帯<br>2189人||<div style="width:101.2px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:218.9px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2000年(平成12年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025137780&fileKind=1|format=CSV|title=平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-05-30|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|1288世帯<br>2933人||<div style="width:128.8px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:293.3px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2005年(平成17年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025514226&fileKind=1|format=CSV|title=平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-06-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|1571世帯<br>3501人||<div style="width:157.1px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:350.1px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2010年(平成22年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000012671534&fileKind=1|format=CSV|title=平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2012-01-20|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|1324世帯<br>2701人||<div style="width:132.4px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:270.1px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2015年(平成27年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000031522121&fileKind=1|format=CSV|title=平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2017-01-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|1376世帯<br>2875人||<div style="width:137.6px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:287.5px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|2020年(令和2年)<ref group=WEB name=R2国勢調査>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000032163424&fileKind=1|format=CSV|title=令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口,外国人人口及び世帯数-町丁・字等|author=総務省統計局|date=2022-02-10|accessdate=2023-08-02|language=ja}}</ref>
|style="text-align:right"|1341世帯<br>2789人||<div style="width:134.1px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:278.9px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|}
=== 沿革 ===
{{節スタブ}}
== 交通 ==
* 東海道新幹線{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* JR東海道本線{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* [[国道23号]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* [[愛知県道竜神安城線]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 市道大西線{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
== 施設 ==
* [[ニチバン]]{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
* 関西ヤマザキ{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1566}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== WEB ===
{{Reflist|group="WEB"|refs=}}
=== 書籍 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1989|date=1989-03-08|title=[[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県|publisher=[[角川書店]]|isbn=4-04-001230-5|language=ja|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[安城市の町名]]
== 外部リンク ==
* {{commonscat-inline}}
{{Geographic Location
| Northwest<!--北西--> =
| North<!--北--> = [[知立市]]
| Northeast<!--北東--> =
| West<!--西--> =
| Centre<!--中央--> = 二本木新町
| East<!--東--> = [[篠目町]]・[[井杭山町]]
| Southwest<!--南西--> = [[美園町 (安城市)|美園町]]
| South<!--南--> = [[二本木町 (安城市)|二本木町]]
| Southeast<!--南東--> = [[箕輪町 (安城市)|箕輪町]]・[[池浦町 (安城市)|池浦町]]
}}
{{安城市の町・字}}
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[[Category:安城市の町名]]
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二本木町
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二本木町は、愛知県の地名。
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二本木町は、愛知県の地名。 二本木町 (安城市) - 愛知県安城市の地名。(にほんぎちょう)
二本木町 (碧南市) - 愛知県碧南市の地名。(にほんぎまち)
|
'''二本木町'''は、[[愛知県]]の[[地名]]。
* [[二本木町 (安城市)]] - 愛知県[[安城市]]の地名。(にほんぎちょう)
* [[二本木町 (碧南市)]] - 愛知県[[碧南市]]の地名。(にほんぎまち)
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4,839,538 |
アヘロイ
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アヘロイ(ブルガリア語: Ахелой, Aheloy, [axeˈɫoj])は、ブルガリアのブルガス州ポモリエ市にある町、海浜リゾート地。人口は2,175人(2006年時点)。黒海沿岸に位置し、南には港湾都市のブルガス、北には観光地として人気のあるネセバル、スランチェフ・ブリャーグ、スヴェティ・ヴラスなどがある。アヘロイ川が市街の南で黒海に注ぐ。
917年に、中世で最も凄惨な戦闘のひとつであるアケロオスの戦いが町の近くで起きた。この戦いで、ブルガリア帝国のシメオン1世は東ローマ帝国に決定的な一撃を加えた。戦死者は9万人以上にのぼり、うち7万人が東ローマ帝国側の兵士であった。これより後の数十年間、ブルガリア帝国は興隆を遂げ、バルカン半島の大部分を版図に収めた。
2009年に正式に町制施行された。
南極のサウスシェトランド諸島にあるリヴィングストン島のアヘロイ・ヌナタク(標高390メートルの山)は、町名に由来する。
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アヘロイは、ブルガリアのブルガス州ポモリエ市にある町、海浜リゾート地。人口は2,175人(2006年時点)。黒海沿岸に位置し、南には港湾都市のブルガス、北には観光地として人気のあるネセバル、スランチェフ・ブリャーグ、スヴェティ・ヴラスなどがある。アヘロイ川が市街の南で黒海に注ぐ。 917年に、中世で最も凄惨な戦闘のひとつであるアケロオスの戦いが町の近くで起きた。この戦いで、ブルガリア帝国のシメオン1世は東ローマ帝国に決定的な一撃を加えた。戦死者は9万人以上にのぼり、うち7万人が東ローマ帝国側の兵士であった。これより後の数十年間、ブルガリア帝国は興隆を遂げ、バルカン半島の大部分を版図に収めた。 2009年に正式に町制施行された。 南極のサウスシェトランド諸島にあるリヴィングストン島のアヘロイ・ヌナタク(標高390メートルの山)は、町名に由来する。
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[[File:Aheloi dam.jpg|thumb|250px|アヘロイダム]]
'''アヘロイ'''({{lang-bg|Ахелой}}, Aheloy, {{IPA-bg|axeˈɫoj|}})は、[[ブルガリア]]の[[ブルガス州]]ポモリエ市にある町、海浜リゾート地。人口は2,175人(2006年時点)。[[黒海]]沿岸に位置し、南には港湾都市の[[ブルガス]]、北には観光地として人気のあるネセバル、スランチェフ・ブリャーグ、スヴェティ・ヴラスなどがある。アヘロイ川が市街の南で黒海に注ぐ。
917年に、中世で最も凄惨な戦闘のひとつである[[アケロオスの戦い]]が町の近くで起きた。この戦いで、[[ブルガリア帝国]]の[[シメオン1世]]は[[東ローマ帝国]]に決定的な一撃を加えた<ref name = haldon> {{cite book |last=Haldon | first=John | title=The Byzantine Wars | publisher=The History Press | year=2008 }}</ref>。戦死者は9万人以上にのぼり、うち7万人が東ローマ帝国側の兵士であった<ref name = haldon/>。これより後の数十年間、ブルガリア帝国は興隆を遂げ、[[バルカン半島]]の大部分を版図に収めた<ref name = haldon/>。
2009年に正式に町制施行された。
[[南極]]の[[サウスシェトランド諸島]]にある[[リヴィングストン島]]のアヘロイ・ヌナタク(標高390メートルの山)は、町名に由来する。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
*[https://excitingbulgaria.com/black-sea-coast/aheloy/ Aheloy] excitingbulgaria.com `{{En icon}}
{{Bulgaria-stub}}
{{DEFAULTSORT:あへろい}}
[[Category:ブルガス州の都市]]
|
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Subsets and Splits
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