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4,840,418 | 東海大学農学部・大学院農学研究科 | 東海大学農学部(とうかいだいがくのうがくぶ、School of Agriculture)は、東海大学に開設されている農学部。東海大学大学院農学研究科(とうかいだいがくだいがくいんのうがくけんきゅうか、Graduate School of Agriculture)は、東海大学大学院に開設されている農学研究科。
農学教育実習センターは、熊本県の伝統作物の栽培方法の確立や自家採種での種の保存・種子提供、伝統野菜を使用した加工品の開発をとおして、全国へ熊本県の伝統野菜のアピールを行っている。栽培管理は1995年に環境保全型の一環として設置した作物見本園に応用植物科学科2年生の農場実習を中心に播種から収穫、種子選抜を行っている。環境保全型農業の展示圃場となるため、 農薬や除草剤など環境に悪影響のものは不使用で、肥料は阿蘇の野草等を食べた家畜の糞尿を堆肥化し、肥料としているという。 | [
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] | 東海大学農学部は、東海大学に開設されている農学部。東海大学大学院農学研究科は、東海大学大学院に開設されている農学研究科。 | {{Pathnav|東海大学|frame=1}}
'''東海大学農学部'''(とうかいだいがくのうがくぶ、School of Agriculture)は、[[東海大学]]に開設されている[[農学部]]。'''東海大学大学院農学研究科'''(とうかいだいがくだいがくいんのうがくけんきゅうか、Graduate School of Agriculture)は、東海大学大学院に開設されている[[農学研究科]]。
== 沿革 ==
* 1980年 1973年開学の[[九州東海大学]]の阿蘇キャンパスに農学部が開設。[[農学科]]、[[畜産学科]]を設置
* 1984年 大学院農学研究科開設、農学専攻設置
* 1985年 [[東海大学総合農学研究所]]設立
* 2001年 農学科や畜産学科を改組し、[[応用植物科学科]]、応用動物科学科、[[バイオサイエンス学科]]を設置
* 2006年 独立行政法人[[農業・食品産業技術総合研究機構]] 九州沖縄農業研究センターと連携大学院を設置
* 2008年 九州東海大学が東海大学と統合し、同大学農学部は東海大学農学部に改組。学科・大学院専攻の構成はそのまま
* 2022年 応用植物科学科、応用動物科学科、バイオサイエンス学科を農学科、[[動物科学科]]、食生命科学科に改組
* 2023年 [[益城町]]の新キャンパス「阿蘇くまもと臨空キャンパス」開設
== 学部組織 ==
;農学部
* 農学科
* 動物科学科
* 食生命科学科
== 大学院 ==
;農学研究科
* 農学専攻(修士課程)
** 生物資源科学コース
** 生命科学コース
** 連携大学院
== 付属施設 ==
;農学教育実習センター(熊本県阿蘇郡南阿蘇村河陽)
農学教育実習センターは、熊本県の[[伝統作物]]の[[栽培]]方法の確立や[[自家採種]]での種の保存・種子提供、伝統野菜を使用した加工品の開発をとおして、全国へ熊本県の[[伝統野菜]]のアピールを行っている。栽培管理は1995年に環境保全型の一環として設置した作物見本園に応用植物科学科2年生の農場実習を中心に[[播種]]から[[収穫]]、[[種子選抜]]を行っている。環境保全型農業の展示[[圃場]]となるため、 農薬や除草剤など環境に悪影響のものは不使用で、[[肥料]]は[[阿蘇]]の[[野草]]等を食べた[[家畜]]の[[糞尿]]を堆肥化し、肥料としているという。
== 外部リンク ==
* [https://www.u-tokai.ac.jp/ud-agriculture/ 農学部サイト]
* [https://www.u-tokai.ac.jp/gd-agriculture/ 農学研究科修士課程] | 東海大学 - Tokai University
{{学校法人東海大学}}
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[[Category:東海大学大学院|のうかくけんきゆうか]]
[[Category:日本の農学]]
[[Category:日本の農業教育]] | 2023-10-11T23:11:28Z | 2023-12-13T23:24:14Z | false | false | false | [
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"Template:全国農学系学部長会議"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E8%BE%B2%E5%AD%A6%E9%83%A8%E3%83%BB%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E9%99%A2%E8%BE%B2%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%A7%91 |
4,840,424 | ジャン・ジャコビー | ジャン・ルシアン・ニコラ・ジャコビー(Jean Lucien Nicolas Jacoby、1891年3月26日 - 1936年9月9日)は、ルクセンブルク生まれの画家である。フランスやドイツで働いた。1924年パリオリンピックと1928年アムステルダムオリンピックの芸術競技で金メダルを獲得した。
ルクセンブルク市で生まれ、当時ドイツ領であったアルザスのモルスアイムで育った。ストラスブールの工芸学校(後のÉcole supérieure des arts décoratifs de Strasbourg)で学び、1912年から6年ほどベルリンに彫刻家のアルトゥール・レヴィン=フィンケが創立した美術学校の美術教師として働いた。
その後、ドイツ、ヘッセン州のヴィースバーデンの教会の装飾画を描く仕事をした。
1924年パリオリンピックの芸術競技の絵画部門で金メダルを受賞した。1926年から1934年の間は、ストラスブールでウルシュタイン新聞社(Ullstein Verlag)が発行する新聞などの挿絵画家として働き、出版社の美術監督としても働いた。
1928年アムステルダムオリンピックの素描部門でも金メダルを受賞し、2個のオリンピックの芸術競技の金メダルを受賞した唯一の芸術家となった。
1934年にアルザスのミュルーズに移り、1936年にミュルーズで心臓発作のために45歳で亡くなった。 | [
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] | ジャン・ルシアン・ニコラ・ジャコビーは、ルクセンブルク生まれの画家である。フランスやドイツで働いた。1924年パリオリンピックと1928年アムステルダムオリンピックの芸術競技で金メダルを獲得した。 | {{Infobox 芸術家
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| name = ジャン・ジャコビー<br>Jean Jacoby
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| caption = 自画像
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'''ジャン・ルシアン・ニコラ・ジャコビー'''(Jean Lucien Nicolas Jacoby、[[1891年]][[3月26日]] - [[1936年]][[9月9日]])は、[[ルクセンブルク]]生まれの画家である。フランスやドイツで働いた。[[1924年パリオリンピック]]<ref>[https://www.pierrelagrue-jo.com/les-concours-dart-et-litterature/ "Les concours d'art et littérature | L'olympisme inattendu"]. 2020年7月21日閲覧。</ref>と[[1928年アムステルダムオリンピック]]の[[芸術競技]]<ref>[https://www.mentalfloss.com/article/31338/11-notable-medalists-olympic-art-competitions « 11 Notable Medalists in the Olympic Art Competitions » ][archive], sur www.mentalfloss.com, 6 février 2014 (consulté le 21 juillet 2020)</ref>で金メダルを獲得した。
== 略歴 ==
[[ルクセンブルク市]]で生まれ、当時ドイツ領であった[[アルザス]]の[[モルスアイム]]で育った。[[ストラスブール]]の工芸学校(後のÉcole supérieure des arts décoratifs de Strasbourg)で学び、1912年から6年ほどベルリンに彫刻家の[[アルトゥール・レヴィン=フィンケ]]が創立した美術学校の美術教師として働いた。
その後、ドイツ、[[ヘッセン州]]の[[ヴィースバーデン]]の教会の装飾画を描く仕事をした。
[[1924年パリオリンピック]]の芸術競技の絵画部門で金メダルを受賞した。1926年から1934年の間は、[[ストラスブール]]でウルシュタイン新聞社(Ullstein Verlag)が発行する新聞などの挿絵画家として働き、出版社の美術監督としても働いた。
[[1928年アムステルダムオリンピック]]の素描部門でも金メダルを受賞し、2個のオリンピックの芸術競技の金メダルを受賞した唯一の芸術家となった。
1934年にアルザスの[[ミュルーズ]]に移り、1936年にミュルーズで心臓発作のために45歳で亡くなった。
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== 作品 ==
<gallery mode="nolines" widths="240" heights="160" style="font-size:smaller">
File:Jacoby, Pièce de 150 mm enlevée sous le feu.jpg|第一次世界大戦の戦場を描いた素描(1915)
File:Jean Jacoby - Hurdling - The Finish.jpg|陸上競技のゴール <br> ルクセンブルク歴史芸術博物館
File:Jean Jacoby-Bei Sankt-Nikolaus.jpg|ストラスブールの風景 (1917)
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File:Jean Jacoby, Foussball-101.jpg|サッカー、1932年ロサンゼルスオリンピックで発表
File:Jean Jacoby - Hockey.jpg|アイスホッケーF <br> ルクセンブルク歴史芸術博物館
File:Jean Jacoby-Exposition coloniale-Strasbourg (1924).jpg|1924年にストラスブールで開かれた植民地展覧会ポスター
File:Jean Jacoby, Fechter-101.jpg|フェンシング選手
</gallery>
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* Adolphe Deville, « Jean Jacoby », Arts et lettres, 1967, 4, n ° 1, 71 p.
* François Joseph Fuchs, « Jacoby Jean », Nouveau dictionnaire de biographie alsacienne, vol. 18, p. 1771
* Lucien Kayser, Face à face : la fonction publique et l'art luxembourgeois, Confédération générale de la fonction publique, Luxembourg, 2009, p. 64-65. (ISBN 978-2-87954-212-6)
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しやこひい しやん}}
[[Category:ルクセンブルクの画家]]
[[Category:表現主義の画家]]
[[Category:ルクセンブルク市出身の人物]]
[[Category:1891年生]]
[[Category:1936年没]] | 2023-10-12T00:26:02Z | 2023-10-14T14:49:53Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%B3%E3%83%93%E3%83%BC |
4,840,425 | 福井工業大学環境学部 | 福井工業大学環境学部(ふくいこうぎょうだいがくかんきょうがくぶ、Faculty of Environmental Sciences)は、福井工業大学に開設されている環境学部。 環境食品応用化学科とデザイン学科のそれぞれの学科に2コースずつ設置されている。
なお、関連する大学院については、同大学大学院工学研究科の応用理工学専攻に環境生命化学コースが、社会システム学専攻にデザイン学コースが設けられており、合わせて紹介する。
デザイン学科は履修モデルが都市デザイン、建築設計・インテリアデザイン、プロダクトデザイン・製品開発、商品企画・プランニング、Webデザイン・メディアコンテンツ、グラフィックデザイン・映像・広告制作の各分野で構成 | [
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] | 福井工業大学環境学部は、福井工業大学に開設されている環境学部。
環境食品応用化学科とデザイン学科のそれぞれの学科に2コースずつ設置されている。 なお、関連する大学院については、同大学大学院工学研究科の応用理工学専攻に環境生命化学コースが、社会システム学専攻にデザイン学コースが設けられており、合わせて紹介する。 | {{Pathnav|福井工業大学|frame=1}}
'''福井工業大学環境学部'''(ふくいこうぎょうだいがくかんきょうがくぶ、Faculty of Environmental Sciences)は、[[福井工業大学]]に開設されている[[環境学部]]。
環境食品[[応用化学科]]と[[デザイン学科]]のそれぞれの学科に2コースずつ設置されている。
なお、関連する[[大学院]]については、同大学大学院[[工学研究科]]の応用理工学専攻に環境生命化学コースが、社会システム学専攻にデザイン学コースが設けられており、合わせて紹介する。
== 沿革 ==
* 1965年 福井工業大学開学。[[工学部]]開設
* 1973年 応用[[物理学科]]設置
* 1979年 応用物理学科を環境安全工学科に改称
* 1985年 大学院工学研究科[[修士課程]]開設。環境安全工学専攻開設
* 1988年 環境安全工学科を応用理化学科に改称
* 1989年 大学院工学研究科の環境安全工学専攻を応用理化学専攻に改称
* 2003年 応用理化学科を環境・生命未来工学科に改称
* 2009年 工学部にデザイン学科設置。工学部環境・生命未来工学科を環境生命化学科に改称
* 2012年 大学院工学研究科に応用理工学専攻(博士前期課程、博士後期課程)と社会システム学専攻(博士前期課程、博士後期課程)設置
* 2015年 [[環境情報学部]]を開設。工学部環境生命化学科を母体に環境・[[食品科学科]]と[[経営情報学科]]を設置。工学科デザイン学科を同学部に移行
* 2018年 工学部環境生命化学科廃止
* 2020年 環境情報学部にあった環境・食品科学科を環境食品応用化学科に改称。経営情報学部を開設し、環境情報学部にあった経営情報学科を同学科に移行。環境情報学部を環境学部に改称
== 学部組織 ==
;環境食品応用化学科
* 環境化学コース
* 食品バイオコース
;デザイン学科
* 都市デザインコース
* メディアデザインコース
デザイン学科は履修モデルが都市デザイン、建築設計・インテリアデザイン、プロダクトデザイン・製品開発、商品企画・プランニング、Webデザイン・メディアコンテンツ、グラフィックデザイン・映像・広告制作の各分野で構成
== 大学院 ==
;工学研究科
* 応用理工学専攻環境生命化学コース
* 社会システム学専攻デザイン学コース
== 外部リンク ==
* [https://www.fukui-ut.ac.jp/subject/environment/ 環境食品応用化学科紹介サイト]
* [https://www.fukui-ut.ac.jp/subject/design/ デザイン学科紹介サイト]
* [https://www.fukui-ut.ac.jp/subject/graduate-school/ 大学院サイト]
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[[Category:福井工業大学|かんきようかくふ]]
[[Category:各大学の学部]]
[[Category:日本の工業系教育機関]]
[[Category:日本の建築系教育機関]]
[[Category:技術系の高等教育機関]]
[[Category:日本の環境学]]
[[Category:日本の環境教育]]
[[Category:食品化学]]
[[Category:日本のデザイン学校]] | 2023-10-12T00:32:32Z | 2023-12-06T01:17:28Z | false | false | false | [
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"Template:Univ-stub"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E4%BA%95%E5%B7%A5%E6%A5%AD%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E7%92%B0%E5%A2%83%E5%AD%A6%E9%83%A8 |
4,840,431 | オリエントライン | 株式会社オリエントライン(英語:ORIENT LINE CORP.)は、愛媛県松山市に本社を置く船舶管理会社である。2016年設立。
旧・(株)オリエントライン(現・日本船舶実業(株)、2017年10月特別清算開始)の再生計画過程の一環で、同社の船舶貸渡業(船主事業)・船舶管理事業を譲受する受け皿会社として設立され、同社のパナマに所在する子会社4社が保有する船舶の船舶貸渡業(船主事業)・船舶管理業務を手がけるとともに、子会社の保有する外航船舶などの資産と、子会社に対する貸付金(取引金融機関からの借入金)を実質的に譲受する形で事業を開始。
2021年9月30日付で同社がパナマに所在する外航船舶、5隻を保有する子会社4社の株式をシンガポール法人のMarina-Bay Shipping Groupのグループ会社であるOcean-Front Shipping Singapore Pte. Ltd.へ4円で譲渡し、債務超過に陥った。株式譲渡後は従前のパナマ子会社4社との船舶管理業務委託契約並びに船員配乗業務は解除され、Marina-Bay Shipping Group傘下となったパナマ子会社4社から 船舶管理業務委託を受け5隻の船舶管理を行い、船員配乗業務はMarina-Bay Shipping GroupのJ-Ship mannegement(船員配乗代理店業務)へ移行した。
1).Southern Cross Ship Line, S.A
2M.V.DOUBLE PRESTIGE(2023年7月7日にUS$22MILLION で売船) 3M.V.ORIENT VESTA(2025年までに売船予定)
2).Silver Ship Line, S.A 設立日 平成8年8月 資本金 US$2,000.00 簿価純資産
3).Black Ship Line, S.A
4).Polestar Ship Line, S.A
設立日 平成9年2月 資本金 US$3,000.00 簿価純資産 保有船 N.A
株式譲渡以後は従前のパナマ子会社4社との船舶管理業務委託契約並びに船員配乗業務契約は解除され、Marina-Bay Shipping Group傘下となったパナマ子会社4社から船舶管理業務委託を受け5隻の船舶管理を行い、船員配乗業務はMarina-Bay Shipping GroupのJ-Ship mannegement(船員配乗代理店)へ業務委託した。
2023年9月26日付で東京地裁へ民事再生法(事件番号:令和5年(再)第46号)の適用を申請し、監督命令を受けた。
関係者によると負債額は約87億円。これは2010年以降としては愛媛県内最大の倒産である。 | [
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] | 株式会社オリエントラインは、愛媛県松山市に本社を置く船舶管理会社である。2016年設立。 | {{出典の明記| date = 2023年10月}}
'''株式会社オリエントライン'''(英語:ORIENT LINE CORP.)は、[[愛媛県]][[松山市]]に本社を置く船舶管理会社である。[[2016年]]設立。
== 概要 ==
旧・(株)オリエントライン(現・日本船舶実業(株)、[[2017年]][[10月]]特別清算開始)の再生計画過程の一環で、同社の船舶貸渡業(船主事業)・船舶管理事業を譲受する受け皿会社として設立され、同社のパナマに所在する子会社4社が保有する船舶の船舶貸渡業(船主事業)・船舶管理業務を手がけるとともに、子会社の保有する外航船舶などの資産と、子会社に対する貸付金(取引金融機関からの借入金)を実質的に譲受する形で事業を開始。
[[2021年]][[9月30日]]付で同社が[[パナマ]]に所在する外航船舶、5隻を保有する子会社4社の株式を[[シンガポール]]法人のMarina-Bay Shipping Groupのグループ会社であるOcean-Front Shipping Singapore Pte. Ltd.へ4円で譲渡し、債務超過に陥った。株式譲渡後は従前のパナマ子会社4社との船舶管理業務委託契約並びに船員配乗業務は解除され、Marina-Bay Shipping Group傘下となったパナマ子会社4社から 船舶管理業務委託を受け5隻の船舶管理を行い、船員配乗業務はMarina-Bay Shipping GroupのJ-Ship mannegement(船員配乗代理店業務)へ移行した<ref>{{Cite web |title=Marina-Bay Shipping Group |url=http://marinabayship.com.sg/ |website=Marina-Bay Shipping Group |access-date=2023-10-11 |language=ja}}</ref>。
1).Southern Cross Ship Line, S.A設立日 平成9年2月 資本金 US$4,000.00 簿価純資産xxx 保有船 ①M.V.ORIENT ANGEL(2022年10月28日にUS$19MILLION で売船)、②M.V.DOUBLE PRESTIGE(2023年7月7日にUS$22MILLION で売船)、③M.V.ORIENT VESTA(2025年までに売船予定)
2).Silver Ship Line, S.A 設立日 平成8年8月 資本金 US$2,000.00 簿価純資産xxx 保有船 ①M.V.BULK ORION(2022年4月29日にUS$22MILLION で売船)、②M.V.COSTANZA
3).Black Ship Line, S.A 設立日 平成6年9月 資本金 US$2,000.00 簿価純資産xxx 保有船 N.A
4).Polestar Ship Line, S.A 設立日 平成9年2月 資本金 US$3,000.00 簿価純資産xxx 保有船 N.A
株式譲渡以後は従前のパナマ子会社4社との船舶管理業務委託契約並びに船員配乗業務契約は解除され、Marina-Bay Shipping Group傘下となったパナマ子会社4社から船舶管理業務委託を受け5隻の船舶管理を行い、船員配乗業務はMarina-Bay Shipping GroupのJ-Ship mannegement(船員配乗代理店)へ業務委託した。
[[2023年]][[9月26日]]付で[[東京地方裁判所|東京地裁]]へ民事再生法(事件番号:令和5年(再)第46号)の適用を申請し、監督命令を受けた<ref name=":0">{{Cite web |title=株式会社オリエントライン |url=https://www.tdb.co.jp/index.html |website=www.tdb.co.jp |access-date=2023-10-12 |language=ja |publisher=[[帝国データバンク]]}}</ref>。
関係者によると負債額は約87億円。これは2010年以降としては愛媛県内最大の倒産である<ref name=":0" /><ref>{{Cite web |title=松山の船舶管理会社 民事再生法適用申請へ |url=https://www3.nhk.or.jp/matsuyama-news/20231010/8000016945.html |website=NHK NEWS WEB |access-date=2023-10-12 |publisher=[[日本放送協会]] |date=2023-10-10}}</ref>。
== 脚注 ==
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[[Category:かつて存在した愛媛県の企業]]
[[Category:2016年設立の企業]]
[[Category:2023年廃止の企業]] | 2023-10-12T00:56:51Z | 2023-12-27T00:26:53Z | false | false | false | [
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4,840,433 | 古谷修一 | 古谷 修一(ふるや しゅういち、1958年 - )は、日本の法学者。専門は国際法・国際組織法・国際刑事法。早稲田大学大学院法務研究科長、早稲田大学法学学術院教授。元国際連合自由権規約人権委員会副委員長。
神奈川県小田原市出身。1981年中央大学法学部法律学科卒業。1987年早稲田大学大学院法学研究科国際法専攻博士後期課程単位取得退学。専門は国際法で、国際刑事裁判などを研究。
香川大学法学部助教授、同教授、早稲田大学法学部教授、早稲田大学法学学術院大学院法務研究科教授、早稲田大学教務部長、ユトレヒト大学オランダ人権研究所客員教授などを経て、2022年から早稲田大学法学学術院大学院法務研究科長。
また、2012年から国際人道事実調査委員会(IHFFC)委員、2015年から16年まで同副委員長、2019年から国際連合自由権規約人権委員会委員、2021年から22年まで同副委員長。日本学術会議連携会員。 | [
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] | 古谷 修一は、日本の法学者。専門は国際法・国際組織法・国際刑事法。早稲田大学大学院法務研究科長、早稲田大学法学学術院教授。元国際連合自由権規約人権委員会副委員長。 | '''古谷 修一'''(ふるや しゅういち、[[1958年]] - )は、[[日本]]の[[日本の法学者一覧#国際法|法学者]]。専門は[[国際法]]・[[国際組織法]]・[[国際刑事法]]。[[早稲田大学大学院法務研究科]]長、[[早稲田大学法学学術院]]教授。元[[国際連合]][[自由権規約人権委員会]]副委員長。
== 人物・経歴 ==
[[神奈川県]][[小田原市]]出身<ref name="asa">[https://www.asahi.com/topics/word/%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%A7%91%E9%95%B7.html (いま聞く)古谷修一さん 早稲田大学教授 戦争犯罪の追及、なぜ活発に]朝日新聞デジタル</ref>。1981年[[中央大学法学部]][[法律学科]]卒業<ref name="asa"/><ref name="Wsw"/>。1987年[[早稲田大学大学院法学研究科]][[国際法]]専攻博士後期課程[[単位取得退学]]<ref>[https://www.jicl.jp/articles/opinion_20220912.html 2022.09.12 オピニオン 自由権規約委員会の活動と意義][[法学館]]</ref><ref name="Wsw"/>。専門は[[国際法]]で、[[国際刑事裁判]]などを研究<ref name="seo">[https://biz.second-academy.com/lecture/WSD51899.html 講座詳細情報]セカンドアカデミー</ref>。
[[香川大学]][[法学部]]助教授、同教授、[[早稲田大学法学部]]教授<ref>[https://nrid.nii.ac.jp/ja/nrid/1000050209194/ 古谷 修一 FURUYA ShuichiORCIDORCID連携する *注記]</ref>、[[早稲田大学法学学術院]]大学院法務研究科教授<ref name="Wsw">[https://w-rdb.waseda.jp/html/100000706_ja.html 写真a フルヤ シュウイチ 古谷 修一]早稲田大学</ref>、早稲田大学教務[[部長]]<ref>[https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo4/043/siryo/__icsFiles/afieldfile/2017/11/01/1397943_2_1.pdf 社会人の学び直しについて早稲田大学の取組事例]早稲田大学</ref>、[[ユトレヒト大学]]オランダ人権研究所[[客員教授]]などを経て<ref>[http://furuyaseminar.web.fc2.com/sample.html http://furuyaseminar.web.fc2.com/sample.html]</ref>、2022年から早稲田大学法学学術院大学院法務研究科長<ref name="seo"/>。
また、2012年から国際人道事実調査委員会(IHFFC)委員、2015年から16年まで同副委員長<ref name="Wsw"/><ref name="seo"/>、2019年から[[国際連合]][[自由権規約人権委員会]]委員<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/press4_006128.html 自由権規約委員会委員選挙における古谷候補の当選]外務省</ref><ref name="seo"/>、2021年から22年まで同副委員長<ref name="Wsw"/><ref name="seo"/>。[[日本学術会議連携会員]]<ref>[https://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/bunya/hogaku/pdf/global-kousei.pdf 法学委員会「グローバル化と法」分科会 ]</ref>。
== 著書 ==
*『国際法の実践─[[小松一郎]]大使追悼』([[柳井俊二]]・[[村瀬信也]]編著、[[酒井啓亘]]・植木俊哉・広見正行・根本和幸・河野真理子・[[佐藤哲夫 (法学者)|佐藤哲夫]]・浅田正彦・[[堀之内秀久]]・岩石順子・[[岡野正敬]]・真山全・洪恵子・村井伸行・薬師寺公夫・[[奥脇直也]]・[[坂元茂樹]]・[[濱本正太郎]]・[[中谷和弘]]・森田章夫・柳原正治・[[山内進]]・[[近藤誠一 (外交官)|近藤誠一]]・[[寺谷広司]]・[[安倍晋三]]・[[武智健二]]・[[田中誠一]]・[[神余隆博]]・[[山口英一]]・[[信元久隆]]・[[伊藤哲雄]]・[[林景一]]・[[芹田健太郎]]・[[林貞行]]・[[石垣泰司]]・柴田和夫・越川和久・[[鶴岡公二]]・[[兼原信克]]・兼原敦子・[[山上信吾]]・[[正木靖]]・[[道井緑一郎]]・[[御巫智洋]]・[[大平真嗣]]・望月公一・小松まりと共著)[[信山社]] 2015年
*"Reparation for victims of armed conflict" Correa, Cristián, Shuichi Furuya, Sandoval Villalba, Clara, [[Cambridge University Press]] 2020年
== 脚注 ==
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[[Category:20世紀日本の法学者]]
[[Category:21世紀日本の法学者]]
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[[Category:早稲田大学の教員]]
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4,840,439 | 赤い小馬 | 『赤い小馬』(あかいこうま、英語: The Red Pony)は、アメリカの作家ジョン・スタインベックによって書かれた私小説的な連作小説である。この作品はジョーディ(ジョディ)・ティフリンという少年と、その父親であるカリフォルニアの牧場主カール・ティフリンの生活を描いたの4つの物語が含まれている。
最初の3つの章は1933年から1936年にかけて複数の雑誌に掲載され、1937年にコヴィチ・フリーデ社から『赤い小馬』(The Red Pony)のタイトルで出版された。1938年には全4話で短編集『長い谷』 (The Long Valley) に収録される。1945年には同じく4話で、Wesley Dennisのイラスト付きでニューヨークのViking Pressから『赤い小馬』として再版された。
他に「ジュニアス・モルトビー」というタイトルの短編小説(スタインベックの初期の作品の1つである「天の牧場」 (The Pastures of Heaven) より)が収録されている版もある(バンタム (Bantam Books) 版)。
1949年と1973年に映画が公開されており、日本では「赤い子馬(英語版)」(1949年)、「赤い仔馬(英語版)」(1973年)の邦題が付けられている。なおPony(ポニー)は子馬ではなく、小型の馬のことを指す。
この作品はジョーディ(ジョディ)・ティフリンという少年と、その父親であるカリフォルニアの牧場主カール・ティフリンの生活を描いたの4つの物語が含まれている
その他の主要登場人物には、馬の専門家で牧夫のビリー・バック、ジョーディの母親のティフリン夫人、オレゴン・トレイルを横断した過去があり、その体験談を語るのが好きなジョーディの母方の祖父、そしてティフリン牧場でいつか死にたいと願うヒスパニック系の老人ヒターノ(ジターノ)がいる。
「贈り物」(The Gift)は、『North American Review』の1933年11月号に初めて掲載された。
この章の物語は、カール・ティフリンが息子のジョーディに赤いポニー(小馬)を与えるところから始まる。ジョーディはきちんと馬の面倒をみるという父親が出した条件に喜んで同意する。
ジョーディはポニーの素晴らしさに畏敬の念を抱き、サリナスバレーの牧場と隣接する草が生い茂りオークの木が点在するギャビラン山脈(ガビラン山脈(英語版))にちなんで、そのポニーをギャビラン(ガビラン)と名付けることにした。世話を続けてギャビランと親しくなったジョーディは、父親から感謝祭までに馬に乗ることを許可すると言われる。
ある日、牧夫のビリー・バックは雨は降らないと保証したが、囲いの外に取り残されていたポニーは土砂降りに見舞われ、風邪のような症状になる。ビリーは馬の病気を治そうと介抱するが効果がなく、最終的には腺疫による病気と診断し、湯気で濡れた袋をポニーの口輪に当て、ジョーディにポニーの監視をさせる。
夜になると、ジョーディは絶え間ない心配にもかかわらず眠くなり、納屋のドアが開いていることも忘れて眠りに落ちてしまった。彼が目を覚ますと、ポニーは納屋からさまよい出ていた。到着したビリーは、馬が呼吸できるように気管に穴を開ける必要があると判断した。ジョーディは彼のそばにいて、常に気管に詰まった粘液を拭き取ってやる。ジョーディは眠りに落ちた後、風がますます強くなる夢を見て、目が覚めるとポニーが再びいないことに気づく。ポニーの足跡をたどると、ある場所でノスリの群れがその上空を旋回しているのに気づいた。ジョーディが到着したときには、既にノスリが馬の目を突いているところだった。
ジョーディは怒りに任せてその鳥と格闘し取り押さえると、手にした石英の欠片を何度も打ち付けた。遅れて父親とビリー・バックが到着し、ビリーに引き離されるまで、ジョーディは死んだ鳥をいつまでも打ち続けた。
「大連峰」(The Great Mountains)は、『North American Review』の1933年12月号に初めて掲載された。
暇を持て余したジョーディは大連峰を眺め、探検したいと願っている。突然、ヒターノ(ジターノ)という名前のメキシコの老人が現れ、自分はこの牧場で生まれたと主張する。ヒターノは死ぬまでこの農場においてくれという。カール・ティフリンは、その老人が役に立たない老馬イースターによく似ていると指摘して、一晩泊まることは許すものの、長期の滞在は拒否する。
その夜、ジョーディは密かにヒターノを訪ねる。彼は古いレイピアを磨いている。ジョーディは偉大な山に行ったことがあるかと尋ねると、ヒターノは行ったことがあるがほとんど覚えていないと答える。翌朝、イースターと同様にヒターノはいなくなった。ジョーディは老人の持ち物を調べたが、鋭い剣の痕跡は見つからずがっかりした。
近所の人は、ヒターノが手に何かを持って行方不明の馬に乗って山に入っていくのを目撃したと報告した。大人たちはこれが銃だと思い込むが、ジョーディが知っているように、おそらくレイピアだろう。
ジョーディの父親は、なぜ男が山に入ったのか不思議に思い、老馬を埋める手間を省いてくれたのだと冗談を言う。物語は、ジョーディが老人、レイピア、そして山々のことを思い出し、憧れと悲しみで満たされるところで終わる。
「約束」(The Promise)は、『Harper's Monthly』の1937年10月号に初めて掲載された。
カール・ティフリンは、ジョーディがより多くの責任を学ぶ時期が来たと考え、ジョーディが繁殖牝馬ネリーを近所の農場で種付けしてもらうように手配する。種付料は5ドルで、ジョーディはその費用を返済するために夏のあいだ懸命に働く。数か月後、ビリー・バックはネリーが妊娠していると判断する。
ジョーディとビリーが牝馬の世話をしている間、ビリーは自分の母親が出産時に亡くなり、自分は牝馬のミルクで育てられたと語る。だからこそビリーは馬の扱いが得意なのだろう。ジョーディはよく自分の子馬のことを夢に見る。ビリーから「牝馬は牛よりもデリケートで、牝馬の命を救うためには子馬を引き裂いて取り除かなければならない場合がある」という説明を受け、ジョーディはひどく心配になり、腺疫で亡くなったポニーのギャビランのことを思い出す。
ビリーはポニーの治療に失敗したこともあり、ジョーディはネリーに何かが起こるのではないかと心配する。この疑念は、ジョーディと自分自身のプライドの両方のために、少年を二度と失敗させないと主張するビリーをも苦しめる。
ジョーディは真夜中に目を醒ます。彼はネリーの妊娠で起こる可能性のあるすべてのことを夢見ており、どれも実現しないことを願っている。それから彼は服を着て、ネリーをチェックするために納屋にこっそり抜け出した。ジョーディがネリーを見つけると、彼女は震えを止めず、周りを見回す余裕もない。ジョーディが再び眠りに戻ろうとする前に、ビリー・バックはネリーが出産の準備ができていることを夢中になって皆に伝える。
ビリー・バックがネリーの状態を確認すると胎内の子馬が逆子になっており、このままでは出産できないことに気づく。ビリーはジョーディに後ろを向いているように命令すると、ネリーの頭をハンマーで殴打し、約束の牡馬をジョーディに渡すためにネリーに帝王切開を施す。
ビリーはジョーディに新しい動物の世話を手伝ってほしいと頼み、ジョーディは家に行くが、ネリーと血まみれの子馬のイメージがまだ頭の中に残っている。
「人々の指導者」(The Leader of the People)は、『アーゴシー』誌の1936年8月号に初めて掲載された。
ジョーディの母方の祖父が訪ねてくる。カール・ティフリンは、義父が幌馬車の一団を率いて大平原を横断したときの話ばかりするのにウンザリしている。しかし、ティフリン夫人とビリーは、祖父が彼の冒険について語る資格があると思っていて、ジョーディは何度話しても喜んで耳を傾ける。
その翌朝、カールは朝食の席で祖父の話について「もう終わったことなのに、なぜ忘れられないのだろう? 確かにあの人は平原を渡ってやってきた、その通り。でも、もう終わったことだ。誰も何度も聞きたがりはしない」と不平を言う。そこにたまたま本人が来てしまい、祖父はふさぎ込んでしまう。彼は自分の話が退屈かもしれないことは分かっているが、次のように説明する。
「私はあの頃の話をするが、私が伝えたいことはそれではない。私が知りたいのは、話したときにみんながどのように感じているかなんだ。
大事なのはインディアンでも、冒険でも、西部に渡ることでさえもなかった。それは大勢の人々が、這いまわる一匹の大きな獣のようになったことだった。そして私がその先頭にいた。どんどん西へ西へ進んでいった。誰もが自分自身のために何かを求めていたが、彼ら全員である大きな獣は西に向かうことだけを望んでいた。私がリーダーだったが、私がいなかったら別の人がリーダーになっていただろう。それには頭がなければならなかった。小さな茂みの下では、白昼でも影が黒々としていた。ついに山々が見えたとき、私たちは皆、泣いたものだ。しかし、重要なのはここに到着することではなく、動くこと、西へと進むことだった。私たちはアリが卵を運ぶように、ここに生命を移し、この地に定住した。そして私がリーダーだった。西への移動は神のように偉大で、そしてゆっくりとした歩みを積み重ねて大陸を横断した。
それから私たちは海にたどり着き、それは終わった。」
彼は話をとめ、縁が赤くなるまで目元をぬぐった。
「冒険ではなく、それが私が話すべきことだったんだろうな。」
ジョーディは、自分もリーダーになりたいと告げる。疲れて、懐古に浸る傷心の祖父を前にして、レモネードを飲もうと言葉をかける。ジョーディの母親は、息子が自分も一緒にレモネードを飲もうとして言ったのではなく、真の同情心から行動していることに気づく。そして母親からの許可を得たジョーディが祖父のためにレモネードを準備するところで物語は幕を下ろす。
この短編小説(Junius Maltby)は、サンフランシスコでの会計士としての人生に不満を抱いていた、ジュニアス・モルトビーという男性を主人公にしている。呼吸器疾患のために乾燥した気候を勧める医師のアドバイスにより、ついにその生活と決別することにした。
ジュニアスは、気候が穏やかな土地で未亡人とその子どもたちの家に下宿し、健康は回復に向かう。
しばらくして、町の人々がこの未亡人と一緒に長い間暮らしている独身男性のことを話題にするようになると、ジュニアスはすぐに家主と結婚し、手入れの行き届いた収益性の高い牧場、もしくは農場の責任者になる。
未亡人は雇い人を解雇し、ジュニアスに農場専属で働かせようとするが、余暇の生活に慣れてしまった彼は、働き詰めの生活には馴染めない。やがて農場は荒廃していき、家族は破産し、十分な食料も衣服もなく、未亡人とその子どもたちは病気で亡くなる。
そんな中で、ジュニアスと未亡人の唯一の息子が生き残る。裸足の子供と彼と同じくらい怠け者の雇われ人を抱えたジュニアスは、本を読んだり、仲間たちと空想的な議論をしたりして時間を過ごし、実際に働くことはない。このため、彼の息子はボロ布を着て育てられたが、独立した思考と想像力をたくましくすることにかけては十分に訓練されている。彼の外見と他の子どもたちが彼をいじめようとするにもかかわらず、子どもは学校では評判がよく、実際に子どもたちのリーダーになる。彼の影響が強すぎて、他の子どもたちはわざと靴をはねたり、服に穴を開けたりするようになる。
この男性とその息子を空想力高く尊重しなくてはと考える例外的な教師もいるものの、コミュニティのその他の人々はジュニアスを軽蔑し、彼の子供に同情するだけだった。
物語は、教育委員会のメンバーが、子供に靴と新しい服をプレゼントしようとするところで終わりとなる。自分が社会から注目されていることに気づいたとき、彼は最後の純粋さを失い、恥ずかしくなり、初めて自分が貧しいことを認識するようになる。最後のシーンでは、同情的な教師が、サンフランシスコに戻る途中、掃除をして身なりを整えたジュニアスと息子を見て、嫌がる息子を養うためにジュニアスは退屈な仕事と体調不良に戻ることになる。
1947年の夏、ルイス・マイルストンは、マーナ・ロイ、ロバート・ミッチャム、子役のピーター・マイルズの主演で、リパブリック・ピクチャーズ向けにテクニカラー映画「赤い子馬」 (The Red Pony (1949 film)) を製作、監督した。映画は1949年に公開された。映画音楽はアーロン・コープランドによって作曲され、映画音楽からオーケストラ用の組曲も編曲されている。
1973年にはヘンリー・フォンダとモーリン・オハラ、ベン・ジョンソンの出演でテレビ映画が制作された。日本公開名は「赤い仔馬」 (The Red Pony(1973 film)) 。ジェリー・ゴールドスミスは、この作品のための音楽で彼の初めてのエミー賞を受賞した。このサウンドトラックはヴァレーズ・サラバンド・レコーズから2012年に限定版としてリリースされた。
ビルボード・マガジンはこの小説を「ジョン・スタインベック作『レッド・ポニー』は、若者が死、誕生、そして失望の世界へ足を踏み入れる青春の物語である」と称賛した。 | [
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"text": "夜になると、ジョーディは絶え間ない心配にもかかわらず眠くなり、納屋のドアが開いていることも忘れて眠りに落ちてしまった。彼が目を覚ますと、ポニーは納屋からさまよい出ていた。到着したビリーは、馬が呼吸できるように気管に穴を開ける必要があると判断した。ジョーディは彼のそばにいて、常に気管に詰まった粘液を拭き取ってやる。ジョーディは眠りに落ちた後、風がますます強くなる夢を見て、目が覚めるとポニーが再びいないことに気づく。ポニーの足跡をたどると、ある場所でノスリの群れがその上空を旋回しているのに気づいた。ジョーディが到着したときには、既にノスリが馬の目を突いているところだった。",
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"text": "ジョーディは怒りに任せてその鳥と格闘し取り押さえると、手にした石英の欠片を何度も打ち付けた。遅れて父親とビリー・バックが到着し、ビリーに引き離されるまで、ジョーディは死んだ鳥をいつまでも打ち続けた。",
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"text": "暇を持て余したジョーディは大連峰を眺め、探検したいと願っている。突然、ヒターノ(ジターノ)という名前のメキシコの老人が現れ、自分はこの牧場で生まれたと主張する。ヒターノは死ぬまでこの農場においてくれという。カール・ティフリンは、その老人が役に立たない老馬イースターによく似ていると指摘して、一晩泊まることは許すものの、長期の滞在は拒否する。",
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"text": "その夜、ジョーディは密かにヒターノを訪ねる。彼は古いレイピアを磨いている。ジョーディは偉大な山に行ったことがあるかと尋ねると、ヒターノは行ったことがあるがほとんど覚えていないと答える。翌朝、イースターと同様にヒターノはいなくなった。ジョーディは老人の持ち物を調べたが、鋭い剣の痕跡は見つからずがっかりした。",
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"text": "近所の人は、ヒターノが手に何かを持って行方不明の馬に乗って山に入っていくのを目撃したと報告した。大人たちはこれが銃だと思い込むが、ジョーディが知っているように、おそらくレイピアだろう。",
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"text": "ジョーディの父親は、なぜ男が山に入ったのか不思議に思い、老馬を埋める手間を省いてくれたのだと冗談を言う。物語は、ジョーディが老人、レイピア、そして山々のことを思い出し、憧れと悲しみで満たされるところで終わる。",
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"text": "カール・ティフリンは、ジョーディがより多くの責任を学ぶ時期が来たと考え、ジョーディが繁殖牝馬ネリーを近所の農場で種付けしてもらうように手配する。種付料は5ドルで、ジョーディはその費用を返済するために夏のあいだ懸命に働く。数か月後、ビリー・バックはネリーが妊娠していると判断する。",
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"text": "ビリーはポニーの治療に失敗したこともあり、ジョーディはネリーに何かが起こるのではないかと心配する。この疑念は、ジョーディと自分自身のプライドの両方のために、少年を二度と失敗させないと主張するビリーをも苦しめる。",
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"text": "ジョーディは真夜中に目を醒ます。彼はネリーの妊娠で起こる可能性のあるすべてのことを夢見ており、どれも実現しないことを願っている。それから彼は服を着て、ネリーをチェックするために納屋にこっそり抜け出した。ジョーディがネリーを見つけると、彼女は震えを止めず、周りを見回す余裕もない。ジョーディが再び眠りに戻ろうとする前に、ビリー・バックはネリーが出産の準備ができていることを夢中になって皆に伝える。",
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"text": "ビリー・バックがネリーの状態を確認すると胎内の子馬が逆子になっており、このままでは出産できないことに気づく。ビリーはジョーディに後ろを向いているように命令すると、ネリーの頭をハンマーで殴打し、約束の牡馬をジョーディに渡すためにネリーに帝王切開を施す。",
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"text": "ジョーディの母方の祖父が訪ねてくる。カール・ティフリンは、義父が幌馬車の一団を率いて大平原を横断したときの話ばかりするのにウンザリしている。しかし、ティフリン夫人とビリーは、祖父が彼の冒険について語る資格があると思っていて、ジョーディは何度話しても喜んで耳を傾ける。",
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"text": "その翌朝、カールは朝食の席で祖父の話について「もう終わったことなのに、なぜ忘れられないのだろう? 確かにあの人は平原を渡ってやってきた、その通り。でも、もう終わったことだ。誰も何度も聞きたがりはしない」と不平を言う。そこにたまたま本人が来てしまい、祖父はふさぎ込んでしまう。彼は自分の話が退屈かもしれないことは分かっているが、次のように説明する。",
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"text": "大事なのはインディアンでも、冒険でも、西部に渡ることでさえもなかった。それは大勢の人々が、這いまわる一匹の大きな獣のようになったことだった。そして私がその先頭にいた。どんどん西へ西へ進んでいった。誰もが自分自身のために何かを求めていたが、彼ら全員である大きな獣は西に向かうことだけを望んでいた。私がリーダーだったが、私がいなかったら別の人がリーダーになっていただろう。それには頭がなければならなかった。小さな茂みの下では、白昼でも影が黒々としていた。ついに山々が見えたとき、私たちは皆、泣いたものだ。しかし、重要なのはここに到着することではなく、動くこと、西へと進むことだった。私たちはアリが卵を運ぶように、ここに生命を移し、この地に定住した。そして私がリーダーだった。西への移動は神のように偉大で、そしてゆっくりとした歩みを積み重ねて大陸を横断した。",
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"text": "ジョーディは、自分もリーダーになりたいと告げる。疲れて、懐古に浸る傷心の祖父を前にして、レモネードを飲もうと言葉をかける。ジョーディの母親は、息子が自分も一緒にレモネードを飲もうとして言ったのではなく、真の同情心から行動していることに気づく。そして母親からの許可を得たジョーディが祖父のためにレモネードを準備するところで物語は幕を下ろす。",
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"text": "この短編小説(Junius Maltby)は、サンフランシスコでの会計士としての人生に不満を抱いていた、ジュニアス・モルトビーという男性を主人公にしている。呼吸器疾患のために乾燥した気候を勧める医師のアドバイスにより、ついにその生活と決別することにした。",
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"text": "未亡人は雇い人を解雇し、ジュニアスに農場専属で働かせようとするが、余暇の生活に慣れてしまった彼は、働き詰めの生活には馴染めない。やがて農場は荒廃していき、家族は破産し、十分な食料も衣服もなく、未亡人とその子どもたちは病気で亡くなる。",
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"text": "1973年にはヘンリー・フォンダとモーリン・オハラ、ベン・ジョンソンの出演でテレビ映画が制作された。日本公開名は「赤い仔馬」 (The Red Pony(1973 film)) 。ジェリー・ゴールドスミスは、この作品のための音楽で彼の初めてのエミー賞を受賞した。このサウンドトラックはヴァレーズ・サラバンド・レコーズから2012年に限定版としてリリースされた。",
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] | 『赤い小馬』は、アメリカの作家ジョン・スタインベックによって書かれた私小説的な連作小説である。この作品はジョーディ(ジョディ)・ティフリンという少年と、その父親であるカリフォルニアの牧場主カール・ティフリンの生活を描いたの4つの物語が含まれている。 最初の3つの章は1933年から1936年にかけて複数の雑誌に掲載され、1937年にコヴィチ・フリーデ社から『赤い小馬』のタイトルで出版された。1938年には全4話で短編集『長い谷』 (The Long Valley) に収録される。1945年には同じく4話で、Wesley Dennisのイラスト付きでニューヨークのViking Pressから『赤い小馬』として再版された。 他に「ジュニアス・モルトビー」というタイトルの短編小説(スタインベックの初期の作品の1つである「天の牧場」 より)が収録されている版もある(バンタム 版)。 1949年と1973年に映画が公開されており、日本では「赤い子馬」(1949年)、「赤い仔馬」(1973年)の邦題が付けられている。なおPony(ポニー)は子馬ではなく、小型の馬のことを指す。 | {{Infobox book<!--See [[Wikipedia:WikiProject Novels]]-->
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{{Portal 文学}}
『'''赤い小馬'''』(あかいこうま、{{lang-en|''The Red Pony''}})は、アメリカの作家[[ジョン・スタインベック]]によって書かれた私小説的な連作小説である。この作品はジョーディ(ジョディ)・ティフリンという少年と、その父親であるカリフォルニアの牧場主カール・ティフリンの生活を描いたの4つの物語が含まれている。
最初の3つの章は1933年から1936年にかけて複数の雑誌に掲載され、1937年にコヴィチ・フリーデ社から『赤い小馬』(The Red Pony)のタイトルで出版された<ref name="Literary Encyclopedia">{{cite encyclopedia |author=Donohue, Cecilia |title=The Red Pony |url=http://www.litencyc.com/php/sworks.php?rec=true&UID=7547 |encyclopedia=The Literary Encyclopedia |date=2006-01-20 |accessdate=2023-10-17}}</ref>。1938年には全4話で短編集『長い谷』{{enlink|The Long Valley}}に収録される。1945年には同じく4話で、[[:en:Wesley Dennis (illustrator)|Wesley Dennis]]のイラスト付きでニューヨークの[[:en:Viking Press|Viking Press]]から『赤い小馬』として再版された<ref>{{Cite web|url=https://www.fadedpage.com/showbook.php?pid=20201044|title=The Red Pony|website=fadedpage.com|date=|access-date=2023-10-17}}</ref>。
他に「ジュニアス・モルトビー」というタイトルの短編小説(スタインベックの初期の作品の1つである「天の牧場」{{enlink|The Pastures of Heaven}}より)が収録されている版もある(バンタム{{enlink|Bantam Books}}版)<ref>{{Cite web|url=https://www.worldcat.org/ja/title/red-pony-and-junius-maltby/oclc/23861525|title=
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1949年と1973年に映画が公開されており、日本では「'''{{仮リンク|赤い子馬|en|The Red Pony (1949 film)}}'''」(1949年)、「'''{{仮リンク|赤い仔馬|en|The Red Pony (1973 film)}}'''」(1973年)の邦題が付けられている。なおPony([[ポニー]])は子馬ではなく、小型の馬のことを指す。
[[File:A little boy and his pony.JPG|right|thumb|少年とポニー]]
== あらすじ ==
この作品はジョーディ(ジョディ)・ティフリンという少年と、その父親であるカリフォルニアの牧場主カール・ティフリンの生活を描いたの4つの物語が含まれている
その他の主要登場人物には、馬の専門家で[[牧夫]]のビリー・バック、ジョーディの母親のティフリン夫人、[[オレゴン・トレイル]]を横断した過去があり、その体験談を語るのが好きなジョーディの母方の祖父、そしてティフリン牧場でいつか死にたいと願う[[ヒスパニック]]系の老人ヒターノ(ジターノ)がいる。
=== 第一話 贈り物 ===
「贈り物」(The Gift)は、『[[:en:North American Review|North American Review]]』の1933年11月号に初めて掲載された。
この章の物語は、カール・ティフリンが息子のジョーディに赤いポニー(小馬)を与えるところから始まる。ジョーディはきちんと馬の面倒をみるという父親が出した条件に喜んで同意する。
ジョーディはポニーの素晴らしさに畏敬の念を抱き、[[サリナス (カリフォルニア州)|サリナス]]バレーの牧場と隣接する草が生い茂りオークの木が点在するギャビラン山脈({{仮リンク|ガビラン山脈|en|Gabilan_Range}})にちなんで、そのポニーをギャビラン(ガビラン)と名付けることにした。世話を続けてギャビランと親しくなったジョーディは、父親から感謝祭までに馬に乗ることを許可すると言われる。
ある日、牧夫のビリー・バックは雨は降らないと保証したが、囲いの外に取り残されていたポニーは土砂降りに見舞われ、風邪のような症状になる。ビリーは馬の病気を治そうと介抱するが効果がなく、最終的には[[腺疫]]による病気と診断し、湯気で濡れた袋をポニーの口輪に当て、ジョーディにポニーの監視をさせる。
夜になると、ジョーディは絶え間ない心配にもかかわらず眠くなり、納屋のドアが開いていることも忘れて眠りに落ちてしまった。彼が目を覚ますと、ポニーは納屋からさまよい出ていた。到着したビリーは、馬が呼吸できるように気管に穴を開ける必要があると判断した。ジョーディは彼のそばにいて、常に気管に詰まった粘液を拭き取ってやる。ジョーディは眠りに落ちた後、風がますます強くなる夢を見て、目が覚めるとポニーが再びいないことに気づく。ポニーの足跡をたどると、ある場所で[[ノスリ]]の群れがその上空を旋回しているのに気づいた。ジョーディが到着したときには、既にノスリが馬の目を突いているところだった。
ジョーディは怒りに任せてその鳥と格闘し取り押さえると、手にした石英の欠片を何度も打ち付けた。遅れて父親とビリー・バックが到着し、ビリーに引き離されるまで、ジョーディは死んだ鳥をいつまでも打ち続けた。
=== 第二話 大連峰 ===
「大連峰」(The Great Mountains)は、『North American Review』の1933年12月号に初めて掲載された。
暇を持て余したジョーディは大連峰を眺め、探検したいと願っている。突然、ヒターノ(ジターノ)という名前のメキシコの老人が現れ、自分はこの牧場で生まれたと主張する。ヒターノは死ぬまでこの農場においてくれという。カール・ティフリンは、その老人が役に立たない老馬イースターによく似ていると指摘して、一晩泊まることは許すものの、長期の滞在は拒否する。
その夜、ジョーディは密かにヒターノを訪ねる。彼は古い[[レイピア]]を磨いている。ジョーディは偉大な山に行ったことがあるかと尋ねると、ヒターノは行ったことがあるがほとんど覚えていないと答える。翌朝、イースターと同様にヒターノはいなくなった。ジョーディは老人の持ち物を調べたが、鋭い剣の痕跡は見つからずがっかりした。
近所の人は、ヒターノが手に何かを持って行方不明の馬に乗って山に入っていくのを目撃したと報告した。大人たちはこれが銃だと思い込むが、ジョーディが知っているように、おそらくレイピアだろう。
ジョーディの父親は、なぜ男が山に入ったのか不思議に思い、老馬を埋める手間を省いてくれたのだと冗談を言う。物語は、ジョーディが老人、レイピア、そして山々のことを思い出し、憧れと悲しみで満たされるところで終わる。
=== 第三話 約束 ===
「約束」(The Promise)は、『[[:en:Harper's Magazine|Harper's Monthly]]』の1937年10月号に初めて掲載された。
カール・ティフリンは、ジョーディがより多くの責任を学ぶ時期が来たと考え、ジョーディが繁殖牝馬ネリーを近所の農場で種付けしてもらうように手配する。種付料は5ドルで、ジョーディはその費用を返済するために夏のあいだ懸命に働く。数か月後、ビリー・バックはネリーが妊娠していると判断する。
ジョーディとビリーが牝馬の世話をしている間、ビリーは自分の母親が出産時に亡くなり、自分は牝馬のミルクで育てられたと語る。だからこそビリーは馬の扱いが得意なのだろう。ジョーディはよく自分の子馬のことを夢に見る。ビリーから「牝馬は牛よりもデリケートで、牝馬の命を救うためには子馬を引き裂いて取り除かなければならない場合がある」という説明を受け、ジョーディはひどく心配になり、腺疫で亡くなったポニーのギャビランのことを思い出す。
ビリーはポニーの治療に失敗したこともあり、ジョーディはネリーに何かが起こるのではないかと心配する。この疑念は、ジョーディと自分自身のプライドの両方のために、少年を二度と失敗させないと主張するビリーをも苦しめる。
ジョーディは真夜中に目を醒ます。彼はネリーの妊娠で起こる可能性のあるすべてのことを夢見ており、どれも実現しないことを願っている。それから彼は服を着て、ネリーをチェックするために納屋にこっそり抜け出した。ジョーディがネリーを見つけると、彼女は震えを止めず、周りを見回す余裕もない。ジョーディが再び眠りに戻ろうとする前に、ビリー・バックはネリーが出産の準備ができていることを夢中になって皆に伝える。
ビリー・バックがネリーの状態を確認すると胎内の子馬が逆子になっており、このままでは出産できないことに気づく。ビリーはジョーディに後ろを向いているように命令すると、ネリーの頭をハンマーで殴打し、約束の牡馬をジョーディに渡すためにネリーに帝王切開を施す。
ビリーはジョーディに新しい動物の世話を手伝ってほしいと頼み、ジョーディは家に行くが、ネリーと血まみれの子馬のイメージがまだ頭の中に残っている。
=== 第四話 人々の指導者 ===
「人々の指導者」(The Leader of the People)は、『[[アーゴシー]]』誌の1936年8月号に初めて掲載された。
ジョーディの母方の祖父が訪ねてくる。カール・ティフリンは、義父が幌馬車の一団を率いて大平原を横断したときの話ばかりするのにウンザリしている。しかし、ティフリン夫人とビリーは、祖父が彼の冒険について語る資格があると思っていて、ジョーディは何度話しても喜んで耳を傾ける。
その翌朝、カールは朝食の席で祖父の話について「もう終わったことなのに、なぜ忘れられないのだろう? 確かにあの人は平原を渡ってやってきた、その通り。でも、もう終わったことだ。誰も何度も聞きたがりはしない」と不平を言う。そこにたまたま本人が来てしまい、祖父はふさぎ込んでしまう。彼は自分の話が退屈かもしれないことは分かっているが、次のように説明する。
「私はあの頃の話をするが、私が伝えたいことはそれではない。私が知りたいのは、話したときにみんながどのように感じているかなんだ。
大事なのはインディアンでも、冒険でも、西部に渡ることでさえもなかった。それは大勢の人々が、這いまわる一匹の大きな獣のようになったことだった。そして私がその先頭にいた。どんどん西へ西へ進んでいった。誰もが自分自身のために何かを求めていたが、彼ら全員である大きな獣は西に向かうことだけを望んでいた。私がリーダーだったが、私がいなかったら別の人がリーダーになっていただろう。それには頭がなければならなかった。小さな茂みの下では、白昼でも影が黒々としていた。ついに山々が見えたとき、私たちは皆、泣いたものだ。しかし、重要なのはここに到着することではなく、動くこと、西へと進むことだった。私たちはアリが卵を運ぶように、ここに生命を移し、この地に定住した。そして私がリーダーだった。西への移動は神のように偉大で、そしてゆっくりとした歩みを積み重ねて大陸を横断した。
それから私たちは海にたどり着き、それは終わった。」
彼は話をとめ、縁が赤くなるまで目元をぬぐった。
「冒険ではなく、それが私が話すべきことだったんだろうな。」
ジョーディは、自分もリーダーになりたいと告げる。疲れて、懐古に浸る傷心の祖父を前にして、[[レモネード]]を飲もうと言葉をかける。ジョーディの母親は、息子が自分も一緒にレモネードを飲もうとして言ったのではなく、真の同情心から行動していることに気づく。そして母親からの許可を得たジョーディが祖父のためにレモネードを準備するところで物語は幕を下ろす。
=== ジュニアス・モルトビー ===
この短編小説(Junius Maltby)は、サンフランシスコでの会計士としての人生に不満を抱いていた、ジュニアス・モルトビーという男性を主人公にしている。呼吸器疾患のために乾燥した気候を勧める医師のアドバイスにより、ついにその生活と決別することにした。
ジュニアスは、気候が穏やかな土地で未亡人とその子どもたちの家に下宿し、健康は回復に向かう。
しばらくして、町の人々がこの未亡人と一緒に長い間暮らしている独身男性のことを話題にするようになると、ジュニアスはすぐに家主と結婚し、手入れの行き届いた収益性の高い牧場、もしくは農場の責任者になる。
未亡人は雇い人を解雇し、ジュニアスに農場専属で働かせようとするが、余暇の生活に慣れてしまった彼は、働き詰めの生活には馴染めない。やがて農場は荒廃していき、家族は破産し、十分な食料も衣服もなく、未亡人とその子どもたちは病気で亡くなる。
そんな中で、ジュニアスと未亡人の唯一の息子が生き残る。裸足の子供と彼と同じくらい怠け者の雇われ人を抱えたジュニアスは、本を読んだり、仲間たちと空想的な議論をしたりして時間を過ごし、実際に働くことはない。このため、彼の息子はボロ布を着て育てられたが、独立した思考と想像力をたくましくすることにかけては十分に訓練されている。彼の外見と他の子どもたちが彼をいじめようとするにもかかわらず、子どもは学校では評判がよく、実際に子どもたちのリーダーになる。彼の影響が強すぎて、他の子どもたちはわざと靴をはねたり、服に穴を開けたりするようになる。
この男性とその息子を空想力高く尊重しなくてはと考える例外的な教師もいるものの、コミュニティのその他の人々はジュニアスを軽蔑し、彼の子供に同情するだけだった。
物語は、教育委員会のメンバーが、子供に靴と新しい服をプレゼントしようとするところで終わりとなる。自分が社会から注目されていることに気づいたとき、彼は最後の純粋さを失い、恥ずかしくなり、初めて自分が貧しいことを認識するようになる。最後のシーンでは、同情的な教師が、サンフランシスコに戻る途中、掃除をして身なりを整えたジュニアスと息子を見て、嫌がる息子を養うためにジュニアスは退屈な仕事と体調不良に戻ることになる。
== 映画化 ==
1947年の夏、[[ルイス・マイルストン]]は、[[マーナ・ロイ]]、[[ロバート・ミッチャム]]、子役のピーター・マイルズの主演で、[[リパブリック・ピクチャーズ]]向けに[[テクニカラー]]映画「[[赤い子馬 (1949年の映画)|赤い子馬]]」{{enlink|The Red Pony (1949 film)}}を製作、監督した。映画は1949年に公開された<ref>{{Cite web|和書|url=https://filmarks.com/movies/45019|title=赤い子馬|website=Filmarks映画|date=|access-date=2023-10-16}}</ref>。映画音楽は[[アーロン・コープランド]]によって作曲され、映画音楽からオーケストラ用の組曲も編曲されている。
{{seealso|:en:The Red Pony (Copland)}}
1973年には[[ヘンリー・フォンダ]]と[[モーリン・オハラ]]、[[ベン・ジョンソン (俳優)|ベン・ジョンソン]]の出演でテレビ映画が制作された<ref>{{Cite web|url=http://www.imdb.com/title/tt0070598/|title=The Red Pony|via=www.imdb.com|accessdate=2023-10-12}}</ref>。日本公開名は「[[赤い仔馬 (1973年の映画)|赤い仔馬]]」{{enlink|The Red Pony(1973 film)}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://eiga.com/movie/58497/|title=赤い仔馬|website=映画.com|date=|access-date=2023-10-16}}</ref>。[[ジェリー・ゴールドスミス]]は、この作品のための音楽で彼の初めての[[エミー賞]]を受賞した<ref>{{Cite web|url=https://m.imdb.com/name/nm0000025/awards/|title=Jerry Goldsmith - Awards|website=IMDb|date=|access-date=2023-10-16}}</ref>。このサウンドトラックは[[ヴァレーズ・サラバンド・レコーズ]]から2012年に限定版としてリリースされた<ref>{{Cite web|和書|url=https://tower.jp/item/3173147/The-Red-Pony%EF%BC%9C%E5%88%9D%E5%9B%9E%E7%94%9F%E7%94%A3%E9%99%90%E5%AE%9A%E7%9B%A4%EF%BC%9E|title=The Red Pony<初回生産限定盤>|website=TOWER RECORDS ONLINE|date=|access-date=2023-10-16}}</ref>。
== 批評 ==
[[ビルボード|ビルボード・マガジン]]はこの小説「ジョン・スタインベック作『赤い小馬』は、若者が死、誕生、そして失望の世界へ足を踏み入れる青春の物語である」と称賛した<ref name=Clapton>{{Cite news|last=White|first=Timothy|title=Eric Clapton. (Interview)|newspaper=Billboard|pages=55|year=1993|url=http://find.galegroup.com/gps/retrieve.docontentSet=IACDocuments&resultListType=RESULT_LIST&qrySerId=Locale%28en%2C%2C%29%3AFQE%3D%28ke%2CNone%2C24%29%22The+Red+Pony%22+Steinbeck%3AAnd%3ALQE%3D%28AC%2CNone%2C8%29fulltext%24&sgHitCountType=None&inPS=true&sort=DateDescend&searchType=BasicSearchForm&tabID=T003&prodId=IPS&searchId=R1¤tPosition=1&userGroupName=ncowl&docId=A14905493&docType=IAC&contentSet=IAC-Documents|access-date=9 March 2011}}{{Dead link|date=June 2018 |bot=InternetArchiveBot |fix-attempted=no }}</ref>。
== 日本語訳 ==
* スタインベック 著, [[西川正身]] 訳 『赤い小馬』、新潮社、1953年、{{全国書誌番号|54001032}}
** 新潮文庫、1955年、{{全国書誌番号|55011211}}
** 『少年少女世界名作選 3 赤い小馬』、偕成社、1966年、{{全国書誌番号|45035384}}
** 偕成社文庫、1977年、{{全国書誌番号|77034444}}
** 新潮文庫(改版)、1983年、{{ISBN2|4-10-210107-1}}
* スタインベック 著, [[菅原清治]] 訳 『赤い小馬 : 他二篇』、角川文庫、1955年、{{全国書誌番号|55003715}}
** 角川文庫(改版)、1968年、{{全国書誌番号|68010566}}
* スタインベック 著, [[松原正]] 訳, 「赤い小馬」『世界名作全集 第25』より、平凡社、1958年、{{全国書誌番号|58005183}}
* スタインベック 著, [[石川信夫]] 訳, 「赤い小馬」『現代アメリカ文学全集 第12』より、荒地出版社、1958年、{{全国書誌番号|56000492}}
* スタインベック 著, [[白木茂]] 訳, 井上長三郎 絵 『ジュニア版世界の文学 4 赤い小馬』、岩崎書店、1967年、{{全国書誌番号|45030004}}
* スタインベック 著, [[三浦朱門]] 訳 「赤い小馬」『少年少女世界文学全集 19 赤い小馬・名犬ラッシー』より、学研、1969年
* スタインベック 著, [[龍口直太郎]] 訳 『赤い小馬 : ザ・ロング・ヴァレー 他十二編』、旺文社文庫、1972年、{{全国書誌番号|75065733}}
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 参考文献 ==
* [http://dmr.bsu.edu/cdm4/document.php?CISOROOT=/StnbckMngrp&CISOPTR=816&REC=10 ''Steinbeck's "The Red Pony": Essays in Criticism''], edited by Tetsumaro Hayashi and Thomas J. Moore, 1988
== 関連文献 ==
* [[小沢明子]]「スタインベック作「赤い小馬」--作品構成のリズムについて」学苑(通号424)1975.04 p.p135〜150
* [[倉本護]]「開眼物語としてのジョン・スタインベックの「赤い小馬」に関する一考察」英文学思潮(Thought currents in English literature)、(通号57)1984 p.p57〜83
* [[中山喜代市]]「スタインベックの「赤い小馬」について」英文学論集(Kansai University studies in English language and literature)、関西大学英文学会 編 (通号 27) 1987.12 p.p70〜87
== 外部リンク ==
* {{FadedPage|id=20201044|name=The Red Pony}} - 原文テキスト
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[[Category:アメリカ合衆国の小説]]
[[Category:ジョン・スタインベック]] | 2023-10-12T01:30:22Z | 2023-10-28T06:48:20Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E3%81%84%E5%B0%8F%E9%A6%AC |
4,840,444 | 田園調布せせらぎ公園・せせらぎ館 | 田園調布せせらぎ公園・せせらぎ館(でんえんちょうふせせらぎこうえん・せせらぎかん)は、東京都大田区の多摩川園跡地に整備設置された公園。敷地内のせせらぎ館に大田区立図書館の分館となる図書サービスコーナー、カフェ、多目的室、集会室を備え、多目的広場、体育施設など、大田区民の地域文化活動の拠点として整備された体験学習施設であり、休憩施設となっている。2006年(平成18年)開園。
立川市から大田区まで約30キロには多摩川の河岸段丘である国分寺崖線が断続的に連なる。
昭和期、その崖線と現在の東急電鉄多摩川駅との間に最高低差20メートルの地形を活かした遊園地「多摩川園」があった。1979年(昭和54年)に多摩川園が閉園後、多摩川園ラケットクラブとして2002年(平成14年)まで運営されていた。
2003年(平成15年)、大田区は多摩川園の跡地の一部を公園用地として取得し、翌2004年(平成16年)から一般開放を始める。名称は、2006年(平成18年)7月に公募により決定。田園調布せせらぎ公園としての本格的な開放は2006年(平成18年)から始まり、2008年(平成20年)には第1回田園調布グリーンフェスタが開催されるなど、以来、田園調布エリアの地域活性化の拠点のひとつとなっている。
その後、園内設備の老朽化を受け、大田区は区で策定した公共施設適正配置方針に則って整備を進めることとなった。その際、園の休憩所と、近隣に所在した田園調布富士見会館の機能を集約した新たな文化施設とすることが検討され、「(仮称)田園調布せせらぎ公園文化施設」、のちの「田園調布せせらぎ公園・せせらぎ館」が検討された。2017年(平成29年)春にプロポーザルを行い、設計者は隈研吾建築都市設計事務所に決まる。
田園調布せせらぎ公園は、テニスコートなどに改修されて失われていた崖線の原風景の懐古をメインテーマに設計された。
公園敷地は多摩川に面した段丘に広がり、園内の雑木林の崖裾、南北2か所から湧水がわき出でて園内を流れる小川を形成する。このせせらぎが名前の由来である。
季節の移ろいに伴い、様々な生き物や植物を観察することができ、園ではその生態系を紹介する『田園調布せせらぎ公園の生きものたち』を作成、刊行している。園内散策路では自然の趣を残すため、落ち葉の清掃を控えている場所もある。園内の植物のうち、2016年(平成28年)3月指定の樹高20メートルのシラカシと、イチョウの2本が「おおたの名木選」31本のうちに選ばれている。
敷地内はすべて、大田区野外における喫煙マナー等に関する条例と、東京都受動喫煙防止条例対象施設となっている。
これまで田園調布地区には地域活動の拠点施設がなく、町会から要望があったという。
隣接する田園調布の小学校に通っていて、かつてこの場所にあった多摩川園で遊んだという縁もあり、隈研吾がデザインした。隈研吾は、国立競技場の設計にも携わった著名な建築家であり、図書館建築の設計者としてもよく知られる。
せせらぎ館は、せせらぎ公園内にあった旧公園休憩所と、富士見坂上に位置していた旧田園調布富士見会館の機能を集約している。
南北に細長い敷地に建設され、長辺は約120メートル。カフェ、図書スペース、4つの集会室などがあり、集会室のうち3室は多目的室、1室は和室で、地元コミュニティなどに貸し出される。崖線のある東側は全面ガラス張りで、欄間のような開口部と縁側を設ける。
多摩川沿いの崖がみせる緑豊かな自然景観との調和を意識し、「森の縁側」のイメージで設計された。屋内外で積極的に古材を使用する。新しい木材にはエイジング処理を施し、それをランダムに配置することで「崖がつくり出すリズムに即興で新しい旋律を加えているような状態」を目指してデザインされた。
図書サービスコーナーは、正式名称を「田園調布せせらぎ館図書サービスコーナー」といい、大田区の地域力推進部が所管する施設である。「せせらぎ文庫」として館内利用に対応した本、雑誌、絵本を備える。
大田区立図書館にある資料の予約・受取・返却、レファレンスサービス、図書館の利用者登録ができる。
館内利用者端末では大田区立図書館にある資料の検索も可能。24時間返却可能な図書館返却ポストもある。
指定管理者は田園調布せせらぎハーモニー。株式会社日比谷花壇、一般社団法人田園調布グリーンコミュニティ、株式会社紀伊國屋書店、不二興産株式会社で構成されている。田園調布せせらぎハーモニー共同事業体として2020年(令和2年)に公式サイトの運用を開始した。 | [
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] | 田園調布せせらぎ公園・せせらぎ館(でんえんちょうふせせらぎこうえん・せせらぎかん)は、東京都大田区の多摩川園跡地に整備設置された公園。敷地内のせせらぎ館に大田区立図書館の分館となる図書サービスコーナー、カフェ、多目的室、集会室を備え、多目的広場、体育施設など、大田区民の地域文化活動の拠点として整備された体験学習施設であり、休憩施設となっている。2006年(平成18年)開園。 | {{公園
|名称 = 田園調布せせらぎ公園・せせらぎ館
|画像 =File:芝生広場からせせらぎ館.jpg|280px
|画像キャプション = 芝生広場からせせらぎ館をのぞむ
|国 = {{JPN}}
|都市 = [[東京都]][[大田区]][[田園調布]]1丁目53番12号
|位置情報 =
|分類 = [[公園|都市公園]]
|面積 = 34,664.81[[平方メートル]]
|設備・遊具 = オストメイト対応トイレあり、水飲み、自動販売機<ref name=せせらぎ公園公式HP/>
|駐車場 = 有り
|バリアフリー =
|建築家・技術者 = [[隈研吾]]
|開園 = 2006年4月1日<ref name=高村>{{Cite book|和書|author=高村弘毅 |title=東京湧水せせらぎ散歩 |publisher=丸善出版 |date=2009 |page=36 |isbn=}}</ref>
|事務所 =
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|地図国コード = JP
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|アクセス = [[東急電鉄|東急]][[東急東横線|東横線]]・[[東急目黒線|目黒線]]・[[東急多摩川線|多摩川線]][[多摩川駅]]から徒歩
|公式サイト = https://www.den-en-seseragi.jp/
}}
'''田園調布せせらぎ公園・せせらぎ館'''(でんえんちょうふせせらぎこうえん・せせらぎかん)は、[[東京都]][[大田区]]の[[多摩川園]]跡地に整備設置された[[公園]]<ref name=高村/>。敷地内のせせらぎ館に[[大田区立図書館]]の分館となる図書サービスコーナー、カフェ、多目的室、集会室を備え、多目的広場、体育施設など、大田区民の地域文化活動の拠点として整備された体験学習施設であり、休憩施設となっている。2006年(平成18年)開園<ref name=グリーンフェスタ/>。
== 沿革 ==
[[立川市]]から[[大田区]]まで約30キロには[[多摩川]]の[[河岸段丘]]である国分寺崖線が断続的に連なる。
昭和期、その崖線と現在の[[東急電鉄]][[多摩川駅]]との間に最高低差20メートルの地形を活かした遊園地「[[多摩川園]]」があった。1979年(昭和54年)に多摩川園が閉園後、多摩川園ラケットクラブとして2002年(平成14年)まで運営されていた<ref name=高村/><ref name=GA165,p159>{{Cite book|和書|author= |title=GA JAPAN 165号 |publisher=エーディーエー・エディタ・トーキョー |date=2020 |page=159 |isbn=}}</ref>。
2003年(平成15年)、大田区は多摩川園の跡地の一部を公園用地として取得し、翌2004年(平成16年)から一般開放を始める<ref name=グリーンフェスタ/><ref name=高村/>。名称は、2006年(平成18年)7月に公募により決定。田園調布せせらぎ公園としての本格的な開放は2006年(平成18年)から始まり、2008年(平成20年)には第1回田園調布グリーンフェスタが開催されるなど、以来、[[田園調布]]エリアの地域活性化の拠点のひとつとなっている<ref name=グリーンフェスタ>{{Cite web |url=https://www.den-en-seseragi.jp/news/%e3%82%b0%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%83%b3%e3%83%95%e3%82%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e6%a6%82%e8%a6%81/ |title=グリーンフェスタ概要 |publisher =田園調布せせらぎ公園・せせらぎ館 |accessdate=2023-10-13}}</ref>。
その後、園内設備の老朽化を受け、大田区は区で策定した公共施設適正配置方針に則って整備を進めることとなった<ref name=GA165,p159/>。その際、園の休憩所と、近隣に所在した田園調布富士見会館の機能を集約した新たな文化施設とすることが検討され、「(仮称)田園調布せせらぎ公園文化施設」、のちの「田園調布せせらぎ公園・せせらぎ館」が検討された<ref name=GA165,p159/>。2017年(平成29年)春にプロポーザルを行い、設計者は[[隈研吾]]建築都市設計事務所に決まる<ref name=GA165,p159/>。
田園調布せせらぎ公園は、テニスコートなどに改修されて失われていた崖線の[[原風景]]の懐古をメインテーマに設計された<ref name=GA170,p57>{{Cite book|和書|author= |title=GA JAPAN 170号 |publisher=エーディーエー・エディタ・トーキョー |date=2021 |page=57 |isbn=}}</ref>。
== 施設・設備 ==
公園敷地は[[多摩川]]に面した段丘に広がり、園内の雑木林の崖裾、南北2か所から湧水がわき出でて園内を流れる小川を形成する<ref name=高村/>。このせせらぎが名前の由来である<ref name=高村/>。
季節の移ろいに伴い、様々な生き物や植物を観察することができ、園ではその生態系を紹介する『田園調布せせらぎ公園の生きものたち[https://www.den-en-seseragi.jp/wp/wp-content/themes/seseragi-theme/assets/pdf/ikimono.pdf]』を作成、刊行している<ref name=せせらぎ公園公式HP>{{Cite web |url=https://www.den-en-seseragi.jp/seseragipark/ |title=せせらぎ公園 |publisher =大田区立田園調布せせらぎ公園・せせらぎ館 |accessdate=2023-10-12}}</ref>。園内散策路では自然の趣を残すため、落ち葉の清掃を控えている場所もある<ref name="名前なし-20231105145828">現地看板2023年10月12日時点</ref>。園内の植物のうち、2016年(平成28年)3月指定の樹高20メートルの[[カシ|シラカシ]]と、イチョウの2本が「おおたの名木選」31本のうちに選ばれている<ref name="名前なし-20231105145828"/>。
敷地内はすべて、大田区野外における喫煙マナー等に関する条例と、東京都受動喫煙防止条例対象施設となっている<ref name="名前なし-20231105145828"/>。
* せせらぎ館
** 図書スペース - 詳細は後述。
** カフェ - 館内利用のほか、公園内でのピクニックを想定したテイクアウトメニューを備える<ref>{{Cite web |url=https://www.den-en-seseragi.jp/cafe/ |title=カフェ |publisher =田園調布せせらぎ公園・せせらぎ館 |accessdate=2023-10-13}}</ref>。
** 公民館機能 - 多目的室3室、和室1室、集会室4室が地元コミュニティなどの活動に貸与されている。このうち第2多目的室は防音仕様で、打楽器など特におおきな音量が発生する一部の楽器を除き、音楽練習にも使うことができる<ref>{{Cite web |url=https://www.den-en-seseragi.jp/guidance/ |title=ご利用案内 |publisher =田園調布せせらぎ公園・せせらぎ館 |accessdate=2023-10-13}}</ref>。
** 体育施設 - 2024年(令和6年)度の竣工予定で建設工事がすすめられている<ref name=大田区/>
* 芝生広場・草っぱら - 大きく5箇所にあり、田園調布グリーンフェスタ等イベントにも使用される<ref name="名前なし-20231105145828"/>。
* 多目的広場 - 3箇所にある<ref name=せせらぎ公園公式HP/>。球技も可。
* トイレ – せせらぎ館の建物内に2箇所、屋外敷地内に2箇所ある<ref name=せせらぎ公園公式HP/>。
* 大山坂 - 多摩川園の人気アトラクションの大山すべり台の跡地。往時を偲ばせる約50メートルの直線の大階段となっている<ref name="名前なし-20231105145828"/>
* いろは坂
* 滝
* 滝坂
* 湧水池 – 池は3箇所にあり、そのうち2箇所は湧水池で「[[東京の名湧水57選]]」のひとつに数えられる<ref name="名前なし-20231105145828"/>。様々な水生生物が生息する<ref name=せせらぎ公園公式HP/>。
<gallery>
File:せせらぎ館から崖線をのぞむ.jpg|せせらぎ館「縁側」から崖線をのぞむ
File:大山坂.jpg|「大山坂」の大階段
File:多目的広場(運動場).jpg|多目的広場(運動場)のひとつ
File:田園調布せせらぎ公園.jpg|草っぱらのひとつ
File:建設中の体育施設.jpg|建設中の体育施設(2023年10月)
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== 田園調布せせらぎ館 ==
{{建築物
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|画像 = File:Seseragi Park, Ota Tokyo せせらぎ館.jpg|270px
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|用途 =
|旧用途 =
|設計者 = [[隈研吾]]建築都市設計事務所<ref name=GA170,p65>{{Cite book|和書|author= |title=GA JAPAN 170号 |publisher=エーディーエー・エディタ・トーキョー |date=2021 |page=65 |isbn=}}</ref>
|構造設計者 = [[小西泰孝]]建築構造設計
|設備設計者 = 環境エンジニアリング
|施工 = サンユー・三ツ木・三美建設共同企業体企業
|建築主 =
|事業主体 =
|管理運営 =
|構造形式 = [[鉄筋コンクリート造]]<ref name=GA170,p65/>
|敷地面積=32,028.41 |敷地面積ref=<ref name=GA170,p65/> |敷地面積備考=
|建築面積=1,762.73 |建築面積ref=<ref name=GA170,p65/> |建築面積備考=
|延床面積=2,246.48 |延床面積ref=<ref name=GA170,p65/> |延床面積備考=
|状態 =
|階数 = 2階建
|高さ = 9.49メートル
|エレベーター数 =
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|着工 = 2019年1月
|竣工 = 2020年11月
|開館開所 = 2021年1月16日
|改築 =
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|所在地郵便番号 =
|所在地 =
|緯度度 = |緯度分 = |緯度秒 = |N(北緯)及びS(南緯) = 35.35210
|経度度 = |経度分 = |経度秒 = |E(東経)及びW(西経) = 139.40138
|地図国コード =
|座標右上表示 =
|位置図種類 =
|文化財 =
|指定・登録等日 =
|備考 =
}}
{{図書館
|名称 = 図書サービスコーナー
|英名 =
|画像 = [[File:Seseragi Park, Ota Tokyo せせらぎ館 1階図書コーナー.jpg|270px]]
|画像説明 =
|正式名称 =
|愛称 = せせらぎ館
|前身 =
|専門分野 =
|事業主体 =
|管理運営 =
|建物設計 =
|延床面積 =
|開館 = 2021年(令和3年)1月16日<ref name=大田の図書館>{{Cite book|和書|author= |title=令和4年度大田の図書館 |publisher=大田区立大田図書館 |date=2022 |page=53 |isbn=}}</ref><ref name=大田区/>
|閉館 =
|所在地郵便番号 =
|所在地 =
|緯度度 = |緯度分 = |緯度秒 =
|経度度 = |経度分 = |経度秒 =
|地図国コード =
|座標右上表示 =
|蔵書数 = |蔵書数出典= |蔵書数年 =
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|来館者数 = |来館者数年 =
|年運営費 = |年運営費年 =
|条例 =
|館長 =
|職員数 =
|公式サイト = [https://www.den-en-seseragi.jp/seseragihall/ 公式サイト]
|備考 =
}}
=== 沿革 ===
これまで田園調布地区には地域活動の拠点施設がなく、町会から要望があったという。
隣接する田園調布の小学校に通っていて、かつてこの場所にあった多摩川園で遊んだという縁もあり、[[隈研吾]]がデザインした<ref>{{Cite book|和書|author= |title=GA JAPAN 165号 |publisher=エーディーエー・エディタ・トーキョー |date=2020 |page=158 |isbn=}}</ref>。隈研吾は、[[国立競技場]]の設計にも携わった著名な建築家であり、図書館建築の設計者としてもよく知られる<ref>{{Cite web |url=https://webdesignmagazine.net/kengo-kuma-library/#%E9%9B%B2%E3%81%AE%E4%B8%8A%E3%81%AE%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8 |title=建築家の隈研吾が設計した図書館4選。高知の梼原や富山、滋賀など |publisher =デザインマガジン |accessdate=2023-10-12}}</ref><ref name=大田区>{{Cite web |url=https://www.city.ota.tokyo.jp/shisetsu/seseragi/index.html |title=田園調布せせらぎ館 |publisher =大田区 |accessdate=2023-10-12}}</ref>。
せせらぎ館は、せせらぎ公園内にあった旧公園休憩所と、富士見坂上に位置していた旧田園調布富士見会館の機能を集約している<ref name=大田区/>。
=== 建築 ===
南北に細長い敷地に建設され、長辺は約120メートル。カフェ、図書スペース、4つの集会室などがあり、集会室のうち3室は多目的室、1室は和室で、地元コミュニティなどに貸し出される<ref name=GA170,p57/>。崖線のある東側は全面ガラス張りで、欄間のような開口部と縁側を設ける<ref name=GA170,p57/>。
多摩川沿いの崖がみせる緑豊かな自然景観との調和を意識し、「森の縁側」のイメージで設計された<ref name=大田区/>。屋内外で積極的に古材を使用する<ref name=GA165,p159/>。新しい木材にはエイジング処理を施し、それをランダムに配置することで「崖がつくり出すリズムに即興で新しい旋律を加えているような状態」を目指してデザインされた<ref name=GA165,p159/>。
=== 図書サービスコーナー ===
図書サービスコーナーは、正式名称を「田園調布せせらぎ館図書サービスコーナー」といい、大田区の地域力推進部が所管する施設である<ref name=大田の図書館/>。「せせらぎ文庫」として館内利用に対応した本、雑誌、絵本を備える<ref name=大田の図書館/>。
[[大田区立図書館]]にある資料の予約・受取・返却、[[レファレンスサービス]]、図書館の利用者登録ができる<ref name=大田の図書館/>。
館内利用者端末では大田区立図書館にある資料の検索も可能。24時間返却可能な[[ブックポスト|図書館返却ポスト]]もある<ref name=大田区/>。
<gallery>
File:Seseragi Park, Ota Tokyo せせらぎ館.jpg|外観
File:Seseragi Park, Ota Tokyo せせらぎ館1階.jpg|1階
File:Seseragi Park, Ota Tokyo せせらぎ館 1階図書コーナー.jpg|1階せせらぎ文庫
File:Seseragi Park, Ota Tokyo せせらぎ館エントランス.jpg|1階エントランス
</gallery>
== 運営組織 ==
指定管理者は田園調布せせらぎハーモニー。株式会社[[日比谷花壇]]、一般社団法人田園調布グリーンコミュニティ、株式会社[[紀伊國屋書店]]、不二興産株式会社で構成されている。田園調布せせらぎハーモニー共同事業体として2020年(令和2年)に公式サイトの運用を開始した<ref name=せせらぎ公園公式HP/>。
== 利用案内 ==
; せせらぎ公園
: 4月~9月 7:00~18:00
:10月、2月、3月 7:00~17:00
:11月~1月 7:00~16:30 <ref name=高村/>
; せせらぎ館
: 9時00分〜22時00分(諸室の予約や図書サービスコーナー 9時00分~19時00分)
: 毎月第2木曜日(祝祭日の場合は翌日)と年末年始(12月29日~1月3日)は休館
== 現地情報 ==
=== 所在地 ===
* 住所 [[東京都]][[大田区]][[田園調布]]1丁目53番12号
* 大田区の南部、[[久が原|久が原台]]に位置する<ref name=高村/>。
=== アクセス ===
* [[東急電鉄|東急]][[東急東横線|東横線]]・[[東急目黒線|目黒線]]・[[東急多摩川線|多摩川線]]「[[多摩川駅]]」の東側に隣接する<ref name=高村/>。
* 駐車場 - 20台(内、障がい者用1台)
** 利用時間:6:30~22:30
* 駐輪場 -東門約50台、北門37台
** 利用時間:東門 公園の開園時間と同じ / 北門 終日
=== 周辺情報 ===
* [[多摩川台公園]]
* [[田園調布のイチョウ並木]]
* [[田園調布駅]]
* [[六郷用水]]
* [[多摩川浅間神社]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
; 田園調布せせらぎ公園
* 平澤勘蔵『大田区立郷土博物館紀要』第7号 1996年度 pp58~76「東京郊外の遊園地・多摩川園」 大田区立郷土資料館
* 高村弘毅『東京湧水せせらぎ散歩』丸善出版、2015年
* 『田園調布せせらぎ公園の生きものたち』大田区、2021年
* 「散歩の達人」2007年3月号 交通新聞社、2007年
; 田園調布せせらぎ館
* 『GA JAPAN』167号 エーディーエー・エディタ・トーキョー、2020年
* 『GA JAPAN』170号 エーディーエー・エディタ・トーキョー、2021年
* 『大田の図書館 令和4年度』大田区立図書館、2022年
== 関連項目 ==
* [[大田区立図書館]]
* [[多摩川園]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Seseragi Park, Ota Tokyo}}
* [https://www.den-en-seseragi.jp/ 田園調布せせらぎ公園] - 大田区
{{デフォルトソート:てんえんちようふこうえん せせらきかん}}
[[Category:大田区の地理]]
[[Category:大田区の公園]]
[[Category:2006年開業の施設]]
[[Category:隈研吾]] | 2023-10-12T01:37:00Z | 2023-11-05T14:58:29Z | false | false | false | [
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4,840,446 | ONE FU ALL, ALL FU ONE | 「ONE FU ALL, ALL FU ONE」(ワンフーオールオールフーワン)は、2023年10月11日に発売された風男塾の8thアルバム。
メンバーは、柚希関汰、英城凛空、葉崎 アラン、天堂太陽、胡桃沢鼓太郎、凰紫丈源、赤星良宗。
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「'''ONE FU ALL, ALL FU ONE'''」(ワンフーオールオールフーワン)は、[[2023年]][[10月11日]]に発売された[[風男塾]]の8thアルバム。
== 概要 ==
メンバーは、柚希関汰、英城凛空、葉崎 アラン、天堂太陽、胡桃沢鼓太郎、凰紫丈源、赤星良宗。
== 収録曲 ==
[[テイチクレコード]]公式サイト内の紹介ページによる<ref>[https://www.teichiku.co.jp/artist/fu-danjuku/discography/TECI-1809.html インペリアルレコード|風男塾|DISCOGRAPHY|ONE FU ALL, ALL FU ONE]</ref>。
=== 通常版 ===
# '''君とならば、僕らならば'''
#: 作詞・作曲:[[高木誠司]] / 編曲:桑田健吾
# '''君日和'''
#: 作詞・作曲:[[大橋莉子]]・Uio / 編曲: Uio・大橋莉子
#: 32ndシングル。TBS系「[[プレバト!!]]」2023年6-7月度エンディングテーマ。
# '''ガムシャラダッシュ!'''
#: 作詞・作曲・編曲:[[木下龍平]]
#:関西テレビ「[[フットマップ]]」2023年10月度エンディングテーマ。
# '''ガンバーレ!(active member ver.)'''
#: 作詞・作曲:[[はなわ]] / 編曲:[[小林俊太郎]]
# '''My Radio Star'''
#: 作詞:[[成田忍]] / 作曲・編曲:[[KOH]]
# '''マンボウ'''
#: 作詞:[[HIRO]]] / 作曲:[[平間光]] / 編曲:[[小林樹音]]
# '''Baby U'''
#: 作詞:[[藤原優樹]] / 作曲・編曲:[[Uio]]
#: 31stシングル。テレ玉「ドレスキーとコレスキー」2022年12月度オープニングテーマ。
# '''失恋ジェラテリア'''
#: 作詞・作曲・編曲:成田忍
#'''The Sky'''
#: 作詞・作曲・編曲:成田忍
#'''Jellyfish'''
#: 作詞:[[藤原優樹]] / 作曲・編曲:[[Uio]]
#: BSフジ韓国ドラマ「魔女は生きている」エンディングテーマ。
#'''勝つんだ!(punk ver.)'''
#: 作詞・作曲:はなわ / 編曲:[[高慶 "CO-K" 卓史]]
=== 初回限定盤A ===
CD
# '''君とならば、僕らならば'''
# '''君日和'''
# '''ガムシャラダッシュ!'''
# '''ガンバーレ!(active member ver.)'''
# '''My Radio Star'''
# '''マンボウ'''
# '''Baby U'''
# '''失恋ジェラテリア'''
#'''The Sky'''
#'''Jellyfish'''
#'''勝つんだ!(punk ver.)'''
#'''オリジナルボイスドラマ「NEVER GIVE UP![against]the wind〜中野風男子学園放送部〜」'''
DVD
#'''ONE FU ALL, ALL FU ONE ジャケット撮影メイキング'''
=== 初回限定盤B ===
CD
# '''君とならば、僕らならば'''
# '''君日和'''
# '''ガムシャラダッシュ!'''
# '''ガンバーレ!(active member ver.)'''
# '''My Radio Star'''
# '''マンボウ'''
# '''Baby U'''
# '''失恋ジェラテリア'''
#'''The Sky'''
#'''Jellyfish'''
#'''勝つんだ!(punk ver.)'''
#'''オリジナルボイスドラマ「NEVER GIVE UP![against]the wind〜中野風男子学園放送部〜」'''
特典
#'''フォトブック(24P)'''
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* {{Youtube|VVhACogbtVA|【Official Live Video】ガンバーレ!}}
{{中野風女シスターズ}}
{{Album-stub}}
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[[Category:2023年のアルバム]]
[[Category:中野風女シスターズのアルバム]]
[[Category:はなわが制作した楽曲]] | 2023-10-12T01:49:59Z | 2023-10-30T02:49:15Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/ONE_FU_ALL,_ALL_FU_ONE |
4,840,453 | 東北工業大学建築学部・大学院建築学研究科 | 東北工業大学建築学部(とうほくこうぎょうだいがくけんちくがくぶ、Faculty of Architecture)は、東北工業大学に開設されている建築学部。東北工業大学大学院建築学研究科(とうほくこうぎょうだいがくだいがくいんけんちくがくけんきゅうか、Graduate School of Architecture)は、東北工業大学大学院に開設されている建築学に関する研究科。 | [
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'''東北工業大学建築学部'''(とうほくこうぎょうだいがくけんちくがくぶ、Faculty of Architecture)は、[[東北工業大学]]に開設されている[[建築学部]]。'''東北工業大学大学院建築学研究科'''(とうほくこうぎょうだいがくだいがくいんけんちくがくけんきゅうか、Graduate School of Architecture)は、東北工業大学大学院に開設されている[[建築学]]に関する[[研究科]]。
== 沿革 ==
* 1964年 東北工業大学開学。[[工学部]]創設
* 1966年 工学部に[[建築学科]]を増設
* 1992年 大学院[[工学研究科]] [[修士課程]](博士前期課程)建築学専攻を開設
* 1994年 東北工業大学大学院 工学研究科 博士(後期)課程の建築学専攻開設
* 2020年 工学部の建築学科を母体に建築学部創設。工学研究科の建築学専攻を母体に建築学研究科を創設
== 学部組織 ==
;建築学部
* 建築学科
== 大学院 ==
;建築学研究科
* 建築学専攻博士前期課程
** 建築史・意匠分野
** 環境計画分野
** 構造災害制御工学分野
** 建築生産工学分野
** 制振構造学分野
* 建築学専攻博士後期課程
** 建築文化史分野
** 環境計画分野
** 制振構造学分野
** 建築生産工学分野
== 外部リンク ==
* [https://www.tohtech.ac.jp/dept/arc/arch/ 大学の学科紹介サイト]
* [https://www.arch.tohtech.ac.jp/ 学科オリジナルサイト]
* [https://www.arch.tohtech.ac.jp/department/graduate 大学院サイト]
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[[カテゴリ:東北工業大学|けんちくかくふ]]
[[カテゴリ:日本の私立大学の大学院]]
[[カテゴリ:日本の建築系教育機関]]
[[カテゴリ:技術系の高等教育機関]] | 2023-10-12T02:11:40Z | 2023-10-29T00:06:21Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%8C%97%E5%B7%A5%E6%A5%AD%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E5%BB%BA%E7%AF%89%E5%AD%A6%E9%83%A8%E3%83%BB%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E9%99%A2%E5%BB%BA%E7%AF%89%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%A7%91 |
4,840,459 | 柴田英寿 | 柴田 英寿(しばた ひでとし、1967年 - )は、日本のビジネス書作家、起業支援家。三重県出身。
1999年、株式会社日立製作所の社員としての共著『バリュー・インテグレーション』(東洋経済新報社)を皮切りに、単行本の執筆を続ける。
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] | 柴田 英寿は、日本のビジネス書作家、起業支援家。三重県出身。 | {{Infobox 作家
| name = 柴田 英寿<br />(しばた ひでとし)
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| image_size = 300px
| caption = 柴田英寿
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| birth_name = <!-- 出生名 -->
| birth_date = {{生年月日と年齢|1967||}}
| birth_place = {{JPN}}・三重県伊勢市
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| language = 日本語
| nationality = {{JPN}}
}}
'''柴田 英寿'''(しばた ひでとし、[[1967年]] - )は、日本のビジネス書作家、起業支援家。[[三重県]]出身。
== 来歴 ==
1999年、[[日立製作所|株式会社日立製作所]]の社員としての共著『バリュー・インテグレーション』(東洋経済新報社)を皮切りに、単行本の執筆を続ける<ref>[https://www.bookscan.co.jp/interviewarticle/247/all BOOKSCAN 読者の行動が変わる本を書きたい サラリーマン作家 柴田英寿]</ref>。
2002年から国立大学法人東京大学等<ref>[https://home.jeita.or.jp/cgi-bin/page/detail.cgi?n=604&ca=1 中央大学]、[https://home.jeita.or.jp/cgi-bin/page/detail.cgi?n=717&ca=1 東北大学]、[http://www.pict-lab.uec.ac.jp/jp/news/news0069.html 電気通信大学]</ref>にて起業家教育を行い、学生起業家育成の草分けとなる<ref>[https://www.openschooljapan.org/ アントレプレナーシップ論オープンスクールホームページ]</ref>。
== 著書 ==
=== 単著 ===
* 『理系人間のための経営戦略入門』(実業之日本社、2002年)
* 『会社というおかしな場所で生きる術』(実業之日本社、2004年)
* 『「お先に」失礼する技術 「断る」「決断する」「切り上げる」「見極める」ための極意』(WAVE出版、2005年)
* 『オフィスからパソコンがなくなる日』(東洋経済新報社、2006年)
* 『「これやっといて」で部下が動いてくれる!技術』(すばる舎、2007年)
* 『年収2000万の仕事術―高収入の秘密、すべて教えます』(三笠書房、2008年)
* 『サラリーマンのための「会社の外」で稼ぐ術 複数収入獲得マニュアル』(朝日新書、2008年)
* 『金になる人脈―その近づき方・つくり方・転がし方』 (幻冬舎新書、2008年)
* 『33歳からの時間のルール』(明日香出版、2010年)
* 『あたらしい社員の教科書』(KADOKAWA、2010年)
* 『「クラウド化」と「ビッグデータ活用」はなぜ進まないのか』(東洋経済新報社、2012年)
* 『アントレプレナーシップ論~みんな心に起業家精神~』(日刊工業新聞社、2013年)
* 『匠のモノづくりとインダストリー4.0』(大河出版、2015年)
* 『懐かしい未来をどう生きるか: 0次エッセイ第二版 Kindle版』(Amazon、2018年)
=== 共著 ===
* 『バリュー・インテグレーション』(東洋経済新報社、1999年)
* 『ビジネスモデル特許戦略』(東洋経済新報社、2000年)
* 『オフ・バランス経営革命』(東洋経済新報社、2001年)
=== 編著 ===
* 『「いつもの朝」を変える技術』(WAVE出版、2006年)
=== アプリ書籍 ===
* 『成功への思考術 〜スマホ世代に贈る〜』(インクルース、2011年)<ref>[https://www.value-press.com/pressrelease/102260 Value Press記事]</ref>
=== PDF書籍 ===
* 『アントレプレナーシップ論オープンスクールテキスト』(Amazon)<ref>[https://www.amazon.co.jp/gp/product/B07XF73Z76/ref=dbs_a_def_rwt_hsch_vapi_tkin_p1_i1 Amazon]</ref>
== 脚注 ==
<references/>
{{DEFAULTSORT:しはた ひてとし}}
[[Category:三重県出身の人物]]
[[Category:日立製作所の人物]]
[[Category:日本の男性著作家]]
[[Category:1967年生]]
[[Category:存命人物]] | 2023-10-12T02:45:21Z | 2023-10-30T02:17:51Z | false | false | false | [
"Template:Infobox 作家"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E7%94%B0%E8%8B%B1%E5%AF%BF |
4,840,463 | あんりあんな | あんりあんなは、あんなとあんりの日本の一卵性双生児姉妹のモデルである。神奈川県出身。所属事務所はTWIN PLANET。
ファッション雑誌Seventeenの読者モデルとしてのキャリアをスタートさせ、その後は赤字系の雑誌でもファッションページに掲載されるようになる。 その後、韓国ファッション通販サイトishooでフィッティングモデルとしても活躍。韓国好きが高じて、2017年より拠点を韓国に移し芸能活動を本格化させる。 2020年4月には韓国ドラマ最大手NAVER内Webドラマ「hyomstore」の主演に抜擢され、その後も韓国のバラエティ番組やウェブドラマにも出演。
韓国のファッション、ビューティーを発信するyoutube「ARIANNA CHANNEL」は登録者数約20万人超でダイエット動画は1000万再生超を達成。アジアを中心に様々なメディアで観光アンバサダーとして活動し、双子ならではの世界観で表現されたクリエイティブが人気を集めている。 現在は日本と韓国を拠点に活動し、2022年3月より東京ガールズコレクション公式アパレルサイト「TOKYO GIRLS MARKET」のディレクターとしてショップをオープンさせた。 | [
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"title": "来歴・人物"
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] | あんりあんなは、あんなとあんりの日本の一卵性双生児姉妹のモデルである。神奈川県出身。所属事務所はTWIN PLANET。 | {{複数の問題|出典の明記=2023年10月12日 (木) 03:32 (UTC)|独自研究=2023年10月12日 (木) 03:32 (UTC)|宣伝=2023年10月12日 (木) 03:32 (UTC)}}
{{女性モデル
| モデル名 = あんな
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| 別名義 =
| 愛称 =
| 生月 = 6
| 生日 = 30
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| 出身地 = {{JPN}}・[[神奈川県]]
| 死没地 =
| 血液型 = A型
| 瞳の色 =
| 毛髪の色 =
| 時点 = 2023年
| 身長 = 162
| 体重 =
| 靴 = 24.5
| 身体備考 =
| デビュー =
| ジャンル = YouTubeクリエイター、モデル
| モデル内容 = ファッション誌、テレビドラマ、広告
| 活動備考 =
| 他の活動 = 実業家
| 事務所 = [[TWIN PLANET]]
| その他 = [[一卵性双生児]]の姉
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{{女性モデル
| モデル名 = あんり
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| 別名義 =
| 愛称 =
| 生月 = 6
| 生日 = 30
| 没年 =
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| 出身地 = {{JPN}}・[[神奈川県]]
| 死没地 =
| 血液型 = A型
| 瞳の色 =
| 毛髪の色 =
| 時点 = 2023年
| 身長 = 164
| 体重 =
| 靴 = 24.5
| 身体備考 =
| デビュー =
| ジャンル = YouTubeクリエイター、モデル
| モデル内容 = ファッション誌、テレビドラマ、広告
| 活動備考 =
| 他の活動 = 実業家
| 事務所 = [[TWIN PLANET]]
| その他 = [[一卵性双生児]]の妹
}}
'''あんりあんな'''は、'''あんな'''と'''あんり'''の[[日本]]の[[一卵性双生児]]姉妹の[[モデル (職業)|モデル]]である。[[神奈川県]]出身。所属[[芸能事務所|事務所]]は[[TWIN PLANET]]。
== 来歴・人物 ==
ファッション雑誌[[Seventeen]]の読者モデルとしてのキャリアをスタートさせ、その後は赤字系の雑誌でもファッションページに掲載されるようになる。
その後、韓国ファッション通販サイト[[ishoo]]でフィッティングモデルとしても活躍。韓国好きが高じて、2017年より拠点を韓国に移し芸能活動を本格化させる。
2020年4月には韓国ドラマ最大手[[NAVER]]内Webドラマ「[[yomstore]]」の主演に抜擢され、その後も韓国のバラエティ番組やウェブドラマにも出演。
韓国のファッション、ビューティーを発信するyoutube「[https://www.youtube.com/@arianachannel ARIANNA CHANNEL]」は登録者数約20万人超でダイエット動画は1000万再生超を達成。アジアを中心に様々なメディアで観光アンバサダーとして活動し、双子ならではの世界観で表現されたクリエイティブが人気を集めている。
現在は日本と韓国を拠点に活動し、2022年3月より[[東京ガールズコレクション]]公式アパレルサイト「[[TOKYO GIRLS MARKET]]」のディレクターとしてショップをオープンさせた。
=== 共通事項 ===
*[[神奈川県]]生まれ。純日本人。
*[[ABO式血液型|血液型]]はA型。
*好きな食べ物はコーヒーとチョコレート。
=== あんな ===
*身長は162cm。
*一卵性双生児の姉。
=== あんり ===
*身長は164cm。
*一卵性双生児の妹。
== 出演 ==
=== 雑誌===
*韓国語ジャーナル2020 (アルク出版)
*[[SCawaii!]] ([[主婦の友社]])
===番組===
*韓国ドラマ「[[HyomStore]]」 - VLIVE・NAVER TV
*韓国ドラマ「[[라이브 플렉스]]」 - [[SBS]]
*韓国ドラマ「[[백만상사]]」 - [[ariranTV]]
*韓国バラエティ「[[테라스온]]」 - [[MBC]]
=== イベント ===
*[[関西コレクション]]
*[[東京コレクション]]
*[[NYLON]] KOREA BeautyAward2019 日本人審査員 - NYLON
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
*[https://www.tp-e.jp/talent/anrianna/ あんりあんな] - [[TWIN PLANET]]
*YouTube - [https://www.youtube.com/@arianachannel ariana channel]
*Instagram(あんな) - [https://www.instagram.com/an2twistyle/ 안나 あんな]
*Instagram(あんり) - [https://www.instagram.com/annnchannn/ 안리 あんり]
*TikTok - [https://www.tiktok.com/@an2twistyle ariana channel ありあなちゃんねる]
*ブログ- [https://ameblo.jp/anrianna/ あんりあんな]
{{デフォルトソート:あんな れいな}}
[[Category:日本の女性モデル]]
[[Category:一卵性双生児]]
[[Category:日本出身の双子]]
[[Category:神奈川県出身の人物]]
[[Category:存命人物]] | 2023-10-12T02:56:56Z | 2023-10-12T15:59:15Z | false | false | false | [
"Template:Official website",
"Template:女性モデル",
"Template:Reflist"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%82%93%E3%82%8A%E3%81%82%E3%82%93%E3%81%AA |
4,840,470 | 海軍参謀総長 (大韓民国) | 海軍参謀総長(해군참모총장、英語: Chief of Naval Operations, R.O.K Navy)は、大韓民国海軍本部の長。創設当初は中将、後に大将(四つ星)を以って充てられる。
国軍組織法第10条第2項によれば、「各軍参謀総長は、国防部長官の命を受け、それぞれ当該軍を指揮・監督する。ただし、戦闘を主任務とする作戦部隊に対する作戦指揮・監督は除く」。
海事隊(後に朝鮮海事報国団と統合して海事協会)時代。
海防兵団時代。
南朝鮮海岸警備隊時代。 | [
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] | 海軍参謀総長は、大韓民国海軍本部の長。創設当初は中将、後に大将(四つ星)を以って充てられる。 | {{Infobox Political post
| 役職 = 海軍参謀総長
| 団体名 = {{ROKN}}
| 原語表記 = 해군참모총장
| 旗 = Flag of the Republic of Korea Navy.svg
| 旗サイズ =
| flagborder =
| 旗キャプション = 大韓民国海軍旗
| 記章 =
| 記章サイズ =
| 記章キャプション =
| insigniaalt =
| 画像 =
| 画像サイズ =
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| 現職者= [[李鍾皓]] 海軍大将
| 就任日 = [[2022年]][[5月27日]]
| 種類 =
| 地位 =
| 部門 =
| 呼称 =
| 所属機関 =
| 上官 =
| 官邸 = 계룡대 공관<br/>대방동 공관
| 所在地 =
| 公邸 =
| 指名 =
| 任命 =
| 任命2 =
| 任期 =
| 任期2 =
| 根拠法令 =
| 前身 =
| 創設 = [[1948年]]
| 創設者 =
| 初代 = [[孫元一]] 海軍大将
| 最後 =
| 廃止 =
| 継承 =
| 先任 =
| 略称 =
| 通称 =
| 職務代行者 =
| 俸給 =
| ウェブサイト =
}}
'''海軍参謀総長'''(해군참모총장、[[英語]]: Chief of Naval Operations, R.O.K Navy)は、[[海軍本部 (大韓民国)|大韓民国海軍本部]]の長。創設当初は[[中将]]、後に[[大将]](四つ星)を以って充てられる。
== 概要 ==
国軍組織法第10条第2項によれば、「各軍参謀総長は、[[大韓民国国防部長官|国防部長官]]の命を受け、それぞれ当該軍を指揮・監督する。ただし、戦闘を主任務とする作戦部隊に対する作戦指揮・監督は除く」。
== 歴代海軍参謀総長 ==
=== 南朝鮮海事隊長(남조선해사대장) ===
海事隊(後に朝鮮海事報国団と統合して海事協会)時代。
{| class="wikitable" style="font-size:10pt; text-align: center;"
! width="080" |政府
! width="040" |代数
! width="040" |写真
! width="100" |氏名
! width="050" |階級
! width="240" |任期
|-
|[[連合軍軍政期 (朝鮮史)|米軍政]]
|初代
|[[ファイル:Sohn_Won_Yil_1948.png|94x94ピクセル]]
|손원일([[孫元一 (軍人)|孫元一]])
|無し
|1945年8月21日 - 1945年11月11日
|}
=== 海防兵団司令官(해방병단사령관) ===
海防兵団時代。
{| class="wikitable" style="font-size:10pt; text-align: center;"
! width="080" |政府
! width="040" |代数
! width="040" |写真
! width="100" |氏名
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! width="240" |任期
|-
|米軍政
|初代
|[[ファイル:Sohn_Won_Yil_1948.png|94x94ピクセル]]
|손원일(孫元一)
|無し
|1946年1月15日 - 1946年6月14日
|}
=== 南朝鮮海岸警備隊総司令官(남조선해안경비대 총사령관) ===
[[海岸警備隊 (南朝鮮)|南朝鮮海岸警備隊]]時代。
{| class="wikitable" style="font-size:10pt; text-align: center;"
! width="080" |政府
! width="040" |代数
! width="040" |写真
! width="100" |氏名
! width="050" |階級
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|-
| rowspan="1" |米軍政<br>[[第一共和国 (大韓民国)|第1共和国]]
|初代
|[[ファイル:Sohn_Won_Yil_1948.png|94x94ピクセル]]
|손원일(孫元一)
|無し
|1946年6月15日 - 1948年9月5日
|}
=== 海軍参謀総長(해군참모총장) ===
{| class="wikitable" style="font-size:10pt; text-align: center;"
! width="080" |政府
! width="040" |代数
! width="040" |写真
! width="100" |氏名
! width="050" |階級
! width="240" |任期
!備考
|-
| rowspan="4" |第1共和国
|初代
|[[ファイル:Sohn_Won_Yil_1948.png|94x94ピクセル]]
|손원日(孫元一)
|中将
|1948年9月5日 - 1953年6月30日
|[[中華民国]][[国立中央大学]]航海科卒業<br>[[招商局集団|中華民国招商局]]勤務<br>[[国防部 (大韓民国)|国防部]]長官
|-
|2代
|[[ファイル:Navy_(ROKN)_Vice_Admiral_Park_Ok-kyu_해군중장_박옥규_(19540206_한미고위회담진해서_동아일보)_.jpg|100x100ピクセル]]
|박옥규([[朴沃圭]])
|中将
|1953年6月30日 - 1954年11月1日
|[[関西大学]]専門部<br>[[鎮海高等海員養成所|仁川海員養成所]]卒業
|-
|3代
|[[ファイル:3rdCNO.jpg|115x115ピクセル]]
|정긍모([[鄭兢謨]])
|中将
|1954年11月1日 - 1959年2月23日
|[[鎮海高等海員養成所]]卒業<br>[[海員学校|大阪高等海員養成所]]卒業
|-
|4代
|[[ファイル:Navy-personnel-icon.png|75x75ピクセル]]
|이용운([[李龍蕓]])
|中将
|1959年2月23日 - 1960年9月28日
|[[東京高等商船学校]]卒業<br>[[大日本帝国海軍]][[海軍少佐|予備少佐]]
|-
| rowspan="2" |[[第二共和国 (大韓民国)|第2共和国]]
|5代
|[[ファイル:Navy_(ROKN)_Vice_Admiral_Lee_Sung-ho_海軍中將李成浩_해군중장_이성호_(19611023_中央日報).png|99x99ピクセル]]
|이성호(李成浩)
|中将
|1960年9月28日 - 1962年9月28日
|鎮海高等海員養成所卒業<br>[[大韓民国在郷軍人会]]会長
|-
| rowspan="2" |6代
| rowspan="2" |[[ファイル:Navy-personnel-icon.png|75x75ピクセル]]
| rowspan="2" |이맹기(李孟基)
| rowspan="2" |中将
| rowspan="2" |1962年9月28日 - 1964年9月10日
| rowspan="2" |韓国海士1期
|-
| rowspan="5" |[[第三共和国 (大韓民国)|第3共和国]]
|-
|7代
|[[ファイル:Navy_(ROKN)_Vice_Admiral_Hahm_Myong-soo_해군중장_함명수_(NH_104908_Korean_Chief_of_Naval_Operations_visits_Norfolk,_Virginia).jpg|83x83ピクセル]]
|함명수([[咸明洙]])
|中将
|1964年9月10日 - 1966年9月1日
|[[平壌師範学校]]卒業<br>韓国海士1期<br>[[大韓海運公社]]社長<br>[[大韓民国在郷軍人会]]会長
|-
|8代
|[[ファイル:Navy-personnel-icon.png|75x75ピクセル]]
|김영관(金榮寬)
|大将
|1966年9月1日 - 1969年4月1日
|[[神戸高等商船学校]]卒業<br>韓国海士1期
|-
|9代
|[[ファイル:Navy-personnel-icon.png|75x75ピクセル]]
|장지수(張志洙)
|大将
|1969年4月1日 - 1972年4月1日
|韓国海士1期
|-
| rowspan="2" |10代
|[[ファイル:Navy-personnel-icon.png|75x75ピクセル]]
| rowspan="2" |김규섭(金圭燮)
| rowspan="2" |大将
| rowspan="2" |1972年4月1日 - 1974年2月28日
| rowspan="2" |韓国海士2期
|-
| rowspan="3" |[[第四共和国 (大韓民国)|第4共和国]]
|-
|11代
|[[ファイル:Navy-personnel-icon.png|75x75ピクセル]]
|황정연(黃汀淵)
|大将
|1974年2月28日 - 1979年4月17日
|韓国海士3期
|-
|12代
|[[ファイル:Navy-personnel-icon.png|75x75ピクセル]]
|김종곤(金鍾坤)
|大将
|1979年4月17日 - 1981年5月14日
|韓国海士4期
|-
| rowspan="4" |[[第五共和国 (大韓民国)|第5共和国]]
|13代
|[[ファイル:Navy-personnel-icon.png|75x75ピクセル]]
|이은수(李銀秀)
|大将
|1981年5月14日 - 1982年12月28日
|韓国海士6期
|-
|14代
|[[ファイル:Navy_(ROKN)_Admiral_Oh_Kyung-hwan_해군대장_오경환_(NH_105149-KN_Admiral_William_J._Crowe,_USN_Admiral_Kyung_Hwan_Oh).jpg|109x109ピクセル]]
|오경환(吳慶煥)
|大将
|1982年12月28日 - 1984年9月4日
|韓国海士8期
|-
|15代
|[[ファイル:Navy-personnel-icon.png|75x75ピクセル]]
|최상화(崔相和)
|大将
|1984年9月4日 - 1987年9月4日
|韓国海士9期
|-
| rowspan="2" |16代
| rowspan="2" |[[ファイル:Navy-personnel-icon.png|75x75ピクセル]]
| rowspan="2" |김종호(金悰鎬)
| rowspan="2" |大将
| rowspan="2" |1987年9月4日 - 1989年9月4日
| rowspan="2" |韓国海士10期
|-
| rowspan="3" |[[盧泰愚政府]]
|-
|17代
|[[ファイル:Navy-personnel-icon.png|75x75ピクセル]]
|김종호(金種浩)
|大将
|1989年9月4日 - 1991年9月4日
|韓国海士13期<br>汚職により解任<ref>{{Cite web |url=https://web.archive.org/web/20130921054655/http://imnews.imbc.com/20dbnews/history/1993/1754877_6127.html |title=김종호 전 해군참모총장 군납 관련 수뢰사실 확인[박태경] |access-date=2023年10月12日 |publisher=MBS News}}</ref>
|-
|18代
|[[ファイル:Navy-personnel-icon.png|75x75ピクセル]]
|김철우(金鐵宇)
|大将
|1991年9月4日 - 1993年5月26日
|韓国海士14期
|-
| rowspan="3" |[[金泳三政府]]
|19代
|[[ファイル:Navy-personnel-icon.png|75x75ピクセル]]
|김홍렬(金弘烈)
|大将
|1993年5月26日 - 1995年4月1日
|韓国海士16期
|-
|20代
|[[ファイル:Navy-personnel-icon.png|75x75ピクセル]]
|안병태(安炳泰)
|大将
|1995年4月1日 - 1997年4月1日
|韓国海士17期
|-
|21代
|[[ファイル:Navy-personnel-icon.png|75x75ピクセル]]
|유삼남(柳三男)
|大将
|1997年4月1日 - 1999年4月1日
|韓国海士18期
|-
| rowspan="2" |[[金大中政府]]
|22代
|[[ファイル:Navy-personnel-icon.png|75x75ピクセル]]
|이수용(李秀勇)
|大将
|1999年4月1日 - 2001年3月31日
|韓国海士20期
|-
|23代
|[[ファイル:Navy-personnel-icon.png|75x75ピクセル]]
|장정길(張正吉)
|大将
|2001年4月1日 - 2003年3月31日
|韓国海士21期
|-
| rowspan="3" |[[盧武鉉政府]]
|24代
|[[ファイル:Navy-personnel-icon.png|75x75ピクセル]]
|문정일(文證一)
|大将
|2003年4月1日 - 2005年3月29日
|韓国海士23期
|-
|25代
|[[ファイル:Navy-personnel-icon.png|75x75ピクセル]]
|남해일(南海一)
|大将
|2005年3月29日 - 2006年11月17日
|韓国海士26期
|-
|26代
|[[ファイル:170919-A-ZZ999-001_MINDEF_Song_국방장관_송영무.jpg|93x93ピクセル]]
|송영무([[宋永武]])
|大将
|2006年11月17日 - 2008年3月20日
|韓国海士27期<br>国防部長官
|-
| rowspan="3" |[[李明博政府]]
|27代
|[[ファイル:Navy_(ROKN)_Admiral_Jung_Ok-keun_해군대장_정옥근_(US_Navy_090707-N-8273J-067).jpg|95x95ピクセル]]
|정옥근(丁玉根)
|大将
|2008年3月20日 - 2010年3月19日
|韓国海士29期
|-
|28代
|[[ファイル:Navy_(ROKN)_Admiral_Kim_Sung-chan_해군대장_김성찬_(2010.12.16_군_지휘부_(7445960896)).jpg|81x81ピクセル]]
|김성찬(金盛賛)
|大将
|2010年3月19日 - 2011年10月17日
|韓国海士30期
|-
| rowspan="2" |29代
| rowspan="2" |[[ファイル:Republic_of_Korea_Navy_Adm._Choi_Yoon_Hee.jpg|115x115ピクセル]]
| rowspan="2" |최윤희(崔潤喜)
| rowspan="2" |大将
| rowspan="2" |2011年10月17日 - 2013年9月28日
| rowspan="2" |韓国海士31期<br>[[合同参謀議長 (大韓民国)|合同参謀議長]]
|-
| rowspan="4" |[[朴槿恵政府]]
|-
|30代
|[[ファイル:Navy_(ROKN)_Admiral_Hwang_Ki-chul_해군대장_황기철_(140730-D-NI589-006_(14602326287).jpg).jpg|75x75ピクセル]]
|황기철(黃基鐵)
|大将
|2013年9月28日 - 2015年2月27日
|韓国海士32期
|-
|31代
|[[ファイル:Navy_(ROKN)_Admiral_Jung_Ho-sub_해군대장_정호섭_(US_Navy_photo_160804-N-ES994-048).jpg|77x77ピクセル]]
|정호섭(鄭鎬涉)
|大将
|2015年2月27日 - 2016年9月22日
|韓国海士34期
|-
| rowspan="2" |32代
| rowspan="2" |[[ファイル:Navy_(ROKN)_Admiral_Um_Hyun-seong_해군대장_엄현성_(US_Navy_photo_170905-N-TB148-264,_20170905_International_Seapower_Symposium).jpg|98x98ピクセル]]
| rowspan="2" |엄현성(嚴賢聖)
| rowspan="2" |大将
| rowspan="2" |2016年9月22日 - 2018年7月19日
| rowspan="2" |韓国海士35期
|-
| rowspan="4" |[[文在寅政府]]
|-
|33代
|[[ファイル:Navy_(ROKN)_Admiral_Sim_Seung-seob_해군대장_심승섭_(US_Navy_photo_181011-N-TB148-0110_JEJU_ISLAND,_Republic_of_Korea).jpg|105x105ピクセル]]
|심승섭(沈勝燮)
|大将
|2018年7月19日 - 2020年4月10日
|韓国海士39期
|-
|34代
|[[ファイル:Navy-personnel-icon.png|75x75ピクセル]]
|부석종(夫石鍾)
|大将
|2020年4月10日 - 2021年12月16日
|韓国海士40期
|-
|35代
|[[ファイル:Navy-personnel-icon.png|75x75ピクセル]]
|김정수(金正守)
|大将
|2021年12月16日 - 2022年5月27日
|韓国海士41期
|-
|[[尹錫悦政府]]
|36代
|[[ファイル:Navy-personnel-icon.png|75x75ピクセル]]
|이종호(李鍾皓)
|大将
|2022年5月27日 -
|韓国海士42期
|}
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[陸軍参謀総長 (大韓民国)]]/[[空軍参謀総長 (大韓民国)]]
* [[海軍参謀次長 (大韓民国)]]
* [[三道水軍統制使]] - 朝鮮時代の官職
{{大韓民国軍}}
{{DEFAULTSORT:かいくんさんほうそうちよう}}
[[Category:韓国海軍|さんほうそうちよう]]
[[Category:海軍参謀総長|かんこく]] | 2023-10-12T03:10:34Z | 2023-11-17T10:33:54Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E5%8F%82%E8%AC%80%E7%B7%8F%E9%95%B7_(%E5%A4%A7%E9%9F%93%E6%B0%91%E5%9B%BD) |
4,840,471 | マシュー・カチャック | マシュー・ブレンダン・カチャック(Matthew Brendan Tkachuk, 1997年12月11日 - )は、アメリカ合衆国アリゾナ州スコッツデール出身のプロアイスホッケー選手。NHLのフロリダ・パンサーズに所属している。ポジションはウイング。父は元NHL選手のキース・カチャック(英語版)。弟のブレイディ・カチャック(英語版)もNHL選手。
NHL選手のキース・カチャック(英語版)の長男として生まれる。幼少期は父が当時所属していたフェニックス・コヨーテズのベンチから、父やチームメイトの練習を間近で見て育った。また、父は遠方で試合、母は用事で手が離せない際はコヨーテズが当時使用していたアリーナに連れていかれ、アリーナの用具係に子守役として面倒を見てもらっていた。
3歳の頃に父がセントルイス・ブルースへ移籍したため、家族でセントルイスへ移住。弟のブレイディ(英語版)と共に父の練習にたびたび同行し、父が出場したNHLオールスターゲームや2006年のトリノオリンピックも現地観戦した。父がブルースの若手選手の面倒を見ていたため、ブルースの選手たちと共に暮らしていた時期もあった。
小・中・高と通ったプレパラトリースクールでは、後のNBA選手ジェイソン・テイタムとクラスメイトだった。
ブルースの下部チームでホッケーの練習を積んだ後に、アメリカ代表の育成プログラムに参加した。
2013年のOHL(英語版)ドラフトにて全体64位でロンドン・ナイツ(英語版)から指名された。指名されてから2年間は入団せず、アメリカ代表の育成プログラムでプレーしていた。
2015-16シーズンからナイツに合流し、予定していたノートルダム大学への進学を取りやめた。このシーズンは107ポイント(30ゴール、77アシスト)を記録し、メモリアルカップの決勝では優勝を決めるゴールを記録した。
2016年のNHLドラフトにて全体6位でカルガリー・フレームスから指名され、その後ルーキー契約を結んだ。
2016-17シーズン、バッファロー・セイバーズ戦でNHL初ゴールを記録した。2017年3月20日のロサンゼルス・キングス戦で相手選手の顔面に肘打ちをして2試合の出場停止処分を受けた。このシーズンは48ポイント(13ゴール、35アシスト)を記録し、カルダー記念賞の投票では7位だった。
2017-18シーズン、2017年11月15日のデトロイト・レッドウィングス戦で乱闘を起こしたとして1試合の出場停止処分を受けた。 12月7日のトロント・メープルリーフス戦では相手選手をスティックで攻撃し、再び出場停止処分を受けた。2018年3月11日のニューヨーク・アイランダース戦で負傷し、シーズン残りの試合を欠場した。
2018-19シーズンより、オルタネイト・キャプテンに就任した。このシーズンは77ポイント(34ゴール、43アシスト)を記録。また、2016年のNHLドラフトで指名された選手の中では最速で通算100アシストに到達した。
2019-20シーズン開幕前に、フレームスと3年総額2,100万ドルで再契約した。
2021-22シーズン、2022年4月19日のナッシュビル・プレデターズ戦でシーズン99ポイントを記録し、父キースのキャリアハイ(98ポイント)を上回った。2日後のダラス・スターズ戦で自身初となるシーズン100ポイントに到達した。チームはカチャックを中心に球団最多タイ記録となる50勝を挙げ、地区優勝した。プレーオフでは優勝候補と評され、1回戦でスターズに4勝3敗で勝利したが、2回戦でエドモントン・オイラーズに1勝4敗で敗れた。
2021-22シーズン終了後、チームメイトで主力選手だったジョニー・ゴードロー(英語版)がFAでコロンバス・ブルージャケッツへ移籍。カチャックもフレームスとの契約延長に至らず、移籍が濃厚とされた。2022年7月20日には、カチャックがフレームスに対し長期契約を結ぶ意思がない旨を伝えていたことが報じられた。
2022年7月22日にジョナサン・フーバドー(英語版)、マッケンジー・ウィーガー(英語版)、コール・シュウィンド(英語版)、2025年のドラフト1巡目指名権とのトレードでフロリダ・パンサーズへ移籍し、直後にパンサーズと8年総額7,600万ドルの契約延長に合意した。
2022-23シーズンのオールスターゲームでは4ゴール、3アシストを記録し、MVPを受賞した。シーズン全体では109ポイント(40ゴール、69アシスト)を記録し、ハート記念賞のファイナリストに選出された。プレーオフではスタンレー・カップ・ファイナルに進出したが、ベガス・ゴールデンナイツに敗れ優勝を逃した。
ウクライナとアイルランドの血を引いている。
父のキース(英語版)は元NHL選手。弟のブレイディ(英語版)もNHL選手で、現在はオタワ・セネターズに所属している。この他に元NHL選手で、現在はニュージャージー・デビルスでGMを務めるトム・フィッツジェラルド(英語版)など、多くのNHL選手と親戚関係にある。 | [
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] | マシュー・ブレンダン・カチャックは、アメリカ合衆国アリゾナ州スコッツデール出身のプロアイスホッケー選手。NHLのフロリダ・パンサーズに所属している。ポジションはウイング。父は元NHL選手のキース・カチャック。弟のブレイディ・カチャックもNHL選手。 | {{Infobox ice hockey player
| name = マシュー・カチャック<br>Matthew Tkachuk
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| image_caption = [[カルガリー・フレームス]]でのカチャック<br>(2021年)
| birth_date = {{birth date and age|df=yes|1997|12|11}}
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'''マシュー・ブレンダン・カチャック'''('''Matthew Brendan Tkachuk''', [[1997年]][[12月11日]] - )は、[[アメリカ合衆国]][[アリゾナ州]][[スコッツデール (アリゾナ州)|スコッツデール]]出身のプロ[[アイスホッケー]]選手。[[NHL]]の[[フロリダ・パンサーズ]]に所属している。ポジションは[[フォワード (アイスホッケー)#ウイング|ウイング]]。父は元NHL選手の{{仮リンク|キース・カチャック|en|Keith Tkachuk}}。弟の{{仮リンク|ブレイディ・カチャック|en|Brady Tkachuk}}もNHL選手。
== 経歴 ==
=== 生い立ち ===
1996年に元NHL選手の{{仮リンク|キース・カチャック|en|Keith Tkachuk}}の長男として、父が[[アリゾナ・コヨーテズ|フェニックス・コヨーテズ]]に所属していた際に[[アリゾナ州]][[スコッツデール (アリゾナ州)|スコッツデール]]で生まれる。幼少期は父が当時所属していた[[アリゾナ・コヨーテズ|フェニックス・コヨーテズ]]のベンチから、父やチームメイトの練習を間近で見て育った<ref>{{Cite web |title=Tkachuks go miles for Matthew, star siblings {{!}} NHL.com |url=https://www.nhl.com/news/tkachuk-family-always-on-the-move-watching-sons-on-hockey-rink-296609604 |website=www.nhl.com |date=2023-10-12 |access-date=2023-10-12 |language=en}}</ref>。また、父は遠方で試合、母は用事で手が離せない際はコヨーテズが当時使用していたアリーナに連れていかれ、アリーナの用具係に子守役として面倒を見てもらっていた<ref>{{Cite web |title=Diaper dandy: Coyotes equipment manager babysat Flames star Matthew Tkachuk |url=https://theathletic.com/1351256/2019/11/05/diaper-dandy-coyotes-equipment-manager-babysat-flames-star-matthew-tkachuk/ |website=The Athletic |access-date=2023-10-12 |language=en |first=Craig |last=Morgan}}</ref>。
3歳の頃に父が[[セントルイス・ブルース (アイスホッケー)|セントルイス・ブルース]]へ移籍したため、家族で[[セントルイス]]へ移住。弟の{{仮リンク|ブレイディ・カチャック|en|Brady Tkachuk|label=ブレイディ}}と共に父の練習にたびたび同行し、父が出場したNHLオールスターゲームや2006年の[[2006年トリノオリンピック|トリノオリンピック]]も現地観戦した<ref>{{Cite web |title=Sportsnet.ca: News, Scores and Live Streaming |url=https://www.sportsnet.ca// |website=Sportsnet.ca |access-date=2023-10-12 |language=en}}</ref>。父がブルースの若手選手の面倒を見ていたため、ブルースの選手たちと共に暮らしていた時期もあった<ref>{{Cite web |title=My Top 5 {{!}} Matthew Tkachuk |url=https://www.nhlpa.com/news/1-13822/my-top-5-matthew-tkachuk |website=www.nhlpa.com |access-date=2023-10-12 |language=en}}</ref>。
小・中・高と通ったプレパラトリースクールでは、後の[[NBA]]選手[[ジェイソン・テイタム]]とクラスメイトだった<ref>{{Cite web |title=Celtics’ Jayson Tatum, Panthers’ Matthew Tkachuk Were Once High School Classmates |url=https://www.si.com/nba/2023/05/28/celtics-jayson-tatum-panthers-matthew-tkachuk-were-high-school-classmates |website=Sports Illustrated |date=2023-05-27 |access-date=2023-10-12 |language=en-us |first=Karl |last=Rasmussen}}</ref>。
ブルースの下部チームでホッケーの練習を積んだ後に、[[アイスホッケーアメリカ合衆国代表|アメリカ代表]]の育成プログラムに参加した<ref>{{Cite journal|last=Watson|first=Ronald C.|last2=D|first2=Clarke|last3=Sproule|first3=James R.|date=1996-04|title=Checking From Behind in Ice Hockey|url=http://dx.doi.org/10.1097/00042752-199604000-00008|journal=Clinical Journal of Sport Medicine|volume=6|issue=2|pages=108–111|doi=10.1097/00042752-199604000-00008|issn=1050-642X}}</ref>。
=== ジュニア ===
2013年の{{仮リンク|オンタリオ・ホッケーリーグ|en|Ontario Hockey League|label=OHL}}ドラフトにて全体64位で{{仮リンク|ロンドン・ナイツ|en|London Knights}}から指名された<ref>{{Cite web |title=Draft Profile: Matt Tkachuk – The Draft Analyst |url=https://www.thedraftanalyst.com/prospects/matt-tkachuk/ |access-date=2023-10-12 |language=en}}</ref>。指名されてから2年間は入団せず、アメリカ代表の育成プログラムでプレーしていた<ref name=":0">{{Cite news |title=Keith Tkachuk's son Matthew commits to London Knights. Here's why that's big news |url=https://thehockeynews.com/news/keith-tkachuks-son-matthew-commits-to-london-knights-heres-why-thats-big-news |work=The Hockey News |access-date=2023-10-12 |language=en}}</ref>。
2015-16シーズンからナイツに合流し、予定していた[[ノートルダム大学]]への進学を取りやめた<ref name=":0" />。このシーズンは107ポイント(30ゴール、77アシスト)を記録し、メモリアルカップの決勝では優勝を決めるゴールを記録した<ref name=":0" />。
=== カルガリー・フレームス ===
2016年のNHLドラフトにて全体6位で[[カルガリー・フレームス]]から指名され、その後ルーキー契約を結んだ<ref>{{Cite web |title=Calgary Flames wrap up prospect camp; sign 1st round pick Matthew Tkachuk {{!}} Globalnews.ca |url=https://globalnews.ca/news/2810158/calgary-flames-wrap-up-prospect-camp-sign-1st-round-pick-matthew-tkachuk/ |website=Global News |access-date=2023-10-12 |language=en-US}}</ref>。
2016-17シーズン、[[バッファロー・セイバーズ]]戦でNHL初ゴールを記録した。2017年3月20日の[[ロサンゼルス・キングス]]戦で相手選手の顔面に肘打ちをして2試合の出場停止処分を受けた<ref>{{Cite web |title=Matthew Tkachuk of Flames suspended two games {{!}} NHL.com |url=https://www.nhl.com/news/calgary-flames-matthew-tkachuk-suspended-for-elbowing-287899848 |website=www.nhl.com |date=2023-10-12 |access-date=2023-10-12 |language=en}}</ref>。このシーズンは48ポイント(13ゴール、35アシスト)を記録し、[[カルダー記念賞]]の投票では7位だった<ref>{{Cite web |title=Matthew Tkachuk Stats And News |url=https://www.nhl.com/panthers/player/matthew-tkachuk-8479314 |website=www.nhl.com |access-date=2023-10-12 |language=en}}</ref>。
2017-18シーズン、2017年11月15日の[[デトロイト・レッドウィングス]]戦で乱闘を起こしたとして1試合の出場停止処分を受けた<ref>{{Cite web |title=Tkachuk suspended one game for actions in Flames game against Red Wings {{!}} NHL.com |url=https://www.nhl.com/news/flames-matthew-tkachuk-suspended-one-game-293105772 |website=www.nhl.com |date=2023-10-12 |access-date=2023-10-12 |language=en}}</ref>。 12月7日の[[トロント・メープルリーフス]]戦では相手選手をスティックで攻撃し、再び出場停止処分を受けた<ref>{{Cite web |title=Flames’ Matthew Tkachuk suspended one game for spearing |url=https://www.sportsnet.ca/hockey/nhl/flames-matthew-tkachuk-suspended-one-game-spearing/ |website=www.sportsnet.ca |access-date=2023-10-12 |language=en}}</ref>。2018年3月11日の[[ニューヨーク・アイランダース]]戦で負傷し、シーズン残りの試合を欠場した<ref>{{Cite web |title=Tkachuk, Brodie likely out for remainder of Flames season {{!}} NHL.com |url=https://www.nhl.com/news/tkachuk-brodie-likely-out-for-remainder-of-flames-season-297420644 |website=www.nhl.com |date=2023-10-12 |access-date=2023-10-12 |language=en}}</ref>。
2018-19シーズンより、オルタネイト・キャプテンに就任した<ref>{{Cite web |title=BACKLUND, TKACHUK NAMED ALTERNATE CAPTAINS {{!}} Calgary Flames |url=https://www.nhl.com/flames/news/backlund-tkachuk-named-alternate-captains-300577986 |website=www.nhl.com |date=2023-10-11 |access-date=2023-10-12 |language=en}}</ref>。このシーズンは77ポイント(34ゴール、43アシスト)を記録。また、2016年のNHLドラフトで指名された選手の中では最速で通算100アシストに到達した<ref>{{Cite web |title=5 things we learned in the NHL: Flames’ Gaudreau, Tkachuk make history |url=https://www.sportsnet.ca/hockey/nhl/5-things-learned-nhl-flames-gaudreau-tkachuk-make-history/ |website=www.sportsnet.ca |access-date=2023-10-12 |language=en}}</ref>。
2019-20シーズン開幕前に、フレームスと3年総額2,100万ドルで再契約した<ref>{{Cite web |title=FLAMES RE-SIGN MATTHEW TKACHUK {{!}} Calgary Flames |url=https://www.nhl.com/flames/news/flames-re-sign-matthew-tkachuk-309449902 |website=www.nhl.com |date=2023-10-11 |access-date=2023-10-12 |language=en}}</ref>。
2021-22シーズン、2022年4月19日の[[ナッシュビル・プレデターズ]]戦でシーズン99ポイントを記録し、父キースのキャリアハイ(98ポイント)を上回った。2日後の[[ダラス・スターズ]]戦で自身初となるシーズン100ポイントに到達した<ref>{{Cite web |title=Stars 2-4 Flames (Apr 21, 2022) Game Recap |url=https://www.espn.com/nhl/recap/_/gameId/401350375 |website=ESPN |access-date=2023-10-12 |language=en}}</ref>。チームはカチャックを中心に球団最多タイ記録となる50勝を挙げ、地区優勝した<ref>{{Cite web |title=2022 NHL playoff preview: Flames vs. Stars |url=https://theathletic.com/3287956/2022/05/01/flames-stars-nhl-playoffs-preview/ |website=The Athletic |access-date=2023-10-12 |language=en |first=Dom Luszczyszyn and Shayna |last=Goldman}}</ref>。プレーオフでは優勝候補と評され、1回戦でスターズに4勝3敗で勝利したが、2回戦で[[エドモントン・オイラーズ]]に1勝4敗で敗れた<ref>{{Cite web |title=Oilers' stars shine bright — and extinguish Flames in the process |url=https://www.sportsnet.ca/nhl/oilers-stars-shine-bright-and-extinguish-flames-in-the-process/ |website=Sportsnet.ca |access-date=2023-10-12 |language=en}}</ref>。
2021-22シーズン終了後、チームメイトで主力選手だった{{仮リンク|ジョニー・ゴードロー|en|Johnny Gaudreau}}がFAで[[コロンバス・ブルージャケッツ]]へ移籍<ref>{{Cite web |title=LeBrun rumblings: How did Johnny Gaudreau end up with the Columbus Blue Jackets? |url=https://theathletic.com/3422448/2022/07/14/lebrun-gaudreau-blue-jackets-signing/ |website=The Athletic |access-date=2023-10-12 |language=en |first=Pierre |last=LeBrun}}</ref>。カチャックもフレームスとの契約延長に至らず、移籍が濃厚とされた<ref>{{Cite web |title=What we're hearing about Matthew Tkachuk's future in Calgary |url=https://theathletic.com/3092299/2022/01/27/what-were-hearing-about-matthew-tkachuks-future-in-calgary/ |website=The Athletic |access-date=2023-10-12 |language=en |first=Jeremy Rutherford and Hailey |last=Salvian}}</ref>。2022年7月20日には、カチャックがフレームスに対し長期契約を結ぶ意思がない旨を伝えていたことが報じられた<ref>{{Cite web |title=Tkachuk tells Flames he won't re-sign: Sources |url=https://theathletic.com/4165544/2022/07/20/matthew-tkachuk-tells-flames-he-wont-re-sign-long-term-trade-likely-sources/ |website=The Athletic |access-date=2023-10-12 |language=en |first=Jeremy Rutherford and Hailey |last=Salvian}}</ref>。
=== フロリダ・パンサーズ ===
2022年7月22日に{{仮リンク|ジョナサン・フーバドー|en|Jonathan Huberdeau}}、{{仮リンク|マッケンジー・ウィーガー|en|MacKenzie Weegar}}、{{仮リンク|コール・シュウィンド|en|Cole Schwindt}}、2025年のドラフト1巡目指名権とのトレードで[[フロリダ・パンサーズ]]へ移籍し、直後にパンサーズと8年総額7,600万ドルの契約延長に合意した<ref>{{Cite web |title=Flames trade Tkachuk to Panthers for monster haul headlined by Huberdeau |url=https://www.sportsnet.ca/nhl/flames-trade-star-matthew-tkachuk-to-the-panthers/ |website=Sportsnet.ca |access-date=2023-10-12 |language=en}}</ref>。
2022-23シーズンのオールスターゲームでは4ゴール、3アシストを記録し、MVPを受賞した<ref>{{Cite web |title=Atlantic beats Central to win NHL All-Star Game, Matthew Tkachuk named MVP |url=https://www.sportsnet.ca/nhl/larkin-scores-hat-trick-atlantic-beats-central-in-nhl-all-star-game-final/ |website=www.sportsnet.ca |access-date=2023-10-12 |language=en}}</ref>。シーズン全体では109ポイント(40ゴール、69アシスト)を記録し、[[ハート記念賞]]のファイナリストに選出された。プレーオフでは[[スタンレー・カップ・ファイナル]]に進出したが、[[ベガス・ゴールデンナイツ]]に敗れ優勝を逃した<ref>{{Cite web |title='HE DID IT AGAIN': Hockey world amazed by yet another late Matthew Tkachuk goal |url=https://www.sportsnet.ca/nhl/he-did-it-again-hockey-world-amazed-by-yet-another-late-matthew-tkachuk-goal/ |website=Sportsnet.ca |access-date=2023-10-12 |language=en}}</ref>。
== 家族 ==
[[ウクライナ]]と[[アイルランド]]の血を引いている<ref>{{Cite web |title=Lowell court officer: ‘I can honestly say I’ve loved this job’ |url=https://www.lowellsun.com/ci_24385251/lowell-court-officer-i-can-honestly-say-ive/ |website=Lowell Sun |date=2013-10-25 |access-date=2023-10-12 |language=en-US |first=Lisa |last=Redmond {{!}}}}</ref>。
父の{{仮リンク|キース・カチャック|en|Keith Tkachuk|label=キース}}は元NHL選手。弟の{{仮リンク|ブレイディ・カチャック|en|Brady Tkachuk|label=ブレイディ}}もNHL選手で、現在は[[オタワ・セネターズ]]に所属している。この他に元NHL選手で、現在は[[ニュージャージー・デビルス]]でGMを務める{{仮リンク|トム・フィッツジェラルド|en|Tom Fitzgerald (ice hockey)}}など、多くのNHL選手と親戚関係にある<ref>{{Cite web |title=The story of how the Matthew Tkachuk-Jonathan Huberdeau sign-and-trade was completed |url=https://theathletic.com/3625254/2022/11/15/tkachuk-huberdeau-trade/ |website=The Athletic |access-date=2023-10-12 |language=en |first=Julian |last=McKenzie}}</ref>。
== 詳細情報 ==
=== 賞歴 ===
* NHLオールスターゲーム選出:2回(2020年、2023年)
* NHLオールスターゲームMVP:1回(2023年)
* NHLオールスターチーム
** 2ndチーム:2回(2022年、2023年)
=== 背番号 ===
* '''19'''(2016年 - )
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[兄弟スポーツ選手一覧]]
== 外部リンク ==
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* {{Ice hockey stats|nhl=8479314|elite=233030|espn=|euro=|hr=t/tkachma01|hockeydb=170348|legendsm=|legends=|legendstype=|tsn=}}
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[[Category:アメリカ合衆国のアイスホッケー選手]]
[[Category:在カナダ・アメリカ人のアイスホッケー選手]]
[[Category:アイルランド系アメリカ人のスポーツ選手]]
[[Category:ウクライナ系アメリカ人]]
[[Category:アイスホッケーアメリカ合衆国代表選手]]
[[Category:カルガリー・フレームスの選手]]
[[Category:フロリダ・パンサーズの選手]]
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[[Category:スコッツデール出身の人物]]
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4,840,474 | シウ・フォン・ジョン | シウ・フォン・ジョンは、キリバス共和国の政治家である。彼女は真実の柱 (ブートカン・テ・コアウア) 党のタラワ都市選挙区の国会議員である。 彼女は2015年から2016年のキリバス議会選挙で初当選した。 そして続く2020年の議会選挙で再選された。 | [
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] | シウ・フォン・ジョンは、キリバス共和国の政治家である。彼女は真実の柱 (ブートカン・テ・コアウア) 党のタラワ都市選挙区の国会議員である。 彼女は2015年から2016年のキリバス議会選挙で初当選した。 そして続く2020年の議会選挙で再選された。 | '''シウ・フォン・ジョン'''は、キリバス共和国の政治家である。彼女は、{{仮リンク|真実の柱|en|Pillars of Truth}} (ブートカン・テ・コアウア) 党のタラワ都市選挙区の国会議員である。<ref>{{Cite web |url=https://www.parliament.gov.ki/party-members/ |title=Party Members |publisher=Parliament of Kiribati |access-date=9 July 2019}}</ref> 彼女は2015年から2016年のキリバス議会選挙で初当選した。<ref>{{Cite web |url=http://psephos.adam-carr.net/countries/k/kiribati/kiribati2016.txt |title=REPUBLIC OF KIRIBATI: LEGISLATIVE ELECTION OF 2015–16 |publisher=Adam Carr's Election Archive |access-date=9 July 2019}}</ref> そして続く2020年の議会選挙で再選された。
== 参考文献 ==
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[[Category:生年不明]]
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4,840,485 | ブライエタ・カライティ | ブライエタ・カライティは、キリバス・プロテスタント教会(KPC)の書記長でである。
KPCの代表として、カライティは、売春婦としてのキリバスの女性と少女の搾取と 、 地球温暖化によってキリバスや他の太平洋の島々にもたらされる危険に反対を表明した。 | [
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] | ブライエタ・カライティは、キリバス・プロテスタント教会(KPC)の書記長でである。 | {{Infobox 人物
|氏名= ブライエタ・カライティ
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|生年月日=
|生誕地=
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|職業= [[牧師]]、[[伝道者]]
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}}
'''ブライエタ・カライティ'''は、[[キリバス]]・[[プロテスタント教会]](KPC)の書記長で<ref name="Traditional treatment of girls link to prostitution in Kiribati">{{Cite web |url=http://tematairiki.zoomshare.com/2.shtml/f2da15d142630ab7bbc558bafd6e526c_4663de18 |title=Zoomshare 3 :Home |access-date=2023-10-12 |website=zoomshare.com}}</ref>である。
== 概要 ==
KPCの代表として、カライティは、[[売春婦]]としてのキリバスの女性と少女の搾取と<ref name="Traditional treatment of girls link to prostitution in Kiribati" />
、 [[地球温暖化]]によって[[キリバス]]や他の太平洋の島々にもたらされる危険に反対を表明した。
== 参考文献 ==
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[[Category:存命人物]]
[[Category:キリバスの人物]] | 2023-10-12T03:50:41Z | 2023-11-26T20:36:33Z | false | false | false | [
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4,840,487 | バベラ・キラタ | ラティミティ・バベラ・キラタ OBEcountry、unlinked、list、post-noms引数のうち少なくとも1つ指定してください。 (1938-1991)は、キリバス共和国の政治家で、1967年にオノトア選挙区から下院議員に選出された。彼は 1978 年のジルベルテーゼ州首相選挙の候補者に指名された。彼はオノトアで生まれ、1978 年から亡くなるまで国会議員に選出され続け、1991 年 5 月の総選挙の 1 か月も前に亡くなった。 その時点で彼はイエレミア・タバイのベレティテンティ後継者候補の一人であった。 彼はギルベルテス国民党の創設者の一人であり、後に国民進歩党(キリバス)の初代代表となった。 彼は 1979 年から 1991 年までキリバスの内閣の一員でした。 | [
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] | ラティミティ・バベラ・キラタ country、unlinked、list、post-noms引数のうち少なくとも1つ指定してください。 (1938-1991)は、キリバス共和国の政治家で、1967年にオノトア選挙区から下院議員に選出された。彼は 1978 年のジルベルテーゼ州首相選挙の候補者に指名された。彼はオノトアで生まれ、1978 年から亡くなるまで国会議員に選出され続け、1991 年 5 月の総選挙の 1 か月も前に亡くなった。 その時点で彼はイエレミア・タバイのベレティテンティ後継者候補の一人であった。 彼はギルベルテス国民党の創設者の一人であり、後に国民進歩党(キリバス)の初代代表となった。 彼は 1979 年から 1991 年までキリバスの内閣の一員でした。 | '''ラティミティ・バベラ・キラタ''' (1938-1991)は、キリバス共和国の政治家で、1967年にオノトア選挙区から下院議員に選出された。彼は 1978 年のジルベルテーゼ州首相選挙の候補者に指名された。彼はオノトアで生まれ、1978 年から亡くなるまで国会議員に選出され続け、1991 年 5 月の総選挙の 1 か月も前に亡くなった。 その時点で彼はイエレミア・タバイのベレティテンティ後継者候補の一人であった。<ref>{{Cite web |url=https://nla.gov.au/nla.obj-342905331 |title=Vol. 61, ( May. 1, 1991) |access-date=2023-10-12 |website=Trove}}</ref> 彼はギルベルテス国民党の創設者の一人であり、後に国民進歩党(キリバス)の初代代表となった。 彼は 1979 年から 1991 年までキリバスの内閣の一員だった。<ref>{{Cite web |url=http://www.president.gov.ki/cabinet-ministers-1979-2011/ |title=Cabinet Ministers (1979 - 2011) | President Taneti Maamau |access-date=2020-07-24 |archive-url=https://web.archive.org/web/20200724032534/http://www.president.gov.ki/cabinet-ministers-1979-2011/ |archive-date=2020-07-24 |url-status=dead}}</ref><ref>{{Cite book |last=Trease |first=Howard Van |title=Atoll Politics: The Republic of Kiribati |date=July 24, 1993 |[email protected] |isbn=9780958330008 |url=https://books.google.com/books?id=7rg-swcHq9QC&q=babera+kirata&pg=PA92}}</ref>
== 参考文献 ==
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[[Category:1938年生]]
[[Category:1991年没]]
[[Category:キリバスの人物]] | 2023-10-12T03:57:35Z | 2023-10-13T01:31:54Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%99%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A9%E3%82%BF |
4,840,500 | ケンちゃんラーメン (サンヨー食品) | ケンちゃんラーメン新発売(ケンちゃんラーメンしんはつばい)は、サンヨー食品から発売されていた製品。
1988年にサンヨー食品から発売された、子供向けのカップ麺。志村けんがCMに出演して、発売から何年が経っても新発売とされていた。当時には子供向けのカップラーメンは無く、芸能人の名前が商品名になったカップラーメンも無かったために、発売から10年以上存在していた。ケンちゃんラーメン新発売にはスピードくじが付いており、このくじの景品でオリジナルのボールペンがプレゼントされていた。
1995年3月の時点でケンちゃんラーメン新発売は発売から8年が経ったロングセラーであった。この時点でしょうゆ味とカレー味の2種類が発売されており、それからタンメン味も加えた3種類となった。定価は100円。
1996年まで販売されていた。ずっと新発売とされていたことには、志村けん自身がコントでネタにしていたこともあった。それから後に発売元であるサンヨー食品がなぜ新発売にしていたのかを説明して、それによると新発売という表記が一番分かりやすかったからのみということであった。
2012年3月28日まで放送されていた志村軒というテレビ番組は、ケンちゃんラーメンという志村けんが店主のラーメン店が舞台であった。この番組内ではケンちゃんラーメンというカップラーメンを視聴者にプレゼントするということが行われていた。この製品は味の時計台がプロデュースしていた。実際に売られていたこともあった。
2020年4月20日に放送された壇蜜の耳蜜で、ケンちゃんラーメン新発売が好きだったというリスナーからのメールが寄せられる。これに対して壇蜜もケンちゃんラーメン新発売をよく食べていたとのことで当時を振り返り、コメディアン1人の名前がラーメンになって売られていることは凄いと思い、改めて志村けんの偉大さを実感した。 | [
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] | ケンちゃんラーメン新発売(ケンちゃんラーメンしんはつばい)は、サンヨー食品から発売されていた製品。 | '''ケンちゃんラーメン'''(ケンちゃんラーメン)は、[[サンヨー食品]]から[[発売]]されていた製品。
== 概要 ==
[[1988年]]にサンヨー食品の子供向けカップ麺ブランド「サッポロボーイ」で発売された[[カップ麺]]。[[志村けん]]が[[CM]]に出演して、発売から何年が経っても新発売とされていた。当時には子供向けのカップラーメンは無く、[[芸能人]]の名前が商品名になったカップラーメンも無かったために、発売から10年以上存在していた。ケンちゃんラーメン新発売にはスピードくじが付いており、このくじの景品でオリジナルの[[ボールペン]]がプレゼントされていた<ref>{{Cite web |title=志村けんさん「ひとみ婆さん」コントに見た強烈さと「ケンちゃんラーメン」 |url=https://dot.asahi.com/articles/-/92894 |website=AERA dot. (アエラドット) |date=2020-03-31 |access-date=2023-10-12 |language=ja}}</ref>。
[[1995年]]3月の時点でケンちゃんラーメン新発売は発売から8年が経った[[ロングセラー]]であった。この時点で[[しょうゆ]]味と[[カレー]]味の2種類が発売されており、それから[[タンメン]]味も加えた3種類となった。定価は100円<ref>{{Cite web |title=サンヨー食品販売、「ケンちゃんラーメン」タンメン味発売 |url=https://news.nissyoku.co.jp/news/nss-7848-0058 |website=日本食糧新聞電子版 |access-date=2023-10-12 |language=ja}}</ref>。
1996年まで販売されていた。ずっと新発売とされていたことには、志村けん自身が[[コント]]でネタにしていたこともあった。それから後に発売元であるサンヨー食品がなぜ新発売にしていたのかを説明して、それによると新発売という表記が一番分かりやすかったからのみということであった<ref>{{Cite web |title=小さいカップ麺は至高 |url=https://ozfare.com/2020/12/05/%e5%b0%8f%e3%81%95%e3%81%84%e3%82%ab%e3%83%83%e3%83%97%e9%ba%ba%e3%81%af%e8%87%b3%e9%ab%98/ |date=2020-12-05 |access-date=2023-10-12 |language=ja |last=株式会社オズファーレ}}</ref>。
[[2012年]][[3月28日]]まで放送されていた[[志村軒]]という[[テレビ番組]]は、ケンちゃんラーメンという志村けんが店主のラーメン店が舞台であった。この番組内ではケンちゃんラーメンというカップラーメンを[[視聴者]]にプレゼントするということが行われていた。この製品は[[味の時計台]]がプロデュースしていた<ref>{{Cite web |title=志村軒 2010/09/16(木)01:25 の放送内容 ページ1 |url=https://datazoo.jp/ |website=TVでた蔵 |access-date=2023-10-12 |language=ja}}</ref>。実際に売られていたこともあった<ref>{{Cite web |title=志村軒のけんちゃんラーメン売ってた! |url=http://pinotic-mako.cocolog-nifty.com/index/2010/12/post-c1ba.html |website=極悪マコのうそつき日記 |access-date=2023-10-12}}</ref>。
[[2020年]][[4月20日]]に放送された[[壇蜜の耳蜜]]で、ケンちゃんラーメン新発売が好きだったという[[リスナー]]からのメールが寄せられる。これに対して[[壇蜜]]もケンちゃんラーメン新発売をよく食べていたとのことで当時を振り返り、[[コメディアン]]1人の名前がラーメンになって売られていることは凄いと思い、改めて志村けんの偉大さを実感した<ref>{{Cite web |title=壇蜜「けんちゃんラーメン」で志村さんの偉大さ実感…“ロス”のリスナーに勧めた味とは? - スポニチ Sponichi Annex 芸能 |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/04/20/kiji/20200420s00041000257000c.html |website=スポニチ Sponichi Annex |access-date=2023-10-12 |language=ja}}</ref>。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{志村けん}}
[[Category:即席麺]]
[[Category:サンヨー食品]]
[[Category:志村けん]]
{{DEFAULTSORT:けんちやんらあめんさんようしよくひん}} | 2023-10-12T04:15:38Z | 2023-10-12T11:32:05Z | false | false | false | [
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"Template:Cite web"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%B3_(%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%A8%E3%83%BC%E9%A3%9F%E5%93%81) |
4,840,501 | 嶋田暁文 | 嶋田 暁文(しまだ あきふみ、1973年 - )は、日本の行政学者。九州大学大学院法学研究院教授、自治体学会副会長。
島根県安来市生まれ。島根県立松江南高等学校を経て、中央大学法学部卒業後、1999年地方自治総合研究所非常任研究員。2002年中央大学大学院法学研究科博士後期課程単位取得退学、日本学術振興会特別研究員。
2004年九州大学大学院法学研究院助教授。2016年柳川市都市計画審議会委員。2018年九州大学大学院法学研究院教授、宇美町行政改革審議会会長。2019年コミュニティ政策学会理事。
2020年国土交通省半島振興の在り方に関する検討会委員、農林水産省新しい農村政策の在り方に関する検討会委員、太宰府市自治基本条例審議会会長、宇美町町民憲章審議会会長、日本行政学会理事、日本公共政策学会理事。
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] | 嶋田 暁文は、日本の行政学者。九州大学大学院法学研究院教授、自治体学会副会長。 | '''嶋田 暁文'''(しまだ あきふみ、[[1973年]] - )は、[[日本]]の[[行政学者]]。[[九州大学大学院法学研究院]]教授、[[自治体学会]]副理事長。
== 人物・経歴 ==
[[島根県]][[安来市]]生まれ<ref name="pre"/>。[[島根県立松江南高等学校]]を経て、[[中央大学法学部]]卒業後<ref>[https://www.law.kyushu-u.ac.jp/general/staff/shimada_akifumi 教員紹介 ―嶋田 暁文―]九州大学</ref><ref name="pre">[https://president.jp/list/author/%E5%B6%8B%E7%94%B0%20%E6%9A%81%E6%96%87 嶋田 暁文(しまだ・あきふみ) 嶋田 暁文 九州大学大学院 法学研究院 教授]プレジデントオンライン</ref>、1999年[[地方自治総合研究所]]非常任研究員<ref name="kyu">[https://hyoka.ofc.kyushu-u.ac.jp/search/details/K002543/index.html 嶋田 暁文(しまだ あきふみ) データ更新日:2023.06.28 教授 / 法学研究院 公法・社会法学部門 公法]九州大学</ref>。[[今村都南雄]]に師事し、2002年中央大学大学院法学研究科博士後期課程[[単位取得退学]]<ref name="pre"/>、[[日本学術振興会特別研究員]]<ref name="kyu"/>。
2004年[[九州大学大学院法学研究院]]助教授<ref name="kyu"/>。2016年[[柳川市]][[都市計画審議会]]委員<ref name="sh">[https://hyoka.ofc.kyushu-u.ac.jp/search/details/K002543/society.html 社会活動]九州大学</ref>。2018年[[九州大学大学院法学研究院]]教授<ref name="kyu"/>、[[宇美町]][[行政改革]]審議会会長<ref name="sh"/>。2019年[[コミュニティ政策学会]][[理事]]<ref name="ke"/>。
2020年[[国土交通省]]半島振興の在り方に関する検討会委員、[[農林水産省]]新しい農村政策の在り方に関する検討会委員、[[太宰府市]][[自治基本条例]]審議会会長、[[宇美町]]町民憲章審議会会長<ref name="sh"/>、[[日本行政学会]][[理事]]、[[日本公共政策学会]]理事<ref name="ke"/>。
2021年[[法政大学]]ボアソナード記念現代法研究所客員教員<ref>[https://hyoka.ofc.kyushu-u.ac.jp/search/details/K002543/education.html 教育活動]九州大学</ref>。2022年[[自治体学会]]副理事長。2023年[[日本地方自治学会]][[監事]]<ref name="ke">[https://hyoka.ofc.kyushu-u.ac.jp/search/details/K002543/research.html 研究活動]九州大学</ref>。専門は[[行政学]]、[[地方自治]]論、[[公共政策]]論<ref name="kyu"/><ref name="pre"/>。
== 著書 ==
*『みんなが幸せになるための公務員の働き方』学芸出版社 2014年
*『地方自治の基礎概念 : 住民・住所・自治体をどうとらえるか?』([[阿部昌樹]], [[木佐茂男]]と共編著)公人の友社 2015年
*『自治制度の抜本的改革 : 分権改革の成果を踏まえて』(阿部昌樹, [[田中孝男]]と共編)法律文化社 2017年
== 脚注 ==
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{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しまた あきふみ}}
[[Category:行政学者]]
[[Category:九州大学の教員]]
[[Category:修士(政治学)取得者]]
[[Category:中央大学出身の人物]]
[[Category:島根県の高等学校出身の人物]]
[[Category:島根県出身の人物]]
[[Category:1973年生]]
[[Category:存命人物]] | 2023-10-12T04:20:59Z | 2023-10-12T04:29:50Z | false | false | false | [
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4,840,502 | 大月れみ | 大月 れみ(おおつき れみ、11月21日- )は、富山県生まれの競技麻雀のプロ雀士。日本プロ麻雀連盟所属。団体内の段位は三段。血液型はO型。
・麻雀最強戦2018最強戦ガールズ東日本担当
・龍龍チャンネル公式アンバサダー
・DVD『バビィの麻雀キャンプ』
・連盟ch『ヒカル!クレイジーパジャマSOS』アシスタント
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・連盟ch『インターネット麻雀選手権決勝』実況
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] | 大月 れみは、富山県生まれの競技麻雀のプロ雀士。日本プロ麻雀連盟所属。団体内の段位は三段。血液型はO型。 | {{雀士|名前=大月 れみ|caption=|出身地=[[富山県]]|プロ入会=2017年 33期生|所属団体=[[日本プロ麻雀連盟]]}}
'''大月 れみ'''(おおつき れみ、[[11月21日]]<ref>{{Cite web |url=https://ron2.jp/pro/1732/ |title=大月れみプロ |publisher=れみぱん |accessdate=2023-08-07}}</ref>- )は、[[富山県]]生まれの[[競技麻雀]]の[[プロ雀士]]。[[日本プロ麻雀連盟]]所属。団体内の段位は三段。血液型はO型。
== 経歴・人物 ==
* キャッチコピーは「れみぱん あんぱん 顔ぱんぱん」
*近代麻雀によるアンケート投票で9位に入り【麻雀最強戦2024出場枠争奪戦】出場。
== 略歴 ==
・麻雀最強戦2018最強戦ガールズ東日本担当
・[https://www.youtube.com/channel/UCmyVPm8_UQOE-qyuQBqJ9Yg 龍龍チャンネル]公式アンバサダー
・DVD『バビィの麻雀キャンプ』
・連盟ch『ヒカル!クレイジーパジャマSOS』アシスタント
・連盟ch『実況トトロンスタジアム』実況
・連盟ch『インターネット麻雀選手権決勝』実況
・連盟ch『FocusM』実況
== 出典 ==
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== 外部リンク ==
*{{twitter|xremipanx}}
*[https://www.youtube.com/channel/UCmyVPm8_UQOE-qyuQBqJ9Yg 龍龍チャンネル]
* https://lit.link/xremipanx
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{{DEFAULTSORT:おおつき れみ}}
[[Category:日本プロ麻雀連盟の雀士]]
[[Category:東京都出身の人物]]
[[Category:存命人物]] | 2023-10-12T04:24:55Z | 2023-10-14T23:32:56Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9C%88%E3%82%8C%E3%81%BF |
4,840,504 | 稙田村 | 稙田村(わさだむら)は、大分県大分郡にあった村。現在の大分市の一部にあたる。
大分川の右岸、支流・七瀬川の流域に位置していた。 | [
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] | 稙田村(わさだむら)は、大分県大分郡にあった村。現在の大分市の一部にあたる。 | {{日本の町村 (廃止)
| 廃止日 = 1955年2月1日
| 廃止理由 = 新設合併
| 廃止詳細 = '''稙田村'''、[[東稙田村]]、[[賀来村]] → [[大分町|大分村]]
| 現在の自治体 = [[大分市]]
| よみがな = わさだむら
| 自治体名 = 稙田村
| 区分 = 村
| 都道府県 = 大分県
| 郡 = [[大分郡]]
| 面積 =
| 境界未定 =
| 人口 = 6898
| 人口の出典 = [[国勢調査 (日本)|国勢調査]]
| 人口の時点 = 1950年
| 隣接自治体 = 賀来村、[[挾間町|挾間村]]、[[野津原町|野津原村]]、[[大南町]]、東稙田村、大分市
| 所在地 = 大分郡稙田村大字市
| 座標 =
| 位置画像 =
| 特記事項 =
}}
'''稙田村'''(わさだむら{{R|変遷}}{{R|角川}})は、[[大分県]][[大分郡]]にあった[[村]]。現在の[[大分市]]の一部にあたる。
== 地理 ==
[[大分川]]の右岸、支流・七瀬川の流域に位置していた{{R|角川}}。
== 歴史 ==
*[[1889年]](明治22年)4月1日、[[町村制]]の施行により、大分郡市村、玉沢村、木上村、口戸村、上宗方村、下宗方村が合併して村制施行し、'''稙田村'''が発足<ref name=変遷>『市町村名変遷辞典』860頁。</ref><ref name=角川>『角川日本地名大辞典 44 大分県』879-880頁。</ref>。旧村名を継承した市、玉沢、木上、口戸、上宗方、下宗方の6大字を編成{{R|角川}}。
*[[1907年]](明治40年)4月1日、大分郡[[西稙田村]]と合併し'''稙田村'''が存続{{R|変遷}}{{R|角川}}。
*[[1955年]](昭和30年)2月1日、大分郡東稙田村、賀来村と合併し、'''[[大分町|大分村]]'''を新設して廃止された{{R|変遷}}{{R|角川}}。
== 産業 ==
*農業
== 出身人物 ==
* [[利光丈平]]([[京王電気軌道]]社長)
* [[利光鶴松]]([[小田原急行鉄道]]社長、衆議院議員)
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* [[角川日本地名大辞典]] 44 大分県
* 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。
== 関連項目 ==
* [[大分県の廃止市町村一覧]]
{{デフォルトソート:わさたむら}}
[[Category:大分郡]]
[[Category:大分市域の廃止市町村]]
[[Category:1889年設置の日本の市町村]]
[[Category:1955年廃止の日本の市町村]] | 2023-10-12T04:28:01Z | 2023-10-13T11:16:47Z | false | false | false | [
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"Template:Reflist"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%99%E7%94%B0%E6%9D%91 |
4,840,509 | 藤沢町立保呂羽小学校 | 藤沢町立保呂羽小学校(ふじさわちょうりつ ほろわしょうがっこう)は、岩手県東磐井郡藤沢町(現:一関市藤沢町)にあった公立小学校。略称は保小。
藤沢町立保呂羽保育園との幼小連携教育を行っていた。
学制の発布により1874年に開校し、小学校統合再編計画により2009年を以って閉校した小学校である。校名に「保呂羽」を冠していたのは、この地区一帯が1889年まで保呂羽村だったことに由来している。藤沢町の東部を占める旧保呂羽村域は、廃村後からは「保呂羽地区」と称しており、同地区の全域を学区としていた。
校名は6回変更しており、移転は3回している。1984年に現在地へ移転するまでは、保呂羽字二本柳5番地に校舎を構えていた。当地では一時期、進学先の中学校である「藤沢町立保呂羽中学校」を併設していたものの、2代目藤沢中学校への統合により24年間の併設に終わった。跡地には1988年にインテグラン岩手工場が進出したことで、同工場が社屋代わりとした校舎の一部以外は解体された。また、閉校時まで利用していた校舎も後述する要因により現存しない。
校歌は1950年に制定され、作詞は菊池知勇、作曲は森るり子が担当した。歌は3部で構成しており、制定時点で背後に聳えていた保呂羽山や目の前を流れていた雉子川(黄海川)が歌詞に盛り込まれている。
児童数は、1959年度の252人をピークに過疎化や少子化によって減少の一途をたどり、2004年度以降は町内の小中学校では最小の在籍数となっていた。児童数の減少を受けて1971年度からは複式学級が発生した。その後は一旦解消したものの、2001年度に再度設置され、2005年度以降は完全複式学級(3学級編成)に陥っていた。
現在地への移転後は藤沢町立保呂羽保育園を併設し、園との幼小連携教育を行っていた。町が進める連携教育の一環として、当校の校長は保育園の園長を兼務したり、園児は児童と一緒に校庭で遊ぶなど日常的に交流を重ねていた。
閉校後、体育館は後述するコミュニティ体育館に転用されている。
以前より地区民が積極的に学校運営に関わっていたことから、1986年に町教育委員会より「世代間交流事業推進校」の指定を受けたのが発端である。同事業は当初、文部省の国庫補助事業として3年間の期限付きで指定されたものであったが、期限満了以降も事業開始時から連携していた保呂羽地区老人クラブ連合会はもとより、1997年からはPTAなどを巻き込んで保呂羽地区にまつわる様々な事業を展開していた。事業内容は、花で校地内を飾る「美化活動」、近隣の畑を借りて里芋やさつま芋を栽培する「生産活動」、ゲートボール教室・大会を行う「体力づくり活動」のほか、後述する「文化活動」と「伝承活動」の計5活動を通じて世代間の交流を行っていた。
同地区では江戸時代より俳句づくりが盛んであったことから、1986年9月に合同俳句教室を開催して以降、精力的に俳句活動を行っていた。合同俳句教室の開催後、再度開催してほしいとの要望が相次いだため、紙の句集「白雉の里」に切り替える形で活動が継続されることになった。その後、同年12月に白雉の里の前身にあたる「白雉沢」を創刊し、児童や老人クラブの会員をはじめとした地区民が詠んだ句がまとめられた。のちにタイトルを白雉の里に改め、年4-5回のペースで発行した。第15号の発行時には合同句集「白雉の里」も創刊し、閉校時までに句集は105号、合同句集は5号分を発行した。
同地区における歴史や文化を伝承すべく、保呂羽山神社の思古碑に刻まれた白雉伝説や、かつて地区の各所で掘られていた金に関する伝説(黄金伝説)などを調査したり、同地区で長らく継承されている郷土芸能「打ちばやし」の伝承活動に取り組んでいた。
1874年に保呂羽字宇和田の不退山長徳寺内に開校した、公立保呂羽小学校が起源となる。その後、移転すべく保呂羽字二本柳地内に2階建ての校舎を建設していたが、1876年に暴風に見舞われて倒壊した。翌年には村民からの寄付を受けて二本柳5番地に2度目となる校舎が着工し、1879年に落成した。同年12月に校舎へ移転し、児童を2組に編成して収容した。1896年に校地を拡張したのち、1897年には2代目にあたる校舎を落成した。1924年に高等科を、1926年に青年訓練所をそれぞれ併設し、1942年には校旗を制定した。終戦後の1947年には学校教育法が施行され、校名を大津保村立保呂羽小学校へ改称したのと同時に、大津保中学校の保呂羽本校を併設した。1950年から1954年にかけては校歌と校章および新校旗を続けて制定し、1955年には3代目にあたる木造2階建ての校舎と講堂を落成した。中学校閉校後の1975年にはプールを校舎脇に設置し、水泳選手の古橋廣之進を招いて水泳教室を開催した。
1984年、地区民の熱意がみのり、新校舎を保呂羽字宇和田の高台(現在地)に落成し、二度目の移転をした。その後体育館や庭園などを順次設置し、1986年からは先述の世代間交流事業を始めた。
1990年代後半ごろからは、当校含めた町東部の各校で進行していた少子化や過疎化による児童数の減少と、それに伴って生じた複式学級設置の常態化による教育環境の質が問題視され始めたことを踏まえ、2000年に小学校統合再編計画が打ち出された。当初の計画では、児童数24人で完全複式学級になる2004年度を目途に藤沢小学校(藤沢町藤沢)へ編入統合する予定だったが、地区民や町教育委員会などでの協議の末、統合時期を延期させて別の統合方式をとる計画に変更された。最終的に、2006年度に藤沢小学校へ統合する予定だった大籠小学校、同じく複式学級を有していた徳田小学校、計画当初の統合先・藤沢小学校の計4校が新設統合することで議論がまとまった。
その後は新設校の場所選定や校舎問題などで統合時期が先延ばしとなったものの、2009年4月に新制「藤沢町立藤沢小学校」へ統合された。134年の歴史に幕を閉じ、延べ2,000人ほどの児童を輩出した。また、連携していた保呂羽保育園も統合により閉園した。
閉校後の2010年には、使用されなくなった各施設を利活用すべく、体育館と校庭がコミュニティ施設として開設された。2011年には東北地方太平洋沖地震が襲い、校舎を中心に大規模な被害をもたらした。校舎に関しては、内部の天井は至る箇所で崩落し、屋根や外壁は部分的に剥落したことなどから解体された。体育館に関しては、改修工事を施したうえで引き続き利用されることになった。
出典:
地域振興と住民福祉の向上を図るべく、2010年にコミュニティ体育館として地区民向けに開設された。開設時から指定管理者制度を導入しており、保呂羽地区自治会協議会が担っている。
2018年1月には、同協議会が地区の歴史を後世へ伝えるべく、「白雉の里伝承館」を開設した。
主な施設のみ掲載。
校地は7,697 mだった。
出典:
1897年度以降の児童数と学級数の推移。
出典:
県道295号沿い、保呂羽字宇和田の高台に位置していた。 | [
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] | 藤沢町立保呂羽小学校は、岩手県東磐井郡藤沢町にあった公立小学校。略称は保小。 藤沢町立保呂羽保育園との幼小連携教育を行っていた。 | {{Infobox 日本の学校
|校名=藤沢町立保呂羽小学校
|画像=Fujisawa town Horowa elementary school 202310.jpg
|画像説明=校門前(2023年10月)
|過去校名=公立保呂羽小学校<br >保呂羽簡易小学校<br >保呂羽尋常小学校<br >保呂羽尋常高等小学校<br >保呂羽国民学校<br >大津保村立保呂羽小学校
|国公私立= [[公立学校]]
|設置者=[[大津保村]](1889年 - 1955年)<br >[[藤沢町]](1955年 - 2009年)
|理念=
|校訓=
|設立年月日=[[1874年]]
|記念日名称=<!-- 創立記念日以外の名称である場合。「開校記念日」など -->
|創立記念日=<!-- 創立記念日(年は不要) -->
|創立者=
|閉校年月日= [[2009年]][[3月31日]]
|共学・別学=[[男女共学]]
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|小学校コード=<!-- 一貫教育を行っている学校で小学校単独でコードを割当られている場合のみ記載 -->
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|所在地=岩手県東磐井郡藤沢町保呂羽字宇和田60-1<br >(現:岩手県一関市藤沢町保呂羽字宇和田60-1)
|地図WikiData=<!-- 「Yes」でWikiDataのGEOデータを使用。(省略可) -->
|緯度度=38 |緯度分=50 |緯度秒=33.29
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'''藤沢町立保呂羽小学校'''(ふじさわちょうりつ ほろわしょうがっこう)は、[[岩手県]][[東磐井郡]][[藤沢町]](現:[[一関市]]藤沢町)にあった[[公立小学校]]。略称は'''保小'''。
藤沢町立保呂羽保育園との[[幼小一貫教育|幼小連携教育]]を行っていた。
== 概要 ==
[[学制]]の発布により1874年に開校し、小学校統合再編計画により2009年を以って閉校した[[小学校]]である<ref name=":3">{{Cite web |url=http://www.town.fujisawa.iwate.jp/kohou/09/2009-04.pdf |title=広報ふじさわ No.663 |access-date=2023-10-12 |publisher=藤沢町 |pages=8-9,12-13,16 |archive-url=https://web.archive.org/web/20110708192436/http://www.town.fujisawa.iwate.jp/kohou/09/2009-04.pdf |archive-date=2011-7-8 |date=2009-4-15}}</ref><ref name=":8" />。校名に「保呂羽」を冠していたのは、この地区一帯が1889年まで[[大津保村#沿革|保呂羽村]]だったことに由来している<ref>{{Cite web |url=https://www.center-i.org/%E6%83%85%E5%A0%B1%E7%B4%99idea/%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%81%AE%E8%87%AA%E7%94%B1%E7%A0%94%E7%A9%B6/%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%81%AE%E8%87%AA%E7%94%B1%E7%A0%94%E7%A9%B6-%E5%A2%83%E7%9B%AE%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB-%EF%BC%91-%E6%97%A7%E8%97%A4%E6%B2%A2%E7%94%BA-1/ |title=境目調査ファイルNo.1「旧藤沢町」 |access-date=2023-10-11 |publisher=いちのせき市民活動センター |date=2020-10}}</ref>。藤沢町の東部を占める旧保呂羽村域は、廃村後からは「保呂羽地区」と称しており、同地区の全域を学区としていた<ref name=":0">{{Cite web |url=http://www.town.fujisawa.iwate.jp/kohou/06/0611.pdf |title=広報ふじさわ No.634 |access-date=2023-10-11 |publisher=藤沢町 |archive-url=https://web.archive.org/web/20111019210623/http://www.town.fujisawa.iwate.jp/kohou/06/0611.pdf |archive-date=2011-10-19 |date=2006-11 |pages=3-10}}</ref><ref name=":6" />。
校名は6回変更しており、移転は3回している<ref name=":3" />。1984年に現在地へ移転するまでは、保呂羽字二本柳5番地に校舎を構えていた<ref name=":3" /><ref name=":5">{{Cite book|和書 |title=学校一覧 昭和59年度 |year=1984 |publisher=岩手県教育委員会 |pages=96-97 |author=岩手県教育委員会 |doi=10.11501/12111494}}</ref>。当地では一時期、進学先の[[中学校]]である「藤沢町立保呂羽中学校」を併設していたものの、2代目[[一関市立藤沢中学校|藤沢中学校]]への統合により24年間{{Efn|1969年4月(22年目)の名目統合以降は、藤沢中学校保呂羽校舎として2年間併設していた<ref name="album" />。|group=注}}の併設に終わった<ref name=":3" /><ref name="album" />。跡地には1988年にインテグラン岩手工場が進出したことで、同工場が社屋代わりとした校舎の一部以外は解体{{Efn|2010年時点では社屋代わりとして利用しているが<ref name="fuji201110" />、その後取り壊された。|group=注}}された<ref name="fuji201110">{{Cite web |url=http://www.town.fujisawa.iwate.jp/kohou/10/2010-07.pdf |title=広報ふじさわ No.678 |access-date=2023-10-11 |publisher=藤沢町 |date=2010-7 |archive-url=https://web.archive.org/web/20111019213046/http://www.town.fujisawa.iwate.jp/kohou/10/2010-07.pdf |archive-date=2011-10-19 |page=6}}</ref>。また、閉校時まで利用していた校舎も後述する要因により現存しない<ref name=":9" />。
[[校歌]]は1950年に制定され、作詞は[[菊池知勇]]、作曲は森るり子が担当した。歌は3部で構成しており、制定時点で背後に聳えていた保呂羽山や目の前を流れていた雉子川(黄海川)が歌詞に盛り込まれている<ref name=":3" /><ref name=":7" />。
[[ファイル:Fujisawa town Horowa elementary school ruins and Mt. Horowa.jpg|サムネイル|300x300ピクセル|右中央にある旧学校跡地と背後の保呂羽山(2023年9月)]]
児童数は、1959年度の252人をピークに[[過疎化]]や[[少子化]]によって減少の一途をたどり{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|pp=142,150}}、2004年度以降は町内の小中学校では最小の在籍数となっていた<ref name=":10" /><ref name=":11" /><ref name=":12" /><ref name=":13" /><ref name=":14" />。児童数の減少を受けて1971年度からは[[複式学級]]が発生した{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|pp=142,150}}。その後は一旦解消したものの、2001年度に再度設置され、2005年度以降は完全複式学級(3学級編成)に陥っていた<ref group="注">詳細は「[[藤沢町立保呂羽小学校#児童・学級数|#児童・学級数]]」を参照。</ref>。
現在地への移転後は藤沢町立保呂羽保育園を併設し、園との幼小連携教育を行っていた。町が進める連携教育の一環として、当校の校長は保育園の園長を兼務したり、園児は児童と一緒に校庭で遊ぶなど日常的に交流を重ねていた<ref name=":3" /><ref>{{Cite web |url=http://www.town.fujisawa.iwate.jp/kohou/06/0612.pdf |title=広報ふじさわ No.635 |access-date=2023-10-11 |publisher=藤沢町 |archive-url=https://web.archive.org/web/20111019210537/http://www.town.fujisawa.iwate.jp/kohou/06/0612.pdf |archive-date=2011-10-19 |date=2006-12 |page=13}}</ref>。
[[ファイル:Fujisawa town Horowa nursery school 202309.jpg|サムネイル|300x300ピクセル|藤沢町立保呂羽保育園(2023年9月)]]閉校後、体育館は後述するコミュニティ体育館に転用されている。
== 地区との関わり ==
=== 世代間交流事業 ===
以前より地区民が積極的に学校運営に関わっていたことから、1986年に町教育委員会より「世代間交流事業推進校」の指定を受けたのが発端である。同事業は当初、[[文部省]]の[[国庫補助事業]]として3年間の期限付きで指定されたものであったが、期限満了以降も事業開始時から連携していた保呂羽地区[[老人クラブ]]連合会はもとより、1997年からは[[PTA]]などを巻き込んで保呂羽地区にまつわる様々な事業を展開していた<ref name=":3" /><ref name=":0" />。事業内容は、花で校地内を飾る「美化活動」、近隣の畑を借りて里芋やさつま芋を栽培する「生産活動」、[[ゲートボール]]教室・大会を行う「体力づくり活動」のほか、後述する「文化活動」と「伝承活動」の計5活動を通じて世代間の交流を行っていた<ref name=":0" />。
==== 文化活動 ====
同地区では[[江戸時代]]より[[俳句]]づくりが盛んであったことから、1986年9月に合同俳句教室を開催して以降、精力的に俳句活動を行っていた<ref name=":0" /><ref name=":3" />。合同俳句教室の開催後、再度開催してほしいとの要望が相次いだため、紙の句集「白雉の里」に切り替える形で活動が継続されることになった。その後、同年12月に白雉の里の前身にあたる「白雉沢」を創刊し、児童や老人クラブの会員をはじめとした地区民が詠んだ句がまとめられた。のちにタイトルを白雉の里に改め、年4-5回のペースで発行した<ref name=":0" />。第15号の発行時には合同句集「白雉の里」も創刊し、閉校時までに句集は105号、合同句集は5号分を発行した<ref name=":0" /><ref name=":3" />。
==== 伝承活動 ====
同地区における歴史や文化を伝承すべく、保呂羽山神社の思古碑に刻まれた白雉伝説や、かつて地区の各所で掘られていた[[金]]に関する伝説(黄金伝説)などを調査したり、同地区で長らく継承されている郷土芸能「打ちばやし」の伝承活動に取り組んでいた<ref name=":0" /><ref name=":142">{{Cite book|和書 |title=シリーズ 今、地域の学校がおもしろい 第3集 わたしたちが受けつぐ地域の行事・伝統芸能 |date=2013-2-28 |publisher=一関市教育委員会 |editor=一関市教育委員会学校教育課 |page=80}}</ref>。
== 沿革 ==
1874年に保呂羽字宇和田の不退山[[長徳寺]]内に開校した、公立保呂羽小学校が起源となる<ref name=":3" /><ref name=":19" />。その後、移転すべく保呂羽字二本柳地内に2階建ての校舎を建設していたが、1876年に暴風に見舞われて倒壊した。翌年には村民からの寄付を受けて二本柳5番地に2度目となる校舎が着工し、1879年に落成した。同年12月に校舎へ移転し、児童を2組に編成して収容した{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=140-141}}。1896年に校地を拡張したのち、1897年には2代目にあたる校舎を落成した。1924年に[[高等科]]を、1926年に[[青年訓練所]]をそれぞれ併設し、1942年には校旗を制定した<ref name=":3" />。終戦後の1947年には[[学校教育法]]が施行され、校名を大津保村立保呂羽小学校へ改称したのと同時に、大津保中学校の保呂羽本校を併設した<ref name=":3" /><ref name="album" />。1950年から1954年にかけては校歌と校章および新校旗を続けて制定し、1955年には3代目にあたる木造2階建ての校舎と[[講堂]]を落成した<ref name=":3" />{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=145}}。中学校閉校後の1975年には[[プール]]を校舎脇に設置し、水泳選手の[[古橋廣之進]]を招いて水泳教室を開催した{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=146}}。[[ファイル:Fujisawa town Horowa elementary school Aerial view (1977-10).jpg|サムネイル|300x300ピクセル|移転前の空中写真(1977年10月)<br >{{国土航空写真}}]]
1984年、地区民の熱意がみのり、新校舎を保呂羽字宇和田の高台(現在地)に落成し、二度目の移転をした<ref name=":0" /><ref name=":3" />。その後体育館や庭園などを順次設置し、1986年からは先述の世代間交流事業を始めた<ref name=":3" />。
1990年代後半ごろからは、当校含めた町東部の各校で進行していた少子化や過疎化による児童数の減少と、それに伴って生じた複式学級設置の常態化による教育環境の質が問題視され始めたことを踏まえ、2000年に小学校統合再編計画<ref name=":62">{{Cite journal|和書|editor=藤沢町議会広報編集特別委員会|date=2004-11-15|title=町内小学校再編計画はどうなっているか|url=https://www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/7,86289,c,html/86289/15-21.zip|journal=ふじさわ議会だより|issue=15|page=19|accessdate=2023-10-11|format=ZIP}}</ref>が打ち出された<ref name=":72">{{Cite journal|和書|editor=藤沢町議会広報編集特別委員会|date=2002-5-15|title=地区の保護者らと合意に向けた話し合いを積み上げ良い学びを|url=https://www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/7,86289,c,html/86289/1-51.zip|journal=ふじさわ議会だより|issue=5|page=8|accessdate=2023-10-11|format=ZIP}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.town.fujisawa.iwate.jp/kohou/09/2009-05.pdf |title=広報ふじさわ No.664 |access-date=2023-10-11 |publisher=藤沢町 |archive-url=https://web.archive.org/web/20111019212447/http://www.town.fujisawa.iwate.jp/kohou/09/2009-05.pdf |archive-date=2011-10-19 |page=9 |date=2009-5-15}}</ref>。当初の計画では、児童数24人で完全複式学級になる2004年度を目途に藤沢小学校(藤沢町藤沢)へ編入統合する予定だったが、地区民や町教育委員会などでの協議の末、統合時期を延期させて別の統合方式をとる計画に変更された<ref name=":4">{{Cite news|和書 |title=藤沢・黄海中の統合決定ずれ込む |newspaper=岩手日報 |date=2001-2-18 |url=http://www.iwate-np.co.jp/news/y2001/m200102/n20010218.html |access-date=2023-10-11 |archive-url=https://web.archive.org/web/20010306041314/http://www.iwate-np.co.jp/news/y2001/m200102/n20010218.html |archive-date=2001-3-6}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|editor=藤沢町議会広報編集特別委員会|date=2004-2-15|title=2 学校統合に対する考えを確認したい|url=https://www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/7,86289,c,html/86289/10-14.zip|journal=ふじさわ議会だより|issue=12|page=14|publisher=藤沢町議会|accessdate=2023-10-12|format=ZIP}}</ref>。最終的に、2006年度に藤沢小学校へ統合する予定だった[[藤沢町立大籠小学校|大籠小学校]]、同じく複式学級を有していた徳田小学校、計画当初の統合先・藤沢小学校の計4校が新設統合することで議論がまとまった<ref>{{Cite news|和書 |title=4小学校、2年後統合へ 藤沢町 |newspaper=岩手日報 |date=2007-9-19 |url=http://www.iwate-np.co.jp/school/school/200709/s200709191.html |access-date=2023-10-12 |archive-url=https://web.archive.org/web/20071018154407/http://www.iwate-np.co.jp/school/school/200709/s200709191.html |archive-date=2007-10-18}}</ref>。
その後は新設校の場所選定<ref>{{Cite journal|和書|editor=藤沢町議会広報編集特別委員会|date=2006-11-15|title=小学校の統合は|url=https://www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/7,86289,c,html/86289/22-32.zip|journal=ふじさわ議会だより|issue=23|page=13|publisher=藤沢町議会|accessdate=2023-10-12|format=ZIP}}</ref>や校舎問題<ref name=":83">{{Cite journal|和書|editor=藤沢町議会広報編集特別委員会|date=2007-2-15|title=学校統合での施設整備は|url=https://www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/7,86289,c,html/86289/22-32.zip|journal=ふじさわ議会だより|issue=24|page=8|accessdate=2023-10-11|format=ZIP}}</ref>などで統合時期が先延ばしとなったものの、2009年4月に新制「藤沢町立藤沢小学校」へ統合された<ref>{{Cite journal|和書|editor=藤沢町議会広報編集特別委員会|date=2006-5-15|title=小学校の再編統合は|url=https://www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/7,86289,c,html/86289/15-21.zip|journal=ふじさわ議会だより|issue=21|page=11|publisher=藤沢町議会|accessdate=2023-10-12|format=ZIP}}</ref><ref name=":8" />。134年の歴史に幕を閉じ、延べ2,000人ほどの児童を送り出した。また、連携していた保呂羽保育園も統合により閉園した<ref name=":3" />。
閉校後の2010年には、使用されなくなった各施設を利活用すべく、体育館と校庭がコミュニティ施設として開設された<ref name=":32" /><ref name=":1" />。2011年には[[東北地方太平洋沖地震]]が襲い、校舎を中心に大規模な被害をもたらした。校舎に関しては、内部の天井は至る箇所で崩落し、屋根や外壁は部分的に剥落したことなどから解体された<ref name=":20" /><ref name=":9" />。体育館に関しては、改修工事を施したうえで引き続き利用されることになった<ref name=":20" />。
=== 年表 ===
* [[1874年]]([[明治]]7年) - 公立保呂羽小学校として長徳寺に'''開校'''<ref name=":19">{{Cite web |url=https://www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/31,73124,c,html/73124/20230524-100301.pdf |title=小学校の沿革 |access-date=2023-10-11 |publisher=一関市 |date=2023-5-24 |page=4}}</ref><ref name=":3" />。
* [[1879年]](明治12年)
** 秋 - 保呂羽字二本柳5に校舎を落成{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=140}}。
** 12月 - 新校舎へ移転{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=141}}。
* [[1886年]](明治19年) - [[小学校令|第一次小学校令]]施行に伴い、「保呂羽簡易小学校」に'''改称'''{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=144}}<ref name=":3" />。
* [[1892年]](明治25年) - 「保呂羽[[尋常小学校]]」に'''改称'''{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=141}}<ref name=":3" />。
* [[1896年]](明治29年) - 校地を405.5坪に拡張{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=141}}。
* [[1897年]](明治30年)5月 - 新校舎を落成{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=141}}。
* [[1924年]]([[大正]]13年)
** [[5月7日]] - 高等科を併設し、 「保呂羽[[尋常高等小学校]]」に'''改称'''{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=141}}。
** 11月 - 平屋建て校舎を増築{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=141}}。
* [[1926年]](大正15年) - 青年訓練所令施行に伴い、保呂羽青年訓練所を併設<ref name=":3" />。
* [[1927年]]([[昭和]]2年) - [[シドニー・ギューリック]]より[[青い目の人形]]「ミリー」が贈呈{{Efn|その後、人形は[[太平洋戦争]]時に処分し、ケースは藤沢小学校へ引き継がれた<ref name="IwateMus" />。|group=注}}<ref>{{Cite book|和書 |title=岩手に残る青い目の人形 |date=2009-6-1 |publisher=熊谷印刷出版部 |author=加藤昭雄 |isbn=9784877203146}}</ref><ref name="IwateMus">{{Cite web |url=https://www2.pref.iwate.jp/~hp0910/kenkyu/data/houkokusho36compressed.pdf |title=岩手県立博物館調査研究報告書 第36冊 友情人形と答礼人形 ~日米人形交流と岩手~ |access-date=2023-10-11 |publisher=岩手県 |pages=57,59 |date=2023-3}}</ref>。
* [[1928年]](昭和3年)6月 - 校地を885.12坪に拡張し、平屋建ての雨天体操場(50坪)を落成{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=144}}。
* [[1935年]](昭和10年)6月 - [[青年学校令]]施行に伴い、大津保村立保呂羽[[青年学校]]<ref>{{Cite book|和書 |title=青年学校名簿 昭和11年4月末日現在 |date=1937-3-30 |publisher=文部省社会教育局 |page=145 |author=文部省社会教育局 |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1278127/1/81 |access-date=2023-11-2 |doi=10.11501/1278127}}</ref>を併設{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=144}}。
* [[1938年]](昭和13年) - 雨天体操場を普通教室に改装{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=144}}。
* [[1939年]](昭和14年) - 校舎を増築。校地を拡張<ref name=":3" />。
* [[1940年]](昭和15年)5月 - 校地を拡張し、2教室分の平屋建て校舎を増築{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=145}}。
* [[1941年]](昭和16年)4月 - [[国民学校令]]施行に伴い、「保呂羽[[国民学校]]」に'''改称'''{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=145}}<ref name=":3" />。
* [[1942年]](昭和17年)11月 - 寄贈された校旗を制定{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=145}}。
* [[1943年]](昭和18年)4月 - 普通教室に転換した雨天体操場を、再度雨天体操場に改装{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=145}}。
* [[1947年]](昭和22年)
** [[4月1日]] - 学校教育法施行に伴い、「大津保村立保呂羽小学校」に'''改称'''{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=145}}。大津保村立大津保中学校(保呂羽本校)を併設{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=167}}<ref name="album" />。
** 5月 - 講堂(旧称:雨天体操場)の一部を中学校用の教室に改装{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=145}}。
* [[1948年]](昭和23年) - 父母と教師の会が発足<ref name=":3" />。
* [[1950年]](昭和25年)[[9月2日]] - 校歌(作詞:菊池知勇、作曲:森るり子)を制定{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=142}}<ref name=":7">{{Cite web |url=https://makasete.jp/%E5%B2%A9%E6%89%8B%E3%83%BB%E4%B8%80%E9%96%A2%E3%80%8E%E3%81%B2%E3%81%8C%E3%81%97%E3%81%84%E3%82%8F%E3%81%84%E3%81%AE%E6%A0%A1%E6%AD%8C%E9%9B%86%E3%80%8F32%E6%9B%B2%E7%9B%AE%E3%80%80%E8%97%A4%E6%B2%A2/ |title=岩手・一関『ひがしいわいの校歌集』32曲目 藤沢町立保呂羽小学校校歌 |access-date=2023-10-11 |publisher=トーバン印刷 |date=2017-2-1}}</ref>。
* [[1951年]](昭和26年)9月 - 校章を制定{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=145}}。
* [[1954年]](昭和29年)3月 - 同窓会から寄付された新校旗を制定{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=145}}。
* [[1955年]](昭和30年)
** [[4月1日]] - 町村合併に伴い、「藤沢町立保呂羽小学校」に'''改称'''<ref name=":3" />。
** 6月 - 新校舎と講堂を落成{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=145}}<ref name=":3" />。
** [[8月20日]] - 藤沢町立大津保中学校保呂羽分校を併設{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|pp=146,167}}。
* [[1956年]](昭和31年)4月1日 - 藤沢町立保呂羽中学校を併設{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=167}}。
* [[1958年]](昭和33年) - 特別教室棟を落成{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=146}}。
* [[1969年]](昭和44年)4月1日 - 藤沢町立藤沢中学校保呂羽校舎を併設{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=142}}<ref name="album" />。
* [[1975年]](昭和50年)8月 - 鋼板造のプールを落成{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=146}}。
* [[1984年]](昭和59年)12月 - 現在地に新校舎を落成し、移転<ref name=":3" /><ref name="fuji history">{{Cite web |url=http://www.town.fujisawa.iwate.jp/gaiyou/gaiyou04.htm |title=町づくりの歩み |access-date=2023-10-11 |publisher=藤沢町 |archive-url=https://web.archive.org/web/20070108002449/http://www.town.fujisawa.iwate.jp/gaiyou/gaiyou04.htm |archive-date=2007-1-8}}</ref><ref>{{Cite book|和書 |title=写真アルバム 一関・奥州の昭和 |publisher=いき出版 |page=252 |date=2015年10月6日 |isbn=9784904614693}}</ref>。
* [[1985年]](昭和60年) - 体育館を落成。庭園と野外ステージを設置<ref name=":3" />。
* [[1986年]](昭和61年) - 藤沢町より世代間交流事業推進校に指定され、世代間交流事業を開始<ref name=":3" /><ref name=":0" />。
* [[1990年]]([[平成]]2年) - 学校環境優良校として受賞<ref name=":3" />。
* [[1991年]](平成3年) - 新プールを落成<ref name=":3" />。
* [[1992年]](平成4年) - [[岩手県歯科医師会|県歯科医師会]]より受賞「よい歯の学校」<ref name=":3" />。
* [[1998年]](平成10年) - 岩手県より受賞「県指定社会福祉協力校」<ref name=":3" />。
* [[2007年]](平成19年) - 岩手県より、いわて型コミュニティスクール推進校に指定<ref name=":3" />。
* [[2009年]](平成21年)
** 3月 - 閉校式と閉校記念碑除幕式を挙行。閉校記念碑を校門付近に設置<ref name=":3" />。
** [[3月31日]] - 新制の藤沢町立藤沢小学校への統合に伴い、'''閉校'''<ref name=":8">{{Cite news|和書 |title=笑顔あふれる学校に 新生・藤沢小が開校 |newspaper=岩手日日 |date=2009-4-10 |url=http://www.iwanichi.co.jp/ichinoseki/item_11490.html |access-date=2023-10-12 |archive-url=https://web.archive.org/web/20090415165819/http://www.iwanichi.co.jp/ichinoseki/item_11490.html |archive-date=2009-4-15}}</ref><ref name=":3" />。
==== 閉校後 ====
* [[2010年]](平成22年)4月1日 - 体育館を「保呂羽コミュニティ体育館」として開設<ref name=":1">{{Cite web |url=https://www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/7,124204,c,html/124204/20210330-125402.pdf |title=一関市監査委員告示第7号 財政援助団体等監査結果の公表について |access-date=2023-10-11 |publisher=一関市 |date=2021-3 |archive-url=https://web.archive.org/web/20230610192609/https://www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/7,124204,c,html/124204/20210330-125402.pdf |archive-date=2023-6-10 |page=6}}</ref>。
* [[2011年]](平成23年)[[3月11日]] - 東北地方太平洋沖地震により各所が被災<ref name=":20">{{Cite journal|和書|editor=藤沢町議会広報編集特別委員会|date=2011-8-15|title=大震災により大きく損壊 旧保呂羽小 校舎は解体 体育館は復旧|url=https://www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/7,86289,c,html/86289/33-42.zip|journal=ふじさわ議会だより|issue=42|page=2|accessdate=2023-10-11|format=ZIP}}</ref>。
* 2011年度(平成23年度) - 校舎を解体<ref name=":9">{{Cite web |url=https://www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/7,48737,c,html/48737/20140319-165124.pdf |title=平成23年度 主要な施設の成果に関する説明書 |access-date=2023-10-11 |publisher=一関市 |date=2012-8 |page=19}}</ref>。
== 教育目標 ==
* たくましい子ども
* かしこい子ども
* 心ゆたかな子ども
'''出典''':{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=142}}
== 保呂羽コミュニティ体育館 ==
{{体育館
|名称=保呂羽コミュニティ体育館
|旧名称=
|画像=Horowa Community Gymnasium 202310.jpg
|画像説明=外観(2023年10月)
|愛称=
|正式名称=保呂羽コミュニティ体育館
|用途=屋内スポーツ<br >コミュニティ
|旧用途=藤沢町立保呂羽小学校体育館
|収容人数=
|設計者=
|施工=
|建築主=
|事業主体=
|管理運営=[[一関市]]、保呂羽地区自治会協議会
|構造形式=[[鉄骨構造]]<ref name="white paper" />
|敷地面積=|敷地面積ref=|敷地面積備考=
|建築面積=|建築面積ref=|建築面積備考=
|延床面積=650 |延床面積ref=<ref name="white paper" />|延床面積備考=
|階数=1階<ref name="white paper" />
|高さ=
|着工=
|竣工=[[1985年]]
|総工費=
|所在地郵便番号=029-3521
|所在地=岩手県一関市藤沢町保呂羽字宇和田82-9<ref name="admin" />
| 緯度度=38 |緯度分=50 |緯度秒=33.67
| 経度度=141 |経度分=22 |経度秒=28.61
|座標右上表示=No
}}
地域振興と住民福祉の向上を図るべく、2010年にコミュニティ体育館として地区民向けに開設された<ref name=":32">{{Cite journal|和書|editor=藤沢町議会広報編集特別委員会|date=2010-5-15|title=廃校の体育館と校庭をコミュニティ施設に位置付け|url=https://www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/7,86289,c,html/86289/33-42.zip|journal=ふじさわ議会だより|issue=37|page=5|accessdate=2023-10-11|format=ZIP}}</ref><ref name=":1" />。開設時から[[指定管理者制度]]を導入しており、保呂羽地区自治会協議会<ref name="admin">{{Cite web |url=https://www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/7,123807,c,html/123807/20220822-104058.pdf |title=指定管理者制度導入施設一覧表(令和4年4月1日現在) |access-date=2023-10-11 |publisher=一関市 |page=8 |date=2022-8-22}}</ref>が担っている<ref name=":1" />。
2018年1月には、同協議会が地区の歴史を後世へ伝えるべく、「白雉の里伝承館」を開設した<ref>{{Cite web |url=https://www.dontokoi-f.com/council/%E4%BF%9D%E5%91%82%E7%BE%BD%E8%87%AA%E6%B2%BB%E4%BC%9A%E5%8D%94%E8%AD%B0%E4%BC%9A |title=保呂羽地区自治会協議会 |access-date=2023-10-11 |publisher=一関市藤沢市民センター |website=藤沢町住民自治協議会 一関市藤沢市民センター}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.dontokoi-f.com/wp-content/uploads/9841e34dfcf8628a82bdf3d00b09d0ec.pdf |title=藤沢町住民自治協議会報「希望のケルン」No.38 |access-date=2023-10-11 |publisher=一関市藤沢市民センター |date=2018-2-9 |page=2 |website=藤沢町住民自治協議会 一関市藤沢市民センター}}</ref>。<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
ファイル:Horowa Community Center in Ichinoseki, Iwate 2309.jpg|校地内にある同体育館の関連施設「保呂羽コミュニティセンター」(2023年9月)
ファイル:Horowa community center Ground 202310.jpg|グラウンド(2023年10月)
</gallery>
== 施設概要 ==
主な施設のみ掲載。
=== 移転後 ===
* 体育館(650 m{{Sup|2}}) - 鉄骨造平屋建て<ref name="white paper">{{Cite web |url=https://www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/7,85211,c,html/85211/20161110-145330.pdf |title=一関市公共施設白書 第4章 |access-date=2023-10-11 |publisher=一関市 |date=2016-11-10 |page=53}}</ref>
* 校庭
* プール
* 庭園(学校園)
=== 移転前 ===
校地は7,697 m{{Sup|2}}だった。
* 校舎(1,361 m{{Sup|2}}) - 木造2階建て
** 別棟 - 木造平屋建てで、主に特別教室に割り当てていた。
* 体育館(講堂) - 木造平屋建て
* プール - 鋼板造
* 校庭(3,649 m{{Sup|2}})
'''出典''':{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=146-147}}
== 児童・学級数 ==
1897年度以降の児童数と学級数の推移。
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="margin: 1em 0.2em; text-align: center; font-size: 85%;"
!{{fontsize|medium|年度}}
!{{fontsize|medium|児童数}}
!{{fontsize|medium|増減}}
!{{fontsize|medium|学級数}}
!{{fontsize|medium|増減}}
!{{Fontsize|medium|出典}}
!{{fontsize|medium|備考}}
|-
|'''1897(明治30)年度'''
|84
|
| colspan="2" rowspan="13" |不明
| rowspan="13" |{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=149}}
|
|-
|'''1898(明治31)年度'''
|79
|-5
|
|-
|'''1899(明治32)年度'''
|84
|5
|
|-
|'''1900(明治33)年度'''
|78
|-6
|
|-
|'''1901(明治34)年度'''
|112
|34
|
|-
|'''1902(明治35)年度'''
|99
|-13
|
|-
|'''1903(明治36)年度'''
|88
|-11
|
|-
|'''1904(明治37)年度'''
|86
|-2
|
|-
|'''1905(明治38)年度'''
|80
|-6
|
|-
|'''1906(明治39)年度'''
|79
|-1
|
|-
|'''1907(明治40)年度'''
|83
|4
|
|-
|'''1908(明治41)年度'''
|81
|-2
|
|-
|'''1909(明治42)年度'''
|102
|21
|
|-
|'''1910(明治43)年度'''
|119
|17
|4
|
|{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=149}}<ref name=":112">{{Cite book|和書 |title=帝国小学校名簿 |date=1910-10 |publisher=東京書籍商組合 |page=374 |doi=10.11501/813004 |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/813004/1/198 |access-date=2023-10-31}}</ref>
|
|-
|'''1911(明治44)年度'''
|106
|-13
| colspan="2" rowspan="7" |不明
| rowspan="7" |{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=149}}
|
|-
|'''1912(明治45)年度'''
|118
|12
|
|-
|'''1913(大正2)年度'''
|116
|-2
|
|-
|'''1914(大正3)年度'''
|117
|1
|
|-
|'''1915(大正4)年度'''
|132
|15
|
|-
|'''1916(大正5)年度'''
|137
|5
|
|-
|'''1917(大正6)年度'''
|146
|9
|
|-
|'''1918(大正7)年度'''
|144
|-2
|4
|
|{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=149}}<ref name=":132">{{Cite book|和書 |title=帝国小学校名簿 再版 |year=1919 |publisher=東京書籍商組合事務所 |page=407 |access-date=2023-10-31 |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/939365/1/215 |author=東京書籍商組合 |doi=10.11501/939365}}</ref>
|
|-
|'''1919(大正8)年度'''
|147
|3
| colspan="2" rowspan="3" |不明
| rowspan="3" |{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=149}}
|
|-
|'''1920(大正9)年度'''
|167
|20
|
|-
|'''1921(大正10)年度'''
|133
|-34
|
|-
|'''1922(大正11)年度'''
|130
|-3
|4
|
|{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=149}}<ref>{{Cite book|和書 |title=全国小学校名簿 |year=1922 |publisher=東京書籍商組合事務所 |page=444 |author=東京書籍商組合 |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/939366/1/227 |access-date=2023-10-31 |doi=10.11501/939366}}</ref>
|
|-
|'''1923(大正12)年度'''
|142
|12
| colspan="2" |不明
|{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=149}}
|
|-
|'''1924(大正13)年度'''
|143
|1
|4(1)
|
|{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|pp=141,149}}
|高等科開設
|-
|'''1925(大正14)年度'''
|180
|37
|4(1)
|0
|{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=149}}
|
|-
|'''1926(大正15)年度'''
|182
|2
|5(1)
|1
|{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|pp=144,149}}
|青年訓練所併設
|-
|'''1927(昭和2)年度'''
|186
|4
|5(1)
|0
| rowspan="7" |{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=149}}
|
|-
|'''1928(昭和3)年度'''
|182
|-4
|5(1)
|0
|
|-
|'''1929(昭和4)年度'''
|197
|15
|5(1)
|0
|
|-
|'''1930(昭和5)年度'''
|212
|15
|5(1)
|0
|
|-
|'''1931(昭和6)年度'''
|209
|-3
|5(1)
|0
|
|-
|'''1932(昭和7)年度'''
|226
|17
|5(1)
|0
|
|-
|'''1933(昭和8)年度'''
|230
|4
|5(1)
|0
|
|-
|'''1934(昭和9)年度'''
|242
|12
|6(1)
|1
| rowspan="6" |{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=141}}
|
|-
|'''1935(昭和10)年度'''
|248
|6
|6(1)
|0
|
|-
|'''1936(昭和11)年度'''
|254
|6
|6(1)
|0
|
|-
|'''1937(昭和12)年度'''
|247
|-7
|7(1)
|1
|
|-
|'''1938(昭和13)年度'''
|245
|-2
|7(1)
|0
|
|-
|'''1939(昭和14)年度'''
|251
|6
|8(2)
|1
|全学年単学級化
|-
|'''1940(昭和15)年度'''
|246
|-5
| colspan="2" rowspan="31" |不明
| rowspan="3" |{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=149}}
|
|-
|'''1941(昭和16)年度'''
|231
|-15
|
|-
|'''1942(昭和17)年度'''
|238
|7
|
|-
|'''1943(昭和18)年度'''
|242
|4
| rowspan="28" |{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=150}}
|
|-
|'''1944(昭和19)年度'''
|246
|4
|
|-
|'''1945(昭和20)年度'''
|252
|6
|
|-
|'''1946(昭和21)年度'''
|250
|-2
|
|-
|'''1947(昭和22)年度'''
|186
|-64
|[[6・3制]]施行
|-
|'''1948(昭和23)年度'''
|187
|1
|
|-
|'''1949(昭和24)年度'''
|184
|-3
|
|-
|'''1950(昭和25)年度'''
|173
|-11
|
|-
|'''1951(昭和26)年度'''
|177
|4
|
|-
|'''1952(昭和27)年度'''
|176
|-1
|
|-
|'''1953(昭和28)年度'''
|171
|-5
|
|-
|'''1954(昭和29)年度'''
|182
|11
|
|-
|'''1955(昭和30)年度'''
|207
|25
|
|-
|'''1956(昭和31)年度'''
|229
|22
|
|-
|'''1957(昭和32)年度'''
|236
|7
|
|-
|'''1958(昭和33)年度'''
|243
|7
|
|-
|'''1959(昭和34)年度'''
|252
|9
|
|-
|'''1960(昭和35)年度'''
|249
|-3
|
|-
|'''1961(昭和36)年度'''
|241
|-8
|
|-
|'''1962(昭和37)年度'''
|238
|-3
|
|-
|'''1963(昭和38)年度'''
|226
|-12
|
|-
|'''1964(昭和39)年度'''
|212
|-14
|
|-
|'''1965(昭和40)年度'''
|212
|0
|
|-
|'''1966(昭和41)年度'''
|195
|-17
|
|-
|'''1967(昭和42)年度'''
|177
|-18
|
|-
|'''1968(昭和43)年度'''
|150
|-27
|
|-
|'''1969(昭和44)年度'''
|133
|-17
|
|-
|'''1970(昭和45)年度'''
|121
|-12
|
|-
|'''1971(昭和46)年度'''
|96
|-25
|5
|
| rowspan="8" |{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|pp=142,150}}
|複式学級設置{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=142}}
|-
|'''1972(昭和47)年度'''
|83
|-13
|5
|0
|
|-
|'''1973(昭和48)年度'''
|78
|-5
|5
|0
|
|-
|'''1974(昭和49)年度'''
|63
|-15
|5
|0
|
|-
|'''1975(昭和50)年度'''
|62
|-1
|5
|0
|
|-
|'''1976(昭和51)年度'''
|58
|-4
|5
|0
|
|-
|'''1977(昭和52)年度'''
|59
|1
|5
|0
|
|-
|'''1978(昭和53)年度'''
|61
|2
|5
|0
|
|-
|'''1979(昭和54)年度'''
|63
|2
|4
|-1
|<ref>{{Cite book|和書 |title=学校一覧 昭和54年度 |year=1979 |publisher=岩手県教育委員会 |page=50 |doi=10.11501/12111551 |author=岩手県教育委員会}}</ref>
|
|-
|'''1980(昭和55)年度'''
|68
|5
|5
|1
|{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=142,150}}
|
|-
|'''1981(昭和56)年度'''
|71
|3
|5
|0
|<ref>{{Cite book|和書 |title=学校一覧 昭和56年度 |year=1981 |publisher=岩手県教育委員会 |page=98 |author=岩手県教育委員会 |doi=10.11501/12111632}}</ref>
|
|-
|'''1982(昭和57)年度'''
|68
|-3
|5
|0
|<ref>{{Cite book|和書 |title=学校一覧 昭和57年度 |year=1982 |publisher=岩手県教育委員会 |page=96 |author=岩手県教育委員会 |doi=10.11501/12111631}}</ref>
|
|-
|'''1983(昭和58)年度'''
|70
|2
|6
|1
|<ref>{{Cite book|和書 |title=学校一覧 昭和58年度 |year=1983 |publisher=岩手県教育委員会 |page=94 |doi=10.11501/12111633 |author=岩手県教育委員会}}</ref>
|
|-
|'''1984(昭和59)年度'''
|79
|9
|6
|0
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|'''1985(昭和60)年度'''
|78
|-1
|6
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|<ref>{{Cite book|和書 |title=学校一覧 昭和60年度 |year=1985 |publisher=岩手県教育委員会 |page=96 |author=岩手県教育委員会 |doi=10.11501/12111488}}</ref>
|
|-
|'''1987(昭和62)年度'''
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|-1
| colspan="2" |不明
|<ref name=":0" />
|
|-
|'''2000(平成12)年度'''
|55
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|6
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|<ref name=":15">{{Cite web |url=http://www.pref.iwate.jp/~hp0902/ichiran/shoutyuu/senmaya.htm |title=千厩地域の小・中学校 |access-date=2023-10-11 |publisher=岩手県 |archive-url=https://web.archive.org/web/20010721073050/http://www.pref.iwate.jp/~hp0902/ichiran/shoutyuu/senmaya.htm |archive-date=2001-7-21}}</ref>
|
|-
|'''2001(平成13)年度'''
|46
|-9
|5
|-1
|<ref name=":16">{{Cite web |url=http://www.pref.iwate.jp/~hp0902/ichiran/shoutyuu/senmaya.htm |title=千厩地域の小・中学校 |access-date=2023-10-11 |publisher=岩手県 |archive-url=https://web.archive.org/web/20020223085258/http://www.pref.iwate.jp:80/~hp0902/ichiran/shoutyuu/senmaya.htm |archive-date=2002-2-23}}</ref>
|複式学級設置
|-
|'''2002(平成14)年度'''
|41
|-5
|4
|-1
|<ref name=":17">{{Cite web |url=http://www.pref.iwate.jp/~hp0902/ichiran/shoutyuu/senmaya.htm |title=千厩地域の小・中学校 |access-date=2023-10-11 |publisher=岩手県 |archive-url=https://web.archive.org/web/20030102225800/http://www.pref.iwate.jp:80/~hp0902/ichiran/shoutyuu/senmaya.htm |archive-date=2003-1-2}}</ref>
|
|-
|'''2003(平成15)年度'''
|40
|-1
|4
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|<ref name=":18">{{Cite web |url=http://www.pref.iwate.jp/~hp0902/ichiran/dl/gakko_ichiran.pdf |title=学校一覧 平成15年度 |access-date=2023-10-11 |publisher=岩手県 |date=2003 |archive-url=https://web.archive.org/web/20040731014303/http://www.pref.iwate.jp/~hp0902/ichiran/dl/gakko_ichiran.pdf |archive-date=2004-7-31 |page=34}}</ref>
|
|-
|'''2004(平成16)年度'''
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|<ref name=":10">{{Cite web |url=http://www.pref.iwate.jp/~hp0902/ichiran/dl/gakko_ichiran_16.pdf |title=学校一覧 平成16年度 |access-date=2023-10-11 |publisher=岩手県 |date=2004 |page=34 |archive-url=https://web.archive.org/web/20041223212336/http://www.pref.iwate.jp/~hp0902/ichiran/dl/gakko_ichiran_16.pdf |archive-date=2004-12-23}}</ref>
|
|-
|'''2005(平成17)年度'''
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|<ref name=":11">{{Cite web |url=http://www.pref.iwate.jp/~hp0902/ichiran/dl/H17ichiran.pdf |title=学校一覧 平成17年度 |access-date=2023-10-11 |publisher=岩手県 |date=2005 |page=36 |archive-url=https://web.archive.org/web/20070226162756/http://www.pref.iwate.jp/~hp0902/ichiran/dl/H17ichiran.pdf |archive-date=2007-2-26}}</ref>
|
|-
|'''2006(平成18)年度'''
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|<ref name=":12">{{Cite web |url=https://www.pref.iwate.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/006/311/h18ichiran.pdf |title=学校一覧 平成18年度 |access-date=2023-10-11 |publisher=岩手県 |page=36 |date=2006}}</ref>
|
|-
|'''2007(平成19)年度'''
|27
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|<ref name=":13">{{Cite web |url=https://www.pref.iwate.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/006/311/h19ichiran.pdf |title=学校一覧 平成19年度 |access-date=2023-10-11 |publisher=岩手県 |page=36 |date=2007}}</ref>
|
|-
|'''2008(平成20)年度'''
|21
|-6
|3
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|<ref name=":14">{{Cite web |url=https://www.pref.iwate.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/006/311/h20ichiran.pdf |title=学校一覧 平成20年度 |access-date=2023-10-11 |publisher=岩手県 |page=38 |date=2008}}</ref>
|新入生なし、閉校
|-
| colspan="7" |※学級数内の括弧は高等科の学級数(内数)
|}
== 学区 ==
* 東磐井郡藤沢町(現:一関市藤沢町)
** 保呂羽
'''出典''':<ref name=":6">{{Cite web |url=http://www.town.fujisawa.iwate.jp/reiki47/reiki_int/reiki_honbun/aq50002741.html |title=藤沢町立小、中学校に就学すべき者の学校の指定に関する規則 |access-date=2023-10-11 |publisher=藤沢町 |archive-url=https://web.archive.org/web/20071110095951/http://www.town.fujisawa.iwate.jp/reiki47/reiki_int/reiki_honbun/aq50002741.html |archive-date=2007-11-10}}</ref>
== 進学先の中学校 ==
* 藤沢町立大津保中学校(藤沢町保呂羽) - 1947年度から1955年度{{Sfn|藤沢町史編纂委員会|1981|p=167}}
* 藤沢町立保呂羽中学校(藤沢町保呂羽) - 1956年度から1968年度<ref name=":2">{{Cite web |url=https://www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/31,73125,c,html/73125/20160920-114419.pdf |title=中学校の沿革 |access-date=2023-10-11 |publisher=一関市 |date=2016-9-20 |page=4}}</ref>
* 藤沢町立藤沢中学校保呂羽校舎(藤沢町保呂羽) - 1969年度から1971年度<ref name="album">{{Cite book|和書 |title=写真アルバム 一関・奥州の昭和 |date=2015-10-6 |publisher=いき出版 |page=266 |isbn=9784904614693}}</ref>
* 藤沢町立藤沢中学校(藤沢町藤沢) - 1972年度{{Efn|1971年11月に藤沢中学校の校舎を落成<ref name="fuji history" />するまでは、保呂羽校舎が進学先だった。その為、1970年度卒業生は保呂羽校舎へ進学した<ref name="album" />。|group=注}}以降<ref name=":2" />
== アクセス ==
[[岩手県道・宮城県道295号藤沢大籠線|県道295号]]沿い、保呂羽字宇和田の高台に位置していた<ref name=":0" />。
=== デマンドタクシー ===
* 「保呂羽」停留所(郡南タクシー・大籠線)から徒歩で約7分
=== 自動車 ===
* [[国道456号]]・県道295号のT字路交差点(藤沢字早道)から県道295号経由で約5分
* [[国道346号]]・県道295号のT字路交差点(大籠簡易郵便局前)から県道295号経由で約10分
== 周辺 ==
* 保呂羽コミュニティセンター
* 長徳寺
* 保呂羽郵便局
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書 |title=藤沢町史 本編 下 |date=1981-3-25 |publisher=藤沢町 |author=藤沢町史編纂委員会 |doi=10.11501/9570523 |ncid=BN04810187 |ref={{SfnRef|藤沢町史編纂委員会|1981}}}}
== 関連項目 ==
* [[岩手県小学校の廃校一覧]]
{{DEFAULTSORT:ふしさわちようりつほろわしよう}}
[[Category:岩手県の公立小学校 (廃止)|ふしさわちようりつほろわ]]
[[Category:一関市の小学校|ふしさわちようりつほろわ]]
[[Category:廃校活用施設]]
[[Category:一関市の歴史]]
[[Category:学校記事]] | 2023-10-12T04:49:32Z | 2023-11-18T16:02:03Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%B2%A2%E7%94%BA%E7%AB%8B%E4%BF%9D%E5%91%82%E7%BE%BD%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1 |
4,840,511 | ソウX | 『ソウX(邦題未定)』(ソウ・テン、原題:Saw X)は、2023年制作のアメリカ合衆国のホラー映画。『ソウシリーズ』の第10作目。時系列的には『ソウ』と『ソウ2』の間になる。
末期がんで余命わずかと宣告された猟奇殺人鬼ジグソウことジョン・クレイマーは、藁にもすがる思いで危険な実験的治療を受けるべく、メキシコに向かう。
だが、実はその治療が卑劣な詐欺だと知った彼は復讐のため、自分を騙した詐欺師やインチキ治療に加担する医師たちに死のゲームを仕掛けていく。 | [
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] | 『ソウX(邦題未定)』は、2023年制作のアメリカ合衆国のホラー映画。『ソウシリーズ』の第10作目。時系列的には『ソウ』と『ソウ2』の間になる。 | {{Expand English|Saw X|date=2023-10}}
{{暫定記事名|date=2023年10月}}
{{Infobox Film
| 作品名 = ソウX(邦題未定)
| 原題 = Saw X
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像解説 =
| 監督 = [[ケヴィン・グルタート]]
| 脚本 = ジョシュ・ストルバーグ<br />ピーター・ゴールドフィンガー
| 原作 =
| 製作 = [[マーク・バーグ]]<br />オーレン・クールズ
| 製作総指揮 = ダニエル・ジェイソン・ヘフナー<br />ケトゥラ・ケスティン<br />[[ジェームズ・ワン]]<br />[[リー・ワネル]]<br />ステイシー・テストロ<br />ジェイソン・コンスタンティン<br />グレッグ・ホフマン
| 出演者 = [[トビン・ベル]]<br />[[ショウニー・スミス]]
| 音楽 = チャーリー・クロウザー
| 撮影 = ニック・マシューズ
| 編集 = ケヴィン・グルタート
| 製作会社 = [[ツイステッド・ピクチャーズ]]
| 配給 = {{flagicon|USA}} [[ライオンズゲート]]<!--<br />{{flagicon|JPN}} [[]]-->
| 公開 = {{flagicon|USA}} [[2023年]][[9月29日]]<ref name="Release">{{cite news|last=Vlessing|first=Etan|title=Tobin Bell Becomes Desperate Jigsaw Killer in ''Saw X'' First-Look Image|url=https://www.hollywoodreporter.com/movies/movie-news/saw-x-first-look-tobin-bell-jigsaw-killer-1235540383/|work=[[The Hollywood Reporter]]|date=20 July 2023|access-date=July 20, 2023|archive-date=July 21, 2023|archive-url=https://web.archive.org/web/20230721213807/https://www.hollywoodreporter.com/movies/movie-news/saw-x-first-look-tobin-bell-jigsaw-killer-1235540383/|url-status=live}}</ref><ref>{{cite news|url=https://theriver.jp/saw-x-us-trailer/|title=『Saw X』予告編が米公開、ジグソウのゲーム再開|publisher=THE RIVER|date=2023-07-31|accessdate=2023-10-12}}</ref><!--<br />{{flagicon|JPN}} [[年]][[月日]]-->
| 上映時間 = 118分
| 製作国 = {{USA}}
| 言語 = [[英語]]
| 製作費 = $13,000,000<ref>{{cite news|url=https://variety.com/2023/film/news/box-office-paw-patrol-2-saw-x-1235736095/|title=Box Office: PAW Patrol and Saw X to Battle for No. 1 in Crowded Weekend|publisher=Variety|date=2023-09-27|accessdate=2023-09-27}}</ref>
| 興行収入 = {{flagicon|USA}} $34,276,014<ref name=BOM>{{Cite web |title=''Saw X'' |url=https://www.boxofficemojo.com/title/tt21807222/ |access-date=2023-10-11 |website=[[Box Office Mojo]]}}</ref><br />{{flagicon|World}} $58,203,398<ref name=BOM/>
| 前作 = [[スパイラル:ソウ オールリセット]]
| 次作 = ''Saw Ⅺ''
}}
『'''ソウX'''(邦題未定)』(ソウ・テン、原題:''Saw X'')は、[[2023年の映画|2023年]]制作の[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ合衆国]]の[[ホラー映画]]。『[[ソウシリーズ]]』の第10作目。時系列的には『[[ソウ (映画)|ソウ]]』と『[[ソウ2]]』の間になる。
== あらすじ ==
末期がんで余命わずかと宣告された猟奇殺人鬼ジグソウことジョン・クレイマーは、藁にもすがる思いで危険な実験的治療を受けるべく、[[メキシコ]]に向かう。
だが、実はその治療が卑劣な詐欺だと知った彼は復讐のため、自分を騙した詐欺師やインチキ治療に加担する医師たちに死のゲームを仕掛けていく。
== キャスト ==
*[[ジグソウ|ジグソウ/ジョン・クレイマー]]:[[トビン・ベル]]
*アマンダ・ヤング:[[ショウニー・スミス]]
*セシリア・ペダーソン:シヌーヴ・マコディ・ルンド
*パーカー・シアーズ:スティーヴン・ブランド
*ガブリエラ:レナータ・バカ
*マーク・ホフマン:[[コスタス・マンディロア]]
*ヘンリー・ケスラー:[[マイケル・ビーチ]]
*ディエゴ:ジョシュア・オカモト
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [https://www.saw.movie/ 英語版オフィシャルサイト]
<!--* {{Allcinema title||ソウX}}
* {{Kinejun title||ソウX}}-->
* {{Amg movie|m13313380982|Saw X}}
* {{IMDb title|21807222|Saw X}}
{{ソウ}}
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{{DEFAULTSORT:そうてん}}
[[Category:ソウ (映画)|10]]
[[Category:2023年の映画]]
[[Category:メキシコを舞台とした映画作品]]
[[Category:ケヴィン・グルタートの監督映画]]
[[Category:4DX映画]] | 2023-10-12T05:08:58Z | 2023-12-12T06:24:53Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%A6X |
4,840,512 | 東稙田村 | 東稙田村(ひがしわさだむら)は、大分県大分郡にあった村。現在の大分市の一部にあたる。 | [
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] | 東稙田村(ひがしわさだむら)は、大分県大分郡にあった村。現在の大分市の一部にあたる。 | {{日本の町村 (廃止)
| 廃止日 = 1955年2月1日
| 廃止理由 = 新設合併
| 廃止詳細 = [[稙田村]]、'''東稙田村'''、[[賀来村]] → [[大分町|大分村]]
| 現在の自治体 = [[大分市]]
| よみがな = ひがしわさだむら
| 自治体名 = 東稙田村
| 区分 = 村
| 都道府県 = 大分県
| 郡 = [[大分郡]]
| 面積 =
| 境界未定 =
| 人口 = 3745
| 人口の出典 = [[国勢調査 (日本)|国勢調査]]
| 人口の時点 = 1950年
| 隣接自治体 = 稙田村、[[大南町]]、[[鶴崎市]]、大分市
| 所在地 = 大分郡東稙田村大字光吉
| 座標 =
| 位置画像 =
| 特記事項 =
}}
'''東稙田村'''(ひがしわさだむら{{R|変遷}}{{R|角川}})は、[[大分県]][[大分郡]]にあった[[村]]。現在の[[大分市]]の一部にあたる。
== 地理 ==
*河川:[[大分川]]<ref name=角吉>「光吉〈大分市〉」『角川日本地名大辞典 44 大分県』785頁。</ref>、七瀬川{{R|角吉}}、敷戸川<ref>「鴛野〈大分市〉」『角川日本地名大辞典 44 大分県』223頁。</ref>、寒田川<ref>「旦野原〈大分市〉」『角川日本地名大辞典 44 大分県』524頁。</ref>
*山岳:霊山<ref>「岡川〈大分市〉」『角川日本地名大辞典 44 大分県』209頁。</ref>
== 歴史 ==
*[[1889年]](明治22年)4月1日、[[町村制]]の施行により、大分郡光吉村、岡川村、高瀬村、鴛野村、寒田村、田尻村、旦野原村、宮崎村が合併して村制施行し、'''東稙田村'''が発足<ref name=変遷>『市町村名変遷辞典』658頁。</ref><ref name=角川>『角川日本地名大辞典 44 大分県』683頁。</ref>。旧村名を継承した光吉、岡川、高瀬、鴛野、寒田、田尻、旦野原、宮崎の8大字を編成{{R|角川}}。
*[[1955年]](昭和30年)
**1月1日、大字旦野原の一部を大分市に編入{{R|変遷}}。
**2月1日、大分郡稙田村、賀来村と合併し、'''[[大分町|大分村]]'''を新設して廃止された{{R|変遷}}{{R|角川}}。
== 産業 ==
*農業
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* [[角川日本地名大辞典]] 44 大分県
* 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。
== 関連項目 ==
* [[大分県の廃止市町村一覧]]
{{デフォルトソート:ひかしわさたむら}}
[[Category:大分郡]]
[[Category:大分市域の廃止市町村]]
[[Category:1889年設置の日本の市町村]]
[[Category:1955年廃止の日本の市町村]] | 2023-10-12T05:13:24Z | 2023-10-12T05:13:24Z | false | false | false | [
"Template:日本の町村 (廃止)",
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"Template:Reflist"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E7%A8%99%E7%94%B0%E6%9D%91 |
4,840,515 | 虎姑婆 | 虎姑婆(ホーコーポー、白話字:Hó͘-ko͘-pô、虎ばば、虎ばばあ)は、台湾の伝承に伝わる人食い虎の妖怪。
虎姑婆の伝承は諸説存在し、以下のような説がある。
昔台湾のある所に一軒の家があり、その家に母と子供二人の三人暮らしをしている。ある時、母は用事で故郷へ帰った。その夜、一匹の虎が老婆に化けてやって来た。子供たちは恐れて庭の木に攀じ登った。虎婆が木の下に来て上に向けて口を開け、子供たちの降りるのを待っていた。やっと夜明けに近いころ、母が帰って釜に油を沸かし、虎婆の口の中に注ぎこんだ。虎婆がついに死んだという。 | [
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] | 虎姑婆は、台湾の伝承に伝わる人食い虎の妖怪。 | [[File:Auntie Tigress.jpg|right|thumb|260px|[[布袋戯]]『虎姑婆』]]
'''虎姑婆'''(ホーコーポー、[[白話字]]:Hó͘-ko͘-pô、虎ばば、虎ばばあ<ref>[https://jp.rti.org.tw/radio/programMessageView/programId/370/id/60386 台湾の昔話「虎姑婆(虎ばばあ)」]</ref>)は、[[台湾]]の伝承に伝わる人食い[[虎]]の[[妖怪]]。
== 概要 ==
虎姑婆の伝承は諸説存在し、以下のような説がある。
昔台湾のある所に一軒の家があり、その家に母と子供二人の三人暮らしをしている。ある時、母は用事で故郷へ帰った。その夜、一匹の虎が老婆に化けてやって来た。子供たちは恐れて庭の木に攀じ登った。虎婆が木の下に来て上に向けて口を開け、子供たちの降りるのを待っていた。やっと夜明けに近いころ、母が帰って釜に油を沸かし、虎婆の口の中に注ぎこんだ。虎婆がついに死んだという。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
==参考文献==
*{{Cite book|和書
|author = 片岡巌
|year = 1921
|title = 台湾風俗誌
|publisher = 台湾日日新報社
}}
== 関連項目 ==
* {{仮リンク|台湾の妖怪一覧|zh|台灣妖怪列表}}
* [[山姥]]
{{DEFAULTSORT:とらはは}}
[[Category:台湾の文化]]
[[Category:台湾の妖怪]]
[[Category:神話・伝説の虎]] | 2023-10-12T05:27:03Z | 2023-10-16T00:30:02Z | false | false | false | [
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:Cite book",
"Template:仮リンク"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%8E%E5%A7%91%E5%A9%86 |
4,840,521 | イスラエル戦時内閣 | イスラエル戦時内閣(イスラエルせんじないかく)は、2023年10月に開始されたパレスチナのガザ地区を事実上統治するイスラム原理組織ハマースとの戦争に対処するためイスラエルにおいて組閣された、ベンヤミン・ネタニヤフ(リクード)を首班とする戦時内閣である。ネタニヤフ政権の連立与党に加え野党の国家団結(英語版)も参加しており、イスラエルとしては1967年の第三次中東戦争勃発に伴い野党も参加したレヴィ・エシュコル政権以来の挙国一致内閣と言えるが、正確には通常の内閣とは別に作られる小規模な内閣という位置づけである。
2022年11月1日に執行されたクネセト総選挙でベンヤミン・ネタニヤフ率いるリクードは32議席で第1党を維持するなど右派連合が過半数の64議席を獲得し、同年12月29日に第6次ネタニヤフ内閣が発足した。
2023年10月7日午前6時30分、パレスチナのガザ地区を事実上統治するイスラム原理組織ハマースがイスラエル領内へ数千発規模のミサイルを打ち込んだほか、戦闘員数百名を侵入させて民家に押し入りイスラエル市民を殺害するといった大規模攻撃を開始し、また拉致も実行した。イスラエル軍もガザ地区に対し報復攻撃を実施し双方の死者が数百名規模となる中、ネタニヤフはハマースに対して重要な軍事活動を解禁すると発表し、1973年の第四次中東戦争以来の宣戦布告を行い、ハマースの全拠点を壊滅させると警告した。翌10月8日にはレバノンのイスラム教シーア派の武装組織ヒズボラがイスラエルとの係争地であるシェバー・ファームズにあるイスラエル軍の3拠点を大量の砲弾と誘導ミサイルで攻撃し、前日のハマースによる攻撃に連帯したものだとした。
10月7日の攻撃開始直後、野党イェシュ・アティッドのヤイル・ラピド党首はネタニヤフに対し、政治的な相違を棚上げし専門的で限定的な緊急政府を共に樹立する意思があることを伝えた。10月8日、ネタニヤフとラピド、国家団結(英語版)のベニー・ガンツ代表(前国防相)が協議を行い、その中で戦争に対処するため臨時に統一政府を樹立することが議題に上った。野党は挙国一致内閣で対処することには同意したものの、ラピドは現在のネタニヤフ内閣の構成では極端で機能不全状態にあるとして極右の宗教シオニスト党と強いイスラエルを挙国一致内閣からは排除するようネタニヤフに要望したが、与党リクードはこの要求を断った。10月9日、ガンツは挙国一致内閣への参加をテレビで表明。同日には極右政党でネタニヤフ連立内閣に参加していないイスラエル我が家のアヴィグドール・リーベルマン党首も挙国一致内閣への参加を表明したが、そもそも同党が参加を打診されたかは明らかになっていない。
10月10日、リクードは主要野党と挙国一致内閣を樹立することを発表し、この時点ではイェシュ・アティッドと国家団結も参加することで基本合意した。翌11日にクネセト(国会)は戦時内閣の設置を承認し、ネタニヤフ首相、ヨアブ・ガラント(英語版)国防相、ベニー・ガンツが共同声明を発表。この3人からなる戦争対応内閣が通常の内閣とは別に発足したほか、戦争の遂行に関係ない法案や政府決定は一切凍結されることなどを発表した。この3人のほか、元国防軍参謀総長のガディ・エイゼンコット議員、戦略担当相のロン・ダーマー(英語版)がオブサーバーとして参加することとなったが、ラピド率いるイェシュ・アティッドは最終的に政権に参加しなかった。政権樹立の声明発表後、ネタニヤフら3人はテレビ出演を行い、ガラント国防相はハマースを地球上から消し去ると警告した。
挙国一致内閣の発足により全ての上級職の任期は戦争中は自動的に延長されることとなり、2023年末に任期を迎える予定だったイスラエル銀行(中央銀行)のアミール・ヤロン(英語版)総裁は自身の進退を表明することを予告していたが、まさにその日にハマースによる攻撃が開始され、10月11日には戦争継続中は職務を継続することを表明した。
出身政党: リクード 国家団結(英語版)
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] | イスラエル戦時内閣(イスラエルせんじないかく)は、2023年10月に開始されたパレスチナのガザ地区を事実上統治するイスラム原理組織ハマースとの戦争に対処するためイスラエルにおいて組閣された、ベンヤミン・ネタニヤフ(リクード)を首班とする戦時内閣である。ネタニヤフ政権の連立与党に加え野党の国家団結も参加しており、イスラエルとしては1967年の第三次中東戦争勃発に伴い野党も参加したレヴィ・エシュコル政権以来の挙国一致内閣と言えるが、正確には通常の内閣とは別に作られる小規模な内閣という位置づけである。 | {{Infobox government cabinet
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'''イスラエル戦時内閣'''(イスラエルせんじないかく)は、2023年10月に開始された[[パレスチナ]]の[[ガザ地区]]を事実上統治するイスラム原理組織[[ハマース]]との[[2023年パレスチナ・イスラエル戦争|戦争]]に対処するため[[イスラエル]]において組閣された、[[ベンヤミン・ネタニヤフ]]([[リクード]])を首班とする[[戦時内閣]]である。ネタニヤフ政権の連立与党に加え野党の{{ill2|国家団結 (政党連合)|en|National Unity (political alliance)|label=国家団結}}も参加しており、イスラエルとしては1967年の[[第三次中東戦争]]勃発に伴い野党も参加した[[レヴィ・エシュコル]][[政権]]以来の[[挙国一致内閣]]と言えるが<ref name=tof20231007 />、正確には通常の内閣とは別に作られる小規模な内閣という位置づけである<ref name=nikkei20231012 />。
== 経緯 ==
2022年11月1日に執行された[[第25回イスラエル議会総選挙|クネセト総選挙]]で[[ベンヤミン・ネタニヤフ]]率いる[[リクード]]は32議席で第1党を維持するなど[[右翼|右派]]連合が過半数の64議席を獲得し<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR133HG0T11C22A1000000/|title=イスラエルで右派政権発足へ 周辺アラブ諸国も警戒|work=日経電子版|newspaper=[[日本経済新聞]]|date=2022-11-14|accessdate=2023-10-12}}</ref>、同年12月29日に[[第6次ネタニヤフ内閣]]が発足した。
{{See Also|2023年パレスチナ・イスラエル戦争}}
2023年10月7日午前6時30分、[[パレスチナ]]の[[ガザ地区]]を事実上統治するイスラム原理組織[[ハマース]]がイスラエル領内へ数千発規模のミサイルを打ち込んだほか、戦闘員数百名を侵入させて民家に押し入りイスラエル市民を殺害するといった大規模攻撃を開始し、また拉致も実行した<ref>{{Cite news|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023100700357&g=int|title=ハマスが対イスラエル大規模作戦 空爆で反撃、計298人死亡―「戦争状態」、住民拉致か|work=時事ドットコム|agency=[[時事通信社]]|date=2023-10-08|accessdate=2023-10-12}}</ref>。イスラエル軍もガザ地区に対し報復攻撃を実施し双方の死者が数百名規模となる中、ネタニヤフはハマースに対して重要な軍事活動を解禁すると発表し、1973年の[[第四次中東戦争]]以来の宣戦布告を行い<ref>{{Cite news|url=https://www.foxnews.com/world/israel-strikes-hamas-gaza-surprise-attack-exchanges-fire-hezbollah|title=Israel declares war after Hamas surprise attack, launches retaliatory airstrikes in Gaza|agency=[[FOXニュース]]|date=2023-10-08|accessdate=2023-10-12}}</ref>、ハマースの全拠点を壊滅させると警告した<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3485254|title=ハマスの攻撃にイスラエル報復、ネタニヤフ首相「戦争状態」|work=AFPBB News|agency=[[フランス通信社]]|date=2023-10-08|accessdate=2023-10-12}}</ref>。翌10月8日には[[レバノン]]の[[イスラム教]][[シーア派]]の武装組織[[ヒズボラ]]がイスラエルとの係争地である[[シェバー・ファームズ]]にあるイスラエル軍の3拠点を大量の砲弾と誘導ミサイルで攻撃し、前日のハマースによる攻撃に連帯したものだとした<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3485296|title=ヒズボラ、イスラエルを攻撃 大量の砲弾・誘導ミサイルで|work=AFPBB News|agency=[[フランス通信社]]|date=2023-10-08|accessdate=2023-10-12}}</ref>。
10月7日の攻撃開始直後、野党[[イェシュ・アティッド]]の[[ヤイル・ラピド]]党首はネタニヤフに対し、政治的な相違を棚上げし専門的で限定的な緊急政府を共に樹立する意思があることを伝えた<ref name=reuter20231011>{{Cite news|url=https://jp.reuters.com/world/security/PPTNAW63QNO3PBWLGBCY43HBO4-2023-10-10/|title=イスラエル政権、緊急の挙国一致政府樹立で野党トップと合意|agency=[[ロイター]]|date=2023-10-11|accessdate=2023-10-12}}</ref>。10月8日、ネタニヤフとラピド、{{ill2|国家団結 (政党連合)|en|National Unity (political alliance)|label=国家団結}}の[[ベニー・ガンツ]]代表(前国防相)が協議を行い、その中で戦争に対処するため臨時に統一政府を樹立することが議題に上った。野党は挙国一致内閣で対処することには同意したものの、ラピドは現在のネタニヤフ内閣の構成では極端で機能不全状態にあるとして[[極右]]の[[宗教シオニスト党]]と[[強いイスラエル]]を挙国一致内閣からは排除するようネタニヤフに要望した<ref name=tof20231007>{{Cite news|url=https://www.timesofisrael.com/lapid-urges-emergency-government-says-pm-cant-manage-war-with-extreme-cabinet/|title=Netanyahu, Lapid and Gantz discuss forming emergency government as country faces war|agency=[[:en:The Times of Israel|The Times of Israel]]|date=2023-10-07|accessdate=2023-10-11}}</ref>が、[[与党]][[リクード]]はこの要求を断った。10月9日、ガンツは挙国一致内閣への参加をテレビで表明。同日には極右政党でネタニヤフ連立内閣に参加していない[[イスラエル我が家]]の[[アヴィグドール・リーベルマン]]党首も挙国一致内閣への参加を表明したが、そもそも同党が参加を打診されたかは明らかになっていない<ref>{{Cite news|url=https://www.timesofisrael.com/gantz-liberman-open-to-emergency-unity-government-but-demand-say-in-waging-war/|title=Gantz, Liberman open to emergency unity government, but demand say in waging war|agency=[[:en:The Times of Israel|The Times of Israel]]|date=2023-10-08|accessdate=2023-10-12}}</ref>。
10月10日、リクードは主要[[野党]]と挙国一致内閣を樹立することを発表し、この時点ではイェシュ・アティッドと国家団結も参加することで基本合意した<ref name=reuter20231011 />。翌11日にクネセト(国会)は戦時内閣の設置を承認し<ref>{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20231012/k00/00m/030/020000c?inb=ys|title=イスラエル、戦時内閣を発足「ハマスを地球上から消し去る」|newspaper=[[毎日新聞]]|date=2023-10-12|accessdate=2023-10-12}}</ref>、ネタニヤフ首相、[[ヨアヴ・ガラント]]国防相、ベニー・ガンツが共同声明を発表。この3人からなる戦争対応内閣が通常の内閣とは別に発足したほか、戦争の遂行に関係ない法案や政府決定は一切凍結されることなどを発表した<ref name=nikkei20231012>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR11DCB0R11C23A0000000/|title=イスラエル、挙国一致政権を樹立へ 地上侵攻に備え|work=日経電子版|newspaper=[[日本経済新聞]]|date=2023-10-12|accessdate=2023-10-12}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2023-10-11/S2DAJ8DWLU6901|title=イスラエル、挙国一致内閣を組閣-ハマスとの戦争遂行で|work=bloomberg.co.jp|agency=[[ブルームバーグ (企業)|ブルームバーグ]]|date=2023-10-11|accessdate=2023-10-12}}</ref>。この3人のほか、元国防軍参謀総長の[[ガディ・エイゼンコット]]議員、戦略担当相の{{ill2|ロン・ダーマー|en|Ron Dermer}}がオブサーバーとして参加することとなったが、ラピド率いるイェシュ・アティッドは最終的に政権に参加しなかった。政権樹立の声明発表後、ネタニヤフら3人はテレビ出演を行い、ガラント国防相はハマースを地球上から消し去ると警告した<ref>{{Cite news|url=https://jp.reuters.com/world/us/76FY6F4RGBPTDJMM2U6Z5IO2QI-2023-10-11/|title=イスラエル、挙国一致政権樹立 ハマスを「消し去る」と国防相|agency=[[ロイター]]|date=2023-10-12|accessdate=2023-10-12}}</ref>。
挙国一致内閣の発足により全ての上級職の任期は戦争中は自動的に延長されることとなり、2023年末に任期を迎える予定だった[[イスラエル銀行]](中央銀行)の{{ill2|アミール・ヤロン|en|Amir Yaron}}総裁は自身の進退を表明することを予告していたが、まさにその日にハマースによる攻撃が開始され、10月11日には戦争継続中は職務を継続することを表明した<ref>{{Cite news|url=https://jp.reuters.com/markets/japan/funds/XJ5SKFGYDNPU7KBKAMS2AF46VY-2023-10-12/|title=イスラエル中銀のヤロン総裁、戦争の非常事態終了まで続投へ|agency=[[ロイター]]|date=2023-10-12|accessdate=2023-10-12}}</ref>。
== 内閣の顔ぶれ ==
=== 閣僚級 ===
'''出身政党:'''
{{color box|#c1e0ff}} [[リクード]] {{color box|#d3def1}} {{ill2|国家団結 (政党連合)|en|National Unity (political alliance)|label=国家団結}}
{| class="wikitable sortable"
|+
! colspan="2" |氏名
!政党
!備考
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| [[ベンヤミン・ネタニヤフ]]
| [[File:Benjamin Netanyahu 2018.jpg|60px]]
| [[リクード]]
| [[イスラエルの首相|首相]]、リクード党首
|-style="background:#c1e0ff"
| [[ヨアヴ・ガラント]]
| [[File:Yoav Galant 1.jpg|60px]]
| [[リクード]]
| 国防大臣
|-style="background:#d3def1"
| [[ベニー・ガンツ]]
| [[File:Benny_Gantz_2019_(cropped).jpg|60px]]
| {{ill2|国家団結 (政党連合)|en|National Unity (political alliance)|label=国家団結}}
| 国家団結代表<br />前国防大臣
|}
=== オブザーバー ===
'''出身政党:'''
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! colspan="2" |氏名
!政党
!備考
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| [[ガディ・エイゼンコット]]
| [[File:Gadi_Eizenkot,_November_2020_(GPOMN1_9040)_(cropped).jpg|60px]]
| {{ill2|国家団結 (政党連合)|en|National Unity (political alliance)|label=国家団結}}
| クネセト議員<br />元国防軍参謀総長
|-style="background:#c1e0ff"
| {{ill2|ロン・ダーマー|en|Ron Dermer}}
| [[File:Israeli_Minister_for_Strategic_Affairs_Dermer_(cropped).jpg|60px]]
| [[リクード]]
| 戦略担当大臣
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
{{ベンヤミン・ネタニヤフ}}{{イスラエルの内閣}}{{2023年パレスチナ・イスラエル戦争}}
{{DEFAULTSORT:いすらえるせんしないかく}}
[[Category:イスラエルの内閣]]
[[Category:2023年設立の組織]]
[[Category:2023年パレスチナ・イスラエル戦争]]
[[Category:ベンヤミン・ネタニヤフ|ないかくせんし]]
[[Category:臨時政府]] | 2023-10-12T05:59:46Z | 2023-12-30T22:11:20Z | false | false | false | [
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"Template:ベンヤミン・ネタニヤフ",
"Template:イスラエルの内閣",
"Template:2023年パレスチナ・イスラエル戦争"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%AB%E6%88%A6%E6%99%82%E5%86%85%E9%96%A3 |
4,840,528 | シモーネ・パフンディ | シモーネ・パフンディ(イタリア語: Simone Pafundi、2006年3月14日 - )は、イタリアのサッカー選手。イタリア代表。ポジションはFWもしくはMF。
16歳8か月でイタリアA代表初出場を記録し、第一次世界大戦以降で歴代最年少の出場記録を打ち立てた選手である。
15世紀にアルバニアからイタリア南部に逃れてきたアルバニア人の末裔で、ナポリからモンファルコーネに移住した両親の下に生まれた。地元のASDUフィンカンティエリ・モンファルコーネでサッカーを始め、2014年に行われたサッカー大会に飛び級で参加、このプレーがウディネーゼ・カルチョの目に留まり、同クラブに移籍した。2021-22シーズンにはカンピオナート・プリマヴェーラ2で16歳ながら6得点7アシストを記録し、プロ契約及びトップチーム招集となった。
2022年5月22日に行われたセリエA最終節で68分にロベルト・ペレイラに代わって投入されてトップチーム初出場を記録、当時16歳2か月8日でエルマンノ・デル・ゾットに次いでクラブ史上2位の若さ、セリエAではクラブ史上最年少での出場記録を打ち立てた。また、2006年生まれの選手としては史上初めてセリエAに出場した選手となった。
年代別代表ではU-16からの出場歴がある。2023 FIFA U-20ワールドカップでは準優勝を記録した。
A代表では2022年5月に行われたトレーニングキャンプで招集された。同年11月に行われたアルバニア代表及びオーストリア代表との親善試合のメンバーとして招集され、16日のアルバニア代表戦で途中出場を記録した。これによって彼は16歳8か月2日でA代表初出場となり、ロドルフォ・ガヴィネッリ、レンツォ・デ・ヴェッキに次いで歴代3位の若さでの記録となったが、先の二人は1911年と1910年の記録であるため、ここ100年、あるいは第一次世界大戦以降では史上最年少の記録となった。
166cmと小柄ながら、左足の技術に長けたトレクァルティスタである。ボールコントロール、視野、速さに長けており、アシストもシュートも出来るためにファイナルサードでの脅威となる選手である。ウディネーゼの元主将であるアントニオ・ディ・ナターレと比較される他、リオネル・メッシの後継者とも称される。 | [
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] | シモーネ・パフンディは、イタリアのサッカー選手。イタリア代表。ポジションはFWもしくはMF。 16歳8か月でイタリアA代表初出場を記録し、第一次世界大戦以降で歴代最年少の出場記録を打ち立てた選手である。 | {{サッカー選手
|名前=シモーネ・パフンディ
|画像=Uruguay 1 Italia 0 a Italia - Uruguay campeón Mundial Sub 20 2023 230611-4427-jikatu (52989760354) (Simone Pafundi).jpg
|画像の説明=
|本名=シモーネ・パフンディ
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|カタカナ表記=
|アルファベット表記=Simone Pafundi
|原語名=
|原語表記=
|国={{ITA}}
|誕生日={{生年月日と年齢|2006|3|14}}
|出身地=[[モンファルコーネ]]
|身長=166cm
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|血液型=
|所属チーム名={{Flagicon|ITA}} [[ウディネーゼ・カルチョ]]
|ポジション=[[フォワード (サッカー)|FW]](SS)/[[ミッドフィールダー|MF]](AMF)
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|利き足=左足
|ユース年1={{0|0000}}-2014|ユースクラブ1={{Flagicon|ITA}} [[ASDUフィンカンティエリ・モンファルコーネ|UFMモンファルコーネ]]
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|年1=2022-|クラブ1={{Flagicon|ITA}} ウディネーゼ|出場1=10|得点1=0
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'''シモーネ・パフンディ'''({{lang-it|Simone Pafundi}}、[[2006年]][[3月14日]] - )は、[[イタリア]]のサッカー選手。[[サッカーイタリア代表|イタリア代表]]。ポジションは[[フォワード (サッカー)|FW]]もしくは[[ミッドフィールダー|MF]]。
16歳8か月でイタリアA代表初出場を記録し、[[第一次世界大戦]]以降で歴代最年少の出場記録を打ち立てた選手である。
==クラブ歴==
15世紀に[[アルバニア]]からイタリア南部に逃れてきたアルバニア人の末裔で、[[ナポリ]]から[[モンファルコーネ]]に移住した両親の下に生まれた<ref name=":0">{{Cite web |last=Pietrella |first=Francesco |date=24 May 2022 |title=Il "mancino di Maradona" e l'esordio in Serie A a 16 anni e due mesi |url=https://www.cronachedispogliatoio.it/simone-pafundi-chi-e-serie-a-udinese/ |access-date=2 June 2022 |website=Cronache di spogliatoio |language=it-IT}}</ref>。地元の[[ASDUフィンカンティエリ・モンファルコーネ]]でサッカーを始め、2014年に行われたサッカー大会に飛び級で参加、このプレーが[[ウディネーゼ・カルチョ]]の目に留まり、同クラブに移籍した<ref name="gianlucadimarzio">{{cite web|url=https://gianlucadimarzio.com/it/pafundi-udinese-chi-e-storia|title=Il primo 2006 della storia in Serie A: chi è Simone Pafundi|date=22 May 2022|accessdate=24 May 2022|website=Gianlucadimarzio.com|language=Italian}}</ref>。2021-22シーズンには[[カンピオナート・プリマヴェーラ2]]で16歳ながら6得点7アシストを記録し、プロ契約及びトップチーム招集となった<ref>{{Cite web |last=Nalesso |first=Pietro |date=14 March 2022 |title=Udinese, Pafundi da record: primo contratto da professionista |url=http://www.mondoprimavera.com/news/5701537286/udinese-pafundi-da-record-primo-contratto-da-professionista |access-date=2 June 2022 |website=MondoPrimavera |language=it}}</ref><ref name="repubblica">{{cite web |last=Sala |first=Federico |date=21 May 2022 |title=Simone Pafundi, chi è il classe 2006 convocato in Nazionale da Mancini |trans-title=Simone Pafundi, who is in the class of 2006 called up for the national team by Mancini |url=https://www.repubblica.it/sport/calcio/nazionale/2022/05/21/news/nazionale_chi_e_simone_pafundi_il_classe_2006_convocato_da_mancini-350433819/ |accessdate=22 May 2022 |website=La Repubblica |language=it}}</ref><ref>{{Cite web |last=Nalesso |first=Pietro |date=14 May 2022 |title=Udinese, scatta l'ora Pafundi: prima chiamata tra i grandi |url=http://www.mondoprimavera.com/news/146093280774/udinese-scatta-l-039-ora-pafundi-prima-chiamata-tra-i-grandi |access-date=2 June 2022 |website=MondoPrimavera |language=it}}</ref>。
2022年5月22日に行われた[[セリエA (サッカー) 2021-2022|セリエA最終節]]で68分に[[ロベルト・ペレイラ]]に代わって投入されてトップチーム初出場を記録、当時16歳2か月8日で[[エルマンノ・デル・ゾット]]に次いでクラブ史上2位の若さ、セリエAではクラブ史上最年少での出場記録を打ち立てた。また、2006年生まれの選手としては史上初めて[[セリエA (サッカー)|セリエA]]に出場した選手となった<ref name="gianlucadimarzio" /><ref>{{Cite web |last=Bergantini |first=Luca |date=22 May 2022 |title=Udinese, per Pafundi arriva la ciliegina sulla torta. Esordio in Serie A |url=http://www.mondoprimavera.com/news/339366809094/udinese-per-pafundi-arriva-la-ciliegina-sulla-torta-esordio-in-serie-a |access-date=2 June 2022 |website=MondoPrimavera |language=it}}</ref>。
==代表歴==
年代別代表ではU-16からの出場歴がある。[[2023 FIFA U-20ワールドカップ]]では準優勝を記録した<ref>{{cite web |date=11 May 2023 |title=Ufficializzata la lista dei 21 convocati per il Mondiale in Argentina |url=https://www.figc.it/it/nazionali/news/ufficializzata-la-lista-dei-21-convocati-per-il-mondiale-in-argentina/ |access-date=11 May 2023 |publisher=Italian Football Federation |language=it-IT}}</ref><ref name=":22">{{Cite web |date=11 June 2023 |title=Returning Rodriguez snatches Uruguay maiden title |url=https://www.fifa.com/fifaplus/en/articles/uruguay-italy-review-report-u20-world-cup-argentina-2023 |access-date=12 June 2023 |website=FIFA}}</ref><ref name=":32">{{Cite web |last=Di Chiaro |first=Michael |date=11 June 2023 |title=Uruguay-Italia Under 20 1-0: Luciano Rodriguez stende gli Azzurrini, sudamericani Campioni del Mondo |url=https://www.goal.com/it/liste/uruguay-italia-under-20-tabellino-risultato-marcatori/bltef477535962b31a2 |access-date=12 June 2023 |website=Goal.com |language=it-IT}}</ref>。
A代表では2022年5月に行われたトレーニングキャンプで招集された<ref name="repubblica" />。同年11月に行われた[[サッカーアルバニア代表|アルバニア代表]]及び[[サッカーオーストリア代表|オーストリア代表]]との親善試合のメンバーとして招集され、16日のアルバニア代表戦で途中出場を記録した<ref>{{Cite web |date=2022-11-11 |title=Trentuno convocati per le amichevoli con Albania e Austria: torna Chiesa, prima chiamata per Fagioli, Miretti e Pafundi |url=https://www.figc.it/it/nazionali/news/trentuno-convocati-per-le-amichevoli-con-albania-e-austria-torna-chiesa-prima-chiamata-per-fagioli-miretti-e-pafundi/ |access-date=2022-11-13 |website=Federazione Italiana Giuoco Calcio |language=it}}</ref><ref>{{cite news |title=Chi è Simone Pafundi, il trequartista mancino che Mancini ha portato in Nazionale nonostante una sola presenza in A |url=https://calcio247.it/2022/11/12/chi-e-simone-pafundi-il-trequartista-mancino-che-mancini-ha-portato-in-nazionale-nonostante-una-sola-presenza-in-a/ |access-date=12 November 2022}}</ref>。これによって彼は16歳8か月2日でA代表初出場となり、[[ロドルフォ・ガヴィネッリ]]、[[レンツォ・デ・ヴェッキ]]に次いで歴代3位の若さでの記録となったが、先の二人は1911年と1910年の記録であるため、ここ100年、あるいは第一次世界大戦以降では史上最年少の記録となった<ref>{{cite web |date=16 November 2022 |accessdate=16 November 2022 |title=Pafundi diventa il più giovane esordiente azzurro da 100 anni. La Top 10 |url=https://www.gazzetta.it/Calcio/Nazionale/storie/16-11-2022/albania-italia-pafundi-puo-diventare-piu-giovane-esordiente-azzurro-ultimi-100-anni-top-ten-4501135254265/ |website=La Gazzetta dello Sport |language=it}}</ref>。
==プレースタイル==
166cmと小柄ながら、左足の技術に長けたトレクァルティスタである。ボールコントロール、視野、速さに長けており、アシストもシュートも出来るためにファイナルサードでの脅威となる選手である<ref name=":0" /><ref name=":1">{{Cite web |last=Dafirbillah |first=Karim |date=3 April 2022 |title=Simone Pafundi, l'X Factor della Primavera dell'Udinese |url=http://www.mondoprimavera.com/news/24492019206/simone-pafundi-l-039-x-factor-della-primavera-dell-039-udinese |access-date=2 June 2022 |website=MondoPrimavera |language=it}}</ref>。ウディネーゼの元主将である[[アントニオ・ディ・ナターレ]]と比較される他、[[リオネル・メッシ]]の後継者とも称される<ref name=":1" />。
==参考文献==
{{reflist|30em}}
==外部リンク==
*{{sports links}}
{{ウディネーゼ・カルチョのメンバー}}
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|title=イタリア代表 - 出場大会
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{{2023 FIFA U-20ワールドカップ イタリア代表}}
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{{DEFAULTSORT:はふんてい しもおね}}
[[Category:イタリアのサッカー選手]]
[[Category:サッカーイタリア代表選手]]
[[Category:ウディネーゼ・カルチョの選手]]
[[Category:フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州出身の人物]]
[[Category:アルバニア系イタリア人]]
[[Category:2006年生]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%95%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3 |
4,840,535 | 悪は存在しない (映画) | 『悪は存在しない』(あくはそんざいしない)は、濱口竜介監督による2023年製作の日本映画。同年のヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞(審査員賞)を受賞した作品で、この受賞によって濱口監督は、アメリカのアカデミー賞と世界三大映画祭のすべてで主要賞の受賞を果たした黒澤明以来2人目の日本人監督となった。106分。
2023年11月26日、広島国際映画祭2023でジャパンプレミアが行われ、2024年4月26日から劇場公開される。
後述するライブ・パフォーマンス版『GIFT』が、同年10月18日にベルギーの第50回ゲント国際映画祭でワールド・プレミア上映され、11月23日には第24回東京フィルメックスにて国内初上映された。
山奥の小さな集落「水挽町」で暮らす寡黙な男・巧(大美賀均)と、その一人娘・玲花(西川玲)。集落の人々は美しい森と澄んだ雪解け水に支えられて静かな暮らしを守ってきた。ある日、そこへキャンプ場建設の話がもちこまれる。キャンプ場は東京から多くの観光客を呼び込むかもしれないが、そこに置かれる浄化槽は、集落が誇りとする自然水を汚染するだろう。そしてこれはコロナ助成金目当てのずさんな計画らしい。ざわめきはじめる集落の人々。
住民説明会へやってきた事業側の男女(小坂竜士・渋谷采郁)に、集落の人々は理を尽くして反論する。この集落はもともと都会からの移住者ばかりだし、ここへ新たに加わりたいときちんと考えた計画なら反対する理由はなにもない。しかしその前に、この土地の人にとって自然水がどんな意味をもつのか、そこで暮らすことがどんな責任を負うことなのか、どうか一度よく考えてほしい。集落の人々のおだやかな姿勢に、事業側の男女は「地元の人は決して愚かではない」と態度を改め、計画のいいかげんさに気づくようになる。
しかし親会社は、コロナ助成金の申請期限が迫っているし、ガス抜きの説明会が済んだ以上、予定どおりキャンプ場設置をすすめればよいと方針を曲げない。説明会に出た男女は板ばさみとなって困惑し、集落から信頼を得ているらしい巧に協力をあおぐことを思いつく。そしてふたたび集落を訪ねるうち、森と山の自然が人間にとって善でも悪でもなく、ただ人間の世界とは別にそこに並立している存在だとかすかに気づき始める。そんな中、巧の娘・玲花の様子がしだいに変わりはじめる。
この作品はヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受賞したのち、多くの映画祭に招聘される。
とくに2021年に『ドライブ・マイ・カー』がアメリカで高評価をよぶきっかけとなったニューヨーク映画祭は、『悪は存在しない』を「予測のつかない映画的体験をもたらす」と評して、ふたたび主要紹介作品のひとつに選び出した。
イギリスの『ガーディアン』紙や、アメリカの 『IndieWire』誌は、都会と自然の対立という昔ながらの問題に安易な解決をゆるさない脚本と、濱口独特の不気味な物語技法があいまってつよい印象を残す、などと評した。
また英国映画協会は、『ドライブ・マイ・カー』につづく本作で濱口は現代のもっとも偉大な演出者のひとりであることをふたたび証明したと指摘。『ハリウッド・レポーター』誌や『バラエティ』誌も本作に描かれた自然と人間の関係に注目し、それをきわめて繊細・優雅に表現したところに濱口の独自性とすぐれた手腕が示されていると評した。
2023年10月の第67回BFI ロンドン映画祭に於いて、審査員の全員一致で作品賞を受賞した。繊細かつ映画的で、完全な演技に支えられたドラマであり、家族と共同体の肖像、そして土地開発の倫理の考察などが評価された。
この映画は、濱口の前作『ドライブ・マイ・カー』で作曲をつとめた石橋英子の依頼から始まっている。石橋は『GIFT』と題する自身のライブ・パフォーマンスのための映像制作を濱口に依頼。しかし濱口はそうした制作の経験がなく、石橋との協議をかさねるうち、抽象的なイメージ映像のようなものではなく、明確な物語映像を希望していることがわかり、しだいに物語が膨らみ始めたという。
濱口は石橋の仕事場に近い八ヶ岳をたびたび訪れ、この映画の撮影も多くはそこで行われた。また濱口は集落の人々から森や動物たちについての実践的な知識を数多く習得し、それは劇中に盛り込まれている。また映画に登場する開発計画も、一部は実際に八ヶ岳周辺で説明会が行われた計画からアイデアをとっている。 | [
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] | 『悪は存在しない』(あくはそんざいしない)は、濱口竜介監督による2023年製作の日本映画。同年のヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞(審査員賞)を受賞した作品で、この受賞によって濱口監督は、アメリカのアカデミー賞と世界三大映画祭のすべてで主要賞の受賞を果たした黒澤明以来2人目の日本人監督となった。106分。 2023年11月26日、広島国際映画祭2023でジャパンプレミアが行われ、2024年4月26日から劇場公開される。 後述するライブ・パフォーマンス版『GIFT』が、同年10月18日にベルギーの第50回ゲント国際映画祭でワールド・プレミア上映され、11月23日には第24回東京フィルメックスにて国内初上映された。 | {{改名提案|悪は存在しない|date=2023年12月}}
『'''悪は存在しない'''』(あくはそんざいしない)は、[[濱口竜介]]監督による2023年製作の日本映画。同年の[[ヴェネツィア国際映画祭]]で[[ヴェネツィア国際映画祭 審査員大賞|銀獅子賞(審査員賞)]]を受賞した作品で<ref name=":0">{{Cite web |title=Biennale Cinema 2023 {{!}} Aku wa sonzai shinai (Evil Does Not Exist) |url=https://www.labiennale.org/en/cinema/2023/venezia-80-competition/aku-wa-sonzai-shinai-evil-does-not-exist |website=La Biennale di Venezia |date=2023-07-06 |access-date=2023-10-12 |language=en}}</ref>、この受賞によって濱口監督は、アメリカの[[アカデミー賞]]と[[映画祭#世界三大映画祭|世界三大映画祭]]のすべてで主要賞の受賞を果たした黒澤明以来2人目の日本人監督となった<ref name="cinemacafe 87430">{{Cite news|url=https://www.cinemacafe.net/article/2023/09/12/87430.html|title=濱口竜介監督「背中を押された」と喜びの声 最新作『悪は存在しない』でヴェネチア銀獅子賞|work=シネマカフェ|publisher=[[イード (企業)|イード]]|date=2023-09-12|accessdate=2023-11-01}}</ref>。106分。
2023年11月26日、広島国際映画祭2023でジャパンプレミアが行われ、2024年4月26日から劇場公開される<ref>{{Cite news|url=https://fansvoice.jp/2023/11/26/evil-does-not-exist-date/|title=濱口竜介監督『悪は存在しない』2024年4月26日公開決定!広島国際映画祭にてジャパンプレミア開催!|work=Fan's Voice|date=2023-11-26|accessdate=2023-12-22}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://hiff.jp/archives/13099/|title=『悪は存在しない』ジャパンプレミア 上映後には濱口竜介監督やキャストらのトークショーも|website=広島国際映画祭|date=2023-11-26|accessdate=2023-12-23}}</ref>。
後述するライブ・パフォーマンス版『'''GIFT'''』が、同年10月18日にベルギーの第50回ゲント国際映画祭でワールド・プレミア上映され<ref>{{Cite interview|language=ja|subject=濱口竜介|subject2=石橋英子|subjectlink2=石橋英子|date=2023-11-10|interviewer=佐藤久理子|title=濱口竜介×石橋英子が語る、映像と音楽の幸福な関係。『GIFT』『悪は存在しない』プロジェクト|url=https://www.cinra.net/article/202311-gift_iwmkr|work=[[CINRA]]|publisher=CINRA, Inc.|access-date=2023-12-22}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.be.emb-japan.go.jp/itpr_ja/news_231020.html|title=【大使】第50回ゲント国際映画祭における『GIFT』ワールドプレミア上映およびトークショー|website=在ベルギー日本国大使館|date=2023-10-30|accessdate=2023-12-22}}</ref>、11月23日には第24回[[東京フィルメックス]]にて国内初上映された<ref>{{Cite web|和書|url=https://filmex.jp/program/ss/ss7.html|title=GIFT / 特別招待作品|website=第24回 [[東京フィルメックス]]|date=2023|accessdate=2023-12-22}}</ref>。
== あらすじ ==
山奥の小さな集落「水挽町」で暮らす寡黙な男・巧([[大美賀均]])と、その一人娘・玲花([[西川玲]])。集落の人々は美しい森と澄んだ雪解け水に支えられて静かな暮らしを守ってきた。ある日、そこへキャンプ場建設の話がもちこまれる。キャンプ場は東京から多くの観光客を呼び込むかもしれないが、そこに置かれる[[浄化槽]]は、集落が誇りとする自然水を汚染するだろう。そしてこれはコロナ助成金目当てのずさんな計画らしい。ざわめきはじめる集落の人々。
住民説明会へやってきた事業側の男女([[小坂竜士]]・[[渋谷采郁]])に、集落の人々は理を尽くして反論する。この集落はもともと都会からの移住者ばかりだし、ここへ新たに加わりたいときちんと考えた計画なら反対する理由はなにもない。しかしその前に、この土地の人にとって自然水がどんな意味をもつのか、そこで暮らすことがどんな責任を負うことなのか、どうか一度よく考えてほしい。集落の人々のおだやかな姿勢に、事業側の男女は「地元の人は決して愚かではない」と態度を改め、計画のいいかげんさに気づくようになる。
しかし親会社は、コロナ助成金の申請期限が迫っているし、ガス抜きの説明会が済んだ以上、予定どおりキャンプ場設置をすすめればよいと方針を曲げない。説明会に出た男女は板ばさみとなって困惑し、集落から信頼を得ているらしい巧に協力をあおぐことを思いつく。そしてふたたび集落を訪ねるうち、森と山の自然が人間にとって善でも悪でもなく、ただ人間の世界とは別にそこに並立している存在だとかすかに気づき始める。そんな中、巧の娘・玲花の様子がしだいに変わりはじめる。
== 評価 ==
[[ファイル:八ヶ岳~野辺山高原より_-_panoramio.jpg|サムネイル|370x370ピクセル|<small>野辺山高原からのぞむ八ヶ岳(2010年)。映画は主に八ヶ岳周辺など長野県の諏訪地域で撮影された</small><ref>{{Cite web |title=諏訪地域で撮影された映画『悪は存在しない』の第80回ベネチア国際映画祭「銀獅子賞」受賞を祝し、阿部知事からお祝いのメッセージをお贈りしました/長野県 |url=https://www.pref.nagano.lg.jp/kankoshin/happyou/filmpress0915.html |website=www.pref.nagano.lg.jp |access-date=2023-10-15}}</ref><small>。</small>]]
この作品はヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受賞したのち、多くの映画祭に招聘される。
とくに2021年に『[[ドライブ・マイ・カー (映画)|ドライブ・マイ・カー]]』がアメリカで高評価をよぶきっかけとなった[[ニューヨーク映画祭]]は、『悪は存在しない』を「予測のつかない映画的体験をもたらす」と評して、ふたたび主要紹介作品のひとつに選び出した<ref>{{Cite web |title=Evil Does Not Exist |url=https://www.filmlinc.org/films/evil-does-not-exist/ |website=Film at Lincoln Center |access-date=2023-10-12 |language=en}}</ref>。
イギリスの『ガーディアン』紙や、アメリカの 『IndieWire』誌は、都会と自然の対立という昔ながらの問題に安易な解決をゆるさない脚本と、濱口独特の不気味な物語技法があいまってつよい印象を残す、などと評した<ref>{{Cite news |title=Evil Does Not Exist review – Ryu Hamaguchi’s enigmatic eco-parable eschews easy explanation |url=https://www.theguardian.com/film/2023/sep/04/evil-does-not-exist-review-ryu-hamaguchis-enigmatic-eco-parable-eschews-easy-explanation |work=The Guardian |date=2023-09-04 |access-date=2023-10-12 |issn=0261-3077 |language=en-GB |first=Peter |last=Bradshaw}}</ref><ref>{{Cite web |title=‘Evil Does Not Exist’ Review: Ryûsuke Hamaguchi Retreats Post-‘Drive My Car’ Oscars Marathon Into an Eerie Eco-Poem |url=https://www.indiewire.com/criticism/movies/evil-does-not-exist-review-ryusuke-hamaguchi-1234902318/ |website=IndieWire |date=2023-09-05 |access-date=2023-10-12 |language=en-US |first=Ryan |last=Lattanzio}}</ref>。
また英国映画協会は、『ドライブ・マイ・カー』につづく本作で濱口は現代のもっとも偉大な演出者のひとりであることをふたたび証明したと指摘<ref>{{Cite web |title=Evil Does Not Exist review: a beguiling eco-drama |url=https://www.bfi.org.uk/sight-and-sound/reviews/evil-does-not-exist-hamaguchi-ryusukes-beguiling-ecological-drama |website=BFI |access-date=2023-10-13 |language=en}}</ref>。『ハリウッド・レポーター』誌や『バラエティ』誌も本作に描かれた自然と人間の関係に注目し、それをきわめて繊細・優雅に表現したところに濱口の独自性とすぐれた手腕が示されていると評した<ref>{{Cite web |title=‘Evil Does Not Exist’ Review: Ryusuke Hamaguchi’s Tale of Rural Gentrification Is a Tone Poem with an Atonal End |url=https://variety.com/2023/film/reviews/evil-does-not-exist-review-ryusuke-hamaguchis-tale-is-a-tone-poem-with-an-atonal-end-1235712580/ |website=Variety |date=2023-09-04 |access-date=2023-10-13 |language=en-US |first=Jessica |last=Kiang}}</ref><ref>{{Cite web |title=‘Evil Does Not Exist’ Review: Ryusuke Hamaguchi Follows ‘Drive My Car’ With an Unsettling Reflection on Man and Nature |url=https://www.hollywoodreporter.com/movies/movie-reviews/evil-does-not-exist-review-ryusuke-hamaguchi-1235581427/ |website=The Hollywood Reporter |date=2023-09-04 |access-date=2023-10-13 |language=en-US |first=David |last=Rooney}}</ref>。
2023年10月に行われた第67回[[ロンドン映画祭|BFI ロンドン映画祭]]のコンペティション部門において、審査員の全員一致で作品賞 (Best Film) を受賞した。審査団は声明で「(この作品は)繊細かつ映画的で、力のこもった演技によって支えられている。 (…) 家族とそのコミュニティに関する美しい肖像であると同時に、自然の再開発をめぐる倫理的課題の複雑さについての考察にもなっている」と述べている<ref>{{Cite web |title=Award winners announced at 67th BFI London Film Festival |url=https://www.bfi.org.uk/london-film-festival/news/award-winners-67th-bfi-london-film-festival |website=BFI |access-date=2023-12-29 |language=en}}</ref><ref name="cinematoday N0139493">{{Cite news|author=市川遥|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0139493|title=濱口竜介『悪は存在しない』ロンドン映画祭で作品賞受賞!|work=[[シネマトゥデイ]]|publisher=[[シネマトゥデイ (企業)|株式会社シネマトゥデイ]]|date=2023-10-16|accessdate=2023-10-30}}</ref>。
=== 受賞 ===
* [[第80回ヴェネツィア国際映画祭]](2023年) - 銀獅子賞(審査員大賞)、国際批評家連盟賞
* 第71回[[サン・セバスティアン国際映画祭]](2023年) - Lurraグリーンピース賞
* 第67回[[ロンドン映画祭|BFI ロンドン映画祭]](2023年)- 作品賞<ref>{{Cite web |title=Award winners announced at 67th BFI London Film Festival |url=https://www.bfi.org.uk/london-film-festival/news/award-winners-67th-bfi-london-film-festival |website=BFI |access-date=2023-10-15 |language=en}}</ref>{{R|cinematoday N0139493}}
* 第16回[[アジア太平洋映画賞]](2023年) - 審査員特別賞<ref>{{Cite news|url=https://www.cinema-factory.jp/2023/11/04/36680/|title=第16回アジア太平洋映画賞:『PERFECT DAYS』が最優秀作品賞、『悪は存在しない』が審査員特別賞受賞!|work=Cinema Factory|date=2023-11-04|accessdate=2023-12-23}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.imdb.com/event/ev0001634/2023/1|title=Asia Pacific Screen Awards - 2023 Awards|website=[[IMDb]]|date=2023|accessdate=2023-12-23}}</ref>
* 第11回バルセロナ・アジア映画祭(2023年) - 公式部門 最優秀作品賞<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.imdb.com/event/ev0006115/2023/1|title=Asian Film Festival Barcelona - 2023 Awards|website=[[IMDb]]|date=2023|accessdate=2023-12-25}}</ref>
* 第28回ケララ国際映画祭{{small|([[:en:International Film Festival of Kerala|IFFK]])}}(2023年) - ゴールデン・クロウ・フェザント賞(最高賞)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.imdb.com/event/ev0000868/2023/1|title=Kerala International Film Festival - 2023 Awards|website=[[IMDb]]|date=2023|accessdate=2023-12-23}}</ref>
== 製作の背景 ==
この映画は、濱口の前作『ドライブ・マイ・カー』で作曲をつとめた[[石橋英子]]の依頼から始まっている。石橋は『GIFT』と題する自身のライブ・パフォーマンスのための映像制作を濱口に依頼<ref>{{Cite web |title=Gift, new film by 'Drive My Car' director Ryûsuke Hamaguchi, to world premiere at FFG with Eiko Ishibashi performing a… |url=https://www.worldsoundtrackawards.com/news/gift-new-film-by-drive-my-car-director-ryusuke-hamaguchi-to-world-premiere-at-ffg-with-eiko-ishibashi-performing-a-live-score |website=World Soundtrack Awards |access-date=2023-10-12 |language=en}}</ref><ref name=":0" />。しかし濱口はそうした制作の経験がなく、石橋との協議をかさねるうち、抽象的なイメージ映像のようなものではなく、明確な物語映像を希望していることがわかり、しだいに物語が膨らみ始めたという<ref name=":1">{{Citation|title=Ryûsuke Hamaguchi on Evil Does Not Exist {{!}} NYFF61|url=https://www.youtube.com/watch?v=VCXMbhC794I|language=ja-JP|access-date=2023-10-12}}</ref>。
濱口は石橋の仕事場に近い[[八ヶ岳]]をたびたび訪れ、この映画の撮影も多くはそこで行われた。また濱口は集落の人々から森や動物たちについての実践的な知識を数多く習得し、それは劇中に盛り込まれている<ref name=":1" />。また映画に登場する開発計画も、一部は実際に八ヶ岳周辺で説明会が行われた計画からアイデアをとっている<ref name=":1" />。
== キャスト ==
* 巧:大美賀均
* 西川玲花:[[西川玲]]
* 高橋:小坂竜士
* 黛:渋谷采郁
* 梅村:菊池葉月
== スタッフ ==
* プロデューサー:高田聡
* 脚本:濱口竜介
* 撮影:北川喜雄
* 編集:濱口竜介・山崎梓
* 録音:松野泉
* 音楽:[[石橋英子]]
== 関連項目 ==
* [[ハッピーアワー (映画)]]
* [[ドキュメンタリー]]
* [[自然破壊]]
* [[エコロジー]]
* [[グランピング]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|20em}}
== 外部リンク ==
* {{Twitter|id=Incline_LLP|name=映画『悪は存在しない』}}
* {{IMDb title|tt28490044|Evil Does Not Exist}}
{{movie-stub}}
{{DEFAULTSORT:あくはそんさいしない}}
[[Category:2023年の映画]]
[[Category:日本のドラマ映画]]
[[Category:濱口竜介の監督映画]] | 2023-10-12T06:43:04Z | 2023-12-29T17:14:20Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E3%81%AF%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%84_(%E6%98%A0%E7%94%BB) |
4,840,544 | Asue | 丸善インテック株式会社は大阪に本社を置く、主に電子材料を扱うエレクトロニクス商社。
2013年、丸善薬品産業(1895年に丸善株式会社より独立)から電子材料事業部を丸善インテック株式会社として独立された。
2018年3月1日に大阪市の公募に応じ、大阪市中央体育館・大阪プールの命名権を取得。大阪市中央体育館を丸善インテックアリーナ大阪、大阪プールを丸善インテック大阪プールと命名した。
2022年7月1日に社名を株式会社Asueへ変更。
2023年7月1日に前年度の社名変更に伴い、命名権を取得している大阪市中央体育館の愛称を2023年7月1日にAsueアリーナ大阪、Asue大阪プールへ改称。
同年9月1日に株式会社ピックルスホールディングスと合弁会社(株式会社ベジパル)を設立。 | [
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] | 丸善インテック株式会社は大阪に本社を置く、主に電子材料を扱うエレクトロニクス商社。 | {{基礎情報 会社
| 社名 = 株式会社Asue
| 英文社名 = Asue Co., Ltd.
| ロゴ = [[ファイル:Asueロゴマーク.jpg|200px]]
| 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
| 市場情報 = 非上場
| 略称 = Asue
| 国籍 = {{JPN}}
| 本社郵便番号 = 541-0046
| 本社所在地 = [[大阪府]][[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]][[平野町 (大阪市)|平野町]]4丁目2番3号<br />オービック御堂筋ビル6階
| 本社緯度度 = |本社緯度分 = |本社緯度秒 = |本社N(北緯)及びS(南緯) =
| 本社経度度 = |本社経度分 = |本社経度秒 = |本社E(東経)及びW(西経) =
| 本社地図国コード =
| 設立 = 2013年4月1日
| 業種 = 卸売業
| 法人番号 = 6120001176383
| 統一金融機関コード =
| SWIFTコード =
| 事業内容 =
| 代表者 = 天羽昇次(代表取締役社長)
| 資本金 = 3億100万円
| 従業員数 =
| 支店舗数 = '''国内'''<br />支店2(東京、九州)、営業所3([[福山市|福山]]、[[茂原市|茂原]]、[[住之江区|住之江]])<br >'''国外'''<br />海外事務所3([[ホーチミン市|ホーチミン]]、韓国、タイ)
| 決算期 = 6月末日
| 関係する人物 =
| 外部リンク = {{URL|https://asue-group.com/}}
}}
'''株式会社Asue'''(アスヘ、{{Lang-en-short|Asue Co., Ltd.}})は、主に電子材料を扱う、[[日本]]の[[エレクトロニクス]][[商社]]である。[[大阪市]]に本社を置いている。
== 概要 ==
2013年、丸善薬品産業(1895年に[[丸善雄松堂|丸善株式会社]]より独立)から電子材料事業部を'''丸善インテック株式会社'''として独立された<ref>{{cite web|和書|url=https://maruzen-intec.co.jp/company/history/|title=企業沿革|publisher=丸善インテック株式会社|access-date=2019-02-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210117052907/https://maruzen-intec.co.jp/company/history/|archivedate=2021-01-17|deadlink=2023-10-31}}</ref>。
2018年3月1日に大阪市の公募に応じ、[[大阪市中央体育館]]・[[大阪プール]]の命名権を取得。大阪市中央体育館を丸善インテックアリーナ大阪、大阪プールを丸善インテック大阪プールと命名した<ref>{{cite web|和書|url=http://www.city.osaka.lg.jp/hodoshiryo/keizaisenryaku/0000427086.html|title=報道発表資料|publisher=大阪市|access-date=2019-02-21|archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11098460/www.city.osaka.lg.jp/hodoshiryo/keizaisenryaku/0000427086.html|archivedate=2018-05-15|deadlink=2023-10-31}}</ref>。
2020年12月に本社事務所の所在地を大阪市[[中央区 (大阪市)|中央区]][[道修町]]2丁目4番7号 丸善道修町ビル2階から同区[[平野町 (大阪市)|平野町]]4丁目2番3号 オービック御堂筋ビル6階へ移転<ref>{{Wayback|url=https://maruzen-intec.co.jp/topics/news/828/|title=本社事務所移転のお知らせ(丸善インテック株式会社 2020年12月7日)|date=20211026203425}}</ref>{{efn|国税庁[[法人番号]]公表サイトにある変更履歴では、2021年9月頃のこと<ref>{{法人番号|6120001176383}}</ref>。}}。
2022年7月1日に社名を株式会社Asueへ変更<ref>{{cite web|和書|url=https://asue-group.com/jp/topics/69/|title=社名変更のお知らせ|publisher=株式会社Asue|access-date=2023-08-03}}</ref>。
2023年7月1日に前年度の社名変更に伴い、命名権を取得している大阪市中央体育館の愛称を2023年7月1日にAsueアリーナ大阪、Asue大阪プールへ改称<ref>{{cite web|和書|url=https://www.city.osaka.lg.jp/keizaisenryaku/page/0000600792.html#:~:text=%E6%84%9B%E7%A7%B0%20Asue%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8A%E5%A4%A7%E9%98%AA%EF%BC%88%E5%A4%89%E6%9B%B4%E5%89%8D%EF%BC%9A%E4%B8%B8%E5%96%84%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8A%E5%A4%A7%E9%98%AA%EF%BC%89,Asue%E5%A4%A7%E9%98%AA%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%AB%EF%BC%88%E5%A4%89%E6%9B%B4%E5%89%8D%EF%BC%9A%E4%B8%B8%E5%96%84%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%83%E3%82%AF%E5%A4%A7%E9%98%AA%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%AB%EF%BC%89%20%E6%96%B0%E6%84%9B%E7%A7%B0%E4%BD%BF%E7%94%A8%E9%96%8B%E5%A7%8B%E6%97%A5%20%E4%BB%A4%E5%92%8C5%E5%B9%B47%E6%9C%881%E6%97%A5%EF%BC%88%E5%9C%9F%E6%9B%9C%E6%97%A5%EF%BC%89|title=愛称変更|publisher=大阪市|access-date=2023-08-03}}</ref>。
同年9月1日に株式会社ピックルスホールディングスと合弁会社(株式会社ベジパル)を設立<ref>{{cite web|和書|url=https://asue-group.com/jp/topics/357/|title=合弁会社設立に関するお知らせ|publisher=株式会社Asue|access-date=2023-10-10}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [https://asue-group.com/ 株式会社Asue]
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{{デフォルトソート:あすへ}}
[[Category:日本の商社]]
[[Category:大阪市中央区の企業]]
[[Category:2013年設立の企業]] | 2019-02-21T07:59:09Z | 2023-10-31T03:37:14Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Asue |
4,840,545 | メタップスホールディングス | 株式会社メタップスホールディングスは、MBOした株式会社メタップスを前身とする東京都渋谷区に本社を置くテクノロジー企業。
を経営戦略の柱として事業運営している。 | [
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] | 株式会社メタップスホールディングスは、MBOした株式会社メタップスを前身とする東京都渋谷区に本社を置くテクノロジー企業。 | {{複数の問題|出典の明記=2023年10月14日 (土) 01:10 (UTC)|宣伝=2023年10月14日 (土) 01:10 (UTC)|特筆性=2023年10月14日 (土) 01:10 (UTC)|一次資料=2023年10月14日 (土) 01:10 (UTC)}}
{{基礎情報 会社
| 社名 = 株式会社メタップスホールディングス
| 英文社名 = Metaps Holdings, Inc.
| ロゴ =
| 画像 =
| 画像説明 =
| 種類 = [[株式会社]]
| 市場情報 = [[非公開企業]]
| 略称 =
| 国籍 = {{JPN}}
| 本社郵便番号 = 150-6139
| 本社所在地 = 東京都渋谷区渋谷二丁目24番12号
| 本店郵便番号 =
| 本店所在地 =
| 設立 = 2023年1月26日
| 業種 = 5250
| 事業内容 = プライベート・エクイティ投資事業<br/>DX関連サービスのインキュベーション
| 代表者 = 山﨑祐一郎(代表取締役社長)
| 決算期 = 12月31日
| 主要子会社 = [[メタップスペイメント]]<br/>[[メタップスワン]]
| 外部リンク = https://metaps.com
| 特記事項 =
}}
'''株式会社メタップスホールディングス'''は、[[マネジメント・バイアウト|MBO]]した[[メタップス|株式会社メタップス]]を前身とする東京都渋谷区に本社を置くテクノロジー企業。
==概要==
* 「IT・ソフトウェア企業への投資」
* 「事業化に向けたインキュベーション」
を経営戦略の柱として事業運営している。
== 沿革 ==
*[[2023年]](令和5年)
**1月 - 代表の山﨑祐一郎氏が株式会社Odessa12を設立(現メタップスホールディングス)
**3月 - [[マネジメント・バイアウト]](MBO)の一環として、Odessa12が[[株式公開買付け|株式公開買付け(TOB)]]によりメタップスの議決権所有割合ベースで65.89%の株式を取得し、TOB成立<ref>{{Cite web |title=メタップス、MBOが成立 上場廃止へ |url=https://www.marr.jp/genre/topics/news/entry/43116 |website=マールオンライン |access-date=2023-10-14 |language=ja}}</ref>。
**6月 - MBOが成立し、上場廃止<ref>{{Cite web |title=株式会社メタップスホールディングス |url=https://metaps.com/ja/archives/press_news/5396 |website=metaps.com |access-date=2023-10-14 |language=jp}}</ref>。
**10月 - Odessa12による吸収合併が成立し、メタップスは消滅会社となる。同時に、Odessa12が社名変更し、株式会社メタップスホールディングスが発足<ref>{{Cite web |title=株式会社メタップスホールディングス |url=https://metaps.com/ja/archives/press_release/5822 |website=metaps.com |access-date=2023-10-14 |language=jp}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
== 外部リンク ==
* {{Official website|www.metaps.com}}
* [https://www.facebook.com/metaps.jp/]- [[Facebook]]
* [https://twitter.com/Metaps_PR]- [[Twitter]]
* [https://meet.metaps.com/ meetaps]
* [https://twitter.com/Meet_Metaps meetaps](@Meet_Metaps)- [[Twitter]]
{{Company-stub}}
{{デフォルトソート:めたつふす}}
[[Category:渋谷区の企業]]
[[Category:日本のソフトウェア会社]]
[[Category:2023年設立の企業]] | 2023-10-12T07:10:14Z | 2023-10-14T01:10:38Z | false | false | false | [
"Template:基礎情報 会社",
"Template:脚注ヘルプ",
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"Template:Official website",
"Template:Company-stub"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%BF%E3%83%83%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%B9 |
4,840,547 | 平井琴望 | 平井 琴望(ひらい ことみ、1992年〈平成4年〉9月15日 - )は、日本の舞台女優、ダンサー。mouzu所属。
元チアリーダーで第47回(2015年度)ミス日本ファイナリスト(東日本地区代表)の平井絢野は姉。
神奈川県横浜市出身。3歳でクラシックバレエを始める。 | [
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] | 平井 琴望は、日本の舞台女優、ダンサー。mouzu所属。 元チアリーダーで第47回(2015年度)ミス日本ファイナリスト(東日本地区代表)の平井絢野は姉。 | {{ActorActress
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| 別名義 = <!-- 別芸名がある場合に記載。愛称の欄ではありません -->
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| 出身地 = {{JPN}} [[神奈川県]][[横浜市]]<ref name="excite">{{Cite web|date=2021-03-09|url=https://www.excite.co.jp/news/dictionary/person/PEdeb973ecaacde0f3d0f2188e7254cd89e7299776/|title=【平井琴望】プロフィール(年齢)|publisher=[[エキサイト]]|accessdate=2023-10-12}}</ref><ref name="mouzu">{{cite web|url=https://mouzu.tokyo/actors/hirai-kotomi/|title=HIRAI KOTOMI|publisher=mouzu|accessdate=2023-10-12}}</ref>
| 死没地 =
| 国籍 = <!--「出生地」からは推定できないときだけ -->
| 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です -->
| 身長 = 158 [[センチメートル|cm]]<ref name="mouzu"/>
| 血液型 = [[ABO式血液型|O型]]<ref name="excite"/>
| 生年 = 1992
| 生月 = 9
| 生日 = 15
| 没年 =
| 没月 =
| 没日 =
| 職業 = [[俳優|女優]]、[[ダンサー]]
| ジャンル = [[舞台]]
| 活動期間 =
| 活動内容 =
| 配偶者 =
| 著名な家族 = [[平井絢野]](姉)<!-- 『著名活動をしている人物』で記事対象の家族として公開されている人物がいる場合に記載。単にメディアで紹介された新生児の名前などは書かないように注意 -->
| 事務所 = mouzu<ref name="mouzu"/>
| 公式サイト =
| 主な作品 = <!-- 誰もが認める代表作品を記述 -->
| 備考 =
}}
'''平井 琴望'''(ひらい ことみ、[[1992年]]〈[[平成]]4年〉[[9月15日]]<ref name="excite"/><ref name="mouzu"/> - )は、[[日本]]の[[俳優|舞台女優]]、[[ダンサー]]。mouzu所属。
元[[チアリーダー]]で第47回([[2015年]]度)[[ミス日本]]ファイナリスト(東日本地区代表)の[[平井絢野]]は姉<ref>{{Cite web|author=平井琴望|date=2016-03-25|url=https://www.instagram.com/p/BDYG5qiGA5T/|title=絢野に振り作り手伝ってもらった💘こうみえて私たち、姉妹なんです👭✨|publisher=[[Instagram]]|accessdate=2021-12-17}}</ref><ref>{{Cite web|author=平井琴望|date=2021-11-28|url=https://www.instagram.com/p/CW0NRDtv275/|title=ついにお姉ちゃんがお嫁に行きました🕊❤|publisher=[[Instagram]]|accessdate=2022-09-08}}</ref>。
==出演==
===舞台===
* [[ロミオとジュリエット (2001年のミュージカル)|ロミオ&ジュリエット]](2017年 / 2019年 / 2021年)<ref name="mouzu"/><ref name="s.addict"/><ref>{{cite web|url=https://www.umegei.com/romeo-juliette/sp/cast.html|title=CAST|publisher=梅田芸術劇場|accessdate=2023-10-12}}</ref>
* [[美少女戦士セーラームーン|Pretty Guardian Sailor Moon]] The Super Live(2018年8月31日 - 9月9日、[[アイアシアタートーキョー|AiiA 2.5 Theater Tokyo]] / 11月3日 - 4日、[[パレ・デ・コングレ・ド・パリ]]) - [[火野レイ]](セーラーマーズ) 役<ref name="s.addict">{{cite news|url=http://www.shinnosuke-m.com/s_addict/?p=47|title=平井琴望 - Kotomi Hirai -|newspaper=S.ADDICT|accessdate=2023-10-12}}</ref><ref>{{cite web|date=2018-06-29|url=https://sailormoon-official.com/stage/news/superlive_0629.php|title="Pretty Guardian Sailor Moon" The Super Live メインビジュアル&スポット映像公開! 東京プレビュー公演の全キャスト・公演情報発表!|publisher=美少女戦士セーラームーン|accessdate=2023-10-12}}</ref><ref>{{cite web|date=2018-09-15|url=https://sailormoon-official.com/stage/news/superlive_0915.php|title="Pretty Guardian Sailor Moon" The Super Liveパリ公演の全キャスト・公演情報発表! パリ公演用プロモーション映像も公開!|publisher=美少女戦士セーラームーン|accessdate=2023-10-12}}</ref>
* [[ロミオとジュリエット (2001年のミュージカル)|R&J]](2019年6月14日 - 23日、[[日本青年館|日本青年館ホール]] / 7月4日 - 7日、[[森ノ宮ピロティホール]])<ref name="s.addict"/><ref>{{cite web|url=https://www.nelke.co.jp/stage/R&J_2019/|title=Rock Opera『R&J』|publisher=[[ネルケプランニング]]|accessdate=2023-10-12}}</ref>
* [[ウエスト・サイド物語|ウエスト・サイド・ストーリー]]Season2(2020年2月1日 - 3月10日、[[IHIステージアラウンド東京]]) - グラッツィエーラ 役<ref name="s.addict"/><ref>{{cite web|url=https://www.tbs.co.jp/stagearound/wss360_2/cast/|title=キャスト・スタッフ:WEST SIDE STORY Season2|publisher=[[TBSテレビ]]|accessdate=2023-10-12}}</ref>
* [[死神遣いの事件帖]]-鎮魂侠曲-(2020年7月23日 - 8月2日、[[サンシャイン劇場]] / 8月5日 - 9日、[[梅田芸術劇場]] / 8月13日 - [[福岡サンパレス]] / 8月15日 - [[広島県立文化芸術ホール|上野学園ホール]])<ref name="s.addict"/><ref>{{cite web|url=https://shinitsuka.com/01/stage/cast.html|title=東映ムビ×ステ 舞台「死神遣いの事件帖-鎮魂侠曲-」|publisher=死神遣いの事件帖|accessdate=2023-10-12}}</ref>
* NINE(2020年11月12日 - 29日、[[TBS赤坂ACTシアター]] / 12月5日 - 13日、[[梅田芸術劇場]])<ref name="s.addict"/><ref>{{cite web|url=https://www.umegei.com/nine2020/|title=ミュージカル『NINE』2020年公演|publisher=梅田芸術劇場|accessdate=2023-10-12}}</ref>
* MEIJIZA 150th Anniversary Special Concert The Dream Co-Star(2022年9月9日 - 15日、[[明治座]])<ref>{{cite web|url=https://www.meijiza.co.jp/info/2022/2022_09/|title=明治座創業150周年記念MEIJIZA 150th Anniversary Special ConcertThe Dream Co-Star|publisher=明治座|accessdate=2023-10-12}}</ref>
* まほろばかなた - すみ子 役(2022年10月28日 - 11月6日、[[天王洲 銀河劇場]])<ref>{{cite web|url=https://www.marv.jp/special/mahorobakanata/cast.html|title=音楽劇『まほろばかなた』公式サイト|publisher=[[マーベラス (企業)|マーベラス]]|accessdate=2023-10-12}}</ref>
* マヌエラ(2023年1月15日 - 23日、[[東京建物 Brillia HALL]] / 28日 - 29日、[[森ノ宮ピロティホール]] / 31日、[[北九州芸術劇場]])<ref name="mouzu"/><ref>{{cite web|url=https://stage.parco.jp/program/manuela/|title=マヌエラ|publisher=[[パルコ]]|accessdate=2023-10-12}}</ref>
* [[古川雄大]] The Greatest Concert vol.2 -A Musical Journey-(2023年2月17日 - 26日、[[日本青年館|日本青年館ホール]])<ref>{{cite web|url=https://www.ken-on.co.jp/thegreatestconcert2/cast_staff/|title=CAST・STAFF|publisher=[[研音グループ|研音]]|accessdate=2023-10-12}}</ref>
* [[ムーラン・ルージュ (ミュージカル)|ムーラン・ルージュ!ザ・ミュージカル]](2023年6月24日 - 8月31日、[[帝国劇場]] / 2024年夏、[[帝国劇場]] / 秋、[[梅田芸術劇場]])<ref name="mouzu"/><ref>{{cite web|url=https://www.tohostage.com/moulinmusical_japan/cast.html|title=Tokyo - Cast - Moulin Rouge! The Musical 帝国劇場 『ムーラン・ルージュ!ザ・ミュージカル』|publisher=[[東宝]]|accessdate=2023-10-12}}</ref>
==脚注==
{{reflist}}
==外部リンク==
*{{twitter|KotomiHirai}}
*{{instagram|kotomi915}}
*{{youtube channel|@kotomihirai1994|Kotomi Hirai}}
{{DEFAULTSORT:ひらい ことみ}}
[[Category:21世紀日本の女優]]
[[Category:日本の舞台女優]]
[[Category:日本のミュージカル女優]]
[[Category:日本の女性ダンサー]]
[[Category:横浜市出身の人物]]
[[Category:1992年生]]
[[Category:存命人物]] | 2023-10-12T07:19:33Z | 2023-10-12T08:22:20Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E4%BA%95%E7%90%B4%E6%9C%9B |
4,840,552 | 藤の里公園 | 藤の里公園(ふじのさとこうえん)は、徳島県三好市山城町上名にある公園である。
藤川谷川沿いにある自然公園。公園前の道路は「妖怪ロード」と名付けられており、児啼爺の発祥地の伝説があることから児啼爺の石像が設置されている。
また園内には妖怪伝説の一つである「くわん淵の主」のモニュメントも設置されている。
かつてこの地にはくわん淵と呼ばれる淵があった。その昔、若い女性が歩いていると侍と名乗る男性と出会い、その二人は互いに惹かれあい良い関係を作った。だが侍は大蛇に化けてその女性をくわん淵に引きずり込んでしまう。
引きずり込まれた女性は子供を産むが、その子供は人間ではないドロドロとしたものであった。 | [
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] | 藤の里公園(ふじのさとこうえん)は、徳島県三好市山城町上名にある公園である。 | {{精度|date=2023-10}}
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| 名称 = 藤の里公園
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| 都市 = [[徳島県]][[三好市]][[山城町上名]]
| 分類 = 自然公園
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| 公式サイト =
}}
'''藤の里公園'''(ふじのさとこうえん)は、[[徳島県]][[三好市]][[山城町上名]]にある[[公園]]である。
== 地理 ==
[[藤川谷川 (三好市)|藤川谷川]]沿いにある自然公園<ref>{{cite web|url=https://ja.foursquare.com/v/%E8%97%A4%E3%81%AE%E9%87%8C%E5%85%AC%E5%9C%92/50446d91e4b09fb67bfd69e5|title=藤の里公園|publisher=foursquare|accessdate=2023-10-12}}</ref>。公園前の道路は「妖怪ロード」と名付けられており、[[子泣き爺|児啼爺]]の発祥地の伝説があることから児啼爺の石像が設置されている<ref>{{cite web|url=https://shikoku-map.com/tokushima-pref/tokushima-west/fujimnosato-park/|title=三好市】藤の里公園|publisher=しこくまっぷ|accessdate=2023-10-12}}</ref>。
また園内には妖怪伝説の一つである「くわん淵の主」のモニュメントも設置されている<ref>{{cite web|url=https://ahahalife.com/fujinosatokoenfujikawatanigawa/|title=藤の里公園 藤川谷川の清流で川遊び 児啼爺発祥の地 三好市|publisher=あははライフ|accessdate=2023-10-12}}</ref>。
== 施設 ==
* 東屋
* くわん淵の主(蛇殿)
== くわん淵の主 ==
かつてこの地にはくわん淵と呼ばれる淵があった。その昔、若い女性が歩いていると侍と名乗る男性と出会い、その二人は互いに惹かれあい良い関係を作った。だが侍は大蛇に化けてその女性をくわん淵に引きずり込んでしまう<ref>{{cite web|url=https://ikeda-hs.tokushima-ec.ed.jp/tannkyuuka/katudou/r-gannendo|title=令和元年度|publisher=徳島県立池田高等学校|accessdate=2023-10-12}}</ref>。
引きずり込まれた女性は子供を産むが、その子供は人間ではないドロドロとしたものであった<ref>『[[角川日本地名大辞典]] 36 徳島県』([[1986年]] ISBN 4040013603)</ref>。
== 交通 ==
* [[四国旅客鉄道|JR]][[土讃線]]「[[大歩危駅]]」下車より車で約5分。
* [[徳島自動車道]]「[[井川池田インターチェンジ]]」より車で約40分。
== 脚注 ==
<references />
== 外部リンク ==
* [https://www.miyoshi.i-tokushima.jp/fs/2/5/6/6/3/_/30.pdf 藤の里公園] - 三好市
* [https://shikoku-map.com/tokushima-pref/tokushima-west/fujimnosato-park/ 藤の里公園] - しこくまっぷ
{{Pref-stub|pref=徳島県}}
{{DEFAULTSORT:ふしのたにこうえん}}
[[Category:徳島県の公園]]
[[Category:三好市の地理]] | 2023-10-12T07:35:01Z | 2023-11-14T15:03:20Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E3%81%AE%E9%87%8C%E5%85%AC%E5%9C%92 |
4,840,554 | 2023年ニュージーランド総選挙 | 2023年ニュージーランド総選挙(2023ねんニュージーランドそうせんきょ、英: 2023 New Zealand general election)は、2023年10月14日にニュージーランドで行われた同国議会の代議院議員の総選挙である。
第54回ニュージーランド議会(54th New Zealand Parliament)代議院議員120人を選出するための総選挙である。
2020年の選挙では、ジャシンダ・アーダーン首相率いる中道左派の労働党が下院で過半数を獲得し、小選挙区比例代表併用制(1996年導入)の下で初めて他の政党の支持なしで政権樹立が可能となった。であるにもかかわらず、労働党は依然として緑の党と協力協定を結んでいた。 アーダーン首相辞任後、2023年1月にクリス・ヒプキンスが首相に就任した。労働党政権の主な敵対者は、デイヴィッド・シーモア率いるACT党の支援を受けたクリストファー・ラクソンいる中道右派の国民党である。2大政党党首のファーストネームが同じであることを考慮して、この選挙はクリス対クリスとして宣伝されている。ウインストン・ピータース率いるニュージーランド・ファースト党は、2020年に失脚した後、世論調査に基づいて議会に復帰する可能性が高い。 | [
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] | 2023年ニュージーランド総選挙は、2023年10月14日にニュージーランドで行われた同国議会の代議院議員の総選挙である。 第54回ニュージーランド議会(54th New Zealand Parliament)代議院議員120人を選出するための総選挙である。 | {{Infobox election
| election_name = 2023年ニュージーランド総選挙<br>2023 New Zealand general election
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| type = parliamentary
| previous_election = 2020年ニュージーランド総選挙
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| seats_for_election = {{center|[[代議院 (ニュージーランド)|代議院]]全120議席 (+[[:en:Overhang seat|オーバーハング議席]]2){{efn|[[マオリ党]]が[[小選挙区比例代表併用制]]に配分された総議席よりも多くのマオリ選挙区議席を獲得したため、オーバーハング議席が1議席追加され、[[:en:2023 Port Waikato by-election|2023年ポート・ワイカト区補欠選挙]]の引き金となる[[:en:Port Waikato (New Zealand electorate)|ポート・ワイカト区]]の候補者の死去により1議席が追加される。}}<br>(過半数:62議席)}}
| majority_seats = 61
| opinion_polls = :en:Opinion polling for the 2023 New Zealand general election
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| 1blank = 小選挙区<br>得票数<br>得票率
| 2blank = 比例代表<br>得票数<br>得票率
<!-- National -->| image1 = {{CSS image crop|Image = Christopher Luxon (52535372229) (cropped).jpg|bSize = 170|cWidth = 120|cHeight = 160|oTop = 20|oLeft = 23}}
| leader1 = [[クリストファー・ラクソン]]
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<!-- Labour -->| image2 = {{CSS image crop|Image = Profile--chrishipkins-390x2-UNC.jpg|bSize = 210|cWidth = 120|cHeight = 160|oTop = 5 |oLeft = 60}}
| leader2 = [[クリス・ヒプキンス]]
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<!-- Green -->| image3 = [[File:James Shaw and Marama Davidson 2023 (composite).jpg|120px]]
| leader3 = [[:en:James Shaw (New Zealand politician)|ジェームズ・ショウ]] <br /> [[:en:Marama Davidson|マラマ・デイヴィッドソン]]
| party3 = [[緑の党 (ニュージーランド)|緑の党]]
| colour3 = 008000
| leader_since3 = [[:en:2015 Green Party of Aotearoa New Zealand male co-leadership election|2015年5月30日]]<br />[[:en:2018 Green Party of Aotearoa New Zealand female co-leadership election|2018年4月8日]]
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<!-- ACT -->| image4 = {{CSS image crop|Image =David Seymour (cropped).jpg|bSize = 170|cWidth = 120|cHeight = 160|oTop = 15|oLeft = 28}}
| leader4 = [[:en:David Seymour (New Zealand politician)|デイヴィッド・シーモア]]
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<!-- NZ First -->| image5 = {{CSS image crop|Image = Winston Peters, 2019.jpg|bSize = 130|cWidth = 120|cHeight = 160|oTop = 0|oLeft = 4}}
| leader5 = [[ウインストン・ピータース]]
| leader_since5 = 1993年7月18日
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| leaders_seat5 = ''なし''
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<!-- Māori/TPM -->| image6 = <div aria-hidden="true" style="width:115px;"><span style="line-height:155px;word-break:keep-all;text-align:center;font-family:serif;font-size: 30px;font-weight:bold;">m<span style="color: #d9001d;">a</span><span style="margin-left:-1ex;">‾</span><span style="color: #d9001d;margin-right:-2px;margin-left: -5px;">-</span><span>o</span><span style="color: #d9001d;margin-left: -16px;margin-right: 3px;">•</span>ri</span></div>
| leader6 = [[:en:Debbie Ngarewa-Packer|デビー・ガレワ=パッカー]] <br/>[[:en:Rawiri Waititi|ラウィリ・ワイティティ]]
| leader_since6 = 2020年4月15日<br>2020年10月28日
| party6 = [[マオリ党]]
| colour6 = 800000
| leaders_seat6 = [[:en:Party-list proportional representation|比例代表]] <br/>[[:en:Waiariki (New Zealand electorate)|ワイアリキ区]]
| last_election6 = 2議席<br>1.17%
| seats_before6 = 2
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| seat_change6 = {{increase}} 2
| 1data6 = 106,589<br>3.89%<br>{{increase}} 1.73
| 2data6 = 87,973<br>3.08%<br>{{increase}} 1.91
<!-- Map -->| map_image = 2023 New Zealand general election - Results.svg
| map_size = 450px
| map_caption = 総選挙の地図<!-- Electorate results are shown on the left, Maori electorate results in the centre, and the list members on the right. -->|
<!-- Result -->
| title = [[ニュージーランドの首相|首相]]
| posttitle = 選出首相
| before_election = [[クリス・ヒプキンス]]
| before_party = [[ニュージーランド労働党|労働党]]
| after_election = [[クリストファー・ラクソン]]
| after_party = [[ニュージーランド国民党|国民党]]
| ongoing = no
}}
'''2023年ニュージーランド総選挙'''(2023ねんニュージーランドそうせんきょ、{{lang-en-short|2023 New Zealand general election}})は、[[2023年]][[10月14日]]に[[ニュージーランド]]で行われた[[ニュージーランドの議会|同国議会]]の[[代議院 (ニュージーランド)|代議院]]議員の[[総選挙]]である。
第54回[[ニュージーランドの議会|ニュージーランド議会]]([[:en:54th New Zealand Parliament|54th New Zealand Parliament]])[[代議院 (ニュージーランド)|代議院]]議員120人を選出するための総選挙である。
== 概要 ==
[[2020年ニュージーランド総選挙|2020年の選挙]]では、[[ジャシンダ・アーダーン]]首相率いる中道左派の[[ニュージーランド労働党|労働党]]が下院で過半数を獲得し、[[小選挙区比例代表併用制]]([[:en:1996 New Zealand general election|1996年]]導入)の下で初めて他の政党の支持なしで政権樹立が可能となった。であるにもかかわらず、労働党は依然として[[緑の党 (ニュージーランド)|緑の党]]と協力協定を結んでいた。 アーダーン首相{{仮リンク|ジャシンダ・アーダーンの辞任|en|Resignation of Jacinda Ardern|label=辞任}}後、2023年1月に[[クリス・ヒプキンス]]が首相に就任した。労働党政権の主な敵対者は、[[:en:David Seymour (New Zealand politician)|デイヴィッド・シーモア]]率いる[[ACT党]]の支援を受けた[[クリストファー・ラクソン]]いる中道右派の[[ニュージーランド国民党|国民党]]である。2大政党党首のファーストネームが同じであることを考慮して、この選挙はクリス対クリスとして宣伝されている<ref>{{Cite web |last=Vance |first=Andrea |date=9 September 2023 |title=Who is winning the battle of Chris vs Chris? |url=https://www.thepost.co.nz/a/politics/350069582/who-winning-battle-chris-vs-chris |access-date=2023-10-06 |website=www.thepost.co.nz}}</ref><ref>{{Cite news |date=2023-09-07 |title=Forget Jacinda-Mania, New Zealand Now Has Two Guys Called Chris |language=en |work=Bloomberg.com |url=https://www.bloomberg.com/news/articles/2023-09-07/forget-jacinda-mania-new-zealand-now-has-two-guys-called-chris |access-date=2023-10-06}}</ref>。[[ウインストン・ピータース]]率いる[[ニュージーランド・ファースト党]]は、2020年に失脚した後、世論調査に基づいて議会に復帰する可能性が高い<ref>{{cite news |title=Election 2023: Kingmaker hopeful Winston Peters vows National, ACT 'can't and won't' form a Government without him |url=https://www.newshub.co.nz/home/politics/2023/09/election-2023-kingmaker-hopeful-winston-peters-vows-national-act-can-t-and-won-t-form-a-government-without-him.html |access-date=1 October 2023 |work=Newshub |date=30 September 2023}}</ref><ref>{{cite news |last1=Coughlan |first1=Thomas |title=Election 2023: Thomas Coughlan, NZ First’s Winston Peters back in kingmaker position according to latest poll |url=https://www.nzherald.co.nz/nz/politics/election-2023-deja-voodoo-nz-firsts-winston-peters-back-in-the-hot-seats/MHUMBKB5JVFUZDR573L3ILCJYA/ |access-date=1 October 2023 |work=New Zealand Hearld |date=26 September 2023}}</ref>。
== 選挙データ ==
=== 内閣 ===
* 選挙時:第6次労働党政権 ([[:en:Sixth Labour Government of New Zealand|Sixth Labour Government of New Zealand]])・ヒプキンス内閣
**首相:[[クリス・ヒプキンス]] (第41代) - 第18代[[ニュージーランド労働党]]党首
**与党:[[ニュージーランド労働党]]、[[緑の党 (ニュージーランド)|緑の党]]
* 選挙後:
**首相:
**与党:
=== 解散日 ===
*2023年9月8日
**第53回議会 ([[:en:53rd New Zealand Parliament|53rd New Zealand Parliament]])
**会期:2020年11月25日 - 2023年9月8日
=== 投票日 ===
* 2020年10月14日
=== 改選数 ===
* [[代議院 (ニュージーランド)|代議院]]:120
** 小選挙区:71
** 比例代表:49
=== 選挙制度 ===
* [[小選挙区比例代表併用制]]
; 選挙権
# 満18歳以上のニュージーランド国民、またはニュージーランドに12ヶ月以上永住している外国人
; 被選挙権
: 満18歳以上のニュージーランド国民
== 選挙運動 ==
=== 党派別立候補者 ===
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=== 世論調査 ===
{{multiple image|align=center
|image1 = Opinion polling for the 2023 New Zealand election.svg
|width1 = 900
|caption1 = 2023年ニュージーランド総選挙のために実施された政党別支持率のグラフ。
}}
== 選挙結果 ==
{| class="wikitable" style="text-align:right;"
|+ <span style="font-size:120%">{{flagicon|NZL}} '''2023年ニュージーランド[[代議院 (ニュージーランド)|代議院]]総選挙'''</span>
|-
|+{{small|(2023年10月14日施行)}}<ref>{{cite web |url= https://www.electionresults.govt.nz/electionresults_2023/|title= 2023 General Election - Official Result |website= ElectionResults.govt.nz |publisher= [[:en:Electoral Commission (New Zealand)|Electoral Commission]] |access-date=2023年11月9日 |date= 3 November 2023}}</ref>
|-
| colspan=12 align=center| <!-- [[File:NZ House 2023.svg|300px]] -->
|- style="text-align:center;"
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! rowspan=2 | 増減
|- style="text-align:center;"
! 得票数
! 得票率<br>(%)
! 増減<br>(%)
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! 得票数
! 得票率<br>(%)
! 増減<br>(%)
! 議席数
|-
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|-
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|-
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| style="text-align:left;"|[[緑の党 (ニュージーランド)|緑の党]]
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|-
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|-
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|-
| bgcolor=maroon|
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|-
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|
|
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|-
| style="background-color:#ffffff" |
| style="text-align:left;" |未届出政党
| —
| —
| —
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|
|
|
|
|
|
|-
| bgcolor=silver|
| style="text-align:left;" |無所属
| —
| —
| —
| —
| 34,277
| 1.25
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|
|
|
|-
! colspan=2 style="text-align:left;" | 有効票数
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!
!
!
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|-
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|
|
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|
|
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|-
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|
|
!
|
|
|
| Colspan=3 |
|-
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|
|
|
!
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| —
| —
| Colspan=3 |
|-
! colspan=2 style="text-align:left;" | 合計
! 2,884,119
! 100.00
!
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! 2,781,056
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!
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! 122
!
|-
| colspan=2 style="text-align:left;" | 有権者数・投票率
|
|
|
!
|
|
|
| Colspan=3 |
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[ニュージーランドの議会]] - [[代議院 (ニュージーランド)]]
* [[ニュージーランドの政党別の国会議員数]]
== 参考文献 ==
{{節stub}}
== 外部リンク ==
* [https://vote.nz/2023-general-election/about/2023-general-election/ 2023 General Election Overview|Vote NZ] - ニュージーランド選挙管理委員会:2023年総選挙概要 {{en icon}}
{{ニュージーランドの選挙}}
{{デフォルトソート:にゆうしいらんとそうせんきよ2023}}
[[Category:ニュージーランドの選挙|そうせんきよ2023]]
[[Category:2023年のニュージーランド|そうせんきよ]]
[[Category:2023年の選挙]]
[[Category:2023年10月]] | 2023-10-12T07:36:31Z | 2023-12-12T03:02:18Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/2023%E5%B9%B4%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%B7%8F%E9%81%B8%E6%8C%99 |
4,840,555 | 十三月紅夜 | 十三月 紅夜(じゅうさんがつ こうや)は、日本の女優。モデル、歌手、アートディレクター、造形作家。虚飾集団廻天百眼での通り名は【燦爛たる魔女】。
ATELIER十三月主宰。(小道具製作・特効・操演・舞台美術・美粧・身体装飾・アートディレクション等)
虚飾集団廻天百眼所属。(女優・小道具・特効・操演)
ACM:::コアメンバー(アートディレクション・歌唱・美術・造形・美粧・照明)
もらって一番嬉しい差し入れは【お手紙】。
舞台に立つ時以外は基本的に眼鏡である。(現在はBVLGARI)
胸が小さいことを気にしている。
料理好き。
好きなブランドはJean Paul Gaultierで、鞄はドクターバック、財布はNew Roseシリーズのボルドーを十五年以上愛用している。
香水もまたJean Paul Gaultierを普段から愛用。最近は『SCANDAL』率が高く、ATELIER十三月の通販SHOPで買い物をした時に香るのもこの香水であるという。他にも『Classique』も高頻度で使用している。
香水は舞台の役毎に、その役に合ったものにするのが好み。(廻天百眼 舞台『悦楽乱歩遊戯』ではJean Paul Gaultierの『Classique』。)
甘いラム酒と薔薇の花が好き。
一番好きなラム酒は『ロン・サカパ XO』。
肉(特に生肉や内臓)が好きであまり野菜を食べない。
お気に入りの煙草はechoで、10年以上吸っている。
ひとりでBARに行くこと、美味しいものを食べることが好き。
2022年にアコースティックギターを始める。(作詞作曲楽曲がACM:::『Wrsona』の特典として収録されている)
祖父と母は教師であり、祖父は西邑卓哲氏(ACM:::/FOXPILL CULT)の父に教えていたことがある。
一歳年下の妹がいる。2023年6月、男の子が生まれ、伯母になる。
コルセット愛好家であり、近年一番よく着用しているコルセットはPureOneCorsetWorksの[JFU-3]。
活発な幼少期を過ごしており、男子に混ざって遊ぶことが多かった。
実家の子猫(4匹)が木に登って降りられなくなっているところを救出したことがある。
小学生の時は学級委員や応援団長、高校生時代も生徒会に所属したり文化祭や体育祭の実行委員を引き受けるなど、自称お祭り女である。
小学生の頃のマラソン大会では女子3位、徒競走の選手であったことから運動神経は良いとみられる。
今までに2回、真横で消火器が暴発している。
全裸の時に限ってよく地震が起こる。
鳩がおでこにぶつかってきた事がある。
ゲームセンターで、美少女フィギュアのスカートの中を覗こうとしていた。
家出をして捜索願を出されており、高等学校の入学式に参加していない。
高校生の時、校則で禁止されていたニーソックスを意地でも履いていた。
高校生の頃から着ているスカジャンが、忌野清志郎さんとお揃いだった。
神奈川県小田原市風祭のうなぎ亭【友栄】(ともえい)に、中学生の頃から家族で通っている。
2021年9月、伝説のイベント 『ナチールのドラァグ・レース』(友人 加々見千懐の誕生日パーティーである)を企画。友人を集め、無観客で開催された。優勝クイーンとなる。(クイーン名は 『レディ・ローズ』)
また同年9月、紅日毬子の要望を受け、サプライズで友人を集めて熱海伊豆への誕生日旅行を企画するなど、友人への甲斐性を見せることが多い。
ACM:::LIVE時に着用しているスーツは、十三月紅夜活動10周年の際、ジョジョーフ氏とのコラボレーションで製作したオートクチュールである。
初期ACM:::のマイクスタンド他、美術や小道具も製作していると共に、ライブ時の西邑卓哲氏のメイクも行い、衣裳のディレションも手掛けている。
ACM:::のLIVE中、たびたび西邑卓哲氏に激突されており、故意ではないかとの噂もある。2023年 10月8日(日) 池袋手刀・ジャパン死神サミット2023(ACM:::初配信LIVEの映像でも確認できる)
揚州商人に週4で通っていた時期がある。最推しメニューは豚南蛮(2023年現在はない商品)。
密かにご当地モケケを集めている。
大変妹思いであり、妹の結婚式の装飾やドレス作りに奮闘していた。ドレスの試着には14店舗付き合っている。
虚飾集団廻天百眼の元劇団員 金原沙亜弥(現 加々見千懐)と仲が良い。
大の猫好きで実家で猫を飼っているが、極度の猫アレルギーの為、マスクとアレルギーの薬が欠かせない。
湘南生まれ、湘南育ち。
10代〜20代前半までは(本人曰く「お遊びで」)バンド『Junkざ歪』のボーカリストやボディーアートアーティスト、ゴシック系ファッションブランドやコルセットブランドのモデル、KERA、Gothic & Lolita Bibleの読者モデルなどをしていた。 2009年、通っていたゴシック系クラブイベントTokyo Dark Castleにて桜井咲黒に声を掛けられ、それをきっかけに虚飾集団廻天百眼と出会う。2年の客演時代を経て、2011年正式入団。
女優として活躍するほか、小道具の作成や特効、操演、制作、物販やチケットの発送などを担い、メイクの監修をするなど、虚飾集団廻天百眼の劇団員として欠かせない人物となる。
西邑卓哲(ACM:::/FOXPILL CULT)が劇伴を手掛け、十三月紅夜が歌唱参加してからの虚飾集団廻天百眼のサウンドトラックやDVDは発売の度にディスクユニオンの週刊インディーズチャートにランクインしている。
2020年、自身のブランドATELIER十三月を立ち上げ、造形作品の販売やアーティストのプロデュース、作品の発表、美粧やディレクションを独立して手掛けるようになる。
2021年、西邑卓哲氏(ACM:::/FOXPILL CULT)の誘いを受け、総合芸術『ACM:::』にコアメンバーとして加入。初期は舞台美術や美粧を手掛けるが、それらも継続しつつ徐々にステージ上でもパフォーマンスをするようになる。(担当:ボーカル、照明、アートディレクター)
同年、入団10周年を記念して写真集『10th Anniv. ROOM 13』、ソロアルバム『10th Anniv. Theatre of the Lunatic!』を発売。イメージカクテルを池袋 BAR REALで発売。
7月25日(日)に 高円寺 U.F.O CLUBで、企画ライブ『10th Anniv. Theatre of the Lunatic!』を上演。その夜限りの【十三月紅夜BAND】を結成。(メンバーは Guitar 西邑卓哲(ACM:::/FOXPILL CULT)、Guitar 翠(ACM:::)、Drums Shintaro(MUNIMUNI/Palastleben)、Sax ナカムラルビイ(酢酸カーミン)、chorus なにわえわみ(劇団フェリーちゃん))。他出演は†13th Moon†、THE DIGITAL CITY JUNKIES、虚飾集団廻天百眼。
初のソロアルバム『10th Anniv. Theatre of the Lunatic!』はタワーレコード渋谷店にて大きく展開され、ディスクユニオンの週刊インディーズチャートは5位にランクインした。
2022年、ACM::: 1stアルバム『Wrsona』がディスクユニオンの週刊インディーズチャート1位にランクインする。(数量限定で「Limited Edition by ATELIER十三月」発売。)
2023年8月11日(金/祝) 十三月紅夜 presents BAR『ROOM13』初開催。@阿佐ヶ谷 BAR ドンドラモンド
2023年11月12日(日) 十三月紅夜 presents BAR『ROOM13』第2夜。@池袋 BAR REAL | [
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] | 十三月 紅夜は、日本の女優。モデル、歌手、アートディレクター、造形作家。虚飾集団廻天百眼での通り名は【燦爛たる魔女】。 ATELIER十三月主宰。(小道具製作・特効・操演・舞台美術・美粧・身体装飾・アートディレクション等) 虚飾集団廻天百眼所属。(女優・小道具・特効・操演) ACM:::コアメンバー(アートディレクション・歌唱・美術・造形・美粧・照明) | {{複数の問題
|一次資料=2023年10月
|独自研究=2023年10月
|特筆性=2023年10月|分野=人物
|wikify=2023年10月
|雑多な内容の箇条書き=2023年10月
}}
{{ActorActress
| 芸名 = 十三月 紅夜
| ふりがな = じゅうさんがつ こうや
| 出生地 = {{JPN}} [[神奈川県]]
| 国籍 = {{JPN}}
| 身長 = 154cm
| 血液型 = O型
| 生年 = 1989
| 生月 = 6
| 生日 = 30
| 職業 = [[俳優]]
| ジャンル = [[舞台]]
| 活動期間 =
| 所属劇団 = [[虚飾集団廻天百眼]]
| 主な作品 =
| 備考 =
}}
'''十三月 紅夜'''(じゅうさんがつ こうや)は、[[日本]]の[[俳優|女優]]。[[モデル (職業)|モデル]]、[[歌手]]、[[アートディレクター]]、造形作家。[[虚飾集団廻天百眼]]所属。通り名は【燦爛たる魔女】。
[[ATELIER十三月]]主宰。<ref>{{Cite web |title=ATELIER十三月 |url=http://atelier13thmoon.com/about.html |website=atelier13thmoon.com |access-date=2023-10-12}}</ref>(小道具製作・特効・操演・舞台美術・美粧・身体装飾・アートディレクション等)
[[虚飾集団廻天百眼]]所属。<ref>{{Cite web |title=虚飾集団 廻天百眼 - 登場人物 |url=http://www.kaitenhyakume.com/members.php |website=www.kaitenhyakume.com |access-date=2023-10-12}}</ref>(女優・小道具・特効・操演)
[[ACM:::]]コアメンバー<ref>{{Cite web |title=ACM::: official biography |url=http://a-concrete-mur.com/bio.html |website=a-concrete-mur.com |access-date=2023-10-12}}</ref>(アートディレクション・歌唱・美術・造形・美粧・照明)
== 来歴 ==
湘南生まれ、湘南育ち。
10代〜20代前半までは(本人曰く「お遊びで」)バンド『Junkざ歪』のボーカリストやボディーアートアーティスト、ゴシック系ファッションブランドやコルセットブランドのモデル、[[KERA]]、[[Gothic & Lolita Bible]]の[[読者モデル]]などをしていた。 2009年、通っていたゴシック系クラブイベントTokyo Dark Castleにて桜井咲黒に声を掛けられ、それをきっかけに[[虚飾集団廻天百眼]]と出会う。2年の客演時代を経て、2011年正式入団。
女優として活躍するほか、小道具の作成や特効、操演、制作、物販やチケットの発送などを担い、メイクの監修をするなど、[[虚飾集団廻天百眼]]の劇団員として欠かせない人物となる。
西邑卓哲(ACM:::/[[FOXPILL CULT]])が劇伴を手掛け、十三月紅夜が歌唱参加してからの[[虚飾集団廻天百眼]]のサウンドトラックやDVDは発売の度に[[ディスクユニオン]]の週刊インディーズチャートにランクインしている。
2020年、自身のブランド[[ATELIER十三月]]を立ち上げ、造形作品の販売やアーティストのプロデュース、作品の発表、美粧やディレクションを独立して手掛けるようになる。
2021年、西邑卓哲氏(ACM:::/[[FOXPILL CULT]])の誘いを受け、総合芸術『ACM:::』にコアメンバーとして加入。初期は舞台美術や美粧を手掛けるが、それらも継続しつつ徐々にステージ上でもパフォーマンスをするようになる。(担当:ボーカル、照明、アートディレクター)
同年、入団10周年を記念して写真集『10th Anniv. ROOM 13』、ソロアルバム『10th Anniv. Theatre of the Lunatic!』を発売。イメージカクテルを池袋 BAR REALで発売。
7月25日(日)に 高円寺 U.F.O CLUBで、企画ライブ『10th Anniv. Theatre of the Lunatic!』を上演。その夜限りの【十三月紅夜BAND】を結成。(メンバーは Guitar 西邑卓哲([[ACM:::]]/[[FOXPILL CULT]])、Guitar 翠([[ACM:::]])、Drums Shintaro([[MUNIMUNI]]/[[Palastleben]])、Sax ナカムラルビイ([[酢酸カーミン]])、chorus なにわえわみ([[劇団フェリーちゃん]]))。他出演は[[†13th Moon†]]、[[THE DIGITAL CITY JUNKIES]]、[[虚飾集団廻天百眼]]。
初のソロアルバム『10th Anniv. Theatre of the Lunatic!』は[[タワーレコード]]渋谷店にて大きく展開され、[[ディスクユニオン]]の週刊インディーズチャートは5位にランクインした。
2022年、ACM::: 1stアルバム『Wrsona』が[[ディスクユニオン]]の週刊インディーズチャート1位にランクインする。(数量限定で「Limited Edition by ATELIER十三月」発売。)
2023年8月11日(金/祝) 十三月紅夜 presents BAR『ROOM13』初開催。@阿佐ヶ谷 BAR ドンドラモンド
2023年11月12日(日) 十三月紅夜 presents BAR『ROOM13』第2夜。@池袋 BAR REAL
== エピソード ==
活発な幼少期を過ごしており、男子に混ざって遊ぶことが多かった。
実家の子猫(4匹)が木に登って降りられなくなっているところを救出したことがある。<ref>{{Cite web |title=https://twitter.com/jusangatsukouya?s=21&t=N_Wf7ekKZs5z6xNtS06ftg |url=https://twitter.com/jusangatsukouya?s=21&t=N_Wf7ekKZs5z6xNtS06ftg |website=X (formerly Twitter) |access-date=2023-10-18 |language=ja}}</ref>
料理が得意である。
小学生の時は学級委員や応援団長、高校生時代も生徒会に所属したり文化祭や体育祭の実行委員を引き受けるなど、自称お祭り女である。<ref>{{Cite web |title=https://twitter.com/jusangatsukouya?s=21&t=N_Wf7ekKZs5z6xNtS06ftg |url=https://twitter.com/jusangatsukouya?s=21&t=N_Wf7ekKZs5z6xNtS06ftg |website=X (formerly Twitter) |access-date=2023-10-18 |language=ja}}</ref>
小学生の頃のマラソン大会では女子3位、徒競走の選手であったことから運動神経は良いとみられる。
今までに2回、真横で消火器が暴発している。<ref>{{Cite web |title=https://twitter.com/jusangatsukouya?s=21&t=N_Wf7ekKZs5z6xNtS06ftg |url=https://twitter.com/jusangatsukouya?s=21&t=N_Wf7ekKZs5z6xNtS06ftg |website=X (formerly Twitter) |access-date=2023-10-18 |language=ja}}</ref>
全裸の時に限ってよく地震が起こる。<ref>{{Cite web |title=https://twitter.com/jusangatsukouya?s=21&t=N_Wf7ekKZs5z6xNtS06ftg |url=https://twitter.com/jusangatsukouya?s=21&t=N_Wf7ekKZs5z6xNtS06ftg |website=X (formerly Twitter) |access-date=2023-10-18 |language=ja}}</ref>
鳩がおでこにぶつかってきた事がある。<ref>{{Cite web |title=https://twitter.com/jusangatsukouya?s=21&t=N_Wf7ekKZs5z6xNtS06ftg |url=https://twitter.com/jusangatsukouya?s=21&t=N_Wf7ekKZs5z6xNtS06ftg |website=X (formerly Twitter) |access-date=2023-10-18 |language=ja}}</ref>
ゲームセンターで、美少女フィギュアのスカートの中を覗こうとしていた。<ref>{{Cite web |title=https://twitter.com/akahimariko?s=21&t=N_Wf7ekKZs5z6xNtS06ftg |url=https://twitter.com/akahimariko?s=21&t=N_Wf7ekKZs5z6xNtS06ftg |website=X (formerly Twitter) |access-date=2023-10-18 |language=ja}}</ref>
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2021年9月、伝説のイベント 『ナチールのドラァグ・レース』(友人 加々見千懐の誕生日パーティーである)を企画。友人を集め、無観客で開催された。優勝クイーンとなる。(クイーン名は 『レディ・ローズ』)<ref>{{Cite web |title=https://twitter.com/jusangatsukouya?s=21&t=N_Wf7ekKZs5z6xNtS06ftg |url=https://twitter.com/jusangatsukouya?s=21&t=N_Wf7ekKZs5z6xNtS06ftg |website=X (formerly Twitter) |access-date=2023-10-18 |language=ja}}</ref>
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初期ACM:::のマイクスタンド他、美術や小道具も製作していると共に、ライブ時の西邑卓哲氏のメイクも行い、衣裳のディレクションも手掛けている。<ref>{{Cite web |title=https://twitter.com/jusangatsukouya?s=21&t=N_Wf7ekKZs5z6xNtS06ftg |url=https://twitter.com/jusangatsukouya?s=21&t=N_Wf7ekKZs5z6xNtS06ftg |website=X (formerly Twitter) |access-date=2023-10-18 |language=ja}}</ref>
ACM:::のLIVE中、たびたび西邑卓哲氏に激突されており、故意ではないかとの噂もある。2023年 10月8日(日) 池袋手刀・ジャパン死神サミット2023(ACM:::初配信LIVEの映像でも確認できる)
揚州商人に週4で通っていた時期がある。最推しメニューは豚南蛮(2023年現在はない商品)。
密かにご当地モケケを集めている。
大変妹思いであり、妹の結婚式の装飾やドレス作りに奮闘していた。ドレスの試着には14店舗付き合っている。
虚飾集団廻天百眼の元劇団員 金原沙亜弥(現 加々見千懐)と仲が良い。
大の猫好きで実家で猫を飼っているが、極度の猫アレルギーの為、マスクとアレルギーの薬が欠かせない。
祖父と母は教師であり、祖父は西邑卓哲氏(ACM:::/FOXPILL CULT)の父に教えていたことがある。
一歳年下の妹がいる。2023年6月、男の子が生まれ、伯母になる。
コルセット愛好家であり、近年一番よく着用しているコルセットはPureOneCorsetWorksの[JFU-3]。
== 人物 ==
もらって一番嬉しい差し入れは【お手紙】。
舞台に立つ時以外は基本的に眼鏡である。(現在はBVLGARI)
胸が小さいことを気にしている。
料理好き。
好きなブランドはJean Paul Gaultierで、鞄はドクターバック、財布はNew Roseシリーズのボルドーを十五年以上愛用している。
香水もまたJean Paul Gaultierを普段から愛用。最近は『SCANDAL』率が高く、ATELIER十三月の通販SHOPで買い物をした時に香るのもこの香水であるという。他にも『Classique』も高頻度で使用している。
香水は舞台の役毎に、その役に合ったものにするのが好み。(廻天百眼 舞台『悦楽乱歩遊戯』ではJean Paul Gaultierの『Classique』。)
甘いラム酒と薔薇の花が好き。
一番好きなラム酒は『ロン・サカパ XO』。
肉(特に生肉や内臓)が好きであまり野菜を食べない。
お気に入りの煙草はechoで、10年以上吸っている。
ひとりでBARに行くこと、美味しいものを食べることが好き。
2022年にアコースティックギターを始める。(作詞作曲楽曲がACM:::『Wrsona』の特典として収録されている)
== 出演・モデル ==
* [[虚飾集団廻天百眼]]「[[黒色サロス]]」 (2009年7月22日、[[都立井の頭恩賜公園]])-蝕の住人
* [[虚飾集団廻天百眼]]「[[御霊祭御祭騒]]」 (2009年11月7日〜22日、[[新宿シアターPOO]])-鵙
* [[虚飾集団廻天百眼]]「[[夢屋2010]]」 (2010年9月11日、[[池袋LIVE INN ROSA]])-クロユメクイ
* [[虚飾集団廻天百眼]] 「[[存ぜぬ快楽]]」 (2011年3月3日〜6日、[[ザムザ阿佐谷]])-安藤
* [[虚飾集団廻天百眼]]「[[少女椿]]」 (2011年10月13日〜17日、[[ザムザ阿佐谷]])-機械になったみどり
* [[虚飾集団廻天百眼]]「[[鬼姫]]」 (2012年4月19日〜23日、[[ザムザ阿佐谷]])-あぐり、ホトギ
* [[虚飾集団廻天百眼]]「[[少女椿]]」 (2012年11月6日〜12月2日、[[ザムザ阿佐谷]]/[[in→dependent theatre 2nd]])-機械になったみどり
* [[虚飾集団廻天百眼]]「[[奴婢訓]]」 (2013年8月23日〜8月27日、[[ザムザ阿佐谷]])-よだか
* [[虚飾集団廻天百眼]]「[[冥婚ゲシュタルト]]」 (2014年2月27日〜3月3日、[[ザムザ阿佐谷]])-影華
* [[虚飾集団廻天百眼]]「[[朧月記]]」 (2014年6月29日〜7月3日、[[駒場アゴラ劇場]])-豆腐屋
* [[劇団 海賊ハイジャック]]改名公演「[[自己オマージュ=シャウクロス]]」 (2015年1月15日〜22日、[[サンモールスタジオ]])-ラジヤ
* [[虚飾集団廻天百眼]]「[[屍のパレード]]」-翡翠
** 東京公演 (2015年10月7日〜10月12日、[[ザムザ阿佐谷]])
** 大阪公演 (2015年10月23日〜10月25日、[[independenttheatre 2nd]])
* [[Voyantroupe]]第2回本公演「[[アンジョルラス]]」 (2016年3月16日〜21日、[[サンモールスタジオ]])-ジョリー
* [[虚飾集団廻天百眼]]「[[冥婚ゲシュタルト]]」 (2016年6月14日〜20日、[[ザムザ阿佐谷]])-影華
* マーチラビット~SOUL VOICE~第3回公演「やわらかい元カレ」(2017年1月8日〜9日、マーチラビット)-カオル
* マーチラビット~SOUL VOICE~第3回公演 朗読劇「銀河鉄道の夜」(2017年1月8日〜9日、マーチラビット)-カンパネルラ
* [[虚飾集団廻天百眼]]「[[悦楽乱歩遊戯]]」 (2017年2月26日〜3月5日、[[ザムザ阿佐谷]])-黒蜥蜴
* [[Kαin]] ワンマンライブ「The Live Kaleidoscope 2017」(2017年5月1日、[[赤坂BLITZ]] )-パフォーマー
* [[聖地ポーカーズ魄/hack]] 舞台版「[[ハコオンナ]]」 (2017年8月9日〜13日、[[築地本願寺ブディストホール]])-紅月十三夜
*[[ツキヨミプロジェクト]]企画「[[雑踏の静寂〜黒川メイの脳感受信〜]]」(2017年9月22日〜24日/10月6日〜8日、[[新宿シアターPOO]])-楢橋工
* [[虚飾集団廻天百眼]]「[[殺しの神戯]]」 (2018年2月25日〜3月4日、[[ザムザ阿佐谷]])-歩き巫女のサロメ
* [[虚飾集団廻天百眼]]「[[闇を蒔く〜屍と書物と悪辣異端審問官〜]]」 (2019年2月3日〜2月11日、[[ザムザ阿佐谷]])-作家
* [[虚飾集団廻天百眼]]「[[不思議の国のアリス・オブザデッド]]」 (2020年1月28日〜2月3日、[[ザムザ阿佐谷]])-白兎
* [[虚飾集団廻天百眼]]「[[冥婚ゲシュタルト2020]]」 (2020年11月5日〜11月9日、[[ザムザ阿佐谷]])-影華
* [[虚飾集団廻天百眼]]「[[サバトへの出発]]」 (2022年9月10日〜11日、成田某所)-ベアトリクス
* [[虚飾集団廻天百眼]]「[[万物教会]]」 (2022年11月22日〜28日、[[ザムザ阿佐谷]])-タキオン
=== 映像作品 ===
* 映画「[[虎影]]」(2015年6月20日公開)-壺女
* 360°ホラーシリーズ [[VR]]“DEAD”THEATER「[[天獄処理工場]]」 (2016年10月17日配信開始)
* 廻天百眼短編映画集「[[屍のパレード]]」 (2018年10月26日公開)
=== MV ===
* [[リライゾ]]「マダラ蝶」
* [[FOXPILL CULT]]「レストランド」
* [[虚飾集団廻天百眼]] 「伝染性狂言ドン・カルメ」
* [[虚飾集団廻天百眼]] 「死の舞踏」
* [[DALLE]]「witch craft pictures」
* [[虚飾集団廻天百眼]] 「箱船」
* [[DALLE]]「Loyalty」
* [[虚飾集団廻天百眼]] 「カゴメカムゲノム」
* [[虚飾集団廻天百眼]] 「冥婚行進曲」
* [[虚飾集団廻天百眼]]「犯罪と宝石」
* [[虚飾集団廻天百眼]]「陰々滅滅幽々奈落」
* [[虚飾集団廻天百眼]] 「物狂う綺譚」
* [[虚飾集団廻天百眼]] 「緋色の万花鏡」
* [[虚飾集団廻天百眼]]「現し世の揺れ」
* [[虚飾集団廻天百眼]] 「天津罪と美欲の四魂合唱」
* [[虚飾集団廻天百眼]] 「神懸かりの縁起」
* [[シェルミィ]]「過食性障害嘔吐」
* [[虚飾集団廻天百眼]] 「闇が笑う」
* [[虚飾集団廻天百眼]]「幻想国家プラトニア」
* [[虚飾集団廻天百眼]] 「ハンプティダンプティ」
* [[虚飾集団廻天百眼]] 「多世界電子の確率波」
* [[生憎の雨。]] 「眠剤」
* '''十三月紅夜''' 「正体」
* [[キノコホテル]]「キネマ・パラノイア」
=== ファッションショウ・モデル ===
* [[STIGMATA]]
* [[La vie en rose by JAP工房]]
* [[Rituals by KENZO-A]]
* [[PureOneCorsetWorks]]
* [[KERA]]
* '''Gothic & Lolita Bible'''
* SRBGENk個展 『DANCING IN THE STREET』(2023年7月21日~8月6日、ヴァニラ画廊)-イラストモデル
== プロデュース ==
* なにわえわみソロコンサート Wamusica Ⅲ『 MILOMUS -ミロムス-』 (2022年3月12日、SUBTERRANEAN)-プロデュース/舞台美術/造形製作/衣裳/美粧
* BAR 珍獣保逝園-一部内装プロデュース/造形提供
== 裏舞台 ==
* [[日本工学院専門学校|日本工学院]] ミュージックカレッジ Presents 卒業LIVE2011「 HAPPY☆BEAT 」(出演:[[ベッキー|ベッキー♪♯]]、[[JURIAN BEAT CRISIS]]、[[Hinano|hinaco]] )(2011年1月16日、[[駒場アゴラ劇場|赤坂BLITZ]])-ボディーアートブース出展<ref>{{Cite web |title=十三月の通り雨 |url=http://akaiyoru.blog.shinobi.jp/ |website=akaiyoru.blog.shinobi.jp |access-date=2023-11-09}}</ref>
* [[虚飾集団廻天百眼]] 実験公演「臘月記」(2014年6月29日〜7月3日、[[駒場アゴラ劇場]])-小道具製作
* [[虚飾集団廻天百眼]] 劇場本公演「屍のパレード」(2015年10月7日〜12日、[[ザムザ阿佐谷]])-小道具製作
* [[虚飾集団廻天百眼]] 劇場本公演「屍のパレード」(2015年10月23日〜25日、[[independent theater 2nd]])-小道具製作
* [[虚飾集団廻天百眼]] 短編映画集 「屍のパレード」-小道具製作
* [[虚飾集団廻天百眼]] 劇場本公演「悦楽乱歩遊戯」(2017年2月26日〜3月5日、[[ザムザ阿佐谷]])-小道具/特効/操演監修、製作
* [[Kαin]] ワンマンライブ「The Live Kaleidoscope 2017」(2017年5月1日、[[赤坂BLITZ]] )-小道具/操演監修
* [[虚飾集団廻天百眼]]劇場本公演「殺しの神戯」(2018年2月25日〜3月4日、[[ザムザ阿佐谷]])-小道具/特効/操演監修、製作
* [[虚飾集団廻天百眼]] 劇場本公演「闇を蒔く~屍と書物と悪辣異端審問官~」(2019年2月3日〜11日、[[ザムザ阿佐谷]])-小道具/特効/操演監修
* [[激嬢ユニットバス]] 第7回公演「HOTEL孔雀」(2019年4月10日〜14日、[[池袋GEKIBA]])-衣裳 デザイン製作/小道具製作/グッズ製作
* ライブ「トコママン祭り-2019-」(2019年10月22日、[[池袋手刀]])-美粧
* [[虚飾集団廻天百眼]]劇場本公演 「不思議の国のアリス・オブザデッド」(2020年1月28日〜2月3日、[[ザムザ阿佐谷]])-小道具/特効/操演 監修/身体装飾/美粧監修
* [[FOXPILL CULT]] ワンマンライブ「Temple of Aliens」 (2020年2月28日、[[下北沢SHELTER]])-舞台美術/美粧/身体装飾
* [[FOXPILL CULT]] 企画「POTOLATCH DEAD vol.34」(2020年8月7日、[[下北沢SHELTER]])-舞台美術
* [[虚飾集団廻天百眼]]「多世界電子の確率波」Music Video-製作総指揮/監督/小道具/美粧
* [[虚飾集団廻天百眼]] 劇場本公演 「冥婚ゲシュタルト2020」(2020年11月5日〜9日、[[ザムザ阿佐谷]])-小道具/特効/操演監修/美粧監修
* [[月蝕歌劇団]] 第112回 劇場本公演「陰陽師 安倍晴明ー最終決戦ー」 (2020年12月10日〜16日、[[ザムザ阿佐谷]])-小道具提供
* [[ACM:::]]「EAD」Music Video-舞台美術/人形製作/小道具/美粧/身体装飾
* Wamusica Ⅱ~Winter and Wizard~(2021年12月31日、[[神楽坂THEGLEE]])-ビジュアルプロデュース/美粧
* 劇団ロオル presents mono drama live vol.1「ROLE」(2022年5月13日〜5月22日)、シアター711)-オブジェ製作
* Palastleben「Monaural」Music Video-美粧/ヘアメイク/照明
* なにわえわみ「考髄」Music Video-監督/撮影監督/美術/美粧/衣裳
* なにわえわみソロコンサート「MILOMUS」(2022年3月12日、サブテレニアン)-美粧/衣裳/舞台美術/小道具/プロデュース
* なにわえわみ出演ライブ「MILOMUS PARADE」(2022年7月29日、新宿MOTION)-美粧/衣裳/プロデュース
* なにわえわみ出演ライブ「Space Channel S」(2022年9月16日、DECABAR超)-美粧/衣裳/プロデュース
* SIGNALWORKS 舞台「兎小屋B100の経過観察〜不思議の国のアリスはお尻が突っかかって穴をくぐれない〜」(2022年12月28日〜31日、[[池袋シアターKASSAI]])-メイク/スタイリスト<ref>{{Cite web |title=新ビジュアル公開! {{!}} SIGNAL WORKS |url=http://signalworks.biz/2022/12/19/sample-post1-2/ |website=signalworks.biz |access-date=2023-11-09}}</ref>
* なにわえわみ出演ライブ「魔女華界」(2023年3月26日、新宿HEIST)-美粧/衣裳/プロデュース
* [[キノコホテル]]「キネマ・パラノイア」Music Video-美粧
* SIGNALWORKS 舞台「兎狩りC200の闘劇視察 Bunny Fight(ウサギ狩り) 」(10月25日~29日、[[池袋シアターKASSAI]])-ビジュアルアドバイザー<ref>{{Cite web |title=舞台 兎狩りC200の闘劇視察 Bunny Fight(ウサギ狩り) {{!}} SIGNAL WORKS |url=http://signalworks.biz/2023/09/01/c200/ |website=signalworks.biz |access-date=2023-11-09}}</ref>
== 脚注 ==
{{Reflist}}
<!--
<ref>{{Cite web |title=十三月紅夜X |url=https://twitter.com/jusangatsukouya?s=21&t=N_Wf7ekKZs5z6xNtS06ftg |website=X (formerly Twitter) |access-date=2023-10-17 |language=ja}}</ref>
-->
== 外部リンク ==
* {{Twitter|jusangatsukouya}}
* {{Instagram|kouya_juusangatsu}}
* [http://atelier13thmoon.com ATELIER十三月]
*[https://atelier13m.official.ec/ ATELIER十三月 SHOP]
* [http://www.kaitenhyakume.com/jk/ 十三月の通り雨]
* [http://akaiyoru.blog.shinobi.jp/ 十三月の通り雨]
{{Actor-substub}}
{{DEFAULTSORT:しゆうさんかつ こうや}}
[[Category:日本の女優]]
[[Category:存命人物]] | 2023-10-12T07:40:15Z | 2023-12-25T05:43:51Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%89%E6%9C%88%E7%B4%85%E5%A4%9C |
4,840,560 | 賀来村 | 賀来村(かくむら)は、大分県大分郡にあった村。現在の大分市の一部にあたる。
大分川、支流賀来川の流域に位置していた | [
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] | 賀来村(かくむら)は、大分県大分郡にあった村。現在の大分市の一部にあたる。 | {{日本の町村 (廃止)
| 廃止日 = 1955年2月1日
| 廃止理由 = 新設合併
| 廃止詳細 = [[稙田村]]、[[東稙田村]]、'''賀来村''' → [[大分町|大分村]]
| 現在の自治体 = [[大分市]]
| よみがな = かくむら
| 自治体名 = 賀来村
| 区分 = 村
| 都道府県 = 大分県
| 郡 = [[大分郡]]
| 面積 =
| 境界未定 =
| 人口 = 3946
| 人口の出典 = [[国勢調査 (日本)|国勢調査]]
| 人口の時点 = 1950年
| 隣接自治体 = [[挾間町|挾間村]]、稙田村、大分市
| 所在地 = 大分郡賀来村大字賀来
| 座標 =
| 位置画像 =
| 特記事項 =
}}
'''賀来村'''(かくむら{{R|変遷}}{{R|角川}})は、[[大分県]][[大分郡]]にあった[[村]]。現在の[[大分市]]の一部にあたる。
== 地理 ==
[[大分川]]、支流[[賀来川]]の流域に位置していた{{R|角川}}
== 歴史 ==
*[[1889年]](明治22年)4月1日、[[町村制]]の施行により、大分郡賀来村、中尾村、野田村、国分村、平横瀬村が合併して村制施行し、'''賀来村'''が発足<ref name=変遷>『市町村名変遷辞典』178頁。</ref><ref name=角川>『角川日本地名大辞典 44 大分県』248-249頁。</ref>。旧村名を継承した賀来、中尾、野田、国分、平横瀬の5大字を編成{{R|角川}}。
*[[1955年]](昭和30年)
**1月1日、大字賀来の一部を大分市に編入{{R|変遷}}。
**2月1日、大分郡稙田村、東稙田村と合併し、'''[[大分町|大分村]]'''を新設して廃止された{{R|変遷}}{{R|角川}}。
== 産業 ==
*農業
== 名所・旧跡 ==
*[[千代丸古墳]](国指定史跡){{R|角川}}
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* [[角川日本地名大辞典]] 44 大分県
* 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。
== 関連項目 ==
* [[大分県の廃止市町村一覧]]
{{デフォルトソート:かくむら}}
[[Category:大分郡]]
[[Category:大分市域の廃止市町村]]
[[Category:1889年設置の日本の市町村]]
[[Category:1955年廃止の日本の市町村]] | 2023-10-12T07:59:45Z | 2023-10-12T07:59:45Z | false | false | false | [
"Template:日本の町村 (廃止)",
"Template:R",
"Template:Reflist"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E6%9D%A5%E6%9D%91 |
4,840,564 | 平野林道 | 平野林道(ひらのりんどう)は、愛媛県西条市から横峰寺に行くための一般有料道路である。いしづち森林組合が管理・運営する。
また、冬季は全線で通行止となる。
出典:
※10名以上のマイクロバスは1名増すごとに大人370円、小人190円を加算します。 | [
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] | 平野林道(ひらのりんどう)は、愛媛県西条市から横峰寺に行くための一般有料道路である。いしづち森林組合が管理・運営する。 また、冬季は全線で通行止となる。 | '''平野林道'''(ひらのりんどう)は、[[愛媛県]][[西条市]]から[[横峰寺]]に行くための[[有料道路|一般有料道路]]である。いしづち森林組合が管理・運営する。
また、冬季は全線で通行止となる。
== 通行料金等 ==
出典:<ref>{{Cite web |title=いしづち森林組合 |url=http://ishi-mori.com/rindo-hirano/ |access-date=2023-10-12 |language=ja}}</ref>
; 通行料金
* 普通車:1850円
* 軽四乗用車:1450円
* 軽四トラック:750円
* マイクロバス(10人以下):3700円
* 自動二輪車:400円
※10名以上のマイクロバスは1名増すごとに大人370円、小人190円を加算。
; 通行時間
: 24時間いつでも通れるが、気象条件が悪いときは、夜間の利用は禁止される。
; 駐車場
: 自動車50台駐車可能。
== 脚注 ==
=== 出典 ===
{{reflist}}
== 関連項目 ==
* [[日本の一般有料道路一覧]]
* [[日本の林道一覧]]
{{DEFAULTSORT:ひらのりんとう}}
[[Category:西条市の交通]] | 2023-10-12T08:12:29Z | 2023-11-29T02:05:00Z | false | false | false | [
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"Template:Cite web"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%87%8E%E6%9E%97%E9%81%93 |
4,840,572 | 倉敷青果 | 倉敷青果株式会社(くらしきせいかかぶしきがいしゃ)は、倉敷地方卸売市場にて青果物の卸売業や、同市場内に整備されたカット野菜工場にてカット野菜の製造・販売業、及びクラカグループ内の事務業務全般を行っている。
2021年1月、倉敷地方卸売市場の青果卸売業者であった倉敷青果荷受組合の100%出資の子会社として設立される。
目的は企業組織の合理化・効率化を図る狙いで、組合組織であるがゆえの事業のやりにくさがあったためとしている。当初は2021年4月に事業譲渡を目指していたが、新型コロナウィルス感染拡大の影響を受け延期。翌年の2022年1月に倉敷青果荷受組合から事業譲渡した。
現在では倉敷地方卸売市場内業務全般を担っている。
事業譲渡後の2022年度の全国地方卸売市場青果取扱高調査では全国で14位(中国・四国地方では1位)である。 | [
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] | 倉敷青果株式会社(くらしきせいかかぶしきがいしゃ)は、倉敷地方卸売市場にて青果物の卸売業や、同市場内に整備されたカット野菜工場にてカット野菜の製造・販売業、及びクラカグループ内の事務業務全般を行っている。 | {{Infobox
|image = [[ファイル:Kurashikiseika-ichiba.jpg|260px]]<br />'''倉敷青果市場'''<br />〒710-0833<br />岡山県倉敷市西中新田525-21
|imagestyle = padding:1em;
|label1 = 代表取締役社長
|data1 = 冨本尚作<ref name="gaiyou">{{Cite web|url= https://kuraka-g.com/gaiyou/|title= クラカグループ会社概要|accessdate=2023-10-05}}</ref>
|label2 = 従業員数
|data2 = 337名(2023年4月時点)<ref name="gaiyou">{{Cite web|url= https://kuraka-g.com/gaiyou/|title= クラカグループ会社概要|accessdate=2023-10-05}}</ref>
|label5 = 外部リンク
|data5 = https://kuraka-g.com/
}}
'''倉敷青果株式会社'''(くらしきせいかかぶしきがいしゃ)は、倉敷地方卸売市場にて[[青果物]]の[[卸売]]業や、同市場内に整備されたカット野菜工場にて[[カット野菜]]の製造・販売業、及び[[クラカグループ]]内の[[事務]]業務全般を行っている。
== 概要 ==
2021年1月、倉敷地方卸売市場の青果卸売業者であった[[倉敷青果荷受組合]]の100%出資の子会社として設立される。
目的は企業組織の合理化・効率化を図る狙いで、組合組織であるがゆえの事業のやりにくさがあったためとしている。当初は2021年4月に事業譲渡を目指していたが、[[新型コロナウィルス]]感染拡大の影響を受け延期。翌年の2022年1月に[[倉敷青果荷受組合]]から[[事業譲渡]]した。
現在では倉敷地方卸売市場内業務全般を担っている<ref>{{PDFlink|[https://kuraka-g.com/pdf/20211209shokuhinshinbun.pdf 2021年12月9日 食品市場新聞 来年1月に体制を移行]}}</ref>。
[[事業譲渡]]後の2022年度の全国[[地方卸売市場]]青果取扱高調査では全国で14位([[中国・四国地方]]では1位)である<ref>{{PDFlink|[https://kuraka-g.com/pdf/20230619noukei-shinbun.pdf 2023年6月19日 農経新聞 2022年度全国地方卸売市場青果取扱高調査]}}</ref>。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{DEFAULTSORT:くらしきせいか}}
[[Category:倉敷市の企業]]
[[Category:2021年設立の企業]] | 2023-10-12T08:42:53Z | 2023-10-30T12:54:14Z | false | false | false | [
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"Template:PDFlink",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%89%E6%95%B7%E9%9D%92%E6%9E%9C |
4,840,573 | 怠田ユニ | 怠田ユニは、日本のソロアイドル・タレント・作詞家。福島県出身。
2019年9月より2020年12月まで、女性アイドルグループ・回せ!グルーヴ開発部に所属していた。
主催ライブ | [
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] | 怠田ユニは、日本のソロアイドル・タレント・作詞家。福島県出身。 2019年9月より2020年12月まで、女性アイドルグループ・回せ!グルーヴ開発部に所属していた。 | {{存命人物の出典皆無|date=2023年10月}}
{{女性アイドル
| アイドル名 = 怠田 ユニ
| ふりがな = おこた ユニ
| 愛称 = おこたそ
| 生年 =
| 生月 = 10
| 生日 = 28
| 出身地 = {{JPN}}・[[福島県]]
| 血液型 = A
| 時点 =
| 身長 = 153
| 身体備考 =
| デビュー =
| ジャンル =
| 所属グループ = [[回せ!グルーヴ開発部]](2019年 - 2020年)
| 活動期間 =
| 活動備考 =
| 他の活動 =
| 公式サイト =
| 主な出演作 =
| 主な楽曲 =
| 受賞歴 =
}}'''怠田 ユニ'''(おこた ユニ)は、[[日本]]の[[ソロアイドル]]・[[タレント]]・[[作詞家]]。[[福島県]]出身。
2019年9月より2020年12月まで、[[女性アイドルグループ]]・[[回せ!グルーヴ開発部]]に所属していた。
== 略歴 ==
== 作品 ==
=== CD ===
==== シングル ====
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!#
!発売日
!タイトル
!収録曲
!備考
|-
!1
|2022年10月28日
|'''電子の戦士'''
|
# WAV WAV
# 未来スパーク
# Techno Blue
|
|}
== ライブ・イベント ==
=== 主催ライブ ===
* 怠田ユニデビュー&バースデイワンマンライブ「電子の戦士」(2022年10月28日、西永福JAM)シークレットゲスト:ネムレス
* 「怠田ユニpre.SAIKO SODA!! vol.1~Tokyo I love Idol Festival~ 」(2023年8月5日、DESEO mini with VILLAGE VANGUARD)
=== イベント・トークイベント ===
* [[吉田豪×南波一海の"このアイドルが見たい"|「吉田豪&南波一海の“このアイドルが見たい”]]2023子日月」(2022年12月26日)
* [[今川宇宙|「今川宇宙]]爆誕26周年振替祭 ついでに忘年会もやっちゃうよ年末大感謝SP」(2022年12月28日)
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references group="注"></references>
=== 出典 ===
<references group=""></references>
== 外部リンク ==
* {{Twitter|okotayuni}}
{{DEFAULTSORT:おこた ゆに}}
[[Category:福島県出身の人物]]
[[Category:存命人物]] | 2023-10-12T08:44:41Z | 2023-10-12T15:39:57Z | false | false | false | [
"Template:女性アイドル",
"Template:Twitter"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A0%E7%94%B0%E3%83%A6%E3%83%8B |
4,840,574 | オールスタープロチアリーダーズ | オールスタープロチアリーダーズ(Allstar Pro-cheerleaders)は、かつて存在した一般社団法人プロフェッショナルチアリーディング協会のチアリーダーズ。
2010年4月1日に創設。2022年3月31日に活動を休止し、ちょうど12年の歴史に幕を下ろしたが、元メンバーのイベント派遣事業は引き続き行っている。 | [
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] | オールスタープロチアリーダーズは、かつて存在した一般社団法人プロフェッショナルチアリーディング協会のチアリーダーズ。 2010年4月1日に創設。2022年3月31日に活動を休止し、ちょうど12年の歴史に幕を下ろしたが、元メンバーのイベント派遣事業は引き続き行っている。 | {{スポーツクラブ
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|原語表記 = オールスタープロチアリーダーズ
|愛称 = プロチア
|競技種目 = [[チアリーダー|チアリーディング]]
|創設年 = [[2010年]][[4月1日]]
|代表者 = [[齋藤佳子]]
|HP= https://pro-cheer.com/allstar/
}}
'''オールスタープロチアリーダーズ'''(Allstar Pro-cheerleaders)は、かつて存在した一般社団法人[[プロフェッショナルチアリーディング協会]]の[[チアリーダー|チアリーダーズ]]。
2010年4月1日に創設。2022年3月31日に活動を休止し、ちょうど12年の歴史に幕を下ろした<ref>{{cite web|date=2022-03-18|url=https://pro-cheer.com/news/vas_news|title=Virtual Allstar Pro-cheerleaders 活動休止のお知らせ|publisher=一般社団法人プロフェッショナルチアリーディング協会|accessdate=2023-10-12}}</ref>が、元メンバーのイベント派遣事業は引き続き行っている。
== スタッフ ==
; 代表理事
* 2010- [[齋藤佳子]]
; エグゼクティブディレクター
* 2010- [[高橋里香|高橋りか]]
; ディレクター
* 2011- [[植村綾子]]
== 主なメンバー ==
* [[植村綾子]] (2010-2011)
* [[本田景子]] (2011-2012)
* [[平井絢野]] (2015-2017)
== 関連項目 ==
* 一般社団法人プロフェッショナルチアリーディング協会がプロデュースしているチアリーダーズ<ref>{{cite web|url=https://pro-cheer.com/produce/|title=チアチームプロデュース|publisher=一般社団法人プロフェッショナルチアリーディング協会|accessdate=2023-10-12}}</ref>
** [[STAR JETS]] ([[千葉ジェッツふなばし]])
** [[B-ROSE]] ([[横浜ビー・コルセアーズ]])
** [[Fire Girls]] ([[三遠ネオフェニックス]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [https://pro-cheer.com/ 一般社団法人プロフェッショナルチアリーディング協会]
* [https://pro-cheer.com/allstar/ オールスタープロチアリーダーズ]
*[https://ameblo.jp/procheer-as/ Allstar Pro-Cheerleadersオフィシャルブログ]
{{DEFAULTSORT:おおるすたあふろちありいたあす}}
[[Category:チアリーディング]] | 2023-10-12T08:53:45Z | 2023-10-12T09:06:38Z | false | false | false | [
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"Template:脚注ヘルプ",
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4,840,576 | 矢野一樹 | 矢野 一樹(やの かずき、1955年〈昭和30年〉12月16日 - )は、日本の海上自衛官。日本安全保障戦略研究所上席研究員、防人と歩む会理事長。第19代潜水艦隊司令官、三菱重工顧問を歴任。最終階級は海将。防大22期。
愛媛県今治市出身。防衛大学校第22期卒業。海上自衛隊幹部学校指揮幕僚課程修了。アメリカ合衆国国防大学修士(国家資源管理)。
海上幕僚監部教育課長、防衛大学校訓練部長、大湊地方総監部幕僚長、海上幕僚監部装備部長を経て、第19代潜水艦隊司令官。2013年(平成25年)8月、海上自衛隊退官。
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] | 矢野 一樹は、日本の海上自衛官。日本安全保障戦略研究所上席研究員、防人と歩む会理事長。第19代潜水艦隊司令官、三菱重工顧問を歴任。最終階級は海将。防大22期。 | {{基礎情報 軍人
| 氏名 = 矢野 一樹
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}}'''矢野 一樹'''(やの かずき、[[1955年]]〈[[昭和]]30年〉[[12月16日]] - )は、[[日本]]の[[海上自衛官]]。日本安全保障戦略研究所上席研究員、[[防人と歩む会]]理事長。第19代[[潜水艦隊]]司令官、[[三菱重工]]顧問を歴任。最終階級は[[海将]]。[[防衛大学校|防大]]22期。
== 経歴 ==
[[愛媛県]][[今治市]]出身。[[防衛大学校]]第22期卒業<ref name=":0">{{Cite web |title=yanokazuki-intromenue |url=https://www.ssri-j.com/About/Researcher/yanokazuki-intromenue.html |website=www.ssri-j.com |access-date=2023-10-12}}</ref>。[[海上自衛隊幹部学校]][[指揮幕僚課程]]修了<ref name=":0" />。アメリカ合衆国[[国防大学 (アメリカ合衆国)|国防大学]]修士(国家資源管理)<ref name=":0" />。
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== 著作 ==
* [[上野英詞]]・[[川村純彦]]・[[髙井晉]]・[[樋口譲次]]・矢野一樹・[[用田和仁]]共著『中国の海洋侵出を抑え込む 日本の対中防衛戦略』(2017年、国書刊行会)
* [[渡部悦和]]・[[尾上定正]]・[[小野田治]]・矢野一樹共著『台湾有事と日本の安全保障 日本と台湾は運命共同体だ』(2020年、ワニブックス)
* [[小川清史]]・[[小野田治]]・[[邱伯浩]]・[[髙井晉]]・[[樋口譲次]]・矢野一樹・[[矢野義昭]]共著『台湾・尖閣を守る「日米台連携メカニズム」の構築』など
== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
* [https://www.ssri-j.com/About/Researcher/yanokazuki-intromenue.html 矢野一樹 - 日本安全保障戦略研究所]
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4,840,577 | ラエル | ラエル(Raël)ことクロード・モーリス・マルセル・ボリロン(Claude Maurice Marcel Vorilhon、 1946年9月30日 - )は、フランスのスポーツ・ジャーナリストであり、世界的なUFO宗教であるラエリアン・ムーブメント(ラエリズム)の創設者である。
ラエリズムを創始する前には、本名のクロード・ボリロンの名前でスポーツカー・ジャーナリストをしていた。1973年12月13日にエロヒムと名乗る宇宙人と出会ったことがきっかけでラエリアン・ムーブメントを創始し、「ラエル」と名乗り始めた。その後、「ヤハウェ」と呼ばれる存在との出会いを詳述した本を出版した。それ以来30年以上にわたり、ラエリズムに関する著書を多数執筆し、そのプロモーションのために世界各地を訪れている。
ボリロンはフランス・アリエ県ヴィシーで1946年9月30日に生まれた。母方の祖母のいるアンベールで育ったが、その祖母は無神論者だった。ボリロンの父はユダヤ人で、母は「敬虔な無神論者」だった。ボリロンはル・ピュイ=アン=ヴレのカトリック寄宿学校に入学したが、洗礼を受けずにコミュニオンに参加したことが大問題となった。両親はボリロンを寄宿学校から退学させ、アンベールの寄宿学校に入学させた。後にボリロンは、ユグノーの子孫が教会から賠償金を受け取ることを提唱した。
ボリロンは15歳の時に寄宿学校から逃げ出し、ヒッチハイクでパリに向かって、そこで3年間、路上やカフェ、キャバレーなどで音楽を演奏して生活していた。ラジオ・ディレクター、ルシアン・モリス(フランス語版)にスカウトされてプロの歌手となり、ラジオで人気が出た。ボリロンは「クロード・セラー」(Claude Celler)の名前でシングルを6枚リリースした。ボリロンはベルギーの歌手ジャック・ブレルの歌に憧れ、ブレルの歌い方を真似ていた。ボリロンは、子供のころからの夢だったレーシングカーを買うためにお金を貯めていたが、1970年9月にモリスが自殺し、歌手としての道が突然閉ざされた。
ボリロンは、カーレースの世界に近づくため、スポーツジャーナリストとして働くことを決めた。ボリロンは看護師のマリー=ポール・クリスティーニ(Marie-Paul Cristini)と出会い、2人はクレルモン=フェランに移り住んだ。ボリロンは自分の出版社を立ち上げ、1971年5月にスポーツカー雑誌『オートポップ』を創刊した。『オートポップ』誌における新しい自動車のテストドライバーはボリロン自らが務め、それによってボリロンはカーレースの世界に入ることができた。
著書"Le Livre qui dit la vérité"(『真実を告げる書』)によれば、ボリロンは1973年12月13日に、フランス中部のクレルモン=フェラン近くにある火山のクレーターで初めて宇宙人と出会った。空飛ぶ円盤からエロヒムを名乗る異星人が現れ、フランス語で「ボリロンに会うためだけに(地球に)やって来た」と述べた。ラエルはこの異星人からメッセージを与えられ、このメッセージを地球人に伝えることがお前の使命だと告げられたという。この際、「エロヒムのメッセンジャー」を意味する「ラエル」と名づけられた。
この本によれば、2万5千年の高度な科学的進歩を遂げた異星人の科学者たちが地球に来て、地球上の全ての生物をDNA操作によって創造したという。この科学者たちは、「空から来た者たち」を意味する「エロヒム」と呼ばれていた。これまでに約40人の預言者がエロヒムから地球に遣わされたが、彼らのメッセージは人間によって歪められた。
ラエルは、この異星人たちが地球に戻ってきたときのために、中立地に異星人の居住用の大使館を建設し、人類の起源を世界に知らせる使命を与えられたと述べた。彼は、聖書などの聖典を新しい解釈をすることで、様々な謎が説明されたと述べた。ラエルは、1975年10月7日にエロヒムの1人とコンタクトし、別の惑星に連れていかれてブッダ、モーセ、イエス、ムハンマドと出会ったと述べた。2冊目の著書"Les extra-terrestres m'ont emmené sur leur planète"(『不死の惑星への旅』)では、この時に出会った聖人たちから受けた教えについて述べている。
1974年、ラエルは『オートポップ』誌の休刊を決め、同年9月に最終刊の34号が発行された。これ以降、ラエルはエロヒムから受けたメッセージを広めるための活動に専念した。最初の公開会議の直後、ラエルはMADECHを設立した。これは、ラエルの活動を支援する人々の集まりで、後に国際ラエリアン・ムーブメントとなった。
ラエルは、人類は働く必要のない、職業を持たない社会へ徐々に移行しつつあると考えている。これは人類の技術進歩によるものであり、人間は「働くように作られてない」からである。ラエルは、仕事は機械のためにあるのであり、一方で人間は創造し、考え、自らを豊かにするように作られていると述べている。
2001年の著書"Yes to Human Cloning"に、未来の科学技術に関するラエルの主張が多く書かれている。ラエルは、遺伝性疾患を回避し、社会の経済的負担を軽減できるとして、ヒトの遺伝的強化(英語版)を支持している。ラエルは、特定の人種や宗教を特に区別する必要はないと述べた。また、ナノテクノロジーによって、マイクロ分散発電(各家に発電所がある)や生体ロボットが可能になり、肉やサラダが機械で分子レベルで作れるようになると予想した。
ラエルは、遺伝子組換え食品が世界の飢餓をなくすための唯一の方法であると主張している。ラエルの著書『不死の惑星への旅』には、ナノテクノロジーによって植物の色を自在に変えることが可能になり、連れていかれた異星で、音楽に合わせて揺れたり色が変わったりする花を見せられたと書かれている。
元ラエリアンの中には、ボリロン(ラエル)の著作は盗作であると非難する者もいる。化学教育、無限、天才政治など、ラエルがよく主張する概念は、フランスの作家ジャン・センディの著書の中に全て含まれている。また、ラエルの著書『官能瞑想』の大部分は、ホセ・シルバが開発したシルバメソッドに由来すると主張されている。
ボリロンとラエリアン・ムーブメントに関して10年以上研究したメアリー・ペロキンは、著書"Raël, Voleur d'âmes : Biographie d'un menteur"(魂泥棒ラエル: 噓つきの伝記)の中で、研究成果を示して、ラエルが1950年代から1970年代初頭にかけて、ジャン・センディ、ブリンズリー・ルポア・トレンチ、ロベール・シャルー(英語版)などのUFOや古代宇宙飛行士説に関する著書のコンセプトを盗み取ったと主張した。ペロキンの著書では、ラエルの『ETとの遭遇』における対話が、ジョージ・アダムスキーによる1952年12月13日に宇宙人とコンタクトしたときの対話と酷似していることが示されている。
また、ラエルの主張の多くは、Oshoのものとも酷似している。ラエルが着ている白い衣装は、Oshoの衣装に酷似している。
1992年、ラエルはジャーナリストのクリストフ・デシャヴァンヌ(英語版)が司会のフランスのトーク番組"Ciel, mon mardi !"に出演した。番組の中では、神父、ソーシャルワーカー、心理学者がラエルの性的自由主義を批評した。元ラエリアンのジャン・パラガは、自身の妻子が囚人のように扱われ、ラエルにより家族が崩壊させられたと考えていた。パラガには麻薬密売や車泥棒の前科もあり、1992年8月にはラエルの射殺を計画していた。この番組に対し、世界中のラエリアンが抗議を寄せた。デシャヴァンヌは、これはラエルが「暴力の扇動」をしたとして、ラエルを提訴した。裁判所の和解により、ラエルは、テレビ局が公式に謝罪すれば、ラエリアンに対し抗議を止めるよう求めることに同意した。
2004年、ラエルはギー・A・ルパージュ(英語版)が司会のトーク番組"Tout le monde en parle"のケベック版の第1回に出演した。ラエルの民主主義やクローンに関する発言に対し、パネルメンバーの風刺画家セルジュ・シャプロー(英語版)がラエルを侮辱して首根っこをつかみ、ラエルは弟子たちと共に収録会場を去った。また、番組のゲストのケベック州議会議員ポーリーヌ・マロワ(英語版)(後のケベック州首相)がラエルを「非常識」と呼んだことに対し、ラエリアン・ムーブメントは謝罪を求めたが、マロワは拒否した。
ジャーナリストのステファン・バイラルジョンは、モントリオールの日刊紙『ル・ドゥヴォワール(英語版)』において、ラエリアン・ムーブメントは小児性愛者を擁護しており、「グル」は幼い女の子が好きだとある元ラエリアンが述べたと書いたことで、ラエルから訴えられた。交渉の末、同紙は、この告発は不当な中傷であり、ラエリアン・ムーブメントは常に小児性愛を非難してきたとするラエルからの書簡を掲載した。
1991年、ラエルはフランスのジャーナリスト、ジャン=イヴ・カシュガを名誉毀損で訴えた。ラエルは敗訴し、訴訟費用の支払いを命じられたが、支払いをしないまま、ラエルはカナダに移住した。
フラマリオン(英語版)のジャーナリスト、ジャック・コッタ(英語版)とパスカル・マルタンが、その著書の中でラエルの著作物を歪曲して引用したとして提訴され、1994年9月2日にパリ高等法院で、1996年10月1日にパリ控訴裁判所で有罪判決を受けた。2人は、賠償金1万フラン、訴訟費用1万3千フランの支払いと、当該書籍の既に印刷した版には訂正のステッカーを貼ること、以降の版には当該の記述を掲載しないことを命じられた。
ミリアム・アッサンは、「ラエルは汚職によりしばしば判決を受けた」と著書で主張したことにより、名誉毀損で訴えられた。アッサンは敗訴し、名誉毀損1件につき300フランと訴訟費用5千フランの支払い、および判決文を新聞に掲載することが命じられた。
1994年12月13日、『ル・メーヌ・リブレ(英語版)』紙のジェラール・ショルは、ラエリアン・ムーブメントが麻薬取引、売春、武器取引、ポルノビデオの販売から資金を得ていると主張したため名誉毀損で提訴され、ル・マン高等法院から有罪判決を受けた。ショルは賠償金1フランと訴訟費用3千フランの支払いを命じられ、ル・メーヌ・リブレ紙に判決文を掲載した。
2003年、『ル・ドロワ(英語版)』紙の同年1月23日のコラムにおける名誉毀損で、ラエルは同紙とコラムニスト、デニス・グラットンを提訴し、8万5千ドルの損害賠償を求めた。ラエルは敗訴し、2006年6月21日、ケベック高等裁判所は訴訟費用の支払いをラエルに命じた。
2003年、韓国の入国管理局は、クローンエイド(英語版)社との関わりを問題視して、ラエルの入国を拒否した。韓国国内で予定されていたセミナーは予定通り行われ、ラエルはオンラインで出演し、セミナーに参加した韓国のラエリアンに対して、保健福祉部(厚生省)の庁舎前で抗議活動をするように指示した。
2007年2月、スイスの葡萄農家とともに商業活動を始めようとしていたラエルは、政府当局からスイス・ヴァレー州での居住を拒否された。ラエルが提唱する性的自由や、性的快楽を得る方法の子供への教育の推進が公共的価値(英語版)を脅かす危険性があると判断されたためと、スイスではヒトのクローン作製が禁止されており、ラエルがクローンエイド社と関係があることが問題視されたためである。ラエルは、EUの裁判所への提訴を検討すると述べた。
ラエルは生涯に3回結婚している。
最初の妻は看護師のマリー=ポール・クリスティーニ(Marie-Paul Cristini)である。社会学者のスーザン・J・パーマーによれば、1987年にラエルがマリーの家の前に現れたとき、マリーはラエルがうつ病であると診断したという。
1980年代にラエルは日本で精力的に活動し、1987年に日本人女性の砂川リサと出会った。リサはすぐに、世界各地を旅するラエルに同行するようになった。1990年のカナダ放送協会のドキュメンタリー番組"They're Coming!"では、ラエルが4人の女性と一緒にいる姿が映し出され、リサはラエルと手をつないでいる。ラエルは1990年から1992年の間にリサと別れた。
3人目の妻は、母と祖母がラエリアン(ラエリアン・ムーブメントの信者)だったソフィー・ド・ニヴェルヴィル(Sophie de Niverville)である。ソフィーは15歳の時にラエリズムに入信し、翌年にはモントリオールの市役所でラエルと結婚した。その後離婚したが同居は続けており、2001年12月のパーマーとのインタビューで、ソフィーはラエルについて肯定的に述べた。
1994年、日本人のラエリアンがラエルにレーシングカーを提供した。ラエルがレースに出れば、ラエリアン・ムーブメントの宣伝になると考えたためである。ラエルは1990年代から2000年代初頭にかけてカーレースに出場したが、そのための資金のほとんどはヨーロッパや日本のラエリアンからのものだった。1997年のライム・ロック・パークで行われたGT1レースで3位に入賞、1999年のワトキンズ・グレン・インターナショナルで行われたFIA GT選手権第9戦で7位に入賞している。パーマーによれば、ラエルは2001年11月にカーレースからの引退を表明したが、それ以降もカーレースのビデオゲームを楽しんでいるという。 | [
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"text": "2004年、ラエルはギー・A・ルパージュ(英語版)が司会のトーク番組\"Tout le monde en parle\"のケベック版の第1回に出演した。ラエルの民主主義やクローンに関する発言に対し、パネルメンバーの風刺画家セルジュ・シャプロー(英語版)がラエルを侮辱して首根っこをつかみ、ラエルは弟子たちと共に収録会場を去った。また、番組のゲストのケベック州議会議員ポーリーヌ・マロワ(英語版)(後のケベック州首相)がラエルを「非常識」と呼んだことに対し、ラエリアン・ムーブメントは謝罪を求めたが、マロワは拒否した。",
"title": "批判と論争"
},
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"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "ジャーナリストのステファン・バイラルジョンは、モントリオールの日刊紙『ル・ドゥヴォワール(英語版)』において、ラエリアン・ムーブメントは小児性愛者を擁護しており、「グル」は幼い女の子が好きだとある元ラエリアンが述べたと書いたことで、ラエルから訴えられた。交渉の末、同紙は、この告発は不当な中傷であり、ラエリアン・ムーブメントは常に小児性愛を非難してきたとするラエルからの書簡を掲載した。",
"title": "批判と論争"
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"paragraph_id": 18,
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"text": "1991年、ラエルはフランスのジャーナリスト、ジャン=イヴ・カシュガを名誉毀損で訴えた。ラエルは敗訴し、訴訟費用の支払いを命じられたが、支払いをしないまま、ラエルはカナダに移住した。",
"title": "批判と論争"
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"text": "フラマリオン(英語版)のジャーナリスト、ジャック・コッタ(英語版)とパスカル・マルタンが、その著書の中でラエルの著作物を歪曲して引用したとして提訴され、1994年9月2日にパリ高等法院で、1996年10月1日にパリ控訴裁判所で有罪判決を受けた。2人は、賠償金1万フラン、訴訟費用1万3千フランの支払いと、当該書籍の既に印刷した版には訂正のステッカーを貼ること、以降の版には当該の記述を掲載しないことを命じられた。",
"title": "批判と論争"
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"text": "ミリアム・アッサンは、「ラエルは汚職によりしばしば判決を受けた」と著書で主張したことにより、名誉毀損で訴えられた。アッサンは敗訴し、名誉毀損1件につき300フランと訴訟費用5千フランの支払い、および判決文を新聞に掲載することが命じられた。",
"title": "批判と論争"
},
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"text": "1994年12月13日、『ル・メーヌ・リブレ(英語版)』紙のジェラール・ショルは、ラエリアン・ムーブメントが麻薬取引、売春、武器取引、ポルノビデオの販売から資金を得ていると主張したため名誉毀損で提訴され、ル・マン高等法院から有罪判決を受けた。ショルは賠償金1フランと訴訟費用3千フランの支払いを命じられ、ル・メーヌ・リブレ紙に判決文を掲載した。",
"title": "批判と論争"
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"text": "2003年、『ル・ドロワ(英語版)』紙の同年1月23日のコラムにおける名誉毀損で、ラエルは同紙とコラムニスト、デニス・グラットンを提訴し、8万5千ドルの損害賠償を求めた。ラエルは敗訴し、2006年6月21日、ケベック高等裁判所は訴訟費用の支払いをラエルに命じた。",
"title": "批判と論争"
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"text": "2003年、韓国の入国管理局は、クローンエイド(英語版)社との関わりを問題視して、ラエルの入国を拒否した。韓国国内で予定されていたセミナーは予定通り行われ、ラエルはオンラインで出演し、セミナーに参加した韓国のラエリアンに対して、保健福祉部(厚生省)の庁舎前で抗議活動をするように指示した。",
"title": "批判と論争"
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"text": "2007年2月、スイスの葡萄農家とともに商業活動を始めようとしていたラエルは、政府当局からスイス・ヴァレー州での居住を拒否された。ラエルが提唱する性的自由や、性的快楽を得る方法の子供への教育の推進が公共的価値(英語版)を脅かす危険性があると判断されたためと、スイスではヒトのクローン作製が禁止されており、ラエルがクローンエイド社と関係があることが問題視されたためである。ラエルは、EUの裁判所への提訴を検討すると述べた。",
"title": "批判と論争"
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"text": "ラエルは生涯に3回結婚している。",
"title": "結婚"
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"text": "最初の妻は看護師のマリー=ポール・クリスティーニ(Marie-Paul Cristini)である。社会学者のスーザン・J・パーマーによれば、1987年にラエルがマリーの家の前に現れたとき、マリーはラエルがうつ病であると診断したという。",
"title": "結婚"
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"text": "1980年代にラエルは日本で精力的に活動し、1987年に日本人女性の砂川リサと出会った。リサはすぐに、世界各地を旅するラエルに同行するようになった。1990年のカナダ放送協会のドキュメンタリー番組\"They're Coming!\"では、ラエルが4人の女性と一緒にいる姿が映し出され、リサはラエルと手をつないでいる。ラエルは1990年から1992年の間にリサと別れた。",
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"text": "3人目の妻は、母と祖母がラエリアン(ラエリアン・ムーブメントの信者)だったソフィー・ド・ニヴェルヴィル(Sophie de Niverville)である。ソフィーは15歳の時にラエリズムに入信し、翌年にはモントリオールの市役所でラエルと結婚した。その後離婚したが同居は続けており、2001年12月のパーマーとのインタビューで、ソフィーはラエルについて肯定的に述べた。",
"title": "結婚"
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"text": "1994年、日本人のラエリアンがラエルにレーシングカーを提供した。ラエルがレースに出れば、ラエリアン・ムーブメントの宣伝になると考えたためである。ラエルは1990年代から2000年代初頭にかけてカーレースに出場したが、そのための資金のほとんどはヨーロッパや日本のラエリアンからのものだった。1997年のライム・ロック・パークで行われたGT1レースで3位に入賞、1999年のワトキンズ・グレン・インターナショナルで行われたFIA GT選手権第9戦で7位に入賞している。パーマーによれば、ラエルは2001年11月にカーレースからの引退を表明したが、それ以降もカーレースのビデオゲームを楽しんでいるという。",
"title": "レーサーとしてのキャリア"
}
] | ラエル(Raël)ことクロード・モーリス・マルセル・ボリロンは、フランスのスポーツ・ジャーナリストであり、世界的なUFO宗教であるラエリアン・ムーブメント(ラエリズム)の創設者である。 ラエリズムを創始する前には、本名のクロード・ボリロンの名前でスポーツカー・ジャーナリストをしていた。1973年12月13日にエロヒムと名乗る宇宙人と出会ったことがきっかけでラエリアン・ムーブメントを創始し、「ラエル」と名乗り始めた。その後、「ヤハウェ」と呼ばれる存在との出会いを詳述した本を出版した。それ以来30年以上にわたり、ラエリズムに関する著書を多数執筆し、そのプロモーションのために世界各地を訪れている。 | {{Infobox philosopher
|name=ラエル
|native_name=Raël
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|birth_name = Claude Maurice Marcel Vorilhon
|birth_date = {{birth date and age|df=76|1946|9|30}}
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}}
'''ラエル'''(Raël{{efn|{{IPAc-en|r|eɪ|l}}; {{IPA-fr|ʁa.ɛl|lang}}}})こと'''クロード・モーリス・マルセル・ボリロン'''(Claude Maurice Marcel Vorilhon{{efn|{{IPA-fr|klod vɔ.ʁi.jɔ̃|lang}}。"Vorilhon"は「ヴォリロン」とも表記し得るが、Claude Vorilhon名義(またはClaude Vorilhon Raël名義)の書籍の日本語版における表記はいずれも「ボリロン」となっている。}}、 [[1946年]][[9月30日]] - )<ref name="Cult">[http://www.religionnewsblog.com/17537/rael Cult leader Raël denied residence in Switzerland], ''Agence France-Presse''. 19 February 2007. Retrieved 13 March 2007.</ref>は、[[フランス]]のスポーツ・ジャーナリストであり、世界的な[[UFO宗教]]である[[ラエリアン・ムーブメント]](ラエリズム)の創設者である。
ラエリズムを創始する前には、本名のクロード・ボリロンの名前でスポーツカー・ジャーナリストをしていた<ref name="AutoPop">[http://www.rael.free.fr/75/autopop.htm AutoPop, la revue des pilotes] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070223102539/http://www.rael.free.fr/75/autopop.htm |date=23 February 2007 }} ''Raël : Messie ou Menteur ?''. Retrieved 20 June 2007.</ref><ref name="Raël, Intelligent Design, pp. 135–6.">Raël, ''Intelligent Design'', pp. 135–6.</ref>。[[1973年]]12月13日に[[エロヒム]]と名乗る[[宇宙人]]と出会ったことがきっかけでラエリアン・ムーブメントを創始し、「ラエル」と名乗り始めた<ref name="Raëlian Official Website"/>。その後、「[[ヤハウェ]]」と呼ばれる存在との出会いを詳述した本を出版した<ref name="Raëlian Official Website">{{Cite web |url=http://www.rael.org/rael_content/rael_bio.php?prophet |title=Raël's Bio Raëlian Official Website |access-date=22 April 2008 |archive-date=10 March 2018 |archive-url=https://web.archive.org/web/20180310075254/http://www.rael.org/rael_content/rael_bio.php?prophet |url-status=dead }}</ref>。それ以来30年以上にわたり、ラエリズムに関する著書を多数執筆し、そのプロモーションのために世界各地を訪れている<ref name="Raël, Intelligent Design, ''Photo Section''">Raël, ''Intelligent Design'', ''Photo Section''</ref>。
==若年期==
ボリロンはフランス・[[アリエ県]][[ヴィシー]]で1946年9月30日に生まれた<ref name="Raël, Intelligent Design, p. 123.">Raël, ''Intelligent Design'', p. 123.</ref>。母方の祖母のいる[[アンベール (フランス)|アンベール]]で育ったが、その祖母は[[無神論]]者だった<ref name="Palmer, p. 32.">Palmer, p. 32.</ref>。ボリロンの父はユダヤ人で、母は「敬虔な無神論者」だった<ref>Susan Palmer, Aliens Adored: Raël's UFO Religion, Rutgers University Press, 2004, p. 3.2</ref>。ボリロンは[[ル・ピュイ=アン=ヴレ]]のカトリック寄宿学校に入学したが、[[洗礼]]を受けずに[[コミュニオン]]に参加したことが大問題となった<ref name="Palmer, p. 32."/>。両親はボリロンを寄宿学校から退学させ、アンベールの寄宿学校に入学させた<ref name="Palmer, p. 32."/>。後にボリロンは、[[ユグノー]]の子孫が教会から賠償金を受け取ることを提唱した<ref>{{cite book | url=https://books.google.com/books?id=gmCCxUJGi70C&q=Huguenot | title=Aliens Adored: Rael's UFO Religion | isbn=9780813534763 | last1=Palmer | first1=Susan J. | year=2004 | publisher=Rutgers University Press }}</ref>。
ボリロンは15歳の時に寄宿学校から逃げ出し、ヒッチハイクでパリに向かって、そこで3年間、路上やカフェ、キャバレーなどで音楽を演奏して生活していた。ラジオ・ディレクター、{{仮リンク|ルシアン・モリス|fr|Lucien Morisse}}にスカウトされてプロの歌手となり、ラジオで人気が出た<ref name="Palmer, pp. 33–34."/>。ボリロンは「クロード・セラー」(Claude Celler)の名前でシングルを6枚リリースした<ref name="Palmer, pp. 33–34.">Palmer, pp. 32–33.</ref>。ボリロンはベルギーの歌手[[ジャック・ブレル]]の歌に憧れ、ブレルの歌い方を真似ていた<ref name="Palmer, p. 32."/>。ボリロンは、子供のころからの夢だったレーシングカーを買うためにお金を貯めていたが、1970年9月にモリスが自殺し、歌手としての道が突然閉ざされた<ref name="Palmer, p. 34.">Palmer, p. 34.</ref>。
ボリロンは、カーレースの世界に近づくため、スポーツジャーナリストとして働くことを決めた。ボリロンは看護師のマリー=ポール・クリスティーニ(Marie-Paul Cristini)と出会い<ref name="Palmer, p. 34."/>、2人は[[クレルモン=フェラン]]に移り住んだ。ボリロンは自分の出版社を立ち上げ<ref name="Raël, Intelligent Design, 135-6.">Raël, ''Intelligent Design'' 135–6.</ref>、1971年5月にスポーツカー雑誌『オートポップ』を創刊した<ref name="AutoPop"/>。『オートポップ』誌における新しい自動車のテストドライバーはボリロン自らが務め、それによってボリロンはカーレースの世界に入ることができた<ref name="Raël, Intelligent Design, 135-6."/>。
==ラエリアン・ムーブメント==
{{further|en:History of Raëlism}}
著書"''Le Livre qui dit la vérité''"(『真実を告げる書』)によれば、ボリロンは1973年12月13日に、フランス中部のクレルモン=フェラン近くにある火山のクレーターで初めて宇宙人と出会った。空飛ぶ円盤から[[エロヒム]]を名乗る異星人が現れ、フランス語で「ボリロンに会うためだけに(地球に)やって来た」と述べた。ラエルはこの異星人からメッセージを与えられ、このメッセージを地球人に伝えることがお前の使命だと告げられたという<ref name="Raël, Intelligent Design, 11-109.">Raël, ''Intelligent Design'', 11–109.</ref>。この際、「エロヒムのメッセンジャー」を意味する「ラエル」と名づけられた。
この本によれば、2万5千年の高度な科学的進歩を遂げた異星人の科学者たちが地球に来て、地球上の全ての生物を[[遺伝子操作|DNA操作]]によって創造したという<ref name="Raël, Intelligent Design, 90, 107, 113, 159.">Raël, ''Intelligent Design'', 90, 107, 113, 159.</ref><ref name="COMPENDIUM">Harvey, Neil, [https://archive.today/20130201162042/http://www.roanoke.com/news/roanoke/wb/wb/xp-83888 AND NOW THIS A COMPENDIUM OF NEWS], ''[[The Roanoke Times]]''. 23 September 2006. Retrieved 20 December 2007.</ref>。この科学者たちは、「空から来た者たち」を意味する「エロヒム」と呼ばれていた<ref name="Raël, Intelligent Design, 11.">Raël, ''Intelligent Design'', 11.</ref>。これまでに約40人<ref name="Raël, Intelligent Design, 161-5.">Raël, ''Intelligent Design'', 161–5.</ref>の[[預言者]]がエロヒムから地球に遣わされたが<ref name="Close Encounter of the Raëlian Kind">Segall, Rebecca, [http://www.villagevoice.com/news/0135,segall2,27678,1.html Close Encounter of the Raëlian Kind] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080315174032/http://www.villagevoice.com/news/0135,segall2,27678,1.html |date=15 March 2008 }}, ''[[The Village Voice]]''. 4 September 2001. Retrieved 20 December 2007.</ref>、彼らのメッセージは人間によって歪められた<ref name="Raël, Intelligent Design, 11, 33, 88, 293, 332.">Raël, ''Intelligent Design'', 11, 33, 88, 293, 332.</ref><ref name="Raël, Intelligent Design, 73.">Raël, ''Intelligent Design'', 73.</ref>。
ラエルは、この異星人たちが地球に戻ってきたときのために、中立地に異星人の居住用の大使館を建設し、人類の起源を世界に知らせる使命を与えられたと述べた<ref name="Raël, Intelligent Design, 101-104.">Raël, ''Intelligent Design'', 101–104.</ref>。彼は、[[聖書]]などの聖典を新しい解釈をすることで、様々な謎が説明されたと述べた<ref name="Raël, Intelligent Design, 10-79.">Raël, ''Intelligent Design'', 10–79.</ref>。ラエルは、1975年10月7日にエロヒムの1人とコンタクトし、別の惑星に連れていかれて[[ブッダ]]、[[モーセ]]、[[イエス・キリスト|イエス]]、[[ムハンマド]]と出会ったと述べた。2冊目の著書"''Les extra-terrestres m'ont emmené sur leur planète''"(『不死の惑星への旅』)では、この時に出会った聖人たちから受けた教えについて述べている<ref name="Raël, Intelligent Design, 163-4.">Raël, ''Intelligent Design'' 163–4.</ref>。
1974年、ラエルは『オートポップ』誌の休刊を決め、同年9月に最終刊の34号が発行された<ref name="AutoPop"/>。これ以降、ラエルはエロヒムから受けたメッセージを広めるための活動に専念した<ref name="Raël, Intelligent Design, 290-1.">Raël, ''Intelligent Design''; 290–1.</ref>。最初の公開会議の直後、ラエルはMADECHを設立した。これは、ラエルの活動を支援する人々の集まりで、後に国際ラエリアン・ムーブメントとなった<ref name="Raël, Intelligent Design 139-40.">Raël, ''Intelligent Design'' 139–40.</ref>。
==科学技術に関する主張==
ラエルは、人類は働く必要のない、職業を持たない社会へ徐々に移行しつつあると考えている。これは人類の技術進歩によるものであり、人間は「働くように作られてない」からである。ラエルは、仕事は機械のためにあるのであり、一方で人間は創造し、考え、自らを豊かにするように作られていると述べている<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=J5nEuWVU07I Rael talks about the messages of the Elohim (1/2)]. YouTube. Channel - ''TheInveritas''. Published 25 June 2009. Retrieved 2 February 2018.</ref>。
2001年の著書"''Yes to Human Cloning''"に、未来の科学技術に関するラエルの主張が多く書かれている。ラエルは、[[遺伝性疾患]]を回避し、社会の経済的負担を軽減できるとして、{{仮リンク|ヒトの遺伝的強化|en|Human genetic enhancement}}を支持している。ラエルは、特定の人種や宗教を特に区別する必要はないと述べた<ref>{{cite web |url=http://www.rael.org/int/press_site/english/pages/press_conference/050202.html |title=Raël's press conference in London |access-date=14 September 2017 |url-status=bot: unknown |archive-url=https://web.archive.org/web/20030212220704/http://www.rael.org/int/press_site/english/pages/press_conference/050202.html |archive-date=12 February 2003 }}, ''Raël Press File''. 5 February 2002. Retrieved 6 August 2006.</ref><ref name="Raël, Yes to Human Cloning, pp. 51–55.">Raël, ''Yes to Human Cloning'', pp. 51–55.</ref>。また、[[ナノテクノロジー]]によって、マイクロ分散発電(各家に発電所がある)や生体ロボットが可能になり<ref name="Raël, Yes to Human Cloning, p. 132.">Raël, ''Yes to Human Cloning'', p. 132.</ref>、肉やサラダが機械で分子レベルで作れるようになると予想した<ref name="The Leader of UFO Land">Brown, DeNeen L., [https://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn?pagename=article&node=&contentId=A4047-2003Jan16¬Found=true The Leader of UFO Land]{{dead link|date=June 2021|bot=medic}}{{cbignore|bot=medic}}, ''[[Washington Post]]''. 17 January 2003. Retrieved 3 May 2007.</ref><ref name="Raël, Yes to Human Cloning, p. 72.">Raël, ''Yes to Human Cloning'', p. 72.</ref>。
ラエルは、[[遺伝子組換え食品]]が世界の飢餓をなくすための唯一の方法であると主張している<ref name="Raël, Yes to Human Cloning, pp. 57–60.">Raël, ''Yes to Human Cloning'', pp. 57–60.</ref>。ラエルの著書『不死の惑星への旅』には、ナノテクノロジーによって植物の色を自在に変えることが可能になり、連れていかれた異星で、音楽に合わせて揺れたり色が変わったりする花を見せられたと書かれている<ref name="Raël, Intelligent Design, p. 72.">Raël, ''Intelligent Design'', p. 138.</ref>。
==批判と論争==
===盗作疑惑===
元ラエリアンの中には、ボリロン(ラエル)の著作は盗作であると非難する者もいる<ref>{{cite web|url=http://raelian.com/en/wonjune_lee.php|website=raelian.com|title=Testimonies by ex-Raelians|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120820164845/http://raelian.com/en/wonjune_lee.php|archivedate=2012-08-20|accessdate=2023-10-12}}</ref>。化学教育、無限、天才政治など、ラエルがよく主張する概念は、フランスの作家[[ジャン・センディ]]の著書の中に全て含まれている。また、ラエルの著書『官能瞑想』の大部分は、[[ホセ・シルバ]]が開発した[[シルバメソッド]]に由来すると主張されている<ref>{{cite book|last1=Saint-Cyr|first1=Jean-Denis|title=Confessions de Raël à son ex-bras droit|trans-title=Raël's confessions to his former right-hand man|language=fr|date=2009|publisher=Les Éditions au Carré inc.|isbn=978-2-923335-18-6}}</ref>。
ボリロンとラエリアン・ムーブメントに関して10年以上研究したメアリー・ペロキンは、著書"''{{lang|fr|Raël, Voleur d'âmes : Biographie d'un menteur}}''"(魂泥棒ラエル: 噓つきの伝記)の中で、研究成果を示して、ラエルが1950年代から1970年代初頭にかけて、ジャン・センディ、[[ブリンズリー・ル・プア・トレンチ (第8代クランカーティ伯爵)|ブリンズリー・ルポア・トレンチ]]、{{仮リンク|ロベール・シャルー|en|Robert Charroux}}などのUFOや[[古代宇宙飛行士説]]に関する著書のコンセプトを盗み取ったと主張した<ref name="Raël : Voleur d'âmes">{{cite book|last1=Péloquin|first1=Maryse|title=Raël, Voleur d'âmes : Biographie d'un menteur|trans-title=Raël, Thief of Souls: Biography of a Liar|language=fr|date=2004|publisher=Editions Trait d'Union |isbn=2-89588-088-3}}</ref>。ペロキンの著書では、ラエルの『ETとの遭遇』における対話が、[[ジョージ・アダムスキー]]による1952年12月13日に宇宙人とコンタクトしたときの対話と酷似していることが示されている。
また、ラエルの主張の多くは、[[Osho]]のものとも酷似している<ref>{{cite web|url=http://raelian.com/en/sage_ali.php|website=raelian.com|title=Testimonies by ex-Raelians|archiveurl=https://web.archive.org/web/20101022061616/http://raelian.com/en/sage_ali.php|archivedate=2010-10-22|accessdate=2023-10-12}}</ref>。ラエルが着ている白い衣装は、Oshoの衣装に酷似している。
===メディアへの出演===
1992年、ラエルはジャーナリストの{{仮リンク|クリストフ・デシャヴァンヌ|en|Christophe Dechavanne}}が司会のフランスのトーク番組"''[[:en:Ciel, mon mardi !|Ciel, mon mardi !]]''"に出演した。番組の中では、神父、ソーシャルワーカー、心理学者がラエルの性的自由主義を批評した。元ラエリアンのジャン・パラガは、自身の妻子が囚人のように扱われ、ラエルにより家族が崩壊させられたと考えていた。パラガには麻薬密売や車泥棒の前科もあり、1992年8月にはラエルの射殺を計画していた<ref name="SusanJPalmer">Susan J. Palmer, [http://www.trincoll.edu/depts/csrpl/RINVol4No2/Rael.htm ''The Raël Deal''] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20050615085304/http://www.trincoll.edu/depts/csrpl/RINVol4No2/Rael.htm |date=15 June 2005 }}, ''Religion in the News'', Summer 2001, Vol. 4, No. 2.</ref>。この番組に対し、世界中のラエリアンが抗議を寄せた。デシャヴァンヌは、これはラエルが「暴力の扇動」をしたとして、ラエルを提訴した。裁判所の和解により、ラエルは、テレビ局が公式に謝罪すれば、ラエリアンに対し抗議を止めるよう求めることに同意した<ref name="SusanJPalmer" />。
2004年、ラエルは{{仮リンク|ギー・A・ルパージュ|en|Guy A. Lepage}}が司会のトーク番組"''[[:en:Tout le monde en parle (Canadian talk show)|Tout le monde en parle]]''"のケベック版の第1回に出演した。ラエルの民主主義やクローンに関する発言に対し、パネルメンバーの風刺画家{{仮リンク|セルジュ・シャプロー|en|Serge Chapleau}}がラエルを侮辱して首根っこをつかみ、ラエルは弟子たちと共に収録会場を去った<ref name="Radio-Canada"/>。また、番組のゲストのケベック州議会議員{{仮リンク|ポーリーヌ・マロワ|en|Pauline Marois}}(後のケベック州首相)がラエルを「非常識」と呼んだことに対し、ラエリアン・ムーブメントは謝罪を求めたが、マロワは拒否した<ref name="Radio-Canada">{{cite news |author=Radio-Canada |title=Marois refuse de s'excuser à Raël |work=radio-canada.ca |date=21 September 2004 |url=http://www.radio-canada.ca/nouvelles/Index/nouvelles/200409/21/003-marois-rael.shtml |access-date=28 January 2013 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20131105111340/http://www.radio-canada.ca/nouvelles/Index/nouvelles/200409/21/003-marois-rael.shtml |archive-date=5 November 2013 }}</ref>。
ジャーナリストのステファン・バイラルジョンは、モントリオールの日刊紙『{{仮リンク|ル・ドゥヴォワール|en|Le Devoir}}』において、ラエリアン・ムーブメントは小児性愛者を擁護しており、「グル」は幼い女の子が好きだとある元ラエリアンが述べたと書いたことで、ラエルから訴えられた。交渉の末、同紙は、この告発は不当な中傷であり、ラエリアン・ムーブメントは常に小児性愛を非難してきたとするラエルからの書簡を掲載した<ref name="SusanJPalmer"/>。
===訴訟===
1991年、ラエルはフランスのジャーナリスト、ジャン=イヴ・カシュガを名誉毀損で訴えた。ラエルは敗訴し、訴訟費用の支払いを命じられたが、支払いをしないまま、ラエルは[[カナダ]]に移住した。
{{仮リンク|フラマリオン|en|Groupe Flammarion}}のジャーナリスト、{{仮リンク|ジャック・コッタ|en|Jacques Cotta}}とパスカル・マルタンが、その著書の中でラエルの著作物を歪曲して引用したとして提訴され、1994年9月2日にパリ高等法院で、1996年10月1日にパリ控訴裁判所で有罪判決を受けた。2人は、賠償金1万フラン、訴訟費用1万3千フランの支払いと、当該書籍の既に印刷した版には訂正のステッカーを貼ること、以降の版には当該の記述を掲載しないことを命じられた<ref name="The Raëlian Movement"/>。
ミリアム・アッサンは、「ラエルは汚職によりしばしば判決を受けた」と著書で主張したことにより、名誉毀損で訴えられた。アッサンは敗訴し、名誉毀損1件につき300フランと訴訟費用5千フランの支払い、および判決文を新聞に掲載することが命じられた<ref name="The Raëlian Movement">[http://www.hrwf.net/religiousfreedom/profiles/ext/raelianenglish.pdf The Raëlian Movement] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070927011453/http://www.hrwf.net/religiousfreedom/profiles/ext/raelianenglish.pdf |date=27 September 2007 }}, ''Human Rights Without Frontiers''. Retrieved 2 December 2006.</ref>。
1994年12月13日、『{{仮リンク|ル・メーヌ・リブレ|en|Le Maine libre}}』紙のジェラール・ショルは、ラエリアン・ムーブメントが麻薬取引、売春、武器取引、ポルノビデオの販売から資金を得ていると主張したため名誉毀損で提訴され、ル・マン高等法院から有罪判決を受けた。ショルは賠償金1フランと訴訟費用3千フランの支払いを命じられ、ル・メーヌ・リブレ紙に判決文を掲載した<ref name="The Raëlian Movement"/>。
2003年、『{{仮リンク|ル・ドロワ|en|Le Droit}}』紙の同年1月23日のコラムにおける名誉毀損で、ラエルは同紙とコラムニスト、デニス・グラットンを提訴し、8万5千ドルの損害賠償を求めた。ラエルは敗訴し、2006年6月21日、ケベック高等裁判所は訴訟費用の支払いをラエルに命じた<ref>Block, Irwin, [http://canada.com/montrealgazette/news/montreal/story.html?id=3367c989-4025-499f-b03b-fe266f81b526 Welcome to real world, judge tells head Raëlian] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20071208131156/http://canada.com/montrealgazette/news/montreal/story.html?id=3367c989-4025-499f-b03b-fe266f81b526 |date=8 December 2007 }}, ''[[Montreal Gazette]]''. 3 July 2006. Retrieved on 5 July 2006.</ref>。
===政府の対応===
2003年、[[韓国]]の入国管理局は、{{仮リンク|クローンエイド|en|Clonaid}}社との関わりを問題視して、ラエルの入国を拒否した<ref name="Raëlian Cult Leader Threatens to Sue Korea Over Denied Entry">Ji-young, So, [http://www.wwrn.org/article.php?idd=12250&sec=42&cont=4 Raëlian Cult Leader Threatens to Sue Korea Over Denied Entry] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070927235258/http://www.wwrn.org/article.php?idd=12250&sec=42&cont=4 |date=27 September 2007 }}, ''Korea Times''. 3 August 2003. Retrieved 12 March 2007</ref>。韓国国内で予定されていたセミナーは予定通り行われ、ラエルはオンラインで出演し、セミナーに参加した韓国のラエリアンに対して、[[保健福祉部]](厚生省)の庁舎前で抗議活動をするように指示した<ref name="Raëlian Cult Leader Threatens to Sue Korea Over Denied Entry"/>。
2007年2月、スイスの葡萄農家とともに商業活動を始めようとしていたラエルは、政府当局からスイス・ヴァレー州での居住を拒否された。ラエルが提唱する性的自由や、性的快楽を得る方法の子供への教育の推進が{{仮リンク|公共的価値|en|public value}}を脅かす危険性があると判断されたためと、スイスでは[[ヒトクローニング|ヒトのクローン作製]]が禁止されており、ラエルがクローンエイド社と関係があることが問題視されたためである。ラエルは、EUの裁判所への提訴を検討すると述べた<ref name="Cult"/>。
==結婚==
ラエルは生涯に3回結婚している<ref name="Palmer, p. 43.">Palmer, p. 43.</ref>。
最初の妻は看護師のマリー=ポール・クリスティーニ(Marie-Paul Cristini)である<ref>[https://web.archive.org/web/20160805171147/https://www.highbeam.com/doc/1G1-96400471.html highbeam.com]</ref>。社会学者のスーザン・J・パーマーによれば、1987年にラエルがマリーの家の前に現れたとき、マリーはラエルがうつ病であると診断したという<ref name="Palmer, pp. 54–5.">Palmer, pp. 54–5.</ref>。
1980年代にラエルは[[日本]]で精力的に活動し、1987年に日本人女性の砂川リサと出会った。リサはすぐに、世界各地を旅するラエルに同行するようになった。1990年の[[カナダ放送協会]]のドキュメンタリー番組"''They're Coming!''"では、ラエルが4人の女性と一緒にいる姿が映し出され<ref name="Lewis, p. 127.">Lewis, p. 127.</ref>、リサはラエルと手をつないでいる<ref name="Palmer, p. 43."/>。ラエルは1990年から1992年の間にリサと別れた。
3人目の妻は、母と祖母がラエリアン(ラエリアン・ムーブメントの信者)だったソフィー・ド・ニヴェルヴィル(Sophie de Niverville)である。ソフィーは15歳の時にラエリズムに入信し、翌年にはモントリオールの市役所でラエルと結婚した。その後離婚したが同居は続けており、2001年12月のパーマーとのインタビューで、ソフィーはラエルについて肯定的に述べた<ref name="Palmer, pp. 43–4.">Palmer, pp. 43–5.</ref>。
==レーサーとしてのキャリア==
1994年、日本人のラエリアンがラエルにレーシングカーを提供した。ラエルがレースに出れば、ラエリアン・ムーブメントの宣伝になると考えたためである。ラエルは1990年代から2000年代初頭にかけてカーレースに出場したが、そのための資金のほとんどはヨーロッパや日本のラエリアンからのものだった<ref name="Palmer, p. 41.">Palmer, p. 41.</ref>。1997年の[[ライム・ロック・パーク]]で行われた[[グループGT1 (1990年代)|GT1]]レースで3位に入賞、1999年の[[ワトキンズ・グレン・インターナショナル]]で行われた[[FIA GT選手権]]第9戦で7位に入賞している<ref name="Raël to compete in Charlotte">[http://www.motorsport.com/news/article.asp?ID=40215&FS=SCCA-WC Raël to compete in Charlotte] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20100920055037/http://www.motorsport.com/news/article.asp?ID=40215&FS=SCCA-WC |date=20 September 2010 }} ''Motorsport.com''. 27 March 2007. Retrieved 7 October 2007.</ref>。パーマーによれば、ラエルは2001年11月にカーレースからの引退を表明したが、それ以降もカーレースのビデオゲームを楽しんでいるという<ref name="Palmer, p. 41."/>。
{| class="wikitable"
|+ '''1999 BFGoodrich Tires Trans-Am Series'''
|-
!ラウンド
!開催日
!車両
!スタート
!フィニッシュ
!ラップ
!会場
!出典
|-
|2
|1999年5月23日
|[[シボレー]]
|21位
|19位
|35/40周
|[[カナディアンタイヤ・モスポート・パーク|モスポート・インターナショナル・レースウェイ]]
|''Motorsport.com''<ref name="Mosport Race Report, Results and Points">[http://www.motorsport.com/news/article.asp?ID=27783&FS=TRANSAM Mosport Race Report, Results and Points] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070930014747/http://www.motorsport.com/news/article.asp?ID=27783&FS=TRANSAM |date=30 September 2007 }}, ''Motorsport.com''. 23 May 1999. Retrieved 18 August 2007.</ref>
|-
|}
{| class="wikitable"
|+ '''2000 Speedvision GT Championship events'''
|-
!ラウンド
!開催日
!車両
!スタート
!フィニッシュ
!ラップ
!会場
!出典
|-
|1
|2000年4月1日
|[[ロータス・エスプリ]]
|29位
|32位
|15/29周
|[[シャーロット・モーター・スピードウェイ|ロウズ・モーター・スピードウェイ]]
|''Motorsport.com''<ref name="Charlotte GT Opener Race Results">[http://www.motorsport.com/news/article.asp?ID=40429&FS=SCCA-WC Charlotte GT Opener Race Results] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070930011038/http://www.motorsport.com/news/article.asp?ID=40429&FS=SCCA-WC |date=30 September 2007 }}, ''Motorsport.com''. 1 April 2000. Retrieved 18 August 2007.</ref>
|-
|2
|2000年5月21日
|ロータス・エスプリ
|31位
|18位
|27/27周
|[[カナディアンタイヤ・モスポート・パーク|モスポート・インターナショナル・レースウェイ]]
|''Motorsport.com''<ref name="Mosport GT results">[http://www.motorsport.com/news/article.asp?ID=43424&FS=SCCA-WC Mosport GT results] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070930022328/http://www.motorsport.com/news/article.asp?ID=43424&FS=SCCA-WC |date=30 September 2007 }}, ''Motorsport.com''. 21 May 2000. Retrieved 18 August 2007.</ref>
|-
|3
|2000年5月27日
|ロータス・エスプリ
|38位
|style="background:darkgray;"|
|style="background:darkgray;"|
|[[ライム・ロック・パーク]]
|''Motorsport.com''<ref name="Lime Rock Park line up GT, Touring">[http://www.motorsport.com/news/article.asp?ID=43748&FS=SCCA-WC Lime Rock Park line up GT, Touring] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070930022402/http://www.motorsport.com/news/article.asp?ID=43748&FS=SCCA-WC |date=30 September 2007 }}, ''Motorsport.com''. 27 May 2000. Retrieved 18 August 2007.</ref>
|-
|8
|2000年10月15日
|[[ポルシェ・911 GT3]]
|32位
|25位
|25/26周
|[[ウェザーテック・レースウェイ・ラグナ・セカ|ラグナ・セカ・レースウェイ]]
|''Motorsport.com''<ref name="Laguna Seca Fitzgerald wins third straight in GT">[http://www.motorsport.com/news/article.asp?ID=54315&FS=SCCA* Laguna Seca Fitzgerald wins third straight in GT]{{dead link|date=December 2017 |bot=InternetArchiveBot |fix-attempted=yes }}, ''Motorsport.com''. 15 October 2000. Retrieved 18 August 2007.</ref>
|-
|9
|2000年10月29日
|ポルシェ・911 GT3
|25位
|25位
|29/30周
|[[ラスベガス・モーター・スピードウェイ]]
|''Motorsport.com''<ref name="Las Vegas GT results">[http://www.motorsport.com/news/article.asp?ID=55110&FS=SCCA* Las Vegas GT results]{{dead link|date=December 2017 |bot=InternetArchiveBot |fix-attempted=yes }}, ''Motorsport.com''. 30 October 2000. Retrieved 18 August 2007.</ref>
|}
==著書==
* 1974: ''Le Livre qui dit la vérité''
**日本語訳:真実を告げる書
* 1975: ''Les extra-terrestres m'ont emmené sur leur planète''
**日本語訳:不死の惑星への旅
* 1978: ''La géniocratie''
**日本語訳:天才たちに権力を!!――[[天才政治]]
* 1979: ''Accueillir les extra-terrestres''
**日本語訳:地球人は実験室で創られた――異星人エロヒムの大啓示
* 1980: ''La méditation sensuelle''
**日本語訳:官能瞑想
* 1992: ''Le racisme religieux financé par le gouvernement socialiste''
**日本語訳: フランスの偽善――フランス政府による驚くべき人権無視の実態
* 1995: ''Vive le Québec libre!''
* 2001: ''Oui au clonage humain''
**日本語訳: クローン人間にYes!―科学による永遠の生命
* 2003: ''Le Maitraya''
* 2006: ''Intelligent Design: Message from the Designers''
**日本語訳: 地球人は科学的に創造された ~創造者からのメッセージ~
==出演==
* 1966: "Sacrée sale gueule"<ref name="Claude Celler - Sacrée sale gueule">[http://www.bide-et-musique.com/song/4469.html Claude Celler – Sacrée sale gueule], ''Bide&Musique''. Retrieved 19 August 2007.</ref>
* 1966: "Dans un verre de vin"<ref name="Claude Celler - Dans un verre de vin">[http://www.bide-et-musique.com/song/4469.html Claude Celler – Dans un verre de vine], ''Bide&Musique''. Retrieved 19 August 2007.</ref>
* 1967: "Le Miel et la cannelle" (Honey and cinnamon)<ref name="Claude Celler - Le Miel et la Cannelle">[http://www.bide-et-musique.com/song/3495.html Claude Celler – Le Miel et la Cannelle], ''Bide&Musique''. Retrieved 19 August 2007.</ref>
* 1967: "Madam' Pipi" (Mrs. Toilet attendant)<ref name="Claude Celler - Madam' Pipie">[http://www.bide-et-musique.com/song/3359.html Claude Celler – Madam' Pipi], ''Bide&Musique''. Retrieved 19 August 2007.</ref>
* 1967: "Monsieur votre femme me trompe" (Mister, your wife is cheating on me)<ref name="Claude Celler - Monsieur votre femme me trompe">[http://www.bide-et-musique.com/song/3421.html Claude Celler – Monsieur votre femme me trompe], ''Bide&Musique''. Retrieved 19 August 2007.</ref>
* 1967: "Quand on se mariera" (When we'll get married)<ref name="Claude Celler - Quand on se mariera">[http://www.bide-et-musique.com/song/3407.html Claude Celler – Quand on se mariera], ''Bide&Musique''. Retrieved 19 August 2007.</ref>
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{notelist}}
===出典===
{{reflist|2}}
==参考文献==
* Lewis, James R. [https://books.google.com/books?vid=ISBN0791423298 ''The Gods Have Landed: New Religions from Other Worlds''] ''[[SUNY Press]]'', 1995. {{ISBN|0-7914-2329-8}}.
* Partridge, Christopher H. [https://books.google.com/books?id=1nsazah-mEQC&dq=raelian&pg=PA59 ''UFO Religions'']. ''[[Routledge]]'', 2003. {{ISBN|0-415-26323-9}}.
* [[Susan J. Palmer|Palmer, Susan J.]] [https://books.google.com/books?id=gmCCxUJGi70C&q=susan+j+palmer+aliens+adored ''Aliens Adored'']. ''[[Rutgers University Press]]'', 2004. {{ISBN|0-8135-3476-3}}.
==外部リンク==
* Raël, [http://rael.org/download.php?view.1 ''Intelligent Design – Message from the Designers''] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20180317194313/http://www.rael.org/download.php?view.1 |date=17 March 2018 }}. Nova Distribution, 2006. {{ISBN|2-940252-20-3}}.
* Raël, [http://rael.org/download.php?view.2 ''Yes to Human Cloning: Immortality Thanks to Science''] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070311083645/http://www.rael.org/download.php?view.2 |date=11 March 2007 }}. Tagman Press, 2001. {{ISBN|1-903571-05-7}}; {{ISBN|1-903571-04-9}}.
* Maugé, Claude. "The Real Raël, UFO Contactee and the Last Prophet" in Ballester-Olmos, V.J. and Heiden, Richard W. (Eds.), ''[https://www.academia.edu/101922617/The_Reliability_of_UFO_Witness_Testimony The Reliability of UFO Witness Testimony]''. UPIAR, Turin, Italy (2023), pp. 107-120. {{ISBN2| 9791281441002}}.
* Palmer, Susan J. "When Testimony Becomes Testament: The Case of Raël, UFO Prophet, and the Question of Witness Reliability" in Ballester-Olmos, V.J. and Heiden, Richard W. (Eds.), ''[https://www.academia.edu/101922617/The_Reliability_of_UFO_Witness_Testimony The Reliability of UFO Witness Testimony]''. UPIAR, Turin, Italy (2023), pp. 153-165. {{ISBN2| 9791281441002}}.
* [http://raelian.com/en/jean_sendy.php The Raëlian books compared to Jean Sendy's]
*{{IMDB name|1905490}}
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4,840,582 | NARUTO X BORUTO ナルティメットストームコネクションズ | 『NARUTO X BORUTO ナルティメットストームコネクションズ』は、バンダイナムコエンターテインメントより2023年11月16日に発売予定のPlayStation 5用・PlayStation 4用・Nintendo Switch用・Xbox One用対戦アクションゲーム。『NARUTO -ナルト-』を題材とした「ナルティメットシリーズ」の作品。
アニメ『NARUTO -ナルト-』の20周年を記念して作られた「ナルティメットストーム」の作品。 | [
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{{コンピュータゲーム
| Title = NARUTO X BORUTO<br />ナルティメットストームコネクションズ
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『'''NARUTO X BORUTO ナルティメットストームコネクションズ'''』は、[[バンダイナムコエンターテインメント]]より[[2023年]][[11月16日]]に発売予定の[[PlayStation 5]]用・[[PlayStation 4]]用・[[Nintendo Switch]]用・[[Xbox One]]用[[対戦アクションゲーム]]。『[[NARUTO -ナルト-]]』を題材とした「[[NARUTO -ナルト- ナルティメットヒーロー|ナルティメットシリーズ]]」の作品。
== 概要 ==
アニメ『[[NARUTO -ナルト- (アニメ)|NARUTO -ナルト-]]』の20周年を記念して作られた「ナルティメットストーム」の作品。
== 登場キャラクター ==
=== プレイヤーキャラクター ===
; うずまきナルト
:; うずまきナルト (少年篇)
;; うずまきナルト
:; うずまきナルト (仙人モード)
:; うずまきナルト (尾獣玉)
:; うずまきナルト (六道仙人モード)
:; うずまきナルト (THE LAST)
:; うずまきナルト (BORUTO)
:; うずまきナルト (重粒子モード)
; うずまきボルト
:; うずまきボルト
:; うずまきボルト (科学忍具)
:; うずまきボルト (中忍試験)
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; うちはサスケ
:; うちはサスケ (少年篇)
:; うちはサスケ (少年篇・後期姿)
:; うちはサスケ
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:; うちはサスケ (THE LAST)
:; うちはサスケ (BORUTO)
:; うちはサスケ (支う影)
; 大筒木アシュラ
; 大筒木インドラ
=== オリジナルキャラクター ===
; ナナシ
: 声 - [[石川由依]]
:
; メルツ
: 声 - [[綿貫竜之介]]
:
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* {{Official website|https://naruto-game-sc.bn-ent.net/}}
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[[Category:2023年のコンピュータゲーム]]
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[[Category:魔法・呪術を題材としたコンピュータゲーム]]
[[Category:NARUTO -ナルト-のゲーム作品]]
[[Category:長大な項目名]] | 2023-10-12T09:15:16Z | 2023-10-15T14:20:52Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/NARUTO_X_BORUTO_%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%A1%E3%83%83%E3%83%88%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%B3%E3%83%8D%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%82%BA |
4,840,585 | フィンランド型臨床美術 | フィンランド型臨床美術(フィンランドがたりんしょうびじゅつ、エンカウンターアート)は、フィンランドで生まれた臨床美術の一種であり、患者とアーティストが共同で作品を制作することで、患者の心理的な問題を解決することを目的としている。
日本でも、臨床美術協会がこのアートセラピーを紹介し、研究を行っており、大城泰造による講座も開催されている。2023年10月12日には、フィンランドセンターが主催して「高齢化社会における臨床美術とAIセミナー」というテーマでセミナーが開催された | [
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] | フィンランド型臨床美術(フィンランドがたりんしょうびじゅつ、エンカウンターアート)は、フィンランドで生まれた臨床美術の一種であり、患者とアーティストが共同で作品を制作することで、患者の心理的な問題を解決することを目的としている。 | '''フィンランド型臨床美術'''(フィンランドがたりんしょうびじゅつ、'''エンカウンターアート''')は、[[フィンランド]]で生まれた臨床美術の一種であり、患者とアーティストが共同で作品を制作することで、患者の心理的な問題を解決することを目的としている。
== 概要 ==
日本でも、臨床美術協会がこのアートセラピーを紹介し、研究を行っており、大城泰造による講座も開催されている<ref>{{cite web|url=http://www.arttherapy.gr.jp/news/3165/|accessdate=2023-10-12|title=フィンランドとの交流から見えた臨床美術の広がり-過去・現在・未来-【大城泰造先生】開講のご案内 – 特定非営利活動法人日本臨床美術協会|date=2022-10-11}}</ref>。2023年10月12日には、フィンランドセンターが主催して「高齢化社会における臨床美術とAIセミナー」というテーマでセミナーが開催された<ref>{{cite web|url=https://clinicalart-aging-ai1012.peatix.com/|title=「高齢化社会における臨床美術とA I」セミナー |Clinical Art, Aging and AI? -seminar | Peatix|accessdate=2023-10-12}}</ref>
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
{{DEFAULTSORT:ふいんらんどかたりんしょうひしゆつ}}
[[Category:フィンランドの文化]]
[[Category:絵画療法]]
[[Category:美術]]
[[Category:心理学]]
[[Category:医療]] | 2023-10-12T09:33:34Z | 2023-10-13T21:48:44Z | false | false | false | [
"Template:Reflist",
"Template:Cite web",
"Template:脚注ヘルプ"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E5%9E%8B%E8%87%A8%E5%BA%8A%E7%BE%8E%E8%A1%93 |
4,840,593 | 湯平村 | 湯平村(ゆのひらむら)は、大分県大分郡にあった村。現在の由布市の一部にあたる。
大分川、支流花合野川の流域に位置していた。 | [
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"title": "地理"
}
] | 湯平村(ゆのひらむら)は、大分県大分郡にあった村。現在の由布市の一部にあたる。 | {{日本の町村 (廃止)
| 廃止日 = 1955年2月1日
| 廃止理由 = 新設合併
| 廃止詳細 = [[由布院町]]、'''湯平村''' → [[湯布院町]]
| 現在の自治体 = [[由布市]]
| よみがな = ゆのひらむら
| 自治体名 = 湯平村
| 区分 = 村
| 都道府県 = 大分県
| 郡 = [[大分郡]]
| 面積 =
| 境界未定 =
| 人口 = 2673
| 人口の出典 = [[国勢調査 (日本)|国勢調査]]
| 人口の時点 = 1950年
| 隣接自治体 = 由布院町、[[庄内町 (大分県)|庄内村]]、[[玖珠郡]][[飯田村 (大分県)|飯田村]]・[[野上町 (大分県)|野上町]]
| 所在地 = 大分郡湯平村大字下川
| 座標 =
| 位置画像 =
| 特記事項 =
}}
'''湯平村'''(ゆのひらむら{{R|変遷}})は、[[大分県]][[大分郡]]にあった[[村]]。現在の[[由布市]]の一部にあたる。
== 地理 ==
[[大分川]]、支流[[花合野川]]の流域に位置していた{{R|角川}}。
== 歴史 ==
*[[1889年]](明治22年)4月1日、[[町村制]]の施行により、[[速見郡]]下川村、谷川村が合併して村制施行し、'''湯平村'''が発足<ref name=変遷>『市町村名変遷辞典』834頁。</ref><ref name=角川>『角川日本地名大辞典 44 大分県』626頁。</ref>。旧村名を継承した下川、谷川の2大字を編成{{R|角川}}。
*[[1899年]](明治32年)3月7日、所属郡が[[大分郡]]に変更{{R|変遷}}{{R|角川}}。
*[[1955年]](昭和30年)2月1日、大分郡由布院町と合併し、'''[[湯布院町]]'''を新設して廃止された{{R|変遷}}{{R|角川}}。
== 産業 ==
*農業、[[湯平温泉]]{{R|角川}}
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* [[角川日本地名大辞典]] 44 大分県
* 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。
== 関連項目 ==
* [[大分県の廃止市町村一覧]]
{{デフォルトソート:ゆのひらむら}}
[[Category:速見郡]]
[[Category:大分郡]]
[[Category:由布市域の廃止市町村]]
[[Category:1889年設置の日本の市町村]]
[[Category:1955年廃止の日本の市町村]] | 2023-10-12T11:01:12Z | 2023-10-12T11:01:12Z | false | false | false | [
"Template:日本の町村 (廃止)",
"Template:R",
"Template:Reflist"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E5%B9%B3%E6%9D%91 |
4,840,594 | イグナシオ・アギレサバラ | チリ2世(Chirri II)ことイグナシオ・アギレサバラ・イバルビア(Ignacio Agirrezabala Ibarbia、1909年5月10日 - 1979年9月9日)は、スペイン・バスク州ビルバオ出身の元サッカー選手。現役時代のポジションはFW。
1935年に26歳で現役から引退するまでアスレティック・ビルバオでプレーし、1920年代後半から30年代前半にかけてのクラブの黄金期を支えた。
スペイン代表では1928年4月22日のイタリア代表戦でデビューし、通算4試合に出場した。
兄であるチリ1世ことマルセリーノ・アギレサバラ(英語版)も同じくサッカー選手であり、1924年のパリオリンピックに出場した。 | [
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] | チリ2世ことイグナシオ・アギレサバラ・イバルビアは、スペイン・バスク州ビルバオ出身の元サッカー選手。現役時代のポジションはFW。 | {{スペイン語圏の姓名|アギレサバラ|イバルビア}}
{{サッカー選手
|名前=チリ2世
|画像=Athletic 1931 (chirri ii).jpg
|画像の説明=[[アスレティック・ビルバオ]]でのチリ2世 (1931年)
|画像サイズ=200px
|本名=イグナシオ・アギレサバラ・イバルビア<br />Ignacio Agirrezabala Ibarbia
|愛称=
|アルファベット表記=Chirri II
|国={{ESP}}
|生年月日={{生年月日|1909|5|10}}
|出身地=[[ビルバオ]]
|没年月日={{死亡年月日と没年齢|1909|5|10|1979|9|9}}
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|体重=
|所属チーム名=
|ポジション=[[フォワード (サッカー)|FW]]
|背番号=
|利き足=
|ユース年1=1925-1928|ユースクラブ1={{flagicon|ESP}} [[アスレティック・ビルバオ]]
|年1=1928-1935|クラブ1={{flagicon|ESP}} [[アスレティック・ビルバオ]]|出場1=90|得点1=31
|クラブ成績更新日=
|代表年1=1928-1932|代表1={{ESPf}}|代表出場1=4|代表得点1=0
|代表成績更新日=
}}
'''チリ2世'''(Chirri II)こと'''イグナシオ・アギレサバラ・イバルビア'''('''Ignacio Agirrezabala Ibarbia'''、[[1909年]][[5月10日]] - [[1979年]][[9月9日]])は、[[スペイン]]・[[バスク州]][[ビルバオ]]出身の元[[サッカー選手]]。現役時代のポジションは[[フォワード (サッカー)|FW]]。
== 経歴 ==
1935年に26歳で現役から引退するまで[[アスレティック・ビルバオ]]でプレーし、1920年代後半から30年代前半にかけてのクラブの黄金期を支えた<ref>{{Cite web|title=Equipos históricos: La delantera mítica|url=http://www.elenganche.es/2009/05/equipos-historicos-la-delantera-mitica/|date=2009-5-12|accessdate=2023-10-11|language=es|publisher=El Enganche}}</ref>。
[[サッカースペイン代表|スペイン代表]]では1928年4月22日の[[サッカーイタリア代表|イタリア代表]]戦でデビューし、通算4試合に出場した<ref>{{Cite web |title=España - Italia (1 - 1) 22/04/1928 {{!}} BDFutbol |url=https://www.bdfutbol.com/en/p/p.php?id=300566 |website=www.bdfutbol.com |access-date=2023-10-12}}</ref>。
== 人物 ==
兄であるチリ1世こと{{仮リンク|マルセリーノ・アギレサバラ|en|Marcelino Agirrezabala}}も同じくサッカー選手であり、1924年の[[1924年パリオリンピックのサッカー競技|パリオリンピック]]に出場した<ref>{{Cite web|title=“Chirri II”, el cerebro de las medias caídas|i|url=http://www.bilbao.eus/bld/bitstream/handle/123456789/13928/pag45.pdf?sequence=1|accessdate=2023-10-12}}</ref>。
== タイトル ==
=== クラブ ===
; アスレティック・ビルバオ
*[[プリメーラ・ディビシオン]] : 3回 (1929-30, 1930-31, 1933-34)
*[[コパ・デル・レイ]] : 4回 (1929-30, 1930-31, 1931-32, 1932-33)
== 関連項目 ==
*[[アスレティック・ビルバオの選手一覧]]
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
*{{sports links}}
{{Footybio-stub}}
{{デフォルトソート:あきれさはら いくなしお}}
[[Category:スペインのサッカー選手]]
[[Category:サッカースペイン代表選手]]
[[Category:バスクのサッカー選手]]
[[Category:アスレティック・ビルバオの選手]]
[[Category:ビルバオ出身の人物]]
[[Category:1909年生]]
[[Category:1979年没]] | 2023-10-12T11:02:01Z | 2023-10-12T11:02:01Z | false | false | false | [
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"Template:Cite web",
"Template:Sports links",
"Template:Footybio-stub",
"Template:スペイン語圏の姓名",
"Template:サッカー選手",
"Template:仮リンク"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%AE%E3%83%AC%E3%82%B5%E3%83%90%E3%83%A9 |
4,840,597 | 2022年アジア競技大会における体操競技 | 2022年アジア競技大会における体操競技(2022ねんあじあきょうぎたいかいにおけるたいそうきょうぎ)は、2023年9月24日から10月7日まで中華人民共和国・杭州市で開催されたアジア競技大会体操。体操競技、新体操、トランポリンが実施された。
2022年開催予定大会が新型コロナウイルス感染症の影響により1年間延期となった。
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] | 2022年アジア競技大会における体操競技(2022ねんあじあきょうぎたいかいにおけるたいそうきょうぎ)は、2023年9月24日から10月7日まで中華人民共和国・杭州市で開催されたアジア競技大会体操。体操競技、新体操、トランポリンが実施された。 2022年開催予定大会が新型コロナウイルス感染症の影響により1年間延期となった。 | '''2022年アジア競技大会における体操競技'''(2022ねんあじあきょうぎたいかいにおけるたいそうきょうぎ)は、[[2023年]][[9月24日]]から[[10月7日]]まで[[中華人民共和国]]・[[杭州市]]で開催された[[アジア競技大会体操競技|アジア競技大会体操]]。[[体操競技]]、[[新体操]]、[[トランポリン競技|トランポリン]]が実施された。
2022年開催予定大会が[[新型コロナウイルス感染症]]の影響により1年間延期となった。
== 競技結果 ==
=== 体操競技 ===
==== 男子 ====
{| {{MedalistTable|type=種目|columns=2}}
|-
|align=right|団体総合
|{{CHN}}<br /><small>{{仮リンク|蘭星宇|en|Lan Xingyu}}<br/>{{仮リンク|林超攀|en|Lin Chaopan}}<br/>[[肖若騰]]<br/>{{仮リンク|張博恒|en|Zhang Boheng}}<br/>{{仮リンク|鄒敬園|en|Zou Jingyuan}}</small>|| 262.025
|{{JPN}}<br /><small>[[川上翔平 (体操選手)|川上翔平]]<br/>[[北園丈琉]]<br/>[[谷川翔]]<br/>[[谷川航]]<br/>[[津村涼太]]</small>|| 258.628
|{{TPE}}<br /><small>[[黄彦章]]<br/>{{仮リンク|李智凱|en|Lee Chih-Kai}}<br/>[[林冠儀]]<br/>{{仮リンク|蕭佑然|en|Shiao Yu-jan}}<br/>[[葉政]]</small>|| 244.760
|-
|align=right|個人総合
|'''{{仮リンク|張博恒|en|Zhang Boheng}}'''<br /><small>{{CHN}}</small>|| 89.299
|[[北園丈琉]]<br /><small>{{JPN}}</small>|| 87.032
|{{仮リンク|蘭星宇|en|Lan Xingyu}}<br /><small>{{CHN}}</small>|| 84.965
|-
|align=right|床
|'''[[キム・ハンソル (体操選手)|キム・ハンソル]]([[:en:Kim Han-sol (gymnast)|Kim Han-sol]])'''<br /><small>{{KOR}}</small>|| 14.900
|{{仮リンク|張博恒|en|Zhang Boheng}}<br /><small>{{CHN}}</small>|| 14.333
|{{仮リンク|林超攀|en|Lin Chaopan}}<br /><small>{{CHN}}</small>|| 14.333
|-
|align=right|あん馬
|'''{{仮リンク|李智凱|en|Lee Chih-Kai}}'''<br /><small>{{TPE}}</small>|| 15.500
|[[津村涼太]]<br /><small>{{JPN}}</small>|| 15.166
|[[:en:Nariman Kurbanov|Nariman Kurbanov]]<br /><small>{{KAZ}}</small>||15.100
|-
|align=right|つり輪
|'''{{仮リンク|蘭星宇|en|Lan Xingyu}}'''<br /><small>{{CHN}}</small>|| 15.433
|Nguyễn Văn Khánh Phong<br /><small>{{VIE}}</small>|| 14.600
|[[谷川航]]<br /><small>{{JPN}}</small>|| 14.300
|-
|align=right|跳馬
|'''[[谷川航]]'''<br /><small>{{JPN}}</small>|| 15.016
|Mahdi Olfati<br /><small>{{IRI}}</small>|| 14.783
|Muhammad Sharul Aimy<br /><small>{{MAS}}</small>|| 14.466
|-
|align=right|平行棒
|'''{{仮リンク|鄒敬園|en|Zou Jingyuan}}'''<br /><small>{{CHN}}</small>|| 15.933
|[[北園丈琉]]<br /><small>{{JPN}}</small>|| 15.233
|[[谷川翔]]<br /><small>{{JPN}}</small>|| 15.066
|-
|align=right|鉄棒
|'''{{仮リンク|張博恒|en|Zhang Boheng}}'''<br /><small>{{CHN}}</small>|| 15.100
|{{仮リンク|林超攀|en|Lin Chaopan}}<br /><small>{{CHN}}</small>|| 14.800
|[[谷川翔]]<br /><small>{{JPN}}</small>|| 14.633
|-
|}
<ref>{{cite web|url=https://www.jpn-gym.or.jp/artistic/wp-content/uploads/sites/2/2023/01/23a_ag_mq.pdf|title=アジア競技大会男子団体結果|work=[[日本体操協会]]|date=2023-09-24|access-date=2023-10-12}}</ref>
<ref>{{cite web|url=https://www.jpn-gym.or.jp/artistic/wp-content/uploads/sites/2/2023/01/23a_ag_maaf.pdf|title=アジア競技大会男子個人総合決勝結果|work=日本体操協会|date=2023-09-26|access-date=2023-10-12}}</ref>
<ref name="ag_ef1">{{cite web|url=https://www.jpn-gym.or.jp/artistic/wp-content/uploads/sites/2/2023/01/23a_ag_ef1.pdf|title=男女種目別決勝前半種目結果|work=日本体操協会|date=2023-09-28|access-date=2023-10-12}}</ref>
<ref name="ag_ef2">{{cite web|url=https://www.jpn-gym.or.jp/artistic/wp-content/uploads/sites/2/2023/01/23a_ag_ef2.pdf|title=男女種目別決勝後半種目結果|work=日本体操協会|date=2023-09-29|access-date=2023-10-12}}</ref>
==== 女子 ====
{| {{MedalistTable|type=種目|columns=2}}
|-
|align=right|団体総合
|{{CHN}}<br /><small>{{仮リンク|唐茜靖|en|Tang Xijing}}<br/>[[虞琳敏]]<br/>{{仮リンク|章瑾|en|Zhang Jin (gymnast)}}<br/>[[張欣怡]]<br/>[[左彤]]</small>|| 161.896
|{{JPN}}<br /><small>[[桝井美咲]]<br/>[[岡村真]]<br/>[[芹田未果子]]<br/>[[牛奥小羽]]</small>|| 157.229
|{{PRK}}<br /><small>{{仮リンク|安昌玉|en|An Chang-ok}}<br/>Kim Son-hyang<br/>{{仮リンク|キム・スジョン|en|Kim Su-jong}}<br/>Ryu Mi-rae<br/>Sim Hae-won</small>|| 156.829
|-
|align=right|個人総合
|'''[[左彤]]'''<br /><small>{{CHN}}</small>|| 53.565
|[[岡村真]]<br /><small>{{JPN}}</small>|| 52.898
|{{仮リンク|キム・スジョン|en|Kim Su-jong}}<br /><small>{{PRK}}</small>|| 51.466
|-
|align=right|跳馬
|'''{{仮リンク|安昌玉|en|An Chang-ok}}'''<br /><small>{{PRK}}</small>|| 14.049
|金善香<br /><small>{{PRK}}</small>|| 13.600
|[[虞琳敏]]<br /><small>{{CHN}}</small>|| 13.533
|-
|align=right|段違い平行棒
|'''{{仮リンク|安昌玉|en|An Chang-ok}}'''<br /><small>{{PRK}}</small>|| 14.266
|[[芹田未果子]]<br /><small>{{JPN}}</small>|| 13.933
|[[左彤]]<br /><small>{{CHN}}</small>|| 13.866
|-
|align=right|平均台
|'''[[岡村真]]'''<br /><small>{{JPN}}</small>|| 13.966
|{{仮リンク|唐茜靖|en|Tang Xijing}}<br /><small>{{CHN}}</small>|| 13.733
|{{仮リンク|丁華恬|en|Ting Hua-tien}}<br /><small>{{TPE}}</small>|| 13.300
|-
|align=right|床
|'''{{仮リンク|章瑾|en|Zhang Jin (gymnast)}}'''<br /><small>{{CHN}}</small>|| 13.100
|金善香<br /><small>{{PRK}}</small>|| 12.966
|Lim Su-min<br /><small>{{KOR}}</small>|| 12.800
|-
|}
<ref>{{cite web|url=https://www.jpn-gym.or.jp/artistic/wp-content/uploads/sites/2/2023/01/23a_ag_wq.pdf|title=アジア競技大会女子団体結果|work=日本体操協会|date=2023-09-25|access-date=2023-10-12}}</ref>
<ref>{{cite web|url=https://www.jpn-gym.or.jp/artistic/wp-content/uploads/sites/2/2023/01/23a_ag_waaf.pdf|title=アジア競技大会女子個人総合決勝結果|work=日本体操協会|date=2023-09-27|access-date=2023-10-12}}</ref>
<ref name="ag_ef1"/>
<ref name="ag_ef2"/>
=== 新体操 ===
{| {{MedalistTable|type=種目|columns=2}}
|-
|align=right|団体総合
|'''{{UZB}}'''<br />{{仮リンク|Takhmina Ikromova|en|Takhmina Ikromova}}<br />{{仮リンク|Evelina Atalyants|en|Evelina Atalyants}}<br />Vilana Savadyan|| 324.800
|{{KAZ}}<br />{{仮リンク|Elzhana Taniyeva|en|Elzhana Taniyeva}}<br />{{仮リンク|Milana Parfilova|en|Milana Parfilova}}<br />{{仮リンク|Erika Zhailauova|en|Erika Zhailauova}}|| 317.100
|{{CHN}}<br />{{仮リンク|趙雅婷|en|ZHAO Yating}}<br />{{仮リンク|王子露|en|Wang Zilu}}<br />[[栗慧琳]]<br />{{仮リンク|趙樾 (体操選手)|en|Zhao Yue (gymnast)|label=趙樾}}|| 313.400
|-
|align=right|個人総合
|'''{{仮リンク|Takhmina Ikromova|en|Takhmina Ikromova}}'''<br /><small>{{UZB}}</small>|| 131.300
|{{仮リンク|Elzhana Taniyeva|en|Elzhana Taniyeva}}<br /><small>{{KAZ}}</small>|| 130.700
|{{仮リンク|Milana Parfilova|en|Milana Parfilova}}<br /><small>{{KAZ}}</small>|| 130.050
|-
|}
<ref>{{cite web|url=https://www.jpn-gym.or.jp/rhythmic/wp-content/uploads/sites/3/2023/01/995d4333eb4ba4d2df18a555e7687b03.pdf|title=第19回アジア競技大会新体操結果|work=日本体操協会|date=2023-10-07|access-date=2023-10-12}}</ref>
=== トランポリン ===
{| {{MedalistTable|type=種目|columns=2}}
|-
|align=right|男子個人
|'''[[厳浪宇]]'''<br /><small>{{CHN}}</small>|| 59.850
|Danil Mussabayev<br /><small>{{KAZ}}</small>|| 57.270
|[[山田大翔]]<br /><small>{{JPN}}</small>|| 57.100
|-
|align=right|女子個人
|'''{{仮リンク|朱雪瑩|en|Zhu Xueying}}'''<br /><small>{{CHN}}</small>|| 56.720
|[[胡訳乗]]<br /><small>{{CHN}}</small>|| 55.790
|Viktoriya Butolina<br /><small>{{KAZ}}</small>|| 52.600
|-
|}
== 国別メダル受賞数 ==
{| {{RankedMedalTable}}
|-
| 1 ||align="left"| {{CHN}} || 10 || 4 || 5 || 19
|-
| 2 ||align="left"| {{JPN}} || 2 || 7 || 4 || 13
|-
| 3 ||align="left"| {{PRK}} || 2 || 2 || 2 || 6
|-
| 4 ||align="left"| {{TPE}} || 1 || 0 || 2 || 3
|-
| 5 ||align="left"| {{KOR}} || 1 || 0 || 1 || 2
|-
| 6 ||align="left"| {{UZB}} || 1 || 0 || 0 || 1
|-
| 7 ||align="left"| {{KAZ}} || 0 || 2 || 2 || 4
|-
| 8 ||align="left"| {{IRI}} || 0 || 1 || 0 || 1
|-
| 8 ||align="left"| {{VIE}} || 0 || 1 || 0 || 1
|-
| 10 ||align="left"| {{MAS}} || 0 || 0 || 1 || 1
|-
!colspan=2|'''合計'''|| 17 || 17 || 17 || 51
|}
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [https://www.jpn-gym.or.jp/artistic/event/40013/ 第19回アジア競技大会(体操競技)] - [[日本体操協会]]
* [https://www.jpn-gym.or.jp/artistic/wp-content/uploads/sites/2/2023/01/23a_ag_mq.pdf アジア競技大会男子団体結果(23.09.24)] - 日本体操協会
* [https://www.jpn-gym.or.jp/artistic/wp-content/uploads/sites/2/2023/01/23a_ag_wq.pdf アジア競技大会女子団体結果(23.09.25)] - 日本体操協会
* [https://www.jpn-gym.or.jp/artistic/wp-content/uploads/sites/2/2023/01/23a_ag_maaf.pdf アジア競技大会男子個人総合決勝結果(23.09.26)] - 日本体操協会
* [https://www.jpn-gym.or.jp/artistic/wp-content/uploads/sites/2/2023/01/23a_ag_waaf.pdf アジア競技大会女子個人総合決勝結果(23.09.27)] - 日本体操協会
* [https://www.jpn-gym.or.jp/artistic/wp-content/uploads/sites/2/2023/01/23a_ag_ef1.pdf 男女種目別決勝前半種目結果(23.09.28)] - 日本体操協会
* [https://www.jpn-gym.or.jp/artistic/wp-content/uploads/sites/2/2023/01/23a_ag_ef2.pdf 男女種目別決勝後半種目結果(23.09.29)] - 日本体操協会
* [https://www.jpn-gym.or.jp/rhythmic/event/34746/ 第19回アジア競技大会(新体操)] - 日本体操協会
* [https://www.jpn-gym.or.jp/rhythmic/wp-content/uploads/sites/3/2023/01/995d4333eb4ba4d2df18a555e7687b03.pdf 第19回アジア競技大会新体操結果] - 日本体操協会
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4,840,598 | 甘狼このみ | 甘狼 このみ(あまかみ このみ)は、ミリプロ / MillionProductionに所属するバーチャルライバー、バーチャルアイドル。キャラクターデザインは甘狼このみ本人。主な活動場所はYouTube。
自作の2Dアバターを使用し、お絵描き、雑談、ゲームを主体とした生放送を配信している。
もともと保育園でのお絵かきが好きであり、その延長線として絵を描き続け美術大学に通っていた時期もある。
悩みがあったときに配信者の動画を見て元気をもらったことで自分もそのような存在になりたいと考えたことがvtuberになったきっかけである。2022年12月23日に初配信を行った。
2023年4月1日に自身を0期生としてVtuber事務所のミリプロを設立した。 | [
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] | 甘狼 このみは、ミリプロ / MillionProductionに所属するバーチャルライバー、バーチャルアイドル。キャラクターデザインは甘狼このみ本人。主な活動場所はYouTube。 自作の2Dアバターを使用し、お絵描き、雑談、ゲームを主体とした生放送を配信している。 | {{複数の問題
| 存命人物の出典明記 = 2023年10月16日 (月) 09:48 (UTC)
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{{Infobox animanga character|color=darkorange|color text=white|name=甘狼このみ|creator=甘狼このみ|birthday=[[2月14日]]|height=155cm|gender=女性|nickname={{ublist|この}}}}
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'''甘狼 このみ'''(あまかみ このみ)<ref name=":0">{{Cite web |title=登録者数が爆伸び中のVTuber、新兎わいさん、甘狼このみさんを紹介! 【VTuber見つけ隊】 {{!}} PANORA |url=https://panora.tokyo/archives/64697 |date=2023-04-19 |access-date=2023-11-14 |language=ja}}</ref>は、ミリプロ / MillionProductionに所属する[[バーチャルライバー]]、[[バーチャルアイドル]]。[[キャラクターデザイン]]は'''甘狼このみ'''本人。主な活動場所は[[YouTube]]。
自作の2D[[アバター]]を使用し、お絵描き、雑談、ゲームを主体とした生放送を配信している<ref name=":1">{{Cite web |title=ショート動画が大バズり!?活動4か月で登録者17万人達成!今注目のセルフ受肉VTuber”甘狼このみ”の人気の秘訣とは? |url=https://charapo.com/blog/V_interview_amakamikonomi |website=Charapo! |access-date=2023-11-14}}</ref>。
== 来歴 ==
;2022年
*12月23日、デビュー<ref name=":1" />
;2023年
*1月9日、チャンネル登録者1万人達成
*2月28日、チャンネル登録者5万人達成
*3月26日、チャンネル登録者10万人達成
*4月1日、ミリプロ設立
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*7月14日、チャンネル登録者30万人達成
*9月1日、チャンネル登録者40万人達成
*12月9日、チャンネル登録者50万人達成<ref>
{{Citation|title=〖50万人耐久〗デビュー1年目の目標、みんなとの約束を叶えたい!一緒に見守ってくれますか?|url=https://m.youtube.com/live/mO3RHGoZ0sI?si=NhgtrHE8SBc75d0b|language=ja-JP|access-date=2023-12-10}}</ref>
== 人物 ==
もともと保育園でのお絵かきが好きであり、その延長線として絵を描き続け美術大学に通っていた時期もある<ref name=":1" />。
悩みがあったときに配信者の動画を見て元気をもらったことで自分もそのような存在になりたいと考えたことがvtuberになったきっかけである。2022年12月23日に初配信を行った<ref name=":1" />。
2023年4月1日に自身を0期生としてVtuber事務所のミリプロを設立した<ref name=":0" />。
== タイアップ ==
* 2023年6月23日から8月23日 ファミリーマートxミリプロコラボ ミリプロコレクション<ref>{{Cite web |title=https://twitter.com/_nonono_nono/status/1672193406725152768 |url=https://twitter.com/_nonono_nono/status/1672193406725152768 |website=X (formerly Twitter) |access-date=2023-10-12 |language=ja}}</ref>
* 2023年3月25日 株式会社uyet コラボPR<ref>{{Cite web |title=uyet、VTuber×企業のコラボPR配信を開始。商品第1弾はジェラート |url=https://techable.jp/archives/200946 |website=Techable(テッカブル) |date=2023-03-25 |access-date=2023-10-12}}</ref>
== ミリプロ==
{| class="wikitable"
|+
! colspan="7" |ミリプロ
|-
| rowspan="4" |メンバーリスト
|0期生
|甘狼このみ<ref>{{Cite web |title=甘狼このみ |url=https://www.milpr.com/amakamikonomi |website=ミリプロ公式サイト |access-date=2023-10-12 |language=ja}}</ref>
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|1期生
|[[音ノ乃のの]]<ref>{{Cite web |title=音ノ乃のの |url=https://www.milpr.com/nono |website=ミリプロ公式サイト |access-date=2023-10-12 |language=ja}}</ref>
|}
== 外部リンク ==
* [https://www.youtube.com/@AmakamiKonomi/featured Youtubeチャンネル] -'''甘狼このみ / AmakamiKonomi'''
* [https://www.milpr.com/ ミリプロ] - 所属プロダクション
* {{Twitter|AmakamiKonomi|甘狼このみ}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
; 出典
{{Reflist}}
[[Category:バーチャルYouTuber]]
[[Category:日本の女性YouTuber]]
{{DEFAULTSORT:あまかみこのみ}} | 2023-10-12T11:32:10Z | 2023-12-14T12:50:31Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%98%E7%8B%BC%E3%81%93%E3%81%AE%E3%81%BF |
4,840,602 | 新・スチールドラゴン | 新・スチールドラゴンとは、2013年にリニューアルされた車体のことを指し、以前の箱型より様々なところが進化した。 以前の箱型の囲いがなく足むき出しなど | [
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以前の箱型の囲いがなく足むき出しなど | {{即時削除|記事1|2=定義なし}}
新・スチールドラゴンとは、2013年にリニューアルされた車体のことを指し、以前の箱型より様々なところが進化した。
以前の箱型の囲いがなく足むき出しなど | 2023-10-12T11:42:10Z | 2023-10-12T11:43:48Z | false | false | false | [] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%B4%E3%83%B3 |
4,840,607 | 由布院町 | 由布院町(ゆふいんまち)は、大分県大分郡にあった町。現在の由布市の一部にあたる。
由布岳西南麓の由布院盆地に位置していた。 | [
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] | 由布院町(ゆふいんまち)は、大分県大分郡にあった町。現在の由布市の一部にあたる。 | {{日本の町村 (廃止)
| 廃止日 = 1955年2月1日
| 廃止理由 = 新設合併
| 廃止詳細 = '''由布院町'''、[[湯平村]] → [[湯布院町]]
| 現在の自治体 = [[由布市]]
| よみがな = ゆふいんまち
| 自治体名 = 由布院町
| 区分 = 町
| 都道府県 = 大分県
| 郡 = [[大分郡]]
| 面積 =
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| 人口 = 8528
| 人口の出典 = [[国勢調査 (日本)|国勢調査]]
| 人口の時点 = 1950年
| 隣接自治体 = [[庄内町 (大分県)|庄内村]]、湯平村、[[玖珠郡]][[野上町 (大分県)|野上町]]・[[森町 (大分県)|森町]]、[[宇佐郡]][[安心院町]]、[[速見郡]][[南端村]]、[[別府市]]
| 所在地 = 大分郡由布院町大字川上
| 座標 =
| 位置画像 =
| 特記事項 =
}}
'''由布院町'''(ゆふいんまち{{R|変遷}})は、[[大分県]][[大分郡]]にあった[[町]]。現在の[[由布市]]の一部にあたる。
== 地理 ==
[[由布岳]]西南麓の[[由布院盆地]]に位置していた{{R|角川}}。
== 歴史 ==
*[[1889年]](明治22年)4月1日、[[町村制]]の施行により、[[速見郡]][[北由布村]]、[[南由布村]]が発足<ref>『市町村名変遷辞典』262、767頁。</ref>。
*[[1936年]](昭和11年)4月1日、上記2村が合併して'''由布院村'''が発足<ref name=変遷>『市町村名変遷辞典』834頁。</ref><ref name=角川>『角川日本地名大辞典 44 大分県』855頁。</ref>。川上、川北、塚原、川南、中川、川西の6大字を編成{{R|角川}}。
*[[1948年]](昭和23年)1月1日、町制施行して'''由布院町'''となる{{R|変遷}}{{R|角川}}。
*[[1950年]](昭和25年)1月1日、所属郡が[[大分郡]]に変更{{R|変遷}}{{R|角川}}。
*[[1955年]](昭和30年)2月1日、大分郡湯平村と合併し、'''[[湯布院町]]'''を新設して廃止された{{R|変遷}}{{R|角川}}。
== 産業 ==
*農業、牧畜、[[由布院温泉]]、[[塚原温泉]]{{R|角川}}
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* [[角川日本地名大辞典]] 44 大分県
* 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。
== 関連項目 ==
* [[大分県の廃止市町村一覧]]
{{デフォルトソート:ゆふいんまち}}
[[Category:速見郡]]
[[Category:大分郡]]
[[Category:由布市域の廃止市町村]]
[[Category:1889年設置の日本の市町村]]
[[Category:1948年設置の日本の市町村]]
[[Category:1955年廃止の日本の市町村]] | 2023-10-12T11:49:23Z | 2023-10-12T11:49:23Z | false | false | false | [
"Template:日本の町村 (廃止)",
"Template:R",
"Template:Reflist"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B1%E5%B8%83%E9%99%A2%E7%94%BA |
4,840,610 | 白寿生科学研究所 | 白寿生科学研究所(はくじゅせいかがくけんきゅうしょ)は、東京都渋谷区富ケ谷に本社を置く企業。
1925年に創業。創業以来、自社の健康法を普く人類に普及させることを使命とする。健康法は、精神と運動と食事に加え、自社の健康器具を使用すれば病気にかからないという予防の概念で、この重要性を創業者は謳っていた。
創業者は不眠や頭痛などの慢性の症状を持つ母親を助けたいとの思いから理学や物理での療法を研究する。ドイツの医学雑誌に高圧電線の下では健康な人が多く作物もよく育つという記事が掲載されていたのを見たことをきっかけに、高電圧電界療法を考案。1928年に福岡で母親を実験台にして100万ボルトの高電圧電界療法の公開実験を行い、雑誌などでは日本のエジソンと紹介された。
1955年に白寿会本部と白寿会病院を設立。戦争で途絶えていた研究を再び始めて、もう一度事業を立ち上げるために設立した。1963年にヘルストロンが厚生省から製造承認を受ける。ヘルストロンは佐藤栄作も使用するなどから有力者の支援があった。笹川良一は虎ノ門の日本船舶振興会のビルの最上階でヘルストロンを設置した診療所を運営した。
頭痛や肩こりや便秘や不眠症などの不定愁訴は様々な生活習慣病に進行する恐れがあるため、生活習慣病が発症していない時期に対処するという考えから健康食品や健康指針などの普及活動を行い、その中心で一貫しているのが健康寿命の延伸。白寿生科学研究所は催事場でイベントを行う会社というイメージが強かったのだが、1990年ごろよりヘルストロンを体験できるハクジュプラザという店舗を運営するようになっている。この店舗は情報を発信したり地域のコミュニティーの場にもなっている。
無料宣伝会場で体験を受ける際に、初回は体に良いと言われる清涼飲料水である健康食品を無料で配り、無料で会場に通い続けるため勧められた商品(健康食品)を買わなくてはいけないというような雰囲気にし、明らかに無料体験を受けたい消費者の権利を阻害していという主張もある。
特定商取引法では販売において2回以上の継続購入となる契約の場合、継続契約であることや金額・契約期間等の販売条件を広告に表示することとされており、同法では、顧客の意に反して売買契約等の申込みをさせようとする行為を禁止しています。
食品に関する営業を行う場合には、食品衛生法に基づく許可等が必要な場合があります。なお、平成30年6月に食品衛生法が改正され、営業許可業種が見直されました。営業許可の見直しとともに施設基準も改正されました。また、営業許可の対象でない場合であっても管轄の保健所に届出が必要になります。
2003年にHakuju Hallを開設する。健康のための理念として食事と運動と心の3原則としてきたのであるが、このうちの心の健康に貢献できるとの考えから開設された。Hakuju Hallでは上質の音楽を心地よい空間で届けることで健康に貢献することが目指されている。
2012年11月より帯広畜産大学で寄附講座を設ける。白寿生科学研究所より客員准教授として派遣され、医学の発展への研究活動を行う。2020年2月14日に白寿生科学研究所の社長が、長年にわたって大学での教育研究に大きく貢献したとして帯広畜産大学の学長より特別感謝状を授与される。
2018年には3x3のチームであるTOKYO DIMEのスポンサーになる。
2023年5月に伊藤超短波と業務提携を締結する。このことで両者が長年培ってきた物理療法機器メーカーとしてのリソースを有効に活用して、それぞれの製品の販売において新たなチャネルの開拓などを推進する。伊藤超短波が開発した美容関連の機器をハクジュプラザで販売することを検討する。白寿生科学研究所の商品は100万円を超えるものも含む医療機器と、カルシウムドリンク。伊藤超短波の商品は数万円台で白寿生科学研究所の機器と食品の中間の価格帯。白寿生科学研究所の商品のほとんどは医療機器化健康食品であり、医療機器ではない健康機器を伊藤超短波から仕入れて販売することも検討する。 | [
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] | 白寿生科学研究所(はくじゅせいかがくけんきゅうしょ)は、東京都渋谷区富ケ谷に本社を置く企業。 | '''白寿生科学研究所'''(はくじゅせいかがくけんきゅうしょ)は、[[東京都]][[渋谷区]][[富ケ谷]]に本社を置く[[企業]]<ref>{{Cite web |title=株式会社白寿生科学研究所の会社情報と与信管理 {{!}} NIKKEI COMPASS - 日本経済新聞 |url=https://www.nikkei.com/compass/company/fVu66tHn7YVmJxcWkPABJP |website=www.nikkei.com |access-date=2023-10-12 |language=ja}}</ref>。
== 概要 ==
[[1925年]]に[[創業]]。創業以来、自社の健康法を普く[[人類]]に普及させることを使命とする。健康法は、[[精神]]と[[運動]]と[[食事]]に加え、自社の健康器具を使用すれば病気にかからないという予防の概念で、この重要性を創業者は謳っていた<ref>{{Cite web |title=企業理念 {{!}} 株式会社 白寿生科学研究所 -ハクジュプラザ- |url=https://corp.hakuju.co.jp/philosophy/ |website=株式会社 白寿生科学研究所 -ハクジュプラザ- {{!}} 白寿生科学研究所が運営するハクジュプラザ公式サイトです。プラザに関する情報や、ヘルストロンについて、我が社の健康食品についても掲載してます。 |date=2023-06-24 |access-date=2023-10-12 |language=ja}}</ref>。
創業者は[[不眠]]や[[頭痛]]などの慢性の症状を持つ[[母親]]を助けたいとの思いから[[理学]]や[[物理]]での療法を研究する。[[ドイツ]]の[[医学]][[雑誌]]に高圧電線の下では健康な人が多く作物もよく育つという[[記事]]が掲載されていたのを見たことをきっかけに、高電圧電界療法を考案。[[1928年]]に[[福岡]]で母親を実験台にして100万ボルトの高電圧電界療法の公開実験を行い、雑誌などでは日本の[[エジソン]]と紹介された<ref name=":0">{{Cite web |title=高電圧で病気を治す電位治療器とは 発明者 原敏之氏の創設した白寿生科学研究所 |url=https://www.tojoshinbun.com/hakujyu/ |website=東上沿線物語 |date=2015-09-01 |access-date=2023-10-12 |language=ja |last=kaneko}}</ref>。
[[1955年]]に白寿会本部と白寿会病院を設立。[[戦争]]で途絶えていた[[研究]]を再び始めて、もう一度事業を立ち上げるために設立した。[[1963年]]にヘルストロンが厚生省から製造承認を受ける。ヘルストロンは[[佐藤栄作]]も使用するなどから有力者の支援があった。[[笹川良一]]は[[虎ノ門]]の[[日本船舶振興会]]のビルの最上階でヘルストロンを設置した[[診療所]]を運営した<ref name=":0" />。
[[頭痛]]や[[肩こり]]や[[便秘]]や[[不眠症]]などの[[不定愁訴]]は様々な[[生活習慣病]]に進行する恐れがあるため、生活習慣病が発症していない時期に対処するという考えから健康食品や健康指針などの普及活動を行い、その中心で一貫しているのが[[健康寿命]]の延伸。白寿生科学研究所は催事場でイベントを行う会社というイメージが強かったのだが、[[1990年]]ごろよりヘルストロンを体験できるハクジュプラザという店舗を運営するようになっている。この店舗は情報を発信したり地域のコミュニティーの場にもなっている<ref>{{Cite web |title=【一生働く!】「未病のうちに」が寿命延ばす 予防の重要性を訴え“白寿健康法”提唱 |url=https://www.zakzak.co.jp/economy/ecn-news/news/20170517/ecn1705171700005-n1.htm |website=ZAKZAK |date=2017-05-17 |access-date=2023-10-12 |language=ja |first=SANKEI DIGITAL |last=INC}}</ref>。
無料宣伝会場で[[体験]]を受ける際に、初回は体に良いと言われる[[清涼飲料水]]である[[健康食品]]を[[無料]]で配り、[[無料]]で会場に通い続けるため勧められた商品([[健康食品]])を買わなくてはいけないというような雰囲気にし、明らかに無料[[体験]]を受けたい[[消費者]]の[[権利]]を[[阻害]]していという[[主張]]もある。
[[特定商取引法]]では販売において2回以上の継続購入となる[[契約]]の場合、継続契約であることや金額・契約期間等の販売条件を[[広告]]に表示することとされており、同法では、[[顧客]]の意に反して売買契約等の申込みをさせようとする[[行為]]を[[禁止]]しています。<ref>{{Cite web |title=特定商取引法とは|特定商取引法ガイド |url=https://www.no-trouble.caa.go.jp/what/ |website=特定商取引法ガイド |access-date=2023-11-29 |language=ja}}</ref>
食品に関する営業を行う場合には、[[食品衛生法]]に基づく許可等が必要な場合があります。なお、平成30年6月に[[食品衛生法]]が改正され、営業許可業種が見直されました。営業許可の見直しとともに施設基準も改正されました。また、営業許可の対象でない場合であっても管轄の[[保健所]]に届出が必要になります。<ref>{{Cite web |title=東京都健康安全研究センター » 食品衛生法と健康食品 |url=https://www.tmiph.metro.tokyo.lg.jp/kj_shoku/kenkounavi/syoku1/ |website=www.tmiph.metro.tokyo.lg.jp |access-date=2023-11-29}}</ref>
[[2003年]]に[[Hakuju Hall]]を開設する。健康のための理念として食事と運動と心の3原則としてきたのであるが、このうちの心の健康に貢献できるとの考えから開設された。Hakuju Hallでは上質の[[音楽]]を心地よい[[空間]]で届けることで健康に貢献することが目指されている<ref>{{Cite web |title=Hakuju Hall のなりたち {{!}} 特徴/コンセプト|ハクジュホール |url=https://hakujuhall.jp/pages/hall_info_index |website=hakujuhall.jp |access-date=2023-10-12}}</ref>。
[[2012年]]11月より[[帯広畜産大学]]で[[寄附講座]]を設ける。白寿生科学研究所より[[客員准教授]]として派遣され、医学の発展への研究活動を行う。[[2020年]][[2月14日]]に白寿生科学研究所の社長が、長年にわたって大学での教育研究に大きく貢献したとして帯広畜産大学の[[学長]]より特別感謝状を授与される<ref>{{Cite web |title=特別感謝状を贈呈 |url=https://www.obihiro.ac.jp/news/27708 |website=帯広畜産大学 |access-date=2023-10-12 |language=ja}}</ref>。
[[2018年]]には[[3x3]]のチームである[[TOKYO DIME]]のスポンサーになる<ref>{{Cite web |title=2018シーズンサポートカンパニー決定のお知らせ {{!}} TOKYO DIME(東京ダイム)公式ウェブサイト- Professional 3x3 Basketball Team- |url=https://dime-3x3.com/news/20180424/ |date=2018-04-24 |access-date=2023-10-12 |language=ja}}</ref>。
[[2023年]]5月に[[伊藤超短波]]と業務提携を締結する。このことで両者が長年培ってきた物理療法機器メーカーとしてのリソースを有効に活用して、それぞれの製品の販売において新たなチャネルの開拓などを推進する。伊藤超短波が開発した美容関連の機器をハクジュプラザで販売することを検討する。白寿生科学研究所の商品は100万円を超えるものも含む医療機器と、[[カルシウム]][[ドリンク]]。伊藤超短波の商品は数万円台で白寿生科学研究所の機器と食品の中間の価格帯。白寿生科学研究所の商品のほとんどは医療機器化健康食品であり、医療機器ではない健康機器を伊藤超短波から仕入れて販売することも検討する<ref>{{Cite web |title=白寿生科学研究所/伊藤超短波と業務提携/製品を相互の販路で展開する計画も(2023年5月25日号) {{!}} 訪販 {{!}} 日本流通産業新聞 |url=https://www.bci.co.jp/nichiryu/article/12806 |website=日流ウェブ |access-date=2023-10-12}}</ref>。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
[[Category:1925年設立の企業]]
[[Category:渋谷区の企業]]
[[Category:日本の医療機器メーカー]]
{{DEFAULTSORT:はくしゆせいかかくけんきゆうしよ}} | 2023-10-12T11:51:32Z | 2023-11-29T07:02:51Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%AF%BF%E7%94%9F%E7%A7%91%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80 |
4,840,612 | ケイパス | ケイパス(英語: Caputh, 英語発音: /ˈkeɪpəθ/ KAY-pəth)とは、スコットランド、パース・アンド・キンロスにある教区および村。A984号クーパー・アンガス(英語版)ダンケルド線沿い、ダンケルドから6マイル (9.7 km) 南東かつクーパー・アンガスから8マイル (13 km) 西に位置する。
村はテイ川に面する。
教区にはイースト・カルト立石群がある。
Cairnmore として知られていた幅120 mほどの積石は農地改良のため19世紀に撤去された。著名なローマ時代の要塞跡が近隣のインチトゥトヒルに存在する。同教区内、ミクルーア(英語版)にある Cleaven Dyke も長年同様にローマ遺跡だと考えられていたが、現在では新石器時代のカーサス(英語版)だと見なされている。
ダンケルドは1891年までケイパス教区に属していた 。
村には1876年築のグレンデルヴァイン小学校がある。
ピーター・コリン・キャンベル(英語版)師は1845年から1854年にアバディーン大学学長となるまで教区牧師を務めた。
1869年から1893年までセオドア・マーシャル(英語版)師はケイパス牧師を務めた。1908年、彼はスコットランド国教会長老会長(英語版)に選出された。彼は任期中に死去した。
20世紀の著名な民謡歌手ベル・ステュアート(英語版)は「ケイパスで(中略)1906年7月18日にテイ川河原のテント内で生まれた」。 | [
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] | ケイパスとは、スコットランド、パース・アンド・キンロスにある教区および村。A984号クーパー・アンガスダンケルド線沿い、ダンケルドから6マイル (9.7 km) 南東かつクーパー・アンガスから8マイル (13 km) 西に位置する。 村はテイ川に面する。 教区にはイースト・カルト立石群がある。 Cairnmore として知られていた幅120 mほどの積石は農地改良のため19世紀に撤去された。著名なローマ時代の要塞跡が近隣のインチトゥトヒルに存在する。同教区内、ミクルーアにある Cleaven Dyke も長年同様にローマ遺跡だと考えられていたが、現在では新石器時代のカーサスだと見なされている。 ダンケルドは1891年までケイパス教区に属していた。 | {{infobox UK place
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| static_image_caption = A984号線沿いにケイパスとクラニック教区教会を望む
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}}
'''ケイパス'''({{lang-en|Caputh}}, {{IPA-en|/ˈkeɪpəθ/}} {{respell|KAY|pəth|}})とは、[[スコットランド]]、[[パース・アンド・キンロス]]にある教区および村。[[A984_(スコットランドの道路)|A984号]]{{仮リンク|クーパー・アンガス|en|Coupar Angus}}[[ダンケルド]]線沿い、ダンケルドから{{Convert|6|mi|km}} 南東かつクーパー・アンガスから{{Convert|8|mi|km}} 西に位置する<ref>{{citation
| title = Blairgowrie & Forest of Alyth
| work = [[Ordnance Survey]] Landranger Map
| edition = B2
| year = 2008
| isbn = 978-0-319-23121-0| last1 = Ordnance Survey
| first1 = Great Britain
}}</ref>。
村は[[テイ川]]に面する<ref>{{Cite web|last=GENUKI|title=Genuki: Caputh, Perthshire|url=https://www.genuki.org.uk/big/sct/PER/Caputh|access-date=2021-07-28|website=www.genuki.org.uk|language=en}}</ref>。
教区にはイースト・カルト立石群がある<ref>{{Cite web|url=http://www.stravaiging.com/history/ancient/site/east-cult-standing-stones|title = East Cult | standing stones | Stravaiging around Scotland|access-date=2017-06-29}}</ref>。
Cairnmore として知られていた幅120 mほどの積石は農地改良のため19世紀に撤去された。著名なローマ時代の要塞跡が近隣の[[インチトゥトヒル]]に存在する<ref>{{Cite web|title=Illustrated Guide to Places to Visit - Inchtuthil Fort, Perthshire|url=http://www.rampantscotland.com/visit/blvisit_inchtuthill_fort.htm|access-date=2021-07-28|website=www.rampantscotland.com}}</ref>。同教区内、{{仮リンク|ミクルーア|en|Meikleour}}にある Cleaven Dyke<ref>{{Cite web|title=Cleaven Dyke {{!}} Canmore|url=https://canmore.org.uk/site/28473/cleaven-dyke|access-date=2021-07-28|website=canmore.org.uk|language=en}}</ref> も長年同様にローマ遺跡だと考えられていたが、現在では[[新石器時代]]の{{仮リンク|カーサス|en|Cursus}}だと見なされている<ref>{{Cite web|title=Parish of Caputh from The Gazetteer for Scotland|url=https://www.scottish-places.info/parishes/parfirst495.html|access-date=2021-07-28|website=www.scottish-places.info|language=en-gb}}</ref>。
ダンケルドは1891年までケイパス教区に属していた<ref name=og435>[https://play.google.com/store/books/details?id=ZrGM8n_uNOcC&pcampaignid=books_web_aboutlink ''Ordnance Gazetteer of Scotland: A Graphic and Accurate Description of Every Place in Scotland''], Frances Hindes Groome (1901), p. 435</ref> 。
== 教育 ==
村には1876年築のグレンデルヴァイン小学校がある<ref>{{Cite web|title=Glendelvine Primary - Home|url=https://www.glendelvine.org.uk/|access-date=2021-07-28|website=www.glendelvine.org.uk}}</ref>。
== 著名人 ==
{{仮リンク|ピーター・コリン・キャンベル|en|Peter Colin Campbell}}師は1845年から1854年に[[アバディーン大学]]学長となるまで教区牧師を務めた<ref>''Fasti Ecclesiae Scoticanae''; vol. 4; by Hew Scott</ref>。
1869年から1893年まで{{仮リンク|セオドア・マーシャル|en|Theodore Marshall}}師はケイパス牧師を務めた。1908年、彼は{{仮リンク|スコットランド国教会長老会長|en|Moderator of the General Assembly of the Church of Scotland}}に選出された。彼は任期中に死去した。
20世紀の著名な民謡歌手{{仮リンク|ベル・ステュアート|en|Belle Stewart}}は「ケイパスで(中略)1906年7月18日にテイ川河原のテント内で生まれた」<ref>{{cite book |last1=Stewart |first1=Sheila |title=Queen Amang the Heather: the life of Belle Stewart |date=2006 |publisher=Birlinn |location=Edinburgh |page=1}}</ref>。
== 脚注 ==
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[[Category:パース・アンド・キンロス]] | 2023-10-12T11:57:46Z | 2023-10-12T11:57:46Z | false | false | false | [
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4,840,613 | 高田明 (曖昧さ回避) | 高田 明(たかた/たかだ あきら) | [
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] | 高田 明 高田明 - 実業家
高田明 (競艇選手)
高田明 (医師) | '''高田 明'''(たかた/たかだ あきら)
* [[高田明]](たかた あきら) - 実業家
* [[高田明 (競艇選手)]](たかだ あきら)
* [[高田明 (医師)]](たかだ あきら)
{{人名の曖昧さ回避}}
{{DEFAULTSORT:たかた あきら}} | 2023-10-12T11:59:38Z | 2023-10-12T11:59:38Z | false | false | false | [
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4,840,614 | ジョン・マクラフリン・トリオ・ライヴ! | 『ジョン・マクラフリン・トリオ・ライヴ!』(原題:Live at the Royal Festival Hall)は、ジョン・マクラフリン・トリオが1989年に録音・1990年に発表したライブ・アルバム。
「ジョン・マクラフリン・トリオ」は、マクラフリン、トリロク・グルトゥ、ヨナス・エルボーグにより結成され、その後ベーシストがジェフ・バーリンを経てカイ・エクハルトに交代し、本作がジョン・マクラフリン・トリオ名義の初アルバムとなった。マクラフリンは本作で、ナイロン弦ギターに、フォトン社のMIDIシステムを同期させている。
アメリカの『ビルボード』では、コンテンポラリー・ジャズ・アルバム・チャートで3位に達した。リチャード・S・ギネルはオールミュージックにおいて5点満点中4点を付け「このトリオはマクラフリンの、目にも止まらぬスピードを常に維持しながら、よりファンキーな感触も見せつけた演奏を後押ししている」と評している。
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] | 『ジョン・マクラフリン・トリオ・ライヴ!』は、ジョン・マクラフリン・トリオが1989年に録音・1990年に発表したライブ・アルバム。 | {{Infobox Album
| Name = ジョン・マクラフリン・トリオ・ライヴ!
| Type = [[ライブ・アルバム]]
| Artist = [[ジョン・マクラフリン]]・トリオ
| Released = [[1990年]]
| Recorded = 1989年11月27日 [[ロンドン]] [[ロイヤル・フェスティバル・ホール]]<ref name=ginell>{{Cite web |url=https://www.allmusic.com/album/live-at-the-royal-festival-hall-mw0000208256 |last=Ginell |first=Richard S |title=John McLaughlin, John McLaughlin Trio - Live at the Royal Festival Hall Album Reviews, Songs & More |publisher=AllMusic |accessdate=2023-10-12}}</ref>
| Length = 64分17秒
| Genre = [[ジャズ]]、[[フュージョン (音楽)|フュージョン]]
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| Producer = ステファン・F・ウィンター
| Reviews = *[[オールミュージック|AllMusic]] {{Rating-5|4}}<ref name=ginell />
| Chart position =
| Chronology = [[ジョン・マクラフリン]]
| Last album = 地中海<br />(1990年)
| This album = '''ジョン・マクラフリン・トリオ・ライヴ!'''<br /> (1990年)
| Next album = ケ・アレグリア<br />(1992年)
}}
『'''ジョン・マクラフリン・トリオ・ライヴ!'''』(原題:Live at the Royal Festival Hall)は、[[ジョン・マクラフリン]]・トリオが[[1989年]]に録音・[[1990年]]に発表した[[ライブ・アルバム]]。
== 背景 ==
「ジョン・マクラフリン・トリオ」は、マクラフリン、[[トリロク・グルトゥ]]、[[ヨナス・エルボーグ]]により結成され、その後ベーシストが[[ジェフ・バーリン]]を経てカイ・エクハルトに交代し、本作がジョン・マクラフリン・トリオ名義の初アルバムとなった<ref name=shinko>{{Cite book |和書|date=2009-02-08 |title=ジャズギター・ブックVol.20 |publisher=[[シンコーミュージック・エンタテイメント]] |page=30 |isbn=978-4-401-63278-7}}</ref>。マクラフリンは本作で、[[クラシック・ギター|ナイロン弦ギター]]に、フォトン社の[[MIDI]]システムを同期させている<ref name=shinko />。
== 反響・評価 ==
アメリカの『[[ビルボード]]』では、コンテンポラリー・ジャズ・アルバム・チャートで3位に達した<ref>{{Cite web |url=https://www.allmusic.com/artist/john-mclaughlin-mn0000223701/awards |title=John McLaughlin - Awards |publisher=AllMusic |accessdate=2023-10-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131123123011/https://www.allmusic.com/artist/john-mclaughlin-mn0000223701/awards |archivedate=2013-11-23}}</ref>。リチャード・S・ギネルは[[オールミュージック]]において5点満点中4点を付け「このトリオはマクラフリンの、目にも止まらぬスピードを常に維持しながら、よりファンキーな感触も見せつけた演奏を後押ししている」と評している<ref name=ginell />。
== 収録曲 ==
特記なき楽曲はジョン・マクラフリン作。
#[[ブルー・イン・グリーン]] - "Blue in Green" ([[マイルス・デイヴィス|Miles Davis]]) - 6:36
#ジャスト・アイディアズ/ジョージイ - "Just Ideas/Jozy" ([[ミッチェル・フォアマン|Mitchel Forman]]/John McLaughlin) - 5:31
#フロリアナポリス - "Florianapolis" - 15:12
#パシャズ・ラヴ - "Pasha's Love" ([[トリロク・グルトゥ|Trilok Gurtu]]) - 7:54
#マザー・タングズ - "Mother Tongues" - 19:20
#ブルース・フォーL.W. - "Blues for L.W." - 9:38
== 参加ミュージシャン ==
*ジョン・マクラフリン - [[クラシック・ギター|ナイロン弦ギター]]、[[ギターシンセサイザー]]
*カイ・エクハルト - [[エレクトリックベース|ベース]]
*[[トリロク・グルトゥ]] - [[パーカッション]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
{{デフォルトソート:しよんまくらふりんとりおらいう}}
[[Category:ジョン・マクラフリンのアルバム]]
[[Category:1990年のライブ・アルバム]] | 2023-10-12T12:03:17Z | 2023-10-12T12:09:16Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B4! |
4,840,622 | 李鍾植 (政治家) | 李 鍾植(イ・ジョンシク、朝鮮語: 이종식、1932年4月16日 - )は、大韓民国の記者、政治家。第9・10代韓国国会議員。
本貫は全義李氏。
日本統治時代の慶尚北道高霊郡出身。高麗大学校政治学科卒。以後朝鮮日報で記者のほか、政治部長、編集部局長といった要職を務め、政界では、維新政友会でスポークスパーソン、院内主席副総務、国会公職者倫理委員会の委員長などを務めた。また、2011年6月25日時点で方一栄文化財団理事などを務めている。 | [
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] | 李 鍾植は、大韓民国の記者、政治家。第9・10代韓国国会議員。 本貫は全義李氏。 | '''李 鍾植'''(イ・ジョンシク、{{Lang-ko|이종식}}、[[1932年]][[4月16日]] - )は、[[大韓民国]]の[[ジャーナリスト]]、[[政治家]]。第9・10代[[国会 (大韓民国)|韓国国会]]議員。[[本貫]]は{{仮リンク|全義李氏|ko|전의 이씨}}<ref name=":0">{{Cite web |title=대한민국헌정회 |url=https://rokps.or.kr/profile/profile_view.asp?idx=537&page=1 |website=rokps.or.kr |access-date=2023-10-12}}</ref>。
== 経歴 ==
[[慶尚北道 (日本統治時代)|日本統治時代の慶尚北道]][[高霊郡]]出身。[[高麗大学校]]政治学科卒。以後[[朝鮮日報]][[記者]]・政治部長・駐[[日本]][[特派員]]・編集副局長、[[聯合通信]]専務・監事、[[韓国放送委員会]]放送委員といった要職を務めた。政界入り後は、[[維新政友会]][[スポークスパーソン]]・院内首席副総務、国会公職者倫理委員会委員・委員長などを務めた。また、省谷言論文化財団、{{仮リンク|方一栄|ko|방일영}}文化財団理事(2011年6月25日時点)などを務めた<ref name=":0" /><ref>{{Cite web |archive-date=2011-06-25|archive-url=https://web.archive.org/web/20110625014305/http://www.bangfound.org/| url= http://www.bangfound.org/ |title=:: 방일영문화재단에 오신것을 환영합니다. :: |access-date=2023-10-12}}</ref>。
== 脚注 ==
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4,840,623 | 処置時の鎮静・鎮痛 | 処置時の鎮静・鎮痛(しょちじのちんせい・ちんつう、英: procedural sedation and analgesia: PSA)とは、患者に処置を行うために、鎮静・解離作用のある薬を、通常は鎮痛薬とともに投与する医療行為である。全体的な目標は、患者の自力呼吸能力を維持しながら、意識レベルを低下させることである。このプロセスでは気道保護反射は損なわれないため、気管挿管は必要ない。PSAは手術室だけでなく、救急診療でもよく行われる。旧来は意識下鎮静(英: conscious sedation)や処置時の鎮静(英: procedural sedation)と呼ばれていたが、鎮痛の重要性が近年認識され、PSAという呼び名が普及しつつある。
この手技は、痛みや不快感を伴う処置を行う際によく行われる。一般的な目的は以下の通りである。
患者がPSAを受けることを直ちに不適格とする絶対的な理由はない。しかし、患者の年齢、併存疾患、困難気道が予測される、などは重要な考慮事項である。
PSAに年齢制限はないが、高齢者では、低酸素血症、一過性無呼吸、バイタルサインの異常などの合併症が起こる可能性が高くなる。この原因は、鎮静薬への感受性上昇、生理的予備能低下、薬剤相互作用、分布容量の減少(ピーク血中濃度上昇に繋がる)による。合併症のリスクを軽減するために、声かけやタッチングによる刺激、酸素吸入を考慮する。
重篤な持病を持つ患者は、PSAを受けた後に悪い副作用が起こる可能性が高くなる。そのような持病の例としては、心不全、慢性閉塞性肺疾患、神経筋疾患などがある。低血圧や呼吸抑制など、PSAによる重篤な合併症のリスクを予測するには、ASA分類を使用する。一般に、ASAクラスIII以上の患者はPSAによる合併症を起こす可能性が高い。併存疾患に関連した合併症のリスクを減らすために、少量から開始し、薬剤をゆっくり投与し、薬剤の反復投与の頻度を減らすことを考慮する。
気道は、患者の呼吸能力または医師の換気能力によって評価される。困難気道(気道確保が難しい)の例としては、首が太い/肥満の患者、頭頸部の解剖学的異常、肺疾患などがある。マランパチ分類などの評価尺度で気道困難の程度を評価すべきである。一般に、患者が気道困難と評価された場合、麻酔科医にコンサルトすることが望まれる。
PSAは、気道への介入(例えば気管挿管)を避けるためにしばしば行われるが、鎮静のレベルは連続的なものであり、患者は容易に、より深い鎮静状態に陥る可能性がある。このため、PSAを行う医師は、意図した鎮静レベルより少なくとも1段階高い鎮静レベルで患者をケアできるよう準備しておく必要がある。そのためには、施術者は鎮静のレベルを認識し、より深い鎮静と関連する心肺リスクの増大を理解できなければならない。
アメリカ麻酔科学会(英語版)は鎮静の深度を以下のように定義している。
解離性鎮静と呼ばれる鎮静法もある。これは深い健忘を引き起こすが、自発呼吸は保たれ、呼吸・循環は安定しており、気道反射は損なわれない。ケタミンは、このタイプの鎮静を引き起こすことができる一般的に使用される薬物である。
プロポフォールは非バルビツール酸誘導体で、抑制性GABAA受容体を刺激し、興奮性NMDA受容体を遮断することで作用すると考えられている。プロポフォールは効果が発現するまで40秒かかり、効果は6分間持続する。プロポフォールには鎮静作用と健忘作用があるが、鎮痛作用はない。注意すべき副作用には、低血圧と呼吸抑制があり、これは酸素飽和度の低下として現れる。プロポフォールは静脈内投与時に痛みを伴うが、プロポフォール投与に伴う痛みを軽減にはリドカイン静脈内投与が有効である。さらに、制吐作用もあり、この種の処置に有利である。
エトミデートはイミダゾール誘導体で、全身麻酔の導入によく用いられる。効果はほぼ即時で、5~15秒以内に現れ、1~4分持続する。エトミデートには鎮静効果しかなく、鎮痛効果はない。エトミデートの副作用には、ミオクローヌス(不随意の筋肉のぴくつき)や呼吸抑制がある。エトミデートの主な利点のひとつは、心血管系や呼吸器系の不安定性を引き起こさないことである。このため、すでに血圧が低い患者には、より好ましい選択肢となる可能性がある。
ミダゾラムはベンゾジアゼピンの一種で、抑制性GABA受容体を刺激することにより作用する。効果は2~5分以内に現れ、30~60分持続する。主な作用は抗不安作用で、不安感の軽減を助け、健忘作用で、患者が手技に関連した記憶を忘れるのを助ける。深い鎮静が目的の場合、プロポフォールやエトミデートの方が作用時間が短いためにミダゾラムより適している。ミダゾラムは体内の脂肪組織に集まるため、合併症として鎮静が長引く可能性がある。そのため、高齢者、肥満者、腎臓や肝臓に疾患のある人は、ミダゾラムによる長時間の鎮静に対してより脆弱である。ミダゾラムを大量に投与した場合や他剤と併用した場合、呼吸抑制が問題となる。
ケタミンは解離性麻酔薬であり、患者を夢を見ているような意識レベルに導く。速攻性があり、5~20分持続する。ケタミンには鎮静、鎮痛、および健忘の作用があるが、今日では専らは鎮痛に用いられる。ケタミンの利点としては、患者の気道保護反射が損なわれず、上気道の筋緊張が保たれ、自発呼吸が維持されることが挙げられる。ケタミンの一般的な副作用は覚醒時の反応である。患者が混乱したり、うっとりしたり、幻覚を見たりすることがある。通常は良性であるが、このような反応は患者を恐怖に陥れることもある。その他の合併症としては、心拍数の上昇、血圧の上昇、吐き気、嘔吐、喉頭痙攣などが報告されているが、通常は口腔咽頭操作の場合に起こる。
デクスメデトミジンは、上記の薬剤に比べて比較的最近使用されるようになった薬剤である。デクスメデトミジンはα2アドレナリン作動薬で、鎮静作用と鎮痛作用がある。呼吸機能への影響は軽微である。投与量が増えると心機能に影響を及ぼす。
オピオイドは、中枢神経系に存在する他の様々なオピオイド受容体に加え、主にμオピオイド受容体(英語版)に作用し、中枢神経系に存在する他の様々なオピオイド受容体にも作用する。オピオイドは用量依存的に呼吸循環器系の抑制を引き起こす。オピオイドには嗜癖性があり、オピオイドの蔓延(英語版)につながっている。PSAのために使用される場合、これらは低用量から開始され、その後、所望の効果に達するように滴定投与される。
フェンタニルはモルヒネの75~125倍の強さを持つ合成オピオイドで、神経系のオピオイド受容体を活性化することで作用する。その効果は2~3分で始まり、30~60分持続する。フェンタニルには鎮痛作用と鎮静作用があるが、健忘作用はない。フェンタニルは、プロポフォールやエトミデートが開発される前は、PSAにおいてミダゾラムとよく併用されていた。フェンタニルの主な合併症は呼吸抑制であり、他の鎮静薬と併用すると悪化することがある。
ケタミンは前述のように鎮痛作用と鎮静作用の両方を持ち、オピオイドの代替鎮痛薬として有用である。少量のケタミンをプロポフォールと併用した場合、フェンタニルよりも安全であることがわかっている。
麻酔を受ける患者はすべて、アメリカ麻酔科学会(American Society of Anesthesiologists: ASA)(英語版)が考案したリスク分類システム(ASA-PS)などを用いて、事前にリスクを評価しなければならない。事前評価に加えて、患者の病歴を聴取し、特に麻酔歴に注意する必要がある。これらのことが、ASA-PS評価に影響する。この評価尺度は、健康な人を示すASA1から、脳死状態のASA6まである。救急治療室でASA1または2の患者に鎮静を行うことは安全である。患者がASA3または4の場合は、PSAの訓練を積んだ麻酔科医など、さらなるリソースが必要になるかもしれない。さらに、資格のある麻酔の専門家がPSAを行う前には、インフォームド・コンセントを完了する必要がある。
気道評価は、処置前のスクリーニングの一環として行われる場合、身体検査の中で最も重要な部分の一つである。患者が意図した以上に強く鎮静され、その結果何らかの気道介入が必要になる危険性は常にある。したがって、麻酔科医は、マランパチ分類、開口可能かどうか、甲状軟骨と頤との距離(気道確保の難易度に影響する)(英語版)を含む気道評価を行うべきである。患者が困難気道と判断され、気道への介入が必要な場合は、十分なリソースを用意する必要がある。それには、ビデオ喉頭鏡、気管支鏡、挿管式ラリンジアルマスクなどである。
十分な心肺機能を維持するため、PSA時には患者のバイタルサイン、特に酸素飽和度と血圧を記録しておくことが重要である。モニターもPSAの安全性に有用である。心電図、パルスオキシメトリー、血圧計、呼気終末二酸化炭素モニターなどのモニターがある。呼吸抑制をもたらす深い鎮静は、これらのモニターに何らかの量的変化を引き起こす可能性があり、それゆえにモニターを行うことが重要なのである。呼吸抑制で最初の兆候のひとつは、呼気終末二酸化炭素の上昇である。これは酸素飽和度の低下よりかなり前に起こる。呼吸抑制の程度にもよるが、患者の容態安定のため、酸素吸入や気道確保が行われる。視覚的評価もPSAの重要な部分である。意識レベルを定量化するために、医師はさまざまなレベルの刺激を行い、患者の反応を観察する。
胃の中に食べ物がある患者にPSAを行うと、誤嚥のリスクが高まるという理論的懸念がある。現在のところ、最近食物を摂取した患者にPSAを実施した場合、胃内容物を誤嚥するリスクが臨床的に有意に増大することを示唆するエビデンスはない。実際、ほとんどの場合、PSAにおいては、誤嚥を防ぐために絶食は必要ないことを示唆するエビデンスがある。しかし、可能であれば、やはり絶食が望ましい。ほとんどのPSAでは、患者は少なくとも6時間は絶食すべきである。透明な水分は、手技の2時間前まで許容される。誤嚥のリスクが高い場合は、気道反射を損なわないケタミンを使用することを考慮してもよい。しかし、特に救急外来では、小児ではケタミンによるPSAでは長時間の絶食は不要とされる。
PSAを受けた患者の退院には統一された基準がない。患者が退院できるまでの回復時間は様々であるが、通常60~120分である。基準の一例は以下の通りである。
PSAはいくつかの合併症を引き起こす可能性がある。アレルギー反応、過鎮静、呼吸抑制、血行動態への影響などである。これらは通常、使用する鎮静剤によって異なる。合併症を引き起こしやすい薬剤もあるが、適切に使用しなければ、すべての鎮静薬が合併症を引き起こす可能性がある。これらの合併症を減らすために、一般的に滴定投与が行われる。さらに、一部の鎮静剤には拮抗薬(アンタゴニスト)と呼ばれる逆効果をもたらす薬剤があり、これを使用することで鎮静効果を終了させたり、鎮静量を減らしたりすることができる。さらに、患者の状態を監視する担当者が割り当てられ、PSAの合併症を認識できるようにしておく必要がある。彼らに他の人に注意を促し、それに応じて対応する能力があれば、合併症を減らすことができる。
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"text": "PSAはいくつかの合併症を引き起こす可能性がある。アレルギー反応、過鎮静、呼吸抑制、血行動態への影響などである。これらは通常、使用する鎮静剤によって異なる。合併症を引き起こしやすい薬剤もあるが、適切に使用しなければ、すべての鎮静薬が合併症を引き起こす可能性がある。これらの合併症を減らすために、一般的に滴定投与が行われる。さらに、一部の鎮静剤には拮抗薬(アンタゴニスト)と呼ばれる逆効果をもたらす薬剤があり、これを使用することで鎮静効果を終了させたり、鎮静量を減らしたりすることができる。さらに、患者の状態を監視する担当者が割り当てられ、PSAの合併症を認識できるようにしておく必要がある。彼らに他の人に注意を促し、それに応じて対応する能力があれば、合併症を減らすことができる。",
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"text": "麻酔科医でない者が手術室外で鎮静を行うことには賛否両論がある。",
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] | 処置時の鎮静・鎮痛とは、患者に処置を行うために、鎮静・解離作用のある薬を、通常は鎮痛薬とともに投与する医療行為である。全体的な目標は、患者の自力呼吸能力を維持しながら、意識レベルを低下させることである。このプロセスでは気道保護反射は損なわれないため、気管挿管は必要ない。PSAは手術室だけでなく、救急診療でもよく行われる。旧来は意識下鎮静や処置時の鎮静と呼ばれていたが、鎮痛の重要性が近年認識され、PSAという呼び名が普及しつつある。 | {{Pathnav|麻酔|}}{{Infobox medical intervention |
Name = 処置時の鎮静・鎮痛 |
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}}
[[ファイル:Medicatie.Anesthetica.propofol.jpg|サムネイル|処置時の鎮静・鎮痛や[[全身麻酔]]に用いられる静脈麻酔薬、[[プロポフォール]]]]
'''処置時の鎮静・鎮痛'''(しょちじのちんせい・ちんつう、{{Lang-en-short|procedural sedation and analgesia}}: '''PSA''')とは、患者に[[処置]]を行うために、[[鎮静薬|鎮静]]・[[解離性麻酔薬|解離]]作用のある薬を、通常は[[鎮痛剤|鎮痛薬]]とともに投与する[[医療行為]]である。全体的な目標は、患者の[[自発呼吸|自力呼吸]]能力を維持しながら、意識レベルを低下させることである。このプロセスでは気道保護反射は損なわれ<ref name=":1">Walls, Ron M., MD; Hockberger, Robert S., MD; Gausche-Hill, Marianne, MD, FACEP, FAAP, FAEMS (2018). ''Rosen's Emergency Medicine: Concepts and Clinical Practice. Ninth Edition''. Elsevier.{{要ページ番号|date=November 2019}}</ref>ないため、[[気管挿管]]は必要ない。PSAは[[手術室]]だけでなく、救急診療でもよく行われる。旧来は'''意識下鎮静'''({{Lang-en-short|conscious sedation}})や'''処置時の鎮静'''({{Lang-en-short|procedural sedation}})と呼ばれていたが、鎮痛の重要性が近年認識され、'''PSA'''という呼び名が普及しつつある{{Sfn|乗井|2016|pp=3-4}}。
{{Seealso|鎮静}}
==適応==
この手技は、[[痛み]]や不快感を伴う処置を行う際によく行われる。一般的な目的は以下の通りである。
* [[裂創]]の縫合
* [[骨折]]の{{仮リンク|整復|en|Reduction (orthopedic surgery)|redirect=1}}
* [[膿瘍]]の[[ドレナージ]]
* [[脱臼]]の整復
* [[内視鏡]]
* [[カルディオバージョン]]<ref>{{Cite web |url=https://bestbets.org/bets/bet.php?id=977 |title=BestBets: Procedural Sedation for Cardioversion |website=bestbets.org |access-date=2022-02-26}}</ref>
* [[歯周治療学|歯科治療]]
* [[経食道心エコー図|経食道心エコー]]
* 患者(特に小児)がじっとしていられない(あるいは動きたくない)場合の画像診断や処置
==禁忌==
患者がPSAを受けることを直ちに不適格とする絶対的な理由はない。しかし、患者の年齢、[[併存疾患]]、[[困難気道]]が予測される、などは重要な考慮事項である。
===年齢===
PSAに年齢制限はないが、高齢者では、低酸素血症、一過性[[無呼吸]]、[[バイタルサイン]]の異常などの合併症が起こる可能性が高くなる<ref name=":0">{{Cite web |title=Procedural sedation in adults in the emergency department: General considerations, preparation, monitoring, and mitigating complications |url=https://www.uptodate.com/contents/procedural-sedation-in-adults-in-the-emergency-department-general-considerations-preparation-monitoring-and-mitigating-complications |website=www.uptodate.com |access-date=2023-10-11}}</ref>。この原因は、鎮静薬への感受性上昇、生理的予備能低下、薬剤相互作用、分布容量の減少(ピーク血中濃度上昇に繋がる)による<ref name=":0" />。合併症のリスクを軽減するために、声かけやタッチングによる刺激、[[酸素吸入]]を考慮する<ref name=":0" />。
=== 併存疾患 ===
重篤な持病を持つ患者は、PSAを受けた後に悪い[[副作用]]が起こる可能性が高くなる<ref name=":0" />。そのような持病の例としては、[[心不全]]、[[慢性閉塞性肺疾患]]、[[神経筋疾患]]などがある<ref name=":0" />。[[低血圧]]や[[呼吸抑制]]など、PSAによる重篤な合併症のリスクを予測するには、[[ASA-PS|ASA分類]]を使用する。一般に、ASAクラスIII以上の患者はPSAによる合併症を起こす可能性が高い。併存疾患に関連した合併症のリスクを減らすために、少量から開始し、薬剤をゆっくり投与し、薬剤の反復投与の頻度を減らすことを考慮する<ref name=":0" />。
===困難気道===
[[ファイル:Tongue blocking airway.svg|サムネイル|意識レベルが低下すると[[舌]]が気道を閉塞する。]]
気道は、患者の[[呼吸]]能力または医師の[[換気 (医学)|換気]]能力によって評価される<ref name=":0" />。困難気道([[気道確保]]が難しい)の例としては、首が太い/[[肥満]]の患者、頭頸部の解剖学的異常、肺疾患などがある<ref name=":0" />。[[マランパチ分類]]などの評価尺度で気道困難の程度を評価すべきである<ref name=":0" />。一般に、患者が気道困難と評価された場合、麻酔科医にコンサルトすることが望まれる<ref name=":0" />。
==鎮静の深度==
PSAは、[[気道確保|気道への介入]](例えば[[気管挿管]])を避けるためにしばしば行われるが、鎮静のレベルは連続的なものであり、患者は容易に、より深い鎮静状態に陥る可能性がある。このため、PSAを行う医師は、意図した鎮静レベルより少なくとも1段階高い鎮静レベルで患者をケアできるよう準備しておく必要がある<ref name=":1" />。そのためには、施術者は鎮静のレベルを認識し、より深い鎮静と関連する心肺リスクの増大を理解できなければならない<ref name=":0" />。
{{仮リンク|アメリカ麻酔科学会|en|American Society of Anesthesiologists}}は鎮静の深度を以下のように定義している<ref>{{Cite journal|date=2018-03-01|title=Practice Guidelines for Moderate Procedural Sedation and Analgesia 2018|url=https://pubs.asahq.org/anesthesiology/article/128/3/437/18818/Practice-Guidelines-for-Moderate-Procedural|journal=Anesthesiology|volume=128|issue=3|pages=437–479|language=en|doi=10.1097/ALN.0000000000002043|issn=0003-3022}}</ref>。
{| class="wikitable"
|-
! !!浅い鎮静 !!中等度鎮静 !!深い鎮静 !![[全身麻酔]]
|-
| 反応性 || 言語刺激に正常応答 || 言語または触覚による刺激に合目的的に反応 || 繰り返す、ないしは痛み刺激に合目的的に反応 || 痛み刺激に対して覚醒しない
|-
| 気道 || 損なわれていない || 介入不要 || 介入が必要なことがある || しばしば介入を必要とする
|-
| [[換気 (医学)|換気]]|| 損なわれていない || 十分 || 不十分な時がある || しばしば不十分
|-
| 心血管系 || 損なわれていない || 通常維持される || 通常維持される || 損なわれるときがある。
|}
解離性鎮静と呼ばれる鎮静法もある。これは深い[[健忘]]を引き起こすが、[[自発呼吸]]は保たれ、呼吸・循環は安定しており、気道反射は損なわれない。[[ケタミン]]は、このタイプの鎮静を引き起こすことができる一般的に使用される薬物である<ref name=":2">{{Cite book |last1=Stone |first1=C. Keith |chapter=Procedural Sedation and Analgesia |chapter-url=https://accessmedicine.mhmedical.com/content.aspx?bookid=2172§ionid=165058258&jumpsectionid=165058288 |title=CURRENT Diagnosis & Treatment: Emergency Medicine |date=2017 |publisher=McGraw-Hill Education}}</ref>。
==鎮静薬==
===プロポフォール===
{{Main|プロポフォール}}
プロポフォールは非[[バルビツール酸]]誘導体で、抑制性[[GABAA受容体|GABA<sub>A</sub>受容体]]を刺激し、興奮性[[NMDA型グルタミン酸受容体|NMDA受容体]]を遮断することで作用すると考えられている<ref name="Hohl-2008">{{Cite journal |last1=Hohl |first1=Corinne Michèle |last2=Sadatsafavi |first2=Mohsen |last3=Nosyk |first3=Bohdan |last4=Anis |first4=Aslam Hayat |title=Safety and Clinical Effectiveness of Midazolam versus Propofol for Procedural Sedation in the Emergency Department: A Systematic Review |journal=Academic Emergency Medicine |date=16 January 2008 |volume=15 |issue=1 |pages=1–8 |doi=10.1111/j.1553-2712.2007.00022.x |pmid=18211306 }}</ref>。プロポフォールは効果が発現するまで40秒かかり、効果は6分間持続する<ref name=":3">{{Cite web |last1=Frank |first1=Robert |title=Procedural sedation in adults outside the operating room |url=https://www.uptodate.com/contents/procedural-sedation-in-adults-outside-the-operating-room |website=Uptodate |access-date=2019-11-22}}</ref>。プロポフォールには鎮静作用と[[健忘]]作用があるが、鎮痛作用はない。注意すべき副作用には、[[低血圧]]と[[呼吸抑制]]があり、これは[[酸素飽和度]]の低下として現れる。プロポフォールは静脈内投与時に痛みを伴うが、プロポフォール投与に伴う痛みを軽減には[[リドカイン]]静脈内投与が有効である。さらに、[[制吐薬|制吐]]作用もあり、この種の処置に有利である<ref name="Miller's Anesthesia">{{Cite book |last1=Miller |first1=Ronald D. |last2=Eriksson |first2=Lars I. |last3=Fleisher |first3=Lee A. |last4=Wiener-Kronish |first4=Jeanine P. |last5=Cohen |first5=Neal H. |last6=Young |first6=William L. |title=Miller's Anesthesia |date=2014 |publisher=Elsevier Health Sciences |isbn=978-0-323-28011-2 }}{{要ページ番号|date=November 2019}}</ref>。
===エトミデート===
[[エトミデート]]は[[イミダゾール]]誘導体で、[[全身麻酔]]の[[導入 (麻酔)|導入]]によく用いられる。効果はほぼ即時で、5~15秒以内に現れ、1~4分持続する<ref name=":4">{{Cite web |title=Procedural sedation in adults in the emergency department: Medication selection, dosing, and discharge criteria |url=https://www.uptodate.com/contents/procedural-sedation-in-adults-in-the-emergency-department-medication-selection-dosing-and-discharge-criteria?search=procedural%20sedation%20in%20adults&source=search_result&selectedTitle=2~150&usage_type=default&display_rank=2#H1239134507 |website=www.uptodate.com |access-date=2023-10-11}}</ref>。エトミデートには鎮静効果しかなく、鎮痛効果はない。エトミデートの副作用には、[[ミオクローヌス]](不随意の筋肉のぴくつき)や[[呼吸抑制]]がある<ref name=":4" />。エトミデートの主な利点のひとつは、心血管系や呼吸器系の不安定性を引き起こさないことである<ref name="Miller's Anesthesia"/><ref name=":4" />。このため、すでに血圧が低い患者には、より好ましい選択肢となる可能性がある<ref name=":4" />。
===ミダゾラム===
{{Main|ミダゾラム}}ミダゾラムは[[ベンゾジアゼピン]]の一種で、抑制性GABA受容体を刺激することにより作用する<ref name="Hohl-2008"/>。効果は2~5分以内に現れ、30~60分持続する<ref name="Miller's Anesthesia"/><ref name=":4" />。主な作用は抗不安作用で、不安感の軽減を助け、健忘作用で、患者が手技に関連した記憶を忘れるのを助ける<ref name=":4" />。深い鎮静が目的の場合、プロポフォールやエトミデートの方が作用時間が短いためにミダゾラムより適している<ref name=":4" />。ミダゾラムは体内の脂肪組織に集まるため、合併症として鎮静が長引く可能性がある<ref name=":4" />。そのため、高齢者、肥満者、腎臓や肝臓に疾患のある人は、ミダゾラムによる長時間の鎮静に対してより脆弱である<ref name=":4" />。ミダゾラムを大量に投与した場合や他剤と併用した場合、呼吸抑制が問題となる<ref name=":4" />。
[[ファイル:S-ketamine-3D-balls.png|サムネイル|[[ケタミン]]の3D分子模型。ケタミンには[[光学異性体]]があり、麻酔や鎮静に用いられるのは[[ラセミ体]]だが、光学分割された[[エスケタミン]](この図)は抗うつ剤として販売されている。]]
===ケタミン===
{{Main|ケタミン}}
ケタミンは[[解離性麻酔薬]]であり、患者を夢を見ているような意識レベルに導く<ref name=":4" />。速攻性があり、5~20分持続する<ref name="Miller's Anesthesia"/><ref name=":4" />。ケタミンには鎮静、鎮痛、および健忘の作用があるが、今日では専ら鎮痛に用いられる。ケタミンの利点としては、患者の気道保護反射が損なわれず、上気道の筋緊張が保たれ、[[自発呼吸]]が維持されることが挙げられる<ref name=":4" />。ケタミンの一般的な副作用は覚醒時の反応である<ref name=":4" />。患者が混乱したり、うっとりしたり、幻覚を見たりすることがある<ref name=":4" />。通常は良性であるが、このような反応は患者を恐怖に陥れることもある<ref name=":4" />。その他の合併症としては、[[頻脈|心拍数の上昇]]、[[高血圧|血圧の上昇]]、吐き気、嘔吐、[[喉頭痙攣]]などが報告されているが、通常は口腔咽頭操作の場合に起こる<ref name=":4" />。
===デクスメデトミジン===
{{Main|デクスメデトミジン}}
[[デクスメデトミジン]]は、上記の薬剤に比べて比較的最近使用されるようになった薬剤である。デクスメデトミジンはα2アドレナリン作動薬で、鎮静作用と鎮痛作用がある<ref name=":4" />。呼吸機能への影響は軽微である<ref name=":4" />。投与量が増えると心機能に影響を及ぼす<ref name="Miller's Anesthesia" /><ref name=":4" />。
==鎮痛薬==
===オピオイド===
[[ファイル:Fentanyl-3D-balls.png|サムネイル|フェンタニルの3D分子模型]]
{{Main|オピオイド|フェンタニル}}
オピオイドは、中枢神経系に存在する他の様々なオピオイド受容体に加え、主に{{仮リンク|μオピオイド受容体|en|μ-opioid receptors|redirect=1}}に作用し、[[中枢神経系]]に存在する他の様々なオピオイド受容体にも作用する。オピオイドは用量依存的に呼吸循環器系の抑制を引き起こす<ref name="Miller's Anesthesia" />。オピオイドには[[嗜癖|嗜癖性]]があり、{{仮リンク|オピオイドの蔓延|en|opioid epidemic|redirect=1}}につながっている。PSAのために使用される場合、これらは低用量から開始され、その後、所望の効果に達するように[[滴定投与]]される<ref name=":1" />。
フェンタニルはモルヒネの75~125倍の強さを持つ合成オピオイドで、神経系のオピオイド受容体を活性化することで作用する<ref name=":4" />。その効果は2~3分で始まり、30~60分持続する<ref name=":4" />。フェンタニルには鎮痛作用と鎮静作用があるが、健忘作用はない<ref name=":4" />。フェンタニルは、プロポフォールやエトミデートが開発される前は、PSAにおいてミダゾラムとよく併用されていた。フェンタニルの主な合併症は[[呼吸抑制]]であり、他の鎮静薬と併用すると悪化することがある<ref name=":4" />。
ケタミンは前述のように鎮痛作用と鎮静作用の両方を持ち、オピオイドの代替鎮痛薬として有用である。少量のケタミンをプロポフォールと併用した場合、フェンタニルよりも安全であることがわかっている<ref>{{Cite journal |last1=Messenger |first1=David W. |last2=Murray |first2=Heather E. |last3=Dungey |first3=Paul E. |last4=van Vlymen |first4=Janet |last5=Sivilotti |first5=Marco L.A. |title=Subdissociative-dose Ketamine versus Fentanyl for Analgesia during Propofol Procedural Sedation: A Randomized Clinical Trial |journal=Academic Emergency Medicine |date=October 2008 |volume=15 |issue=10 |pages=877–886 |doi=10.1111/j.1553-2712.2008.00219.x |pmid=18754820 |s2cid=6455843 |doi-access=free }}</ref>。
== 鎮静の評価 ==
{{Main|ASA-PS|マランパチ分類}}
麻酔を受ける患者はすべて、{{仮リンク|アメリカ麻酔科学会|en|American Society of Anesthesiologists|label=アメリカ麻酔科学会(American Society of Anesthesiologists: ASA)}}が考案したリスク分類システム(ASA-PS)などを用いて、事前にリスクを評価しなければならない。事前評価に加えて、患者の[[病歴]]を聴取し、特に麻酔歴に注意する必要がある。これらのことが、ASA-PS評価に影響する。この評価尺度は、健康な人を示すASA1から、脳死状態のASA6まである<ref name=":2" />。救急治療室でASA1または2の患者に鎮静を行うことは安全である。患者がASA3または4の場合は、PSAの訓練を積んだ麻酔科医など、さらなるリソースが必要になるかもしれない<ref name=":1" />。さらに、資格のある麻酔の専門家がPSAを行う前には、[[インフォームド・コンセント]]を完了する必要がある<ref name=":2" />。
気道評価は、処置前の[[スクリーニング (医学)|スクリーニング]]の一環として行われる場合、身体検査の中で最も重要な部分の一つである。患者が意図した以上に強く鎮静され、その結果何らかの気道介入が必要になる危険性は常にある。したがって、麻酔科医は、マランパチ分類、開口可能かどうか、{{仮リンク|甲状頤間距離|en|Thyromental distance|label=甲状軟骨と頤との距離(気道確保の難易度に影響する)|redirect=1}}を含む気道評価を行うべきである。患者が[[困難気道]]と判断され、[[高度な気道確保|気道への介入]]が必要な場合は、十分なリソースを用意する必要がある。それには、[[ビデオ喉頭鏡]]、[[気管支鏡]]、挿管式[[ラリンジアルマスク]]などである<ref name=":2" />。
== 安全性・モニタリング ==
十分な心肺機能を維持するため、PSA時には患者の[[バイタルサイン]]、特に[[酸素飽和度]]と[[血圧]]を記録しておくことが重要である<ref name=":1" />。[[モニター (医学)|モニター]]もPSAの安全性に有用である。[[心電図モニタ|心電図]]、[[パルスオキシメトリー]]、[[血圧計]]、[[カプノグラフィ|呼気終末二酸化炭素モニター]]などのモニターがある<ref name=":2" /><ref>{{Cite journal |last1=Miner |first1=James R. |last2=Burton |first2=John H. |title=Clinical Practice Advisory: Emergency Department Procedural Sedation With Propofol |journal=Annals of Emergency Medicine |date=August 2007 |volume=50 |issue=2 |pages=182–187.e1 |doi=10.1016/j.annemergmed.2006.12.017 |pmid=17321006 }}</ref>。呼吸抑制をもたらす深い鎮静は、これらのモニターに何らかの量的変化を引き起こす可能性があり、それゆえにモニターを行うことが重要なのである。呼吸抑制で最初の兆候のひとつは、呼気終末二酸化炭素の上昇である。これは酸素飽和度の低下よりかなり前に起こる。呼吸抑制の程度にもよるが、患者の容態安定のため、[[酸素吸入]]や[[気道確保]]が行われる<ref name=":2" />。視覚的評価もPSAの重要な部分である。意識レベルを定量化するために、医師はさまざまなレベルの刺激を行い、患者の反応を観察する。
=== 誤嚥の危険性 ===
{{Seealso|誤嚥|誤嚥性肺炎|メンデルソン症候群}}
胃の中に食べ物がある患者にPSAを行うと、[[誤嚥]]のリスクが高まるという理論的懸念がある。現在のところ、最近食物を摂取した患者にPSAを実施した場合、胃内容物を誤嚥するリスクが臨床的に有意に増大することを示唆する[[エビデンス (医学)|エビデンス]]はない。実際、ほとんどの場合、PSAにおいては、誤嚥を防ぐために絶食は必要ないことを示唆する[[エビデンス (医学)|エビデンス]]がある<ref>{{Cite journal |last1=Green |first1=S.M. |last2=Mason |first2=K.P. |last3=Krauss |first3=B.S. |title=Pulmonary aspiration during procedural sedation: a comprehensive systematic review |journal=British Journal of Anaesthesia |date=March 2017 |volume=118 |issue=3 |pages=344–354 |doi=10.1093/bja/aex004 |pmid=28186265 |doi-access=free }}</ref>。しかし、可能であれば、やはり絶食が望ましい<ref name=":1" />。ほとんどのPSAでは、患者は少なくとも6時間は絶食すべきである。透明な水分は、手技の2時間前まで許容される。誤嚥のリスクが高い場合は、気道反射を損なわないケタミンを使用することを考慮してもよい<ref name=":5">{{Cite web |url=https://bestbets.org/bets/bet.php?id=866 |title=BestBets: Does the time of fasting affect complication rates during ketamine sedation |website=bestbets.org |access-date=2008-12-13}}</ref>。しかし、特に[[救急救命室|救急外来]]では、小児ではケタミンによるPSAでは長時間の絶食は不要とされる<ref name=":5" />。
== 退院基準 ==
[[ファイル:Anesthesia recovery modified.jpg|thumb|麻酔を受けた後で[[生体情報モニタ|モニター]]されている患者。患者の横には飲水用のコップが置かれている。]]
PSAを受けた患者の退院には統一された基準がない。患者が退院できるまでの回復時間は様々であるが、通常60~120分である。基準の一例は以下の通りである<ref>{{Cite book|洋書 |title=The Harriet Lane Handbook |last1=Berger |first1=Jessica |last2=Koszela |first2=Keri |publisher=Elsevier |year=2018}}</ref>{{Efn|この基準は日本よりも緩い。欧米圏では医療費を抑制するために、患者の病院滞在を極力短くする傾向にあるために、日本では退院させないであろう状態でも退院させる。例えば、イギリスでは滞在コストが安いホテルに「退院」するケースもある<ref>{{Cite web |title=Coronavirus » Improving discharge patient flow from acute settings |url=https://www.england.nhs.uk/coronavirus/documents/improving-discharge-patient-flow-from-acute-settings/ |website=www.england.nhs.uk |access-date=2023-10-12}}</ref>。}}。
# 患者は心血管系が安定しており、気道が開通している。
# 患者は容易に覚醒でき、[[咽頭反射]]や[[咳嗽反射]]などの反射が損なわれていない。
# 会話や座位が普段の状態に戻りつつある。
# 適切な水分補給がなされている。
# 乳幼児や知的障害のある患者など、特殊な集団の患者では、鎮静前と同程度の反応があること。
==合併症==
PSAはいくつかの合併症を引き起こす可能性がある。[[アレルギー反応]]、過鎮静、[[呼吸抑制]]、血行動態への影響などである。これらは通常、使用する鎮静剤によって異なる。合併症を引き起こしやすい薬剤もあるが、適切に使用しなければ、すべての鎮静薬が合併症を引き起こす可能性がある。これらの合併症を減らすために、一般的に[[滴定投与]]が行われる。さらに、一部の鎮静剤には[[拮抗薬]]([[アンタゴニスト]])と呼ばれる逆効果をもたらす薬剤があり、これを使用することで鎮静効果を終了させたり、鎮静量を減らしたりすることができる。さらに、患者の状態を監視する担当者が割り当てられ、PSAの合併症を認識できるようにしておく必要がある。彼らに他の人に注意を促し、それに応じて対応する能力があれば、合併症を減らすことができる<ref name=":1" />。
==論争==
麻酔科医でない者が手術室外で鎮静を行うことには賛否両論がある<ref>{{Cite journal |last1=Krauss |first1=Baruch |last2=Green |first2=Steven M |title=Procedural sedation and analgesia in children |journal=The Lancet |date=March 2006 |volume=367 |issue=9512 |pages=766–780 |doi=10.1016/S0140-6736(06)68230-5 |pmid=16517277 |s2cid=19960762 }}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Citebook|和書 |title=安全な鎮静のためのプラクティカルガイド |year=2021 |publisher=公益社団法人[[日本麻酔科学会]] |last=日本麻酔科学会 |ref=harv |url=https://anesth.or.jp/files/pdf/practical_guide_for_safe_sedation_20220628.pdf |access-date=2023-10-12 |date=2021-11-26}}
* {{Citebook|和書 |title=処置時の鎮静・鎮痛ガイド |date=2016-11-15 |year=2016 |publisher=医学書院 |ref=harv |last=乗井 |first=達守 |isbn=9784260028301}}
==外部リンク==
* {{Cite journal |vauthors=Brown TB, Lovato LM, Parker D |title=Procedural sedation in the acute care setting |journal=Am Fam Physician |volume=71 |issue=1 |pages=85–90 |date=January 2005 |pmid=15663030 |url=http://www.aafp.org/afp/20050101/85.html}}
{{麻酔}}
{{救急医学}}
<!-- Wikipedia 翻訳支援ツール Ver1.32、[[:en:Procedural sedation and analgesia]](2023年5月15日 4:53:32(UTC))より -->
{{DEFAULTSORT:しよちししのちんせいちんつう}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%A6%E7%BD%AE%E6%99%82%E3%81%AE%E9%8E%AE%E9%9D%99%E3%83%BB%E9%8E%AE%E7%97%9B |
4,840,625 | 音ノ乃のの | 音ノ乃のの(ののの のの)は、ミリプロ / MillionProductionに所属するバーチャルライバー、バーチャルアイドル。キャラクターデザインは甘狼このみ。主な活動場所はYouTube。
ミリプロ制作の2Dアバターを使用し、歌を主体とした生放送を配信している。
2023年4月1日に始めて投稿した動画が100万回以上再生され、デビュー3か月でYoutubeのチャンネル登録者数は10万人となった。
甘狼このみが手掛けた同所属Vtuber第一号としてデビュー前から注目度が高かったこともあり、活動開始から半年後には チャンネルの累計再生回数が4000万回となった。
歌唱力がユーザーに受け入れられ、リリースした動画3本は公開2か月で10万回再生された。また、YOASOBIの楽曲のカバーショート動画の再生回数は828万回を突破している。
映画、アニメ、音楽が趣味、インテリアと洋服を集めるのが趣味とデビュー時の配信で語っている
配信の開始時「こんのの」終わりに「おつのの」等、「のの」を語尾につけた挨拶をする。
音楽投稿に特化した活動を展開している
甘狼このみとコラボ動画を投稿している。
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] | 音ノ乃ののは、ミリプロ / MillionProductionに所属するバーチャルライバー、バーチャルアイドル。キャラクターデザインは甘狼このみ。主な活動場所はYouTube。 ミリプロ制作の2Dアバターを使用し、歌を主体とした生放送を配信している。 | {{複数の問題
| 存命人物の出典明記 = 2023年10月12日 (木) 12:40 (UTC)
| 一次資料 = 2023年10月12日 (木) 12:40 (UTC)
| 特筆性 = 2023年10月12日 (木) 12:40 (UTC)
| 分野 = 人物
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{{Infobox animanga character|color=darkorange|color text=white|name=音ノ乃のの|creator=甘狼このみ|birthday=[[5月4日]]|height=154cm|gender=女性|nickname={{ublist|のの}}}}
{{Infobox YouTube personality
| name = 音ノ乃のの
| image =
| views = 63,529,215 回<!-- subscribers,stats_updateと合わせて更新。 -->
| birth_date = [[5月4日]]
| occupation = [[バーチャルYouTuber]]
| channel_url = UCqe0-vqZwAvZUb22wCMu1fA
| years_active = [[2022年]][[7月11日]] -
| genre = [[生放送]]・[[ゲーム実況]]
| subscribers = 30万人<!-- views,stats_updateと合わせて更新。 -->
| network = [[ミリプロ]]
| silver_year = 2023年<br />[[7月9日]]
| stats_update = {{dts|2023-12-23}}<!-- 更新は1ヶ月に1度程度([[PJ:YOUTUBE#チャンネル登録者数・総再生回数の更新に関するガイドライン]]) -->
| channel_display_name = 音ノ乃のの / NononoNono
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}}
'''音ノ乃のの'''<ref>{{Cite web |title=音ノ乃のの / NononoNono - YouTube |url=https://www.youtube.com/@_nonono_nono |website=www.youtube.com |access-date=2023-10-12}}</ref>(ののの のの)は、ミリプロ / MillionProduction<ref>{{Cite web |title=https://twitter.com/Mil_Pro_ |url=https://twitter.com/Mil_Pro_ |website=X (formerly Twitter) |access-date=2023-10-12 |language=ja}}</ref>に所属する[[バーチャルライバー]]、[[バーチャルアイドル]]。[[キャラクターデザイン]]は'''[[甘狼このみ]]'''<ref>{{Cite web |title=甘狼このみ / AmakamiKonomi🐺🍫 - YouTube |url=https://www.youtube.com/@AmakamiKonomi/about |website=www.youtube.com |access-date=2023-10-12}}</ref>。主な活動場所は[[YouTube]]。
ミリプロ制作の2D[[アバター]]を使用し、歌を主体とした生放送を配信している。<ref>{{Cite web |title=音ノ乃のの / NononoNono - YouTube |url=https://www.youtube.com/@_nonono_nono/streams |website=www.youtube.com |access-date=2023-10-12}}</ref>
== 来歴 ==
;2023年
*4月1日、初投稿<ref name=":1">{{Citation|title=VSingerになる決意をしました【#転生林檎 替え歌で #歌ってみた】|url=https://www.youtube.com/shorts/gVmtZ0WYUfA|language=ja-JP|access-date=2023-10-13}}</ref>
*4月24日、チャンネル登録者1万人達成
*6月3日、初配信<ref>{{Citation|title=【#のの初配信】初めまして!音ノ乃ののです!いきなりですが、、【ミリプロ】|url=https://www.youtube.com/watch?v=HCwNOIpjOAA|language=ja-JP|access-date=2023-10-12}}</ref>
*7月2日、チャンネル登録者10万人達成<ref name=":2" />
*9月16日、チャンネル登録者20万人達成<ref>{{Cite web |title=https://twitter.com/_nonono_nono/status/1702890572049261046 |url=https://twitter.com/_nonono_nono/status/1702890572049261046 |website=X (formerly Twitter) |access-date=2023-10-12 |language=ja}}</ref>
*12月23日、チャンネル登録者30万人達成<ref>{{Citation|title=【雑談 】後編・30万人耐久【音ノ乃のの / ミリプロ】|url=https://www.youtube.com/watch?v=qs5usboxQs4|language=ja-JP|access-date=2023-12-23}}</ref>
== 人物 ==
=== 基礎情報 ===
2023年4月1日に始めて投稿した動画が100万回以上再生され<ref name=":1" />、デビュー3か月でYoutubeのチャンネル登録者数は10万人となった<ref name=":2">{{Citation|title=【のの10万人記念】音ノ乃のの、10万人記念歌枠配信!!!ご報告あり!?🎧🤍|url=https://www.youtube.com/watch?v=p8vA0MvU7PQ|language=ja-JP|access-date=2023-10-13}}</ref>。
[[甘狼このみ]]が手掛けた同所属Vtuber第一号としてデビュー前から注目度が高かったこともあり、活動開始から半年後には チャンネルの累計再生回数が4000万回となった<ref>{{Cite web |title=音ノ乃のの / NononoNono - YouTube |url=https://www.youtube.com/@_nonono_nono/about |website=www.youtube.com |access-date=2023-10-13}}</ref>。
歌唱力がユーザーに受け入れられ、リリースした動画3本は公開2か月で10万回再生された<ref>{{Cite web |title=音ノ乃のの / NononoNono - YouTube |url=https://www.youtube.com/@_nonono_nono/videos |website=www.youtube.com |access-date=2023-10-13}}</ref>。また、[[YOASOBI]]の楽曲のカバーショート動画の再生回数は828万回を突破している<ref>{{Citation|title=【推しの子】16歳女子が今話題の『アイドル / YOASOBI』を歌ってみた!【フル公開】【音ノ乃のの】|url=https://www.youtube.com/shorts/xyV4Z4DFK2M|language=ja-JP|access-date=2023-10-16}}</ref>。
=== 趣味・嗜好 ===
映画、アニメ、音楽が趣味、インテリアと洋服を集めるのが趣味とデビュー時の配信で語っている<ref>{{Citation|title=【#のの初配信】初めまして!音ノ乃ののです!いきなりですが、、【ミリプロ】|url=https://www.youtube.com/watch?v=HCwNOIpjOAA|language=ja-JP|access-date=2023-10-12}}</ref>
=== 芸風 ===
配信の開始時「こんのの」終わりに「おつのの」等、「のの」を語尾につけた挨拶をする。
音楽投稿に特化した活動を展開している<ref>{{Cite web |title=音ノ乃のの / NononoNono - YouTube |url=https://www.youtube.com/@_nonono_nono/videos |website=www.youtube.com |access-date=2023-10-12}}</ref>
=== 交友関係 ===
[[甘狼このみ]]とコラボ動画を投稿している。<ref>{{Citation|title=【ののこのコラボ】今日は二人でうさぎになります🐇|url=https://www.youtube.com/watch?v=uWkr-MFaqCU|language=ja-JP|access-date=2023-10-12}}</ref>
== タイアップ ==
* 2023年6月23日から8月23日 ファミリーマートxミリプロコラボ ミリプロコレクション<ref>{{Cite web |title=https://twitter.com/_nonono_nono/status/1672193406725152768 |url=https://twitter.com/_nonono_nono/status/1672193406725152768 |website=X (formerly Twitter) |access-date=2023-10-12 |language=ja}}</ref>
== 所属プロダクション==
{| class="wikitable"
|+
! colspan="7" |ミリプロ
|-
| rowspan="4" |メンバーリスト
|0期生
|[[甘狼このみ]]<ref>{{Cite web |title=甘狼このみ |url=https://www.milpr.com/amakamikonomi |website=ミリプロ公式サイト |access-date=2023-10-12 |language=ja}}</ref>
|-
|1期生
|'''音ノ乃のの'''<ref>{{Cite web |title=音ノ乃のの |url=https://www.milpr.com/nono |website=ミリプロ公式サイト |access-date=2023-10-12 |language=ja}}</ref>
|}
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [https://www.youtube.com/@_nonono_nono Youtubeチャンネル] -'''音ノ乃のの / NononoNono'''
* [https://www.milpr.com/ ミリプロ] - 所属プロダクション
* {{Twitter|_nonono_nono|音ノ乃のの}}
{{DEFAULTSORT:あまかみこのみ}}
[[Category:バーチャルYouTuber]]
[[Category:日本の女性YouTuber]] | 2023-10-12T12:29:32Z | 2023-12-27T01:57:28Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%B3%E3%83%8E%E4%B9%83%E3%81%AE%E3%81%AE |
4,840,626 | 奥保夫 | 奥 保夫(おく やすお、1883年(明治16年)12月5日 - 1948年(昭和23年)10月11日)は、大日本帝国陸軍軍人、華族。最終階級は陸軍少将、功級爵位は功三級伯爵。
1883年(明治16年)に奥保鞏の長男として東京府で生まれた。陸軍士官学校第17期、陸軍大学校第30期卒業。1930年(昭和5年)3月6日に陸軍戸山学校教育部長に就任し、8月1日に陸軍歩兵大佐に進級。同年8月15日に伯爵を襲爵した。1932年(昭和7年)8月に近衛歩兵第3連隊長に転じた。
1935年(昭和10年)3月15日に陸軍少将に進級し、歩兵第27旅団長に着任。1936年(昭和11年)8月1日に待命、8月28日に予備役に編入された。1937年(昭和12年)9月30日に召集され歩兵第128旅団長(第10軍・第114師団)に就任し、日中戦争に出動。杭州湾に上陸し、南京攻略戦では雨花台、中華門への突撃を敢行し武功をあげた。その後第2軍隷下に編入され、徐州会戦に出撃した。1939年(昭和14年)3月9日に召集解除となった。 | [
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] | 奥 保夫は、大日本帝国陸軍軍人、華族。最終階級は陸軍少将、功級爵位は功三級伯爵。 | {{基礎情報 軍人
| 氏名 = 奥 保夫
| 各国語表記 =
| 生年月日 = [[1883年]][[12月5日]]
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1883|12|5|1948|10|11}}
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 渾名 =
| 生誕地 = {{JPN}} [[東京府]]
| 死没地 =
| 所属組織 = {{IJARMY}}
| 軍歴 = [[1905年]] - [[1936年]]<br>[[1937年]] - [[1939年]]
| 最終階級 = [[File:帝國陸軍の階級―肩章―少将.svg|35px]] [[少将|陸軍少将]]
| 除隊後 =
| 墓所 =
| 署名 =
}}
'''奥 保夫'''(おく やすお、[[1883年]]([[明治]]16年)[[12月5日]]{{sfn|福川|2001|loc=182頁|ref=shokan}} - [[1948年]]([[昭和]]23年)[[10月11日]]{{sfn|霞会館華族家系大成編輯委員会|1996|loc=361頁|ref=kazoku}})は、大日本帝国陸軍軍人、[[華族]]。最終階級は陸軍少将、[[金鵄勲章|功級]][[爵位]]は[[金鵄勲章|功三級]][[伯爵]]{{sfn|霞会館華族家系大成編輯委員会|1996|loc=361頁|ref=kazoku}}{{sfn|外山|1981|loc=224頁|ref=jinji}}。
== 経歴 ==
[[1883年]]([[明治]]16年)に[[奥保鞏]]の長男として[[東京府]]で生まれた{{sfn|福川|2001|loc=182頁|ref=shokan}}{{sfn|霞会館華族家系大成編輯委員会|1996|loc=361頁|ref=kazoku}}。[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]第17期、[[陸軍大学校]]第30期卒業{{sfn|福川|2001|loc=182頁|ref=shokan}}。[[1930年]](昭和5年)[[3月6日]]に[[陸軍戸山学校]]教育部長に就任し{{sfn|外山|1981|loc=224頁|ref=jinji}}、[[8月1日]]に[[大佐|陸軍歩兵大佐]]に進級{{sfn|外山|1981|loc=224頁|ref=jinji}}。同年[[8月15日]]に伯爵を襲爵した{{sfn|霞会館華族家系大成編輯委員会|1996|loc=361頁|ref=kazoku}}。[[1932年]](昭和7年)8月に[[近衛歩兵第3連隊]]長に転じた{{sfn|外山|1981|loc=224頁|ref=jinji}}。
[[1935年]](昭和10年)[[3月15日]]に陸軍少将に進級し{{sfn|外山|1981|loc=224頁|ref=jinji}}、歩兵第27旅団長に着任{{sfn|福川|2001|loc=182頁|ref=shokan}}。[[1936年]](昭和11年)[[8月1日]]に待命{{sfn|外山|1981|loc=224頁|ref=jinji}}、[[8月28日]]に[[予備役]]に編入された{{sfn|福川|2001|loc=182頁|ref=shokan}}。[[1937年]](昭和12年)[[9月30日]]に召集され歩兵第128旅団長([[第10軍 (日本軍)|第10軍]]・[[第114師団 (日本軍)|第114師団]])に就任し{{sfn|福川|2001|loc=182頁|ref=shokan}}、[[日中戦争]]に出動{{sfn|福川|2001|loc=182頁|ref=shokan}}。[[杭州湾]]に上陸し{{sfn|福川|2001|loc=182頁|ref=shokan}}、[[南京攻略戦]]では[[雨花台]]、[[中華門]]への突撃を敢行し武功をあげた{{sfn|福川|2001|loc=182頁|ref=shokan}}。その後[[第2軍 (日本軍)|第2軍]]隷下に編入され{{sfn|福川|2001|loc=182頁|ref=shokan}}、[[徐州会戦]]に出撃した{{sfn|福川|2001|loc=182頁|ref=shokan}}。[[1939年]](昭和14年)[[3月9日]]に召集解除となった{{sfn|福川|2001|loc=182頁|ref=shokan}}。
== 栄典 ==
;勲章等
* [[1940年]](昭和15年)[[8月15日]] - [[記念章#賞勲局所管の記念章|紀元二千六百年祝典記念章]]<ref>『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。</ref>
== 親族 ==
*父:[[奥保鞏]] - [[元帥 (日本)|元帥]][[陸軍大将]]{{sfn|霞会館華族家系大成編輯委員会|1996|loc=361頁|ref=kazoku}}
*母:茂(シゲ) - 原兵之丞長女{{sfn|霞会館華族家系大成編輯委員会|1996|loc=361頁|ref=kazoku}}
*夫人:義子(トモコ) - [[甘露寺義長]]長女(1889年5月14日 - 1949年4月30日){{sfn|霞会館華族家系大成編輯委員会|1996|loc=361頁|ref=kazoku}}
*長男:[[奥保城|保城]] - 陸軍騎兵少尉(1908年12月5日 - 1980年1月13日){{sfn|霞会館華族家系大成編輯委員会|1996|loc=361頁|ref=kazoku}}
**夫人:ヨシ子 - [[飯田貞固]]二女(1950年9月25日離縁){{sfn|霞会館華族家系大成編輯委員会|1996|loc=361頁|ref=kazoku}}
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*二男:[[奥保英|保英]]{{sfn|霞会館華族家系大成編輯委員会|1996|loc=361頁|ref=kazoku}}
**夫人:忠子 - [[西義一]]三女{{sfn|霞会館華族家系大成編輯委員会|1996|loc=361頁|ref=kazoku}}
*二女:澄子 - [[末松茂久]]夫人{{sfn|霞会館華族家系大成編輯委員会|1996|loc=361頁|ref=kazoku}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
==参考文献==
* {{Citation|和書|author = 霞会館華族家系大成編輯委員会 編|authorlink = |translator = |title = [[平成新修旧華族家系大成]] 上巻|publisher = [[霞会館]]|series = |volume = |edition = |date = 1996|pages = |url = |doi = |id = |isbn = 4642036709|ncid = |ref = kazoku}}
* {{Citation|和書|author = 福川秀樹 編著|authorlink = | translator = | title = 日本陸軍将官辞典| publisher = 芙蓉書房出版| series = | volume = | edition = | date = 2001| pages = | url = | doi = | id = | isbn = 4829502738| ncid = |ref = shokan}}
* {{Citation|和書|author = 外山操 編|authorlink = | translator = | title = 陸海軍将官人事総覧 陸軍篇| publisher = 芙蓉書房出版| series = | volume = | edition = | date = 1981| pages = | url = | doi = | id = | isbn = 4829500026| ncid = |ref = jinji}}
{{S-start}}
{{S-reg|jp}}
{{succession box
| title = 伯爵
| years = [[奥家 (伯爵家)|奥家]]第2代<br />1930年 - 1947年
| before = [[奥保鞏]]
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{{End}}
{{DEFAULTSORT:おく やすお}}
[[Category:大日本帝国陸軍少将]]
[[Category:日本の伯爵]]
[[Category:陸軍士官学校 (日本)出身の人物]]
[[Category:陸軍大学校出身の人物]]
[[Category:陸軍戸山学校の教員]]
[[Category:日中戦争の人物]]
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[[Category:東京都出身の人物]]
[[Category:1883年生]]
[[Category:1948年没]] | 2023-10-12T12:34:34Z | 2023-10-12T12:37:48Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E4%BF%9D%E5%A4%AB |
4,840,627 | Under20 | 『under20』(アンダートゥエンティ)は、日本のバンド・The ドーテーズ(現:オレンジスパイニクラブ)が2017年2月24日にキャッスルレコードからリリースしたインディーズ2作目のオリジナル・アルバムである。
前作『衝撃』から約2年ぶりのオリジナル・アルバム。最年長メンバーのまろりん(現:スズキユウスケ)を除く鈴木直人(現:スズキナオト)、ゆっきー、ゆりとが20歳になった節目としてリリースされた。The ドーテーズ名義での最後のオリジナル・アルバム。 | [
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] | 『under20』(アンダートゥエンティ)は、日本のバンド・The ドーテーズが2017年2月24日にキャッスルレコードからリリースしたインディーズ2作目のオリジナル・アルバムである。 | {{複数の問題
|出典の明記=2023年10月15日 (日) 03:45 (UTC)
|特筆性=2023年10月15日 (日) 03:45 (UTC)|分野=音楽
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{{小文字}}
{{Infobox Album
| Name = under20
| Type = [[スタジオ・アルバム]]
| Artist = [[オレンジスパイニクラブ|The ドーテーズ]]
| Released = [[2017年]][[2月24日]]
| Genre = [[J-POP]]<br />[[パンク・ロック]]
| Length = 30分5秒
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| Last album = [[衝撃 (The ドーテーズのアルバム)|衝撃]]<br />(2015年)
| This album = '''under20'''<br />(2017年)
| Next album = [[イラつくときはいつだって]]<br />(2020年)
| Chronology = [[オレンジスパイニクラブ|The ドーテーズ]]
| Misc =
}}
『'''under20'''』(アンダートゥエンティ)は、[[日本]]の[[バンド (音楽)|バンド]]・[[オレンジスパイニクラブ|The ドーテーズ]](現:オレンジスパイニクラブ)が2017年2月24日に[[キャッスルレコード]]からリリースしたインディーズ2作目の[[スタジオ・アルバム|オリジナル・アルバム]]である。
== 内容 ==
前作『[[衝撃 (The ドーテーズのアルバム)|衝撃]]』から約2年ぶりの[[スタジオ・アルバム|オリジナル・アルバム]]。最年長メンバーのまろりん(現:スズキユウスケ)を除く鈴木直人(現:スズキナオト)、ゆっきー、ゆりとが20歳になった節目としてリリースされた。The ドーテーズ名義での最後のオリジナル・アルバム。
== 収録曲 ==
# '''タルパ''' [3:12]
#:作詞・作曲:鈴木直人
#:編曲:The ドーテーズ
#*2020年リリースのミニ・アルバム『[[イラつくときはいつだって]]』に再録されている。
# '''三膳''' [1:46]
#:作詞・作曲:鈴木直人
#:編曲:The ドーテーズ
# '''ハッピーバラード''' [4:36]
#:作詞・作曲:まろりん
#:編曲:The ドーテーズ
# '''死ぬほど好き''' [2:28]
#:作詞:まろりん、鈴木直人
#:作曲:鈴木直人
#:編曲:The ドーテーズ
# '''にわかパンク''' [3:02]
#:作詞・作曲:まろりん
#:編曲:The ドーテーズ
# '''急ショック死寸前''' [2:53]
#:作詞・作曲:鈴木直人
#:編曲:The ドーテーズ
#*2022年リリースのデジタルEP『[[hodgepodge]]』に再録されている。
# '''booster''' [2:41]
#:作詞・作曲:鈴木直人
#:編曲:The ドーテーズ
# '''デート''' [4:49]
#:作詞・作曲:まろりん
#:編曲:The ドーテーズ
# '''イージーゴーイング''' [4:45]
#:作詞・作曲:まろりん
#:編曲:The ドーテーズ
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [https://tower.jp/item/4434068/under20 タワーレコードによる紹介ページ]
{{Album-stub}}
{{DEFAULTSORT:あんたあとうえんてい}}
[[Category:2017年のアルバム]] | 2023-10-12T12:38:44Z | 2023-10-20T10:34:37Z | false | false | false | [
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"Template:小文字",
"Template:Infobox Album",
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"Template:Reflist",
"Template:Album-stub"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Under20 |
4,840,628 | ミオよ わたしのミオ | 『ミオよ わたしのミオ』(Mio min Mio)はアストリッド・リンドグレーンによって書かれたスウェーデンの児童文学作品である。本作はリンドグレーンが書いた最初のハイ・ファンタジー小説であり、洗練された文体で綴られる物語は伝統的な北欧民話の雰囲気を有している。1956年にドイツ児童文学賞を受賞した。本作は少なくとも29の言語に翻訳されている。
1987年にはスウェーデン・ソビエト連邦・ノルウェー合作で実写映画化され、日本では『ミオとミラミス 勇者の剣』の改題で上映された。
物語は孤児のブー・ヴィルヘルム・ウルソン、通称ボッセが10月に流れた自らの失踪を報じるラジオ放送を回想するところからはじまる。
1歳のとき「子供の家」からシクステンとエドラの老夫婦に引き取られたボッセは、男の子より女の子のほうがほしかった2人にいつも邪険に扱われ、通りに出ても近所の男の子たちからいじめられるという孤独な日々を送っていた。 彼の心の支えは果物屋のルンディンおばさんと、ビール工場の老馬カッレ・プント、そしてたった1人の親友ベンカのみである。 父親を知らないボッセはベンカに優しい実父がいることを羨み、彼の息子に成りたいと時折夢想している。
ある日の夕方、ボッセはエドラおばさんの言いつけでパン屋に向かっている途中、ルンディンおばさんによびとめられる。ボッセはおばさんからりんごを1つ貰い、1枚の葉書の投函を頼まれる。 別れ際、ルンディンおばさんはボッセに「さよなら、ブー・ヴィルヘルム・ウルソン」と真剣な面立ちで告げる。
ポストに入れる寸前、ルンディンおばさんの書いた葉書の文字が燃えるように光り始め、ボッセは思わず文面を見てしまう。そこには「はるかな国」の王様に宛てて、王様が長らく探していた人物がもうすぐで帰り着くこと、証拠にその人物は黄金のりんごを持っていることが綴られていた。そしてボッセは、貰ったりんごがいつの間にか黄金に輝いていることに気づく。
その後、ボッセは普段の遊び場であるテグネルルンデン公園のベンチのそばで、木切れで栓のされた空のビール瓶を見つける。ボッセはアラビアン・ナイトのくだりを連想し、ばかばかしいと思いながらも木切れを引き抜く。 はたして瓶の中から魔神が現れ、ボッセに感謝を告げる。魔神は「はるかな国」の王様の命で彼の息子を迎えにきた使いであった。ボッセは魔神とともに空高く飛び、ストックホルムの街を去る。 | [
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] | 『ミオよ わたしのミオ』はアストリッド・リンドグレーンによって書かれたスウェーデンの児童文学作品である。本作はリンドグレーンが書いた最初のハイ・ファンタジー小説であり、洗練された文体で綴られる物語は伝統的な北欧民話の雰囲気を有している。1956年にドイツ児童文学賞を受賞した。本作は少なくとも29の言語に翻訳されている。 1987年にはスウェーデン・ソビエト連邦・ノルウェー合作で実写映画化され、日本では『ミオとミラミス 勇者の剣』の改題で上映された。 | {{Infobox book
| name = ミオよ わたしのミオ
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『'''ミオよ わたしのミオ'''』(''Mio min Mio'')は[[アストリッド・リンドグレーン]]によって書かれた[[スウェーデン]]の[[児童文学]]作品である。本作はリンドグレーンが書いた最初の[[ハイ・ファンタジー]]小説であり、洗練された文体で綴られる物語は伝統的な北欧民話の雰囲気を有している。1956年にドイツ児童文学賞を受賞した。本作は少なくとも29の言語に翻訳されている。
1987年にはスウェーデン・ソビエト連邦・ノルウェー合作で実写映画化され、日本では『[[ミオとミラミス 勇者の剣]]』の改題で上映された。
== あらすじ ==
物語は孤児のブー・ヴィルヘルム・ウルソン、通称ボッセが10月に流れた自らの失踪を報じる[[ラジオ放送]]を回想するところからはじまる。
1歳のとき「[[孤児院|子供の家]]」からシクステンとエドラの老夫婦に引き取られたボッセは、男の子より女の子のほうがほしかった2人にいつも邪険に扱われ、通りに出ても近所の男の子たちからいじめられるという孤独な日々を送っていた。
<br>彼の心の支えは果物屋のルンディンおばさんと、ビール工場の老馬カッレ・プント、そしてたった1人の親友ベンカのみである。
父親を知らないボッセはベンカに優しい実父がいることを羨み、彼の息子に成りたいと時折夢想している。
ある日の夕方、ボッセはエドラおばさんの言いつけでパン屋に向かっている途中、ルンディンおばさんによびとめられる。ボッセはおばさんからりんごを1つ貰い、1枚の葉書の投函を頼まれる。
別れ際、ルンディンおばさんはボッセに「さよなら、ブー・ヴィルヘルム・ウルソン」と真剣な面立ちで告げる。
ポストに入れる寸前、ルンディンおばさんの書いた葉書の文字が燃えるように光り始め、ボッセは思わず文面を見てしまう。そこには「はるかな国」の王様に宛てて、王様が長らく探していた人物がもうすぐで帰り着くこと、証拠にその人物は黄金のりんごを持っていることが綴られていた。そしてボッセは、貰ったりんごがいつの間にか黄金に輝いていることに気づく。
その後、ボッセは普段の遊び場であるテグネルルンデン公園のベンチのそばで、木切れで栓のされた空のビール瓶を見つける。ボッセは[[千一夜物語|アラビアン・ナイト]]のくだりを連想し、ばかばかしいと思いながらも木切れを引き抜く。
はたして瓶の中から魔神が現れ、ボッセに感謝を告げる。魔神は「はるかな国」の王様の命で彼の息子を迎えにきた使いであった。ボッセは魔神とともに空高く飛び、[[ストックホルム]]の街を去る。
== 登場人物 ==
; ボッセ(ブー・ヴィルヘルム・ウルソン)/ミオ
: 本作の主人公。母は自分が赤子のころ死んでおり、父の顔を知らないみなしごの少年。齢9歳。
: 魔神に連れられて来た「はるかな国」で父である王さまと出会い、自分の本当の名前と出自を知る。
===ストックホルムのひとびと===
; ベンカ
: 近所に住む同年代の少年。ボッセのたったひとりの親友だった。模型工作やおしゃべりを一緒に楽しんでくれる優しい父がおり、ボッセに羨まれていた。
: 夏には家族で薔薇のおいしげる美しい避暑地の別荘を訪れる習慣があり、ボッセを伴わせたこともある。
; ルンディンおばさん
: 果物屋をいとなむ優しい女性。ボッセにも良く接してくれている。はるかな国の王様宛に葉書を書く。
; カッレ・プント
: ビール工場で飼われているビール運び用の老馬。1週間に2度、朝方ビール運びに通りを訪れる。ボッセはその度に角砂糖やパンの端切れを与えていた。ベンカもボッセ同様彼との触れ合いを楽しみ、老馬は自分のものだと戯れで主張していたが、ボッセは父親も家族も美しい避暑地もある恵まれたベンカより、孤児の自分のほうがカッレ・プントの飼い主として釣り合いがとれると思っていた。
; シクステンとエドラ夫妻
: ボッセの養父母。もともと女の子をひきとろうと考えていた。養子に対し冷淡で、シクステンはボッセの名前をよぶことすらない。エドラはボッセが家にいることを嫌がり、ボッセの顔のわからない父親のことを「やくざものだったに違いない」と罵る。
===「はるかな国」のひとびと===
; 王さま
: ミオの父親。ベンカの父親に似ている。心優しく、聡明な人物。広大な国を維持するための山ほどの執務を抱えていても、けっして息子との時間を削らず、常にミオを気にかけている。「ミオよ、わたしのミオ」と言う彼の声はミオを旅路で何度も奮い立たせる。
; ユムユム
: ミオがはるかな国で得たはじめての友達にして唯一の親友。ベンカに似ているが、彼よりもさらに穏やかで真面目な少年。ミオのカトーを倒す旅に同行する。父親は王さまの「薔薇の園」の庭師をしている。母親はどこかルンディンおばさんに似た容姿。
; ミラミス
: 王様がミオに与えた白馬。空を飛ぶこともできる。勇壮優美な外見だが、目だけはカッレ・プントと同じやさしさをたたえている。
; 騎士カトー
: はるかな国を脅かす恐ろしい男。子供たちをさらい、魔法で鳥に変えている。心臓は石でできている。
==日本語訳==
*1958年『白馬の王子ミオ』(現代児童名作全集)、山室静(翻訳)、松田穰(絵)、講談社
*1967年『ミオよ わたしのミオ』(リンドグレーン作品集)、大塚勇三(翻訳)、イロン・ヴィークランド(絵)、岩波書店、ISBN 978-4001150735
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4,840,635 | キロン・ケール | キロン・ケール(Kirron Kher、1952年6月14日 - )は、インドのヒンディー語映画で活動する女優、政治家。2014年にインド人民党からチャンディーガル選挙区(英語版)に出馬し、下院議員に当選した。名前は「Kiran」「Kiron」とも表記される。
1952年6月14日にマイソール州ベンガルールで暮らすパンジャーブ人のジャート族シク教徒であるサンドゥ氏(英語版)一家の娘「キラン・ターカル・シン・サンドゥ (Kiran Thakar Singh Sandhu)」として生まれ、チャンディーガルで育った。マディヤ・プラデーシュ州ジャバルプルの学校に通った後、チャンディーガルのパンジャーブ大学(英語版)の演劇科に進学した。
ガウタム・ベリーと結婚していたころは「キラン・ベリー (Kiran Berry)」と名乗っており、アヌパム・ケールと再婚後は「キラン・ターカル・シン・ケール (Kiran Thakar Singh Kher)」と名乗るようになった。その後は数秘術に傾倒し、2003年に数秘術に基づき名前を「Kiran」から「Kirron」に改名し、これ以降は「キロン・ケール (Kirron Kher)」として知られるようになった。
1983年にパンジャーブ語映画『Aasra Pyaar Da』で女優デビューするが、その後は1996年まで出演の機会に恵まれなかった。この間に出演したのは1987年の『Pestonjee』のみで、同作ではアヌパム・ケールと共演している。1990年代中旬に入り、ジャーヴェード・シッディーキー(英語版)が脚本、フェローズ・アッバース・カーン(英語版)が演出を手掛けた舞台演劇『Saalgirah』で女優業に復帰した。その後は3本のテレビ番組に出演し、ジーTV(英語版)のトーク番組『Purushkshetra』では初めてオルタナティブ・セクシャリティーを議題に挙げ、女性問題について議論したことで注目を集めた。このほかにも『Kirron Kher Today』『Jagte Raho with Kirron Kher』にも出演している。
1996年にシャーム・ベネガル(英語版)の『Sardari Begum』で映画に復帰し、同作で国家映画賞 審査員特別賞(英語版)を受賞した。1999年に出演したリトゥポルノ・ゴーシュ(英語版)の『Bariwali』では批評家から高い評価を得ている。彼女は同作で国家映画賞 主演女優賞(英語版)を受賞したが、これに対してキロンの吹き替えを担当したリタ・コイラール(英語版)が「自分も同等に受賞する権利がある」と主張する騒動が起きた。彼女の主張に対してキロンは「台詞を発するために何時間もリハーサルを重ねた」と反論しており、最終的にリタには主演女優賞は与えられなかった。2002年にはサンジャイ・リーラー・バンサーリーの『デーヴダース(英語版)』でシャー・ルク・カーン、アイシュワリヤー・ラーイ、マドゥリ・ディークシットと共演し、同作でフィルムフェア賞 助演女優賞(英語版)に初めてノミネートされた。
2003年にはインド・パキスタン合作映画『静かな水(英語版)』に出演した。同作ではインド・パキスタン分離独立の際にパキスタンに連れ去られた女性アーイシャー役を演じ、自分を連れ去った男と結婚し、彼の死後は村の子供たちにコーランの言葉を教えながら暮らしていたが、ムハンマド・ジア=ウル=ハク政権のイスラム化政策で息子がイスラム過激思想の影響を受けたことで人生が変貌する姿が描かれた。キロンは同作の演技でロカルノ国際映画祭、カラチ国際映画祭(英語版)、シピエ国際映画祭、ケープタウン国際映画祭の主演女優賞を受賞し、映画もロカルノ国際映画祭の金豹賞を受賞している。また、2004年にはインディアン・フィルム・フェスティバル・ロサンゼルス(英語版)で長年の女優活動を表彰され、『ER緊急救命室』に夫アヌパムと共にゲスト出演し、パーミンダ・ナーグラが演じるニーラ・ラスゴートラの母親役を演じた。2005年には『Prratima』『Dil Na Jaane Kyon』『Isi Bahane』『Chausath Panne』などのテレビシリーズに出演している。同時期には『Main Hoon Na』『Hum Tum』『ヴィールとザーラ(英語版)』『Mangal Pandey: The Rising』『Fanaa』に出演し、批評家から演技を絶賛された。『Rang De Basanti』『さよならは言わないで(英語版)』ではフィルムフェア賞助演女優賞にノミネートされている。2008年には『Singh Is Kinng』『Saas Bahu Aur Sensex』『Dostana』に出演し、『Dostana』ではフィルムフェア賞助演女優賞にノミネートされた。2009年には『India's Got Talent』で審査員を務めている。
キロン・ケールは「Laadli(女児殺し(英語版)の反対キャンペーン)」「Roko Cancer(癌の啓蒙キャンペーン)」などの社会運動に長年参加してきた。2009年にインド人民党に入党し、2011年の地方選挙ではチャンディーガルを中心に各地で選挙活動に従事した。彼女はナレンドラ・モディを首相候補者になる前から公然と支持しており、モディの首相就任後に実施された2014年インド総選挙ではチャンディーガル選挙区(英語版)の下院議員候補者に選出され、現職候補者のパワン・クマール・バンサール(英語版)(12万1720票)を破り19万1362票を獲得して初当選した。キロンはチャンディーガルにフィルムシティを建設することを公約に掲げており、当選後は公約実現のために同地の土地取得のために苦労したことを語っており、後にチャンディーガル政府の協力を得て、サラングプルにフィルムシティ建設用の土地を確保した。2019年インド総選挙では23万1188票を獲得し、パワン・クマール・バンサール(18万4218票)を破り再選している。
キロン・ケールには兄が1人、妹が2人おり、兄アマルディープ・シン・サンドゥはアーティストとして活動していたが、2003年に死去した。妹カンワル・ターカル・シン(英語版)はバドミントン選手として活動し、アルジュナ賞(英語版)を受賞している。もう一人の妹シャランジット・カウル・シンはインド海軍の退役将校と結婚している。
1979年3月にムンバイの実業家ガウタム・ベリーと結婚し、息子シカンダルを出産する。キロンは女優の道に進むために活動していたが機会を得られず、この時期に同じように俳優として不遇の日々を過ごしていたアヌパム・ケールとの親交を深めた。彼とは大学時代に同じ演劇サークルに所属しており、『Chandpuri Ki Champabai』という舞台演劇で共演経験があった。1984年に『Saaransh』でアヌパムがブレイクし、キロンは翌1985年にガウタム・ベリーと離婚してアヌパムと再婚した。 | [
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] | キロン・ケールは、インドのヒンディー語映画で活動する女優、政治家。2014年にインド人民党からチャンディーガル選挙区に出馬し、下院議員に当選した。名前は「Kiran」「Kiron」とも表記される。 | {{ActorActress
| 芸名 = Kirron Kher
| ふりがな = キロン・ケール
| 画像ファイル = Kiron kher colors indian telly awards.jpg
| 画像サイズ = 240px
| 画像コメント = キロン・ケール(2012年)
| 本名 = Kiran Thakar Singh Sandhu(出生時)<br />Kiran Thakar Singh Kher(結婚後)
| 別名義 = <!-- 別芸名がある場合に記載。愛称の欄ではありません -->
| 出生地 = {{IND}} [[カルナータカ州|マイソール州]][[ベンガルール]]<ref name="Members : Lok Sabha">{{Cite web |url=http://164.100.47.194/Loksabha/Members/MemberBioprofile.aspx?mpsno=4775 |title=Members : Lok Sabha |accessdate=5 August 2019 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20190510150538/http://164.100.47.194/Loksabha/Members/MemberBioprofile.aspx?mpsno=4775 |archivedate=10 May 2019 |url-status=live}}</ref>
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| 主な作品 = <!-- 誰もが認める代表作品を記述 -->
}}
'''キロン・ケール'''(Kirron Kher、[[1952年]][[6月14日]] - )は、[[インド]]の[[ボリウッド|ヒンディー語映画]]で活動する[[俳優|女優]]、[[政治家]]。2014年に[[インド人民党]]から{{仮リンク|チャンディーガル選挙区|en|Chandigarh Lok Sabha constituency}}に出馬し、[[ローク・サバー|下院議員]]に当選した<ref>{{Cite news |title=Election results: BJP's Kirron Kher wins from Chandigarh, Naveen Jindal finishes third - Times of India ► |url=https://timesofindia.indiatimes.com/news/Election-results-BJPs-Kirron-Kher-wins-from-Chandigarh-Naveen-Jindal-finishes-third/articleshow/35213795.cms |website=The Times of India |date=16 May 2014 |accessdate=18 May 2020}}</ref>。名前は「Kiran<ref name=r1>{{cite web |url=http://cities.expressindia.com/fullstory.php?newsid=17407 |title=Always there, from tiny steps to big leaps |accessdate=29 November 2008 |url-status=bot: unknown |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081210084755/http://cities.expressindia.com/fullstory.php?newsid=17407 |archivedate=10 December 2008|publisher= ''[[Indian Express]]''}}</ref>」「Kiron<ref name=r2/><ref name=daily/>」とも表記される。
== 生い立ち ==
1952年6月14日に[[カルナータカ州|マイソール州]][[ベンガルール]]で暮らす[[パンジャーブ人]]の[[ジャート族]][[シク教徒]]である{{仮リンク|サンドゥ (性)|en|Sandhu|label=サンドゥ氏}}一家の娘「'''キラン・ターカル・シン・サンドゥ''' (Kiran Thakar Singh Sandhu)」として生まれ、[[チャンディーガル]]で育った<ref name="Members : Lok Sabha">{{Cite web |url=http://164.100.47.194/Loksabha/Members/MemberBioprofile.aspx?mpsno=4775 |title=Members : Lok Sabha |accessdate=5 August 2019 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20190510150538/http://164.100.47.194/Loksabha/Members/MemberBioprofile.aspx?mpsno=4775 |archivedate=10 May 2019 |url-status=live}}</ref><ref>{{cite web |url=http://timesofindia.indiatimes.com/entertainment/hindi/bollywood/news-interviews/Sikandar-is-blessed-to-have-Anupam-as-his-stepfather-Kirron-Kher/articleshow/30949698.cms |title=Sikandar is blessed to have Anupam as his stepfather: Kiran Kher |work=The Times of India |date=25 February 2014 |accessdate=28 February 2014 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140227213303/http://timesofindia.indiatimes.com/entertainment/hindi/bollywood/news-interviews/Sikandar-is-blessed-to-have-Anupam-as-his-stepfather-Kirron-Kher/articleshow/30949698.cms |archivedate=27 February 2014 |url-status=live}}</ref><ref>{{cite web |url=http://alumni.puchd.ac.in/distinguished-alumni.php |title=Distinguished Alumni |publisher=Panjab University |accessdate=15 March 2014 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111004174538/http://alumni.puchd.ac.in/distinguished-alumni.php |archivedate=4 October 2011 |url-status=dead}}</ref>。[[マディヤ・プラデーシュ州]][[ジャバルプル]]の学校に通った後<ref>{{Cite web |title=Shifting roles, yet 'keeping it real' |url=https://www.hindustantimes.com/chandigarh/shifting-roles-yet-keeping-it-real/story-uY0Xn00Sw5k56LMZClRI6O.html |date=3 April 2014 |website=Hindustan Times |language=en |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20190207015656/https://www.hindustantimes.com/chandigarh/shifting-roles-yet-keeping-it-real/story-uY0Xn00Sw5k56LMZClRI6O.html |archivedate=7 February 2019 |accessdate=4 June 2019}}</ref>、チャンディーガルの{{仮リンク|パンジャーブ大学 (インド)|en|Panjab University|label=パンジャーブ大学}}の演劇科に進学した。
ガウタム・ベリーと結婚していたころは「'''キラン・ベリー''' (Kiran Berry)」と名乗っており、[[アヌパム・カー|アヌパム・ケール]]と再婚後は「'''キラン・ターカル・シン・ケール''' (Kiran Thakar Singh Kher)」と名乗るようになった。その後は[[数秘術]]に傾倒し、2003年に数秘術に基づき名前を「Kiran」から「Kirron」に改名し<ref>{{cite web|url=http://articles.timesofindia.indiatimes.com/2003-08-20/mumbai/27181064_1_suniel-shetty-numerology-bust|archiveurl=https://archive.today/20130628041118/http://articles.timesofindia.indiatimes.com/2003-08-20/mumbai/27181064_1_suniel-shetty-numerology-bust |title=Numerology: Bust or boom?|publisher= ''The Times of India''|archivedate=2013-06-28|accessdate=2023-10-10}}</ref>、これ以降は「'''キロン・ケール''' (Kirron Kher)」として知られるようになった。
== キャリア ==
=== 女優 ===
[[File:Farah Khan Kirron Kher still8.jpg|thumb|240px|『[[恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム]]』のオーディオリリース・イベントに出席するキロン・ケールと[[ファラー・カーン]](2007年)]]
1983年にパンジャーブ語映画『Aasra Pyaar Da』で女優デビューするが、その後は1996年まで出演の機会に恵まれなかった<ref>{{cite web |url=http://www.thepeninsulaqatar.com/Display_news.asp?section=World_News&subsection=India&month=April2008&file=World_News2008042863016.xml |title=Films are to entertain, not preach: Kirron Kher |accessdate=29 November 2008 |url-status=bot: unknown |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090330012052/http://www.thepeninsulaqatar.com/Display_news.asp?section=World_News&subsection=India&month=April2008&file=World_News2008042863016.xml |archivedate=30 March 2009|publisher=The Peninsula}}</ref>。この間に出演したのは1987年の『[[:en:Pestonjee|Pestonjee]]』のみで、同作ではアヌパム・ケールと共演している。1990年代中旬に入り、{{仮リンク|ジャーヴェード・シッディーキー|en|Javed Siddiqui}}が脚本、{{仮リンク|フェローズ・アッバース・カーン|en|Feroz Abbas Khan}}が演出を手掛けた舞台演劇『Saalgirah』で女優業に復帰した<ref name=r2>{{cite web |url=http://www.desimatch.com/desi-planet/desi-archive/magazine25b.html |title=Once more, with feeling |accessdate=20 September 2009 |url-status=bot: unknown |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081210062753/http://www.desimatch.com/desi-planet/desi-archive/magazine25b.html |archivedate=10 December 2008|publisher=desimatch.com}}</ref>。その後は3本のテレビ番組に出演し、{{仮リンク|ジーTV|en|Zee TV}}のトーク番組『Purushkshetra』では初めてオルタナティブ・セクシャリティーを議題に挙げ、女性問題について議論したことで注目を集めた<ref>''The Making of Neoliberal India: Nationalism, Gender, and the Paradoxes of Globalization'', by Rupal Oza, Published by CRC Press, 2006. {{ISBN|0-415-95186-0}}. ''Page 63''.</ref>。このほかにも『Kirron Kher Today』『Jagte Raho with Kirron Kher』にも出演している<ref name=toi>{{cite web|url=http://timesofindia.indiatimes.com/Entertainment/Kirron_Khers_stock_zooms_higher/articleshow/3509851.cms |title=Kirron Kher’s stock zooms higher!|archiveurl=https://web.archive.org/web/20081026051621/http://timesofindia.indiatimes.com/Entertainment/Kirron_Khers_stock_zooms_higher/articleshow/3509851.cms |archivedate=26 October 2008|publisher=Times of India|accessdate=2023-10-12}}</ref>。
1996年に{{仮リンク|シャーム・ベネガル|en|Shyam Benegal}}の『[[:en:Sardari Begum|Sardari Begum]]』で映画に復帰し、同作で{{仮リンク|国家映画賞 審査員特別賞|en|National Film Award – Special Jury Award (feature film)}}を受賞した。1999年に出演した{{仮リンク|リトゥポルノ・ゴーシュ|en|Rituparno Ghosh}}の『[[:en:Bariwali|Bariwali]]』では批評家から高い評価を得ている<ref name=daily/>。彼女は同作で{{仮リンク|国家映画賞 主演女優賞|en|National Film Award for Best Actress}}を受賞したが、これに対してキロンの吹き替えを担当した{{仮リンク|リタ・コイラール|en|Rita Koiral}}が「自分も同等に受賞する権利がある」と主張する騒動が起きた。彼女の主張に対してキロンは「台詞を発するために何時間もリハーサルを重ねた」と反論しており、最終的にリタには主演女優賞は与えられなかった<ref name=daily/>。2002年には[[サンジャイ・リーラー・バンサーリー]]の『{{仮リンク|デーヴダース (2002年の映画)|en|Devdas (2002 Hindi film)|label=デーヴダース}}』で[[シャー・ルク・カーン]]、[[アイシュワリヤー・ラーイ]]、[[マドゥリ・ディークシット]]と共演し、同作で{{仮リンク|フィルムフェア賞 助演女優賞|en|Filmfare Award for Best Supporting Actress}}に初めてノミネートされた。
2003年にはインド・パキスタン合作映画『{{仮リンク|静かな水|en|Khamosh Pani}}』に出演した<ref>{{cite web|url=http://www.tribuneindia.com/2003/20030818/world.htm |title=56th Locarno International Film Festival in Switzerland|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080905204010/http://www.tribuneindia.com/2003/20030818/world.htm |archivedate=5 September 2008 |publisher=[[The Tribune (Chandigarh)|The Tribune]]|accessdate=2023-10-12}}</ref>。同作では[[インド・パキスタン分離独立]]の際にパキスタンに連れ去られた女性アーイシャー役を演じ、自分を連れ去った男と結婚し、彼の死後は村の子供たちに[[コーラン]]の言葉を教えながら暮らしていたが、[[ムハンマド・ジア=ウル=ハク]]政権のイスラム化政策で息子がイスラム過激思想の影響を受けたことで人生が変貌する姿が描かれた<ref>{{cite web|url=http://www.rediff.com/movies/2004/oct/08kher.htm|title= Kiron Kher's film releases in New York|archiveurl=https://web.archive.org/web/20081210103915/http://www.rediff.com/movies/2004/oct/08kher.htm |archivedate=10 December 2008 |publisher= [[Rediff.com]]|accessdate=2023-10-12}}</ref>。キロンは同作の演技で[[ロカルノ国際映画祭]]、{{仮リンク|カラチ国際映画祭|en|Kara Film Festival}}、シピエ国際映画祭<ref>{{cite web|url=http://timesofindia.indiatimes.com/articleshow/784794.cms|title= Visiting Pakistan was like a pilgrimage: Kiron Kher|archiveurl=https://web.archive.org/web/20050317084159/http://timesofindia.indiatimes.com/articleshow/784794.cms |archivedate=17 March 2005 |publisher=Times of India|accessdate=2023-10-12}}</ref>、ケープタウン国際映画祭の主演女優賞を受賞し<ref name=daily>{{cite web|url=http://www.thedailystar.net/2003/12/03/d31203140289.htm |title=Art knows no boundary|archiveurl=https://web.archive.org/web/20081210075900/http://www.thedailystar.net/2003/12/03/d31203140289.htm |archivedate=10 December 2008 |publisher=[[The Daily Star (Bangladesh)|Daily Star]]|accessdate=2023-10-12}}</ref><ref>{{cite web|url=http://timesofindia.indiatimes.com/articleshow/887374.cms |title=Mrs Kher comes calling – page 2|archiveurl=https://web.archive.org/web/20050508000645/http://timesofindia.indiatimes.com/articleshow/887374.cms |archivedate=8 May 2005 |publisher= Times of India|accessdate=2023-10-12}}</ref>、映画もロカルノ国際映画祭の金豹賞を受賞している<ref>{{cite web|url=http://www.hindu.com/mp/2004/12/02/stories/2004120200920200.htm|title= Silent waves, still waters|archiveurl=https://web.archive.org/web/20081210083854/http://www.hindu.com/mp/2004/12/02/stories/2004120200920200.htm |archivedate=10 December 2008 |The Hindu|accessdate=2023-10-12}}</ref>。また、2004年には{{仮リンク|インディアン・フィルム・フェスティバル・ロサンゼルス|en|Indian Film Festival of Los Angeles}}で長年の女優活動を表彰され<ref>{{cite web|url=http://www.indianfilmfestival.org/film04.html |title=IFFLA 2004 Film Schedule, 8:00pm: Tribute to Kirron Kher|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090116020741/http://www.indianfilmfestival.org/film04.html |archivedate=16 January 2009 |publisher=Indian Film Festival of Los Angeles (IFFLA)|accessdate=2023-10-12}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.tribuneindia.com/2004/20040322/main7.htm |title=a tribute to award-winning actress Kiron Kher|archiveurl=https://web.archive.org/web/20081210142226/http://www.tribuneindia.com/2004/20040322/main7.htm |archivedate=10 December 2008 |publisher=[[The Tribune (Chandigarh)|The Tribune]]|accessdate=2023-10-12}}</ref>、『[[ER緊急救命室]]』に夫アヌパムと共にゲスト出演し、[[パーミンダ・ナーグラ]]が演じるニーラ・ラスゴートラの母親役を演じた。2005年には『Prratima』『Dil Na Jaane Kyon』『Isi Bahane』『Chausath Panne』などのテレビシリーズに出演している<ref>{{cite web|url=http://www.hindu.com/mp/2005/01/31/stories/2005013100510300.htm |title=Many shades, same delight|archiveurl=https://web.archive.org/web/20081210083859/http://www.hindu.com/mp/2005/01/31/stories/2005013100510300.htm |archivedate=10 December 2008 |publisher=The Hindu|accessdate=2023-10-12}}</ref>。同時期には『[[:en:Main Hoon Na|Main Hoon Na]]』『[[:en:Hum Tum (film)|Hum Tum]]』『{{仮リンク|ヴィールとザーラ|en|Veer-Zaara}}』『[[:en:Mangal Pandey: The Rising|Mangal Pandey: The Rising]]』『[[:en:Fanaa (2006 film)|Fanaa]]』に出演し、批評家から演技を絶賛された<ref>{{cite web|url=http://www.rottentomatoes.com/celebrity/kiron_kher/ |title=Kiron Kher|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080811020753/http://www.rottentomatoes.com/celebrity/kiron_kher/ |archivedate=11 August 2008 |[[Rotten Tomatoes]]|accessdate=2023-10-12}}</ref>。『[[:en:Rang De Basanti|Rang De Basanti]]』『{{仮リンク|さよならは言わないで (2006年の映画)|en|Kabhi Alvida Naa Kehna|label=さよならは言わないで}}』ではフィルムフェア賞助演女優賞にノミネートされている。2008年には『[[:en:Singh Is Kinng|Singh Is Kinng]]』『[[:en:Saas Bahu Aur Sensex|Saas Bahu Aur Sensex]]』『[[:en:Dostana (2008 film)|Dostana]]』に出演し、『Dostana』ではフィルムフェア賞助演女優賞にノミネートされた。2009年には『[[:en:India's Got Talent|India's Got Talent]]』で審査員を務めている。
=== 政治家 ===
[[File:Narendra Modi at the inauguration of the New Civil Air Terminal, at Chandigarh airport. The Governor of Punjab and Haryana and Administrator, Union Territory, Chandigarh, Prof. Kaptan Singh Solanki (1).jpg|thumb|240px|{{仮リンク|チャンディーガル空港|en|Chandigarh Airport}}の新ターミナル落成式に出席するナレンドラ・モディとキロン・ケール(2015年)]]
キロン・ケールは「Laadli({{仮リンク|女児殺し|en|Female infanticide}}の反対キャンペーン)」「Roko Cancer(癌の啓蒙キャンペーン)」などの社会運動に長年参加してきた<ref>{{cite news |url=http://www.dnaindia.com/entertainment/report-kirron-kher-prefers-social-work-to-politics-1126684 |title=Kirron Kher prefers social work to politics |newspaper=DNA |date=10 October 2007 |accessdate=16 March 2014 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140316063805/http://www.dnaindia.com/entertainment/report-kirron-kher-prefers-social-work-to-politics-1126684 |archivedate=16 March 2014 |url-status=live}}</ref><ref>{{cite news |url=http://timesofindia.indiatimes.com/city/chandigarh/A-walk-against-cancer/articleshow/12156300.cms |title=A walk against cancer |date=6 March 2012 |newspaper=The Times of India |accessdate=16 March 2014 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160927034620/http://timesofindia.indiatimes.com/city/chandigarh/A-walk-against-cancer/articleshow/12156300.cms |archivedate=27 September 2016 |url-status=live}}</ref>。2009年に[[インド人民党]]に入党し<ref>{{cite web |title=Kiran Kher joins BJP |url=http://timesofindia.indiatimes.com/india/Kiran-Kher-joins-BJP/articleshow/4451462.cms?referral=PM |date=26 April 2009 |accessdate=16 May 2014 |work=The Times of India |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140521045722/http://timesofindia.indiatimes.com/india/Kiran-Kher-joins-BJP/articleshow/4451462.cms?referral=PM |archivedate=21 May 2014 |url-status=live}}</ref>、2011年の地方選挙ではチャンディーガルを中心に各地で選挙活動に従事した<ref>{{cite news |url=http://www.hindustantimes.com/punjab/chandigarh/bjp-to-take-partymen-s-view-on-kirron-kher-s-chandigarh-ticket/article1-1178451.aspx |title=BJP to take partymen's view on Kirron Kher's Chandigarh ticket |date=30 January 2014 |newspaper=Hindustan Times |author=Surender Sharma |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140316080310/http://www.hindustantimes.com/punjab/chandigarh/bjp-to-take-partymen-s-view-on-kirron-kher-s-chandigarh-ticket/article1-1178451.aspx |archivedate=16 March 2014|accessdate=2023-10-12}}</ref>。彼女は[[ナレンドラ・モディ]]を首相候補者になる前から公然と支持しており<ref>{{cite web |url=https://www.youtube.com/watch?v=Z65aIyXRu90&t=45s |title=YouTube |via=YouTube |accessdate=1 December 2014 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160607020129/https://www.youtube.com/watch?v=Z65aIyXRu90&t=45s |archivedate=7 June 2016 |url-status=live}}</ref>、モディの首相就任後に実施された[[2014年インド総選挙]]では{{仮リンク|チャンディーガル選挙区|en|Chandigarh Lok Sabha constituency}}の[[ローク・サバー|下院議員]]候補者に選出され、現職候補者の{{仮リンク|パワン・クマール・バンサール|en|Pawan Kumar Bansal}}(12万1720票)を破り19万1362票を獲得して初当選した<ref>{{cite web |title=Kirron Kher wins Chandigarh |work=The Indian Express |url=http://indianexpress.com/article/india/politics/kirron-kher-wins-chandigarh/ |date=16 May 2014 |accessdate=16 May 2014 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140516102931/http://indianexpress.com/article/india/politics/kirron-kher-wins-chandigarh/ |archivedate=16 May 2014 |url-status=live}}</ref><ref>{{cite web |title=Election results: BJP's Kirron Kher wins from Chandigarh, Naveen Jindal finishes third |url=http://timesofindia.indiatimes.com/home/lok-sabha-elections-2014/news/Election-results-BJPs-Kirron-Kher-wins-from-Chandigarh-Naveen-Jindal-finishes-third/articleshow/35213795.cms |date=16 May 2014 |accessdate=16 May 2014 |work=The Times of India |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140516142954/http://timesofindia.indiatimes.com/home/lok-sabha-elections-2014/news/Election-results-BJPs-Kirron-Kher-wins-from-Chandigarh-Naveen-Jindal-finishes-third/articleshow/35213795.cms |archivedate=16 May 2014 |url-status=live}}</ref>。キロンはチャンディーガルにフィルムシティを建設することを公約に掲げており、当選後は公約実現のために同地の土地取得のために苦労したことを語っており<ref>{{cite news |url=http://www.business-standard.com/article/pti-stories/trying-to-get-film-city-for-chandigarh-soon-kirron-kher-114082500941_1.html |title=Trying to get Film City for Chandigarh soon: Kirron Kher | Business Standard News |newspaper=Business Standard India |date=25 August 2014 |accessdate=1 December 2014 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141113120346/http://www.business-standard.com/article/pti-stories/trying-to-get-film-city-for-chandigarh-soon-kirron-kher-114082500941_1.html |archivedate=13 November 2014 |url-status=live |agency=Press Trust of India}}</ref>、後にチャンディーガル政府の協力を得て、サラングプルにフィルムシティ建設用の土地を確保した<ref>{{cite web |url=http://chandigarh.gov.in/admn_new_init_filmcity.htm |title=Official Website of Chandigarh Administration |publisher=Chandigarh.gov.in |accessdate=1 December 2014 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141112185824/http://chandigarh.gov.in/admn_new_init_filmcity.htm |archivedate=12 November 2014 |url-status=dead}}</ref>。[[2019年インド総選挙]]では23万1188票を獲得し、パワン・クマール・バンサール(18万4218票)を破り再選している<ref>{{Cite web |url=https://www.freepressjournal.in/india/lok-sabha-election-results-live-updates-bjp-leading-in-348-seats-upa-at-94/1532677 |title=Lok Sabha Election Results Live UPdates: BJP leading in 348 seats, UPA at 94 |date=24 May 2019 |website=Freepressjournal : Latest Indian news,Live updates |language=en-US |accessdate=24 May 2019 |archivedate=12 October 2020 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20201012040315/https://www.freepressjournal.in/india/lok-sabha-election-results-live-updates-bjp-leading-in-348-seats-upa-at-94 |url-status=live}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.newsnation.in/election/lok-sabha-election-2019/from-sunny-deol-to-urmila-matondkar-heres-how-star-candidates-fared-in-lok-sabha-polls-article-225290.html |title=From Sunny Deol to Urmila Matondkar, here's how star candidates fared in Lok Sabha Polls |date=24 May 2019 |website=News Nation |language=en |accessdate=24 May 2019 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20190524112411/https://www.newsnation.in/election/lok-sabha-election-2019/from-sunny-deol-to-urmila-matondkar-heres-how-star-candidates-fared-in-lok-sabha-polls-article-225290.html |archivedate=24 May 2019 |url-status=live}}</ref>。
== 家族 ==
キロン・ケールには兄が1人、妹が2人おり、兄アマルディープ・シン・サンドゥはアーティストとして活動していたが、2003年に死去した<ref name=his>{{cite web|url=http://www.hindu.com/mp/2004/08/19/stories/2004081900290300.htm |title=All love and Kher|archiveurl=https://web.archive.org/web/20081210083847/http://www.hindu.com/mp/2004/08/19/stories/2004081900290300.htm |archivedate=10 December 2008 |publisher= ''[[The Hindu]]''|accessdate=2023-10-10}}</ref>。妹{{仮リンク|カンワル・ターカル・シン|en|Kanwal Thakar Singh}}はバドミントン選手として活動し、{{仮リンク|アルジュナ賞|en|Arjuna Award}}を受賞している。もう一人の妹シャランジット・カウル・シンは[[インド海軍]]の退役将校と結婚している。
1979年3月に[[ムンバイ]]の実業家ガウタム・ベリーと結婚し、息子[[シカンダル・ケール|シカンダル]]を出産する<ref>{{cite web|url=http://www.rediff.com/movies/2008/jun/02kher.htm |title=Kiran Kher on her son, Sikander|archiveurl=https://web.archive.org/web/20081210103925/http://www.rediff.com/movies/2008/jun/02kher.htm |archivedate=10 December 2008 |publisher=[[Rediff.com]]|accessdate=2023-10-10}}</ref>。キロンは女優の道に進むために活動していたが機会を得られず、この時期に同じように俳優として不遇の日々を過ごしていたアヌパム・ケールとの親交を深めた<ref>{{Cite news |title=Anupam Kher visits dept of theatre, remembers old days - Times of India |url=https://timesofindia.indiatimes.com/news/Anupam-Kher-visits-dept-of-theatre-remembers-old-days/articleshow/33529743.cms |website=The Times of India |date=10 April 2014 |accessdate=24 May 2020}}</ref>。彼とは大学時代に同じ演劇サークルに所属しており、『Chandpuri Ki Champabai』という舞台演劇で共演経験があった。1984年に『[[:en:Saaransh|Saaransh]]』でアヌパムがブレイクし、キロンは翌1985年にガウタム・ベリーと離婚してアヌパムと再婚した<ref>{{Cite web |title=Second Time Lucky In Love: A Beautiful Love Story Of Anupam Kher And Kirron Kher. |url=https://www.bollywoodshaadis.com/articles/a-beautiful-love-story-of-anupam-kher-and-kirron-kher-6373 |website=BollywoodShaadis |accessdate=16 May 2020}}</ref>。
== フィルモグラフィー ==
=== 映画 ===
[[File:Anupam Kher, Kirron Kher at Esha Deol's wedding reception 12.jpg|thumb|240px|アヌパム・ケール、キロン・ケール夫妻(2012年)]]
* Aasra Pyaar Da(1983年)
* [[:en:Pestonjee|Pestonjee]](1988年)
* [[:en:Sardari Begum|Sardari Begum]](1996年)
* [[:en:Darmiyaan: In Between|Darmiyaan: In Between]](1997年)
* [[:en:Bariwali|Bariwali]](2000年)
* [[:en:Ehsaas: The Feeling|Ehsaas: The Feeling]](2001年)
* {{仮リンク|デーヴダース (2002年の映画)|en|Devdas (2002 Hindi film)|label=デーヴダース}}(2002年)
* [[:en:Karz: The Burden of Truth|Karz: The Burden of Truth]](2002年)
* {{仮リンク|静かな水|en|Khamosh Pani}}(2003年)
* [[:en:Main Hoon Na|Main Hoon Na]](2004年)
* [[:en:Hum Tum (film)|Hum Tum]](2004年)
* {{仮リンク|ヴィールとザーラ|en|Veer-Zaara}}(2004年)
* It Could Be You(2005年)
* [[:en:Mangal Pandey: The Rising|Mangal Pandey: The Rising]](2005年)
* [[:en:Rang De Basanti|Rang De Basanti]](2006年)
* [[:en:Fanaa (2006 film)|Fanaa]](2006年)
* {{仮リンク|さよならは言わないで (2006年の映画)|en|Kabhi Alvida Naa Kehna|label=さよならは言わないで}}(2006年)
* [[:en:I See You (2006 film)|I See You]](2006年)
* [[:en:Just Married (2007 film)|Just Married]](2007年)
* [[:en:Apne|Apne]](2007年)
* [[恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム]](2007年)
* [[:en:Singh Is Kinng|Singh Is Kinng]](2008年)
* [[:en:Saas Bahu Aur Sensex|Saas Bahu Aur Sensex]](2008年)
* [[:en:Dostana (2008 film)|Dostana]](2008年)
* [[スタローン in ハリウッド・トラブル]](2009年)
* [[:en:Kurbaan (2009 film)|Kurbaan]](2009年)
* [[:en:Alexander the Great (2010 film)|Alexander the Great]](2010年)
* [[:en:Milenge Milenge|Milenge Milenge]](2010年)
* [[:en:Action Replayy|Action Replayy]](2010年)
* [[:en:Mummy Punjabi|Mummy Punjabi]](2011年)
* [[:en:Ajab Gazabb Love|Ajab Gazabb Love]](2012年)
* [[:en:Total Siyapaa|Total Siyapaa]](2014年)
* [[:en:Khoobsurat (2014 film)|Khoobsurat]](2014年)
* [[:en:Punjab 1984|Punjab 1984]](2014年)
=== テレビシリーズ ===
* Isi Bahane(1988年)
* Gubbare(1999年)<ref>{{cite web |url=https://www.tribuneindia.com/1999/99sep05/sunday/filmtv.htm |title=Tribuneindia... Film and tv |website=www.tribuneindia.com|accessdate=2023-10-12}}</ref>
* [[:en:Kanyadaan (1999 TV series)|Kanyadaan]](1999-2000年)
* [[:en:Prratima|Prratima]](2004年)
* [[ER緊急救命室]](2004年)
* [[:en:India's Got Talent|India's Got Talent]](2009年)
== 受賞歴 ==
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
!年
!部門
!作品名
!結果
!出典
|-
! colspan="5" style="background: #eedd82;"|[[国家映画賞]]
|-
| {{仮リンク|第44回国家映画賞|en|44th National Film Awards|label=1997年}}
| {{仮リンク|国家映画賞 審査員特別賞|en|National Film Award – Special Jury Award (feature film)|label=審査員特別賞}}
| 『Sardari Begum』
| rowspan=2 {{won}}
| <ref name="1997award">{{cite web |url=http://iffi.nic.in/Dff2011/Frm44thNFAAward.aspx?PdfName=44NFA.pdf |title=Award for the Best Actor |publisher=Directorate of Film Festivals |accessdate=30 July 2011 |page=22|url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110928072421/http://iffi.nic.in/Dff2011/Frm44thNFAAward.aspx?PdfName=44NFA.pdf |archivedate=28 September 2011 }}</ref>
|-
| {{仮リンク|第47回国家映画賞|en|47th National Film Awards|label=2000年}}
| {{仮リンク|国家映画賞 主演女優賞|en|National Film Award for Best Actress|label=主演女優賞}}
| 『Bariwali』
|<ref name="2000Award">{{cite web |url=http://iffi.nic.in/Dff2011/Frm47NFAAward.aspx?PdfName=47NFA.pdf |title=Award for the Best Actor |publisher=Directorate of Film Festivals |accessdate=30 July 2011 |page=24|url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110928072346/http://iffi.nic.in/Dff2011/Frm47NFAAward.aspx?PdfName=47NFA.pdf |archivedate=28 September 2011 }}</ref>
|-
! colspan="5" style="background: #eedd82;"|[[フィルムフェア賞]]
|-
| {{仮リンク|第48回フィルムフェア賞|en|48th Filmfare Awards|label=2003年}}
| rowspan=4|{{仮リンク|フィルムフェア賞 助演女優賞|en|Filmfare Award for Best Supporting Actress|label=助演女優賞}}
| 『デーヴダース』
| rowspan=4 {{nom}}
|
|-
| rowspan=2|{{仮リンク|第52回フィルムフェア賞|en|52nd Filmfare Awards|label=2007年}}
| 『さよならは言わないで』
| rowspan=2|
|-
| 『Rang De Basanti』
|-
| {{仮リンク|第54回フィルムフェア賞|en|54th Filmfare Awards|label=2009年}}
| 『Dostana』
|
|-
! colspan="5" style="background: #eedd82;"|[[国際インド映画アカデミー賞]]
|-
| {{仮リンク|第4回国際インド映画アカデミー賞|en|4th IIFA Awards|label=2003年}}
| rowspan=4|[[国際インド映画アカデミー賞 助演女優賞|助演女優賞]]
| 『デーヴダース』
| {{won}}
|<ref>{{cite web|url=http://iifa.com/iifa-years/iifa-years-2003/|title=IIFA Through the Years|accessdate=20 August 2014|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150208124732/http://iifa.com/iifa-years/iifa-years-2003/|archivedate=8 February 2015|publisher=International Indian Film Academy}}</ref>
|-
| rowspan=2|{{仮リンク|第8回国際インド映画アカデミー賞|en|8th IIFA Awards|label=2007年}}
| 『さよならは言わないで』
| rowspan=3 {{nom}}
| rowspan=2|<ref>{{cite web |title=Nominees for IIFA Awards 2007 |url=http://www.indiafm.com/features/2007/04/04/2478/index.html |website=[[Bollywood Hungama]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080106101301/http://www.indiafm.com/features/2007/04/04/2478/index.html |archivedate=6 January 2008 |date=4 April 2007|accessdate=2023-04-28}}</ref>
|-
| 『Rang De Basanti』
|-
| {{仮リンク|第10回国際インド映画アカデミー賞|en|10th IIFA Awards|label=2009年}}
| 『Dostana』
|<ref>{{cite web |url = http://www.desihits.com/news/view/2009-iifa-award-nominations-announced-20090430 |publisher = Desi Hits! |title = 2009 IIFA Award Nominations Announced |archiveurl = https://web.archive.org/web/20100824111845/http://www.desihits.com/news/view/2009-iifa-award-nominations-announced-20090430 |archivedate = 2010-08-24 |accessdate = 2023-04-28}}</ref>
|-
! colspan="5" style="background: #eedd82;"|[[ジー・シネ・アワード]]
|-
| 2003年
| rowspan=2|[[ジー・シネ・アワード 助演女優賞|助演女優賞]]
| 『デーヴダース』
| rowspan=2 {{nom}}
|<ref>{{cite web|url=https://www.youtube.com/watch?v=fpYN8XOjddc|title=Zee Cine Awards 2003 Best Supporting Actress Sushmita Sen|publisher=YouTube|accessdate=2023-04-24}}</ref>
|-
| 2007年
| 『Rang De Basanti』
|<ref>{{Cite news|url=http://sifymax.com/zca/viewerschoice/ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070406120844/http://sifymax.com/zca/viewerschoice/ |url-status=dead |archivedate=6 April 2007 |title=The 10th Zee Cine Awards 2007 Nominations |work=Sify |accessdate=8 July 2021}}</ref>
|-
! colspan="5" style="background: #eedd82;"|[[スター・スクリーン・アワード]]
|-
| 2003年
| rowspan=3|{{仮リンク|スター・スクリーン・アワード 助演女優賞|en|Screen Award for Best Supporting Actress|label=助演女優賞}}
| 『デーヴダース』
| rowspan=2 {{nom}}
|
|-
| 2005年
| 『Hum Tum』
|
|-
| {{仮リンク|第13回スター・スクリーン・アワード|en|13th Screen Awards|label=2007年}}
| 『Rang De Basanti』
| {{won}}
|<ref>{{cite web|title=Winners: 13th Annual Star-Screen Awards |author=IndiaFM News Bureau |date=7 January 2007 |url=http://www.indiafm.com/features/2007/01/07/2046/index.html |website=[[ボリウッド・ハンガマ|Bollywood Hungama]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080105062224/http://www.indiafm.com/features/2007/01/07/2046/index.html |accessdate=6 June 2022 |archivedate=5 January 2008 |url-status=dead}}</ref>
|-
! colspan="5" style="background: #eedd82;"|{{仮リンク|スターダスト・アワード|en|Stardust Awards}}
|-
| 2005年
| rowspan=4|{{仮リンク|スターダスト・アワード 助演女優賞|en|Stardust Award for Best Supporting Actress|label=助演女優賞}}
| 『ヴィールとザーラ』
| {{won}}
|
|-
| 2007年
| 『Rang De Basanti』
| rowspan=2 {{nom}}
|
|-
| rowspan=2|2010年
| 『Dostana』
| rowspan=2|
|-
| 『Kurbaan』
| {{won}}
|-
! colspan="5" style="background: #eedd82;"|{{仮リンク|製作者組合映画賞|en|Producers Guild Film Awards}}
|-
| 2005年
| rowspan=2|{{仮リンク|製作者組合映画賞 助演女優賞|en|Producers Guild Film Award for Best Actress in a Supporting Role|label=助演女優賞}}
| 『Hum Tum』
| {{nom}}
|
|-
| 2010年
| 『Kurbaan』
| {{won}}
|
|-
! colspan="5" style="background: #eedd82;"|{{仮リンク|ボリウッド映画賞|en|Bollywood Movie Awards}}
|-
| 2003年
| rowspan=2|{{仮リンク|ボリウッド映画賞 助演女優賞|en|Bollywood Movie Award – Best Supporting Actress|label=助演女優賞}}
| 『デーヴダース』
| rowspan=2 {{won}}
|
|-
| 2007年
| 『Rang De Basanti』
|
|-
! colspan="5" style="background: #eedd82;"|[[ロカルノ国際映画祭]]
|-
| 2003年
| {{仮リンク|ロカルノ国際映画祭 女優賞|en|Best Actress Award (Locarno International Film Festival)|label=女優賞}}
| 『静かな水』
| {{won}}
|
|-
! colspan="5" style="background: #eedd82;"|{{仮リンク|カラチ国際映画祭|en|Kara Film Festival}}
|-
| 2003年
| 主演女優賞
| 『静かな水』
| {{won}}
|
|-
! colspan="5" style="background: #eedd82;"|{{仮リンク|ルクス・スタイル・アワード|en|Lux Style Awards}}
|-
| 2003年
| 主演女優賞
| 『静かな水』
| {{won}}
|
|-
! colspan="5" style="background: #eedd82;"|{{仮リンク|PTCパンジャーブ映画賞|en|PTC Punjabi Film Awards}}
|-
| 2010年
| 審査員選出主演女優賞
| 『Punjab 1984』
| {{won}}
|
|-
|}
== 出典 ==
{{Reflist|23em}}
== 外部リンク ==
* {{IMDb name|0451601|Kiron Kher}}
{{国際インド映画アカデミー賞 助演女優賞}}
{{Authority control}}
{{DEFAULTSORT:けえる きろん}}
[[Category:インドの女性政治家]]
[[Category:インドの俳優出身の政治家]]
[[Category:インド人民党の政治家]]
[[Category:ローク・サバー議員]]
[[Category:ヒンディー語映画の女優]]
[[Category:マラヤーラム語映画の女優]]
[[Category:ウルドゥー語映画の俳優]]
[[Category:ベンガル語映画の俳優]]
[[Category:インドのテレビ俳優]]
[[Category:インドのテレビ司会者]]
[[Category:国家映画賞受賞者]]
[[Category:国際インド映画アカデミー賞受賞者]]
[[Category:スター・スクリーン・アワード受賞者]]
[[Category:ベンガルール出身の人物]]
[[Category:1952年生]]
[[Category:存命人物]] | 2023-10-12T12:52:37Z | 2023-12-05T06:13:31Z | false | false | false | [
"Template:Cite web",
"Template:ISBN",
"Template:仮リンク",
"Template:Won",
"Template:Reflist",
"Template:Cite news",
"Template:IMDb name",
"Template:国際インド映画アカデミー賞 助演女優賞",
"Template:Authority control",
"Template:ActorActress",
"Template:Nom"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%AB |
4,840,637 | 山中大火 | 山中大火(やまなかたいか)は、1931年(昭和6年)5月7日に石川県江沼郡山中町(現・加賀市)で発生した大火。近代以降の山中町で最も大きな災害で、町の大半を焼失した。
1931年(昭和6年)5月7日午前2時20分に本町第9区(現在の加賀市山中温泉本町2丁目付近)より出火し、午前7時15分に鎮火。一夜のうちに町の3分2を消失する。
火の不始末により出火。被害拡大の主に原因は以下とされている。
被害の概要(焼失家屋数は文献により異なる)
主な消失建物は、温泉旅館、郵便局、警察補派出所、町役場、裁判所出張所、駅舎、白山神社、小学校、伝染病院、自転車製造会社、瓦期会社、銀行、運送会社など、町の主要施設も多く被害にあった。温泉旅館にいたっては、五名館、吉野家第二別館以外の温泉旅館が全焼。新設の共同浴場(総湯)も失った。山中漆器は全焼。商店は60軒の内53軒焼失。また、焼失した建物の中には、建て替え直後の建物も多くあった。
出火直後に駆けつけた北陸本線大聖寺駅駅長によると、出火当時、温泉に入浴中の浴客は約400名いた。妊婦や足腰の悪い高齢者も多くおり、死傷者も出た。また、勢いよく燃え広がる炎を前に、多くの住民は家財道具を持ち出すことも出来ずに避難した。避難先は、物産館の階上、公会堂、昭和クラブ、恩栄寺、灯明寺、または焼け残った親類の家など様々だった。
大火翌日の早朝から瓦礫の整理や簡易バラックの制作が始まった。温泉電車山中停留所の焼け残ったホームを利用し、山中駅を開設。消防隊や在廊軍人団、青年訓練所員など、およそ700人が集まり、トラック8台を用いて瓦礫の整理を進めた。一方で、バラックの増設、電話、電灯の電柱の建設も行われた。
好天に恵まれたこともあり、整理は順調に進んだ。江沼郡女子青年団による炊き出しも行われた。
翌年の1932年(昭和7年)、昭和天皇・香淳皇后より、2000円の見舞金が送られる。6月29日には義援金1回分の1万5047円30銭が791世帯に3669人に分配された。
当時日本は、世界恐慌の影響による昭和恐慌で不況のどん底であったため、物価が安かった(民家700円から1500円で二階建ての住宅や店舗を新設することができた。)。
5年後の1936年(昭和11年)には、新築の家屋は628戸に上り、観光客も火災前に比べ3割増加した。ダンスホール、天楼閣など近代的な設備を取り入れ、次々と宿泊施設が再建された。街中には当時珍しいエレベーターを備えた旅館が2軒もあった。全国的にも大規模な観光温泉として復興した。 | [
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"text": "山中大火(やまなかたいか)は、1931年(昭和6年)5月7日に石川県江沼郡山中町(現・加賀市)で発生した大火。近代以降の山中町で最も大きな災害で、町の大半を焼失した。",
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"text": "1931年(昭和6年)5月7日午前2時20分に本町第9区(現在の加賀市山中温泉本町2丁目付近)より出火し、午前7時15分に鎮火。一夜のうちに町の3分2を消失する。",
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"text": "主な消失建物は、温泉旅館、郵便局、警察補派出所、町役場、裁判所出張所、駅舎、白山神社、小学校、伝染病院、自転車製造会社、瓦期会社、銀行、運送会社など、町の主要施設も多く被害にあった。温泉旅館にいたっては、五名館、吉野家第二別館以外の温泉旅館が全焼。新設の共同浴場(総湯)も失った。山中漆器は全焼。商店は60軒の内53軒焼失。また、焼失した建物の中には、建て替え直後の建物も多くあった。",
"title": "被害"
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"text": "出火直後に駆けつけた北陸本線大聖寺駅駅長によると、出火当時、温泉に入浴中の浴客は約400名いた。妊婦や足腰の悪い高齢者も多くおり、死傷者も出た。また、勢いよく燃え広がる炎を前に、多くの住民は家財道具を持ち出すことも出来ずに避難した。避難先は、物産館の階上、公会堂、昭和クラブ、恩栄寺、灯明寺、または焼け残った親類の家など様々だった。",
"title": "災害時の人の動き"
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"text": "大火翌日の早朝から瓦礫の整理や簡易バラックの制作が始まった。温泉電車山中停留所の焼け残ったホームを利用し、山中駅を開設。消防隊や在廊軍人団、青年訓練所員など、およそ700人が集まり、トラック8台を用いて瓦礫の整理を進めた。一方で、バラックの増設、電話、電灯の電柱の建設も行われた。",
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"text": "好天に恵まれたこともあり、整理は順調に進んだ。江沼郡女子青年団による炊き出しも行われた。",
"title": "復興"
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"text": "翌年の1932年(昭和7年)、昭和天皇・香淳皇后より、2000円の見舞金が送られる。6月29日には義援金1回分の1万5047円30銭が791世帯に3669人に分配された。",
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"text": "当時日本は、世界恐慌の影響による昭和恐慌で不況のどん底であったため、物価が安かった(民家700円から1500円で二階建ての住宅や店舗を新設することができた。)。",
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"text": "5年後の1936年(昭和11年)には、新築の家屋は628戸に上り、観光客も火災前に比べ3割増加した。ダンスホール、天楼閣など近代的な設備を取り入れ、次々と宿泊施設が再建された。街中には当時珍しいエレベーターを備えた旅館が2軒もあった。全国的にも大規模な観光温泉として復興した。",
"title": "復興"
}
] | 山中大火(やまなかたいか)は、1931年(昭和6年)5月7日に石川県江沼郡山中町(現・加賀市)で発生した大火。近代以降の山中町で最も大きな災害で、町の大半を焼失した。 | '''山中大火'''(やまなかたいか)は、[[1931年]]([[昭和]]6年)[[5月7日]]に[[石川県]][[江沼郡]][[山中町]](現・[[加賀市]])で発生した[[火災|大火]]。近代以降の山中町で最も大きな災害で、町の大半を焼失した。
== 経過 ==
[[ファイル:Tebikigasolinepump.jpg|サムネイル|消火活動に使用した手引きガソリンポンプ車両]]
1931年(昭和6年)5月7日午前2時20分に本町第9区(現在の加賀市山中温泉本町2丁目付近)より出火し、午前7時15分に鎮火。一夜のうちに町の3分2を消失する<ref name=":0">{{Cite book|和書 |title=えぬのくに 第27号 |year=1982年 |publisher=江沼地方史研究会 |pages=46-48 |author=高橋武雄}}</ref><ref name=":1">{{Cite book|和書 |title=山中消防のあゆみ |date=3月29日 |year=2009年 |publisher=旧山中町消防団記念事業検討委員会 |page=188}}</ref>。
== 原因 ==
火の不始末により出火<ref name=":0" />。被害拡大の主に原因は以下とされている。
#[[フェーン現象]]と重なり火の勢いが増したこと<ref name=":0" />
#消失前の山中町は家屋が密集し道幅の狭い細長い街であったこと<ref name=":2">{{Cite book|和書 |title=ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 加賀・江沼 |date=11月15日 |year=1979年 |publisher=国書刊行会 |page=110 |author=牧野隆信}}</ref>
#防火水道の機能不全<ref>{{Cite book|和書 |title=山中町史 |year=1959年 |publisher=山中町史刊行会 |page=186 |editor=若林喜三郎}}</ref>
== 被害 ==
被害の概要(焼失家屋数は文献により異なる)
* 被害額:約600万円<ref name=":0" /><ref name=":1" />
* 焼失家屋:721戸(加賀市の調べ)<ref name=":2" /> または800戸(山中町の調べ)<ref name=":3">{{Cite book|和書 |title=山中温泉旅館協働組合 あゆみ |date=4月 |year=1984年 |publisher=山中温泉旅館協同組合 |page=77}}</ref>
* 火災による死者:2名<ref name=":0" /><ref name=":1" />
* 重症者:2名<ref name=":0" /><ref name=":1" />
* 軽傷者:1名<ref name=":0" /><ref name=":1" />
主な消失建物は、[[温泉宿|温泉旅館]]、郵便局、警察補派出所、町役場、裁判所出張所、駅舎、白山神社、[[加賀市立山中小学校|小学校]]、[[避病院|伝染病院]]、自転車製造会社、瓦期会社、銀行、運送会社など、町の主要施設も多く被害にあった。温泉旅館にいたっては、五名館、吉野家第二別館以外の温泉旅館が全焼。新設の[[共同浴場]](総湯)も失った。[[山中漆器]]は全焼。商店は60軒の内53軒焼失<ref name=":0" /><ref name=":1" />。また、焼失した建物の中には、建て替え直後の建物も多くあった。
== 災害時の人の動き ==
出火直後に駆けつけた[[北陸本線]][[大聖寺駅]]駅長によると、出火当時、温泉に入浴中の浴客は約400名いた。妊婦や足腰の悪い高齢者も多くおり、死傷者も出た。また、勢いよく燃え広がる炎を前に、多くの住民は家財道具を持ち出すことも出来ずに避難した。避難先は、物産館の階上、公会堂、昭和クラブ、恩栄寺、灯明寺、または焼け残った親類の家など様々だった<ref name=":0" />。
== 復興 ==
大火翌日の早朝から瓦礫の整理や簡易バラックの制作が始まった。[[北陸鉄道山中線|温泉電車]][[山中駅|山中停留所]]の焼け残ったホームを利用し、山中駅を開設。消防隊や在廊軍人団、青年訓練所員など、およそ700人が集まり、トラック8台を用いて瓦礫の整理を進めた。一方で、バラックの増設、電話、電灯の電柱の建設も行われた。
好天に恵まれたこともあり、整理は順調に進んだ。江沼郡女子青年団による炊き出しも行われた<ref>高橋武雄『えぬのくに 第27号』江沼地方史研究会、1982、45頁</ref>。
翌年の1932年(昭和7年)、[[昭和天皇]]・[[香淳皇后]]より、2000円の見舞金が送られる。6月29日には義援金1回分の1万5047円30銭が791世帯に3669人に分配された<ref>『山中消防のあゆみ』編集・発行 旧山中町消防団記念事業検討委員会、2009年3月29日、江沼郡の災害、188頁</ref>。
当時日本は、[[世界恐慌]]の影響による[[昭和恐慌]]で不況のどん底であったため、物価が安かった(民家700円から1500円で二階建ての住宅や店舗を新設することができた。)<ref>『山中温泉旅館協働組合 あゆみ』山中温泉旅館協働組合、1984年4月、77頁</ref>。
5年後の1936年(昭和11年)には、新築の家屋は628戸に上り、観光客も火災前に比べ3割増加した。ダンスホール、天楼閣など近代的な設備を取り入れ、次々と宿泊施設が再建された。街中には当時珍しいエレベーターを備えた旅館が2軒もあった。全国的にも大規模な観光温泉として復興した<ref>『えぬのくに 第28号』 江沼地方史研究会、69頁</ref>。
== 脚注 ==
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[[Category:加賀市の歴史]]
[[Category:昭和時代の火災]]
[[Category:1931年の日本]]
[[Category:1931年5月]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E5%A4%A7%E7%81%AB |
4,840,641 | ジェニー・エルペンベック | ジェニー・エルペンベック(Jenny Erpenbeck、1967年5月12日 -)は、ドイツの小説家、劇作家、オペラ演出家。
ドイツ民主共和国東ベルリン出身。高校卒業後、2年間製本職人の徒弟(Berufsausbildung)となる。1988年にフンボルト大学ベルリンに入学し、演劇研究を学び、1990年にハンス・アイスラー音楽大学ベルリンに移り、音楽演劇の演出を学んだ。1993年にはバイロイト音楽祭で上演されたオペラ『トリスタンとイゾルデ』で、ハイナー・ミュラーの演出助手を務めた。1994年に大学を卒業し、グラーツのオペラハウスで助監督を務め、1997年からはドイツとオーストリアでオペラ演出家の傍ら作家として活動を開始し、主にアルノルト・シェーンベルクの『期待』、クラウディオ・モンテヴェルディの『オルフェオ (モンテヴェルディ)』、ヘンデルの『エイシスとガラテア』、モーツァルトの『Das Serail』などを手掛けた。 | [
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] | ジェニー・エルペンベックは、ドイツの小説家、劇作家、オペラ演出家。 | [[File:Jenny_Erpenbeck_Frankfurter_Buchmesse_2018.jpg|thumb|ジェニー・エルペンベック]]
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{{ウィキポータルリンク|舞台芸術}}
'''ジェニー・エルペンベック'''(Jenny Erpenbeck、[[1967年]][[5月12日]] -)は、[[ドイツ]]の小説家、劇作家、オペラ演出家。
== 経歴 ==
[[ドイツ民主共和国]][[東ベルリン]]出身。高校卒業後、2年間製本職人の徒弟(Berufsausbildung)となる。1988年に[[フンボルト大学ベルリン]]に入学し、演劇研究を学び、1990年に[[ハンス・アイスラー音楽大学ベルリン]]に移り、音楽演劇の演出を学んだ。1993年には[[バイロイト音楽祭]]で上演されたオペラ『[[トリスタンとイゾルデ (楽劇)|トリスタンとイゾルデ]]』で、[[ハイナー・ミュラー]]の演出助手を務めた。1994年に大学を卒業し、[[グラーツ]]のオペラハウスで助監督を務め、1997年からはドイツと[[オーストリア]]でオペラ演出家の傍ら作家として活動を開始し、主に[[アルノルト・シェーンベルク]]の『[[期待 (オペラ)|期待]]』、[[クラウディオ・モンテヴェルディ]]の『[[オルフェオ (モンテヴェルディ)]]』、[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル|ヘンデル]]の『[[エイシスとガラテア]]』、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の『Das Serail』などを手掛けた。
== 日本語作品 ==
*『年老いた子どもの話』[[浅井晶子]]訳、[[白水社]] 2004
*『行く、行った、行ってしまった』[[松永美穂]]訳、[[河出書房新社]] 2021
== 参照 ==
* {{DNB-Portal|123291453}}
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[[Category:ドイツの女性小説家]]
[[Category:21世紀ドイツの小説家]]
[[Category:オペラ演出家]]
[[Category:ドイツの劇作家]]
[[Category:ドイツ連邦共和国功労勲章受章者]]
[[Category:1967年生]]
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4,840,645 | チャーリー・レコード | チャーリー・レコード(Charly Records)は、再発盤を専門とするイギリスのレコード・レーベル。
チャーリーがオリジナル・リリースを再発しているレーベルには、ヴィージェイ、サン、イミディエイト、BYG、トマト、ファニアなどがある。
チャーリー・レコードは、ジャン=リュック・ヤングによって1974年にフランスで設立された。彼はティーン向けコンサートのプロモーターだったが、1975年にイギリスに移住した。チャーリーはもともと主にアメリカ発祥のジャズや、ボロック・ブラザーズなどのモダンで風変わりな音楽によって知られていた。しかし現在はアルバム中心の「レトロ」レーベルとなっている。最も明らかなライバルは、ライノとシー・フォー・マイルズ(チャーリーが1980年代にディストリビュートしていたレーベル)である。
ヨーロッパにおいて、チャーリーは、スナッパー・レコードによって販売され、ライセンスは「LicenseMusic.com」を通じて提供されている。
このレーベルは、アメリカーナ、ブルース、ファンク、ゴスペル、ジャズ、ラテン、ポップス、ラップ、レゲエ、R&B、ロック、ロカビリー、ソウル、スカをプロデュースしている。 | [
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] | チャーリー・レコードは、再発盤を専門とするイギリスのレコード・レーベル。 チャーリーがオリジナル・リリースを再発しているレーベルには、ヴィージェイ、サン、イミディエイト、BYG、トマト、ファニアなどがある。 | {{Infobox record label
| name = チャーリー・レコード<br />Charly Records
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| genre = [[アメリカーナ (音楽)|アメリカーナ]]、[[ブルース]]、[[ファンク]]、[[ゴスペル (音楽)|ゴスペル]]、[[ジャズ]]、[[ラテン音楽|ラテン]]、[[ポップ・ミュージック|ポップス]]、[[ラップ]]、[[レゲエ]]、[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]、[[ロック (音楽)|ロック]]、[[ロカビリー]]、[[ソウルミュージック|ソウル]]、[[スカ]]
| country = {{FRA}}
| location = {{ENG}} [[ロンドン]]
| url = {{URL|www.charly.co.uk}}
}}
'''チャーリー・レコード'''(Charly Records)は、再発盤を専門とするイギリスのレコード・レーベル<ref name="Discogs">{{cite web|url=http://www.discogs.com/label/78710-Charly-Records |title=Charly Records - CDs and Vinyl at Discogs |website=Discogs.com |access-date=2014-07-03}}</ref>。
チャーリーがオリジナル・リリースを再発しているレーベルには、[[ヴィージェイ・レコード|ヴィージェイ]]、[[サン・レコード|サン]]、[[イミディエイト・レコード|イミディエイト]]、[[BYGレコード|BYG]]、[[トマト・レコード|トマト]]、[[ファニア・レコード|ファニア]]などがある。
== 略歴 ==
チャーリー・レコードは、ジャン=リュック・ヤングによって1974年に[[フランス]]で設立された<ref name="LarkinGE">{{cite book|title=[[:en:Encyclopedia of Popular Music|The Guinness Encyclopedia of Popular Music]]|editor=[[:en:Colin Larkin (writer)|Colin Larkin]]|publisher=[[:en:Guinness Publishing|Guinness Publishing]]|date=1992|edition=First|isbn=0-85112-939-0|page=458}}</ref>。彼はティーン向けコンサートのプロモーターだったが、1975年に[[イギリス]]に移住した<ref name="Discogs"/>。チャーリーはもともと主にアメリカ発祥の[[ジャズ]]や、ボロック・ブラザーズなどのモダンで風変わりな音楽によって知られていた。しかし現在はアルバム中心の「レトロ」レーベルとなっている。最も明らかなライバルは、[[ライノ・エンタテインメント|ライノ]]と[[シー・フォー・マイルズ・レコード|シー・フォー・マイルズ]](チャーリーが1980年代にディストリビュートしていたレーベル)である。
ヨーロッパにおいて、チャーリーは、[[スナッパー・ミュージック|スナッパー・レコード]]によって販売され、ライセンスは「LicenseMusic.com」を通じて提供されている。
このレーベルは、[[アメリカーナ (音楽)|アメリカーナ]]、[[ブルース]]、[[ファンク]]、[[ゴスペル (音楽)|ゴスペル]]、ジャズ、[[ラテン音楽|ラテン]]、[[ポップ・ミュージック|ポップス]]、[[ラップ]]、[[レゲエ]]、[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]、[[ロック (音楽)|ロック]]、[[ロカビリー]]、[[ソウルミュージック|ソウル]]、[[スカ]]をプロデュースしている<ref name="LarkinGE"/>。
== 所属アーティスト ==
{{div col}}
* [[ジョニー・キャッシュ]] (Johnny Cash)
* [[サミー・デイヴィス・ジュニア]] (Sammy Davis Jr.)
* [[ファンカデリック]] (Funkadelic)
* [[ミッキー・ギリー]] (Mickey Gilley)
* ロスコ・ゴードン (Rosco Gordon)
* チャーリー・グレイシー (Charlie Gracie)
* [[キャロル・グライムス]] (Carol Grimes)
* ハードロック・ギュンター (Hardrock Gunter)
* [[ゴング (バンド)|ゴング]] (Gong) & [[ニューヨーク・ゴング]] (New York Gong)
* [[ビル・ヘイリー]]・アンド・ヒズ・コメッツ (Bill Haley & His Comets)
* [[ロニー・ホーキンス]] (Ronnie Hawkins)
* [[ジョン・リー・フッカー]] (John Lee Hooker)
* [[アイス-T]] (Ice-T)
* [[エルモア・ジェームス]] (Elmore James)
* [[ジェリー・リー・ルイス]] (Jerry Lee Lewis)
* [[ビリー・ライリー]] (Billy Lee Riley)
* [[カーティス・メイフィールド]] (Curtis Mayfield)
* [[セロニアス・モンク]] (Thelonious Monk)
* ムーン・マリカン (Moon Mullican)
* ジョニー・パチェーコ (Johnny Pacheco)
* [[ソフト・ヒープ]] (Soft Heap)
* [[スモール・フェイセス]] (Small Faces)
* アルヴィン・ロビンソン (Alvin "Shine" Robinson)
* ウォーレン・スミス (Warren Smith)
* [[ザ・ステイプル・シンガーズ]] (The Staple Singers)
* ジーン・サマーズ (Gene Summers)
* シルヴィア・ストリプリン (Sylvia Striplin)
* [[ショワディワディ]] (Showaddywaddy)
* [[トゥーツ・アンド・ザ・メイタルズ]] (Toots & the Maytals)
* サニー・ボーイ・ウィリアムスン・アンド・ザ・ヤードバーズ (Sonny Boy Williamson and the Yardbirds)
* [[13thフロア・エレベーターズ]] (13th Floor Elevators)
* [[レッド・クレイオラ]] (The Red Crayola)
{{div col end}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
== 関連項目 ==
* [[レコード会社一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://www.charly.co.uk/ 公式ウェブサイト]
* [http://www.bsnpubs.com/charly/charly01-300000.html Charly discography]
* {{discogs label|label=78710-Charly-Records|name=Charly Records}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ちやありいれこおと}}
[[Category:イギリスのレコード・レーベル]]
[[Category:ブルース・レーベル]]
[[Category:ポップ・レコード・レーベル]]
[[Category:かつて存在したイギリスのレコード・レーベル]] | 2023-10-12T13:17:06Z | 2023-10-16T21:08:26Z | false | false | false | [
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"Template:Cite web"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89 |
4,840,647 | 今市村 (大分県) | 今市村(いまいちむら)は、大分県大分郡にあった村。現在の大分市の一部にあたる。
大分川支流七瀬川上流と同支流・芹川との間の台地に位置していた。 | [
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] | 今市村(いまいちむら)は、大分県大分郡にあった村。現在の大分市の一部にあたる。 | {{日本の町村 (廃止)
| 廃止日 = 1955年3月31日
| 廃止理由 = 新設合併
| 廃止詳細 = 野津原村、'''今市村''' → [[野津原町|野津原村]]
| 現在の自治体 = [[大分市]]
| よみがな = いまいちむら
| 自治体名 = 今市村
| 区分 = 村
| 都道府県 = 大分県
| 郡 = [[大分郡]]
| 面積 =
| 境界未定 =
| 人口 = 2228
| 人口の出典 = [[国勢調査 (日本)|国勢調査]]
| 人口の時点 = 1950年
| 隣接自治体 = [[庄内町 (大分県)|庄内村]]、野津原村、[[大野郡 (大分県)|大野郡]][[大野町 (大分県)|大野町]]・[[朝地町]]、[[直入郡]][[下竹田村 (大分県)|下竹田村]]
| 所在地 = 大分郡今市村大字今市
| 座標 =
| 位置画像 =
| 特記事項 =
}}
'''今市村'''(いまいちむら{{R|変遷}}{{R|角川}})は、[[大分県]][[大分郡]]にあった[[村]]。現在の[[大分市]]の一部にあたる。
== 地理 ==
[[大分川]]支流[[七瀬川 (大分県)|七瀬川]]上流と同支流・芹川との間の台地に位置していた{{R|角川}}。
== 歴史 ==
*[[1889年]](明治22年)4月1日、[[町村制]]の施行により、[[大野郡 (大分県)|大野郡]]今市村、荷尾杵村、高原村が合併して村制施行し、'''今市村'''が発足<ref name=変遷>『市町村名変遷辞典』74頁。</ref><ref name=角川>『角川日本地名大辞典 44 大分県』128-129頁。</ref>。旧村名を継承した今市、荷尾杵、高原の3大字を編成{{R|角川}}。
*[[1950年]](昭和25年)1月1日、所属郡が[[大分郡]]に変更{{R|変遷}}{{R|角川}}。
*[[1955年]](昭和30年)3月31日、大分郡野津原村と合併し'''[[野津原町|野津原村]]'''が存続して廃止された{{R|変遷}}{{R|角川}}。
== 産業 ==
*農業{{R|角川}}
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* [[角川日本地名大辞典]] 44 大分県
* 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。
== 関連項目 ==
* [[大分県の廃止市町村一覧]]
{{デフォルトソート:いまいちむら}}
[[Category:大野郡 (大分県)]]
[[Category:大分郡]]
[[Category:大分市域の廃止市町村]]
[[Category:1889年設置の日本の市町村]]
[[Category:1955年廃止の日本の市町村]] | 2023-10-12T13:19:10Z | 2023-10-12T13:20:08Z | false | false | false | [
"Template:日本の町村 (廃止)",
"Template:R",
"Template:Reflist"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B8%82%E6%9D%91_(%E5%A4%A7%E5%88%86%E7%9C%8C) |
4,840,648 | 札幌市立太平中学校 | 札幌市立太平中学校(さっぽろしりつ たいへいちゅうがっこう)は、北海道札幌市北区太平8条2丁目
にある公立中学校。
昭和 53 4. 1 仮称太平地区中学校開校事務取扱者発令
7.24 「札幌市立太平中学校」と校名決定
11. 1 学校設置条例により札幌市立太平中学校設置認可
校長 教頭発令 校章デザイン決まる
12. 1 校歌制定
54 3.26 開校式(篠路中より115名、栄中より304名移籍)
4. 1 教職員発令 30名
4. 7 第1回入学式(新入生268名)
5. 1 学校基本調査17学級編制認可
6.13 グラウンド開き グラウンド及び付帯工事完了
55 3.15 第1回卒業証書授与式(卒業生231名)
3.31 「研究集録」(第1集)完成 「豊かな晴操の育成をめざす授業の実践」
4. 8 第2回入学式(新入生263名)
5. 1 学校基本調査18学級編制認可
12. 8 体育館中仕切防球ネットエ事完了
12.10 校舎第2期工事完了
56 3.10 特別教室移室後復元工事完了(理科・音楽)
3.14 第2回卒業証書授与式(卒業生233名)
4. 1 人事発令
4. 7 第3回入学式(新入生268名)
5. 1 学校基本調査22学級編制認可
5.20 市教育委員会学校研究委託決定一「学習指導」
57 3.15 第3回卒業証書授与式(卒業生290名)
4. 7 第4回入学式(新入生365名)
5. 1 学校基本調査24学級編制認可
12.20 LL教室設傭工事完了
58 3.15 第4回卒業証書授与式(卒業生294名)
4. 7 第5回入学式(新入生394名)
5. 1 学校基本調査24学級編制認可
9.10 教育相談室設備工事完了
9.14 開校5周年記念研究会 研究紀要「自ら進んで学ぶ生徒の育成」発刊
9.16 人事発令
9.20 全国技術・家庭科研究会(機械領域会場)
10. 7- 9 開校5周年記念文化祭 生徒会誌臨時増刊号「太平5年のあゆみ」
59 3.15 第5回卒業証書授与式(卒業生365名)
4. 1 人事発令
4. 7 第6回入学式(新入生431名)
5. 1 学校基本調査28学級編制認可
11.27 第4期校舎増築工事完了
60 3.15 第6回卒業証書授与式(卒業生372名)
4. 8 第7回入学式(新入生446名)
8.19 テニスコート新設工事
61 3.15 第7回卒業証書授与式(卒業生414名)
4. 8 第8回入学式(新入生452名)
62 3.15 第8回卒業証書授与式(卒業生435名)
3.26 篠路西中学校新設による通学区変更に伴う移籍
生徒18名(1年生11名、2年生7名)
4. 1 人事発令
4. 9 第9回入学式(新入生458名)
5. 1 学校基本調査31学級編制認可
8. 1 屋外バレーコートの設置
63 3. 1 放送用スタジオカメラの取付
3.14 第9回卒業証書授与式(卒業生450名)
4. 1 人事発令
4. 7 第10回入学式(新入生398名)
5. 1 学校基本調査30学級編制認可
5. 6 開校10周年記念講演会
9. 6 スクールバンド楽器現物支給
学校教育目標の掲額(体育館)
東玄関廊下壁面に展示ケース新設
9.29-30 開校10周年記念文化祭
10 前庭及び花壇を中心に大型緑化工事記念誌「太平」発行
10. 8 開校10周年記念PTA行事「映画と音楽の集い」
10.12 開校10周年記念式典(全生徒・来賓父母313名) 記念祝賀会
11.17 開校10周年記念研究会30学級公開授業
平成 元 3.15 第10回卒業証書授与式(卒業生348名)
3.26 上篠路中学校新設による通学区変更に伴う移籍
生徒233名(1年生107名、2年生126名)
平成 元 4. 1 人事発令 23学級編制認可
4. 7 第11回入学式(新入生307名)
5. 1 学校基本調査23学級編制認可
8.31 普通教室、特別教室に新テレビ配置
12. 1 配膳室、ダムウエーターの新設
2 3.15 第11回卒業証書授与式(卒業生336名)
4. 2 人事発令 22学級編制認可
4. 7 第12回入学式(新入生281名)
9.18 全道家庭科教育研究大会
11.23 グラウンド校舎境界法面止(コンクリートによる整備)
3 3.15 第12回卒業証書授与式(卒業生302名)
4. 1 人事発令 23学級編制認可
4. 8 第13回入学式(新入生288名)
7.26 美術室改修工事着エ
12. 9 コンピューター室への改修工事終了
4 3.14 第13回卒業証書授与式(卒業生310名)
4. 1 人事発令 22学級編制認可
4. 7 第14回入学式(新入生260名)
5 3.15 第14回卒業証書授与式(卒業生286名)
4. 1 人事発令 22学級編制認可
4. 7 第15回入学式(新入生265名)
7 体育館壁面改修工事
11 校舎前道路拡幅工事
グラウンド拡張工事
6 3.15 第15回卒業証書授与式(卒業生286名)
4. 1 人事発令 20学級編制認可
4. 7 第16回入学式(新入生235名)
7 3.15 第16回卒業証書授与式(卒業生258名)
4. 1 人事発令 19学級編制認可
4. 7 第17回入学式(新入生227名)
8.10 体育館電機暖房設置完了
8 3.15 第17回卒業証書授与式(卒業生270名)
4. 8 第18回入学式(新入生219名)
9 3.15 第18回卒業証書授与式(卒業生232名)
4. 1 人事発令 18学級編制認可
4. 8 第19回入学式(新入生208名)
5. 1 教育用コンピュータ(42台)設置
10. 1 各階フロアー張り替え工事
10 3.13 第19回卒業証書授与式(卒業生227名)
4. 1 人事発令 17学級編制認可
4. 7 第20回入学式(新入生190名)
7. 6 前庭の整備
7.15 開校20周年記念事業(石狩街道沿い清掃)
10. 8 開校20周年記念式典
10.23 開校20周年公開授業・記念講演
10.31 開校20周年記念祝賀会
11.10 心の教室完成
11 3.15 第20回卒業証書授与式(卒業生222名)
平成 11 4. 1 石川 勝海 教頭 発令 16学級編制認可
4. 7 第21回入学式(新入生182名)
12 2.12 体育館バスケットボード電動化工事
3.15 第21回卒業証書授与式(卒業生208名)
4. 1 第9代校長 杉山 亨 校長 発令 15学級編制認可
4. 7 第22回入学式(新入生171名)
13 3.15 第22回卒業証書授与式(卒業生194名)
4. 1 伊澤 滋男 教頭 発令 14学級編制認可
4. 7 第23回入学式(新入生154名)
14 3.14 第23回卒業証書授与式(卒業生189名)
4. 1 13学級編制認可
4. 9 第24回入学式(新入生154名)
15 3.14 第24回卒業証書授与式(卒業生171名)
4. 1 第10代校長 山村 孝 校長 発令 11学級編制認可
4. 9 第25回入学式(新入生119名)
16 3.15 第25回卒業証書授与式(卒業生157名)
4. 1 北川 敏昭 教頭 発令 11学級編制認可
4. 7 第26回入学式(新入生145名)
17 3.15 第26回卒業証書授与式(卒業生158名)
4. 1 奥山 政雄 教頭 発令 10学級編制認可
4. 7 第27回入学式(新入生116名)
18 3.15 第27回卒業証書授与式(卒業生119名)
4. 1 平野 宏志 教頭 発令 11学級編制認可
4. 7 第28回入学式(新入生128名)
19 3.15 第28回卒業証書授与式(卒業生150名)
4. 1 第11代校長 坂田 恵三 校長 発令 11学級編制認可
4. 9 第29回入学式(新入生126名)
20 3.14 第29回卒業証書授与式(卒業生118名)
4. 1 岡澤 邦彦 教頭 発令 12学級編制認可
4. 8 第30回入学式(新入生108名)
10.30 開校30周年記念式典
21. 3.13 第30回卒業証書授与式(卒業生129名)
平成 21 4. 1 第12代校長 水野 敏夫 校長 発令 11学級編制認可
4. 7 第31回入学式(新入生125名)
22. 3.15 第31回卒業証書授与式(卒業生123名)
4. 1 富田 真由美 教頭 発令 11学級編制認可
4. 7 第32回入学式(新入生107名)
23. 3.15 第32回卒業証書授与式(卒業生108名)
4. 7 第33回入学式(新入生125名)
24. 3.15 第33回卒業証書授与式(卒業生127名)
4. 1 第13代校長 柳澤 伸寿 校長 発令
特別支援学級開級 通常学級11 特別支援学級1
4. 7 第34回入学式(新入生115名)
25. 3.15 第34回卒業証書授与式(卒業生110名)
4. 1 伊藤 直 教頭 発令 通常学級11 特別支援学級1
4. 9 第35回入学式(新入生125名)
26. 3.15 第35回卒業証書授与式(卒業生129名)
4. 1 第14代校長 大田 利幸 校長 発令 通常学級11 特別支援学級1
4. 8 第36回入学式(新入生115名)
27. 3.13 第36回卒業証書授与式(卒業生116名)
4. 1 工藤 昭彦 教頭 発令 通常学級11 特別支援学級1
4. 8 第37回入学式(新入生121名)
28. 3.15 第37回卒業証書授与式(卒業生126名)
4. 1 通常学級10 特別支援学級1
4. 7 第38回入学式(新入生129名)
29. 3.15 第38回卒業証書授与式(卒業生115名)
4. 1 第15代校長 吉井 惠洋 校長 発令 通常学級12 特別支援学級1
4. 7 第39回入学式(新入生112名)
30. 3.15 第39回卒業証書授与式(卒業生121名)
4. 1 大浦 司 教頭 発令 通常学級11 特別支援学級1
4. 9 第40回入学式(新入生131名)
10.31 開校40周年記念式典・合唱コンクール(教育文化会館)
31. 3.15 第40回卒業証書授与式(卒業生132名)
平成 31 4. 1 林 英昭 教頭 発令 通常学級10 特別支援学級2
4. 9 第41回入学式(新入生104名)
令和 2. 3.13 第41回卒業証書授与式(卒業生110名)
4. 1 通常学級12 特別支援学級2
4. 7 第42回入学式(新入生146名)
3. 3.15 第42回卒業証書授与式(卒業生129名)
4. 1 第16代校長 佐藤 克己 校長 発令 通常学級11 特別支援学級2
4. 7 第43回入学式(新入生131名)
4. 3.15 第43回卒業証書授与式(卒業生104名)
4. 1 窪田 進二 教頭 発令 通常学級13 特別支援学級2
4. 7 第44回入学式(新入生148名)
5. 3.15 第44回卒業証書授与式(卒業生148名)
4. 1 第17代校長 窪田 進二 校長 発令
村上 志行 教頭 発令 通常学級12 特別支援学級2
4. 7 第45回入学式(新入生127名) | [
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"text": "4. 1 窪田 進二 教頭 発令 通常学級13 特別支援学級2",
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"text": "5. 3.15 第44回卒業証書授与式(卒業生148名)",
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"text": "4. 1 第17代校長 窪田 進二 校長 発令",
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"text": "村上 志行 教頭 発令 通常学級12 特別支援学級2",
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"text": "4. 7 第45回入学式(新入生127名)",
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}
] | 札幌市立太平中学校(さっぽろしりつ たいへいちゅうがっこう)は、北海道札幌市北区太平8条2丁目 にある公立中学校。 | {{Infobox 日本の学校
|校名 = 札幌市立太平中学校
|画像 = [[File:Sapporo City Taihei Junior High School.JPG|札幌市立大平中学校|280px]]
|過去校名 =
|国公私立 = [[公立学校]]
|設置者 = [[札幌市]]
|設立年月日 =
|創立記念日 =
|共学・別学 = [[男女共学]]
|学期 = [[3学期制]]
|学校コード = C101210220083
|郵便番号 = 002-8008
|所在地 = 北海道札幌市北区太平8条2丁目1
|緯度度 = 43|緯度分 = 8|緯度秒 = 3
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|座標右上表示 = No
|外部リンク = [https://www.taihei-j.sapporo-c.ed.jp/ 公式サイト]
}}
'''札幌市立太平中学校'''(さっぽろしりつ たいへいちゅうがっこう)は、[[札幌市]][[北区 (札幌市)|北区]]にある公立中学校<ref>[https://www.taihei-j.sapporo-c.ed.jp/ 公式サイト]</ref>。
== 教育目標 ==
* 豊かな心を持ち、たくましく生きる生徒の育成
== 関連項目 ==
* [[北海道中学校一覧]]
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{DEFAULTSORT:さつほろしりつたいへいちゆうかつこう}}
[[Category:札幌市の公立中学校|たいへい]]
[[Category:札幌市北区の中学校|たいへい]] | 2023-10-12T13:22:10Z | 2023-10-13T01:45:43Z | false | false | false | [] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AD%E5%B9%8C%E5%B8%82%E7%AB%8B%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1 |
4,840,649 | 乾雅人 (医師) | 乾 雅人(いぬい まさと)は、日本の医師、作家、事業家。東京大学医学部卒業。同大学附属病院で初期臨床研修、外科専門研修を修了。同大学大学院では外科学(呼吸器外科)を専攻し、肺移植領域の研究に従事。2020年、銀座アイグラッドクリニックを開業。臨床行為に従事する傍ら、医療コンサルティング会社も経営。
医療法人創雅会 銀座アイグラッドクリニック 理事長 院長、株式会社クリオ・メディシス専務取締役、株式会社サンユーメディカル顧問、株式会社データック顧問、株式会社ライフサイエンスラボ顧問、白鳥製薬株式会社顧問。
NMNの上位互換である5デアザフラビン(TND1128)臨床研究の第一人者でもあり、眠れる知財の普及に尽力している。幹細胞ソムリエの商標も所有。
父親が肺移植研究目的にドイツに留学し、母、兄、私含め四人家族で滞在。兄弟揃って漠然と医師になる憧れを抱き、最も身近な存在であった2歳年上の兄の後を追いかけ、幼稚園、小中高、大学、部活、職場、全て同じ。胸部外科の中での専攻は、兄が心臓外科、乾が呼吸器外科。
大学院生時代に肺移植領域の研究に従事するも、外部環境による制約で研究を中断。研究の財源を自前で確保する必要を痛感し、薬液の研究開発機関を伴う美容皮膚科クリニックを開業。現在、5デアザフラビン(TND1128)の臨床研究を主導し、基礎研究者と提携して知財の社会実装に邁進している。
2020年、医療業界にこそプロ経営者が必要と痛感し、独立開業。経営者として武者修行をするとともに、「美養と老化を科学する。」医者として、世界中の薬液を検証している。『医療・医学・医者の常識を揺さぶる』をコンセプトに、YoutubeでもDr.Inuiとして情報発信をしている。
5デアザフラビン(TND1128)の臨床研究を世界で初めて実施。
一般社団法人日本臨床研究安全評価機構(厚生労働省登録IRB:18000005)の倫理審査委員会で承認を取得。
観察研究(記述的研究)に注力し、同物質による臨床効果の仮説を立てている。 | [
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"text": "乾 雅人(いぬい まさと)は、日本の医師、作家、事業家。東京大学医学部卒業。同大学附属病院で初期臨床研修、外科専門研修を修了。同大学大学院では外科学(呼吸器外科)を専攻し、肺移植領域の研究に従事。2020年、銀座アイグラッドクリニックを開業。臨床行為に従事する傍ら、医療コンサルティング会社も経営。",
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"text": "父親が肺移植研究目的にドイツに留学し、母、兄、私含め四人家族で滞在。兄弟揃って漠然と医師になる憧れを抱き、最も身近な存在であった2歳年上の兄の後を追いかけ、幼稚園、小中高、大学、部活、職場、全て同じ。胸部外科の中での専攻は、兄が心臓外科、乾が呼吸器外科。",
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"title": "研究"
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] | 乾 雅人は、日本の医師、作家、事業家。東京大学医学部卒業。同大学附属病院で初期臨床研修、外科専門研修を修了。同大学大学院では外科学(呼吸器外科)を専攻し、肺移植領域の研究に従事。2020年、銀座アイグラッドクリニックを開業。臨床行為に従事する傍ら、医療コンサルティング会社も経営。 医療法人創雅会 銀座アイグラッドクリニック 理事長 院長、株式会社クリオ・メディシス専務取締役、株式会社サンユーメディカル顧問、株式会社データック顧問、株式会社ライフサイエンスラボ顧問、白鳥製薬株式会社顧問。 NMNの上位互換である5デアザフラビン(TND1128)臨床研究の第一人者でもあり、眠れる知財の普及に尽力している。幹細胞ソムリエの商標も所有。 | '''乾 雅人'''(いぬい まさと)は、日本の医師、作家、事業家。[[東京大学大学院医学系研究科・医学部|東京大学医学部]]卒業。同大学附属病院で初期臨床研修、外科専門研修を修了。同大学大学院では外科学(呼吸器外科)を専攻し、肺移植領域の研究に従事。2020年、銀座アイグラッドクリニックを開業。臨床行為に従事する傍ら、医療コンサルティング会社も経営。<ref>{{Cite web |title=【監修】乾 雅人 銀座アイグラッドクリニック 院長 |url=https://www.gaora.co.jp/life/masato-inui/ |website=ライフ アイディア |access-date=2023-07-13 |language=ja}}</ref>
医療法人創雅会 銀座アイグラッドクリニック 理事長 院長<ref>{{Cite web |title=乾 雅人 |url=https://newspicks.com/user/7258422/ |website=NewsPicks |access-date=2023-07-13}}</ref>、株式会社クリオ・メディシス専務取締役、株式会社サンユーメディカル顧問、株式会社データック顧問、株式会社ライフサイエンスラボ顧問、白鳥製薬株式会社顧問。<ref>{{Cite web |title=乾 雅人 |url=https://gentosha-go.com/ud/authors/630f2632905bd43301000000 |website=幻冬舎ゴールドオンライン |access-date=2023-07-13 |language=ja}}</ref>
[[ニコチンアミドモノヌクレオチド|NMN]]の上位互換である5デアザフラビン(TND1128)臨床研究の第一人者でもあり、眠れる知財の普及に尽力している。<ref>{{Cite web |title=【監修】乾 雅人 銀座アイグラッドクリニック 院長 |url=https://www.gaora.co.jp/life/masato-inui/ |website=ライフ アイディア |access-date=2023-07-13 |language=ja}}</ref>幹細胞ソムリエの商標も所有<ref>{{Cite web |title=【Dr.乾の「人類は老化という病を克服する!?」#2】『老化の本質は何?~木を見て森を見ずにならない為に~』 |url=https://jihiken.jp/video/video-60270/ |website=医院の経営・開業支援サイト【自費研online】 |date=2023-03-10 |access-date=2023-07-13 |language=ja}}</ref>。
== 来歴 ==
父親が肺移植研究目的にドイツに留学し、母、兄、私含め四人家族で滞在。兄弟揃って漠然と医師になる憧れを抱き、最も身近な存在であった2歳年上の兄の後を追いかけ、幼稚園、小中高、大学、部活、職場、全て同じ。[[胸部外科]]の中での専攻は、兄が[[心臓外科]]、乾が[[呼吸器外科]]。<ref>{{Cite web |title=乾 雅人 院長|銀座アイグラッドクリニック(東銀座駅・美容皮膚科)|東京ドクターズ |url=https://tokyo-doctors.com/clinicList/66018/interview/ |website=tokyo-doctors.com |access-date=2023-07-13}}</ref>
大学院生時代に肺移植領域の研究に従事するも、外部環境による制約で研究を中断。研究の財源を自前で確保する必要を痛感し、薬液の研究開発機関を伴う美容皮膚科クリニックを開業。現在、5デアザフラビン(TND1128)の臨床研究を主導し、基礎研究者と提携して知財の社会実装に邁進している。<ref>{{Cite web |title=ビジネス・クロニクル |url=https://chronicle.weekly-economist.com/ |website=ビジネス・クロニクル |access-date=2023-07-13 |language=ja}}</ref>
2020年、医療業界にこそプロ経営者が必要と痛感し、独立開業。経営者として武者修行をするとともに、「美養と老化を科学する。」医者として、世界中の薬液を検証している。『医療・医学・医者の常識を揺さぶる』をコンセプトに、Youtubeでも「'''Dr.Inui'''」として情報発信をしている。<ref>{{Cite web |title=子どもにおすすめな習い事はある?東大医学部出身、銀座アイグラッドクリニック院長乾先生に伺いました! |url=https://mamahiroba.com/entry/m-dr-inui-2/ |website=ママ広場(ままひろば)|子育てブログ|子育ての悩みを解決しよう |date=2023-05-17 |access-date=2023-07-13 |language=ja |last=ママ広場編集部}}</ref>
== 研究 ==
5デアザフラビン(TND1128)の臨床研究を世界で初めて実施。
[http://sacrj.umin.ne.jp/ 一般社団法人日本臨床研究安全評価機構](厚生労働省登録IRB:18000005)の倫理審査委員会で承認を取得。
観察研究(記述的研究)に注力し、同物質による臨床効果の仮説を立てている。<ref>{{Cite web |title=5デアザフラビン(TND1128)とは何か~NMNの上位互換~ {{!}} 銀座アイグラッドクリニック |url=https://ginza-iglad.com/5%E3%83%87%E3%82%A2%E3%82%B6%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%93%E3%83%B3%EF%BC%88tnd1128%EF%BC%89%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B%EF%BD%9Enmn%E3%81%AE%E4%B8%8A%E4%BD%8D%E4%BA%92%E6%8F%9B%EF%BD%9E/ |website=ginza-iglad.com |access-date=2023-10-12}}</ref>
== 所属学会・団体 ==
* [[日本外科学会]]
* [[日本再生医療学会]]
* [https://www.anti-aging.gr.jp/ 日本抗加齢医学会]
* [[日本美容皮膚科学会]]<ref>{{Cite web |title=【銀座アイグラッドクリニック】顧客中心主義を貫き、美容難民を救う {{!}} 美容医療のかかりつけ医 わたしの名医 |url=https://mymeii.jp/introduce/ijin-igladc/ |website=mymeii.jp |date=2021-09-10 |access-date=2023-07-13 |language=ja}}</ref>
== 著書 ==
* 21世紀の新常識「老化は治る。」新型ビタミンが世界を救う!! [https://kenryo.base.ec/ 健療出版](2023年)
== 出演 ==
* 『建築家のアスリートたち』( [[エフエム東京|FM TOKYO]]、2022年6月20日)<ref>{{Cite web |title=ゲスト : 乾 雅人【建築家のアスリートたち #142】 |url=https://culture.asj-net.com/media/radio-athlete-142/ |website=ASJ Culture |date=2022-06-20 |access-date=2023-10-12 |language=ja |last=ashi}}</ref>
* 『セケンテー/ぼくらは囚われない』([[ラジオ関西]]、2022年11月17日)<ref>{{Cite web |title=『幹細胞ソムリエ』銀座アイグラッドクリニック院長・乾雅人 「日本は医者という社会資源を有効活用できていない」 {{!}} ラジトピ ラジオ関西トピックス |url=https://jocr.jp/raditopi/2022/12/12/471799/ |website=jocr.jp |access-date=2023-07-13}}</ref>
* 「Emily Channel」([[渋谷クロスFM]]、2023年8月29日出演)<ref>{{Citation|title=渋谷クロスFM Emily Channel2023年8月29日火曜日20時放送分🔥🔥🔥老化は治る東大エリート医師が語る医者から見た見解社会に物申す|url=https://www.youtube.com/watch?v=6eQcFUEwn_s|language=ja-JP|access-date=2023-10-12}}</ref>
* 「Emily Channel」([[渋谷クロスFM]]、2023年9月19日出演)<ref>{{Citation|title=Emily Channel2023年9月19日20時火曜日放送分①老化は治る良い医者ほど貧乏おかしい、この日本🇯🇵|url=https://www.youtube.com/watch?v=cu8ULma_C9o|language=ja-JP|access-date=2023-10-12}}</ref>
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
== 外部リンク ==
* [https://ginza-iglad.com/ 銀座アイグラッドクリニック]
* [https://www.instagram.com/iglad_clinic/?hl=ja 銀座アイグラッドクリニック - Instagram]
* [https://twitter.com/igladclinic 乾雅人@東大卒アンチエイジングDr.~美養と老化を科学する。]-[[Twitter]]
* [https://www.youtube.com/@inuimasato Dr.乾 / 〜医の常識を揺さぶる人〜] - YouTube
{{DEFAULTSORT:いぬい まさと}}
[[Category:21世紀日本の医師]]
[[Category:東京大学出身の人物]]
[[Category:存命人物]] | 2023-10-12T13:27:00Z | 2023-12-29T23:25:53Z | false | false | false | [
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"Template:Citation"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%BE%E9%9B%85%E4%BA%BA_(%E5%8C%BB%E5%B8%AB) |
4,840,655 | パラモスCF | パラモスCF(Palamós CF)は、スペイン・カタルーニャ州パラモス(英語版)を本拠地とするサッカークラブ。
1898年にパラモスFC (Palamós FC)というクラブ名で設立された。長らくアマチュアリーグに在籍していたが、1988-89シーズンにセグンダ・ディビシオンBで優勝を果たし、クラブ史上初めて2部に相当するセグンダ・ディビシオンへと昇格した。昇格後6シーズン目に財政状態の悪化から選手への給与未払いが発生したため、4部降格を言い渡された。以降は4部以下のリーグでシーズンを送っている。 | [
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] | パラモスCFは、スペイン・カタルーニャ州パラモスを本拠地とするサッカークラブ。 | {{サッカークラブ
|background-color=#0000FF
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|font-color=white
|原語表記=Palamós Club de Futbol, S.A.D.
|愛称=
|カラー=
|創設=1898
|リーグ=カタルーニャ州2部リーグ
|ディビジョン=7部
|ホームタウン={{仮リンク|パラモス|en|Palamós}}
|スタジアム=[[ファイル:Palamós C.F. 2008.jpg|200px]]<br />[[エスタディ・パラモス・コスタ・ブラバ|コスタ・ブラバ]]
|キャパ=5,824人
|代表={{flagicon|ESP}} トニ・エラス
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|}}
'''パラモスCF'''(Palamós CF)は、[[スペイン]]・[[カタルーニャ州]]{{仮リンク|パラモス|en|Palamós}}を本拠地とする[[サッカー]]クラブ。
== 概要 ==
1898年にパラモスFC (Palamós FC)というクラブ名で設立された。長らくアマチュアリーグに在籍していたが、1988-89シーズンに[[セグンダ・ディビシオンB]]で優勝を果たし、クラブ史上初めて2部に相当する[[セグンダ・ディビシオン]]へと昇格した。昇格後6シーズン目に財政状態の悪化から選手への給与未払いが発生したため、4部降格を言い渡された。以降は4部以下のリーグでシーズンを送っている。
== タイトル ==
=== 国内タイトル ===
*'''[[セグンダ・ディビシオンB]] : 1回'''
**1988-89
*'''[[テルセーラ・ディビシオン]] : 3回'''
**1987-88, 1996-97, 2001-02
*'''[[コパ・カタルーニャ]] : 1回'''
**1991-92
=== 国際タイトル ===
*なし
== 歴代監督 ==
*{{flagicon|RUS}} [[ドミトリー・ガリャーミン]] 1999-2000
*{{flagicon|ESP}} [[ドメネク・トレント]] 2003-2004
== 歴代所属選手 ==
{{main|Category:パラモスCFの選手}}
*{{flagicon|ESP}} [[フアン・カルロス・ロホ]] 1989-1990
*{{flagicon|AND}} [[アントニ・リマ]] 1992-1995
== 外部リンク ==
*[http://palamoscf.cat// 公式ウェブサイト] {{ca icon}}
*[https://www.bdfutbol.com/en/e/e74.html BDFutbol]
{{Footy-stub}}
{{デフォルトソート:はらもす}}
[[Category:ジローナ県のサッカークラブ]]
[[Category:1898年設立のスポーツチーム]] | 2023-10-12T13:40:10Z | 2023-10-12T13:40:10Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%82%B9CF |
4,840,656 | トマト・レコード | トマト・レコード(Tomato Records)としても知られるザ・トマト・ミュージック(The Tomato Music Co. Ltd.)は、1977年に音楽マネージャーの ケヴィン・エガーズ(Kevin Eggers)によってニューヨークに設立されたアメリカの独立系レコード・レーベル。
これは彼の以前のレコード・レーベルであるユートピアとポピーの後継であり、レーベルは自主配給となっており、タウンズ・ヴァン・ザント、ライトニン・ホプキンス、レッドベリー、クリス・スミザー、デイヴ・ブルーベック、ニーナ・シモン、アネット・ピーコック、ハリー・パーチ、ジョン・ケージ、フィリップ・グラス、マール・ハガード、アルバート・キングなど、影響力のあるアーティストたちのアルバムをリリースしてきた。ライノ・レコードは、レーベルが閉鎖される前の1990年代にトマト・レコードのカタログの配給を担当していた。2002年に復活を果たした。 | [
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] | トマト・レコードとしても知られるザ・トマト・ミュージックは、1977年に音楽マネージャーの ケヴィン・エガーズによってニューヨークに設立されたアメリカの独立系レコード・レーベル。 これは彼の以前のレコード・レーベルであるユートピアとポピーの後継であり、レーベルは自主配給となっており、タウンズ・ヴァン・ザント、ライトニン・ホプキンス、レッドベリー、クリス・スミザー、デイヴ・ブルーベック、ニーナ・シモン、アネット・ピーコック、ハリー・パーチ、ジョン・ケージ、フィリップ・グラス、マール・ハガード、アルバート・キングなど、影響力のあるアーティストたちのアルバムをリリースしてきた。ライノ・レコードは、レーベルが閉鎖される前の1990年代にトマト・レコードのカタログの配給を担当していた。2002年に復活を果たした。 | {{Infobox record label
| name = トマト・レコード<br />Tomato Records
| image =
| image_name =
| parent =
| founded = [[1977年]]5月
| founder = ケヴィン・エガーズ
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| distributor = 自社配給
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| location =
| url =
}}
'''トマト・レコード'''(Tomato Records)としても知られる'''ザ・トマト・ミュージック'''(The Tomato Music Co. Ltd.)は、1977年に音楽マネージャーのケヴィン・エガーズ(Kevin Eggers)によって[[ニューヨーク]]に設立された[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[インディーズ]]・[[レコード・レーベル]]{{sfnp |Billboard Magazine|1977}}。
これは彼の以前のレコード・レーベルであるユートピアとポピーの後継であり{{sfnp |Billboard Magazine|1977}}{{sfnp |Newton|2001}}、レーベルは自主配給となっており、[[タウンズ・ヴァン・ザント]]、[[ライトニン・ホプキンス]]、[[レッドベリー]]、クリス・スミザー、[[デイヴ・ブルーベック]]、[[ニーナ・シモン]]、[[アネット・ピーコック]]、[[ハリー・パーチ]]、[[ジョン・ケージ]]、[[フィリップ・グラス]]、[[マール・ハガード]]、[[アルバート・キング]]など、影響力のあるアーティストたちのアルバムをリリースしてきた。[[ライノ・エンタテインメント|ライノ・レコード]]は、レーベルが閉鎖される前の1990年代にトマト・レコードのカタログの配給を担当していた{{sfnp|Komara|2006}}。2002年に復活を果たした{{sfnp |Newton|2001}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
== 出典 ==
*{{cite news
|title=Indie Switch for Tomato
|work=Billboard Magazine
|location=New York
|date=21 May 1977
|accessdate=23 February 2019
|url=https://books.google.com/books?id=XCMEAAAAMBAJ&q=Giorgio+Gomelsky+Utopia+Records&pg=PT162
|ref={{sfnref|Billboard Magazine|1977}}
}}
*{{cite book
|last=Komara
|first=Edward M.
|date= 2006
|title= Encyclopedia of the Blues: K-Z, Index
|url= https://books.google.com/books?id=TURWt5WuQfEC&q=tomato+records+rhino+records+kevin+eggers&pg=PA994
|location=New York
|publisher=Routledge
|page= 994
|isbn=9780415927017
}}
*{{cite web
|url=http://musicdish.com/mag/index.php3?id=5187
|title=Tomato Records, back again
|last=Newton
|first=Jon
|date=29 January 2001
|website=MusicDish
|publisher=MusicDish LLC
|access-date=23 February 2019
}}
== 関連項目 ==
* [[レコード会社一覧]]
== 外部リンク ==
* [http://www.myspace.com/tomatorecordsmusic 公式MySpace]
* {{discogs label|label=44035-Tomato|name=Tomato}}
{{Normdaten}}
{{Music-stub}}
{{DEFAULTSORT:とまとれこおと}}
[[Category:アメリカ合衆国のレコード・レーベル]]
[[Category:ジャズ・レーベル]] | 2023-10-12T13:47:06Z | 2023-10-12T13:53:51Z | false | false | false | [
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"Template:Cite web",
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"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:Cite news",
"Template:Sfnp",
"Template:Discogs label",
"Template:Normdaten"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89 |
4,840,658 | 野狐囲碁 | 野狐囲碁(やこいご)は、インターネット上の囲碁サイト。
囲碁棋士である古力と孔令文が顧問を務める。世界戦(夢百合杯)初のインターネット対局も野狐囲碁で行われた。プロ同士の対局をリアルタイムで観戦可能、高段になると囲碁AIと置き石で対局できる。 | [
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] | 野狐囲碁(やこいご)は、インターネット上の囲碁サイト。 | '''野狐囲碁'''(やこいご)は、インターネット上の[[囲碁]]サイト<ref>{{Cite web|title=人類最強 対 AI最強―アルファ碁と柯潔氏がついに対局へ |url=https://internetcom.jp/202499/alpha-go-vs-ke-jie |date=2018-12-07|accessdate=2023-10-12}}</ref>。
== 概要 ==
[[囲碁棋士]]である[[古力]]と[[孔令文]]<ref>{{Cite web|title=孔 令文 | 棋士|url=https://www.nihonkiin.or.jp/player/htm/ki000360.html |accessdate=2023-10-12}}</ref>が顧問を務める。世界戦(夢百合杯)初のインターネット対局も野狐囲碁で行われた<ref>{{Cite tweet ja|user=webigojp|number=1254402120234618881|title=世界戦初のインターネット対局! |date=2020-04-26|access-date=2023-10-12}}</ref>。プロ同士の対局をリアルタイムで観戦可能、高段になると[[囲碁AI]]と置き石で対局できる(公式サイトも参照)。
== 関連項目 ==
* [[野狐]]
* [[幽玄の間]]
* [[KGS Go Server]]
* [[東洋囲碁]]
* [[囲碁クエスト]]
== 脚注 ==
<references />
== 外部リンク ==
* [https://webigojp.com 公式サイト]
{{デフォルトソート:やこいこ}}
[[Category:ネット碁]]
[[Category:オンラインゲーム]] | 2023-10-12T13:49:37Z | 2023-10-13T01:36:02Z | false | false | false | [
"Template:Cite web",
"Template:Cite tweet ja"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%8B%90%E5%9B%B2%E7%A2%81 |
4,840,662 | 対馬海上保安部 | 対馬近海の警備を担当する。対馬水道は、朝鮮半島と日本、東シナ海と日本海を結ぶ交通の要衝であり、外国籍の漁船による、密漁も横行していることから、警備を強化している。また、国境の島といわれる、対馬本島には、海上自衛隊は、佐世保地方隊隷下の対馬防備隊を配置、陸上自衛隊は、第4師団 隷下の対馬警備隊を配置しており、主に朝鮮半島の警戒に従事している。
1948年(昭和23年) 5月 :厳原海上保安部として発足し、比田勝、佐須奈、鹿見、竹敷(鶏知)に基地を設置。
1955年(昭和30年)10月:比田勝、竹敷分室を開設し、佐須奈、鹿見のそれぞれの基地を廃止。
1965年(昭和40年) 3月:比田勝分室が比田勝海上保安署に昇格。
1969年(昭和44年) 3月:竹敷分室を廃止。
2004年(平成16年) 4月:上対馬航路標識事務所を廃止し、同業務を引き継ぎ。同年の4月、対馬海上保安部と改称。
巡視船
巡視艇 | [
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] | 対馬海上保安部は、長崎県対馬市にある海上保安庁第七管区海上保安本部管轄下に位置する海上保安部である | '''対馬海上保安部'''(つしまかいじょうほあんぶ、[[英語]]:Tsushima Coast Guard Office)は、[[対馬市|長崎県対馬市]]にある[[海上保安庁]][[第七管区海上保安本部]]管轄下に位置する海上保安部である
== 概要 ==
対馬近海の警備を担当する。対馬水道は、朝鮮半島と日本、東シナ海と日本海を結ぶ交通の要衝であり、外国籍の漁船による、[[密漁]]も横行していることから、警備を強化している。また、国境の島といわれる、対馬本島には、[[海上自衛隊]]は、[[佐世保地方隊]]隷下の[[対馬防備隊]]を配置、[[陸上自衛隊]]は、[[第4師団 (陸上自衛隊)|第4師団]] 隷下の[[対馬警備隊 (陸上自衛隊)|対馬警備隊]]を配置しており、主に朝鮮半島の警戒に従事している。
== 沿革 ==
[[1948年]](昭和23年) [[5月]] :'''厳原海上保安部'''として発足し、比田勝、佐須奈、鹿見、竹敷(鶏知)に基地を設置。
[[1955年]](昭和30年)[[10月1日|10月]]:比田勝、竹敷分室を開設し、佐須奈、鹿見のそれぞれの基地を廃止。
[[1965年]](昭和40年) [[3月]]:比田勝分室が比田勝海上保安署に昇格。
[[1969年]](昭和44年) [[3月]]:竹敷分室を廃止。
[[2004年]](平成16年) [[4月]]:上対馬航路標識事務所を廃止し、同業務を引き継ぎ。同年の4月、'''対馬海上保安部'''と改称。
== 所属する巡視船艇 ==
'''巡視船'''
* [[びざん型巡視船 (2代)|らいざん]] PS 06([[厳原港|対馬海上保安部]])
* [[びざん型巡視船 (2代)|あさじ]] PS 19([[厳原港|対馬海上保安部]])
'''巡視艇'''
* [[かがゆき型巡視艇|はやぐも]] PC 105([[比田勝港|比田勝海上保安署]])
* [[かがゆき型巡視艇|むらくも]] PC 106([[厳原港|対馬海上保安部]])
* [[かがゆき型巡視艇|あきぐも]] PC 110([[比田勝港|比田勝海上保安署]])
== 外部リンク ==
* [https://www.kaiho.mlit.go.jp/07kanku/tsushima/index.htm 対馬海上保安部]
{{デフォルトソート:つしまかいしようほあんふ:}}
[[Category:海上保安部]]
[[Category:長崎県の行政機関]] | 2023-10-12T14:09:37Z | 2023-10-13T02:44:05Z | false | false | false | [] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E9%A6%AC%E6%B5%B7%E4%B8%8A%E4%BF%9D%E5%AE%89%E9%83%A8 |
4,840,669 | 青年の樹 (谷村新司の曲) | 「青年の樹」(せいねんのき)は谷村新司の楽曲で、5枚目のシングル。1981年8月5日にポリスター / Casablancaから発売された。
前作「群青」から1か月後に発表されたシングル。表題曲「青年の樹」は、同年5月から11までTBS系列で放送されたドラマ『野々村病院物語』の主題歌として書き下ろされた。また、同ドラマの続編である『野々村病院物語II』(1982年11月~1983年5月)が放送された際にも同様に主題歌として使用され、この時ジャケットを変更してシングルが再発売された。
B面曲「冬の雁」は7枚目のアルバム『海を渡る蝶』からのシングル・カット。
全作詞・作曲:谷村新司 / 編曲:青木望 | [
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] | 「青年の樹」(せいねんのき)は谷村新司の楽曲で、5枚目のシングル。1981年8月5日にポリスター / Casablancaから発売された。 | {{Infobox Single
| Name = 青年の樹
| Artist = [[谷村新司]]
| Album = [[父と子 (谷村新司のアルバム)|父と子]]
| B-side = 冬の雁
| Released = [[1981年]][[8月5日]]
| Format = [[シングル|EP盤]]
| Genre = [[ポピュラー音楽|ポップス]]<br/>[[歌謡曲]]
| Length =
| Label = [[ポリスター]]/Casablanca
| Writer = 谷村新司
| Chart position = *45位([[オリコンチャート|オリコン]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/prof/234039/products/28178/1/|title=青年の樹|谷村新司 |website=ORICON NEWS |publisher=oricon ME |accessdate=2023-10-11}}</ref>
| Last single = [[群青 (谷村新司の曲)|群青]]<br/>(1981年)
| This single = '''青年の樹'''<br/>(1981年)
| Next single = [[風は激しく]]<br/>(1981年)
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「'''青年の樹'''」(せいねんのき)は[[谷村新司]]の楽曲で、5枚目の[[シングル]]。[[1981年]][[8月5日]]に[[ポリスター]] / Casablancaから発売された。
==概要==
前作「[[群青 (谷村新司の曲)|群青]]」から1か月後に発表されたシングル。表題曲「青年の樹」は、同年5月から11まで[[TBS系列]]で放送されたドラマ『[[野々村病院物語]]』の主題歌として書き下ろされた<ref>{{Cite web |url=https://musicstore.auone.jp/s/song/S20091205/ |title=谷村新司「青年の樹」|website=Music Store |accessdate=2023-10-11}}</ref>。また、同ドラマの続編である『[[野々村病院物語#野々村病院物語II|野々村病院物語II]]』(1982年11月~1983年5月)が放送された際にも同様に主題歌として使用され、この時ジャケットを変更してシングルが再発売された。
B面曲「冬の雁」は7枚目のアルバム『[[海を渡る蝶]]』からのシングル・カット。
== 収録曲 ==
全作詞・作曲:谷村新司 / 編曲:[[青木望]]
#'''青年の樹'''(4:05)
#'''冬の雁'''(4:06)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
*{{歌ネット|6615}}
* [http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-18678 野々村病院物語(1) - ドラマ詳細データ]{{Ndash}}[[テレビドラマデータベース]]
* [https://www.tanimura.com/discography/article-423 青年の樹|ディスコグラフィー]{{Ndash}}谷村新司 オフィシャルサイト
==関連項目==
*[[1981年の音楽]]
*[[野々村病院物語]]
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[[Category:谷村新司の楽曲]]
[[Category:谷村新司が制作した楽曲]]
[[Category:日本のポピュラーソング]]
[[Category:1981年のシングル]]
[[Category:ポリスターのシングル]]
[[Category:楽曲 せ|いねんのき]]
[[Category:TBS火曜9時枠の連続ドラマ主題歌]] | 2023-10-12T14:25:27Z | 2023-10-12T14:25:27Z | false | false | false | [
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4,840,670 | ズニ族 | ズニ族は(ズニぞく、Zuñi)は、アメリカ合衆国のニューメキシコ州に住むインディアン(ネイティブ・アメリカン)の部族である。ツニ、ズーニーとも表記される。
「ズニ」は近くのケレスの部族による呼称だが、意味は不明である。
部族の起源や歴史については詳しいことはわかっていない。生業はトウモロコシやカボチャ、豆の農耕である。母系制社会で、カチナという神々(精霊)を信仰している。カチナは村を訪れ、雨の恵みをもたらすとされており、カチナの訪問を祝う儀式が守られている。
1877年にズニ族の保留地が設けられた。
人類学者のフランク・ハミルトン・クッシングは1879年から1884年まで部族と一緒に暮らし、神話や習俗について報告を残している。
ルース・ベネディクトは著書『文化の型』の中で、穏やかなズニ族の文化を「アポロ型」、競争心が旺盛なクワキウトゥル族の文化を「ディオニソス型」と定義した(「アポロ型」「ディオニソス型」はニーチェ『悲劇の誕生』の所論を援用したもの)。
20世紀には保留地の範囲が削減されており、現在割り当てられている土地は本来の3%であるという。1630年の人口は1万だったが、1937年には2000人、1980年代には約2500人。
ズニ族の銀細工の工芸品(インディアンジュエリー)が知られている。元は19世紀にナバホ族が作り始め、ズニ族やホピ族も作るようになった。
N・Y・デイビス、吉田禎吾、白川琢磨『ズニ族の謎』(ちくま学芸文庫、2004年) - 日本文化とズニ族の文化の類似点を論じ、13世紀に日本人が太平洋を渡ったという仮説を提示している。 | [
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] | ズニ族は(ズニぞく、Zuñi)は、アメリカ合衆国のニューメキシコ州に住むインディアン(ネイティブ・アメリカン)の部族である。ツニ、ズーニーとも表記される。 「ズニ」は近くのケレスの部族による呼称だが、意味は不明である。 | [[File:We-Wa, a Zuni berdache, full length portrait - NARA -523798 contrast clean.jpg|thumb|ズニ族のトゥー・スピリットである{{仮リンク|ウェーワ|en|We'wha}}。]]
[[File:Zuni-girl-with-jar2.png|thumb|ズニ族の少女、1903年撮影]]
'''ズニ族'''は(ズニぞく、Zuñi)は、[[アメリカ合衆国]]の[[ニューメキシコ州]]に住む[[アメリカ先住民|インディアン]]([[ネイティブ・アメリカン]])の部族である。ツニ、ズーニーとも表記される。
「ズニ」は近くのケレスの部族による呼称だが、意味は不明である。
==概要==
部族の起源や歴史については詳しいことはわかっていない。生業はトウモロコシやカボチャ、豆の農耕である。母系制社会で、[[カチナ]]という神々(精霊)を信仰している<ref>『文化人類学事典』(弘文堂、1987年)p401。</ref>。カチナは村を訪れ、雨の恵みをもたらすとされており、カチナの訪問を祝う儀式が守られている。
1877年にズニ族の保留地が設けられた。
人類学者の[[フランク・ハミルトン・クッシング]]は1879年から1884年まで部族と一緒に暮らし、神話や習俗について報告を残している。
[[ルース・ベネディクト]]は著書『[[文化の型]]』の中で、穏やかなズニ族の文化を「アポロ型」、競争心が旺盛なクワキウトゥル族の文化を「ディオニソス型」と定義した(「アポロ型」「ディオニソス型」は[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]『[[悲劇の誕生]]』の所論を援用したもの)。
==現在のズニ族==
20世紀には保留地の範囲が削減されており、現在割り当てられている土地は本来の3%であるという<ref>デイヴィッド・M.ジョーンズ、ブライアン・L.モリノー『世界の神話百科 アメリカ編』(原書房、2002)p76。</ref>。1630年の人口は1万だったが、1937年には2000人、1980年代には約2500人<ref>『文化人類学事典』p401。</ref>。
ズニ族の銀細工の工芸品(インディアンジュエリー)が知られている。元は19世紀にナバホ族が作り始め、ズニ族やホピ族も作るようになった。
==言語==
*[[ズニ語]] - 孤立した言語である。
==文献==
N・Y・デイビス、[[吉田禎吾]]、白川琢磨『ズニ族の謎』(ちくま学芸文庫、2004年) - 日本文化とズニ族の文化の類似点を論じ、13世紀に日本人が太平洋を渡ったという仮説を提示している。
== 脚注 ==
<references/>
==関連項目==
*[[先住アメリカ人の一覧]]
*[[ホピ族]] - [[アリゾナ州]]の部族。カチナの信仰など共通点がある。
*[[ナバホ族]]
*[[プエブロ]] - [[ニューメキシコ州]]や[[アリゾナ州]]などに残るインディアンの伝統的な共同体、集落。
*[[:jp:Category:アメリカ合衆国の先住民族|アメリカ合衆国の先住民族(カテゴリ)]]
*[[:en:List of Native Americans of the United States|ネイティブアメリカンの一覧 (英語版)]]
==外部リンク==
*牧田満知子「環境との共生をめざすアメリカ先住民族文化 ズニ族環境保護プロジェクト(ニューメキシコ州/アメリカ)の現状についての一考察」[https://dl.ndl.go.jp/pid/10450811](『環境社会学研究』6号(2000.10)
{{DEFAULTSORT:すにそく}}
[[category:アメリカ合衆国の先住民族]] | 2023-10-12T14:28:08Z | 2023-10-15T14:11:09Z | false | false | false | [
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4,840,672 | 金賢淑 | 金 賢淑(きん けんしゅく、キム・ヒョンスク、1966年5月10日 - )は、大韓民国の政治家、経済学者。税制の専門家である。現在、尹錫悦政権の下で第10代女性家族部長官を務めている。
忠清北道清州生まれ。一信女子高等学校(일신여자고등학교)、ソウル大学経済学科卒業。ソウル大学大学院で経済学修士、米国イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校大学院で経済学博士を取得。
韓国租税研究院研究委員、崇実大学校経済学科教授を経て、第19代国会議員。セヌリ党、後に国民の力所属。国会議員就任の背景には、左派の民主統合党の李庸燮(이용섭)議員が税制専門家として第18代国会で活躍したことがある。
2015年8月、朴槿恵政権大統領秘書室首席秘書官( - 2017年5月)。
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] | 金 賢淑は、大韓民国の政治家、経済学者。税制の専門家である。現在、尹錫悦政権の下で第10代女性家族部長官を務めている。 | {{政治家
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|国略称 = {{KOR}}
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'''金 賢淑'''(キム・ヒョンスク、김현숙、[[1966年]][[5月10日]]<ref name=":0">{{Cite web |title=김현숙 "세제개혁, 보육·저출산 책임지겠다" |url=https://n.news.naver.com/mnews/article/008/0002814784?sid=100 |website=n.news.naver.com |access-date=2023-10-12 |language=ko |last=신희은}}</ref> - )は、[[大韓民国]]の[[政治家]]、[[経済学者]]。[[税制]]の専門家である<ref name=":0" />。現在、[[尹錫悦政権]]の下で第10代[[女性家族部 (大韓民国)|女性家族部]]長官を務めている<ref name=":1" />。
== 経歴 ==
[[忠清北道]][[清州市|清州]]生まれ。{{仮リンク|一信女子高等学校|ko|일신여자고등학교}}、[[ソウル大学校]]経済学科卒業。ソウル大学校大学院で[[経済学修士]]、米国[[イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校]]大学院で[[経済学博士]]を取得<ref name=":0" />。
韓国租税研究院研究委員、韓国開発研究院[[研究員]]、[[崇実大学校]]経済学科副教授を経て、2012年の[[第19代総選挙 (大韓民国)|第19代総選挙]]で[[自由韓国党|セヌリ党]]の[[比例区]]の[[国会議員]]に当選した<ref>{{Cite web |title=대한민국헌정회 |url=https://rokps.or.kr/profile/profile_view.asp?idx=2845 |website=rokps.or.kr |access-date=2023-10-12}}</ref>。その後はセヌリ党を経て[[国民の力]]所属。国会議員就任の背景には、左派の[[民主党 (韓国 2011-2014)|民主統合党]]の{{仮リンク|李庸燮|ko|이용섭}}議員が税制専門家として第18代国会で活躍したことがある<ref name=":0" />。
2015年8月より2017年5月までは[[朴槿恵政権]]の{{仮リンク|大統領秘書室首席秘書官|ko|대한민국의 대통령비서실 수석비서관}}(雇用福祉首席)<ref name=":1">{{Cite web |title=尹大統領 法相と女性家族相を任命=保健福祉相は保留 |url=https://jp.yna.co.kr/view/AJP20220517004300882 |website=聯合ニュース |date=2022-05-17 |access-date=2023-10-12 |language=ja}}</ref>。
2022年5月より第10代[[女性家族部]]長官<ref name=":1" />。聴聞会では女性家族部の廃止に同意を表明したものの、廃止の[[ロードマップ]]については即答しなかった<ref>{{Cite web |title=김현숙, 여가부 폐지한다더니 "부처 기능 약화 아냐"(종합) |url=https://www.yna.co.kr/view/AKR20220511128151530 |website=연합뉴스 |date=2022-05-11 |access-date=2023-10-12 |language=ko |last= |author=계승현}}</ref>。しかし、2023年の[[第25回世界スカウトジャンボリー]]で総責任者の共同組織委員長として働いたが、猛暑・台風などの様々な混乱への不手際な対応や大会期間中に[[尹錫悦]]大統領と[[韓悳洙]]総理の指示に反して営地でなく他の場所で宿泊したなどの問題で批判を受けたため、2023年9月中旬に大統領に辞意を表明した<ref>{{Cite web |title=<nowiki>[영상] </nowiki>1년 전 "잼버리 대책 다 세워놨다"던 김현숙 여가부 장관…정확히 예측한 경고에도 '자신만만' 답변 |url=https://news.sbs.co.kr/news/endPage.do?news_id=N1007295545 |website=SBS NEWS |date=2023-08-04 |access-date=2023-10-12 |language=ko}}</ref><ref>{{Cite web |title=잼버리 책임 논란 속 김현숙 여가부 장관 퇴진 |url=https://news.kbs.co.kr/news/pc/view/view.do?ncd=7773540 |website=KBS 뉴스 |access-date=2023-10-12 |language=ko |date=2023.09.14}}</ref><ref>{{Cite web |title=여가부 폐지도 잼버리도 완수 못한 김현숙 장관…불명예 퇴진 |url=https://www.munhwa.com/news/view.html?no=2023091301039910021006 |website=문화일보 |access-date=2023-10-12 |language=ko |date=2023-09-13}}</ref>。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [https://blog.naver.com/annakim300 公式ブログ]{{Ko icon|kr=1}}
* [https://rokps.or.kr/profile/profile_view.asp?idx=2845 大韓民国憲政会(대한민국헌정회)会員情報]{{Ko icon|kr=1}}
{{DEFAULTSORT:きむ ひよんすく}}
[[Category:韓国の女性政治家]]
[[Category:韓国の国会議員]]
[[Category:大韓民国女性家族部長官]]
[[Category:女性閣僚]]
[[Category:朴槿恵政権]]
[[Category:尹錫悦政権]]
[[Category:韓国の経済学者]]
[[Category:女性経済学者]]
[[Category:韓国の高等教育の教員]]
[[Category:女性教育者]]
[[Category:清州市出身の人物]]
[[Category:イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校出身の人物]]
[[Category:ソウル大学校出身の人物]]
[[Category:1966年生]]
[[Category:存命人物]] | 2023-10-12T14:37:14Z | 2023-10-13T02:50:29Z | false | false | false | [
"Template:Reflist",
"Template:Cite web"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E8%B3%A2%E6%B7%91 |
4,840,677 | 聖家族と幼児洗礼者聖ヨハネ (アンドレア・デル・サルト) |
『聖家族と幼児洗礼者聖ヨハネ』 (せいかぞくとようじせんれいしゃせいヨハネ、伊: Sacra Famiglia con san Giovannino、英: The Holy Family with the Young Saint John the Baptistは、イタリア盛期ルネサンスの画家アンドレア・デル・サルトが1530年ごろ、板上に油彩で制作した絵画である。1922年、マリア・デウィット・ジェサップ(英語版)から寄贈され、ニューヨークのメトロポリタン美術館に収蔵された。
本作はジョヴァンニ・ボルゲリーニ (Giovanni Borgherini) により委嘱されたが、それはフィレンツェがメディチ家の支配から解放され、共和国として宣言した時代のことであった。フィレンツェの守護聖人である幼い洗礼者ヨハネが宝珠 (地球) をイエス・キリストに渡し、フィレンツェの町の忠誠心の対象がヨハネからイエスへ移行したことを表している。
幼い洗礼者ヨハネが登場していることは、おそらく作品の委嘱者であるジョヴァンニ・ボルゲリーニの名前 (「ジョヴァンニ」はイタリア語で「ヨハネ」) に起因する。画面左側に跪いているヨハネは宝珠をイエスに渡しており、中央で聖母マリアに支えられているイエスは、鑑賞者を凝視し、微笑んでいる。背後の影の中に聖ヨセフがいて、やはり画面の外に視線を送っている。奥には、ヴェネツィア起源の緑色のベルベットの垂れ幕がある。
色彩的豊かさ、色調の多様性により、本作はフィレンツェ盛期ルネサンスの傑作となっている。画面下部、イエスが立っている台の下には白いクッションがあり、それは彼の死に装束であることを示唆している。洗礼者ヨハネの葦の十字架もキリストの殉教を示し、赤い布もまたキリストの将来の「受難」を表している。 照明は、強く一貫性のない方法で用いられ、幼子イエスを包む虹色の布、あるいは聖母マリアの半透明のヴェールに当たる照明とは対照的である。
本作の豊かな色彩と人物のポーズの多様性は、初期マニエリスムの発想源ともなった。洗礼者ヨハネは、人物群の中から抜け出ている。身振りと視線の円形の動きは、レオナルド・ダ・ヴィンチに由来する。堂々たる人物の体躯は、ミケランジェロに触発されている。また、画面に浸透するエロティシズムの微妙なタッチは、作品が個人の注文であることに適合し、そのエロティシズムは、ヨハネの褌から垣間見える股間、あるいは聖母の乳房などのいくつかの細部に見て取れる。 | [
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『'''聖家族と幼児洗礼者聖ヨハネ'''』 (せいかぞくとようじせんれいしゃせいヨハネ、{{Lang-it-short|Sacra Famiglia con san Giovannino}}、{{Lang-en-short|The Holy Family with the Young Saint John the Baptist}}は、[[イタリア]]盛期[[ルネサンス]]の画家[[アンドレア・デル・サルト]]が1530年ごろ、板上に[[油彩]]で制作した絵画である<ref name="MetMuseum">{{Cite web |url=https://www.metmuseum.org/ja/art/collection/search/437609 |title=聖家族と幼い洗礼者ヨハネ|publisher=[[メトロポリタン美術館]]公式サイト (日本語)|access-date=2023/10/12}}</ref><ref name="ReferenceMG">メトロポリタン美術館ガイド 2012年、249項。</ref>。1922年、{{仮リンク|マリア・デウィット・ジェサップ|en|Maria DeWitt Jesup}}から寄贈され、[[ニューヨーク]]の[[メトロポリタン美術館]]に収蔵された<ref name="MetMuseum" /><ref name="ReferenceMG" />。
== 作品 ==
本作はジョヴァンニ・ボルゲリーニ (Giovanni Borgherini) により委嘱されたが、それは[[フィレンツェ]]が[[メディチ家]]の支配から解放され、共和国として宣言した時代のことであった。フィレンツェの[[守護聖人]]である幼い[[洗礼者ヨハネ]]が[[宝珠]] (地球) を[[イエス・キリスト]]に渡し、フィレンツェの町の忠誠心の対象がヨハネからイエスへ移行したことを表している<ref name="MetMuseum" /><ref name="ReferenceMG" />。
幼い洗礼者ヨハネが登場していることは、おそらく作品の委嘱者であるジョヴァンニ・ボルゲリーニの名前 (「ジョヴァンニ」は[[イタリア語]]で「ヨハネ」) に起因する。画面左側に跪いているヨハネは宝珠をイエスに渡しており、中央で[[聖母マリア]]に支えられているイエスは、鑑賞者を凝視し、微笑んでいる。背後の影の中に[[聖ヨセフ]]がいて、やはり画面の外に視線を送っている。奥には、[[ヴェネツィア]]起源の緑色の[[ベルベット]]の垂れ幕がある。
色彩的豊かさ、色調の多様性により、本作はフィレンツェ盛期ルネサンスの傑作となっている。画面下部、イエスが立っている台の下には白いクッションがあり、それは彼の死に装束であることを示唆している。洗礼者ヨハネの葦の[[十字架]]もキリストの[[殉教]]を示し、赤い布もまたキリストの将来の「[[受難]]」を表している。 照明は、強く一貫性のない方法で用いられ、幼子イエスを包む虹色の布、あるいは聖母マリアの半透明の[[ヴェール]]に当たる照明とは対照的である。
本作の豊かな色彩と人物のポーズの多様性は、初期[[マニエリスム]]の発想源ともなった<ref name="MetMuseum" /><ref name="ReferenceMG" />。洗礼者ヨハネは、人物群の中から抜け出ている。身振りと視線の円形の動きは、[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]に由来する。堂々たる人物の体躯は、[[ミケランジェロ]]に触発されている。また、画面に浸透するエロティシズムの微妙なタッチは、作品が個人の注文であることに適合し、そのエロティシズムは、ヨハネの褌から垣間見える股間、あるいは聖母の乳房などのいくつかの細部に見て取れる。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* マーク・ポリゾッティ発行人兼編集責任者『メトロポリタン美術館ガイド』、メトロポリタン美術館、2012年刊行 ISBN 978-4-904206-20-1
* {{En icon}} AA.VV., ''The Metropolitan Museum of Art Guide'', The Metropolitan Museum of Art/Yale University Press, New York/New Haven 1994/2005 {{ISBN2|0-87099-710-6}}.
== 外部リンク ==
* [https://www.metmuseum.org/ja/art/collection/search/437609 メトロポリタン美術館公式サイト、アンドレア・デル・サルト『聖家族と幼児洗礼者聖ヨハネ』 (日本語) ]
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{{アンドレア・デル・サルト}}
[[Category:1520年代の絵画]]
[[Category:アンドレア・デル・サルトの作品]]
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4,840,679 | 宮崎市立潮見小学校 | 宮崎市立潮見小学校(みやざきしりつしおみしょうがっこう)は、宮崎県宮崎市潮見町にある公立小学校。
潮見小学校の通学区域には以下の区域が指定されている。 | [
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] | 宮崎市立潮見小学校(みやざきしりつしおみしょうがっこう)は、宮崎県宮崎市潮見町にある公立小学校。 | {{Infobox 日本の学校
|校名 = 宮崎市立潮見小学校
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|過去校名 =
|国公私立 = [[公立学校]]
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}}
'''宮崎市立潮見小学校'''(みやざきしりつしおみしょうがっこう)は、[[宮崎県]][[宮崎市]][[潮見町 (宮崎市)|潮見町]]にある[[公立小学校]]。
== 概要 ==
* 児童数 - 502名(2021年度)
== 沿革 ==
== 通学区域 ==
潮見小学校の通学区域には以下の区域が指定されている<ref>[https://www.city.miyazaki.miyazaki.jp/education/school/schools/6561.html 小学校の通学区域 - 宮崎市]</ref>。
* 昭和町の一部
* 吉村町の一部
* 曽師町の一部
* 大王町
* 潮見町
* 前原町
* 出来島町
* 高洲町
* 中西町
* 一の宮町
* 吾妻町
* 永楽町の一部
* 港1丁目
* 港東1丁目
* 港東2丁目
* 港東3丁目
== 関連項目 ==
* [[宮崎県小学校一覧]]
* [[宮崎市立宮崎中学校]]
== 脚注 ==
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[[Category:宮崎市の公立小学校|しおみ]]
[[Category:学校記事]] | 2023-10-12T14:53:41Z | 2023-10-28T06:28:13Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E5%B8%82%E7%AB%8B%E6%BD%AE%E8%A6%8B%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1 |
4,840,688 | セルジ・カルドナ | セルジ・カルドナ・ベルムデス(Sergi Cardona Bermúdez、1999年7月8日 - )は、スペイン・カタルーニャ州リュレッド・ダ・マール出身のサッカー選手。UDラス・パルマス所属。ポジションはDF。
カタルーニャ州のリュレッド・ダ・マールに生まれ、ジムナスティック・タラゴナのカンテラで育成された。2018-19シーズンからBチームでプレーし始め、2019年6月9日、セグンダ・ディビシオンのCDルーゴ戦でトップチームデビューを果たした。
2020年6月25日、ジムナスティックとの契約延長を断ってUDラス・パルマスへ移籍した。移籍後はBチームへ登録されたが、2021年5月30日、UDログロニェスとのリーグ戦にてトップチームでの出場機会も得た。 | [
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|本名=セルジ・カルドナ・ベルムデス<br />Sergi Cardona Bermúdez
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'''セルジ・カルドナ・ベルムデス'''('''Sergi Cardona Bermúdez'''、[[1999年]][[7月8日]] - )は、[[スペイン]]・[[カタルーニャ州]][[リュレッド・ダ・マール]]出身の[[プロサッカー選手|サッカー選手]]。[[UDラス・パルマス]]所属。ポジションは[[ディフェンダー (サッカー)|DF]]。
== クラブ経歴 ==
[[カタルーニャ州]]の[[リュレッド・ダ・マール]]に生まれ、[[ジムナスティック・タラゴナ]]の[[カンテラ]]で育成された。2018-19シーズンからBチームでプレーし始め<ref>{{cite web|url=https://www.gimnasticdetarragona.cat/noticia/un-total-de-10-juvenils-sincorporen-a-la-pobla|title=Un total de 10 juvenils s'incorporen a La Pobla|publisher=Gimnàstic Tarragona|language=ca|date=6 July 2018|accessdate=2023-10-13}}</ref>、2019年6月9日、[[セグンダ・ディビシオン]]の[[CDルーゴ]]戦でトップチームデビューを果たした<ref>{{cite web|url=https://www.marca.com/futbol/segunda-division/cronica/2019/06/09/5cfd3292e2704ece498b45e7.html|title=Tablas sin historia|publisher=Marca|language=es|date=9 June 2019|accessdate=2023-10-13}}</ref>。
2020年6月25日、ジムナスティックとの契約延長を断って[[UDラス・パルマス]]へ移籍した<ref>{{cite web|url=https://www.gimnasticdetarragona.cat/noticia/sergi-cardona-finalitza-la-seva-etapa-al-nastic|title=Sergi Cardona finalitza la seva etapa al Nàstic|publisher=Gimnàstic Tarragona|language=ca|date=25 June 2020|accessdate=2023-10-13}}</ref>。移籍後はBチームへ登録されたが、2021年5月30日、[[UDログロニェス]]とのリーグ戦にてトップチームでの出場機会も得た。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
*{{sports links}}
{{UDラス・パルマスのメンバー}}
{{デフォルトソート:かるとな せるし}}
[[Category:スペインのサッカー選手]]
[[Category:カタルーニャのサッカー選手]]
[[Category:CFポブラ・ダ・マフメートの選手]]
[[Category:ジムナスティック・タラゴナの選手]]
[[Category:UDラス・パルマス・アトレティコの選手]]
[[Category:UDラス・パルマスの選手]]
[[Category:ジローナ県出身の人物]]
[[Category:1999年生]]
[[Category:存命人物]] | 2023-10-12T15:19:39Z | 2023-10-12T15:19:39Z | false | false | false | [
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"Template:スペイン語圏の姓名"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%8A |
4,840,701 | キリアン・ロドリゲス | キリアン・ロドリゲス・コンセプシオン(Kirian Rodríguez Concepción、1996年3月5日 - )は、スペイン・カナリア諸島州カンデラリア出身のサッカー選手。UDラス・パルマス所属。ポジションはMF。
カナリア諸島州のカンデラリアに生まれ、2014年にUDラス・パルマスのカンテラへ入団した。2015年にCチームへ、2017年からはBチームへ着々とトップチームへのステップを踏み、2019年6月2日、セグンダ・ディビシオンのUDアルメリア戦にて、79分にファビオ・ゴンサレスとの途中交代でトップチームデビューを果たした。2019-20シーズンからトップチームへと正式に昇格し、2020年7月20日のエストレマドゥーラUD戦ではプロ初ゴールを挙げて5-1での大勝に貢献した。
2022-23シーズン開幕前の8月2日、ガンの一種であるホジキンリンパ腫を発症したことを公表したが、同シーズン終盤からは戦線に復帰している。 | [
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] | キリアン・ロドリゲス・コンセプシオンは、スペイン・カナリア諸島州カンデラリア出身のサッカー選手。UDラス・パルマス所属。ポジションはMF。 | {{スペイン語圏の姓名|ロドリゲス|コンセプシオン}}
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|所属チーム名={{flagicon|ESP}} [[UDラス・パルマス]]
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}}
'''キリアン・ロドリゲス・コンセプシオン'''('''Kirian Rodríguez Concepción'''、[[1996年]][[3月5日]] - )は、[[スペイン]]・[[カナリア諸島|カナリア諸島州]][[カンデラリア]]出身の[[プロサッカー選手|サッカー選手]]。[[UDラス・パルマス]]所属。ポジションは[[ミッドフィールダー|MF]]。
== クラブ経歴 ==
[[カナリア諸島|カナリア諸島州]]の[[カンデラリア]]に生まれ、2014年に[[UDラス・パルマス]]の[[カンテラ]]へ入団した。2015年にCチームへ、2017年からはBチームへ着々とトップチームへのステップを踏み、2019年6月2日、[[セグンダ・ディビシオン]]の[[UDアルメリア]]戦にて、79分に[[ファビオ・ゴンサレス]]との途中交代でトップチームデビューを果たした<ref>{{cite web|url=https://www.marca.com/futbol/segunda-division/cronica/2019/06/02/5cf40f71268e3e110b8b45bd.html|title=A Las Palmas y Almería sólo les faltó el gol|publisher=Marca|language=es|date=2 June 2019|accessdate=2023-10-13}}</ref>。2019-20シーズンからトップチームへと正式に昇格し<ref>{{cite web|url=https://www.udlaspalmas.es/en/news/new/miguel-angel-ramirez-josep-fabio-kirian-edu-espiau-and-cristian-cedres-will-sign-professional-terms-with-the-first-team-squad|title=Miguel Ángel Ramírez: "Josep, Fabio, Kirian, Edu Espiau and Cristian Cedrés will sign professional terms with the first team squad"|publisher=UD Las Palmas|date=17 June 2019|accessdate=2023-10-13}}</ref>、2020年7月20日の[[エストレマドゥーラUD]]戦ではプロ初ゴールを挙げて5-1での大勝に貢献した<ref>{{cite web|url=https://www.marca.com/futbol/segunda-division/cronica/2020/07/20/5f15e17922601ddc558b45c8.html|title=Las Palmas cierra la temporada con una 'manita' al Extremadura|publisher=Marca|language=es|date=20 July 2020|accessdate=2023-10-13}}</ref>。
2022-23シーズン開幕前の8月2日、ガンの一種である[[ホジキンリンパ腫]]を発症したことを公表したが、同シーズン終盤からは戦線に復帰している<ref>{{cite web|url=https://www.marca.com/futbol/las-palmas/2022/08/02/62e903f8ca47410f1c8b45dc.html|title=Kirian anuncia que padece cáncer: "Tengo un linfoma de Hodgkin"|publisher=Marca|language=es|date=2 August 2022|accessdate=2023-10-13}}</ref>。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
*{{sports links}}
{{UDラス・パルマスのメンバー}}
{{デフォルトソート:ろとりけす きりあん}}
[[Category:スペインのサッカー選手]]
[[Category:UDラス・パルマス・アトレティコの選手]]
[[Category:UDラス・パルマスの選手]]
[[Category:サンタ・クルス・デ・テネリフェ県出身の人物]]
[[Category:1996年生]]
[[Category:存命人物]] | 2023-10-12T15:43:35Z | 2023-10-12T15:43:35Z | false | false | false | [
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4,840,702 | 廃深2 | 『廃深2』(はいしん2)は、qureateが2023年に開発・発売したコンピュータゲーム。同社が2021年に発売した『廃深』の続編であるが、舞台や登場人物は異なる。
メーカー発表におけるゲームジャンルは「サバイバルホラーアクションアドベンチャー」とされている。
前作と同様に、三人の動画配信者が足を踏み入れた廃墟で遭遇した恐怖から逃れ、生還を目指すのが目的のアクションアドベンチャーゲーム。イベント画面以外の移動はサイドビュー形式で行われ、屋内の探索で得られたアイテムやヒントを手掛かりに謎を解く脱出ゲームである。
2023年9月21日にNintendo Switch版、10月6日にSteam版がいずれもダウンロード専用で発売された。各言語版のタイトル・字幕・音声の対応については以下のとおり。
大学生である愛月陽葵は、同じ大学の姫宮雅、柊藍那と共に運営している動画配信チーム「ひまちゃんねる」の発起人である。昨今のチャンネル登録者数の伸び悩みに焦っていた陽葵は、一発で人気が出る動画の企画をということで、廃墟となり心霊スポットとして有名であるショッピングモール、堵替塚(とがえづか)ハッピーウェイの探索を二人に提案し実行に移した。しかし、廃墟内では何かが起きるわけでもなく、帰ろうかと言っていた三人に突然、猿の着ぐるみが襲い掛かってくる。
気が付くと拘束されていたものの、無事であった陽葵に二人から連絡があり、全員が無事であること、各人が廃墟内の別々のフロアにいて、エレベーターや階段が利用できず合流できないということが判明する。三人はそれぞれの場所でスマートフォンを利用し協力しながら合流と脱出を試みるが、猿の着ぐるみがそれを妨害するかのように三人に襲い掛かってくる。三人は無事合流し、堵替塚ハッピーウェイから脱出することができるのか。
以下は前作「廃深」の登場人物である。作中に直接登場することはなく、メニューの「STREAMING」にて前作完結後の三人のシナリオを鑑賞することができる。
三人は廃墟の別々のフロアにいて分断されている。プレイヤーはこの3人のキャラクターを常時切り替えて脱出を試みる。ゲームが進行すると、キャラクター間でアイテムの授受が可能となる。アイテムの使用や、謎を解くことで移動できるところが増え、ストーリーが展開していく。
着ぐるみとキャラクターが接近した状態となると、スマートフォンのライトが点滅し、着ぐるみの声や足音が聞こえる。この状態で遠くに離れることができなかった場合、着ぐるみに追跡される状態となる。着ぐるみにキャラクターが捕まると、各キャラクターに設定されている凶気度が初期段階の低から中・高と1段階上がっていき、凶気度が高の状態で着ぐるみに捕まるとゲームオーバーとなる。着ぐるみから逃げているだけでは追跡を振り切れないため、フロアにあるトラップを設定して着ぐるみを転ばせその間に遠くに逃げるか、トイレや身を隠せる場所などに籠るなどして身を潜める必要がある。着ぐるみは身を潜めているキャラクターの居場所がわからなくなると、画面に向かって肩をすぼめるアクションをしてその場を去っていき追跡状態が解除される。ただし、着ぐるみがキャラクターの隠れた場所を見抜き、追跡状態が継続する場合がある。 | [
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| Title = 廃深2<br/>Livestream2: Escape from Togaezuka Happy Place
| Genre = サバイバルホラーアクションアドベンチャー
| Plat = [[Nintendo Switch]]<br />[[Steam]]
| Dev = [[qureate]]、Orgesta
| Pub = qureate
| producer = [[臼田裕次郎]]
| writer = 武藤隆義(株式会社ジンテーゼ)
| artist = 乾和音
| Play = 1人
| Media = [[ダウンロードゲーム|ダウンロード]]
| Date = 2023年9月21日(Switch)<br />2023年10月6日(Steam)
| Rating = {{CERO-D}}
| Lang = {{ISO639言語名|ja}}<br />{{ISO639言語名|en}}<br />{{ISO639言語名|zh}}([[簡体字]]、[[繁体字]])
}}
『'''廃深2'''』(はいしん2)は、[[qureate]]が[[2023年]]に開発・発売した[[コンピュータゲーム]]。同社が[[2021年]]に発売した『[[廃深]]』の続編であるが、舞台や登場人物は異なる。
メーカー発表におけるゲームジャンルは「サバイバルホラーアクションアドベンチャー」とされている。
== 概要 ==
前作と同様に、三人の動画配信者が足を踏み入れた[[廃墟]]で遭遇した恐怖から逃れ、生還を目指すのが目的の[[アクションアドベンチャーゲーム]]。イベント画面以外の移動はサイドビュー形式で行われ、屋内の探索で得られたアイテムやヒントを手掛かりに謎を解く[[脱出ゲーム]]である。
=== リリース ===
2023年9月21日に[[Nintendo Switch]]版、10月6日に[[Steam]]版がいずれもダウンロード専用で発売された。各言語版のタイトル・字幕・音声の対応については以下のとおり。
{| class="wikitable"
|+
!言語
! colspan="2" |表題
!字幕
!音声
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!日本語
| colspan="2" |廃深2
|○
|○
|-
!英語
| colspan="2" |LiveStream2: Escape from Togaezuka Happy Place
|○
| -
|-
! rowspan="2" |中国語
|簡体字
|探灵直播2
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| -
|-
|繁体字
|探靈直播2
|○
| -
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== ストーリー ==
大学生である'''愛月陽葵'''は、同じ大学の'''姫宮雅'''、'''柊藍那'''と共に運営している動画配信チーム「ひまちゃんねる」の発起人である。昨今のチャンネル登録者数の伸び悩みに焦っていた陽葵は、一発で人気が出る動画の企画をということで、廃墟となり心霊スポットとして有名であるショッピングモール、堵替塚(とがえづか)ハッピーウェイの探索を二人に提案し実行に移した。しかし、廃墟内では何かが起きるわけでもなく、帰ろうかと言っていた三人に突然、猿の着ぐるみが襲い掛かってくる。
気が付くと拘束されていたものの、無事であった陽葵に二人から連絡があり、全員が無事であること、各人が廃墟内の別々のフロアにいて、エレベーターや階段が利用できず合流できないということが判明する。三人はそれぞれの場所でスマートフォンを利用し協力しながら合流と脱出を試みるが、猿の着ぐるみがそれを妨害するかのように三人に襲い掛かってくる。三人は無事合流し、堵替塚ハッピーウェイから脱出することができるのか。
== 登場人物 ==
; 愛月 陽葵(あいづき ひまり)
: [[声優|声]] - [[Lynn]]
: 動画配信チーム「'''ひま'''ちゃんねる」の発起人であり、雅・藍那と同じ大学に通う大学生。前作「廃深」の主人公たちの「ななちゃんねる」にあこがれて動画配信を開始し、雅と藍那を巻き込んだ。チャンネル登録者数の伸び悩みのため、堵替塚ハッピーウェイの探索を実行した。持ち前の明るくポジティブな性格で、脱出できないことに絶望した二人を励ます、自身も不安で仕方がないが空元気を出し二人を落ち着けるといったリーダーシップを発揮する。その一方で、自分には何も秀でたものがないと考えており、それがコンプレックスになっている。自身のことを「あたし」、二人のことを「雅ちゃん、藍那ちゃん」と呼ぶ。
; 姫宮 雅(ひめみや みやび)
: 声 - [[山本希望]]
: 動画配信チーム「ひまちゃんねる」のメンバーであり、陽葵と同学年。物怖じせずにパーソナルスペースに入り込んでくる陽葵に惹かれて仲良くなる。普段は冷静であり二人のツッコミ役であるが、廃墟にて怖がりであることが分かり二人からからかわれることになる。裕福な家庭に生まれ育ったが、多忙を極める母親に自身が関心を持ってもらえなかったことを引きずったままでいる。自身のことを「わたくし」、二人のことを「陽葵、藍那」と呼ぶ。
; 柊 藍那(ひいらぎ あいな)
: 声 - [[真野あゆみ]]
: 動画配信チーム「ひまちゃんねる」のメンバーであり、動画編集担当。陽葵・雅の1年後輩。動画編集に苦戦していた二人を偶然見かけて手伝ったことがきっかけで知り合う。インターネットが好きな超インドア派で、アニメ・ゲーム・昔のパソコンや家電製品にも造詣が深い。二人とは問題なく接しているその反面、過去の経験から他人を信用しないことにしている。自身のことを「わたし」、二人のことを「ひまセンパイ、みやセンパイ」と呼ぶ。
; 着ぐるみ
: 堵替塚ハッピーウェイにて3人を追跡し襲うサルをモチーフとした着ぐるみ。口に多数の牙が生えており、巨大な腕には大きな爪が伸びている。動きは機敏で人間のようなリアクションもする。神出鬼没で3人が'''どこにいようとも'''出没する。
=== 「廃深」の登場人物 ===
以下は前作「廃深」の登場人物である。作中に直接登場することはなく、メニューの「STREAMING」にて前作完結後の三人のシナリオを鑑賞することができる<ref name ="hs2">[https://twitter.com/qureate/status/1703620108260716966 Qureate公式Xアカウントの投稿]</ref>。
; 生駒 美桜(いこま みお)
: 声 - [[山崎はるか]]
: 動画配信チーム「ななちゃんねる」のメンバー。自身が企画提案し動画での初レギュラー出演を行うなど、前作の設定であった「引っ込み思案」が解消している様が描かれている。
:
; 桜井 奈々(さくらい なな)
: 声 - [[西明日香]]
: 動画配信チーム「ななちゃんねる」主宰者。それほど面白いと思っていなかった動画に予想外の人気が出て一躍人気配信者に。それと同時に苦悩も抱えることとなる。
:
; 白石 梓(しらいし あずさ)
: 声 - [[松田颯水]]
: 動画配信チーム「ななちゃんねる」のメンバー。人気が出た後の動画でなかなか思うように視聴数が取れていないことの対策として、二人に「秘策」を提案する。
:
== メニュー ==
; メモ
: ゲーム内で入手したメモ、新聞記事、スマホで撮影した画像など。廃墟内の謎解きのヒントや、着ぐるみの正体の手がかりなどが確認できる。
; アイテム
: ゲーム内で入手したアイテムの確認や使用を行う。
; マップ
: ゲーム内で入手したマップ。各キャラクターの現在位置と周辺の情報が確認できる。
; STREAMING
: 三人の過去や現在の苦悩などが語られるモノローグ動画、前作の三人の様子などがゲームの進行に従い解放されていく。
:
== ゲームプレイ ==
=== システム ===
三人は廃墟の別々のフロアにいて分断されている。プレイヤーはこの3人のキャラクターを常時切り替えて脱出を試みる。ゲームが進行すると、キャラクター間でアイテムの授受が可能となる。アイテムの使用や、謎を解くことで移動できるところが増え、ストーリーが展開していく。
=== 着ぐるみの追跡 ===
着ぐるみとキャラクターが接近した状態となると、スマートフォンのライトが点滅し、着ぐるみの声や足音が聞こえる。この状態で遠くに離れることができなかった場合、着ぐるみに追跡される状態となる。着ぐるみにキャラクターが捕まると、各キャラクターに設定されている凶気度が初期段階の低から中・高と1段階上がっていき、凶気度が高の状態で着ぐるみに捕まるとゲームオーバーとなる。着ぐるみから逃げているだけでは追跡を振り切れないため、フロアにあるトラップを設定して着ぐるみを転ばせその間に遠くに逃げるか、トイレや身を隠せる場所などに籠るなどして身を潜める必要がある。着ぐるみは身を潜めているキャラクターの居場所がわからなくなると、画面に向かって肩をすぼめるアクションをしてその場を去っていき追跡状態が解除される。ただし、'''着ぐるみがキャラクターの隠れた場所を見抜き、追跡状態が継続する場合がある。'''
=== 前作との相違点 ===
* システム
** 分断され別々の場所にいる三人のキャラクターを切り替えながら進める仕様となった ※前作は合流後にのみ切り替え可能で、事実上キャラクターの見た目を変更するのみの仕様であった
** 三人は常時スマートフォンでのビデオ通話が可能であり、情報やアイテムの入手時などに会話シーンが挿入される。またスマートフォンで撮影した画像も転送しあえるなど、各人が所有しているスマートフォンがよりゲームに組み込まれている
* プレイアビリティの向上
** 「○○を探す」「××をすべて揃える」といった、ストーリーを進めるために必要な小目標を常時確認できる
** 着ぐるみに追跡された状態でなくともダッシュ移動ができる
** シナリオやエンディングの分岐に関連する場面では、事前にセーブを推奨される。これによりプレイヤーが複数のエンディングを見るための条件がわかりやすくなっている
* 着ぐるみの強化とフォロー
** 着ぐるみの移動が前作よりも素早い上に潜んだ場所を見抜くなど強敵になっている。また、リアクションが豊かである
** 凶気度の設定により、着ぐるみに捕まっても2回まではゲームオーバーにならない。※前作は着ぐるみから逃げきれず鉈を振り下ろされると即時ゲームオーバー
** 着ぐるみからの追跡から身を潜める場所や手法が増えている
* その他
** 前作はキービジュアル(公式サイトのトップ画像)、序盤の展開や一部のエンディングなどに、生駒美桜を事実上の主人公として扱っていると思われる要素が見られる。今作はゲームシステムの変更、STREAMINGによる各キャラクターの過去や心理描写の掘り下げなどが追加されたこともあり、三人の扱いに大きな差は見られない
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [https://qureate.co.jp/haishin2/ 廃深2 公式サイト]
{{DEFAULTSORT:はいしん2}}
[[Category:アクションアドベンチャーゲーム]]
[[Category:ホラーゲーム]]
[[Category:動画配信者を主人公とした作品]]
[[Category:ショッピングセンターを舞台とした作品]]
[[Category:Nintendo Switch用ソフト]]
[[Category:Windows用ゲームソフト]]
[[Category:2023年のコンピュータゲーム]] | 2023-10-12T15:45:05Z | 2023-11-30T13:00:16Z | false | false | false | [
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"Template:Reflist"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%83%E6%B7%B12 |
4,840,705 | 静かな約束 | 「静かな約束」(しずかなやくそく)は、大貫妙子の18枚目のシングル。1992年5月20日にEASTWORLD/東芝EMIから発売された。表題曲・カップリング曲共にアルバム『DRAWING』からのシングルカット。
表題曲「静かな約束」は、流麗なギターのイントロに導かれて大貫の凛としたボーカルが響き渡る曲。コーラスアレンジは大貫自身が担当している。この曲は日本火災海上保険100周年を記念したキャンペーンのCMソングとして使用された。
カップリング曲「哀しみの足音」は、繊細で哀愁に満ちた演奏に乗せ、クリスマスの夜に傷つき離れた恋人を待つ様子が描かれている。この曲はパリのポンヌフ橋を舞台にしたフランス映画『ポンヌフの恋人』の日本版イメージ・ソングに採用された。元々は大貫が自分のアルバムの為にパトリック・ウィリアムズを招いてニューヨークで録音した曲だったが、配給会社の担当者が耳にし、「その曲を使いたい」と要望したことからイメージ・ソングとして使用されることとなったもの。当初はまだ歌詞を付けていない状態だった為、映画に沿って新たに歌詞を書き上げたという。
静かな約束
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| Name = 静かな約束
| Type = [[シングル]]
| Artist = [[大貫妙子]]
| Album = [[DRAWING]]
| B-side = 哀しみの足音
| Released = [[1992年]][[5月20日]]
| Recorded =
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| Genre = [[ポピュラー音楽|ポップス]]<br />[[アンプラグド]]
| Length =
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| Writer = 大貫妙子
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| Next single = [[春の手紙]]<br />(1993年)
| Misc =
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「'''静かな約束'''」(しずかなやくそく)は、[[大貫妙子]]の18枚目のシングル。[[1992年]][[5月20日]]にEASTWORLD/[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]]から発売された。表題曲・カップリング曲共にアルバム『[[DRAWING]]』からのシングルカット。
== 概要 ==
表題曲「静かな約束」は、流麗なギターのイントロに導かれて大貫の凛としたボーカルが響き渡る曲<ref>{{Cite web|和書|url=https://recochoku.jp/song/S1000112196/|title=大貫妙子「静かな約束」の楽曲(シングル)・歌詞ページ|work=[[レコチョク]]|accessdate=2023-10-11}}</ref>。コーラスアレンジは大貫自身が担当している。この曲は[[日本興亜損害保険|日本火災海上保険]]100周年を記念したキャンペーンのCMソングとして使用された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/prof/231636/products/271082/1/|title=静かな約束|大貫妙子 |website=ORICON NEWS |publisher=oricon ME |accessdate=2023-10-12}}</ref>。
カップリング曲「哀しみの足音」は、繊細で哀愁に満ちた演奏に乗せ、[[クリスマス]]の夜に傷つき離れた恋人を待つ様子が描かれている<ref>{{Cite web|和書|url=https://musicstore.auone.jp/s/song/S1000112193/|title=大貫妙子「哀しみの足音」|website=Music Store |publisher=レコチョク |accessdate=2023-10-12}}</ref>。この曲はパリの[[ポンヌフ|ポンヌフ橋]]を舞台にした[[フランス映画]]『[[ポンヌフの恋人]]』の日本版イメージ・ソングに採用された<ref>{{Cite web|和書|url=https://recochoku.jp/song/S1000112193/hires_single?ds=1004688266|title=大貫妙子「哀しみの足音」の楽曲(シングル)・歌詞ページ|work=レコチョク|accessdate=2023-10-11}}</ref>。元々は大貫が自分のアルバムの為に[[パトリック・ウィリアムズ]]を招いて[[ニューヨーク]]で録音した曲だったが、配給会社の担当者が耳にし、「その曲を使いたい」と要望したことからイメージ・ソングとして使用されることとなったもの。当初はまだ歌詞が付いていない状態だった為、映画のストーリーに沿って新たに歌詞を書き上げたという<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.1101.com/kirikou_ohnuki/|title=大貫妙子さんと『裸のキリク』。|work=[[ほぼ日刊イトイ新聞]]|accessdate=2023-10-12}}</ref>。
== 収録曲 ==
# '''静かな約束'''(4:35)
#:作詞・作曲・コーラスアレンジ: 大貫妙子 / 編曲: [[小林武史]]
# '''哀しみの足音'''(4:27)
#:作詞・作曲: 大貫妙子 / 編曲: 小林武史 / オーケストラ・アレンジメント: [[パトリック・ウィリアムズ]]
== 演奏 ==
'''静かな約束'''
*キーボード: 小林武史
*12 ストリング・アコースティックギター: [[小倉博和]]
*ベース: [[トニー・レヴィン]]
*ドラムス: [[ジェリー・マロッタ]]
*コンピューター・プログラミング: 角谷仁宣<ref>{{cite web|url=https://kadoya1964login.wixsite.com/yk-profile|title=Profile|work=角谷 仁宣 Yoshinori Kadoya|accessdate=2023-10-12}}</ref>
'''哀しみの足音'''
*コンダクター: パトリック・ウィリアムズ
*アコースティック・ピアノ: [[ウォーレン・バーンハート]]
*アコースティック・ベース: {{仮リンク|チャック・ドマニコ|en|Chuck Domanico}}
*ドラムス: {{仮リンク|ロニー・ジト|en|Ronald Zito}}
*トランペット: {{仮リンク|マーヴィン・スタム|en|Marvin Stamm}}
*フルート: サンドラ・リー・チャーチ
*ソプラノ・サックス: ローレンス・フェルドマン
*オーボエ: ロナルド・ローズマン
*ハープ: マーガレット・ロス
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[日本興亜損害保険|日本火災海上保険]]
*[[ポンヌフの恋人]]
== 外部リンク ==
*{{URL |https://onukitaeko.jp/project/shizukana-yakusoku/| 18th Single 静かな約束}} - 大貫妙子 Taeko Onuki
*{{歌ネット|117353|静かな約束}}
*{{歌ネット|117434|哀しみの足音}}
*{{URL |http://www.cinemarise.com/theater/archives/films/1992003.html#staffcast| ポンヌフの恋人}} - シネマライズ オフィシャルサイト
{{大貫妙子}}
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[[Category:大貫妙子が制作した楽曲]]
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4,840,707 | エレイン・フックス | エレイン・フックス(Elaine Viola Fuchs, 1950年5月5日 - )は、アメリカ合衆国の生物学者。ロックフェラー大学教授。リバース・ジェネティクスの手法を用いて、細胞骨格の要素としてのケラチンの機能と、変異したケラチンの機能不全や、それによって引き起こされるの皮膚疾患の研究を行っている。
イリノイ州出身。1972年にイリノイ大学卒業、1977年にプリンストン大学で生化学のPh.D.を取得。マサチューセッツ工科大学で博士研究員となる。 1980年シカゴ大学助教授、1989年教授に就任。1988 年以来、ハワード・ヒューズ医学研究所に所属。 2001年に米国細胞生物学協会(American Society for Cell Biology)の会長を務めた。 2002年から現職。2019年王立協会外国人会員選出。 | [
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] | エレイン・フックスは、アメリカ合衆国の生物学者。ロックフェラー大学教授。リバース・ジェネティクスの手法を用いて、細胞骨格の要素としてのケラチンの機能と、変異したケラチンの機能不全や、それによって引き起こされるの皮膚疾患の研究を行っている。 | [[File:Pr Elaine Fuchs.png|thumb|エレイン・フックス]]
'''エレイン・フックス'''(Elaine Viola Fuchs, [[1950年]][[5月5日]] - )は、[[アメリカ合衆国]]の[[生物学者]]。[[ロックフェラー大学]]教授。[[逆遺伝学|リバース・ジェネティクス]]の手法を用いて、細胞骨格の要素としての[[ケラチン]]の機能と、変異したケラチンの機能不全や、それによって引き起こされるの皮膚疾患の研究を行っている。
== 経歴 ==
[[イリノイ州]]出身。1972年に[[イリノイ大学]]卒業、1977年に[[プリンストン大学]]で生化学の[[Ph.D.]]を取得。[[マサチューセッツ工科大学]]で[[博士研究員]]となる。 1980年[[シカゴ大学]]助教授、1989年教授に就任。1988 年以来、[[ハワード・ヒューズ医学研究所]]に所属。 2001年に米国細胞生物学協会(American Society for Cell Biology)の会長を務めた。 2002年から現職。2019年[[王立協会]]外国人会員選出。
== 主な受賞歴 ==
* 2001年: [[リチャード・ラウンズベリー賞]]
* 2004年: [[ディクソン賞]]医学部門
* 2008年: [[アメリカ国家科学賞]]
* 2010年: [[ロレアル-ユネスコ女性科学賞]]
* 2011年: [[パサノ賞]]
* 2011年: [[オールバニ・メディカルセンター賞]]
* 2012年: [[発生生物学マーチ・オブ・ダイムズ賞]]
* 2015年: [[E・B・ウィルソン・メダル]]
* 2020年: [[ガードナー国際賞]]
* 2023年: [[ベンジャミン・フランクリン・メダル (フランクリン協会)|ベンジャミン・フランクリン・メダル]]
== 参照 ==
* [https://lab.rockefeller.edu/fuchs/ Laboratory of Mammalian Cell Biology and Development]
* [https://www.hhmi.org/scientists/elaine-fuchs Elaine Fuchs, PhD]
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[[Category:アメリカ合衆国の分子生物学者]]
[[Category:20世紀アメリカ合衆国の女性科学者]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9 |
4,840,708 | 山根昌守 | 山根 昌守(やまね まさもり、1964年9月27日 - )は、日本のボクシング指導者。事業家。大阪市生野区出身。
※
中学3年から新大阪帝拳に入り安達会長の元、渡辺二郎らと一緒にトレーニングをする。高校を1年で退学後、王寺工業高等学校ボクシング部にて樋山茂より指導を受ける。成年部の強化合宿に参加させてもらいオリンピック選手の高見公明(現王寺工業高監督)とスパーリングなどの指導を受ける。国体予選に出場し、奈良県ジュニアのフェザー級代表に選ばれ国体代表になるが喧嘩をしたことにより奈良県アマチュアボクシング選手登録を抹消され、選手活動を終える。
中卒のため、就職先が見つからず、ようやく21歳の時、北新地のクラブでボーイとして働く。
翌年、アメリカ村タイムズスクエア内のカジュアル服店キャッツ入社。営業成績を伸ばし、取引先から再三にわたり独立を勧められ、1987年、20万円の資本でカジュアル服チャンプ設立。フリーマーケットや有名スーパーなどでの催事販売を基本とする独自アイデアの製造販売方法で業績を伸ばす。
1989年には中古輸入車販売業アティックオート設立。
1995年、30歳で淀川区にワンルームマンションを建設、賃貸事業を始める。
2000年、アティックオートを展示車と修理工場を併せた店舗に拡大。独自の戦略サービスとしてメンテナンスフリーを考案し経営拡大する。
2002年、アメリカ・ロサンゼルスに行き、ハマーH2を並行輸入し独自の宣伝手法で新車販売へと業務拡大。
2008年、十三で最大級のパチンコ店「風月荘」パチンコ部門のコンサベーダー取締役就任。同年、淀川未来株式会社設立(資産管理会社)。
2017年12月、アティックオート株式会社閉店。元取締役店長による不正競争防止法違反があり、代表取締役社長の責任で閉店した。
ロンドン五輪の決勝で村田諒太のセコンドについた。これは決勝当日、山根明の指示によるもの。いわゆる山根騒動の際、「ボクシング経験のない山根昌守チームリーダーが五輪決勝のセコンドにつくのはおかしい」と非難されたが、前記のとおりボクシング経験はある上、山根明会長の戦略的指示によるもので、山根昌守の独断でも意向でもなかったと本人が語っている。
父・山根明が日本ボクシング連盟会長に就任する数年前から、父の要請を受け、予算の乏しい日本ボクシング連盟の活動資金や会長の交際費・ロビー活動費用などを提供するよう求められた。昌守はこれに応じ、多額の資金を無償で提供すると共に、日本代表チーム用マイクロバスの提供、役員用の車両の貸与など、連盟の予算を遥かに上回る額の無償提供を非公式に行っていた。 | [
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] | 山根 昌守は、日本のボクシング指導者。事業家。大阪市生野区出身。 | {{Infobox 人物
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'''山根 昌守'''(やまね まさもり、1964年9月27日 - )は、日本のボクシング指導者<ref name=":0">ロンドンオリンピック2012 山根 昌守(ボクシング)プロフィール - JOC</ref><ref>H26UJ-ouza-pamphlet2.pdf 「アマチュアボクシング憲章」 - (jabf-revival.com)</ref>。事業家。[[大阪市]][[生野区]]出身<ref name=":0" />。
== 略歴 ==
※<ref>ボクシング連盟「山根明」氏が明かす半生 韓国から密航、息子との極貧生活…(3ページ目) - デイリー新潮 (dailyshincho.jp)</ref>
中学3年から[[新大阪帝拳]]に入り安達会長の元、[[渡辺二郎]]らと一緒にトレーニングをする。高校を1年で退学後、[[王寺工業高等学校]]ボクシング部にて[[樋山茂]]より指導を受ける。成年部の強化合宿に参加させてもらいオリンピック選手の[[高見公明]](現王寺工業高監督)とスパーリングなどの指導を受ける。国体予選に出場し、奈良県ジュニアのフェザー級代表に選ばれ国体代表になるが喧嘩をしたことにより奈良県アマチュアボクシング選手登録を抹消され、選手活動を終える。
== 役員指導者歴 ==
* 2000年
** [[山根明]]がボクシング日本代表監督として[[シドニー五輪]]に派遣された時、[[世界ボクシング連盟]](AIBA)会長チョドレー(当時)から要請を受け、日本チームとAIBAのサポート役として活動。この時はAIBAよりオリンピックIDを正式に交付された。
* 2001年
** 東アジア大会が大阪で開催された際、[[磯村隆文]]市長からホスト役として派遣を受け世界ボクシング連盟会長と大阪市のサポート役として活動に携わる。
* 2010年
** 奈良県ボクシング連盟役員登録。関西ボクシング連盟役員登録。
* 2011年
** インドネシア・ジャカルタ開催のプレジデントカップにて総監督を委嘱され、日本ボクシング連盟史上初めて国優勝を果たす。
** 第一回[[台北市カップ国際ボクシングトーナメント]]でも総監督として派遣を受け、連続で国優勝を果たす。
** 世界選手権(アゼルバイジャン)にも総監督として派遣される。この大会で[[村田諒太]]選手が銀メダル。[[2012年ロンドン五輪]]出場権を獲得。
* 2012年
** ロンドン五輪チームリーダー。[[清水聡 (ボクサー)|清水聡]]の試合で不可解なジャッジがあり、試合後にプロテスト(正式抗議)。これが認められ、清水のTKO勝ちとなった。これは五輪の歴史上初めてプロテストによって判定が覆った先例となった。次の試合に勝って準決勝に進んだ清水は日本アマチュアボクシング界に44年ぶりの五輪メダル獲得を果たした。また村田諒太選手は48年ぶりの金メダルを獲得。同一大会での複数メダル獲得は日本ボクシング連盟史上初。
* 2013年1月25日
** プロボクシング表彰式でアマチュア部門特別賞を受賞。
*2013年
** 日本ボクシング連盟副会長就任、幼年ボクシング委員長に就任する。
** 2014年、幼年ボクシングからアンダージュニアボクシングと名称変更を行う。第一回アンダージュニア(UJ)王座決定戦を大阪府立体育館で自費およびパンフレット広告収入で開催する。
* 2016年3月
** JOCスポーツアカデミー事業第8期ナショナルコーチアカデミー全課程修了。ナショナルコーチ資格を習得。
* 2017年
** [[第72回国民体育大会|愛媛国体]]後、日本ボクシング連盟の役職を辞任<ref>山根会長の長男・昌守氏も辞任 日本ボクシング連盟・吉森専務理事が明かす - /スポーツ/デイリースポーツ online (daily.co.jp)</ref>。
== 職歴 ==
中卒のため、就職先が見つからず、ようやく21歳の時、北新地のクラブでボーイとして働く。
翌年、[[アメリカ村]][[タイムズスクエア]]内のカジュアル服店キャッツ入社。営業成績を伸ばし、取引先から再三にわたり独立を勧められ、1987年、20万円の資本でカジュアル服チャンプ設立。フリーマーケットや有名スーパーなどでの催事販売を基本とする独自アイデアの製造販売方法で業績を伸ばす。
1989年には中古輸入車販売業アティックオート設立。
1995年、30歳で[[淀川区]]にワンルームマンションを建設、賃貸事業を始める。
2000年、アティックオートを展示車と修理工場を併せた店舗に拡大。独自の戦略サービスとしてメンテナンスフリーを考案し経営拡大する。
2002年、[[アメリカ]]・[[ロサンゼルス]]に行き、ハマーH2を並行輸入し独自の宣伝手法で新車販売へと業務拡大。
2008年、[[十三 (大阪市)|十三]]で最大級のパチンコ店「風月荘」パチンコ部門のコンサベーダー取締役就任。同年、淀川未来株式会社設立(資産管理会社)。
2017年12月、アティックオート株式会社閉店。元取締役店長による不正競争防止法違反があり、代表取締役社長の責任で閉店した。
== エピソード ==
ロンドン五輪の決勝で[[村田諒太]]のセコンドについた。これは決勝当日、[[山根明]]の指示によるもの。いわゆる山根騒動の際、「ボクシング経験のない山根昌守チームリーダーが五輪決勝のセコンドにつくのはおかしい」と非難されたが、前記のとおりボクシング経験はある上、山根明会長の戦略的指示によるもので、山根昌守の独断でも意向でもなかったと本人が語っている。
父・山根明が[[日本ボクシング連盟]]会長に就任する数年前から、父の要請を受け、予算の乏しい日本ボクシング連盟の活動資金や会長の交際費・ロビー活動費用などを提供するよう求められた。昌守はこれに応じ、多額の資金を無償で提供すると共に、日本代表チーム用マイクロバスの提供、役員用の車両の貸与など、連盟の予算を遥かに上回る額の無償提供を非公式に行っていた。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
{{DEFAULTSORT:やまね まさもり}}
[[Category:アマチュアボクシング]]
[[Category:日本のボクシングトレーナー]]
[[Category:大阪市出身の人物]]
[[Category:日本のボクシングに関する人物]]
[[Category:永久追放されたスポーツ関係者]] | 2023-10-12T16:18:24Z | 2023-12-04T17:23:22Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%A0%B9%E6%98%8C%E5%AE%88 |
4,840,709 | BNB (暗号通貨) | BNB(現:Bulid and Bulid, 旧:Binance Coin)は、Binanceの独自ブロックチェーンBNB Chainのネイティブトークンである。
2022年2月15日に、Binanceは独自ブロックチェーンである「Binance Chain」と「Binance Smart Chain」の名称を、それぞれ「BNB Beacon Chain」と「BNB Smart Chain」に変更し、それらを総称して「BNB Chain」と呼称したが、併せて仮想通貨BNB(旧:Binance Coin)もBuild and Buildに名称変更された。海外取引所である「Binance」という名称がBNBから完全に取り除かれ、1つの取引所の枠を超えてコミュニティ主導で継続的な開発が行われていることを強調する名称となった。
BNB ChainのネイティブトークンであるBNBは、チェーン上のトランザクションのガス代として機能すると同時に、ネットワーク全体のガバナンストークンとしても機能する。
2023年10月13日時点では、時価総額は約4.7兆円となっており、仮想通貨時価総額ランキングでは、ビットコイン、イーサリアム、USDTに続く第4位に位置する。
BNBは2017年7月に総供給量2億枚を上限に、新規仮想通貨公開(ICO)が行われ、1億枚が一般投資家に向けて販売され、残りの8000万枚が創業者と開発チーム、2000万枚がエンジェル投資家に割り当てられた。
当初はイーサリアムトークンとして始まり、後に2020年9月にローンチされたBinance Smart Chain(現:BNB Smart Chain)に移行した。
2022年2月15日、Binance CoinからBuild and Buildに名称が変更されることが発表された。
BNBは2017年7月に総供給量約2億枚が全て発行済み。市場における循環枚数を減らすためにバーンが行われており、1億枚まで減らすことが計画されている。
BNBのバーンの手法には、ガス代の一部がバーンされる「Real-Time Burn」と、Binanceが四半期に一度自動で買い戻しを行う「Quartely Auto-Burn」の2種類がある。2023年10月13日時点では、これまで総供給量の24%に当たる合計4800万枚のBNBがバーンされている。 | [
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] | BNB(現:Bulid and Bulid, 旧:Binance Coin)は、Binanceの独自ブロックチェーンBNB Chainのネイティブトークンである。 2022年2月15日に、Binanceは独自ブロックチェーンである「Binance Chain」と「Binance Smart Chain」の名称を、それぞれ「BNB Beacon Chain」と「BNB Smart Chain」に変更し、それらを総称して「BNB Chain」と呼称したが、併せて仮想通貨BNB(旧:Binance Coin)もBuild and Buildに名称変更された。海外取引所である「Binance」という名称がBNBから完全に取り除かれ、1つの取引所の枠を超えてコミュニティ主導で継続的な開発が行われていることを強調する名称となった。 BNB ChainのネイティブトークンであるBNBは、チェーン上のトランザクションのガス代として機能すると同時に、ネットワーク全体のガバナンストークンとしても機能する。 2023年10月13日時点では、時価総額は約4.7兆円となっており、仮想通貨時価総額ランキングでは、ビットコイン、イーサリアム、USDTに続く第4位に位置する。 | '''BNB(現:Bulid and Bulid, 旧:Binance Coin)'''は、[[Binance]]の独自[[ブロックチェーン]]BNB Chainのネイティブトークンである。{{Infobox cryptocurrency
<!-- QID=Q114252666 -->|currency_name=Build'N'Build|previous_names=Binance Coin|image_1=BNB, native cryptocurrency for the Binance Smart Chain.svg|image_2=|image_width_1=150|image_width_2=110|image_title_1=|symbol=|ticker_symbol=BNB|coin_definition=|white_paper=[http://cryptoverze.s3.us-east-2.amazonaws.com/wp-content/uploads/2018/10/10011630/Binance-Coin-BNB-Whitepaper_reduce.pdf BNB Whitepaper]|implementations=|initial_release_version=|initial_release_date={{Start date and age|2017|07}}|code_repository=|status=|latest_release_version=|latest_release_date=|forked_from=|programming_languages=|operating_system=|author=|developer=|source_model=|license=|website=www.bnbchain.org|block_explorer=bscscan.com|ledger_genesis=|hash_function=|issuance=|timestamping=|block_time=|block_reward=|circulating_supply=<!-- Requires a reliable source. -->|supply_limit=200,000,000|exchange_rate=|market_cap=<!-- Requires a reliable source. -->|size=}}2022年2月15日に、Binanceは独自ブロックチェーンである「Binance Chain」と「Binance Smart Chain」の名称を、それぞれ「BNB Beacon Chain」と「BNB Smart Chain」に変更し、それらを総称して「BNB Chain」と呼称したが、併せて仮想通貨BNB(旧:Binance Coin)もBuild and Buildに名称変更された。海外取引所である「Binance」という名称がBNBから完全に取り除かれ、1つの取引所の枠を超えてコミュニティ主導で継続的な開発が行われていることを強調する名称となった<ref>{{Cite web |title=BINANCE:独自ブロックチェーンの名称を「BNB Chain」に改名 |url=https://bittimes.net/news/122055.html |website=仮想通貨ニュースメディア ビットタイムズ |access-date=2023-10-12 |language=ja}}</ref>。
BNB ChainのネイティブトークンであるBNBは、チェーン上のトランザクションのガス代として機能すると同時に、ネットワーク全体のガバナンストークンとしても機能する。
2023年10月13日時点では、時価総額は約4.7兆円となっており、仮想通貨時価総額ランキングでは、[[ビットコイン]]、[[イーサリアム]]、[[テザー (暗号通貨)|USDT]]に続く第4位に位置する<ref>{{Cite web |title=BNB(BNB)価格・チャート・時価総額 |url=https://coinmarketcap.com/ja/currencies/bnb/ |website=CoinMarketCap |access-date=2023-10-12 |language=ja}}</ref>。
== 歴史 ==
BNBは2017年7月に総供給量2億枚を上限に、[[Initial coin offering|新規仮想通貨公開(ICO)]]が行われ、1億枚が一般投資家に向けて販売され、残りの8000万枚が創業者と開発チーム、2000万枚が[[エンジェル投資家]]に割り当てられた<ref>{{Cite web |title=BNB Chain: Tokenomics |url=https://figment.io/insights/bnb-chain-tokenomics/ |website=Figment |date=2022-06-27 |access-date=2023-10-12 |language=en-US |last=Figment}}</ref>。
当初は[[イーサリアム]]トークンとして始まり、後に2020年9月にローンチされたBinance Smart Chain(現:BNB Smart Chain)に移行した。
2022年2月15日、Binance CoinからBuild and Buildに名称が変更されることが発表された。
== トークノミクス ==
BNBは2017年7月に総供給量約2億枚が全て発行済み。市場における循環枚数を減らすためにバーンが行われており、1億枚まで減らすことが計画されている。
BNBのバーンの手法には、ガス代の一部がバーンされる「Real-Time Burn」と、Binanceが四半期に一度自動で買い戻しを行う「Quartely Auto-Burn」の2種類がある<ref>{{Cite web |title=Introducing BEP-95 With a Real-Time Burning Mechanism |url=https://www.bnbchain.org/en/blog/introducing-bep-95-with-a-real-time-burning-mechanism |website=BNB Chain Blog |access-date=2023-10-12 |language=en}}</ref><ref>{{Cite web |title=仮想通貨BNB(バイナンスコイン)のバーンの仕組みを解説 |url=https://satou-didi.com/burn-bnb/ |website=ぱんだくりぷと |date=2022-8-26 |access-date=2023-10-12 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=What Is a Coin Burn? |url=https://academy.binance.com/en/articles/what-is-a-coin-burn |website=Binance Academy |access-date=2023-10-12 |language=en}}</ref>。2023年10月13日時点では、これまで総供給量の24%に当たる合計4800万枚のBNBがバーンされている<ref>{{Cite web |title=BNBBurn - BNB Real-Time Burn and Auto-Burn Schedule |url=https://www.bnbburn.info/ |website=www.bnbburn.info |access-date=2023-10-12}}</ref>。
== 脚注 ==
<references />
== 外部リンク ==
*[https://www.binance.com/ja/bnb BNBとは?] - バイナンス
[[Category:暗号通貨]] | 2023-10-12T16:24:18Z | 2023-10-16T15:59:43Z | false | false | false | [
"Template:Infobox cryptocurrency",
"Template:Cite web"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/BNB_(%E6%9A%97%E5%8F%B7%E9%80%9A%E8%B2%A8) |
4,840,717 | アウストラロスクス | アウストラロスクス(学名:Australosuchus)は、単一の種のみを含む、メコスクス類(英語版)に属す絶滅したワニの属。タイプ種アウストラロスクス・クラルカエ(Australosuchus clarkae)は古第三紀の後期漸新世から新第三紀の前期中新世にかけて生息しており、オーストラリアのエア湖盆地(英語版)から化石が産出している。南オーストラリア州で発見された標本に基づき、1991年にポール・ウィリスとラルフ・モルナーが記載した。
アウストラロスクスは南緯27度以南とメコスクス類のうち最も南に分布した属であり、「南のワニ」を意味する属名の由来にもなっている。この分布域は特殊であり、リバースレー世界遺産地域(英語版)を含め、ワニの多様性が高いことで知られる北のどの産地からも本種は産出していない。また南方の産地でもワニの化石はよく発見されているが、それらの化石は全てアウストラロスクス属のものであるようであり、をはじめとする地域では産出しない。ある説によれば、アウストラロサクスはバル(英語版)のような同時代の属種に比べて特に寒冷に強く、そのため近縁属にとって寒冷のため生息不可能であった淡水域にも生息することができたとされる。
バル(英語版)の発表の直後、1991年にアウストラロスクスが命名された。本属はメコスクス類の中で四番目に早く記載され、オーストラリア固有の新生代のワニとして最初に記載されたものの1つとなった。他のメコスクス類と同様に、本属の化石は発見から命名までに長い時間を要しており、化石が最初に論文中で言及されたのは1968年のことであった。1975年に収集されたホロタイプ標本 QM F16788 はほぼ完全な頭蓋骨と下顎、複数の椎骨、前肢の一部、背側の皮骨板が保存されていた。産出層準は南オーストラリア州に分布するEtadunna層であった。加えて上部漸新統から下部中新統にかけてのEtadunna層からは多数の追加の化石が産出しており、Namba層やWipijiri Formation層からも産出した。一部の化石については後期鮮新世から前期更新世と解釈されているMampuwordu砂丘から産出したものであると当初記載されていたが、これはエタドゥナ層の下部の層準から産出して再堆積したことが提唱されている。
属名はラテン語の"australis"とギリシア語の"suchus"に由来し、組み合わせて「南のワニ」を意味する。種小名は調査プロジェクトを支持したエライン・クラークを讃えたものである。
アウストラロスクスは中型のワニであり、その頭部は中程度に幅広くかつ平坦であった。鼻孔は標本によって円形から卵型で、僅かに隆起する。左右の前上顎骨には5本の歯が並び、また生存時には下顎の歯に対応したpitも見られる。これらのpitは上顎の歯の僅かに内側かあるいは上顎の歯の間に位置する。最前側のpitは特に1対目の歯と2対目の歯の間に位置しており、それらと噛み合っている。アウストラロスクスの標本のいくつかではこれらの歯が頭蓋骨の背側面を貫通しており、標本の背側からでも歯を受容する孔を見て取ることができる。前上顎骨と上顎骨が接する地点は、下顎に生えた大型の第四歯の位置と一致する。多くのワニ類と同様に上顎骨はこの第四歯を収容する形態をなすが、大半の属においては吻部が顕著に狭窄されているのに対し、アウストラロスクスは左右の歯骨が半分閉じた穴の中に滑り込むように収容される。このためアウストラロスクスは顎を閉じると第四歯が見えにくくなるため、外見はクロコダイルよりもアリゲーターに類似した。上顎骨はやや幅広かつ平坦で、左右それぞれに14本の歯が存在し、前側の6本は歯槽突起に沿って生える。上顎の歯列は偽異歯性(pseudoheterodont)で、切断の機能を持つ先端部は発達しているものの鋸歯を持たない。歯槽は吻部先端で丸く、後側で卵型となる。歯の大きさのパターンは典型的なワニと同じであり、最大の上顎骨歯が前側から5番目に位置しており、その後側の歯は単調に小型化する。前上顎骨と同様に、大半の歯骨歯を受け止めるpitは上顎の歯列の僅かに内側に存在する。これにより下顎の歯は口の外縁から排除されており、歯は噛み合うものの完全に噛み合うわけではないことが示唆される。
鼻骨は保存が悪いものの、化石証拠からは外鼻孔の縁まで伸びていたことが示唆される頬骨は細長く、方形頬骨は幅広かつ厚い。涙骨は細長く、眼窩の最前側の先端部を形成する。前前頭骨は涙骨から直接接続しており、鼻骨や前頭骨の前側突起と共にW字型の縫合線をなす。前頭骨は他のクロコダイルと同様に前側領域と後側領域に区分することができる。アウストラロスクスの前側突起は特に細長く、2個の鼻骨の間に伸びる。後側領域は頑強であり、眼窩が隆起しているため窪んでいる。頭蓋天井は台形で、大型かつ円形の上側頭窓を伴う。
上顎の歯と同様に下顎の歯も偽異歯性であり、またその歯は歯槽突起に沿って第14歯まで配列する。しかし、これらの特徴は年齢に依存する可能性があり、若い個体では顕著ではないようである。下顎には標本によって16 - 17本の歯が生えており、歯の大きさのパターンは典型的なワニのものと同様で、第1歯と第4歯が最大である。歯骨が癒合する部位である下顎結合は、標本によって第4 - 5歯骨歯まで伸びる。また結合部は幅広であり、同体格のイリエワニよりも広がっており、特に上向きでもある。顎の前側の歯槽は断面がより丸みを帯びており、顎の後側の歯槽の断面は卵型である。歯骨歯の歯冠は少数が保存されており、1対目の歯の歯冠は細長くかつ反り返っており、近心と遠心に切断に適した縁を持つ。第2 - 5歯の歯冠はこれらの縁が共通しており、また外側に圧縮されているように見える。第11歯に代表されるような後側の歯冠はカリナと圧縮を示すが、これらは前側の歯と比較して弱い。
多くの標本で体骨格が見られるが、これらの体骨格は一般に保存が良くなく、また詳細な記載もなされていない。一般に、アウストラロスクスの変え仇骨格は「オーストラリアで見られる現生のワニに類似するとされる。痕跡器官となった第5趾の爪先は他のワニよりも厚い。アウストラロスクスは中型のワニであり、ウィリスはその全長を3メートルと推定している。
アウストラロスクスはメコスクス類の研究が進む初期段階で記載されており、当時はオーストラリア固有のワニの拡散が提唱されたばかりであった。本属の記載に際して系統解析は実施されなかったが、クロコダイル科とアリゲーター科の両方に類似することや、そのため共有原始形質の状態にある可能性があることは指摘されていた。後の研究では、本属は一般的にメコスクス類に位置付けられている。形態・分子・層序情報を組み込んだ2018年の研究では、本属はメコスクス類の最も基盤的な位置に置かれた。Ristevski et al. (2023)の系統解析では本属は系統樹上の様々な位置に置かれたが、いずれにおいてもメコスクス類に置かれた。中にはカルティフロンス(英語版)をメコスクス類のうち最も基盤的な位置に置く樹形もあったが、8個の系統樹のうち4個ではアウストラロスクスがその位置を占めた。
ただし、他の類縁関係を支持する研究もある。Rio and Mannion (2021)の分子系統解析では、アウストラロスクスはクロコダイル科の姉妹群としてメコスクス類から除外された。Ristevski et al. (2023)の解析で実施された系統解析の大半では上に示すようにメコスクス類が単系統として得られたが、彼らの結果のうち2つは従来の系統樹と大きく離れており, Rio and Mannionの結果に近いものになった。これら2つではアウストラロスクスはロンギロストレス類(英語版)の分岐群に置かれ、カンバラと共にクロコダイル科に近づく位置に置かれた。しかし、両解析の結果はいずれもこれまでに得られた系統樹の樹形と大きく異なっている。さらに、Rio and Mannionの研究は純粋に形態的特徴に制限されたものであり、またRistevskiらの結果は彼ら自身の論文中で十分な裏付けがないことが言及されている。
外側に圧縮された鋭利で鋸歯を伴う歯や吻部の長い頭蓋骨といった特殊化した適応を持たないため、アウストラロスクスはメコスクス類の中では一般的な属であったと見られる。
アウストラロスクスは既知のメコスクス類の中では最も南の属である。このため、当時オーストラリアのより北部で見られた多様なワニ相からは本属は比較的隔離されており、特にもう1つの半水棲のジェネラリストであったバルが生息したリバースレー世界遺産地域からも隔絶されている。南オーストラリア州はアウストラロスクスの化石が豊富であるが、本属の化石は北部地域では発見されておらず、同様にバルもノーザンテリトリーやクイーンズランド州で多産するものの南部では見られない。これらの生態系は同時代のものであった。1997年にポール・ウィリスは両属が半水棲であるためアウストラロスクスはエア湖盆地、バルはカルンバ盆地を必要とし、その生息域における大規模な河川に縛られていたことを提唱した。しかし、この見解は後にアダム・イエーツによるPwerte Marnte Martre堆積層からのバルの化石の発見により否定された。これらの堆積層はエア湖盆地の北端に分布しており、バルとアウストラロスクスは地理的に隔離されていたとはいえ同時期に同一の盆地に出入りしていたことを示している。イェーツはさらに、この2つの盆地の間には淡水の河川が豊富に存在し、理論的には半水棲の形態でも2つの盆地を往来できたことを主張した。
アウストラロスクスと他のメコスクス類の生息域が重なっていないように見えることについて、イェーツは緯度で理由付けをした。両属とも同一の流域に生息しているが、アウストラロスクスの化石記録はすべて南緯27度以南のもので、南緯25度以南ではバルは発見されていない。ピンパ湖での化石の産出を踏まえると、アウストラロスクスの生息範囲は南緯31 - 27度となり、漸新世では南緯45 - 50度に相当する。イェーツはこの範囲を2つの意味で重要だと強調している。一つは現生のワニの北限である北緯36度を超過する緯度に本属の分布域が存在した点であり、もう一つは漸新世のオーストラリアが現代よりも寒冷であったことを指摘し、アウストラロスクスの生息域の異常性を強調している。このため、アウストラロスクスは強い耐寒性を持ち、他の同時代のメコスクス類の生息できない気温条件下で繁栄していたことが示唆される。 | [
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] | アウストラロスクスは、単一の種のみを含む、メコスクス類に属す絶滅したワニの属。タイプ種アウストラロスクス・クラルカエは古第三紀の後期漸新世から新第三紀の前期中新世にかけて生息しており、オーストラリアのエア湖盆地から化石が産出している。南オーストラリア州で発見された標本に基づき、1991年にポール・ウィリスとラルフ・モルナーが記載した。 アウストラロスクスは南緯27度以南とメコスクス類のうち最も南に分布した属であり、「南のワニ」を意味する属名の由来にもなっている。この分布域は特殊であり、リバースレー世界遺産地域を含め、ワニの多様性が高いことで知られる北のどの産地からも本種は産出していない。また南方の産地でもワニの化石はよく発見されているが、それらの化石は全てアウストラロスクス属のものであるようであり、をはじめとする地域では産出しない。ある説によれば、アウストラロサクスはバルのような同時代の属種に比べて特に寒冷に強く、そのため近縁属にとって寒冷のため生息不可能であった淡水域にも生息することができたとされる。 | {{生物分類表
|省略=爬虫綱
|名称 =アウストラロスクス
|地質時代 = [[古第三紀]][[漸新世]]
|地質時代2 = [[新第三紀]][[中新世]]
|画像=[[File:Australosuchus.jpg|250px]]
|画像キャプション=''Australosuchus clarkae''のホロタイプ標本 QMF16788
|下綱階級なし = [[偽鰐類]] {{sname||Pseudosuchia}}
|上目 = [[ワニ形上目]] {{sname||Crocodylomorpha}}
|上目階級なし = [[新鰐類]] {{sname||Neosuchia}}
|目 = [[ワニ|ワニ目]] {{sname||Crocodilia}}
|属 = '''アウストラロスクス''' {{snamei||Australosuchus}}
|学名 = '''''Australosuchus''''' {{AUY|Willis & Molnar|1991}}
|下位分類名 = [[属 (分類学)|属]]
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*'''''Australosuchus clarkae''''' {{AUY|Willis & Molnar|1991}}
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'''アウストラロスクス'''([[学名]]:'''''Australosuchus''''')<ref name=共存>{{Cite book|和書|title=ワニと恐竜の共存 巨大ワニと恐竜の世界 |author=小林快次|authorlink=小林快次 |publisher=[[北海道大学出版会]] |isbn=978-4-8329-1398-1 |page=37 |date=2013-07-25}}</ref>は、単一の種のみを含む、{{仮リンク|メコスクス類|en|Mekosuchinae}}に属す[[絶滅]]した[[ワニ]]の[[属 (分類学)|属]]。タイプ種'''アウストラロスクス・クラルカエ'''('''''Australosuchus clarkae''''')は[[古第三紀]]の後期[[漸新世]]から[[新第三紀]]の前期[[中新世]]にかけて生息しており、[[オーストラリア]]の{{仮リンク|エア湖盆地|en|Lake Eyre basin}}から[[化石]]が産出している。[[南オーストラリア州]]で発見された標本に基づき、1991年にポール・ウィリスとラルフ・モルナーが記載した。
アウストラロスクスは南緯27度以南とメコスクス類のうち最も南に分布した属であり、「南のワニ」を意味する属名の由来にもなっている。この分布域は特殊であり、ワニの多様性が高いことで知られる北のどの産地からも本種は産出していない。また南方の産地でもワニの化石はよく発見されているが、それらの化石は全てアウストラロスクス属のものであるようであり、{{仮リンク|リバースレー世界遺産地域|en|Riversleigh World Heritage Area}}のような地域にいる種は見られない。ある説によれば、アウストラロサクスは{{仮リンク|バル (ワニ)|label=バル|en|Baru}}のような同時代の属種に比べて特に寒冷に強く、そのため近縁属にとって寒冷のため生息不可能であった淡水域にも生息することができたとされる。
== 発見と命名 ==
{{仮リンク|バル (ワニ)|label=バル|en|Baru}}の発表の直後、1991年にアウストラロスクスが命名された。本属はメコスクス類の中で四番目に早く記載され、オーストラリア固有の[[新生代]]のワニとして最初に記載されたものの1つとなった。他のメコスクス類と同様に、本属の化石は発見から命名までに長い時間を要しており、化石が最初に論文中で言及されたのは1968年のことであった。1975年に収集されたホロタイプ標本 QM F16788 はほぼ完全な頭蓋骨と下顎、複数の椎骨、前肢の一部、背側の皮骨板が保存されていた。産出層準は南オーストラリア州に分布するEtadunna層であった。加えて上部漸新統から下部中新統にかけてのEtadunna層からは多数の追加の化石が産出しており、Namba層やWipijiri Formation層からも産出した。一部の化石については後期[[鮮新世]]から前期[[更新世]]と解釈されているMampuwordu砂丘から産出したものであると当初記載されていたが、これはエタドゥナ層の下部の層準から産出して再堆積したことが提唱されている<ref name=WM91>{{cite journal|author1=Willis, P.M.A. |author2=Molnar, R.E. |name-list-style=amp |year=1991 |title=A new middle Tertiary crocodile from Lake Palankarinna, South Australia |journal=Records of the South Australian Museum |volume=25 |issue=1 |pages=39–55 |url=https://www.biodiversitylibrary.org/page/40724793#page/42/mode/1up }}</ref><ref name=R23b/><ref name=W97/>。
属名はラテン語の"australis"とギリシア語の"suchus"に由来し、組み合わせて「南のワニ」を意味する。種小名は調査プロジェクトを支持したエレイン・クラークを讃えたものである<ref name=WM91/>。
== 特徴 ==
[[File:Australosuchus skull.png|thumb|left|''Australosuchus''の復元頭蓋骨]]
アウストラロスクスは中型のワニであり、その頭部は中程度に幅広くかつ平坦であった<ref name=WM91/>。鼻孔は標本によって円形から卵型で、僅かに隆起する。左右の[[前上顎骨]]には5本の歯が並び、また生存時には下顎の歯を収容していたであろう窪みも見られる。これらの窪みは上顎の歯の僅かに内側かあるいは上顎の歯の間に位置する。最前側の窪みは特に1対目の歯と2対目の歯の間に位置しており、それらと噛み合っている。アウストラロスクスの標本のいくつかではこれらの歯が頭蓋骨の背側面を貫通しており、標本の背側からでも歯を受容する孔を見て取ることができる。前上顎骨と[[上顎骨]]が接する地点は、下顎に生えた大型の第四歯の位置と一致する。多くのワニ類と同様に上顎骨はこの第四歯を収容する形態をなすが、大半の属においては吻部が顕著に狭窄しているのに対し、アウストラロスクスは左右の歯骨が半分閉じた穴の中に滑り込むように収容される。このためアウストラロスクスは顎を閉じると第四歯が見えにくくなるため、外見はクロコダイルよりもアリゲーターに類似した。上顎骨はやや幅広かつ平坦で、左右それぞれに14本の歯が存在し、前側の6本は歯槽突起に沿って生える。上顎の歯列は偽異歯性(pseudoheterodont)で、切断の機能を持つ先端部は発達しているものの鋸歯を持たない。歯槽は吻部先端で丸く、後側で卵型となる。歯の大きさのパターンは典型的なワニと同じであり、最大の上顎骨歯が前側から5番目に位置しており、その後側の歯は単調に小型化する。前上顎骨と同様に、大半の歯骨歯を受け止める窪みは上顎の歯列の僅かに内側に存在する。これにより下顎の歯は口の外縁から排除されており、歯は噛み合うものの完全に噛み合うわけではないことが示唆される<ref name=WM91/>。
[[鼻骨]]は保存が悪いものの、化石証拠からは外鼻孔の縁まで伸びていたことが示唆される[[頬骨]]は細長く、[[方形頬骨]]は幅広かつ厚い。[[涙骨]]は細長く、[[眼窩]]の最前側の先端部を形成する。[[前前頭骨]]は涙骨から直接接続しており、鼻骨や[[前頭骨]]の前側突起と共にW字型の縫合線をなす。前頭骨は他のクロコダイルと同様に前側領域と後側領域に区分することができる。アウストラロスクスの前側突起は特に細長く、2個の鼻骨の間に伸びる。後側領域は頑強であり、眼窩が隆起しているため窪んでいる。頭蓋天井は台形で、大型かつ円形の上[[側頭窓]]を伴う<ref name=WM91/>。
上顎の歯と同様に下顎の歯も偽異歯性であり、またその歯は歯槽突起に沿って第14歯まで配列する。しかし、これらの特徴は年齢に依存する可能性があり、若い個体では顕著ではないようである。下顎には標本によって16 - 17本の歯が生えており、歯の大きさのパターンは典型的なワニのものと同様で、第1歯と第4歯が最大である。歯骨が癒合する部位である下顎結合は、標本によって第4 - 5歯骨歯まで伸びる。また結合部は幅広であり、同体格の[[イリエワニ]]よりも広がっており、特に上向きでもある。顎の前側の歯槽は断面がより丸みを帯びており、顎の後側の歯槽の断面は卵型である。歯骨歯の歯冠は少数が保存されており、1対目の歯の歯冠は細長くかつ反り返っており、近心と遠心に切断に適した縁を持つ。第2 - 5歯の歯冠はこれらの縁が共通しており、また外側に圧縮されているように見える。第11歯に代表されるような後側の歯冠はカリナと圧縮を示すが、これらは前側の歯と比較して弱い<ref name=WM91/>。
[[File:Australosuchus size.png|thumb|記載された最大のアウストラロスクスとヒトの大きさ比較]]
多くの標本で体骨格が見られるが、これらの体骨格は一般に保存が良くなく、また詳細な記載もなされていない。一般に、アウストラロスクスの体骨格はオーストラリアで見られる現生のワニに類似すると記載されている。痕跡器官となった第5趾は他のワニよりも頑丈で太い<ref name=WM91/>。アウストラロスクスは中型のワニであり、ウィリスはその全長を3メートルと推定している<ref name=W97/>。
== 系統 ==
アウストラロスクスはメコスクス類の研究が進む初期段階で記載されており、当時はオーストラリア固有のワニの拡散が提唱されたばかりであった。本属の記載に際して系統解析は実施されなかったが、[[クロコダイル科]]と[[アリゲーター科]]の両方に類似することや、そのため[[共有原始形質]]の状態にある可能性があることは指摘されていた<ref name=WM91/>。後の研究では、本属は一般的にメコスクス類に位置付けられている。形態・分子・層序情報を組み込んだ2018年の研究では、本属はメコスクス類の最も基盤的な位置に置かれた。Ristevski ''et al.'' (2023)の系統解析では本属は系統樹上の様々な位置に置かれたが、いずれにおいてもメコスクス類に置かれた。中には{{仮リンク|カルティフロンス|en|Kalthifrons}}をメコスクス類のうち最も基盤的な位置に置く樹形もあったが、8個の系統樹のうち4個ではアウストラロスクスがその位置を占めた<ref name=LY18>{{cite journal | author=Michael S. Y. Lee |author2=Adam M. Yates |date=27 June 2018 |title=Tip-dating and homoplasy: reconciling the shallow molecular divergences of modern gharials with their long fossil |journal=[[Proceedings of the Royal Society B]] |volume=285 |issue=1881 |doi=10.1098/rspb.2018.1071 |pmid=30051855 |pmc=6030529 |doi-access=free}}</ref><ref name=R23b>{{Cite journal|last1= Ristevski |first1=J. |last2=Willis |first2=P.M.A. |last3=Yates |first3=A.M. |last4=White |first4=M.A. |last5=Hart |first5=L.J. |last6=Stein |first6=M.D. |last7=Price |first7=G.J. |last8=Salisbury |first8=S.W. |year=2023 |title=Migrations, diversifications and extinctions: the evolutionary history of crocodyliforms in Australasia |journal=Alcheringa: An Australasian Journal of Palaeontology |pages=1–46 |doi=10.1080/03115518.2023.2201319 |s2cid=258878554 |doi-access=free}}</ref>。
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ただし、他の類縁関係を支持する研究もある。Rio and Mannion (2021)の分子系統解析では、アウストラロスクスは[[クロコダイル科]]の姉妹群としてメコスクス類から除外された。Ristevski ''et al.'' (2023)の解析で実施された系統解析の大半では上に示すようにメコスクス類が単系統として得られたが、彼らの結果のうち2つは従来の系統樹と大きく離れており, Rio and Mannionの結果に近いものになった。これら2つではアウストラロスクスは{{仮リンク|ロンギロストレス類|en|Longirostres}}の分岐群に置かれ、カンバラと共にクロコダイル科に近づく位置に置かれた。しかし、両解析の結果はいずれもこれまでに得られた系統樹の樹形と大きく異なっている。さらに、Rio and Mannionの研究は純粋に形態的特徴に制限されたものであり、またRistevskiらの結果は彼ら自身の論文中で十分な裏付けがないことが言及されている<ref name=Rio21>{{cite journal |last1=Rio |first1=Jonathan P. |last2=Mannion |first2=Philip D. |date=6 September 2021 |title=Phylogenetic analysis of a new morphological dataset elucidates the evolutionary history of Crocodylia and resolves the long-standing gharial problem |journal=[[PeerJ]] |volume=9 |pages=e12094 |doi=10.7717/peerj.12094 |pmid=34567843 |pmc=8428266 |doi-access=free}}</ref><ref name=R23b/>。
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== 古生物学 ==
外側に圧縮された鋭利で鋸歯を伴う歯や吻部の長い頭蓋骨といった特殊化した適応を持たないため、アウストラロスクスはメコスクス類の中では一般的な属であったと見られる<ref name=WM91/>。
[[File:Baru Australosuchus distribution.jpg|thumb|''Baru wickeni''とアウストラロスクスの分布域の比較]]
アウストラロスクスは既知のメコスクス類の中では最も南の属である。このため、当時オーストラリアのより北部で見られた多様なワニ相からは本属は比較的隔離されており、特にもう1つの半水棲のジェネラリストであったバルが生息したリバースレー世界遺産地域からも隔絶されている。南オーストラリア州はアウストラロスクスの化石が豊富であるが、本属の化石は北部地域では発見されておらず、同様にバルも[[ノーザンテリトリー]]や[[クイーンズランド州]]で多産するものの南部では見られない。これらの生態系は同時代のものであった。1997年にポール・ウィリスは両属が半水棲であるためアウストラロスクスはエア湖盆地、バルはカルンバ盆地を必要とし、その生息域における大規模な河川に縛られていたことを提唱した<ref name=W97>{{Cite journal|last1=Willis |first1=P. M. A. |year=1997 |title=Review of fossil crocodilians from Australasia. |url=https://meridian.allenpress.com/australian-zoologist/article/30/3/287/134518/Review-of-fossil-crocodilians-from-Australasia |journal=Australian Zoologist|volume=30|issue=3|pages=287–298 |doi=10.7882/AZ.1997.004 |s2cid=84580859 |doi-access=free}}</ref>。しかし、この見解は後にアダム・イエーツによるPwerte Marnte Martre堆積層からのバルの化石の発見により否定された。これらの堆積層はエア湖盆地の北端に分布しており、バルとアウストラロスクスは地理的に隔離されていたとはいえ同時期に同一の盆地に出入りしていたことを示している。イェーツはさらに、この2つの盆地の間には淡水の河川が豊富に存在し、理論的には半水棲の形態でも2つの盆地を往来できたことを主張した<ref name=Y17/>。
アウストラロスクスと他のメコスクス類の生息域が重なっていないように見えることについて、イェーツは緯度で理由付けをした。両属とも同一の流域に生息しているが、アウストラロスクスの化石記録はすべて南緯27度以南のもので、南緯25度以南ではバルは発見されていない。ピンパ湖での化石の産出を踏まえると、アウストラロスクスの生息範囲は南緯31 - 27度となり、漸新世では南緯45 - 50度に相当する。イェーツはこの範囲を2つの意味で重要だと強調している。一つは現生のワニの北限である北緯36度を超過する緯度に本属の分布域が存在した点であり、もう一つは漸新世のオーストラリアが現代よりも寒冷であったことを指摘し、アウストラロスクスの生息域の異常性を強調している。このため、アウストラロスクスは強い耐寒性を持ち、他の同時代のメコスクス類の生息できない気温条件下で繁栄していたことが示唆される<ref name=Y17>{{Cite journal|last1=Yates|first1=A.M.|year=2017|title=The biochronology and palaeobiogeography of Baru (Crocodylia: Mekosuchinae) based on new specimens from the Northern Territory and Queensland, Australia.|journal=PeerJ|volume=5|pages=e3458 |doi=10.7717/peerj.3458 |pmid=28649471 |pmc=5482264 |doi-access=free }}</ref><ref name=R23b/>。
== 出典 ==
{{Reflist|2}}
{{デフォルトソート:あうすとらろすくす}}
[[Category:化石ワニ目]]
[[Category:オーストラリア産の化石]]
[[Category:1991年に記載された化石分類群]] | 2023-10-12T16:42:14Z | 2023-10-15T18:55:10Z | false | false | false | [
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4,840,721 | 豊岡治資 | 豊岡 治資(とよおか はるすけ)は、江戸時代後期から幕末にかけて活動した公卿。名家豊岡家の第8代当主。
寛政元年11月11日(1789年12月27日)、豊岡和資の子として誕生。母は高丘敬季の娘。
寛政5年1月5日(1793年2月15日)、叙爵。享和3年12月17日(1804年1月29日)、元服し昇殿を許され、拝賀した。
文化4年9月22日(1807年10月23日)、恵仁親王への親王宣下があり、親王の職事となった。文化6年3月24日(1809年5月8日)、立太子と坊官除目があり、春宮少進を兼ねて拝賀した。
文化14年3月22日(1817年5月7日)、光格天皇が譲位し恵仁親王(仁孝天皇)が践祚すると、光格上皇の院別当となり、同日拝賀した。
文政02年1月4日(1819年1月29日)、従三位に叙され、公卿に列せられた。同年4月13日(5月6日)、父の和資が薨去して服喪し、5月4日(6月25日)に除服出仕した。
文政5年1月1日(1822年1月23日)、元日節会の外弁を務めた。
文政6年12月19日(1824年1月19日)、正三位に昇叙した。これが極位となる。
文政7年1月1日(1824年1月31日)、元日節会の外弁を務めた。文政8年1月2日 (旧暦)(1825年2月19日)、白馬節会の外弁を務めた。文政10年1月2日(1827年1月28日)、再び白馬節会の外弁を務めた。文政11年1月1日(1828年2月16日)、元日節会の外弁を務めた。文政12年11月14日(1829年12月9日)、豊明節会の外弁を務めた。天保4年1月2日(1833年2月21日)、白馬節会の外弁を務めた。天保6年11月19日(1836年1月7日)、再び豊明節会の外弁を務めた。天保8年1月1日(1837年2月5日)、元日節会の外弁を務めた。天保9年1月1日(1838年1月26日)、再び元日節会の外弁を務めた。天保10年1月12日(1839年2月25日)、踏歌節会の外弁を務めた。天保11年1月2日(1840年2月4日)、白馬節会の外弁を務めた。
天保11年11月18日(1840年12月11日)に光格上皇が崩御すると、同年12月20日(1841年1月12日)、御服を賜った。翌年1月20日(1841年2月11日)、除服を宣下された。
天保13年1月14日(1842年2月23日)、踏歌節会の外弁を務めた。天保14年1月1日(1843年1月30日)、元日節会の外弁を、11月24日(1844年1月13日)、豊明節会の外弁を務めた。天保15年1月2日(1844年2月19日)、白馬節会の外弁を務めた。弘化2年1月1日(1845年2月7日)、元日節会の外弁を務めた。弘化3年1月12日(1846年2月7日)、踏歌節会の外弁を務めた。
弘化5年1月12日(1848年2月16日)、踏歌節会の外弁を務め、一献の後退出した。嘉永2年1月2日(1849年1月25日)、白馬節会の外弁を務めた。嘉永5年1月1日(1852年1月21日)、元日節会の外弁を務めた。嘉永6年1月2日(1853年2月9日)、白馬節会の外弁を務め、同年11月15日(1853年12月15日)、豊明節会の外弁を務め、二献の後に退出した。
嘉永7年4月11日(1854年5月7日)、大蔵卿を辞し、同日薨去した。享年66歳。
文政二年以前は『公卿補任』第五篇, 仁孝天皇文政二年条を参照。
出典がないものは『平成新修旧華族家系大成』下巻, p. 203を参照。 | [
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"text": "天保11年11月18日(1840年12月11日)に光格上皇が崩御すると、同年12月20日(1841年1月12日)、御服を賜った。翌年1月20日(1841年2月11日)、除服を宣下された。",
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"text": "天保13年1月14日(1842年2月23日)、踏歌節会の外弁を務めた。天保14年1月1日(1843年1月30日)、元日節会の外弁を、11月24日(1844年1月13日)、豊明節会の外弁を務めた。天保15年1月2日(1844年2月19日)、白馬節会の外弁を務めた。弘化2年1月1日(1845年2月7日)、元日節会の外弁を務めた。弘化3年1月12日(1846年2月7日)、踏歌節会の外弁を務めた。",
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"text": "嘉永7年4月11日(1854年5月7日)、大蔵卿を辞し、同日薨去した。享年66歳。",
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"text": "文政二年以前は『公卿補任』第五篇, 仁孝天皇文政二年条を参照。",
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"text": "出典がないものは『平成新修旧華族家系大成』下巻, p. 203を参照。",
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] | 豊岡 治資は、江戸時代後期から幕末にかけて活動した公卿。名家豊岡家の第8代当主。 | {{基礎情報 公家
| 氏名 = 豊岡 治資
| 画像 = <!-- 画像ファイル名 -->
| 画像サイズ =
| 画像説明 = <!-- 画像の説明文 -->
| 時代 = [[江戸時代]]後期 - 末期
| 生誕 = [[寛政]]元年[[11月11日 (旧暦)|11月11日]]([[1789年]][[12月27日]])
| 死没 = [[嘉永]]7年[[4月11日 (旧暦)|4月11日]]([[1854年]][[5月7日]])
| 改名 =
| 別名 =
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 =
| 墓所 =
| 官位 = [[正三位]]大蔵卿
| 主君 = [[光格天皇]]→[[仁孝天皇]]→[[孝明天皇]]
| 氏族 = [[豊岡家]]
| 父母 = 父:[[豊岡和資]]
| 兄弟 =
| 妻 = [[舟橋貞子]]
| 子 = '''[[豊岡随資|随資]]'''、[[町尻量衡]]<br />''[[錦小路頼徳]]''
| 特記事項 =
| 花押 =
}}
'''豊岡 治資'''(とよおか はるすけ{{Sfn|『平成新修旧華族家系大成』下巻|p=203}})は、[[江戸時代]]後期から幕末にかけて活動した[[公卿]]。[[名家 (公家)|名家]][[豊岡家]]の第8代当主。
== 生涯 ==
=== 出生と前半生 ===
[[寛政]]元年[[11月11日 (旧暦)|11月11日]]([[1789年]][[12月27日]])、[[豊岡和資]]の子として誕生{{Sfn|『平成新修旧華族家系大成』下巻|p=203}}{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇文政二年条}}。母は[[高丘敬季]]の娘{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇文政二年条}}。
寛政5年[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]([[1793年]][[2月15日]])、[[叙爵]]{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇文政二年条}}。[[享和]]3年[[12月17日 (旧暦)|12月17日]]([[1804年]][[1月29日]])、[[元服]]し昇殿を許され、拝賀した{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇文政二年条}}。
[[文化 (元号)|文化]]4年[[9月22日 (旧暦)|9月22日]]([[1807年]][[10月23日]])、[[恵仁親王]]への親王宣下があり{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=光格天皇文化四年条}}、親王の職事となった{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇文政二年条}}。文化6年[[3月24日 (旧暦)|3月24日]]([[1809年]][[5月8日]])、立太子と坊官除目があり{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=光格天皇文化六年条}}、春宮少進を兼ねて拝賀した{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇文政二年条}}。
文化14年[[3月22日 (旧暦)|3月22日]]([[1817年]][[5月7日]])、[[光格天皇]]が譲位し恵仁親王([[仁孝天皇]])が践祚すると{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=光格天皇文化十四年条}}、光格上皇の[[院別当]]となり、同日拝賀した{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇文政二年条}}。
=== 公卿、外弁歴任 ===
[[文政]]{{0}}2年[[1月4日 (旧暦)|1月4日]]([[1819年]][[1月29日]])、[[従三位]]に叙され、公卿に列せられた{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇文政二年条}}。同年[[4月13日 (旧暦)|4月13日]]([[5月6日]])、父の和資が薨去して服喪し、[[5月4日 (旧暦)|5月4日]]([[6月25日]])に除服出仕した{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇文政二年条}}。
文政5年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]([[1822年]][[1月23日]])、[[元日節会]]の外弁を務めた{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇文政五年条}}。
文政6年12月19日([[1824年]][[1月19日]])、[[正三位]]に昇叙した{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇文政六年条}}。これが極位となる。
文政7年1月1日(1824年[[1月31日]])、元日節会の外弁を務めた{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇文政七年条}}。文政8年[[1月2日 (旧暦)]]([[1825年]][[2月19日]])、[[白馬節会]]の外弁を務めた{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇文政八年条}}。文政10年1月2日([[1827年]][[1月28日]])、再び白馬節会の外弁を務めた{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇文政十年条}}。文政11年1月1日([[1828年]][[2月16日]])、元日節会の外弁を務めた{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇文政十一年条}}。文政12年[[11月14日 (旧暦)|11月14日]]([[1829年]][[12月9日]])、[[豊明節会]]の外弁を務めた{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇文政十二年条}}。[[天保]]4年1月2日([[1833年]][[2月21日]])、白馬節会の外弁を務めた{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇天保四年条}}。天保6年[[11月19日 (旧暦)|11月19日]]([[1836年]][[1月7日]])、再び豊明節会の外弁を務めた{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇天保六年条}}。天保8年1月1日([[1837年]][[2月5日]])、元日節会の外弁を務めた{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇天保八年条}}。天保9年1月1日([[1838年]][[1月26日]])、再び元日節会の外弁を務めた{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇天保九年条}}。天保10年[[1月12日 (旧暦)|1月12日]]([[1839年]][[2月25日]])、[[踏歌節会]]の外弁を務めた{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇天保十年条}}。天保11年1月2日([[1840年]][[2月4日]])、白馬節会の外弁を務めた{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇天保十一年条}}。
=== 光格上皇の崩御 ===
天保11年[[11月18日 (旧暦)|11月18日]](1840年[[12月11日]])に光格上皇が崩御すると、同年[[12月20日 (旧暦)|12月20日]]([[1841年]][[1月12日]])、御服を賜った{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇天保十一年条}}。翌年[[1月20日 (旧暦)|1月20日]](1841年[[2月11日]])、除服を宣下された{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇天保十二年条}}。
天保13年[[1月14日 (旧暦)|1月14日]]([[1842年]][[2月23日]])、踏歌節会の外弁を務めた{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇天保十三年条}}。天保14年1月1日([[1843年]][[1月30日]])、元日節会の外弁を、[[11月24日 (旧暦)|11月24日]]([[1844年]][[1月13日]])、豊明節会の外弁を務めた{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇天保十四年条}}。天保15年1月2日(1844年[[2月19日]])、白馬節会の外弁を務めた{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇弘化元年条}}。弘化2年1月1日([[1845年]][[2月7日]])、元日節会の外弁を務めた{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇弘化二年条}}。弘化3年1月12日([[1846年]][[2月7日]])、踏歌節会の外弁を務めた{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇弘化三年条}}。
=== 孝明天皇の治世 ===
弘化5年1月12日([[1848年]][[2月16日]])、踏歌節会の外弁を務め、一献の後退出した{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=孝明天皇嘉永元年条}}。嘉永2年1月2日([[1849年]][[1月25日]])、白馬節会の外弁を務めた{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=孝明天皇嘉永二年条}}。嘉永5年1月1日([[1852年]][[1月21日]])、元日節会の外弁を務めた{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=孝明天皇嘉永五年条}}。嘉永6年1月2日([[1853年]][[2月9日]])、白馬節会の外弁を務め、同年[[11月15日 (旧暦)|11月15日]](1853年[[12月15日]])、豊明節会の外弁を務め、二献の後に退出した{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=孝明天皇嘉永六年条}}。
[[嘉永]]7年[[4月11日 (旧暦)|4月11日]]([[1854年]][[5月7日]])、大蔵卿を辞し、同日薨去した{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=孝明天皇安政元年条}}。享年66歳{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=孝明天皇安政元年条}}。
== 官歴 ==
文政二年以前は{{Harvnb|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇文政二年条}}を参照。
* [[寛政]]{{0}}5年{{0}}1月{{0}}5日([[1793年]]{{0}}2月15日)、[[従五位下]]
* [[享和]]{{0}}3年12月17日([[1804年]]{{0}}1月29日)、任左馬権頭、叙[[従五位上]]
* [[文化 (元号)|文化]]{{0}}3年{{0}}1月18日([[1806年]]{{0}}3月{{0}}7日)、叙[[正五位下]]
* 文化{{0}}6年{{0}}3月24日([[1809年]]{{0}}5月{{0}}8日)、兼春宮少進
* 文化{{0}}6年12月22日([[1810年]]{{0}}1月27日)、叙[[従四位下]]
* 文化{{0}}9年{{0}}2月{{0}}2日([[1812年]]{{0}}3月14日)、任右兵衛佐
* 文化{{0}}9年12月19日([[1813年]]{{0}}1月21日)、叙[[従四位上]]
* 文化12年12月19日([[1816年]]{{0}}1月17日)、叙[[正四位下]]
* [[文政]]{{0}}2年{{0}}1月{{0}}4日([[1819年]]{{0}}1月29日)、叙[[従三位]]
* 文政{{0}}2年{{0}}4月13日(1819年{{0}}5月{{0}}6日)、軽服{{Efn|父である[[豊岡和資]]の薨去に伴う。}}
* 文政{{0}}2年{{0}}5月{{0}}4日(1819年{{0}}6月25日)、除服出仕
* 文政{{0}}4年12月19日([[1822年]]{{0}}1月11日)、任大蔵卿{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇文政四年条}}{{Efn|同年[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]([[1822年]][[1月20日]])に拝賀した{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇文政四年条}}。}}
* 文政{{0}}6年12月19日([[1824年]]{{0}}1月19日)、叙[[正三位]]{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇文政六年条}}
* [[天保]]{{0}}2年{{0}}6月25日([[1831年]]{{0}}8月{{0}}2日)、服解{{Efn|母である[[高丘敬季]]の娘の死に伴う{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇天保二年条}}。}}
* 天保{{0}}2年{{0}}8月16日(1831年{{0}}9月21日)、除服出仕復任{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇天保二年条}}
* [[嘉永]]{{0}}7年{{0}}4月11日([[1854年]]{{0}}5月{{0}}7日)、辞大蔵卿、同日薨{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=孝明天皇安政元年条}}
== 系譜 ==
出典がないものは{{Harvnb|『平成新修旧華族家系大成』下巻|p=203}}を参照。
* 妻:貞子 - [[舟橋則賢]]四女
** 男子:[[豊岡随資]]
** 六男:[[町尻量衡]] - [[町尻量輔]]養子{{Sfn|『平成新修旧華族家系大成』下巻|p=566}}
** 養子:[[錦小路頼徳]] - [[唐橋在久]]長男、[[錦小路頼易]]養子{{Sfn|『平成新修旧華族家系大成』下巻|p=308}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|title=[[公卿補任]]|number=第五篇|others=[[黒板勝美]]・国史大系編修会編|publisher=[[吉川弘文館]]|series=新訂増補国史大系|year=1974|ref={{SfnRef|『公卿補任』第五篇}}}}
* {{Cite book|和書|title=[[平成新修旧華族家系大成]]|number=下巻|others=[[霞会館]]|publisher=吉川弘文館|year=1996|ref={{SfnRef|『平成新修旧華族家系大成』下巻}}}}
{{Normdaten}}
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[[Category:豊岡家|はるすけ]]
[[Category:江戸時代の公家]]
[[Category:正三位受位者]]
[[Category:1789年生]]
[[Category:1854年没]] | 2023-10-12T17:00:12Z | 2023-10-12T17:00:12Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%B2%A1%E6%B2%BB%E8%B3%87 |
4,840,722 | 保険院 | 保険院(ほけんいん)は、厚生省の外局。昭和13年(1938年)から昭和17年(1942年)まで置かれた。
昭和17年(1942年)廃止時点での組織。 | [
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] | 保険院(ほけんいん)は、厚生省の外局。昭和13年(1938年)から昭和17年(1942年)まで置かれた。 | {{複数の問題
| 出典の明記 = 2023年11月22日 (水) 17:03 (UTC)
| 参照方法 = 2023年11月22日 (水) 17:03 (UTC)
}}
'''保険院'''(ほけんいん)は、[[厚生省]]の外局。昭和13年(1938年)から昭和17年(1942年)まで置かれた。
== 沿革 ==
* 昭和13年(1938年)
** 1月11日 - 厚生省発足に伴い保険院が設置される。前身は[[内務省 (日本)|内務省]][[社会局]]保険部及び[[逓信省]][[簡易保険局]]。総務局(庶務課、企画課、数理課、施設課)、社会保険局(庶務課、監理課、医務課)、簡易保険局、健康保険相談所が置かれた。
** 7月 - 社会保険局に国民健康保険課が置かれる。
* 昭和14年(1939年) - 社会保険局に職員船員保険準備課が置かれる。
* 昭和15年(1940年) - 社会保険局に船員労災保険課が置かれる。国民健康保険課が国民保険課に改称される。また、健康保険相談所が健康保健保険指導所となる。
* 昭和17年(1942年) - 保険院廃止。総務局と社会保険局が統合され、保険局となった。また、簡易保険局は移管元の逓信省に再移管された。
== 組織 ==
昭和17年(1942年)廃止時点での組織。
* [[保険院総務局|総務局]]
** 庶務課
** 企画課
** 数理課
** 施設課
* [[社会保険局]]
** 庶務課
** 監理課
** 医務課
** 国民保険課
** 船員労災保険課
* [[簡易保険局]](旧逓信省簡易保険局)
* [[健康保健保険指導所]](旧健康保険相談所)
== 歴代幹部 ==
=== 保険院長官 ===
* [[進藤誠一]]
* [[樋貝詮三]]
=== 保険院総務局長 ===
* [[佐藤基]]
* [[川村秀文]]
* [[歌田千勝]]
=== 保険院社会保険局長 ===
* [[清水玄]]
* [[木村清司]]
* [[平井章]]
=== 保険院簡易保険局長 ===
* [[藤川靖]]
* [[前田穣]]
== 参考文献 ==
* 『厚生省二十年史』厚生問題研究会、1960年
== 関連項目 ==
* [[軍事保護院]]
* [[社会保険庁]]
* [[郵便貯金]]
* [[年金]]
{{Gov-stub}}
[[Category:廃止された外局]]
[[Category:1938年設立の政府機関]]
[[Category:1942年廃止の政府機関]]
[[Category:厚生労働省の歴史]]
[[Category:総務省の歴史]]
{{DEFAULTSORT:ほけんいん}} | 2023-10-12T17:14:40Z | 2023-11-22T17:03:34Z | false | false | false | [] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E9%99%BA%E9%99%A2 |
4,840,723 | 南カリフォルニア建築大学 | 南カリフォルニア建築大学(みなみカリフォルニアけんちくだいがく Southern California Institute of Architecture、略称SCI-Arc/サイアーク)は、アメリカ第2の都市ロサンゼルス東部の芸術地区(Art District)に位置する全米では数少ない建築専門の私立大学である。キャンパスのユニークな貨物倉庫デザインから「建築実験室」の異名を持ち、モットーの「既存の建築の限界を再考し、イノベーションを追求していく」という最も先鋭的な建築デザイン専門校といわれる。スイスにもサテライトキャンパスを有し、多様性ある相互交流は、新たな建築のイノベーションを生み出すエネルギー源となっている。
DesignIntelligence全米ランキング2019 (建築学部門)で17位で、建築学においては同地域の南カリフォルニア大学(USC)を凌ぎ、全米TOP15前後となっている。
SCI-Arcは、1972年にロサンゼルス西部のサンタモニカに設立され、その後、2001年にキャンパスは現在のSouth Santa Fe Avenue沿いのユニークな貨物倉庫デザインの建物(約60,000平方フィート)に移転した(リトル・トーキョーに近い)。創設者らは従来の建築学校が提供する教育でなく、より実験的な先鋭的観点からアプローチするコンセプトを掲げ、現在のモットーにも反映されている。
学生数は約500名程度の少数精鋭で、より実験的かつ先鋭的な建築・デザイン専門教育がデザインスタジオ中心に行われている。 | [
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"text": "南カリフォルニア建築大学(みなみカリフォルニアけんちくだいがく Southern California Institute of Architecture、略称SCI-Arc/サイアーク)は、アメリカ第2の都市ロサンゼルス東部の芸術地区(Art District)に位置する全米では数少ない建築専門の私立大学である。キャンパスのユニークな貨物倉庫デザインから「建築実験室」の異名を持ち、モットーの「既存の建築の限界を再考し、イノベーションを追求していく」という最も先鋭的な建築デザイン専門校といわれる。スイスにもサテライトキャンパスを有し、多様性ある相互交流は、新たな建築のイノベーションを生み出すエネルギー源となっている。",
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] | 南カリフォルニア建築大学は、アメリカ第2の都市ロサンゼルス東部の芸術地区に位置する全米では数少ない建築専門の私立大学である。キャンパスのユニークな貨物倉庫デザインから「建築実験室」の異名を持ち、モットーの「既存の建築の限界を再考し、イノベーションを追求していく」という最も先鋭的な建築デザイン専門校といわれる。スイスにもサテライトキャンパスを有し、多様性ある相互交流は、新たな建築のイノベーションを生み出すエネルギー源となっている。 DesignIntelligence全米ランキング2019 (建築学部門)で17位で、建築学においては同地域の南カリフォルニア大学(USC)を凌ぎ、全米TOP15前後となっている。 | {{混同|[[南カリフォルニア大学]]|x1=1880年設立の}}
{{Infobox University
|name = 南カリフォルニア建築大学
|native_name = Southern California Institute of Architecture
|image = Santa Fe Freight Depot, Los Angeles.jpg
|image_size = 250px
|motto = To engage, speculate, and innovate; to take the lead in reimagining the limits of architecture.
|established = 1972年
|type = 私立
|director = [[:EN:Hernan Diaz Alonso|Hernan Diaz Alonso]]
|location = 960 East 3rd Street, Los Angeles, CA 90013
|campus = South Santa Fe Avenueキャンパス<br>Vico Morcote海外サテライトキャンパス(スイス)
|website = [https://www.sciarc.edu/ www.sciarc.edu/]
|logo = [[File:Sciarclogo.svg|250px]]
}}
[[File:Santa Fe Freight Depot.JPG|thumb|right|250px|South Santa Fe Avenueキャンパス]]
[[File:Pavillion.jpg|thumb|right|250px|Pavillion]]
[[File:Thanksgiving at sciarc.jpg|thumb|right|250px|Thanksgiving at SCI-Arc]]
'''南カリフォルニア建築大学'''(みなみカリフォルニアけんちくだいがく ''Southern California Institute of Architecture''、略称'''SCI-Arc'''/'''サイアーク''')は、[[アメリカ]]第2の都市[[ロサンゼルス]]東部の[[芸術]]地区(Art District)に位置する全米では数少ない建築専門の[[私立大学]]である。キャンパスのユニークな貨物倉庫デザインから「建築実験室」の異名を持ち、モットーの「既存の建築の限界を再考し、[[イノベーション]]を追求していく」という最も先鋭的な[[建築]][[デザイン]]専門校といわれる。[[スイス]]にもサテライトキャンパスを有し、多様性ある相互交流は、新たな建築のイノベーションを生み出すエネルギー源となっている。
DesignIntelligence全米ランキング2019 (建築学部門)で17位で、[[建築学]]においては同地域の[[南カリフォルニア大学]](USC)を凌ぎ、'''全米TOP15前後'''となっている。
== 歴史 ==
SCI-Arcは、1972年にロサンゼルス西部の[[サンタモニカ]]に設立され、その後、2001年にキャンパスは現在のSouth Santa Fe Avenue沿いのユニークな貨物倉庫デザインの建物(約60,000平方フィート)に移転した([[リトル・トーキョー]]に近い)。創設者らは従来の建築学校が提供する教育でなく、より実験的な先鋭的観点からアプローチするコンセプトを掲げ、現在のモットーにも反映されている。
== 学問 ==
*[[建築学]]
*[[建築工学]]
*[[都市デザイン]]学
*[[デザイン学|デザイン理論]]
*統合[[ランドスケープ]]
*フィクション・[[エンターテイメント]]科学
学生数は約500名程度の少数精鋭で、より実験的かつ先鋭的な建築・デザイン専門教育が[[デザイン]][[スタジオ]]中心に行われている。
== 主な出身者 ==
*[[:EN:David Randall Hertz|David Randall Hertz]]
*[[:EN:Gordon Kipping|Gordon Kipping]]
*[[:EN:Karen M'Closkey|Karen M'Closkey]]
*[[:EN:Wanda Dalla Costa|Wanda Dalla Costa]]
*[[:EN:Miguel Robles-Durán|Miguel Robles-Durán]]
*[[:EN:Abinadi Meza|Abinadi Meza]]
*[[坂茂]]
*[[阿部仁史]]
*[[矢作昌生]]
*[[新井清一]]
== 日本の学生交流校 ==
*[[東京大学]]
*[[東北大学]]
*[[早稲田大学]]
*[[日本大学]]
*[[武蔵野美術大学]]
*[[東京理科大学]]
*[[法政大学]]
*[[芝浦工業大学]]
*[[大阪工業大学]]
*[[京都精華大学]]
== 外部リンク ==
*{{Official website|url=https://www.sciarc.edu/}}
{{DEFAULTSORT:みなみかりふおるにあけんちくたいかく}}
[[Category:アメリカ合衆国の私立大学]]
[[Category:技術系の高等教育機関]]
[[Category:建築系教育機関]]
[[Category:ロサンゼルスの大学]]
[[Category:学校記事]] | 2023-10-12T17:23:49Z | 2023-11-01T11:44:01Z | false | false | false | [
"Template:混同",
"Template:Infobox University",
"Template:Official website"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%8B%E3%82%A2%E5%BB%BA%E7%AF%89%E5%A4%A7%E5%AD%A6 |
4,840,727 | 奥林匹克体育中心 | 奥林匹克体育中心(オリンピックたいいくちゅうしん)
中華人民共和国における、国際クラスのスポーツ施設の名称である。略称は奥体中心で、正式名称が奥体中心となるものも増加している。日本ではオリンピックスポーツセンターや、オリンピックスタジアムなどと意訳されることが多い。スタジアムや体育館、水泳場などが集積している。これよりも規模が小さいものは体育中心、体育場と命名されている。 | [
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] | 奥林匹克体育中心(オリンピックたいいくちゅうしん) 中華人民共和国における、国際クラスのスポーツ施設の名称である。略称は奥体中心で、正式名称が奥体中心となるものも増加している。日本ではオリンピックスポーツセンターや、オリンピックスタジアムなどと意訳されることが多い。スタジアムや体育館、水泳場などが集積している。これよりも規模が小さいものは体育中心、体育場と命名されている。 南京奥林匹克体育中心
天津奥林匹克体育中心体育場
重慶市奥林匹克体育中心
済南奥林匹克体育中心
貴陽奥林匹克体育中心体育場 西安奥体中心
寧波奥体中心 | '''奥林匹克体育中心'''(オリンピックたいいくちゅうしん)
[[中華人民共和国]]における、国際クラスの[[スポーツ施設]]の名称である。略称は'''奥体中心'''で、正式名称が奥体中心となるものも増加している。[[日本]]ではオリンピックスポーツセンターや、オリンピックスタジアムなどと意訳されることが多い。[[スタジアム]](体育場)や体育館、水泳場などが集積している。これよりも規模が小さいものは体育中心と命名されている。
;奥林匹克体育中心
* [[国家オリンピックスポーツセンター|国家奥林匹克体育中心]]
* [[澳門運動場|奥林匹克体育中心 (マカオ)]]
* [[南京奥林匹克体育中心]]
* [[広東オリンピックスタジアム|広東奥林匹克体育中心]]
* [[天津オリンピック・スポーツセンター・スタジアム|天津奥林匹克体育中心体育場]]
* [[重慶市奥林匹克体育中心]]
* [[瀋陽オリンピック・スポーツセンター・スタジアム|瀋陽奥林匹克体育中心体育場]]
* [[済南奥林匹克体育中心]]
* [[温州奥林匹克体育中心]]
* [[貴陽奥林匹克体育中心体育場]]
* [[蘇州奥林匹克体育中心]]
* [[福建省奥林匹克体育中心]]
* [[鄭州奥林匹克体育中心]]
* [[蕪湖オリンピック・スポーツセンター・スタジアム|蕪湖奥林匹克体育中心体育場]]
* [[江西オリンピック・スポーツセンター・スタジアム|江西省奥林匹克体育中心体育場]]
* [[常州オリンピック・スポーツセンター・スタジアム|常州奥林匹克体育中心体育場]]
* [[合肥オリンピック・スポーツセンター・スタジアム|合肥奥林匹克体育中心体育場]]
* [[益陽オリンピック・スポーツセンター・スタジアム|益陽奥林匹克体育中心体育場]]
* [[秦皇島オリンピック・スポーツセンター・スタジアム|秦皇島奥林匹克体育中心体育場]]
* [[福州海峡奥林匹克体育中心]]
* [[河北奥林匹克体育中心]]
;奥体中心
* [[西安奥体中心]]
* [[寧波奥体中心]]
* [[咸陽奥体中心]]
== 関連項目 ==
* [[奥体中心駅]] ‐ 最寄り駅ではすべてが奥体中心駅の表記となっている。
{{aimai}}
{{DEFAULTSORT:おりんひつくたいいくちゆうしん}}
[[Category:中国の競技場]] | 2023-10-12T17:40:25Z | 2023-10-13T03:58:58Z | true | false | false | [
"Template:Aimai"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E6%9E%97%E5%8C%B9%E5%85%8B%E4%BD%93%E8%82%B2%E4%B8%AD%E5%BF%83 |
4,840,728 | ストイックOCTPATH! | 『ストイックOCTPATH!』(ストイック オクトパス!)は、フジテレビで2023年10月10日から放送されているバラエティ番組である。OCTPATHの地上波初の冠レギュラー番組。
男性ボーイズグループ・OCTPATHの地上波初の冠レギュラー番組。芸能界で生き抜くためのストイックさを身に付けるため、OCTPATHのメンバーがストイックに生きる人々(ストイッカー)から極意を学んでいく。
2023年10月10日放送の『ぽかぽか』には、同番組の隔週レギュラーである栗田航兵と四谷真佑に加え、OCTPATHのメンバーから古瀬直輝と太田駿静が生出演して番組を告知した。 | [
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}
] | 『ストイックOCTPATH!』は、フジテレビで2023年10月10日から放送されているバラエティ番組である。OCTPATHの地上波初の冠レギュラー番組。 | {{基礎情報 テレビ番組
| 番組名 = ストイックOCTPATH!
| 画像 =
| 画像説明 =
| ジャンル = [[バラエティ番組]]
| 放送国 = {{JPN}}
| 放送時間 = [[火曜日|火曜]] 24:55 - 25:25
| 放送分 = 30
| 放送枠 =
| 放送期間 = [[2023年]][[10月10日]] -
| 言語 = [[日本語]]
| 話数 =
| 制作局 = [[フジテレビジョン|フジテレビ]]
| 企画 =
| 製作総指揮 =
| 演出 =
| 監修 =
| プロデューサー =
| 出演者 = [[OCTPATH]]<br />[[コットン (お笑いコンビ)|コットン]]
| ナレーター = [[上原英司]]
| 音声形式 =
| 映像形式 =
| OPテーマ =
| EDテーマ =
| 外部リンク = https://www.fujitv.co.jp/b_hp/stoic-octpath/index.html
| 外部リンク名 = 公式サイト
| 特記事項 =
}}
『'''ストイックOCTPATH!'''』(ストイック オクトパス!)は、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]で[[2023年]][[10月10日]]から放送されている[[バラエティ番組]]である。[[OCTPATH]]の地上波初の[[冠番組|冠レギュラー番組]]<ref name="nata230902">{{Cite news |title=アイドルがこんなこと?OCTPATHが“ストイック”を学ぶ冠レギュラー番組スタート |url=https://natalie.mu/music/news/539445 |newspaper=[[ナタリー (ニュースサイト)|音楽ナタリー]] |date=2023-09-02 |accessdate=2023-10-13}}</ref>。
== 概要 ==
男性ボーイズグループ・[[OCTPATH]]の地上波初の[[冠番組|冠レギュラー番組]]<ref>{{Cite news |title=『ストイックOCTPATH!』初回収録に密着!体を張った過酷ロケに“公式おじさん”コットンも感動&爆笑 |url=https://www.fujitv-view.jp/article/post-988698/ |newspaper=[[フジテレビュー!!]] |publisher=[[フジテレビジョン|フジテレビ]] |date=2023-10-09 |accessdate=2023-10-13}}</ref>。芸能界で生き抜くためのストイックさを身に付けるため、OCTPATHのメンバーがストイックに生きる人々(ストイッカー)から極意を学んでいく<ref name="nata230902" />。
[[2023年]][[10月10日]]放送の『[[ぽかぽか]]』には、同番組の隔週レギュラーである[[栗田航兵]]と[[四谷真佑]]に加え、OCTPATHのメンバーから[[古瀬直輝]]と[[太田駿静]]が生出演して番組を告知した<ref>{{Cite tweet|user=lets_pokapoka|number=1711230436901609709|title=🌼お知らせ🌼 明日10日(火)は… 火曜日レギュラーメンバーの #OCTPATHの#栗田航兵さん #四谷真佑さんに加えて、#太田駿静さん #古瀬直輝さんも生出演します💐❣️|date=2023-10-09|access-date=2023-10-13}}</ref>。
== 出演者 ==
*[[OCTPATH]]
** [[海帆]]
** [[栗田航兵]]
** [[古瀬直輝]]
** [[太田駿静]]
** [[高橋わたる]]
** [[小堀柊]]
** [[四谷真佑]]
** [[西島蓮汰]] ※第11回から
* [[コットン (お笑いコンビ)|コットン]] - MC<ref name="toretate">{{Cite news |title=OCTPATH 初の冠レギュラー番組! MCはコットンに決定 芸能界で飛躍すべく“ストイックさ”を学び、メンバーが番組と共に成長する! |url=https://www.fujitv.co.jp/fujitv/news/20230919.html |newspaper=とれたてフジテレビ |publisher=[[フジテレビジョン|フジテレビ]] |date=2023-09-02 |accessdate=2023-10-13}}</ref>
** [[西村真二]]
** [[きょん]]
== スタッフ ==
* 構成 - [[堀由史]]、[[宮丸直子]]、[[平岡達哉]]、[[佐藤篤志]]
* ナレーション - [[上原英司]]
* CAM - 奥村一彦
* MIX - 高橋裕也
* 編集 - 曽根徹
* MA - 佐藤卓也
* 広報 - 福本麻由野
* 技術協力 - [[MABU]]、[[麻布プラザ]]
* AP - 國廣光、泉亜希子
* AD - 高瀬拓磨、クリバリー レネ、黒﨑小鉄
* ディレクター - [[玉城良浩]]、[[安生千之]]、[[原卓史]]
* 演出 - [[中谷航]]
* プロデューサー - [[福山晋司]]、[[神夏磯秀]]、[[内藤豊]]、[[中井謙吾]]、[[田川裕也]]
* 制作協力 - [[吉本興業]]、[[バックアップメディア]]
* 制作著作 - [[フジテレビジョン|フジテレビ]]、[[FANY Studio]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
<references />
== 外部リンク ==
*[https://www.fujitv.co.jp/b_hp/stoic-octpath/index.html 公式サイト]
{{前後番組
|放送局=[[フジテレビジョン|フジテレビ]]
|放送枠=[[火曜]]24:55 - 25:25
|前番組=[[火曜NEXT!]]
|番組名=ストイックOCTPATH!<br />(2023年10月10日 - )
|次番組=
}}
{{DEFAULTSORT:すといつくおくとはす}}
[[Category:2023年のテレビ番組 (日本)]]
[[Category:フジテレビの深夜番組<!-- の歴史 -->]]
[[Category:フジテレビのバラエティ番組<!--の歴史-->]]
[[Category:継続中の作品]]
{{Tv-stub}} | 2023-10-12T17:48:24Z | 2023-12-31T01:55:39Z | false | false | false | [
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"Template:前後番組"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A4%E3%83%83%E3%82%AFOCTPATH! |
4,840,737 | 慈光寺実仲 | 慈光寺 実仲(じこうじ さねなか)は、江戸時代後期から末期にかけて活動した日本の公卿。半家慈光寺家の当主。子興、花雲と号した。
天明7年8月8日(1787年9月19日)、慈光寺尚仲の子として誕生。母は家女房。
享和2年12月10日(1803年1月3日)、16歳で元服し昇殿を許された。文化元年12月4日(1805年1月4日)、従五位下に叙されてから順調に位階を進め、また大蔵大輔、左馬権頭を歴任した。文政11年1月20日(1828年3月5日)、従三位に叙され、公卿に列せられた。
天保4年1月23日(1833年3月14日)、正三位に昇叙した。弘化4年1月13日(1847年2月27日])、従二位に昇叙した。これが極位となる。
文久元年9月6日(1861年10月9日)、薨去した。享年75歳。
文政11年までは『公卿補任』第五篇, 仁孝天皇文政十一年条を参照。
出典が無い限り、『平成新修旧華族家系大成』上巻, pp. 706–707を参照した。 | [
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] | 慈光寺 実仲は、江戸時代後期から末期にかけて活動した日本の公卿。半家慈光寺家の当主。子興、花雲と号した。 | {{基礎情報 公家
| 氏名 = 慈光寺 実仲
| 画像 = <!-- 画像ファイル名 -->
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| 時代 = [[江戸時代]]後期 - [[幕末|末期]]
| 生誕 = [[天明]]7年[[8月8日 (旧暦)|8月8日]]([[1787年]][[9月19日]])
| 死没 = [[文久]]元年[[9月6日 (旧暦)|9月6日]]([[1861年]][[10月9日]])
| 改名 =
| 別名 = 子興、花雲{{Sfn|岩佐伸一|2018|p=61}}
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 =
| 墓所 =
| 官位 = [[従二位]][[非参議]]
| 主君 = [[光格天皇]]→[[仁孝天皇]]→[[孝明天皇]]
| 氏族 = [[慈光寺家]]
| 父母 = 父:[[慈光寺尚仲]]、母:家女房
| 兄弟 = '''実仲'''、女子
| 妻 = [[大宮賞子]]
| 子 = '''[[慈光寺家仲|家仲]]'''、[[慈光寺有仲|有仲]]、[[町尻明子|明子]]、[[慈光寺右仲|右仲]]、[[慈光寺和仲|和仲]]
| 特記事項 =
| 花押 =
}}
'''慈光寺 実仲'''(じこうじ さねなか{{Sfn|『平成新修旧華族家系大成』上巻|p=706}})は、[[江戸時代]]後期から末期にかけて活動した[[日本]]の[[公卿]]。[[半家 (公家)|半家]][[慈光寺家]]の当主。'''子興'''、'''花雲'''と号した{{Sfn|岩佐伸一|2018|p=61}}。
== 生涯 ==
[[天明]]7年[[8月8日 (旧暦)|8月8日]]([[1787年]][[9月19日]])、[[慈光寺尚仲]]の子として誕生{{Sfn|『平成新修旧華族家系大成』上巻|p=706}}{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇文政十一年条}}。母は家女房{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇文政十一年条}}。
[[享和]]2年[[12月10日 (旧暦)|12月10日]]([[1803年]][[1月3日]])、16歳で元服し昇殿を許された{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇文政十一年条}}。[[文化 (元号)|文化]]元年[[12月4日 (旧暦)|12月4日]]([[1805年]][[1月4日]])、[[従五位下]]に叙されてから順調に位階を進め、また[[大蔵大輔]]、[[左馬権頭]]を歴任した{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇文政十一年条}}。[[文政]]11年[[1月20日 (旧暦)|1月20日]]([[1828年]][[3月5日]])、[[従三位]]に叙され、公卿に列せられた{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇文政十一年条}}。
[[天保]]4年[[1月23日 (旧暦)|1月23日]]([[1833年]][[3月14日]])、[[正三位]]に昇叙した{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇天保四年条}}。[[弘化]]4年[[1月13日 (旧暦)|1月13日]]([[1847年]][[2月27日]]])、[[従二位]]に昇叙した{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=孝明天皇弘化四年条}}。これが極位となる。
[[文久]]元年[[9月6日 (旧暦)|9月6日]]([[1861年]][[10月9日]])、薨去した{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=孝明天皇文久元年条}}。享年75歳{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=孝明天皇文久元年条}}。
== 官歴 ==
文政11年までは{{Harvnb|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇文政十一年条}}を参照。
* [[享和]]{{0}}2年12月10日([[1803年]]{{0}}1月{{0}}3日)、叙[[正六位上]]、任[[勘解由判官]]
* [[文化 (元号)|文化]]元年12月{{0}}4日([[1805年]]{{0}}1月{{0}}4日)、叙[[従五位下]]
* 文化{{0}}2年{{0}}7月22日(1805年{{0}}8月16日)、任[[大蔵大輔]]
* 文化{{0}}5年{{0}}1月17日([[1808年]]{{0}}2月13日)、叙[[従五位上]]
* 文化{{0}}9年12月19日([[1813年]]{{0}}1月21日)、叙[[正五位下]]
* 文化10年{{0}}6月{{0}}4日(1813年{{0}}7月{{0}}1日)、任[[左馬権頭]]
* 文化13年{{0}}1月{{0}}5日([[1816年]]{{0}}2月{{0}}2日)、叙[[従四位下]]
* [[文政]]{{0}}2年{{0}}1月11日([[1819年]]{{0}}2月{{0}}5日)、服解{{Efn|父[[慈光寺尚仲]]が卒去したことによる。}}
* 文政{{0}}2年{{0}}3月{{0}}2日(1819年{{0}}3月27日)、除服出仕復任
* 文政{{0}}3年{{0}}1月28日([[1820年]]{{0}}3月12日)、叙[[従四位上]]
* 文政{{0}}7年{{0}}1月{{0}}5日([[1824年]]{{0}}2月{{0}}4日)、叙[[正四位下]]
* 文政11年{{0}}1月20日([[1828年]]{{0}}3月{{0}}5日)、叙[[従三位]]
* [[天保]]{{0}}4年{{0}}1月23日([[1833年]]{{0}}3月14日)、叙[[正三位]]{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=仁孝天皇天保四年条}}
* [[弘化]]{{0}}4年{{0}}1月13日([[1847年]]{{0}}2月27日)、叙[[従二位]]{{Sfn|『公卿補任』第五篇|loc=孝明天皇弘化四年条}}
== 系譜 ==
出典が無い限り、{{Harvnb|『平成新修旧華族家系大成』上巻|pp=706–707}}を参照した。
* 父:[[慈光寺尚仲]]
* 母:家女房
** 長女:女子 - [[中御門経定]]室{{Sfn|『平成新修旧華族家系大成』下巻|p=240}}
* 妻:[[大宮賞子]] - [[大宮盛季]]長女
** 男子:[[慈光寺家仲|家仲]](1814 - 1868)
** 男子:[[慈光寺有仲|有仲]](1828 - 1898) - 家仲養子
** 長女:[[町尻明子|明子]](1830 - 1903) - [[町尻量衡]]室{{Sfn|『平成新修旧華族家系大成』下巻|p=566}}
** 男子:[[慈光寺右仲|右仲]](1840 - 1893) - 有仲養子
** 男子:[[慈光寺和仲|和仲]](1852 - ) - 右仲養子
== 作品 ==
{| class="wikitable sortable"
!作品名!!技法!!形状・員数!!寸法(縦x横cm)!!所有者!!年代!!文化財指定!!備考
|-
|宝珠図||紙本墨画||掛軸装||99.8×26.4||[[大阪歴史博物館]]||弘化4年([[1847年]])|| ||出典は{{Harvnb|岩佐伸一|2018|p=62}}。
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
=== 史料・系譜 ===
* {{Cite book|和書|title=[[公卿補任]]|number=第五篇|others=[[黒板勝美]]・国史大系編修会編|publisher=[[吉川弘文館]]|series=新訂増補国史大系|year=1974|ref={{SfnRef|『公卿補任』第五篇}}}}
* {{Cite book|和書|title=[[平成新修旧華族家系大成]]|number=上巻|others=[[霞会館]]編|publisher=吉川弘文館|year=1996|ref={{SfnRef|『平成新修旧華族家系大成』上巻}}}}
* {{Cite book|和書|title=平成新修旧華族家系大成|number=下巻|others=霞会館編|publisher=吉川弘文館|year=1996|ref={{SfnRef|『平成新修旧華族家系大成』下巻}}}}
=== 論文 ===
* {{Cite journal|和書|author=岩佐伸一|authorlink=岩佐伸一|title=「宝珠図 慈光寺実仲筆」について|journal=大阪歴史博物館研究紀要|number=16|year=2018|pages=61-66|ref=harv}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しこうし さねなか}}
[[Category:慈光寺家|さねなか]]
[[Category:江戸時代の公家]]
[[Category:幕末の公家]]
[[Category:従二位受位者]]
[[Category:1787年生]]
[[Category:1861年没]] | 2023-10-12T19:01:03Z | 2023-10-12T19:21:06Z | false | false | false | [
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4,840,738 | ライオン (2018New Ver.)/ドリームキャッチャー | 「ライオン (2018New Ver.) / ドリームキャッチャー」は、ベリーグッドマンの7thシングル。2018年8月15日発売。
初回限定盤[A]CD+DVD UPCH-7439 ¥1,850(税込)、初回限定盤[B] CD UPCH-7440 ¥1,300(税込) 、通常盤[CD]CD UPCH-5950 ¥1,300(税込)の3タイプが発売。
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] | 「ライオン / ドリームキャッチャー」は、ベリーグッドマンの7thシングル。2018年8月15日発売。 初回限定盤[A]CD+DVD UPCH-7439 ¥1,850(税込)、初回限定盤[B] CD UPCH-7440 ¥1,300(税込) 、通常盤[CD]CD UPCH-5950 ¥1,300(税込)の3タイプが発売。 | {{Otheruses|ベリーグッドマンのライオン (2018New Ver.) / ドリームキャッチャー|ライオン (ベリーグッドマンの曲)|ライオン (ベリーグッドマンの曲)|その他|ライオン (曖昧さ回避)}}
「'''ライオン (2018New Ver.) / ドリームキャッチャー'''」は、[[ベリーグッドマン]]の7th[[シングル]]<ref>{{Cite web |title=ライオン(2018New Ver.) / ドリームキャッチャー |url=https://berrygoodman.com/musics/6037 |website=BERRY GOODMAN OFFICIAL WEBSITE |date=2018-08-15 |access-date=2023-10-12}}</ref>。[[2018年]][[8月15日]]発売。
初回限定盤[A]CD+DVD UPCH-7439 ¥1,850(税込)、初回限定盤[B] CD UPCH-7440 ¥1,300(税込) 、通常盤[CD]CD UPCH-5950 ¥1,300(税込)の3タイプが発売。{{Infobox Single
| Name = ライオン (2018New Ver.) / <br />ドリームキャッチャー
| Artist = [[ベリーグッドマン]]
| Album =
| A-side = ライオン (2018New Ver.)<br />ドリームキャッチャー
| B-side =
| Released = [[2018年]][[8月15日]]
| Format =
| Recorded =
| Genre =
| Length =
| Label = [[ユニバーサルミュージック (日本)#レーベル|UNIVERSAL J]]
| Writer = [[ベリーグッドマン]]
| Producer =
| Certification =
| Chart position = *週間35位([[オリコンチャート|オリコン]])
| Last single = 世界中のどんなラブソングよりも feat.erica(配信限定シングル)<br />(2018年)
| This single = '''ライオン (2018New Ver.) / ドリームキャッチャー<br />(2018年)
| Next single = スタートライン(配信限定シングル)<br />(2019年)
| Misc =
}}
== 概要 ==
*2018年6月11日に「ライオン(2018 New Ver.)」が先行配信され、同年8月15日に「ドリームキャッチャー」と両A面シングルとしてリリース。
*7thシングルではあるがメジャーとしては3rdシングルであり、配信限定を含めると12作目(メジャーのみなら8作目)となる。
*ベリーグッドマン初の両A面シングル。
* 「ライオン(2018 New ver.)」の基となる「[[ライオン (ベリーグッドマンの曲)|ライオン]]」は[[プロ野球]][[埼玉西武ライオンズ]]の[[増田達至]][[投手]]のために制作した楽曲である<ref name=":0">{{Cite web |title=苦しいときこそ――西武の守護神・増田達至の登場曲にベリーグッドマンが込めたメッセージ |url=https://bunshun.jp/articles/-/45089 |website=文春オンライン |access-date=2023-10-08 |first=山口 |last=史朗}}</ref>。
* 「ライオン(2018 New ver.)」はメンバー自身の意向で[[島田昌典]]がサウンド・プロデューサーとして参加し、[[ストリングス]]など[[オーケストラ]]の[[弦楽器]]や[[バンド (音楽)|バンド]]が入ったアレンジで制作され、スタジオ作品としては初となる生楽器バンド・アンサンブルでのレコーディングが行われた<ref>{{Cite web |title=ベリーグッドマンの新曲「ドリームキャッチャー」がNHK Eテレ放送中のアニメ『メジャーセカンド』7月よりOPテーマに!!シングルの発売も決定! |url=https://www.lisani.jp/0000106088/ |website=リスアニ! – アニソン・アニメ音楽のポータルサイト |access-date=2023-10-12 |language=ja |first=リスアニ!- |last=アニソン・アニメ音楽のポータルサイト}}</ref>。
* 「ドリームキャッチャー」はグループ初のアニメタイアップで、[[少年野球]]をテーマにした[[満田拓也]]原作のコミック「[[MAJOR 2nd]]」をメンバーが熟読し、その世界観に合わせて書き下ろされた。
* 初回限定盤【A】はDVD付きで全国ツアー「“てっぺんとるぞ宣言”ツアー 2017-2018 ~超好感男と貴方~」の各会場スクリーンにて上映された「TTS RADIO」から、東京公演以外の4公演の映像が収められ、2018年[[6月20日]]発売のDVD『[[ベリーグッドマン#映像作品|“てっぺんとるぞ宣言”ツアー2017-2018~超好感男と貴方~ @中野サンプラザ]]』と合わせると全国版全ての“TTS RADIO”がコンプリートされる<ref>{{Cite web |title=ライオン (2018 New Ver.) / ドリームキャッチャー [初回限定盤A][CD MAXI][+DVD] - ベリーグッドマン - UNIVERSAL MUSIC JAPAN |url=https://www.universal-music.co.jp/berry-goodman/products/upch-7439/ |website=BERRY GOODMAN |access-date=2023-10-12 |language=ja}}</ref>。
* 初回限定盤【B】は「MAJOR 2nd」のアニメ絵柄ジャケットでステッカー帯仕様となっている<ref>{{Cite web |title=New Single『 ライオン (2018 New Ver.) / ドリームキャッチャー 』リリース決定! |url=https://berrygoodman.com/contents/177247 |website=BERRY GOODMAN OFFICIAL WEBSITE |date=2018-08-07 |access-date=2023-10-12}}</ref>。
* 今まで「ライオン」には、ミュージックビデオが存在していなかったが、再度楽曲の世界観を伝えるため、楽曲の生まれ変わりとともに映像を制作。ストーリーは、ベリーグッドマンのメンバーのMOCAが野球推薦で宮崎の強豪校である延岡学園高校に入学し、高校3年生の時に春夏甲子園に出場したものの、メンバーには選ばれず、チームのために応援することしかできなかったという実体験を元に構成された<ref name=":1">{{Cite web |title=ベリーグッドマン、実体験を元に「ライオン」MVを制作 {{!}} Daily News |url=https://www.billboard-japan.com/d_news/detail/66625/2 |website=Billboard JAPAN |access-date=2023-10-12 |language=ja}}</ref>。
* 『ライオン(2018New Ver.)』のMVで最後に「To Be Continue」という言葉が続き、今後同シングルに収録されている『ドリームキャッチャー』がMVとして公開されることが告知された<ref name=":1" />。
== 収録曲 ==
'''CD(初回限定盤[A][B]・[通常版]共通)'''
# ライオン(2018 New Ver.)
#* 作詞・作曲 ベリーグッドマン
#* 編曲 島田昌典
# ドリームキャッチャー
#* 作詞 ベリーグッドマン
#* 作曲 ベリーグッドマン・GRP
#* 編曲 GRP
# Fly
#* 作詞・作曲 ベリーグッドマン
#* 編曲 HiDEX
'''DVD(初回限定盤[A]のみ)'''
# TTS RADIO from "てっぺんとるぞ宣言"ツアー 2017-2018 ~超好感男と貴方~ (大阪1日目Ver.)
# TTS RADIO from "てっぺんとるぞ宣言"ツアー 2017-2018 ~超好感男と貴方~ (大阪2日目Ver.)
# TTS RADIO from "てっぺんとるぞ宣言"ツアー 2017-2018 ~超好感男と貴方~ (福岡Ver.)
# TTS RADIO from "てっぺんとるぞ宣言"ツアー 2017-2018 ~超好感男と貴方~ (名古屋Ver.)
== タイアップ ==
'''ライオン(2018 New Ver.)'''
* 2018年 [[第100回全国高等学校野球選手権記念大会|第100回全国高校野球選手権]]地区大会タイアップ
**[[北海道]]:[[北海道テレビ放送|HTB北海道テレビ]]「夏の高校野球 南北海道大会決勝」テーマ曲
**[[宮城県|宮城]]:[[KHB東日本放送]]「夏の高校野球宮城大会」テーマ曲
**[[福島県|福島]]:[[KFB福島放送]]「めざせ!夏の甲子園 夏の高校野球 福島大会2018」テーマソング
**[[東京都|東京]]:[[TOKYO-MX|TOKYO MX]] 第100回全国高等学校野球選手権記念大会 TOKYO MX『東・西東京大会中継テーマ曲』
**[[埼玉県|埼玉]]:[[テレビ埼玉]]「テレ玉 第100回全国高等学校野球選手権記念 南埼玉・北埼玉大会中継」 テーマソング
**[[栃木県|栃木]]:[[とちぎテレビ]]「2018とちテレ夏の高校野球」テーマソング
**[[神奈川県|神奈川]]:かながわCATV「第100回全国高等学校野球選手権 神奈川大会 生中継」エンディングテーマ曲(第二試合)
**神奈川:[[テレビ神奈川]]「第100回全国高等学校野球選手権記念神奈川大会」挿入歌
**[[静岡県|静岡]]:[[静岡朝日テレビ]]「第100回全国高校野球選手権静岡大会テーマ曲」
**[[和歌山県|和歌山]]:[[テレビ和歌山]]「テレビ和歌山 2018年夏の高校野球和歌山大会 応援ソング」
**[[兵庫県|兵庫]]:[[サンテレビジョン|サンテレビ]]「サンテレビ 2018夏の高校野球兵庫大会 応援ソング」
**[[山口県|山口]]:[[山口朝日放送|YAB山口朝日放送]]「2018年高校野球山口大会エンディング曲」
**[[福岡県|福岡]]:「2018 [[KBCラジオ|KBC]] 高校野球イメージソング」
**[[宮崎県|宮崎]]:第100回全国高等学校野球選手権記念 宮崎大会 宮崎県内のケーブルテレビ3社([[ケーブルメディアワイワイ]]、[[宮崎ケーブルテレビ|MCN宮崎ケーブルテレビ]]、[[BTV (企業)|BTV]])で放送される 「第100回全国高等学校選手権記念宮崎大会」の中継(1回戦〜準々決勝で使用)
*[[MRTラジオ]]2016年8月度パワープレイ「音楽魂」
*2019年「かながわCATV情熱プロジェクト 神奈川県高等学校野球春季大会 平成31年度 生中継」 番組テーマソング
*2019年「かながわCATV情熱プロジェクト 第101回全国高等学校野球選手権 神奈川大会 生中継」エンディングテーマ曲
'''ドリームキャッチャー'''
*[[NHK Eテレ]] アニメ「MAJOR 2nd」オープニングテーマ
== 収録アルバム ==
'''ライオン(2018 New ver.)'''
* 『GOOD GOOD GOOD』#12
'''ドリームキャッチャー'''
*『BEST BEST BEST』LIFE DISC #16
== 別バージョン ==
ライオン
* 『SING SING SING 4』#3
* 『BEST BEST BEST』LIFE DISC #8
== プロ野球選手登場曲 ==
'''ライオン(2018 New ver.)'''
* [[阪神タイガース]] [[望月惇志]](2019年 - 2020年)
'''ドリームキャッチャー'''
* [[東北楽天ゴールデンイーグルス]] [[寺岡寛治]](2019年)
* [[読売ジャイアンツ]] [[堀岡隼人]](2019年 - 2021年)
* [[オリックス・バファローズ]] [[太田椋]](2019年 - )
* [[福岡ソフトバンクホークス]] [[栗原陵矢]](2019年 - 2020年)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
<references group=""></references>
== 外部リンク ==
{{Single-stub}}
{{デフォルトソート:らいおん}}
[[Category:楽曲 ら|いおん]]
[[Category:楽曲 と|りいむきやつちやー]]
[[Category:ベリーグッドマンの楽曲]]
[[Category:2018年のシングル]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%B3_(2018New_Ver.)/%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC |
4,840,739 | タホ (料理) | タホ(タガログ語: taho)は、フィリピンの伝統的なスイーツ。
「タホ」はタガログ語で「豆腐」を表す語でもある。
温かい豆腐に黒糖のシロップをかけて、サゴをトッピングした料理である。フィリピンではタホの売り歩きが行われており、タホ売りは「タホー」と声を挙げながら歩いている。
フィリピンでは朝食としても人気が高く、マニラ首都圏ではタホの専門店もある。
ストローを用いたり、カップに口を付けて飲み物のように食するのがフィリピンでは一般的である。
豆腐を用いたヘルシーなスイーツとして注目を集めており、本来は温かいタホを冷たくして提供する、黒蜜以外のシロップをかける、豆腐自体にフレーバーや色を付けるといったアレンジが人気を呼んでいる。 | [
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] | タホは、フィリピンの伝統的なスイーツ。 | [[File:225Fish and Taho vendors in Bulacan 17.jpg|thumb|right|250px|[[ブラカン州]]のタホ売りが売っているタホ]]
[[File:1324Photos taken during the 2020 coronavirus pandemic in Baliuag 52.jpg|thumb|right|250px|{{仮リンク|バリワグ市|en|Baliwag}}のタホ売り(2020年)]]
'''タホ'''({{lang-tl|taho}})は、[[フィリピン]]の伝統的な[[菓子|スイーツ]]{{R|観光}}。
== 概要 ==
「タホ」は[[タガログ語]]で「[[豆腐]]」を表す語でもある{{R|ESSE}}。
温かい豆腐{{Refnest|group="注"|日本の豆腐と違い、[[にがり]]ではなく[[ゼラチン]]で[[豆乳]]を固めた食材<ref name="ESSE" />。}}に[[黒糖]]のシロップをかけて、サゴ{{Refnest|group="注"|[[サゴヤシ]]から採れる食用[[デンプン]]、フィリピン風[[タピオカ]]とも<ref name="cotta" />。}}をトッピングした料理である{{R|ESSE|cotta|五}}。フィリピンではタホの売り歩きが行われており、タホ売りは「タホー」と声を挙げながら歩いている{{R|cotta}}。
フィリピンでは[[朝食]]としても人気が高く{{R|観光}}、[[マニラ首都圏]]ではタホの専門店もある{{R|ぐ}}。
[[ストロー]]を用いたり、カップに口を付けて飲み物のように食するのがフィリピンでは一般的である{{R|五|ぐ}}。
豆腐を用いたヘルシーなスイーツとして注目を集めており、本来は温かいタホを冷たくして提供する、黒蜜以外のシロップをかける、豆腐自体にフレーバーや色を付けるといったアレンジが人気を呼んでいる{{R|ぐ}}。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|refs=
<ref name="観光">{{Cite web|和書|website=フィリピン政府観光省|url=https://philippinetravel.jp/filipino-recipes/taho/|work=フィリピン料理レシピ|title=タホ|accessdate=2023-10-13}}</ref>
<ref name="cotta">{{Cite web|和書|publisher=[[cotta]]|url=https://www.cotta.jp/special/article/?p=29643|title=フィリピン発!とろける豆腐スイーツ・タホのレシピ|author=shizuka|date=2020-05-26|accessdate=2023-10-13}}</ref>
<ref name="五">{{Cite press release|language=ja|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000070.000054826.html|title=フィリピン生まれの飲むスイーツ「TAHO-タホ-」 山の上のお豆腐屋さんに登場! ~美と健康をプロデュースする愛しとーとの五ケ山豆腐で新感覚の豆腐スイーツを販売~|publisher=[[愛しとーと]]|date=2022-04-21|accessdate=2023-10-13}}</ref>
<ref name="ぐ">{{Cite web|和書|website=[[ぐるなび]]PRO|url=https://pro.gnavi.co.jp/magazine/t_res/cat_7/a_3675/|date=2020-09-10|title=(前編)フィリピン発 庶民のおやつが進化系スイーツに|author=福田美智子|accessdate=2023-10-13}}</ref>
<ref name="ESSE">{{Cite web|和書|publisher=[[ESSE]]online|url=https://esse-online.jp/articles/-/13670|title=2020年に流行確実!とろける黒蜜お豆腐スイーツ「タホ」|author=吾妻聖子|date=2019-12-29|accessdate=2023-10-13}}</ref>
}}
== 外部リンク ==
{{commonscat|Taho}}
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{{DEFAULTSORT:たほ}}
[[Category:フィリピンの食文化]]
[[Category:豆腐料理]]
[[Category:アジアの菓子]] | 2023-10-12T19:13:50Z | 2023-10-16T17:10:40Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%9B_(%E6%96%99%E7%90%86) |
4,840,745 | ハックルベリー (芸能プロダクション) | 株式会社ハックルベリー(Huckleberry Inc.)は、東京都中央区にある日本の芸能プロダクション。2013年設立。音楽を中心としたアーティストのマネジメント業務を行なう。設立当初はJ-POP中心のマネジメントだったが現在はK-POPを中心とし、また他社や所属アーティストのプロモーション業務も行なっている。 | [
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] | 株式会社ハックルベリーは、東京都中央区にある日本の芸能プロダクション。2013年設立。音楽を中心としたアーティストのマネジメント業務を行なう。設立当初はJ-POP中心のマネジメントだったが現在はK-POPを中心とし、また他社や所属アーティストのプロモーション業務も行なっている。 | {{基礎情報 会社
| 社名 = 株式会社ハックルベリー
| 英文社名 = Huckleberry Inc.
| ロゴ =
| 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
| 市場情報 =
| 略称 =
| 国籍 = {{JPN}}
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| 資本金 =
| 関係する人物 =
| 外部リンク =https://h-berry.net
}}
'''株式会社ハックルベリー'''(Huckleberry Inc.)は、[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]]にある[[日本]]の[[芸能事務所|芸能プロダクション]]。2013年設立。[[音楽]]を中心としたアーティストのマネジメント業務を行なう。設立当初は[[J-POP]]中心のマネジメントだったが現在は[[K-POP]]を中心とし、また他社や所属アーティストのプロモーション業務も行なっている<ref>{{Cite web |title=プロモーション|url=https://h-berry.net/promotion/|website=株式会社ハックルベリー 公式webサイト|access-date=2023-10-12|language=ja}}</ref>。
==主な所属アーティスト==
*[[チョン・ニコル]]<ref>{{Cite web |title=CONTACT|url=https://nicole-official.jp/contact/ |website=NIKOLE 公式webサイト|access-date=2023-10-12|language=ja}}</ref>
*[[チェ・イェナ]]<ref>{{Cite web |title=【YENA】 日本公式ファンクラブ オープン!|url=https://h-berry.net/%E3%80%90yena%E3%80%91-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96-%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%B3%EF%BC%81/|website=株式会社ハックルベリー 公式webサイト |date=2023-05-23 |access-date=2023-10-12|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=Copyright |url=https://choiyena.jp/|website=チェ・イェナ 公式webサイト|access-date=2023-10-12|language=ja}}</ref>
*[[TEMPEST (音楽グループ)|TEMPEST]]
*[[Baby Blue (グループ)|Baby Blue]]([[MNL48]])<ref>{{Cite web |title=Sub Unit MNL48 yaitu Baby Blue Bergabung Dengan Manajemen Huckleberry|url=https://overseasidol.com/sub-unit-mnl48-yaitu-baby-blue-bergabung-dengan-manajemen-huckleberry/ |website=OVERSEAS IDOL.com |date=2023-08-28|access-date=2023-10-12|language=id}}</ref>
*川上明莉
*山田創椰 <ref>{{Cite web |title=Talent/Artist|url=https://h-berry.net/|website=株式会社ハックルベリー 公式webサイト|access-date=2023-10-12|language=ja}}</ref>
==過去に所属していたアーティスト==
*[[藤田恵名]]
*Sweet Licious<ref name="musicman1"/>
*moca([[浜崎絵里歌]])
*ウインウインぢろう
*松迫愛実(DJ MANAMI)
==事業内容==
*アーティスト、タレントのマネジメント・[[エージェント]]業務
*アーティストプロモーション業務
*[[ファンクラブ]]の運営業務(MNL48 Avenue)<ref>{{Cite web |title=【MNL48】ファンクラブ無料会員募集中!|url=https://h-berry.net/361-2/|website=株式会社ハックルベリー 公式webサイト |date=2022-10-23 |access-date=2023-10-12|language=ja}}</ref>
== 出典 ==
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==外部リンク==
*[https://h-berry.net/ 株式会社ハックルベリー 公式webサイト]
*[https://twitter.com/huckleberrymg 株式会社ハックルベリー] - [[Twitter]]
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[[Category:日本の芸能プロダクション]]
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4,840,749 | 四日市市立常磐西小学校 | 四日市市立常磐西小学校(よっかいちしりつ ときわにししょうがっこう)は、三重県四日市市にある公立小学校。
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] | 四日市市立常磐西小学校は、三重県四日市市にある公立小学校。 | {{Infobox 日本の学校
|校名 = 四日市市立常磐西小学校
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'''四日市市立常磐西小学校'''(よっかいちしりつ ときわにししょうがっこう)は、[[三重県]][[四日市市]][[常磐地区]]にある[[公立学校|公立]][[小学校]]。
== 沿革 ==
* [[1973年]]([[昭和]]48年)
** 3月 - 校舎を着工<ref name=":0">{{Cite web |title=学校沿革史 |url=http://www.yokkaichi.ed.jp/tokinisi/syoukai/ennkaku.html |website=四日市市立常磐西小学校 |access-date=2023-10-12 |publisher=四日市市}}</ref>。
** [[4月1日]] - 四日市市立常磐小学校内に'''開校'''<ref name=":0" />。
** 11月 - 校舎を落成<ref name=":0" />。
** 12月 - 現在地へ移転<ref name=":0" />。
* [[1974年]](昭和49年)
** 1月 - 校旗を制定<ref name=":0" />。
** [[1月17日]] - 開校式を挙行<ref name=":0" />。
** 7月 - 体育館を落成<ref name=":0" />。
* [[1975年]](昭和50年)5月 - 校歌を発表<ref name=":0" />。
* [[1976年]](昭和51年)6月 - プールを落成<ref name=":0" />。
* [[1978年]](昭和53年)6月 - 体育館を落成<ref name=":0" />。
* [[1985年]](昭和60年)6月 - 鉄筋コンクリート造3階建ての普通教室棟を落成<ref name=":0" />。
* [[1987年]](昭和62年)3月 - 花木園(学校園)を設置<ref name=":0" />。
* [[1991年]]([[平成]]3年)4月 - [[文部省]]より生活科協力校に指定<ref name=":0" />。
* [[1994年]](平成6年)10月 - 新管理棟を落成<ref name=":0" />。
* [[1995年]](平成7年)4月 - [[障害児学級]]「やまびこ学級」を開設<ref name=":0" />。
* [[2000年]](平成12年)8月 - やまびこ学級を増設<ref name=":0" />。
== 学区 ==
* 四日市市
** 大井手1-3丁目、松本1-6丁目、ときわ3・4丁目、大井手町、松本町、青葉町、西松本町、南松本町
** 西日野町(一部)
** 東日野町(一部)
'''出典''':<ref name=":1">{{Cite web |title=小・中学校通学区域一覧 {{!}} 四日市市役所 |url=https://www.city.yokkaichi.lg.jp/www/contents/1001000002412/index.html |website=www.city.yokkaichi.lg.jp |access-date=2023-10-12}}</ref>
== 進学先の中学校 ==
* [[四日市市立常磐中学校]](四日市市大字松本)<ref name=":1" />
== 周辺 ==
* 四日市市立常磐中学校
* [[鹿化川]]
* KOKKO保育園
== 脚注 ==
=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
* [[三重県小学校一覧]]
== 外部リンク ==
* [http://www.yokkaichi.ed.jp/~tokinisi/cms2/htdocs/ 四日市市立常磐西小学校]
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[[Category:三重県の公立小学校]]
[[Category:四日市市の小学校|ときわにし]]
[[Category:学校記事]] | 2023-10-12T20:33:47Z | 2023-10-19T21:18:10Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%97%A5%E5%B8%82%E5%B8%82%E7%AB%8B%E5%B8%B8%E7%A3%90%E8%A5%BF%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1 |
4,840,750 | 本派本願寺ハワイ別院 | 本派本願寺ハワイ別院(ほんぱほんがんじハワイべついん、英: Honpa Hongwanji Mission of Hawaii)は、アメリカ合衆国ハワイ州ホノルルにある仏教寺院。日本の浄土真宗本願寺派(西本願寺)に属し、ハワイ開教区の拠点寺院である。
浄土真宗本願寺派は「本派」と略称され、ハワイでは Honpa Hongwanji の教団名称で活動している。浄土真宗本願寺派は、ハワイ最大の仏教教派とされる。本項では、浄土真宗本願寺派ハワイ開教区についても説明する。
ハワイへの日本人移民は1868年(明治元年)に始まり、多くが砂糖プランテーション(英語版)で過酷な労働に従事した。日本の仏教各宗派のハワイでの開教(布教)は、移民集団に僧侶が招かれる形で、あるいは移民たちのあとを追う形で始まっていった。
明治以後、東西本願寺はいずれも新天地への布教に熱心に取り組んだ。ハワイにおいて、本願寺派(西本願寺)の正式な開教は大谷派(東本願寺)に遅れたが、教勢では本願寺派が大谷派を圧倒することになった。これについては、本願寺の東西分裂以後に本願寺派が西日本を地盤としており、ハワイへの日本人移民は西日本の出身者が多かったこと(上位から広島県・山口県・沖縄県・熊本県・福岡県)が要因として挙げられる。有元正雄の指摘によれば、官約移民時代(1885年 - 1894年)の移民の96.2%は広島・山口・熊本・福岡の4県出身者であり、これらの地域はいずれも真宗の盛んな地域である(たとえば広島県西部の門徒は安芸門徒として知られる)。その後の期間(1899年 - 1923年)においても、前述4県出身者が全移民の49.5%を占める。
本願寺派の布教の先駆けとなったのが、1889年(明治21年)に単独で巡回布教を行った曜日蒼龍である。曜日はハワイで「大日本帝国本願寺派布哇伝道本院」の看板を掲げ、本山にも支援を求めた。曜日は、キリスト教がハワイで日本人への布教に習熟して日本に押し寄せるという危機意識をもっており、その強い意識を反映して実践的な布教方法を採ったが、方便として阿弥陀仏とキリスト教の神(ゴッド)を同一視する見解を示していたことが本山から猛批判を受け、曜日はハワイでの布教活動を断念せざるを得なかった。曜日の活動は波紋を残し、彼に続いてハワイでの本願寺派布教に乗り出す人々もいた。
日清戦争後、本願寺派を含めた日本仏教教団の海外布教の関心は、大日本帝国の進出方向とともに東アジアに注がれ、ハワイや北米在住の日本人移民の宗教的要望に応えることには必ずしも積極的ではなかった。しかし、ハワイで活動する宗教者の中には「本願寺派布教使」を自称する質の悪い者もいたようであり、本山も信用にかかわる事態として対策せざるを得なくなった。
1897年(明治30年)、京都の本山は初代開教監督として里見法爾、開教使として宮本恵順をハワイに派遣した。
当時のハワイの日系移民(砂糖プランテーションの耕地労働者)社会は、ホスト社会の農場主や、日系社会の上層部たる移民会社・官憲(総領事館)などからの抑圧、思うように稼げない経済状況などからすさんだ状況にあったとされる(日本禁酒同盟#安藤太郎とハワイの禁酒会なども参照)。日本からキリスト教の布教も行われたが、ホスト社会に同調的な布教姿勢は、西洋式の生活様式に慣れない労働者には必ずしも受け入れられなかった。本願寺派は、異郷の地の「孤児」たる日本人移民に「慈父慈母の慰安」をもたらすことを使命に掲げ、抑圧され踏みにじられた平民(労働者)を「正客」(主対象)として「平民教」「平等教」であることを強調した。キリスト教を支持するホスト社会からの警戒に加え、キリスト教社会の論理を重視した日系社会上層部(総領事館)にも仏教軽視の姿勢が強いこともあり、布教には苦心があったという。
1899年(明治32年)、ハワイ本願寺(のちのホノルル別院)の本堂が落成した。
今村恵猛は1899年(明治32年)にハワイ開教使となり、翌1900年(明治33年)に開教監督となった。1906年(明治39年)にはハワイ別院の初代輪番(住職)に任命され、1932年(昭和7年)に死去するまでハワイでの伝道に務めた。今村は卓越したリーダーシップを発揮し、宗教者の枠を超えて日系社会の指導者として活動した。
1899年12月、ハワイでペストが流行した際、今村は救済団体「共愛会」を組織した。また1900年には仏教青年会を創設し、若い一世を組織した。
1900年、ハワイがアメリカ合衆国に併合され、「契約移民」制度が廃止されたことで、移民たちも契約によって耕地に縛り付けられることはなくなった。こうした状況下、本願寺派は1902年に教育事業に着手して「二世」への日本的教育の需要に応えた。
1904年、オアフ島のワイパフ耕地で労働者の大規模なストライキが発生した際には、今村が宗教的立場から鎮静を行った。日本総領事館からの権威による訓告を拒否した日本人労働者たちが、拒絶されながらも足しげく耕地に通った今村の説得に耳を傾けた結果であり、本願寺派の布教が日本人労働者に受け入れられつつあったことを示すとともに、ホスト社会にも本願寺派の存在を知らしめることとなり、経営者側が労使協調維持のために寺院の建立の支援に回るようになるなど、布教の転換点ともなった。
ハワイ本願寺は1906年に別院への昇格が本山から認められ、1907年にはハワイ準州政府から宗教法人として認可された。
1908年に日米紳士協約が実施されたことを契機として、日系移民のハワイへの定住化が進む。今村はホスト社会の有識者への働きかけを行ってその支持を引き出すとともに、日本人社会での本願寺派のイメージ向上を図った。移民の「定住化」が進み、二世の中には日本語よりも英語を得意とする人々が現れる状況のもと、英語による布教活動を進めた。布教活動は「土着化」し、ホスト社会の言語や習慣を取り入れるとともに、ホスト社会の成員からも入信者があらわれるなど、「多国籍型」の宗教活動が展開されることとなった。
1920年初頭のオアフ島での大規模なストライキでは、仏教青年会が日本人労働者の結集軸の一つとなって増給要求を決議し、今村も含めた日本仏教・神道の宗教者もストライキを支持した。日系二世の通う学校運営を巡って、1910年代に本願寺派側は「アメリカ化」への改革を進めたが、ホスト社会側からはなお「非アメリカ的」な教育を行っていると見なされ、軋轢が生じた。第一次世界大戦後にアメリカで排日の風潮も強まる中、1923年には従来開教使のみで行われていた在ハワイ教団運営会議に信徒代表を含めるようになるなど、聖職者による教団指導から信徒中心の組織への移行という「アメリカ式の教団運営」も導入された。
今村は超宗派的な思考の持ち主であった。カリフォルニアでは本願寺派と大谷派が反目して日系社会を二分する事態を引き起こしたのと対照的に、ハワイにおいて両派は比較的良好な関係を結びえた。
プランテーション労働者は人種ごとに「キャンプ」に収容された。他人種との接触は限られた一方、日本人キャンプでは日本の共同体のありようが比較的残りやすい状況にあった。ハワイ全島に222の日本人キャンプがあり、うち80のキャンプに日本仏教(本願寺派以外の宗派も含む)の寺院が造立された。
教団発行の教団史において、寺院の造立は本山主導の事業として説明されがちであるが、現地の日本人信者の協力なしには実現しえないものであった。移民からの視点では、本願寺派もふくめた日本の仏教教団の寺院や布教所は、自らがもともと信仰する宗派の施設というよりも、コミュニティの集会所などの性格を有するものであった。ハワイでは同郷の者が信者団体を構成するという強い傾向性があり、広島県人は浄土真宗へ、山口県人は浄土宗に結集する傾向にあった。また、当時の日本社会では沖縄県人が差別されることがあり、結果として沖縄県人が別個の寺院に結集するという事例(慈光園本願寺など)も見られた。
1941年時点でハワイには本願寺派寺院は38寺(うち別院2)あった。日本軍の真珠湾攻撃によりアメリカと日本が開戦すると、ハワイの日系人社会は厳重な監視下に置かれ、宗教活動・文化活動は抑圧された。宗教関係者や日本語学校教師など日系社会の指導層は拘束され、本願寺派開教使48人が強制収容所に抑留された。戦中のハワイの本願寺派別院は、留守を預かった日系二世の開教使や教師らによって維持された。一方、戦時中には同派の寺院のいくつかが放火や不審火で焼失するなどの被害も受けた。
大戦後、27人の開教使がハワイに帰還し、教団復興が進められた。1946年には英語伝道講習会が開催され、また在ハワイ教団の機関誌の復刊なども行われた。開教使の代表である総長が選挙によって選出されることになったほか、在ハワイ教団の運営に信徒が選挙を通じて参画するようになった。1948年には教団付属学校が再開された。大戦戦没者の供養や、日本への救援物資の送付、日本との交流などの活動が行われている。1952年には本願寺派門主大谷光照がハワイを訪れ、全島巡教を行っている。
1976年、保険会社幹部のポール・ヤマナカは、日本の「人間国宝」のシステムをモデルとした「ハワイ人間州宝(英語版)」 (Living Treasures of Hawaii) を創設するという提案を宣教司教の Yoshiaki Fujitaniに持ち込んだ。この賞の目的は、特定の分野で卓越性と高い水準の達成水準を示し、より友愛的な社会に向けて人類に多大な貢献をした人物を表彰することである 。誰もが個人を賞に推薦することができ、これまでに100名を超えるコミュニティ・メンバーが表彰されてきた。
浄土真宗本願寺派ハワイ開教区の本部はホノルルにある。ハワイ開教区は、米国本土の浄土真宗寺院の統括組織である米国仏教団(浄土真宗本願寺派北米開教区)とは別に運営されている。
浄土真宗本願寺派国際センターによれば、ハワイ諸島には全部で31の寺院(うち2つは別院)がある。これらの寺院の多くは、かつての砂糖プランテーションの日本人居住地ごとに建てられ、小規模な門徒に奉仕している。2007年の記事によれば、約8000人の会員がいるというが、同時に門徒の高齢化や減少についても触れている。
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"text": "プランテーション労働者は人種ごとに「キャンプ」に収容された。他人種との接触は限られた一方、日本人キャンプでは日本の共同体のありようが比較的残りやすい状況にあった。ハワイ全島に222の日本人キャンプがあり、うち80のキャンプに日本仏教(本願寺派以外の宗派も含む)の寺院が造立された。",
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"text": "教団発行の教団史において、寺院の造立は本山主導の事業として説明されがちであるが、現地の日本人信者の協力なしには実現しえないものであった。移民からの視点では、本願寺派もふくめた日本の仏教教団の寺院や布教所は、自らがもともと信仰する宗派の施設というよりも、コミュニティの集会所などの性格を有するものであった。ハワイでは同郷の者が信者団体を構成するという強い傾向性があり、広島県人は浄土真宗へ、山口県人は浄土宗に結集する傾向にあった。また、当時の日本社会では沖縄県人が差別されることがあり、結果として沖縄県人が別個の寺院に結集するという事例(慈光園本願寺など)も見られた。",
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"text": "1941年時点でハワイには本願寺派寺院は38寺(うち別院2)あった。日本軍の真珠湾攻撃によりアメリカと日本が開戦すると、ハワイの日系人社会は厳重な監視下に置かれ、宗教活動・文化活動は抑圧された。宗教関係者や日本語学校教師など日系社会の指導層は拘束され、本願寺派開教使48人が強制収容所に抑留された。戦中のハワイの本願寺派別院は、留守を預かった日系二世の開教使や教師らによって維持された。一方、戦時中には同派の寺院のいくつかが放火や不審火で焼失するなどの被害も受けた。",
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"text": "大戦後、27人の開教使がハワイに帰還し、教団復興が進められた。1946年には英語伝道講習会が開催され、また在ハワイ教団の機関誌の復刊なども行われた。開教使の代表である総長が選挙によって選出されることになったほか、在ハワイ教団の運営に信徒が選挙を通じて参画するようになった。1948年には教団付属学校が再開された。大戦戦没者の供養や、日本への救援物資の送付、日本との交流などの活動が行われている。1952年には本願寺派門主大谷光照がハワイを訪れ、全島巡教を行っている。",
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"text": "1976年、保険会社幹部のポール・ヤマナカは、日本の「人間国宝」のシステムをモデルとした「ハワイ人間州宝(英語版)」 (Living Treasures of Hawaii) を創設するという提案を宣教司教の Yoshiaki Fujitaniに持ち込んだ。この賞の目的は、特定の分野で卓越性と高い水準の達成水準を示し、より友愛的な社会に向けて人類に多大な貢献をした人物を表彰することである 。誰もが個人を賞に推薦することができ、これまでに100名を超えるコミュニティ・メンバーが表彰されてきた。",
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"text": "浄土真宗本願寺派ハワイ開教区の本部はホノルルにある。ハワイ開教区は、米国本土の浄土真宗寺院の統括組織である米国仏教団(浄土真宗本願寺派北米開教区)とは別に運営されている。",
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"text": "浄土真宗本願寺派国際センターによれば、ハワイ諸島には全部で31の寺院(うち2つは別院)がある。これらの寺院の多くは、かつての砂糖プランテーションの日本人居住地ごとに建てられ、小規模な門徒に奉仕している。2007年の記事によれば、約8000人の会員がいるというが、同時に門徒の高齢化や減少についても触れている。",
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] | 本派本願寺ハワイ別院は、アメリカ合衆国ハワイ州ホノルルにある仏教寺院。日本の浄土真宗本願寺派(西本願寺)に属し、ハワイ開教区の拠点寺院である。 浄土真宗本願寺派は「本派」と略称され、ハワイでは Honpa Hongwanji の教団名称で活動している。浄土真宗本願寺派は、ハワイ最大の仏教教派とされる。本項では、浄土真宗本願寺派ハワイ開教区についても説明する。 | [[File:Honpa Hongwanji Mission of Hawaii (2853901515).jpg|thumb|250px|本派本願寺ハワイ別院]]
'''本派本願寺ハワイ別院'''(ほんぱほんがんじハワイべついん、{{lang-en-short|Honpa Hongwanji Mission of Hawaii}})は、[[アメリカ合衆国]][[ハワイ州]][[ホノルル]]にある仏教寺院。日本の[[浄土真宗本願寺派]](西本願寺)に属し、ハワイ開教区の拠点寺院である。
浄土真宗本願寺派は「本派」と略称され{{efn|これに対し、真宗大谷派(東本願寺)は「大派」と呼ばれる。}}、ハワイでは Honpa Hongwanji の教団名称で活動している{{efn|なお、[[東本願寺ハワイ別院]]/真宗大谷派ハワイ開教区は Higashi Hongwanji Mission of Hawaii の名称で活動している。}}。浄土真宗本願寺派は、ハワイ最大の仏教教派とされる<ref name="starbulletin_070203"/>。本項では、'''浄土真宗本願寺派ハワイ開教区'''についても説明する。
== 歴史 ==
=== 日本人移民と仏教 ===
[[ハワイにおける日本人移民|ハワイへの日本人移民]]は1868年(明治元年)に始まり{{sfn|高山秀嗣|2011|p=2}}、多くが{{仮リンク|ハワイの砂糖プランテーション|en|Sugar plantations in Hawaii|label=砂糖プランテーション}}で過酷な労働に従事した。日本の仏教各宗派のハワイでの開教(布教){{efn|「開教」という語は、日本の仏教の教えを、まだ広がっていない地域に広げることを意味する語である{{sfn|守谷友江|2008|p=117}}。}}は、移民集団に僧侶が招かれる形で、あるいは移民たちのあとを追う形で始まっていった{{sfn|高山秀嗣|2011|p=1}}。
明治以後、東西本願寺はいずれも新天地への布教に熱心に取り組んだ{{efn|本願寺派(西本願寺)の海外開教は1886年(明治19年)にウラジオストクに僧侶が渡り、布教拠点を築いたことに始まる。}}。ハワイにおいて、本願寺派(西本願寺)の正式な開教は大谷派(東本願寺)に遅れたが{{sfn|高山秀嗣|2011|p=2}}、教勢では本願寺派が大谷派を圧倒することになった<ref name="n-inouen_umi-12"/>{{efn|本願寺派が大谷派よりも優勢であるのは、アメリカ合衆国本土についても同様である<ref name="n-inouen_umi-12"/>。}}。これについては、本願寺の東西分裂以後に本願寺派が西日本を地盤としており、ハワイへの日本人移民は西日本の出身者が多かったこと(上位から[[広島県]]・[[山口県]]・[[沖縄県]]・[[熊本県]]・[[福岡県]]<ref name="n-inouen_umi-12"/>)が要因として挙げられる。[[有元正雄]]の指摘によれば、官約移民時代(1885年 - 1894年)の移民の96.2%は広島・山口・熊本・福岡の4県出身者であり{{sfn|守谷友江|2008|p=117}}、これらの地域はいずれも真宗の盛んな地域である{{sfn|守谷友江|2008|p=117}}(たとえば広島県西部の門徒は[[安芸門徒]]として知られる)。その後の期間(1899年 - 1923年)においても、前述4県出身者が全移民の49.5%を占める{{sfn|守谷友江|2008|p=117}}。
=== 曜日蒼龍の開教活動 ===
{{main|曜日蒼龍}}
本願寺派の布教の先駆けとなったのが、1889年(明治21年)に単独で巡回布教を行った[[曜日蒼龍|{{ruby|曜日|かがひ}}蒼龍]]{{efn|「曜日」という名字は「かがひ」<ref name="n-inouen_umi-12"/>あるいは「かがい」と読みが記される。}}である<ref name="international-hongwanji_category2_hawaii"/><ref name="n-inouen_umi-12"/>。曜日はハワイで「大日本帝国本願寺派布哇伝道本院」の看板を掲げ{{efn|ハワイ別院のサイトによれば、ハワイ諸島で最初の本願寺派寺院は、1889年3月3日に設立された<ref>{{cite web |url= http://www.hongwanjihawaii.com/whoweare.html |title= Who we are |work= Honpa Hongwanji Mission of Hawaiʻi web site |year= 2005 |access-date= 2010-04-20 }}</ref>。
}}、本山にも支援を求めた<ref name="n-inouen_umi-12"/>。曜日は、キリスト教がハワイで日本人への布教に習熟して日本に押し寄せるという危機意識をもっており、その強い意識を反映して実践的な布教方法を採ったが、方便として阿弥陀仏とキリスト教の神(ゴッド)を同一視する見解を示していたことが本山から猛批判を受け、曜日はハワイでの布教活動を断念せざるを得なかった<ref name="n-inouen_umi-12"/>。曜日の活動は波紋を残し、彼に続いてハワイでの本願寺派布教に乗り出す人々もいた<ref name="n-inouen_umi-12"/>。
[[日清戦争]]後、本願寺派を含めた日本仏教教団の海外布教の関心は、大日本帝国の進出方向とともに東アジアに注がれ、ハワイや北米在住の日本人移民の宗教的要望に応えることには必ずしも積極的ではなかった{{sfn|守谷友江|2008|pp=118-119}}。しかし、ハワイで活動する宗教者の中には「本願寺派布教使」を自称する質の悪い者もいたようであり<ref name="n-inouen_umi-12"/>、本山も信用にかかわる事態として対策せざるを得なくなった<ref name="n-inouen_umi-12"/>。
=== 正式な開教使の派遣 ===
1897年(明治30年)、京都の本山は初代開教監督として[[里見法爾]]、開教使として[[宮本恵順]]をハワイに派遣した{{sfn|本多至成|1997|p=791}}{{sfn|本多千絵|1994|p=75}}{{efn|1897年にハワイに視察の僧侶が派遣され、1898年から正式に僧侶が派遣された、との記述もある{{sfn|守谷友江|2008|p=119}}。本多至成は1897年3月に宮本恵順が派遣されたことをもって開教の始まりとする{{sfn|本多至成|1997|p=791}}。本多千絵は1897年に初代開教監督として里見法爾、開教使として今村恵猛が派遣されたとする{{sfn|本多千絵|1994|p=75}}。}}。
当時のハワイの日系移民(砂糖プランテーションの耕地労働者)社会は、ホスト社会の農場主や、日系社会の上層部たる移民会社・官憲(総領事館)などからの抑圧、思うように稼げない経済状況などからすさんだ状況にあったとされる{{sfn|本多千絵|1994|pp=75-76}}{{sfn|守谷友江|2008|p=123}}([[日本禁酒同盟#安藤太郎とハワイの禁酒会]]なども参照)。日本からキリスト教の布教も行われたが、ホスト社会に同調的な布教姿勢は、西洋式の生活様式に慣れない労働者には必ずしも受け入れられなかった{{sfn|本多千絵|1994|p=75}}。本願寺派は、異郷の地の「孤児」たる日本人移民に「慈父慈母の慰安」をもたらすことを使命に掲げ、抑圧され踏みにじられた平民(労働者)を「正客」(主対象)として「平民教」「平等教」であることを強調した{{sfn|本多千絵|1994|pp=75-76}}。キリスト教を支持するホスト社会からの警戒に加え、キリスト教社会の論理を重視した日系社会上層部(総領事館)にも仏教軽視の姿勢が強いこともあり、布教には苦心があったという{{sfn|本多千絵|1994|p=76}}。
1899年(明治32年)、ハワイ本願寺(のちのホノルル別院)の本堂が落成した<ref name="international-hongwanji_category2_hawaii"/>。
=== 今村恵猛の活動 ===
[[File:Bishop Imamura (2854737308).jpg|thumb|200px|ハワイ別院にある今村恵猛の胸像]]
[[今村恵猛|今村{{ruby|恵猛|えみょう}}]]は1899年(明治32年)にハワイ開教使となり<ref name="nipponica_32246"/><ref name="nihonjinmei_32246"/>、翌1900年(明治33年)に開教監督となった<ref name="nipponica_32246"/><ref name="nihonjinmei_32246"/>。1906年(明治39年)にはハワイ別院の初代輪番(住職)に任命され、1932年(昭和7年)に死去するまでハワイでの伝道に務めた<ref name="nipponica_32246"/><ref>{{Cite book|title=Issei : Japanese immigrants in Hawaii|last=Kimura|first=Yukiko|date=1992|publisher=University of Hawaii Press|isbn=0824814819|edition=Pbk.|location=Honolulu|oclc=37566798}}</ref><ref>{{Cite book|url=https://archive.org/details/kodomonotamenifo00ogaw|title=Kodomo no tame ni = For the sake of the children : the Japanese American experience in Hawaii|last=Ogawa|first=Dennis|last2=Grant|first2=Glen|date=1980|publisher=University Press of Hawaii|isbn=0824807308|location=Honolulu|oclc=7865082|author-link=Dennis M. Ogawa|author-link2=Glen Grant (historian)|url-access=registration}}</ref>。今村は卓越したリーダーシップを発揮し、宗教者の枠を超えて日系社会の指導者として活動した{{sfn|高橋典史|2008|pp=87-88}}。
1899年12月、ハワイでペストが流行した際、今村は救済団体「共愛会」を組織した<ref name="nihonjinmei_32246"/>。また1900年には仏教青年会を創設し、若い一世を組織した{{sfn|本多千絵|1994|p=78}}。
1900年、ハワイがアメリカ合衆国に併合され、「契約移民」制度が廃止されたことで、移民たちも契約によって耕地に縛り付けられることはなくなった{{sfn|本多千絵|1994|p=77}}。こうした状況下、本願寺派は1902年に教育事業に着手して「二世」への日本的教育の需要に応えた{{sfn|本多千絵|1994|pp=77, 80-81}}。
1904年、オアフ島の[[ワイパフ (ハワイ州)|ワイパフ]]耕地で労働者の大規模なストライキが発生した際には、今村が宗教的立場から鎮静を行った{{sfn|本多千絵|1994|p=77}}{{sfn|守谷友江|2008|p=123}}。日本総領事館からの権威による訓告を拒否した日本人労働者たちが、拒絶されながらも足しげく耕地に通った今村の説得に耳を傾けた結果であり、本願寺派の布教が日本人労働者に受け入れられつつあったことを示すとともに、ホスト社会にも本願寺派の存在を知らしめることとなり{{sfn|本多千絵|1994|p=77}}、経営者側が労使協調維持のために寺院の建立の支援に回るようになるなど{{sfn|守谷友江|2008|p=123}}、布教の転換点ともなった{{sfn|本多千絵|1994|p=77}}。
ハワイ本願寺は1906年に別院への昇格が本山から認められ{{sfn|本多千絵|1994|p=77}}、1907年にはハワイ準州政府から宗教法人として認可された{{sfn|本多千絵|1994|p=77}}。
1908年に[[日米紳士協約]]が実施されたことを契機として、日系移民のハワイへの定住化が進む{{sfn|高橋典史|2008|p=89}}。今村はホスト社会の有識者への働きかけを行ってその支持を引き出すとともに{{sfn|本多千絵|1994|p=78}}、日本人社会での本願寺派のイメージ向上を図った{{sfn|本多千絵|1994|p=78}}。移民の「定住化」が進み、二世の中には日本語よりも英語を得意とする人々が現れる状況のもと{{sfn|本多千絵|1994|pp=78-79}}、英語による布教活動を進めた<ref name="nipponica_32246"/><ref name="nihonjinmei_32246"/>。布教活動は「土着化」し、ホスト社会の言語や習慣を取り入れるとともに、ホスト社会の成員からも入信者があらわれるなど、「多国籍型」の宗教活動が展開されることとなった{{sfn|本多千絵|1994|p=79}}。
1920年初頭のオアフ島での大規模なストライキでは、仏教青年会が日本人労働者の結集軸の一つとなって増給要求を決議し、今村も含めた日本仏教・神道の宗教者もストライキを支持した{{sfn|守谷友江|2008|pp=123-124}}。日系二世の通う学校運営を巡って、1910年代に本願寺派側は「アメリカ化」への改革を進めたが、ホスト社会側からはなお「非アメリカ的」な教育を行っていると見なされ、軋轢が生じた{{sfn|守谷友江|2008|p=124}}{{sfn|高橋典史|2006|p=38}}。[[第一次世界大戦]]後にアメリカで排日の風潮も強まる中{{sfn|高橋典史|2008|p=89}}、1923年には従来開教使のみで行われていた在ハワイ教団運営会議に信徒代表を含めるようになるなど、聖職者による教団指導から信徒中心の組織への移行という「アメリカ式の教団運営」も導入された{{sfn|高橋典史|2006|p=46}}{{sfn|高橋典史|2008|p=87}}。
今村は超宗派的な思考の持ち主であった{{sfn|守谷友江|2008|p=122}}。カリフォルニアでは本願寺派と大谷派が反目して日系社会を二分する事態を引き起こしたのと対照的に、ハワイにおいて両派は比較的良好な関係を結びえた{{sfn|守谷友江|2008|p=122}}。
=== 移民からの視点 ===
プランテーション労働者は人種ごとに「キャンプ」に収容された{{sfn|守谷友江|2008|p=117}}。他人種との接触は限られた一方、日本人キャンプでは日本の共同体のありようが比較的残りやすい状況にあった{{sfn|守谷友江|2008|p=117}}。ハワイ全島に222の日本人キャンプがあり、うち80のキャンプに日本仏教(本願寺派以外の宗派も含む)の寺院が造立された{{sfn|守谷友江|2008|p=118}}。
教団発行の教団史において、寺院の造立は本山主導の事業として説明されがちであるが、現地の日本人信者の協力なしには実現しえないものであった{{sfn|守谷友江|2008|p=118}}。移民からの視点では、本願寺派もふくめた日本の仏教教団の寺院や布教所は、自らがもともと信仰する宗派の施設というよりも、コミュニティの集会所などの性格を有するものであった<ref name="wahiawashinbuddhists_temple-history"/>。ハワイでは同郷の者が信者団体を構成するという強い傾向性があり、広島県人は浄土真宗へ、山口県人は浄土宗に結集する傾向にあった<ref name="n-inouen_umi-12"/>。また、当時の日本社会では沖縄県人が差別されることがあり、結果として沖縄県人が別個の寺院に結集するという事例(慈光園本願寺など)も見られた<ref name="n-inouen_umi-12"/>。
=== 第二次世界大戦 ===
1941年時点でハワイには本願寺派寺院は38寺(うち別院2)あった{{sfn|高橋典史|2006|p=40}}。日本軍の[[真珠湾攻撃]]によりアメリカと日本が開戦すると、ハワイの日系人社会は厳重な監視下に置かれ、宗教活動・文化活動は抑圧された{{sfn|高橋典史|2006|pp=38-39}}。宗教関係者や日本語学校教師など日系社会の指導層は拘束され{{sfn|高橋典史|2006|p=39}}、本願寺派開教使48人が強制収容所に抑留された{{sfn|高橋典史|2006|p=39}}。戦中のハワイの本願寺派別院は、留守を預かった日系二世の開教使や教師らによって維持された{{sfn|高橋典史|2006|p=39}}。一方、戦時中には同派の寺院のいくつかが放火や不審火で焼失するなどの被害も受けた{{sfn|高橋典史|2006|p=39}}。
=== 第二次世界大戦後 ===
大戦後、27人の開教使がハワイに帰還し、教団復興が進められた{{sfn|高橋典史|2006|pp=40-41}}。1946年には英語伝道講習会が開催され{{sfn|高橋典史|2006|p=41}}、また在ハワイ教団の機関誌の復刊なども行われた{{sfn|高橋典史|2006|p=41}}。開教使の代表である総長が選挙によって選出されることになったほか{{sfn|高橋典史|2006|p=41}}、在ハワイ教団の運営に信徒が選挙を通じて参画するようになった{{sfn|高橋典史|2006|p=41}}。1948年には教団付属学校が再開された{{sfn|高橋典史|2006|p=41}}。大戦戦没者の供養や、日本への救援物資の送付、日本との交流などの活動が行われている{{sfn|高橋典史|2006|p=41}}。1952年には本願寺派門主[[大谷光照]]がハワイを訪れ、全島巡教を行っている{{sfn|高橋典史|2006|p=41}}。
1976年、保険会社幹部のポール・ヤマナカは、日本の「[[人間国宝]]」のシステムをモデルとした「{{仮リンク|ハワイ人間州宝|en|List of Living Treasures of Hawaii}}」 (Living Treasures of Hawaii) を創設するという提案を宣教司教の Yoshiaki Fujitaniに持ち込んだ<ref>{{cite news |url= http://archives.starbulletin.com/2003/02/01/features/story1.html |title= Honpa Hongwanji Mission to honor Living Treasures of Hawaii |date= February 1, 2003 |newspaper= [[Honolulu Star-Bulletin]] |access-date= 2010-04-20 }}</ref>。この賞の目的は、特定の分野で卓越性と高い水準の達成水準を示し、より友愛的な社会に向けて人類に多大な貢献をした人物を表彰することである<ref>{{Citation | author = Scott Stone | title = Living Treasures of Hawaii 25th Anniversary of the Selections of Outstanding Persons as Honored by the Honpa Hongwanji Mission of Hawaii | place = Honolulu | publisher = Honpa Hongwanji Mission of Hawaii | year = 2000 | isbn = 0-89610-316-1 }}</ref> 。誰もが個人を賞に推薦することができ、これまでに100名を超えるコミュニティ・メンバーが表彰されてきた。
== 浄土真宗本願寺派ハワイ開教区 ==
浄土真宗本願寺派ハワイ開教区の本部はホノルルにある。ハワイ開教区は、米国本土の浄土真宗寺院の統括組織である[[米国仏教団]](浄土真宗本願寺派北米開教区)とは別に運営されている。
浄土真宗本願寺派国際センターによれば、ハワイ諸島には全部で31の寺院(うち2つは別院)がある<ref name="international-hongwanji_category2_hawaii"/>{{efn|2007年の報道では、この時点では36の寺院があったという<ref name="starbulletin_070203"/>。}}。これらの寺院の多くは、かつての砂糖プランテーションの日本人居住地ごとに建てられ、小規模な門徒に奉仕している<ref name="starbulletin_070203"/>。2007年の記事によれば、約8000人の会員がいるというが、同時に門徒の高齢化や減少についても触れている<ref name="starbulletin_070203"/>。
以下の表は、浄土真宗本願寺派国際センターのウェブサイトに示された拠点の一覧および、各寺院のウェブサイトの情報を基本とする。
{{legend|#ccf|他寺の子院}}
{{legend|#ccc|廃寺}}
=== 寺院 ===
==== オアフ島 ====
{| class="wikitable" style="text-align:center;font-size:85%"
!width="200" | 名称 !! width="80" | 所在地 !! 説明 !!
|-
| Honpa Hongwanji Hawaii Betsuin<br>(本派本願寺ハワイ別院)
| [[ホノルル]]
| style="text-align:left;" |
| [https://hawaiibetsuin.org/]
|-
| Aiea Hongwanji Mission<br>(アイエア本願寺{{sfn|松下志朗|1999|p=188}})
| [[:en:Aiea, Hawaii|Aiea]]
| style="text-align:left;" | 1902年設立<ref>{{cite web|url=http://aieahongwanji.org/|title=Aiea Hongwanji Mission|publisher=Aiea Hongwanji Mission|accessdate=2023-8-24}}</ref>。
| [http://aieahongwanji.org/]
|-
| Ewa Hongwanji Mission<br>(エヴァ本願寺)
| [[:en:ʻEwa Beach, Hawaii|Ewa]]
| style="text-align:left;" | 1901年設立<ref>{{cite web|url=https://sites.google.com/view/ewa-buddhist-temple/home|title=Ewa Hongwanji Mission|publisher=Ewa Hongwanji Mission|accessdate=2023-8-25}}</ref>
| [https://sites.google.com/view/ewa-buddhist-temple/home]
|-
| Jikoen Hongwanji Mission<br>(慈光園本願寺<ref name="okinawatimes_875893"/>)
| ホノルル
| style="text-align:left;" | 1938年設立<ref name="n-inouen_umi-12"/>。[[井上順孝]]『海を渡った日本宗教』(1985年)によれば、沖縄県にルーツを持つ信者が95%を占めるという<ref name="n-inouen_umi-12"/>。これについては、戦前の日系人社会の中で沖縄県出身者が差別されていたという背景があり、沖縄県出身者のよりどころとして新たな寺院が設立されたことによる<ref name="n-inouen_umi-12"/><ref name="okinawatimes_875893">{{cite news|url=https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/875893|title=時には差別から逃れるよりどころに ハワイ、沖縄移民が集うお寺|newspaper=沖縄タイムス|date=2021-12-8|accessdate=2023-8-24}}</ref>。
| [https://jikoenhongwanji.org/]
|-
| Windward Buddhist Temple<br>(ウィンドワード仏教寺<ref name="nikkansan_eventhawaii-062823_071123">{{cite web|url=https://nikkansan.net/entertainment/eventhawaii-062823_071123/|title=8月16日 (水) 〜 8月29日 (火) ハワイイベント|website=日刊サン|date=2023-8-16|accessdate=2023-8-22}}</ref>)
| [[カイルア (ハワイ州ホノルル郡)|カイルア]]
| style="text-align:left;" | 1968年、カイルアの現在地に"Kailua Hongwanji Mission"(カイルア本願寺)として設立<ref name="windwardbuddhisttemple">{{cite web|url=https://www.windwardbuddhisttemple.org/|title=Windward Buddhist Temple|publisher=Windward Buddhist Temple|accessdate=2023-8-24}}</ref>。2012年に再建に着手し2014年に完成<ref name="windwardbuddhisttemple"/>。2019年、オアフ島のウィンドワード(東岸地域)での広範な役割を担うことを示す現名称に改める<ref name="windwardbuddhisttemple"/>。
| [https://www.windwardbuddhisttemple.org/]
|-
| Mililani Hongwanji Mission<br>(ミリラニ本願寺<ref name="nikkansan_eventhawaii-081623_082923">{{cite web|url=https://nikkansan.net/entertainment/eventhawaii-081623_082923/|title=6月28日 (水) 〜 7月11日 (火) ハワイイベント|website=日刊サン|date=2023-6-28|accessdate=2023-8-22}}</ref>)
| [[:en:Mililani, Hawaii|Mililani]]
| style="text-align:left;" | 1977年設立<ref>{{cite web|url=https://www.mililanihongwanji.org/history|title=Temple History|publisher=Mililani Hongwanji Mission|accessdate=2023-8-25}}</ref>
| [https://www.mililanihongwanji.org/]
|-
| Mo{{okina}}ili{{okina}}ili Hongwanji Mission<br>(モイリイリ本願寺<ref>{{cite web|url=https://www.jtb.co.jp/myjtb/card/travel_life/column/article119.asp|title=ハワイ 日系移民が拓いた町「ワヒアワ」と「モイリイリ」 海外現地ライター便り|publisher=JTB|date=2018-10-15|accessdate=2023-8-22}}</ref>)
| ホノルル
| style="text-align:left;" | 1906年設立<ref name="moiliilihongwanji_about">{{cite web|url=https://www.moiliilihongwanji.org/about/|title=About Us|publisher=Mō‘ili‘ili Hongwanji |accessdate=2023-8-24}}</ref>
| [https://www.moiliilihongwanji.org/]
|-
| Pearl City Hongwanji Mission<br>(パールシティ本願寺<ref name="nikkansan_eventhawaii-080923_082223">{{cite web|url=https://nikkansan.net/entertainment/eventhawaii-080923_082223/|title=8月9日 (水) 〜 8月22日 (火) ハワイイベント|website=日刊サン|date=2023-8-9|accessdate=2023-8-22}}</ref>)
| [[パールシティ (ハワイ州)|パールシティ]]
| style="text-align:left;" | 1905年設立<ref>{{cite web|url=http://www.pearlcityhongwanji.com/About-Us.html|title=About Us|publisher= Pearl City Hongwanji Mission|accessdate=2023-8-25}}</ref>
| [http://www.pearlcityhongwanji.com/]
|-
| Wahiawa Hongwanji Mission<br>(ワヒアワ本願寺)
| [[ワヒアワ]]
| style="text-align:left;" | 1908年設立<ref name="wahiawashinbuddhists_temple-history">{{cite web|url=https://www.wahiawashinbuddhists.org/temple-history|title=temple history|publisher= Wahiawa Hongwanji Mission|accessdate=2023-8-25}}</ref>
| [https://www.wahiawashinbuddhists.org/]
|-
| Waialua Hongwanji Mission<br>(ワイアルア本願寺)
| [[:en:Waialua, Hawaii|Waialua]]
| style="text-align:left;" |
| [https://www.waialuahongwanji.org/]
|-
| Waianae Hongwanji Mission<br>(ワイアナエ本願寺)
| [[:en:Waianae, Hawaii|Waianae]]
| style="text-align:left;" |
| [https://sites.google.com/view/waianae-buddhist-temple/home]
|-
| Waipahu Hongwanji Mission<br>(ワイパフ本願寺<ref name="nikkansan_eventhawaii-062823_071123"/>{{sfn|松下志朗|1999|p=188}})
| [[ワイパフ (ハワイ州)|ワイパフ]]
| style="text-align:left;" |
| [https://waipahuhongwanji.org/]
|-
|}
<gallery>
File:Honpa Hongwanji Hawaii Betsuin in Honolulu, Oahu, Hawaii, US.jpg|ハワイ別院(中央右)がたたずむオアフ島の風景
</gallery>
==== ハワイ島 ====
{| class="wikitable" style="text-align:center;font-size:85%"
!width="200" | 名称 !! width="80" | 所在地 !! 説明 !!
|-
| Honpa Hongwanji Hilo Betsuin<br>(本派本願寺ヒロ別院)
| [[ヒロ (ハワイ州)|ヒロ]]
| style="text-align:left;" |
| [https://www.hilobetsuin.org/]
|-
| Honohina Hongwanji Mission<br>(ホノヒナ本願寺)
| [[:en:Nīnole, Hawaii|Ninole]]
| style="text-align:left;" |
| [https://www.hakalauhome.com/honohina-hongwanji.html]
|-
| Honokaa Hongwanji Mission<br>(ホノカア本願寺<ref>{{cite web|url=https://www.hongwanji.or.jp/project/report/001854.html|title=ハワイ開教区ホノカア本願寺 「ウクライナ避難民への人道支援」|publisher=浄土真宗本願寺派|date=202-07-12|accessdate=2023-8-24}}</ref>)
| [[ホノカア]]
| style="text-align:left;" |
| [https://www.honokaahongwanjibuddhisttemple.org/]
|-
| Honomu Hongwanji Mission<br>(ホノム本願寺{{sfn|松下志朗|1999|p=189}})
| [[:en:Honomu, Hawaii|Honomu]]
| style="text-align:left;" |
|
|-
| Kamuela Hongwanji Mission<br>(カムエラ本願寺)
| [[ワイメア (ハワイ州)|ワイメア<br>(カムエラ)]]
| style="text-align:left;" | ウェブサイトは Kohala Hongwanji Mission と合わせて運用されている。
| [https://kamuela.hongwanjihawaii.com/]
|-
| Kohala Hongwanji Mission
| [[カパアウ]]
| style="text-align:left;" |
| [https://kamuela.hongwanjihawaii.com/]
|-
| Kona Hongwanji Mission<br>(コナ本願寺{{sfn|松下志朗|1999|p=189}})
| [[:en:Kealakekua, Hawaii|Kealakekua]]
| style="text-align:left;" | 1897年、[[コナ (ハワイ島)|コナ]]地域に最初の寺院が設立<ref name="konahongwanji_about">{{cite web|url=http://www.konahongwanji.org/about|title=About|publisher=Kona Hongwanji Mission|accessdate=2023-8-24}}</ref>{{Sfn|REFLECTING ON 2022|p=2}}。1901年、現在地のKealakekuaに寺院建築用の土地が取得され、1907年に奉献<ref name="konahongwanji_about"/>。
| [http://www.konahongwanji.org/]
|-
| Naalehu Hongwanji Mission<br>(ナアレフ本願寺<ref name="shorenji_hawaii"/>)
| [[ナアレフ]]
| style="text-align:left;" | ウェブサイトはプナ本願寺とともに運用されている。
| [https://punahongwanji.org/naalehu-hongwanji/]
|-
| Paauilo Hongwanji Mission
| [[:en:Paauilo, Hawaii|Paauilo]]
| style="text-align:left;" |
|
|-
| Pahala Hongwanji Mission<br>(パハラ本願寺<ref name="shorenji_hawaii"/>)
| [[パハラ]]
| style="text-align:left;" | ウェブサイトはプナ本願寺とともに運用されている。
| [https://punahongwanji.org/pahala-hongwanji/]
|-
| Papaaloa Hongwanji Mission
| [[:en:Pāpaʻaloa, Hawaii|Papaaloa]]
| style="text-align:left;" |
|
|-
| Papaikou Hongwanji Mission
| [[:en:Papaikou, Hawaii|Papaikou]]
| style="text-align:left;" |
|
|-
| Puna Hongwanji Mission<br>(プナ本願寺{{sfn|松下志朗|1999|p=189}})
| [[ケアアウ]]
| style="text-align:left;" | 1902年、Olaa Hongwanji として設立{{Sfn|REFLECTING ON 2022|p=7}}。1938年により大きな寺院が建立される{{Sfn|REFLECTING ON 2022|p=7}}。1957年、[[プナ]]本願寺に改称{{Sfn|REFLECTING ON 2022|p=7}}。
| [https://punahongwanji.org/]
|-
|}
<gallery>
File:2013.11.01.104330 Hongpa Hongwanji Hilo Betsuin Hilo Hawaii.jpg|本派本願寺ヒロ別院
</gallery>
==== マウイ島・ラナイ島 ====
{| class="wikitable" style="text-align:center;font-size:85%"
!width="200" | 名称 !! width="80" | 所在地 !! 説明 !!
|-
| Kahului Hongwanji Mission<br>(カフルイ本願寺)
| [[カフルイ]]
| style="text-align:left;" |
|
|-
| Lahaina Hongwanji Mission<br>([[ラハイナ本願寺]])
| [[ラハイナ]]
| style="text-align:left;" | 1904年設立<ref name="lahainahongwanji_history">{{cite web|url=https://www.lahainahongwanji.com/aboutus.html|title=History of Lahaina Hongwanji Mission|publisher=Lahaina Hongwanji Mission|accessdate=2023-8-12}}</ref>、1911年に現在地に移転<ref name="lahainahongwanji_history"/>。2023年の大火により焼失
| [https://www.lahainahongwanji.com/]
|-
| Makawao Hongwanji Mission<br>(マカワオ本願寺<ref name="shorenji_hawaii"/>)
| [[:en:Makawao, Hawaii|Makawao]]
| style="text-align:left;" | 1972年設立{{Sfn|REFLECTING ON 2022|p=3}}。前身は1907年設立の Paia Hongwanji Mission(パイア本願寺){{Sfn|REFLECTING ON 2022|p=3}}。
| [https://www.makawaohongwanji.org/]
|-
| Wailuku Hongwanji Mission<br>(ワイルク本願寺)
| [[ワイルク]]
| style="text-align:left;" |
| [http://wailukuhongwanji.org/]
|-
| Lanai Hongwanji Mission<br>(ラナイ本願寺)
| <small>[[ラナイ・シティ]]</small>
| style="text-align:left;" |
|
|-
|}
==== カウアイ島 ====
{| class="wikitable" style="text-align:center;font-size:85%"
!width="200" | 名称 !! width="80" | 所在地 !! 説明 !!
|-
| West Kauai Hongwanji Mission<br>(西カウアイ本願寺)
| [[:en:Hanapepe, Hawaii|Hanapepe]]
| style="text-align:left;" | 1997年、高齢化と人口減少にともなう措置として、カウアイ島西部のハナペペ、ワイメア、コロアの各寺院を統合して設立{{Sfn|REFLECTING ON 2022|p=5}}。公式サイトには Main temple in Hanapepe として所在地を示す<ref name="West Kauai Hongwanji">{{cite web|url=https://westkauaihongwanji.org/|title=West Kauai Hongwanji|publisher=West Kauai Hongwanji|accessdate=2023-8-24}}</ref>。<br>前身の一つは1909年設立の{{Sfn|REFLECTING ON 2022|p=5}} Hanapepe Hongwanji Mission (ハナペペ本願寺<ref>{{cite web|url=http://www.saionji.jp/saionji.html|title=住職紹介|publisher=西恩寺(横浜市)|accessdate=2023-8-22}}</ref>)。
| [https://westkauaihongwanji.org/]
|- bgcolor="#ccf"
| West Kauai Hongwanji Mission<br>(Waimea Temple)<ref>{{cite web|url=https://discovernikkei.org/ja/events/2018/07/13/5722/|title=Obon Festival - West Kauai Hongwanji Mission (Waimea Temple)|website=ディスカバー・ニッケイ|date=2018-7-12|accessdate=2023-8-24}}</ref>
| [[ワイメア (カウアイ島)|ワイメア]]
| style="text-align:left;" | 西カウアイ本願寺サイトに"Waimea Temple"として記載<ref name="West Kauai Hongwanji"/>。前身は1910年設立の{{Sfn|REFLECTING ON 2022|p=5}} Waimea Hongwanji Mission(ワイメア東本願寺{{efn|ワイメアには真宗大谷派の寺院もあり「ワイメア西本願寺」と呼ばれる。}})。
|
|- bgcolor="#ccc"
| Kealia Hongwanji Mission<br>(ケアリア本願寺{{sfn|松下志朗|1999|p=189}})
| [[:en:Kealia, Hawaii|Kealia]]
| style="text-align:left;" | 1974年に閉鎖され、門徒はカパア本願寺に移る{{Sfn|REFLECTING ON 2022|p=4}}。
|
|-
| Kapaa Hongwanji Mission<br>(カパア本願寺<ref>{{cite web|url=https://ryukoku-koyukai.jp/town/kapaa-hongwanji-mission%EF%BC%88%E3%82%AB%E3%83%91%E3%82%A2%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%EF%BC%89/|title=Kapaa Hongwanji Mission(カパア本願寺)|publisher=龍谷大学校友会|accessdate=2023-8-22}}</ref>)
| [[:en:Kapaa, Hawaii|Kapaa]]
| style="text-align:left;" | 1910年にケアリア本願寺の布教所として設立され{{Sfn|REFLECTING ON 2022|p=4}}、1922年に独立した寺院として設立される{{Sfn|REFLECTING ON 2022|p=3}}。1929年に焼失するが、1938年に再建{{Sfn|REFLECTING ON 2022|p=4}}。
| [https://www.kapaahongwanji.org/]
|-
| [[:en:Lihue Hongwanji Mission|Lihue Hongwanji Mission]]<br>(リフエ本願寺{{sfn|松下志朗|1999|p=189}})
| [[リフエ]]
| style="text-align:left;" |
| [https://lihuehongwanji.org/]
|- bgcolor="#ccc"
| Koloa Hongwanji Mission<br>(コロア本願寺{{sfn|松下志朗|1999|p=189}})
| [[コロア (ハワイ州)|コロア]]
| style="text-align:left;" | 1910年設立{{Sfn|REFLECTING ON 2022|pp=5-6}}。1994年焼失{{Sfn|REFLECTING ON 2022|p=6}}。2010年に廃寺となり{{Sfn|REFLECTING ON 2022|p=6}}、西カウアイ本願寺に統合。
|
|-
|}
<gallery>
File:Hanapepe Hongwanji Mission, Hanapepe. Kauai, Hawaii.JPG|ハナペペ本願寺
File:Kauai-Lihue-Hongwanji.JPG|リフエ本願寺
</gallery>
=== 付属機関 ===
*[[:en:Pacific Buddhist Academy|Pacific Buddhist Academy]](パシフィック・ブディスト・アカデミー<ref name="international-hongwanji_category2_hawaii"/>) - ホノルル
*[[:en:Hongwanji Mission School|Hongwanji Mission School]](本願寺ミッションスクール<ref name="international-hongwanji_category2_hawaii"/>) - ホノルル
*Buddhist Study Center(仏教研究所<ref name="international-hongwanji_category2_hawaii"/>) - ホノルル
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2|refs=
<ref name="international-hongwanji_category2_hawaii">{{cite web|url=https://international.hongwanji.or.jp/jp/html/category2_hawaii.html|title=海外活動拠点―ハワイ|publisher=浄土真宗本願寺派国際センター|accessdate=2023-8-21}}</ref>
<ref name="n-inouen_umi-12">{{cite web|url=http://www.kt.rim.or.jp/~n-inoue/book/umiwo/umi-12.htm|title=第一波の教団 相次ぐ開教 同県意識と宗教所属 重複所属 |author=[[井上順孝]]|work=[http://www.kt.rim.or.jp/~n-inoue/book/pb-umi.htm 海を渡った日本宗教 ―移民社会の内と外―]|accessdate=2023-8-12}}</ref>
<ref name="starbulletin_070203">{{cite news |title= A legacy of hope: A retiring bishop hopes a Buddhist high school can rejuvenate an aging sect |date= 2007-2-3 |newspaper= [[:en:Honolulu Star-Bulletin|Honolulu Star-Bulletin]] |url= http://archives.starbulletin.com/2007/02/03/features/story01.html |access-date= 2010-04-20 }}</ref>
<ref name="shorenji_hawaii">{{cite web|url=http://www.c-able.ne.jp/~y640/hawaii/hawaii.htm|title=ハワイ開教のおもいで|website=[https://www.c-able.ne.jp/~y640/ 光臻山生蓮寺]|accessdate=2023-8-21}}</ref>
<ref name="nipponica_32246">{{cite web|url=https://kotobank.jp/word/%E4%BB%8A%E6%9D%91%E6%81%B5%E7%8C%9B-32246|title=今村恵猛|work=日本大百科全書(ニッポニカ)|accessdate=2023-9-21}}</ref>
<ref name="nihonjinmei_32246">{{cite web|url=https://kotobank.jp/word/%E4%BB%8A%E6%9D%91%E6%81%B5%E7%8C%9B-32246|title=今村恵猛|work=デジタル版 日本人名大辞典+Plus |accessdate=2023-8-21}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
*{{citation|和書|author=本多千絵|title=キリスト教社会における日本宗教の布教ストラテジーと適応 第二次世界大戦前のハワイ社会における浄土真宗本派本願寺教団の事例をめぐって
|journal=年報社会学論集 |publisher=関東社会学会 |issue=7 |year=1994 |doi= 10.5690/kantoh.1994.73 |ref=harv}}
*{{citation|和書|author=本多至成|title=近代仏教音楽の東漸-ハワイへの伝播-|journal=印度學佛教學研究 |volume=45|issue=2|year=1997 |publisher=日本印度学仏教学会|doi=
10.4259/ibk.45.791 |ref=harv}}
*{{citation|和書|author=松下志朗|title=歴史随想 ハワイ移民史について|journal=経済史研究|issue=3|year=1999 |publisher=大阪経済大学日本経済史研究所 |doi=10.24712/keizaishikenkyu.3.0_188 |ref=harv}}
*{{citation|和書|author=守谷友江|title=戦前のハワイにおける日系仏教教団の諸相|journal=立命館言語文化研究|issue=20|year=2008|url=https://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/pdf_20-1/RitsIILCS_20.1pp115-159MORIYA.pdf|ref=harv}}
*{{citation|和書|author=高山秀嗣|title=ハワイ初期開教と九州における真宗ネットワーク|journal=年報日本思想史|issue=10|year=2011|url=http://hdl.handle.net/10097/55548|ref=harv}}
*{{citation|和書|author=高橋典史|title=第二次世界大戦後のハワイ日系仏教のアメリカ化とエスニック化|journal=一橋研究 |vplime=31 |issue=3 |year=2006 |doi= 10.15057/17947
|ref=harv}}
*{{citation|和書|author=高橋典史|title=20 世紀初頭のハワイ日系仏教における〈二重のナショナリズム〉の出現|journal=ソシオロゴス |issue=32 |year=2008 |url= https://www.l.u-tokyo.ac.jp/~slogos/archive/32/takahashin2008.pdf |ref=harv}}
*{{citation|和書|url=https://international.hongwanji.or.jp/files/2022_Temple_Anniversaries.pdf|title=REFLECTING ON 2022|publisher=Honpa Hongwanji Mission of Hawaii|year=2022|accessdate=2023-8-24|ref={{SfnRef|REFLECTING ON 2022}}}}
== 外部リンク ==
{{commonscat|Honpa Hongwanji Hawaii Betsuin|本派本願寺ハワイ別院}}
*[http://www.hongwanjihawaii.com Honpa Hongwanji Mission of Hawaii]{{en icon}} - 公式サイト
*[https://international.hongwanji.or.jp/jp/html/category2_hawaii.html 浄土真宗本願寺派国際センター 海外活動拠点―ハワイ]{{ja icon}}
{{リダイレクトの所属カテゴリ
|redirect1= 浄土真宗本願寺派ハワイ開教区
|1-1= 浄土真宗本願寺派
|1-2= ハワイの宗教
|1-3= 日系アメリカ人の文化
}}
{{coord|21|18|57.6|N|157|51|7.3|W|region:US-HI|display=title}}
{{DEFAULTSORT:ほんはほんかんしはわいへついん}}
[[Category:アメリカ合衆国の仏教寺院]]
[[Category:浄土真宗本願寺派の寺院|はわいへついん]]
[[Category:ホノルルの宗教施設]] | 2023-10-12T21:14:04Z | 2023-11-24T22:40:17Z | false | false | false | [
"Template:仮リンク",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E6%B4%BE%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E3%83%8F%E3%83%AF%E3%82%A4%E5%88%A5%E9%99%A2 |
4,840,754 | サイキック5 | 『サイキック5』(サイキックファイブ、英:PSYCHIC5)は、ジャレコより1987年に稼働されたアーケード用アクションゲーム。開発は日本マイコン開発(NMK)。
5人のサイキック戦士から一人を選んで操り、ステージの一番奥にいる大魔王サタンを目指すサイドビュー型のアクションゲーム。5人のエスパー達はジャンプ力、パワー、攻撃力、移動速度などに差があり、それぞれの能力に応じて使い分ける必要がある。
1レバーと2ボタン(ハンマーによる攻撃、ジャンプ)で自機を操作。ジャンプは押す長さにより高度を変え、ジャンプ中にレバーを上に入力するとゆっくりと下降する事ができ、レバーを下に入力すると速く下降する。
ステージ中の「壺」を壊すと中から食べ物アイテムが出現し、その食べ物アイテムを6つ取る毎に画面右上の5つ枠があるアイテムアイコンにアイテムがストックされる。アイテムアイコンのカーソルは常に動いており、このカーソルがストックされているアイテムの位置に重なった時にステージ中の「クエスチョンボックス」(?マークの書かれている箱)などを壊すと、中からそのアイテムが出現、取得する事ができる。なお、アイテムアイコンのカーソルがアイテムのない空白の時にクエスチョンボックスを壊すと、そのクエスチョンボックスに本来入っているアイテムが出現する。また、アイテムアイコンにストックしているアイテムは次のステージに持ち越す事ができる。
ステージ中には時計、傘、椅子、ティーポット、トースターなど様々な姿をした敵キャラクター(モンスター)がおり、更にそれらの敵キャラクターはそれぞれ固有の小型敵キャラクター(ミニモンスター)を放ち自機を攻撃してくる。モンスターはハンマーで攻撃すると気絶させる事ができ、その間は自機が触れてもミスにはならない。モンスターを数回ハンマーで攻撃すると倒す事ができ、1体につき1,000点が入る。ミニモンスターは倒すと1体につき100点だが、ミニモンスターを放ったモンスターを倒した場合、そのモンスターの放ったミニモンスターが消滅し、消えたミニモンスター×500点がスコアとして入る。
ステージ中には魔女が飛び回っており、これをハンマーで倒すと箒を奪って一定時間乗る事ができる。箒に乗っている間は自由に空中移動でき、また制限時間のカウントが止まり、更にモンスターの動きが止まり一撃で倒せるようになり、その他ステージ中にある重い扉(ヘビードア)をすぐ開けられるようになる。
ステージの最奥にはボスであるサタンがおり、これを倒すとステージクリア、SCENE1からSCENE8までの全8ステージとなっている。
敵やサタンの放つ弾に当たる、ステージ中の火に触れる、ステージ中の移動するブロックに挟まれる、制限時間をオーバーするなどすると1ミス、残機が全て無くなるとゲームオーバー。クレジットを投入する事でコンティニューする事ができる。
本作に登場するアイテムを記述する。
アイテムアイコンのカーソルがストックされているアイテムの位置に重なった時にステージ中のクエスチョンボックスなどを壊すと出現、取ると効果を発揮する。
ほとんどのアイテムはステージ中のクエスチョンボックスの中に入っている。ただし、アイテムアイコンのカーソルがアイテムの位置に重なっている時にクエスチョンボックスを壊すと、クエスチョンボックスに本来入っているアイテムではなくアイテムアイコンにストックされていたアイテムが出現する。
ステージ中に存在する仕掛けについて記述する。
使用キャラクターはステージ開始時に選べるほか、ステージ内にある電話ボックスにて任意に切り替える事が可能。最初はナオキとアキコしか使えないが、1ステージにつき必ず1つあるガラス瓶を壊すと、囚われていた仲間のエスパーを救出する事ができる。
ゲーム中の音楽は当時NMKに所属していた坂本慎一が担当。坂本はインタビューで『サイキック5』の曲について聞かれ、当時は周辺にバンドをやっている友人もいたが、彼らにゲーム音楽が特殊な音楽だと思われる事が悔しく、ゲーム基板のチップでもポップスは作れると証明したかった、それでイントロ~Aメロ~Bメロという普通の曲のような構成にしたと語っている。また坂本はほかに、ゲームの場合は長い曲を作っても途中で死んで最後まで聴けないという事が多いが、それでも敢えて長くしてプレイヤーに「最後まで聴きたいので頑張ってプレイしよう」と思わせる事はできないだろうか、とも考えたと語っている。その他坂本はそれぞれ個別の曲について、「アキコのテーマ」はアキコのキャラに合う活発な感じの、それでいてちょっと不思議な曲を作りたかった、「ブンタのテーマ」のロックな感じはテーカン時代の同僚であったメタルユーキ(斎藤幹雄)の影響が大きいかもしれない、「マコトのテーマ」はジャズを意識し、当時NMKで企画のアルバイトをしており後に『ぶたさん』の音楽を担当した吉田晄浩によく相談していた、など当時を振り返っている。なお、本作は『アーガス』や『バルトリック(英語版)』では2曲だったネームエントリーの曲が1曲になっているが、これについて坂本は実はスランプが原因であると語り、『サイキック5』を作っている時に全てを出し切ったような感じになってしまい、半ば出社拒否のような状態になってしまった、と当時を振り返っている。
ゲーム文化保存研究所のこうべみせは、難しいゲームの多いアーケードゲームの中で、本作は難易度は高いながらもプレイヤーが上達を実感でき、エンディングを目指す気になれるゲームデザインをしたゲームの一つだったとしている。クリアするにはトラップやギミックの場所を覚えパターンを作り上げるのが重要だったとし、時間切れや操作ミスでの火の床への接触で残機を減らす事が多かったが、敵キャラクターがミスの直接の原因となる事は少なく、それまでのジャレコのゲームで見られた上級者でも対応困難な無茶とも言える敵の攻撃など「理不尽な難しさ」を感じさせない内容が今でも名作と言われる所以ではないかと述べている。そして本作を、高難易度が目立つジャレコゲームの中では難易度的にベストバランスの佳作と言っていいとし、クリアするごとに違った目標を立てられ、飽きずにくり返し遊べる、自身の考える「出来の良いゲーム」の条件を満たした作品であると評価している。
『サイキック5 エターナル』 (サイキックファイブ エターナル、英:PSYCHIC5 ETERNAL) は、シティコネクションより2023年7月27日に発売されたNintendo Switch用アクションゲーム。
Nintendo Switchにて発売された上記『サイキック5』(以下、原作)のリメイク作品。2022年9月12日に発表され、2023年7月27日に発売された。リメイクに際し、原作は縦画面のゲームであったが、本作はワイド画面に対応し、更にワイド画面とオリジナルの縦画面をZLボタンで、リメイクグラフィック&アレンジBGMとオリジナルグラフィック&オリジナルBGMとをLボタンで、それぞれボタン1つで切り替える事ができるようになっている(プレイするステージやゲームモードによってはワイド画面またはリメイクグラフィック&アレンジBGM固定となる)。
ゲーム内容では、原作と同様のSCENE1から8の8ステージのほか、新たに韓国出身の「第2エスパー団」を操作し進んでいくSCENE9から17の計9ステージが追加されている。新たなステージは地獄が舞台となっており、ベルゼブブ、ベルフェゴール、アマイモン、バフォメット、そして悪魔の親玉であるルシファーといった新たなボス敵が登場する。その他、新たなゲームモードや新規アイテムも追加されている。
原作はライフ無しの一撃死のゲームであったが、本作では難易度EASY及びNORMALではライフを持ってスタートし、ある程度敵の攻撃に耐えられるようになっている(ただし移動するブロックに挟まれた場合や制限時間をオーバーした場合は原作通り一撃死する。また、難易度HARDは原作と同様のライフ無しの一撃死制となる)。他に原作は1人プレイのゲームであったのに対し、本作は2人同時プレイに対応している。
設定面において原作には無かった設定やストーリーが新たに追加されている。また、時間追加アイテムがアイテムアイコンにストックされる、ミスしてもパワーアップの効果が無くならないなど、原作との変更点、相違点がいくつか存在する。
本作に登場する追加アイテムを記述する。
SCENE9以降から使用する第2のエスパー団。全員韓国出身で、最初から全員使える。独自のスキルとして攻撃ボタンを押しっぱなしにして離すとハンマーを投げて遠距離攻撃する「ハンマー投げ」を使う事ができる。メンバーは開発元のCRT GAMESの開発スタッフをモデルとしている。
特定の条件を満たすと使用する事のできる隠しキャラクター達。全体的に高い能力を持つ。
開発は韓国・CRT GAMESが担当。CRT GAMESの代表であるイムはAUTOMATONでのインタビューにて、開発するにあたって基板で『サイキック5』をプレイしながらそのデザインをそのまま移す作業、いわゆる「目コピ」を行ったとしている。「目コピ」をしたのはグラフィックだけでなく、ジャンプはどれくらいするか、どこからどこまで動くかというアクションも同様だったとし、絵を目コピするのと同じように動きも動画で録画して、それを比較しながらゲームに反映したと述べている。また、現存している元のソースというのはゼロで、CRT GAMESが前に手掛けた『スノーブラザーズスペシャル』と同様にゼロからゲームを作ったとイムは制作について述べている。ほかに、今回のリメイクの件についてはCRT GAMESが『サイキック5 エターナル』を作りたいと考え、シティコネクションに提案、コンタクトしたとイムは述べ、また『サイキック5』をリメイクしようとしたきっかけについて聞かれイムは、『サイキック5』は自身が小学生6年の時に初めてプレイし、それが衝撃的かつ斬新だったとし、その思い出もあって『サイキック5』を選択した、なおかつ『サイキック5』のBGMを作曲したのが自身の尊敬する坂本慎一で、その面白いゲームシステムと良いBGMを今のユーザーにも知らせたかったと理由を挙げている。また、『サイキック5 エターナル』はシティコネクションの監修を受けているが、そっくり作ったのでシティコネクションから指摘を受ける事は少なかった、むしろ1987年の作品をそっくり再現しているため、今のユーザーには少し不親切だという意見がシティコネクションから出た、例えばゲーム内の扉(ヘビードア)について、力の弱いキャラクターだと長時間押さないと扉は開かず、原作を知っているユーザーならいつか扉が開くことを知っているから先に進められるが、『サイキック5 エターナル』で初めてプレイするユーザーは「これは開かないものだ」と諦めてプレイを続けられなくなる、という意見がシティコネクションから出て、ヘビードアを押す時に上にゲージが出るといった風に改善した、このように新しいユーザーには不親切な部分を改善するいいアイデアをシティコネクションから貰ってゲームに反映した、とイムは語っている。その他、苦労した点について聞かれ、イムはそこまでとても苦労したものはなかったと前置きしたうえで、2人同時プレイに対応した事を苦労した点として挙げ、元々1人プレイ用専用の『サイキック5』を2人同時プレイできるようにした事によって、優先順位として開発すべきもの、対応すべきものの選択に苦労したと述べている。またイムは2人同時プレイをなぜ採用したかについて聞かれ、自分は1人プレイよりも2人プレイで遊ぶ方がゲームは面白くなると感じており、自身がファミコンで遊んでいた時代、2人以上でプレイできるかどうかという点はゲームソフトを買う基準となる大事な要素だった、その思い出からこれからも2人以上でプレイできるものを開発していきたいと語っている。他に、画面サイズをアーケード基準の縦長のものから横長の16:9に切り替えができるようになった事について、難易度が変化する可能性があるが、今の時代は横長のワイドサイズが一般的なものでそれに逆らうべきではないと考えたからだとイムは述べ、目に見えるものが増えたことによりヒントは多くなるが、そのことによる短所よりも長所の方が多くなったと考えていると語った。なお、後述する『エスパ冒険隊 魔王の砦』を『サイキック5 エターナル』に入れると面白い、ユーザーにいい反応を貰えると思っていたが、『エスパ冒険隊』はゲーム性が大きく『サイキック5』と異なり、今回せっかく『サイキック5』をリメイクしたのに同じように遊べない別作品をそのまま入れるのはコンセプトがずれるのではないか、というのが本作のプロジェクトした人たちの結論として出て、入れるのを見送ったとイムは述べ、またインタビューに同席したシティコネクション広報スタッフも、開発初期段階では『サイキック5 エターナル』の中で『エスパ冒険隊』を遊べるようになる案があったが、開発が進むにつれ、新たに追加された遊びの要素が面白かった事もあり、このまま『エスパ冒険隊』を遊べるようにしても文脈が複雑化するだけで、新作部分とのシナジーを生み出しにくいと考え、コストやスケジュールの面から優先度を考えていった結果、入れるのを見送ったと語っている。
『エスパ冒険隊 魔王の砦』(エスパぼうけんたい まおうのとりで)は、ジャレコより1987年10月13日(1987年10月9日とする資料もあり)に発売されたファミリーコンピュータ用アクションRPG。
上記『サイキック5』(以下、原作)のアレンジ移植。移植に際しRPG要素を追加し、敵を倒してのレベルアップやNPCとの会話など大幅にアレンジしてある。またステージも『メトロイド』などのように広大なステージを探索しながら目的を果たす探索型アクション(所謂「メトロイドヴァニア」)となっている。
操作はAボタンでジャンプ、Bボタンでハンマーによる攻撃、十字キーの上下でジャンプを制御するといった事は原作と同様で、その他セレクトボタンで現在ステータスやマップを表示するマップモードに切り替える。マップモードではプレイヤーキャラクターの切り替えのほか、「すとーむ.ぼうる」という炎の玉を自機の周りにとばして身を守る超能力を、ESPポイントを消費して使うかどうかを選択できる。
ステージ中には原作と同様に時計、傘、椅子、ティーポット、トースターなど様々な姿をしたNPCがおり、その全てにスタートボタンで話しかける事ができる。NPCはこちらに対し友好的なもの、敵対的で攻撃を仕掛けてくるもの、話しかけると襲ってくるもの、こちらが攻撃を加えると襲ってくるものなど、様々な種類のものがおり、彼らと会話し情報やアイテムを入手する事がゲームを進める上で重要になってくる。またNPCにはベット、冷蔵庫、バスタブといったものがおり、彼らに話しかけるとお金を払ってライフとESPポイントを回復させる事ができる(ベットは「泊まる」ではなく「休憩」を選ばなければ回復しない)。その他、ステージ中には「みみずくの像」が点在しており、これからも「謎の声」による情報を聞く事ができる。
こちらに敵対的なNPCを倒すと経験値を入手(こちらに友好的なNPCを倒しても経験値は手に入らない)、そして経験値を一定以上溜めるとキャラクターがレベルアップし各ステータスが上がる。なお、レベルは一定以上経験値を溜めた状態で、更にセレクトボタンを押してマップモードに切り替えないと上がらない。ステージ中で隣接する部屋に移動するには扉の近くにある像に触れなければならず、更にレベルを上げて「ぷっしゅぱわー」というステータスを上げなければ開かない扉もあるため、ゲームを進める上でレベル上げは必須となっている。
ステージ中にある宝箱をハンマーで叩くとお金を入手できる。お金は前述のようにライフ、ESPポイントを回復させるのに使うほか、特定のNPCから情報やアイテムを入手する際に使用する事がある。
ダメージを受けるなどしてライフが無くなるとゲームオーバー、所持金が半分になった上でゲームが再開する。ゲームの進行状況はパスワードで保存可能。ベットに話しかけ、「泊まる」を選択するとパスワードを入手できる。
マップを探索し魔王を見つけ出し、これを倒して「謎の人物」を救出するとゲームクリア、エンディングとなる。なお、魔王のいる部屋は全部で3つあるが、そこに魔王がいるかどうかはランダムであり、魔王のいない部屋に入っても部屋を追い出され魔王と戦う事はできない。
キャラクターのステータスについて記述する。各ステータスは一部を除きキャラクターにより異なり、レベルアップする事により上昇する。
本作に登場するアイテムを記述する。
キャラクターはマップモードにて任意に切り替える事ができる。最初はアキオしかおらず、他のキャラクターはステージのどこかに囚われているのでそれを助け出す必要がある。
ゲーム誌『ファミコン通信』の「クロスレビュー」では合計23点(満40点)となっている。 | [
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"text": "『サイキック5』(サイキックファイブ、英:PSYCHIC5)は、ジャレコより1987年に稼働されたアーケード用アクションゲーム。開発は日本マイコン開発(NMK)。",
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"text": "5人のサイキック戦士から一人を選んで操り、ステージの一番奥にいる大魔王サタンを目指すサイドビュー型のアクションゲーム。5人のエスパー達はジャンプ力、パワー、攻撃力、移動速度などに差があり、それぞれの能力に応じて使い分ける必要がある。",
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"text": "1レバーと2ボタン(ハンマーによる攻撃、ジャンプ)で自機を操作。ジャンプは押す長さにより高度を変え、ジャンプ中にレバーを上に入力するとゆっくりと下降する事ができ、レバーを下に入力すると速く下降する。",
"title": "ゲーム内容"
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"text": "ステージ中の「壺」を壊すと中から食べ物アイテムが出現し、その食べ物アイテムを6つ取る毎に画面右上の5つ枠があるアイテムアイコンにアイテムがストックされる。アイテムアイコンのカーソルは常に動いており、このカーソルがストックされているアイテムの位置に重なった時にステージ中の「クエスチョンボックス」(?マークの書かれている箱)などを壊すと、中からそのアイテムが出現、取得する事ができる。なお、アイテムアイコンのカーソルがアイテムのない空白の時にクエスチョンボックスを壊すと、そのクエスチョンボックスに本来入っているアイテムが出現する。また、アイテムアイコンにストックしているアイテムは次のステージに持ち越す事ができる。",
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"text": "ステージ中には時計、傘、椅子、ティーポット、トースターなど様々な姿をした敵キャラクター(モンスター)がおり、更にそれらの敵キャラクターはそれぞれ固有の小型敵キャラクター(ミニモンスター)を放ち自機を攻撃してくる。モンスターはハンマーで攻撃すると気絶させる事ができ、その間は自機が触れてもミスにはならない。モンスターを数回ハンマーで攻撃すると倒す事ができ、1体につき1,000点が入る。ミニモンスターは倒すと1体につき100点だが、ミニモンスターを放ったモンスターを倒した場合、そのモンスターの放ったミニモンスターが消滅し、消えたミニモンスター×500点がスコアとして入る。",
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"text": "ステージ中には魔女が飛び回っており、これをハンマーで倒すと箒を奪って一定時間乗る事ができる。箒に乗っている間は自由に空中移動でき、また制限時間のカウントが止まり、更にモンスターの動きが止まり一撃で倒せるようになり、その他ステージ中にある重い扉(ヘビードア)をすぐ開けられるようになる。",
"title": "ゲーム内容"
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"text": "ステージの最奥にはボスであるサタンがおり、これを倒すとステージクリア、SCENE1からSCENE8までの全8ステージとなっている。",
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"text": "敵やサタンの放つ弾に当たる、ステージ中の火に触れる、ステージ中の移動するブロックに挟まれる、制限時間をオーバーするなどすると1ミス、残機が全て無くなるとゲームオーバー。クレジットを投入する事でコンティニューする事ができる。",
"title": "ゲーム内容"
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"text": "本作に登場するアイテムを記述する。",
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"text": "アイテムアイコンのカーソルがストックされているアイテムの位置に重なった時にステージ中のクエスチョンボックスなどを壊すと出現、取ると効果を発揮する。",
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"text": "ほとんどのアイテムはステージ中のクエスチョンボックスの中に入っている。ただし、アイテムアイコンのカーソルがアイテムの位置に重なっている時にクエスチョンボックスを壊すと、クエスチョンボックスに本来入っているアイテムではなくアイテムアイコンにストックされていたアイテムが出現する。",
"title": "ゲーム内容"
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"text": "ステージ中に存在する仕掛けについて記述する。",
"title": "ゲーム内容"
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"text": "使用キャラクターはステージ開始時に選べるほか、ステージ内にある電話ボックスにて任意に切り替える事が可能。最初はナオキとアキコしか使えないが、1ステージにつき必ず1つあるガラス瓶を壊すと、囚われていた仲間のエスパーを救出する事ができる。",
"title": "登場キャラクター"
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"text": "ゲーム中の音楽は当時NMKに所属していた坂本慎一が担当。坂本はインタビューで『サイキック5』の曲について聞かれ、当時は周辺にバンドをやっている友人もいたが、彼らにゲーム音楽が特殊な音楽だと思われる事が悔しく、ゲーム基板のチップでもポップスは作れると証明したかった、それでイントロ~Aメロ~Bメロという普通の曲のような構成にしたと語っている。また坂本はほかに、ゲームの場合は長い曲を作っても途中で死んで最後まで聴けないという事が多いが、それでも敢えて長くしてプレイヤーに「最後まで聴きたいので頑張ってプレイしよう」と思わせる事はできないだろうか、とも考えたと語っている。その他坂本はそれぞれ個別の曲について、「アキコのテーマ」はアキコのキャラに合う活発な感じの、それでいてちょっと不思議な曲を作りたかった、「ブンタのテーマ」のロックな感じはテーカン時代の同僚であったメタルユーキ(斎藤幹雄)の影響が大きいかもしれない、「マコトのテーマ」はジャズを意識し、当時NMKで企画のアルバイトをしており後に『ぶたさん』の音楽を担当した吉田晄浩によく相談していた、など当時を振り返っている。なお、本作は『アーガス』や『バルトリック(英語版)』では2曲だったネームエントリーの曲が1曲になっているが、これについて坂本は実はスランプが原因であると語り、『サイキック5』を作っている時に全てを出し切ったような感じになってしまい、半ば出社拒否のような状態になってしまった、と当時を振り返っている。",
"title": "音楽"
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"text": "ゲーム文化保存研究所のこうべみせは、難しいゲームの多いアーケードゲームの中で、本作は難易度は高いながらもプレイヤーが上達を実感でき、エンディングを目指す気になれるゲームデザインをしたゲームの一つだったとしている。クリアするにはトラップやギミックの場所を覚えパターンを作り上げるのが重要だったとし、時間切れや操作ミスでの火の床への接触で残機を減らす事が多かったが、敵キャラクターがミスの直接の原因となる事は少なく、それまでのジャレコのゲームで見られた上級者でも対応困難な無茶とも言える敵の攻撃など「理不尽な難しさ」を感じさせない内容が今でも名作と言われる所以ではないかと述べている。そして本作を、高難易度が目立つジャレコゲームの中では難易度的にベストバランスの佳作と言っていいとし、クリアするごとに違った目標を立てられ、飽きずにくり返し遊べる、自身の考える「出来の良いゲーム」の条件を満たした作品であると評価している。",
"title": "評価"
},
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"text": "『サイキック5 エターナル』 (サイキックファイブ エターナル、英:PSYCHIC5 ETERNAL) は、シティコネクションより2023年7月27日に発売されたNintendo Switch用アクションゲーム。",
"title": "サイキック5 エターナル"
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"text": "Nintendo Switchにて発売された上記『サイキック5』(以下、原作)のリメイク作品。2022年9月12日に発表され、2023年7月27日に発売された。リメイクに際し、原作は縦画面のゲームであったが、本作はワイド画面に対応し、更にワイド画面とオリジナルの縦画面をZLボタンで、リメイクグラフィック&アレンジBGMとオリジナルグラフィック&オリジナルBGMとをLボタンで、それぞれボタン1つで切り替える事ができるようになっている(プレイするステージやゲームモードによってはワイド画面またはリメイクグラフィック&アレンジBGM固定となる)。",
"title": "サイキック5 エターナル"
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"text": "ゲーム内容では、原作と同様のSCENE1から8の8ステージのほか、新たに韓国出身の「第2エスパー団」を操作し進んでいくSCENE9から17の計9ステージが追加されている。新たなステージは地獄が舞台となっており、ベルゼブブ、ベルフェゴール、アマイモン、バフォメット、そして悪魔の親玉であるルシファーといった新たなボス敵が登場する。その他、新たなゲームモードや新規アイテムも追加されている。",
"title": "サイキック5 エターナル"
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"text": "原作はライフ無しの一撃死のゲームであったが、本作では難易度EASY及びNORMALではライフを持ってスタートし、ある程度敵の攻撃に耐えられるようになっている(ただし移動するブロックに挟まれた場合や制限時間をオーバーした場合は原作通り一撃死する。また、難易度HARDは原作と同様のライフ無しの一撃死制となる)。他に原作は1人プレイのゲームであったのに対し、本作は2人同時プレイに対応している。",
"title": "サイキック5 エターナル"
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"text": "設定面において原作には無かった設定やストーリーが新たに追加されている。また、時間追加アイテムがアイテムアイコンにストックされる、ミスしてもパワーアップの効果が無くならないなど、原作との変更点、相違点がいくつか存在する。",
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"text": "本作に登場する追加アイテムを記述する。",
"title": "サイキック5 エターナル"
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"text": "SCENE9以降から使用する第2のエスパー団。全員韓国出身で、最初から全員使える。独自のスキルとして攻撃ボタンを押しっぱなしにして離すとハンマーを投げて遠距離攻撃する「ハンマー投げ」を使う事ができる。メンバーは開発元のCRT GAMESの開発スタッフをモデルとしている。",
"title": "サイキック5 エターナル"
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"text": "特定の条件を満たすと使用する事のできる隠しキャラクター達。全体的に高い能力を持つ。",
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"text": "開発は韓国・CRT GAMESが担当。CRT GAMESの代表であるイムはAUTOMATONでのインタビューにて、開発するにあたって基板で『サイキック5』をプレイしながらそのデザインをそのまま移す作業、いわゆる「目コピ」を行ったとしている。「目コピ」をしたのはグラフィックだけでなく、ジャンプはどれくらいするか、どこからどこまで動くかというアクションも同様だったとし、絵を目コピするのと同じように動きも動画で録画して、それを比較しながらゲームに反映したと述べている。また、現存している元のソースというのはゼロで、CRT GAMESが前に手掛けた『スノーブラザーズスペシャル』と同様にゼロからゲームを作ったとイムは制作について述べている。ほかに、今回のリメイクの件についてはCRT GAMESが『サイキック5 エターナル』を作りたいと考え、シティコネクションに提案、コンタクトしたとイムは述べ、また『サイキック5』をリメイクしようとしたきっかけについて聞かれイムは、『サイキック5』は自身が小学生6年の時に初めてプレイし、それが衝撃的かつ斬新だったとし、その思い出もあって『サイキック5』を選択した、なおかつ『サイキック5』のBGMを作曲したのが自身の尊敬する坂本慎一で、その面白いゲームシステムと良いBGMを今のユーザーにも知らせたかったと理由を挙げている。また、『サイキック5 エターナル』はシティコネクションの監修を受けているが、そっくり作ったのでシティコネクションから指摘を受ける事は少なかった、むしろ1987年の作品をそっくり再現しているため、今のユーザーには少し不親切だという意見がシティコネクションから出た、例えばゲーム内の扉(ヘビードア)について、力の弱いキャラクターだと長時間押さないと扉は開かず、原作を知っているユーザーならいつか扉が開くことを知っているから先に進められるが、『サイキック5 エターナル』で初めてプレイするユーザーは「これは開かないものだ」と諦めてプレイを続けられなくなる、という意見がシティコネクションから出て、ヘビードアを押す時に上にゲージが出るといった風に改善した、このように新しいユーザーには不親切な部分を改善するいいアイデアをシティコネクションから貰ってゲームに反映した、とイムは語っている。その他、苦労した点について聞かれ、イムはそこまでとても苦労したものはなかったと前置きしたうえで、2人同時プレイに対応した事を苦労した点として挙げ、元々1人プレイ用専用の『サイキック5』を2人同時プレイできるようにした事によって、優先順位として開発すべきもの、対応すべきものの選択に苦労したと述べている。またイムは2人同時プレイをなぜ採用したかについて聞かれ、自分は1人プレイよりも2人プレイで遊ぶ方がゲームは面白くなると感じており、自身がファミコンで遊んでいた時代、2人以上でプレイできるかどうかという点はゲームソフトを買う基準となる大事な要素だった、その思い出からこれからも2人以上でプレイできるものを開発していきたいと語っている。他に、画面サイズをアーケード基準の縦長のものから横長の16:9に切り替えができるようになった事について、難易度が変化する可能性があるが、今の時代は横長のワイドサイズが一般的なものでそれに逆らうべきではないと考えたからだとイムは述べ、目に見えるものが増えたことによりヒントは多くなるが、そのことによる短所よりも長所の方が多くなったと考えていると語った。なお、後述する『エスパ冒険隊 魔王の砦』を『サイキック5 エターナル』に入れると面白い、ユーザーにいい反応を貰えると思っていたが、『エスパ冒険隊』はゲーム性が大きく『サイキック5』と異なり、今回せっかく『サイキック5』をリメイクしたのに同じように遊べない別作品をそのまま入れるのはコンセプトがずれるのではないか、というのが本作のプロジェクトした人たちの結論として出て、入れるのを見送ったとイムは述べ、またインタビューに同席したシティコネクション広報スタッフも、開発初期段階では『サイキック5 エターナル』の中で『エスパ冒険隊』を遊べるようになる案があったが、開発が進むにつれ、新たに追加された遊びの要素が面白かった事もあり、このまま『エスパ冒険隊』を遊べるようにしても文脈が複雑化するだけで、新作部分とのシナジーを生み出しにくいと考え、コストやスケジュールの面から優先度を考えていった結果、入れるのを見送ったと語っている。",
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"text": "『エスパ冒険隊 魔王の砦』(エスパぼうけんたい まおうのとりで)は、ジャレコより1987年10月13日(1987年10月9日とする資料もあり)に発売されたファミリーコンピュータ用アクションRPG。",
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] | 『サイキック5』(サイキックファイブ、英:PSYCHIC5)は、ジャレコより1987年に稼働されたアーケード用アクションゲーム。開発は日本マイコン開発(NMK)。 | {{コンピュータゲーム
| Title = サイキック5<br />PSYCHIC5
| Genre = [[アクションゲーム|横スクロールアクション]]
| Plat = [[アーケードゲーム]]
| Dev = [[NMK]]
| Pub = [[ジャレコ]]
| composer = 坂本慎一<ref name="ac disc jaleco act1">サウンドトラック『Arcade Disc In JALECO -ACTION-』付属ブックレット、1頁。</ref>
| Play = 1人
| Media = [[アーケードゲーム基板|業務用基板]]
| Date = {{vgrelease new|JP|1987年}}
| Device = 8方向レバー<br />2ボタン
}}
『'''サイキック5'''』(サイキックファイブ、英:PSYCHIC5)は、[[ジャレコ]]より[[1987年]]に稼働された[[アーケードゲーム|アーケード]]用[[アクションゲーム]]。開発は日本マイコン開発([[NMK]])。
== ゲーム内容 ==
5人の[[超能力|サイキック]]戦士から一人を選んで操り、ステージの一番奥にいる大魔王[[サタン]]を目指すサイドビュー型のアクションゲーム<ref name="jaleco archives50">『ジャレコ・アーカイブズ』、50頁</ref>。5人のエスパー達はジャンプ力、パワー、攻撃力、移動速度などに差があり、それぞれの能力に応じて使い分ける必要がある<ref name="jaleco archives50"/>。
1レバーと2ボタン([[ハンマー]]による攻撃、ジャンプ)で自機を操作。ジャンプは押す長さにより高度を変え、ジャンプ中にレバーを上に入力するとゆっくりと下降する事ができ、レバーを下に入力すると速く下降する。
ステージ中の「[[壺]]」を壊すと中から食べ物アイテムが出現し、その食べ物アイテムを6つ取る毎に画面右上の5つ枠がある'''アイテムアイコン'''にアイテムがストックされる。アイテムアイコンのカーソルは常に動いており、このカーソルがストックされているアイテムの位置に重なった時にステージ中の「クエスチョンボックス」(?マークの書かれている箱)などを壊すと、中からそのアイテムが出現、取得する事ができる<ref name="psychic5eternal15">『サイキック5 エターナル SPECIAL BOOK Game Instructions』、15頁</ref>。なお、アイテムアイコンのカーソルがアイテムのない空白の時にクエスチョンボックスを壊すと、そのクエスチョンボックスに本来入っているアイテムが出現する。また、アイテムアイコンにストックしているアイテムは次のステージに持ち越す事ができる<ref name="psychic5eternal15"/>。
ステージ中には[[時計]]、[[傘]]、[[椅子]]、[[ティーポット]]、[[トースター]]など様々な姿をした敵キャラクター(モンスター)がおり、更にそれらの敵キャラクターはそれぞれ固有の小型敵キャラクター(ミニモンスター)を放ち自機を攻撃してくる。モンスターはハンマーで攻撃すると気絶させる事ができ、その間は自機が触れてもミスにはならない。モンスターを数回ハンマーで攻撃すると倒す事ができ、1体につき1,000点が入る。ミニモンスターは倒すと1体につき100点だが、ミニモンスターを放ったモンスターを倒した場合、そのモンスターの放ったミニモンスターが消滅し、消えたミニモンスター×500点がスコアとして入る<ref>『サイキック5 エターナル SPECIAL BOOK Game Instructions』、24頁</ref>。
ステージ中には[[魔女]]が飛び回っており、これをハンマーで倒すと[[箒]]を奪って一定時間乗る事ができる。箒に乗っている間は自由に空中移動でき、また制限時間のカウントが止まり、更にモンスターの動きが止まり一撃で倒せるようになり、その他ステージ中にある重い扉(ヘビードア)をすぐ開けられるようになる<ref>『サイキック5 エターナル SPECIAL BOOK Game Instructions』、9頁</ref>。
ステージの最奥にはボスであるサタンがおり、これを倒すとステージクリア、SCENE1からSCENE8までの全8ステージとなっている。
敵やサタンの放つ弾に当たる、ステージ中の火に触れる、ステージ中の移動するブロックに挟まれる、制限時間をオーバーするなどすると1ミス、[[残機]]が全て無くなると[[ゲームオーバー]]。クレジットを投入する事でコンティニューする事ができる。
=== アイテム ===
本作に登場するアイテムを記述する<ref name="psychic5eternal18-20">アイテム名などは『サイキック5 エターナル SPECIAL BOOK Game Instructions』18-20頁を参照。</ref>。
;食べ物
:ステージ中にある「壺」を壊すと出現。6つ取る毎に画面右上のアイテムアイコンにアイテムがストックされる<ref name="psychic5eternal15"/>。食べ物はステージごとに4種類から7種類あり、取るとスコアを取得できる。同じ種類の食べ物を連続で取ると「COMBO」となり、100点ずつ入るスコアが上昇していく<ref name="psychic5eternal16-17">『サイキック5 エターナル SPECIAL BOOK Game Instructions』、16-17頁</ref>。なお、壺に入っている食べ物はハンマーを振る事により種類が変化する。ステージ中の全ての食べ物を取得すると「ALL 100% BONUS」となり多くのスコアを獲得でき、更にステージ中の全ての食べ物をそれぞれCOMBOを最後まで繋げて取りきると「ALL GOLD BONUS」となり、より多くのスコアを獲得できる<ref name="psychic5eternal16-17"/>。
;アイテムアイコンにストックされるアイテム
アイテムアイコンのカーソルがストックされているアイテムの位置に重なった時にステージ中のクエスチョンボックスなどを壊すと出現、取ると効果を発揮する。
*EXTRA - それぞれ「E」「X」「T」「R」「A」の文字の書かれているアイテム。取ると500点。5つ全部集めると1UPする。
*パワーアップ - 「P」の文字が書かれている。取ると500点。キャラクターの全ての能力がアップし、モンスターを一撃で倒せるようになり更にサタンに与えるダメージも増える。ミスするかステージをクリアするまで有効。
*2倍 - 「×2」の文字が書かれている。取ると500点。取得中はモンスターを倒した時のスコアや食べ物などのアイテムスコアが2倍となる(一部アイテムは除く)。更に同じステージ内で取る毎に×4、×8と倍率が増えていく(最大8倍)。ステージをクリアするまで有効。
*時間停止 - 青い時計。取ると500点。画面上の敵や移動するブロックの動きがしばらく止まり、また制限時間のカウントも止まる。止まっている敵に触れてもミスにはならない。魔女の箒に乗っている時に取ると箒に乗る事のできる時間が延長される。
;その他アイテム
ほとんどのアイテムはステージ中のクエスチョンボックスの中に入っている。ただし、アイテムアイコンのカーソルがアイテムの位置に重なっている時にクエスチョンボックスを壊すと、クエスチョンボックスに本来入っているアイテムではなくアイテムアイコンにストックされていたアイテムが出現する。
*時間追加 - 赤い時計。取ると500点。制限時間が40秒伸びる。
*スマイル - [[スマイリーフェイス]]のような見た目をしている。スコアアイテムで、取ると100点。
*[[ルビー]] - 赤い[[宝石]]。スコアアイテムで、取ると2,000点だが、スコアの百の位が0の時に取ると4,000点となる。
*[[サファイア]] - 青い宝石。スコアアイテムで、取ると4,000点だが、スコアの百の位が0の時に取ると8,000点となる。
*[[メダル]] - 取ると1UPする。特定のクエスチョンボックスの中に入っている。
*シークレット - [[カエル]]のような見た目のキャラクターで、SCENE1から8までに1つずつ隠されている。条件を満たした状態で特定のクエスチョンボックスを壊すと出現し、取るとスコアとなる。初めの獲得スコアは低めだが、続けて取る毎にどんどん獲得できるスコアが増えていく。
*マジカルボーナス - 「M」の文字が書かれている。エスパーの閉じ込められているガラス瓶を壊すと、エスパーの代わりに出てくる事がある。スコアアイテムで「シークレット」と同様、初めの獲得スコアは低めだが、続けて取る毎にどんどん獲得できるスコアが増えていく。
=== ステージ中の仕掛け ===
ステージ中に存在する仕掛けについて記述する<ref>『サイキック5 エターナル SPECIAL BOOK Game Instructions』10-11頁を参照。</ref>。
*ONゲート - 近くにある「ONスイッチ」にキャラタクーが触れると開くゲート。ゲートを開いた時点で制限時間が30秒伸びる。両側にONスイッチがついた左右どちらからでも出入りできるゲートと、片側だけにONスイッチがついた一方通行のゲートとが存在する。
*ヘビードア - 重い[[扉|ドア]]。扉に向かってレバーを入れ続けるとドアを開ける事ができる。キャラクターによりドアを開けるまでの時間は異なり、「POWER」の値の高いキャラクターほど早くドアを開ける事ができる。ただし、魔女の箒に乗っている時は全キャラクター共通ですぐにドアを開けられる。
*火 - ステージ中で燃えている火。触れるとミスになる。ただし、触れた途端に消えてしまいミスにはならない「偽物の火」、キャラクターの通った場所から突然出てくる「隠された火」なども存在する。
*電灯スイッチ - スイッチに触れるとしばらくあたり一面が真っ暗になり、地形が見えなくなる。ただし、この間は上述の「火」が消え安全に通れるようになる。
*ベトベトハウス - 床に敷いてあり、踏み入れると移動速度が落ち、またジャンプも出来なくなる。大きな「[[ゴキブリホイホイ]]」のような見た目をしている。
== 登場キャラクター ==
使用キャラクターはステージ開始時に選べるほか、ステージ内にある[[電話ボックス]]にて任意に切り替える事が可能。最初はナオキとアキコしか使えないが、1ステージにつき必ず1つあるガラス瓶を壊すと、囚われていた仲間のエスパーを救出する事ができる。
;ナオキ(NAOKI) 12歳
:最初から使えるエスパーの一人である男の子。全ての能力が平均的である。
;アキコ(AKIKO) 10歳
:最初から使えるエスパーの一人である女の子。ホバリング能力が高く長い間空中に浮かぶ事ができる。パワー(ヘビードアを押す力)はナオキより低い。
;ブンタ(BUNTA) 13歳
:救出する事でゲームの途中から使用できる少年。パワーが全キャラクター中最も高く、ヘビードアをすぐ開ける事ができる。また攻撃力も高い。ジャンプ力、ホバー力、移動速度はやや低め。
;マコト(MAKOTO) 15歳
:救出する事でゲームの途中から使用できる少年。ジャンプ力と移動速度が全キャラクター中最も高い。背が高く当たり判定が若干大きい。
;ゲンゾー(GENZOH) 88歳
:救出する事でゲームの途中から使用できる老人。パワーはなく移動速度も最も遅いが、最強の攻撃力とホバリング能力を持つ。彼のみ武器がハンマーではなく[[杖]]である。
== 音楽 ==
ゲーム中の音楽は当時NMKに所属していた坂本慎一が担当<ref name="ac disc jaleco act1"/>。坂本はインタビューで『サイキック5』の曲について聞かれ、当時は周辺にバンドをやっている友人もいたが、彼らにゲーム音楽が特殊な音楽だと思われる事が悔しく、ゲーム基板のチップでもポップスは作れると証明したかった、それでイントロ~Aメロ~Bメロという普通の曲のような構成にしたと語っている<ref name="ac disc jaleco act9-10">サウンドトラック『Arcade Disc In JALECO -ACTION-』付属ブックレット、9-10頁。</ref>。また坂本はほかに、ゲームの場合は長い曲を作っても途中で死んで最後まで聴けないという事が多いが、それでも敢えて長くしてプレイヤーに「最後まで聴きたいので頑張ってプレイしよう」と思わせる事はできないだろうか、とも考えたと語っている<ref name="ac disc jaleco act9-10"/>。その他坂本はそれぞれ個別の曲について、「アキコのテーマ」はアキコのキャラに合う活発な感じの、それでいてちょっと不思議な曲を作りたかった、「ブンタのテーマ」のロックな感じは[[テーカン]]時代の同僚であったメタルユーキ([[斎藤幹雄]])の影響が大きいかもしれない、「マコトのテーマ」はジャズを意識し、当時NMKで企画のアルバイトをしており後に『[[ぶたさん]]』の音楽を担当した吉田晄浩によく相談していた、など当時を振り返っている<ref name="ac disc jaleco act9-10"/>。なお、本作は『[[アーガス]]』や『{{仮リンク|バルトリック|en|Valtric}}』では2曲だったネームエントリーの曲が1曲になっているが、これについて坂本は実はスランプが原因であると語り、『サイキック5』を作っている時に全てを出し切ったような感じになってしまい、半ば出社拒否のような状態になってしまった、と当時を振り返っている<ref name="ac disc jaleco act9-10"/>。
== スタッフ ==
*HARDWARE PLANNED:"LOVELY" YOHSUKE
*SOFTWARE CREATED:"ULTRA MAN" NAOKI、"LONELY" KAZUHIRO
*CHARACTER DISIGNED:"ITALIANO" TAEKO、"DONCHI" NAOKO
*MUSIC COMPOSED:C H E A B O W !(坂本慎一)
== 評価 ==
ゲーム文化保存研究所のこうべみせは、難しいゲームの多いアーケードゲームの中で、本作は難易度は高いながらもプレイヤーが上達を実感でき、エンディングを目指す気になれるゲームデザインをしたゲームの一つだったとしている<ref name="igcc20180810">{{Cite web|title=地味な存在ながらもいまだに名作の呼び声高い『サイキック5』|url=https://igcc.jp/サイキック5/|website=ゲーム文化保存研究所|date=2018-08-10|accessdate=2023-10-13|author=こうべみせ}}</ref>。クリアするにはトラップやギミックの場所を覚えパターンを作り上げるのが重要だったとし、時間切れや操作ミスでの火の床への接触で残機を減らす事が多かったが、敵キャラクターがミスの直接の原因となる事は少なく、それまでのジャレコのゲームで見られた上級者でも対応困難な無茶とも言える敵の攻撃など「理不尽な難しさ」を感じさせない内容が今でも名作と言われる所以ではないかと述べている<ref name="igcc20180810"/>。そして本作を、高難易度が目立つジャレコゲームの中では難易度的にベストバランスの佳作と言っていいとし、クリアするごとに違った目標を立てられ、飽きずにくり返し遊べる、自身の考える「出来の良いゲーム」の条件を満たした作品であると評価している<ref name="igcc20180810"/>。
== サイキック5 エターナル ==
{{コンピュータゲーム
| Title = サイキック5 エターナル<br />PSYCHIC5 ETERNAL
| Genre = [[アクションゲーム|横スクロールアクション]]
| Plat = [[Nintendo Switch]]
| Dev = CRT GAMES
| Pub = {{vgrelease new|JP|[[シティコネクション (企業)|シティコネクション]]}}DAEWON MEDIA GAME LAB
| Play = 1 - 2人
| Media = Switch専用ゲームカード<br />[[ダウンロード販売|ダウンロード]]
| Date = {{vgrelease new|JP|2023-07-27}}
|Rating= {{CERO-B}}
|ContentsIcon= CERO:[[暴力]]
}}
『'''サイキック5 エターナル'''』 (サイキックファイブ エターナル、英:PSYCHIC5 ETERNAL) は、[[シティコネクション (企業)|シティコネクション]]より[[2023年]][[7月27日]]に発売された[[Nintendo Switch]]用アクションゲーム。
=== ゲーム内容 ===
Nintendo Switchにて発売された上記『サイキック5』(以下、原作)のリメイク作品<ref name="AUTOMATON20230413">{{Cite web |author=Koutaro Sato |date=2023-04-13 |url=https://automaton-media.com/articles/newsjp/20230413-243900/ |title=名アクションNintendo Switch向け復刻『サイキック5 エターナル』7月27日発売へ。80年代ジャレコタイトルに新要素を追加してリメイク |website=AUTOMATON |publisher=[[アクティブゲーミングメディア]] |accessdate=2023-10-13}}</ref><ref name="4gamer20230727">{{Cite web |author=簗島 |date=2023-07-27 |url=https://www.4gamer.net/games/654/G065433/20230727033/ |title=名作アクションを2人プレイで楽しめる。Switch用ソフト「サイキック5 エターナル」,本日発売 |website=[[4Gamer.net]] |publisher=[[デジタルハーツホールディングス|Aetas]] |accessdate=2023-10-13}}</ref><ref>『サイキック5 エターナル SPECIAL BOOK Game Instructions』、1頁</ref>。[[2022年]][[9月12日]]に発表され<ref>{{Cite web |author=Seiji Narita |date=2022-09-12 |url=https://automaton-media.com/articles/newsjp/20220912-218483/ |title=ジャレコの奥深アクションリメイク『サイキック5 エターナル』発表。約35年を経て、アーケードからNintendo Switchに |website=AUTOMATON |publisher=[[アクティブゲーミングメディア]] |accessdate=2023-10-13}}</ref>、2023年7月27日に発売された<ref name="4gamer20230727"/>。リメイクに際し、原作は縦画面のゲームであったが、本作はワイド画面に対応し、更にワイド画面とオリジナルの縦画面をZLボタンで、リメイクグラフィック&アレンジBGMとオリジナルグラフィック&オリジナルBGMとをLボタンで、それぞれボタン1つで切り替える事ができるようになっている(プレイするステージやゲームモードによってはワイド画面またはリメイクグラフィック&アレンジBGM固定となる)<ref name="AUTOMATON20230413"/><ref>『サイキック5 エターナル SPECIAL BOOK Game Instructions』、5頁</ref>。
ゲーム内容では、原作と同様のSCENE1から8の8ステージのほか、新たに[[大韓民国|韓国]]出身の「第2エスパー団」を操作し進んでいくSCENE9から17の計9ステージが追加されている。新たなステージは[[地獄]]が舞台となっており、[[ベルゼブブ]]、[[ベルフェゴール]]、[[アマイモン]]、[[バフォメット]]、そして[[悪魔]]の親玉である[[ルシファー]]といった新たなボス敵が登場する。その他、新たなゲームモードや新規アイテムも追加されている<ref name="AUTOMATON20230413"/><ref name="4gamer20230727"/>。
原作はライフ無しの一撃死のゲームであったが、本作では難易度EASY及びNORMALでは[[ライフ (コンピュータゲーム)|ライフ]]を持ってスタートし、ある程度敵の攻撃に耐えられるようになっている(ただし移動するブロックに挟まれた場合や制限時間をオーバーした場合は原作通り一撃死する。また、難易度HARDは原作と同様のライフ無しの一撃死制となる)。他に原作は1人プレイのゲームであったのに対し、本作は2人同時プレイに対応している。
設定面において原作には無かった設定やストーリーが新たに追加されている。また、時間追加アイテムがアイテムアイコンにストックされる、ミスしてもパワーアップの効果が無くならないなど、原作との変更点、相違点がいくつか存在する。
==== ゲームモード ====
;アーケード
:基本的なゲームモード。原作準拠の8ステージ+新たなに追加された9ステージの計17ステージを進む(難易度EASYの場合はSCENE8にて終了)。一度クリアしたSCENEはSCENEセレクト画面にて選べるようになる。
;サバイバル
:残機0の状態でスタートし、どれだけ進めるか挑戦するモード。ステージ構成は「アーケード」モードに準ずる。EXTRAアイテムや1UPするアイテムでのエクステンドは可能。コンティニューする事はできない。
;タイムアタック
:どれだけ早くゲームをクリアできるか挑戦するモード。ステージ構成は「アーケード」モードに準ずる。時間停止中や魔女の箒に乗っている間、ステージリザルト中などは除き常にタイムカウントが進む。各ステージの制限時間はなくなる。またコンティニューは可能。
;ミラーモード
:各ステージの構成が反転するモード。アーケード、サバイバル、タイムアタックの各モードで選択可能。各モードで一度エンディングを見る事により解禁される。
;タワーリング
:下から迫ってくる炎から逃げながら塔を登り続け、どこまで上に行けるか挑戦するモード。上に行くほどプレイヤーへの妨害が激しくなり、また画面スクロールも速くなる。2人同時プレイが可能で、対戦用のモードも用意されている。
==== 追加アイテム ====
本作に登場する追加アイテムを記述する<ref name="psychic5eternal18-20"/>。
*[[グランディディエライト]] - SCENE9以降に登場する宝石。スコアアイテムで、取ると3,000点だが、スコアの百の位が0の時に取ると6,000点となる。
*{{仮リンク|セレンディバイト|en|Serendibite}} - SCENE9以降に登場する宝石。スコアアイテムで、取ると4,500点だが、スコアの百の位が0の時に取ると9,000点となる。
*CRT BOY - 開発元のCRT GAMESのロゴを模したキャラクター。取ると1UPし、更にスコアが4万点入る。各ステージのどこかに最低1つ隠されており、取得するとSCENEセレクト画面にて取得状況が記録される。
=== 追加キャラクター ===
==== 第2エスパー団 ====
SCENE9以降から使用する第2のエスパー団。全員韓国出身で、最初から全員使える。独自のスキルとして攻撃ボタンを押しっぱなしにして離すとハンマーを投げて遠距離攻撃する「ハンマー投げ」を使う事ができる。メンバーは開発元のCRT GAMESの開発スタッフをモデルとしている<ref name="AUTOMATON20230721">{{Cite web |author=Koutaro Sato |date=2023-07-21 |url=https://automaton-media.com/articles/interviewsjp/20230721-256578/ |title=「ソースがないので目コピから始めた」韓国人開発者が自分の“好き”を詰め込んだ、ジャレコの往年アクション復活『サイキック5 エターナル』開発者インタビュー |website=AUTOMATON |publisher=[[アクティブゲーミングメディア]] |accessdate=2023-10-13}}</ref>。
;ジヌ(JIN WOO) 12歳
:ナオキの友達である男の子。ナオキと同じく全ての能力が平均的。好きなものは[[カツカレー]]、嫌いなことは[[注射]]、趣味は[[散歩]]。
;スヨン(SOO YEON) 13歳
:アキコが一番仲のよい女の子。アキコと同様にホバリング能力が高く、またハンマー投げのチャージ速度が5キャラクター中一番早い。好きなものは辛いもの、嫌いなことは家の中に物を積んでおくこと、趣味は[[水泳]]。
;ジョンナム(JONG NAM) 15歳
:ブンタとライバル関係の少年。ブンタと同様に最高のパワーと高めの攻撃力を有する。好きなことは[[PCゲーム]]、嫌いなことは対決や賭け事に負けること、趣味は[[動画配信サービス]]のオリジナル映画やドラマ、アニメを観ること。
;プク(PPU KKU) 5歳
:超能力犬([[シーズー]])。現在はスヨンが飼っている。攻撃力は全キャラクター中で一番低く、非パワーアップ時ではモンスターから放たれるミニモンスターすら一撃で倒せないが、マコトと同様に最高の移動速度を持ち、また体が小さいため他のキャラクターでは通れない所も通る事ができる。好きなものは[[粥|鶏がゆ]]と[[イチゴ]]味のドッグガム、嫌いなことは[[風呂|お風呂]]。名前の由来はCRT GAMES代表のイムの飼っている犬の名前から<ref name="AUTOMATON20230721"/>。
;ソンギル(SUNG GIL) 87歳
:ゲンゾーの友達である老人。韓国で[[死神]]が着ている服装をしており、またゲンゾーと同様に杖を武器にしている。ゲンゾーと同じく動きは鈍いが最強の攻撃力とホバリング能力を持つ。[[ビデオゲーム]]が大好きで、好きなものはSDキャラクターグッズ、嫌いなものは[[酒|お酒]]、趣味は[[レトロゲーム]]の収集。キャラクターモデルはCRT GAMES代表のイム自身<ref name="AUTOMATON20230721"/>。
==== 隠しキャラクター ====
特定の条件を満たすと使用する事のできる隠しキャラクター達。全体的に高い能力を持つ。
;シークレット(仮称)
:アイテムとして出てくる「シークレット」と同じ見た目をしている。エスパーの閉じ込められているガラス瓶と同じものを投げて攻撃する。
;じゃじゃ丸
:『[[忍者じゃじゃ丸くん]]』シリーズの主人公。[[手裏剣]]を投げて攻撃する。
;クラリスカー
:『[[シティコネクション (ゲーム)|シティコネクション]]』の自機。敵を貫通するオイル缶を発射して攻撃する。
;やっちゃん
:『[[銀河任侠伝]]』の主人公。敵や地形を貫通する斬撃を発射して攻撃する。
;CRT BOY
:アイテムとして出てくる「CRT BOY」と同じ見た目をしている。敵は貫通しないが地形は貫通する弾を発射して攻撃する。
=== 開発 ===
開発は韓国・CRT GAMESが担当。CRT GAMESの代表であるイムはAUTOMATONでのインタビューにて、開発するにあたって基板で『サイキック5』をプレイしながらそのデザインをそのまま移す作業、いわゆる「目コピ」を行ったとしている<ref name="AUTOMATON20230721"/>。「目コピ」をしたのはグラフィックだけでなく、ジャンプはどれくらいするか、どこからどこまで動くかというアクションも同様だったとし、絵を目コピするのと同じように動きも動画で録画して、それを比較しながらゲームに反映したと述べている<ref name="AUTOMATON20230721"/>。また、現存している元のソースというのはゼロで、CRT GAMESが前に手掛けた『[[スノーブラザーズ|スノーブラザーズスペシャル]]』と同様にゼロからゲームを作ったとイムは制作について述べている<ref name="AUTOMATON20230721"/>。ほかに、今回のリメイクの件についてはCRT GAMESが『サイキック5 エターナル』を作りたいと考え、シティコネクションに提案、コンタクトしたとイムは述べ、また『サイキック5』をリメイクしようとしたきっかけについて聞かれイムは、『サイキック5』は自身が小学生6年の時に初めてプレイし、それが衝撃的かつ斬新だったとし、その思い出もあって『サイキック5』を選択した、なおかつ『サイキック5』のBGMを作曲したのが自身の尊敬する坂本慎一で、その面白いゲームシステムと良いBGMを今のユーザーにも知らせたかったと理由を挙げている<ref name="AUTOMATON20230721"/>。また、『サイキック5 エターナル』はシティコネクションの監修を受けているが、そっくり作ったのでシティコネクションから指摘を受ける事は少なかった、むしろ1987年の作品をそっくり再現しているため、今のユーザーには少し不親切だという意見がシティコネクションから出た、例えばゲーム内の扉(ヘビードア)について、力の弱いキャラクターだと長時間押さないと扉は開かず、原作を知っているユーザーならいつか扉が開くことを知っているから先に進められるが、『サイキック5 エターナル』で初めてプレイするユーザーは「これは開かないものだ」と諦めてプレイを続けられなくなる、という意見がシティコネクションから出て、ヘビードアを押す時に上にゲージが出るといった風に改善した、このように新しいユーザーには不親切な部分を改善するいいアイデアをシティコネクションから貰ってゲームに反映した、とイムは語っている<ref name="AUTOMATON20230721"/>。その他、苦労した点について聞かれ、イムはそこまでとても苦労したものはなかったと前置きしたうえで、2人同時プレイに対応した事を苦労した点として挙げ、元々1人プレイ用専用の『サイキック5』を2人同時プレイできるようにした事によって、優先順位として開発すべきもの、対応すべきものの選択に苦労したと述べている<ref name="AUTOMATON20230721"/>。またイムは2人同時プレイをなぜ採用したかについて聞かれ、自分は1人プレイよりも2人プレイで遊ぶ方がゲームは面白くなると感じており、自身がファミコンで遊んでいた時代、2人以上でプレイできるかどうかという点はゲームソフトを買う基準となる大事な要素だった、その思い出からこれからも2人以上でプレイできるものを開発していきたいと語っている<ref name="AUTOMATON20230721"/>。他に、画面サイズをアーケード基準の縦長のものから横長の16:9に切り替えができるようになった事について、難易度が変化する可能性があるが、今の時代は横長のワイドサイズが一般的なものでそれに逆らうべきではないと考えたからだとイムは述べ、目に見えるものが増えたことによりヒントは多くなるが、そのことによる短所よりも長所の方が多くなったと考えていると語った<ref name="AUTOMATON20230721"/>。なお、後述する『エスパ冒険隊 魔王の砦』を『サイキック5 エターナル』に入れると面白い、ユーザーにいい反応を貰えると思っていたが、『エスパ冒険隊』はゲーム性が大きく『サイキック5』と異なり、今回せっかく『サイキック5』をリメイクしたのに同じように遊べない別作品をそのまま入れるのはコンセプトがずれるのではないか、というのが本作のプロジェクトした人たちの結論として出て、入れるのを見送ったとイムは述べ<ref name="AUTOMATON20230721"/>、またインタビューに同席したシティコネクション広報スタッフも、開発初期段階では『サイキック5 エターナル』の中で『エスパ冒険隊』を遊べるようになる案があったが、開発が進むにつれ、新たに追加された遊びの要素が面白かった事もあり、このまま『エスパ冒険隊』を遊べるようにしても文脈が複雑化するだけで、新作部分とのシナジーを生み出しにくいと考え、コストやスケジュールの面から優先度を考えていった結果、入れるのを見送ったと語っている<ref name="AUTOMATON20230721"/>。
== エスパ冒険隊 魔王の砦 ==
{{コンピュータゲーム
| Title = エスパ冒険隊<br />魔王の砦
| Genre = [[アクションRPG]]<ref name="fc catalogue">前田尋之監修 『ファミリーコンピュータ パーフェクトカタログ』 ジーウォーク、2020年1月26日、112頁。ISBN 978-4-86297-969-8</ref><ref name="fc compdx">山崎功著 『ファミコン コンプリートガイド デラックス』 主婦の友インフォス、2019年10月20日、93頁。ISBN 978-4-07-438765-6</ref>
| Plat = [[ファミリーコンピュータ]]
| Dev = NMK
| Pub = ジャレコ
| composer = 岡村静良
| Play = 1人
| Media = 2[[メガビット]][[ロムカセット]]<ref name="fc catalogue"/>
| Date = {{vgrelease new|JP|1987-10-13}}(1987年10月9日とする資料もあり<ref name="jaleco archives55">『ジャレコ・アーカイブズ』、55頁</ref>)
| etc = 型式:JF-15
}}
『'''エスパ冒険隊 魔王の砦'''』(エスパぼうけんたい まおうのとりで)は、[[ジャレコ]]より[[1987年]][[10月13日]](1987年[[10月9日]]とする資料もあり<ref name="jaleco archives55"/>)に発売された[[ファミリーコンピュータ]]用[[アクションRPG]]。
=== ゲーム内容 ===
上記『サイキック5』(以下、原作)のアレンジ移植<ref name="fc catalogue"/><ref name="fc compdx"/><ref name="jaleco archives55"/>。移植に際し[[ロールプレイングゲーム|RPG]]要素を追加し、敵を倒してのレベルアップや[[ノンプレイヤーキャラクター|NPC]]との会話など大幅にアレンジしてある<ref name="jaleco archives55"/>。またステージも『[[メトロイド]]』などのように広大なステージを探索しながら目的を果たす探索型アクション(所謂「[[メトロイドヴァニア]]」)となっている。
操作はAボタンでジャンプ、Bボタンでハンマーによる攻撃、十字キーの上下でジャンプを制御するといった事は原作と同様で、その他セレクトボタンで現在ステータスやマップを表示するマップモードに切り替える。マップモードではプレイヤーキャラクターの切り替えのほか、「すとーむ.ぼうる」という炎の玉を自機の周りにとばして身を守る超能力を、ESPポイントを消費して使うかどうかを選択できる。
ステージ中には原作と同様に時計、傘、椅子、ティーポット、トースターなど様々な姿をしたNPCがおり、その全てにスタートボタンで話しかける事ができる。NPCはこちらに対し友好的なもの、敵対的で攻撃を仕掛けてくるもの、話しかけると襲ってくるもの、こちらが攻撃を加えると襲ってくるものなど、様々な種類のものがおり、彼らと会話し情報やアイテムを入手する事がゲームを進める上で重要になってくる。またNPCには[[ベッド|ベット]]、[[冷蔵庫]]、[[バスタブ]]といったものがおり、彼らに話しかけるとお金を払ってライフとESPポイントを回復させる事ができる<ref name="manual13">『エスパ冒険隊 魔王の砦 付属取扱説明書』13頁</ref><ref>『ファミリーコンピュータ 必勝完ペキ本 エスパ冒険隊 魔王の砦』、15-16頁</ref>(ベットは「泊まる」ではなく「休憩」を選ばなければ回復しない)。その他、ステージ中には「[[ミミズク|みみずく]]の像」が点在しており、これからも「謎の声」による情報を聞く事ができる<ref name="manual15">エスパ冒険隊 魔王の砦 付属取扱説明書』15頁</ref><ref name="tokuma12">『ファミリーコンピュータ 必勝完ペキ本 エスパ冒険隊 魔王の砦』、12頁</ref>。
こちらに敵対的なNPCを倒すと[[経験値]]を入手(こちらに友好的なNPCを倒しても経験値は手に入らない<ref name="manual13"/>)、そして経験値を一定以上溜めるとキャラクターがレベルアップし各ステータスが上がる。なお、レベルは一定以上経験値を溜めた状態で、更にセレクトボタンを押してマップモードに切り替えないと上がらない。ステージ中で隣接する部屋に移動するには扉の近くにある像に触れなければならず、更にレベルを上げて「ぷっしゅぱわー」というステータスを上げなければ開かない扉もあるため、ゲームを進める上でレベル上げは必須となっている<ref name="jaleco archives55"/>。
ステージ中にある[[宝箱]]をハンマーで叩くとお金を入手できる<ref name="manual15" /><ref name="tokuma12" />。お金は前述のようにライフ、ESPポイントを回復させるのに使うほか、特定のNPCから情報やアイテムを入手する際に使用する事がある。
ダメージを受けるなどしてライフが無くなるとゲームオーバー、所持金が半分になった上でゲームが再開する。ゲームの進行状況は[[パスワード (コンピュータゲーム)|パスワード]]で保存可能。ベットに話しかけ、「泊まる」を選択するとパスワードを入手できる。
マップを探索し魔王を見つけ出し、これを倒して「謎の人物」を救出するとゲームクリア、エンディングとなる。なお、魔王のいる部屋は全部で3つあるが、そこに魔王がいるかどうかはランダムであり、魔王のいない部屋に入っても部屋を追い出され魔王と戦う事はできない。
==== キャラクターのステータス ====
キャラクターのステータスについて記述する<ref>エスパ冒険隊 魔王の砦 付属取扱説明書』6頁</ref><ref>『ファミリーコンピュータ 必勝完ペキ本 エスパ冒険隊 魔王の砦』、9頁</ref>。各ステータスは一部を除きキャラクターにより異なり、レベルアップする事により上昇する。
*'''さいだいL''' - キャラクターの最大ライフポイント。全キャラクターで共有している。
*'''さいだいE''' - キャラクターの最大ESPポイント。全キャラクターで共有している。
*'''こうげき''' - キャラクターの攻撃力。高いほどハンマーで敵に与えるダメージが増える。
*'''しゅび''' - キャラクターの防御力。高いほど敵から攻撃を受けた時のダメージ量が減る。
*'''すぴーど''' - キャラクターの移動速度。高いほど素早く動ける。
*'''じゃんぷ''' - キャラクターのジャンプ力。高いほどより高くジャンプできる。
*'''ほばー''' - キャラクターのホバリング力。高いほど長く空中に留まれる。
*'''ぷっしゅぱわー''' - 隣接する部屋へ行く為の扉を開ける力。このステータスを上げなければ開かない扉がある。最大で3になり、全キャラクターで共通したステータスとなっている。
==== アイテム ====
本作に登場するアイテムを記述する<ref>エスパ冒険隊 魔王の砦 付属取扱説明書』9頁</ref><ref>『ファミリーコンピュータ 必勝完ペキ本 エスパ冒険隊 魔王の砦』、13-14頁</ref>。
*[[サメ|さめ]]のしっぽ - 水中に入ってもダメージを受けなくなる。マコで特定のNPCに話しかけると貰える。
*ぼうかますく - 「ほのおのへや」に入ってもダメージを受けなくなる。
*おはなしどり - 会話のできないとあるNPCと会話ができるようになる。
*きんのけがわ - とあるNPCに渡すと「まよけのさけ」と交換してくれる。
*ひかりのたま - 「ろうや」に入るために必要。
*ひみつの[[鍵|かぎ]] - 「ひみつのちかしつ」に入るために必要。
*まほうしょ - 魔王のいる部屋に入るために必要。
*まよけのさけ - 魔王を弱体化させる。入手しなくてもゲームクリアは可能。
=== 登場キャラクター ===
キャラクターはマップモードにて任意に切り替える事ができる。最初はアキオしかおらず、他のキャラクターはステージのどこかに囚われているのでそれを助け出す必要がある。
;アキオ (12歳)
:唯一最初から使える男の子。原作のナオキに相当するキャラクター。全キャラクター中で最も「すぴーど」の値が高く、「じゃんぷ」や「ほばー」の性能も高い。
;マコ (10歳)
:助け出すことでゲームの途中から使用できる女の子。原作のアキコに相当するキャラクター。「ほばー」の値が高く、「こうげき」の値が低め。
;げん太 (13歳)
:助け出すことでゲームの途中から使用できる少年。原作のブンタに相当するキャラクター。「こうげき」「しゅび」の値が高く、「すぴーど」「じゃんぷ」「ほばー」の値は低め。他のキャラクターでは壊せない特定の壁を壊す事が可能。
;なおゆき (15歳)
:助け出すことでゲームの途中から使用できる少年。原作のマコトに相当するキャラクター。全キャラクター中で最も「じゃんぷ」の値が高い。
;ぶんぞう (88歳)
:助け出すことでゲームの途中から使用できる老人。原作のゲンゾーに相当するキャラクター。「こうげき」「ほばー」の値が非常に高い。「すぴーど」「じゃんぷ」の値は低め。
=== 移植版 ===
{|class="wikitable" style="white-space:nowrap; font-size:85%"
|-
! No.
! タイトル
! 発売日
! 対応機種
! 開発元
! 発売元
! メディア
! 備考
! 出典
|-
|-
| style="text-align:right" | 1
! エスパ冒険隊
| {{vgrelease new|JP|2010-08-24}}
| [[Microsoft Windows|Windows]]
| NMK
| [[D4エンタープライズ]]
| [[ダウンロード販売|ダウンロード]]<br />([[プロジェクトEGG]])
|
| <ref>{{Cite web |date=2010-08-24 |url=https://dengekionline.com/elem/000/000/293/293949/ |title=『エスパ冒険隊』『バイオ戦士DAN』がProject EGGで配信開始 |website=[[アスキー・メディアワークス|電撃オンライン]] |publisher=[[KADOKAWA]] |accessdate=2023-10-13}}</ref>
|}
このほか、[[2016年]]にJNNEXから発売されたレトロビット『ジェネレーション』、及び同じくJNNEXから発売された『[[8ビットコレクション]] ジャレコ Vol.2』にも本作が収録されている。
=== スタッフ ===
*ことより ゆきお(琴寄幸雄)、まき ようすけ(牧洋資)、なかさと たみお(中里民雄)、きよもと てつろう、しょうじ あきら、おりがみ えいさく、すずき たえこ、おおの きんいちろう、あやべ かずひろ([[綾部和]])、おかむら やちのすけ(岡村静良)、こやま よういち、ながみね なおこ
=== 評価 ===
{{コンピュータゲームレビュー
|title =
|Fam = 23/40点<ref name="famitsu"/>
}}
ゲーム誌『[[ファミ通|ファミコン通信]]』の「クロスレビュー」では合計23点(満40点)<ref name="famitsu">{{Cite web
|url= https://www.famitsu.com/cominy/?m=pc&a=page_h_title&title_id=2128&redirect=no
|title= エスパ冒険隊 魔王の砦 まとめ [ファミコン] / ファミ通.com
|accessdate= 2023-10-13
|date=
|publisher= [[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]] }}</ref>となっている。
{{-}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* シティコネクション編著 『ジャレコ・アーカイブズ』 実業之日本社、2016年12月1日。ISBN 978-4-408-11203-9
* 『サイキック5 エターナル』特装版付属ブックレット 『サイキック5 エターナル SPECIAL BOOK Game Instructions』
* 『ファミリーコンピュータ必勝完ペキ本 エスパ冒険隊 魔王の砦』徳間書店、1987年11月30日。雑誌67747-26。
== 外部リンク ==
* [https://city-connection.co.jp/psychic5/ サイキック5 エターナル公式サイト]
* {{MobyGames|id=/106006/psychic-5/|name=Psychic 5}}
{{リダイレクトの所属カテゴリ
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|1-1=2023年のコンピュータゲーム
|1-2=Nintendo Switch用ソフト
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|2-1=1987年のコンピュータゲーム
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[[Category:超能力を題材としたコンピュータゲーム]] | 2023-10-12T21:58:15Z | 2023-11-21T15:17:58Z | false | false | false | [
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4,840,759 | アリラン (スマートフォン) | アリラン (朝鮮語: 아리랑) は、2013年8月に発表された朝鮮民主主義人民共和国のAndroidスマートフォン。名称は朝鮮民謡「アリラン」にちなんで付けられた。
北朝鮮の国営通信社である朝鮮中央通信は、すべて北朝鮮国内で生産していると報じた。Androidの派生版OSを搭載しているとみられている。しかし、ブロガーのマーティン・ウィリアムズはこれに懐疑的な見方を示しており、「この携帯電話は実際には中国で生産され、同国で検査され組み立てられたのに過ぎないのではないか」とコメントしている。また、同国の最高指導者である金正恩は、このスマートフォンが国の経済を支え、「民族の誇りと自尊心を植え付ける」と信じており、アリランに対する支持を表明している。
AS1201という型番を名乗っており、中国のUniscope(優思)U1201のブランド名を変更したうえで、Android 4.0.4をカスタマイズしたものを搭載しているとみられている。
アリラン171(아리랑171)は2018年に発売された。Android Nougatを搭載し、MediaTek製のMT6797(Helio X20)2.6GHzチップを搭載している。アリラン171は、北朝鮮のモバイルデバイスが平壌のイントラネットネットワークにアクセスできるようにする「ミレ未来」と呼ばれる公衆無線LANに接続できる。 | [
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] | アリラン (朝鮮語: 아리랑) は、2013年8月に発表された朝鮮民主主義人民共和国のAndroidスマートフォン。名称は朝鮮民謡「アリラン」にちなんで付けられた。 | {{Infobox mobile phone
| name = アリラン
| logo =
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| manufacturer = 北朝鮮国内の事業者(詳細は不明)<ref>{{Cite news|和書 |title=北朝鮮がスマートフォンを開発、「安全で自家製」 |newspaper=AFPBB News |date=2013-8-13 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2961687 |access-date=2023-10-13}}</ref>
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}}
'''アリラン''' ([[朝鮮語]]: 아리랑) は、[[2013年]]8月に発表された[[朝鮮民主主義人民共和国]]の[[Android (オペレーティングシステム)|Android]][[スマートフォン]]。名称は朝鮮民謡「[[アリラン]]」にちなんで付けられた<ref>{{Cite web |author= |url=http://www.lesnumeriques.com/telephone-portable/arirang-smartphone-nord-coreen-n30697.html |title=Arirang, le smartphone nord-coréen |publisher=Lesnumeriques.com |date=13 August 2013 |access-date=2015-11-09}}</ref>。
== 概要 ==
北朝鮮の[[国営]][[通信社]]である[[朝鮮中央通信]]は、すべて北朝鮮国内で生産していると報じた。Androidの派生版[[オペレーティングシステム|OS]]を搭載しているとみられている。しかし、ブロガーのマーティン・ウィリアムズはこれに懐疑的な見方を示しており、「この携帯電話は実際には[[中華人民共和国|中国]]で生産され、同国で検査され組み立てられたのに過ぎないのではないか」とコメントしている<ref>{{cite news |last=Fisher |first=Max |title=Kim Jong Un inspects North Korea's first smartphone, an Android clone |url=https://www.washingtonpost.com/blogs/worldviews/wp/2013/08/12/kim-jong-un-inspects-north-koreas-first-ever-smartphone-an-android-clone/ |accessdate=13 August 2013 |newspaper=Washington Post |date=12 August 2013}}</ref><ref>{{cite news |title=Skepticism as North Korea launches 'home-grown' Arirang smartphone |url=http://www.news.com.au/technology/skepticism-as-north-korea-launches-home-grown-arirang-smartphone/story-e6frfrnr-1226698805978 |accessdate=9 December 2013 |publisher=[[News Corp Australia]] |date=17 August 2013}}</ref>。また、同国の最高指導者である[[金正恩]]は、このスマートフォンが国の経済を支え、「民族の誇りと自尊心を植え付ける」と信じており、アリランに対する支持を表明している<ref>{{cite web |last=Rieser |first=Bennett |title=North Korea Unveils the Arirang, the Painfully Ironic Android Smartphone |url=http://www.webpronews.com/north-korea-unveils-the-arirang-the-painfully-ironic-android-smartphone-2013-08 |publisher=WebProNews |date=12 August 2013 |access-date=28 November 2013 |archive-url=https://web.archive.org/web/20170704202435/http://www.webpronews.com/north-korea-unveils-the-arirang-the-painfully-ironic-android-smartphone-2013-08/ |archive-date=4 July 2017 |url-status=dead}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.kcna.co.jp/item/2013/201308/news10/20130810-20ee.html |accessdate=3 May 2015 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150313051239/http://www.kcna.co.jp/item/2013/201308/news10/20130810-20ee.html |title=Kim Jong Un Visits May 11 Factory |archivedate=13 March 2015}}</ref>。
AS1201という型番を名乗っており、中国のUniscope(優思)U1201のブランド名を変更したうえで<ref>{{cite web |url=http://en.uniscope.com/show.php?contentid=242 |title=Uniscope U1201(GSM+CDMA dual mode)_手机_uniscope |publisher=En.uniscope.com |date= |accessdate=2015-11-09}}</ref>、Android 4.0.4をカスタマイズしたものを搭載しているとみられている<ref>{{cite AV media|title=koryolink Arirang AS1201 (North Korea's Smartphone) - Review|url=https://www.youtube.com/watch?v=CIaAerv6w0Y|accessdate=2015-11-09|publisher=Youtube.com}}</ref>。
アリラン171(아리랑171)は2018年に発売された<ref name="tech3">{{cite news |url=https://www.northkoreatech.org/2018/03/20/arirang-171-smartphone-unveiled/ |first=Williams |last=Martyn |date=March 20, 2018 |publisher=North Korea Tech |title=Arirang 171 smartphone unveiled}}</ref>。[[Android Nougat]]を搭載し、[[MediaTek]]製のMT6797(Helio X20)2.6GHzチップを搭載している<ref name="tech2">{{cite news |url=https://www.northkoreatech.org/2018/03/20/arirang-171-smartphone-unveiled/ |first=Williams |last=Martyn |date=March 20, 2018 |publisher=North Korea Tech |title=Arirang 171 smartphone unveiled}}</ref>。アリラン171は、北朝鮮のモバイルデバイスが[[平壌直轄市|平壌]]のイントラネットネットワークにアクセスできるようにする「ミレ未来」と呼ばれる[[公衆無線LAN]]に接続できる<ref>{{cite news |url=https://www.nknews.org/2018/11/smartphone-capable-wifi-on-show-at-pyongyang-it-exhibition-state-tv-reveals/ |work=[[NK News]] |quote=Company technician Hwang Yong Jo told KCTV in the footage that the Arirang 171 smartphone — first unveiled in March — improves user convenience by enabling people to access the internet on-the-go. Users would need to use a SIM Card to access the Mirae network, he added. |editor-first=Oliver |editor-last=Hotham |title=Smartphone-capable WiFi on show at Pyongyang IT exhibition, state TV reveals |first=Dagyum |last=Ji |date=November 14, 2018 |archive-url=https://archive.today/20181114162817/https://www.nknews.org/2018/11/smartphone-capable-wifi-on-show-at-pyongyang-it-exhibition-state-tv-reveals/ |archive-date=November 14, 2018}}</ref>。
== 脚注 ==
=== 出典 ===
{{Reflist}}
[[Category:Android端末]]
[[Category:スマートフォン]]
[[Category:朝鮮民主主義人民共和国の科学技術]]
[[Category:朝鮮民主主義人民共和国の経済]] | 2023-10-12T22:26:47Z | 2023-10-15T03:45:33Z | false | false | false | [
"Template:Cite web",
"Template:Cite news",
"Template:Cite AV media",
"Template:Infobox mobile phone",
"Template:Reflist"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%A9%E3%83%B3_(%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3) |
4,840,761 | 武庫川女子大学建築学部・大学院建築学研究科 | 武庫川女子大学建築学部(むこがわじょしだいがくけんちくがくぶ、Faculty of Architecture)は、武庫川女子大学に開設されている建築学部で、武庫川女子大学院建築学研究科(むこがわじょしだいがくだいがくいんけんちくがくけんきゅうか、Graduate School of Architecture)は、大学院に開設されている建築学に関する研究科。
武庫川女子大学では修士課程と建築学科を合わせた、日本初の建築系学士修士課程6年間のJABEE認定を受けており、UNESCO-UIA 建築教育憲章対応プログラムとしても認可されている。 | [
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'''武庫川女子大学建築学部'''(むこがわじょしだいがくけんちくがくぶ、Faculty of Architecture)は、[[武庫川女子大学]]に開設されている[[建築学部]]で、'''武庫川女子大学院建築学研究科'''(むこがわじょしだいがくだいがくいんけんちくがくけんきゅうか、Graduate School of Architecture)は、大学院に開設されている[[建築学]]に関する[[研究科]]。
武庫川女子大学では修士課程と建築学科を合わせた、日本初の建築系学士修士課程6年間の[[JABEE]]認定を受けており、UNESCO-UIA 建築教育憲章対応プログラムとしても認可されている。
== 沿革 ==
* 1949年 武庫川学院女子大学開学。[[学芸学部]]設置
* 1958年 武庫川女子大学に改称。また学芸学部を[[文学部]]と[[家政学部]]に改組
* 1966年 武庫川女子大学大学院[[修士課程]]開設
* 1994年 家政学部を[[生活環境学部]]に改組
* 2006年 生活環境学部に[[建築学科]]と大学院生活環境学研究科建築学専攻を開設
* 2010年 大学院建築学専攻内に[[一級建築士事務所]] 建築都市デザインスタジオ を設置
* 2013年 JABEE(日本技術者教育認定機構)の認定を受ける。建築系学士修士課程として国内初の認定(UNESCO-UIA建築教育憲章対応)
* 2020年 生活環境学部建築学科と大学院生活環境学研究科を母体に、建築学部・大学院建築学研究科を開設。また建築学部に新たに[[ランドスケープ学科|景観建築学科]]を、建築学研究科には景観建築学専攻を新たに開設
== 学部組織 ==
;建築学部
* 建築学科
* 景観建築学科
== 大学院 ==
;建築学研究科
* 建築学専攻
* 景観建築学専攻
== 外部リンク ==
* [https://arch.mukogawa-u.ac.jp/ 建築学科/建築学研究科オリジナルサイト]
* [https://la.mukogawa-u.ac.jp/ 景観建築学科/景観建築学研究科オリジナルサイト]
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[[カテゴリ:武庫川女子大学|けんちくかくふ]]
[[カテゴリ:日本の私立大学の大学院]]
[[カテゴリ:日本の建築系教育機関]]
[[カテゴリ:造園教育]] | 2023-10-12T22:36:11Z | 2023-10-29T00:06:31Z | false | false | false | [
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"Template:Pathnav",
"Template:学校法人武庫川学院"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%BA%AB%E5%B7%9D%E5%A5%B3%E5%AD%90%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E5%BB%BA%E7%AF%89%E5%AD%A6%E9%83%A8%E3%83%BB%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E9%99%A2%E5%BB%BA%E7%AF%89%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%A7%91 |
4,840,762 | 萩尾麻衣子 | 萩尾 麻衣子(はぎお まいこ、1979年12月26日 - )は、福岡県北九州市出身のサッカー審判員(元国際副審)。田辺三菱製薬勤務。
中学時代は放送部、北九州工業高等専門学校時代は陸上競技部(中距離専門)、編入学した筑波大学でも陸上競技部と、サッカーとは無縁な学生生活を送るが、筑波大学大学院進学時にサッカーに興味を持ち始める。2004年に修士課程を卒業後、茨城県神栖市で研究職の傍ら、地元のサッカー協会の紹介でサッカー審判員の資格取得を目指し、2006年までに女子2級審判員の資格を取得。関西に転居後の2011年11月20日付けで女子1級審判員の資格を取得した。
女子1級審判員資格取得後は国民体育大会やなでしこリーグで活動し、2015年に日本サッカー協会 (JFA) の推薦で国際サッカー連盟(FIFA)の国際審判員リストに登録された。アルガルヴェ・カップには2017年から3年連続で派遣され、2018年にはAFC女子アジアカップにも派遣されるなど多忙を極めたが、勤務する田辺三菱製薬がサッカー・女子サッカーに理解のある会社だったこともあり、活動を継続できた。
2018年12月3日には、FIFAにより翌年開催される2019 FIFA女子ワールドカップへ主審の山下良美、副審の坊薗真琴・手代木直美と共に審判団として選出。日本人審判団の中では3人のサポート役である「予備副審」という立場だったが、2019年6月15日に行われたグループE・オランダ対カメルーン戦で、オーストラリアのケーシー・レイベルト(英語版)らと共に審判団を組み、副審(第2副審)を担当した。
2021年限りで国際審判員登録を外れたが、審判員としての活動は継続している。 | [
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] | 萩尾 麻衣子は、福岡県北九州市出身のサッカー審判員(元国際副審)。田辺三菱製薬勤務。 | {{infobox football official 2
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'''萩尾 麻衣子'''(はぎお まいこ、1979年12月26日 - )は、[[福岡県]][[北九州市]]出身の[[審判員 (サッカー)|サッカー審判員]](元[[審判員 (サッカー)#国際審判員(主審・副審)|国際副審]])。[[田辺三菱製薬]]勤務<ref name="sankei20230929">{{Cite news |和書|url=https://www.sankei.com/article/20230929-Y2H27JFBD5KNZIZSD42GPXECPY/|title=W杯の経験次代へ…田辺三菱製薬で働くサッカー女子1級審判員、萩尾麻衣子さん|newspaper=産経新聞|date=2023-09-29|accessdate=2023-10-13}}</ref>。
== 来歴 ==
中学時代は放送部、[[北九州工業高等専門学校]]時代は陸上競技部(中距離専門)、編入学した[[筑波大学]]でも陸上競技部と、サッカーとは無縁な学生生活を送る<ref name="sankei20230929"/>が、筑波大学大学院進学時にサッカーに興味を持ち始める。2004年に修士課程を卒業後、[[茨城県]][[神栖市]]で研究職の傍ら、地元のサッカー協会の紹介でサッカー審判員の資格取得を目指し、2006年までに女子2級審判員の資格を取得<ref name="jfa20141009">{{Cite web |和書|url=https://www.jfa.jp/about_jfa/report/PDF/k20141009_08_02.pdf|title=国際審判員 プロフィール|publisher=日本サッカー協会|date=2014-10-09|accessdate=2023-10-13}}</ref>。関西に転居後の2011年11月20日付けで女子1級審判員の資格を取得した<ref>{{Cite web |和書|url=https://www.jfa.jp/about_jfa/report/PDF/h20120112_3.pdf|title=2012年 新1級審判員・新女子1級審判員リスト|publisher=日本サッカー協会|date=2012-01-12|accessdate=2023-10-13}}</ref>。
女子1級審判員資格取得後は[[国民体育大会サッカー競技|国民体育大会]]や[[日本女子サッカーリーグ|なでしこリーグ]]で活動し<ref name="sankei20230929"/>、2015年に[[日本サッカー協会]] (JFA) の推薦で[[国際サッカー連盟]](FIFA)の[[FIFA国際審判員リスト|国際審判員リスト]]に登録された<ref name="jfa20141009"/>。[[アルガルヴェ・カップ]]には2017年から3年連続で派遣され、2018年には[[2018 AFC女子アジアカップ|AFC女子アジアカップ]]にも派遣されるなど多忙を極めたが、勤務する田辺三菱製薬がサッカー・女子サッカーに理解のある会社だったこともあり、活動を継続できた<ref name="mt-pharma20190328">{{Cite press release |和書|url=https://www.mt-pharma.co.jp/news/assets/pdf/info190328.pdf|title=FIFA女子ワールドカップフランス2019の審判員に当社社員が選出~田辺三菱製薬と縁の深いサッカーで快挙~|publisher=田辺三菱製薬|date=2019-03-28|accessdate=2023-10-13}}</ref>。
2018年12月3日には、FIFAにより翌年開催される[[2019 FIFA女子ワールドカップ]]へ主審の[[山下良美]]、副審の[[坊薗真琴]]・[[手代木直美]]と共に審判団として選出<ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.jfa.jp/news/00019868/ |title=FIFA女子ワールドカップフランス2019に日本人審判員4名が選出 |publisher=日本サッカー協会 |date=2018-12-04 |accessdate=2019-05-26}}</ref><ref name="mt-pharma20190328"/>。日本人審判団の中では3人のサポート役である「予備副審」という立場だったが、2019年6月15日に行われたグループE・[[サッカーオランダ女子代表|オランダ]]対[[サッカーカメルーン女子代表|カメルーン]]戦で、オーストラリアの{{仮リンク|ケーシー・レイベルト|en|Casey Reibelt}}らと共に審判団を組み、副審(第2副審)を担当した<ref name="sankei20230929"/><ref>{{Cite web |url=https://www.fifa.com/fifaplus/en/match-centre/match/103/278513/278527/300438240|title=FIFA Woman's World Cup France 2019 NETHERLANDS 3-1 CAMEROON|website=FIFA+|accessdate=2023-10-13}}</ref>。
2021年限りで国際審判員登録を外れたが、審判員としての活動は継続している。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [http://www.jfa.jp/referee/profile/international_referee.html 国際審判員紹介]([[日本サッカー協会]])
{{DEFAULTSORT:はきお まいこ}}
[[Category:日本のサッカー審判員]]
[[Category:福岡県出身の人物]]
[[Category:筑波大学出身の人物]]
[[Category:1979年生]]
[[Category:存命人物]]
[[Category:田辺三菱製薬の人物]] | 2023-10-12T22:42:52Z | 2023-10-13T23:13:14Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%A9%E5%B0%BE%E9%BA%BB%E8%A1%A3%E5%AD%90 |
4,840,770 | 共立女子大学建築・デザイン学部 | 共立女子大学建築・デザイン学部(きょうりつじょしだいがくけんちく・でざいんがくぶ、Faculty of Architecture and Desigh)は、共立女子大学に設置されている建築学とデザイン学の学部。
なお、関連する大学院は家政学研究科に建築・デザイン専攻が設けられており、合わせて紹介する。 | [
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'''共立女子大学建築・デザイン学部'''(きょうりつじょしだいがくけんちく・でざいんがくぶ、Faculty of Architecture and Desigh)は、[[共立女子大学]]に設置されている[[建築学]]と[[デザイン学]]の学部。
なお、関連する[[大学院]]は[[家政学研究科]]に建築・デザイン専攻が設けられており、合わせて紹介する。
== 沿革 ==
* 1949年(昭和24年)共立女子大学開学。[[家政学部]]設置。被服学科と生活学科の2学科を擁する
* 1966年(昭和41年)共立女子大学大学院創設
* 1968年(昭和43年)家政学部に生活美術学科を設置
* 2007年(平成19年)[[大学]]・[[短期大学]]の再編を実施し、家政学部の生活美術学科の学生募集を停止し、建築・デザイン学科を設置
* 2011年(平成23年)大学院家政学研究科建築・デザイン専攻[[博士前期課程]]創設
* 2023年(平成25年)家政学部の建築・デザイン学科を母体に、建築・デザイン学部を開設
== 学部組織 ==
;建築・デザイン学部
* 建築・デザイン学科
** 建築コース
*** 建築分野
*** インテリア分野
*** まちづくり分野
** デザインコース
*** グラフィック分野
*** プロダクト分野
== 大学院 ==
;家政学研究科
* 建築・デザイン専攻
** 建築研究分野
** デザイン研究分野
== 外部リンク ==
* [https://www.kyoritsu-wu.ac.jp/academics/undergraduate/ken_design/ 大学の学部紹介サイト]
* [https://www.kyoritsu-wu.ac.jp/academics/undergraduate/kende/special/ 開設特設サイト]
* [https://kendesign.kyoritsu-wu.jp/ オリジナルサイト「ケンデバ」]
* [https://www.kyoritsu-wu.ac.jp/academics/graduate/kasei/course/kenchiku.html 大学院建築・デザイン専攻]
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[[Category:各大学の学部]]
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4,840,772 | 東海大学国際文化学部 | 東海大学国際文化学部(とうかいだいがくこくさいぶんかがくぶ、School of International Cultural Relations)は、東海大学に設置されている国際関係学部。国際コミュニケーション学科ほかが開設されている。 | [
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'''東海大学国際文化学部'''(とうかいだいがくこくさいぶんかがくぶ、School of International Cultural Relations)は、[[東海大学]]に設置されている[[国際関係学部]]。国際[[コミュニケーション学]]科ほかが開設されている。
== 沿革 ==
* 2008年 1977年開学した[[北海道東海大学]]が東海大学と統合し、東海大学国際文化学部に組織改編。北海道東海大学時代の国際文化学部地域創造学科とコミュニケーション学科を母体に、国際コミュニケーション学科と地域創造学科を創設。旭川キャンパスの芸術工学部くらしデザイン学科を母体に、国際文化学部デザイン文化学科を創設。
* 2022年 デザイン文化学科募集停止。ただし地域創造学科デザイン・建築コースに学びは引き継がれる
== 学部組織 ==
;国際文化学部
* 国際コミュニケーション学科
* 地域創造学科
** 地域社会コース
** 健康スポーツコース
** デザイン・建築コース
* デザイン文化学科(募集停止)
== 外部リンク ==
* [https://www.u-tokai.ac.jp/ud-international-cultural-relations/ 国際文化学部] | 東海大学 - Tokai University
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E6%96%87%E5%8C%96%E5%AD%A6%E9%83%A8 |
4,840,777 | 山神橋 | 山神橋(さんじんはし)は、福島県福島市にある道路橋である。
福島市北部の飯坂町中野の山中にて一級水系阿武隈川水系小川を渡り、国道13号栗子道路を通す。橋上は上下対向2車線で供用され、歩道は設置されていない。
豪雪地帯の深い渓谷を渡ることから上路式アーチ橋が選定され、桁は朱色に塗装されている。建設当時断面性能の高いパイプアーチ橋の施工例が水道橋しかなく、道路橋での実績が無かったことからリブアーチが採用され、ケーブルエレクション工法により建設された。建設当初は各径間がゲルバーヒンジ部にて接続され、床版とアーチは中間垂直材にて接続されていた。
建設から30年以上経過し老朽化が進み、これらゲルバー構造部や中間垂直材の接続部に部材の疲労による亀裂が発生し、落橋の危険があったことから1992年から1993年度にかけて応急復旧、補強工事が行われた。
1997年10月に栗子道路保全・管理検討委員会が開かれ当橋梁と東栗子トンネルの抜本的な老朽化対策が検討され、1999年~2000年度に架けてゲルバー部の連続桁化、中間垂直材への斜材の追加が行われた。
万世大路として開削された当初より当地には架橋が行われ、当橋梁は3代目の橋に当たる。また、同じ区間には東北中央自動車道の中野大橋がすぐ北側に架かる。 | [
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] | 山神橋(さんじんはし)は、福島県福島市にある道路橋である。 | '''山神橋'''(さんじんはし)は、[[福島県]][[福島市]]にある[[道路橋]]である。
== 概要 ==
* 全長:106.600mm
** 主径間:83.000m
* 幅員:8.00(9.20)m
* 竣工:1963年
* 型式:鋼上路式アーチ橋(主径間)、鋼単純非合成鈑桁橋(両側径間) 計3径間<ref>[https://www.road.or.jp/search/08/182_02/182_000520.pdf 山神橋の損傷と補強対策] - 日本道路協会</ref>
福島市北部の[[飯坂町中野]]の山中にて[[一級水系]][[阿武隈川]]水系[[小川 (福島市)|小川]]を渡り、[[国道13号]][[栗子道路]]を通す。橋上は上下対向2車線で供用され、[[歩道]]は設置されていない。
豪雪地帯の深い渓谷を渡ることから上路式アーチ橋が選定され、桁は朱色に塗装されている。建設当時断面性能の高いパイプアーチ橋の施工例が水道橋しかなく、道路橋での実績が無かったことからリブアーチが採用され、ケーブルエレクション工法により建設された。建設当初は各径間がゲルバーヒンジ部にて接続され、床版とアーチは中間垂直材にて接続されていた。
建設から30年以上経過し老朽化が進み、これらゲルバー構造部や中間垂直材の接続部に部材の疲労による亀裂が発生し、落橋の危険があったことから[[1992年]]から[[1993年]]度にかけて応急復旧、補強工事が行われた。
[[1997年]][[10月]]に栗子道路保全・管理検討委員会が開かれ当橋梁と東栗子トンネルの抜本的な老朽化対策が検討され、1999年~2000年度に架けてゲルバー部の連続桁化、中間垂直材への斜材の追加が行われた。
万世大路として開削された当初より当地には架橋が行われ、当橋梁は3代目の橋に当たる。また、同じ区間には東北中央自動車道の中野大橋がすぐ北側に架かる。
== 歴史 ==
* [[1870年]]代後半 - 初代山神橋竣工。木製桁橋であった。
* [[1929年]]頃 - 2台目山神橋竣工。旧道のコンクリート橋であり、現在は下部工のみ現存する<ref>[https://ootaki.xsrv.jp/kuritnkengaku.pdf 大滝会の東北中央自動車道栗子トンネル工事見学記] - わが大滝の記録</ref>。
* [[1963年]][[11月]] - 竣工
* [[1992年]]度 - 桁材の亀裂の応急復旧工事の開始
* [[1999年]]度 - 老朽化対策工事の開始
== 周辺 ==
* 山神神社
== 脚注 ==
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[[Category:福島市の橋]]
[[Category:国道13号]] | 2023-10-12T23:47:45Z | 2023-10-23T06:55:29Z | false | false | false | [
"Template:脚注ヘルプ",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E6%A9%8B |
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