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ハイノート・レコード
ハイノート・レコード(HighNote Records)は、1997年にジョー・フィールズと息子のバーニー・フィールズによって設立されたジャズのレコード会社およびレーベル。 ジョー・フィールズは、1960年代にプレスティッジ・レコードで働き、1970年代にミューズ・レコードを設立した。ミューズを売却した後、息子のバーニーとともにハイノートとサヴァンというレーベルを立ち上げた。ハイノートのアーティストの多くは、それ以前にミューズのためにレコーディングしていた。 このカタログには、シンディ・ブラックマン、ラリー・コリエル、ジョーイ・デフランセスコ、チャールズ・アーランド、ラッセル・ガン、エタ・ジョーンズ、シーラ・ジョーダン、ヒューストン・パーソン、ジミー・ポンダーが含まれている。
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ハイノート・レコードは、1997年にジョー・フィールズと息子のバーニー・フィールズによって設立されたジャズのレコード会社およびレーベル。 ジョー・フィールズは、1960年代にプレスティッジ・レコードで働き、1970年代にミューズ・レコードを設立した。ミューズを売却した後、息子のバーニーとともにハイノートとサヴァンというレーベルを立ち上げた。ハイノートのアーティストの多くは、それ以前にミューズのためにレコーディングしていた。 このカタログには、シンディ・ブラックマン、ラリー・コリエル、ジョーイ・デフランセスコ、チャールズ・アーランド、ラッセル・ガン、エタ・ジョーンズ、シーラ・ジョーダン、ヒューストン・パーソン、ジミー・ポンダーが含まれている。
{{Infobox record label <!-- See Wikipedia:WikiProject_Music --> | name = ハイノート・レコード<br />HighNote Records | image = | image_size = | parent = | founded = {{start date|1997}} | founder = バーニー・フィールズ<br />ジョー・フィールズ | defunct = | status = | distributor = | genre = [[ジャズ]] | country = {{USA}} | location = [[ニューヨーク]] | url = {{URL|www.jazzdepot.com/}} }} '''ハイノート・レコード'''(HighNote Records)は、1997年にジョー・フィールズと息子のバーニー・フィールズによって設立された[[ジャズ]]のレコード会社およびレーベル。 ジョー・フィールズは、1960年代に[[プレスティッジ・レコード]]で働き、1970年代に[[ミューズ・レコード]]を設立した。ミューズを売却した後、息子のバーニーとともにハイノートとサヴァンというレーベルを立ち上げた。ハイノートのアーティストの多くは、それ以前にミューズのためにレコーディングしていた<ref name="Sunderland">{{cite web|last1=Sunderland|first1=Celeste|title=HighNote/Savant Records|url=https://www.allaboutjazz.com/highnote-savant-records-by-celeste-sunderland.php|website=www.allaboutjazz.com|access-date=23 July 2016|date=28 October 2003}}</ref>。 このカタログには、[[シンディ・ブラックマン]]、[[ラリー・コリエル]]、[[ジョーイ・デフランセスコ]]、[[チャールズ・アーランド]]、[[ラッセル・ガン]]、[[エタ・ジョーンズ]]、[[シーラ・ジョーダン]]、[[ヒューストン・パーソン]]、[[ジミー・ポンダー]]が含まれている<ref name="New Grove">{{cite book|last1=Kennedy|first1=Gary|editor1-last=Kernfeld|editor1-first=Barry|title=The New Grove Dictionary of Jazz|date=2002|publisher=Grove's Dictionaries Inc.|location=New York|isbn=1-56159-284-6|page=237|volume=2|edition=2nd}}</ref>。 == ディスコグラフィ == {{Main|:en:HighNote Records#Discography}}<ref>[http://www.jazzdepot.com/highnote_cat.pdf HighNote Records Catalog], accessed February 21, 2019</ref> == 姉妹レーベル == * フェドラ・レコード (Fedora Records) ※1990年代後半に設立<ref name="JazzTimes 2017 Jul 16" /> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist|100em|refs= <ref name="JazzTimes 2017 Jul 16">[https://jazztimes.com/news/joe-fields-exec-several-key-jazz-labels-dead-88/ "Joe Fields, Exec at Several Key Jazz Labels, Dead at 88 – Founder of Muse, HighNote and Savant Records produced hundreds of jazz recordings,"] by [[:en:Jeff Tamarkin|Jeff Tamarkin]], ''[[JazzTimes]]'', July 16, 2017</ref> }} == 関連項目 == * [[レコード会社一覧]] == 外部リンク == * {{official website|http://www.jazzdepot.com/hn.html}} * {{Discogs label|label=HighNote Records, Inc.}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はいのおとれこおと}} [[Category:アメリカ合衆国のレコード・レーベル]] [[Category:ジャズ・レーベル]]
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宇宙開発利用大賞
宇宙開発利用大賞(うちゅうかいはつりようたいしょう)は、宇宙開発利用に関して研究開発や宇宙の利用拡大、日本の宇宙産業の発展に多大な貢献をした人物や団体を表彰し、宇宙開発利用に対して国民の認識と理解を深める目的で開催されているものである。 2013年(平成25年)より宇宙開発利用を広く進行する目的で設置された本賞は、内閣府主催の元、総務省・外務省・文部科学省・農林水産省・経済産業省・国土交通省・環境省・防衛省など複数の省が参画している表彰である。 2013年1月に宇宙開発戦略本部によって策定された日本の宇宙基本計画の基本的な方針である「宇宙利用の拡大」と「自立性の確保」に則った形で同年に設立された。それ以降回を重ねた本大賞においても同年(同年度)内に決定された宇宙基本計画に則った形で受賞者が選考されている。 2017年(平成29年)5月に宇宙政策委員会によって策定された「宇宙産業ビジョン2030 第4次産業革命下の宇宙利用創造」において、本大賞の抜本強化が明記された。「宇宙産業ビジョン2030」で示された内容としては、第2回大賞まででは宇宙開発利用に成功した優秀事例のみが選考の対象となっていたが、第3回大賞以降では新たなアイディアの開拓を活性化させる目的で今後成功を目指すベンチャー企業なども選考の対象となった。また、本大賞を受賞した人物や団体について、内閣府による事業化に向けた関連事業者とのマッチングや政府系金融機関による資金援助などのフォローアップが約束された。 更に第3回大賞からは、以前の受賞事例に農林水産分野からの選出があったことや、農林水産分野においても宇宙を活用した事業や研究が活性化することを期待されたため、新たに農林水産大臣賞が新設された。 第6回大賞からは今までの11の大賞に加えて、官公庁の枠に捕われない独創的・挑戦的・先駆的な事例を発掘し、表彰機会を拡大するために選考委員会特別賞が追加された。 また、本大賞の募集を広く周知するためバーチャルYouTuberである宇推くりあとのタイアップ・PRキャラクター就任が2023年10月13日に行われた高市早苗内閣府特命担当大臣定例記者会見にて発表された。 募集対象は、「宇宙の利用拡大への実績」・「利用拡大につながる可能性が期待できる独創的なアイディアの発案」・「日本の宇宙産業の発展関して重要な技術の保有」・「卓越した研究や開発」・「特筆すべき広報活動や教育普及活動」・「社会問題や安全保障分野における課題解決」などで日本の宇宙開発利用に赫赫たる貢献をした個人や団体である。 ここで選考の対象となる宇宙開発利用に関する貢献には、前回の本大賞から今回の間までなどといった期間的制約は存在しない。 ただし、候補者が国や独立行政法人が発注した製品を納入したのみであった場合は、顕著な貢献をしたとはみなされず選考の対象外となる。 審査の観点は宇宙開発利用の創造や市場の拡大、人材育成などの5項目からなり、どれも宇宙利用の振興に結び付いているものである。宇宙開発利用市場の拡大への貢献や、経済・社会の高度化への貢献、宇宙技術への貢献、教育普及活動への貢献についての観点は第1回募集要項案の時点で策定されており、後に既存の分野に捕らわれることのない新たな領域の創造。という審査基準が追加された。 自薦・他薦を問わない公募方式。 候補者や受賞者の国籍に関しては問われないが、日本国内で住居を置いて活動している個人や日本国内の法に則って設立された団体に限定している。 以前に国家機関から表彰された経歴がある場合は、すべての賞において選考対象から外されている。ただし、以前に本大賞を受賞していた場合は本賞の中で受賞歴のある賞のみ選考から除外される。同一回での同一人物による複数受賞は行われない。 禁固刑以上の刑暦を有する者及び受賞後禁固刑以上の刑暦を有した者は、選考から外れると共に、すでに受賞していた場合は受賞取り消し・表彰状の返却を求められる。 JAXA及び関係各省で予備選考を経たのち、有識者等で構成される選考委員会によって審査・選考、受賞者の選出が行われる。 (この節の出典:) (この節の出典:) (この節の出典:) その他内閣府、総務省、外務省、文部科学省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省、防衛省、宇宙航空研究開発機構からなる委員。(非公開) (データなし) (この節の出典:) (この節の出典:} 科学技術館サイエンスホールにて授賞式開催(2013年10月10日) 一橋講堂にて授賞式開催(2016年3月22日) イイノホールにて授賞式開催(2018年3月20日)
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宇宙開発利用大賞(うちゅうかいはつりようたいしょう)は、宇宙開発利用に関して研究開発や宇宙の利用拡大、日本の宇宙産業の発展に多大な貢献をした人物や団体を表彰し、宇宙開発利用に対して国民の認識と理解を深める目的で開催されているものである。
{{Infobox award |name = 宇宙開発利用大賞 |description = 宇宙に関連した事業や研究に於いて、宇宙の利用拡大や研究開発・知の創出、宇宙に関連する事業などによる社会問題等の課題解決に対して顕著な功績が認められる人物や団体。 |presenter = 内閣府 |country = {{JPN}} |location = <!-- 主催者 --> |reward = <!-- 報酬 --> |year = 2013年<!-- 初回 --> |year2 = 2023年(第6回)<!-- 最新回 --> |holder = <!-- 最新受賞者 --> |website = [https://www.s-riyoutaishou.jp 一般財団法人日本宇宙フォーラム 第6回宇宙開発利用大賞専用サイト]<br> [https://www8.cao.go.jp/space/prize/prize.html 内閣府宇宙開発利用大賞について]<!-- 公式サイト --> |previous = |main = |next = }} '''宇宙開発利用大賞'''(うちゅうかいはつりようたいしょう)は、宇宙開発利用に関して研究開発や宇宙の利用拡大、日本の宇宙産業の発展に多大な貢献をした人物や団体を表彰し、宇宙開発利用に対して国民の認識と理解を深める目的で開催されているものである<ref>{{Cite web|url= https://www8.cao.go.jp/space/prize/prize.html |title=内閣府 宇宙開発利用について |publisher=内閣府 |date= |accessdate=2023-11-09 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|url= https://www.s-riyoutaishou.jp |title=一般財団法人日本宇宙フォーラム 第6回宇宙開発利用大賞専用サイト |publisher=内閣府 |date= |accessdate=2023-11-09 |language=ja}}</ref>。 == 概要 == 2013年([[平成]]25年)より宇宙開発利用を広く進行する目的で設置された本賞は、[[内閣府]]主催の元、[[総務省]]・[[外務省]]・[[文部科学省]]・[[農林水産省]]・[[経済産業省]]・[[国土交通省]]・[[環境省]]・[[防衛省]]など複数の省が参画している表彰である。 2013年1月に宇宙開発戦略本部によって策定された日本の[[宇宙基本計画]]の基本的な方針である「宇宙利用の拡大」と「自立性の確保」に則った形で同年に設立された<ref>{{Cite web|url= https://www8.cao.go.jp/space/prize/first/jirei-fy25-1.pdf |title=平成25年度宇宙開発利用大賞受賞事例集 |publisher=内閣府 |date= |accessdate=2023-11-09 |language=ja}}</ref>。それ以降回を重ねた本大賞においても同年(同年度)内に決定された宇宙基本計画に則った形で受賞者が選考されている。 2017年(平成29年)5月に[[宇宙政策委員会]]によって策定された「[[宇宙産業ビジョン2030|宇宙産業ビジョン2030 第4次産業革命下の宇宙利用創造]]」において、本大賞の抜本強化が明記された<ref>{{Cite web|url=https://www8.cao.go.jp/space/vision/mbrlistsitu.pdf |title=宇宙産業ビジョン2030 第4次産業革命下の宇宙利用創造 |publisher=宇宙政策委員会 |date= |accessdate=2023-11-09 |language=ja}}</ref>。「宇宙産業ビジョン2030」で示された内容としては、第2回大賞まででは宇宙開発利用に成功した優秀事例のみが選考の対象となっていたが、第3回大賞以降では新たなアイディアの開拓を活性化させる目的で今後成功を目指す[[ベンチャー企業]]なども選考の対象となった。また、本大賞を受賞した人物や団体について、内閣府による事業化に向けた関連事業者とのマッチングや[[政府系金融機関]]による資金援助などのフォローアップが約束された。 更に第3回大賞からは、以前の受賞事例に農林水産分野からの選出があったことや、農林水産分野においても宇宙を活用した事業や研究が活性化することを期待されたため、新たに農林水産大臣賞が新設された。 第6回大賞からは今までの11の大賞に加えて、官公庁の枠に捕われない独創的・挑戦的・先駆的な事例を発掘し、表彰機会を拡大するために選考委員会特別賞が追加された。 また、本大賞の募集を広く周知するため[[バーチャルYouTuber]]である[[宇推くりあ]]とのタイアップ・PRキャラクター就任が2023年10月13日に行われた[[高市早苗]][[内閣府特命担当大臣]]定例記者会見にて発表された<ref name=政府広報オンライン20231013>{{Cite web|url=https://www.gov-online.go.jp/prg/prg27435.html |title=政府広報オンライン高市大臣記者会見(令和5年10月13日) |publisher=[[内閣府]] |date= |accessdate=2023-11-27 |language=ja}}</ref><ref name="高市特命大臣記者会見要旨20231013">{{Cite web|url=https://www.cao.go.jp/minister/2309_s_takaichi/kaiken/20231013kaiken.html |title=高市内閣府特命担当大臣記者会見要旨 令和5年10月13日 |publisher=[[内閣府]] |date= |accessdate=2023-11-27 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|url= https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2310/24/news100.html |title=まさかの内閣府コラボ 個人VTuber「宇推くりあ」が宇宙開発利用大賞PRキャラに就任 起用の決め手や意気込みを聞いた |publisher=[[ねとらぼ]] |date= |accessdate=2023-11-10|language=ja}}</ref>。 == 募集対象 == 募集対象は、「宇宙の利用拡大への実績」・「利用拡大につながる可能性が期待できる独創的なアイディアの発案」・「日本の宇宙産業の発展関して重要な技術の保有」・「卓越した研究や開発」・「特筆すべき広報活動や教育普及活動」・「社会問題や安全保障分野における課題解決」などで日本の宇宙開発利用に赫赫たる貢献をした個人や団体である。 ここで選考の対象となる宇宙開発利用に関する貢献には、前回の本大賞から今回の間までなどといった期間的制約は存在しない。 ただし、候補者が国や独立行政法人が発注した製品を納入したのみであった場合は、顕著な貢献をしたとはみなされず選考の対象外となる。 == 審査の観点 == 審査の観点は宇宙開発利用の創造や市場の拡大、[[人材育成]]などの5項目からなり、どれも宇宙利用の振興に結び付いているものである。宇宙開発利用市場の拡大への貢献や、経済・社会の高度化への貢献、宇宙技術への貢献、教育普及活動への貢献についての観点は第1回募集要項案の時点で策定されており<ref>{{Cite web|url= https://www8.cao.go.jp/space/prize/youkou.pdf |title=平成25年度宇宙開発利用大賞募集要項(案) |publisher=内閣府宇宙戦略室 |date= |accessdate=2023-11-09 |language=ja}}</ref>、後に既存の分野に捕らわれることのない新たな領域の創造。という審査基準が追加された。 == 募集方法 == 自薦・他薦を問わない公募方式。 == 候補者・受賞者に必要な資格と受賞の取り消し == 候補者や受賞者の国籍に関しては問われないが、日本国内で住居を置いて活動している個人や日本国内の法に則って設立された団体に限定している。 以前に国家機関から[[表彰]]された経歴がある場合は、'''すべての賞において'''選考対象から外されている。ただし、以前に本大賞を受賞していた場合は本賞の中で'''受賞歴のある賞のみ'''選考から除外される。同一回での同一人物による複数受賞は行われない。 禁固刑以上の刑暦を有する者及び受賞後禁固刑以上の刑暦を有した者は、選考から外れると共に、すでに受賞していた場合は受賞取り消し・表彰状の返却を求められる。 == 表彰の種類 == ; [[内閣総理大臣賞]] : 極めて顕著な功績があったと認められる事例(1件) ; 内閣府特命担当大臣(宇宙政策)賞 : 特に顕著な功績があったと認められる事例(1件) ; 総務大臣賞 : 情報通信の発展、地域の振興等の視点から特に顕著な功績があったと認められる事例(1件) ; 外務大臣賞 : 平和で安全な国際社会の維持、良好な国際環境の整備及び国際協力の推進等の視点から特に顕著な功績があったと認められる事例(1件) ; [[文部科学大臣賞]] : 科学技術・学術の振興等の視点から特に顕著な功績があったと認められる事例(1件) ; [[農林水産大臣賞]] : 農林水産分野における宇宙開発利用の推進の視点から特に顕著な功績があったと認められる事例(1件)(第3回大賞より新設) ; 経済産業大臣賞 : 宇宙産業の振興の視点から特に顕著な功績があったと認められる事例(1件) ; 国土交通大臣賞 : 国土交通分野における宇宙開発利用の推進の視点から特に顕著な功績があったと認められる事例(1件) ; 環境大臣賞 : 地球環境保全、公害の防止、自然環境の保護及びその他の環境の保全の視点から特に顕著な功績があったと認められる事例(1件) ; 防衛大臣賞 : 防衛分野における宇宙開発利用の推進、宇宙空間の安定的利用の視点から、防災を含む国民の安心・安全への寄与に特に顕著な功績があったと認められる事例(1件) ; 宇宙航空研究開発機構理事長賞 : 宇宙開発利用の技術の観点から顕著な功績があったと認められる事例(1件) ; 選考委員会特別賞 : 以上の賞に該当しないものの独創的・挑戦的・先駆的な宇宙開発利用を推進する観点から顕著な功績があったと認められる事例(3件以内)(第6回大賞より新設) == 選考方法 == [[JAXA]]及び関係各省で予備選考を経たのち、有識者等で構成される選考委員会によって審査・選考、受賞者の選出が行われる。 == 選考委員会委員 == === 平成25年度第1回宇宙開発利用大賞選考委員会選考委員 === (この節の出典:<ref>{{Cite web|url= https://www8.cao.go.jp/space/prize/first/jirei-fy25-1.pdf |title=平成25年度宇宙開発利用大賞 受賞事例集 |publisher=内閣府 |date= |accessdate=2023-11-09 |language=ja}}</ref>) {| class="wikitable" ! !! 選考委員氏名 !! 役職 |- | 委員長 || [[中須賀真一|中須賀 真一]] || [[東京大学大学院工学系研究科・工学部 |東京大学大学院工学系研究科]]・教授 |- | 選考委員 || 秋山 演亮 || [[和歌山大学]]宇宙教育研究所所長・特任教授 |- | 選考委員 || [[神武直彦|神武 直彦]] || [[慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科]]・准教授 |- | 選考委員 || 東嶋 和子 || 科学ジャーナリスト、[[筑波大学]]・非常勤講師 |- | 選考委員 || 椋田 哲史 || [[日本経済団体連合会]]・常務理事 |- | 選考委員 || 前原 正臣 || 内閣府宇宙戦略室参事官 |- | 選考委員 || 久恒 達宏 || 総務省情報通信国際戦略局宇宙通信政策課長 |- | 選考委員 || [[柳孝|柳 孝]] || 文部科学省研究開発局宇宙開発利用課長 |- | 選考委員 || 武藤 寿彦 || 経済産業省製造産業局航空機武器宇宙産業課宇宙産業室長 |- | 選考委員 || 吉田 正彦 || 国土交通省総合政策局技術政策課長 |- | 選考委員 || 辻原 浩 || 環境省地球環境局総務課研究調査室長 |- | 選考委員 || 小野 功雄 || 防衛省防衛政策局防衛政策課防衛政策企画官 |- | 選考委員 || 倉崎 高明 || [[宇宙航空研究開発機構]]総務部長 |} === 平成27年度第2回宇宙開発利用大賞選考委員会選考委員 === (この節の出典:<ref>{{Cite web|url= https://www8.cao.go.jp/space/prize/second/jirei-fy27-1.pdf |title=平成27年度第2回宇宙開発利用大賞 受賞事例集 |publisher=内閣府 |date= |accessdate=2023-11-09 |language=ja}}</ref>) {| class="wikitable" ! !! 選考委員氏名 !! 役職 |- | 委員長 || 中須賀 真一 || 東京大学大学院工学系研究科航空宇宙工学専攻教授 |- | 選考委員 || 石田 真康 || A.T.カーニー株式会社プリンシパル |- | 選考委員 || 神武 直彦 || 慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科・准教授 |- | 選考委員 || 柴崎 亮介 || [[東京大学空間情報科学研究センター]]教授 |- | 選考委員 || 知野 恵子 || [[読売新聞]]東京本社編集局企画委員 |- | 選考委員 || 根本 勝則 || 日本経済団体連合会常務理事 |- | 選考委員 || 林 春男 || [[防災科学技術研究所|国立研究開発法人防災科学技術研究所]]理事長 |- | 選考委員 || 末富 理栄 || 内閣府宇宙戦略室参事官 |- | 選考委員 || 山内 智生 || 総務省情報通信国際戦略局宇宙通信政策課長 |- | 選考委員 || 齋藤 敦 || 外務省総合外交政策局宇宙室長 |- | 選考委員 || 堀内 義規 || 文部科学省研究開発局宇宙開発利用課長 |- | 選考委員 || 恒藤 晃 || 経済産業省製造産業局航空機武器宇宙産業課宇宙産業室長 |- | 選考委員 || 吉田 正彦 || 国土交通省総合政策局技術政策課長 |- | 選考委員 || 竹本 明生 || 環境省地球環境局総務課研究調査室長 |- | 選考委員 || 末永 広 || 防衛省防衛政策局戦略企画課長 |- | 選考委員 || 松浦 直人 || 国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構新事業促進部長 |} === 平成29年度第3回宇宙開発利用大賞選考委員会選考委員 === (この節の出典:<ref>{{Cite web|url= https://www8.cao.go.jp/space/comittee/27-minsei/minsei-dai19/siryou4.pdf |title=第3回宇宙開発利用大賞について |publisher=[[宇宙開発戦略推進事務局]] |date= |accessdate=2023-11-09 |language=ja}}</ref>) {| class="wikitable" ! !! 選考委員氏名 !! 役職 |- | 委員長 || 柴﨑 亮介 || 東京大学空間情報科学研究センター教授 |- | 選考委員 || 遠藤 典子 || [[慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科]] 特任教授 |- | 選考委員 || 久貝 卓 || [[日本商工会議所]] 常務理事 |- | 選考委員 || 神武 直彦 || 慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科 准教授 |- | 選考委員 || [[篠原ともえ|篠原 ともえ]] || アーティスト・デザイナー |- | 選考委員 || 土田 誠行 || [[産業革新投資機構|株式会社産業革新機構]] 専務取締役 |- | 選考委員 || [[山崎直子 (宇宙飛行士)|山崎 直子]] || 宇宙飛行士 |} その他内閣府、総務省、外務省、文部科学省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省、防衛省、宇宙航空研究開発機構からなる委員。(非公開) === 令和元年度第4回宇宙開発利用大賞選考委員会選考委員 === (データなし) === 令和3年度第5回宇宙開発利用大賞選考委員会選考委員 === (この節の出典:<ref>{{Cite web|url= https://www8.cao.go.jp/space/prize/fifth/sapce_award_05.pdf |title=第5回宇宙開発利用大賞 受賞事例集 |publisher=内閣府 |date= |accessdate=2023-11-09 |language=ja}}</ref>) {| class="wikitable" ! !! 選考委員氏名 !! 役職 |- | 委員長 || 中須賀 真一 || 東京大学大学院工学系研究科・教授 |- | 選考委員 || 青木 英剛 || 一般社団法人 Space Port Japan 共同創業者/理事宇宙エバンジェリスト |- | 選考委員 || 石田 真康 || A.Tカーニー株式会社 ディレクター |- | 選考委員 || 神武 直彦 || 慶應義塾大学大学院 システムデザイン・マネジメント研究科教授 |- | 選考委員 || 柴崎 亮介 || 東京大学空間情報科学研究センター 教授 |- | 選考委員 || [[元村有希子|元村 有希子]] || 毎日新聞論説副委員長 |- | 選考委員 || 山崎 直子 || 宇宙飛行士 |- | 選考委員 || 恒藤 晃 || 内閣府宇宙開発戦略推進事務局 参事官 |- | 選考委員 || 山口 真吾 || 総務省国際戦略局 宇宙通信政策課長 |- | 選考委員 || 倭島 岳彦 || 外務省国際戦略局 宇宙・海洋安全保障政策室長 |- | 選考委員 || 福井 俊英 || 文部科学省研究開発局 宇宙開発利用課長 |- | 選考委員 || 松本 賢英 || 農林水産省大臣官房政策課 技術政策室長 |- | 選考委員 || 伊奈 康二 || 経済産業省製造産業局 航空機武器宇宙産業化宇宙産業室 |- | 選考委員 || 伊藤 真澄 || 国土交通省総合政策局技術政策課長 |- | 選考委員 || 河村 玲央 || 環境省地球環境局総務課 脱炭素化イノベーション研究調査室長 |- | 選考委員 || 中野屋 壮吾 || 防衛省防衛政策局 戦略企画課宇宙・海洋政策室長 |- | 選考委員 || 鈴木 裕介 || 国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構 チーフエンジニア室室長 |} == 受賞事例 == (この節の出典:<ref>{{Cite web |url=https://www8.cao.go.jp/space/prize/prize_past.html |title=過去の宇宙開発利用大賞 |publisher=内閣府 |accessdate=2023-11-9}}</ref>} === 第1回大賞受賞事例 === [[科学技術館#建築物概要|科学技術館サイエンスホール]]にて授賞式開催(2013年10月10日) {| class="wikitable" ! 賞名 !! 事例名 !! 受賞団体・受賞者 |- | 内閣総理大臣賞<br>【授与者:[[山本一太|山本 一太]] 内閣府特命担当大臣(宇宙政策)】 || 宇宙を利用した漁場探索技術の確立と衛星利用海況情報の提供 || [[漁業情報サービスセンター|一般社団法人漁業情報サービスセンター]] |- | 内閣府特命担当大臣(宇宙政策)賞<br>【授与者:山本 一太 内閣府特命担当大臣(宇宙政策)】 || 準天頂衛星のLEX補強信号を利用した納期ガイダンス・自動走行システム || [[日立造船株式会社]]、[[神崎政之|神崎 政之]]・[[林稔|林 稔]]<br>[[北海道大学|国立大学法人北海道大学]]、野口伸 |- | 総務大臣賞<br>【授与者:[[新藤義孝|新藤 義孝]] 総務大臣】 || 準天頂衛星に関する研究と提案 || [[情報通信研究機構|独立行政法人情報通信研究機構]]、[[田中 正人]]・[[木村 和弘]] |- | 文部科学大臣賞<br>【授与者:[[櫻田義孝|櫻田 義孝]] 文部科学大臣】 || 高校生から大学院生までを対象とした「衛星設計コンテスト」による、宇宙の啓蒙と次世代宇宙工学技術者等の育成事業 || [[衛星設計コンテスト実行委員会]] |- | 経済産業大臣賞<br>【授与者:[[磯﨑仁彦|磯﨑 仁彦]] 経済産業大臣政務官】 || 宇宙環境技術に関する産学官連携研究と国際標準化に関する活動 || [[九州工業大学|国立大学法人九州工業大学]][[宇宙環境技術ラボラトリー]] |- | 国土交通大臣賞<br>【授与者:[[難波喬司|難波 喬司]] 国土交通省大臣官房技術総括審議官】 || 宇宙からの降雨観測技術の研究開発 || [[鳥取環境大学]]、[[岡本謙一|岡本 謙一]] |- | 防衛大臣賞<br>【授与者:[[武田良太|武田 良太]] 防衛副大臣】 || Xバンド衛星通信中継機能等の整備・運用事業 || [[スカパーJSAT|スカパーJSAT株式会社]] |- | 宇宙航空研究開発機構理事長賞<br>【授与者:[[奥村直樹|奥村 直樹]] 宇宙航空研究開発機構理事長】 || 大気圏再突入観測システム「i-Ball」の開発・製造 || [[IHI|株式会社IHIエアロスペース]]、[[牧野隆|牧野 隆]]・[[森崎浩武|森崎 浩武]]・[[杉村文隆|杉村 文隆]] |} === 第2回大賞受賞事例 === [[一橋大学#千代田キャンパス|一橋講堂]]にて授賞式開催(2016年3月22日) {| class="wikitable" ! 賞名 !! 事例名 !! 受賞団体・受賞者 |- | 内閣総理大臣賞<br>【授与者:[[島尻安伊子|島尻 安伊子]] 内閣府特命担当大臣(宇宙政策)】 || 全世界デジタル3D地図提供サービス || [[NTTデータグループ|株式会社エヌ・ティ・ティ・データ]]<br>[[リモート・センシング技術センター|一般財団法人リモート・センシング技術センター]] |- | 内閣府特命担当大臣(宇宙政策)賞<br>【授与者:島尻 安伊子 内閣府特命担当大臣(宇宙政策)】 || 地球観測衛星データを活用した天候インデックス保険の開発 || [[損害保険ジャパン日本興亜株式会社]]<br>[[損保ジャパン日本興亜 リスクマネジメント株式会社]] |- | 総務大臣賞<br>【授与者:[[松下新平|松下 新平]] 総務副大臣】 || 国産静止衛星プラットフォームDS2000による商用市場展開 || [[三菱電機株式会社]] |- | 外務大臣賞<br>【授与者:[[武藤容治|武藤 容治]] 外務副大臣】 || 国連宇宙空間平和利用委員会本委員会議長としての活動 || 国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構、[[堀川康|堀川 康]] |- | 文部科学大臣賞<br>【授与者:[[冨岡勉|冨岡 勉]] 文部科学副大臣】 || 大学生・大学院生による実践的な宇宙開発の環境整備 || [[UNISON]](UNISEC Student Organization)<br>[[UNISAS]](UNISEC Alumni Association) |- | 経済産業大臣賞<br>【授与者:[[星野剛士|星野 剛士]] 経済産業大臣政務官】 || リチウムイオン電池による人工衛星電源の小型・軽量・長寿命化 || [[株式会社ジーエス・ユアサ テクノロジー]]、[[今村文隆|今村 文隆]]・[[岩本達也|岩本 達也]]・[[瀬川全澄|瀬川 全澄]] |- | 国土交通大臣賞<br>【授与者:[[江島潔|江島 潔]] 国土交通省大臣政務官】 || 防災・減災用GNSS計測技術の開発と計測情報サービスの提供 || [[山口大学|国立大学法人山口大学]]、[[清水 則一]]<br>[[shamen-net研究会]] |- | 環境大臣賞<br>【授与者:[[平口洋|平口 洋]] 環境副大臣】 || ブラジル国における衛星レーダ技術を使った違法伐採低減への貢献 || [[リモート・センシング技術センター|一般社団法人リモート・センシング技術センター]]、[[小野誠|小野 誠]] |- | 防衛大臣賞 || 該当なし |- | 宇宙航空研究開発機構理事長賞<br>【授与者:[[遠藤守|遠藤 守]] 宇宙航空研究開発機構理事長】 || 宇宙用高精度角度検出器の開発 || [[多摩川精機株式会社]] [[スペーストロニックス研究所]] |} === 第3回大賞受賞事例 === [[イイノホール]]にて授賞式開催(2018年3月20日) {| class="wikitable" ! 賞名 !! 事例名 !! 受賞団体・受賞者 |- | 内閣総理大臣賞 || ほどよしプロジェクトによる超小型衛星産業化・国際連携への貢献 || [[東京大学|国立大学法人東京大学]]、中須賀 真一<br>[[ほどよしプロジェクトチーム]] |- | 内閣府特命担当大臣(宇宙政策)賞 || 宇宙の視点から、命を守る~GPSとスマホの山岳地帯での活用~ || [[株式会社ヤマップ]]、[[春山慶彦|春山 慶彦]] |- | 総務大臣賞 || 国宇宙天気予報システムの開発と運用を通じた社会への貢献 || 国立研究開発法人情報通信研究機構 |- | 外務大臣賞 || 国際連合と連携した宇宙能力構築のための留学生事業 || 国立大学法人九州工業大学 |- | 文部科学大臣賞 || 無重力による筋萎縮に有効な機能性宇宙食の開発 || [[徳島大学|国立大学法人徳島大学]]、[[二川健|二川 健]] |- | 農林水産大臣賞 || 衛星情報を利用したブランド米の生産支援 || [[青森県産業技術センター|地方独立行政法人青森県産業技術センター]]、[[境谷栄二|境谷 栄二]]・[[小野浩之|小野 浩之]]<br>[[青森県農林水産部]]、[[井上貴裕|井上 貴裕]] |- | 経済産業大臣賞 || 超小型衛星群による毎日全地球観測インフラ「AxelGlobe」の構築 || [[株式会社アクセルスペース]] |- | 国土交通大臣賞 || みちびき対応多周波マルチGNSS高精度受信機及びIMUの開発 || [[マゼランシステムズジャパン株式会社]] |- | 環境大臣賞 || 沿岸域生態系保全のための広域な藻場・干潟分布状況の把握 || [[三洋テクノマリン株式会社]]、[[北野慎容|北野 慎容]]<br>[[リモート・センシング技術センター|一般財団法人リモート・センシング技術センター]]、[[佐川龍之|佐川 龍之]] |- | 防衛大臣賞 || 該当なし |- | 宇宙航空研究開発機構理事長賞 || 膜展開式軌道離脱装置の開発および宇宙実証 || [[株式会社中島田鉄工所]]<br>[[国立大学法人東北大学]]、[[桒原聡文|桒原 聡文]] |} === 第4回大賞受賞事例 === {| class="wikitable" ! 賞名 !! 事例名 !! 受賞団体・受賞者 |- | 内閣総理大臣賞 || 小型光通信装置SOLISSによる宇宙通信インフラ構築への貢献 || [[株式会社ソニーコンピュータサイエンス研究所]]、[[岩本匡平|岩本 匡平]]・[[伊藤 大二]]<br>国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構、[[澤田弘崇|澤田 弘崇]] |- | 内閣府特命担当大臣(宇宙政策)賞 || 民間企業単独で開発したロケットとして我が国初の宇宙空間到達 || [[インターステラテクノロジズ|インターステラテクノロジズ株式会社]] |- | 総務大臣賞 || 能代宇宙イベントを中核とした地方活性化と人材育成・企業協力 || [[秋田県]][[能代市]] |- | 外務大臣賞 || UNISEC-Globalによる国際的宇宙教育・啓発活動 || [[UNISEC-Global]]、[[川島レイ|川島 レイ]] |- | 文部科学大臣賞 || 宇宙線を活用した巨大物体の内部イメージング || [[名古屋大学|国立大学法人名古屋大学]]、[[森島邦博|森島 邦博]] |- | 農林水産大臣賞 || 空から診る精密農業 クラウド型営農支援サービス「天晴れ」 || [[国際航業株式会社]] |- | 経済産業大臣賞 || 土砂崩れ災害検出など、衛星データへのAI解析事業 || [[株式会社Ridge-i]] |- | 国土交通大臣賞 || 先端情報通信技術によるリアルタイムひまわりデータ可視化アプリ || [[特定非営利活動法人太陽放射コンソーシアム]]、[[中島映至|中島 映至]]<br>国立研究開発法人情報通信研究機構、[[村田健史|村田 健史]]<br>[[株式会社ウェザーニューズ]]、[[森田清輝|森田 清輝]] |- | 環境大臣賞 || G空間情報技術を活用した地域防災システムの研究開発と社会実装 || [[九州大学]][[大学院工学研究院附属アジア防災研究センター]]、[[三谷泰浩|三谷 泰浩]]<br>九州大学 大学院 [[工学研究院 社会基盤部門]]、[[岡島裕樹|岡島 裕樹]]<br>[[パスコ (航空測量)|株式会社パスコ]] |- | 防衛大臣賞 || 該当なし |- | 宇宙航空研究開発機構理事長賞 || アジア諸国への超小型衛星技術教育と実利用ネットワークの構築 || 国立大学法人北海道大学大学院理学研究院<br>国立大学法人東北大学大学院工学研究科 |} === 第5回大賞受賞事例 === {| class="wikitable" ! 賞名 !! 事例名 !! 受賞団体・受賞者 |- | 内閣総理大臣賞 || 小型SAR衛星コンステレーションによる準リアルタイムデータ提供 || [[株式会社QPS研究所]]、[[大西俊輔|大西 俊輔]] |- | 内閣府特命担当大臣(宇宙政策)賞 || ELSA-dによるスペースデブリへの接近・捕獲の軌道上実験 || [[株式会社アストロスケール]]、[[飯塚清太|飯塚 清太]] |- | 総務大臣賞 || 宇宙アバターの技術活用に向けた宇宙-地上間のアバター技術実証 || [[avatarin株式会社]]、[[深堀昂|深堀 昂]]<br>国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構、[[市川 千秋]] |- | 外務大臣賞 || 国連宇宙空間平和利用委員会法律小委員会議長としての活動 || [[慶應義塾大学大学院]]、[[青木節子|青木 節子]] |- | 文部科学大臣賞 || 衛星・陸域水循環融合システムToday’s Earthの開発 || [[国立大学法人東京大学]]、[[芳村圭|芳村 圭]]・[[馬文超|馬 文超]]<br>国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構、[[山本晃輔|山本 晃輔]] |- | 農林水産大臣賞 || 衛星データを活用した「宇宙ビッグデータ米 宇宙と美水」の開発 || [[株式会社天地人]]、[[櫻庭康人|櫻庭 康人]]<br>[[神明ホールディングス|株式会社神明]]、[[古満考雄|古満 考雄]]<br>[[株式会社笑農和]]、[[下村豪徳|下村 豪徳]] |- | 経済産業大臣賞 || 超人類史上初の自律ロボットによる宇宙組み立て作業の成功 || [[GITAI Japan株式会社]]、[[上月豊隆|上月 豊隆]]・[[植田亮平|植田 亮平]]・[[中ノ瀬翔|中ノ瀬 翔]] |- | 国土交通大臣賞 || 該当なし |- | 環境大臣賞 || SDGs課題と環境変化を衛星で発見「GRASP EARTH」 || 株式会社Ridge-i |- | 防衛大臣賞 || 該当なし |- | 宇宙航空研究開発機構理事長賞 || 超小型衛星の環境試験を通じた宇宙新規参入の支援と人材育成 || 九州工業大学[[超小型衛星試験センター]] |} == 脚注 == <references /> == 関連項目 == * [[宇宙開発]] * [[科学技術]] == 外部リンク == * [https://www8.cao.go.jp/space/prize/prize.html 宇宙開発利用大賞について(内閣府)] * [https://www.s-riyoutaishou.jp/ 第6回宇宙開発利用大賞ホームページ] {{DEFAULTSORT:うちゆうかいはつりようたいしよう}} [[Category:日本の科学技術賞]] [[Category:表彰]] [[Category:研究プロジェクト]] [[Category:2013年開始のイベント]]
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女性技術士の会
女性技術士の会(じょせいぎじゅつしのかい、英: Japan Women Engineers Forum)(略称:(JSPEW)とは、日本の女性の技術者によるNPO法人、職能団体。本部は東京都に置く。 日本女性技術者科学者ネットワーク(略称:JNWES)の参加団体である。1993年に日本技術士会に所属する女性有志38名によって当初は日本技術士会の内部の任意部会として結成された。やがて独立団体となり、2007年にNPO法人として法人格を得る。 技術士の資格を持つ女性が中心になって活動しているが、現在は技術士の資格に拘らず、技術に広く興味を持つ女性の加盟も認めている。 主な活動として女性技術者のためのシンポジウム及び交流会や学集会の開催を行う。 2019年には、日本技術士会と協力して、韓国の女性技術士を招いた交流会を行う等の国際協力も行っている。
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女性技術士の会(略称:とは、日本の女性の技術者によるNPO法人、職能団体。本部は東京都に置く。
{{Infobox 組織 |名称 = 特定非営利活動法人女性技術士の会 |画像 = |画像サイズ = |画像説明 = |略称 = JSPEW |標語 = |前身 = |後継 = |設立 = [[2002年]] |解散 = |種類 = [[職能団体]]<br />[[技術者団体]]<br />[[女性団体]] |地位 = [[NPO法人]] |目的 = この法人は、広く一般市民を対象として、[[科学技術]]発展のための普及啓 発事業を行い市民生活の中に科学技術を浸透させ、子供たちが科学技術に 親しむ機会を増やす、女性[[技術者]]・[[科学者]]の育成や、女性が技術者・科学者として社会に進出するための支援を行い、科学技術をとおして[[男女共同参画社会]]を構築する、海外の女性技術者・科学者との交流をとおして働く 女性に共通する諸問題の調査、研究を行う、さらに、子育てや介護、自身の生活とのバランスのとれたライフスタイルに基づく新たなまちづくりを目指すことにより、科学技術の振興と発展に根ざした豊かな社会環境の整備の実現に貢献することを目的とする。(特定非営利活動法人女性技術士の会 定款第3条)<ref>[http://pej-lady.org/?page_id=249 JSPEW公式サイト会の目的・設立の経緯・定款等]</ref>。 |本部 = [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[高輪]]2丁目16番49-601号 |会長 = [[宮地奈保子]](理事長,[[都市緑化機構]]ユニバーサルデザイン共同研究会運営委員) |理事長 = |人物 = [[沼澤朋子]](副理事長) |機関 = 総会・理事会・事務局 |提携 = [[日本女性技術者科学者ネットワーク]](加盟)<br />[[日本技術士会]](協力) |ウェブサイト = http://pej-lady.org/ }} '''女性技術士の会'''(じょせいぎじゅつしのかい、{{lang-en-short|Japan Women Engineers Forum}})(略称:(JSPEW)とは、[[日本]]の[[女性]]の[[技術者]]による[[NPO法人]]、[[職能団体]]。本部は[[東京都]]に置く。 == 概要 == [[日本女性技術者科学者ネットワーク]](略称:JNWES)の参加団体である<ref>[https://www.gender.go.jp/c-challenge/kyouryoku/other/007.html 内閣府男女共同参画局の公式サイト 理工系女子応援ネットワークの紹介「特定非営利活動法人日本女性技術者科学者ネットワーク」]([[男女共同参画局|内閣府男女共同参画局]]の公式サイト)</ref>。1993年に[[日本技術士会]]に所属する女性有志38名によって当初は日本技術士会の内部の任意部会として結成された。やがて独立団体となり、2007年に[[特定非営利活動法人|NPO法人]]として法人格を得る。 [[技術士]]の資格を持つ女性が中心になって活動しているが、現在は技術士の資格に拘らず、技術に広く興味を持つ女性の加盟も認めている。 主な活動として女性技術者のためのシンポジウム及び交流会や学集会の開催を行う<ref>[http://pej-lady.org/?page_id=249 JSPEW公式サイト会の目的・設立の経緯・定款等]</ref><ref>{{Cite web|title=日本女性技術者科学者ネットワークの歴史と展望 |url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/sjws/22/0/22_22002/_article/-char/ja|accessdate=2023-11-08|language=ja}}</ref>。 [[2019年]]には、日本技術士会と協力して、[[韓国]]の女性技術士を招いた交流会を行う等の国際協力も行っている<ref>[http://pej-lady.org/?p=2287 第12回日韓女性技術士交流会 開催報告 投稿日:2019年3月23日]</ref>。 == 出典 == * 日本女性科学者の会学術誌/22 巻 (2022)。著:木村了, 沼澤朋子。『日本女性技術者科学者ネットワークの歴史と展望』(2022年)<ref>{{Cite web|title=日本女性技術者科学者ネットワークの歴史と展望 |url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/sjws/22/0/22_22002/_article/-char/ja|accessdate=2023-11-08|language=ja}}</ref>。 == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == * [[女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約]] * [[女性科学研究者の環境改善に関する懇談会]] * [[日本女医会]] * [[女性歯科医師の会]] * [[日本女性法律家協会]] * [[日本女性薬剤師会]] * [[全国男性看護師会]] == 外部リンク == * [http://pej-lady.org/ NPO女性技術士の会のウェブサイト] {{DEFAULTSORT:しよせいきしゆつしのかい}} [[Category:日本の技術者|*しよせいきしゆつしのかい]] [[Category:日本の女性団体]] [[Category:特定非営利活動法人 (学術団体)]] [[Category:東京都港区の特定非営利活動法人]] [[Category:日本の女性科学者|*しよせいきしゆつしのかい]]
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BROSS
BROSS(ブロス)は、日本のラテン・ポップバンド。キャッチコピーは「性的ラテン感覚集団」。 1993年7月、Sony Recordsからシングル「あなたに逢いに行かなくちゃ」でデビュー。レーベル内で4枚のシングルと2枚のアルバムをリリースしたのち、解散。
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BROSS(ブロス)は、日本のラテン・ポップバンド。キャッチコピーは「性的ラテン感覚集団」。 1993年7月、Sony Recordsからシングル「あなたに逢いに行かなくちゃ」でデビュー。レーベル内で4枚のシングルと2枚のアルバムをリリースしたのち、解散。
{{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照--> | Name = BROSS | Background = band | Origin = {{JPN}} | Genre = [[J-POP]]、[[ラテン・ポップ]] | Years_active = | Label = [[ソニー・ミュージックレコーズ|Sony Records]]<br />(1993年 - 1994年) | Production = | Associated_acts = | URL = | Current_members = ロドリゲス大島(ボーカル)<br />セニョール・ペペ植田(ボーカル)<br />ベンジャミン富田(キーボード)<br />トレメンダス寺田(ギター)<br />越後屋安兵衛(ベース)<br />アミーゴ梶原(サックス)<br />アイルトン・セガ(ドラムス) | Past_members = }} '''BROSS'''(ブロス)は、[[日本]]の[[ラテン・ポップ]][[バンド (音楽)|バンド]]。キャッチコピーは「性的ラテン感覚集団」<ref>{{Cite web|和書|url=https://artist.cdjournal.com/d/-/1293110224|title=BROSS [廃盤]|work=CDJournal|accessdate=2023-11-09}}</ref>。 [[1993年]]7月、[[ソニー・ミュージックレコーズ|Sony Records]]からシングル「あなたに逢いに行かなくちゃ<ref>{{Cite book |title=BROSS |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000009058835-00 |publisher=ソニーレコード |date=1993 |location=[東京]}}</ref>」でデビュー。レーベル内で4枚のシングルと2枚のアルバムをリリースしたのち、解散。 == メンバー == *ロドリゲス大島(ボーカル) *セニョール・ペペ植田(ボーカル) *ベンジャミン富田(キーボード) *トレメンダス寺田(ギター) *越後屋安兵衛(ベース) *アミーゴ梶原(サックス) *アイルトン・セガ(ドラムス) == ディスコグラフィ == === シングル === {| class="wikitable" style="font-size:small" !&nbsp; !発売日 !タイトル !規格品番 !style="width:30%"|収録曲 !備考 |- ! colspan=6 style="background-color:#e6e6e6" | '''[[ソニー・ミュージックレコーズ|Sony Records]]''' |- !1st |1993年7月21日 |style="text-align:center"|'''あなたに逢いに行かなくちゃ''' |SRDL-3699 |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">全3曲</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> # あなたに逢いに行かなくちゃ # コミニュケーション # 恋の未来(オリジナル・カラオケ) </div></div> | デビュー作品 |- !2nd |1993年11月21日 |style="text-align:center"|'''大切にしたい夜''' |SRDL-3766 |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">全3曲</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> # 大切にしたい夜 # 徒然69 # 大切にしたい夜(オリジナル・カラオケ) </div></div> | |- !3rd |1994年5月21日 |style="text-align:center"|'''サラバ涙の夜''' |SRDL-3854 |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">全3曲</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> # サラバ涙の夜 # NEIGHBOR HOOD # サラバ涙の夜(オリジナル・カラオケ) </div></div> | |- !4th |1994年11月21日 |style="text-align:center"|'''愛の嵐''' |SRDL-3961 |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">全3曲</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> # 愛の嵐 # ひらけゴマ # 愛の嵐(オリジナル・カラオケ) </div></div> | |- |} === アルバム === ==== フル・アルバム ==== {| class="wikitable" style="font-size:small" !&nbsp; !発売日 !タイトル !規格品番 !style="width:30%"|収録曲 !備考 |- ! colspan=6 style="background-color:#e6e6e6" | '''[[ソニー・ミュージックレコーズ|Sony Records]]''' |- !1st |1993年9月9日 |style="text-align:center"|'''BROSS''' |SRCL-2693 |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">全10曲</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> # コミュニケーション # 人間とサル # あなたに逢いに行かなくちゃ # 晴れハレルヤ # Last X'mas Night # あふれるままに # ゴージャス # 大切にしたい夜 # ハレンチカンカン # Don't by Cryin' You are my friend </div></div> | |- !2nd |1994年7月21日 |style="text-align:center"|'''オトコはそれをガマン出来ない''' |SRCL-2951 |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">全11曲</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> # サラバ涙の夜 # 大丈夫ダーリン # オトコはそれをガマン出来ない # 愛の嵐 # 24時間愛してるよ # よかよかよかネ # そりゃないネ セニョリータ # 無理はムリ # OH SHERRY # Sweet Good Night # 彼女はNo.1 </div></div> | |- |} === 参加作品 === {| class="wikitable" style="text-align:center;font-size:small;" |- ! 発売日 ! タイトル ! 規格品番 ! 曲順 ! 楽曲 |- |1994年1月21日 |'''トレンディー・ドラマ・TVテーマ・ヒット・ソングス''' |SRCL-2820 |M.9 |あなたに逢いに行かなくちゃ |- |1995年4月12日 |'''トレンディー・ドラマ・TVテーマ・ヒット・ソングス''' |SRCL-3191 |M.11 |愛の嵐 |} == タイアップ一覧 == {| class="wikitable" style="font-size:smaller;" ! 使用年 ! 曲名 ! タイアップ |- | rowspan="2" | 1993年 | '''あなたに逢いに行かなくちゃ''' | [[TBSテレビ|TBS]]系『[[たけし・所のドラキュラが狙ってる]]』エンディングテーマ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/prof/3169/products/236821/1/|title=あなたに逢いに行かなくちゃ|work=ORICON NEWS|accessdate=2023-11-09}}</ref> |- | '''大切にしたい夜''' | TBS系『[[COUNT DOWN TV]]』エンディングテーマ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/prof/3169/products/236888/1/|title=大切にしたい夜|work=ORICON NEWS|accessdate=2023-11-09}}</ref> |- | rowspan="2" | 1994年 | '''サラバ涙の夜''' | [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系『[[スポーツうるぐす]]』テーマソング<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/prof/3169/products/236972/1/|title=サラバ涙の夜|work=ORICON NEWS|accessdate=2023-11-09}}</ref> |- | '''愛の嵐''' | [[テレビ朝日]]系『[[ウィークエンドライブ 週刊地球TV]]』オープニングテーマ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/prof/3169/products/237073/1/|title=愛の嵐|work=ORICON NEWS|accessdate=2023-11-09}}</ref> |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://www.oricon.co.jp/prof/3169/ BROSS] – ORICON NEWS * [https://artist.cdjournal.com/a/bross/128146 BROSS] – CDジャーナル {{デフォルトソート:ふろす}} [[Category:日本の音楽バンド]] [[Category:7人組の音楽グループ]] [[Category:ソニー・ミュージックレコーズのアーティスト]] {{musician-substub}}
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MCアブドゥル
アブド・ラフマン・アル=シャンティ(2008年9月14日生まれ)は、プロとしてはMCアブドゥルまたはMCAアブドゥルとして知られるパレスチナのラッパーで、出身はパレスチナ・ガザである。 彼は自由についてのラップを歌ったことで人気を博し、ガザの学校の前で披露した映像はソーシャルメディアで数十万回視聴された。 その後、2023年8月現在、彼の「Shouting At The Wall」と「Palestine」というビデオは、YouTubeだけでもそれぞれ93万回以上と70万回以上の再生回数を記録している。 アブド・ラフマン・アル=シャンティはガザで生まれた。アル=シャンティの母親は2007年頃、エジプトでCNV出血を治療するための手術を受けたが、アル=シャンティによれば、ガザへの封鎖のために母親は手術を続けることができなかったと述べている。 彼は9歳でラップと歌の作詞を始めた。彼はお気に入りの曲のカバーバージョンを録音し、友達やオンラインで共有することを始めた。彼の家族はEminemや同じくパレスチナ出身のDJ Khaledなどのアーティストを彼に紹介した。アブドゥルは彼のお気に入りのアーティストの1人として、前者を含む4人のアーティストのうちの1人と考えている。他の3人はNF、2パック、Jay-Zです。彼はフェロー・パレスチナ人のモハメッド・アッサフと同様にアラブ・アイドルに出演したいと語った。 2020年、アル=シャンティはガザで爆撃を受けたパレスチナの家族を代弁した。 その曲をリリースした後、エンパイア・ディストリビューションが彼に注目した。 MCアブドゥルは、困難な時期に対処するための手段としてラップの重要性について語り、「ペンで綴るとき、俺の力は無敵だ。マイクの前だけが唯一の逃避路だ」と述べた。
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アブド・ラフマン・アル=シャンティ(2008年9月14日生まれ)は、プロとしてはMCアブドゥルまたはMCAアブドゥルとして知られるパレスチナのラッパーで、出身はパレスチナ・ガザである。 彼は自由についてのラップを歌ったことで人気を博し、ガザの学校の前で披露した映像はソーシャルメディアで数十万回視聴された。 その後、2023年8月現在、彼の「Shouting At The Wall」と「Palestine」というビデオは、YouTubeだけでもそれぞれ93万回以上と70万回以上の再生回数を記録している。
{{Infobox Musician | Name = MC Abdul | Birth_name = Abdel Rahman Al-Shantti | native_name = عبدالرحمن الشنطي | Alias = MCA Abdul | Genre = [[ラップ]][[ヒップホップ]] | Instrument = Vocal | Years_active = 2020年 – | URL = https://www.youtube.com/c/McaRap | Img = }} '''アブド・ラフマン・アル=シャンティ'''(2008年9月14日生まれ)は、プロとしては'''MCアブドゥル'''または'''MCAアブドゥル'''として知られる[[パレスチナのヒップホップ|パレスチナのラッパー]]で、出身は[[ガザ地区|パレスチナ・ガザ]]である。<ref>{{Cite news |url=https://www.nytimes.com/2020/08/22/world/middleeast/gaza-rapper-israel-normalization.html |title=11歳がヴァイラル・ラップヒットを記録するもガザの政治につまずく |newspaper=ニューヨーク・タイムズ |date=2020-08-22 |last1=Rasgon |first1=Adam |last2=Abuheweila |first2=Iyad}}</ref> 彼は自由についてのラップを歌ったことで人気を博し、ガザの学校の前で披露した映像はソーシャルメディアで数十万回視聴された。<ref>https://www.thenationalnews.com/arts-culture/music-stage/2023/10/10/mc-abdul-gaza-palestine/</ref><ref>https://www.timesnownews.com/the-buzz/article/12-year-old-boy-raps-about-the-plight-in-palestine-video-goes-viral/758153</ref><ref>https://www.albawaba.com/editors-choice/meet-%E2%80%98mca-abdul%E2%80%99-young-rapper-gaza-1374971</ref> その後、2023年8月現在、彼の「Shouting At The Wall」と「Palestine」というビデオは、YouTubeだけでもそれぞれ93万回以上と70万回以上の再生回数を記録している。<ref>{{Cite web|title=MC Abdul - Shouting At The Wall (Official Video)|url=https://www.youtube.com/watch?v=l8qay1Al7Dc|language=en|access-date=2022-06-08}}</ref><ref>{{Citation|title=MC Abdul - Palestine [FREESTYLE]|url=https://www.youtube.com/watch?v=GVAl_BWa2kU|language=en|access-date=2022-06-08}}</ref> == 生い立ち == アブド・ラフマン・アル=シャンティは[[ガザ地区|ガザ]]で生まれた。アル=シャンティの母親は2007年頃、エジプトでCNV出血を治療するための手術を受けたが、アル=シャンティによれば、ガザへの封鎖のために母親は手術を続けることができなかったと述べている。<ref name="Variety20202">{{Cite web |last=Nafar |first=Tamer |date=2020-09-14 |title=EminemとTupacに育てられ、ガザ出身の12歳のラッパーは平和を訴え — そしてレコード契約のオファーを受ける |url=https://variety.com/2020/music/news/12-year-old-rapper-gaza-empire-records-offer-1234761201/ |access-date=2022-03-03 |website=Variety |language=en-US}}</ref> 彼は9歳でラップと歌の作詞を始めた。彼はお気に入りの曲のカバーバージョンを録音し、友達やオンラインで共有することを始めた。彼の家族は[[Eminem]]や同じくパレスチナ出身の[[DJ Khaled]]などのアーティストを彼に紹介した。アブドゥルは彼のお気に入りのアーティストの1人として、前者を含む4人のアーティストのうちの1人と考えている。他の3人は[[NF (ラッパー)|NF]]、[[2パック]]、[[Jay-Z]]です。彼はフェロー・パレスチナ人の[[モハメッド・アッサフ]]と同様に''[[アラブ・アイドル]]''に出演したいと語った。<ref name="Variety20202" /> == 経歴 == 2020年、アル=シャンティはガザで爆撃を受けた[[パレスチナ]]の家族を代弁した。<ref>{{Cite web |date=2021-06-30 |title=12歳のパレスチナ人ラッパーMCアブドル、初の公式曲「Shouting at the Wall」をリリース |url=https://www.thenationalnews.com/arts-culture/music/2021/06/30/palestinian-rapper-mc-abdul-12-releases-first-official-song-shouting-at-the-wall/ |access-date=2022-03-03 |website=The National |language=en}}</ref> その曲をリリースした後、[[エンパイア・ディストリビューション]]が彼に注目した。<ref>https://www.gqmiddleeast.com/culture/young-palestinian-rapper-mc-abdul-drops-his-first-official-song</ref> MCアブドゥルは、困難な時期に対処するための手段としてラップの重要性について語り、「ペンで綴るとき、俺の力は無敵だ。マイクの前だけが唯一の逃避路だ」と述べた。<ref>https://www.gqmiddleeast.com/culture/young-palestinian-rapper-mc-abdul-drops-his-first-official-song</ref> == Singles == * "Shouting At The Wall" (2021)<ref>{{Citation|title=MC Abdul - Shouting At The Wall (Official Video)|url=https://www.youtube.com/watch?v=l8qay1Al7Dc|language=en|access-date=2023-08-13}}</ref><ref>{{Cite web |author=Saeed |first=Saeed |date=2021-06-30 |title=Palestinian rapper MC Abdul, 12, releases first official song: ‘Shouting at the Wall' |url=https://www.thenationalnews.com/arts-culture/music/2021/06/30/palestinian-rapper-mc-abdul-12-releases-first-official-song-shouting-at-the-wall/ |access-date=2023-08-13 |website=The National |language=en}}</ref> * "Palestine [FREEVERSE]" (2021)<ref>{{Citation|title=MC Abdul - Palestine [FREEVERSE]|url=https://www.youtube.com/watch?v=GVAl_BWa2kU|language=en|access-date=2023-08-13}}</ref> * "Better Life" (2021)<ref>{{Citation|title=“Better Life” - MC Abdul|url=https://www.youtube.com/watch?v=UdBXJGvaQCI|language=en|access-date=2023-08-13}}</ref> * "My Only Way to Voice" (2021)<ref>{{Citation|title=MC Abdul - My Only Way to Voice|url=https://www.youtube.com/watch?v=M6ImZdqOlF0|language=en|access-date=2023-08-13}}</ref> * "I May Be Young" (2021)<ref>{{Citation|title=“I May Be Young” - MC Abdul|url=https://www.youtube.com/watch?v=iMK6dJL1A5E|language=en|access-date=2023-08-13}}</ref> * "MC Abdul Raps With His Friends At School!" (2020)<ref>{{Citation|title=MC Abdul raps with his friends at school!|url=https://www.youtube.com/watch?v=RNQLIr9aOT8|language=en|access-date=2023-08-13}}</ref> == References == {{reflist}} == 外部リンク == * {{YouTube|user=McaRap}} {{デフォルトソート:えむしー}} [[Category:ラッパー]] [[Category:ガザ地区出身の人物]] [[Category:2008年生]] [[Category:存命人物]]
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古谷忠之
古谷 忠之(ふるや ただゆき、1973年8月18日 - )は、日本のクリエイター、主に映像系、ドラマやテレビ番組などのプロデューサー、それ以外にもドラマなどの制作部や、ディレクター、編集なども行うこともある。茨城県 取手市出身。 長江俊和が監督する作品の多くでプロデューサーをしている。代表作は『東京二十三区女』、『あれほど逃げろと言ったのに...』、『アイゾウ 警視庁・心理分析捜査班』など。
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古谷 忠之は、日本のクリエイター、主に映像系、ドラマやテレビ番組などのプロデューサー、それ以外にもドラマなどの制作部や、ディレクター、編集なども行うこともある。茨城県 取手市出身。 長江俊和が監督する作品の多くでプロデューサーをしている。代表作は『東京二十三区女』、『あれほど逃げろと言ったのに…』、『アイゾウ 警視庁・心理分析捜査班』など。
{{BLP unsourced|date=2023年11月10日 (金) 05:34 (UTC)}} {{ActorActress/sandbox | 生年 = 1973 | 生月 = 8 | 生日 = 18 | 職業 = プロデューサー | 出生地 = 茨城県取手市 | 活動期間 = 2007年10月〜 | 主な作品 = 『東京二十三区女』<br> 『あれほど逃げろと言ったのに…』<br> 『アイゾウ 警視庁・心理分析捜査班』 }} '''古谷 忠之'''(ふるや ただゆき、[[1973年]][[8月18日]] - )は、映像系、[[ドラマ]]や[[テレビ番組]]などの[[プロデューサー]]、[[茨城県]] [[取手市]]出身。 代表作は『[[東京二十三区女]]』、『[[あれほど逃げろと言ったのに…]]』、『[[アイゾウ 警視庁・心理分析捜査班]]』など。 == 映像作品 == === テレビドラマ === * 『東京オリンピックと世紀の大犯罪』~追跡! 封印された死刑囚の“正体”~(2014年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])[[アシスタント・プロデューサー]] * [[SHARE]]<[[フジバラナイト]] SAT>(2014年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])[[制作進行]]、[[プロデューサー]] * [[東京二十三区女]](2019年、[[WOWOW]])[[プロデューサー]] * [[あれほど逃げろと言ったのに…]](2019年、[[ABEMA|Abema]])[[プロデューサー]] * 3人のシングルマザー すてきな人生逆転物語(2020年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])[[プロデューサー]] * [[アイゾウ 警視庁・心理分析捜査班]](2022年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])[[プロデューサー]] * [[アイゾウ 警視庁・心理分析捜査班]](連続版)(2022年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])[[プロデューサー]] * [[凋落ゲーム]]([[火曜ACTION!]])(2023年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])[[制作プロデューサー]] * [[アイゾウ 警視庁・心理分析捜査班]](スペシャル版)(2023年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])[[プロデューサー]] === その他 === * [[痛快TV スカッとジャパン]](2014年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])[[制作進行]] * [[世界法廷ミステリー]](2015年〜、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])[[再現ドラマ]] [[プロデューサー]] * [[消えた天才]](2017年、2018年〜2019年、[[TBSテレビ]])[[再現ドラマ]] [[プロデューサー]] * スポーツ 天国と地獄 〜今だから話せる!あの名場⾯のウラ側〜(2018年、[[TBSテレビ]])[[再現ドラマ]] [[プロデューサー]] * アリガト!JAPAN 助けてくれた日本人を捜しています(2020年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])[[再現ドラマ]] [[プロデューサー]] * [[バース・デイ]](横田慎太郎)(2021年、[[TBSテレビ]])[[再現ドラマ]] [[プロデューサー]] * [[坂上どうぶつ王国]](ゴリラのビンティ)(2021年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])[[プロデューサー]] * [[坂上どうぶつ王国]](盲導犬ロゼル)(2022年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])[[プロデューサー]] == 外部リンク == * {{twitter|Furu_Tiger}} * {{instagram|tadayuki_furuya}} * [https://www.facebook.com/tadayuki.furuya/ 古谷忠之] - [[Facebook]] {{DEFAULTSORT:ふるや たたゆき}} [[Category:日本のテレビプロデューサー]] [[Category:茨城県出身の人物]] [[Category:1973年生]] [[Category:存命人物]]
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第29諸兵科連合軍 (ロシア陸軍)
第29諸兵科連合軍(だい29しょへいかれんごうぐん、ロシア語: 29-я общевойсковая армия)は、ロシア陸軍の軍。東部軍管区隷下。 1941年7月12日、第二次世界大戦の影響に伴い、赤軍(後にソ連地上軍) の第30狙撃軍団を基幹に、第29軍としてロシア・ソビエト連邦社会主義共和国(現ロシア)で創設された。 1941年7月から、独ソ戦に投入され、1943年2月に解隊された。 1970年5月12日、第44軍団を基幹に、ブリヤート共和国で再編された。 1988年2月、部隊縮小に伴い、第57軍団に改編され、1993年に解隊された。 2010年8月23日、第29諸兵科連合軍としてザバイカリエ地方で再編された。 2016年、第200砲兵旅団がシリア内戦に投入された。 2022年2月24日から、ロシアのウクライナ侵攻では、ベラルーシからキーウ攻勢を開始し、北部キーウ州チェルノブイリ、イヴァンキウを占領したが、アンドレイ・コレスニコフ司令官が戦死したとウクライナが発表し、4月上旬にキーウ州から撤退した。 2022年4月下旬、北東部ハルキウ州イジュームで攻勢を開始したが、9月上旬にはウクライナ軍が攻勢を開始し、ハルキウ州の大部分を解放されて撤退した。 2022年9月中旬、アレクサンドル・イグナテンコ新司令官が就任した。 2022年9月中旬、南部ザポリージャ州メリトポリに配備されたが、ウクライナ軍のミサイル攻撃で野戦司令部が破壊され、司令官と参謀長が負傷したとロシアの従軍記者が報告した。 2023年2月上旬、第36独立親衛自動車化狙撃旅団が東部ドネツィク州ヴォルノヴァーハ地区ヴフレダールで攻勢を開始したが、大損害を出して撃退された。
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第29諸兵科連合軍は、ロシア陸軍の軍。東部軍管区隷下。
{{軍隊資料 |名称 = 第29諸兵科連合軍 |画像 = [[ファイル:Great_emblem_of_the_29th_Combined_Arms_Army.svg|150px]] |画像説明 = |創設 = 1941年7月12日 |廃止 = |再編成 = |再廃止 = |国籍 = {{SSR}}<br />→{{RUS}} |所属 = {{flagicon image|Flag_of_the_Russian_Federation_Ground_Forces.svg}} [[ロシア陸軍]] |規模 = [[軍]] |兵科 = [[諸兵科連合]] |兵種 = 諸兵科連合作戦 |人員 = |所在地 = [[ザバイカリエ地方]][[チタ]] |編成地 = |通称号 = |愛称 = |標語 = |上級部隊 = [[東部軍管区 (ロシア軍)|東部軍管区]] |最終上級部隊 = |担当地域 = |最終位置 = |主な戦歴 = [[第二次世界大戦]]<br />[[シリア内戦]]<br />[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアのウクライナ侵攻]] |司令官 = アレクサンドル・イグナテンコ[[少将]] }} '''第29諸兵科連合軍'''(だい29しょへいかれんごうぐん、{{Lang-ru|'''29-я общевойсковая армия'''}})は、[[ロシア陸軍]]の[[軍]]。[[東部軍管区 (ロシア軍)|東部軍管区]]隷下。 == 概要 == === 第二次世界大戦 === {{seealso|モスクワの戦い|スモレンスクの戦い (1943年)}} 1941年7月12日、[[第二次世界大戦]]の影響に伴い、[[赤軍]](後に[[ソ連地上軍]]) の第30狙撃軍団を基幹に、'''第29軍'''として[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]](現[[ロシア]])で創設された<ref name="VU">[http://samsv.narod.ru/Arm/a29/arm.html 第29軍] ヴォロネジ州立大学公式サイト</ref>。 1941年7月から、[[独ソ戦]]に投入され、戦時中の1943年2月に解隊された<ref name="VU"/>。 === 冷戦 === 1970年5月12日、第44軍団を基幹に、[[ブリヤート共和国]]で再編された<ref name="TL">[https://www.ww2.dk/new/army/armies/29oa.htm 第29諸兵科連合軍] The Luftwaffe, 1933-45</ref>。 1988年2月、部隊縮小に伴い、'''第57軍団'''に改編され、1993年に解隊された<ref name="TL"/>。 2010年8月23日、'''第29諸兵科連合軍'''として[[ザバイカリエ地方]]で再編された。 2016年、第200砲兵旅団が[[シリア内戦]]に投入された。 === ロシアのウクライナ侵攻 === ==== 北部・キーウ戦線 ==== {{seealso|キーウ攻勢 (2022年)|チェルノブイリの戦い|イヴァンキウの戦い}} 2022年2月24日から、[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアのウクライナ侵攻]]では、[[第5諸兵科連合軍 (ロシア陸軍)|第5諸兵科連合軍]]、[[第35諸兵科連合軍 (ロシア陸軍)|第35諸兵科連合軍]]、[[第36諸兵科連合軍 (ロシア陸軍)|第36諸兵科連合軍]]と合同で[[ベラルーシ]]から[[キーウ攻勢]]を開始し、北部[[キーウ州]][[チェルノブイリ]]、イヴァンキウを占領したが、[[アンドレイ・コレスニコフ]]司令官が戦死したと[[ウクライナ]]が発表し、4月上旬にキーウ州から撤退した<ref>[https://truth-hounds.org/cases/boyi-u-kyyivskij-oblasti-rozpochalysya-pislya-vtorgnennya-vijskovyh-rosijskoyi-federacziyi-v-ukrayinu-24-lyutogo-2022-roku/ Підрозділи ЗС РФ, що окуповували Київщину] Truth Hounds</ref><ref>[https://www.understandingwar.org/backgrounder/russian-offensive-campaign-assessment-march-8 Russian Offensive Campaign Assessment, March 8] 戦争研究所</ref><ref>{{Cite news|title=Украинские защитники уничтожили командующего росармии - Геращенко|url=https://ru.interfax.com.ua/news/general/811453.html|accessdate=11 March 2022|newspaper=Интерфакс-Украина|date=11 March 2022|language=ru}}</ref>。 ==== 北東部・イジューム戦線 ==== {{seealso|ウクライナ北東部攻勢|イジュームの戦い (2022年)|2022年ウクライナの東部反攻}} 2022年4月下旬、北東部[[ハルキウ州]][[イジューム]]で攻勢を開始したが<ref>[https://www.ukrinform.jp/rubric-ato/3474274-roshia-junijumu-zhan-xiannimiri-zi-zou-po-ji-pao-tou-ruge-deno-zhan-kuang-bao-gaoukuraina-jun-can-mou-ben-bu.html ロシア軍、イジューム戦線に240ミリ自走迫撃砲投入 各地の戦況報告=ウクライナ軍参謀本部] ウクルインフォルム</ref>、9月上旬にはウクライナ軍が攻勢を開始し、ハルキウ州の大部分を解放されて撤退した<ref>[https://lb.ua/society/2022/09/14/529296_ukrainskiy_nastup_shcho_stalosya.html Український наступ. Що сталося на Слобожанщині?] LB.ua</ref><ref>[https://www.cnn.co.jp/world/35193092.html ウクライナ軍、北東部ハルキウ州で30超の集落を掌握 ゼレンスキー氏] CNN</ref>。 2022年9月中旬、アレクサンドル・イグナテンコ新司令官が就任した<ref>[https://www.amur.life/news/2022/09/13/v-dvoku-smenilos-rukovodstvo-prezhniy-nachalnik-torzhestvenno-prostilsya-s-uchilischem-fotoreportazh В ДВОКУ сменилось руководство. Прежний начальник торжественно простился с училищем (фоторепортаж)] アムール州公式サイト</ref>。 ==== 南部・ザポリージャ戦線 ==== {{seealso|トクマクの戦い|フリャイポレの戦い}} 2022年9月中旬、南部[[ザポリージャ州]][[メリトポリ]]に配備されたが、ウクライナ軍のミサイル攻撃で野戦司令部が破壊され、司令官と参謀長が負傷したとロシアの従軍記者が報告した<ref>[https://www.stopcor.org/ukr/section-uanews/news-zsu-rozbili-na-pivdni-shtab-29-i-zva-rf-z-zabajkallya-kontuzheno-komanduvacha-roszmi-05-10-2022.html ЗСУ розбили на півдні штаб 29-ї ЗВА рф з Забайкалля, контужено командувача, – росЗМІ] ストップコア</ref>。 ==== 東部・南ドネツク戦線 ==== {{seealso|ヴフレダールの戦い|パウリウカの戦い|2023年ウクライナの反転攻勢}} 2022年10月下旬、東部[[ドネツィク州]][[ヴォルノヴァーハ]]地区に再配置され、[[第68軍団 (ロシア陸軍)|第68軍団]]、[[第1軍団 (ロシア陸軍)|第1軍団]]と合同で攻勢を開始し、パウリウカ(ヴフレダール・フロマーダ)を占領した<ref>[https://vz.ru/society/2022/10/31/1184671.html Российские войска устроили ВСУ сюрприз под Угледаром] ブズグリャート</ref>。2023年2月上旬には第36独立親衛自動車化狙撃旅団が[[第155独立親衛海軍歩兵旅団 (ロシア海軍)|第155独立親衛海軍歩兵旅団]]、[[第40独立親衛海軍歩兵旅団 (ロシア海軍)|第40独立海軍歩兵旅団]]、第14独立親衛特殊任務旅団、作戦戦闘戦術編隊カスカドと合同で攻勢を開始したが、大損害を出してヴフレダールで撃退された<ref>[https://www.understandingwar.org/backgrounder/russian-offensive-campaign-assessment-february-10-2023 Russian Offensive Campaign Assessment, February 10, 2023] 戦争研究所</ref><ref>[https://www.bbc.com/russian/features-64631465 Кадры разгромленной российской колонны - что произошло под Угледаром?] BBC</ref>。 == 編制 == * {{仮リンク|第101司令部旅団 (ロシア陸軍)|ru|101-я бригада управления|label=第101司令部旅団}}([[チタ]]) * {{仮リンク|第36独立親衛自動車化狙撃旅団 (ロシア陸軍)|ru|36-я отдельная гвардейская мотострелковая бригада|en|36th Separate Guards Motor Rifle Brigade|label=第36独立親衛自動車化狙撃旅団}}(ボルジャ) * {{仮リンク|第200砲兵旅団 (ロシア陸軍)|ru|200-я артиллерийская бригада|label=第200砲兵旅団}} * {{仮リンク|第3ロケット旅団 (ロシア陸軍)|ru|3-я ракетная бригада|label=第3弾道ミサイル旅団}} * {{仮リンク|第140対空ミサイル旅団 (ロシア陸軍)|ru|140-я зенитная ракетная бригада|label=第140対空ミサイル旅団}} * 第104補給旅団 * 第19化学防護連隊 * 第73整備大隊 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{DEFAULTSORT:しよへいかれんこうくん29}} [[Category:ロシア陸軍の軍]] [[Category:ソビエト連邦の部隊と編成]] [[Category:ザバイカリエ地方]]
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三条西公国
三条西 公国(さんじょうにし きんくに、1556年(弘治2年) - 1588年12月8日(天正15年11月9日))は、安土桃山時代の公卿。三条西実枝の子。官位は正二位・内大臣。 内大臣・三条西実枝の次男として生まれる。母は正親町三条公兄の娘。1571年(元亀2年)に右近衛中将、1573年(元亀4年)に参議、1575年(天正3年)に権中納言、1580年(天正8年)に権大納言、1585年(天正13年)に権大納言、そして1587年(天正15年)に内大臣と昇格した。1585年(天正13年)に正二位に昇叙した。 また公国は春日局の外祖父である稲葉一鉄の妻の甥にあたり、春日局を養育したとされる。その後、春日局は公国の長男である実条の養女となった。
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三条西 公国は、安土桃山時代の公卿。三条西実枝の子。官位は正二位・内大臣。
{{基礎情報 公家 | 氏名 = 三条西 公国 | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | 時代 = [[安土桃山時代]] | 生誕 = [[1556年]]([[弘治]]2年) | 死没 = [[1587年]][[12月8日]]([[天正]]15年[[11月9日 (旧暦)|11月9日]]) | 改名 = 公光、公明 | 別名 = | 諡号 = 円智院 | 神号 = | 戒名 = | 墓所 = | 官位 = [[正二位]]、[[内大臣]] | 主君 = [[正親町天皇]] | 氏族 = [[三条西家]] | 父母 = 父:[[三条西実枝]]、母:[[正親町三条公兄]]の娘 | 兄弟 = [[三条西公世 (実枝長男)|公世]]、'''公国'''、[[三条実綱]]、[[あここの方]] | 妻 = 正室:[[西園寺公朝]]の娘 | 子 = [[三条西実条]]、[[三条公広]] | 特記事項 = }} '''三条西 公国'''(さんじょうにし きんくに)は、[[安土桃山時代]]の[[公卿]]。[[三条西実枝]]の子。[[官位]]は[[正二位]]・[[内大臣]]。 == 生涯 == [[内大臣]]・[[三条西実枝]]の次男として生まれる。母は[[正親町三条公兄]]の娘<ref>『新訂寛政重修諸家譜 26』([[続群書類従完成会]]、[[1967年]])</ref>。[[1571年]]([[元亀]]2年)に右近衛中将、[[1573年]](元亀4年)に参議、[[1575年]]([[天正]]3年)に権中納言、[[1580年]](天正8年)に権大納言、[[1585年]](天正13年)に権大納言、そして[[1587年]](天正15年)に内大臣と昇格した。[[1585年]](天正13年)に[[正二位]]に昇叙した<ref>『公卿諸家系図』(続群書類従完成会、[[1988年]])</ref>。 また公国は[[春日局]]の外祖父である[[稲葉一鉄]]の妻の甥にあたり、春日局を養育したとされる。その後、春日局は公国の長男である[[三条西実条|実条]]の養女となった<ref>『人物物故大年表日本人編』([[日外アソシエーツ]]、[[2005年]])</ref>。 == 系譜 == * 父:[[三条西実枝]] * 母:[[正親町三条公兄]]の娘 * 正室:[[西園寺公朝]]の娘 ** 長男:[[三条西実条]] ** 次男:[[三条公広]] == 脚注 == <references /> {{Japanese-history-stub}} {{DEFAULTSORT:さんしようにし きんくに}} [[Category:三条西家|きんくに]] [[Category:室町・安土桃山時代の公家]] [[Category:1556年生]] [[Category:1587年没]]
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オウゴ古墳
オウゴ古墳(オウゴこふん)は、滋賀県蒲生郡竜王町薬師にある古墳。形状は方墳。滋賀県指定史跡に指定されている。 滋賀県南部、琵琶湖東岸の鏡山丘陵北麓、祖父川支流の湧川の八重谷の谷筋において、尾根斜面を方形に造成したうえで築造された古墳である。南の小道は古代からの主要幹線と推測される。これまでに発掘調査は実施されていない。 墳形は方形で、一辺約20メートル・高さ5メートル(南側)・2メートル(北側)を測る。墳丘外表で葺石・埴輪は認められていない。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南方向に開口する。石室全長約10.5メートルを測る大型石室であり、地域では傑出した石室規模を誇るとして注目される。石室内の副葬品は詳らかでない。 築造時期は、古墳時代後期-終末期の6世紀後半-7世紀初頭頃と推定される。鏡山北麓地域では西方の岩屋古墳(6世紀後半)に続く首長墓として位置づけられ、前方後円墳の岩屋古墳から方墳への変化の動向を示す。また鏡山北麓では6世紀後半から8世紀に須恵器生産が活発化しており、須恵器生産に伴う社会変化を示唆する点でも重要視される古墳になる。 古墳域は2019年(令和元年)に滋賀県指定史跡に指定されている。 埋葬施設としては両袖式横穴式石室が構築されており、南方向に開口する。石室の規模は次の通り。 石室の石材は花崗岩。玄室は、奥壁では高さ2メートルの巨石の鏡石の上に横長の石材の3段積み、側壁では大石の4-6段積み、前壁では3段積みによって構築される。玄室の天井石は3枚。 (記事執筆に使用していない関連文献)
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オウゴ古墳(オウゴこふん)は、滋賀県蒲生郡竜王町薬師にある古墳。形状は方墳。滋賀県指定史跡に指定されている。
{{日本の古墳 |名称 = オウゴ古墳 |画像 = [[File:Ougo Kofun, funkyu.jpg|280px]]<br/>墳丘(中央左に石室開口部) |別名 = |所属 = |所在地 = [[滋賀県]][[蒲生郡]][[竜王町]]薬師 |緯度度 = 35|緯度分 = 3|緯度秒 = 35.80 |経度度 =136|経度分 = 6|経度秒 = 28.30 |ISO = JP-25 |形状 = [[方墳]] |規模 = 一辺20m<br/>高さ5m |埋葬施設 = 両袖式[[横穴式石室]] |出土品 = |陪塚 = |築造時期 = [[6世紀]]後半-[[7世紀]]初頭 |被葬者 = |陵墓 = |史跡 = 滋賀県指定史跡「オウゴ古墳」 |有形文化財 = |特記事項 = |地図 = Japan Shiga |アイコン = 方墳 |ラベル = オウゴ古墳 |ラベル位置 = top }} '''オウゴ古墳'''(オウゴこふん)は、[[滋賀県]][[蒲生郡]][[竜王町]]薬師にある[[古墳]]。形状は[[方墳]]。滋賀県指定史跡に指定されている。 == 概要 == 滋賀県南部、[[琵琶湖]]東岸の鏡山丘陵北麓、祖父川支流の湧川の八重谷の谷筋において、尾根斜面を方形に造成したうえで築造された古墳である<ref name="議案"/>。南の小道は古代からの主要幹線と推測される<ref name="説明板">史跡説明板。</ref>。これまでに発掘調査は実施されていない。 墳形は方形で、一辺約20メートル・高さ5メートル(南側)・2メートル(北側)を測る<ref name="議案">{{PDFlink|[https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/5147804.pdf 第20号議案 滋賀県指定有形文化財等の指定等を滋賀県文化財保護審議会に諮問することについて]}}(滋賀県ホームページ)。</ref><ref name="説明板"/>。墳丘外表で[[葺石]]・[[埴輪]]は認められていない<ref name="議案"/>。埋葬施設は両袖式の[[横穴式石室]]で、南方向に開口する。石室全長約10.5メートルを測る大型石室であり、地域では傑出した石室規模を誇るとして注目される<ref name="議案"/>。石室内の副葬品は詳らかでない。 築造時期は、[[古墳時代]]後期-[[終末期古墳|終末期]]の[[6世紀]]後半-[[7世紀]]初頭頃と推定される<ref name="議案"/>。鏡山北麓地域では西方の岩屋古墳([[6世紀]]後半)に続く首長墓として位置づけられ、前方後円墳の岩屋古墳から方墳への変化の動向を示す<ref name="議案"/>。また鏡山北麓では6世紀後半から[[8世紀]]に[[須恵器]]生産が活発化しており、須恵器生産に伴う社会変化を示唆する点でも重要視される古墳になる<ref name="議案"/>。 古墳域は[[2019年]]([[令和]]元年)に滋賀県指定史跡に指定されている。 == 埋葬施設 == [[File:Ougo Kofun, 3D-P.jpg|thumb|300px|right|{{center|石室パース図}}]] [[File:Ougo Kofun, 3D-N.jpg|thumb|250px|right|{{center|石室展開図}}]] 埋葬施設としては両袖式[[横穴式石室]]が構築されており、南方向に開口する。石室の規模は次の通り<ref name="説明板"/>。 * 石室全長:約10.5メートル * 玄室:長さ5.70メートル、幅2.14メートル、現在高さ3.27メートル * 羨道:長さ約4.80メートル、幅1.45メートル、現在高さ0.90メートル 石室の石材は[[花崗岩]]。玄室は、奥壁では高さ2メートルの巨石の鏡石の上に横長の石材の3段積み、側壁では大石の4-6段積み、前壁では3段積みによって構築される。玄室の天井石は3枚<ref name="議案"/><ref name="説明板"/>。 <gallery> Ougo Kofun, 3D-B.jpg|石室俯瞰図 Ougo Kofun, genshitsu-1.jpg|玄室(奥壁方向) Ougo Kofun, genshitsu-2.jpg|玄室(開口部方向) Ougo Kofun, sendou-2.jpg|羨道(開口部方向) Ougo Kofun, sendou-1.jpg|羨道(玄室方向) Ougo Kofun, entrance.jpg|開口部 </gallery> == 文化財 == === 滋賀県指定文化財 === * 史跡 ** オウゴ古墳 - 2019年(令和元年)12月24日指定<ref>[https://www.pref.shiga.lg.jp/site/jourei/reiki_int/reiki_honbun/k001RG00001679.html 令和元年12月24日滋賀県教育委員会告示第9号](滋賀県ホームページ)。</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 参考文献 == {{small|(記事執筆に使用した文献)}} * 史跡説明板(竜王町教育委員会設置) * {{PDFlink|[https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/2042769.pdf 「鏡山周辺の文化財」]}}(滋賀県教育委員会、2010年) == 関連文献 == {{small|(記事執筆に使用していない関連文献)}} * {{Cite book|和書|editor=|author=|year=1987|chapter=|title=竜王町史 上巻|publisher=竜王町|isbn=|ref=}} == 外部リンク == * {{Commonscat-inline|Ougo Kofun}} {{デフォルトソート:おうここふん}} [[Category:滋賀県の古墳]] [[Category:竜王町の歴史]] [[Category:方墳]] [[Category:滋賀県指定史跡]]
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すこっぷ
すこっぷは日本のボカロP・作詞家・作曲家・編曲家である。 2008年ボカロPデビュー。2010年に投稿した「指切り」で初めて100万再生を達成した。 影響を受けたアーティストに椎名林檎とaikoを挙げている。 代表曲の一つ「アイロニ」は2023年2月にプロジェクトセカイにリズムゲーム楽曲として追加された。 2023年11月、音楽配信ストリーミングサービスAWA主催による楽曲提供&MV制作イベントの開催を発表。
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すこっぷは日本のボカロP・作詞家・作曲家・編曲家である。
{{Infobox Musician | 名前 = すこっぷ | 背景色 = solo_singer | 出生名 = | 出生 = | 出身地 = {{JPN}} | 死没 = | 学歴 = | ジャンル = [[J-POP]] | 職業 = [[音楽家|ミュージシャン]] | 担当楽器 = [[VOCALOID]]・作曲 | 活動期間 = [[2008年]] - | レーベル = BALLOOM(2012年) | 事務所 = | 共同作業者 = | 公式サイト = }} {{Infobox YouTube personality | name = すこっぷ | channel_display_name = すこっぷ | channel_direct_url = @scopscop35 | years_active = [[2011年]] - | genre = [[音楽]] | subscribers = 約4.33万人 | views = 約1183万回 | stats_update = 2023年11月10日 }} '''すこっぷ'''は日本のボカロP・作詞家・作曲家・編曲家である。 == 概要 == 2008年ボカロPデビュー。2010年に投稿した「指切り」で初めて100万再生を達成した。 影響を受けたアーティストに[[椎名林檎]]と[[aiko]]を挙げている<ref>[https://natalie.mu/music/pp/nicoxnata-music04 ニコ×ナタ(音楽) - 音楽ナタリー 特集・インタビュー]</ref>。 代表曲の一つ「アイロニ」は2023年2月に『[[プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク]]』にリズムゲーム楽曲として追加された<ref>[https://app.famitsu.com/20230213_2053918/ 【プロセカ】新リズムゲーム“アイロニ”(作詞・作曲:すこっぷ)が追加に! | ファミ通App【スマホゲーム情報サイト】]</ref>。 2023年11月、音楽配信ストリーミングサービス[[AWA (音楽配信)|AWA]]主催による楽曲提供&MV制作イベントの開催を発表<ref>[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000002590.000022425.html 代表曲「アイロニ」が400万回再生越えるなど数多くの楽曲制作を手掛けるボカロP「すこっぷ」がオリジナル楽曲を提供『歌で、運命を切りひらけ。 Vol.9』エントリー受付開始|AWAのプレスリリース]</ref>。 == ディスコグラフィー == === シングル === {|class="wikitable" style=font-size:small |- !発売日 !タイトル |- |2009年12月16日 | '''ローリーズルーム''' |- |2015年3月10日 | '''雪に願いを (feat. GUMI)''' |- |2021年1月6日 | '''迷夢ジェラシー(Full) [feat. Tsugumi Nagahara''' |- |} === アルバム === {|class="wikitable" style=font-size:small |- !&nbsp; !発売日 !タイトル !規格品番 !収録曲 !備考 |- |Best |[[2012年]][[2月15日]] | '''Days ~Best of Scop~''' |DGLA-10013 | #ドミノ倒シ #どうぶつ占い #指切り #ローリーズルーム #インターネットシティ #黒猫系女子 #マリオネットシンドローム #seventeen #ラジカル男女の唄 #もしも話 #嘘つきの世界 #泡沫のダンス #ハローグッバイ #トップシークレット #Days |BALLOOM |- |} === コンピレーション参加 === {|class="wikitable" style=font-size:small |- !発売日 !タイトル !収録曲 |- |2010年9月22日 | VOCALOID LOVESONGS ~Girls Side~ |指切り |- |2010年12月1日 | EXIT TUNES PRESENTS イケメンボイスパラダイス2 |マリオネットシンドローム / すこっぷ feat.らむだーじゃん |- |2010年12月15日 | EXIT TUNES PRESENTS Supernova 4 |ドミノ倒シ |- |2011年1月26日 | 未来コココンピィ |どうぶつ占い / すこっぷ feat.初音ミク |- |2011年10月1日 | LIFEWORK |Daily News |- |2011年11月9日 | VOCALOID tribute to [[THE BLUE HEARTS]] |[[TRAIN-TRAIN (アルバム)|僕の右手]] |- |2011年12月7日 | 初音ミク Dance Remix Vol.1 |指切り (PandaBoY remix) |- |2011年12月21日 | EXIT TUNES PRESENTS 10代うたってみたライブ! BEST2 |指切り / すこっぷ feat.コニー |- |2012年6月6日 | ELECTLOID feat.初音ミク |スノートリック |- |2012年8月15日 | EXIT TUNES PRESENTS 神曲を歌ってみた 6 |嘘つきの世界 / すこっぷ feat.clear |- |2012年9月19日 | V Love 25 ~Desire~ |アイロニ |- |2012年10月17日 | EXIT TUNES PRESENTS イケメンボイスパラダイス5 |ドミノ倒シ / すこっぷ feat.しゃむおん |- |2012年11月28日 | VOCAROCK collection 4 feat.初音ミク |アイロニ / すこっぷ feat. 初音ミク |- |2013年2月20日 | [[EXIT TUNES PRESENTS Vocalosensation feat.初音ミク]] |ケッペキショウ / すこっぷ feat.GUMI |- |2013年4月3日 | IA THE WORLD ~星~ |雪に願いを / すこっぷ feat.IA |- |2013年6月19日 | 青春ボカロ starring GUMI,Lily |夏の終わり、恋の始まり / すこっぷ feat.GUMI |- |2013年8月7日 | EXIT TUNES PRESENTS GUMity from megpoid |リトルエミーと星の手紙 / すこっぷ feat.GUMI |- |2013年9月25日 | BALLOOM BEST |ドミノ倒シ<br>嘘つきの世界<br>指切り |- |2013年8月14日 | 妖艶和奏絵巻 feat.初音ミク |ムラサキ / すこっぷ feat.初音ミク |- |2013年11月6日 | EXIT TUNES PRESENTS Vocalofuture feat.初音ミク |東京レトロ / すこっぷ feat.初音ミク |- |2013年12月18日 | みきうた |夕暮れツイッター |- |2013年12月25日 | ボカニコ★パーティー ノンストップ・ミックスド・バイ・DJ・ボカニコ |東京レトロ / すこっぷ feat.初音ミク |- |2014年3月5日 | EXIT TUNES PRESENTS GUMical from Megpoid |雪に願いを / すこっぷ feat.GUMI |- |2014年7月2日 | IA THE WORLD ~蒼~ |ヘイジーブルー / すこっぷ feat.IA |- |2015年2月4日 | EXIT TUNES PRESENTS THE BEST OF GUMI from megpoid |ケッペキショウ / すこっぷ feat.GUMI |- |2015年3月4日 | #IVPB ~イケメンボイスパラダイスベスト~ |ケッペキショウ / すこっぷ feat.Sou |- |2015年6月3日 | EXIT TUNES PRESENTS START |アイロニ / Rid |- |2015年9月2日 | 初音ミク Project mirai こんぷり~と |どうぶつ占い |- |2015年12月23日 | 天声絶唱 REFERENCE ~BEST OF 歌ってみた~ |ケッペキショウ / 鹿乃×すこっぷ |- |2017年3月15日 | [[EXIT TUNES PRESENTS Vocalohistory feat.初音ミク]] |東京レトロ |- |2017年7月5日 | Boost! |アイロニ / すこっぷ feat.りする |- |2018年1月17日 | EXIT TUNES PRESENTS Vocaloseasons feat.初音ミク Winter |スノートリック / すこっぷ feat.初音ミク |- |2018年7月18日 | EXIT TUNES PRESENTS Vocaloseasons feat.初音ミク Summer |夏の終わり、恋の始まり / すこっぷ feat.GUMI |- |2019年6月19日 | EXIT TUNES PRESENTS GUMissimo from megpoid -10th ANNIVERSARY BEST- |ケッペキショウ |- |2020年5月20日 | ACTORS-Singing Contest Edition- sideB |ケッペキショウ / すこっぷ feat.[[森嶋秀太]] |- |} === 楽曲提供・被カバー === {|class="wikitable" style=font-size:small |- !発売日 !タイトル !収録曲 !備考 |- |2011年6月22日 | [[山音まー]]『人のオンガクを笑うな!』 |指切り | |- |2012年9月12日 | [[ANFLA]]『Unlimited』 |Sweet Torturer / ヲタみん |作曲・編曲 |- |2013年7月31日 | [[YURiCa/花たん]]『FLOWER』 |マリオネットシンドローム | |- |2013年7月3日 | [[みちゃおん]]『MEET YOUR ONLY WORLD』 |ラブラジール / すこっぷ feat.しゃむおん |作詞・作曲 |- |2013年7月24日 | [[Gero]]『[[one (Geroのアルバム)|one]]』 |硝子の少女 |作詞・作曲:すこっぷ 編曲:すこっぷ×黒須克彦 |- |2013年8月7日 | [[蝶々P]]『Fictional World』 |Black Board (Scop Arrange) / すこっぷ × 蝶々P feat. 初音ミク |<ref>[https://natalie.mu/music/news/95911 蝶々Pアルバムにすこっぷ、ジミーサムP、Neruも参加 - 音楽ナタリー]</ref> |- |2014年1月1日 | [[りょーくん]]『Re:alize』 |アイロニ | |- |2014年1月8日 | [[りぶ]]『Riboot』 |東京レトロ | |- |2014年9月3日 | りょーくん『Re:road』 |ソライロ |作詞・作曲 |- |2014年10月1日 | [[luz]]『tWoluz』 |ドミノ倒シ | |- |2015年1月1日 | [[96猫]]『Brand New...』 |純情フレーバー |作詞・作曲・編曲 |- |2015年1月21日 | [[松下 (バンド)|松下]]『松下が二次元に恋をする15の理由』 |ケッペキショウ (Bonus track) | |- |2015年4月1日 | [[majiko|まじ娘]]『Contrast』 |アイロニ | |- |2015年11月18日 | [[鹿乃]]『[[ディアブレイブ]]』 |ディアブレイブ<br>ディジーシンドローム<br>Toy-toi |作詞・作曲・編曲 |- |2016年5月11日 | 鹿乃『[[nowhere (鹿乃のアルバム)|nowhere]]』 |ディアブレイブ<br>Toy-toi<br>evergreen |作詞・作曲・編曲 |- |2016年6月29日 | 96猫『Crimson Stain』 |外見と内面 |作詞・作曲・編曲 |- |2016年8月17日 | [[影縫英]]『短夜、稲荷神社のはずれにて』 |ドミノ倒シ | |- |2016年10月5日 | [[めいちゃん]]・[[shack]]『Cyclo Caravan』 |ケッペキショウ | |- |2016年11月23日 | 96猫『7S』 |晩秋ロストイン |作詞・作曲・編曲 |- |2017年2月1日 | [[三月のパンタシア]]『フェアリーテイル』 |フェアリーテイル<br>(アニメ「[[亜人ちゃんは語りたい]]」エンディングテーマ)<ref>[https://natalie.mu/music/news/211412 三月のパンタシア、すこっぷ作の新曲が「亜人ちゃんは語りたい」EDテーマに - 音楽ナタリー]</ref> |作詞・作曲・編曲 |- |2017年3月8日 | [[三月のパンタシア]]『あのときの歌が聴こえる』 |day break<br>フェアリーテイル |作詞・作曲・編曲 |- |2017年5月10日 | [[H△G]]『声 ~VOCALOID Cover Album~』 |アイロニ | |- |2017年12月20日 | 鹿乃『[[アルストロメリア (鹿乃のアルバム)|アルストロメリア]]』 |Daisy Blue |作詞・作曲・編曲 |- |2018年1月24日 | [[ダズビー]]『sincere』 |夏の終わり、恋の始まり | |- |2018年3月7日 | 三月のパンタシア『風の声を聴きながら/コラージュ』 |コラージュ |作詞・作曲・編曲 |- |2018年2月14日 | [[焚吐]]×[[みやかわくん]]『[[神風エクスプレス]]』 |アイロニ -弾き語り- | |- |2018年3月7日 | [[神田沙也加]]『MUSICALOID #38』 |指切り | |- |2018年12月19日 | 鹿乃『[[rye (鹿乃のアルバム)|rye]]』 |HOPE<br>クライヤ |編曲<br>作詞・作曲 |- |2019年3月13日 | 三月のパンタシア『ガールズブルー・ハッピーサッド』 |ビタースイート<br>コラージュ |作詞・作曲・編曲 |- |2021年3月24日 | [[さとみ (すとぷり)|さとみ]]『アイロニ』 |アイロニ | |- |2022年1月17日 | [[Tacitly]]『存在アピ』 |存在アピ<br>Proof of Existence |作詞・作曲 |- |2022年1月23日 | [[潤羽るしあ]]『思ひ恋ふ』 |思ひ恋ふ |作詞・作曲・編曲 |- |2022年10月19日 | [[こはならむ]]『泣きながら』 |アイロニ | |- |2023年2月8日 | こはならむ『ぜんぶ嫌いだ』<ref>[https://www.barks.jp/news/?id=1000229784 こはならむ、「ぜんぶ嫌いだ」配信開始。作詞作曲はボカロP・すこっぷ | BARKS]</ref> |ぜんぶ嫌いだ |作詞・作曲 |- |2023年7月5日 | こはならむ『Attitude』 |Attitude<br>ぜんぶ嫌いだ |作詞・作曲 |- |} == 出典 == <references /> == 外部リンク == * {{Twitter|scopscop}} * {{Apple Music artist|342874697}} * {{Spotify artist|4MMtKtdKAZ94xazQGVTDzL}} * {{ニコニコ動画ユーザー|8785358}} * {{KARENT artist|pp000098}} {{デフォルトソート:すこつふ}} [[Category:ニコニコ動画の作曲家]] [[Category:VOCALOIDを用いている音楽家]] [[Category:日本の作詞家]] [[Category:日本の作曲家]] [[Category:日本の編曲家]] [[Category:生年未記載]] [[category:存命人物]]
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BLUE EYE SAMURAI/ブルーアイ・サムライ
BLUE EYE SAMURAI/ブルーアイ・サムライは、クリエイターチーム夫婦であるマイケル・グリーンとアンバー・ノイズミによって創造され、執筆された、カナダとアメリカ合衆国のアニメーション作品であり、Netflix ストリーミングテレビシリーズ。 17世紀の日本、江戸時代を舞台に、白人男性と日本人女性との混血の女性ミズが復讐のために旅に出る物語。 第一話はNetflixよりも2日早くYou Tubeチャンネルで配信開始された。
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BLUE EYE SAMURAI/ブルーアイ・サムライは、クリエイターチーム夫婦であるマイケル・グリーンとアンバー・ノイズミによって創造され、執筆された、カナダとアメリカ合衆国のアニメーション作品であり、Netflix ストリーミングテレビシリーズ。
{{Short description|2023年のテレビシリーズ}}{{Infobox television | caption = プロモーションポスター | creator = {{ubl|[[マイケル・グリーン (脚本家)|マイケル・グリーン]]|アンバー・ノイズミ}} | director = ジェーン・ウー | voices = {{Plainlist| *[[マヤ・アースキン]] *[[ジョージ・タケイ]] *[[マシ・オカ]] *[[ケイリー=ヒロユキ・タガワ]] *[[ブレンダ・ソング]] *[[ダレン・バーネット]] *[[ランドール・パーク]] *[[ケネス・ブラナー]] }} | composer = エイミー・ドハーティ | country = アメリカ合衆国<br>フランス | language = 英語 | num_series = 1 | num_episodes = 8 | list_episodes = | executive_producer = {{ubl|[[マイケル・グリーン (脚本家)|マイケル・グリーン]]|アンバー・ノイズミ|[[アーウィン・ストフ]]}} | producer = {{ubl|ジェーン・ウー|ヘイブン・アレクサンダー|ケヴィン・ハート}} | editor = {{ubl|ユカ・シラスナ|ブラッド・リー・ジマーマン}} | runtime = 35–62分 | company = [[Netflix Animation]]<br>Blue Spirit<br>J.A. Green Construction Corporation<br>[[3 Arts Entertainment]] | network = [[Netflix]] | first_aired = {{Start date|2023|11|3}} }}'''''BLUE EYE SAMURAI/ブルーアイ・サムライ'''''は、クリエイターチーム夫婦である[[マイケル・グリーン (脚本家)|マイケル・グリーン]]とアンバー・ノイズミによって創造され、執筆された、カナダとアメリカ合衆国のアニメーション作品であり、Netflix [[動画配信サービス|ストリーミングテレビ]]シリーズ。<ref>https://www.netflix.com/tudum/articles/blue-eye-samurai-release-date</ref><ref>https://www.vanityfair.com/hollywood/2023/09/blue-eye-samurai-jane-wu</ref> == ストーリー == 17世紀の[[日本]]、[[江戸時代]]を舞台に、白人男性と日本人女性との混血の女性ミズが復讐のために旅に出る物語。<ref>https://deadline.com/2020/10/netflix-blue-eye-samurai-animated-action-series-michael-green-maya-erskine-george-takei-masi-oka-randall-park-lead-cast-1234594672/</ref> == 声優 == === メイン === * [[マヤ・アースキン]] as ミズ:ミックスレイスの青い目の[[浪人]]。 * [[マシ・オカ]] as リンゴ:ミズを尊敬し慕う料理人。 * [[ダレン・バーネット]] as タイゲン:素質はあるが傲慢な剣士。 * [[ブレンダ・ソング]] as アケミ姫:[[新興富豪]]の領主の、甘やかされた育ちながらも意志の強い娘。 * [[ジョージ・タケイ]] as セキ:アケミ姫の摂政。 * [[ランドール・パーク]] as 進藤平治:ファウラーの名ばかりの看守で共犯者。 * [[ケイリー=ヒロユキ・タガワ]] as :ミズを育てた盲目の鍛冶師。 * [[ケネス・ブラナー]] as アビジャ・ファウラー:[[将軍]] [[徳川家綱]]に密かに反抗し、日本の鎖国政策『[[鎖国]]』に反するアイルランドの密輸業者兼発明家。 === リカーリング === * [[ステファニー・スー]] as イセ:女郎。 * [[ミンナ・ウェン|ミン・ナ・ウェン]] as マダム・カジ:狡猾で抜け目のない[[売春|娼館]]の女将。 * [[ハリー・シャム・ジュニア]] as タカヨシ:[[将軍]]の次男。 * [[マーク・ダカスコス]] as チアキ:暗殺者。 == エピソード == {{Episode table |background=#00C0FF |overall= |title= |director= |writer= |airdate= |airdateR= |country=US |episodes= {{Episode list |EpisodeNumber = 1 |Title = 鍛錬のかけら |DirectedBy = Jane Wu |WrittenBy = Michael Green & Amber Noizumi |OriginalAirDate = {{Start date|2023|11|3|df=y}} |ShortSummary = 17世紀の日本。日本人と白人の混血児であるミズは「不純」な存在として日本社会から拒絶された女性。彼女を「不名誉で不純の原因」と見なす4人の白人密輸業者を守る平治真道の所在を求めている。自分の父親かもしれない4人の男を追い詰めるためにミズは旅に出る。新興富豪の領主の娘であるアケミ姫は、秘密の恋人でもある出自の卑しい剣士であるタイゲンと結婚させるように父親を説得して、結婚の取り決めを回避する。 一方、過去にさかのぼり、ミズは子供の頃に差別により迫害され、地元の漁師の息子(後にタイゲンであることが判明)によって殺される寸前になるが、最終的にはミズを育てて訓練する盲目の鍛冶師である剣父によって助け出される。ミズは最終的には自分の名誉と純潔の原因と見なしている彼女の父親として考えられる4人の男を追い詰めるために復讐の旅に出る。 現在、ミズは進藤道場を襲撃して彼の所在を聞き出し、その過程で進藤の弟である道場の選手を打ち負かす:タイゲン。道場の師範からは、進藤がアビジャ・ファウラーを護衛していると聞かされる。要塞では、ファウラーは進藤に対して彼女の後を追うように命じる。 |LineColor = 00C0FF }} {{Episode list |EpisodeNumber = 2 |Title = 予期せぬもの |DirectedBy = Ryan O'Loughlin |WrittenBy = Michael Green & Amber Noizumi |OriginalAirDate = {{Start date|2023|11|3|df=y}} |ShortSummary = ミズは進藤とファウラーを収容する要塞の近くの京都に到着する。一方、ミズに敗れたことで名誉を傷つけられたタイゲンは、自分自身の復讐の旅に出ることを決意する。タイゲンの敗北の結果として、アケミ姫の父親は彼女を彼女の反対にもかかわらず将軍の次男と結婚させるためにたくらむ。 |LineColor = 00C0FF }} {{Episode list |EpisodeNumber = 3 |Title = 限られた道 |DirectedBy = Earl A. Hibbert<br>Alan Wan |WrittenBy = Michael Green & Amber Noizumi |OriginalAirDate = {{Start date|2023|11|3|df=y}} |ShortSummary = |LineColor = 00C0FF }} {{Episode list |EpisodeNumber = 4 |Title = 特殊な性癖 |DirectedBy = Ryan O'Loughlin |WrittenBy = Michael Green & Amber Noizumi |OriginalAirDate = {{Start date|2023|11|3|df=y}} |ShortSummary = |LineColor = 00C0FF }} {{Episode list |EpisodeNumber = 5 |Title = 浪人夫婦の物語 |DirectedBy = Michael Green |WrittenBy = Amber Noizumi |OriginalAirDate = {{Start date|2023|11|3|df=y}} |ShortSummary = |LineColor = 00C0FF }} {{Episode list |EpisodeNumber = 6 |Title = 邪悪な夢よ、怒りの言葉よ |DirectedBy = Earl A. Hibbert<br>Sunny Sun |WrittenBy = Amber Noizumi & Michael Green |OriginalAirDate = {{Start date|2023|11|3|df=y}} |ShortSummary = |LineColor = 00C0FF }} {{Episode list |EpisodeNumber = 7 |Title = 滅びることはない |DirectedBy = Alan Taylor |WrittenBy = Yana Bille-Chung |OriginalAirDate = {{Start date|2023|11|3|df=y}} |ShortSummary = |LineColor = 00C0FF }} {{Episode list |EpisodeNumber = 8 |Title = [[明暦の大火]] |DirectedBy = Jane Wu |WrittenBy = Michael Green & Amber Noizumi |OriginalAirDate = {{Start date|2023|11|3|df=y}} |ShortSummary = |LineColor = 00C0FF }} }} == 公開 == 第一話はNetflixよりも2日早くYou Tubeチャンネルで配信開始された。 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Netflix jptitle}} * {{IMDb title}} {{Netflix original current series}}{{Netflix original animated series and films}} [[Category:Netflixオリジナルアニメ]] [[Category:Netflixオリジナル作品]]
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加藤良輝
加藤良輝(かとうよしき、1996年12月12日 - )は、岐阜県瑞浪市出身。日本の男性プロレスラーで元警察官。本名は同じ。血液型B型。DRAGON GATE所属。
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加藤良輝は、岐阜県瑞浪市出身。日本の男性プロレスラーで元警察官。本名は同じ。血液型B型。DRAGON GATE所属。
{{Infobox プロレスラー | 名前 = | 画像 = | リングネーム = '''加藤 良輝''' | 本名 = 加藤 良輝 | ニックネーム = | 身長 = 183cm | 体重 = 90kg | 誕生日 = {{生年月日と年齢|1996|12|12}} | 死亡日 = | 出身地 = [[岐阜県]][[瑞浪市]] | 所属 = [[DRAGON GATE]] | スポーツ歴 = | トレーナー = | デビュー = [[2022年]][[12月6日]] | 引退 = }} '''加藤良輝'''(かとうよしき、[[1996年]][[12月12日]] - )は、[[岐阜県]][[瑞浪市]]出身。[[日本]]の[[男性]][[プロレスラー]]で元[[警察官]]<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=警察官出身の異色レスラー、故郷で初試合 夢あきらめず続けた体作り - 朝日新聞デジタル |url=https://www.asahi.com/articles/ASR1Q74Z6R1LOHGB00T.html |website=スポニチ Sponichi Annex |access-date=2023-05-13 |language=ja}}</ref>。本名は同じ。[[血液型]]B型。[[DRAGON GATE]]所属。 == 来歴 == == 得意技 == ; クレセントバックブリーカー :リストクラッチ式アルゼンチンバックブリーカー ; カデーレ・ルナ == タイトル歴 == ; [[オープン・ザ・トライアングルゲート王座]] == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://www.gaora.co.jp/dragongate/data/prfl/katoyoshiki.html 選手プロフィール] - ドラゴンゲート公式サイト {{DRAGON GATE}} {{Martialart-stub}} {{DEFAULTSORT:かとうよしき}} [[Category:日本のプロレスラー]] [[Category:ジュニアヘビー級のプロレスラー]] [[Category:DRAGON GATE所属のプロレスラー]] [[Category:岐阜県出身の人物]] [[Category:1996年生]] [[Category:存命人物]]
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貢の銭 (ティツィアーノ)
『貢の銭』(みつぎのぜに、伊: La moneta del tributo, 独: Der Zinsgroschen, 英: The Tribute Money)は、イタリアの盛期ルネサンスのヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノ・ヴェチェッリオが1516年に制作した絵画である。油彩。初期の代表作の1つで、主題は『新約聖書』の福音書で言及されている、パリサイ人がイエス・キリストを罠にかけようとした際にキリストが「カエサルのものはカエサルに」と述べた「貢の銭」のエピソードから取られている。発注者はフェラーラ公爵アルフォンソ1世・デステで、おそらく美術史上このシーンを描いた最も初期の作品であるとともに、アルフォンソ1世にとって個人的に重要な意味を持つ主題であったと考えられている。現在はドレスデンのアルテ・マイスター絵画館に所蔵されている。 一般的に「貢の銭」と呼ばれるエピソードは『新約聖書』の中に2つあり、本作品は「マタイによる福音書」22章、「マルコによる福音書」12章、「ルカによる福音書」20章で言及されているエピソードに基づいている。あるとき、イエス・キリストがエルサレムの神殿で説教をしていると、パリサイ人がやって来て彼を罠にかけようとし、ローマに税金を納めるのは正しいことなのか、それとも否であるかと尋ねた。当時のイスラエルはローマ人によって統治されていた(ユダヤ属州)。パリサイ人の狙いは、この問いによってローマ当局か、あるいは逆にローマ人に対して納税することに憤慨しているユダヤ人から告発されるような答えを、キリストの口から引き出すことにあった。この悪意に対するキリストの答えは次のようなものであった。すなわち彼らを「偽善者」と呼び、持っている貨幣を見せるように言ったのである。すると彼らは1枚のデナリウス銀貨を出した。さらにキリストは銀貨に刻まれている肖像が誰であるか尋ねた。彼らは「カエサルです」と言った。そこでキリストは「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と答えた。それを聞いたパリサイ人はみな驚いて黙り込み、あるいは立ち去った。 この主題は西洋美術では稀であり、一部の権威は本作品が芸術における最初の表現であると述べている。この目新しさは後援者にとって主題が特別な重要性を持っていたことによって説明され、後援者がこの主題を提案したと考えられている。アルフォンソ1世は1505年にフェラーラ公爵位を継承する直前、裏面に同主題を描いた貨幣(ダブル・ドゥカート金貨、またはドッピオーネ金貨)を鋳造した。これは公国の独立を維持するための外交手段について言及するためであった。 ジョルジョ・ヴァザーリによると本作品はアルフォンソ1世の古代および同時代のメダルやコインのコレクションを収めた陳列棚あるいはキャビネットの扉のために制作された。陳列棚には3,500点を超える膨大なコレクションが保管されていたと考えられている。翌年、公爵はティツィアーノの非常に重要な後援者となったが、これは部分的には彼がこの最初の発注に感銘を受けたためである。 別のレベルでは、「貢の銭」のエピソードは当時の政治情勢と関連性があった。アルフォンソ1世の領土の一部は神聖ローマ帝国内にあり、一部は教皇領内にあったため、この主題は彼にとって特別な意味を持った。パリサイ人の質問がキリストに仕掛けた罠は、アルフォンソが数年間陥っていた罠であった。絵画が制作された当時、アルフォンソ1世はカンブレー同盟戦争で教皇庁が立場を変えた際に従わなかった後に、少なくとも理屈の上ではローマ教皇ユリウス2世によって破門され、フェラーラを剥奪されていた。この期間のほとんどの間、アルフォンソ1世は、(最終的にアルフォンソ1世の孫が死去したときのように)積極的に教皇領を拡大し、フェラーラ公国を吸収しようとしていた教皇庁と対立していた。アルフォンソにとって、「貢の銭」のエピソードにおけるキリストの命じた言葉が意味するメッセージは、おそらく教皇庁は領土を拡大するのではなく、教会の問題に注意を集中すべきだというものである。 ティツィアーノはパリサイ人から銀貨を受け取るキリストの姿を描いている。ティツィアーノは画面左に美しいキリストを、画面右に醜いパリサイ人を配置し、キリストの穏やかな視線を悪意を持って接するパリサイ人に向けさせることで、その卓越した賢明さと優れた性質を表現している。パリサイ人のシャツのネックラインに沿って「Ticianus F.[ecit]」と署名されている。 パリサイ人は当時20代後半だったティツィアーノの自画像であると主張されている。同じ主張はティツィアーノが物語シーンで描いたいくつかの人物、特におそらくより説得力のあるものとして、ローマのドーリア・パンフィーリ美術館所蔵の『サロメ』(Salomè)の切断された首および同主題の他のバージョンについても行われている。これは本作品と年代が非常に近いが、描かれた頭部はあまり似ていない。どちらの絵画も肖像画家としてのティツィアーノの技術を活かした物語的主題の例であり、ジョルジョネスク様式の構図を使用した多くの絵画の一部を形成するだけでなく、たがいに顔を近づけている2人か3人の半身像をきつめに切り取って描くことにより、相互作用するドラマ性を高めている。同様の作例としては、現在ロイヤル・コレクション所蔵の『恋人たち』(Gli amanti, 1510年ごろ)や、ウィーンの美術史美術館所蔵の『ルクレティアと夫』(Lucrezia e suo marito, 1515年ごろ)、『刺客』(Il Bravo, 1520年ごろ)などがある。 ティツィアーノの初期の作品としては異例だが、ティツィアーノと2人の助手または使用人が、1516年2月22日から3月末までの約5週間、フェラーラのエステンセ城(英語版)に滞在したことが分かっているため、確実に制作年代を特定することができる。ティツィアーノは通常、キャンバスに絵画を描いたが、元々扉として使用することが目的であったため、パネルの支持体が必要であった。 本作品はティツィアーノの最も初期の署名入りの絵画であり、おそらく彼がフェラーラの宮廷画家ではないことを示すとともに、ヴェネツィアとその領土外の著名な宮廷で自身の名前を宣伝するために署名したものと考えられる。パリサイ人の男が着ているシャツのネックラインという署名の位置は、おそらく絵画が自画像であることを裏付けており、「コインの横顔の下の碑文のようにモデルを特定する」可能性がある。 絵画は「ティツィアーノの最も洗練された初期の作品」と評され、有名になった。ジョルジョ・ヴァザーリはエステンセ城のアルフォンソ・デステの部屋にあった陳列棚の扉を絵画が飾っているのを実際に見ており、キリストの頭部を「驚異的で奇跡的」であると考え、当時の芸術家全員がティツィアーノの最も完璧な絵画であると信じていたと述べた。バロック期のカルロ・リドルフィの伝記は、絵画を見た神聖ローマ皇帝カール5世の使者は、どんな芸術家がアルブレヒト・デューラーとこれほど巧みに競い合うことができるのかと驚きを表したと書いている。 デステ家で相続されていた絵画は、1598年に最後のフェラーラ公チェーザレ・デステによってモデナに運ばれ、そこで額装され一般展示された。この作品は1746年、フランチェスコ3世・デステによってザクセン選帝侯アウグスト3世に売却された100点の傑作の1つに加えられた。それ以来、絵画はドレスデンに留まっていたが、第二次世界大戦末期の1945年にソ連軍に押収され、多くの作品とともにモスクワのプーシキン美術館に持ち込まれた。絵画は湿気のためにひどく損傷したが、ロシアの画家パーヴェル・ドミトリエヴィチ・コリン(英語版)によって注意深く修復されたのち、1955年に他の多くの作品とともにドレスデンに返還された。 ずっと後になって、ティツィアーノはおそらく複製の需要を満たすために、現在ロンドン・ナショナル・ギャラリーに所蔵されている同主題のより大きな作品を制作した。このバージョンはおそらく1543年ごろに制作され始めたが、1560年代まで完成せず、1568年にスペイン国王フェリペ2世に発送された。X線撮影の結果、その中にあった金貨にはもともと「フェラーラ」と刻まれていたことが判明した。 絵画はヴィクトリア朝時代を代表する女性作家ジョージ・エリオットの小説『ダニエル・デロンダ(英語版)』(Daniel Deronda, 1876年)の第40章において、若くて元気なダニエル・デロンダが病気に苦しむ早老のユダヤ人学者エズラ・モルデカイ・コーエンと出会う場面で言及されている。「あの2人の顔をずっと残していけたらいいのに」とエリオットは書いている、「ティツィアーノの『貢の銭』が別の種類の対比を描写した2つのタイプを永続させて来たように」。
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『貢の銭』は、イタリアの盛期ルネサンスのヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノ・ヴェチェッリオが1516年に制作した絵画である。油彩。初期の代表作の1つで、主題は『新約聖書』の福音書で言及されている、パリサイ人がイエス・キリストを罠にかけようとした際にキリストが「カエサルのものはカエサルに」と述べた「貢の銭」のエピソードから取られている。発注者はフェラーラ公爵アルフォンソ1世・デステで、おそらく美術史上このシーンを描いた最も初期の作品であるとともに、アルフォンソ1世にとって個人的に重要な意味を持つ主題であったと考えられている。現在はドレスデンのアルテ・マイスター絵画館に所蔵されている。
{{Infobox 絵画作品 | image_file = Titian - The Tribute Money - Google Art Project (715452).jpg | image_size = 380px | title = 貢の銭 | other_language_1 = [[イタリア語]] | other_title_1 = La moneta del tributo | other_language_2 = [[英語]] | other_title_2 = The Tribute Money | artist = [[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ]] | year = 1516年<ref name=IGK26>イアン・G・ケネディー 2009年、p.26。</ref> | type = [[油彩]]、板 | height = 75 | width = 56 | city = [[ドレスデン]] | museum = [[アルテ・マイスター絵画館]] }} 『'''貢の銭'''』(みつぎのぜに、{{lang-it-short|La moneta del tributo}}, {{lang-de-short|Der Zinsgroschen}}, {{lang-en-short|The Tribute Money}})は、[[イタリア]]の[[盛期ルネサンス]]の[[ヴェネツィア派]]の巨匠[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ]]が1516年に制作した絵画である。[[油彩]]。初期の代表作の1つで、主題は『[[新約聖書]]』の[[福音書]]で言及されている、[[パリサイ人]]が[[イエス・キリスト]]を罠にかけようとした際にキリストが「[[皇帝のものは皇帝に|カエサルのものはカエサルに]]」と述べた「[[貢の銭]]」のエピソードから取られている。発注者は[[フェラーラ|フェラーラ公爵]][[アルフォンソ1世・デステ]]で、おそらく美術史上このシーンを描いた最も初期の作品であるとともに、アルフォンソ1世にとって個人的に重要な意味を持つ主題であったと考えられている。現在は[[ドレスデン]]の[[アルテ・マイスター絵画館]]に所蔵されている<ref name=IGK26 /><ref name=SKD>{{cite web|title=Der Zinsgroschen |accessdate=2023/11/09 |url=https://skd-online-collection.skd.museum/Details/Index/409926 |publisher=[[ドレスデン美術館|ドレスデン国立美術館オンラインコレクション]]公式サイト}}</ref><ref>{{cite web|title=The Tribute Money |accessdate=2023/11/09 |url=https://artsandculture.google.com/asset/wd/KwGBZUkhototqw |publisher=[[Google アートプロジェクト|Google Arts & Culture]]}}</ref><ref name=CTV>{{cite web|title=Titian |accessdate=2023/11/09 |url=http://cavallinitoveronese.co.uk/general/view_artist/66 |publisher=Cavallini to Veronese}}</ref><ref>{{cite web|title=The Tribute Money |accessdate=2023/11/09 |url=https://www.wga.hu/frames-e.html?/html/t/tiziano/01_1510s/13tribut.html |publisher=Web Gallery of Art}}</ref>。 == 主題 == 一般的に「貢の銭」と呼ばれるエピソードは『新約聖書』の中に2つあり、本作品は「[[マタイによる福音書]]」22章、「[[マルコによる福音書]]」12章、「[[ルカによる福音書]]」20章で言及されているエピソードに基づいている。あるとき、イエス・キリストが[[エルサレム]]の神殿で[[説教]]をしていると、パリサイ人がやって来て彼を罠にかけようとし、[[ローマ]]に[[税金]]を納めるのは正しいことなのか、それとも否であるかと尋ねた。当時の[[イスラエル]]はローマ人によって統治されていた([[ユダヤ属州]])。パリサイ人の狙いは、この問いによってローマ当局か、あるいは逆にローマ人に対して納税することに憤慨しているユダヤ人から告発されるような答えを、キリストの口から引き出すことにあった<ref name=JH326>『西洋美術解読事典』p.326「貢の銭」。</ref>。この悪意に対するキリストの答えは次のようなものであった。すなわち彼らを「偽善者」と呼び、持っている貨幣を見せるように言ったのである。すると彼らは1枚の[[デナリウス|デナリウス銀貨]]を出した。さらにキリストは銀貨に刻まれている[[肖像]]が誰であるか尋ねた。彼らは「[[カエサル (称号)|カエサル]]です」と言った{{Refnest|group="注釈"|[[新共同訳聖書]]で皇帝と訳されているように、[[ローマ皇帝]]を指す。カエサルは[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]や[[アウグストゥス|ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス(アウグストゥス)]]に由来する皇帝の称号の一つ。}}。そこでキリストは「'''カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい'''」と答えた。それを聞いたパリサイ人はみな驚いて黙り込み、あるいは立ち去った<ref name=SKD /><ref name=CTV /><ref name=JH326 /><ref>「マタイによる福音書」22章15節-22節。</ref><ref>「マルコによる福音書」12章13節-17節。</ref><ref>「ルカによる福音書」20章20節-26節。</ref>。 == 制作背景 == [[File:Bemberg Fondation Toulouse - Portrait d'Alphonse dEste - Titien Inv.1053.jpg|thumb|240px|ティツィアーノの『アルフォンソ1世・デステの肖像』。1530年と1534年の間。{{ill|ベンベルグ財団|fr|Fondation Bemberg}}所蔵。]] [[File:Monnaie - Italie, Duché de Ferrare, Alphonse Ier d'Este, 2 ducats, 1505-1534, Ferrare - btv1b113136652 (2 of 2).jpg|thumb|240px|アルフォンソ1世が発行したダブル・ドゥカート金貨に刻まれた「貢の銭」の図像。]] この主題は西洋美術では稀であり、一部の権威は本作品が芸術における最初の表現であると述べている<ref name=P264>Penny, p.264.</ref><ref>Schiller, p.157.</ref>{{Refnest|group="注釈"|その後、[[ピーテル・パウル・ルーベンス]]や[[アンソニー・ヴァン・ダイク]]など、その他数名の画家が描いている。同名の作品に[[マサッチョ]]の有名な[[フレスコ画]]『[[貢の銭 (マサッチオ)|貢の銭]]』({{it|Il pagamento della tassa del tempio}}, 「魚の口の中の銀貨」の意)があるが、こちらは「マタイによる福音書」17章24節⁻27節で言及されている別のエピソードを描いたものである。}}。この目新しさは[[パトロン|後援者]]にとって主題が特別な重要性を持っていたことによって説明され、後援者がこの主題を提案したと考えられている。アルフォンソ1世は1505年にフェラーラ公爵位を継承する直前、裏面に同主題を描いた貨幣([[ドゥカート|ダブル・ドゥカート金貨]]、またはドッピオーネ金貨)を鋳造した<ref name=SKD /><ref name=CTV />。これは公国の独立を維持するための外交手段について言及するためであった<ref name=SKD />。 [[ジョルジョ・ヴァザーリ]]によると本作品はアルフォンソ1世の古代および同時代の[[メダル]]や[[コイン]]のコレクションを収めた陳列棚あるいはキャビネットの扉のために制作された。陳列棚には3,500点を超える膨大なコレクションが保管されていたと考えられている<ref name=CTV />。翌年、公爵はティツィアーノの非常に重要な後援者となったが、これは部分的には彼がこの最初の発注に感銘を受けたためである<ref name=P264 /><ref name=J156>Jaffé, p.156.</ref><ref name=H162>Hale, p.162.</ref>。 別のレベルでは、「貢の銭」のエピソードは当時の政治情勢と関連性があった。アルフォンソ1世の領土の一部は[[神聖ローマ帝国]]内にあり、一部は[[教皇領]]内にあったため<ref>Hale, p.171.</ref>、この主題は彼にとって特別な意味を持った。パリサイ人の質問がキリストに仕掛けた罠は、アルフォンソが数年間陥っていた罠であった。絵画が制作された当時、アルフォンソ1世は[[カンブレー同盟戦争]]で[[教皇庁]]が立場を変えた際に従わなかった後に、少なくとも理屈の上では[[ローマ教皇]][[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世]]によって[[破門]]され、フェラーラを剥奪されていた。この期間のほとんどの間、アルフォンソ1世は、(最終的にアルフォンソ1世の孫が死去したときのように)積極的に教皇領を拡大し、フェラーラ公国を吸収しようとしていた教皇庁と対立していた。アルフォンソにとって、「貢の銭」のエピソードにおけるキリストの命じた言葉が意味するメッセージは、おそらく教皇庁は領土を拡大するのではなく、教会の問題に注意を集中すべきだというものである<!--。彼は福音書のテキストの一部の、金貨にまつわるエピソードを含めた--><ref name=P264 /><ref name=J156 /><ref name=H162 /><ref>Hale, p.170–173</ref>。 == 作品 == [[File:Tiziano Vecellio, gen. Tizian, , Kunsthistorisches Museum Wien - Der Bravo - GG 64 - Kunsthistorisches Museum.jpg|thumb|240px|ティツィアーノの『[[刺客 (ティツィアーノ)|刺客]]』。1520年ごろ。美術史美術館所蔵。]] ティツィアーノはパリサイ人から銀貨を受け取るキリストの姿を描いている。ティツィアーノは画面左に美しいキリストを、画面右に醜いパリサイ人を配置し、キリストの穏やかな視線を悪意を持って接するパリサイ人に向けさせることで、その卓越した賢明さと優れた性質を表現している<ref name=SKD />。パリサイ人のシャツのネックラインに沿って「{{la|Ticianus F.[ecit]}}」と署名されている<ref name=CTV /><ref name=P264 /><ref name=H162 /><ref name=J156 />。 パリサイ人は当時20代後半だったティツィアーノの[[自画像]]であると主張されている。同じ主張はティツィアーノが物語シーンで描いたいくつかの人物、特におそらくより説得力のあるものとして、[[ローマ]]の[[ドーリア・パンフィーリ美術館]]所蔵の『[[サロメ (ティツィアーノ)|サロメ]]』({{it|Salomè}})の切断された首および同主題の他のバージョンについても行われている。これは本作品と年代が非常に近いが、描かれた頭部はあまり似ていない<ref name=H162 /><ref>Hale, p.738.</ref><ref>Hale, note 7.</ref>。どちらの絵画も肖像画家としてのティツィアーノの技術を活かした物語的主題の例であり<ref>Penny, p.201.</ref>、[[ジョルジョーネ|ジョルジョネスク]]様式の構図を使用した多くの絵画の一部を形成するだけでなく、たがいに顔を近づけている2人か3人の半身像を狭い画面に切り取って描くことにより、相互作用するドラマ性を高めている。同様の作例としては、現在[[ロイヤル・コレクション]]所蔵の『[[恋人たち (ティツィアーノ)|恋人たち]]』({{it|Gli amanti}}, 1510年ごろ)や<ref>{{cite web|title=Attributed to Titian (C. 1488-VENICE 1576), The Lovers c. 1510 |accessdate=2023/07/01 |url=https://www.rct.uk/collection/403928/the-lovers |publisher=[[ロイヤル・コレクション|ロイヤル・コレクション・トラスト]]公式サイト}}</ref>、[[ウィーン]]の[[美術史美術館]]所蔵の『[[ルクレティアと夫]]』({{it|Lucrezia e suo marito}}, 1515年ごろ)、『[[刺客 (ティツィアーノ)|刺客]]』({{it|Il Bravo}}, 1520年ごろ)などがある<ref>Jaffé, p.98.</ref>。 ===制作年代=== ティツィアーノの初期の作品としては異例だが、ティツィアーノと2人の助手または使用人が、1516年2月22日から3月末までの約5週間、フェラーラの{{ill|エステンセ城|en|Castello Estense}}に滞在したことが分かっているため、確実に制作年代を特定することができる<ref>Hale, p.161.</ref>。ティツィアーノは通常、キャンバスに絵画を描いたが、元々扉として使用することが目的であったため、パネルの[[支持体]]が必要であった。 本作品はティツィアーノの最も初期の署名入りの絵画であり、おそらく彼がフェラーラの[[宮廷画家]]ではないことを示すとともに、[[ヴェネツィア]]とその領土外の著名な宮廷で自身の名前を宣伝するために署名したものと考えられる。パリサイ人の男が着ているシャツのネックラインという署名の位置は、おそらく絵画が自画像であることを裏付けており、「コインの横顔の下の碑文のようにモデルを特定する」可能性がある<ref name=H162 /><ref>Goffen, p.278.</ref>。 ===反響=== 絵画は「ティツィアーノの最も洗練された初期の作品」と評され<ref name=H162 />、有名になった。[[ジョルジョ・ヴァザーリ]]はエステンセ城のアルフォンソ・デステの部屋にあった陳列棚の扉を絵画が飾っているのを実際に見ており、キリストの頭部を「驚異的で奇跡的」であると考え、当時の芸術家全員がティツィアーノの最も完璧な絵画であると信じていたと述べた<ref name=CTV />。[[バロック]]期の[[カルロ・リドルフィ]]の伝記は、絵画を見た[[神聖ローマ皇帝]][[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]の使者は、どんな芸術家が[[アルブレヒト・デューラー]]とこれほど巧みに競い合うことができるのかと驚きを表したと書いている<ref name=J156 /><ref name=H162 /><ref>Jaffé, p.101.</ref>。 == 来歴 == [[File:Titian - The Tribute Money - Google Art Project.jpg|thumb|210px|ティツィアーノの同主題の後期作品。1543年から1568年ごろ。[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ロンドン・ナショナル・ギャラリー]]所蔵<ref>{{cite web|title=The Tribute Money |accessdate=2023/11/09 |url=https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/titian-the-tribute-money |publisher=[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ロンドン・ナショナル・ギャラリー]]公式サイト}}</ref>。]] デステ家で相続されていた絵画は、1598年に最後のフェラーラ公[[チェーザレ・デステ]]によって[[モデナ]]に運ばれ、そこで額装され一般展示された。この作品は1746年、[[フランチェスコ3世・デステ]]によって[[ザクセン選帝侯領|ザクセン選帝侯]][[アウグスト3世 (ポーランド王)|アウグスト3世]]に売却された100点の傑作の1つに加えられた<ref name=CTV />。それ以来、絵画はドレスデンに留まっていたが、[[第二次世界大戦]]末期の1945年に[[赤軍|ソ連軍]]に押収され、多くの作品とともに[[モスクワ]]の[[プーシキン美術館]]に持ち込まれた。絵画は湿気のためにひどく損傷したが、ロシアの画家{{ill|パーヴェル・ドミトリエヴィチ・コリン|en|Pavel Korin}}によって注意深く修復されたのち、1955年に他の多くの作品とともにドレスデンに返還された<ref name=CTV />。 == 別バージョン == ずっと後になって、ティツィアーノはおそらく複製の需要を満たすために、現在[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ロンドン・ナショナル・ギャラリー]]に所蔵されている同主題のより大きな作品を制作した<ref name=J156 /><ref>Penny, pp.260–267.</ref>。このバージョンはおそらく1543年ごろに制作され始めたが、1560年代まで完成せず、1568年に[[スペイン王国|スペイン]]国王[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]に発送された<ref>Penny, pp.264–265.</ref>。[[X線撮影]]の結果、その中にあった金貨にはもともと「フェラーラ」と刻まれていたことが判明した<ref name=P264 />。 == 影響 == 絵画は[[ヴィクトリア朝]]時代を代表する女性作家[[ジョージ・エリオット]]の小説『{{ill|ダニエル・デロンダ|en|Daniel Deronda}}』({{en|Daniel Deronda}}, 1876年)の第40章において、若くて元気なダニエル・デロンダが病気に苦しむ早老の[[ユダヤ人]]学者エズラ・モルデカイ・コーエンと出会う場面で言及されている。「あの2人の顔をずっと残していけたらいいのに」とエリオットは書いている、「ティツィアーノの『貢の銭』が別の種類の対比を描写した2つのタイプを永続させて来たように」。 == ギャラリー == ; 関連作品 <gallery widths="190px" heights="220px" perrow="3" style="font-size:smaller"> Attributed to Titian (c. 1488-Venice 1576) - The Lovers - RCIN 403928 - Royal Collection.jpg|『[[恋人たち (ティツィアーノ)|恋人たち]]』1510年ごろ [[ロイヤル・コレクション]]所蔵 Tiziano, tarquinio e lucrezia.jpg|『[[ルクレティアと夫]]』1515年ごろ [[美術史美術館]]所蔵 </gallery> == 脚注 == ===注釈=== {{reflist|group="注釈"}} ===脚注=== {{Reflist}} == 参考文献 == * イアン・G・ケネディー『ティツィアーノ』[[Taschen]](2009年) * ジェイムズ・ホール『西洋美術解読事典』[[高階秀爾]]監修、[[河出書房新社]](1988年) * Goffen, Rona, ''Renaissance Rivals: Michelangelo, Leonardo, Raphael, Titian'', 2004, {{ill|イェール大学出版局|en|Yale University Press|label=Yale University Press}}, [https://books.google.com/books?id=-Q7c3dIGsAQC&pg=PA278 google books] * Hale, Sheila, ''Titian, His Life'', 2012, [[ハーパーコリンズ|Harper Press]], {{ISBN|978-0-00717582-6}} * Jaffé, David (ed), ''Titian'', The National Gallery Company/Yale, London 2003, {{ISBN|1 857099036}} * {{ill|ニコラス・ペニー|en|Nicholas Penny|label=Penny, Nicholas}}, National Gallery Catalogues (new series): ''The Sixteenth Century Italian Paintings, Volume II, Venice 1540–1600'', 2008, National Gallery Publications Ltd, {{ISBN|1857099133}} * Schiller, Gertud, ''Iconography of Christian Art, Vol. I'', 1971 (English trans from German), {{ill|アッシュゲート出版|en|Ashgate Publishing|label=Lund Humphries}}, London, {{ISBN|0853312702}} * Josephine Klingebeil, ''Tizians Zinsgroschen für Alfonso d'Este: Die Dimensionen eines Ölgemäldes aus dem 16. Jahrhundert'', Hambrug 2014.(online) * Christopher J. Nygren, ''Vibrant icons: Titian's art and the tradition of Christian image-making'', Dissertationsschrift Johns Hopkins University, Baltimore 2011 * Christopher J. Nygren, "Titian’s Christ with the Coin: Recovering the Spiritual Currency of Numismatics in Renaissance Ferrara", in: ''Renaissance Quarterly'', Vol. 69, No. 2 (2016), pp.&nbsp;449–488. == 外部リンク == {{Commonscat|Vecellio, Tiziano — Cristo della moneta — 1516 — SKD}} * [https://skd-online-collection.skd.museum/Details/Index/409926 ドレスデン国立美術館オンラインコレクション公式サイト, ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『貢の銭』] {{ティツィアーノ・ヴェチェッリオ}} {{デフォルトソート:みつきのせに}} [[Category:ティツィアーノ・ヴェチェッリオの作品]] [[Category:1510年代の絵画]] [[Category:聖書を題材とした絵画]] [[Category:イエス・キリストを描いた絵画]] [[Category:アルテ・マイスター絵画館の所蔵品]]
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よへほ節
よへほ節(よへほぶし)は、熊本県山鹿市に伝わる日本の民謡で座敷唄。 主に山鹿温泉で毎年8月15日・8月16日に行われる山鹿灯籠まつりで歌い踊られ、三味線や笛、太鼓によって演奏される。明治時代初期ごろに歌われ始め、元唄はもっと土俗的で艶めかしいものだったと言われるが、1933年(昭和8年)に作詞家の野口雨情によって改作され、現在のよへほ節ができた。 歌詞やタイトルに出てくる「よへほ」という言葉の解釈には様々な諸説があるが、「あなたも踊りを見て酔っちゃいなさいよ」という意味の「酔へ」と肥後弁で「ほらっ(相手の気を引き注意を促す言葉)」という言葉の「ほ」を組み合わせたと解釈されることが多い。 主は山鹿の 骨なし灯籠 よへほよへほ 骨もなければ 肉もなし よへほよへほ 洗いすすぎの 鼓の湯籠 よへほよへほ 山鹿千軒 たらいなし よへほよへほ 心あら瀬の 蛍の頃に よへほよへほ とけし思いの しのび唄 よへほよへほ 山鹿灯籠は 夜明かしまつり よへほよへほ 町は灯の海 人の海 よへほよへほ
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よへほ節(よへほぶし)は、熊本県山鹿市に伝わる日本の民謡で座敷唄。
'''よへほ節'''(よへほぶし)は、[[熊本県]][[山鹿市]]に伝わる日本の[[民謡]]で[[座敷唄]]<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%82%88%E3%81%B8%E3%81%BB%E7%AF%80-757885 よへほ節] - コトバンク</ref>。 == 概要 == 主に[[山鹿温泉]]で毎年8月15日・8月16日に行われる[[山鹿灯籠まつり]]で歌い踊られ<ref name=":0">[https://www.oricon.co.jp/article/232186/ 2017年6月25日]- ORICON NEWS</ref>、[[三味線]]や[[笛]]、[[太鼓]]によって演奏される。[[明治時代]]初期ごろに歌われ始め、元唄はもっと土俗的で艶めかしいものだったと言われるが、[[1933年]](昭和8年)に作詞家の[[野口雨情]]によって改作され、現在のよへほ節ができた。 歌詞やタイトルに出てくる「よへほ」という言葉の解釈には様々な諸説があるが、「あなたも踊りを見て酔っちゃいなさいよ」という意味の「酔へ」と[[肥後弁]]で「ほらっ(相手の気を引き注意を促す言葉)」という言葉の「ほ」を組み合わせたと解釈されることが多い<ref name=":0" />。 == 主な歌詞 == 主は山鹿の 骨なし灯籠 よへほよへほ   骨もなければ 肉もなし よへほよへほ 洗いすすぎの 鼓の湯籠 よへほよへほ   山鹿千軒 たらいなし よへほよへほ 心あら瀬の 蛍の頃に よへほよへほ    とけし思いの しのび唄 よへほよへほ 山鹿灯籠は 夜明かしまつり よへほよへほ 町は灯の海 人の海 よへほよへほ == 脚注 == <references /> == 外部リンク == * [https://kotobank.jp/word/%E3%82%88%E3%81%B8%E3%81%BB%E7%AF%80-757885 よへほ節] - コトバンク {{Substub}} {{DEFAULTSORT:よへほふし}} [[Category:楽曲 よ]] [[Category:熊本県の文化]] [[Category:熊本県の音楽]] [[Category:日本の民謡の楽曲]] [[Category:山鹿市の歴史]] [[Category:野口雨情が制作した楽曲]]
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ファーマライズホールディングス
ファーマライズホールディングス株式会社(Pharmarise Holdings Corporation)は、東京都中野区に本社を置く、保険調剤薬局チェーン企業。東京証券取引所スタンダード市場上場。 1984年6月に株式会社東京物産として設立し、1987年2月に保険調剤薬局第1号店を東京都文京区に開業。以降もM&Aにより同業他社を買収して規模を拡大している。 2009年6月に持株会社制へ移行し、ファーマライズ株式会社(初代)はファーマライズホールディングス株式会社へ商号変更。ファーマライズ(初代)が手掛けていた事業は、新設分割により設立されたファーマライズ株式会社(2代)が継承した。
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ファーマライズホールディングス株式会社は、東京都中野区に本社を置く、保険調剤薬局チェーン企業。東京証券取引所スタンダード市場上場。
{{基礎情報 会社 | 社名 = ファーマライズホールディングス株式会社 | 英文社名 = Pharmarise Holdings Corporation | ロゴ = | 画像 = | 画像説明 = | 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] | 市場情報 = {{上場情報 | 東証スタンダード | 2796}} | 国籍 = {{JPN}} | 本社郵便番号 = 164-0011 | 本社所在地 = [[東京都]][[中野区]][[中央 (中野区)|中央]]1丁目38-1 | 設立 = [[1984年]][[6月28日]]<br />(株式会社東京物産) | 業種 = 6100 | 法人番号 = 5011201003645 | 事業内容 = 持株会社体制による調剤薬局の経営 | 代表者 = 代表取締役会長 大野利美知<br />代表取締役社長 秋山昌之 | 資本金 = 12億9800万円<br />(2023年5月31日現在) | 発行済株式総数 = 9,746,645株<br />(2023年5月期)<ref name="yuka">[https://contents.xj-storage.jp/xcontents/27960/6de7fbd6/2bc0/4394/af3d/2c87625e40bb/S100RSFU.pdf 2023年5月期有価証券報告書]ファーマライズホールディングス</ref> | 売上高 = 連結:520億3000万円<br />(2023年5月期)<ref name="yuka" /> | 営業利益 = 連結:14億3800万円<br />(2023年5月期)<ref name="yuka" /> | 経常利益 = 連結:14億3100万円<br />(2023年5月期)<ref name="yuka" /> | 純利益 = 連結:3億4700万円<br />(2023年5月期)<ref name="yuka" /> | 純資産 = 連結:69億8700万円<br />(2023年5月31日現在)<ref name="yuka" /> | 総資産 = 連結:234億2100万円<br />(2023年5月31日現在)<ref name="yuka" /> | 従業員数 = 連結:1555人<br />(2023年5月31日現在)<ref name="yuka" /> | 決算期 = 5月31日 | 会計監査人 = [[太陽有限責任監査法人]] | 主要株主 = (株)ビックフィールド 32.0%<br />[[中北薬品]](株)4.2%<br />(株)[[バイタルネット]] 4.2%<br />(株)[[ほくやく]] 4.2%<br />(2023年5月31日現在)<ref name="yuka" /> | 主要子会社 = ファーマライズ株式会社 | 関係する人物 = | 外部リンク = https://www.pharmarise.com/ | 特記事項 = }} '''ファーマライズホールディングス株式会社'''(Pharmarise Holdings Corporation)は、[[東京都]][[中野区]]に本社を置く、[[保険調剤]]薬局チェーン企業。[[東京証券取引所]]スタンダード市場上場。 == 概要 == 1984年6月に株式会社東京物産として設立し、1987年2月に[[保険調剤]]薬局第1号店を[[東京都]][[文京区]]に開業。以降も[[M&A]]により同業他社を買収して規模を拡大している。 2009年6月に[[持株会社]]制へ移行し、ファーマライズ株式会社(初代)はファーマライズホールディングス株式会社へ商号変更。ファーマライズ(初代)が手掛けていた事業は、新設分割により設立されたファーマライズ株式会社(2代)が継承した<ref>[https://contents.xj-storage.jp/contents/27960/T/PDF-GENERAL/20090327951016.pdf 会社分割による持株会社体制への移行ならびに商号変更に関するお知らせ]ファーマライズ 2009年3月27日</ref>。 == 沿革 == *1984年6月 - 株式会社東京物産として設立。本社を[[東京都]][[豊島区]]に置く。 *1986年12月 - 本社を[[東京都]][[文京区]]へ移転。 *1987年2月 - [[保険調剤]]薬局第1号店を東京都文京区に開業。 *1996年8月 - 本社を[[東京都]][[中野区]]へ移転。 *1997年2月 - 株式会社協和静岡を吸収合併。 *2001年1月 - 株式会社エンゼル調剤薬局を吸収合併。 *2002年4月 - ファーマライズ株式会社へ商号変更。 *2007年2月 - [[JASDAQ]]上場。 *2009年6月 - [[持株会社]]制へ移行。ファーマライズ株式会社(初代)はファーマライズホールディングス株式会社へ商号変更。事業は新設分割により設立されたファーマライズ株式会社(2代)が継承。 *2011年6月 - 株式会社メディカルフロントを子会社化<ref>[https://contents.xj-storage.jp/contents/27960/T/PDF-GENERAL/20110527969926.pdf 株式会社メディカルフロントの株式取得(第三者割当増資引受)に関するお知らせ]ファーマライズホールディングス 2011年5月27日</ref>。 *2012年10月 - 株式会社寿製作所(現:株式会社寿データバンク)を子会社化<ref>[https://contents.xj-storage.jp/contents/27960/T/PDF-GENERAL/140120120928011251.pdf 株式会社寿製作所の株式取得(完全子会社化)に関するお知らせ ]ファーマライズホールディングス 2012年9月28日</ref>。 *2014年1月 - [[東京証券取引所]]2部へ市場変更。 *2015年 **1月 - 東京証券取引所1部へ市場変更。 **9月 - ファーマライズが株式会社三和調剤を吸収合併。 **12月 - ファーマライズが株式会社東京みなみ薬局と株式会社北町薬局を吸収合併。 *2017年 **3月 - ファーマライズがファーマライズプラス株式会社を吸収合併。 **6月 - ファーマライズが株式会社鬼怒川調剤センターを吸収合併。 **12月 - ファーマライズが有限会社イノセ商事を吸収合併。 *2019年 **3月 - ファーマライズが東海ファーマライズ株式会社、北海道ファーマライズ株式会社(初代)、株式会社エシックス、株式会社フォーユーを吸収合併。 **6月 - ファーマライズが関西ファーマライズ株式会社、[[薬ヒグチ&ファーマライズ]]株式会社、株式会社エム・シーを吸収合併。 **9月 - ファーマライズが新世薬品株式会社と株式会社ドゥリームを吸収合併。 **12月 - ファーマライズが有限会社アマゾンファーマシーを吸収合併。 **2020年 **2月 - 株式会社ヘルシーワークを完全子会社化<ref>[https://contents.xj-storage.jp/xcontents/27960/5642590e/c81b/47ac/8d07/b99c572c7927/140120200227470793.pdf 株式会社ヘルシーワークの株式取得(完全子会社化)に関するお知らせ ]ファーマライズホールディングス 2020年2月28日</ref>。 **3月 - 株式会社ウィークを子会社化<ref>[https://contents.xj-storage.jp/xcontents/27960/855c16e6/0c99/4841/b8e1/e71b07962d75/140120200219467053.pdf 株式会社ウィークの株式取得に係る基本合意書締結のお知らせ]ファーマライズホールディングス 2020年2月19日</ref>。 **4月 - 有限会社サン・メディカル(現:株式会社サン・メディカル)を子会社化。 *2023年 **3月 - 北海道における調剤薬局事業を、2022年12月に設立した北海道ファーマライズ株式会社(2代)へ吸収分割により移管<ref>[https://contents.xj-storage.jp/xcontents/27960/ce86c085/97de/4fed/a1a9/5e30048921bf/140120230118590607.pdf 完全子会社間の会社分割(簡易吸収分割)に関するお知らせ]</ref>。 **6月 - ファーマライズが株式会社くすき調剤薬局を、サン・メディカルが有限会社映双薬局をそれぞれ吸収合併<ref>[https://contents.xj-storage.jp/xcontents/27960/607f4169/2050/4648/9cd6/887a431c2ef2/140120230316531775.pdf 完全子会社間の吸収合併(簡易吸収合併)に関するお知らせ]ファーマライズホールディングス 2023年3月16日</ref>。 **10月 - 東京証券取引所スタンダード市場へ市場変更<ref>[https://contents.xj-storage.jp/xcontents/27960/d644640d/fcf7/48a3/b778/929f6603df05/140120230726527585.pdf プライム市場の上場維持基準への適合に向けた計画に基づく進捗状況及びスタンダード市場への選択申請及び適合状況について]ファーマライズホールディングス 2023年7月26日</ref>。ファーマライズが有限会社大木薬局を、北海道ファーマライズが有限会社池本薬局を吸収合併<ref>[https://contents.xj-storage.jp/xcontents/27960/b65f601f/ce69/475b/876f/23d5d721dcad/140120230711520368.pdf 完全子会社間の吸収合併(簡易吸収合併)に関するお知らせ]ファーマライズホールディングス 2023年7月11日</ref>。 ** 11月 - 株式会社[[スズケン]]と資本業務提携契約を締結。同社が株式の19.99%を取得し、主要株主となる<ref>{{Cite web|和書|date=2023-11-10|url=https://www.nihon-ma.co.jp/news/20231110_9987-13/ |title=スズケン、ファーマライズHDとの間で資本業務提携契約を締結、同社株式を取得へ |publisher=株式会社日本M&Aセンター |accessdate=2023-11-22}}</ref>。 == 関連会社 == *ファーマライズ株式会社 *株式会社寿データバンク *株式会社ミュートス *株式会社ケミスト *株式会社レイケアセンター *株式会社メディカルフロント *株式会社ヘルシーワーク *株式会社ウィーク *株式会社サン・メディカル *北海道ファーマライズ株式会社 *有限会社ミット *三協医療薬品株式会社 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == *[https://www.pharmarise.com/ ファーマライズホールディングス株式会社] {{DEFAULTSORT:ふあまらいすほおるていんくす}} [[Category:日本の持株会社]] [[Category:薬局]] [[Category:中野区の企業]] [[Category:東証スタンダード上場企業]] [[Category:1984年設立の企業]] [[Category:2007年上場の企業]]
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トレジャラー (職責)
トレジャラー (英: Treasurer, 資金財務管理者) は、組織のトレジャリー (資金財務) の管理責任者。 企業のトレジャラーの中核となる職務には、資金および流動性管理、リスクマネジメント、コーポレート・ファイナンスが含まれる。
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トレジャラー は、組織のトレジャリー (資金財務) の管理責任者。 企業のトレジャラーの中核となる職務には、資金および流動性管理、リスクマネジメント、コーポレート・ファイナンスが含まれる。
{{出典の明記|date=2023年11月}} {{Expand English|date=2023年11月}} [[Image:National-Debt-Gillray.jpeg|thumb|「国民の借金を支払うための新しい方法」 (1786年) - [[ジェームズ・ギルレイ]]による風刺画。王室の借金を賄うためのトレジャリー基金にあふれる[[シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ|シャーロット王妃]]と[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]に、[[ウィリアム・ピット_(小ピット)|ウィリアム・ピット]]がさらに金袋を手渡す様子。]] '''トレジャラー''' ({{lang-en-short|Treasurer}}, 資金財務管理者) は、組織の[[トレジャリー]] ([[トレジャリー|資金財務]]) の管理責任者。 企業のトレジャラーの中核となる職務には、資金および流動性管理、リスクマネジメント、[[コーポレート・ファイナンス]]が含まれる<ref>{{Cite web |last=Degenhart |first=Dr. Heinrich |title=The Functions of a Corporate Treasury |url=https://www.treasury-management.com/showarticle.php?pubid=4&issueid=121&article=1053&page=showarticle&pageno=1 |access-date=2018-04-05 |website=www.treasury-management.com}}</ref>。 <!-- A '''treasurer''' is a person responsible for running the [[treasury]] of an organization. The significant core functions of a corporate treasurer include cash and liquidity management, risk management, and corporate finance. --> == 脚注 == {{Reflist}}<!-- == Further reading == * {{Cite book |last=National Association of Parliamentarians® |first=Education Committee |title=Spotlight on You the Treasurer |publisher=National Association of Parliamentarians® |year=1993 |isbn=1-884048-26-9 |location=Independence, MO}} * Treasury Management International, ''[https://www.treasury-management.com/showarticle.php?pubid=4&issueid=121&article=1053&page=showarticle&pageno=0 The Functions of a Corporate Treasury]'', Dr Heinrich Degenhart, Verband Deutscher Treasurer e.V. --> == 関連項目 == * [[最高財務責任者]] * [[トレジャリー・マネジメント]] <!-- * [[Bursar]] * [[Bursary]] * [[Certified Treasury Professional]] * [[Chief financial officer]] * [[Comptroller]] * [[Auditor general]] * [[Treasury management]] --> == 外部リンク == * [https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_10327.html#h4_4 経理・資金財務・経営管理分析職種 - 厚生労働省] * [http://online.onetcenter.org/link/summary/11-3031.01 O*NET-SOC 11-3031.01 ~ Treasurers and Controllers] {{Economy-stub}} {{DEFAULTSORT:とれしやら}} [[Category:公務員の階級]] [[Category:アメリカ合衆国の地方自治]] [[Category:金融]] [[Category:称号]]
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アル・アトキンス
アラン・ジョン・"アル"・アトキンス(Alan John Atkins、1947年10月14日 - )は、イギリスのミュージシャン。ヘヴィメタルバンド、ジューダス・プリーストの創設者として知られる。 1947年、ウェストブロムウィッチで生まれる。ビートルズやローリング・ストーンズに影響を受けて16歳のころに学校の同級生と初めてバンドを結成する。 その後、ブルーノ・ステーペンヒル、アルバート・ヒントンらと「ザ・リアクション」を結成し、アトキンスはボーカルとドラムを担当した。 解散後、彼とステーペンヒルの2人はジョン・パートリッジらとザ・シュガー・スタックを結成。 バンドは1年で解散し、アトキンスとステーペンヒルはバリー・シビル、ジョンとジムのペリー兄弟らとハーフ・ブリード(後にチャプターズ・オブ・ライフ、ザ・ジャグ・ブルース・バンドに改名)を結成 ザ・ジャグ・ブルース・バンド解散後の1969年、彼はステーペンヒル、かつて2人と共に活動したジョン・パートリッジ、ジョン・ペリーとバーミンガムでジューダス・プリーストを結成。しかし、妻と幼い娘を養うアトキンスは、1973年5月に仕事に専念するためにジューダス・プリーストを脱退した。アトキンスの後任にはロブ・ハルフォードが加入した。アトキンスが脱退したため、現在オリジナル・メンバーは残っていない(ブルーノ・ステープンヒルとジョン・パートリッジは1970年に脱退、ジョン・ペリーは1969年に自殺)。 2012年、アトキンスはギタリストのポール・メイと共に、アトキンス・メイ・プロジェクトを結成。2011年5月21日付のプレスリリースによると、アトキンスはヘヴィ・メタル・オペラ・プロジェクトの「ライラカ」にセッション・ヴォーカルとして参加する予定だという。
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アラン・ジョン・"アル"・アトキンス(Alan John Atkins、1947年10月14日 - )は、イギリスのミュージシャン。ヘヴィメタルバンド、ジューダス・プリーストの創設者として知られる。
{{Infobox Musician | Name = アル・アトキンス<br/>Al Atokins | Alias = | Genre = [[ヘヴィメタル]]<br/>[[ブルース・ロック]]<br/>[[ハードロック]] | Occupation = | Associated_acts = [[ジューダス・プリースト]]<br/> ライオン<br/>[[サイモン・リース]]<br/>ホーリー・レイジ<br/>アトキンス・メイ・プロジェクト | Label = | Years_active = 1964–現在 | Background = singer | Origin = {{GBR}}<br/>[[ウェスト・ミッドランズ]]<br/>[[ウェスト・ブロムウィッチ]] | Born = {{生年月日と年齢|1947|10|14}} | Instrument = [[ボーカル]] | native_name = Alan John Atokins | native_name_lang = en }} '''アラン・ジョン・"アル"・アトキンス'''(Alan John Atkins、[[1947年]][[10月14日]] - )は、[[イギリス]]の[[ミュージシャン]]。[[ヘヴィメタル]]バンド、[[ジューダス・プリースト]]の創設者として知られる。 ==経歴== 1947年、[[ウェストブロムウィッチ]]で生まれる。[[ビートルズ]]や[[ローリング・ストーンズ]]に影響を受けて16歳のころに学校の同級生と初めてバンドを結成する。<ref name="Jp"></ref> その後、ブルーノ・ステーペンヒル、アルバート・ヒントンらと「'''ザ・リアクション'''」を結成し、アトキンスはボーカルとドラムを担当した。<ref name="Jp"></ref> 解散後、彼とステーペンヒルの2人はジョン・パートリッジらと'''ザ・シュガー・スタック'''を結成。 バンドは1年で解散し、アトキンスとステーペンヒルはバリー・シビル、ジョンとジムのペリー兄弟らと'''ハーフ・ブリード'''(後に'''チャプターズ・オブ・ライフ'''、'''ザ・ジャグ・ブルース・バンド'''に改名)を結成<ref name="Jp ">http://www.brumbeat.net/judaspri.htm</ref> ザ・ジャグ・ブルース・バンド解散後の1969年、彼はステーペンヒル、かつて2人と共に活動したジョン・パートリッジ、ジョン・ペリーと[[バーミンガム]]で'''ジューダス・プリースト'''を結成。しかし、妻と幼い娘を養うアトキンスは、1973年5月に仕事に専念するためにジューダス・プリーストを脱退した<ref name=":0">{{Cite web |title=Ex-Judas Priest Singer Says Band Could've Sounded Like AC/DC If He Stuck Around |url=https://ultimateclassicrock.com/ex-judas-priest-singer-says-band-couldve-sounded-like-acdc-if-he-stuck-around/ |website=Ultimate Classic Rock |date=2012-02-11 |access-date=2023-11-10 |language=en |first=Chris M. JuniorChris M. |last=Junior}}</ref>。アトキンスの後任には[[ロブ・ハルフォード]]が加入した。アトキンスが脱退したため、現在オリジナル・メンバーは残っていない(ブルーノ・ステープンヒルとジョン・パートリッジは1970年に脱退、ジョン・ペリーは1969年に自殺)。 2012年、アトキンスはギタリストのポール・メイと共に、'''アトキンス・メイ・プロジェクト'''を結成<ref name=":0" />。2011年5月21日付のプレスリリースによると、アトキンスはヘヴィ・メタル・オペラ・プロジェクトの「ライラカ」にセッション・ヴォーカルとして参加する予定だという<ref>{{Cite web |title=Bravewords.com > News > Original JUDAS PRIEST Singer AL ATKINS Joins LYRAKA Lineup |url=https://web.archive.org/web/20110525060656/http://www.bravewords.com/news/162371/ |website=web.archive.org |date=2011-05-25 |access-date=2023-11-10}}</ref>。 == ディスコグラフィー == === ソロ名義 === * ''Judgement Day'' (1990) * ''Dreams of Avalon'' (1991) * ''Heavy Thoughts'' (1994) (released in 2003 with two bonus tracks) * ''Victim of Changes'' (1998) * ''Demon Deceiver'' (2007) * ''Demon Deceiver... Plus'' (re-release with two bonus tracks, 2009) * ''Reloaded'' (re-recorded "best of", featuring Ian Hill, Ralf Scheepers, Roy Z and more special guests, 2017) === ホーリー・レイジ === * ''Holy Rage'' (2010) === アトキンス・メイ・プロジェクト === * ''Serpents Kiss'' (2011) * ''Valley of Shadows'' (2012) * ''Empire of Destruction'' (2014) * ''Anthology'' (compilation, 2015) * ''The Final Cut'' (2020) === ゲスト・セッション === * ''Lyraka Volume 2 (not yet released)'' == 脚注 == {{Reflist}} {{ジューダス・プリースト}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あときんす ある}} [[Category:1947年生]] [[Category:ウェスト・ブロムウィッチ出身の人物]] [[Category:ジューダス・プリーストのメンバー]] [[Category:イングランドのロック歌手]] [[Category:存命人物]]
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世田谷区立船橋小学校
世田谷区立船橋小学校(せたがやくりつ ふなばししょうがっこう)は、東京都世田谷区船橋4丁目にある区立小学校。本校と区立船橋希望中学校・区立希望丘小学校・千歳台小学校・区立希望丘保育園・もみの木保育園希望丘・ひだまり保育園・キッズスマイル世田谷千歳台の8校園で、船橋希望学舎を構成する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "世田谷区立船橋小学校(せたがやくりつ ふなばししょうがっこう)は、東京都世田谷区船橋4丁目にある区立小学校。本校と区立船橋希望中学校・区立希望丘小学校・千歳台小学校・区立希望丘保育園・もみの木保育園希望丘・ひだまり保育園・キッズスマイル世田谷千歳台の8校園で、船橋希望学舎を構成する。", "title": null } ]
世田谷区立船橋小学校は、東京都世田谷区船橋4丁目にある区立小学校。本校と区立船橋希望中学校・区立希望丘小学校・千歳台小学校・区立希望丘保育園・もみの木保育園希望丘・ひだまり保育園・キッズスマイル世田谷千歳台の8校園で、船橋希望学舎を構成する。
{{Infobox 日本の学校 |校名 = 世田谷区立船橋小学校 |画像 = |画像サイズ = |画像説明 = |過去校名 = [[世田谷区立塚戸小学校]][[分校]] |国公私立 = 公立学校 |設置者 = 世田谷区 |校訓 = |設立年月日 = [[1959年]][[4月1日]](塚戸小学校分校として)<ref name="東京都公立学校一覧" >{{PDFlink|[https://www.kyoiku.metro.tokyo.lg.jp/administration/statistics_and_research/list_of_public_school/files/school_lists2022/houkokusyo-kouritsu.pdf 東京都公立学校一覧]}} - 東京都教育委員会</ref><br>[[1960年]]4月1日(独立開校) |記念日名称 = 開校記念日 |創立記念日 = [[6月29日]] |創立者 = |閉校年月日 = |共学・別学 = [[男女共学]] |学期 = [[3学期制]] |小学校コード = 212630<ref name="東京都公立学校一覧" /> |郵便番号 = 156-0055 |所在地 = 東京都世田谷区船橋4丁目41番1号 |緯度度 =35|緯度分 =39|緯度秒 =12.44 |経度度 =139|経度分 =37|経度秒 =02.09 |公式サイト = [https://school.setagaya.ed.jp/fushi/ 公式サイト] }} '''世田谷区立船橋小学校'''(せたがやくりつ ふなばししょうがっこう)は、[[東京都]][[世田谷区]][[船橋 (世田谷区)|船橋]]4丁目にある区立[[小学校]]。本校と[[世田谷区立船橋希望中学校|区立船橋希望中学校]]・[[世田谷区立希望丘小学校|区立希望丘小学校]]・[[世田谷区立千歳台小学校|千歳台小学校]]・区立希望丘保育園・もみの木保育園希望丘・ひだまり保育園・キッズスマイル世田谷千歳台の8校園で、船橋希望学舎を構成する<ref>[https://school.setagaya.ed.jp/swas/index.php?id=maya&frame=frm4dd4c32a2b999 船橋希望学舎] - 世田谷区学び舎(世田谷区)</ref>。 == 沿革 == *[[1958年]]([[昭和]]33年)[[11月15日]] - (仮称)船橋小学校起工式。 *[[1959年]](昭和34年)[[4月1日]] - [[世田谷区立塚戸小学校|塚戸小学校]]分校として発足。 *[[1960年]](昭和35年)4月1日 - 世田谷区立船橋小学校として、塚戸小学校から独立。 *[[1961年]](昭和36年) **[[3月10日]] - 開校記念式典挙行。 **[[6月29日]] - この日(6月29日)を開校記念日と定める。 *[[1962年]](昭和37年)[[3月3日]] - [[校歌]]・[[旗|校旗]]・[[校章]]を制定。 *[[1970年]](昭和45年)[[3月7日]] - 創立10周年記念式典挙行。 *[[1971年]](昭和46年)[[1月26日]] - 新[[学校施設#校舎|校舎]]竣工式挙行。 *[[1979年]](昭和54年)[[2月6日]] - 情緒障害学級開設。 *[[1980年]](昭和55年)[[11月21日]] - 創立20周年記念式典挙行。 *[[1990年]]([[平成]]2年)[[12月8日]] - 創立30周年記念式典挙行。 *[[2000年]](平成12年)[[10月20日]] - 創立40周年記念式典挙行。 *[[2004年]](平成16年)[[8月31日]] - 新校舎完成。 *[[2006年]](平成18年) **[[3月1日]] - [[体育館]]完成。 **[[6月23日]] - 新校舎落成記念式典挙行。 *[[2008年]](平成20年)4月1日 - 地域運営学校に指定。 *[[2010年]](平成22年)[[11月20日]] - 創立50周年記念式典挙行。 *[[2015年]](平成27年)4月1日 - 東京都「[[2020年東京オリンピック|オリンピック]]・[[2020年東京パラリンピック|パラリンピック]]教育推進校」指定。 *[[2017年]](平成29年) **4月1日 - 学校支援地域本部設置。 **[[7月20日]] - 増築棟工事開始。 *[[2019年]](平成31年)[[2月28日]] - 増築棟完成。 *[[2020年]]([[令和]]2年)[[11月28日]] - 開校60周年記念式典挙行。 *[[2021年]](令和3年)4月1日 - [[自閉症]]・[[情緒障害]]等[[特別支援学級]]「おおぞら学級」開設。 == 教育目標 == *ともに学ぶ船橋の子 *自分を高める船橋の子 *ことばを大切にする船橋の子 *地域を愛する船橋の子 == 学区 == ;出典<ref> [https://www.city.setagaya.lg.jp/mokuji/kodomo/005/002/002/d00030851.html 通学区域:学校別で見る・小学校 な行・は行] - 世田谷区・2017年4月1日最終更新</ref> *[[千歳台]]1丁目(22番~26番・33番~41番) *船橋1丁目(全域) *船橋2丁目(全域) *船橋3丁目(1番~20番) *船橋4丁目(20番~43番) == 進学先中学校 == ;出典<ref>[https://www.city.setagaya.lg.jp/mokuji/kodomo/005/002/003/d00030859.html 通学区域:学校別で見る・中学校 は行] - 世田谷区・2012年3月24日最終更新</ref> *[[世田谷区立船橋希望中学校]] == 交通アクセス == *[[小田急バス]]「梅01」・「経01」の各系統で、「船橋小学校前」[[バス停留所|停留所]]下車。。 **ただし、「船橋小学校前」停留所は、[[千歳船橋駅]]行の片方向のバスのみ停車。逆方向の千歳船橋駅からは、先述の「梅01」・「経01」の各系統に加え、「歳22」・「歳24」の各系統で、「成城警察署前」停留所か、「千歳台三丁目」停留所下車後、徒歩。 *[[小田急電鉄]][[小田急小田原線|小田原線]]千歳船橋駅(北口)から、 **上述の小田急バスを利用し、「成城警察署前」停留所か、「千歳台三丁目」停留所下車後、徒歩。 **徒歩約1.1km・約17分。 == 周辺 == *東京都船橋倉庫 - 敷地が隣接。 *[[東京都道311号環状八号線]](環八通り) *神明神社 - 敷地が隣接 *宝性寺 *セントラルウェルネスタウン成城 - 環八通りをはさんで、敷地が隣接。 *[[警視庁]][[成城警察署]]本署 *社会福祉法人東京有隣会 **有隣病院 **特別養護老人ホーム有隣ホーム **特別養護老人ホーム第2有隣ホーム **有隣ケアセンター *このほか、中小規模の公園があるほか、環八通りの東側には、中小規模のマンション・アパートなどの住宅が広がっている。さらに、環八通り沿いには、上述の「セントラルウェルネスタウン成城」以外のロードサイド店も点在する。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == *[[東京都小学校一覧]] *[[世田谷区立塚戸小学校]] - 分離元 == 外部リンク == *[https://school.setagaya.ed.jp/fushi/ 世田谷区立船橋小学校] {{School-stub|pref=東京都}} {{DEFAULTSORT:せたかやくりつふなはししようかつこう}} [[Category:世田谷区の公立小学校|ふなはし]] [[Category:学校記事]]
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カルロ・アリエンティ
カルロ・アリエンティ(Carlo Arienti、1801年7月21日 - 1873年3月21日)は、19世紀イタリアの画家である。 イタリア統一運動の時代のロンバルディアで働いた画家である。 ロンバルディアのアルコレでモンツァの庭園管理人の息子に生まれた。父親が働くマントヴァのパラッツオ・ドゥカーロやパラッツォ・デル・テの美術品を写生するようになった。13歳の時父親を亡くした後、ミラノに移りブレラ美術アカデミーで新古典主義の画家ルイージ・サバテッリや彫刻家のカミッロ・パセット(Camillo Pacet)に学んだ。肖像画を描いて生活費を得て、1823年から展覧会に出展するようになり、父親の友人の支援で1824年からローマのアカデミア・ディ・サン・ルカで修行を続けた。1829年までローマに滞在し、ロンバルディア出身の裕福な画家、美術史家のカルロ・ダカルト(Carlo d'Arco: 1799-1872) と友人になり、ともに暮らした。この間もミラノにしばしば戻り、ブレラ美術アカデミーの展覧会に6点の肖像画を出展した。 1831年に作曲家のヴィンチェンツォ・ベッリーニの肖像画を制作して高く評価され、ロンバルディアの貴族や上流階級の人々から歴史絵画などの注文を受けるようになり、人気のある画家になった 。この頃、仕事でミラノを離れたルイージ・サバテッリの代理として3年間、ブレラ美術アカデミーの教授を務めた。オーストリア皇帝フェルディナント1世やサルデーニャ国王のカルロ・アルベルトからの注文を受けた。1843年、トリノの美術学校(Accademia Albertina)の教授となり、1859年までトリノで働いた。 1855年のパリ万国博覧会の展覧会に、オーストリアのイタリア支配に抵抗する事件を題材の作品2点を出展し、イタリア独立運動に対するフランスの支援を得るための宣伝に加わった。 1859年のオーストリア軍がロンバルディアの大部分からの撤退した後、サルデーニャ王国から勲章を授与され、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世から絵の注文を受けるが、トリノの美術学校長と対立し、教授職を失った。1860年にモデナで短期働いた後、ボローニャに移り、ボローニャの美術学校の理事を務めた 。アリエンティが教えた学生には、Enrico Gamba。Bartolomeo Giuliano、Giuseppe Costa、Lorenzo Delleani、Costantino Serenoといった画家がいる。 1869年の脳卒中によって部分的なに麻痺が残り、助手の助けを借りて仕事を続けたが、1871年に解雇され、187年にボローニャで亡くなった。
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カルロ・アリエンティは、19世紀イタリアの画家である。 イタリア統一運動の時代のロンバルディアで働いた画家である。
{{Infobox 芸術家 | bgcolour = #6495ED | name = カルロ・アリエンティ<br>Carlo Arienti | image = File:Arienti-Selfportrait2.jpg | imagesize = 190px | caption = 自画像 | birthdate = {{birth date|1801|7|21}} | location = [[アルコレ (モンツァ・エ・ブリアンツァ県)|アルコレ]] | deathdate = {{death date and age|1873|3|21|1801|7|21}} | deathplace = [[ボローニャ]] | field = | training = | movement = | works = | patrons = | influenced by = | influenced = | awards = }} '''カルロ・アリエンティ'''(Carlo Arienti、[[1801年]][[7月21日]] - [[1873年]][[3月21日]])は、19世紀[[イタリア]]の画家である。 [[イタリア統一運動]]の時代のロンバルディアで働いた画家である。 == 略歴 == [[ロンバルディア州|ロンバルディア]]の[[アルコレ (モンツァ・エ・ブリアンツァ県)|アルコレ]]で[[モンツァ]]の庭園管理人の息子に生まれた。父親が働く[[マントヴァ]]のパラッツオ・ドゥカーロや[[パラッツォ・デル・テ]]の美術品を写生するようになった。13歳の時父親を亡くした後、[[ミラノ]]に移り[[ブレラ美術アカデミー]]で[[新古典主義]]の画家[[ルイージ・サバテッリ]]や彫刻家のカミッロ・パセット(Camillo Pacet)に学んだ<ref>Giuseppe Rovani, ''Le tre arti. Considerate in alcuni illustri italiani contemporanei'', Vol.2, 1874, reissued in 2004 by Lampi di Stampa {{ISBN|978-88-488-0303-8}}</ref>。肖像画を描いて生活費を得て、1823年から展覧会に出展するようになり、父親の友人の支援で1824年から[[ローマ]]の[[アカデミア・ディ・サン・ルカ]]で修行を続けた。1829年までローマに滞在し、ロンバルディア出身の裕福な画家、美術史家のカルロ・ダカルト(Carlo d'Arco: 1799-1872) と友人になり、ともに暮らした。この間もミラノにしばしば戻り、ブレラ美術アカデミーの展覧会に6点の肖像画を出展した。 1831年に作曲家の[[ヴィンチェンツォ・ベッリーニ]]の肖像画を制作して高く評価され、ロンバルディアの貴族や上流階級の人々から歴史絵画などの注文を受けるようになり、人気のある画家になった<ref name="T">[https://www.treccani.it/enciclopedia/carlo-arienti_%28Dizionario-Biografico%29/ Biography of Arienti] by Angela Ottino Della Chiesa, from the '' Dizionario Biografico degli Italiani'' @ [[Treccani]]</ref> 。この頃、仕事でミラノを離れたルイージ・サバテッリの代理として3年間、ブレラ美術アカデミーの教授を務めた。オーストリア皇帝フェルディナント1世やサルデーニャ国王の[[カルロ・アルベルト・ディ・サヴォイア|カルロ・アルベルト]]からの注文を受けた。1843年、[[トリノ]]の美術学校(Accademia Albertina)の教授となり、1859年までトリノで働いた<ref name="T" />。 1855年の[[パリ万国博覧会 (1855年)|パリ万国博覧会]]の展覧会に、オーストリアのイタリア支配に抵抗する事件を題材の作品2点を出展し、イタリア独立運動に対するフランスの支援を得るための宣伝に加わった。 1859年のオーストリア軍がロンバルディアの大部分からの撤退した後、[[サルデーニャ王国]]から勲章を授与され、[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世]]から絵の注文を受けるが、トリノの美術学校長と対立し、教授職を失った。1860年に[[モデナ]]で短期働いた後、[[ボローニャ]]に移り、ボローニャの美術学校の理事を務めた<ref name="T" /> 。アリエンティが教えた学生には、Enrico Gamba。Bartolomeo Giuliano、Giuseppe Costa、Lorenzo Delleani、Costantino Serenoといった画家がいる。 1869年の脳卒中によって部分的なに麻痺が残り、助手の助けを借りて仕事を続けたが、1871年に解雇され、187年にボローニャで亡くなった。 == 作品 == <gallery mode="nolines" widths="180" heights="190" style="font-size:smaller"> File:I profughi di Tortona, by Carlo Arienti.JPG|[[トルトーナ]]の難民 (1843/1854) File:Carlo Arrienti - Der Bethlehemitische Kindermord - 2690 - Österreichische Galerie Belvedere.jpg|"Massacre of the Innocents" (c.1842)<br> [[美術史美術館]] File:Arienti-Cialdini.jpg|[[エンリコ・チャルディーニ]](サルデーニャ王国軍人) File:Bice del Balzo ritrovata da Marco Visconti nel sotterraneo del Castello di Rosate.jpg|トンマーゾ・グロッシの小説を題材にした作品 </gallery> <gallery mode="nolines" widths="240" heights="160" style="font-size:smaller"> File:Arienti-Barbarossa.jpg|アレッサンドリアから退却する皇帝[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|バルバロッサ]](1848/1851) File:Arienti-Roman.jpg|古代ローマ人の生活(c.1830) File:Arienti-Parliament.jpg|清教徒革命を題材にした作品 </gallery> == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * Delle arti del disegno e degli artisti nelle provincie di Lombardia dal 1777 al 1862, Antonio Caimi, Pirola, Milano, 1862 * Vita del commendatore Carlo Arienti pittore della Real Casa, Cesare Masini, Regia Tipografia, Torino, 1873 * Vita del pittore Carlo Arienti, Aurelio Minghetti, Edizioni de L'arte, Milano, 1942 * Il contributo nazionale alla politica artistica sabauda: Hayez, Arienti e Podesti, Fernando Mazzocca, Cultura figurativa e architettonica, volume I, 1980, pp. 429-437; * Renzo Grandi (a cura di), Dall'Accademia al vero. La pittura a Bologna prima e dopo l'Unità d'Italia, Casalecchio di Reno, Grafis, 1983, pp. 184-185. (catalogo della mostra dal 29 gennaio al 4 aprile 1983 alla Galleria d'arte moderna di Bologna) {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ありえんてい かるろ}} [[Category:19世紀イタリアの画家]] [[Category:ロンバルディア州出身の人物]] [[Category:1801年生]] [[Category:1873年没]]
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カルロス・カヴァーゾ
カルロス・カヴァーゾ(Carlos Cavazo、1957年7月8日-)は、アメリカのミュージシャン、ギタリスト。 クワイエット・ライオットなどに在籍し、現在はラットで活動している。 1957年、ジョージア州アトランタでメキシコ人の父とアメリカ人の母の間に生まれる。1973年に兄のトニーとカリフォルニア州オレンジ郡アナハイム(ヒルズ)でバンド「スピード・オブ・ライト」を結成。カルロスはキャニオン高校に入学したが、音楽の道に進むため4年生の時に退学した。バンドは、ヴォーカリストのダグ・エリソンとドラマーのスティーヴン・クアドロスを加え、1978年にスノウと改名した。スノーはその後数年間、ロサンゼルスで人気となり、1980年に自費でEPをリリースした。スノーは2017年11月8日、『アット・ラスト』のリリースを記念してウィスキー・ア・ゴーゴーで再結成ライヴを行った(アマルゴ、ストーンブリード、アンヘレス、そしてパンチョ・ヴィラズ・スカルと共演)。 1982年、再結成されたクワイエット・ライオットに飛行機事故で亡くなったランディ・ローズの後任として加入し、バンドの解散まで在籍した。しかし、2006年の再結成時は参加しなかった。 2006年、ヴィニー・アピス(ドラムス)、ジミー・ベイン(ベース)、チャス・ウェスト(ボーカル)、ブライアン・ヤング(ギター)らとスーパーグループ、「3レグド・ドッグ」を結成。2006年に1枚のアルバム『フローズン・サマー』をリリースした。バンドは2019年、リック・デリンジャーが、自身がバンドの曲全てを作詞したと主張する訴訟を起こされた。 2018年、脱退したジョン・コラビの後任としてラットに加入、現在も同バンドで活動を続けている。
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カルロス・カヴァーゾは、アメリカのミュージシャン、ギタリスト。  クワイエット・ライオットなどに在籍し、現在はラットで活動している。
{{Infobox Musician <!-- プロジェクト:音楽家を参照 --> |名前 = カルロス・カヴァーゾ |画像 = Carlos Cavazo Iraq 2.jpg |画像説明 = 2008年 |画像サイズ = <!-- サイズが幅250ピクセルに満たない場合のみ記入 --> |画像補正 = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --> |背景色 = singer |出生名 = Carlos Cavazo |別名 = <!-- ミュージシャン/グループの別名を記載。愛称や略称ではありません --> |出生 = {{生年月日と年齢|1957|7|8}} |出身地 = {{USA}}<br/>[[ジョージア州]][[アトランタ]] |死没 = <!-- 個人のみ --><!-- {{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}} --> |学歴 = キャニオン高校中退 |ジャンル = [[グラム・メタル]]<br/>[[ハードロック]] |職業 = [[作詞家]] |担当楽器 = [[ギター]] |活動期間 = [[1973年]]-現在 |レーベル = |配偶者 = <!-- 個人のみ --> |著名な家族 = <!-- 個人のみ --> |事務所 = |共同作業者 = スピード・オブ・ライト<br/>スノー<br/>[[クワイエット・ライオット]]<br/>ヒート<br/>ブラック・プレイグ<br/>3レグド・ドッグ<br/>ビッグ・ノイズ<br/>ハリウッド・オールスターズ<br/>ザ・ダーティ・ラッツ<br/>[[ラット]]<br/>[[Hear 'n Aid]] |公式サイト = |メンバー = <!-- グループのみ --> |旧メンバー = <!-- グループのみ --> |著名使用楽器 = <!-- 個人のみ --> }} '''カルロス・カヴァーゾ'''(Carlos Cavazo、1957年7月8日-)は、アメリカのミュージシャン、ギタリスト。  [[クワイエット・ライオット]]などに在籍し、現在は[[ラット (バンド)|ラット]]で活動している。 == 経歴 == 1957年、[[ジョージア州]][[アトランタ]]でメキシコ人の父とアメリカ人の母の間に生まれる。1973年に兄のトニーと[[カリフォルニア州]][[オレンジ郡 (カリフォルニア州)|オレンジ郡]][[アナハイム]](ヒルズ)でバンド「スピード・オブ・ライト」を結成。カルロスはキャニオン高校に入学したが、音楽の道に進むため4年生の時に退学した。バンドは、ヴォーカリストのダグ・エリソンとドラマーのスティーヴン・クアドロスを加え、1978年にスノウと改名した。スノーはその後数年間、[[ロサンゼルス]]で人気となり、1980年に自費で[[EP]]をリリースした<ref>{{Cite web |title=The Website of Escape-Music Ltd |url=http://www.escape-music.com/ESM305.htm |website=www.escape-music.com |access-date=2023-11-10}}</ref><ref>{{Cite web |title=Cavazo expects new album ‘Snow at Last’ to revive memories - Valley News |url=https://web.archive.org/web/20190101002830/https://www.myvalleynews.com/story/2017/09/14/entertainment/cavazo-expects-new-album-snow-at-last-to-revive-memories/55028.html |website=web.archive.org |date=2019-01-01 |access-date=2023-11-10}}</ref>。スノーは2017年11月8日、『アット・ラスト』のリリースを記念して[[ウィスキー・ア・ゴーゴー]]で再結成ライヴを行った(アマルゴ、ストーンブリード、アンヘレス、そしてパンチョ・ヴィラズ・スカルと共演)<ref>{{Cite web |title=Snow featuring Carlos Cavazo Returns to the Whisky A Go Go November 8th |url=https://www.hairbandheaven.rocks/single-post/2017/10/09/snow-featuring-carlos-cavazo-returns-to-the-whisky-a-go-go-november-8th |website=hairbandheaven |date=2017-10-09 |access-date=2023-11-10 |language=en |first=Hair Band |last=Heaven}}</ref>。 1982年、再結成された[[クワイエット・ライオット]]に飛行機事故で亡くなった[[ランディ・ローズ]]の後任として加入し、バンドの解散まで在籍した。しかし、2006年の再結成時は参加しなかった<ref name=":0">Rivadavia , Eduardo</ref>。 2006年、[[ヴィニー・アピス]](ドラムス)、[[ジミー・ベイン]](ベース)、チャス・ウェスト(ボーカル)、ブライアン・ヤング(ギター)らとスーパーグループ、「3レグド・ドッグ」を結成。2006年に1枚のアルバム『フローズン・サマー』をリリースした。バンドは2019年、[[リック・デリンジャー]]が、自身がバンドの曲全てを作詞したと主張する訴訟を起こされた<ref name=":0" />。 2018年、脱退した[[ジョン・コラビ]]の後任として[[ラット (バンド)|ラット]]に加入、現在も同バンドで活動を続けている<ref>Bowar, Chad (2009年8月17日)</ref>。 == ディスコグラフィー == === スノー === * 1980 ''Snow'' === マックス・ハボック, LTD === * 1983 ''Max Havoc'' === クワイエット・ライオット === * 1983 ''[[メタル・ヘルス〜ランディ・ローズに捧ぐ〜|Metal Health]]'' * 1984 ''Condition Critical'' * 1986 ''QR III'' * 1988 ''QR'' * 1993 ''Terrified'' * 1993 ''The Randy Rhoads Years'' * 1995 ''Down to the Bone'' * 1999 ''Alive and Well'' * 2001 ''Guilty Pleasures'' === Hear 'n Aid === * 1985 ''Hear 'n Aid'' === 3レグド・ドッグ === * 2006 ''[[Frozen Summer]]'' === パワー・プロジェクト === * 2006 ''Dinosaurs'' === ティム・"リッパー"・オーウェンズ === * 2009 ''Play My Game'' === ラット === * 2010 ''[[インフェステイション|Infestation]]'' * '''King Kobra''' * 2023 We Are Warriors == 参考文献 == {{Reflist}}{{Normdaten}}{{ラット}} [[Category:20世紀アメリカ合衆国のギタリスト]] [[Category:ラットのメンバー]] [[Category:クワイエット・ライオットのメンバー]] [[Category:アナハイム出身の人物]] [[Category:メキシコ系アメリカ人のミュージシャン]] [[Category:アメリカ合衆国のロック・ギタリスト]] [[Category:存命人物]] [[Category:1957年生]]
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フアン・クルーシエ
フアン・クルーシエ(Juan Croucier、1959年8月22日-)はキューバ生まれのアメリカのミュージシャン。ハードロックバンド、ラットのベーシストとして知られる。 カリフォルニア州トーランスのトーランス高校に通い、さまざまなバンドで演奏した。バンドではオリジナル曲を演奏するようになり、16歳の時にスパイクというバンドに加入した。 1977年、ギターのロン・エイブラムス、ドラムのボビー・ブロッツァーと共にファイアーフォックスというバンドを結成した。1980年代にはラット、クワイエット・ライオット、ダブロウ(ケヴィン・ダブロウがクワイエット・ライオット解散後に結成したバンド)に在籍した。ダブロウを脱退する前に、フランキー・バネリをダブロウに紹介した。バネリは後に再結成したクワイエット・ライオットに加入する。 クルーシエは後にドッケンに加入、約4年間在籍し、バンドと共にドイツ・ツアーを数回行った。ドッケンを脱退するまでの約1年半、ラットのメンバーとしても活動した。ドッケンのアルバム『ブレイキング・ザ・チェインズ』では2曲を共作した。後任のジェフ・ピルソンは、同アルバムのタイトル曲のビデオに出演している。 ラットでは、「Lack of Communication」や「You're in Love」など、バンドの大ヒット曲の多くを作曲した。彼のバック・ヴォーカルはラットのトレードマークとなった。 その後、ロサンゼルスでザ・セラーというレコーディング・スタジオを経営し、さまざまなバンドやソロ・アーティストのレコーディング、プロデュース、エンジニアリングを手がけた。 1997年に、同名のソロ・アルバムを基にしたプロジェクトとして、新しいバンド、リキッド・サンデーを結成した。このアルバムでボーカルを担当し、ベースとギターも弾いている。弟のリックもドラムで参加している。バンドは2006年夏にライヴを行った。その後、カルロス・カヴァーゾ、ジョン・メディナらと新バンド「ダーティ・ラッツ」を結成した。 2012年5月12日、ラットの再結成に参加。1991年以来のM3ロック・フェスティバルで演奏した。
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フアン・クルーシエはキューバ生まれのアメリカのミュージシャン。ハードロックバンド、ラットのベーシストとして知られる。
{{存命人物の出典皆無|date=2023年11月11日 (土) 13:56 (UTC)}} {{Infobox Musician <!-- プロジェクト:音楽家を参照 --> |名前 = フアン・クルーシエ |画像 = <!-- 画像ファイル名 --> |画像説明 = <!-- 画像の説明文 --> |画像サイズ = <!-- サイズが幅250ピクセルに満たない場合のみ記入 --> |画像補正 = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --> |背景色 = singer |出生名 = Juan Croucier |別名 = <!-- ミュージシャン/グループの別名を記載。愛称や略称ではありません --> |出生 = {{生年月日と年齢|1959|8|22}} |出身地 = {{USA}}<br/>[[カリフォルニア州]][[トーランス]] |死没 = <!-- 個人のみ --><!-- {{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}} --> |学歴 = トーランス高校 |ジャンル = [[ハードロック]] |職業 = [[作曲家]]<br/>[[作詞家]] |担当楽器 = [[ベース (弦楽器)|ベース]] |活動期間 = [[1977年]]-現在 |レーベル = |配偶者 = <!-- 個人のみ --> |著名な家族 = <!-- 個人のみ --> |事務所 = |共同作業者 = [[ラット (バンド)|ラット]]<br/>[[ドッケン]]<br/>[[クワイエット・ライオット]] |公式サイト = |メンバー = <!-- グループのみ --> |旧メンバー = <!-- グループのみ --> |著名使用楽器 = <!-- 個人のみ --> }} '''フアン・クルーシエ'''(Juan Croucier、1959年8月22日-)は[[キューバ]]生まれの[[アメリカ合衆国|アメリカ]]のミュージシャン。[[ハードロック]]バンド、[[ラット (バンド)|ラット]]のベーシストとして知られる。 == 経歴 == [[カリフォルニア州]][[トーランス (カリフォルニア州)|トーランス]]のトーランス高校に通い、さまざまなバンドで演奏した。バンドではオリジナル曲を演奏するようになり、16歳の時にスパイクというバンドに加入した。 [[1977年]]、ギターのロン・エイブラムス、ドラムの[[ボビー・ブロッツァー]]と共に'''ファイアーフォックス'''というバンドを結成した。1980年代には[[ラット (バンド)|ラット]]、[[クワイエット・ライオット]]、ダブロウ([[ケヴィン・ダブロウ]]がクワイエット・ライオット解散後に結成したバンド)に在籍した。ダブロウを脱退する前に、[[フランキー・バネリ]]をダブロウに紹介した。バネリは後に再結成したクワイエット・ライオットに加入する。 クルーシエは後に[[ドッケン]]に加入、約4年間在籍し、バンドと共にドイツ・ツアーを数回行った。ドッケンを脱退するまでの約1年半、[[ラット (バンド)|ラット]]のメンバーとしても活動した。ドッケンのアルバム『ブレイキング・ザ・チェインズ』では2曲を共作した。後任の[[ジェフ・ピルソン]]は、同アルバムのタイトル曲のビデオに出演している。 ラットでは、「Lack of Communication」や「You're in Love」など、バンドの大ヒット曲の多くを作曲した。彼のバック・ヴォーカルはラットのトレードマークとなった。 その後、[[ロサンゼルス]]でザ・セラーというレコーディング・スタジオを経営し、さまざまなバンドやソロ・アーティストのレコーディング、プロデュース、エンジニアリングを手がけた。 1997年に、同名のソロ・アルバムを基にしたプロジェクトとして、新しいバンド、'''リキッド・サンデー'''を結成した。このアルバムでボーカルを担当し、ベースとギターも弾いている。弟のリックもドラムで参加している。バンドは2006年夏にライヴを行った。その後、[[カルロス・カヴァーゾ]]、ジョン・メディナらと新バンド「'''ダーティ・ラッツ」'''を結成した。 2012年5月12日、ラットの再結成に参加。1991年以来のM3ロック・フェスティバルで演奏した。 == ディスコグラフィー == === ドッケン === * ''Back in the Streets'' (1979) * ''Breaking the Chains'' (1981) * ''The Lost Songs: 1978–1981'' (2020) === ラット === * ''[[ラット (1983年のアルバム)|Ratt]]'' (1983) * ''[[情欲の炎|Out of the Cellar]]'' (1984) * ''[[インヴェイジョン・オブ・ユア・プライヴァシー|Invasion of Your Privacy]]'' (1985) * ''[[ダンシング・アンダーカヴァー|Dancing Undercover]]'' (1986) * ''[[リーチ・フォー・ザ・スカイ (ラットのアルバム)|Reach for the Sky]]'' (1988) * ''[[ディトネイター|Detonator]]'' (1990) === ソロ === * ''Liquid Sunday'' (2001) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Official website|http://www.juancroucier.com/}} * [https://www.namm.org/library/oral-history/juan-croucier Juan Croucier Interview] at NAMM Oral History Library (2017) {{ラット}} <!--{{Dokken}} {{Quiet Riot}}--> {{Normdaten}} {{Music-bio-stub}} {{DEFAULTSORT:くるうしえ ふあん}} [[Category:ラットのメンバー]] [[Category:ドッケンのメンバー]] [[Category:1959年生]] [[Category:存命人物]]
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フェイスネットワーク (不動産業)
株式会社フェイスネットワーク(FaithNetwork Co., Ltd.)は、東京都渋谷区に本社を置く不動産会社。東京証券取引所スタンダード市場上場。 2001年10月に設立。主に東京都城南地区(世田谷区・目黒区・渋谷区)において、投資用マンションの設計・施工・分譲管理などを手掛けている他、東京都渋谷区において日本茶カフェ「八屋」の運営も行っている。
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株式会社フェイスネットワークは、東京都渋谷区に本社を置く不動産会社。東京証券取引所スタンダード市場上場。
{{基礎情報 会社 | 社名 = 株式会社フェイスネットワーク | 英文社名 = FaithNetwork Co., Ltd. | ロゴ = | 画像 = | 画像説明 = | 種類 = 株式会社 | 機関設計 = | 市場情報 = {{上場情報|東証スタンダード|3489|2018年3月16日}} | 略称 = | 国籍 = {{JPN}} | 本社郵便番号 = 151-0051 | 本社所在地 = [[東京都]][[渋谷区]]千駄ヶ谷3-2-1<br />FaithBldg. | 本社緯度度 = | 本社緯度分 = | 本社緯度秒 = | 本社N(北緯)及びS(南緯) = | 本社経度度 = | 本社経度分 = | 本社経度秒 = | 本社E(東経)及びW(西経) = | 本社地図国コード = | 本店郵便番号 = | 本店所在地 = | 本店緯度度 = | 本店緯度分 = | 本店緯度秒 = | 本店N(北緯)及びS(南緯) = | 本店経度度 = | 本店経度分 = | 本店経度秒 = | 本店E(東経)及びW(西経) = | 本店地図国コード = | 設立 = [[2001年]][[10月2日]] | 業種 = 不動産業 | 法人番号 = 6013201013986 | 統一金融機関コード = | SWIFTコード = | 事業内容 = 不動産業・建設業・一級建築士事務所 | 代表者 = [[代表取締役]][[社長]] 蜂谷二郎 | 資本金 = 6億8112万円<br />(2023年3月31日現在) | 発行済株式総数 = 9,960,000株<br />(2023年6月30日現在)<ref name="yuka">[https://global-assets.irdirect.jp/pdf/securities_report/batch/S100R6WS.pdf 2023年3月期有価証券報告書]フェイスネットワーク</ref> | 売上高 = 209億6830万7000円<br />(2023年3月期)<ref name="yuka" /> | 営業利益 = 25億1807万1000円<br />(2023年3月期)<ref name="yuka" /> | 経常利益 = 23億151万7000円<br />(2023年3月期)<ref name="yuka" /> | 純利益 = 15億9314万円<br />(2023年3月期)<ref name="yuka" /> | 純資産 = 68億7959万4000円<br />(2023年3月31日現在)<ref name="yuka" /> | 総資産 = 205億9803万3000円<br />(2023年3月31日現在)<ref name="yuka" /> | 従業員数 = 165名(2023年3月31日現在)<ref name="yuka" /> | 支店舗数 = | 決算期 = 3月31日 | 会計監査人 = 東陽監査法人<ref name="yuka" /> | 所有者 = | 主要株主 = (株)88 40.58%<br />蜂谷二郎 9.27%<br />(株)[[日本マスタートラスト信託銀行]](信託口) 3.32%<br />(2023年3月31日現在)<ref name="yuka" /> | 主要部門 = | 主要子会社 = 株式会社[[岩本組]] 100% | 関係する人物 = | 外部リンク = https://faithnetwork.jp/ | 特記事項 = }} '''株式会社フェイスネットワーク'''(FaithNetwork Co., Ltd.)は、[[東京都]][[渋谷区]]に本社を置く[[不動産会社]]。[[東京証券取引所]]スタンダード市場上場。 == 概要 == 2001年10月に設立。主に[[東京都]]城南地区([[世田谷区]]・[[目黒区]]・[[渋谷区]])において、投資用マンションの設計・施工・分譲管理などを手掛けている他<ref>[https://forbesjapan.com/articles/detail/63110 長期的視点で資産価値が期待できる投資用マンションの条件]Forbes JAPAN 2023年5月25日</ref>、東京都渋谷区において日本茶カフェ「八屋」の運営も行っている<ref>[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000175.000026725.html 日本茶カフェ「八屋」で初秋に人気を集める”あの味”が今年も帰ってきた!毎年大好評の「栗かぼちゃクリームとほうじ茶のかき氷」が満を持して登場!]PR TIMES 2023年9月1日</ref>。 == 沿革 == *2001年10月 - 有限会社フェイスネットワークとして設立。 *2002年3月 - 宅地建物取引業免許を取得。 *2003年12月 - 新築一棟マンションの自社ブランドであるGranDuoシリーズを販売開始。 *2006年5月 - 株式会社へ改組。 *2007年 **6月 - 建設業許可を取得。 **10月 - 商号を株式会社フェイスへ変更。 *2010年12月 - 特定建設業許可を取得。 *2014年12月 - 株式会社フェイスネットワーク(旧:有限会社ファイブセンス)を吸収合併したと同時に、商号を株式会社フェイスネットワークへ再度変更。 *2017年5月 - 中古一棟ビルリノベーションの自社ブランドであるGrandStoryシリーズを販売開始。 *2018年 **3月 - [[東京証券取引所]][[マザーズ]]へ株式を上場。 **9月 - 不動産特定共同事業許可を取得。 *2021年2月 - 東京証券取引所1部へ市場変更。 *2023年 **7月 - 株式会社[[岩本組]]を完全子会社化<ref>[https://global-assets.irdirect.jp/pdf/tdnet/batch/140120230523579417.pdf 株式取得(子会社の取得)に関するお知らせ]フェイスネットワーク 2023年5月23日</ref>。 **10月 - 東京証券取引所スタンダード市場へ市場変更<ref>[https://global-assets.irdirect.jp/pdf/tdnet/batch/140120230922557307.pdf プライム市場上場維持基準への適合状況及びスタンダード市場上場の選択申請の決定に関するお知らせ]フェイスネットワーク 2023年9月22日</ref>。 == 関連会社 == *株式会社[[岩本組]] *FAITHアセットマネジメント株式会社 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == *[https://faithnetwork.jp/ 株式会社フェイスネットワーク] {{DEFAULTSORT:ふえいすねつとわあく}} [[Category:日本の不動産会社]] [[Category:不動産投資顧問業]] [[Category:渋谷区の企業]] [[Category:東証スタンダード上場企業]] [[Category:2001年設立の企業]] [[Category:2018年上場の企業]]
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日立市立成沢小学校
日立市立成沢小学校(ひたちしりつなるさわしょうがっこう)は、茨城県日立市中成沢町3-16-8にある日立市立小学校。 成沢小学校は、1955年4月に油縄子小学校の一部を、1969年4月に諏訪小学校の一部を分離した。将来的には、油縄子小学校との統合が検討されている。 開設以前 開設後 (出典:)
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日立市立成沢小学校(ひたちしりつなるさわしょうがっこう)は、茨城県日立市中成沢町3-16-8にある日立市立小学校。
{{Infobox 日本の学校|校名=日立市立成沢小学校|過去校名=鮎川尋常小学校<br> 鮎川尋常高等小学校<br> 多賀第三尋常高等小学校<br> 多賀第三国民学校<br> 多賀町立成沢小学校<ref name="enkaku">"[https://www.city.hitachi.lg.jp/narusawa-e/002/p006527.html 沿革]". 日立市立成沢小学校.2023年11月10日閲覧。</ref>|国公私立=[[公立学校]]|設置者=[[日立市]]|校訓=夢の実現に向けて 生き生きと目を輝かせて学びあう成沢っ子の育成<ref name="PTA">"[http://hitachi-pta.org/tanp/narusawa_e.html 成沢小学校]". 日立市立小・中学校PTA連合会.2023年11月10日閲覧。</ref>|設立年月日=[[1889年]][[7月1日]]<ref name="toukei">"[https://www.city.hitachi.lg.jp/kyouiku/shiryo/p117434_d/fil/ikkatsu.pdf 『2023 日立の教育』]". 日立市教育委員会.p. 11. 2023年11月10日閲覧。</ref>|創立記念日=[[7月1日]]<ref name="PTA" />|共学・別学=[[男女共学]]|学期=3学期制|学校コード=B108220200090|校地面積=17,090 m<sup>2</sup><ref name="toukei" />|校舎面積=6,007 m<sup>2</sup><ref name="toukei" />|郵便番号=316-0033|所在地=[[茨城県]][[日立市]]中成沢町3丁目16番8号|外部リンク=[https://hitachi-narusawa-e.edumap.jp/ 公式サイト]|地図WikiData=yes|マップ表示=yes|地図ズーム=13|地図国コード=JP}} '''日立市立成沢小学校'''(ひたちしりつなるさわしょうがっこう)は、[[茨城県]][[日立市]]中成沢町3-16-8にある日立市立小学校。 == 概要 == 成沢小学校は、[[1955年]]4月に[[日立市立油縄子小学校|油縄子小学校]]の一部を、[[1969年]]4月に[[日立市立諏訪小学校|諏訪小学校]]の一部を分離した<ref name=":4">{{Cite web |url=https://www.city.hitachi.lg.jp/kyouiku/000/p058304_d/fil/-keikaku-.pdf |title=『日立市立学校再編計画 子どものための環境づくりを ~市民とともに~ 【第1次】(2021~2030)』 |access-date=2023年11月11日 |publisher=日立市教育委員会 |pages=32-33}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.city.hitachi.lg.jp/kyouiku/shiryo/p117434_d/fil/ikkatsu.pdf |title=『2023 日立の教育』 |access-date=2023年11月11日 |publisher=日立市教育委員会 |pages=63-64}}</ref>。将来的には、油縄子小学校との統合が検討されている<ref name=":4" />。 == 沿革 == === 年表 === '''開設以前'''<ref group="注釈">ここでは、[https://www.city.hitachi.lg.jp/kyouiku/shiryo/p117434_d/fil/ikkatsu.pdf 『2023 日立の教育』]11頁(日立市教育委員会)掲載の開設日(1889年(明治22年)7月1日)を基準とした。</ref> * [[1873年]] ** [[7月1日]] - 水漏舎小学校が創立<ref name=":0">{{Cite web |title=成沢小学校 {{!}} 沿革 |url=https://www.city.hitachi.lg.jp/narusawa-e/002/p006527.html |website= |access-date=2023-11-10 |publisher=日立市立成沢小学校 |archive-url=https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11662074/www.city.hitachi.lg.jp/narusawa-e/002/p006527.html |archive-date=2021-4-7}}</ref><ref name=":1">{{Cite web |url=https://www.city.hitachi.lg.jp/narusawa-e/topix/p113248_d/fil/100YearAlbam_short.pdf |title=『創立百周年記念 100年のあゆみ』 |access-date=2023年11月10日 |publisher=日立市立成沢小学校 |page=6 |archive-url=https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12771558/www.city.hitachi.lg.jp/narusawa-e/topix/p113248_d/fil/100YearAlbam_short.pdf |archive-date=2023-4-8}}</ref>。 ** [[12月28日]] - 成沢小学校に改称<ref name=":1" />。 * [[1877年]]4月 - 成沢小学校、諏訪小学校が油縄子村小学校に合併<ref name=":1" />。 * [[1884年]][[11月29日]] - 油縄子小学校に改称<ref name=":0" />。 * [[1886年]][[11月25日]] - 成沢小学校に改称<ref name=":0" />。 '''開設後''' * [[1889年]]7月1日 - 成沢字表田に開設<ref name=":0" /><ref>{{Cite web |url=https://www.city.hitachi.lg.jp/kyouiku/shiryo/p117434_d/fil/ikkatsu.pdf |title=『2023 日立の教育』 |access-date=2023年11月10日 |publisher=[[日立市教育委員会]] |page=11}}</ref>。 * [[1892年]][[5月28日]] - 鮎川[[尋常小学校]]設置許可<ref name=":0" />。 * [[1911年]][[6月1日]] - [[高等科]]を併置。鮎川[[尋常高等小学校]]に改称<ref name=":0" />。 * [[1939年]][[4月1日]] - 多賀第三尋常高等小学校に改称<ref name=":0" />。 * [[1941年]]4月1日 - 多賀第三[[国民学校]]に改称<ref name=":0" />。 * [[1942年]]1月 - 諏訪に分教場が設立<ref>{{Cite web |url=https://www.city.hitachi.lg.jp/narusawa-e/topix/p113248_d/fil/100YearAlbam_short.pdf |title=『創立百周年記念 100年のあゆみ』 |access-date=2023年11月10日 |publisher=日立市立成沢小学校 |archive-url=https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12771558/www.city.hitachi.lg.jp/narusawa-e/topix/p113248_d/fil/100YearAlbam_short.pdf |archive-date=2023-4-8 |page=22}}</ref> * [[1947年]][[5月1日]] - [[多賀町 (茨城県)|多賀町]]立成沢小学校に改称<ref name=":0" />。 * [[1949年]]4月1日 - 諏訪[[分教場]]が独立し、上諏訪小学校となる<ref name=":0" />([[1962年]][[3月31日]]に[[日立市立油縄子小学校|油縄子小学校]]に吸収統合<ref name=":2">{{Cite web |url=https://www.city.hitachi.lg.jp/kyouiku/shiryo/p117434_d/fil/ikkatsu.pdf |title=『2023 日立の教育』 |access-date=2023年11月10日 |publisher=日立市教育委員会 |page=63}}</ref>)。 * [[1954年]]11月 - [[校歌]]制定<ref name=":0" />。 * [[1955年]][[2月15日]] - 多賀町と[[日立市]]が合併し、新日立市が誕生。日立市立成沢小学校に改称<ref name=":0" /><ref name=":2" />。 * [[1959年]][[11月5日]] - [[校章]]制定<ref name=":0" />。 * [[1974年]]4月1日 - [[情緒障害児]]学級「なるさわ学級」を設置<ref>{{Cite web |url=https://www.city.hitachi.lg.jp/kyouiku/shiryo/p117434_d/fil/ikkatsu.pdf |title=『2023 日立の教育』 |access-date=2023年11月10日 |publisher=日立市教育委員会 |page=64}}</ref>。 * [[2014年]]度 ** 小学校[[教科担任|教科担任制]]モデル校(理科)に指定<ref name=":3">{{Cite web |url=http://www.city.hitachi.lg.jp/kyouiku/shiryo/p037780_d/fil/2014-hitachi-no-kyouiku.pdf |title=『2014 日立の教育』 |access-date=2023年11月10日 |publisher=日立市教育委員会 |page=17 |archive-url=https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9216502/www.city.hitachi.lg.jp/kyouiku/shiryo/p037780_d/fil/2014-hitachi-no-kyouiku.pdf |archive-date=2015-4-4}}</ref>。 ** 理科ボランティア派遣モデル小学校に指定<ref name=":3" />。 * [[2015年]]度 - 授業力ブラッシュアップ研修重点校(算数)に指定<ref>{{Cite web |url=http://www.city.hitachi.lg.jp/kyouiku/shiryo/p047152_d/fil/2015-hitachi-no-kyoiku.pdf |title=『2015 日立の教育』 |access-date=2023年11月10日 |publisher=日立市教育委員会 |page=17 |archive-date=2016-4-4 |archive-url=https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9927643/www.city.hitachi.lg.jp/kyouiku/shiryo/p047152_d/fil/2015-hitachi-no-kyoiku.pdf}}</ref>。 * [[2018年]]度 - 小学校理科教科担任制における推進地域モデル小学校に指定<ref>{{Cite web |url=http://www.city.hitachi.lg.jp/kyouiku/shiryo/p071210_d/fil/2018-hitachi-no-kyoiku.pdf |title=『2018 日立の教育』 |access-date=2023年11月10日 |publisher=日立市教育委員会 |archive-url=https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11165182/www.city.hitachi.lg.jp/kyouiku/shiryo/p071210_d/fil/2018-hitachi-no-kyoiku.pdf |archive-date=2018-10-4}}</ref>。 * [[2021年]]度 - 新たな体験活動プログラム調査・研究指定校に指定<ref>{{Cite web |url=https://www.city.hitachi.lg.jp/kyouiku/shiryo/p097612_d/fil/gakkoukyouiku.pdf |title=『2021 日立の教育』 |access-date=2023年11月10日 |publisher=日立市教育委員会 |page=17}}</ref>。 * [[2022年]]4月1日 - 放課後子ども教室を開設<ref>{{Cite web |url=https://www.city.hitachi.lg.jp/kyouiku/shiryo/p117434_d/fil/ikkatsu.pdf |title=『2023 日立の教育』 |access-date=2023年11月10日 |publisher=日立市教育委員会 |page=71}}</ref>。 == 教育方針 == {{節スタブ|date=2023年11月}} == 学校行事 == {{節スタブ|date=2023年11月}} == 児童会活動・クラブ活動など == {{節スタブ|date=2023年11月}} == 通学区域 == (出典:<ref>{{Cite web |title=日立市教育委員会|日立市立小学校及び中学校学区検索 |url=https://www.city.hitachi.lg.jp/kyouiku/school/001/p002355.html#ka_gyo |website= |access-date=2023-11-10 |publisher=日立市教育委員会}}</ref><ref>{{Cite web |title=日立市の小学校 {{!}} 日立市の賃貸・売買は鈴縫工業(株)日立駅前店 |url=https://www.suzunui.jp/e-school/ |website= |access-date=2023-11-10 |publisher=[[鈴縫工業]]株式会社}}</ref>) * 日立市鮎川町 ** 5丁目12から16番 ** 6丁目6番6号から9番2号、9番A、10・11番AからC・7号以降 * 日立市中成沢町 ** 1丁目4から17番 ** 2丁目 ** 3丁目 ** 4丁目 * 日立市西成沢町 ** 1丁目 ** 2丁目 ** 3丁目1から10番、12番14号以降 ** 4丁目 * 日立市東成沢町 ** 3丁目1から8番、14番6から11号、15から18番 == 進学先中学校 == * [[日立市立多賀中学校]] == 学区内の主な施設 == * [https://www.city.hitachi.lg.jp/shisetsu/009/001/p036570.html 成沢交流センター] * [[日立市民運動公園野球場]](日立市市民運動公園 野球場) * [https://www.hits.or.jp/ 日立地区産業支援センター] * [[茨城大学]] 日立キャンパス * [[日立工業専修学校]] * [https://www.pref.ibaraki.jp/shokorodo/hisansen/kunren/index.html 茨城県立日立産業技術専門学院] == 交通 == {{節スタブ|date=2023年11月}} == 関係者 == === 出身者 === * [[多賀竜昇司]](元[[関脇]]) {{節スタブ|date=2023年11月}} == 脚注 == {{脚注の使い方}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[茨城県小学校一覧]] * [[日立市教育委員会]] * [[日立市]] * [[多賀町 (茨城県)|多賀町]] == 外部リンク == * [https://hitachi-narusawa-e.edumap.jp/ 日立市立成沢小学校] * [https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12995823/www.city.hitachi.lg.jp/narusawa-e/index.html 日立市立成沢小学校旧ホームページ](2023年9月12日時点のアーカイブ) * [https://web.archive.org/web/20140215055538/http://www.narusawa-e.hitachi-kyoiku.ed.jp/ 日立市立成沢小学校旧ホームページ](2014年2月15日時点のアーカイブ) {{School-stub|pref=茨城県}} {{デフォルトソート:ひたちしりつなるさわしようかつこう}}<!-- この記事は、プロジェクト:学校/小学校テンプレートを使用しています。 --> [[Category:日本の公立小学校]] [[Category:茨城県の公立小学校]] [[category:日立市の小学校|なるさわ]]
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井領
井領または囲領(いりょう)とは、道路や水路の利便性向上を目的として地権者が土地を提供することをいう。道路の場合は「井領道路」、水路の場合は「井領道路」と呼ばれる。 敷地間に道路や水路を通すため、あるいは狭小な道路や水路を拡幅するために周辺の住民が自主的にセットバックをして土地を提供したもの。所有権は地権者にあるものの管理は市町村などに委任されており、市町村などから借地料が支払われているケースもある。一般には「井領」と表記するが、愛知県愛西市では「囲領」と表記されることが多い。 特に道路の場合は緊急車両の通行や消防活動空地を確保する目的で、幅員4メートルに満たない狭隘道路では道路中心線から2メートルを控えて塀などを造ることを求められることも多い。しかし自主的な提供であるため将来的な境界トラブルも懸念されることから、地籍調査・分筆による境界確定や寄附によって解消を進める自治体も多い。
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井領または囲領(いりょう)とは、道路や水路の利便性向上を目的として地権者が土地を提供することをいう。道路の場合は「井領道路」、水路の場合は「井領道路」と呼ばれる。
'''井領'''または'''囲領'''(いりょう)とは、[[道路]]や[[水路]]の利便性向上を目的として[[地権者]]が[[土地]]を提供することをいう<ref name="HOUSEDO">{{Cite web|和書|url=https://fudosan-totalsupport.com/dictionary/20230423-278/ |title=井領道路(いりょうどうろ) |author=[[ハウスドゥ]] |accessdate=2023-11-10}}</ref>。井領による道路は「井領道路」、水路は「井領水路」と呼ばれる。 == 概要 == 井領は隣地との間に道路や水路を通すため、あるいは狭小な道路や水路を拡幅するために周辺の住民が自主的に[[セットバック (土地利用)|セットバック]]をして土地を提供したものである<ref name="HOUSEDO"/>。所有権は地権者にあるものの管理は市町村などに委任されており、市町村などから借地料が支払われているケースもある<ref name="HOUSEDO"/>。一般には「井領」と表記するが、[[愛知県]][[愛西市]]では「囲領」と表記されることが多い<ref name="HOUSEDO"/>。 特に道路の場合は緊急車両の通行や消防活動空地を確保する目的で、幅員4[[メートル]]に満たない[[狭隘道路]]では道路中心線から2メートルを控えて塀などを造ることを求められることも多い<ref name="あま市">{{Cite web|和書|url=https://www.city.ama.aichi.jp/kurashi/kotsu/douro/1002482.html |title=道路及び水路の寄附採納に関すること |author=[[あま市]] |accessdate=2023-11-10}}</ref><ref name="愛西市">{{Cite web|和書|url=https://www.city.aisai.lg.jp/cmsfiles/contents/0000010/10996/gikai55_web_11.pdf |title=愛西市議会だより 2019年2月 11頁 |author=[[愛西市]] |accessdate=2023-11-10}}</ref>。しかし自主的な提供であるため将来的な[[境界]]トラブルも懸念されることから、[[地籍調査]]・[[分筆]]による境界確定や寄附によって解消を進める自治体も多い<ref name="あま市"/><ref name="愛西市"/><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.ama.aichi.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/006/412/20200327siryou1-2.pdf |title=あま市まち・ひと・しごと創生総合戦略 |author=[[あま市]] |accessdate=2023-11-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.aisai.lg.jp/cmsfiles/contents/0000004/4309/25-14[1].pdf |title=愛西市議会だより 2011年8月 14頁 |author=[[愛西市]] |accessdate=2023-11-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.inazawa.aichi.jp/sangyo_shigoto/kenchiku_tochi/1008222.html |title=地籍調査 |author=[[稲沢市]] |accessdate=2023-11-10}}</ref>。 == 脚注 == {{reflist}} {{デフォルトソート:いりよう}} [[Category:土地管理]] [[Category:都市計画]] [[Category:建築用語]] [[Category:不動産登記]]
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柳漢烈
柳 漢烈(ユ・ハニョル、朝鮮語: 유한열/柳漢烈、1938年1月15日 - )は、大韓民国の政治家。第10・11・12・13・16代韓国国会議員。 本貫は文化柳氏。仏教徒。リュ・ハニョル(漢字同、류한열)など、このほかにもいくつか別表記がある。父は柳珍山。 日本統治時代の忠清南道錦山郡出身。ルーズベルト大学卒。現地ではイリノイ州社会福祉局長を務めた。帰国後、民主韓国党事務総長、韓日議員連盟幹事、新民党副総裁、国会動力資源委員会委員長、ハンナラ党においては党務委員、忠清南道支部長、運営委員、常任運営委員等を歴任。
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柳 漢烈は、大韓民国の政治家。第10・11・12・13・16代韓国国会議員。 本貫は文化柳氏。仏教徒。リュ・ハニョル(漢字同、류한열)など、このほかにもいくつか別表記がある。父は柳珍山。
'''柳 漢烈'''(ユ・ハニョル、{{Lang-ko|유한열/柳漢烈}}、[[1938年]][[1月15日]] - )は、[[大韓民国]]の[[政治家]]。第10・11・12・13・16代[[国会 (大韓民国)|韓国国会]]議員。 [[本貫]]は{{仮リンク|文化柳氏|ko|문화 류씨}}。[[仏教徒]]<ref name=대한민국헌정회>{{Cite web |title=대한민국헌정회 |url=https://rokps.or.kr/profile/profile_view.asp?idx=2162&page=1 |website=rokps.or.kr |access-date=2023-11-10}}</ref>。政治家の[[柳珍山]]は父<ref name=sisaon>{{Cite web |title=유한열 “昌은 사고가 단조로워, 자기가 대통령 자리 걷어찼지” |url=http://www.sisaon.co.kr/news/articleView.html?idxno=8548 |website=시사오늘(시사ON) |date=2011-06-02 |access-date=2023-11-10 |language=ko}}</ref>。'''リュ・ハニョル'''(漢字同、류한열)など、いくつかの別表記がある。 == 経歴 == [[全羅北道 (日本統治時代)|日本統治時代の全羅北道]](現・[[忠清南道]])[[錦山郡]]出身。[[延世大学校]]2年中退、{{仮リンク|ルーズベルト大学|en|Roosevelt University}}卒。[[イリノイ州]]社会福祉局長を務めた後、[[1971年大韓民国大統領選挙|1971年の大統領選挙]]での父の柳珍山の立候補を手伝うために1970年に帰国した<ref name=sisaon/>。その後は国会議員を5期務めたほか、[[列国議会同盟]](IPU)国際理事、AIPO韓国代表理事、[[民主韓国党]]事務総長、[[韓日議員連盟]]幹事、[[新韓民主党|新民党]]副総裁、国会動力資源委員会委員長を歴任し、[[ハンナラ党]]においては党務委員、[[1997年大韓民国大統領選挙|第15代]]・[[2002年大韓民国大統領選挙|16代大統領選挙]]対策委員長、忠清南道支部長、運営委員、常任運営委員、常任顧問などを歴任した<ref name=대한민국헌정회/><ref name=sisaon/>。 ==不祥事== 2008年8月、[[国防部 (大韓民国)|国防部]]の[[納品]]請託の見返りに企業から2億3千万ウォンの[[賄賂]]を受けた疑いで拘束・収監された<ref>{{Cite web|date=2008-08-11|title='군납비리' 유한열 구속수감…공성진 소환 예정|url=https://news.sbs.co.kr/news/endPage.do?news_id=N1000456536|access-date=2023-11-10|website=SBS NEWS|language=ko}}</ref><ref name=nocutnews/>。同年12月に[[懲役]]1年6か月の刑を宣告された<ref>{{Cite web|title=‘알선 수재’ 유한열 징역 1년 6개월|url=https://news.kbs.co.kr/news/pc/view/view.do?ncd=1681959|access-date=2023-11-10|website=KBS 뉴스|language=ko|date=2008.12.05}}</ref>。2009年4月の[[控訴審]]では懲役10か月、[[追徴金]]2億3千万ウォンの刑を宣告された<ref name=nocutnews>{{Cite web|date=2009-04-08|title=유한열 전 한나라당 고문 항소심서도 징역형|url=https://www.nocutnews.co.kr/news/573162|access-date=2023-11-10|website=노컷뉴스}}</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} {{DEFAULTSORT:ゆ はによる}} [[Category:韓国の国会議員]] [[Category:在アメリカ合衆国韓国人]] [[Category:有罪判決を受けた政治家]] [[Category:忠清南道出身の人物]] [[Category:延世大学校出身の人物]] [[Category:韓国の仏教徒]] [[Category:1938年生]] [[Category:存命人物]]
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京都市立中立小学校
京都市立中立小学校(きょうとしりつ ちゅうりつしょうがっこう)は、京都市上京区にあった公立小学校。ここでは、同校の設立単位となった地域区分(元学区)である中立学区(ちゅうりつがっく)についても述べる。 明治2年(1869年)に京都で設立された64の番組小学校の一つとして開校し、平成7年(1995年)に、京都市立小川小学校と共に、京都市立小川中立小学校(現在の京都市立新町小学校)に統合され、閉校した。跡地は、現在京都市立新町小学校の校地となっている。 戦後、滋野中学校が設置されるにあたり、滋野小学校が閉校となることで、滋野学区の一部が中立小学校の通学区域となっていた。現在、滋野学区は全域が新町小学校の通学区域となっている。 中立学区(ちゅうりつがっく)は、京都市の学区(元学区)のひとつ。京都市上京区に位置する。明治初期に成立した地域区分である「番組」に起源を持ち、学区名の由来ともなるかつての中立小学校の通学区域であり、今でも地域自治の単位となる地域区分である。 明治2年(1869年)の第二次町組改正により成立した上京第16番組に由来し、同年には、区域内に上京第16番組小学校(のちに中立に校名を改称)が創立した。明治5年(1872年)には上京第17区、明治12年(1879年)には区が組となり上京第17組となった。学区制度により明治25年(1892年)には上京第13学区となった。 昭和4年(1929年)に、学区名が小学校名により改称され、上京第13学区から中立学区となった。昭和17年(1942年)に京都市における学区制度は廃止されるが、現在も地域の名称、地域自治の単位として用いられている。 京都市内では、概ね元学区を単位として国勢統計区が設定されており、小川学区の区域に設定されている国勢統計区(上京区第3国勢統計区)における令和2年(2020年)10月の人口・世帯数は3,857人、2,214世帯である。 上京区の中央部に位置する学区であり、北側は小川学区、西側は聚楽学区、南側は滋野学区、東側は京都御苑に接する。区域は、東は烏丸通、西は堀川、北は一条通、南は下長者町通で限られ、面積は0.277平方キロメートルである。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "京都市立中立小学校(きょうとしりつ ちゅうりつしょうがっこう)は、京都市上京区にあった公立小学校。ここでは、同校の設立単位となった地域区分(元学区)である中立学区(ちゅうりつがっく)についても述べる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "明治2年(1869年)に京都で設立された64の番組小学校の一つとして開校し、平成7年(1995年)に、京都市立小川小学校と共に、京都市立小川中立小学校(現在の京都市立新町小学校)に統合され、閉校した。跡地は、現在京都市立新町小学校の校地となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "戦後、滋野中学校が設置されるにあたり、滋野小学校が閉校となることで、滋野学区の一部が中立小学校の通学区域となっていた。現在、滋野学区は全域が新町小学校の通学区域となっている。", "title": "通学区域" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "中立学区(ちゅうりつがっく)は、京都市の学区(元学区)のひとつ。京都市上京区に位置する。明治初期に成立した地域区分である「番組」に起源を持ち、学区名の由来ともなるかつての中立小学校の通学区域であり、今でも地域自治の単位となる地域区分である。", "title": "中立学区" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "明治2年(1869年)の第二次町組改正により成立した上京第16番組に由来し、同年には、区域内に上京第16番組小学校(のちに中立に校名を改称)が創立した。明治5年(1872年)には上京第17区、明治12年(1879年)には区が組となり上京第17組となった。学区制度により明治25年(1892年)には上京第13学区となった。", "title": "中立学区" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "昭和4年(1929年)に、学区名が小学校名により改称され、上京第13学区から中立学区となった。昭和17年(1942年)に京都市における学区制度は廃止されるが、現在も地域の名称、地域自治の単位として用いられている。", "title": "中立学区" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "京都市内では、概ね元学区を単位として国勢統計区が設定されており、小川学区の区域に設定されている国勢統計区(上京区第3国勢統計区)における令和2年(2020年)10月の人口・世帯数は3,857人、2,214世帯である。", "title": "中立学区" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "上京区の中央部に位置する学区であり、北側は小川学区、西側は聚楽学区、南側は滋野学区、東側は京都御苑に接する。区域は、東は烏丸通、西は堀川、北は一条通、南は下長者町通で限られ、面積は0.277平方キロメートルである。", "title": "中立学区" } ]
京都市立中立小学校は、京都市上京区にあった公立小学校。ここでは、同校の設立単位となった地域区分(元学区)である中立学区(ちゅうりつがっく)についても述べる。
{{Infobox 日本の学校 |校名 = 京都市立中立小学校<br/>Churitsu elementary school |画像 = |過去校名 = 上京第十六番組小学校<br/>中立尋常小学校<br/>京都市中立国民学校 |国公私立 = [[公立学校]] |設置者 = [[ファイル:Flag of Kyoto City.svg|20px]] [[京都市]] |併合学校 = |校訓 = |設立年月日=[[明治]]2年(1869年)11月26日<ref name="京都学校物語p94">{{cite|和書|editor=京都市学校歴史博物館|chapter=番組小学校の変遷|title=京都 学校物語|publisher=京都通信社|year=2006|page=94-95|isbn=4-903473-20-1}}(設立日の日付は旧暦である。)</ref> |閉校年月日=[[1995年]](統合先は現在の[[京都市立新町小学校]]) |記念日名称 = |創立記念日 = |創立者 = 上京第十六番組 |共学・別学 = [[男女共学]] |中高一貫教育 = |分校 = |中学校コード = |郵便番号 = 602-0915 |所在地 = [[京都府]][[京都市]][[上京区]]中立売通室町西入三丁町457<ref name="沿革史中立校">{{cite|和書|title=京都市立学校園沿革史|year=1981|publisher=京都報道センター|page=49|chapter=京都市立中立小学校|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/12111830/1/65|doi=10.11501/12111830}}</ref> |緯度度 = 35|緯度分 = 01|緯度秒 = 32 |経度度 = 135|経度分 = 45|経度秒 = 21 }} '''京都市立中立小学校'''(きょうとしりつ ちゅうりつしょうがっこう)は、[[京都市]][[上京区]]にあった[[公立学校|公立]][[小学校]]。ここでは、同校の設立単位となった地域区分([[京都の元学区|元学区]])である'''中立学区'''(ちゅうりつがっく)についても述べる。 == 概要 == [[明治]]2年([[1869年]])に京都で設立された64の[[番組小学校]]の一つとして開校し、[[平成]]7年([[1995年]])に、[[京都市立小川小学校]]と共に、京都市立小川中立小学校(現在の[[京都市立新町小学校]])に統合され、閉校した。跡地は、現在京都市立新町小学校の校地となっている。 == 沿革 == * 1869年(明治2年) - '''上京第十六番組小学校'''として開校<ref name="史料中立学区">{{cite|和書|chapter=中立学区|title=史料京都の歴史 第7巻 (上京区)|publisher=平凡社|year=1980|page=220-221|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/9574460/1/124|doi=10.11501/9574460|isbn=9784582477078}}</ref><ref name="学校歴史">{{cite web|author=京都市学校歴史博物館|title=京都市立小学校の変遷|url=http://kyo-gakurehaku.jp/about/chart/img/PS_transition020810.pdf|type=pdf||accessdate=2023-08-11|ref={{SfnRef|『京都市立小学校の変遷』|2019}} }}</ref>(開校日:11月26日<ref name="京都学校物語p94"/>) * 1877年(明治8年) - 校名を'''中立'''に改称{{R|学校歴史}} * 1892年(明治25年)12月 - 京都市立中立尋常小学校に改称{{R|沿革史中立校}} * 1941年(昭和16年)4月 - 京都市中立国民学校に改称{{R|沿革史中立校}} * 1947年(昭和22年)4月 - 京都市立中立小学校に改称{{R|沿革史中立校}} * 1948年(昭和23年) - 通学区域の変更([[滋野学区]]から転入学){{R|沿革史中立校}} * 1995年(平成7年)- 小川中立小学校に統合され、閉校{{R|学校歴史}} * 1997年(平成9年)- 小川中立小学校から[[京都市立新町小学校|新町小学校]]が開校{{R|学校歴史}}<ref>{{cite web|和書|title=KA109 中立小学校・中立幼稚園開校・閉校記念碑|url=https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/ka109.html|accessdate=2023-11-10}}なお、説明文中「元滋野学区の中立・小川小学校が統合して」とあるが、これは誤りであり、「中立・小川小学校が統合し、元中立学区、元小川学区、元滋野学区を校区とする」が正しい。</ref> == 通学区域 == 戦後、[[京都市立滋野中学校|滋野中学校]]が設置されるにあたり、滋野小学校が閉校となることで、[[滋野学区]]の一部が中立小学校の通学区域となっていた。現在、滋野学区は全域が新町小学校の通学区域となっている<ref name="上京区通学区域">{{cite web|和書|url=https://www.city.kyoto.lg.jp/kyoiku/cmsfiles/contents/0000246/246308/02kamigyo_.pdf|title=京都市通学区町名一覧(上京区)|accessdate=2023-11-10}}</ref>。 == 中立学区 == '''中立学区'''(ちゅうりつがっく)は、[[京都市]]の[[京都の元学区|学区(元学区)]]のひとつ。京都市[[上京区]]に位置する。[[明治]]初期に成立した地域区分である「[[京都の元学区#番組|番組]]」に起源を持ち、学区名の由来ともなるかつての中立小学校の通学区域であり、今でも地域自治の単位となる地域区分である。 明治2年([[1869年]])の第二次町組改正により成立した'''上京第16番組'''に由来し、同年には、区域内に上京第16[[番組小学校]](のちに'''中立'''に校名を改称)が創立した。明治5年([[1872年]])には'''上京第17区'''、明治12年([[1879年]])には[[京都の元学区#区|区]]が[[京都の元学区#組|組]]となり'''上京第17組'''となった<ref name="史料中立学区"/>。学区制度により明治25年([[1892年]])には'''上京第13学区'''となった<ref name="M25府令">明治25年6月3日府令第42号(京都市尋常小學校々數位置幷ニ小學區ノ件){{cite|和書|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/788418/1/171|chapter=明治25年6月3日府令第42号|title=京都府府令達要約 明治25年 第13編上巻|doi=10.11501/788418|year=1892|page=276-288}}</ref>。 [[昭和]]4年([[1929年]])に、学区名が小学校名により改称され、上京第13学区から'''中立学区'''となった<ref name="史料中立学区"/>。昭和17年([[1942年]])に京都市における学区制度は廃止されるが<ref name="百年年表5S16">{{cite|和書|chapter=昭16(1941)年|title=京都府百年の年表 5 (教育編)|editor=京都府立総合資料館|publisher=京都府|year=1970|page=202|url=https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/9537074/1/112|doi=10.11501/9537074}}</ref>、現在も地域の名称、地域自治の単位として用いられている。 === 人口・世帯数 === 京都市内では、概ね元学区を単位として[[国勢統計区]]が設定されており<ref name="国勢統計区">{{cite web|url=https://www2.city.kyoto.lg.jp/sogo/toukei/Population/Census/Data/2020/e-Stat/09_kyoto_city_population/2_yougo.pdf|title=用語の解説(京都市の人口 令和2年国勢調査結果)|accessdate=2023-08-17|type=pdf}}</ref>、中立学区の区域に設定されている国勢統計区(上京区第3国勢統計区<ref>令和2年国勢調査時点</ref>)における[[令和]]2年([[2020年]])10月の人口・世帯数は3,857人、2,214世帯である。 === 地理 === 上京区の中央部に位置する学区であり、北側は[[小川学区]]、西側は[[聚楽学区]]、南側は[[滋野学区]]、東側は[[京都御苑]]に接する。区域は、東は[[烏丸通]]、西は[[堀川 (京都府)|堀川]]、北は[[一条通]]、南は[[下長者町通]]で限られ<ref name="史料中立学区"/>、面積は0.277平方キロメートルである{{refnest| [https://www2.city.kyoto.lg.jp/sogo/toukei/Area/ 京都市地域統計要覧ウェブサービス]の国政統計区別集計において、総務省統計局「地図で見る統計(jSTAT MAP)」に登録されている境界データから算出された数値として示される面積。}}。 === 中立学区内の通り === {{div col|rules=yes}} {{no col break| ==== 東西の通り ==== * [[一条通]] * [[中立売通]] * [[上長者町通]] * [[中長者町通]] * [[下長者町通]] }} {{no col break| ==== 南北の通り ==== * [[烏丸通]] * [[室町通]] * [[衣棚通]] * [[新町通]] * [[西洞院通]] * [[小川通]] * [[油小路通]] * [[堀川通]] }} {{div col end}} === 中立学区の町名 === {{columns-list|9em| * 龍前町 * 薬屋町 * 花立町 * 清和院町 * 正親町 * 仕丁町 * 元頂妙寺町 * 讃州寺町 * 菊屋町 * 頭町 * 小川町 * 下小川町 * 油橋詰町 * 甲斐守町 * 亀屋町 * 松之下町 * 突抜町 * 主計町 * 一町目 * 二町目 * 広橋殿町 * 東日野殿町 * 西日野殿町 * 元真如堂町 * 西之口町 * 東町 * 三丁町 * 東橋詰町 * 元浄花院町 * 元土御門町 * 土御門町 * 有春町 * 橋本町 * 東長者町 * 仲之町 * 中橋詰町 }} == 周辺 == === 中立学区内の主な施設 === * [[京都府警察本部]]庁舎 - 同所には以前[[中立売警察署]]があった。 * 旧京都中央電話局西陣分局 * [[弘道館 (皆川淇園)|有斐斎弘道館]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{-}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{cite|和書|chapter=中立学区|title=史料京都の歴史 第7巻 (上京区)|publisher=平凡社|year=1980|page=220-221|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/9574460/1/124|doi=10.11501/9574460|isbn=9784582477078}} * {{cite web|url= https://www.city.kyoto.lg.jp/kamigyo/page/0000029018.html |title=学区案内/中立学区(ちゅうりつ)|accessdate=2023-11-09}} == 関連文献 == * {{Cite|和書|title=京都市の地名|series=[[日本歴史地名大系]]27|publisher=平凡社|year=1979|isbn=4-582-49027-1|ref={{SfnRef|『京都市の地名』|1979}} }} * {{cite|和書|chapter=上京第十三学区之部|page=232-380|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1210445/1/10|title=京都坊目誌 上京之部 乾 上巻之十二-十五|author=碓井小三郎|year=1915|doi=10.11501/1210439}} * {{cite|和書|chapter=上京区中立学区|page44-45|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1440637/1/48|publisher=京都市学区調査会|title=京都市学区大観|year=1937|doi=10.11501/1440637|ref={{SfnRef|『京都市学区大観』|1937}} }} == 関連項目 == * [[京都府小学校一覧]] * [[京都府小学校の廃校一覧]] * [[番組小学校]] * [[京都の元学区]] * [[京都橘中学校・高等学校]] - 前身となる私立京都女子手芸学校が中立売通新町西入三丁町454にあった。 == 外部リンク == * [https://www2.city.kyoto.lg.jp/sogo/toukei/Area/ 京都市地域統計要覧ウェブサービス]<!-- accessdate=2023-10-21 --> {{School-stub|pref=京都府}} {{DEFAULTSORT:きようとしりつちゆうりつしよう}} [[Category:京都市の公立小学校 (廃止)|ちゆうりつ]] [[Category:上京区の小学校|廃ちゆうりつ]] [[Category:上京区の歴史|ちゆうりつしよう]] [[Category:学校記事]]
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ホビーショップ
ホビーショップ(またはホビーストア)とは、ホビースト向けの娯楽アイテムを販売している店舗である。 古典的なホビーショップは、模型航空機(軍用機、民間飛行機、旅客機など)、鉄道模型(機関車、鉄道車両、線路、パワーパック、その他の小物など)、船舶模型、住宅や建築模型、などの模型、クラフト用品、専門誌、などを専門に取り扱っている。いくつかのホビーショップでは、ラジコンカー、ダービーカー、ボート、リモコン飛行機なども販売している。 ドール、コイン、切手などといった収集家向けアイテムを販売しているショップもある。 「ゲームショップ」はホビーショップの一種で、ジグソーパズル、カードゲーム、ボードゲーム、ロールプレイングゲーム、などを販売するアナログゲーム専門店である。このような店舗には、「ホビースト」(ゲーマー) が集まってゲームをプレイするためのコミュニティスペースが設置されている場合もある。近年、ボードゲームやカードゲーム専門のホビーショップとして「ボードゲームカフェ」と呼ばれる形態が増えてきた。 「コンピュータショップ」はホビーショップの一種で、コンピューター、ソフトウェア、サービス、トレーニングなどを販売している。旧来のコンピュータショップでは、コンピュータ、ネットワーク機器、およびサービスなどを主に販売していたが、近年は、Adobe PhotoShop、Autodesk 3ds、ウェブデザイン、などと言ったクリエイティブなソフトウェアの使い方をトレーニングする「道場」を提供するショップも存在する。テクノロジーが進化し続けるにつれて、ポスト「ドットコム」時代のコンピュータショップは、これらの機器やサービスを使って、人々が集まり互いに学び合う実践的なトレーニング環境として形態を変化させた。というのも、テクノロジ業界で働く人々の中には、テクノロジをホビーにして活動している人もいるからである。
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ホビーショップ(またはホビーストア)とは、ホビースト向けの娯楽アイテムを販売している店舗である。
{{出典の明記|date=2023-11}} [[File:P&S Hobbies & Models Walmgate.jpg|thumb|ホビーと模型の店(イングランド)]] '''ホビーショップ'''(または'''ホビーストア''')とは、ホビースト向けの娯楽アイテムを販売している店舗である。 == 種類 == === 模型 === 古典的なホビーショップは、[[模型航空機]](軍用機、民間飛行機、旅客機など)、[[鉄道模型]](機関車、鉄道車両、線路、パワーパック、その他の小物など)、[[船舶模型]]、住宅や[[建築模型]]、などのメーカー品(既製品)、クラフト用品、専門誌、などを専門に取り扱っている。いくつかのホビーショップでは、ラジコンカー、[[ミニ四駆]]、ラジコンボート、ラジコン飛行機なども販売している。 === コレクターズ・アイテム === ドール、コイン、切手などといった収集家向けアイテムを販売しているショップもある。 === アナログゲーム === 「ゲームショップ」はホビーショップの一種で、ジグソーパズル、カードゲーム、ボードゲーム、ロールプレイングゲーム、などを販売するアナログゲーム専門店である。このような店舗には、「ホビースト」(ゲーマー)が集まってゲームをプレイするためのコミュニティスペースが設置されている場合もある。近年、ボードゲームやカードゲーム専門のホビーショップとして「[[ボードゲームカフェ]]」と呼ばれる形態が増えてきた<ref>{{cite web|title=What Is the Deal With Board-Game Cafes?| website=[[The Atlantic]] | date=23 November 2014 |url=https://www.theatlantic.com/entertainment/archive/2014/11/board-game-bars/382828/?single_page=|accessdate=23 April 2015}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Konieczny|first=Piotr|date=2019|title=Golden Age of Tabletop Gaming: Creation of the Social Capital and Rise of Third Spaces for Tabletop Gaming in the 21st Century, (206).|url=http://polish-sociological-review.eu/pdf-117918-46968?filename=Golden%20Age%20of%20Tabletop.pdf|journal=Polish Sociological Review|volume=206|issue=2|pages=199–215|doi=10.26412/psr206.05|doi-broken-date=1 August 2023 }}</ref>。 === コンピュータ === 「コンピュータショップ」はホビーショップの一種で、コンピューター、ソフトウェア、サービス、トレーニングなどを販売している。1980年代までは「[[パソコンショップ|マイコンショップ]]」と呼ばれた旧来のコンピュータショップでは、コンピュータ、ネットワーク機器、およびサービスなどを主に販売していたが、2000年代以後は、Adobe PhotoShop、Autodesk 3ds、ウェブデザイン、などと言ったクリエイティブなソフトウェアの使い方をトレーニングする「道場」を提供するショップも存在する。テクノロジーが進化し続ける、ポスト「[[インターネット・バブル|ドットコム・バブル]]」時代において、コンピュータショップはこれらの機器やサービスを使い、人々が集まり互いに学び合う実践的なトレーニング環境として形態を変化させた。というのも、テクノロジ業界で働く人々の中には、テクノロジをホビーにして活動している人もいるからである。 == 関連項目 == * [[サード・プレイス]] == 参照 == {{Reflist}} [[Category:趣味]] [[Category:娯楽]]
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赤野井湾遺跡
赤野井湾遺跡(あかのいわんいせき)は、滋賀県守山市赤野井に位置する、縄文時代から中世にかけての複合遺跡である。 出土品の主なものとしては、琵琶湖の水面約3.5m下から縄文時代早期末の集石土坑が3基出土している。これは、大きな穴に焼けた石を詰め小動物や魚を蒸し焼きに調理した跡であり、大量の炭とともにイノシシ、シカ、ネズミ、ヘビ、スッポンなどの動物とコイ、フナ、アユ、ハス、ウグイ、ギギなどの魚の骨が出土している。 たくさんの木製品(鍬、鍬)も出土している。
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赤野井湾遺跡(あかのいわんいせき)は、滋賀県守山市赤野井に位置する、縄文時代から中世にかけての複合遺跡である。 出土品の主なものとしては、琵琶湖の水面約3.5m下から縄文時代早期末の集石土坑が3基出土している。これは、大きな穴に焼けた石を詰め小動物や魚を蒸し焼きに調理した跡であり、大量の炭とともにイノシシ、シカ、ネズミ、ヘビ、スッポンなどの動物とコイ、フナ、アユ、ハス、ウグイ、ギギなどの魚の骨が出土している。 たくさんの木製品(鍬、鍬)も出土している。
{{日本の古墳 |名称 = 赤野井湾遺跡 |画像 = |画像キャプション = |別名 = |所属 = |所在地 = [[滋賀県]][[守山市]]赤野井<br />赤野井湾周辺 |位置 = |緯度度 = 35|緯度分 = 4|緯度秒 = 30 |経度度 = 135|経度分 = 58|経度秒 = 43 |ISO = |形状 = |規模 = |埋葬施設 = |出土品 = 縄文時代早期末の集石土坑 ほか |陪塚 = |築造時期 = 縄文時代から中世 |被葬者 = |陵墓 = |史跡 = |有形文化財 = |埋蔵文化財包蔵地番号 = |特記事項 = |地図 = Japan Shiga |地図2 = |アイコン = |ラベル = |ラベル位置 = }} '''赤野井湾遺跡'''(あかのいわんいせき)は、[[滋賀県]][[守山市]]赤野井に位置する、[[縄文時代]]から[[中世]]にかけての複合遺跡である<ref>{{Cite book|和書 |title=滋賀県文化財学習シート 上 |date=平成17年3月 |year=平成17年 |publisher=滋賀県教育委員会事務局文化財保護課 |pages=125-126}}</ref>。 出土品の主なものとしては、[[琵琶湖]]の水面約3.5m下から縄文時代早期末の集石土坑が3基出土している。これは、大きな穴に焼けた石を詰め小動物や魚を蒸し焼きに調理した跡であり、大量の炭とともにイノシシ、シカ、ネズミ、ヘビ、スッポンなどの動物とコイ、フナ、アユ、ハス、ウグイ、ギギなどの魚の骨が出土している<ref>{{Cite web |title=調査員オススメの逸品 第223回 6500年前の縄文時代の調理場の再現模型 - シガブンシンブン オススメの逸品 |url=https://www.shiga-bunkazai.jp/shigabun-shinbun/recommended-relics/%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%93%A1%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%82%B9%E3%83%A1%E3%81%AE%E9%80%B8%E5%93%81-%E7%AC%AC223%E5%9B%9E%E3%80%806500%E5%B9%B4%E5%89%8D%E3%81%AE%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE/ |website=シガブンシンブン |date=2017-12-05 |access-date=2023-11-10 |language=ja |last=shigabunkazai}}</ref>。 たくさんの木製品(鍬、鍬)も出土している<ref>{{Cite web |title=調査員のおすすめの逸品№360 これで掘れるのか?―曲柄鍬― - シガブンシンブン オススメの逸品 |url=https://www.shiga-bunkazai.jp/shigabun-shinbun/recommended-relics/360/ |website=シガブンシンブン |date=2023-08-16 |access-date=2023-11-10 |language=ja |last=shigabunkazai}}</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} {{DEFAULTSORT:あかのいわんいせき}} [[Category:縄文時代の遺跡]] [[Category:滋賀県の古墳]] [[Category:滋賀県の地理]] [[Category:守山市の歴史]]
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マーク・ゲティ
サー・マーク・ハリス・ゲティ(Sir Mark Harris Getty KBE、1960年7月9日 - )は、イギリス出身の実業家である。1995年よりアイルランド国籍を有する。ゲッティイメージズを共同で創業し、会長を務める。 ジョン・ポール・ゲティ・ジュニアとその最初の妻、アビゲイル・ハリスとの間の次男として、イタリア・ローマで生まれた。ジャン・ポール・ゲティの孫にあたり、誘拐事件で有名になったジョン・ポール・ゲティ3世の弟である。 イングランドのトーントン・スクール(英語版)を卒業後、オックスフォード大学セント・キャサリンズ・カレッジ(英語版)で哲学と政治学を学んだ。 大学卒業後はニューヨークの証券会社・キダー・ピーボディ(英語版)に入社した後、ロンドンのハンブロス銀行(英語版)に移った。 1993年、一族が創業したエコツーリズム・ビジネスの企業、アンドビヨンド(andBeyond)に投資し、現在も同社の会長を務める。1994年、ジョナサン・クライン(英語版)とともに、写真画像代理店のゲッティイメージズを創業した。 2003年、イングランド・バッキンガムシャーのワームスリー・パーク(英語版)を父から相続した。2008年から2016年まで、ロンドンのナショナル・ギャラリーの管理委員会会長を務めた。2017年、ローマ・ブリティッシュ・スクール(英語版)の会長に就任した。
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サー・マーク・ハリス・ゲティは、イギリス出身の実業家である。1995年よりアイルランド国籍を有する。ゲッティイメージズを共同で創業し、会長を務める。
{{Infobox person | honorific_prefix = Sir | name = マーク・ゲティ | native_name = Mark Getty | honorific_suffix = {{postnom|size=100%|country=GBR|KBEh}} | image = | caption = | birth_name = Mark Harris Getty | birth_date = {{birth date and age|1960|7|9|df=y}} | birth_place = {{ITA}} [[ローマ]] | death_date = | death_place = | citizenship = {{IRE}}(1995年 - ) | occupation = 実業家 | known_for = [[ゲッティイメージズ]]共同創業者 | spouse = {{Plainlist| * {{marriage|{{仮リンク|ドミティッラ・ハーディングス|en|Domitilla Harding}}|1982|2011|reason=divorced}}}} | children = 3人 | father = [[ジョン・ポール・ゲティ・ジュニア]] | family = [[ゲティ家]] }} サー・'''マーク・ハリス・ゲティ'''(Sir Mark Harris Getty {{postnom|country=GBR|KBEh}}、[[1960年]][[7月9日]] - )は、[[イギリス]]出身の実業家である。1995年より[[アイルランド]]国籍を有する<ref>{{cite web |url=https://www.independent.ie/irish-news/seven-gettys-sign-up-for-irish-passports-26139933.html |title=Seven Gettys sign up for Irish passports |work=Independent.ie |accessdate=27 July 2021}}</ref>。[[ゲッティイメージズ]]を共同で創業し、会長を務める<ref>{{Cite news|url=https://www.thetimes.co.uk/article/how-i-made-it-mark-getty-chairman-of-getty-images-6q5wwpmcx7n|title=How I Made It: Mark Getty, chairman of Getty Images|date=2 February 2003|work=The Sunday Times|access-date=25 June 2018|issn=0956-1382}}</ref>。 ==生涯== [[ジョン・ポール・ゲティ・ジュニア]]とその最初の妻、アビゲイル・ハリスとの間の次男として、[[イタリア]]・[[ローマ]]で生まれた<ref>{{cite news|title=Sunday Times Rich List 2007|url=http://business.timesonline.co.uk/tol/business/specials/rich_list/rich_list_search | work=The Times | location=London | accessdate=12 May 2010}}</ref>。[[ジャン・ポール・ゲティ]]の孫にあたり、誘拐事件で有名になった[[ジョン・ポール・ゲティ3世]]の弟である。 イングランドの{{仮リンク|トーントン・スクール|en|Taunton School}}を卒業後、[[オックスフォード大学]]{{仮リンク|セント・キャサリンズ・カレッジ (オックスフォード大学)|label=セント・キャサリンズ・カレッジ|en|St Catherine's College, Oxford}}で哲学と政治学を学んだ<ref>{{cite news|url=https://www.thetimes.co.uk/article/how-i-made-it-mark-getty-chairman-of-getty-images-6q5wwpmcx7n|title=How I Made It: Mark Getty, chairman of Getty Images|work=The Sunday Times|location=London|accessdate=29 March 2018}}</ref>。 大学卒業後はニューヨークの証券会社・{{仮リンク|キダー・ピーボディ|en|Kidder, Peabody & Company}}に入社した後、ロンドンの{{仮リンク|ハンブロス銀行|en|Hambros Bank}}に移った<ref>{{Cite news|url=https://www.independent.co.uk/news/business/getty-family-takes-stake-in-uk-acquisition-venture-1398882.html|title=Getty family takes stake in UK acquisition venture|date=9 January 1994|work=The Independent|access-date=17 May 2018}}</ref>。 1993年、一族が創業したエコツーリズム・ビジネスの企業、アンドビヨンド(andBeyond)に投資し、現在も同社の会長を務める<ref>[https://investors.gettyimages.com/board-member/mark-getty Mark Getty's bio] at Getty Images</ref>。1994年、{{仮リンク|ジョナサン・クライン|en|Jonathan Klein (Getty Images)}}とともに、写真画像代理店の[[ゲッティイメージズ]]を創業した。 2003年、イングランド・[[バッキンガムシャー]]の{{仮リンク|ワームスリー・パーク|en|Wormsley Park}}を父から相続した。2008年から2016年まで、ロンドンの[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]の管理委員会会長を務めた<ref>{{Cite web|url=https://www.nationalgallery.org.uk/about-us/press-and-media/press-releases/mark-getty-appointed-chairman|title=Mark Getty|last=London|first=The National Gallery|website=www.nationalgallery.org.uk|language=en-GB|access-date=17 May 2018}}</ref>。2017年、{{仮リンク|ローマ・ブリティッシュ・スクール|en|British School at Rome}}の会長に就任した。 ==脚注== {{Reflist}} ==外部リンク== *[http://corporate.gettyimages.com/en-us/media/kitfiles/officers_03-16.pdf Getty Images Bio] *[https://www.forbes.com/sites/robertlenzner/2012/08/17/getty-images-a-wondrous-wealth-creation-vehicle ''Forbes'' profile] {{Authority control}} {{DEFAULTSORT:けてい まあく}} [[Category:1960年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:21世紀の実業家]] [[Category:アイルランドの実業家]] [[Category:アメリカ系アイルランド人]] [[Category:アイルランドに帰化した人物]] [[Category:大英帝国勲章受章者]] [[Category:ゲティ家|まあく]]
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Galaxy Watch6
Samsung Galaxy Watch6 シリーズ(サムスン ギャラクシーウォッチ6 シリーズ)は、サムスン電子が2023年7月26日に発表し、2023年8月11日に発売したスマートウォッチである。 日本では2023年9月15日に発売した。 「FeliCa」に対応 Galaxy Watch6は「Galaxy Watch」史上初めて「FeliCa」の通信技術を搭載した。そのため、「Suica」はもちろん電子マネーサービスの「iD」や「QUICPay(クイックペイ)TM」の仕様も可能になった。 (※ 日本国内モデルのみ対応) One UI 5 Watch Watch6シリーズでは、Wear OS 4上にOne UI 5 Watchが搭載され、下記の独自なGalaxy Watchの機能が利用できる。 増加したバッテリー容量 バッテリー容量は、 上記のように全モデル15mAhほど増大した。 また、常時表示ディスプレイをオンにした場合は最大30時間、オフにしたときは最大40時間と公称されている。 高速充電 1回のフル充電で最大40時間の使用が可能。 また、たった30分で最大45%まで高速の充電ができる。 (充電時間は、ご利用環境やご利用状況によって異なる。) 耐久性 今作は「サファイアクリスタルガラス」をウォッチディスプレイに使い耐久性を高めた。 また、防水・防塵はIP68となっている。そのため、水深1.5mまでの淡水に30分間の保護ができる。 (IP68:6→塵埃の侵入がない、8→継続的に水中に沈めた場合でも機器が影響を受けない) 回転ベゼル Watch6 Classicに今作は回転ベゼルが復活し、指が濡れている状況などで便利に操作することが可能になった。(回転ベゼル機能はWatch6 Classicのみ)
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Samsung Galaxy Watch6 シリーズは、サムスン電子が2023年7月26日に発表し、2023年8月11日に発売したスマートウォッチである。 日本では2023年9月15日に発売した。
{{Uncategorized|date=2023年12月}} {{Short description|Series of Android-based tablets by Samsung Electronics}} {{Infobox mobile phone | name = Samsung Galaxy Watch6<br>Samsung Galaxy Watch6 Classic | codename = | logo = | logosize = <!-- include "px" - Uses users default image size if omitted --> | image = | imagesize = <!-- include "px" - Uses users default image size if omitted --> | alt = | caption = | brand = [[Samsung Galaxy]] | manufacturer = [[Samsung Electronics]] | slogan = <!-- Phone-specific slogan; must cite source --> | colors = Beige, Graphite | series = [[Samsung Galaxy Watch Series]] | modelnumber = | networks = [[WCDMA]] / [[LTE (telecommunication)|LTE]] | released = 発表: {{Start date and age|2023|7|26}}<br>発売: {{Start date and age|2023|8|11}}<br>日本発売日:{{Start date and age|2023|9|15}} | available = | discontinued = <!-- {{End date|YYYY|MM|DD}} --> | unitssold = | unitsshipped = | successor = | related = | type = Smart Watch<br>([[スマートウォッチ]]) | form = | size = 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シリーズ)は、サムスン電子が2023年7月26日に発表し<ref>[https://news.kakaku.com/prdnews/cd=keitai/ctcd=7745/id=132638/ サムスン、睡眠測定機能を搭載したスマートウォッチ「Galaxy Watch6シリーズ」]</ref><ref>[https://gigazine.net/news/20230727-galaxy-watch-6-series/ クラシックモデルで回転ベゼルが復活した「Galaxy Watch6」シリーズをSamsungが発表、過去モデルとのスペック差は?]</ref>、2023年8月11日に発売したスマートウォッチである。 日本では2023年9月15日に発売した<ref>[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000485.000030942.html 最新スマートウォッチ「Galaxy Watch6」│「Galaxy Watch6 Classic」2023年9月15日発売]</ref><ref>[https://www.samsung.com/jp/explore/news/galaxy-watch6/ 最新スマートウォッチ 「Galaxy Watch6」│「Galaxy Watch6 Classic」 2023年9月15日 発売 さらに「Suica」「iD」「QUICPay(クイックペイ)™」への対応がついに決定!]</ref>。 == 主要項目 == '''「FeliCa」に対応''' Galaxy Watch6は「Galaxy Watch」史上初めて「[[FeliCa]]」の通信技術を搭載した。そのため、「[[Suica]]」はもちろん電子マネーサービスの「[[iD (クレジット決済サービス)|iD]]」や「[[QUICPay]](クイックペイ)™」の仕様も可能になった。<ref>[https://www.samsung.com/jp/explore/news/galaxy-watch6-docomo/ 【ドコモ】待望の「FeliCa」初対応!手首から毎日を豊かに。最新スマートウォッチ「Galaxy Watch6」本日より事前予約開始]</ref><ref>[https://www.samsung.com/jp/explore/news/galaxy-watch6/ 最新スマートウォッチ 「Galaxy Watch6」│「Galaxy Watch6 Classic」 2023年9月15日 発売 さらに「Suica」「iD」「QUICPay(クイックペイ)™」への対応がついに決定!]</ref><ref>[https://news.yahoo.co.jp/articles/d81d17f6500a850784aea34bef6f3eaa55e1efb8 シリーズ初のFelica対応。「Galaxy Watch6 / Watch6 Classic」9月下旬以降に国内発売]</ref> (※ 日本国内モデルのみ対応) '''One UI 5 Watch'''<br> Watch6シリーズでは、Wear OS 4上にOne UI 5 Watchが搭載され、下記の独自なGalaxy Watchの機能が利用できる。<ref>[https://japan.cnet.com/article/35207450/ 「Galaxy Watch6」シリーズレビュー:回転ベゼルの復活と着実な進化]</ref> *睡眠の分析情報と睡眠コーチング *パーソナライズされた心拍ゾーン *転倒を検知したときに装着者の位置情報を送信する緊急SOS *装着者が55歳以上の場合、転倒検知機能の自動有効化 '''増加したバッテリー容量'''<br> バッテリー容量は、 *Galaxy Watch5 40mm(284mAh)→Galaxy Watch6 40mm(300mAh) *Galaxy Watch5 44mm(410mAh)→Galaxy Watch6 44mm(425mAh) 上記のように全モデル15mAhほど増大した。 また、常時表示ディスプレイをオンにした場合は最大30時間、オフにしたときは最大40時間と公称されている。<ref>[https://getnavi.jp/digital/894992/ Galaxy Watch6のバッテリーが2週間近く持つ! 「時計専用」モードを活用しよう]</ref> '''高速充電'''<br> 1回のフル充電で最大40時間の使用が可能。 また、たった30分で最大45%まで高速の充電ができる。 (充電時間は、ご利用環境やご利用状況によって異なる。) '''耐久性'''<br> 今作は「サファイアクリスタルガラス」をウォッチディスプレイに使い耐久性を高めた。 また、防水・防塵はIP68となっている。そのため、水深1.5mまでの淡水に30分間の保護ができる。<ref>[https://kyodonewsprwire.jp/release/202308228279 LTE 対応の最新スマートウォッチ「Galaxy Watch6」 2023 年 9 月以降国内発売決定]</ref><br> (IP68:6→塵埃の侵入がない、8→継続的に水中に沈めた場合でも機器が影響を受けない) '''回転ベゼル'''<br> Watch6 Classicに今作は回転ベゼルが復活し、指が濡れている状況などで便利に操作することが可能になった。<ref>[https://news.yahoo.co.jp/articles/930d00b6733dcaea21b93945cf00db8ed2c8b853 ベゼルスリム化でよりスタイリッシュになった「Galaxy Watch6」シリーズ]</ref><br>(回転ベゼル機能はWatch6 Classicのみ) == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Official website|https://www.samsung.com/jp/watches/galaxy-watch/galaxy-watch6-40mm-gold-bluetooth-sm-r930nzeaxjp/}} [[Category:スマートウォッチ]]
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スティーリアン
株式会社スティーリアン(英: STEALIEN Inc.)は、大韓民国に本社を置く2015年設立されたサイバーセキュリティ専門企業である。主要事業分野はモバイルアプリセキュリティソリューション、セキュリティコンサルティング、R&Dなどである。2019年にはインドネシアに法人を設立した。
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株式会社スティーリアンは、大韓民国に本社を置く2015年設立されたサイバーセキュリティ専門企業である。主要事業分野はモバイルアプリセキュリティソリューション、セキュリティコンサルティング、R&Dなどである。2019年にはインドネシアに法人を設立した。
{{複数の問題 | 出典の明記 = 2023年12月29日 (金) 15:46 (UTC) | 特筆性 = 2023年12月29日 (金) 15:46 (UTC) | 宣伝 = 2023年12月29日 (金) 15:46 (UTC) | 孤立 = 2023年12月29日 (金) 15:46 (UTC) }} {{基礎情報 会社 |社名 = 株式会社スティーリアン |英文社名 = STEALIEN Inc. |種類 = [[株式会社 (韓国)|株式会社]] |国籍 = {{KOR}} |本社郵便番号 = 541-0045 |本社所在地 = [[韓国]][[ソウル特別市]][[龍山区 (ソウル特別市)|龍山区]]元曉路90Gil 11<br>The Prime Tower Office Building 12F |設立 = 2015年02月 |業種 = 情報セキュリティ |法人番号 = |統一金融機関コード = |SWIFTコード = |事業内容 = モバイルアプリセキュリティソリューション研究開発、セキュリティコンサルティング |代表者 = Chanam Park(代表取締役社長) |資本金 = 1千万円 |外部リンク = [https://www.stealien.com/jp/main/ 公式サイト] }} '''株式会社スティーリアン'''({{Lang-en-short|STEALIEN Inc.}})は、[[大韓民国]]に本社を置く2015年設立されたサイバー[[セキュリティ]]専門企業である。主要事業分野はモバイルアプリセキュリティソリューション、セキュリティコンサルティング、R&Dなどである。2019年にはインドネシアに法人を設立した。 == 事業内容 == * デジタルアプリケーションセキュリティソリューション研究開発 * [[セキュリティ]][[コンサルティング]]([[ペネトレーションテスト]]) * サイバーハッキングトレーニングシステム * R&D == 沿革 == *2015年2月 - 株式会社スティーリアン創立 *2016年11月 - モバイル技術大賞SKテレコム賞 受賞 *2017年7月 - STEALIEN App-Suit Premium v2.5 GS(Good Software)認証1等級を取得 *2018年12月 - SW品質大賞 最優勝賞 受賞 *2019年7月 - SW著作権 登録 *2020年4月 - SW高成長クラブ200に選定 *2021年4月 - STEALIEN App-Suit AntiVirus GS(Good Software)認証1等級を取得 *2022年3月 - 英 FT アジア太平洋高成長企業に選定 *2022年4月 - SW高成長クラブ200に再選定 *2023年3月 - 英 FT アジア太平洋高成長企業に再選定 == 外部リンク == * {{Official|www.stealien.com/jp/main/}} {{Company-stub}} {{デフォルトソート:すていいりあん}} [[Category:ソウル特別市の企業]] [[Category:2015年設立の企業]]
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フィリップ・カン・五反田
フィリップ・カン・五反田(Philip Kan Gotanda、1951年12月17日生まれ)は日系三世の脚本家、映画監督。 彼の作品の多くはアジア系アメリカ人の経験をテーマとする。 過去30年にわたり、アメリカの演劇の幅を広げるため多くの戯曲を創作してきた。その戯曲と擁護活動を通して、在米アジア人の物語をアメリカの演劇の主流に、またヨーロッパやアジアに広めることに尽力してきた。アジア系アメリカ人をテーマとした最大規模の作品の創作者である五反田の戯曲や映画は、アメリカ中の大学や学校で研究され、上演されている。 マエストロ ケント・ナガノのナレーション入りオリジナル交響曲『Manzanaar: An American Story』の執筆と演出を手がけた。最新作『After the War』は2007年3月にアメリカン・コンサーバトリー・シアターで初演された。『After the War』は1940年代後半に収容所からサンフランシスコの日本町へと戻った日系アメリカ人とアフリカ系アメリカ人のジャズ・シーンの遭遇が描かれている。戯曲の邦訳『シスターズ・マツモト』は、東京の劇団民藝で上演された。 尊敬を集めるインディペンデント映画監督でもあり、彼の作品は世界中の映画祭で上映されている。最新作『Life Tastes Good』はサンダンス映画祭で上映され、現在はインディペンデント・フィルム・チャンネルで見ることができる。製作総指揮のデール・ミナミとダイアン・タケイたちと共に、彼らの制作会社ジョー・オヅ・フィルムズで最新作『Inscrutable Grin』を只今製作中。 カリフォルニア大学ヘイスティングス法科大学院で法務博士号を取得し、日本では故・瀬戸弘司氏から陶芸を学び、女優・プロデューサーの妻ダイアン・タケイとともにバークレー在住。ワシントン大学出版局により、戯曲集『No More Cherry Blossoms』と『Fish Soup and Other Plays』が出版されている。その他の戯曲集に『The Wash』、『The Dream of Kitamura』、『Day Standing on its Head』、『Yohen』、『The Wind Calls Mary』などがある。 これまでに作品が上演された劇場には、A Contemporary Theatre、American Conservatory Theater、[American Place Theater]、Asian American Theater Workshop Berkeley Repertory Theatre、Campo Santo+Intersection、East West Players、Eureka Theater、The Group Theater、La Mama、Manhattan Theatre Club、Mark Taper Forum、Magic Theater、東京民藝芸術団、Missouri Rep、New Federal Theater New York Shakespeare Festival、Pan Asian Rep、Playwrights Horizons、Promenade Theater/National Theater - London、Asian American Theater Company、Robey Theatre Company、San Jose Repertory Theatre、Seattle Repertory Theatre、South Coast Repertoryなどがある。 スタンフォード大学、カリフォルニア大学バークレー校、バークレー・レパートリー・シアターのアーティスト・イン・レジデンスを務めた。
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フィリップ・カン・五反田は日系三世の脚本家、映画監督。 彼の作品の多くはアジア系アメリカ人の経験をテーマとする。
{{複数の問題 |存命人物の出典皆無=2023-11 |特筆性=2023-11 }} {{Infobox 作家|name=フィリップ・カン・五反田|image=Philip Kan Gotanda photo by Lia Chang.jpg|imagesize=|caption=2012年3月、Shinsai: Theaters for Japan の慈善公園のため、[[ニューヨーク州]]<nowiki>マンハッタンの</nowiki>[[クーパー・ユニオン]]にあるグレート・ホールでのフィリップ・カン・五反田。|pseudonym=|birth_name=|birth_date={{birth date and age|1951|12|17}}|birth_place=[[カリフォルニア州]][[ストックトン (カリフォルニア州)|ストックトン]]|death_date=|death_place=|occupation=[[脚本家]]、[[映画監督]]|nationality=[[アメリカ合衆国]]|period=1979年ー現在|genre=|subject=|movement=|notableworks=''The Wash''<br/>''Yankee Dawg You Die''|spouse=Diane Takei|partner=|children=|relatives=|awards=Guggenheim Fellowship<br/>National Endowment for the Arts Fellowship<br/>Rockefeller Playwriting Award|website={{URL|http://www.philipkangotanda.org/}}}} '''フィリップ・カン・五反田'''('''Philip Kan Gotanda'''、1951年12月17日生まれ)は[[三世 (日系人)|日系三世]]の[[脚本家]]、[[映画監督]]。 彼の作品の多くは[[アジア系アメリカ人]]の経験をテーマとする。 == バイオグラフィー == 過去30年にわたり、アメリカの演劇の幅を広げるため多くの戯曲を創作してきた。その戯曲と擁護活動を通して、在米アジア人の物語をアメリカの演劇の主流に、またヨーロッパやアジアに広めることに尽力してきた。アジア系アメリカ人をテーマとした最大規模の作品の創作者である五反田の戯曲や映画は、アメリカ中の大学や学校で研究され、上演されている。 マエストロ [[ケント・ナガノ]]のナレーション入りオリジナル交響曲『Manzanaar: An American Story』の執筆と演出を手がけた。最新作『After the War』は2007年3月にアメリカン・コンサーバトリー・シアターで初演された。『After the War』は1940年代後半に[[日系人の強制収容|収容所]]からサンフランシスコの日本町へと戻った日系アメリカ人とアフリカ系アメリカ人のジャズ・シーンの遭遇が描かれている。戯曲の邦訳『シスターズ・マツモト』は、東京の[[劇団民藝]]で上演された。 尊敬を集めるインディペンデント映画監督でもあり、彼の作品は世界中の映画祭で上映されている。最新作『Life Tastes Good』は[[サンダンス映画祭]]で上映され、現在はインディペンデント・フィルム・チャンネルで見ることができる。製作総指揮のデール・ミナミとダイアン・タケイたちと共に、彼らの制作会社ジョー・オヅ・フィルムズで最新作『Inscrutable Grin』を只今製作中。 カリフォルニア大学ヘイスティングス法科大学院で[[博士(法学)|法務博士号]]を取得し、日本では故・瀬戸弘司氏から陶芸を学び、女優・プロデューサーの妻ダイアン・タケイとともにバークレー在住。ワシントン大学出版局により、戯曲集『No More Cherry Blossoms』と『Fish Soup and Other Plays』が出版されている。その他の戯曲集に『The Wash』、『The Dream of Kitamura』、『Day Standing on its Head』、『Yohen』、『The Wind Calls Mary』などがある。 == 経歴 == これまでに作品が上演された劇場には、A Contemporary Theatre、American Conservatory Theater、[American Place Theater]、Asian American Theater Workshop Berkeley Repertory Theatre、Campo Santo+Intersection、East West Players、Eureka Theater、The Group Theater、La Mama、Manhattan Theatre Club、Mark Taper Forum、Magic Theater、[[劇団民藝|東京民藝芸術団]]、Missouri Rep、New Federal Theater New York Shakespeare Festival、Pan Asian Rep、Playwrights Horizons、Promenade Theater/National Theater - London、Asian American Theater Company、Robey Theatre Company、San Jose Repertory Theatre、Seattle Repertory Theatre、South Coast Repertoryなどがある。 [[スタンフォード大学]]、[[カリフォルニア大学バークレー校]]、バークレー・レパートリー・シアターのアーティスト・イン・レジデンスを務めた。 == 舞台 == *''The Avocado Kid'' (ミュージカル) * ''Song For a Nisei Fisherman'' (歌付きの芝居) * "Bullet Headed Birds" (歌付きの芝居) * "Jan Ken Po" (デイヴィッド・ヘンリー・ウォン、リック・シオミとのコラボレーション) * ''American Tattoo'' * ''The Wash'' * ''Yankee Dawg You Die'' * ''The Dream Of Kitamura'' * ''Fish Head Soup'' * ''Day Standing on Its Head'' * ''Yohen'' * "in the dominion of night" (長編口語劇、レトロ・ジャズ・アンサンブル、ザ・ニュー・オリエンタルズと共演) * ''The Wind Cries Mary'' * ''The Ballad of Yachiyo'' * ''Sisters Matsumoto'' * ''A Fist Of Roses'' (カンポ・サントとのコラボレーション) * ''floating weeds'' * ''Manzanar: An American Story'' (ナレーション付きオリジナル交響曲、脚本家) * ''After The War'' (2014年に『After The War Blues』に改稿) * ''Under The Rainbow'' (evening of two one acts: Natalie Wood Is Dead; White Manifesto or Got Rice?) * ''#5 The Angry Red Drum'' * ''Child is Father to Man'' (短編劇、シルクロード・ライジングが "DNAトレイル "の一環として上演) * ''Apricots of Andujar'' (室内オペラ 、 脚本家) * ''The Life And Times of Chang and Eng - The Inescapable Truth Of Love That Binds'' * ''Love In American Times'' * ''Body Of Eyes'' (作詞家、作曲家:シンジ・エシマ) * "Night Fishing". (ポッドキャスト、作曲家デイヴィッド・コールターとのコラボレーション) * ''The Jamaican Wash'' (ジャマイカ系アメリカ人家族による『The Wash』の翻案) * ''#CAMPTULELAKE'' (短編劇、ゲーテ・インスティトゥートの「Plurality of Privacy in Five-Minute Plays」プロジェクトの一環として委嘱され、2017年にA.C.T.で上演) * ''Rashomon'' (ウブントゥ・シアター・プロジェクトによる脚色) * ''Pool of Unknown Wonders: Undertow of the Soul'' * "Both Eyes Open" Opera. (脚本家、作曲家: マックス・ギテック・デュイカーズ) * "West of Grove Street. A Play About Old Love. Dying. And The Crossing of Red Lines". == 映画 == * ''The Wash'' (1988年) - 脚本 * ''The Kiss'' (1992年 短編) - 監督、脚本、出演 * ''Drinking Tea'' (短編) - 監督、脚本 * Life Tastes Good (1999年) - 監督、脚本、俳優 * ''The Other Barrio'' (2015年) - 俳優 == 受賞歴 == * Guggenheim Fellowship * Pew Charitable Trust * 3 Rockefeller * Lila Wallace * National Endowment for the Arts (全米芸術基金賞) * National Endowment for the Arts - Theater Communications Playwriting Award * A PEN Center West Award * LA Music Center Award * 2007 Japan Society of Northern California Award * A Chinese For Affirmative Action Award * NJHAS * City of Stockton Arts Award * East West Players' Visionary Award * Asian American Theater Company Life Time Achievement * 2 California Civil Liberties Public Education Program * 2009 MAP Fund Creative Exploration Grant * 2008 Granada Arts Theater Fellowship * UC Berkeley Arts Center Fellow in Theater * Sundance Theater Fellow * Sundance Film Fellow Program * エド・ブリンズ、コンスタンス・コングドンとともにLegacy Playwrights Initiative 賞の第1回受賞者(2020年12月) == 外部リンク == * {{IMDb name|id=0331757|name=Philip Kan Gotanda}} * [http://www.philipkangotanda.org www.philipkangotanda.org] * [https://uwapress.uw.edu/book/9780295985015/no-more-cherry-blossoms/ No More Cherry Blossoms: Sisters Matsumoto and Other Plays], University of Washington Press, 2005. [[Category:日系アメリカ人の映画監督]] [[Category:20世紀アメリカ合衆国の劇作家]] [[Category:日系アメリカ人の作家]] [[Category:カリフォルニア州ストックトン出身の人物]] [[Category:存命人物]] [[Category:1951年生]]
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ゲティ家
ゲティ家(Getty family)は、アメリカ合衆国を発祥とする実業家の家系である。20世紀に石油産業で財を成した。 実業家としての家系は、ジョージ・ゲティとその息子のジャン・ポール・ゲティを祖とする。ゲティ家の祖先はアイルランドのロンドンデリー県カラヴモアからアメリカに移住した。ジョン・ポール・ゲティ・ジュニアを始めとして、一族の一部はイギリスの国籍を有する。 ジョージ・ゲティは元は法律家で、1904年に石油業者として独立した。妻との間に一男一女をもうけたが、娘は幼少期に腸チフスで死亡した。1916年、息子のジャン・ポール・ゲティとともに、後のゲティ・オイルを創業した。 ゲティ家の一族を以下に示す。
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ゲティ家は、アメリカ合衆国を発祥とする実業家の家系である。20世紀に石油産業で財を成した。 実業家としての家系は、ジョージ・ゲティとその息子のジャン・ポール・ゲティを祖とする。ゲティ家の祖先はアイルランドのロンドンデリー県カラヴモアからアメリカに移住した。ジョン・ポール・ゲティ・ジュニアを始めとして、一族の一部はイギリスの国籍を有する。 ジョージ・ゲティは元は法律家で、1904年に石油業者として独立した。妻との間に一男一女をもうけたが、娘は幼少期に腸チフスで死亡した。1916年、息子のジャン・ポール・ゲティとともに、後のゲティ・オイルを創業した。
{{Infobox family | name = ゲティ家<br/>Getty | coat_of_arms = | coat_of_arms_size = | coat_of_arms_caption = |image={{multiple image |align=center |direction=horizontal |image1=George Franklin Getty (1855-1930).jpg |width1=103 |caption1={{midsize|'''ジョージ・ゲティ'''}} |image2=J Paul Getty crop.jpg |width2=105 |caption2= {{midsize|'''ジャン・ポール・ゲティ'''}} |image3=Wedding of John Paul Getty Jr. and Talitha Pol (Rome, 1966)(cropped).jpg |width3=102 |caption3={{midsize|'''ジョン・ポール・ゲティ・ジュニア'''}} | border = none }} | type = | region = {{USA}} | origin = [[アイルランド王国]] | parent_family = | founded = 18世紀 | founder = ジョン・ゲティ | current head = | titles = | distinctions = | motto = | estate = [[J・ポール・ゲティ美術館]]の建物群: <br>{{仮リンク|ゲティ・センター|en|Getty Center}}<br>{{仮リンク|ゲティ・ヴィラ|en|Getty Villa}}<br>[[ゲティ財団]]<br>[[ゲティ研究所]]<br>{{仮リンク|ゲティ保護研究所|en|Getty Conservation Institute}} }} '''ゲティ家'''(Getty family)は、[[アメリカ合衆国]]を発祥とする実業家の家系である。20世紀に石油産業で財を成した。 実業家としての家系は、[[ジョージ・ゲティ]]とその息子の[[ジャン・ポール・ゲティ]]を祖とする。ゲティ家の祖先は[[アイルランド]]の[[ロンドンデリー県]]カラヴモアからアメリカに移住した。[[ジョン・ポール・ゲティ・ジュニア]]を始めとして、一族の一部は[[イギリス]]の国籍を有する。 ジョージ・ゲティは元は法律家で、1904年に石油業者として独立した。妻との間に一男一女をもうけたが、娘は幼少期に腸チフスで死亡した。1916年、息子のジャン・ポール・ゲティとともに、後の[[ゲティ・オイル]]を創業した。 ==一族== ゲティ家の一族を以下に示す<ref>Pearson (1995), p. xii–xiii</ref>。 * [[ジョージ・ゲティ]] (George Getty, 1855–1930) - アメリカの法律家。サラ・キャサリン・マクファーソン・リッシャー(Sarah Catherine McPherson Risher, 1853–1941)と結婚した。 ** [[ジャン・ポール・ゲティ]] (Jean Paul Getty, 1892–1976) - [[ゲティ・オイル]]創業者。5回結婚し、5男を設けた。 :::1. ジョージ・ゲティ2世 (George Getty II, 1924–1973) - 最初の妻Jeanette Demont(1904–1986)との間の息子。 ::::Gloria Gordonと1951年に結婚し1967に離婚した。Jacqueline (Manewal) Riordanと1971年に結婚し、3女をもうけた<ref>[https://www.latimes.com/archive/la-xpm-1985-05-31-fi-14847-story.html Jube Shiver Jr., "Gettys Resolve Dispute Over Trust"], ''[[Los Angeles Times]]'' May 31, 1985.</ref>。 :::2番目の妻Allene Gladys Ashby (1909–1970)との間には子供はいない。 :::2. ジャン・ロナルド・ゲティ (Jean Ronald Getty, 1929–2009) - 3番目の妻Adolphine Helmle(1910–2009)との間の息子。Karin Seiblと1964年に結婚した。 ::::* クリストファー・ゲティ (Christopher Getty, 1965 - ) - {{仮リンク|ピア・ゲティ|label=ピア・ミラー|en|Pia Getty}} (Pia Miller)と1992年に結婚し、4人の子供をもうけた。 :::::*{{仮リンク|イザベル・ゲティ|en|Isabel Getty}} (Isabel Getty, 1993 - ) - アメリカの歌手 :::3. [[ジョン・ポール・ゲティ・ジュニア]] (John Paul Getty, Jr., 1932–2003) - 4番目の妻[[アン・ローク・ライト|アン・ローク]] (Ann Rork, 1908–1988) との間の息子。Abigail Harrisと1956年に結婚し1964年に離婚、[[タリサ・ゲティ|タリサ・ポル]] (Talitha Pol) と1966年に結婚し1971年に死別、{{仮リンク|ヴィクトリア・ホールズワース|en|Victoria Holdsworth}}と1994年に結婚した<ref>Pearson (1995), pg. 260</ref>。 ::::*[[ジョン・ポール・ゲティ3世]] (John Paul Getty III, 1956–2011) - Abigail Harrisとの間の息子。[[ジゼラ・ゲティ|ジゼラ・マルティン・ツァハー]](Gisela Martine Zacher)と1974年に結婚した。 :::::* アンナ・ゲティ (Anna Getty, 1972 - ) - Gisela Zacherと前夫との間の娘で、ジョン3世の養子<ref>Pearson (1995), pg. 240</ref>。 :::::* [[バルサザール・ゲティ]] (Balthazar Getty, 1975 - ) - アメリカの俳優。ジゼラとの間の息子。Rosetta Millingtonと2000年に結婚し、4人の子供をもうけた。 :::::** Cassius Getty (2000 - ) :::::** Grace Getty (2001 - ) :::::** Violet Getty (2003 - ) :::::** June Getty (2007 - ) ::::* アイリーン・ゲティ (Aileen Getty, 1959 - ) - Abigail Harrisとの間の娘。Christopher Wilding([[エリザベス・テイラー]]と{{仮リンク|マイケル・ワイルディング|en|Michael Wilding}}の息子)、後にBartolomeo Ruspoli([[アレッサンドロ・ルスポリ (第9代チェルヴェーテリ公爵)|第9代チェルヴェーテリ公爵アレッサンドロ・“ダド”・ルスポリ]]と女優[[デブラ・バーガー]]の息子)と結婚し、2人の子供がいる。 ::::* [[マーク・ゲティ]] (Mark Getty, 1960 - ) - [[ゲッティイメージズ]]創業者。Abigail Harrisとの間の息子。{{仮リンク|ドミティッラ・ハーディングス|en|Domitilla Harding}}と1982年に結婚し、3人の子供をもうけたが、2011年に離婚した。 :::::* Alexander Parsifal Getty - Tatum Yountと2012年に結婚した。 :::::* Joseph Anselm Getty - {{仮リンク|サビーン・ゲティ|label=サビーン・ガーネム|en|Sabine Getty}} (Sabine Ghanem)と2015年に結婚し、2人の子供がいる。 ::::* {{仮リンク|アリアドネ・ゲティ|en|Ariadne Getty}} (Ariadne Getty, 1962 - ) - Abigail Harrisとの間の娘。Justin Williamsと結婚した。 :::::* {{仮リンク|ナッツ・ゲティ|en|Nats Getty}} (Nats Getty, 1992 - ) - [[ジジ・ゴージャス]](Gigi Gorgeous)と2019年に結婚した。 :::::* {{仮リンク|オーガスト・ゲティ|label=オーガスト・ウィリアムズ|en|August Getty}} (August Williams, 1994 - ) - 服飾デザイナー ::::* Tara Gabriel Galaxy Gramophone Getty (1968 - ) - [[タリサ・ゲティ|タリサ・ポル]] (Talitha Pol) との間の息子。Jessica Kellyと結婚し、3人の子供をもうけた。 :::4. {{仮リンク|ゴードン・ゲティ|en|Gordon Getty}} (Gordon Getty, 1933 - ) - 4番目の妻[[アン・ローク・ライト|アン・ローク]] (Ann Rork) との間の息子。{{仮リンク|アン・ゲティ|label=アン・ギルバート|en|Ann Getty}}(Ann Gilbert)と1964年に結婚し2020年に死別した<ref>{{Cite news|last=Whiting|first=Sam|date=September 14, 2020|title=Ann Getty, SF society figure and philanthropist, dies at 79|work=San Francisco Chronicle|url=https://datebook.sfchronicle.com/art-exhibits/ann-getty-sf-society-figure-and-philanthropist-dies-at-79|access-date=September 15, 2020|archive-date=September 16, 2020|archive-url=https://web.archive.org/web/20200916015130/https://datebook.sfchronicle.com/art-exhibits/ann-getty-sf-society-figure-and-philanthropist-dies-at-79|url-status=live}}</ref>。アンとの間に4人の子供をもうけたほか、{{仮リンク|シンシア・ベック|en|Cynthia Beck}}との間に3人の子供がいる。 ::::* Gordon Peter Getty, Jr. (1965 - ) - Shannon Bavaroと2016年に結婚した。 ::::* William Paul Getty (1970 - ) - {{仮リンク|ヴァネッサ・ゲティ|label=ヴァネッサ・ジャーマン|en|Vanessa Getty}}(Vanessa Jarman)と1999年に結婚した<ref>{{Cite web |last=STEGER |first=PAT |date=1999-06-21 |title=Fairy-Tale Wedding For Getty-Jarman In Napa Valley |url=https://www.sfgate.com/entertainment/article/Fairy-Tale-Wedding-For-Getty-Jarman-In-Napa-Valley-2923049.php |access-date=2022-03-08 |website=SFGATE |language=en-US}}</ref>。 ::::* {{仮リンク|アンドリュー・ゲティ|en|Andrew Getty}} (Andrew Getty, 1967–2015)<ref>{{cite web |url=http://edition.cnn.com/2015/03/31/us/andrew-getty-death/index.html |title=Andrew Getty, grandson of J. Paul Getty, dies at 47 |last=Almasy |first=Steve |date=April 1, 2015 |website=cnn.com |publisher=CNN |access-date=May 10, 2019}}</ref> ::::* John Gilbert Getty (1968–2020) :::::* Ivy Love Getty (1994 - ) - Alyssa Boothbyとの間の娘。Tobias Engelと2021年に結婚した。 :::5. ティモシー・ゲティ (Timothy Getty, 1946–1958) - 5番目の妻Louise Dudley Lynch(1913–2017)との間の息子。 ==脚注== {{Reflist}} ==参考文献== * Glassman, Bruce; ''John Paul Getty: Billionaire Oilman'', Blackbirch Press, 2001, {{ISBN|1-56711-513-6}} * Pearson, John; ''Painfully Rich: The Outrageous Fortune and Misfortunes of the Heirs of J. Paul Getty'', St. Martin's Press, 1995, {{ISBN|0-312-13579-3}} * [http://www.sfgate.com/news/article/Getty-s-Secret-Double-Life-Second-family-in-2911639.php Getty's Secret Double Life] {{DEFAULTSORT:けていけ}} [[Category:ゲティ家|*]] [[Category:アメリカ合衆国の実業家の家系]]
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バッシア属
バッシア属(バッシアぞく、学名: Bassia)とはヒユ科に属する被子植物の属。地中海西部から東アジアにかけて分布する。いくつかの種は帰化植物として原産地以外に生息している。 ホウキギ属という和名があてられている。 バッシア属の種は1年生あるいは多年生の灌木である。葉は多様である。 果実は痩果となる。種子は環状、馬蹄形、あるいは折り畳まれた胚が胚乳を取り囲んでいる。結実花被は付属物をもたないか、5枚の翅をもつ。Bassia hyssopifolia では翅に棘がある。 今日、バッシア属は3種のC4型「コキオイド」葉器官によって定義される。他の特徴は種内の個体差があるため種同定に利用できない。 バッシア属の多くはステップあるいは砂漠の生態系に生育する。いくつかの種は亜高山帯までの荒れ地・塩沼で見られる。系統学的研究より、バッシア属は中新世に進化したことが示唆される 。 バッシア属のうち、タンパク質を多く含むいくつかの種は放牧地で有用であり、しばしば過放牧された土地の回復に用いられる。 属名 Bassia は1766年カルロ・アリオーニによって Bassia muricata L.(当時の名は B. aegyptiaca)をタイプ種として初記載された。バッシア属はヒユ科アカザ亜科(英語版)に分類される。 2011年の再分類以降ではおよそ20種が属する。 次の種を含む: かつてバッシア属に分類されていた数種はアカザ亜科(英語版)内の新設属(いくつかは単型)に移されている。B. hirsuta は現在1種のみで Spirobassia 属を構成し、B. sedoides も同様に1属1種で Sedobassia 属を構成する。B. dasyphylla は Grubovia 属に移されている。Bassia saxicola は現在 Eokochia saxicola である。
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バッシア属とはヒユ科に属する被子植物の属。地中海西部から東アジアにかけて分布する。いくつかの種は帰化植物として原産地以外に生息している。 ホウキギ属という和名があてられている。
{{about|植物の属|刺胞動物の属|トウロウクラゲ}} {{生物分類表 |名称 = バッシア属 |色 = lightgreen |画像= [[File:Desert_bush_2.JPG|250px]] |画像キャプション = {{Snamei|Bassia indica}} |界 = [[植物界]] {{sname||Plantae}} |界階級なし = [[維管束植物]] {{sname||Tracheophytes}} |門階級なし = [[被子植物]] {{sname||Angiosperms}} |綱階級なし = [[真正双子葉類]] {{sname||Eudicots}} |目 = [[ナデシコ目]] {{sname||Caryophyllales}} |科 = [[ヒユ科]] {{sname||Amaranthaceae}} |亜科 = {{仮リンク|アカザ族|en|Camphorosmeae|label=アカザ亜科}} {{Sname||Camphorosmoideae}} |族 = {{仮リンク|アカザ族|en|Camphorosmeae}} {{Sname||Camphorosmeae}} |属 = '''バッシア属''' {{snamei||Bassia}} |学名 = ''Bassia''<br><small>[[カルロ・アリオーニ|All.]]</small> |シノニム =''Chenoleioides'' <small>(Ulbr.) Botsch</small>.<br /> ''Kirilowia'' <small>Bunge</small><br /> ''Kochia'' <small>Roth</small><br /> ''Londesia'' <small>Fisch. & C.A. Mey.</small><br /> ''Panderia'' <small>Fisch. & C.A. Mey.</small> |和名 = ホウキギ属 |英名 = }} '''バッシア属'''(バッシアぞく、[[学名]]: {{Snamei|Bassia}})とは[[ヒユ科]]に属する被子植物の属<ref name=kad/>。地中海西部から東アジアにかけて分布する。いくつかの種は[[帰化植物]]として原産地以外に生息している<ref name=fna>{{Cite web|url=http://www.efloras.org/florataxon.aspx?flora_id=1&taxon_id=103589 |title=''Bassia'' |website=[[Flora of North America]] |last1=Mosyakin |first1=Sergei L. |access-date=4 August 2013}}</ref>。 '''ホウキギ属'''という和名があてられている<ref>{{Cite book|和書|last=米倉|first=浩司|authorlink=米倉浩司|title=新維管束植物分類表|publisher=北隆館|year=2019|page=183|isbn=978-4-8326-1008-8|ref=harv}}</ref>。 == 概要 == バッシア属の種は1年生あるいは多年生の灌木である。葉は多様である。 果実は[[痩果]]となる。種子は環状、馬蹄形、あるいは折り畳まれた胚が胚乳を取り囲んでいる。結実[[花被]]は付属物をもたないか、5枚の翅をもつ。[[:en:Bassia hyssopifolia|{{Snamei|Bassia hyssopifolia}}]] では翅に棘がある<ref name=kad/>。 今日、バッシア属は3種の[[C4型光合成|C<sub>4</sub>型]]「コキオイド」葉器官によって定義される。他の特徴は種内の個体差があるため種同定に利用できない<ref name=kad>{{Cite journal |last1=Kadereit |first1=Gudrun |last2=Freitag |first2=Helmut |title=Molecular phylogeny of Camphorosmeae (Camphorosmoideae, Chenopodiaceae): Implications for biogeography, evolution of C<sub>4</sub>-photosynthesis and taxonomy |year=2011 |journal=Taxon |volume=60 |issue=1 |pages=51-78 |doi=10.1002/tax.601006 |url=http://courses.botany.wisc.edu/botany_940/11JClub/Kadereit&Freitag2011.pdf |format=pdf}}</ref>。 == 生息環境 == バッシア属の多くは[[ステップ (植生)|ステップ]]あるいは[[砂漠]]の生態系に生育する<ref name=fna/>。いくつかの種は亜高山帯までの荒れ地・[[塩沼]]で見られる。[[系統学]]的研究より、バッシア属は[[中新世]]に進化したことが示唆される<ref name=kad/> 。 == 利用 == バッシア属のうち、タンパク質を多く含むいくつかの種は放牧地で有用であり、しばしば過放牧された土地の回復に用いられる<ref name=kad/>。 == 分類 == 属名 {{Snamei|Bassia}} は1766年[[カルロ・アリオーニ]]によって {{Snamei|Bassia muricata}} L.(当時の名は {{Snamei|B. aegyptiaca}})をタイプ種として初記載された。バッシア属はヒユ科{{仮リンク|アカザ亜科|en|Camphorosmeae}}に分類される。 2011年の再分類以降ではおよそ20種が属する<ref name=kad/>。 [[Image:Illustration Bassia laniflora0 clean.JPG|thumb|right|''[[Bassia laniflora]]'']] 次の種を含む<ref name=kad/>: *''[[Bassia angustifolia]]'' <small>(Turcz.) Freitag & G.Kadereit </small> *''[[Bassia arabica]]'' <small>(Boiss.) Maire & Weiller </small> *''[[Bassia dinteri]]'' <small>(Botsch.) A.J.Scott</small> *''[[Bassia eriophora]]'' <small>(Schrad.) Asch.</small> *''[[:en:Bassia hyssopifolia|Bassia hyssopifolia]]'' <small>(Pall.) Kuntze</small> &ndash; fivehorn smotherweed<ref name=usda>{{Cite web|url=http://plants.usda.gov/core/profile?symbol=BASSI |title=''Bassia'' |website=USDA Plants Database |access-date=4 August 2013}}</ref> *''[[Bassia indica]]'' <small>(Wight) A.J.Scott</small> *''[[Bassia laniflora]]'' <small>(S.G.Gmel.) A.J.Scott</small> *''[[Bassia lasiantha]]'' <small>Freitag & G.Kadereit</small> *''[[Bassia littorea]]'' <small>(Makino) Freitag & G.Kadereit</small> *''[[Bassia muricata]]'' <small>(L.) Asch.</small> *''[[Bassia odontoptera]]'' <small>(Schrenk) Freitag & G.Kadereit</small> *''[[Bassia pilosa]]'' <small>(Fisch. & C.A.Mey.) Freitag & G.Kadereit</small> * [[イトバホウキギ]]<ref>[[米倉浩司]]・[[species:Tadashi Kajita|梶田忠]] (2003-).「BG Plants 和名-学名インデックス」(YList),http://ylist.info/ylist_detail_display.php?pass=37959 {{Accessdate|2023-11-10}}<!-- 『日本草本植物総検索誌: 双子葉編』(杉本順一、六月社、1965年) にKochia属の一種として言及されていた可能性が高いです--></ref> {{Snamei||Bassia prostrata}} <small>(L.) A.J.Scott</small> &ndash; forage kochia,<ref name=usda/> prostrate summer-cypress<ref>{{GRIN | ''Bassia prostrata'' | 409953 | accessdate = 12 January 2018}}</ref> *''[[Bassia salsoloides]]'' <small>(Fenzl) A.J.Scott</small> *[[ホウキギ]] {{Snamei||Bassia scoparia}} <small>(L.) A.J.Scott</small> &ndash; burningbush, belvedere, kochia, Mexican fireweed, Mexican firebrush<ref>{{GRIN | ''Bassia scoparia'' | 404228 | accessdate = 12 January 2018}}</ref> *''[[Bassia stellaris]]'' <small>(Moq.) Bornm.</small> *''[[Bassia tianschanica]]'' <small>(Pavlov) Freitag & G.Kadereit</small> *''[[Bassia tomentosa]]'' <small>(Lowe) Maire & Weiller</small> *''[[Bassia villosissima]]'' <small>(Bong. & C.A.Mey.) Freitag & G.Kadereit</small> かつてバッシア属に分類されていた数種は{{仮リンク|アカザ亜科|en|Camphorosmeae}}内の新設属(いくつかは[[単型 (分類学)|単型]])に移されている。{{Snamei|B. hirsuta}} は現在1種のみで [[:en:Spirobassia|{{Snamei|Spirobassia}}]] 属を構成し、{{Snamei|B. sedoides}} も同様に1属1種で {{Snamei|Sedobassia}} 属を構成する。{{Snamei|B. dasyphylla}} は [[:en:Grubovia|{{Snamei|Grubovia}}]] 属に移されている。{{Snamei|Bassia saxicola}}<ref>Domina, G. and A. Santangelo. 2011. [http://www.iucnredlist.org/details/161940/0 ''Bassia saxicola''.] In: IUCN 2013. IUCN Red List of Threatened Species. Version 2013.1. Downloaded on 04 August 2013.</ref> は現在 [[:en:Eokochia saxicola|{{Snamei|Eokochia saxicola}}]] である<ref name=kad/>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == {{Commons category|Bassia}} {{Wikispecies|Bassia (Amaranthaceae)}} *[https://powo.science.kew.org/taxon/urn:lsid:ipni.org:names:30025657-2 ''Bassia'' All. (Plants of the World Online, Kew Science)]. {{en_icon}} {{Accessdate|2023-11-10}} *[https://www.tropicos.org/Name/40025325 ''Bassia'' at Tropicos] {{Taxonbar|from=Q158343}} {{DEFAULTSORT:はつしあそく}} [[Category:ヒユ科]]
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八丁平 (京都府)
八丁平(はっちょうだいら)は、京都府京都市左京区久多に位置する、約90ヘクタール (0.90 km)の、盆地状の地形である。安曇川の源流部にあたり、京都府・滋賀県の府県境にあたる稜線と、京都府で2番目に高い山である峰床山とその尾根に囲まれている。「八丁平」の名前は、周囲がおよそ8丁(≒ 873m)あることにちなむ。中央部には湿原が形成されており、これは近畿地方では珍しい高層湿原である。八丁平湿原は、環境省の選定する「生物多様性の観点から重要度の高い湿地」のひとつでもある。 安曇川の支流にあたる、江賀谷川の源流である。同地形の南に存在するチャートの岩盤が侵食をふせぎ、ゆるやかな谷間をのこしたものである。また、湿原部は3万年前の最終氷期最盛期から形成されたものであり、土砂崩れが南側にある谷間の出口をふさいだことで現れたものであると考えられている。高層湿原は一般に寒冷地にみられるものであり、京都府では八丁平のほかには深泥池、大フケ湿原といった限られた場所でしか見ることができない。八丁平においては、周辺の森林から供給される伏流水が、湿原を維持していると考えられている。 湿原は氷河期堆積層をふくむ、厚い堆積物で形成されている。また、豊かな植生を保っており、60科107属150種の植物が確認されている。湿原遷移の終盤に近づきつつあり、高木性樹木が発達しつつあるものの、湿原植生を残している地点も複数箇所みられる。湿原のほとんどにイヌツゲ・オオミズゴケ、水分の多い地域にはニッポンイヌノヒゲ・アオコウガイゼキショウ・ミズオトギリ・ヒツジグサ・ホタルイ、そうでない地域にはヒカゲノカズラ・レンゲツツジ・ヤマウルシ・ノリウツギなどが生育する。また、京都府が絶滅寸前種、近畿地方レッドデータブックが絶滅危惧種Aに指定する、希少な植物であるヤチスギランが生育している。ほかに、昆虫類としてハッチョウトンボ・ヒラサナエ・ヒメサナエ・ムカシトンボ・ウラクロシジミなどが生息する。森林部には、ミズナラやクリを中心とする植生が広がっており、昆虫・野鳥・哺乳類なども豊富である。1990年代よりシカの食害が頻繁に見られるようになり、カキツバタやヤチスギランといった希少な水生植物が被害にあっている。 久多から八丁平に向かう道筋は、京都と若狭をつなぐ、いわゆる「鯖街道」の一部となっていた。八丁平からその北方にある久多の集落を通り、針畑川に沿って近江保坂に入り、小浜へと抜けるルートが街道として供されていたと考えられており、長禄年間(1457年から1460年)には久多に関所が構えられていたことが記録に残っている。 1969年、京都市は大原尾越町から久多へと抜ける林道を着工したが、この林道は八丁平湿原を通過する計画であったため自然保護団体が反対運動をおこなった。市は自然保護団体の提案を事実上受け入れる形で、1992年に西側に迂回するルートへと計画を変更した。2016年には八丁平を含む、由良川・桂川上中流域の山野68,851ヘクタール (688.51 km)が京都丹波高原国定公園に指定された。八丁平は、「現在の景観を極力維持する必要のある地域」として、そのなかでもとりわけ開発が厳しい第1種特別地域に指定されている。
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八丁平(はっちょうだいら)は、京都府京都市左京区久多に位置する、約90ヘクタール (0.90 km2)の、盆地状の地形である。安曇川の源流部にあたり、京都府・滋賀県の府県境にあたる稜線と、京都府で2番目に高い山である峰床山とその尾根に囲まれている。「八丁平」の名前は、周囲がおよそ8丁あることにちなむ。中央部には湿原が形成されており、これは近畿地方では珍しい高層湿原である。八丁平湿原は、環境省の選定する「生物多様性の観点から重要度の高い湿地」のひとつでもある。
{{Infobox landform | water = | name = 八丁平 | photo = ファイル:PXL 20231029 031012469.jpg | photo_caption = 八丁平(2023年) | map = Japan Kyoto | relief = 1 | map_caption = 京都府内の位置 |coordinates = {{coord|35|14|06|N|135|50|02|E|region:JP-26_type:landmark|display=inline,title}} | location = {{JPN}}[[京都府]][[京都市]][[左京区]][[久多]] }} '''八丁平'''(はっちょうだいら)は、[[京都府]][[京都市]][[左京区]][[久多]]に位置する、約{{convert|90|ha|km2}}の、[[盆地]]状の地形である。[[安曇川]]の源流部にあたり、京都府・[[滋賀県]]の府県境にあたる稜線と、京都府で2番目に高い山である[[峰床山]]とその尾根に囲まれている<ref name=":0">{{Cite web |url=https://www.city.kyoto.lg.jp/sankan/cmsfiles/contents/0000193/193586/houkoku.pdf |title=八丁平植生継続調査報告書 |access-date=2023-11-10 |publisher=京都市}}</ref>。「八丁平」の名前は、周囲がおよそ8[[町 (単位)#長さの単位|丁]](≒ 873m)あることにちなむ<ref name=":1">{{Cite web |title=八丁平湿原 Hacho-daira Wetland |url=https://www.pref.kyoto.jp/shizen-koen/tamba/en1hch.html |website=京都府 |access-date=2023-11-10 |language=ja |last=京都府}}</ref>。中央部には湿原が形成されており、これは[[近畿地方]]では珍しい[[高層湿原]]である<ref name=":0" />。八丁平湿原は、[[環境省]]の選定する「[[生物多様性の観点から重要度の高い湿地]]」のひとつでもある<ref name=":2">{{Cite web |title=環境省_「重要湿地」の詳細情報(八丁平湿原) |url=https://www.env.go.jp/nature/important_wetland/wetland/w320.html |website=www.env.go.jp |access-date=2023-11-10}}</ref>。 == 自然 == [[File:Haccho daira marshland aerial photograph October 1975.jpg|thumb|250px|八丁平周辺の空中写真。画像中央の樹木の無い場所が湿原。1975年10月22日撮影。{{国土航空写真}}]] [[安曇川]]の支流にあたる、[[江賀谷川]]の源流である。同地形の南に存在する[[チャート (岩石)|チャート]]の岩盤が侵食をふせぎ、ゆるやかな谷間をのこしたものである<ref name=":3">{{Cite web |title=京都市:八丁平について |url=https://www.city.kyoto.lg.jp/sankan/page/0000193582.html |website=京都市情報館 |access-date=2023-11-10 |language=ja}}</ref>。また、湿原部は3万年前の[[最終氷期極大期|最終氷期最盛期]]から形成されたものであり<ref name=":4">{{Cite web |title=八丁平湿原水生植物群落|京都府レッドデータブック2015 |url=https://www.pref.kyoto.jp/kankyo/rdb/eco/db/sys0036.html |website=www.pref.kyoto.jp |access-date=2023-11-10}}</ref>、土砂崩れが南側にある谷間の出口をふさいだことで現れたものであると考えられている<ref name=":1" />。高層湿原は一般に寒冷地にみられるものであり、京都府では八丁平のほかには[[深泥池]]、[[大フケ湿原]]といった限られた場所でしか見ることができない。八丁平においては、周辺の森林から供給される伏流水が、湿原を維持していると考えられている<ref name=":4" />。 湿原は氷河期堆積層をふくむ、厚い堆積物で形成されている<ref name=":2" />。また、豊かな植生を保っており、60科107属150種の植物が確認されている<ref name=":3" />。[[遷移 (生物学)|湿原遷移]]の終盤に近づきつつあり、高木性樹木が発達しつつあるものの、湿原植生を残している地点も複数箇所みられる<ref name=":4" />。湿原のほとんどに[[イヌツゲ]]・[[オオミズゴケ]]、水分の多い地域には[[ニッポンイヌノヒゲ]]・[[アオコウガイゼキショウ]]・[[ミズオトギリ]]・[[ヒツジグサ]]・[[ホタルイ]]、そうでない地域には[[ヒカゲノカズラ]]・[[レンゲツツジ]]・[[ヤマウルシ]]・[[ノリウツギ]]などが生育する<ref name=":3" />。また、京都府が絶滅寸前種、近畿地方[[レッドデータブック]]が[[レッドリスト#環境省レッドリストのカテゴリーと定義|絶滅危惧種A]]に指定する、希少な植物である[[ヤチスギラン]]が生育している<ref name=":0" />。ほかに、昆虫類として[[ハッチョウトンボ]]・[[ヒラサナエ]]・[[ヒメサナエ]]・[[ムカシトンボ]]・[[ウラクロシジミ]]などが生息する<ref name=":2" />。森林部には、[[ミズナラ]]や[[クリ]]を中心とする植生が広がっており<ref name=":3" />、昆虫・野鳥・哺乳類なども豊富である<ref name=":4" />。[[1990年代]]より[[シカ]]の食害が頻繁に見られるようになり<ref name=":4" />、[[カキツバタ]]やヤチスギランといった希少な水生植物が被害にあっている<ref name=":0" />。 == 人との関わり == 久多から八丁平に向かう道筋は、京都と[[若狭国|若狭]]をつなぐ、いわゆる「[[鯖街道]]」の一部となっていた<ref>{{Cite web |title=鯖街道と八丁平|【京都市公式】京都観光Navi |url=https://ja.kyoto.travel/ |website=【京都市公式】京都観光Navi |access-date=2023-11-10 |language=ja}}</ref>。八丁平からその北方にある久多の集落を通り、針畑川に沿って近江保坂に入り、[[小浜市|小浜]]へと抜けるルートが街道として供されていたと考えられており、[[長禄]]年間([[1457年]]から[[1460年]])には久多に関所が構えられていたことが記録に残っている<ref>{{Cite book|和書 |title=史料京都の歴史 第8巻 (左京区) |year=1985 |publisher=平凡社 |page=563}}</ref>。 [[1969年]]、京都市は[[大原 (京都市)|大原尾越町]]から久多へと抜ける林道を着工したが、この林道は八丁平湿原を通過する計画であったため自然保護団体が反対運動をおこなった。市は自然保護団体の提案を事実上受け入れる形で、[[1992年]]に西側に迂回するルートへと計画を変更した<ref>{{Cite news|和書 |title=京都・八丁平湿原保全へ新林道 運動実りルート変更 【大阪】 |newspaper=朝日新聞 |date=1992-11-05 |edition=朝刊}}</ref>。[[2016年]]には八丁平を含む、[[由良川]]・[[桂川 (淀川水系)|桂川]]上中流域の山野{{convert|68851|ha|km2}}が[[京都丹波高原国定公園]]に指定された<ref>{{Cite news|和書 |title=自然・かやぶき…活性期待 「京都丹波高原国定公園」誕生へ /京都府 |newspaper=朝日新聞 |date=2016-02-24 |edition=朝刊}}</ref>。八丁平は、「現在の景観を極力維持する必要のある地域」として、そのなかでもとりわけ開発が厳しい第1種特別地域に指定されている<ref>{{Cite web |title=京都丹波高原国定公園 Kyoto Tamba Kogen Quasi-National Park |url=https://www.pref.kyoto.jp/shizen-koen/tamba.html |website=京都府 |access-date=2023-11-10 |language=ja |last=京都府}}</ref><ref>{{Cite web |title=(京の隠れ里に住んで)梅雨の湿原歩きと「夏の使者」:朝日新聞デジタル |url=https://www.asahi.com/articles/ASK6M7J19K6MPTFS01L.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞デジタル |date=2017-06-27 |access-date=2023-11-10 |language=ja}}</ref>。 == 出典 == <references /> [[Category:日本の湿原]] [[Category:京都府の地形]] [[Category:左京区の地理]] {{DEFAULTSORT:はつちようたいら}}
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ニエルシュ・フェレンツ
ニエルシュ・フェレンツ(ハンガリー語: Nyers Ferenc、1927年3月3日 - 2001年7月10日)もしくはエティエンヌ・ニエルシュ(フランス語: Étienne Nyers)は、ハンガリーとフランスの元サッカー選手。選手時代のポジションはFW。 フランスで生まれたが、11歳の時にブタペストに移り、ケーバーニャイ・バラートシャーグの下部組織に在籍した。 1946年にフランスに戻りRCストラスブールで選手となった。1948年にSSラツィオに移籍、翌年のインテルナツィオナーレ・ミラノ戦では対戦相手の兄ともども得点を決めて、兄弟が同一試合で得点を決めたセリエA史上初の試合となった。1950年にフンガリアFbCローマに移籍した。 同年にアトレティコ・ジュニオールに移籍。その後、ASサンテティエンヌに移籍し選手を引退した。 鉱夫のハンガリー人移民の家にフランス・モゼル県フレマン=メルルバックで生まれた。兄のニエルシュ・イシュトヴァーンもサッカー選手である。
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ニエルシュ・フェレンツもしくはエティエンヌ・ニエルシュは、ハンガリーとフランスの元サッカー選手。選手時代のポジションはFW。
{{ハンガリー人の姓名|ニエルシュ|フェレンツ}} {{サッカー選手 |名前=ニエルシュ・フェレンツ |画像= |画像の説明= |本名= |愛称= |カタカナ表記= |アルファベット表記=NYERS Ferenc |原語名= |原語表記= |国={{HUN}}<br />{{FRA}} |誕生日={{生年月日|1927|3|3}} |没年月日={{死亡年月日と没年齢|1927|3|3|2001|7|10}} |出身地=[[フレマン=メルルバック]] |身長=170cm |体重= |血液型= |所属チーム名= |ポジション=[[フォワード (サッカー)|FW]](LW) |背番号= |利き足=左足 |ユース年1=1938-1941|ユースクラブ1={{Flagicon|HUN1918}} [[ケーバーニャイ・バラートシャーグ|ケーバーニャ]] |年1=1946-1948|クラブ1={{Flagicon|FRA}} [[RCストラスブール|ストラスブール]]|出場1=40|得点1=19 |年2=1948-1950|クラブ2={{Flagicon|ITA}} [[SSラツィオ|ラツィオ]]|出場2=36|得点2=14 |年3=1950|クラブ3={{Flagicon|ITA}} [[フンガリアFbCローマ]]|出場3=|得点3= |年4=1950-1951|クラブ4={{Flagicon|COL}} [[アトレティコ・ジュニオール|フニオール]]|出場4=|得点4= |年5=1953-1959|クラブ5={{Flagicon|FRA}} [[ASサンテティエンヌ|サンテティエンヌ]]|出場5=61|得点5=25 |クラブ成績更新日= |代表年1=|代表1=|代表出場1=|代表得点1= |代表成績更新日= |監督年1=|監督チーム1= |medaltemplates= }} '''ニエルシュ・フェレンツ'''({{lang-hu|Nyers Ferenc}}、[[1927年]][[3月3日]] - [[2001年]][[7月10日]])もしくは'''エティエンヌ・ニエルシュ'''({{lang-fr|Étienne Nyers}})は、[[ハンガリー]]と[[フランス]]の元サッカー選手。選手時代のポジションは[[フォワード (サッカー)|FW]]。 ==クラブ歴== フランスで生まれたが、11歳の時に[[ブタペスト]]に移り、[[ケーバーニャイ・バラートシャーグ]]の下部組織に在籍した。 1946年にフランスに戻り[[RCストラスブール]]で選手となった。1948年に[[SSラツィオ]]に移籍、翌年の[[インテルナツィオナーレ・ミラノ]]戦では対戦相手の兄ともども得点を決めて、兄弟が同一試合で得点を決めた[[セリエA (サッカー)|セリエA]]史上初の試合となった<ref>{{cite web|url=https://www.goal.com/en-in/news/insigne-brothers-score-napoli-benevento-serie-a/rjbrxdbqinb81f89aiovjz506|title=Insigne brothers score against each other as Napoli beat Benevento in Serie A|website=Goal|date=25 October 2020|accessdate=25 October 2020}}</ref>。1950年に[[フンガリアFbCローマ]]に移籍した。 同年に[[アトレティコ・ジュニオール]]に移籍。その後、[[ASサンテティエンヌ]]に移籍し選手を引退した。 ==家族== 鉱夫のハンガリー人移民の家にフランス・[[モゼル県]][[フレマン=メルルバック]]で生まれた。兄の[[ニエルシュ・イシュトヴァーン]]もサッカー選手である。 ==参考文献== {{reflist|30em}} ==外部リンク== *{{sports links}} {{DEFAULTSORT:にえるしゆ ふえれんつ}} [[Category:ハンガリーのサッカー選手]] [[Category:フランスのサッカー選手]] [[Category:RCストラスブールの選手]] [[Category:SSラツィオの選手]] [[Category:フンガリアFbCローマの選手]] [[Category:アトレティコ・ジュニオールの選手]] [[Category:ASサンテティエンヌの選手]] [[Category:フレマン=メルルバック出身の人物]] [[Category:ハンガリー系フランス人]] [[Category:1927年生]] [[Category:2001年没]]
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ニエルシュ・イシュトヴァーン
ニエルシュ・イシュトヴァーン(ハンガリー語: Nyers István、ハンガリー語発音: [ˈiʃtvaːn ˈɲɛrʃ]、1924年5月25日 - 2005年3月9日)もしくはステファノ・ニエルシュ(フランス語: Stefano Nyers)は、ハンガリーとフランスの元サッカー選手。元ハンガリー代表。選手時代のポジションはFW。 ハンガリー代表としての出場は僅か2試合であるが、1950年前後のインテルナツィオナーレ・ミラノで活躍したストライカーで、同国史上有数のストライカーと見做されている。 フランスで生まれたが、14歳の時にブタペストに移り、III.ケリュレティTUEでサッカーを始めた。17歳の時にサバドカイ・ヴァシュタシュACで選手初出場を記録した。ユーゴスラビア王国が本拠地のスボティツァを取り返すとブダペストに戻り、ガンズ=MÁVAG SEに移籍した。翌年にキシュペシュティAC、ウーイペシュトFCと移籍した。翌年にFKヴィクトリア・ジシュコフに移籍し、国外でのプレーが始まった。 同1946年にスタッド・フランセ・パリに移籍した。 1948年にインテルナツィオナーレ・ミラノに移籍すると、初シーズンで26得点をあげてセリエA得点王に輝いた。また1949年のSSラツィオ戦では対戦相手の弟ともども得点を決めて、兄弟が同一試合で得点を決めたセリエA史上初の試合となった。その後も得点を重ねて、リーグ戦では182試合133得点を記録、1953年と1954年の連覇にも貢献した。 1954年にセルヴェットFCを経てASローマに移籍した。ローマではリーグ戦54試合20得点を記録した。 1956年にFCバルセロナに移籍して以降は、タラサFC、CEサバデルに在籍した。1958年にカルチョ・レッコ1912に移籍してイタリアに戻った。1960年にマルゾット・ヴァルダーニョに移籍し翌年に選手を引退した。 選手引退後はミラノに住んでいたが、その後スボティツァに移住し、2005年に80歳で歿する迄をそこで過ごした。 1945年9月30日に行われたルーマニア代表戦で初出場初得点を記録した。翌年のオーストリア代表戦でも1得点を記録した。 鉱夫のハンガリー人移民の家にフランス・モゼル県フレマン=メルルバックで生まれた。弟のニエルシュ・フェレンツもサッカー選手である。
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ニエルシュ・イシュトヴァーンもしくはステファノ・ニエルシュは、ハンガリーとフランスの元サッカー選手。元ハンガリー代表。選手時代のポジションはFW。 ハンガリー代表としての出場は僅か2試合であるが、1950年前後のインテルナツィオナーレ・ミラノで活躍したストライカーで、同国史上有数のストライカーと見做されている。
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八丁平
八丁平 (はっちょうだいら)
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八丁平 (はっちょうだいら) 八丁平 (京都府) - 京都府の地形 八丁平 (室蘭市) - 室蘭市の大字
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起工業
株式会社起工業(おきこうぎょう)は、1992年(平成4年)に創業。 主に鳶工事、土工事、コンクリート工事を行う鳶工事の専門工事業。
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株式会社起工業(おきこうぎょう)は、1992年(平成4年)に創業。 主に鳶工事、土工事、コンクリート工事を行う鳶工事の専門工事業。
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「たけくらべ」論争
「たけくらべ」論争(たけくらべ ろんそう)は、樋口一葉の小説『たけくらべ』に登場する数え年14歳の女主人公・美登利の終盤における変貌の原因に関する解釈をめぐって繰り広げられた文学論争。 1985年(昭和60年)5月に佐多稲子が「初店」(処女喪失、水揚げ)説を述べたことに端を発し、それまで長らく定説化されてきた「初潮」説を擁護する前田愛が佐多の説に異を唱える形で始まって以降、両説それぞれへの賛否をめぐって様々な作家や研究者による論議が盛んに行われ、「検査場」説など新たな解釈が提起されるなどの流れを含みながら、2000年代まで続いていった研究論争である。 この論争以後は「初潮」・「初店」の両説併記が一般的になった。両説の論議の応酬が交わされたことにより、明治期の遊廓の実態を改めて見つめる機会が生れ、『たけくらべ』の抒情的な物語の裏面を考察するという副次的な意義をもたらした論争でもある。 ※以下、『たけくらべ』原作内からの文言・文章の引用は〈 〉にしています(現代語訳者の訳語、論評者の論文からの引用部との区別のため)。 明治期の女流作家・樋口一葉は、生活苦のため1893年(明治26年)7月に吉原遊郭近くの通称「大音寺前」と呼ばれる下谷龍泉寺町(現・台東区竜泉)の長屋に引越し、翌8月からその地で荒物や駄菓子を売る雑貨屋を開いて約10か月間そこで暮した。一葉はその雑貨屋の店主として下町の人々や子どもと交流した体験や見聞を題材に1894年(明治27年)の秋から暮にかけて執筆していた未定稿の「雛鶏」(ひなどり)に大幅加筆を施して改稿し、『伊勢物語』第23段に因む「たけくらべ」という題に改めた上で、その作品を翌1895年(明治28年)1月から1896年(明治29年)1月にかけて文芸雑誌『文學界』に断続的に7回連載した。 連載終了から3か月後、若干の補正を加え、通俗雑誌『文芸倶楽部』4月号(第2巻第5編)に一括再掲載された『たけくらべ』(全十六章)は、当時の文壇内の作品批評の最高権威であった、森鷗外主宰の雑誌『めざまし草』の森鷗外・幸田露伴・斎藤緑雨による匿名合評「三人冗語」の場において、鷗外から「われは縦令世の人に一葉崇拝の嘲を受けんまでも、此人にまことの詩人といふ称をおくることを惜まざるなり」と激賞されるなど、彼らから最大級の讃辞の言葉を与えられ、そのことにより樋口一葉の文名は世に広く知られるようになった。 『たけくらべ』には、吉原遊郭の人気華魁を姉に持つ「美登利」(みどり)という大黒屋の寮に住むおきゃんで気っぷのよい女王的な14歳の少女と、龍華寺僧侶の息子で勉強の出来る内気な15歳の「信如」(しんにょ、訓読みでは、のぶゆき)を軸に、鳶頭の息子で横町組を自認する16歳の乱暴者で餓鬼大将の「長吉」(ちょうきち)、長吉が敵視する表町組の金貸し田中屋の孫息子で人好きのする愛らしい13歳の「正太郎」(しょうたろう)、本来は横町組で大家の鳶頭に頭が上がらない貧乏な人力車夫の息子だが滑稽な三枚目の容姿で表町組にも行き来するひょうきん者の16歳の「三五郎」(さんごろう)などが登場し、吉原遊郭の裏手の町「大音寺前」(だいおんじまえ)で、吉原が生み出す金の流れに寄生して生きるしかない町人の子供たちの思春期前の活き活きとした喧騒と淡い恋心が、千束神社の夏祭りから大鳥神社の三の酉の市までの季節の移り変わりを背景にして詩情豊かに韻文を駆使しながら描かれている作品である。 一葉の代表作となった『たけくらべ』は当時としても一歩抜きん出ていた作品であったが、後世においても、明治時代に生まれた日本文学の不朽の名作としてその価値を位置づけられており、やがて大人社会の浮世の苛酷な現実に直面し、そこに繰り込まれざるをえない、それぞれの宿命を目前にした少年少女たちの子供時代との訣別の哀切さや、子どもの時間への哀愁が主題となっている小説である。 ヒロインである紀州生れの14歳の美登利は、当初はよそ者として田舎者ぶりを笑われたこともあったが、遊廓を取り仕切る大黒屋の楼主から与えられる豊富な小遣いと、お転婆で気っぷのよい性格でゴム毬などを皆に大盤振舞して遊びを活気づけたため、子供たちの間で女王様(にょおうさま)的な存在になるが、「五」章で長吉から〈女郎め〉〈姉の跡継ぎの乞食め〉と罵られて泥草履を投げつけられて以来、学校に行かなくなり、遊び場の筆屋の店に集まる仲の良い小さい子どもや、姉弟のように親しい正太(正太郎)や、おどけ者の三ちゃん(三五郎)とだけ遊び暮すようになる。その後「十二」「十三」章で、つれない態度の信如との淡い恋の無言劇の心理描写が描かれた後の「十四」章では三の酉の市の日の場面となり、それまで明るい性格だった美登利の様子に変化がみられ、その後は仲の良かった正太郎とも遊ばなくなる。それが論争の焦点となっている以下の三の酉の市の日を境にした「十四」「十五」「十六」の章である。 美登利の変貌の原因を「初潮」と解するきっかけとなっていたものは、最初に『たけくらべ』を評した「三人冗語」内で文豪の幸田露伴が、「美登利が島田髷に初めて結へる時より、正太とも親しくせざるに至る第十四、十五、十六章は言外の妙あり。其の月其の日赤飯のふるまひもありしなるべし」と、「赤飯」の文言を出したことの影響が大きいとされる。 また、美登利の変貌の原因を「初潮」と解説した最初の人物は、1926年(大正15年)10月に至文堂から『樋口一葉論』を出版した日本近代文学研究者の湯地孝だったとされる。その後、『女人芸術』の主宰者であった作家の長谷川時雨が、1938年(昭和13年)8月に冨山房百科文庫から刊行された『評釈一葉小説全集』において「初潮」だと述べており、その後の一葉研究の書でも同様に解説している。 そして時雨の解釈を踏襲する形で「初潮」とする解釈が続き、1949年(昭和24年)の藤田福夫、1956年(昭和31年)の吉田精一、塩田良平、1958年(昭和33年)の和田芳恵、1961年(昭和36年)の蒲生芳郎、1967年(昭和42年)の村松定孝、1970年(昭和45年)の関良一、1972年(昭和47年)の青木一男、1974年(昭和49年)の松原新一、1975年(昭和50年)の前田愛、1981年(昭和56年)の藤井公明、1982年(昭和57年)の岡保生、1984年(昭和59年)の瀬戸内晴美などが「初潮」を迎えた微妙な心理として解説し、美登利の変化の原因は「初潮」でほぼ定まっていた。 例えば、樋口一葉研究の先達者の一人である作家の和田芳恵は、その日を「生理日」として、「十五」章において自宅の大黒屋の寮に帰った美登利が長襦袢姿になる意味について、正太郎との「距離」を暗示したものだとし、その描写の中にやがて遊女となる美登利の宿命が予示されているとした。 和田は別の論でも「初潮」と解釈し、子供から娘になった美登利の行く手には姉と同じく「身を売る稼業」が待っていたとし、自身に訪れた「生理的な変化」にとまどい、女に生れた「うっとうしさ」を仲良しの正太郎に当たり散らしたと解説した。 同じく一葉研究者で日本近世・近代文学研究者の前田愛は、『たけくらべ』を論じる上で、特に美登利の2回目の「受難の日」として「初潮」の意味を捉えて重視し、やがては遊女になる前の「子どもの時間」の終りを示しているとした。 作家の瀬戸内晴美は、「『たけくらべ』は日本の文学で女の初潮、メンスを正面から取り上げて書いたただ一つの文学」だとして、当時としては「画期的なこと」だったのではないかと解釈した。 その瀬戸内との対談でも前田愛は、美登利が迎えた「受難」であった「初潮」は単なる生理の問題だけではなくて、「もっと普遍的な問題」につながるように書かれているところに「凄味」があるとして、作品の主題の意味に触れた。 1985年(昭和60年)の『群像』5月号にて作家の佐多稲子が、『たけくらべ』の美登利の変貌ぶりに関して、自分は美登利が「身を売った」ことによる「哀れさ」からだとずっと思っていたが、「初潮」という解釈が定説になっていることを最近知って驚いたとし、〈大人に成るのは厭やな事〉という独白については「初潮」とみなされてもいい表現だが、島田に結った髪を振り返って見る世間の人々が自分を蔑んでいるよう思ったり、顔を赤らめたりする美登利の様子は、単なる初潮が訪れたことに起因するものとは思えないと主張した。 そして佐多は、その「尋常」でない美登利の変りようは、処女を奪われたあとの憂鬱だとして、「大門の中で、店を張る華魁ではないとしても、密かに高価な『初店』が美登利の身に行われた」と推察し、「初店」(水揚げ)説を主張した。 佐多は、もし美登利の恥じらいや大人しくなった原因が「初潮ぐらい」であるのなら、『たけくらべ』は単なる「美しい少女小説」の域を出ないとし、さらに、美登利の母親に対する見方も長谷川時雨とは異なる見解を示して、母親の態度は美登利の処女喪失の意味よりも「もっと激しいこと」を描いていると解釈しつつ、憂鬱に沈んでいる美登利の状態を見ても〈怪しき笑顔をして少し経てば愈りませう、いつでも極りの我まゝ様〉〈真実やり切れぬ嬢さまではある〉と正太郎に言って、蒲団に伏している娘を「いささかも案じたり察しやったりしていない」この母親の態度を、娘を売って「華魁の全盛にあずかる境遇の、狎らされた人生態度」だと批判し、それも一葉が観じた浮世、〈憂き世〉への視線の一つであるとした。 続けて佐多は、近所の人々の言葉の中に〈折角の面白い子を種なしにしたと誹るもあり〉とあることに着目し、「初潮を誹るということはあり得ない」から、そのことを「初潮」説の提唱者はどう読んだのか疑問を呈して、美登利の変貌に込めた作者の意図を以下のようにまとめた。 この佐多の「初店」説が発表されると、いち早く作家の大岡昇平が『文學界』6月号で賛意を示し、自身も最初にそう読んでいたが、映画化された作品での「刎橋を渡る美登利をひそかにうかがう信如と正太、のラストシーンにだまされて、変な先入観(後入観?)」が形成されていたことを恥じた。 「初潮」説者の前田愛は同年の『群像』7月号にて、佐多稲子の説を「これまでの常識を破る斬新な異説」とし、「初店」が美登利の身の上を襲ったという「断案」には瀬戸内晴美の「初潮」説に劣らない迫力があって、佐多の筆はそれまでの『たけくらべ』論の「盲点を的確に衝いている」としつつも、いくつかの疑念があるとしておもに3つの点から反論をした。 前田はまず、吉原遊郭の「初店」(「初見世」ともいう)の儀式について、元花魁の森光子の日記『光明に芽ぐむ日』(1926年12月)を参考に、遊女が初見世に出る前には吉原病院で性病検査が行われ、それから源氏名を記した紙札が1か月間店先に張り出される流れを説明した上で、佐多の言うような裏取引の「生臭い秘密」の「初店」(水揚げ)が酉の市という自由に人々が行き来する日にやるとは思えないとし、逆にその賑わいを利用するという見方も成り立つともいえなくもないが、『たけくらべ』のテクスト内の「タイム・テーブル」として、団子屋の息子から、〈今の先己れの家の前を通つて〉美登利が揚屋町の刎橋を渡って廓に入ったことを教えられた正太が、いったん廓の中に紛れ込み人波にもまれながら廓の外に出たところで番頭新造のお妻と一緒いる美登利に出くわす流れを読むと、美登利が揚屋町の刎橋を渡って廓に入り再び出てくるまでの時間は「どう見積っても一時間以内」であり、その短い時間内で「初店」が行われるのは無理であろうと反論して、廓内では「初店」自体が行われたわけではないとした。 次に前田は、発表当時の『たけくらべ』をいち早く絶賛した森鴎外・幸田露伴・斎藤緑雨の「三人冗語」内で、「当代きっての小説の読み巧者」の露伴も初潮と解釈していることを重視するとして露伴の評を挙げながら、「赤飯のふるまひ」は初潮が訪れた祝いに赤飯を炊く「成女式の習俗」であり、娘になった印の島田髷と対応し、「此事」は初潮を指して、「彼運」は遊女になる宿命を意味しているとした。 そして前田は「ここからはまったくの憶測」と前置きした上で、佐多には「初潮説の意味をできるかぎり切りさげなければならない理由があった」として、美登利は「高価」な商品であるがゆえ「初店」の日は慎重に選ばれるはずで、「女性がけがれる生理日をわざわざ指定する客は、よほど特別な趣味の持主」であるから、その日が初潮日でないことが佐多の説には必要だったとし、佐多が殊更に「初潮」説を退ける理由を推察した。 3点目として前田は、「初潮」説者の長谷川時雨が解説中で『源氏物語』の「紫の上」や、一葉が幼時に愛読していた江戸時代の草双紙『偐紫田舎源氏』(柳亭種彦著)の「むらさき」にも触れていたことを挙げて、美登利と信如の微妙な恋の心理が描かれる「十二」章に『源氏物語』の「若紫」の巻がオマージュされ、正太と口を利こうとしない美登利の変化が描かれる「十五」章には「葵」の巻の14歳の「紫の上」と光源氏の「初夜のおむづかり」のエピソードがパロディ的に踏まえられたことを時雨が念頭に置いたことを説明した上で、「テクストのあわいにゆれうごく虚のイメージ」、「(美登利の初潮の)背後に透し見られる虚のイメージ」として示唆したその時雨の鑑賞は『たけくらべ』の「ある核心に触れている」として、同じく「初潮」説者の和田芳恵が「十五」章での正太と美登利の「距離」の近さを、やがて来る美登利の宿命(客として来る正太を遊女として迎える宿命)を予示したものと論じたことも時雨の見立て同様に『たけくらべ』のテクストの「多義性、初潮と性体験のダブル・イメージ」を認めているとして重視した。 そして前田は、正太が〈だけれど彼の子も華魁に成るのでは可憐さうだ〉と言い、〈十六七の頃までは蝶よ花よと育てられ......〉と「曲輪」に売られた娘を歌った流行歌「厄介節」を無意識に口ずさんでいたことを指摘し、「すでに遊女としての美登利を先取りして見ている」彼のまなざしが、初夜をすごした紫の上をみつめる源氏のまなざしに重ね合わされている」のが「一葉の本意」だとし、初潮では「人の世の哀れさ」に触れない底の浅い作品になってしまうとした佐多のその考え方の立ち位置自体に疑問を呈しつつ、「佐多さんの解釈に錯誤があるとすれば、『たけくらべ』という変幻自在なテクストを、近代小説の枠組に当てはめようとした勇み足だと思う」と批判した。 しかし前田は、佐多の「作家的想像力」を尊重し、佐多の説も『たけくらべ』の謎の多い「テクストの曖昧さ」「空白」から促された「もう一つの回答」であるとし、佐多の「初店」説は「既知のテクストとのズレや軋み」を免れないとしつつも一定の歩み寄りを見せて、廓の中で行われたのは美登利が「遊女として初見世に出ることになった前祝い」の「成女式」だったのではと、テクストの「空所」に対する回答として最後に「いたって平凡な代案」を提示した。 佐多稲子と前田愛のやり取りについて早速取り上げたマスメディアは、同年の『朝日新聞』6月20日号で、「佐多説は『たけくらべ』の前後の筋の流れからいって、強い説得力がある」とし、「(前田が)たいへん気持のよい反論を書いている」と伝えて、「恐らく、その夜にも初店が『行われる』と知らされた少女の、やり場のない不安や恥ずかしさではないか、と一シロウトは感じたのだった」という記者の感想も書かれた。 『サンデー毎日』では「現代版『たけくらべ』読みくらべ論争(一葉さんも頭が痛い!?)」という記事を組んだ。また、佐多の「初店」説を読んだ一般の人々からの賛意を示す手紙が佐多のもとに20通ほど来たという。 前田愛の反論を受けてから『学鐙』8月号に佐多稲子が再論を掲載するが、その中には「前田さんが、佐多が初潮と初店を重ねている、と書かれたのは私には解せなかった。自分としては、どこにも初潮と初店を重ねた書き方はしていないのだが、よほど表現が足りないところがあって、前田さんの誤解をまねいたらしい」という文言があり、これは前田の反論の中の「女性がけがれる生理日をわざわざ指定する客は、よほど特別な趣味の持主」なため、「初店」説を提示する佐多が殊更に「初潮」説を退ける必要があったと推察した部分を指したものという見方もあったが、この佐多の発言に関しては、前田の論旨を佐多が誤解したものともみられている。 佐多は、前田の1点目の反論での、美登利が揚屋町の刎橋を渡って廓に入り再び出てくるまでの時間は「どう見積っても一時間以内」であり「初店」は無理だという見解については、その当日ではなく前日の晩に行われてから、明朝に姉の部屋で島田髷を結ってもらったと見ればよいとする、時間的な補正をした。 また新しい論として、「三人冗語」での幸田露伴の文言の中に、「風呂場に加減見たりし母の意尋ねまほし」とあるのは、露伴が「母親の湯加減を見るのをいぶかしくおもっている」という意味ではないかとして、「従来女は、月のさわりのとき、風呂には這入らなかった」のだから、母親が風呂を沸かしていたところから「初潮」ではないと主張した。 しかし佐多は、前田の反論が「優しく」書かれていたため、特に前田に対する論戦で書いているのではないとして、自分としての「読み取り方」を提出したというだけであり、「定説に立ち向うほどのつもりはない」と最後にまとめた。 この佐多の再論に対しての前田のその後の応答は特になかった。なお、前田はこの論争の2年後の1987年(昭和62年)7月に病没する。 佐多稲子の『学鐙』8月号での再論が終った後の同年の『群像』9月号では、作家の野口冨士男が藤井宗哲著『花柳風俗語辞典』を引きつつ、「初店」と「水揚げ」は別のことではないかとしながらも佐多の説に賛同し、「水揚げ」の語源が「新造の船を陸に上げること」の類語で「一人前になる」という「元服」と同意であったことを説明し、「水揚げ」とは半玉や遊女見習などの初夜を買うことを指すとして、「朝からの結髪は、あらかじめ大人たちによってきめられていた『元服』のための準備態勢ではなかったのかとも考えられる」とした。 野口は、前田の論は「理づめな論旨」だとし、前田のことを「いっけん決め球を持たぬ投手であるかのように見えぬでもない」として、「実作者としての自由な佐多説のほうが、前田氏の理づめな論旨の展開よりも魅力的である」と述べた。また野口は、『文藝春秋』6月号での「東西芸者とっておきの内緒話」を引きつつ芸者の場合は赤飯を炊くことは「新造出し」や「水揚げ」にもあることを挙げて前田に反論し、赤飯の習俗について前田が「前提を一般社会の習俗のほうに引きつけすぎているきらいがあるのではないか」とした。 さらに野口は、佐多の再論と同様に、母親が風呂を沸かす点についても言及し、花魁の姉の後を継ぐ美登利の存在は「お姫様」「主人公」であり、遊廓における雇われ人の親は美登利の「寄生虫」「しもべ」のようなものだから、その娘が月経で入れない時に両親が自分たちだけのために風呂を沸かすことはないだろうとした。 9月には、3年前に「初潮」説で『たけくらべ』を解説していた日本近代文学研究者の松坂俊夫(山形女子短期大学教授)が『山形新聞』紙上で、佐多の「初店」説に衝撃を受けたとし、前田の反論を受けた佐多が「だってその日、母親は風呂場で湯かげんをみているもの」、「美登利の初潮の日に風呂をわかすだろうか。従来女は、月のさわりのとき、風呂に這入らなかった」と再論したことに触れて、「私はこの佐多氏の具体的でみずみずしい表現に、まぶしい作家の視線を見た」と述べ、野口冨士男の赤飯の指摘などにも触れた上で、以下の3点の理由から「現在は佐多氏の解釈に左袒したいと思っている」と表明した。 佐多の最初の論の直後に「初店」説に賛同していた大岡昇平は、佐多の再論の後の『文學界』11月号でも、「メンスの間であれば湯に入らないのは今日では小学生でも知っている」として佐多を改めて支持し、この日の美登利の言動にしても「吉原近辺のませた子どもたちの間では、初潮ぐらいでは片附きそうもない、はげしさがある」とした上で、時間的な点も前日に起ったという佐多の意見に準じつつ、「明治の検閲」を逃れるために施された解釈の複雑さがあるのではないかとした。 また大岡は、当時一葉の作品を読むのは「大正でもインテリ志向の男女だった」として、そうした読者層を頭に入れないと解釈が狂うとし、「初潮ばかりにこだわって、作品全体の読者との一対一の対応を忘れないように願いたい」とも述べた。 同年秋には、同じく作家の吉行淳之介が『週刊宝石』で「初潮」か「水揚げ」かについては、一方のA説を読めば「なるほど」と思い、もう一方のB説を読んでも「なるほど」と思って、「定見がない」「定見が持てない」として、「この問題に介入する力は、到底持てない」と断りながらも、佐多が美登利の母親の言葉の意味を「娘を金に換えるのに馴れている親のセリフ」だと指摘したとして、その見解を読むと、佐多の「水揚げ」説へ「かたむきそうになる」と表明した。 佐多稲子の再論が終った同年の『本の窓』9月・10月合併号では、日本近代文学研究者の岡保生(青山学院大学教授)が前田愛の論への賛同を示し、「各紙は前田氏の学殖に敬意を払ったものの、依然として佐多説を捨てかねているような論調が見られる」と批判的な前置きした上で、「初店」「水揚げ」というものは盛大な儀式であるはずだと、中村芝翫著『遊廓の世界』(1976年)や、初代市川猿之助こと喜熨斗亀次郎の妻・喜熨斗古登子著『吉原夜話』(1964年)の中の話を例に引きながら、遊女になる過程には一定のコースがあることを指摘し、花魁の姉を持つ美登利がそうしたコースの儀式を経ずにいきなり遊女になるはずがないと、佐多の秘密裏の「初店」(水揚げ)説への疑問を呈した。 岡はまた、母親が正太に〈今朝から美登利の機嫌が悪くて、皆なあぐねて困つてゐます〉と言って〈怪しき笑顔をして少し経てば愈りませう〉と語っている部分に、〈今朝〉美登利に初潮が訪れたことを正太にそれとなく教え、それはまた同時に読者にもそれをほのめかしている箇所だとして、〈少し経てば愈りませう〉は長谷川時雨のいう「医者のいらない病気」(初潮)を暗示したものと解釈するのが自然だとした。そして、美登利の島田などのいでたちは、遊女見習いの「禿の支度であろう」とした。 『月刊カドカワ』9月号では、作家の瀬戸内晴美が美登利の初潮説にあくまでこだわるとし、一葉が愛読していた井原西鶴が、『好色五人女』で花見幕のかげで処女を失ったお夏をその腰の描写一行で表現したことと、一葉が「二つの祭りの賑いで飾った劇的な『たけくらべ』」で「初潮をクライマックスに据え」て「女の生理の変りめ」を描いたことに、互いに呼応し合う共通点を感じるとした。 同年の『群像』10月号では、評論家の松本健一も前田の説を全面的に支持し、前田の反論は、「『初店』の事実を想定しているのは、作者の樋口一葉ではなく、佐多稲子だ」という主旨があり、「初店」だと「想定」する佐多の「固有の立場」(=「表現の場所」)は否定してはいないものの、「このテクストを創った一葉の『表現の場所』からはそのような読みとりかたはできない」という主張があると強調した。 また、野口冨士男の前田批判について松本は、「前田説は精巧なガラス細工である」と評されたようなものとしつつも、前田の反論は「学者の文学研究の域をこえて、批評という領域にはいりこんだ」秀れたもので、「文芸批評が独立した創造行為である初源を、実例によって提示したもの」と高く評価し、前田がアカデミックな研究学者として、「テクストの空白」を重視する姿勢で佐多の「初店」説の無理を論理的に指摘しつつ、自身の「初潮」説もまた完全には論証不可能ながらも研究の上に立脚した文芸批評的なスリリングな想像的な一面も同時に見せていたことに共感できたと、その後にも改めて述べた。 『國文學』10月号では、日本近代文学研究者の小森陽一(成城大学助教授)も前田の説を支持し、佐多の言うように、美登利の〈憂き事〉を「我が身の上で経験した」ことに限定してしまうことは、「彼女の苛酷な運命」を、自らの〈憂き事〉〈口惜しさ〉〈恥しさ〉として引受けていく他の子どもたちの「共感の可能性」と、「読者自身が参加すること」を奪ってしまうとし、「新造出しの儀式と初潮が重なった」と解説中の注解で述べた。 小森は、全体の作品解釈としては前田論「子どもたちの時間」での「かつて子どもであった私たちの原像」を夢みることには否定し、子どもたちを取り囲む言葉の「網状組織」(ネットワーク)という独自の視点から、〈貸座敷〉〈検査場〉〈お宗旨〉など「制度」としての言葉の「近代化の網状組織の網の目」に捉えられた子どもたちの生きる場は純粋無垢な遊びの時空でないとし、そこに「子どもたち全てを、ひとしなみにからめとっていく、近代国家形成期の状況」を背景として見て、それを「どう追体験していくかに、共感の絆がつながるか否かの分岐がある」とした。また美登利同様に中心的な人物の信如については、「信如とは、全ての者が売り手と買い手に分節化されてしまうイチとしてのマチに住む子どもたちの、口惜しさと恥かしさをわずかに残している負の吸引力を持つ場だったのだろう」とした。 『群像』10月号では比較文学研究者の満谷マーガレット(共立女子大学教授)が、吉原遊廓界隈の裏町という特殊な環境の話である『たけくらべ』になぜ「普遍性」があるのかを考察し、「時代や国境を越えた子どもらしさ」の生き生きとした描かれ方や、明治の立身出世を目指す若きエリートの「夢とも自由とも無縁」な人達の物語から看取できる「裏街道から明治という偉大な時代を眺めていた一葉の視線」を評価する中で、この論争にも触れつつ、佐多や野口、前田それぞれに説得力があるものの、「初店」は吉原遊郭という特殊な世界の行いで「普遍性」がないのではと疑問を呈して「初潮」説の方をとると表明し、「『初店説』か、初潮説か、どちらをとるにしても、美登利には遊女としての運命が待っていることになるし、その象徴的な意味も変わることもない」とした。 1985年(昭和60年)7月に文芸評論家の加藤典洋は、佐多と前田のやり取りから始まった論争に触れつつも、加藤はそのどちらの説に賛意を示すものではなく、両説への見解の中に「これが佐多の『新説』提起ではなく、ありうべき一つの解釈がこれまで『ステレオタイプのわきで待たされ』てきたことへの『異議申し立て』なのだとする指摘は見当たらない」と感想を述べた。 1985年(昭和60年)9月に一葉研究者の野口碩は、特にこの論争には触れてはいないものの、荒木慶胤著『樋口一葉と龍泉寺界隈』(1985年)の「序説にかえて」において、龍泉寺町の住人、特に〈廓者〉という住人の間では娘に初潮が来たら、その子が廓に行くのが一番の親孝行だという話を聞いた一葉が衝撃を受け、それから『たけくらべ』の後半を加筆して定稿が出来たことを解説した。 「初潮」説で24年前に論文を書いていた日本近代文学研究者の蒲生芳郎(宮城学院女子大学教授)は、佐多の再論後の同年11月に、この論争に関する講演を行なったが、「初店」説、「初潮」説のどちらかに加担しているものではなく、どう読解するかは最終的には読者の「想像力の自由」に委ねられると考えて議論の活性化を呼びかけた。この講演記録は翌1986年(昭和61年)の大学誌に掲載された。 蒲生はその講演の中で、前田が「初潮」説の原点として幸田露伴の評語を挙げた点については、「『三人冗語』の面々に対する尊敬は尊敬として、彼らの権威を絶対化するのでないかぎり、それだけで別な〔読み〕の可能性を封ずる根拠にはならないだろう」とし、佐多の「初店」説については、三の酉の市の「ハレの日」の昼間の短時間にあわただしく行われたとすると「不自然」だとして、島田髷や着飾った着物も乱れて整い直す問題を指摘しつつ、佐多がその後、前日の晩に行われたと軌道修正した説ならば説得力があるとした。 また、前田の数々の反論は佐多の説を論破したともいえず、かといって佐多の「初店」「水揚げ」説も全面的に賛成するには「一抹の不安、ある種のためらい」が残り、作品内に「その出来事を暗示し示唆する伏線や状況が何一つ――少なくとも目につきやすい形では何一つ用意されていない点が気になる」として、佐多が挙げた〈折角の面白い子を種なしにした〉という近所の人たちの言葉にしても、その文の最初の句には〈知らぬ者には何の事とも思はれず〉とあるため、そこに「初店」の暗示を汲み取るには無理があり、母親が風呂の湯加減を見ていた点についても、美登利のためだとは限らないとした。 その上で蒲生は、前田が最後にまとめた「廓の中の成女式」に説得力があり、初潮と同時に、成女式のその日に美登利が〈女郎〉という「自分に定められた役割の何たるか」を明確に言い渡され、「はじめて自分の置かれている境遇、その立場がよく見える場に引き出された」として、「初潮という、うっとうしい女の生理と、それに加えて、金で売られ、金で買われるべく定められたわが身の立場の自覚と、その二つが同時に美登利の身を襲った」と推察しつつ、蒲生自身の以前の論では「つたなき宿世」への自覚に促されたであろう美登利の具体的な出来事に言及していなかったことを反省した。 翌1986年(昭和61年)9月には、ノンフィクション作家の澤地久枝が著書『ひたむきに生きる』の中で佐多の説を全面的に支持し、「水揚げをさせられて、少女が無理にも性的に女としての経験をさせられたのではないかと新たな問題提起を」佐多がしたとして、「女性ならではのこまやかで深い洞察には説得力があって、わたしは共感した」と述べた。 同じく9月には、前年に「初潮」説から「初店」説に変わったことを『山形新聞』で取り急ぎ表明した松坂俊夫が『國文學』において再び、佐多に左袒すると述べて、佐多の説の方に優位があるとした。 同年11月に開かれた「日本近代文学会関西支部秋季大会」シンポジウム「『たけくらべ』をめぐって」に参加した日本文学研究者の山根賢吉(甲南女子大学教授)は、「水揚げ」の説は佐多が初めてではなくて、約30年前の1956年(昭和31年)に、とある法制史・法律学の大家が、学生だった明治時代に従兄弟などから聞いた吉原に関する「哀話」を根拠にして秘密裏の「水揚げ」説を短歌雑誌『明日香路』(長野県で出版)に「太田一夫」という匿名で発表していたことを紹介した。 山根が紹介した「太田一夫」が「水揚げ」説の根拠とした「哀話」は以下のようなものであるが、「太田一夫」の説は当時、関良一によって「水揚げ説が提示されているが、そうではなかろう」と否定された。 その上で山根自身も「初店」説寄りの意見を示し、美登利の「初潮」はすでに「十四」章以前に済んでいるとしながら、「初潮というのは十二、十三章から読み取るべきではなかろうか」とし、下駄の鼻緒が切れた信如のために格子戸から美登利が投げた〈紅入り友仙〉が「初潮」を暗示しているのではないかとして、美登利の「初店」は、三の酉の市の日の「夜」に行われる予定で、「十四」「十五」章は美登利の「最後の処女の姿」だったと解釈した。 同年12月には、近世演劇研究者の河合真澄(愛媛大学教授)が古典文芸との関係から『たけくらべ』を論じる中で、『源氏物語』の「若紫」の巻の下敷きの観点に着目して佐多の説を支持した。 1987年(昭和62年)7月(掲載紀要に3月とあるが実際は7月)になると、先の松坂俊夫がこれまでの論争の経過などを大学紀要に詳細にまとめた上で、結論的には佐多の「初店」説を支持する論考を改めて発表した。松坂は「美登利の変貌は、一見初潮によると思われるが、実は初店に拠るという、二段階の、あるいは複眼的な読みがなされなければならない」と考察した。 「初店」説を支持する論拠として松坂は、佐多の論拠以外の新たな視点として、廓から美登利が〈番頭新造〉のお妻と一緒に出てくる場面で、美登利が正太と一緒に帰るためお妻に〈佐様なら〉と別れの言葉を発した後に、お妻が〈あれ、美いちやんの現金な、最うお送りは入りませぬかえ〉と返すところから、すでに美登利は〈番頭新造〉のお供が付く「華魁」の身分になっていることが読み取れるとして、美登利の〈京人形〉のような〈極彩色〉の装いは一見「成女式」の装いを思わせながらも、「実は、それは華魁の扮装」であると推察した。 その年の7月27日に前田愛が56歳で病没した後の翌1988年(昭和63年)になってくると、「初潮」説よりも佐多の「初店」説を支持する論が増えてくる傾向となった。 1988年(昭和63年)には、フランス・日本近代文学研究者の西川祐子(京都文教女子大学教授)が佐多の説をとりつつも、「初店」なるものにおいて、本当に処女である必要はないだろうという論を展開し、「性が商品として扱われる場合、売り主は初潮をみて商品の成熟を確認する必要はない」とも述べて 、「未成熟のままうけた陵辱」が、勝ち気だった少女・美登利の性格を変えてしまったと解釈した。また前田の論に触れつつ、「前田愛氏の反論はむしろ一葉の韜晦のテクニックの数々をわたしたちに示しているように思える」とも述べた。 西川は、一葉の日記などに基づいて書いた一葉評伝の注解内においても、島田髷に花簪をつけて着飾る盛装について、「初店準備、商品化準備だとしなければ、『たけくらべ』と一葉の龍泉寺体験を結びつけることはできない」とした。 同年には他に、平安文学研究者の大橋清秀(帝塚山学院大学教授)が、元花魁の森光子の日記『光明に芽ぐむ日』(1926年12月)の「初見世日記」と『たけくらべ』の記述を照らし合わせながら、「(美登利も)水揚げの日の朝にやはり島田髷を結っていたのだ」として「水揚げ」説を支持した。 1986年(昭和61年)には『海燕』2月号で作家の増田みず子が、前年の野口碩の「序説にかえて」に触れた上で、感覚的に「初潮」説を支持したいとして、「私自身の『感情的』意見としては、初潮を迎えた美登利が廓へ連れていかれて得心させられ、実態を知らされた日、と考えたい」と述べつつ、〈母親怪しき笑顔をして少し経てば愈りませう、......〉という母親の言葉に関しては、「それにしてもその時の美登利の母親の陽気さが薄気味悪い」とした。 『国文学 解釈と鑑賞』3月号では、日本近代文学研究者の山田有策(東京学芸大学教授)が佐多と前田の論争には触れずに、従来の「初潮」説のまま『たけくらべ』に言及し、その年の11月に開かれた「日本近代文学会関西支部秋季大会」のシンポジウム「『たけくらべ』をめぐって」では、「初潮」を迎えた美登利が「それまで無意識に抱いていた大人になることへの嫌悪、あるいは大人になることへの激しい憎悪を顕在化」させたとし、美登利の変貌をめぐる論争に関しては、「初潮」以外の「初店」や「水揚げ」などの読み方の「自由な想像」が可能なのは、その問題の終盤の章では「語り手をのり超えてしまい、正太郎や美登利になりきった記述者である一葉の内的世界がつよく露出してしまっているからだ」といえると解説した。 同じくそのシンポジウムに参加した日本文学研究者の橋本威(梅花女子大学教授)は、「初店」は盛大な行事だから隠れてこっそり行われることはないとして佐多の説を否定し、作中の〈此処志ばらくの怪しの現象〉という語句からも、「初店」では〈此処志ばらく〉という意味はおかしく、また、「初店を〈現象〉と言うのは、すごぶる不自然」で、この〈現象〉は「初潮」と解釈するのが自然だとした。 1987年(昭和62年)5月には日本近代文学研究者の塚田満江(京都女子大学教授)が、作品後半の秋の大鳥神社の祭は美登利の「様変わり」の背景とはなってはいるものの、美登利の「変貌」だと呼ばれるような「性格の変化」や「心理的動揺」には、夏祭りの千束神社の祭の時ほど深くは関わっていないとする論の中で、草稿のみどり(「雛鶏」)から美登利(『たけくらべ』)の「様変わり」の「十四」「十五」章を、いきなり「少女から娘を超えて、女に変貌」したと解する説は、「飛躍」というよりも「不思議」だとした。 また塚田は、美登利だけを主人公に据えていた草稿「雛鶏」では、「お祭り騒ぎ」の前後における子どもたちの「時間と空間」を描くのが主眼であったが、結ばれない淡い初恋の相手の信如を主人公に据えた「七」「八」章以降を組み入れた『たけくらべ』では、夏の千束神社の祭時の「偶発」の事件「五」「六」章を発端とした「偶然」の結果として導かれた秋の「お酉さまの日」(酉の市の日)は、「(美登利の)様変り」「(勝気な娘、神経質な少女によくある)生理前後の鬱症状、躁状態」を露わにする「季節」となったに過ぎないとして、美登利がうなだれていた理由の中には「十二」「十三」章で信如に振り向いてもらえなかった「悲しさ」も窺えるとした。同月の別の論でも塚田は、廓の中にいた時間の問題について前田同様にその短さを指摘し、美登利が「猅々爺」や「道楽男」の「陰気な愉しみ」の遊び相手になっていられる時間があったとすれば「たちばなし」程度だろうとした。 その年の6月には、日本近代文学研究者の関礼子(嘉悦大学短期大学部専任講師)が「悪場所」論と「少女」論を導入し『たけくらべ』を論じる中で、美登利変貌の原因の論争に触れて、「小説にはっきり何と書かれていない変調の原因を突きとめることは興味深い作業であるが、だからと言って小説に書きとめられている表層の変化の意味するものを軽視することは賢明ではない」として、美登利の変化は〈初々しき大嶋田〉という記号に「あざやかに象徴されている」とし、女性の「成長儀礼」だった「成女式」に関して桜井秀著『日本風俗史概説』(明治書院、1950年)を参考にしながら、「初笄」(はつこうがい)と「着裳」が「古来から受け継がれた成女式の根幹」を為していたことを挙げ、美登利の「成女式」が行われたことだけは、テクストから読み取れるとした。 そして「十四」章以前の、おきゃんで男まさりの気性で〈前髪大きく〉垂らしていた美登利にすでに初潮があったとは考えにくく、その後に美登利が初潮を迎えたことで、それを待ち構えていた周囲の大人たちによって「成女式」が行われ、遠からず訪れる「初店」について大黒屋の主人から告知されたと考えるのが自然な解釈だと、前田の説に準じる論を展開した。 その上で関は、小説『たけくらべ』が「まぎれようもなく受苦の表情を帯びている」のは、美登利という一人の少女の「葬送にも等しい変容の劇」に、同じ学校仲間、子ども仲間であった長吉や信如ら地縁の少年たちが、大音寺前という土地が無意識に持っていた吉原(悪場所)に対する「悪意」を彼らがまた無意識に演じ、美登利を「悪場所に送り込む引導渡しの役」を引受けて深く関与している作品構造に起因するとし、紀州から吉原地域にやって来た「マレビト」「異人」でもあった美登利に対する「異人殺し」の役も彼らが担い、「排除された不幸なる生け贄」の美登利への「鎮魂」の「物語」という「供犠の現場」の意味を、赤坂憲雄の『排除の現象学』の「物語」定義を敷衍しつつ論じ、前田の「子どもたちの時間」論に連なる『たけくらべ』の持つ物語の普遍的な意味を重視した。 日本近代文学研究者の薮禎子(藤女子大学教授)は、1987年(昭和62年)までの論争をまとめた上で、作家の佐多の説が「大方の虚を衝くという形」で現れて問題提起がなされたことを評価しつつ、「初潮」説を「暗黙の了解の下」で発信していた学者らに「安全地帯にお互いのうのうとしていた所があったのではないか」と指摘すると同時に、それぞれの説の当否や賛否のいずれも、論議の路線や方向などが佐多の誘導のまま「吉原的世界、制度からの検証の側に一方的になびきがちだったのは、反省されねばなるまい」とし、『たけくらべ』の「作品固有の魅力の解明、時代を超え、環境を超えて、一世紀近くなぜ広く愛好され、享受されてきたのか、といった辺りへの顧慮」を置き忘れた論議はいかなるものも無用になるだろうとした。 薮は、佐多の見解について前田が「変幻自在なテクストを、近代小説の枠組に当てはめようとした」ところに錯誤があると指摘した点は理解でき、娘の美登利に対する「母の非情さ」に近代小説の面目を見る佐多の読解は「いびつな拡大鏡といった感を免れない」として、母親の非情さを強調させることでしか『たけくらべ』の価値に言及できないとしたらおかしいとした。 また薮は、「初潮」説を論じる前田が、幸田露伴が言及した「赤飯」の件から「初潮」の「成女式」を挙げるなどした「習俗」へのこだわりが、逆に野口冨士男が出した芸者の「習俗」の事例により論破されてしまったことを「危ない落とし穴」だったとしつつも、薮自身は野口の主張には同調せず、一葉に吉原界隈の見聞があったとしても「一葉の感覚や理解は、吉原の習俗よりは一般社会の習俗レベルにより近かった」のではないかとして、吉原界隈の規定にこだわりすぎるのは逆に一葉の世界観を壊すことになり、そうした面での細かな整合性の過度の論議は特に必要なく、文学研究にとってはそのような細部の検討に固執することは、結局は作品を解体させてしまうことになるとした。 そして、解読すればするほど、「作品そのものよりも解読の型とか方法のみが大写しに出てきて、有機体としての作品はかえって向こうに遠ざかる」傾向が強くなりすぎるのではないかとし、佐多の読解にも「いびつな拡大鏡」があったが、前田の論にしても「フィルター越しに作品を見てしまってはいないだろうか」という疑問を投げかけ、そうした意味で、一般的な自然な理解としては、一葉研究の第一人者の和田芳恵の解釈を補強する形で、「禿の支度」とした岡保生のような「簡潔な」方法で「初潮」説を説明する方が一般的な理解としては妥当だとした。 なお、薮自身は、美登利の変貌について、「単なる生理の問題でなく、大人になるという不可避の時を迎えた者の、無明の世への予感と戦慄」だったのではないかと論争以前の1979年(昭和54年)に発表していた。 1988年(昭和63年)の『文学』7月号では日本文学研究者の上杉省和(静岡大学教授)が、佐多の説も前田の説も今ひとつ決め手に欠けるとして、作中で正太郎が口ずさんだ「厄介節」を踏まえ、その流行歌の歌詞の続きに「検査」の時の辛さが「八千八声のほととぎす、血を吐くよりもまだ辛い」と歌われていることから、明治から強制として始まっていた梅毒検査の「検梅」説を提示した。 上杉は、佐多の「初店」「水揚げ」説では、揚屋町の刎橋から出てきた美登利が正太郎を見つけて自分から駆け寄っていくことはしないだろうと推察したが、自説についても、「何故、酉の市の日を選び、しかも島田髷に晴れ姿で」検査なのかという疑問もあり、盛装をしたのは「周囲の人達への偽装工作」かもしれないが、自分の説もまた決め手に欠けるとした。 なお、明治当時は遊廓の北の水道尻には娼妓の健康診療所があり、その前の空地を土地の人々が「検査場」と呼んでいた。 1990年(平成2年)になると、谷崎潤一郎の助手を務めたこともある平安文学研究者の榎克朗(大阪教育大学教授)が、三の酉の市の前の晩に「水揚げ」があったという説をとり、「三人冗語」での森鷗外や幸田露伴も「暗黙のうちに『水揚げ』を念頭に置いて物を言っているのだと思う」と推察した。「初潮」に関しては「七」章で描かれる〈春季の大運動会〉の時、転んだ信如に美登利が〈これにてお拭きなされ〉と介抱した〈紅の絹はんけち〉がそれを暗示しているとして、それが美登利の「春のめざめ」の標識であり、「幼女」の身心を卒業した「少女」を暗示するものと読み取り可能だとした。また、榎は妻が短歌雑誌『明日香路』の同人であったため、1956年(昭和31年)の「太田一夫」による「水揚げ」説を知り、それから自身が務める大阪教育大学でもその説で教えてきたことにも言及した。 1992年(平成4年)には、それまで「初潮」説や前田の「廓の中の成女式」寄りながらも中立的であった蒲生芳郎がその後に再考して、前の日の晩に処女喪失があったとする佐多の説を全面的に支持するようになった。母親が風呂を沸かす点についても以前の考え(親たちが入るため)を翻し、美登利が初めて「身を汚して」自分たちに「黄金」をもたらしたことへの「ねぎらい」のために沸かしたと解釈した。 1995年(平成7年)に佐多稲子の研究者の北川秋雄(姫路獨協大学助教授)が、これまでのこの論争をまとめた上で、そもそもが『たけくらべ』の「一」章の記述から当時の15、6歳はまだ子どもの部類に属していたことが示されており、「十四」章で正太郎が歌う「厄介節」でも〈十六七の頃までは蝶よ花よと育てられ......〉とあるように、まだ14歳の美登利の「処女喪失解釈」は「あらかじめ封じられているとみるべきではないか」とし、当時の吉原の「年季奉公」の風習でも16歳までは「かぶろう」(禿)として見習いを務めることになっていたことに触れて、まだ「初潮」もない少女の肉体をいきなり「実際の商品」として売り出すことはまずないとし、佐多の説やその支持者の論拠などにも疑問を呈して「初潮」説の方を支持した。 北川は、佐多が時間的な無理を前田から指摘された後の再論において「初店」が行われた時間を酉の市の前日の晩に変更したが、それは細かくみれば、佐多支持者の野口冨士男や大橋清秀が「水揚げ」を行う日の朝に島田髷を結うと主張していたこととは相容れず、佐多の昨晩説と、野口・大橋の当日説は厳密には区別して考えなければならないとした。また当日美登利が廓に行ったことに関して佐多が、「そして再び美登利は恥を抱えて揚屋町の刎橋から入って行くのである」と解釈したことにも、何のために翌日再び美登利がそこへ行く必要があったのかが示されていないと指摘した。 女は生理の日には風呂は入らないという件についても、そう決めつけている佐多の「普遍化操作」に疑問を呈し、掛かり湯だけを使うことも含めれば生理の日に風呂に入らないというのは一般的習俗ともいえず、テクスト内に美登利の「外湯」(銭湯)からの帰りの描写が2箇所あり、それが美登利の習慣だと仮定するなら、「内湯」(家の湯)は美登利以外の家族が使うためのものかもしれず、あるいは生理中のため銭湯は避けて家の湯を使うのかもしれないとした。 また、「検査場」説者の上杉省和が指摘したように、「初店」「水揚げ」という衝撃的な出来事の直後、揚屋町の刎橋から出てきた美登利が、正太郎の姿を発見して思わず自分から駆け寄り、お供のお妻に〈此処でお別れしましよ〉と告げてまで正太郎と一緒に帰るのを選ぶことにも疑問があるとし、「水揚げ」の後ならば「むしろ恥じて、避けるのが自然であろう」とした。そして同様の意味で、上杉が「厄介節」の歌詞の「血を吐くよりもまだ辛い」を挙げて言った屈辱的な「検査」の後も正太郎に駆け寄ることはないだろうとし、酉の市の祭は吉原の祭でもある「紋日」だから検査場の医者も休日をとっているのではないかとした。 総論として北川は、佐多の「初店」説の提起が従来の「初潮」説を揺るがすほどの波紋を広げたが、美登利の変貌ばかりに注目されすぎて、それまで論じられてきた、もう1人の主人公ともいえる信如や、他の正太郎を含めた少年少女たちの世界への視点が稀薄になってしまったことに触れ、湯地孝や和田芳恵の作品論を引き継ぎつつ独自に発展させた前田愛が、明治の近代化が期待する「国家有為の人材」となるべく「刻苦奮闘」「勤倹力行」し「立身出世」を夢みる少年像とは異なる「遊戯者としての子ども」を美登利たちに見て、「信如や美登利は、明治の子どもたちであるとともに、かつて子どもであった私たちの原像なのだ」と、消えてゆく「子どもたちの時間」という「通過儀礼」的な意味を作品から読み取ったその視点を継承する研究の流れが滞ってしまったことを憂慮し、前田が論争以前に書いていた『たけくらべ』論の「子どもたちの時間」に立ち帰れと提言した。 1989年(平成元年)に日本近代文学研究者で評論家の亀井秀雄は、前田が佐多の「初店」説の提起について「狼狽」を隠さずに「誠実」に対応したことが印象に残ったとし、また前田が「女性の読み方」について「深い畏敬の念」を抱いていることも印象的だったとした上で、佐多の提言が意外なほどの大きな反響を呼んだのは、前田自身の中にもあったであろう、多くの者の中に潜在している「一葉処女伝説」や「美登利初潮説」という「観念連合」にくさびが打込まれたからだろうとした。 そして「美登利初潮説」の「観念連合」が女性作家(長谷川時雨や瀬戸内晴美)の読みによって保証されていた安心感が前田の中にあったため、「一葉における女の感性よりもむしろ精神の面を中性的にとらえていた」が、もう1人の佐多という女性作家によって異なる読みがなされて「動揺」したのだという感想を述べ、もしも男性の研究者から「初店」説が提示されていたのなら、それほど反応せず「動揺」もしなかっただろうとした。 1989年(平成元年)に児童文化研究者の本田和子(お茶の水女子大学教授)は、佐多と前田のやり取りを要約した上で、作者の一葉によって「行間にゆらめくイメージとしてあえて言語化されなかったことども」に関して、推理小説の「謎解き」のように「初店」か「初潮」か「ただ一つの事実」を求めることには興味がそそられないとしつつも、前田が明晰に自身の小説観を理知的に語る表面的な「前向きな顔」と同時に、「慎ましい恥じらいの中に面伏せがちながら、チラと仄見えてしまう」その「女性観」「少女観」に心惹かれるとして、前田の様々な小説研究から垣間見られる「未分の性」(少年少女)や「未開の身体」への「優しい」まなざしや、断言的な解釈をためらう「たゆたいの想い」、「ゆらめく幻のまま」に「決着を見せぬあわいの境位に、とどめて置こうとする」心性や、前田が佐多への反論の題を「美登利のために」と付けた意味を論じた。 1992年(平成4年)に日本近代文学研究者の高田知波(駒澤大学教授)は『たけくらべ』の解説中で、美登利の変貌の理由の論争に「初潮」説、「水揚げ」説、「初店」説などの見解があることに触れ、「十六」章に〈人は怪しがりて病ひの故かと危ぶむも有れども母親一人ほゝ笑みては、今にお侠の本性は現れまする、これは中休みと子細ありげに言はれて、知らぬ者には何の事とも思はれず〉という表現のあることを見落としてはいけないとして、「一」章で住人の多くが〈廓者〉であると明示されていることとの関連に言及し、吉原の情報に精通していたそうした〈廓者〉の住人らも美登利の変貌の原因が分からないという設定の意味も見逃せないとした。 2001年(平成13年)になると、峯岸千紘が群馬大学の修士論文で、美登利が性病検査のため「検査場」に行ったとする「検査場」説を提示し、年齢的な問題に関しては、1889年(明治22年)施行の「貸座敷引手茶屋娼妓取締 規則」では16歳未満の少女を娼妓にすることを禁じる規定が書かれてはいるが、森鷗外が大学入学の際に年齢をごまかして入学したように、美登利の年齢もごまかすことが行われたのではないかとした。 2005年(平成17年)には、峯岸の説を受けた群馬大学の学生の石井茜が、1894年(明治27年)の『東京朝日新聞』に「遊び女の身体検査」という記事があったことを挙げて、一葉がこれを読んだ可能性が高いとして、峯岸の「検査場」に行ったという説を支持した。石井は「初潮説、初店説のどちらも作品自体によって読みが否定され、成り立たない」としたが、その根拠も論証も特に示されていなかった。 同年に石井の論文に続けて日本近代文学研究者の近藤典彦(群馬大学教授)が、先の上杉省和の「検査場」説がほとんど支持されていないことに疑問を呈して、「初潮」説を否定しつつ、美登利が出てきた〈廓の角〉は大鳥神社の脇の「検査場」だとして「検査場」説を引き継いだ。 この解釈は、前田が最後に代案とした「廓の中の成女式」から派生したような解釈で、蒲生芳郎が1985年(昭和60年)に講演した時点の解釈にも近く、美登利が自分の今後の具体的なことを明確に告知されたというものである。 2002年(平成14年)2月に日本近代文学研究者の戸松泉(相模女子大学教授)が、佐多と前田の論争直後に報じた『朝日新聞』に記事中で、新聞記者が「恐らく、その夜にも初店が『行われる』と知らされた少女の、やり場のない不安や恥ずかしさではないか、と一シロウトは感じたのだった」という感想を書いていたことを挙げて、この新聞記者の読解が「この場面のもっとも素直な理解なのではないだろうか」と自著の中で述べた。 2002年(平成14年)3月に日本近代文学研究者の山本欣司(武庫川女子大学教授)が、佐多の「水揚げ」説の方に賛同寄りの姿勢を示しつつも、美登利の変貌の契機として「初潮」か「処女喪失」か、という議論には、どちらも女性が「少女」から「大人」に変化する出来事にジェンダー的なもの、性的な成熟という「セクシャリティをめぐる神話」がつきまとっていると批判した。そして山本は、きらびやかな遊廓の世界を支える「システムの苛酷さ」に着目しながら、美登利が法的に姉と同じく親から「身売り」「人身売買」される立場の惨めさを自覚したとする説を、「五」章で長吉から〈女郎〉〈乞食〉と罵られたり、「十三」章で淡い恋心を抱いた信如から拒絶的な態度をされたりする伏線から考察し、彼らから隔てられる自身の「属性」への美登利の自覚の悲哀を推察しつつ解釈した。 2010年(平成22年)に、比較文学研究者の小谷野敦はこれまでの論争の流れをまとめた解説の中で、佐多の説の方に左袒し美登利の処女貫通が行われたことを支持しながらも、美登利の場合は上級の花魁候補の少女であるため「初店」「水揚げ」が行われる場合には、「信頼できる旦那を決めて、盛大な披露を行うのが普通」だとして、その意味で太田や佐多の言う秘密裏の「水揚げ」というのは『たけくらべ』内の状況とは合わず、貫通があったとすれば、「妓楼のおばさんによる、張形を使っての前もっての貫通」が考えられるとし、「現代人は、処女貫通を男の喜びとのみとらえがちだが、かつてはむしろそれを面倒と見なすことが少なくなかった」と解説し、「張形」説なら前田が反論した時間的な問題にも応えられるとした。 2015年(平成27年)に作家の川上未映子は、美登利の変化の原因は「水揚げ」説ではないと思うとし、「検査場」説も少し無理があり、かといって必ずしも「初潮」説とも言えず、「どれでもないんじゃないか」としながらも、最終的には前田愛の説と似た見解を示した。 川上は、「水揚げ」説の根拠の一つの「初潮くらいで動じるかいな」的なものについては、「もちろんどんな環境であれ、初潮は驚くにも変化するにも充分な出来事だと思うけれど、少女の変化には何かしら身体的なきっかけが必須である、という思い込みはどうかしら」とし、美登利の「水揚げ」となったらもっと大々的にやるはずであり、年齢的にも「明治の新しい公娼制度はもちろん、新吉原のルールの年齢」にも達しておらず、もし「水揚げ」だったのなら、そうした娘に対する母親の態度が不自然すぎるとした。 そして、美登利の変化の原因は、これから自分がやる「遊女の仕事」について明確に「説明」されたことで、「リアルに認識されたのではないか」として、そこに「初潮」があってもよいが、それの加えて詳しく今後の自分の身の上のことを知らされた驚きだと思うとした。 出典は
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "「たけくらべ」論争(たけくらべ ろんそう)は、樋口一葉の小説『たけくらべ』に登場する数え年14歳の女主人公・美登利の終盤における変貌の原因に関する解釈をめぐって繰り広げられた文学論争。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1985年(昭和60年)5月に佐多稲子が「初店」(処女喪失、水揚げ)説を述べたことに端を発し、それまで長らく定説化されてきた「初潮」説を擁護する前田愛が佐多の説に異を唱える形で始まって以降、両説それぞれへの賛否をめぐって様々な作家や研究者による論議が盛んに行われ、「検査場」説など新たな解釈が提起されるなどの流れを含みながら、2000年代まで続いていった研究論争である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "この論争以後は「初潮」・「初店」の両説併記が一般的になった。両説の論議の応酬が交わされたことにより、明治期の遊廓の実態を改めて見つめる機会が生れ、『たけくらべ』の抒情的な物語の裏面を考察するという副次的な意義をもたらした論争でもある。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "※以下、『たけくらべ』原作内からの文言・文章の引用は〈 〉にしています(現代語訳者の訳語、論評者の論文からの引用部との区別のため)。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "明治期の女流作家・樋口一葉は、生活苦のため1893年(明治26年)7月に吉原遊郭近くの通称「大音寺前」と呼ばれる下谷龍泉寺町(現・台東区竜泉)の長屋に引越し、翌8月からその地で荒物や駄菓子を売る雑貨屋を開いて約10か月間そこで暮した。一葉はその雑貨屋の店主として下町の人々や子どもと交流した体験や見聞を題材に1894年(明治27年)の秋から暮にかけて執筆していた未定稿の「雛鶏」(ひなどり)に大幅加筆を施して改稿し、『伊勢物語』第23段に因む「たけくらべ」という題に改めた上で、その作品を翌1895年(明治28年)1月から1896年(明治29年)1月にかけて文芸雑誌『文學界』に断続的に7回連載した。", "title": "樋口一葉の『たけくらべ』" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "連載終了から3か月後、若干の補正を加え、通俗雑誌『文芸倶楽部』4月号(第2巻第5編)に一括再掲載された『たけくらべ』(全十六章)は、当時の文壇内の作品批評の最高権威であった、森鷗外主宰の雑誌『めざまし草』の森鷗外・幸田露伴・斎藤緑雨による匿名合評「三人冗語」の場において、鷗外から「われは縦令世の人に一葉崇拝の嘲を受けんまでも、此人にまことの詩人といふ称をおくることを惜まざるなり」と激賞されるなど、彼らから最大級の讃辞の言葉を与えられ、そのことにより樋口一葉の文名は世に広く知られるようになった。", "title": "樋口一葉の『たけくらべ』" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "『たけくらべ』には、吉原遊郭の人気華魁を姉に持つ「美登利」(みどり)という大黒屋の寮に住むおきゃんで気っぷのよい女王的な14歳の少女と、龍華寺僧侶の息子で勉強の出来る内気な15歳の「信如」(しんにょ、訓読みでは、のぶゆき)を軸に、鳶頭の息子で横町組を自認する16歳の乱暴者で餓鬼大将の「長吉」(ちょうきち)、長吉が敵視する表町組の金貸し田中屋の孫息子で人好きのする愛らしい13歳の「正太郎」(しょうたろう)、本来は横町組で大家の鳶頭に頭が上がらない貧乏な人力車夫の息子だが滑稽な三枚目の容姿で表町組にも行き来するひょうきん者の16歳の「三五郎」(さんごろう)などが登場し、吉原遊郭の裏手の町「大音寺前」(だいおんじまえ)で、吉原が生み出す金の流れに寄生して生きるしかない町人の子供たちの思春期前の活き活きとした喧騒と淡い恋心が、千束神社の夏祭りから大鳥神社の三の酉の市までの季節の移り変わりを背景にして詩情豊かに韻文を駆使しながら描かれている作品である。", "title": "樋口一葉の『たけくらべ』" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "一葉の代表作となった『たけくらべ』は当時としても一歩抜きん出ていた作品であったが、後世においても、明治時代に生まれた日本文学の不朽の名作としてその価値を位置づけられており、やがて大人社会の浮世の苛酷な現実に直面し、そこに繰り込まれざるをえない、それぞれの宿命を目前にした少年少女たちの子供時代との訣別の哀切さや、子どもの時間への哀愁が主題となっている小説である。", "title": "樋口一葉の『たけくらべ』" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ヒロインである紀州生れの14歳の美登利は、当初はよそ者として田舎者ぶりを笑われたこともあったが、遊廓を取り仕切る大黒屋の楼主から与えられる豊富な小遣いと、お転婆で気っぷのよい性格でゴム毬などを皆に大盤振舞して遊びを活気づけたため、子供たちの間で女王様(にょおうさま)的な存在になるが、「五」章で長吉から〈女郎め〉〈姉の跡継ぎの乞食め〉と罵られて泥草履を投げつけられて以来、学校に行かなくなり、遊び場の筆屋の店に集まる仲の良い小さい子どもや、姉弟のように親しい正太(正太郎)や、おどけ者の三ちゃん(三五郎)とだけ遊び暮すようになる。その後「十二」「十三」章で、つれない態度の信如との淡い恋の無言劇の心理描写が描かれた後の「十四」章では三の酉の市の日の場面となり、それまで明るい性格だった美登利の様子に変化がみられ、その後は仲の良かった正太郎とも遊ばなくなる。それが論争の焦点となっている以下の三の酉の市の日を境にした「十四」「十五」「十六」の章である。", "title": "樋口一葉の『たけくらべ』" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "美登利の変貌の原因を「初潮」と解するきっかけとなっていたものは、最初に『たけくらべ』を評した「三人冗語」内で文豪の幸田露伴が、「美登利が島田髷に初めて結へる時より、正太とも親しくせざるに至る第十四、十五、十六章は言外の妙あり。其の月其の日赤飯のふるまひもありしなるべし」と、「赤飯」の文言を出したことの影響が大きいとされる。", "title": "定説化していた「初潮」説の流れ" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "また、美登利の変貌の原因を「初潮」と解説した最初の人物は、1926年(大正15年)10月に至文堂から『樋口一葉論』を出版した日本近代文学研究者の湯地孝だったとされる。その後、『女人芸術』の主宰者であった作家の長谷川時雨が、1938年(昭和13年)8月に冨山房百科文庫から刊行された『評釈一葉小説全集』において「初潮」だと述べており、その後の一葉研究の書でも同様に解説している。", "title": "定説化していた「初潮」説の流れ" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "そして時雨の解釈を踏襲する形で「初潮」とする解釈が続き、1949年(昭和24年)の藤田福夫、1956年(昭和31年)の吉田精一、塩田良平、1958年(昭和33年)の和田芳恵、1961年(昭和36年)の蒲生芳郎、1967年(昭和42年)の村松定孝、1970年(昭和45年)の関良一、1972年(昭和47年)の青木一男、1974年(昭和49年)の松原新一、1975年(昭和50年)の前田愛、1981年(昭和56年)の藤井公明、1982年(昭和57年)の岡保生、1984年(昭和59年)の瀬戸内晴美などが「初潮」を迎えた微妙な心理として解説し、美登利の変化の原因は「初潮」でほぼ定まっていた。", "title": "定説化していた「初潮」説の流れ" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "例えば、樋口一葉研究の先達者の一人である作家の和田芳恵は、その日を「生理日」として、「十五」章において自宅の大黒屋の寮に帰った美登利が長襦袢姿になる意味について、正太郎との「距離」を暗示したものだとし、その描写の中にやがて遊女となる美登利の宿命が予示されているとした。", "title": "定説化していた「初潮」説の流れ" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "和田は別の論でも「初潮」と解釈し、子供から娘になった美登利の行く手には姉と同じく「身を売る稼業」が待っていたとし、自身に訪れた「生理的な変化」にとまどい、女に生れた「うっとうしさ」を仲良しの正太郎に当たり散らしたと解説した。", "title": "定説化していた「初潮」説の流れ" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "同じく一葉研究者で日本近世・近代文学研究者の前田愛は、『たけくらべ』を論じる上で、特に美登利の2回目の「受難の日」として「初潮」の意味を捉えて重視し、やがては遊女になる前の「子どもの時間」の終りを示しているとした。", "title": "定説化していた「初潮」説の流れ" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "作家の瀬戸内晴美は、「『たけくらべ』は日本の文学で女の初潮、メンスを正面から取り上げて書いたただ一つの文学」だとして、当時としては「画期的なこと」だったのではないかと解釈した。", "title": "定説化していた「初潮」説の流れ" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "その瀬戸内との対談でも前田愛は、美登利が迎えた「受難」であった「初潮」は単なる生理の問題だけではなくて、「もっと普遍的な問題」につながるように書かれているところに「凄味」があるとして、作品の主題の意味に触れた。", "title": "定説化していた「初潮」説の流れ" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1985年(昭和60年)の『群像』5月号にて作家の佐多稲子が、『たけくらべ』の美登利の変貌ぶりに関して、自分は美登利が「身を売った」ことによる「哀れさ」からだとずっと思っていたが、「初潮」という解釈が定説になっていることを最近知って驚いたとし、〈大人に成るのは厭やな事〉という独白については「初潮」とみなされてもいい表現だが、島田に結った髪を振り返って見る世間の人々が自分を蔑んでいるよう思ったり、顔を赤らめたりする美登利の様子は、単なる初潮が訪れたことに起因するものとは思えないと主張した。", "title": "論争の発端" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "そして佐多は、その「尋常」でない美登利の変りようは、処女を奪われたあとの憂鬱だとして、「大門の中で、店を張る華魁ではないとしても、密かに高価な『初店』が美登利の身に行われた」と推察し、「初店」(水揚げ)説を主張した。", "title": "論争の発端" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "佐多は、もし美登利の恥じらいや大人しくなった原因が「初潮ぐらい」であるのなら、『たけくらべ』は単なる「美しい少女小説」の域を出ないとし、さらに、美登利の母親に対する見方も長谷川時雨とは異なる見解を示して、母親の態度は美登利の処女喪失の意味よりも「もっと激しいこと」を描いていると解釈しつつ、憂鬱に沈んでいる美登利の状態を見ても〈怪しき笑顔をして少し経てば愈りませう、いつでも極りの我まゝ様〉〈真実やり切れぬ嬢さまではある〉と正太郎に言って、蒲団に伏している娘を「いささかも案じたり察しやったりしていない」この母親の態度を、娘を売って「華魁の全盛にあずかる境遇の、狎らされた人生態度」だと批判し、それも一葉が観じた浮世、〈憂き世〉への視線の一つであるとした。", "title": "論争の発端" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "続けて佐多は、近所の人々の言葉の中に〈折角の面白い子を種なしにしたと誹るもあり〉とあることに着目し、「初潮を誹るということはあり得ない」から、そのことを「初潮」説の提唱者はどう読んだのか疑問を呈して、美登利の変貌に込めた作者の意図を以下のようにまとめた。", "title": "論争の発端" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "この佐多の「初店」説が発表されると、いち早く作家の大岡昇平が『文學界』6月号で賛意を示し、自身も最初にそう読んでいたが、映画化された作品での「刎橋を渡る美登利をひそかにうかがう信如と正太、のラストシーンにだまされて、変な先入観(後入観?)」が形成されていたことを恥じた。", "title": "論争の発端" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "「初潮」説者の前田愛は同年の『群像』7月号にて、佐多稲子の説を「これまでの常識を破る斬新な異説」とし、「初店」が美登利の身の上を襲ったという「断案」には瀬戸内晴美の「初潮」説に劣らない迫力があって、佐多の筆はそれまでの『たけくらべ』論の「盲点を的確に衝いている」としつつも、いくつかの疑念があるとしておもに3つの点から反論をした。", "title": "論争の発端" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "前田はまず、吉原遊郭の「初店」(「初見世」ともいう)の儀式について、元花魁の森光子の日記『光明に芽ぐむ日』(1926年12月)を参考に、遊女が初見世に出る前には吉原病院で性病検査が行われ、それから源氏名を記した紙札が1か月間店先に張り出される流れを説明した上で、佐多の言うような裏取引の「生臭い秘密」の「初店」(水揚げ)が酉の市という自由に人々が行き来する日にやるとは思えないとし、逆にその賑わいを利用するという見方も成り立つともいえなくもないが、『たけくらべ』のテクスト内の「タイム・テーブル」として、団子屋の息子から、〈今の先己れの家の前を通つて〉美登利が揚屋町の刎橋を渡って廓に入ったことを教えられた正太が、いったん廓の中に紛れ込み人波にもまれながら廓の外に出たところで番頭新造のお妻と一緒いる美登利に出くわす流れを読むと、美登利が揚屋町の刎橋を渡って廓に入り再び出てくるまでの時間は「どう見積っても一時間以内」であり、その短い時間内で「初店」が行われるのは無理であろうと反論して、廓内では「初店」自体が行われたわけではないとした。", "title": "論争の発端" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "次に前田は、発表当時の『たけくらべ』をいち早く絶賛した森鴎外・幸田露伴・斎藤緑雨の「三人冗語」内で、「当代きっての小説の読み巧者」の露伴も初潮と解釈していることを重視するとして露伴の評を挙げながら、「赤飯のふるまひ」は初潮が訪れた祝いに赤飯を炊く「成女式の習俗」であり、娘になった印の島田髷と対応し、「此事」は初潮を指して、「彼運」は遊女になる宿命を意味しているとした。", "title": "論争の発端" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "そして前田は「ここからはまったくの憶測」と前置きした上で、佐多には「初潮説の意味をできるかぎり切りさげなければならない理由があった」として、美登利は「高価」な商品であるがゆえ「初店」の日は慎重に選ばれるはずで、「女性がけがれる生理日をわざわざ指定する客は、よほど特別な趣味の持主」であるから、その日が初潮日でないことが佐多の説には必要だったとし、佐多が殊更に「初潮」説を退ける理由を推察した。", "title": "論争の発端" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "3点目として前田は、「初潮」説者の長谷川時雨が解説中で『源氏物語』の「紫の上」や、一葉が幼時に愛読していた江戸時代の草双紙『偐紫田舎源氏』(柳亭種彦著)の「むらさき」にも触れていたことを挙げて、美登利と信如の微妙な恋の心理が描かれる「十二」章に『源氏物語』の「若紫」の巻がオマージュされ、正太と口を利こうとしない美登利の変化が描かれる「十五」章には「葵」の巻の14歳の「紫の上」と光源氏の「初夜のおむづかり」のエピソードがパロディ的に踏まえられたことを時雨が念頭に置いたことを説明した上で、「テクストのあわいにゆれうごく虚のイメージ」、「(美登利の初潮の)背後に透し見られる虚のイメージ」として示唆したその時雨の鑑賞は『たけくらべ』の「ある核心に触れている」として、同じく「初潮」説者の和田芳恵が「十五」章での正太と美登利の「距離」の近さを、やがて来る美登利の宿命(客として来る正太を遊女として迎える宿命)を予示したものと論じたことも時雨の見立て同様に『たけくらべ』のテクストの「多義性、初潮と性体験のダブル・イメージ」を認めているとして重視した。", "title": "論争の発端" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "そして前田は、正太が〈だけれど彼の子も華魁に成るのでは可憐さうだ〉と言い、〈十六七の頃までは蝶よ花よと育てられ......〉と「曲輪」に売られた娘を歌った流行歌「厄介節」を無意識に口ずさんでいたことを指摘し、「すでに遊女としての美登利を先取りして見ている」彼のまなざしが、初夜をすごした紫の上をみつめる源氏のまなざしに重ね合わされている」のが「一葉の本意」だとし、初潮では「人の世の哀れさ」に触れない底の浅い作品になってしまうとした佐多のその考え方の立ち位置自体に疑問を呈しつつ、「佐多さんの解釈に錯誤があるとすれば、『たけくらべ』という変幻自在なテクストを、近代小説の枠組に当てはめようとした勇み足だと思う」と批判した。", "title": "論争の発端" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "しかし前田は、佐多の「作家的想像力」を尊重し、佐多の説も『たけくらべ』の謎の多い「テクストの曖昧さ」「空白」から促された「もう一つの回答」であるとし、佐多の「初店」説は「既知のテクストとのズレや軋み」を免れないとしつつも一定の歩み寄りを見せて、廓の中で行われたのは美登利が「遊女として初見世に出ることになった前祝い」の「成女式」だったのではと、テクストの「空所」に対する回答として最後に「いたって平凡な代案」を提示した。", "title": "論争の発端" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "佐多稲子と前田愛のやり取りについて早速取り上げたマスメディアは、同年の『朝日新聞』6月20日号で、「佐多説は『たけくらべ』の前後の筋の流れからいって、強い説得力がある」とし、「(前田が)たいへん気持のよい反論を書いている」と伝えて、「恐らく、その夜にも初店が『行われる』と知らされた少女の、やり場のない不安や恥ずかしさではないか、と一シロウトは感じたのだった」という記者の感想も書かれた。", "title": "論争の発端" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "『サンデー毎日』では「現代版『たけくらべ』読みくらべ論争(一葉さんも頭が痛い!?)」という記事を組んだ。また、佐多の「初店」説を読んだ一般の人々からの賛意を示す手紙が佐多のもとに20通ほど来たという。", "title": "論争の発端" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "前田愛の反論を受けてから『学鐙』8月号に佐多稲子が再論を掲載するが、その中には「前田さんが、佐多が初潮と初店を重ねている、と書かれたのは私には解せなかった。自分としては、どこにも初潮と初店を重ねた書き方はしていないのだが、よほど表現が足りないところがあって、前田さんの誤解をまねいたらしい」という文言があり、これは前田の反論の中の「女性がけがれる生理日をわざわざ指定する客は、よほど特別な趣味の持主」なため、「初店」説を提示する佐多が殊更に「初潮」説を退ける必要があったと推察した部分を指したものという見方もあったが、この佐多の発言に関しては、前田の論旨を佐多が誤解したものともみられている。", "title": "論争の発端" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "佐多は、前田の1点目の反論での、美登利が揚屋町の刎橋を渡って廓に入り再び出てくるまでの時間は「どう見積っても一時間以内」であり「初店」は無理だという見解については、その当日ではなく前日の晩に行われてから、明朝に姉の部屋で島田髷を結ってもらったと見ればよいとする、時間的な補正をした。", "title": "論争の発端" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "また新しい論として、「三人冗語」での幸田露伴の文言の中に、「風呂場に加減見たりし母の意尋ねまほし」とあるのは、露伴が「母親の湯加減を見るのをいぶかしくおもっている」という意味ではないかとして、「従来女は、月のさわりのとき、風呂には這入らなかった」のだから、母親が風呂を沸かしていたところから「初潮」ではないと主張した。", "title": "論争の発端" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "しかし佐多は、前田の反論が「優しく」書かれていたため、特に前田に対する論戦で書いているのではないとして、自分としての「読み取り方」を提出したというだけであり、「定説に立ち向うほどのつもりはない」と最後にまとめた。", "title": "論争の発端" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "この佐多の再論に対しての前田のその後の応答は特になかった。なお、前田はこの論争の2年後の1987年(昭和62年)7月に病没する。", "title": "論争の発端" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "佐多稲子の『学鐙』8月号での再論が終った後の同年の『群像』9月号では、作家の野口冨士男が藤井宗哲著『花柳風俗語辞典』を引きつつ、「初店」と「水揚げ」は別のことではないかとしながらも佐多の説に賛同し、「水揚げ」の語源が「新造の船を陸に上げること」の類語で「一人前になる」という「元服」と同意であったことを説明し、「水揚げ」とは半玉や遊女見習などの初夜を買うことを指すとして、「朝からの結髪は、あらかじめ大人たちによってきめられていた『元服』のための準備態勢ではなかったのかとも考えられる」とした。", "title": "その後の同年1985年の展開" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "野口は、前田の論は「理づめな論旨」だとし、前田のことを「いっけん決め球を持たぬ投手であるかのように見えぬでもない」として、「実作者としての自由な佐多説のほうが、前田氏の理づめな論旨の展開よりも魅力的である」と述べた。また野口は、『文藝春秋』6月号での「東西芸者とっておきの内緒話」を引きつつ芸者の場合は赤飯を炊くことは「新造出し」や「水揚げ」にもあることを挙げて前田に反論し、赤飯の習俗について前田が「前提を一般社会の習俗のほうに引きつけすぎているきらいがあるのではないか」とした。", "title": "その後の同年1985年の展開" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "さらに野口は、佐多の再論と同様に、母親が風呂を沸かす点についても言及し、花魁の姉の後を継ぐ美登利の存在は「お姫様」「主人公」であり、遊廓における雇われ人の親は美登利の「寄生虫」「しもべ」のようなものだから、その娘が月経で入れない時に両親が自分たちだけのために風呂を沸かすことはないだろうとした。", "title": "その後の同年1985年の展開" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "9月には、3年前に「初潮」説で『たけくらべ』を解説していた日本近代文学研究者の松坂俊夫(山形女子短期大学教授)が『山形新聞』紙上で、佐多の「初店」説に衝撃を受けたとし、前田の反論を受けた佐多が「だってその日、母親は風呂場で湯かげんをみているもの」、「美登利の初潮の日に風呂をわかすだろうか。従来女は、月のさわりのとき、風呂に這入らなかった」と再論したことに触れて、「私はこの佐多氏の具体的でみずみずしい表現に、まぶしい作家の視線を見た」と述べ、野口冨士男の赤飯の指摘などにも触れた上で、以下の3点の理由から「現在は佐多氏の解釈に左袒したいと思っている」と表明した。", "title": "その後の同年1985年の展開" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "佐多の最初の論の直後に「初店」説に賛同していた大岡昇平は、佐多の再論の後の『文學界』11月号でも、「メンスの間であれば湯に入らないのは今日では小学生でも知っている」として佐多を改めて支持し、この日の美登利の言動にしても「吉原近辺のませた子どもたちの間では、初潮ぐらいでは片附きそうもない、はげしさがある」とした上で、時間的な点も前日に起ったという佐多の意見に準じつつ、「明治の検閲」を逃れるために施された解釈の複雑さがあるのではないかとした。", "title": "その後の同年1985年の展開" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "また大岡は、当時一葉の作品を読むのは「大正でもインテリ志向の男女だった」として、そうした読者層を頭に入れないと解釈が狂うとし、「初潮ばかりにこだわって、作品全体の読者との一対一の対応を忘れないように願いたい」とも述べた。", "title": "その後の同年1985年の展開" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "同年秋には、同じく作家の吉行淳之介が『週刊宝石』で「初潮」か「水揚げ」かについては、一方のA説を読めば「なるほど」と思い、もう一方のB説を読んでも「なるほど」と思って、「定見がない」「定見が持てない」として、「この問題に介入する力は、到底持てない」と断りながらも、佐多が美登利の母親の言葉の意味を「娘を金に換えるのに馴れている親のセリフ」だと指摘したとして、その見解を読むと、佐多の「水揚げ」説へ「かたむきそうになる」と表明した。", "title": "その後の同年1985年の展開" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "佐多稲子の再論が終った同年の『本の窓』9月・10月合併号では、日本近代文学研究者の岡保生(青山学院大学教授)が前田愛の論への賛同を示し、「各紙は前田氏の学殖に敬意を払ったものの、依然として佐多説を捨てかねているような論調が見られる」と批判的な前置きした上で、「初店」「水揚げ」というものは盛大な儀式であるはずだと、中村芝翫著『遊廓の世界』(1976年)や、初代市川猿之助こと喜熨斗亀次郎の妻・喜熨斗古登子著『吉原夜話』(1964年)の中の話を例に引きながら、遊女になる過程には一定のコースがあることを指摘し、花魁の姉を持つ美登利がそうしたコースの儀式を経ずにいきなり遊女になるはずがないと、佐多の秘密裏の「初店」(水揚げ)説への疑問を呈した。", "title": "その後の同年1985年の展開" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "岡はまた、母親が正太に〈今朝から美登利の機嫌が悪くて、皆なあぐねて困つてゐます〉と言って〈怪しき笑顔をして少し経てば愈りませう〉と語っている部分に、〈今朝〉美登利に初潮が訪れたことを正太にそれとなく教え、それはまた同時に読者にもそれをほのめかしている箇所だとして、〈少し経てば愈りませう〉は長谷川時雨のいう「医者のいらない病気」(初潮)を暗示したものと解釈するのが自然だとした。そして、美登利の島田などのいでたちは、遊女見習いの「禿の支度であろう」とした。", "title": "その後の同年1985年の展開" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "『月刊カドカワ』9月号では、作家の瀬戸内晴美が美登利の初潮説にあくまでこだわるとし、一葉が愛読していた井原西鶴が、『好色五人女』で花見幕のかげで処女を失ったお夏をその腰の描写一行で表現したことと、一葉が「二つの祭りの賑いで飾った劇的な『たけくらべ』」で「初潮をクライマックスに据え」て「女の生理の変りめ」を描いたことに、互いに呼応し合う共通点を感じるとした。", "title": "その後の同年1985年の展開" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "同年の『群像』10月号では、評論家の松本健一も前田の説を全面的に支持し、前田の反論は、「『初店』の事実を想定しているのは、作者の樋口一葉ではなく、佐多稲子だ」という主旨があり、「初店」だと「想定」する佐多の「固有の立場」(=「表現の場所」)は否定してはいないものの、「このテクストを創った一葉の『表現の場所』からはそのような読みとりかたはできない」という主張があると強調した。", "title": "その後の同年1985年の展開" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "また、野口冨士男の前田批判について松本は、「前田説は精巧なガラス細工である」と評されたようなものとしつつも、前田の反論は「学者の文学研究の域をこえて、批評という領域にはいりこんだ」秀れたもので、「文芸批評が独立した創造行為である初源を、実例によって提示したもの」と高く評価し、前田がアカデミックな研究学者として、「テクストの空白」を重視する姿勢で佐多の「初店」説の無理を論理的に指摘しつつ、自身の「初潮」説もまた完全には論証不可能ながらも研究の上に立脚した文芸批評的なスリリングな想像的な一面も同時に見せていたことに共感できたと、その後にも改めて述べた。", "title": "その後の同年1985年の展開" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "『國文學』10月号では、日本近代文学研究者の小森陽一(成城大学助教授)も前田の説を支持し、佐多の言うように、美登利の〈憂き事〉を「我が身の上で経験した」ことに限定してしまうことは、「彼女の苛酷な運命」を、自らの〈憂き事〉〈口惜しさ〉〈恥しさ〉として引受けていく他の子どもたちの「共感の可能性」と、「読者自身が参加すること」を奪ってしまうとし、「新造出しの儀式と初潮が重なった」と解説中の注解で述べた。", "title": "その後の同年1985年の展開" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "小森は、全体の作品解釈としては前田論「子どもたちの時間」での「かつて子どもであった私たちの原像」を夢みることには否定し、子どもたちを取り囲む言葉の「網状組織」(ネットワーク)という独自の視点から、〈貸座敷〉〈検査場〉〈お宗旨〉など「制度」としての言葉の「近代化の網状組織の網の目」に捉えられた子どもたちの生きる場は純粋無垢な遊びの時空でないとし、そこに「子どもたち全てを、ひとしなみにからめとっていく、近代国家形成期の状況」を背景として見て、それを「どう追体験していくかに、共感の絆がつながるか否かの分岐がある」とした。また美登利同様に中心的な人物の信如については、「信如とは、全ての者が売り手と買い手に分節化されてしまうイチとしてのマチに住む子どもたちの、口惜しさと恥かしさをわずかに残している負の吸引力を持つ場だったのだろう」とした。", "title": "その後の同年1985年の展開" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "『群像』10月号では比較文学研究者の満谷マーガレット(共立女子大学教授)が、吉原遊廓界隈の裏町という特殊な環境の話である『たけくらべ』になぜ「普遍性」があるのかを考察し、「時代や国境を越えた子どもらしさ」の生き生きとした描かれ方や、明治の立身出世を目指す若きエリートの「夢とも自由とも無縁」な人達の物語から看取できる「裏街道から明治という偉大な時代を眺めていた一葉の視線」を評価する中で、この論争にも触れつつ、佐多や野口、前田それぞれに説得力があるものの、「初店」は吉原遊郭という特殊な世界の行いで「普遍性」がないのではと疑問を呈して「初潮」説の方をとると表明し、「『初店説』か、初潮説か、どちらをとるにしても、美登利には遊女としての運命が待っていることになるし、その象徴的な意味も変わることもない」とした。", "title": "その後の同年1985年の展開" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "1985年(昭和60年)7月に文芸評論家の加藤典洋は、佐多と前田のやり取りから始まった論争に触れつつも、加藤はそのどちらの説に賛意を示すものではなく、両説への見解の中に「これが佐多の『新説』提起ではなく、ありうべき一つの解釈がこれまで『ステレオタイプのわきで待たされ』てきたことへの『異議申し立て』なのだとする指摘は見当たらない」と感想を述べた。", "title": "その後の同年1985年の展開" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "1985年(昭和60年)9月に一葉研究者の野口碩は、特にこの論争には触れてはいないものの、荒木慶胤著『樋口一葉と龍泉寺界隈』(1985年)の「序説にかえて」において、龍泉寺町の住人、特に〈廓者〉という住人の間では娘に初潮が来たら、その子が廓に行くのが一番の親孝行だという話を聞いた一葉が衝撃を受け、それから『たけくらべ』の後半を加筆して定稿が出来たことを解説した。", "title": "その後の同年1985年の展開" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "「初潮」説で24年前に論文を書いていた日本近代文学研究者の蒲生芳郎(宮城学院女子大学教授)は、佐多の再論後の同年11月に、この論争に関する講演を行なったが、「初店」説、「初潮」説のどちらかに加担しているものではなく、どう読解するかは最終的には読者の「想像力の自由」に委ねられると考えて議論の活性化を呼びかけた。この講演記録は翌1986年(昭和61年)の大学誌に掲載された。", "title": "その後の同年1985年の展開" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "蒲生はその講演の中で、前田が「初潮」説の原点として幸田露伴の評語を挙げた点については、「『三人冗語』の面々に対する尊敬は尊敬として、彼らの権威を絶対化するのでないかぎり、それだけで別な〔読み〕の可能性を封ずる根拠にはならないだろう」とし、佐多の「初店」説については、三の酉の市の「ハレの日」の昼間の短時間にあわただしく行われたとすると「不自然」だとして、島田髷や着飾った着物も乱れて整い直す問題を指摘しつつ、佐多がその後、前日の晩に行われたと軌道修正した説ならば説得力があるとした。", "title": "その後の同年1985年の展開" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "また、前田の数々の反論は佐多の説を論破したともいえず、かといって佐多の「初店」「水揚げ」説も全面的に賛成するには「一抹の不安、ある種のためらい」が残り、作品内に「その出来事を暗示し示唆する伏線や状況が何一つ――少なくとも目につきやすい形では何一つ用意されていない点が気になる」として、佐多が挙げた〈折角の面白い子を種なしにした〉という近所の人たちの言葉にしても、その文の最初の句には〈知らぬ者には何の事とも思はれず〉とあるため、そこに「初店」の暗示を汲み取るには無理があり、母親が風呂の湯加減を見ていた点についても、美登利のためだとは限らないとした。", "title": "その後の同年1985年の展開" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "その上で蒲生は、前田が最後にまとめた「廓の中の成女式」に説得力があり、初潮と同時に、成女式のその日に美登利が〈女郎〉という「自分に定められた役割の何たるか」を明確に言い渡され、「はじめて自分の置かれている境遇、その立場がよく見える場に引き出された」として、「初潮という、うっとうしい女の生理と、それに加えて、金で売られ、金で買われるべく定められたわが身の立場の自覚と、その二つが同時に美登利の身を襲った」と推察しつつ、蒲生自身の以前の論では「つたなき宿世」への自覚に促されたであろう美登利の具体的な出来事に言及していなかったことを反省した。", "title": "その後の同年1985年の展開" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "翌1986年(昭和61年)9月には、ノンフィクション作家の澤地久枝が著書『ひたむきに生きる』の中で佐多の説を全面的に支持し、「水揚げをさせられて、少女が無理にも性的に女としての経験をさせられたのではないかと新たな問題提起を」佐多がしたとして、「女性ならではのこまやかで深い洞察には説得力があって、わたしは共感した」と述べた。", "title": "翌1986年から1989年までの展開" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "同じく9月には、前年に「初潮」説から「初店」説に変わったことを『山形新聞』で取り急ぎ表明した松坂俊夫が『國文學』において再び、佐多に左袒すると述べて、佐多の説の方に優位があるとした。", "title": "翌1986年から1989年までの展開" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "同年11月に開かれた「日本近代文学会関西支部秋季大会」シンポジウム「『たけくらべ』をめぐって」に参加した日本文学研究者の山根賢吉(甲南女子大学教授)は、「水揚げ」の説は佐多が初めてではなくて、約30年前の1956年(昭和31年)に、とある法制史・法律学の大家が、学生だった明治時代に従兄弟などから聞いた吉原に関する「哀話」を根拠にして秘密裏の「水揚げ」説を短歌雑誌『明日香路』(長野県で出版)に「太田一夫」という匿名で発表していたことを紹介した。", "title": "翌1986年から1989年までの展開" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "山根が紹介した「太田一夫」が「水揚げ」説の根拠とした「哀話」は以下のようなものであるが、「太田一夫」の説は当時、関良一によって「水揚げ説が提示されているが、そうではなかろう」と否定された。", "title": "翌1986年から1989年までの展開" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "その上で山根自身も「初店」説寄りの意見を示し、美登利の「初潮」はすでに「十四」章以前に済んでいるとしながら、「初潮というのは十二、十三章から読み取るべきではなかろうか」とし、下駄の鼻緒が切れた信如のために格子戸から美登利が投げた〈紅入り友仙〉が「初潮」を暗示しているのではないかとして、美登利の「初店」は、三の酉の市の日の「夜」に行われる予定で、「十四」「十五」章は美登利の「最後の処女の姿」だったと解釈した。", "title": "翌1986年から1989年までの展開" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "同年12月には、近世演劇研究者の河合真澄(愛媛大学教授)が古典文芸との関係から『たけくらべ』を論じる中で、『源氏物語』の「若紫」の巻の下敷きの観点に着目して佐多の説を支持した。", "title": "翌1986年から1989年までの展開" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "1987年(昭和62年)7月(掲載紀要に3月とあるが実際は7月)になると、先の松坂俊夫がこれまでの論争の経過などを大学紀要に詳細にまとめた上で、結論的には佐多の「初店」説を支持する論考を改めて発表した。松坂は「美登利の変貌は、一見初潮によると思われるが、実は初店に拠るという、二段階の、あるいは複眼的な読みがなされなければならない」と考察した。", "title": "翌1986年から1989年までの展開" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "「初店」説を支持する論拠として松坂は、佐多の論拠以外の新たな視点として、廓から美登利が〈番頭新造〉のお妻と一緒に出てくる場面で、美登利が正太と一緒に帰るためお妻に〈佐様なら〉と別れの言葉を発した後に、お妻が〈あれ、美いちやんの現金な、最うお送りは入りませぬかえ〉と返すところから、すでに美登利は〈番頭新造〉のお供が付く「華魁」の身分になっていることが読み取れるとして、美登利の〈京人形〉のような〈極彩色〉の装いは一見「成女式」の装いを思わせながらも、「実は、それは華魁の扮装」であると推察した。", "title": "翌1986年から1989年までの展開" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "その年の7月27日に前田愛が56歳で病没した後の翌1988年(昭和63年)になってくると、「初潮」説よりも佐多の「初店」説を支持する論が増えてくる傾向となった。", "title": "翌1986年から1989年までの展開" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "1988年(昭和63年)には、フランス・日本近代文学研究者の西川祐子(京都文教女子大学教授)が佐多の説をとりつつも、「初店」なるものにおいて、本当に処女である必要はないだろうという論を展開し、「性が商品として扱われる場合、売り主は初潮をみて商品の成熟を確認する必要はない」とも述べて 、「未成熟のままうけた陵辱」が、勝ち気だった少女・美登利の性格を変えてしまったと解釈した。また前田の論に触れつつ、「前田愛氏の反論はむしろ一葉の韜晦のテクニックの数々をわたしたちに示しているように思える」とも述べた。", "title": "翌1986年から1989年までの展開" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "西川は、一葉の日記などに基づいて書いた一葉評伝の注解内においても、島田髷に花簪をつけて着飾る盛装について、「初店準備、商品化準備だとしなければ、『たけくらべ』と一葉の龍泉寺体験を結びつけることはできない」とした。", "title": "翌1986年から1989年までの展開" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "同年には他に、平安文学研究者の大橋清秀(帝塚山学院大学教授)が、元花魁の森光子の日記『光明に芽ぐむ日』(1926年12月)の「初見世日記」と『たけくらべ』の記述を照らし合わせながら、「(美登利も)水揚げの日の朝にやはり島田髷を結っていたのだ」として「水揚げ」説を支持した。", "title": "翌1986年から1989年までの展開" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "1986年(昭和61年)には『海燕』2月号で作家の増田みず子が、前年の野口碩の「序説にかえて」に触れた上で、感覚的に「初潮」説を支持したいとして、「私自身の『感情的』意見としては、初潮を迎えた美登利が廓へ連れていかれて得心させられ、実態を知らされた日、と考えたい」と述べつつ、〈母親怪しき笑顔をして少し経てば愈りませう、......〉という母親の言葉に関しては、「それにしてもその時の美登利の母親の陽気さが薄気味悪い」とした。", "title": "翌1986年から1989年までの展開" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "『国文学 解釈と鑑賞』3月号では、日本近代文学研究者の山田有策(東京学芸大学教授)が佐多と前田の論争には触れずに、従来の「初潮」説のまま『たけくらべ』に言及し、その年の11月に開かれた「日本近代文学会関西支部秋季大会」のシンポジウム「『たけくらべ』をめぐって」では、「初潮」を迎えた美登利が「それまで無意識に抱いていた大人になることへの嫌悪、あるいは大人になることへの激しい憎悪を顕在化」させたとし、美登利の変貌をめぐる論争に関しては、「初潮」以外の「初店」や「水揚げ」などの読み方の「自由な想像」が可能なのは、その問題の終盤の章では「語り手をのり超えてしまい、正太郎や美登利になりきった記述者である一葉の内的世界がつよく露出してしまっているからだ」といえると解説した。", "title": "翌1986年から1989年までの展開" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "同じくそのシンポジウムに参加した日本文学研究者の橋本威(梅花女子大学教授)は、「初店」は盛大な行事だから隠れてこっそり行われることはないとして佐多の説を否定し、作中の〈此処志ばらくの怪しの現象〉という語句からも、「初店」では〈此処志ばらく〉という意味はおかしく、また、「初店を〈現象〉と言うのは、すごぶる不自然」で、この〈現象〉は「初潮」と解釈するのが自然だとした。", "title": "翌1986年から1989年までの展開" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "1987年(昭和62年)5月には日本近代文学研究者の塚田満江(京都女子大学教授)が、作品後半の秋の大鳥神社の祭は美登利の「様変わり」の背景とはなってはいるものの、美登利の「変貌」だと呼ばれるような「性格の変化」や「心理的動揺」には、夏祭りの千束神社の祭の時ほど深くは関わっていないとする論の中で、草稿のみどり(「雛鶏」)から美登利(『たけくらべ』)の「様変わり」の「十四」「十五」章を、いきなり「少女から娘を超えて、女に変貌」したと解する説は、「飛躍」というよりも「不思議」だとした。", "title": "翌1986年から1989年までの展開" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "また塚田は、美登利だけを主人公に据えていた草稿「雛鶏」では、「お祭り騒ぎ」の前後における子どもたちの「時間と空間」を描くのが主眼であったが、結ばれない淡い初恋の相手の信如を主人公に据えた「七」「八」章以降を組み入れた『たけくらべ』では、夏の千束神社の祭時の「偶発」の事件「五」「六」章を発端とした「偶然」の結果として導かれた秋の「お酉さまの日」(酉の市の日)は、「(美登利の)様変り」「(勝気な娘、神経質な少女によくある)生理前後の鬱症状、躁状態」を露わにする「季節」となったに過ぎないとして、美登利がうなだれていた理由の中には「十二」「十三」章で信如に振り向いてもらえなかった「悲しさ」も窺えるとした。同月の別の論でも塚田は、廓の中にいた時間の問題について前田同様にその短さを指摘し、美登利が「猅々爺」や「道楽男」の「陰気な愉しみ」の遊び相手になっていられる時間があったとすれば「たちばなし」程度だろうとした。", "title": "翌1986年から1989年までの展開" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "その年の6月には、日本近代文学研究者の関礼子(嘉悦大学短期大学部専任講師)が「悪場所」論と「少女」論を導入し『たけくらべ』を論じる中で、美登利変貌の原因の論争に触れて、「小説にはっきり何と書かれていない変調の原因を突きとめることは興味深い作業であるが、だからと言って小説に書きとめられている表層の変化の意味するものを軽視することは賢明ではない」として、美登利の変化は〈初々しき大嶋田〉という記号に「あざやかに象徴されている」とし、女性の「成長儀礼」だった「成女式」に関して桜井秀著『日本風俗史概説』(明治書院、1950年)を参考にしながら、「初笄」(はつこうがい)と「着裳」が「古来から受け継がれた成女式の根幹」を為していたことを挙げ、美登利の「成女式」が行われたことだけは、テクストから読み取れるとした。", "title": "翌1986年から1989年までの展開" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "そして「十四」章以前の、おきゃんで男まさりの気性で〈前髪大きく〉垂らしていた美登利にすでに初潮があったとは考えにくく、その後に美登利が初潮を迎えたことで、それを待ち構えていた周囲の大人たちによって「成女式」が行われ、遠からず訪れる「初店」について大黒屋の主人から告知されたと考えるのが自然な解釈だと、前田の説に準じる論を展開した。", "title": "翌1986年から1989年までの展開" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "その上で関は、小説『たけくらべ』が「まぎれようもなく受苦の表情を帯びている」のは、美登利という一人の少女の「葬送にも等しい変容の劇」に、同じ学校仲間、子ども仲間であった長吉や信如ら地縁の少年たちが、大音寺前という土地が無意識に持っていた吉原(悪場所)に対する「悪意」を彼らがまた無意識に演じ、美登利を「悪場所に送り込む引導渡しの役」を引受けて深く関与している作品構造に起因するとし、紀州から吉原地域にやって来た「マレビト」「異人」でもあった美登利に対する「異人殺し」の役も彼らが担い、「排除された不幸なる生け贄」の美登利への「鎮魂」の「物語」という「供犠の現場」の意味を、赤坂憲雄の『排除の現象学』の「物語」定義を敷衍しつつ論じ、前田の「子どもたちの時間」論に連なる『たけくらべ』の持つ物語の普遍的な意味を重視した。", "title": "翌1986年から1989年までの展開" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "日本近代文学研究者の薮禎子(藤女子大学教授)は、1987年(昭和62年)までの論争をまとめた上で、作家の佐多の説が「大方の虚を衝くという形」で現れて問題提起がなされたことを評価しつつ、「初潮」説を「暗黙の了解の下」で発信していた学者らに「安全地帯にお互いのうのうとしていた所があったのではないか」と指摘すると同時に、それぞれの説の当否や賛否のいずれも、論議の路線や方向などが佐多の誘導のまま「吉原的世界、制度からの検証の側に一方的になびきがちだったのは、反省されねばなるまい」とし、『たけくらべ』の「作品固有の魅力の解明、時代を超え、環境を超えて、一世紀近くなぜ広く愛好され、享受されてきたのか、といった辺りへの顧慮」を置き忘れた論議はいかなるものも無用になるだろうとした。", "title": "翌1986年から1989年までの展開" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "薮は、佐多の見解について前田が「変幻自在なテクストを、近代小説の枠組に当てはめようとした」ところに錯誤があると指摘した点は理解でき、娘の美登利に対する「母の非情さ」に近代小説の面目を見る佐多の読解は「いびつな拡大鏡といった感を免れない」として、母親の非情さを強調させることでしか『たけくらべ』の価値に言及できないとしたらおかしいとした。", "title": "翌1986年から1989年までの展開" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "また薮は、「初潮」説を論じる前田が、幸田露伴が言及した「赤飯」の件から「初潮」の「成女式」を挙げるなどした「習俗」へのこだわりが、逆に野口冨士男が出した芸者の「習俗」の事例により論破されてしまったことを「危ない落とし穴」だったとしつつも、薮自身は野口の主張には同調せず、一葉に吉原界隈の見聞があったとしても「一葉の感覚や理解は、吉原の習俗よりは一般社会の習俗レベルにより近かった」のではないかとして、吉原界隈の規定にこだわりすぎるのは逆に一葉の世界観を壊すことになり、そうした面での細かな整合性の過度の論議は特に必要なく、文学研究にとってはそのような細部の検討に固執することは、結局は作品を解体させてしまうことになるとした。", "title": "翌1986年から1989年までの展開" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "そして、解読すればするほど、「作品そのものよりも解読の型とか方法のみが大写しに出てきて、有機体としての作品はかえって向こうに遠ざかる」傾向が強くなりすぎるのではないかとし、佐多の読解にも「いびつな拡大鏡」があったが、前田の論にしても「フィルター越しに作品を見てしまってはいないだろうか」という疑問を投げかけ、そうした意味で、一般的な自然な理解としては、一葉研究の第一人者の和田芳恵の解釈を補強する形で、「禿の支度」とした岡保生のような「簡潔な」方法で「初潮」説を説明する方が一般的な理解としては妥当だとした。", "title": "翌1986年から1989年までの展開" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "なお、薮自身は、美登利の変貌について、「単なる生理の問題でなく、大人になるという不可避の時を迎えた者の、無明の世への予感と戦慄」だったのではないかと論争以前の1979年(昭和54年)に発表していた。", "title": "翌1986年から1989年までの展開" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "1988年(昭和63年)の『文学』7月号では日本文学研究者の上杉省和(静岡大学教授)が、佐多の説も前田の説も今ひとつ決め手に欠けるとして、作中で正太郎が口ずさんだ「厄介節」を踏まえ、その流行歌の歌詞の続きに「検査」の時の辛さが「八千八声のほととぎす、血を吐くよりもまだ辛い」と歌われていることから、明治から強制として始まっていた梅毒検査の「検梅」説を提示した。", "title": "翌1986年から1989年までの展開" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "上杉は、佐多の「初店」「水揚げ」説では、揚屋町の刎橋から出てきた美登利が正太郎を見つけて自分から駆け寄っていくことはしないだろうと推察したが、自説についても、「何故、酉の市の日を選び、しかも島田髷に晴れ姿で」検査なのかという疑問もあり、盛装をしたのは「周囲の人達への偽装工作」かもしれないが、自分の説もまた決め手に欠けるとした。", "title": "翌1986年から1989年までの展開" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "なお、明治当時は遊廓の北の水道尻には娼妓の健康診療所があり、その前の空地を土地の人々が「検査場」と呼んでいた。", "title": "翌1986年から1989年までの展開" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "1990年(平成2年)になると、谷崎潤一郎の助手を務めたこともある平安文学研究者の榎克朗(大阪教育大学教授)が、三の酉の市の前の晩に「水揚げ」があったという説をとり、「三人冗語」での森鷗外や幸田露伴も「暗黙のうちに『水揚げ』を念頭に置いて物を言っているのだと思う」と推察した。「初潮」に関しては「七」章で描かれる〈春季の大運動会〉の時、転んだ信如に美登利が〈これにてお拭きなされ〉と介抱した〈紅の絹はんけち〉がそれを暗示しているとして、それが美登利の「春のめざめ」の標識であり、「幼女」の身心を卒業した「少女」を暗示するものと読み取り可能だとした。また、榎は妻が短歌雑誌『明日香路』の同人であったため、1956年(昭和31年)の「太田一夫」による「水揚げ」説を知り、それから自身が務める大阪教育大学でもその説で教えてきたことにも言及した。", "title": "1990年以降の展開" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "1992年(平成4年)には、それまで「初潮」説や前田の「廓の中の成女式」寄りながらも中立的であった蒲生芳郎がその後に再考して、前の日の晩に処女喪失があったとする佐多の説を全面的に支持するようになった。母親が風呂を沸かす点についても以前の考え(親たちが入るため)を翻し、美登利が初めて「身を汚して」自分たちに「黄金」をもたらしたことへの「ねぎらい」のために沸かしたと解釈した。", "title": "1990年以降の展開" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "1995年(平成7年)に佐多稲子の研究者の北川秋雄(姫路獨協大学助教授)が、これまでのこの論争をまとめた上で、そもそもが『たけくらべ』の「一」章の記述から当時の15、6歳はまだ子どもの部類に属していたことが示されており、「十四」章で正太郎が歌う「厄介節」でも〈十六七の頃までは蝶よ花よと育てられ......〉とあるように、まだ14歳の美登利の「処女喪失解釈」は「あらかじめ封じられているとみるべきではないか」とし、当時の吉原の「年季奉公」の風習でも16歳までは「かぶろう」(禿)として見習いを務めることになっていたことに触れて、まだ「初潮」もない少女の肉体をいきなり「実際の商品」として売り出すことはまずないとし、佐多の説やその支持者の論拠などにも疑問を呈して「初潮」説の方を支持した。", "title": "1990年以降の展開" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "北川は、佐多が時間的な無理を前田から指摘された後の再論において「初店」が行われた時間を酉の市の前日の晩に変更したが、それは細かくみれば、佐多支持者の野口冨士男や大橋清秀が「水揚げ」を行う日の朝に島田髷を結うと主張していたこととは相容れず、佐多の昨晩説と、野口・大橋の当日説は厳密には区別して考えなければならないとした。また当日美登利が廓に行ったことに関して佐多が、「そして再び美登利は恥を抱えて揚屋町の刎橋から入って行くのである」と解釈したことにも、何のために翌日再び美登利がそこへ行く必要があったのかが示されていないと指摘した。", "title": "1990年以降の展開" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "女は生理の日には風呂は入らないという件についても、そう決めつけている佐多の「普遍化操作」に疑問を呈し、掛かり湯だけを使うことも含めれば生理の日に風呂に入らないというのは一般的習俗ともいえず、テクスト内に美登利の「外湯」(銭湯)からの帰りの描写が2箇所あり、それが美登利の習慣だと仮定するなら、「内湯」(家の湯)は美登利以外の家族が使うためのものかもしれず、あるいは生理中のため銭湯は避けて家の湯を使うのかもしれないとした。", "title": "1990年以降の展開" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "また、「検査場」説者の上杉省和が指摘したように、「初店」「水揚げ」という衝撃的な出来事の直後、揚屋町の刎橋から出てきた美登利が、正太郎の姿を発見して思わず自分から駆け寄り、お供のお妻に〈此処でお別れしましよ〉と告げてまで正太郎と一緒に帰るのを選ぶことにも疑問があるとし、「水揚げ」の後ならば「むしろ恥じて、避けるのが自然であろう」とした。そして同様の意味で、上杉が「厄介節」の歌詞の「血を吐くよりもまだ辛い」を挙げて言った屈辱的な「検査」の後も正太郎に駆け寄ることはないだろうとし、酉の市の祭は吉原の祭でもある「紋日」だから検査場の医者も休日をとっているのではないかとした。", "title": "1990年以降の展開" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "総論として北川は、佐多の「初店」説の提起が従来の「初潮」説を揺るがすほどの波紋を広げたが、美登利の変貌ばかりに注目されすぎて、それまで論じられてきた、もう1人の主人公ともいえる信如や、他の正太郎を含めた少年少女たちの世界への視点が稀薄になってしまったことに触れ、湯地孝や和田芳恵の作品論を引き継ぎつつ独自に発展させた前田愛が、明治の近代化が期待する「国家有為の人材」となるべく「刻苦奮闘」「勤倹力行」し「立身出世」を夢みる少年像とは異なる「遊戯者としての子ども」を美登利たちに見て、「信如や美登利は、明治の子どもたちであるとともに、かつて子どもであった私たちの原像なのだ」と、消えてゆく「子どもたちの時間」という「通過儀礼」的な意味を作品から読み取ったその視点を継承する研究の流れが滞ってしまったことを憂慮し、前田が論争以前に書いていた『たけくらべ』論の「子どもたちの時間」に立ち帰れと提言した。", "title": "1990年以降の展開" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "1989年(平成元年)に日本近代文学研究者で評論家の亀井秀雄は、前田が佐多の「初店」説の提起について「狼狽」を隠さずに「誠実」に対応したことが印象に残ったとし、また前田が「女性の読み方」について「深い畏敬の念」を抱いていることも印象的だったとした上で、佐多の提言が意外なほどの大きな反響を呼んだのは、前田自身の中にもあったであろう、多くの者の中に潜在している「一葉処女伝説」や「美登利初潮説」という「観念連合」にくさびが打込まれたからだろうとした。", "title": "1990年以降の展開" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "そして「美登利初潮説」の「観念連合」が女性作家(長谷川時雨や瀬戸内晴美)の読みによって保証されていた安心感が前田の中にあったため、「一葉における女の感性よりもむしろ精神の面を中性的にとらえていた」が、もう1人の佐多という女性作家によって異なる読みがなされて「動揺」したのだという感想を述べ、もしも男性の研究者から「初店」説が提示されていたのなら、それほど反応せず「動揺」もしなかっただろうとした。", "title": "1990年以降の展開" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "1989年(平成元年)に児童文化研究者の本田和子(お茶の水女子大学教授)は、佐多と前田のやり取りを要約した上で、作者の一葉によって「行間にゆらめくイメージとしてあえて言語化されなかったことども」に関して、推理小説の「謎解き」のように「初店」か「初潮」か「ただ一つの事実」を求めることには興味がそそられないとしつつも、前田が明晰に自身の小説観を理知的に語る表面的な「前向きな顔」と同時に、「慎ましい恥じらいの中に面伏せがちながら、チラと仄見えてしまう」その「女性観」「少女観」に心惹かれるとして、前田の様々な小説研究から垣間見られる「未分の性」(少年少女)や「未開の身体」への「優しい」まなざしや、断言的な解釈をためらう「たゆたいの想い」、「ゆらめく幻のまま」に「決着を見せぬあわいの境位に、とどめて置こうとする」心性や、前田が佐多への反論の題を「美登利のために」と付けた意味を論じた。", "title": "1990年以降の展開" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "1992年(平成4年)に日本近代文学研究者の高田知波(駒澤大学教授)は『たけくらべ』の解説中で、美登利の変貌の理由の論争に「初潮」説、「水揚げ」説、「初店」説などの見解があることに触れ、「十六」章に〈人は怪しがりて病ひの故かと危ぶむも有れども母親一人ほゝ笑みては、今にお侠の本性は現れまする、これは中休みと子細ありげに言はれて、知らぬ者には何の事とも思はれず〉という表現のあることを見落としてはいけないとして、「一」章で住人の多くが〈廓者〉であると明示されていることとの関連に言及し、吉原の情報に精通していたそうした〈廓者〉の住人らも美登利の変貌の原因が分からないという設定の意味も見逃せないとした。", "title": "1990年以降の展開" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "2001年(平成13年)になると、峯岸千紘が群馬大学の修士論文で、美登利が性病検査のため「検査場」に行ったとする「検査場」説を提示し、年齢的な問題に関しては、1889年(明治22年)施行の「貸座敷引手茶屋娼妓取締 規則」では16歳未満の少女を娼妓にすることを禁じる規定が書かれてはいるが、森鷗外が大学入学の際に年齢をごまかして入学したように、美登利の年齢もごまかすことが行われたのではないかとした。", "title": "2000年代以降" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "2005年(平成17年)には、峯岸の説を受けた群馬大学の学生の石井茜が、1894年(明治27年)の『東京朝日新聞』に「遊び女の身体検査」という記事があったことを挙げて、一葉がこれを読んだ可能性が高いとして、峯岸の「検査場」に行ったという説を支持した。石井は「初潮説、初店説のどちらも作品自体によって読みが否定され、成り立たない」としたが、その根拠も論証も特に示されていなかった。", "title": "2000年代以降" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "同年に石井の論文に続けて日本近代文学研究者の近藤典彦(群馬大学教授)が、先の上杉省和の「検査場」説がほとんど支持されていないことに疑問を呈して、「初潮」説を否定しつつ、美登利が出てきた〈廓の角〉は大鳥神社の脇の「検査場」だとして「検査場」説を引き継いだ。", "title": "2000年代以降" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "この解釈は、前田が最後に代案とした「廓の中の成女式」から派生したような解釈で、蒲生芳郎が1985年(昭和60年)に講演した時点の解釈にも近く、美登利が自分の今後の具体的なことを明確に告知されたというものである。", "title": "2000年代以降" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "2002年(平成14年)2月に日本近代文学研究者の戸松泉(相模女子大学教授)が、佐多と前田の論争直後に報じた『朝日新聞』に記事中で、新聞記者が「恐らく、その夜にも初店が『行われる』と知らされた少女の、やり場のない不安や恥ずかしさではないか、と一シロウトは感じたのだった」という感想を書いていたことを挙げて、この新聞記者の読解が「この場面のもっとも素直な理解なのではないだろうか」と自著の中で述べた。", "title": "2000年代以降" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "2002年(平成14年)3月に日本近代文学研究者の山本欣司(武庫川女子大学教授)が、佐多の「水揚げ」説の方に賛同寄りの姿勢を示しつつも、美登利の変貌の契機として「初潮」か「処女喪失」か、という議論には、どちらも女性が「少女」から「大人」に変化する出来事にジェンダー的なもの、性的な成熟という「セクシャリティをめぐる神話」がつきまとっていると批判した。そして山本は、きらびやかな遊廓の世界を支える「システムの苛酷さ」に着目しながら、美登利が法的に姉と同じく親から「身売り」「人身売買」される立場の惨めさを自覚したとする説を、「五」章で長吉から〈女郎〉〈乞食〉と罵られたり、「十三」章で淡い恋心を抱いた信如から拒絶的な態度をされたりする伏線から考察し、彼らから隔てられる自身の「属性」への美登利の自覚の悲哀を推察しつつ解釈した。", "title": "2000年代以降" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "2010年(平成22年)に、比較文学研究者の小谷野敦はこれまでの論争の流れをまとめた解説の中で、佐多の説の方に左袒し美登利の処女貫通が行われたことを支持しながらも、美登利の場合は上級の花魁候補の少女であるため「初店」「水揚げ」が行われる場合には、「信頼できる旦那を決めて、盛大な披露を行うのが普通」だとして、その意味で太田や佐多の言う秘密裏の「水揚げ」というのは『たけくらべ』内の状況とは合わず、貫通があったとすれば、「妓楼のおばさんによる、張形を使っての前もっての貫通」が考えられるとし、「現代人は、処女貫通を男の喜びとのみとらえがちだが、かつてはむしろそれを面倒と見なすことが少なくなかった」と解説し、「張形」説なら前田が反論した時間的な問題にも応えられるとした。", "title": "2010年代以降" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "2015年(平成27年)に作家の川上未映子は、美登利の変化の原因は「水揚げ」説ではないと思うとし、「検査場」説も少し無理があり、かといって必ずしも「初潮」説とも言えず、「どれでもないんじゃないか」としながらも、最終的には前田愛の説と似た見解を示した。", "title": "2010年代以降" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "川上は、「水揚げ」説の根拠の一つの「初潮くらいで動じるかいな」的なものについては、「もちろんどんな環境であれ、初潮は驚くにも変化するにも充分な出来事だと思うけれど、少女の変化には何かしら身体的なきっかけが必須である、という思い込みはどうかしら」とし、美登利の「水揚げ」となったらもっと大々的にやるはずであり、年齢的にも「明治の新しい公娼制度はもちろん、新吉原のルールの年齢」にも達しておらず、もし「水揚げ」だったのなら、そうした娘に対する母親の態度が不自然すぎるとした。", "title": "2010年代以降" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "そして、美登利の変化の原因は、これから自分がやる「遊女の仕事」について明確に「説明」されたことで、「リアルに認識されたのではないか」として、そこに「初潮」があってもよいが、それの加えて詳しく今後の自分の身の上のことを知らされた驚きだと思うとした。", "title": "2010年代以降" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "出典は", "title": "おもな論者一覧" } ]
「たけくらべ」論争は、樋口一葉の小説『たけくらべ』に登場する数え年14歳の女主人公・美登利の終盤における変貌の原因に関する解釈をめぐって繰り広げられた文学論争。 1985年(昭和60年)5月に佐多稲子が「初店」(処女喪失、水揚げ)説を述べたことに端を発し、それまで長らく定説化されてきた「初潮」説を擁護する前田愛が佐多の説に異を唱える形で始まって以降、両説それぞれへの賛否をめぐって様々な作家や研究者による論議が盛んに行われ、「検査場」説など新たな解釈が提起されるなどの流れを含みながら、2000年代まで続いていった研究論争である。 この論争以後は「初潮」・「初店」の両説併記が一般的になった。両説の論議の応酬が交わされたことにより、明治期の遊廓の実態を改めて見つめる機会が生れ、『たけくらべ』の抒情的な物語の裏面を考察するという副次的な意義をもたらした論争でもある。 ※以下、『たけくらべ』原作内からの文言・文章の引用は〈 〉にしています(現代語訳者の訳語、論評者の論文からの引用部との区別のため)。
'''「たけくらべ」論争'''(たけくらべ ろんそう)は、[[樋口一葉]]の小説『[[たけくらべ]]』に登場する[[数え年]]14歳の[[ヒロイン|女主人公]]・美登利の終盤における変貌の原因に関する解釈をめぐって繰り広げられた[[文学論争]]<ref name="matsuzaka2">[[松坂俊夫]]「『たけくらべ』解釈論議考――その経過と考察」([[山形女子短期大学]]紀要 第19集・1987年3月〈実際の刊行は7月〉)。{{Harvnb|松坂|1996|pp=135-164}}に所収</ref><ref name="yabu">[[薮禎子]]「『たけくらべ』論争」(日本近代文学 第36集・1987年5月)。{{Harvnb|藪|1991|pp=342-351}}に所収。{{Harvnb|小谷野|2010|p=192}}に抜粋掲載</ref><ref name="hikkei-1">[[関礼子]]「たけくらべ〈樋口一葉〉」({{Harvnb|研究必携1|1988|pp=82-90}})</ref><ref name="kitagawa">[[北川秋雄]]「『たけくらべ』私攷――美登利〈初店〉説への疑問」([[姫路獨協大学]]外国語学部紀要 第8号・1995年1月)pp.234-248。{{Harvnb|北川|1998|pp=178-200}}に所収</ref><ref name="koyano-9">「九 『たけくらべ』論争 1985&ndash;2005」({{Harvnb|小谷野|2010|pp=172-200}})</ref>。 [[1985年]](昭和60年)5月に[[佐多稲子]]が「初店」([[処女]]喪失、[[水揚げ (花街)|水揚げ]])説を述べたことに端を発し、それまで長らく定説化されてきた「[[初潮]]」説を擁護する[[前田愛 (文芸評論家)|前田愛]]が佐多の説に異を唱える形で始まって以降、両説それぞれへの賛否をめぐって様々な作家や研究者による論議が盛んに行われ<ref name="matsuzaka2"/><ref name="yabu"/><ref name="hikkei-1"/><ref name="kitagawa"/><ref name="kamei">[[亀井秀雄]]「解説 全集というテクストの問題」({{Harvnb|前田|1989|pp=420-429}})</ref><ref name="koyano-9"/>、「検査場」説など新たな解釈が提起されるなどの流れを含みながら<ref name="yabu"/><ref name="kitagawa"/><ref name="kamei"/><ref name="koyano-9"/>、[[2000年代]]まで続いていった研究論争である<ref name="koyano-9"/>。 この論争以後は「初潮」・「初店」の両説併記が一般的になった<ref name="koyano-9"/>。両説の論議の応酬が交わされたことにより、明治期の[[遊廓]]の実態を改めて見つめる機会が生れ、『たけくらべ』の抒情的な物語の裏面を考察するという副次的な意義をもたらした論争でもある<ref name="koyano-12">「十二 『春琴抄』論争 1989&ndash;1993〔賊の仕業〕」({{Harvnb|小谷野|2010|pp=241-243}})</ref>。 <small>※以下、『たけくらべ』原作内からの文言・文章の引用は〈 〉にしています(現代語訳者の訳語、論評者の論文からの引用部との区別のため)。</small> == 樋口一葉の『たけくらべ』 == === 作品概説 === [[明治]]期の女流作家・[[樋口一葉]]は、生活苦のため[[1893年]](明治26年)7月に[[吉原 (東京都)|吉原]][[遊郭]]近くの通称「大音寺前」と呼ばれる[[下谷区|下谷]]龍泉寺町(現・[[台東区]][[竜泉 (台東区)|竜泉]])の長屋に引越し、翌8月からその地で[[日用品#荒物|荒物]]や[[駄菓子]]を売る雑貨屋を開いて約10か月間そこで暮した<ref name="ono-1-ryu">「第一編 樋口一葉の生涯 龍泉寺町時代――塵の中」({{Harvnb|小野|2016|pp=71-90}})</ref><ref name="album-3">「『奇蹟の年』に向けて(明治26年~明治27年)」({{Harvnb|樋口アルバム|1985|pp=36-64}})</ref>。一葉はその雑貨屋の店主として下町の人々や子どもと交流した体験や見聞を題材に[[1894年]](明治27年)の秋から暮にかけて執筆していた未定稿の「雛鶏」(ひなどり)に大幅加筆を施して改稿し、『[[伊勢物語]]』[[筒井筒|第23段]]に因む「たけくらべ」という題に改めた上で{{refnest|group="注釈"|『[[伊勢物語]]』[[筒井筒|第23段]]の以下の二首の和歌から「たけ」「くらべ」の語を取って「たけくらべ」となった<ref name="ono-2-take">「第二編 作品と解説〔たけくらべ〕」({{Harvnb|小野|2016|pp=133-162}})</ref>。{{Quotation|「つゝゐつゝ ゐつつにかけし まろが'''たけ''' すぎにけらしな いもみざるまに」<br />「'''くらべ'''こし ふり分髪も かたすぎぬ きみならずして たれかあぐべき」}}}}、その作品を翌[[1895年]](明治28年)1月から[[1896年]](明治29年)1月にかけて文芸雑誌『[[文学界 (明治)|文學界]]』に断続的に7回連載した<ref name="ono-2-take"/><ref name="keen-g1-9t">「九 樋口一葉 たけくらべ」({{Harvnb|キーン現代1|2011|pp=317-324}})</ref><ref name="album-4">「『たけくらべ』『にごりえ』の世界(明治28年)」({{Harvnb|樋口アルバム|1985|pp=65-79}})</ref>。 連載終了から3か月後、若干の補正を加え、通俗雑誌『[[文芸倶楽部]]』4月号(第2巻第5編)に一括再掲載された『たけくらべ』(全十六章)は、当時の文壇内の作品批評の最高権威であった、[[森鷗外]]主宰の雑誌『めざまし草』の森鷗外・[[幸田露伴]]・[[斎藤緑雨]]による匿名合評「三人冗語」の場において、鷗外から「われは{{ruby|縦令|たとへ}}世の人に一葉崇拝の嘲を受けんまでも、此人にまことの[[詩人]]といふ称をおくることを惜まざるなり<ref name="sannin">[[森鷗外]]・[[幸田露伴]]・[[斎藤緑雨]]「三人冗語」(めざまし草 1896年4月号)。{{Harvnb|明治アルバム|1986|p=66}}、{{Harvnb|樋口アルバム|1985|p=93}}に実物ページ写真、{{Harvnb|群像3|1992|pp=81-84}}、{{Harvnb|キーン現代1|2011|pp=320-321}}に抜粋掲載</ref>」と激賞されるなど、彼らから最大級の讃辞の言葉を与えられ、そのことにより樋口一葉の文名は世に広く知られるようになった<ref name="ono-1-maru">「第一編 樋口一葉の生涯 丸山福山町時代――栄光の座と死の病〔栄光の座〕」({{Harvnb|小野|2016|pp=109-111}})</ref><ref name="ono-2-take"/><ref name="keen-g1-9t"/><ref name="meiji">「近代文学の形成と交流(明治20年~明治27、28年)」({{Harvnb|明治アルバム|1986|pp=65-66}})</ref><ref name="album-5">「未完の生涯(明治28年~明治29年・死)」({{Harvnb|樋口アルバム|1985|pp=80-96}})</ref>{{refnest|group="注釈"|「三人冗語」の[[森鷗外]]・[[幸田露伴]]の評は以下のようなものである<ref name="sannin"/>。{{Quotation|ひいき(幸田露伴):此作者の作にいつもおろかなるは無けれど、取り分け此作は筆も美しく趣きも深く、少しは源の知れたる句、弊ある書きざまなども見えざるにはあらぬものゝ、全体の妙は我等が眼を眩まし心を酔はしめ、応接にだも暇あらしめざるほどなれば、もとよりいさゝかの瑕疵などを挙げんとも思はしめず。(中略)<br />美登利が[[島田髷]]に初めて結へる時より、正太とも親しくせざるに至る第十四、十五、十六章は言外の妙あり。其の月其の日[[赤飯]]のふるまひもありしなるべし。風呂場に加減見たりし母の意尋ねまほし。読みてこゝに至れば、第三章の両親ありながら大目に見て云々の数句、第五章の長吉の罵りし語、第七章の我が姉さま三年の馴染に銀の川同様以下云々の悲しむべき十数句、学校へ通はずなりしまであなどられしを恨みしこと、第八章のかゝる中にて朝夕を過ごせば以下の叙事の文など、一時に我等が胸に簇り起りて、可憐の美登利が行末や如何なるべき、既に此事あり、{{ruby|頓|やが}}て彼運も来りやせんと思ふにそゞろあはれを覚え、読み終りて言ふべからざる感に撲たれぬ。鹵莽なる読者ならずば、唯に辞句の美を説くにとゞまらず、必ずや全篇の秘響傍通して伏采潜発する第十四、十五、十六章に至りて、噫と歎じて而して必ずはじめて真に此篇の妙作たることを認むべし。文の癖など人によりては厭ふべき節の別れ路、十三夜等よりは此篇に多きかは知らねど、全体より云へば、此篇却て勝れたること数等なるべし。<br /> 第二のひいき(森鷗外):兎いはん角いはんと思ひ居たりしことも、その言葉こそ同じからね、先づ前席の人の無碍自在なる弁才もて演べ尽されたる心地すれば、われ口を杜いでも止むべきかなれど、さてはまた余りに残惜しかるべし。大寺前とはそもそもいかなる処なるぞ。いふまでもなく売色を業とするものの余を享くるを辱とせざる人の群り住める俗の俗なる境なり。されば縦令よび声ばかりにもせよ、自然派横行すと聞ゆる今の文壇の作家の一人として、この作者がその物語の世界をこゝに択みたるも別段不思議なることなからむ。唯々不思議なるは、この境に出没する人物の[[エミール・ゾラ|ゾラ]]、[[ヘンリック・イプセン|イプゼン]]等の写し慣れ、所謂[[自然主義文学|自然派]]の極力模倣する、人の形したる畜類ならで、吾人と共に笑ひ共に哭すべきまことの人間なることなり。われは作者が捕へ来りたる原材とその現じ出したる詩趣とを較べ見て、此人の筆の下には、灰を撒きて花を開かする手段あるを知り得たり。われは縦令世の人に一葉崇拝の嘲を受けんまでも、此人にまことの詩人といふ称をおくることを惜まざるなり。且個人的特色ある人物を写すは、或る類型の人物を写すより難く、或る境遇のMilieu に於ける個人を写すは、ひとり立ちて特色ある個人を写すより遙に難し。たけ競出でゝ復た大音寺前なしともいふべきまで、彼地の「ロカアル、コロリツト」を描写して何の窮迫せる筆痕をも止めざるこの作者は、まことに獲易からざる才女なるかな。|「三人冗語」<ref name="sannin"/>}}なお、樋口一葉はこの高評について自身の日記の中で、〈その外にはいふ詞なきか、いふべき疵を見出さぬか〉といった不満も漏らしていた<ref name="mizunoue">樋口一葉「水の上日記」(1896年5月2日付)。{{Harvnb|小野|2016|pp=109-111}}に掲載。{{Harvnb|藪|1991|pp=239,}}に抜粋掲載</ref><ref name="ono-1-maru"/><ref name="yabu1973">薮禎子「一葉における文学 四」(女流文芸研究 1973年8月号)。{{Harvnb|藪|1991|pp=236-241}}に所収</ref>。{{Quotation|我れをたゞ女子と斗見るよりのすさび、されば其評のとり所なきこと疵あれども見えず、よき所ありともいひ顕すことなく、たゞ一葉はうまし、上手なり、余の女どもは更也、男も大かたはかうべを下ぐべきの技倆なり、たゞうまし、上手なりと、いふ斗その外にはいふ詞なきか、いふべき疵を見出さぬか、いとあやしき事ども也。|樋口一葉「水の上日記」<ref name="mizunoue"/>}}}}。 『たけくらべ』には、吉原遊郭の人気[[花魁|華魁]]を姉に持つ「美登利」(みどり)という大黒屋の寮に住む[[おきゃん]]で気っぷのよい[[女王]]的な14歳の少女と、龍華寺僧侶の息子で勉強の出来る内気な15歳の「信如」(しんにょ、訓読みでは、のぶゆき)を軸に、[[鳶職|鳶]]頭の息子で横町組を自認する16歳の乱暴者で[[ガキ大将|餓鬼大将]]の「長吉」(ちょうきち)、長吉が敵視する表町組の金貸し田中屋の孫息子で人好きのする愛らしい13歳の「正太郎」(しょうたろう)、本来は横町組で大家の鳶頭に頭が上がらない貧乏な[[人力車]]夫の息子だが滑稽な[[三枚目]]の容姿で表町組にも行き来するひょうきん者の16歳の「三五郎」(さんごろう)などが登場し<ref name="ono-2-take"/><ref name="maeda-toshi">「樋口一葉『たけくらべ』――吉原・竜泉寺町」([[小学館|本の窓]] 1980年12月・冬号)。{{Harvnb|前田|1989|pp=293-301}}、{{Harvnb|前田|2006|pp=33-46}}に所収</ref><ref name="album-4"/>、吉原遊郭の裏手の町「大音寺前」(だいおんじまえ)で、吉原が生み出す金の流れに寄生して生きるしかない町人の子供たちの[[思春期]]前の活き活きとした喧騒と淡い恋心が、[[千束稲荷神社|千束神社]]の夏祭りから[[鷲神社 (台東区)|大鳥神社]]の三の[[酉の市]]までの季節の移り変わりを背景にして詩情豊かに[[韻文]]を駆使しながら描かれている作品である<ref name="ono-2-take"/><ref name="keen-g1-9t"/><ref name="maeda-toshi"/>。 一葉の代表作となった『たけくらべ』は当時としても一歩抜きん出ていた作品であったが、後世においても、明治時代に生まれた日本文学の不朽の名作としてその価値を位置づけられており<ref name="ono-2-take"/><ref name="keen-g1-9t"/>、やがて大人社会の[[現世|浮世]]の苛酷な現実に直面し、そこに繰り込まれざるをえない、それぞれの宿命を目前にした少年少女たちの子供時代との訣別の哀切さや、子どもの時間への哀愁が主題となっている小説である<ref name="ono-2-take"/><ref name="keen-g1-9t"/><ref name="maeda-toshi"/><ref name="kodomo">前田愛「子どもたちの時間――『たけくらべ』試論」([[展望 (雑誌)|展望]] 1975年6月号)pp.16-34。{{Harvnb|前田|1989|pp=265-292}}、{{Harvnb|前田|1993|pp=268-315}}、{{Harvnb|群像3|1992|pp=149-157}}に所収。{{Harvnb|前田|1989|p=303}}に抜粋掲載</ref><ref name="miyoshi">[[三好行雄]]「解説」({{Harvnb|新潮文庫|2003|pp=271-282}})</ref>。 === 美登利が変貌する問題の章 === [[ヒロイン]]である[[紀州]]生れの14歳の美登利は、当初はよそ者として田舎者ぶりを笑われたこともあったが、[[遊廓]]を取り仕切る大黒屋の楼主から与えられる豊富な小遣いと、お転婆で気っぷのよい性格でゴム毬などを皆に大盤振舞して遊びを活気づけたため、子供たちの間で女王様(にょおうさま)的な存在になるが、「五」章で長吉から〈[[女郎]]め〉〈姉の跡継ぎの[[乞食]]め〉と罵られて泥[[草履]]を投げつけられて以来、学校に行かなくなり、遊び場の筆屋の店に集まる仲の良い小さい子どもや、姉弟のように親しい正太(正太郎)や、おどけ者の三ちゃん(三五郎)とだけ遊び暮すようになる<ref name="ono-2-take"/><ref name="takekurabe">「たけくらべ」({{Harvnb|新潮文庫|2003|pp=73-130}})</ref><ref name="gendaigo">「たけくらべ(訳:[[松浦理英子]])」({{Harvnb|河出文庫|2022|pp=7-80}})</ref>。その後「十二」「十三」章で、つれない態度の信如との淡い恋の無言劇の心理描写が描かれた後の「十四」章では三の[[酉の市]]の日の場面となり、それまで明るい性格だった美登利の様子に変化がみられ、その後は仲の良かった正太郎とも遊ばなくなる<ref name="ono-2-take"/><ref name="takekurabe"/><ref name="gendaigo"/>。それが論争の焦点となっている以下の三の酉の市の日を境にした「十四」「十五」「十六」の章である<ref name="midori">前田愛「美登利のために――『たけくらべ』佐多説を読んで」([[群像]] 1985年7月号)pp.204-211。{{Harvnb|前田|1989|pp=302-312}}に所収。{{Harvnb|藪|1991|p=346}}、{{Harvnb|松坂|1996|pp=143-144}}、{{Harvnb|小谷野|2010|pp=178-183}}に抜粋掲載</ref><ref name="matsuzaka2"/>。 ;「十四」 :吉原遊郭の非常門も開いて、人々が自由に往来し賑わいを見せている[[鷲神社 (台東区)|大鳥神社]]の三の[[酉の市]]の日、正太は筆屋に来ない美登利を朝から探し、団子屋から「今さっき俺の家の前を通って[[揚屋 (遊廓)|揚屋]]町の[[刎橋]]から入って行った」と聞く。美登利は髪をきれいな[[島田髷|大島田]]に結っていたという。正太が人混みに入っていき廓の角から出てきたところ、番頭[[遊女#その他|新造]]のお妻{{refnest|group="注釈"|「番頭新造」とは、最高級の[[遊女]]や部屋持ちの遊女について、客や茶屋と遊女屋との間の全てのことを取り仕切る役目の者で、多くは廓離れした年増が多かった<ref name="chukai-123">「注解〔123〕」({{Harvnb|新潮文庫|2003|p=259}})</ref>。}}と話しながら歩いている美登利が見えた。大島田の髪に[[鼈甲]]の櫛や総つきの花[[簪]]を飾った[[京人形 (人形)|京人形]]のような美しい晴れ姿の美登利に見惚れている正太を発見した美登利は、正太に駆け寄っていき、お妻と別れて正太と歩き始める。無邪気な正太は、「よく似合うね」「いつ結ったの今朝かえ昨日かえ何故早く見せてくれなかった」と甘えるが、美登利は「姉さんの部屋で今朝結ってもらったの、私は厭でしようがない」とうつむいて往来の人目を恥じる。 ;「十五」 :美登利には、〈憂く恥かしく、つゝましき事〉(つらく恥ずかしく、気おくれすること)が身にあったため、人の褒める声も嘲りに聞え、島田の髪の好ましさに振り返って見る人々の目も、自分を蔑むもののように見えて、私は家に帰るよと正太に告げる。酉の市に一緒に行こうと約束していた正太は「何故今日は遊ばないの、何か小言を言われたのか? 大巻さん(姉さん)と喧嘩でもしたのか?」と子供らしく問うが、美登利は顔を赤らめるばかりである。団子屋の前を過ぎると、店から頓馬が2人の仲を冷やかし、美登利は一緒に来てはいやだよと正太より先に足を早める。 :美登利の異変に気が気でない正太が美登利の家の中まで上がっていくと、美登利の母親が「おお正太さんよく来てくださった」と歓迎し、今朝から美登利の機嫌が悪くて困っているから遊んでやってください、と言う。正太が理由を訊ねると、母親は怪しい笑顔で「少したてば直るでしょう、いつも決まりのわがままさん、さぞお友達とも喧嘩しましょうな、ほんにやり切れぬ機嫌ではある」と美登利の方を振り返るが、いつのまにか美登利は小座敷に蒲団と[[掻巻]]を出して帯と上着を脱ぎ捨ててうつ伏している。 :正太は美登利の側に寄り、病気なのか気分がすぐれないのか心配するが、美登利は何も答えずにただ忍び泣きするばかりで、困った正太は何も美登利を怒らせることはしていないのに「何がそんなに腹が立つの?」と美登利の顔を覗き込む。美登利は涙を拭って、正太さん私は怒っているのではありませんと答えた。 :美登利の胸中は、どうしても話せない気後れのすることで、昨日の美登利の身には覚えのなかった思いが生れ、ものの恥ずかしさは言い尽くせず、ずっと1人にしてほしく、「いつまでもずっと人形と{{ruby|紙雛様|あねさま}}を相手にして[[ままごと]]遊びばかりしていられたら、さぞ嬉しいことだろう」「ああ大人に成るのは厭なこと、何故このように年を取る」と1年前くらいに返りたいと考える。そして、ただただ「帰っておくれ正太さん」「話かけられると頭痛がする」と言い、正太の目に涙が浮んでいるのも気遣えず、「いつまでもここにいるのならもう友達ではない」と追っ払ってしまう。諦めた正太は、風呂場で湯加減をみている母親に挨拶もしないまま、庭先から駆け出していった。 ;「十六」 :三五郎は、正太の機嫌がいつになく悪く、自分に対する口調も荒っぽいので、喧嘩でもしたのかと思ったが、そうではないと正太は答える。三五郎は、長吉の「片腕」の信如が近々町を出て僧侶の学校に行くことを正太に教えるが、そんなことよりも美登利の異変が気になる正太だった。 :酉の市の日を境に、美登利は生れ変わったようなおとなしい様子で、たまに用事のある時には遊郭の姉のところには通うことはあるが、以前のように皆と活発に町で遊ぶことはなくなり、大の仲良しだった正太とさえ親しくせずに、いつも恥ずかしげに顔を赤らめている。周囲の人々は病気かと心配するが、母親だけは微笑んで「今にまた[[おきゃん]]の本性が現れまする、これは中休み」と訳ありげに言うだけである。何のことか分からない人は見当もつかず、女らしくなったと褒めたり、せっかくの面白い子を台無しにしたとそしる者もあったりする。静かになってしまった表町は火か消えたように淋しくなり、正太の美声もあまり聞かれなくなって、ときおりお供の三五郎のおどけ声が聞えてくるだけになった。 :信如の噂を全く耳にしていなかった美登利は、信如に対するかつての意地をそのまま封じ込め、ここ最近の訝しいさまに自分が自分でないようで何事も恥ずかしいばかりだった。だが霜の降りたある朝、格子門の外から水仙の造花を差し入れる者があり、美登利はなぜかなつかしい思いがして、さびしく清らかなその花を眺めていたが、それが差し入れられた次の日は、まさに信如が僧侶の学校に行った日だったと伝え聞いた。 == 定説化していた「初潮」説の流れ == 美登利の変貌の原因を「初潮」と解するきっかけとなっていたものは、最初に『たけくらべ』を評した「三人冗語」内で文豪の[[幸田露伴]]が、「美登利が[[島田髷]]に初めて結へる時より、正太とも親しくせざるに至る第十四、十五、十六章は言外の妙あり。其の月其の日'''赤飯'''のふるまひもありしなるべし」と、「[[赤飯]]」の文言を出したことの影響が大きいとされる<ref name="midori"/><ref name="hikkei-1"/><ref name="koyano-9"/>。 {{Quote|美登利が島田髷に初めて結へる時より、正太とも親しくせざるに至る第十四、十五、十六章は言外の妙あり。其の月其の日赤飯のふるまひもありしなるべし。風呂場に加減見たりし母の意尋ねまほし。読みてこゝに至れば、第三章の両親ありながら大目に見て云々の数句、第五章の長吉の罵りし語、第七章の我が姉さま三年の馴染に銀の川同様以下云々の悲しむべき十数句、学校へ通はずなりしまであなどられしを恨みしこと、第八章のかゝる中にて朝夕を過ごせば以下の叙事の文など、一時に我等が胸に簇り起りて、可憐の美登利が行末や如何なるべき、既に此事あり、{{ruby|頓|やが}}て彼運も来りやせんと思ふにそゞろあはれを覚え、読み終りて言ふべからざる感に撲たれぬ。|幸田露伴「三人冗語」<ref name="sannin"/>}} また、美登利の変貌の原因を「初潮」と解説した最初の人物は、[[1926年]](大正15年)10月に[[至文堂]]から『樋口一葉論』を出版した日本近代文学研究者の[[湯地孝]]だったとされる<ref name="kitagawa"/>{{refnest|group="注釈"|name="yuchi"|この点について[[小谷野敦]]は、[[湯地孝]]は「初潮」説を特に書いていないとしている<ref name="koyano-9"/>。}}。その後、『[[女人芸術]]』の主宰者であった作家の[[長谷川時雨]]が、[[1938年]](昭和13年)8月に[[冨山房]]百科文庫から刊行された『評釈一葉小説全集』において「初潮」だと述べており<ref name="shigure">[[長谷川時雨]]「評釈」(『評釈一葉小説全集』冨山房百科文庫、1938年8月)。{{Harvnb|佐多|1985|pp=152-153}}、{{Harvnb|佐多|1991|pp=151-152}}、{{Harvnb|前田|1989|pp=306-307}}に抜粋掲載</ref><ref name="ineko">[[佐多稲子]]「『たけくらべ』解釈へのひとつの疑問」(群像 1985年5月号)。{{Harvnb|佐多|1985|pp=150-159}}、{{Harvnb|佐多|1991|pp=149-158}}、{{Harvnb|群像3|1992|pp=158-164}}に所収。{{Harvnb|松坂|1996|pp=137-139}}、{{Harvnb|北川|1998|pp=182-183,186,191}}、{{Harvnb|小谷野|2010|pp=176-177}}に抜粋掲載</ref><ref name="midori"/>、その後の一葉研究の書でも同様に解説している<ref name="koyano-9"/>。 {{Quotation|この寛濶な、もの{{ruby|怖|おぢ}}しない子が、始めて島田に結つた酉の町のあとで、衣ひきかつぎ人目をいとふ日がある。こゝも、[[紫の上]]も、むらさきも、衣ひきかつぎ起出でず、むづかつてゐた日があつて、それは内密にむすばれた伉儷の、初夜のおむづかりであつて、傍の者に解せなかつたのだが、美登利の母親は、ことがわかつてゐるので、なに直に{{ruby|日頃|いつも}}のおはねになるだらうと言つて笑つてゐる。美登利には初潮が来て、女になつた日だつたと解釈してよいと思ふ。<br />「母親怪しき笑顔をして少し経てば愈りませう」母親の笑顔は、美しく欠点のない娘が、これで、どこも不具でなかつたといふ満足。母親だけが察し、慰め、訓へる、医者のいらない病気――初潮が少女美登利に来たのである。|長谷川時雨「評釈――たけくらべ」<ref name="shigure"/>}} そして時雨の解釈を踏襲する形で「初潮」とする解釈が続き、[[1949年]](昭和24年)の[[藤田福夫]]、[[1956年]](昭和31年)の[[吉田精一]]、[[塩田良平]]、[[1958年]](昭和33年)の[[和田芳恵]]、[[1961年]](昭和36年)の[[蒲生芳郎]]、[[1967年]](昭和42年)の[[村松定孝]]、[[1970年]](昭和45年)の[[関良一]]、[[1972年]](昭和47年)の[[青木一男]]、[[1974年]](昭和49年)の[[松原新一]]、[[1975年]](昭和50年)の[[前田愛 (文芸評論家)|前田愛]]、[[1981年]](昭和56年)の[[藤井公明]]、[[1982年]](昭和57年)の[[岡保生]]、[[1984年]](昭和59年)の[[瀬戸内晴美]]などが「初潮」を迎えた微妙な心理として解説し、美登利の変化の原因は「初潮」でほぼ定まっていた<ref name="midori"/><ref name="kitagawa"/><ref name="koyano-9"/>。 例えば、樋口一葉研究の先達者の一人である作家の[[和田芳恵]]は、その日を「生理日」として、「十五」章において自宅の大黒屋の寮に帰った美登利が[[長襦袢]]姿になる意味について、正太郎との「距離」を暗示したものだとし、その描写の中にやがて[[遊女]]となる美登利の宿命が予示されているとした<ref name="wada1">[[和田芳恵]]「『たけくらべ』樋口一葉 十六」([[国文学 解釈と鑑賞]] 1958年11月号)。{{Harvnb|前田|1989|p=309}}に抜粋掲載</ref><ref name="midori"/>。 {{Quotation|寮に帰った美登利は、やがて、買う側の正太の前で、長襦袢になる。これは、生理日という女性の病症の自然の結果だが、長襦袢姿は遊女の姿態を暗示しているようだ。(中略)この距離は、遊女になる美登利と、その客にあがる正太が実現する日の近さに外ならない。|和田芳恵「『たけくらべ』樋口一葉 十六」<ref name="wada1"/>}} 和田は別の論でも「初潮」と解釈し、子供から娘になった美登利の行く手には姉と同じく「身を売る稼業」が待っていたとし、自身に訪れた「生理的な変化」にとまどい、女に生れた「うっとうしさ」を仲良しの正太郎に当たり散らしたと解説した<ref name="wada2">和田芳恵『ひとすじの心』([[毎日新聞社]]、1979年1月)p.146。{{Harvnb|佐多|1985|p=152}}、{{Harvnb|佐多|1991|p=151}}に抜粋掲載</ref><ref name="ineko"/>。 {{Quotation|美登利に初経があって、子供から娘になった行く手に、姉大巻のような身を売る稼業が待っていた。(中略)この土地に育った美登利は、娼妓を特別なものと考えることができない。美登利は生理的な変化にとまどい、女にうまれた、うっとうしさに仲良しの正太郎へあたりちらしたりする。|和田芳恵「ひとすじの心」<ref name="wada2"/>}} 同じく一葉研究者で日本近世・近代文学研究者の[[前田愛 (文芸評論家)|前田愛]]は、『たけくらべ』を論じる上で、特に美登利の2回目の「受難の日」として「初潮」の意味を捉えて重視し、やがては遊女になる前の「子どもの時間」の終りを示しているとした<ref name="kodomo"/>{{refnest|group="注釈"|[[前田愛 (文芸評論家)|前田愛]]は、『たけくらべ』の結末を、「[[ロマン主義]]文学における子どもの役割を先取りしていた」と見ることも可能だとして、[[ウィリアム・ワーズワース|ワーズワース]]の影響が看取される[[国木田独歩]]の詩篇「門辺の子供」と相通ずるものがあると解説した<ref name="kodomo"/>。}}。 {{Quotation|美登利の初潮は吉原のマツリの日におとずれる。美登利の受難の日として二つの[[ハレとケ|ハレ]]の日が選ばれる設定には、たんなる思いつきをこえた一葉の深い用意がこめられているだろう。美登利が迎えた初潮は、まぎれもなく[[鷲神社 (台東区)|大島大明神]]にささげられた[[生贄|いけにえ]]の証しであり、吉原の悪場所におくりこまれる美登利に負わされた性と金銭の穢れや罪障のしるしなのだ。<br />酉の市の賑いをよそに、〈薄暗き部屋〉に臥せている美登利は、かつて自分の体内に生きていたひとりの少女が確実に死んだことを自覚する。遊び{{ruby|女|め}}に再生するためには、遊ぶ子どもはいったんは死ななければならないのだ。<br />美登利にゆるされていた子どもの時間が閉ざされてしまったとき、大音寺前の子どもたちの時間も終りを告げる。|前田愛「子どもたちの時間――『たけくらべ』試論」<ref name="kodomo"/>}} 作家の[[瀬戸内晴美]]は、「『たけくらべ』は日本の文学で女の初潮、[[メンス]]を正面から取り上げて書いたただ一つの文学」だとして、当時としては「画期的なこと」だったのではないかと解釈した<ref name="onna-1">「『たけくらべ』と樋口一葉――名作のなかの女たち1」([[月刊カドカワ]] 1984年)。{{Harvnb|瀬戸内|1991|pp=1-36}}に所収</ref><ref name="midori"/>。 {{Quotation|いまわれわれは生理の話など平気でしますけれども、私の子供のころはそれは男の前では絶対に言ってはいけないことでした。女学校で、毎月神社参りがあるんですが、そのときには生理の人は[[鳥居]]をくぐっちゃいけないんですね。拝んじゃいけないというんで、鳥居さんの外にズラーッと並ぶんです。{{ruby|汚|けが}}れてるというんですね。それが昭和の話でしょう。明治のあの時代に一葉がそういうことを書くということは、しかも女が書くということは、大変画期的なことだったんじゃないかと思うんですね。だからそういう意味では、一葉は女の生理について非常にはっきりした考えを持っていたと思うんです。(中略)<br />初潮のところで、私はそれは外国にもないうまい表現だと思ったのは、初潮の翌日、非常におとなしくなるとかね、非常にすんなり書いてございましょう。原文読めばわかりますけど。|瀬戸内晴美「『たけくらべ』と樋口一葉」<ref name="onna-1"/>}} その瀬戸内との対談でも前田愛は、美登利が迎えた「受難」であった「初潮」は単なる生理の問題だけではなくて、「もっと普遍的な問題」につながるように書かれているところに「凄味」があるとして、作品の主題の意味に触れた<ref name="onna-1"/>。 {{Quotation|初潮の問題は『たけくらべ』に出てくる二つのマツリにからんでくる。[[千束稲荷神社|千束神社]]の夏祭りと十一月の酉の市です。千束神社の夏祭りのときに美登利は横組町の餓鬼大将の長吉に泥草履を投げつけられて、〈何を女郎の頬桁たゝく、姉の跡つぎの乞食め〉とののしられる。これが一つの受難ですけれども、酉の市の祭りのときに初潮という受難を迎えて、それをきっかけに少女から大人の世界へと境界をこえて行く。この時間的な[[通過儀礼]]が同時に大音寺前から吉原の廓の中に入るという空間的な移動と見事に重なっている。初潮の問題を生理の問題として書いているだけではなくて、それがもっと普遍的な問題につながるような書き方をしているところに、『たけくらべ』の凄味があります。|前田愛「『たけくらべ』と樋口一葉」<ref name="onna-1"/>{{refnest|group="注釈"|他の著書内においても前田愛は、酉の市の日は美登利の「第二の受難の日」だとして以下のようにまとめている。{{Quotation|夏祭の宵には表町組、横町組の旗じるしをかかげて互いに元気をきそいあった大音寺前の子ども集団は、酉の市の夜には結束を解いて分散し、人出をあてこんだ小遣いかせぎの俄か商いに精出すことになる。しかも、このハレの日は美登利にとって第二の受難の日であって、初潮を見た美登利は大鳥大明神にささげられたいけにえとして、吉原の悪場所に送りこまれて行く。信如もまた造花の水仙を美登利への{{ruby|記念|かたみ}}にのこして、大音寺前から旅立つ人になるだろう。大音寺前の侘しい街並を賑わせていた子どもたちのアソビの世界を跡かたもなくつきくずしてしまった見えない力――それは周辺部の農村地帯を貪欲に蚕食することで拡大しつづけた近代東京の苛責ないエネルギーなのである。|前田愛「一葉の文学風土――3〔地縁の論理〕」<ref name="fudo3-chi">「一葉の文学風土――3〔地縁の論理〕」({{Harvnb|前田|1989|pp=151-153}})</ref><ref name="album-4"/>}}}}}} == 論争の発端 == === 佐多稲子の「初店」説 === [[1985年]](昭和60年)の『[[群像]]』5月号にて作家の[[佐多稲子]]が、『たけくらべ』の美登利の変貌ぶりに関して、自分は美登利が「身を売った」ことによる「哀れさ」からだとずっと思っていたが、「初潮」という解釈が定説になっていることを最近知って驚いたとし<ref name="ineko"/><ref name="koyano-9"/>{{refnest|group="注釈"|佐多稲子は以前から「初店」だと思っていたとして、自身が担当した[[1953年]](昭和28年)刊行の『樋口一葉集』([[河出文庫|河出市民文庫]])以外の、もう一つの文庫の解説の方では「初店」説に基づいて解説したと述べた<ref name="ineko"/><ref name="midori"/><ref name="matsuzaka2"/><ref name="kitagawa"/>。前田愛と[[松坂俊夫]]はその佐多の言うもう一つの解説本について未見と断った上で、[[創芸社]]から刊行の近代文庫版『にごりえ・たけくらべ 他四篇』ではないかと推察し<ref name="midori"/><ref name="matsuzaka2"/><ref name="kitagawa"/>、創芸社の近代文庫版のタイトルは正確には『にごりえ・たけくらべ 樋口一葉集』(1953年6月刊)であることを[[山根賢吉]]が指摘するが<ref name="symposium">[[山田有策]]・[[橋本威]]・[[山根賢吉]]「『たけくらべ』をめぐって」([[平安女学院大学短期大学部|平安女学院短大]]にて 1986年11月8日。解釈と鑑賞 1988年2月号)。{{Harvnb|北川|1998|pp=185,190}}、{{Harvnb|小谷野|2010|pp=188-191}}に抜粋掲載</ref><ref name="kitagawa"/>、その本での佐多の解説は、河出市民文庫の解説と似たもので以下のような文面である<ref name="kitagawa"/>。{{Quotation|「たけくらべ」における子どもの生活も、大人を支配する環境におき、その性格もまたそこにとらへられてをり、愛情さへそれに支配されたものとして描かれてゐる。栄耀が金に屈してはじめて可能となる庶民生活では、美登利の悲劇はその母親にとつて悲劇には感じられない。|佐多稲子「解説」(創芸社近代文庫『にごりえ・たけくらべ 樋口一葉集』)}}}}、〈大人に成るのは厭やな事〉という独白については「初潮」とみなされてもいい表現だが、島田に結った髪を振り返って見る世間の人々が自分を蔑んでいるよう思ったり、顔を赤らめたりする美登利の様子は、単なる初潮が訪れたことに起因するものとは思えないと主張した<ref name="ineko"/><ref name="matsuzaka2"/>。 {{Quotation|初潮は、当人にとっていささかの羞恥とうっとうしさを伴うにしろ、親たちは[[赤飯|小豆飯]]を炊いて祝ったものなのである。深窓の娘であったとしても、それは知っていた。美登利の変りようは尋常ではないのである。が美登利のこの変りようは初潮に原因があると解釈されている。それですむなら「たけくらべ」の良さは単なる少年少女の成長の記に終ると云えないであろうか。それで終るなら、この作品は人の世の哀れさにはならず、ずっと浅くなる。|佐多稲子「『たけくらべ』解釈へのひとつの疑問」<ref name="ineko"/>}} そして佐多は、その「尋常」でない美登利の変りようは、[[処女]]を奪われたあとの憂鬱だとして、「大門の中で、店を張る[[花魁|華魁]]ではないとしても、密かに高価な『初店』が美登利の身に行われた」と推察し、「初店」([[水揚げ (花街)|水揚げ]])説を主張した<ref name="ineko"/><ref name="matsuzaka2"/><ref name="hikkei-1"/><ref name="bun-text">「第四章 コードとコンテクスト――テクストの空白」({{Harvnb|前田|1988|pp=132-148}})</ref><ref name="koyano-9"/>{{refnest|group="注釈"|この「高価な『初店』」説を掲載するにあたって佐多稲子は控え帳に、「初潮があったから『水揚げ』ということも聞いたことなし これも関係ないと見てよし むしろ男はそんなことのない少女に高価なものを見ていたかもしれぬ」というメモ書きを残していたという<ref name="satamemo">北川秋雄「佐多稲子『たけくらべ』論資料について」(『日本語の伝統と現代』[[和泉書院]]、2001年5月)。{{Harvnb|山本|2002|p=17}}に抜粋掲載</ref>。}}。 {{Quotation|大門の中で、店を張る華魁ではないとしても、密かに高価な「初店」が美登利の身に行われた、と読取るのである。「{{ruby|鑑定|めきゝ}}の楼主」が初めから美登利の美しさとその利発なおきゃんぶりを育てている。楼主の計らいは単なる親切などではない。売物を高価にする用意である。美登利は姉の大巻を誇りにしている娘だが、その彼女の上にもいよいよ姉と同じ現実が[[刎橋]]を渡った日に襲ったのである。美登利はそれを我が身の上で経験した時、初めて彼女はそれを憂きことと知ったのだとおもう。美登利の急におとなしくなったのはその恥かしさだった。この美登利の変りようを初潮と見るのは、彼女がまだ店を張る華魁になっていない、ということが根拠になっているのだろう。だが、女の身を商いにする店の奥では、どんなことも行われ得ると私は聞いたことがある。初店という売り言葉が如何に嘘かということも。初店として店に並ぶ以前に、店の奥でその初店が何度も行われると聞いた。[[芸者]]の[[半玉]]に「水揚げ」ということがある。(中略)この言葉はだから平気で使われていたものである。娘の頃の私も料理屋で働いていたときは、呼ばれてくる芸者、半玉のうわさをするとき、この水揚げという言葉を、ひとつの単語として言いもしていた。|佐多稲子「『たけくらべ』解釈へのひとつの疑問」<ref name="ineko"/>}} 佐多は、もし美登利の恥じらいや大人しくなった原因が「初潮ぐらい」であるのなら、『たけくらべ』は単なる「美しい[[少女小説]]」の域を出ないとし<ref name="ineko"/><ref name="matsuzaka2"/><ref name="yabu"/><ref name="hikkei-1"/><ref name="honda">[[本田和子]]「解説――前田氏と美登利のために」({{Harvnb|前田|1989|pp=409-419}})</ref>、さらに、美登利の母親に対する見方も長谷川時雨とは異なる見解を示して、母親の態度は美登利の処女喪失の意味よりも「もっと激しいこと」を描いていると解釈しつつ、憂鬱に沈んでいる美登利の状態を見ても〈怪しき笑顔をして少し経てば愈りませう、いつでも極りの我まゝ{{ruby|様|さん}}〉〈{{ruby|真実|ほんに}}やり切れぬ嬢さまではある〉と正太郎に言って、蒲団に伏している娘を「いささかも案じたり察しやったりしていない」この母親の態度を、娘を売って「華魁の全盛にあずかる境遇の、狎らされた人生態度」だと批判し、それも一葉が観じた[[現世|浮世]]、〈憂き世〉への視線の一つであるとした<ref name="ineko"/><ref name="matsuzaka2"/>。 {{Quotation|これは娘を売って大巻という華魁の全盛にあずかる境遇の、狎らされた人生態度である。美登利にしろ、全盛の姉は誇りであり、何かにつけてそれをうしろ楯にしている。当時のこの辺りに、娘が生れれば喜ぶ風潮があったにしろ、わが娘を金に換えて男の弄びものにする、ということへの、ためらい、情けなさ、悲しさの感情は、この母親にみじんもない。私は、樋口一葉がこの母親を描いたということに、一葉の作家としての視線の鋭さを感じ、このことによって一葉の文学は近代文学である、とおもうのである。|佐多稲子「『たけくらべ』解釈へのひとつの疑問」<ref name="ineko"/>}} 続けて佐多は、近所の人々の言葉の中に〈折角の面白い子を種なしにしたと{{ruby|誹|そし}}るもあり〉とあることに着目し、「初潮を誹るということはあり得ない」から、そのことを「初潮」説の提唱者はどう読んだのか疑問を呈して、美登利の変貌に込めた作者の意図を以下のようにまとめた<ref name="ineko"/>。 {{Quotation|美登利の変りようの原因を、初潮と見るなら、樋口一葉は、そして「たけくらべ」はずっと軽いものになると云えないであろうか。そして美登利が実際に姉大巻の廓内の身の上を、自分自身の上に知ったとき、闊達なこの娘の様子が変ったことに、一葉は哀れを見ている、という一葉その人の視線も見失うことになるのではなかろうか。娘を売ることに狎らされた母親の無自覚な非情の傍らで、美登利を〈憂く恥かしく〉人の誇りを感じる娘として描いた樋口一葉に、人生への切込みの深さを感じる。だから私は美登利の変りようのわけを、初潮などですませてはおけないと読取るのである。|佐多稲子「『たけくらべ』解釈へのひとつの疑問」<ref name="ineko"/>}} この佐多の「初店」説が発表されると、いち早く作家の[[大岡昇平]]が『[[文學界]]』6月号で賛意を示し、自身も最初にそう読んでいたが、映画化された作品での「刎橋を渡る美登利をひそかにうかがう信如と正太、のラストシーンにだまされて、変な先入観(後入観?)」が形成されていたことを恥じた<ref name="ohoka6">[[大岡昇平]]「成城だよりIII――4 批評の季節〔四月八日〕」([[文學界]] 1985年6月号)。{{Harvnb|大岡|1986|pp=86-90}}に所収。{{Harvnb|松坂|1996|p=145}}、{{Harvnb|小谷野|2010|p=177}}に抜粋掲載</ref><ref name="matsuzaka2"/><ref name="yabu"/><ref name="kitagawa"/><ref name="koyano-9"/>。 === 前田愛の反論と代案「成女式」説 === 「初潮」説者の[[前田愛 (文芸評論家)|前田愛]]は同年の『群像』7月号にて、佐多稲子の説を「これまでの常識を破る斬新な異説」とし、「初店」が美登利の身の上を襲ったという「断案」には[[瀬戸内晴美]]の「初潮」説に劣らない迫力があって、佐多の筆はそれまでの『たけくらべ』論の「盲点を的確に衝いている」としつつも、いくつかの疑念があるとしておもに3つの点から反論をした<ref name="midori"/><ref name="matsuzaka2"/><ref name="honda"/><ref name="koyano-9"/>。 前田はまず、吉原遊郭の「初店」(「初見世」ともいう)の儀式について、元[[花魁]]の[[森光子 (花魁)|森光子]]の日記『光明に芽ぐむ日』(1926年12月)を参考に、遊女が初見世に出る前には[[東京都立台東病院|吉原病院]]で[[性病]]検査が行われ、それから[[源氏名]]を記した紙札が1か月間店先に張り出される流れを説明した上で、佐多の言うような裏取引の「生臭い秘密」の「初店」(水揚げ)が酉の市という自由に人々が行き来する日にやるとは思えないとし<ref name="midori"/>、逆にその賑わいを利用するという見方も成り立つともいえなくもないが、『たけくらべ』の[[テクスト (批評)|テクスト]]内の「タイム・テーブル」として、団子屋の息子から、〈今の先己れの家の前を通つて〉美登利が[[揚屋 (遊廓)|揚屋]]町の[[刎橋]]を渡って廓に入ったことを教えられた正太が、いったん廓の中に紛れ込み人波にもまれながら廓の外に出たところで番頭新造のお妻と一緒いる美登利に出くわす流れを読むと、美登利が揚屋町の刎橋を渡って廓に入り再び出てくるまでの時間は「どう見積っても一時間以内」であり、その短い時間内で「初店」が行われるのは無理であろうと反論して、廓内では「初店」自体が行われたわけではないとした<ref name="midori"/><ref name="gamou">[[蒲生芳郎]]「美登利の変貌――佐多稲子さんの『たけくらべ』解釈をめぐって」([[宮城学院女子大学]]日本文学会・日本文学ノート 21号・1986年2月)。{{Harvnb|群像3|1992|pp=165-172}}に所収。{{Harvnb|松坂|1996|pp=150-153}}、{{Harvnb|藪|1991|pp=342}}、{{Harvnb|小谷野|2010|p=186}}に抜粋掲載</ref><ref name="matsuzaka2"/><ref name="matsumoto">[[松本健一]]「I 発見される事実をめぐって――『たけくらべ』論争」(群像 1988年8月号)。{{Harvnb|松本|1990|pp=49-57}}に所収</ref><ref name="kitagawa"/><ref name="koyano-9"/>。 {{Quotation|美登利が揚屋町に滞在していた時間は、どう見積っても一時間以内ということになるだろう。それよりも朝方大巻の部屋で島田髷を結ってもらった美登利が、団子屋の息子にその姿を見られるまでの時間の空白がひとつの謎である。それとも「初店」の美登利が廓の外の待合か何かで客と逢う予想外の設定を考えたらいいのだろうか(この時間帯の方が佐多さんのいわれる揚屋町での「初店」よりもまだ可能性があると考えるが、むしろ、姉大巻の馴染客〔銀行の川様・兜町の米様・議員の{{ruby|短小|ちい}}さま〕への挨拶まわりとする方が自然である)。|前田愛「美登利のために――『たけくらべ』佐多説を読んで」<ref name="midori"/>}} 次に前田は、発表当時の『たけくらべ』をいち早く絶賛した[[森鴎外]]・[[幸田露伴]]・[[斎藤緑雨]]の「三人冗語」内で、「当代きっての小説の読み巧者」の露伴も初潮と解釈していることを重視するとして露伴の評を挙げながら、「赤飯のふるまひ<ref name="sannin"/>」は初潮が訪れた祝いに赤飯を炊く「成女式の習俗」であり、娘になった印の島田髷と対応し、「此事<ref name="sannin"/>」は初潮を指して、「彼運<ref name="sannin"/>」は遊女になる宿命を意味しているとした<ref name="midori"/><ref name="gamou"/><ref name="matsumoto"/><ref name="kitagawa"/><ref name="koyano-9"/>。 そして前田は「ここからはまったくの憶測」と前置きした上で、佐多には「初潮説の意味をできるかぎり切りさげなければならない理由があった」として、美登利は「高価<ref name="ineko"/>」な商品であるがゆえ「初店」の日は慎重に選ばれるはずで、「女性がけがれる生理日をわざわざ指定する客は、よほど特別な趣味の持主」であるから、その日が初潮日でないことが佐多の説には必要だったとし、佐多が殊更に「初潮」説を退ける理由を推察した<ref name="midori"/>。 3点目として前田は、「初潮」説者の[[長谷川時雨]]が解説中で『[[源氏物語]]』の「[[紫の上]]」や、一葉が幼時に愛読していた江戸時代の[[草双紙]]『[[偐紫田舎源氏]]』([[柳亭種彦]]著)の「むらさき」にも触れていたことを挙げて<ref name="midori"/><ref name="koyano-9"/>、美登利と信如の微妙な恋の心理が描かれる「十二」章に『源氏物語』の「[[若紫]]」の巻がオマージュされ、正太と口を利こうとしない美登利の変化が描かれる「十五」章には「[[葵 (源氏物語)|葵]]」の巻の14歳の「紫の上」と光源氏の「初夜のおむづかり」のエピソードがパロディ的に踏まえられたことを時雨が念頭に置いたことを説明した上で<ref name="midori"/>、「テクストのあわいにゆれうごく虚のイメージ」、「(美登利の初潮の)背後に透し見られる虚のイメージ」として示唆したその時雨の鑑賞は『たけくらべ』の「ある核心に触れている」として<ref name="midori"/><ref name="matsumoto"/>、同じく「初潮」説者の[[和田芳恵]]が「十五」章での正太と美登利の「距離」の近さを、やがて来る美登利の宿命(客として来る正太を遊女として迎える宿命)を予示したものと論じたことも時雨の見立て同様に『たけくらべ』のテクストの「多義性、初潮と性体験のダブル・イメージ」を認めているとして重視した<ref name="midori"/><ref name="honda"/><ref name="matsumoto"/>。 そして前田は、正太が〈だけれど彼の子も華魁に成るのでは可憐さうだ〉と言い、〈十六七の頃までは蝶よ花よと育てられ……〉と「[[曲輪]]」に売られた娘を歌った流行歌「厄介節{{refnest|group="注釈"|「厄介節」は、「わたしや父さん母さんに、十六七になるまでも、蝶よ花よと育てられ、それが[[曲輪]]に身を売られ、月に三度の御規則で、検査なされる其時は、八千八声のほととぎす、血を吐くよりもまだ辛い、今では勤めも馴れまして、金あるお方に使はする、手管手れんの数々は、恥かしながら床の中……」という歌詞で、明治時代に流行した<ref>「厄介節」。[[藤沢衛彦]]『明治流行歌史』([[春陽堂]]、1929年1月)所収。{{Harvnb|前田|1989|p=288,311-312}}に抜粋掲載</ref><ref name="kodomo"/>。}}」を無意識に口ずさんでいたことを指摘し、「すでに遊女としての美登利を先取りして見ている」彼のまなざしが、初夜をすごした紫の上をみつめる源氏のまなざしに重ね合わされている」のが「一葉の本意」だとし<ref name="midori"/><ref name="matsumoto"/>、初潮では「人の世の哀れさ<ref name="ineko"/>」に触れない底の浅い作品になってしまうとした佐多のその考え方の立ち位置自体に疑問を呈しつつ、「佐多さんの解釈に錯誤があるとすれば、『たけくらべ』という変幻自在なテクストを、近代小説の枠組に当てはめようとした勇み足だと思う」と批判した<ref name="midori"/><ref name="matsuzaka2"/><ref name="honda"/><ref name="matsumoto"/><ref name="koyano-9"/>。 {{Quotation|佐多さんの解釈に錯誤があるとすれば、『たけくらべ』という変幻自在なテクストを、近代小説の枠組に当てはめようとした勇み足だと思う。『[[源氏物語|源氏]]』や『[[偐紫田舎源氏|田舎源氏]]』に見立てた「初夜のおむづかり」の虚のイメージに対応するものとして、佐多さんは廓のなかで美登利の身の上に行われた「初店」の事実を想定された。(中略)「初店」説にこだわるかぎり、遊ぶ少女が遊ぶ女に変身する[[通過儀礼]]――『たけくらべ』の重要なモチーフの一つは、ほとんど無化されてしまうだろう(その意味で廓からの朝帰りに信如の難儀を救ってやる第十三章の長吉は、一種の成人式を体験したわけで、美登利の変身と一対になっている)。|前田愛「美登利のために――『たけくらべ』佐多説を読んで」<ref name="midori"/>}} しかし前田は、佐多の「作家的想像力」を尊重し、佐多の説も『たけくらべ』の謎の多い「テクストの曖昧さ」「空白」から促された「もう一つの回答」であるとし<ref name="midori"/><ref name="matsumoto"/>{{refnest|group="注釈"|前田愛は、学者の立場から「十五」章におけるテクストの「空白」を重視し、美登利が思い悩むのは、橋をわたって廓に入って再び出てきた後で、その間の時間帯に何があったのかは小説テクスト内では書かれておらず、美登利の変化については「初潮」という解釈が通説だったが、佐多が処女喪失だと異論を唱えたことは、そこの空白が読者の「想像力」をかきたてることの証であって、佐多の説もあくまでも一つの「推定」「想定」だとその後の著書『文学テクスト入門』でも述べた<ref name="bun-text"/><ref name="matsumoto"/>。}}、佐多の「初店」説は「既知のテクストとのズレや軋み」を免れないとしつつも一定の歩み寄りを見せて、廓の中で行われたのは美登利が「遊女として初見世に出ることになった前祝い」の「成女式」だったのではと、テクストの「空所」に対する回答として最後に「いたって平凡な代案」を提示した<ref name="midori"/><ref name="koyano-9"/>。 {{Quotation|廓のなかで行われた美登利の成女式は、同時にまた遊女として初見世に出ることになった彼女の前祝いでもあった。たぶん、その席で美登利は大黒屋の主人(あるいは姉の大巻かもしれない)から、彼女を待ちうけている役割をほのめかされたのである。たとえ、そのような宣告がなかったにしても、美登利は成女式が意味するものを、重い手応えでうけとめたにちがいない。(中略)<br />一葉自身は、「初店」の即物的な事実をテクストのなかに隠しておくよりも、美登利の苛酷な運命を予示するさまざまなしるしをテクストにいたる所にちりばめておくいっそう精妙な仕掛けを選びとったのではないだろうか。(中略)<br />初潮の謎が解けなかった正太にも、島田髷に結いかえた美登利を待ちうけているものが何かは判りすぎるほど判っていた。この正太が予期していた美登利の暗い未来のかたちを、私たちは『たけくらべ』のテクストに書かれなかった余白から読みとる。テクストの外部にある空白へと読者の想像力を連れだすこと。一葉が『たけくらべ』や『[[にごりえ]]』で手に入れた制作の秘密はそこに絞りこまれていたのである。|前田愛「美登利のために――『たけくらべ』佐多説を読んで」<ref name="midori"/>}} === 2人の応酬後の新聞・週刊誌の反応 === 佐多稲子と前田愛のやり取りについて早速取り上げた[[マスメディア]]は、同年の『[[朝日新聞]]』6月20日号で、「佐多説は『たけくらべ』の前後の筋の流れからいって、強い説得力がある」とし<ref name="gamou"/>、「(前田が)たいへん気持のよい反論を書いている」と伝えて<ref name="koyano-9"/>、「恐らく、その夜にも初店が『行われる』と知らされた少女の、やり場のない不安や恥ずかしさではないか、と一シロウトは感じたのだった」という記者の感想も書かれた<ref name="koyano-9"/><ref name="tomatsu">[[戸松泉]]『小説の「かたち」・「物語」の揺らぎ――日本近代小説「構造分析」の試み』([[翰林書房]]、2002年2月)p.311</ref>。 『[[サンデー毎日]]』では「現代版『たけくらべ』読みくらべ論争(一葉さんも頭が痛い!?)」という記事を組んだ<ref>佐藤陽子「現代版『たけくらべ』読みくらべ論争(一葉さんも頭が痛い!?)」([[サンデー毎日]] 1985年7月14日号)</ref><ref name="ineko2">佐多稲子「『たけくらべ』解釈のその後」(学鐙 1985年8月号)。{{Harvnb|佐多|1985|pp=160-165}}、{{Harvnb|佐多|1991|pp=159-165}}に所収。{{Harvnb|藪|1991|pp=343-344}}、{{Harvnb|松坂|1996|pp=144-145}}、{{Harvnb|北川|1998|pp=186-189}}、{{Harvnb|小谷野|2010|pp=176-177}}に抜粋掲載</ref><ref name="gamou"/><ref name="matsuzaka2"/><ref name="koyano-9"/>。また、佐多の「初店」説を読んだ一般の人々からの賛意を示す手紙が佐多のもとに20通ほど来たという<ref name="ineko2"/><ref name="koyano-9"/>。 === 佐多稲子の再論 === 前田愛の反論を受けてから『学鐙』8月号に佐多稲子が再論を掲載するが、その中には「前田さんが、佐多が初潮と初店を重ねている、と書かれたのは私には解せなかった。自分としては、どこにも初潮と初店を重ねた書き方はしていないのだが、よほど表現が足りないところがあって、前田さんの誤解をまねいたらしい」という文言があり<ref name="ineko2"/><ref name="gamou"/><ref name="koyano-9"/>、これは前田の反論の中の「女性がけがれる生理日をわざわざ指定する客は、よほど特別な趣味の持主<ref name="midori"/>」なため、「初店」説を提示する佐多が殊更に「初潮」説を退ける必要があったと推察した部分を指したものという見方もあったが<ref name="gamou"/>、この佐多の発言に関しては、前田の論旨を佐多が誤解したものともみられている<ref name="koyano-9"/>{{refnest|group="注釈"|小谷野敦はこの点について、前田本人が自説として、美登利が「初潮」を迎えての「成女式」の式場で今後の「初店」のことを知らされたという代案的な説を提示したことを、当時80歳以上の年齢だった佐多が誤読したとしている<ref name="koyano-9"/>。}}。 佐多は、前田の1点目の反論での、美登利が揚屋町の刎橋を渡って廓に入り再び出てくるまでの時間は「どう見積っても一時間以内<ref name="midori"/>」であり「初店」は無理だという見解については、その当日ではなく前日の晩に行われてから、明朝に姉の部屋で島田髷を結ってもらったと見ればよいとする、時間的な補正をした<ref name="ineko2"/><ref name="matsuzaka2"/><ref name="kitagawa"/><ref name="koyano-9"/>。 {{Quotation|私もまたこのわずかの時間に、美登利の初店が行われたなどとおもうものではない。正太が、島田に結った美登利の袖を引いて、〈いつ結つたの今朝かへ昨日かへ〉と云うのに、美登利の打しおれて〈姉さんの部屋で今朝結つて貰つたの〉と答えることで、充分なのではなかろうか。姉さんの部屋で今朝結って貰ったのである、前の晩に何があったのであろう。そして再び美登利は恥を抱えて揚屋町の刎橋から入って行くのである。前田さんは、美登利の島田に結うことと初潮とがきつく結びついているようにおもっていられるらしいが、島田が年頃として一人前になった娘の結うものではあれ、それが特に初潮を意味するという風習であったとは私はおもわない。|佐多稲子「『たけくらべ』解釈のその後」<ref name="ineko2"/>}} また新しい論として、「三人冗語」での幸田露伴の文言の中に、「風呂場に加減見たりし母の意尋ねまほし<ref name="sannin"/>」とあるのは、露伴が「母親の湯加減を見るのをいぶかしくおもっている」という意味ではないかとして、「従来女は、月のさわりのとき、風呂には這入らなかった」のだから、母親が風呂を沸かしていたところから「初潮」ではないと主張した<ref name="ineko2"/><ref name="matsuzaka2"/><ref name="koyano-9"/>。 しかし佐多は、前田の反論が「優しく」書かれていたため、特に前田に対する論戦で書いているのではないとして、自分としての「読み取り方」を提出したというだけであり、「定説に立ち向うほどのつもりはない」と最後にまとめた<ref name="ineko2"/><ref name="yabu"/>。 {{Quotation|教科書に載って「たけくらべ」が読まれるとき、定説どおりに「初潮」説で読まれるのは成りゆきの当然であろう。定説になったものはなかなかに強い。しかし読者の手紙には、定説で教えられながら、自分としての読み取り方は、「初夜」と解釈するものであったという内容もあったけれど、私としては自分の読み取り方を提出したというだけであって、定説に立ち向うほどのつもりはない。この定説が説かれるとき、違った解釈も出た、ということが一言つけ加えられることがあるだろうか。もし、たまにそういうことでもあれば、私としては充分におもう。「たけくらべ」解釈を書いてからの反響で、多くの人の、一葉に対する愛着に接した。名作のいのち、ということであろうか。|佐多稲子「『たけくらべ』解釈のその後」<ref name="ineko2"/>}} この佐多の再論に対しての前田のその後の応答は特になかった<ref name="koyano-9"/>。なお、前田はこの論争の2年後の[[1987年]](昭和62年)7月に病没する<ref name="koyano-9"/>。 == その後の同年1985年の展開 == === 佐多稲子の説への支持 === 佐多稲子の『学鐙』8月号での再論が終った後の同年の『群像』9月号では、作家の[[野口冨士男]]が[[藤井宗哲]]著『花柳風俗語辞典』を引きつつ、「初店」と「水揚げ」は別のことではないかとしながらも佐多の説に賛同し<ref name="noguchi">[[野口冨士男]]「『たけくらべ』論争を読んで――前田愛氏説への疑問」(群像 1985年9月号)pp.182-188。{{Harvnb|吉行|1986|pp=217-218}}、{{Harvnb|松坂|1996|pp=146-149}}、{{Harvnb|藪|1991|pp=344-346}}、{{Harvnb|北川|1998|p=184}}、{{Harvnb|小谷野|2010|pp=183-184}}に抜粋掲載</ref><ref name="kitagawa"/><ref name="koyano-9"/>、「水揚げ」の語源が「新造の船を陸に上げること」の類語で「一人前になる」という「[[元服]]」と同意であったことを説明し、「水揚げ」とは半玉や遊女見習などの初夜を買うことを指すとして、「朝からの結髪は、あらかじめ大人たちによってきめられていた『元服』のための準備態勢ではなかったのかとも考えられる」とした<ref name="noguchi"/><ref name="kitagawa"/>。 野口は、前田の論は「理づめな論旨」だとし、前田のことを「いっけん決め球を持たぬ投手であるかのように見えぬでもない」として、「実作者としての自由な佐多説のほうが、前田氏の理づめな論旨の展開よりも魅力的である」と述べた<ref name="noguchi"/><ref name="yabu"/><ref name="koyano-9"/>。また野口は、『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』6月号での「東西芸者とっておきの内緒話」を引きつつ[[芸者]]の場合は赤飯を炊くことは「[[遊女#その他|新造]]出し」や「水揚げ」にもあることを挙げて前田に反論し<ref name="noguchi"/><ref name="matsuzaka2"/><ref name="kitagawa"/><ref name="koyano-9"/>、赤飯の習俗について前田が「前提を一般社会の習俗のほうに引きつけすぎているきらいがあるのではないか」とした<ref name="noguchi"/><ref name="yabu"/>。 さらに野口は、佐多の再論と同様に、母親が風呂を沸かす点についても言及し、花魁の姉の後を継ぐ美登利の存在は「お姫様」「主人公」であり、遊廓における雇われ人の親は美登利の「寄生虫」「[[家来|しもべ]]」のようなものだから、その娘が[[月経]]で入れない時に両親が自分たちだけのために風呂を沸かすことはないだろうとした<ref name="noguchi"/><ref name="matsuzaka2"/><ref name="koyano-9"/>。 9月には、3年前に「初潮」説で『たけくらべ』を解説していた日本近代文学研究者の[[松坂俊夫]]([[山形女子短期大学]]教授)が『[[山形新聞]]』紙上で、佐多の「初店」説に衝撃を受けたとし<ref name="matsuzaka-yureru">松坂俊夫「揺れる美登利像――『たけくらべ』論議への視点」([[山形新聞]] 1985年9月12日・13日号)。{{Harvnb|松坂|1996|pp=295-301}}に所収</ref><ref name="matsuzaka2"/>、前田の反論を受けた佐多が「だってその日、母親は風呂場で湯かげんをみているもの<ref name="ineko2"/>」、「美登利の初潮の日に風呂をわかすだろうか。従来女は、月のさわりのとき、風呂に這入らなかった<ref name="ineko2"/>」と再論したことに触れて、「私はこの佐多氏の具体的でみずみずしい表現に、まぶしい作家の視線を見た」と述べ、野口冨士男の赤飯の指摘などにも触れた上で、以下の3点の理由から「現在は佐多氏の解釈に左袒したいと思っている」と表明した<ref name="matsuzaka-yureru"/><ref name="matsuzaka2"/>。 {{Quotation|一つは、一葉晩年の小説構想には、一見軽い事実と思わせながら実は重い真実の暗示されている場合が多いこと。二つには、作家一葉に永遠の処女を見ようとする考えが、一般的に強く存在しており、そのイメージが美登利像にも微妙に働いていること。三つには「たけくらべ」は創作であり、必ずしも実際の遊廓や遊女のしきたり通りには書かれていないことである。|松坂俊夫「揺れる美登利像――『たけくらべ』論議への視点」<ref name="matsuzaka-yureru"/>}} 佐多の最初の論の直後に「初店」説に賛同していた[[大岡昇平]]は、佐多の再論の後の『[[文學界]]』11月号でも、「メンスの間であれば湯に入らないのは今日では小学生でも知っている」として佐多を改めて支持し<ref name="ohoka11">大岡昇平「成城だよりIII――9 情報過多〔九月十三日〕」(文學界 1985年11月号)。{{Harvnb|大岡|1986|pp=207-212}}に所収。{{Harvnb|松坂|1996|pp=154-155}}、{{Harvnb|藪|1991|p=347}}に抜粋掲載</ref><ref name="matsuzaka2"/><ref name="yabu"/>、この日の美登利の言動にしても「吉原近辺のませた子どもたちの間では、初潮ぐらいでは片附きそうもない、はげしさがある」とした上で<ref name="ohoka11"/><ref name="matsuzaka2"/>、時間的な点も前日に起ったという佐多の意見に準じつつ、「明治の[[検閲]]」を逃れるために施された解釈の複雑さがあるのではないかとした<ref name="ohoka11"/>。 {{Quotation|ただ二、三補足すれば、島田を結って刎橋から入って行く。その後でその日の朝、姉の部屋で島田に結った事実が明かされる順序には、おそるべき明治の検閲への配慮はなかったか、作者のはぐらかしではないか、ということがある。つまり前田説のいう一時間がカモフラージュにて、ほんとうは「刎橋から入った」の前に「昨日」があったのではないか、そこで今日入ったといううわさを知っている正太に「今日かえ昨日かえ」とたしかめさせることにより、テクストに「昨日」を出したのではないか。こうなるとテクストの読み取りも楽ではない。|大岡昇平「成城だよりIII――9 情報過多〔九月十三日〕」<ref name="ohoka11"/>}} また大岡は、当時一葉の作品を読むのは「大正でもインテリ志向の男女だった」として、そうした読者層を頭に入れないと解釈が狂うとし、「初潮ばかりにこだわって、作品全体の読者との一対一の対応を忘れないように願いたい」とも述べた<ref name="ohoka11"/><ref name="yabu"/>。 {{Quotation|私ははじめてこの作品を読んだのは、中学三年の秋だったが、文学を「学ぼう」と思っていた私には、美登利がいずれ客になる正太より、信如を好いているらしいのが、気持がよかった。一葉の文学を読むのは、大正でもインテリ志向の男女だった。そういう読者の選択を勘定に入れないと、読み取りが狂って来る。初潮ばかりにこだわって、作品全体の読者との一対一の対応を忘れないように願いたい。『たけくらべ』は少年少女群像であると同時に、あまり女に持てそうもない[[ネクラ]]の信如型の読者をよろこばせる小説だった。それを一葉は知っていたはずである。|大岡昇平「成城だよりIII――9 情報過多〔九月十三日〕」<ref name="ohoka11"/>}} 同年秋には、同じく作家の[[吉行淳之介]]が『[[週刊宝石]]』で「初潮」か「水揚げ」かについては、一方のA説を読めば「なるほど」と思い、もう一方のB説を読んでも「なるほど」と思って、「定見がない」「定見が持てない」として、「この問題に介入する力は、到底持てない」と断りながらも<ref name="yoshiyuki-1">[[吉行淳之介]]「三十六 初体験の巻(一)」([[週刊宝石]] 1985年9月27日号?)。{{Harvnb|吉行|1986|pp=217-222}}に所収。{{Harvnb|松坂|1996|pp=155-156}}に抜粋掲載</ref><ref name="yoshiyuki-2">吉行淳之介「三十七 初体験の巻(二)」(週刊宝石 1985年10月4日号?)。{{Harvnb|吉行|1986|pp=223-228}}に所収。{{Harvnb|松坂|1996|pp=155-156}}に抜粋掲載</ref><ref name="matsuzaka2"/>、佐多が美登利の母親の言葉の意味を「娘を金に換えるのに馴れている親のセリフ」だと指摘したとして、その見解を読むと、佐多の「水揚げ」説へ「かたむきそうになる」と表明した<ref name="yoshiyuki-2"/><ref name="matsuzaka2"/><ref name="hikkei-1"/><ref name="koyano-9"/>。 === 前田愛の説への支持 === 佐多稲子の再論が終った同年の『[[小学館|本の窓]]』9月・10月合併号では、日本近代文学研究者の[[岡保生]]([[青山学院大学]]教授)が前田愛の論への賛同を示し<ref name="yasuo">[[岡保生]]「少女・美登利の像の完成――『たけくらべ』佐多稲子説への反論」(本の窓 第8巻8号・1985年9月・10月合併号)。{{Harvnb|松坂|1996|pp=149-150}}、{{Harvnb|藪|1991|p=349}}、{{Harvnb|小谷野|2010|pp=184-185}}に抜粋掲載</ref><ref name="matsuzaka2"/><ref name="yabu"/><ref name="koyano-9"/>、「各紙は前田氏の学殖に敬意を払ったものの、依然として佐多説を捨てかねているような論調が見られる」と批判的な前置きした上で、「初店」「水揚げ」というものは盛大な儀式であるはずだと、[[中村芝翫 (7代目)|中村芝翫]]著『遊廓の世界』(1976年)や、[[市川段四郎 (2代目)|初代市川猿之助]]こと喜熨斗亀次郎の妻・[[喜熨斗古登子]]著『吉原夜話』(1964年)の中の話を例に引きながら、遊女になる過程には一定のコースがあることを指摘し、花魁の姉を持つ美登利がそうしたコースの儀式を経ずにいきなり遊女になるはずがないと、佐多の秘密裏の「初店」(水揚げ)説への疑問を呈した<ref name="yasuo"/><ref name="matsuzaka2"/><ref name="koyano-9"/>。 岡はまた、母親が正太に〈今朝から美登利の機嫌が悪くて、皆なあぐねて困つてゐます〉と言って〈怪しき笑顔をして少し経てば愈りませう〉と語っている部分に、〈今朝〉美登利に初潮が訪れたことを正太にそれとなく教え、それはまた同時に読者にもそれをほのめかしている箇所だとして、〈少し経てば愈りませう〉は長谷川時雨のいう「医者のいらない病気<ref name="shigure"/>」(初潮)を暗示したものと解釈するのが自然だとした<ref name="yasuo"/><ref name="matsuzaka2"/>。そして、美登利の島田などのいでたちは、遊女見習いの「[[禿]]の支度であろう」とした<ref name="yasuo"/><ref name="matsuzaka2"/><ref name="yabu"/>。 『[[月刊カドカワ]]』9月号では、作家の[[瀬戸内晴美]]が美登利の初潮説にあくまでこだわるとし<ref name="harumi">瀬戸内晴美(月刊カドカワ 1985年9月号)。{{Harvnb|吉行|1986|p=218}}に抜粋掲載</ref><ref name="yoshiyuki-1"/>、一葉が愛読していた[[井原西鶴]]が、『[[好色五人女]]』で花見幕のかげで処女を失ったお夏をその腰の描写一行で表現したことと、一葉が「二つの祭りの賑いで飾った劇的な『たけくらべ』」で「初潮をクライマックスに据え」て「女の生理の変りめ」を描いたことに、互いに呼応し合う共通点を感じるとした<ref name="harumi"/><ref name="yoshiyuki-1"/>。 同年の『群像』10月号では、評論家の[[松本健一]]も前田の説を全面的に支持し<ref name="game">松本健一「文藝批評の解体というゲーム」(群像 1985年10月号)。{{Harvnb|松坂|1996|p=154}}、{{Harvnb|藪|1991|p=345}}、{{Harvnb|小谷野|2010|p=184}}に抜粋掲載</ref><ref name="yabu"/><ref name="koyano-9"/>、前田の反論は、「『初店』の事実を想定しているのは、作者の樋口一葉ではなく、佐多稲子だ」という主旨があり、「初店」だと「想定」する佐多の「固有の立場」(=「表現の場所」)は否定してはいないものの、「このテクストを創った一葉の『表現の場所』からはそのような読みとりかたはできない」という主張があると強調した<ref name="game"/><ref name="matsuzaka2"/>。 また、野口冨士男の前田批判について松本は、「前田説は精巧なガラス細工である」と評されたようなものとしつつも、前田の反論は「学者の文学研究の域をこえて、批評という領域にはいりこんだ」秀れたもので、「文芸批評が独立した創造行為である初源を、実例によって提示したもの」と高く評価し<ref name="game"/><ref name="yabu"/>、前田がアカデミックな研究学者として、「テクストの空白」を重視する姿勢で佐多の「初店」説の無理を論理的に指摘しつつ、自身の「初潮」説もまた完全には論証不可能ながらも研究の上に立脚した文芸批評的なスリリングな想像的な一面も同時に見せていたことに共感できたと、その後にも改めて述べた<ref name="matsumoto"/>。 {{Quotation|『たけくらべ』を近代小説のリアリズムの観点から理解しようとした佐多に対して、前田は、「遊女としての美登利を先取りして見ている正太のまなざし」は、「初夜をすごした[[紫の上]]をみつめる源氏のまなざし」の上に重ね合わされている、という読みを示している。この読みかたは、文学研究者のそれというより文芸批評家のものに近い。つまり、「小説のなかの実」をぎりぎりまで追い詰めた文学研究(学問)のうえに、正太のまなざしは一葉(=作者)によって源氏のまなざしに重ねられているのではないか、と想像するのだ。<br />こういった想像は、前田がテクストをまったく作者の一葉から切り捨てて対象化しているのでないことを物語っている。(中略)「たけくらべ」論争では、『たけくらべ』というテクストの解釈のために、樋口一葉という必ずしも近代人ではない人間像をも一つのテクストにした前田愛の一葉観がふまえられていたので、異和感よりも共感のほうがはるかに大きかった。|松本健一「I 発見される事実をめぐって――『たけくらべ』論争」<ref name="matsumoto"/>}} 『[[國文學]]』10月号では、日本近代文学研究者の[[小森陽一 (国文学者)|小森陽一]]([[成城大学]]助教授)も前田の説を支持し<ref name="komori">[[小森陽一 (国文学者)|小森陽一]]「文学のなかの子どもたち――樋口一葉『たけくらべ』」([[國文學]] 1985年10月号)。{{Harvnb|松坂|1996|p=153}}、{{Harvnb|藪|1991|pp=347-349}}、{{Harvnb|小谷野|2010|p=185}}に抜粋掲載</ref><ref name="matsuzaka2"/><ref name="yabu"/><ref name="koyano-9"/>、佐多の言うように、美登利の〈憂き事〉を「我が身の上で経験した<ref name="ineko"/>」ことに限定してしまうことは、「彼女の苛酷な運命」を、自らの〈憂き事〉〈口惜しさ〉〈恥しさ〉として引受けていく他の子どもたちの「共感の可能性」と、「読者自身が参加すること」を奪ってしまうとし<ref name="komori"/><ref name="matsuzaka2"/>、「新造出しの儀式と初潮が重なった」と解説中の注解で述べた<ref name="komori"/><ref name="koyano-9"/>。 小森は、全体の作品解釈としては前田論「子どもたちの時間」での「かつて子どもであった私たちの原像<ref name="kodomo"/>」を夢みることには否定し<ref name="komori"/><ref name="yabu"/><ref name="hikkei-1"/>、子どもたちを取り囲む言葉の「網状組織」(ネットワーク)という独自の視点から、〈貸座敷〉〈検査場〉〈お宗旨〉など「制度」としての言葉の「近代化の網状組織の網の目」に捉えられた子どもたちの生きる場は純粋無垢な遊びの時空でないとし<ref name="komori"/><ref name="hikkei-1"/>、そこに「子どもたち全てを、ひとしなみにからめとっていく、近代国家形成期の状況」を背景として見て、それを「どう追体験していくかに、共感の絆がつながるか否かの分岐がある」とした<ref name="komori"/><ref name="yabu"/><ref name="hikkei-1"/>。また美登利同様に中心的な人物の信如については、「信如とは、全ての者が売り手と買い手に分節化されてしまうイチとしてのマチに住む子どもたちの、口惜しさと恥かしさをわずかに残している負の吸引力を持つ{{ruby|場|トポス}}だったのだろう」とした<ref name="komori"/><ref name="yabu"/><ref name="hikkei-1"/>。 『群像』10月号では[[比較文学]]研究者の[[満谷マーガレット]]([[共立女子大学]]教授)が、吉原遊廓界隈の裏町という特殊な環境の話である『たけくらべ』になぜ「普遍性」があるのかを考察し<ref name="margaret">[[満谷マーガレット]]「『たけくらべ』の普遍性」(群像 1985年10月号)。{{Harvnb|松坂|1996|pp=153-154}}、{{Harvnb|藪|1991|p=347}}、{{Harvnb|北川|1998|pp=191-192}}、{{Harvnb|小谷野|2010|p=185}}に抜粋掲載</ref><ref name="yabu"/><ref name="koyano-9"/>、「時代や国境を越えた子どもらしさ」の生き生きとした描かれ方や、明治の立身出世を目指す若きエリートの「夢とも自由とも無縁」な人達の物語から看取できる「裏街道から明治という偉大な時代を眺めていた一葉の視線」を評価する中で<ref name="margaret"/><ref name="yabu"/>、この論争にも触れつつ、佐多や野口、前田それぞれに説得力があるものの、「初店」は吉原遊郭という特殊な世界の行いで「普遍性」がないのではと疑問を呈して「初潮」説の方をとると表明し<ref name="margaret"/><ref name="koyano-9"/>、「『初店説』か、初潮説か、どちらをとるにしても、美登利には遊女としての運命が待っていることになるし、その象徴的な意味も変わることもない」とした<ref name="margaret"/><ref name="matsuzaka2"/><ref name="kitagawa"/>。 {{Quotation|『初店説』か、初潮説か、どちらをとるにしても、美登利には遊女としての運命が待っていることになるし、その象徴的な意味も変わることもない。むしろ、一葉が意図的に読者の想像力に解釈を委ねたと言うべきかもしれない。ただ私としては、吉原の非人間性を強調する前者より、明治という時代の片隅に生きた美登利の『成人』を通して、その社会的な意味を問う後者をとりたいのである。|満谷マーガレット「『たけくらべ』の普遍性」<ref name="margaret"/>}} === 中立的見解 === ==== 論争についての意見 ==== 1985年(昭和60年)7月に文芸評論家の[[加藤典洋]]は、佐多と前田のやり取りから始まった論争に触れつつも、加藤はそのどちらの説に賛意を示すものではなく、両説への見解の中に「これが佐多の『新説』提起ではなく、ありうべき一つの解釈がこれまで『ステレオタイプのわきで待たされ』てきたことへの『異議申し立て』なのだとする指摘は見当たらない」と感想を述べた<ref name="kato"> [[加藤典洋]]「『女の時代』と『女の表現』――『たけくらべ』論争を読む」(山形新聞 1985年7月16日号ほか)。{{Harvnb|松坂|1996|p=146}}に抜粋掲載</ref><ref name="matsuzaka2"/>。 ==== 前田の「成女式」説寄り ==== 1985年(昭和60年)9月に一葉研究者の[[野口碩]]は、特にこの論争には触れてはいないものの、[[荒木慶胤]]著『樋口一葉と龍泉寺界隈』(1985年)の「序説にかえて」において、龍泉寺町の住人、特に〈廓者〉という住人の間では娘に初潮が来たら、その子が廓に行くのが一番の親孝行だという話を聞いた一葉が衝撃を受け、それから『たけくらべ』の後半を加筆して定稿が出来たことを解説した<ref name="noguchiseki">[[野口碩]]「序説にかえて」([[荒木慶胤]]著『樋口一葉と龍泉寺界隈』[[八木書店]]、1985年9月)。{{Harvnb|松坂|1996|pp=147-148}}に抜粋掲載</ref><ref name="matsuzaka2"/>。 {{Quotation|龍泉寺町の住人達、特に〈廓者〉と呼ばれた人達の間では、子供は月経を見るようになったら廓に勤めるのが親に対する一番の孝行と言われた。一葉は、貧困がもたらしたこの常識に、少からぬ衝撃を覚えたらしく、『[[文学界 (明治)|文学界]]』の同人にもこの談しを語ったという。(中略)『たけくらべ』の定稿の筆を下す時、一葉はこの部分を学校を嫌がって内攻的な表情を見せる美登利に書き変え、その人間性を効果的に描き出す工夫を加えた。(作品引用部略)<br />前掲の未定稿本文と比較する時に、一葉の人間追求の鋭さがわかる。『たけくらべ』は、こうした大人の世界の汚れに染まろうとする瞬間の子供達の心理を、その人間模様の中に、きわめて活き活きと美しく描写して見せている。|野口碩「序説にかえて」(荒木慶胤著『樋口一葉と龍泉寺界隈』)<ref name="noguchiseki"/>}} 「初潮」説で24年前に論文を書いていた日本近代文学研究者の[[蒲生芳郎]]([[宮城学院女子大学]]教授)は、佐多の再論後の同年11月に、この論争に関する講演を行なったが、「初店」説、「初潮」説のどちらかに加担しているものではなく、どう読解するかは最終的には読者の「想像力の自由」に委ねられると考えて議論の活性化を呼びかけた<ref name="gamou"/><ref name="yabu"/><ref name="koyano-9"/>。この講演記録は翌[[1986年]](昭和61年)の大学誌に掲載された<ref name="gamou"/><ref name="koyano-9"/>。 蒲生はその講演の中で、前田が「初潮」説の原点として[[幸田露伴]]の評語を挙げた点については、「『三人冗語』の面々に対する尊敬は尊敬として、彼らの権威を絶対化するのでないかぎり、それだけで別な〔読み〕の可能性を封ずる根拠にはならないだろう」とし、佐多の「初店」説については、三の酉の市の「[[ハレとケ|ハレ]]の日」の昼間の短時間にあわただしく行われたとすると「不自然」だとして、島田髷や着飾った着物も乱れて整い直す問題を指摘しつつ、佐多がその後、前日の晩に行われたと軌道修正した説ならば説得力があるとした<ref name="gamou"/>。 また、前田の数々の反論は佐多の説を論破したともいえず、かといって佐多の「初店」「水揚げ」説も全面的に賛成するには「一抹の不安、ある種のためらい」が残り、作品内に「その出来事を暗示し示唆する伏線や状況が何一つ――少なくとも目につきやすい形では何一つ用意されていない点が気になる」として<ref name="gamou"/><ref name="matsuzaka2"/>、佐多が挙げた〈折角の面白い子を種なしにした〉という近所の人たちの言葉にしても、その文の最初の句には〈知らぬ者には何の事とも思はれず〉とあるため、そこに「初店」の暗示を汲み取るには無理があり、母親が風呂の湯加減を見ていた点についても、美登利のためだとは限らないとした<ref name="gamou"/>。 その上で蒲生は、前田が最後にまとめた「廓の中の成女式<ref name="midori"/>」に説得力があり、初潮と同時に、成女式のその日に美登利が〈女郎〉という「自分に定められた役割の何たるか」を明確に言い渡され、「はじめて自分の置かれている境遇、その立場がよく見える場に引き出された」として<ref name="gamou"/><ref name="matsuzaka2"/>、「初潮という、うっとうしい女の生理と、それに加えて、金で売られ、金で買われるべく定められたわが身の立場の自覚と、その二つが同時に美登利の身を襲った」と推察しつつ<ref name="gamou"/><ref name="matsuzaka2"/><ref name="kitagawa"/>、蒲生自身の以前の論では「つたなき宿世」への自覚に促されたであろう美登利の具体的な出来事に言及していなかったことを反省した<ref name="gamou"/><ref name="matsuzaka2"/>。 == 翌1986年から1989年までの展開 == === 佐多稲子の説への支持 === 翌[[1986年]](昭和61年)9月には、ノンフィクション作家の[[澤地久枝]]が著書『ひたむきに生きる』の中で佐多の説を全面的に支持し<ref name="sawachi">[[澤地久枝]]「秋元・松代・佐多稲子の“学歴”」(『ひたむきに生きる』[[講談社現代新書]]、1986年9月)に所収。{{Harvnb|松坂|1996|p=156}}に抜粋掲載</ref><ref name="hikkei-1"/><ref name="matsuzaka2"/><ref name="kitagawa"/><ref name="koyano-9"/>、「水揚げをさせられて、少女が無理にも性的に女としての経験をさせられたのではないかと新たな問題提起を」佐多がしたとして、「女性ならではのこまやかで深い洞察には説得力があって、わたしは共感した」と述べた<ref name="sawachi"/><ref name="matsuzaka2"/>。 同じく9月には、前年に「初潮」説から「初店」説に変わったことを『山形新聞』で取り急ぎ表明した[[松坂俊夫]]が『國文學』において再び、佐多に左袒すると述べて、佐多の説の方に優位があるとした<ref name="matsuzaka1">松坂俊夫「樋口一葉」(國文學 臨時増刊号「作家の謎辞典」1986年9月号)。{{Harvnb|藪|1991|p=344}}、{{Harvnb|小谷野|2010|p=187}}に抜粋掲載</ref><ref name="matsuzaka2"/><ref name="yabu"/><ref name="koyano-9"/>。 同年11月に開かれた「[[日本近代文学会]]関西支部秋季大会」シンポジウム「『たけくらべ』をめぐって」に参加した日本文学研究者の[[山根賢吉]]([[甲南女子大学]]教授)は、「水揚げ」の説は佐多が初めてではなくて、約30年前の[[1956年]](昭和31年)に、とある[[法制史]]・[[法律学]]の大家が、学生だった明治時代に従兄弟などから聞いた吉原に関する「哀話」を根拠にして秘密裏の「水揚げ」説を短歌雑誌『明日香路』([[長野県]]で出版)に「太田一夫」という匿名で発表していたことを紹介した<ref name="symposium"/><ref name="matsuzaka2"/><ref name="koyano-9"/>{{refnest|group="注釈"|小谷野敦は、この「太田一夫」は[[瀧川政次郎]]ではないかと推察している<ref name="koyano-9"/>。}}。 山根が紹介した「太田一夫」が「水揚げ」説の根拠とした「哀話」は以下のようなものであるが<ref name="ohta">太田一夫「美登利憂鬱の原因」(明日香路 1956年3月号)。{{Harvnb|松坂|1996|pp=142-143}}、{{Harvnb|関|1987|p=24}}、{{Harvnb|小谷野|2010|pp=188-189}}に抜粋掲載</ref><ref name="symposium"/><ref name="matsuzaka2"/><ref name="koyano-9"/>{{refnest|group="注釈"|太田一夫の「水揚げ」説を紹介した短歌雑誌『明日香路』の編集者の[[岩波香代子]]は、女性から見れば美登利がふさぎこむ原因は従来の「初潮」説でも分かるが、太田の説は思いがけない解釈だと思われるため掲載したと同号の「編輯だより」で記している<ref name="matsuzaka2"/>。}}、「太田一夫」の説は当時、[[関良一]]によって「水揚げ説が提示されているが、そうではなかろう」と否定された<ref name="sekiryo1958">[[関良一]]「しのび音(樋口一葉)――『たけくらべ』十六」(国文学 解釈と鑑賞 1958年11月)。{{Harvnb|松坂|1996|p=141}}に抜粋掲載</ref><ref name="symposium"/><ref name="matsuzaka2"/><ref name="kitagawa"/><ref name="koyano-9"/>。 {{Quotation|わたくしは当時、従兄弟やその友達から多くの哀話を聞いた。(中略)美登利のやうに実の姉があのごとき職業にあり、且つ吉原の一劃をめぐる地帯の中には、近い将来に姉のやうな境遇に這入ることを当然の前提として、いづれ、そのときに[[パトロン]]となるべき人、又は一種の変態的物好きの人によつて事前に行はれる初夜決行の風習が、ときどき行はれる。わたくしが、ここで哀話と云ふのはこのことを指したのである。(中略)わたしは、ことここに到るとつねに考える。この付近にありがちな醜い庶民風習をば、かくも奇麗な外観で描かれることに成功したことは、後年の文学研究家がもっと重視してよいのではないかということである。|太田一夫「美登利憂鬱の原因」<ref name="ohta"/>}} その上で山根自身も「初店」説寄りの意見を示し、美登利の「初潮」はすでに「十四」章以前に済んでいるとしながら、「初潮というのは十二、十三章から読み取るべきではなかろうか」とし<ref name="symposium"/><ref name="kitagawa"/>、下駄の[[鼻緒]]が切れた信如のために格子戸から美登利が投げた〈紅入り[[友禅|友仙]]〉が「初潮」を暗示しているのではないかとして、美登利の「初店」は、三の酉の市の日の「夜」に行われる予定で、「十四」「十五」章は美登利の「最後の処女の姿」だったと解釈した<ref name="symposium"/><ref name="kitagawa"/>。 同年12月には、近世演劇研究者の[[河合真澄]]([[愛媛大学]]教授)が古典文芸との関係から『たけくらべ』を論じる中で、『源氏物語』の「[[若紫]]」の巻の下敷きの観点に着目して佐多の説を支持した<ref name="kawai">[[河合真澄]]「『たけくらべ』小考」(愛媛国文研究 36号・1986年12月)pp.9-16</ref><ref name="koyano-9"/>。 1987年(昭和62年)7月(掲載紀要に3月とあるが実際は7月<ref name="yabu-huki1">薮禎子「『たけくらべ』論争〔付記1〕」({{Harvnb|藪|1991|p=351}})</ref>)になると、先の[[松坂俊夫]]がこれまでの論争の経過などを大学紀要に詳細にまとめた上で、結論的には佐多の「初店」説を支持する論考を改めて発表した<ref name="matsuzaka2"/><ref name="yabu-huki1"/><ref name="kitagawa"/><ref name="koyano-9"/>。松坂は「美登利の変貌は、一見初潮によると思われるが、実は初店に拠るという、二段階の、あるいは複眼的な読みがなされなければならない」と考察した<ref name="matsuzaka2"/>。 {{Quotation|結果的には佐多説に左袒する。ただし、直線的に、初店=水揚げ、と解読するのではなく、美登利の変貌は、一見初潮によると思われるが、実は初店に拠るという、二段階の、あるいは複眼的な読みがなされなければならないと考える。それが、作者一葉の意図であり、それはとりもなおさず、一葉の方法でもあって、そのように読むことで、「たけくらべ」は本来の、より味わい深い魅力を増すからである。|松坂俊夫「『たけくらべ』解釈論議考――その経過と考察」<ref name="matsuzaka2"/>}} 「初店」説を支持する論拠として松坂は、佐多の論拠以外の新たな視点として、廓から美登利が〈番頭新造〉のお妻と一緒に出てくる場面で、美登利が正太と一緒に帰るためお妻に〈佐様なら〉と別れの言葉を発した後に、お妻が〈あれ、美いちやんの現金な、最うお送りは入りませぬかえ〉と返すところから、すでに美登利は〈番頭新造〉のお供が付く「[[花魁|華魁]]」の身分になっていることが読み取れるとして<ref name="matsuzaka2"/>、美登利の〈[[京人形 (人形)|京人形]]〉のような〈極彩色〉の装いは一見「成女式」の装いを思わせながらも、「実は、それは華魁の扮装」であると推察した<ref name="matsuzaka2"/>。 その年の7月27日に前田愛が56歳で病没した後の翌[[1988年]](昭和63年)になってくると、「初潮」説よりも佐多の「初店」説を支持する論が増えてくる傾向となった<ref name="koyano-9"/>。 1988年(昭和63年)には、フランス・日本近代文学研究者の[[西川祐子]]([[京都文教大学|京都文教女子大学]]教授)が佐多の説をとりつつも、「初店」なるものにおいて、本当に処女である必要はないだろうという論を展開し、「性が商品として扱われる場合、売り主は初潮をみて商品の成熟を確認する必要はない」とも述べて 、「未成熟のままうけた陵辱」が、勝ち気だった少女・美登利の性格を変えてしまったと解釈した<ref name="nishikawa1">[[西川祐子]]「性別のあるテクスト――一葉と読者」(文学 1988年7月号)pp.7-19。{{Harvnb|山本|2002|p=17}}、{{Harvnb|小谷野|2010|p=193}}に抜粋掲載</ref><ref name="kitagawa"/><ref name="koyano-9"/>。また前田の論に触れつつ、「前田愛氏の反論はむしろ一葉の韜晦のテクニックの数々をわたしたちに示しているように思える」とも述べた<ref name="nishikawa1"/><ref name="koyano-9"/>。 西川は、一葉の日記などに基づいて書いた一葉評伝の注解内においても、島田髷に花[[簪]]をつけて着飾る盛装について、「初店準備、商品化準備だとしなければ、『たけくらべ』と一葉の龍泉寺体験を結びつけることはできない」とした<ref name="nishikawa2">「第四章 水の上日記にいたる〔注21〕」({{Harvnb|西川|1992|p=233}})</ref>。 同年には他に、平安文学研究者の[[大橋清秀]]([[帝塚山学院大学]]教授)が、元[[花魁]]の[[森光子 (花魁)|森光子]]の日記『光明に芽ぐむ日』(1926年12月)の「初見世日記」と『たけくらべ』の記述を照らし合わせながら、「(美登利も)水揚げの日の朝にやはり島田髷を結っていたのだ」として「水揚げ」説を支持した<ref name="ohhashi">[[大橋清秀]]「『たけくらべ』についての佐多稲子説の裏付をする」([[帝塚山学院大学]]論集 1988年12月号)。{{Harvnb|北川|1998|p=190}}、{{Harvnb|小谷野|2010|p=194}}に抜粋掲載</ref><ref name="kitagawa"/><ref name="koyano-9"/>。 === 前田愛の説への支持 === 1986年(昭和61年)には『[[海燕]]』2月号で作家の[[増田みず子]]が、前年の[[野口碩]]の「序説にかえて」に触れた上で、感覚的に「初潮」説を支持したいとして、「私自身の『感情的』意見としては、初潮を迎えた美登利が廓へ連れていかれて得心させられ、実態を知らされた日、と考えたい」と述べつつ<ref name="masuda">[[増田みず子]]「下谷龍泉寺」([[海燕]] 1986年2月号)。{{Harvnb|松坂|1996|p=156}}に抜粋掲載</ref><ref name="matsuzaka2"/><ref name="koyano-9"/>、〈母親怪しき笑顔をして少し経てば愈りませう、……〉という母親の言葉に関しては、「それにしてもその時の美登利の母親の陽気さが薄気味悪い」とした<ref name="masuda"/><ref name="matsuzaka2"/>。 『国文学 解釈と鑑賞』3月号では、日本近代文学研究者の[[山田有策]]([[東京学芸大学]]教授)が佐多と前田の論争には触れずに、従来の「初潮」説のまま『たけくらべ』に言及し<ref name="yamada">[[山田有策]]「雪の日」(国文学 解釈と鑑賞〈樋口一葉の世界〉 1986年3月号)。{{Harvnb|小谷野|2010|p=186}}に抜粋掲載</ref><ref name="yabu"/><ref name="koyano-9"/>{{refnest|group="注釈"|[[薮禎子]]は、この時期に「樋口一葉の世界」の特集を組んだ『国文学 解釈と鑑賞』に寄稿した面々([[山田有策]]を含め)が、佐多と前田の論争を「素通り」した姿勢を「風馬牛の趣で通り去ってしまったのは寂しい」として、「研究の名において積極的に反応してみせる気概が出て然るべきではなかったろうか」と苦言を呈しつつ、「国文学ジャーナリズムの中で、所与の形でしか書けなくなった研究者たちの、自己充足的な安穏がいささかわびしいものに思われる」と述べた<ref name="yabu"/><ref name="koyano-9"/>。}}、その年の11月に開かれた「日本近代文学会関西支部秋季大会」のシンポジウム「『たけくらべ』をめぐって」では、「初潮」を迎えた美登利が「それまで無意識に抱いていた大人になることへの嫌悪、あるいは大人になることへの激しい憎悪を顕在化」させたとし<ref name="symposium"/><ref name="koyano-9"/>、美登利の変貌をめぐる論争に関しては、「初潮」以外の「初店」や「水揚げ」などの読み方の「自由な想像」が可能なのは、その問題の終盤の章では「語り手をのり超えてしまい、正太郎や美登利になりきった記述者である一葉の内的世界がつよく露出してしまっているからだ」といえると解説した<ref name="symposium"/><ref name="koyano-9"/>。 同じくそのシンポジウムに参加した日本文学研究者の[[橋本威]]([[梅花女子大学]]教授)は、「初店」は盛大な行事だから隠れてこっそり行われることはないとして佐多の説を否定し、作中の〈此処志ばらくの怪しの{{ruby|現象|ありさま}}〉という語句からも、「初店」では〈此処志ばらく〉という意味はおかしく、また、「初店を〈現象〉と言うのは、すごぶる不自然」で、この〈現象〉は「初潮」と解釈するのが自然だとした<ref name="symposium"/><ref name="koyano-9"/>。 1987年(昭和62年)5月には日本近代文学研究者の[[塚田満江]]([[京都女子大学]]教授)が、作品後半の秋の大鳥神社の祭は美登利の「様変わり」の背景とはなってはいるものの、美登利の「変貌」だと呼ばれるような「性格の変化」や「心理的動揺」には、夏祭りの千束神社の祭の時ほど深くは関わっていないとする論の中で、草稿のみどり(「雛鶏」)から美登利(『たけくらべ』)の「様変わり」の「十四」「十五」章を、いきなり「少女から娘を超えて、女に変貌」したと解する説は、「飛躍」というよりも「不思議」だとした<ref name="tsukada">{{Harvnb|塚田|1987}}</ref>。 また塚田は、美登利だけを主人公に据えていた草稿「雛鶏」では、「お祭り騒ぎ」の前後における子どもたちの「時間と空間」を描くのが主眼であったが、結ばれない淡い初恋の相手の信如を主人公に据えた「七」「八」章以降を組み入れた『たけくらべ』では、夏の千束神社の祭時の「偶発」の事件「五」「六」章を発端とした「偶然」の結果として導かれた秋の「お酉さまの日」(酉の市の日)は、「(美登利の)様変り」「(勝気な娘、神経質な少女によくある)生理前後の鬱症状、躁状態」を露わにする「季節」となったに過ぎないとして<ref name="tsukada"/>、美登利がうなだれていた理由の中には「十二」「十三」章で信如に振り向いてもらえなかった「悲しさ」も窺えるとした<ref name="tsukada"/>。同月の別の論でも塚田は、廓の中にいた時間の問題について前田同様にその短さを指摘し、美登利が「猅々爺」や「道楽男」の「陰気な愉しみ」の遊び相手になっていられる時間があったとすれば「たちばなし」程度だろうとした<ref name="tsukada2">塚田満江「奈津と雛人形――『たけくらべ』再考II」([[立命館大学]]人文学会・立命館文学 1987年5月)。pp.932-945。{{Harvnb|北川|1998|p=199}}に抜粋掲載</ref><ref name="kitagawa"/>。 その年の6月には、日本近代文学研究者の[[関礼子]]([[嘉悦大学短期大学部]]専任講師)が「悪場所」論と「少女」論を導入し『たけくらべ』を論じる中で、美登利変貌の原因の論争に触れて、「小説にはっきり何と書かれていない変調の原因を突きとめることは興味深い作業であるが、だからと言って小説に書きとめられている表層の変化の意味するものを軽視することは賢明ではない」として、美登利の変化は〈初々しき大嶋田〉という記号に「あざやかに象徴されている」とし<ref name="seki">{{Harvnb|関|1987}}</ref>、女性の「成長儀礼」だった「成女式」に関して[[桜井秀]]著『日本風俗史概説』([[明治書院]]、1950年)を参考にしながら、「初笄」(はつこうがい)と「着裳」が「古来から受け継がれた成女式の根幹」を為していたことを挙げ、美登利の「成女式」が行われたことだけは、テクストから読み取れるとした<ref name="seki"/>。 そして「十四」章以前の、おきゃんで男まさりの気性で〈前髪大きく〉垂らしていた美登利にすでに初潮があったとは考えにくく、その後に美登利が初潮を迎えたことで、それを待ち構えていた周囲の大人たちによって「成女式」が行われ、遠からず訪れる「初店」について大黒屋の主人から告知されたと考えるのが自然な解釈だと、前田の説に準じる論を展開した<ref name="seki"/><ref name="koyano-9"/>。 {{Quotation|初潮を介して成女式を終えた美登利に待ち受けているのは「遊女の時間」である。美登利が正式に「貸座敷」の「娼妓」として登録されるや、美登利の前に待ち設けているのは「高価な『初店』<ref name="ineko"/>」(佐多稲子)などよりある意味で一層過酷な、毎週ごとに行われる「娼妓身體檢査」であったはずである。(中略)<br />「遊女の時間」は目前に迫っている。仮にお侠気な「少女の時」から「初潮」・「成女式」を経ないで、いきなり「初店」が行われたとしたのなら、 美登利は特殊な「哀話<ref name="ohta"/>」(太田一夫)を生きた特殊なヒロインとして狭斜小説の枠のなかに封じ込められてしまうだろう。そうではなくて、「初潮」「成女式」という段階を踏むことで、特殊な環境に置かれた美登利という存在が「少女なるもの」の普遍的な一つの形象としてわれわれと地続きの存在になるのではないか。今日のわれわれの貧しい想像力では、「初潮」と「性」は分節化されてしまっているが、「成女」という概念を媒介することによって、「初潮」と「性」は一つのものに結び合わされることができると思われる。|関礼子「美登利私考――悪場所の少女」<ref name="seki"/>}} その上で関は、小説『たけくらべ』が「まぎれようもなく受苦の表情を帯びている」のは、美登利という一人の少女の「[[葬送]]にも等しい変容の劇」に、同じ学校仲間、子ども仲間であった長吉や信如ら地縁の少年たちが、大音寺前という土地が無意識に持っていた吉原(悪場所)に対する「悪意」を彼らがまた無意識に演じ、美登利を「悪場所に送り込む引導渡しの役」を引受けて深く関与している作品構造に起因するとし<ref name="seki"/>、紀州から吉原地域にやって来た「[[まれびと|マレビト]]」「[[異人]]」でもあった美登利に対する「異人殺し<ref name="akasaka">[[赤坂憲雄]]『排除の現象学』([[洋泉社]]、1986年12月)</ref>」の役も彼らが担い、「排除された不幸なる生け贄」の美登利への「鎮魂」の「物語」という「供犠の現場<ref name="akasaka"/>」の意味を、[[赤坂憲雄]]の『排除の現象学』の「物語」定義を敷衍しつつ論じ、前田の「子どもたちの時間」論に連なる『たけくらべ』の持つ物語の普遍的な意味を重視した<ref name="seki"/>。 {{Quotation|明治の「街の語り部」でもあった一葉が、物語の終章「水仙の造り花」を差し出して、送り手/受け手の無言の対話を創り出さずにはいられなかったのも、このような「供犠の現場<ref name="akasaka"/>」としての物語からたち登る受容の気配を思いやってのことであったかもしれない。美登利は悪場所の少女でありながら、誰しもが体験するかけがえのない「少女の時」を生き、まさにいま「遊女の時」を生きることを余儀なくされている。物語は二つの時間の狭間に美登利を置いたまま終了する。読者は途方に暮れつつもめいめいテクストの余白に固有の物語を描き出すしかない。|関礼子「美登利私考――悪場所の少女」<ref name="seki"/>}} === 中立的見解 === 日本近代文学研究者の[[薮禎子]]([[藤女子大学]]教授)は、1987年(昭和62年)までの論争をまとめた上で、作家の佐多の説が「大方の虚を衝くという形」で現れて問題提起がなされたことを評価しつつ、「初潮」説を「暗黙の了解の下」で発信していた学者らに「安全地帯にお互いのうのうとしていた所があったのではないか」と指摘すると同時に、それぞれの説の当否や賛否のいずれも、論議の路線や方向などが佐多の誘導のまま「吉原的世界、制度からの検証の側に一方的になびきがちだったのは、反省されねばなるまい」とし<ref name="yabu"/>、『たけくらべ』の「作品固有の魅力の解明、時代を超え、環境を超えて、一世紀近くなぜ広く愛好され、享受されてきたのか、といった辺りへの顧慮」を置き忘れた論議はいかなるものも無用になるだろうとした<ref name="yabu"/>。 薮は、佐多の見解について前田が「変幻自在なテクストを、近代小説の枠組に当てはめようとした<ref name="midori"/>」ところに錯誤があると指摘した点は理解でき、娘の美登利に対する「母の非情さ」に近代小説の面目を見る佐多の読解は「いびつな拡大鏡といった感を免れない」として、母親の非情さを強調させることでしか『たけくらべ』の価値に言及できないとしたらおかしいとした<ref name="yabu"/>。 また薮は、「初潮」説を論じる前田が、幸田露伴が言及した「赤飯」の件から「初潮」の「成女式」を挙げるなどした「習俗」へのこだわりが、逆に野口冨士男が出した芸者の「習俗」の事例により論破されてしまったことを「危ない落とし穴」だったとしつつも<ref name="yabu"/>、薮自身は野口の主張には同調せず、一葉に吉原界隈の見聞があったとしても「一葉の感覚や理解は、吉原の習俗よりは一般社会の習俗レベルにより近かった」のではないかとして、吉原界隈の規定にこだわりすぎるのは逆に一葉の世界観を壊すことになり、そうした面での細かな整合性の過度の論議は特に必要なく、文学研究にとってはそのような細部の検討に固執することは、結局は作品を解体させてしまうことになるとした<ref name="yabu"/>。 そして、解読すればするほど、「作品そのものよりも解読の型とか方法のみが大写しに出てきて、有機体としての作品はかえって向こうに遠ざかる」傾向が強くなりすぎるのではないかとし<ref name="yabu"/>、佐多の読解にも「いびつな拡大鏡」があったが、前田の論にしても「フィルター越しに作品を見てしまってはいないだろうか」という疑問を投げかけ<ref name="yabu"/>、そうした意味で、一般的な自然な理解としては、一葉研究の第一人者の[[和田芳恵]]の解釈を補強する形で、「[[禿]]の支度」とした[[岡保生]]のような「簡潔な」方法で「初潮」説を説明する方が一般的な理解としては妥当だとした<ref name="yabu"/>。 なお、薮自身は、美登利の変貌について、「単なる生理の問題でなく、大人になるという不可避の時を迎えた者の、無明の世への予感と戦慄」だったのではないかと論争以前の1979年(昭和54年)に発表していた<ref name="yabu1979">薮禎子「一葉文学の成立と展開――魔を中心に―― 五」([[藤女子大学]]国文学雑誌 24号・1979年3月)。{{Harvnb|藪|1991|pp=265-272}}に所収</ref>。 {{Quotation|後半の美登利の変貌は、単なる生理の問題でなく、大人になるという不可避の時を迎えた者の、無明の世への予感と戦慄であったことになるのではあるまいか。信如と美登利のいわゆる聖と俗も、二つの同居する場所、あるいはまた、二つの遂に交わりえぬ世という以上に、失われた聖への断ち難い郷愁という意味を多分に持ったものと理解できてくるように思われる。|薮禎子「一葉文学の成立と展開――魔を中心に―― 五」<ref name="yabu1979"/>}} === 「検査場」説 === 1988年(昭和63年)の『文学』7月号では日本文学研究者の[[上杉省和]]([[静岡大学]]教授)が、佐多の説も前田の説も今ひとつ決め手に欠けるとして、作中で正太郎が口ずさんだ「厄介節」を踏まえ、その流行歌の歌詞の続きに「検査」の時の辛さが「八千八声の[[ほととぎす]]、血を吐くよりもまだ辛い」と歌われていることから、明治から強制として始まっていた[[梅毒]]検査の「検梅」説を提示した<ref name="uesugi">[[上杉省和]]「美登利の変貌――『たけくらべ』の世界」(文学 1988年7月号)pp.48-58。{{Harvnb|北川|1998|pp=188,190-191}}、{{Harvnb|小谷野|2010|pp=193-194}}に抜粋掲載</ref><ref name="yabu-huki2">薮禎子「『たけくらべ』論争〔付記2〕」({{Harvnb|藪|1991|p=351}})</ref><ref name="kitagawa"/><ref name="koyano-9"/>。 上杉は、佐多の「初店」「水揚げ」説では、揚屋町の刎橋から出てきた美登利が正太郎を見つけて自分から駆け寄っていくことはしないだろうと推察したが<ref name="uesugi"/><ref name="kitagawa"/>、自説についても、「何故、酉の市の日を選び、しかも島田髷に晴れ姿で」検査なのかという疑問もあり、盛装をしたのは「周囲の人達への偽装工作」かもしれないが、自分の説もまた決め手に欠けるとした<ref name="uesugi"/><ref name="kitagawa"/><ref name="koyano-9"/>。 なお、明治当時は遊廓の北の水道尻には娼妓の健康診療所があり、その前の空地を土地の人々が「検査場」と呼んでいた<ref name="chukai-86">「注解〔86〕」({{Harvnb|新潮文庫|2003|p=255}})</ref>。 == 1990年以降の展開 == === 佐多稲子の説への支持 === [[1990年]](平成2年)になると、[[谷崎潤一郎]]の助手を務めたこともある平安文学研究者の[[榎克朗]]([[大阪教育大学]]教授)が、三の酉の市の前の晩に「水揚げ」があったという説をとり、「三人冗語」での森鷗外や幸田露伴も「暗黙のうちに『水揚げ』を念頭に置いて物を言っているのだと思う」と推察した<ref name="enoki">[[榎克朗]]「美登利の水揚げ――『たけくらべ』の謎解き」([[金沢大学]]教育学部国語教室 [[深井一郎]]教授退官記念論文集 1990年3月)。{{Harvnb|北川|1998|pp=185,198}}、{{Harvnb|小谷野|2010|p=194}}に抜粋掲載</ref><ref name="koyano-9"/>。「初潮」に関しては「七」章で描かれる〈春季の大運動会〉の時、転んだ信如に美登利が〈これにてお拭きなされ〉と介抱した〈{{ruby|紅|くれなゐ}}の絹はんけち〉がそれを暗示しているとして、それが美登利の「春のめざめ」の標識であり、「幼女」の身心を卒業した「少女」を暗示するものと読み取り可能だとした<ref name="enoki"/><ref name="kitagawa"/>。また、榎は妻が短歌雑誌『明日香路』の同人であったため、1956年(昭和31年)の「太田一夫」による「水揚げ」説を知り、それから自身が務める大阪教育大学でもその説で教えてきたことにも言及した<ref name="enoki"/><ref name="kitagawa"/><ref name="koyano-9"/>。 [[1992年]](平成4年)には、それまで「初潮」説や前田の「廓の中の成女式」寄りながらも中立的であった[[蒲生芳郎]]がその後に再考して、前の日の晩に処女喪失があったとする佐多の説を全面的に支持するようになった<ref name="gamou2">蒲生芳郎「美登利の変貌・再考――『風呂場に加減見る母親』の読み」(宮城学院女子大学日本文学会・日本文学ノート 27号・1992年1月)。{{Harvnb|北川|1998|pp=197-198}}に抜粋掲載</ref><ref name="kitagawa"/><ref name="koyano-9"/>。母親が風呂を沸かす点についても以前の考え(親たちが入るため)を翻し、美登利が初めて「身を汚して」自分たちに「黄金」をもたらしたことへの「ねぎらい」のために沸かしたと解釈した<ref name="gamou2"/><ref name="kitagawa"/>。 === 前田愛の説への支持 === [[1995年]](平成7年)に佐多稲子の研究者の[[北川秋雄]]([[姫路獨協大学]]助教授)が、これまでのこの論争をまとめた上で、そもそもが『たけくらべ』の「一」章の記述から当時の15、6歳はまだ子どもの部類に属していたことが示されており、「十四」章で正太郎が歌う「厄介節」でも〈十六七の頃までは蝶よ花よと育てられ……〉とあるように、まだ14歳の美登利の「処女喪失解釈」は「あらかじめ封じられているとみるべきではないか」とし、当時の吉原の「年季奉公」の風習でも16歳までは「かぶろう」([[禿]])として見習いを務めることになっていたことに触れて、まだ「初潮」もない少女の肉体をいきなり「実際の商品」として売り出すことはまずないとし、佐多の説やその支持者の論拠などにも疑問を呈して「初潮」説の方を支持した<ref name="kitagawa"/><ref name="koyano-9"/>。 北川は、佐多が時間的な無理を前田から指摘された後の再論において「初店」が行われた時間を酉の市の前日の晩に変更したが、それは細かくみれば、佐多支持者の[[野口冨士男]]や[[大橋清秀]]が「水揚げ」を行う日の朝に島田髷を結うと主張していたこととは相容れず、佐多の昨晩説と、野口・大橋の当日説は厳密には区別して考えなければならないとした<ref name="kitagawa"/>。また当日美登利が廓に行ったことに関して佐多が、「そして再び美登利は恥を抱えて揚屋町の刎橋から入って行くのである<ref name="ineko2"/>」と解釈したことにも、何のために翌日再び美登利がそこへ行く必要があったのかが示されていないと指摘した<ref name="kitagawa"/>。 女は生理の日には風呂は入らないという件についても、そう決めつけている佐多の「普遍化操作」に疑問を呈し、掛かり湯だけを使うことも含めれば生理の日に風呂に入らないというのは一般的習俗ともいえず、テクスト内に美登利の「外湯」(銭湯)からの帰りの描写が2箇所あり、それが美登利の習慣だと仮定するなら、「内湯」(家の湯)は美登利以外の家族が使うためのものかもしれず、あるいは生理中のため銭湯は避けて家の湯を使うのかもしれないとした<ref name="kitagawa"/>。 また、「検査場」説者の上杉省和が指摘したように、「初店」「水揚げ」という衝撃的な出来事の直後、揚屋町の刎橋から出てきた美登利が、正太郎の姿を発見して思わず自分から駆け寄り、お供のお妻に〈此処でお別れしましよ〉と告げてまで正太郎と一緒に帰るのを選ぶことにも疑問があるとし、「水揚げ」の後ならば「むしろ恥じて、避けるのが自然であろう」とした<ref name="kitagawa"/>。そして同様の意味で、上杉が「厄介節」の歌詞の「血を吐くよりもまだ辛い」を挙げて言った屈辱的な「検査」の後も正太郎に駆け寄ることはないだろうとし<ref name="kitagawa"/>、酉の市の祭は吉原の祭でもある「紋日」だから検査場の医者も休日をとっているのではないかとした<ref name="kitagawa"/>。 総論として北川は、佐多の「初店」説の提起が従来の「初潮」説を揺るがすほどの波紋を広げたが、美登利の変貌ばかりに注目されすぎて、それまで論じられてきた、もう1人の主人公ともいえる信如や、他の正太郎を含めた少年少女たちの世界への視点が稀薄になってしまったことに触れ<ref name="kitagawa"/>、[[湯地孝]]や[[和田芳恵]]の作品論を引き継ぎつつ独自に発展させた前田愛が、明治の近代化が期待する「国家有為の人材<ref name="kodomo"/>」となるべく「刻苦奮闘<ref name="kodomo"/>」「勤倹力行<ref name="kodomo"/>」し「立身出世<ref name="kodomo"/>」を夢みる少年像とは異なる「遊戯者としての子ども<ref>[[ウィリアム・エンプソン]]『牧歌の諸変奏』([[研究社出版]]、1982年8月)[[柴田稔彦]]訳。{{Harvnb|前田|1989|pp=266-267}}に抜粋掲載</ref><ref name="kodomo"/>」を美登利たちに見て、「信如や美登利は、明治の子どもたちであるとともに、かつて子どもであった私たちの原像なのだ<ref name="kodomo"/>」と、消えてゆく「子どもたちの時間<ref name="kodomo"/>」という「[[通過儀礼]]<ref name="onna-1"/>」的な意味を作品から読み取ったその視点を継承する研究の流れが滞ってしまったことを憂慮し、前田が論争以前に書いていた『たけくらべ』論の「子どもたちの時間」に立ち帰れと提言した<ref name="kitagawa"/><ref name="koyano-9"/>。 === 中立的見解 === ==== 論争についての意見 ==== [[1989年]](平成元年)に日本近代文学研究者で評論家の[[亀井秀雄]]は、前田が佐多の「初店」説の提起について「狼狽」を隠さずに「誠実」に対応したことが印象に残ったとし<ref name="kamei"/>、また前田が「女性の読み方」について「深い畏敬の念」を抱いていることも印象的だったとした上で、佐多の提言が意外なほどの大きな反響を呼んだのは、前田自身の中にもあったであろう、多くの者の中に潜在している「一葉処女伝説」や「美登利初潮説」という「観念連合」にくさびが打込まれたからだろうとした<ref name="kamei"/>。 そして「美登利初潮説」の「観念連合」が女性作家(長谷川時雨や瀬戸内晴美)の読みによって保証されていた安心感が前田の中にあったため、「一葉における女の感性よりもむしろ精神の面を中性的にとらえていた」が、もう1人の佐多という女性作家によって異なる読みがなされて「動揺」したのだという感想を述べ、もしも男性の研究者から「初店」説が提示されていたのなら、それほど反応せず「動揺」もしなかっただろうとした<ref name="kamei"/>。 ==== 前田の説寄り ==== 1989年(平成元年)に[[児童学|児童文化]]研究者の[[本田和子]]([[お茶の水女子大学]]教授)は、佐多と前田のやり取りを要約した上で、作者の一葉によって「行間にゆらめくイメージとしてあえて言語化されなかったことども」に関して、[[推理小説]]の「謎解き」のように「初店」か「初潮」か「ただ一つの事実」を求めることには興味がそそられないとしつつも<ref name="honda"/>、前田が明晰に自身の小説観を理知的に語る表面的な「前向きな顔」と同時に、「慎ましい恥じらいの中に面伏せがちながら、チラと仄見えてしまう」その「女性観」「少女観」に心惹かれるとして、前田の様々な小説研究から垣間見られる「未分の性」(少年少女)や「未開の身体」への「優しい」まなざしや、断言的な解釈をためらう「たゆたいの想い」、「ゆらめく幻のまま」に「決着を見せぬあわいの境位に、とどめて置こうとする」心性や、前田が佐多への反論の題を「美登利のために」と付けた意味を論じた<ref name="honda"/>。 {{Quotation|私どもは、改めて思い知らされるのだ、(前田)氏にとって、美登利はやはり美しい「いけにえの処女」でなければならなかった、と……。「無時間的な生」の体現者だった子どもが、近代によってその身体に「時間」を刻印され、「成長」という経過する時間のにない手とされた。美登利に訪れた「初潮」とは、まさに彼女が近代に絡め取られた「しるし<ref name="kodomo"/>」である。佐多氏をして「単なる少女小説」と批難せしめたこの結末も、「子どもの時間」の終焉を告げ、また、明治近代によって蹂躙されたものたちへの[[レクイエム]]であったとするなら、それは、十二分に重い。<br />氏は、佐多氏への反論に『美登利のために』という題を選んだ。そう、それはまさしく、美登利的なものたちへの魂鎮めのために捧げられたのであろう。|本田和子「前田氏と美登利のために」<ref name="honda"/>}} ==== 視点についての意見 ==== 1992年(平成4年)に日本近代文学研究者の[[高田知波]]([[駒澤大学]]教授)は『たけくらべ』の解説中で、美登利の変貌の理由の論争に「初潮」説、「水揚げ」説、「初店」説などの見解があることに触れ、「十六」章に〈人は怪しがりて病ひの故かと危ぶむも有れども母親一人ほゝ笑みては、今にお侠の本性は現れまする、これは中休みと子細ありげに言はれて、知らぬ者には何の事とも思はれず〉という表現のあることを見落としてはいけないとして、「一」章で住人の多くが〈廓者〉であると明示されていることとの関連に言及し、吉原の情報に精通していたそうした〈廓者〉の住人らも美登利の変貌の原因が分からないという設定の意味も見逃せないとした<ref name="guide">[[高田知波]]「代表作ガイド――たけくらべ」({{Harvnb|群像3|1992|pp=299-300}})</ref>。 {{Quotation|一章の冒頭で語り手はこの地域の住人の多くが〈廓者〉であることを明示していた。したがって最終章で美登利の急激な変化を〈怪しが〉る人々には当然廓者も含まれている。廓者とは吉原の世界の内側に生きるプロたちであり、吉原内部における美登利の情報には精通していたはずだし、娼妓の誕生過程についても数多くの観察データを持っていたに違いない。その廓者たちが〈大黒屋の美登利〉の変貌原因を察知できていないという設定の意味は小さくないはずである。〈一人ほゝ笑〉んでいる母親がはたして真実の理解者であるかどうかについても絶対化できない奥行きをこの作品は持っていると考えるべきではないだろうか。|高田知波「代表作ガイド――たけくらべ」<ref name="guide"/>}} == 2000年代以降 == === 「検査場」説 === [[2001年]](平成13年)になると、[[峯岸千紘]]が[[群馬大学]]の修士論文で、美登利が性病検査のため「検査場」に行ったとする「検査場」説を提示し、年齢的な問題に関しては、[[1889年]](明治22年)施行の「貸座敷引手茶屋娼妓取締 規則」では16歳未満の少女を娼妓にすることを禁じる規定が書かれてはいるが、森鷗外が大学入学の際に年齢をごまかして入学したように、美登利の年齢もごまかすことが行われたのではないかとした<ref name="minegishi">[[峯岸千紘]]「樋口一葉『たけくらべ』――三の酉の市の日の美登利」([[群馬大学]]語文学会 語学と文学 2001年3月)pp.19-33。{{Harvnb|小谷野|2010|pp=195-196}}に抜粋掲載</ref><ref name="koyano-9"/>。 [[2005年]](平成17年)には、峯岸の説を受けた群馬大学の学生の石井茜が、[[1894年]](明治27年)の『[[東京朝日新聞]]』に「遊び女の身体検査」という記事があったことを挙げて、一葉がこれを読んだ可能性が高いとして、峯岸の「検査場」に行ったという説を支持した<ref name="akane">石井茜「美登利はなぜ変わったか――『たけくらべ』の研究」(群馬大学語文学会 語学と文学 2005年4月)pp.72-81。{{Harvnb|小谷野|2010|p=196}}に抜粋掲載</ref><ref name="koyano-9"/>。石井は「初潮説、初店説のどちらも作品自体によって読みが否定され、成り立たない」としたが<ref name="akane"/><ref name="koyano-9"/>、その根拠も論証も特に示されていなかった<ref name="koyano-9"/>。 同年に石井の論文に続けて日本近代文学研究者の[[近藤典彦]](群馬大学教授)が、先の[[上杉省和]]の「検査場」説がほとんど支持されていないことに疑問を呈して、「初潮」説を否定しつつ、美登利が出てきた〈廓の角〉は大鳥神社の脇の「検査場」だとして「検査場」説を引き継いだ<ref name="kondo">[[近藤典彦]]「『たけくらべ』検査場の検証」(国文学 解釈と鑑賞 2005年9月)pp.186-209。{{Harvnb|小谷野|2010|p=196}}に抜粋掲載</ref><ref name="koyano-9"/>。 === 「告知」説 === この解釈は、前田が最後に代案とした「廓の中の成女式<ref name="midori"/>」から派生したような解釈で、[[蒲生芳郎]]が1985年(昭和60年)に講演した時点の解釈にも近く、美登利が自分の今後の具体的なことを明確に告知されたというものである。 [[2002年]](平成14年)2月に日本近代文学研究者の[[戸松泉]]([[相模女子大学]]教授)が、佐多と前田の論争直後に報じた『朝日新聞』に記事中で、新聞記者が「恐らく、その夜にも初店が『行われる』と知らされた少女の、やり場のない不安や恥ずかしさではないか、と一シロウトは感じたのだった」という感想を書いていたことを挙げて、この新聞記者の読解が「この場面のもっとも素直な理解なのではないだろうか」と自著の中で述べた<ref name="tomatsu"/>。 === 「身売り自覚」説 === [[2002年]](平成14年)3月に日本近代文学研究者の[[山本欣司]]([[武庫川女子大学]]教授)が、佐多の「水揚げ」説の方に賛同寄りの姿勢を示しつつも、美登利の変貌の契機として「初潮」か「処女喪失」か、という議論には、どちらも女性が「少女」から「大人」に変化する出来事に[[ジェンダー]]的なもの、性的な成熟という「[[セクシャリティ]]をめぐる神話」がつきまとっていると批判した<ref name="yamamoto">{{Harvnb|山本|2002}}</ref>。そして山本は、きらびやかな遊廓の世界を支える「システムの苛酷さ」に着目しながら、美登利が法的に姉と同じく親から「身売り」「[[人身売買]]」される立場の惨めさを自覚したとする説を、「五」章で長吉から〈女郎〉〈乞食〉と罵られたり、「十三」章で淡い恋心を抱いた信如から拒絶的な態度をされたりする伏線から考察し、彼らから隔てられる自身の「属性」への美登利の自覚の悲哀を推察しつつ解釈した<ref name="yamamoto"/>。 == 2010年代以降 == === 「張形」説 === [[2010年]](平成22年)に、比較文学研究者の[[小谷野敦]]はこれまでの論争の流れをまとめた解説の中で、佐多の説の方に左袒し美登利の処女貫通が行われたことを支持しながらも、美登利の場合は上級の花魁候補の少女であるため「初店」「水揚げ」が行われる場合には、「信頼できる旦那を決めて、盛大な披露を行うのが普通」だとして<ref name="koyano-9"/>、その意味で太田や佐多の言う秘密裏の「水揚げ」というのは『たけくらべ』内の状況とは合わず、貫通があったとすれば、「妓楼のおばさんによる、[[張形]]を使っての前もっての貫通」が考えられるとし、「現代人は、処女貫通を男の喜びとのみとらえがちだが、かつてはむしろそれを面倒と見なすことが少なくなかった」と解説し、「張形」説なら前田が反論した時間的な問題にも応えられるとした<ref name="koyano-9"/>。 === 「告知」説 === [[2015年]](平成27年)に作家の[[川上未映子]]は、美登利の変化の原因は「水揚げ」説ではないと思うとし、「検査場」説も少し無理があり、かといって必ずしも「初潮」説とも言えず、「どれでもないんじゃないか」としながらも、最終的には前田愛の説と似た見解を示した<ref name="kawakami">{{Harvnb|川上|2015}}</ref>。 川上は、「水揚げ」説の根拠の一つの「初潮くらいで動じるかいな」的なものについては、「もちろんどんな環境であれ、初潮は驚くにも変化するにも充分な出来事だと思うけれど、少女の変化には何かしら身体的なきっかけが必須である、という思い込みはどうかしら」とし<ref name="kawakami"/>、美登利の「水揚げ」となったらもっと大々的にやるはずであり、年齢的にも「明治の新しい[[公娼]]制度はもちろん、新吉原のルールの年齢」にも達しておらず、もし「水揚げ」だったのなら、そうした娘に対する母親の態度が不自然すぎるとした<ref name="kawakami"/>。 {{Quotation|とにかく美登利の、いわゆるデビューとあらば相当な話題になることは必至で、しかし町も人々もそういう雰囲気ではありません。そして何よりもやっぱり、水揚げされたとするなら美登利にたいする母親の態度が不自然すぎると思います。さすがに水揚げされた娘の友だちに「いまにいつもの美登利に戻ります」とは言わないでしょう。「いまは中休みってところです」もおかしいです。|川上未映子「たけロス、美登利の変化は何によるもの?」<ref name="kawakami"/>}} そして、美登利の変化の原因は、これから自分がやる「遊女の仕事」について明確に「説明」されたことで、「リアルに認識されたのではないか」として、そこに「初潮」があってもよいが、それの加えて詳しく今後の自分の身の上のことを知らされた驚きだと思うとした<ref name="kawakami"/>。 {{Quotation|何となくわかっていたかもしれないけれど、これまではやっぱり自分の外にあった「遊女の仕事」というものが美登利のなかでリアルに認識されたのではないかと思います。世の中にセックスというものが存在していると知ったときの驚愕だけでもすごいのに、どうじにそれを、まだ体験したこともないそれを仕事にして、これからさきの人生を生きてゆかねばならない、ほかの選択はないのだと知らされたら。美登利の変化は、こうしたことをはっきりと認識させられたことにあったじゃないかと思っています。|川上未映子「たけロス、美登利の変化は何によるもの?」<ref name="kawakami"/>}} == おもな論者一覧 == 出典は<ref name="midori"/><ref name="matsuzaka2"/><ref name="yabu"/><ref name="kitagawa"/><ref name="koyano-9"/><ref name="tomatsu"/><ref name="yamamoto"/><ref name="kawakami"/> === 「初潮」説 === *[[湯地孝]] - 『樋口一葉論』([[至文堂]]、1926年10月。[[日本図書センター]]、1983年7月)<ref group="注釈" name="yuchi"/> *[[長谷川時雨]] - 『評釈一葉小説全集』([[冨山房]]百科文庫、1938年8月) *[[藤田福夫]] - 『新註日本短篇文学叢書21 たけくらべ』([[河原書房]]、1949年6月) *[[吉田精一]] - 『樋口一葉研究』([[新潮社]]、1956年10月) *[[塩田良平]] - 『樋口一葉研究』([[中央公論社]]、1956年10月) *[[和田芳恵]] - 「『たけくらべ』樋口一葉 十六」(『[[国文学 解釈と鑑賞]]』1958年11月) *[[蒲生芳郎]] - 「『たけくらべ』小論」(宮城県高等学校国語科教育研究会『研究集録第二号』1961年3月) *[[小野芙紗子]] - 『樋口一葉 人と作品』([[清水書院]]、1966年5月) *[[村松定孝]] - 『作品と作家研究 評伝樋口一葉』([[実業之日本社]]、1967年12月) *[[関良一]] - 「『たけくらべ』の世界」(『樋口一葉 考証と試論』[[有精堂出版]]、1970年10月) *[[青木一男]] - 『たけくらべ研究』([[教育出版センター]]、1972年11月) *[[松原新一]] - 「『たけくらべ』のこと――美登利の後ろ姿」(『国文学 解釈と鑑賞』1974年11月) *[[前田愛 (文芸評論家)|前田愛]] - 「子どもたちの時間――『たけくらべ』試論」(『[[展望 (雑誌)|展望]]』1975年6月) *[[藤井公明]] - 『樋口一葉研究』([[桜楓社]]、1981年7月) *[[松坂俊夫]] - 『鑑賞日本現代文学 樋口一葉』([[角川書店]]、1982年8月) *[[岡保生]] - 『薄倖の才媛 樋口一葉』([[新典社]]、1982年11月)、「少女・美登利の像の完成――『たけくらべ』佐多稲子への反論」(『[[小学館|本の窓]]』第8巻8号・1985年9月・10月) *[[瀬戸内晴美]]「『たけくらべ』と樋口一葉――名作のなかの女たち1」(『月刊カドカワ』1984年)※『対談紀行 名作のなかの女たち』(角川書店、1984年10月)所収 *前田愛『樋口一葉 新潮日本文学アルバム3』([[新潮社]]、1985年5月) *[[満谷マーガレット]] - 「『たけくらべ』の普遍性」(『[[群像]]』1985年10月) *[[山田有策]] - 「『たけくらべ』論」(『国文学 解釈と鑑賞』1986年3月)、「シンポジウム『たけくらべ』をめぐって」(『国文学 解釈と鑑賞』1988年2月) *[[塚田満江]] - 「祭り比べ――『たけくらべ』再考I」(『論究日本文学』1987年5月) *[[橋本威]] - 「シンポジウム『たけくらべ』をめぐって」(『国文学 解釈と鑑賞』1988年2月) *[[吉田裕 (仏文学者)|吉田裕]] - 「一葉試論――出奔する狂女たち」(『文学』1988年7月)※『詩的行為論』(七月堂、1988年6月)所収{{refnest|group="注釈"|小谷野敦は、[[吉田裕 (仏文学者)|吉田裕]]は特に「初潮」説を書いていないとしている<ref name="koyano-9"/>。}} *[[浅野洋]] - 「『たけくらべ』の身体性〈樋口一葉〉」(『国文学 解釈と鑑賞』1989年6月) *[[北川秋雄]]「『たけくらべ』私攷――美登利〈初店〉説への疑問」(『[[姫路獨協大学]]外国語学部紀要』第8号 1995年1月) === 「初潮」+「成女式」「告知」説 === *前田愛 - 「美登利のために――『たけくらべ』佐多説を読んで」(『群像』1985年7月) *[[小森陽一 (国文学者)|小森陽一]] - 「文学のなかの子どもたち――樋口一葉『たけくらべ』」(『[[國文學]]』1985年10月) *[[野口碩]] - 「序説にかえて」([[荒木慶胤]]著『樋口一葉と龍泉寺界隈』[[八木書店]]、1985年9月) *蒲生芳郎 - 「美登利の変貌――佐多稲子さんの『たけくらべ』解釈をめぐって」([[宮城学院女子大学]]日本文学会『日本文学ノート』第21号 1986年2月) *[[増田みず子]] - 「下谷龍泉寺」(『[[海燕]]』1986年3月) *[[関礼子]] - 「美登利私考――悪場所の少女」(『日本文学』1987年6月) *[[重松恵子]] - 「『たけくらべ』哀感――語りの手法」([[梅光女学院大学]]日本文学会『日本文学研究』第27号 1991年11月) === 「初店」「水揚げ」説 === *太田一夫 – 「美登利憂鬱の原因」(『明日香路』1956年3月) *[[佐多稲子]] - 「『たけくらべ』解釈へのひとつの疑問」(『群像』1985年5月)、「『たけくらべ』解釈のその後」(『学鐙』1985年8月) *[[大岡昇平]] - 「成城だよりIII――4 批評の季節〔四月八日〕」(『[[文學界]]』1985年6月)、「成城だよりIII――9 情報過多〔九月十三日〕」(『文學界』1985年11月)※『成城だより3』([[文藝春秋]]、1986年5月)所収 *[[吉行淳之介]] - 「三十六 初体験の巻(一)」「三十七 初体験の巻(二)」(『[[週刊宝石]]』1985年)※『あの道この道』([[光文社]]、1986年3月)所収 *[[澤地久枝]] - 「秋元松代・佐多稲子の“学歴”」(1986年)※『ひたむきに生きる』([[講談社現代新書]]、1986年9月)所収 *[[河合真澄]] - 「『たけくらべ』小考」(『愛媛国文研究』1986年12月) *[[松坂俊夫]] - 「『たけくらべ』解釈論議考――その経過と考察」(『[[山形女子短期大学]]紀要』1987年3月) *[[山根賢吉]] - 「シンポジウム『たけくらべ』をめぐって」(『国文学 解釈と鑑賞』1988年2月) *今野宏 - 「『たけくらべ』に対する読解試論」(『聖和』25号 1988年3月) *[[西川祐子]] - 「性別のあるテクスト――一葉と読者」(『文学』1988年7月) *[[大橋清秀]] - 「『たけくらべ』についての佐多稲子説の裏付をする」(『[[帝塚山学院大学]]論集』1988年12月) *[[錦啓]] - 「『美登利』と『若紫』――『たけくらべ』解釈試論」(『[[山形県立米沢東高等学校]]研究紀要』第24号 1988年3月) *[[榎克朗]] - 「美登利の水揚げ――『たけくらべ』の謎解き」([[金沢大学]]教育学部国語教室『[[深井一郎]]教授退官記念論文集』1990年3月) *蒲生芳郎 - 「美登利の変貌・再考――『風呂場に加減見る母親』の読み」(宮城学院女子大学日本文学会『日本文学ノート』第27号・1992年1月) *[[末利光]] - 「『たけくらべ』解釈への疑問」(『調布日本文化』第5号・1995年3月) === 「検査場」説 === *[[上杉省和]] - 「美登利の変貌――『たけくらべ』の世界」(『文学』 1988年7月) *[[峯岸千紘]] - 「樋口一葉『たけくらべ』――三の酉の市の日の美登利」([[群馬大学]]語文学会『語学と文学』2001年3月) *石井茜 - 「美登利はなぜ変わったか――『たけくらべ』の研究」(群馬大学語文学会『語学と文学』2005年4月) *[[近藤典彦]] - 「『たけくらべ』検査場の検証」(『国文学 解釈と鑑賞』2005年9月) === 「告知」説 === *[[戸松泉]] - 『小説の「かたち」・「物語」の揺らぎ――日本近代小説「構造分析」の試み』([[翰林書房]]、2002年2月) *[[川上未映子]]「たけロス、美登利の変化は何によるもの?」(公式ブログ、2015年2月27日) === 「身売り自覚」説 === *[[山本欣司]] - 「売られる娘の物語――『たけくらべ』試論」(『[[弘前大学]]教育学部紀要』87巻・2002年3月) === 「張形」説 === *[[小谷野敦]] - 『現代文学論争』([[筑摩書房]]、2010年10月) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|32em}} == 参考文献 == *{{Citation|和書|author=[[樋口一葉]]|date=2003-01|title=[[にごりえ]]・[[たけくらべ]]|edition=改版|publisher=[[新潮社]]|series=[[新潮文庫]]|isbn=978-4101016016|ref={{Harvid|新潮文庫|2003}}}} - 初版は1949年6月 *{{Citation|和書|author=樋口一葉|translator1=[[松浦理英子]]|translator2=[[藤沢周]]|translator3=[[阿部和重]]|translator4=[[井辻朱美]]|date=2022-04|title=たけくらべ 現代語訳・樋口一葉|publisher=[[河出書房新社]]|series=[[河出文庫]]|isbn=978-4309418858|ref={{Harvid|河出文庫|2022}}}} *{{Citation|和書|author=[[岩橋邦枝]]、ほか|editor1=[[藤田三男|木挽社]]|editor2=[[高田知波]]|date=1992-03|title=樋口一葉――群像日本の作家3|publisher=[[小学館]]|isbn=978-4095670034|ref={{Harvid|群像3|1992}}}} *{{Citation|和書|author=[[大岡昇平]]|date=1986-05|title=成城だより3 |publisher=[[文藝春秋]]|isbn=978-4163404608|ref={{Harvid|大岡|1986}}}} – 再版の『成城だより 下』([[講談社文芸文庫]])は2001年4月 ISBN 978-4061982512。再々版の『成城だより3』([[中公文庫]])は2019年10月 ISBN 978-4122067882 *{{Citation|和書|author=[[小野芙紗子]]|editor=[[福田清人]]|date=2016-08|title=樋口一葉|publisher=[[清水書院]]|series=Century Books 人と作品9|edition=新装版|isbn=9784389401054|ref={{Harvid|小野|2016}}}} 初版は1966年5月 ISBN 978-4389400095 *{{Cite web |author=[[川上未映子]] |url=https://www.mieko.jp/blog/2015/02/27/858.html |title=たけロス、美登利の変化は何によるもの? |website=川上未映子公式サイト |publisher= |language=ja |date=2015-02-27 |accessdate=2023-10-25 |ref={{Harvid|川上|2015}}}} *{{Citation|和書|author=[[北川秋雄]]|date=1998-11|title=一葉という現象――明治と樋口一葉 |publisher=[[双文社出版]]|isbn=978-4881645246|ref={{Harvid|北川|1998}}}} *{{Citation|和書|author=[[小谷野敦]]|date=2010-10|title=現代文学論争|publisher=[[筑摩書房]]|isbn=978-4480015013|ref={{Harvid|小谷野|2010}}}} *{{Citation|和書|author=[[佐多稲子]]|date=1985-10|title=月の宴|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4062023610|ref={{Harvid|佐多|1985}}}} **{{Citation|和書|author=佐多稲子|date=1991-07|title=月の宴|publisher=講談社|series=[[講談社文芸文庫]]|isbn=978-4061961357|ref={{Harvid|佐多|1991}}}} *{{Citation|和書|author=[[重松恵子]] |date=1991-11 |title=『たけくらべ』哀感――語りの手法 |journal=日本文学研究 |issue= |volume=27 |pages=109-120 |publisher=[[梅光女学院大学]]日本文学会 |naid= |id={{CRID|1050845762371534208}}|ref={{Harvid|重松|1991}}}} *{{Citation|和書|author=[[関礼子]] |date=1987-06 |title=美登利私考――悪場所の少女 |journal=日本文学 |issue=6|volume=36|pages=11-24|publisher=日本文学協会 |naid=110009925068 |id={{CRID|1390001205777113216}}|ref={{Harvid|関|1987}}}} *{{Citation|和書|author1=[[瀬戸内晴美]]|author2=[[前田愛 (文芸評論家)|前田愛]]|date=1996-10|title=対談紀行 名作のなかの女たち|publisher=[[岩波書店]]|series=同時代ライブラリー284|isbn=978-4002602844|ref={{Harvid|瀬戸内|1991}}}} 初刊版([[角川書店]])は1984年10月 ISBN 978-4048750127。再版([[岩波文庫]])は2013年10月 ISBN 978-4006022280 *{{Citation|和書|editor=[[竹盛天雄]]|date=1986-10|title=新潮日本文学アルバム 別巻1 明治文学アルバム|publisher=新潮社|isbn=978-4106206375|ref={{Harvid|明治アルバム|1986}}}} *{{Citation|和書|author=[[塚田満江]] |date=1987-05 |title=祭り比べ:『たけくらべ』再考Ⅰ |journal=論究日本文学 |issue= |volume=50 |pages=14-23 |publisher=[[立命館大学]]日本文学会 |naid=110006473657 |id={{CRID|1390573593434308864}}|ref={{Harvid|塚田|1987}}}} *{{Citation|和書|author=[[西川祐子]]|date=1992-06|title=私語り樋口一葉 |publisher=[[リブロポート]]|isbn=978-4845707355|ref={{Harvid|西川|1992}}}} *{{Citation|和書|editor=[[前田愛 (文芸評論家)|前田愛]]|date=1985-05|title=新潮日本文学アルバム3 樋口一葉|publisher=新潮社|isbn=978-4106206030|ref={{Harvid|樋口アルバム|1985}}}} *{{Citation|和書|author=前田愛|date=1988-03|title=文学テクスト入門|publisher=筑摩書房|series=ちくまライブラリー 9|isbn=978-4480051097|ref={{Harvid|前田|1988}}}} 増補版(ちくま文芸文庫)は1993年9月 ISBN 978-4480080950 *{{Citation|和書|author=前田愛|date=1989-09|title=前田愛著作集 第3巻――樋口一葉の世界|publisher=筑摩書房|isbn=978-4480360038|ref={{Harvid|前田|1989}}}} *{{Citation|和書|author=前田愛|date=1993-06|title=樋口一葉の世界|publisher=[[平凡社]]|series=[[平凡社ライブラリー]] 4|isbn=978-4582760040|ref={{Harvid|前田|1993}}}} 初刊版([[平凡社選書]] 62)は1978年12月 ISBN 978-4582822625 *{{Citation|和書|author=前田愛|date=2006-12|title=幻景の街――文学の都市を歩く|publisher=岩波書店|series=[[岩波現代文庫]]|isbn=978-4006021108|ref={{Harvid|前田|2006}}}} 初刊版(小学館)は1986年11月 ISBN 978-4093870269 *{{Citation|和書|author=[[松坂俊夫]]|date=1996-11|title=樋口一葉――作家の軌跡|publisher=東北出版企画|isbn=978-4924611863|ref={{Harvid|松坂|1996}}}} *{{Citation|和書|author=[[松本健一]]|date=1990-10|title=仮説の物語り――いかに事実を発見するか |publisher=新潮社|isbn=978-4103684039|ref={{Harvid|松本|1990}}}} *{{Citation|和書|author=[[藪禎子]]|date=1991-07|title=透谷・藤村・一葉|publisher=[[明治書院]]|series=新視点シリーズ日本近代文学4|isbn=978-4625530241|ref={{Harvid|藪|1991}}}} *{{Citation|和書|author=[[山本欣司]] |date=2002-03-28 |title=売られる娘の物語――「たけくらべ」試論 |journal=弘前大学教育学部紀要 |issue= |volume=87|pages=11-21|publisher=[[弘前大学]]教育学部|naid=110000322356 |id={{CRID|1050001202544487296}}|ref={{Harvid|山本|2002}}}} *{{Citation|和書|author=[[吉行淳之介]]|date=1986-03|title=あの道この道――いろの道川柳撰 |publisher=[[光文社]]|isbn=978-4334970444|ref={{Harvid|吉行|1986}}}} *{{Citation|和書|author=[[ドナルド・キーン]]|translator=[[徳岡孝夫]]|date=2011-07|title=日本文学史――近代・現代篇 一|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公文庫]]|isbn=978-4122055162 |ref={{Harvid|キーン現代1|2011}}}} *{{Citation|和書|author=|editor=有精堂編集部|date=1988-04|title=近代小説研究必携第1巻――卒論・レポートを書くために|publisher=[[有精堂出版]]|isbn=978-4640304636|ref={{Harvid|研究必携1|1988}}}} == 外部リンク == {{Portal 文学}} * {{青空文庫|000064|55671|旧字旧仮名|たけくらべ}} {{Good article}} {{DEFAULTSORT:たけくらへ ろんそう}} [[Category:戦後日本の文学]] [[Category:日本の文学論争]] [[Category:樋口一葉]]
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日立市立油縄子小学校
日立市立油縄子小学校(ひたちしりつゆなごしょうがっこう)は、茨城県日立市鮎川町3-11-1にある日立市立小学校。 油縄子小学校は、日立市立大久保小学校から分離して開校した。日立市内で唯一、同一敷地内で学校が隣接しており(日立市立多賀中学校が隣接)、将来的な学校統合の際に、施設一体型小中一貫校を整備するか、検討の対象となっている。 (出典:) 学校教育目標 「心豊かで 自ら学び 心身共にたくましい児童の育成」 楽しい授業 温かい教室 夢をはぐくむ学校 組織目標 児童一人一人の「自己有用感」を高める『褒める・認める・勇気づける』 <活躍する場面・自ら学ぶ場面・かかわりあう場面> 2021年度行事予定表・2022年度トピックス(ホームページ)より (出典:) (出典:) (出典:)
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日立市立油縄子小学校(ひたちしりつゆなごしょうがっこう)は、茨城県日立市鮎川町3-11-1にある日立市立小学校。
{{Infobox 日本の学校|校名=日立市立油縄子小学校|国公私立=[[公立学校]]|設置者=[[日立市]]|併合学校=日立市立上諏訪小学校|校訓=ともに伸びよう やさしく かしこく たくましく<ref>"[http://hitachi-pta.org/tanp/yunago_e.html 油縄子小学校]". 日立市立小・中学校PTA連合会.2023年11月10日閲覧。</ref>|設立年月日=[[1955年]][[4月1日]]<ref name="toukei">"[https://www.city.hitachi.lg.jp/kyouiku/shiryo/p117434_d/fil/ikkatsu.pdf 『2023 日立の教育』]". 日立市教育委員会.p. 11. 2023年11月10日閲覧。</ref>|創立記念日=[[4月14日]]<ref name="enkaku">"[https://hitachi-yunago-e.edumap.jp/about/page_20230728060635 油縄子小学校 沿革]". 日立市立油縄子小学校.2023年11月10日閲覧。</ref>|共学・別学=[[男女共学]]|学期=3学期制|学校コード=B108220200081|校地面積=24,110 m<sup>2</sup><ref name="toukei" />|校舎面積=4,644 m<sup>2</sup><ref name="toukei" />|郵便番号=316-0036|所在地=[[茨城県]][[日立市]]鮎川町3丁目11番1号|外部リンク=[https://hitachi-yunago-e.edumap.jp/ 公式サイト]|地図WikiData=yes|地図ズーム=13|マップ表示=yes|地図国コード=JP}} '''日立市立油縄子小学校'''(ひたちしりつゆなごしょうがっこう)は、[[茨城県]][[日立市]]鮎川町3-11-1にある日立市立小学校。 == 概要 == 油縄子小学校は、[[日立市立大久保小学校|大久保小学校]]、[[日立市立河原子小学校|河原子小学校]]、[[日立市立成沢小学校|成沢小学校]]から分離して開校した<ref>{{Cite web |url=https://www.city.hitachi.lg.jp/kyouiku/000/p058304_d/fil/-keikaku-.pdf |title=『日立市立学校再編計画 子供たちのための環境づくりを ~市民とともに~【第1次】(2021~2030)』 |access-date=2023年11月10日 |publisher=[[日立市教育委員会]] |page=32}}</ref>。日立市内で唯一、同一敷地内で学校が隣接しており([[日立市立多賀中学校]]が隣接)、将来的な学校統合の際に、施設一体型[[小中一貫校]]を整備するか、検討の対象となっている<ref>{{Cite web |url=https://www.city.hitachi.lg.jp/kyouiku/000/p058304_d/fil/-keikaku-.pdf |title=『日立市立学校再編計画 子供たちのための環境づくりを ~市民とともに~【第1次】(2021~2030)』 |access-date=2023年11月10日 |publisher=日立市教育委員会 |pages=32-33}}</ref>。 == 沿革 == === 年表 === * [[1954年]][[2月7日]] - 油縄子小学校新設が[[多賀町 (茨城県)|多賀町]]議会で議決<ref name=":0">{{Cite web |title=沿革 - 日立市立油縄子小学校 |url=https://hitachi-yunago-e.edumap.jp/about/page_20230728060635 |website= |access-date=2023-11-10 |publisher=日立市立油縄子小学校}}</ref>。 * [[1955年]] ** [[2月15日]] - 多賀町と[[日立市]]が合併し、新日立市が誕生<ref name=":0" /><ref name=":1">{{Cite web |url=https://www.city.hitachi.lg.jp/kyouiku/shiryo/p117434_d/fil/ikkatsu.pdf |title=『2023 日立の教育』 |access-date=2023年11月10日 |publisher=日立市教育委員会 |page=63}}</ref>。 ** [[4月1日]] - 日立市立油縄子小学校が開校<ref name=":1" />。 * [[1956年]] ** [[7月16日]] - [[校歌]]制定<ref name=":0" />。 ** [[11月16日]] - [[校章]]制定<ref name=":0" />。 * [[1962年]][[3月31日]] - 日立市立上諏訪小学校を吸収統合<ref name=":1" />。 * [[1981年]]4月1日 - きこえ、ことばの教室を大久保小学校から油縄子小学校に移設<ref>{{Cite web |url=https://www.city.hitachi.lg.jp/kyouiku/shiryo/p117434_d/fil/ikkatsu.pdf |title=『2023 日立の教育』 |access-date=2023年11月10日 |publisher=日立市教育委員会 |page=65}}</ref>。 * [[2012年]][[4月23日]] - 平成24年度子どもの読書活動優秀実践校・文部大臣表彰を受賞<ref>{{Cite web |url=http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/24/03/1318981.htm |title=子どもの読書活動優秀実践校・図書館・団体(個人)の文部科学大臣表彰について |access-date=2023年11月10日 |publisher=[[文部科学省]] |date=2012-3-26 |archive-url=https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/7794446/www.mext.go.jp/b_menu/houdou/24/03/1318981.htm |archive-date=2013-2-16}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/24/03/__icsFiles/afieldfile/2012/03/26/1318981_01.pdf |title=平成24年度子どもの読書活動優秀実践校・図書館・団体(個人) 文部科学大臣表彰被表彰者一覧(案) |access-date=2023年11月10日 |publisher=文部科学省 |archive-date=2013-2-16 |archive-url=https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/7794446/www.mext.go.jp/b_menu/houdou/24/03/__icsFiles/afieldfile/2012/03/26/1318981_01.pdf}}</ref>。 * [[2013年|2013]] - [[2014年]]度 - 油縄子小学校校舎大規模改造事業<ref>{{Cite web |url=http://www.city.hitachi.lg.jp/kyouiku/shiryo/p054375_d/fil/2016-hitachi-no-kyoiku.pdf |title=『2016 日立の教育』 |access-date=2023年11月10日 |publisher=日立市教育委員会 |page=34 |archive-url=https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10375265/www.city.hitachi.lg.jp/kyouiku/shiryo/p054375_d/fil/2016-hitachi-no-kyoiku.pdf |archive-date=2017-7-5}}</ref>。 * [[2015年]][[3月30日]] - 新校舎が完成<ref>{{Cite web |url=https://www.city.hitachi.lg.jp/kyouiku/shiryo/p117434_d/fil/ikkatsu.pdf |title=『2023 日立の教育』 |access-date=2023年11月10日 |publisher=日立市教育委員会 |page=69}}</ref>。 * [[2021年]]度 - 茨城県よい歯の学校表彰・[[茨城県教育委員会]]教育長賞を受賞<ref>{{Cite web |title=令和3年度「茨城県よい歯の学校」表彰校 - 茨城県教育委員会 |url=https://kyoiku.pref.ibaraki.jp/gakko/health/school-health/dental-health/teeth/good-teeth2021/ |date=2023-04-10 |access-date=2023-11-10 |language=ja |publisher=[[茨城県教育委員会]]}}</ref>。 == 教育方針 == (出典:<ref>{{Cite web |url=https://www.city.hitachi.lg.jp/yunago-e/002/003/p106550_d/fil/R4.pdf |title=令和4年度 油縄子小学校教育プラン |access-date=2023年11月10日 |publisher=日立市立油縄子小学校 |archive-url=https://web.archive.org/web/20231110070311/https://www.city.hitachi.lg.jp/yunago-e/002/003/p106550_d/fil/R4.pdf |archive-date=2023年11月10日}}</ref>) '''学校教育目標''' 「心豊かで 自ら学び 心身共にたくましい児童の育成」 楽しい授業 温かい教室 夢をはぐくむ学校 '''組織目標''' 児童一人一人の「自己有用感」を高める『褒める・認める・勇気づける』 <活躍する場面・自ら学ぶ場面・かかわりあう場面> == 学校行事 == 2021年度行事予定表・2022年度トピックス(ホームページ)より<ref>{{Cite web |url=https://www.city.hitachi.lg.jp/yunago-e/003/010/p101022_d/fil/3.pdf |title=令和3年度 年間行事予定 |access-date=2023年11月10日 |publisher=日立市立油縄子小学校 |archive-url=https://web.archive.org/web/20231110070657/https://www.city.hitachi.lg.jp/yunago-e/003/010/p101022_d/fil/3.pdf |archive-date=2023年11月10日}}</ref><ref>{{Cite web |title=油縄子小学校 {{!}} トピックス |url=https://www.city.hitachi.lg.jp/yunago-e/003/009/index.html |website= |access-date=2023-11-10 |publisher=日立市立油縄子小学校 |archive-url=https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12904375/www.city.hitachi.lg.jp/yunago-e/003/009/index.html |archive-date=2023-7-6}}</ref> {{Col|*4月 **着任式・始業式 **入学式 **創立記念日(4月14日) **1年生を迎える会 *5月 **3年校外学習 **全国学力調査 **春季大運動会 *6月 **4年星空学習 **1年学校探検 **3年校外学習 **2年まちたんけん *7月 **4年鮎川探検 **終業式 *8月 **盆踊り|*9月 **始業式 **修学旅行(日光方面) **3年校外学習 **4年校外学習 *10月 **1年校外学習 **2年校外学習 **5年宿泊学習 **市親善陸上競技会中部会 *11月 **ゆなご秋まつり **県民の日 **音楽集会 *12月 **持久走記録会 **終業式|*1月 **始業式 **校内書き初め会 **学力診断テスト **新1年生保護者説明会 *2月 **6年生を送る会 *3月 **卒業証書授与式 **修了式 **離任式}} == 児童会活動・クラブ活動など == === クラブ活動 === (出典:<ref>{{Cite web |title=油縄子小学校 {{!}} 7月14日(金) |url=https://www.city.hitachi.lg.jp/yunago-e/003/009/p116946.html |website= |access-date=2023-11-10 |publisher=日立市立油縄子小学校 |archive-url=https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12995823/www.city.hitachi.lg.jp/yunago-e/003/009/p116946.html |archive-date=2023-9-13 |date=2023-7-14}}</ref>) * 手芸・工作クラブ * パソコンクラブ * 卓球クラブ * バドミントンクラブ * 将棋・オセロクラブ * 運動クラブ == 通学区域 == (出典:<ref>{{Cite web |title=日立市教育委員会|日立市立小学校及び中学校学区検索 |url=https://www.city.hitachi.lg.jp/kyouiku/school/001/p002355.html#ka_gyo |website= |access-date=2023-11-10 |publisher=日立市教育委員会}}</ref><ref>{{Cite web |title=日立市の小学校 {{!}} 日立市の賃貸・売買は鈴縫工業(株)日立駅前店 |url=https://www.suzunui.jp/e-school/ |website= |access-date=2023-11-10 |publisher=[[鈴縫工業]]株式会社}}</ref>) * 日立市鮎川町 ** 1丁目 ** 2丁目 ** 3丁目 ** 4丁目 ** 5丁目1番から11番 ** 6丁目1番から6番5号、11番1号から6号、12番22号 * 日立市国分町 * 日立市桜川町3丁目3から11番 * 日立市諏訪町1丁目1から13番 * 日立市多賀町 ** 4丁目4から6番 ** 5丁目4から10番 == 進学先中学校 == * [[日立市立多賀中学校]] == 学区内の主な施設 == * [https://www.city.hitachi.lg.jp/shisetsu/009/001/p036582.html 油縄子交流センター] * [https://www.hitachi-mch.or.jp/ ひたち医療センター] * [[茨城県立多賀高等学校]] * [[日立市立日立特別支援学校]] * [[日立製作所]] 国分事業所 == 交通 == (出典:<ref>{{Cite web |title=油縄子小学校 {{!}} 地図 |url=https://www.city.hitachi.lg.jp/yunago-e/002/005/p007261.html |website= |access-date=2023-11-10 |publisher=日立市立油縄子小学校 |archive-url=https://web.archive.org/web/20231110074043/https://www.city.hitachi.lg.jp/yunago-e/002/005/p007261.html |archive-date=2023年11月10日}}</ref>) * [[常磐自動車道]] [[日立中央IC]]より15分 * 常磐自動車道 [[日立南太田IC]]より30分 * [[茨城交通]]路線バス ** 「油縄子仲町」バス停下車 徒歩5分 ** 「諏訪表原」バス停下車 徒歩5分 ** 「油縄子小学校」バス停下車 == 関係者 == {{節スタブ|date=2023年11月}} == 脚注 == {{脚注の使い方}}{{Reflist}} == 関連項目 == * [[茨城県小学校一覧]] * [[日立市教育委員会]] * [[日立市]] * [[多賀町 (茨城県)|多賀町]] == 外部リンク == * [https://hitachi-yunago-e.edumap.jp/ 日立市立油縄子小学校] * [https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12995823/www.city.hitachi.lg.jp/yunago-e/index.html 日立市立油縄子小学校旧ホームページ](2023年9月12日時点のアーカイブ) * [https://web.archive.org/web/20140215055534/http://www.yunago-e.hitachi-kyoiku.ed.jp/ 日立市立油縄子小学校旧ホームページ](2014年2月15日時点のアーカイブ) {{School-stub|pref=茨城県}} {{デフォルトソート:ひたちしりつゆなこしようかつこう}}<!-- この記事は、プロジェクト:学校/小学校テンプレートを使用しています。 --> [[Category:日本の公立小学校]] [[Category:茨城県の公立小学校]] [[Category:日立市の小学校|ゆなご]]
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弘石雅和
弘石 雅和(ひろいし まさかず、1966年8月10日 - )は日本の音楽プロデューサー。ユーマ株式会社/株式会社Pinc代表取締役。
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弘石 雅和は日本の音楽プロデューサー。ユーマ株式会社/株式会社Pinc代表取締役。
{{Infobox 人物 |氏名=弘石 雅和 |ふりがな=ひろいし まさかず |画像= <!-- 画像ファイル名 --> |画像サイズ= |画像説明= |出生名= |生年月日={{生年月日と年齢|1966|08|10}} |生誕地={{JPN}}・[[山口県]] |没年月日= <!-- {{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}} --> |死没地= <!-- {{JPN}}・XX都道府県YY市区町村 --> |国籍= <!-- {{JPN}} --> |別名=HIRO.ec、MC神風YMO、MC202 |出身校= [[成蹊大学]][[文学部]] |職業=[[音楽プロデューサー]] |活動期間=[[1990年]] - |著名な実績= |代表作= }} '''弘石 雅和'''(ひろいし まさかず、[[1966年]][[8月10日]] - )は日本の音楽プロデューサー。ユーマ株式会社/株式会社Pinc代表取締役。 == 略歴 == *[[1990年]] - [[アルファレコード]]入社。<ref>{{Cite book|和書 |title=音楽で企業する 8人の音楽起業家たちのストーリー |date=2020年4月30日 |publisher=株式会社スタイルノート |page=84 |isbn=978-4-7998-0184-0 |author=八木 良太}}</ref> *[[1994年]] - [[ソニー・ミュージックエンタテインメント]]入社。テクノ部門を設立。 *[[1997年]] - [[ベルギー]][[R&Sレコーズ]]へ出向。 *[[1998年]] - [[ワープ・レコーズ]]窓口として[[ロンドン]]勤務。 *[[2001年]] - ソニー・ミュージック退社。ロンドンおよび渋谷にてクラブミュージック専門レーベルThird-Ear創業。 *[[2010年]] - Third-Ear Japanをユーマ株式会社(U/M/A/A株式会社)へ改組。 *[[2012年]] - 株式会社Pinc設立。 == 人物・その他エピソード == *大学時代にはテクノ、パンク、ヒップホップなど4つのバンドを掛け持ちし、GINGER BOYSというバンドで[[三宅裕司のいかすバンド天国]]に出場した。<ref>{{Cite book|和書 |title=音楽で企業する 8人の音楽起業家たちのストーリー |date=2020年4月30日 |publisher=株式会社スタイルノート |pages=85-95 |isbn=978-4-7998-0184-0 |author=八木 良太}}</ref> *吉祥寺のレンタルレコード店SHOP33のアルバイト時代には、後にパリコレやロンドンコレクションにも参加するファッションブランドTOGAやJURIUS、当時ヒロポンファクトリー名義で活動中の[[村上隆]]や映画『[[AKIRA (アニメ映画)]]』作画監督の[[森本晃司 (アニメーター)]]といったアーティストとの交流があった。 *1990年の大学卒業後には心酔する[[イエロー・マジック・オーケストラ]]を生み出した[[アルファレコード]]に入社。洋楽部にてUKのBeggars BanquetやDepeche ModeがいたMute Records、JIVEなどダンスミュージックのプロモーションを担当した。 *1994年に[[ソニー・ミュージックエンタテインメント]]に転職し、海外のテクノミュージックを日本で浸透させると同時に、日本のテクノ系アーティストを育てるディレクターとして活躍。ワープレコード、R&Sレコーズなどの作品リリースや、[[ケン・イシイ]]、[[BOOM BOOM SATELLITES]]などを担当し、[[電気グルーブ]]の海外戦略をにも携わる。7年間で200タイトルをリリースした。 *一番印象に残る仕事として、映画『AKIRA』作画監督の森本浩司に制作を依頼したケン・イシイのMVが大ヒットしたこと。最も売れた作品は、映画『トレイン・スポッティング』に使用されJ-WAVEでパワープレイとなった、[[UNDERWORLD]]のBorn Slippyと述べている。<ref>{{Cite web |url=https://www.buffalo.jp/topics/special/detail/pro-users-204.html |title=@PROFESSIONAL USERS クリエイターズインタビュー by LAVA |access-date=2023-11-14}}</ref> *1997年にベルギーの R&Sレコーズとのジョイント・ベンチャーがスタートし、[[ゲント]]にあるR&Sレコーズへ出向するも、両社の経営方針の違いから契約が見直された結果、1年後に帰国となる。<ref>{{Cite book|和書 |title=音楽で企業する 8人の音楽起業家たちのストーリー |date=2020年4月30日 |publisher=株式会社スタイルノート |pages=96-100 |author=八木 良太 |isbn=978-4-7998-0184-0}}</ref> *ベルギーからの帰国後すぐにロンドンにて、SHOP33時代からの友人でもある[[BOOM BOOM SATELLITES]]のファーストアルバム制作やワープレコードの業務に携わった。 *2001年、ソニー・ミュージックエンタテインメントを退社し、ガイ・マクリーリと共にクラブミュージック専門のレコード会社Third-Earをロンドンと渋谷を拠点に設立した。<ref>{{Cite book|和書 |title=音楽で企業する 8人の音楽起業家たちのストーリー |date=2020年4月30日 |publisher=株式会社スタイルノート |pages=101-104 |author=八木 良太 |isbn=978-4-7998-0184-0}}</ref> *[[スペイン]]・[[バルセロナ]]の音楽イベント[[Sónar]]をSónar Sound Tokyo 2002として都内で開催した。<ref>{{Cite book|和書 |title=音楽で企業する 8人の音楽起業家たちのストーリー |date=2020年4月30日 |publisher=株式会社スタイルノート |page=978-4-7998-0184-0 |pages=105-109 |author=八木 良太}}</ref> *渋谷にあったクラブ「セコ・バー」でYMOの[[細野晴臣]]と[[高橋幸宏]]による[[スケッチ・ショウ]]のシークレット・ライブをセッティングした縁から、バルセロナのSónar2003とロンドンのサイバーソニカ・フェスティヴァル2003にスケッチ・ショウをブッキングし、取り仕切った。<ref>{{Cite book|和書 |title=YMO1978-2043 |date=2021年3月12日 |publisher=株式会社KADOKAWA |page=195-198 |pages=195-198 |isbn=978-4-04-109838-7}}</ref> *2004年には[[坂本龍一]]も参加し、[[Human Audio Sponge]](HAS)というユニット名で、1993年のYMO再生ライブ以来11年振りとなる3人でのライブをバルセロナのSónar2004およびSónar Sound Tokyo 2004にて実現した。 *2007年、YMOの曲を[[初音ミク]]でカヴァーした『[[Hatsune Miku Orchestra]]』(HMOとかの中の人。)をThird-Ear Japanよりリリース。[[ボーカロイド]]という新たなムーブメントの気配を感じ取ったことをきっかけに、2010年にThird-Ear Japanの株式を買い取る形で独立した。 *[[DECO*27]]や[[sasakure.UK]]といった新世代のアーティストとの出会いもあり、アニメやゲームなど、さらに幅広いフィールドに音楽を繋げていきたいという意味で社名をU/M/A/A Inc., United Music and Artists(ユーマ株式会社)に変更した。 *2023年、アーティストのルー・ビーチ氏が、YMO世界デビュー時のワールドワイド版ファースト・アルバムのジャケットとして作成したアートワークを洋金箔の上に施した、NFT証明書付き作品「TechnoByobu(テクノ屏風)」を発売。<ref>{{Cite web |url=https://brutus.jp/traditional_and_techno/?heading=3 |title=YMOの傑作ジャケットが金の屏風に。伝統とテクノの融合「TechnoByobu」 |access-date=2023-11-11 |publisher=BRUTUS}}</ref> ==脚注== {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 外部リンク == * [https://www.umaa.net/ UMAA Inc.] * [https://www.pinc.jp/ p._nc: 株式会社 Pinc] {{DEFAULTSORT:ひろいし まさかす}} [[Category:日本の音楽プロデューサー]] [[Category:テクノミュージック]] [[Category:成蹊大学出身の人物]] [[Category:山口県出身の人物]] [[Category:1966年生]] [[Category:存命人物]]
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須崎港
須崎港(すさきこう)は高知県須崎市にある港湾。港湾管理者は高知県。港湾法上の重要港湾に指定されている。また高知県によって一次防災拠点港に指定されている。 高知市の西方約30Km、土佐湾の中部に位置する。リアス式海岸の須崎湾内にあり、天然の良港として発展した。1907年(明治40年)に組合組織が浮桟橋を設置したのが、須崎港の港湾施設の始まりである。1935年(昭和10年)に箕越地区に石灰石貯留タンク、1939年には大峰地区に臨港鉄道が敷設され、県内で産出される石灰石の積出しが行われるようになった。1961年からは大峰地区に1万D/W級岸壁の整備を行い、大阪窯業セメント(現 住友大阪セメント)の工場が操業開始した。1965年に重要港湾に昇格。1969年には開港指定がなされた。 外洋に開けたリアス式海岸は、天然の良港であると同時に津波に対する脆弱性を併せ持つ。過去に1946年の昭和南海地震津波、1960年のチリ地震津波により甚大な被害を受けた。1992年より津波防波堤が建設され、2009年に西防波堤、2014年には東防波堤が完成した。 2020年度の貨物取扱量は16,398,180トンで、外貿輸入4,636,953トン、輸出652,328トン、内貿移入8,523,833トン、移出2,585,066トンであった。これは、高知県全体の港湾取扱量の約半分を占める。石灰石の輸出、セメントの積み出しのほか、梱包材の材料となるニュージーランド産木材のラジアータパインの輸入も大きなウエイトを占めている。1997年には、害虫駆除を目的とした木材の燻蒸設備が完成した。
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須崎港(すさきこう)は高知県須崎市にある港湾。港湾管理者は高知県。港湾法上の重要港湾に指定されている。また高知県によって一次防災拠点港に指定されている。
{{Infobox 港 | 港名 = 須崎港 | 画像 = Susaki city center area Aerial photograph.2016.jpg | 画像説明 = 須崎港周辺の空中写真。{{国土航空写真}} {{Location map|Japan Kochi Prefecture|width=300|float=center |caption=|mark=Legenda port.svg|marksize=10|relief=1 |label=須崎港|position=bottom |lat_deg=33|lat_min=23|lat_sec=29.5|lat_dir=N |lon_deg=133|lon_min=17|lon_sec=55.6|lon_dir=E }}須崎港の位置 | 国 = {{JPN}} | 所在地 = [[高知県]][[須崎市]] | 緯度度 = 33|緯度分 = 23|緯度秒 = 29.5 | 経度度 =133|経度分 = 17|経度秒 = 55.6 | 開港 = 1969年 | 管理者 = 高知県 | 種類 = 重要港湾 | 泊地面積 = | 陸地面積 = | 面積 = | 係留施設数 = | 埠頭数 = | 桟橋数 = | 従業員数 = | ラベル1 = | データ1 = | ラベル2 = | データ2 = | ラベル3 = | データ3 = | 年度 = | 発着数 = | 貨物取扱量 = 16,398,180トン(2020年度) | コンテナ数 = | 貨物総額 = | 旅客数 = | 売上高 = | 利益 = | ラベル4 = | データ4 = | ラベル5 = | データ5 = | ラベル6 = | データ6 = | 公式サイト = }} '''須崎港'''(すさきこう)は[[高知県]][[須崎市]]にある[[港湾]]。港湾管理者は高知県。[[港湾法]]上の[[重要港湾]]に指定されている。また高知県によって一次防災拠点港に指定されている<ref>{{Cite web |url=https://www.pref.kochi.lg.jp/soshiki/175001/files/2013050100444/file_202212224115034_1.pdf |title=防災拠点港配置計画 |access-date=2023-11-10 |publisher=高知県庁}}</ref>。 == 歴史 == 高知市の西方約30Km、[[土佐湾]]の中部に位置する。[[リアス式海岸]]の須崎湾内にあり、天然の良港として発展した。1907年(明治40年)に組合組織が浮桟橋を設置したのが、須崎港の港湾施設の始まりである。1935年(昭和10年)に箕越地区に石灰石貯留タンク、1939年には大峰地区に臨港鉄道が敷設され、県内で産出される[[石灰石]]の積出しが行われるようになった<ref name="phaj690">{{Cite web |date= |url=https://www.phaj.or.jp/distribution/link/pdf/08/690.pdf|title=港湾物流情報 須崎港|publisher=[[日本港湾協会]]港湾政策研究所|format=PDF|accessdate=2023-11-10}}</ref>。1961年からは大峰地区に1万D/W級岸壁の整備を行い、大阪窯業セメント(現 [[住友大阪セメント]])の工場が操業開始した。1965年に[[重要港湾]]に昇格。1969年には[[開港]]指定がなされた。 外洋に開けたリアス式海岸は、天然の良港であると同時に[[津波]]に対する脆弱性を併せ持つ。過去に1946年の[[昭和南海地震]]津波、1960年の[[チリ地震 (1960年)#日本での被害(チリ地震津波)|チリ地震津波]]により甚大な被害を受けた<ref>{{Cite web |date=2009-04-22|url=https://www.pref.kochi.lg.jp/soshiki/175001/e-0.html|title=須崎港港湾計画の概要|publisher=高知県庁土木部|accessdate=2023-11-10}}</ref>。1992年より津波防波堤が建設され、2009年に西防波堤、2014年には東防波堤が完成した<ref name="skr">{{Cite web |date= |url=https://www.pa.skr.mlit.go.jp/kouchi/C/kksss1.html|title=須崎港|publisher=国土交通省[[四国地方整備局]] 高知港湾・空港整備事務所|accessdate=2023-11-10}}</ref>。 == 取扱品目 == 2020年度の貨物取扱量は16,398,180トンで、外貿輸入4,636,953トン、輸出652,328トン、内貿移入8,523,833トン、移出2,585,066トンであった<ref>{{Cite web |date= |url=https://www.phaj.or.jp/distribution/128/index.html|title=港湾別貨物量データ|publisher=日本港湾協会港湾政策研究所|format=PDF|accessdate=2023-11-10}}</ref>。これは、高知県全体の港湾取扱量の約半分を占める{{r|phaj690}}。石灰石の輸出、セメントの積み出しのほか、梱包材の材料となる[[ニュージーランド]]産木材の[[ラジアータパイン]]の輸入も大きなウエイトを占めている{{r|skr}}。1997年には、害虫駆除を目的とした木材の[[燻蒸]]設備が完成した<ref>{{Cite web |date= |url=https://www.shikoku-shakaishihon.com/archives/display/1632|title=須崎港|publisher=四国社会資本アーカイブス|accessdate=2023-11-10}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 外部リンク == * [https://www.pref.kochi.lg.jp/soshiki/175001/e-index.html 須崎港] - 高知県土木部港湾・海岸課 * [https://www.pa.skr.mlit.go.jp/kouchi/C/kksss1.html 須崎港] - 国土交通省高知港湾・空港整備事務所 {{重要港湾}} {{Pref-stub|pref=高知県}} {{DEFAULTSORT:すさきこう}} [[Category:四国地方の港湾]] [[Category:須崎市の交通]] [[Category:重要港湾]]
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春日さくら
春日 さくら(かすが さくら、12月12日 - )は、日本の女性声優。東京都出身。青二プロダクション所属。 青二塾東京校41期生。2021年4月、青二プロダクションに所属。 2023年4月に自身の公式X(旧 Twitter)アカウントを開設し、最初の投稿にて『ウマ娘 プリティーダービー』のヒシミラクル役を担当することを発表した。 公式プロフィールでは趣味として描画、スケッチ、読書、映画鑑賞、カラオケ、ボードゲームを挙げている。 描画に関しては作品を自身のSNSにたびたび投稿しており、その完成度の高さに他の声優からも反響が寄せられている。 声優を目指した動機について、友人の影響があったと自身の番組内で語っている。元々はアニメーションに関わる職業に就くためにアニメーターやイラストレーターを目指していたが、声優志望であった友人をきっかけに声優という職業に触れ、「声優もアニメーションに関われる」と考え、後に自らも声優を目指すようになった。 ※はインターネット配信。
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春日 さくらは、日本の女性声優。東京都出身。青二プロダクション所属。
{{声優 |名前 = 春日 さくら |ふりがな = かすが さくら |画像ファイル = |画像サイズ = |画像コメント = |本名 = |愛称 = さくぽん<ref>{{Cite web |author=『れポたま!』編集部|url=https://repotama.com/2023/11/179742/|title=【プレゼントあり】「いつかみなさんと直接コミュニケーションを取りたいです!」「ラジオどっとあい 春日さくらの脱!ポンコツ日記」パーソナリティインタビュー|website=れポたま!|publisher=株式会社スペクトラム|language=ja|date=2023-11-06|accessdate=2023-11-10}}</ref> |性別 = [[女性]] |出生地 = |出身地 = {{JPN}}・[[東京都]]<ref name="aoni01">{{Cite web |author=株式会社青二プロダクション|url=https://www.aoni.co.jp/search/kasuga-sakura.html|title=春日 さくら|株式会社青二プロダクション|website=青二プロダクション|publisher=株式会社青二プロダクション|language=ja|date=|accessdate=2023-11-10}}</ref> |死没地 = |生年 = |生月 = 12 |生日 = 12 |没年 = |没月 = |没日 = |血液型 = |身長 = |職業 = [[声優]] |事務所 = [[青二プロダクション]]{{R|aoni01}} |配偶者 = |著名な家族 = |公式サイト = [https://www.aoni.co.jp/search/kasuga-sakura.html 春日 さくら|株式会社青二プロダクション] |活動期間 = [[2020年]] - |デビュー作 = |活動 = | サイン = }} '''春日 さくら'''(かすが さくら、[[12月12日]]{{R|aoni01}} - )は、[[日本]]の[[女性]][[声優]]。[[東京都]]出身{{R|aoni01}}。[[青二プロダクション]]所属{{R|aoni01}}。 == 来歴 == [[青二塾]]東京校41期生<ref>{{Cite web |author=青二塾東京校|url=https://www.aonijuku-tokyo.jp/topics/%e3%80%90%e6%8e%b2%e8%bc%89%e6%83%85%e5%a0%b1%e3%80%91%e3%80%8e%e5%a3%b0%e5%84%aa%e3%82%b0%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%83%97%e3%83%aa%e3%80%8f2023%e5%b9%b47%e6%9c%88%e5%8f%b7%ef%bc%88%e3%82%a4%e3%83%9e|title=【掲載情報】『声優グランプリ』2023年7月号(イマジカインフォス)|website=青二塾 東京校 公式HP|publisher=青二塾東京校|language=ja|date=2023-06-09|accessdate=2023-11-10}}</ref><ref name="seigura01">{{Cite web |author=株式会社イマジカインフォス|url=https://seigura.com/news/115488/|title=【声優スクール特集】「青二塾」古川登志夫塾長、日向朔公さん、春日さくらさん、水希凜さん、末安廣平さんによるインタビューが公開中!|website=声優グランプリ 公式webサイト|publisher=株式会社イマジカインフォス|language=ja|date=2023-06-12|accessdate=2023-11-10}}</ref>。2021年4月、[[青二プロダクション]]に所属{{R|seigura01}}<ref>{{Cite tweet|user=TOSHIO_FURUKAWA|number=1485497807301931013|title=★本日、夜8時半~文化放送【青山二丁目劇場】『ソラシル』シリーズ!花智先生、絶好調!聴いてね~♪|date=2022-01-24|access-date=2023-11-16}}</ref>。 2023年4月に自身の公式X(旧 [[Twitter]])アカウントを開設し<ref>{{Cite tweet|user=sakura__1212__|number=1648574582075576320|title=Twitter作ってみました!!|date=2023-04-19|access-date=2023-11-07}}</ref>、最初の投稿にて『[[ウマ娘 プリティーダービー]]』の[[ヒシミラクル]]役を担当することを発表した<ref>{{Cite tweet|user=sakura__1212__|number=1648573861968093184|title=この度、#ウマ娘 プリティーダービーにて、ヒシミラクル のボイスを担当させていただくことになりました。|date=2023-04-19|access-date=2023-11-07}}</ref>。 == 人物 == 公式プロフィールでは趣味として[[描画]]、[[スケッチ]]、[[読書]]、[[映画]]鑑賞、[[カラオケ]]、[[ボードゲーム]]を挙げている{{R|aoni01}}。 描画に関しては作品を自身のSNSにたびたび投稿しており、その完成度の高さに他の声優からも反響が寄せられている<ref>{{Cite web |author=オリコン株式会社|url=https://www.oricon.co.jp/news/2291058/full/|title=『ウマ娘』声優、水着姿の”アグネスタキオン”イラスト描く 上坂すみれが春日さくらに感謝「みんな見て!」|website=ORICON NEWS|publisher=オリコン株式会社|language=ja|date=2023-08-16|accessdate=2023-11-10}}</ref>。 声優を目指した動機について、友人の影響があったと自身の番組内で語っている。元々は[[アニメーション]]に関わる職業に就くために[[アニメーター]]や[[イラストレーター]]を目指していたが、声優志望であった友人をきっかけに声優という職業に触れ、「声優もアニメーションに関われる」と考え、後に自らも声優を目指すようになった<ref>{{Cite video |title=ラジオどっとあい 春日さくらの脱!ポンコツ日記 #2(2023年10月21日分)|date=2023-10-21|author=文化放送A&G|url=https://www.youtube.com/watch?v=VTG6qUWcPD4|accessdate=2023-11-10|time=11:00-12:02|publisher=株式会社文化放送|publication-date=2023-10-21|work=YouTube}}</ref>。 == 出演 == <!-- '''太字'''はメインキャラクター。 --> === テレビアニメ === {{dl2 | 2022年 | * [[シャドウバースF]](2022年 - 2023年、アイリ<ref>{{Cite web |author=株式会社Cygames|url=https://anime.shadowverse.jp/character/|title=CHARACTER|website=TVアニメ「シャドウバースF(フレイム)」公式サイト|publisher=株式会社Cygames|language=ja|date=|accessdate=2023-11-10}}</ref>)<!-- 2022-05-07 --> * [[ちびまる子ちゃん]](お姉さん、男の子、テレビアナウンサー、女子{{R|aoni01}})<!-- 2022-05-08 --> * [[東京ミュウミュウ にゅ〜♡]](女子、幼稚園児{{R|aoni01}})<!-- 2022-07-27 --> * [[デジモンゴーストゲーム]](少女{{R|aoni01}})<!-- 2022-09-04 --> * [[アイドリッシュセブン Third BEAT!]](女性A{{R|aoni01}}<ref group="注">公式サイトでは「通行人」表記</ref>)<!-- 2022-10-23 --> | 2023年 | * [[トニカクカワイイ]](アイドル{{R|aoni01}})<!-- 2023-05-27 --> * [[英雄教室]](下級クラス、女子生徒{{R|aoni01}})<!-- 2023-07-23 --> * [[ONE PIECE (アニメ)|ONE PIECE]](女の子)<!-- 2023-11-19 --> }} === ゲーム === {{dl2 | 2020年 | * [[ソードアート・オンライン アリシゼーション リコリス]]2(暗黒術師、子供{{R|aoni01}}) | 2022年 | * [[けものフレンズ3]](オランウータン<ref>{{Cite tweet|user=kemono_friends3|number=1501785418554953729|title=\しょうたい/ 『3月体力測定しょうたい』開催中! ☆4『オランウータン』登場! CVは #春日さくら さん!|date=2022-03-10|access-date=2023-11-08}}</ref>) | 2023年 | * [[ウマ娘 プリティーダービー]](ヒシミラクル<ref>{{Cite tweet|user=uma_musu|number=1648567126792318976|title=【新キャラ登場】ネオユニヴァースの育成ストーリー内にヒシミラクルが登場!|date=2023-04-19|access-date=2023-11-08}}</ref>) * サマナーズウォー:クロニクル(マーシャルキャット、メトゥス{{R|aoni01}}) }} === ドラマCD === <!-- [[プロジェクト:声優#ドラマCD]]を参考にし記述してください。 --> * 甘くて熱くて息もできない 2(2023年、有村百々花<ref>{{Cite web |author=株式会社アニメイト|url=https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1690868861&utm_source=twitter&utm_medium=social|title=8月22日発売BLCD『あまいき2』の試聴動画と特典画像が解禁に|website=アニメイトタイムズ|publisher=株式会社アニメイト|language=ja|date=2023-08-02|accessdate=2023-11-10}}</ref>) === 吹き替え === * エターナルズ(2022年、女生徒{{R|aoni01}}) * ミズ・マーベル(2022年、ムスリム女子{{R|aoni01}}) === ラジオ === ※はインターネット配信。 * [[青山二丁目劇場]]「空に記す〜兵庫編〜」(2022年、[[文化放送]]、浅野友加里<ref>{{Cite web |author=株式会社文化放送|url=https://www.joqr.co.jp/ag/article/38641/|title=【青山二丁目劇場】リリース第801号|website=文化放送のホームページ|publisher=株式会社文化放送|language=ja|date=2021-01-17|accessdate=2023-11-10}}</ref><ref>{{Cite tweet|user=aoni_official|number=1485447266596839424|title=【文化放送 青山二丁目劇場『空に記す~兵庫編~』】|date=2022-01-24|access-date=2023-11-16}}</ref>)<!-- 2022-01-24 --> * [[ラジオどっとあい]] 春日さくらの脱!ポンコツ日記(2023年10月 - 、[[AG-ON Premium]]※・[[超!A&G+]]※<ref>{{Cite web |author=株式会社文化放送|url=https://www.joqr.co.jp/ag/article/103367/|title=ラジオどっとあい94代目は春日さくらさんに決定!10月14日から放送開始|website=文化放送ホームページ|publisher=株式会社文化放送|language=ja|date=2023-10-07|accessdate=2023-11-07}}</ref>) === ボイスオーバー === * [[NHKニュースおはよう日本]]([[NHK]]{{R|aoni01}}) * [[クローズアップ現代]](NHK{{R|aoni01}}) * [[沼にハマってきいてみた]](NHK{{R|aoni01}}) * [[2022年北京オリンピック|北京オリンピック]]・パラリンピック みんなでハイライト(NHK{{R|aoni01}}) * [[首都圏情報 ネタドリ!]](NHK{{R|aoni01}}) * 理想的本箱([[NHK教育テレビジョン|NHK Eテレ]]{{R|aoni01}}) * [[スッキリ (テレビ番組)|スッキリ]]([[日本テレビ]]{{R|aoni01}}) * [[あざとくて何が悪いの?]]([[テレビ朝日]]{{R|aoni01}}) * [[爆問×伯山の刺さルール!]](テレビ朝日{{R|aoni01}}) === ナレーション === * [[まる得マガジン]](NHK Eテレ{{R|aoni01}}) * しろ旅 家康を産んだ城下町(NHK{{R|aoni01}}) * [[アニ×パラ〜あなたのヒーローは誰ですか〜]](NHK{{R|aoni01}}) === 舞台 === * Otona Project 第四十八弾 第十五回課外授業 朗読劇『シアター』 第一部「1973年」(2023年9月23日 - 24日、シアターグリーン BOX in BOX THEATER、早川祥子<ref>{{Cite web |author=爆走おとな小学生|url=https://ameblo.jp/otonapro/entry-12816617172.html|title=情報解禁/朗読劇『シアター』|website=爆走おとな小学生 公式ブログ|publisher=合同会社otonapro|language=ja|date=2023-08-17|accessdate=2023-11-10}}</ref><ref group="注">[[和久井優]]とのダブルキャスト</ref>) * NOVA READING vol.2 朗読劇『アイを捧げてアイロニー』(2023年11月12日、MsmileBOX 渋谷、田丸<ref>{{Cite web |author=NOVA.company|url=https://www.novacompany.net/reading|title=READING|NOVA.company|website=NOVA.company Official site|publisher=NOVA.company|language=ja|date=|accessdate=2023-11-12}}</ref><ref>{{Cite tweet|user=NOVA__company|number=1722208757168697604|title=【大切なお知らせ】|date=2023-11-08|access-date=2023-11-12}}</ref><ref group="注">[[川口莉奈]]の代役</ref>) === その他コンテンツ === * ミミクリー・ガールズ スペシャルPV(2023年、ルーシー<ref>{{Cite tweet|user=bunko_dengeki|number=1546786598809108480|title=好評発売中『ミミクリー・ガールズ』|date=2022-07-12|access-date=2023-11-10}}</ref>) * ボイスドラマ 燈の守り人〜幻想夜話〜 #45(2023年、日和山灯台<ref>{{Cite tweet|user=akarinomoribito|number=1718215042469122419|title=━━\\2夜連続 公開決定//━━|date=2023-10-28|access-date=2023-11-10}}</ref>) == ディスコグラフィ == === キャラクターソング === {{VOICE Notice Hidden| ◆ 「キャラクター(声優名)」で統一してください。 ◆ 当記事の声優のみ「キャラクター('''声優名''')」としてください。 ◆ ユニットの場合は{{Vau}}を用います。使い方は[[Template:Vau]]を参照。}} {| class="wikitable" style="font-size:small;" ! 発売日 !! 商品名 !! style="width:30%;"|歌 !! 楽曲 !! 備考 |- ! colspan="5"|2023年 |- | rowspan="2"|9月6日 || rowspan="2"|ウマ娘 プリティーダービー WINNING LIVE 13 | ナリタブライアン([[衣川里佳]])、マヤノトップガン([[星谷美緒]])、アドマイヤベガ([[咲々木瞳]])、イナリワン([[井上遥乃]])、サトノダイヤモンド([[立花日菜]])、キタサンブラック([[矢野妃菜喜]])、ヤエノムテキ([[日原あゆみ]])、サクラローレル([[真野美月]])、ナリタトップロード([[中村カンナ]])、サトノクラウン([[鈴代紗弓]])、シュヴァルグラン([[夏吉ゆうこ]])、ネオユニヴァース([[白石晴香]])、ヒシミラクル('''春日さくら''') | 「トレセン音頭」 | rowspan="2"|ゲーム『[[ウマ娘 プリティーダービー]]』関連曲 |- | ナリタブライアン(衣川里佳)、マヤノトップガン(星谷美緒)、ライスシャワー([[石見舞菜香]])、アドマイヤベガ(咲々木瞳)、イナリワン(井上遥乃)、ミスターシービー([[天海由梨奈]])、マチカネタンホイザ(遠野ひかる)、イクノディクタス([[田澤茉純]])、ツインターボ([[花井美春]])、サトノダイヤモンド(立花日菜)、キタサンブラック(矢野妃菜喜)、ヤエノムテキ([[日原あゆみ]])、サクラローレル(真野美月)、ナリタトップロード(中村カンナ)、サトノクラウン(鈴代紗弓)、シュヴァルグラン(夏吉ゆうこ)、ホッコータルマエ([[菊池紗矢香]])、ネオユニヴァース(白石晴香)、ヒシミラクル('''春日さくら''') | 「[[うまぴょい伝説]]」 |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} <!-- {{Ras}} --> <!-- {{Vau}} --> === 出典 === {{Reflist|2}} == 外部リンク == * {{Official|1=https://www.aoni.co.jp/search/kasuga-sakura.html|name=春日 さくら|株式会社青二プロダクション}} * {{Twitter|sakura__1212__|春日さくら}} {{青二プロダクション}} {{Normdaten}} {{Voice-stub}} {{DEFAULTSORT:かすか さくら}} [[Category:日本の女性声優]] [[Category:青二プロダクション]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:生年未記載]] [[Category:存命人物]]
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村田賢一
村田 賢一(むらた けんいち、2001年8月31日 - )は、千葉県浦安市出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。福岡ソフトバンクホークス所属。 あだ名は「ナセル」。 浦安市立日の出南小学校2年生のときに『浦安ニューラッキーズ』で野球を始め、6年生時には読売ジャイアンツジュニアに選出された。浦安市立日の出中学校時代は硬式野球の『東京城南ボーイズ』に所属。当初は三塁手・一塁手としてプレーしており、本格的に投手を始めたのは中学2年生からであった。 春日部共栄高校では1年秋にベンチ入りし、県大会での登板も果たした。腰痛とチーム方針で2年春・夏はベンチを外れたが、2年秋からエースと4番を務め、県大会では全試合完投して優勝。関東大会でも準優勝を果たし、3年春の第91回選抜高等学校野球大会に出場したが、高松商業との初戦で15安打8失点を喫し敗れた。3年夏は埼玉大会準決勝で花咲徳栄に敗れた。 明治大学へ進学し、1年秋からリーグ戦に登板するも、2年生に上がる頃に右肘の手術を受けた。2年秋に復帰して7試合に登板すると、3年春は初完投を記録するなど、8試合の登板で5勝0敗・防御率2.20という成績で、チームの完全優勝に貢献。その後出場した全日本大学選手権では神奈川大学との初戦に先発し、8回無失点と好投した。3年秋は4試合の登板で3勝1敗・防御率1.50を記録し、チームは2016年以来の春秋連覇を果たして明治神宮大会でも勝ち進み、國學院大學との決勝戦に先発すると、1-0の完封勝利でチームを6年ぶり7度目の優勝に導いた。4年春はエースナンバーの背番号11を付け、7試合・45イニングを投げて防御率0.80の好成績でチームの3季連続優勝の原動力となった。全日本大学選手権でも勝ち進み、青山学院大との決勝に先発したが、3回1/3を4失点(自責点3)で降板し、チームは準優勝であった。7月には日米大学野球選手権大会の日本代表に選出されたが、8月下旬に右肩の違和感があり、4年秋に復帰。8試合に登板するも防御率4.35という成績でチームは4連覇を逃した。リーグ戦では通算36試合の登板で15勝3敗・防御率2.09を記録した。 2023年10月26日に開催されたドラフト会議にて、福岡ソフトバンクホークスから4位指名を受けた。11月24日に契約金5000万円・年俸1000万円(いずれも金額は推定)で仮契約を結び、12月4日、福岡市内で入団発表会見が行われた。 背番号は34。 持ち球は最速150km/hのストレート、スライダー、カットボール、カーブ、フォーク、チェンジアップ、シンカー、ツーシーム。 本人が「9イニングを27球で抑えるピッチングが理想なんです」と話したように、打たせて取るピッチングが持ち味。明治大学時代はリーグ戦通算479個のアウトのうち、5割以上の241個が内野ゴロによるものであった。 春日部共栄高校時代は素質を買われて4番打者を務めるなど、打撃センスも高く、明治大学時代は本塁打を記録している。 プロレスが好きで、明治大学ホームページの部員紹介での「もしも登場曲があったら」の項目に「天龍源一郎のテーマ」と答えている。
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村田 賢一は、千葉県浦安市出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。福岡ソフトバンクホークス所属。 あだ名は「ナセル」。
{{Infobox baseball player | 選手名 = 村田 賢一 | 所属球団 = 福岡ソフトバンクホークス | 背番号 = 34 | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | 国籍 = {{JPN}} | 出身地 = [[千葉県]][[浦安市]] | 生年月日 = {{生年月日と年齢|2001|8|31}} | 没年月日 = | 身長 = 181 | 体重 = 90 | 利き腕 = 右 | 打席 = 右 | 守備位置 = [[投手]] | プロ入り年度 = {{NPBドラフト|2023}} | ドラフト順位 = ドラフト4位 | 初出場 = | 最終出場 = | 年俸 = 1000万円(2024年) | 経歴 = * [[春日部共栄中学高等学校|春日部共栄高等学校]] * [[明治大学硬式野球部|明治大学]] * [[福岡ソフトバンクホークス]] (2024 - ) }} '''村田 賢一'''(むらた けんいち、[[2001年]][[8月31日]] - )は、[[千葉県]][[浦安市]]出身の[[プロ野球選手]]([[投手]])。右投右打。[[福岡ソフトバンクホークス]]所属。 あだ名は「ナセル」。 == 経歴 == === プロ入り前 === [[浦安市立日の出南小学校]]2年生のときに『浦安ニューラッキーズ』で野球を始め、6年生時には[[NPB12球団ジュニアトーナメント|読売ジャイアンツジュニア]]に選出された<ref>{{Cite web |title=読売ジャイアンツジュニアチーム {{!}} 出場チーム {{!}} NPB 12球団ジュニアトーナメント ENEOS CUP 2013 |url=http://npb.jp/junior/2013/roster_g.html |website=NPB.jp 日本野球機構 |access-date=2023-11-26 |language=ja |last=一般社団法人日本野球機構}}</ref>。[[浦安市立日の出中学校]]時代は硬式野球の『東京城南ボーイズ』に所属。当初は三塁手・一塁手としてプレーしており、本格的に投手を始めたのは中学2年生からであった<ref name="hb20190303">{{Cite web |title=4番エースに相応しい選手になるために 村田賢一(春日部共栄)【前編】 |url=http://www.hb-nippon.com/2019/03/20190303no913/ |website=高校野球ドットコム |date=2019-03-03 |access-date=2023-11-10 |language=ja |[email protected]}}</ref>。 [[春日部共栄中学高等学校|春日部共栄高校]]では1年秋にベンチ入りし、県大会での登板も果たした{{R|hb20190303}}。腰痛とチーム方針で2年春・夏はベンチを外れたが、2年秋からエースと4番を務め、県大会では全試合完投して優勝<ref name="weekly20190710">{{Cite web |title=村田賢一[春日部共栄]球場を制圧するエースで四番/埼玉注目プレーヤー {{!}} 野球コラム |url=https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190710-11 |website=週刊ベースボールONLINE |access-date=2023-11-10 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=春日部共栄が関東切符 エース村田が完投&V打 - スポニチ Sponichi Annex 野球 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2019/04/29/kiji/20190429s00001002197000c.html |website=スポニチ Sponichi Annex |access-date=2023-11-10 |language=ja}}</ref>。[[秋季関東地区高等学校野球大会|関東大会]]でも準優勝を果たし{{R|weekly20190710}}、3年春の[[第91回選抜高等学校野球大会]]に出場したが、[[香川県立高松商業高等学校|高松商業]]との初戦で15安打8失点を喫し敗れた<ref>{{Cite web |title=春日部共栄 初戦で涙…8失点のエース村田、夏へ「2段階レベルアップを」 - スポニチ Sponichi Annex 野球 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2019/03/23/kiji/20190323s00001002302000c.html |website=スポニチ Sponichi Annex |access-date=2023-11-10 |language=ja}}</ref>。3年夏は[[全国高等学校野球選手権埼玉大会|埼玉大会]]準決勝で[[花咲徳栄高等学校|花咲徳栄]]に敗れた<ref>{{Cite web |title=春日部共栄、春夏ならず エース村田に涙なし/埼玉 - 高校野球夏の地方大会 : 日刊スポーツ |url=https://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/201907270000358.html |website=nikkansports.com |date=2019-07-27 |access-date=2023-11-10}}</ref>。 [[明治大学硬式野球部|明治大学]]へ進学し、1年秋から[[東京六大学野球連盟|リーグ戦]]に登板するも<ref name="weekly20231026">{{Cite web |url=https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=103-20231026-22 |title=【ドラフト】ソフトバンク・4位 村田賢一(明大) 安定感は折り紙つき/プロ野球ドラフト会議 |publisher=週刊ベースボールONLINE |date=2023-10-26 |accessdate=2023-11-24}}</ref>、2年生に上がる頃に右肘の手術を受けた。2年秋に復帰して7試合に登板すると<ref name="meispo20231030">{{Cite web |url=https://meisupo.net/special/detail/14229 |title=(93)ドラフト指名特別企画 言葉と写真で振り返る村田賢一4年間の軌跡 |publisher=明大スポーツ新聞部 |date=2023-10-30 |accessdate=2023-11-24}}</ref>、3年春は初完投を記録するなど<ref>{{Cite web |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202205220000873.html |title=明大が先勝し優勝に王手、村田賢一が初の完投でリーグ単独トップの5勝目 |publisher=日刊スポーツ |date=2022-05-22 |accessdate=2023-11-24}}</ref>、8試合の登板で5勝0敗・防御率2.20という成績{{R|meispo20231030}}で、チームの完全優勝に貢献<ref>{{Cite web |url=https://4years.asahi.com/article/14628946 |title=完全優勝の明治大学に見えた「覚悟」 負けられない一戦で、全員がバットを短く |publisher=4years. |date=2022-05-25 |accessdate=2023-11-24}}</ref>。その後出場した[[第71回全日本大学野球選手権大会|全日本大学選手権]]では[[神奈川大学]]との初戦に先発し、8回無失点と好投した<ref>{{Cite web |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202206080000301.html |title=明大が神奈川大を破り初戦突破 村田賢一8回無失点「落ち着いて投げられた」/大学選手権 |publisher=日刊スポーツ |date=2022-06-08 |accessdate=2023-11-24}}</ref>。3年秋は4試合の登板で3勝1敗・防御率1.50を記録し{{R|meispo20231030}}、チームは{{by|2016年}}以来の春秋連覇<ref>{{Cite web |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202211060000874.html |title=明大が2季連続42回目の優勝、16年以来の春秋連覇 早大が慶大に連勝で決定 |publisher=日刊スポーツ |date=2022-11-06 |accessdate=2023-11-24}}</ref>を果たして[[第53回明治神宮野球大会|明治神宮大会]]でも勝ち進み、[[國學院大學硬式野球部|國學院大學]]との決勝戦に先発すると、1-0の完封勝利でチームを6年ぶり7度目の優勝に導いた<ref>{{Cite web |url=https://www.sanspo.com/article/20221125-526F4O2OSZNF3KRIKZQJPIQM3Y/ |title=明大、史上最多更新7度目の優勝 国学院大を村田賢一が1-0完封/明治神宮大会 |publisher=サンケイスポーツ |date=2022-11-25 |accessdate=2023-11-24}}</ref>。4年春はエースナンバーの背番号11を付け、7試合・45イニングを投げて防御率0.80の好成績{{R|meispo20231030}}{{Efn2|初のベストナインを受賞した{{R|weekly20231026}}。}}でチームの3季連続優勝の原動力となった<ref>{{Cite web |url=https://full-count.jp/2023/05/21/post1383497/ |title=明大のプロ注目右腕はなぜ負けない? ブルペンで守る“鉄則”「逃げ道を作っておく」 |publisher=Full-Count |date=2023-05-21 |accessdate=2023-11-24}}</ref>。[[第72回全日本大学野球選手権大会|全日本大学選手権]]でも勝ち進み、[[青山学院大学硬式野球部|青山学院大]]との決勝に先発したが、3回1/3を4失点(自責点3)で降板し、チームは準優勝であった<ref>{{Cite web |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202306110001377.html |title=【全日本大学選手権】明大準V「何か違った」村田賢一今大会チーム初失点許し4回途中4失点降板 |publisher=日刊スポーツ |date=2023-06-11 |accessdate=2023-11-24}}</ref>。7月には[[日米大学野球選手権大会]]の日本代表に選出されたが<ref>{{Cite web |title=村田 賢一|大学 |url=https://www.japan-baseball.jp/jp/profile/202305004.html |website=野球日本代表 侍ジャパンオフィシャルサイト |access-date=2023-11-10 |language=ja |last=NPBエンタープライズ}}</ref>、8月下旬に右肩の違和感があり、4年秋に復帰<ref>{{Cite web |url=https://www.daily.co.jp/baseball/2023/09/09/0016792788.shtml |title=ドラフト候補の明大・村田を5球団スカウトが視察 右肩違和感から復帰し6回5安打無失点「回復はしています」 |publisher=デイリースポーツ |date=2023-09-09 |accessdate=2023-11-24}}</ref>。8試合に登板するも防御率4.35という成績{{R|meispo20231030}}でチームは4連覇を逃した<ref>{{Cite web |url=https://hochi.news/articles/20231022-OHT1T51212.html |title=【大学野球】明大、同校85年ぶりの4連覇逃す 田中武宏監督「ターゲットにされているのが明らかに分かった」 |publisher=スポーツ報知 |date=2023-10-22 |accessdate=2023-11-24}}</ref>。リーグ戦では通算36試合の登板で15勝3敗・防御率2.09を記録した{{R|meispo20231030}}。 '''{{by|2023年}}'''10月26日に開催された[[2023年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト会議]]にて、[[福岡ソフトバンクホークス]]から4位指名を受けた<ref>{{Cite web |title=【ドラフト】ソフトバンク4位の明大・村田賢一「目指すべき投手像」阪神村上、西勇に憧れ - プロ野球 : 日刊スポーツ |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202310260001626.html |website=nikkansports.com |date=2023-10-26 |access-date=2023-11-10}}</ref>。11月24日に契約金5000万円・年俸1000万円(いずれも金額は推定)で仮契約を結び<ref>{{Cite web |url=https://hochi.news/articles/20231124-OHT1T51171.html |title=【ソフトバンク】 ソフトバンク4位・村田賢一が仮契約 福山チーフスカウト「摂津投手のように…」 |publisher=スポーツ報知 |date=2023-11-24 |accessdate=2023-11-24}}</ref>、12月4日、福岡市内で入団発表会見が行われた<ref>{{Cite web|和書|date=2022-12-04|url=https://sports.yahoo.co.jp/official/detail/2023120400095-spnaviow|title=ドラ1・前田悠伍の目標は「200勝投手」福岡ソフトバンク新入団選手発表会見|website=SportsNavi|publisher=[[Yahoo! 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フェイスネットワーク
株式会社フェイスネットワーク(英文社名;FACE NETWORK Co., ltd)は、東京都港区にかつて存在した日本の芸能プロダクション。 現役のレースクイーンが所属する「プロモーション部」や、主にオートレース選手が所属する「スポーツエンターテイメント部」をはじめ、「タレント部」「ファッションモデル部」「ジュニア&キッズ部」「SP事業部」など、様々なジャンルのマネジメントを分野別に行っていた。また、レーシングチームのマネジメントも行っており、チームスポンサーのPR活動、サーキットのケータリング等のプロデュース、チームウェア・コスチュームの制作等にも携わっていた。
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株式会社フェイスネットワークは、東京都港区にかつて存在した日本の芸能プロダクション。
'''フェイスネットワーク''' * 株式会社フェイスネットワーク ** [[フェイスネットワーク (不動産業)]] - [[東京都]][[渋谷区]]に本社を置く[[不動産会社]]。 ** [[フェイスネットワーク (芸能プロダクション)]] - かつて存在した[[日本]]の[[芸能プロダクション]]。 {{aimai}} {{デフォルトソート:ふえいすねつとわあく}} [[Category:同名の企業]]
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起グループ
起グループ株式会社設立(おきぐるーぷ)は、2014年(平成26年)に創業。 主に鳶工事、土工事、機械土工事、型枠工事、鉄筋工事、解体工事を行う躯体の専門工事業。
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起グループ株式会社設立(おきぐるーぷ)は、2014年(平成26年)に創業。 主に鳶工事、土工事、機械土工事、型枠工事、鉄筋工事、解体工事を行う躯体の専門工事業。
{{複数の問題 |出典の明記=2023年11月 |特筆性=2023年11月21日 (火) 12:19 (UTC) | 分野=組織 }} {{百科事典的でない|type=NOTADVOCATE|date=2023年11月10日 (水) 08:27 (UTC)}} {{基礎情報 会社 | 社名 = 起グループ株式会社 | 英文社名 = OKI GROUP Co., Ltd. | ロゴ = | 種類 = [[株式会社]] | 市場情報 = | 略称 = 躯体工事の起グループ、とびの起グループ、総合躯体建設会社 | 国籍 = {{JPN}} | 郵便番号 = 271-0064 | 本社所在地 = [[千葉県]][[松戸市]][[上本郷]]907番地1号 | 設立 = [[2014年]][[7月]] | 業種 = 2050 | 統一金融機関コード = | SWIFTコード = | 事業内容 = [[とび・土工工事業]] | 代表者 = 冨山茂([[代表取締役]][[社長]]) | 資本金 = 3,000万円 | 売上高 = | 総資産 = | 従業員数 = | 決算期 = 8月 | 主要株主 = | 主要子会社 = | 関係する人物 = | 外部リンク = https://o-k-i-gr.com/ | 特記事項 = || | 創業 = [[2014年]][[7月]] }} '''起グループ株式会社設立'''(おきぐるーぷ)は、[[2014年]]([[平成26年]])に創業。 主に[[鳶職|鳶工事、土工事、コンクリート工事]]を行う鳶工事を中心とした[[建設業|専門工事業]]。 == 会社概要 == *事業種目   **建築一式工事 **とび・土工・コンクリート工事 **大工工事 **左官工事 **石工事 **屋根工事 **タイル・れんが・ブロック工事 **鋼構造物工事 **鉄筋工事 **板金工事 **ガラス工事 **塗装工事 **防水工事 **内装仕上工事 **熱絶縁工事 **建具工事 **解体工事 **仮設機材販売・レンタル・施工 *許可番号 **建設業許可番号 - 特定建設業 <知事許可(特-30)第053083号> *事業所 **本社 - 千葉(千葉県松戸市) == 沿革 == *[[2014年]](平成26年7月)- 起グループ株式会社設立 *[[2015年]](平成27年12月) **A.L.A足場リース安全 柏センター設立 **足場資材販売 リース開始 *[[2016年]](平成28年4月)- 戸建 足場施工開始 *[[2016年]](平成28年5月)- 特定建設許可を取得 *[[2016年]](平成28年10月)- 新グループ11社設立 建設業許可取得3社 == 取引先 == *大和ハウス株式会社 *株式会社大京穴吹建設 *戸田建設株式会社 *株式会社鴻池組 *高松建設株式会社 *JFFシビル株式会社 *京成建設株式会社 *京急建設株式会社 *東鉄工業株式会社 *村本建設株式会社 *株式会社 岸田組(鹿島建設・錢高組・横河工事) *株式会社 日本機材 *株式会社 ヒロタ建設 *大成ユーレック株式会社 *南海辰村建設株式会社 *鹿島建設株式会社 == 関連会社 == *株式会社[[起工業]] *株式会社松村建設 *株式会社吉川建設 *株式会社佐藤建設工業 *株式会社建設サポート == 協力グループ会社 == *【 正グループ 】 **東京 4社(足立区2社、葛飾区2社) **神奈川 1社(横浜市) **千葉  2社(松戸市、柏市) **埼玉  1社(越谷市) *【 準グループ 】 **千葉 5社 (千葉市 2社、市川市、野田市、袖ヶ浦) **埼玉 1社 (さいたま市) **西東京 1社 (八王子市) **東東京 5社 (墨田区、港区、足立区、豊島区、江戸川区) **神奈川 3社 (川崎市、平塚市、茅ヶ崎市) **茨城県 1社 (古河市) **群馬県 1社 (北群馬郡) **栃木 1社 (下都賀郡) **宮城 2社 (仙台市) == 外部リンク == *[https://o-k-i-gr.com/ 起グループ] *[https://okikogyo.com/ 起工業] {{Company-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おきぐるーぷ}} [[Category:日本の建設会社]] [[Category:松戸市の企業]] [[Category:ファミリー企業]] [[Category:2014年設立の企業]]
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ホースラディッシュペルオキシダーゼ
ホースラディッシュペルオキシダーゼ (Horseradish peroxidase, HRP) はホースラディッシュの根から見つかった酵素であり、生物化学の分野で良く用いられている。西洋わさびの根から 15 種類のペルオキシダーゼアイソザイムが単離されており、主に等電点を用いて分類されるが、もっとも一般的なものはCタイプ (中性) である。また、補因子としてヘム鉄を配位するヘムタンパク質である。過酸化水素を電子供与体として基質の酸化を触媒するが、他にも様々な化合物を電子供与体とすることが可能である。 1997に初めてX線結晶構造解析により立体構造が決定され、 それ以後も様々な基質との相互作用による構造変化が決定されている。 巨大なαヘリックスを有する糖タンパク質であり、補因子としてヘム鉄を配位している。 HRP酵素またはそのコンジュゲートが基質とする過酸化水素などは、単独ではほとんど吸光が無いためその反応を分光光度計で測定する事は難しい。従って、HRPによって還元される事で検出可能な発色を示す色素を用いることで、その反応を可視化する必要がある。 HRPの基質は、HRPの生化学的な特徴を活用するために数多く報告され、商品化されている。これらの基質はいくつかの異なるカテゴリーに分類される。HRPは発色基質 (TMB、DAB、ABTSなど) の発色生成物への変換を触媒し、化学発光基質 (ルミノールによる化学発光増強など) に作用する事で光を発生する。 HRPは、標識分子を結合できる6つのリジン残基を持つ44,173.9ダルトンの糖タンパク質である。適切な基質と反応させると、標識分子の発色、蛍光、または発光誘導体を生成し、検出と定量が可能になる。HRPはしばしばコンジュゲート(遺伝的または化学的に結合した分子)中で使用され、標的物質の存在を判定及び定量するために使用される。例えば、ウエスタンブロットで少量の特定タンパク質を検出するために、HRPと結合した抗体を使用することがある。この場合、抗体部分が目的のタンパク質に特異的に結合した後、HRP部分によって基質が還元されることにより、検出可能なシグナルを生成する。HRPは、その単量体の性質と発色生成物の生成のしやすさから、ELISAや免疫組織化学などの技術でも一般的に使用されている。ヘム含有酸化還元酵素であるペルオキシダーゼは、電子供与体によって過酸化水素の還元的開裂を触媒する商業的に重要な酵素である。 HRPは、アルカリホスファターゼのような他の一般的な代替品よりも分子量が小さいため安定性が高く、安価であることから、分子標識としての用途には多くの点で理想的である。また、反応速度が速いので、比較的短時間で強いシグナルを発生させることができる。 高濃度のリン酸はHRPの安定性を著しく低下させる。生物医学的応用に加えて、HRPは重要な環境分野にも応用可能な酵素の一つである。この酵素は、様々な工業廃水中の主要汚染物質と考えられているヒドロキシル化芳香族化合物(HAC)の除去に適している。 さらに、HRPによって神経細胞を標識する技術は、近年、重要な手法になっている。新しい手法であるが、この方法はおそらく、1870年の発見以来、ゴルジ染色を使用した神経生物学者よりも多くの神経生物学者に使用されているとも言われる。 HRPは、ルミノールからいくつかの中間体を経て3-アミノフタレートへの酸化反応を触媒する。この反応は428 nmの低強度の発光を伴う。しかし、ある種の化学物質の存在下では、放出される光が1000倍まで増強され、光を検出しやすくなり、反応の感度が高まる。発光の増強は増強化学発光(ECL)と呼ばれる。一般に知られている修飾フェノール(主にヨードフェノール)など、いくつかの増強剤が利用される。しかし、他の発光増強剤を使用したいくつかの基質が市販されており、その結果、発光シグナルはフェノール増強基質の最大13倍となる。 光の強さは、反応している酵素分子の数と比例し、したがって基質との結合量と比例する。ECLは準備が簡単で、感度が高く、サザンブロットでは約0.5 pg、ノーザンブロットでは約0.5 pgの核酸を検出する。化学発光基質による検出には、発色基質と比較していくつかの利点がある。感度は10倍から100倍高く、広いダイナミックレンジで発光の定量が可能である。一方で、発色沈殿物の感度のダイナミックレンジは1桁程度である。化学発光基質を使用する場合、標識の除去ははるかに容易である。 天然のHRPを模倣するために、多くの材料が研究されてきた。例えば、酸化鉄ナノ粒子やヘミンを含む複合体がHRPの模倣に用いられてきた。 これらのHRP様人工酵素は、バイオマーカーの検出や腫瘍の免疫染色から生物の付着防止まで、多くの用途に用いられてきた。
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ホースラディッシュペルオキシダーゼ はホースラディッシュの根から見つかった酵素であり、生物化学の分野で良く用いられている。西洋わさびの根から 15 種類のペルオキシダーゼアイソザイムが単離されており、主に等電点を用いて分類されるが、もっとも一般的なものはCタイプ (中性) である。また、補因子としてヘム鉄を配位するヘムタンパク質である。過酸化水素を電子供与体として基質の酸化を触媒するが、他にも様々な化合物を電子供与体とすることが可能である。
{{Infobox nonhuman protein|Name=Horseradish peroxidase|image=HRP-xray.png|width=|caption=Horseradish peroxidase C1<ref name="pmid15641789">{{PDB|1w4w}}; {{cite journal | vauthors = Carlsson GH, Nicholls P, Svistunenko D, Berglund GI, Hajdu J | title = Complexes of horseradish peroxidase with formate, acetate, and carbon monoxide | journal = Biochemistry | volume = 44 | issue = 2 | pages = 635–42 | date = January 2005 | pmid = 15641789 | doi = 10.1021/bi0483211 }}</ref>|Organism=''Armoracia rusticana''|TaxID=3704|Symbol=Peroxidase C1A|AltSymbols=PRXC1A|ATC_prefix=|ATC_suffix=|ATC_supplemental=|CAS_number=|CAS_supplemental=|DrugBank=|EntrezGene=|PDB=1W4W|PDB_supplemental=[http://www.ebi.ac.uk/pdbe/searchResults.html?display=both&term=P00433 More structures]|RefSeqmRNA=|RefSeqProtein=|UniProt=P00433|ECnumber=1.11.1.7|Chromosome=|EntrezChromosome=|GenLoc_start=|GenLoc_end=}} ホースラディッシュペルオキシダーゼ (Horseradish peroxidase, '''HRP''') は[[ホースラディッシュ]]の[[根]]から見つかった[[酵素]]であり、[[生物化学]]の分野で良く用いられている。西洋わさびの根から 15 種類のペルオキシダーゼアイソザイムが単離されており、主に[[等電点]]を用いて分類されるが、もっとも一般的なものはCタイプ (中性) である。また、[[補因子]]として[[ヘム鉄]]を配位する[[ヘムタンパク質]]である。[[過酸化水素]]を[[電子供与体]]として基質の酸化を触媒するが、他にも様々な化合物を電子供与体とすることが可能である。 == 構造 == 1997に初めて[[X線結晶構造解析]]により立体構造が決定され、<ref name="pmid9406554">{{PDB|1ATJ}}; {{Cite journal|date=December 1997|title=Crystal structure of horseradish peroxidase C at 2.15 A resolution|journal=Nature Structural Biology|volume=4|issue=12|pages=1032–8|doi=10.1038/nsb1297-1032|pmid=9406554}}</ref> それ以後も様々な基質との相互作用による構造変化が決定されている。<ref name="urlUniPDB">{{Cite web |url=https://www.rcsb.org/structure/1hch |title=Peroxidase C1A Related PDB sequences |website=UniPDB |publisher=European Bioinformatics Institute |access-date=2023-11-10}}</ref> 巨大な[[αヘリックス]]を有する[[糖タンパク|糖タンパク質]]であり、補因子としてヘム鉄を配位している。 == 基質 == HRP酵素またはそのコンジュゲートが[[基質]]とする[[過酸化水素]]などは、単独ではほとんど[[吸光]]が無いためその反応を[[分光光度計]]で測定する事は難しい。従って、HRPによって還元される事で検出可能な発色を示す[[色素]]を用いることで、その反応を可視化する必要がある。<ref name="pmid14751298">{{Cite journal|date=February 2004|title=Horseradish peroxidase: a modern view of a classic enzyme|journal=Phytochemistry|volume=65|issue=3|pages=249–59|doi=10.1016/j.phytochem.2003.10.022|pmid=14751298}}</ref><ref name="Akkara">{{Cite journal|date=October 1991|title=Synthesis and characterization of polymers produced by horseradish peroxidase in dioxane|journal=Journal of Polymer Science|volume=29|issue=11|pages=1561–74|bibcode=1991JPoSA..29.1561A|doi=10.1002/pola.1991.080291105}}</ref> HRPの基質は、HRPの生化学的な特徴を活用するために数多く報告され、商品化されている。これらの基質はいくつかの異なるカテゴリーに分類される。HRPは発色基質 (TMB、DAB、ABTSなど) の発色生成物への変換を触媒し、[[化学発光]]基質 ([[ルミノール]]による化学発光増強など) に作用する事で光を発生する。{{要出典|date=June 2022}} [[ファイル:Structures_of_HRP_substrates.png|中央|サムネイル|530x530ピクセル|一般的なHRPによって発色をする基質。例外的に、ルミノールは発色するのではなく、HRPによって励起された後、基底状態に戻る際にエネルギーを光として放出する。]] == 応用 == HRPは、標識分子を結合できる6つの[[リシン|リジン]]残基を持つ44,173.9ダルトンの[[糖タンパク質]]である。適切な基質と反応させると、標識分子の発色、蛍光、<ref>{{Cite journal|year=2013|title=A fluorescent peroxidase probe increases the sensitivity of commercial ELISAs by two orders of magnitude|journal=Chem Commun|volume=49|issue=88|pages=10379–10381|doi=10.1039/c3cc44783a|pmc=4011665|pmid=24071916}}</ref>または発光誘導体を生成し、検出と定量が可能になる。HRPはしばしばコンジュゲート(遺伝的または化学的に結合した分子)中で使用され、標的物質の存在を判定及び定量するために使用される。例えば、[[ウェスタンブロッティング|ウエスタンブロット]]で少量の特定タンパク質を検出するために、HRPと結合した[[抗体]]を使用することがある。この場合、抗体部分が目的のタンパク質に特異的に結合した後、HRP部分によって基質が還元されることにより、検出可能なシグナルを生成する。<ref name="pmid8560966">{{Cite journal|year=1995|title=Investigation of the blood-ganglion barrier properties in rat sympathetic ganglia by using lanthanum ion and horseradish peroxidase as tracers|journal=Acta Anatomica|volume=153|issue=2|pages=135–44|doi=10.1159/000313647|pmid=8560966}}</ref>HRPは、その単量体の性質と発色生成物の生成のしやすさから、[[ELISA]]や免疫組織化学などの技術でも一般的に使用されている。ヘム含有酸化還元酵素である[[ペルオキシダーゼ]]は、電子供与体によって過酸化水素の還元的開裂を触媒する商業的に重要な酵素である。 HRPは、[[アルカリホスファターゼ]]のような他の一般的な代替品よりも[[分子量]]が小さいため安定性が高く、安価であることから、分子標識としての用途には多くの点で理想的である。また、反応速度が速いので、比較的短時間で強いシグナルを発生させることができる。<ref>{{Cite journal|date=March 1987|title=Comparison of horseradish peroxidase and alkaline phosphatase-labelled antibodies in enzyme immunoassays|journal=Annals of Clinical Biochemistry|volume=24 ( Pt 2)|issue=2|pages=145–52|doi=10.1177/000456328702400204|pmid=3035992}}</ref> 高濃度の[[リン酸]]はHRPの安定性を著しく低下させる。[[生物医学]]的応用に加えて、HRPは重要な環境分野にも応用可能な酵素の一つである。この酵素は、様々な工業廃水中の主要汚染物質と考えられているヒドロキシル化芳香族化合物(HAC)の除去に適している。 <ref>{{Cite journal|date=October 2007|title=Optimization of peroxidase-catalyzed oxidative coupling process for phenol removal from wastewater using response surface methodology|journal=Environmental Science & Technology|volume=41|issue=20|pages=7073–9|bibcode=2007EnST...41.7073G|doi=10.1021/es070626q|pmid=17993150}}</ref> さらに、HRPによって[[神経細胞]]を標識する技術は、近年、重要な手法になっている。新しい手法であるが、この方法はおそらく、1870年の発見以来、[[ゴルジ染色]]を使用した神経生物学者よりも多くの神経生物学者に使用されているとも言われる。<ref name="isbn0-87893-744-7">{{Cite book |title=Principles of neural development |publisher=Sinauer Associates |location=Sunderland, Mass |year=1985 |page=[https://archive.org/details/unset0000unse_m8p7/page/114 114] |isbn=978-0-87893-744-8 |chapter=Cell marking with horseradish peroxidase |chapter-url=https://books.google.com/books?id=t9JqAAAAMAAJ&q=In+recent+years+the+technique+of+marking+neurons+with+the+enzyme+horseradish+peroxidase+has+become+a+major+tool |url=https://archive.org/details/unset0000unse_m8p7/page/114}}</ref> === 増強化学発光(ECL) === HRPは、ルミノールからいくつかの中間体を経て3-アミノフタレートへの酸化反応を触媒する。この反応は428 nmの低強度の発光を伴う。しかし、ある種の化学物質の存在下では、放出される光が1000倍まで増強され、光を検出しやすくなり、反応の感度が高まる。発光の増強は増強化学発光(ECL)と呼ばれる。一般に知られている修飾フェノール(主にヨードフェノール)など、いくつかの増強剤が利用される。しかし、他の発光増強剤を使用したいくつかの基質が市販されており、その結果、発光シグナルはフェノール増強基質の最大13倍となる。<ref>[http://www.haemoscan.com/high-intensity-hrp-chemiluminescence-elisa-substrate/4045/ High Intensity HRP-Chemiluminescence ELISA Substrate] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20160408065334/http://www.haemoscan.com/high-intensity-hrp-chemiluminescence-elisa-substrate/4045/|date=2016-04-08}}. </ref> 光の強さは、反応している酵素分子の数と比例し、したがって基質との結合量と比例する。ECLは準備が簡単で、感度が高く、[[サザンブロット]]では約0.5 pg、[[ノーザンブロット]]では約0.5 pgの核酸を検出する。化学発光基質による検出には、発色基質と比較していくつかの利点がある。感度は10倍から100倍高く、広い[[ダイナミックレンジ]]で発光の定量が可能である。一方で、発色沈殿物の感度のダイナミックレンジは1桁程度である。化学発光基質を使用する場合、標識の除去ははるかに容易である。{{要出典|date=June 2022}} == HRPミミック == 天然のHRPを模倣するために、多くの材料が研究されてきた。例えば、酸化鉄ナノ粒子や[[ヘミン]]を含む複合体がHRPの模倣に用いられてきた。<ref>{{Cite journal|date=July 2013|title=Nanomaterials with enzyme-like characteristics (nanozymes): next-generation artificial enzymes|journal=Chemical Society Reviews|volume=42|issue=14|pages=6060–93|doi=10.1039/C3CS35486E|pmid=23740388}}</ref> これらのHRP様人工酵素は、バイオマーカーの検出や[[腫瘍]]の[[免疫染色]]から生物の付着防止まで、多くの用途に用いられてきた。 == 関連項目 == * [[人工酵素]] == 脚注 == <references group="" responsive="0"></references> [[Category:EC 1.11.1]]
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継体天皇王族説
継体天皇王族説(けいたいてんのうおうぞくせつ、継体天皇皇族説/継体王族説)は、継体天皇がそれ以前の王統(皇統)と何等かの血縁をもつ王族(または皇族)であるという説。1950年代に提唱された継体新王朝論に反論する形で現在も幅広い分野で識者が唱えている。
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継体天皇王族説(けいたいてんのうおうぞくせつ、継体天皇皇族説/継体王族説)は、継体天皇がそれ以前の王統(皇統)と何等かの血縁をもつ王族(または皇族)であるという説。1950年代に提唱された継体新王朝論に反論する形で現在も幅広い分野で識者が唱えている。
{{出典の明記| date = 2023年11月}}'''継体天皇王族説'''(けいたいてんのうおうぞくせつ、継体天皇皇族説/継体王族説)は、[[継体天皇]]がそれ以前の王統(皇統)と何等かの血縁をもつ王族(または[[皇族]])であるという説。1950年代に提唱された[[継体新王朝論]]に反論する形で現在も幅広い分野で識者が唱えている。 == 概要 == 戦後になると戦前の皇国史観への反発とマルクス史観の流行から日本の古代天皇について王朝交替説が唱えられるようになった。1952年に刊行の[[水野祐 (歴史学者)|水野祐]]「増訂日本古代王朝史論序説」を始めとして、[[直木孝次郎]]、[[井上光貞]]、[[藤間生大]]らによって「継体新王朝説」が唱えられた{{Sfn|継体天皇と即位の謎<新装版>|2020|p=174‐176}}。 しかし、その後1960年代になると継体新王朝説に疑問点が提出されいくつかの「継体新王朝否定説」が唱えられるようになり、「継体新王朝説」は後退したが1970年代になると[[吉井巌]]の応神天皇の非実在説と[[岡田精司]]による継体の出自を[[息長氏]]とする説により継体新王朝説は再び支持を得た{{Sfn|継体天皇と即位の謎<新装版>|2020|p=176‐183}}。 近年では息長氏出自説を支持するものの「簒奪」や「戦争」はなかったとする[[山尾幸久]]や継体を近江坂田郡に土着した王族の末裔とする[[塚口義信]]、継体は王族としながら雄略天皇没後に顕宗、仁賢系と継体系の勢力分裂がしたとする[[大橋信弥]]などが積極的に取り組んでいる{{Sfn|継謎の大王 継体天皇|H13|p=23‐25}}。 継体天皇がただの地方豪族であるのか、それとも前王統となんらかのつながりのある王族であるかは現在も議論が分かれるところとなっている{{Sfn|継謎の大王 継体天皇|H13|p=26}}{{Sfn|継体天皇と即位の謎<新装版>|2020|p=188}}が本ページはそのうちの王族説を主に取り扱っている。 *本ページは「[[継体天皇]]から分割」のうえ編集したものです *利用者:[[大伴旅人]] 2023-07‐23~2023‐11‐03 の投稿より転記のうえ編集 *本記事は「帰属表示が必要ないケース」です(係争中のため投稿者アカウント名を変更しています) == 主な論者 == (学者) * [[水谷千秋]]:[[倭の五王]]は「倭」が姓で「讃」や「隋」が名前であるとし、初代の讃から武まで一貫して倭という姓を名乗っていることから倭の五王は同じ父系親族の一員であり、父系血族による世襲はこの時成立しており、継体天皇は当初から応神天皇5世との出自を称して即位していたと述べている<ref>水谷千秋「謎の大王 継体天皇」文春新書 平成13年 95‐99頁</ref>。 * [[和田晴吾]]は[[今城塚古墳]]の石棺は[[竜山石採石遺跡|竜山石]]製であり、石棺は運ぶ段階で多くの人が目にし被葬者の政治的社会的位置を示す重要なものだとして、古墳時代の中期王権の最高位を示す[[長持形石棺]]が[[竜山石採石遺跡|竜山石]]製であり、このことは今城塚古墳の被葬者である可能性がきわめて高い継体天皇が[[古墳]]の形態、石棺の様子からも大和王権中期の大王位の正統な継承者であることを示していると述べている<ref>「継体天皇の時代」吉川弘文館 2008‐7‐1 95ー97頁</ref>。 * [[水野正好]]は[[稚野毛二派皇子|稚野毛二派王]]は二人の娘を皇后([[允恭天皇]]皇后となった[[忍坂大中姫]]等)と妃に出した有力な王族であり、その継承者である意冨々等王も大きな権勢をもった王族であったであろうとする。また[[武烈天皇]]時代の執政である大連[[大伴金村]]、大臣[[巨勢男人]]、大連[[物部麁鹿火|物部̪麁鹿火]]の推挙を受け、かつ即位後もこの三人を大連、大臣に任命していることから所定の手続きを経た正当な王位継承者(皇位継承者)であるとし、皇位簒奪や新王朝説は資料、史料からして成り立たないと述べている<ref>「継体天皇の時代」吉川弘文館 2008‐7‐1 124‐138頁</ref>。 * [[大隅清陽]]は当時の[[王位継承]]は潜在的に即位の可能性のある「王族」を核として形成された派閥が利害関係で一つにまとまっているのが畿内豪族連合としての[[大和政権]]であり、かつ大王の側も「群臣」、「大夫」、和語で「マエツキミ」という畿内有力豪族らによる[[合議]]決定による推挙を必要としていたと分析し、[[億計王]]、[[弘計王]]の例のように、前大王から見て[[傍系]]にあたる人物が、豪族たちの要請をうける形で王位を継承すること自体は、これ以前においても必ずしも珍しいことではなったと述べている<ref>「古代天皇制を考える」 講談社学術文庫 2009‐3‐10第一刷 35‐43</ref>。 * [[吉村武彦]]は『日本書紀』の撰上には『系図一巻』が付随していると『続日本紀』養老四年五月条に記されているとし、五世孫は事実だと述べている。また古墳研究の成果によれば同じ墳型の採用は同一の儀礼を伴う葬制の継承を意味しており、儀礼には首長権の継承儀礼が付随するとされるので、同じ王墓形式をとっていることは前代の王ないし王権を継承しているという事実も指摘している<ref>「ヤマト王権」 岩波新書 2010年11月19日第一刷 117頁、49-50頁</ref>。 * [[大津透]]は継体天皇の出自は鎌倉時代の[[卜部兼方]]による「日本書紀」の注釈書「[[釈日本紀]]」に「上宮記」にホムツワケに始まり「若野毛二俣王」以下中間四代の系譜、名前がが引用されており、用字法から「日本書紀」より古いものであること、父系二世の太郎子([[意富富杼王|意富々等王]])の妹、「践坂大中比弥王」が允恭天皇のキサキ[[忍坂大中姫]]であり、[[安康天皇]]、[[雄略天皇]]に対し有力な[[外戚]]であったこと、「古事記」中つ巻の末尾、応神天皇の段の最後にわざわざ[[若野毛二俣王]]の子孫の系譜が記されていることから継体天皇の一族が有力な[[皇族]]であったことを示していると述べている<ref>「神話から歴史へ」講談社学術文庫 2017‐12‐11第一刷 182‐183頁、208頁、183頁</ref>。 * [[大橋信弥]]は、[[彦主人王]]の近江高島の拠点は文字どおり「別業」で、本拠は近畿中枢にあったと考え、[[隅田八幡神社人物画像鏡]]銘の「大和忍坂宮」がその本拠であったとし、摂津三島古墳群を継体一族の奥津城とみた。即位前の継体が大和忍坂宮にあり百済[[武寧王]]の奉仕を受けていた事実は、この時点で継体が大和政権の主要な構成員であったとし、近畿中枢に基盤をもたない地方豪族が政策的に[[大王 (ヤマト王権)|大王]]位に擁立される必然性はきわめて薄いことから継体天皇は王族であったとする<ref>「継体天皇と即位の謎」<新装版> 吉川弘文館[2007‐12‐20] 2020‐3‐1</ref>。 * ・[[河内春人]]は、オホド王(継体天皇)は即位に際して[[大伴氏|大伴]]、[[物部氏|物部]]、[[巨勢氏|巨勢]]という大豪族が推戴し、継体大王も即位直後に彼らの地位を承認していることからオホドが即位以前から一定の勢力を持ち、ヤマトの豪族も認めていたことを意味するとして継体天皇は[[王族]]出身と認められるとしている<ref>「倭の五王」中公新書 2018年1月25日初版 223頁</ref>。が、同時に彼は5世紀の倭王権はホムタワケ([[応神天皇]])を始祖とする讃グループ、済グループ、北陸グループの王族集団があり、その間での政権交代が行われたとする王族説と王朝交替説のハイブリッド説を唱えている<ref>「倭の五王」中公新書 2018年1月25日初版 194頁</ref>。なお、「記紀」が応神天皇を『ホムタワケ』、「上宮記」が『ホムツワケ』としており微妙に名前が異なることに関しては各'''王族集団'''が別個に系譜を作成し、時間の中で微妙に変化して伝承したものと判断している<ref>「倭の五王」中公新書 196頁</ref>。また[[下垣仁志]]氏の研究から[[考古学]]的立場の研究から古墳時代に[[日本列島]]で大きな戦争は確認できないという論を挙げて考古学的な事実を尊重すべきだとも述べている<ref>「倭の五王」中公新書 155‐156</ref>。 (作家等有識者) *関裕二は「3世紀後半から4世紀にかけてヤマト大王家に断絶はない」と述べ、前方後円墳というヤマトの象徴的埋葬文化が守られていること、国王が変われば王の姓と国名が変わるのが東アジアの常識だったのに変わっていないことを挙げたうえで、王朝交替説は戦前の皇国史観への反発で、そろそろ新しい視点が必要になっているのではないかと提議した<ref>「継体天皇の謎」PHP文庫[2004]2006‐1‐25 126‐128頁</ref>。さらに先帝武烈天皇の悪行とそれに続く継体天皇の擁立は中国の易姓革命を意識したものであること。にもかかわらず継体天皇を「応神天皇の五世の孫」と位置付けた意味はけっして小さくないと指摘する。また王朝交替が実際にあってその王家が今も続いている皇室に続いているというのなら、『日本書紀』は新王朝の始祖として継体天皇を絶賛していなければならないはずだとも指摘している<ref>関裕二「継体天皇の謎」PHP文庫[2004]2006‐1‐25 190‐193頁</ref>。 == 参考文献 == * {{Citation|和書|author=水谷千秋|date=H13-9-20|title=謎の大王 継体天皇|publisher=文藝春秋|series=文春新書|ref={{SfnRef|継謎の大王 継体天皇|H13}} }} * 「継体天皇の時代」吉川弘文館 2008‐7‐1 * 大隅清陽「古代天皇制を考える」 講談社学術文庫 2009‐3‐10 * 大津透「神話から歴史へ」講談社学術文庫 2017‐12‐11 * 大橋信弥「継体天皇と即位の謎」<新装版> 吉川弘文館[2007‐12‐20] 2020‐3‐1 *河内春人「倭の五王」中公新書 2018年1月25日初版 *関裕二「継体天皇の謎」PHP文庫[2004]2006‐1‐25 * {{Citation|和書|author=大橋信弥|date=2020-3-1|title=継体天皇と即位の謎<新装版>|publisher=吉川弘文館|ref={{SfnRef|継体天皇と即位の謎<新装版>|2020}} }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{DEFAULTSORT:けいたいてんのう}} [[Category:継体天皇|*]] [[Category:古墳時代以前の天皇]] [[Category:5世紀日本の人物]] [[Category:6世紀日本の天皇]] {{Japanese-history-stub}} {{History-stub}}
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諫早市第1野球場
諫早第一野球場(いさはやだいいちやきゅうじょう)は、長崎県諫早市スポーツパークいさはやにある野球場。
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諫早第一野球場(いさはやだいいちやきゅうじょう)は、長崎県諫早市スポーツパークいさはやにある野球場。
{{野球場情報ボックス |スタジアム名称=諫早第一球場野球場<br />Isahaya Daiichi Stadium |所在地 = [[長崎県]][[諫早市]]久山町2014-16 |起工=[[2016年]] |開場=[[2018年]][[7月]] |所有者=諫早市 |グラウンド=内野:クレー舗装<br/>外野:[[芝|人工芝]] |照明=なし |設計者= |使用チーム、大会= |収容能力=7200人 |規模= 両翼:100 m<br/>中堅:122 m |フェンスの高さ= |緯度度=32|経度分=59|緯度分=50|経度度=129|緯度秒=18.2|経度秒=50.1|地図国コード=JP}} '''諫早市第1野球場'''(いさはやしだいいちやきゅうじょう)は、[[長崎県]][[諫早市]][[スポーツパークいさはや]]にある野球場。 == 施設概要 == * 両翼:100 m 中堅:122 m * 内野:黒土 外野:人工芝 * 収容人員:7200人 * 照明:なし * スコアボード:フルカラーLED式 == 関連項目 == * [[日本の野球場一覧]] == 外部リンク == * [https://www.city.isahaya.nagasaki.jp/soshiki/53/2042.html 諫早市第1野球場] - 諫早市 {{Baseball-stub}} {{デフォルトソート:いさはやしたいいちやきゆうしよう}} [[Category:九州・沖縄地方の野球場]] [[Category:長崎県のスポーツ施設]] [[Category:諫早市の建築物]]
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ビー・エスコート
ビー・エスコートは、株式会社セピアプロミクスが運営する脱毛サロン。 2000年12月に愛知県名古屋市熱田区金山町に1号店である金山店をオープンした。2016年5月現在、直営店45店舗・FC店舗27店舗を展開する。 株式会社セピアプロミクスは、愛知県名古屋市に本社を置く日本の企業。脱毛サロンのビー・エスコートの運営や、美容商品の通信販売を行うビー・エスマートの運営や脱毛に関する総合メディアBe脱毛マガジンの運営、フェイシャル&ボディ専門のエステサロンであるビーエスコートフェイス(Be・EscortFace)の運営を行う。
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ビー・エスコートは、株式会社セピアプロミクスが運営する脱毛サロン。 2000年12月に愛知県名古屋市熱田区金山町に1号店である金山店をオープンした。2016年5月現在、直営店45店舗・FC店舗27店舗を展開する。
{{複数の問題 |宣伝=2023年11月12日 (日) 22:58 (UTC) |一次資料=2023年11月12日 (日) 22:58 (UTC) |特筆性=2023年11月12日 (日) 22:58 (UTC) | 分野=組織 }} {{基礎情報 会社 | 社名 = 株式会社セピアプロミクス | ロゴ = | 画像 = | 画像説明 = | 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] | 市場情報 = | 略称 = | 国籍 = {{JPN}} | 本社郵便番号 = 453-0834 | 本社所在地 = [[愛知県]][[名古屋市]][[中村区]][[豊国通]]六丁目9番地 |本社緯度度 = 35|本社緯度分 = 9|本社緯度秒 = 23.6|本社N(北緯)及びS(南緯) = N |本社経度度 = 136|本社経度分 = 51|本社経度秒 = 15.7|本社E(東経)及びW(西経) = E |座標右上表示 = Yes |本社地図国コード = JP | 設立 = [[1997年]][[7月]] | 法人番号 = 1180001053838 | 業種 = 9050 | 統一金融機関コード = | SWIFTコード = | 事業内容 = 美容業(脱毛サロン)の経営 | 代表者 = [[代表取締役]][[社長]] 佐野敬志 | 資本金 = 4,650万円 |売上高 = |営業利益 = |経常利益 = |純利益 = |純資産 = |総資産 = | 従業員数 = | 決算期 = | 主要株主 = | 主要子会社 = | 関係する人物 = | 外部リンク = https://cepia-promix.co.jp/ | 特記事項 = }} '''ビー・エスコート'''は、株式会社セピアプロミクスが運営する脱毛サロン。 2000年12月に愛知県名古屋市熱田区金山町に1号店である金山店をオープンした。2016年5月現在、直営店45店舗・FC店舗27店舗を展開する<ref>[https://www.be-escort.com/company/ セピアプロミクス会社概要>店舗数]</ref>。 ==株式会社セピアプロミクス== '''株式会社セピアプロミクス'''は、[[愛知県]][[名古屋市]][[中村区]]に本社を置く日本の企業。脱毛サロンのビー・エスコートの運営や、美容商品の通信販売を行うビー・エスマートの運営や脱毛に関する総合メディアBe脱毛マガジンの運営、フェイシャル&ボディ専門のエステサロンであるビーエスコートフェイス(Be・EscortFace)の運営を行う。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == == 外部リンク == * [https://www.be-escort.com/ 美容脱毛 Be・Escort] * [https://be-esmart.com/ ビー・エスマート] * [https://www.face.be-escort.com/ Be・Escort Face] * [https://be-escort.com/magazine/ Be脱毛マガジン] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ひいえすこおと}} [[Category:中村区の企業]] [[Category:日本の毛髪に関するサービス業]] [[Category:1997年設立の企業]] [[Category:エステティックサロン]]
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南蛮音頭
南蛮音頭(なんばおんど)は山口県宇部市の新民謡。<ref>https://kotobank.jp/word/%E5%8D%97%E8%9B%AE%E9%9F%B3%E9%A0%AD-755124</ref> 作詞:野口雨情、作曲:藤井清水。<ref>https://kotobank.jp/word/%E5%8D%97%E8%9B%AE%E9%9F%B3%E9%A0%AD-755124</ref> 山口県宇部市では古くから炭坑が行われ、当初は原始的な石炭の採掘方法であったが、1840年(天保11年)に宇部揚巻装置(南蛮車)が発明され、宇部の炭坑開発において大きな役割を果たすようになった。<ref>[https://www.city.ube.yamaguchi.jp/kyouyou/rekishi/uberekishi/1003981.html]</ref>この機械仕掛けをいつしか「南蛮仕掛け」と呼ぶようになり、その南蛮車を押しながら女性達が唄った仕事唄が南蛮音頭の原型となった。<ref>[https://www.city.ube.yamaguchi.jp/kyouyou/rekishi/uberekishi/1003981.html]</ref> 1929年(昭和4年)、宇部時報社が一般候補でこの曲の歌詞を募り、野口雨情が選び補作し、藤井清水が作曲して同年12月15日に広島放送曲で放送された。<ref>[https://www.city.ube.yamaguchi.jp/kyouyou/rekishi/uberekishi/1003981.html]</ref>また、楽器作成と同時に島田豊が盆踊り式と舞台式の二様を振り付けた。<ref>[https://www.city.ube.yamaguchi.jp/kyouyou/rekishi/uberekishi/1003981.html)</ref>翌年の 1930年(昭和5年)9月には歌手・浅井丸留子の歌唱でビクターからレコード化され、<ref>[https://dl.ndl.go.jp/pid/1319820/1/1)</ref>1936年(昭和11年)11月にも歌手・音丸の歌唱で日本コロムビアから発売された。<ref>[https://dl.ndl.go.jp/pid/3568202/1/1]</ref> 現在も宇部市では山口県を代表する民謡としてよく歌われ、保存継承されている。<ref>[https://www.pref.yamaguchi.lg.jp/soshiki/97/172153.html#:~:text=%E5%AE%87%E9%83%A8%E5%8D%97%E8%9B%AE%E9%9F%B3%E9%A0%AD%EF%BC%88%E3%81%86%E3%81%B9%E3%81%AA%E3%82%93%E3%81%B0%E3%81%8A%E3%82%93%E3%81%A9%EF%BC%89%20%E3%80%90%E5%AE%87%E9%83%A8%E5%B8%82%E3%80%91&text=%E5%BD%93%E6%99%82%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AF%E5%A4%A7%E7%99%BA%E6%98%8E,%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%8C%E5%8D%97%E8%9B%AE%E9%9F%B3%E/9%A0%AD%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82<ref> ・浅井丸留子(昭和5年) ・音丸(昭和11年) ・今奴(昭和28年) ・照菊<ref>[https://iss.ndl.go.jp/sp/show/R000000006-I000325705-00?lat=&lng=]</ref> ・新橋千代菊 ・宇部正子(昭和50年)
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ヴィーナスと音楽奏者
『ヴィーナスと音楽奏者』(ヴィーナスとおんがくそうしゃ、英: Venus and Musician) は、イタリア盛期ルネサンスのヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノ・ヴェチェッリオと工房による一連の絵画の名称である。 ティツィアーノの工房は、多くの「ヴィーナスと音楽奏者」のヴァージョンを制作したが、それぞれは『ヴィーナスとオルガン奏者』、『ヴィーナスとリュート奏』など絵画の要素によってさまざまな別の題名で知られている。大部分のヴァージョンには左側の小さなオルガンを弾いている男性がいるが、リュートが弾かれているものもある。ヴィーナスは枕元に小さな連れを伴っており、それはキューピッドの場合もあれば犬の場合もあり、絵画館 (ベルリン) の『ヴィーナスと音楽奏者』のように両方が描かれている場合もある。これらの絵画は1540年以降の制作であると考えられている。 多くのティツィアーノの絵画にはいくつかのヴァージョンがあり、とりわけ裸体の神話主題の絵画がそうである。後のヴァージョンは大部分、または全体がティツィアーノの工房による傾向があり、彼の個人的関与は不確かで、主題には異なる見解がある。すべての『ヴィーナスと音楽奏者』のヴァージョンはキャンバス上に油彩で描かれているが、2種類のプロポーションと大きさのものに分類され、オルガン奏者を描いたヴァージョンのうち2点は幅が大きい。 5点のヴァージョンは、一般的に少なくとも大部分はティツィアーノによるものとみなされている。それらは、オルガン奏者の描かれているプラド美術館 (マドリード) にある『ヴィーナスとオルガン奏者と犬』と『ヴィーナスとオルガン奏者とキューピッド』、絵画館 (ベルリン) にある『ヴィーナスと音楽奏者』、そして、リュート奏者の描かれている『ヴィーナスとキューピッドとリュート奏者』 (フィッツウィリアム美術館、ケンブリッジ) と『ヴィーナスとキューピッドとリュート奏者』(メトロポリタン美術館、ニューヨーク) である。ウフィツィ美術館 (フィレンツェ) にある別のヴァージョンはそれほど高く評価されていない。この作品に音楽奏者は不在であるが、キューピッドがおり、ベッドの足元の白色と黒色の犬が欄干の上にいるヤマウズラを見ている。 すべてのヴァージョンで、ヴィーナスのベッドはロッジアに、あるいは低い石壁か欄干上の大きな開けた窓に設えられているように見える。ヴィーナスは全身像で表され、枕の上に身体を曲げて横たわっている。音楽奏者は彼女に背を向けてベッドの端に腰かけているが、振り向いて彼女の方を向いている。対照的に、彼女は右側の方を向いている。オルガン奏者は当時の16世紀の服を纏い (背後の風景にいる小さな人物たちも同様である) 、腰に剣または短剣を差している。大きな赤い布が画面上部左側を占めているが、より小さなヴァージョンでは上部右側を占めている。外には広い風景が広がっており、それは2種類に大別される。プラド美術館の2点のヴァージョンにおいては木々のある道と、宮殿の庭園のように見えるところに泉がある。他のヴァージョンにおいてはもっと開けた風景があり、それは遠くの山々にまで続いている。 『ヴィーナスと音楽奏者』は、ヴェネツィア派の様式で横たわる裸婦を描いたティツィアーノの構図的発展の帰結である。1510年のジョルジョーネの死後、ティツィアーノは『眠れるヴィーナス』 (アルテ・マイスター絵画館、ドレスデン) を完成させ、1534年ごろに『ウルビーノのヴィーナス』 (ウフィツィ美術館) を制作した。1545年に制作された『ウルビーノのヴィーナス』の複製で、カール5世 (神聖ローマ皇帝) に送られた『ヴィーナス』 (現存しない) は『ヴィーナスと音楽奏者』の連作の「原型となった」。これら2点の作品と違い、『ヴィーナスと音楽奏者』のヴァージョンは、大部分がキューピッドを描いているために当時の装飾品が描かれているにもかかわらず、女性像がヴィーナスであると識別することを可能にしている。 キューピッドがいなければ、『ヴィーナスと音楽奏者』はクルチザンヌ (高級娼婦) を表した種類の絵画に陥ってしまう (それらの絵画もしばしば節度を保持するためだけにせよ、「ヴィーナス」と呼ばれた)。すべての『ヴィーナスと音楽奏者』のヴァージョンにおいて、ヴィーナスは完全な裸体 (いくつかのヴァージョンでは、股間はガーゼのような布で覆われている) であるが、非常に高価な宝石類を身に着けており、それはクルチザンヌを描いた絵画には典型的な要素である。 音楽奏者は洒落た衣装に身を包み、刃物の武器 (いくつかのヴァージョンでは金鍍金された大きな剣) を所持している。彼は、ヴェネツィアの高級娼婦の顧客と捉えられてしまうかもしれない。 他の横たわる裸婦像としては、『パルドのヴィーナス』 (または『ユピテルとアンティオペ』、ルーヴル美術館) があるが、この作品は1540年代半ばの「彼 (ティツィアーノ) の初期様式を再び取り戻そうとした労作」とされる。同様に1540年代半ばに開始され、1550年代と1560年代に制作されたヴァージョンもある絵画は、より独自性のある構図と身体像を持つ『ダナエ』の連作である。美術史家のケネス・クラークは、この連作についてティツィアーノがヴェネツィア以外で一般的であった裸体像の慣習を採用したものであるとみている。クラークによれば、「イタリアの他の地域では、まったく異なった形態の身体がずっと流行していた」。 クラークにとって、『ヴィーナスと音楽奏者』における、頭部だけが向きを変え、身体がまったく同じであるヴィーナスは、「完全にヴェネツィアのもので、パルマ・イル・ヴェッキオ、パリス・ボルドーネ、ボニファーツィオ・ヴェロネーゼが地元の顧客のために描いたすべての高級娼婦の姉妹である」。裸体像は「豊満で、やや粗い...この連作のヴィーナスは蠱惑的なものではない。彼女たちの身体はほとんど殺伐的なくらい直に提示されており、今や修復で彼女たちの繊細な触感性が除去されているため、性欲を刺激するようなものはまるでない。しかも、一見して明らかな以上にずっと定型に従っているのである」。 主題の官能的な魅力は明らかであるが、目と耳を通した美の鑑賞において目の優越性に関連する寓意的意味を主張する研究者もいる。プラド美術館の2点のヴァージョンのオルガン奏者はまだ演奏中であるように見えるが、1点では彼の片手が、もう1点では両手が鍵盤の上に置かれている。ベルリン絵画館のオルガン奏者は演奏を止めて、ヴィーナスの方を見ているが、エルヴィン・パノフスキーはこの点に大きく注目し、「視覚の聴覚に対する勝利」が表されているとしている。なお、オルガンの描写は、オルガンの研究者たちにより「パイプがあまりにも平坦で、万一に音が鳴るとしても、ふがいない、もっさりとした、のたうち回るような音が出てくるであろう」と批判されている。 リュート奏者たちは身体とともに自分たちの楽器を回転させることができ、演奏を続けているように見える。パノフスキーによれば、これは「ヴィーナスが具現化している美を見たことにより演奏を中断した奏楽者が、音楽を演奏することでヴィーナスが具現化している美に対してオマージュを捧げる奏楽者に変貌している。オルガンを弾きつつ、美しい女性を称賛するのは難しい。しかし、彼女の魅力にすべての注意を払いながら、リュートの伴奏に合わせて彼女に恋の歌を歌うのはたやすい」。 ルネサンスの新プラトン主義の微妙な教義を参照して絵画を説明する20世紀の解釈方法が『ヴィーナスと音楽奏者』の連作にも及んだが、そうした解釈はティツィアーノの場合、通常よりもっと困難である。エドガー・ウィンド (Edgar Wind) は、神話の神々が裸体である一方、人間が着衣で表される『田園の奏楽』 (ルーヴル美術館) や他の作品に見られる絵画の慣例に注目した。『ヴィーナスと音楽奏者』の諸作では、「人間と女神の間の乖離はポーズの逆説によって強調されている。宮廷人が恋のインスピレーションで音楽を奏でている...一方、彼はまっすぐには女神を見つめず、彼女を見るために肩越しに振り返っている。かくして、彼はプラトニックな「ἐπιστροφἠ」、すなわち、人間が超越的な美しさに対面することを望める唯一の方法である視野の逆転を身体で表現しているのである。しかしながら、ウィンドは後に構図を「いくらか退屈な展示品である」と評している。 寓意的解釈と、より直接的で装飾的、官能的な解釈の間に不可避の矛盾はないが、最近の研究者たちは寓意的解釈をしばしば拒否するか、少なくとも軽視している。ウルリヒ・ミッデルドルフ (Ulrich Middeldorf) は、1947年にそうした潮流の元となった。「ティツィアーノの『聖愛と俗愛』 (ボルゲーゼ美術館、ローマ) の主要人物は尊厳と純潔性を所有しており、それは絵画のいかなる空想的な解釈をも受容可能なように見せる。非常に独自の絵画であり、非常に洗練された人物の高尚な趣味に適合するように描かれたものであると想像させる。しかしながら、ティツィアーノの後のヴィーナスとダナエの絵画の性質は、彼女たちをはるかに下のレベルに置いているようである。彼女たちは美しいが、『聖愛と俗愛』に比べれば低俗である。また、非常に多くの複製が制作されたとうい事実は、それらの絵画を純粋な思考で探求する試みを促さない. . . . 要約すれば、これらの絵画は深い哲学的論文であるというよりはむしろ『装飾的家具』であるという疑念がほぼ避けられない。そして、これらの絵画が. . . 装飾する予定の部屋は寝室だったのである」。 『ヴィーナスと音楽奏者』の最初期のヴァージョンの記録は、神聖ローマ皇帝カール5世に送られた作品として知られるオルガン奏者の描かれたものである。ティツィアーノが1548年にアウクスブルクにいた時に制作され、皇帝は後に作品を宰相のアントワーヌ・ド・グランヴェル枢機卿に贈った。しかし、この作品が連作のどれに当たるかは不明である。プラド美術館にある2点ともが、とりわけ『ヴィーナスとオルガン奏者と犬』(目録番号420) がこの作品に当たると主張されてきた。プラド美術館は現在この作品の制作年を1550年ごろとしており、グランヴェル枢機卿の作品である可能性は排除されているが、プラド美術館が制作年を見直す最近までグランヴェル枢機卿の作品であるというのは一般的な見解であった 。この作品には犬が登場するが、キューピッドが登場していない唯一のヴァージョンである。プラド美術館の作品年代の見直しを受けて、カール5世からグランヴェル枢機卿に贈られた作品は行方不明、おそらく失われたものとみなされている。 ヴィーナスのアトリビュート (人物を特定する事物) であるキューピッドは欠如しているものの、この作品はずっと女神を表しているものであると記録されている。他のヴァージョンとは異なり、絵画は結婚を祝うものであるのかもしれないと考えられている。女性は結婚指輪をしており、ヴィーナスの伝統的なアトリビュートを何ら持っていない。他のティツィアーノのヴィーナスの絵画に比べると、彼女はキューピッドに付き添われておらず、「(ヴィーナスとオルガン奏者の) 2人とも個性的な容貌をしている唯一の作品である」。 X線により、ティツィアーノが絵画の制作中に変更をしていることが明らかになっている。元来、作品はもっと大胆なものであった。ヴィーナスは恥じらいもなく奏楽者を見つめて横たわっていたが、それはどのヴァージョンにも見出すことのできないものである。おそらく、絵画の依頼者、または画家がそうした構成はあまりに煽情的であると考えたため、ヴィーナスの頭部の向きは変更され、彼女が何かを見つめ、触れるために犬が加えられた。かくして、作品は、意図された可能性のある五感の寓意であるということが強調されている。ヴィーナスは今やより受動的な役割を与えられている。 作品はフランチェスコ・アッソニカ (Francesco Assonica) という弁護士の所有であったが、彼はティツィアーノに職業的に用立てられ、彼の友人として言及された人物で、他のティツィアーノ作品も所有していた。おそらく、この作品は彼のために描かれたのであろう。1620年代までヴェネツィアにあり、17世紀のフランドルの画家ヴァン・ダイクによりスケッチされている。おそらくヴァン・ダイクとの関連により、作品はチャールズ1世 (イングランド王) に購入された。チャールズの処刑後の1649年の美術品競売で、作品はジョン・ハッチンソン大佐(英語版)に165ポンドで購入された。なお、同日に、ハッチンソンはティツィアーノの『パルドのヴィーナス』に600ポンドを支払った。1651年か1652年に、『ヴィーナスとオルガン奏者と犬』はハプスブルク家の代理人であったダフィット・テニールス (子) により購入され、スペイン王室のコレクション用にマドリードに送られた。作品は後にプラド美術館に移された 。絵画がイングランドにあった当時、多くの複製が制作され、チャールズ2世の治世前までにロイヤル・コレクションは1点の複製を所有していたが、それは質の高い複製で今でもロイヤル・コレクションにある。 プラド美術館のもう1点のヴァージョンである『ヴィーナスとオルガン奏者とキューピッド』 (目録番号421、「TITIANUS F.」の署名あり) には犬ではなくキューピッドが登場している。この作品を1547年から1548年の制作とする研究者もいるが、現在では1555年ごろの制作とされている。プラド美術館館長のミゲル・ファロミール (Miguel Falomir) によれば、最近のX線と赤外線リフレクトグラフィーの調査により、この作品が前述のプラド美術館のヴァージョンを写し取ったものであることは明らかである (2作品は、スペインの王室コレクションで合流するまで100年以上別々に所蔵されていたが)。ティツィアーノと彼の工房は、しばしば複製を制作するために原作の写し取りを行った。 この作品もまた1648年以来、カール5世とグランヴェル枢機卿の所有していたヴァージョンであると考えられていたが、現在認められている制作年が正しければ、その可能性は排除されるであろう。作品は、遅くともカッシアーノ・デル・ポッツォ(英語版)がマドリードで記録に残した1626年以来スペインの王室コレクションにあり、後の目録にも登場している。1600年、ルドルフ2世 (神聖ローマ皇帝) によりグランヴェル枢機卿の遺産相続者から購入された絵画のうちの1点であると考えられていたもので、後にフェリペ3世 (スペイン王) に贈られた。ヒュー・トレヴァー=ローパーは、オルガン奏者は「フェリペ (2世) の容貌をしている」と考えたが、最近の文献によれば、これは少数派の見解である。ベルリン絵画館のヴァージョンもまたフェリペ2世を表していると考えられてきた 。ニコラス・ペニー(英語版)は、ベルリン絵画館の異なる質を持つ作品に注目し、頭部の描写は「素晴らしい」が、布地は「つまらなく」、オルガンは「使い回し」であるが、犬はインスピレーション」となると述べている。 2点の『ヴィーナスとリュート奏者』のヴァージョンは、細部を除くすべてにおいて類似している。フィッツウィリアム美術館 (ケンブリッジ) にあるヴァージョンはより早い時期のもので、美術館では1555-1565年の制作としている。150.5 x 196.8センチあり、ティツィアーノ1人の手に帰属されている。おそらく、神聖ローマ皇帝ルドルフ2世が所有していたもので、1621年までにプラハの皇室コレクションに収蔵された。その後、このコレクションの最良部分の歴史をたどった。1648年にはスウェーデン軍により略奪され、クリスティーナ (スウェーデン女王) が退位した際、彼女はローマへと作品を移した。彼女の死後、オルレアン・コレクションに売却され、最終的にフランス革命後、ロンドンで競売にかけられた。作品は1798年、または1799年にリチャード・フィッツウィリアム (第7代フィッツウィリアム子爵) に購入され、1816年の彼の死後、その遺贈されたコレクションからなる美術館が創立された。 メトロポリタン美術館は、所蔵している『ヴィーナスとリュート奏者』と呼ぶヴァージョンを1565年から1570年の制作とし、ティツィアーノと工房に帰属している。 フィッツウィリアム美術館のヴァージョンから写し取られており、ヴェネツィアには写し取り用の下絵、または「習作ヴァージョン」があった可能性が高い。作品は風景などに時に手が加えられて、長年、工房に保管されていた可能性がある。風景は質が高く、「ティツィアーノの最も自在な様式で素早く、権威をもって描かれている」。この風景の描写は画家の1560年ごろの様式と合致しているように見えるが、他の部分は異なっている。1576年にティツィアーノが死去した際、おそらく作品は未完成で、「彼の死後、ヴィーナスの顔や手などのいくつかの部分がずっと高い水準にまで仕上げられ」、いくつかの部分が未完成のまま残された。 メトロポリタン美術館のヴァージョンは、遅くとも1624年から1742年以降までサヴォイア王家に所有されていた。その後、イングランドに渡り、トマス・クック (初代レスター伯爵) の所有となり、彼の末裔に継承されたが、1930年に画商のジョゼフ・デュヴィーン(英語版)に売却され、1933年にはメトロポリタン美術館に売却された。ノーフォークのホウカム・ホールに所蔵されていたこともあり、古い文献では『ホウカムのヴィーナス』(Holkham Venus) と呼ばれている可能性がある。 リュート奏者が登場する、少なくともティツィアーノの工房に由来する他のヴァージョンがボルドーに1点あり、もう1点は第二次世界大戦中にドレスデンで破壊された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『ヴィーナスと音楽奏者』(ヴィーナスとおんがくそうしゃ、英: Venus and Musician) は、イタリア盛期ルネサンスのヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノ・ヴェチェッリオと工房による一連の絵画の名称である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ティツィアーノの工房は、多くの「ヴィーナスと音楽奏者」のヴァージョンを制作したが、それぞれは『ヴィーナスとオルガン奏者』、『ヴィーナスとリュート奏』など絵画の要素によってさまざまな別の題名で知られている。大部分のヴァージョンには左側の小さなオルガンを弾いている男性がいるが、リュートが弾かれているものもある。ヴィーナスは枕元に小さな連れを伴っており、それはキューピッドの場合もあれば犬の場合もあり、絵画館 (ベルリン) の『ヴィーナスと音楽奏者』のように両方が描かれている場合もある。これらの絵画は1540年以降の制作であると考えられている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "多くのティツィアーノの絵画にはいくつかのヴァージョンがあり、とりわけ裸体の神話主題の絵画がそうである。後のヴァージョンは大部分、または全体がティツィアーノの工房による傾向があり、彼の個人的関与は不確かで、主題には異なる見解がある。すべての『ヴィーナスと音楽奏者』のヴァージョンはキャンバス上に油彩で描かれているが、2種類のプロポーションと大きさのものに分類され、オルガン奏者を描いたヴァージョンのうち2点は幅が大きい。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "5点のヴァージョンは、一般的に少なくとも大部分はティツィアーノによるものとみなされている。それらは、オルガン奏者の描かれているプラド美術館 (マドリード) にある『ヴィーナスとオルガン奏者と犬』と『ヴィーナスとオルガン奏者とキューピッド』、絵画館 (ベルリン) 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は『ヴィーナスと音楽奏者』の連作の「原型となった」。これら2点の作品と違い、『ヴィーナスと音楽奏者』のヴァージョンは、大部分がキューピッドを描いているために当時の装飾品が描かれているにもかかわらず、女性像がヴィーナスであると識別することを可能にしている。", "title": "ティツィアーノの横たわる裸婦" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "キューピッドがいなければ、『ヴィーナスと音楽奏者』はクルチザンヌ (高級娼婦) を表した種類の絵画に陥ってしまう (それらの絵画もしばしば節度を保持するためだけにせよ、「ヴィーナス」と呼ばれた)。すべての『ヴィーナスと音楽奏者』のヴァージョンにおいて、ヴィーナスは完全な裸体 (いくつかのヴァージョンでは、股間はガーゼのような布で覆われている) であるが、非常に高価な宝石類を身に着けており、それはクルチザンヌを描いた絵画には典型的な要素である。 音楽奏者は洒落た衣装に身を包み、刃物の武器 (いくつかのヴァージョンでは金鍍金された大きな剣) を所持している。彼は、ヴェネツィアの高級娼婦の顧客と捉えられてしまうかもしれない。", "title": "ティツィアーノの横たわる裸婦" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "他の横たわる裸婦像としては、『パルドのヴィーナス』 (または『ユピテルとアンティオペ』、ルーヴル美術館) があるが、この作品は1540年代半ばの「彼 (ティツィアーノ) の初期様式を再び取り戻そうとした労作」とされる。同様に1540年代半ばに開始され、1550年代と1560年代に制作されたヴァージョンもある絵画は、より独自性のある構図と身体像を持つ『ダナエ』の連作である。美術史家のケネス・クラークは、この連作についてティツィアーノがヴェネツィア以外で一般的であった裸体像の慣習を採用したものであるとみている。クラークによれば、「イタリアの他の地域では、まったく異なった形態の身体がずっと流行していた」。", "title": "ティツィアーノの横たわる裸婦" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "クラークにとって、『ヴィーナスと音楽奏者』における、頭部だけが向きを変え、身体がまったく同じであるヴィーナスは、「完全にヴェネツィアのもので、パルマ・イル・ヴェッキオ、パリス・ボルドーネ、ボニファーツィオ・ヴェロネーゼが地元の顧客のために描いたすべての高級娼婦の姉妹である」。裸体像は「豊満で、やや粗い...この連作のヴィーナスは蠱惑的なものではない。彼女たちの身体はほとんど殺伐的なくらい直に提示されており、今や修復で彼女たちの繊細な触感性が除去されているため、性欲を刺激するようなものはまるでない。しかも、一見して明らかな以上にずっと定型に従っているのである」。", "title": "ティツィアーノの横たわる裸婦" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "主題の官能的な魅力は明らかであるが、目と耳を通した美の鑑賞において目の優越性に関連する寓意的意味を主張する研究者もいる。プラド美術館の2点のヴァージョンのオルガン奏者はまだ演奏中であるように見えるが、1点では彼の片手が、もう1点では両手が鍵盤の上に置かれている。ベルリン絵画館のオルガン奏者は演奏を止めて、ヴィーナスの方を見ているが、エルヴィン・パノフスキーはこの点に大きく注目し、「視覚の聴覚に対する勝利」が表されているとしている。なお、オルガンの描写は、オルガンの研究者たちにより「パイプがあまりにも平坦で、万一に音が鳴るとしても、ふがいない、もっさりとした、のたうち回るような音が出てくるであろう」と批判されている。", "title": "寓意性?" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "リュート奏者たちは身体とともに自分たちの楽器を回転させることができ、演奏を続けているように見える。パノフスキーによれば、これは「ヴィーナスが具現化している美を見たことにより演奏を中断した奏楽者が、音楽を演奏することでヴィーナスが具現化している美に対してオマージュを捧げる奏楽者に変貌している。オルガンを弾きつつ、美しい女性を称賛するのは難しい。しかし、彼女の魅力にすべての注意を払いながら、リュートの伴奏に合わせて彼女に恋の歌を歌うのはたやすい」。", "title": "寓意性?" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ルネサンスの新プラトン主義の微妙な教義を参照して絵画を説明する20世紀の解釈方法が『ヴィーナスと音楽奏者』の連作にも及んだが、そうした解釈はティツィアーノの場合、通常よりもっと困難である。エドガー・ウィンド (Edgar Wind) は、神話の神々が裸体である一方、人間が着衣で表される『田園の奏楽』 (ルーヴル美術館) や他の作品に見られる絵画の慣例に注目した。『ヴィーナスと音楽奏者』の諸作では、「人間と女神の間の乖離はポーズの逆説によって強調されている。宮廷人が恋のインスピレーションで音楽を奏でている...一方、彼はまっすぐには女神を見つめず、彼女を見るために肩越しに振り返っている。かくして、彼はプラトニックな「ἐπιστροφἠ」、すなわち、人間が超越的な美しさに対面することを望める唯一の方法である視野の逆転を身体で表現しているのである。しかしながら、ウィンドは後に構図を「いくらか退屈な展示品である」と評している。", "title": "寓意性?" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "寓意的解釈と、より直接的で装飾的、官能的な解釈の間に不可避の矛盾はないが、最近の研究者たちは寓意的解釈をしばしば拒否するか、少なくとも軽視している。ウルリヒ・ミッデルドルフ (Ulrich Middeldorf) は、1947年にそうした潮流の元となった。「ティツィアーノの『聖愛と俗愛』 (ボルゲーゼ美術館、ローマ) の主要人物は尊厳と純潔性を所有しており、それは絵画のいかなる空想的な解釈をも受容可能なように見せる。非常に独自の絵画であり、非常に洗練された人物の高尚な趣味に適合するように描かれたものであると想像させる。しかしながら、ティツィアーノの後のヴィーナスとダナエの絵画の性質は、彼女たちをはるかに下のレベルに置いているようである。彼女たちは美しいが、『聖愛と俗愛』に比べれば低俗である。また、非常に多くの複製が制作されたとうい事実は、それらの絵画を純粋な思考で探求する試みを促さない. . . . 要約すれば、これらの絵画は深い哲学的論文であるというよりはむしろ『装飾的家具』であるという疑念がほぼ避けられない。そして、これらの絵画が. . . 装飾する予定の部屋は寝室だったのである」。", "title": "寓意性?" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "『ヴィーナスと音楽奏者』の最初期のヴァージョンの記録は、神聖ローマ皇帝カール5世に送られた作品として知られるオルガン奏者の描かれたものである。ティツィアーノが1548年にアウクスブルクにいた時に制作され、皇帝は後に作品を宰相のアントワーヌ・ド・グランヴェル枢機卿に贈った。しかし、この作品が連作のどれに当たるかは不明である。プラド美術館にある2点ともが、とりわけ『ヴィーナスとオルガン奏者と犬』(目録番号420) がこの作品に当たると主張されてきた。プラド美術館は現在この作品の制作年を1550年ごろとしており、グランヴェル枢機卿の作品である可能性は排除されているが、プラド美術館が制作年を見直す最近までグランヴェル枢機卿の作品であるというのは一般的な見解であった 。この作品には犬が登場するが、キューピッドが登場していない唯一のヴァージョンである。プラド美術館の作品年代の見直しを受けて、カール5世からグランヴェル枢機卿に贈られた作品は行方不明、おそらく失われたものとみなされている。", "title": "プラド美術館の2点のヴァージョン" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ヴィーナスのアトリビュート (人物を特定する事物) であるキューピッドは欠如しているものの、この作品はずっと女神を表しているものであると記録されている。他のヴァージョンとは異なり、絵画は結婚を祝うものであるのかもしれないと考えられている。女性は結婚指輪をしており、ヴィーナスの伝統的なアトリビュートを何ら持っていない。他のティツィアーノのヴィーナスの絵画に比べると、彼女はキューピッドに付き添われておらず、「(ヴィーナスとオルガン奏者の) 2人とも個性的な容貌をしている唯一の作品である」。", "title": "プラド美術館の2点のヴァージョン" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "X線により、ティツィアーノが絵画の制作中に変更をしていることが明らかになっている。元来、作品はもっと大胆なものであった。ヴィーナスは恥じらいもなく奏楽者を見つめて横たわっていたが、それはどのヴァージョンにも見出すことのできないものである。おそらく、絵画の依頼者、または画家がそうした構成はあまりに煽情的であると考えたため、ヴィーナスの頭部の向きは変更され、彼女が何かを見つめ、触れるために犬が加えられた。かくして、作品は、意図された可能性のある五感の寓意であるということが強調されている。ヴィーナスは今やより受動的な役割を与えられている。", "title": "プラド美術館の2点のヴァージョン" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "作品はフランチェスコ・アッソニカ (Francesco Assonica) という弁護士の所有であったが、彼はティツィアーノに職業的に用立てられ、彼の友人として言及された人物で、他のティツィアーノ作品も所有していた。おそらく、この作品は彼のために描かれたのであろう。1620年代までヴェネツィアにあり、17世紀のフランドルの画家ヴァン・ダイクによりスケッチされている。おそらくヴァン・ダイクとの関連により、作品はチャールズ1世 (イングランド王) に購入された。チャールズの処刑後の1649年の美術品競売で、作品はジョン・ハッチンソン大佐(英語版)に165ポンドで購入された。なお、同日に、ハッチンソンはティツィアーノの『パルドのヴィーナス』に600ポンドを支払った。1651年か1652年に、『ヴィーナスとオルガン奏者と犬』はハプスブルク家の代理人であったダフィット・テニールス (子) により購入され、スペイン王室のコレクション用にマドリードに送られた。作品は後にプラド美術館に移された 。絵画がイングランドにあった当時、多くの複製が制作され、チャールズ2世の治世前までにロイヤル・コレクションは1点の複製を所有していたが、それは質の高い複製で今でもロイヤル・コレクションにある。", "title": "プラド美術館の2点のヴァージョン" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": 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"メトロポリタン美術館のヴァージョンは、遅くとも1624年から1742年以降までサヴォイア王家に所有されていた。その後、イングランドに渡り、トマス・クック (初代レスター伯爵) の所有となり、彼の末裔に継承されたが、1930年に画商のジョゼフ・デュヴィーン(英語版)に売却され、1933年にはメトロポリタン美術館に売却された。ノーフォークのホウカム・ホールに所蔵されていたこともあり、古い文献では『ホウカムのヴィーナス』(Holkham Venus) と呼ばれている可能性がある。", "title": "リュート奏者のヴァージョン" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "リュート奏者が登場する、少なくともティツィアーノの工房に由来する他のヴァージョンがボルドーに1点あり、もう1点は第二次世界大戦中にドレスデンで破壊された。", "title": "リュート奏者のヴァージョン" } ]
『ヴィーナスと音楽奏者』 は、イタリア盛期ルネサンスのヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノ・ヴェチェッリオと工房による一連の絵画の名称である。 ティツィアーノの工房は、多くの「ヴィーナスと音楽奏者」のヴァージョンを制作したが、それぞれは『ヴィーナスとオルガン奏者』、『ヴィーナスとリュート奏』など絵画の要素によってさまざまな別の題名で知られている。大部分のヴァージョンには左側の小さなオルガンを弾いている男性がいるが、リュートが弾かれているものもある。ヴィーナスは枕元に小さな連れを伴っており、それはキューピッドの場合もあれば犬の場合もあり、絵画館 (ベルリン) の『ヴィーナスと音楽奏者』のように両方が描かれている場合もある。これらの絵画は1540年以降の制作であると考えられている。 多くのティツィアーノの絵画にはいくつかのヴァージョンがあり、とりわけ裸体の神話主題の絵画がそうである。後のヴァージョンは大部分、または全体がティツィアーノの工房による傾向があり、彼の個人的関与は不確かで、主題には異なる見解がある。すべての『ヴィーナスと音楽奏者』のヴァージョンはキャンバス上に油彩で描かれているが、2種類のプロポーションと大きさのものに分類され、オルガン奏者を描いたヴァージョンのうち2点は幅が大きい。 5点のヴァージョンは、一般的に少なくとも大部分はティツィアーノによるものとみなされている。それらは、オルガン奏者の描かれているプラド美術館 (マドリード) にある『ヴィーナスとオルガン奏者と犬』と『ヴィーナスとオルガン奏者とキューピッド』、絵画館 (ベルリン) にある『ヴィーナスと音楽奏者』、そして、リュート奏者の描かれている『ヴィーナスとキューピッドとリュート奏者』 (フィッツウィリアム美術館、ケンブリッジ) と『ヴィーナスとキューピッドとリュート奏者』(メトロポリタン美術館、ニューヨーク) である。ウフィツィ美術館 (フィレンツェ) にある別のヴァージョンはそれほど高く評価されていない。この作品に音楽奏者は不在であるが、キューピッドがおり、ベッドの足元の白色と黒色の犬が欄干の上にいるヤマウズラを見ている。 すべてのヴァージョンで、ヴィーナスのベッドはロッジアに、あるいは低い石壁か欄干上の大きな開けた窓に設えられているように見える。ヴィーナスは全身像で表され、枕の上に身体を曲げて横たわっている。音楽奏者は彼女に背を向けてベッドの端に腰かけているが、振り向いて彼女の方を向いている。対照的に、彼女は右側の方を向いている。オルガン奏者は当時の16世紀の服を纏い (背後の風景にいる小さな人物たちも同様である) 、腰に剣または短剣を差している。大きな赤い布が画面上部左側を占めているが、より小さなヴァージョンでは上部右側を占めている。外には広い風景が広がっており、それは2種類に大別される。プラド美術館の2点のヴァージョンにおいては木々のある道と、宮殿の庭園のように見えるところに泉がある。他のヴァージョンにおいてはもっと開けた風景があり、それは遠くの山々にまで続いている。
{{Infobox artwork |image_file=Venus_and_organist_and_little_dog.jpg |image_size=400px |title=[[ヴィーナスとオルガン奏者と犬]] |other_title_1=Venus recreándose en la Música |other_language_1=[[スペイン語]] |other_title_2=Venus with an Organist and a Dog |other_language_2=[[英語]] |artist=[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ]] |year=1550年ごろ |type=[[キャンバス]]上に[[油彩]] |height_metric=136 |width_metric=220 |city=[[マドリード]] |museum=[[プラド美術館]] }} {{Infobox artwork |image_file=Tiziano Vecellio - Venere e il Suonatore di liuto (Fitzwilliam Museum).jpg |image_size=400px |title=[[ヴィーナスとキューピッドとリュート奏者 (フィッツウィリアム美術館)|ヴィーナスとキューピッドとリュート奏者]] |other_title_1=Venere e il suonatore di liuto |other_language_1=[[イタリア語]] |other_title_2=Venus with a Lute-player |other_language_2=[[英語]] |artist=[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ]] |year=1555-1565年ごろ |type=[[キャンバス]]上に[[油彩]] |height_metric=152 |width_metric=196.8 |city=[[ケンブリッジ]] |museum=[[フィッツウィリアム美術館]] }} {{Infobox artwork |image_file=Tizian_-_Venus_with_the_Organ_Player_(Gemäldegalerie_Berlin)_-_Google_Art_Project.jpg |image_size=400px |title=[[ヴィーナスとオルガン奏者 (ベルリン絵画館)|ヴィーナスと音楽奏者]] |other_title_1=Venus mit dem Orgelspieler |other_language_1=[[ドイツ語]] |other_title_2=Venus with an Organist |other_language_2=[[英語]] |artist=[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ]] |year=1550年ごろ |type=[[キャンバス]]上に[[油彩]] |height_metric=115 |width_metric=210 |museum=[[絵画館 (ベルリン)]] }} 『'''ヴィーナスと音楽奏者'''』(ヴィーナスとおんがくそうしゃ、{{Lang-en-short|Venus and Musician}}) は、[[イタリア]]盛期[[ルネサンス]]の[[ヴェネツィア派]]の巨匠[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ]]と工房による一連の絵画の名称である。 ティツィアーノの工房は、多くの「ヴィーナスと音楽奏者」のヴァージョンを制作したが、それぞれは『ヴィーナスとオルガン奏者』、『ヴィーナスとリュート奏』など絵画の要素によってさまざまな別の題名で知られている<ref>Loh, 41. ''Venus with an Organist and a Dog'' and so forth.</ref>。大部分のヴァージョンには左側の小さな[[オルガン]]を弾いている男性がいるが、[[リュート]]が弾かれているものもある。[[ヴィーナス]]は枕元に小さな連れを伴っており、それは[[キューピッド]]の場合もあれば犬の場合もあり、[[絵画館 (ベルリン)]] の『[[ヴィーナスとオルガン奏者 (ベルリン絵画館)|ヴィーナスと音楽奏者]]』のように両方が描かれている場合もある<ref>Loh, 42</ref>。これらの絵画は1540年以降の制作であると考えられている。 多くのティツィアーノの絵画にはいくつかのヴァージョンがあり、とりわけ裸体の神話主題の絵画がそうである。後のヴァージョンは大部分、または全体がティツィアーノの工房による傾向があり、彼の個人的関与は不確かで、主題には異なる見解がある。すべての『ヴィーナスと音楽奏者』のヴァージョンは[[キャンバス]]上に[[油彩]]で描かれているが、2種類のプロポーションと大きさのものに分類され、オルガン奏者を描いたヴァージョンのうち2点は幅が大きい<ref>Falomir, 61–68, and Loh throughout are both analyses of Titian's "replicas and variants"; Christiansen</ref>。 5点のヴァージョンは、一般的に少なくとも大部分はティツィアーノによるものとみなされている。それらは、オルガン奏者の描かれている[[プラド美術館]] ([[マドリード]]) にある『[[ヴィーナスとオルガン奏者と犬]]』と『[[ヴィーナスとオルガン奏者とキューピッド]]』、絵画館 (ベルリン) にある『ヴィーナスと音楽奏者』、そして、リュート奏者の描かれている『[[ヴィーナスとキューピッドとリュート奏者 (フィッツウィリアム美術館)|ヴィーナスとキューピッドとリュート奏者]]』 ([[フィッツウィリアム美術館]]、[[ケンブリッジ]]) と『[[ヴィーナスとキューピッドとリュート奏者 (メトロポリタン美術館)|ヴィーナスとキューピッドとリュート奏者]]』([[メトロポリタン美術館]]、[[ニューヨーク]]) である<ref>Prado; Christiansen</ref>。[[ウフィツィ美術館]] ([[フィレンツェ]]) にある別のヴァージョンはそれほど高く評価されていない。この作品に音楽奏者は不在であるが、キューピッドがおり、ベッドの足元の白色と黒色の犬が欄干の上にいる[[ヤマウズラ]]を見ている<ref>Christiansen</ref>。 すべてのヴァージョンで、ヴィーナスのベッドは[[ロッジア]]に、あるいは低い石壁か欄干上の大きな開けた窓に設えられているように見える。ヴィーナスは全身像で表され、枕の上に身体を曲げて横たわっている。音楽奏者は彼女に背を向けてベッドの端に腰かけているが、振り向いて彼女の方を向いている。対照的に、彼女は右側の方を向いている。オルガン奏者は当時の16世紀の服を纏い (背後の風景にいる小さな人物たちも同様である) 、腰に剣または短剣を差している。大きな赤い布が画面上部左側を占めているが、より小さなヴァージョンでは上部右側を占めている。外には広い風景が広がっており、それは2種類に大別される。プラド美術館の2点のヴァージョンにおいては木々のある道と、宮殿の庭園のように見えるところに泉がある。他のヴァージョンにおいてはもっと開けた風景があり、それは遠くの山々にまで続いている<ref>Loh, 40–42; McIver, 14–17</ref>。 == ティツィアーノの横たわる裸婦 == [[ファイル:Tiziano_-_Venere_di_Urbino_-_Google_Art_Project.jpg|サムネイル|ティツィアーノ『[[ウルビーノのヴィーナス]]』、1534年ごろ、ウフィツィ美術館。『ヴィーナスと音楽奏者』を逆向きにしたほぼ同じポーズである。]] [[ファイル:Titian_-_Venus_and_Cupid_(Galleria_degli_Uffizi)_-_WGA22903.jpg|サムネイル|300x300ピクセル|『ヴィーナスとキューピッド、犬、ヤマウズラ』、1555年。ウフィツィ美術館。大部分がティツィアーノの工房による。]] 『ヴィーナスと音楽奏者』は、ヴェネツィア派の様式で横たわる裸婦を描いたティツィアーノの構図的発展の帰結である。1510年のジョルジョーネの死後、ティツィアーノは『[[眠れるヴィーナス]]』 ([[アルテ・マイスター絵画館]]、[[ドレスデン]]) を完成させ、1534年ごろに『[[ウルビーノのヴィーナス]]』 (ウフィツィ美術館) を制作した。1545年に制作された『ウルビーノのヴィーナス』の複製で、[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)]] に送られた『ヴィーナス』 (現存しない) は『ヴィーナスと音楽奏者』の連作の「原型となった」<ref>Falomir, 61–62</ref>。これら2点の作品と違い、『ヴィーナスと音楽奏者』のヴァージョンは、大部分がキューピッドを描いているために当時の装飾品が描かれているにもかかわらず、女性像がヴィーナスであると識別することを可能にしている<ref>Bull, 210-211; Falomir, 67. Bull points out that the ''Dresden Venus'' originally had a Cupid.</ref>。 キューピッドがいなければ、『ヴィーナスと音楽奏者』は[[クルチザンヌ]] (高級娼婦) を表した種類の絵画に陥ってしまう (それらの絵画もしばしば節度を保持するためだけにせよ、「ヴィーナス」と呼ばれた)。すべての『ヴィーナスと音楽奏者』のヴァージョンにおいて、ヴィーナスは完全な裸体 (いくつかのヴァージョンでは、股間はガーゼのような布で覆われている) であるが、非常に高価な宝石類を身に着けており<ref>Bull, 210-211; Falomir, 67. Bull points out that the ''Dresden Venus'' originally had a Cupid.</ref>、それはクルチザンヌを描いた絵画には典型的な要素である<ref>Hollander, 314-21, for two views on "courtesan" pictures; Bull, 210-211</ref>。 音楽奏者は洒落た衣装に身を包み、刃物の武器 (いくつかのヴァージョンでは金鍍金された大きな剣) を所持している。彼は、ヴェネツィアの高級娼婦の顧客と捉えられてしまうかもしれない。 他の横たわる裸婦像としては、『[[パルドのヴィーナス]]』 (または『ユピテルとアンティオペ』、[[ルーヴル美術館]]) があるが、この作品は1540年代半ばの「彼 (ティツィアーノ) の初期様式を再び取り戻そうとした労作」とされる<ref>Clark, 121</ref>。同様に1540年代半ばに開始され、1550年代と1560年代に制作されたヴァージョンもある絵画は、より独自性のある構図と身体像を持つ『[[ダナエ (ティツィアーノの絵画)|ダナエ]]』の連作である。[[美術史家]]の[[ケネス・クラーク]]は、この連作についてティツィアーノがヴェネツィア以外で一般的であった裸体像の慣習を採用したものであるとみている。クラークによれば、「イタリアの他の地域では、まったく異なった形態の身体がずっと流行していた」<ref>Clark, 122–123, 122 quoted</ref>。 クラークにとって、『ヴィーナスと音楽奏者』における、頭部だけが向きを変え、身体がまったく同じであるヴィーナスは、「完全に[[ヴェネツィア]]のもので、[[パルマ・イル・ヴェッキオ]]、[[パリス・ボルドーネ]]、[[ボニファーツィオ・ヴェロネーゼ]]が地元の顧客のために描いたすべての高級娼婦の姉妹である」<ref>Clark, 122</ref>。裸体像は「豊満で、やや粗い…この連作のヴィーナスは蠱惑的なものではない。彼女たちの身体はほとんど殺伐的なくらい直に提示されており、今や修復で彼女たちの繊細な触感性が除去されているため、性欲を刺激するようなものはまるでない。しかも、一見して明らかな以上にずっと定型に従っているのである」<ref>Clark, 122–123</ref>。 == 寓意性? == 主題の官能的な魅力は明らかであるが、目と耳を通した美の鑑賞において目の優越性に関連する寓意的意味を主張する研究者もいる<ref>Falomir, 189–190, note 30, summarizes the "passionate debate", as does Christiansen; Prado</ref>。プラド美術館の2点のヴァージョンのオルガン奏者はまだ演奏中であるように見えるが、1点では彼の片手が、もう1点では両手が鍵盤の上に置かれている。ベルリン絵画館のオルガン奏者は演奏を止めて、ヴィーナスの方を見ているが、[[エルヴィン・パノフスキー]]はこの点に大きく注目し、「視覚の聴覚に対する勝利」が表されているとしている<ref>McIver, 13–20; Panofsky quoted in Yearsley</ref>。なお、オルガンの描写は、オルガンの研究者たちにより「パイプがあまりにも平坦で、万一に音が鳴るとしても、ふがいない、もっさりとした、のたうち回るような音が出てくるであろう」と批判されている<ref>Yearsley</ref>。 リュート奏者たちは身体とともに自分たちの楽器を回転させることができ、演奏を続けているように見える。パノフスキーによれば、これは「ヴィーナスが具現化している美を見たことにより演奏を中断した奏楽者が、音楽を演奏することでヴィーナスが具現化している美に対して[[オマージュ]]を捧げる奏楽者に変貌している。オルガンを弾きつつ、美しい女性を称賛するのは難しい。しかし、彼女の魅力にすべての注意を払いながら、リュートの伴奏に合わせて彼女に恋の歌を歌うのはたやすい」<ref>McIver, 13–20; Panofsky quoted in Yearsley</ref>。 ルネサンスの[[新プラトン主義]]の微妙な[[教義]]を参照して絵画を説明する20世紀の解釈方法が『ヴィーナスと音楽奏者』の連作にも及んだが、そうした解釈はティツィアーノの場合、通常よりもっと困難である。エドガー・ウィンド (Edgar Wind) は、神話の神々が裸体である一方、人間が着衣で表される『[[田園の奏楽]]』 (ルーヴル美術館) や他の作品に見られる絵画の慣例に注目した。『ヴィーナスと音楽奏者』の諸作では、「人間と女神の間の乖離はポーズの逆説によって強調されている。宮廷人が恋のインスピレーションで音楽を奏でている…一方、彼はまっすぐには女神を見つめず、彼女を見るために肩越しに振り返っている。かくして、彼は[[プラトニック]]な「ἐπιστροφἠ」、すなわち、人間が超越的な美しさに対面することを望める唯一の方法である視野の逆転を身体で表現しているのである<ref>Wind, 143 note 7. Typically for this territory, Wind notes and dismisses an alternative Neoplatonic interpretation by [[Otto Brendel]].</ref>。しかしながら、ウィンドは後に構図を「いくらか退屈な展示品である」と評している<ref>Falomir, 66–67; Prado, quoted; McIver, 18–19</ref>。 寓意的解釈と、より直接的で装飾的、官能的な解釈の間に不可避の矛盾はないが、最近の研究者たちは寓意的解釈をしばしば拒否するか、少なくとも軽視している。ウルリヒ・ミッデルドルフ (Ulrich Middeldorf) は、1947年にそうした潮流の元となった。「ティツィアーノの『[[聖愛と俗愛]]』 ([[ボルゲーゼ美術館]]、[[ローマ]]) の主要人物は尊厳と純潔性を所有しており、それは絵画のいかなる空想的な解釈をも受容可能なように見せる。非常に独自の絵画であり、非常に洗練された人物の高尚な趣味に適合するように描かれたものであると想像させる。しかしながら、ティツィアーノの後のヴィーナスとダナエの絵画の性質は、彼女たちをはるかに下のレベルに置いているようである。彼女たちは美しいが、『聖愛と俗愛』に比べれば低俗である。また、非常に多くの複製が制作されたとうい事実は、それらの絵画を純粋な思考で探求する試みを促さない. . . . 要約すれば、これらの絵画は深い哲学的論文であるというよりはむしろ『装飾的家具』であるという疑念がほぼ避けられない。そして、これらの絵画が. . . 装飾する予定の部屋は寝室だったのである」<ref>Quoted by Christiansen. Wind's comments quoted above come from a chapter mainly concerned with his "high-flung interpretation" of the ''[[Sacred and Profane Love]]''</ref>。 == プラド美術館の2点のヴァージョン == {{Infobox artwork |image_file=Venus_with_organist_and_Cupid.jpg |image_size=400px |title=[[ヴィーナスとオルガン奏者とキューピッド]] |other_title_1=Venus recreándose con el Amor y la Música |other_language_1=[[スペイン語]] |other_title_2=Venus with an Organist and Cupid |other_language_2=[[英語]] |artist=[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ]] |year=1555年ごろ |type=[[キャンバス]]上に[[油彩]] |height_metric=149 |width_metric=217.7 |city=[[マドリード]] |museum=[[プラド美術館]] }} 『ヴィーナスと音楽奏者』の最初期のヴァージョンの記録は、神聖ローマ皇帝カール5世に送られた作品として知られるオルガン奏者の描かれたものである。ティツィアーノが1548年に[[アウクスブルク]]にいた時に制作され、皇帝は後に作品を宰相の[[アントワーヌ・ド・グランヴェル]][[枢機卿]]に贈った。しかし、この作品が連作のどれに当たるかは不明である。プラド美術館にある2点ともが、とりわけ『ヴィーナスとオルガン奏者と犬』(目録番号420) がこの作品に当たると主張されてきた。プラド美術館は現在この作品の制作年を1550年ごろとしており<ref>Falomir, 64–65</ref>、グランヴェル枢機卿の作品である可能性は排除されているが、プラド美術館が制作年を見直す最近までグランヴェル枢機卿の作品であるというのは一般的な見解であった<ref>See eg Brotton, 236 or Loh, 40, who predate this revision. But in 1996 the Prado catalogue cited re Prado 421, the other version, thought that was Granvelle's painting.</ref> 。この作品には犬が登場するが、キューピッドが登場していない唯一のヴァージョンである。プラド美術館の作品年代の見直しを受けて、カール5世からグランヴェル枢機卿に贈られた作品は行方不明、おそらく失われたものとみなされている<ref>Christiansen</ref>。 ヴィーナスの[[アトリビュート]] (人物を特定する事物) であるキューピッドは欠如しているものの、この作品はずっと女神を表しているものであると記録されている。他のヴァージョンとは異なり、絵画は結婚を祝うものであるのかもしれないと考えられている。女性は結婚指輪をしており、ヴィーナスの伝統的なアトリビュートを何ら持っていない。他のティツィアーノのヴィーナスの絵画に比べると、彼女はキューピッドに付き添われておらず、「(ヴィーナスとオルガン奏者の) 2人とも個性的な容貌をしている唯一の作品である」<ref>Falomir, 66–67; Prado, quoted; McIver, 18–19</ref>。 [[X線]]により、ティツィアーノが絵画の制作中に変更をしていることが明らかになっている。元来、作品はもっと大胆なものであった。ヴィーナスは恥じらいもなく奏楽者を見つめて横たわっていたが、それはどのヴァージョンにも見出すことのできないものである。おそらく、絵画の依頼者、または画家がそうした構成はあまりに煽情的であると考えたため、ヴィーナスの頭部の向きは変更され、彼女が何かを見つめ、触れるために犬が加えられた。かくして、作品は、意図された可能性のある[[五感]]の寓意であるということが強調されている。ヴィーナスは今やより受動的な役割を与えられている<ref>Prado; McIver, 16</ref>。 作品はフランチェスコ・アッソニカ (Francesco Assonica) という弁護士の所有であったが、彼はティツィアーノに職業的に用立てられ、彼の友人として言及された人物で、他のティツィアーノ作品も所有していた<ref>Penny, 93</ref>。おそらく、この作品は彼のために描かれたのであろう。1620年代までヴェネツィアにあり、17世紀の[[フランドル]]の画家[[ヴァン・ダイク]]によりスケッチされている。おそらくヴァン・ダイクとの関連により、作品は[[チャールズ1世 (イングランド王)]] に購入された。チャールズの処刑後の1649年の美術品[[競売]]で、作品は{{仮リンク|ジョン・ハッチンソン大佐|en|Colonel John Hutchinson}}に165[[ポンド (通貨)|ポンド]]で購入された。なお、同日に、ハッチンソンはティツィアーノの『パルドのヴィーナス』に600ポンドを支払った。1651年か1652年に、『ヴィーナスとオルガン奏者と犬』は[[ハプスブルク家]]の代理人であった[[ダフィット・テニールス (子)]] により購入され、スペイン王室のコレクション用にマドリードに送られた。作品は後にプラド美術館に移された <ref>Penny, 93</ref><ref>Prado</ref>。絵画が[[イングランド]]にあった当時、多くの複製が制作され、[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]の治世前までに[[ロイヤル・コレクション]]は1点の複製を所有していたが、それは質の高い複製で今でもロイヤル・コレクションにある<ref>[https://www.royalcollection.org.uk/collection/402669/venus-with-an-organist-0 ''Venus with an Organist'', "after Titian, c.1550-1660"], Royal Collection page</ref>。 プラド美術館のもう1点のヴァージョンである『ヴィーナスとオルガン奏者とキューピッド』 (目録番号421、「TITIANUS F.」の署名あり) には犬ではなくキューピッドが登場している。この作品を1547年から1548年の制作とする研究者もいるが、現在では1555年ごろの制作とされている。プラド美術館館長のミゲル・ファロミール (Miguel Falomir) によれば、最近のX線と[[赤外線|赤外線リフレクトグラフィー]]の調査により、この作品が前述のプラド美術館のヴァージョンを写し取ったものであることは明らかである (2作品は、スペインの王室コレクションで合流するまで100年以上別々に所蔵されていたが)。ティツィアーノと彼の工房は、しばしば複製を制作するために原作の写し取りを行った<ref>Falomir, 64–66</ref>。 この作品もまた1648年以来、カール5世とグランヴェル枢機卿の所有していたヴァージョンであると考えられていたが、現在認められている制作年が正しければ、その可能性は排除されるであろう。作品は、遅くとも{{仮リンク|カッシアーノ・デル・ポッツォ|en|Cassiano del Pozzo}}がマドリードで記録に残した1626年以来スペインの王室コレクションにあり、後の目録にも登場している。1600年、[[ルドルフ2世 (神聖ローマ皇帝)]] によりグランヴェル枢機卿の遺産相続者から購入された絵画のうちの1点であると考えられていたもので、後に[[フェリペ3世 (スペイン王)]] に贈られた<ref>''Museo del Prado, Catálogo de las pinturas'', 1996, p. 401, Ministerio de Educación y Cultura, Madrid, {{ISBN2|8487317537}}</ref>。[[ヒュー・トレヴァー=ローパー]]は、オルガン奏者は「フェリペ (2世) の容貌をしている」と考えた<ref>Trevor-Roper, 52</ref>が、最近の文献によれば、これは少数派の見解である。ベルリン絵画館のヴァージョンもまたフェリペ2世を表していると考えられてきた<ref>Rearick, W. R. "Titian's Later Mythologies." 24, ''Artibus Et Historiae'' 17, no. 33 (1996): 23-67. doi:10.2307/1483551</ref> 。{{仮リンク|ニコラス・ペニー|en|Nicholas Penny}}は、ベルリン絵画館の異なる質を持つ作品に注目し、頭部の描写は「素晴らしい」が、布地は「つまらなく」、オルガンは「使い回し」であるが、犬はインスピレーション」となると述べている<ref>Penny, 283</ref>。 == リュート奏者のヴァージョン == {{Infobox artwork |image_file=Tiziano_Vecellio_e_bottega_-_Venere_e_il_Suonatore_di_liuto_(MET-Museum).jpg |image_size=400px |title=[[ヴィーナスとキューピッドとリュート奏者 (メトロポリタン美術館)|ヴィーナスとキューピッドとリュート奏者]] |other_language_1=[[イタリア語]] |other_title_1=Venere e il suonatore di liuto |other_language_2=[[英語]] |other_title_2=Venus and the Lute Player |artist=[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ]]と工房 |year=1565-1570年ごろ |type=[[キャンバス]]上に[[油彩]] |height_metric=165.1 |width_metric=209.6 |city=[[ニューヨーク]] |museum=[[メトロポリタン美術館]] }} 2点の『ヴィーナスとリュート奏者』のヴァージョンは、細部を除くすべてにおいて類似している。フィッツウィリアム美術館 (ケンブリッジ) にあるヴァージョンはより早い時期のもので、美術館では1555-1565年の制作としている。150.5 x 196.8センチあり、ティツィアーノ1人の手に帰属されている。おそらく、神聖ローマ皇帝ルドルフ2世が所有していたもので、1621年までに[[プラハ]]の皇室コレクションに収蔵された。その後、このコレクションの最良部分の歴史をたどった。1648年には[[スウェーデン]]軍により略奪され、[[クリスティーナ (スウェーデン女王)]] が退位した際、彼女は[[ローマ]]へと作品を移した。彼女の死後、[[オルレアン・コレクション]]に売却され、最終的に[[フランス革命]]後、ロンドンで競売にかけられた。作品は1798年、または1799年に[[リチャード・フィッツウィリアム (第7代フィッツウィリアム子爵)]] に購入され、1816年の彼の死後、その遺贈されたコレクションからなる美術館が創立された<ref>[http://webapps.fitzmuseum.cam.ac.uk/explorer/index.php?oid=654 ''Venus and Cupid with a lute-player''] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20181002191630/http://webapps.fitzmuseum.cam.ac.uk/explorer/index.php?oid=654|date=2 October 2018}} Fitzwilliam page</ref>。 メトロポリタン美術館は、所蔵している『ヴィーナスとリュート奏者』と呼ぶヴァージョンを1565年から1570年の制作とし、ティツィアーノと工房に帰属している。 フィッツウィリアム美術館のヴァージョンから写し取られており、ヴェネツィアには写し取り用の下絵、または「習作ヴァージョン」があった可能性が高い<ref>[http://webapps.fitzmuseum.cam.ac.uk/explorer/index.php?oid=654 ''Venus and Cupid with a lute-player''] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20181002191630/http://webapps.fitzmuseum.cam.ac.uk/explorer/index.php?oid=654 |date=2 October 2018 }} Fitzwilliam page</ref>。作品は風景などに時に手が加えられて、長年、工房に保管されていた可能性がある。風景は質が高く、「ティツィアーノの最も自在な様式で素早く、権威をもって描かれている」<ref>Hartt, 603</ref>。この風景の描写は画家の1560年ごろの様式と合致しているように見えるが、他の部分は異なっている。1576年にティツィアーノが死去した際、おそらく作品は未完成で、「彼の死後、ヴィーナスの顔や手などのいくつかの部分がずっと高い水準にまで仕上げられ」、いくつかの部分が未完成のまま残された<ref>[http://webapps.fitzmuseum.cam.ac.uk/explorer/index.php?oid=654 ''Venus and Cupid with a lute-player''] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20181002191630/http://webapps.fitzmuseum.cam.ac.uk/explorer/index.php?oid=654 |date=2 October 2018 }} Fitzwilliam page</ref>。 メトロポリタン美術館のヴァージョンは、遅くとも1624年から1742年以降まで[[サヴォイア家|サヴォイア王家]]に所有されていた。その後、イングランドに渡り、[[トマス・クック (初代レスター伯爵、1697-1759)|トマス・クック (初代レスター伯爵)]] の所有となり、彼の末裔に継承されたが、1930年に画商の{{仮リンク|ジョゼフ・デュヴィーン|en|Joseph Duveen}}に売却され、1933年にはメトロポリタン美術館に売却された<ref>MMA Provenance section, same webpage as Christiansen</ref>。[[ノーフォーク]]の[[ホウカム・ホール]]に所蔵されていたこともあり、古い文献では『ホウカムのヴィーナス』(Holkham Venus) と呼ばれている可能性がある<ref>For example by [[Edgar Wind]] in Wind, 143 note 7 (first published in 1958)</ref>。 リュート奏者が登場する、少なくともティツィアーノの工房に由来する他のヴァージョンが[[ボルドー]]に1点あり、もう1点は第二次世界大戦中に[[ドレスデン]]で破壊された<ref>McIver, 20 note 7</ref>。 == 脚注 == <references group="" responsive="1"></references> == 参考文献 == * Brotton, Jerry, ''The Sale of the Late King's Goods: Charles I and His Art Collection'', 2007, Pan Macmillan, {{ISBN2|9780330427098}} * Bull, Malcolm, ''The Mirror of the Gods, How Renaissance Artists Rediscovered the Pagan Gods'', Oxford UP, 2005, {{ISBN2|0195219236}} * Christiansen, Keith, [http://www.metmuseum.org/art/collection/search/437827 Catalogue Entry], Metropolitan Museum website, extracted from ?, 2010 * [[ケネス・クラーク|Clark, Kenneth]], ''The Nude, A Study in Ideal Form'', orig. 1949, various edns, page refs from Pelican edn of 1960 * Falomir, Miguel, "Titian's Replicas and Variants", in Jaffé, David (ed), ''Titian'', The National Gallery Company/Yale, London 2003, {{ISBN2|1 857099036}} * Freedberg, Sydney J. ''Painting in Italy, 1500–1600'', 3rd edn. 1993, Yale, {{ISBN2|0300055870}} * Hartt, Frederick, ''History of Italian Renaissance Art'', (2nd edn.)1987, Thames & Hudson (US Harry N Abrams), {{ISBN2|0500235104}} * Hollander, Anne, "Titian and Women", in ''Feeding the Eye: Essays'', 2000, University of California Press, {{ISBN2|0520226593}}, 9780520226593, [https://books.google.com/books?id=hp2T9MX15IkC&pg=PA314 google books] * Loh, Maria H., ''Titian Remade: Repetition and the Transformation of Early Modern Italian Art'', 2007, Getty Publications, {{ISBN2|089236873X}}, 9780892368730, [https://books.google.com/books?id=o7EUu0Qp2VkC&pg=PA41 google books (full view)] * McIver, Katherine A., in Carroll, Linda L. (ed), "Sexualities, Textualities, Art and Music in Early Modern Italy", 2017, Routledge, {{ISBN2|1351548980}}, 9781351548984, [https://books.google.com/books?id=RTkrDwAAQBAJ&pg=PA14 google books] * Penny, Nicholas, National Gallery Catalogues (new series): ''The Sixteenth Century Italian Paintings, Volume II, Venice 1540–1600'', 2008, National Gallery Publications Ltd, {{ISBN2|1857099133}} * "Prado": [https://www.museodelprado.es/en/the-collection/art-work/venus-and-music/3318ce42-8836-4867-acf7-276e1870294c Prado commentary webpage, on their "main" or first version] * [[ヒュー・トレヴァー=ローパー|Trevor-Roper, Hugh]]; ''Princes and Artists, Patronage and Ideology at Four Habsburg Courts 1517–1633'', Thames & Hudson, London, 1976, {{ISBN2|0500232326}} * Wind, Edgar, ''Pagan Mysteries in the Renaissance'', 1967 edn., Peregrine Books * [[エルヴィン・パノフスキー|Panofsky, Erwin]], ''Problems in Titian, mostly Iconographic'', 1969 {{DEFAULTSORT:ういいなすとおんかくそうしや}} {{ティツィアーノ・ヴェチェッリオ}} [[Category:芸術と裸]] [[Category:ヴィーナスを題材とした絵画]] [[Category:プラド美術館の所蔵品]] [[Category:メトロポリタン美術館所蔵の絵画]] [[Category:フィッツウィリアム美術館の所蔵品]] [[Category:ベルリン絵画館の所蔵品]] [[Category:1550年代の絵画]] [[Category:1560年代の絵画]] [[Category:ティツィアーノ・ヴェチェッリオの作品]]
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矢野桂司
矢野 桂司(やの けいじ、1961年 - )は、日本の地理学者。専門は人文地理学。立命館大学文学部教授、人文地理学会会長、日本学術会議会員。 兵庫県生まれ。1980年東京都立大学理学部地理学科卒業。1986年東京都立大学大学院理学研究科地理学専攻修士課程修了。1988年同博士課程中退、東京都立大学理学部助手。 1992年立命館大学文学部助教授、博士(理学)。2002年立命館大学文学部教授。2014年地理情報システム学会会長。2018年日本学術振興会学術システム研究センター専門研究員。 日本学術会議連携会員を経て、2020年日本学術会議会員。2022年人文地理学会会長(代表理事)。専門は人文地理学、地理情報科学。
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矢野 桂司は、日本の地理学者。専門は人文地理学。立命館大学文学部教授、人文地理学会会長、日本学術会議会員。
'''矢野 桂司'''(やの けいじ、[[1961年]] - )は、[[日本]]の[[地理学者]]。専門は[[人文地理学]]。[[立命館大学文学部]]教授、[[人文地理学会]]会長、[[日本学術会議会員]]。 == 人物・経歴 == [[兵庫県]]生まれ<ref>[https://www.nakanishiya.co.jp/author/a65052.html 矢野 桂司 名前 矢野 桂司 カナ ヤノ ケイジ]ナカニシヤ出版</ref>。1980年[[東京都立大学 (1949-2011)|東京都立大学]][[理学部]][[地理学科]]卒業。1986年東京都立大学[[大学院]][[理学研究科]][[地理学]]専攻[[修士課程]]修了。1988年同[[博士課程]][[中退]]、東京都立大学理学部助手<ref name="r"/>。 1992年[[立命館大学文学部]]助教授、[[博士(理学)]]。2002年立命館大学文学部教授<ref name="r"/>。2014年[[地理情報システム学会]]会長<ref>[https://www.gisa-japan.org/gisa/members.html 役員・代議員]地理情報システム学会</ref>。2018年[[日本学術振興会]]学術システム研究センター専門研究員<ref name="r"/>。 [[日本学術会議連携会員]]を経て<ref>[https://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/kanji/pdf22/siryo199-5-3.pdf 言 地理教育におけるオープンデータの利活用と 地図力/GIS 技能の育成 ‐地域の課題を分析し地域づくリに参画する 人材育成‐]日本学術会議</ref>、2020年[[日本学術会議会員]]<ref name="r">[https://research-db.ritsumei.ac.jp/rithp/k03/resid/S002059 ヤノ ケイジ 矢野 桂司 YANO Keiji]立命館大学立命館大学 研究者学術情報データベース</ref>。2022年[[人文地理学会]]会長([[代表理事]])<ref>[http://hgsj.org/about/yakuin/ 役員等一覧公開日:2014年12月24日]人文地理学会</ref>。専門は[[人文地理学]]<ref name="r"/>、[[地理情報科学]]<ref>[https://secure.ritsumei.ac.jp/gslt/introduce/faculty/detail.html/?id=79 矢野 桂司教授 文化情報学専修]立命館大学</ref>。 == 著書 == *『地理情報システムの世界 : GISで何ができるか』[[ニュートンプレス]] 1999年 *『デジタル地図を読む』[[ナカニシヤ出版]] 2006年 *『GIS : 地理情報システム』[[創元社]] 2021年 == 受賞 == *1992年 [[日本地理学会]]研究奨励賞<ref name="r"/> *2003年 ディジタル・シルクロード賞(ポスター・デモ部門)<ref name="r"/> *2008年 [[統計情報研究開発センター]]シンフォニカ統計GIS活動奨励賞<ref name="r"/> *2012年 Esri Esri 2012 Special Achievement in GIS (SAG) Award<ref name="r"/> *2022年 [[人文地理学会]]賞(一般図書部門)<ref name="r"/> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:やの けいし}} [[Category:21世紀日本の地理学者]] [[Category:20世紀日本の地理学者]] [[Category:日本の情報学者]] [[Category:デジタル・ヒューマニティーズ|人]] [[Category:日本学術会議会員]] [[Category:日本学術会議連携会員]] [[Category:日本学術振興会の人物]] [[Category:立命館大学の教員]] [[Category:博士(理学)取得者]] [[Category:理学修士取得者]] [[Category:理学士取得者]] [[Category:東京都立大学出身の人物]] [[Category:兵庫県出身の人物]] [[Category:1961年生]] [[Category:存命人物]]
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ニコライ・トドロフ
ニコライ・トドロフ (ブルガリア語: Николай Тодоров Тодоров)(1921年6月6日 - 2003年8月27日)は、ブルガリアの歴史家 。1990年、彼はブルガリアの大統領代行を短期間務めた。 トドロフはヴァルナで生まれ、彼自身が述べているように、ギリシャ系であった 。 トドロフは、第二次世界大戦中に刑務所の独房を共有していたトレイチョ・コストフ(en:Traycho Kostov)の裁判の後、政界に足を踏み入れるきっかけとなった 。 アテネの国立カポディストリアコス大学での地位を含む著名な学術的キャリアの後、彼はブルガリア外務省に加わった。その後、ユネスコのブルガリア代表、駐ギリシャ・ブルガリア大使(1978年-1983年)を務めた。ブルガリアが共産主義から離脱した後、トドロフはブルガリア国民議会の議長となり、大統領代行を務めた。 トドロフは結婚し、3人の子供がいた。娘はマリア・トドロヴァ。
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ニコライ・トドロフ(1921年6月6日 - 2003年8月27日)は、ブルガリアの歴史家。1990年、彼はブルガリアの大統領代行を短期間務めた。
{{Infobox officeholder | name = Nikolai Todorov | image = Nikolai Todorov (1972).tiff | caption = [[ユネスコ]]執行委員会のメンバーであるニコライ・トドロフの肖像 | office = [[ブルガリア国民議会]]議長 | term_start = 1990年7月17日 | term_end = 1991年10月2日 | predecessor = [[スタンコ・トドロフ]] | successor = ステファン・サボフ(Stefan Savov) | office1 = [[ブルガリアの大統領|ブルガリア大統領]] <br/> {{Small|代行}} | term_start1 = 1990年7月17日 | term_end1 = 1990年8月1日 | predecessor1 = ''[[スタンコ・トドロフ]]'' <small>(代理)</small> | successor1 = [[ジェリュ・ジェレフ]] | birth_date = {{birth date|1921|6|6|df=y}} | birth_place = {{BGR1908}} [[ヴァルナ (ブルガリア)|ヴァルナ]] | death_date = {{death date and age |2003|8|27|1921|6|6|df=y}} | death_place = {{BGR}} [[ソフィア (ブルガリア)|ソフィア]] | party = [[無所属]] | otherparty = [[ブルガリア共産党]](1990年以前) | children = [[マリア・トドロヴァ]](1949年生まれ)を含む3人 | alma_mater = [[ソフィア大学]] | native_name = {{Nobold|Николай Тодоров}} }} '''ニコライ・トドロフ''' ({{lang-bg|Николай Тодоров Тодоров}}、[[1921年]][[6月6日]] - [[2003年]][[8月27日]])は、[[ブルガリア]]の[[歴史家]] <ref name= "Shashko">{{cite journal |last=Shashko |first=Philip |title= Nikolai T. Todorov, 1921-2003 |journal= Slavic Review |volume= 63|issue= 2 |date= Summer 2004 |pages= 456–457 |url= https://www.cambridge.org/core/services/aop-cambridge-core/content/view/CD254B7836D97A9D31A4253CB2382AD0/S0037677900040419a.pdf/nikolai_t_todorov_19212003.pdf |jstor= 3185796|accessdate= 5 October 2018 |doi=10.1017/S0037677900040419 |doi-access= free }}</ref>。1990年、彼はブルガリアの大統領代行を短期間務めた。 ==生涯== トドロフは[[ヴァルナ (ブルガリア)|ヴァルナ]]で生まれ<ref name="Shashko" />、彼自身が述べているように、[[ギリシャ]]系であった<ref>{{Cite book |last=Βοσκοπουλος |first=Γιωργος |url=https://books.google.com/books?id=3joMAQAAMAAJ |title=Ελληνικη εξωτερικη πολιτικη απο τον 20ο στον 21ο αιωνα |date=2005 |publisher=Ekdoseis Papazēsē |isbn=978-960-02-1945-6 |pages=238 |language=el |quote=Χαρακτηριστικό αυτής της αντίληψης είναι το παράδειγμα που έθεσε ο ιστορικός και πρέσβης της Βουλγαρίας στην Ελλάδα Todorov (ελληνικής καταγωγής σύμφωνα με τον ίδιο) στον πρέσβη της Ρουμανίας Ion Brad.}}</ref> 。 トドロフは、[[第二次世界大戦]]中に刑務所の独房を共有していた[[トレイチョ・コストフ]]([[:en:Traycho Kostov]])の裁判の後、政界に足を踏み入れるきっかけとなった<ref>{{cite news|url=http://www.thetimes.co.uk/tto/opinion/obituaries/article2078157.ece |title=Obituary: Nikolai Todorov, Bulgarian statesman who mixed good humour with an unshakeable faith in Marxism and the State |work=The Times|date= 2 October 2003 |accessdate=2011-09-03}} {{subscription}}</ref> 。 [[アテネ]]の[[アテネ大学|国立カポディストリアコス大学]]での地位を含む著名な学術的キャリアの後、彼は[[ブルガリア外務省]]に加わった。その後、[[ユネスコ]]のブルガリア代表、駐[[ギリシャ]]・ブルガリア大使(1978年-1983年)を務めた。ブルガリアが[[共産主義]]から離脱した後、トドロフは[[ブルガリア国民議会]]の議長となり、大統領代行を務めた。 ==私生活== トドロフは結婚し、3人の子供がいた。娘は[[マリア・トドロヴァ]]<ref name= "Shashko" />。 ==脚注== {{Reflist}} {{Authority control}} {{DEFAULTSORT:ととろふ にこらい}} [[Category:ブルガリアの大統領]] [[Category:ヴァルナ出身の人物]] [[Category:1921年生]] [[Category:2003年没]]
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優填王思慕像
優填王思慕像(うでんおうじぼぞう)とは、中インドのカウシャーンビーの優填王が在世中の釈迦を似せて作らせたという伝承(いわゆる優填王造像譚)をもつ釈迦像のこと。優填王造像譚はいくつかの仏典に記されているが、それらには仏像の起源や造像の奨励、仏像の功徳などが記される。これを実在するものとして造られたのが優填王思慕像で、インド・中央アジア・中国を中心に各地に存在し、日本にも清凉寺に伝来している。なかでも仏像史において重要な像が5体知られる。 優填王造像譚の概要は以下のとおりである。 釈迦が母の摩耶夫人に説法を行うため、夏安居の90日のあいだ祇園精舎から忉利天に昇った。優填王は釈迦の不在を嘆いて死にそうになるが、思い立って釈迦の像を造り礼拝供養する。やがて釈迦が忉利天から閻浮提に降りてくると、優填王は像と共に出迎える。そこで釈迦は造仏の効験を説く。 優填王造像譚にはいくつかのバージョンがあるが、以下の3種がよく知られている。 『増一阿含経』の巻28に記される優填王造像譚は、もっとも内容が詳細で、よく知られている。『増一阿含経』は原始経典のひとつであるが、すでに存在していた昇三十三天為母説法譚に、後から優填王造像譚が挿入されたと考えられる。『増一阿含経』では、優填王だけでなく波斯匿王も造像を行っている。 優填王は国内の工匠を集め、牛頭栴檀を用いて高さ5尺の像を造らせた。これを聞いた波斯匿王も紫摩金(紫色を帯びた最高級の金)を用いてやはり5尺の像を造らせた。釈迦が忉利天から降下すると諸王はこれを迎えた。釈迦は優填王のもつ栴檀像を手に取り、造像の功徳を説いた。 注目されるのが、釈迦が金像ではなく栴檀像を選んでいる事である。この影響で中国や日本では優填王造像譚といえば栴檀像であるという認識が一般化されていった。 『観仏三昧海経』の巻6に記される優填王造像譚は、優填王が作らせた像が金像になっている。 優填王は金をもって像を造る。釈迦が忉利天から降下するとき、金像を象に載せて迎えた。そのとき金像が象から降りる姿は生仏の如し。足は虚空を踏み、足下に華の雨を降らせ、光明を放って釈迦を来迎する。金像が釈迦に合掌すると、釈迦も金像に合掌を返した。釈迦は金像に来世に仏事を成すように命じ、自らの入滅後には弟子を付けると語った。 注目されるのが、像が生きているように動いたことと、釈迦と相互礼拝をしたという瑞祥が記されていることである。この内容は優填王思慕像信仰に影響を与えた。 『造像功徳経』の巻上に記される優填王造像譚は、毘首羯摩天が天匠になって造仏を行っている。『造像功徳経』は7世紀末に成立した経典で、伝説としてもっとも発達している。 優填王は国内のあらゆる工匠を集めて像を造らせたが、彼らの作った像には欠謬があった。これを聞いた毘首羯摩天が天匠に変じて造像を申し出て、優填王は香木を与えた。毘首羯摩天が斧を振るう音は聴く者の罪垢煩悩を取り除いた。作られた像は跏趺坐で高さ7尺、顔と手足は紫金色であった。釈迦が降下すると優填王は像を白象に載せて迎えるが、像の姿は釈迦の真の姿とは異なっていた。優填王は過咎を犯したと思ったが、釈迦はそれを否定し、優填王が無量の利益を成したことを教えた。 注目されるのが、造仏したのが毘首羯摩天であること、毘首羯摩天をもってしても釈迦の姿には近づけなかったこと、それでもなお造仏の行為それ自体が功徳になることである。 優填王の領地であったカウシャーンビーの宮中にあった大精舎にあった刻檀像。『大唐西域記』によれば「忉利天で造られ、釈迦の降下にあたって起立して迎え、釈迦は像に末世を託した」という伝承が付いていた。玄奘が中国に持ち帰った像のうち、擬憍賞彌国出愛王思慕如来刻檀仏のオリジナルとみられる。その姿については、敦煌231窟西壁龕頂のなかのひとつ(立像)とする説や、後述する龍門石窟・鞏県石窟にみられる倚像とする説がある。 ホータンから東に300里あまり行ったところにある媲摩(ピーマー)城内にあった高さ二丈余りの雕檀立像。『大唐西域記』によれば「釈迦入滅ののち、カウシャーンビーから楼蘭に飛来し、楼蘭が砂に埋もれると再び動いてこの地に移った」という伝承が付いていた。また病に苦しむ人が患部に金箔を貼ると治るという効験がある、あるいは末法には龍宮に入ってしまうという伝承があったが、これはのちに薬師如来信仰と結びついた。京都平等寺の因幡薬師は、この系統をひく薬師如来像である。 荊州大明寺にあった像。『道宣律師感通録』によれば壇木の一木造りで、光背と台座が象牙彫刻であった。『集神州三宝感通録』によれば「梁の武帝の夢告により、祇園寺に伝わる高さ5尺の坐像を請来しようと欲した。決勝将軍郝騫らがこれに応じ、舎衛国に向かったが舎衛王は許さなかった。そこで32人の工匠を送り、一人一相を刻ませて檀像を造り、楊都に持ち帰った。これを元帝が迎えて後梁大定8年(562年)に大明寺を建立して安置した」という伝承が付いていた。『広弘明集』などによれば、7世紀ごろにはこの摸刻像が長安をはじめ各地に広く流通したとされるが、その姿は特定できていない。 揚州開元寺にあった像。栴檀で作られた立像であった。この像の由緒は複数ある。『続高僧伝』によれば「優填王が作った像を梁の武帝が中国にもたらし、江南龍光寺に安置していたのを、僧住力が揚州長楽寺(のちに開元寺)に移し、大業10年(614年)に摸刻像を造った」とある。いっぽうで『清凉寺縁起』などによれば「西晋建興4年(316年)に鳩摩羅琰が天竺から亀茲に請来し、前秦の呂光将軍が建元13年(377年)に涼州に持ち帰り、さらに姚興が長安に迎え、東晋の劉裕が江南龍光寺に安置した」とある。この他にも『道宣律師感通録』にある宋孝武帝が扶南国から持ち帰ったという伝承や、『四分律行事鈔』にある中国僧が漢地に赴き持ち帰った、あるいは『入唐求法巡礼行記』には隋の煬帝の時に像が飛来したなどの伝承が残されている。 開元寺は唐末に焼失して像は一時江南に移るが、再び開元寺に戻り、長興3年(932年)に金陵長先寺に移され、宋太祖の開封入りとともに同地開宝寺にうつされ、やがて太祖生誕地に啓聖禅寺が造られ移された。紹興元年(1131年)には金国に迎えられ燕京(現北京)閔忠寺、12年後には上京大儲慶寺に移されたがすぐに燕京に戻った。1900年の義和団事件で安置していた栴檀寺が焼失し、行方不明になっている。開元寺像の摸刻像は清凉寺の本尊釈迦如来立像を含め、4点が現存している。 龍門石窟と鞏県石窟には、永徽6年(655年)から調露2年(680年)にかけて製作された同一の像容をもつ倚像が70体ほど現存しているが、そのなかには優填王像の銘をもつものもある。像はインド風で、衣が身体に密着して衣文線が表されない点にグプタ様式との共通点がある。またタイのドヴァーラヴァティー朝の如来像との類似を指摘する説もある。
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優填王思慕像(うでんおうじぼぞう)とは、中インドのカウシャーンビーの優填王が在世中の釈迦を似せて作らせたという伝承(いわゆる優填王造像譚)をもつ釈迦像のこと。優填王造像譚はいくつかの仏典に記されているが、それらには仏像の起源や造像の奨励、仏像の功徳などが記される。これを実在するものとして造られたのが優填王思慕像で、インド・中央アジア・中国を中心に各地に存在し、日本にも清凉寺に伝来している。なかでも仏像史において重要な像が5体知られる。
'''優填王思慕像'''(うでんおうじぼぞう)とは、中[[インド]]の[[カウシャーンビー]]の[[優填王]]が在世中の[[釈迦]]を似せて作らせたという伝承(いわゆる優填王造像譚)をもつ釈迦像のこと{{sfn|奥健夫|2009|p=17}}{{sfn|コトバンク: 優填王思慕像}}。優填王造像譚はいくつかの仏典に記されているが、それらには[[仏像]]の起源や造像の奨励、仏像の功徳などが記される{{sfn|奥健夫|2009|pp=29-31}}{{sfn|高田修|1967|pp=9-10}}。これを実在するものとして造られたのが優填王思慕像で、[[インド]]・[[中央アジア]]・[[中国]]を中心に各地に存在し、日本にも[[清凉寺]]に伝来している{{sfn|奥健夫|2009|pp=31-34}}{{sfn|コトバンク: 清凉寺式釈迦}}。なかでも仏像史において重要な像が5体知られる{{sfn|奥健夫|2009|pp=31-34}}。 == 優填王造像譚 == 優填王造像譚の概要は以下のとおりである。 {{Bquote|釈迦が母の[[摩耶夫人]]に説法を行うため、[[安居|夏安居]]の90日のあいだ[[祇園精舎]]から[[忉利天]]に昇った。優填王は釈迦の不在を嘆いて死にそうになるが、思い立って釈迦の像を造り礼拝供養する。やがて釈迦が忉利天から[[閻浮提]]に降りてくると、優填王は像と共に出迎える。そこで釈迦は造仏の効験を説く{{sfn|奥健夫|2009|pp=29-31}}。}} 優填王造像譚にはいくつかのバージョンがあるが、以下の3種がよく知られている{{sfn|奥健夫|2009|pp=29-31}}。 === 増一阿含経 === 『[[増一阿含経]]』の巻28に記される優填王造像譚は、もっとも内容が詳細で、よく知られている。『増一阿含経』は原始経典のひとつであるが、すでに存在していた昇三十三天為母説法譚に、後から優填王造像譚が挿入されたと考えられる{{sfn|高田修|1967|pp=10-14}}。『増一阿含経』では、優填王だけでなく[[プラセーナジット|波斯匿王]]も造像を行っている{{sfn|高田修|1967|pp=10-14}}。 {{Bquote|優填王は国内の工匠を集め、[[ビャクダン|牛頭栴檀]]を用いて高さ5尺の像を造らせた。これを聞いた波斯匿王も紫摩金(紫色を帯びた最高級の金)を用いてやはり5尺の像を造らせた。釈迦が忉利天から降下すると諸王はこれを迎えた。釈迦は優填王のもつ栴檀像を手に取り、造像の功徳を説いた{{sfn|高田修|1967|pp=10-14}}{{sfn|奥健夫|2009|pp=29-31}}。}} 注目されるのが、釈迦が金像ではなく栴檀像を選んでいる事である。この影響で中国や日本では優填王造像譚といえば栴檀像であるという認識が一般化されていった{{sfn|奥健夫|2009|pp=29-31}}。 === 観仏三昧海経 === 『観仏三昧海経』の巻6に記される優填王造像譚は、優填王が作らせた像が金像になっている{{sfn|奥健夫|2009|pp=29-31}}。 {{Bquote|優填王は金をもって像を造る。釈迦が忉利天から降下するとき、金像を象に載せて迎えた。そのとき金像が象から降りる姿は生仏の如し。足は虚空を踏み、足下に華の雨を降らせ、光明を放って釈迦を来迎する。金像が釈迦に合掌すると、釈迦も金像に合掌を返した。釈迦は金像に来世に仏事を成すように命じ、自らの入滅後には弟子を付けると語った{{sfn|高田修|1967|pp=10-14}}{{sfn|奥健夫|2009|pp=29-31}}。}} 注目されるのが、像が生きているように動いたことと、釈迦と相互礼拝をしたという瑞祥が記されていることである。この内容は優填王思慕像信仰に影響を与えた{{sfn|高田修|1967|pp=10-14}}{{sfn|奥健夫|2009|pp=29-31}}。 === 造像功徳経 === 『造像功徳経』の巻上に記される優填王造像譚は、[[ヴィシュヴァカルマン|毘首羯摩天]]が天匠になって造仏を行っている{{sfn|奥健夫|2009|pp=29-31}}。『造像功徳経』は7世紀末に成立した経典で、伝説としてもっとも発達している{{sfn|高田修|1967|pp=10-14}}。 {{Bquote|優填王は国内のあらゆる工匠を集めて像を造らせたが、彼らの作った像には欠謬があった。これを聞いた毘首羯摩天が天匠に変じて造像を申し出て、優填王は香木を与えた。毘首羯摩天が斧を振るう音は聴く者の罪垢煩悩を取り除いた。作られた像は跏趺坐で高さ7尺、顔と手足は紫金色であった。釈迦が降下すると優填王は像を白象に載せて迎えるが、像の姿は釈迦の真の姿とは異なっていた。優填王は過咎を犯したと思ったが、釈迦はそれを否定し、優填王が無量の利益を成したことを教えた{{sfn|高田修|1967|pp=10-14}}{{sfn|奥健夫|2009|pp=29-31}}。}} 注目されるのが、造仏したのが毘首羯摩天であること、毘首羯摩天をもってしても釈迦の姿には近づけなかったこと、それでもなお造仏の行為それ自体が功徳になることである{{sfn|奥健夫|2009|pp=29-31}}。 === その他 === *『大方便仏報恩経』- きわめて簡潔な内容で、伝説の古形と考えられる内容が記される{{sfn|高田修|1967|pp=10-14}}。 *『双巻優填王経』・『仏遊天竺記』- 優填王が[[目連|目犍連]]に請い、32人の工匠を忉利天を送って仏の[[三十二相八十種好|三十二相]]を写させたという内容が記される。とくに『仏遊天竺記』では釈迦が仏像に坐る席を譲ったと記される{{sfn|奥健夫|2009|pp=29-31}}。 *『四分律行事鈔』- 『双巻優填王経』の内容に加え、さらに目犍連が忉利天に昇り仏像の姿が真であることを確認したと記される{{sfn|奥健夫|2009|pp=29-31}}。 == 重要な優填王思慕像 == === カウシャーンビーの像 === 優填王の領地であったカウシャーンビーの宮中にあった大精舎にあった刻檀像。『[[大唐西域記]]』によれば「忉利天で造られ、釈迦の降下にあたって起立して迎え、釈迦は像に末世を託した」という伝承が付いていた。[[玄奘]]が中国に持ち帰った像のうち、擬憍賞彌国出愛王思慕如来刻檀仏のオリジナルとみられる。その姿については、[[敦煌市|敦煌]]231窟西壁龕頂のなかのひとつ(立像)とする説や、後述する[[龍門石窟]]・[[鞏県石窟]]にみられる倚像とする説がある{{sfn|奥健夫|2009|pp=31-34}}。 === ホータン・媲摩城中の像 === [[ホータン市|ホータン]]から東に300里あまり行ったところにある媲摩(ピーマー)城内にあった高さ二丈余りの雕檀立像。『大唐西域記』によれば「釈迦入滅ののち、カウシャーンビーから[[楼蘭]]に飛来し、楼蘭が砂に埋もれると再び動いてこの地に移った」という伝承が付いていた。また病に苦しむ人が患部に金箔を貼ると治るという効験がある、あるいは末法には龍宮に入ってしまうという伝承があったが、これはのちに[[薬師如来]]信仰と結びついた。京都[[平等寺 (京都市下京区)|平等寺]]の因幡薬師は、この系統をひく薬師如来像である{{sfn|奥健夫|2009|pp=31-34}}。 === 荊州大明寺像 === [[荊州]]大明寺にあった像。『道宣律師感通録』によれば壇木の一木造りで、光背と台座が象牙彫刻であった。『集神州三宝感通録』によれば「[[梁 (南朝)|梁]]の[[武帝 (南朝宋)|武帝]]の夢告により、祇園寺に伝わる高さ5尺の坐像を請来しようと欲した。決勝将軍郝騫らがこれに応じ、[[舎衛国]]に向かったが舎衛王は許さなかった。そこで32人の工匠を送り、一人一相を刻ませて檀像を造り、楊都に持ち帰った。これを元帝が迎えて後梁大定8年(562年)に大明寺を建立して安置した」という伝承が付いていた。『[[広弘明集]]』などによれば、7世紀ごろにはこの摸刻像が[[長安]]をはじめ各地に広く流通したとされるが、その姿は特定できていない{{sfn|奥健夫|2009|pp=31-34}}。 === 揚州開元寺像 === {{seealso|清凉寺木造釈迦如来立像}} [[揚州市|揚州]]開元寺にあった像。栴檀で作られた立像であった。この像の由緒は複数ある。『[[続高僧伝]]』によれば「優填王が作った像を梁の武帝が中国にもたらし、江南龍光寺に安置していたのを、僧住力が揚州長楽寺(のちに開元寺)に移し、大業10年(614年)に摸刻像を造った」とある。いっぽうで『清凉寺縁起』などによれば「西晋建興4年(316年)に鳩摩羅琰が天竺から[[亀茲]]に請来し、前秦の呂光将軍が建元13年(377年)に涼州に持ち帰り、さらに[[姚興]]が長安に迎え、東晋の[[劉裕]]が江南龍光寺に安置した」とある。この他にも『道宣律師感通録』にある宋孝武帝が[[扶南国]]から持ち帰ったという伝承や、『四分律行事鈔』にある中国僧が漢地に赴き持ち帰った、あるいは『[[入唐求法巡礼行記]]』には[[隋]]の[[煬帝]]の時に像が飛来したなどの伝承が残されている{{sfn|奥健夫|2009|pp=31-34}}。 開元寺は唐末に焼失して像は一時江南に移るが、再び開元寺に戻り、長興3年(932年)に金陵長先寺に移され、[[趙匡胤|宋太祖]]の[[開封市|開封]]入りとともに同地開宝寺にうつされ、やがて太祖生誕地に啓聖禅寺が造られ移された。紹興元年(1131年)には[[金 (王朝)|金国]]に迎えられ燕京(現北京)閔忠寺、12年後には上京大儲慶寺に移されたがすぐに燕京に戻った。1900年の義和団事件で安置していた栴檀寺が焼失し、行方不明になっている{{sfn|奥健夫|2009|pp=31-34}}。開元寺像の摸刻像は清凉寺の本尊釈迦如来立像を含め、4点が現存している{{sfn|奥健夫|2009|pp=34-39}}。 === 龍門石窟・鞏県石窟の像 === 龍門石窟と鞏県石窟には、永徽6年(655年)から調露2年(680年)にかけて製作された同一の像容をもつ倚像が70体ほど現存しているが、そのなかには優填王像の銘をもつものもある。像はインド風で、衣が身体に密着して衣文線が表されない点に[[グプタ朝|グプタ]]様式との共通点がある。またタイの[[ドヴァーラヴァティー王国|ドヴァーラヴァティー朝]]の如来像との類似を指摘する説もある{{sfn|奥健夫|2009|pp=31-34}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === <!-- 文献参照ページ --> {{Reflist|20em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=奥健夫 |year=2009 |title=日本の美術 |volume=513 |editor=[[東京国立博物館]]ほか |publisher=[[至文堂]]|ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=高田修 |author-link=高田修 |year=1967 |title=仏像の起源 |publisher=[[岩波書店]]|doi=10.11501/2514613 |ref=harv}} * “[[コトバンク]]”. [[朝日新聞社]], [[CARTA HOLDINGS|VOYAGE MARKETING]]. ** {{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E6%B8%85%E5%87%89%E5%AF%BA%E5%BC%8F%E9%87%88%E8%BF%A6-846462 |title=清凉寺式釈迦 |accessdate=2023-09-19|ref={{sfnref|コトバンク: 清凉寺式釈迦}}}}(『世界大百科事典 第2版』ほかより転載)。 ** {{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E5%84%AA%E5%A1%AB%E7%8E%8B%E6%80%9D%E6%85%95%E5%83%8F-34962 |title=優填王思慕像 |accessdate=2023-09-19|ref={{sfnref|コトバンク: 優填王思慕像}}}}(『ブリタニカ国際大百科事典』ほかより転載)。 {{デフォルトソート:うてんおうしほそう}} [[Category:仏像]] [[Category:釈迦像]] [[Category:中国の仏像]]
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湯加麗
湯加麗(1976年7月13日—),中華人民共和国の女優、舞踏家、人体芸術モデル。中国安徽省合肥市で生まれました。北京舞踏学院の古典舞踏科を卒業し、国家歌舞団の舞踏家および講師として活躍し、かつて東方歌舞団に勤務していました。 2002年,彼女は人民美術出版社から写真集『湯加麗人体芸術撮影写真』(撮影:张旭龙)を出版しました。2003年には、『湯加麗人体芸術撮影』、2004年には『湯加麗写真』(撮影:石松)が発売されました。2005年には、彼女は現代出版社から自伝的な作品『汤加丽写真日記』を出版し、人体芸術写真を撮影する過程や仕事の経験について共有しています。2006年には、芸術のドキュメンタリー『舞者加丽』を発表しました。 湯加麗は上記の作品で主に正面裸体のイメージで登場し,当時の中国本土社会で一部論争を引き起こしました。彼女の2冊目の作品『湯加麗人体芸術撮影』が2004年に発売されて以降,彼女の写真は非常に注目され、検索数も増加しました。
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湯加麗(1976年7月13日—),中華人民共和国の女優、舞踏家、人体芸術モデル。中国安徽省合肥市で生まれました。北京舞踏学院の古典舞踏科を卒業し、国家歌舞団の舞踏家および講師として活躍し、かつて東方歌舞団に勤務していました。 2002年,彼女は人民美術出版社から写真集『湯加麗人体芸術撮影写真』を出版しました。2003年には、『湯加麗人体芸術撮影』、2004年には『湯加麗写真』が発売されました。2005年には、彼女は現代出版社から自伝的な作品『汤加丽写真日記』を出版し、人体芸術写真を撮影する過程や仕事の経験について共有しています。2006年には、芸術のドキュメンタリー『舞者加丽』を発表しました。 湯加麗は上記の作品で主に正面裸体のイメージで登場し,当時の中国本土社会で一部論争を引き起こしました。彼女の2冊目の作品『湯加麗人体芸術撮影』が2004年に発売されて以降,彼女の写真は非常に注目され、検索数も増加しました。
'''湯加麗'''(1976年7月13日—),中華人民共和国の女優、舞踏家、人体芸術モデル。中国安徽省合肥市で生まれました。北京舞踏学院の古典舞踏科を卒業し、国家歌舞団の舞踏家および講師として活躍し、<ref>{{Cite book |title=汤加丽人体艺术写真 |last=汤 |first=加丽 |publisher=人民美术 |year=2002 |isbn=7-102-02623-4 |location=北京 |pages=5}}</ref>かつて東方歌舞団に勤務していました。 2002年,彼女は人民美術出版社から写真集『湯加麗人体芸術撮影写真』(撮影:张旭龙)を出版しました。2003年には、『湯加麗人体芸術撮影』、2004年には『湯加麗写真』(撮影:石松)が発売されました。2005年には、彼女は現代出版社から自伝的な作品『汤加丽写真日記』を出版し、人体芸術写真を撮影する過程や仕事の経験について共有しています。2006年には、芸術のドキュメンタリー『舞者加丽』を発表しました。 湯加麗は上記の作品で主に正面裸体のイメージで登場し<ref name=":5">{{Cite book |title=汤加丽人体艺术摄影 |last=汤 |first=加丽 |publisher=人民美术 |year=2003 |isbn=7-102-02623-4 |location=北京 |pages=7;13;17;25-26;30-41;43-49;51;56-57;66-67;70-71;74-75;77-78;83;87-88;92;94-95;97-98;103-112;122 |quote=}}</ref>,当時の中国本土社会で一部論争を引き起こしました。<ref name=":2">{{Cite web |title=汤加丽:我沉默了太久有话要说_时尚_凤凰网 |url=https://fashion.ifeng.com/emotion/woman/detail_2010_04/07/513815_0.shtml |archive-url=https://web.archive.org/web/20230805083655/https://fashion.ifeng.com/emotion/woman/detail_2010_04/07/513815_0.shtml |archive-date=2023-08-05 |access-date=2023-08-05 |website=fashion.ifeng.com}}</ref><ref name=":0">{{Cite web |date=2014-01-24 |title=Beijing Today (May 19, 2006) by Beijing Today (《今日北京》英文周报) - Issuu |url=https://issuu.com/beijingtoday/docs/2006-05-19 |archive-url=https://web.archive.org/web/20230606184419/https://issuu.com/beijingtoday/docs/2006-05-19 |archive-date=2023-06-06 |access-date=2023-06-03 |website=issuu.com |language=en}}</ref>彼女の2冊目の作品『湯加麗人体芸術撮影』が2004年に発売されて以降,彼女の写真は非常に注目され、検索数も増加しました。<ref>{{Cite web |date=2009-03-01 |title=今日の美女ランキング |url=http://top.baidu.com/girls.html |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20090301162551/https://top.baidu.com/girls.html |archive-date=2009-03-01 |quote=2009年3月1日時点での湯加麗の総検索数:244,476,975;Top50ランクイン日数:2453;平均日検索数:122,117 |access-date=2009-03-01}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} [[Category:芸術と裸]] [[Category:合肥出身の人物]]
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古代北ユーラシア人
考古遺伝学では、古代北ユーラシア人(ANE)という用語は、マルタ・ビュレット文化(c. 24,000 BP)の人々や、シベリアのアフォントヴァ山遺跡の後期旧石器時代の人々のような、彼らに近縁の集団の系統を表す祖先構成要素に与えられる名前である。遺伝学的研究によると、ANEはヤナRHS遺跡(英語: Yana Rhinoceros Horn Site)(c. 32,000BP)に先行する2つの古代標本に代表される古代北シベリア人(ANS)と近縁である。古代北シベリア人(ANS)は、それ以前の古代北シベリア人(ANS)集団の子孫と考えることもできるし、古代北シベリア人(ANS)と古代北ユーラシア人(ANE)の両方が、分化はしているものの密接に関連した姉妹系統であり、どちらも初期の西ユーラシア狩猟採集民(代表的なものとしてはコステンキ遺跡(英語: Kostyonki–Borshchyovo)c. 40,000 BP),古代東ユーラシア人集団との混交から生まれたと考えることもできる。古代北ユーラシア人(ANE)も古代北シベリア人(ANS)も、その祖先の約1/3は初期東ユーラシアの系統に由来し、約2/3は初期西ユーラシアの系統に由来する。 2万年から2万5千年前頃に、古代北ユーラシア人の一派が古代北部東アジア人(ANEA)と混血し、パレオ・インディアン、古代ベリンジア人(英語: Ancient Beringian)、古代古シベリア人の集団が出現した。この集団の混血がどこで起こったのかは正確にはわかっておらず、2つの対立する説が、古代北ユーラシア人と古代東アジア人の集団を結びつける異なった移動シナリオを提唱している。 古代北ユーラシア人(ANE)は、後期旧石器時代以来、様々な移動の中でユーラシア大陸とアメリカ大陸に広がっており、今日の世界人口の半分以上は、そのゲノムの5〜40%が古代北ユーラシア人に由来している。多くの古代北ユーラシア人(ANE)はアメリカ大陸の先住民族や北ヨーロッパ、南アジア、中央アジア、シベリアの地域に見られる。彼らの神話には、インド・ヨーロッパ語族とネイティブ・アメリカンの寓話に見られる、死後の世界への道を犬が守るという物語が含まれている可能性が示唆されている。 古代北ユーラシア人(ANE)の系統は、1920年代に発見された中央シベリアのマリタ遺跡から出土した2万4千年前の最終氷期極大期に生きていた少年の個体の遺骨:MA-1との関連によって定義される。ヤナRHS遺跡(英語: Yana Rhinoceros Horn Site)のサンプル、アフォントヴァ山遺跡の個体とともに「古代北シベリア人」と総称される。 古代北ユーラシア人は、旧石器時代および中石器時代のヨーロッパの狩猟採集民と深い関わりを持つ、より大きなユーラシア遺伝子プールの遺伝的多様性の中で、明確なクラスターを代表している。現生人類の集団に見られる祖先としての古代北ユーラシア人(ANE)は、マリタ遺跡の個体やヤナRHS遺跡の個体ではなく、アフォントヴァ山遺跡の個体につながる集団からもたらされたものが大部分であることが示唆されている。 古代北ユーラシア人の遺伝子プールの形成は、ヨーロッパの狩猟採集民に深く関係する西ユーラシア初期の後期旧石器時代(UP)の系統と、古代東ユーラシア人の系統の合併によって、非常に早い時期に起こった可能性が高い。後期旧石器時代の初期(IUP)系統は、現代の東アジアや東南アジアの集団の基底にある。北東シベリアのヤナRHS遺跡(31,600BP)、マルタ・ビュレット文化、およびアフォントヴァ山遺跡の古代北ユーラシア人(ANE)/古代北シベリア人(ANS)関連サンプルは、祖先の約2/3が初期西ユーラシア人(約38kya)に由来し、初期東ユーラシア人(>40kya)の寄与が22-50%と、ばらつきはあるが大きい。西ユーラシアの祖先はロシアのコステンキ-14、ロシアのスンギル、ルーマニアの Peștera Muierilor などのヨーロッパの狩猟採集民に見られる祖先と関連付けることができ、東ユーラシアの祖先は東ユーラシアの深い系統と関連付けることができる、その一方で、彼らの東ユーラシアの祖先は東ユーラシアの深い系統に関連付けることができる。例えば、現代の東/東南アジア人の祖先である旧石器時代の田園洞人だけでなく、すべての古代東ユーラシア人(オーストラリア人など)の祖先である初期のウスト・イシム人など、複数の初期の東ユーラシアの標本との親和性を示している。古代北ユーラシア人の中の東ユーラシア人の構成要素の正確な起源はまだ明らかにされていないが、田園洞人の姉妹系統として最もよく表されている 。 グレベニュクらは、古代北ユーラシア人は古代北シベリアのヤナRHS遺跡の出土人骨の属する集団の子孫であり、それは初期後期旧石器時代の狩猟民族であり、同時代の南シベリアの遺跡に関連する同様の集団と結びついていたとまとめている。これらの南シベリアと中央アジアの狩猟民族のコミュニティは、解剖学的な現生人類がシベリアに移動した初期の波のひとつに属していた。著者らは、「解剖学的に現生人類による北東アジアへの最初の人口移動は、西から東へ、あるいは南から北へ起こった可能性がある」とまとめている。シコラらは、古代北ユーラシア人(マリタ遺跡とアフォントヴァ山遺跡の個体)は古代北シベリアのヤナRHS遺跡の集団の直接の子孫である可能性は低いと指摘し、むしろ両者は共通の祖先を共有する姉妹系統であると主張している。シコラらによれば、マルタのサンプルはさらに初期のコーカサス狩猟採集民(英語: Caucasus hunter-gatherer)の遺伝子流入も受けている可能性がある(約11%)。しかし、このシナリオはMaierら2023年によって疑問視されており、この結論は他の発表論文と矛盾しており、古代北ユーラシア人(ANE)集団とコーカサス狩猟採集民(CHG)集団の間で観察された親和性と同様に遺伝子流動の方向性も混血グラフの分析では証明できず、さらなる調査が必要であるとしている。 リプソンとライヒ(2017)は、マルタのサンプルをモデル化して、西ユーラシアを祖先とし、東アジア人の基底系統(アミ族に代表される)からの混血を追加した。また、マルタから東アジア人への逆遺伝子流入の可能性にも言及したが、これは利用可能なデータではあまり支持されなかった。Yangら(2020a,b)は、マルタ標本とヤナ標本の両方が、ヨーロッパの狩猟採集民であるKostenki-14の姉妹系統と、基原東アジア人である田園洞人の基原系統または同時代の系統の合併から形成されたことを裏付けた。 その一方で、古代北ユーラシア人(ANE)から田園洞人や現代の東アジア人への遺伝子の逆流を示す証拠は見つかっていない。他の研究では、古代北ユーラシア人(ANE)と田園洞人(または他の上部旧石器時代の東/東南アジアの標本)との間の共通の親和性を再現することができ、また、田園洞人と少なくない量の古代北ユーラシア人(ANE)祖先系統を受け取った東ヨーロッパ狩猟採集民との間のより高い親和性も確認された。 3万2千ya頃までには、古代北ユーラシア人(ANE)に関連する祖先を持つ集団がユーラシア大陸北東部に広く分布していたと考えられる。彼らはアラスカやユーコンまで拡大した可能性があるが、最終氷期極大期により厳しい気候条件が到来したため、高緯度地域を放棄せざるを得なくなった。 マリタ遺跡から出土した人骨であるMA-1とアフォントヴァ山遺跡から出土した人骨に遺伝的に類似した集団は、重要な順にアメリカ先住民、ヨーロッパ人、古代中央アジア人、南アジア人、いくつかの東アジアの集団に遺伝的に重要な一定以上の貢献をした。Lazaridisら(2016:10)は「ユーラシア大陸の東西の範囲にわたるANEの祖先の連続変異」に注目している。2016年の研究によると、古代北ユーラシア人(ANE)の祖先を世界で最大で最も多く受け継いでいるのは現代のケット人、マンシ人、アメリカ大陸先住民、セリクプ人である。 古代の青銅器時代のステップヤムナ文化とアファナシェヴァ文化の文化から出土する人骨は、50%程度の有意な古代北ユーラシア人(ANE)の成分を有することが判明した。Moreno-Mayarら(2018)によると、アメリカ先住民の祖先の14%から38%は、古代北ユーラシア人(ANE)であるマリタ遺跡出土人骨の集団からの遺伝子流入に由来する可能性がある。この違いは、後発の「ネオ・シベリア系」移住がアメリカ大陸に浸透したことに起因しており、古代北ユーラシア人(ANE)の祖先の割合が最も低いのはイヌイットとアラスカ先住民で、これらのグループはおよそ5,000年前にアメリカ大陸に移住した結果である。第一波のアメリカ先住民におけるANEの祖先の推定は、南アメリカのアンデス地域に属する人々の42%など、より高いパーセンテージを示している。アメリカ先住民におけるもうひとつの遺伝子の流れ(彼らの祖先の残り)は、東アジアに関連した起源であり、具体的には3万年ほど前に他の東アジア人と分岐した。約17,000年前のシベリア中南部の別のアフォントヴァ山遺跡出土人骨(Afontova Gora-2)の遺伝子配列決定から、マリタ遺跡出土人骨(Mal'ta boy-1)と同様の常染色体の遺伝的特徴が明らかになり、この地域が最終氷期最盛期を通じて人類によって継続的に占領されていたことが示唆された。 ゲノム研究はまた、古代北ユーラシア人(ANE)の構成要素は旧石器時代よりずっと後に、ヤムナヤ文化に関連する人々によって西ヨーロッパに持ち込まれたことが示している。それは現代のヨーロッパ人でも報告されている(10%~20%)。旧石器時代の東ヨーロッパ狩猟採集民との交流を通じて、ヨーロッパの集団に追加的な古代北ユーラシア人(ANE)の祖先系統が見つかっており、そこからスカンジナビアの狩猟採集民のような集団が生まれた。 シベリアのデニソワ洞窟で発見された古代北ユーラシア人(ANE)の時代の女性の遺伝子が染み込んだ鹿の歯のペンダントは、現在から約24,700年前のものである。彼女は、さらに東で発見されたマリタ遺跡やアフォントヴァ山遺跡の出土人骨の標本と近縁である。 古代の田園洞人と現代の東/東南アジアの集団は、後期旧石器時代の西ユーラシアまたはANE関連の混血を欠いていることが判明しており、このことは、「これらの集団が、流入してきた旧石器時代の集団移動に抵抗していた」こと、あるいは、遺伝的に東アジアに類似した集団リザーバーからの再拡大であったことを示唆している。 ジェニファー・ラフによれば、古代北ユーラシアの集団は、2万5千年ほど前に古代東アジアの娘集団と遭遇して混血し、それがアメリカ大陸の先住民の祖先集団の出現につながったという。しかし、混血が起こった正確な場所は不明であり、2つの集団を統合した移動の動きについても議論の余地がある。 一説によると、古代の北ユーラシア人は南下して東アジア、または南シベリアに移動し、そこで古代の東アジア人と遭遇して混血したと考えられている。モンゴルのバイカル湖から得られた遺伝学的証拠は、この地域が混血が起こった場所であることを支持している。 しかし、第三の説である「ベーリンジアン行き詰まり仮説」は、東アジア人が代わりに北から北東シベリアに移動し、そこで古代北ユーラシア人(ANE)と混血し、後にベーリンジアで分岐し、そこで明確なアメリカ先住民の系統が形成されたというものである。この説はmtDNA(母系)と常染色体DNAの証拠によって支持されている。グレベニュクによれば、2万年前以降、古代東アジア人の一派がシベリア北東部に移動し、古代北ユーラシア人(ANE)の子孫と混血した結果、極東アジアの極限の地に古代古シベリア人とアメリカ大陸の先住民が出現したという。しかし、ベーリンジア行き詰まり仮説はY-DNA(父系)のDNA証拠によって支持されていない。これはアメリカ先住民における父系と母系の異なる集団史を反映している可能性があり、これは珍しいことではなく、他の集団でも観察されている。 古代北ユーラシア人(ANE)と古代東アジア人の混血の子孫には、古代ベーリンジア人(英語: Ancient Beringian)/パレオ・インディアン(古代アメリカ先住民)が含まれる。これは、アップワード・サンリバー遺跡(USR1と呼ばれる)で発見された11,500年前の幼児のゲノムに基づく、特定の考古遺伝学的系統である。古代ベーリンジア人(AB)と祖先系統アメリカ先住民(Ancestral Native American:ANA)の系統は約25,000年前に形成され、その後互いに分岐し、古代ベーリンジア人(AB)はベーリンジア地域に留まり、祖先系統アメリカ先住民はアメリカ大陸に居住した。後期旧石器時代のアメリカ先住民(アラスカ州の11,500BPとされるアップワード・サンリバー(USR1)標本、モンタナ州の12,600BPとされるクローヴィス文化標本)に対する古代北ユーラシア人(ANE)の遺伝的寄与率は約36.8%と推定される。また、後期旧石器時代の後期のバイカル湖付近のUst'Kyakhta遺跡出土の14,050-13,770BPの人骨であるUst'Kyakhta-3(UKY)に代表される古代古シベリア人もいる。彼らの祖先は30%がANE、70%が東アジア人である。 日本の新石器時代以前の人々である縄文人の祖先は主に東アジアの系統に由来するが、アジア大陸から日本列島に移動する前に古代北ユーラシア人(ANE)に関連する古代北シベリア人(ヤナRHS遺跡からのサンプルに代表される)からも遺伝子流入を受けた。縄文人の祖先は、現在の日本の住民の中にも残っている。最も顕著なのは、縄文人の直系の子孫と考えられているアイヌ民族であり、日本人の大半の中にも、わずかではあるがかなりの程度残っている。 アルタイ狩猟採集民は、南シベリアのアルタイ=サヤン地域内の中期完新世のシベリア狩猟採集民に与えられた名称である。古シベリア人と古代北ユーラシア人の混血に由来し、アメリカ先住民との親和性が高い。重要な古代北ユーラシア人(ANE)祖先を持つ北アジアや内陸アジアの青銅器時代のグループ(例えばバイカル湖の狩猟採集民、オクネフ牧畜民)は、近接した古代北ユーラシア人(ANE)由来の祖先源としてアルタイの狩猟採集民とうまくモデル化することができる。オクネフ文化人とボタイ文化(英語: Botai)は古代北ユーラシア人(ANE)、特にマルタ・ビュレット文化人の直系の子孫と考えることができる。 西シベリア狩猟採集民(WSHG)は、Narasimhanら(2019)によって初めて報告された特定の考古遺伝学的系統である。20%の東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)、73%の古代北ユーラシア人(ANE)、6%の古代北東アジア人(ANA)としてモデル化できる。紀元前5,000年頃のウラル山脈の東に位置するロシア森林地帯のチュメニ州から採取された3人の狩猟採集民にしか代表されないが,青銅器時代までの中央アジアのさまざまな集団で高レベルの西シベリア狩猟採集民(WSHG)のような祖先が検出される。ボタイ文化の集団は、おそらく西シベリア狩猟採集民(WSHG)の直接の子孫ではないが、西シベリア狩猟採集民(WSHG)の系統と高い親和性を示している。 バイカル湖完新世 - 新石器時代から初期青銅器時代の古代北東アジア人(ANA)のうち、バイカル銅器時代(Baikal Eneolithic:Baikal_EN)とバイカル初期青銅器時代(Early Baikal Bronze Age:Baikal_EBA)は6.4%から20.1%の祖先が古代北ユーラシア人(ANE)に由来し、残りの祖先は古代北東アジア人(ANA)に由来する。バイカル湖畔の銅器時代のFofonovo(Fofonovo_EN)遺跡出土人骨では、12-17%の古代北ユーラシア人(ANE)系祖先と83-87%の古代北部東アジア人(ANA)系祖先が混在していた。 タリムのミイラ 2021年に行われたタリムのミイラ(英語: Tarim mummies)の遺伝学的研究によって、彼らは主にアフォントヴァ山遺跡標本3(AG3)に代表される集団の子孫であることが判明し、遺伝学的に「高い親和性」を示した。アフォントヴァ山遺跡標本3の遺伝子プロファイルは、タリムのミイラの祖先の約72%に相当する。 残りの28%はバイカルEBA(青銅器時代初期の古代北東アジア人、バイカル湖の集団)に代表される集団に由来する。。 したがってタリムのミイラは古代北ユーラシア人(ANE、特にマリタ遺跡とアフォントヴァ山遺跡の集団)に祖先の大部分を持つ稀な完新世の集団である。 ただし時間的な距離は離れている(約14,000年)。タリム盆地の一種の「遺伝的ボトルネック 」の中で生存し、古代北ユーラシア人(ANE)の祖先を保存し、永続させてきたタリムのミイラは、他のどの古代集団よりも、古代北ユーラシア人の「最良の代表 」とみなすことができる。 Lazaridisら(2014年)は、現代ヨーロッパの集団の中にANEの祖先を20%以内の割合で検出した。古代ヨーロッパの集団では、ヤムナヤ人の検査でANEの遺伝的要素が見られるが、縄目文土器文化以前の西ヨーロッパ人や中央ヨーロッパ人の検査では見られない:古代北ユーラシア人(ANE)の祖先は東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)系統によってヨーロッパの遺伝子プールに導入され、その祖先には古代北ユーラシア人(ANE)からの影響が9%から最大75%に達し、残りの祖先は西ヨーロッパ狩猟採集民(WHG)とは異なるが近縁のグループに由来する。その代表はカレリアのユージニー・オレニー(英語: Yuzhny Oleny)遺跡出土の2個体で、1人は8.4kya頃のYハプログループR1a-M417、もう1人は7.2kya頃のYハプログループJ、そしてサマラの1人は7.6kya頃のYハプログループR1b-P297である。最終氷期極大期(LGM)が終わると、西ヨーロッパ狩猟採集民の系統と東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)の系統が東ヨーロッパで融合し、中石器時代のヨーロッパに古代北ユーラシア人(ANE)に由来する祖先が早くから存在するようになった。古代北ユーラシア人が東シベリアから西方へ移動する際に、西ヨーロッパ狩猟採集民や他の西ユーラシア人の集団も吸収したことを示唆する証拠がある。 スカンディナヴィア狩猟採集民(英語: Scandinavian Hunter-Gatherer)(SHG)は、紀元前6000年頃にスウェーデンのモタラに埋葬された複数の個体によって代表される。彼らは当初南からスカンジナビアに定住した西ヨーロッパ狩猟採集民の子孫であり、後に北からノルウェーの海岸を通ってスカンジナビアに入った東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)の混血を受けた。 西部ステップ牧畜民(WSH)は、ポントス・カスピ海草原のヤムナヤ文化に密接に関連する子孫を表す、明確な祖先構成要素に与えられた名前である。この祖先系統はしばしばヤムナヤ祖先系統またはステップ祖先系統と呼ばれ、東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)とコーカサス狩猟採集民(英語: Caucasus hunter-gatherer)(CHG)がほぼ同じ割合で形成された。 Raghavanら(2014年)とFuら(2016年)によるゲノム研究では、Mal'ta少年は褐色の目を持ち、比較的黒い髪と黒い肌を持っていた可能性が示唆されているが、この分析はDNAのカバー率が極めて低いため、色素の正確な予測ができない可能性があることに留意する必要がある。Mathieson, et al. (2018)は、このSNPのカバレッジが得られなかったため、マリタ遺跡の少年の標本Mal'ta 1が古代北ユーラシア人(ANE)の子孫の金髪に関連する派生対立遺伝子を持つかどうかを判断できなかった。 コズィンツェフ(2020)は、歴史的な南シベリアのオクネフ文化集団は、その祖先のほとんどを古代北ユーラシア人とその近縁者に由来しており、彼が「アメリカノイド」と名づけた明確な頭蓋計測表現型を持っており、これはシベリアにおける最初の人類の変異を表していると主張している。さらに彼は議論を進めて「ANEの構成要素の地理と年代が示すように、それを西ユーラシアと表現し、古代のコーカソイドとだけ結びつけるのは誤解を招く。どう見ても、それはコーカソイドとモンゴロイドの分裂以前に出現したものである」としている。 Zhangら(2021年)は、より初期のタリムのミイラの「西洋人」のような特徴は、古代北ユーラシア人の祖先系統によるものだと提唱した。初期のタリムのミイラに関する以前の頭蓋測定分析によると、彼らは独自のクラスターを形成しており、アンドロノヴォ文化やアファナシエヴォ文化と言ったヨーロッパ関連のステップ牧畜民とも、西アジアのバクトリア・マルギアナ複合文化の住民とも、さらに東の古代北東アジア人ともクラスターを形成していなかった。 金髪はSNP(一塩基多型)、KITLG遺伝子の変異対立遺伝子rs12821256と関連している。この対立遺伝子を持つ最古の個体は、アフォントヴァ山遺跡3から出土したシベリア中南部の古代北ユーラシア人(ANE)時代の女性であり、この個体はc. 17,000BPと推定されている(それ以前の古代北ユーラシア人(ANE)時代のマリタ遺跡から出土した少年は、この判定を行うための塩基配列カバレッジを欠いている)。対立遺伝子はその後、1万BP頃にサマラ、モタラ、ウクライナの古代北ユーラシア人(ANE)由来の東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)集団に現れ、その後西部ステップ牧畜民を持つ集団に現れる。Mathiesonら(2018)は、この対立遺伝子はユーラシア西部に広がる前に、古代の北ユーラシア集団に起源を持つと主張した。 遺伝学者デイヴィッド・ライヒは、金髪のKITLG遺伝子は、おそらくユーラシアの草原から、その祖先に古代北ユーラシア人を多く持つ集団による集団移動の波に乗ってヨーロッパ大陸に入ったのだろうと述べた。HanelとCarlberg(2020)も同様に、古代の北ユーラシアの祖先に由来する集団、具体的には東ヨーロッパ狩猟採集民とヤムナヤ文化人がこの遺伝子をヨーロッパ人に伝えたと報告している。この遺伝子はタリムのミイラの間でも発見された。 古代北ユーラシア人という用語は、遺伝的な橋でつながった交配ネットワークを指すが、比較神話学の研究者たちは、おそらく彼らは神話や信仰を共有しており、それは数千年もの間接触することのなかった、ポントス・カスピ海草原からアメリカ大陸に広がる文化圏内で証言された物語を比較することによって再構築することができると主張してきた。 異界を守る犬という神話は、原始インド・ヨーロッパ神話(英語: Proto-Indo-European mythology)、アメリカン先住民の宗教(英語: Native American religions)、シベリアのシャーマニズム(英語: Shamanism in Siberia)に見られる同様のモチーフから示唆されるように、おそらくもっと古い古代北ユーラシアの信仰に由来する。アメリカ大陸のスー語族、アルゴンキン族、中南米の信仰では、獰猛な番犬が天の川に位置し、死後の世界における魂の通り道として認識され、それを越えることが試練であった。シベリアのチュクチ族とツングース系民族は死後の世界の守護犬と、死者の魂を吸収して死後の世界でガイドとして働く霊犬を信じていた。インド・ヨーロッパ神話では、犬の姿はケルベロス、シャルヴァラとシャーマ(英語: Sharvara and Shyama)、ガルムによって具現化されている。ゾロアスター教では、2匹の4つ目の犬がチンバト橋と呼ばれる死後の世界への橋を守っている。デヴィッド・W・アンソニーとブラウンは、これは比較神話学によって回復可能な最も古い神話のテーマの1つかもしれないと指摘している。 第二のイヌに関連する一連の信仰、神話、儀式は、犬を死ではなく癒しと結びつけていた。例えば、古代近東やテュルク系民族-キプチャク人の神話は犬を癒しと関連付ける傾向があり、一般的に犬を不浄なものとして分類している。紀元前3500年とされるカザフスタンのボタイ文化の銅器時代の遺跡でも同様の神話パターンが想定されており、犬は病気を吸収し、病気や悪から家庭を守る守護者として表現されているのかもしれない。メソポタミアでは、癒しに関連する女神ニンティヌッガは犬に伴われたり象徴されたりしていた。ギリシャやイタリア、ヒッタイトの間でも同じような癒しと犠牲の儀式が行われていた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "考古遺伝学では、古代北ユーラシア人(ANE)という用語は、マルタ・ビュレット文化(c. 24,000 BP)の人々や、シベリアのアフォントヴァ山遺跡の後期旧石器時代の人々のような、彼らに近縁の集団の系統を表す祖先構成要素に与えられる名前である。遺伝学的研究によると、ANEはヤナRHS遺跡(英語: Yana Rhinoceros Horn Site)(c. 32,000BP)に先行する2つの古代標本に代表される古代北シベリア人(ANS)と近縁である。古代北シベリア人(ANS)は、それ以前の古代北シベリア人(ANS)集団の子孫と考えることもできるし、古代北シベリア人(ANS)と古代北ユーラシア人(ANE)の両方が、分化はしているものの密接に関連した姉妹系統であり、どちらも初期の西ユーラシア狩猟採集民(代表的なものとしてはコステンキ遺跡(英語: Kostyonki–Borshchyovo)c. 40,000 BP),古代東ユーラシア人集団との混交から生まれたと考えることもできる。古代北ユーラシア人(ANE)も古代北シベリア人(ANS)も、その祖先の約1/3は初期東ユーラシアの系統に由来し、約2/3は初期西ユーラシアの系統に由来する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "2万年から2万5千年前頃に、古代北ユーラシア人の一派が古代北部東アジア人(ANEA)と混血し、パレオ・インディアン、古代ベリンジア人(英語: Ancient Beringian)、古代古シベリア人の集団が出現した。この集団の混血がどこで起こったのかは正確にはわかっておらず、2つの対立する説が、古代北ユーラシア人と古代東アジア人の集団を結びつける異なった移動シナリオを提唱している。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "古代北ユーラシア人(ANE)は、後期旧石器時代以来、様々な移動の中でユーラシア大陸とアメリカ大陸に広がっており、今日の世界人口の半分以上は、そのゲノムの5〜40%が古代北ユーラシア人に由来している。多くの古代北ユーラシア人(ANE)はアメリカ大陸の先住民族や北ヨーロッパ、南アジア、中央アジア、シベリアの地域に見られる。彼らの神話には、インド・ヨーロッパ語族とネイティブ・アメリカンの寓話に見られる、死後の世界への道を犬が守るという物語が含まれている可能性が示唆されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "古代北ユーラシア人(ANE)の系統は、1920年代に発見された中央シベリアのマリタ遺跡から出土した2万4千年前の最終氷期極大期に生きていた少年の個体の遺骨:MA-1との関連によって定義される。ヤナRHS遺跡(英語: Yana Rhinoceros Horn Site)のサンプル、アフォントヴァ山遺跡の個体とともに「古代北シベリア人」と総称される。", "title": "遺伝子研究" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "古代北ユーラシア人は、旧石器時代および中石器時代のヨーロッパの狩猟採集民と深い関わりを持つ、より大きなユーラシア遺伝子プールの遺伝的多様性の中で、明確なクラスターを代表している。現生人類の集団に見られる祖先としての古代北ユーラシア人(ANE)は、マリタ遺跡の個体やヤナRHS遺跡の個体ではなく、アフォントヴァ山遺跡の個体につながる集団からもたらされたものが大部分であることが示唆されている。", "title": "遺伝子研究" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "古代北ユーラシア人の遺伝子プールの形成は、ヨーロッパの狩猟採集民に深く関係する西ユーラシア初期の後期旧石器時代(UP)の系統と、古代東ユーラシア人の系統の合併によって、非常に早い時期に起こった可能性が高い。後期旧石器時代の初期(IUP)系統は、現代の東アジアや東南アジアの集団の基底にある。北東シベリアのヤナRHS遺跡(31,600BP)、マルタ・ビュレット文化、およびアフォントヴァ山遺跡の古代北ユーラシア人(ANE)/古代北シベリア人(ANS)関連サンプルは、祖先の約2/3が初期西ユーラシア人(約38kya)に由来し、初期東ユーラシア人(>40kya)の寄与が22-50%と、ばらつきはあるが大きい。西ユーラシアの祖先はロシアのコステンキ-14、ロシアのスンギル、ルーマニアの Peștera Muierilor などのヨーロッパの狩猟採集民に見られる祖先と関連付けることができ、東ユーラシアの祖先は東ユーラシアの深い系統と関連付けることができる、その一方で、彼らの東ユーラシアの祖先は東ユーラシアの深い系統に関連付けることができる。例えば、現代の東/東南アジア人の祖先である旧石器時代の田園洞人だけでなく、すべての古代東ユーラシア人(オーストラリア人など)の祖先である初期のウスト・イシム人など、複数の初期の東ユーラシアの標本との親和性を示している。古代北ユーラシア人の中の東ユーラシア人の構成要素の正確な起源はまだ明らかにされていないが、田園洞人の姉妹系統として最もよく表されている 。", "title": "遺伝子研究" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "グレベニュクらは、古代北ユーラシア人は古代北シベリアのヤナRHS遺跡の出土人骨の属する集団の子孫であり、それは初期後期旧石器時代の狩猟民族であり、同時代の南シベリアの遺跡に関連する同様の集団と結びついていたとまとめている。これらの南シベリアと中央アジアの狩猟民族のコミュニティは、解剖学的な現生人類がシベリアに移動した初期の波のひとつに属していた。著者らは、「解剖学的に現生人類による北東アジアへの最初の人口移動は、西から東へ、あるいは南から北へ起こった可能性がある」とまとめている。シコラらは、古代北ユーラシア人(マリタ遺跡とアフォントヴァ山遺跡の個体)は古代北シベリアのヤナRHS遺跡の集団の直接の子孫である可能性は低いと指摘し、むしろ両者は共通の祖先を共有する姉妹系統であると主張している。シコラらによれば、マルタのサンプルはさらに初期のコーカサス狩猟採集民(英語: Caucasus hunter-gatherer)の遺伝子流入も受けている可能性がある(約11%)。しかし、このシナリオはMaierら2023年によって疑問視されており、この結論は他の発表論文と矛盾しており、古代北ユーラシア人(ANE)集団とコーカサス狩猟採集民(CHG)集団の間で観察された親和性と同様に遺伝子流動の方向性も混血グラフの分析では証明できず、さらなる調査が必要であるとしている。", "title": "遺伝子研究" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "リプソンとライヒ(2017)は、マルタのサンプルをモデル化して、西ユーラシアを祖先とし、東アジア人の基底系統(アミ族に代表される)からの混血を追加した。また、マルタから東アジア人への逆遺伝子流入の可能性にも言及したが、これは利用可能なデータではあまり支持されなかった。Yangら(2020a,b)は、マルタ標本とヤナ標本の両方が、ヨーロッパの狩猟採集民であるKostenki-14の姉妹系統と、基原東アジア人である田園洞人の基原系統または同時代の系統の合併から形成されたことを裏付けた。 その一方で、古代北ユーラシア人(ANE)から田園洞人や現代の東アジア人への遺伝子の逆流を示す証拠は見つかっていない。他の研究では、古代北ユーラシア人(ANE)と田園洞人(または他の上部旧石器時代の東/東南アジアの標本)との間の共通の親和性を再現することができ、また、田園洞人と少なくない量の古代北ユーラシア人(ANE)祖先系統を受け取った東ヨーロッパ狩猟採集民との間のより高い親和性も確認された。", "title": "遺伝子研究" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "3万2千ya頃までには、古代北ユーラシア人(ANE)に関連する祖先を持つ集団がユーラシア大陸北東部に広く分布していたと考えられる。彼らはアラスカやユーコンまで拡大した可能性があるが、最終氷期極大期により厳しい気候条件が到来したため、高緯度地域を放棄せざるを得なくなった。", "title": "遺伝子研究" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "マリタ遺跡から出土した人骨であるMA-1とアフォントヴァ山遺跡から出土した人骨に遺伝的に類似した集団は、重要な順にアメリカ先住民、ヨーロッパ人、古代中央アジア人、南アジア人、いくつかの東アジアの集団に遺伝的に重要な一定以上の貢献をした。Lazaridisら(2016:10)は「ユーラシア大陸の東西の範囲にわたるANEの祖先の連続変異」に注目している。2016年の研究によると、古代北ユーラシア人(ANE)の祖先を世界で最大で最も多く受け継いでいるのは現代のケット人、マンシ人、アメリカ大陸先住民、セリクプ人である。", "title": "遺伝子研究" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "古代の青銅器時代のステップヤムナ文化とアファナシェヴァ文化の文化から出土する人骨は、50%程度の有意な古代北ユーラシア人(ANE)の成分を有することが判明した。Moreno-Mayarら(2018)によると、アメリカ先住民の祖先の14%から38%は、古代北ユーラシア人(ANE)であるマリタ遺跡出土人骨の集団からの遺伝子流入に由来する可能性がある。この違いは、後発の「ネオ・シベリア系」移住がアメリカ大陸に浸透したことに起因しており、古代北ユーラシア人(ANE)の祖先の割合が最も低いのはイヌイットとアラスカ先住民で、これらのグループはおよそ5,000年前にアメリカ大陸に移住した結果である。第一波のアメリカ先住民におけるANEの祖先の推定は、南アメリカのアンデス地域に属する人々の42%など、より高いパーセンテージを示している。アメリカ先住民におけるもうひとつの遺伝子の流れ(彼らの祖先の残り)は、東アジアに関連した起源であり、具体的には3万年ほど前に他の東アジア人と分岐した。約17,000年前のシベリア中南部の別のアフォントヴァ山遺跡出土人骨(Afontova Gora-2)の遺伝子配列決定から、マリタ遺跡出土人骨(Mal'ta boy-1)と同様の常染色体の遺伝的特徴が明らかになり、この地域が最終氷期最盛期を通じて人類によって継続的に占領されていたことが示唆された。", "title": "遺伝子研究" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ゲノム研究はまた、古代北ユーラシア人(ANE)の構成要素は旧石器時代よりずっと後に、ヤムナヤ文化に関連する人々によって西ヨーロッパに持ち込まれたことが示している。それは現代のヨーロッパ人でも報告されている(10%~20%)。旧石器時代の東ヨーロッパ狩猟採集民との交流を通じて、ヨーロッパの集団に追加的な古代北ユーラシア人(ANE)の祖先系統が見つかっており、そこからスカンジナビアの狩猟採集民のような集団が生まれた。", "title": "遺伝子研究" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "シベリアのデニソワ洞窟で発見された古代北ユーラシア人(ANE)の時代の女性の遺伝子が染み込んだ鹿の歯のペンダントは、現在から約24,700年前のものである。彼女は、さらに東で発見されたマリタ遺跡やアフォントヴァ山遺跡の出土人骨の標本と近縁である。", "title": "遺伝子研究" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "古代の田園洞人と現代の東/東南アジアの集団は、後期旧石器時代の西ユーラシアまたはANE関連の混血を欠いていることが判明しており、このことは、「これらの集団が、流入してきた旧石器時代の集団移動に抵抗していた」こと、あるいは、遺伝的に東アジアに類似した集団リザーバーからの再拡大であったことを示唆している。", "title": "遺伝子研究" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ジェニファー・ラフによれば、古代北ユーラシアの集団は、2万5千年ほど前に古代東アジアの娘集団と遭遇して混血し、それがアメリカ大陸の先住民の祖先集団の出現につながったという。しかし、混血が起こった正確な場所は不明であり、2つの集団を統合した移動の動きについても議論の余地がある。", "title": "古代北ユーラシア人から部分的に派生した集団" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "一説によると、古代の北ユーラシア人は南下して東アジア、または南シベリアに移動し、そこで古代の東アジア人と遭遇して混血したと考えられている。モンゴルのバイカル湖から得られた遺伝学的証拠は、この地域が混血が起こった場所であることを支持している。", "title": "古代北ユーラシア人から部分的に派生した集団" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "しかし、第三の説である「ベーリンジアン行き詰まり仮説」は、東アジア人が代わりに北から北東シベリアに移動し、そこで古代北ユーラシア人(ANE)と混血し、後にベーリンジアで分岐し、そこで明確なアメリカ先住民の系統が形成されたというものである。この説はmtDNA(母系)と常染色体DNAの証拠によって支持されている。グレベニュクによれば、2万年前以降、古代東アジア人の一派がシベリア北東部に移動し、古代北ユーラシア人(ANE)の子孫と混血した結果、極東アジアの極限の地に古代古シベリア人とアメリカ大陸の先住民が出現したという。しかし、ベーリンジア行き詰まり仮説はY-DNA(父系)のDNA証拠によって支持されていない。これはアメリカ先住民における父系と母系の異なる集団史を反映している可能性があり、これは珍しいことではなく、他の集団でも観察されている。", "title": "古代北ユーラシア人から部分的に派生した集団" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "古代北ユーラシア人(ANE)と古代東アジア人の混血の子孫には、古代ベーリンジア人(英語: Ancient Beringian)/パレオ・インディアン(古代アメリカ先住民)が含まれる。これは、アップワード・サンリバー遺跡(USR1と呼ばれる)で発見された11,500年前の幼児のゲノムに基づく、特定の考古遺伝学的系統である。古代ベーリンジア人(AB)と祖先系統アメリカ先住民(Ancestral Native American:ANA)の系統は約25,000年前に形成され、その後互いに分岐し、古代ベーリンジア人(AB)はベーリンジア地域に留まり、祖先系統アメリカ先住民はアメリカ大陸に居住した。後期旧石器時代のアメリカ先住民(アラスカ州の11,500BPとされるアップワード・サンリバー(USR1)標本、モンタナ州の12,600BPとされるクローヴィス文化標本)に対する古代北ユーラシア人(ANE)の遺伝的寄与率は約36.8%と推定される。また、後期旧石器時代の後期のバイカル湖付近のUst'Kyakhta遺跡出土の14,050-13,770BPの人骨であるUst'Kyakhta-3(UKY)に代表される古代古シベリア人もいる。彼らの祖先は30%がANE、70%が東アジア人である。", "title": "古代北ユーラシア人から部分的に派生した集団" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "日本の新石器時代以前の人々である縄文人の祖先は主に東アジアの系統に由来するが、アジア大陸から日本列島に移動する前に古代北ユーラシア人(ANE)に関連する古代北シベリア人(ヤナRHS遺跡からのサンプルに代表される)からも遺伝子流入を受けた。縄文人の祖先は、現在の日本の住民の中にも残っている。最も顕著なのは、縄文人の直系の子孫と考えられているアイヌ民族であり、日本人の大半の中にも、わずかではあるがかなりの程度残っている。", "title": "古代北ユーラシア人から部分的に派生した集団" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "アルタイ狩猟採集民は、南シベリアのアルタイ=サヤン地域内の中期完新世のシベリア狩猟採集民に与えられた名称である。古シベリア人と古代北ユーラシア人の混血に由来し、アメリカ先住民との親和性が高い。重要な古代北ユーラシア人(ANE)祖先を持つ北アジアや内陸アジアの青銅器時代のグループ(例えばバイカル湖の狩猟採集民、オクネフ牧畜民)は、近接した古代北ユーラシア人(ANE)由来の祖先源としてアルタイの狩猟採集民とうまくモデル化することができる。オクネフ文化人とボタイ文化(英語: Botai)は古代北ユーラシア人(ANE)、特にマルタ・ビュレット文化人の直系の子孫と考えることができる。", "title": "古代北ユーラシア人から部分的に派生した集団" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "西シベリア狩猟採集民(WSHG)は、Narasimhanら(2019)によって初めて報告された特定の考古遺伝学的系統である。20%の東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)、73%の古代北ユーラシア人(ANE)、6%の古代北東アジア人(ANA)としてモデル化できる。紀元前5,000年頃のウラル山脈の東に位置するロシア森林地帯のチュメニ州から採取された3人の狩猟採集民にしか代表されないが,青銅器時代までの中央アジアのさまざまな集団で高レベルの西シベリア狩猟採集民(WSHG)のような祖先が検出される。ボタイ文化の集団は、おそらく西シベリア狩猟採集民(WSHG)の直接の子孫ではないが、西シベリア狩猟採集民(WSHG)の系統と高い親和性を示している。", "title": "古代北ユーラシア人から部分的に派生した集団" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "バイカル湖完新世 - 新石器時代から初期青銅器時代の古代北東アジア人(ANA)のうち、バイカル銅器時代(Baikal Eneolithic:Baikal_EN)とバイカル初期青銅器時代(Early Baikal Bronze Age:Baikal_EBA)は6.4%から20.1%の祖先が古代北ユーラシア人(ANE)に由来し、残りの祖先は古代北東アジア人(ANA)に由来する。バイカル湖畔の銅器時代のFofonovo(Fofonovo_EN)遺跡出土人骨では、12-17%の古代北ユーラシア人(ANE)系祖先と83-87%の古代北部東アジア人(ANA)系祖先が混在していた。", "title": "古代北ユーラシア人から部分的に派生した集団" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "タリムのミイラ 2021年に行われたタリムのミイラ(英語: Tarim mummies)の遺伝学的研究によって、彼らは主にアフォントヴァ山遺跡標本3(AG3)に代表される集団の子孫であることが判明し、遺伝学的に「高い親和性」を示した。アフォントヴァ山遺跡標本3の遺伝子プロファイルは、タリムのミイラの祖先の約72%に相当する。 残りの28%はバイカルEBA(青銅器時代初期の古代北東アジア人、バイカル湖の集団)に代表される集団に由来する。。", "title": "古代北ユーラシア人から部分的に派生した集団" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "したがってタリムのミイラは古代北ユーラシア人(ANE、特にマリタ遺跡とアフォントヴァ山遺跡の集団)に祖先の大部分を持つ稀な完新世の集団である。 ただし時間的な距離は離れている(約14,000年)。タリム盆地の一種の「遺伝的ボトルネック 」の中で生存し、古代北ユーラシア人(ANE)の祖先を保存し、永続させてきたタリムのミイラは、他のどの古代集団よりも、古代北ユーラシア人の「最良の代表 」とみなすことができる。", "title": "古代北ユーラシア人から部分的に派生した集団" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "Lazaridisら(2014年)は、現代ヨーロッパの集団の中にANEの祖先を20%以内の割合で検出した。古代ヨーロッパの集団では、ヤムナヤ人の検査でANEの遺伝的要素が見られるが、縄目文土器文化以前の西ヨーロッパ人や中央ヨーロッパ人の検査では見られない:古代北ユーラシア人(ANE)の祖先は東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)系統によってヨーロッパの遺伝子プールに導入され、その祖先には古代北ユーラシア人(ANE)からの影響が9%から最大75%に達し、残りの祖先は西ヨーロッパ狩猟採集民(WHG)とは異なるが近縁のグループに由来する。その代表はカレリアのユージニー・オレニー(英語: Yuzhny Oleny)遺跡出土の2個体で、1人は8.4kya頃のYハプログループR1a-M417、もう1人は7.2kya頃のYハプログループJ、そしてサマラの1人は7.6kya頃のYハプログループR1b-P297である。最終氷期極大期(LGM)が終わると、西ヨーロッパ狩猟採集民の系統と東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)の系統が東ヨーロッパで融合し、中石器時代のヨーロッパに古代北ユーラシア人(ANE)に由来する祖先が早くから存在するようになった。古代北ユーラシア人が東シベリアから西方へ移動する際に、西ヨーロッパ狩猟採集民や他の西ユーラシア人の集団も吸収したことを示唆する証拠がある。", "title": "古代北ユーラシア人から部分的に派生した集団" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "スカンディナヴィア狩猟採集民(英語: Scandinavian Hunter-Gatherer)(SHG)は、紀元前6000年頃にスウェーデンのモタラに埋葬された複数の個体によって代表される。彼らは当初南からスカンジナビアに定住した西ヨーロッパ狩猟採集民の子孫であり、後に北からノルウェーの海岸を通ってスカンジナビアに入った東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)の混血を受けた。", "title": "古代北ユーラシア人から部分的に派生した集団" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "西部ステップ牧畜民(WSH)は、ポントス・カスピ海草原のヤムナヤ文化に密接に関連する子孫を表す、明確な祖先構成要素に与えられた名前である。この祖先系統はしばしばヤムナヤ祖先系統またはステップ祖先系統と呼ばれ、東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)とコーカサス狩猟採集民(英語: Caucasus hunter-gatherer)(CHG)がほぼ同じ割合で形成された。", "title": "古代北ユーラシア人から部分的に派生した集団" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "Raghavanら(2014年)とFuら(2016年)によるゲノム研究では、Mal'ta少年は褐色の目を持ち、比較的黒い髪と黒い肌を持っていた可能性が示唆されているが、この分析はDNAのカバー率が極めて低いため、色素の正確な予測ができない可能性があることに留意する必要がある。Mathieson, et al. (2018)は、このSNPのカバレッジが得られなかったため、マリタ遺跡の少年の標本Mal'ta 1が古代北ユーラシア人(ANE)の子孫の金髪に関連する派生対立遺伝子を持つかどうかを判断できなかった。", "title": "表現型の予測" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "コズィンツェフ(2020)は、歴史的な南シベリアのオクネフ文化集団は、その祖先のほとんどを古代北ユーラシア人とその近縁者に由来しており、彼が「アメリカノイド」と名づけた明確な頭蓋計測表現型を持っており、これはシベリアにおける最初の人類の変異を表していると主張している。さらに彼は議論を進めて「ANEの構成要素の地理と年代が示すように、それを西ユーラシアと表現し、古代のコーカソイドとだけ結びつけるのは誤解を招く。どう見ても、それはコーカソイドとモンゴロイドの分裂以前に出現したものである」としている。", "title": "表現型の予測" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "Zhangら(2021年)は、より初期のタリムのミイラの「西洋人」のような特徴は、古代北ユーラシア人の祖先系統によるものだと提唱した。初期のタリムのミイラに関する以前の頭蓋測定分析によると、彼らは独自のクラスターを形成しており、アンドロノヴォ文化やアファナシエヴォ文化と言ったヨーロッパ関連のステップ牧畜民とも、西アジアのバクトリア・マルギアナ複合文化の住民とも、さらに東の古代北東アジア人ともクラスターを形成していなかった。", "title": "表現型の予測" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "金髪はSNP(一塩基多型)、KITLG遺伝子の変異対立遺伝子rs12821256と関連している。この対立遺伝子を持つ最古の個体は、アフォントヴァ山遺跡3から出土したシベリア中南部の古代北ユーラシア人(ANE)時代の女性であり、この個体はc. 17,000BPと推定されている(それ以前の古代北ユーラシア人(ANE)時代のマリタ遺跡から出土した少年は、この判定を行うための塩基配列カバレッジを欠いている)。対立遺伝子はその後、1万BP頃にサマラ、モタラ、ウクライナの古代北ユーラシア人(ANE)由来の東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)集団に現れ、その後西部ステップ牧畜民を持つ集団に現れる。Mathiesonら(2018)は、この対立遺伝子はユーラシア西部に広がる前に、古代の北ユーラシア集団に起源を持つと主張した。", "title": "表現型の予測" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "遺伝学者デイヴィッド・ライヒは、金髪のKITLG遺伝子は、おそらくユーラシアの草原から、その祖先に古代北ユーラシア人を多く持つ集団による集団移動の波に乗ってヨーロッパ大陸に入ったのだろうと述べた。HanelとCarlberg(2020)も同様に、古代の北ユーラシアの祖先に由来する集団、具体的には東ヨーロッパ狩猟採集民とヤムナヤ文化人がこの遺伝子をヨーロッパ人に伝えたと報告している。この遺伝子はタリムのミイラの間でも発見された。", "title": "表現型の予測" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "古代北ユーラシア人という用語は、遺伝的な橋でつながった交配ネットワークを指すが、比較神話学の研究者たちは、おそらく彼らは神話や信仰を共有しており、それは数千年もの間接触することのなかった、ポントス・カスピ海草原からアメリカ大陸に広がる文化圏内で証言された物語を比較することによって再構築することができると主張してきた。", "title": "比較神話学" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "異界を守る犬という神話は、原始インド・ヨーロッパ神話(英語: Proto-Indo-European mythology)、アメリカン先住民の宗教(英語: Native American religions)、シベリアのシャーマニズム(英語: Shamanism in Siberia)に見られる同様のモチーフから示唆されるように、おそらくもっと古い古代北ユーラシアの信仰に由来する。アメリカ大陸のスー語族、アルゴンキン族、中南米の信仰では、獰猛な番犬が天の川に位置し、死後の世界における魂の通り道として認識され、それを越えることが試練であった。シベリアのチュクチ族とツングース系民族は死後の世界の守護犬と、死者の魂を吸収して死後の世界でガイドとして働く霊犬を信じていた。インド・ヨーロッパ神話では、犬の姿はケルベロス、シャルヴァラとシャーマ(英語: Sharvara and Shyama)、ガルムによって具現化されている。ゾロアスター教では、2匹の4つ目の犬がチンバト橋と呼ばれる死後の世界への橋を守っている。デヴィッド・W・アンソニーとブラウンは、これは比較神話学によって回復可能な最も古い神話のテーマの1つかもしれないと指摘している。", "title": "比較神話学" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "第二のイヌに関連する一連の信仰、神話、儀式は、犬を死ではなく癒しと結びつけていた。例えば、古代近東やテュルク系民族-キプチャク人の神話は犬を癒しと関連付ける傾向があり、一般的に犬を不浄なものとして分類している。紀元前3500年とされるカザフスタンのボタイ文化の銅器時代の遺跡でも同様の神話パターンが想定されており、犬は病気を吸収し、病気や悪から家庭を守る守護者として表現されているのかもしれない。メソポタミアでは、癒しに関連する女神ニンティヌッガは犬に伴われたり象徴されたりしていた。ギリシャやイタリア、ヒッタイトの間でも同じような癒しと犠牲の儀式が行われていた。", "title": "比較神話学" } ]
考古遺伝学では、古代北ユーラシア人(ANE)という用語は、マルタ・ビュレット文化の人々や、シベリアのアフォントヴァ山遺跡の後期旧石器時代の人々のような、彼らに近縁の集団の系統を表す祖先構成要素に与えられる名前である。遺伝学的研究によると、ANEはヤナRHS遺跡(c. 32,000BP)に先行する2つの古代標本に代表される古代北シベリア人(ANS)と近縁である。古代北シベリア人(ANS)は、それ以前の古代北シベリア人(ANS)集団の子孫と考えることもできるし、古代北シベリア人(ANS)と古代北ユーラシア人(ANE)の両方が、分化はしているものの密接に関連した姉妹系統であり、どちらも初期の西ユーラシア狩猟採集民(代表的なものとしてはコステンキ遺跡c. 40,000 BP),古代東ユーラシア人集団との混交から生まれたと考えることもできる。古代北ユーラシア人(ANE)も古代北シベリア人(ANS)も、その祖先の約1/3は初期東ユーラシアの系統に由来し、約2/3は初期西ユーラシアの系統に由来する。 2万年から2万5千年前頃に、古代北ユーラシア人の一派が古代北部東アジア人(ANEA)と混血し、パレオ・インディアン、古代ベリンジア人、古代古シベリア人の集団が出現した。この集団の混血がどこで起こったのかは正確にはわかっておらず、2つの対立する説が、古代北ユーラシア人と古代東アジア人の集団を結びつける異なった移動シナリオを提唱している。 古代北ユーラシア人(ANE)は、後期旧石器時代以来、様々な移動の中でユーラシア大陸とアメリカ大陸に広がっており、今日の世界人口の半分以上は、そのゲノムの5〜40%が古代北ユーラシア人に由来している。多くの古代北ユーラシア人(ANE)はアメリカ大陸の先住民族や北ヨーロッパ、南アジア、中央アジア、シベリアの地域に見られる。彼らの神話には、インド・ヨーロッパ語族とネイティブ・アメリカンの寓話に見られる、死後の世界への道を犬が守るという物語が含まれている可能性が示唆されている。
{{short description|Archaeogenetic name for an ancestral genetic component}} {{Infobox archaeological culture | name = 古代北ユーラシア人 | map = {{multiple image|perrow=1|total_width=302|caption_align=center | align = center | border=none | direction =horizontal | image1 = Figurines from central Siberia Mal'ta (grey background).jpg | caption1=[[マルタ・ビュレット文化]] 象牙の小立像 ({{c.|24,000 [[Before Present|BP]]}}-{{c.|15,000 BP}}). 一部の小立像は、装飾的な縞模様の入ったフード付きのオーバーオールを着ている<ref name="RGB">{{cite journal |last1=Bednarik |first1=Robert G. |title=Pleistocene Palaeoart of Asia |journal=Arts |date=2013 |volume=2 |issue=2 |pages=46–76 |doi=10.3390/arts2020046 |url=https://www.researchgate.net/publication/307759436 |doi-access=free }}</ref> <ref>{{cite journal |last1=Lbova |first1=Liudmila |title=The Siberian Palaeolithic Site of Mal'ta: A Unique Source for The Study of Childhood Archaeology |journal=Evolutionary Human Sciences|date=2021 |volume=2 |pages=e9 |doi=10.1017/ehs.2021.5 |pmid=37588521 |pmc=10427291 |s2cid=231980510 |doi-access=free }}</ref>。 | image2= | caption2= }} {{Location map+ |Continental Asia |overlay_image= Map of the Ancient North Eurasians.png | width=300 <!-- DO NOT CHANGE MAP SIZE (300) AS THIS WILL DISPLACE THE LABELS --> | float = center | border =none | nodiv = 1 | mini = 1 | relief = yes | places = {{Annotation|211|18|[[Mal'ta–Buret' culture|<span class="mw-no-invert" style="color:#4F311CFF">'''''マルタ–<br> ビュレット''''''</span>]]|text-align=center|font-weight=bold|font-style=normal|font-size=7|color=#000000}} {{Annotation|178|33|[[Afontova Gora|<span class="mw-no-invert" style="color:#4F311CFF">'''''アフォント<br>ヴァ・ゴラ'''''</span>]]|text-align=center|font-weight=bold|font-style=normal|font-size=7|color=#000000}} {{Annotation|145|22|[[Denisova Cave|<span class="mw-no-invert" style="color:#4F311CFF">'''''デニソワ<br>洞窟'''''</span>]]|text-align=center|font-weight=bold|font-style=normal|font-size=7|color=#000000}} {{location map~ |Continental Asia |lat=56.026404|N |long=92.736156|E |label=|position=right|label_size=0|mark=Basic red dot.png|marksize=4}} {{location map~ |Continental Asia |lat=52.850045|N |long=103.517383|E |label=|position=right|label_size=0|mark=Location dot blue.svg|marksize=4}} {{location map~ |Continental Asia |lat=51.3975|N |long=84.676111|E |label=|position=right|label_size=0|mark=Location dot black.svg|marksize=4}} {{Annotation|272|157|[[Template:Continental Asia in 20000 BP|<span class="mw-no-invert" style="color:#4F311CFF"> ◁ </span>]] [[Template:Continental Asia in 5000 BCE|<span class="mw-no-invert" style="color:#4F311CFF"> ▷ </span>]]|text-align=center|font-weight=bold|font-style=normal|font-size=12|color=#000000}} | caption= }} | mapcaption = 古代北ユーラシア人のおおよその位置 {{c.|24,000~16,000 BP}}<ref>{{cite journal |title=Paleolithic to Bronze Age Siberians Reveal Connections with First Americans and across Eurasia |journal=CELL |date=2020 |url=https://www.cell.com/cell/pdf/S0092-8674(20)30502-X.pdf?_returnURL=https%3A%2F%2Flinkinghub.elsevier.com%2Fretrieve%2Fpii%2FS009286742030502X%3Fshowall%3Dtrue#}}</ref><ref>{{cite journal |last1=Yang |first1=Melinda A. |title=A genetic history of migration, diversification, and admixture in Asia |journal=Human Population Genetics and Genomics |date=6 January 2022 |volume=2 |issue=1 |pages=1–32 |doi=10.47248/hpgg2202010001 |url=https://www.pivotscipub.com/hpgg/2/1/0001 |language=en |issn=2770-5005}}</ref><ref>{{cite journal |title=Willerslev, E., Meltzer, D.J. Peopling of the Americas as inferred from ancient genomics. Nature 594, 356–364 (2021) |journal=Nature |date=June 2021 |volume=594 |issue=7863 |pages=356–364 |doi=10.1038/s41586-021-03499-y |url=https://www.nature.com/articles/s41586-021-03499-y |last1=Willerslev |first1=Eske |last2=Meltzer |first2=David J. |pmid=34135521 |bibcode=2021Natur.594..356W |s2cid=235460793 }}</ref>。 | typesite = | majorsites = | extra = | precededby = | followedby = | definedby = | antiquatedby = | module = }} [[考古遺伝学]]では、'''古代北ユーラシア人(ANE)'''という用語は、[[マルタ・ビュレット文化]]({{c.|24,000 BP}})の人々や、シベリアの[[アフォントヴァ山遺跡]]の[[後期旧石器時代]]の人々のような、彼らに近縁の集団の系統を表す祖先構成要素に与えられる名前である{{sfn|Flegontov|Changmai|Zidkova|Logacheva|2016}}<ref>{{harvnb|Jeong|Balanovsky|Lukianova|Kahbatkyzy|2019}}: 「南シベリアの[[マルタ・ビュレット文化|マリタ遺跡]]と[[アフォントヴァ山遺跡]]から得られた後期旧石器時代のゲノムから、しばしば「古代北ユーラシア人(ANE)」と呼ばれる遺伝子プロファイルが明らかになった。」</ref>。遺伝学的研究によると、ANEは{{日本語版にない記事リンク|ヤナRHS遺跡|en|Yana Rhinoceros Horn Site}}({{c.|32,000BP}})に先行する2つの古代標本に代表される'''古代北シベリア人'''('''ANS''')と近縁である。古代北シベリア人(ANS)は、それ以前の古代北シベリア人(ANS)集団の子孫と考えることもできるし、古代北シベリア人(ANS)と古代北ユーラシア人(ANE)の両方が、分化はしているものの密接に関連した姉妹系統であり、どちらも初期の西ユーラシア狩猟採集民(代表的なものとしては{{日本語版にない記事リンク|コステンキ遺跡|en| Kostyonki–Borshchyovo}}{{c.|40,000 BP}}),<ref>{{cite book |last1=Grebenyuk |first1=Pavel S. |last2=Fedorchenko |first2=Alexander Yu. |last3=Dyakonov |first3=Viktor M. |last4=Lebedintsev |first4=Alexander I. |last5=Malyarchuk |first5=Boris A. |series=Springer Geography |title=Humans in the Siberian Landscapes |date=2022 |publisher=Springer International Publishing |isbn=978-3-030-90060-1 |page=93 |chapter-url=https://link.springer.com/chapter/10.1007/978-3-030-90061-8_4 |language=en |chapter=Ancient Cultures and Migrations in Northeastern Siberia|doi=10.1007/978-3-030-90061-8_4 |quote=「ヤナRHS遺跡の2人のゲノムの全塩基配列を解析した結果、彼らのゲノムは、古代西ユーラシアの狩猟採集民に典型的なミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループUに属することが明らかになった。父方に遺伝するY染色体(Y-DNA)の分析から、調査対象者は、現代のユーラシア人やアメリカ先住民の間で広く見られるQハプログループやRハプログループの祖先にあたるハプログループP1に属していることが明らかになった(Sikoraら)この研究によって、ヤナRHS遺跡の個体のゲノムの古代北シベリア成分(「古代北シベリア人」)は、アンガラ地方のマルタ遺跡の埋葬から出土した子供のゲノムから以前に見つかっていた「古代北ユーラシア人」成分に関する祖先であることが明らかになった」}}</ref>[[古代東ユーラシア人]]集団との混交から生まれたと考えることもできる。古代北ユーラシア人(ANE)も古代北シベリア人(ANS)も、その祖先の約1/3は初期東ユーラシアの系統に由来し、約2/3は初期西ユーラシアの系統に由来する。{{efn|{{harvtxt|Vallini|Marciani|Aneli|Bortolini|2022}} Kostenki14と[[田園洞人]]の姉妹グループ間での様々な割合での混血を想定できるTreeMixモデルを作成しており、この観察を実際に説明することができる。(図1A, 紫の葉; 補足図. S5 およびセクション3.6 補足物オンライン)".}}{{efn|{{harvtxt|Sikora et al.|2019}} ヤナ遺跡からの個体を22%が東ユーラシア人、残りが西ユーラシア人としてモデル化(「混血グラフと混血比率のアウトグループを基にした推定を使用すると、古代北シベリア人(ANS)は初期東アジア人からの寄与が約 22% ある初期西ユーラシア人としてモデル化できることが分かる。」)。 {{harvtxt|Massilani et al.|2020}}ヤナ遺跡からの個体を約1/3が東ユーラシア人、2/3が西ユーラシア人としてモデル化{{harvtxt|Vallini|Marciani|Aneli|Bortolini|2022}} ヤナ遺跡からの個体を50%西ユーラシア人、50%東ユーラシア人としてモデル化}}<ref>{{Cite journal |last1=Villalba-Mouco |first1=Vanessa |last2=van de Loosdrecht |first2=Marieke S. |last3=Rohrlach |first3=Adam B. |last4=Fewlass |first4=Helen |last5=Talamo |first5=Sahra |last6=Yu |first6=He |last7=Aron |first7=Franziska |last8=Lalueza-Fox |first8=Carles |last9=Cabello |first9=Lidia |last10=Cantalejo Duarte |first10=Pedro |last11=Ramos-Muñoz |first11=José |last12=Posth |first12=Cosimo |last13=Krause |first13=Johannes |last14=Weniger |first14=Gerd-Christian |last15=Haak |first15=Wolfgang |date=2023-03-01 |title=A 23,000-year-old southern Iberian individual links human groups that lived in Western Europe before and after the Last Glacial Maximum |journal=Nature Ecology & Evolution |volume=7 |issue=4 |language=en |pages=597–609 |doi=10.1038/s41559-023-01987-0 |pmid=36859553 |pmc=10089921 |issn=2397-334X |quote= これは、マリタ遺跡およびアフォントバ山遺跡の個体にから見つかる祖先 (古代北ユーラシアの祖先) が後期旧石器時代の東アジア/東南アジアの個体群54から祖先を受け取っており、これがその後東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)55 に大きく寄与したためである。}}</ref><ref>{{Cite journal |last1=Sikora |first1=Martin |last2=Pitulko |first2=Vladimir V. |last3=Sousa |first3=Vitor C. |last4=Allentoft |first4=Morten E. |last5=Vinner |first5=Lasse |last6=Rasmussen |first6=Simon |last7=Margaryan |first7=Ashot |last8=de Barros Damgaard |first8=Peter |last9=de la Fuente |first9=Constanza |last10=Renaud |first10=Gabriel |last11=Yang |first11=Melinda A. |last12=Fu |first12=Qiaomei |last13=Dupanloup |first13=Isabelle |last14=Giampoudakis |first14=Konstantinos |last15=Nogués-Bravo |first15=David |date=June 2019 |title=The population history of northeastern Siberia since the Pleistocene |url=https://www.nature.com/articles/s41586-019-1279-z |journal=Nature |language=en |volume=570 |issue=7760 |pages=182–188 |doi=10.1038/s41586-019-1279-z |pmid=31168093 |bibcode=2019Natur.570..182S |s2cid=174809069 |issn=1476-4687 |quote=混血グラフ (qpGraph) と混血比率のアウトグループを基にした推定 (qpAdm) を使用すると、ヤナ遺跡の個体は EEA からの寄与が約25%以内である初期西ユーラシア人(EWE)としてモデル化できることを見つけた。(図2; 拡張データ 図.3; 補足情報 6).}}</ref>{{sfn|Vallini|Marciani|Aneli|Bortolini|2022|loc=Supplementary Information, p. 17: 紀元前4万年未満の旧石器時代のシベリアの集団は、一貫してヨーロッパ人と東アジア人の祖先が混在しているとされている… しかし、シベリア人の東アジアの構成要素は、IUP枝に沿った異なる位置から祖先を選ぶ必要がある。}} 2万年から2万5千年前頃に、古代北ユーラシア人の一派が[[古代北部東アジア人]](ANEA)と混血し、[[パレオ・インディアン]]、{{日本語版にない記事リンク|古代ベリンジア人|en|Ancient Beringian}}、[[古代古シベリア人]]の集団が出現した。この集団の混血がどこで起こったのかは正確にはわかっておらず、2つの対立する説が、古代北ユーラシア人と古代東アジア人の集団を結びつける異なった移動シナリオを提唱している<ref name="Raff188"/>。 古代北ユーラシア人(ANE)は、[[後期旧石器時代]]以来、様々な移動の中でユーラシア大陸とアメリカ大陸に広がっており、今日の世界人口の半分以上は、そのゲノムの5〜40%が古代北ユーラシア人に由来している<ref name=Reich2018>{{harvnb|Reich|2018|p=81}}</ref>。多くの古代北ユーラシア人(ANE)はアメリカ大陸の先住民族や北ヨーロッパ、南アジア、中央アジア、シベリアの地域に見られる。彼らの神話には、インド・ヨーロッパ語族とネイティブ・アメリカンの寓話に見られる、死後の世界への道を犬が守るという物語が含まれている可能性が示唆されている{{Sfn|Anthony|Brown|2019|p=|pp=104–106}}。 == 遺伝子研究 == === 定義 === 古代北ユーラシア人(ANE)の系統は、1920年代に発見された中央シベリアの[[マルタ・ビュレット文化|マリタ遺跡]]から出土した2万4千年前の[[最終氷期極大期]]に生きていた少年の個体の遺骨:MA-1との関連によって定義される。{{日本語版にない記事リンク|ヤナRHS遺跡|en| Yana Rhinoceros Horn Site}}のサンプル、アフォントヴァ山遺跡の個体とともに「古代北シベリア人」と総称される<ref>{{Cite journal |last1=Willerslev |first1=Eske |last2=Meltzer |first2=David J. |date=June 2021 |title=Peopling of the Americas as inferred from ancient genomics |url=https://www.nature.com/articles/s41586-021-03499-y |journal=Nature |language=en |volume=594 |issue=7863 |pages=356–364 |doi=10.1038/s41586-021-03499-y |pmid=34135521 |bibcode=2021Natur.594..356W |s2cid=235460793 |issn=1476-4687}}</ref><ref name="Sikora 182–188">{{Cite journal |last1=Sikora |first1=Martin |last2=Pitulko |first2=Vladimir V. |last3=Sousa |first3=Vitor C. |last4=Allentoft |first4=Morten E. |last5=Vinner |first5=Lasse |last6=Rasmussen |first6=Simon |last7=Margaryan |first7=Ashot |last8=de Barros Damgaard |first8=Peter |last9=de la Fuente |first9=Constanza |last10=Renaud |first10=Gabriel |last11=Yang |first11=Melinda A. |last12=Fu |first12=Qiaomei |last13=Dupanloup |first13=Isabelle |last14=Giampoudakis |first14=Konstantinos |last15=Nogués-Bravo |first15=David |date=June 2019 |title=The population history of northeastern Siberia since the Pleistocene |url=https://www.nature.com/articles/s41586-019-1279-z |journal=Nature |language=en |volume=570 |issue=7760 |pages=182–188 |doi=10.1038/s41586-019-1279-z |pmid=31168093 |bibcode=2019Natur.570..182S |s2cid=174809069 |issn=1476-4687}}</ref>。 [[File:Mal'ta boy (MA-1) with tomb artifacts, Hermitage Museum, Saint-Petersburg.jpg|thumb|upright=1.5| マルタの少年(MA-1)および墳墓の遺物、紀元前24,000年、[[エルミタージュ美術館]]、[[サンクトペテルブルク]]<ref>{{cite journal |last1=Lbova |first1=Liudmila |title=The Siberian Paleolithic site of Mal'ta: a unique source for the study of childhood archaeology |journal=Evolutionary Human Sciences |date=2021 |volume=3 |page=8, Fig. 6-1 |doi=10.1017/ehs.2021.5|pmid=37588521 |pmc=10427291 |s2cid=231980510 |doi-access=free }}</ref>。]] 古代北ユーラシア人は、旧石器時代および中石器時代のヨーロッパの狩猟採集民と深い関わりを持つ、より大きなユーラシア遺伝子プールの遺伝的多様性の中で、明確なクラスターを代表している<ref>{{Cite journal |last=Kozintsev |first=A. G. |date=2020-12-31 |title=The Origin of the Okunev Population, Southern Siberia: The Evidence of Physical Anthropology and Genetics |url=https://journal.archaeology.nsc.ru/jour/article/view/1084 |journal=Archaeology, Ethnology & Anthropology of Eurasia |language=en |volume=48 |issue=4 |pages=135–145 |doi=10.17746/1563-0110.2020.48.4.135-145 |issn=1563-0110 |quote=最近の遺伝学的発見は、一直線上で西と東を二分する方法(伝統的な用語ではコーカソイドとモンゴロイド)に疑問を投げかけている。ユーラシアとアメリカにおける実際の分化パターンは、もっと複雑であることが判明した。}}</ref>。現生人類の集団に見られる祖先としての古代北ユーラシア人(ANE)は、マリタ遺跡の個体やヤナRHS遺跡の個体ではなく、アフォントヴァ山遺跡の個体につながる集団からもたらされたものが大部分であることが示唆されている<ref>{{Cite journal |last1=Fu |first1=Qiaomei |last2=Posth |first2=Cosimo |last3=Hajdinjak |first3=Mateja |last4=Petr |first4=Martin |last5=Mallick |first5=Swapan |last6=Fernandes |first6=Daniel |last7=Furtwängler |first7=Anja |last8=Haak |first8=Wolfgang |last9=Meyer |first9=Matthias |last10=Mittnik |first10=Alissa |last11=Nickel |first11=Birgit |last12=Peltzer |first12=Alexander |last13=Rohland |first13=Nadin |last14=Slon |first14=Viviane |last15=Talamo |first15=Sahra |date=June 2016 |title=The genetic history of Ice Age Europe |journal=Nature |language=en |volume=534 |issue=7606 |pages=200–205 |doi=10.1038/nature17993 |issn=1476-4687 |pmc=4943878 |pmid=27135931|bibcode=2016Natur.534..200F |hdl=10211.3/198594 }}</ref>。 === 形成 === [[File:PC Analysis MA-1 and AG3 (detail).png|thumb|upright=1.5| 古代北ユーラシア人の遺伝的近縁性。 [[マルタ・ビュレット文化]]:MA-1およびアフォントヴァ山遺跡:AG3([[File:Simple square.png|10px]])。古代の集団(色付きの点)およひ現代の集団([[File:Location dot lightgrey.svg|10px]])。 現代の集団は左端がヨーロッパ、右端が東アジア。 主成分分析(詳細)。彼らの最も近い子孫には、[[楼蘭の美女|タリム盆地のミイラ]](Tarim)、カザフスタン北部のボタイ文化(Botai)、[[東ヨーロッパ狩猟採集民]](EHG)がある<ref>{{cite journal |last1=Zhang |first1=Fan |last2=Ning |first2=Chao |last3=Scott |first3=Ashley |title=The genomic origins of the Bronze Age Tarim Basin mummies |journal=Nature |date=November 2021 |volume=599 |issue=7884 |pages=256–261 |doi=10.1038/s41586-021-04052-7 |pmid=34707286 |pmc=8580821 |bibcode=2021Natur.599..256Z |language=en |issn=1476-4687}}</ref>。]] 古代北ユーラシア人の遺伝子プールの形成は、ヨーロッパの狩猟採集民に深く関係する西ユーラシア初期の後期旧石器時代(UP)の系統と、[[古代東ユーラシア人]]の系統の合併によって、非常に早い時期に起こった可能性が高い。後期旧石器時代の初期(IUP)系統は、現代の東アジアや東南アジアの集団の基底にある。北東シベリアのヤナRHS遺跡(31,600BP)、[[マルタ・ビュレット文化]]、およびアフォントヴァ山遺跡の古代北ユーラシア人(ANE)/古代北シベリア人(ANS)関連サンプルは、祖先の約2/3が初期西ユーラシア人(約38kya)に由来し、初期東ユーラシア人(>40kya)の寄与が22-50%と、ばらつきはあるが大きい。西ユーラシアの祖先はロシアのコステンキ-14、ロシアの[[スンギル]]、ルーマニアの Peștera Muierilor など<ref>{{Cite journal |last1=Svensson |first1=Emma |last2=Günther |first2=Torsten |last3=Hoischen |first3=Alexander |last4=Hervella |first4=Montserrat |last5=Munters |first5=Arielle R. |last6=Ioana |first6=Mihai |last7=Ridiche |first7=Florin |last8=Edlund |first8=Hanna |last9=van Deuren |first9=Rosanne C. |last10=Soficaru |first10=Andrei |last11=de-la-Rua |first11=Concepción |last12=Netea |first12=Mihai G. |last13=Jakobsson |first13=Mattias |date=2021-07-26 |title=Genome of Peştera Muierii skull shows high diversity and low mutational load in pre-glacial Europe |url=https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0960982221005923 |journal=Current Biology |language=en |volume=31 |issue=14 |pages=2973–2983.e9 |doi=10.1016/j.cub.2021.04.045 |pmid=34010592 |issn=0960-9822|hdl=10810/52864 |s2cid=234793812 |hdl-access=free }}</ref>のヨーロッパの狩猟採集民に見られる祖先と関連付けることができ、東ユーラシアの祖先は東ユーラシアの深い系統と関連付けることができる、その一方で、彼らの東ユーラシアの祖先は東ユーラシアの深い系統に関連付けることができる。例えば、現代の東/東南アジア人の祖先である旧石器時代の[[田園洞人]]だけでなく、すべての古代東ユーラシア人(オーストラリア人など)の祖先である初期の[[ウスト・イシム人]]など、複数の初期の東ユーラシアの標本との親和性を示している。古代北ユーラシア人の中の東ユーラシア人の構成要素の正確な起源はまだ明らかにされていないが、田園洞人の姉妹系統として最もよく表されている<ref>{{Cite journal |last1=Villalba-Mouco |first1=Vanessa |last2=van de Loosdrecht |first2=Marieke S. |last3=Rohrlach |first3=Adam B. |last4=Fewlass |first4=Helen |last5=Talamo |first5=Sahra |last6=Yu |first6=He |last7=Aron |first7=Franziska |last8=Lalueza-Fox |first8=Carles |last9=Cabello |first9=Lidia |last10=Cantalejo Duarte |first10=Pedro |last11=Ramos-Muñoz |first11=José |last12=Posth |first12=Cosimo |last13=Krause |first13=Johannes |last14=Weniger |first14=Gerd-Christian |last15=Haak |first15=Wolfgang |date=April 2023 |title=A 23,000-year-old southern Iberian individual links human groups that lived in Western Europe before and after the Last Glacial Maximum |journal=Nature Ecology & Evolution |language=en |volume=7 |issue=4 |pages=597–609 |doi=10.1038/s41559-023-01987-0 |pmid=36859553 |pmc=10089921 |issn=2397-334X |quote= 現在、完新世ヨーロッパの狩猟採集民で田園洞人との親和性が最も強いのは、東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)であると報告されている。これは、マリタ遺跡とアフォントヴァ山遺跡の個体に見られる祖先(古代北ユーラシア系統)が、東アジア/東南アジアの集団54から祖先を受け継ぎ、それがEHGに大きく寄与したためである55。|hdl=10230/57143 |hdl-access=free }}</ref>{{sfn|Jeong|Balanovsky|Lukianova|Kahbatkyzy|2019}}{{sfn|Raghavan|Skoglund|Graf|Metspalu|2013}}{{sfn|Balter|2013}}<ref>{{Cite journal |last=Yang |first=Melinda A. |date=2022-01-06 |title=A genetic history of migration, diversification, and admixture in Asia |url=http://www.pivotscipub.com/hpgg/2/1/0001 |journal=Human Population Genetics and Genomics |language=en |volume=2 |issue=1 |pages=1–32 |doi=10.47248/hpgg2202010001 |issn=2770-5005|doi-access=free }}</ref><ref>{{Cite journal|last1=Sikora|first1=Martin|last2=Pitulko|first2=Vladimir V.|last3=Sousa|first3=Vitor C.|last4=Allentoft|first4=Morten E.|last5=Vinner|first5=Lasse|last6=Rasmussen|first6=Simon|last7=Margaryan|first7=Ashot|last8=de Barros Damgaard|first8=Peter|last9=de la Fuente|first9=Constanza|last10=Renaud|first10=Gabriel|last11=Yang|first11=Melinda A.|date=June 2019|title=The population history of northeastern Siberia since the Pleistocene|url=https://www.nature.com/articles/s41586-019-1279-z|journal=Nature|language=en|volume=570|issue=7760|pages=182–188|doi=10.1038/s41586-019-1279-z|pmid=31168093|bibcode=2019Natur.570..182S|s2cid=174809069|issn=1476-4687 |ref={{harvid|Sikora et al.|2019}}}}</ref>{{efn|{{harvtxt|Vallini|Marciani|Aneli|Bortolini|2022}} Kostenki14と田園洞人の姉妹グループ間での様々な割合での混血を想定できるTreeMixモデルを作成しており、この観察を実際に説明することができる。(図1A, 紫の葉; 補足図. S5 およびセクション3.6 補足物オンライン)".}}{{efn|{{harvtxt|Sikora et al.|2019}} ヤナ遺跡からの個体を22%が東ユーラシア人、残りが西ユーラシア人としてモデル化(「混血グラフと混血比率のアウトグループを基にした推定を使用すると、古代北シベリア人(ANS)は初期東アジア人からの寄与が約 22% ある初期西ユーラシア人としてモデル化できることが分かる。」)。 Massilani et al. (2020)ヤナ遺跡からの個体を約1/3が東ユーラシア人、2/3が西ユーラシア人としてモデル化Vallini et al. (2022) ヤナ遺跡からの個体を50%西ユーラシア人、50%東ユーラシア人としてモデル化}} <ref name="Lipson 889–902">{{Cite journal |last1=Lipson |first1=Mark |last2=Reich |first2=David |date=April 2017 |title=A Working Model of the Deep Relationships of Diverse Modern Human Genetic Lineages Outside of Africa |journal=Molecular Biology and Evolution |volume=34 |issue=4 |pages=889–902 |doi=10.1093/molbev/msw293 |issn=0737-4038 |pmc=5400393 |pmid=28074030}}</ref>。 グレベニュクらは、古代北ユーラシア人は古代北シベリアのヤナRHS遺跡の出土人骨の属する集団の子孫であり、それは初期後期旧石器時代の狩猟民族であり、同時代の南シベリアの遺跡に関連する同様の集団と結びついていたとまとめている。これらの南シベリアと中央アジアの狩猟民族のコミュニティは、解剖学的な現生人類がシベリアに移動した初期の波のひとつに属していた。著者らは、「解剖学的に現生人類による北東アジアへの最初の人口移動は、西から東へ、あるいは南から北へ起こった可能性がある」とまとめている<ref name="Springer International Publishing" />。シコラらは、古代北ユーラシア人(マリタ遺跡とアフォントヴァ山遺跡の個体)は古代北シベリアのヤナRHS遺跡の集団の直接の子孫である可能性は低いと指摘し、むしろ両者は共通の祖先を共有する姉妹系統であると主張している。シコラらによれば、マルタのサンプルはさらに初期の{{日本語版にない記事リンク|コーカサス狩猟採集民|en|Caucasus hunter-gatherer}}の遺伝子流入も受けている可能性がある(約11%)<ref name="Sikora 182–188" />。しかし、このシナリオはMaierら2023年によって疑問視されており、この結論は他の発表論文と矛盾しており、古代北ユーラシア人(ANE)集団とコーカサス狩猟採集民(CHG)集団の間で観察された親和性と同様に遺伝子流動の方向性も混血グラフの分析では証明できず、さらなる調査が必要であるとしている{{sfn|Maier et al.|2023}}。 リプソンとライヒ(2017)は、マルタのサンプルをモデル化して、西ユーラシアを祖先とし、東アジア人の基底系統([[アミ族]]に代表される)からの混血を追加した。また、マルタから東アジア人への逆遺伝子流入の可能性にも言及したが、これは利用可能なデータではあまり支持されなかった<ref name="Lipson 889–902" />。Yangら(2020a,b)は、マルタ標本とヤナ標本の両方が、ヨーロッパの狩猟採集民であるKostenki-14の姉妹系統と、基原東アジア人である[[田園洞人]]の基原系統または同時代の系統の合併から形成されたことを裏付けた。 その一方で、古代北ユーラシア人(ANE)から田園洞人や現代の東アジア人への遺伝子の逆流を示す証拠は見つかっていない<ref>{{Cite journal |last1=Yang |first1=Melinda A. |last2=Fan |first2=Xuechun |last3=Sun |first3=Bo |last4=Chen |first4=Chungyu |last5=Lang |first5=Jianfeng |last6=Ko |first6=Ying-Chin |last7=Tsang |first7=Cheng-hwa |last8=Chiu |first8=Hunglin |last9=Wang |first9=Tianyi |last10=Bao |first10=Qingchuan |last11=Wu |first11=Xiaohong |last12=Hajdinjak |first12=Mateja |last13=Ko |first13=Albert Min-Shan |last14=Ding |first14=Manyu |last15=Cao |first15=Peng |date=2020-07-17 |title=Ancient DNA indicates human population shifts and admixture in northern and southern China |url=https://www.science.org/doi/10.1126/science.aba0909 |journal=Science |language=en |volume=369 |issue=6501 |pages=282–288 |doi=10.1126/science.aba0909 |pmid=32409524 |bibcode=2020Sci...369..282Y |s2cid=218649510 |issn=0036-8075}}</ref><ref>{{Cite journal |last1=Yang |first1=Melinda A. |last2=Gao |first2=Xing |last3=Theunert |first3=Christoph |last4=Tong |first4=Haowen |last5=Aximu-Petri |first5=Ayinuer |last6=Nickel |first6=Birgit |last7=Slatkin |first7=Montgomery |last8=Meyer |first8=Matthias |last9=Pääbo |first9=Svante |last10=Kelso |first10=Janet |last11=Fu |first11=Qiaomei |date=2017-10-23 |title=40,000-Year-Old Individual from Asia Provides Insight into Early Population Structure in Eurasia |journal=Current Biology |language=en |volume=27 |issue=20 |pages=3202–3208.e9 |doi=10.1016/j.cub.2017.09.030 |pmid=29033327 |pmc=6592271 |issn=0960-9822}}</ref>。他の研究では、古代北ユーラシア人(ANE)と田園洞人(または他の上部旧石器時代の東/東南アジアの標本)との間の共通の親和性を再現することができ、また、田園洞人と少なくない量の古代北ユーラシア人(ANE)祖先系統を受け取った東ヨーロッパ狩猟採集民との間のより高い親和性も確認された<ref>{{Cite journal |last1=Villalba-Mouco |first1=Vanessa |last2=van de Loosdrecht |first2=Marieke S. |last3=Rohrlach |first3=Adam B. |last4=Fewlass |first4=Helen |last5=Talamo |first5=Sahra |last6=Yu |first6=He |last7=Aron |first7=Franziska |last8=Lalueza-Fox |first8=Carles |last9=Cabello |first9=Lidia |last10=Cantalejo Duarte |first10=Pedro |last11=Ramos-Muñoz |first11=José |last12=Posth |first12=Cosimo |last13=Krause |first13=Johannes |last14=Weniger |first14=Gerd-Christian |last15=Haak |first15=Wolfgang |date=April 2023 |title=A 23,000-year-old southern Iberian individual links human groups that lived in Western Europe before and after the Last Glacial Maximum |journal=Nature Ecology & Evolution |language=en |volume=7 |issue=4 |pages=597–609 |doi=10.1038/s41559-023-01987-0 |pmid=36859553 |pmc=10089921 |issn=2397-334X |quote=現在、完新世のヨーロッパの狩猟採集民における田園洞人に対する最も強い親和性は、東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG) で報告されています。これは、マリタ遺跡とアフォントヴァ山遺跡の個体で見つかった祖先(古代北ユーラシアの祖先)が、後期旧石器時代の東アジア/東南アジアの集団から祖先を受け取っており、その後、東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG) に大きく貢献したためです55。|hdl=10230/57143 |hdl-access=free }}</ref>。 === 分布 === {{multiple image|perrow=1|total_width=170|caption_align=center | align = left | direction =horizontal | image1 = Mal'ta statuette.jpg | image2 = Mal'ta statuette 3D modelling.jpg | footer= 顔の特徴と3Dレンダリングが施された「{{日本語版にない記事リンク|マリタ遺跡のヴィーナス像|en| Venus figurines of Mal'ta}}」のひとつ<ref>{{cite web |title=Figurine of a woman with the "Spanish rose" hairdo |url=http://malta.artemiris.org/find/view/28 |website=Art of Mal'ta |publisher=Novosibirsk State University |language=en|accessdate=2023-11-11}}</ref>。 }} 3万2千ya頃までには、古代北ユーラシア人(ANE)に関連する祖先を持つ集団がユーラシア大陸北東部に広く分布していたと考えられる。彼らはアラスカやユーコンまで拡大した可能性があるが、最終氷期極大期により厳しい気候条件が到来したため、高緯度地域を放棄せざるを得なくなった<ref>{{Cite book |url=https://link.springer.com/book/10.1007/978-981-19-1118-7 |title=Maritime Prehistory of Northeast Asia |series=The Archaeology of Asia-Pacific Navigation |year=2022 |volume=6 |language=en |doi=10.1007/978-981-19-1118-7|isbn=978-981-19-1117-0 |s2cid=249355636 |editor1=Cassidy, Jim |editor2=Ponkratova, Irina |editor3=Fitzhugh, Ben }}</ref>。 マリタ遺跡から出土した人骨であるMA-1とアフォントヴァ山遺跡から出土した人骨に遺伝的に類似した集団は、重要な順にアメリカ先住民、ヨーロッパ人、古代中央アジア人、南アジア人、いくつかの東アジアの集団に遺伝的に重要な一定以上の貢献をした{{sfn|Lazaridis|Nadel|Rollefson|Merrett|2016}}。Lazaridisら(2016:10)は「ユーラシア大陸の東西の範囲にわたるANEの祖先の連続変異」に注目している。2016年の研究によると、古代北ユーラシア人(ANE)の祖先を世界で最大で最も多く受け継いでいるのは現代の[[ケット人]]、[[マンシ人]]、アメリカ大陸先住民、[[セリクプ人]]である{{sfn|Flegontov|Changmai|Zidkova|Logacheva|2016}}{{sfn|Lazaridis|Nadel|Rollefson|Merrett|2016}}。 [[File:ANE deer tooth pendant from Denisova Cave.jpg|thumb|upright| 紀元前24,700年頃のシベリアのデニソワ洞窟から出土した、古代北ユーラシア人(ANE)の女性の鹿の歯のペンダント<ref name="EE"/>。]] 古代の青銅器時代のステップ[[ヤムナ文化]]と[[アファナシェヴァ文化]]の文化から出土する人骨は、50%程度の有意な古代北ユーラシア人(ANE)の成分を有することが判明した{{sfn|Haak|Lazaridis|Patterson|Rohland|2015}}<ref name="Kozintsev 135–145">{{Cite journal |last=Kozintsev |first=A. G. |date=2020-12-31 |title=The Origin of the Okunev Population, Southern Siberia: The Evidence of Physical Anthropology and Genetics |url=https://journal.archaeology.nsc.ru/jour/article/view/1084 |journal=Archaeology, Ethnology & Anthropology of Eurasia |language=en |volume=48 |issue=4 |pages=135–145 |doi=10.17746/1563-0110.2020.48.4.135-145 |issn=1563-0110}}</ref>。Moreno-Mayarら(2018)によると、アメリカ先住民の祖先の14%から38%は、古代北ユーラシア人(ANE)である[[マルタ・ビュレット文化|マリタ遺跡]]出土人骨の集団からの遺伝子流入に由来する可能性がある。この違いは、後発の「ネオ・シベリア系」移住がアメリカ大陸に浸透したことに起因しており、古代北ユーラシア人(ANE)の祖先の割合が最も低いのはイヌイットとアラスカ先住民で、これらのグループはおよそ5,000年前にアメリカ大陸に移住した結果である{{sfn|Moreno-Mayar|Vinner|de Barros Damgaard|de la Fuente|2018}}。第一波のアメリカ先住民におけるANEの祖先の推定{{sfn|Wong|Khrunin|Nichols|Pushkarev|2017}}は、南アメリカの[[アンデス]]地域に属する人々の42%など、より高いパーセンテージを示している{{sfn|Wong|Khrunin|Nichols|Pushkarev|2017}}。アメリカ先住民におけるもうひとつの遺伝子の流れ(彼らの祖先の残り)は、東アジアに関連した起源であり、具体的には3万年ほど前に他の東アジア人と分岐した{{sfn|Raghavan|Skoglund|Graf|Metspalu|2013}}。約17,000年前のシベリア中南部の別のアフォントヴァ山遺跡出土人骨(Afontova Gora-2)の遺伝子配列決定から、[[マルタ・ビュレット文化|マリタ遺跡出土人骨]](Mal'ta boy-1)と同様の常染色体の遺伝的特徴が明らかになり、この地域が最終氷期最盛期を通じて人類によって継続的に占領されていたことが示唆された{{sfn|Raghavan|Skoglund|Graf|Metspalu|2013}}。 ゲノム研究はまた、古代北ユーラシア人(ANE)の構成要素は旧石器時代よりずっと後に、[[ヤムナ文化|ヤムナヤ文化]]に関連する人々によって西ヨーロッパに持ち込まれたことが示している{{sfn|Haak|Lazaridis|Patterson|Rohland|2015}}{{sfn|Flegontov|Changmai|Zidkova|Logacheva|2016}}。それは現代のヨーロッパ人でも報告されている(10%~20%){{sfn|Haak|Lazaridis|Patterson|Rohland|2015}}{{sfn|Flegontov|Changmai|Zidkova|Logacheva|2016}}。旧石器時代の[[東ヨーロッパ狩猟採集民]]との交流を通じて、ヨーロッパの集団に追加的な古代北ユーラシア人(ANE)の祖先系統が見つかっており、そこからスカンジナビアの狩猟採集民のような集団が生まれた{{sfn|Günther|Malmström|Svensson|Omrak|2018}}。 シベリアのデニソワ洞窟で発見された古代北ユーラシア人(ANE)の時代の女性の遺伝子が染み込んだ鹿の歯のペンダントは、現在から約24,700年前のものである。彼女は、さらに東で発見されたマリタ遺跡やアフォントヴァ山遺跡の出土人骨の標本と近縁である<ref name="EE">{{cite journal |last1=Essel |first1=Elena |title=Ancient human DNA recovered from a Palaeolithic pendant |journal=Nature |date=3 May 2023 |volume=618 |issue=7964 |pages=328–332 |doi=10.1038/s41586-023-06035-2 |pmid=37138083 |pmc=10247382 |bibcode=2023Natur.618..328E |language=en|quote=この方法をロシアのデニソワ洞窟から出土した後期旧石器時代のシカの歯のペンダントに適用した結果、古代のヒトとシカのミトコンドリアゲノムが復元され、ペンダントの年代を約19,000~25,000年と推定することができた。常染色体DNA分析により、このペンダントの製作者または着用者と推定される人物は女性であり、同時期に生きていたにもかかわらず、以前はシベリアのさらに東でしか発見されていなかった古代北ユーラシア人のグループと強い遺伝的親和性があることが判明した。我々の研究は、先史時代の考古学において、文化的記録と遺伝的記録をどのように結びつけることができるかを再定義するものである。(常染色体DNA分析により、このペンダントの製作者または着用者と推定される人物は、同じ時代に生きていたが、以前はシベリアのさらに東でしか発見されなかった古代北ユーラシア人のグループと強い遺伝的親和性を持つ女性であることが判明した。}}</ref>。 古代の田園洞人と現代の東/東南アジアの集団は、後期旧石器時代の西ユーラシアまたはANE関連の混血を欠いていることが判明しており、このことは、「これらの集団が、流入してきた旧石器時代の集団移動に抵抗していた」こと、あるいは、遺伝的に東アジアに類似した集団リザーバーからの再拡大であったことを示唆している<ref>{{harvnb|Vallini|Marciani|Aneli|Bortolini|2022}}: 「田園洞人とそれに続く東アジアの個体における西ユーラシアの構成要素の欠如は、これらの集団が流入してくる後期旧石器時代の集団移動に抵抗したか、あるいは遺伝的に後期旧石器時代初期の集団に類似した集団リザーバーからその後再拡大したかを知る手がかりになるかもしれない。」 </ref>。 == 古代北ユーラシア人から部分的に派生した集団 == === アメリカ先住民 === [[File: Dispertion日本語.jpg |upright=2.1|thumb| 古代の北ユーラシア人(ANE)ネットワークは、いくつかの旧石器時代のシベリアのサンプルで構成され、ユーラシア大陸の多種多様な集団に祖先をもたらした。]] [[File: Ancient_North_Eurasian_and_Native_American_admixture_graph日本語.jpg |thumb| 古代北ユーラシア人の形成と、その後のアメリカ先住民の形成への寄与を示すMaierら(2023)によるqpGraph<ref>{{Cite journal |last1=Maier |first1=Robert |last2=Flegontov |first2=Pavel |last3=Flegontova |first3=Olga |last4=Işıldak |first4=Ulaş |last5=Changmai |first5=Piya |last6=Reich |first6=David |date=2023-04-14 |editor-last=Nordborg |editor-first=Magnus |editor2-last=Przeworski |editor2-first=Molly |editor3-last=Balding |editor3-first=David |editor4-last=Wiuf |editor4-first=Carsten |title=On the limits of fitting complex models of population history to f-statistics |journal=eLife |volume=12 |pages=e85492 |doi=10.7554/eLife.85492 |pmid=37057893 |issn=2050-084X|pmc=10310323 |doi-access=free }}</ref>。]] ジェニファー・ラフによれば、古代北ユーラシアの集団は、2万5千年ほど前に古代東アジアの娘集団と遭遇して混血し、それがアメリカ大陸の先住民の祖先集団の出現につながったという。しかし、混血が起こった正確な場所は不明であり、2つの集団を統合した移動の動きについても議論の余地がある<ref name="Raff188">{{cite book |last1=Raff |first1=Jennifer |title=Origin: A Genetic History of the Americas |date=8 February 2022 |publisher=Grand Central Publishing |isbn=978-1-5387-4970-8 |page=188 |url=https://books.google.com/books?id=C5jrDwAAQBAJ&pg=PT188 |language=en}} 「現在の推定では、先住民族の祖先の約63%は東アジア系で、残りは古代北シベリア系である。この相互作用がどこで起こったのかは定かではない。一部の考古学者は、この相互作用は東アジアで起こったと考えており、シベリア人がLGMの間に移動した場所であることを示唆している。」…「しかし、他の考古学者や遺伝学者は、アメリカ先住民の2つの祖父母集団の出会いは、[[最終氷期極大期]]に対応して人々が南ではなく北に移動したために起こったと主張している。」</ref>。 一説によると、古代の北ユーラシア人は南下して東アジア、または南シベリアに移動し、そこで古代の東アジア人と遭遇して混血したと考えられている。モンゴルのバイカル湖から得られた遺伝学的証拠は、この地域が混血が起こった場所であることを支持している<ref>{{harvnb|Raff|2022|p=188|ps=: 「マリタ遺跡の集団--古代の北シベリア人--は、2万5千年ほど前に、この章の冒頭で述べた東アジアの娘と遭遇し、彼らと交雑したようだ。」…「この相互作用がどこで起こったのかは定かではない。考古学者の中には東アジアで起こったと考える者もいる。」…「遺伝的証拠からも、この相互作用がシベリアのバイカル湖周辺で起こったとする説もある。本章で前述したように、古シベリア人は約25,000年前にアメリカ先住民の東アジアの祖先から分かれた。彼らは、UKYとして知られるバイカル湖地方の後期旧石器人と、コリマ1として知られる約9800年前のシベリア北東部の人のゲノムから知られている。」}}</ref>。 しかし、第三の説である「ベーリンジアン行き詰まり仮説」は、東アジア人が代わりに北から北東シベリアに移動し、そこで古代北ユーラシア人(ANE)と混血し、後にベーリンジアで分岐し、そこで明確なアメリカ先住民の系統が形成されたというものである。この説はmtDNA(母系)と常染色体DNAの証拠によって支持されている<ref>{{harvnb|Raff|2022|pp=188–189|ps=:「しかし、他の考古学者や遺伝学者は、アメリカ先住民の2つの祖父母集団の出会いは、LGMに対応して人々が南ではなく北に移動したために起こったと主張している。このシナリオでは、UKYのような古シベリア人の子孫は、ベリンギアからシベリアに南下して再定住した結果である可能性がある。その理由は、アメリカ先住民のミトコンドリアゲノムと核ゲノムの両方が、彼らが長期にわたって他のすべての集団から隔離されていたことを示しており、その間にアメリカ先住民の集団にのみ見られる遺伝的形質が形成されたからである。この発見は、当初は古典的な遺伝マーカーとミトコンドリアの証拠に基づいていたが、ベーリンジアン孵化、ベーリンジアン停止、ベリンジアン行き詰まり仮説として知られるようになった。」}}</ref>。グレベニュクによれば、2万年前以降、古代東アジア人の一派がシベリア北東部に移動し、古代北ユーラシア人(ANE)の子孫と混血した結果、極東アジアの極限の地に[[古代古シベリア人]]とアメリカ大陸の先住民が出現したという<ref>{{cite book |last1=Grebenyuk |first1=Pavel S. |last2=Fedorchenko |first2=Alexander Yu. |last3=Dyakonov |first3=Viktor M. |last4=Lebedintsev |first4=Alexander I. |last5=Malyarchuk |first5=Boris A. |series=Springer Geography |title=Humans in the Siberian Landscapes |date=2022 |publisher=Springer International Publishing |isbn=978-3-030-90060-1 |page=96 |chapter-url=https://link.springer.com/chapter/10.1007/978-3-030-90061-8_4 |language=en |chapter=Ancient Cultures and Migrations in Northeastern Siberia|doi=10.1007/978-3-030-90061-8_4 |quote=「最新の古遺伝学的データによると、東アジアの集団はおよそ20,000~18,000年前にシベリア北東部に移住した。この移動は、ヤナRHS遺跡出土人骨とマリタ遺跡出土人骨のゲノムに代表される "古代北シベリア人 "の子孫との混血を伴っていた。このようなプロセスは、ベーリンジアの伝統がこの地域で広く普及したことに反映され、極東アジアにいくつかの祖先系統(図1)を出現させた:ドゥバニー・ヤールの個体のゲノムに代表される古代古シベリア人と、アメリカ先住民の祖先である。後者のタイプはその後、古代ベーリンジアンとその他のすべてのアメリカ先住民に分かれた(Moreno-Mayarら(2018)、Sikoraら(2019))」}}</ref><ref name="Springer International Publishing">{{Citation |last1=Grebenyuk |first1=Pavel S. |title=Ancient Cultures and Migrations in Northeastern Siberia |date=2022 |url=https://doi.org/10.1007/978-3-030-90061-8_4 |work=Humans in the Siberian Landscapes: Ethnocultural Dynamics and Interaction with Nature and Space |pages=89–133 |editor-last=Bocharnikov |editor-first=Vladimir N. |place=Cham |publisher=Springer International Publishing |language=en |doi=10.1007/978-3-030-90061-8_4 |isbn=978-3-030-90061-8 |access-date=2023-01-09 |last2=Fedorchenko |first2=Alexander Yu. |last3=Dyakonov |first3=Viktor M. |last4=Lebedintsev |first4=Alexander I. |last5=Malyarchuk |first5=Boris A. |series=Springer Geography |editor2-last=Steblyanskaya |editor2-first=Alina N.}}</ref>。しかし、ベーリンジア行き詰まり仮説はY-DNA(父系)のDNA証拠によって支持されていない。これはアメリカ先住民における父系と母系の異なる集団史を反映している可能性があり、これは珍しいことではなく、他の集団でも観察されている<ref>{{cite journal |last1=Hoffecker |first1=John F. |title=Beringia and the global dispersal of modern humans: Beringia and the Global Dispersal of Modern Humans |journal=Evolutionary Anthropology: Issues, News, and Reviews |date=4 March 2016 |volume=25 |issue=2 |pages=64–78 |doi=10.1002/evan.21478 |pmid=27061035 |s2cid=3519553 |url=https://www.researchgate.net/publication/301252212 |language=en}} 「TammらによるmtDNAのデータで観察されたパターンは、Y-DNAや常染色体DNAではまだ明確に現れていない。Y-DNAデータに同様のパターンが見られないのは、父系と母系の歴史が異なることを反映していると考えられるが、これは世界の他の地域(例えば南アジア)で見られるパターンであり33、常染色体DNAにおける停止仮説は、9番染色体上のマイクロサテライト遺伝子座(D9S1120)における対立遺伝子の分布が、mtDNAのデータに見られるパターンと類似していることから、いくらか裏付けられるかもしれない34"。」</ref>。 古代北ユーラシア人(ANE)と古代東アジア人の混血の子孫には、{{日本語版にない記事リンク|古代ベーリンジア人|en| Ancient Beringian}}/[[パレオ・インディアン]](古代アメリカ先住民)が含まれる。これは、アップワード・サンリバー遺跡(USR1と呼ばれる)で発見された11,500年前の幼児のゲノムに基づく、特定の考古遺伝学的系統である{{sfn|Moreno-Mayar|Potter|Vinner|Steinrücken|2018}}。古代ベーリンジア人(AB)と祖先系統アメリカ先住民(Ancestral Native American:ANA)の系統は約25,000年前に形成され、その後互いに分岐し、古代ベーリンジア人(AB)はベーリンジア地域に留まり、祖先系統アメリカ先住民はアメリカ大陸に居住した。後期旧石器時代のアメリカ先住民(アラスカ州の11,500BPとされるアップワード・サンリバー(USR1)標本、モンタナ州の12,600BPとされる[[クローヴィス文化]]標本)に対する古代北ユーラシア人(ANE)の遺伝的寄与率は約36.8%と推定される<ref name="TG">{{cite journal |last1=Gakuhari |first1=Takashi |last2=Nakagome |first2=Shigeki |last3=Rasmussen |first3=Simon |last4=Allentoft |first4=Morten E. |title=Ancient Jomon genome sequence analysis sheds light on migration patterns of early East Asian populations |journal=Communications Biology |date=25 August 2020 |volume=3 |issue=1 |page=Fig.1 A, C |doi=10.1038/s42003-020-01162-2 |pmid=32843717 |pmc=7447786 |language=en |issn=2399-3642}}</ref>。また、後期旧石器時代の後期のバイカル湖付近のUst'Kyakhta遺跡出土の14,050-13,770BPの人骨であるUst'Kyakhta-3(UKY)に代表される[[古代古シベリア人]]もいる。彼らの祖先は30%がANE、70%が東アジア人である{{sfn|Yu|Spyrou|Karapetian|Shnaider|2020}}。 日本の[[新石器時代]]以前の人々である[[縄文人]]の祖先は主に東アジアの系統に由来するが、アジア大陸から日本列島に移動する前に古代北ユーラシア人(ANE)に関連する古代北シベリア人(ヤナRHS遺跡からのサンプルに代表される)からも遺伝子流入を受けた。縄文人の祖先は、現在の日本の住民の中にも残っている。最も顕著なのは、縄文人の直系の子孫と考えられている[[アイヌ民族]]であり、日本人の大半の中にも、わずかではあるがかなりの程度残っている{{sfn|Osada|Kawai|2021}}<ref>{{Cite journal|last1=Cooke|first1=Niall P.|last2=Mattiangeli|first2=Valeria|last3=Cassidy|first3=Lara M.|last4=Okazaki|first4=Kenji|last5=Stokes|first5=Caroline A.|last6=Onbe|first6=Shin|last7=Hatakeyama|first7=Satoshi|last8=Machida|first8=Kenichi|last9=Kasai|first9=Kenji|last10=Tomioka|first10=Naoto|last11=Matsumoto|first11=Akihiko|title=Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations|journal=Science Advances|year=2021|volume=7|issue=38|pages=eabh2419|doi=10.1126/sciadv.abh2419|pmc=8448447|pmid=34533991|bibcode=2021SciA....7.2419C }}「この親和性は、これらの参照集団を他の東南アジア人や東アジア人に置き換えても検出可能であり(表S6)、縄文人の祖先と、最終氷期極大期(LGM)以前に北ユーラシアに広く分布していた集団である古代北シベリア人との間の遺伝子流動を裏付けている(19)。」</ref>。 === シベリアとアジアの完新世の人類集団 === '''アルタイ狩猟採集民'''は、南シベリアのアルタイ=サヤン地域内の中期完新世のシベリア狩猟採集民に与えられた名称である。古シベリア人と古代北ユーラシア人の混血に由来し、アメリカ先住民との親和性が高い。重要な古代北ユーラシア人(ANE)祖先を持つ北アジアや内陸アジアの青銅器時代のグループ(例えばバイカル湖の狩猟採集民、[[オクネフ文化|オクネフ牧畜民]])は、近接した古代北ユーラシア人(ANE)由来の祖先源としてアルタイの狩猟採集民とうまくモデル化することができる<ref>{{Cite journal |last1=Wang |first1=Ke |last2=Yu |first2=He |last3=Radzevičiūtė |first3=Rita |last4=Kiryushin |first4=Yuriy F. |last5=Tishkin |first5=Alexey A. |last6=Frolov |first6=Yaroslav V. |last7=Stepanova |first7=Nadezhda F. |last8=Kiryushin |first8=Kirill Yu |last9=Kungurov |first9=Artur L. |last10=Shnaider |first10=Svetlana V. |last11=Tur |first11=Svetlana S. |last12=Tiunov |first12=Mikhail P. |last13=Zubova |first13=Alisa V. |last14=Pevzner |first14=Maria |last15=Karimov |first15=Timur |date=2023-01-12 |title=Middle Holocene Siberian genomes reveal highly connected gene pools throughout North Asia |url=https://www.cell.com/current-biology/abstract/S0960-9822(22)01892-9 |journal=Current Biology |volume=33 |issue=3 |pages=423–433 |language=English |doi=10.1016/j.cub.2022.11.062 |issn=0960-9822 |pmid=36638796|s2cid=255750546 }}</ref>。[[オクネフ文化|オクネフ文化人]]と{{日本語版にない記事リンク|ボタイ文化|en|Botai}}は古代北ユーラシア人(ANE)、特に[[マルタ・ビュレット文化|マルタ・ビュレット文化人]]の直系の子孫と考えることができる<ref>{{cite journal |last1=Kozintsev |first1=A. G. |title=Patterns in the Population History of Northern Eurasia from the Mesolithic to the Early Bronze Age, Based on Craniometry and Genetics |journal=Archaeology, Ethnology & Anthropology of Eurasia |date=4 January 2022 |volume=49 |issue=4 |page=141 |doi=10.17746/1563-0110.2021.49.4.140-151 |url=https://www.researchgate.net/publication/357595862|quote= 「この点でアメリカ先住民に最も近い現代の旧世界の集団は、チュクチ人、コリャーク人、ケット人、セリクプ人であり、古代の集団では、オクネフ人とボタイ文化*の人々である。」|doi-access=free }}</ref>。 '''西シベリア狩猟採集民'''(WSHG)は、Narasimhanら(2019)によって初めて報告された特定の考古遺伝学的系統である。20%の東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)、73%の古代北ユーラシア人(ANE)、6%の[[古代北東アジア人]](ANA)としてモデル化できる。紀元前5,000年頃のウラル山脈の東に位置するロシア森林地帯の[[チュメニ州]]から採取された3人の狩猟採集民にしか代表されないが,青銅器時代までの中央アジアのさまざまな集団で高レベルの西シベリア狩猟採集民(WSHG)のような祖先が検出される。ボタイ文化の集団は、おそらく西シベリア狩猟採集民(WSHG)の直接の子孫ではないが、西シベリア狩猟採集民(WSHG)の系統と高い親和性を示している。 [[File:Tarim-mumia-4.jpg|thumb| 「{{日本語版にない記事リンク|小河の王女|en|Princess of Xiaohe}}」。<br>古代北ユーラシア人の「最高の代表」である{{日本語版にない記事リンク|タリムのミイラ|en|Tarim mummies}}のひとつ<ref name="Dist"/>。]] '''バイカル湖完新世''' - 新石器時代から初期青銅器時代の古代北東アジア人(ANA)のうち、バイカル銅器時代(Baikal Eneolithic:Baikal_EN)とバイカル初期青銅器時代(Early Baikal Bronze Age:Baikal_EBA)は6.4%から20.1%の祖先が古代北ユーラシア人(ANE)に由来し、残りの祖先は古代北東アジア人(ANA)に由来する。バイカル湖畔の銅器時代のFofonovo(Fofonovo_EN)遺跡出土人骨では、12-17%の古代北ユーラシア人(ANE)系祖先と83-87%の古代北部東アジア人(ANA)系祖先が混在していた{{sfn|Jeong|Wang|Wilkin|Taylor|2020}}。 '''タリムのミイラ''' 2021年に行われた{{日本語版にない記事リンク|タリムのミイラ|en|Tarim mummies}}の遺伝学的研究によって、彼らは主に''アフォントヴァ山遺跡標本3''(AG3)に代表される集団の子孫であることが判明し、遺伝学的に「高い親和性」を示した<ref>{{cite journal |last1=Zhang |first1=Fan |title=The genomic origins of the Bronze Age Tarim Basin mummies |journal=Nature |date=November 2021 |volume=599 |issue=7884 |pages=256–261 |doi=10.1038/s41586-021-04052-7 |pmid=34707286 |pmc=8580821 |bibcode=2021Natur.599..256Z |language=en |issn=1476-4687|quote=この混合遺伝学的プロフィールを理解するために、qpAdm を用いて、タリム盆地のミイラの標本Tarim_EMBA1、またはシベリアのアフォントヴァ山遺跡31に由来する更新世終末期の個体(AG3)をソースとして、ジュンガリアの集団の混血モデルを探索した(補足データ 1D)。アフォントヴァ山遺跡の個体(AG3)は古代北ユーラシア人(ANE)祖先の末端の代表であり、タリム盆地の標本Tarim_EMBA1と高い親和性を示している。}}</ref>。アフォントヴァ山遺跡標本3の遺伝子プロファイルは、タリムのミイラの祖先の約72%に相当する。 残りの28%はバイカルEBA(青銅器時代初期の古代北東アジア人、バイカル湖の集団)に代表される集団に由来する。<ref>{{cite journal |last1=Zhang |first1=Fan |title=The genomic origins of the Bronze Age Tarim Basin mummies |journal=Nature |date=November 2021 |volume=599 |issue=7884 |pages=256–261 |doi=10.1038/s41586-021-04052-7 |pmid=34707286 |pmc=8580821 |bibcode=2021Natur.599..256Z |language=en |issn=1476-4687|quote=qpAdmを用いて、タリム盆地の個体を2つの古代自生アジア人の遺伝的集団の混合としてモデル化した。シベリアのイェニセイ川上流域のアフォントヴァ山遺跡(AG3)の後期旧石器時代の個体(約72%)に代表される古代北ユーラシア人(ANE)と、初期青銅器時代のバイカル_EBA(約28%)に代表される古代北東アジア人である。}}</ref>。 したがってタリムのミイラは古代北ユーラシア人(ANE、特にマリタ遺跡とアフォントヴァ山遺跡の集団)に祖先の大部分を持つ稀な[[完新世]]の集団である。 ただし時間的な距離は離れている(約14,000年)<ref name="Dist"/>。タリム盆地の一種の「遺伝的ボトルネック 」の中で生存し、古代北ユーラシア人(ANE)の祖先を保存し、永続させてきたタリムのミイラは、他のどの古代集団よりも、古代北ユーラシア人の「最良の代表 」とみなすことができる<ref name="Dist">{{cite journal |last1=Zhang |first1=Fan |title=The genomic origins of the Bronze Age Tarim Basin mummies |journal=Nature |date=November 2021 |volume=599 |issue=7884 |pages=256–261 |doi=10.1038/s41586-021-04052-7 |pmid=34707286 |pmc=8580821 |bibcode=2021Natur.599..256Z |language=en |issn=1476-4687|quote=「タリムのミイラは、かつて南シベリアの狩猟採集民を構成していた更新世ANE集団に祖先の大部分を由来し、マリタ(MA-1)29とアフォントヴァ山(AG3)の遺跡から得られた個々のゲノムに代表される、完新世の数少ない集団の一つである。」(...)「タリムのミイラは、かつて中央アジアとシベリア南部に居住していた牧畜民以前の古代北ユーラシア人(ANE)関連集団(拡張データ図2A)の最も代表的なものである。}}</ref>。 === ヨーロッパ人の集団 === [[File: PCA_Early_European_populations日本語.jpg|thumb|upright=1.25|遺伝学的に、古代北ユーラシア人(ANE、赤丸)は、後の[[東ヨーロッパ狩猟採集民]](EHG、オレンジ丸)やボタイ文化(Botai、黒丸)と最も近縁であった。WHG:西ヨーロッパ狩猟狩猟民、青丸。灰色は現代人]] Lazaridisら(2014年)は、現代ヨーロッパの集団の中にANEの祖先を20%以内の割合で検出した<ref>{{cite journal |last1=Lazaridis |first1=Iosif |last2=Patterson |first2=Nick |last3=Mittnik |first3=Alissa |title=Ancient human genomes suggest three ancestral populations for present-day Europeans |journal=Nature |date=September 2014 |volume=513 |issue=7518 |pages=409–413 |doi=10.1038/nature13673 |pmid=25230663 |pmc=4170574 |arxiv=1312.6639 |bibcode=2014Natur.513..409L |language=en |issn=1476-4687|quote= すなわち、西ヨーロッパの狩猟採集民は、すべてのヨーロッパ人の祖先になったが、近東人の祖先にはならなかった;古代北ユーラシア人は、ヨーロッパ人と近東人の両方に祖先を持つ、後期旧石器時代のシベリア人に関連している;初期ヨーロッパの農耕民は、主に近東起源であるが、西ヨーロッパの狩猟採集民に関連する祖先を持っていた。}}</ref>。古代ヨーロッパの集団では、[[ヤムナ文化|ヤムナヤ人]]の検査でANEの遺伝的要素が見られる{{sfn|Haak|Lazaridis|Patterson|Rohland|2015}}が、[[縄目文土器文化]]以前の西ヨーロッパ人や中央ヨーロッパ人の検査では見られない{{sfn|Lazaridis|Patterson|Mittnik|2014}}:古代北ユーラシア人(ANE)の祖先は'''[[東ヨーロッパ狩猟採集民]]'''(EHG)系統によってヨーロッパの遺伝子プールに導入され、その祖先には古代北ユーラシア人(ANE)からの影響が9%から最大75%に達し、残りの祖先は[[西ヨーロッパ狩猟採集民]](WHG)とは異なるが近縁のグループに由来する{{sfn|Lazaridis|Nadel|Rollefson|Merrett|2016}}{{sfn|Wang|2019}}。その代表は[[カレリア]]の{{日本語版にない記事リンク|ユージニー・オレニー|en|Yuzhny Oleny}}遺跡出土の2個体で、1人は8.4kya頃の[[ハプログループR1a (Y染色体)|YハプログループR1a-M417]]、もう1人は7.2kya頃の[[ハプログループJ (Y染色体) |YハプログループJ]]、そして[[サマラ]]の1人は7.6kya頃の[[ハプログループR1b (Y染色体) |YハプログループR1b-P297]]である。[[最終氷期極大期]](LGM)が終わると、西ヨーロッパ狩猟採集民の系統と東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)の系統が東ヨーロッパで融合し、中石器時代のヨーロッパに古代北ユーラシア人(ANE)に由来する祖先が早くから存在するようになった。古代北ユーラシア人が東シベリアから西方へ移動する際に、西ヨーロッパ狩猟採集民や他の西ユーラシア人の集団も吸収したことを示唆する証拠がある{{sfn|Mathieson|Alpaslan-Roodenberg|Posth|Szécsényi-Nagy|2018}}。 '''{{日本語版にない記事リンク|スカンディナヴィア狩猟採集民|en| Scandinavian Hunter-Gatherer}}'''(SHG)は、紀元前6000年頃にスウェーデンのモタラに埋葬された複数の個体によって代表される。彼らは当初南からスカンジナビアに定住した西ヨーロッパ狩猟採集民の子孫であり、後に北からノルウェーの海岸を通ってスカンジナビアに入った東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)の混血を受けた{{sfn|Lazaridis|Patterson|Mittnik|Renaud|2014}}{{sfn|Haak|Lazaridis|Patterson|Rohland|2015}}{{sfn|Mathieson|2015}}{{sfn|Günther|Malmström|Svensson|Omrak|2018}}{{sfn|Mittnik|2018}}。 '''[[西部ステップ牧畜民]]'''(WSH)は、[[ポントス・カスピ海草原]]の[[ヤムナ文化|ヤムナヤ文化]]に密接に関連する子孫を表す、明確な祖先構成要素に与えられた名前である{{efn|「最近の古代のゲノム研究によって、銅器時代(紀元前3300-2700年頃)に始まった西部ステップ牧畜民(WSH)の移動が、ヨーロッパと中央アジアの遺伝子と文化を大きく変容させたことが明らかになった...。[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]地平線(前3300-前2700年頃)を最古の代表とするこれらの西部ステップ牧畜民(WSH)の移住は、ヨーロッパの[[縄目文土器文化]](前2500-前2200年頃)だけでなく、カスピ海とアルタイ・サヤンの山岳地帯の間に位置する草原文化、例えば[[アファナシェヴォ文化]](前3300-前2500年頃)、後の[[シンタシュタ文化]](前2100-前1800年頃)、[[アンドロノヴォ文化]](前1800-前1300年頃)にも貢献した。」{{sfn|Jeong|Wilkin|Amgalantugs|Bouwman|2018}}}}。この祖先系統はしばしば[[ヤムナ文化|ヤムナヤ]]祖先系統またはステップ祖先系統と呼ばれ、東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)と{{日本語版にない記事リンク|コーカサス狩猟採集民|en|Caucasus hunter-gatherer}}(CHG)がほぼ同じ割合で形成された{{sfn|Jeong|Balanovsky|Lukianova|Kahbatkyzy|2019}}。 == 表現型の予測 == {{multiple image|perrow=2|total_width=400|caption_align=center | align = right | direction =horizontal | image2 = Eurasian genetic ancestry components (K8).jpg | caption2 = 初期のタリムのミイラに含まれるユーラシア祖先成分の頻度。旧石器時代のAfontova山遺跡3の標本と "タリム_EMBA1"標本で最大であった古代北ユーラシア人(ANE)的祖先系統は赤で表示されている。 | image1 = Genetic structure of ancient and present-day populations (Tarim-MA1 proximity).png | caption1 = タリムのミイラは古代北ユーラシア人との遺伝的近縁性が強い([[マルタ・ビュレット文化]]({{c.|24,000 BP}})の人骨標本であるMA-1に代表される)。 | footer= }} Raghavanら(2014年)とFuら(2016年)によるゲノム研究では、Mal'ta少年は褐色の目を持ち、比較的黒い髪と黒い肌を持っていた可能性が示唆されている<ref>{{cite journal |last1=Fu |first1=Qiaomei |last2=Posth |first2=Cosimo |last3=Hajdinjak |first3=Mateja |title=The genetic history of Ice Age Europe |journal=[[Nature (journal)|Nature]] |volume=504 |issue=7606 |pages=200–5 |date=May 2, 2016 |doi=10.1038/nature17993 |pmid=27135931 |pmc=4943878 |display-authors=2 |bibcode=2016Natur.534..200F|hdl=10211.3/198594 }}</ref>が、この分析はDNAのカバー率が極めて低いため、色素の正確な予測ができない可能性があることに留意する必要がある<ref>{{cite journal |last1=Raghavan |first1=Maanasa |last2=Skoglund |first2=Pontus |last3=Graf |first3=Kelly E. |last4=Metspalu |first4=Mait |last5=Albrechtsen |first5=Anders |last6=Moltke |first6=Ida |last7=Rasmussen |first7=Simon |last8=Stafford |first8=Thomas W. |last9=Orlando |first9=Ludovic |last10=Metspalu |first10=Ene |last11=Karmin |first11=Monika |last12=Tambets |first12=Kristiina |last13=Rootsi |first13=Siiri |last14=Mägi |first14=Reedik |last15=Campos |first15=Paula F. |last16=Balanovska |first16=Elena |last17=Balanovsky |first17=Oleg |last18=Khusnutdinova |first18=Elza |last19=Litvinov |first19=Sergey |last20=Osipova |first20=Ludmila P. |last21=Fedorova |first21=Sardana A. |last22=Voevoda |first22=Mikhail I. |last23=DeGiorgio |first23=Michael |last24=Sicheritz-Ponten |first24=Thomas |last25=Brunak |first25=Søren |last26=Demeshchenko |first26=Svetlana |last27=Kivisild |first27=Toomas |last28=Villems |first28=Richard |last29=Nielsen |first29=Rasmus |last30=Jakobsson |first30=Mattias |last31=Willerslev |first31=Eske |title=Upper Palaeolithic Siberian genome reveals dual ancestry of NativeAmericans |journal=Nature |date=2 January 2014 |volume=505 |issue=7481 |pages=87–91 |doi=10.1038/nature12736 |pmid=24256729 |pmc=4105016 |bibcode=2014Natur.505...87R |issn=0028-0836}}「マリタ遺跡のMA-1個体は、髪、肌、目の色素が比較的濃いと予測された。しかし、この解析は17のSNPsに基づくものであり、SNPsの全セットを用いても予測精度は限定的である。MA-1はrs6152に男性型脱毛症の高リスクと関連するG対立遺伝子を持つ。予想通り、MA-1はrs4988235で先祖代々のC対立遺伝子も持っている...アジア人の毛髪の太さとシャベル型の切歯に関連する対立遺伝子(rs3827760)は持っておらず、一方、東アジア人の乾燥した耳垢に関連する位置(rs17822931)はドラフトゲノムデータではカバーされていない。」</ref>。Mathieson, et al. (2018)は、このSNPのカバレッジが得られなかったため、マリタ遺跡の少年の標本Mal'ta 1が古代北ユーラシア人(ANE)の子孫の金髪に関連する派生対立遺伝子を持つかどうかを判断できなかった<ref name="APR"/>。 === 人類学的研究 === [[File:Loulan beauty closeup.jpg|thumb|left|upright|{{日本語版にない記事リンク|タリムのミイラ|en|Tarim mummies}}の一つ。 「[[楼蘭の美女]]」{{c.|2000 BCE}}]] コズィンツェフ(2020)は、歴史的な南シベリアの[[オクネフ文化|オクネフ文化集団]]は、その祖先のほとんどを古代北ユーラシア人とその近縁者に由来しており、彼が「アメリカノイド」と名づけた明確な頭蓋計測表現型を持っており、これはシベリアにおける最初の人類の変異を表していると主張している。さらに彼は議論を進めて「ANEの構成要素の地理と年代が示すように、それを西ユーラシアと表現し、古代のコーカソイドとだけ結びつけるのは誤解を招く。どう見ても、それはコーカソイドとモンゴロイドの分裂以前に出現したものである」としている<ref name="Kozintsev 135–145"/>。 Zhangら(2021年)は、より初期のタリムのミイラの「西洋人」のような特徴は、古代北ユーラシア人の祖先系統によるものだと提唱した<ref>{{Cite journal |last1=Zhang |first1=Fan |last2=Ning |first2=Chao |last3=Scott |first3=Ashley |last4=Fu |first4=Qiaomei |last5=Bjørn |first5=Rasmus |last6=Li |first6=Wenying |last7=Wei |first7=Dong |last8=Wang |first8=Wenjun |last9=Fan |first9=Linyuan |last10=Abuduresule |first10=Idilisi |last11=Hu |first11=Xingjun |date=November 2021 |title=The genomic origins of the Bronze Age Tarim Basin mummies |journal=Nature |language=en |volume=599 |issue=7884 |pages=256–261 |bibcode=2021Natur.599..256Z |doi=10.1038/s41586-021-04052-7 |issn=1476-4687 |pmc=8580821 |pmid=34707286|quote=「タリムのミイラのいわゆる西洋的な身体的特徴は、おそらく更新世ANEの遺伝子プールとのつながりによるものであろう」}}</ref>。初期のタリムのミイラに関する以前の頭蓋測定分析によると、彼らは独自のクラスターを形成しており、[[アンドロノヴォ文化]]や[[アファナシエヴォ文化]]と言ったヨーロッパ関連のステップ牧畜民とも、西アジアの[[バクトリア・マルギアナ複合]]文化の住民とも、さらに東の[[古代北東アジア人]]ともクラスターを形成していなかった<ref>{{Cite web |title=A Craniometric Investigation of The Bronze Age Settlement of Xinjiang - Important {{!}} PDF |url=https://www.scribd.com/document/150539338/A-Craniometric-Investigation-of-the-Bronze-Age-Settlement-of-Xinjiang-Important |access-date=2023-04-04 |website=Scribd |language=en |quote=その結果、Qa¨wrighulの初期住民と、タリム盆地への移民源として提唱されている集団のいずれとも、表現上の親近性を示すことはできなかった。外部集団との密接な親近性がないことから、Qa¨wrighulから出土した人骨が、草原地帯のアファナシーヴォ文化やアンドロノヴォ文化からの移住者、あるいはバクトリアのオクサス文明([[バクトリア・マルギアナ複合]]文化)の都市中心部の住民と混血していない遺骨である可能性は低い。}}</ref>。 === 金髪の進化 === 金髪はSNP(一塩基多型)、KITLG遺伝子の変異対立遺伝子rs12821256と関連している{{sfn|Carlberg|Hanel|2020|loc=「興味深いことに、東ヨーロッパ狩猟採集民や[[ヤムナ文化|ヤムナヤ文化人]]などの古代北ユーラシア人由来の集団は、KITLG遺伝子の金髪対立遺伝子rs12821256をヨーロッパに持ち込んでいた。その最初の証拠は、バイカル湖の西に住む18,000年前の古代北ユーラシア人の個体から発見された。」}}<ref>{{cite web |last1=Hartz |first1=Patricia |title=KIT LIGAND; KITLG |url=https://www.omim.org/entry/184745 |website=Online Mendelian Inheritance in Man|accessdate=2023-11-12}}</ref><ref>{{cite web |last1=Khan |first1=Razib |title=KITLG makes you white skinned? |url=https://www.discovermagazine.com/health/kitlg-makes-you-white-skinned |website=Discover Magazine|accessdate=2023-11-12}}</ref><ref>{{cite web |title=P21583 |url=https://www.uniprot.org/uniprot/P21583 |website=Uniprot|accessdate=2023-11-12}}</ref>{{sfn|Guenther|Tasic|Luo|Bedell|2014}}。この対立遺伝子を持つ最古の個体は、アフォントヴァ山遺跡3から出土したシベリア中南部の古代北ユーラシア人(ANE)時代の女性であり、この個体は{{c.|17,000}}BPと推定されている(それ以前の古代北ユーラシア人(ANE)時代の[[マリタ・ビュレット文化|マリタ遺跡から出土した少年]]は、この判定を行うための塩基配列カバレッジを欠いている)<ref name="Evans2019">{{cite book |last1=Evans |first1=Gavin |title=Skin Deep: Dispelling the Science of Race |date=2019 |publisher=Simon and Schuster |page=139 |isbn=9781786076236 |edition=1 |url=https://books.google.com/books?id=jB-9DwAAQBAJ&pg=PT139}}|「2006年の日本の研究により、金髪の進化を促した遺伝子の突然変異は、およそ1万1000年前に起こった氷河期にさかのぼることが判明した。その後、シベリア東部で17,000年前の金髪の北ユーラシアの狩猟採集民の遺骨が発見され、それ以前の起源が示唆されている。」</ref>。対立遺伝子はその後、1万BP頃に[[サマラ州|サマラ]]、モタラ、ウクライナの古代北ユーラシア人(ANE)由来の[[東ヨーロッパ狩猟採集民]](EHG)集団に現れ、その後[[西部ステップ牧畜民]]を持つ集団に現れる<ref name="APR"/>。Mathiesonら(2018)は、この対立遺伝子はユーラシア西部に広がる前に、古代の北ユーラシア集団に起源を持つと主張した<ref name="APR">{{harvnb|Mathieson|Alpaslan-Roodenberg|Posth|Szécsényi-Nagy|2018|}}「補足情報52ページ「KITLGのSNP rs12821256の派生対立遺伝子は、サマラ、モタラ、ウクライナの狩猟採集民(I0124、I0014、I1763)にそれぞれ1個体ずつ存在し、さらにステップの祖先を持つ後代にも数個体存在する。この対立遺伝子は東ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)の祖先を持つ集団には見られるが、西ヨーロッパ狩猟採集民(WHG)の祖先には見られないことから、その起源は古代北ユーラシア人(ANE)集団にあることが示唆される。これと一致するのは、この対立遺伝子を持つ最古の個体(2つのリードで支持される)が古代北ユーラシア人(ANE)個体Afontova Gora 3であり、この個体の直接年代は16130-15749 cal BCE(14710±60BP、MAMS-27186:未発表の年代であり、今回新たに報告した)であることである。アフォントヴァ山遺跡のAfontova Gora 2とマリタ遺跡のMA-1におけるrs12821256については、このSNPの塩基配列のカバレッジが不十分であったため、その状態を決定することはできなかった。」</ref>。 遺伝学者デイヴィッド・ライヒは、金髪のKITLG遺伝子は、おそらくユーラシアの草原から、その祖先に古代北ユーラシア人を多く持つ集団による集団移動の波に乗ってヨーロッパ大陸に入ったのだろうと述べた<ref name=Reich201i>{{cite book |last1=Reich |first1=David |title=Who We are and How We Got Here: Ancient DNA and the New Science of the Human Past |date=2018 |publisher=Oxford University Press |isbn=978-0198821250 |url=https://books.google.com/books?id=uLNSDwAAQBAJ&pg=PA96}}「古典的なヨーロッパ人の金髪突然変異の最も古い例は、1万7千年前の東シベリアのバイカル湖地方にいた古代北ユーラシア人である。今日、中央ヨーロッパと西ヨーロッパに見られる数億のこの突然変異は、おそらく次の章で述べる古代北ユーラシア人の祖先を持つ人々の大移動に由来するものであろう。」</ref>。HanelとCarlberg(2020)も同様に、古代の北ユーラシアの祖先に由来する集団、具体的には[[東ヨーロッパ狩猟採集民]]と[[ヤムナ文化|ヤムナヤ文化人]]がこの遺伝子をヨーロッパ人に伝えたと報告している{{sfn|Carlberg|Hanel|2020|loc=「興味深いことに、東ヨーロッパ狩猟採集民や[[ヤムナ文化|ヤムナヤ人]]などの古代の北ユーラシア由来の集団は、KITLG遺伝子のrs12821256の金髪対立遺伝子をヨーロッパに持ち込んでいた。その最初の証拠は、バイカル湖の西に住む18,000年前の古代北ユーラシア人に記載されている。」}}。この遺伝子はタリムのミイラの間でも発見された<ref>{{cite journal |last1=Zhang |first1=Fan |title=The genomic origins of the Bronze Age Tarim Basin mummies |journal=Nature |date=November 2021 |volume=599 |issue=7884 |pages=256–261 |doi=10.1038/s41586-021-04052-7 |pmid=34707286 |pmc=8580821 |bibcode=2021Natur.599..256Z |language=en |issn=1476-4687}}</ref>。 [[File:Archaeogenetic_analysis_of_human_skin_pigmentation_in_Europe_(with_Asia_geographic_extension)日本語.jpg|thumb|upright=2|金髪の遺伝子変異は南-中央シベリアの[[アフォントヴァ山遺跡]]の古代北ユーラシア人(ANE)系統の集団内で発生したと考えられている<ref>{{cite journal |last1=Hanel |first1=Andrea |last2=Carlberg |first2=Carsten |title=Skin colour and vitamin D: An update |journal=Experimental Dermatology |date=3 July 2020 |volume=29 |issue=9 |pages=864–875 |doi=10.1111/exd.14142 |pmid=32621306 |s2cid=220335539 |url=https://doi.org/10.1111/exd.14142}}</ref>。]] == 比較神話学 == {{multiple image | perrow = 2 | total_width = 250 | caption_align = center | align = right | direction = vertical | image2 = Mal'ta centrally perforated ivory plaque with three snakes.jpg | image1 = Mal'ta centrally perforated ivory plaque.jpg | footer = [[マルタ・ビュレット文化]]。 抽象的な円と 3 匹の蛇が描かれた中央に穴のあいた象牙の飾り板<ref name="RGB">{{cite journal |last1=Bednarik |first1=Robert G. |title=Pleistocene Palaeoart of Asia |journal=Arts |date=2013 |volume=2 |issue=2 |pages=46–76 |doi=10.3390/arts2020046 |url=https://www.researchgate.net/publication/307759436 |doi-access=free }}</ref>。考古学者のドン・ヒッチコックによれば、「北半球の旧石器時代美術ではヘビは珍しい。加えて、ヘビの頭が非常に広く、まるで[[コブラ]]の仲間であるかのようだが、コブラは現在では[[南アジア|南アジア]]でしか知られていない。これらの象牙の飾り板の制作者がどのようにしてヘビを知っているのか、あるいはこれらについて他の解釈が可能かどうかは、まだ解明されていない<ref>{{cite web |title=The Mal'ta - Buret' venuses and culture in Siberia |url=https://donsmaps.com/malta.html |website=donsmaps.com|accessdate=2023-11-12}}</ref>。 }} 古代北ユーラシア人という用語は、遺伝的な橋でつながった交配ネットワークを指すが、[[比較神話学]]の研究者たちは、おそらく彼らは神話や信仰を共有しており、それは数千年もの間接触することのなかった、[[ポントス・カスピ海草原]]からアメリカ大陸に広がる文化圏内で証言された物語を比較することによって再構築することができると主張してきた{{Sfn|Anthony|Brown|2019|p=|pp=104–106}}。 異界を守る犬という神話は、{{日本語版にない記事リンク|原始インド・ヨーロッパ神話|en|Proto-Indo-European mythology}}、{{日本語版にない記事リンク|アメリカン先住民の宗教|en|Native American religions}}、{{日本語版にない記事リンク|シベリアのシャーマニズム|en|Shamanism in Siberia}}に見られる同様のモチーフから示唆されるように、おそらくもっと古い古代北ユーラシアの信仰に由来する。アメリカ大陸の[[スー語族]]、[[アルゴンキン族]]、{{日本語版にない記事リンク|イロコイ族|en|Iroquois}}、中南米の信仰では、獰猛な番犬が天の川に位置し、死後の世界における魂の通り道として認識され、それを越えることが試練であった。シベリアの[[チュクチ族]]と[[ツングース系民族]]は死後の世界の守護犬と、死者の魂を吸収して死後の世界でガイドとして働く霊犬を信じていた。インド・ヨーロッパ神話では、犬の姿は[[ケルベロス]]、{{日本語版にない記事リンク|シャルヴァラとシャーマ|en|Sharvara and Shyama}}、[[ガルム]]によって具現化されている。ゾロアスター教では、2匹の4つ目の犬がチンバト橋と呼ばれる死後の世界への橋を守っている。デヴィッド・W・アンソニーとブラウンは、これは[[比較神話学]]によって回復可能な最も古い神話のテーマの1つかもしれないと指摘している{{Sfn|Anthony|Brown|2019|p=|pp=104–106}}。 第二のイヌに関連する一連の信仰、神話、儀式は、犬を死ではなく癒しと結びつけていた。例えば、古代近東や[[テュルク系民族]]-[[キプチャク]]人の神話は犬を癒しと関連付ける傾向があり、一般的に犬を不浄なものとして分類している。紀元前3500年とされるカザフスタンのボタイ文化の銅器時代の遺跡でも同様の神話パターンが想定されており、犬は病気を吸収し、病気や悪から家庭を守る守護者として表現されているのかもしれない。メソポタミアでは、癒しに関連する女神ニンティヌッガは犬に伴われたり象徴されたりしていた。ギリシャやイタリア、[[ヒッタイト]]の間でも同じような癒しと犠牲の儀式が行われていた{{Sfn|Anthony|Brown|2019|p=|pp=104–106}}。 == 関連項目 == * [[西ヨーロッパ狩猟採集民]] * [[東ヨーロッパ狩猟採集民]] * {{日本語版にない記事リンク|先史シベリア|en|Prehistory of Siberia}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{notelist}} ===出典=== {{reflist}} == 参考文献 == {{refbegin|30em|indent=yes}} * {{Cite book|last1=Anthony|first1=David W.|url=https://books.google.com/books?id=WXzKDwAAQBAJ|title=Tracing the Indo-Europeans: New evidence from archaeology and historical linguistics|last2=Brown|first2=Dorcas R.|date=2019|publisher=Oxbow Books|isbn=978-1-78925-273-6|editor-last=Olsen|editor-first=Birgit A.|language=en|chapter=Late Bronze Age midwinter dog sacrifices and warrior initiations at Krasnosamarskoe, Russia|editor2-last=Olander|editor2-first=Thomas|editor3-last=Kristiansen|editor3-first=Kristian}} * {{cite journal |last1=Balter |first1=M. |title=Ancient DNA Links Native Americans With Europe |journal=Science |date=25 October 2013 |volume=342 |issue=6157 |pages=409–410 |doi=10.1126/science.342.6157.409 |pmid=24159019 |bibcode=2013Sci...342..409B |doi-access=free }} *{{cite journal |display-authors=3 |last1=Dolitsky |first1=Alexander B. |last2=Ackerman |first2=Robert E. |last3=Aigner |first3=Jean S. |last4=Bryan |first4=Alan L. |last5=Dennell |first5=Robin |last6=Guthrie |first6=R. Dale |last7=Hoffecker |first7=John F. |last8=Hopkins |first8=David M. |last9=Lanata |first9=José Luis |last10=Workman |first10=William B. |title=Siberian Paleolithic Archaeology: Approaches and Analytic Methods [and Comments and Replies] |journal=Current Anthropology |date=June 1985 |volume=26 |issue=3 |pages=361–378 |doi=10.1086/203280 |s2cid=147371671 }} * {{cite journal |last1=Carlberg |first1=Carsten |last2=Hanel |first2=Andrea |title=Skin colour and vitamin D: An update |journal=Experimental Dermatology |date=2020 |volume=29 |issue=9 |pages=864–875 |doi=10.1111/exd.14142 |pmid=32621306 |doi-access=free }} *{{cite journal |display-authors=4 |last1=Flegontov |first1=Pavel |last2=Changmai |first2=Piya |last3=Zidkova |first3=Anastassiya |last4=Logacheva |first4=Maria D. |last5=Altınışık |first5=N. Ezgi |last6=Flegontova |first6=Olga |last7=Gelfand |first7=Mikhail S. |last8=Gerasimov |first8=Evgeny S. |last9=Khrameeva |first9=Ekaterina E. |last10=Konovalova |first10=Olga P. |last11=Neretina |first11=Tatiana |last12=Nikolsky |first12=Yuri V. |last13=Starostin |first13=George |last14=Stepanova |first14=Vita V. |last15=Travinsky |first15=Igor V. |last16=Tříska |first16=Martin |last17=Tříska |first17=Petr |last18=Tatarinova |first18=Tatiana V. |title=Genomic study of the Ket: a Paleo-Eskimo-related ethnic group with significant ancient North Eurasian ancestry |journal=Scientific Reports |date=11 February 2016 |volume=6 |issue=1 |pages=20768 |doi=10.1038/srep20768 |pmid=26865217 |pmc=4750364 |bibcode=2016NatSR...620768F |arxiv=1508.03097 }} *{{cite journal |display-authors=4 |last1=Günther |first1=Torsten |last2=Malmström |first2=Helena |last3=Svensson |first3=Emma M. |last4=Omrak |first4=Ayça |last5=Sánchez-Quinto |first5=Federico |last6=Kılınç |first6=Gülşah M. |last7=Krzewińska |first7=Maja |last8=Eriksson |first8=Gunilla |last9=Fraser |first9=Magdalena |last10=Edlund |first10=Hanna |last11=Munters |first11=Arielle R. |last12=Coutinho |first12=Alexandra |last13=Simões |first13=Luciana G. |last14=Vicente |first14=Mário |last15=Sjölander |first15=Anders |last16=Jansen Sellevold |first16=Berit |last17=Jørgensen |first17=Roger |last18=Claes |first18=Peter |last19=Shriver |first19=Mark D. |last20=Valdiosera |first20=Cristina |last21=Netea |first21=Mihai G. |last22=Apel |first22=Jan |last23=Lidén |first23=Kerstin |last24=Skar |first24=Birgitte |last25=Storå |first25=Jan |last26=Götherström |first26=Anders |last27=Jakobsson |first27=Mattias |last28=Barton |first28=Nick |title=Population genomics of Mesolithic Scandinavia: Investigating early postglacial migration routes and high-latitude adaptation |journal=PLOS Biology |date=9 January 2018 |volume=16 |issue=1 |pages=e2003703 |doi=10.1371/journal.pbio.2003703 |pmid=29315301 |pmc=5760011 |doi-access=free }} *{{cite journal |display-authors=3 |last1=Haak |first1=Wolfgang |last2=Lazaridis |first2=Iosif |last3=Patterson |first3=Nick |last4=Rohland |first4=Nadin |last5=Mallick |first5=Swapan |last6=Llamas |first6=Bastien |last7=Brandt |first7=Guido |last8=Nordenfelt |first8=Susanne |last9=Harney |first9=Eadaoin |last10=Stewardson |first10=Kristin |last11=Fu |first11=Qiaomei |last12=Mittnik |first12=Alissa |last13=Bánffy |first13=Eszter |last14=Economou |first14=Christos |last15=Francken |first15=Michael |last16=Friederich |first16=Susanne |last17=Pena |first17=Rafael Garrido |last18=Hallgren |first18=Fredrik |last19=Khartanovich |first19=Valery |last20=Khokhlov |first20=Aleksandr |last21=Kunst |first21=Michael |last22=Kuznetsov |first22=Pavel |last23=Meller |first23=Harald |last24=Mochalov |first24=Oleg |last25=Moiseyev |first25=Vayacheslav |last26=Nicklisch |first26=Nicole |last27=Pichler |first27=Sandra L. |last28=Risch |first28=Roberto |last29=Rojo Guerra |first29=Manuel A. |last30=Roth |first30=Christina |last31=Szécsényi-Nagy |first31=Anna |last32=Wahl |first32=Joachim |last33=Meyer |first33=Matthias |last34=Krause |first34=Johannes |last35=Brown |first35=Dorcas |last36=Anthony |first36=David |last37=Cooper |first37=Alan |last38=Alt |first38=Kurt Werner |last39=Reich |first39=David |title=Massive migration from the steppe was a source for Indo-European languages in Europe |journal=Nature |date=2 March 2015 |volume=522 |issue=7555 |pages=207–211 |doi=10.1038/nature14317 |pmid=25731166 |pmc=5048219 |bibcode=2015Natur.522..207H |arxiv=1502.02783 }} * {{cite journal |last1=Guenther |first1=Catherine A |last2=Tasic |first2=Bosiljka |last3=Luo |first3=Liqun |last4=Bedell |first4=Mary A |last5=Kingsley |first5=David M |title=A molecular basis for classic blond hair color in Europeans |journal=Nature Genetics |date=July 2014 |volume=46 |issue=7 |pages=748–752 |doi=10.1038/ng.2991 |pmid=24880339 |pmc=4704868 }} * {{cite journal |display-authors=4 |last1=Jeong |first1=Choongwon |last2=Wilkin |first2=Shevan |last3=Amgalantugs |first3=Tsend |last4=Bouwman |first4=Abigail S. |last5=Taylor |first5=William Timothy Treal |last6=Hagan |first6=Richard W. |last7=Bromage |first7=Sabri |last8=Tsolmon |first8=Soninkhishig |last9=Trachsel |first9=Christian |last10=Grossmann |first10=Jonas |last11=Littleton |first11=Judith |last12=Makarewicz |first12=Cheryl A. |last13=Krigbaum |first13=John |last14=Burri |first14=Marta |last15=Scott |first15=Ashley |last16=Davaasambuu |first16=Ganmaa |last17=Wright |first17=Joshua |last18=Irmer |first18=Franziska |last19=Myagmar |first19=Erdene |last20=Boivin |first20=Nicole |last21=Robbeets |first21=Martine |last22=Rühli |first22=Frank J. |last23=Krause |first23=Johannes |last24=Frohlich |first24=Bruno |last25=Hendy |first25=Jessica |last26=Warinner |first26=Christina |title=Bronze Age population dynamics and the rise of dairy pastoralism on the eastern Eurasian steppe |journal=Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America |date=27 November 2018 |volume=115 |issue=48 |pages=E11248–E11255 |doi=10.1073/pnas.1813608115 |pmid=30397125 |pmc=6275519 |bibcode=2018PNAS..11511248J |issn=0027-8424|doi-access=free }} * {{cite journal |display-authors=4 |last1=Jeong |first1=Choongwon |last2=Balanovsky |first2=Oleg |last3=Lukianova |first3=Elena |last4=Kahbatkyzy |first4=Nurzhibek |last5=Flegontov |first5=Pavel |last6=Zaporozhchenko |first6=Valery |last7=Immel |first7=Alexander |last8=Wang |first8=Chuan-Chao |last9=Ixan |first9=Olzhas |last10=Khussainova |first10=Elmira |last11=Bekmanov |first11=Bakhytzhan |last12=Zaibert |first12=Victor |last13=Lavryashina |first13=Maria |last14=Pocheshkhova |first14=Elvira |last15=Yusupov |first15=Yuldash |last16=Agdzhoyan |first16=Anastasiya |last17=Koshel |first17=Sergey |last18=Bukin |first18=Andrei |last19=Nymadawa |first19=Pagbajabyn |last20=Turdikulova |first20=Shahlo |last21=Dalimova |first21=Dilbar |last22=Churnosov |first22=Mikhail 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|date=June 2019 |volume=3 |issue=6 |pages=966–976 |doi=10.1038/s41559-019-0878-2 |pmid=31036896 |pmc=6542712 }} * {{cite journal |display-authors=4 |last1=Jeong |first1=Choongwon |last2=Wang |first2=Ke |last3=Wilkin |first3=Shevan |last4=Taylor |first4=William Timothy Treal |last5=Miller |first5=Bryan K. |last6=Ulziibayar |first6=Sodnom |last7=Stahl |first7=Raphaela |last8=Chiovelli |first8=Chelsea |last9=Bemmann |first9=Jan H. |last10=Knolle |first10=Florian |last11=Kradin |first11=Nikolay |last12=Bazarov |first12=Bilikto A. |last13=Miyagashev |first13=Denis A. |last14=Konovalov |first14=Prokopiy B. |last15=Zhambaltarova |first15=Elena |last16=Miller |first16=Alicia Ventresca |last17=Haak |first17=Wolfgang |last18=Schiffels |first18=Stephan |last19=Krause |first19=Johannes |last20=Boivin |first20=Nicole |last21=Myagmar |first21=Erdene |last22=Hendy |first22=Jessica |last23=Warinner |first23=Christina |title=A dynamic 6,000-year genetic history of Eurasia's Eastern Steppe |date=26 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{{cite journal |last1=Osada |first1=Naoki |last2=Kawai |first2=Yosuke |title=Exploring models of human migration to the Japanese archipelago using genome-wide genetic data |journal=Anthropological Science |date=2021 |volume=129 |issue=1 |pages=45–58 |doi=10.1537/ase.201215 |doi-access=free }} * {{cite journal |display-authors=4 |first1=Leonardo |last1=Vallini |first2=Giulia |last2=Marciani |first3=Serena|last3=Aneli |first4=Eugenio |last4=Bortolini |first5=Stefano |last5=Benazzi |first6=Telmo |last6=Pievani |first7=Luca |last7=Pagani |title=Genetics and Material Culture Support Repeated Expansions into Paleolithic Eurasia from a Population Hub Out of Africa |year=2022 |journal=Genome Biology and Evolution |volume=14 |issue=4 |doi=10.1093/gbe/evac045|pmid=35445261 |pmc=9021735 |doi-access=free }} * {{cite journal |last1=Wang |first1=Chuan-Chao |date=February 4, 2019 |title=Ancient human genome-wide data from a 3000-year interval in the Caucasus corresponds with eco-geographic regions 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ポーランドにおける異教徒の反乱
ポーランドにおける異教徒の反乱 (ポーランド語: Reakcja pogańska w Polsce)とは1030年代にポーランド王国を不安定化させた民衆蜂起や反乱に代表される一連の出来事である。 966年のミェシュコ1世のキリスト教改宗以降行われてきたキリスト教化への不満が蜂起の原因となった。ポーランドのローマ=カトリック教会は実質的な敗北を繰り返しており、多くの教会や修道院は破壊され、僧侶が殺害されていた。新たな宗教であるキリスト教の拡大は、領土と王の中心的権力の成長に結びついていた。反キリスト教運動に加えて、反乱は封建制と地主に対する農民戦争の要素を帯びていた。また、王と一部の貴族の間の権力争いも存在した。Anita J. Prazmowskaは「歴史学者は、同時に政治、宗教の2つの革命が起きたと結論付けた。」と記している。 Fruchtはピャスト朝ミェシュコ2世を打倒するための蜂起であると主張する一方で、1034年の彼の死後に始まったとする説もある。この時代のポーランド史を概観するGerard Labudaは、1032年を異教徒の反乱が始まった年だと位置づけ、他の歴史家が反乱の開始時期について他の時期(1034, 1037, 1038年や1039年)を挙げていることを指摘している。 いずれにせよ、1030年代初頭のポーランドは多くの抗争により引き裂かれ、1031年にミェシュコ2世は兄のべスプリムによる市民戦争の敗北を受けてボヘミアに一時避難することとなった。その後、1032年にポーランド領を取り戻すべく帰国している。 異教徒の行動と、それに伴う蜂起や反乱は他国の略奪と侵略に結びついておりまだ若いポーランド王国を混乱へと導いた。外国からの脅威で最も壊滅的であったのは、1039年にボヘミア公ブジェチスラフ1世によって行われたポーランド侵略であり、ポーランド最初の首都であったグニェズノが侵略された。 これらの出来事によってもたらされた不安定化は非常に激しいものであったため、歴史家は1030年代末期のポーランドの支配者が誰か疑うことになった。あるなりすましの王である忘れられたボレスワフは、(ヴラストによれば「適切な皮肉と共に」)状況の複雑さと曖昧さを描いている。ドヴォルニクは1034年から1040年までのポーランドの統治者を挙げずに、「王朝の争い」と指摘している。 一部の歴史家によれば、1030年代の異教徒による蜂起は「初めてのピャスト朝」の下にあるポーランド史の初期段階の終わりに位置づけられている。1040年ごろのポーランドにおいてはミエシュコ2世の息子がポーランド領土を再統一し、復興公として知られるようになった。1040年代には事実上独立していたミエチワフに対する市民戦争を戦った。一部の研究者はこれを1030年代の闘争の続きとみている。
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ポーランドにおける異教徒の反乱 (ポーランド語: Reakcja pogańska w Polsce)とは1030年代にポーランド王国を不安定化させた民衆蜂起や反乱に代表される一連の出来事である。
[[ファイル:Panstwo_mieclawa.svg|右|サムネイル|300x300ピクセル|1030年代のポーランド斜線部が異教徒の反乱がおきた領域である。]] '''ポーランドにおける異教徒の反乱''' ({{Lang-pl|Reakcja pogańska w Polsce}})とは1030年代に[[ポーランド王国]]を不安定化させた民衆蜂起や反乱に代表される一連の出来事である。 == 背景 == 966年の[[ミェシュコ1世|ミェシュコ1世]]のキリスト教改宗以降行われてきたキリスト教化への不満が蜂起の原因となった。ポーランドのローマ=カトリック教会は実質的な敗北を繰り返しており、多くの教会や修道院は破壊され、僧侶が殺害されていた。新たな宗教である[[キリスト教]]の拡大は、領土と王の中心的権力の成長に結びついていた。反キリスト教運動に加えて、反乱は[[封建制]]と地主に対する農民戦争の要素を帯びていた。また、王と一部の貴族の間の権力争いも存在した。Anita J. Prazmowskaは「歴史学者は、同時に政治、宗教の2つの革命が起きたと結論付けた。」と記している。 == 反乱 == Fruchtは[[ピャスト朝]][[ミェシュコ2世 (ポーランド王)|ミェシュコ2世]]を打倒するための蜂起であると主張する一方で、1034年の彼の死後に始まったとする説もある。この時代のポーランド史を概観するGerard Labudaは、1032年を異教徒の反乱が始まった年だと位置づけ、他の歴史家が反乱の開始時期について他の時期(1034, 1037, 1038年や1039年)を挙げていることを指摘している。 いずれにせよ、1030年代初頭のポーランドは多くの抗争により引き裂かれ、1031年にミェシュコ2世は兄の[[べスプリム]]による市民戦争の敗北を受けて[[ボヘミア]]に一時避難することとなった。その後、1032年にポーランド領を取り戻すべく帰国している。 異教徒の行動と、それに伴う蜂起や反乱は他国の略奪と侵略に結びついておりまだ若いポーランド王国を混乱へと導いた。外国からの脅威で最も壊滅的であったのは、1039年にボヘミア公ブジェチスラフ1世によって行われたポーランド侵略であり、ポーランド最初の首都であった[[グニェズノ]]が侵略された。 これらの出来事によってもたらされた不安定化は非常に激しいものであったため、歴史家は1030年代末期のポーランドの支配者が誰か疑うことになった。あるなりすましの王である忘れられたボレスワフは、(ヴラストによれば「適切な皮肉と共に」)状況の複雑さと曖昧さを描いている。ドヴォルニクは1034年から1040年までのポーランドの統治者を挙げずに、「王朝の争い」と指摘している。 == 結果 == 一部の歴史家によれば、1030年代の異教徒による蜂起は「初めてのピャスト朝」の下にあるポーランド史の初期段階の終わりに位置づけられている。1040年ごろのポーランドにおいてはミエシュコ2世の息子、[[カジミェシュ1世]]がポーランド領土を再統一し、復興公として知られるようになった。1040年代には事実上独立していたミエチワフに対する内戦を戦った。一部の研究者はこれを1030年代の闘争の続きとみている。 [[Category:宗教戦争]] [[Category:ポーランドの反乱]] [[Category:農民反乱]]
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日立市立大久保小学校
日立市立大久保小学校(ひたちしりつおおくぼしょうがっこう)は、茨城県日立市末広町1-1-1にある日立市立小学校。 大久保小学校は、1955年4月に油縄子小学校の一部、1969年4月に諏訪小学校の一部、1971年4月に金沢小学校の一部、1979年4月に塙山小学校の一部を分離した。PTA活動が盛んで、1996年にはベルマーク500万点、2003年には600万点を達成した。 (出典:) 学校教育目標 ふるさと大久保を愛し、豊かに生きる児童の育成 ~一人一人が大久保のよさを実感し、共に生きる喜びを膨らませながら、夢に向かって歩む子の育成~ (出典:)
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日立市立大久保小学校(ひたちしりつおおくぼしょうがっこう)は、茨城県日立市末広町1-1-1にある日立市立小学校。
{{Infobox 日本の学校 | 校名 = 日立市立大久保小学校 | 過去校名 = 大久保小学校<br> 国分尋常小学校<br> 国分村立尋常小学校<br> 国分尋常高等小学校<br> 多賀第一尋常高等小学校<br> 多賀第一国民学校<ref name = "enkaku">"[https://www.city.hitachi.lg.jp/ookubo-e/002/001/p006543.html 沿革]". 日立市立大久保小学校.2023年11月10日閲覧。</ref> | 国公私立=[[公立学校]] | 設置者=[[日立市]] | 校訓 = つよく かしこく なかよく<ref>"[http://hitachi-pta.org/tanp/ookubo_e.html 大久保小学校]". 日立市立小・中学校PTA連合会.2023年11月10日閲覧。</ref> | 設立年月日 = [[1873年]][[8月15日]]<ref name="toukei">"[https://www.city.hitachi.lg.jp/kyouiku/shiryo/p117434_d/fil/ikkatsu.pdf 大久保小学校]". 日立市教育委員会.2023年11月10日閲覧。</ref> | 創立記念日=[[10月1日]]<ref name="enkaku" /> | 共学・別学 = [[男女共学]] | 学期=3学期制 | 学校コード = B108220200063 | 校地面積 = 23,875 m<sup>2</sup><ref name="toukei" /> | 校舎面積 = 6,839 m<sup>2</sup><ref name="toukei" /> | 郵便番号 = 316-0006|所在地=[[茨城県]][[日立市]]末広町1丁目1番1号 | 外部リンク = [https://hitachi-ookubo-e.edumap.jp/ 公式サイト] | 地図WikiData = yes | 地図ズーム = 16 | 地図国コード = JP | マップ表示 = yes | 緯度度 = 36 | 緯度分 = 33 | 緯度秒 = 29.0 | 経度度 = 140 | 経度分 = 37 | 経度秒 = 33.2 | N(北緯)及びS(南緯) = N | E(東経)及びW(西経) = E }} '''日立市立大久保小学校'''(ひたちしりつおおくぼしょうがっこう)は、[[茨城県]][[日立市]]末広町1-1-1にある日立市立小学校。 == 概要 == 大久保小学校は、[[1955年]]4月に[[日立市立油縄子小学校|油縄子小学校]]の一部、[[1969年]]4月に[[日立市立諏訪小学校|諏訪小学校]]の一部、[[1971年]]4月に[[日立市立金沢小学校|金沢小学校]]の一部、[[1979年]]4月に[[日立市立塙山小学校|塙山小学校]]の一部を分離した<ref>{{Cite web |url=https://www.city.hitachi.lg.jp/kyouiku/000/p058304_d/fil/-keikaku-.pdf |title=『日立市立学校再編計画 子どものための環境づくりを ~市民とともに~ 【第1次】(2021~2030)』 |access-date=2023年11月10日 |publisher=[[日立市教育委員会]] |pages=32, 34}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.city.hitachi.lg.jp/kyouiku/shiryo/p117434_d/fil/ikkatsu.pdf |title=『2023 日立の教育』 |access-date=2023年11月10日 |publisher=日立市教育委員会 |pages=63-65}}</ref>。[[PTA]]活動が盛んで、[[1996年]]には[[ベルマーク運動|ベルマーク]]500万点、[[2003年]]には600万点を達成した<ref>{{Cite web |title=【ベルマークへようこそ!】 達成校訪問 |url=https://www.bellmark.or.jp/report/past_school1/schoolvisit1_200309.html#600 |website= |access-date=2023-11-10 |publisher=[[ベルマーク教育助成財団]]}}</ref><ref>{{Cite web |title=大久保小学校 {{!}} 学校概要 |url=https://www.city.hitachi.lg.jp/ookubo-e/002/001/p006540.html |website= |access-date=2023-11-10 |publisher=日立市立大久保小学校 |archive-url=https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11513236/www.city.hitachi.lg.jp/ookubo-e/002/001/p006540.html |archive-date=2020-7-7}}</ref>。 == 沿革 == === 年表 === * [[1873年]][[8月15日]] - 大久保小学校開校<ref name=":0">{{Cite web |title=大久保小学校 {{!}} 沿革 |url=https://www.city.hitachi.lg.jp/ookubo-e/002/001/p006543.html |website= |access-date=2023-11-10 |publisher=日立市立大久保小学校 |archive-url=https://web.archive.org/web/20160320234252/https://www.city.hitachi.lg.jp/ookubo-e/002/001/p006543.html |archive-date=2016-3-20}}</ref>。 * [[1889年]][[7月1日]] - 国分[[尋常小学校]]に改称<ref name=":0" />。 * [[1892年]][[5月28日]] - 国分村立尋常小学校となる<ref name=":0" />。 * [[1909年]][[6月1日]] - [[高等科]]を併置。国分[[尋常高等小学校]]に改称<ref name=":0" />。 * [[1939年]]6月 - 鮎川・国分・河原子の3町村が合併し[[多賀町 (茨城県)|多賀町]]となる。多賀第一尋常高等小学校に改称<ref name=":0" />。 * [[1941年]][[4月1日]] - 多賀第一[[国民学校]]に改称<ref name=":0" />。 * [[1942年]] ** [[7月1日]] - 現在地に移転<ref name=":0" />。 ** [[10月1日]] - 新校舎落成式。創立記念日とする<ref name=":0" />。 * [[1955年]] - 多賀町と[[日立市]]が合併し、新日立市が誕生<ref>{{Cite web |url=https://www.city.hitachi.lg.jp/kyouiku/shiryo/p117434_d/fil/ikkatsu.pdf |title=『2023 日立の教育』 |access-date=2023年11月10日 |publisher=日立市教育委員会 |page=63}}</ref>。 * [[1970年]]4月1日 - ことばの教室を設置<ref>{{Cite web |url=https://www.city.hitachi.lg.jp/kyouiku/shiryo/p117434_d/fil/ikkatsu.pdf |title=『2023 日立の教育』 |access-date=2023年11月10日 |publisher=日立市教育委員会 |page=64}}</ref>。 * [[1978年]]4月1日 - きこえの教室を設置<ref name=":1">{{Cite web |url=https://www.city.hitachi.lg.jp/kyouiku/shiryo/p117434_d/fil/ikkatsu.pdf |title=『2023 日立の教育』 |access-date=2023年11月10日 |publisher=日立市教育委員会 |page=65}}</ref>。 * [[1981年]]4月1日 - きこえ、言葉の教室を油縄子小学校に移設<ref name=":1" />。 * [[2015年]]度 - 授業力ブラッシュアップ研修重点校(国語)に指定<ref>{{Cite web |url=http://www.city.hitachi.lg.jp/kyouiku/shiryo/p047152_d/fil/2015-hitachi-no-kyoiku.pdf |title=『2015 日立の教育』 |access-date=2023年11月10日 |publisher=日立市教育委員会 |page=17 |archive-url=https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9927643/www.city.hitachi.lg.jp/kyouiku/shiryo/p047152_d/fil/2015-hitachi-no-kyoiku.pdf |archive-date=2016-4-4}}</ref>。 * [[2020年]]4月1日 - 放課後子ども教室を開設<ref>{{Cite web |url=https://www.city.hitachi.lg.jp/kyouiku/shiryo/p117434_d/fil/ikkatsu.pdf |title=『2023 日立の教育』 |access-date=2023年11月10日 |publisher=日立市教育委員会 |page=70}}</ref>。 * [[2022年]]度 - いばらきサイエンスキッズ育成事業「小学校における理科専科教員等による授業公開」研究指定校に指定<ref>{{Cite web |url=https://www.city.hitachi.lg.jp/kyouiku/shiryo/p108220_d/fil/04gakkoukyouiku.pdf |title=『2022 日立の教育』 |access-date=2023年11月10日 |publisher=日立市教育委員会 |page=18}}</ref>。 * [[2023年]]度 ** 初任者研修講座([[特別支援学校]])における協力校に指定<ref name=":2">{{Cite web |url=https://www.city.hitachi.lg.jp/kyouiku/shiryo/p117434_d/fil/ikkatsu.pdf |title=『2023 日立の教育』 |access-date=2023年11月10日 |publisher=日立市教育委員会 |page=18}}</ref>。 ** [[茨城県教育研修センター]]主催ラグビー体験授業、研究指定校に指定<ref name=":2" />。 == 教育方針 == (出典:<ref>{{Cite web |url=https://www.city.hitachi.lg.jp/ookubo-e/002/002/p105284_d/fil/GD2022.pdf |title=令和4年度 日立市立大久保小学校グランドデザイン |access-date=2023年11月10日 |publisher=日立市立大久保小学校 |archive-url=https://web.archive.org/web/20231110101646/https://www.city.hitachi.lg.jp/ookubo-e/002/002/p105284_d/fil/GD2022.pdf |archive-date=2023年11月10日}}</ref>) '''学校教育目標''' ふるさと大久保を愛し、豊かに生きる児童の育成 ~一人一人が大久保のよさを実感し、共に生きる喜びを膨らませながら、夢に向かって歩む子の育成~ == 学校行事 == {{節スタブ|date=2023年11月}} == 児童会活動・クラブ活動など == {{節スタブ|date=2023年11月}} == 通学区域 == (出典:<ref>{{Cite web |title=日立市教育委員会|日立市立小学校及び中学校学区検索 |url=https://www.city.hitachi.lg.jp/kyouiku/school/001/p002355.html#ka_gyo |website= |access-date=2023-11-10 |publisher=日立市教育委員会}}</ref><ref>{{Cite web |title=日立市の小学校 {{!}} 日立市の賃貸・売買は鈴縫工業(株)日立駅前店 |url=https://www.suzunui.jp/e-school/ |website= |access-date=2023-11-10 |publisher=[[鈴縫工業]]株式会社}}</ref>) * 日立市大久保町 ** 旧地番大北以北 ** 1丁目 ** 2丁目 ** 4丁目 * 日立市桜川町 ** 1丁目 ** 2丁目 ** 3丁目1・2・12から20番 ** 4丁目1から5番、10から19番 * 日立市末広町 ** 1丁目 ** 2丁目 ** 3丁目 ** 4丁目(1・3から6・9番1から5号以外) ** 5丁目 * 日立市多賀町 ** 1丁目 ** 2丁目 ** 3丁目 ** 4丁目1から3・7・8番 ** 5丁目1から3・11から16番 * 日立市千石町 ** 1丁目 ** 2丁目 ** 3丁目 * 日立市中丸町 * 日立市塙山町1丁目36番 == 進学先中学校 == * [[日立市立大久保中学校]] == 学区内の主な施設 == * 多賀市民プラザ ** [[日立市役所]]多賀支所 ** [http://www.civic.jp/taga/ 多賀市民会館] ** [https://www.city.hitachi.lg.jp/shisetsu/009/001/p036572.html 大久保交流センター] * [[日立市立多賀図書館]] * [https://www.city.hitachi.lg.jp/moshimo/003/005/p054421.html 多賀消防署] == 交通 == {{節スタブ|date=2023年11月}} == 関係者 == {{節スタブ|date=2023年11月}} == 脚注 == {{脚注の使い方}}{{Reflist}} == 関連項目 == * [[茨城県小学校一覧]] * [[日立市教育委員会]] * [[日立市]] * [[多賀町 (茨城県)|多賀町]] == 外部リンク == * [https://hitachi-ookubo-e.edumap.jp/ 日立市立大久保小学校] * [https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12995823/www.city.hitachi.lg.jp/ookubo-e/index.html 日立市立大久保小学校旧ホームページ](2023年9月12日時点のアーカイブ) * [https://web.archive.org/web/20140215055538/http://www.ookubo-e.hitachi-kyoiku.ed.jp/ 日立市立大久保小学校旧ホームページ](2014年2月15日時点のアーカイブ) {{School-stub|pref=茨城県}} {{デフォルトソート:ひたちしりつおおくほしようかつこう}}<!-- この記事は、プロジェクト:学校/小学校テンプレートを使用しています。 --> [[Category:日本の公立小学校]] [[Category:茨城県の公立小学校]] [[Category:日立市の小学校|おおくぼ]]
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高倉永輝
高倉 永輝(たかくら ながてる、1900年(明治33年) - 1947年(昭和22年))は、日本の子爵。掌典。高倉家の第23代当主。父は高倉永則。京都府京都市左京区出身。 京都府京都市左京区生まれ。子爵・高倉永則の長男として生まれる。母は伯爵・藤堂高潔の娘である銑子。1946年(昭和21年)に家督を継いで子爵を叙爵し、1947年(昭和22年)までその地位にいた。 侯爵・黒田長成の次女である良子と結婚し、2男1女を儲けた。家督は長男の永政が相続する。 1947年(昭和22年)、死去。
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{{Infobox 人物 |氏名= 高倉 永輝 |ふりがな= たかくら ながてる |画像= <!-- 画像ファイル名 --> |画像サイズ= |画像説明= |出生名= |生年月日= [[1900年]][[9月23日]] |生誕地= [[京都府]][[京都市]][[左京区]] |洗礼= |失踪年月日= |失踪地= |現況= |没年月日= {{死亡年月日と没年齢|1900|9|23|1975|7|15}} |死没地= |死因= |遺体発見= |墓地= |記念碑= |住居= |国籍= {{JPN}} |別名= |民族= |市民権= |教育= |出身校= |職業= [[掌典]] |活動期間= |時代= |雇用者= |団体= |代理人= |著名な実績= |代表作= |流派= |影響を受けたもの= |影響を与えたもの= |活動拠点= |給料= |純資産= |身長= |体重= |テレビ番組= |肩書き= |任期= |前任者= |後任者= |政党= |政治運動= |敵対者= |取締役会= |宗教= |宗派= |罪名= |刑罰= |犯罪者現況= |配偶者= 黒田良子 |非婚配偶者= |子供= 長男:[[高倉永政]]<br />次男:高倉永満<br />長女:太田祥子 |親= 父親:[[高倉永則]]<br />母親:藤堂銑子 |親戚= |家族= |コールサイン= |受賞= |栄誉= |公式サイト= |署名= <!-- 画像ファイル名 --> |署名サイズ= |補足= }} '''高倉 永輝'''(たかくら ながてる、[[1900年]]([[明治]]33年)[[9月23日]]<ref>『華族名簿 昭和18年7月1日現在』(華族会館、1943年)p.200</ref> - [[1975年]]([[昭和]]50年)[[7月15日]])は、[[日本]]の[[子爵]]。[[掌典]]。[[高倉家]]の第23代当主。父は[[高倉永則]]。[[京都府]][[京都市]][[左京区]]出身。 == 生涯 == [[京都府]][[京都市]][[左京区]]生まれ。[[子爵]]・[[高倉永則]]の長男として生まれる。母は[[伯爵]]・[[藤堂高潔]]の娘である銑子。[[1946年]]([[昭和]]21年)に家督を継いで子爵を叙爵し、[[1947年]](昭和22年)までその地位にいた<ref>『靖國神社百年史』([[1983年]]、[[靖國神社]]){{要ページ番号|date=2023年12月}}</ref>。 [[侯爵]]・[[黒田長成]]の次女である良子と結婚し、2男1女を儲けた。家督は長男の[[高倉永政|永政]]が相続する<ref>『華族會館の百年』([[1975年]]、[[霞会館]]){{要ページ番号|date=2023年12月}}</ref>。 [[1975年]]([[昭和]]50年)7月15日、肺腫瘍のため死去<ref>『偕行』第292号(偕行社、1975年9月)p.41</ref>。 == 系譜 == * 父親:[[高倉永則]] * 母親:藤堂銑子([[藤堂高潔]]の次女) * 妻:黒田良子([[黒田長成]]の次女) ** 長男:[[高倉永政]] ** 次男:高倉永満 ** 長女:太田祥子 == 脚注 == <references /> {{Start box}} {{S-reg|jp}} {{Succession box | title = 子爵 | years = [[高倉家]]2代<br />[[1946年]] - [[1947年]] | before = [[高倉永則]] | after = 廃止 }} {{End box}} {{People-stub}} {{DEFAULTSORT:たかくら なかてる}} [[Category:高倉家|なかてる]] [[Category:日本の子爵]] [[Category:掌典職]] [[Category:京都市出身の人物]] [[Category:1900年生]] [[Category:1975年没]]
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小野沢勝太郎
小野沢 勝太郎(おのざわ かつたろう、1891年〈明治24年〉1月5日 - 1975年〈昭和50年〉3月1日)は、長野県小県郡東部町滋野原口(現・東御市)出身の実業家・政治家。小野沢興行株式会社会長。島根県議会議員(1期)。息子の小野沢明男は益田市議会議長・益田商工会所会頭。 1891年(明治24年)1月5日、長野県小県郡東部町滋野原口(現・東御市)に生まれた。父は小野沢勝次郎であり、勝太郎は5人兄弟の長男だった。小野沢家は規模の小さな農家であり、小野沢は小学校に4年間しか通っていない。 16歳の時には家出して東京に出た。まずは専売局の下請け工場に務めたが、新聞配達、牛乳配達、土方人夫と様々な職業を転々とした。17歳になると露天商に興味を見出し、栃木県に地盤を持つ大島組に住み込むと、いわゆる的屋としてガマの油売りなどを行った。宣伝中には商売道具のマムシに噛みつかれたことがあったが、豪胆な小野寺はカミソリを用いて自分で指の肉を削り落としてしまった。 20歳を迎える頃には「大島の小野沢」として知られるようになっていた。この頃には長野県小県郡上田町で徴兵検査を受け、甲種合格となって新潟県高田市の第13師団に入隊した。除隊後には大島組に戻り、約10年に渡ってマムシとともに街商を続けた。 29歳だった1920年(大正9年)、小野沢は初めて島根県美濃郡益田町を訪れた。益田町大下市にあった旅館の津和野屋を拠点とし、島根県内や下関方面までを範囲として商いを行った。1924年(大正13年)の第15回総選挙では俵孫一の選挙運動を手伝い、小野寺の義理堅さや正直さが周囲にも認められた。俵孫一派の参謀長は島根県会議員の横山正造だった。 1930年(昭和5年)10月、東部町滋野原口に長男の明男が生まれた。この頃には本格的に益田町に定住し、1932年(昭和7年)には益田の本田ヨネと所帯を持った。小野寺は行商で培った才覚を発揮し、雑貨店の「なんでも十銭ストア」などの商売で儲けた。新しい交通手段である輪タクの経営にも乗り出している。益田町役場で助役に「そんな文句は町会議員にでもなってからいうことだ」とあしらわれたことがきっかけで、1932年(昭和7年)には初めて益田町会議員選挙に立候補して初当選した。 1934年(昭和9年)には日本一の曲馬団として知られる木下サーカスの誘致に成功した。小野沢興行の創業はこの年とされている。木下サーカスは1937年(昭和12年)まで毎年のように益田公演を行い、どの年も大入り満員の大成功だった。1936年(昭和11年)10月16日にはまだ珍しかった自動車運転免許を取得し、1650円でセダンの新車を買って乗り回した。1937年(昭和12年)12月25日には木下サーカスの儲け3000円を費やした新居を建設した。1938年(昭和13年)9月には浪曲師の2代目天中軒雲月(伊丹秀子)を益田町に招いて浪花節興行を行った。 1941年(昭和16年)に行われた益田町会議員選挙には、周囲に担ぎ出されて仕方なく立候補したが、大量得票で2位当選した。1942年(昭和17年)には300円を投じて製材所を開業したが、戦時統合などもあって失敗した。1943年(昭和18年)9月に益田地方が水害に遭った際には益田町会議員として奔走し、益田川の改修工事などを実現させた。同年には興行師として歌手の渡辺はま子一行を益田町に招いたり、1944年(昭和19年)には歌舞伎の中村梅玉一座を益田町に招くなどしている。 終戦からわずか3か月後の1945年(昭和20年)11月20日、製材工場を買収して中央劇場を開館させ、こけら落としには俳優の江川宇礼雄を招いた。戦前から興行師としてサーカスや著名人の招聘などを行っていたが、本格的に興行界に進出したのはこの時である。剣劇の広瀬誠や南条隆、松竹スターの高田浩吉や川崎弘子、大映スターの尾上菊太郎、喜劇の高瀬実一行、歌手の東海林太郎などが中央劇場に来演した。1947年(昭和22年)には島根県鹿足郡日原町に日原春日座も開館させ、日原春日座には歌舞伎の澤村宗十郎一座などが来演した。 1949年(昭和24年)、中央劇場を中央映劇に改称して映画常設館化し、大映・東映・日活と契約してこれらの作品を上映した。洋画ではセントラル映画社・NCCの作品も上映している。1950年(昭和25年)5月には「化け猫女優」の鈴木澄子を中央映劇に招き、漫才師の芦乃家雁玉と林田十郎も招いた。1951年(昭和26年)1月には長男の明男が入社し、映写技師として映画館経営に携わった。同年には第二中央劇場を開館させ、1954年(昭和29年)には第二中央劇場から益田東映に改称した。1957年(昭和32年)には中央映劇を冷暖房完備の鉄筋建築に建て替え、4月19日に東映シネマスコープ作品『鳳城の花嫁』でこけら落としした。 1954年(昭和29年)6月には浪曲師の梅原秀夫を招き、7月には吉田奈良丸、吉田一若、広沢虎造、浪花家辰造、木村若衛、東家浦太郎一行を招いた。この後も浪曲師としては真山一郎、中村富士夫、太田英夫、篠田実、芙容軒麗花、天光軒満月、近江源氏丸、春日井梅鶯、浪曲出身の歌手としては三波春夫、村田英雄などを益田町に招いている。 1957年(昭和32年)5月には松江市に進出して松江日活(松江中央劇場)を開館させた。1958年(昭和33年)には益田市須子のセントラルを買収して第三映劇に改称し、小野沢興行が経営する映画館は6館となった。1959年(昭和34年)に島根県興行環境衛生同業組合が設立されると、小野沢は理事長に推されて就任し、1960年(昭和35年)には全国興行環境衛生組合連合会理事にも就任した。 1960年(昭和35年)には日本の映画館数がピークを迎えたが、その後はテレビに押されて映画観客数が減少していった。1962年(昭和37年)12月31日には益田東映から出火して全焼し、1963年(昭和38年)1月には休館中だった日原春日座が積雪で倒壊した。75歳だった1965年(昭和40年)4月30日、社長の座を長男の小野沢明男に譲った。小野沢勝太郎の時代は個人企業だったが、同年6月には明男によって小野沢興行株式会社が設立され、勝太郎が会長に、明男が取締役社長に就任した。 1969年(昭和44年)3月には中央映劇を改装して特別席を設けた。映画黄金期の益田市では小野沢興行と橋本興行が映画館を二分していたが、1972年(昭和47年)には両社が邦画と洋画の選択権について話し合い、小野沢興行は邦画のみ、橋本興行は洋画のみの上映で合意に達した。 1974年(昭和49年)夏には益田市や津和野町でロケが行われた『男はつらいよ 寅次郎恋やつれ』を上映し、小野沢興行の映画館では久々の大ヒットとなったほか、倍賞千恵子が小野沢の自宅を表敬訪問した。1977年(昭和52年)には『犬神家の一族』ほか三本立で中央映劇における入場者数の記録を更新した。 1946年(昭和21年)夏には前年に引退した横綱双葉山を益田町に招き、大関羽黒山と名寄山とともに引退興行大相撲を開催した。1949年(昭和24年)春には照国、羽黒山、前田山、東富士の4横綱を益田町に招き、大赤字ではあったものの見事な土俵入りを行った。同年10月には双葉山道場と井筒部屋を招いて合同大相撲を行った。 1954年(昭和29年)には羽黒山、照国、東富士の3横綱に加えて大関吉葉山ら350人を招いて大相撲益田場所を開催した。1962年には力道山のプロレス興行を行い、1968年(昭和43年)4月には横綱大鵬など500人を招いて大相撲益田場所を開催した。なお、大相撲史上未曾有の力士とされる雷電は小野寺と同じく滋野の出身である。 1947年(昭和22年)4月には第1回統一地方選挙が開催され、小野寺は島根県議会議員に当選した。1951年(昭和26年)と1955年(昭和30年)の島根県議会議員選挙には落選し、以後は選挙に出馬することはなかったが、山本利寿や櫻内義雄などが出馬した際には選挙運動を応援した。1956年(昭和31年)には自由民主党の鳩山一郎総裁から感謝状を受けた。 故郷の東部町立東部中学校に10万円を、母校の東部町立滋野小学校に100万円を寄付したことで、1964年(昭和39年)には紺綬褒章を受章した。1965年(昭和40年)には益田市が市制10周年記念事業として益田市奨学基金を設けたが、この際にも益田市に100万円を寄付したことで、2年連続で紺綬褒章を受章した。 珍しいとされる2年連続受章を受けて、小野沢勝太郎翁寿像建設委員会が設立され、1965年(昭和40年)4月8日には益田市横田町の別邸に小野寺の胸像が除幕された。通産大臣の櫻内義雄、参議院議員の山本利寿や佐野広、前衆議院議員の中村英男、前島根県議会議長の室崎勝造など、錚々たる顔ぶれが発起人に名を連ねた。 1965年(昭和40年)、益田市高津町の高津柿本神社に柿本人麿の歌碑を奉納した。1920年(大正9年)に高津柿本神社の八朔祭で商いを行ったことが益田定住の起点だったことによる。 1967年(昭和42年)、小野沢は運転免許証を自発的に益田警察署に返納した。当時は運転免許の返納は珍しく、警察署長には「私の警察生活ではじめての体験で、免許証を出されたときには一瞬たまげた」「運転者の心構えを示したすがすがしい態度だ」と感激され、返納について『島根新聞』でも報じられた。 1970年(昭和45年)5月、益田市工業団地の一角に3億円を投資した石西パイルを設立してコンクリートパイルの製造を始めたが、間もなく行き詰って経営権を譲渡した。1971年2月には海外旅行でグアムを訪れ、9月には20日間に渡ってヨーロッパを訪れた。1974年(昭和49年)1月3日、妻のヨネが82歳で死去した。1975年(昭和50年)初頭には故郷の滋野原口区の名誉区民に推挙された。同年3月1日に84歳で死去し、中央劇場で葬儀が行われた。小野沢の遺言により、葬儀の際には酒盛りや万歳三唱が行われ、大人には樽酒が、子どもには飴玉が配られた。 小野沢興行株式会社が設立された1965年(昭和40年)頃には映画産業の斜陽化が進行したことで、昭和40年代は小野沢興行がボウリング業界に進出した。1966年(昭和41年)8月10日に開業した益田ボウリングは島根県2番目のボウリング場である。1972年(昭和47年)時点では4センター計86レーンを有する島根県最大のボウリング興行会社だったが、同年のピーク後にはボウリングブームが急速に減退したことで、小野沢興行はボウリング場を相次いで閉鎖した。 1974年(昭和49年)7月には益田ボウリングの一部にパチンコ台を設置し、小野沢興行初のパチンコ店である益田中央ホールが開店した。昭和50年代は小野沢興行がパチンコ業界に進出した時期である。1981年(昭和56年)6月11日には総合レジャービルの建設に着工し、11月22日には小野沢ビルが4階まで開業、12月20日には全館が開業した。小野沢ビルは益田市で最も高い建造物だった。
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小野沢 勝太郎は、長野県小県郡東部町滋野原口(現・東御市)出身の実業家・政治家。小野沢興行株式会社会長。島根県議会議員(1期)。息子の小野沢明男は益田市議会議長・益田商工会所会頭。
{{政治家 |人名 = 小野沢 勝太郎 |各国語表記 = |画像 = File:Onozawa Katsutaro 1950.jpg |画像サイズ = 180 |画像説明 = |国略称 = |生年月日 = [[1891年]][[1月5日]] |出生地 = [[長野県]][[小県郡]][[東部町]]滋野原口(現・[[東御市]]) |没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1891|01|05|1975|03|01}} |死没地 = [[島根県]][[益田市]] |出身校 = |前職 = [[実業家]] |現職 = |所属政党 = |称号・勲章 = |配偶者 = |子女 = 息子:小野沢明男(益田市議会議長) |親族(政治家) = |宗教 = |サイン = |ウェブサイト = |サイトタイトル = |国旗 = |職名 = [[島根県議会]]議員 |内閣 = |選挙区 = |当選回数 = 1回 |就任日 = 1947年 |退任日 = 1951年 |元首職 = |元首 = |任命権者等職 = |任命権者等 = }} '''小野沢 勝太郎'''(おのざわ かつたろう、[[1891年]]〈明治24年〉[[1月5日]] - [[1975年]]〈昭和50年〉3月1日)は、[[長野県]][[小県郡]][[東部町]]滋野原口(現・[[東御市]])出身の[[実業家]]・[[政治家]]。[[小野沢興行]]株式会社会長。[[島根県議会]]議員(1期)。息子の小野沢明男は益田市議会議長・益田商工会所会頭。 == 経歴 == 1891年(明治24年)1月5日、[[長野県]][[小県郡]][[東部町]]滋野原口(現・[[東御市]])に生まれた<ref name="小野沢興行1983p20">『小野沢興行50年史』pp.20-21</ref>。父は小野沢勝次郎であり、勝太郎は5人兄弟の長男だった<ref name="小野沢興行1983p20"/>。小野沢家は規模の小さな農家であり、小野沢は小学校に4年間しか通っていない<ref name="小野沢興行1983p20"/>。 === 的屋としての成功 === 16歳の時には家出して東京に出た<ref name="小野沢興行1983p23">『小野沢興行50年史』pp.23-26</ref>。まずは[[大蔵省専売局|専売局]]の下請け工場に務めたが、[[新聞配達]]、[[牛乳箱|牛乳配達]]、土方人夫と様々な職業を転々とした<ref name="小野沢興行1983p23"/>。17歳になると[[露天商]]に興味を見出し、栃木県に地盤を持つ大島組に住み込むと、いわゆる[[的屋]]として[[ガマの油|ガマの油売り]]などを行った<ref name="小野沢興行1983p23"/>。宣伝中には商売道具の[[ニホンマムシ|マムシ]]に噛みつかれたことがあったが、豪胆な小野寺はカミソリを用いて自分で指の肉を削り落としてしまった<ref name="小野沢興行1983p23"/>。 20歳を迎える頃には「大島の小野沢」として知られるようになっていた<ref name="小野沢興行1983p23"/>。この頃には長野県小県郡[[上田市|上田町]]で[[徴兵検査]]を受け、甲種合格となって[[新潟県]][[高田市]]の[[第13師団 (日本軍)|第13師団]]に入隊した<ref name="小野沢興行1983p23"/>。除隊後には大島組に戻り、約10年に渡ってマムシとともに街商を続けた<ref name="小野沢興行1983p23"/>。 === 益田定着後 === [[File:Masuda Town Council Member 1933.jpg|thumb|left|1933年の益田町会議員(後列左から3番目が小野沢)]] 29歳だった1920年(大正9年)、小野沢は初めて島根県[[美濃郡]][[益田市|益田町]]を訪れた<ref name="小野沢興行1983p28">『小野沢興行50年史』pp.28-32</ref>。益田町大下市にあった旅館の津和野屋を拠点とし、島根県内や下関方面までを範囲として商いを行った<ref name="小野沢興行1983p28"/>。1924年(大正13年)の[[第15回衆議院議員総選挙|第15回総選挙]]では[[俵孫一]]の選挙運動を手伝い、小野寺の義理堅さや正直さが周囲にも認められた<ref name="小野沢興行1983p28"/>。俵孫一派の参謀長は[[島根県議会|島根県会]]議員の横山正造だった<ref name="小野沢興行1983p28"/>。 1930年(昭和5年)10月、東部町滋野原口に長男の明男が生まれた<ref name="小野沢興行1983p28"/>。この頃には本格的に益田町に定住し、1932年(昭和7年)には益田の本田ヨネと所帯を持った<ref name="小野沢興行1983p28"/>。小野寺は行商で培った才覚を発揮し、雑貨店の「なんでも十銭ストア」などの商売で儲けた<ref name="小野沢興行1983p28"/>。新しい交通手段である[[自転車タクシー|輪タク]]の経営にも乗り出している<ref name="小野沢興行1983p28"/>。益田町役場で助役に「そんな文句は町会議員にでもなってからいうことだ」とあしらわれたことがきっかけで、1932年(昭和7年)には初めて益田町会議員選挙に立候補して初当選した<ref name="小野沢興行1983p28"/>。 [[File:Kinoshita Circus Masuda 1934.jpg|thumb|益田町を訪れた木下サーカス(1934年)]] 1934年(昭和9年)には日本一の曲馬団として知られる[[木下大サーカス|木下サーカス]]の誘致に成功した<ref name="小野沢興行1983p32">『小野沢興行50年史』pp.32-35</ref>。[[小野沢興行]]の創業はこの年とされている。木下サーカスは1937年(昭和12年)まで毎年のように益田公演を行い、どの年も大入り満員の大成功だった<ref name="小野沢興行1983p32"/>。1936年(昭和11年)10月16日にはまだ珍しかった自動車[[運転免許]]を取得し、1650円でセダンの新車を買って乗り回した<ref name="島根新聞19670921"/>。1937年(昭和12年)12月25日には木下サーカスの儲け3000円を費やした新居を建設した<ref name="小野沢興行1983p32"/>。1938年(昭和13年)9月には浪曲師の[[天中軒雲月|2代目天中軒雲月]](伊丹秀子)を益田町に招いて浪花節興行を行った<ref name="小野沢興行1983p32"/>。 1941年(昭和16年)に行われた益田町会議員選挙には、周囲に担ぎ出されて仕方なく立候補したが、大量得票で2位当選した<ref name="小野沢興行1983p32"/>。1942年(昭和17年)には300円を投じて製材所を開業したが、戦時統合などもあって失敗した<ref name="小野沢興行1983p32"/>。1943年(昭和18年)9月に益田地方が水害に遭った際には益田町会議員として奔走し、[[益田川]]の改修工事などを実現させた<ref name="小野沢興行1983p32"/>。同年には興行師として歌手の[[渡辺はま子]]一行を益田町に招いたり、1944年(昭和19年)には歌舞伎の[[中村梅玉 (3代目)|中村梅玉]]一座を益田町に招くなどしている<ref name="小野沢興行1983p32"/>。 === 戦後 === ==== 興行師として ==== [[File:Chuo Gekijo Masuda 1946.jpg|thumb|初めて開館させた劇場である中央劇場(1946年)]] {| class="wikitable floatright" ! colspan=4| 映画黄金期に小野沢興行が経営していた映画館 |- ! 開館年 !! 所在地 !! 名称 !!支配人 |- | 1945年(昭和20年) || [[益田市]] || 中央劇場 || 河野正三 |- | 1947年(昭和22年) || [[鹿足郡]][[日原町]] || 日原春日座 || 河野正三 |- | 1951年(昭和26年) || 益田市 || 益田東映 || 河野正三 |- | 1957年(昭和32年) || [[松江市]] || 松江日活 || 児玉孝 |- | 1958年(昭和33年) || 益田市 || 第三映劇 || 河野正三 |- | 1958年(昭和33年) || 松江市 || スワン座 || 高岡亮三 |} 終戦からわずか3か月後の1945年(昭和20年)11月20日、製材工場を買収して中央劇場を開館させ<ref name="益田市史1963p786">『益田市史』益田郷土史矢富会、1963年、pp.786-788</ref>、こけら落としには俳優の[[江川宇礼雄]]を招いた<ref name="小野沢興行1983p38">『小野沢興行50年史』pp.38-39</ref>。戦前から興行師としてサーカスや著名人の招聘などを行っていたが、本格的に興行界に進出したのはこの時である<ref name="小野沢興行1983p38"/>。剣劇の広瀬誠や南条隆、松竹スターの[[高田浩吉]]や[[川崎弘子]]、大映スターの[[花柳壽輔 (2代目)|尾上菊太郎]]、喜劇の高瀬実一行、歌手の[[東海林太郎]]などが中央劇場に来演した<ref name="小野沢興行1983p38"/>。1947年(昭和22年)には島根県[[鹿足郡]][[日原町]]に日原春日座も開館させ、日原春日座には歌舞伎の[[澤村宗十郎 (7代目)|澤村宗十郎]]一座などが来演した<ref name="小野沢興行1983p38"/>。 1949年(昭和24年)、中央劇場を中央映劇に改称して映画常設館化し、[[大映]]・[[東映]]・[[日活]]と契約してこれらの作品を上映した<ref name="小野沢興行1983p38"/><ref name="益田市史1963p786"/>。洋画では[[セントラル映画社]]・[[ニッポンシネマコーポレーション|NCC]]の作品も上映している<ref name="小野沢興行1983p38"/><ref name="益田市史1963p786"/>。1950年(昭和25年)5月には「化け猫女優」の[[鈴木澄子]]を中央映劇に招き、漫才師の[[芦乃家雁玉]]と[[林田十郎]]も招いた<ref name="小野沢興行1983p38"/>。1951年(昭和26年)1月には長男の明男が入社し、映写技師として映画館経営に携わった。同年には第二中央劇場を開館させ、1954年(昭和29年)には第二中央劇場から益田東映に改称した。1957年(昭和32年)には中央映劇を冷暖房完備の鉄筋建築に建て替え、4月19日に東映[[シネマスコープ]]作品『[[鳳城の花嫁]]』でこけら落としした。 1954年(昭和29年)6月には浪曲師の[[鼈甲斎虎丸|梅原秀夫]]を招き、7月には[[吉田奈良丸]]、吉田一若、[[広沢虎造]]、[[浪花家辰造]]、[[木村若衛]]、[[東家浦太郎]]一行を招いた<ref name="小野沢興行1983p40">『小野沢興行50年史』pp.40-41</ref>。この後も浪曲師としては[[真山一郎]]、中村富士夫、[[太田英夫]]、[[篠田実]]、芙容軒麗花、[[天光軒満月]]、近江源氏丸、[[春日井梅鶯]]、浪曲出身の歌手としては[[三波春夫]]、[[村田英雄]]などを益田町に招いている<ref name="小野沢興行1983p40"/>。 [[File:Baisho-Chieko-1963-1.png|thumb|left|170px|小野沢家にも訪れている[[倍賞千恵子]]]] 1957年(昭和32年)5月には[[松江市]]に進出して松江日活(松江中央劇場)を開館させた<ref name="小野沢興行1983p49">『小野沢興行50年史』pp.49-56</ref>。1958年(昭和33年)には益田市須子のセントラルを買収して第三映劇に改称し、小野沢興行が経営する映画館は6館となった<ref name="小野沢興行1983p49"/>。1959年(昭和34年)に島根県興行環境衛生同業組合が設立されると、小野沢は理事長に推されて就任し、1960年(昭和35年)には[[全国興行生活衛生同業組合連合会|全国興行環境衛生組合連合会]]理事にも就任した<ref name="小野沢興行1983p49"/>。 1960年(昭和35年)には日本の映画館数がピークを迎えたが、その後はテレビに押されて映画観客数が減少していった<ref name="小野沢興行1983p49"/>。1962年(昭和37年)12月31日には益田東映から出火して全焼し、1963年(昭和38年)1月には休館中だった日原春日座が積雪で倒壊した<ref name="小野沢興行1983p49"/>。75歳だった1965年(昭和40年)4月30日、社長の座を長男の小野沢明男に譲った<ref name="小野沢興行1983p49"/>。小野沢勝太郎の時代は個人企業だったが、同年6月には明男によって小野沢興行株式会社が設立され、勝太郎が会長に、明男が取締役社長に就任した<ref name="小野沢興行1983p49"/>。 1969年(昭和44年)3月には中央映劇を改装して特別席を設けた<ref name="小野沢興行1983p49"/>。映画黄金期の益田市では小野沢興行と橋本興行が映画館を二分していたが、1972年(昭和47年)には両社が邦画と洋画の選択権について話し合い、小野沢興行は邦画のみ、橋本興行は洋画のみの上映で合意に達した<ref name="小野沢興行1983p49"/>。 1974年(昭和49年)夏には益田市や津和野町でロケが行われた『[[男はつらいよ 寅次郎恋やつれ]]』を上映し、小野沢興行の映画館では久々の大ヒットとなったほか、[[倍賞千恵子]]が小野沢の自宅を表敬訪問した<ref name="小野沢興行1983p49"/>。1977年(昭和52年)には『[[犬神家の一族 (1976年の映画)|犬神家の一族]]』ほか三本立で中央映劇における入場者数の記録を更新した<ref name="小野沢興行1983p49"/>。 ==== 相撲興行 ==== [[File:Futabayama Sadaji.jpg|thumb|170px|小野沢が益田町に招いた横綱[[双葉山定次|双葉山]]]] 1946年(昭和21年)夏には前年に引退した横綱[[双葉山定次|双葉山]]を益田町に招き、大関[[羽黒山政司|羽黒山]]と[[名寄岩静男|名寄山]]とともに引退興行大相撲を開催した<ref name="小野沢興行1983p39">『小野沢興行50年史』pp.39-40</ref>。1949年(昭和24年)春には[[照國萬藏|照国]]、羽黒山、[[前田山英五郎|前田山]]、[[東富士欽壹|東富士]]の4横綱を益田町に招き、大赤字ではあったものの見事な土俵入りを行った<ref name="小野沢興行1983p39"/>。同年10月には[[時津風部屋|双葉山道場]]と[[井筒部屋]]を招いて合同大相撲を行った<ref name="小野沢興行1983p39"/>。 1954年(昭和29年)には羽黒山、照国、東富士の3横綱に加えて大関[[吉葉山]]ら350人を招いて大相撲益田場所を開催した<ref name="小野沢興行1983p39"/>。1962年には[[力道山]]の[[プロレス]]興行を行い、1968年(昭和43年)4月には横綱[[大鵬幸喜|大鵬]]など500人を招いて大相撲益田場所を開催した<ref name="小野沢興行1983p39"/>。なお、大相撲史上未曾有の力士とされる[[雷電爲右エ門|雷電]]は小野寺と同じく滋野の出身である<ref name="小野沢興行1983p39"/>。 ==== 政界での活動 ==== [[File:Yoshio Sakurauchi Scan10003.JPG|thumb|left|170px|胸像建立の発起人筆頭となった[[櫻内義雄]]]] 1947年(昭和22年)4月には[[第1回統一地方選挙]]が開催され、小野寺は島根県議会議員に当選した<ref name="小野沢興行1983p41">『小野沢興行50年史』pp.41-43</ref>。1951年(昭和26年)と1955年(昭和30年)の島根県議会議員選挙には落選し、以後は選挙に出馬することはなかったが、[[山本利寿]]や[[櫻内義雄]]などが出馬した際には選挙運動を応援した<ref name="小野沢興行1983p41"/>。1956年(昭和31年)には[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]の[[鳩山一郎]]総裁から感謝状を受けた<ref name="小野沢興行1983p41"/>。 故郷の[[東御市立東部中学校|東部町立東部中学校]]に10万円を、母校の[[東御市立滋野小学校|東部町立滋野小学校]]に100万円を寄付したことで、1964年(昭和39年)には紺綬褒章を受章した<ref name="小野沢興行1983p44">『小野沢興行50年史』pp.44-45</ref>。1965年(昭和40年)には益田市が市制10周年記念事業として益田市奨学基金を設けたが、この際にも益田市に100万円を寄付したことで、2年連続で紺綬褒章を受章した<ref name="小野沢興行1983p44"/>。 珍しいとされる2年連続受章を受けて、小野沢勝太郎翁寿像建設委員会が設立され、1965年(昭和40年)4月8日には益田市横田町の別邸に小野寺の胸像が除幕された<ref name="小野沢興行1983p45">『小野沢興行50年史』pp.45-46</ref>。通産大臣の櫻内義雄、参議院議員の山本利寿や[[佐野広]]、前衆議院議員の[[中村英男]]、前島根県議会議長の[[室崎勝造]]など、錚々たる顔ぶれが発起人に名を連ねた<ref name="小野沢興行1983p45"/>。 1965年(昭和40年)、益田市高津町の[[高津柿本神社]]に[[柿本人麿]]の歌碑を奉納した<ref name="小野沢興行1983p46">『小野沢興行50年史』p.46</ref><ref>『石見益田人名風土記』益田郷土史会、1967年、pp.178-179</ref>。1920年(大正9年)に高津柿本神社の八朔祭で商いを行ったことが益田定住の起点だったことによる<ref name="小野沢興行1983p46"/>。 === 晩年 === {{multiple image | align = right | direction = horizontal | width = | image1 = Onozawa Katsutaro A ac.jpg | width1 = 150 | alt1 = | caption1 = | image2 = Onozawa Katsutaro B ac (1).jpg | width2 = 150 | alt2 = | caption2 = | footer = 小野沢勝太郎の胸像と立像 }} 1967年(昭和42年)、小野沢は運転免許証を自発的に[[益田警察署]]に返納した<ref name="島根新聞19670921">「"老齢では危険"と76歳の小野沢さん 運転31年に終止符」『島根新聞』1967年9月21日</ref>。当時は運転免許の返納は珍しく、警察署長には「私の警察生活ではじめての体験で、免許証を出されたときには一瞬たまげた」「運転者の心構えを示したすがすがしい態度だ」と感激され、返納について『[[島根新聞]]』でも報じられた<ref name="島根新聞19670921"/>。 1970年(昭和45年)5月、益田市工業団地の一角に3億円を投資した石西パイルを設立してコンクリートパイルの製造を始めたが、間もなく行き詰って経営権を譲渡した<ref name="小野沢興行1983p88">『小野沢興行50年史』pp.88-92</ref>。1971年2月には海外旅行で[[グアム]]を訪れ、9月には20日間に渡って[[ヨーロッパ]]を訪れた<ref name="小野沢興行1983p88"/>。1974年(昭和49年)1月3日、妻のヨネが82歳で死去した<ref 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name="小野沢興行1983p66">『小野沢興行50年史』pp.66-71</ref>。1966年(昭和41年)8月10日に開業した益田ボウリングは島根県2番目のボウリング場である<ref name="小野沢興行1983p66"/>。1972年(昭和47年)時点では4センター計86レーンを有する島根県最大のボウリング興行会社だったが<ref name="小野沢興行1983p66"/>、同年のピーク後にはボウリングブームが急速に減退したことで、小野沢興行はボウリング場を相次いで閉鎖した<ref name="小野沢興行1983p66"/>。 1974年(昭和49年)7月には益田ボウリングの一部に[[パチンコ]]台を設置し、小野沢興行初のパチンコ店である益田中央ホールが開店した<ref name="小野沢興行1983p77">『小野沢興行50年史』pp.77-80</ref>。昭和50年代は小野沢興行がパチンコ業界に進出した時期である<ref name="小野沢興行1983p77"/>。1981年(昭和56年)6月11日には総合レジャービルの建設に着工し、11月22日には小野沢ビルが4階まで開業、12月20日には全館が開業した<ref name="小野沢興行1983p100">『小野沢興行50年史』pp.100-102</ref>。小野沢ビルは益田市で最も高い建造物だった<ref name="小野沢興行1983p100"/>。 == 役職 == * 1932年(昭和7年) [[益田市|益田町]]会議員 * 1947年(昭和22年) [[島根県議会]]議員 * 1952年(昭和27年) 益田市体育協会 会長 * 1959年(昭和34年) 島根県興行環境衛生同業組合 理事長 * 1960年(昭和35年) [[全国興行生活衛生同業組合連合会|全国興行環境衛生組合連合会]] 理事 == 受章 == * 1964年(昭和39年) [[紺綬褒章]] * 1965年(昭和40年) [[紺綬褒章]] == 脚注 == {{Reflist|2}} == 参考文献 == {{Commonscat|Onozawa Katsutaro}} * 小野沢明男『小野沢興行50年史』小野沢興行、1983年 {{デフォルトソート:おのさわ かつたろう}} [[Category:20世紀日本の実業家]] [[Category:島根県議会議員]] [[Category:的屋]] [[Category:紺綬褒章受章者]] [[Category:長野県出身の人物]] [[Category:1891年生]] [[Category:1975年没]]
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恥じらう君が見たいんだ
『恥じらう君が見たいんだ』(はじらうきみがみたいんだ)は、甜米らくれによる日本の漫画作品。『ヤンマガweb』(講談社)にて、2021年1月15日から連載されている。映画監督を父に持つ少年、白沢明人と露出癖のある女子高生、本上夏帆を描いている。2023年1月時点で累計部数は50万部を突破している。 ラジオ番組『講談社 presents 佐野ひなこのおしえて!推しマンガ!』の2022年8月11日放送の回にて、ゲストのムーディ勝山のプレゼン作品に本作が選ばれている。ムーディ勝山は本作の画力と「絶妙なエロさ加減」から本作を「大当たり確定」だといい、エロくて「ストーリーもしっかり面白い」と評している。 2021年10月25日発売の『週刊ヤングマガジン』48号にて、グラビアアイドルの東雲うみとコラボレーションをしている。2022年4月4日発売の同誌18号では、グラビアアイドルの花咲れあとのコラボグラビアを掲載。2023年6月19日発売の同誌29号にて、「夏の極艶フェスティバル」の企画の一環として、コスプレイヤーのyamiによる本作のコスプレが掲載されている。
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『恥じらう君が見たいんだ』(はじらうきみがみたいんだ)は、甜米らくれによる日本の漫画作品。『ヤンマガweb』(講談社)にて、2021年1月15日から連載されている。映画監督を父に持つ少年、白沢明人と露出癖のある女子高生、本上夏帆を描いている。2023年1月時点で累計部数は50万部を突破している。
{{Infobox animanga/Header | タイトル = 恥じらう君が見たいんだ }} {{Infobox animanga/Manga | 作者 = 甜米らくれ | 出版社 = [[講談社]] | 掲載誌 = [[ヤンマガweb]] | 開始日 = 2021年1月15日{{R|yanmaga20210115}} | 巻数 = 既刊7巻(2023年12月20日現在) | インターネット = 1 }} {{Infobox animanga/Footer | ウィキプロジェクト = [[プロジェクト:漫画|漫画]] | ウィキポータル = [[Portal:漫画|漫画]] }} 『'''恥じらう君が見たいんだ'''』(はじらうきみがみたいんだ)は、甜米らくれによる[[日本]]の[[漫画]]作品。『[[ヤンマガweb]]』([[講談社]])にて、2021年1月15日から連載されている<ref name="yanmaga20210115">{{Cite web|和書|url=https://yanmaga.jp/columns/articles/378|title=露出女子高生×映画男子、ヤンマガWebオリジナル新連載『恥じらう君が見たいんだ』スタート|website=ヤンマガweb|publisher=講談社|date=2021-01-15|accessdate=2023-11-10}}</ref>。映画監督を父に持つ少年、白沢明人と露出癖のある女子高生、本上夏帆を描いている{{R|natalie20210719|dengeki20230125}}。2023年12月時点で累計部数は80万部を突破している{{R|comic7}}。 == 登場人物 == ; 白沢明人 : 男子高校生{{R|natalie20210719}}。 ; 本上夏帆 : 白沢の同級生{{R|natalie20210719}}。 ; 冬樺 : 本上夏帆の姉{{R|dengeki20230125}}。 == 評価 == ラジオ番組『講談社 presents 佐野ひなこのおしえて!推しマンガ!』の2022年8月11日放送の回にて、ゲストの[[ムーディ勝山]]のプレゼン作品に本作が選ばれている<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.1242.com/article/378407|title=佐野ひなこが“マンガ愛”を語るラジオ番組 マンガ好きゲストは、ムーディ勝山とバイク川崎バイク!|website=ニッポン放送 NEWS ONLINE|publisher=ニッポン放送|date=2022-08-08|accessdate=2023-11-10}}</ref>。ムーディ勝山は本作の画力と「絶妙なエロさ加減」から本作を「大当たり確定」だといい、エロくて「ストーリーもしっかり面白い」と評している<ref>{{Cite web|和書|url=https://yanmaga.jp/columns/articles/2145|title=ムーディ勝山のマンガレビュー録 #17『恥じらう君が見たいんだ』|website=ヤンマガweb|publisher=講談社|date=2022-02-21|accessdate=2023-11-10}}</ref>。 == 書誌情報 == * 甜米らくれ『恥じらう君が見たいんだ』講談社〈ヤンマガKCスペシャル〉、既刊7巻(2023年12月20日現在) *# 2021年7月19日発売<ref name="natalie20210719">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/437533|title=露出JKと映画男子の歪んだ青春物語「恥じらう君が見たいんだ」1巻|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-07-19|accessdate=2023-11-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000352688|title=『恥じらう君が見たいんだ(1)』(甜米 らくれ)|website=講談社コミックプラス|publisher=講談社|accessdate=2023-11-10}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-523691-8}} *# 2021年10月20日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000356040|title=『恥じらう君が見たいんだ(2)』(甜米 らくれ)|website=講談社コミックプラス|publisher=講談社|accessdate=2023-11-10}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-525092-1}} *# 2022年2月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000361610|title=『恥じらう君が見たいんだ(3)』(甜米 らくれ)|website=講談社コミックプラス|publisher=講談社|accessdate=2023-11-10}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-526826-1}} *# 2022年7月20日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000366538|title=『恥じらう君が見たいんだ(4)』(甜米 らくれ)|website=講談社コミックプラス|publisher=講談社|accessdate=2023-11-10}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-528108-6}} *# 2023年1月19日発売<ref name="dengeki20230125">{{Cite web|和書|url=https://dengekionline.com/articles/168365/|title=ハプニングバー帰りの露出JK×映画男子が出会ったのは…過激作『恥じらう君が見たいんだ』5巻|website=電撃オンライン|publisher=KADOKAWA|date=2023-01-25|accessdate=2023-11-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000372814|title=『恥じらう君が見たいんだ(5)』(甜米 らくれ)|website=講談社コミックプラス|publisher=講談社|accessdate=2023-11-10}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-530422-8}} *# 2023年6月20日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000377371|title=『恥じらう君が見たいんだ(6)』(甜米 らくれ)|website=講談社コミックプラス|publisher=講談社|accessdate=2023-11-10}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-532054-9}} *# 2023年12月20日発売<ref name="comic7">{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000383709|title=『恥じらう君が見たいんだ(7)』(甜米 らくれ)|website=講談社コミックプラス|publisher=講談社|accessdate=2023-12-20}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-533992-3}} == コラボレーション == 2021年10月25日発売の『[[週刊ヤングマガジン]]』48号にて、[[グラビアアイドル]]の[[東雲うみ]]とコラボレーションをしている<ref>{{Cite web |和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2211158/full/ |title=“元OLのGカップグラドル”東雲うみ、人気漫画とコラボグラビアで大胆露出チャレンジ |publisher=[[オリコン]] |date=2021-10-25 |accessdate=2023-11-10}}</ref>。2022年4月4日発売の同誌18号では、グラビアアイドルの[[花咲れあ]]とのコラボグラビアを掲載<ref>{{Cite web|和書|url=https://getnews.jp/archives/3252346|title=凝視禁止!花咲れあ、漫画「恥じらう君が見たいんだ 」とコラボしたグラビアのオフショットを披露!|website=ガジェット通信|publisher=東京産業新聞社|date=2022-04-07|accessdate=2023-11-10}}</ref>。2023年6月19日発売の同誌29号にて、「夏の極艶フェスティバル」の企画の一環として、コスプレイヤーの[[yami]]による本作のコスプレが掲載されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://gravure.mantan-web.jp/article/20230618dog00m200013000c.html|title=ヤングマガジン:篠原みなみ、yami、かれしちゃんが“極艶”コスプレ披露 「恥じらう君が見たいんだ」「月曜日のたわわ」も|website=MANTANWEB|publisher=MANTAN|date=2023-06-19|accessdate=2023-11-10}}</ref>。 == 出典 == {{Reflist}} ==外部リンク== * {{Official website|https://yanmaga.jp/comics/恥じらう君が見たいんだ}} {{デフォルトソート:はしらうきみかみたいんた}} [[Category:漫画作品 は|しらうきみかみたいんた]] [[Category:2021年の漫画]] [[Category:週刊ヤングマガジンの漫画作品]] [[Category:継続中の作品]]
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高倉永政
高倉 永政(たかくら ながまさ、1933年(昭和8年)3月7日 - )は、日本の医師。高倉家の第24代当主。父は高倉永輝。京都府京都市左京区出身。 京都府京都市左京区生まれ。子爵・高倉永輝の長男として生まれる。母は黒田長成の次女である良子。学習院幼稚園時代は明仁上皇の御学友のひとりとされていた。 1975年(昭和50年)に父の永輝が亡くなり、家督を相続し、高倉家の当主となる。私生活では羽成四朗の長女である須美子と結婚し、2男2女を儲けた。また医師としても活動しており、高倉胃腸科外科医院の院長を務めている。
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高倉 永政は、日本の医師。高倉家の第24代当主。父は高倉永輝。京都府京都市左京区出身。
{{Infobox 人物 |氏名= 高倉 永政 |ふりがな= たかくら ながてる |画像= <!-- 画像ファイル名 --> |画像サイズ= |画像説明= |出生名= |生年月日= {{生年月日と年齢|1933|3|7}} |生誕地= [[京都府]][[京都市]][[左京区]] |洗礼= |失踪年月日= |失踪地= |現況= |没年月日= |死没地= |死因= |遺体発見= |墓地= |記念碑= |住居= |国籍= {{JPN}} |別名= |民族= |市民権= |教育= |出身校= |職業= [[医師]] |活動期間= |時代= |雇用者= |団体= |代理人= |著名な実績= |代表作= |流派= |影響を受けたもの= |影響を与えたもの= |活動拠点= |給料= |純資産= |身長= |体重= |テレビ番組= |肩書き= |任期= |前任者= |後任者= |政党= |政治運動= |敵対者= |取締役会= |宗教= |宗派= |罪名= |刑罰= |犯罪者現況= |配偶者= 羽成須美子 |非婚配偶者= |子供= 長女:高倉曉子<br />長男:[[高倉永佳]]<br />次女:高倉文子<br />次男:高倉永智 |親= 父親:[[高倉永輝]]<br />母親:黒田良子 |親戚= |家族=   |コールサイン= |受賞= |栄誉= |公式サイト= |署名= <!-- 画像ファイル名 --> |署名サイズ= |補足= }} '''高倉 永政'''(たかくら ながまさ、[[1933年]]([[昭和]]8年)[[3月7日]]<ref>『人事興信録 第25版 下』(人事興信所、1969年)た144頁</ref> - )は、[[日本]]の[[医師]]。[[高倉家]]の第24代当主。父は[[高倉永輝]]。[[京都府]][[京都市]][[左京区]]出身。 == 生涯 == [[京都府]][[京都市]][[左京区]]生まれ。[[子爵]]・[[高倉永輝]]の長男として生まれる。母は[[黒田長成]]の次女である良子<ref>『華族會館の百年』([[1975年]]、[[霞会館]]){{要ページ番号|date=2023年12月}}</ref>。[[学習院幼稚園]]時代は[[明仁|明仁上皇]]の御学友のひとりとされていた<ref>『平成新修旧華族家系大成』([[霞会館]]、[[1996年]]){{要ページ番号|date=2023年12月}}</ref>。 [[1975年]]([[昭和]]50年)に父の永輝が亡くなり<ref>『偕行』第292号(偕行社、1975年9月)p.41</ref>、家督を相続し、高倉家の当主となる<ref>『國史學』([[1995年]]、國史學會){{要ページ番号|date=2023年12月}}</ref>。私生活では羽成四朗の長女である須美子と結婚し、2男2女を儲けた。また医師としても活動しており、高倉胃腸科外科医院の院長を務めている<ref>{{cite web|url=https://kenshin-db.niph.go.jp/kenshin/kikan_checkups/view/9638|title=高倉胃腸科外科医院|publisher=国立保健医療科学院|accessdate=2023-11-10}}</ref>。 == 系譜 == * 父親:[[高倉永輝]] * 母親:黒田良子([[黒田長成]]の次女) * 妻:羽成須美子 ** 長女:高倉曉子 ** 長男:[[高倉永佳]]([[実践女子大学]][[名誉教授]]) ** 次女:高倉文子 ** 次男:高倉永智 == 脚注 == <references /> {{People-stub}} {{DEFAULTSORT:たかくら なかまさ}} [[Category:高倉家|なかまさ]] [[Category:日本の医師]] [[Category:京都市出身の人物]] [[Category:1933年生]] [[Category:存命人物]]
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寺部町 (豊田市)
寺部町(てらべちょう)は、愛知県豊田市の町名。現行行政地名は寺部町1丁目から6丁目。 豊田市西部、高橋地区の西部に位置し、東は高橋町・社町、西は川端町、南は千石町、北は川田町に接する。 2023年(令和5年)10月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである。 市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。 加茂郡(西加茂郡)寺部村を前身とする。 往古から寺辺と言われ、寺院が多い地域であったことによる。
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寺部町(てらべちょう)は、愛知県豊田市の町名。現行行政地名は寺部町1丁目から6丁目。
{{Pathnav|日本|愛知県|豊田市|this=寺部町|frame=1}} {{Infobox Settlement | name = 寺部町 | settlement_type = [[町丁]] | image_skyline = Shuko-ji Temple Hondou, Terabe-cho Toyota 2019.jpg | imagesize = 270px | image_caption = 守綱寺 | image_map = | map_caption = 寺部町の位置 | pushpin_map = Japan Aichi | latd = 35 | latm = 5 | lats = 41.96 | latNS = N | longd = 137 | longm = 10 | longs = 18.44 | longEW = E | subdivision_type = [[国の一覧|国]] | subdivision_name = {{JPN}} | subdivision_type1 = [[都道府県]] | subdivision_name1 = [[File:Flag of Aichi Prefecture.svg|border|25px]] [[愛知県]] | subdivision_type2 = [[市町村]] | subdivision_name2 = [[File:Flag of Toyota, Aichi.svg|border|25px]] [[豊田市]] | subdivision_type3 = 地区 | subdivision_name3 = 高橋地区 | established_title1 = 町名制定{{Sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=234}} | established_date1 = [[1959年]](昭和34年)[[10月1日]] | area_footnotes = <ref name="population"/> | area_total_km2 = 0.043 | elevation_footnotes = <!-- 標高(<ref>) --> | elevation_m = <!-- 標高 --> | population_as_of= [[2023年]](令和5年)[[10月1日]]現在 | population_footnotes = <ref name="population">{{Cite web|url=https://www.city.toyota.aichi.jp/shisei/tokei/1004630/1056381.html|title=豊田市の人口 2023年10月1日現在人口 詳細データ - 町別面積・人口・世帯数|publisher=豊田市|language=日本語|date=2023-10-12|accessdate=2023-11-03}}</ref> | population_total = 1578 | population_density_km2 = auto | timezone1 = [[日本標準時]] | utc_offset1 = +9 | postal_code_type = [[日本の郵便番号|郵便番号]] | postal_code = 471-0017<ref name="postal">{{Cite web|url=https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?pref=23&city=1232110&cmp=1&mode=list&addr=|title=郵便番号検索 愛知県豊田市の郵便番号一覧|publisher=[[日本郵便]]|accessdate=2023-11-04}}</ref> | area_code = 0565([[日本の市外局番#番号区画|豊田MA]])<ref name="areacode">{{Cite web|url=https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/top/tel_number/shigai_list.html|title=市外局番の一覧|publisher=総務省|accessdate=2020-12-29}}</ref> | registration_plate = [[愛知運輸支局|豊田]] | footnotes = }} '''寺部町'''(てらべちょう)は、[[愛知県]][[豊田市]]の町名。現行行政地名は寺部町1丁目から6丁目。 == 地理 == 豊田市西部、高橋地区の西部に位置し、東は[[高橋町 (豊田市)|高橋町]]・[[社町 (豊田市)|社町]]、西は[[川端町 (豊田市)|川端町]]、南は[[千石町 (豊田市)|千石町]]、北は[[川田町 (豊田市)|川田町]]に接する{{Sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1769}}。 == 世帯数と人口 == [[2023年]](令和5年)[[10月1日]]現在の世帯数と人口は以下の通りである<ref name="population"/>。 {| class="wikitable" ![[町丁]]!![[世帯|世帯数]]!![[人口]] |- |寺部町 |style="text-align:right"|575世帯 |style="text-align:right"|1,578人 |} == 学区 == 市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる<ref name="school">{{Cite web|url=https://www.city.toyota.aichi.jp/kurashi/gakkou/1002681/1004879/index.html|title=町名別小中学校区|publisher=豊田市|accessdate=2023-01-16}}</ref>。 {| class="wikitable" !番・番地等!!小学校!!中学校!!高等学校普通科 |- |全域||[[豊田市立寺部小学校]]||[[豊田市立高橋中学校]]||[[愛知県の高校入試#三河学区|三河学区]] |} == 歴史 == [[加茂郡 (三河国)|加茂郡]]([[西加茂郡]])寺部村を前身とする。 === 町名の由来 === 往古から寺辺と言われ、寺院が多い地域であったことによる{{Sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=606}}。 === 沿革=== ==== 大字寺部 ==== * [[1889年]](明治22年)[[10月1日]] - 町村制による西加茂郡寺部村が成立{{Sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=606}}。 * [[1906年]](明治39年)[[7月1日]] - 合併に伴い、[[高橋村 (愛知県)|高橋村]]大字寺部となる{{Sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=606}}。 * [[1956年]](昭和31年)[[9月30日]] - 挙母市へ編入し、同市大字寺部となる{{Sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=606}}。 * [[1959年]](昭和34年) ** [[1月1日]] - 豊田市大字寺部となる{{Sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=606}}。 ** [[10月1日]] - 高橋地区町名変更実施に伴い、全域が寺部町・[[社町 (豊田市)|社町]]・[[高橋町 (豊田市)|高橋町]]・[[千石町 (豊田市)|千石町]]・[[水間町]]・[[川田町 (豊田市)|川田町]]・[[京ケ峰]]となり廃止{{Sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=606}}。 ==== 寺部町 ==== * 1959年(昭和34年)10月1日 - 大字の寺部の一部より、寺部町が成立{{Sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=606}}。 === 史跡 === * 寺部城跡 * 松本家長屋門 * 遊佐家長屋門 == 施設 == * [[守綱寺 (豊田市)|守綱寺]] * 東高院 * 隋應院 * 浄土院 * 守綱神社 == 交通 == * [[愛知県道343号則定豊田線]] == その他 == === 日本郵便 === * 郵便番号 : 471-0017<ref name="postal"/>(集配局:[[豊田郵便局]]<ref>{{Cite web|url=https://www.post.japanpost.jp/zipcode/dl/bangobo/zip_bgb.pdf|format=PDF|title=郵便番号簿 2018年度版|publisher=日本郵便|language=日本語|accessdate=2019-06-10}}</ref>)。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|date=1989-03-08|title=[[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県|publisher=[[角川書店]]|isbn=4-04-001230-5|language=日本語|ref=harv}} == 関連項目 == * [[豊田市の町名の一覧]] * [[豊田市の地名の変遷]] == 外部リンク == * {{Commonscat-inline|Terabe-chō, Toyota}} {{Japan-block-stub}} {{Pref-stub|pref=愛知県}} {{豊田市の町名}} {{デフォルトソート:てらへちよう}} [[Category:豊田市の町名]] [[Category:1959年制定の町・字]]
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気象台駅
気象台駅(きしょうだいえき、中国語: 气象台站)は、中華人民共和国黒龍江省ハルビン市香坊区にある駅。中華人民共和国の地下鉄駅の中では最東端に位置する。
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気象台駅は、中華人民共和国黒龍江省ハルビン市香坊区にある駅。中華人民共和国の地下鉄駅の中では最東端に位置する。
{{駅情報 |社色 = limegreen |文字色 = |駅名 = 気象台駅 |画像 = |pxl = |画像説明 = |地図={{Infobox mapframe|zoom=13|frame-width=280|type=point}} |よみがな = きしょうだい |ローマ字 = Meteorological Observatory |電報略号 = |所属事業者= [[ハルビン地下鉄]] |所在地 = {{CHN}}[[黒龍江省]][[ハルビン市]][[香坊区]] |開業年月日= [[2021年]][[9月19日]] |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 1面2線 |廃止年月日= |乗車人員 = |乗降人員 = |統計年度 = |乗入路線数= |所属路線 = [[ハルビン地下鉄2号線|2号線]] |前の駅 = [[東北農業大学駅|東北農業大学]] |駅間A = |駅間B = |次の駅 = |駅番号 = |キロ程 = |起点駅 = [[江北大学城駅|江北大学城]] |乗換 = |備考 = }} '''気象台駅'''(きしょうだいえき、{{lang-zh|气象台站}})は、[[中華人民共和国]][[黒龍江省]][[ハルビン市]][[香坊区]]にある[[鉄道駅|駅]]。中華人民共和国の地下鉄駅の中では最東端に位置する。 == 利用可能な鉄道路線 == *[[ハルビン地下鉄]] **[[ハルビン地下鉄2号線|2号線]] == 歴史 == *[[2021年]][[9月19日]] 開業<ref>[https://m.sohu.com/a/490414806_121009622/?pvid=000115_3w_a 本周日开通!哈尔滨地铁2号线车站都啥样?]</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == *[[ハルビン地下鉄]] {{ハルビン地下鉄2号線}} {{DEFAULTSORT:きしようたい}} [[Category:ハルビン市の鉄道駅]] [[Category:ハルビン地下鉄]] [[Category:香坊区]] [[Category:2021年開業の鉄道駅]]
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服部正次
服部 正次(はっとり しょうじ、1900年5月28日 - 1974年7月29日)は、日本の経営者。服部時計店(現在のセイコー)社長を務めた。 東京都出身。1924年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に服部時計店に入社。1929年に取締役に就任し、1946年5月には社長に就任した。1954年3月からは第二精工舎会長も務めた。 1962年に藍綬褒章を受章し、1970年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1974年7月29日、胃がんのために死去。74歳没。 父は服部時計店創業者の服部金太郎。母智子は三共創業者塩原又策三女。服部一郎元セイコーインスツル社長は長男。服部靖夫セイコーエプソン名誉会長は三男で、その妻久美子は小島太作元駐インド大使の娘。
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服部 正次は、日本の経営者。服部時計店(現在のセイコー)社長を務めた。
'''服部 正次'''(はっとり しょうじ、[[1900年]][[5月28日]] - [[1974年]][[7月29日]])は、[[日本]]の[[経営者]]。服部時計店(現在の[[セイコー]])社長を務めた。 == 経歴 == [[東京都]]出身{{sfn|人事興信所|1971|loc=は90頁|ref=jinji-26-ge}}。[[1924年]]に[[慶應義塾大学]]経済学部を卒業し、同年に[[服部時計店]]に入社{{sfn|人事興信所|1971|loc=は90頁|ref=jinji-26-ge}}。[[1929年]]に取締役に就任し、[[1946年]]5月には社長に就任した{{sfn|人事興信所|1971|loc=は90頁|ref=jinji-26-ge}}。[[1954年]]3月からは第二精工舎会長も務めた{{sfn|人事興信所|1971|loc=は90頁|ref=jinji-26-ge}}。 [[1962年]]に[[褒章|藍綬褒章]]を受章し、[[1970年]]11月に[[瑞宝章|勲二等瑞宝章]]を受章{{sfn|人事興信所|1971|loc=は90頁|ref=jinji-26-ge}}。 [[1974年]][[7月29日]]、[[胃癌|胃がん]]のために死去<ref>1974年 7月30日 朝日新聞 夕刊 p9</ref>。{{没年齢|1900|5|28|1974|7|29}}。 == 親族 == 父は服部時計店創業者の[[服部金太郎]]。妻の智子は[[三共 (製薬会社)|三共]]創業者[[塩原又策]]三女。[[服部一郎]]元セイコーインスツル社長は長男。[[服部靖夫]]セイコーエプソン[[名誉会長]]は三男で、その妻久美子は[[小島太作]]元駐インド大使の娘<ref>人事興信録 45版</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Citation|和書|author = 人事興信所 編|title = 人事興信録 第26版 下|publisher = 人事興信所|series = |volume = |edition = |date = 1971|pages = |url = |ref = jinji-26-ge}} {{先代次代|服部時計店社長|1946年 - 1974年|[[服部玄三]]|[[服部謙太郎]]}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:はつとり しようし}} [[Category:20世紀日本の実業家]] [[Category:セイコーグループの人物]] [[Category:藍綬褒章受章者]] [[Category:勲二等瑞宝章受章者]] [[Category:慶應義塾大学出身の人物]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:1900年生]] [[Category:1974年没]]
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江北大学城駅
江北大学城駅(こうほくだいがくじょうえき、中国語: 江北大学城站)は、中華人民共和国黒龍江省ハルビン市呼蘭区にある駅。中華人民共和国の地下鉄駅の中では最北端に位置する。
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江北大学城駅は、中華人民共和国黒龍江省ハルビン市呼蘭区にある駅。中華人民共和国の地下鉄駅の中では最北端に位置する。
{{駅情報 |社色 = limegreen |文字色 = |駅名 = 江北大学城駅 |画像 = 江北大学城站站台.jpg |pxl = |画像説明 = ホーム |地図={{Infobox mapframe|zoom=13|frame-width=280|type=point}} |よみがな = こうほくだいがくじょう |ローマ字 = Jiangbei University Town |電報略号 = |所属事業者= [[ハルビン地下鉄]] |所在地 = {{CHN}}[[黒龍江省]][[ハルビン市]][[呼蘭区]] |開業年月日= [[2021年]][[9月19日]] |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 1面2線 |廃止年月日= |乗車人員 = |乗降人員 = |統計年度 = |乗入路線数= |所属路線 = [[ハルビン地下鉄2号線|2号線]] |前の駅 = |駅間A = |駅間B = |次の駅 = [[ハルビン北駅|ハルビン北]] |駅番号 = |キロ程 = |起点駅 = 当駅 |乗換 = |備考 = }} '''江北大学城駅'''(こうほくだいがくじょうえき、{{lang-zh|江北大学城站}})は、[[中華人民共和国]][[黒龍江省]][[ハルビン市]][[呼蘭区]]にある[[鉄道駅|駅]]。中華人民共和国の地下鉄駅の中では最北端に位置する。 == 利用可能な鉄道路線 == *[[ハルビン地下鉄]] **[[ハルビン地下鉄2号線|2号線]] == 歴史 == *[[2021年]][[9月19日]] 開業<ref>[https://m.sohu.com/a/490414806_121009622/?pvid=000115_3w_a 本周日开通!哈尔滨地铁2号线车站都啥样?]</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == *[[ハルビン地下鉄]] {{ハルビン地下鉄2号線}} {{DEFAULTSORT:こうほくたいかくしよう}} [[Category:ハルビン市の鉄道駅]] [[Category:ハルビン地下鉄]] [[Category:呼蘭区]] [[Category:2021年開業の鉄道駅]]
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オリオン統類
オリオン統類(オリオンとうるい、学名 Orionides)は、中期ジュラ紀から現在まで存続している堅尾類獣脚類恐竜のクレード。このクレードには、鳥類を含むほとんどの獣脚類恐竜が含まれている。 多くの系統解析では、堅尾類がメガロサウルス上科(英語版)と鳥獣脚類の両方の側系統群にあることが発見されたが、核となる二分法が命名されたのは2012年になってからである。2012年カラーノ、ベンソン、サンプソンは、そのクレードをOrionides(オリオン統類)と名付け、メガロサウルス上科、鳥獣脚類、それらの最新の共通祖先、およびそのすべての子孫を含むノードとして定義した。2015年、ヘンドリックス、ハートマン、マテウスはこの定義を明確にし、アロサウルス・フラギリス、メガロサウルス・バックランディ、イエスズメ(Passer domesticus)を含む最も包括的でないクレードとして指定した。以下に示すクラドグラムは、2013年にザンノとマコヴィッキーによって発表された系統解析に従っている。 2019年に、アスファルトヴェナトル(英語版)という基盤的アロサウルス上科が発見され、メガロサウルス上科とアロサウルス上科の両方のグループを含む単系統群の肉竜類の考えにさらなる証拠を提示した。これは、鳥獣脚類の正当性には疑問を投げかけたが、分類群としてのオリオン統類 は依然として維持されてきたが、これは、オリオン統類と鳥獣脚類が同義であることを暗示している可能性がある。 大型の肉食性恐竜のスピノサウルス科とアロサウルス科は、後期ジュラ紀から前期白亜紀、特にゴンドワナ大陸にて繁栄したが、おそらくアベリサウルス科・ケラトサウルス類やティラノサウルス科・コエルロサウルス類との競合により、白亜紀末期までに絶滅したようである。多様なコエルロサウルス類は中生代の終わりまで存続し、クラウングループである鳥類を除いてすべてが絶滅した。現生の鳥類は、堅尾類のクレードの唯一の現存する分類群。 「Orionides」というクレード名は、2012年にマシュー T. カラーノ、ロジャー B. J. ベンソン、スコット D. サンプソンによって設立された。この名は、基盤的オリオン統類の大型さと肉食性を参照して、ギリシャ神話に登場する巨人の狩人であるオーリーオーンに由来している。また、この名は、オリオン座の別名であるアレクトロポディオンにも言及しており、「鶏の足」を意味する。
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オリオン統類は、中期ジュラ紀から現在まで存続している堅尾類獣脚類恐竜のクレード。このクレードには、鳥類を含むほとんどの獣脚類恐竜が含まれている。
{{生物分類表 | 名称 = オリオン統類 <br>Orionides | fossil_range = [[中生代]][[中期ジュラ紀]] - [[完新世]]([[現世]]), {{fossil_range|175.6|0}}<br>[[前期ジュラ紀]]からの可能性あり | 画像 = [[File:Orionides.jpg|250px]] | 画像キャプション = '''1列目([[カルノサウルス類|肉竜類]]/非[[コエルロサウルス類]]のオリオン統類):''' <br>[[アロサウルス]]、[[スピノサウルス]]、[[トルヴォサウルス]]。<br> '''2列目([[マニラプトル類|手盗類]]以外の[[コエルロサウルス類]]):''' <br>[[ガリミムス]]、[[ティラノサウルス]]、[[コンプソグナトゥス]]。 <br>'''3列目(非[[真手盗類]]の[[マニラプトル類|手盗類]]):''' <br>[[アルヴァレスサウルス]]、[[アラシャサウルス]]、[[アヴィミムス]]。 <br>'''4列目(ユーマニラプトル類):''' <br>[[ヴェロキラプトル]]、[[ヘスペロルニス]]、[[アカアシミズナギドリ]]。 | 地質時代 = [[中期ジュラ紀]] | 地質時代2 = [[完新世]]([[現世]]) | ドメイン = [[真核生物]] {{sname||Eukaryota}} | 省略 = 恐竜上目 | 目 = [[竜盤類|竜盤目]] {{sname||Saurischia}} | 目階級なし = [[真竜盤類]] {{sname||Eusaurischia}} | 亜目 = [[獣脚亜目]] {{sname||Theropoda}} | 亜目階級なし = {{生物分類表/階級なし複数 | [[新獣脚類]] {{sname||Neotheropoda}} | [[アヴェロストラ|鳥吻類]] {{sname||Averostra}}}} | 下目 = [[堅尾下目]] {{sname||Tetanurae}} | 下目階級なし = '''オリオン統類''' {{sname||Orionides}} | 学名 = '''Orionides''' <br>{{AUY|Carrano, Benson & Sampson|2012}} | シノニム = * '''[[鳥獣脚類|Avetheropoda]]''' <small>{{AUY|[[グレゴリー・ポール|Paul]]|1998}}</small><ref name="Rauhut2019">{{Cite journal|last1=Rauhut|first1=Oliver W. 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D. | doi = 10.1080/14772019.2011.630927 | title = The phylogeny of Tetanurae (Dinosauria: Theropoda) | journal = Journal of Systematic Palaeontology | volume = 10 | issue = 2 | pages = 211–300| year = 2012 }}</ref>。 == 系統関係 == 多くの系統解析では、[[堅尾類]]が{{仮リンク|スピノサウルス上科|label=メガロサウルス上科|en|Megalosauroidea}}と[[鳥獣脚類]]の両方の[[側系統群]]にあることが発見されたが、核となる二分法が命名されたのは[[2012年]]になってからである。2012年カラーノ、ベンソン、サンプソンは、そのクレードを'''Orionides'''(オリオン統類)と名付け、メガロサウルス上科、鳥獣脚類、それらの最新の共通祖先、およびそのすべての[[子孫]]を含むノードとして定義した<ref name="tetanurans2012" />。[[2015年]]、ヘンドリックス、ハートマン、マテウスはこの定義を明確にし、[[アロサウルス|アロサウルス・フラギリス]]、[[メガロサウルス|メガロサウルス・バックランディ]]、[[イエスズメ]](''Passer domesticus'')を含む最も包括的でないクレードとして指定した<ref name="hendrickx2015">{{cite journal |last1=Hendrickx |first1=C. |last2=Hartman |first2=S.A. |last3=Mateus |first3=O. |title=An overview of non-avian theropod discoveries and classification |journal=PalArch's Journal of Vertebrate Palaeontology |date=2015 |volume=12 |issue=1 |pages=1-73}}</ref>。以下に示す[[クラドグラム]]は、[[2013年]]にザノとマコヴィッキーによって発表された系統解析に従っている<ref name=siats2013>{{Cite journal | last1 = Zanno | first1 = L. 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J. | doi = 10.1038/ncomms3827 | title = Neovenatorid theropods are apex predators in the Late Cretaceous of North America | journal = Nature Communications | volume = 4 | pages = 2827 | year = 2013 | pmid = 24264527| bibcode = 2013NatCo...4.2827Z | doi-access = free }}</ref>。 {{clade|style=font-size:100%;line-height:100% |label1='''オリオン統類''' |1={{clade |label1={{仮リンク|スピノサウルス上科|label=メガロサウルス上科|en|Megalosauroidea}} |1={{clade |1= {{仮リンク|ピアトニッキサウルス科|en|Piatnitzkysauridae}} [[File:Piatnitzkysaurus floresi by Paleocolour.jpg|120px]] |label2=[[メガロサウルス類]] |2={{clade |1=[[スピノサウルス科]][[File:Spinosaurus aegyptiacus.png|100px]] |2=[[メガロサウルス科]][[File:Torvosaurus tanner DBi.jpg|120px]] }} }} |label2=[[鳥獣脚類]] |2={{clade |1=[[コエルロサウルス類]][[File:Meyers grosses Konversations-Lexikon - ein Nachschlagewerk des allgemeinen Wissens (1908) (Antwerpener Breiftaube).jpg|50px]] |label2=[[アロサウルス上科]] |2={{clade |1={{仮リンク|メトリアカントサウルス科|en|Metriacanthosauridae}}[[File:Yangchuanosaurus NT (flipped).jpg|120px]] |label2=[[アロサウルス類]] |2={{clade |1=[[アロサウルス上科|アロサウルス科]][[File:Allosaurus Revised.jpg|120px]] |label2=[[アロサウルス上科|カルカロドントサウルス類]] |2={{clade |1=[[ネオヴェナトル科]][[File:Gualicho shinyae restoration.jpg|120px]] |2=[[カルカロドントサウルス科]][[File:Concavenator corcovatus by Daniel Vidal 2012.png|120px]] }} }} }} }} }} }} [[2019年]]に、{{仮リンク|アスファルトヴェナトル|en|Asfaltovenator}}という基盤的アロサウルス上科が発見され、メガロサウルス上科とアロサウルス上科の両方のグループを含む[[単系統群]]の肉竜類の考えにさらなる証拠を提示した。これは、鳥獣脚類の正当性には疑問を投げかけたが、分類群としてのオリオン統類 は依然として維持されてきたが、これは、オリオン統類と鳥獣脚類が同義であることを暗示している可能性がある。 == 時間的範囲 == [[大型]]の[[肉食性]]恐竜の[[スピノサウルス科]]と[[アロサウルス科]]は、[[後期ジュラ紀]]から[[前期白亜紀]]、特に[[ゴンドワナ大陸]]にて[[繁栄]]したが、おそらく[[アベリサウルス科]]・[[ケラトサウルス類]]や[[ティラノサウルス科]]・[[コエルロサウルス類]]との競合により、[[白亜紀]]末期までに[[絶滅]]したようである。多様なコエルロサウルス類は[[中生代]]の終わりまで存続し、[[クラウングループ]]である[[鳥類]]を除いてすべてが絶滅した。現生の鳥類は、堅尾類のクレードの唯一の現存する分類群である。 == 語源 == "'''Orionides'''"というクレード名は、2012年にマシュー・T・カラーノ、ロジャー・B・J・ベンソン、スコット・D・サンプソンによって設立された。この名は、基盤的オリオン統類の大型さと肉食性を参照して、[[ギリシャ神話]]に登場する[[巨人]]の[[狩人]]である[[オーリーオーン]]に由来している。また、この名は、[[オリオン座]]の別名であるアレクトロポディオンにも言及しており、「鶏の足」を意味する<ref name=tetanurans2012/>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[絶滅した動物一覧]] * [[化石爬虫類の一覧]] * [[恐竜の一覧]] * [[獣脚類]] {{獣脚類}} {{Taxonbar|from=Q4188599}} {{デフォルトソート:おりおんとうるい}} [[Category:1988年に記載された化石分類群]]
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高倉永佳
高倉 永佳(たかくら ながよし、1962年(昭和37年)11月4日 - )は、日本の被服学者。衣紋道の高倉流26世宗家。学習院大学文学部卒業。実践女子大学名誉教授。兵庫県川西市出身。 兵庫県川西市生まれ。医師である高倉永政の長男として生まれた。 学習院大学文学部を卒業後、衣紋道の高倉流26世宗家に就任し、2019年(令和元年)10月22日に今上天皇の即位礼正殿の儀の際には皇后雅子の十二単の指導に当たった。 2020年(令和2年)にはパリ日本文化会館にて「源氏物語と日本文化」の展示会の演出を自身が名誉教授を務める実践女子大学とともに手がけた。
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高倉 永佳は、日本の被服学者。衣紋道の高倉流26世宗家。学習院大学文学部卒業。実践女子大学名誉教授。兵庫県川西市出身。
{{Infobox 人物 |氏名= 高倉 永佳 |ふりがな= たかくら ながよし |画像= <!-- 画像ファイル名 --> |画像サイズ= |画像説明= |出生名= |生年月日= {{生年月日と年齢|1962|11|4}} |生誕地= [[兵庫県]][[川西市]] |洗礼= |失踪年月日= |失踪地= |現況= |没年月日= |死没地= |死因= |遺体発見= |墓地= |記念碑= |住居= |国籍= {{JPN}} |別名= |民族= |市民権= |教育= |出身校= [[学習院大学]][[文学部]]卒業 |職業= [[被服学|被服学者]] |活動期間= |時代= |雇用者= |団体= |代理人= |著名な実績= |代表作= |流派= |影響を受けたもの= |影響を与えたもの= |活動拠点= |給料= |純資産= |身長= |体重= |テレビ番組= |肩書き= |任期= |前任者= |後任者= |政党= |政治運動= |敵対者= |取締役会= |宗教= |宗派= |罪名= |刑罰= |犯罪者現況= |配偶者= |非婚配偶者= |子供= |親= 父親:[[高倉永政]]<br />母親:羽成須美子 |親戚= |コールサイン= |受賞= |栄誉= |公式サイト= |署名= <!-- 画像ファイル名 --> |署名サイズ= |補足= }} '''高倉 永佳'''(たかくら ながよし、[[1962年]]([[昭和]]37年)[[11月4日]]<ref>『人事興信録 第25版 下』(人事興信所、1969年)た144頁</ref> - )は、[[日本]]の[[被服学|被服学者]]。[[衣紋道]]の[[高倉家|高倉流]]26世宗家。[[学習院大学]][[文学部]]卒業。[[実践女子大学]][[名誉教授]]。[[兵庫県]][[川西市]]出身。 == 経歴 == [[兵庫県]][[川西市]]生まれ。[[医師]]である[[高倉永政]]の長男として生まれた<ref>『平成新修旧華族家系大成』([[霞会館]]、[[1996年]]){{要ページ番号|date=2023年12月}}</ref>。 [[学習院大学]][[文学部]]を卒業後、[[衣紋道]]の[[高倉家|高倉流]]26世宗家に就任し、[[2019年]]([[令和]]元年)[[10月22日]]に[[今上天皇]]の[[即位礼正殿の儀]]の際には[[皇后雅子]]の[[十二単]]の指導に当たった<ref>{{cite web|url=https://mainichi.jp/articles/20191019/k00/00m/040/257000c|title=「即位礼正殿の儀」で伝統的装束の着付けを支える「衣紋道」|publisher=毎日新聞|accessdate=2023-11-10}}</ref>。 [[2020年]](令和2年)には[[パリ日本文化会館]]にて「源氏物語と日本文化」の展示会の演出を自身が名誉教授を務める[[実践女子大学]]とともに手がけた<ref>{{cite web|url=https://www.u-presscenter.jp/article/post-43120.html|title=現代のフランス、パリに蘇る日本の美「源氏物語と日本文化」|publisher=大学プレスセンター|accessdate=2023-11-10}}</ref>。 == 論文 == * 「高倉家蔵 後伏見院宸筆装束抄」([[実践女子大学]]文芸資料研究所年報、[[2019年]][[3月28日]]) * 「『源氏物語』『源氏物語絵巻』を基盤として・重袿」([[2021年]][[12月]]) == 脚注 == <references /> {{People-stub}} {{DEFAULTSORT:たかくら なかよし}} [[Category:高倉家|なかよし]] [[Category:日本の被服学者]] [[Category:実践女子大学の教員]] [[Category:学習院大学出身の人物]] [[Category:兵庫県出身の人物]] [[Category:1962年生]] [[Category:存命人物]]
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市村俊和
市村俊和(いちむら としかず、1941年(昭和16年)12月12日- )は、日本の武道家、合気道家。 1966年から1986年までスウェーデンに住み、同時期にスウェーデンで合気道を指導した。また、デンマークとフィンランドで責任者として、これら3カ国の居合道の発展に貢献し、フィンランドで初めて合気道の演武を行った。1977年に合気会6段、1969年に居合道で錬士6段を修めた。そして武道の教えに関連して、マクロビオティックと言霊についても指導を行った。 1957年に東京にある合気会本部道場で合気道をはじめ、西尾昭二師範に師事した。1961年、東洋大学に進学後、合気道部(当時同好会)の創立に関わる。1966年、ヤン・ベイメらが本部道場に対して指導者を派遣するよう頼んだ為、ストックホルムに移り、ベイメの道場であるストックホルム合気会、ストックホルム周辺の多くの道場で指導を行った。その後ミナーノに拠点を置いた。 1968年、ストックホルムの北約70キロにあるウプサラに移り、地元のYMCAと協力して新しい道場を始めた。その後道場は名前を変えて、現在ウプサラ合気会と呼ばれている。ウプサラ、ストックホルムなど、スウェーデン各地で教え、フィンランド、デンマーク、ポーランドでセミナーを行った。 スウェーデンの合気道における市村の業績には、合気道と居合道を連動させたことが挙げられる。国内では、年配の合気道実践者の多くが居合道の稽古も行っている。西尾昭二の合気道を行うスカンジナビア合気道の一部は、もともと市村からこの教えを受けている。また、スウェーデン語で著書『Aikido』と『Aikido and Aikido och fred』(「合気道と平和」)を書いた。 1986年、市村が日本に戻り、スウェーデンに担当者がいなくなった為、小林保雄がフィンランドを担当し、西尾昭二がデンマークを担当した。その後、市村は神戸に暮らし指圧クリニックを経営した。2011年スウェーデン合気道会の50周年の際し、一時的にスウェーデンに戻り、9月のストックホルムのジュビリートレーニングキャンプで稽古、演武を行った。
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市村俊和は、日本の武道家、合気道家。 1966年から1986年までスウェーデンに住み、同時期にスウェーデンで合気道を指導した。また、デンマークとフィンランドで責任者として、これら3カ国の居合道の発展に貢献し、フィンランドで初めて合気道の演武を行った。1977年に合気会6段、1969年に居合道で錬士6段を修めた。そして武道の教えに関連して、マクロビオティックと言霊についても指導を行った。
{{存命人物の出典明記|date=2023年11月10日 (金) 13:00 (UTC)}} '''市村俊和'''(いちむら としかず、1941年([[昭和]]16年)12月12日 - )<ref name="aikidojournal 2822">{{cite web |url=http://www.aikidojournal.com/encyclopedia?entryID=282 |title=ICHIMURA, TOSHIKAZU |last=Pranin |first=Stanley |publisher=aikidojournal.com |date= |accessdate=24 December 2010}}</ref>は、[[日本]]の[[武道家]]、[[合気道]]家。 1966年から1986年まで[[スウェーデン]]に住み、同時期にスウェーデンで合気道を指導した。また、[[デンマーク]]と[[フィンランド]]で責任者として、これら3カ国の居合道の発展に貢献し、フィンランドで初めて合気道の演武を行った。1977年に合気会6段、1969年に居合道で[[錬士]]6段を修めた。そして武道の教えに関連して、[[マクロビオティック]]と[[言霊]]についても指導を行った。 == 来歴 == 1957年に東京にある[[合気会|合気会本部道場]]で[[合気道]]をはじめ、[[西尾昭二]]師範に師事した。1961年、東洋大学に進学後、合気道部(当時同好会)の創立に関わる。1966年、ヤン・ベイメらが本部道場に対して指導者を派遣するよう頼んだ為、[[ストックホルム]]に移り、ベイメの道場であるストックホルム合気会、ストックホルム周辺の多くの道場で指導を行った。その後ミナーノに拠点を置いた。 1968年、ストックホルムの北約70キロにある[[ウプサラ]]に移り、地元の[[キリスト教青年会|YMCA]]と協力して新しい道場を始めた。その後道場は名前を変えて、現在ウプサラ合気会と呼ばれている。ウプサラ、ストックホルムなど、スウェーデン各地で教え、フィンランド、デンマーク、[[ポーランド]]でセミナーを行った。 == 影響 == スウェーデンの合気道における市村の業績には、合気道と居合道を連動させたことが挙げられる。国内では、年配の合気道実践者の多くが居合道の稽古も行っている。西尾昭二の合気道を行うスカンジナビア合気道の一部は、もともと市村からこの教えを受けている。また、スウェーデン語で著書『Aikido』と『Aikido and Aikido och fred』(「合気道と平和」)を書いた。 1986年、市村が日本に戻り、スウェーデンに担当者がいなくなった為、[[小林保雄]]がフィンランドを担当し、西尾昭二がデンマークを担当した。その後、市村は[[神戸]]に暮らし指圧クリニックを経営した。2011年スウェーデン合気道会の50周年の際し、一時的にスウェーデンに戻り、9月のストックホルムのジュビリートレーニングキャンプで稽古、演武を行った。 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * Stenudd, Stefan: Aikido - den fredliga kampkonsten (literally "Aikido - the peaceful martial art"). Arriba 1998, {{ISBN2|91-7894-018-4}} (Swedish) * [[スタンレー・プラニン|Pranin, Stanley]]: The entry [https://web.archive.org/web/20060203154537/http://www.aikidojournal.com/encyclopedia.php?entryID=282 Ichimura, Toshikazu] in ''Encyclopedia of Aikido'' accessed April 30, 2006 * [http://www.stenudd.com/aikido/aikibook.htm Aikido books of interest] Stenudd on Ichimura's aikido books accessed April 30, 2006 (Swedish) * [http://www.aikikai.dk/hv_aikikai.htm Danish Aikikai] accessed April 30, 2006 (Danish) * [http://www.finland-aikikai.fi/english/aikido.php?sivu=aikido_finland.php&osa=aikido Finland Aikikai] accessed April 30, 2006 * [https://web.archive.org/web/20040402042019/http://www.iaido.fi/Iaido/history.html History of Finnish Iaido Federation] accessed April 30, 2006 * (Swedish) [http://www.arriba.se/budo/Sverige.pdf Aikidon i Sverige - fyra decennier] (pdf) by Stefan Stenudd {{DEFAULTSORT:いちむら としかす}} [[Category:存命人物]] [[Category:1941年生]] [[Category:合気道家]] [[Category:東洋大学出身の人物]]
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今井和幸
今井 和幸(いまい かずゆき、1931年4月13日 - 2008年1月27日)は、日本の地方公務員、経営者。兵庫県副知事、サンテレビジョン会長を務めた。兵庫県豊岡市出身。 1949年に兵庫県庁に入庁し、1954年に関西大学法学部を卒業。1993年から1997年までに副知事を務め、サンテレビジョン会長も務めた。 2002年4月に勲三等旭日中綬章を受章した。 2008年1月27日肺炎のために死去。76歳没。
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今井 和幸は、日本の地方公務員、経営者。兵庫県副知事、サンテレビジョン会長を務めた。兵庫県豊岡市出身。
'''今井 和幸'''(いまい かずゆき、[[1931年]][[4月13日]] - [[2008年]][[1月27日]])は、[[日本]]の[[地方公務員]]、経営者。[[兵庫県]][[副知事 (日本)|副知事]]、[[サンテレビジョン]]会長を務めた。[[兵庫県]][[豊岡市]]出身<ref name="現代物故者事典" >「現代物故者事典 2006-2008 p77」</ref>。 ==経歴・人物== [[1949年]]に[[兵庫県庁]]に入庁し、[[1954年]]に[[関西大学]]法学部を卒業<ref name="現代物故者事典" />。[[1993年]]から[[1997年]]までに副知事を務め、[[サンテレビジョン]]会長も務めた<ref name="現代物故者事典" />。 [[2002年]]4月に[[旭日章|勲三等旭日中綬章]]を受章した<ref name="現代物故者事典" />。 [[2008年]][[1月27日]][[肺炎]]のために死去<ref>2008年 1月28日 日本経済新聞 大阪朝刊 社会面 p16</ref>。{{没年齢|1931|4|13|2008|1|27}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{デフォルトソート:いまい かすゆき}} [[Category:兵庫県副知事]] [[Category:日本の放送関係者]] [[Category:サンテレビジョンの人物]] [[Category:勲三等旭日中綬章受章者]] [[Category:関西大学出身の人物]] [[Category:兵庫県出身の人物]] [[Category:1931年生]] [[Category:2008年没]]
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グリーンパーク大門
グリーンパーク大門は射水市の地区公園。別称は「凧公園」 グリーンパーク大門はこの地域で長らく親しまれている「凧」をモチーフとした公園であり、そのため後述する大型遊具にも凧が描かれている。またこの公園がある旧大門町では相撲が町技だったこともあり、相撲場も有している。 滑り台が4台設置されており、そのうち2台は夏季になると水が流れウォータースライダーになる仕組みになっている。遊具の上は展望台のようになっており、射水市の町が見渡せる。 観客が約2000人が収容できる相撲場であり、2024年の相撲の全国中学校体育大会の開催予定地になっている。 利用料金が無料のスケートボード場。 定休日は月曜日。冬季期間は閉鎖予定。営業時間は午前9時から午後5時まで。 「アルキメデスのポンプ」や上に乗り水を出す遊具があり、夏季期間のみ水が張られ、アルキメデスのポンプにはチェーンが結ばれている。 大門総合体育館-徒歩1分 あいの風とやま鉄道越中大門駅-徒歩18分-車6分 アプリオ-徒歩30分-車7分 射水市立大門中学校-徒歩11分-車2分
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グリーンパーク大門は射水市の地区公園。別称は「凧公園」
{{公園 |名称 = グリーンパーク大門 |英語名称 = |画像 = |画像キャプション = |国 = {{JPN}} |都市 = [[富山県]][[射水市]]二口3242 | 緯度度 = 36|緯度分 = 43|緯度秒 = 39 | 経度度 = 137|経度分 = 2|経度秒 = 59 | map = Japan Toyama |分類 = 都市公園 |面積 = 2.5 ha |前身 = |開園 = 2004年 |運営者 = |年来園者数 = |現況 = |設備・遊具 = |駐車場 = 90台 |バリアフリー = バリアフリートイレあり |設計者 = |告示 = |事務所 = |事務所所在地 = |アクセス = [[あいの風とやま鉄道]]:<br />[[越中大門駅]]から徒歩18分 |備考 = |公式サイト = }} '''グリーンパーク大門'''(グリーンパークだいもん)は、射水市の地区公園。別称は「凧公園」。 == 地域と公園のかかわり == グリーンパーク大門はこの地域で長らく親しまれている「[[凧]]」をモチーフとした公園であり、そのため後述する大型遊具にも凧が描かれている。またこの公園がある旧大門町では相撲が町技だったこともあり、相撲場も有している。 == 主な施設 == === 大型遊具 === 滑り台が4台設置されており、そのうち2台は夏季になると水が流れ[[ウォータースライダー]]になる仕組みになっている<ref>{{Cite web |url=https://www.city.imizu.toyama.jp/guide/svGuideDtl.aspx?servno=7199 |title=射水市の都市公園 |access-date=2023-11-10}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.imizu-kanko.jp/sightseeing/385/ |title=きららか射水観光NAVI |access-date=2023-11-10}}</ref>。遊具の上は展望台のようになっており、射水市の町が見渡せる。 === 屋外相撲場 === 観客が約2000人収容できる相撲場であり、2024年の相撲の[[全国中学校体育大会]]の開催予定地になっている<ref>{{Cite web |url=https://www.sportsnet.pref.toyama.jp/facilities/martial-art-gym/000580.html |title=富山スポーツ情報ネットワーク |access-date=2023-11-10}}</ref>。 === スケートボード場 === 利用料金が無料の[[スケートボード]]場。 [[定休日]]は月曜日。冬季期間は閉鎖予定。営業時間は午前9時から午後5時まで<ref>{{Cite web |url=https://www.city.imizu.toyama.jp/event-topics/svTopiDtl.aspx?servno=26048 |title=グリーンパーク大門スケートボード場のご利用について |access-date=2023-11-10}}</ref>。 === プール === 「アルキメデスのポンプ」や上に乗り水を出す遊具があり、夏季期間のみ水が張られ、アルキメデスのポンプにはチェーンが結ばれている<ref>{{Cite web |url=https://kotokototoyama.info/kouen/greenparkdaimon/ |title=コトコト富山 |access-date=2023-11-10}}</ref>。 == 諸注意 == 公園内の車両乗り入れ(自転車、車)は禁止である。 == 周辺施設 == * 大門総合体育館:徒歩1分 * あいの風とやま鉄道 越中大門駅:徒歩18分、車6分 * アプリオ:徒歩30分、車7分 * [[射水市立大門中学校]]:徒歩11分、車2分 == 脚注 == <references /> {{DEFAULTSORT:くりいんはあくたいもん}} == 関連項目 == * [[タコ公園 (曖昧さ回避)|タコ公園]] * [[都市公園]] * [[射水市]] [[Category:2004年開業の施設]] [[Category:射水市の公園]] [[Category:射水市の地理]]
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山口ことね
山口 ことね(やまぐち ことね、12月1日 - )は、日本の女性モデル、タレント、女優。愛知県出身。 アリス・イン・ワンダーランド所属。 中京テレビの番組『PUSH!』にレポーターとして出演。愛知のケーブルテレビ、メディアスチャンネルの『知多半島まるごとガイド ちたまる』にも出演している。 2023年、ファッション雑誌『JJ』(光文社)主催のモデルオーディション「J-GIRL 国民的彼女」のファイナリスト。TikTok再生回数審査部門で1位に輝く。 2023年
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山口 ことねは、日本の女性モデル、タレント、女優。愛知県出身。 アリス・イン・ワンダーランド所属。
{{女性モデル | モデル名 = 山口 ことね | ふりがな = やまぐち ことね | 画像ファイル = | 画像コメント = | 別名義 = | 愛称 = こっちゃん | 生年 = | 生月 = 12 | 生日 = 1 | 没年 = | 没月 = | 没日 = | 出身地 = 愛知県 | 死没地 = | 血液型 = B | 瞳の色 = 黒 | 毛髪の色 = | 時点 = | 身長 = 162 | 体重 = | バスト = 80 | ウエスト = 60 | ヒップ = 88 | カップ = | 股下 = | 靴 = 24.5 | 身体備考 = | デビュー = | ジャンル = タレント、モデル、女優 | モデル内容 = 一般 | 活動備考 = | 他の活動 = | 事務所 = [[アリス・イン・ワンダーランド (芸能事務所)|アリス・イン・ワンダーランド]] | その他 = | FMD = | IMDb = }} '''山口 ことね'''(やまぐち ことね、12月1日 - )は、日本の女性[[モデル (職業)|モデル]]、[[タレント]]<ref name=":0">[http://www.aliceinwonderland.jp/model/kotone-yamaguchi/ 山口 ことね] - アリス・イン・ワンダーランド</ref>、[[俳優|女優]]。愛知県出身<ref name=":0" />。 [[アリス・イン・ワンダーランド (芸能事務所)|アリス・イン・ワンダーランド]]所属<ref name=":0" />。 == 人物 == [[中京テレビ放送|中京テレビ]]の番組『PUSH!』にレポーターとして出演。愛知のケーブルテレビ、[[知多メディアスネットワーク|メディアスチャンネル]]の『知多半島まるごとガイド ちたまる』にも出演している。 2023年、ファッション雑誌『[[JJ (雑誌)|JJ]]』([[光文社]])主催のモデルオーディション「J-GIRL 国民的彼女」<ref>{{Cite web |title=JJモデルオーディション |url=https://jj-jj.net/jj-audition-2023/ |website=JJ |date=2023-06-29 |access-date=2023-11-12 |language=ja}}</ref>のファイナリスト<ref>{{Cite web |title=ファイナルステージへの意気込み |url=https://twitter.com/JJ_audition/status/1710228549955891496?s=20 |website=X (formerly Twitter) |access-date=2023-11-12 |language=ja}}</ref>。TikTok再生回数審査部門で1位に輝く。 == 出演 == === テレビ番組 === * PUSH!(中京テレビ) * 知多半島まるごとガイド ちたまる(メディアスチャンネル) === ドラマ === * 関市観光PRドラマ 「フラワーズ・ブルーム」主役「香澄」役。日本国際観光映像祭2023、旅ムービー部門優秀作品賞を受賞 === 映画 === * 特撮短編映画 「アユラ」 === 舞台 === '''2023年''' * 愛・孤独・涙 (11月30日 - 12月3日、遊寂create) === CM === * JAバンクあいち * 志摩スペイン村 * 常葉大学 * オカモト鐵工 * 北陸カワラ * TUNAG * OATアグリオ * 岐阜かがみはら航空宇宙博物館 * キクチメガネ かわいい編 * キクチメガネ キレイ編 * キクチメガネ ひとりひとり編 * パルウェディング * イズモ家族ホール * 和食処サガミ * 岡山ビジネスカレッジ * オレンジフードコート * ケーブルテレビ富山 * 恵那銀の森 * ブラザー折り紙レター * 名四自動車学校 * 四日市自動車学校 === ライブ配信 === * Pococha<nowiki/> https://www.pococha.com/ja/app/users/09337e85-5da6-45ff-bd5f-a585ba3f82b2 * マシュバラ * TikTokLIVE * everylive == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://www.aliceinwonderland.jp/model/kotone-yamaguchi/ 公式プロフィール] - アリス・イン・ワンダーランド * [https://twitter.com/kotone1201 山口ことね] (@kotone1201)- [[Twitter|X(旧Twitter)]] * [https://www.instagram.com/kotone_yamaguchi_/ 山口ことね] (@kotone_yamaguchi_) - [[Instagram]] * [https://www.tiktok.com/@k.yamaguchi_1201?lang=ja-JP 山口ことね] (@k.yamaguchi_1201) - [[TikTok]] * [https://www.youtube.com/channel/UCtW0tMtKgVmLs-M0TIFDu_Q 山口ことね] (@kotone_yamaguchi_) - [[YouTube]] {{DEFAULTSORT:やまくち ことね}} [[Category:愛知県出身の人物]] [[Category:日本の女性モデル]] [[Category:存命人物]]
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ラウラ・ディアンティの肖像
『ラウラ・ディアンティの肖像』(伊: Ritratto di Laura Dianti, 英: Portrait of Laura Dianti)は、イタリアのルネサンス期のヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノ・ヴェチェッリオが1520年から1525年頃に制作した肖像画である。油彩。フェラーラ公爵アルフォンソ1世・デステの愛人であり、のちに結婚するラウラ・ディアンティ(イタリア語版)とアフリカ人の小姓を描いている。ラウラは青いドレスを着ており、彼女を見上げている小姓の右肩に左手を置いている。この肖像画はおそらくアルフォンソ1世・デステの肖像画と関連づけられており、公爵の死後、2人の結婚の正当性を争うために使われた点でも物議を醸している。ラウラの肖像画は多くの所有者を遍歴し、修復によりティツィアーノの署名が発見されるまで、多くの複製の1つであると考えられていた。現在はクロイツリンゲン(英語版)のハインツ・キスターズ・コレクション(Heinz Kisters Collection)に所蔵されている。 ラウラ・ディアンティは生前はこの名前では呼ばれておらず、代わりにラウラ・エウストキア(Laura Eustochia)として知られていた。美術史家ジェーン・フェア・ベスター(Jane Fair Bestor)はアルフォンソ1世が交際が始まったばかりの彼女に「ラウラ」と「エウストキア」の両方の名前を与えた可能性があると信じている。当時の高級娼婦は、より詩的な意味を持たせるために名前を変えることが一般的であり、この場合のラウラは、おそらくペトラルカが詩の中で愛を捧げた女性《ラウラ》を指している。一方のエウストキアは、ローマの聖パウラ(英語版)の娘で、聖ヒエロニムスの信奉者であり、聖ヒエロニムスが処女性について記した有名な手紙の受取り主である聖エウストキウム(英語版)を指している。 一説によるとラウラは『毛皮を着た若い女性』(Ragazza in pelliccia)で初めてティツィアーノのモデルを務めた。また同じくティツィアーノの『フローラ』(Flora)におけるラウラの描写のために、「芸術の中で最も優雅に音楽を奏でるトランペット」として知られていた。女性作家・ジャーナリストのムリエル・シーガル(英語版)によると、2人はヴェネツィアで、ティツィアーノが家族とともに市郊外にある妹の家に旅行していたときに出会ったという。出会った当時、彼女はアルフォンソ1世の愛人であった。ラウラは下層階級出身の女と見なされていたが、周囲の人々の尊敬を集め、フェラーラ宮廷の一員となった。1519年に公爵の2番目の夫人ルクレツィア・ボルジアが死去した後、公爵とラウラは結婚し、フェラーラ公爵夫人になったと考えられている。この肖像画が結婚前に描かれたのか、それとも結婚後に描かれたのかは美術史家の間で論争となっている。 ラウラは尊敬されてはいたが、フェラーラ公爵の他の夫人たちとは異なった扱いを受けていた。彼女は一族の宮殿とは別の邸宅に住んでいた。ラウラが1573年に死去すると、エステ家の他のメンバーとは別にフェラーラのサンタゴスティーノに埋葬された。 宝石と織物で作られた華やかな頭飾りを被り、ティアドロップの真珠のイヤリングを耳に着けた茶色の髪の女性が描かれている。頭飾りの中央には、赤色の人物らしき小像で飾られた小さなブローチが見える。ドレスはサテンと思われる鮮やかな青色の織物を使用しており、繊細な金製の宝飾と手首まで垂れ下がるシュミーズの白い重ね袖で飾られ、胸は背中までぐるりと回っている金色の帯で包まれている。ラウラは左手をアフリカ出身の幼い黒人の小姓の右肩に置き、小姓は触れられた感触に反応してラウラの方を見上げている。彼女はというと身体と顔は故障のほうに向けているが、その黒い瞳は画面左を見つめている。小姓は黄色、オレンジ、緑といったカラフルな色彩の上着を着ており、腰のあたりを緑の帯で結んでいる。耳には渦巻き状の意匠の金製のイヤリングを身に着け、右手に1対の手袋を握っている。背景は人物の周囲に柔らかな照明が当てられた暖かみのある暗闇に包まれているが、場所を特定するようなものは一切描かれていない。 ラウラの肖像画は同様の構図から分かるように、一般的に『アルフォンソ1世・デステの肖像』の対作品と考えられている。並べて展示すると2つの人物像はたがいに内側を向き、同じバランス感覚を共有している。すなわち、ラウラは画面左のアフリカ人の小姓に寄りかかっており、同様にアルフォンソ1世もまた画面右に配置された軍の大砲に寄りかかっている。しかし、この説は2つの肖像画のサイズが異なり、本作品の方がより大きな画面に描かれているという事実のために異議が唱えられている。 「TICI/ANVS F」と署名されている。 以前は、この肖像画に描かれている女性はアルフォンソ1世の2番目の夫人ルクレツィア・ボルジアであると考えられていたが、後に美術史家カール・ユスティ(英語版)によって、3番目の夫人ラウラ・ディアンティであると判明した。 合計6点の複製が世界各地に残存していると考えられており、手を介した多くのやり取りの中で、いつでもオリジナルと入れ替わった可能性がある。複製のうちの1点はルドヴィコ・カラッチが制作したと言われている。クロイツリンゲンの作品もまた、オリジナルの後に制作された多くの複製の1つと一般に考えられていたが、アメリカ合衆国で修復された後、本物の署名が発見され、実際に真筆画であることが判明した。 肖像画はアルフォンソ1世とラウラ・ディアンティの息子アルフォンソを通じて玄孫として生まれたフランチェスコ1世・デステによって、1640年代に法廷での証拠として使用された。2人の結婚は教会によって許可されていたであろうが、アルフォンソ1世が2番目のルクレツィア・ボルジアの死後、ラウラを3番目の妻として迎えた当時の文書記録は存在しなかった。そのため肖像画は彼らの正当性を主張するエステ家によって争点として使用された。争点となったのは肖像画に描かれたラウラの服装や、エステ家における肖像画の扱われ方に関する問題であった。遺産を管理する側は、ラウラの服装は一族内の他の夫人の肖像画とは調和しない、情欲的な意味合いを暗示していると主張した。また、フェラーラに保管されていた一族の夫人の肖像画の中にラウラの肖像画が展示されていなかったため、2人は結婚していなかったとも主張した。対するフランチェスコ1世の反論は、この肖像画は結婚前に描かれたものであるため、現在起きている問題に対する証拠として数えられるべきではないこと、肖像画が別の場所に展示されたのは、アルフォンソ1世ではなく一族が結婚を認めることを拒否したことが原因だったというものであった。 肖像画に描かれた小姓についてはいくつかの解釈がある。美術史家メアリー・ロジャース(Mary Rogers)は、小姓に付き添われたラウラの姿は彼女の高い社会的地位を表すと見なすことができると主張する。当時、地位の高い女性が黒人の小姓を脇に従えて描かれることは珍しいことではなかった。他の解釈では、子供は愛人が付き添っていることを表すというローナ・ゴッフェン(Rona Goffen)の主張が含まれる。肖像画に子供を付随される意図は、それによって男性の欲望的な視線を防ぐことを目的としている。しかし、ラウラに向けられた小姓の視線は、より相応しい崇拝の方法ではないが、鑑賞者にも同じことをするように勧めている。 彼女は赤色の人物像が描かれた帽章を着用しているが、ポール・カプラン(Paul Kaplan)は赤色は聖ヒエロニムスによく関連づけられる色であると述べている。この記章は彼女の別の名前であるエウストキアの言及であると考えられる。しかし、ピーター・ハンフリー(Peter Humfrey)は、この赤色の人物像は枢機卿のビレッタ帽を被っていないため、聖ヒエロニムスを表している可能性はなく、この人物は聖ヒエロニムスの代表的なものではないと主張している。 ジョルジョ・ヴァザーリは印刷されたラウラの肖像画について言及しており、バロック期のカルロ・リドルフィも1648年に肖像画について言及している。いくつかの複製とヴァリアントがあり、一般に真筆版と考えられているものは1599年にチェーザレ・デステからプラハの神聖ローマ皇帝ルドルフ2世に送られたバージョンと考えられている。しかし三十年戦争の最後の戦いであるプラハの戦い(英語版)で起きた略奪により膨大な美術品とともにスウェーデンに移されたのち、スウェーデン女王クリスティーナのコレクションとなって、1654年にローマに持ち込まれた。その後複数のコレクションを経て1721年にオルレアン公フィリップ2世が収集したオルレアン・コレクションに加わった。オルレアン・コレクションの売却後は1800年にイギリスの個人コレクションに収蔵され、クック・コレクション(Cook collection)を経て、1876年にドイツ出身の起業家、画商、美術収集家ハインツ・キスターズ(英語版)のコレクションに加わった。
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『ラウラ・ディアンティの肖像』は、イタリアのルネサンス期のヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノ・ヴェチェッリオが1520年から1525年頃に制作した肖像画である。油彩。フェラーラ公爵アルフォンソ1世・デステの愛人であり、のちに結婚するラウラ・ディアンティとアフリカ人の小姓を描いている。ラウラは青いドレスを着ており、彼女を見上げている小姓の右肩に左手を置いている。この肖像画はおそらくアルフォンソ1世・デステの肖像画と関連づけられており、公爵の死後、2人の結婚の正当性を争うために使われた点でも物議を醸している。ラウラの肖像画は多くの所有者を遍歴し、修復によりティツィアーノの署名が発見されるまで、多くの複製の1つであると考えられていた。現在はクロイツリンゲンのハインツ・キスターズ・コレクションに所蔵されている。
{{Infobox 絵画作品 | image_file = Tizian 058.jpg | image_size = 350px | title = ラウラ・ディアンティの肖像 | other_language_1 = [[イタリア語]] | other_title_1 = Ritratto di Laura Dianti | other_language_2 = [[英語]] | other_title_2 = Portrait of Laura Dianti | artist = [[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ]] | year = 1520年–1525年頃 | type = [[油彩]]、[[キャンバス]] | height = 119 | width = 93 | city = {{ill|クロイツリンゲン|en|Kreuzlingen}} | museum = ハインツ・キスターズ・コレクション({{de|Heinz Kisters Collection}}) }} 『'''ラウラ・ディアンティの肖像'''』({{lang-it-short|Ritratto di Laura Dianti}}, {{lang-en-short|Portrait of Laura Dianti}})は、[[イタリア]]の[[ルネサンス]]期の[[ヴェネツィア派]]の巨匠[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ]]が1520年から1525年頃に制作した[[肖像画]]である。[[油彩]]。[[フェラーラ|フェラーラ公爵]][[アルフォンソ1世・デステ]]の愛人であり、のちに結婚する{{ill|ラウラ・ディアンティ|it|Laura Dianti}}と[[アフリカ人]]の[[小姓]]を描いている。ラウラは青いドレスを着ており、彼女を見上げている小姓の右肩に左手を置いている<ref name=B2003>Bestor 2003, pp.628–673.</ref>。この肖像画はおそらくアルフォンソ1世・デステの肖像画と関連づけられており<ref name=C1905>Cook 1905, pp.449-55.</ref>、公爵の死後、2人の結婚の正当性を争うために使われた点でも物議を醸している<ref name=B2003 />。ラウラの肖像画は多くの所有者を遍歴し<ref name=C1905 />、修復によりティツィアーノの署名が発見されるまで、多くの複製の1つであると考えられていた<ref name=T>{{cite web|title=Portrait of Laura Dianti, 1520 by Titian |accessdate=2023/11/10 |url=https://www.titian.org/portrait-of-laura-dianti.jsp#prettyPhoto |publisher=Titian}}</ref>。現在は{{ill|クロイツリンゲン|en|Kreuzlingen}}のハインツ・キスターズ・コレクション({{de|Heinz Kisters Collection}})に所蔵されている<ref name=RKD>{{cite web|title=Portrait of Laura de' Dianti (c. 1500/5-1573) with a black page, ca. 1523 |accessdate=2023/11/10 |url=https://rkd.nl/en/explore/images/295866 |publisher=[[オランダ美術史研究所|オランダ美術史研究所(RKD)]]公式サイト}}</ref><ref>{{cite web|title=Vecellio Tiziano , Ritratto di Laura dei Dianti |accessdate=2023/11/10 |url=https://archive.md/20130218111558/http://fe.fondazionezeri.unibo.it/catalogo/scheda.jsp?decorator=layout&apply=true&tipo_scheda=OA&id=45113&titolo=Vecellio+Tiziano%0A%09%09%09%0A%09%09+++++,+Ritratto+di+Laura+dei+Dianti |publisher=[[archive.today]]}}</ref>。 == 人物 == ラウラ・ディアンティは生前はこの名前では呼ばれておらず、代わりにラウラ・エウストキア({{it|Laura Eustochia}})として知られていた。[[美術史家]]ジェーン・フェア・ベスター({{en|Jane Fair Bestor}})はアルフォンソ1世が交際が始まったばかりの彼女に「ラウラ」と「エウストキア」の両方の名前を与えた可能性があると信じている。当時の[[クルチザンヌ|高級娼婦]]は、より詩的な意味を持たせるために名前を変えることが一般的であり、この場合のラウラは、おそらく[[ペトラルカ]]が詩の中で愛を捧げた女性《ラウラ》を指している。一方のエウストキアは、{{ill|ローマのパウラ|en|Paula of Rome|label=ローマの聖パウラ}}の娘で、[[聖ヒエロニムス]]の信奉者であり、聖ヒエロニムスが処女性について記した有名な手紙の受取り主である{{ill|エウストキウム|en|Eustochium|label=聖エウストキウム}}を指している<ref name=B2003 />。 一説によるとラウラは『[[毛皮を着た若い女性]]』({{it|Ragazza in pelliccia}})で初めてティツィアーノの[[モデル (職業)|モデル]]を務めた。また同じくティツィアーノの『[[フローラ (ティツィアーノ)|フローラ]]』({{it|Flora}})におけるラウラの描写のために、「芸術の中で最も優雅に音楽を奏でるトランペット」として知られていた<ref name=S>Segal 1972.</ref>。女性作家・ジャーナリストの{{ill|ムリエル・シーガル|en|Muriel Segal}}によると、2人はヴェネツィアで、ティツィアーノが家族とともに市郊外にある妹の家に旅行していたときに出会ったという。出会った当時、彼女はアルフォンソ1世の愛人であった。ラウラは下層階級出身の女と見なされていたが、周囲の人々の尊敬を集め、フェラーラ宮廷の一員となった<ref name=S />。1519年に公爵の2番目の夫人[[ルクレツィア・ボルジア]]が死去した後、公爵とラウラは結婚し、フェラーラ公爵夫人になったと考えられている。この肖像画が結婚前に描かれたのか、それとも結婚後に描かれたのかは美術史家の間で論争となっている<ref name=C1905 />。 ラウラは尊敬されてはいたが、フェラーラ公爵の他の夫人たちとは異なった扱いを受けていた。彼女は一族の宮殿とは別の邸宅に住んでいた。ラウラが1573年に死去すると、[[エステ家]]の他のメンバーとは別にフェラーラの[[サンタゴスティーノ]]に埋葬された<ref name=B2003 />。 == 作品 == {{multiple image | direction = horizontal | align = right | width= | image1 = Tizian 058.jpg | width1 = 195 | caption1 = ティツィアーノの『ラウラ・ディアンティの肖像』。ハインツ・キスターズ・コレクション所蔵。 | image2 = Copia da Tiziano, alfonso I d'este.jpg | width2 = 190 | caption2 = ティツィアーノの現存しない『アルフォンソ1世・デステの肖像』の複製。[[メトロポリタン美術館]]所蔵。 }} [[File:Flora, por Tiziano.jpg|thumb|200px|1515年頃の『[[フローラ (ティツィアーノ)|フローラ]]』。[[ウフィツィ美術館]]所蔵。]] [[File:Tizian 038.jpg|thumb|200px|1535年頃の『[[毛皮を着た若い女性]]』。[[美術史美術館]]所蔵。]] 宝石と織物で作られた華やかな頭飾りを被り、ティアドロップの[[真珠]]の[[イヤリング]]を耳に着けた茶色の髪の女性が描かれている。頭飾りの中央には、赤色の人物らしき小像で飾られた小さな[[ブローチ (装身具)|ブローチ]]が見える。ドレスは[[サテン]]と思われる鮮やかな青色の織物を使用しており、繊細な金製の宝飾と手首まで垂れ下がる[[シュミーズ]]の白い重ね袖で飾られ、胸は背中までぐるりと回っている金色の帯で包まれている<ref name=B2003 />。ラウラは左手をアフリカ出身の幼い[[黒人]]の小姓の右肩に置き、小姓は触れられた感触に反応してラウラの方を見上げている。彼女はというと身体と顔は小姓のほうに向けているが、その黒い瞳は画面左を見つめている。小姓は黄色、オレンジ、緑といったカラフルな色彩の上着を着ており、腰のあたりを緑の帯で結んでいる。耳には渦巻き状の意匠の金製の[[イヤリング]]を身に着け、右手に1対の[[手袋]]を握っている<ref name=B2003 />。背景は人物の周囲に柔らかな照明が当てられた暖かみのある暗闇に包まれているが、場所を特定するようなものは一切描かれていない。 ラウラの肖像画は同様の構図から分かるように、一般的に『アルフォンソ1世・デステの肖像』の対作品と考えられている。並べて展示すると2つの人物像はたがいに内側を向き、同じバランス感覚を共有している。すなわち、ラウラは画面左のアフリカ人の小姓に寄りかかっており、同様にアルフォンソ1世もまた画面右に配置された軍の[[大砲]]に寄りかかっている<ref name=B2003 />。しかし、この説は2つの肖像画のサイズが異なり、本作品の方がより大きな画面に描かれているという事実のために異議が唱えられている<ref name=B2003 />。 「TICI/ANVS F」と署名されている。 ===モデルの特定=== 以前は、この肖像画に描かれている女性はアルフォンソ1世の2番目の夫人ルクレツィア・ボルジアであると考えられていたが、後に美術史家{{ill|カール・ユスティ|en|Carl Justi}}によって、3番目の夫人ラウラ・ディアンティであると判明した<ref name=C1905 />。 ===真筆性=== 合計6点の複製が世界各地に残存していると考えられており、手を介した多くのやり取りの中で、いつでもオリジナルと入れ替わった可能性がある。複製のうちの1点は[[ルドヴィコ・カラッチ]]が制作したと言われている<ref name=C1905 />。クロイツリンゲンの作品もまた、オリジナルの後に制作された多くの複製の1つと一般に考えられていたが、[[アメリカ合衆国]]で修復された後、本物の署名が発見され、実際に真筆画であることが判明した<ref name=T />。 == 図像学 == ===婚姻承認論争=== 肖像画はアルフォンソ1世とラウラ・ディアンティの息子アルフォンソを通じて玄孫として生まれた[[フランチェスコ1世・デステ]]によって、1640年代に法廷での証拠として使用された<ref name=B2003 />。2人の結婚は教会によって許可されていたであろうが、アルフォンソ1世が2番目のルクレツィア・ボルジアの死後、ラウラを3番目の妻として迎えた当時の文書記録は存在しなかった。そのため肖像画は彼らの正当性を主張するエステ家によって争点として使用された。争点となったのは肖像画に描かれたラウラの服装や、エステ家における肖像画の扱われ方に関する問題であった。遺産を管理する側は、ラウラの服装は一族内の他の夫人の肖像画とは調和しない、情欲的な意味合いを暗示していると主張した<ref name=B2003 />。また、フェラーラに保管されていた一族の夫人の肖像画の中にラウラの肖像画が展示されていなかったため、2人は結婚していなかったとも主張した<ref name=B2003 />。対するフランチェスコ1世の反論は、この肖像画は結婚前に描かれたものであるため、現在起きている問題に対する証拠として数えられるべきではないこと、肖像画が別の場所に展示されたのは、アルフォンソ1世ではなく一族が結婚を認めることを拒否したことが原因だったというものであった<ref name=B2003 />。 ===黒人の小姓=== 肖像画に描かれた小姓についてはいくつかの解釈がある。[[美術史家]]メアリー・ロジャース({{en|Mary Rogers}})は、小姓に付き添われたラウラの姿は彼女の高い社会的地位を表すと見なすことができると主張する。当時、地位の高い女性が黒人の小姓を脇に従えて描かれることは珍しいことではなかった<ref>Rogers 1988, p.51.</ref>。他の解釈では、子供は愛人が付き添っていることを表すというローナ・ゴッフェン({{en|Rona Goffen}})の主張が含まれる。肖像画に子供を付随される意図は、それによって男性の欲望的な視線を防ぐことを目的としている。しかし、ラウラに向けられた小姓の視線は、より相応しい崇拝の方法ではないが、鑑賞者にも同じことをするように勧めている<ref name=B2003 />。 ===記章=== 彼女は赤色の人物像が描かれた[[帽章]]を着用しているが、ポール・カプラン({{en|Paul Kaplan}})は赤色は[[聖ヒエロニムス]]によく関連づけられる色であると述べている。この記章は彼女の別の名前であるエウストキアの言及であると考えられる<ref name=B2003 />。しかし、ピーター・ハンフリー({{en|Peter Humfrey}})は、この赤色の人物像は[[枢機卿]]の[[ビレッタ帽]]を被っていないため、聖ヒエロニムスを表している可能性はなく、この人物は聖ヒエロニムスの代表的なものではないと主張している<ref name=B2003 />。 == 来歴 == [[ジョルジョ・ヴァザーリ]]は印刷されたラウラの肖像画について言及しており、[[バロック]]期の[[カルロ・リドルフィ]]も1648年に肖像画について言及している。いくつかの複製とヴァリアントがあり、一般に真筆版と考えられているものは1599年に[[チェーザレ・デステ]]から[[プラハ]]の[[神聖ローマ皇帝]][[ルドルフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ2世]]に送られたバージョンと考えられている。しかし[[三十年戦争]]の最後の戦いである{{ill|プラハの戦い (1648年)|en|Battle of Prague (1648)|label=プラハの戦い}}で起きた略奪により膨大な美術品とともに[[スウェーデン]]に移されたのち、スウェーデン女王[[クリスティーナ (スウェーデン女王)|クリスティーナ]]のコレクションとなって、1654年に[[ローマ]]に持ち込まれた。その後複数のコレクションを経て1721年に[[オルレアン公]][[フィリップ2世 (オルレアン公)|フィリップ2世]]が収集した[[オルレアン・コレクション]]に加わった。オルレアン・コレクションの売却後は1800年に[[イギリス]]の個人コレクションに収蔵され、クック・コレクション({{en|Cook collection}})を経て<ref name=C1905 /><ref name=RKD />、1876年に[[ドイツ]]出身の[[起業家]]、[[画商]]、美術収集家{{ill|ハインツ・キスターズ|en|Heinz Kisters}}のコレクションに加わった<ref name=RKD />。 == ギャラリー == ; 後代の複製 <gallery widths="180px" heights="220px" perrow="3" style="font-size:smaller"> Tizian 058 engraving.jpg|{{ill|アギディウス・サデラー|en|Aegidius Sadeler}}の版画 16世紀-17世紀 Ritratto di Laura Dianti, copia da Tiziano - L. Carracci (attr.).jpg|17世紀 Laura dé Dianti (död 1573) - Nationalmuseum - 17152.tif|制作年代不明 </gallery> == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * Francesco Valcanover, ''L'opera completa di Tiziano'', Rizzoli, Milano 1969. * {{Cite journal|last=Bestor|first=Jane|date=2003|title=Titian's Portrait of Laura Eustochia: The Decorum of Female Beauty and the Motif of the Black Page|journal=Renaissance Studies|volume=17|issue=4|pages=628–673|doi=10.1111/j.1477-4658.2003.00040.x|via=JSTOR}} * {{Cite journal|last=Cook|first=Herbert|date=1905|title=The True Portrait of Laura de; Dianti by Titian|journal=The Burlington Magazine for Connoisseurs|volume=7|pages=449–451, 454–455|via=JSTOR}} * {{Cite journal|last=Rogers|first=Mary|date=March 1988|title=The decorum of women's beauty: Trissino, Firenzuola, Luigini and the representation of women in sixteenth-century painting|journal=Renaissance Studies|volume=2|pages=51|doi=10.1111/j.1477-4658.1988.tb00137.x|via=JSTOR}} * {{Cite book|last=Segal|first=Muriel|title=Painted Ladies: Models of the Great Artists|publisher=New York, Stein and Day|year=1972|isbn=081281472X|location=New York}} == 関連項目 == {{Commonscat|Portrait of Laura Eustochia by Titian}} * [[アルフォンソ1世・デステ]] * [[エステ家]] {{ティツィアーノ・ヴェチェッリオ}} {{DEFAULTSORT:らうらていあんていのしようそう}} [[Category:ティツィアーノ・ヴェチェッリオの作品]] [[Category:1520年代の絵画]] [[Category:女性の肖像画]] [[Category:アルフォンソ1世・デステ]] [[Category:エステ家]]
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ウィルマ・サラス
ウィルマ・サラス(Wilma Salas、1991年3月9日 - )はキューバの女子バレーボール選手。ポジションはアウトサイドヒッター。元キューバ代表。 サンティアーゴ・デ・クーバ出身。2007年、Santiago De Cubaへ入団。2014/15シーズンにアゼルバイジャンのラビタ・バクーへ入団し、アゼルバイジャンリーグで優勝、欧州チャンピオンズリーグに出場した。2015/16シーズンはトルコのÇanakkale Belediyesporへ移籍し、トルコリーグ6位となった。2016/17シーズンはHalkbank Ankaraへ移籍し2年間プレーした。2018/19シーズンはイタリアセリエA1のCuneo Granda Volleyと契約し1年間プレーした。2019/20シーズンはポーランドのグルパ・アゾティ・チェミック・ポリツェへ移籍し、タウロンリーガでは2連覇、欧州チャンピオンズリーグで5位の成績をおさめた。2021/22シーズンはギリシャのOlympiacosへ移籍し、ギリシャリーグでは2年連続で準優勝した。2023/24シーズンはトルコのベシクタシュと契約した。 2008年、アンダーカテゴリーの代表としてパンアメリカンカップに出場。2009年、シニアのキューバ代表に初選出され、モントルーバレーマスターズでデビュー。同年の北中米選手権で銅メダルを獲得した。2010年、日本で開催された世界選手権に出場した。2011年、2011年バレーボール女子北中米選手権で銅メダルを獲得した。2012年、ロンドン五輪世界最終予選では全参加選手9位の80得点をあげる活躍をみせるもチームは6位に終わった。同年のワールドグランプリに出場し6位となった。
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ウィルマ・サラスはキューバの女子バレーボール選手。ポジションはアウトサイドヒッター。元キューバ代表。
{{バレーボール選手 |本名=ウィルマ・サラス |ラテン文字=Wilma Salas |国籍={{CUB}} |生年月日={{生年月日と年齢|1991|03|09}} |出身地={{Flagicon|CUB}} [[サンティアーゴ・デ・クーバ]] |ポジション=[[アウトサイドヒッター|OH]] |所属={{Flagicon|TUR}} [[ベシクタシュ女子バレーボールチーム|ベシクタシュ]] |背番号=9 |身長=188cm |体重=66kg |利き手=右 |スパイク=312cm |ブロック=298cm |獲得メダル= {{MedalCountry|{{CUBwv}}}} {{MedalCompetition|[[バレーボール北中米選手権|北中米選手権]]}} {{MedalBronze|[[w:2009 Women's NORCECA Volleyball Championship|2009]]|バヤモン}} {{MedalBronze|[[2011年バレーボール女子北中米選手権|2011]]|カグアス}} }} '''ウィルマ・サラス'''(Wilma Salas、[[1991年]][[3月9日]] - )は、[[キューバ]]の女子[[バレーボール]]選手。ポジションは[[アウトサイドヒッター]]。元[[バレーボールキューバ女子代表|キューバ代表]]。 ==来歴== * クラブチーム [[サンティアーゴ・デ・クーバ]]出身。2007年、Santiago De Cubaへ入団。2014/15シーズンにアゼルバイジャンの[[ラビタ・バクー]]へ入団し、アゼルバイジャンリーグで優勝、欧州チャンピオンズリーグに出場した。2015/16シーズンはトルコのÇanakkale Belediyesporへ移籍し、トルコリーグ6位となった。2016/17シーズンはHalkbank Ankaraへ移籍し2年間プレーした。2018/19シーズンはイタリアセリエA1のCuneo Granda Volleyと契約し<ref>{{Cite web |url=https://volleymob.com/cuban-national-teamer-wilma-salas-to-play-in-italian-league/ |title=CUBAN NATIONAL TEAMER WILMA SALAS TO PLAY IN ITALIAN LEAGUE |accessdate=2023-11-10 |date=2018-10-22}}</ref>1年間プレーした。2019/20シーズンはポーランドの[[グルパ・アゾティ・チェミック・ポリツェ]]へ移籍し<ref>{{Cite web |url=https://www.philstar.com/sports/2019/05/30/1922184/wilma-salas-keeping-low-profile-pvls-hottest-team |title=Wilma Salas keeping low profile on PVL's hottest team |accessdate=2023-11-10 |date=2019-05-30}}</ref>、タウロンリーガでは2連覇、欧州チャンピオンズリーグで5位の成績をおさめた。2021/22シーズンはギリシャのOlympiacosへ移籍し、ギリシャリーグでは2年連続で準優勝した。2023/24シーズンはトルコの[[ベシクタシュ女子バレーボールチーム|ベシクタシュ]]と契約した<ref>{{Cite web |url=https://ortacizgi.com/wilma-salas-rosell-resmen-besiktas-ceylanda |title=Wilma Salas Rosell resmen Beşiktaş Ceylan’da! |accessdate=2023-11-10 |date=2023-05-29}}</ref>。 * 代表チーム 2008年、アンダーカテゴリーの代表としてパンアメリカンカップに出場。2009年、シニアの[[バレーボールキューバ女子代表|キューバ代表]]に初選出され、モントルーバレーマスターズでデビュー。同年の[[2009年バレーボール女子北中米選手権|北中米選手権]]で銅メダルを獲得した。2010年、日本で開催された[[2010年バレーボール女子世界選手権|世界選手権]]に出場した。2011年、[[2011年バレーボール女子北中米選手権]]で銅メダルを獲得した。2012年、[[2012年ロンドンオリンピックのバレーボール競技・世界最終予選|ロンドン五輪世界最終予選]]では全参加選手9位の80得点をあげる活躍をみせる<ref>{{Cite web |url=https://www.tbs.co.jp/volley-oqt/2012/result/woman/ranking_skill/best_scores.html |title=女子個人ランキング |accessdate=2023-11-10 |date=2012-05-27}}</ref>もチームは6位に終わった。同年の[[2012年バレーボール・ワールドグランプリ|ワールドグランプリ]]に出場し6位となった。 ==球歴== * [[バレーボール世界選手権|世界選手権]] - 2010年 * [[バレーボール・ワールドグランプリ|ワールドグランプリ]] - 2011年、2012年 * [[バレーボール北中米選手権|北中米選手権]] - 2009年、2011年 ==所属クラブ== * {{Flagicon|CUB}} Santiago De Cuba(2007-2012年) * {{Flagicon|AZE}} [[ラビタ・バクー]](2014-2015年) * {{Flagicon|TUR}} Çanakkale Belediyespor(2015-2016年) * {{Flagicon|TUR}} Halkbank Ankara(2016-2018年) * {{Flagicon|ITA}} Cuneo Granda Volley(2018-2019年) * {{Flagicon|POL}} [[グルパ・アゾティ・チェミック・ポリツェ]](2019-2021年) * {{Flagicon|GRE}} Olympiacos(2021-2023年) * {{Flagicon|TUR}} [[ベシクタシュ女子バレーボールチーム|ベシクタシュ]](2023-) ==脚注== {{Reflist}} ==外部リンク== * [https://www.fivb.org/EN/volleyball/competitions/WorldGrandPrix/2012/Players.asp?Tourn=WGP2012&Team=CUB&No=124086 FIVB公式プロフィール] {{volleybio-stub}} {{DEFAULTSORT:さらす ういるま}} [[Category:キューバの女子バレーボール選手]] [[Category:バレーボールキューバ女子代表選手]] [[Category:キューバのパンアメリカン競技大会選手]] [[Category:サンティアーゴ・デ・クーバ出身の人物]] [[Category:1991年生]] [[Category:存命人物]]
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正欲
『正欲』(せいよく)は、朝井リョウによる小説。新潮社より2021年3月26日に単行本、2023年6月1日に新潮文庫版が発売された。 第34回柴田錬三郎賞受賞。第3回読者による文学賞受賞。2022年本屋大賞ノミネート。累計発行部数は2023年10月現在、50万部を超えている。 2023年には映画化された。 朝井リョウのデビュー10周年記念作品として書き下ろされた長編小説で、「黒版」と呼ばれる。カバー写真は、菱沼勇夫の作品「Let Me Out」が使用されている。デビュー10周年記念作品はもう1作、朝日新聞出版より刊行された『スター』があり、そちらは「白版」の位置づけである。 三人称の複数視点で語られる構成となっていて、物語の前半は検事の寺井啓喜、ショッピングモール店員の桐生夏月、大学生の神戸八重子の3人の視点で描かれ、後半はこれに夏月の中学時代の同級生の佐々木佳道、八重子の同級生の諸橋大也の視点が加わる。 2021年3月26日よりaudiobook.jpにて配信された。制作協力はR-production、トゥーバース。2023年、audiobook.jpのユーザーによる投票で決定する「オーディオブック大賞2023」で、聴き放題部門の大賞を受賞した。 2022年12月2日よりAudibleで配信された。ナレーターは岡井カツノリ、高口幸子、三木美、宮本淳、吉野貴大、小島史裕。 2023年11月10日に公開された。監督は岸善幸。 監督の岸善幸はプロデューサーに勧められて小説を読み、衝撃を受けた。多様性への理解の浅はかさに気づき、その意味を考えさせられたという。本作の特に浮かび上がらせたいテーマとして、「『多様性』の意味を問いかけるのは、勿論ですが、人間は誰もが二面性を、もしかしたら、二面以上を持って生きていると思うんです。会社とか学校とか日常を送る顔は、様々に使い分けられていて、本当の顔は実は他人に見せたくない。本当の顔で生きていくということは日常性とかけ離れることであって、どうしたって孤独になる。そこは特殊性癖を持つ人もそうでない人も同じような気がしています。そういう意味では『特殊な性的嗜好って何?』というよりは、マジョリティー側の感覚や意識をあからさまにすることの方が大事でした。『私たちの本来の感覚って何なのか、それは間違っていないのか?』と疑ってもらえればいいのかなと思います」などと述べている。 主要キャストは、稲垣吾郎(寺井啓喜 役)、新垣結衣(桐生夏月 役)、磯村勇斗(佐々木佳道 役)、佐藤寛太(諸橋大也 役)、東野絢香(神戸八重子 役)の5人で、稲垣、新垣、磯村のキャスティングは岸の希望。佐藤と東野はオーディションで選んだ。驚きのキャスティングはやはり新垣で、岸としてはこれまで演じた役柄が対極のイメージを持たれている人に演じてもらいたく、ギャップを表現するのがとても大事と考え、新垣の名前が真っ先に浮かんだという。このうち、新垣、磯村、佐藤が演じた3人は水に対する性癖を持つ。性的興奮の描き方には苦労し、岸は俳優とディスカッションを重ねた。新垣が演じた夏月が性的興奮を覚える場面は、撮影がアップしてからも、編集しながらも悩み、今も上手く表現できたか分からないと話している。 啓喜、大也、八重子の3人は神奈川県横浜市在住設定で、夏月、佳道は広島県福山市在住設定。前半は5人の人物のストーリーをシンクロさせ、横浜と広島のパートが入れ代わりながら話が進む。後半は佳道が夏月を誘い、横浜に2人で来るため、後半は横浜だけのパート、ラストは5人が繋がる。夏月は前半は口数少ない設定ながら、中盤ホテルの部屋で佳道と打ち解け、奇跡的に理解し合える人と出会って以降は、明るく、饒舌となり、後半は横浜に来ても柔い広島弁で話す。
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『正欲』(せいよく)は、朝井リョウによる小説。新潮社より2021年3月26日に単行本、2023年6月1日に新潮文庫版が発売された。 第34回柴田錬三郎賞受賞。第3回読者による文学賞受賞。2022年本屋大賞ノミネート。累計発行部数は2023年10月現在、50万部を超えている。 2023年には映画化された。
{{基礎情報 書籍 | title = 正欲 | orig_title = <!-- 書籍の原題 --> | author = [[朝井リョウ]] | published = [[2021年]][[3月25日]] <!-- 単行本奥付の発行日 --> | publisher = [[新潮社]] | genre = <!-- ジャンル --> | country = {{JPN}} | language = [[日本語]] | type = [[四六判]] | pages = 382 | website = [https://www.shinchosha.co.jp/seiyoku/ www.shinchosha.co.jp] | id = {{ISBN2|978-4-10-333063-9}} | id2 = {{ISBN2|978-4-10-126933-7}} | id2type = 文庫本 | portal1 = 文学 }} 『'''正欲'''』(せいよく)は、[[朝井リョウ]]による小説。[[新潮社]]より2021年3月26日に単行本<ref name="tankoubon">{{Cite web|和書|title=朝井リョウ 『正欲』|url=https://www.shinchosha.co.jp/book/333063/|publisher=新潮社|accessdate=2023-12-02}}</ref>、2023年6月1日に[[新潮文庫]]版が発売された<ref>{{Cite web|和書|title=朝井リョウ 『正欲』|url=https://www.shinchosha.co.jp/book/126933/|publisher=新潮社|accessdate=2023-12-02}}</ref>。 第34回[[柴田錬三郎賞]]受賞<ref>{{Cite web|和書|title=第34回柴田錬三郎賞が朝井まかて『類』と朝井リョウ『正欲』に決定!|url=https://www.bungei.shueisha.co.jp/news/179450/|website=集英社 文芸ステーション|publisher=集英社|date=2021-10-05|accessdate=2023-12-02}}</ref>。第3回読者による文学賞受賞<ref>{{Cite web|和書|title=読者による文学賞|url=https://dokusyaniyoru.herokuapp.com/awards/4|website=読者による文学賞|accessdate=2023-12-02}}</ref>。2022年[[本屋大賞]]ノミネート<ref>{{Cite web|url=https://www.shinchosha.co.jp/seiyoku/|title=朝井リョウ『正欲』作家生活10周年記念作品 特設サイト|publisher=新潮社|accessdate=2023-11-10}}</ref>。累計発行部数は2023年10月現在、50万部を超えている<ref name="kousiki">{{Cite web|url=https://bitters.co.jp/seiyoku/#|title=映画『正欲』公式サイト - ビターズ・エンド|accessdate=2023-11-10}}</ref>。 2023年には映画化された<ref name="today1">{{Cite web|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0138049|title=稲垣吾郎×新垣結衣『正欲』11.10公開決定!特報映像&追加キャストも|publisher=[[シネマトゥデイ]]|accessdate=2023-11-10}}</ref>。 == 出版の経緯 == 朝井リョウのデビュー10周年記念作品として書き下ろされた長編小説で<ref name="tankoubon" />、「黒版」と呼ばれる<ref name="nikkei20210111">{{Cite news|title=「自分に不都合なこと書く」 朝井リョウ10周年記念作|url=https://www.nikkei.com/article/DGXKZO67694650V21C20A2BE0P00/|newspaper=日本経済新聞|date=2021-01-11|accessdate=2023-12-02}}</ref>。カバー写真は、菱沼勇夫の作品「Let Me Out」が使用されている<ref name="tankoubon" />。デビュー10周年記念作品はもう1作、[[朝日新聞出版]]より刊行された『スター』があり、そちらは「白版」の位置づけである<ref>{{Cite web|和書|title=朝井リョウ 作家生活10周年記念作品『スター』公式サイト|url=https://publications.asahi.com/star/|publisher=朝日新聞出版|accessdate=2023-12-02}}</ref><ref name="nikkei20210111" />。 三人称の複数視点で語られる構成となっていて<ref>{{Cite news|title=朝井リョウが語る、小説家としての心境の変化 「不確定な状態が自然なんだと受け入れられた」|url=https://realsound.jp/book/2021/05/post-781383_2.html|newspaper=リアルサウンド|publisher=blueprint|date=2021-05-30|accessdate=2023-12-02}}</ref>、物語の前半は検事の寺井啓喜、ショッピングモール店員の桐生夏月、大学生の神戸八重子の3人の視点で描かれ<ref>{{Cite news|title=朝井リョウ『正欲』 「多様性」というおめでたさ|url=https://book.asahi.com/article/14372252|newspaper=好書好日|publisher=朝日新聞|date=2021-06-15|accessdate=2023-12-02}}</ref>、後半はこれに夏月の中学時代の同級生の佐々木佳道、八重子の同級生の諸橋大也の視点が加わる<ref>{{Cite web|和書|title=「多様性」という言葉の危うさ|url=https://tree-novel.com/works/episode/7daf4313f439b13899e610768ebfdfd6.html|website=これを読めば大丈夫! 3分でわかるベストセラー!|date=2021-05-19|accessdate=2023-12-02}}</ref>。 == あらすじ == <!-- 外部サイトや書籍からのコピペ・丸写しによる著作権侵害はしないでください。削除の対象となり、投稿者はブロックされる可能性もあります。 --> {{要あらすじ|date=2023年11月}} == 登場人物 == ; 寺井啓喜(てらい ひろき) : 横浜地方検察庁に勤務する検事。小学校4年生で不登校状態の息子・泰希をもつ。泰希が友人とともに[[YouTube]]で動画を投稿することに反対する。 ; 桐生夏月(きりゅう なつき) : 岡山駅に直結するイオンモールにある、寝具店の販売員。中学校の同級生の披露宴で、佐々木佳道と再会する。 ; 神戸八重子(かんべ やえこ) : 金沢八景大学に通う3年生。学祭実行委員で、「ダイバーシティフェス」を企画・運営する。 ; 佐々木佳道(ささき よしみち) : 高良食品営業部商品開発課に勤務する会社員。夏月の中学校の同級生だが、3年生の途中で転校した。 ; 諸橋大也(もろはし だいや) : 金沢八景大学に通う3年生で、ダンスサークル「スペード」に所属している。昨年の学祭のミスターコンテストで準ミスターに選ばれた。 == オーディオブック == === audiobook.jp版 === 2021年3月26日より[[audiobook.jp]]にて配信された<ref name="audiobook">{{Cite web|和書|title=正欲|日本最大級のオーディオブック配信サービス audiobook.jp|url=https://audiobook.jp/product/266930|website=audiobook.jp|publisher=オトバンク|accessdate=2023-12-02}}</ref>。制作協力はR-production、トゥーバース<ref name="audiobook" />。2023年、audiobook.jpのユーザーによる投票で決定する「オーディオブック大賞2023」で、聴き放題部門の大賞を受賞した<ref>{{Cite press release|和書|title=「オーディオブック大賞2023」を発表!『流浪の月』、『夢をかなえるゾウ0(ゼロ) ガネーシャと夢を食べるバク』『正欲』が各部門大賞に輝く|publisher=オトバンク|date=2023-10-26|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000346.000034798.html|accessdate=2023-12-02}}</ref>。 * 寺井啓喜:[[菊地達弘]]<ref name="audiobook" /> * 桐生夏月:[[小市眞琴]]<ref name="audiobook" /> * 神戸八重子:[[洲崎綾]]<ref name="audiobook" /> * 佐々木佳道:[[浦和希]]<ref name="audiobook" /> * 諸橋大也:[[伊東健人]]<ref name="audiobook" /> * 寺井由美:北﨑ひとみ<ref name="audiobook" /> * 寺井泰希:[[拝師みほ]]<ref name="audiobook" /> * 右近一将:青樹鮎希<ref name="audiobook" /> * 越川秀己:[[小林直人 (声優)|小林直人]]<ref name="audiobook" /> * 久留米よし香:三浦円<ref name="audiobook" /> * 桑原紗矢:[[堀川かえで]]<ref name="audiobook" /> * 桑原真輝:進藤亜由美<ref name="audiobook" /> * 西山修:佐田直啓<ref name="audiobook" /> * 田吉幸嗣:佐東充<ref name="audiobook" /> === Audible版 === 2022年12月2日より[[Audible]]で配信された<ref name="Audible">{{Cite web|和書|title=Audible-正欲|url=https://www.amazon.co.jp/Audible-%E6%AD%A3%E6%AC%B2/dp/B09YY54VSD|publisher=Amazon.co.jp|accessdate=2023-12-02}}</ref>。ナレーターは[[岡井カツノリ]]、[[高口幸子]]、[[三木美]]、[[宮本淳]]、[[吉野貴大]]、小島史裕<ref name="Audible" />。 == 映画 == {{Infobox film | 作品名 = 正欲 | 原題 = (ab) normal desire | 画像 = | 画像サイズ = | 画像解説 = | 監督 = [[岸善幸]] | 脚本 = [[港岳彦]] | 原作 = [[朝井リョウ]] | 製作 = 中村優子<br />[[杉田浩光]]<br />富田朋子 | 製作総指揮 = 石井紹良<br />神山健一郎<br />定井勇二<br />[[飯島三智]] | 出演者 = [[稲垣吾郎]]<br />[[新垣結衣]]<br />[[磯村勇斗]]<br />[[佐藤寛太]]<br />[[東野絢香]]<br />[[山田真歩]]<br />[[宇野祥平]]<br />[[渡辺大知]]<br />[[徳永えり]]<br />[[岩瀬亮]]<br />[[坂東希]]<br />[[山本浩司 (俳優)|山本浩司]] | 音楽 = [[岩代太郎]] | 主題歌 = [[Vaundy]]「呼吸のように」 | 撮影 = 夏海光造 | 編集 = 岸善幸 | 制作会社 = [[テレビマンユニオン]] | 製作会社 = 「正欲」製作委員会 | 配給 = ビターズ・エンド | 公開 = {{flagicon|JPN}} [[2023年]][[11月10日]] | 上映時間 = 134分 | 製作国 = {{JPN}} | 言語 = [[日本語]] | 製作費 = | 興行収入 = | 前作 = | 次作 = }} [[2023年]][[11月10日]]に公開された{{R|today1}}。監督は[[岸善幸]]{{R|today1}}。 === キャスト === * 寺井啓喜:[[稲垣吾郎]]<ref name = "pia1">{{Cite web|url=https://lp.p.pia.jp/article/news/245077/index.html|title=稲垣吾郎と新垣結衣が出演、朝井リョウの小説「正欲」映画化|publisher=ぴあ映画|accessdate=2023-11-10}}</ref> * 桐生夏月:[[新垣結衣]]{{R|pia1}} * 佐々木佳道:[[磯村勇斗]]{{R|today1}} * 諸橋大也:[[佐藤寛太]]{{R|today1}} * 神戸八重子:[[東野絢香]]{{R|today1}} * 寺井由美:[[山田真歩]]<ref name="natalie20230718">{{Cite news|title=稲垣吾郎×新垣結衣「正欲」公開日は11月10日、特報や新キャストも解禁|url=https://natalie.mu/eiga/news/533262|newspaper=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-07-18|accessdate=2023-12-02}}</ref> * 越川秀己:[[宇野祥平]]{{R|natalie20230718}} * 西山修:[[渡辺大知]]{{R|natalie20230718}} * 那須沙保里:[[徳永えり]]{{R|natalie20230718}} * 矢田部陽平:[[岩瀬亮]]{{R|natalie20230718}} * 高見優芽:[[坂東希]]{{R|natalie20230718}} * 夏月と佳道の中学時代の担任:[[山本浩司 (俳優)|山本浩司]]<ref name="kousiki" /> === スタッフ === * 原作:朝井リョウ『正欲』([[新潮文庫]]刊) * 監督・編集:[[岸善幸]]{{R|pia1}} * 脚本:[[港岳彦]]{{R|pia1}} * 音楽:[[岩代太郎]] * 主題歌:[[Vaundy]]「呼吸のように」([[スターダストプロモーション#グループ会社|SDR]])<ref>{{Cite web|url=https://news.livedoor.com/article/detail/25014039/|title=Vaundy、朝井リョウ原作『正欲』で映画主題歌初担当|publisher=[[livedoor ニュース]]|accessdate=2023-11-10}}</ref> * 製作:murmur * エグゼクティブプロデューサー:石井紹良、神山健一郎、定井勇二、[[飯島三智]] * 企画・プロデュース:中村優子 * プロデューサー:[[杉田浩光]]、富田朋子 * スーパーバイザー:松原宏林 * 共同プロデューサー:[[舩江修]] * ラインプロデューサー:塚村悦郎 * 撮影:夏海光造 * 照明:高坂俊秀 * DIT:鈴木裕 * 録音:森英司 * 音響効果:大塚智子 * キャスティング:おおずさわこ * 美術:[[井上心平]] * 衣装:[[宮本まさ江]] * ヘアメイク:新井はるか、金田順子 * 装飾:中村三五 * 助監督:松尾崇 * 配給:ビターズ・エンド * 制作プロダクション:[[テレビマンユニオン]] * 製作:「正欲」製作委員会(murmur、テレビマンユニオン、ビターズ・エンド、[[CULEN]]) === 製作 === 監督の[[岸善幸]]は[[映画プロデューサー|プロデューサー]]に勧められて小説を読み、衝撃を受けた<ref name="hitocinema231102">{{Cite web|date=2023-11-02|author=勝田友巳|url =https://hitocinema.mainichi.jp/article/interview-seiyoku-kishiyoshiyuki|title=東京国際映画祭で2冠!「正欲」岸善幸監督 「狂気抱えて〝普通〟を演じた稲垣吾郎」|website=ひとシネマ|publisher=[[毎日新聞社]]|accessdate=2023-11-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231124105203/https://hitocinema.mainichi.jp/article/interview-seiyoku-kishiyoshiyuki|archivedate=2023-11-24}}</ref>。[[多様性]]への理解の浅はかさに気づき、その意味を考えさせられたという<ref 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|publisher=『正欲』製作委員会 |pages=14-19 }}</ref><ref name="nikkansports231025">{{Cite news|date=2023-10-25|title=稲垣吾郎、主演映画「正欲」新垣結衣の演技に「イメージが覆される。映画の現場で見てビックリ」|author=|newspaper=[[日刊スポーツ]]|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202310250001266.html|publisher=[[日刊スポーツ新聞社]]|accessdate=2023年11月24日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231025143853/https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202310250001266.html|archivedate=2023年10月25日}}</ref>、岸としてはこれまで演じた役柄が対極のイメージを持たれている人に演じてもらいたく、ギャップを表現するのがとても大事と考え、新垣の名前が真っ先に浮かんだという<ref name="pamphlet_20"/>。このうち、新垣、磯村、佐藤が演じた3人は水に対する性癖を持つ<ref name="pamphlet_20"/><ref name="tospo231121">{{Cite news|date=2023-11-21|title=新垣結衣さん演じる〝水〟に性欲を感じる女性が偽装結婚…多様性がテーマの「正欲」衝撃のラスト|author=有村昆|authorlink=有村昆|newspaper=[[東京スポーツ#ウェブサイト|東スポWEB]]|url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/283455|publisher=東京スポーツ新聞社|accessdate=2023年11月24日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231121091601/https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/283455|archivedate=2023年11月2日}}</ref>。性的興奮の描き方には苦労し、岸は俳優とディスカッションを重ねた<ref name="hitocinema231102"/>。新垣が演じた夏月が性的興奮を覚える場面は、撮影がアップしてからも、編集しながらも悩み、今も上手く表現できたか分からないと話している<ref name="hitocinema231102"/>。 啓喜、大也、八重子の3人は[[神奈川県]][[横浜市]]在住設定で、夏月、佳道は[[広島県]][[福山市]]在住設定<ref name="fukuyama">[https://www.fukuyama-kanko.com/information/detail.php?id=1005 映画『正欲』の福山ロケ地を紹介します! 福山観光コンベンション協会]<!---{{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20231215125226/https://www.fukuyama-kanko.com/information/detail.php?id=1005 |date=2023年12月15日 }}--->、 [https://seiyoku.filmtopics.jp/2023/11/11/%e6%98%a0%e7%94%bb%e3%80%8c%e6%ad%a3%e6%ac%b2%e3%80%8d%e5%ba%83%e5%b3%b6%e3%83%bb%e7%a6%8f%e5%b1%b1%e5%87%b1%e6%97%8b%e8%88%9e%e5%8f%b0%e6%8c%a8%e6%8b%b6%e6%b1%ba%e5%ae%9a%ef%bc%81%e3%80%80/ 映画「正欲」広島・福山凱旋舞台挨拶決定!]<!---{{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20231113045007/https://seiyoku.filmtopics.jp/2023/11/11/%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%80%8C%E6%AD%A3%E6%AC%B2%E3%80%8D%E5%BA%83%E5%B3%B6%E3%83%BB%E7%A6%8F%E5%B1%B1%E5%87%B1%E6%97%8B%E8%88%9E%E5%8F%B0%E6%8C%A8%E6%8B%B6%E6%B1%BA%E5%AE%9A%EF%BC%81%E3%80%80/ |date=2023年12月15日 }}--->、[https://seiyoku.filmtopics.jp/2023/11/23/%e3%83%ad%e3%82%b1%e5%9c%b0%e5%ba%83%e5%b3%b6%e3%83%bb%e7%a6%8f%e5%b1%b1%e3%81%a7%e5%a4%a7%e3%83%92%e3%83%83%e3%83%88%e5%be%a1%e7%a4%bc%ef%bc%81%e5%87%b1%e6%97%8b%e8%88%9e%e5%8f%b0%e6%8c%a8%e6%8b%b6/ ロケ地広島・福山で大ヒット御礼!凱旋舞台挨拶レポート🖋] - 映画公式サイト<!---{{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20231127143750/https://seiyoku.filmtopics.jp/2023/11/23/%E3%83%AD%E3%82%B1%E5%9C%B0%E5%BA%83%E5%B3%B6%E3%83%BB%E7%A6%8F%E5%B1%B1%E3%81%A7%E5%A4%A7%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%88%E5%BE%A1%E7%A4%BC%EF%BC%81%E5%87%B1%E6%97%8B%E8%88%9E%E5%8F%B0%E6%8C%A8%E6%8B%B6/ |date=2023年11月27日 }}--->、{{Twitter status|fukuyama_fc|1729072052626501890|ふくやまフィルムコミッション【公式】ツイッター 2023年11月27日 18:37(JST)}}{{Twitter status|fukuyama_fc|1702574621542035813|ふくやまフィルムコミッション【公式】ツイッター 2023年9月15日 15:46(JST)}}{{Twitter status|fukuyama_kyokai|1704356772709089443|福山観光コンベンション協会ツイッター 2023年9月20日 13:48(JST)}}{{Cite news|date=2023-11-22|title=新垣結衣さんと磯村勇斗さん、福山でロケ「まちに助けられた」 映画「正欲」 広島バルト11で舞台あいさつ|author=|newspaper=[[中国新聞|中国新聞デジタル]]|url=https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/388708|publisher=[[中国新聞社]]|accessdate=2023年11月24日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231123005310/https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/388708|archivedate=2023年11月23日}}{{Cite news|date=2023-11-24|title=新垣結衣さん「地元という気持ち」…映画「正欲」は福山で撮影、備後弁「微妙なニュアンス難しい」|author=|newspaper=[[読売新聞オンライン]]|url=https://www.yomiuri.co.jp/culture/cinema/20231124-OYT1T50056/|publisher=[[読売新聞社]]|accessdate=2023年11月24日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231124123206/https://www.yomiuri.co.jp/culture/cinema/20231124-OYT1T50056/|archivedate=2023年11月24日}}{{Cite news|date=2023-11-24|title=広島で映画「正欲」凱旋舞台あいさつ 新垣結衣さん、磯村勇斗さん登壇|author=|newspaper=広島経済新聞|url=https://web.archive.org/web/20231124123617/https://hiroshima.keizai.biz/headline/4099/|publisher=|accessdate=2023年11月24日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231124123206/https://www.yomiuri.co.jp/culture/cinema/20231124-OYT1T50056/|archivedate=2023年11月24日}}</ref>。前半は5人の人物のストーリーを[[シンクロ]]させ、横浜と広島のパートが入れ代わりながら話が進む<ref name="tospo231121"/>。後半は佳道が夏月を誘い、横浜に2人で来るため、後半は横浜だけのパート、ラストは5人が繋がる<ref name="tospo231121"/>。夏月は前半は口数少ない設定ながら、中盤ホテルの部屋で佳道と打ち解け、奇跡的に理解し合える人と出会って以降は、明るく、饒舌となり<ref name="hitocinema231102"/><ref name="moviewalker231112">{{Cite web|date=2023-11-12|author=石塚圭子|url=https://moviewalker.jp/news/article/1166623/p2|title = 新垣結衣×磯村勇斗にインタビュー。観る者の価値観を揺るがす『正欲』の出演で感じたこととは|website=[[MOVIE WALKER PRESS]]|publisher=[[ムービーウォーカー]]|accessdate=2023-11-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231112214616/https://moviewalker.jp/news/article/1166623/p2/|archivedate=2023年11月12日}}</ref>、後半は横浜に来ても柔い[[広島弁]]で話す<ref name="fukuyama"/><ref name="oricon231124">{{Cite web|date = 2023-11-24|url = https://www.oricon.co.jp/news/2303747/full/|title = 新垣結衣&磯村勇斗、ロケ地の広島&福山へ凱旋「ぼれぇうれしいけ」|publisher = [[オリコン]]|accessdate = 2023-11-24}}</ref>。 === ロケ地 === * [[広島県]] ** [[福山市]]<ref name="fukuyama"/><ref name="oricon231124"/><ref name="pamphlet_30">{{Cite book |和書 |editor=ビターズ・エンド・岡崎優子・小竹亜紀 |title=オールクレジット/エキストラ/ロケーション協力 |issue =2023年11月10日発行 |chapter=Introduction |publisher=『正欲』製作委員会 |pages=30-31 }}</ref>。※福山[[ロケーション撮影|ロケ]]は2022年10月<ref name="fukuyama"/>。 *** 廻鮮寿司しまなみ福山曙店(夏月の行きつけの[[回転寿司]]店)<ref name="fukuyama"/><ref name="pamphlet_30"/> *** ウエディングパルコアルジェント(夏月・佳道の高校の同級生の結婚式のシーン)<ref name="fukuyama"/> *** ルートイングランティア福山SPA RESORT(夏月・佳道が打ち解ける切っ掛けとなるホテルの部屋シーン)<ref name="fukuyama"/><ref name="pamphlet_30"/> *** ラプラス(佳道が夏月に指輪を渡すシーン)<ref name="fukuyama"/><ref name="pamphlet_30"/> *** 草戸山公園展望台(明王台展望台、実景のみ)<ref name="fukuyama"/> * [[神奈川県]] ** [[横浜市]]<ref>{{Cite web|url = https://friday.kodansha.co.jp/article/270282|title = 難役にも挑戦…!新垣結衣が見せた清楚すぎる「ロングスカート姿」 総力取材芸能ワイド ドラマ&映画&CM"一触即発"の現場から|publisher = [[FRIDAYデジタル]]|accessdate = 2023-11-11}}</ref> * [[東京都]] ** [[東久留米市]] *** [[イオンモール東久留米]](夏月が働く[[ショッピングセンター]]の[[寝具]]売り場)<ref name="pamphlet_30"/> * [[栃木県]]<ref>{{Twitter status|film_TFC|1722886811377074293|栃木県フィルムコミッションツイッター 2023年11月10日 17:00(JST)}}</ref> ** [[日光市]] *** 銅親水公園足尾砂防堰堤(中盤、夏月と佳道が訪れる[[滝]])<ref name="pamphlet_30"/> === 受賞歴 === * [[第36回東京国際映画祭]]<ref>{{cite web|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231101/k10014245041000.html|title=東京国際映画祭 岸善幸監督の「正欲」が観客賞と最優秀監督賞|publisher=NHKオンライン|accessdate=2023-11-10}}</ref> ** 最優秀監督賞(岸善幸) ** 観客賞 * 第45回[[ヨコハマ映画祭]] ** 助演男優賞(磯村勇斗)<ref>{{cite web|url=http://yokohama-eigasai.o.oo7.jp/45-2023/45_2023_shou.html|title=第45回ヨコハマ映画祭 2023年日本映画個人賞|accessdate=2023-12-02}}</ref> - 『[[月 (辺見庸)|月]]』『[[波紋 (映画)|波紋]]』『渇水』『[[最後まで行く]]』とあわせて。 ** 2023年日本映画ベストテン 5位<ref>{{cite web|url=http://yokohama-eigasai.o.oo7.jp/45-2023/45_2023_best10.html|title=2023年日本映画ベストテン|accessdate=2023-12-02}}</ref> * 第36回[[日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞]] ** 助演男優賞(磯村勇斗)<ref>{{cite web|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202312270000654.html?utm_source=twitter&utm_medium=social&utm_campaign=nikkansports_ogp|title=【映画大賞】磯村勇斗が助演男優賞 各作品で濃厚な演技「本当に映画が大好きです」|date=2023-12-27|accessdate=2023-12-28}}</ref>- 『月』『渇水』とあわせて。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist|20em}} == 外部リンク == * [https://www.shinchosha.co.jp/seiyoku/ 朝井リョウ『正欲』作家生活10周年記念作品 特設サイト] - 新潮社 * [https://bitters.co.jp/seiyoku/# 映画『正欲』公式サイト] * {{Twitter|seiyoku_movie|映画『正欲』公式}} * {{Instagram|seiyoku_movie|映画『正欲』公式}} * {{Allcinema title|384682|正欲}} * {{Kinejun title|98456|正欲}} {{lit-stub}} {{movie-stub}} {{デフォルトソート:せいよく}} [[Category:2021年の小説]] [[Category:日本の小説]] [[Category:新潮社の出版物]] [[Category:2023年の映画]] [[Category:日本のドラマ映画]] [[Category:テレビマンユニオン]] [[Category:日本の小説を原作とする映画]] [[Category:岩代太郎の作曲映画]] [[Category:横浜市を舞台とした映画作品]] [[Category:広島県を舞台とした映画作品]] [[Category:横浜市で製作された映画作品]] [[Category:広島県で製作された映画作品]] [[Category:栃木県で製作された映画作品]]
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アクティファイ
株式会社アクティファイは、日本のソフトウェア企業である。
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株式会社アクティファイは、日本のソフトウェア企業である。
{{出典の明記|date=2023年11月10日 (金) 15:13 (UTC)}} {{基礎情報 会社 |社名 = 株式会社アクティファイ |英文社名 = Actiphy, Inc. |ロゴ = |画像 = |画像説明 = |種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] |機関設計 = |市場情報 = |略称 = |国籍 = {{JPN}} |本社郵便番号 = 101-0035 |本社所在地 = 東京都千代田区神田紺屋町8番<br />NCO神田紺屋町 |本社緯度度 = |本社緯度分 = |本社緯度秒 = |本社N(北緯)及びS(南緯) = |本社経度度 = |本社経度分 = |本社経度秒 = |本社E(東経)及びW(西経) = |座標右上表示 = Yes |本社地図国コード = JP |本店郵便番号 = |本店所在地 = |本店緯度度 = |本店緯度分 = |本店緯度秒 = |本店N(北緯)及びS(南緯) = |本店経度度 = |本店経度分 = |本店経度秒 = |本店E(東経)及びW(西経) = |本店地図国コード = |設立 = |業種 = |法人番号 = 7010001026152 |統一金融機関コード = |SWIFTコード = |事業内容 = |代表者 = 蒋冠成 |資本金 = |発行済株式総数 = |売上高 = |営業利益 = |経常利益 = |純利益 = |純資産 = |総資産 = |従業員数 = |支店舗数 = |決算期 = |会計監査人 = |所有者 = |主要株主 = |主要部門 = |主要子会社 = |関係する人物 = |外部リンク = https://www.actiphy.com/ |特記事項 = {{定義リスト |dt1=旧社名(2020年6月30日迄) |dd1=株式会社ネットジャパン }} }} 株式会社'''アクティファイ'''は、日本のソフトウェア企業である。 ==沿革== {{節スタブ}} *[[1996年]][[4月1日]] - 株式会社[[ネットジャパン]]として設立。 *[[2005年]][[6月30日]] - [[シマンテック]]による[[PowerQuest]]の買収([[2003年]])に伴い、[[PowerQuest]]製品の取扱いを順次終了<ref>{{Wayback|url=http://www.netjapan.co.jp/nj/info/contents/ikan.php |title=シマンテック社(旧PowerQuest社)取扱い終了製品のご案内および該当製品ユーザー登録移行手続きのお知らせ }}</ref>。 *[[2020年]][[7月1日]] - ネットジャパンから現社名に変更<ref>{{Cite web |url=https://forest.watch.impress.co.jp/docs/news/1258712.html |title=バックアップツール「ActiveImage Protector」を開発するネットジャパンが社名変更 - 窓の杜 |access-date=2023-11-23 |publisher=インプレス}}</ref><ref>{{Cite press release | title = 社名変更のお知らせ 7月1日から(株)アクティファイに | publisher = | date = 2020-6-11 | url = https://www.actiphy.com/ja-jp/2020/06/11/%e7%a4%be%e5%90%8d%e5%a4%89%e6%9b%b4%e3%81%ae%e3%81%8a%e7%9f%a5%e3%82%89%e3%81%9b-7%e6%9c%881%e6%97%a5%e3%81%8b%e3%82%89%ef%bc%88%e6%a0%aa%ef%bc%89%e3%82%a2%e3%82%af%e3%83%86%e3%82%a3%e3%83%95/ | format = | language = ja | trans-title = | access-date = 2023-11-11 | archive-url = | archive-date = | quote = | ref = }}</ref>。 == 取扱い製品 == {{empty section|date=2023年11月}} == 取り扱い終了製品 == {{節スタブ}} *[[PowerQuest]]製品 **{{仮リンク|PartitionMagic|en|PartitionMagic}} **[[DriveCopy]] **[[V2i Protector]] **{{仮リンク|Drive Image|en|Drive Image}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 外部リンク == *{{Official website|https://www.actiphy.com/}} {{company-stub}} {{DEFAULTSORT:あくていふあい}} [[Category:日本のソフトウェア会社]] [[Category:千代田区の企業]]
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4,852,578
オシ空港
オシ国際空港(キルギス語: Ош эл аралык аэропорту、ロシア語: Международный аэропорт Ош)は、キルギスのオシにある空港である。 市街地に向かうマルシュルートカが運航されている。運賃は10ソム。 2015年11月12日 アビア・トラフィック・カンパニー768便(英語版)(B737-53A/EX-37005)が、当空港への着陸時にハードランディングし、滑走路を逸脱した。乗員乗客159人中14人が負傷した。
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オシ国際空港は、キルギスのオシにある空港である。
{{Infobox 空港 | 空港名 = オシ国際空港 | 現地語名 = {{lang|ky|Ош эл аралык аэропорту}}<br>Международный аэропорт Ош  | 英語名 = Osh International Airport | 画像 = Osh International Airport.JPG | 画像サイズ = | 画像説明 = | IATA = OSS | ICAO = UCFO | 国 = {{KGZ}} | 所在地 = [[オシ]] | 母都市 = | 種類 = 民間用 | 所有者 = | 運営者 = | 運用時間 = | 開港 = | 閉鎖 = | ターミナル数 = | 拠点航空会社 = | 標高 m = 892 | 標高 ft = 2,929 | 座標 = {{coord|40|36|32|N|72|47|36|E|scale:25000_region:KG_type:airport|display=inline,title}} | ウェブサイト = {{Official website|http://www.airport.kg/osh}}<br> {{en icon}}{{ru icon}}{{ky icon}} | 緯度度 = 40 | 緯度分 = 36 | 緯度秒 = 32 | 緯度NS = N | 経度度 = 72 | 経度分 = 47 | 経度秒 = 36 | 経度EW = E | 座標地域 = | 地図名 = Kyrgyzstan#Asia Southwest | 地図ラベル = OSS/UCFO | 地図サイズ = 280 | 地図説明 = 空港の位置(キルギス) | 滑走路1方向 = 12/30 | 滑走路1長さ m = 3,212 | 滑走路1幅 m = 45 | 滑走路1表面 = [[アスファルト]] | 統計年 = | 旅客数 = | 貨物取扱量 = | 発着回数 = | 脚注 = 出典:公式サイトより<ref>http://www.airport.kg/osh/about-airport/information-about-airport</ref> }} '''オシ国際空港'''({{lang-ky|Ош эл аралык аэропорту}}、{{lang-ru|Международный аэропорт Ош}})は、[[キルギス]]の[[オシ]]にある[[空港]]である。 == 就航航空会社と就航都市 == === 国内線 === {{Airport-dest-list | {{Flagicon|KGZ}} [[アヴィア・トラフィック・カンパニー]]| [[マナス国際空港|ビシュケク]] | {{Flagicon|KGZ}} [[:en:Aero Nomad Airlines|アエロ・ノマド]]|ビシュケク | {{Flagicon|KGZ}} [[:en:TezJet Airlines|タズジェット航空]]| ビシュケク }} === 国際線 === {{Airport-dest-list | {{Flagicon|KGZ}} [[アヴィア・トラフィック・カンパニー]]|[[ドモジェドヴォ空港|モスクワ/ドモジェドヴォ]]、[[プルコヴォ空港|サンクトペテルブルク]]、[[トルマチョーヴォ空港|ノヴォシビルスク]]、[[コルツォヴォ国際空港|エカテリンブルク]]、[[イェメリャノヴォ空港|クラスノヤルスク]]、[[イルクーツク国際空港|イルクーツク]] | {{nowrap|{{Flagicon|KGZ}} [[:en:Aero Nomad Airlines|アエロ・ノマド]]}}| [[ヴヌーコヴォ国際空港|モスクワ/ヴヌーコヴォ]]、[[イェメリャノヴォ空港|クラスノヤルスク]]、[[スルグト国際空港|スルグト]] | {{Flagicon|RUS}} [[アエロフロート・ロシア航空|アエロフロート]]| [[シェレメーチエヴォ国際空港|モスクワ/シェレメーチエヴォ]] | {{Flagicon|RUS}} [[ロシア航空]]| [[イェメリャノヴォ空港|クラスノヤルスク]] | {{Flagicon|RUS}} [[S7航空]]| [[トルマチョーヴォ空港|ノヴォシビルスク]]、[[イルクーツク国際空港|イルクーツク]] | {{Flagicon|RUS}} [[ウラル航空]]| [[ドモジェドヴォ空港|モスクワ/ドモジェドヴォ]]、[[ジュコーフスキー空港|モスクワ/ジュコーフスキー]]、[[プルコヴォ空港|サンクトペテルブルク]]、[[コルツォヴォ国際空港|エカテリンブルク]]、[[チェリャビンスク空港|チェリャビンスク]]、[[カザン国際空港|カザン]]、[[クルモチ国際空港|サマーラ]]、[[ソチ国際空港|ソチ]]、[[ミネラーリヌィエ・ヴォードィ空港|ミネラーリヌィエ・ヴォードィ]]、[[イェメリャノヴォ空港|クラスノヤルスク]]、[[イルクーツク国際空港|イルクーツク]]、[[ニジネヴァルトフスク空港|ニジネヴァルトフスク]] | {{Flagicon|RUS}} [[ノードウィンド航空]]| [[クルモチ国際空港|サマーラ]]、[[ロスキーノ国際空港|チュメニ]]、[[ウファ国際空港|ウファ]] |{{Flagicon|KUW}} [[ジャジーラ航空]] | [[クウェート国際空港|クウェートシティ]] |{{Flagicon|SAU}} [[フライナス]] | [[キング・アブドゥルアズィーズ国際空港|ジェッダ]] |{{Flagicon|UAE}} [[エア・アラビア]] | [[シャールジャ国際空港|シャールジャ]] |{{Flagicon|TUR}} [[ペガサス航空]]| [[サビハ・ギョクチェン国際空港|イスタンブール/サビハ・ギョクチェン]] }} ==アクセス== 市街地に向かう[[マルシュルートカ]]が運航されている。運賃は10ソム。 ==事故== [[2015年]][[11月12日]] {{仮リンク|アビア・トラフィック・カンパニー768便着陸失敗事故|label=アビア・トラフィック・カンパニー768便|en|Avia Traffic Company Flight 768}}(B737-53A/EX-37005)が、当空港への着陸時にハードランディングし、滑走路を逸脱した。乗員乗客159人中14人が負傷した。 == 脚注 == {{reflist}} == 外部リンク == {{commons cat|Osh Airport}} * {{Official website|http://www.airport.kg/osh}} {{ky icon}}{{ru icon}}{{en icon}} {{airport-info|UCFO}} {{デフォルトソート:おしくうこう}} [[Category:キルギスの空港]] [[Category:オシ]] {{airport-stub}}
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B7%E7%A9%BA%E6%B8%AF
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金谷宰
金谷 宰(かなや おさむ、1934年4月21日 - 2020年4月16日)は、日本の経営者。ミノルタ(現在のコニカミノルタ)社長を務めた。 兵庫県出身。1957年に関西学院大学法学部を卒業し、同年に千代田工学精工(のちのミノルタ)に入社。1985年6月に取締役に就任し、1995年4月には社長に昇格。1999年6月に取締役相談役を経て、2001年6月に相談役に就任。 2020年4月16日に癌のために死去。85歳没。
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金谷 宰は、日本の経営者。ミノルタ(現在のコニカミノルタ)社長を務めた。
'''金谷 宰'''(かなや おさむ、[[1934年]][[4月21日]] - [[2020年]][[4月16日]])は、日本の[[経営者]]。ミノルタ(現在の[[コニカミノルタ]])社長を務めた。 == 来歴・人物 == [[兵庫県]]出身{{sfn|興信データ株式會社|2003|loc=か138頁|ref=jinji-42-jo}}。[[1957年]]に[[関西学院大学]]法学部を卒業し、同年に千代田工学精工(のちの[[ミノルタ]])に入社{{sfn|興信データ株式會社|2003|loc=か138頁|ref=jinji-42-jo}}。[[1985年]]6月に取締役に就任し、[[1995年]]4月には社長に昇格{{sfn|興信データ株式會社|2003|loc=か138頁|ref=jinji-42-jo}}。[[1999年]]6月に取締役相談役を経て、[[2001年]]6月に相談役に就任{{sfn|興信データ株式會社|2003|loc=か138頁|ref=jinji-42-jo}}。 [[2020年]][[4月16日]]に[[癌]]のために死去<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO58262800Q0A420C2CZ8000/ 金谷宰氏が死去 元ミノルタ(現コニカミノルタ)社長]2020年 4月20日 日本経済新聞</ref>。{{没年齢|1934|04|21|2020|04|16}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Citation|和書|author = 興信データ株式會社| title = 人事興信録 第42版 上| publisher = 興信データ| series = | volume = | edition = | date = 2003年| pages = | url = |ref = jinji-42-jo}} {{Normdaten}} {{businessperson-stub}} {{先代次代|ミノルタ社長|1993年 - 1999年|[[田嶋英雄]]|[[太田義勝]]}} {{デフォルトソート:かなや おさむ}} [[Category:20世紀日本の実業家]]] [[Category:コニカミノルタの人物]] [[Category:関西学院大学出身の人物]] [[Category:兵庫県出身の人物]] [[Category:1934年生]] [[Category:2020年没]]
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金禄永
金 禄永(キム・ノギョン、朝鮮語: 김녹영/金祿永、1924年12月8日 - 1985年7月10日)は、大韓民国のジャーナリスト、政治家。第8・9・10・12代韓国国会議員、第12代国会副議長。 本貫は蔚山金氏(朝鮮語版)。号は白愚(ペグ、백우)。金 録永(読み同じ、김록영/金錄永)という表記も見られる。 全羅南道長城郡生まれ。全南大学校大学院卒。政界入りまでは大韓独立促成青年連盟中央委員、大韓青年団組織部長・統合委員(1949年)、木浦日報光州分室長(1952年)、国防部政訓局事務官などを務めた。1949年8月8日にYWCAで韓青執行委員会議を開催した。 1956年に民主党に入党し、全南道党総務組織宣伝部長を務めた。1959年に常任委員兼全羅南道長城地区党委員長、1960年に新民党総務、第3代全羅南道議会(朝鮮語版)議員、4・19革命同志会指導委員を歴任した。1961年の5・16軍事クーデター以降は軍事延長反対闘争をしたため、光州矯導所(朝鮮語版)に投獄された。1963年の第6代総選挙では光州市乙区から立候補したが落選した。その後は新民党中央党務委員、全南道党副委員長、光州乙区党委員長を歴任した。1965年には韓日協定反対闘争委員会全羅南道宣伝分科委員長を務めた。1969年には3選改憲反対国民闘争委員会全南宣伝委員長を務めた。1971年の第8代総選挙では光州市乙区から新民党所属で立候補して当選した。1972年の10月維新の後は陸軍保安司令部に連行され拷問を受けた。1973年に柳珍山の路線に反発して民主統一党に入党しスポークスマンを務め、翌年に政策委員会議長などを歴任した。1973年の第9代総選挙では光州市選挙区から民主統一党所属で立候補し当選した。1974年に民主統一党政策委員会議長を務めた。1978年の第10代総選挙では民主統一党の候補として光州市選挙区に立候補して当選した。1979年に民主統一党副総裁になった。1980年の5・17内乱の直後、中央情報部に連行されて拷問を受け、国会議員職を辞退した。1980年8月14日に始まった金大中内乱陰謀事件(朝鮮語版)にも巻き込まれて軍法会議に起訴され、1981年の第11代総選挙に立候補できなくなった。1984年5月18日、金泳三をはじめとする政治活動が禁止された野党政治家が集まって民主化推進協議会を結成し、金は常任運営委員を務めた。1984年11月30日に規制から解禁され政治活動を再開し、1985年1月18日の新韓民主党創党大会で5人の副総裁の1人に選出された。1985年2月12日の第12代総選挙では新韓民主党候補として光州市西区選挙区に立候補して当選した。1985年5月13日より野党側の国会副議長を務めた。金の政治活動は民主主義の守護と反独裁闘争で一貫しており、5・18民主化運動の真相究明にも努力した。 国会副議長在任中の1985年7月10日に病気により東京都内の東京女子医科大学病院で死去。享年61。
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金 禄永は、大韓民国のジャーナリスト、政治家。第8・9・10・12代韓国国会議員、第12代国会副議長。 本貫は蔚山金氏。号は白愚(ペグ、백우)。金 録永(読み同じ、김록영/金錄永)という表記も見られる。
'''金 禄永'''(キム・ノギョン、{{Lang-ko|김녹영/金祿永}}、[[1924年]][[12月8日]] - [[1985年]][[7月10日]])は、[[大韓民国]]の[[ジャーナリスト]]、[[政治家]]。第8・9・10・12代[[国会 (大韓民国)|韓国国会]]議員、第12代国会副議長<ref name=디지털광주문화대전>{{Cite web |title=김녹영 - 디지털광주문화대전 |url=http://www.grandculture.net/gwangju/toc/GC60005403 |website=www.grandculture.net |access-date=2023-11-10}}</ref>。 [[本貫]]は{{仮リンク|蔚山金氏|ko|울산 김씨}}。[[雅号|号]]は'''白愚'''(ペグ、{{lang|ko|백우}})<ref name="디지털광주문화대전" />。'''金 録永'''(読み同じ、{{Lang|ko|김록영/金錄永}})という表記も見られる。 == 経歴 == [[全羅南道]][[長城郡]]生まれ<ref name=디지털광주문화대전/>。[[全南大学校]]大学院卒。政界入りまでは[[大韓独立促成青年連盟]]中央委員<ref name=韓国民族文化大百科事典>{{Cite web |title=김녹영(金祿永) |url=https://encykorea.aks.ac.kr/Article/E0008882|website=[[韓国民族文化大百科事典]]|access-date=2023-11-10 |language=ko}}</ref>、[[大韓青年団]]組織部長・統合委員(1949年)、[[木浦日報]]光州分室長(1952年)、[[国防部 (大韓民国)|国防部]]政訓局事務官などを務めた。1949年8月8日に[[YWCA]]で韓青執行委員会議を開催した<ref name=디지털광주문화대전/><ref name=대한민국헌정회/>。 1956年に[[民主党 (韓国 1955-1965)|民主党]]に入党し、全南道党総務組織宣伝部長を務めた。1959年に常任委員兼全羅南道長城地区党委員長、1960年に[[新民党]]総務、第3代{{仮リンク|全羅南道議会|ko|전라남도 의회}}議員、[[4.19革命|4・19革命]]同志会指導委員を歴任した。1961年の[[5・16軍事クーデター]]以降は軍事延長反対闘争をしたため、{{仮リンク|光州矯導所|ko|광주교도소}}に投獄された。1963年の[[第6代総選挙 (大韓民国)|第6代総選挙]]では光州市乙区から立候補したが落選した。その後は[[新民党]]中央党務委員、全南道党副委員長、光州乙区党委員長を歴任した。1965年には[[日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約|韓日協定]]反対闘争委員会全羅南道宣伝分科委員長を務めた。1969年には[[3選改憲]]反対国民闘争委員会全南宣伝委員長を務めた。1971年の[[第8代総選挙 (大韓民国)|第8代総選挙]]では光州市乙区から新民党所属で立候補して当選した。1972年の[[10月維新]]の後は陸軍保安司令部に連行され[[拷問]]を受けた。1973年に[[柳珍山]]の路線に反発して[[民主統一党]]に入党しスポークスマンを務め、翌年に政策委員会議長などを歴任した。1973年の[[第9代総選挙 (大韓民国)|第9代総選挙]]では光州市選挙区から民主統一党所属で立候補し当選した。1974年に民主統一党政策委員会議長を務めた。1978年の[[第10代総選挙 (大韓民国)|第10代総選挙]]では民主統一党の候補として光州市選挙区に立候補して当選した。1979年に民主統一党副総裁になった。1980年の[[5・17非常戒厳令拡大措置|5・17内乱]]の直後、[[大韓民国中央情報部|中央情報部]]に連行されて拷問を受け、国会議員職を辞退した。1980年8月14日に始まった{{仮リンク|金大中内乱陰謀事件|ko|김대중 내란음모 조작 사건}}にも巻き込まれて[[軍法会議]]に起訴され、1981年の[[第11代総選挙 (大韓民国)|第11代総選挙]]に立候補できなくなった。1984年5月18日、[[金泳三]]をはじめとする政治活動が禁止された[[野党]]政治家が集まって[[民主化推進協議会]]を結成し、金は常任運営委員を務めた。1984年11月30日に規制から解禁され政治活動を再開し、1985年1月18日の[[新韓民主党]]創党大会で5人の副総裁の1人に選出された。1985年2月12日の[[第12代総選挙 (大韓民国)|第12代総選挙]]では新韓民主党候補として光州市[[西区 (光州広域市)|西区]]選挙区に立候補して当選した。1985年5月13日より野党側の国会副議長を務めた。金の政治活動は[[民主主義]]の守護と反独裁闘争で一貫しており、[[光州事件|5・18民主化運動]]の真相究明にも努力した<ref name=디지털광주문화대전/><ref name=韓国民族文化大百科事典/><ref name=대한민국헌정회>{{Cite web |title=대한민국헌정회 |url=https://rokps.or.kr/profile/profile_view.asp?idx=1599&page=1 |website=rokps.or.kr |access-date=2023-11-10}}</ref>。 国会副議長在任中の1985年7月10日に病気により[[東京都]]内の[[東京女子医科大学病院]]で死去。享年61<ref>{{Cite web |title=金祿永(김녹영) 국회副議長(부의장) 別世(별세) |url=https://newslibrary.naver.com/viewer/index.naver?articleId=1985071000239101004&editNo=1&printCount=1&publishDate=1985-07-10&officeId=00023&pageNo=1&printNo=19773&publishType=00010 |website=NAVER Newslibrary |access-date=2023-11-10|work=조선일보 |date=1985.07.10 }}</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} {{DEFAULTSORT:きむ のきよん}} [[Category:韓国の国会議員]] [[Category:韓国の地方議会議員]] [[Category:韓国のジャーナリスト]] [[Category:韓国における民主化運動]] [[Category:韓国の活動家]] [[Category:民主活動家]] [[Category:政治犯]] [[Category:拷問被害者]] [[Category:全羅南道出身の人物]] [[Category:全南大学校出身の人物]] [[Category:1924年生]] [[Category:1985年没]]
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柳曽健二
柳曽 健二(やなぎそ けんじ、1940年11月9日 - )は、日本の経営者、銀行家。泉州銀行頭取を務めた。 大阪府出身。1963年に大阪市立大学商学部を卒業し、同年に泉州銀行に入行。1989年6月に取締役に就任し、1995年6月に常務、1997年6月に専務を経て、1999年6月から2001年3月までに頭取を務めた2001年 3月28日 日本経済新聞 夕刊 p3</ref>。
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柳曽 健二は、日本の経営者、銀行家。泉州銀行頭取を務めた。
'''柳曽 健二'''(やなぎそ けんじ、[[1940年]][[11月9日]] - )は、日本の[[経営者]]、[[銀行家]]。[[泉州銀行]]頭取を務めた。 == 経歴 == [[大阪府]]出身{{sfn|人事興信所|1999|loc=や64頁|ref=jinji-40-ge}}。[[1963年]]に[[大阪市立大学]]商学部を卒業し、同年に[[泉州銀行]]に入行{{sfn|人事興信所|1999|loc=や64頁|ref=jinji-40-ge}}。[[1989年]]6月に取締役に就任し、[[1995年]]6月に常務、[[1997年]]6月に専務を経て、[[1999年]]6月から[[2001年]]3月までに頭取を務めた{{sfn|人事興信所|1999|loc=や64頁|ref=jinji-40-ge}}<ref>1999年 5月29日 日経産業新聞 p26</ref><ref>2001年 3月28日 日本経済新聞 夕刊 p3</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Citation|和書|author = 人事興信所 編|title = 人事興信録 第40版 下|publisher = 人事興信所|series = |volume = |edition = |date = 1999|pages = |url = |ref = jinji-40-ge}} {{Normdaten}} {{先代次代|泉州銀行頭取|1999年 - 2001年|[[亀井敬之]]|[[吉田憲正]]}} {{デフォルトソート:やなきそ けんし}} [[Category:20世紀日本の実業家]] [[Category:21世紀日本の実業家]] [[Category:日本の銀行家]] [[Category:大阪市立大学出身の人物]] [[Category:大阪府出身の人物]] [[Category:1940年生]] [[Category:存命人物]]
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柳ヶ浦町
柳ヶ浦町(やなぎがうらまち)は、大分県宇佐郡にあった町。現在の宇佐市の一部にあたる。 中津平野の東部、駅館川の下流域から河口部に位置していた。
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柳ヶ浦町(やなぎがうらまち)は、大分県宇佐郡にあった町。現在の宇佐市の一部にあたる。
{{日本の町村 (廃止) | 廃止日 = 1955年3月31日 | 廃止理由 = 新設合併 | 廃止詳細 = 長洲町、'''柳ヶ浦町'''、[[和間村]] → [[長洲町 (大分県)|長洲町]] | 現在の自治体 = [[宇佐市]] | よみがな = やなぎがうらまち | 自治体名 = 柳ヶ浦町 | 区分 = 町 | 都道府県 = 大分県 | 郡 = [[宇佐郡]] | 面積 = | 境界未定 = | 人口 = 4775 | 人口の出典 = [[国勢調査 (日本)|国勢調査]] | 人口の時点 = 1950年 | 隣接自治体 = 長洲町、[[宇佐町 (大分県)|宇佐町]]、[[駅川町|駅川村]]、[[四日市町]] | 所在地 = 宇佐郡柳ヶ浦町大字江須賀 | 座標 = | 位置画像 = | 特記事項 = }} '''柳ヶ浦町'''(やなぎがうらまち{{R|変遷}})は、[[大分県]][[宇佐郡]]にあった[[町]]。現在の[[宇佐市]]の一部にあたる。 == 地理 == [[中津平野]]の東部、[[駅館川]]の下流域から河口部に位置していた{{R|角川}}。 *海洋:[[周防灘]] == 歴史 == *[[1889年]](明治22年)4月1日、[[町村制]]の施行により、宇佐郡江須賀村、住江村、神子山新田、順風新田、高砂新田、郡中新田が合併して村制施行し、'''柳ヶ浦村'''が発足<ref name=変遷>『市町村名変遷辞典』812頁。</ref><ref name=角川>『角川日本地名大辞典 44 大分県』830頁。</ref>。旧村名を継承した江須賀、住江、神子山新田、順風新田、高砂新田、郡中新田の6大字を編成{{R|角川}}。 *[[1894年]](明治27年)柳ケ浦銀行設立{{R|角川}} *[[1902年]](明治35年)豊中製紙株式会社設立{{R|角川}} *[[1909年]](明治42年)宇佐米穀商同業組合(大字江須賀)設立{{R|角川}} *[[1910年]](明治43年)宇佐電機株式会社設立{{R|角川}} *[[1940年]](昭和15年)7月1日、町制施行し'''柳ヶ浦町'''となる{{R|変遷}}{{R|角川}}。 *[[1945年]](昭和20年)空襲により町が壊滅した{{R|角川}}。 *[[1955年]](昭和30年)3月31日、宇佐郡長洲町、和間村と合併し、'''[[長洲町 (大分県)|長洲町]]'''が存続して廃止された{{R|変遷}}{{R|角川}}。 == 産業 == *農業、漁業{{R|角川}} == 交通 == === 鉄道 === *[[1897年]](明治30年)[[豊州鉄道]](現[[日豊本線]])が開通し長洲駅(大字江須賀)開設{{R|角川}}。1898年(明治31年)宇佐駅に改称し、さらに1909年(明治42年)[[柳ケ浦駅]]に改称{{R|角川}}。1906年(明治39年)柳ケ浦機関庫設置{{R|角川}} == 教育 == *1910年(明治43年)柳ケ浦裁縫女学校開校{{R|角川}} *[[1915年]](大正4年)村立三洲農業補修学校開校{{R|角川}} == 海軍 == *[[1939年]](昭和14年)[[宇佐海軍航空隊]]開隊{{R|角川}} == 脚注 == {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[角川日本地名大辞典]] 44 大分県 * 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。 == 関連項目 == * [[大分県の廃止市町村一覧]] {{デフォルトソート:やなきかうらまち}} [[Category:宇佐郡]] [[Category:宇佐市域の廃止市町村]] [[Category:1889年設置の日本の市町村]] [[Category:1940年設置の日本の市町村]] [[Category:1955年廃止の日本の市町村]]
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オルガ・ストランツァリ
オルガ・ストランツァリ(ギリシャ語: Όλγα Στράντζαλη、ラテン文字転写: Olga Strantzali、1996年1月12日 - )は、ギリシャの女子バレーボール選手。ポジションはアウトサイドヒッター。バレーボールギリシャ女子代表。 Skydra出身。2011年、Aias Evosmouへ入団。その後、Iraklisでのプレーを経て、2014年にアメリカ合衆国のUCLAブルーインズに進学。2015年にマイアミ大学へ編入。NCAAバレーボール選手権などに出場した。卒業後はフランスリーグのBéziers Volleyと契約し、フランスLigue Aで優勝した。2018/19シーズンはポーランドのPTPSピワでプレーした。2019/20シーズンはIŁ Capital Legionovia Legionowoに移籍し、タウロンリーガで4位となった。2020/21シーズンは当初はイタリアセリエA1のCuneo Granda Volleyでプレーし、途中からグルパ・アゾティ・チェミック・ポリツェへ移籍した。2021/22シーズンはルーマニアのCSM Volei Alba-Blajでプレーし、ルーマニアリーグで優勝を果たした。2022/23シーズンはギリシャのPAOKと契約し、ギリシャリーグで3位となった。2023/24シーズンはAEK Athensへ移籍した。 アンダーカテゴリーの代表として2011年のU-18欧州選手権で8位となった。2012年にシニアのギリシャ代表に初選出された。2013年、U-19世界選手権に出場した。2015年、ヨーロッパリーグで銅メダルを獲得した。2018年、地中海競技大会で銀メダルを獲得した。2019年、欧州選手権に出場した。2021年、欧州選手権に出場した。2022年の地中海競技大会ではベストスコアラー部門で1位の活躍をみせた。2023年からは代表チームで主将を務め、同年9月の欧州選手権に3大会連続で出場した。
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オルガ・ストランツァリは、ギリシャの女子バレーボール選手。ポジションはアウトサイドヒッター。バレーボールギリシャ女子代表。
{{バレーボール選手 |本名=オルガ・ストランツァリ |ラテン文字=Olga Strantzali |原語名=[[ギリシャ語]] |原語表記=Όλγα Στράντζαλη |画像= |国籍={{GRE}} |生年月日={{生年月日と年齢|1996|01|12}} |出身地={{Flagicon|GRE}} Skydra |ポジション=[[アウトサイドヒッター|OH]] |所属={{Flagicon|GRE}} AEK Athens |背番号=6 |愛称= |身長={{Val|185|ul=cm}} |体重={{Val|71|ul=kg}} |利き手=右 |指高= |スパイク=298cm |ブロック=288cm |獲得メダル= {{MedalCountry|{{GREwv}}}} {{MedalCompetition|[[バレーボール欧州リーグ|ヨーロッパリーグ]]}} {{MedalBronze|[[2015年バレーボール女子欧州リーグ|2015]]|ソンバトヘイ}} }} '''オルガ・ストランツァリ'''({{翻字併記|el|Όλγα Στράντζαλη|Olga Strantzali|区=、}}、[[1996年]][[1月12日]] - )は、[[ギリシャ]]の女子[[バレーボール]]選手。ポジションは[[アウトサイドヒッター]]。[[バレーボールギリシャ女子代表]]。 ==来歴== * クラブチーム Skydra出身。2011年、Aias Evosmouへ入団。その後、Iraklisでのプレーを経て、2014年にアメリカ合衆国の[[カリフォルニア大学ロサンゼルス校|UCLAブルーインズ]]に進学。2015年に[[マイアミ大学 (フロリダ州)|マイアミ大学]]へ編入。NCAAバレーボール選手権などに出場した。卒業後はフランスリーグのBéziers Volleyと契約し、フランスLigue Aで優勝した。2018/19シーズンはポーランドの[[PTPSピワ]]でプレーした。2019/20シーズンはIŁ Capital Legionovia Legionowoに移籍し、タウロンリーガで4位となった。2020/21シーズンは当初はイタリアセリエA1のCuneo Granda Volleyでプレーし、途中から[[グルパ・アゾティ・チェミック・ポリツェ]]へ移籍<ref>{{Cite web |url=https://www.chemik-police.com/aktualnosci/olga-strantzali-siatkarka-chemika/ |title=Olga Strantzali siatkarką Chemika |accessdate=2023-11-10 |date=2021-01-11}}</ref>した。2021/22シーズンはルーマニアの[[CSMヴォレイ・アルバ・ブラジ]]でプレーし、ルーマニアリーグで優勝を果たした。2022/23シーズンはギリシャのPAOKと契約し<ref>{{Cite web |url=https://www.acpaok.gr/el/article/11446-epistrefei-sthn-polh-ths-gia-ton-paok-h-olga-strantzalh! |title=Επιστρέφει στην πόλη της για τον ΠΑΟΚ η Όλγα Στράντζαλη! |accessdate=2023-11-10 |date=2022-06-04}}</ref>、ギリシャリーグで3位となった。2023/24シーズンはAEK Athensへ移籍した<ref>{{Cite web |url=https://www.aek.gr/stin-aek-i-olga-strantzali/ |title=Στην ΑΕΚ η Όλγα Στράντζαλη! |accessdate=2023-11-10 |date=2023-05-23}}</ref>。 * 代表チーム アンダーカテゴリーの代表として2011年のU-18欧州選手権で8位となった。2012年にシニアの[[バレーボールギリシャ女子代表|ギリシャ代表]]に初選出された。2013年、U-19世界選手権に出場した。2015年、[[2015年バレーボール女子欧州リーグ|ヨーロッパリーグ]]で銅メダルを獲得した。2018年、地中海競技大会で銀メダルを獲得した。2019年、[[2019年バレーボール女子欧州選手権|欧州選手権]]に出場した。2021年、[[2021年バレーボール女子欧州選手権|欧州選手権]]に出場した。2022年の地中海競技大会ではベストスコアラー部門で1位の活躍をみせた。2023年からは代表チームで主将を務め、同年9月の[[2023年バレーボール女子欧州選手権|欧州選手権]]に3大会連続で出場した。 ==球歴== * [[バレーボール欧州選手権|欧州選手権]] - 2019年、2021年、2023年 ==受賞歴== * 2022年 2021/22ルーマニアリーグ ベストアウトサイドヒッター賞、ベストサーバー賞 ==所属クラブ== * {{Flagicon|GRE}} Aias Evosmou(2011-2012年) * {{Flagicon|GRE}} Iraklis(2012-2014年) * {{Flagicon|USA}} [[カリフォルニア大学ロサンゼルス校|UCLAブルーインズ]](2014-2015年) * {{Flagicon|USA}} [[マイアミ大学 (フロリダ州)|マイアミ大学]](2015-2018年) * {{Flagicon|FRA}} Béziers Volley(2017-2018年) * {{Flagicon|POL}} [[PTPSピワ]](2018-2019年) * {{Flagicon|POL}} IŁ Capital Legionovia Legionowo(2019-2020年) * {{Flagicon|ITA}} Cuneo Granda Volley(2020年) * {{Flagicon|POL}} [[グルパ・アゾティ・チェミック・ポリツェ]](2020-2021年) * {{Flagicon|ROM}} [[CSMヴォレイ・アルバ・ブラジ]](2021-2022年) * {{Flagicon|GRE}} PAOK(2022-2023年) * {{Flagicon|GRE}} AEK Athens(2023-) ==脚注== {{Reflist}} ==外部リンク== * [https://www.fivb.org/EN/volleyball/competitions/U18/2013/Players.asp?Tourn=GU182013&Team=GRE&No=143160 FIVB公式プロフィール] * [https://www-old.cev.eu/PlayerDetail.aspx?PlayerID=6245 CEVプロフィール] {{Volleybio-stub}} {{DEFAULTSORT:すとらんつあり おるか}} [[Category:ギリシャのバレーボール選手]] [[Category:1996年生]] [[Category:存命人物]]
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江頭郁生
江頭 郁夫(えがしら いくお、1931年2月11日 - 2014年4月26日)は、日本の経営者。日動火災海上保険(現在の東京海上日動火災保険)社長を務めた。 熊本県出身。1951年に長崎経済専門学校を卒業し、同年に日動火災海上保険に入社。1972年6月に取締役に就任し、1973年6月に常務、1977年6月に専務、1982年2月に副社長を経て、1988年6月には社長に就任。1995年6月から2001年6月までに会長に就任。 2014年4月26日に心不全のために死去。83歳没。
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2023 アジア プロ野球チャンピオンシップ オーストラリア代表
2023 アジア プロ野球チャンピオンシップ オーストラリア代表(2023 アジア プロやきゅうチャンピオンシップ オーストラリアだいひょう)は、2023年に開催された2023 アジア プロ野球チャンピオンシップに出場したオーストラリア代表である。 所属は同大会期間中のもの。
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2023 アジア プロ野球チャンピオンシップ オーストラリア代表は、2023年に開催された2023 アジア プロ野球チャンピオンシップに出場したオーストラリア代表である。
'''2023 アジア プロ野球チャンピオンシップ オーストラリア代表'''(2023 アジア プロやきゅうチャンピオンシップ オーストラリアだいひょう)は、{{by|2023年}}に開催された[[2023 アジア プロ野球チャンピオンシップ]]に出場した[[野球オーストラリア代表|オーストラリア代表]]である。 == 代表選手 == 所属は同大会期間中のもの<ref>{{Cite web|title=オーストラリア代表|url=https://www.japan-baseball.jp/jp/games/apbc2023/player_aus.html|website=野球日本代表 侍ジャパンオフィシャルサイト|accessdate=2023-11-15}}</ref><ref>{{Cite web|title=Australia's Asia Professional Baseball Championship Roster Revealed|url=https://baseball.com.au/news/apbc-roster/|website=Baseball Australia|date=2023-10-23|accessdate=2023-11-11|language=en}}</ref><ref>{{Cite web|title=アジアプロ野球チャンピオンシップ2023に向けたオーストラリア代表チームの選手を紹介します。|url=https://baseball.com.au/news/meet-team-aus-japan/|website=Baseball Australia|date=2023-11-12|accessdate=2023-11-12}}</ref>。 {| class="wikitable" style="font-size:small; text-align: center; white-space:nowrap;" |- !ポジション!!背番号!!氏名!!英語表記!!所属!!投!!打!!選手生年月!!備考 |- |style="tex9t-align:center;"|監督 |14||[[デーブ・ニルソン]]||David Nilsson||style="text-align: left;"|{{Flagicon|AUS}} [[ブリスベン・バンディッツ]]監督|||||||| |- |rowspan="5" sylyle="text-align:center;"|コーチ |33||ジェームス・ベネット||James Bennett||style="text-align: left;"|{{Flagicon|AUS}} ブリスベン・バンディッツコーチ|||||||| |- |27||{{仮リンク|グレアム・ロイド|en|Graeme Lloyd}}||Graeme Lloyd||style="text-align: left;"|{{Flagicon|AUS}} [[メルボルン・エイシズ]]コーチ||||||||投手コーチ |- |7||[[トレント・ダーリントン]]||Trent Durrington||style="text-align: left;"|{{Flagicon|AUS}} ブリスベン・バンディッツコーチ|||||||| |- |13||{{仮リンク|シェーン・ワトソン (野球)|label=シェーン・ワトソン|en|Shayne Watson}}||Shayne Watson||style="text-align: left;"|{{Flagicon|AUS}} ブリスベン・バンディッツコーチ|||||||| |- |18||ダミアン・シャナハン||Damian Shanahan||style="text-align: left;"|{{Flagicon|AUS}} メルボルン・エイシズコーチ|||||||| |- |rowspan="13" sylyle="text-align:center;"|投手 |6||ブロディ・クーパーバサラキス||Brodie Cooper-Vassalakis||style="text-align: left;"|{{Flagicon|AUS}} ブリスベン・バンディッツ||右||右||<small>2000/12(22)</small>|| |- |11||{{仮リンク|ダニエル・マグラス|en|Daniel McGrath}}||Daniel McGrath||style="text-align: left;"|{{Flagicon|AUS}} 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ブリスベン・バンディッツ||右||右||<small>2001/5(22)</small>|| |- |24||ブライリー・ナイト||Briley Knight||style="text-align: left;"|{{Flagicon|AUS}} アデレード・ジャイアンツ||右||左||<small>1999/6(24)</small>|| |- |rowspan="2" sylyle="text-align:center;"|UT |22||ジェシー・ウィリアムス||Jesse Williams||style="text-align: left;"|{{Flagicon|AUS}} パース・ヒート||右||左||<small>1999/5(24)</small>|| |- |34||クリストファー・バーク||Christopher Burke||style="text-align: left;"|{{Flagicon|AUS}} メルボルン・エイシズ||右||左||<small>2001/8(22)</small>|| |} === 選出されたが辞退した選手 === {| class="wikitable" style="font-size:small; text-align: center; white-space:nowrap;" |- !ポジション!!背番号!!氏名!!英語表記!!所属!!投!!打!!選手生年月!!備考 |- |sylyle="text-align:center;"|内野手 | ||ジャリド・デール||Jarryd Dale||style="text-align: left;"|{{Flagicon|AUS}} メルボルン・エイシズ||右||右||<small>2000/9(23)</small>|| |} == 試合結果 == === 予選 === ==== 11月16日 ==== {|style="font-size: 90%; width: 100%; border-collapse: collapse;" |- style="background-color: #e0e0ff;" |style="text-align: right; width: 40%;" |{{flagicon|AUS}} オーストラリア !2 - 3x | style="text-align: left; width: 40%;" |{{flagicon|KOR}} [[2023 アジア プロ野球チャンピオンシップ 韓国代表|韓国]] |} {{Linescore |width=170 |Road={{flagicon|AUS}} オーストラリア |RoadBC= |RoadAbr=豪 |Home={{flagicon|KOR}} '''韓国''' |HomeBC= |HomeAbr=韓 |R1=1|R2=0|R3=0|R4=0|R5=0|R6=1|R7=0|R8=0|R9=0|R10=0|RR=2|RH=7|RE=3 |H1=0|H2=1|H3=0|H4=0|H5=0|H6=0|H7=0|H8=1|H9=0|H10=1x|HR=3|HH=8|HE=0 |RSP=クーパーバサラキズ(2回)、ウィン(2回1/3)、ホランド(2回)、●マグラス(2回2/3) - A.ホール |HSP=[[文棟柱 (野球)|文棟柱]](5回2/3)、[[金榮奎]](0回2/3)、[[辛旻爀]](0回0/3)、[[崔智旻]](0回2/3)、[[崔丞鎔]](1回2/3)、○[[鄭海英]](1回1/3) ‐ [[金亨俊 (野球)|金亨俊]] |WP=鄭海英(1勝) |LP=マグラス(1敗) |SV= |RoadHR=A.ホール1号(6回ソロ・文棟柱) |HomeHR= |Date=11月16日 |PU=[[山路哲生 (プロ野球審判)|山路]] |BU=[[王俊宏]](1B)、[[原信一朗|原]](2B)、[[張展榮]](3B) |Stadium=[[東京ドーム]] |Audience=3,348人 |Note1=(延長10回はタイブレーク方式) |Note2=開始:12時00分 試合時間:3時間45分<ref>{{Cite web |title=【カーネクスト アジアプロ野球チャンピオンシップ2023】 韓国 vs オーストラリア |url=https://npb.jp/scores/2023/1116/kor-aus-01/ |website=日本野球機構 |accessdate=2023-11-16}}</ref> }} {{External media |width=280px |video1=[https://www.youtube.com/watch?v=V66ET36e2gw 韓国 vs. オーストラリア(ゲーム#1 ハイライト) -カーネクスト アジアプロ野球チャンピオンシップ2023-] - 日本野球機構公式チャンネル }} ==== 11月17日 ==== {|style="font-size: 90%; width: 100%; border-collapse: collapse;" |- style="background-color: #e0e0ff;" |style="text-align: right; width: 40%;" |{{flagicon|TPE}} [[2023 アジア プロ野球チャンピオンシップ チャイニーズタイペイ代表|チャイニーズタイペイ]] !6 - 0 | style="text-align: left; width: 40%;" |{{flagicon|AUS}} オーストラリア |} {{Linescore |width=170 |Road={{flagicon|TPE}} '''チャイニーズタイペイ''' |RoadBC= |RoadAbr=台 |Home={{flagicon|AUS}} オーストラリア |HomeBC= |HomeAbr=豪 |R1=0|R2=0|R3=0|R4=0|R5=0|R6=0|R7=0|R8=0|R9=0|R10=6|RR=6|RH=9|RE=0 |H1=0|H2=0|H3=0|H4=0|H5=0|H6=0|H7=0|H8=0|H9=0|H10=0|HR=0|HH=2|HE=2 |RSP=[[陳克羿]](7回)、[[林詔恩]](1回1/3)、○[[邱駿威]](1回2/3) - [[蔣少宏]]、[[戴培峰]] |HSP=ハンプトン(3回)、ウィンヤード(1回)、ビーディー(1回)、パーソンズ(1回2/3)、シェリフ(1回1/3)、クラーク(1回)、●マグラス(0回2/3)、ラバーティー(0回1/3) - A.ホール |WP=邱駿威(1勝) |LP=マグラス(2敗) |SV= |RoadHR=[[林靖凱]]1号(10回満塁・マグラス) |HomeHR= |Date=11月17日 |PU=[[文童均]] |BU=原(1B)、[[金楨國]](2B)、山路(3B) |Stadium=東京ドーム |Audience=3,523人 |Note1=(延長10回はタイブレーク方式) |Note2=開始:12時00分 試合時間:3時間11分<ref>{{Cite web |title=【カーネクスト アジアプロ野球チャンピオンシップ2023】 オーストラリア vs チャイニーズ・タイペイ |url=https://npb.jp/scores/2023/1117/aus-tpe-01/ |website=日本野球機構 |accessdate=2023-11-17}}</ref> }} {{External media |width=280px |video1=[https://www.youtube.com/watch?v=-9KO4Bd8zho オーストラリア vs. チャイニーズ・タイペイ(ゲーム#3 ハイライト) -カーネクスト アジアプロ野球チャンピオンシップ2023-] - 日本野球機構公式チャンネル }} ==== 11月18日 ==== {|style="font-size: 90%; width: 100%; border-collapse: collapse;" |- style="background-color: #e0e0ff;" |style="text-align: right; width: 40%;" |{{flagicon|JPN}} [[2023 アジア プロ野球チャンピオンシップ 日本代表|日本]] !10 - 0 | style="text-align: left; width: 40%;" |{{flagicon|AUS}} オーストラリア |} {{Linescore |width=170 |Road={{flagicon|JPN}} '''日本''' |RoadBC= |RoadAbr=日 |Home={{flagicon|AUS}} オーストラリア |HomeBC= |HomeAbr=豪 |R1=1|R2=0|R3=2|R4=1|R5=0|R6=1|R7=3|R8=2|RR=10|RH=13|RE=0 |H1=0|H2=0|H3=0|H4=0|H5=0|H6=0|H7=0|H8=0|HR=0|HH=1|HE=3 |RSP=○[[早川隆久|早川]](5回)、[[吉村貢司郎|吉村]](1回2/3)、[[佐藤隼輔|佐藤隼]](0回1/3)、[[清水達也 (投手)|清水]](1回) - [[古賀悠斗|古賀]]、[[石橋康太|石橋]] |HSP=●ブシェル(2回)、K.ホール(1回1/3)、ラバーティー(1回2/3)、クーパーバサラキズ(2回2/3)、ビーディー(0回1/3) - バーンズ |WP=早川(1勝) |LP=ブシェル(1敗) |SV= |RoadHR= |HomeHR= |Date=11月18日 |PU=金楨國 |BU=張展榮(1B)、文童均(2B)、王俊宏(3B) |Stadium=東京ドーム |Audience=37,221人 |Note1=(規定により8回コールドゲーム) |Note2=開始:12時03分 試合時間:3時間06分<ref>{{Cite web |title=【カーネクスト アジアプロ野球チャンピオンシップ2023】 オーストラリア vs 日本 |url=https://npb.jp/scores/2023/1118/aus-jpn-01/ |website=日本野球機構 |accessdate=2023-11-18}}</ref> }} {{External media |width=280px |video1=[https://www.youtube.com/watch?v=DYOuhFES7zw オーストラリア vs. 日本(ゲーム#5 ハイライト) -カーネクスト アジアプロ野球チャンピオンシップ2023-] - 日本野球機構公式チャンネル }} ==== 3位決定戦 ==== {|style="font-size: 90%; width: 100%; border-collapse: collapse;" |- style="background-color: #e0e0ff;" |style="text-align: right; width: 40%;" |{{Flagicon|AUS}} オーストラリア !3 - 4 | style="text-align: left; width: 40%;" |{{Flagicon|TPE}} チャイニーズ・タイペイ |} {{Linescore |width=170 |Road={{Flagicon|AUS}} オーストラリア |RoadBC= |RoadAbr=豪 |Home={{Flagicon|TPE}} '''チャイニーズタイペイ''' |HomeBC= |HomeAbr=台 |R1=0|R2=0|R3=0|R4=1|R5=0|R6=0|R7=2|R8=0|R9=0|RR=3|RH=7|RE=1 |H1=0|H2=0|H3=3|H4=0|H5=0|H6=0|H7=0|H8=0|H9=1x|HR=4|HH=7|HE=0 |RSP=ホランド(2回1/3)、マグラス(0回2/3)、ウィンヤード(1回)、●ウィン(4回1/3)、シェリフ(0回0/3) - A.ホール |HSP=邱駿威(4回)、[[陳柏清]](2回1/3)、[[李子強]](1回2/3)、○林詔恩(1回) ‐ [[林呉晉瑋]] |WP=林詔恩(1勝) |LP=ウィン(1敗) |SV= |RoadHR= |HomeHR= |Date=11月19日 |PU=山路 |BU=金楨國(1B)、原(2B)、文童均(3B) |Stadium=東京ドーム |Audience=7,722人 |Note1= |Note2=開始:11時03分 試合時間:2時間56分<ref>{{Cite web |title=【カーネクスト アジアプロ野球チャンピオンシップ2023】 チャイニーズ・タイペイ vs オーストラリア |url=https://npb.jp/scores/2023/1119/tpe-aus-02/ |website=日本野球機構 |accessdate=2023-11-19}}</ref> }} {{External media |width=280px |video1=[https://www.youtube.com/watch?v=1IAVlaaEjnw チャイニーズ・タイペイ vs. オーストラリア(3位決定戦ハイライト) -カーネクスト アジアプロ野球チャンピオンシップ2023-] - 日本野球機構公式チャンネル }} == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[野球オーストラリア代表]] * [[2023 アジア プロ野球チャンピオンシップ]] {{2023 アジア プロ野球チャンピオンシップ オーストラリア代表}} {{DEFAULTSORT:あしあ ふろやきゆうちやんひおんしつふ2023おすとらりあたいひよう}} [[Category:2023 アジア プロ野球チャンピオンシップ|おすとらりあ]] [[Category:野球オーストラリア代表]] [[Category:2023年のオーストラリアのスポーツ]]
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いつしか
「いつしか」は、日本の歌手、三浦大知の楽曲。2022年10月24日に配信限定シングルとしてリリースされた。
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「いつしか」は、日本の歌手、三浦大知の楽曲。2022年10月24日に配信限定シングルとしてリリースされた。
{{Infobox Song | Name = いつしか | Artist = [[三浦大知]] | Type = [[音楽配信|配信限定]][[シングル]] | from Album = SINGLE COLLECTION 2018-2023 “COLOR___S | Released = [[2022年]][[10月24日]] | Format = [[音楽配信|デジタル・ダウンロード]]<br />[[音楽配信#定額制音楽配信|ストリーミング]] | Recorded = | Genre = {{Hlist-comma|[[J-POP]]}} | Length = 4分03秒 | Label = [[SONIC GROOVE]] | Writer = | Composer = <!-- 歌詞がない楽曲のみに使用 --> | Producer = | Certification = | Chart position = | Misc = {{Extra chronology 2 | Artist = [[三浦大知]] 配信限定シングル | Type = song | Last single = [[燦燦]]<br/>([[2022年]]) | This single = '''いつしか'''<br/>(2022年) | Next single = [[ALOS_(三浦大知の曲)|ALOS]]<br/>([[2023年]]) }} {{External music video|1=[https://www.youtube.com/watch?v=uZO7POSzFUo 「いつしか -Music Video-」] - [[YouTube]]|Type=song}} }} 「'''いつしか'''」は、[[日本]]の[[歌手]]、[[三浦大知]]の楽曲。2022年10月24日に配信限定シングルとしてリリースされた。 == 概要 == *2022年[[8月26日]]、[[10月21日]]公開の劇場アニメ『[[ぼくらのよあけ]]』の主題歌に本楽曲が決定したことが発表され、本楽曲を使用した本予告が公開された<ref>[https://realsound.jp/2022/08/post-1113450.html 三浦大知、劇場アニメ『ぼくらのよあけ』主題歌を担当 新曲「いつしか」使用した本予告も] Real Sound、2022年8月26日</ref>。これまでも数々の三浦の楽曲を手掛けてきた[[Nao'ymt]]の作詞・作曲で書き下ろされた楽曲。 *[[10月14日]]、本楽曲が[[10月24日]]に配信リリースされることが発表された。リリース決定の発表とあわせて、キャラクター原案を手がけたpomodorosaが映画のコンセプトアートとして書き下ろした配信アートワークも公開された<ref>[https://www.billboard-japan.com/d_news/detail/117723/2 三浦大知、劇場アニメ『ぼくらのよあけ』主題歌の新曲「いつしか」10/24デジタル・リリース決定] Billboard JAPAN、2022年10月16日</ref>。 *10月14日、[[テレビ朝日]]系「[[ミュージックステーション]]」にてTV初披露された<ref>[https://lmusic.tokyo/news/198157 Mステで初披露!三浦大知「いつしか」(劇場アニメ「ぼくらのよあけ」主題歌)10/24配信リリース決定&アートワーク公開] L Music、2022年10月14日</ref>のち、[[10月24日]]0時に配信リリースされた。 *[[11月12日]]に[[ユナイテッド・シネマ]] [[アクアシティお台場]]にて行われた特別舞台挨拶イベントにてフルバージョン初歌唱を披露<ref>[https://news.j-wave.co.jp/2022/11/content-974.html 三浦大知、『いつしか』生歌初披露で「本当に泣きそう!」会場の子どもの歌声にウルウル] J-WAVE NEWS、2022年11月14日</ref>。 *映画の主人公・悠真たちが通う小学校のモデルとなった杉並第二小学校の生徒約700名が書いた“絵日記”とのコラボPVが公開となった<ref>[https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1667976733 アニメ映画『ぼくらのよあけ』主⼈公・悠真たちが通う小学校のモデルとなった杉並第二小学校と三浦大知さんが歌う主題歌のコラボPVが公開! 心温まる“絵日記”が映像に!] animate Times、2022年11月9日</ref>。 *[[11月12日]]にpomodorosaの完全新作描き下ろしイラストを使用したAnimation Lyrics Videoが公式[[YouTube]]チャンネルに公開され、[[12月8日]]21時、[[ミュージックビデオ]]も公式YouTubeチャンネルに公開された<ref>[https://www.billboard-japan.com/d_news/detail/119816/2 三浦大知、総勢35名で“水上を舞う”「いつしか」MV公開 劇場アニメ『ぼくらのよあけ』主題歌] Billboard JAPAN、2022年12月9日</ref>。 == 収録曲と規格 == {{tracklist | headline = デジタルダウンロード | total_length = auto | lyrics_credits = yes | music_credits = yes | arrangements_credits = no | title1 = いつしか | lyrics1 = [[Nao'ymt]] | music1 = Nao'ymt | arranger1 = | extra1 = | length1 = 4:03 }} == 映像作品 == {{ external media | width = 250px | align = right | video1 = {{YouTube|uZO7POSzFUo|いつしか -Music Video-}} | video2 = {{YouTube|9OFlMEQwXYQ|三浦大知「いつしか」with pomodorosa's illustrations(劇場アニメ「ぼくらのよあけ」主題歌 Animation Lyrics Video}} | video3 = {{YouTube|yiEwqg2f0-Y|「ぼくらのよあけ」杉並第二小学校えにっきコラボPV}} }} ===いつしか -Music Video-=== ; 監督 : Yoshiharu Seri ; 振付 : Oguri ([[s**t kingz]]), 三浦大知 ; ダンサー : [[Shingo Okamoto]], Taabow, Macoto, DAIKI, : ANRI, aoi, caruchan, Chisato, coco, Fumiya, Hana Kinoshita, HIBIKI, Hina, iona, : kaori tsunezumi, kapo, Kazusa Ryoki, Kekke, KENZO MASUDA, Kurumi Shiina, Kyoichiro, RYOTA, Sakurako, SAYA, Saya Tanaka, ShuRi, Sola Sakazaki, SOMA, Taito, : Takara Amano, TAKERU, TSUBASA, YUMERI == パフォーマンス == === テレビ披露 === {|class="wikitable" style="font-size:small" !日時 !番組名 !放送局 !出演ダンサー !備考 |- |2022年10月14日 |[[ミュージックステーション]] |[[テレビ朝日]] | - | |- |2022年[[11月23日]] |[[テレ東音楽祭]] 2022冬~思わず歌いたくなる!最強ヒットソング100連発~ |[[テレビ東京]] |Taabow, Daiki, Macoto, Kekke, aoi, Fumiya, HIBIKI, Hina, iona, kaori tsunezumi, kapo, KENZO MASUDA, Kurumi Shiina, Sakurako, SAYA, SOMA | スペシャルパフォーマンス |- |[[2023年]][[8月26日]] |[[ミュージックフェア]] |[[フジテレビ]] |Taabow, Daiki, Macoto, HIBIKI | |- |} == タイアップ == : 劇場アニメ「[[ぼくらのよあけ]]」主題歌 == 収録アルバム == {| class="wikitable" ! 収録アルバム !! 発売日 !! 備考 |- |『'''DAICHI MIURA DOCUMENTARY 2019-2023 + SINGLE COLLECTION 2018-2023 “COLOR___S”'''』|| [[2023年]][[4月26日]]||シングルコレクション |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://avex.jp/daichi/discography/detail.php?id=1019456 MIURA DAICHI(三浦 大知) OFFICIAL WEBSITE] DISCOGRAPHYページ。 * {{Official|https://comic-days.com/episode/10834108156631854737|今井哲也『ぼくらのよあけ』}} – [[コミックDAYS]]公式WEB * {{Official|https://bokuranoyoake.com/|劇場アニメ「ぼくらのよあけ」公式サイト}} * {{Twitter|bokura_no_yoake|劇場アニメ『ぼくらのよあけ』公式}} * {{YouTube|9bUp95kxpqk|劇場アニメーション「ぼくらのよあけ」本予告}} (avex pictures) {{三浦大知}} {{Single-stub}} [[Category:三浦大知の楽曲]] [[Category:Nao'ymtが制作した楽曲]] [[Category:2022年のシングル]] [[Category:アニメ映画主題歌]] [[Category:楽曲 い|つしか]]
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岩橋清美
岩橋 清美(いわはし きよみ、1965年-)は、日本の歴史学者。國學院大學文学部教授。博士(史学)(中央大学・論文博士・2003年)。専門分野は日本近世史。 1965年東京都生まれ。1988年に中央大学文学部を卒業し、1996年に法政大学大学院人文科学研究科博士課程を単位取得退学。 東京都公文書館史料編さん係専門員、国文学研究資料館古典籍共同研究事業センター特任准教授、江戸東京博物館専門研究員、神奈川大学日本常民文化研究所客員研究員、國學院大學・千葉大学・中央大学・法政大学の各非常勤講師などを経て、2021年から國學院大學文学部准教授。2023年から同教授。 2003年、博士(史学)(中央大学)の学位を取得。 日本風俗史学会理事、交通史学会運営委員、中央史学会評議員などの役職を務める。 『近世日本の歴史意識と情報空間』(単著、名著出版、2010年) 『多摩の近世・近代史』(共著、中央大学出版部、2012年) 『都史紀要41 明治期東京府の文書管理』(単著、東京都、2013年) 『オーロラの日本史―古典籍・古文書にみる記録―』(共著、平凡社、2019年) 『小金井市史』通史編(共著、小金井市、2019年) 『幕末期の八王子千人同心と長州征討』(共著、岩田書院、2019年) 『新狛江市史』(共著、狛江市、2021年)
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岩橋 清美は、日本の歴史学者。國學院大學文学部教授。博士(史学)(中央大学・論文博士・2003年)。専門分野は日本近世史。
'''岩橋 清美'''(いわはし きよみ、[[1965年]] - )は、[[日本]]の[[歴史学者]]<ref>[https://k-read2.kokugakuin.ac.jp/profile/ja.0db6dbc89369bfc6.html K-ReaD]</ref>。[[國學院大學]][[文学部]][[教授]]<ref name=":0">[https://www.kokugakuin.ac.jp/account/234344 國學院大學「教員一覧」]</ref>。[[博士]]([[歴史学|史学]])([[中央大学]]・論文博士・[[2003年]])。専門分野は日本[[近世]]史。[[東京都]]出身。 == 来歴 == [[1988年]]に中央大学文学部を卒業。 [[1996年]]に[[法政大学]][[大学院]]人文科学研究科博士課程を[[単位取得満期退学|単位取得退学]]。 2003年、博士(史学)(中央大学)の学位を取得。 [[東京都公文書館]]史料編さん係専門員、[[国文学研究資料館]]古典籍共同研究事業センター特任准教授、[[東京都江戸東京博物館|江戸東京博物館]]専門研究員、[[神奈川大学日本常民文化研究所]]客員研究員、國學院大學・[[千葉経済大学]]・中央大学・法政大学の各非常勤講師などを経て、[[2021年]]から國學院大學文学部[[准教授]]<ref name=":0" />。[[2023年]]から同教授<ref name=":0" />。 日本風俗史学会理事、[[交通史学会]]運営委員、中央史学会評議員などの役職を務める。 == 著書 == *『近世日本の歴史意識と情報空間』(単著、名著出版、[[2010年]]) *『多摩の近世・近代史』(共著、中央大学出版部、[[2012年]]) *『都史紀要41 明治期東京府の文書管理』(単著、東京都、[[2013年]]) *『オーロラの日本史―古典籍・古文書にみる記録―』(共著、[[平凡社]]、[[2019年]]) *『小金井市史』通史編(共著、[[小金井市]]、2019年) *『幕末期の八王子千人同心と長州征討』(共著、[[岩田書院]]、2019年) *『新狛江市史』(共著、[[狛江市]]、2021年) == 関連項目 == * [[國學院大學の人物一覧]] * [[中央大学の人物一覧]] == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://www.kokugakuin.ac.jp/account/234344 國學院大學「教員一覧」] * [https://k-read2.kokugakuin.ac.jp/profile/ja.0db6dbc89369bfc6.html K-ReaD] * [https://nrid.nii.ac.jp/ja/nrid/1000050749653/ 科学研究費助成事業データベース] {{DEFAULTSORT:いわもと きよみ}} [[Category:21世紀日本の女性歴史家]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:中央大学出身の人物]] [[Category:法政大学出身の人物]] [[Category:國學院大學の教員]] [[Category:千葉経済大学の教員]] [[Category:法政大学の教員]] [[Category:中央大学の教員]] [[Category:博士(歴史学)取得者]] [[Category:国文学研究資料館の人物]] [[Category:神奈川大学日本常民文化研究所の人物]]
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田嶋英雄
田嶋 英雄(たじま ひでお、1935年10月12日- )は、日本の経営者。ミノルタ(現在の[[コニカミノルタ])社長、会長を務めた。創業者田嶋一雄の長男。 兵庫県出身。1958年に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業。田嶋商店での勤務を経て、1961年に千代田光学精工(のちのミノルタ)に転じ、1974年5月に取締役に就任し、1978年6月に常務、1980年6月に専務、1981年6月に副社長を経て、1982年6月に社長に就任。1993年4月に会長を経て、1999年6月に名誉顧問に就任。 1992年4月に藍綬褒章を受章。
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田嶋 英雄は、日本の経営者。ミノルタ(現在の[[コニカミノルタ])社長、会長を務めた。創業者田嶋一雄の長男。
'''田嶋 英雄'''(たじま ひでお、[[1935年]][[10月12日]]- )は、日本の[[経営者]]。ミノルタ(現在の[[コニカミノルタ]])社長、会長を務めた。創業者[[田嶋一雄]]の長男<ref>1993年 4月1日 日本経済新聞 朝刊 p13</ref>。 == 来歴・人物 == [[兵庫県]]出身{{sfn|興信データ株式會社|2003|loc=た13頁|ref=jinji-42-ge}}。[[1958年]]に[[慶應義塾大学]]法学部政治学科を卒業{{sfn|興信データ株式會社|2003|loc=た13頁|ref=jinji-42-ge}}。田嶋商店での勤務を経て、[[1961年]]に千代田光学精工(のちの[[ミノルタ]])に転じ、[[1974年]]5月に取締役に就任し、[[1978年]]6月に常務、[[1980年]]6月に専務、[[1981年]]6月に副社長を経て、[[1982年]]6月に社長に就任{{sfn|興信データ株式會社|2003|loc=た13頁|ref=jinji-42-ge}}。[[1993年]]4月に会長を経て、[[1999年]]6月に名誉顧問に就任{{sfn|興信データ株式會社|2003|loc=た13頁|ref=jinji-42-ge}}。 [[1992年]]4月に[[褒章|藍綬褒章]]を受章{{sfn|興信データ株式會社|2003|loc=た13頁|ref=jinji-42-ge}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Citation|和書|author = 興信データ株式會社| title = 人事興信録 第42版 下| publisher = 興信データ| series = | volume = | edition = | date = 2003年| pages = | url = |ref = jinji-42-ge}} {{先代次代|ミノルタ社長|1982年 - 1993年|[[田嶋一雄]]|[[金谷宰]]}} {{people-stub}} {{デフォルトソート:たしま ひてお}} [[Category:20世紀日本の実業家]] [[Category:コニカミノルタの人物]] [[Category:藍綬褒章受章者]] [[Category:慶應義塾大学出身の人物]] [[Category:兵庫県出身の人物]] [[Category:1935年生]] [[Category:存命人物]]
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三枝春生
三枝 春生(さえぐさ はるお、1958年〈昭和33年〉 - 2022年〈令和4年〉1月12日)は、日本の古脊椎動物学者。兵庫県立大学自然・環境科学研究所准教授、兵庫県立人と自然の博物館主任研究員。学術的貢献では兵庫県産の竜脚類恐竜である丹波竜(タンバティタニス・アミキティアエ)の記載・命名で知られる。がんのため2022年1月に死去。 1958年に東京都にて生まれる。幼少期は怪獣映画の影響を受けて恐竜への関心を強め、山や海岸での化石採集を行った。また化石に限らず、鉱物やキノコなど収集物は自然科学の広範囲に及んだ。高校は東京都立江戸川高等学校へ進学し、在学中に長野県・野尻湖でのナウマンゾウの発掘作業に参加した。1978年に埼玉大学へ進学し、理学部生体制御学科で分子生物学を専攻し、1982年に卒業。大学在学中にも古生物学への関心が強かったことから1982年に京都大学理学研究科地質学鉱物学専攻へ進学し、前述のナウマンゾウの発掘調査の指揮をした亀井節夫の指導の下、1988年に博士課程を修了し理学博士を取得。 博士号取得後、同年から信州大学日本学術振興会特別研究員。1990年から兵庫県教育委員会社会教育文化財課技術職員に採用され、兵庫県立人と自然の博物館の設立準備に携わる。同館内に設置された姫路工業大学(後に兵庫県立大学として統合)自然・環境科学研究所の研究助手に就任し、同時に同館の博物館研究員に就任。2008年から兵庫県立大学准教授と博物館主任研究員に昇進。 2022年1月12日に兵庫県西宮市に位置する自宅で死去。享年63歳。 三枝の学術研究は兵庫県明石市から産出した長鼻目哺乳類の化石から始まった。その後はステゴドン類を中心とする長鼻目の系統発生や歯の機能形態を研究し、分岐分析を取り入れた長鼻目の系統解析や現生の長鼻目の顎運動の起源に関連する議論を行った。日本国外ではエチオピアの人類化石調査をはじめとする様々な国際調査に参加し、国内では神戸層群産大型哺乳類化石と篠山層群産脊椎動物化石の調査を主導した。三枝による調査はボランティアの市民と共に進めたものであり、ボトリオドン(英語版)やザイサンアミノドンといった哺乳類の化石が発見されている。 恐竜の研究にも携わっており、2009年には兵庫県丹波市の下部白亜系から産出したティラノサウルス上科の歯化石を公表し、2020年には田中康平らと共に新卵種ヒメウーリサス・ムラカミイとサブティリオリサス・ヒョウゴエンシスを報告した。特筆すべきは2006年に発見され博物館に持ち込まれた丹波竜の化石であり、三枝はこの化石を鑑定して実物の恐竜の肋骨化石であると同定した。丹波竜は日本国内最大級の植物食恐竜と判明し、2014年には三枝がタンバティタニス・アミキティアエ(Tambatitanis amicitiae)と命名した。 三枝は教育普及活動にも力を入れ、その一例として3Dモデルを用いてミエゾウと丹波竜の復元骨格模型を作成した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "三枝 春生(さえぐさ はるお、1958年〈昭和33年〉 - 2022年〈令和4年〉1月12日)は、日本の古脊椎動物学者。兵庫県立大学自然・環境科学研究所准教授、兵庫県立人と自然の博物館主任研究員。学術的貢献では兵庫県産の竜脚類恐竜である丹波竜(タンバティタニス・アミキティアエ)の記載・命名で知られる。がんのため2022年1月に死去。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1958年に東京都にて生まれる。幼少期は怪獣映画の影響を受けて恐竜への関心を強め、山や海岸での化石採集を行った。また化石に限らず、鉱物やキノコなど収集物は自然科学の広範囲に及んだ。高校は東京都立江戸川高等学校へ進学し、在学中に長野県・野尻湖でのナウマンゾウの発掘作業に参加した。1978年に埼玉大学へ進学し、理学部生体制御学科で分子生物学を専攻し、1982年に卒業。大学在学中にも古生物学への関心が強かったことから1982年に京都大学理学研究科地質学鉱物学専攻へ進学し、前述のナウマンゾウの発掘調査の指揮をした亀井節夫の指導の下、1988年に博士課程を修了し理学博士を取得。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "博士号取得後、同年から信州大学日本学術振興会特別研究員。1990年から兵庫県教育委員会社会教育文化財課技術職員に採用され、兵庫県立人と自然の博物館の設立準備に携わる。同館内に設置された姫路工業大学(後に兵庫県立大学として統合)自然・環境科学研究所の研究助手に就任し、同時に同館の博物館研究員に就任。2008年から兵庫県立大学准教授と博物館主任研究員に昇進。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2022年1月12日に兵庫県西宮市に位置する自宅で死去。享年63歳。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "三枝の学術研究は兵庫県明石市から産出した長鼻目哺乳類の化石から始まった。その後はステゴドン類を中心とする長鼻目の系統発生や歯の機能形態を研究し、分岐分析を取り入れた長鼻目の系統解析や現生の長鼻目の顎運動の起源に関連する議論を行った。日本国外ではエチオピアの人類化石調査をはじめとする様々な国際調査に参加し、国内では神戸層群産大型哺乳類化石と篠山層群産脊椎動物化石の調査を主導した。三枝による調査はボランティアの市民と共に進めたものであり、ボトリオドン(英語版)やザイサンアミノドンといった哺乳類の化石が発見されている。", "title": "活動" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "恐竜の研究にも携わっており、2009年には兵庫県丹波市の下部白亜系から産出したティラノサウルス上科の歯化石を公表し、2020年には田中康平らと共に新卵種ヒメウーリサス・ムラカミイとサブティリオリサス・ヒョウゴエンシスを報告した。特筆すべきは2006年に発見され博物館に持ち込まれた丹波竜の化石であり、三枝はこの化石を鑑定して実物の恐竜の肋骨化石であると同定した。丹波竜は日本国内最大級の植物食恐竜と判明し、2014年には三枝がタンバティタニス・アミキティアエ(Tambatitanis amicitiae)と命名した。", "title": "活動" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "三枝は教育普及活動にも力を入れ、その一例として3Dモデルを用いてミエゾウと丹波竜の復元骨格模型を作成した。", "title": "活動" } ]
三枝 春生は、日本の古脊椎動物学者。兵庫県立大学自然・環境科学研究所准教授、兵庫県立人と自然の博物館主任研究員。学術的貢献では兵庫県産の竜脚類恐竜である丹波竜(タンバティタニス・アミキティアエ)の記載・命名で知られる。がんのため2022年1月に死去。
{{Infobox Scientist | name = 三枝 春生 | image = <!--*.jpg--> | image_size = | caption = | birth_date = 1958年 | birth_place = {{JPN}} [[東京都]]<ref name=ガイド2014/> | death_date = 2022年1月12日 | death_place = | residence = {{JPN}} [[兵庫県]][[西宮市]]<ref name=神戸新聞>{{Cite news|和書|newspaper=神戸新聞NEXT |accessdate=2023-11-10 |date=2022-05-27 |title=丹波竜の発掘指揮、三枝春生さん死去 63歳 兵庫県立人と自然の博物館主任研究員 |url=https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202205/0015337296.shtml}}</ref> | nationality = <!--国籍--> | field = [[古生物学]] | work_institution = [[兵庫県立大学]]自然・環境科学研究所<br>[[兵庫県立人と自然の博物館]] | alma_mater = [[京都大学大学院理学研究科・理学部|京都大学理学研究科]]<ref name=ガイド2014>{{Cite web|和書|title=兵庫県立人と自然の博物館セミナーガイド2014 |accessdate=2023-11-10 |year=2014 |publisher=[[兵庫県立人と自然の博物館]] |url=https://www.hitohaku.jp/seminar/files/2014seminar_guide.pdf}}</ref> | doctoral_advisor = [[亀井節夫]]<ref name=池田2023/> | doctoral_students = <!--博士課程指導学生--> | known_for = 丹波竜の記載・命名 | prizes = | religion = <!--信仰--> | footnotes = }} '''三枝 春生'''(さえぐさ はるお、[[1958年]]<ref name=ガイド2014/>〈[[昭和]]33年〉 - [[2022年]]〈[[令和]]4年〉[[1月12日]]<ref name=神戸新聞/>)は、[[日本]]の[[古生物学|古脊椎動物学者]]。[[兵庫県立大学]]自然・環境科学研究所准教授<ref>{{Cite news|和書|title=兵庫県立大の自然・環境科学研究所・三枝春生准教授(古脊椎動物学)の話 |url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO34042250Q8A810C1CR0000/ |accessdate=2023-11-10 |date=2018-08-10 |newspaper=[[日本経済新聞]]}}</ref>、[[兵庫県立人と自然の博物館]]主任研究員<ref name=神戸新聞/>。学術的貢献では兵庫県産の[[竜脚類]]恐竜である[[丹波竜]](タンバティタニス・アミキティアエ)の記載・命名で知られる<ref name=神戸新聞/><ref name=NHK>{{Cite web|url=https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010780 |title=刷新される恐竜像と私たち~21世紀の恐竜番組~ |accessdate=2023-11-11 |publisher=[[日本放送協会]]}}</ref>。[[がん]]のため2022年1月に死去<ref name=神戸新聞/>。 == 経歴 == 1958年に[[東京都]]にて生まれる<ref name=池田2023>{{Cite journal|和書|title=三枝春生先生を偲ぶ |author=池田忠広 |journal=化石 |publisher=[[日本古生物学会]] |volume=113 |pages=27-29 |url=https://doi.org/10.14825/kaseki.113.0_27 |doi=10.14825/kaseki.113.0_27 |year=2023}}{{フリーアクセス}}</ref>。幼少期は[[怪獣映画]]の影響を受けて[[恐竜]]への関心を強め、山や海岸での[[化石]]採集を行った<ref name=池田2023/>。また化石に限らず、[[鉱物]]や[[キノコ]]など収集物は自然科学の広範囲に及んだ<ref name=池田2023/>。高校は[[東京都立江戸川高等学校]]へ進学し、在学中に[[長野県]]・[[野尻湖]]での[[ナウマンゾウ]]の発掘作業に参加した<ref name=池田2023/>。1978年に[[埼玉大学]]へ進学し、理学部生体制御学科で[[分子生物学]]を専攻し、1982年に卒業<ref name=池田2023/>。大学在学中にも古生物学への関心が強かったことから1982年に[[京都大学大学院理学研究科・理学部|京都大学理学研究科]]地質学鉱物学専攻へ進学し、前述のナウマンゾウの発掘調査の指揮をした[[亀井節夫]]の指導の下、1988年に博士課程を修了し[[理学博士]]を取得<ref name=池田2023/>。 博士号取得後、同年から[[信州大学]]日本学術振興会特別研究員<ref name=池田2023/>。1990年から[[兵庫県教育委員会]]社会教育文化財課技術職員に採用され<ref name=池田2023/>、兵庫県立人と自然の博物館の設立準備に携わる<ref name=池田2023/><ref name=神戸新聞/><ref name=神戸新聞2>{{Cite news|url=https://www.kobe-np.co.jp/news/sanda/202205/0015345896.shtml |title=「すごい恐竜の骨が」強い化石愛、調査妥協なく「丹波竜」研究の第一人者、三枝春生さん |date=2022-05-31 |accessdate=2023-11-11 |newspaper=神戸新聞NEXT}}</ref>。同館内に設置された[[姫路工業大学]](後に[[兵庫県立大学]]として統合)自然・環境科学研究所の研究助手に就任し、同時に同館の博物館研究員に就任<ref name=池田2023/>。2008年から兵庫県立大学准教授と博物館主任研究員に昇進<ref name=池田2023/>。 2022年1月12日に兵庫県[[西宮市]]に位置する自宅で死去<ref name=神戸新聞/>。享年63歳<ref name=池田2023/>。 == 活動 == 三枝の学術研究は兵庫県[[明石市]]から産出した[[長鼻目]]哺乳類の化石から始まった<ref name=池田2023/>。その後は[[ステゴドン類]]を中心とする長鼻目の系統発生や[[歯]]の機能形態を研究し、分岐分析を取り入れた長鼻目の系統解析や現生の長鼻目の顎運動の起源に関連する議論を行った<ref name=池田2023/>。日本国外では[[エチオピア]]の人類化石調査をはじめとする様々な国際調査に参加し<ref name=池田2023/>、国内では[[神戸層群]]産大型哺乳類化石と[[篠山層群]]産脊椎動物化石の調査を主導した<ref name=池田2023/>。三枝による調査はボランティアの市民と共に進めたものであり、{{仮リンク|ボトリオドン|en|Bothriodon|preserve=1}}([[サンダタンジュウ]])や[[ザイサンアミノドン]]といった哺乳類の化石が発見されている<ref name=池田2023/>。 恐竜の研究にも携わっており、2009年には兵庫県[[丹波市]]の[[前期白亜紀|下部白亜系]]から産出した[[ティラノサウルス上科]]の歯化石を公表し<ref>{{Cite web|title=ティラノの祖先の歯、兵庫で発見/同時期の個体より大型 |url=http://www.shikoku-np.co.jp/national/science_environmental/20090620000179 |date=2009-06-20 |accessdate=2023-11-11 |publisher=[[四国新聞社]]}}</ref>、2020年には[[田中康平 (古生物学者)|田中康平]]らと共に新卵種ヒメウーリサス・ムラカミイとサブティリオリサス・ヒョウゴエンシスを報告した<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.hitohaku.jp/research/h-research/20200623news-paper2.pdf |date=2020-06-23 |accessdate=2023-11-11 |title=世界最小の恐竜卵化石を発見! ~多様な小型恐竜の存在判明、兵庫県丹波市の卵殻化石群で~ |publisher=[[筑波大学]]、[[兵庫県立人と自然の博物館]]}}</ref>。特筆すべきは2006年に発見され博物館に持ち込まれた[[丹波竜]]の化石であり、三枝はこの化石を鑑定して実物の恐竜の[[肋骨]]化石であると同定した<ref>{{Cite web|url=http://www.shikoku-np.co.jp/national/life_topic/20070224000071 |title=恐竜化石発掘に山里沸く/兵庫・丹波市にファン殺到 |date=2007-02-24 |accessdate=2023-11-11 |publisher=[[四国新聞社]]}}</ref><ref name=神戸新聞2/>。丹波竜は日本国内最大級の植物食恐竜と判明し、2014年には三枝がタンバティタニス・アミキティアエ(''Tambatitanis amicitiae'')と命名した<ref name=神戸新聞2/>。 三枝は教育普及活動にも力を入れ、その一例として3Dモデルを用いて[[ミエゾウ]]と丹波竜の復元骨格模型を作成した<ref name=池田2023/>。 == メディア出演 == * 『[[NHKスペシャル]]』「これが恐竜王国ニッポンだ!」(2018年8月29日)<ref name=NHK/> * 『NHKスペシャル』「恐竜超世界 in Japan」(2020年3月30日)<ref>{{Cite web|url=https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/blog/bl/pneAjJR3gn/bp/po07VpqgEM/ |title=恐竜超世界 in Japan(前編) |accessdate=2023-11-11 |date=2020-03-30 |publisher=[[日本放送協会]]}}</ref> * 『[[ダーウィンが来た!]]』「日本で大発見!恐竜新世界」<ref>{{Cite web|url=https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A202108221930001302100 |title=ダーウィンが来た! 「日本で大発見!恐竜新世界」 |website=NHKアーカイブス |publisher=日本放送協会 |accessdate=2023-11-11}}</ref>(2021年8月22日)<ref>{{Cite tweet|author=[[ダーウィンが来た!]] |user=nhk_darwin |number=1428914773756891139 |title=【明日夜7時30分~ #恐竜】世界最小の恐竜卵を産んだ親の姿は、化石発見者の村上茂さん、化石を研究した三枝春生博士、田中康平博士の目の前に合成し、復活させました。撮影のご協力、本当にありがとうございました!#ダーウィンが来た #化石 #CG |date=2021-08-21 |access-date=2023-11-10}}</ref> == 出典 == {{Reflist|2}} == 外部リンク == * [https://researchmap.jp/read0195515 三枝 春生] - researchmap {{デフォルトソート:さえくさ はるお}} [[Category:埼玉大学出身の人物]] [[Category:京都大学出身の人物]] [[Category:兵庫県立大学の教員]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:日本の古生物学者]] [[Category:1958年生]] [[Category:2022年没]]
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デイヴィジ・ヴァシングトン・ジ・ソウザ・エウジェニオ
デイヴィジ・ヴァシングトン(Deivid Washington)ことデイヴィジ・ヴァシングトン・ジ・ソウザ・エウジェニオ(ポルトガル語: Deivid Washington de Souza Eugênio、2005年6月5日 - )は、ブラジルのサッカー選手。のポジションはFW。 ゴイアス州イツンビアラの生まれ。8歳の時にグレミオFBPAの下部組織に加入した。マルコス・アスンソンの手引きによって3年後にサントスFCの下部組織に移籍した。16歳で3年のプロ契約を締結したが、この時の違約金が1億レアルと報じられて話題となった。2022年にはU-17の州リーグで16得点、U-20の大会総計で20得点を記録するなどの活躍を見せ、ネクスト・ジェネレーション2022に選出された。 2023年のコパ・サンパウロ・ジ・フチボウ・ジュニオールを終え、トップチームがカンピオナート・パウリスタを終えるとトップチームで練習するようになった。4月11日に行われたコパ・ド・ブラジルでユースの先輩にあたるマルコス・レオナルドに代わって投入されて選手初出場を記録した。同月17日に2026年4月迄契約を延長した。5月10日にカンピオナート・ブラジレイロ・セリエAでプロ初得点を記録した。 同年8月24日にプレミアリーグのチェルシーFCに完全移籍した。契約年数は7年で、さらに延長オプションがつけられた。10月28日に移籍後初出場を記録した。
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デイヴィジ・ヴァシングトンことデイヴィジ・ヴァシングトン・ジ・ソウザ・エウジェニオは、ブラジルのサッカー選手。のポジションはFW。
{{ポルトガル語圏の姓名|ジ・ソウザ|エウジェニオ}} {{サッカー選手 |名前=デイヴィジ・ヴァシングトン |画像=Deivid washington nottingham forest 2023.jpg |画像の説明= |本名=デイヴィジ・ヴァシングトン・ジ・ソウザ・エウジェニオ |愛称= |カタカナ表記= |アルファベット表記=Deivid Washington de Souza Eugênio |原語名= |原語表記= |国={{BRA}} |誕生日={{生年月日と年齢|2005|6|5}} |出身地=[[ゴイアス州]][[イツンビアラ]] |身長=187cm |体重=73kg |血液型= |所属チーム名={{Flagicon|ENG}} [[チェルシーFC]] |ポジション=[[フォワード (サッカー)|FW]](CF) |背番号=36 |利き足=右足 |ユース年1=2013-2016|ユースクラブ1={{Flagicon|BRA}} [[グレミオFBPA|グレミオ]] |ユース年2=2016-2023|ユースクラブ2={{Flagicon|BRA}} [[サントスFC|サントス]] |年1=2023|クラブ1={{Flagicon|BRA}} サントス|出場1=12|得点1=2 |年2=2023-|クラブ2={{Flagicon|ENG}} [[チェルシーFC|チェルシー]]|出場2=|得点2= |クラブ成績更新日=2023年11月11日 |代表年1=|代表1=|代表出場1=|代表得点1= |代表成績更新日= |監督年1=|監督チーム1= |medaltemplates= }} '''デイヴィジ・ヴァシングトン'''({{lang|pt|Deivid Washington}})こと'''デイヴィジ・ヴァシングトン・ジ・ソウザ・エウジェニオ'''({{lang-pt|Deivid Washington de Souza Eugênio}}、[[2005年]][[6月5日]] - )は、[[ブラジル]]のサッカー選手。のポジションは[[フォワード (サッカー)|FW]]。 ==クラブ歴== [[ゴイアス州]][[イツンビアラ]]の生まれ<ref>{{cite web|url=https://sagresonline.com.br/jovem-de-itumbiara-com-multa-de-r-100-milhoes-e-a-nova-aposta-do-santos/|title=Jovem de Itumbiara com multa de R$ 100 milhões é a nova aposta do Santos|trans-title=Itumbiara youngster with a R$ 100 million release clause is the new bet of Santos|publisher=Sagres Online|language=pt-BR|date=10 January 2023|accessdate=14 January 2023}}</ref>。8歳の時に[[グレミオFBPA]]の下部組織に加入した<ref name=":0">{{Cite web |last=Rudá |first=Yago |date=29 September 2022 |title=Conheça Deivid, atacante do Santos citado em lista inglesa como promessa mundial |trans-title=Know Deivid, Santos forward cited in English list as a world prospect |url=https://ge.globo.com/sp/santos-e-regiao/futebol/times/santos/noticia/2022/09/29/conheca-deivid-atacante-do-santos-citado-em-lista-inglesa-como-promessa-mundial.ghtml |access-date=2022-10-04 |website=Globo Esporte |location=São Paulo |language=pt-br |format=ghtml}}</ref><ref>{{Cite web |last=Magalhães |first=Camilla |date=2022-06-08 |title=Atacante Deivid é uma das boas promessas do Santos no Brasileirão Sub-17 |trans-title=Forward Deivid is one of the good prospects of Santos in the ''Brasileirão'' Sub-17 |url=https://www.vavel.com/br/futebol/2021/05/07/santos/1070420-atacante-deivid-e-uma-das-boas-promessas-do-santos-no-brasileirao-sub-17.html |access-date=2022-10-04 |website=VAVEL |language=pt-br}}</ref><ref name=":1">{{Cite news |last1=Christenson |first1=Marcus |last2=Bloor |first2=Steven |last3=Blight |first3=Garry |last4=Rabelo |first4=Thiago |title=Next Generation 2022: 60 of the best young talents in world football |language=en-GB |work=The Guardian |url=https://www.theguardian.com/football/ng-interactive/2022/sep/28/next-generation-2022-60-of-the-best-young-talents-in-world-football |access-date=2022-10-04 |issn=0261-3077}}</ref><ref>{{Cite web |last=Marcello |first=Laura |date=28 September 2022 |title=Deivid é citado em tradicional lista dos melhores talentos do mundo de jornal inglês |trans-title=Deivid is cited in traditional list of the world's best talents of English journal |url=https://www.diariodopeixe.com.br/noticias/deivid-e-citado-em-tradicional-lista-dos-melhores-talentos-do-mundo-de-jornal-ingles/ |access-date=2022-10-04 |website=Diário do Peixe |language=pt-BR}}</ref>。[[マルコス・ドス・サントス・アスンソン|マルコス・アスンソン]]の手引きによって3年後に[[サントスFC]]の下部組織に移籍した<ref name=":1" /><ref name=":0" /><ref>{{Cite web |last=Fernandes |first=Thiago |date=17 Aug 2022 |title=Técnico Elder Campos vive boa fase nas categorias de base do Santos |trans-title=Manager Elder Campos has a good run in the youth categories of Santos |url=https://www.goal.com/br/not%C3%ADcias/tecnico-elder-campos-vive-boa-fase-nas-categorias-de-base-do/blt6d8de15697257073 |access-date=2022-10-04 |website=Goal}}</ref><ref name=":2">{{Cite web |date=17 August 2022 |title=Atacante de R$ 100 milhões, Deivid brilha na equipe Sub-17 do Santos |trans-title=R$ 100 million forward, Deivid shines in the under-17 team of Santos |url=https://www.lance.com.br/santos/atacante-de-r-100-milhoes-deivid-brilha-na-equipe-sub-17-do-santos.html |access-date=2022-10-04 |website=Lance! |location=Santos, São Paulo |language=pt-BR}}</ref><ref>{{Cite web |date=21 December 2021 |title=Artilheiro do sub-17 do Santos festeja temporada e mira profissional: "Um dos meus sonhos" |trans-title=Top scorer of the under-17s of Santos celebrates season and aims the first team: "One of my dreams" |url=https://ge.globo.com/sp/santos-e-regiao/futebol/times/santos/noticia/noticias-santos-sub-17-deivid-artilheiro.ghtml |access-date=2022-10-04 |website=Globo Esporte |location=Santos, São Paulo |language=pt-br |format=gthml}}</ref>。16歳で3年のプロ契約を締結したが、この時の違約金が1億レアルと報じられて話題となった<ref name=":2" /><ref>{{Cite web |date=15 Oct 2021 |title=Destaque no sub-17 do Santos, atacante com multa de R$ 100 milhões mira time profissional |trans-title=Spotlight in the under-17 team of Santos, forward with R$ 100 million release clause aims the first team 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duelo da Sul-Americana neste domingo|trans-title=With Deivid Washington called up, Santos board for duel in the Sudamericana this Sunday|publisher=Lance!|language=pt-BR|date=2 April 2023|accessdate=4 April 2023}}</ref>。4月11日に行われた[[コパ・ド・ブラジル]]でユースの先輩にあたる[[マルコス・レオナルド・サントス・アウメイダ|マルコス・レオナルド]]に代わって投入されて選手初出場を記録した<ref>{{cite web|url=https://www.uol.com.br/esporte/futebol/ultimas-noticias/2023/04/11/botafogo-sp-x-santos----copa-do-brasil.htm|title=Lucas Lima marca, Santos bate Botafogo-SP e abre vantagem na Copa do Brasil|trans-title=Lucas Lima scores, Santos defeat Botafogo-SP and get an advantage in the Copa do Brasil|publisher=Universo Online|language=pt-BR|date=11 April 2023|accessdate=11 April 2023}}</ref><ref>{{cite web|url=https://ge.globo.com/sp/ribeirao-preto-e-regiao/futebol/copa-do-brasil/noticia/2023/04/12/promessa-da-base-deivid-estreia-no-profissional-do-santos-e-da-mais-um-passo-em-busca-de-sonho.ghtml|title=Promessa da base, Deivid estreia no profissional do Santos e dá mais 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2023}}</ref>。 同年8月24日に[[プレミアリーグ]]の[[チェルシーFC]]に完全移籍した<ref>{{cite web|url=https://www.santosfc.com.br/santos-fc-oficializa-transferencia-de-deivid-washington-ao-chelsea/|title=Santos FC oficializa transferência de Deivid Washington ao Chelsea|trans-title=Santos FC turn official transfer of Deivid Washington to Chelsea|publisher=Santos FC|language=pt-BR|date=24 August 2023|accessdate=24 August 2023}}</ref>。契約年数は7年で、さらに延長オプションがつけられた<ref>{{cite web|url=https://www.chelseafc.com/en/news/article/washington-completes-chelsea-switch|title=Washington completes Chelsea switch|publisher=Chelsea FC|date=24 August 2023|accessdate=24 August 2023}}</ref>。10月28日に移籍後初出場を記録した。 ==参考文献== {{reflist|30em}} ==外部リンク== *{{sports links}} {{チェルシーFCのメンバー}} {{DEFAULTSORT:し そうさ えうしえにお ていういし うあしんくとん}} [[Category:ブラジルのサッカー選手]] [[Category:サントスFCの選手]] [[Category:チェルシーFCの選手]] [[Category:イツンビアラ出身の人物]] [[Category:2005年生]] [[Category:存命人物]]
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ペドロ・ペトローネ
ペドロ・ペトローネ・スキアボーネ(スペイン語: Pedro Petrone Schiavone、1905年5月11日 - 1964年12月13日)は、ウルグアイの元サッカー選手。元ウルグアイ代表。選手時代のポジションはFW。 1923年にチャルレイFCで選手となり、翌年にクルブ・ナシオナル・デ・フットボールに移籍した。ナシオナルではエースとして試合数より多い得点を決めたが、ナシオナルでのクラブタイトルはキャリア通算で2回に留まった。 1931年にACFフィオレンティーナに移籍し、1931-32シーズンの得点王にアンジェロ・スキアビオとともに輝いた。イタリアでは100メートルを11秒で走る快足を見せ、リーグ最速とも呼ばれた。 1933年にナシオナルに復帰し、翌年に引退した。 1964年に59歳で歿した。 1923年から1930年にかけて代表出場があり、公式記録では28試合24得点が残っているが、FIFA非公式の試合も合わせると80試合36得点の記録が残っている。パリオリンピックとアムステルダムオリンピックで連覇し金メダルを二回受け取った他、1930 FIFAワールドカップでも優勝を記録し、黄金期のエースストライカーとして活躍した。また、パリオリンピックの金メダルを受け取った時の年齢は19歳29日で、1世紀を経ても五輪サッカー史上最年少記録となっている他、彼は同大会の得点王にも輝いており、これも最年少記録である。
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ペドロ・ペトローネ・スキアボーネは、ウルグアイの元サッカー選手。元ウルグアイ代表。選手時代のポジションはFW。
{{スペイン語圏の姓名|ペトローネ|スキアボーネ}} {{サッカー選手 |名前=ペドロ・ペトローネ |画像=Pedro Petrone (1928).jpg |画像の説明= |本名=ペドロ・ペトローネ・スキアボーネ |愛称= |カタカナ表記= |アルファベット表記=Pedro Petrone |原語名= |原語表記= |国={{URU}} |誕生日={{生年月日|1905|5|11}} |没年月日={{死亡年月日と没年齢|1905|5|11|1964|12|13}} |出身地=[[モンテビデオ]] |身長=173cm |体重= |血液型= |所属チーム名= |ポジション=[[フォワード (サッカー)|FW]](CF) |背番号= |利き足= |ユース年1=1920-1922|ユースクラブ1={{Flagicon|URU}} ソルフェリーノ・モンテビデオ |年1=1923-1924|クラブ1={{Flagicon|URU}} [[チャルレイFC|チャルレイ]]|出場1=|得点1= |年2=1924-1931|クラブ2={{Flagicon|URU}} [[クルブ・ナシオナル・デ・フットボール|ナシオナル]]|出場2=128|得点2=146 |年3=1931-1933|クラブ3={{Flagicon|ITA}} [[ACFフィオレンティーナ|フィオレンティーナ]]|出場3=44|得点3=37 |年4=1933-1934|クラブ4={{Flagicon|URU}} ナシオナル|出場4=20|得点4=30 |クラブ成績更新日= |代表年1=1923-1930|代表1={{fb|URU}}|代表出場1=28|代表得点1=24 |代表成績更新日= |監督年1=|監督チーム1= |medaltemplates= }} '''ペドロ・ペトローネ・スキアボーネ'''({{lang-es|Pedro Petrone Schiavone}}、[[1905年]][[5月11日]] - [[1964年]][[12月13日]])は、[[ウルグアイ]]の元サッカー選手。元[[サッカーウルグアイ代表|ウルグアイ代表]]。選手時代のポジションは[[フォワード (サッカー)|FW]]。 ==クラブ歴== 1923年に[[チャルレイFC]]で選手となり、翌年に[[クルブ・ナシオナル・デ・フットボール]]に移籍した。ナシオナルではエースとして試合数より多い得点を決めたが、ナシオナルでのクラブタイトルはキャリア通算で2回に留まった。 1931年に[[ACFフィオレンティーナ]]に移籍し、[[セリエA (サッカー) 1931-1932|1931-32シーズン]]の得点王に[[アンジェロ・スキアビオ]]とともに輝いた。イタリアでは100メートルを11秒で走る快足を見せ、リーグ最速とも呼ばれた。 1933年にナシオナルに復帰し、翌年に引退した。 1964年に59歳で歿した。 ==代表歴== 1923年から1930年にかけて代表出場があり、公式記録では28試合24得点が残っているが、FIFA非公式の試合も合わせると80試合36得点の記録が残っている。[[1924年パリオリンピックのサッカー競技|パリオリンピック]]と[[1928年アムステルダムオリンピックのサッカー競技|アムステルダムオリンピック]]で連覇し金メダルを二回受け取った他、[[1930 FIFAワールドカップ]]でも優勝を記録し、黄金期のエースストライカーとして活躍した<ref>{{cite web|url=https://www.olympedia.org/athletes/27664 |title=Pedro Petrone |work=Olympedia |access-date=18 August 2021}}</ref>。また、パリオリンピックの金メダルを受け取った時の年齢は19歳29日で、1世紀を経ても五輪サッカー史上最年少記録となっている他、彼は同大会の得点王にも輝いており、これも最年少記録である。 ==参考文献== {{reflist|30em}} ==外部リンク== *{{sports links}} {{Navboxes |title=ウルグアイ代表 - 出場大会 |titlestyle=background:#5CBFEB; border:1px solid black; |list1= {{パリオリンピック サッカーウルグアイ代表}} {{アムステルダムオリンピック サッカーウルグアイ代表}} {{1930 FIFAワールドカップウルグアイ代表}} }} {{Navboxes |title=タイトル・受賞歴 |titlestyle=background:gold; |list1= {{コパ・アメリカ得点王}} {{コパ・アメリカ最優秀選手賞}} {{オリンピックサッカー競技得点王}} {{サッカーセリエA得点王}} }} {{DEFAULTSORT:へとろおね へとろ}} [[Category:ウルグアイのサッカー選手]] [[Category:サッカーウルグアイ代表選手]] [[Category:オリンピックサッカーウルグアイ代表選手]] [[Category:FIFAワールドカップウルグアイ代表選手]] [[Category:ナシオナル・モンテビデオの選手]] [[Category:ACFフィオレンティーナの選手]] [[Category:ウルグアイのオリンピック金メダリスト]] [[Category:サッカーのオリンピックメダリスト]] [[Category:FIFAワールドカップ優勝選手]] [[Category:1924年パリオリンピックサッカー出場選手]] [[Category:1928年アムステルダムオリンピックサッカー出場選手]] [[Category:1930 FIFAワールドカップ出場選手]] [[Category:モンテビデオ出身の人物]] [[Category:1905年生]] [[Category:1964年没]]
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アンヘル・ロマーノ
サバト・アンヘル・ロマーノ(スペイン語: Sábato Ángel Romano、1893年8月2日 - 1972年8月22日)は、ウルグアイの元サッカー選手。元ウルグアイ代表。選手時代のポジションはFW。 1910年にクルブ・ナシオナル・デ・フットボールで選手となる。翌年にセントラル・ウルグアイ・レールウェイCCに移籍し、リーグ優勝を記録した。1913年にボカ・ジュニアーズに移籍した。 1915年にナシオナルに戻るとリーグ優勝8回を経験し1930年に37歳で引退する迄所属した。 1911年から1927年にかけて70試合28得点の記録を有している。コパ・アメリカには9回出場し6回優勝の記録を有しており、同大会優勝回数は1世紀を経ても破られていない記録である。また、パリオリンピックにも出場しており、金メダルを獲得している。
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サバト・アンヘル・ロマーノは、ウルグアイの元サッカー選手。元ウルグアイ代表。選手時代のポジションはFW。
{{サッカー選手 |名前=アンヘル・ロマーノ |画像=Angel romano portrait.jpg |画像の説明= |本名=サバト・アンヘル・ロマーノ |愛称= |カタカナ表記= |アルファベット表記=Ángel Romano |原語名= |原語表記= |国={{URU}} |誕生日={{生年月日|1893|8|2}} |没年月日={{死亡年月日と没年齢|1893|8|2|1972|8|22}} |出身地=[[モンテビデオ]] |身長= |体重= |血液型= |所属チーム名= |ポジション=[[フォワード (サッカー)|FW]](SS) |背番号= |利き足= |ユース年1=|ユースクラブ1= |年1=1910|クラブ1={{Flagicon|URU}} [[クルブ・ナシオナル・デ・フットボール|ナシオナル]]|出場1=|得点1= |年2=1911-1913|クラブ2={{Flagicon|URU}} [[セントラル・ウルグアイ・レールウェイCC|CURCC]]|出場2=|得点2= |年3=1913-1915|クラブ3={{Flagicon|ARG}} [[ボカ・ジュニアーズ]]|出場3=|得点3= |年4=1915-1930|クラブ4={{Flagicon|URU}} ナシオナル|出場4=|得点4= |クラブ成績更新日= |代表年1=1911-1927|代表1={{fb|URU}}|代表出場1=70|代表得点1=28 |代表成績更新日= |監督年1=|監督チーム1= |medaltemplates= }} '''サバト・アンヘル・ロマーノ'''({{lang-es|Sábato Ángel Romano}}、[[1893年]][[8月2日]] - [[1972年]][[8月22日]])は、[[ウルグアイ]]の元サッカー選手。元[[サッカーウルグアイ代表|ウルグアイ代表]]。選手時代のポジションは[[フォワード (サッカー)|FW]]。 ==クラブ歴== 1910年に[[クルブ・ナシオナル・デ・フットボール]]で選手となる。翌年に[[セントラル・ウルグアイ・レールウェイCC]]に移籍し、リーグ優勝を記録した。1913年に[[ボカ・ジュニアーズ]]に移籍した。 1915年にナシオナルに戻るとリーグ優勝8回を経験し1930年に37歳で引退する迄所属した。 ==代表歴== 1911年から1927年にかけて70試合28得点の記録を有している<ref>[https://www.auf.org.uy/angel-romano/ Ángel Romano – AUF]</ref>。[[コパ・アメリカ]]には9回出場し6回優勝の記録を有しており、同大会優勝回数は1世紀を経ても破られていない記録である。また、[[1924年パリオリンピックのサッカー競技|パリオリンピック]]にも出場しており、金メダルを獲得している<ref>{{cite web|url=https://www.olympedia.org/athletes/27666 |title=Ángel Romano |work=Olympedia |access-date=18 August 2021}}</ref>。 ==参考文献== {{reflist|30em}} ==外部リンク== *{{sports links}} {{Navboxes |title=ウルグアイ代表 - 出場大会 |titlestyle=background:#5CBFEB; border:1px solid black; |list1= {{南米選手権1916ウルグアイ代表}} {{南米選手権1917ウルグアイ代表}} {{パリオリンピック サッカーウルグアイ代表}} }} {{Navboxes |title=タイトル・受賞歴 |titlestyle=background:gold; |list1= {{コパ・アメリカ得点王}} }} {{DEFAULTSORT:ろまあの あんへる}} [[Category:ウルグアイのサッカー選手]] [[Category:サッカーウルグアイ代表選手]] [[Category:オリンピックサッカーウルグアイ代表選手]] [[Category:ナシオナル・モンテビデオの選手]] [[Category:ボカ・ジュニアーズの選手]] [[Category:ウルグアイのオリンピック金メダリスト]] [[Category:サッカーのオリンピックメダリスト]] [[Category:1924年パリオリンピックサッカー出場選手]] [[Category:モンテビデオ出身の人物]] [[Category:1893年生]] [[Category:1972年没]]
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ウルマニス
ウルマニス(Ulmanis)は、ラトビア語の姓。ドイツ語の姓であるウルマンに由来する。女性形はウルマネ(Ulmane)。
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ウルマニス(Ulmanis)は、ラトビア語の姓。ドイツ語の姓であるウルマンに由来する。女性形はウルマネ(Ulmane)。 カールリス・ウルマニス - ラトビア共和国初代首相、第4代大統領。 グンティス・ウルマニス - ラトビア共和国第5代大統領。
'''ウルマニス'''(Ulmanis)は、[[ラトビア語]]の姓。[[ドイツ語]]の姓である[[ウルマン]]に由来する。女性形は'''ウルマネ'''(Ulmane)。 *[[カールリス・ウルマニス]] - ラトビア共和国初代首相、第4代大統領。 *[[グンティス・ウルマニス]] - ラトビア共和国第5代大統領。 {{人名の曖昧さ回避}} {{DEFAULTSORT:うるまにす}} [[Category:ラトビア語の姓]] [[Category:ドイツ由来の姓]]
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幻案寺
幻案寺(しょうあんじ)は、滋賀県大津市逢坂に位置する浄土宗の寺院である。山号は松渓山。本尊は阿弥陀如来。 1559年(永禄2年)に西念によって創建。開基した西念は足利義澄の姪であり、幻案寺以外にも近江国で西念寺と華階寺を創建した。 また寺宝に「絹本著色阿弥陀三尊来迎図」と「紙本著色西念上人像」が保管されている。
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幻案寺(しょうあんじ)は、滋賀県大津市逢坂に位置する浄土宗の寺院である。山号は松渓山。本尊は阿弥陀如来。
{{日本の寺院 |名称 = 幻案寺 |画像 = [[ファイル:幻案寺.jpeg|300px]] |所在地 = [[滋賀県]][[大津市]]逢坂1丁目11-11 |山号 = 松渓山 |院号 = 法性院 |宗派 = [[浄土宗]] |本尊 = [[阿弥陀如来]] |創建年 = [[1559年]]([[永禄]]2年) |開基 = [[西念 (浄土宗)|西念]] |正式名 = 松渓山 法性院 幻案寺 |札所等 = |文化財 = }} '''幻案寺'''(しょうあんじ{{要出典|date=2023年11月}})は、[[滋賀県]][[大津市]]逢坂に位置する[[浄土宗]]の[[寺院]]である。山号は松渓山。本尊は[[阿弥陀如来]]<ref>{{cite web|url=https://yaokami.jp/1255095/|title=幻案寺|publisher=八百万の神|accessdate=2023-11-11}}</ref>。 == 歴史 == [[1559年]]([[永禄]]2年)に[[西念 (浄土宗)|西念]]によって創建<ref>『浄土宗全書』(浄土宗宗典刊行会、[[1914年]])</ref>。開基した西念は[[足利義澄]]の姪であり、幻案寺以外にも[[近江国]]で[[西念寺 (大津市)|西念寺]]と[[華階寺]]を創建した<ref>『新修大津市史:中部地域』(大津市、[[1978年]])</ref>。 また寺宝に「絹本著色阿弥陀三尊来迎図」と「紙本著色西念上人像」が保管されている<ref>{{cite web|url=https://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/news/image/201206/amidasama.syuttinitiran.pdf|title=「阿弥陀さま―極楽浄土への誓い―」 展示予定リスト|publisher=大津市歴史博物館|accessdate=2023-11-11}}</ref>。 == 交通 == * [[西日本旅客鉄道|JR]]「[[大津駅]]」より徒歩で約5分。 == 脚注 == <references /> == 外部リンク == * [http://otera.jodo.or.jp/temple/28-416/ 幻案寺] - 浄土宗。 {{Buddhism-stub}} {{DEFAULTSORT:しようあんし}} [[Category:大津市の寺]] [[Category:浄土宗の寺院]]
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衝撃 (曲)
「衝撃」(しょうげき)は日本の女性歌手、安藤裕子の楽曲である。デジタル配信限定シングルとしてポニーキャニオンより2020年12月7日に各音楽配信サービスにて先行リリースされ、2021年2月3日にCDシングルとして発売された。 全曲作詞・作曲:安藤裕子
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「衝撃」(しょうげき)は日本の女性歌手、安藤裕子の楽曲である。デジタル配信限定シングルとしてポニーキャニオンより2020年12月7日に各音楽配信サービスにて先行リリースされ、2021年2月3日にCDシングルとして発売された。
{{Infobox Single | Name = 衝撃 | Artist = [[安藤裕子]] | Album = Kongtong Recordings | B-side = nontitle<br />花一匁 | Released = [[2020年]][[12月7日]](配信)<br />[[2021年]][[2月3日]](CD) | Format = [[シングル|CDシングル]]<br />(PCCA-04999) | Recorded = 2020年 | Genre = [[J-POP]]([[アニメソング]]) | Length = 3分4秒 | Label = [[ポニーキャニオン]] | Writer = 安藤裕子 | Producer = | Chart position = *49位([[オリコンチャート|オリコン]])<ref name=oricon>{{Cite web|url=https://www.oricon.co.jp/prof/320894/products/1378935/1/|title=衝撃 - 安藤裕子 - ORICON NEWS - ORICON NEWS|publisher=オリコン|accessdate=2023-11-10}}</ref> | Last single = 鑑<br />(2019年) | This single = '''衝撃'''<br />(2021年) | Next single = ReadyReady<br />(2021年) | Misc = {{External music video|{{YouTube|UAuwzw_5JU4|『衝撃』Music Video}}}} }} 「'''衝撃'''」(しょうげき)は[[日本]]の[[女性]][[歌手]]、[[安藤裕子]]の楽曲である。デジタル配信限定シングルとしてポニーキャニオンより[[2020年]][[12月7日]]に各音楽配信サービスにて先行リリースされ、2021年2月3日にCDシングルとして発売された。 == 概要 == *前作「鑑」以来1年6ヶ月ぶりのデジタル配信限定シングルで、CDシングルとしては「360°サラウンド」以来、約5年7ヶ月ぶりとなる<ref name=oricon />。 *表題曲は、テレビアニメ『[[進撃の巨人 (アニメ)|進撃の巨人 The Final Season]]』のエンディングテーマに書き下ろし起用されている。安藤がテレビアニメのテーマソングを担当するのは2004年の「[[and do, record.|忘れものの森]]」より16年ぶりとなる。 *安藤は表題曲について「この世の終わりの瞬間を切り取った曲で、戦場というイレギュラーな状況での極まった感情をつづったもの」<ref>{{Cite web|url=https://natalie.mu/music/pp/andoyuko03|title=安藤裕子インタビュー - 混沌とした時代の空気詰め込んだ「Kongtong Recordings」 |publisher=音楽ナタリー|date=2021-11-17|accessdate=2023-11-10}}</ref>「『進撃の巨人』という作品に私自身が随分とのめりこんで、現実世界とは違う世界観で作り上げたもの」<ref>{{Cite web|url=https://e.usen.com/feature/feature-unext/kongtong-recordings.html|title=安藤裕子『Kongtong Recordings』インタビュー |publisher=USENの音楽情報サイト「encore(アンコール)」|date=2021-11-16|accessdate=2023-11-10}}</ref>とコメントしている。 *シングル発売と同日に安藤の公式Youtubeチャンネルにてミュージックビデオが公開された。ミュージックビデオは川上智之が監督を務めた<ref>{{Cite web|url=https://www.lisani.jp/0000165510/|title=安藤裕子が手掛ける、TVアニメ『進撃の巨人』The Final SeasonEDテーマ「衝撃」のミュージックビデオ公開! |publisher=リスアニ!|date=2021-2-7|accessdate=2023-11-10}}</ref>。 *表題曲は安藤の11枚目のオリジナルアルバム『Kongtong Recordings』にアルバム・バージョンとして収録され、楽曲の後半部分が延長された。本バージョンには、『進撃の巨人』のキャラクター・ミカサの主人公・エレンに対する気持ちを伝える様子を最後に、シリーズの結末に関するネタバレとみなされるかもしれなくて「'''一秒前に戻して 彼が消え去る前に'''」という歌詞が追加されているが、これに関して安藤は「私が担当したアニメの時期には内容的にフィットしなかったので歌っていなかったのですが、このタイミングでは漫画も終わったこともあり、歌わせていただきました」と宣言している<ref>{{Cite web|url=https://realsound.jp/2021/11/post-904951_2.html|title=『進撃の巨人』の影響から生まれた「Goodbye Halo」と「森の子ら」|publisher=Real Sound|date=2021-11-17|accessdate=2023-11-11}}</ref>。 == 収録曲 == === CD === 全曲作詞・作曲:安藤裕子 # '''衝撃''' [3:04] #:編曲:[[Shigekuni]] # '''nontitle''' [6:11] # '''花一匁''' [3:31] #:編曲:Shigekuni・安藤裕子 === 配信シングル === # '''衝撃''' [3:04] === 衝撃 (molmol DUB) 配信シングル === # '''衝撃 (molmol DUB)''' [2:59] == 参加ミュージシャン == *[[須磨和声]] - Violin(#1) *林田順平 - Cello(#1) *Shigekuni - Computer Programming(#1)、Bass(#2) *[[あらきゆうこ]] - Drums(#2)、Percussions(#3) *[[Tomi Yo]] - Piano(#2)、Synthesizer(#3) == 収録アルバム == *「衝撃」 **『Kongtong Recordings』(2021年11月17日) - 「衝撃 (album ver.)」として収録。 **『Rearrangement Reaction』(2022年6月29日) - 「衝撃 KOHTA YAMAMOTO Remix」として収録。 == 出典 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://www.ando-yuko.com/musics/9965 衝撃 (配信シングル) - 安藤裕子オフィシャルサイト] * [https://www.ando-yuko.com/musics/9966/ 衝撃 - 安藤裕子オフィシャルサイト] {{安藤裕子}} {{進撃の巨人}} {{デフォルトソート:しようけき}} [[Category:安藤裕子の楽曲]] [[Category:2021年のシングル]] [[Category:ポニーキャニオンの楽曲]] [[Category:進撃の巨人の音楽]] [[Category:NHKのテレビアニメ主題歌]] [[Category:楽曲 し|ようけき]]
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華階寺
華階寺(けかいじ)は、滋賀県大津市京町に位置する浄土宗の寺院である。山号は旭高山。本尊は阿弥陀如来。 1559年(永禄2年)に西念によって創建。華階寺は大津浄土宗五箇本寺のひとつに数えられている。西念は華階寺を創建する前に近江国で幻案寺と西念寺も建立した。 この地には元々は平安時代中期に平将門を討つなどして活躍した関東の武将・藤原秀郷が居を構えていたと伝えられ、境内には秀郷が腰をかけて石山の月を眺めたという「月見の石」がある。また秀郷には、三上山の百足むかで退治伝説があり、華階寺には秀郷がそのときに用いた矢の根で刻んだという矢の根地蔵尊がある。 寺の前の中央大通りには「華階寺のイチョウ」があり、1968年(昭和43年)の大通り整備までは、華階寺の庭に存在した。
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華階寺(けかいじ)は、滋賀県大津市京町に位置する浄土宗の寺院である。山号は旭高山。本尊は阿弥陀如来。
{{日本の寺院 |名称 = 華階寺 |画像 = File:Kekai-ji, Otsu.jpg |所在地 = [[滋賀県]][[大津市]]京町3丁目3-14 |山号 = 旭高山 |院号 = 幻中院 |宗派 = [[浄土宗]] |本尊 = [[阿弥陀如来]] |創建年 = [[1559年]]([[永禄]]2年) |開基 = [[西念 (浄土宗)|西念]] |正式名 = 旭高山 幻中院 華階寺 |札所等 = |文化財 = }} '''華階寺'''(けかいじ)は、[[滋賀県]][[大津市]]京町に位置する[[浄土宗]]の[[寺院]]である。山号は旭高山。本尊は[[阿弥陀如来]]<ref>{{cite web|url=https://yaokami.jp/1255061/|title=華階寺|publisher=八百万の神|accessdate=2023-11-11}}</ref>。 == 歴史 == [[1559年]]([[永禄]]2年)に[[西念 (浄土宗)|西念]]によって創建。華階寺は大津浄土宗五箇本寺のひとつに数えられている。西念は華階寺を創建する前に[[近江国]]で[[幻案寺]]と[[西念寺 (大津市)|西念寺]]も建立した<ref>『新修大津市史:中部地域』(大津市、[[1978年]])</ref>。 この地には元々は[[平安時代]]中期に[[平将門]]を討つなどして活躍した関東の武将・[[藤原秀郷]]が居を構えていたと伝えられ、境内には秀郷が腰をかけて石山の月を眺めたという「月見の石」がある。また秀郷には、[[三上山]]の百足むかで退治伝説があり、華階寺には秀郷がそのときに用いた矢の根で刻んだという矢の根地蔵尊がある<ref>『大津市志 下巻』(淳風房、[[1911年]])</ref>。 寺の前の中央大通りには「華階寺のイチョウ」があり、[[1968年]]([[昭和]]43年)の大通り整備までは、華階寺の庭に存在した<ref>{{cite web|url=http://www.tree-flower.jp/25/kekaiji_icho_429/kekaiji_no_icho.htm|title=華階寺のイチョウ|publisher=巨樹と花のページ|accessdate=2023-11-11}}</ref>。 == 交通 == * [[西日本旅客鉄道|JR]]「[[大津駅]]」より徒歩で約5分。 == 脚注 == <references /> == 外部リンク == * [http://otera.jodo.or.jp/temple/28-414/ 華階寺] - 浄土宗。 {{Buddhism-stub}} {{DEFAULTSORT:けかいし}} [[Category:大津市の寺]] [[Category:浄土宗の寺院]]
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西念 (浄土宗)
西念(さいねん、生没年不詳)は、浄土宗の僧。近江国出身。父は足利義維。室町幕府11代将軍・足利義澄の姪。 父は足利義維で室町幕府11代将軍・足利義澄の姪にあたる。母は大内義興の娘。出家して専蓮社称誉万休西念と号し、1559年(永禄2年)に近江国で幻案寺と西念寺をそれぞれ建立した後、父の菩提を弔うために藤原秀郷が居を構えていた旧地に華階寺を創建。 また足利義澄の法名である旭山道晃にちなみ旭高山と称した。
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西念(さいねん、生没年不詳)は、浄土宗の僧。近江国出身。父は足利義維。室町幕府11代将軍・足利義澄の姪。
{{Infobox Buddhist |名前 = 西念 |生没年 = 生没年不詳 |諡号 = 専蓮社称誉万休西念 |尊称 = 旭高山 |生地 = [[近江国]]([[滋賀県]][[大津市]]) |没地 = |画像 = |説明文 = |宗派 = [[浄土宗]] |寺院 = [[華階寺]]<br />[[幻案寺]]<br />[[西念寺 (大津市)|西念寺]] |師 = |弟子 = |著作 = }} '''西念'''(さいねん、生没年不詳)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[浄土宗]]の[[尼]]。[[近江国]]出身。父は[[足利義維]]。[[室町幕府]]11代将軍・[[足利義澄]]の姪。   == 生涯 == 父は[[足利義維]]で[[室町幕府]]11代将軍・[[足利義澄]]の姪にあたる<ref>『大日本寺院總覽』(明治出版社、[[1916年]])</ref>。母は[[大内義興]]の娘。出家して専蓮社称誉万休西念と号し、[[1559年]]([[永禄]]2年)に[[近江国]]で[[幻案寺]]と[[西念寺 (大津市)|西念寺]]をそれぞれ建立した後、父の菩提を弔うために[[藤原秀郷]]が居を構えていた旧地に[[華階寺]]を創建<ref>『新修大津市史:中部地域』(大津市、[[1978年]])</ref>。 また足利義澄の法名である旭山道晃にちなみ旭高山と称した<ref>『大津市志 下巻』(淳風房、[[1911年]])</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{buddhism-stub}} {{People-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:さいねん}} [[Category:16世紀日本の尼僧]] [[Category:浄土宗の僧]] [[Category:室町・安土桃山時代の僧]] [[Category:戦国時代の女性 (日本)]] [[Category:平島公方足利家]] [[Category:近江国の人物]] [[Category:生没年不詳]]
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粕谷恭子
粕谷 恭子(かすや きょうこ、1975年8月31日 - )は、日本の元競泳選手。埼玉県出身。1992年バルセロナオリンピック日本代表。 入間市立豊岡中学校、狭山ヶ丘高校、早稲田大学出身。 1990年アジア競技大会の100m平泳ぎ・400mメドレーリレーで銀メダル、200m平泳ぎで銅メダル、合わせて3つのメダルを獲得した。 1991年パンパシフィック水泳選手権の200m平泳ぎと400mメドレーリレーで銅メダルを獲得した。 1992年バルセロナオリンピック選考会では100m・200m平泳ぎで2冠を達成し、日本代表に選出された。バルセロナオリンピック本大会では100m平泳ぎで予選敗退、200m平泳ぎはB決勝5位(全体15位)に入った。 1993年パンパシフィック水泳選手権の400mメドレーリレーで銅メダルを獲得した。 1996年アトランタオリンピック選考会では100m平泳ぎで3位、200m平泳ぎで6位となり、2大会連続のオリンピック出場は果たせなかった。
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粕谷 恭子は、日本の元競泳選手。埼玉県出身。1992年バルセロナオリンピック日本代表。
{{Infobox Swimmer | 氏名 = 粕谷恭子 | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | フルネーム = 粕谷恭子 | 国籍 = {{JPN}} | 泳法 = [[平泳ぎ]] | 所属 = ピープル埼玉 | 生年月日 = {{生年月日と年齢|1975|8|31}} | 生誕地 = 埼玉県[[入間市]] | 身長 = 165cm | 体重 = | medaltemplates = {{MedalSport|[[競泳]]女子}} {{MedalCountry | {{JPN}} }} {{MedalCompetition|[[アジア競技大会]]}} {{MedalSilver|[[1990年アジア競技大会|1990]]|100m平泳ぎ}} {{MedalSilver|1990|400mメドレーリレー}} {{MedalBronze|1990|200m平泳ぎ}} {{MedalCompetition|[[パンパシフィック水泳選手権]]}} {{MedalBronze|[[1991年パンパシフィック水泳選手権|1991]]|200m平泳ぎ}} {{MedalBronze|1991|400mメドレーリレー}} {{MedalBronze|[[1993年パンパシフィック水泳選手権|1993]]|400mメドレーリレー}} |show-medals=Yes }} '''粕谷 恭子'''(かすや きょうこ、[[1975年]][[8月31日]] - )は、日本の元[[競泳選手]]。[[埼玉県]]出身。[[1992年バルセロナオリンピック]]日本代表。 == 経歴 == [[入間市立豊岡中学校]]<ref>[https://swim.or.jp/assets/files/pdf/pages/swim/winners/juniorhighschool/1563367444-%E5%A5%B3%E5%B9%B3%E6%B3%B3%E3%81%8E100.pdf 全国中学校水泳競技大会 女子歴代優勝者 100m平泳ぎ]</ref>、[[狭山ヶ丘高等学校・付属中学校|狭山ヶ丘高校]]<ref>[https://swim.or.jp/assets/files/pdf/pages/swim/winners/highschool/2023/breaststroke/20230824w_100br.pdf 日本高等学校選手権 歴代選手権獲得者 女子 100m 平泳ぎ]</ref>、[[早稲田大学]]出身<ref>[https://swim.or.jp/assets/files/pdf/pages/swim/winners/university/IC_W_Br_200m.pdf 日本学生選手権 歴代選手権獲得者 女子 200m 平泳ぎ]</ref>。 [[1990年アジア競技大会]]の100m平泳ぎ・400mメドレーリレーで銀メダル、200m平泳ぎで銅メダル、合わせて3つのメダルを獲得した<ref>日本水泳連盟『月刊水泳』171号、4頁</ref>。 [[1991年パンパシフィック水泳選手権]]の200m平泳ぎと400mメドレーリレーで銅メダルを獲得した<ref>日本水泳連盟『月刊水泳』183号、4頁</ref>。 [[第68回日本選手権水泳競技大会|1992年バルセロナオリンピック選考会]]では100m・200m平泳ぎで2冠を達成し、日本代表に選出された<ref>日本水泳連盟『月刊水泳』191号、15-16頁</ref>。[[1992年バルセロナオリンピックの競泳競技|バルセロナオリンピック本大会]]では100m平泳ぎで予選敗退、200m平泳ぎはB決勝5位(全体15位)に入った<ref>[https://www.worldaquatics.com/athletes/1064356/kyoko-kasuya WA公式プロフィール]</ref>。 [[1993年パンパシフィック水泳選手権]]の400mメドレーリレーで銅メダルを獲得した<ref>日本水泳連盟『月刊水泳』206号、2頁</ref>。 [[第72回日本選手権水泳競技大会|1996年アトランタオリンピック選考会]]では100m平泳ぎで3位、200m平泳ぎで6位となり、2大会連続のオリンピック出場は果たせなかった<ref>日本水泳連盟『月刊水泳』238号、20‐21頁</ref>。 == 関連項目 == * [[4×100mメドレーリレーの歴代日本記録一覧]] == 脚注 == {{Reflist}} ==外部リンク== *{{Sports links}} {{日本選手権水泳競技大会女子100m平泳ぎ優勝者}} {{日本選手権水泳競技大会女子200m平泳ぎ優勝者}} {{1989年パンパシフィック水泳選手権 競泳日本代表}} {{1990年アジア競技大会 競泳日本代表}} {{1991年世界水泳選手権 競泳日本代表}} {{1991年パンパシフィック水泳選手権 競泳日本代表}} {{1992年バルセロナオリンピック 競泳日本代表}} {{1993年パンパシフィック水泳選手権 競泳日本代表}} {{デフォルトソート:かすや きようこ}} [[Category:日本の女子競泳選手]] [[Category:競泳日本代表選手]] [[Category:オリンピック競泳日本代表選手]] [[Category:世界水泳選手権競泳日本代表選手]] [[Category:アジア競技大会競泳日本代表選手]] [[Category:パンパシフィック水泳選手権日本代表選手]] [[Category:ユニバーシアード競泳日本代表選手]] [[Category:パンパシフィック水泳選手権メダリスト]] [[Category:日本のアジア競技大会銀メダリスト]] [[Category:日本のアジア競技大会銅メダリスト]] [[Category:平泳ぎの選手]] [[Category:早稲田大学出身の人物]] [[Category:埼玉県出身のスポーツ選手]] [[Category:1975年生]] [[Category:存命人物]]
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西念寺 (大津市)
西念寺(さいねんじ)は、滋賀県大津市別保に位置する浄土宗の寺院である。山号は壽海山。本尊は阿弥陀如来。 1559年(永禄2年)に西念によって創建。開基した西念は足利義澄の姪にあたり、同年に近江国で幻案寺と華階寺も建立した。 また鎌倉時代に作られた木造阿弥陀如来と両脇侍が安置されている。
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西念寺(さいねんじ)は、滋賀県大津市別保に位置する浄土宗の寺院である。山号は壽海山。本尊は阿弥陀如来。
{{日本の寺院 |名称 = 西念寺 |画像 = {{画像募集中|cat=大津市}} |所在地 = [[滋賀県]][[大津市]]別保一丁目1番14号 |山号 = 壽海山 |院号 = 萬休院 |宗派 = [[浄土宗]] |本尊 = [[阿弥陀如来]] |創建年 = [[1559年]]([[永禄]]2年) |開基 = [[西念 (浄土宗)|西念]] |正式名 = 壽海山 萬休院 西念寺 |札所等 = |文化財 = }} '''西念寺'''(さいねんじ)は、[[滋賀県]][[大津市]]別保に位置する[[浄土宗]]の[[寺院]]である。山号は壽海山。本尊は[[阿弥陀如来]]<ref>{{cite web|url=https://yaokami.jp/1255371/|title=西念寺|publisher=八百万の神|accessdate=2023-11-11}}</ref>。 == 歴史 == [[1559年]]([[永禄]]2年)に[[西念 (浄土宗)|西念]]によって創建。開基した西念は[[足利義澄]]の姪にあたり、同年に[[近江国]]で[[幻案寺]]と[[華階寺]]も建立した<ref>『新修大津市史:中部地域』(大津市、[[1978年]])</ref>。 また[[鎌倉時代]]に作られた木造阿弥陀如来と両脇侍が安置されている<ref>{{cite web|url=https://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/news/image/201206/amidasama.syuttinitiran.pdf|title=「阿弥陀さま―極楽浄土への誓い―」 展示予定リスト|publisher=大津市歴史博物館|accessdate=2023-11-11}}</ref>。 == 交通 == * [[西日本旅客鉄道|JR]]「[[石山駅]]」より徒歩で約15分。 == 脚注 == <references /> == 外部リンク == * [http://otera.jodo.or.jp/temple/28-408/ 西念寺] - 浄土宗。 {{Buddhism-stub}} {{DEFAULTSORT:さいねんし}} [[Category:大津市の寺]] [[Category:浄土宗の寺院]]
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