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マリア・ゼルボ
マリア・ゼルボ(ギリシャ語: Μαρία Ζερβού, ラテン文字転写: Maria Zervou, 1973年11月18日 -) は、ギリシャ 出身の 女性声優、女性歌手、音響監督 です。 太字はメインキャラクター。
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マリア・ゼルボ(ギリシャ語: Μαρία Ζερβού, ラテン文字転写: Maria Zervou, 1973年11月18日 -) は、ギリシャ 出身の 女性声優、女性歌手、音響監督 です。
{{複数の問題 | 特筆性 = 2023-12 | 存命人物の出典皆無 = 2023-12 }} {{声優 | 名前 = マリア・ゼルボ | ふりがな = | 画像ファイル = | 画像サイズ = | 画像コメント = | 本名 = マリア・パパドプロ・ゼルヴォウ | 愛称 = | 性別 = 女性 | 出生地 = {{Flagicon|GRE}} [[ギリシャ]]、[[アテネ]] | 死没地 = | 生年 = 1973 | 生月 = 11 | 生日 = 18 | 没年 = | 没月 = | 没日 = | 血液型 = | 身長 = | 職業 = | 事務所 = | 配偶者 = | 著名な家族 = | 公式サイト = | 活動時期 = 1997年 - | デビュー作 = | 活動 = }} '''マリア・ゼルボ'''({{翻字併記|el|Μαρία Ζερβού|Maria Zervou}}, [[1973年]][[11月18日]] -) は、[[ギリシャ]] 出身の 女性[[声優]]、女性[[歌手]]、[[音響監督]] です。 == 出演作品 == '''太字'''はメインキャラクター。 === テレビアニメ === * [[ふしぎの国のアリス (テレビアニメ)|ふしぎの国のアリス]] * [[みんなヒーロー! 〜ヒグリータウンのなかまたち〜]] (キップ) * [[ジョジョ・サーカス]] (ジョジョ) * [[パウ・パトロール]] * [[バブル・グッピーズ]] (モリー) === アニメ映画 === * [[バーンヤード]] (役名表記なし) * [[ムーラン2]] (ムーラン) * [[スポンジ・ボブ 海のみんなが世界を救Woo!]] ([[サンディ・チークス]]) * [[ライオン・キング3 ハクナ・マタタ]] (ナラ) * [[天才犬ピーボ博士のタイムトラベル]] (パティ・ピーターソン) === テレビドラマ === * [[4400 未知からの生還者]] * [[バーニー&フレンズ]] === 唱歌 === * [[おちゃめな魔女サブリナ]] (サブリナ・スペルマン (歌唱のみ)) == 外部リンク == * [[imdbname:3752939|マリア・ゼルボ]] - [[IMDb]] [[Category:ギリシャの女優]] [[Category:ギリシャの声優]] [[Category:ギリシャの歌手]] [[Category:1973年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:アテネ大学出身の人物]] [[Category:アテネ出身の人物]] [[Category:ギリシャ語の音響監督]]
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一宮忠男
一宮 忠男(いちみや ただお、1955年8月13日 - )は、日本の経営者。ヤマダ電機社長を務めた。宮崎県出身。 1980年に創価大学法学部を卒業し、1983年にヤマダ電機に入社した。1986年に取締役に就任し、1986年に常務、1988年に専務、1995年に副社長を経て、2008年6月に社長に就任。しかし、2013年6月に業績不振の責任を取る形で副社長に降格。
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一宮 忠男は、日本の経営者。ヤマダ電機社長を務めた。宮崎県出身。
'''一宮 忠男'''(いちみや ただお、[[1955年]][[8月13日]] - )は、日本の[[経営者]]。[[ヤマダ電機]]社長を務めた。[[宮崎県]]出身<ref name="日本紳士録" >「第八十版 日本紳士録 2007年 い274」</ref>。 == 来歴・人物 == [[1980年]]に[[創価大学]]法学部を卒業し、1983年に[[ヤマダ電機]]に入社した<ref name="日本紳士録" />。[[1986年]]に取締役に就任し、[[1986年]]に常務、[[1988年]]に専務、[[1995年]]に副社長を経て、[[2008年]]6月に社長に就任<ref name="日本紳士録" /><ref>2008年 4月2日 日本経済新聞 朝刊 p13</ref>。しかし、[[2013年]]6月に業績不振の責任を取る形で副社長に降格<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXNASGF3002C_Q3A430C1000000/ ヤマダ電機、山田会長が社長復帰 全取締役を降格]2013年 4月30日 日本経済新聞</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{S-start}} {{Succession box |title = [[ヤマダ電機]]社長 |years = 2代:[[2008年]] - [[2013年]] |before = [[山田昇 (実業家)|山田昇]] |after = 山田晃 }} {{S-end}} {{Businessperson-stub}} {{デフォルトソート:いちみや たたお}} [[Category:21世紀日本の実業家]] [[Category:ヤマダホールディングスの人物]] [[Category:創価大学出身の人物]] [[Category:宮崎県出身の人物]] [[Category:1955年生]] [[Category:存命人物]]
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東有田村
東有田村(ひがしありたむら)は、大分県日田郡にあった村。現在の日田市の一部にあたる。 有田川の上中流、同支流・求来里川流域の山間部に位置していた。
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東有田村(ひがしありたむら)は、大分県日田郡にあった村。現在の日田市の一部にあたる。
{{日本の町村 (廃止) | 廃止日 = 1955年3月31日 | 廃止理由 = 編入合併 | 廃止詳細 = '''東有田村'''、[[小野村 (大分県)|小野村]]、[[大鶴村 (大分県)|大鶴村]]、[[夜明村]]、[[五和村 (大分県)|五和村]] → [[日田市]] | 現在の自治体 = 日田市 | よみがな = ひがしありたむら | 自治体名 = 東有田村 | 区分 = 村 | 都道府県 = 大分県 | 郡 = [[日田郡]] | 面積 = | 境界未定 = | 人口 = 4337 | 人口の出典 = [[国勢調査 (日本)|国勢調査]] | 人口の時点 = 1950年 | 隣接自治体 = 日田市、[[馬原村]]、[[玖珠郡]][[玖珠町]]、[[下毛郡]][[山国町|山国村]] | 所在地 = 日田郡東有田村大字東有田 | 座標 = | 位置画像 = | 特記事項 = }} '''東有田村'''(ひがしありたむら{{R|変遷}})は、[[大分県]][[日田郡]]にあった[[村]]。現在の[[日田市]]の一部にあたる。 == 地理 == [[有田川 (大分県)|有田川]]の上中流、同支流・[[求来里川]]流域の山間部に位置していた{{R|角川}}。 == 歴史 == *[[1889年]](明治22年)4月1日、[[町村制]]の施行により、日田郡東有田村、羽田村が合併して村制施行し、'''東有田村'''が発足<ref name=変遷>『市町村名変遷辞典』643頁。</ref><ref name=角川>『角川日本地名大辞典 44 大分県』677頁。</ref>。旧村名を継承した東有田、羽田の2大字を編成{{R|角川}}。 *[[1955年]](昭和30年)3月31日、'''[[日田市]]'''に編入され廃止{{R|変遷}}{{R|角川}}。 == 産業 == *農業、木炭{{R|角川}} == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * [[角川日本地名大辞典]] 44 大分県 * 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。 == 関連項目 == * [[大分県の廃止市町村一覧]] {{デフォルトソート:ひかしありたむら}} [[Category:日田郡]] [[Category:日田市域の廃止市町村]] [[Category:1889年設置の日本の市町村]] [[Category:1955年廃止の日本の市町村]]
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ヨブスマソウ
ヨブスマソウ(夜衾草、学名: Parasenecio robustus)はキク科コウモリソウ属の多年草である。若葉や若い茎葉は、山菜として食べられている。 和名の「ヨブスマ」とはコウモリのことで、葉の形に基づく。ヨブスマはコウモリのこととか、夜衾つまり夜着のこととかされていたが、植物和名語源の研究で知られる深津正がムササビであると明快に結論し、ムササビが空中滑走する姿に葉の形を見立てたものとしている。別名で、ホンナ、ポンナ、ドウナ、ドッホナともよばれる。ホンナやポンナは、茎を折ったときに出る音に由来する。 日本の北海道、北関東以北の本州、およびアジア北東部のサハリン、南千島、カムチャツカ、朝鮮半島、中国東北部に分布する。山中の林中や谷間の少し湿った場所に群生する。 多年生草本(地中植物)。草丈は90 - 250センチメートル (cm) 。茎は中空で、若いうちは茎や葉に軟らかい毛が密生する。 葉は互生し、葉身は大きな三角状の鉾形か三角状腎形で、長さ25 - 35 cm、左右の角がピンと張り、葉縁には鋸歯がある。葉柄に広い翼があり、ふつう基部は耳状で茎を抱くが、ときに抱かないこともある。総苞は10 - 12ミリメートル (mm) 、総苞片は5 - 8個ある。 花期は夏から秋(7 - 10月)にかけて。小さな白い花を多数咲かせる。果実は痩果で灰色、長さ5 mm、幅1 mmほどのやや扁平の狭倒披針形で、冠毛は白色で長さ7 - 8 mmほどある。果皮は約10個の低く細い縦隆条が並ぶ。 近似種のオオバコウモリ(学名: Parasenecio tschonoskii)は葉柄の上部にだけ翼があって、茎を抱かず、総苞は7 - 8 mmで全体にやや小型である。本州の主に日本海側に、同属で葉が五角状腎臓形のイヌドウナ(学名: Parasenecio aidzuensis)がある。 野菜にはないクセの強い香りが特徴で、山菜として食べられる。大きく生長しすぎると匂いが強くなりすぎるので、まだ葉が巻いている太い若芽を、軽く折り取れるところで採取する。少し伸びたものは、茎の上部の柔らかい若葉を摘んで食べる。さっと茹でて水にさらすが、少し大きくなったものは5 - 6時間さらしてから食べる。茹でたものは、おひたし、和え物、煮びたし、卵とじにして食べるが、生のままでも天ぷら、掻き揚げ、汁の実、油炒めにもできる。
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ヨブスマソウはキク科コウモリソウ属の多年草である。若葉や若い茎葉は、山菜として食べられている。
{{生物分類表 |名称 = ヨブスマソウ |色 = lightgreen |画像= {{画像募集中|size=250px|date=2023-12|cat=植物}} |画像キャプション = |分類体系 = [[APG IV]] |界 = [[植物界]] {{Sname||Plantae}} |門階級なし = [[被子植物]] {{Sname||Angiosperms}} |綱階級なし = [[真正双子葉類]] {{Sname||Eudicots}} |亜綱階級なし = キク上類 {{Sname|Superasterids}} |下綱階級なし = [[キク類]] {{Sname||Asterids}} |上目階級なし = キキョウ類 {{Sname|Campanulids}} |目 = [[キク目]] {{Sname||Asterales}} |科 = [[キク科]] {{Sname||Asteraceae}} |亜科 = [[キク亜科]] {{Sname||Asteroideae}} |属 = [[コウモリソウ属]] {{Snamei||Parasenecio}} |種 = '''ヨブスマソウ''' {{Snamei|P. robustus}} |学名 = {{Snamei||Parasenecio robustus}} ({{AU|Tolm.}}) {{AU|Kadota}} {{small|([[2017年|2017]])}}<ref name="YList">{{YList|id=15600|taxon=Parasenecio robustus (Tolm.) Kadota ヨブスマソウ(標準)|accessdate=2023-12-10}}</ref> |シノニム= * {{Snamei|Parasenecio hastatus}} ({{AU|L.}}) {{AU|H.Koyama}} subsp. {{Snamei|orientalis}} ({{AU|Kitam.}}) {{AU|H.Koyama}} {{small|([[1995年|1995]])}}<ref name="YList_47840">{{YList|id=47840|taxon=Parasenecio hastatus (L.) H.Koyama subsp. orientalis (Kitam.) H.Koyama ヨブスマソウ(シノニム)|accessdate=2023-12-10}}</ref> * {{Snamei|Cacalia robusta}} {{AU|Tolm.}} {{small|([[1957年|1957]])}}<ref name="YList_30489">{{YList|id=30489|taxon=Cacalia robusta Tolm. ヨブスマソウ(シノニム)|accessdate=2023-12-10}}</ref> * {{Snamei|Cacalia hastata}} {{AU|L.}} var. {{Snamei|orientalis}} ({{AU|Kitam.}}) {{AU|Ohwi}} {{small|([[1953年|1953]])}}<ref name="YList_18399">{{YList|id=18399|taxon=Cacalia hastata L. var. orientalis (Kitam.) Ohwi ヨブスマソウ(シノニム)|accessdate=2023-12-10}}</ref> * {{Snamei|Cacalia hastata}} {{AU|L.}} subsp. {{Snamei|orientalis}} {{AU|Kitam.}} {{small|([[1938年|1938]])}}<ref name="YList_18398">{{YList|id=18398|taxon=Cacalia hastata L. subsp. orientalis Kitam. ヨブスマソウ(シノニム)|accessdate=2023-12-10}}</ref> |和名 =ヨブスマソウ(夜衾草) |下位分類名 = |下位分類 = }} '''ヨブスマソウ'''(夜衾草{{sfn|金田初代|2010|p=90}}、[[学名]]: {{Snamei||Parasenecio robustus}})は[[キク科]][[コウモリソウ属]]の[[多年草]]である。若葉や若い茎葉は、[[山菜]]として食べられている。 == 名称 == [[和名]]の「ヨブスマ」については諸説ある。一説には[[コウモリ]]のことで、葉の形に基づくとされていた{{Sfn|邑田仁・米倉浩司 編|2013|p=714}}。このほか、夜衾つまり夜着のことともされていた。さらに植物和名語源の研究で知られる深津正は[[ムササビ]]であると明快に結論し、ムササビが空中滑走する姿に葉の形を見立てたものとしている{{sfn|高橋秀男 監修|1990|p=411}}。別名で、ホンナ、ポンナ、ドウナ、ドッホナともよばれる{{sfn|金田初代|2010|p=90}}。ホンナやポンナは、茎を折ったときに出る音に由来する{{sfn|金田初代|2010|p=90}}。 == 特徴 == 日本の[[北海道]]、[[北関東]]以北の[[本州]]{{sfn|高橋秀男 監修|1990|p=411}}{{sfn|金田初代|2010|p=90}}、およびアジア北東部の[[サハリン]]、[[南千島]]、[[カムチャツカ]]、[[朝鮮半島]]、[[中国東北部]]に分布する{{Sfn|邑田仁・米倉浩司 編|2013|p=714}}{{sfn|宮脇昭ほか 編|1994|p=699}}。山中の林中や谷間の少し湿った場所に群生する{{Sfn|邑田仁・米倉浩司 編|2013|p=714}}{{sfn|金田初代|2010|p=90}}。 [[多年生]][[草本]]{{sfn|金田初代|2010|p=90}}(地中植物){{sfn|宮脇昭ほか 編|1994|p=699}}。草丈は90 - 250[[センチメートル]] (cm) {{sfn|高橋秀男 監修|1990|p=411}}。[[茎]]は中空で、若いうちは茎や葉に軟らかい毛が密生する{{sfn|金田初代|2010|pp=90&ndash;91}}。 [[葉]]は[[互生]]し、[[葉身]]は大きな三角状の鉾形か三角状腎形で、長さ25 - 35&nbsp;cm{{Sfn|邑田仁・米倉浩司 編|2013|p=714}}{{sfn|高橋秀男 監修|1990|p=411}}、左右の角がピンと張り、[[葉縁]]には[[鋸歯]]がある{{sfn|金田初代|2010|pp=90&ndash;91}}。[[葉柄]]に広い翼があり、ふつう基部は耳状で茎を抱くが{{Sfn|邑田仁・米倉浩司 編|2013|p=714}}{{sfn|金田初代|2010|pp=90&ndash;91}}、ときに抱かないこともある{{sfn|高橋秀男 監修|1990|p=411}}。[[総苞]]は10 - 12[[ミリメートル]] (mm) 、[[総苞片]]は5 - 8個ある{{sfn|高橋秀男 監修|1990|p=411}}。 花期は夏から秋(7 - 10月)にかけて{{sfn|高橋秀男 監修|1990|p=411}}{{sfn|金田初代|2010|p=90}}。小さな白い[[花]]を多数咲かせる{{sfn|金田初代|2010|p=90}}。[[果実]]は[[痩果]]で灰色、長さ5&nbsp;mm、幅1&nbsp;mmほどのやや扁平の狭倒披針形で、[[冠毛]]は白色で長さ7 - 8&nbsp;mmほどある{{Sfn|中山・井之口・南谷|2002|p=510}}。果皮は約10個の低く細い縦隆条が並ぶ{{Sfn|中山・井之口・南谷|2002|p=510}}。 近似種の[[オオバコウモリ]](学名: {{Snamei|Parasenecio tschonoskii}}<!-- (Koidz.) Kadota-->)は葉柄の上部にだけ翼があって、茎を抱かず、総苞は7 - 8&nbsp;mmで全体にやや小型である{{sfn|高橋秀男 監修|1990|p=411}}。本州の主に日本海側に、同属で葉が五角状腎臓形の[[イヌドウナ]](学名: {{Snamei|Parasenecio aidzuensis}})がある{{Sfn|邑田仁・米倉浩司 編|2013|p=714}}。 == 食用 == 野菜にはないクセの強い香りが特徴で、[[山菜]]として食べられる{{sfn|金田初代|2010|p=90}}。大きく生長しすぎると匂いが強くなりすぎるので、まだ葉が巻いている太い若芽を、軽く折り取れるところで採取する{{sfn|金田初代|2010|p=90}}。少し伸びたものは、茎の上部の柔らかい若葉を摘んで食べる{{sfn|金田初代|2010|p=90}}。さっと茹でて水にさらすが、少し大きくなったものは5 - 6時間さらしてから食べる{{sfn|金田初代|2010|p=90}}。茹でたものは、[[おひたし]]、[[和え物]]、[[煮びたし]]、卵とじにして食べるが、生のままでも[[天ぷら]]、[[掻き揚げ]]、汁の実、[[油炒め]]にもできる{{sfn|金田初代|2010|p=90}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=金田初代|coauthors=金田洋一郎(写真)|title=ひと目でわかる! おいしい「山菜・野草」の見分け方・食べ方|publisher=[[PHP研究所]]|date=2010-09-24|pages=90 - 91|ISBN=978-4-569-79145-6|ref=harv}} * {{Cite book|和書|author1=中山至大|author2=井之口希秀|author3=南谷忠志| title=日本植物種子図鑑|publisher=[[東北大学出版会]](仙台)|date=2002-02-25|ISBN=4-925085-29-8|ref={{SfnRef|中山・井之口・南谷|2002}} }} * {{Cite book|和書|author=高橋秀男 監修|title=野草大図鑑|publisher=[[北隆館]]|date=1990-04-30|ISBN=4832600613|ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=[[宮脇昭]]ほか 編|title=日本植生便覧 改訂新版|publisher=[[至文堂]]|date=1994-10-10|ISBN=9784784301478|ref=harv}} * {{Cite book|和書|editor =邑田仁・米倉浩司|title =APG原色牧野植物大図鑑II 〔グミ科~セリ科〕|date=2013-03-25|publisher =[[北隆館]]|isbn=978-4-8326-0974-7|page =714|ref={{SfnRef|邑田仁・米倉浩司 編|2013}} }} == 関連項目 == {{Commons|Parasenecio robustus}} * [[イヌドウナ]] * [[コウモリソウ]] * [[タマブキ]] {{デフォルトソート:よふすまそう}} {{Plant-stub}} [[Category:コウモリソウ属]] [[Category:山菜]]
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テイエムトッキュウ
テイエムトッキュウ(英:T M Tokkyu)は、日本の競走馬。主な勝ち鞍は2023年のカペラステークス(GIII)。 馬名の意味は冠名+特急。 7月18日阪神芝1400mの2歳新馬戦でデビューし13着と大敗。11月14日阪神芝1200mの2歳未勝利戦を逃げ切って3戦目で初勝利を飾ると、続く12月6日のさざんか賞も逃げ切り勝ちを収めた。 3歳シーズンは2021年5月9日の橘ステークス(L)で始動したが12着、続く葵ステークス(GIII)でも13着に沈み長期の休養に入る。翌2022年6月18日の皆生特別で実戦復帰し、逃げ粘って2着とすると、7月10日のシンガポールターフクラブ賞では1番人気に応え逃げ切って3勝目を挙げる。秋に入り、11月のみちのくステークスは13着、12月の知立ステークスは7着に終わり4歳シーズンを終えた。 1月7日の初春ステークスでは初のダート戦もあってか9番人気に留まるも、低評価を覆して逃げ切り勝ちを収めオープン入りを果たす。3月19日の千葉ステークスでは逃げ粘り2着と好走し、続く4月9日の京葉ステークス(L)では好スタートからハナを奪うと、直線では後続に3馬身差をつけオープン初勝利を挙げる。その後、芝に戻り6月の函館スプリントステークス(GIII)では15着と大敗を喫し、休養に入る。 休養後、11月12日の室町ステークスでは5着に敗れるも、12月10日に行われたカペラステークス(GIII)では好スタートから先手を主張すると、直線に入っても脚色は衰えず、最後はチェイスザドリームに3馬身差をつけ重賞初制覇を飾った。 以下の内容は、JBISサーチおよびnetkeiba.comに基づく。
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テイエムトッキュウは、日本の競走馬。主な勝ち鞍は2023年のカペラステークス(GIII)。 馬名の意味は冠名+特急。
{{混同|[[テイエムトッキュー|テイエムトッキュ'''ー''']]|x1=本馬と同じ馬主が所有した、1999年の[[カブトヤマ記念]]優勝馬}} {{現役競走馬}} {{競走馬 |名 = テイエムトッキュウ |英 = T M Tokkyu |画=[[File:T M Tokkyu-2023-11-12.jpg|280px]] |説=2023年11月12日 京都競馬場 |性 = [[牡馬|牡]] |色 = [[鹿毛]] |種 = [[サラブレッド]] |生 = {{生年月日と馬齢|p=0|2018|05|14}} |死 = |登 = |抹 = |父 = [[ロードカナロア]] |母 = アグネスナチュラル |母父 = [[サクラバクシンオー]] |国 = {{JPN}}([[北海道]][[浦河町]]) |産 = 高昭牧場 |主 = [[竹園正繼]] |調 = [[木原一良]]([[栗東トレーニングセンター|栗東]]) |績 = 16戦6勝 |金 = 1億2947万3000円<br />(2023年12月10日現在) |medaltemplates = {{MedalGIII|[[カペラステークス]]|2023年}} {{MedalListed|京葉ステークス|2023年}} }} '''テイエムトッキュウ'''(英:'''T M Tokkyu''')は、[[日本]]の[[競走馬]]。主な勝ち鞍は[[2023年]]の[[カペラステークス]](GIII)。 馬名の意味は冠名+特急。 == 戦績 == ===2歳(2020年)=== 7月18日阪神芝1400mの2歳新馬戦でデビューし13着と大敗。11月14日阪神芝1200mの2歳未勝利戦を逃げ切って3戦目で初勝利を飾ると、続く12月6日のさざんか賞も逃げ切り勝ちを収めた。 ===3歳(2021年)~4歳(2022年)=== 3歳シーズンは2021年5月9日の橘ステークス(L)で始動したが12着、続く[[葵ステークス]](GIII)でも13着に沈み長期の休養に入る。翌2022年6月18日の皆生特別で実戦復帰し、逃げ粘って2着とすると、7月10日のシンガポールターフクラブ賞では1番人気に応え逃げ切って3勝目を挙げる。秋に入り、11月のみちのくステークスは13着、12月の知立ステークスは7着に終わり4歳シーズンを終えた。 ===5歳(2023年)=== 1月7日の初春ステークスでは初のダート戦もあってか9番人気に留まるも、低評価を覆して逃げ切り勝ちを収めオープン入りを果たす。3月19日の千葉ステークスでは逃げ粘り2着と好走し、続く4月9日の京葉ステークス(L)では好スタートからハナを奪うと、直線では後続に3馬身差をつけオープン初勝利を挙げる<ref>[https://www.sanspo.com/race/article/general/20230409-FCIUWQW5ENLLDFI44DAQ2BIQ64/  【京葉S】テイエムトッキュウが馬名通りの鮮やかな快速逃走でオープン初V]サンケイスポーツ、2023年4月9日配信・閲覧</ref>。その後、芝に戻り6月の[[函館スプリントステークス]](GIII)では15着と大敗を喫し、休養に入る。 休養後、11月12日の室町ステークスでは5着に敗れるも、12月10日に行われたカペラステークス(GIII)では好スタートから先手を主張すると、直線に入っても脚色は衰えず、最後はチェイスザドリームに3馬身差をつけ重賞初制覇を飾った<ref>[https://www.nikkansports.com/keiba/news/202312100000617.html  テイエムトッキュウ得意舞台で逃げ切り重賞初V、津村騎手「自分のリズムを心がけた」/カペラS]日刊スポーツ、2023年12月10日配信・閲覧</ref>。 == 競走成績 == 以下の内容は、JBISサーチ<ref name="jbisrcd">{{Cite web|和書|url= https://www.jbis.or.jp/horse/0001264626/record/ |title=テイエムトッキュウ 競走成績|work=JBISサーチ |publisher=公益社団法人日本軽種馬協会|accessdate=2023-12-11}}</ref>および[[netkeiba.com]]<ref name="netrcd">{{Cite web|和書|url= https://db.netkeiba.com/horse/result/2018103105/ |title=テイエムトッキュウの競走成績|work=netkeiba|publisher=Net Dreamers Co., Ltd.|accessdate=2023-12-11}}</ref>に基づく。 {| style="border-collapse: collapse; font-size: 90%; text-align: center; white-space: nowrap;" ! 競走日 !! nowrap| 競馬場 !! 競走名 !! 格 !! 距離(馬場) !! 頭<br />数 !! 枠<br />番 !! 馬<br />番 !! オッズ<br />(人気) !! 着順 !! タイム<br />(上り3F) !! 着差 !! 騎手 !! 斤量<br />[kg] !! 1着馬(2着馬)!! 馬体重<br />[kg] |- | [[2020年|2020.]][[7月18日|{{0}}7.18]] | [[阪神競馬場|阪神]] | [[新馬|2歳新馬]] | | 芝1400m(良) | 17 | 8 | 17 | 115.4(16人) | 13着 | {{0|R}}1:27.3(38.7) | {{0|-}}2.7 | {{0}}[[富田暁]] | 53 | ヴェールクレール | 466 |- | {{0|0000.}}[[10月25日|10.25]] | [[京都競馬場|京都]] | 2歳未勝利 | | 芝1400m(良) | 18 | 3 | 6 | {{0}}87.9(12人) | 14着 | {{0|R}}1:25.1(36.8) | {{0|-}}1.6 | {{0}}富田暁 | 54 | スーパーホープ | 478 |- | {{0|0000.}}[[11月14日|11.14]] | 阪神 | 2歳未勝利 | | 芝1200m(良) | 15 | 1 | 1 | {{0}}26.9{{0}}(8人) | {{0}}{{color|darkred|1着}} | {{0|R}}1:08.8(34.4) | {{Nowiki|-}}0.2 | {{0}}[[北村友一]] | 55 | (サトノアイ) | 478 |- | {{0|0000.}}[[12月6日|12.{{0}}6]] | 阪神 | さざんか賞 | 1勝 | 芝1200m(良) | 10 | 2 | 2 | {{0|00}}7.5{{0}}(5人) | {{0}}{{color|darkred|1着}} | {{0|R}}1:09.1(34.9) | {{Nowiki|-}}0.3 | {{0}}[[古川吉洋]] | 55 | (デルマカンノン) | 482 |- | [[2021年|2021.]][[5月9日|{{0}}5.{{0}}9]] | [[中京競馬場|中京]] | 橘S | {{L}} | 芝1400m(良) | 13 | 6 | 8 | {{0}}21.8{{0}}(9人) | 12着 | {{0|R}}1:22.5(37.6) | {{0|-}}2.6 | {{0}}[[松若風馬]] | 56 | ダディーズビビッド | 480 |- | {{0|0000.}}[[5月29日|{{0}}5.29]] | 中京 | [[葵ステークス|葵S]] | 重賞 | 芝1200m(良) | 17 | 7 | 15 | {{0}}88.2(14人) | 13着 | {{0|R}}1:08.6(35.4) | {{0|-}}0.5 | {{0}}松若風馬 | 56 | [[レイハリア]] | 484 |- | [[2022年|2022.]][[6月18日|{{0}}6.18]] | 阪神 | 皆生特別 | 2勝 | 芝1200m(良) | 11 | 3 | 3 | {{0|00}}7.5{{0}}(4人) | {{0}}{{Color|darkblue|2着}} | {{0|R}}1:08.3(34.7) | {{0|-}}0.4 | {{0}}北村友一 | 57 | [[テイエムスパーダ]] | 500 |- | {{0|0000.}}[[7月10日|{{0}}7.10]] | [[小倉競馬場|小倉]] | シンガポールTC賞 | 2勝 | 芝1200m(良) | 7 | 7 | 7 | {{0|00}}1.8{{0}}(1人) | {{0}}{{color|darkred|1着}} | {{0|R}}1:07.2(34.1) | {{Nowiki|-}}0.4 | {{0}}北村友一 | 57 | (ジュストコル) | 498 |- | {{0|0000.}}[[11月19日|11.19]] | [[福島競馬場|福島]] | みちのくS | 3勝 | 芝1200m(良) | 15 | 1 | 2 | {{0|00}}3.2{{0}}(1人) | 13着 | {{0|R}}1:10.4(36.8) | {{0|-}}0.7 | {{0}}北村友一 | 57 | ダークペイジ | 506 |- | {{0|0000.}}[[12月11日|12.11]] | 中京 | 知立S | 3勝 | 芝1200m(良) | 16 | 6 | 11 | {{0}}18.2{{0}}(7人) | {{0}}7着 | {{0|R}}1:08.4(34.7) | {{0|-}}1.2 | {{0}}[[亀田温心]] | 57 | マッドクール | 504 |- | [[2023年|2023.]][[1月7日|{{0}}1.{{0}}7]] | [[中山競馬場|中山]] | 初春S | 3勝 | ダ1200m(良) | 15 | 7 | 12 | {{0}}17.1{{0}}(9人) | {{0}}{{color|darkred|1着}} | {{0|R}}1:10.4(37.2) | {{Nowiki|-}}0.4 | {{0}}[[津村明秀]] | 58 | (ニューフロンティア) | 508 |- | {{0|0000.}}[[3月19日|{{0}}3.19]] | 中山 | 千葉S | {{OP}} | ダ1200m(重) | 16 | 1 | 1 | {{0|00}}4.5{{0}}(2人) | {{0}}{{color|darkblue|2着}} | {{0|R}}1:09.4(36.3) | {{0|-}}0.1 | {{0}}北村友一 | 56 | スズカコテキタイ | 504 |- | {{0|0000.}}[[4月9日|{{0}}4.{{0}}9]] | 中山 | 京葉S | L | ダ1200m(良) | 13 | 6 | 8 | {{0|00}}4.1{{0}}(2人) | {{0}}{{color|darkred|1着}} | {{0|R}}1:10.0(36.3) | {{Nowiki|-}}0.5 | {{0}}津村明秀 | 57 | (クロジシジョー) | 502 |- | {{0|0000.}}[[6月11日|{{0}}6.11]] | [[函館競馬場|函館]] | [[函館スプリントステークス|函館スプリントS]] | {{GIII}} | 芝1200m(良) | 16 | 5 | 10 | {{0}}13.1{{0}}(6人) | 15着 | {{0|R}}1:10.1(37.0) | {{0|-}}1.9 | {{0}}津村明秀 | 57 | [[キミワクイーン]] | 498 |- | {{0|0000.}}[[11月12日|11.12]] | 京都 | 室町S | OP | ダ1200m(稍) | 16 | 8 | 15 | {{0|00}}7.5{{0}}(4人) | {{0}}5着 | {{0|R}}1:12.6(37.7) | {{0|-}}0.1 | {{0}}北村友一 | 57 | アイスリアン | 502 |- | {{0|0000.}}[[12月10日|12.10]] | 中山 | [[カペラステークス|カペラS]] | {{GIII}} | ダ1200m(良) | 16 | 2 | 3 | {{0|00}}4.8{{0}}(2人) | {{0}}{{color|darkred|1着}} | {{0|R}}1:09.3(35.8) | {{Nowiki|-}}0.5 | {{0}}津村明秀 | 57 | (チェイスザドリーム) | 500 |} * 競走成績は2023年12月10日現在 == 血統表 == {{競走馬血統表 |name = テイエムトッキュウ |ref1 = <ref name="JBIS_p">{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001264626/pedigree/|title=血統情報:5代血統表|テイエムトッキュウ|website=JBISサーチ|publisher=[[日本軽種馬協会]] |accessdate=2023-12-10}}</ref>, <ref name="netkeiba">{{Cite web|和書|url=https://db.netkeiba.com/horse/ped/2018103105/|title=テイエムトッキュウの血統表|website=netkeiba.com|accessdate=2023-12-10}}</ref> |mlin = [[キングマンボ系]] |ref2 = <ref name="JBIS_p"/> |flin = ヘザーランズ(GB) |FN = [[1号族|1-l]] |ref3 = <ref name="JBIS_p"/> |inbr = [[ノーザンダンサー|Northern Dancer]] 5×5 |ref4 = <ref name="JBIS_p"/>, <ref name="netkeiba"/> |f = [[ロードカナロア]]<br />鹿毛 2008 |m = アグネスナチュラル<br />鹿毛 2006 |ff = [[キングカメハメハ]]<br />鹿毛 2001 |fm = レディブラッサム<br />鹿毛 1996 |mf = [[サクラバクシンオー]]<br />鹿毛 1989 |mm = アグネスアテーナー<br />鹿毛 1996 |fff = [[キングマンボ|Kingmambo]] |ffm = *[[マンファス]] |fmf = [[ストームキャット|Storm Cat]] |fmm = *[[サラトガデュー]] |mff = [[サクラユタカオー]] |mfm = サクラハゴロモ |mmf = *[[サンデーサイレンス]] |mmm = アグネスオーロラ |ffff = [[ミスタープロスペクター|Mr. Prospector]] |fffm = [[ミエスク|Miesque]] |ffmf = *[[ラストタイクーン (競走馬)|ラストタイクーン]] |ffmm = Pilot Bird |fmff = [[ストームバード|Storm Bird]] |fmfm = [[ターリングア|Terlingua]] |fmmf = [[:en:Cormorant (horse)|Cormorant]] |fmmm = Super Luna |mfff = *[[テスコボーイ]] |mffm = アンジェリカ |mfmf = *[[ノーザンテースト]] |mfmm = *[[クリアアンバー]] |mmff = [[ヘイロー (競走馬)|Halo]] |mmfm = [[ウィッシングウェル|Wishing Well]] |mmmf = *[[イルドブルボン]] |mmmm = [[アグネスレディー]] |}} *4代母アグネスレディーは1979年[[優駿牝馬]]勝ち馬。 *3代母アグネスオーロラの半弟に[[アグネスフライト]](2000年[[東京優駿]]ほか)、[[アグネスタキオン]](2001年[[皐月賞]]ほか)がいる。 *そのほかの近親は[[イコマエイカン#主な系図]]を参照。 == 脚注 == === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * {{競走馬成績|netkeiba=2018103105|yahoo=2018103105|jbis=0001264626}} {{Keiba-stub}} {{デフォルトソート:ていえむとつきゆう}} [[Category:2018年生 (競走馬)|日ていえむとつきゆう]] [[Category:サラブレッド]] [[Category:日本生産の競走馬]] [[Category:日本調教の競走馬]] [[Category:父内国産の競走馬]]
2023-12-10T14:52:00Z
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カイル・ネルソン (野球)
カイル・B・ネルソン(Kyle B. Nelson, 1996年7月8日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコ出身のプロ野球選手(投手)。左投左打。MLBのアリゾナ・ダイヤモンドバックス所属。 2017年のMLBドラフト15巡目(全体462位)でクリーブランド・インディアンスから指名され、プロ入り。契約後、傘下のA-級マホーニングバレー・スクラッパーズでプロデビュー。19試合に登板して3勝2敗4セーブ、防御率2.48、40奪三振を記録した。 2018年はA級レイクカウンティ・キャプテンズとA+級リンチバーグ・ヒルキャッツでプレーし、2球団合計で35試合に登板して6勝1敗6セーブ、防御率1.58、67奪三振を記録した。 2019年はA+級リンチバーグ、AA級アクロン・ラバーダックス、AAA級コロンバス・クリッパーズでプレーし、3球団合計で42試合(先発1試合)に登板して4勝4敗7セーブ、防御率2.28、69奪三振を記録した。 2020年は9月9日にメジャー契約を結んでアクティブ・ロースター入りすると、翌10日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦で3番手で登板してメジャーデビューも4失点を喫した。この年のメジャー登板は前述の1試合のみだった。 2021年は10試合に登板して防御率9.31、8奪三振を記録した。オフの11月19日にDFAとなった。 2021年11月24日にウェイバー公示を経てアリゾナ・ダイヤモンドバックスへ移籍した。 2022年はメジャー定着し、43試合(先発1試合)に登板して2勝1敗、防御率2.19、30奪三振、10ホールドを記録した。 2023年は68試合(先発2試合)に登板して7勝4敗、防御率4.18、67奪三振、11ホールドを記録した。 スライダーを主体としており、投球の半分以上(2022年は63.4%、2023年は59.2%)を占めている。
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カイル・B・ネルソンは、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコ出身のプロ野球選手(投手)。左投左打。MLBのアリゾナ・ダイヤモンドバックス所属。
{{Infobox baseball player |選手名 = カイル・ネルソン |英語表記 = Kyle Nelson |所属球団 = アリゾナ・ダイヤモンドバックス |背番号 = 24 |選手写真ファイル名 = Kyle Nelson (35791380743).jpg |写真サイズ = 280 |写真のコメント = A-級マホーニングバレー・スクラッパーズ時代<br />(2017年) |国籍 = {{USA}} |出身地 = [[カリフォルニア州]][[サンフランシスコ]] |生年月日 = {{生年月日と年齢|1996|7|8}} |没年月日 = |身長 = {{フィートとcm (身長用変換)|6|1}} |体重 = {{ポンドとkg (体重用変換)|175}} |利き腕 = 左 |打席 = 左 |守備位置 = [[投手]] |プロ入り年度 = 2017年 |ドラフト順位 = MLBドラフト15巡目 |初出場 = 2020年9月10日 |最終出場 = |年俸 = |経歴 = * {{仮リンク|ガリレオ・アカデミー・オブ・サイエンスアンドテクノロジー|en|Galileo Academy of Science and Technology}} * ハーバート・フーバー・ミドルスクール * [[カリフォルニア大学サンタバーバラ校]] * [[クリーブランド・ガーディアンズ|クリーブランド・インディアンス]] (2020 - 2021) * [[アリゾナ・ダイヤモンドバックス]] (2022 - ) |代表チーム = |五輪 = |WBC = |選出国 = |選出年 = |得票率 = |選出方法 = }} '''カイル・B・ネルソン'''('''Kyle B. Nelson''', [[1996年]][[7月8日]] - )は、[[アメリカ合衆国]][[カリフォルニア州]][[サンフランシスコ]]出身の[[プロ野球選手]]([[投手]])。左投左打。[[メジャーリーグベースボール|MLB]]の[[アリゾナ・ダイヤモンドバックス]]所属。 == 経歴 == === プロ入りとインディアンス時代 === {{by|2017年}}の[[2017年のMLBドラフト|MLBドラフト]]15巡目(全体462位)で[[クリーブランド・ガーディアンズ|クリーブランド・インディアンス]]から指名され、プロ入り。契約後、傘下のA-級[[マホーニングバレー・スクラッパーズ]]でプロデビュー。19試合に登板して3勝2敗4セーブ、防御率2.48、40奪三振を記録した。 {{by|2018年}}はA級[[レイクカウンティ・キャプテンズ]]とA+級[[リンチバーグ・ヒルキャッツ]]でプレーし、2球団合計で35試合に登板して6勝1敗6セーブ、防御率1.58、67奪三振を記録した。 {{by|2019年}}はA+級リンチバーグ、AA級[[アクロン・ラバーダックス]]、AAA級[[コロンバス・クリッパーズ]]でプレーし、3球団合計で42試合(先発1試合)に登板して4勝4敗7セーブ、防御率2.28、69奪三振を記録した。 {{by|2020年}}は9月9日にメジャー契約を結んで[[ロースター (MLB)#26人枠と40人枠|アクティブ・ロースター]]入りすると<ref>{{Cite web|url=https://www.mlbtraderumors.com/2020/09/indians-select-kyle-nelsons-contract-option-adam-cimber.html |title=Indians Select Kyle Nelson’s Contract, Option Adam Cimber|author=Mark Polishuk|website=MLB Trade Rumors|language=英語|date=2020年9月9日|accessdate=2023年12月10日}}</ref>、翌10日の[[カンザスシティ・ロイヤルズ]]戦で3番手で登板してメジャーデビューも4失点を喫した<ref>{{Cite web|url=https://www.baseball-reference.com/boxes/CLE/CLE202009100.shtml |title=Kansas City Royals vs Cleveland Indians Box Score: September 10, 2020|website=Baseball-Reference.com|language=英語|accessdate=2023年12月10日}}</ref>。この年のメジャー登板は前述の1試合のみだった。 {{by|2021年}}は10試合に登板して防御率9.31、8奪三振を記録した。オフの11月19日に[[戦力外通告#メジャーリーグ|DFA]]となった<ref>{{Cite web|url=https://www.mlb.com/press-release/guardians-announce-series-of-40-man-roster-moves |title=Guardians Announce Series Of 40-man Roster Moves|author=|website=MLB.com|language=英語|date=2021年11月19日|accessdate=2023年12月10日}}</ref>。 === ダイヤモンドバックス時代 === 2021年11月24日に[[ウェイバー公示#MLB|ウェイバー公示]]を経て[[アリゾナ・ダイヤモンドバックス]]へ移籍した<ref>{{Cite web|url=https://www.mlbtraderumors.com/2021/11/diamondbacks-claim-kyle-nelson-from-guardians.html |title=Diamondbacks Claim Kyle Nelson From Guardians|author=Anthony Franco|website=MLB Trade Rumors|language=英語|date=2021年11月24日|accessdate=2023年12月10日}}</ref>。 {{by|2022年}}はメジャー定着し、43試合(先発1試合)に登板して2勝1敗、防御率2.19、30奪三振、10ホールドを記録した。 {{by|2023年}}は68試合(先発2試合)に登板して7勝4敗、防御率4.18、67奪三振、11ホールドを記録した。 == 投球スタイル == [[スライダー (球種)|スライダー]]を主体としており、投球の半分以上(2022年は63.4%、2023年は59.2%)を占めている<ref>{{Cite web|url= https://baseballsavant.mlb.com/savant-player/kyle-nelson-669459?stats=statcast-r-pitching-mlb |title=Baseball Savant Kyle Nelson|author=|website=MLB.com|language=英語|date=|accessdate=2023年12月10日}}</ref>。 == 詳細情報 == === 年度別投手成績 === {|{{投手成績|リーグ=メジャーリーグベースボール}} |- |style="text-align: center;"|{{by2|2020}} |rowspan="2" style="text-align: center; white-space:nowrap;"|[[クリーブランド・ガーディアンズ|CLE]] |1||0||0||0||0||0||0||0||0||----||6||0.2||3||1||1||0||0||0||0||0||4||4||54.00||6.00 |- |style="text-align: center;"|{{by2|2021}} |10||0||0||0||0||0||0||0||0||----||49||9.2||10||0||8||0||2||8||0||0||10||10||9.31||1.86 |- |style="text-align: center;"|{{by2|2022}} |rowspan="2" style="text-align: center; white-space:nowrap;"|[[アリゾナ・ダイヤモンドバックス|AZ]] |43||1||0||0||0||2||1||0||10||.667||151||37.0||26||1||14||0||3||30||1||0||10||9||2.19||1.08 |- |style="text-align: center;"|{{by2|2023}} |68||2||0||0||0||7||4||0||11||.636||239||56.0||59||12||14||1||1||67||1||0||30||26||4.18||1.30 |- !colspan="2"|[[メジャーリーグベースボール|MLB]]:4年 |122||3||0||0||0||9||5||0||21||.643||445||103.1||98||13||36||1||6||105||2||0||54||49||3.39||1.30 |} * 2023年度シーズン終了時 === 背番号 === * '''63'''(2020年) * '''30'''(2021年) * '''50'''(2022年) * '''24'''(2023年 - ) == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[メジャーリーグベースボールの選手一覧 N]] == 外部リンク == {{MLBstats|mlb=669459|espn=42012|br=n/nelsoky01|fangraphs=20515|brm=nelson000kyl}} * [https://www.milb.com/player/kyle-nelson-669459 Kyle Nelson stats] MiLB.com {{en icon}} {{アリゾナ・ダイヤモンドバックス}} {{Baseball-biography-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ねるそん かいる}} [[Category:アメリカ合衆国の野球選手]] [[Category:UCサンタバーバラ出身の野球選手]] [[Category:クリーブランド・インディアンスのドラフト指名選手]] [[Category:クリーブランド・インディアンスの選手]] [[Category:アリゾナ・ダイヤモンドバックスの選手]] [[Category:サンフランシスコ出身の人物]] [[Category:1996年生]] [[Category:存命人物]]
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カイル・ネルソン (曖昧さ回避)
カイル・ネルソン(Kyle Nelson)。
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カイル・ネルソン。 カイル・ネルソン - アメリカ合衆国出身のアメリカンフットボール選手 カイル・ネルソン (野球) - アメリカ合衆国出身の野球選手 カイル・ネルソン (格闘家) - カナダ出身の格闘家 カイル・ネルソン (サッカー) - アメリカ合衆国出身のサッカー選手
'''カイル・ネルソン'''(Kyle Nelson)。 * [[カイル・ネルソン]] - [[アメリカ合衆国]]出身のアメリカンフットボール選手 * [[カイル・ネルソン (野球)]] - アメリカ合衆国出身の野球選手 * {{仮リンク|カイル・ネルソン (格闘家)|en|Kyle Nelson (fighter)}} - [[カナダ]]出身の格闘家 * {{仮リンク|カイル・ネルソン (サッカー)|en|Kyle Nelson (soccer)}} - アメリカ合衆国出身のサッカー選手 {{人名の曖昧さ回避}} {{DEFAULTSORT:ねるそん かいる}}
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ゾーイ・カツサトウ
ゾーイ・カツサトウ(ギリシャ語: Ζωή Κατσάτου, ラテン文字転写: Zoe Katsatou, 1976年1月16日 -) は、ギリシャ 出身の 女優、女性声優、ブロガー です。 太字はメインキャラクター。
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ゾーイ・カツサトウ(ギリシャ語: Ζωή Κατσάτου, ラテン文字転写: Zoe Katsatou, 1976年1月16日 -) は、ギリシャ 出身の 女優、女性声優、ブロガー です。
{{複数の問題 | 特筆性 = 2023-12 | 存命人物の出典皆無 = 2023-12 }} {{声優 | 名前 = ゾーイ・カツサトウ | ふりがな = | 画像ファイル = | 画像サイズ = | 画像コメント = | 本名 = | 愛称 = | 性別 = 女性 | 出生地 = {{Flagicon|GRE}} [[ギリシャ]]、[[アテネ]] | 死没地 = | 生年 = 1976 | 生月 = 1 | 生日 = 16 | 没年 = | 没月 = | 没日 = | 血液型 = | 身長 = | 職業 = | 事務所 = | 配偶者 = | 著名な家族 = | 公式サイト = | 活動時期 = [[1995年]] - | デビュー作 = | 活動 = }} '''ゾーイ・カツサトウ'''({{翻字併記|el|Ζωή Κατσάτου|Zoe Katsatou}}, [[1976年]][[1月16日]] -) は、[[ギリシャ]] 出身の [[女優]]、女性[[声優]]、[[ブロガー]] です。 == 出演作品 == '''太字'''はメインキャラクター。 === テレビアニメ === * [[ガーフィールド・ショー]] * [[モンスター・ハイ]] * [[僕のヒーローアカデミア]] === アニメ映画 === * [[バービーと魔法のバレエシューズ]]('''シュガープラムフェアリー''') === テレビドラマ === * [[4400 未知からの生還者]] * [[フラーハウス]] === 映画 === * [[ハンナ・モンタナ/ザ・ムービー]] * [[わんわん物語 (2019年の映画)|わんわん物語]] (ジョック) * レジスタンス/奇跡の一夜 (ハンナ・エイブラムス) == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [[imdbname:196739|ゾーイ・カツサトウ]] - [[IMDb]] * {{Instagram|zoi_katsatou}} * [https://www.youtube.com/watch?v=-cLwnloyUzk インタビュー動画] on Greek Dub DB {{Greece-stub}} {{voice-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こすた うおうら}} [[Category:ギリシャの女優]] [[Category:ギリシャの声優]] [[Category:存命人物]] [[Category:アテネ出身の人物]] [[Category:ギリシャのモデル]] [[Category:1976年生]]
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旭ヶ岡公園 (鹿島市)
旭ヶ岡公園(あさひがおかこうえん)は、佐賀県鹿島市高津原に所在する都市公園。「一目五千本」と称される桜の名所。日本の歴史公園100選に選定されている。 肥前国鹿島藩第13代藩主鍋島直彬は、文久元年から2年(1861年 - 1862年)にかけて鹿島城域にある松陰神社境内の一角に桜を植樹するとともに『衆楽園』と命名、毎年春に開放して領民とともに観桜の宴を催したことが起源である。所在地はかつての鹿島城の領域で、現代の地区としては城内区、字としては旭に位置する。 鹿島城の建物は1874年(明治7年)佐賀の乱の際に2つの門を残して焼失しているが、1887年(明治20年)にその残された大手門と赤門の間に桜を植え並木道が作られた。1914年(大正3年)には九州では初めて夜桜に電飾を付け照らし出す演出が行われ、著名となって花見客は一気に増加した。そのため松陰神社敷地だけでは狭くなり、赤門の東側に拡張して公園化、広場を設け桜をさらに植樹し1921年(大正10年)に「旭ヶ岡公園」と命名された。 公園には以下の石碑や銅像が建立されている。 2007年に日本の歴史公園100選に選定されている。 公園内にある松陰神社(まつかげじんじゃ)は歴代の鹿島藩主を祀る神社。常広城内で寛永10年(1633年)初代の鍋島忠茂を祀ったのが起源とされ、鹿島城への移転と共に遷座し、後の1870年(明治3年)に社殿が拡張されている。境内社として楠社、祖霊社がある。 春には「一目五千本」と称される桜が咲き花見客が訪れる。正面口である大手門から屋敷表門である赤門までの鍵型に曲がったかつての登城路に沿い、桜並木が並ぶ。花見期間は夜のライトアップが行われ、出店が並ぶ。「桜樹保存会」が組織され毎年桜の植樹が行われているほか、隣接する鹿島高校出身者による記念植樹も目立つ。 道を挟んで隣接する形で鹿島市の街区公園である城内公園が整備され、遊具広場と駐車場が設けられている。 なお、佐賀県立鹿島高等学校の赤門学舎(旧来からの鹿島高校)および大手門学舎(旧佐賀県立鹿島実業高等学校)が隣接地にある。 長崎本線肥前鹿島駅から徒歩約10分。駐車場は10台と小規模だが、桜まつりの期間は臨時駐車場が設けられる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "旭ヶ岡公園(あさひがおかこうえん)は、佐賀県鹿島市高津原に所在する都市公園。「一目五千本」と称される桜の名所。日本の歴史公園100選に選定されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "肥前国鹿島藩第13代藩主鍋島直彬は、文久元年から2年(1861年 - 1862年)にかけて鹿島城域にある松陰神社境内の一角に桜を植樹するとともに『衆楽園』と命名、毎年春に開放して領民とともに観桜の宴を催したことが起源である。所在地はかつての鹿島城の領域で、現代の地区としては城内区、字としては旭に位置する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "鹿島城の建物は1874年(明治7年)佐賀の乱の際に2つの門を残して焼失しているが、1887年(明治20年)にその残された大手門と赤門の間に桜を植え並木道が作られた。1914年(大正3年)には九州では初めて夜桜に電飾を付け照らし出す演出が行われ、著名となって花見客は一気に増加した。そのため松陰神社敷地だけでは狭くなり、赤門の東側に拡張して公園化、広場を設け桜をさらに植樹し1921年(大正10年)に「旭ヶ岡公園」と命名された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "公園には以下の石碑や銅像が建立されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2007年に日本の歴史公園100選に選定されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "公園内にある松陰神社(まつかげじんじゃ)は歴代の鹿島藩主を祀る神社。常広城内で寛永10年(1633年)初代の鍋島忠茂を祀ったのが起源とされ、鹿島城への移転と共に遷座し、後の1870年(明治3年)に社殿が拡張されている。境内社として楠社、祖霊社がある。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "春には「一目五千本」と称される桜が咲き花見客が訪れる。正面口である大手門から屋敷表門である赤門までの鍵型に曲がったかつての登城路に沿い、桜並木が並ぶ。花見期間は夜のライトアップが行われ、出店が並ぶ。「桜樹保存会」が組織され毎年桜の植樹が行われているほか、隣接する鹿島高校出身者による記念植樹も目立つ。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "道を挟んで隣接する形で鹿島市の街区公園である城内公園が整備され、遊具広場と駐車場が設けられている。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "なお、佐賀県立鹿島高等学校の赤門学舎(旧来からの鹿島高校)および大手門学舎(旧佐賀県立鹿島実業高等学校)が隣接地にある。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "長崎本線肥前鹿島駅から徒歩約10分。駐車場は10台と小規模だが、桜まつりの期間は臨時駐車場が設けられる。", "title": "アクセス" } ]
旭ヶ岡公園(あさひがおかこうえん)は、佐賀県鹿島市高津原に所在する都市公園。「一目五千本」と称される桜の名所。日本の歴史公園100選に選定されている。
{{公園 |名称 = 旭ヶ岡公園 |英語名称 = |画像 = [[File:Asahigaoka Park south.JPG|250px]] |画像キャプション = 旭ヶ岡公園の原忠順翁頌徳碑周辺 |国 = {{JPN}} |都市 = [[佐賀県]][[鹿島市]]大字高津原 | 緯度度 = 33 | 緯度分 = 6 | 緯度秒 = 14 | N(北緯)及びS(南緯) = N | 経度度 = 130 |経度分 = 5 | 経度秒 = 38 | E(東経)及びW(西経) = E | map = Japan Saga |分類 = [[都市公園]](近隣公園)<ref name="条例">{{Cite web|和書|url=https://www1.g-reiki.net/kashima/reiki_honbun/q208RG00000409.html |title=鹿島市都市公園条例 |work=[https://www1.g-reiki.net/kashima/reiki_menu.html 鹿島市例規集] |website=Reiki-Base インターネット版 |date=令和元年6月18日改正時点 |accessdate=2023-12-10}}</ref> |面積 = 2.1 [[ヘクタール|ha]]<ref name="47G">{{Cite web|和書|url=https://www.japan47go.travel/ja/detail/38a4cb33-8465-4232-bf85-1111b3aabbd8 |title=旭ケ岡公園 |work=全国観光情報データベース |publisher=日本観光振興協会 |website=JAPAN 47 GO |date=2023-11-22 |accessdate=2023-12-10}}</ref> |前身 = 衆楽園 |開園 = [[1921年]] |運営者 = [[鹿島市]] }} [[File:Saga Kashima Matsukage Shrine.jpg|thumb|200px|松陰神社]] [[File:Shuraku stele of Asahigaoka Park.jpg|thumb|衆楽碑]] '''旭ヶ岡公園'''(あさひがおかこうえん)は、[[佐賀県]][[鹿島市]]高津原に所在する[[都市公園]]。「一目五千本」と称される[[桜]]の名所。[[日本の歴史公園100選]]に選定されている。 == 歴史 == [[肥前国]][[鹿島藩]]<ref group="注">[[佐賀藩]]の支藩。</ref>第13代藩主[[鍋島直彬]]は、[[文久]]元年から2年([[1861年]] - [[1862年]])にかけて[[鹿島城 (肥前国)|鹿島城]]<ref group="注">正確には城ではなく屋敷または陣屋だが、鹿島城と通称されている。</ref>域にある松陰神社境内の一角に桜を植樹、『衆楽園』と命名した。これが公園のはじまりとされる。衆楽園は毎年春に開放され、領民とともに[[花見|観桜]]の宴が催されていた<ref name="山川1">[[#佐賀県の歴史散歩|『佐賀県の歴史散歩』]]、146-147頁「旭ヶ岡公園」</ref><ref name="教委">{{Cite book|和書|title=鹿島の歴史を歩こう |url=https://www.city.saga-kashima.lg.jp/main/21155.html |publisher=鹿島市教育委員会 生涯学習課 |pages=2-5 |year=2018 |month=03}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=角川日本地名大辞典 佐賀県 |publisher=角川書店 |year=1982年 |isbn=978-4-04-622957-1 }}「旭ケ岡公園」頁。(参考:[https://jlogos.com/docomosp/word.html?id=7215821 JLogos])</ref>。 鹿島城の建物は1874年(明治7年)[[佐賀の乱]]の際に2つの門を残して焼失しているが、1887年(明治20年)にその残された大手門と赤門の間に桜を植え並木道が作られた{{R|山川1|教委}}。1914年(大正3年)には九州では初めて夜桜に[[電飾]]を付け照らし出す演出が行われ、著名となって花見客は一気に増加した。そのため松陰神社敷地だけでは狭くなり、赤門の東側に拡張して公園化、広場を設け桜をさらに植樹し[[1921年]](大正10年)に「旭ヶ岡公園」と命名された{{R|山川1|教委}}。 公園の所在地はかつての鹿島城の領域で、現代の[[町内会|地区]]としては城内区、[[小字|字]]としては旭に位置する{{R|条例|教委}}。 公園には以下の石碑や銅像が建立されている。 * [[鍋島直朝]]公追徳碑{{R|山川1}}<ref name="P">{{Cite web|和書|url=https://www.city.saga-kashima.lg.jp/main/45.html#asahigaoka |title=観光パンフレット 旭ヶ岡公園 |publisher=鹿島市 |website=鹿島市公式ウェブサイト |accessdate=2023-12-10}}</ref> * [[鍋島直彬]]公の像{{R|山川1|P}} * [[原忠順]]翁頌徳碑{{R|山川1|P}} * [[田澤義鋪]]之碑{{R|山川1|P}} * [[谷口藍田]]記恩の碑{{R|P}} * [[田中鉄三郎|田中鐵三郎]]寿碑{{R|P}} * [[井原喜代太郎]]君頌徳碑{{R|P}} * [[愛野興一郎]]先生像{{R|P}} * 衆楽園の碑(衆楽碑){{R|P}} * 弘文館跡の碑 - 鹿島[[藩校]]の記念碑{{R|P}} * 旭ヶ岡相撲場碑{{R|P}} * 「友よやすらかに」慰霊碑 - 1944年[[学徒動員]]時に犠牲となった鹿島高等女学校・鹿島立教女学校生徒10名の慰霊碑{{R|P}}。 * [[佐賀県立鹿島高等学校|県立鹿島中学校]]校歌碑{{R|P}} * [[招魂社|招魂]]碑{{R|P}} * 逆修碑{{R|P}} * [[松尾芭蕉|芭蕉]]句碑{{R|P}} 2007年に[[日本の歴史公園100選]]に選定されている<ref name="市1">{{Cite web|和書|url=https://www.city.saga-kashima.lg.jp/main/325.html |title=旭ヶ岡公園(あさひがおかこうえん) |publisher=鹿島市 |website=鹿島市公式ウェブサイト |accessdate=2023-12-10}}</ref>。 == 施設 == 公園内にある'''松陰神社'''(まつかげじんじゃ)は歴代の鹿島藩主を祀る神社。[[常広城]]内で寛永10年(1633年)初代の[[鍋島忠茂]]を祀ったのが起源とされ、鹿島城への移転と共に遷座し、後の1870年(明治3年)に社殿が拡張されている{{R|市1}}。境内社として[[楠木正成|楠]]社、[[祖霊]]社がある{{R|P}}。 春には「一目五千本」と称される桜が咲き花見客が訪れる{{R|市1}}。正面口である大手門から屋敷表門である赤門までの鍵型に曲がったかつての登城路に沿い、桜並木が並ぶ{{R|市1}}<ref>[[#佐賀県の歴史散歩|『佐賀県の歴史散歩』]]、144-146頁「鹿島城」</ref>。花見期間は夜のライトアップが行われ、出店が並ぶ。「桜樹保存会」が組織され毎年桜の植樹が行われているほか、隣接する鹿島高校出身者による記念植樹も目立つ{{R|市1}}。 道を挟んで隣接する形で鹿島市の街区公園である城内公園が整備され、遊具広場と駐車場が設けられている{{R|条例}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.saga-kashima.lg.jp/main/9374.html |title=城内公園 |publisher=鹿島市 |website=鹿島市公式ウェブサイト |accessdate=2023-12-10}}</ref>。 なお、[[佐賀県立鹿島高等学校]]の赤門学舎(旧来からの鹿島高校)および大手門学舎(旧[[佐賀県立鹿島実業高等学校]])が隣接地にある。 == アクセス == [[長崎本線]][[肥前鹿島駅]]から徒歩約10分{{R|47G}}。駐車場は10台と小規模だが、桜まつりの期間は臨時駐車場が設けられる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.saga-kashima.lg.jp/kanko/main/?cont=kanko&fid=3 |title=観光情報 旭ヶ岡公園 |publisher=鹿島市 |website=鹿島市公式ウェブサイト |accessdate=2023-12-10}}</ref>。 == 脚注 == === 注釈 === {{reflist|group="注"}} === 出典 === {{reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|editor=佐賀県の歴史散歩編集委員会 |title=佐賀県の歴史散歩 |publisher=山川出版社 |pages=146-147 |date=1995 |isbn=4-634-29410-9 |ref=佐賀県の歴史散歩}} == 関連項目 == * [[鹿島市]] * [[鹿島城 (肥前国)]] * [[日本の歴史公園100選]] == 外部リンク == * [https://www.city.saga-kashima.lg.jp/main/325.html 名所・旧跡 > 旭ヶ岡公園(あさひがおかこうえん)] - 鹿島市 {{osm box|w|630067023}} {{DEFAULTSORT:あさひがおかこうえん}} [[Category:佐賀県の公園]] [[Category:鹿島市]] [[Category:1921年開業の施設]]
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富田秀貞
富田 秀貞(とだ ひでさだ、生年不詳 - 1367年)は、南北朝時代の御家人。美作国守護職、のち山名時氏に仕えた出雲国目代。月山富田城城主。官位は左衛門尉。歴史文献では「佐々木美作大夫判官」とも記される。紋は「花輪違(七宝に花角)」。 富田師泰の嫡男として生れる。母は高岡宗泰の長女。父より月山富田城城主を継承した出雲国御家人であり、元弘4年(1333年)の鎌倉幕府滅亡後も富田庄の領主として、室町幕府に従い活動。 出雲国守護であった親族・塩冶高貞が、興国2年/暦応4年(1341年)に謀叛の疑いにより討伐されると、同年4月3日(1341年4月19日)、高貞の追討に功のあった山名時氏が出雲守護職に補任される。この時、秀貞はそのまま幕府方(北朝)の有力御家人として重用され、康永・貞和年間(1340年代)、美作国守護職に任ぜられた。 康永元年(1342年)、天龍寺の造営中に出向いた足利尊氏、直義に京極道誉らと共に供奉。 康永2年8月(1343年9月頃)、幕府は京極道誉(佐々木高氏)を出雲守護職とすると、道誉は目代として吉田厳覚(秀長)を出雲に派遣した。 観応の擾乱の時、秀貞は宮方(南朝)に転じ、南朝方の出雲国守護として補任される。この頃、元弘2年(1332年)頃に、湯荘の留守職であった諏訪部扶重が築いた城跡を改築し、現在「玉造城(玉造要害山城)」と呼ばれる城を築いた。その後、秀貞は所領を幕府方(北朝)に没収されることを危惧して、正平6年/観応2年7月25日(1351年8月18日)、勅裁に任せて鰐淵寺南院(南朝)に仁多郡阿井郷を寄進した。 同年、山名時氏が幕府(北朝)より任ぜられて再び出雲守護職となるが、時氏は京極道誉との対立から、正平7年/文和元年(1352年)、出雲で宮方(南朝)に帰順。道誉から派遣された目代・吉田厳覚を追放して、富田秀貞を目代とした。秀貞は観応年間(1351年 - 1353年)に宮方(南朝)として活動し、道誉らを中心とする出雲の幕府方(北朝)と対立を深めた。 正平9年/文和3年(1354年)、幕府は出雲守護職を京極道誉に戻し、富田庄をはじめとする富田秀貞の所領を没収して道誉に与えた。その為、幕府(北朝)の見解としては、富田庄は守護領となるが、宮方(南朝)が富田氏の所領である富田庄を本領安堵し、伯耆国守護・山名時氏が出雲に介入して後ろ盾となったことにより、その後も富田氏は、明徳の乱(1391年)まで、本領を保持し続けた。 正平17年/康安2年6月(1362年7月頃)秀貞は山名時氏による備後攻略にも活躍したが、正平22年/貞治6年(1367年)、出雲で討死した。 明徳の乱の時、月山富田城に山名氏の代官として実際に在城していたのは塩冶師高であるが、この乱によって山名氏が弱体化すると京極高詮が出雲を掌握。明徳3年(1392年)代官として尼子持久を派遣し、富田氏は富田庄を失うことになった。その後、秀貞の子・直貞(弾正少弼)の活動は『太平記』に記されている。子孫には出雲を離れ、大名となった伊勢国安濃津城城主・富田一白や、その嫡男・伊予国宇和島藩祖・富田信高らがいる。なお、富田信高は後に改易されたが、子孫は水戸藩士として続いた。
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富田 秀貞は、南北朝時代の御家人。美作国守護職、のち山名時氏に仕えた出雲国目代。月山富田城城主。官位は左衛門尉。歴史文献では「佐々木美作大夫判官」とも記される。紋は「花輪違(七宝に花角)」。
'''富田 秀貞'''(とだ ひでさだ、生年不詳 - [[1367年]])は、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[御家人]]。美作国守護職<ref>『東作誌』</ref>、のち[[山名時氏]]に仕えた出雲国目代。[[月山富田城]]城主。官位は[[左衛門尉]]。歴史文献では「佐々木美作[[大夫判官]]」とも記される。紋は「[[花輪違]](七宝に花角)」。 == 来歴 == [[File:月山.jpg|thumb|300px|[[富田氏]]歴代の居城・[[月山富田城]]]] [[File:Family crest hanawachigai.png|thumb|150px|[[花輪違]]<small>(七宝に花角)</small>]] 富田師泰の嫡男として生れる。母は[[高岡宗泰]]の長女<ref>[[高岡念智禅定尼]]の姉にあたる。</ref>。父より[[月山富田城]]城主を継承した出雲国[[御家人]]であり、元弘4年([[1333年]])の[[鎌倉幕府]]滅亡後も富田庄の領主として、[[室町幕府]]に従い活動<ref>『太平記』巻2、巻8、巻32、巻38</ref>。 出雲国守護であった親族・[[塩冶高貞]]が、興国2年/暦応4年([[1341年]])に謀叛の疑いにより討伐されると、同年4月3日([[1341年]][[4月19日]])、高貞の追討に功のあった[[山名時氏]]が出雲守護職に補任される。この時、秀貞はそのまま幕府方(北朝)の有力御家人として重用され、康永・貞和年間(1340年代)、美作国守護職に任ぜられた<ref name="hirose 1981">『塩谷遺跡発掘調査報告書』島根県能義郡広瀬町教育委員会編、1981年3月</ref>。 [[康永]]元年([[1342年]])、[[天龍寺]]の造営中に出向いた[[足利尊氏]]、[[足利直義|直義]]に[[京極道誉]]らと共に供奉<ref>「佐々木美作大夫判官(富田秀貞)」の名がある。『天龍寺造営記録』</ref><ref name="hirose 1981" />。 康永2年8月([[1343年]]9月頃)、幕府は[[京極道誉]](佐々木高氏)を出雲守護職とすると、道誉は目代として吉田厳覚(秀長)を出雲に派遣した<ref>『正閏史料』</ref><ref name="hirose 1981" />。 [[観応の擾乱]]の時、秀貞は宮方(南朝)に転じ、南朝方の出雲国守護として補任される。この頃、元弘2年([[1332年]])頃に、湯荘の留守職であった[[三刀屋氏|諏訪部扶重]]が築いた城跡を改築し、現在「玉造城([[玉造要害山城]])」と呼ばれる城を築いた<ref>『日本城郭体系』第14巻より。</ref>。その後、秀貞は所領を幕府方(北朝)に没収されることを危惧して、正平6年/観応2年7月25日([[1351年]][[8月18日]])、勅裁に任せて[[鰐淵寺]]南院(南朝)に[[仁多郡]]阿井郷を寄進した<ref>正平6年7月25日『富田秀貞寄進状』(所収『鰐淵寺文書』)</ref><ref name="hirose 1981" />。 {{Quotation|出雲國阿井郷事、<br /> 勅裁治定之間、所奉寄附鰐淵寺也。<br />爲天下安全、抽衆徒一同懇志、<br >可被致御祈禱之精誠、仍寄附如件。<br /> 正平六年七月廿五日<br />  前美作守(富田秀貞 花押)<br /><br />|『富田秀貞寄進状』<br />(『鰐淵寺文書』第70号)}} 同年、[[山名時氏]]が幕府(北朝)より任ぜられて再び出雲守護職となるが、時氏は京極道誉との対立から、正平7年/文和元年([[1352年]])、出雲で宮方(南朝)に帰順。道誉から派遣された[[目代]]・吉田厳覚を追放して、富田秀貞を目代とした。秀貞は観応年間([[1351年]] - [[1353年]])に宮方(南朝)として活動し、道誉らを中心とする出雲の幕府方(北朝)と対立を深めた<ref name="hirose 1981" />。 正平9年/文和3年([[1354年]])、幕府は出雲守護職を[[京極道誉]]に戻し、富田庄をはじめとする富田秀貞の所領を没収して道誉に与えた<ref>『佐々木文書』</ref>。その為、幕府(北朝)の見解としては、富田庄は守護領となるが、宮方(南朝)が富田氏の所領である富田庄を本領安堵し、伯耆国守護・[[山名時氏]]が出雲に介入して後ろ盾となったことにより、その後も[[富田氏]]は、[[明徳の乱]]([[1391年]])まで、本領を保持し続けた。 正平17年/康安2年6月([[1362年]]7月頃)秀貞は山名時氏による備後攻略にも活躍したが<ref>「正平十七年六月、山名時氏、兵ヲ美作院庄ニ勤シ、兵ヲ分チテ備前・備中ヲ従へ高師秀潰へ走ル。富田直貞ヲシテ備後ヲ攻略セシム」(『大日本史』)</ref>、正平22年/貞治6年([[1367年]])、出雲で討死した<ref name="kanseifu" />。 == 本領と子孫 == 明徳の乱の時、[[月山富田城]]に山名氏の代官として実際に在城していたのは塩冶師高であるが、この乱によって山名氏が弱体化すると[[京極高詮]]が出雲を掌握。明徳3年([[1392年]])代官として[[尼子持久]]を派遣し、[[富田氏]]は富田庄を失うことになった<ref name="hirose 1981" />。その後、秀貞の子・直貞(弾正少弼)の活動は『太平記』に記されている<ref name="hirose 1981" />。子孫には出雲を離れ、大名となった[[伊勢国]][[安濃津城]]城主・[[富田一白]]や、その嫡男・[[伊予国]][[宇和島藩]]祖・[[富田信高]]らがいる<ref name="kanseifu">『寛政重脩諸家譜』[[富田氏]]の項より。</ref>。なお、富田信高は後に改易されたが、子孫は[[水戸藩]]士として続いた<ref name="kanseifu" />。 == 補註 == {{Reflist|2}} == 参考文献 == *『鰐淵寺文書』 *『鰐淵寺文書の研究』曽根研三著、鰐淵寺文書刊行会、[[1963年]] *『島根県歴史人物事典』[[山陰中央新報社]]、[[1997年]] *『[[尊卑分脈]]』[[洞院公定]]編、永和2年([[1376年]])頃成立 *『[[群書類従]]』[[塙保己一]]編、[[1819年]] * {{Citation |和書|last=堀田|first=正敦|editor=|year =1923|chapter=富田氏|title =寛政重脩諸家譜. 第7輯|publisher =國民圖書|url={{NDLDC|1082721/426}} 国立国会図書館デジタルコレクション}} *『塩谷遺跡発掘調査報告書』島根県能義郡広瀬町教育委員会編、1981年3月 == 関連項目 == * [[出雲源氏]][[富田氏]] * [[富田義泰]] * [[富田長繁]] {{DEFAULTSORT:とた ひてさた}} [[Category:鎌倉幕府御家人]] [[Category:出雲富田氏|ひてさた]] [[Category:出雲国の人物]] [[Category:生年不明]] [[Category:1367年没]]
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旭岡公園
旭丘公園、旭ヶ丘公園、旭ケ丘公園、旭が岡公園(あさひがおかこうえん)は、日本各地にある公園の名称。
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旭丘公園、旭ヶ丘公園、旭ケ丘公園、旭が岡公園(あさひがおかこうえん)は、日本各地にある公園の名称。 北海道芦別市にある公園。 北海道倶知安町にある公園。 佐賀県鹿島市にある公園。→旭ヶ岡公園 (鹿島市)を参照。 沖縄県那覇市にある公園。
'''旭岡公園'''、'''旭ヶ岡公園'''、'''旭ケ岡公園'''、'''旭が岡公園'''(あさひがおかこうえん)は、日本各地にある公園の名称。 == 旭岡公園 == * [[北海道]][[旭川市]]にある公園。 == 旭ヶ岡公園 == * [[福島県]][[須賀川市]]にある公園。 * [[佐賀県]][[鹿島市]]にある公園。→[[旭ヶ岡公園 (鹿島市)]]を参照。 == 関連項目 == * [[旭丘]] * [[旭ヶ丘公園]] * [[朝日ヶ丘公園]] {{Aimai}} {{デフォルトソート:あさひがおかこうえん}} [[Category:同名の公園]]
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ステファニア・フィリアディ
「ステファニア・フィリアディ」({{翻字併記|el|Στεφανία Φιλιάδη|Stephanie Filiadi、, 1989年12月27日 -) は、ギリシャ 出身の 女優、女性声優、歌手 です。 カードキャプターさくら クリアカード編 (木之本桜) °
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「ステファニア・フィリアディ」({{翻字併記|el|Στεφανία Φιλιάδη|Stephanie Filiadi、, 1989年12月27日 -) は、ギリシャ 出身の 女優、女性声優、歌手 です。
{{複数の問題 | 特筆性 = 2023-12 | 存命人物の出典皆無 = 2023-12 }} {{声優 | 名前 = ステファニア・フィリアディ | ふりがな = | 本名 = ステファニア・シルビア・フィリアディ・ネラツィディ | 愛称 = | 配偶者 = | 性別 = 女性 | 出生地 = {{Flagicon|GRE}} [[ギリシャ]]、[[アテネ]] | 死没地 = | 血液型 = | 生年 = 1989 | 生月 = 12 | 生日 = 27 | 没年 = | 没月 = | 没日 = | 所属 = | 活動期間 = [[2008年]] - | }} '''ステファニア・フィリアディ'''({{翻字併記|el|Στεφανία Φιλιάδη|Stephanie Filiadi}},[[1989年]][[12月27日]] -) は、[[ギリシャ]] 出身の [[女優]]、女性[[声優]]、[[歌手]] です。 == 出演作品 == === テレビアニメ === *[[トッツ とべ! あかちゃん おとどけたい]] (ケイシー) *[[ポケットモンスター (アニメ)|ポケットモンスター]] (カルネ) *[[僕のヒーローアカデミア]] *[[チキチキマシン猛レース!]] === アニメ映画 === * [[ウィッシュ (映画)|ウィッシュ]](ダリア) === テレビドラマ === * [[ティーン・スパイ K.C.]] (ケイシー・クーパー) === 映画 === * フェアリー・ゴッドマザー (エレノア) == 外部リンク == * [[imdbname:5681842|ステファニア・フィリアディ]] - [[IMDb]] * [https://www.youtube.com/watch?v=-21Q36AG1K8 インタビュー動画] on Greek Dub DB [[Category:ギリシャの女優]] [[Category:ギリシャの声優]] [[Category:ギリシャの歌手]] [[Category:1989年生]] [[Category:アテネ出身の人物]] [[Category:存命人物]]
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戸隠地質化石博物館
戸隠地質化石博物館(とがくしちしつかせきはくぶつかん)とは、長野県長野市にある博物館である。 旧・戸隠村時代の1980年(昭和55年)当時、前年に閉校となった旧村立柵中学校を活用し、戸隠村郷土資料館が誕生。 その後、戸隠地質化石館となり、2005年の長野市への編入による長野市立博物館の分館化、2008年の茶臼山自然史館との合併・旧柵小学校校舎への移転を経て現在の戸隠地質化石博物館となった。 1983年建築の鉄筋コンクリート造り3階建て。 1948年建築の木造2階建て。 現在は使われていない。また、増築部分のプレハブが雪の重みにより半壊状態となっている。 体育館や講堂、プールといった施設がある。なお、現在のプールは2代目であり、かつてのプールは校庭を挟んだやや遠い位置にあった。
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戸隠地質化石博物館(とがくしちしつかせきはくぶつかん)とは、長野県長野市にある博物館である。
{{博物館 |名称 = 戸隠地質化石博物館 |native_name_lang = en |native_name = Togakushi Museum of Natural History | 画像 = File:Togakushi Museum of Natural History 1.jpg |正式名称 = |愛称 = |前身 = |専門分野 = |事業主体 = |管理運営 = [[長野市]] |延床面積 = |開館 = [[1980年]][[11月23日]] |所在地郵便番号 =381-4104 |所在地 = [[長野県]][[長野市]]戸隠栃原3400 | 緯度度 = 36 | 緯度分 = 40 | 緯度秒 = 42.58 | N(北緯)及びS(南緯) = N | 経度度 = 138 |経度分 = 4 | 経度秒 = 5.12 | E(東経)及びW(西経) = E | 地図国コード = JP |座標右上表示 = yes |map_type=Nagano city |アクセス = |公式サイト = [http://www.avis.ne.jp/~kaseki/ 戸隠地質化石博物館] }} '''戸隠地質化石博物館'''(とがくしちしつかせきはくぶつかん)とは、[[長野県]][[長野市]]にある博物館である。 == 概要 == 旧・[[戸隠村]]時代の1980年(昭和55年)当時、前年に閉校となった旧村立柵中学校を活用し、戸隠村郷土資料館が誕生<ref name=":0">{{Cite web |title=戸隠中学校のあゆみ |url=https://www.nagano-ngn.ed.jp/togakujh/shokai/history/history.html |website=www.nagano-ngn.ed.jp |access-date=2023-12-10}}</ref><ref name=":1">{{Cite web |url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/chitoka/27/0/27_KJ00005483151/_pdf/-char/ja |title=おらが村の博物館をめざして一戸隠村地質化石館16年のあゆみー |access-date=2023-12-10 |editor=田辺智隆}}</ref>。 その後、戸隠地質化石館となり、2005年の長野市への編入による[[長野市立博物館]]の分館化、2008年の茶臼山自然史館との合併・旧柵小学校校舎への移転を経て現在の戸隠地質化石博物館となった。 == 沿革 == * 1948年 - 後の戸隠地質化石博物館旧館となる柵中学校の校舎が完成 * 1979年3月31日 - この日をもって柵中学校が閉校<ref name=":0" /> * 1980年11月23日 - 旧柵中学校の校舎跡を使った戸隠村郷土資料館が開館<ref name=":1" /> * 1983年 - のちの戸隠地質化石博物館新館となる柵小学校の校舎が完成<ref>{{Cite web |title=戸隠小学校沿革 |url=https://www.nagano-ngn.ed.jp/togakujs/enkaku.htm |website=www.nagano-ngn.ed.jp |access-date=2023-12-12}}</ref> * 1987年1月 - 戸隠村郷土資料館と改名<ref>{{Cite web |url=https://www.city.nagano.nagano.jp/museum/pdf/dayori/63.pdf |title=長野市立博物館 博物館だより 第63号 |access-date=2023-12-12 |publisher=長野市立博物館 |page=3 |date=2005-03-31}}</ref> * 2005年(平成17年)1月1日 - 市町村合併に伴い、戸隠地質化石館が長野市立長野博物館の分館となる * 2006年(平成18年)3月31日 - この日をもって柵小学校が閉校 * 2007年(平成19年)5月 - この月から11月までに旧柵小学校にて改装工事が行われる * 2008年(平成20年)7月26日 - 茶臼山自然史館と戸隠地質化石館を統合し、旧柵小学校校舎を利用した戸隠地質化石博物館が開館 == 建物 == [[File:Togakushi Museum of Natural History former school gate.jpg|thumb|施設入口<br />両脇の門柱に長野市立柵小学校の表札が見える。]] [[File:Togakushi Museum of Natural History 2.jpg|thumb|エントランス]] === 旧柵小学校校舎 === 1983年建築の鉄筋コンクリート造り3階建て。 * '''1F''' - 受付・学校資料室・多目的室・標本作成室・専門図書室 など 通称『人が集う場所』 * '''2F''' - クリーニング室・キュラトリアルワークルーム1~2・生物標本室1~2・収蔵スペース1~3 など 通称『ミドルヤード』 * '''3F''' - 第1~第5展示室・展示準備室・家庭科室 など 通称『常設展示フロア』 === 旧柵中学校校舎 === 1948年建築の木造2階建て。 現在は使われていない。また、増築部分のプレハブが雪の重みにより半壊状態となっている。 === その他の施設 === 体育館や講堂、プールといった施設がある。なお、現在のプールは2代目であり、かつてのプールは校庭を挟んだやや遠い位置にあった。 == その他 == * 2018年9月3日放送[[鶴瓶の家族に乾杯]]の「運命か奇跡か!? miwaと長野市戸隠でぶっつけ本番旅」回にて、[[笑福亭鶴瓶]]が当館を訪れ、その際に当時の当館長が『鶴瓶桜』という名の桜を植えようと鶴瓶側に提案。その年の11月3日、同桜が植えられた<ref>{{Cite web |url=https://music-book.jp/music/news/news/199155 |title=「もう一度会いたい…」miwaが憧れの人を探す旅、長野市戸隠で運命or奇跡の出会いが!? 『鶴瓶の家族に乾杯』 |access-date=2023-12-12 |publisher=エムティーアイ |date=2018-09-03}}</ref><ref>{{Cite web |title=一足おさきに |url=https://naturalhistory.hatenadiary.jp/entry/20181018/1539854894 |website=戸隠地質化石博物館の日記 |date=2018-10-18 |access-date=2023-12-12 |language=ja |last=Naturalhistory}}</ref>。 * 新館はバリアフリーに対応しており、多目的トイレの完備・エレベーターの設置などがなされている。 * 2018年頃より、柴犬が館長を務めている。前任は黒柴。 == 料金 == * 大人:200円(団体160円) * 高校生:100円(団体80円) * 小中学生:50円(団体40円) ** 障害者手帳の提示により本人及び介助を必要とする場合の介助者は無料 ** 支払いは現金のほかpaypayも利用可能<ref>{{Cite web |title=長野県長野市加盟店一覧 - キャッシュレス決済のPayPay |url=http://paypay.ne.jp/guide/nagano-nagano-city |website=PayPay |access-date=2023-12-12 |language=ja}}</ref> == 交通 == * [[東日本旅客鉄道|JR東日本]]・[[長野電鉄]][[長野駅]]善光寺口より自動車約40分。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat}} * [[長野市]] * [[長野市立博物館]] * [[廃校]] == 外部リンク == * [http://www.avis.ne.jp/~kaseki/ 戸隠地質化石博物館] * [https://www.nagano-museum.com/info/detail.php?fno=37 戸隠地質化石博物館] {{DEFAULTSORT:とかくしちしつかせきはくふつかん}} [[Category:日本の自然史博物館]] [[Category:長野市の建築物]] [[Category:長野県の登録博物館]] [[Category:長野市の博物館]] [[Category:1980年開設の博物館]]
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リラ・ムツポロウ
リラ・ムツポロウ(ギリシャ語: Λίλα Μουτσοπούλου, ラテン文字転写: Lila Moutsopoulou, 4月15日は、ギリシャの女優、女性声優、女性歌手、音響監督。 太字はメインキャラクター。
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リラ・ムツポロウ(ギリシャ語: Λίλα Μουτσοπούλου, ラテン文字転写: Lila Moutsopoulou, 4月15日は、ギリシャの女優、女性声優、女性歌手、音響監督。
{{複数の問題 | 特筆性 = 2023-12 | 存命人物の出典皆無 = 2023-12 }} {{声優 | 名前 = リラ・ムツポロウ | ふりがな = | 画像ファイル = | 画像サイズ = | 画像コメント = | 本名 = | 愛称 = | 性別 = 女性 | 出生地 = {{Flagicon|GRE}} [[ギリシャ]]、[[アテネ]] | 死没地 = | 生年 = | 生月 = 4 | 生日 = 15 | 没年 = | 没月 = | 没日 = | 血液型 = | 身長 = | 職業 = [[声優]]・[[音響監督]] | 事務所 = | 配偶者 = | 著名な家族 = | 公式サイト = | 活動時期 = [[1979年]] - 現在 | デビュー作 = | 活動 = }} '''リラ・ムツポロウ'''({{翻字併記|el|Λίλα Μουτσοπούλου|Lila Moutsopoulou}}, [[4月15日]]-)は、[[ギリシャ]]の[[俳優|女優]]、女性[[声優]]、女性[[歌手]]、[[音響監督]]。 == 出演作品 == '''太字'''はメインキャラクター。 === テレビアニメ === * [[ふしぎの国のアリス (テレビアニメ)|ふしぎの国のアリス]] * [[アリスとふしぎのくにのベーカリー]] (キキ) * [[スター・ウォーズ: バッド・バッチ]] (フィー・ジェノア) * [[とっとこハム太郎]] (リボンちゃん) === 映画 === * フェアリー・ゴッドマザー (モイラ、ベス) * [[ヒーローキッズ]] * レジスタンス/奇跡の一夜 (ルース) === アニメ映画 === * [[FLY!/フライ!]] * [[プリンセスと魔法のキス]] (ユードラ) == 参加作品 == === テレビアニメ=== * [[アリスとふしぎのくにのベーカリー]] (演出) * [[スター・ウォーズ: バッド・バッチ]] (演出) === 映画 === * ブロードウェイ・ドリーム! (演出) * [[ヒーローキッズ]] (演出) == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [[imdbname:4890649|リラ・ムツポロウ]] - [[IMDb]] {{Greece-stub}} {{voice-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こすた うおうら}} [[Category:ギリシャの声優]] [[Category:存命人物]] [[Category:アテネ大学出身の人物]] [[Category:アテネ出身の人物]] [[Category:ギリシャ語の音響監督]]
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松本真輝
松本 真輝(まつもと まさき、1984年12月29日 - )は、日本の俳優。 現在の所属劇団は丈主宰の「LAPITA☆SHIP」。事務所はフリー。
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松本 真輝は、日本の俳優。 現在の所属劇団は丈主宰の「LAPITA☆SHIP」。事務所はフリー。
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ヴァシア・ザハロプロウ
ヴァシア・ザハロプロウ(ギリシャ語: Βάσια Ζαχαροπούλου, ラテン文字転写: Vassia Zacharopoulou, 1985年2月23日 -) は、ギリシャ 出身の 女性声優、女性歌手、ナレーター です。 太字はメインキャラクター。
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ヴァシア・ザハロプロウ(ギリシャ語: Βάσια Ζαχαροπούλου, ラテン文字転写: Vassia Zacharopoulou, 1985年2月23日 -) は、ギリシャ 出身の 女性声優、女性歌手、ナレーター です。
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セオドラ・パパイオアンノウ
セオドラ・パパイオアンノウ(ギリシャ語: Θεοδώρα Παπαϊωάννου, ラテン文字転写: Theodora Papaioannou, 1987年4月3日 -) は、ギリシャ 出身の 女優、女性 声優 です。 太字はメインキャラクター。
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セオドラ・パパイオアンノウ(ギリシャ語: Θεοδώρα Παπαϊωάννου, ラテン文字転写: Theodora Papaioannou, 1987年4月3日 -) は、ギリシャ 出身の 女優、女性 声優 です。
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ハッスル夫婦
ハッスル夫婦(はっするふうふ)は1979年4月21日から9月29日まで東京放送(TBS)で放送されていた視聴者参加型公開バラエティ番組である。全24回。 毎週土曜12:00 - 12:55に銀座テレサ(三越銀座店別館)からの公開生放送だった。 視聴者代表3組と芸能人ゲスト1組(5月26日は松鶴家千とせ夫妻)の計4組の夫婦が出場、5つのゲームに挑戦した。しかし「夫婦」といいながら、冒頭(後期は中盤)で夫婦を入れ替えてから行うというのが、当番組の売りである。 まずゲームを始める前に行うのが「チョット拝借、あなたの旦那」で、妻はホール内の4人の写真から好みの男性芸能人を選び、一方の夫はどれか1つの男性芸能人の写真裏に移動、そして妻の好みの写真をオープンし、出てきた夫とペアを組む。5月26日放送分では20個の中から合鍵を探す「愛カギさがし」、妻がスタジオ飛び出して銀座の街頭でゼスチャーを行い何を伝えているのかをスタジオに残っている夫が解答する「銀座ラブサイン」、パネルの指示通りに夫婦がポーズをとる「愛のハッスルポーズ」、決勝戦に当たる「ハッスル夫婦モグラ叩き大決戦」ではモグラたたきゲームを使い男女別で競いあった。男女のそれぞれの優勝者には「変身コーナー」に参加する資格を得た。敗者復活戦に当たる「残念ゲーム」では、制限時間内に夫が哺乳瓶どれだけミルクが飲めるかを競った。 優勝した夫婦には男性はALEXのスポーツウエア、女性はCHARACTER Bのカジュアルウエア、ウェラ化粧品の詰め合わせのほか海外旅行獲得のためのクイズに参加しない場合は平和堂貿易の宝石が贈られた。 「残念ゲーム」にも1位には平和堂貿易の高級時計「ウェルサム」、2位にはマルエム松崎のバック、3位はコダックの「インスタントカメラ」が男女ペアで贈られた。 先述の通り海外旅行(太平洋観光によるハワイ旅行)は優勝した夫婦が獲得のためのクイズに参加することを申告して5枚の封筒の中から1枚を選び見事正解した場合獲得することができる。参加することを申告してクイズに正解した場合に海外旅行を獲得することは珍しかった。 後期からは、前半2ゲームは通常の夫婦で行い、後半からは「チョット拝借」に替わる組み換えとして「世紀の大離婚」が登場、ロープを使って夫婦を組み換え、そのペアでゲームを行い、そして「ハッスルポーズ」は後半最初のゲームとなる。 司会は江利チエミとフィギュアスケート選手だった佐野稔の異色の組み合わせだった。 関東地方のみでネット局はなかった。 ゲームの合間にはゲスト歌手(5月26日は殿さまキングスと高野恵子)の歌に乗せて来週の星占いをテロップで伝えた後インフォメーションコーナーが設けられ関東ローカルの特性を生かして関東周辺のレジャーやイベントを紹介していた。 番組スポンサーは、イチジク製薬、第一家庭電器、森永製菓の3社でいわゆる「ご覧のスポンサー」は一つもなかった。 番組は半年(2クール)で終了。1976年10月スタートの『レツゴー銀座』(出演:レツゴー三匹)、1977年4月『ハッスル銀座』(出演:西田敏行、松崎しげる、林美雄)以来続いてきた銀座テレサからのTBS土曜正午枠バラエティ番組は終了した。
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ハッスル夫婦(はっするふうふ)は1979年4月21日から9月29日まで東京放送(TBS)で放送されていた視聴者参加型公開バラエティ番組である。全24回。
{{基礎情報 テレビ番組 |番組名=ハッスル夫婦 |ジャンル=[[視聴者参加型番組|視聴者参加型]][[バラエティ番組]] |放送期間=[[1979年]][[4月21日]] - 同年[[9月29日]] |放送時間=[[土曜日|土曜]]12:00 - 12:55 |放送分=55 |放送回数=24回 |放送国={{JPN}} |国・地域={{JPN}} |言語={{Flagicon|JPN}}[[日本語]] |製作=[[TBSテレビ|TBS]](製作著作) |放送チャンネル=TBS([[関東ローカル]]) |作=[[伊藤裕弘]]<BR />[[後藤正義]]<br />[[長束利博]]<br />後藤文雄 |構成=伊藤裕弘<br />後藤正義<br />長束利博<br />後藤文雄 |音楽=[[小松原まさし]] |プロデューサー=[[田中新二]](TBS)<br />[[掘田哲郎]]([[NP企画]]) |演出=[[古谷寛]] |司会者=[[江利チエミ]]<br />[[佐野稔]] |アナウンサー=[[山田二郎 (アナウンサー)|山田二郎]](TBS) |出演者=視聴者夫婦3組<br />芸能人夫婦1組<br />ほか |音声形式=[[モノラル放送]] |OPテーマ=「ハッスル夫婦のテーマ」 |前作=[[ハッスル銀座]] |続編= }} '''ハッスル夫婦'''(はっするふうふ)は[[1979年]][[4月21日]]から[[9月29日]]まで[[TBSテレビ|東京放送]]([[TBSテレビ|TBS]])で放送されていた視聴者参加型公開バラエティ番組である。全24回<ref>{{cite|和書|title=[[下野新聞]] [[縮刷版]]|publisher=下野新聞社|page=|date=1979年4月21日 - 同年9月29日}}ラジオ・テレビ欄</ref>。 == 概要 == 毎週土曜12:00 - 12:55に[[銀座テレサ]]([[銀座三越|三越銀座店]]別館)からの公開生放送だった。 視聴者代表3組と芸能人ゲスト1組(5月26日は[[松鶴家千とせ]]夫妻)の計4組の夫婦が出場、5つのゲームに挑戦した。しかし「夫婦」といいながら、冒頭(後期は中盤)で夫婦を入れ替えてから行うというのが、当番組の売りである。 == オープニング口上 == *「'''旦那も公認、女房も公認、銀座でスワップ、『ハッスル夫婦』!!'''」 == 番組内容 == まずゲームを始める前に行うのが「チョット拝借、あなたの旦那」で、妻はホール内の4人の写真から好みの男性芸能人を選び、一方の夫はどれか1つの男性芸能人の写真裏に移動、そして妻の好みの写真をオープンし、出てきた夫とペアを組む。5月26日放送分では20個の中から合鍵を探す「愛カギさがし」、妻がスタジオ飛び出して銀座の街頭でゼスチャーを行い何を伝えているのかをスタジオに残っている夫が解答する「銀座ラブサイン」、パネルの指示通りに夫婦がポーズをとる「愛のハッスルポーズ」、決勝戦に当たる「ハッスル夫婦モグラ叩き大決戦」ではモグラたたきゲームを使い男女別で競いあった。男女のそれぞれの優勝者には「変身コーナー」に参加する資格を得た。敗者復活戦に当たる「残念ゲーム」では、制限時間内に夫が哺乳瓶どれだけミルクが飲めるかを競った<ref>{{Citation|title=ハッスル夫婦 銀座テレサから生放送 1979(昭和54)年5月26日(土) 江利チエミ 佐野稔|url=https://www.youtube.com/watch?v=NjvLYcjT__8|language=ja-JP|access-date=2023-12-10}}</ref>。 優勝した夫婦には男性はALEXのスポーツウエア、女性はCHARACTER Bのカジュアルウエア、[[ウェラ化粧品]]<ref>{{Cite web |title=ウエラ(WELLA)の通販 {{!}} 化粧品・コスメ通販のアイビューティーストアー |url=https://www.ibeautystore.com/brands/2097.wella |website=www.ibeautystore.com |access-date=2023-12-10}}</ref><ref>{{Cite web |title=WELLA (ウエラ)|白髪染めのウエラ公式サイト |url=https://www.wella.com/retail/jp-JP/haircolor |website=www.wella.com |access-date=2023-12-10 |language=jp}}</ref>の詰め合わせのほか海外旅行獲得のためのクイズに参加しない場合は[[平和堂貿易]]の宝石が贈られた。 「残念ゲーム」にも1位には平和堂貿易の高級時計「ウェルサム」、2位には[[マルエム松崎]]のバック、3位は[[コダック]]の「インスタントカメラ」が男女ペアで贈られた。 先述の通り海外旅行([[太平洋観光]]によるハワイ旅行)は優勝した夫婦が獲得のためのクイズに参加することを申告して5枚の封筒の中から1枚を選び見事正解した場合獲得することができる。参加することを申告してクイズに正解した場合に海外旅行を獲得することは珍しかった。 後期からは、前半2ゲームは通常の夫婦で行い、後半からは「チョット拝借」に替わる組み換えとして「世紀の大離婚」が登場、ロープを使って夫婦を組み換え、そのペアでゲームを行い、そして「ハッスルポーズ」は後半最初のゲームとなる<ref>内容は変わらないものの、新たに「キス」(100点)のパネルが加わった。そしてこの「キス」が出た時は、「ジャーン!!」という音と「ズームアップ」・「ズームアウト」を高速で繰り返す映像([[谷啓]]の「ガチョーン!!」、『[[ぴったしカン・カン]]』の「ぴったしカンカーン!!」などと同じ)、そして『[[ピンク・タイフーン (In The Navy)]]』([[ピンク・レディー]])の歌の間のお囃子「やっちゃいな!やっちゃいな!やりたくなったらやっちゃいな!ワンツースリー、ワンツースリー、ワンツースリー、ウーッ!!」が新たに入る様になった。</ref>。 司会は[[江利チエミ]]と[[フィギュアスケート選手一覧|フィギュアスケート選手]]だった[[佐野稔]]の異色の組み合わせだった。 関東地方のみでネット局はなかった。 ゲームの合間にはゲスト歌手(5月26日は[[殿さまキングス]]と[[高野恵子]])の歌に乗せて来週の星占いをテロップで伝えた後インフォメーションコーナーが設けられ関東ローカルの特性を生かして関東周辺のレジャーやイベントを紹介していた。 番組スポンサーは、[[イチジク製薬]]、[[第一家庭電器]]、[[森永製菓]]の3社でいわゆる「ご覧のスポンサー」は一つもなかった。 番組は半年(2クール)で終了。1976年10月スタートの『[[レツゴー銀座]]』(出演:[[レツゴー三匹]])、1977年4月『[[ハッスル銀座]]』(出演:[[西田敏行]]、[[松崎しげる]]、[[林美雄]]<ref name="放送">放送当時TBSアナウンサー。</ref>)以来続いてきた銀座テレサからのTBS土曜正午枠バラエティ番組は終了した。 == 出演 == *司会:[[江利チエミ]]、[[佐野稔]] *アナウンサー:[[山田二郎 (アナウンサー)|山田二郎]]<ref name="放送" /> *アシスタント:[[キューピット (アイドルグループ)|キューピット]]、[[杉田美由紀]] *変身コーナー・メイク:[[マーク・山田]] *変身コーナー・ヘアー:[[岡田丈士]] == スタッフ == *作・構成:[[伊藤裕弘]] / [[後藤正義]]、[[長束利博]]、後藤文雄 *音楽:[[小松原まさし]]<ref>『[[愛の水中花]]』(作詞:[[五木寛之]]、唄:[[松坂慶子]])の作曲者でもある。</ref> *プロデューサー:[[田中新二]](TBS)、[[掘田哲郎]]([[NP企画]]) *技術:[[島田健治]] *調整:[[船山道夫]] *カメラ:[[北山善弘]] *照明:松本修一 *音声:[[湯浅高己]] *美術デザイン:[[宮澤利昭|宮沢利昭]] *美術進行:[[笠松利明]] *音響:[[塚田益昭]] *演出:[[古谷寛]] *技術協力:[[東通]] *制作協力:NP企画 *製作著作:TBS == 関連項目 == *[[ぎんざNOW!]] *[[ぎんざナイトナイト|ぎんさナイトナイト]] *[[ロッテ 歌のアルバム]] - 一時期、銀座テレサで収録。 *[[レディス4]] - 銀座テレサが「[[テレビ東京]]三越銀座スタジオ」に改称後1982年の番組スタートから数年間使用。 *[[ザ・ヒットステージ]] - 後期([[小堺一機]]時代)、番組内で「愛のハッスルポーズ」が復活。 == 脚注 == {{Reflist}} {{前後番組| 放送局=[[TBSテレビ|TBS]]| 放送枠=土曜正午枠| 番組名=ハッスル夫婦<br />【ここまでTBS制作枠】| 前番組=[[ハッスル銀座]]| 次番組=[[藤山寛美いろは劇場]]<br />【[[MBSテレビ|MBS]]制作】| }} {{DEFAULTSORT:はっするふうふ}} [[Category:1979年のテレビ番組 (日本)]] [[Category:TBSのバラエティ番組の歴史]] [[Category:TBSのローカル番組]] [[Category:視聴者参加型番組]] [[Category:夫婦を題材とした作品]] [[Category:江利チエミ]] [[Category:銀座の歴史]] [[Category:三越の歴史]] [[Category:森永製菓の歴史|番はっするふうふ]]
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外ヶ浜町蟹田スキー場
外ヶ浜町蟹田スキー場(そとがはまちょうかにたスキーじょう)は、青森県外ヶ浜町のスキー場。外ヶ浜町スキー場設置及び管理に関する条例により設置された施設であるが、設備の老朽化等により2024年3月末で廃止となる。 1981年(昭和56年)に開設された。管理者は外ヶ浜町教育委員会。面積は2.6ヘクタールで、設備としてロープ塔1基がある。 設備の老朽化が進み、2020年度(令和2年度)には照明機器が故障してナイター営業が中止となった。 2023年から2024年シーズンは通常営業は行わず、小学校のスキー授業のみの対応とし、2024年3月末で廃止となる。
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外ヶ浜町蟹田スキー場(そとがはまちょうかにたスキーじょう)は、青森県外ヶ浜町のスキー場。外ヶ浜町スキー場設置及び管理に関する条例により設置された施設であるが、設備の老朽化等により2024年3月末で廃止となる。
'''外ヶ浜町蟹田スキー場'''(そとがはまちょうかにたスキーじょう)は、[[青森県]][[外ヶ浜町]]の[[スキー場]]。外ヶ浜町スキー場設置及び管理に関する条例により設置された施設であるが、設備の老朽化等により2024年3月末で廃止となる<ref name="siryou" /><ref name="toonippo20231209" />。 == 歴史 == [[1981年]](昭和56年)に開設された<ref name="siryou">{{Cite web|和書| url=https://www.town.sotogahama.lg.jp/bunka/sports/files/04_ski_haisi_siryou.pdf | title=外ヶ浜町蟹田スキー場の現状と今後の見通しについて | publisher=外ヶ浜町教育委員会 | accessdate=2023-12-09}}</ref>。管理者は外ヶ浜町教育委員会<ref name="tochiriyou">{{Cite web|和書| url=https://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kendo/kanri/files/R4_aomori_tochiriyou.pdf | title=青森県の土地利用 | publisher=青森県県土整備部監理課 | accessdate=2023-12-09}}</ref>。面積は2.6ヘクタールで、設備としてロープ塔1基がある<ref name="tochiriyou" />。 設備の老朽化が進み、2020年度(令和2年度)には照明機器が故障してナイター営業が中止となった<ref name="siryou" />。 [[2023年]]から[[2024年]]シーズンは通常営業は行わず、小学校のスキー授業のみの対応とし、2024年3月末で廃止となる<ref name="toonippo20231209">{{Cite web|和書| url=https://www.toonippo.co.jp/articles/-/1668753 | title=外ケ浜町、蟹田スキー場廃止方針 | publisher=東奥日報 | accessdate=2023-12-09}}</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} {{Skiing-stub}} {{DEFAULTSORT:そとかはまちようかにた}} [[Category:青森県のスキー場]] [[Category:外ヶ浜町]] [[Category:1981年開設のスポーツ施設]]
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一色氏明
一色 氏明(いっしき うじあき、生没年不詳)は室町時代の人物。家系は清和源氏の一流 河内源氏の流れを汲む足利一門で一色氏の一族。父は一色氏宗。子は丹羽氏時。一色丹羽氏の祖。 一族の一色詮範が尾張国の守護職を得た際に同行し、丹羽庄を領し丹羽姓を名乗ったとされる。子孫は代々尾張に土着した。
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一色 氏明は室町時代の人物。家系は清和源氏の一流 河内源氏の流れを汲む足利一門で一色氏の一族。父は一色氏宗。子は丹羽氏時。一色丹羽氏の祖。 一族の一色詮範が尾張国の守護職を得た際に同行し、丹羽庄を領し丹羽姓を名乗ったとされる。子孫は代々尾張に土着した。
'''一色 氏明'''(いっしき うじあき、生没年不詳)は[[室町時代]]の人物。[[家系]]は[[清和源氏]]の一流 [[河内源氏]]の流れを汲む[[足利氏|足利一門]]で[[一色氏]]の一族。父は[[一色氏宗]]。子は[[丹羽氏時]]。[[丹羽氏|一色丹羽氏]]の祖。 一族の[[一色詮範]]が[[尾張国]]の[[守護|守護職]]を得た際に同行し、丹羽庄を領し丹羽姓を名乗ったとされる。子孫は代々尾張に土着した。 == 脚注 == {{Reflist}} {{Japanese-history-stub}} {{DEFAULTSORT:いつしき うしあき}} [[Category:一色丹羽氏]] [[Category:室町時代の人物]] [[Category:尾張国の人物]] [[Category:生没年不詳]]
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小河墓地
小河墓地(しょうがぼち)は、中華人民共和国新疆ウイグル自治区バインゴリン・モンゴル族自治州チャルクリク県、ロプノール地域の孔雀河下流から南に約60キロメートルのロプノール砂漠に位置する、小河文化遺産の古代墓地である。。 2013年には、中華人民共和国国務院は第7陣全国重点文化財保護単位(古墳、第七批全国重点文物保护单位)に指定。 小河墓地に埋葬されている遺体はインド・ヨーロッパ系人種があり、墓地の一部の所有者が黄色人種でもあった。考古学的発掘調査によると、当時すでに青銅器が使用されていた。また考古学者らは、女性の墓地に埋葬品が豊富であることから、小河社会は母系制であったとしている。 墓地の名前は、南を流れる孔雀河の支流の「小川」(小河)に由来していて、1934年に小河墓地に入ったスウェーデンのスヴェン・ヘディン考古学調査団のフォルケ・ベリイマンにより命名。
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小河墓地(しょうがぼち)は、中華人民共和国新疆ウイグル自治区バインゴリン・モンゴル族自治州チャルクリク県、ロプノール地域の孔雀河下流から南に約60キロメートルのロプノール砂漠に位置する、小河文化遺産の古代墓地である。。 2013年には、中華人民共和国国務院は第7陣全国重点文化財保護単位(古墳、第七批全国重点文物保护单位)に指定。 小河墓地に埋葬されている遺体はインド・ヨーロッパ系人種があり、墓地の一部の所有者が黄色人種でもあった。考古学的発掘調査によると、当時すでに青銅器が使用されていた。また考古学者らは、女性の墓地に埋葬品が豊富であることから、小河社会は母系制であったとしている。 墓地の名前は、南を流れる孔雀河の支流の「小川」(小河)に由来していて、1934年に小河墓地に入ったスウェーデンのスヴェン・ヘディン考古学調査団のフォルケ・ベリイマンにより命名。
[[File:Xiaohe cemetery (fourth layer).jpg|thumb|right|150px|小河墓地([[新疆ウイグル自治区]])]] '''小河墓地'''(しょうがぼち)は、中華人民共和国[[新疆ウイグル自治区]][[バインゴリン・モンゴル族自治州]][[チャルクリク県]]、[[ロプノール]]地域の[[孔雀河]]下流から南に約60キロメートルのロプノール砂漠に位置する、小河文化遺産の[[ネクロポリス|古代墓地]]である。<ref>[https://www.chikyu.ac.jp/sato-project/news_letter/news_letter_66.pdf 小河墓地遺跡の日中共同研究の成果小河文化遺産報告会(総合地球環境学研究所佐藤プロジェクト:加藤早稲子、2010年)]</ref>。 2013年には、[[中華人民共和国国務院]]は第7陣[[中華人民共和国全国重点文物保護単位|全国重点文化財保護単位]](古墳、[[:zh:第七批全国重点文物保护单位|第七批全国重点文物保护单位]])に指定。 小河墓地に埋葬されている遺体は[[インド・ヨーロッパ祖族|インド・ヨーロッパ系人種]]があり、墓地の一部の所有者が[[黄色人種]]でもあった。考古学的発掘調査によると、当時すでに[[青銅器]]が使用されていた。また考古学者らは、女性の墓地に埋葬品が豊富であることから、小河社会は[[母系制]]であったとしている。<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3373488 中国内外の学者、新疆で約9千年前の古代人の遺伝子系譜を発見(AFP BB News、2021年)]</ref> 墓地の名前は、南を流れる[[孔雀河]]の支流の「小川」(小河)に由来していて、1934年に小河墓地に入ったスウェーデンの[[スヴェン・ヘディン]]考古学調査団の[[フォルケ・ベリイマン]]により命名。<ref>[http://www.peoplechina.com.cn/wenhua/2009-02/05/content_177107.htm タクラマカン砂漠から大量に出土中国最古のミイラ群(人民中国、2017年)]</ref> ==写真集== <gallery> File:Xiaohe cemetery (female mummy with European features).jpg|インド・ヨーロッパ系女性のミイラ File:Xiaohe cemetery (boat coffins).jpg|舟型の棺 </gallery> ==参照項目== * [[楼蘭博物館]] ==脚注== {{Reflist}} == 外部リンク == {{Commonscat|Xiaohe cemetery}} *[https://academic-accelerator.com/encyclopedia/jp/xiaohe-cemetery Xiaohe Cemetery: 最新の百科事典、ニュース、レビュー、研究(Academic Accelerator)] {{デフォルトソート:しようかほち}} [[Category:新疆ウイグル自治区の全国重点文物保護単位]] [[Category:バインゴリン・モンゴル自治州]] [[Category:ミイラ]] [[Category:中国の考古学]]
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小室仲太郎
小室 仲太郎(こむろなかたろう、1834年〈天保5年〉 - 1916年〈大正5年〉7月13日)は、江戸時代後期から明治時代の歌舞伎役者。 1834年(天保5年)、南山名村本郷で生まれた。この地方の歌舞伎役者の元祖であり、屋号を松鶴屋、芸名を中村七賀十郎といった。一座とともに、愛知、岐阜、三重、福井などの都市や農村地帯などを巡業して活躍した。小室家には1880年(明治13年)以降の各地を巡業した興行記録日記や多くの台本が保管されている。この日記には、宿泊地、興行場所、食費、購入品の値段などが詳細に記録されていて、明治年間の各地における生活をうかがい知ることができる。地元の山那神社の境内には廻り舞台のある建物があって、地元にいた指導者の影響を受けた後継者たちによって、大正の中頃まで祭りの時にここで芝居が開演されていた。1916年(大正5年)7月13日、82歳で没した。小室の没後、この地域での芝居の上演は下火になり、次第に青年団の武道訓練場となり、1939年(昭和14年)、地域の芸達者による芝居を最後に陸軍の物資倉庫に徴用された。終戦後も昔日の舞台復活とはならず、取り壊すこととなった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "小室 仲太郎(こむろなかたろう、1834年〈天保5年〉 - 1916年〈大正5年〉7月13日)は、江戸時代後期から明治時代の歌舞伎役者。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1834年(天保5年)、南山名村本郷で生まれた。この地方の歌舞伎役者の元祖であり、屋号を松鶴屋、芸名を中村七賀十郎といった。一座とともに、愛知、岐阜、三重、福井などの都市や農村地帯などを巡業して活躍した。小室家には1880年(明治13年)以降の各地を巡業した興行記録日記や多くの台本が保管されている。この日記には、宿泊地、興行場所、食費、購入品の値段などが詳細に記録されていて、明治年間の各地における生活をうかがい知ることができる。地元の山那神社の境内には廻り舞台のある建物があって、地元にいた指導者の影響を受けた後継者たちによって、大正の中頃まで祭りの時にここで芝居が開演されていた。1916年(大正5年)7月13日、82歳で没した。小室の没後、この地域での芝居の上演は下火になり、次第に青年団の武道訓練場となり、1939年(昭和14年)、地域の芸達者による芝居を最後に陸軍の物資倉庫に徴用された。終戦後も昔日の舞台復活とはならず、取り壊すこととなった。", "title": "経歴・人物" } ]
小室 仲太郎は、江戸時代後期から明治時代の歌舞伎役者。
{{Infobox 人物 |氏名= 小室 仲太郎 |ふりがな= こむろ なかたろう |画像= <!-- 画像ファイル名 --> |画像サイズ= |画像説明= |出生名= |生年月日= {{生年月日と年齢|1834|??|??|no}} |生誕地= {{JPN}} [[愛知県]][[丹羽郡]][[南山名村]]<br>(現:[[扶桑町]]) |洗礼= |失踪年月日= |失踪地= |現況= |没年月日= |死没地= <!-- {{JPN}}・XX都道府県YY市区町村 --> |死因= |遺体発見= |墓地= |記念碑= |住居= |国籍= <!-- {{JPN}} --> |別名= |民族= |市民権= |教育= |出身校= |職業= [[歌舞伎役者]] |活動期間= |時代= |雇用者= |団体= |代理人= |著名な実績= |代表作= |流派= |影響を受けたもの= |影響を与えたもの= |活動拠点= |給料= |純資産= |身長= |体重= |テレビ番組= |肩書き= |任期= |前任者= |後任者= |政党= |政治運動= |敵対者= |取締役会= |宗教= |宗派= |罪名= |刑罰= |犯罪者現況= |配偶者= |非婚配偶者= |子供= |親= |親戚= |家族= |コールサイン= |受賞= |栄誉= |公式サイト= <!-- {{Official website|https://www.example.org}}や[https://www.example.org/ 公式ページ名] など --> |署名= <!-- 画像ファイル名 --> |署名サイズ= |補足= }} '''小室 仲太郎'''(こむろ なかたろう、[[1834年]]〈[[天保]]5年〉 - [[1916年]]〈[[大正]]5年〉[[7月13日]])は、[[江戸時代]]後期から[[明治時代]]の[[歌舞伎役者]]。 ==経歴・人物== [[1834年]]([[天保]]5年)、[[南山名村]]本郷で生まれた。この地方の歌舞伎役者の元祖であり、[[屋号]]を[[松鶴屋]]、[[芸名]]を中村七賀十郎といった。一座とともに、愛知、岐阜、三重、福井などの都市や農村地帯などを巡業して活躍した{{sfn|扶桑町教育委員会|扶桑町史編集委員会|1998|pp=584}}。小室家には[[1880年]]([[明治]]13年)以降の各地を巡業した興行記録日記や多くの台本が保管されている。この日記には、宿泊地、興行場所、食費、購入品の値段などが詳細に記録されていて、明治年間の各地における生活をうかがい知ることができる。地元の[[山那神社]]の境内には[[廻り舞台]]のある建物があって、地元にいた指導者の影響を受けた後継者たちによって、大正の中頃まで祭りの時にここで芝居が開演されていた。[[1916年]]([[大正]]5年)[[7月13日]]、82歳で没した。小室の没後、この地域での芝居の上演は下火になり、次第に青年団の武道訓練場となり、[[1939年]]([[昭和]]14年)、地域の芸達者による芝居を最後に[[大日本帝国陸軍|陸軍]]の物資倉庫に徴用された。終戦後も昔日の舞台復活とはならず、取り壊すこととなった。 == 脚注 == === 出典 === {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} * {{cite book|和書 |author=扶桑町教育委員会 |author2=扶桑町史編集委員会 |title=扶桑町史 下 |publisher=扶桑町 |year=1998 |ref={{sfnref|扶桑町教育委員会|扶桑町史編集委員会|1998}} }} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:こむろ なかたろう}} [[Category:歌舞伎役者]] [[Category:愛知県出身の人物]] [[Category:1834年生]] [[Category:1916年没]]
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新潟県立吉田病院附属看護専門学校
新潟県立吉田病院附属看護専門学校(にいがたけんりつよしだびょういんふぞくかんごせんもんがっこう)は、新潟県に所在する看護学校。 准看護師から看護師を養成する。 1965年、新潟県立吉田病院附属准看護学院として開校。1968年、准看護師を対象とした看護師の養成へと転換した。1977年、新潟県立吉田病院附属看護専門学校に改称。 准看護師である学習者を対象とし、学習者自らの能力を最大限に発揮し、質の高い看護を提供できる専門職業人を育成する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "新潟県立吉田病院附属看護専門学校(にいがたけんりつよしだびょういんふぞくかんごせんもんがっこう)は、新潟県に所在する看護学校。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "准看護師から看護師を養成する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1965年、新潟県立吉田病院附属准看護学院として開校。1968年、准看護師を対象とした看護師の養成へと転換した。1977年、新潟県立吉田病院附属看護専門学校に改称。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "准看護師である学習者を対象とし、学習者自らの能力を最大限に発揮し、質の高い看護を提供できる専門職業人を育成する。", "title": "教育理念" } ]
新潟県立吉田病院附属看護専門学校(にいがたけんりつよしだびょういんふぞくかんごせんもんがっこう)は、新潟県に所在する看護学校。
{{日本の専修学校 |校名 = 新潟県立吉田病院附属看護専門学校 |画像 = |画像サイズ = |画像説明 = |英称 = |過去校名 = 新潟県立吉田病院附属准看護学院 |国公私立 = [[公立学校]] |学校種別 = [[専門学校]] |設置者 = [[新潟県]] |学区 = |併合学校 = |理念 = |校訓 = |創立者 = |創立年 = |設置年月日 = 1965年 |記念日名称 = |創立記念日 = |閉校年月日 = |共学・別学 = [[男女共学]] |課程 =専門課程<ref name="学則第3条">新潟県立吉田病院附属看護専門学校学則 第3条</ref> |二部以上の授業 = |単位制・学年制 = 学年制 |修業年限 =2年 |設置学科 =看護科 |学期 = 2学期<ref>新潟県立吉田病院附属看護専門学校学則 第7条</ref> |郵便番号 = 959 - 0242 |所在地 = [[新潟県]][[燕市]]吉田大保町32番60号<ref>新潟県立吉田病院附属看護専門学校学則 第1条の3</ref> |緯度度 = |緯度分 = |緯度秒 = |経度度 = |経度分 = |経度秒 = |座標右上表示 = |マップ表示 = |地図ズーム = |中心緯度 = |中心経度 = |地図WikiData = |外部リンク = [https://www.yoshikan.jp/ 新潟県立吉田病院附属看護専門学校] }} '''新潟県立吉田病院附属看護専門学校'''(にいがたけんりつよしだびょういんふぞくかんごせんもんがっこう)は、[[新潟県]][[燕市]]に所在する[[看護学校]]。 == 概要 == [[准看護師]]から[[看護師]]を養成する<ref name=":0">{{Cite web |title=県立吉田病院の付属看護専門学校 令和7年度末で閉校へ|NHK 新潟県のニュース |url=https://www3.nhk.or.jp/lnews/niigata/20230718/1030025748.html |website=NHK NEWS WEB |access-date=2023-12-10 |last=日本放送協会}}</ref>。 == 沿革 == 1965年、'''新潟県立吉田病院附属准看護学院'''として開校。1968年、准看護師を対象とした看護師の養成へと転換した。1977年、'''新潟県立吉田病院附属看護専門学校'''に改称。 === 年表 === * [[1965年]]開校<ref name=":0" />。 * [[2023年]]度の入学者は定員50人に対して8人<ref name=":0" />。 * [[2024年]]度より募集停止<ref name=":0" />。 * [[2025年]]度末に閉校<ref name=":0" />。 == 教育理念 == 准看護師である学習者を対象とし、学習者自らの能力を最大限に発揮し、質の高い看護を提供できる専門職業人を育成する<ref>[https://www.yoshikan.jp/archives/10 教育理念] 新潟県立吉田病院附属看護専門学校Webサイト</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[新潟県専修学校一覧]] == 外部リンク == *[https://www.yoshikan.jp/ 新潟県立吉田病院附属看護専門学校] {{デフォルトソート:にいかたけんりつよしたひよういんふそくかんこせんもんかつこう}} [[Category:新潟県の専修学校]] [[Category:日本の公立看護学校]]
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大鶴村 (大分県)
大鶴村(おおつるむら)は、大分県日田郡にあった村。現在の日田市の一部にあたる。 大肥川の中流域と鶴河内川の流域に位置していた。 合併村名の各一文字を組み合わせたもの。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "大鶴村(おおつるむら)は、大分県日田郡にあった村。現在の日田市の一部にあたる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "大肥川の中流域と鶴河内川の流域に位置していた。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "合併村名の各一文字を組み合わせたもの。", "title": "歴史" } ]
大鶴村(おおつるむら)は、大分県日田郡にあった村。現在の日田市の一部にあたる。
{{日本の町村 (廃止) | 廃止日 = 1955年3月31日 | 廃止理由 = 編入合併 | 廃止詳細 = [[東有田村]]、[[小野村 (大分県)|小野村]]、'''大鶴村'''、[[夜明村]]、[[五和村 (大分県)|五和村]] → [[日田市]] | 現在の自治体 = 日田市 | よみがな = おおつるむら | 自治体名 = 大鶴村 | 区分 = 村 | 都道府県 = 大分県 | 郡 = [[日田郡]] | 面積 = | 境界未定 = | 人口 = 4851 | 人口の出典 = [[国勢調査 (日本)|国勢調査]] | 人口の時点 = 1950年 | 隣接自治体 = 小野村、日田市、夜明村<br />[[福岡県]][[朝倉郡]][[宝珠山村]] | 所在地 = 日田郡大鶴村大字大肥 | 座標 = | 位置画像 = | 特記事項 = }} '''大鶴村'''(おおつるむら{{R|変遷}}{{R|角川}})は、[[大分県]][[日田郡]]にあった[[村]]。現在の[[日田市]]の一部にあたる。 == 地理 == [[大肥川]]の中流域と鶴河内川の流域に位置していた{{R|角川}}。 == 歴史 == *[[1889年]](明治22年)4月1日、[[町村制]]の施行により、日田郡大肥村、鶴河内村が合併して村制施行し、'''大鶴村'''が発足<ref name=変遷>『市町村名変遷辞典』134頁。</ref><ref name=角川>『角川日本地名大辞典 44 大分県』198頁。</ref>。旧村名を継承した大肥、鶴河内の2大字を編成{{R|角川}}。 *[[1955年]](昭和30年)3月31日、'''[[日田市]]'''に編入され廃止{{R|変遷}}{{R|角川}}。 === 地名の由来 === 合併村名の各一文字を組み合わせたもの。 == 産業 == *農業<ref>「大肥〈日田市〉」『角川日本地名大辞典 44 大分県』205頁。</ref> == 交通 == === 鉄道 === *[[1937年]](昭和12年)国有鉄道[[日田彦山線]]が開通し[[大鶴駅]](大字大肥)開設{{R|角川}}。 == 脚注 == {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[角川日本地名大辞典]] 44 大分県 * 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。 == 関連項目 == * [[大分県の廃止市町村一覧]] {{デフォルトソート:おおつるむら}} [[Category:日田郡]] [[Category:日田市域の廃止市町村]] [[Category:1889年設置の日本の市町村]] [[Category:1955年廃止の日本の市町村]] [[Category:合成地名]]
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転生林檎
転生林檎とは、日本のボカロPであるピノキオPによる楽曲。2022年6月3日に公開された。映像はえいりな刃物。 また、ガトーによる林檎転生(漫画)とは特に関係もない。 プロセカにも収録されておらず、今後の収録が期待されている。 ゆったりとした歌詞が特徴で、歌はボーカロイドの初音ミクである 自己嫌悪・社会嫌悪に陥っている主人公が怪しい林檎を食べたことで、色々な職業に転生し、人間として成長していく物語。 最初は平凡な自分から始まり、表現者、発明家、救世主、革命家、冒険家と順に転生、一時は成功するものの、どこかで失敗をしてしまい、 最終的にはいつもの自分も。 という歌である。
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転生林檎とは、日本のボカロPであるピノキオPによる楽曲。2022年6月3日に公開された。映像はえいりな刃物。 また、ガトーによる林檎転生(漫画)とは特に関係もない。 プロセカにも収録されておらず、今後の収録が期待されている。
'''転生林檎'''とは、日本のボカロPである[[ピノキオピー|ピノキオP]]による楽曲。2022年6月3日に公開された。映像はえいりな刃物。 また、ガトーによる'''林檎転生(漫画)'''とは特に関係もない。 プロセカにも収録されておらず、今後の収録が期待されている。 == 概要 == ゆったりとした歌詞が特徴で、歌は[[VOCALOID|ボーカロイド]]の[[初音ミク]]である 自己嫌悪・社会嫌悪に陥っている主人公が怪しい[[リンゴ|林檎]]を食べたことで、色々な職業に[[転生]]し、人間として成長していく物語。 最初は平凡な自分から始まり、表現者、発明家、救世主、革命家、冒険家と順に転生、一時は成功するものの、どこかで失敗をしてしまい、  最終的にはいつもの自分も。 という歌である。 == リンク == <blockquote>[https://www.youtube.com/watch?v=LYWP8HtgeLQ]</blockquote>
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チャルクリク駅
チャルクリク駅(チャルクリクえき、中国語: 若羌站)は中国新疆ウイグル自治区の東南部、バインゴリン・モンゴル族自治州チャルクリク県(若羌県)にある中心鉄道駅。 チャルクリク駅は、2020年12月に格庫線の全通と共に使用開始されて、2022年6月には和若線(南疆線の東部)も開通してその東側終着駅ともなった。中国鉄道ウルムチ局集団が所有しており、コルラ車両基地の管轄下にある。 チャルクリク駅の総建築面積は30,245.05平方メートルで、主に駅舎、総合整備区棟、貨物ヤード棟、機関車折返し部棟、駅区補助棟の5つの部分に分かれている。駅の建築面積は4916.35平方メートルで、駅内に標準的高さのホーム2面(島式ホームと計3面)がある。 その他の交通は次の通り。
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チャルクリク駅は中国新疆ウイグル自治区の東南部、バインゴリン・モンゴル族自治州チャルクリク県(若羌県)にある中心鉄道駅。
'''チャルクリク駅'''(チャルクリクえき、{{Lang-zh|若羌站}})は中国[[新疆ウイグル自治区]]の東南部、[[バインゴリン・モンゴル族自治州]][[チャルクリク県]](若羌県)にある中心[[鉄道駅]]。 ==概要== チャルクリク駅は、2020年12月に[[格庫線]]の全通と共に使用開始されて、2022年6月には[[和若線]](南疆線の東部)も開通してその東側終着駅ともなった。<ref>[https://japanese.cri.cn/20220317/ecbbcc82-19e4-e16f-fa4b-a20ee31389e5.html タクラマカン砂漠の環状鉄道、6月に開通へ(CRI Online、2022年)]</ref><ref>[https://spc.jst.go.jp/news/220603/topic_4_02.html 世界初の砂漠鉄道環状線 和若鉄道が開通(Science Portal China、2022年)]</ref>[[中国鉄路ウルムチ局集団有限公司|中国鉄道ウルムチ局集団]]が所有しており、[[コルラ市|コルラ]]車両基地の管轄下にある。 チャルクリク駅の総建築面積は30,245.05平方メートルで、主に駅舎、総合整備区棟、貨物ヤード棟、機関車折返し部棟、駅区補助棟の5つの部分に分かれている。駅の建築面積は4916.35平方メートルで、駅内に標準的高さのホーム2面([[島式|島式ホーム]]と計3面)がある。 ==交通== その他の交通は次の通り。 * 空路:[[若羌楼蘭空港]] * 道路:[[G218国道]](南北) * 道路:[[G315国道]](東西) ==参照項目== * [[格庫線]] * [[和若線]](南疆線の東部) ==脚注== {{Reflist}} == 外部リンク == {{Coord|39.00312|N|88.2496|E|display=title}} *[http://www.china-railway.com.cn/xwzx/zhxw/202101/t20210117_111883.html 火车开进大若羌(中国国家铁路集团、2021年)](チャルクリク駅の写真など) {{デフォルトソート:ちやるくりくえき}} [[Category:バインゴリン・モンゴル自治州]] [[Category:新疆ウイグル自治区の鉄道駅]]
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幻霧ノ塔ト剣ノ掟
『幻霧ノ塔ト剣ノ掟』(げんむのとうとつるぎのおきて)は、2008年5月22日にサクセスより発売されたニンテンドーDS用ゲームソフト。 システムは古典的で、『ウィザードリィ』に近いスタイルの3DダンジョンRPG。 なお、オリジナルモードはワイヤーフレーム表示とFM音源風サウンドに変わる。
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『幻霧ノ塔ト剣ノ掟』(げんむのとうとつるぎのおきて)は、2008年5月22日にサクセスより発売されたニンテンドーDS用ゲームソフト。
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五和村 (大分県)
五和村(ごわむら)は、大分県日田郡にあった村。現在の日田市の一部にあたる。 筑後川(三隈川)左岸の内河野川と串川の流域に位置していた。
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五和村(ごわむら)は、大分県日田郡にあった村。現在の日田市の一部にあたる。
{{日本の町村 (廃止) | 廃止日 = 1955年3月31日 | 廃止理由 = 編入合併 | 廃止詳細 = [[東有田村]]、[[小野村 (大分県)|小野村]]、[[大鶴村 (大分県)|大鶴村]]、[[夜明村]]、'''五和村''' → [[日田市]] | 現在の自治体 = 日田市 | よみがな = ごわむら | 自治体名 = 五和村 | 区分 = 村 | 都道府県 = 大分県 | 郡 = [[日田郡]] | 面積 = | 境界未定 = | 人口 = 4234 | 人口の出典 = [[国勢調査 (日本)|国勢調査]] | 人口の時点 = 1950年 | 隣接自治体 = 夜明村、日田市、[[前津江村]]<br />[[福岡県]][[浮羽郡]][[浮羽町]] | 所在地 = 日田郡五和村大字石井 | 座標 = | 位置画像 = | 特記事項 = }} '''五和村'''(ごわむら{{R|変遷}}{{R|角川}})は、[[大分県]][[日田郡]]にあった[[村]]。現在の[[日田市]]の一部にあたる。 == 地理 == [[筑後川]]([[三隈川]])左岸の内河野川と串川の流域に位置していた{{R|角川}}。 == 歴史 == *[[1889年]](明治22年)4月1日、[[町村制]]の施行により、日田郡石井村、小山村、堂尾村、内河野村、川下村が合併して村制施行し、'''五和村'''が発足<ref name=変遷>『市町村名変遷辞典』330頁。</ref><ref name=角川>『角川日本地名大辞典 44 大分県』376頁。</ref>。旧村名を継承した石井、小山、堂尾、内河野、川下の5大字を編成{{R|角川}}。 *[[1955年]](昭和30年)3月31日、'''[[日田市]]'''に編入され廃止{{R|変遷}}{{R|角川}}。 == 産業 == *農業{{R|角川}} == 教育 == *石井小学校{{R|角川}} *堂尾小学校{{R|角川}} *小山小学校{{R|角川}} == 脚注 == {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[角川日本地名大辞典]] 44 大分県 * 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。 == 関連項目 == * [[大分県の廃止市町村一覧]] {{デフォルトソート:こわむら}} [[Category:日田郡]] [[Category:日田市域の廃止市町村]] [[Category:1889年設置の日本の市町村]] [[Category:1955年廃止の日本の市町村]]
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アーサー・サス
アーサー・サス(Arthur Hjalmar Sasse、1899年1月20日 - 1991年10月3日)は、アメリカのUPI通信社カメラマン。 1948年、彼の写真はブロンクス動物園の展示会で展示された。彼は、アルベルト・アインシュタインが舌を突き出している写真の撮影者としてよく知られており、この写真は1951年3月14日、プリンストンクラブでのアインシュタインの72歳の誕生日祝賀会の後に撮影された。これはアインシュタインのこれまでに撮影された写真の中で最も人気のある写真の1つとなり、アインシュタイン自身も個人使用のために9枚のプリントを要求したという。 サスはマンハッタンで生まれた。20歳になる前はブロンクス・ホーム・ニュース社で写真家として働いており、1942年までにはインターナショナル・ニュース・フォト社で働いていた。
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アーサー・サスは、アメリカのUPI通信社カメラマン。
'''アーサー・サス'''(Arthur Hjalmar Sasse、[[1899年]][[1月20日]] - [[1991年]][[10月3日]])は、アメリカの[[UPI通信社]]カメラマン。 彼は、[[アルベルト・アインシュタイン]]が舌を突き出している写真の撮影者としてよく知られている。 == 人物 == 1948年、彼の写真は[[ブロンクス動物園]]の展示会で展示された<ref>{{cite book | url=https://books.google.com/books?id=CWAzAQAAMAAJ&pg=PA16 | title=Popular Photography | author=Erickson, A.J. | year=1948 | pages=16}}</ref>。 アインシュタインが舌を突き出している写真は[[1951年]][[3月14日]]、プリンストンクラブでのアインシュタインの72歳の誕生日祝賀会の後に撮影された。これはアインシュタインのこれまでに撮影された写真の中で最も人気のある写真の1つとなり、アインシュタイン自身も個人使用のために9枚のプリントを要求したという。 == 略歴 == サスは[[マンハッタン]]で生まれた。20歳になる前はブロンクス・ホーム・ニュース社で写真家として働いており<ref>{{Cite web|url=https://www.ancestry.com/sharing/5323738?mark=7b22746f6b656e223a2270726a49797a4b57574b76665a3630746e5a754d384163344478325931354e564a4c5a366f5844314764593d222c22746f6b656e5f76657273696f6e223a225632227d|title=U.S., World War I Draft Registration Cards, 1917-1918|author=<!--Not stated-->|date=2005|website=Ancestry|publisher=Ancestry.com Operations, Inc.|accessdate=July 30, 2023}}</ref>、[[1942年]]までにはインターナショナル・ニュース・フォト社で働いていた<ref>{{Cite web|url=https://www.ancestry.com/sharing/5323738?mark=7b22746f6b656e223a2270726a49797a4b57574b76665a3630746e5a754d384163344478325931354e564a4c5a366f5844314764593d222c22746f6b656e5f76657273696f6e223a225632227d|title=U.S., World War II Draft Cards Young Men, 1940-1947|author=<!--Not stated-->|date=2011|website=Ancestry|publisher=Ancestry.com Operations, Inc.|accessdate=July 30, 2023}}</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == {{節スタブ}} {{Normdaten}} {{People-stub}} {{DEFAULTSORT:さす ああさあ}} [[Category:20世紀アメリカ合衆国の写真家]] [[Category:UPI通信社の人物]] [[Category:マンハッタン出身の人物]] [[Category:1899年生]] [[Category:1991年没]]
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マシュー・ウィリアム・ピーターズ
マシュー・ウィリアム・ピーターズ(Matthew William Peters、1742年 - 1814年3月20日)は、イギリスの画家である。 肖像画や風俗画を描いた。 イギリス南岸のワイト島のFreshwaterで、土木技術者のマシュー・ピーターズ(Matthew Peters)の息子に生まれた。家族はピーターズの幼い時期にアイルランドのダブリンに移り、父親はアイルランドの水路の改修のアドバイザーとして働き、その仕事に関する論文を出版した。 ピーターズはダブリンでロバート・ウェスト(Robert West:c.1710-1770)という画家から絵を学び、14歳と16歳の時にダブリンの絵画学校で賞を得た。1759年に美術協会の奨学金を得てロンドンに移り、肖像画家のトマス・ハドソンの弟子になり、ロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツで賞を得た。イタリアでの留学資金を得て1761年から1765年の間イタリアに旅し、フィレンツェのアカデミア・デル・ディセーニョ(Accademia del Disegno)の会員に1762年の9月に選ばれた。1765年にイギリスに帰国すると1766年から1769年の間はロイヤル・ソサエティの展覧会に出展し、1769年にロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの展覧会に出展し、1771年にロイヤル・アカデミーの準会員に選ばれた。1771年から1775年の間、再びイタリアに滞在し、1783年から1784年はパリを訪れ、ルイ=レオポルド・ボワイー(11761-1845)やアントワーヌ・ベスティエ(1740-1824)といった画家と知り合い、市民生活に題材に描いたジャン=バティスト・グルーズ(1725-1805)の作品から影響を受けた。 有力者の支援を受け、1874年にはラトランド公爵のレスターシャーの邸宅に住むことを許され、1788年には未亡人となった公爵夫人からもレスターシャーのKniptonやWoolsthorpeの邸に滞在することを許された。レスターシャーの城(Belvoir Castle)の絵画の学芸員も務めた。1790年に結婚し、後に5人の子供が生まれた。 1795年にリンカンシャーのリンカン大聖堂に属する司祭となり、オックスフォードシャーのLangford Ecclesiaなどの司祭を務めた。この時期、リンカン大聖堂に3m×1.5mの大きさの宗教画を描いた。版画家で出版業者のジョン・ボイデルがシェイクスピアの戯曲の場面を、同時代の画家に描かせ版画化して出版するプロジェクトに参加した。 1814年にケントのBrastedで没した。
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マシュー・ウィリアム・ピーターズは、イギリスの画家である。 肖像画や風俗画を描いた。
{{Infobox 芸術家 | bgcolour = #6495ED | name = マシュー・ウィリアム・ピーターズ<br>Matthew William Peters | image = File:M W Peters Fortuneteller.jpg | imagesize = 250px | caption = マシュー・ウィリアム・ピーターズ作「占い師」 | birthdate = [[1742年]] | location = Freshwater([[ワイト島]]) | deathdate = [[1814年]][[3月20日]] | deathplace = Brasted | field = | training = | movement = | works = | patrons = | influenced by = | influenced = | awards = }} '''マシュー・ウィリアム・ピーターズ'''(Matthew William Peters、[[1742年]] - [[1814年]][[3月20日]])は、[[イギリス]]の画家である。 肖像画や風俗画を描いた。 == 略歴 == イギリス南岸の[[ワイト島]]のFreshwaterで、土木技術者のマシュー・ピーターズ(Matthew Peters)の息子に生まれた。家族はピーターズの幼い時期にアイルランドの[[ダブリン]]に移り、父親はアイルランドの水路の改修のアドバイザーとして働き、その仕事に関する論文を出版した<ref name="DNB">Simon, Robin. "Matthew William Peters".</ref>。 ピーターズはダブリンでロバート・ウェスト(Robert West:c.1710-1770)という画家から絵を学び、14歳と16歳の時にダブリンの絵画学校で賞を得た。1759年に美術協会の奨学金を得て[[ロンドン]]に移り、肖像画家の[[トマス・ハドソン]]の弟子になり、[[ロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツ]]で賞を得た。イタリアでの留学資金を得て1761年から1765年の間イタリアに旅し、[[フィレンツェ]]のアカデミア・デル・ディセーニョ(Accademia del Disegno)の会員に1762年の9月に選ばれた<ref name="DNB" />。1765年にイギリスに帰国すると1766年から1769年の間はロイヤル・ソサエティの展覧会に出展し、1769年に[[ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ]]の展覧会に出展し、1771年にロイヤル・アカデミーの準会員に選ばれた。1771年から1775年の間、再びイタリアに滞在し、1783年から1784年は[[パリ]]を訪れ、[[ルイ=レオポルド・ボワイー]](11761-1845)や[[アントワーヌ・ベスティエ]](1740-1824)といった画家と知り合い、市民生活に題材に描いた[[ジャン=バティスト・グルーズ]](1725-1805)の作品から影響を受けた<ref name="DNB" />。 有力者の支援を受け、1874年には[[チャールズ・マナーズ (第4代ラトランド公爵)|ラトランド公爵]]の[[レスターシャー]]の邸宅に住むことを許され、1788年には未亡人となった公爵夫人からもレスターシャーのKniptonやWoolsthorpeの邸に滞在することを許された。レスターシャーの城(Belvoir Castle)の絵画の学芸員も務めた。1790年に結婚し、後に5人の子供が生まれた<ref name="DNB" />。 1795年に[[リンカンシャー]]の[[リンカン大聖堂]]に属する司祭となり、[[オックスフォードシャー]]のLangford Ecclesiaなどの司祭を務めた。この時期、リンカン大聖堂に3m×1.5mの大きさの宗教画を描いた。版画家で出版業者の[[ジョン・ボイデル]]がシェイクスピアの戯曲の場面を、同時代の画家に描かせ版画化して出版するプロジェクトに参加した。 1814年に[[ケント (イングランド)|ケント]]のBrastedで没した。 == 作品 == <gallery mode="nolines" widths="180" heights="200" style="font-size:smaller"> File:King Lear and Cordelia by Matthew William Peters.jpg|リア王とコーデリア File:M W Peters Portrait of a boy in Vandyckian costume.jpg|"Portrait of a boy in Vandyckian costume" File:John Hinchliffe by MW Peters.jpg|John Hinchliffe(聖職者) File:Peters-Tempest.gif|シェークスピアの『[[テンペスト (シェイクスピア)|テンペスト]]』からプロスペロー </gallery> <gallery mode="nolines" widths="220" heights="170" style="font-size:smaller"> File:Matthew William Peters (1742-1814) - Lydia - T04848 - Tate.jpg|"Lydia" (1777) File:John Raphael Smith after The Reverend Matthew William Peters, Love in Her Eyes Sits Playing, 1778, NGA 124850.jpg|"Love in Her Eyes Sits Playing" (ピーターズの原画による[[ジョン・ラファエル・スミス]]の版画) File:Queen Catherine, Cardinal Wolsey and Cardinal Campeius (Shakespeare, King Henry VIII, Act 3, Scene 1) MET DP859569.jpg|シェークスピアの『[[ヘンリー八世 (シェイクスピア)|ヘンリー八世]]』の場面 </gallery> == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * Simon, Robin. "(Matthew) William Peters". Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, 2004. doi:10.1093/ref:odnb/22026. Retrieved on 2 February 2008. {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ひいたあす ましゆうういりあむ}} [[Category:18世紀イングランドの画家]] [[Category:19世紀イングランドの画家]] [[Category:ワイト島出身の人物]] [[Category:1742年生]] [[Category:1814年没]]
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40代はいろいろ -Live from Metropolis Studios-
40代はいろいろ -Live from Metropolis Studios-(40だいはいろいろ ライブ フローム メトロポリス スタジオ)は宇多田ヒカルの生誕40周年を記念して配信されたネットイベント「40代はいろいろ」の最中に歌唱された曲をシングル化した楽曲。 A面は『First Love』と『Rule (君に夢中)』の2曲。 宇多田ヒカルが2003年の自身の誕生日から10年周期で行っているネットイベントの第3回目となる「40代はいろいろ」を2023年1月19日に行い、イベントのラストに上記の2曲に加え、Bad Bunnyの「Me Porto Bonito」をカヴァーした。しかし著作権の都合でシングル化をしていない。 2021年に発売した「君に夢中」を日本語・英語・イタリア語の3言語でミックスした『Rule(君に夢中)』を歌唱した。またイタリア語については宇多田の友人から発音を教わり、練習したと語っている。
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40代はいろいろ -Live from Metropolis Studios-は宇多田ヒカルの生誕40周年を記念して配信されたネットイベント「40代はいろいろ」の最中に歌唱された曲をシングル化した楽曲。 A面は『First Love』と『Rule (君に夢中)』の2曲。
{{Infobox Song | Name = 40代はいろいろ -Live from Metropolis Studios- | Artist = [[宇多田ヒカル]] | Type = [[音楽配信|配信限定シングル]] | Released = [[2023年]][[2月17日]] | Format = [[音楽配信|デジタルシングル]] | Recorded = [[2023年]][[1月19日]] | Genre = [[J-POP]] | Length = 3分57秒(First Love)<br />3分36秒(Rule) | Label = [[エピックレコードジャパン]] | Writer = [[宇多田ヒカル]] | Composer = [[宇多田ヒカル]] | Language = [[日本語]]・[[英語]]・[[イタリア語]] }} '''40代はいろいろ -Live from Metropolis Studios-'''(40だいはいろいろ ライブ フローム メトロポリス スタジオ)は[[宇多田ヒカル]]の生誕40周年を記念して配信されたネットイベント「40代はいろいろ」の最中に歌唱された曲をシングル化した楽曲。 A面は『[[First Love (宇多田ヒカルの曲)|First Love]]』と『Rule ([[君に夢中]])』の2曲。 == 背景 == 宇多田ヒカルが[[2003年]]の自身の誕生日から10年周期で行っているネットイベントの第3回目となる「40代はいろいろ」を[[2023年]][[1月19日]]に行い、イベントのラストに上記の2曲に加え、[[バッド・バニー|Bad Bunny]]の「Me Porto Bonito」をカヴァーした。しかし著作権の都合でシングル化をしていない<ref>{{Cite web |title=大盛況に終わった配信イベント「40代はいろいろ♫」 アーカイヴ映像が公開!ライブ音源配信もスタート! ファンからのリクエストにお応えし「40代はいろいろ♫」スタッフスウェットの数量限定受注生産が決定! {{!}} 宇多田ヒカル {{!}} ソニーミュージックオフィシャルサイト |url=https://www.sonymusic.co.jp/artist/utadahikaru/info/549783 |website=宇多田ヒカル {{!}} Sony Music |access-date=2023-12-11 |language=ja}}</ref>。 [[2021年]]に発売した「君に夢中」を日本語・英語・イタリア語の3言語でミックスした『Rule(君に夢中)』を歌唱した。またイタリア語については宇多田の友人から発音を教わり、練習したと語っている<ref>{{Citation|title=40代はいろいろ♫ アーカイヴ {{!}} 宇多田ヒカル|url=https://www.youtube.com/watch?v=V9HhFr0-Klg|language=ja-JP|access-date=2023-12-11}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{宇多田ヒカル}} {{DEFAULTSORT:よんしゆうたいはいろいろらいふふろむめとろほりすすたしおす}} [[Category:長大な音楽作品名]] [[Category:楽曲 よ|んしゆうたいはいろいろらいふふろむめとろほりすすたしおす]] [[Category:宇多田ヒカルの楽曲]] [[Category:21世紀の日本の音楽]] [[Category:2023年のシングル]]
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清水麻成
清水 麻成(しみず まなと、2005年10月6日 - )は、群馬県太田市出身のプロ野球選手(投手・育成選手)。右投右打。横浜DeNAベイスターズ所属。 中学時代は軟式野球部に所属し、強肩を活かして主に外野手を務めていた。 樹徳高等学校に進学し、投手に転向した。2年夏に出場した第104回全国高等学校野球選手権大会では背番号10でベンチ入りしたが登板はなく、チームも初戦で明豊に敗れた。その後3年春からエースを務めた。同年夏は群馬大会準決勝で前橋商業に敗れた。 2023年10月26日に開催されたドラフト会議にて、横浜DeNAベイスターズから育成2位指名を受けた。背番号は102。 右投右打だが、字を書く、箸を持つなどの日常生活では左利きである。
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清水 麻成は、群馬県太田市出身のプロ野球選手(投手・育成選手)。右投右打。横浜DeNAベイスターズ所属。
{{Infobox baseball player | 選手名 = 清水 麻成 | 所属球団 = 横浜DeNAベイスターズ | 背番号 = 102 | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | 国籍 = {{JPN}} | 出身地 = [[群馬県]][[太田市]] | 生年月日 = {{生年月日と年齢|2005|10|6}} | 没年月日 = | 身長 = 186 | 体重 = 75 | 利き腕 = 右 | 打席 = 右 | 守備位置 = [[投手]] | プロ入り年度 = {{NPBドラフト|2023}} | ドラフト順位 = 育成選手ドラフト2位 | 初出場 = | 最終出場 = | 年俸 = 340万円(2024年) | 経歴 = * [[樹徳中学校・高等学校|樹徳高等学校]] * [[横浜DeNAベイスターズ]] (2024 - ) }} '''清水 麻成'''(しみず まなと、[[2005年]][[10月6日]] - )は、[[群馬県]][[太田市]]出身の[[プロ野球選手]]([[投手]]・[[育成選手制度 (日本プロ野球)|育成選手]])。右投右打。[[横浜DeNAベイスターズ]]所属。 == 経歴 == 中学時代は軟式野球部に所属し、強肩を活かして主に[[外野手]]を務めていた<ref>{{Cite web |title=http://www.hb-nippon.com/player/detail/ |url=http://www.hb-nippon.com/player/detail/ |website=高校野球ドットコム |access-date=2023-12-11 |language=ja}}</ref>。 [[樹徳中学校・高等学校|樹徳高等学校]]に進学し、[[投手]]に転向した<ref>{{Cite web |title=桐生タイムス |url=https://kiryutimes.jp/ |website=桐生タイムス |access-date=2023-12-11}}</ref>。2年夏に出場した[[第104回全国高等学校野球選手権大会]]では背番号10でベンチ入りしたが登板はなく、チームも初戦で[[明豊中学校・高等学校|明豊]]に敗れた<ref>{{Cite web |title=【甲子園】明豊が5年ぶり初戦突破 悲願の初Vへまず1勝 樹徳は30年ぶり白星逃す - 高校野球夏の甲子園 : 日刊スポーツ |url=https://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/202208060000677.html |website=nikkansports.com |access-date=2023-12-11 |language=ja}}</ref><ref name=":0">{{Cite web |title=【高校野球】樹徳・清水麻成が自己最速タイ143キロ、5球団スカウトの前で散発4安打完封 |url=https://hochi.news/articles/20230427-OHT1T51076.html |website=スポーツ報知 |date=2023-04-27 |access-date=2023-12-11 |language=ja}}</ref>。その後3年春からエースを務めた。同年夏は[[全国高等学校野球選手権群馬大会|群馬大会]]準決勝で[[群馬県立前橋商業高等学校|前橋商業]]に敗れた<ref>{{Cite web |title=夏の高校野球・準決勝第2試合 前橋商業が勝利 決勝へ|NHK 群馬県のニュース |url=https://www3.nhk.or.jp/lnews/maebashi/20230725/1060015005.html |website=NHK NEWS WEB |access-date=2023-12-11 |last=日本放送協会}}</ref>。 2023年10月26日に開催された[[2023年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト会議]]にて、[[横浜DeNAベイスターズ]]から育成2位指名を受けた<ref>{{Cite web |title=【DeNA】育成ドラフト2位・186センチ右腕の樹徳・清水麻成が指名あいさつ受け「実感わいてきた」 |url=https://hochi.news/articles/20231031-OHT1T51151.html |website=スポーツ報知 |date=2023-10-31 |access-date=2023-12-11 |language=ja}}</ref>。背番号は'''102'''<ref>{{Cite web |title=【DeNA】新入団選手記者発表会で背番号発表 ドラ1度会隆輝は父博文さんと同じ「4」に決定 - プロ野球 : 日刊スポーツ |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202311240000236.html |website=nikkansports.com |access-date=2023-12-11 |language=ja |last=小早川宗一郎}}</ref>。 == 人物 == 右投右打だが、字を書く、箸を持つなどの日常生活では[[左利き]]である<ref name=":0" />。 == 詳細情報 == === 背番号 === * '''102'''(2024年 - ) == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[群馬県出身の人物一覧]] * [[横浜DeNAベイスターズの選手一覧]] == 外部リンク == * {{Instagram|manato1406}} {{横浜DeNAベイスターズの選手・スタッフ}} {{横浜DeNAベイスターズ2023年ドラフト指名選手}} {{Baseball-biography-stub}} {{デフォルトソート:しみす まなと}} [[Category:日本の野球選手]] [[Category:樹徳中学校・高等学校出身の人物]] [[Category:横浜DeNAベイスターズ及び横浜ベイスターズの育成選手]] [[Category:群馬県出身の人物]] [[Category:2005年生]] [[Category:存命人物]]
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田口貫太
田口 貫太(たぐち かんた、2003年〈平成15年〉12月10日 - )は、日本中央競馬会(JRA)所属の騎手。 父・輝彦は笠松競馬所属の元騎手で現調教師、母・広美も笠松競馬所属の元騎手。 2003年、岐阜県に生まれる。父・輝彦がアニメ『一発貫太くん』のファンで、主人公の名前をとり「貫太」と命名された。 幼少期はプロ野球選手になりたいと考えており、小学4年生の時に硬式野球を始める。両親は内心では騎手になることを薦めたがっていたが、「息子の意思を尊重したい」として強要はしなかった。 2017年、中学2年生の時に日本ダービーを現地で観戦。この時スワーヴリチャードに感銘を受け、以降騎手を志す。 2018年、1回目の競馬学校を受験。当時まだ野球を集中してやっていたこともあり、十分な準備ができず不合格となる。その後1年間は三田馬事公苑にて住み込みで働きつつ定時制高校に通った。 翌2019年に競馬学校を再受験し合格、2020年に第39期生として入学。同期に河原田菜々、小林勝太、佐藤翔馬などがいる。 2023年2月に騎手免許を取得。栗東・大橋勇樹厩舎の所属となる。 同年3月4日、阪神第1競走・3歳未勝利戦で初騎乗。クリノクリスタル(5番人気)に騎乗し2着。初勝利は3月26日の阪神第1競走・3歳未勝利戦(レッツゴーローズ/1番人気)で挙げた。 8月20日、北九州記念で重賞初騎乗。10月14日には京都第1競走・2歳未勝利戦でドレシャスに騎乗し勝利。この時点で中央・地方あわせて合計31勝を達成し、GI競走への騎乗が可能となる。 12月10日、阪神ジュベナイルフィリーズに出走。第39期生のGI騎乗一番乗りとなった。またこの日は田口の20歳の誕生日でもあった。
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田口 貫太は、日本中央競馬会(JRA)所属の騎手。 父・輝彦は笠松競馬所属の元騎手で現調教師、母・広美も笠松競馬所属の元騎手。
{{騎手 |画= |説= |名=田口 貫太 |国={{JPN}} |出=[[岐阜県]] |生={{生年月日と年齢|2003|12|10}} |死= |身=156.4cm<ref name="JRA">{{Cite web|和書|date=|url=https://www.jra.go.jp/datafile/meikan/rookies/2023/jockey6.html|title=田口 貫太(2023年ルーキーズ)|publisher=[[日本中央競馬会]]|accessdate=2023-12-10}}</ref> |体=44.6kg<ref name="JRA"/> |血=[[ABO式血液型|A型]]<ref name="netkeiba">{{Cite web|和書|date=|url=https://db.netkeiba.com/jockey/01208/|title=田口貫太のプロフィール|publisher=[[netkeiba.com]](ネットドリーマーズ)|accessdate=2023-12-10}}</ref> |団=[[日本中央競馬会]](JRA) |厩=[[栗東トレーニングセンター|栗東]]・[[大橋勇樹]](2023.3~) |初=[[2023年]] |区=平地・障害 |引= |重= |G1= |所= }} '''田口 貫太'''(たぐち かんた、[[2003年]]〈[[平成]]15年〉[[12月10日]] - )は、[[日本中央競馬会]](JRA)所属の[[騎手]]。 父・[[田口輝彦|輝彦]]は[[岐阜県地方競馬組合|笠松競馬]]所属の元騎手で現[[調教師]]<ref group="注">主な管理馬として[[ミツアキタービン]](2004年[[ダイオライト記念]]、[[オグリキャップ記念]])など。</ref>、母・[[中島広美 (競馬)|広美]]も笠松競馬所属の元騎手。 == 略歴 == === 騎手デビューまで === [[2003年]]、[[岐阜県]]に生まれる。父・輝彦がアニメ『[[一発貫太くん]]』のファンで<ref name="SGNumber">{{Cite web|和書|date=2023-06-11|url=https://number.bunshun.jp/articles/-/857743|title=騎手になってほしい息子が「プロ野球選手になりたい」その時、元騎手の両親は…母が明かす“JRAジョッキー田口貫太”誕生秘話「名前の由来はアニメの…」|publisher=[[Sports Graphic Number]] Web|accessdate=2023-12-10}}</ref>、主人公の名前をとり「貫太」と命名された。 幼少期はプロ野球選手になりたいと考えており、小学4年生の時に[[硬式野球]]を始める。両親は内心では騎手になることを薦めたがっていた<ref name="SGNumber"/>が、「息子の意思を尊重したい」として強要はしなかった<ref name="keibalab2">{{Cite web|和書|date=2023-12-06|url=https://www.keibalab.jp/column/interview/2013/|title=田口貫太騎手インタビュー第2弾 "一つのことを貫く" そのルーツに迫る|publisher=競馬ラボ|accessdate=2023-12-10}}</ref>。 [[2017年]]、中学2年生の時に[[東京優駿|日本ダービー]]を現地で観戦。この時[[スワーヴリチャード]]に感銘を受け<ref name="keibalab2"/><ref group="注">このダービー観戦も、田口の父・輝彦とスワーヴリチャードの馬主・[[諏訪守 (実業家)|諏訪守]]に親交があったことで実現したものである。</ref>、以降騎手を志す。 [[2018年]]、1回目の[[競馬学校]]を受験。当時まだ野球を集中してやっていたこともあり、十分な準備ができず<ref name="keibalab2" />不合格となる。その後1年間は[[三田馬事公苑]]にて住み込みで働きつつ定時制高校に通った<ref name="SGNumber"/>。 翌[[2019年]]に競馬学校を再受験し合格、[[2020年]]に第39期生として入学。同期に[[河原田菜々]]、[[小林勝太]]、[[佐藤翔馬 (競馬)|佐藤翔馬]]などがいる。 === 騎手として === [[2023年]]2月に騎手免許を取得<ref>{{Cite web|和書|date=2023-02-07|url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=221670|title=河原田菜々さん、小林美駒さん合格で女性騎手は現役6人に JRA騎手免許合格者発表|publisher=netkeiba.com(ネットドリーマーズ)|accessdate=2023-12-11}}</ref>。栗東・[[大橋勇樹]]厩舎の所属となる。 同年3月4日、阪神第1競走・3歳未勝利戦で初騎乗。クリノクリスタル(5番人気)に騎乗し2着。初勝利は3月26日の阪神第1競走・3歳未勝利戦(レッツゴーローズ/1番人気)で挙げた。 8月20日、[[北九州記念]]で重賞初騎乗。10月14日には京都第1競走・2歳未勝利戦でドレシャスに騎乗し勝利。この時点で中央・地方あわせて合計31勝を達成し、GI競走への騎乗が可能となる。 12月10日、[[阪神ジュベナイルフィリーズ]]に出走。第39期生のGI騎乗一番乗りとなった。またこの日は田口の20歳の誕生日でもあった。 == エピソード == *座右の銘は「'''明日の自分は今日より強く'''」<ref name="JRApdf">{{Cite web|和書|date=|url=https://www.jra.go.jp/news/202302/pdf/020701_08.pdf|title=令和5年度新規騎手|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023-12-11}}</ref>。 *目標とする騎手に[[北村友一]]を挙げている<ref name="JRApdf"/>。「騎乗姿勢や普段からストイックなところに憧れる」と語っている。 *[[UVERworld]]のファンを公言しており、同バンドのボーカル・TAKUYA∞が毎日10kmのランニングをしていることに影響され、田口も毎日10kmのランニングを行っている<ref name="SGNumber"/>。 == 成績 == {| class="wikitable" style="font-size:90%; text-align:center; border-collapse:collapse; padding: 1px;" ! !日付 !style="width:9em"|競馬場・開催 !style="width:9em"|レース名 !style="width:9em"|騎乗馬 !頭数 !人気 !着順 |- !初騎乗 |2023年{{0}}3月{{0}}4日 |1回[[阪神競馬場|阪神]]{{0}}7日{{0}}1R |3歳未勝利 |クリノクリスタル |13 |5 |2 |- !初勝利 |2023年{{0}}3月26日 |2回阪神{{0}}2日{{0}}1R |3歳未勝利 |レッツゴーローズ |11 |1 |1 |- !重賞初騎乗 |2023年{{0}}8月20日 |3回[[小倉競馬場|小倉]]{{0}}4日11R |[[北九州記念]] |クリノマジン |18 |12 |12 |- !重賞初勝利 | | | | | | | |- !GI級初騎乗 |2023年12月10日 |5回阪神{{0}}4日11R |[[阪神ジュベナイルフィリーズ|阪神JF]] |ニュージェネラル |18 |16 |17 |- !GI級初勝利 | | | | | | | |- |} === 年度別成績 === *2023年12月28日現在。出典:<ref>{{Cite web|和書|date=|url=https://www.jra.go.jp/JRADB/accessK.html|title=騎手情報 JRA|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023-12-11}}</ref> {| class="wikitable" style="font-size:small; text-align:center; border-collapse:collapse; padding: 1px;" !rowspan=2 style="width:5em"|年度 !colspan=7|中央 !colspan=7|地方・海外 |- !style="width:3em"|1着 !style="width:3em"|2着 !style="width:3em"|3着 !style="width:4em"|騎乗数 !style="width:4em"|勝率 !style="width:4em"|連対率 !style="width:4em"|複勝率 !style="width:3em"|1着 !style="width:3em"|2着 !style="width:3em"|3着 !style="width:4em"|騎乗数 !style="width:4em"|勝率 !style="width:4em"|連対率 !style="width:4em"|複勝率 |- !2023年 |35 |35 |31 |595 |.059 |.118 |.170 |14 |7 |12 |76 |.184 |.276 |.434 |- |} === 表彰 === * [[中央競馬関西放送記者クラブ賞]](2023年) == 注釈・出典 == === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://db.netkeiba.com/jockey/result/01208/ 田口貫太の年度別成績] - [[netkeiba.com]] * [https://umanity.jp/racedata/database_jockey_1.php?code=01208 田口貫太の騎手情報] - [[ウマニティ]] * [https://nar.umanity.jp/jockey_top.php?code=060548 田口貫太の騎手情報] - 地方競馬予想の[[ウマニティ]] * [https://www.keibalab.jp/db/jockey/01208/ 田口貫太の騎手情報] - 競馬ラボ * [https://keiba.yahoo.co.jp/directory/jockey/01208/ 田口貫太の騎手情報] - スポーツナビ {{DEFAULTSORT:たくちかんた}} [[Category:日本の騎手]] [[Category:日本中央競馬会の騎手]] [[Category:栗東トレーニングセンターの人物]] [[Category:岐阜県出身の人物]] [[Category:2003年生]] [[Category:存命人物]]
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小笠原蒼
小笠原 蒼(おがさわら そう、2005年10月20日 - )は、愛知県豊田市出身のプロ野球選手(内野手・育成選手)。右投左打。横浜DeNAベイスターズ所属。 豊田市立竹村小学校で1年生の時に山之手少年野球クラブで野球を始める。豊田市立竜神中学校在学時は硬式野球のクラブチームである愛知港ボーイズでプレーしていた。 京都翔英高等学校に進学し、1年秋からベンチ入り。2年秋から背番号3で一塁手のレギュラーを務めた。3年夏は4番を務めて京都大会で決勝に進出し、立命館宇治と対戦。一時リードを広げる2点本塁打を放つもその後逆転され、9回に追い付いたもののサヨナラ負けを喫した。3年間で甲子園大会出場はなかった。高校通算29本塁打。 2023年10月26日に開催されたドラフト会議にて、横浜DeNAベイスターズから育成3位指名を受けた。11月12日に支度金280万円、年俸340万円で仮契約した。 小学生の頃にナゴヤドーム(現:バンテリンドーム ナゴヤ)でプロ野球の試合を観戦し、DeNAのユリエスキ・グリエルの本塁打を見たのをきっかけに球場に通うようになり、兄と共にDeNAファンになった。
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小笠原 蒼は、愛知県豊田市出身のプロ野球選手(内野手・育成選手)。右投左打。横浜DeNAベイスターズ所属。
{{Infobox baseball player | 選手名 = 小笠原 蒼 | 所属球団 = 横浜DeNAベイスターズ | 背番号 = 125 | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | 国籍 = {{JPN}} | 出身地 = [[愛知県]][[豊田市]] | 生年月日 = {{生年月日と年齢|2005|10|20}} | 没年月日 = | 身長 = 180 | 体重 = 92 | 利き腕 = 右 | 打席 = 左 | 守備位置 = [[一塁手]] | プロ入り年度 = {{NPBドラフト|2023}} | ドラフト順位 = 育成選手ドラフト3位 | 初出場 = | 最終出場 = | 年俸 = 340万円(2024年) | 経歴 = * [[京都翔英高等学校]] * [[横浜DeNAベイスターズ]] (2024 - ) }} '''小笠原 蒼'''(おがさわら そう、[[2005年]][[10月20日]] - )は、[[愛知県]][[豊田市]]出身<ref>{{Cite web |title=プロ注目の京都翔英・小笠原蒼がつなぎ役となり初戦を突破【高校野球】:中日スポーツ・東京中日スポーツ |url=https://www.chunichi.co.jp/article/729531 |website=中日スポーツ・東京中日スポーツ |access-date=2023-12-11 |language=ja}}</ref>の[[プロ野球選手]]([[内野手]]・[[育成選手制度 (日本プロ野球)|育成選手]])。右投左打。[[横浜DeNAベイスターズ]]所属。 == 経歴 == [[豊田市立竹村小学校]]で1年生の時に山之手少年野球クラブで野球を始める<ref name=":0">{{Cite web |title=小笠原蒼 {{!}} 横浜DeNAベイスターズ {{!}} 選手 |url=https://sp.baseball.findfriends.jp/player/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E8%92%BC/ |website=週刊ベースボールONLINE |access-date=2023-12-11 |language=ja}}</ref>。[[豊田市立竜神中学校]]在学時は硬式野球のクラブチームである愛知港ボーイズでプレーしていた<ref name=":0" />。 [[京都翔英高等学校]]に進学し、1年秋からベンチ入り。2年秋から背番号3で一塁手のレギュラーを務めた<ref>{{Cite web |title=プロ注目の京都翔英“宇治ゴジラ”小笠原蒼意地の1安打「メンバー外が手伝ってくれた」/京都 - 高校野球夏の地方大会 : 日刊スポーツ |url=https://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/202307180001685.html |website=nikkansports.com |access-date=2023-12-11 |language=ja |last=中島麗}}</ref>。3年夏は4番を務めて[[全国高等学校野球選手権京都大会|京都大会]]で決勝に進出し、[[立命館宇治中学校・高等学校|立命館宇治]]と対戦。一時リードを広げる2点本塁打を放つもその後逆転され、9回に追い付いたもののサヨナラ負けを喫した<ref>{{Cite web |title=【京都】プロ注目の京都翔英・小笠原蒼が2ランも7年ぶり聖地逃す プロ志望届提出へ |url=https://hochi.news/articles/20230728-OHT1T51162.html |website=スポーツ報知 |date=2023-07-28 |access-date=2023-12-11 |language=ja}}</ref>。3年間で甲子園大会出場はなかった。高校通算29本塁打<ref>{{Cite web |title=京都翔英のスラッガー・小笠原蒼がプロ志望届提出へ 6球団スカウトの前で本塁打含む2安打/京都大会 |url=https://www.sanspo.com/article/20230728-VD7D44DASNPDJP2EG4UQN26AZU/ |website=サンスポ |date=2023-07-28 |access-date=2023-12-11 |language=ja |first=SANKEI DIGITAL |last=INC}}</ref>。 2023年10月26日に開催された[[2023年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト会議]]にて、[[横浜DeNAベイスターズ]]から育成3位指名を受けた<ref>{{Cite web |title=【DeNA】育成3位「宇治のゴジラ」小笠原蒼が指名あいさつ「最終的にはハマのゴジラで」 - 高校野球 : 日刊スポーツ |url=https://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/202310310000510.html |website=nikkansports.com |access-date=2023-12-11 |language=ja |last=中島麗}}</ref>。11月12日に支度金280万円、年俸340万円で仮契約した<ref>{{Cite web |title=【DeNA】育成3位の京都翔英・小笠原蒼が仮契約 支度金280万円、年俸340万円 - プロ野球 : 日刊スポーツ |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202311120001272.html |website=nikkansports.com |access-date=2023-12-11 |language=ja |last=久保賢吾}}</ref>。 == 人物 == 小学生の頃に[[ナゴヤドーム]](現:バンテリンドーム ナゴヤ)でプロ野球の試合を観戦し、DeNAの[[ユリ・グリエル|ユリエスキ・グリエル]]の本塁打を見たのをきっかけに球場に通うようになり、兄と共にDeNAファンになった<ref>{{Cite web |title=回転寿司50皿…大型18歳は「将来の中軸候補」 グリエルに魅了されたDeNA育成3位 |url=https://full-count.jp/2023/11/25/post1476832/ |website=Full-Count(フルカウント) ― 野球ニュース・速報・コラム ― |date=2023-11-25 |access-date=2023-12-11 |language=ja}}</ref>。 == 詳細情報 == === 背番号 === * '''125'''(2024年 - ) == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[愛知県出身の人物一覧]] * [[横浜DeNAベイスターズの選手一覧]] == 外部リンク == * {{Instagram|kyushyoku_oga}} {{横浜DeNAベイスターズの選手・スタッフ}} {{横浜DeNAベイスターズ2023年ドラフト指名選手}} {{Baseball-biography-stub}} {{デフォルトソート:おかさわら そう}} [[Category:日本の野球選手]] [[Category:京都翔英高等学校出身の人物]] [[Category:横浜DeNAベイスターズ及び横浜ベイスターズの育成選手]] [[Category:愛知県出身の人物]] [[Category:2005年生]] [[Category:存命人物]]
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松村之彦
松村 之彦(まつむら ゆきひこ、1956年10月27日 - )は、日本の実業家。丸紅代表取締役副社長CAO兼CCO兼CIOを経て、駐エストニア特命全権大使。 ラ・サール中学校・高等学校を経て、1980年一橋大学社会学部卒業、丸紅入社。2009年執行役員財務部長。2012年代表取締役常務執行役員CFO。2015年代表取締役専務執行役員CFO。2016年専務執行役員米州統括、丸紅米国会社社長・CEO。2018年代表取締役副社長執行役員CAO兼CCO兼CIO、日本貿易会常任理事。2020年特別顧問。2021年から駐エストニア特命全権大使を務め、2023年にはティート・リーサロー(エストニア語版)経済通信大臣から2025年日本国際博覧会不参加の意向の説明を受けた。
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松村 之彦は、日本の実業家。丸紅代表取締役副社長CAO兼CCO兼CIOを経て、駐エストニア特命全権大使。
'''松村 之彦'''(まつむら ゆきひこ、[[1956年]][[10月27日]]<ref name="ry"/> - )は、[[日本]]の[[実業家]]。[[丸紅]][[代表取締役]][[副社長]]CAO兼CCO兼CIOを経て、駐[[エストニア]][[特命全権大使]]。 == 人物・経歴 == [[ラ・サール中学校・高等学校]]を経て<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO44246640W9A420C1BC8000/ バスケ部の絆 松村之彦]日本経済新聞2019年4月29日 2:00</ref>、1980年[[一橋大学社会学部]]卒業、[[丸紅]]入社。2009年[[執行役員]]財務部長。2012年[[代表取締役]]常務執行役員[[CFO]]。2015年代表取締役専務執行役員CFO。2016年専務執行役員米州統括、丸紅米国会社社長・CEO。2018年代表取締役[[副社長]]執行役員CAO兼CCO兼CIO<ref name="ry"/>、[[日本貿易会]]常任理事<ref>[https://www.jftc.or.jp/profile/disclosure/02officers_R1_1.pdf 日本貿易会 役員等名簿 (2019年5月31日第95回定時総会終結時) 一]</ref>。2020年[[特別顧問]]<ref name="ry">[https://www.ee.emb-japan.go.jp/files/100313469.pdf 略 歴 書]外務省</ref>。2021年から駐[[エストニア]][[特命全権大使]]を務め<ref>[https://www.asahi.com/articles/DA3S15070760.html 外務省人事(8日付)]朝日新聞デジタル2021年10月9日 5時00分</ref>、2023年には{{仮リンク|ティート・リーサロー|et|Tiit Riisalo}}経済通信大臣から[[2025年日本国際博覧会]]不参加の意向の説明を受けた<ref>[https://fbc.de/ostp-03090623/ エストニアが大阪万博不参加を決定、経済交流の促進は変わらず]FBC</ref>。 ==脚注== {{Reflist}} {{先代次代|丸紅CFO|2012年 - 2016年|[[園部成政]]|[[矢部延弘]]}} {{在エストニア日本大使}} {{People-stub}} {{DEFAULTSORT:まつむら ゆきひこ}} [[Category:日本の実業家]] [[Category:在エストニア日本大使]] [[Category:丸紅の人物]] [[Category:社会学士取得者]] [[Category:一橋大学出身の人物]] [[Category:ラ・サール高等学校出身の人物]] [[Category:1956年生]] [[Category:存命人物]]
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的場昌長
的場 昌長(まとば まさなが)は、戦国時代から江戸時代初めにかけての武士。紀伊国雑賀荘の土豪で、雑賀衆の1人。仮名は源四郎。 的場氏は、的戸田宿禰の末裔といい、南朝に仕えた的保輝の子孫という。紀伊国雑賀荘中之島を本拠とした。 昌長は紀伊各地で武功を挙げたとされ、織田信長と本願寺が戦う石山合戦の際には本願寺に味方した。天正4年(1576年)、織田軍の攻撃に備えて守りを固める本願寺に雑賀から馬上100騎、鉄砲1,000挺ほどが加勢しており、昌長はその鉄砲衆の大将として鈴木重秀や横庄司加仁右衛門と共に名を挙げられている(『真鍋真入斎書付』)。 同年5月3日には、本願寺の補給路を押さえようとする原田直政ら織田軍との戦いに参加した。『佐武伊賀働書』によると、前日に織田方にいる門徒の者から原田直政らが大勢で繰り出すとの知らせを受け、昌長と鈴木重秀の協議により、昌長と佐武義昌が三津寺まで出張ることにした。夜が明けても敵が来る様子がなかったため昌長らは引き返しかけたが、その途中やってきた鈴木重秀がよく見定めるよう言ったため3人で三津寺に戻ったところ、敵が襲来したという。昌長ら本願寺方と織田方はしばらく銃撃戦を行ったが、本願寺から大勢の鉄砲衆が来たことで織田方は崩れ、原田直政は戦死した。 天正5年(1577年)2月に始まる織田信長による紀州攻めでは、昌長は佐武義昌と共に小雑賀の城を32日間守ったという(『佐武伊賀働書』)。その後、和議により城を明け渡した。 天正6年(1578年)11月に荒木村重が織田信長に背くと、鈴木重秀が荒木方の摂津花隈城に入り、防衛を行っているが、横庄司蟹(加仁)右衛門、中村右衛門九郎、昌長の3人も雑賀の「鉄砲千挺之大将」として花隈城に籠もって、池田恒興と戦ったという。 天正12年(1584年)8月に本願寺顕如が紀州を退去する際、信国の刀や黄金、時服を賜った。 同年の小牧・長久手の戦いの際には、昌長は徳川家康に味方して和泉国へ出張り、羽柴秀吉方の中村一氏と戦った。この後、秀吉の弟である羽柴秀長の家臣・桑山重晴を頼り、朝鮮出兵の際には桑山氏に属して、朝鮮に渡り働いた。 慶長5年(1600年)に浅野幸長が紀伊に入国した際、昌長は仕官の誘いを受けたが辞退した。代わりに長男・源八が500石で出仕し、元和5年(1619年)の安芸転封にも源八は付き従った。 昌長の跡は二男・源四郎勝吉が継ぎ、紀州徳川家に200石で仕えた。勝吉の跡はその長男・九左衛門正勝が継ぎ、貞享元年(1684年)に嗣子なく死去した。これにより的場氏の嫡家は断絶することとなったが、勝吉の二男・源八包好の家などが分家として存続した。 昌長が顕如から与えられた信国の刀や朝鮮出兵時に昌長の描いた朝鮮居城の図などが、後世の的場家に伝来している。 ある時昌長は、首供養は首を33取った者が行うと聞き、それまでに14、5の首を取っていたため残り20程の首を取って供養を行おうと思い立つ。昌長は宮郷付近の麦畑に隠れて、往来する根来の者を見つけ次第鉄砲で討ち取った。昌長を捕らえようとする者がいても馬で追い付くのが困難な速さで逃げ、そのうえ畔に上手く隠れたため近くに来ても見つけることができず、昌長は「小雲雀」との異名を付けられた。こうした昌長1人の行いにより、根来の僧俗2万人は他行を恐れたという。この後、36日目で首の数が33となったため紀三井寺で供養を行った。 またこの最中に、中間6、7人を連れた根来の赤井坊〔ママ〕が馬で宮郷を通りかかった際、赤井坊は昌長を見つけると「勝手に可打」と両肌脱ぎとなった。その勇気に感じ入った昌長は、鉄砲で撃つことなく通したという。これにより根来の杉坊・泉鉄坊〔ママ〕から昌長に礼状が送られた。
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的場 昌長は、戦国時代から江戸時代初めにかけての武士。紀伊国雑賀荘の土豪で、雑賀衆の1人。仮名は源四郎。
{{基礎情報 武士 | 氏名 = 的場 昌長 | 画像 = <!-- 画像ファイル名 --> | 画像サイズ = | 画像説明 = <!-- 画像の説明文 --> | 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[江戸時代]]初期 | 生誕 = 不明 | 死没 = 不明 | 改名 = | 別名 = [[仮名 (通称)|通称]]:源四郎 | 諡号 = | 神号 = | 戒名 = | 霊名 = | 墓所 = | 官位 = | 幕府 = | 主君 = [[桑山重晴]] | 藩 = | 氏族 = 的場氏 | 父母 = 的場昌清{{sfn|堀内|1931|pp=536–537, 539}} | 兄弟 = 昌行、'''昌長'''、重長{{sfn|堀内|1931|pp=536–537, 539}} | 妻 = | 子 = 源八、'''勝吉'''{{sfn|堀内|1931|pp=536–537, 539}} | 特記事項 = | 花押 = }} '''的場 昌長'''(まとば まさなが)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]初めにかけての[[武士]]。[[紀伊国]]雑賀荘の[[土豪]]で、[[雑賀衆]]の1人{{sfnm|鈴木|1984|1p=64|鈴木|2004|2pp=24–25}}。[[仮名 (通称)|仮名]]は'''源四郎'''{{sfn|堀内|1931|pp=536–537, 539}}。 == 生涯 == 的場氏は、[[的戸田宿禰]]の末裔といい、[[南朝 (日本)|南朝]]に仕えた的保輝の子孫という{{sfn|堀内|1931|pp=535–536}}。紀伊国雑賀荘[[中之島 (和歌山市)|中之島]]を本拠とした{{sfn|武内|2018|p=243}}。 昌長は紀伊各地で武功を挙げたとされ、[[織田信長]]と[[石山本願寺|本願寺]]が戦う[[石山合戦]]の際には本願寺に味方した{{sfn|堀内|1931|p=536}}。[[天正]]4年([[1576年]])、織田軍の攻撃に備えて守りを固める本願寺に雑賀から馬上100騎、鉄砲1,000挺ほどが加勢しており、昌長はその鉄砲衆の大将として[[鈴木重秀]]や横庄司加仁右衛門と共に名を挙げられている(『[[真鍋貞成|真鍋真入斎]]書付』){{sfnm|鈴木|1984|1p=139|鈴木|2004|2p=111}}。 同年5月3日には、本願寺の補給路を押さえようとする[[塙直政|原田直政]]ら織田軍との戦いに参加した{{sfnm|鈴木|1984|1pp=139–140|鈴木|2004|2pp=181–182}}。『佐武伊賀働書』によると、前日に織田方にいる門徒の者から原田直政らが大勢で繰り出すとの知らせを受け、昌長と鈴木重秀の協議により、昌長と[[佐武義昌]]が[[三津寺]]まで出張ることにした{{sfnm|鈴木|1984|1pp=139–140|鈴木|2004|2pp=181–182}}。夜が明けても敵が来る様子がなかったため昌長らは引き返しかけたが、その途中やってきた鈴木重秀がよく見定めるよう言ったため3人で三津寺に戻ったところ、敵が襲来したという{{sfnm|鈴木|1984|1pp=139–140|鈴木|2004|2pp=181–182}}。昌長ら本願寺方と織田方はしばらく銃撃戦を行ったが、本願寺から大勢の鉄砲衆が来たことで織田方は崩れ、原田直政は戦死した{{sfnm|鈴木|1984|1pp=139–140|鈴木|2004|2pp=181–182}}。 天正5年([[1577年]])2月に始まる織田信長による[[紀州征伐|紀州攻め]]では、昌長は佐武義昌と共に小雑賀の城を32日間守ったという(『佐武伊賀働書』)<ref name="武内雅">{{Citation|和書|last=武内|first=雅人|year=2011|title=「佐武伊賀働書」史料解題の改訂および補遺|journal=紀州経済史文化史研究所紀要|issue=32|issn=0285-6417}}</ref>{{efn|天正13年([[1585年]])の羽柴秀吉による紀州攻めの時のことともいわれるが{{sfnm|鈴木|1984|1p=192|鈴木|2004|2pp=187–188}}、織田方に出向いた佐武義昌が羽柴秀吉と荒木摂州(村重)に対面したとされることから、荒木村重が謀反を起こす天正6年(1578年)以前のことと考えられる<ref name="武内雅" />。ただし、天正5年の紀州攻めの際、織田方は小雑賀を拠点としており、雑賀勢の城が残っていたと考えにくいなど、天正5年説にも不審は残る{{sfn|武内|2018|pp=376–377}}。}}。その後、和議により城を明け渡した<ref name="武内雅" />。 天正6年([[1578年]])11月に[[荒木村重]]が織田信長に背くと、鈴木重秀が荒木方の[[摂津国|摂津]][[花隈城]]に入り、防衛を行っているが{{sfnm|鈴木|1984|1pp=165–166|鈴木|2004|2pp=151–152}}、横庄司蟹(加仁)右衛門、中村右衛門九郎、昌長の3人も雑賀の「鉄砲千挺之大将」として花隈城に籠もって、[[池田恒興]]と戦ったという{{sfn|堀内|1931|p=538}}。 天正12年([[1584年]])8月に[[顕如|本願寺顕如]]が紀州を退去する際、[[信国派|信国]]の刀や黄金、[[時服]]を賜った{{sfn|堀内|1931|p=536}}。 同年の[[小牧・長久手の戦い]]の際には、昌長は[[徳川家康]]に味方して[[和泉国]]へ出張り、羽柴秀吉方の[[中村一氏]]と戦った{{sfn|堀内|1931|p=536}}。この後、秀吉の弟である[[豊臣秀長|羽柴秀長]]の家臣・[[桑山重晴]]を頼り、[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]の際には桑山氏に属して、[[李氏朝鮮|朝鮮]]に渡り働いた{{sfn|堀内|1931|p=536}}。 [[慶長]]5年([[1600年]]){{sfn|和歌山県史編さん委員会|1990|p=15}}に[[浅野幸長]]が紀伊に入国した際、昌長は仕官の誘いを受けたが辞退した{{sfn|堀内|1931|p=536}}。代わりに長男・源八が500石で出仕し、[[元和 (日本)|元和]]5年([[1619年]]){{sfn|和歌山県史編さん委員会|1990|p=36}}の[[安芸国|安芸]]転封にも源八は付き従った{{sfn|堀内|1931|pp=536–537}}。 昌長の跡は二男・源四郎勝吉が継ぎ、[[紀州徳川家]]に200石で仕えた{{sfn|堀内|1931|p=537}}。勝吉の跡はその長男・九左衛門正勝が継ぎ、[[貞享]]元年([[1684年]])に嗣子なく死去した{{sfn|堀内|1931|p=537}}。これにより的場氏の嫡家は断絶することとなったが、勝吉の二男・源八包好の家などが分家として存続した{{sfn|堀内|1931|pp=537, 539}}。 後世の的場家に、昌長が顕如から与えられた信国の刀や朝鮮出兵時に昌長の描いた朝鮮居城の図などが伝わっている{{sfn|堀内|1931|pp=536, 541–542}}。 == 逸話 == ある時昌長は、首供養は首を33取った者が行うと聞き、それまでに14、5の首を取っていたため残り20程の首を取って供養を行おうと思い立つ{{sfn|堀内|1931|p=538}}。昌長は宮郷付近の麦畑に隠れて、往来する[[根来寺|根来]]の者を見つけ次第鉄砲で討ち取った{{sfn|堀内|1931|p=538}}。昌長を捕らえようとする者がいても馬で追い付くのが困難な速さで逃げ、そのうえ畔に上手く隠れたため近くに来ても見つけることができず、昌長は「小雲雀」との異名を付けられた{{sfn|堀内|1931|p=538}}。こうした昌長1人の行いにより、根来の僧俗2万人は他行を恐れたという{{sfn|堀内|1931|p=538}}。この後、36日目で首の数が33となったため[[紀三井寺]]で供養を行った{{sfn|堀内|1931|p=538}}。 またこの最中に、中間6、7人を連れた根来の赤井坊{{sic}}が馬で宮郷を通りかかった際、赤井坊は昌長を見つけると「勝手に可打」と両肌脱ぎとなった{{sfn|堀内|1931|p=538}}。その勇気に感じ入った昌長は、鉄砲で撃つことなく通したという{{sfn|堀内|1931|p=538}}。これにより根来の杉坊・泉鉄坊{{sic|nolink=1}}から昌長に礼状が送られた{{sfn|堀内|1931|p=538}}。 晩年、昌長は病のために[[堺]]の[[半井元成|安立軒]]を訪ねて5、60日薬を服用したが効果はなく、安立の勧めで[[京都]]の医者・驢庵玄朔([[半井驢庵]]か<ref>{{Citation|和書|last=神坂|first=次郎|author-link=神坂次郎|year=1976|chapter=雑賀の小雲雀―的場源四郎―|title=紀州史散策 第一集|publisher=有馬書店|id={{全国書誌番号|82043513}}|page=142}}</ref>)に見せたものの、安立と同じ見立てのため安立の薬を用いるよう言われた{{sfn|堀内|1931|p=538}}。昌長は、あちこち駆け回り命を惜しむように見えるのは心外だとの書き置きを残し、堺に戻る途中、乗物の中で切腹して果てたという{{sfn|堀内|1931|p=538}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|25em}} == 参考文献 == * {{Citation|和書|last=鈴木|first=真哉|author-link=鈴木眞哉|year=1984|title=紀州雑賀衆 鈴木一族|publisher=[[新人物往来社]]||id={{全国書誌番号|84054303}}}} * {{Citation|和書|last=鈴木|first=眞哉|year=2004|title=戦国鉄砲・傭兵隊 天下人に逆らった紀州雑賀衆|publisher=[[平凡社]]||series=[[平凡社新書]]|isbn=4-582-85236-X}} * {{Citation|和書|last=武内|first=善信|year=2018|title=雑賀一向一揆と紀伊真宗|publisher=[[法藏館]]|isbn=978-4-8318-6250-1}} * {{Citation|和書|editor-last=堀内|editor-first=信|year=1931|chapter=南紀徳川史巻之四十九 名臣伝第十|title=[[南紀徳川史]] 第五冊|publisher=南紀徳川史刊行会|id={{全国書誌番号|47013332}}}} * {{Citation|和書|editor=和歌山県史編さん委員会|year=1990|title=和歌山県史 近世|publisher=[[和歌山県]]|id={{全国書誌番号|91000126}}}} {{雑賀衆||}} {{DEFAULTSORT:まとは まさなか}} [[Category:戦国武将]] [[Category:紀伊国の人物]] [[Category:生年不明]] [[Category:17世紀没]]
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安穏寺 (愛知県扶桑町)
安穏寺(あんのんじ)は、愛知県丹羽郡扶桑町高雄にある曹洞宗の寺院。 1370年(応安3年)に僧悦宗が建立したもので、もとは知多郡篠島村にあって正蔵庵と称し正法寺末寺であった。1749年(寛延2年)当地に移し、1751年(寛延4年)安穏寺とした。1755年(宝暦5年)に、武蔵国川越の孝顕寺の末寺となった。中興開山は僧眼、開基は川越城主松平大和守であった。当寺は昔修行の道場で、歴代の住職が盛んに禅風を発揚したと伝えられる。 安穏寺はアジサイ寺として地域で親しまれ、毎年5月中旬から6月ごろには約1,500株あるアジサイが境内を彩る。 先代住職の安達秀賢が50年近く前、広い境内を花でいっぱいにしようと植え始めた。アジサイは挿し木で増やしやすいことに加え、「アジサイなら心が癒やされるだろうと思った」からだったという。ヤマアジサイやアナベル、ダンスパーティーなど様々な品種がある。他にも花しょうぶなど多様な花が育つ。あじさい祭も開かれる。
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安穏寺(あんのんじ)は、愛知県丹羽郡扶桑町高雄にある曹洞宗の寺院。
{{日本の寺院 |名称 = 安穏寺 |画像= [[File:安穏寺(扶桑町).jpg|250px]] |所在地 = [[愛知県]][[丹羽郡]][[扶桑町]][[高雄 (扶桑町)|高雄]]中郷122 | 緯度度 = | 緯度分 = | 緯度秒 = | 経度度 = | 経度分 = | 経度秒 = |山号 = 正眼山 |院号 = |宗旨 = |宗派 = [[曹洞宗]]{{sfn|扶桑町教育委員会|扶桑町史編集委員会|1998|pp=512}} |本尊 = [[釈迦如来]]{{sfn|扶桑町教育委員会|扶桑町史編集委員会|1998|pp=512}} |創建年 = 1749年(寛延2年){{sfn|扶桑町教育委員会|扶桑町史編集委員会|1998|pp=512}} |開山 = 僧悦宗{{sfn|扶桑町教育委員会|扶桑町史編集委員会|1998|pp=512}} |開基 = |中興年 = |中興 = 僧眼{{sfn|扶桑町教育委員会|扶桑町史編集委員会|1998|pp=512}} |正式名 = |別称 = |札所等 = |文化財 = |公式HP = |公式HP名 = |地図 = }} '''安穏寺'''(あんのんじ)は、[[愛知県]][[丹羽郡]][[扶桑町]][[高雄 (扶桑町)|高雄]]にある[[曹洞宗]]の[[寺院]]。 == 概要 == [[1370年]]([[応安]]3年)に僧悦宗が建立したもので、もとは[[知多郡]][[篠島村]]にあって正蔵庵と称し[[正法禅寺|正法寺]][[末寺]]であった。[[1749年]]([[寛延]]2年)当地に移し、[[1751年]](寛延4年)'''安穏寺'''とした。[[1755年]]([[宝暦]]5年)に、[[武蔵国]][[川越]]の孝顕寺の末寺となった。中興開山は僧眼、開基は[[川越城]]主松平大和守であった。当寺は昔修行の道場で、歴代の住職が盛んに禅風を発揚したと伝えられる。 == あじさい寺 == 安穏寺は[[アジサイ寺]]として地域で親しまれ、毎年5月中旬から6月ごろには約1,500株ある[[アジサイ]]が境内を彩る<ref>『中日新聞』2023年06月08日朝刊尾張総合15頁、水越直哉、「アジサイ 色とりどり 扶桑の安穏寺で見頃」</ref><ref>『中日新聞』2022年06月08日朝刊近郊版12頁、水越直哉、「「あじさい寺」 青、紫、ピンク 扶桑」</ref>。 先代住職の安達秀賢が50年近く前、広い境内を花でいっぱいにしようと植え始めた。アジサイは[[挿し木]]で増やしやすいことに加え、「アジサイなら心が癒やされるだろうと思った」からだったという。ヤマアジサイやアナベル、ダンスパーティーなど様々な品種がある。他にも[[花しょうぶ]]など多様な花が育つ。あじさい祭も開かれる<ref>『中日新聞』2019年06月06日朝刊近郊版14頁、三田村泰和、「アジサイ 初夏彩る 扶桑・安穏寺で1500株見ごろ」</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{cite book|和書 |author=扶桑町教育委員会 |author2=扶桑町史編集委員会 |title=扶桑町史 下 |publisher=扶桑町 |year=1998 |ref={{sfnref|扶桑町教育委員会|扶桑町史編集委員会|1998}} }} {{DEFAULTSORT:あんのんし}} [[Category:愛知県の寺]] [[Category:曹洞宗の寺院]] [[Category:扶桑町の建築物]] [[Category:扶桑町の歴史]]
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インテル 1103
1103 はインテル社が開発・製造したダイナミック・ランダム・アクセス・メモリ (DRAM) 集積回路 (IC) である。1970年10月に発表された1103は、商業的に利用可能な最初のDRAM ICであり、その小さなサイズと磁気コアメモリと比較しての価格の安さにより、多くのアプリケーションで磁気コアメモリに取って代わった。 1970年に発表された当初は歩留まりが悪く、1971年に大量に入手できるようになったのは、生産マスクの5段階目になってからであった。 インテルは1974年6月に25万個目の1103 RAMを出荷した。 1969年、ハネウェルのウィリアム・レジッツと彼の同僚は、3トランジスタのダイナミック・メモリ・セルを発明し、半導体業界に生産者を探し始めた。設立されたばかりのインテル社はこれに応え、ウィリアム・レジッツと密接に協力したジョエル・カープの指揮の下、非常によく似た2つの1024ビットチップ、1102と1103を開発したが、最終的には 1103 のみが生産された。 マイクロシステムズ・インターナショナル(英語版)は、1971年に1103の最初のセカンドソースとなった。その後、ナショナルセミコンダクター、シグネティクス、シナテック(英語版)も1103を製造した。
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1103 はインテル社が開発・製造したダイナミック・ランダム・アクセス・メモリ (DRAM) 集積回路 (IC) である。1970年10月に発表された1103は、商業的に利用可能な最初のDRAM ICであり、その小さなサイズと磁気コアメモリと比較しての価格の安さにより、多くのアプリケーションで磁気コアメモリに取って代わった。 1970年に発表された当初は歩留まりが悪く、1971年に大量に入手できるようになったのは、生産マスクの5段階目になってからであった。 インテルは1974年6月に25万個目の1103 RAMを出荷した。
 {{Infobox storage medium |name=Intel 1103 |logo= |image=Intel_C1103.jpg |caption=パッケージがセラミックに変更された C1103。 |type=[[10 μm process|8&nbsp;μm]] [[PMOS logic|''p''-MOS]] [[Dynamic random-access memory|DRAM]] |encoding= |capacity=1 [[キロビット]] |blocksize= |read= |write= |standard=18ピン{{仮リンク|デュアル・インライン・パッケージ|en|Dual in-line package|en}} |owner=Intel |use={{仮リンク|HP 9800 series|en|HP 9800 series}}計算機<ref name=Bellis>{{cite web|url=https://www.thoughtco.com/who-invented-the-intel-1103-dram-chip-4078677|title=Who Invented the Intel 1103 DRAM Chip|author=Mary Bellis|date=August 25, 2016|publisher=[[ThoughtCo]]|accessdate=2023/12/10}}</ref>、[[PDP-11]]<ref>{{cite book|url=http://bitsavers.org/pdf/dec/pdp11/1145/EK-11045-MM-007.pdf|title=PDP-11/45, 11/50, and 11/55 System Maintenance Manual|publisher=[[Digital Equipment Corporation]]|date=September 1976}}</ref>、[[PDP-10#Clones|MAXC]]<ref>{{cite web |url=https://github.com/PDP-10/maxc/blob/master/pdf/the_maxc_systems.pdf |title=The Maxc Systems |last=Fiala |first=Edward R. |date=May 1978 |website=GitHub |publisher=IEEE Computer Society |access-date=October 12, 2022 |quote=The most significant contributor to reliability has been main-memory error correction. During the first six months of operation, we replaced about 12 failing 1Kx1 MOS RAMs per month: this has gradually declined to about three failures a month during the last three years. However, because of error correction, a negligible number of these failures has caused crashes.}}</ref>、その他。 |dimensions=|weight= |extended from= |extended to= |released={{Start date|1970|10}}<ref>{{cite web |title=Defining Intel: 25 Years/25 Events |url=https://www.intel.com/Assets/PDF/General/25yrs.pdf |publisher=Intel Corporation}} Page 6.</ref> |discontinued=1979<ref>Intel Corporation, "The 1103 retires!", Intel Preview, March/April 1979, page 23</ref> }} '''1103''' は[[インテル社]]が開発・[[半導体デバイス製造|製造]]した[[Dynamic Random Access Memory|ダイナミック・ランダム・アクセス・メモリ]] (DRAM) [[集積回路]] (IC) である。1970年10月に発表された1103は、商業的に利用可能な最初のDRAM ICであり、その小さなサイズと[[磁気コアメモリ]]と比較しての価格の安さにより、多くのアプリケーションで磁気コアメモリに取って代わった<ref>Jacob, Bruce et al. (2008). ''Memory Systems: Cache, DRAM, Disk''. Morgan Kaufmann Publishers. pp. 457&#x2013;458.</ref><ref>Jacob, Bruce et al. (2008). ''Memory Systems: Cache, DRAM, Disk''. Morgan Kaufmann Publishers. pp. 457&#x2013;458.</ref>。 1970年に発表された当初は歩留まりが悪く、1971年に大量に入手できるようになったのは、生産マスクの5段階目になってからであった。 インテルは1974年6月に25万個目の1103 RAMを出荷した<ref>[https://timeline.intel.com/1974/a-milestone-for-the-1103 A Milestone for the 1103]</ref>。 == 開発 == 1969年、[[ハネウェル]]のウィリアム・レジッツと彼の同僚は、3トランジスタのダイナミック・メモリ・セルを発明し、半導体業界に生産者を探し始めた。設立されたばかりのインテル社はこれに応え、ウィリアム・レジッツと密接に協力したジョエル・カープの指揮の下、非常によく似た2つの1024ビットチップ、1102と1103を開発したが<ref>[http://archive.computerhistory.org/resources/text/Oral_History/Karp_Joel/102658274.05.01.pdf Computer History Museum: "Oral History of Joel Karp" Interviewed by Gardner Hendrie] March 3, 2003 | Atherton, California</ref>、最終的には 1103 のみが生産された。 {{仮リンク|マイクロシステムズ・インターナショナル|en|Microsystems International}}は、1971年に1103の最初の[[セカンドソース]]となった<ref name="Tedlow2006">{{Cite book |title=Andy Grove: The Life and Times of an American |first=Richard S. |last=Tedlow |publisher=Portfolio |year=2006 |pages=[https://archive.org/details/andygrovelifeand00tedl/page/141 141–142] |isbn=9781591841395}}</ref>。その後、[[ナショナル セミコンダクター|ナショナルセミコンダクター]]、[[シグネティクス]]、{{仮リンク|シナテック|en|Synertek}}も1103を製造した。 == 技術詳細 == [[File:Intel_i1103.JPG|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:Intel_i1103.JPG|サムネイル|i1103 DRAMメモリの回路構成図。]] {| class="wikitable" style="text-align:center;" |''t''<sub>RWC</sub> |580&nbsp;ns | align="left" |ランダム読み出し/書き込みサイクル時間(プリチャージエッジから次のプリチャージエッジまで |- |''t''<sub>PO</sub> |300&nbsp;ns | align="left" |アクセス時間: プリチャージHighから有効データ出力まで |- |''t''<sub>REF</sub> |2&nbsp;ms | align="left" |[[リフレッシュレート#メモリ|リフレッシュレート]] |- |V<sub>CC</sub> |16&nbsp;V | align="left" |供給電圧 |- |[[PMOSロジック|''p''-MOS]] |8<nowiki><span typeof="mw:Entity" id="mwVg">&</nowiki>nbsp;<nowiki></span></nowiki>μm<ref name="Lojek-1103">{{Cite book |last=Lojek |first=Bo |title=History of Semiconductor Engineering |date=2007 |publisher=[[Springer Science & Business Media]] |isbn=9783540342588 |pages=362–363 |url=https://books.google.com/books?id=2cu1Oh_COv8C&pg=PA362 |quote=The i1103 was manufactured on a 6-mask silicon-gate P-MOS process with 8 μm minimum features. The resulting product had a 2,400 μm<sup>2</sup> memory cell size, a die size just under 10 mm<sup>2</sup>, and sold for around $21.}}</ref> | align="left" |製造プロセス(シリコン[[電界効果トランジスタ#分類|ゲート]][[MOSFET]]) |- |Capacity |1024x1 | align="left" |容量×[[バス (コンピュータ)|バス]]幅 |} == 脚注・参考文献 == {{reflist}} [[Category:主記憶装置]] [[Category:インテルの製品]]
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DOGMAN ドッグマン
『DOGMAN ドッグマン』(原題:Dogman / DogMan)は、2023年制作のフランスのアクション映画。 “ドッグマン”と呼ばれる女装した男の愛と暴力の切なくも壮絶な人生を描く。リュック・ベッソン監督・脚本。
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『DOGMAN ドッグマン』は、2023年制作のフランスのアクション映画。 “ドッグマン”と呼ばれる女装した男の愛と暴力の切なくも壮絶な人生を描く。リュック・ベッソン監督・脚本。
{{混同|x1=2018年の映画|ドッグマン}} {{Infobox Film | 作品名 = DOGMAN ドッグマン | 原題 = Dogman / DogMan | 画像 = | 画像サイズ = | 画像解説 = | 監督 = [[リュック・ベッソン]] | 脚本 = リュック・ベッソン | 原作 = | 製作 = ヴィルジニー・ベッソン=シラ | 製作総指揮 = ロミュアルド・ドゥロー | 出演者 = [[ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ]] | 音楽 = [[エリック・セラ]] | 撮影 = コリン・ワンダースマン | 編集 = ジュリアン・レイ | 製作会社 = リュック・ベッソン・プロダクション<br />[[ヨーロッパ・コープ]]<br />[[TF1]] | 配給 = {{flagicon|FRA}} Apollo Films<br />{{flagicon|JPN}} [[クロックワークス]] | 公開 = {{flagicon|FRA}} [[2023年]][[9月23日]]<br />{{flagicon|JPN}} [[2024年]][[3月8日]]<ref>{{cite news|url=https://eiga.com/news/20231207/8/|title=リュック・ベッソンが描く規格外のダークヒーロー ベネチアで絶賛「DOGMAN ドッグマン」24年3月8日公開|publisher=映画.com|date=2023-12-07|accessdate=2023-12-10}}</ref> | 上映時間 = 114分 | 製作国 = {{FRA}} | 言語 = [[英語]] | 製作費 = 20,000,000[[ユーロ]] | 興行収入 = {{flagicon|FRA}} $2,082,620<ref name= "BOM">[https://www.boxofficemojo.com/title/tt17009348/?ref_=bo_tt_ti DogMan - Box Office Mojo]</ref><br />{{flagicon|World}} $3,527,549<ref name= "BOM"/> | 前作 = | 次作 = }} 『'''DOGMAN ドッグマン'''』(原題:''Dogman / DogMan'')は、[[2023年の映画|2023年]]制作の[[フランスの映画|フランス]]の[[アクション映画]]。 “ドッグマン”と呼ばれる女装した男の愛と暴力の切なくも壮絶な人生を描く。[[リュック・ベッソン]]監督・脚本<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/552117|title=犬と暴力に満ちた男の人生とは、リュック・ベッソン最新作「DOGMAN」3月公開|publisher=映画ナタリー|date=2023-12-07|accessdate=2023-12-10}}</ref><ref>{{cite news|url=https://www.crank-in.net/news/138070/1|title=リュック・ベッソンがおくるバイオレンス・アクション映画『DOGMAN ドッグマン』、来年3.8公開決定!|publisher=クランクイン!|date=2023-12-07|accessdate=2023-12-10}}</ref>。 == あらすじ == {{要あらすじ}} == キャスト == *[[ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ]] *ジョージョー・T・ギッブス *[[クリストファー・デナム]] *クレーメンス・シック *[[マリサ・ベレンソン]] == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://klockworx-v.com/dogman/ 日本版オフィシャルサイト] * {{Allcinema title|392692|DOGMAN ドッグマン}} <!--* {{Kinejun title||DOGMAN ドッグマン}} * {{Amg movie||Dogman}}--> * {{IMDb title|17009348|Dogman}} * {{Twitter|dogman_jp2023|公式Twitter}} {{リュック・ベッソン}} {{movie-stub}} {{DEFAULTSORT:とつくまん}} [[Category:2023年の映画]] [[Category:フランスのアクション・スリラー映画]] [[Category:イヌを題材とした映画作品]] [[Category:映画における異性装]] [[Category:エリック・セラの作曲映画]] [[Category:リュック・ベッソンの監督映画]] [[Category:ヨーロッパ・コープの作品]] [[Category:クロックワークスの映画作品]]
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鈴木啓蔵
鈴木 啓蔵(すずき けいぞう、1910年〈明治43年〉8月20日 - 1993年〈平成5年〉5月8日)は、日本の政治家。元山形県上山市長(3期)。 山形県南村山郡上山町十日町出身。旧制山形中学校(現山形東高校)、早稲田大学卒。1931年に家兄の死去に伴い上山町に帰郷。太平洋戦争に応召。終戦は台湾の屏東で迎えた。復員後、山形県秘書課長、文書課長、統計課長、東京事務所長、最上事務所長、東南村山地方事務所長を歴任。1959年より上山市助役を2期務めた。 1971年7月に上山市長選に出馬し、雨谷憲作との一騎打ちを制して初当選。 1975年6月の市長選では、無投票当選し2選。 1979年7月の市長選では、中学校長を退職し出馬した遠藤利一(遠藤利明の父)との一騎打ちを制して3選。 1983年7月に退任。 1984年に勲四等瑞宝章受章。 1986年より斎藤茂吉記念館館長に就任。 1988年に斎藤茂吉文化賞を受賞した。 1993年に死去。
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鈴木 啓蔵は、日本の政治家。元山形県上山市長(3期)。
{{政治家 | 国略称 = {{JPN}} | 人名 = 鈴木 啓蔵 | 各国語表記 = すずき けいぞう | 生年月日 = [[1910年]][[8月10日]] | 出生地 = [[山形県]][[上山市]] | 没年月日 = [[1993年]][[5月8日]](82歳没) | 職名 = [[ファイル:Flag of Kaminoyama Yamagata.svg|25px|上山市旗]] [[上山市|上山市長]] | 当選回数 = 3回 | 就任日 = [[1971年]][[7月25日]] | 退任日 = [[1983年]][[7月24日]] | 出身校 = 早稲田大学 | 画像 = 上山市長 鈴木啓蔵.jpg | 画像説明 = 上山市体育協会誌60年のあゆみ }} '''鈴木 啓蔵'''(すずき けいぞう、[[1910年]]〈明治43年〉[[8月20日]] - [[1993年]]〈平成5年〉[[5月8日]]<ref>{{Cite book|和書 |title=追憶の人 |date=平成6年5月1日 |publisher=上山印刷 |author=鈴木キク}}</ref>)は、[[日本]]の[[政治家]]。元[[山形県]][[上山市]]長(3期)。 == 来歴 == [[山形県]][[南村山郡]][[上山町 (山形県)|上山町]]十日町出身。旧制山形中学校(現[[山形県立山形東高等学校|山形東高校]])、[[早稲田大学]]卒。[[1931年]]に家兄の死去に伴い上山町に帰郷。[[太平洋戦争]]に[[徴兵制度|応召]]<ref>{{Cite book|和書 |title=蔵王山麓の市長日記 |date=昭和54年7月30日 |publisher=加藤印刷(上山市)}}</ref>。終戦は[[台湾]]の[[屏東県|屏東]]で迎えた。復員後、山形県秘書課長、文書課長、統計課長、東京事務所長、最上事務所長、東南村山地方事務所長を歴任。[[1959年]]より[[松本長兵衛]]市長のもと上山市[[副市町村長|助役]]を2期務めた。 [[1971年]]7月に上山市長選に出馬し、雨谷憲作との一騎打ちを制して初当選。 [[1975年]]6月の市長選では、無投票当選し2選。 [[1979年]]7月の市長選では、中学校長を退職し出馬した遠藤利一([[遠藤利明]]の父)との一騎打ちを制して3選。 [[1983年]]7月に退任。 [[1984年]]に勲四等[[瑞宝章]]受章。 [[1986年]]より[[斎藤茂吉記念館]]館長に就任。 [[1988年]]に斎藤茂吉文化賞を受賞した。 [[1993年]]に死去。 == 著書 == * 茂吉と上ノ山 * 茂吉の足あと * 蔵王山麓の市長日記 * 茂吉と山形 * 歌集「上ノ山」 * 伝記「出羽ヶ嶽文治郎」 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{上山市長}} {{DEFAULTSORT:すすき けいそう}} [[Category:上山市長]] [[Category:地方公務員出身の人物]] [[Category:勲四等瑞宝章受章者]] [[Category:早稲田大学出身の人物]] [[Category:山形県立山形東高等学校出身の人物]] [[Category:山形県出身の人物]] [[Category:1910年生]] [[Category:1993年没]]
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東方三博士の礼拝 (ステファノ・ダ・ヴェローナ)
『東方三博士の礼拝』(とうほうさんはかせのれいはい、伊: Adorazione dei Magi、英: Adoration of the Magi)は、イタリアの国際ゴシック様式を代表する画家ステファノ・ダ・ヴェローナが1434年に板上にテンペラで描いた絵画である。現在、ミラノのブレラ美術館に所蔵されている。 絵画の主題は、「マタイによる福音書」 (2章) にある「東方三博士の礼拝」である。しかし、この作品では絢爛豪華な趣味が宗教的要素を凌駕し、ミニアチュールのように細かく描写された衣装や装飾品が何よりも目につく。背景に見えるラクダや黒人など異国趣味も欠かせない要素である。金箔張り漆喰の使用などに見られる技法が、このように凝った図像に見事に適合している。 作品の画面中央に金色の文字で「Stefanus」と署名と制作年が記されているが、これをどう解釈するかについては何人かの研究者により議論されている。しかし、本作は、マニエリスム期の画家・著述家のジョルジョ・ヴァザーリの『画家・彫刻家・建築家列伝』に言及されており、いずれにしてもステファノがヴェローナに戻った1425年から死亡した1438年の間に制作されたものである。19世紀に、作品はヴェローナのオットリーニ (Ottolini) 家に所有されていたが、ドメニコ・ビアソーリ (Domenico Biasoli) に譲渡された。ビアソーリは、1818年に本作をステファノ・フィオレンティーノ (Stefano Fiorentino) の作品としてブレラ美術館に売却した。 本作のいくつかの部分は、ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノが1432年に制作した『東方三博士の礼拝』(ウフィツィ美術館) 、あるいは本作とジェンティーレの作品両方の共通の手本となった、なんらかの作品に依拠している。絵画は2つの部分から成り立っている。画面下半分は、幼子イエス・キリストと聖母マリアを礼拝する東方三博士 (マギ) と随行者たちの行列を表している。上半分には、羊飼いたちの集団、彗星に導かれてやってくる東方三博士の到着、犬とラクダのいる行列の最後尾を表した場面がある。また、中景には『聖書』の記述にはない狩猟の場面さえある。 前景には、牡牛とロバのいる小屋の中で幼子イエスを膝に抱く聖母が表されている。3人のマギは、それぞれ異なった姿で表されている。老年のマギは王冠を取り、跪いている。彼は幼子に精緻な金の品物を贈っており、幼子はそれを受け取り、彼を祝福するために手を伸ばしている。中年のマギは王冠を取り、金箔を施したカスケットを左手に持った姿で表されている。青年のマギは背後から情景を見ている。イエスの後ろにいる光輪のある2人の人物は、聖ヨセフと聖アンナである。マギたちの従者にはモンゴル人からムーア人まで多くの人種がいる。 豪華な馬具、行列中の人々の空想的な帽子は、ステファノの友人であったピサネロの作品中の同様の事物に類似しており、1431年のフィレンツェ公会議で見ることのできたビザンチン帝国宮廷の衣服に触発されている。小屋の屋根にいるクジャクは、初期キリスト教時代のキリストの「復活」と永遠性の象徴である。古代ローマ時代からクジャクの肉は、腐らないとみなされていたからである。 スミレはキリストの「謙遜」を、赤いカーネーションは「情熱」を象徴している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『東方三博士の礼拝』(とうほうさんはかせのれいはい、伊: Adorazione dei Magi、英: Adoration of the Magi)は、イタリアの国際ゴシック様式を代表する画家ステファノ・ダ・ヴェローナが1434年に板上にテンペラで描いた絵画である。現在、ミラノのブレラ美術館に所蔵されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "絵画の主題は、「マタイによる福音書」 (2章) にある「東方三博士の礼拝」である。しかし、この作品では絢爛豪華な趣味が宗教的要素を凌駕し、ミニアチュールのように細かく描写された衣装や装飾品が何よりも目につく。背景に見えるラクダや黒人など異国趣味も欠かせない要素である。金箔張り漆喰の使用などに見られる技法が、このように凝った図像に見事に適合している。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "作品の画面中央に金色の文字で「Stefanus」と署名と制作年が記されているが、これをどう解釈するかについては何人かの研究者により議論されている。しかし、本作は、マニエリスム期の画家・著述家のジョルジョ・ヴァザーリの『画家・彫刻家・建築家列伝』に言及されており、いずれにしてもステファノがヴェローナに戻った1425年から死亡した1438年の間に制作されたものである。19世紀に、作品はヴェローナのオットリーニ (Ottolini) 家に所有されていたが、ドメニコ・ビアソーリ (Domenico Biasoli) に譲渡された。ビアソーリは、1818年に本作をステファノ・フィオレンティーノ (Stefano Fiorentino) の作品としてブレラ美術館に売却した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "本作のいくつかの部分は、ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノが1432年に制作した『東方三博士の礼拝』(ウフィツィ美術館) 、あるいは本作とジェンティーレの作品両方の共通の手本となった、なんらかの作品に依拠している。絵画は2つの部分から成り立っている。画面下半分は、幼子イエス・キリストと聖母マリアを礼拝する東方三博士 (マギ) と随行者たちの行列を表している。上半分には、羊飼いたちの集団、彗星に導かれてやってくる東方三博士の到着、犬とラクダのいる行列の最後尾を表した場面がある。また、中景には『聖書』の記述にはない狩猟の場面さえある。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "前景には、牡牛とロバのいる小屋の中で幼子イエスを膝に抱く聖母が表されている。3人のマギは、それぞれ異なった姿で表されている。老年のマギは王冠を取り、跪いている。彼は幼子に精緻な金の品物を贈っており、幼子はそれを受け取り、彼を祝福するために手を伸ばしている。中年のマギは王冠を取り、金箔を施したカスケットを左手に持った姿で表されている。青年のマギは背後から情景を見ている。イエスの後ろにいる光輪のある2人の人物は、聖ヨセフと聖アンナである。マギたちの従者にはモンゴル人からムーア人まで多くの人種がいる。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "豪華な馬具、行列中の人々の空想的な帽子は、ステファノの友人であったピサネロの作品中の同様の事物に類似しており、1431年のフィレンツェ公会議で見ることのできたビザンチン帝国宮廷の衣服に触発されている。小屋の屋根にいるクジャクは、初期キリスト教時代のキリストの「復活」と永遠性の象徴である。古代ローマ時代からクジャクの肉は、腐らないとみなされていたからである。 スミレはキリストの「謙遜」を、赤いカーネーションは「情熱」を象徴している。", "title": "作品" } ]
『東方三博士の礼拝』は、イタリアの国際ゴシック様式を代表する画家ステファノ・ダ・ヴェローナが1434年に板上にテンペラで描いた絵画である。現在、ミラノのブレラ美術館に所蔵されている。 絵画の主題は、「マタイによる福音書」 (2章) にある「東方三博士の礼拝」である。しかし、この作品では絢爛豪華な趣味が宗教的要素を凌駕し、ミニアチュールのように細かく描写された衣装や装飾品が何よりも目につく。背景に見えるラクダや黒人など異国趣味も欠かせない要素である。金箔張り漆喰の使用などに見られる技法が、このように凝った図像に見事に適合している。
{{Infobox artwork |image_file=Stefano da verona, adorazione dei magi, 1435, 47x72 cm, milano, pinacoteca di brera.jpg |image_size=350px |title=東方三博士の礼拝 | other_language_1 = [[イタリア語]] | other_title_1 = Adorazione dei Magi | other_language_2 = [[英語]] | other_title_2 = Adoration of the Magi |artist=[[ステファノ・ダ・ヴェローナ]] |year=1434年 |type=板上に[[テンペラ]] |height_metric=72 |width_metric=47 |metric_unit=cm |imperial_unit=in |museum=[[ブレラ美術館]] |city=[[ミラノ]] }} 『'''東方三博士の礼拝'''』(とうほうさんはかせのれいはい、{{Lang-it-short|Adorazione dei Magi}}、{{Lang-en-short|Adoration of the Magi}})は、[[イタリア]]の[[国際ゴシック様式]]を代表する画家[[ステファノ・ダ・ヴェローナ]]が1434年に板上に[[テンペラ]]で描いた絵画である<ref name="PB">{{Cite web |url=https://pinacotecabrera.org/en/collezione-online/opere/adoration-of-the-magi-da-verona/|title=Adoration of the Magi|publisher=[[ブレラ美術館]]公式サイト (英語)|access-date=2023/12/11}}</ref>。現在、[[ミラノ]]の[[ブレラ美術館]]に所蔵されている<ref name="PB" /><ref name="ReferenceBG">ブレラ 絵画館全作品ガイド 1997年、16項。</ref>。 絵画の主題は、「[[マタイによる福音書]]」 (2章) にある「[[東方三博士の礼拝]]」である<ref>『名画で読み解く「聖書」』 2013年、110貢。</ref>。しかし、この作品では絢爛豪華な趣味が宗教的要素を凌駕し、[[ミニアチュール]]のように細かく描写された衣装や装飾品が何よりも目につく<ref name="PB" /><ref name="ReferenceBG" />。背景に見える[[ラクダ]]や黒人<ref name="PB" />など[[エキゾチシズム|異国趣味]]も欠かせない要素である<ref name="ReferenceBG" />。[[金箔]]張り[[漆喰]]の使用などに見られる技法が、このように凝った[[図像]]に見事に適合している<ref name="ReferenceBG" />。 == 歴史 == 作品の画面中央に金色の文字で「Stefanus」と署名と制作年が記されている<ref name="PB" />が、これをどう解釈するかについては何人かの研究者により議論されている。しかし、本作は、[[マニエリスム]]期の画家・著述家の[[ジョルジョ・ヴァザーリ]]の『[[画家・彫刻家・建築家列伝]]』に言及されており、いずれにしてもステファノがヴェローナに戻った1425年から死亡した1438年の間に制作されたものである。19世紀に、作品はヴェローナのオットリーニ (Ottolini) 家に所有されていたが、ドメニコ・ビアソーリ (Domenico Biasoli) に譲渡された。ビアソーリは、1818年に本作をステファノ・フィオレンティーノ (Stefano Fiorentino) の作品としてブレラ美術館に売却した<ref name="ReferenceBG" />。 == 作品 == [[File:Gentile_da_Fabriano_001.jpg|thumb|[[ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ]]『[[東方三博士の礼拝 (ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ)|東方三博士の礼拝]]』 (1423年)、 [[ウフィツィ美術館]]、[[フィレンツェ]]]] 本作のいくつかの部分は、[[ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ]]が1432年に制作した『[[東方三博士の礼拝 (ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ)|東方三博士の礼拝]]』([[ウフィツィ美術館]]) 、あるいは本作とジェンティーレの作品両方の共通の手本となった、なんらかの作品に依拠している。絵画は2つの部分から成り立っている。画面下半分は、幼子[[イエス・キリスト]]と[[聖母マリア]]を礼拝する[[東方三博士]] ([[マギ]]) と随行者たちの行列を表している。上半分には、羊飼いたちの集団、[[彗星]]に導かれてやってくる東方三博士の到着、犬とラクダのいる行列の最後尾を表した場面がある。また、中景には『[[聖書]]』の記述にはない狩猟の場面さえある<ref name="PB" />。 前景には、牡牛とロバのいる小屋の中で幼子イエスを膝に抱く聖母が表されている。3人のマギは、それぞれ異なった姿で表されている。老年のマギは王冠を取り、跪いている。彼は幼子に精緻な金の品物を贈っており、幼子はそれを受け取り、彼を祝福するために手を伸ばしている。中年のマギは王冠を取り、[[金箔]]を施した[[カスケット]]を左手に持った姿で表されている。青年のマギは背後から情景を見ている。イエスの後ろにいる[[光輪 (宗教美術)|光輪]]のある2人の人物は、[[聖ヨセフ]]と[[聖アンナ]]である。マギたちの従者には[[モンゴロイド|モンゴル人]]から[[ムーア人]]まで多くの人種がいる。 豪華な馬具、行列中の人々の空想的な帽子は、ステファノの友人であった[[ピサネロ]]の作品中の同様の事物に類似しており、1431年の[[フィレンツェ公会議]]で見ることのできた[[ビザンチン帝国]]宮廷の衣服に触発されている。小屋の屋根にいる[[クジャク]]は、[[初期キリスト教]]時代のキリストの「[[復活 (キリスト教)|復活]]」と永遠性の[[象徴]]である<ref name="BM">「聖書」と「神話」の象徴図鑑 2011年、76貢。</ref>。[[古代ローマ]]時代からクジャクの肉は、腐らないとみなされていたからである<ref name="BM" />。 [[スミレ]]はキリストの「謙遜」を、赤い[[カーネーション]]は「情熱」を象徴している。 == 脚注 == <references /> == 参考文献 == * 大島力監修『名画で読み解く「聖書」』、[[世界文化社]]、2013年 ISBN 978-4-418-13223-2 * 『ブレラ 絵画館全作品ガイド』、SCALA、1977年 ISBN 978-888117680-9 * [[岡田温司]]監修『「聖書」と「神話」の象徴図鑑』、ナツメ社、2011年刊行 ISBN 978-4-8163-5133-4 * {{Cite book |first=Stefano |last=Zuffi |title=Il Quattrocento |publisher=Electa |location=Milan |year=2004}} == 外部リンク == * [https://pinacotecabrera.org/en/collezione-online/opere/adoration-of-the-magi-da-verona/ ブレラ美術館公式サイト、ステファノ・ダ・ヴェローナ『東方三博士の礼拝』 (英語)] {{DEFAULTSORT:とうほうさんはかせのれいはいすてふあのたうえろおな}} [[Category:ブレラ美術館の所蔵品]] [[Category:ステファノ・ダ・ヴェローナの作品]] [[Category:1430年代の絵画]] [[Category:東方三博士の礼拝を描いた絵画]]
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アレクセイ・ファジェーチェフ
アレクセイ・ファジェーチェフ(ロシア語: Алексей Николаевич Фадеечев, ラテン文字転写: Alexei FadeechevまたはAlexei Fadeyechev、1960年8月16日 - )は、ロシアのバレエダンサー・振付家・バレエ指導者である。父のニコライ・ファジェーチェフ(ロシア語版)も同じくバレエダンサーで、ボリショイ・バレエ団の主力ダンサーであった。 ボリショイ・バレエ学校でバレエを学び、1978年にボリショイ・バレエ団に入団した。翌年『白鳥の湖』のジークフリート王子で主役デビューを果たし、20年にわたって同バレエ団で主力ダンサーの地位を保った。同バレエ団では多くのレパートリーで主要な役柄を踊り演じ、世界各国のバレエ団にも招聘されて多くの舞台に出演した。 1998年から2000年までボリショイ・バレエ団で芸術監督を務めたのち、2004年から2013年までロストフ国立音楽劇場(ロシア語版)バレエ団の芸術監督の地位にあった。振付家としても世界各国で活動し、新国立劇場バレエ団の他、ジョージア国立バレエ団、ナポリ・サンカルロ歌劇場、ポーランド国立バレエ団などに招聘されて『ドン・キホーテ』、『白鳥の湖』などクラシック・バレエ諸作品の改訂演出および振付を手がけている。 1960年、モスクワの生まれ。父ニコライ・ファジェーチェフ、母イリーナ・ホリナ(コリナとも表記)はともにバレエダンサーである。父ニコライ(1933年1月27日 - 2020年6月23日)はボリショイ・バレエ団の主力ダンサーでガリーナ・ウラノワやマイヤ・プリセツカヤなどの著名なバレリーナのパートナーとして活動し、引退後はボリショイ・バレエ団で教師を務めていた。 ボリショイ・バレエ学校でバレエを学び、アレクサンドル・プロコフィエフに師事した。1978年にボリショイ・バレエ団に入団した。同バレエ団では父ニコライからの指導を受け、翌年19歳で『白鳥の湖』のジークフリート王子で主役デビューを果たした。 主役デビューは事前の予想を上回る成功を収め、プリンシパルダンサーの地位を確立した。父の指導のもとでクラシック・バレエの舞踊スタイルと舞台上での表現力と存在感を体得し、ロシア・クラシック・バレエの重要な役を多く演じてきた。ボリショイ・バレエ団の他、ゲストダンサーとしてマリインスキー劇場バレエ団、デンマーク・ロイヤル・バレエ団、スウェーデン・ロイヤル・バレエ団、オランダ国立バレエ団、フィンランド国立バレエ団、ポルトガル国立バレエ団、バーミンガム・ロイヤル・バレエ団、ボストン・バレエ団、東京バレエ団などと共演している。 1998年から2000年までボリショイ・バレエ団で芸術監督を務め、『ドン・キホーテ』改訂版(1999年)などを演出した。2004年から2013年までは、ロストフ国立音楽劇場バレエ団の芸術監督の地位にあった。振付家としても世界各国で活動し、新国立劇場バレエ団の他、ジョージア国立バレエ団、ナポリ・サンカルロ歌劇場、ポーランド国立バレエ団などに招聘されて『ドン・キホーテ』、『白鳥の湖』などクラシック・バレエ諸作品の改訂演出および振付を手がけている。ロシア人民芸術家。 ボリショイ・バレエ団は、1964年から1995年まで30年以上にわたって同バレエ団を芸術監督として率いた振付家ユーリー・グリゴローヴィチの作風を反映して、ウラジーミル・ワシーリエフやイレク・ムハメドフなどの力強く英雄的な男性ダンサーを輩出してきた。一方でボリショイ・バレエ団からは、ニコライとアレクセイのファジェーチェフ父子やアンドリス・リエパに代表されるダンスール・ノーブルタイプの男性ダンサーも多く登場してきている。 ファジェーチェフはロシア・バレエにおける「バレエは女性のもの」という伝統に忠実なダンサーであった。舞台上で出しゃばったりオーヴァーアクトに陥ったりするようなことはなく、かといって地味になりすぎることもなく共演者たちを支えていた。 ファジェーチェフは、クラシック・バレエはもとよりモダン・バレエの諸作品を含む幅広いレパートリーをこなすダンサーであった。ボリショイ・バレエ団のクラシック・バレエ作品では『白鳥の湖』(ジークフリート王子)、『ジゼル』(アルブレヒト)、『眠れる森の美女』(デジレ王子)、『くるみ割り人形』(王子)に代表される正統派ダンスール・ノーブルタイプの役柄に加えて、『ドン・キホーテ』のバジルのようなドゥミ・キャラクテールに分類される役柄も踊っていた。ジークフリート王子などでは気品ある立ち居振る舞いと踊りを見せ、『ドン・キホーテ』のバジルではダイナミックな舞踊技巧に加えてユーモラスな演技も披露していた。 ボリショイ・バレエ団の現代作品では、『イワン雷帝』、『スパルタカス』などの主役を踊った。またボリショイ劇場版『シラノ・ド・ベルジュラック』(ローラン・プティ演出・振付)では、タイトル・ロールの初演キャストであった。そして英国ロイヤル・バレエ団の招聘により、ケネス・マクミラン演出・振付『パゴダの王子』、『ロメオとジュリエット』の主役、ピーター・ライト版『くるみ割り人形』の王子を演じるなどボリショイ・バレエ団のみにとどまらない活躍を見せた。 海野敏は、『バレエ・ピープル101』(1993年)の解説で「レパートリーは幅広くとも、ファジェーチェフのキャラクターは間違いなく、「王子様」タイプである」と指摘した。海野はその理由として、端正な容貌と胸幅があって堂々たる体躯を挙げた。さらに丁寧で基本に忠実な踊りと振幅の大きいポール・ド・ブラ(腕の運び)の優雅さを指摘し、「彼ほど徹底してノーブルなダンサーも珍しい」との評価を与えた。 ファジェーチェフはボリショイ・バレエ団の人気バレリーナ、ニーナ・アナニアシヴィリとのパートナーシップでも知られた。2人で共演したバレエ団はマリインスキー劇場バレエ団、ボストン・バレエ団、英国ロイヤルバレエ団、東京バレエ団など数多い。息の合う2人の舞台を観ていたファンの中には、ファジェーチェフがアナニアシヴィリの配偶者だと信じている人さえいたほどであった。ただし海野は2人の踊りの質がかなり異なっていることに言及し、アナニアシヴィリを「迫ってくるような踊り」、ファジェーチェフについては「スーツを着てネクタイを締めたように折り目正しい」と表現した。 ファジェーチェフは女性ダンサーのサポートにも長けていた。舞踊評論家の岩本真由美はアナニアシヴィリと踊るファジェーチェフについて「こんなパートナーを得られたら女冥利に尽きるというものだろう」との賛辞を送っている。 ファジェーチェフの振付家としての活動は、本国ロシアだけでなく世界各国に及んでいる。ボリショイ・バレエ団の他に、新国立劇場バレエ団、ジョージア国立バレエ団、ナポリ・サンカルロ歌劇場、ポーランド国立バレエ団などに招聘されて『ドン・キホーテ』、『白鳥の湖』などクラシック・バレエ諸作品の改訂演出および振付を手がけている。 1999年、ファジェーチェフはボリショイ・バレエ団で『ドン・キホーテ』を改訂上演したが、このときは批判的な声が上がっていた。ファジェーチェフは同バレエ団で2016年に再度の改訂を行った。基本的な構成は以前の版と変わらないものの、その上演では省かれていたジーグを復活させた。舞台美術と衣装の一新を伴ったこの改訂演出は、ダンサーたちの好演も相まって好評で迎えられた。舞踊評論家のアンナ・ゴルディーワは「多種多様なダンサーたちによるそれぞれの物語が情熱いっぱいに繰り広げられて、明らかになったこと。それはこのバレエがボリショイ劇場で今後百年、いや、その先もずっと、幸せに生き続けるということだ」と評している。 ファジェーチェフ演出による『ドン・キホーテ』は、新国立劇場バレエ団のレパートリーにも入っている。同バレエ団の初代芸術監督島田廣がファジェーチェフに改訂振付を委ね、1999年3月に新制作された。ファジェーチェフは「プティパの精神に忠実であろうと務めた」と初演時のプログラムで述べ、別の振付家が追加した振付を極力排除することによって「プティパへの回帰」を志向した。 ファジェーチェフ版『ドン・キホーテ』は新国立劇場バレエ団のレパートリーとして定着し、通算の上演回数は2023年の時点で47回におよんでいる。この作品は島田、牧阿佐美、デヴィッド・ビントレー、大原永子、そして吉田都に至る新国立劇場バレエ団歴代の芸術監督のもとで上演が続けられている。『ドン・キホーテ』は同バレエ団の2023/2024シーズン幕開けとして上演され、初演時以来18年ぶりに同バレエ団の指導にあたったファジェーチェフにも観客からスタンディングオベーションが贈られている。
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アレクセイ・ファジェーチェフは、ロシアのバレエダンサー・振付家・バレエ指導者である。父のニコライ・ファジェーチェフも同じくバレエダンサーで、ボリショイ・バレエ団の主力ダンサーであった。 ボリショイ・バレエ学校でバレエを学び、1978年にボリショイ・バレエ団に入団した。翌年『白鳥の湖』のジークフリート王子で主役デビューを果たし、20年にわたって同バレエ団で主力ダンサーの地位を保った。同バレエ団では多くのレパートリーで主要な役柄を踊り演じ、世界各国のバレエ団にも招聘されて多くの舞台に出演した。 1998年から2000年までボリショイ・バレエ団で芸術監督を務めたのち、2004年から2013年までロストフ国立音楽劇場バレエ団の芸術監督の地位にあった。振付家としても世界各国で活動し、新国立劇場バレエ団の他、ジョージア国立バレエ団、ナポリ・サンカルロ歌劇場、ポーランド国立バレエ団などに招聘されて『ドン・キホーテ』、『白鳥の湖』などクラシック・バレエ諸作品の改訂演出および振付を手がけている。
{{Infobox 人物 |氏名 = アレクセイ・ファジェーチェフ<br>{{lang|ru|Алексей Фадеечев}} |ふりがな = |画像 = |画像サイズ = <!-- 省略値は180x180px --> |画像説明 = |生年月日 = {{生年月日と年齢|1960|8|16|}}<ref name="オックスフォード427">[[#オックスフォード|『オックスフォード バレエダンス辞典』、p.427.]]</ref><ref name="ピープル101-130-131">[[#ピープル101|『バレエ・ピープル101』、pp.130-131.]]</ref> |生誕地 = {{SSR}}<br>[[ファイル:Flag_of_the_Russian_Soviet_Federative_Socialist_Republic_(1954–1991).svg|border|25px]] [[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国|ロシア共和国]] [[モスクワ]]<ref name="オックスフォード427"/><ref name="ピープル101-130-131"/> |没年月日 = |死没地 = |職業 = [[バレエダンサー]]、バレエ指導者、振付家<ref name="オックスフォード427"/><ref name="ピープル101-130-131"/> |出身校 = |配偶者 = |子供 = }} {{ウィキポータルリンク|舞台芸術}} '''アレクセイ・ファジェーチェフ'''('''ファデーチェフ'''、{{翻字併記|ru|Алексе́й Никола́евич Фаде́чев|Alexei Fadeechev}}<ref name="新国立旧サイト">{{Cite web |和書|url=https://www.nntt.jac.go.jp/ballet/20000201_profile.html |title=プロフィール |publisher =新国立劇場バレエ団 |accessdate=2023-11-17}}</ref>またはAlexei Fadeyechev<ref name="オックスフォード427"/><ref name="ポーランド国立バレエ団">{{Cite web 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|accessdate=2023-12-11}}</ref>はボリショイ・バレエ団の主力ダンサーで[[ガリーナ・ウラノワ]]や[[マイヤ・プリセツカヤ]]などの著名なバレリーナのパートナーとして活動し、引退後はボリショイ・バレエ団で教師を務めていた<ref name="オックスフォード427"/><ref name="ポーランド国立バレエ団"/><ref name="オックスフォード427-428"/>。 ボリショイ・バレエ学校でバレエを学び、アレクサンドル・プロコフィエフに師事した<ref name="新国立旧サイト"/><ref name="オックスフォード427"/><ref name="新国立2023-9"/>。1978年にボリショイ・バレエ団に入団した<ref name="新国立旧サイト"/><ref name="オックスフォード427"/><ref name="新国立2023-9"/>。同バレエ団では父ニコライからの指導を受け、翌年19歳で『白鳥の湖』のジークフリート王子で主役デビューを果たした<ref name="オックスフォード427"/>。 主役デビューは事前の予想を上回る成功を収め、[[プリンシパル]]ダンサーの地位を確立した<ref name="オックスフォード427"/><ref name="小倉299"/>。父の指導のもとでクラシック・バレエの舞踊スタイルと舞台上での表現力と存在感を体得し、ロシア・クラシック・バレエの重要な役を多く演じてきた<ref name="オックスフォード427"/>。ボリショイ・バレエ団の他、ゲストダンサーとして[[マリインスキー・バレエ|マリインスキー劇場バレエ団]]、[[デンマーク王立バレエ団|デンマーク・ロイヤル・バレエ団]]、[[スウェーデン王立バレエ|スウェーデン・ロイヤル・バレエ団]]、[[オランダ国立バレエ|オランダ国立バレエ団]]、[[フィンランド国立バレエ団]]、ポルトガル国立バレエ団、[[バーミンガム・ロイヤル・バレエ団]]、[[ボストン・バレエ|ボストン・バレエ団]]、[[東京バレエ団]]などと共演している<ref name="オックスフォード427"/>。 1998年から2000年までボリショイ・バレエ団で芸術監督を務め、『[[ドン・キホーテ (バレエ)|ドン・キホーテ]]』改訂版(1999年)などを演出した<ref name="オックスフォード427"/>。2004年から2013年までは、ロストフ国立音楽劇場バレエ団の芸術監督の地位にあった<ref name="新国立2023-9"/>。振付家としても世界各国で活動し、[[新国立劇場バレエ団]]の他、ジョージア国立バレエ団、ナポリ・サンカルロ歌劇場、ポーランド国立バレエ団などに招聘されて『ドン・キホーテ』、『白鳥の湖』などクラシック・バレエ諸作品の改訂演出および振付を手がけている<ref name="ポーランド国立バレエ団"/><ref name="新国立2023-9"/>。ロシア人民芸術家<ref name="新国立2023-9"/>。 == レパートリーと評価 == ボリショイ・バレエ団は、1964年から1995年まで30年以上にわたって同バレエ団を芸術監督として率いた振付家[[ユーリー・グリゴローヴィチ]]の作風を反映して、[[ウラジーミル・ワシーリエフ]]やイレク・ムハメドフなどの力強く英雄的な男性ダンサーを輩出してきた<ref name="踊る男138">[[#踊る男|『踊る男たち』、p.138.]]</ref>。一方でボリショイ・バレエ団からは、ニコライとアレクセイのファジェーチェフ父子やアンドリス・リエパに代表される[[ダンスール・ノーブル]]タイプの男性ダンサーも多く登場してきている<ref name="踊る男138"/>。 ファジェーチェフはロシア・バレエにおける「バレエは女性のもの」という伝統に忠実なダンサーであった<ref name="ベスト66-32-33">[[#ベスト66|『バレエ・ビデオベスト66』、pp.32-33.]]</ref>。舞台上で出しゃばったりオーヴァーアクトに陥ったりするようなことはなく、かといって地味になりすぎることもなく共演者たちを支えていた<ref name="ベスト66-32-33"/>。 ファジェーチェフは、クラシック・バレエはもとよりモダン・バレエの諸作品を含む幅広いレパートリーをこなすダンサーであった<ref name="ピープル101-130-131"/>。ボリショイ・バレエ団のクラシック・バレエ作品では『白鳥の湖』(ジークフリート王子)、『[[ジゼル]]』(アルブレヒト)、『[[眠れる森の美女 (チャイコフスキー)|眠れる森の美女]]』(デジレ王子)、『[[くるみ割り人形]]』(王子)に代表される正統派ダンスール・ノーブルタイプの役柄に加えて、『ドン・キホーテ』のバジルのようなドゥミ・キャラクテール{{refnest|group="注釈"|name="ドゥミ"|ドミ・キャラクテールとも表記する({{lang-fr|demi‐caractère}})。古典バレエの典型的なバレリーナ役またはダンスール・ノーブルが踊る役よりも、さらに性格付けがはっきりとした役を踊る舞踊手およびその踊りを指す用語である<ref name="コトバンク">{{Cite web|和書|author= |date= |url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%89%E3%83%9F%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%AB-1379774 |title=ドミ・キャラクテール |publisher=[[コトバンク]] (世界大百科事典)|accessdate=2023-12-10}}</ref>。『[[ドン・キホーテ]]』の主役、キトリとバジルはこの典型である<ref name="コトバンク"/>。}}に分類される役柄も踊っていた<ref name="ピープル101-130-131"/>。ジークフリート王子などでは気品ある立ち居振る舞いと踊りを見せ、『ドン・キホーテ』のバジルではダイナミックな舞踊技巧に加えてユーモラスな演技も披露していた<ref name="ベスト66-32-33"/>。 ボリショイ・バレエ団の現代作品では、『イワン雷帝』、『スパルタカス』などの主役を踊った<ref name="ピープル101-130-131"/>。またボリショイ劇場版『シラノ・ド・ベルジュラック』([[ローラン・プティ]]演出・振付)では、[[タイトル・ロール]]の初演キャストであった<ref name="新国立旧サイト"/>。そして[[ロイヤル・バレエ団|英国ロイヤル・バレエ団]]の招聘により、[[ケネス・マクミラン]]演出・振付『パゴダの王子』、『[[ロメオとジュリエット (マクミラン)|ロメオとジュリエット]]』の主役、[[ピーター・ライト (振付家)|ピーター・ライト]]版『くるみ割り人形』の王子を演じるなどボリショイ・バレエ団のみにとどまらない活躍を見せた<ref name="新国立旧サイト"/>。 海野敏<ref>{{Cite web |和書|url=https://researchmap.jp/uminobin |title=海野 敏 (BIN UMINO) |publisher =researchmap(国立研究開発法人科学技術振興機構) |accessdate=2023-12-02}}</ref>は、『バレエ・ピープル101』(1993年)の解説で「レパートリーは幅広くとも、ファジェーチェフのキャラクターは間違いなく、「王子様」タイプである」と指摘した<ref name="ピープル101-130-131"/>。海野はその理由として、端正な容貌と胸幅があって堂々たる体躯を挙げた<ref name="ピープル101-130-131"/>。さらに丁寧で基本に忠実な踊りと振幅の大きいポール・ド・ブラ(腕の運び)の優雅さを指摘し、「彼ほど徹底してノーブルなダンサーも珍しい」との評価を与えた<ref name="ピープル101-130-131"/>。 ファジェーチェフはボリショイ・バレエ団の人気バレリーナ、[[ニーナ・アナニアシヴィリ]]とのパートナーシップでも知られた<ref name="ピープル101-130-131"/><ref name="ベスト66-32-33"/>。2人で共演したバレエ団はマリインスキー劇場バレエ団、ボストン・バレエ団、英国ロイヤルバレエ団、東京バレエ団など数多い<ref name="ピープル101-130-131"/>。息の合う2人の舞台を観ていたファンの中には、ファジェーチェフがアナニアシヴィリの配偶者だと信じている人さえいたほどであった<ref name="ピープル101-130-131"/>。ただし海野は2人の踊りの質がかなり異なっていることに言及し、アナニアシヴィリを「迫ってくるような踊り」、ファジェーチェフについては「スーツを着てネクタイを締めたように折り目正しい」と表現した<ref name="ピープル101-130-131"/>。 ファジェーチェフは女性ダンサーのサポートにも長けていた<ref name="ベスト66-80-81">[[#ベスト66|『バレエ・ビデオベスト66』、pp.80-81.]]</ref>。舞踊評論家の岩本真由美<ref>{{Cite web |和書|url=http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/387374.html |title=岩本 真由美 |publisher =webcat plus(国立情報学研究所) |accessdate=2023-12-07}}</ref>はアナニアシヴィリと踊るファジェーチェフについて「こんなパートナーを得られたら女冥利に尽きるというものだろう」との賛辞を送っている<ref name="ベスト66-80-81"/>。 == 振付家として == ファジェーチェフの振付家としての活動は、本国ロシアだけでなく世界各国に及んでいる<ref name="ポーランド国立バレエ団"/><ref name="新国立2023-9"/>。ボリショイ・バレエ団の他に、新国立劇場バレエ団、ジョージア国立バレエ団、ナポリ・サンカルロ歌劇場、ポーランド国立バレエ団などに招聘されて『ドン・キホーテ』、『白鳥の湖』などクラシック・バレエ諸作品の改訂演出および振付を手がけている<ref name="ポーランド国立バレエ団"/><ref name="新国立2023-9"/><ref>{{Cite web |和書|url=https://www1.gcenter-hyogo.jp/contents_parts/ConcertDetail.aspx?kid=4240811503&sid=0000000001 |title=ニーナ・アナニアシヴィリ&グルジア国立バレエニーナ、最後の「白鳥の湖」! |publisher =兵庫芸術文化センター |accessdate=2023-12-10}}</ref>。 1999年、ファジェーチェフはボリショイ・バレエ団で『ドン・キホーテ』を改訂上演したが、このときは批判的な声が上がっていた<ref name="オックスフォード427"/>。ファジェーチェフは同バレエ団で2016年に再度の改訂を行った<ref name="2016年5月号56-57"/>。基本的な構成は以前の版と変わらないものの、その上演では省かれていた[[ジーグ (音楽)|ジーグ]]を復活させた<ref name="2016年5月号56-57">[[#2016年5月号|『ダンスマガジン 2016年5月号』、pp.56-57.]]</ref>。舞台美術と衣装の一新を伴ったこの改訂演出は、ダンサーたちの好演も相まって好評で迎えられた<ref name="2016年5月号56-57"/>。舞踊評論家のアンナ・ゴルディーワは「多種多様なダンサーたちによるそれぞれの物語が情熱いっぱいに繰り広げられて、明らかになったこと。それはこのバレエがボリショイ劇場で今後百年、いや、その先もずっと、幸せに生き続けるということだ」と評している<ref name="2016年5月号56-57"/>。 ファジェーチェフ演出による『ドン・キホーテ』は、新国立劇場バレエ団のレパートリーにも入っている<ref name="新国立2023-9"/><ref name="美術展ナビ"/><ref name="新国立2023-14-15">[[#新国立2023|新国立劇場バレエ団『ドン・キホーテ 2023年公演リーフレット』、pp.14-15.]]</ref>。同バレエ団の初代芸術監督[[島田廣]]がファジェーチェフに改訂振付を委ね、1999年3月に新制作された<ref name="新国立2023-14-15"/>。ファジェーチェフは「[[マリウス・プティパ|プティパ]]の精神に忠実であろうと務めた」と初演時のプログラムで述べ、別の振付家が追加した振付を極力排除することによって「プティパへの回帰」を志向した<ref name="新国立2023-14-15"/>。 ファジェーチェフ版『ドン・キホーテ』は新国立劇場バレエ団のレパートリーとして定着し、通算の上演回数は2023年の時点で47回におよんでいる<ref name="新国立2023-14-15"/>。この作品は島田、[[牧阿佐美]]、[[デヴィッド・ビントレー]]、[[大原永子]]、そして[[吉田都]]に至る新国立劇場バレエ団歴代の芸術監督のもとで上演が続けられている<ref name="新国立2023-14-15"/>。『ドン・キホーテ』は同バレエ団の2023/2024シーズン幕開けとして上演され、初演時以来18年ぶりに同バレエ団の指導にあたったファジェーチェフにも観客から[[スタンディングオベーション]]が贈られている<ref name="美術展ナビ"/>。 == 主な出演(映像等) == * 『眠れる森の美女』(ボリショイ・バレエ団)1989年<ref name="ベスト66-カタログ">[[#ベスト66|『バレエ・ビデオベスト66』、バレエ・ビデオ全カタログ]]</ref>。 * 『アナニアシヴィリと世界のスターたち』(ニーナ・アナニアシヴィリのデビュー10周年記念公演)1991年<ref name="ベスト66-80-81"/>。 * 『白鳥の湖』(ニーナ・アナニアシヴィリとともにペルミ・バレエ団へのゲスト出演) 1992年<ref name="ベスト66-カタログ"/>。 * 『ドン・キホーテ』(ニーナ・アナニアシヴィリとともにペルミ・バレエ団へのゲスト出演) 1992年<ref name="ベスト66-32-33"/>。 * 『素顔のニーナ・アナニアシヴィリ』1997年<ref name="ベスト66-90-91">[[#ベスト66|『バレエ・ビデオベスト66』、pp.90-91.]]</ref>。 * ボリショイ・バレエ in シネマ「ドン・キホーテ」(振付のみ)<ref>{{Cite web |和書|url=https://eiga.com/movie/83393/ |title=ボリショイ・バレエ in シネマ「ドン・キホーテ」 |publisher =映画.com |accessdate=2023-12-10}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|colwidth=25em}} == 参考文献 == * {{Anchors|小倉}}[[小倉重夫]]編 『バレエ音楽百科』 [[音楽之友社]]、1997年。{{ISBN2|4-276-25031-5}} * {{Anchors|オックスフォード}}デブラ・クレイン、ジュディス・マックレル 『オックスフォード バレエダンス事典』 [[鈴木晶]]監訳、[[赤尾雄人]]・海野敏・長野由紀訳、[[平凡社]]、2010年。{{ISBN2|978-4-582-12522-1}} * {{Anchors|踊る男}}新藤弘子 『踊る男たち』 [[新書館]]、2008年。{{ISBN2|978-4-403-23110-0}} * {{Anchors|新国立2023}}新国立劇場バレエ団『ドン・キホーテ 2023年公演リーフレット』公益財団法人新国立劇場運営財団、2023年。 * {{Anchors|ベスト66}}ダンスマガジン編 『バレエ・ビデオベスト66』 新書館、2000年。{{ISBN2|4-403-32014-7}} * {{Anchors|ピープル101}}ダンスマガジン編 『バレエ・ピープル101』 新書館、1993年。{{ISBN2|978-4-403-23028-8}} * {{Anchors|2016年5月号}}ダンスマガジン 2016年5月号(第26巻第5号)、新書館、2016年。 == 外部リンク == * [https://www.chacott-jp.com/news/worldreport/tokyo/detail033559.html バルセロナの街の「楽天的な賑やかさ」とキトリとバジルの恋が色彩豊かに描かれた、新国立劇場バレエ団『ドン・キホーテ』] [[チャコット|Chacott]]ワールドレポート(東京)2023/11/10掲載 {{DEFAULTSORT:ふあしええちえふ あれくせい}} [[Category:1960年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:ロシアのバレエダンサー]] [[Category:バレエの振付家]] [[Category:バレエ指導者]] [[Category:モスクワ出身の人物]] [[Category:ロシア人民芸術家]]
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オジェギン大学
オジェギン大学(オジェギンだいがく、英: Ozyegin University、略称: OzU)は、トルコの首都イスタンブールにある私立総合大学。実業家財団のHüsnü Özyeğin Foundationにより設立された。キャンパスはイスタンブールのセクメコイに立地している。セクメコイ地区はイスタンブール近郊のユスキュダルから地下鉄(M5)で30-40分程度の距離にあり、自然豊かな環境となっている。 THE Young University Rankings 2023 では、251–300位にランクされている。 2007年にハーバード・ビジネス・スクール(HBS)出身の実業家フスヌ・オジェギンの財団によって、トルコの新しい私立大学としてイスタンブール市街地のアルトゥニザデに設立された。設立時には、ビジネスマン、教員、大学生・高校生を含む 500人以上の被験者を対象とした包括的調査をもとに、より近代的・革新的な構造、サービスセクター指向の教育プログラムが構想された。独創的かつ創造的な価値のある高等教育を提供し、起業家精神(アントレプレナーシップ)を持ち、トルコの産業発展およびグローバル社会に貢献することを掲げている。2013年に現在のイスタンブール郊外のセクメコイに新キャンパスとして移転した。 学生数は約3,000人程度(学部生・大学院生含む)で、[[英語]{で講義可能なプログラムを提供している。MBAプログラムも有し、設立時から起業家精神(アントレプレナーシップ)の育成を掲げ、2009年に起業家精神センター(Centre for Entrepreneurship)を設立、その翌年には「10,000人の女性起業家(10,000 Women Entrepreneurs)」プログラムを開始している。また、学術研究の強化として2017年にESラボ・イノベーション・センター(ES-lab Innovation Centre)を設立している。2022年のQSヨーロッパ&中央アジア(EECA)大学ランキングで200位にランクされている。
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オジェギン大学は、トルコの首都イスタンブールにある私立総合大学。実業家財団のHüsnü Özyeğin Foundationにより設立された。キャンパスはイスタンブールのセクメコイに立地している。セクメコイ地区はイスタンブール近郊のユスキュダルから地下鉄(M5)で30-40分程度の距離にあり、自然豊かな環境となっている。 THE Young University Rankings 2023 では、251–300位にランクされている。
{{出典の明記|date=2023年12月}} {{Infobox University |name = オジェギン大学 |native_name = Ozyegin University |image = Özyeğin University logo.svg |image_size = 200px |motto = To be the most-preferred, learner-centered entrepreneurial research university for all stakeholders. |established = 2009年 |type = 私立 |rector = Prof. Dr. Esra Gençtürk |location = Nisantepe District, Orman Street, Çekmeköy, イスタンブール 34794,トルコ |campus = セクメコイ キャンパス |website = [https://www.ozyegin.edu.tr/en www.ozyegin.edu.tr/en] }} [[File:Özyeğin University Campus.jpg |thumb|280px]] '''オジェギン大学'''(オジェギンだいがく、{{Lang-en-short|Ozyegin University}}、略称: '''OzU''')は、[[トルコ]]の首都[[イスタンブール]]にある私立総合大学。実業家財団のHüsnü Özyeğin Foundationにより設立された。キャンパスは[[イスタンブール]]の[[:EN: Çekmeköy |セクメコイ]]に立地している。セクメコイ地区はイスタンブール近郊の[[ユスキュダル]]から地下鉄(M5)で30-40分程度の距離にあり、自然豊かな環境となっている。 [[タイムズ・ハイアー・エデュケーション|THE]] Young University Rankings 2023 では、251–300位にランクされている。 == 歴史 == 2007年に[[ハーバード・ビジネス・スクール]](HBS)出身の実業家[[:EN:Hüsnü Özyeğin|フスヌ・オジェギン]](Hüsnü Özyeğin)の財団、Hüsnü Özyeğin Foundationによって、トルコの新しい私立大学としてイスタンブール市街地の[[:EN:Altunizade|アルトゥニザデ]]に設立された。設立時には、ビジネスマン、教員、大学生・高校生を含む 500人以上の被験者を対象とした包括的調査をもとに、より近代的・革新的な構造、サービスセクター指向の教育プログラムが構想された。独創的かつ創造的な価値のある高等教育を提供し、[[起業家]]精神(アントレプレナーシップ)を持ち、トルコの産業発展およびグローバル社会に貢献することを掲げている。2013年に現在のイスタンブール郊外の[[:EN: Çekmeköy |セクメコイ]]に新キャンパスとして移転した。 == 学部 == *経営学部([[経営学修士|MBA]]の大学院プログラム有) *工学部 *建築・デザイン学部 *航空科学部 *応用科学部 *法学部 *社会学部 学生数は約3,000人程度(学部生・大学院生含む)で、[[英語]]で講義可能なプログラムを提供している。[[経営学修士|MBA]]プログラムも有し、設立時から[[起業家]]精神(アントレプレナーシップ)の育成を掲げ、2009年に起業家精神センター(Centre for Entrepreneurship)を設立、その翌年には「10,000人の女性起業家(10,000 Women Entrepreneurs)」プログラムを開始している。また、学術研究の強化として2017年にESラボ・イノベーション・センター(ES-lab Innovation Centre)を設立している。2022年の[[:EN: Quacquarelli Symonds |QS]]ヨーロッパ&中央アジア(EECA)大学ランキングで200位にランクされている。 == 日本の学生交流協定校 == *[[横浜国立大学]] *[[立命館アジア太平洋大学]] *[[大阪工業大学]] == 外部リンク == *[https://www.ozyegin.edu.tr/en 公式サイト] {{デフォルトソート:おしえきんたいかく}} [[Category:トルコの大学]] [[Category:トルコの教育]] [[Category:イスタンブールの建築物]] [[Category:私立大学]] [[Category:学校記事]] {{Turkey-stub}}
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松本長兵衛
松本 長兵衛(まつもと ちょうべえ、1896年〈明治29年〉11月23日 - 1978年〈昭和53年〉8月2日)は、日本の政治家。元山形県上山市長(2期)。 山形県南村山郡上山町出身。東京帝国大学農学部卒業。 1931年に上山町議会議員に初当選。1946年からは、上山町議会議長を務めた。 1947年に上山町長に就任。上山市制施行まで職務を務め、新制中学校の建設整備や、都市計画道路の新設などに尽力した。また、山形県の町村合併審議会会長をつとめ、合併の推進役を担った。山形県町村会長、全国町村会副会長なども務めた。 1954年10月の上山市長選挙に日本社会党公認で出馬し、高橋熊次郎と一騎打ちとなるが、約7,100票の差をつけられて落選。 1958年9月に上山市長選に出馬し、鈴木行男(遠藤利明の叔父)との一騎打ちを制して初当選。 1962年9月の市長選では、元市議会議長の永田亀之助(永田亀昭の父)との一騎打ちを制して2選。 1966年に市長を引退。 1974年に斎藤茂吉記念館館長に就任。 1978年に死去した。 市長就任挨拶にて、市政の基本的な考え方を「他からの力に支配されることのない、正しく明るい市政を公平に行うこと」とした。 また、市長就任時は、赤字財政の立て直しが課題となっており、その解消を図った。その一方で、上山中学校や宮川中学校の建設、上水道の拡張、公衆浴場の改築などの設備投資を行った。 1964年に市制10周年を迎え、上山小学校南体育館での記念式典、祝賀鼓笛パレード、市内一周駅伝競走、市民憲章の制定、市内各小学校に月桂樹の記念植樹、冊子「かみのやま十年のあゆみ」全戸配布などを実施した。
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松本 長兵衛は、日本の政治家。元山形県上山市長(2期)。
{{政治家 | 国略称 = {{JPN}} | 人名 = 松本 長兵衛 | 各国語表記 = まつもと ちょうべえ | 出生地 = {{JPN}}[[山形県]][[上山市]] | 生年月日 = [[1896年]][[11月23日]] | 没年月日 = [[1978年]][[8月2日]](81歳没) | 職名 = [[ファイル:Flag of Kaminoyama Yamagata.svg|25px|上山市旗]] [[上山市|上山市長]] | 当選回数 = 2回 | 就任日 = [[1958年]][[9月17日]] | 退任日 = [[1966年]][[9月15日]] | 画像 = 上山市長 松本長兵衛.jpg | 画像説明 = 上山市体育協会誌60年のあゆみ | 出身校 = 東京帝国大学農学部 }} '''松本 長兵衛'''(まつもと ちょうべえ、[[1896年]]〈明治29年〉[[11月23日]]<ref name=歴代>『全国歴代知事・市長総覧』51頁。</ref> - {{要出典|[[1978年]]〈昭和53年〉[[8月2日]]|date=2023年12月21日 (木) 11:12 (UTC)}}<ref group="注">『全国歴代知事・市長総覧』51頁には「没年不詳」。</ref>)は、[[日本]]の[[政治家]]。元[[山形県]][[上山市]]長(2期)。 == 来歴 == [[山形県]][[南村山郡]][[上山町 (山形県)|上山町]]出身。[[東京大学|東京帝国大学]]農学部卒業。<ref>上山市報(昭和33年9月20日号)</ref> [[1931年]]に上山町議会議員に初当選。[[1946年]]からは、上山町議会議長を務めた。 [[1947年]]に上山町長に就任。上山[[市制]]施行まで職務を務め、新制中学校の建設整備や、都市計画道路の新設などに尽力した。また、山形県の町村合併審議会会長をつとめ、合併の推進役を担った。山形県町村会長、全国町村会副会長なども務めた。 [[1954年]]10月の上山市長選挙に[[日本社会党]]公認で出馬し、[[高橋熊次郎]]と一騎打ちとなるが、約7,100票の差をつけられて落選<ref>{{Cite book|和書 |title=令和2年度~令和4年度 選挙の記録 |date=令和5年9月 |publisher=自治体出版 |page=60 |author=上山市選挙管理委員会}}</ref>。 [[1958年]]9月に上山市長選に出馬し、[[鈴木行男]]([[遠藤利明]]の叔父)との一騎打ちを制して初当選。 [[1962年]]9月の市長選では、元市議会議長の永田亀之助([[永田亀昭]]の父)との一騎打ちを制して2選。 [[1966年]]に市長を引退。 [[1974年]]に[[斎藤茂吉記念館]]館長に就任。 [[1978年]]に死去した。 == 政策 == 市長就任挨拶にて、市政の基本的な考え方を「他からの力に支配されることのない、正しく明るい市政を公平に行うこと」とした。 また、市長就任時は、赤字財政の立て直しが課題となっており、その解消を図った。その一方で、上山中学校や宮川中学校の建設、上水道の拡張、公衆浴場の改築などの設備投資を行った。 [[1964年]]に市制10周年を迎え、上山小学校南体育館での記念式典、祝賀鼓笛パレード、市内一周駅伝競走、市民憲章の制定、市内各小学校に月桂樹の記念植樹、冊子「かみのやま十年のあゆみ」全戸配布などを実施した。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == *『全国歴代知事・市長総覧』[[日外アソシエーツ]]、2022年。 {{上山市長}} {{DEFAULTSORT:まつもと ちようへえ}} [[Category:上山市長]] [[Category:上山市議会議員|町まつもと ちようへえ]] [[Category:日本社会党の人物]] [[Category:東京大学出身の人物]] [[Category:山形県出身の人物]] [[Category:1896年生]] [[Category:1978年没]]
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ラストマイル
『ラストマイル』は、2024年に公開予定の日本映画。監督は塚原あゆ子、脚本は野木亜紀子、主演は満島ひかり。 ブラックマンデーの前夜にショッピングサイトの関東センターで発生した爆発事件を巡り、センター長とチームマネージャーが荷物を運ぶベルトコンベアーを止めずに未曽有の事態の収拾にあたる。決して止めることができない世界に張り巡らされた血管を止めずに連続爆破を止めることができるのか。ネットや流通システムの隠れた姿を映し出すノンストップ・サスペンスエンタテインメント。 本作は監督の塚原と脚本の野木がタッグを組んだテレビドラマ『アンナチュラル』と『MIU404』の世界線が交差するシェアード・ユニバース作品となっている。タイトルの「ラストマイル」(ラストワンマイルともいう)とは最終拠点からエンドユーザーへの物流サービスのことを指し、客へ荷物を届ける最後の区間を意味する。
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『ラストマイル』は、2024年に公開予定の日本映画。監督は塚原あゆ子、脚本は野木亜紀子、主演は満島ひかり。
{{公開前の映画|date=2023年12月}} {{Infobox Film | 作品名 = ラストマイル | 原題 = | 画像 = | 画像サイズ = | 画像解説 = | 監督 = [[塚原あゆ子]] | 脚本 = [[野木亜紀子]] | 原案 = | 原作 = | 製作 = | 製作総指揮 = | ナレーター = | 出演者 = [[満島ひかり]]<br />[[岡田将生]] | 音楽 = | 主題歌 = | 撮影 = | 編集 = | 制作会社 = [[TBSスパークル]] | 製作会社 = | 配給 = [[東宝]] | 公開 = [[2024年]](予定) | 上映時間 = | 製作国 = {{JPN}} | 言語 = [[日本語]] | 製作費 = | 興行収入 = | 配給収入 = | 前作 = | 次作 = }} 『'''ラストマイル'''』は、[[2024年]]<!-- 月日 -->に公開予定の[[日本映画]]<ref name=today0140454>{{Cite news2|title=満島ひかり&岡田将生「アンナチュラル」「MIU404」の世界線と交差する新作映画で共演! 『ラストマイル』来夏公開|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0140454|newspaper=[[シネマトゥデイ]]|date=2023-12-11|accessdate=2023-12-11}}</ref><ref name=cafe89026>{{Cite news2|title=満島ひかり×岡田将生共演!「アンナチュラル」「MIU404」と同じ世界線上のシェアード・ユニバース『ラストマイル』来夏公開|url=https://www.cinemacafe.net/article/2023/12/11/89026.html|newspaper=シネマカフェ|publisher=[[イード (企業)|イード]]|date=2023-12-11|accessdate=2023-12-11}}</ref>。監督は[[塚原あゆ子]]、脚本は[[野木亜紀子]]、主演は[[満島ひかり]]{{R|today0140454|cafe89026}}。 == 製作 == [[ブラックフライデー (買い物)|ブラックフライデー]]の前夜にショッピングサイトの関東センターで発生した爆発事件を巡り、センター長とチームマネージャーが荷物を運ぶベルトコンベアーを止めずに未曽有の事態の収拾にあたる。決して止めることができない世界に張り巡らされた血管を止めずに連続爆破を止めることができるのか。ネットや流通システムの隠れた姿を映し出すノンストップ・サスペンスエンタテインメント{{R|today0140454|cafe89026}}。 本作は監督の塚原と脚本の野木がタッグを組んだテレビドラマ『[[アンナチュラル]]』と『[[MIU404]]』の世界線が交差する[[シェアード・ワールド|シェアード・ユニバース]]作品となっている{{R|today0140454|cafe89026}}。タイトルの「ラストマイル」([[ラストワンマイル (運輸)|ラストワンマイル]]ともいう)とは最終拠点からエンドユーザーへの物流サービスのことを指し、客へ荷物を届ける最後の区間を意味する<ref>{{Cite web2|title=ラストワンマイル|url=https://www.daiwabutsuryu.co.jp/useful/words/last-1-mile|work=用語集|publisher=[[大和物流]]|accessdate=2023-12-11}}</ref>。 == 登場人物 == ; 舟渡エレナ(ふなど えれな) : 演 - [[満島ひかり]] : 本作の主人公。ショッピングサイトの関東センター長。 ; 梨本孔(なしもと こう) : 演 - [[岡田将生]]{{R|today0140454|cafe89026}} : 関東センターのチームマネージャー。  == スタッフ == * 監督 - [[塚原あゆ子]] * 脚本 - [[野木亜紀子]] * 配給 - [[東宝]]<ref name=toho>{{Cite web2|title=『ラストマイル』ティザー映像|url=https://www.youtube.com/watch?v=NOku8_2aSTM|work=東宝MOVIEチャンネル|publisher=YouTube|accessdate=2023-12-11}}</ref> * 制作 - [[TBSスパークル]]{{R|toho}} * 製作 - 『ラストマイル』製作委員会 == 脚注 == === 注釈 === {{Reflist|group=注釈}} === 出典 === {{Reflist|20em}} == 外部リンク == * [https://last-mile-movie.jp/ 映画『ラストマイル』公式サイト] ** {{Twitter|last_mile_movie|映画『ラストマイル』公式}} ** {{Instagram|last_mile_movie|映画『ラストマイル』公式}} {{movie-stub}} {{DEFAULTSORT:らすとまいる}} [[Category:2024年の映画]] [[Category:日本のサスペンス映画]] [[Category:TBSスパークル製作の映画]] [[Category:野木亜紀子の脚本映画]] [[Category:企業を舞台とした映画作品]] [[Category:貨物輸送]] [[Category:物流]]
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エゴロック
エゴロックは、2018年9月7日にすりぃによりボーカルに音声合成ソフト鏡音リン・レンを用いてインターネット上で発表された楽曲。 2023年12月現在、4種類のバージョン(ショートバージョン、long.ver、OFFICIAL、すりぃver.)が投稿されており、Ado、和楽器バンドなど数多くのアーティストがカバーしている。 『プロジェクトセカイ』の楽曲として追加されている。 また、Collageというミニアルバムに、空中分解 long ver.、オルタナティブ・ブルーと一緒に収録されている。HEAUTOSCOPYというセルフカバーアルバムに収録されている。
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{{特筆性|音楽|date=2023年12月21日 (木) 03:46 (UTC)}} '''エゴロック'''は、2018年9月7日に[[すりぃ]]によりボーカルに[[音声合成]]ソフト[[鏡音リン・レン]]を用いてインターネット上で発表された楽曲<ref name="natalie210907">{{Cite web |和書|title=すりぃ、ちょうど3年前に発表した「エゴロック」ロングバージョンを本日配信(動画あり / コメントあり) |url=https://natalie.mu/music/news/444225 |website=音楽ナタリー |access-date=2023-12-11 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。 == 概要 == 2023年12月現在、4種類のバージョン(ショートバージョン、long.ver、OFFICIAL、すりぃver.)が投稿されており、[[Ado]]、[[和楽器バンド]]など数多くのアーティストがカバーしている。 『[[プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク]]』の楽曲として追加されている。 また、Collageというミニアルバムに、空中分解 long ver.、オルタナティブ・ブルーと一緒に収録されている。HEAUTOSCOPYというセルフカバーアルバムに収録されている。 ==脚注== {{Reflist}} == 外部リンク == <!-- * すりぃ - ボカコレ公式 * 公式ウェブサイト * すりぃ - [[ピアプロ]] * すりぃ (@iii0303_8) - [[Twitter]] * すりぃ (@iii0303iii3) - [[Instagram]] * すりぃ (@iii0303iii) - [[TikTok]] * すりぃOFFICIAL - [[YouTube]]チャンネル ** 音楽 - [[YouTube]]プレイリスト ** 本人が歌った - [[YouTube]]プレイリスト * すりぃ - [[ニコニコ動画]]ユーザーページ * すりぃ - [[Apple Music]] * すりぃ - [[Spotify]] * すりぃ - [[レコチョク]] * すりぃ - [[TOWER RECORDS MUSIC]] * すりぃ - [[mora]] * すりぃ - [[LINE MUSIC]] * すりぃ - [[AWA (音楽配信)|AWA]] * すりぃ - [[Last.fm]] * すりぃ - [[OTOTOY]] * すりぃ - [[オリコン]] * エゴロック-[https://www.youtube.com/watch?v=zi7-jk4LdX0 long.ver] * エゴロック-[https://www.youtube.com/watch?v=pAgnrvo-hb4 OFFICIAL] * エゴロック-[https://www.youtube.com/watch?v=Cln3nedOIvg 本人が歌った] --> * [https://www.youtube.com/watch?v=zi7-jk4LdX0 『エゴロック long.ver』feat.鏡音レン] - [[YouTube]] {{Song-stub}} {{DEFAULTSORT:えころつく}} [[Category:VOCALOIDを用いている楽曲]] [[Category:2018年の楽曲]] [[Category:楽曲 え|えころつく]]
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サリエル・ベレディイェスポル
サリエル・ベレディイェスポル・スポーツクラブ(Sarıyer Belediyesi Spor Kulübü)はトルコのイスタンブールサリエルを本拠地とするスポーツクラブチームである。2023/24シーズンはトルコ女子バレーボールリーグ1部に所属している。 1990年設立。バレーボール部門の他にサッカー、バスケットボールなどのスポーツにもクラブがある。2009年にサリエル市の市長に選出されたシュクル・ゲンチ氏の支援を受けて地域カテゴリーへのリーグ参戦を果たし、2012/13シーズンにトルコ女子バレーボールリーグの1部に昇格。初年度は8位の成績を残した。2014/15シーズンのトルコリーグではレギュラーラウンドを10勝12敗の7位で通過しプレーオフへ進出し、最終順位は8位となった。2015/16シーズンはレギュラーラウンドを11勝11敗でプレーオフへ進出し、過去最高順位の7位で終えた。2016/17シーズンはトルコカップで5位に入ったが、レギュラーラウンドで最下位に沈み、プレーアウトで11位となった。その後、2017/18~2019/20にかけての3シーズンは2部のVoleybol 1. Ligiでリーグを戦い、2020/21シーズンに再び1部へ昇格。2021/22シーズンはレギュラーラウンドを7勝19敗で11位となった。2022/23シーズンはレギュラーラウンドを14勝12敗と勝ち越し、リーグを8位で終えた。 2023-24年シーズンの登録選手は次の通り。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "サリエル・ベレディイェスポル・スポーツクラブ(Sarıyer Belediyesi Spor Kulübü)はトルコのイスタンブールサリエルを本拠地とするスポーツクラブチームである。2023/24シーズンはトルコ女子バレーボールリーグ1部に所属している。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1990年設立。バレーボール部門の他にサッカー、バスケットボールなどのスポーツにもクラブがある。2009年にサリエル市の市長に選出されたシュクル・ゲンチ氏の支援を受けて地域カテゴリーへのリーグ参戦を果たし、2012/13シーズンにトルコ女子バレーボールリーグの1部に昇格。初年度は8位の成績を残した。2014/15シーズンのトルコリーグではレギュラーラウンドを10勝12敗の7位で通過しプレーオフへ進出し、最終順位は8位となった。2015/16シーズンはレギュラーラウンドを11勝11敗でプレーオフへ進出し、過去最高順位の7位で終えた。2016/17シーズンはトルコカップで5位に入ったが、レギュラーラウンドで最下位に沈み、プレーアウトで11位となった。その後、2017/18~2019/20にかけての3シーズンは2部のVoleybol 1. Ligiでリーグを戦い、2020/21シーズンに再び1部へ昇格。2021/22シーズンはレギュラーラウンドを7勝19敗で11位となった。2022/23シーズンはレギュラーラウンドを14勝12敗と勝ち越し、リーグを8位で終えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "2023-24年シーズンの登録選手は次の通り。", "title": "登録選手" } ]
サリエル・ベレディイェスポル・スポーツクラブはトルコのイスタンブールサリエルを本拠地とするスポーツクラブチームである。2023/24シーズンはトルコ女子バレーボールリーグ1部に所属している。
{{バレーボールチーム |チーム名=サリエル・ベレディイェスポル・スポーツクラブ |原語表記= |総称=Sarıyer Belediyesi Spor Kulübü |ホームタウン={{Flagicon|TUR}} [[イスタンブール]] |クラブカラー=白、青 |創設年=1990年 |所属リーグ=[[トルコ女子バレーボールリーグ]] |代表者={{Flagicon|TUR}} Hayrettin Dereli |監督={{Flagicon|TUR}} Hasan Çelik |ホームアリーナ=イスタンブール大学森林学部スポーツ施設 |ホームページ=[https://sariyer.bel.tr/ 公式サイト] }} '''サリエル・ベレディイェスポル・スポーツクラブ'''(Sarıyer Belediyesi Spor Kulübü)は、[[トルコ]]の[[イスタンブール]]サリエルを本拠地とするスポーツクラブチームである。2023/24シーズンは[[トルコ女子バレーボールリーグ]]1部に所属している。 ==歴史== 1990年設立。バレーボール部門の他にサッカー、バスケットボールなどのスポーツにもクラブがある<ref>{{Cite web |url=https://tffistanbul.org/kulup/sariyer-belediyesi/412/2018-2019/22/u16-a/9 |title=SARIYER BELEDİYESİ |accessdate=2023-12-11 |date=2023-12-10}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.tbf.org.tr/ligler/12768/takim-detay/77918/genel-bakis |title=SARIYER BELEDİYESİ |accessdate=2023-12-11 |date=2023-12-10}}</ref>。2009年にサリエル市の市長に選出されたシュクル・ゲンチ氏の支援を受けて地域カテゴリーへのリーグ参戦を果たし、2012/13シーズンに[[トルコ女子バレーボールリーグ]]の1部に昇格。初年度は8位の成績を残した。2014/15シーズンのトルコリーグではレギュラーラウンドを10勝12敗の7位で通過しプレーオフへ進出し<ref>{{Cite web |url=https://tvf-web.dataproject.com/CompetitionStandings.aspx?ID=10&PID=17 |title=2014-2015 Bayanlar I.Etap Müsabakaları |accessdate=2023-12-11 |date=2015-05-03}}</ref>、最終順位は8位となった。2015/16シーズンはレギュラーラウンドを11勝11敗でプレーオフへ進出し、過去最高順位の7位で終えた。2016/17シーズンはトルコカップで5位に入ったが、レギュラーラウンドで最下位に沈み、プレーアウトで11位となった。その後、2017/18~2019/20にかけての3シーズンは2部のVoleybol 1. Ligiでリーグを戦い、2020/21シーズンに再び1部へ昇格。2021/22シーズンはレギュラーラウンドを7勝19敗で11位となった。2022/23シーズンはレギュラーラウンドを14勝12敗と勝ち越し<ref>{{Cite web |url=https://tvf-web.dataproject.com/CompetitionHome.aspx?ID=74 |title=2022-2023 Misli.com Sultanlar Ligi |accessdate=2023-12-11 |date=2023-05-02}}</ref>、リーグを8位で終えた。 == 主な成績 == ; {{Flagicon|TUR}} トルコリーグ * 2015/16シーズン - 7位 * 2012/13、2014/15、2022/23シーズン - 8位 ; {{Flagicon|TUR}} トルコカップ * 2017年 - 5位 * 2023年 - 7位 == 登録選手 == 2023-24年シーズンの登録選手は次の通り。 {{バレーボールのポジション}} {| style="background-color:#FFFFFF; font-size: 95%; border: gray solid 1px; border-collapse: collapse;" cellpadding="3" cellspacing="0" border="1" !背番号!!国籍/名前!!ポジション!!身長!!備考 |- |align=center|1 |{{flagicon|TUR}} Simay Kurt |リベロ |align=center|1.73 | |- |align=center|4 |{{flagicon|TUR}} Işıl Öz |リベロ |align=center|1.76 | |- |align=center|5 |{{flagicon|TUR}} Merve Nezir |アウトサイドヒッター |align=center|1.85 | |- |align=center|6 |{{flagicon|TUR}} Ceylan Arısan |ミドルブロッカー |align=center|1.90 | |- |align=center|7 |{{flagicon|TUR}} Aslı Tecimer |アウトサイドヒッター |align=center|1.80 | |- |align=center|8 |{{flagicon|GER}} [[キンバリー・ドレフニオク]] |オポジット |align=center|1.88 | |- |align=center|9 |{{flagicon|TUR}} Gizem Mısra Aşçı |セッター |align=center|1.80 |- |align=center|10 |{{flagicon|TUR}} Merve Tanıl |セッター |align=center|1.79 |'''キャプテン''' |- |align=center|12 |{{flagicon|TUR}} Aleyna Vence |ミドルブロッカー |align=center|1.84 | |- |align=center|17 |{{flagicon|TUR}} Begüm Hepkaptan |ミドルブロッカー |align=center|1.82 | |- |align=center|22 |{{flagicon|USA}} [[シモーン・リー]] |アウトサイドヒッター |align=center|1.88 | |- |align=center|24 |{{flagicon|TUR}} Çağla Erdem |オポジット |align=center|1.88 | |- |align=center|44 |{{flagicon|TUR}} Karmen Aksoy |ミドルブロッカー |align=center|1.92 | |- |align=center|71 |{{flagicon|RUS}} Yaroslava Simonenko |アウトサイドヒッター |align=center|1.90 | |- |} == 主な歴代所属選手 == {{Col-begin}} {{Col-2}} * {{Flagicon|TUR}} [[エスラ・ギュムシュ]] * {{Flagicon|TUR}} [[ビュスラ・ジャンス]] * {{Flagicon|TUR}} [[ギョズテ・ユルマズ]] * {{Flagicon|TUR}} [[オズゲ・ユルトダギュレン]] * {{Flagicon|TUR}} [[ベイザ・アルジュ]] * {{Flagicon|TUR}} [[ハンデ・バラドゥン]] * {{Flagicon|BRA}} [[ラケル・シルバ]] * {{Flagicon|USA}} [[リーガン・フッド]] * {{Flagicon|USA}} [[ニコル・フォーセット]] * {{Flagicon|USA}} [[アレクシス・クライムズ]] * {{Flagicon|DOM}} [[プリシージャ・リベラ]] * {{Flagicon|PUR}} [[アウレア・クルス]] {{Col-2}} * {{Flagicon|CUB}} [[ヤイマ・オルティス]] * {{Flagicon|CUB}} [[ユシディ・シリエ]] * {{Flagicon|SRB}} [[イバナ・ジェリシロ]] * {{Flagicon|SRB}} [[アレクサンドラ・ツルンチェヴィッチ]] * {{Flagicon|SRB}} [[ティヤナ・マレセビッチ]] * {{Flagicon|BUL}} [[エヴァ・ヤネヴァ]] * {{Flagicon|BEL}} [[ドミニカ・ストルミロ]] * {{Flagicon|CRO}} [[ミラ・トピッチ]] * {{Flagicon|AZE}} [[アイシャン・アブドゥラジモワ]] * {{Flagicon|THA}} [[アチャラポーン・コンヨット]] * {{Flagicon|THA}} [[チャッチュオン・モクシー]] * {{Flagicon|KEN}} [[ブラックサイデス・カダンビ]] {{Col-end}} == 脚注 == {{Reflist}} ==外部リンク== * [https://www.instagram.com/sariyerbelediyespor/ 公式インスタグラム] {{トルコリーグ2011-2012wv}} {{DEFAULTSORT:さりえる へれていいえすほる}} [[Category:トルコの女子バレーボールクラブ]] [[Category:トルコのバレーボールクラブ]] [[Category:女子バレーボールチーム]] [[Category:イスタンブールのスポーツチーム]] [[Category:1990年設立のスポーツチーム]]
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石河信一
石河 信一(いしかわ しんいち)は、日本の国土交通技官。東京都建設局道路監や、東京都知事本部技監、雪センター理事長などを歴任した。全日本建設技術協会谷口功労賞受賞。 東京都出身。1967年東京大学卒業。東京大学運動会ラグビー部出身。1970年東京大学大学院工学系研究科修了、建設省入省。1993年建設省関東地方建設局道路部長。1994年建設省関東地方建設局企画部長。1996年建設省建設経済局技術調査官、土木学会評議員。1997年東京都入庁、建設局再開発部長。1998年東京都建設局道路建設部長。1999年東京都建設局道路監。2001年東京都多摩都市整備本部長。2002年東京都知事本部技監兼建設局理事(多摩ニュータウン事業担当)。2003年全日本建設技術協会谷口功労賞受賞。同年国土交通省大臣官房付、退官。2017年雪センター理事長。
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石河 信一は、日本の国土交通技官。東京都建設局道路監や、東京都知事本部技監、雪センター理事長などを歴任した。全日本建設技術協会谷口功労賞受賞。
'''石河 信一'''(いしかわ しんいち)は、[[日本]]の[[国土交通省|国土交通]][[技官]]。[[東京都建設局]]道路監や、[[東京都知事本部]][[技監]]、[[雪センター]][[理事長]]などを歴任した。[[全日本建設技術協会]]谷口功労賞受賞。 == 人物・経歴 == [[東京都]]出身。1967年[[東京大学]]卒業。[[東京大学運動会ラグビー部]]出身<ref>[https://www.turfc.com/topics_detail/id=676 OB総会が行なわれました]東京大学運動会ラグビー部</ref>。1970年[[東京大学大学院工学系研究科]]修了、[[建設省]]入省。1993年建設省[[関東地方建設局]]道路部長。1994年建設省関東地方建設局企画部長。1996年建設省建設経済局技術調査官、[[土木学会]][[評議員]]。1997年東京都入庁、建設局再開発部長。1998年[[東京都建設局]]道路建設部長。1999年東京都建設局道路監。2001年東京都多摩都市整備本部長。2002年[[東京都知事本部]][[技監]]兼建設局[[理事]]([[多摩ニュータウン]]事業担当)。2003年[[全日本建設技術協会]]谷口功労賞受賞。同年[[国土交通省大臣官房]]付、[[退官]]。2017年[[雪センター]][[理事長]]<ref>[https://www.jsce.or.jp/library/jsce_history/90/90-3_full.pdf 1996 年度土木学会役員名簿]</ref><ref>[http://www.yukicenter.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2017_jigyouh.pdf 平成29年度事業報告書]日本雪センター</ref><ref>[https://www.zenken.com/sokuhou/h15/sokuho221/so221_05.html 平成14年度 谷口功労賞(40名)]全建速報No.221平成15年6月2日</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} {{先代次代|東京都道路建設部長|1998年 - 1999年|[[古川公毅]]|[[小峰良介]]}} {{先代次代|東京都道路監|1999年 - 2001年|[[古川公毅]]|[[小峰良介]]}} {{先代次代|東京都多摩都市整備本部長|2001年 - 2002年|[[田原和道]]|廃止}} {{先代次代|日本雪センター理事長|2017年 - 2022年|[[酒井孝]]|[[吉崎収]]}} {{DEFAULTSORT:いしかわ しんいち}} [[Category:東京都庁職員]] [[Category:日本の国土交通技官]] [[Category:技監]] [[Category:工学修士取得者]] [[Category:工学士取得者]] [[Category:東京大学出身の人物]] [[Category:東京都出身の人物]]
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大久保朋果
大久保 朋果(おおくぼ ともか、1971年〈昭和46年〉8月 - )は、日本の政治家。元地方公共団体職員(東京都)。東京都出身。江東区長(1期)。 東京都立三田高等学校、早稲田大学第一文学部卒業。 1995年、大学卒業と共に東京都庁に入職。入職後は主に保健・衛生・福祉関連の業務に就くことが多く、福祉局監理指導課主任、福祉保健局障害者施策推進部療育係長(東部療育センター所管)、知事本局計画調整部課長補佐、都立駒込病院医事課長、同庶務課長、政策企画局政策担当課長、福祉保健局生活福祉部統括課長、公益財団法人東京都福祉保健財団事務局長、政策企画局政策担当部長を歴任。 2023年11月、前区長が選挙違反問題にて辞職した東京都江東区の区長選挙への出馬を要請される。この件に関して東京都知事たる小池百合子に相談し、出馬を決意した。 同年12月10日執行の「江東区長選挙」では5万7,029票を獲得して初当選を果たした。一夜明けの11日に区役所に初登庁した。
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大久保 朋果は、日本の政治家。元地方公共団体職員(東京都)。東京都出身。江東区長(1期)。
{{政治家 |人名 = 大久保 朋果 |各国語表記 = おおくぼ ともか |画像 = |画像サイズ = |画像説明 = |国略称 = {{JPN}} |生年月日 = {{生年月日と年齢|1971|8|}} |出生地 = [[東京都]] |没年月日 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}} --> |死没地 = |出身校 = [[早稲田大学第一文学部]] |前職 = 東京都職員<br />([[東京都政策企画局|政策企画室政策担当部長]]) |現職 = |所属政党 = 無所属 |称号・勲章 = |配偶者 = 既婚 |子女 = |親族(政治家) = |宗教 = |サイン = |ウェブサイト = https://okubo-tomoka.jp/ |サイトタイトル = 大久保ともか(江東区長候補)オフィシャルサイト |国旗 = JPN |職名 = [[江東区|江東区長]] |内閣 = |選挙区 = |当選回数 = 1 |就任日 = 2023年12月 |退任日 = |元首職 = |元首 = |任命権者等職 = |任命権者等 = <!-- ↓省略可↓ --> |国旗2 = |職名2 = |内閣2 = |選挙区2 = |当選回数2 = |就任日2 = |退任日2 = |元首職2 = |元首2 = |任命権者等職2 = |任命権者等2 = }} '''大久保 朋果'''(おおくぼ ともか、1971年〈[[昭和]]46年〉8月 - )は、日本の政治家<ref name=":0">[https://www.jiji.com/jc/article?k=2023121000455&g=pol 小池知事支援の大久保氏初当選 元都部長、自公国も推薦―東京都江東区長選] - 時事ドットコム 2023年12月10日</ref>。元[[地方公共団体]]職員([[東京都]])。東京都出身<ref name=":4">[https://go2senkyo.com/articles/2023/12/05/89644.html 江東区長選挙に立候補。大久保 朋果(おおくぼ・ともか)氏の経歴・政策まとめ] - 選挙ドットコム(2023年12月5日)</ref>。江東区長(1期)<ref name=":0" />。 == 略歴 == [[東京都立三田高等学校]]、[[早稲田大学第一文学部]]卒業<ref name=":4" />。 1995年、大学卒業と共に[[東京都庁]]に入職。入職後は主に保健・衛生・福祉関連の業務に就くことが多く<ref name="prof">[https://okubo-tomoka.jp/#profile プロフィール] 大久保朋果公式サイト</ref>、福祉局監理指導課主任、福祉保健局障害者施策推進部療育係長(東部療育センター所管)、知事本局計画調整部課長補佐、都立駒込病院医事課長、同庶務課長、政策企画局政策担当課長、福祉保健局生活福祉部統括課長、公益財団法人東京都福祉保健財団事務局長、政策企画局政策担当部長を歴任<ref name="prof"/><ref name=":4"/>。 === 江東区長選挙 === 2023年11月、前区長が選挙違反問題にて辞職した東京都[[江東区]]の区長選挙への出馬を要請される。この件に関して[[東京都知事]]たる[[小池百合子]]に相談し、出馬を決意した<ref>[https://www.sankei.com/article/20231121-46TEEQOHEBLGLG6F74T5IQLBDY/ 東京・江東区長選の構図固まる 自民と都民ファ共闘 元都部長の大久保朋果氏が出馬表明] 産経新聞 2023年11月21日</ref>。 同年12月10日執行の「[[2023年江東区長選挙#第16回選挙(2023年12月)|江東区長選挙]]」では5万7,029票を獲得して初当選を果たした<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASRDB3SCWRD6OXIE00Q.html 江東区長選、元都部長の大久保朋果氏初当選 「政治の信頼回復」焦点] 朝日新聞 2023年12月10日</ref>。一夜明けの11日に区役所に初登庁した<ref>{{Cite web |title=江東区長選挙当選から一夜明け初登庁 大久保朋果新区長「区民の信頼取り戻す」|TOKYO MX+(プラス) |url=https://s.mxtv.jp/tokyomxplus/mx/article/202312121110/ |website=TOKYO MX + |access-date=2023-12-12|date=2023-12-12 |language=ja}}</ref>。 == 人物 == * 両親共に教職に就いていた人物(父:小学校教員、母:幼稚園教諭)であったため、児童福祉の分野に関心を持っていた。自身も小学校社会科教員免許保持者である<ref name="Tokyo-np-20231211">[https://www.tokyo-np.co.jp/article/295290 江東区長選で初当選 大久保朋果さんってどんな人? 都で長く障害者福祉を担当 フラダンスも] 東京新聞 2023年12月11日付</ref>。 * 自身の長女から「若い世代は素直に子供を産みたいと思えるような時代じゃない」という言葉を言われ、そのことにショックを受けて政治家転身を考えるようになったと云う<ref name="Tokyo-np-20231211"/>。 == 脚注 == {{Reflist|2}} == 外部リンク == * [https://okubo-tomoka.jp/ 大久保ともか(江東区長候補)オフィシャルサイト] * [https://twitter.com/okubo_tomoka 大久保ともか(江東区長候補)](@okubo_tomoka) - Twitter {{S-start}} {{s-off}} {{succession box | title = [[ファイル:Flag of Koto, Tokyo.svg|25px|江東区旗]][[東京都]][[江東区|江東区長]] | before = [[木村弥生]] | years = 2023年 - | after = }} {{End}} {{江東区長}} {{東京都の市区町村長}} {{DEFAULTSORT:おおくほ ともか}} [[Category:江東区長]] [[Category:東京都の女性特別区長]] [[Category:東京都庁職員]] [[Category:東京都立三田高等学校出身の人物]] [[Category:早稲田大学出身の人物]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:1971年生]] [[Category:存命人物]]
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SR-2
SR-2 «ヴェレスク»(СР-2 «Вереск» специальная разработка-2 ロシア語で"特別開発-2"の意味)SR-2はロシア連邦のTsNIITochMashにて1999年に開発された9x21mmギュルザ弾を使用する短機関銃(PDW)である。 9×21mm弾が1993年ごろに開発され、FSBからそれを使用する銃器の開発要件が1990年半ばにTsNIITochMashへ出された。1999年にはSR-2として発表され、2000年から運用が開始された。SR-2はSR-1 «ギュルザ»、それらが使用するSP-10、SP-11という特殊仕様の9×21mm弾とともに特殊部隊向けの複合火器グループとしてロシアの各機関に提出された。 この短機関銃は最大200mの範囲で、特定のヘルメットやアーマーなどを着用した目標や非装甲車両への攻撃を想定して設計されており、どの弾薬を使用したとしても100mの範囲であれば4mmの鋼板を確実に貫通することができる。 マガジンは鋼をプレス加工した20連または30連のダブルカラムマガジンで、マガジンをグリップ内に挿入するデザインである。鋼をプレス加工することで製造される上側に折りたたむタイプの銃床を備えており非常にコンパクトに全体を収めることができる。 ハンドガードとグリップは樹脂製でその他は金属で構成されている。セーフティはレシーバー右側面にAKに酷似した物があり、セレクターは凍結防止用の大型のものがレシーバー左側面にある。セミオートは1つの点、フルオートは3つの点で表されている。銃床の基部には可動するスリングスイベルがありスリングを取り付けることが可能。開発初期では100mと200mの切り替え可能な簡易的なリアサイトを備える予定だったが、レシーバー上面には独自のマウントを追加し、そこに標準でKP SR-2という専用照準器を装着するよう変更された。この変更によって射撃の精度が大幅に向上した。またGZV-SR2というサイレンサーが取り付け可能。 一般的な短機関銃とは異なり、作動はガス圧作動方式でこれはSR-3 «ヴィーフリ»のものをベースにしている。銃身上には6つのラグを備えたロングストロークガスピストンがあり、これがガス圧作動することで動作している。 主な利点としては高い射撃の精度、9×21mm弾を使用することによる高い火力、取り回しの良さから自己防衛や閉所での戦闘に向いており、実際現在も様々な特殊部隊、機関で運用されている。これらの特徴からPDWとしての要素を満たしている。 SR-2の最初の試作型。ハンドガードが木製で、グリップのみが樹脂製、セレクターと安全装置がどちらも右側面にあるなどの違いがある。前述したように照準器は100mと200mの切り替え可能な簡易的なリアサイトである。銃床もデザインが大きく異なっている。グリップにはTsNIITochMashのフクロウの企業ロゴが掘られている。 1番最初の生産モデル。樹脂製のハンドガードとKP SR-2専用のマウントがある。細かな故障が頻発したためのちの改良モデルにすぐに代替された。現在は生産されていない。 SR-2の改良モデル。銃口下の形状が変更され、ハンドガードを持つ手を銃口炎から保護するようになった。ハンドガード左右にピカティニーレールを取り付けることができる4つの穴が追加され、レーザーサイトやフラッシュライトが取り付け可能になった。ハンドガード下には折りたたみ可能なフォアグリップが追加されている。 SR-2Mの改良モデル。レシーバーカバーにピカティニーレールを追加し、ハンドガード左右にはより長い固定のピカティニーレールが追加されている。また銃床は通常の銃床の他にバイザーを避ける特殊な形状の銃床が取り付け可能になった。
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SR-2 «ヴェレスク»(СР-2 «Вереск» специальная разработка-2 ロシア語で"特別開発-2"の意味)SR-2はロシア連邦のTsNIITochMashにて1999年に開発された9x21mmギュルザ弾を使用する短機関銃(PDW)である。
{{Infobox Weapon |name=SR-2 |image=[[Image:Пистолет-пулемёт СР2М - ЦНИИТОЧМАШ 02.jpg|300px]] |caption=KP SR-2が取り付けられたSR-2M |type=[[短機関銃]]([[PDW]]) |origin={{RUS}} |weight=1.65kg(空マガジン装填) |length=603mm |width=46mm |height=170mm/130mm |designer=[[TsNIITochMash]] |design_date=1990年半ば〜1999年 |production_date=1999年〜現在 |variants=SR-2、SR-2M、SR-2MP |part_length=367mm(銃床折りたたみ) |cartridge=[[9x21mmギュルザ弾]] |caliber=9mm |action=[[ガス圧作動方式]]、[[:en:Rotating bolt|ローテーティング・ボルト]] |rate=900 |range=200m |feed=20連、30連 }} '''SR-2 «ヴェレスク»'''(СР-2 «Вереск» специальная разработка-2 ロシア語で"特別開発-2"の意味)SR-2は[[ロシア連邦]]の[[TsNIITochMash]]にて1999年に開発された[[9x21mmギュルザ弾]]を使用する[[短機関銃]]([[PDW]])である。 == 開発 == [[9×21mm弾]]が1993年ごろに開発され、FSBからそれを使用する銃器の開発要件が1990年半ばに[[TsNIITochMash]]へ出された。1999年には'''SR-2'''として発表され、2000年から運用が開始された。SR-2は[[SR-1 «ギュルザ»|'''SR-1 «ギュルザ»''']]、それらが使用する'''SP-10'''、'''SP-11'''という特殊仕様の[[9x21mmギュルザ弾|9×21mm弾]]とともに[[特殊部隊]]向けの複合火器グループとして[[ロシア]]の各機関に提出された。 この[[短機関銃]]は最大200mの範囲で、特定の[[ヘルメット]]やアーマーなどを着用した目標や非装甲車両への攻撃を想定して設計されており、どの[[弾薬]]を使用したとしても100mの範囲であれば4mmの鋼板を確実に貫通することができる。 == 構成 == [[弾倉|マガジン]]は鋼をプレス加工した20連または30連のダブルカラム[[弾倉|マガジン]]で、マガジンをグリップ内に挿入するデザインである。鋼をプレス加工することで製造される上側に折りたたむタイプの[[銃床]]を備えており非常にコンパクトに全体を収めることができる。 ハンドガードとグリップは樹脂製でその他は金属で構成されている。セーフティはレシーバー右側面に[[AK-47|AK]]に酷似した物があり、セレクターは凍結防止用の大型のものがレシーバー左側面にある。セミオートは1つの点、フルオートは3つの点で表されている。[[銃床]]の基部には可動するスリングスイベルがありスリングを取り付けることが可能。開発初期では100mと200mの切り替え可能な簡易的なリアサイトを備える予定だったが、レシーバー上面には独自のマウントを追加し、そこに標準で'''KP SR-2'''という専用[[照準器]]を装着するよう変更された。この変更によって射撃の精度が大幅に向上した。また'''GZV-SR2'''という[[サプレッサー|サイレンサー]]が取り付け可能。 一般的な[[短機関銃]]とは異なり、作動はガス圧作動方式でこれは[[SR-3|SR-3 «ヴィーフリ»]]のものをベースにしている。[[銃身]]上には6つのラグを備えたロングストロークガスピストンがあり、これがガス圧作動することで動作している。 主な利点としては高い射撃の精度、9×21mm弾を使用することによる高い火力、取り回しの良さから自己防衛や閉所での戦闘に向いており、実際現在も様々な[[特殊部隊]]、機関で運用されている。これらの特徴から[[PDW]]としての要素を満たしている。 == 派生型 == === «ヴェレスク» === SR-2の最初の試作型。ハンドガードが木製で、グリップのみが樹脂製、セレクターと安全装置がどちらも右側面にあるなどの違いがある。前述したように[[照準器]]は100mと200mの切り替え可能な簡易的なリアサイトである。[[銃床]]もデザインが大きく異なっている。グリップには[[TsNIITochMash]]のフクロウの企業ロゴが掘られている。 === SR-2«ヴェレスク» === 1番最初の生産モデル。樹脂製のハンドガードとKP SR-2専用のマウントがある。細かな故障が頻発したためのちの改良モデルにすぐに代替された。現在は生産されていない。 === SR-2M«ヴィレスク» === SR-2の改良モデル。銃口下の形状が変更され、ハンドガードを持つ手を銃口炎から保護するようになった。ハンドガード左右に[[ピカティニーレール]]を取り付けることができる4つの穴が追加され、レーザーサイトやフラッシュライトが取り付け可能になった。ハンドガード下には折りたたみ可能なフォアグリップが追加されている。 <gallery widths="300"> ファイル:SR-2M Veresk of the Moscow OMON 01.jpg|リンク=|銃床を折りたたんだSR-2M(右側面) ファイル:SR-2M Veresk of the Moscow OMON 07.jpg|リンク=|銃床を折りたたんだSR-2M(左側面) ファイル:SR-2M Veresk of the Moscow OMON 10.jpg|リンク=|銃床を展開したSR-2M(右側面) </gallery> === SR-2MP«ヴェレスク» === [[ファイル:9-мм пистолет-пулемет СР2МП - Технологии в машиностроении–2012 01.jpg|サムネイル|280x280ピクセル|2012年の展示会で展示されたSR-2MP。]] SR-2Mの改良モデル。レシーバーカバーに[[ピカティニーレール]]を追加し、ハンドガード左右にはより長い固定の[[ピカティニーレール]]が追加されている。また[[銃床]]は通常の[[銃床]]の他にバイザーを避ける特殊な形状の[[銃床]]が取り付け可能になった。 {{-}} == 関連項目 == {{Commonscat|SR-2 Veresk}} * [[PP-2000]] {{ロシア陸軍の歩兵用武器・弾薬}} {{デフォルトソート:SR-2}} [[Category:短機関銃]] [[Category:ソ連・ロシアの小火器]]
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レインディア湖
レインディア湖(レインディアこ、英語:Reindeer Lake)は、カナダ西部の湖で、サスカチュワン州北東部とマニトバ州北西部の境界に位置し、大部分はサスカチュワン州に属する。 湖の名前はトナカイを意味しこれはアルゴンキン語の名前を翻訳したものである。 面積では世界で 24 番目に大きい湖であり、サスカチュワン州で 2 番目に大きい湖、カナダで 9 番目に大きい湖でもある。 湖の約8%はマニトバ州にあり、湖の約92%はサスカチュワン州にある。 レインディア湖の湖畔は大きな凹凸があり、小島が多数含まれている。その東岸には、マニトバ州ブロシェットの北端にあるキノオサオのコミュニティがある。 またその南端には、サスカチュワン州サウスエンド。 この川は主に南に流れ、トナカイ川と管理された堰を経てチャーチル川に流れ、その後東のハドソン湾に流れ込む。 湖からの水の流れはホワイトサンドダムによって調整されています。 湖の南端に位置し、幅約 13km、深さ 220kmのディープベイは、約 9,900万年前に遡る大規模な隕石衝突の遺跡である。 地元のクリー族の伝説によれば、ここは湖の怪物が出現する場所とされている。 1796 年に西岸にベッドフォード ハウスと呼ばれる毛皮交易所を設立したデビッド・トンプソンを含む、初期の探検家数人がレインディア湖を探索していた。トンプソンはアサバスカ湖へのルートを測量中にトナディア湖で越冬し、1797 年の春に任務を放棄した。 この地域では漁業が重要な産業であり、釣りをする人たちはその透明で深い水深に魅了されている。 レインディア湖ではトロフィーサイズのパイクがよく見られます。湖では、軽い商業漁業も補助を受けている。スケトウダラ、ノーザンパイク、レイクトラウトゴールドアイなどの多くの水産物が取れる レインディア湖は、2002年のNORADサンタ追跡シーズンの開始から、翌年 NORAD がそれまで行っていた都市の個別プロファイリングの代わりに地域形式への切り替えを選択した 2011 年のシーズン終了まで、サンタカムの注目の場所であった。
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レインディア湖は、カナダ西部の湖で、サスカチュワン州北東部とマニトバ州北西部の境界に位置し、大部分はサスカチュワン州に属する。 湖の名前はトナカイを意味しこれはアルゴンキン語の名前を翻訳したものである。 面積では世界で 24 番目に大きい湖であり、サスカチュワン州で 2 番目に大きい湖、カナダで 9 番目に大きい湖でもある。 湖の約8%はマニトバ州にあり、湖の約92%はサスカチュワン州にある。
{{Infobox lake | name = レインディア湖 | image = Canada.A2002236.1810.721.250m NASA.jpg | image_size = 255 | caption = [[NASA]]のレインディア湖周辺の衛生写真<ref>{{cite web | title = NASA Visible Earth (BURN SCARS IN SASKATCHEWAN, CANADA) Note: Dark to light rust coloured areas are burn scars from forest fires | url = http://visibleearth.nasa.gov/view.php?id=61868 | date = August 24, 2002 | accessdate =2014-09-14}}</ref> | image_bathymetry = | caption_bathymetry = | location = | coords = {{coord|57|18|N|102|22|W|region:CA-SK_type:waterbody_scale:2500000|display=inline,title}} | lake_type = [[氷河湖]] | inflow = コクラン川 | outflow = レインディア川 | catchment = {{cvt|60000|km2}} | basin_countries = [[カナダ]] | length = {{cvt|230|km}} | width = {{cvt|60|km}} | area = {{cvt|6650|km2}} | depth = {{cvt|17|m}} | max-depth = {{cvt|219|m}} | volume = {{cvt|113.05|km3|acre.ft}} | residence_time = 9 | shore = {{cvt|3394|km}} | elevation = {{cvt|337|m}} | islands = | cities = | pushpin_map = Saskatchewan#Canada | pushpin_map_caption = サスカチュワン州レインディア湖の位置 | pushpin_map_alt = | reference = <ref name="Distance Calculator">{{cite web|url=http://www.daftlogic.com/projects-google-maps-distance-calculator.htm|title=Google Maps Distance Calculator|accessdate=2015-01-09|publisher=daftlogic.com}}</ref><ref name="Reindeer Lake">{{cite web |title = World Lake Database (Reindeer Lake) |url = http://wldb.ilec.or.jp/Lake.asp?LakeID=SNAM-031&RoutePrm=0%3A%3B4%3Aload%3B |accessdate = 2015-01-09 |url-status = dead |archiveurl = https://web.archive.org/web/20150920041151/http://wldb.ilec.or.jp/Lake.asp?LakeID=SNAM-031&RoutePrm=0%3A%3B4%3Aload%3B |archivedate = 2015-09-20 }}</ref> }} '''レインディア湖('''レインディアこ、英語:'''Reindeer Lake)'''は、[[カナダ]]西部の湖で、[[サスカチュワン州]]北東部と[[マニトバ州]]北西部の境界に位置し、大部分はサスカチュワン州に属する。 湖の名前はトナカイを意味しこれは[[アルゴンキン語]]の名前を翻訳したものである。 [[湖沼の一覧 (面積順)|面積]]では世界で 24 番目に大きい湖であり、サスカチュワン州で 2 番目に大きい湖、カナダで 9 番目に大きい湖でもある。 湖の約8%はマニトバ州にあり、湖の約92%はサスカチュワン州にある。 == 地理 == レインディア湖の湖畔は大きな凹凸があり、小島が多数含まれている。その東岸には、[[マニトバ州]]ブロシェットの北端にあるキノオサオのコミュニティがある。 またその南端には、[[サスカチュワン州]]サウスエンド。 この川は主に南に流れ、トナカイ川と管理された[[堰]]を経て[[チャーチル川 (ハドソン湾)|チャーチル川]]に流れ、その後東の[[ハドソン湾]]に流れ込む。 湖からの水の流れはホワイトサンドダムによって調整されています。 湖の南端に位置し、幅約 13km、深さ 220kmのディープベイは、約 9,900万年前に遡る大規模な隕石衝突の遺跡である。 地元の[[クリー|クリー族]]の伝説によれば、ここは湖の怪物が出現する場所とされている。 == 歴史 == 1796 年に西岸にベッドフォード ハウスと呼ばれる[[毛皮貿易|毛皮交易所]]を設立した[[デビッド・トンプソン]]を含む、初期の探検家数人がレインディア湖を探索していた。トンプソンは[[アサバスカ湖]]へのルートを測量中にトナディア湖で越冬し、1797 年の春に任務を放棄した。 == 漁業 == この地域では[[漁業]]が重要な産業であり、釣りをする人たちはその透明で深い水深に魅了されている。 レインディア湖ではトロフィーサイズの[[パイク]]がよく見られます。湖では、軽い商業漁業も補助を受けている。[[スケトウダラ]]、[[ノーザンパイク]]、[[レイクトラウト]][[ゴールドアイ]]などの多くの水産物が取ることができる。 == NORADとサンタ追跡 == レインディア湖は、2002年の[[NORADのサンタ追跡|NORADサンタ追跡シーズン]]の開始から、翌年 [[NORAD]] がそれまで行っていた都市の個別プロファイリングの代わりに地域形式への切り替えを選択した 2011 年のシーズン終了まで、サンタカムの注目の場所であった。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}}{{Reflist|30em}} == 外部リンク == * [http://esask.uregina.ca/entry/reindeer_lake.html Encyclopedia of Saskatchewan] * [http://www.reindeerlake.com/history.html A brief history of Reindeer Lake] {{Normdaten}} [[Category:マニトバ州の湖]] [[Category:サスカチュワン州の湖]] [[Category:ウィキデータにある座標]]
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安樂進
安樂 進(あんらく すすむ)は、日本の地方公務員。東京都知事本部長や、東京都財務局長を経て、ゆりかもめ代表取締役社長を務めた。 東京大学文学部卒業。1967年東京都入庁、主税局新宿税務事務所徴収課。1991年東京都総務局参事(人事部人事課長事務取扱)。1992年東京都立松沢病院事務局長。1994年東京都港湾局開発部長。1996年東京都労働経済局総務部長。1998年東京都清掃局理事(移管準備担当)。1999年東京都清掃局長。2001年東京都知事本部長。同年東京都財務局長。2002年ゆりかもめ代表取締役社長。2013年瑞宝小綬章受章。
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安樂 進は、日本の地方公務員。東京都知事本部長や、東京都財務局長を経て、ゆりかもめ代表取締役社長を務めた。
'''安樂 進'''(あんらく すすむ、[[1942年]][[9月8日]]<ref name="jiti">[http://www.jiti.co.jp/graph/int/01anraku/01anraku.htm 清掃事業の23区移管に向けて秒読み段階] - 建設グラフインターネットダイジェスト</ref> - )は、[[日本]]の[[地方公務員]]。[[東京都知事本部]]長や、[[東京都財務局]]長を経て、[[ゆりかもめ (企業)|ゆりかもめ]][[代表取締役]][[社長]]を務めた。 == 人物・経歴 == [[東京大学文学部]]卒業。1967年[[東京都]]入庁、主税局新宿税務事務所徴収課。1991年[[東京都総務局]][[参事]](人事部人事課長事務取扱)。1992年[[東京都立松沢病院]]事務局長。1994年[[東京都港湾局]]開発部長。1996年東京都労働経済局総務部長。1998年[[東京都清掃局]][[理事]](移管準備担当)。1999年東京都清掃局長。2001年[[東京都知事本部]]長。同年[[東京都財務局]]長。2002年[[ゆりかもめ (企業)|ゆりかもめ]][[代表取締役]][[社長]]<ref>官報平成15年号外第145号 232頁</ref><ref name="jiti"/>。2013年[[瑞宝小綬章]]受章<ref>官報平成25年号外第91号 17頁</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} {{先代次代|東京都清掃局長|1999年 - 2000年|[[福永正通]]|廃止}} {{先代次代|東京都知事本部長|2001年|新設|[[田原和道]]}} {{先代次代|東京都財務局長|2001年 - 2002年|[[木内征司]]|[[田原和道]]}} {{先代次代|ゆりかもめ社長|2002年 - 2006年|[[堀田安二]]|[[安間謙臣]]}} {{DEFAULTSORT:あんらく すすむ}} [[Category:瑞宝小綬章受章者]] [[Category:東京都財務局長]] [[Category:ゆりかもめ|人]] [[Category:文学士取得者]] [[Category:東京大学出身の人物]] [[Category:1942年生]]
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田原和道
田原 和道(たはら かずみち)は、日本の地方公務員。東京都知事本部長や、東京都財務局長を務めた。 神奈川県出身。1969年慶應義塾大学法学部卒業、東京都入庁。東京都知事室長を経て、1998年東京都総務局総務部長。1999年東京都建設局次長。同年東京都福祉局次長。2000年東京都多摩都市整備本部長。2001年東京都知事本部長。2002年東京都財務局長。退任後、東京信用保証協会専務理事。2015年瑞宝小綬章受章。
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田原 和道は、日本の地方公務員。東京都知事本部長や、東京都財務局長を務めた。
'''田原 和道'''(たはら かずみち)は、[[日本]]の[[地方公務員]]。[[東京都知事本部]]長や、[[東京都財務局]]長を務めた。 == 人物・経歴 == [[神奈川県]]出身。1969年[[慶應義塾大学法学部]]卒業、[[東京都]]入庁。東京都知事室長を経て、1998年[[東京都総務局]][[総務部]]長。1999年[[東京都建設局]][[次長]]。同年[[東京都福祉局]]次長。2000年東京都多摩都市整備本部長。2001年[[東京都知事本部]]長。2002年[[東京都財務局]]長<ref>「インタビュー・田原和道東京都財務局長」建設通信新聞 2002年8月7日</ref>。退任後、[[東京信用保証協会]][[専務理事]]<ref>[https://www.chusho.meti.go.jp/kinyu/2008/download/081204Besshi.pdf 全国信用保証協会等代表者会合出席者名簿]</ref>。2015年[[瑞宝小綬章]]受章<ref>官報平成27年号外第100号 3頁</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} {{先代次代|東京都多摩都市整備本部長|2000年 - 2001年|[[久保田康治]]|[[石河信一]]}} {{先代次代|東京都知事本部長|2001年 - 2002年|[[安樂進]]|[[前川燿男]]}} {{先代次代|東京都財務局長|2002年 - 2003年|[[安樂進]]|[[櫻井巖]]}} {{DEFAULTSORT:たはら かずみち}} [[Category:東京都財務局長]] [[Category:法学士取得者]] [[Category:慶應義塾大学出身の人物]] [[Category:神奈川県出身の人物]]
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スター・ビースト
「スター・ビースト」(原題:The Star Beast)は、イギリスのSFドラマ『ドクター・フー』の60周年記念スペシャルエピソード第1話。本作は"Doctor Who Magazine"上に掲載されたパット・ミルズ(英語版)およびデイヴ・ギボンズ(英語版)によるコミックを原作とし、ラッセル・T・デイヴィスが脚本、レイチェル・タラレイが監督を担当し、2023年11月25日に放送された。 本作では、2005年から2010年まで10代目ドクター役を演じたデイヴィッド・テナントが14代目ドクター役で出演し、10代目ドクターのコンパニオンであったドナ・ノーブル役のキャサリン・テイトと共演した。再会を果たした14代目ドクターとドナは異星人ミープを巡る戦いに巻き込まれる。 14代目ドクター(演:デイヴィッド・テナント)に再生したドクターは、何故か顔がかつての10代目ドクターと同じものに変化した。現代のロンドンに不時着したドクターが街中を歩いていると、かつて共に旅をしたドナ・ノーブル(演:キャサリン・テイト)と再会し、またその娘ローズ(演:ヤスミン・フィニー(英語版))と出会う。ドナはヒトでありながら第4シリーズ「旅の終わり」でタイムロードの知識を獲得し、自らの命を危険に晒しながら宇宙を救っていたが、最終的に彼女の身を案じたドクターにより旅に関連する記憶を抹消されていた。ドナは記憶を失いながらも何かが生活に欠けていることを認識しており、ドクターはドナが記憶を取り戻せば彼女の死に直結するという危機に瀕する。 ドクターはロンドンに墜落する宇宙船を目撃してその墜落地点付近に急行し、またローズはミープと名乗る哺乳類様地球外生命体と遭遇する。ミープはモンスターに追われている旨を主張し、それを聞いたローズは自宅の敷地内にある作業小屋にミープをかくまい、小屋で製作しているぬいぐるみとして偽装する。ドクターはドナの家族やミープと合流してミープの話に耳を傾けるが、そこにミープの主張するモンスターの群れ、ならびに地球外生命体に対処する軍隊であるUNITの部隊が出現する。彼らがドナの家で互いに交戦を開始したため、ドクターたちはソニック・スクリュードライバーで窮地を切り抜けて脱出を果たす。 逃走の過程でドクターはミープの主張するモンスターの行動に不自然性を覚え、地下駐車場にてシャドー議定書に則り裁判を開始する。この裁判の過程でミープを追って地球に到来したロース・ウォーリアーは邪悪な種族でなく、むしろ人道的武器を用いて凶悪なミープの捕獲を目標に行動していたことが発覚する。ノーブル家を襲撃したUNITの部隊はミープによる幻覚の支配を受けた者たちであった。本性をあらわにしたミープはロース・ウォーリアーを殺害してドクターらを捕縛し、ロンドンを崩壊させて宇宙への逃亡を画策する。ミープの拘束を脱したドクターはミープの行動を阻止しようとするが、それにドナも同行する。 ロンドンに暮らす900万人の生命を守るため、ドクターはドナの記憶を復活させ、タイムロードの知識を駆使してミープの企みを阻止する。生命に危機が訪れるドナであったが、タイムロードとしての膨大なエネルギーと情報量を娘のローズが分担することにより一命をとりとめ、彼らはミープによる部隊の洗脳を解除してミープを無力化する。最終的にドナとローズはタイムロードのエネルギーを放出して生還し、完全に危機を脱する。男性の姿をしたタイムロードではエネルギーの放出方法を思いつかなかったが、ドナとローズが共に女性の体を持っていたがために可能であったという。 事態の収拾がついたドクターは内装の変化したタイムマシン・ターディスにドナを案内する。ドナはターディスの制御盤に備え付けられたコーヒーメーカーからコーヒーを手にするが、誤って制御盤に溢してしまい、ターディスの暴走が始まる。制御盤が火を噴く中、ターディスが不明な場所への時空間移動を開始し、次話「ワイルド・ブルー・ヨンダー(英語版)」に続く。 2021年7月、BBCは2018年以降『ドクター・フー』の制作総指揮を務めていたクリス・チブナルが2022年の特別編の後に13代目ドクター役のジョディ・ウィテカーと共に降板することを報じた。2021年8月25日にBBCドラマ部部長のピアーズ・ウェンガー(英語版)は今後の変化により『ドクター・フー』が「ラディカル」になるであろうと揶揄した。 2021年9月24日、かつて9代目ドクターと10代目ドクターの時期である2005年から2010年にかけて制作総指揮を担当したラッセル・T・デイヴィスの復帰が報じられ、2023年の60周年スペシャルからその後のシリーズに亘ってチブナルの後を引き継ぐことが明かされた。デイヴィスはかつての『ドクター・フー』エグゼクティブプロデューサーであったジュリー・ガードナー(英語版)やかつてのBBCドラマ部部長ジェーン・トランター(英語版)によって設立されたBad Wolfプロダクションカンパニー (en) に所属した。Bad Wolfはこの特別番組以降『ドクター・フー』のクリエイティブ・コントロールも引き継ぎ、BBC studiosは『ドクター・フーのをグローバルブランドとしての確立に集中できるようになった。エグゼクティブプロデューサーにはフィル・コリンソン(英語版)とガードナーおよびトランターが復帰し、新たにジョエル・コリンズが加わった。デイヴィスはカーディフのBad Wolf Studiosでプリプロダクションが開始されたことを2022年3月に明かした。スペシャルの編集はティム・ホッジスが担当した。 本作の物語はコミックストリップ "The Star Beast" を原作とする。当該作はパット・ミルズ(英語版)が執筆し、デイヴ・ギボンズ(英語版)が絵を担当する形で、1980年にDoctor Who Weeklyに掲載された。なおその後2019年にBig Finish Productionsによりオーディオストーリー化もされている。ギボンズによれば、番組は登場人物をどう使用しても良かったが、彼とミルズに対してストーリーを使用するための報酬を支払ったという。 本作を含む60周年スペシャルではデイヴィッド・テナントとキャサリン・テイトがシリーズに復帰した。テナントは初めて14代目ドクターを演じることとなったが、テイトは引き続きドナ・ノーブルを演じた。2022年12月25日にはジャクリーン・キング(英語版)とカール・コリンズ(英語版)がそれぞれシルビア・ノーブル役とショーン・テンプル役で「時の終わり」以来の再出演を果たすことが明らかにされ、またルース・マデレイ(英語版)がUNIT科学顧問シャーリー・アン・ビンハム役で出演することが報じられた。ヤスミン・フィニー(英語版)もローズと呼ばれる登場人物の役で出演することが明かされ、後にBBCは当該人物がドナとショーンの娘ローズ・ノーブルであることを報じた。2023年9月14日には、ミリアム・マーゴリーズがミープの声優として報じられた。 第1話の監督にはレイチェル・タラレイが復帰した。タラレイはかつてピーター・カパルディが12代目ドクターとして出演した時期の最終話「戦場と二人のドクター」の監督を担当していた。撮影は2022年5月に開始され、同年7月末に終了した。 「スター・ビースト」は2023年11月25日に2023年スペシャルの第一弾として放送された。本作は11月6日にロンドンのバタシー発電所でプレスリリースとプレミア上映が行われ、また11月23日にカーディフでRoyal Television Society記念式典の一環として特別上映が行われた。 本作はDisney+でも配信された。日本での配信は時差の関係で2023年11月26日となった。 「スター・ビースト」は当日夜にイギリス国内で508万人の視聴者が視聴し、515万人を記録した「終わらない悪夢と新たな旅」(2019年)以来の好記録を獲得した。その夜放送された番組の中ではStrictly Come Dancing (en) に次ぐ記録であり、また2023年のイギリスのテレビドラマシリーズとしては放送時点で最大の幕開けであった。連結視聴者数は761万人に達し、これは776万人を記録した「創造主と復讐」(2018年)以来の好記録となり、その週で10番目に多く視聴された番組となった。Appreciation Index (Appreciation Index) の値は84で、これは「残酷な宇宙の時間」(2017年)以来の最高記録となった。 イギリスでは配信開始と同時にSNSのトレンドランキング1位に上り、やがて世界ランキング1位も獲得した。 「スター・ビースト」に対する批評家のレビューは肯定的であった。The GuardianのJack Seale本作の評価を4/5とし、「楽しく軽快でそして速い」と述べ、トランスジェンダーコミュニティに対する本作の取り扱いも称賛した。Anita SinghはThe Sunday Telegraphは本作のトランスジェンダー支持の姿勢を批判しつつ、「大衆の興味を取り戻す必要のあるフランチャイズにとって完璧な再入場である」として評価を4/5とした。エド・パワーはThe Independentで、チブナル期の複雑なエピソードの後で本作が基本に立ち返ったアプローチを称賛し、特に14代目ドクターを演じたテナントの演技を高く評価した。BBCのニール・アームストロングの評価はより複雑であり、ファンを喜ばせる内容が多い一方で新規視聴者の獲得が難しいと指摘し、また進歩主義的姿勢に焦点を当てたことについて「説教臭い」とした。 また本作でトランスジェンダーの登場人物であるローズを登場させたことについて「不適切」であるとして、BBCは視聴者から144件に上る苦情を受けた。
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「スター・ビースト」は、イギリスのSFドラマ『ドクター・フー』の60周年記念スペシャルエピソード第1話。本作は"Doctor Who Magazine"上に掲載されたパット・ミルズおよびデイヴ・ギボンズによるコミックを原作とし、ラッセル・T・デイヴィスが脚本、レイチェル・タラレイが監督を担当し、2023年11月25日に放送された。 本作では、2005年から2010年まで10代目ドクター役を演じたデイヴィッド・テナントが14代目ドクター役で出演し、10代目ドクターのコンパニオンであったドナ・ノーブル役のキャサリン・テイトと共演した。再会を果たした14代目ドクターとドナは異星人ミープを巡る戦いに巻き込まれる。
{{Infobox Television episode | Title =スター・ビースト<br/>The Star Beast | Series = [[ドクター・フー]] | Airdate = {{flagicon|GBR}} [[2023年]][[11月25日]]<br>{{flagicon|JPN}} [[2023年]][[11月26日]] | Director = [[レイチェル・タラレイ]] | Writer = [[ラッセル・T・デイヴィス]](原作:{{仮リンク|パット・ミルズ|en|Pat Mills}}および{{仮リンク|デイヴ・ギボンズ|en|Dave Gibbons}}) | Producer = ヴィッキー・デロウ | Music = [[マレイ・ゴールド]] | Episode list = [[ドクター・フーのエピソード一覧]] | Prev = The Power of the Doctor{{enlink|The Power of the Doctor|a=on}} | Next = {{仮リンク|ワイルド・ブルー・ヨンダー|en|Wild Blue Yonder (Doctor Who)}} }} 「'''スター・ビースト'''」(原題:'''The Star Beast''')は、[[イギリス]]の[[SFドラマ]]『[[ドクター・フー]]』の60周年記念スペシャルエピソード第1話<ref name=映画コム>{{Cite web|和書|title=世界最長のSFドラマ「ドクター・フー」 オリジナルスペシャル3作品の配信決定 |url=https://eiga.com/news/20231102/13/ |date=2023-11-02 |accessdate=2023-12-10 |website=映画.com}}</ref><ref name=ザテレビジョン>{{Cite web|和書|title=<ドクター・フー>“世界トレンド”1位を獲得 世界最長SFドラマの新作登場でファン歓喜 |date=2023-11-28 |url=https://thetv.jp/news/detail/1169540/ |accessdate=2023-12-10 |publisher=[[KADOKAWA]] |website=ザテレビジョン |author=ザテレビジョンドラマ部}}</ref>。本作は"Doctor Who Magazine"上に掲載された{{仮リンク|パット・ミルズ|en|Pat Mills}}および{{仮リンク|デイヴ・ギボンズ|en|Dave Gibbons}}によるコミックを原作とし、[[ラッセル・T・デイヴィス]]が脚本、[[レイチェル・タラレイ]]が監督を担当し、[[2023年]][[11月25日]]に放送された。 本作では、2005年から2010年まで[[ドクター (ドクター・フー)|10代目ドクター]]役を演じた[[デイヴィッド・テナント]]が14代目ドクター役で出演し、10代目ドクターのコンパニオンであった[[ドナ・ノーブル]]役の[[キャサリン・テイト]]と共演した<ref name=ザテレビジョン/>。再会を果たした14代目ドクターとドナは異星人ミープを巡る戦いに巻き込まれる<ref name=ザテレビジョン/>。 == あらすじ == 14代目ドクター(演:[[デイヴィッド・テナント]])に再生したドクターは、何故か顔がかつての10代目ドクターと同じものに変化した<ref name=ザテレビジョン/>。現代の[[ロンドン]]に不時着したドクターが街中を歩いていると、かつて共に旅をした[[ドナ・ノーブル]](演:[[キャサリン・テイト]])と再会し、またその娘ローズ(演:{{仮リンク|ヤスミン・フィニー|en|Yasmin Finney}})と出会う<ref name=ザテレビジョン/>。ドナは[[ヒト]]でありながら第4シリーズ「[[旅の終わり]]」で[[タイムロード (ドクター・フー)|タイムロード]]の知識を獲得し、自らの命を危険に晒しながら宇宙を救っていたが、最終的に彼女の身を案じたドクターにより旅に関連する記憶を抹消されていた<ref name=ザテレビジョン/>。ドナは記憶を失いながらも何かが生活に欠けていることを認識しており<ref name=ザテレビジョン/>、ドクターはドナが記憶を取り戻せば彼女の死に直結するという危機に瀕する<ref name=映画コム/>。 ドクターはロンドンに墜落する[[宇宙船]]を目撃してその墜落地点付近に急行し、またローズはミープと名乗る[[哺乳類]]様[[地球外生命体]]と遭遇する<ref name=ザテレビジョン/>。ミープはモンスターに追われている旨を主張し、それを聞いたローズは自宅の敷地内にある作業小屋にミープをかくまい、小屋で製作している[[ぬいぐるみ]]として偽装する<ref name=ザテレビジョン/>。ドクターはドナの家族やミープと合流してミープの話に耳を傾けるが、そこにミープの主張するモンスターの群れ、ならびに地球外生命体に対処する軍隊であるUNITの部隊が出現する。彼らがドナの家で互いに交戦を開始したため、ドクターたちは[[ソニック・スクリュードライバー]]で窮地を切り抜けて脱出を果たす。 逃走の過程でドクターはミープの主張するモンスターの行動に不自然性を覚え、地下駐車場にてシャドー議定書に則り裁判を開始する。この裁判の過程でミープを追って地球に到来したロース・ウォーリアーは邪悪な種族でなく、むしろ人道的武器を用いて凶悪なミープの捕獲を目標に行動していたことが発覚する。ノーブル家を襲撃したUNITの部隊はミープによる幻覚の支配を受けた者たちであった。本性をあらわにしたミープはロース・ウォーリアーを殺害してドクターらを捕縛し、ロンドンを崩壊させて宇宙への逃亡を画策する。ミープの拘束を脱したドクターはミープの行動を阻止しようとするが、それにドナも同行する。 ロンドンに暮らす900万人の生命を守るため、ドクターはドナの記憶を復活させ、タイムロードの知識を駆使してミープの企みを阻止する。生命に危機が訪れるドナであったが、タイムロードとしての膨大なエネルギーと情報量を娘のローズが分担することにより一命をとりとめ、彼らはミープによる部隊の洗脳を解除してミープを無力化する。最終的にドナとローズはタイムロードのエネルギーを放出して生還し、完全に危機を脱する。男性の姿をしたタイムロードではエネルギーの放出方法を思いつかなかったが、ドナとローズが共に女性の体を持っていたがために可能であったという。 事態の収拾がついたドクターは内装の変化した[[タイムマシン]]・[[ターディス]]にドナを案内する。ドナはターディスの制御盤に備え付けられたコーヒーメーカーから[[コーヒー]]を手にするが、誤って制御盤に溢してしまい、ターディスの暴走が始まる。制御盤が火を噴く中、ターディスが不明な場所への時空間移動を開始し、次話「{{仮リンク|ワイルド・ブルー・ヨンダー|en|Wild Blue Yonder (Doctor Who)}}」に続く。 == 制作 == [[File:Russelltdavies.jpg|thumb|60周年記念スペシャルおよびその後のシリーズの制作総指揮に復帰した人物である[[ラッセル・T・デイヴィス]]]] 2021年7月、[[英国放送協会|BBC]]は2018年以降『[[ドクター・フー]]』の制作総指揮を務めていた[[クリス・チブナル]]が2022年の特別編の後に13代目ドクター役の[[ジョディ・ウィテカー]]と共に降板することを報じた<ref>{{Cite web |last=Kanter |first=Jane |date=29 July 2021 |title='Doctor Who': Jodie Whittaker & Showrunner Chris Chibnall Are Leaving Iconic Sci-Fi Series, BBC Confirms |url=https://deadline.com/2021/07/doctor-who-jodie-whittaker-chris-chibnall-quit-bbc-show-1234802150/ |access-date=29 July 2021 |website=[[Deadline Hollywood]] |archive-date=29 July 2021 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210729140215/https://deadline.com/2021/07/doctor-who-jodie-whittaker-chris-chibnall-quit-bbc-show-1234802150/ |url-status=live }}</ref>。2021年8月25日にBBCドラマ部部長の{{仮リンク|ピアーズ・ウェンガー|en|Piers Wenger}}は今後の変化により『ドクター・フー』が「ラディカル」になるであろうと揶揄した<ref>{{Cite web |last=Holmes |first=Martin |date=26 August 2021 |title=BBC Boss Promises 'Radical' Change for 'Doctor Who' After Jodie Whittaker Exits |url=https://www.tvinsider.com/1010894/doctor-who-season-13-changes-jodie-whittaker-exit/ |access-date=12 December 2021 |website=TVInsider |archive-date=26 August 2021 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210826193427/https://www.tvinsider.com/1010894/doctor-who-season-13-changes-jodie-whittaker-exit/ |url-status=live }}</ref>。 2021年9月24日、かつて9代目ドクターと10代目ドクターの時期である2005年から2010年にかけて制作総指揮を担当した[[ラッセル・T・デイヴィス]]の復帰が報じられ、2023年の60周年スペシャルからその後のシリーズに亘ってチブナルの後を引き継ぐことが明かされた<ref name="Davies2023">{{Cite web |last=Fullerton |first=Huw |date=24 September 2021 |title=Russell T Davies to return as Doctor Who showrunner |url=https://www.radiotimes.com/tv/sci-fi/doctor-who-russell-t-davies-showrunner-return-newsupdate/ |access-date=24 September 2021 |website=[[Radio Times]] |archive-date=24 September 2021 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210924143111/https://www.radiotimes.com/tv/sci-fi/doctor-who-russell-t-davies-showrunner-return-newsupdate/ |url-status=live }}</ref>。デイヴィスはかつての『ドクター・フー』エグゼクティブプロデューサーであった{{仮リンク|ジュリー・ガードナー|en|Julie Gardner}}やかつてのBBCドラマ部部長{{仮リンク|ジェーン・トランター|en|Jane Tranter}}によって設立されたBad Wolfプロダクションカンパニー{{enlink|Bad Wolf (production company)|a=on}}に所属した<ref name="BadWolf">{{Cite web |date=24 September 2021 |title=Doctor Who: Russell T Davies returns as programme showrunner |url=https://www.bbc.com/news/entertainment-arts-58682472 |access-date=24 September 2021 |website=[[BBC News]] |language=en-GB |archive-date=24 September 2021 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210924143829/https://www.bbc.com/news/entertainment-arts-58682472 |url-status=live }}</ref>。Bad Wolfはこの特別番組以降『ドクター・フー』のクリエイティブ・コントロールも引き継ぎ、BBC studiosは『ドクター・フーのをグローバルブランドとしての確立に集中できるようになった<ref>{{Cite web |last=Craig |first=David |date=2 November 2021 |title=Doctor Who will "radically build" on success as Bad Wolf assumes 'creative control' |url=https://www.radiotimes.com/tv/sci-fi/doctor-who-bad-wolf-creative-control-newsupdate/ |access-date=23 December 2021 |website=[[Radio Times]] |archive-date=2 November 2021 |archive-url=https://web.archive.org/web/20211102200221/https://www.radiotimes.com/tv/sci-fi/doctor-who-bad-wolf-creative-control-newsupdate/ |url-status=live }}</ref>。エグゼクティブプロデューサーには{{仮リンク|フィル・コリンソン|en|Phil Collinson}}とガードナーおよびトランターが復帰し、新たにジョエル・コリンズが加わった<ref name="TVZoneUpdates">{{Cite web |last=TVZone |date=9 November 2022 |title=DOCTOR WHO: SERIES 14 UPDATES AND PRODUCTION TEAM CONFIRMED |url=https://www.tvzoneuk.com/post/drwho-s14updates-091122 |access-date=10 November 2022 |website=TVZoneUK |language=en |archive-date=9 November 2022 |archive-url=https://web.archive.org/web/20221109110705/https://www.tvzoneuk.com/post/drwho-s14updates-091122 |url-status=live }}</ref>。デイヴィスは[[カーディフ]]のBad Wolf Studiosで[[プリプロダクション]]が開始されたことを2022年3月に明かした<ref>{{Cite web |last=Sarrubba |first=Stefania |date=3 March 2022 |title=Doctor Who's Russell T Davies teases return as season 14 production begins |url=https://www.digitalspy.com/tv/a39314505/doctor-who-season-14-production-begins/ |access-date=6 March 2022 |website=[[Digital Spy]] |archive-date=4 March 2022 |archive-url=https://web.archive.org/web/20220304112636/https://www.digitalspy.com/tv/a39314505/doctor-who-season-14-production-begins/ |url-status=live }}</ref>。スペシャルの編集はティム・ホッジスが担当した<ref>{{Cite web |date=13 December 2022 |title=Doctor Who 60th Anniversary specials: new details|url=https://cultbox.co.uk/news/doctor-who-60th-anniversary-specials-new-details |access-date=10 November 2023 }}</ref>。 本作の物語はコミックストリップ "The Star Beast" を原作とする。当該作は{{仮リンク|パット・ミルズ|en|Pat Mills}}が執筆し<ref name="gibbons bbc">{{cite news |last1=Fullbrook |first1=Danny |title=Doctor Who monster creator thrilled with new adaptation |url=https://www.bbc.com/news/uk-england-beds-bucks-herts-67557318 |access-date=29 November 2023 |publisher=BBC |date=29 November 2023}}</ref>、{{仮リンク|デイヴ・ギボンズ|en|Dave Gibbons}}が絵を担当する形で、1980年に''Doctor Who Weekly''に掲載された<ref name=":0">{{Cite news |last=Seale |first=Jack |date=25 November 2023 |title=Doctor Who: The Star Beast review – David Tennant and Catherine Tate have got this show flying again |language=en-GB |work=The Guardian |url=https://www.theguardian.com/tv-and-radio/2023/nov/25/doctor-who-festive-special-bbc-the-star-beast-review-david-tennant-catherine-tate |access-date=25 November 2023 |issn=0261-3077}}</ref>。なおその後2019年にBig Finish Productionsによりオーディオストーリー化もされている<ref>{{cite web |last1=Gooden |first1=Tai |title=Doctor Who’s Beep the Meep and the Wrarth Warriors Comic and Big Finish Origins, Explained |url=https://nerdist.com/article/doctor-who-anniversary-special-beep-the-meep-villain-and-the-wrarth-warriors-comic-and-big-finish-history-explained/ |website=[[Nerdist]] |access-date=26 November 2023 |date=25 November 2023}}</ref>。ギボンズによれば、番組は登場人物をどう使用しても良かったが、彼とミルズに対してストーリーを使用するための報酬を支払ったという<ref name="gibbons bbc" />。 === 配役 === 本作を含む60周年スペシャルでは[[デイヴィッド・テナント]]と[[キャサリン・テイト]]がシリーズに復帰した<ref name=映画コム/>。テナントは初めて14代目ドクターを演じることとなったが、テイトは引き続き[[ドナ・ノーブル]]を演じた<ref>{{Cite web |title=David Tennant and Catherine Tate return to Doctor Who |url=https://www.doctorwho.tv/news-and-features/david-tennant-catherine-tate-return |access-date=15 May 2022 |website=Doctor Who}}</ref>。2022年12月25日には{{仮リンク|ジャクリーン・キング|en|Jacqueline King}}と{{仮リンク|カール・コリンズ|en|Karl Collins}}がそれぞれシルビア・ノーブル役とショーン・テンプル役で「[[時の終わり]]」以来の再出演を果たすことが明らかにされ、また{{仮リンク|ルース・マデレイ|en|Ruth Madeley}}がUNIT科学顧問シャーリー・アン・ビンハム役で出演することが報じられた<ref>{{Cite web |date=17 May 2022 |title=60th filming reveals who Yasmin Finney's Rose is |url=https://www.doctorwhotv.co.uk/60th-filming-reveals-who-yasmin-finneys-rose-is-97327.htm |access-date=17 May 2022 |website=Doctor Who TV}}</ref><ref>{{Cite web |title=Doctor Who 60th anniversary trailer - Merry Christmas and a very Happy Who Year |url=https://www.bbc.co.uk/mediacentre/2022/doctor-who-sneak-peek-60th-anniversary-year/ |access-date=25 December 2022 |website=www.bbc.co.uk |language=en}}</ref>。{{仮リンク|ヤスミン・フィニー|en|Yasmin Finney}}もローズと呼ばれる登場人物の役で出演することが明かされ<ref>{{Cite web |date=16 May 2022 |title=Heartstopper's Yasmin Finney Joins 60th Cast as "Rose" |url=https://www.doctorwhotv.co.uk/heartstoppers-yasmin-finney-joins-60th-cast-as-rose-temple-noble-97288.htm |access-date=16 May 2022 |website=Doctor Who TV}}</ref>、後にBBCは当該人物がドナとショーンの娘ローズ・ノーブルであることを報じた<ref>{{Cite web |last=Hibbs |first=James |date=30 August 2023 |title=Doctor Who confirms Yasmin Finney plays Donna's daughter, teases her debut |url=https://www.radiotimes.com/tv/sci-fi/doctor-who-yasmin-finney-donna-daughter-newsupdate/ |access-date=30 August 2023 |website=[[Radio Times]]}}</ref><ref>{{Cite web |last=Graham-Lowery |first=Nathan |date=19 August 2023 |title=New Companion Rose's Future Beyond Doctor Who 60th Anniversary Specials Seemingly Revealed |url=https://screenrant.com/doctor-who-season-14-rose-companion-showrunner-response/ |access-date=26 November 2023 |website=ScreenRant |language=en}}</ref>。2023年9月14日には、[[ミリアム・マーゴリーズ]]がミープの声優として報じられた<ref>{{Cite web |date=14 September 2023 |title=Miriam Margolyes Joins Doctor Who |url=https://www.doctorwho.tv/news-and-features/miriam-margolyes-joins-doctor-who |access-date=14 September 2023 |website=Doctor Who}}</ref>。 === 撮影 === 第1話の監督には[[レイチェル・タラレイ]]が復帰した<ref name="Talalay">{{Cite web |last=Busch |first=Jenna |date=17 May 2022 |title=Director Rachel Talalay Confirms Doctor Who Return For 60th Anniversary |url=https://www.slashfilm.com/866485/director-rachel-talalay-confirms-doctor-who-return-for-60th-anniversary/ |access-date=18 May 2022 |website=[[Slash Film]]}}</ref>。タラレイはかつて[[ピーター・カパルディ]]が12代目ドクターとして出演した時期の最終話「[[戦場と二人のドクター]]」の監督を担当していた。撮影は2022年5月に開始され、同年7月末に終了した<ref>{{Cite web |last=Ball |first=David |date=2 December 2023 |title='You've got all time and space': B.C. director says making Doctor Who's 60th-year special was 'intimidating' |url=https://www.cbc.ca/news/canada/british-columbia/60th-anniversary-doctor-who-vancouver-director-1.7044240 |access-date=3 December 2023 |website=CBC}}</ref>。 == 放送とレーティング == === 放送 === 「スター・ビースト」は2023年11月25日に2023年スペシャルの第一弾として放送された<ref name="NovDec2023AirDates">{{Cite web |date=25 October 2023 |title=Doctor Who's 60th Anniversary TX Dates Revealed! |url=https://www.doctorwho.tv/news-and-features/doctor-whos-60th-anniversary-tx-dates-revealed |access-date=25 October 2023 |publisher=BBC}}</ref>。本作は11月6日にロンドンの[[バタシー発電所]]でプレスリリースとプレミア上映が行われ<ref>{{Cite web|date=6 November 2023|title=The TARDIS has touched down at @batterseapwrstn for tonight's #DoctorWho 60th anniversary premiere! ❤️❤️➕⚡️|url=https://www.instagram.com/p/CzUDm5ZrwFE/|access-date=6 November 2023|website=Instagram|archive-date=7 November 2023|archive-url=https://web.archive.org/web/20231107090536/https://www.instagram.com/p/CzUDm5ZrwFE/|url-status=live}}</ref><ref>{{Cite web|date=7 November 2023|title=Doctor Who special ‘The Star Beast’ screens in London|url=https://cultbox.co.uk/news/premieres/doctor-who-special-the-star-beast-screens-in-london|access-date=7 November 2023|website=CultBox}}</ref>、また11月23日にカーディフでRoyal Television Society記念式典の一環として特別上映が行われた<ref>{{Cite web |date=10 November 2023 |title=DOCTOR WHO: 60TH ANNIVERSARY SCREENING AND CELEBRATION |url=https://rts.org.uk/event/doctor-who-60th-anniversary-screening-and-celebration |access-date=24 November 2023 |website=Royal Television Society |language=en}}</ref>。 本作は[[Disney+]]でも配信された。[[日本]]での配信は時差の関係で2023年11月26日となった<ref name=ザテレビジョン/>。 === レーティング === 「スター・ビースト」は当日夜にイギリス国内で508万人の視聴者が視聴し、515万人を記録した「[[終わらない悪夢と新たな旅]]」(2019年)以来の好記録を獲得した。その夜放送された番組の中では''Strictly Come Dancing''{{enlink|Strictly Come Dancing|a=on}}に次ぐ記録であり、また2023年のイギリスのテレビドラマシリーズとしては放送時点で最大の幕開けであった<ref>{{Cite web |title=Doctor Who: The Star Beast becomes biggest drama launch of 2023 |url=https://www.radiotimes.com/tv/sci-fi/doctor-who-star-beast-ratings-newsupdate/ |access-date=26 November 2023 |website=Radio Times |language=en-GB}}</ref><ref>{{Cite web |last=Anderton |first=Joe |date=2023-11-27 |title=Doctor Who 60th anniversary special sets ratings record |url=https://www.digitalspy.com/tv/a45949869/doctor-who-60th-anniversary-record-viewing-figures/ |access-date=2023-12-09 |website=Digital Spy |language=en-GB}}</ref>。連結視聴者数は761万人に達し、これは776万人を記録した「[[暗闇の中の希望]]」(2018年)以来の好記録となり、その週で10番目に多く視聴された番組となった<ref>{{Cite web |title=Ratings Update |url=https://www.doctorwhonews.net/2023/12/ratings_update.html |access-date=6 December 2023 |date=5 December 2023 |website=Doctor Who News |language=en}}</ref><ref>{{Cite web |last=Griffin |first=Louise |title=Doctor Who's The Star Beast becomes highest rated episode in 5 years |url=https://www.radiotimes.com/tv/sci-fi/doctor-who-star-beast-ratings-five-years-newsupdate/ |access-date=2023-12-09 |website=Radio Times |language=en-GB}}</ref>。Appreciation Index{{enlink|Appreciation Index}}の値は84で、これは「[[残酷な宇宙の時間]]」(2017年)以来の最高記録となった<ref>{{Cite web |title=Doctor Who News - The Star Beast: Initial Audience Reaction |url=https://www.doctorwhonews.net/2023/11/the_star_beast_initial_audience_reaction.html |access-date=28 November 2023 |website=Doctor Who News |language=en}}</ref><ref>{{Cite web |date=2023-11-28 |title=Doctor Who's Return Is Biggest UK Drama Launch of the Year (So Far) |url=https://gizmodo.com/doctor-who-the-star-beast-ratings-bbc-disney-plus-1851055447 |access-date=2023-12-09 |website=Gizmodo |language=en}}</ref>。 イギリスでは配信開始と同時にSNSのトレンドランキング1位に上り、やがて世界ランキング1位も獲得した<ref name=ザテレビジョン/>。 === 批評家の反応 === 「スター・ビースト」に対する批評家のレビューは肯定的であった<ref>{{Cite web |title=Doctor Who: 60th Anniversary Specials, Episode 1 - Rotten Tomatoes |url=https://www.rottentomatoes.com/tv/doctor_who_2023/s00/e01 |access-date=26 November 2023 |website=www.rottentomatoes.com |language=en}}</ref>。[[ガーディアン|''The Guardian'']]のJack Seale本作の評価を4/5とし、「楽しく軽快でそして速い」と述べ、トランスジェンダーコミュニティに対する本作の取り扱いも称賛した<ref name=":0" />。Anita Singhは''The Sunday Telegraph''は本作のトランスジェンダー支持の姿勢を批判しつつ、「大衆の興味を取り戻す必要のあるフランチャイズにとって完璧な再入場である」として評価を4/5とした<ref>{{cite news |url=https://dailytelegraph.pressreader.com/article/281590950314864 |last1=Singh |first1=Anita |title=Gender lectures can't spoil a Time Lord treat |work=[[The Sunday Telegraph]] |issue=3,257 |date=26 November 2023 |page=3|issn=0307-1235}}</ref>。エド・パワーは[[インデペンデント|''The Independent'']]で、チブナル期の複雑なエピソードの後で本作が基本に立ち返ったアプローチを称賛し、特に14代目ドクターを演じたテナントの演技を高く評価した<ref>{{Cite web |date=26 November 2023 |title=Doctor Who: The Star Beast review – David Tennant is back and gloriously eccentric |url=https://www.independent.co.uk/arts-entertainment/tv/reviews/david-tennant-doctor-who-the-star-beast-review-b2453602.html |access-date=26 November 2023 |website=The Independent |language=en}}</ref>。BBCのニール・アームストロングの評価はより複雑であり、ファンを喜ばせる内容が多い一方で新規視聴者の獲得が難しいと指摘し、また進歩主義的姿勢に焦点を当てたことについて「説教臭い」とした<ref>{{cite news|url=https://www.bbc.com/culture/article/20231120-doctor-who-the-star-beast-the-first-60th-anniversary-special-is-a-whimsical-affair |last1=Armstrong |first1=Neil |title=Doctor Who: The Star Beast first look review – the first 60th anniversary special is a 'whimsical' affair |work=[[BBC]] |date=20 November 2023}}</ref>。 また本作でトランスジェンダーの登場人物であるローズを登場させたことについて「不適切」であるとして、BBCは視聴者から144件に上る苦情を受けた<ref>{{Cite web |last=Kanter |first=Jake |date=2023-12-08 |title='Doctor Who' Gets More Than 100 Complaints Over "Inappropriate" Transgender Character |url=https://deadline.com/2023/12/doctor-who-complaints-bbc-transgender-character-1235658283/ |access-date=2023-12-09 |website=Deadline |language=en-US}}</ref>。 == 出典 == {{Reflist|2}} == 外部リンク == * [https://www.disneyplus.com/ja-jp/movies/doctor-who-the-star-beast/2w0hlQiL4Tu9 ドクター・フー:スター・ビースト] - [[Disney+]] * [https://www.bbc.co.uk/programmes/m001sx3h The Star Beast] - [[BBC One]] {{デフォルトソート:すたあひいすと}} [[Category:ドクター・フーのエピソード]] [[Category:ラッセル・T・デイヴィスのシナリオ作品]]
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大澤俊作
歴史小説家。福岡市生まれ。日本ペンクラブ作家。2000年、「臥龍の夢~戦国孔明黒田如水」(叢文社)で文壇デビュー。2011年、歴史小説「紅蓮の炎燃え尽きるまで」でコスモス文学新人賞受賞。「ロックンロール黒田官兵衛」「笑顔が紡ぐ明日」「芝居de歴史~軍師官兵衛の野望」など、舞台脚本も手掛ける。2023年、「黎明の空」(郁朋社)にて戦国最後の戦いは天草・島原の乱という位置づけで乱世の最後を描写。文化サークル等でギター講師も務めている。
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歴史小説家。福岡市生まれ。日本ペンクラブ作家。2000年、「臥龍の夢~戦国孔明黒田如水」(叢文社)で文壇デビュー。2011年、歴史小説「紅蓮の炎燃え尽きるまで」でコスモス文学新人賞受賞。「ロックンロール黒田官兵衛」「笑顔が紡ぐ明日」「芝居de歴史~軍師官兵衛の野望」など、舞台脚本も手掛ける。2023年、「黎明の空」(郁朋社)にて戦国最後の戦いは天草・島原の乱という位置づけで乱世の最後を描写。文化サークル等でギター講師も務めている。
{{複数の問題 |存命人物の出典明記=2023-12 |独自研究= 2023年12月 }} '''大澤 俊作'''(おおさわ しゅんさく)は、[[日本]]の歴史作家。[[福岡県]][[福岡市]]出身。日本ペンクラブ作家。ギター講師。 == 略歴 == 2000年、『臥龍の夢~戦国孔明黒田如水』(叢文社)で文壇デビュー。 2011年、歴史小説『紅蓮の炎燃え尽きるまで』でコスモス文学新人賞受賞。「ロックンロール黒田官兵衛」、「笑顔が紡ぐ明日」、「芝居de歴史~軍師黒田官兵衛の野望と明智光秀の正義」など舞台脚本も手掛ける<ref>[https://www.onojo-occm.jp/li/155/shibaiderekishi.pdf 芝居de歴史~軍師黒田官兵衛の野望と明智光秀の正義]</ref>。 2023年の『黎明の空』(郁朋社)は、「戦国最後の戦いは[[島原の乱|天草・島原の乱]]」という前提で執筆した。 == 脚注 == {{Reflist}} {{Writer-stub}} {{DEFAULTSORT:おおさわ しゆんさく}} [[Category:日本の男性作家]] [[Category:福岡市出身の人物]] [[Category:存命人物]]
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Judgement2023〜後楽園史上最長5時間スペシャル〜
『Judgement2023〜後楽園史上最長5時間スペシャル〜』(ジャッジメント2023 こうらくえんしじょうさいちょう5じかんすぺしゃる)日本のプロレス団体DDTプロレスリングによって後楽園ホールで行われた興行である。
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『Judgement2023〜後楽園史上最長5時間スペシャル〜』日本のプロレス団体DDTプロレスリングによって後楽園ホールで行われた興行である。
{{Infobox MMA event | 大会名 = Judgement2023〜後楽園史上最長5時間スペシャル〜 | シリーズ = | 主催 = 株式会社[[DDTプロレスリング]] | 開催年月日 = [[2023年]][[3月21日]] | 開催地 = {{JPN}} [[東京都]][[文京区]] | 会場 = [[後楽園ホール]] | 試合数 = | 放送局 = [[WRESTLE UNIVERSE]] | 入場者数 = 1,138人(満員) | 備考 = }} 『'''Judgement2023〜後楽園史上最長5時間スペシャル〜'''』(ジャッジメント2023 こうらくえんしじょうさいちょう5じかんすぺしゃる)日本のプロレス団体[[DDTプロレスリング]]によって[[後楽園ホール]]で行われた興行である。 == 概要 == == 試合 == {| class="wikitable" style="width: 100%;" |- |colspan="3" style="background-color: YELLOWGREEN;"|ダークマッチ イルシオン&エル・ユニコーンDDTeeen!!卒業試合 15分一本勝負 |- |style="text-align: right;"|◯'''[[イルシオン]]'''<br />'''[[中村宗達]]''' |style="text-align: center;"|8分14秒<br />RE:VISION1→片エビ固め |style="text-align: left;"|'''[[エル・ユニコーン]]'''●<br />'''[[今井礼夢]]''' |- |colspan="3" style="background-color: YELLOWGREEN;"|オープニングマッチ 30分一本勝負 |- |style="text-align: right;"|◯'''[[高鹿佑也]]'''<br />'''[[石田有輝]]''' |style="text-align: center;"|9分2秒<br />変形トライアングルランサー |style="text-align: left;"|'''[[小嶋斗偉]]'''<br />'''[[須見和馬]]'''● |- |colspan="3" style="background-color: YELLOWGREEN;"|第二試合 平田一喜デビュー13周年記念試合 30分一本勝負 |- |style="text-align: right;"|●'''[[平田一喜]]'''<br />'''[[ヨシヒコ]]''' |style="text-align: center;"|10分39秒<br />ランニング両腕極めドライバー→片エビ固め |style="text-align: left;"|'''[[石井慧介]]'''◯<br />'''[[高尾蒼馬]]''' |- |colspan="3" style="background-color: YELLOWGREEN;"|第三試合 第4代O-40王座決定3WAYマッチ 60分一本勝負 |- |style="text-align: right;"|◯'''[[大石真翔]]''' |style="text-align: center;"|4分54秒<br />エビ固め |style="text-align: left;"|'''[[ゴージャス松野]]'''●<BR><BR>'''[[川松真一朗]]''' |- |colspan="3"|大石が第4代王者となる。 |- |colspan="3" style="background-color: YELLOWGREEN;"|第四試合 フェロモンズvsフェロモンズ討伐軍全面対抗戦~ノータッチ&フェロモンズが脱いだら即反則負けルール 30分一本勝負 |- |style="text-align: right;"|×'''[[飯野雄貴|飯野“セクシー”雄貴]]'''<br />'''[[男色ディーノ| 男色“ダンディ”ディーノ]]'''<br />'''[[今成夢人|今成"ファンタスティック"夢人]]'''<br />'''[[竹田光珠|竹田"シャイニングボール"光珠]]''' |style="text-align: center;"|11分21秒<br />無効試合 |style="text-align: left;"|'''[[彰人]]'''<br />'''[[大鷲透]]'''<br />'''[[大和ヒロシ]]'''×<br />'''[[岡田佑介]]''' |- |colspan="3" style="background-color: YELLOWGREEN;"|第五試合 スペシャルタッグマッチ 30分一本勝負 |- |style="text-align: right; width: 30%;"|'''[[マックス・ジ・インペイラー]]'''<br />◯'''[[ハイディ・ハウイツァ]]''' |style="text-align: center; width: 30%;"|7分46秒<br />マスターブラスター→体固め |style="text-align: left; width: 30%;"|'''[[マッスル坂井#スーパー・ササダンゴ・マシン|スーパー・ササダンゴ・マシン]]'''●<br />'''[[アントーニオ本多]]''' |- |colspan="3" style="background-color: YELLOWGREEN;"|第六試合 赤井沙希デビュー10周年記念試合vol.1 30分一本勝負 |- |style="text-align: right; width: 30%;"|●'''[[高梨将弘]]''' |style="text-align: center; width: 30%;"|9分19秒<br />ケツァル・コアトル |style="text-align: left; width: 30%;"|'''[[赤井沙希]]'''◯ |- |colspan="3" style="background-color: YELLOWGREEN;"|第七試合 30分一本勝負 |- |style="text-align: right;"|◯'''[[HARASHIMA]]'''<br />'''[[中村圭吾]]''' |style="text-align: center;"|12分26秒<br />蒼魔刀→体固め |style="text-align: left;"|'''[[坂口征夫]]'''<br />'''[[岡谷英樹]]'''● |- |colspan="3" style="background-color: YELLOWGREEN;"|第八試合 スペシャルシングルマッチ 30分一本勝負 |- |style="text-align: right;"|●'''[[町田光]]''' |style="text-align: center;"|6分31秒<br />侍ドライバー'01→片エビ固め |style="text-align: left;"|'''[[正田壮史]]'''◯ |- |colspan="3" style="background-color: YELLOWGREEN;"|第九試合 スペシャル6人タッグマッチ〜CHARISMA RETURNS! 30分一本勝負 |- |style="text-align: right;"|◯'''[[佐々木大輔 (プロレスラー)|佐々木大輔]]'''<br />'''[[柴田正人|MJポー]]'''<br />'''[[KANON (プロレスラー)|KANON]]''' |style="text-align: center;"|11分55秒<br />ミスティカ式クロス・フェースロック |style="text-align: left;"|'''[[クリス・ブルックス]]'''<br />'''[[ドリュー・パーカー]]'''<br />'''[[円華|新納刃]]'''● |- |colspan="3" style="background-color: YELLOWGREEN;"|第十試合 DDT EXTREME選手権試合 60分一本勝負 |- |style="text-align: right;"|◯'''[[秋山準]]'''<br />(第56代王者) |style="text-align: center;"|10分48秒<br />リストクラッチ式首固め |style="text-align: left;"|'''[[鈴木鼓太郎]]'''●<br />(挑戦者) |- |colspan="3"|※第56代王者が4度目の防衛に成功。 |- |colspan="3" style="background-color: YELLOWGREEN;"|第十一試合 DDT旗揚げ26周年記念スペシャルシングルマッチ 30分一本勝負 |- |style="text-align: right;"|◯'''[[高木三四郎]]''' |style="text-align: center;"|13分17秒<br />KO勝ち |style="text-align: left;"|'''[[竹下幸之介]]'''● |- |colspan="3" style="background-color: YELLOWGREEN;"|第十二試合 インターナショナルスペシャルシングルマッチ 30分一本勝負 |- |style="text-align: right;"|●'''[[サムライ・デル・ソル]]''' |style="text-align: center;"|13分28秒<br />WR→エビ固め |style="text-align: left;"|'''[[上野勇希]]'''◯ |- |colspan="3" style="background-color: YELLOWGREEN;"|第十三試合 DDT UNIVERSAL選手権試合 60分一本勝負 |- |style="text-align: right;"|●'''[[土井成樹]]'''<br />(第9代王者) |style="text-align: center;"|20分49秒<br />バーニングスター・プレス→エビ固め |style="text-align: left;"|'''[[遠藤哲哉]]'''◯<br />(挑戦者) |- |colspan="3"|※第9代王者が2度目の防衛に失敗。遠藤が第10代王者となる。 |- |colspan="3" style="background-color: YELLOWGREEN;"|セミファイナル KO-Dタッグ選手権~エニウェアフォールルール 60分一本勝負 |- |style="text-align: right;"|◯'''[[井上麻生|MAO]]'''<br />'''[[勝俣瞬馬]]'''<br />(第76代王者) |style="text-align: center;"|18分15秒<br />俺たちのまっどまっくす→エビ固め |style="text-align: left;"|'''[[樋口和貞]]'''<BR>'''[[中津良太]]'''●<BR>(挑戦者組) |- |colspan="3"|※第76代王者組が4度目の防衛に成功。 |- |colspan="3" style="background-color: YELLOWGREEN;"|メインイベント KO-D無差別級選手権試合 60分一本勝負 |- |style="text-align: right;"|◯'''[[火野裕士]]'''<br />(第80代王者) |style="text-align: center;"|22分23秒<br />Fuckin'BOMB→体固め |style="text-align: left;"|'''[[納谷幸男]]'''●<br />(挑戦者) |- |colspan="3"|※第80代王者が初防衛に成功。 |} == 脚注 == {{Reflist}} {{DDTプロレスリング}} {{DEFAULTSORT:Judgement2023こうらくえんししようさいちよう5しかんすへしやる}} [[Category:DDTの興行]] [[Category:2023年の日本のスポーツ]] [[Category:2023年の東京都]] [[Category:文京区のスポーツ史]] [[Category:2023年3月]] [[Category:長大な項目名]]
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大泉周也
大泉 周也(おおいずみ しゅうや、1999年9月16日 - )は、山形県山形市出身のプロ野球選手(外野手・育成選手)。左投左打。福岡ソフトバンクホークス所属。 山形市立金井小学校で1年生の時に山形リトルで野球を始める。山形市立金井中学校在学時は硬式野球のクラブチームである山形シニアでプレーしていた。 山形県立山形中央高等学校に進学し、1年春から公式戦に出場した。2年夏、3年夏に山形大会決勝に進出し本塁打を放ったが、チームはいずれも敗れ、3年間で甲子園大会出場はなかった。高校通算53本塁打。 高校卒業後は日本製鉄鹿島へ入社。3年間在籍したが目立った実績はなく、2020年オフに勇退した。 その後、2021年春にベースボール・チャレンジ・リーグの福島レッドホープスへ入団した。 2021年は51試合に出場して打率.317、2本塁打、13打点を記録した。 2022年は24試合に出場して打率.258、3本塁打、9打点を記録した。記録した。 2023年は、6月に打率.448、4本塁打、14打点を記録し、月間MVPを受賞した。シーズン全体で61試合に出場して打率.349、16本塁打、52打点を記録し、本塁打王に輝いた。その後、同年10月26日に開催されたドラフト会議にて、福岡ソフトバンクホークスから育成1位指名を受けた。11月21日に仮契約した。背番号は123。
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大泉 周也は、山形県山形市出身のプロ野球選手(外野手・育成選手)。左投左打。福岡ソフトバンクホークス所属。
{{Infobox baseball player | 選手名 = 大泉 周也 | 所属球団 = 福岡ソフトバンクホークス | 背番号 = 123 | 画像 = | 画像説明 = | 画像サイズ = | 国籍 = {{JPN}} | 出身地 = [[山形県]][[山形市]] | 生年月日 = {{生年月日と年齢|1999|9|16}} | 没年月日 = | 身長 = 174 | 体重 = 85 | 利き腕 = 左 | 打席 = 左 | 守備位置 = [[外野手]] | プロ入り年度 = NPB / {{NPBドラフト|2023}} | ドラフト順位 = 育成選手ドラフト1位 | 初出場 = | 最終出場 = | 年俸 = | 経歴 = * [[山形県立山形中央高等学校]] * [[日本製鉄鹿島硬式野球部|日本製鉄鹿島]] * [[福島レッドホープス]] (2021 - 2023) * [[福岡ソフトバンクホークス]] (2024 - ) }} '''大泉 周也'''(おおいずみ しゅうや、[[1999年]][[9月16日]] - )は、[[山形県]][[山形市]]出身の[[プロ野球選手]]([[外野手]]・[[育成選手制度 (日本プロ野球)|育成選手]])。左投左打。[[福岡ソフトバンクホークス]]所属。 == 経歴 == === プロ入り前 === [[山形市立金井小学校]]で1年生の時に山形リトルで野球を始める<ref name=":0">{{Cite web |title=大泉周也 {{!}} 福岡ソフトバンクホークス {{!}} 選手 |url=https://sp.baseball.findfriends.jp/player/%E5%A4%A7%E6%B3%89%E5%91%A8%E4%B9%9F/ |website=週刊ベースボールONLINE |access-date=2023-12-11 |language=ja}}</ref>。[[山形市立金井中学校]]在学時は硬式野球のクラブチームである山形シニアでプレーしていた<ref name=":0" />。 [[山形県立山形中央高等学校]]に進学し、1年春から公式戦に出場した。2年夏、3年夏に[[全国高等学校野球選手権山形大会|山形大会]]決勝に進出し本塁打を放ったが、チームはいずれも敗れ、3年間で甲子園大会出場はなかった<ref>{{Cite web |title=【山形】鶴岡東 延長戦制し2年連続5度目の甲子園へ - スポニチ Sponichi Annex 野球 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/07/22/kiji/K20160722013010520.html |website=スポニチ Sponichi Annex |access-date=2023-12-11 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=【山形】日大山形 4年ぶり夏切符 4人が3安打以上の猛打16点 - スポニチ Sponichi Annex 野球 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2017/07/27/kiji/20170726s00001002241000c.html |website=スポニチ Sponichi Annex |access-date=2023-12-11 |language=ja}}</ref><ref name=":1">{{Cite web |title=社会人入りの大泉、プロでソフトバンク・吉住撃つ!/東北スポーツ |url=https://www.sanspo.com/article/20180303-XEJJTFBZMJP3TNOCIBNBWWWVPY/ |website=サンスポ |date=2018-03-03 |access-date=2023-12-11 |language=ja |first=SANKEI DIGITAL |last=INC}}</ref>。高校通算53本塁打<ref name=":1" />。 高校卒業後は[[日本製鉄鹿島硬式野球部|日本製鉄鹿島]]へ入社<ref name=":1" />。3年間在籍したが目立った実績はなく、2020年オフに勇退した<ref>{{Cite web |title=≪勇退者紹介≫ {{!}} 日本製鉄鹿島硬式野球部後援会 |url=https://www.kbw-bb.com/15854.html |website=www.kbw-bb.com |access-date=2023-12-11}}</ref>。 その後、2021年春に[[ベースボール・チャレンジ・リーグ]]の[[福島レッドホープス]]へ入団した<ref name=":2">{{Cite web |title=【ソフトバンク】育成1位指名の独立リーグ・福島・大泉周也外野手「誰よりもバットを振って…」 |url=https://hochi.news/articles/20231102-OHT1T51054.html |website=スポーツ報知 |date=2023-11-02 |access-date=2023-12-11 |language=ja}}</ref>。 === BC福島時代 === 2021年は51試合に出場して打率.317、2本塁打、13打点を記録した<ref>{{Cite web |title=過去の成績 |url=https://www.bc-l.jp/ |website=ルートインBCリーグ -Baseball Challenge League- |access-date=2023-12-11 |language=jp}}</ref>。 2022年は24試合に出場して打率.258、3本塁打、9打点を記録した。記録した<ref>{{Cite web |title=過去の成績 |url=https://www.bc-l.jp/ |website=ルートインBCリーグ -Baseball Challenge League- |access-date=2023-12-11 |language=jp}}</ref>。 2023年は、6月に打率.448、4本塁打、14打点を記録し、月間MVPを受賞した<ref>{{Cite web |title=福島レッドホープス【公式】 |url=https://red-hopes.com/ |website=福島レッドホープス【公式】 |access-date=2023-12-11}}</ref>。シーズン全体で61試合に出場して打率.349、16本塁打、52打点を記録し、本塁打王に輝いた<ref>{{Cite web |title=福島レッドホープス【公式】 |url=https://red-hopes.com/ |website=福島レッドホープス【公式】 |access-date=2023-12-11}}</ref>。その後、同年10月26日に開催された[[2023年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト会議]]にて、[[福岡ソフトバンクホークス]]から育成1位指名を受けた<ref name=":2" />。11月21日に仮契約し<ref>{{Cite web |title=ソフトバンク、育成ドラフト1位で指名した大泉周也と入団合意 今季はルートインBCリーグ福島で本塁打王を獲得した左の強打者:「おっ!」でつながる地元密着のスポーツ応援メディア 西スポWEB OTTO! |url=https://nishispo.nishinippon.co.jp/article/802467 |website=「おっ!」でつながる地元密着のスポーツ応援メディア 西スポWEB OTTO! |access-date=2023-12-11 |language=ja |first=The Nishinippon |last=Shimbun}}</ref>、12月4日、福岡市内で入団発表会見が行われた<ref>{{Cite web|date=2022-12-04|url=https://sports.yahoo.co.jp/official/detail/2023120400095-spnaviow|title=ドラ1・前田悠伍の目標は「200勝投手」福岡ソフトバンク新入団選手発表会見|website=SportsNavi|publisher=[[Yahoo! JAPAN]]|accessdate=2023-12-18}}</ref>。背番号は'''123'''<ref>{{Cite web |title=新入団選手情報 |url=https://www.softbankhawks.co.jp/newcomer/newcomer/ |website=福岡ソフトバンクホークス |access-date=2023-12-11 |language=ja}}</ref>。 == 詳細情報 == === 独立リーグでの年度別打撃成績 === {|{{年度別打撃成績|リーグ=ベースボール・チャレンジ・リーグ}} |- |style="text-align:center;"|{{by2|2021}} |rowspan="3" style="text-align:center;"|[[福島レッドホープス|福島]] |51||221||199||33||63||11||1||2||82||13||3||3||6||1||12||-||3||25||5||.317||.363||.412||.775 |- |style="text-align:center;"|{{by2|2022}} |24||97||89||8||23||4||0||3||36||9||2||1||0||0||6||-||2||17||2||.258||.320||.404||.724 |- |style="text-align:center;"|{{by2|2023}} |61||253||215||42||75||16||3||'''16'''||145||52||3||0||0||2||33||-||3||44||2||.349||.439||.674||1.113 |- !colspan="2"|通算:3年 |136||571||503||83||161||31||4||21||263||84||8||4||6||3||51||-||8||86||9||.320||.389||.523||.912 |} * 各年度の'''太字'''はリーグ最高 === 背番号 === * '''31'''(2021年) * '''7'''(2022年 - 2023年) * '''123'''(2024年 - ) == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[山形県出身の人物一覧]] * [[福島レッドホープスの選手一覧]] * [[福岡ソフトバンクホークスの選手一覧]] == 外部リンク == * [https://www.softbankhawks.co.jp/team/player/detail/2024_00001572.html 123 大泉 周也 選手名鑑2024] - 福岡ソフトバンクホークス オフィシャルサイト * {{Instagram|shu.yaa}} {{福岡ソフトバンクホークスの選手・スタッフ}} {{福岡ソフトバンクホークス2023年ドラフト指名選手}} {{Baseball-biography-stub}} {{デフォルトソート:おおいすみ しゆうや}} [[Category:日本の野球選手]] [[Category:山形県立山形中央高等学校出身の野球選手]] [[Category:日本製鉄鹿島硬式野球部及びその前身チームの選手]] [[Category:福島レッドホープス及びその前身球団の選手]] [[Category:福岡ソフトバンクホークスの育成選手]] [[Category:山形県出身の人物]] [[Category:1999年生]] [[Category:存命人物]]
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チオサリン
チオサリン(Thiosarin)は、有機リン化合物で神経ガスの一種。別称はGBS。
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チオサリン(Thiosarin)は、有機リン化合物で神経ガスの一種。別称はGBS。
{{Chembox | Name = チオサリン | ImageFile = Thiosarin.svg | OtherNames = O-Isopropyl methylphosphonofluoridothioate | IUPACName = | Section1 = {{Chembox Identifiers | CASNo = 4241-37-6 | ChemSpiderID = 4954329 | PubChem = 6451880 | StdInChI= 1S/C4H10FOPS/c1-4(2)6-7(3,5)8/h4H,1-3H3 | StdInChIKey = HXRXYYVPIQXCPA-UHFFFAOYSA-N | SMILES = CC(C)OP(=S)(C)F }} | Section2 = {{Chembox Properties | C=4|H=10|F=1|S=1|O=1|P=1 }} }} '''チオサリン'''(Thiosarin)は、[[有機リン化合物]]で[[神経ガス]]の一種<ref>U.S. Chemical Warfare Policy: Hearings, Ninety-third Congress, Second Session. May 1, 2, 7, 9 and 14, 1974. pg 341-344</ref>。別称は'''GBS'''。 ==関連項目== *[[神経ガス]] *[[G剤]] **[[サリン]] **[[クロロサリン]] **[[エチルサリン]] **[[シクロサリン]] **[[クロチルサリン]] ==脚注== {{reflist}} {{Chemical warfare}} {{chem-stub}} {{DEFAULTSORT:ちおさりん}} [[Category:神経ガス]] [[Category:有機リン化合物]] [[Category:有機フッ素化合物]] [[Category:有機硫黄化合物]] [[Category:コリンエステラーゼ阻害薬]] [[Category:G剤]]
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エヴァ・パブロビッチ・モリ
エヴァ・パブロビッチ・モリ(Eva Pavlović Mori、1996年3月13日 - )はスロベニアの女子バレーボール選手。ポジションはセッター。スロベニア代表。 カナル出身。2011年、Calcit Volleyに入団。国内リーグでは2011/12~2013/14シーズンにかけて3季連続で準優勝した。スロベニアカップでは2回のタイトルを獲った。2014/15シーズンよりイタリアセリエA1のバレー・ベルガモへ移籍し、2015/16シーズンは4位、2016/17シーズンは5位の成績を残した。2017/18シーズンはフランスリーグのBéziers Volleyと契約し、フランスリーグで優勝を果たし、自身もベストセッター賞を受賞した。2018/19シーズンはVolero Le Cannetに移籍し、フランスリーグで4位、世界クラブ選手権に出場した6位となった。2019/20シーズンはポーランドのŁKS Commercecon Łódźへ移籍し、タウロンリーガで3位となった。2020/21シーズンはトルコのİlbankでプレーすることが発表され、シーズン途中までプレーした。2021/22シーズンに再びCalcit Volleyでプレーすることが発表され、国内リーグで優勝に貢献し自身もMVPとベストセッター賞を受賞した。2022/23シーズンはトルコリーグのPTT Sporでプレーした。2023/24シーズンはカザフスタンのVC Kuanyshへ移籍した。 アンダーカテゴリーの代表として、2012年のジュニア欧州選手権で4位となった。2013年、U-19世界選手権に出場し13位となった。2014年、シニア代表に初選出された。2015年、欧州選手権に出場した。2017年、自国開催されたU-23世界選手権に出場し銀メダルを獲得し、自身はベストセッター賞を受賞した。2019年には代表チームで主将を務め、欧州選手権に出場した。2020年には年間最優秀選手賞を受賞した。
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エヴァ・パブロビッチ・モリはスロベニアの女子バレーボール選手。ポジションはセッター。スロベニア代表。
{{バレーボール選手 |本名=エヴァ・パブロビッチ・モリ |ラテン文字=Eva Pavlović Mori |画像=Eva Mori en 2018 (cropped).jpg |国籍={{SVN}} |生年月日={{生年月日と年齢|1996|03|13}} |出身地={{Flagicon|SVN}} [[カナル]] |ポジション=[[セッター (バレーボール)|S]] |所属={{Flagicon|KAZ}} VC Kuanysh |背番号=1 |身長=186cm |体重=67kg |利き手=右 |スパイク=305cm |ブロック=275cm |獲得メダル= }} '''エヴァ・パブロビッチ・モリ'''(Eva Pavlović Mori、[[1996年]][[3月13日]] - )は、[[スロベニア]]の女子[[バレーボール]]選手。ポジションは[[セッター (バレーボール)|セッター]]。[[バレーボールスロベニア女子代表|スロベニア代表]]。 ==来歴== * クラブチーム [[カナル]]出身。2011年、Calcit Volleyに入団。国内リーグでは2011/12~2013/14シーズンにかけて3季連続で準優勝した。スロベニアカップでは2回のタイトルを獲った。2014/15シーズンよりイタリアセリエA1の[[バレー・ベルガモ]]へ移籍し、2015/16シーズンは4位、2016/17シーズンは5位の成績を残した。2017/18シーズンはフランスリーグのBéziers Volleyと契約し<ref>{{Cite web |url=https://worldofvolley.com/volleyballtransfers/DoneDeals/84886/fra-w-eva-mori-left-bergamo-and-moved-to-france.html |title=FRA W: Eva Mori left Bergamo and moved to France |accessdate=2023-12-11 |date=2017-05-25}}</ref>、フランスリーグで優勝を果たし、自身もベストセッター賞を受賞した。2018/19シーズンはVolero Le Cannetに移籍し<ref>{{Cite web |url=https://worldofvolley.com/latest_news/france/98249/fra-w-eva-mori-moved-to-volero-le-cannet.html |title=FRA W: Eva Mori moved to Volero Le Cannet |accessdate=2023-12-11 |date=2018-05-12}}</ref>、フランスリーグで4位、世界クラブ選手権に出場した6位となった。2019/20シーズンはポーランドのŁKS Commercecon Łódźへ移籍し<ref>{{Cite web |url=https://www.lkscommerceconlodz.pl/eva-mori-rozgrywajaca-lodzkich-wiewior/ |title=EVA MORI ROZGRYWAJĄCĄ ŁÓDZKICH WIEWIÓR |accessdate=2023-12-11 |date=2019-06-15}}</ref>、タウロンリーガで3位となった。2020/21シーズンはトルコのİlbankでプレーすることが発表され<ref>{{Cite web |url=https://www.instagram.com/p/CFSuQwupuVo/ |title=Eva Mori, İlbank’ta!.. |accessdate=2023-12-11 |date=2020-09-19}}</ref>、シーズン途中までプレーした。2021/22シーズンに再びCalcit Volleyでプレーすることが発表され<ref>{{Cite web |url=https://www.calcitvolley.si/clani/eva-mori-spet-za-calcit-volley-novinec-tudi-danilo-pavlovic/ |title=EVA MORI SPET ZA CALCIT VOLLEY, NOVINEC TUDI DANILO PAVLOVIĆ |accessdate=2023-12-11 |date=2021-06-23}}</ref>、国内リーグで優勝に貢献し自身もMVPとベストセッター賞を受賞した。2022/23シーズンはトルコリーグのPTT Sporでプレーした。2023/24シーズンはカザフスタンのVC Kuanyshへ移籍した<ref>{{Cite web |url=https://sportklub.n1info.si/odbojka/eva-pavlovic-vc-kuanysh/ |title=Presenetljiva odločitev Eve Pavlović: Ponudbe ni bilo mogoče zavrniti |accessdate=2023-12-11 |date=2023-09-18}}</ref>。 * 代表チーム アンダーカテゴリーの代表として、2012年のジュニア欧州選手権で4位となった。2013年、U-19世界選手権に出場し13位となった。2014年、シニア代表に初選出された。2015年、[[2015年バレーボール女子欧州選手権|欧州選手権]]に出場した。2017年、自国開催された[[第3回世界U23女子バレーボール選手権|U-23世界選手権]]に出場し銀メダルを獲得し、自身はベストセッター賞を受賞した<ref>{{Cite web |url=http://u23.women.2017.volleyball.fivb.com/en/news/turkeys-hande-baladin-honoured-with-u23-world?id=73012 |title=TURKEY’S HANDE BALADIN HONOURED WITH U23 WORLD CHAMPIONSHIP MVP AWARD |accessdate=2023-11-18 |date=2017-09-17}}</ref>。2019年には代表チームで主将を務め、[[2019年バレーボール女子欧州選手権|欧州選手権]]に出場した。2020年には年間最優秀選手賞を受賞した<ref>{{Cite web |url=https://en.volleyballworld.com/en/volleyball/worldcup/2019/news/slovenia-name-their-best-players-of-2020?id=92025 |title=SLOVENIA NAME THEIR BEST PLAYERS OF 2020 |accessdate=2023-12-11 |date=2020-12-23}}</ref>。 ==球歴== * [[バレーボール欧州選手権|欧州選手権]] - 2015年、2019年 ==受賞歴== * 2013年 U-18欧州選手権 ベストセッター賞 * 2014年 U-19欧州選手権 ベストセッター賞 * 2017年 [[第3回世界U23女子バレーボール選手権|U-23世界選手権]] ベストセッター賞 * 2018年 2017/18フランスリーグ ベストセッター賞 * 2020年 2019/20ポーランドタウロンリーガ ベストセッター賞 * 2020年 スロベニアバレーボール連盟による年間最優秀選手賞 * 2022年 2021/22スロベニアリーグ MVP、ベストセッター賞 ==所属クラブ== * {{Flagicon|SVN}} Calcit Volley(2011-2014年) * {{Flagicon|ITA}} [[バレー・ベルガモ]](2014-2017年) * {{Flagicon|FRA}} Béziers Volley(2017-2018年) * {{Flagicon|FRA}} Volero Le Cannet(2018-2019年) * {{Flagicon|POL}} ŁKS Commercecon Łódź(2019-2020年) * {{Flagicon|TUR}} İlbank(2020-2021年) * {{Flagicon|SVN}} Calcit Volley(2021-2022年) * {{Flagicon|TUR}} PTT Spor(2022-2023年) * {{Flagicon|KAZ}} VC Kuanysh(2023-) ==脚注== {{Reflist}} ==外部リンク== * [http://u23.women.2017.volleyball.fivb.com/en/teams/slo-slovenia/players/eva-mori?id=57986 FIVB公式プロフィール] {{Volleybio-stub}} {{DEFAULTSORT:もり えうあ はふろひつち}} [[Category:スロベニアの女子バレーボール選手]] [[Category:バレーボールスロベニア女子代表選手]] [[Category:1996年生]] [[Category:存命人物]]
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観点
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ウンブキ
ウンブキは鹿児島県大島郡天城町浅間にある鍾乳洞である。延長は400m以上あり、片側の口は陸上にあり、他方は海中にある海中鍾乳洞である。縄文時代のものと見られる遺跡が発見されている。
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ウンブキは鹿児島県大島郡天城町浅間にある鍾乳洞である。延長は400m以上あり、片側の口は陸上にあり、他方は海中にある海中鍾乳洞である。縄文時代のものと見られる遺跡が発見されている。
'''ウンブキ'''は[[鹿児島県]][[大島郡 (鹿児島県)|大島郡]][[天城町]]浅間にある[[鍾乳洞]]。「湾屋洞窟」とも呼ばれる<ref name="kanko">[http://www.tokunoshima-kanko.com/tourist_spot/unbuki/ ウンブキ] - 徳之島観光連盟</ref>。 延長が400m以上ある海中鍾乳洞で、陸上側の入口は[[ドリーネ]]状になっている。地盤沈下により海底とつながったと推測されている<ref name="kanko"/>。2019年3月20日から22日にかけて行われた潜水調査により、直線で約700m、総延長にして約1kmまで確認されている<ref name="amamishimbun">{{Cite news |url=https://amamishimbun.co.jp/2019/05/07/18040/|title=日本最大級〝水中鍾乳洞〟|publisher=奄美新聞社 |accessdate=2023-12-12}}</ref>。潜水調査は危険性を伴うため天城町の許可が必要となっている<ref name="amamishimbun"/>。 [[縄文時代]]のものと見られる遺跡が発見されている<ref>{{Cite news|url=https://www.nankainn.com/news/local/%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%96%E3%82%AD%E3%81%8B%E3%82%89%EF%BC%97%E5%8D%83%E5%B9%B4%E5%89%8D%E3%81%AE%E5%9C%9F%E5%99%A8-%E3%80%8C%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%B4%BB%E7%9F%A5|title=ウンブキから7千年前の土器 「縄文時代の生活知る手掛かり」 天城町|newspaper=[[南海日日新聞]]|date=2020-07-24|accessdate=2023-12-11}}</ref>。 2011年に洞内で通常[[インド洋]]に生息する[[ウナギ目]][[:en:Xenoconger fryeri|のXenoconger fryeri]]が捕獲された。この種の記録は日本初であり、和名としてウンブキアナゴと名付けられた。天城町はウンブキアナゴを天然記念物に指定している<ref>[https://amamishimbun.co.jp/2021/05/01/31243/ 日本初記録種「ウンブキアナゴ」 奄美新聞]</ref>。 == 脚注 == <references /> {{Pref-stub|pref=鹿児島県}} {{デフォルトソート:うんふき}} [[Category:日本の鍾乳洞]] [[Category:天城町]] [[Category:鹿児島県の地形]]
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滑りとねじれのない転がし
滑りとねじれのない転がし(英: rolling without slipping or twisting)とは、n次元リーマン多様体をn次元平面上「滑り」も「ねじれ」もなく転がす事である。 すなわち、n次元リーマン多様体M上に曲線 σ 1 ( t ) {\displaystyle \sigma _{1}(t)} を取り(図の青の線)、 σ 1 ( t ) {\displaystyle \sigma _{1}(t)} に沿ってMをn次元平面 R n {\displaystyle \mathbb {R} ^{n}} 上を「滑ったり」、「ねじれたり」する事なく転がしたときにできる曲線の軌跡を σ 0 ( t ) {\displaystyle \sigma _{0}(t)} とする(図の紫の線)。この σ 0 ( t ) {\displaystyle \sigma _{0}(t)} をM上のリーマン計量によって記述するのが、「滑りとねじれのない転がし」の問題である。 σ 0 ( t ) {\displaystyle \sigma _{0}(t)} はリーマン計量から定まるカルタン接続により決定する事が知られており、またM上の σ ( t ) {\displaystyle \sigma (t)} に沿った(レヴィ・チヴィタ接続に関する)平行移動が R n {\displaystyle \mathbb {R} ^{n}} 上の平行移動と自然に対応する事が知られている。 以下、本項では特に断りがない限り、単に多様体、関数等といった場合はC級のものを考える。また特に断りがない限りベクトル空間は実数体上のものを考え、多様体は縁のないものを考える。 上ではMを R n {\displaystyle \mathbb {R} ^{n}} 上転がす場合を考えたが、より一般に、リーマン多様体M1を別のリーマン多様体M0上転がす場合の定義を与える。 まず定義を天下り的に与える。 定義 ― M0、M1をユークリッド空間 R N {\displaystyle \mathbb {R} ^{N}} のn次元部分多様体とする。区間Iから R N {\displaystyle \mathbb {R} ^{N}} の合同変換群 E u c N ( R ) {\displaystyle \mathrm {Euc} _{N}(\mathbb {R} )} へのなめらかな写像 がM1のM0上の滑りとねじれのない転がしであるとは、M1上の区分的になめらかな曲線 が存在し、 とすると、任意の t ∈ I {\displaystyle t\in I} に対し、以下が成立する事を言う。gは σ 1 {\displaystyle \sigma _{1}} に沿った滑りとねじれのない転がしといい、 σ 0 ( t ) {\displaystyle \sigma _{0}(t)} を σ 1 ( t ) {\displaystyle \sigma _{1}(t)} のgによる発展(英: development)という。 ここで g ̇ ( t ) {\displaystyle {\dot {g}}(t)} は g ( t ) {\displaystyle g(t)} のtによる微分であり、 T σ i ( t ) M i {\displaystyle T_{\sigma _{i}(t)}M_{i}} はMiの σ i ( t ) {\displaystyle \sigma _{i}(t)} における接ベクトル空間を自然に R N {\displaystyle \mathbb {R} ^{N}} の部分空間とみなしたものであり、 T σ i ( t ) ⊥ M i {\displaystyle T_{\sigma _{i}(t)}^{\bot }M_{i}} は T σ i ( t ) M i {\displaystyle T_{\sigma _{i}(t)}M_{i}} の直交補空間である。 定義の各条件の直観的な意味は以下の通りである: 「転がし」条件:M1を合同変換 g ( t ) {\displaystyle g(t)} で変換したとき、1つ目の条件は σ 1 ( t ) ∈ M 1 {\displaystyle \sigma _{1}(t)\in M_{1}} が σ 0 ( t ) ∈ M 0 {\displaystyle \sigma _{0}(t)\in M_{0}} とが重なる事を意味し、2つ目の条件はM1とM0とが接する事を意味する。 σ 0 ( t ) ∈ M 0 {\displaystyle \sigma _{0}(t)\in M_{0}} の「無限小合同変換」 d d s g ( t + s ) g − 1 ( t ) | s = 0 = g ̇ ( t ) g ( t ) − 1 {\displaystyle {\tfrac {d}{ds}}g(t+s)g^{-1}(t)|_{s=0}={\dot {g}}(t)g(t)^{-1}} での σ 0 ( t ) {\displaystyle \sigma _{0}(t)} の移動が0になる事を要請している。簡単のため時刻t0に σ 0 ( t ) {\displaystyle \sigma _{0}(t)} が σ 1 ( t ) {\displaystyle \sigma _{1}(t)} に重なるよう変換した を考えると、 であるので、滑りなし条件は任意のt0に対し σ ~ ̇ 0 ( t 0 ) = σ ̇ 1 ( t 0 ) {\displaystyle {\dot {\tilde {\sigma }}}_{0}(t_{0})={\dot {\sigma }}_{1}(t_{0})} が成立する事と同値であり、したがって σ 0 ( t ) ∈ M 0 {\displaystyle \sigma _{0}(t)\in M_{0}} の長さ ∫ 0 t ‖ σ ̇ 0 ( t ) ‖ d t = ∫ 0 t ‖ σ ~ ̇ 0 ( t ) ‖ d t {\displaystyle \int _{0}^{t}\|{\dot {\sigma }}_{0}(t)\|dt=\int _{0}^{t}\|{\dot {\tilde {\sigma }}}_{0}(t)\|dt} が σ 1 ( t ) ∈ M 1 {\displaystyle \sigma _{1}(t)\in M_{1}} の長さと等しくなる事と意味する。 もし σ 1 ( t ) {\displaystyle \sigma _{1}(t)} が「滑って」いれば σ 0 ( t ) {\displaystyle \sigma _{0}(t)} と σ 1 ( t ) {\displaystyle \sigma _{1}(t)} の長さが異なってしまうので、上記の条件は滑りがない事を意味すると解釈できる。 σ ~ 1 ( t ) {\displaystyle {\tilde {\sigma }}_{1}(t)} 、 g ~ ( t ) {\displaystyle {\tilde {g}}(t)} を前述のように取ると、 T σ ~ 1 ( t 0 ) ( g ~ ( t 0 ) M 1 ) = T σ 0 ( t 0 ) M 0 {\displaystyle T_{{\tilde {\sigma }}_{1}(t_{0})}({\tilde {g}}(t_{0})M_{1})=T_{\sigma _{0}(t_{0})}M_{0}} である。したがって水平方向の「ねじれなし」条件は時刻t0にはM0に接していた g ~ ( t ) ∗ ( T σ 1 ( t 0 ) ( M 1 ) ) = T σ ~ 1 ( t ) ( g ~ ( t ) M 1 ) {\displaystyle {\tilde {g}}(t)_{*}(T_{\sigma _{1}(t_{0})}(M_{1}))=T_{{\tilde {\sigma }}_{1}(t)}({\tilde {g}}(t)M_{1})} が g ~ ( t ) M 1 {\displaystyle {\tilde {g}}(t)M_{1}} の「無限小回転」により鉛直方向にのみ移動する事を保証する。図1のように平面上で自転している物体の場合、平面に水平な微分が生じ、水平方向に「ねじれて」いる事になる。 水平方向のねじれなし条件と同様、 g ~ ( t ) ∗ ( T σ 1 ( t 0 ) ⊥ ( M 1 ) ) = T σ ~ 1 ( t ) ⊥ ( g ~ ( t ) M 1 ) {\displaystyle {\tilde {g}}(t)_{*}(T_{\sigma _{1}(t_{0})}^{\bot }(M_{1}))=T_{{\tilde {\sigma }}_{1}(t)}^{\bot }({\tilde {g}}(t)M_{1})} が g ~ ( t ) M 1 {\displaystyle {\tilde {g}}(t)M_{1}} の「無限小回転」により水平方向にのみ移動する事を保証する。図2では直線(図示せず)の周りを円が回転しているが、この場合、直線に鉛直な方向の微分が残り、垂直方向に「ねじれて」いる事になる。 滑りとねじれのない転がしは一意に存在する: 定理 ― M0、M1を R N {\displaystyle \mathbb {R} ^{N}} に埋め込まれた2つのn次元完備リーマン多様体とし、 σ 1 : I → M 1 {\displaystyle \sigma _{1}~:~I\to M_{1}} をM1上の区分的になめらかな曲線とする。このときσ1に沿ったM1のM0上の滑りとねじれのない転がし g : I → E u c N ( R ) {\displaystyle g~:~I\to \mathrm {Euc} _{N}(\mathbb {R} )} が一意に存在する。 よってgの一意性から、 σ 0 : I → M 0 {\displaystyle \sigma _{0}~:~I\to M_{0}} をσ1のgによる発展とするとき、σ0の事を(gを明示せず)σ1の発展と呼ぶ。 明らかに以下の「対称律」が成立する: 定理 ― 記号を上と同様に取り、 σ 0 : I → M 0 {\displaystyle \sigma _{0}~:~I\to M_{0}} をσ1の発展とする。このとき、gはσ1に沿ったM0のM1上の滑りとねじれのない転がしであり、σ1の発展はσ0である。 また「推移律」も成立する: 定理 ― M0、M1、M2 を R N {\displaystyle \mathbb {R} ^{N}} に埋め込まれた3つのn次元リーマン多様体とし、 σ 2 : I → M 2 {\displaystyle \sigma _{2}~:~I\to M_{2}} をM1上の区分的になめらかな曲線とする。 g2をσ2に沿ったM2のM1上の滑りとねじれのない転がしとし、σ1をその発展とする。 さらにg1をσ1に沿ったM1のM0上の滑りとねじれのない転がしとし、σ0をその発展とする。 このとき、 g 2 ∘ g 1 {\displaystyle g_{2}\circ g_{1}} はσ2に沿ったM2のM0上の滑りとねじれのない転がしであり、その発展はσ0である。 ( M , g ) {\displaystyle (M,g)} をリーマン多様体とすると、 ( M , g ) {\displaystyle (M,g)} にはユークリッド幾何学 ( G , H ) = ( I s o ( E n ) , O ( n ) ) {\displaystyle (G,H)=(\mathrm {Iso} (\mathbb {E} ^{n}),O(n))} をモデルとする捩れのないカルタン幾何学 ( π , P , ω ) {\displaystyle (\pi ,P,\omega )} の構造が一意に入る事が知られている。 σ0をM上の区分的になめらかな曲線とすると、カルタン幾何学構造 ( π , P , ω ) {\displaystyle (\pi ,P,\omega )} により定まるσの発展 が定義可能である。実はこのカルタン幾何学の意味での発展は、滑りとねじれのない転がしによる発展と一致する: 定理 ― Mを R N {\displaystyle \mathbb {R} ^{N}} のn次元部分多様体とし、 σ 1 : I → M {\displaystyle \sigma _{1}~:~I\to M} を区分的になめらかな曲線とする。 このとき、σ1の滑りとねじれのない転がしによる R n ⊂ R N {\displaystyle \mathbb {R} ^{n}\subset \mathbb {R} ^{N}} への発展は、σ1のカルタン幾何学の意味での発展と一致する。 n次元リーマン多様体 M ⊂ R N {\displaystyle M\subset \mathbb {R} ^{N}} を曲線 σ 1 : I → M {\displaystyle \sigma _{1}~:~I\to M} に沿って滑りもねじれもなく R n ⊂ R N {\displaystyle \mathbb {R} ^{n}\subset \mathbb {R} ^{N}} 転がしたときの発展を σ 0 : I → R n {\displaystyle \sigma _{0}~:~I\to \mathbb {R} ^{n}} とすると、時刻tに σ 1 ( t ) {\displaystyle \sigma _{1}(t)} が R n {\displaystyle \mathbb {R} ^{n}} に接した瞬間に T σ 1 ( t ) M {\displaystyle T_{\sigma _{1}(t)}M} が R n {\displaystyle \mathbb {R} ^{n}} に重なるので、自然に写像 が定義できる。この写像を使うと、Mのレヴィ・チヴィタ接続∇の幾何学的意味を述べることができる: 定理 ― v ( t ) ∈ T σ 1 ( t ) M {\displaystyle v(t)\in T_{\sigma _{1}(t)}M} を σ 1 ( t ) {\displaystyle \sigma _{1}(t)} に沿ったM上のベクトル場とすると、以下が成立する: すなわち、曲線 σ 1 ( t ) {\displaystyle \sigma _{1}(t)} に沿った v ( t ) {\displaystyle v(t)} の共変微分を R n {\displaystyle \mathbb {R} ^{n}} に移したものは、 v ( t ) {\displaystyle v(t)} を移したものを通常の意味で微分したものに一致する。この事実から特に、レヴィ-チヴィタ接続による平行移動と R n {\displaystyle \mathbb {R} ^{n}} における通常の意味での平行移動の関係を示すことができる: 系 ― σ 1 ( a ) {\displaystyle \sigma _{1}(a)} における接ベクトル v {\displaystyle v} をM上曲線 σ 1 ( t ) {\displaystyle \sigma _{1}(t)} に沿って(レヴィ・チヴィタ接続の意味で)平行移動したものを v ′ {\displaystyle v'} とするとき、 σ 0 ( a ) {\displaystyle \sigma _{0}(a)} におけるベクトル φ a ( v ) {\displaystyle \varphi _{a}(v)} を R n {\displaystyle \mathbb {R} ^{n}} 上 σ 0 ( b ) {\displaystyle \sigma _{0}(b)} まで通常の意味で平行移動したものは φ b ( v ′ ) {\displaystyle \varphi _{b}(v')} に等しい。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "滑りとねじれのない転がし(英: rolling without slipping or twisting)とは、n次元リーマン多様体をn次元平面上「滑り」も「ねじれ」もなく転がす事である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "すなわち、n次元リーマン多様体M上に曲線 σ 1 ( t ) {\\displaystyle \\sigma _{1}(t)} を取り(図の青の線)、 σ 1 ( t ) {\\displaystyle \\sigma _{1}(t)} に沿ってMをn次元平面 R n {\\displaystyle \\mathbb {R} ^{n}} 上を「滑ったり」、「ねじれたり」する事なく転がしたときにできる曲線の軌跡を σ 0 ( t ) {\\displaystyle \\sigma _{0}(t)} とする(図の紫の線)。この σ 0 ( t ) {\\displaystyle \\sigma _{0}(t)} をM上のリーマン計量によって記述するのが、「滑りとねじれのない転がし」の問題である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "σ 0 ( t ) {\\displaystyle \\sigma _{0}(t)} はリーマン計量から定まるカルタン接続により決定する事が知られており、またM上の σ ( t ) {\\displaystyle \\sigma (t)} に沿った(レヴィ・チヴィタ接続に関する)平行移動が R n {\\displaystyle \\mathbb {R} ^{n}} 上の平行移動と自然に対応する事が知られている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "以下、本項では特に断りがない限り、単に多様体、関数等といった場合はC級のものを考える。また特に断りがない限りベクトル空間は実数体上のものを考え、多様体は縁のないものを考える。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "上ではMを R n {\\displaystyle \\mathbb {R} ^{n}} 上転がす場合を考えたが、より一般に、リーマン多様体M1を別のリーマン多様体M0上転がす場合の定義を与える。", "title": "定義と基本的性質" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "まず定義を天下り的に与える。", "title": "定義と基本的性質" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "定義 ― M0、M1をユークリッド空間 R N {\\displaystyle \\mathbb {R} ^{N}} のn次元部分多様体とする。区間Iから R N {\\displaystyle \\mathbb {R} ^{N}} の合同変換群 E u c N ( R ) {\\displaystyle \\mathrm {Euc} _{N}(\\mathbb {R} )} へのなめらかな写像", "title": "定義と基本的性質" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "がM1のM0上の滑りとねじれのない転がしであるとは、M1上の区分的になめらかな曲線", "title": "定義と基本的性質" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "が存在し、", "title": "定義と基本的性質" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "とすると、任意の t ∈ I {\\displaystyle t\\in I} に対し、以下が成立する事を言う。gは σ 1 {\\displaystyle \\sigma _{1}} に沿った滑りとねじれのない転がしといい、 σ 0 ( t ) {\\displaystyle \\sigma _{0}(t)} を σ 1 ( t ) {\\displaystyle \\sigma _{1}(t)} のgによる発展(英: development)という。", "title": "定義と基本的性質" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ここで g ̇ ( t ) {\\displaystyle {\\dot {g}}(t)} は g ( t ) {\\displaystyle g(t)} のtによる微分であり、 T σ i ( t ) M i {\\displaystyle T_{\\sigma _{i}(t)}M_{i}} はMiの σ i ( t ) {\\displaystyle \\sigma _{i}(t)} における接ベクトル空間を自然に R N {\\displaystyle \\mathbb {R} ^{N}} の部分空間とみなしたものであり、 T σ i ( t ) ⊥ M i {\\displaystyle T_{\\sigma _{i}(t)}^{\\bot }M_{i}} は T σ i ( t ) M i {\\displaystyle T_{\\sigma _{i}(t)}M_{i}} の直交補空間である。", "title": "定義と基本的性質" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "定義の各条件の直観的な意味は以下の通りである:", "title": "定義と基本的性質" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "「転がし」条件:M1を合同変換 g ( t ) {\\displaystyle g(t)} で変換したとき、1つ目の条件は σ 1 ( t ) ∈ M 1 {\\displaystyle \\sigma _{1}(t)\\in M_{1}} が σ 0 ( t ) ∈ M 0 {\\displaystyle \\sigma _{0}(t)\\in M_{0}} とが重なる事を意味し、2つ目の条件はM1とM0とが接する事を意味する。", "title": "定義と基本的性質" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "σ 0 ( t ) ∈ M 0 {\\displaystyle \\sigma _{0}(t)\\in M_{0}} の「無限小合同変換」 d d s g ( t + s ) g − 1 ( t ) | s = 0 = g ̇ ( t ) g ( t ) − 1 {\\displaystyle {\\tfrac {d}{ds}}g(t+s)g^{-1}(t)|_{s=0}={\\dot {g}}(t)g(t)^{-1}} での σ 0 ( t ) {\\displaystyle \\sigma _{0}(t)} の移動が0になる事を要請している。簡単のため時刻t0に σ 0 ( t ) {\\displaystyle \\sigma _{0}(t)} が σ 1 ( t ) {\\displaystyle \\sigma _{1}(t)} に重なるよう変換した", "title": "定義と基本的性質" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "を考えると、", "title": "定義と基本的性質" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "であるので、滑りなし条件は任意のt0に対し σ ~ ̇ 0 ( t 0 ) = σ ̇ 1 ( t 0 ) {\\displaystyle {\\dot {\\tilde {\\sigma }}}_{0}(t_{0})={\\dot {\\sigma }}_{1}(t_{0})} が成立する事と同値であり、したがって σ 0 ( t ) ∈ M 0 {\\displaystyle \\sigma _{0}(t)\\in M_{0}} の長さ ∫ 0 t ‖ σ ̇ 0 ( t ) ‖ d t = ∫ 0 t ‖ σ ~ ̇ 0 ( t ) ‖ d t {\\displaystyle \\int _{0}^{t}\\|{\\dot {\\sigma }}_{0}(t)\\|dt=\\int _{0}^{t}\\|{\\dot {\\tilde {\\sigma }}}_{0}(t)\\|dt} が σ 1 ( t ) ∈ M 1 {\\displaystyle \\sigma _{1}(t)\\in M_{1}} の長さと等しくなる事と意味する。", "title": "定義と基本的性質" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "もし σ 1 ( t ) {\\displaystyle \\sigma _{1}(t)} が「滑って」いれば σ 0 ( t ) {\\displaystyle \\sigma _{0}(t)} と σ 1 ( t ) {\\displaystyle \\sigma _{1}(t)} の長さが異なってしまうので、上記の条件は滑りがない事を意味すると解釈できる。", "title": "定義と基本的性質" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "σ ~ 1 ( t ) {\\displaystyle {\\tilde {\\sigma }}_{1}(t)} 、 g ~ ( t ) {\\displaystyle {\\tilde {g}}(t)} を前述のように取ると、 T σ ~ 1 ( t 0 ) ( g ~ ( t 0 ) M 1 ) = T σ 0 ( t 0 ) M 0 {\\displaystyle T_{{\\tilde {\\sigma }}_{1}(t_{0})}({\\tilde {g}}(t_{0})M_{1})=T_{\\sigma _{0}(t_{0})}M_{0}} である。したがって水平方向の「ねじれなし」条件は時刻t0にはM0に接していた g ~ ( t ) ∗ ( T σ 1 ( t 0 ) ( M 1 ) ) = T σ ~ 1 ( t ) ( g ~ ( t ) M 1 ) {\\displaystyle {\\tilde {g}}(t)_{*}(T_{\\sigma _{1}(t_{0})}(M_{1}))=T_{{\\tilde {\\sigma }}_{1}(t)}({\\tilde {g}}(t)M_{1})} が g ~ ( t ) M 1 {\\displaystyle {\\tilde {g}}(t)M_{1}} の「無限小回転」により鉛直方向にのみ移動する事を保証する。図1のように平面上で自転している物体の場合、平面に水平な微分が生じ、水平方向に「ねじれて」いる事になる。", "title": "定義と基本的性質" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "水平方向のねじれなし条件と同様、 g ~ ( t ) ∗ ( T σ 1 ( t 0 ) ⊥ ( M 1 ) ) = T σ ~ 1 ( t ) ⊥ ( g ~ ( t ) M 1 ) {\\displaystyle {\\tilde {g}}(t)_{*}(T_{\\sigma _{1}(t_{0})}^{\\bot }(M_{1}))=T_{{\\tilde {\\sigma }}_{1}(t)}^{\\bot }({\\tilde {g}}(t)M_{1})} が g ~ ( t ) M 1 {\\displaystyle {\\tilde {g}}(t)M_{1}} の「無限小回転」により水平方向にのみ移動する事を保証する。図2では直線(図示せず)の周りを円が回転しているが、この場合、直線に鉛直な方向の微分が残り、垂直方向に「ねじれて」いる事になる。", "title": "定義と基本的性質" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "滑りとねじれのない転がしは一意に存在する:", "title": "定義と基本的性質" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "定理 ― M0、M1を R N {\\displaystyle \\mathbb {R} ^{N}} に埋め込まれた2つのn次元完備リーマン多様体とし、 σ 1 : I → M 1 {\\displaystyle \\sigma _{1}~:~I\\to M_{1}} をM1上の区分的になめらかな曲線とする。このときσ1に沿ったM1のM0上の滑りとねじれのない転がし g : I → E u c N ( R ) {\\displaystyle g~:~I\\to \\mathrm {Euc} _{N}(\\mathbb {R} )} が一意に存在する。", "title": "定義と基本的性質" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "よってgの一意性から、 σ 0 : I → M 0 {\\displaystyle \\sigma _{0}~:~I\\to M_{0}} をσ1のgによる発展とするとき、σ0の事を(gを明示せず)σ1の発展と呼ぶ。", "title": "定義と基本的性質" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "", "title": "定義と基本的性質" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "明らかに以下の「対称律」が成立する:", "title": "定義と基本的性質" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "定理 ― 記号を上と同様に取り、 σ 0 : I → M 0 {\\displaystyle \\sigma _{0}~:~I\\to M_{0}} をσ1の発展とする。このとき、gはσ1に沿ったM0のM1上の滑りとねじれのない転がしであり、σ1の発展はσ0である。", "title": "定義と基本的性質" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "また「推移律」も成立する:", "title": "定義と基本的性質" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "定理 ― M0、M1、M2 を R N {\\displaystyle \\mathbb {R} ^{N}} に埋め込まれた3つのn次元リーマン多様体とし、 σ 2 : I → M 2 {\\displaystyle \\sigma _{2}~:~I\\to M_{2}} をM1上の区分的になめらかな曲線とする。 g2をσ2に沿ったM2のM1上の滑りとねじれのない転がしとし、σ1をその発展とする。 さらにg1をσ1に沿ったM1のM0上の滑りとねじれのない転がしとし、σ0をその発展とする。", "title": "定義と基本的性質" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "このとき、 g 2 ∘ g 1 {\\displaystyle g_{2}\\circ g_{1}} はσ2に沿ったM2のM0上の滑りとねじれのない転がしであり、その発展はσ0である。", "title": "定義と基本的性質" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "( M , g ) {\\displaystyle (M,g)} をリーマン多様体とすると、 ( M , g ) {\\displaystyle (M,g)} にはユークリッド幾何学 ( G , H ) = ( I s o ( E n ) , O ( n ) ) {\\displaystyle (G,H)=(\\mathrm {Iso} (\\mathbb {E} ^{n}),O(n))} をモデルとする捩れのないカルタン幾何学 ( π , P , ω ) {\\displaystyle (\\pi ,P,\\omega )} の構造が一意に入る事が知られている。", "title": "カルタン接続およびレヴィ・チヴィタ接続との関係" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "σ0をM上の区分的になめらかな曲線とすると、カルタン幾何学構造 ( π , P , ω ) {\\displaystyle (\\pi ,P,\\omega )} により定まるσの発展", "title": "カルタン接続およびレヴィ・チヴィタ接続との関係" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "が定義可能である。実はこのカルタン幾何学の意味での発展は、滑りとねじれのない転がしによる発展と一致する:", "title": "カルタン接続およびレヴィ・チヴィタ接続との関係" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "定理 ― Mを R N {\\displaystyle \\mathbb {R} ^{N}} のn次元部分多様体とし、 σ 1 : I → M {\\displaystyle \\sigma _{1}~:~I\\to M} を区分的になめらかな曲線とする。", "title": "カルタン接続およびレヴィ・チヴィタ接続との関係" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "このとき、σ1の滑りとねじれのない転がしによる R n ⊂ R N {\\displaystyle \\mathbb {R} ^{n}\\subset \\mathbb {R} ^{N}} への発展は、σ1のカルタン幾何学の意味での発展と一致する。", "title": "カルタン接続およびレヴィ・チヴィタ接続との関係" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "n次元リーマン多様体 M ⊂ R N {\\displaystyle M\\subset \\mathbb {R} ^{N}} を曲線 σ 1 : I → M {\\displaystyle \\sigma _{1}~:~I\\to M} に沿って滑りもねじれもなく R n ⊂ R N {\\displaystyle \\mathbb {R} ^{n}\\subset \\mathbb {R} ^{N}} 転がしたときの発展を σ 0 : I → R n {\\displaystyle \\sigma _{0}~:~I\\to \\mathbb {R} ^{n}} とすると、時刻tに σ 1 ( t ) {\\displaystyle \\sigma _{1}(t)} が R n {\\displaystyle \\mathbb {R} ^{n}} に接した瞬間に T σ 1 ( t ) M {\\displaystyle T_{\\sigma _{1}(t)}M} が R n {\\displaystyle \\mathbb {R} ^{n}} に重なるので、自然に写像", "title": "カルタン接続およびレヴィ・チヴィタ接続との関係" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "が定義できる。この写像を使うと、Mのレヴィ・チヴィタ接続∇の幾何学的意味を述べることができる:", "title": "カルタン接続およびレヴィ・チヴィタ接続との関係" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "定理 ― v ( t ) ∈ T σ 1 ( t ) M {\\displaystyle v(t)\\in T_{\\sigma _{1}(t)}M} を σ 1 ( t ) {\\displaystyle \\sigma _{1}(t)} に沿ったM上のベクトル場とすると、以下が成立する:", "title": "カルタン接続およびレヴィ・チヴィタ接続との関係" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "すなわち、曲線 σ 1 ( t ) 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滑りとねじれのない転がしとは、n次元リーマン多様体をn次元平面上「滑り」も「ねじれ」もなく転がす事である。 すなわち、n次元リーマン多様体M上に曲線 σ 1 を取り(図の青の線)、 σ 1 に沿ってMをn次元平面 R n 上を「滑ったり」、「ねじれたり」する事なく転がしたときにできる曲線の軌跡を σ 0 とする(図の紫の線)。この σ 0 をM上のリーマン計量によって記述するのが、「滑りとねじれのない転がし」の問題である。 σ 0 はリーマン計量から定まるカルタン接続により決定する事が知られており、またM上の σ に沿った(レヴィ・チヴィタ接続に関する)平行移動が R n 上の平行移動と自然に対応する事が知られている。 以下、本項では特に断りがない限り、単に多様体、関数等といった場合はC∞級のものを考える。また特に断りがない限りベクトル空間は実数体上のものを考え、多様体は縁のないものを考える。
{{Pathnavbox| {{Pathnav|[[数学]]|[[幾何学]]|[[多様体論]]|[[微分幾何学]]|[[リーマン多様体]]|[[カルタン幾何学|カルタン接続]]、[[レヴィ・チヴィタ接続]]}}}} {{暫定記事名|date=2023年11月}} '''滑りとねじれのない転がし'''{{refn|group="注"|本項の内容に関する日本語の文献を発見できなかったため、「滑りとねじれのない転がし」という名称を始め、本項の専門用語は本項執筆者が暫定的に訳したものである。}}<ref group="注">なお、[[捩率テンソル]]の事を「捩れテンソル」ともいうが、英語では、「捩れテンソル」はtorsion tensor、「ねじれのない転がし」の「ねじれ」はtwistであり、両者は無関係な概念である。</ref>({{lang-en-short|rolling without slipping or twisting}}<ref>[[#Sharpe]] p.375.</ref>)とは、{{mvar|n}}次元リーマン多様体を{{mvar|n}}次元平面上「滑り」も「ねじれ」もなく転がす事である。 [[ファイル:Model_space_development.svg|右|サムネイル|滑りとねじれのない転がし]] すなわち、{{mvar|n}}次元リーマン多様体{{Mvar|M}}上に曲線<math>\sigma_1(t)</math>を取り(図の青の線)、<math>\sigma_1(t)</math>に沿って{{Mvar|M}}を{{Mvar|n}}次元平面<math>\mathbb{R}^n</math>上を「滑ったり」、「ねじれたり」する事なく転がしたときにできる曲線の軌跡を<math>\sigma_0(t)</math>とする(図の紫の線)。この<math>\sigma_0(t)</math>を{{Mvar|M}}上のリーマン計量によって記述するのが、「滑りとねじれのない転がし」の問題である。 <math>\sigma_0(t)</math>はリーマン計量から定まる[[カルタン幾何学|カルタン接続]]により決定する事が知られており、また{{Mvar|M}}上の<math>\sigma(t)</math>に沿った([[レヴィ・チヴィタ接続]]に関する)平行移動が<math>\mathbb{R}^n</math>上の平行移動と自然に対応する事が知られている。 以下、本項では特に断りがない限り、単に多様体、関数等といった場合は{{mvar|C{{sup|∞}}}}級のものを考える。また特に断りがない限りベクトル空間は実数体上のものを考え、多様体は縁のないものを考える。 == 定義と基本的性質 == === 定義 === 上では{{Mvar|M}}を<math>\mathbb{R}^n</math>上転がす場合を考えたが、より一般に、リーマン多様体{{Mvar|M{{sub|1}}}}を別のリーマン多様体{{Mvar|M{{sub|0}}}}上転がす場合の定義を与える。 まず定義を天下り的に与える。 {{math theorem|定義| {{Mvar|M{{sub|0}}}}、{{Mvar|M{{sub|1}}}}をユークリッド空間<math>\mathbb{R}^N</math>の{{mvar|n}}次元部分多様体とする{{Refn|[[ナッシュの埋め込み定理]]により、[[コンパクト空間|コンパクト]]な多様体は必ず十分次元の高いユークリッド空間に埋め込み可能である。|group=注}}。区間{{Mvar|I}}から<math>\mathbb{R}^N</math>の合同変換群<math>\mathrm{Euc}_N(\mathbb{R}) </math>へのなめらかな写像 : <math>g~:~I \to \mathrm{Euc}_N(\mathbb{R}) </math> が{{Mvar|M{{sub|1}}}}の{{Mvar|M{{sub|0}}}}上の'''滑りとねじれのない転がし'''であるとは、{{mvar|M{{sub|1}}}}上の区分的になめらかな曲線 :<math>\sigma_1~:~I \to M_1</math> が存在し、 : <math>\sigma_0(t) :=g(t)\sigma_1(t)</math> とすると、任意の<math>t \in I</math>に対し、以下が成立する事を言う<ref>[[#Shape]] p.377.</ref>。{{mvar|g}}は<math>\sigma_1</math>'''に沿った滑りとねじれのない転がし'''といい、<math>\sigma_0(t)</math>を<math>\sigma_1(t)</math>の{{mvar|g}}による'''発展'''({{lang-en-short|development}})という。 # '''「転がし」条件'''{{refn|group="注"|[[#Sharpe]] p.377では二番目の条件は<math>T_{g(t)\sigma_1(t)} M_1=T_{g(t)\sigma_1(t)} M_0</math>と{{mvar|M{{sub|1}}}}の方の添字も<math>g(t)\sigma_1(t)</math>になっているが、誤記であると判断。}}: ## <math>\sigma_0(t) \in M_0</math> ## <math>T_{\sigma_1(t)} M_1 =T_{\sigma_0(t)} M_0</math> # '''「滑りなし」条件''': ## <math>\dot{g}(t)g(t){}^{-1}\sigma_0(t) =0</math> # '''水平方向の「ねじれなし」条件''' ## <math>(\dot{g}(t)g(t)^{-1})_*T_{\sigma_0(t)}M_0\subset T_{\sigma_0(t)}^{\bot}M_0</math> # '''垂直方向の「ねじれなし」条件''' ## <math>(\dot{g}(t)g(t)^{-1})_*T_{\sigma_0(t)}^{\bot} M_0\subset T_{\sigma_0(t)}M_0</math>}}ここで<math>\dot{g}(t)</math>は<math>g(t)</math>の{{Mvar|t}}による微分であり、<math>T_{\sigma_i(t)}M_i</math>は{{Mvar|M{{sub|i}}}}の<math>\sigma_i(t)</math>における接ベクトル空間を自然に<math>\mathbb{R}^N</math>の部分空間とみなしたものであり、<math>T^{\bot}_{\sigma_i(t)}M_i</math>は<math>T_{\sigma_i(t)}M_i</math>の直交補空間である。 === 定義の直観的な意味 === 定義の各条件の直観的な意味は以下の通りである: ==== 「転がし」条件 ==== 「転がし」条件:{{Mvar|M{{sub|1}}}}を合同変換<math>g(t)</math>で変換したとき、1つ目の条件は<math>\sigma_1(t) \in M_1 </math>が<math>\sigma_0(t)\in M_0</math>とが重なる事を意味し、2つ目の条件は{{Mvar|M{{sub|1}}}}と{{Mvar|M{{sub|0}}}}とが接する事を意味する<ref name=":0">[[#Sharpe]] p.377-378.</ref>。 ==== 「滑りなし」条件 ==== <math>\sigma_0(t)\in M_0</math>の「無限小合同変換」<math>\tfrac{d}{ds}g(t+s)g^{-1}(t)|_{s=0}=\dot{g}(t)g(t)^{-1}</math>での<math>\sigma_0(t)</math>の移動が{{Mvar|0}}になる事を要請している<ref name=":0" />。簡単のため時刻{{Mvar|t{{sub|0}}}}に<math>\sigma_0(t)</math>が<math>\sigma_1(t)</math>に重なるよう変換した : <math>\tilde{\sigma}_1(t) :=g(t_0)\sigma_1(t) </math> : <math>\tilde{g}_0(t) :=g(t)g(t_0)^{-1} </math> を考えると、 : <math> \dot{\tilde{\sigma}_1}(t_0) </math><math> = \tfrac{d}{dt}\tilde{g}(t)\tilde{\sigma}_0(t)|_{t=t_0} </math><math>= \dot{\tilde{g}}(t_0)\tilde{\sigma}_0(t_0) + \tilde{g}(t_0)\dot{\tilde{\sigma}}_0(t_0) </math><math>= \dot{g}(t_0)\sigma_0(t_0) + \dot{\sigma}_0(t_0) </math> : であるので、滑りなし条件は任意の{{Mvar|t{{sub|0}}}}に対し<math>\dot{\tilde{\sigma}}_0(t_0) = \dot{\sigma}_1(t_0)</math>が成立する事と同値であり、したがって<math>\sigma_0(t)\in M_0</math>の長さ<math>\int_0^t \|\dot{\sigma}_0(t)\| dt = \int_0^t \|\dot{\tilde{\sigma}}_0(t)\| dt </math>が<math>\sigma_1(t)\in M_1</math>の長さと等しくなる事と意味する。 もし<math>\sigma_1(t)</math>が「滑って」いれば<math>\sigma_0(t)</math>と<math>\sigma_1(t)</math>の長さが異なってしまうので、上記の条件は滑りがない事を意味すると解釈できる。 ==== 水平方向の「ねじれなし」条件 ==== <math>\tilde{\sigma}_1(t) </math>、<math>\tilde{g}(t) </math>を前述のように取ると、<math>T_{\tilde{\sigma}_1(t_0)} (\tilde{g}(t_0)M_1) =T_{\sigma_0(t_0)}M_0</math>である<ref name=":02">[[#Sharpe]] p.377-378.</ref>。したがって水平方向の「ねじれなし」条件は時刻{{Mvar|t{{sub|0}}}}には{{Mvar|M{{sub|0}}}}に接していた<math>\tilde{g}(t)_*(T_{\sigma_1(t_0)} (M_1))=T_{\tilde{\sigma}_1(t)} (\tilde{g}(t)M_1)</math>が<math>\tilde{g}(t)M_1</math>の「無限小回転」により鉛直方向にのみ移動する事を保証する。図1のように平面上で自転している物体の場合、平面に水平な微分が生じ、水平方向に「ねじれて」いる事になる。 ==== 垂直方向の「ねじれなし」条件 ==== 水平方向のねじれなし条件と同様、<math>\tilde{g}(t)_*(T^{\bot}_{\sigma_1(t_0)} (M_1)) =T^{\bot}_{\tilde{\sigma}_1(t)} (\tilde{g}(t)M_1)</math>が<math>\tilde{g}(t)M_1</math>の「無限小回転」により水平方向にのみ移動する事を保証する。図2では直線(図示せず)の周りを円が回転しているが、この場合、直線に鉛直な方向の微分が残り、垂直方向に「ねじれて」いる事になる。 {{Gallery|File:Sphere rotating.gif|図1:平面(図示せず)の上を自転している物体。水平方向の微分成分が残る。|File:01 Rotationstorus-grün.gif|図2:鉛直方向の直線(図示せず)の周りを回転する円。直線に垂直な方向の微分成分が残る。|width=150|height=170|lines=2}} === 基本的な性質 === 滑りとねじれのない転がしは一意に存在する:{{math theorem|定理|{{mvar|M{{sub|0}}}}、{{mvar|M{{sub|1}}}}を<math>\mathbb{R}^N</math>に埋め込まれた2つの{{mvar|n}}次元完備{{refn|group="注"|[[#Sharpe]]では完備性の条件は明示されていないが、完備でない場合には存在性に対する反例を容易に発見できる。例えば平面を[[半球|半球面]]上転がす場合、半球の縁を超えて発展を延長できない。}}リーマン多様体とし、<math>\sigma_1~:~I \to M_1</math>を{{mvar|M{{sub|1}}}}上の区分的になめらかな曲線とする。このとき{{mvar|σ{{sub|1}}}}に沿った{{Mvar|M{{sub|1}}}}の{{Mvar|M{{sub|0}}}}上の滑りとねじれのない転がし<math>g ~:~ I \to \mathrm{Euc}_N(\mathbb{R}) </math>が一意に存在する<ref>[[#Sharpe]] p.381.</ref>。}}よって{{Mvar|g}}の一意性から、<math>\sigma_0~:~I \to M_0 </math>を{{Mvar|σ{{sub|1}}}}の{{Mvar|g}}による発展とするとき、{{Mvar|σ{{sub|0}}}}の事を({{Mvar|g}}を明示せず){{Mvar|σ{{sub|1}}}}の'''発展'''と呼ぶ。 明らかに以下の「対称律」が成立する:{{math theorem|定理|記号を上と同様に取り、<math>\sigma_0~:~I \to M_0</math>を{{mvar|σ{{sub|1}}}}の発展とする。このとき、{{mvar|g{{sup|-1}}}}は{{mvar|σ{{sub|1}}}}に沿った{{mvar|M{{sub|0}}}}の{{mvar|M{{sub|1}}}}上の滑りとねじれのない転がしであり、{{mvar|σ{{sub|1}}}}の発展は{{mvar|σ{{sub|0}}}}である。 }}また「推移律」も成立する:{{math theorem|定理|{{mvar|M{{sub|0}}}}、{{mvar|M{{sub|1}}}}、{{mvar|M{{sub|2}}}} を<math>\mathbb{R}^N</math>に埋め込まれた3つの{{mvar|n}}次元リーマン多様体とし、<math>\sigma_2~:~I \to M_2</math>を{{mvar|M{{sub|1}}}}上の区分的になめらかな曲線とする。 {{mvar|g{{sub|2}}}}を{{mvar|σ{{sub|2}}}}に沿った{{Mvar|M{{sub|2}}}}の{{Mvar|M{{sub|1}}}}上の滑りとねじれのない転がしとし、{{mvar|σ{{sub|1}}}}をその発展とする。 さらに{{mvar|g{{sub|1}}}}を{{mvar|σ{{sub|1}}}}に沿った{{Mvar|M{{sub|1}}}}の{{Mvar|M{{sub|0}}}}上の滑りとねじれのない転がしとし、{{mvar|σ{{sub|0}}}}をその発展とする。 このとき、<math>g_2\circ g_1</math>は{{mvar|σ{{sub|2}}}}に沿った{{Mvar|M{{sub|2}}}}の{{Mvar|M{{sub|0}}}}上の滑りとねじれのない転がしであり、その発展は{{mvar|σ{{sub|0}}}}である<ref>[[#Sharpe]] p.388.</ref>。 }} == カルタン接続およびレヴィ・チヴィタ接続との関係 == === カルタン接続との関係 === {{Main|カルタン幾何学#モデルがユークリッド幾何学の節}} <math>(M,g)</math>をリーマン多様体とすると、<math>(M,g)</math>にはユークリッド幾何学<math>(G,H)=(\mathrm{Iso}(\mathbb{E}^n),O(n))</math>をモデルとする捩れのないカルタン幾何学<math>(\pi,P,\omega)</math>の構造が一意に入る事が知られている。 {{Mvar|σ{{sub|1}}}}を{{Mvar|M}}上の区分的になめらかな曲線とすると、カルタン幾何学構造<math>(\pi,P,\omega)</math>により定まる{{Mvar|σ{{sub|1}}}}の発展 : <math>\sigma_0~:~I \to G/H =\mathrm{Euc}_n(\mathbb{R}^n)/O(n) \approx \mathbb{R}^n </math> が定義可能である。実はこのカルタン幾何学の意味での発展は、滑りとねじれのない転がしによる発展と一致する:{{math theorem|定理|{{mvar|M}}を<math>\mathbb{R}^N</math>の{{mvar|n}}次元部分多様体とし、<math>\sigma_1~:~I \to M</math>を区分的になめらかな曲線とする。 このとき、{{mvar|σ{{sub|1}}}}の滑りとねじれのない転がしによる<math>\mathbb{R}^n \subset \mathbb{R}^N</math>への発展は、{{mvar|σ{{sub|1}}}}のカルタン幾何学の意味での発展と一致する<ref name="Sharpe386">[[#Sharpe]] pp.386-387.</ref>。}} === レヴィ-チヴィタ接続との関係 === {{Mvar|n}}次元リーマン多様体<math>M \subset \mathbb{R}^N</math>を曲線<math>\sigma_1~:~I \to M</math>に沿って滑りもねじれもなく<math>\mathbb{R}^n \subset \mathbb{R}^N</math>転がしたときの発展を<math>\sigma_0~:~I \to \mathbb{R}^n</math>とすると、時刻{{Mvar|t}}に<math>\sigma_1(t)</math>が<math>\mathbb{R}^n</math>に接した瞬間に<math>T_{\sigma_1(t)}M</math>が<math>\mathbb{R}^n</math>に重なるので、自然に写像 : <math>\varphi_t~:~ T_{\sigma_1(t)}M \to \mathbb{R}^n </math> が定義できる。この写像を使うと、{{Mvar|M}}のレヴィ・チヴィタ接続{{Mvar|∇}}の幾何学的意味を述べることができる:{{math theorem|定理|<math>v(t)\in T_{\sigma_1(t)}M </math>を<math>\sigma_1(t)</math>に沿った{{Mvar|M}}上のベクトル場とすると、以下が成立する<ref name="Sharpe386" />: : <math>\varphi_t\left({\nabla \over dt} v(t)\right) ={d \over dt}\varphi_t(v(t)) </math>}}すなわち、曲線<math>\sigma_1(t)</math>に沿った<math>v(t)</math>の共変微分を<math>\mathbb{R}^n</math>に移したものは、<math>v(t)</math>を移したものを通常の意味で微分したものに一致する。この事実から特に、レヴィ-チヴィタ接続による平行移動と<math>\mathbb{R}^n</math>における通常の意味での平行移動の関係を示すことができる:{{math theorem|系|<math>\sigma_1(a)</math>における接ベクトル<math>v</math>を{{Mvar|M}}上曲線<math>\sigma_1(t)</math>に沿って(レヴィ・チヴィタ接続の意味で)平行移動したものを<math>v'</math>とするとき、<math>\sigma_0(a) </math>におけるベクトル<math>\varphi_a(v)</math>を<math>\mathbb{R}^n</math>上<math>\sigma_0(b) </math>まで通常の意味で平行移動したものは<math>\varphi_b(v')</math>に等しい<ref name="Sharpe386" />。}} == 脚注 == === 出典 === {{reflist|20em}} === 注釈 === {{reflist|30em|group="注"}} == 参考文献 == * {{Cite book|洋書 |title=Differential Geometry: Cartan's Generalization of Klein's Erlangen Program |publisher=Sprinver |date=1997/6/12 |author=Richard Sharpe |ref=Sharpe |series=Graduate Texts in Mathematics |volume=166 |isbn=978-0387947327}} {{DEFAULTSORT:すへりとねしれ}} [[Category:接続 (数学)]] [[Category:リーマン幾何学]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:回転]]
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周漢国公主
周漢国公主(しゅうかんこくこうしゅ、1241年 - 1262年)は、南宋の理宗の娘。 理宗の一人娘である。南宋の皇女で幼少期に夭折せずに成長したのはこの皇女のみであり、理宗に特に可愛がられた。生母の賈貴妃が早世したため、理宗は閻貴妃に養女として育てさせた。 15歳で30歳の状元の周鎮炎と縁組したが、公主は周鎮炎の容貌が気に入らなかったので、その婚約を取りやめた。18歳に周国公主に封ぜられ、楊太后の從孫の楊鎮に降嫁した。開慶元年(1259年)、周漢国公主に加封された。理宗は時々娘に会いたいと思って、閣道を建て皇居と公主府をつなぐ、皇帝はかごに乗って何人かの宮女、閻貴妃を連れて府第に公主を見舞いに行った。 子がなく、22歳にて早世した。端孝の諡号が贈られた。 『宋史』列伝第七
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周漢国公主は、南宋の理宗の娘。
'''周漢国公主'''(しゅうかんこくこうしゅ、[[1241年]] - [[1262年]])は、[[南宋]]の[[理宗]]の娘。 == 生涯 == 理宗の一人娘である。南宋の皇女で幼少期に夭折せずに成長したのはこの皇女のみであり、理宗に特に可愛がられた。生母の賈貴妃が早世したため、理宗は閻貴妃に養女として育てさせた。 15歳で30歳の状元の周鎮炎と縁組したが、公主は周鎮炎の容貌が気に入らなかったので、その婚約を取りやめた。18歳に周国公主に封ぜられ、[[恭聖仁烈皇后|楊太后]]の從孫の楊鎮に降嫁した。[[開慶]]元年([[1259年]])、周漢国公主に加封された。理宗は時々娘に会いたいと思って、閣道を建て皇居と公主府をつなぐ、皇帝はかごに乗って何人かの宮女、閻貴妃を連れて府第に公主を見舞いに行った。 子がなく、22歳にて早世した。'''端孝'''の諡号が贈られた。 == 伝記資料 == 『[[宋史]]』列伝第七 {{デフォルトソート:しゆうかんこくこうしゆ}} [[Category:13世紀中国の女性]] [[Category:宋の公主]] [[Category:南宋の人物]] [[Category:1241年生]] [[Category:1262年没]]
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みんなゲンキ!?
みんなゲンキ!?は、2000年12月4日から2001年3月2日までBS朝日で放送された子供向けのテレビ番組。
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みんなゲンキ!?は、2000年12月4日から2001年3月2日までBS朝日で放送された子供向けのテレビ番組。
'''みんなゲンキ!?'''は、2000年12月4日<ref>2000年12月4日 [[朝日新聞]]・朝刊</ref>から2001年3月2日まで[[BS朝日]]で放送された[[子供番組|子供向け]]の[[テレビ番組]]。 == 放送時間 == * 月曜 - 金曜 8時00分 - 9時55分 * 月曜 - 金曜 15時00分 - 16時55分 == 登場キャラクター == ; 元気パパ : 声 - 不明 ; ハナ : 声 - 不明 ; モービー : 声 - 不明 == 放送作品 == {| class="wikitable" ! 放送作品 !! 放送期間 !! 備考 |- | [[エリオット (TVシリーズ)|エリオット]]<ref name="genki">[https://web.archive.org/web/20010124054500fw_/http://www.bs-asahi.co.jp/program/genki_01.html みんなゲンキ!?のコーナー内容](BS朝日、2023年12月11日閲覧)</ref> || 2000年12月4日 - 2001年1月8日 || ネルヴァナ作品<br/>人形劇&アニメ作品 |- | [[消防士サム]]<ref name="genki"/> || 2000年12月4日 - 2001年1月16日<br/>2001年2月14日 - 3月2日 || [[ヒット・エンターテインメント]]製作 |- | [[コロちゃん (エリック・ヒル)|コロちゃんのぼうけん]]<ref name="genki"/> || 2000年12月4日 - 2001年1月8日 || [[:en:King Rollo Films|キング・ロロ・フィルムズ]]製作<br/>制作年:1987年<br/>原題:The Adventures of Spot |- | コロちゃんと おべんきょう || 2001年2月21日 - 3月2日 || 上記の続編<br/>文字と数字のお勉強がテーマ<br/>制作年:1990年([[BBC]])<br/>原題:It's Fun to Learn with Spot |- | [[うまれてきたよ]]<ref name="genki"/> || 2000年12月4日 - 2001年1月 || 監督:オリヴィエ・ブレトン、パスカル・ブレトン<br/>製作:Zodiak Kids Studios<br/>製作年:1999年<br/>原題:Born Wild |- | [[ミスターメン|ミスター・メン&リトル・ミス]]<ref name="genki"/> || 2000年12月4日 - 2001年2月13日 || [[:en:Mr. Men and Little Miss|1995年の作品]]を放送。 |- | [[どうぶつたちのおはなし]]<ref name="genki"/> || 2000年12月4日 - 2001年2月13日 || [[:en:Animal Stories|Animal Stories]]を放送。 |- | [[リトルベア]]<ref name="genki"/> || 2000年12月4日 - 2001年1月25日 || [[ニコロデオン (TVチャンネル)|ニコロデオン]]作品 |- | [[キング・ロロ]]<ref name="genki"/> || 2000年12月4日 - 12月20日 || キング・ロロ・フィルムズ製作<br/>製作年:1980年 |- | [[フランクリン (アニメ)|フランクリン]]<ref name="genki"/> || 2000年12月4日 - 2001年2月13日 || |- | [[ビクターとマリア]] || 2001年1月26日 - 2月20日 || キング・ロロ・フィルムズ製作<br/>製作年:1981年 |- | [[テレサ アンナ ヘレナ 3つごのだいぼうけん]] || 2001年1月17日 - 3月2日 || |- | [[動物園通り64番地]] || 2000年12月21日 - 2001年3月2日 || |- | [[たなのうえの なかまたち]] || 2000年12月21日 - 2001年3月2日 || [[:en:The Animal Shelf|The Animal Shelf]]を放送。 |} == 放送内容 == {{sectstub}} ※現在判明されている分のみ {| class="wikitable" ! 回 !! 放送内容 !! 放送日 |- | 1 || ミスター・メン&リトルミス:おめかしちゃんのおくりもの(Little Miss Splendid's Gift)<br/>どうぶつのおはなし:ブタもやせたい大作戦(Big Pink Pig)<br/>うまれてきたよ:チーター(Cheetah)<br/>コロちゃんのぼうけん:コロちゃんの こづつみ<br/>フランクリン:フランクリン サッカーの試合をする<br/>キングロロ:キングロロとあたらしいクツ(The New Shoes)<br/>エリオット:こんにちは うちゅうじんさん / “ガオー”はどこいった?<br/>リトル・ベア:きょうはなにをきる<br/>消防士サム:たこがとんだ || 2000年12月4日 |- | 2 || ミスター・メン&リトルミス:ゆめゆめくん ほしとはなしをする<br/>どうぶつのおはなし:しあわせガエル(Trevor the Frog)<br/>うまれてきたよ:???<br/>コロちゃんのぼうけん:コロちゃん ホネをなくす<br/>フランクリン:フランクリン ペットをほしがる<br/>キングロロ:キングロロと木(The Tree)<br/>エリオット:マシュマロ列車ききいっぱつ / でられない!<br/>リトル・ベア:かくれんぼ<br/>消防士サム:なやがもえた || 2000年12月5日 |- | 3 || ミスター・メン&リトルミス:こまったちゃんは とっても困ったちゃん<br/>どうぶつのおはなし:そらとぶペンギン(Helen the Penguin)<br/>うまれてきたよ:???<br/>コロちゃんのぼうけん:コロちゃんの おさんぽ<br/>フランクリン:はやくおいで フランクリン<br/>キングロロ:キングロロとパン(The Bread)<br/>エリオット:どっちのシッポがいちばん/おうさまのなつやすみ<br/>リトル・ベア:リトル・ベア つきへいく<br/>消防士サム:トレヴァーのくんれん || 2000年12月6日 |- | 4 || ミスター・メン&リトルミス:メリー・クリスマス おろおろくん<br/>どうぶつのおはなし:いきがとってもくさい犬(Smelly Dog)<br/>うまれてきたよ:???<br/>コロちゃんのぼうけん:コロちゃん もりにいく<br/>フランクリン:フランクリンの 最悪の一日<br/>キングロロ:キングロロとたんじょうび(The Birthday)<br/>エリオット:ポンゴロンゴをさがせ!/エリオットのおえかき<br/>リトル・ベア:バースデー・スープ<br/>消防士サム:パンクそうどう || 2000年12月7日 |- | 5 || ミスター・メン&リトルミス:いみなしくん つきへいく<br/>どうぶつのおはなし:ライオンのなやみ(Big Bold Lion)<br/>うまれてきたよ:???<br/>コロちゃんのぼうけん:コロちゃんの たんじょうび<br/>フランクリン:フランクリン 学校へいく<br/> キングロロ:キングロロとふうせん(The Balloons)<br/>エリオット:ライオネルのしゃっくり/ソックセレラひめ<br/>リトル・ベア:しろくまになった リトル・ベア<br/>消防士サム:こまったのはネコ | 2000年12月8日 |- | 6 || ミスター・メン&リトルミス:きっちりくんの カンペキなお休み<br/>どうぶつのおはなし:よにもふしぎなミミズの恋(Hugh the Worm)<br/>うまれてきたよ:???<br/>コロちゃんのぼうけん:コロちゃんは どこ?<br/>フランクリン:フランクリン まいごになる<br/>キングロロ:キングロロとおさら(The Dishes)<br/>エリオット:ライオンではない日/ぼうしクラブ<br/>リトル・ベア:さかなつり<br/>消防士サム:いたずらっ子のノーマン || 2000年12月11日 |- | 7 || ミスター・メン&リトルミス:マジックちゃんの ひとだすけ<br/>どうぶつのおはなし:ツチブタはみにくいか?(Edwina the Aardvark)<br/>うまれてきたよ:???<br/>コロちゃんのぼうけん:おやすみ コロちゃん<br/>フランクリン:フランクリン おとまりをする<br/>キングロロ:キングロロとおふろ(The Bath)<br/>エリオット:みんなで乗ろう/荒野のクレヨン用心棒<br/>リトル・ベア:よふかし<br/>消防士サム:キャンプへいこう! || 2000年12月12日 |- | 8 || ミスター・メン&リトルミス:ヘルプちゃんの おてつだい<br/>どうぶつのおはなし:ゆっくりなめくじシンプソン(Simpson the Slug)<br/>うまれてきたよ:???<br/>コロちゃんのぼうけん:コロちゃんの がっこう<br/>フランクリン:フランクリンの ハロウィーン<br/>キングロロ:キングロロとさがしもの(The Search)<br/>エリオット:ネス湖にソックシーあらわる/あそびかたをかえてみよう<br/>リトル・ベア:リトル・ベアー のおふろ<br/>消防士サム:テレビはトラブル? || 2000年12月13日 |- | 9 || ミスター・メン&リトルミス:ふくれっつらくんがわらった!<br/>どうぶつのおはなし:ナマケモノがみたものは(Win-Stanley the Sloth) うまれてきたよ:???<br/>コロちゃんのぼうけん:コロちゃんの がっこう<br/>フランクリン:フランクリン じてんしゃにのる<br/>キングロロ:キングロロとキングフランク(King Frank)<br/>エリオット:北極ぐまをさがそう/ドラゴン、うまになる<br/>リトル・ベア:パパが かえってきた<br/>消防士サム:たからさがし | 2000年12月14日 |- | 10 || ミスター・メン&リトルミス:ゆうきくんの おばけたいじ<br/>どうぶつのおはなし:シロクマだけどさむいのキライ!(Polar Bear)<br/>うまれてきたよ:???<br/>コロちゃんのぼうけん:コロちゃんの サーカス<br/>フランクリン:フランクリンは ちらかしや<br/>キングロロ:キングロロと犬(The Dog)<br/>エリオット:201-A宇宙の旅/音が出ない!<br/>リトル・ベア:インフルエンザ<br/>消防士サム:サムのきゅうじつ || 2000年12月15日 |- | 11 || ミスター・メン&リトルミス:ちからもちくん サーカスのスターになる<br/>どうぶつのおはなし:キリンの高さで世の中みれば(Billy the Giraffe)<br/>うまれてきたよ:???<br/>コロちゃんのぼうけん:コロちゃんと みずたまり<br/>フランクリン:フランクリン うそをつく<br/>キングロロ:キングロロとマンガ(The Comic)<br/>エリオット:プレイボール!/おばけ風車<br/>リトル・ベア:たんけん<br/>消防士サム:ポンティパンディの どろぼう || 2000年12月18日 |- | 12 || ミスターメン&リトルミス:もたもたくん クイズばんぐみにでる<br/>どうぶつのおはなし:ヨコへあるけないカニ(Ron the Crab)<br/>うまれてきたよ:???<br/>コロちゃんのぼうけん:コロちゃんと かぜ<br/>フランクリン:フランクリンの もうふ<br/>キングロロ:キングロロとあさごはん(The Breakfast)※終<br/>エリオット:勇者のマント/ゆめのなかで<br/>リトル・ベア:パパとさかなつり<br/>消防士サム:じっけんセット || 2000年12月19日 |- | 13 || ミスターメン&リトルミス:くるりんちゃんの ライバルとうじょう?<br/>どうぶつのおはなし:映画スターになったワニ(Crocodile Lou)<br/>うまれてきたよ:???<br/>コロちゃんのぼうけん:コロちゃんと かいすいよくフランクリン:フランクリンは いばりすぎ<br/>キングロロ:キングロロとあそびば(The Playroom)<br/>エリオット:山にのぼろう/海の女王をすくえ<br/>リトル・ベア:リトル・ベアのねがい<br/>消防士サム:サムおじさんの 火の用心 || 2000年12月20日 |- | 14 || ミスターメン&リトルミス:しつもんのおおい はてなちゃん<br/>どうぶつのおはなし:ゴリラのいきかた(Bobby the Ape)<br/>うまれてきたよ:???<br/>コロちゃんのぼうけん:コロちゃんの のうじょう<br/>フランクリン:フランクリンの ひみつきち<br/>動物園通り64番地:ゾウのネルソンのおはなし(新)<br/>エリオット:こうえんのなぞをとけ/たからものをあつめよう<br/>リトル・ベア:リトル・ベアのかげ<br/>たなのうえの なかまたち:たすけて! ストライピー(新) || 2000年12月21日 |- | 15 || ミスターメン&リトルミス:がんこちゃんは がんこもの?<br/>どうぶつのおはなし:アリだってなまえがほしい!(Ant 2954)<br/>うまれてきたよ:???<br/>コロちゃんのぼうけん:コロちゃんの おとまり<br/>フランクリン:フランクリンの おとしものはひろいどく<br/>動物園通り64番地:ワニのケビンのおはなし<br/>エリオット:スクーターにのろう/いんせきのひみつ<br/>リトル・ベア:ママへのおくりもの<br/>たなのうえの なかまたち:ガンパとえのぐばこ || 2000年12月22日 |- | 16 || ミスターメン&リトルミス:ごちゃまぜくん スケートへいく<br/>どうぶつのおはなし:こんやもコウモリねむれない(Tommy the Bat)<br/>うまれてきたよ:???<br/>コロちゃんのぼうけん:コロちゃんの ケーキづくり<br/>フランクリン:フランクリンの あたらしいおともだち<br/>動物園通り64番地:カンガルーのジョーイのおはなし<br/>エリオット:みえないぞう/おうさまのリクエスト<br/>リトル・ベア:おばあちゃんの家へ<br/>たなのうえの なかまたち:ゲタップ・クルーソー || 2000年12月25日 |- | 17 || ミスターメン&リトルミス:にこちゃんは えがおをはこぶ<br/>どうぶつのおはなし:パンツをはいたカメ(Tony the Tortoise)<br/>うまれてきたよ:???<br/>コロちゃんのぼうけん:コロちゃん こうえんへいく<br/>フランクリン:フランクリンの がくげいかい<br/>動物園通り64番地:ホッキョクグマのスノーバートのおはなし<br/>エリオット:プールであそぼう/ソックスがたいへん<br/>リトル・ベア:おじいちゃん<br/>たなのうえの なかまたち:おうちはどこだ? || 2000年12月26日 |- | 18 || ミスターメン&リトルミス:ちびたくんの大きなゆめ<br/>どうぶつのおはなし:カンガルーにひつようなことは?(Susie the Kangaroo)<br/>うまれてきたよ:???<br/>コロちゃんのぼうけん:コロちゃんと カギ<br/>フランクリン:フランクリンと ひみつクラブ<br/>動物園通り64番地:カバのヘンリエッタのおはなし<br/>エリオット:たからじまのぼうけん/サーカスがやってきた<br/>リトル・ベア:ママのコマドリ<br/>たなのうえの なかまたち:たからさがし || 2000年12月27日 |- | 19 || ミスターメン&リトルミス:のんびりくんが せんとうにたった<br/>どうぶつのおはなし:ラクダのシンデレラ(Camilla the Camel)<br/>うまれてきたよ:???<br/>コロちゃんのぼうけん:コロちゃんと にわ<br/>フランクリン:フランクリンと 歯のようせい<br/>動物園通り64番地:ギグルとティクルのおはなし<br/>エリオット:おへやであそぼう/けがしたライオン<br/>リトル・ベア:しゃっくり<br/>たなのうえの なかまたち:もりのおんがくかい || 2000年12月28日 |- | 20 || ミスターメン&リトルミス:ピョンくんのパラダイス<br/>どうぶつのおはなし:フクロウとオンドリ(Oliver the Owl)<br/>うまれてきたよ:???<br/>コロちゃんのぼうけん:コロちゃん パーティにいく<br/>フランクリン:フランクリンと あかいローラーボード<br/>動物園通り64番地:シマウマのゼッドのおはなし<br/>エリオット:ドラゴンときし/お花をおくろう<br/>リトル・ベア:パパとデート<br/>たなのうえの なかまたち:どうぶつたちのにわ || 2000年12月29日 |- | 21 || ミスターメン&リトルミス:きちんちゃんのへんてこな一日<br/>どうぶつのおはなし:イルカのだいぼうけん(Dinky the Dolphin)<br/>コロちゃんの ぼうけん:コロちゃんの そりあそび<br/>フランクリン:フランクリンは くらやみがきらい<br/>動物園通り64番地:アルマジロのアダムのおはなし<br/>エリオット:エリオットおきて!/あたらしいまほうのぼう<br/>リトル・ベア:プリンのおか<br/>たなのうえの なかまたち:ウォーフルのプレゼント || 2001年1月1日 |- | 22 || ミスターメン&リトルミス:ガリガリくんのだいぼうけん<br/>どうぶつのおはなし:ハムスターのわるいくせ(Clive the Hamster)<br/> コロちゃんの ぼうけん:コロちゃん ゆうえんちへいく<br/>フランクリン:フランクリン せきにんをしる<br/> 動物園通り64番地:キリンのジョージーナのおはなし<br/>エリオット:ジャングル・マラソン大会/みんなとなかよく<br/>リトル・ベア:リトル・ベアとにんぎょ<br/>たなのうえの なかまたち:パズルのなぞをとけ! | 2001年1月2日 |- | 23 || ミスターメン&リトルミス:はかせくんのたこあげ<br/>どうぶつのおはなし:うそつき竜とよばれたら(Fred the Dragon)<br/>コロちゃんの ぼうけん:コロちゃんの おもちゃ<br/>フランクリン:フランクリンと クリスマスのおくりもの<br/>動物園通り64番地:イボイノシシのハーバートのおはなし<br/>エリオット:ライオネルのおひるね/メープルベリーの木<br/>リトル・ベア:パパのそらとぶパンケーキ<br/>たなのうえの なかまたち:へやをかたづけよう! || 2001年1月3日 |- | 24 || ミスターメン&リトルミス:パクパクちゃんの ダイエット<br/>どうぶつのおはなし:ガンのしゃっくりはどうなおす?(Bruce the Goose)<br/>コロちゃんの ぼうけん:コロちゃんの ピクニック<br/>フランクリン:フランクリンの おばあちゃん<br/>動物園通り64番地:ペリカンのポーリンのおはなし<br/>エリオット:まほうのいけ/こわいはなし<br/>リトル・ベア:マラカス<br/>たなのうえの なかまたち:さあ! たんけんだ || 2001年1月4日 |- | 25 || ミスターメン&リトルミス:かんぺきくんの一日<br/>どうぶつのおはなし:にんきものになったゾウ(Eric the Elephant)<br/>コロちゃんの ぼうけん:コロちゃんの おさんぽ(再)<br/>フランクリン:フランクリンと あかちゃん<br/>動物園通り64番地:ジューシー・フルーツ・トゥリーのおはなし<br/>エリオット:いえをつくろう/きえたチョークのゆくえ<br/>リトル・ベア:かぞくのしゃしん<br/>たなのうえの なかまたち:もけいをつくろう! || 2001年1月5日 |- | 26 || ミスターメン&リトルミス:しかえしされた ちょっかいくん<br/>どうぶつのおはなし:ちいさなヘビのだいりょこう(Jake the Snake)<br/>コロちゃんの ぼうけん:コロちゃんとほん(終)<br/>フランクリン:フランクリン キャンプへいく<br/>動物園通り64番地:エレファント・バードのおはなし<br/>エリオット:むらさきのきしのでんせつ/クルミがきえた<br/>リトル・ベア:リトル・ベアの あたらしいともだち<br/>たなのうえの なかまたち:リトル・マット そらをとぶ || 2001年1月8日 |- | 27 || ミスターメン&リトルミス:サーカスをひらいたゆかいくん<br/>どうぶつのおはなし:ヒョウのもようがえ(Brian the Leopard)<br/>消防士サム:ねがいをかなえる いど<br/>フランクリン:フランクリンの おきゃくさん<br/>動物園通り64番地:カメのトビーのおはなし<br/>リトル・ベア:エミリーがやってきた<br/>たなのうえの なかまたち:もぐらのこもり || 2001年1月9日 |- | 28 || ミスターメン&リトルミス:おちびちゃんの わすれられないにちようび<br/>どうぶつのおはなし:みんなとちがうハリネズミ(Pointy the Hedgehog)<br/>消防士サム:サムおじさんは発明家!?<br/>フランクリン:フランクリンは ギブスがだいすき?<br/>動物園通り64番地:ロナルドとチキチキドリのおはなし<br/>リトル・ベア:アヒルさんのこもり<br/>たなのうえの なかまたち:うさぎなんか大きらい || 2001年1月10日 |- | 29 || ミスターメン&リトルミス:ラッキーちゃんのだいじなおともだち<br/>どうぶつのおはなし:うかれクジャクといわれたけど(Peter the Peacock)<br/>消防士サム:プライスさんの長い一日<br/>フランクリン:フランクリンの プレゼント<br/>動物園通り64番地:オードリーのたまごのおはなし<br/>リトル・ベア:リトル・ベアの おんがくたい<br/>たなのうえの なかまたち:オオカミがくるぞ~! || 2001年1月11日 |- | 30 || ミスターメン&リトルミス:ねむれない ぐうたらくん<br/>どうぶつのおはなし:あじでしょうぶのグルメねこ(Lewis the Cat)<br/>消防士サム:ノーマンの水ぼうそう大作戦<br/>フランクリン:フランクリンの はやくおおきくなりたいな<br/>動物園通り64番地:ヒトコブラクダのゲイリーのおはなし<br/>リトル・ベア:カエルのいけで<br/>たなのうえの なかまたち:ウォーフル つきへいく || 2001年1月12日 |- | 31 || ミスターメン&リトルミス:よわむしくんがみせたゆうき<br/>どうぶつのおはなし:ネズミがパーティーひらいたら(Horatio the Rat)<br/>消防士サム:ハロウィーンのよる<br/>フランクリン:フランクリンは スパイ<br/>動物園通り64番地:モリーとナタリーのおはなし<br/>リトル・ベア:リトル・ベアとかぜ<br/>たなのうえの なかまたち:ぼくらのガンパせんちょう || 2001年1月15日 |- | 32 || ミスターメン&リトルミス:やっとまにあった のろちゃん<br/>どうぶつのおはなし:どこへきえたムカデのあし(Cyril the Centipede)<br/>消防士サム:あなにおちたノーマン<br/>フランクリン:フランクリンと としょかんのほん<br/>動物園通り64番地:ウォンバットのウォーリーのおはなし<br/>リトル・ベア:ようせいのおはなし<br/>たなのうえの なかまたち:めざましをやっつけろ! || 2001年1月16日 |- | 33 || ミスターメン&リトルミス:こんにちは もじもじちゃん<br/>どうぶつのおはなし:ふつうのネズミにもどりたい(Jimmy the Mouse)<br/>ビクターとマリア:THE COAT うわぎ / THE CLIMB いわのぼり(新)<br/>フランクリン:フランクリンの たこ<br/>動物園通り64番地:ジャングルひろばのおはなし<br/>リトル・ベア:ねむくないもん<br/>たなのうえの なかまたち:いちばんあつい日 || 2001年1月17日 |- | 34 || ミスターメン&リトルミス:しりたがりやくん なぞをかいけつ<br/>どうぶつのおはなし:もんくのおおいみつばちボブ(Bob the Bee)<br/>ビクターとマリア:THE BANDSTAND おんがくどう / THE CHERRY TREE さくらんぼのき<br/>フランクリン:フランクリンと ベビーシッター<br/>動物園通り64番地:ヘラジカのメラニーのおはなし<br/>リトル・ベア:おじいちゃんの やねうらべや<br/>たなのうえの なかまたち:ティモシーのしゅくだい || 2001年1月18日 |- | 35 || ミスターメン&リトルミス:いいかげんになさい いばるちゃん<br/>どうぶつのおはなし:アオムシそらをとぶ(Keith the Caterpillar)<br/>ビクターとマリア:THE PARCEL こづつみ / HIDE & SEEK かくれんぼ<br/>フランクリン:フランクリンと こわれたちきゅうぎ<br/>動物園通り64番地:ビーバーのビバリーのおはなし<br/>リトル・ベア:リトル・ベアのたまご<br/>たなのうえの なかまたち:ママになった リトル・マット || 2001年1月19日 |- | 36 || ミスターメン&リトルミス:ハッピーくんのしあわせな日<br/>どうぶつのおはなし:カササギのびじゅつかん(Maurice the Magpie)<br/>ビクターとマリア:THE SUN たいよう / THE MOON つき<br/>フランクリン:フランクリンの バレンタイン<br/>動物園通り64番地:アヒルのドリスのおはなし<br/>リトル・ベア:フクロウさんのパーティー<br/>たなのうえの なかまたち:ティモシーのおきゃくさん || 2001年1月22日 |- | 37 || ミスターメン&リトルミス:おしゃべりくんがしゃべれなくなった<br/>どうぶつのおはなし:こうきしんのつよいナマズ(Eddie the Catfish)<br/>ビクターとマリア:THE SANDCASTLE すなのおしろ / THE BOOK ほん<br/>フランクリン:フランクリン家の たからもの<br/>動物園通り64番地:ヘビのエスメラルダのおはなし<br/>リトル・ベア:あめをふらせるおしばい<br/>たなのうえの なかまたち:ふしぎなちず || 2001年1月23日 |- | 38 || ミスターメン&リトルミス:ほうたいくん りょこうへいく<br/>どうぶつのおはなし:どろんこだいすき! カバのおやこ(Sammy the Hippo)<br/>ビクターとマリア:THE DOG いぬ / THE PICNIC ピクニック<br/>フランクリン:フランクリンの ピアノレッスン<br/>動物園通り64番地:カバのエディのぼうけんものがたり<br/>リトル・ベア:リトル・ベアのてがみ<br/>たなのうえの なかまたち:もしもしキンカー || 2001年1月24日 |- | 39 || ミスターメン&リトルミス:おてがらだね コチョコチョくん<br/>どうぶつのおはなし:わらわないハイエナ(Ernest the Hyena)<br/>ビクターとマリア:THE OLD LADY おばあさん / THE CIRCUS サーカス(終)<br/>フランクリン:フランクリン りょこうへいく<br/>動物園通り64番地:ハーバートのバースデー パーティーのおはなし<br/>リトル・ベア:あきのゆめ(終)<br/>たなのうえの なかまたち:なぞのしゃしん || 2001年1月25日 |- | 40 || ミスターメン&リトルミス:たよりになります! ちからもちくん<br/>どうぶつのおはなし:だいかぞくをきらったウサギ(Ralph the Rabbit)<br/>フランクリン:フランクリンの ヘルメット<br/>動物園通り64番地:ゲイリーのしんゆうのおはなし<br/>テレサ アンナ ヘレナ 3つごの だいぼうけん:ロミオとジュリエット<br/>たなのうえの なかまたち:はじめてのゆき || 2001年1月26日 |- | 41 || ミスターメン&リトルミス:くいしんぼうくんのおたのしみ<br/>どうぶつのおはなし:ちいさな貝のオースチン(Austin the Oyster)<br/>フランクリン:フランクリンの たんじょうびパーティー<br/>動物園通り64番地:もりのモンスターのおはなし<br/>テレサ アンナ ヘレナ 3つごの だいぼうけん:キングコング<br/>たなのうえの なかまたち:みんなでツルリンコ || 2001年1月29日 |- | 42 || ミスターメン&リトルミス:まぬけくんのちんはつめい<br/>どうぶつのおはなし:ハエのクモのす だっしゅつさくせん(Philip the Fly)<br/> フランクリン:フランクリンの ニックネーム<br/>動物園通り64番地:コアラのフィービーのおはなし<br/>テレサ アンナ ヘレナ 3つごの だいぼうけん:ターザン<br/>たなのうえの なかまたち:サンタさんてどんなひと? | 2001年1月30日 |- | 43 || ミスターメン&リトルミス:フラフラちゃんはどっちをえらぶ?<br/>どうぶつのおはなし:ハチドリいつもおおいそがし(Felicia the Humming Bird)<br/>フランクリン:フランクリンと カワウソのさいかい<br/>動物園通り64番地:エルキュール ムスターシュのおはなし<br/>テレサ アンナ ヘレナ 3つごの だいぼうけん:レオナルド・ダ・ビンチ<br/>たなのうえの なかまたち:メリー・クリスマス || 2001年1月31日 |- | 44 || ミスターメン&リトルミス:うっかりくんのおかいもの<br/>どうぶつたちのおはなし:みんなではいろうクジラのくちへ(Drew the Whale)<br/>フランクリン:フランクリンの コレクション<br/>動物園通り64番地:ケビンのマジックのおはなし<br/>テレサ アンナ ヘレナ 3つごの だいぼうけん:三銃士<br/>たなのうえの なかまたち:どきどきジャングル || 2001年2月1日 |- | 45 || ミスターメン&リトルミス:きれいちゃんのあとかたづけ<br/>どうぶつたちのおはなし:ウシとニワトリのきょうどうビジネス(Clara the Cow)<br/>フランクリン:フランクリン ごめんなさいをいう<br/>動物園通り64番地:ハーバートの しずかな一日のおはなし<br/>テレサ アンナ ヘレナ 3つごの だいぼうけん:クレオパトラ<br/>たなのうえの なかまたち:たこたこあがれ! || 2001年2月2日 |- | 46 || ミスターメン&リトルミス:ドジくん どっちがごしゅじん?<br/>どうぶつたちのおはなし:チータよりはやいどうぶつはいるか?(Charlie the Cheetah)<br/>フランクリン:フランクリンと かじ<br/>動物園通り64番地:ハーバートと ふきつなスイカのおはなし<br/>テレサ アンナ ヘレナ 3つごの だいぼうけん:クリストファー・コロンブス<br/>たなのうえの なかまたち:ゴシゴシピカピカ || 2001年2月5日 |- | 47 || ミスターメン&リトルミス:こまったちゃんとまほうのペンキ<br/>どうぶつたちのおはなし:たのしさ2ばい! きょうりゅうかぞく(Dinosaur Tim)<br/>フランクリン:フランクリンの かだん<br/>動物園通り64番地:ジョーイの キャンプりょこうのおはなし<br/>テレサ アンナ ヘレナ 3つごの だいぼうけん:クロマニョン人<br/>たなのうえの なかまたち:ガンパおはなしをよむ || 2001年2月6日 |- | 48 || ミスターメン&リトルミス:いそげ せっかちくん あきがくるぞ<br/>どうぶつたちのおはなし:ロバはみんなのにんきもの(Des the Donkey)<br/>フランクリン:フランクリン いえでをする<br/>動物園通り64番地:カメレオンの キャスパーのおはなし<br/>テレサ アンナ ヘレナ 3つごの だいぼうけん:オオカミと7匹の子ヤギ<br/>たなのうえの なかまたち:おえかきしましょ || 2001年2月7日 |- | 49 || ミスターメン&リトルミス:キラリちゃんのゆうかいさわぎ<br/>どうぶつたちのおはなし:サイのきげんがわるいわけ(Ross the Rhinoceros)<br/>フランクリン:フランクリンの ゆううつな一日<br/>動物園通り64番地:クマのボリスのおはなし<br/>テレサ アンナ ヘレナ 3つごの だいぼうけん:ソロモン王の秘宝<br/>たなのうえの なかまたち:そとであそぼう! || 2001年2月8日 |- | 50 || ミスターメン&リトルミス:クリーンちゃんのしみぬき<br/>どうぶつたちのおはなし:コアラがつくったおしゃれなバッグ(Carla the Koala)<br/>フランクリン:フランクリン いまなんじ?<br/>動物園通り64番地:オウムのペチューラのおはなし<br/>テレサ アンナ ヘレナ 3つごの だいぼうけん:マヤパン・マン<br/>たなのうえの なかまたち:ウォーフルとまほうのつえ || 2001年2月9日 |- | 51 || ミスターメン&リトルミス:げんきくんのひみつのぼうし<br/>どうぶつたちのおはなし:はらへりヘラジカ(Melvin the Moose)<br/>フランクリン:フランクリンの テスト<br/>ビクターとマリア:ROLLER SKATES ローラースケート<br/>動物園通り64番地:レジナルドの ながいおひるねのおはなし<br/>テレサ アンナ ヘレナ 3つごの だいぼうけん:マルコ・ポーロ<br/>たなのうえの なかまたち:おいてきぼりはいやだよ~ || 2001年2月12日 |- | 52 || ミスターメン&リトルミス:ケチケチくん さいこうのプレゼントをもらう<br/>どうぶつたちのおはなし:ハトのなまえがなぜドードー?(Dodo the Pigeon)<br/>フランクリン:フランクリンと 子ガモ<br/>ビクターとマリア:THE LiFT エレベーター<br/>動物園通り64番地:よあけのコーラスのおはなし<br/>テレサ アンナ ヘレナ 3つごの だいぼうけん:フランケンシュタイン<br/>たなのうえの なかまたち:ジャムはこりごり || 2001年2月13日 |- | 53 || 消防士サム:ゆびわがない!<br/>ビクターとマリア:THE CHERRY CAKE チェリーケーキ/VICTOR'S BIRTHDAY ビクターのたんじょうび<br/>動物園通り64番地:ハイエナのかぞくりょこうのおはなし<br/>テレサ アンナ ヘレナ 3つごの だいぼうけん:海底二万里<br/>たなのうえの なかまたち:どうぶつをみよう! || 2001年2月14日 |- | 54 || 消防士サム:おわりよければすべてよし<br/>ビクターとマリア:THE SNOW ゆき/TENNIS テニス<br/>動物園通り64番地:アナコンダのアニーのおはなし<br/>テレサ アンナ ヘレナ 3つごの だいぼうけん:サンタクロース<br/>たなのうえの なかまたち:うきうきバレンタイン || 2001年2月15日 |- | 55 || 消防士サム:ブラスバンド<br/>ビクターとマリア:THE GARDEN SHED にわのおきもの/THE ECHO こだま<br/>動物園通り64番地:ジョージーナの バンブル・ベリー・スープのおはなし<br/>テレサ アンナ ヘレナ 3つごの だいぼうけん:ホワイト・ファング<br/>たなのうえの なかまたち:おばけがでたぞー! || 2001年2月16日 |- | 56 || 消防士サム:きりの中にまよって<br/>ビクターとマリア:THE TOP HAT やまたかぼう/TRAINING THE DOG いぬのくんれん<br/>動物園通り64番地:イトコのチャクルのおはなし<br/>テレサ アンナ ヘレナ 3つごの だいぼうけん:インドのキム<br/>たなのうえの なかまたち:たまごをさがせ! || 2001年2月19日 |- | 57 || 消防士サム:ロボットのベントリー<br/>ビクターとマリア:THE UMBRELLA かさ/YO-YO'S ヨーヨー<br/>動物園通り64番地:フラミンゴの イザベルのおはなし<br/>テレサ アンナ ヘレナ 3つごの だいぼうけん:モーツァルト<br/>たなのうえの なかまたち:ガンパのはこぶね || 2001年2月20日 |- | 58 || 消防士サム:ベラ ききいっぱつ<br/>コロちゃんと おべんきょう:コロちゃんの アルファベット<br/>動物園通り64番地:ツチブタのアランのおはなし<br/>テレサ アンナ ヘレナ 3つごの だいぼうけん:トム・ソーヤ<br/>たなのうえの なかまたち:おかねはこわいよー! || 2001年2月21日 |- | 59 || 消防士サム:おおいなる いさん!?<br/>コロちゃんと おべんきょう:コロちゃんの 1ねんかん<br/>動物園通り64番地:ビッグなおきゃくさまのおはなし<br/>テレサ アンナ ヘレナ 3つごの だいぼうけん:クリスタル・バラライカ<br/>たなのうえの なかまたち:おやのおやはオヤオヤ? || 2001年2月22日 |- | 60 || 消防士サム:いしきりばでのさいなん<br/>コロちゃんと おべんきょう:コロちゃんの 123<br/>動物園通り64番地:メラニーのバースデー・プレゼント<br/>テレサ アンナ ヘレナ 3つごの だいぼうけん:宇宙旅行<br/>たなのうえの なかまたち:テントをはろう! || 2001年2月23日 |- | 61 || 消防士サム:サムおじさんの大ピンチ<br/>コロちゃんと おべんきょう:コロちゃんと とけい<br/>動物園通り64番地:モッシー・ベイの ツノメドリのおはなし<br/>テレサ アンナ ヘレナ 3つごの だいぼうけん:モビー・ディック<br/>たなのうえの なかまたち:おしろのおおさま || 2001年2月26日 |- | 62 || 消防士サム:バザーの準備はたいへん<br/>コロちゃんと おべんきょう:コロちゃんの はんたいことば<br/>動物園通り64番地:ワニのビクターのおはなし<br/>テレサ アンナ ヘレナ 3つごの だいぼうけん:サーカス<br/>たなのうえの なかまたち:ハラハラ! レーシングカー || 2001年2月27日 |- | 63 || 消防士サム:熱気球で大冒険<br/>コロちゃんと おべんきょう:コロちゃんのことばなあに?<br/>動物園通り64番地:ロナルドとロージーのおはなし<br/>テレサ アンナ ヘレナ 3つごの だいぼうけん:アフリカ<br/>たなのうえの なかまたち:リトルマットのほし || 2001年2月28日 |- | 64 || 消防士サム:スティール署長の退職騒動<br/>コロちゃんと おべんきょう:コロちゃんのどんないろ?<br/>動物園通り64番地:ナタリーの あたらしいりんじんのおはなし<br/>テレサ アンナ ヘレナ 3つごの だいぼうけん:オペラ座の怪人<br/>たなのうえの なかまたち:すってんころりん うんどうかい || 2001年3月1日 |- | 65 || 消防士サム:お料理ロボット誕生<br/>コロちゃんと おべんきょう:コロちゃんの どんなかたち?<br/>動物園通り64番地:コウノトリのシーマスのおはなし<br/>テレサ アンナ ヘレナ 3つごの だいぼうけん:80日間世界一周<br/>たなのうえの なかまたち:さよならガンパ || 2001年3月2日 |} == スタッフ == <ref>[https://web.archive.org/web/20010124054300fw_/http://www.bs-asahi.co.jp/program/genki.html みんなゲンキ!?](BS朝日、2023年12月11日閲覧)</ref> * プロデューサー - 松野下真司(BS朝日)、石渡晶一郎 * アシスタントプロデューサー - 岡伸彦 * ディレクター - 真喜屋力 * 総合演出 - 山本実(トライコムアーツ) * 制作 - [[BS朝日]]、[[トライコムアーツ]] == 脚注 == {{reflist}} {{DEFAULTSORT:みんなげんき}} [[Category:BS朝日]] [[Category:2000年のテレビ番組 (日本)]]
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ロヴチェン山
ロヴチェン山(セルビア語: Ловћен, Lovćen、発音: [lôːʋtɕen])は、モンテネグロ・ツェティニェに所在する山である。同国の名前の由来となった山であり、同国の国立公園に指定されている山である。標高は1,749 m (5,738 ft)。 コトル湾を望む位置に存在している山岳であり、石灰岩と苦灰岩で出来たカルスト地形が見られる山である。西側が海、東側が陸であるため、海洋性気候と大陸性気候の両方の影響を受けている。1276年にこの山をステファン・ウロシュ2世ミルティンがツルナ・ゴーラと言及したのが史料に見え、黒い山を意味するツルナ・ゴーラと呼ばれたのは遠くから見ると森林が密集して黒く見えるためである。これをヴェネト語に直訳したものがモンテネグロである。 ロヴチェン山は国立公園に指定されており、その面積は62.20 km (24.02 sq mi)である。1952年に指定された。自然に価値があるのみならず、歴史的、文化的、建築的にも重要な土地とされている。牛飼いが夏に使う伝統的な小屋や、ペトロヴィッチ=ニェゴシュ朝王家生誕の地であるニェグシとコトルとを結ぶ道路もモンテネグロの歴史を語る上で重要な史蹟である。 ロヴチェン山で最も重要なモニュメントはペタル2世廟である。死後120年を経た1971年に、本人の遺志に基づいて山頂に設置された。 第一次世界大戦では戦場としてモンテネグロの歴史に大きく影響する舞台となった。同大戦が勃発するとセルビア王国が参戦、これに真っ先に同盟して参戦したのがモンテネグロ王国ニコラ1世であった。1914年8月8日に参戦したモンテネグロはコトル湾にあるオーストリア=ハンガリー帝国の海軍基地を攻撃する作戦に出た。ロヴチェン山の向こう側には国境があり、オーストリア=ハンガリー陸軍も駐留している状況下でモンテネグロ軍は一斉に攻撃を開始した。装甲巡洋艦のカイザー・カール6世はこの攻撃から退却したが、プーラから3艘の弩級戦艦を呼んでくる結末となった。この時点でモンテネグロ軍には最早数週間連続で戦い続けるほどの物資は無くなっていたものの、それでも攻撃を続けた。 フランスが参戦するとバールに位置する海軍のためにもコトルを確保することがより重要な使命となった。戦艦の15cm砲2機と12cm砲4機を一か月かけて陸地に運び込み、ロヴチェン山の南斜面に陣取らせた。同年10月19日にフランス軍は砲撃を開始し、21日にオーストリア=ハンガリー軍は一時撤退し、30.5cm砲と24cm砲を4機ずつ搭載する戦艦ラデツキーを呼ぶこととした。この間にオーストリア=ハンガリー軍はマッピングに従事し、翌日16時27分にラデツキーはロヴチェン山に向けて攻撃を開始、フランス軍の12cm砲は1機が破壊された。26日の夜明け前にラデツキーは再び攻撃を開始、不意を突かれたフランス、モンテネグロ連合軍は大砲や砦に大きな損害を被り、12cm砲はまた1機失われた。さらにラデツキーは陸地よりに陣を取ったために連合軍は撤退を余儀なくされた。11月にはコトルを確保する計画自体を諦めることとなり、12月16日にはラデツキーもプーラへと戻っていった。 その後1916年1月にオーストリア=ハンガリー陸軍がモンテネグロに進軍する際に、支援部隊がロヴチェン山南斜面に陣取った。これによってモンテネグロはオーストリア=ハンガリーに占領されることとなり、ニコラ1世はフランスに亡命、モンテネグロは最終的にセルビアに占領されることとなった。
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ロヴチェン山は、モンテネグロ・ツェティニェに所在する山である。同国の名前の由来となった山であり、同国の国立公園に指定されている山である。標高は1,749 m (5,738 ft)。
{{Infobox mountain | name = ロヴチェン山 | other_name = Ловћен | photo = Lovcen-008-p1010045.jpg | photo_caption = | elevation_m = 1749 | elevation_ref = | map = | map_caption = | map_size = 250 | location = {{Flagicon|MNE}}[[ツェティニェ]] | range = | coordinates = {{coord|42.3991|18.8184|format=dms|display=inline,title|region:ME_type:mountain}} | type = | first_ascent = | easiest_route = }} [[File:Lovcen-024-p1010064.jpg|thumb|260px|[[ペタル2世 (モンテネグロ王)|ペタル2世]]廟]] [[File:Lovcen-011-p1010050.jpg|thumb|260px|国立公園]] [[File:M 45 14 les monténégrins Lovcen au nord de Cettinié.jpg|thumb|260px|1914年10月、山腹に陣取るフランス軍]] '''ロヴチェン山'''({{lang-sr|Ловћен, Lovćen}}、{{IPA-sh|lôːʋtɕen|pron}})は、[[モンテネグロ]]・[[ツェティニェ]]に所在する山である。同国の名前の由来となった山であり、同国の国立公園に指定されている山である<ref name="visit-montenegro">{{cite web |title=Montenegro History – Part I |url=https://www.visit-montenegro.com/montenegro/history/ |website=visit-montenegro.com |access-date=27 June 2018}}</ref>。標高は{{convert|1,749|m|abbr=on}}。 ==概要== [[コトル湾]]を望む位置に存在している山岳であり、[[石灰岩]]と[[苦灰岩]]で出来た[[カルスト]]地形が見られる山である<ref>{{cite web | url=https://euscentia.com/mausoleum-landscape-lovcen-national-park/ | title=The Panoramic Mausoleum and Karst Landscape of Lovcen National Park | accessdate=3 January 2021 }}</ref>。西側が海、東側が陸であるため、海洋性気候と大陸性気候の両方の影響を受けている。1276年にこの山を[[ステファン・ウロシュ2世ミルティン (セルビア王)|ステファン・ウロシュ2世ミルティン]]がツルナ・ゴーラと言及したのが史料に見え、黒い山を意味するツルナ・ゴーラと呼ばれたのは遠くから見ると森林が密集して黒く見えるためである。これを[[ヴェネト語]]に直訳したものがモンテネグロである<ref name="visit-montenegro"/>。 ==国立公園== ロヴチェン山は国立公園に指定されており、その面積は{{convert|62.20|km2|abbr=on}}である。1952年に指定された。自然に価値があるのみならず、歴史的、文化的、建築的にも重要な土地とされている。牛飼いが夏に使う伝統的な小屋や、[[ペトロヴィッチ=ニェゴシュ朝]]王家生誕の地である[[ニェグシ]]と[[コトル]]とを結ぶ道路もモンテネグロの歴史を語る上で重要な史蹟である。 ロヴチェン山で最も重要なモニュメントは[[ペタル2世 (モンテネグロ王)|ペタル2世]]廟である。死後120年を経た1971年に、本人の遺志に基づいて山頂に設置された。 ==第一次世界大戦== [[第一次世界大戦]]では戦場としてモンテネグロの歴史に大きく影響する舞台となった。同大戦が勃発すると[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]が参戦、これに真っ先に同盟して参戦したのが[[モンテネグロ王国]][[ニコラ1世 (モンテネグロ王)|ニコラ1世]]であった。1914年8月8日に参戦したモンテネグロはコトル湾にある[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の海軍基地を攻撃する作戦に出た。ロヴチェン山の向こう側には国境があり、オーストリア=ハンガリー陸軍も駐留している状況下でモンテネグロ軍は一斉に攻撃を開始した。装甲巡洋艦の[[カイザー・カール6世 (装甲巡洋艦)|カイザー・カール6世]]はこの攻撃から退却したが、[[プーラ (クロアチア)|プーラ]]から3艘の[[弩級戦艦]]を呼んでくる結末となった。この時点でモンテネグロ軍には最早数週間連続で戦い続けるほどの物資は無くなっていたものの、それでも攻撃を続けた。 [[フランス]]が参戦すると[[バール (モンテネグロ)|バール]]に位置する海軍のためにもコトルを確保することがより重要な使命となった。戦艦の15cm砲2機と12cm砲4機を一か月かけて陸地に運び込み、ロヴチェン山の南斜面に陣取らせた。同年10月19日にフランス軍は砲撃を開始し、21日にオーストリア=ハンガリー軍は一時撤退し、30.5cm砲と24cm砲を4機ずつ搭載する戦艦ラデツキーを呼ぶこととした。この間にオーストリア=ハンガリー軍はマッピングに従事し、翌日16時27分にラデツキーはロヴチェン山に向けて攻撃を開始、フランス軍の12cm砲は1機が破壊された。26日の夜明け前にラデツキーは再び攻撃を開始、不意を突かれたフランス、モンテネグロ連合軍は大砲や砦に大きな損害を被り、12cm砲はまた1機失われた。さらにラデツキーは陸地よりに陣を取ったために連合軍は撤退を余儀なくされた。11月にはコトルを確保する計画自体を諦めることとなり、12月16日にはラデツキーもプーラへと戻っていった<ref name="Austro-Hungarian Battleships 1914-18">Noppen, Ryan & Wright, Paul, ''Austro-Hungarian Battleships 1914-18'', Osprey Publishing, Oxford, UK, 2012, pps:28-30. {{ISBN|978-1-84908-688-2}}</ref>。 その後1916年1月にオーストリア=ハンガリー陸軍がモンテネグロに進軍する際に、支援部隊がロヴチェン山南斜面に陣取った。これによってモンテネグロはオーストリア=ハンガリーに占領されることとなり、ニコラ1世はフランスに亡命、モンテネグロは最終的にセルビアに占領されることとなった<ref name="Austro-Hungarian Battleships 1914-18"/>。 ==関連項目== *[[ロヴチェナツ]]: [[セルビア]]・[[ヴォイヴォディナ自治州]]にある自治体。移住したモンテネグロ人によってこの山に由来する名前がつけられた。 ==参考文献== {{Reflist}} ==外部リンク== {{Commons category|Lovćen}} * [https://www.discover-montenegro.com/lovcen/ Lovćen National Park Information and Pictures.] * [http://nparkovi.me/en/ Official website of National Parks of Montenegro] {{モンテネグロの国立公園}} {{典拠管理}} {{DEFAULTSORT:ろうちえん}} [[Category:モンテネグロの山]] [[Category:モンテネグロの国立公園]] [[Category:モンテネグロの国の象徴]] [[Category:第一次世界大戦の戦い]] [[Category:ツェティニェ]]
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ロコ・ドラーゴ
ロコ・ドラーゴ(Loco Drago)は、北海道北見市を拠点とする日本の男子カーリングチームである。ロコ・ソラーレの男子部門。北見カーリング協会所属。 チーム全員が北見市常呂町生まれで、常呂ジュニア(通称:ドラゴン)というチーム名で活動、2021年には高校生中心のチームながら第38回日本カーリング選手権大会で準優勝を達成。2023年、軸をジュニア大会からシニア大会に移行するのを期に、ロコ・ドラーゴが発足。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ロコ・ドラーゴ(Loco Drago)は、北海道北見市を拠点とする日本の男子カーリングチームである。ロコ・ソラーレの男子部門。北見カーリング協会所属。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "チーム全員が北見市常呂町生まれで、常呂ジュニア(通称:ドラゴン)というチーム名で活動、2021年には高校生中心のチームながら第38回日本カーリング選手権大会で準優勝を達成。2023年、軸をジュニア大会からシニア大会に移行するのを期に、ロコ・ドラーゴが発足。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "", "title": "主な戦歴" } ]
ロコ・ドラーゴは、北海道北見市を拠点とする日本の男子カーリングチームである。ロコ・ソラーレの男子部門。北見カーリング協会所属。
{{Pathnav|ロコ・ソラーレ|frame=1}} {{カーリングチーム | 名前 = ロコ・ドラーゴ | 別名 = | 文字色 = #fff; | 背景色 = #26c; | 枠線色 = #000; | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | 創設 = 2023年 | 所在地 = {{Flagicon|北海道}} [[北海道]][[北見市]] | 施設 = [[北見市常呂町カーリングホール|アドヴィックス常呂カーリングホール]] | 所属協会 = 北見カーリング協会 | 運営母体 = 一般社団法人ロコ・ソラーレ | 五輪出場回数 = | 五輪出場大会 = | 五輪最高 = | 世界出場回数 = | 世界出場大会 = | 世界最高 = | PA出場回数 = | PA出場大会 = | PA最高 = | 冬季アジア出場回数 = | 冬季アジア出場大会 = | 冬季アジア最高 = | 所属地域 = 日本 | 国内優勝回数 = | 国内優勝大会 = | 公式サイト = https://locosolare.jp/team_locodrago/ | Twitter_ID = | medals = | expand = | 作成日時 = 2023年12月11日 }} '''ロコ・ドラーゴ'''(Loco Drago)は、[[北海道]][[北見市]]を拠点とする日本の男子[[カーリング]]チームである。[[ロコ・ソラーレ]]の男子部門。北見カーリング協会所属。 == 概要 == チーム全員が北見市常呂町生まれで、常呂ジュニア(通称:ドラゴン)というチーム名で活動、2021年には高校生中心のチームながら[[第38回日本カーリング選手権大会]]で準優勝を達成。2023年、軸をジュニア大会からシニア大会に移行するのを期に、ロコ・ドラーゴが発足。 == 沿革 == * 2021年2月 - [[第38回日本カーリング選手権大会]]で準優勝(常呂ジュニア) * 2021年11月 - [[第30回日本ジュニアカーリング選手権大会]]で優勝(常呂ジュニア) * 2023年4月 - 常呂ジュニアのメンバー4人により、ロコ・ドラーゴが発足 === チーム編成 === {| class="wikitable" style="font-size:0.9em;" ! シーズン ! フォース ! サード ! セカンド ! リード ! リザーブ ! 主な大会 |- ! 2023-24 | [[前田拓海]] | [[上川憂竜]] | [[前田拓紀]] | [[中原亜星]] | | |} == 主な戦歴 == {| class="wikitable" style="font-size:0.9em; text-align:center;" !大会 / シーズン !2020–21 !2021–22 !2022–23 !2023–24 |- |[[日本カーリング選手権大会|日本選手権]] | style="background:#c0c0c0;" | [[第38回日本カーリング選手権大会|2]] |[[第39回日本カーリング選手権大会|5]] || || |- |北海道選手権 | style="background:#ffd700;" |1 || || | style="background:#ffd700;" |1 |} == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == {{Wintersport-stub}} {{デフォルトソート:ろことらあこ}} [[Category:日本の男子カーリングチーム]] [[Category:北海道のカーリングチーム]] [[Category:北見市のスポーツ]] [[Category:2023年設立のスポーツチーム]]
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タイ・ウッド
タイソン・ウッド(Tyson Wood、1995年7月13日 - )は、カナダの俳優です。『リブート: ガーディアン コード』のオースティン・カーター役で主演を務めたことで知られる。
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タイソン・ウッドは、カナダの俳優です。『リブート: ガーディアン コード』のオースティン・カーター役で主演を務めたことで知られる。
{{ActorActress | 芸名 = Ty Wood | ふりがな = タイ・ウッド | 画像ファイル = | 画像サイズ = | 画像コメント = | 本名 = | 別名義 = | 出生地 = [[マニトバ州]] [[ウィニペグ]] | 死没地 = | 国籍 = {{CAN}} | 身長 = | 血液型 = | 生年 = 1995 | 生月 = 9 | 生日 = 17 | 没年 = | 没月 = | 没日 = | 職業 = [[俳優]] | 活動期間 = [[2002年]] - | 活動内容 = | 配偶者 = | 著名な家族 = | 事務所 = | 公式サイト = | 主な作品 = | 備考 = }} '''タイソン・ウッド'''(Tyson Wood、[[1995年]][[7月13日]] - )は、[[カナダ]]の[[俳優]]です。『[[リブート: ガーディアン コード]]』のオースティン・カーター役で主演を務めたことで知られる。<ref>{{cite web|url=https://www.wallofcelebrities.com/celebrities/ty-wood/home.html|title=Ty Wood|publisher=Wall Of Celebrities|date=2020-01-01|accessdate=2023-10-07|language=en}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.teenidols4you.com/filmo/Actors/1918/tywood.html|title=Ty Wood Filmography|publisher=teenidols4you.com|date=2020-01-01|accessdate=2023-10-07|language=en}}</ref> == 主な出演作品 == * [[ヘル・オン・ヒールズ: メアリー・ケイの戦い]] (2002) * [[ビネガーヒル]] (2005) * [[ビッグホワイト]] (2005) * [[ワイルドサヴェージ]] (2007) * [[クリスマスのハート]] (2012) * [[心を呼ぶとき]] (2014-2015) * [[ライアー、ライアー、ヴァンパイア]] (2015) * [[リブート: ガーディアン コード]] (2018) * [[サブリナ: ダーク・アドベンチャー]] (2018-2020) * [[ザ・オーダー 暗黒の世界]] (2019) * [[リバーデイル (テレビドラマ)|リバーデイル]] (2020) * [[グリース (映画)|グリース: ピンク・レディーの台頭]] (2023) == 出典 == {{Reflist}} == 外部リンク == *{{IMDb name|1452304}} *{{instagram|tywood}} *{{twitter|tywood12}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:ウッド タイ}} [[Category:存命人物]] [[Category:1995年生]] [[Category:カナダの男優]] [[Category:カナダの男性声優]] [[Category:ウクライナ系カナダ人]] [[Category:レバノン系カナダ人]] [[Category:ウィニペグ出身の人物]]
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中本範治
中本 範治(なかもと はんじ、1865年(慶応元年) - 没年不明)は、日本の会社役員、地主、名望家、篤農家、政治家。鳥取県西伯郡県村長。 鳥取県西伯郡県村(現・米子市)出身。宇平の嫡男。村夫子に従い漢籍、句読、習字、算数の術を学ぶ。町村制実施と共に村役場書記となり、1894年に郡書記に栄転する。 1898年、県村長に推される。郡立病院監事、米子農業倉庫監事、尾高井手水利組合管理者等を兼ねる。大山自動車取締役、保証責任製糸信用販売購買利用組合理事をつとめる。郡会議員、郡参事会員、その他の公職に就く。 1921年、村長勤続により勲七等に叙せられ、県及び郡の表彰を受ける。 1890年、自由党に入党する。政友会の組織が成立すると、その会員となる。 『商工資産信用録 第38回 中国・四国版』によると、中本範治(調査年月・1936年1月)は「正身身代・V、信用程度・C、職業・会社重役、地主」である。住所は鳥取県西伯郡県村大字石州府。
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中本 範治は、日本の会社役員、地主、名望家、篤農家、政治家。鳥取県西伯郡県村長。
'''中本 範治'''<ref name="syozo1912">[{{NDLDC|780004/138}} 『鳥取島根官民肖像録』]266頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年12月12日閲覧。</ref>(なかもと はんじ、[[1865年]]([[慶応]]元年)<ref name="kyodo1935">[{{NDLDC|1052642/291}} 『郷土更生誌』]259頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年12月11日閲覧。</ref>{{Refnest|group="注"|『郷土更生誌』では7月3日出生<ref name="kyodo1935"/>、『島根鳥取名士列伝 中』では7月5日出生<ref name="meishi">[{{NDLDC|778014/112}} 『島根鳥取名士列伝 中』]184 - 188頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年12月11日閲覧。</ref>とある。}} - [[没年不明]])は、[[日本]]の[[役員 (会社)|会社役員]]、[[地主]]{{Refnest|group="注"|『西伯之資力 大正11年10月調』によると、中本範治の所有[[地価]]金額は999円4銭である<ref>[{{NDLDC|909152/53}} 『西伯之資力 大正11年10月調』]97頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年12月11日閲覧。</ref>。}}<ref name="syoko38">[{{NDLDC|1106246/85}} 『商工資産信用録 第38回 中国・四国版』]ナ19頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年12月11日閲覧。</ref>、[[名望家]]<ref name="syozo1912"/>、[[農家|篤農家]]<ref>[{{NDLDC|782783/90}} 『大日本篤農家名鑑』]鳥取県174頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年12月12日閲覧。</ref>、[[政治家]]。鳥取県西伯郡[[県村 (鳥取県)|県村]]長<ref name="syozo1912"/><ref name="kyodo1935"/>。 == 経歴 == [[鳥取県]]西伯郡県村(現・[[米子市]])出身<ref name="meishi"/>。宇平の嫡男<ref name="meishi"/>。村夫子に従い[[漢籍]]、句読、[[習字]]、[[算数]]の術を学ぶ<ref name="meishi"/>。[[町村制]]実施と共に村役場[[書記]]となり、[[1894年]]に郡書記に栄転する<ref name="kyodo1935"/>。 [[1898年]]、県[[市町村長|村長]]に推される<ref name="kyodo1935"/>。郡立病院監事、米子農業倉庫監事、尾高井手水利組合管理者等を兼ねる<ref name="kyodo1935"/>。大山自動車取締役<ref name="kyodo1935"/>、県[[大日本報徳社|報徳社]]理事<ref name="kanpo19070209">[{{NDLDC|2950426/18}} 『官報 1907年02月09日』]官報 第7082号 285頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年12月30日閲覧。</ref>、保証責任製糸信用販売購買利用組合理事<ref name="kanpo19350716">[{{NDLDC|2959039/25}} 『官報 1935年07月16日』]官報 第2560号 15頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年12月11日閲覧。</ref>をつとめる。[[郡会]]議員、郡[[参事会]]員、その他の[[公職]]に就く<ref name="kyodo1935"/>。 [[1921年]]、村長勤続により勲七等に叙せられ、県及び郡の表彰を受ける<ref name="kyodo1935"/>。 == 人物 == [[1890年]]、[[自由党 (日本 1890)|自由党]]に入党する<ref name="meishi"/>。[[立憲政友会|政友会]]の組織が成立すると、その会員となる<ref name="meishi"/>。 『商工資産信用録 第38回 中国・四国版』によると、中本範治(調査年月・[[1936年]]1月)は「正身[[財産|身代]]・V、信用程度・C、職業・会社重役、地主」である<ref name="syoko38"/>。住所は鳥取県西伯郡県村大字石州府<ref name="kanpo19070209"/><ref name="kanpo19350716"/>。 == 脚注 == === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * 深田豊市編『島根鳥取名士列伝 中』博進館、1903 - 1906年。 * 大蔵省印刷局編『官報 1907年02月09日』日本マイクロ写真、1907年。 * 大日本篤農家名鑑編纂所編『大日本篤農家名鑑』大日本篤農家名鑑編纂所、1910年。 * 深田豊一編『鳥取島根官民肖像録』博進館、1912年。 * 西伯の資力調査会編『西伯之資力 大正11年10月調』西伯資力調査部、1922年。 * 『郷土更生誌』内外新聞通信社、1935年。 * [[大蔵省印刷局]]編『[[官報]] 1935年07月16日』日本マイクロ写真、1935年。 * 『商工資産信用録 第38回 中国・四国版』商業興信所、1937年。 {{Japan-politician-stub}} {{DEFAULTSORT:なかもと はんし}} [[Category:伯耆国の人物]] [[Category:鳥取県出身の人物]] [[Category:日本の地主]] [[Category:日本の篤農家]] [[Category:20世紀日本の実業家]] [[Category:鳥取県の市町村長]] [[Category:鳥取県の郡会議員]] [[Category:1865年生]] [[Category:没年不明]]
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菊池健太
菊池 健太(きくち けんた、1983年10月24日 - )は、日本の実業家。三栄建築設計代表取締役社長。 オープンハウスグループ常務執行役員、オープンハウス・ディベロップメント取締役建設事業部長、ホーク・ワン取締役も兼務している。東京都出身。
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菊池 健太は、日本の実業家。三栄建築設計代表取締役社長。 オープンハウスグループ常務執行役員、オープンハウス・ディベロップメント取締役建設事業部長、ホーク・ワン取締役も兼務している。東京都出身。
{{Infobox 人物 |氏名= 菊池 健太 |ふりがな= きくち けんた |画像 = Replace this image JA.svg |画像サイズ = |画像説明 = [[Wikipedia:ファイルのアップロード|画像募集中]] |生年月日= {{生年月日と年齢|1983|10|24}} |生誕地= {{JPN}}・[[東京都]] |出身校= [[早稲田大学]][[早稲田大学大学院法学研究科・法学部|法学部]] |職業= [[実業家]] |肩書き= [[三栄建築設計]]代表取締役社長 |任期= [[2023年]][[11月7日]] -(現任) |前任者= [[千葉理恵]] |後任者= }} '''菊池 健太'''(きくち けんた、[[1983年]][[10月24日]] - )は、日本の[[実業家]]。[[三栄建築設計]]代表取締役社長。 [[オープンハウスグループ]]常務執行役員、[[オープンハウス・ディベロップメント]]取締役建設事業部長、[[ホーク・ワン]]取締役も兼務している。[[東京都]]出身<ref name="nikkei_newspaper">{{Cite news |和書 |title=三栄建築社長に菊池氏就任へ オープンハウスから |newspaper=日本経済新聞 |date=2023-10-11 |author= |url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO75154800Q3A011C2TB1000/ |access-date=2023-12-11}}</ref>。 ==来歴== * [[1983年]][[10月24日]]、[[東京都]]出身<ref name="nikkei_newspaper" /><ref name="notice">{{Cite web |url=https://openhouse-group.co.jp/ir/upload_file/tdnrelease/3288_20231010564299_P01_.pdf |title=株式会社三栄建築設計に対する株式売渡請求の効力発生を条件とする同社の臨時株主総会における取締役候補者、並びに代表取締役社長及び取締役副社長の選定の提案のお知らせ |publisher=[[オープンハウスグループ|株式会社オープンハウスグループ]] |date=2023-10-10 |accessdate=2023-12-11}}</ref>。 * [[2006年]][[3月]]、[[早稲田大学]][[早稲田大学大学院法学研究科・法学部|法学部]]卒業<ref name="nikkei_newspaper" />。 * 同年[[4月]]、オープンハウス(現・[[オープンハウスグループ]])入社。 * [[2013年]][[10月]]、[[オープンハウス・ディベロップメント]] 建設事業部長 * [[2014年]][[10月8日]]、同社 執行役員 建設事業部長 * [[2015年]][[12月]]、アサカワホーム(現・[[オープンハウス・アーキテクト]])取締役 * [[2018年]][[4月2日]]、オープンハウス・ディベロップメント 常務執行役員 建設事業部長 * 同年[[10月1日]]、[[ホーク・ワン]] 取締役(現任) * [[2019年]]10月1日、同社 代表取締役社長 * [[2021年]]12月、オープンハウス・ディベロップメント 取締役 建設事業部長(現任) * 2021年[[12月22日]]、オープンハウスグループ 常務執行役員(現任) * [[2023年]][[10月10日]]、[[三栄建築設計]] 執行役員 副社長 * 同年[[11月7日]]、同社 代表取締役社長(現任) == 関連項目 == * [[荒井正昭]]([[オープンハウスグループ]]代表取締役社長) ==脚注== {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{Businessperson-stub}} {{DEFAULTSORT:きくち けんた}} [[Category:日本の実業家]] [[Category:オープンハウスグループの人物]] [[Category:早稲田大学出身の人物]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:1983年生]] [[Category:存命人物]]
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堀田昇吾
堀田 昇吾(ほった しょうご、1998年3月5日 - ) は東京都福生市出身のサッカー選手。ポジションはミッドフィルダー。 正則学園高等学校サッカー部を経て、2017年にFCガンジュ岩手に入団。 2018年3月にオーストラリア・ブリスベンプレミアリーグのザ・ギャップFCに入団。渡豪3日で公式戦デビューを飾る。 2019年9月にチェコ・ディビジョン4のSKフラニツェ参加時にメディア出演。 2020年2月にニュージーランド・サザンリーグのワナカAFCと契約。コロナ禍によりリーグ戦が全て中止となった。 2020年9月にチェコ・リージョナルチャンピオンシップのFKスロヴァン・リサナドラベムと契約。シーズン最終節に内側側副靭帯損傷。 2023年8月に台湾・フットボールリーグ2部のS.F.I.と契約。 いずれも仲介人を通さずに交渉、契約。
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堀田 昇吾 は東京都福生市出身のサッカー選手。ポジションはミッドフィルダー。
{{サッカー選手|名前=堀田 昇吾|画像=<!-- Jリーグ所属選手指導者の画像を掲載しないで下さい。 DO NOT post any photos of J-League players & coaches! -->|画像サイズ=<!-- デフォルトは200px -->|画像の説明=<!-- 画像の説明文 -->|本名=|愛称=|カタカナ表記=ホッタ ショウゴ|アルファベット表記=Hotta Shogo|原語名=|原語表記=|国={{JPN}}|生年月日={{生年月日と年齢|1998|3|5}}|出身地=[[東京都]][[福生市]]|没年月日=<!-- {{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}} -->|身長=171cm|体重=63kg|所属チーム名={{Flagicon|ROC}} [[S.F.I.]]|ポジション=[[ミッドフィールダー|MF]]|背番号=99|利き足=右|ユースクラブ=|ユース年=|クラブ1=|年1=|出場1=|得点1=|クラブ成績更新日=|代表年1=|代表出場1=|代表得点1=|監督年1=|監督チーム1=}} '''堀田 昇吾'''(ほった しょうご、[[1998年]][[3月5日]] - ) は[[東京都]][[福生市]]出身のサッカー選手。ポジションは[[ミッドフィールダー|ミッドフィルダー]]。 == 来歴 == [[正則学園高等学校]]サッカー部を経て、[[2017年]]に[[FCガンジュ岩手]]に入団。 [[2018年]][[3月]]に[[オーストラリア]]・ブリスベンプレミアリーグの{{仮リンク|ザ・ギャップFC|en|The Gap FC}}に入団。渡豪3日で公式戦デビューを飾る。 [[2019年]][[9月]]に[[チェコ]]・ディビジョン4の[[SKフラニツェ]]参加時にメディア出演<ref>{{Citation|title=Hranické televizní zpravodajství 24. září 2019|url=https://www.youtube.com/watch?v=oLpHCyHVmi4|language=ja-JP|access-date=2023-12-11}}</ref>。 [[2020年]][[2月]]に[[ニュージーランド]]・[[:en:Southern_League_(New_Zealand)|サザンリーグ]]の{{仮リンク|ワナカAFC|en|Wanaka AFC}}と契約。コロナ禍によりリーグ戦が全て中止となった。 [[2020年]][[9月]]に[[チェコ]]・リージョナルチャンピオンシップのFKスロヴァン・リサナドラベムと契約。シーズン最終節に内側側副靭帯損傷。 [[2023年]][[8月]]に[[台湾]]・フットボールリーグ2部の{{仮リンク|S.F.I.|zh|S.F.I.}}と契約。 いずれも仲介人を通さずに交渉、契約。 == 所属クラブ == * トレドSC * [[正則学園高等学校]] * 2017年 [[FCガンジュ岩手]] * 2018年 {{Flagicon|AUS}} [[ザ・ギャップFC]] * 2020年 {{Flagicon|NZL}} [[ワナカAFC]] * 2020年 {{Flagicon|CZE}} FK Slovan Lysa nad Labem * 2021年 Gerbera Setagaya City FC * 2023年 {{Flagicon|ROC}} [[S.F.I.]] == 脚注 == {{Reflist}} ==外部リンク== *{{sports links}} {{DEFAULTSORT:ほつた しようこ}} [[Category:日本のサッカー選手]] [[Category:在外日本人のサッカー選手]] [[Category:FCガンジュ岩手の選手]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:1998年生]] [[Category:存命人物]]
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例えば炎
例えば炎(たとえばほのお)は、吉本興業に所属する日本のお笑いコンビ。よしもと漫才劇場など大阪を中心に活動中。 タキノ ルイ(たきの るい、1995年10月8日 28歳 ) 田上C天悠(たのうえ、1995年5月3日 28歳 ) M-1グランプリ UNDER5 AWARD
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例えば炎(たとえばほのお)は、吉本興業に所属する日本のお笑いコンビ。よしもと漫才劇場など大阪を中心に活動中。
{{複数の問題 | 存命人物の出典明記 = 2023年12月12日 (金) 17:47 (UTC) | 特筆性 = 2023年12月12日 (金) 17:47 (UTC) | 分野 = 人物 | 単一の出典 = 2023年12月12日 (金) 17:47 (UTC) | 一次資料 = 2023年12月12日 (金) 17:47 (UTC) | 雑多な内容の箇条書き = 2023年12月12日 (火) 08:47 (UTC) 2023年12月12日 (金) 17:47 (UTC) }}{{Infobox お笑いコンビ |コンビ名=例えば炎 |メンバー=タキノ ルイ<br>田上 |結成年=[[2020年]] |事務所=[[吉本興業]] |活動時期=2020年4月<ref>{{Cite web |title=例えば炎 {{!}} コンビ情報 |url= https://www.m-1gp.com/combi/12539.html |website=M-1グランプリ 公式サイト |access-date=2023-12-13 |language=ja}} </ref> |出身=NSC大阪校43期 |出会い=中学の同級生 |現在の活動状況=ライブ中心 |芸種=[[漫才]] |ネタ作成者=タキノ ルイ |同期=清川雄司<br>シカノシンプ<br>山椒魚<br>ヒョウリ(マツザワ)<br>テキサスマウンテンローレル<br>オーケストラ<br>ドライブドライブ など |公式サイト=[https://profile.yoshimoto.co.jp/talent/detail?id=8601 公式プロフィール] }} '''例えば炎'''(たとえばほのお)は、[[吉本興業]]に所属する日本の[[お笑いタレント|お笑いコンビ]]。[[よしもと漫才劇場]]など大阪を中心に活動中。 == メンバー == '''タキノ ルイ'''(たきの るい、[[1995年]][[10月8日]] {{年数|1995|10|8}}歳 ) * [[兵庫県]]<ref name=":0">{{Cite web |title=例えば炎 プロフィール|吉本興業株式会社 |url=https://profile.yoshimoto.co.jp/talent/detail?id=8601 |website=profile.yoshimoto.co.jp |access-date=2023-12-11}}</ref> [[宝塚市]]出身。[[ツッコミ (漫才)|ツッコミ]]、ネタ作り担当、立ち位置は向かって左。 * 身長175㎝、体重90kg。[[血液型]]はB型。 * 趣味は[[カラオケ]]、Twitterやインスタを辞めますと発信して辞めない事。 * 特技は[[ゴルフ]](ベストスコア69)、[[バスケ]](脱臼癖あり)早食い、お調子に乗る、天狗になる、図に乗る、謙遜、0→1、笑い * 愛称は国王。 '''田上C天悠'''(たのうえ、[[1995年]][[5月3日]] {{年数|1995|5|3}}歳 ) * [[兵庫県]]<ref name=":0">{{Cite web |title=例えば炎 プロフィール|吉本興業株式会社 |url=https://profile.yoshimoto.co.jp/talent/detail?id=8601 |website=profile.yoshimoto.co.jp |access-date=2023-12-11}}</ref> [[伊丹市]]出身。[[ボケ (漫才)|ボケ]]担当、立ち位置は向かって右。 * 身長180㎝、体重68kg。[[血液型]]はO型。 * 趣味は[[映画鑑賞]]、[[野球]](福岡ソフトバンクホークスファン)、同級生と漫才。 * 特技は[[水切り]]、スカし。 * 愛称はたのぴ、衛兵、隠者。 == 経歴 == *[[吉本総合芸能学院|NSC]]大阪校41期生として入学するも、出席日数が足りずクビになる。[[吉本総合芸能学院|NSC]]大阪校43期生として再入学する。 *2023年に行われた芸歴5年未満が対象の賞レース「[[UNDER5 AWARD|UNDER 5 AWARD]]」では準決勝進出を果たす<ref>{{Cite web |title=6月9日(金) |url=https://under5-award.com/schedule/sf0609.html |website=UNDER5 AWARD|超若手芸人No.1決定戦「UNDER5 AWARD 2023」 |access-date=2023-12-13 |language=ja}}</ref>。 == エピソード == * タキノは[[イノシカチョウ]] 純吉、[[cacao]] たっぺいと大谷マンションでルームシェアをしている。相方の田上は以前まで押し入れに住んでいた。 * 田上も大谷マンションで上記メンバーと共にルームシェアをしていたが、押し入れに住んでいた事が原因で首に負担が掛かり医者から押し入れに住むことを止められたため現在は1人暮らし。 * YouTubeにキングオブコント2021 2回戦敗退時のネタ動画が無断アップロードされている。 * 41期大ライブ出演後、卒業出来ないことに気付いたため反省文1万字を書き期日を過ぎてから当時の社員に提出したところ受け取って貰えず、結局卒業出来なかった。 * NSC再入学時、42期授業料のローン審査を申し込んだところ田上は通ったがタキノは通らなかった。授業料を一括で支払うため1年間バイトをし、43期で再度入学する事となった。 == 賞レース成績 == '''[[M-1グランプリ]]''' * {| class="wikitable" style="text-align:left;font-size:small;" !年度 !エントリー No. !結果 !会場 !備考 |- |[[M-1グランプリ2020|2020年]](第16回) |787 |1回戦敗退 |[大阪]朝日生命ホール |再エントリー |- |[[M-1グランプリ2021|2021年]](第17回) |999 |2回戦敗退 |[大阪]森ノ宮よしもと漫才劇場 | |- |[[M-1グランプリ2022|2022年]](第18回) |2106 |3回戦敗退 |[大阪]よしもと漫才劇場 | |- |[[M-1グランプリ2023|2023年]](第19回) |1409 |3回戦敗退 |[大阪]よしもと漫才劇場 | |} <ref>{{Cite web |title=例えば炎 {{!}} コンビ情報 |url= https://www.m-1gp.com/combi/12539.html |website=M-1グランプリ 公式サイト |access-date=2023-12-13 |language=ja}} </ref> * '''[[UNDER5 AWARD]]''' * {| class="wikitable" style="text-align:left;font-size:small;" !年度 !結果 !会場 !備考 |- |2023年(第1回) |準決勝敗退(6/9) |[大阪]よしもと漫才劇場 |} <ref>{{Cite web |title=UNDER5 AWARD 日程・会場 |url= https://under5-award.com/schedule.html |website=UNDER5 AWARD 公式サイト |access-date=2023-12-13 |language=ja}} </ref> == 出演 == === テレビ === *2023年5月8日、16日、23日  [[ミキ]]BASE([[毎日放送]]) *2023年9月24日 笑うあほベガス([[関西テレビ放送]]) *2023年9月24日 [[るてんのんてる]] ([[読売テレビ]])<ref>{{Cite web |title=読売テレビ  るてんのんてる|url=https://www.ytv.co.jp/rutennonteru/backnumber/75.html |website=読売テレビ |access-date=2023-12-13 |language=ja}}</ref> === ラジオ === *2023年7月2日、9日、16日、23日 よしもと祇園花月Presents GIONラジオ([[KBS京都]]) == 出囃子 == * 『[[夢人]]』([[ORANGERANGE]]) <ref>{{Cite web |title=よしもと漫才劇場X |url= https://x.com/manzaigekijyo/status/1697806561437958456?s=46&t=LnekyAtvRYQnZJU-nq3lcw |website=X|access-date=2023-12-13 |language=ja}} </ref> == 脚注 == === 出典 === {{reflist}} == 外部リンク == * [{{吉本プロフィール|8601}} 公式プロフィール] {{DEFAULTSORT:たとえはほのお}} [[Category:日本のお笑いコンビ]] [[Category:吉本興業]] [[Category:兵庫県出身の人物]]
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さようならCP
『さようならCP』(さようならしーぴー)は、原一男監督による1974年(製作は1972年)の日本のドキュメンタリー・ドラマ映画である。光明養護学校での勤務経験をもとに、脳性麻痺の障害者自立運動家横塚晃一ら神奈川青い芝の会のメンバーを描いた。「CP」は脳性麻痺を意味する英語 "Cerebral Palsy" の略。 青い芝の会の会員らが出演し「障害者だからといって殺されていいわけじゃない。私たちも人間として自由に生き、そして生活を生きたいのです」と街頭演説する様子が映された。 それまでタブーとされていた「障害者の性」についても語られ、会員らが自らの性体験を赤裸々に語った。しかしその内容が買春や強姦であったことが語られ、不良仲間に誘われて強姦し「そのとき初めて自分の性が満たされたと思った」という発言もあった。また青い芝の会には女性会員もいたが、監督が性体験について語らせたのは男性障害者ばかりであった。そのため後に女性差別であるとしてフェミニズムの立場から批判されることになる。この時代には日本でもすでにウーマンリブ運動が起こっていたが、映画がDVD化された際の特典映像の対談で、原一男は「この頃はフェミニズムについて意識がなかった」と述べている。 また撮影当時すでに横田は結婚しており、原は横田の家庭内でも撮影し、横田の妻(脳性麻痺者)と子供も撮影。妻には撮影を拒否されたが監督は撮り続け、怒りのあまり妻が唇を噛みしめて口から血を流すシーンが映された。そのため横田も最後は早く撮影を終わらせようとしたが、原の妻の小林佐智子から「横田さん、撮影を終わらせたいなら逆立ちくらいしないと」と挑発されたという。
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『さようならCP』(さようならしーぴー)は、原一男監督による1974年(製作は1972年)の日本のドキュメンタリー・ドラマ映画である。光明養護学校での勤務経験をもとに、脳性麻痺の障害者自立運動家横塚晃一ら神奈川青い芝の会のメンバーを描いた。「CP」は脳性麻痺を意味する英語 "Cerebral Palsy" の略。
{{Infobox Film | 作品名 = さようならCP | 原題 = | 画像 = | 画像サイズ = | 画像解説 = | 監督 = [[原一男]] | 脚本 = | 原案 = | 原作 = | 製作 = 小林佐智子 | 製作総指揮 = | ナレーター = | 出演者 = 神奈川[[全国青い芝の会|青い芝の会]] | 音楽 = 関口孝 | 主題歌 = | 撮影 = 原一男 | 編集 = | 制作会社 = | 製作会社 = 疾走プロダクション | 配給 = 疾走プロダクション | 公開 = {{flagicon|JPN}} 1974年4月10日 | 上映時間 = 82分 | 製作国 = {{JPN}} | 言語 = 日本語 | 製作費 = | 興行収入 = | 配給収入 = | 前作 = | 次作 = [[極私的エロス 恋歌1974]] }} 『'''さようならCP'''』(さようならしーぴー)は、[[原一男]]監督による1974年(製作は[[1972年]])の日本のドキュメンタリー・ドラマ映画である<ref>{{Cite web |title=ドキュメンタリー映画の鬼才 原一男公式サイト |url=http://docudocu.jp/ |website=ドキュメンタリー映画の鬼才 原一男公式サイト |access-date=2023-12-11 |language=ja}}</ref>。[[光明養護学校]]での勤務経験をもとに、[[脳性麻痺]]の障害者自立運動家[[横塚晃一]]ら神奈川[[全国青い芝の会|青い芝の会]]のメンバーを描いた。「CP」は脳性麻痺を意味する[[英語]] "Cerebral Palsy" の略。 ==内容== 青い芝の会の会員らが出演し「障害者だからといって殺されていいわけじゃない。私たちも人間として自由に生き、そして生活を生きたいのです」と街頭演説する様子が映された。 それまでタブーとされていた「障害者の性」についても語られ、会員らが自らの性体験を赤裸々に語った。しかしその内容が[[買春]]や[[強姦]]であったことが語られ、不良仲間に誘われて強姦し「そのとき初めて自分の性が満たされたと思った」という発言もあった。また青い芝の会には女性会員もいたが、監督が性体験について語らせたのは男性障害者ばかりであった。そのため後に[[女性差別]]であるとして[[フェミニズム]]の立場から批判されることになる。この時代には[[日本]]でもすでに[[ウーマンリブ運動]]が起こっていたが、映画が[[DVD]]化された際の特典映像の対談で、原一男は「この頃はフェミニズムについて意識がなかった」と述べている。 また撮影当時すでに横田は結婚しており、原は横田の家庭内でも撮影し、横田の妻(脳性麻痺者)と子供も撮影。妻には撮影を拒否されたが監督は撮り続け、怒りのあまり妻が唇を噛みしめて口から血を流すシーンが映された。そのため横田も最後は早く撮影を終わらせようとしたが、原の妻の小林佐智子から「横田さん、撮影を終わらせたいなら逆立ちくらいしないと」と挑発されたという。 ==キャスト== *神奈川[[全国青い芝の会|青い芝の会]] ==脚注== {{Reflist}} ==外部リンク== * [https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001810398_00000 『さようならCP』が 提起したもの] * {{allcinema title|144695|さようならCP}} * {{Kinejun title|28892|さようならCP}} * {{IMDb title|0234699|Sayounara CP}} {{原一男監督作品}} {{DEFAULTSORT:さようならしーひー}} [[Category:原一男の監督映画]] [[Category:1974年の映画]] [[Category:日本のドキュメンタリー映画]]
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ステファノ・ダ・ヴェローナ
ステファノ・ダ・ヴェローナ (Stefano da Verona) 、またはステファノ・ダ・ゼヴィオ (Stefano da Zevio) は、1379年ごろ-1438年ごろにヴェローナで活動したイタリアの国際ゴシック様式の画家である。 ステファノ・ダ・ヴェローナは、フィリップ2世 (ブルゴーニュ公) のために絵画を制作した後、ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの宮廷で働くためにイタリアにやってきたフランスの画家ジャン・ダルボワ (Jean d'Arbois) の息子であった。ステファノは、おそらくパヴィアにあったヴィスコンティ家の装飾写本画家の工房で修業をした。彼は、ヴェローナのカステルヴェッキオ美術館(英語版)にある『バラ園の聖母(英語版)』(1420年代–1430年代) に見られるようにミケリーノ・ダ・ベソッツォに影響を受けている。なお、『バラ園の聖母』は、ステファノ、またはミケリーノに帰属されてきた。 ヴェローナに落ち着く前に、ステファノはパドヴァで絵画を制作した。ヴェローナでは、署名と1434年の制作年が記されている『東方三博士の礼拝」 (ブレラ美術館、ミラノ) などの代表作を制作した。また、ウースター美術館(英語版)にある『バラ垣の園の聖母子と天使たち (The Virgin and Child with Angels in a Garden with a Rose Hedge) 』がステファノに帰属されてきた。 ステファノは、同時期にヴェローナにいた画家ピサネロの友人であった。ヴィンチェンツォ・ディ・ステファノ・ダ・ヴェローナ(英語版)は、おそらく彼の息子が弟子であった。ステファノの兄弟ジョヴァンニ・アントニオ (Giovanni Antonio) とジョヴァンニ・マリア (Giovanni Maria) もまた画家であった。
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ステファノ・ダ・ヴェローナ 、またはステファノ・ダ・ゼヴィオ は、1379年ごろ-1438年ごろにヴェローナで活動したイタリアの国際ゴシック様式の画家である。 ステファノ・ダ・ヴェローナは、フィリップ2世 (ブルゴーニュ公) のために絵画を制作した後、ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの宮廷で働くためにイタリアにやってきたフランスの画家ジャン・ダルボワ の息子であった。ステファノは、おそらくパヴィアにあったヴィスコンティ家の装飾写本画家の工房で修業をした。彼は、ヴェローナのカステルヴェッキオ美術館にある『バラ園の聖母』(1420年代–1430年代) に見られるようにミケリーノ・ダ・ベソッツォに影響を受けている。なお、『バラ園の聖母』は、ステファノ、またはミケリーノに帰属されてきた。 ヴェローナに落ち着く前に、ステファノはパドヴァで絵画を制作した。ヴェローナでは、署名と1434年の制作年が記されている『東方三博士の礼拝」 (ブレラ美術館、ミラノ) などの代表作を制作した。また、ウースター美術館にある『バラ垣の園の聖母子と天使たち 』がステファノに帰属されてきた。 ステファノは、同時期にヴェローナにいた画家ピサネロの友人であった。ヴィンチェンツォ・ディ・ステファノ・ダ・ヴェローナは、おそらく彼の息子が弟子であった。ステファノの兄弟ジョヴァンニ・アントニオ とジョヴァンニ・マリア もまた画家であった。
{{Infobox 芸術家 |honorific_prefix= |name=ステファノ・ダ・ヴェローナ |honorific_suffix= |image=Stefano da verona, adorazione dei magi, 1435, 47x72 cm, milano, pinacoteca di brera.jpg |image_size=300px |alt= |caption=『[[東方三博士の礼拝 (ステファノ・ダ・ヴェローナ)|東方三博士の礼拝]]』 (1434年) [[ブレラ美術館]]、 [[ミラノ]] |birthname= |birth_date=1379年 |birth_place= |death_date=1438年 |death_place= |resting_place= |resting_place_coordinates=<!-- {{Coord|LAT|LONG|type:landmark|display=inline}} --> |nationality=イタリア |education= |alma_mater= |known_for= |notable_works= |style= |movement=[[国際ゴシック様式]] |spouse= |awards=<!-- {{awd|award|year|title|role|name}} (optional) --> |elected= |patrons= |memorials= |website=<!-- {{URL|Example.com}} --> }} '''ステファノ・ダ・ヴェローナ''' (Stefano da Verona) 、または'''ステファノ・ダ・ゼヴィオ''' (Stefano da Zevio) は、1379年ごろ-1438年ごろに[[ヴェローナ]]で活動した[[イタリア]]の[[国際ゴシック様式]]の画家である<ref name="ReferenceBG">ブレラ 絵画館全作品ガイド 1997年、16項。</ref>。 ステファノ・ダ・ヴェローナは、[[フィリップ2世 (ブルゴーニュ公)]] のために絵画を制作した後、[[ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ]]の宮廷で働くためにイタリアにやってきた[[フランス]]の画家ジャン・ダルボワ (Jean d'Arbois) の息子であった。ステファノは、おそらく[[パヴィア]]にあった[[ヴィスコンティ家]]の[[装飾写本]]画家の工房で修業をした。彼は、ヴェローナの{{仮リンク|カステルヴェッキオ美術館|en|Castelvecchio Musuem}}にある『{{仮リンク|バラ園の聖母|en|Madonna of the Rose Garden}}』(1420年代–1430年代) に見られるように[[ミケリーノ・ダ・ベソッツォ]]に影響を受けている。なお、『バラ園の聖母』は、ステファノ、またはミケリーノに帰属されてきた<ref>[http://www.worcesterart.org/Collection/European/1912.63.html ''Virgin and Child''], Worcester Museum of Art, attributed to Stefano.</ref>。 ヴェローナに落ち着く前に、ステファノは[[パドヴァ]]で絵画を制作した。ヴェローナでは、署名と1434年の制作年が記されている『[[東方三博士の礼拝 (ステファノ・ダ・ヴェローナ)|東方三博士の礼拝]]」 ([[ブレラ美術館]]、[[ミラノ]]) などの代表作を制作した。また、{{仮リンク|ウースター美術館|en|Worcester Art Musuem}}にある『バラ垣の園の聖母子と天使たち (The Virgin and Child with Angels in a Garden with a Rose Hedge) 』がステファノに帰属されてきた。 ステファノは、同時期にヴェローナにいた画家[[ピサネロ]]の友人であった。{{仮リンク|ヴィンチェンツォ・ディ・ステファノ・ダ・ヴェローナ|en|Vincenzo di Stefano da Verona}}は、おそらく彼の息子が弟子であった。ステファノの兄弟ジョヴァンニ・アントニオ (Giovanni Antonio) とジョヴァンニ・マリア (Giovanni Maria) もまた画家であった<ref>[https://books.google.com/books?id=MhSkBGcaIBMC&pg=PA154 ''Le vite de' pittori, degli scultori, et architetti veronesi''], by Bartolomeo Dal Pozzo (1718), page 11-13.</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * 『ブレラ 絵画館全作品ガイド』、SCALA、1977年 ISBN 978-888117680-9 * {{Cite book |first=Pierluigi |last=De Vecchi |first2=Elda |last2=Cerchiari |title=I tempi dell'arte'', Volume 2 |publisher=Bompiani |location=Milan |year=1999}} == 外部リンク == * [http://www.artcyclopedia.com/artists/stefano_da_verona.html Stefano da Verona on Artcyclopedia] {{DEFAULTSORT:すてふあのたうえろおな}} [[Category:15世紀イタリアの画家]] [[Category:14世紀イタリアの画家]] [[Category:1430年代没]] [[Category:1370年代生]]
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IMAGICA GEEQ
株式会社IMAGICA GEEQ(イマジカ ジーク英: IMAGICA GEEQ Inc.)は、株式会社IMAGICA GROUPの完全子会社で、ゲーム関連事業をグループ成長事業の柱の一つとすることを主な目的とし、2023年4月よりゲーム関連事業を担う会社として事業を開始。。ゲーム関連事業のEnd to End(川上から川下まで)のサービスを国内外の数多く企業へ提供している。 1995年10月、デジタルクリエイターに特化した人材ビジネスを主軸に、東京都千代田区に設立された株式会社デジタルスケープに起源をもつ。現在のIMAGICA GEEQの主なサービスはゲーム制作支援で、プロデュース、企画、開発、アート制作(3DCG、2DCG、アニメーション)、ローカライズ(字幕制作、吹替)、デバッグ・検証、プロモーション、人材派遣・紹介(派遣/派13-070304、紹介/13-ユ-070239)に至るまで幅広くサービスを提供。ゲーム業界以外の企業へも、ソフトウェアテスト、撮影・動画制作・動画分析等も提供している。同社の QAサポート部門は、2023年11月ソフトウェアテストに関する国際的な技術者資格認定組織 ISTQB(International Software Testing Qualifications Board)のパートナープログラムにおいて、「Gold Partner」に認定された。。 IMAGICA GEEQは、IMAGICA GROUPのグループ会社。グル-プ会社には、CM・ミュージックビデオ・OOH(プロジェクションマッピングなど)をはじめとした映像コンテンツの企画・制作をおこなう株式会社ピクスや、主に映画・ドラマ・アニメーション作品などを対象としてローカライズサービスを含む映像技術サービスを提供する株式会社IMAGICAエンタテインメントメディアサービス、マーケティング(広告、プロモーション)サービスを展開する株式会社IMAGICA IRISなどが所属する。
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株式会社IMAGICA GEEQは、株式会社IMAGICA GROUPの完全子会社で、ゲーム関連事業をグループ成長事業の柱の一つとすることを主な目的とし、2023年4月よりゲーム関連事業を担う会社として事業を開始。。ゲーム関連事業のEnd to End(川上から川下まで)のサービスを国内外の数多く企業へ提供している。
{{Pathnav|IMAGICA GROUP|frame=1}} {{一次資料|date=2023年12月}} {{基礎情報 会社 |社名 = 株式会社IMAGICA GEEQ |英文社名 = IMAGICA GEEQ Inc. |ロゴ = Imagicageeq.jpg |画像 = |画像説明 = |種類 = |市場情報 = |略称 = |国籍 = {{JPN}} |本社郵便番号 = 102-0082 |本社所在地 = [[東京都]][[千代田区]][[一番町 (千代田区)|一番町]]21<br />一番町東急ビル3F |本社緯度度 = 35|本社緯度分 = 41|本社緯度秒 = 11|本社N(北緯)及びS(南緯) = N |本社経度度 = 139|本社経度分 = 44|本社経度秒 = 29|本社E(東経)及びW(西経) = E |座標右上表示 = Yes |本社地図国コード = JP-13 |設立 = [[1995年]]([[平成]]7年)[[10月4日]] |業種 = 情報・通信業 |法人番号 = 8011001033220 |統一金融機関コード = |SWIFTコード = |事業内容 = ゲーム3DCG制作、ゲーム2DCG制作、ゲームデバッグ・ソフトウェア品質検証、スチール撮影・動画制作・動画分析、人材派遣・紹介、ビジュアル制作プロデュース |代表者 = 森田正和([[代表取締役]][[社長]]、[[IMAGICA GROUP|株式会社IMAGICA GROUP]][[取締役]][[専務執行役員]]) |資本金 = 1億円(2023年4月1日時点) |従業員数 = 約1100名(契約社員、登録スタッフ、アルバイトを含む)(2023年4月1日時点) |決算期 = [[3月31日|3月末日]] |売上高 = |経常利益 = |主要株主 = 株式会社IMAGICA GROUP 100% |外部リンク = {{URL|https://www.geeq.co.jp/}} |特記事項 = }} '''株式会社IMAGICA GEEQ'''(イマジカ ジーク、{{Lang-en-short|''IMAGICA GEEQ Inc.''}})は、[[IMAGICA GROUP|株式会社IMAGICA GROUP]]の完全子会社で、ゲーム関連事業をグループ成長事業の柱の一つとすることを主な目的とし、2023年4月よりゲーム関連事業を担う会社として事業を開始<ref name="release">{{Cite press release |和書 |title=ゲーム関連事業会社の設立及び連結子会社の会社分割に関するお知らせ |publisher=株式会社IMAGICA GROUP |date=2023-02-07 |url=https://contents.xj-storage.jp/xcontents/AS07313/7a68c755/84a7/4ec2/9e6e/820fa56c35b7/140120230206501395.pdf |access-date=2023-12-11}}</ref>。ゲーム関連事業のEnd to End(川上から川下まで)のサービスを国内外の数多く企業へ提供している。 == 概要 == 1995年10月、デジタルクリエイターに特化した人材ビジネスを主軸に、東京都千代田区に設立された[[デジタルスケープ|株式会社デジタルスケープ]]に起源をもつ<ref name="enkaku">{{Cite web |url=https://www.geeq.co.jp/company/history/ |title=沿革 |publisher=IMAGICA GEEQ |access-date=2023-12-11}}</ref>。現在のIMAGICA GEEQの主なサービスはゲーム制作支援で、プロデュース、企画、開発、アート制作([[3DCG]]、[[2DCG]]、[[アニメーション]])、ローカライズ([[字幕]]制作、[[吹替]])、[[デバッグ]]・検証、プロモーション、人材派遣・紹介(派遣/派13-070304、紹介/13-ユ-070239)に至るまで幅広くサービスを提供。ゲーム業界以外の企業へも、[[ソフトウェアテスト]]、撮影・動画制作・動画分析等も提供している<ref name="service">{{Cite web |url=https://www.geeq.co.jp/service/ |title=サービス |publisher=IMAGICA GEEQ |access-date=2023-12-11}}</ref>。 同社の [[品質保証|QA]]サポート部門は、2023年11月ソフトウェアテストに関する国際的な技術者資格認定組織 [[ISTQB]](International Software Testing Qualifications Board)のパートナープログラムにおいて、「Gold Partner」に認定された<ref name="istqb">{{Cite press release |和書 |title=ソフトウェアテストに関する国際的な技術者資格認定組織 ISTQBパートナープログラムにおいて「Gold Partner」に認定 |publisher=株式会社IMAGICA GEEQ |date=2023-11-02 |url=https://www.geeq.co.jp/news/20231102/ |access-date=2023-12-11}}</ref>。 == 沿革 == * [[1995年]] ** 10月 - デジタルクリエイターに特化した人材ビジネスを主軸に、資本金60百万円にて東京都千代田区に設立<ref name="enkaku" />。 * [[1996年]] ** 1月 - デジタルクリエイターの[[人材派遣]]業を開始。 * [[1999年]] ** 2月 - 東京本社にて人材紹介業を開始。 ** 10月 - [[大阪]]支店にて人材紹介業を開始。 * [[2005年]] ** 2月 - [[大阪証券取引所]][[ヘラクレス市場]]に上場。 ** 3月 - [[プライバシーマーク]]を取得。 ** 11月 - [[カルチュア・コンビニエンス・クラブ|カルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社]]の資本参加により同グループの一員となる。 * [[2006年]] ** 3月 - 子会社クラフテックスを組織変更し株式会社バウハウス・エンタテインメントに商号を変更。 ** 10月 - 株式会社マルチビッツを子会社化(株式会社ミスミグループ本社より株式取得)。 * [[2009年]] ** 5月 - 親会社および筆頭株主の異動により[[IMAGICA GROUP|株式会社イマジカ・ロボット ホールディングス]]の連結子会社となる。 ** 6月 - 株式の非上場化。 ** 7月 - 株式交換によりイマジカ・ロボット ホールディングスの完全子会社となる。 ** 10月 - 子会社バウハウス・エンタテインメントを合併。 * [[2010年]] ** 11月 - 子会社マルチビッツの株式を100%取得し完全子会社化。 * [[2011年]] ** 4月 - IMAGICA PDと合併、[[イマジカデジタルスケープ|株式会社イマジカデジタルスケープ]]に商号を変更。親会社 株式会社イマジカ・ロボット ホールディングス [[JASDAQ]]上場。 ** 6月 - [[コンシューマゲーム]]等のデバッグサービス事業を開始。 * [[2016年]] ** 3月 -「職業紹介優良事業者」および「優良派遣事業者」に認定。 * [[2020年]] ** 3月 - [[新潟市中央区]]に「新潟テストスタジオ」(デバッグ業務)開設。 ** 7月 - バウハウス大阪スタジオ 開設。 * [[2021年]]  ** 4月 - 株式会社IMAGICA Lab.のゲーム・[[グラフィック]]関連事業を移管・統合し、イメージワークス事業部を設立。 * [[2023年]] ** 4月 - *** ゲーム関連事業をグループ成長事業の柱の一つとすることを主な目的とし、ゲーム関連事業を担う株式会社IMAGICA GEEQとして事業開始。 *** 本店所在地を東京都千代田区に移転。 *** バウハウス東京スタジオを千代田区[[半蔵門]]に移転。 * [[2023年]] ** 10月 - 東京テストスタジオを[[新宿区]][[新小川町]]に移転。 == サービス == === ゲーム制作支援事業(ゲーム業界向け) === * プロデュース * 企画 * 開発 * アート制作(3DCG、2DCG、アニメーション) * ローカライズ(字幕制作、吹替) * デバッグ・検証 * プロモーション * 人材派遣・紹介 === ソリューション事業(ゲーム業界以外) === * ソフトウェアテスト * 撮影・動画制作・動画分析 * 人材派遣・紹介 == 拠点 == * 本社 - 東京都千代田区一番町21 一番町東急ビル3F * BAUHAUS ENTERTAINMENT(バウハウス・エンタテインメント)(アート制作) - ** 東京スタジオ - 東京都千代田区一番町21 一番町東急ビル3F ** 大阪スタジオ - [[大阪府]]大阪市中央区今橋3-3-13 ニッセイ[[淀屋橋]]イースト13F * QAサポート(デバッグ・検証) - ** 東京テストスタジオ - 東京都新宿区新小川町6-29 アクロポリス東京5F ** 大阪テストスタジオ - 大阪府大阪市中央区南本町2-3-8 KDX南本町ビル9F ** 新潟テストスタジオ - [[新潟県]]新潟市中央区万代2-3-6新潟東京海上日動ビルディング2 * Creative Studio(アート制作) - 東京都渋谷区道玄坂1-10-8 渋谷道玄坂東急ビル8F * 人材派遣・紹介 - ** 東京事業所 - 東京都[[渋谷区]][[道玄坂]]1-10-8 渋谷道玄坂東急ビル8F ** 大阪事業所 - 大阪府大阪市中央区南本町2-3-8 KDX南本町ビル9F * MULTI-BITS(マルチビッツ)(撮影・動画制作・動画分析) - ** 東京都[[品川区]][[東品川]]3-13-6 品川プロダクションセンターRビル7F * ビジュアル制作プロデュース - ** 東京都品川区東品川3-13-6 品川プロダクションセンターRビル5F == グル-プ会社 == IMAGICA GEEQは、IMAGICA GROUPのグループ会社。グル-プ会社には、CM・ミュージックビデオ・OOH([[プロジェクションマッピング]]など)をはじめとした映像コンテンツの企画・制作をおこなう[[ピクス (企業)|株式会社ピクス]]や、主に映画・ドラマ・アニメーション作品などを対象としてローカライズサービスを含む映像技術サービスを提供する[[IMAGICAエンタテインメントメディアサービス|株式会社IMAGICAエンタテインメントメディアサービス]]、マーケティング(広告、プロモーション)サービスを展開する[[IMAGICA IRIS|株式会社IMAGICA IRIS]]などが所属する<ref name="group">{{Cite web |url=https://www.imagicagroup.co.jp/about/group.html |title=グループ企業一覧 |publisher=IMAGICA GROUP |access-date=2023-12-11}}</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Official website|url=https://www.geeq.co.jp/|name=IMAGICA GEEQ}} - 公式ウェブサイト {{IMAGICA GROUP}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いましかしいく}} [[Category:IMAGICA GROUP]] [[Category:コンピュータゲームデバッグ会社]] [[Category:日本の翻訳・ローカライズ業]] [[Category:日本の技術サービス業]] [[Category:日本のIT企業]] [[Category:千代田区の企業]] [[Category:1995年設立の企業]] [[Category:麹町]]
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物語りのワルツ
物語りのワルツ(ものがたりのワルツ)は、2020年2月23日にYouTube上で公開されたバーチャルアーティストヰ世界情緒のデビュー曲である。配信シングルとして2020年12月30日にリリースされ、のちに2021年12月8日に 1st フルアルバム『創生』に収録された。 本楽曲はバーチャルの世界から独自の存在感を届ける、ヰ世界情緒の世界観の原点となる作品である。最初の動画『ヰ世界情緒 #01』、および本楽曲の予告となる動画『ヰ世界情緒 #02 「はじめまして、この度は。」』に次ぐヰ世界情緒の3作目のナンバリングが与えられた動画としてYouTube上で公開された。 作詞・作曲・編曲は全てシンガーソングライターである samayuzame によるもので、ミュージックビデオはぬヴェントスが映像制作を行った。イラストは orie、タイポグラフィは本忠学、Mixは$KIYAKI$KIが担当した。陰と陽がクロスオーバーする楽曲であり、音楽にも映像にも、様々な相反する要素が込められている。 ヰ世界情緒初の配信シングルの1つであり、2020年12月30日に「ジオラマドラマ」および「いろはに咲きて」とともにリリースされた。 本楽曲は2021年7月3日に開催された Virtual Music Award 2021 Summer で演奏された。 「ヰ世界情緒 1st ONE-MAN LIVE『Anima』」では、1曲目に演奏された。ライブでは通常のバンド編成よりも人数の多い、チェロとヴァイオリンのストリングスを組み込んだ生バンドによる演奏が行われた。2021年10月30日にはライブバージョンの本楽曲が『ヰ世界情緒 #18「物語りのワルツ」【from 1st ONE-MAN LIVE「Anima」】』としてYouTube上で公開されている。 また、Fm yokohama 84.7のラジオ番組「ヰ世界らじおプラネット」でも2023年4月5日などの回で放送されている。
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物語りのワルツ(ものがたりのワルツ)は、2020年2月23日にYouTube上で公開されたバーチャルアーティストヰ世界情緒のデビュー曲である。配信シングルとして2020年12月30日にリリースされ、のちに2021年12月8日に 1st フルアルバム『創生』に収録された。
{{Infobox Single |Name=物語りのワルツ |Artist=[[ヰ世界情緒]] |Album=[[創生]] |Released={{Start date|2020|12|30}} |Format=[[音楽配信]] |Genre=[[J-POP]] |Length=4分2秒 |Label=[[KAMITSUBAKI RECORD]] |Writer=[[samayuzame]]<br />(作詞・作曲・編曲) |Producer= |Certification= |Chart position= |Chronology=[[ヰ世界情緒]]のシングル |Last single= |This single={{nobr|「'''物語りのワルツ'''」}}<br />{{nobr|「[[ジオラマドラマ]]」}}<br />{{nobr|「[[いろはに咲きて]]」}}<br />(2020年) |Next single={{nobr|「[[パンドラコール]]」}}<br />(2022年) |Misc= }} 「'''物語りのワルツ'''」(ものがたりのワルツ)は、[[2020年]][[2月23日]]にYouTube上で公開されたバーチャルアーティスト[[ヰ世界情緒]]のデビュー曲である<ref name="YouTube">{{Cite web|和書|author=ヰ世界情緒 -Isekaijoucho- |url=https://www.youtube.com/watch?v=Kz424oVx9_o|title=ヰ世界情緒 #03 「物語りのワルツ」【オリジナルMV】|website=YouTube|date=2020-02-23|accessdate=2023-12-11}}</ref>。配信[[シングル]]として2020年[[12月30日]]にリリースされ<ref name="KAMITSUBAKI">{{Cite web|和書|url=https://kamitsubaki.jp/discography/isekaijoucho/346/|title=【ヰ世界情緒】配信Single「物語りのワルツ」 _ DISCOGRAPHY|website=KAMITSUBAKI 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-Isekaijoucho-|url=https://www.youtube.com/watch?v=IypP2blvCgg?si=HY4J3II_dA4VuU2k|title=ヰ世界情緒 #01|website=YouTube|date=2019-12-09 |accessdate=2023-12-11}}</ref>、および本楽曲の予告となる動画『ヰ世界情緒 #02 「はじめまして、この度は。」』<ref>{{Cite web|和書|author=ヰ世界情緒 -Isekaijoucho-|url=https://www.youtube.com/watch?v=9c30pzZ4DDc|title=ヰ世界情緒 #02 「はじめまして、この度は。」|website=YouTube|date= 2020-02-21 |accessdate=2023-12-11}}</ref>に次ぐヰ世界情緒の3作目のナンバリングが与えられた動画としてYouTube上で公開された<ref name="YouTube"/>{{Efn|なお、#1と#2の間に「夜顔の告白」<ref>{{Cite web|和書|author=ヰ世界情緒 -Isekaijoucho-|url=https://www.youtube.com/watch?v=WeHvkBrgcpk|title=【歌ってみた】夜顔の告白 covered by ヰ世界情緒|website=YouTube|date=2019-12-12 |accessdate=2023-12-11}}</ref>、「電脳歌姫ユメミスティック」<ref>{{Cite web|和書|author=ヰ世界情緒 -Isekaijoucho-|url=https://www.youtube.com/watch?v=wuDZ8ewPxjA|title=【歌ってみた】電脳歌姫ユメミスティック covered by ヰ世界情緒|website=YouTube|date=2019-12-19 |accessdate=2023-12-11}}</ref>、「V〈Re-birth version〉」<ref>{{Cite web|和書|author=ヰ世界情緒 -Isekaijoucho-|url=https://www.youtube.com/watch?v=ScSYk12eCTk|title=【歌ってみた】V〈Re-birth version〉 covered by ヰ世界情緒|website=YouTube|date=2019-12-26 |accessdate=2023-12-11}}</ref>、「共感覚おばけ」<ref>{{Cite web|和書|author=ヰ世界情緒 -Isekaijoucho-|url=https://www.youtube.com/watch?v=-2iHNgLJHk8|title=【歌ってみた】共感覚おばけ covered by ヰ世界情緒|website=YouTube|date=2020-01-02 |accessdate=2023-12-11}}</ref>、「MACARON」<ref>{{Cite web|和書|author=ヰ世界情緒 -Isekaijoucho-|url=https://www.youtube.com/watch?v=2bGvBLJDxpE|title=【歌ってみた】MACARON covered by ヰ世界情緒|website=YouTube|date=2019-01-09 |accessdate=2023-12-11}}</ref>、「蜜月アン・ドゥ・トロワ」<ref>{{Cite web|和書|author=ヰ世界情緒 -Isekaijoucho-|url=https://www.youtube.com/watch?v=1qUYT3SLCWs|title=【歌ってみた】蜜月アン・ドゥ・トロワ covered by ヰ世界情緒|website=YouTube|date=2019-01-18 |accessdate=2023-12-11}}</ref>および「レプリカ」<ref>{{Cite web|和書|author=ヰ世界情緒 -Isekaijoucho-|url=https://www.youtube.com/watch?v=-YMutD4cY7M|title=【歌ってみた】レプリカ covered by ヰ世界情緒|website=YouTube|date=2019-01-28 |accessdate=2023-12-11}}</ref>の計7作の歌ってみた動画が公開されている。}}。 作詞・作曲・編曲は全て[[シンガーソングライター]]である [[samayuzame]] によるもので、ミュージックビデオは[[ぬヴェントス]]が映像制作を行った<ref name="YouTube"/><ref name="KAMITSUBAKI"/><ref name="natalie201230"/><ref>{{Cite web|和書|url=https://samayuzame.com/works/pCvA7twO|title=【楽曲提供】ヰ世界情緒『物語りのワルツ』|date=2020-02-23|website=samayuzame Official Web site|accessdate=2023-12-10}}</ref>。イラストは [[orie]]、[[タイポグラフィ]]は本忠学、Mixは$KIYAKI$KIが担当した<ref name="YouTube"/>。陰と陽がクロスオーバーする楽曲であり<ref>{{Cite Tweet|author=[[PIEDPIPER]]|user=PIEDPIPER2045|number=1231531669774991361|title=バーチャルダークシンガーヰ世界情緒のオリジナル曲『物語りのワルツ』、ついに誕生。samayuzameの作詞作曲による陰と陽がクロスオーバーする渾身の作品です。 ヰ世界情緒 #03 「物語りのワルツ」【オリジナルMV】 https://youtube.com/watch?v=Kz424oVx9_o #ヰ世界情緒 #KAMITSUBAKI_STUDIO|date=2020-02-23|accessdate=2023-12-11}}</ref>、音楽にも映像にも、様々な相反する要素が込められている<ref>{{Cite Tweet|author=ヰ世界情緒|user=isekaijoucho|number=1231521879803883521|title=ヰ世界情緒、物語りのワルツ。聴いていただけましたか?この曲はsamayuzameさんに作っていただきました。音楽も映像も、様々な相反する要素がとても美しい曲です。ぜひ、何重にも張り巡る歌詞世界や音に注目してみて下さい。|date=2020-02-23|accessdate=2023-12-11}}</ref>。 ヰ世界情緒初の配信シングルの1つであり、2020年12月30日に「[[ジオラマドラマ]]」および「[[いろはに咲きて]]」とともにリリースされた<ref name="natalie201230"/><ref>{{Cite web|和書|url=https://kamitsubaki.jp/discography/isekaijoucho/372/|title=【ヰ世界情緒】配信Single「ジオラマドラマ」 _ DISCOGRAPHY|website=KAMITSUBAKI STUDIO|date=2020-12-30|accessdate=2023-12-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://kamitsubaki.jp/discography/isekaijoucho/373/|title=【ヰ世界情緒】配信Single「いろはに咲きて」 _ DISCOGRAPHY|website=KAMITSUBAKI STUDIO|date=2020-12-30|accessdate=2023-12-10}}</ref>。 == ライブでの演奏 == 本楽曲は[[2021年]][[7月3日]]に開催された [[Virtual Music Award]] 2021 Summer で演奏された<ref>{{Cite web|和書|url=http://virtualmusicaward.jp/2021summer/|title=Virtual Music Award 2021|website=Virtual Music Award|accessdate=2023-12-11}}</ref><ref>{{Cite Tweet|author=ヰ世界情緒|user=isekaijoucho|number=1411312580958720000|title=#ブイアワ ありがとうございました!わたしは「物語りのワルツ」と、春猿火ちゃんと「シリウスの心臓」を歌わせていただきました。沢山のシンガーの皆さんと一緒に歌えて嬉しかったです。みなさんカッコ良かった…!明日も沢山楽しんでいってくださいね!歌わせて頂いて幸せでした!また会おうね。|date=2021-07-03|accessdate=2023-12-11}}</ref>。 2021年[[10月24日]]に開催された『ヰ世界情緒 1st ONE-MAN LIVE「[[Anima (ライブ)|Anima]]」』では、1曲目に演奏された<ref name="GAMER211102">{{Cite web|和書|url=https://www.gamer.ne.jp/news/202111020046/|title=ヰ世界情緒のワンマンライブ「Anima」のレポートが到着!新作アプリ「アーテリーギア」とのタイアップ楽曲なども公開|website=GAMER|date=2021-11-02|accessdate=2023-12-10}}</ref>。ライブでは通常のバンド編成よりも人数の多い、[[チェロ]]と[[ヴァイオリン]]の[[ストリングス]]を組み込んだ生バンドによる演奏が行われた<ref name="GAMER211102"/>。同年[[10月30日]]にはライブバージョンの本楽曲が『ヰ世界情緒 #18「物語りのワルツ」【from 1st ONE-MAN LIVE「Anima」】』としてYouTube上で公開されている<ref>{{Cite web|和書|author=ヰ世界情緒 -Isekaijoucho-|url=https://www.youtube.com/watch?v=l-M_rROTTUg|title=ヰ世界情緒 #18「物語りのワルツ」【from 1st ONE-MAN LIVE「Anima」】|date=2021-10-30|website=YouTube|accessdate=2023-12-11}}</ref><ref>{{Cite Tweet|author=ヰ世界情緒|user=isekaijoucho|number=1454374265029943296|title=1st ONE-MAN LIVE『Anima』から「物語りのワルツ」のライブ映像を公開しました! ヰ世界情緒 #19「物語りのワルツ」【オリジナルMV「Anima」Live ver.】 11/21(日)まで配信サイトZ-aNにてアーカイブ配信中です! https://zan-live.com/live/detail/10131 #ヰ世界情緒Anima|date=2021-10-30|accessdate=2023-12-11}}</ref>。 また、[[Fm yokohama 84.7]]のラジオ番組「[[ヰ世界らじおプラネット]]」でも2023年4月5日などの回で放送されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fmyokohama.co.jp/program/isekairadioplanet|title=ヰ世界らじおプラネット|website=Fm yokohama 84.7 (FMヨコハマ 横浜のFMラジオ 周波数84.7MHzの放送局)|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230404163514/https://www.fmyokohama.co.jp/program/isekairadioplanet|archivedate=2023-04-04|accessdate=2023-12-11}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 外部リンク == * [https://kamitsubaki.jp/discography/isekaijoucho/346/ 物語りのワルツ] - [[KAMITSUBAKI STUDIO]] * [https://www.youtube.com/watch?v=Kz424oVx9_o ヰ世界情緒 #03 「物語りのワルツ」] - [[YouTube]] * [https://piapro.jp/t/kHP3 物語りのワルツ(Instrumental)] - [[ピアプロ|piapro]] {{DEFAULTSORT:ものかたりのわるつ}} [[Category:楽曲 も|のかたりのわるつ]] [[Category:ヰ世界情緒の楽曲]] [[Category:2020年の楽曲]]
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新潟電気
新潟電気株式会社(にいがたでんき かぶしきがいしゃ)は、大正から昭和初期にかけて存在した日本の電力会社である。新潟県新潟市を本拠とした電力会社の一つ。 新潟県内最初の電気事業者新潟電灯株式会社(新潟電燈、にいがたでんとう)を母体とする。1898年(明治31年)に開業した新潟電灯の事業を1909年(明治42年)に新潟水電株式会社(にいがたすいでん)が継承し、さらに新潟水電を改組する形で1920年(大正9年)に新潟電気が発足した。新潟県下越地方の約半分と福島県会津地方の一部で電気の供給にあたった。 1930年(昭和5年)、同じく新潟市を本拠とした新潟水力電気と合併し解散した。この合併で存続会社の新潟水力電気は新潟電力へと社名を改めている。 新潟電気株式会社は、1920年(大正9年)から1930年(昭和5年)までの10年間にわたり新潟県新潟市に存在した電力会社である。新潟市を中心に、主として新潟県下越地方のうち阿賀野川右岸地域(ただし北部の岩船郡を除く)および信濃川左岸地域を供給区域とした。また飛び地として福島県会津地方の一部にも供給区域を持った。 新潟電気の母体は1896年(明治29年)に設立され1898年(明治31年)3月に開業した新潟電灯株式会社である。新潟電灯は新潟県内最初の電気事業者であるが、電源は小規模な火力発電所のみで供給区域は新潟市内に限られた。やがて水力発電への転換が検討されるようになるが、水力発電計画をめぐって社内対立が発生する。その結果、役員のうち中野平弥だけが新潟電灯に残り、自身が考案した水力発電計画を推進していく。その過程で1907年(明治40年)11月に新会社・新潟水電株式会社が設立され、1909年(明治42年)3月、新潟電灯は同社に合流した。その一方、中野と対立し新潟電灯から退出した役員の一部は別系統の電力会社・新潟水力電気の起業に加わった。新潟水力電気も1909年に開業し、新潟市内とその周辺の電力市場において新潟水電と競合した。 新潟水電時代に供給区域は急速に拡大し、新潟市以外では新発田・中条・水原・津川・白根・巻・燕といった町にも及んだ。1916年(大正5年)には事業統合により中越地方の寺泊にも進出している。1920年(大正9年)11月、水利権取得と資金調達の都合から新潟水電の株主を主体として再び新会社として新潟電気株式会社が立ち上げられる。新潟電気は同年12月新潟水電と同社の傍系会社で鉄道事業を計画する両新鉄道株式会社の2社から事業を継承した。新潟電気の時代には隣接する福島県へと進出し、事業統合によって大沼郡高田町(現・会津美里町)など会津地方の一角に供給区域を獲得。さらに1928年(昭和3年)には同地方を流れる大川(阿賀野川)に出力1万キロワット超の大型水力発電所を完成させた。電気事業以外では、新潟水電時代の大戦景気期に余剰電力による塩素酸カリウム製造など電気化学事業を兼営したが短期間で頓挫した。また新潟・新発田間の「両新鉄道」計画と新潟市内の路面電車計画について許認可を得ていたが、双方とも着工に至らなかった。 1929年(昭和4年)、新潟電気は大手電力会社の一つ東邦電力の傘下に入った。これを機に下越地方での供給を二分する新潟水力電気との合併交渉が進展し、同年9月同社との合併が決定する。会社規模では新潟電気が上回っていたが存続会社は新潟水力電気とされたため、翌1930年(昭和5年)2月、合併手続き完了とともに新潟電気は解散した。一方、存続会社の新潟水力電気は合併と同時に社名を新潟電力株式会社(1930 - 1942年)へと改めた。その後旧新潟電気の供給区域や発電所は、太平洋戦争下の再編を経て戦後1951年(昭和26年)より東北電力へと引き継がれている。 1887年(明治20年)、東京電灯が東京市内において、発電所から不特定多数の需要家に対し配電するという形の電気事業を日本で初めて開業した。電気事業のその後の拡大は急速で、1890年(明治23年)にかけて大阪など六大都市すべてに広がり、続いて九州や東北地方にも伝播していった。東北6県で最初の電気事業者は1894年(明治27年)7月に宮城県仙台市において開業した仙台電灯(後の宮城紡績電灯)である。翌1895年(明治28年)11月には福島県福島市で福島電灯が開業し、1897年(明治30年)3月には青森県青森市に青森電灯が出現した。 東北地方の各地で電気事業が出現しつつある中、隣接する新潟県では1894年頃より県庁所在地新潟市において起業に向けた動きが本格化した。同地の新潟新聞によると、まず1894年6月、鍵富三作(米穀商・大地主)・佐々木松坪(衆議院議員)・浜政弘(回漕業)・八木朋直(市会議長、のち市長)・鈴木長八(回漕業)ら新潟の有力者が資本金3万円の電灯会社を設立すべく願書提出の準備を整えたという。ところが中野平弥(県下の大地主・鉄工所経営)らのグループや槙尾彦太郎(履物商)らのグループも電気事業を企画しており、共倒れとなることを恐れた県が3派の調停を試みたが失敗、直後に日清戦争が勃発したことで起業への動きは一旦頓挫した。 戦後、1896年(明治29年)春になると再び起業に向けた動きが活発化したため、県は新潟市長鈴木長蔵に調停を命じて計画一本化に動く。その結果、県内在住の白勢春三(新潟銀行専務)・中野平弥・斎藤庫吉(回漕業)・栗林貞吉(貸金業)・小出喜七郎(洋物商)・清水禎三郎・中澤庸を代表発起人として新潟電灯株式会社を起業する運びとなった。1896年7月27日付で逓信省から電気事業経営の許可があり、8月4日県庁経由で許可状が白勢ほか6名の発起人に届く。次いで発起人は農商務省へ会社の発起認可を申請して9月15日で認可を得た。10月11日には新潟電灯の創業総会が開かれ、定款確定に続いて取締役に鈴木長八・小出喜七郎・中野平弥・栗林定吉・清水禎三郎、監査役に鍵富三作・斎藤喜十郎(貸金業・大地主)・浜政弘がそれぞれ選出された上、支配人に中澤庸が任ぜられた。このうち初代社長は鈴木長八が務めている。 創業総会後に発起人は農商務省へ会社の設立免許を申請し、1896年12月10日付で免許を得た。新潟電灯株式会社の設立登記は翌1897年2月1日付である。新潟電灯は本社を新潟市白山浦1丁目623番地に構え、その隣接地に火力発電所を建設した。当初の発電所設備はボイラー・蒸気機関・単相交流発電機(出力75キロワット・16燭電灯1300灯分)各1台からなる。工事中、需要家の募集が順調に進み貸座敷・郵便局・師範学校・劇場などからの問い合わせも続いたため早くも発電機増設の計画が立てられている。1897年12月29日夜より電灯試験点灯を開始。翌1898年(明治31年)3月25日に営業認可証(19日付)が会社に届いたことから同日夜より正式に供給を開始した。この頃県内第2の都市古志郡長岡町(1906年市制施行で長岡市に)で長岡電灯株式会社の計画があったが起業に時間を要しており、新潟電灯が新潟県下最初の電気事業者となった。 開業後最初の決算期末(1898年6月末)時点での電灯数は925灯であった。1897年7月制定の「電灯規則」によると、開業初期の電灯には日没から23時まで点灯する「11時灯」、翌日2時まで点灯する「2時灯」、日の出まで点灯する「終夜灯」、従量制の「不定時灯」、臨時設置の「臨時灯」の5種類があり、不定時灯・臨時灯以外は白熱電球の燭光ごとに月額料金が定められていた。例えば終夜10燭灯の場合、月額料金は1円30銭(ただし別途電球代もあり)であった。 無事に開業した新潟電灯は1898年下期の決算から配当金を出せるようになり、1900年(明治33年)下期には最初の増資も実現して資本金が7万5000円となった。翌1901年(明治34年)、ボイラー・蒸気機関・発電機各1台の増設が完成し、発電力は165キロワット(75キロワット発電機・90キロワット発電機各1台)に増加した。 1900年9月、古志郡長岡町にて個人経営の電気事業が開業した。長岡でも新潟と同じく電源は火力発電であり、新潟県では先行2事業者がそろって火力発電で開業する形となった。しかしこの頃には送電技術の向上により水力発電の実用性が増しつつあった。その契機の一つは、1899年(明治32年)6月の福島県郡山市における郡山絹糸紡績(東部電力の前身)の開業である。同社が構築した電気事業は、安積疏水に沼上発電所を建設し、当時の国内最高電圧にあたる11キロボルト(1万1000ボルト)という送電電圧をもって郡山市街まで24キロメートルに及ぶ長距離送電を行う、というものであった。このような長距離高圧送電の実用化により、水力発電の適地が近隣にない都市でも火力発電ではなく水力発電の採用が可能となった。 こうした中、新潟県下では山口権三郎が信濃川での水力発電を志し、山口の死後事業を引き継いだ北越水力電気組(後の北越水力電気)が1904年(明治37年)12月に塩殿発電所を完成させた。同社は開業に際して長岡ですでに営業していた個人営電気事業を引き取っており、長岡では真っ先に電源が火力発電から水力発電へと転換された。県内外で水力発電が拡大していく中、新潟電灯社内では取締役の中野平弥が調査を重ね、新潟市内から40キロメートル以内の適地を探求した結果北蒲原郡笹岡村(現・阿賀野市)を流れる大荒川(阿賀野川水系)での水力発電を企画、1905年(明治38年)になって具体的計画を会社に対して提案するに至った。さらに社外でも日露戦争後の好景気に乗じた起業の動きがあり、木村松二郎ら石油事業で財を成した実業家により中蒲原郡川内村(現・五泉市)を流れる早出川(阿賀野川水系)での水力発電が企画された。 かくして新潟市周辺地域では大荒川と早出川の2河川に相次いで水力発電計画が浮上したが、このことで新潟電灯社内には深刻な対立が発生した。中野平弥は自身の調査にかかる大荒川の計画を主張したが、それ以外の役員は早出川での計画を未完成のうちに新潟電灯で買収する方が有利であると主張したのである。路線対立の末、1906年(明治39年)11月、中野平弥以外の役員はそろって辞任。12月の補欠選挙で取締役に中野貫一郎(中野平弥の長男)・上原有三(平弥の三男)・中野四郎太(平弥の四男)・飯村俊二(平弥の女婿)、監査役に高橋喜蔵(沼垂町)ほか2名がそれぞれ選出された(社長は中野平弥)。経営陣の異動に伴い株主にも異動を生じており、1900年の増資時に115名を数えた株主は最終的に10名まで減少した。 中野平弥以外の役員が交代したことで新潟電灯は大荒川での水力発電へと進むこととなったが、その実行にあたっては新潟電灯とは別個に「新潟水電株式会社」を新設するという手続きが採られた。まず1906年12月、新潟水電名義で大荒川での水利権獲得に成功する。翌1907年(明治40年)1月には新潟電灯と新発田電灯所に電力を供給するという形の電気事業経営を逓信省に対し出願した。このうち「新発田電灯所」は、北蒲原郡新発田町(現・新発田市)とその周辺に供給すべく中野平弥・谷資敬(大地主市島徳次郎家の総務取締で元判事)名義で1906年7月12日付で許可を得ていた電気事業である。そして1907年5月22日、逓信省より新潟水電に対して電気事業経営の許可が下りた。 新潟水電の発起人は中野平弥・市島徳次郎・佐藤伊左衛門(大地主・多額納税者)・佐藤友右衛門(同)・織田昇次郎(東京株式取引所仲買人)・上原有三・中野四郎太・谷資敬・高橋喜蔵・浅川文吉(金物商)の10名からなった。そして1907年11月13日、新潟水電株式会社の創立総会開催に至る。設立時の資本金は30万円、本店所在地は新潟市新島町通四ノ町。取締役には佐藤伊左衛門・中野平弥・谷資敬・中野四郎太・高橋喜蔵、監査役には市島徳次郎・浅川文吉ほか1名が選ばれた。このうち佐藤伊左衛門が社長、中野平弥が専務を務めたが、佐藤は翌1908年(明治41年)10月に取締役在職のまま死去した。1909年(明治42年)2月に市島徳次郎が取締役に補選され、社長市島徳次郎・専務中野平弥の体制に代わった(ただし1912年時点では社長不在)。 新潟水電発足後の1908年、新潟市内では3月と9月の2度にわたり大火が発生した。大火により新潟電灯では需要家計310戸・電灯約1760灯を焼失する被害に遭ったが、焼失家屋が再建されるにつれて電灯の復旧も進み、焼失数を若干上回る新需要を獲得できた。同年11月末時点の電灯需要家数は954戸、電灯数は4563灯であった。新潟水電ではこの新潟電灯の事業と未開業の新発田電灯所を統合する意向を当初から持っており、1908年12月に逓信省より事業譲り受けの許可を受けた上で、1909年3月13日付で新潟電灯・新発田電灯所の事業を引き継いだ。買収価格は新潟電灯分が15万6000円、新発田電灯所分が4000円であった。事業譲渡後、新潟電灯は臨時株主総会での決議によって3月16日付で解散した。 1909年5月10日、大荒川に建設中の大荒川上流発電所(出力443キロワット)および送電線が完成し、13日より送電が開始された。同発電所は北蒲原郡笹岡村大字勝屋(現・阿賀野市勝屋)に立地。発生電力は11キロボルトで新潟市街の対岸にあたる中蒲原郡沼垂町(1914年新潟市へ編入)の変電所まで送電される。その沼垂変電所からは沼垂町内への配電線と新潟市内への配電線(鉄塔3基によって信濃川を横断し旧新潟電灯配電線に接続)が分かれた。これらの完成により新潟市内では火力発電から水力発電への電源転換が実現し、旧新潟電灯時代の火力発電所は予備設備に格下げされている。また従来の電灯供給に加えて電動機を動かすための動力用電力の供給も開始された。 大荒川上流発電所完成の段階では北蒲原郡新発田町への供給は未開業であったが、新潟水電が赤谷鉱山から赤谷発電所(出力270キロワット)を借り入れて送電線工事を進めた結果、1910年(明治43年)8月より新発田町での供給も始まった。借り入れた赤谷発電所は北蒲原郡赤谷村大字滝谷(現・新発田市滝谷)にあり、常盤新田用水(加治川支流水系内ノ倉川が水源)から引水する。新発田での開業後、1910年11月末時点での電灯数は1万3998灯、動力用電力供給は165.0馬力(約123キロワット)であった。 先に触れたように、新潟水電が設立された頃、中蒲原郡川内村を流れる早出川での水力発電計画も起業に向けて動きつつあった。同計画は初め木村松二郎らにより出願されていたが、間もなく清水常作ら宝田石油(長岡市)関係者に引き継がれ、清水ほか6名が発起人となって1907年1月に水利権獲得に至る。清水らは「新潟水力電気株式会社」の電気事業経営許可を同年5月22日付(新潟水電の事業許可と同日)で得て、6月21日、新潟水電に先駆けて新潟水力電気を設立した。同社には中野平弥との対立から新潟電灯を去った鈴木長八や小出喜七郎らが合流しており、初代社長には清水常作(専務就任)を抑えて鈴木長八が就任している。1909年3月、新潟水力電気は早出川の第一発電所(出力500キロワット)完成により開業に至る。変電所は五泉・新津・沼垂の3か所が設けられ、開業時は中蒲原郡村松町・五泉町(現・五泉市)および新津町(後の新津市)での供給が、遅れて同年5月より新潟市内と沼垂町での供給が開始された。 同時期に開業した新潟水電と新潟水力電気は後述するように供給区域の重なる新潟市内と沼垂町で激しく競合したほか、市外では供給区域の拡大を競った。両社の供給区域は徐々に岩船郡を除く下越地方一帯に拡大していくが、新潟水電の供給区域は主に阿賀野川右岸と信濃川左岸、新潟水力電気の供給区域は加茂・三条・見附など主に信濃川と阿賀野川の間の地域に広がった。新潟水電においては、発電所のある北蒲原郡のうち水原町(現・阿賀野市)にて1911年(明治44年)11月より、中条町(現・胎内市)にて翌1912年(大正元年)9月よりそれぞれ供給を開始。加えて1912年までに笹岡村・安田村(現・阿賀野市)や葛塚町(後の豊栄市)でも開業した。 北蒲原郡以外では、1911年10月新潟水電「津川支社」の名義で東蒲原郡津川町(現・阿賀町)での事業許可を取得。また1911年内に「蒲原電気株式会社」名義で中蒲原郡小須戸町と白根町(後の白根市)、「越後電気株式会社」名義で西蒲原郡燕町・吉田村・地蔵堂町(現・燕市)および南蒲原郡裏館村(現・三条市)での事業許可をそれぞれ取得した。「蒲原電気」「越後電気」とも中野平弥を発起人の代表としており、新潟水電では1912年中に2つの事業権を引き取った。逓信省の資料によると、1914年(大正3年)までに上記町村や西蒲原郡巻町などでも開業しているのが確認できる。なおこのうち燕地区には当初、吸入ガス機関(サクションガスエンジン)を原動機とする出力30キロワットの内燃力発電所(燕発電所)を置いていた。 供給区域の拡大とともに水力発電所建設も進行した。新潟水電では、大荒川上流発電所に続いて1912年(明治45年)5月に大荒川下流発電所(出力235キロワット)を完成させ、次いで飯豊川第一発電所(出力1900キロワット)の工事を進めて1915年(大正4年)7月に同所も竣工させて供給力を増強した。前者の所在地は北蒲原郡笹岡村大字勝屋で、名前の通り大荒川上流発電所の下流側に位置する。後者の所在地は北蒲原郡赤谷村大字上赤谷(現・新発田市上赤谷)で、加治川本流(飯豊川)にある。変電所の新設もあり、既設沼垂・新発田変電所に続いて1914年3月に水原変電所と小須戸変電所、1915年4月に燕変電所がそれぞれ完成した。うち西蒲原郡の小須戸・燕両変電所には大荒川上流発電所からの送電線が繋がった。 事業拡張の中、新潟水電では計3度の増資が行われた。最初の増資は30万円で、1909年12月の決議。次いで1911年2月に60万円の増資が決議された。3度目の増資は130万円で1913年(大正2年)10月に決議されたが、手続き完了は遅れ1916年(大正5年)7月となった。これらの増資により、資本金は設立時の30万円から250万円へと増加している。 先に触れたように、新潟水電の電灯・電力供給区域のうち新潟市内(1914年編入の旧沼垂町域を含む)は別資本の会社である新潟水力電気の電力供給区域でもあった。これは新潟水電や新潟水力電気が事業許可を得た1907年前後の時期は、逓信省が電灯供給区域の重複は原則認可しないものの電力供給については後発事業者参入の余地があると判断した場合に限り重複供給の許可を与える、という方針を採っていたことによる。事業許可に際し、新潟電灯の後身となる新潟水電側に優越権が認められたため、重複供給区域となる新潟市・沼垂町については新潟水力電気側は一般的な電灯・電力供給区域ではなく電力供給区域の扱いとされ、1邸宅または1構内毎に2キロワット以下の電灯供給を禁ずる(動力用電力供給の場合は2キロワット以下も可)という制限が付された。後発の新潟水力電気では1907年11月から供給予約の募集に着手し、その結果1909年5月の供給開始までに新潟市で約300馬力、沼垂町で約200馬力の電力供給予約を集めたという。 新潟水力電気の進出を迎え撃つ新潟水電側では、水力発電転換後は電気料金を引き下げること、新潟水力電気から電灯供給を受ける場合には自家用電灯扱いになり手続きが煩雑になることを告知して需要家の流出防止に努めた。それでも開業後の需要家争奪戦は激しくなり、新潟市内では至る所で道路の両側に両社の配電線が対峙する形となり、需要家に対しては規定以下の料金での供給が行われた。さらに昼間専用の供給であるはずのところに昼夜間の送電をなしたり、器具の表示灯に余分な電灯を添えたりすることもあったという。1913年には新潟水電側が需要家に動力使用組合を組織させ、引き留めのため様々な特典を与えるようになった。1916年2月になると新潟水力電気側も同様の組合を組織させて規定の半額での電力供給を始めた。 新潟水電と新潟水力電気の競争はやがて新潟市外にも飛び火した。近郊の中蒲原郡亀田町では新潟水力電気が1909年12月より供給していたが、1916年上期になって新潟水電も供給を始め、同地にある織布工場への電力供給を新潟水力電気から奪取した。さらに新潟水電は1918年(大正7年)に新潟水力電気が供給する新津油田への割り込みを図ったが、これは供給認可自体を得られず失敗した。それでも新潟水力電気側は採掘業者と協定して原油相場の上下に随伴する電力料金制を定めて採掘業者に優遇を与えた。こうした新潟水電と新潟水力電気の対立は、後述するように営業不可侵協定が締結される1924年(大正13年)12月まで断続的に続いた。 2つの電力会社が競合する中、明治末期の新潟市ではさらに都市ガス会社も出現していた。電灯が旧式の炭素線電球(発光部分に炭素線を用いる白熱電球)を用いていた当時、都市ガス燃焼による照明すなわちガス灯は電灯よりも明るい照明であり、屋内灯や商店の照明、また少数ではあるが街灯にも利用された。1907年に起業へ向けた動きが始まった際、中野平弥ら新潟電灯関係者もガス事業を出願したが、新潟市でのガス営業権は1909年に桜井市作のグループが獲得する。そして翌1910年7月、新潟瓦斯(北陸ガスの前身)が発足。1911年4月より市内繁華街を中心にガス供給が始まった。 新潟市内ではピーク時3000灯余り(1916年末時点で3144灯)のガス灯が利用されたが、電灯の改良、特に長寿命・省電力のタングステン電球(発光部分にタングステン線を用いる白熱電球)が普及するとガス灯の優位は失われた。これに第一次世界大戦勃発に伴う原料石炭(当時の都市ガスは石炭ガス)の価格暴騰が重なったため、全国的にガス灯は衰退しガス利用の中心は熱源へと移っていった。新潟瓦斯においても大正末期には熱需要がガス灯需要を上回るようになっている。なお、新潟水電におけるタングステン線電球を含む金属線電球の利用は1913年11月末時点では全電灯の4分の1に過ぎなかったが、5年後、1918年11月末時点では点灯する全電灯の金属線電球化が完成している。 1915年7月に大型の飯豊川第一発電所が完成したことで新潟水電では大口の電力供給が可能となった。10月から供給を始めた大口需要家は北越板紙と亜鉛電気製錬の2社で、これだけで約400馬力の供給増となっている。需要家の北越板紙は長岡市にある北越製紙(現・北越コーポレーション)の子会社で、同年旧沼垂町に製紙工場を建設。もう一方の亜鉛電気製錬は東蒲原郡下条村大字五十島(現・阿賀町五十島)にて銅・亜鉛採掘(葎沢鉱山)と亜鉛の電解精錬を行う会社である。新潟水電の同年11月末時点での供給成績は電灯数4万8173灯・動力用電力供給765.5馬力(約571キロワット)・その他電力供給112キロワットであった。 さらに新潟水電では電力需要創出にも取り組んだ。その一つは電気化学事業への参入で、余剰電力の受け皿をつくるべく1916年6月8日付で逓信大臣の兼営許可を取得。工場を新潟市山ノ下に建設の上、同年11月4日より塩素酸カリウムの製造を開始した。1918年上期からは水酸化ナトリウム(苛性ソーダ)と次亜塩素酸カルシウム(さらし粉)の製造も加わっている。こうした電気化学事業のほか紡績事業の兼営も検討されたが、これは株式の4分の1を引き受けて新潟紡績株式会社として起業する方針に改められた。新潟紡績は1916年12月21日、中野平弥を代表取締役として新潟市に発足した。さらには自社での市街電車敷設を計画し、1918年9月に軌道敷設特許を取得している。 隣接する電気事業者の統合は1件のみ、三島電気株式会社の統合が行われた。三島電気は1912年3月23日、資本金5万円で長岡市に設立。日本各地の電気事業に関わった才賀藤吉が社長を務め、他に新潟水力電気の清水常作・鈴木長八が取締役に名を連ねた。同社は三島郡寺泊町に出力40キロワットのガス力発電所を設け、寺泊町内を供給区域として1914年2月に開業した。新潟水電では供給区域が隣接するため同社の吸収を計り、まず1914年下期に全1000株のうち700株を買収する。そして1916年1月に事業買収契約を締結し、同年6月23日付で逓信省の認可を得た上で9月6日をもって事業引継ぎを完了した。なお事業譲渡に伴い三島電気は9月21日に解散している。 第一次世界大戦を背景とする大戦景気期には工業電力を中心に電力需要が著しく増加した上、灯油価格高騰によりランプから電灯への切り替えが進んで電灯需要も増加した。工業需要の一例として、北越製紙(北越板紙を吸収)が400馬力という大型電動機を据え付けた新潟工場内砕木パルプ工場(1917年完成)がある。1918年11月末時点の供給成績は電灯数7万3868灯・動力用電力供給3478.75馬力(約2594キロワット)・その他電力供給115.9キロワットであり、3年間で電灯は1.5倍、動力用電力は4.5倍の増加をみている。このように供給成績は増加したものの、大戦景気期の物価騰貴によって発電所建設を控えざるを得なくなり、発電力増強は飯豊川第一発電所完成をもって一旦停止した。そのため需要増加につれて供給力不足に陥り、1918年下期からは電力供給の一部謝絶を余儀なくされた。 1918年11月に世界大戦が終結すると電力需要の一部は消滅した。当初の大口需要家であった五十島の亜鉛電気製錬は大戦終結で1919年(大正8年)事業休止に追い込まれた。さらに同年7月、自社の兼営化学事業も採算悪化で苛性ソーダ・さらし粉の製造を中止した(塩素酸カリウム製造のみ継続)。その一方、新潟市内に新設された新潟紡績の工場が1919年7月より操業を開始したことで、新潟水電では同社に275馬力の電力供給を始めた。この頃飯豊川第二発電所を工事中であったが、労働力不足で工期が伸びており供給力不足は継続していた。対策のため、1920年(大正9年)1月より競合する新潟水力電気から夜間200キロワットの受電を開始している。受電開始後、1920年5月末時点の電灯数は8万9225灯、電力供給は動力用4235馬力(約3158キロワット)・その他0.7キロワットであった。 1918年4月18日、新潟水電の重役会において、新潟水電とその傍系会社にあたる両新鉄道株式会社の統合によって新会社「新潟電気株式会社」を設立する旨が決議された。この当時、新潟水電では大規模電源開発を手掛けるべく信濃川や阿賀野川水系只見川・伊南川に水利権を出願していたが、水利権獲得には資本金の増加が必須であると考えられた。しかし新潟水電が増資を実行する場合、未払込資本金(1918年上期時点では公称資本金250万円のうち78万円が未払込み)を全額徴収の上、増資額の4分の1を払込む必要があり、水利権が未許可の段階でこれらの資金調達を実行して払込資本金額を膨らませるのは経営的に問題があった。こうした事情を踏まえ、払込額を抑えつつ公称資本金だけを大きくする方法として、250万円の払込みによって公称資本金1000万円の新会社新潟電気を新設し、これに新潟水電・両新鉄道の事業を買収させる、という手法が採用されたのである。 なお新潟電気への統合が決定された両新鉄道というのは、新潟と新発田を結ぶ電気鉄道を計画していた会社である。設立は1915年9月。資本金は60万円(6万円払込)で、設立に際して新潟水電が過半数の株式を引き受けていた。ただし鉄道敷設免許を得ていたものの、着工に向けた動きはないままであった(詳細は#鉄軌道事業計画参照)。 重役会での決定後、1918年5月31日付で新潟電気発起人と新潟水電・両新鉄道の間に事業譲渡契約が交わされた。その大要は、 というものである。この操作により、新潟水電の払込資本金217万5000円はそのまま新会社の払込資本金に移行し、両新鉄道の払込資本金6万円は新会社の払込資本金5万円へと姿を変えることになる。新会社の払込資本金は250万円のため27万5000円の不足となるが、この分の株式2万2000株は公募するものとされた。 新会社設立に向けた手続きが進行中の1918年5月7日、新潟水電の主宰者である専務取締役中野平弥が死去した。これを機に新潟県知事が新潟水電と競合会社新潟水力電気の両社に合同を呼び掛けたが、6月11日、新潟水電では合併を希望しない旨を表明する。その後も新会社設立作業は続けられ、6月29日新潟水電の定時株主総会にて、7月23日両新鉄道の定時株主総会にてそれぞれ新会社への事業譲渡契約が承認された。 2年後の1920年11月15日、新潟電気株式会社の創立総会が開催される。次いで同年12月1日、新潟電気は契約に基づき新潟水電・両新鉄道の事業一切を引き継いで営業を開始した。新潟電気の本店は新潟水電と同じく新潟市新島町通四ノ町に設置。創立総会で選出された新潟電気の役員は取締役が斎藤彦太郎(農業・多額納税者)・星野勘右衛門(同)・谷資敬・上原有三・中野欽治(中野平弥の孫)・中野四郎太・飯村俊二の7名、監査役が浅川文吉ほか4名で、取締役の中から社長に斎藤彦太郎、専務に中野四郎太、常務に飯村俊二が就いた。新潟電気発足の一方、新潟水電・両新鉄道両社は創立総会同日に臨時株主総会を開き、そこでの決議に基づき12月1日をもって会社を解散している。 新潟電気発足後の1921年(大正10年)12月、新潟水電時代に着工されていた飯豊川第二発電所(出力1843キロワット)が運転を開始した。同発電所は北蒲原郡川東村大字小戸(現・新発田市小戸)、加治川中流域にある。新発電所の完成に伴い新潟水力電気からの受電は12月限りで打ち切られた。供給力増加につれて供給成績も伸長し、1923年(大正12年)上期には電灯数15万灯・電力供給7000馬力に到達している。ただし兼営化学事業については採算の見込みがなくなり新潟電気発足間もない1921年9月6日付で休業とされ、以後再開されなかった(1928年下期に工場設備を処分)。 1921年10月、新潟電気は福島県内を流れる阿賀野川水系伊南川に水利権(出力1万8000キロワット)を獲得した。この伊南川発電所は早期に着工されなかったが、以後新潟電気では福島県側での事業拡大を進めた。まず1922年(大正11年)10月11日、新潟県に隣接する福島県耶麻郡奥川村(現・西会津町)を供給区域とする奥川水力電気株式会社と合併契約を締結した。合併相手の奥川水力電気は1918年4月20日耶麻郡喜多方町(現・喜多方市)に資本金30万円で設立され、奥川(阿賀野川水系)に発電所を建設して1920年7月に開業していた。新潟電気と奥川水力電気の合併比率は1対1で、合併による新潟電気の資本金増加は100万円である。合併は1922年11月10日の株主総会決議を経て翌1923年6月30日に実施され、7月15日の合併報告総会をもって手続きを完了した。この合併により奥川村にある奥川発電所(出力1000キロワット)と奥川第二発電所(出力638キロワット)を引き継いでいる。 次いで1924年(大正13年)12月、高田鉱業株式会社との間に、同社が福島県会津地方を流れる大川(阿賀野川上流部)に有する未開発水利権を共同開発するという契約を締結した。高田鉱業は高田商会から分割して設立された鉱業会社で、細倉鉱山(宮城県)で亜鉛鉱石を採掘し、細倉製錬所と福島県内の大寺製錬所において亜鉛の電解精錬を行っていた。共同開発の契約締結に基づき新潟電気では開発主体となる日本電気工業株式会社の起業に着手。資本金700万円・総株数14万株のうち6万株を自社で、5万5000株を自社株主で出資して、1926年(大正15年)8月30日付で新潟市に日本電気工業を設立した。 日本電気工業を通じて開発する運びとなった大川発電所の下流側では、大沼電灯株式会社という別の会社が発電所建設を計画中であった。大沼電灯は1912年8月1日、資本金5万円をもって福島県大沼郡高田町(現・会津美里町)に設立。1912年11月に会津電力(若松市)からの受電を電源として開業し、高田町を中心に配電していた。同社では1921年8月より宮川発電所(出力450キロワット・大沼郡尾岐村)を運転したが、無理な事業拡張で経営不振に陥る。その隙を狙って大川の未開発水利権(出力約4000キロワット)を入手すべく新潟電気・新潟水力電気・会津電力の3社がそれぞれ合併を持ち掛けた結果、1927年(昭和2年)3月28日、新潟電気との間で合併契約締結に至った。 大沼電灯の合併では、同社は当時資本金150万円・払込資本金90万円であったものを不良資産・債権消却のため40万円に切り下げて合併するという方法が採られた。従って合併に伴う新潟電気の資本金増加は40万円(払込資本金増加も同額)のみで、合併比率は9対4とされた。合併は1927年4月15日に株主総会で決議ののち、8月1日付で実行、8月15日には合併報告総会も完了した。合併に伴い新潟電気は大沼郡高田町の旧大沼電灯本社に出張所を設けた。 1922年12月、新潟県南部を流れる信濃川水系中津川にて信越電力中津川第二発電所が運転を開始した。次いで1924年10月にはその上流側に同社中津川第一発電所が完成する。前者は出力1万8000キロワット、後者は出力3万9000キロワットという大型水力発電所で、その発生電力は主として東京電灯の上越送電線により三国峠を越え関東地方へと送電された。ただし一部は新潟県内への供給に振り向けられることとなり、1923年9月、中津川第二発電所から長岡変電所へと至る長岡送電線(送電電圧66キロボルト)が東京電灯によって整備された。東京電灯の長岡進出にあわせ、まず長岡市の北越水力電気が1923年10月より東京電灯からの受電を開始する。新潟電気においても1922年10月東京電灯と最大3000キロワットの受電を契約し、1924年1月、受電用送電線として長岡変電所から自社の燕変電所へと至る送電線(送電電圧33キロボルト)を完成させた。 東京電灯のほか村上水電からの受電も行われた。同社は新潟県北部の岩船郡村上町(現・村上市)にあった電力会社である。同社からの受電は東京電灯に先立つ1923年から。当初は村上水電の余剰電力100キロワットを受電するに過ぎなかったが、1927年12月に同社発電所と自社の新発田発電所を結ぶ送電線が完成し、以後受電は1200キロワットとなった。 一方で自社電源の拡充も進められた。まず1927年9月、傍系会社の日本電気工業に工事を委託していた新潟予備火力発電所が完成した。同所は新潟市山ノ下にあり、出力は3000キロワットである。福島県の大川発電所に関しては、工事の進展に伴いまず1927年11月に高田鉱業から水利権を譲り受ける。次いで発電所工事を委託する日本電気工業の合併手続きに着手し、同年11月24日合併契約締結、12月12日株主総会での合併決議と進んで、翌1928年(昭和3年)3月20日付で合併を実施した。合併報告総会は同年4月5日に開催されている。日本電気工業の合併後の1928年5月、大川発電所は落成した。大川発電所は福島県北会津郡大戸村大字芦ノ牧(現・会津若松市大戸町芦ノ牧)にあり、発電所出力は社内最大の1万2520キロワットであった。 なお日本電気工業の合併により新潟電気の資本金は700万円増の1840万円となった。前述の通り新潟電気では日本電気工業の株式6万株(300万円分)を保有していたが、この株式は合併で消却とはせず、「新潟電気証券株式会社」という証券保有会社に移して維持する措置が採られた。1928年3月16日、新潟電気証券は新潟市内に設立される。同社の資本金は300万円で、全6万株のうち5万9850株を新潟電気が引き受けていた。 新潟火力発電所と大川発電所の完成により、新潟電気の発電所数は計10か所、総出力は2万2299キロワット(他に受電4200キロワット)に達した。供給力増加とともに供給成績も伸長を続け、電灯数は1925年(大正14年)上期に20万灯へ到達したのち1928年上期には30万灯へ到達。電力供給は1927年上期に1万馬力を超えている。1929年(昭和4年)11月末時点の供給成績は電灯需要家数9万8797戸・電灯数32万7496灯、電力供給1万4364.4馬力(約1万712キロワット。他に家庭電気設備591.03キロワットあり)であった。この間の1924年秋、電灯供給規定を大幅改訂し、従量灯需要喚起のため従量料金制度に当時の東京市の制度を模した逓減制を採用した。また家庭用電気器具向けの定量制を追加し、電灯契約の場合原則夜間のみであった送電時間を終日送電も可能とするよう改めた。電力部門では農村電化に力を入れ、1927年に秋季3か月間を1使用期とする農季電力供給規定を制定した。 前身の新潟水電時代から繰り広げられていた新潟市内における新潟水力電気との競合は1920年代に入っても続いていた。両社が電源不足に陥っていた1920年前後の時期は紛争がやや緩和されていたものの1923年頃より再び抗争が激化して弊害が大きくなったため、1924年12月31日、両社交渉の末に営業不可侵協定の締結に至った。協定内容は、供給区域が重複する新潟市内と中蒲原郡亀田町では需要家の争奪を目的とする勧誘・宣伝その他一切の競争的行為を禁ずる、供給料金・供給条件は意見交換の上でできるだけ統一する、両社は相互に相手の需要家に対する供給権を尊重し侵害しない、相手の需要家より供給の申込みがあった場合は相手側の承諾を得て供給する、大口需要家以外は各自の供給規定にて定めた料金・条件に沿って供給する、などであった。協定後も新規需要家をめぐる小競り合いがあったものの、年を追うごとに両社の関係は改善に向かった。 同じ地域で営業する新潟電気(新潟水電)と新潟水力電気を合同させようという動きは先に触れたように1918年から存在し、数年おきに県や財界有力者が合同を仲介していたが、関係者の感情的対立が原因で分立して起業されたという経緯から両社経営陣は合同の利益を自覚しつつも合同には消極的であった。1927年の金融恐慌を契機とした合併仲介が不調に終わった後、新潟電気は新潟水力電気ではなく大手電力会社東邦電力との提携を選択した。この東邦電力は東京に本社を置き中京地方と北部九州を地盤とした電力会社であるが、1920年代末になって供給区域から離れた東北地方進出を図り福島電灯・東部電力・二本松電気など福島県の会社を相次いで傘下に収めていた。 東邦電力と提携するにあたり、1929年3月10日、東邦電力傘下の東邦証券保有と新潟電気・新潟電気証券の3社間に以下の契約が締結された。 新潟電気では同年3月28日に臨時株主総会を開き上記契約を承認した。新潟電気証券の増資(実際には360万円の増資)は6月に完了。そして6月12日、新潟電気は新潟電気証券を合併した。合併後の新潟電気の資本金は660万円増の2500万円である。これらの操作により東邦証券保有は新潟電気の全株式50万株のうち23万4千株を持つ筆頭株主となった。また6月28日に行われた合併報告総会では増員役員として取締役に松永安左エ門・山県鼎一(常務取締役就任)、監査役に古島安二がそれぞれ選出されている。3人とも当時の東邦電力関係者で、松永は同社社長、山県・古島は同社社員であった。 新潟電気が東邦電力の傘下に入ったことで、これまで何度も破談となっていた新潟水力電気との合併交渉が松永安左エ門らの仲介により一挙に進展をみせた。そして1929年9月14日、新潟電気と新潟水力電気の間で合併契約が締結されるに至る。この当時、新潟電気は資本金2500万円、新潟水力電気は資本金1200万円と会社の規模は新潟電気が上回っていたが、合併では新潟水力電気側が存続会社で新潟電気は解散するものとされた。合併比率は1対1(対等合併)、合併期日は1929年12月24日と定められた。9月29日、新潟電気・新潟水力電気ともに臨時株主総会を開いて合併を承認した。 合併契約上の合併期日であった1929年12月24日付で逓信省より合併認可が下りたが、期日前に間に合わなかったため合併日は繰り延べられ翌1930年(昭和5年)1月8日付となった。同年2月1日、存続会社の新潟水力電気で合併報告総会が開かれて合併手続きが完了し、同日をもって新潟電気は解散した。この総会にて新潟水力電気は「新潟電力株式会社」へと改称。さらに役員の総改選を行い、新社長に松永安左エ門、新副社長に白勢量作を選出した。以後、新潟電力では合併の目的であった社内組織の合理化、小規模発電所の休廃止や送電系統の統合といった事業整理が進められていった。 新潟水電時代、1914年(大正3年)5月末時点の供給区域は以下の通り。これには未開業の地域を含む。 新潟電気時代、1929年(昭和4年)6月末時点の供給区域は以下の通り。 新潟県下越地方で新潟電気の供給区域に含まれない地域は基本的に新潟水力電気の供給区域であるが(新潟電力#1929年時点の区域一覧参照)、北蒲原郡乙村・黒川村と岩船郡各町村(離島の粟島浦村を除く)は村上水電の供給区域に含まれる。ただし西蒲原郡浦浜村はいずれの電気事業者にも属さない空白地域であった(同村での供給開始は新潟電力時代の1934年8月)。 新潟電気の供給区域が広がる新潟・福島両県は太平洋戦争下の配電統制にて東北配電の配電区域とされ、後身の新潟電力は区域内にある配電設備・需要者屋内設備の一切を1942年(昭和17年)4月に東北配電へと出資した。戦後1951年(昭和26年)5月の電気事業再編成では東北配電区域をそのまま引き継いで東北電力が発足している。 新潟電気が運転し新潟電力へ引き継がれた発電所は水力発電所9か所・火力発電所1か所、総出力2万2299キロワットである。以下、これらの発電所の概要を記す。 新潟水電時代、最初に開発された水力発電所が大荒川上流発電所(大荒川第一発電所とも)である。所在地は新潟県北蒲原郡笹岡村大字勝屋字大荒川山(現・阿賀野市勝屋)。1909年(明治42年)5月13日より運転を開始した。 阿賀野川水系大荒川にある発電所の一つで、川に設けられた堰堤から取水の上、長さ1.8キロメートルの水路で導水し発電する仕組みであった。発電設備はドイツ・フォイト製ペルトン水車1台と米国ゼネラル・エレクトリック (GE) 製三相交流発電機(容量540キロボルトアンペア)1台からなる。発電所出力は443キロワットで、発生電力は沼垂変電所(新潟市流作場)へと送電された。 大荒川上流発電所に関係する発電所として大荒川下流発電所(大荒川第二発電所とも)があった。所在地は北蒲原郡笹岡村大字勝屋字賽ノ川原。上流発電所に続いて1912年(明治45年)5月に運転を開始した。上流発電所の約1キロメートル下流地点にあり、同発電所の放水を直接導水し発電する仕組みであった。発電設備はスイス・エッシャーウイス製フランシス水車1台とGE製三相交流発電機(容量250キロボルトアンペア)1台からなり、発電所出力は235キロワットに設定された。 新潟水電時代、発電所の周波数は60ヘルツで統一されていたが、新潟電気時代の1928年時点では大荒川上流・下流発電所以外は50ヘルツとなっている(変電所は水原町の水原変電所のみ60ヘルツ対応)。1930年の新潟電力発足後、設備の統一・改善の一環として小容量かつ周波数が60ヘルツのままの大荒川上流・下流発電所は撤去が決まり、1931年(昭和6年)11月27日付でそろって廃止された。 新潟水電・新潟電気が運転した発電所のうち赤谷発電所は自社建設の発電所ではなく赤谷鉱山の自家用発電所を借り入れたものである。所在地は北蒲原郡赤谷村大字滝谷字天ヶ淵(現・新発田市滝谷)。 赤谷発電所は官営八幡製鉄所が進める赤谷鉱山開発の一環として、鉱石搬出用索道の電源とする目的で1900年(明治33年)7月に着工された。その後発電所建物や水路が竣工し、ドイツから輸入の水車・発電機を据え付けると稼働できるという状態になったが、1903年(明治36年)3月に鉱山開発自体が中止されたため発電所工事も打ち切られた。1909年9月、新潟水電はこの状態の赤谷発電所を借り入れる契約を結び、12月に水利権移転の許可を得た上で工事を進め、1910年(明治43年)8月より運転を開始した。 取水は加治川支流内ノ倉川から行うが、水路は常盤新田用水と共用であり既設水路を付け替え・拡張の上で利用している。発電設備はフォイト製フランシス水車2台とドイツ・AEG製三相交流発電機(容量150キロボルトアンペア)2台からなり、発電所出力は270キロワット。発生電力は新発田方面や新潟方面(1911年7月追加)へと送電された。 新潟電力発足直後の1930年(昭和5年)8月16日、送電系統統一で不要になったとして赤谷発電所は八幡製鉄所に返還された。発電所は製鉄所から赤谷村に払い下げられたのち赤谷電力(現・赤谷電気工業)に引き継がれ、1931年より運転が再開されている。 新潟水電時代の4か所目の水力発電所が飯豊川第一発電所である。所在地は北蒲原郡赤谷村大字上赤谷(現・新発田市上赤谷)。1913年(大正2年)10月に着工され、1915年(大正4年)6月に完成。同年7月10日付で使用認可が下りたため12日より運転を開始した。 取水は飯豊川(加治川上流部)から行う。取水地点には堤高34.8メートル・堤長53.3メートルの重力式コンクリートダムが築造された。このダムは余水放流設備として2つの排砂門を持つが堤頂の洪水吐は設置されていない。取水口から先、発電所へと至る導水路はほとんどが木造(木管)であった。発電設備はフォイト製フランシス水車2台と芝浦発電所製三相交流発電機(容量1250キロボルトアンペア)2台からなり、発電所出力は1900キロワットに設定された。飯豊川第一発電所から伸びる送電線のうち沼垂変電所へと至る線は33キロボルトの送電電圧(既設線は11キロボルト)が採用されている。 飯豊川第一発電所は1942年(昭和17年)4月の配電統制で新潟電力から東北配電へ出資され、1951年(昭和26年)5月の電気事業再編成で東北電力に継承された。しかし1953年(昭和28年)になって東北電力の手により再開発され、ダムは再利用されたものの導水路以下は全面的に造り替えられ新潟水電時代からの発電所は撤去された。新発電所は旧発電所の上流側隣接地に建つ。 新潟電気発足後で最初に完成した水力発電所が飯豊川第二発電所である。所在地は北蒲原郡川東村大字小戸(現・新発田市小戸)。着工は新潟電灯時代の1918年(大正7年)12月で、1921年(大正10年)12月27日より運転を開始した。 飯豊川第一発電所と同じく飯豊川にある。導水路は約5キロメートルの長さがあり、途中、支流内ノ倉川を渡る地点には水路橋を設ける。発電設備は電業社製フランシス水車2台と芝浦製作所製三相交流発電機(容量1250キロボルトアンペア)2台からなり、発電所出力は1843キロワットであった。 飯豊川第二発電所も新潟電力から東北配電を経て1951年以後は東北電力に引き継がれている。 新潟電気時代の2番目の水力発電所は大川発電所である。所在地は福島県北会津郡大戸村大字芦ノ牧字戸草平(現・会津若松市大戸町芦ノ牧)。着工は1926年(大正15年)10月、竣工は1928年(昭和3年)5月で、5月29日付で使用認可が下りた。 会津地方を流れる大川(阿賀野川)にあった発電所の一つ。発電所の南方、大川左岸にあたる南会津郡長江村大字湯野上(現・下郷町湯野上)に取水口を設けた。取水口から発電所上部水槽へ伸びる導水路は総延長6.6キロメートルに及ぶ。発電設備は電業社製縦軸フランシス水車3台と芝浦製作所製三相交流発電機(容量5250キロボルトアンペア)3台からなる。発電所出力は1万2520キロワットで、その発生電力は66キロボルト送電線(大川送電線)で新潟市郊外の石山村にある新潟変電所へと送られた。 大川発電所は1942年4月電力国家管理のため新潟電力から日本発送電へと出資され、同社東北支店所属となる。次いで1951年5月の電気事業再編成で東北電力へと移管された。ただし1985年(昭和60年)1月、建設省大川ダム建設で取水口が水没する位置にあったことから廃止されており、現存しない。 新潟電気から新潟電力に引き継がれた中で唯一の火力発電所として新潟火力発電所があった。所在地は新潟市沼垂字中王瀬。1927年(昭和2年)9月に竣工し、22日付で使用認可が下りた。運転は同年10月からである。 米国バブコック・アンド・ウィルコックス (B&W) 製ボイラー3台、三菱造船製ユングストローム式蒸気タービン1台、三菱電機製三相交流発電機(容量1500キロボルトアンペア)2台からなる汽力発電設備を有した。燃料は石炭(粉炭)。渇水時における不足電力を補うための補給発電所であり、発電所出力は3000キロワットながら常時出力の設定はない。 新潟火力発電所は配電統制により1942年4月新潟電力から東北配電へと引き継がれる(この段階での発電所出力は3500キロワット)。1951年5月以後は東北電力に属したが、1959年(昭和34年)3月に廃止され古湊変電所へと格下げされた。 合併に伴って他社から引き継いだ水力発電所は奥川発電所(奥川第一発電所とも)・奥川第二発電所・宮川発電所の3か所である。これらの概要は下表の通り。 宮川発電所は東北配電経由で東北電力に継承。奥川・奥川第二両発電所は大川発電所とともに1942年4月日本発送電へ出資され(東北支店所属)、そこから東北電力へと移管された。 開業に至らなかったが、新潟水電・新潟電気では2つの鉄道事業計画を有していた。一つは新潟と新発田を結ぶ鉄道敷設計画(「両新鉄道」計画)、もう一つは新潟市内の電気軌道(路面電車)敷設計画である。 1912年(大正元年)9月、国有鉄道の一部として新津駅から新発田駅に至る路線(後に羽越本線の一部となる)が開通し、新発田に初めて鉄道が通された。しかし新潟市内と新発田を往来する際には新津迂回を要するため、新潟と新発田の直結を目指す「両新鉄道」構想が出現する。新潟の小出清七(測量士)と沿線葛塚町の窪田市次郎が中心となって計画を進めた結果、小出ら両新鉄道発起人は1913年(大正2年)8月15日付で新潟駅付近(旧沼垂町)から新発田駅付近へと至る区間の鉄道敷設免許を獲得した。その後会社設立まで時間を要したが、自社管内の路線という理由で新潟水電が支援に名乗りを上げ、1915年(大正4年)9月2日に臨時株主総会を開いて両新鉄道株式会社の設立に際し過半数の株式を引き受ける旨を決議した。そして同年9月24日、新潟水電所在地に資本金60万円(6万円払込)をもって両新鉄道が設立された。 1920年(大正9年)12月、両新鉄道が新潟水電とともに新潟電気へと事業を譲渡したことで、鉄道敷設免許は新潟電気の手に移る。しかしその後も建設費の問題から着工に至らなかった。事業が進展しない間に沿線自治体の運動によって新潟・新発田間鉄道は国有鉄道敷設予定線に編入されたことから、新潟電気では自社建設を取り止めて国に建設を委ねる方針を固める。計画放棄の方針を新潟市へ伝達すると沿線の自治体・有志で立ち上げる新会社への敷設免許譲渡を申込まれたため、新潟電気では新会社設立時には相応の出資をする旨を約束し、1928年2月には株主総会を開いて免許譲渡を決議した。しかし新会社設立は立ち消えとなり、新潟電力発足後にあたる1930年(昭和5年)5月30日付で起業廃止・免許返納の手続きが採られ、鉄道敷設計画は頓挫した。新潟・新発田間鉄道が白新線として開通するのは太平洋戦争後、1956年(昭和31年)のことである。 電気軌道敷設計画については新潟水電自ら参画した。計画区間は新潟駅と越後鉄道(1927年国有化され越後線に)の起点白山駅の間で、1913年10月に電気軌道敷設を出願し、1918年(大正7年)9月12日付で軌道敷設特許を獲得した。しかしこの路線についても、信濃川架橋費が負担となり直ちに着工されなかった。そうした中、1925年に新潟県による萬代橋架け替えが決定されると、新潟電気では軌道専用橋の架橋に替えて萬代橋中央部に軌道敷を確保し建設費を圧縮する方針を固め、萬代橋架橋費のうち40万円を負担することで軌道敷分の幅員拡張を県へ依頼することとなった。萬代橋架け替えは1929年8月に完成。新潟電気は架け替えと同時に一部でも軌道を開業させる意向を持っていたが、なおも着工されず、萬代橋の中央部は石畳が敷かれただけであった。 新潟電力発足後、旧新潟電気の電気軌道計画は新潟水力電気側の傍系会社である新潟電鉄(現・新潟交通)に統合され、新潟電鉄の路線として開業を目指すこととなった。そして旧新潟電気由来の特許区間は新潟電鉄線の起点を白山駅前から新潟県庁前に移すのに活かされ、1933年(昭和8年)7月にごく一部が開業する。しかし新潟駅前から県庁前までの2.8キロメートルは着工できず、戦後1958年(昭和33年)10月に起業廃止となっている。 新潟水力電気(新潟電力)との合併前、1929年下期時点の役員は以下の18名であった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "新潟電気株式会社(にいがたでんき かぶしきがいしゃ)は、大正から昭和初期にかけて存在した日本の電力会社である。新潟県新潟市を本拠とした電力会社の一つ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "新潟県内最初の電気事業者新潟電灯株式会社(新潟電燈、にいがたでんとう)を母体とする。1898年(明治31年)に開業した新潟電灯の事業を1909年(明治42年)に新潟水電株式会社(にいがたすいでん)が継承し、さらに新潟水電を改組する形で1920年(大正9年)に新潟電気が発足した。新潟県下越地方の約半分と福島県会津地方の一部で電気の供給にあたった。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1930年(昭和5年)、同じく新潟市を本拠とした新潟水力電気と合併し解散した。この合併で存続会社の新潟水力電気は新潟電力へと社名を改めている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "新潟電気株式会社は、1920年(大正9年)から1930年(昭和5年)までの10年間にわたり新潟県新潟市に存在した電力会社である。新潟市を中心に、主として新潟県下越地方のうち阿賀野川右岸地域(ただし北部の岩船郡を除く)および信濃川左岸地域を供給区域とした。また飛び地として福島県会津地方の一部にも供給区域を持った。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "新潟電気の母体は1896年(明治29年)に設立され1898年(明治31年)3月に開業した新潟電灯株式会社である。新潟電灯は新潟県内最初の電気事業者であるが、電源は小規模な火力発電所のみで供給区域は新潟市内に限られた。やがて水力発電への転換が検討されるようになるが、水力発電計画をめぐって社内対立が発生する。その結果、役員のうち中野平弥だけが新潟電灯に残り、自身が考案した水力発電計画を推進していく。その過程で1907年(明治40年)11月に新会社・新潟水電株式会社が設立され、1909年(明治42年)3月、新潟電灯は同社に合流した。その一方、中野と対立し新潟電灯から退出した役員の一部は別系統の電力会社・新潟水力電気の起業に加わった。新潟水力電気も1909年に開業し、新潟市内とその周辺の電力市場において新潟水電と競合した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "新潟水電時代に供給区域は急速に拡大し、新潟市以外では新発田・中条・水原・津川・白根・巻・燕といった町にも及んだ。1916年(大正5年)には事業統合により中越地方の寺泊にも進出している。1920年(大正9年)11月、水利権取得と資金調達の都合から新潟水電の株主を主体として再び新会社として新潟電気株式会社が立ち上げられる。新潟電気は同年12月新潟水電と同社の傍系会社で鉄道事業を計画する両新鉄道株式会社の2社から事業を継承した。新潟電気の時代には隣接する福島県へと進出し、事業統合によって大沼郡高田町(現・会津美里町)など会津地方の一角に供給区域を獲得。さらに1928年(昭和3年)には同地方を流れる大川(阿賀野川)に出力1万キロワット超の大型水力発電所を完成させた。電気事業以外では、新潟水電時代の大戦景気期に余剰電力による塩素酸カリウム製造など電気化学事業を兼営したが短期間で頓挫した。また新潟・新発田間の「両新鉄道」計画と新潟市内の路面電車計画について許認可を得ていたが、双方とも着工に至らなかった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1929年(昭和4年)、新潟電気は大手電力会社の一つ東邦電力の傘下に入った。これを機に下越地方での供給を二分する新潟水力電気との合併交渉が進展し、同年9月同社との合併が決定する。会社規模では新潟電気が上回っていたが存続会社は新潟水力電気とされたため、翌1930年(昭和5年)2月、合併手続き完了とともに新潟電気は解散した。一方、存続会社の新潟水力電気は合併と同時に社名を新潟電力株式会社(1930 - 1942年)へと改めた。その後旧新潟電気の供給区域や発電所は、太平洋戦争下の再編を経て戦後1951年(昭和26年)より東北電力へと引き継がれている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1887年(明治20年)、東京電灯が東京市内において、発電所から不特定多数の需要家に対し配電するという形の電気事業を日本で初めて開業した。電気事業のその後の拡大は急速で、1890年(明治23年)にかけて大阪など六大都市すべてに広がり、続いて九州や東北地方にも伝播していった。東北6県で最初の電気事業者は1894年(明治27年)7月に宮城県仙台市において開業した仙台電灯(後の宮城紡績電灯)である。翌1895年(明治28年)11月には福島県福島市で福島電灯が開業し、1897年(明治30年)3月には青森県青森市に青森電灯が出現した。", "title": "沿革:新潟電灯・新潟水電時代" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "東北地方の各地で電気事業が出現しつつある中、隣接する新潟県では1894年頃より県庁所在地新潟市において起業に向けた動きが本格化した。同地の新潟新聞によると、まず1894年6月、鍵富三作(米穀商・大地主)・佐々木松坪(衆議院議員)・浜政弘(回漕業)・八木朋直(市会議長、のち市長)・鈴木長八(回漕業)ら新潟の有力者が資本金3万円の電灯会社を設立すべく願書提出の準備を整えたという。ところが中野平弥(県下の大地主・鉄工所経営)らのグループや槙尾彦太郎(履物商)らのグループも電気事業を企画しており、共倒れとなることを恐れた県が3派の調停を試みたが失敗、直後に日清戦争が勃発したことで起業への動きは一旦頓挫した。", "title": "沿革:新潟電灯・新潟水電時代" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "戦後、1896年(明治29年)春になると再び起業に向けた動きが活発化したため、県は新潟市長鈴木長蔵に調停を命じて計画一本化に動く。その結果、県内在住の白勢春三(新潟銀行専務)・中野平弥・斎藤庫吉(回漕業)・栗林貞吉(貸金業)・小出喜七郎(洋物商)・清水禎三郎・中澤庸を代表発起人として新潟電灯株式会社を起業する運びとなった。1896年7月27日付で逓信省から電気事業経営の許可があり、8月4日県庁経由で許可状が白勢ほか6名の発起人に届く。次いで発起人は農商務省へ会社の発起認可を申請して9月15日で認可を得た。10月11日には新潟電灯の創業総会が開かれ、定款確定に続いて取締役に鈴木長八・小出喜七郎・中野平弥・栗林定吉・清水禎三郎、監査役に鍵富三作・斎藤喜十郎(貸金業・大地主)・浜政弘がそれぞれ選出された上、支配人に中澤庸が任ぜられた。このうち初代社長は鈴木長八が務めている。", "title": "沿革:新潟電灯・新潟水電時代" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "創業総会後に発起人は農商務省へ会社の設立免許を申請し、1896年12月10日付で免許を得た。新潟電灯株式会社の設立登記は翌1897年2月1日付である。新潟電灯は本社を新潟市白山浦1丁目623番地に構え、その隣接地に火力発電所を建設した。当初の発電所設備はボイラー・蒸気機関・単相交流発電機(出力75キロワット・16燭電灯1300灯分)各1台からなる。工事中、需要家の募集が順調に進み貸座敷・郵便局・師範学校・劇場などからの問い合わせも続いたため早くも発電機増設の計画が立てられている。1897年12月29日夜より電灯試験点灯を開始。翌1898年(明治31年)3月25日に営業認可証(19日付)が会社に届いたことから同日夜より正式に供給を開始した。この頃県内第2の都市古志郡長岡町(1906年市制施行で長岡市に)で長岡電灯株式会社の計画があったが起業に時間を要しており、新潟電灯が新潟県下最初の電気事業者となった。", "title": "沿革:新潟電灯・新潟水電時代" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "開業後最初の決算期末(1898年6月末)時点での電灯数は925灯であった。1897年7月制定の「電灯規則」によると、開業初期の電灯には日没から23時まで点灯する「11時灯」、翌日2時まで点灯する「2時灯」、日の出まで点灯する「終夜灯」、従量制の「不定時灯」、臨時設置の「臨時灯」の5種類があり、不定時灯・臨時灯以外は白熱電球の燭光ごとに月額料金が定められていた。例えば終夜10燭灯の場合、月額料金は1円30銭(ただし別途電球代もあり)であった。", "title": "沿革:新潟電灯・新潟水電時代" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "無事に開業した新潟電灯は1898年下期の決算から配当金を出せるようになり、1900年(明治33年)下期には最初の増資も実現して資本金が7万5000円となった。翌1901年(明治34年)、ボイラー・蒸気機関・発電機各1台の増設が完成し、発電力は165キロワット(75キロワット発電機・90キロワット発電機各1台)に増加した。", "title": "沿革:新潟電灯・新潟水電時代" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1900年9月、古志郡長岡町にて個人経営の電気事業が開業した。長岡でも新潟と同じく電源は火力発電であり、新潟県では先行2事業者がそろって火力発電で開業する形となった。しかしこの頃には送電技術の向上により水力発電の実用性が増しつつあった。その契機の一つは、1899年(明治32年)6月の福島県郡山市における郡山絹糸紡績(東部電力の前身)の開業である。同社が構築した電気事業は、安積疏水に沼上発電所を建設し、当時の国内最高電圧にあたる11キロボルト(1万1000ボルト)という送電電圧をもって郡山市街まで24キロメートルに及ぶ長距離送電を行う、というものであった。このような長距離高圧送電の実用化により、水力発電の適地が近隣にない都市でも火力発電ではなく水力発電の採用が可能となった。", "title": "沿革:新潟電灯・新潟水電時代" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "こうした中、新潟県下では山口権三郎が信濃川での水力発電を志し、山口の死後事業を引き継いだ北越水力電気組(後の北越水力電気)が1904年(明治37年)12月に塩殿発電所を完成させた。同社は開業に際して長岡ですでに営業していた個人営電気事業を引き取っており、長岡では真っ先に電源が火力発電から水力発電へと転換された。県内外で水力発電が拡大していく中、新潟電灯社内では取締役の中野平弥が調査を重ね、新潟市内から40キロメートル以内の適地を探求した結果北蒲原郡笹岡村(現・阿賀野市)を流れる大荒川(阿賀野川水系)での水力発電を企画、1905年(明治38年)になって具体的計画を会社に対して提案するに至った。さらに社外でも日露戦争後の好景気に乗じた起業の動きがあり、木村松二郎ら石油事業で財を成した実業家により中蒲原郡川内村(現・五泉市)を流れる早出川(阿賀野川水系)での水力発電が企画された。", "title": "沿革:新潟電灯・新潟水電時代" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "かくして新潟市周辺地域では大荒川と早出川の2河川に相次いで水力発電計画が浮上したが、このことで新潟電灯社内には深刻な対立が発生した。中野平弥は自身の調査にかかる大荒川の計画を主張したが、それ以外の役員は早出川での計画を未完成のうちに新潟電灯で買収する方が有利であると主張したのである。路線対立の末、1906年(明治39年)11月、中野平弥以外の役員はそろって辞任。12月の補欠選挙で取締役に中野貫一郎(中野平弥の長男)・上原有三(平弥の三男)・中野四郎太(平弥の四男)・飯村俊二(平弥の女婿)、監査役に高橋喜蔵(沼垂町)ほか2名がそれぞれ選出された(社長は中野平弥)。経営陣の異動に伴い株主にも異動を生じており、1900年の増資時に115名を数えた株主は最終的に10名まで減少した。", "title": "沿革:新潟電灯・新潟水電時代" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "中野平弥以外の役員が交代したことで新潟電灯は大荒川での水力発電へと進むこととなったが、その実行にあたっては新潟電灯とは別個に「新潟水電株式会社」を新設するという手続きが採られた。まず1906年12月、新潟水電名義で大荒川での水利権獲得に成功する。翌1907年(明治40年)1月には新潟電灯と新発田電灯所に電力を供給するという形の電気事業経営を逓信省に対し出願した。このうち「新発田電灯所」は、北蒲原郡新発田町(現・新発田市)とその周辺に供給すべく中野平弥・谷資敬(大地主市島徳次郎家の総務取締で元判事)名義で1906年7月12日付で許可を得ていた電気事業である。そして1907年5月22日、逓信省より新潟水電に対して電気事業経営の許可が下りた。", "title": "沿革:新潟電灯・新潟水電時代" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "新潟水電の発起人は中野平弥・市島徳次郎・佐藤伊左衛門(大地主・多額納税者)・佐藤友右衛門(同)・織田昇次郎(東京株式取引所仲買人)・上原有三・中野四郎太・谷資敬・高橋喜蔵・浅川文吉(金物商)の10名からなった。そして1907年11月13日、新潟水電株式会社の創立総会開催に至る。設立時の資本金は30万円、本店所在地は新潟市新島町通四ノ町。取締役には佐藤伊左衛門・中野平弥・谷資敬・中野四郎太・高橋喜蔵、監査役には市島徳次郎・浅川文吉ほか1名が選ばれた。このうち佐藤伊左衛門が社長、中野平弥が専務を務めたが、佐藤は翌1908年(明治41年)10月に取締役在職のまま死去した。1909年(明治42年)2月に市島徳次郎が取締役に補選され、社長市島徳次郎・専務中野平弥の体制に代わった(ただし1912年時点では社長不在)。", "title": "沿革:新潟電灯・新潟水電時代" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "新潟水電発足後の1908年、新潟市内では3月と9月の2度にわたり大火が発生した。大火により新潟電灯では需要家計310戸・電灯約1760灯を焼失する被害に遭ったが、焼失家屋が再建されるにつれて電灯の復旧も進み、焼失数を若干上回る新需要を獲得できた。同年11月末時点の電灯需要家数は954戸、電灯数は4563灯であった。新潟水電ではこの新潟電灯の事業と未開業の新発田電灯所を統合する意向を当初から持っており、1908年12月に逓信省より事業譲り受けの許可を受けた上で、1909年3月13日付で新潟電灯・新発田電灯所の事業を引き継いだ。買収価格は新潟電灯分が15万6000円、新発田電灯所分が4000円であった。事業譲渡後、新潟電灯は臨時株主総会での決議によって3月16日付で解散した。", "title": "沿革:新潟電灯・新潟水電時代" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1909年5月10日、大荒川に建設中の大荒川上流発電所(出力443キロワット)および送電線が完成し、13日より送電が開始された。同発電所は北蒲原郡笹岡村大字勝屋(現・阿賀野市勝屋)に立地。発生電力は11キロボルトで新潟市街の対岸にあたる中蒲原郡沼垂町(1914年新潟市へ編入)の変電所まで送電される。その沼垂変電所からは沼垂町内への配電線と新潟市内への配電線(鉄塔3基によって信濃川を横断し旧新潟電灯配電線に接続)が分かれた。これらの完成により新潟市内では火力発電から水力発電への電源転換が実現し、旧新潟電灯時代の火力発電所は予備設備に格下げされている。また従来の電灯供給に加えて電動機を動かすための動力用電力の供給も開始された。", "title": "沿革:新潟電灯・新潟水電時代" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "大荒川上流発電所完成の段階では北蒲原郡新発田町への供給は未開業であったが、新潟水電が赤谷鉱山から赤谷発電所(出力270キロワット)を借り入れて送電線工事を進めた結果、1910年(明治43年)8月より新発田町での供給も始まった。借り入れた赤谷発電所は北蒲原郡赤谷村大字滝谷(現・新発田市滝谷)にあり、常盤新田用水(加治川支流水系内ノ倉川が水源)から引水する。新発田での開業後、1910年11月末時点での電灯数は1万3998灯、動力用電力供給は165.0馬力(約123キロワット)であった。", "title": "沿革:新潟電灯・新潟水電時代" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "先に触れたように、新潟水電が設立された頃、中蒲原郡川内村を流れる早出川での水力発電計画も起業に向けて動きつつあった。同計画は初め木村松二郎らにより出願されていたが、間もなく清水常作ら宝田石油(長岡市)関係者に引き継がれ、清水ほか6名が発起人となって1907年1月に水利権獲得に至る。清水らは「新潟水力電気株式会社」の電気事業経営許可を同年5月22日付(新潟水電の事業許可と同日)で得て、6月21日、新潟水電に先駆けて新潟水力電気を設立した。同社には中野平弥との対立から新潟電灯を去った鈴木長八や小出喜七郎らが合流しており、初代社長には清水常作(専務就任)を抑えて鈴木長八が就任している。1909年3月、新潟水力電気は早出川の第一発電所(出力500キロワット)完成により開業に至る。変電所は五泉・新津・沼垂の3か所が設けられ、開業時は中蒲原郡村松町・五泉町(現・五泉市)および新津町(後の新津市)での供給が、遅れて同年5月より新潟市内と沼垂町での供給が開始された。", "title": "沿革:新潟電灯・新潟水電時代" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "同時期に開業した新潟水電と新潟水力電気は後述するように供給区域の重なる新潟市内と沼垂町で激しく競合したほか、市外では供給区域の拡大を競った。両社の供給区域は徐々に岩船郡を除く下越地方一帯に拡大していくが、新潟水電の供給区域は主に阿賀野川右岸と信濃川左岸、新潟水力電気の供給区域は加茂・三条・見附など主に信濃川と阿賀野川の間の地域に広がった。新潟水電においては、発電所のある北蒲原郡のうち水原町(現・阿賀野市)にて1911年(明治44年)11月より、中条町(現・胎内市)にて翌1912年(大正元年)9月よりそれぞれ供給を開始。加えて1912年までに笹岡村・安田村(現・阿賀野市)や葛塚町(後の豊栄市)でも開業した。", "title": "沿革:新潟電灯・新潟水電時代" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "北蒲原郡以外では、1911年10月新潟水電「津川支社」の名義で東蒲原郡津川町(現・阿賀町)での事業許可を取得。また1911年内に「蒲原電気株式会社」名義で中蒲原郡小須戸町と白根町(後の白根市)、「越後電気株式会社」名義で西蒲原郡燕町・吉田村・地蔵堂町(現・燕市)および南蒲原郡裏館村(現・三条市)での事業許可をそれぞれ取得した。「蒲原電気」「越後電気」とも中野平弥を発起人の代表としており、新潟水電では1912年中に2つの事業権を引き取った。逓信省の資料によると、1914年(大正3年)までに上記町村や西蒲原郡巻町などでも開業しているのが確認できる。なおこのうち燕地区には当初、吸入ガス機関(サクションガスエンジン)を原動機とする出力30キロワットの内燃力発電所(燕発電所)を置いていた。", "title": "沿革:新潟電灯・新潟水電時代" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "供給区域の拡大とともに水力発電所建設も進行した。新潟水電では、大荒川上流発電所に続いて1912年(明治45年)5月に大荒川下流発電所(出力235キロワット)を完成させ、次いで飯豊川第一発電所(出力1900キロワット)の工事を進めて1915年(大正4年)7月に同所も竣工させて供給力を増強した。前者の所在地は北蒲原郡笹岡村大字勝屋で、名前の通り大荒川上流発電所の下流側に位置する。後者の所在地は北蒲原郡赤谷村大字上赤谷(現・新発田市上赤谷)で、加治川本流(飯豊川)にある。変電所の新設もあり、既設沼垂・新発田変電所に続いて1914年3月に水原変電所と小須戸変電所、1915年4月に燕変電所がそれぞれ完成した。うち西蒲原郡の小須戸・燕両変電所には大荒川上流発電所からの送電線が繋がった。", "title": "沿革:新潟電灯・新潟水電時代" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "事業拡張の中、新潟水電では計3度の増資が行われた。最初の増資は30万円で、1909年12月の決議。次いで1911年2月に60万円の増資が決議された。3度目の増資は130万円で1913年(大正2年)10月に決議されたが、手続き完了は遅れ1916年(大正5年)7月となった。これらの増資により、資本金は設立時の30万円から250万円へと増加している。", "title": "沿革:新潟電灯・新潟水電時代" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "先に触れたように、新潟水電の電灯・電力供給区域のうち新潟市内(1914年編入の旧沼垂町域を含む)は別資本の会社である新潟水力電気の電力供給区域でもあった。これは新潟水電や新潟水力電気が事業許可を得た1907年前後の時期は、逓信省が電灯供給区域の重複は原則認可しないものの電力供給については後発事業者参入の余地があると判断した場合に限り重複供給の許可を与える、という方針を採っていたことによる。事業許可に際し、新潟電灯の後身となる新潟水電側に優越権が認められたため、重複供給区域となる新潟市・沼垂町については新潟水力電気側は一般的な電灯・電力供給区域ではなく電力供給区域の扱いとされ、1邸宅または1構内毎に2キロワット以下の電灯供給を禁ずる(動力用電力供給の場合は2キロワット以下も可)という制限が付された。後発の新潟水力電気では1907年11月から供給予約の募集に着手し、その結果1909年5月の供給開始までに新潟市で約300馬力、沼垂町で約200馬力の電力供給予約を集めたという。", "title": "沿革:新潟電灯・新潟水電時代" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "新潟水力電気の進出を迎え撃つ新潟水電側では、水力発電転換後は電気料金を引き下げること、新潟水力電気から電灯供給を受ける場合には自家用電灯扱いになり手続きが煩雑になることを告知して需要家の流出防止に努めた。それでも開業後の需要家争奪戦は激しくなり、新潟市内では至る所で道路の両側に両社の配電線が対峙する形となり、需要家に対しては規定以下の料金での供給が行われた。さらに昼間専用の供給であるはずのところに昼夜間の送電をなしたり、器具の表示灯に余分な電灯を添えたりすることもあったという。1913年には新潟水電側が需要家に動力使用組合を組織させ、引き留めのため様々な特典を与えるようになった。1916年2月になると新潟水力電気側も同様の組合を組織させて規定の半額での電力供給を始めた。", "title": "沿革:新潟電灯・新潟水電時代" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "新潟水電と新潟水力電気の競争はやがて新潟市外にも飛び火した。近郊の中蒲原郡亀田町では新潟水力電気が1909年12月より供給していたが、1916年上期になって新潟水電も供給を始め、同地にある織布工場への電力供給を新潟水力電気から奪取した。さらに新潟水電は1918年(大正7年)に新潟水力電気が供給する新津油田への割り込みを図ったが、これは供給認可自体を得られず失敗した。それでも新潟水力電気側は採掘業者と協定して原油相場の上下に随伴する電力料金制を定めて採掘業者に優遇を与えた。こうした新潟水電と新潟水力電気の対立は、後述するように営業不可侵協定が締結される1924年(大正13年)12月まで断続的に続いた。", "title": "沿革:新潟電灯・新潟水電時代" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2つの電力会社が競合する中、明治末期の新潟市ではさらに都市ガス会社も出現していた。電灯が旧式の炭素線電球(発光部分に炭素線を用いる白熱電球)を用いていた当時、都市ガス燃焼による照明すなわちガス灯は電灯よりも明るい照明であり、屋内灯や商店の照明、また少数ではあるが街灯にも利用された。1907年に起業へ向けた動きが始まった際、中野平弥ら新潟電灯関係者もガス事業を出願したが、新潟市でのガス営業権は1909年に桜井市作のグループが獲得する。そして翌1910年7月、新潟瓦斯(北陸ガスの前身)が発足。1911年4月より市内繁華街を中心にガス供給が始まった。", "title": "沿革:新潟電灯・新潟水電時代" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "新潟市内ではピーク時3000灯余り(1916年末時点で3144灯)のガス灯が利用されたが、電灯の改良、特に長寿命・省電力のタングステン電球(発光部分にタングステン線を用いる白熱電球)が普及するとガス灯の優位は失われた。これに第一次世界大戦勃発に伴う原料石炭(当時の都市ガスは石炭ガス)の価格暴騰が重なったため、全国的にガス灯は衰退しガス利用の中心は熱源へと移っていった。新潟瓦斯においても大正末期には熱需要がガス灯需要を上回るようになっている。なお、新潟水電におけるタングステン線電球を含む金属線電球の利用は1913年11月末時点では全電灯の4分の1に過ぎなかったが、5年後、1918年11月末時点では点灯する全電灯の金属線電球化が完成している。", "title": "沿革:新潟電灯・新潟水電時代" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1915年7月に大型の飯豊川第一発電所が完成したことで新潟水電では大口の電力供給が可能となった。10月から供給を始めた大口需要家は北越板紙と亜鉛電気製錬の2社で、これだけで約400馬力の供給増となっている。需要家の北越板紙は長岡市にある北越製紙(現・北越コーポレーション)の子会社で、同年旧沼垂町に製紙工場を建設。もう一方の亜鉛電気製錬は東蒲原郡下条村大字五十島(現・阿賀町五十島)にて銅・亜鉛採掘(葎沢鉱山)と亜鉛の電解精錬を行う会社である。新潟水電の同年11月末時点での供給成績は電灯数4万8173灯・動力用電力供給765.5馬力(約571キロワット)・その他電力供給112キロワットであった。", "title": "沿革:新潟電灯・新潟水電時代" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "さらに新潟水電では電力需要創出にも取り組んだ。その一つは電気化学事業への参入で、余剰電力の受け皿をつくるべく1916年6月8日付で逓信大臣の兼営許可を取得。工場を新潟市山ノ下に建設の上、同年11月4日より塩素酸カリウムの製造を開始した。1918年上期からは水酸化ナトリウム(苛性ソーダ)と次亜塩素酸カルシウム(さらし粉)の製造も加わっている。こうした電気化学事業のほか紡績事業の兼営も検討されたが、これは株式の4分の1を引き受けて新潟紡績株式会社として起業する方針に改められた。新潟紡績は1916年12月21日、中野平弥を代表取締役として新潟市に発足した。さらには自社での市街電車敷設を計画し、1918年9月に軌道敷設特許を取得している。", "title": "沿革:新潟電灯・新潟水電時代" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "隣接する電気事業者の統合は1件のみ、三島電気株式会社の統合が行われた。三島電気は1912年3月23日、資本金5万円で長岡市に設立。日本各地の電気事業に関わった才賀藤吉が社長を務め、他に新潟水力電気の清水常作・鈴木長八が取締役に名を連ねた。同社は三島郡寺泊町に出力40キロワットのガス力発電所を設け、寺泊町内を供給区域として1914年2月に開業した。新潟水電では供給区域が隣接するため同社の吸収を計り、まず1914年下期に全1000株のうち700株を買収する。そして1916年1月に事業買収契約を締結し、同年6月23日付で逓信省の認可を得た上で9月6日をもって事業引継ぎを完了した。なお事業譲渡に伴い三島電気は9月21日に解散している。", "title": "沿革:新潟電灯・新潟水電時代" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦を背景とする大戦景気期には工業電力を中心に電力需要が著しく増加した上、灯油価格高騰によりランプから電灯への切り替えが進んで電灯需要も増加した。工業需要の一例として、北越製紙(北越板紙を吸収)が400馬力という大型電動機を据え付けた新潟工場内砕木パルプ工場(1917年完成)がある。1918年11月末時点の供給成績は電灯数7万3868灯・動力用電力供給3478.75馬力(約2594キロワット)・その他電力供給115.9キロワットであり、3年間で電灯は1.5倍、動力用電力は4.5倍の増加をみている。このように供給成績は増加したものの、大戦景気期の物価騰貴によって発電所建設を控えざるを得なくなり、発電力増強は飯豊川第一発電所完成をもって一旦停止した。そのため需要増加につれて供給力不足に陥り、1918年下期からは電力供給の一部謝絶を余儀なくされた。", "title": "沿革:新潟電灯・新潟水電時代" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1918年11月に世界大戦が終結すると電力需要の一部は消滅した。当初の大口需要家であった五十島の亜鉛電気製錬は大戦終結で1919年(大正8年)事業休止に追い込まれた。さらに同年7月、自社の兼営化学事業も採算悪化で苛性ソーダ・さらし粉の製造を中止した(塩素酸カリウム製造のみ継続)。その一方、新潟市内に新設された新潟紡績の工場が1919年7月より操業を開始したことで、新潟水電では同社に275馬力の電力供給を始めた。この頃飯豊川第二発電所を工事中であったが、労働力不足で工期が伸びており供給力不足は継続していた。対策のため、1920年(大正9年)1月より競合する新潟水力電気から夜間200キロワットの受電を開始している。受電開始後、1920年5月末時点の電灯数は8万9225灯、電力供給は動力用4235馬力(約3158キロワット)・その他0.7キロワットであった。", "title": "沿革:新潟電灯・新潟水電時代" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1918年4月18日、新潟水電の重役会において、新潟水電とその傍系会社にあたる両新鉄道株式会社の統合によって新会社「新潟電気株式会社」を設立する旨が決議された。この当時、新潟水電では大規模電源開発を手掛けるべく信濃川や阿賀野川水系只見川・伊南川に水利権を出願していたが、水利権獲得には資本金の増加が必須であると考えられた。しかし新潟水電が増資を実行する場合、未払込資本金(1918年上期時点では公称資本金250万円のうち78万円が未払込み)を全額徴収の上、増資額の4分の1を払込む必要があり、水利権が未許可の段階でこれらの資金調達を実行して払込資本金額を膨らませるのは経営的に問題があった。こうした事情を踏まえ、払込額を抑えつつ公称資本金だけを大きくする方法として、250万円の払込みによって公称資本金1000万円の新会社新潟電気を新設し、これに新潟水電・両新鉄道の事業を買収させる、という手法が採用されたのである。", "title": "沿革:新潟電気時代" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "なお新潟電気への統合が決定された両新鉄道というのは、新潟と新発田を結ぶ電気鉄道を計画していた会社である。設立は1915年9月。資本金は60万円(6万円払込)で、設立に際して新潟水電が過半数の株式を引き受けていた。ただし鉄道敷設免許を得ていたものの、着工に向けた動きはないままであった(詳細は#鉄軌道事業計画参照)。", "title": "沿革:新潟電気時代" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "重役会での決定後、1918年5月31日付で新潟電気発起人と新潟水電・両新鉄道の間に事業譲渡契約が交わされた。その大要は、", "title": "沿革:新潟電気時代" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "というものである。この操作により、新潟水電の払込資本金217万5000円はそのまま新会社の払込資本金に移行し、両新鉄道の払込資本金6万円は新会社の払込資本金5万円へと姿を変えることになる。新会社の払込資本金は250万円のため27万5000円の不足となるが、この分の株式2万2000株は公募するものとされた。", "title": "沿革:新潟電気時代" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "新会社設立に向けた手続きが進行中の1918年5月7日、新潟水電の主宰者である専務取締役中野平弥が死去した。これを機に新潟県知事が新潟水電と競合会社新潟水力電気の両社に合同を呼び掛けたが、6月11日、新潟水電では合併を希望しない旨を表明する。その後も新会社設立作業は続けられ、6月29日新潟水電の定時株主総会にて、7月23日両新鉄道の定時株主総会にてそれぞれ新会社への事業譲渡契約が承認された。", "title": "沿革:新潟電気時代" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2年後の1920年11月15日、新潟電気株式会社の創立総会が開催される。次いで同年12月1日、新潟電気は契約に基づき新潟水電・両新鉄道の事業一切を引き継いで営業を開始した。新潟電気の本店は新潟水電と同じく新潟市新島町通四ノ町に設置。創立総会で選出された新潟電気の役員は取締役が斎藤彦太郎(農業・多額納税者)・星野勘右衛門(同)・谷資敬・上原有三・中野欽治(中野平弥の孫)・中野四郎太・飯村俊二の7名、監査役が浅川文吉ほか4名で、取締役の中から社長に斎藤彦太郎、専務に中野四郎太、常務に飯村俊二が就いた。新潟電気発足の一方、新潟水電・両新鉄道両社は創立総会同日に臨時株主総会を開き、そこでの決議に基づき12月1日をもって会社を解散している。", "title": "沿革:新潟電気時代" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "新潟電気発足後の1921年(大正10年)12月、新潟水電時代に着工されていた飯豊川第二発電所(出力1843キロワット)が運転を開始した。同発電所は北蒲原郡川東村大字小戸(現・新発田市小戸)、加治川中流域にある。新発電所の完成に伴い新潟水力電気からの受電は12月限りで打ち切られた。供給力増加につれて供給成績も伸長し、1923年(大正12年)上期には電灯数15万灯・電力供給7000馬力に到達している。ただし兼営化学事業については採算の見込みがなくなり新潟電気発足間もない1921年9月6日付で休業とされ、以後再開されなかった(1928年下期に工場設備を処分)。", "title": "沿革:新潟電気時代" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1921年10月、新潟電気は福島県内を流れる阿賀野川水系伊南川に水利権(出力1万8000キロワット)を獲得した。この伊南川発電所は早期に着工されなかったが、以後新潟電気では福島県側での事業拡大を進めた。まず1922年(大正11年)10月11日、新潟県に隣接する福島県耶麻郡奥川村(現・西会津町)を供給区域とする奥川水力電気株式会社と合併契約を締結した。合併相手の奥川水力電気は1918年4月20日耶麻郡喜多方町(現・喜多方市)に資本金30万円で設立され、奥川(阿賀野川水系)に発電所を建設して1920年7月に開業していた。新潟電気と奥川水力電気の合併比率は1対1で、合併による新潟電気の資本金増加は100万円である。合併は1922年11月10日の株主総会決議を経て翌1923年6月30日に実施され、7月15日の合併報告総会をもって手続きを完了した。この合併により奥川村にある奥川発電所(出力1000キロワット)と奥川第二発電所(出力638キロワット)を引き継いでいる。", "title": "沿革:新潟電気時代" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "次いで1924年(大正13年)12月、高田鉱業株式会社との間に、同社が福島県会津地方を流れる大川(阿賀野川上流部)に有する未開発水利権を共同開発するという契約を締結した。高田鉱業は高田商会から分割して設立された鉱業会社で、細倉鉱山(宮城県)で亜鉛鉱石を採掘し、細倉製錬所と福島県内の大寺製錬所において亜鉛の電解精錬を行っていた。共同開発の契約締結に基づき新潟電気では開発主体となる日本電気工業株式会社の起業に着手。資本金700万円・総株数14万株のうち6万株を自社で、5万5000株を自社株主で出資して、1926年(大正15年)8月30日付で新潟市に日本電気工業を設立した。", "title": "沿革:新潟電気時代" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "日本電気工業を通じて開発する運びとなった大川発電所の下流側では、大沼電灯株式会社という別の会社が発電所建設を計画中であった。大沼電灯は1912年8月1日、資本金5万円をもって福島県大沼郡高田町(現・会津美里町)に設立。1912年11月に会津電力(若松市)からの受電を電源として開業し、高田町を中心に配電していた。同社では1921年8月より宮川発電所(出力450キロワット・大沼郡尾岐村)を運転したが、無理な事業拡張で経営不振に陥る。その隙を狙って大川の未開発水利権(出力約4000キロワット)を入手すべく新潟電気・新潟水力電気・会津電力の3社がそれぞれ合併を持ち掛けた結果、1927年(昭和2年)3月28日、新潟電気との間で合併契約締結に至った。", "title": "沿革:新潟電気時代" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "大沼電灯の合併では、同社は当時資本金150万円・払込資本金90万円であったものを不良資産・債権消却のため40万円に切り下げて合併するという方法が採られた。従って合併に伴う新潟電気の資本金増加は40万円(払込資本金増加も同額)のみで、合併比率は9対4とされた。合併は1927年4月15日に株主総会で決議ののち、8月1日付で実行、8月15日には合併報告総会も完了した。合併に伴い新潟電気は大沼郡高田町の旧大沼電灯本社に出張所を設けた。", "title": "沿革:新潟電気時代" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1922年12月、新潟県南部を流れる信濃川水系中津川にて信越電力中津川第二発電所が運転を開始した。次いで1924年10月にはその上流側に同社中津川第一発電所が完成する。前者は出力1万8000キロワット、後者は出力3万9000キロワットという大型水力発電所で、その発生電力は主として東京電灯の上越送電線により三国峠を越え関東地方へと送電された。ただし一部は新潟県内への供給に振り向けられることとなり、1923年9月、中津川第二発電所から長岡変電所へと至る長岡送電線(送電電圧66キロボルト)が東京電灯によって整備された。東京電灯の長岡進出にあわせ、まず長岡市の北越水力電気が1923年10月より東京電灯からの受電を開始する。新潟電気においても1922年10月東京電灯と最大3000キロワットの受電を契約し、1924年1月、受電用送電線として長岡変電所から自社の燕変電所へと至る送電線(送電電圧33キロボルト)を完成させた。", "title": "沿革:新潟電気時代" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "東京電灯のほか村上水電からの受電も行われた。同社は新潟県北部の岩船郡村上町(現・村上市)にあった電力会社である。同社からの受電は東京電灯に先立つ1923年から。当初は村上水電の余剰電力100キロワットを受電するに過ぎなかったが、1927年12月に同社発電所と自社の新発田発電所を結ぶ送電線が完成し、以後受電は1200キロワットとなった。", "title": "沿革:新潟電気時代" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "一方で自社電源の拡充も進められた。まず1927年9月、傍系会社の日本電気工業に工事を委託していた新潟予備火力発電所が完成した。同所は新潟市山ノ下にあり、出力は3000キロワットである。福島県の大川発電所に関しては、工事の進展に伴いまず1927年11月に高田鉱業から水利権を譲り受ける。次いで発電所工事を委託する日本電気工業の合併手続きに着手し、同年11月24日合併契約締結、12月12日株主総会での合併決議と進んで、翌1928年(昭和3年)3月20日付で合併を実施した。合併報告総会は同年4月5日に開催されている。日本電気工業の合併後の1928年5月、大川発電所は落成した。大川発電所は福島県北会津郡大戸村大字芦ノ牧(現・会津若松市大戸町芦ノ牧)にあり、発電所出力は社内最大の1万2520キロワットであった。", "title": "沿革:新潟電気時代" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "なお日本電気工業の合併により新潟電気の資本金は700万円増の1840万円となった。前述の通り新潟電気では日本電気工業の株式6万株(300万円分)を保有していたが、この株式は合併で消却とはせず、「新潟電気証券株式会社」という証券保有会社に移して維持する措置が採られた。1928年3月16日、新潟電気証券は新潟市内に設立される。同社の資本金は300万円で、全6万株のうち5万9850株を新潟電気が引き受けていた。", "title": "沿革:新潟電気時代" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "新潟火力発電所と大川発電所の完成により、新潟電気の発電所数は計10か所、総出力は2万2299キロワット(他に受電4200キロワット)に達した。供給力増加とともに供給成績も伸長を続け、電灯数は1925年(大正14年)上期に20万灯へ到達したのち1928年上期には30万灯へ到達。電力供給は1927年上期に1万馬力を超えている。1929年(昭和4年)11月末時点の供給成績は電灯需要家数9万8797戸・電灯数32万7496灯、電力供給1万4364.4馬力(約1万712キロワット。他に家庭電気設備591.03キロワットあり)であった。この間の1924年秋、電灯供給規定を大幅改訂し、従量灯需要喚起のため従量料金制度に当時の東京市の制度を模した逓減制を採用した。また家庭用電気器具向けの定量制を追加し、電灯契約の場合原則夜間のみであった送電時間を終日送電も可能とするよう改めた。電力部門では農村電化に力を入れ、1927年に秋季3か月間を1使用期とする農季電力供給規定を制定した。", "title": "沿革:新潟電気時代" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "前身の新潟水電時代から繰り広げられていた新潟市内における新潟水力電気との競合は1920年代に入っても続いていた。両社が電源不足に陥っていた1920年前後の時期は紛争がやや緩和されていたものの1923年頃より再び抗争が激化して弊害が大きくなったため、1924年12月31日、両社交渉の末に営業不可侵協定の締結に至った。協定内容は、供給区域が重複する新潟市内と中蒲原郡亀田町では需要家の争奪を目的とする勧誘・宣伝その他一切の競争的行為を禁ずる、供給料金・供給条件は意見交換の上でできるだけ統一する、両社は相互に相手の需要家に対する供給権を尊重し侵害しない、相手の需要家より供給の申込みがあった場合は相手側の承諾を得て供給する、大口需要家以外は各自の供給規定にて定めた料金・条件に沿って供給する、などであった。協定後も新規需要家をめぐる小競り合いがあったものの、年を追うごとに両社の関係は改善に向かった。", "title": "沿革:新潟電気時代" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "同じ地域で営業する新潟電気(新潟水電)と新潟水力電気を合同させようという動きは先に触れたように1918年から存在し、数年おきに県や財界有力者が合同を仲介していたが、関係者の感情的対立が原因で分立して起業されたという経緯から両社経営陣は合同の利益を自覚しつつも合同には消極的であった。1927年の金融恐慌を契機とした合併仲介が不調に終わった後、新潟電気は新潟水力電気ではなく大手電力会社東邦電力との提携を選択した。この東邦電力は東京に本社を置き中京地方と北部九州を地盤とした電力会社であるが、1920年代末になって供給区域から離れた東北地方進出を図り福島電灯・東部電力・二本松電気など福島県の会社を相次いで傘下に収めていた。", "title": "沿革:新潟電気時代" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "東邦電力と提携するにあたり、1929年3月10日、東邦電力傘下の東邦証券保有と新潟電気・新潟電気証券の3社間に以下の契約が締結された。", "title": "沿革:新潟電気時代" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "新潟電気では同年3月28日に臨時株主総会を開き上記契約を承認した。新潟電気証券の増資(実際には360万円の増資)は6月に完了。そして6月12日、新潟電気は新潟電気証券を合併した。合併後の新潟電気の資本金は660万円増の2500万円である。これらの操作により東邦証券保有は新潟電気の全株式50万株のうち23万4千株を持つ筆頭株主となった。また6月28日に行われた合併報告総会では増員役員として取締役に松永安左エ門・山県鼎一(常務取締役就任)、監査役に古島安二がそれぞれ選出されている。3人とも当時の東邦電力関係者で、松永は同社社長、山県・古島は同社社員であった。", "title": "沿革:新潟電気時代" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "新潟電気が東邦電力の傘下に入ったことで、これまで何度も破談となっていた新潟水力電気との合併交渉が松永安左エ門らの仲介により一挙に進展をみせた。そして1929年9月14日、新潟電気と新潟水力電気の間で合併契約が締結されるに至る。この当時、新潟電気は資本金2500万円、新潟水力電気は資本金1200万円と会社の規模は新潟電気が上回っていたが、合併では新潟水力電気側が存続会社で新潟電気は解散するものとされた。合併比率は1対1(対等合併)、合併期日は1929年12月24日と定められた。9月29日、新潟電気・新潟水力電気ともに臨時株主総会を開いて合併を承認した。", "title": "沿革:新潟電気時代" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "合併契約上の合併期日であった1929年12月24日付で逓信省より合併認可が下りたが、期日前に間に合わなかったため合併日は繰り延べられ翌1930年(昭和5年)1月8日付となった。同年2月1日、存続会社の新潟水力電気で合併報告総会が開かれて合併手続きが完了し、同日をもって新潟電気は解散した。この総会にて新潟水力電気は「新潟電力株式会社」へと改称。さらに役員の総改選を行い、新社長に松永安左エ門、新副社長に白勢量作を選出した。以後、新潟電力では合併の目的であった社内組織の合理化、小規模発電所の休廃止や送電系統の統合といった事業整理が進められていった。", "title": "沿革:新潟電気時代" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "新潟水電時代、1914年(大正3年)5月末時点の供給区域は以下の通り。これには未開業の地域を含む。", "title": "供給区域" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "新潟電気時代、1929年(昭和4年)6月末時点の供給区域は以下の通り。", "title": "供給区域" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "新潟県下越地方で新潟電気の供給区域に含まれない地域は基本的に新潟水力電気の供給区域であるが(新潟電力#1929年時点の区域一覧参照)、北蒲原郡乙村・黒川村と岩船郡各町村(離島の粟島浦村を除く)は村上水電の供給区域に含まれる。ただし西蒲原郡浦浜村はいずれの電気事業者にも属さない空白地域であった(同村での供給開始は新潟電力時代の1934年8月)。", "title": "供給区域" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "新潟電気の供給区域が広がる新潟・福島両県は太平洋戦争下の配電統制にて東北配電の配電区域とされ、後身の新潟電力は区域内にある配電設備・需要者屋内設備の一切を1942年(昭和17年)4月に東北配電へと出資した。戦後1951年(昭和26年)5月の電気事業再編成では東北配電区域をそのまま引き継いで東北電力が発足している。", "title": "供給区域" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "新潟電気が運転し新潟電力へ引き継がれた発電所は水力発電所9か所・火力発電所1か所、総出力2万2299キロワットである。以下、これらの発電所の概要を記す。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "新潟水電時代、最初に開発された水力発電所が大荒川上流発電所(大荒川第一発電所とも)である。所在地は新潟県北蒲原郡笹岡村大字勝屋字大荒川山(現・阿賀野市勝屋)。1909年(明治42年)5月13日より運転を開始した。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "阿賀野川水系大荒川にある発電所の一つで、川に設けられた堰堤から取水の上、長さ1.8キロメートルの水路で導水し発電する仕組みであった。発電設備はドイツ・フォイト製ペルトン水車1台と米国ゼネラル・エレクトリック (GE) 製三相交流発電機(容量540キロボルトアンペア)1台からなる。発電所出力は443キロワットで、発生電力は沼垂変電所(新潟市流作場)へと送電された。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "大荒川上流発電所に関係する発電所として大荒川下流発電所(大荒川第二発電所とも)があった。所在地は北蒲原郡笹岡村大字勝屋字賽ノ川原。上流発電所に続いて1912年(明治45年)5月に運転を開始した。上流発電所の約1キロメートル下流地点にあり、同発電所の放水を直接導水し発電する仕組みであった。発電設備はスイス・エッシャーウイス製フランシス水車1台とGE製三相交流発電機(容量250キロボルトアンペア)1台からなり、発電所出力は235キロワットに設定された。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "新潟水電時代、発電所の周波数は60ヘルツで統一されていたが、新潟電気時代の1928年時点では大荒川上流・下流発電所以外は50ヘルツとなっている(変電所は水原町の水原変電所のみ60ヘルツ対応)。1930年の新潟電力発足後、設備の統一・改善の一環として小容量かつ周波数が60ヘルツのままの大荒川上流・下流発電所は撤去が決まり、1931年(昭和6年)11月27日付でそろって廃止された。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "新潟水電・新潟電気が運転した発電所のうち赤谷発電所は自社建設の発電所ではなく赤谷鉱山の自家用発電所を借り入れたものである。所在地は北蒲原郡赤谷村大字滝谷字天ヶ淵(現・新発田市滝谷)。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "赤谷発電所は官営八幡製鉄所が進める赤谷鉱山開発の一環として、鉱石搬出用索道の電源とする目的で1900年(明治33年)7月に着工された。その後発電所建物や水路が竣工し、ドイツから輸入の水車・発電機を据え付けると稼働できるという状態になったが、1903年(明治36年)3月に鉱山開発自体が中止されたため発電所工事も打ち切られた。1909年9月、新潟水電はこの状態の赤谷発電所を借り入れる契約を結び、12月に水利権移転の許可を得た上で工事を進め、1910年(明治43年)8月より運転を開始した。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "取水は加治川支流内ノ倉川から行うが、水路は常盤新田用水と共用であり既設水路を付け替え・拡張の上で利用している。発電設備はフォイト製フランシス水車2台とドイツ・AEG製三相交流発電機(容量150キロボルトアンペア)2台からなり、発電所出力は270キロワット。発生電力は新発田方面や新潟方面(1911年7月追加)へと送電された。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "新潟電力発足直後の1930年(昭和5年)8月16日、送電系統統一で不要になったとして赤谷発電所は八幡製鉄所に返還された。発電所は製鉄所から赤谷村に払い下げられたのち赤谷電力(現・赤谷電気工業)に引き継がれ、1931年より運転が再開されている。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "新潟水電時代の4か所目の水力発電所が飯豊川第一発電所である。所在地は北蒲原郡赤谷村大字上赤谷(現・新発田市上赤谷)。1913年(大正2年)10月に着工され、1915年(大正4年)6月に完成。同年7月10日付で使用認可が下りたため12日より運転を開始した。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "取水は飯豊川(加治川上流部)から行う。取水地点には堤高34.8メートル・堤長53.3メートルの重力式コンクリートダムが築造された。このダムは余水放流設備として2つの排砂門を持つが堤頂の洪水吐は設置されていない。取水口から先、発電所へと至る導水路はほとんどが木造(木管)であった。発電設備はフォイト製フランシス水車2台と芝浦発電所製三相交流発電機(容量1250キロボルトアンペア)2台からなり、発電所出力は1900キロワットに設定された。飯豊川第一発電所から伸びる送電線のうち沼垂変電所へと至る線は33キロボルトの送電電圧(既設線は11キロボルト)が採用されている。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "飯豊川第一発電所は1942年(昭和17年)4月の配電統制で新潟電力から東北配電へ出資され、1951年(昭和26年)5月の電気事業再編成で東北電力に継承された。しかし1953年(昭和28年)になって東北電力の手により再開発され、ダムは再利用されたものの導水路以下は全面的に造り替えられ新潟水電時代からの発電所は撤去された。新発電所は旧発電所の上流側隣接地に建つ。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "新潟電気発足後で最初に完成した水力発電所が飯豊川第二発電所である。所在地は北蒲原郡川東村大字小戸(現・新発田市小戸)。着工は新潟電灯時代の1918年(大正7年)12月で、1921年(大正10年)12月27日より運転を開始した。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "飯豊川第一発電所と同じく飯豊川にある。導水路は約5キロメートルの長さがあり、途中、支流内ノ倉川を渡る地点には水路橋を設ける。発電設備は電業社製フランシス水車2台と芝浦製作所製三相交流発電機(容量1250キロボルトアンペア)2台からなり、発電所出力は1843キロワットであった。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "飯豊川第二発電所も新潟電力から東北配電を経て1951年以後は東北電力に引き継がれている。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "新潟電気時代の2番目の水力発電所は大川発電所である。所在地は福島県北会津郡大戸村大字芦ノ牧字戸草平(現・会津若松市大戸町芦ノ牧)。着工は1926年(大正15年)10月、竣工は1928年(昭和3年)5月で、5月29日付で使用認可が下りた。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "会津地方を流れる大川(阿賀野川)にあった発電所の一つ。発電所の南方、大川左岸にあたる南会津郡長江村大字湯野上(現・下郷町湯野上)に取水口を設けた。取水口から発電所上部水槽へ伸びる導水路は総延長6.6キロメートルに及ぶ。発電設備は電業社製縦軸フランシス水車3台と芝浦製作所製三相交流発電機(容量5250キロボルトアンペア)3台からなる。発電所出力は1万2520キロワットで、その発生電力は66キロボルト送電線(大川送電線)で新潟市郊外の石山村にある新潟変電所へと送られた。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "大川発電所は1942年4月電力国家管理のため新潟電力から日本発送電へと出資され、同社東北支店所属となる。次いで1951年5月の電気事業再編成で東北電力へと移管された。ただし1985年(昭和60年)1月、建設省大川ダム建設で取水口が水没する位置にあったことから廃止されており、現存しない。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "新潟電気から新潟電力に引き継がれた中で唯一の火力発電所として新潟火力発電所があった。所在地は新潟市沼垂字中王瀬。1927年(昭和2年)9月に竣工し、22日付で使用認可が下りた。運転は同年10月からである。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "米国バブコック・アンド・ウィルコックス (B&W) 製ボイラー3台、三菱造船製ユングストローム式蒸気タービン1台、三菱電機製三相交流発電機(容量1500キロボルトアンペア)2台からなる汽力発電設備を有した。燃料は石炭(粉炭)。渇水時における不足電力を補うための補給発電所であり、発電所出力は3000キロワットながら常時出力の設定はない。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "新潟火力発電所は配電統制により1942年4月新潟電力から東北配電へと引き継がれる(この段階での発電所出力は3500キロワット)。1951年5月以後は東北電力に属したが、1959年(昭和34年)3月に廃止され古湊変電所へと格下げされた。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "合併に伴って他社から引き継いだ水力発電所は奥川発電所(奥川第一発電所とも)・奥川第二発電所・宮川発電所の3か所である。これらの概要は下表の通り。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "宮川発電所は東北配電経由で東北電力に継承。奥川・奥川第二両発電所は大川発電所とともに1942年4月日本発送電へ出資され(東北支店所属)、そこから東北電力へと移管された。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "開業に至らなかったが、新潟水電・新潟電気では2つの鉄道事業計画を有していた。一つは新潟と新発田を結ぶ鉄道敷設計画(「両新鉄道」計画)、もう一つは新潟市内の電気軌道(路面電車)敷設計画である。", "title": "鉄軌道事業計画" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "1912年(大正元年)9月、国有鉄道の一部として新津駅から新発田駅に至る路線(後に羽越本線の一部となる)が開通し、新発田に初めて鉄道が通された。しかし新潟市内と新発田を往来する際には新津迂回を要するため、新潟と新発田の直結を目指す「両新鉄道」構想が出現する。新潟の小出清七(測量士)と沿線葛塚町の窪田市次郎が中心となって計画を進めた結果、小出ら両新鉄道発起人は1913年(大正2年)8月15日付で新潟駅付近(旧沼垂町)から新発田駅付近へと至る区間の鉄道敷設免許を獲得した。その後会社設立まで時間を要したが、自社管内の路線という理由で新潟水電が支援に名乗りを上げ、1915年(大正4年)9月2日に臨時株主総会を開いて両新鉄道株式会社の設立に際し過半数の株式を引き受ける旨を決議した。そして同年9月24日、新潟水電所在地に資本金60万円(6万円払込)をもって両新鉄道が設立された。", "title": "鉄軌道事業計画" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "1920年(大正9年)12月、両新鉄道が新潟水電とともに新潟電気へと事業を譲渡したことで、鉄道敷設免許は新潟電気の手に移る。しかしその後も建設費の問題から着工に至らなかった。事業が進展しない間に沿線自治体の運動によって新潟・新発田間鉄道は国有鉄道敷設予定線に編入されたことから、新潟電気では自社建設を取り止めて国に建設を委ねる方針を固める。計画放棄の方針を新潟市へ伝達すると沿線の自治体・有志で立ち上げる新会社への敷設免許譲渡を申込まれたため、新潟電気では新会社設立時には相応の出資をする旨を約束し、1928年2月には株主総会を開いて免許譲渡を決議した。しかし新会社設立は立ち消えとなり、新潟電力発足後にあたる1930年(昭和5年)5月30日付で起業廃止・免許返納の手続きが採られ、鉄道敷設計画は頓挫した。新潟・新発田間鉄道が白新線として開通するのは太平洋戦争後、1956年(昭和31年)のことである。", "title": "鉄軌道事業計画" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "電気軌道敷設計画については新潟水電自ら参画した。計画区間は新潟駅と越後鉄道(1927年国有化され越後線に)の起点白山駅の間で、1913年10月に電気軌道敷設を出願し、1918年(大正7年)9月12日付で軌道敷設特許を獲得した。しかしこの路線についても、信濃川架橋費が負担となり直ちに着工されなかった。そうした中、1925年に新潟県による萬代橋架け替えが決定されると、新潟電気では軌道専用橋の架橋に替えて萬代橋中央部に軌道敷を確保し建設費を圧縮する方針を固め、萬代橋架橋費のうち40万円を負担することで軌道敷分の幅員拡張を県へ依頼することとなった。萬代橋架け替えは1929年8月に完成。新潟電気は架け替えと同時に一部でも軌道を開業させる意向を持っていたが、なおも着工されず、萬代橋の中央部は石畳が敷かれただけであった。", "title": "鉄軌道事業計画" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "新潟電力発足後、旧新潟電気の電気軌道計画は新潟水力電気側の傍系会社である新潟電鉄(現・新潟交通)に統合され、新潟電鉄の路線として開業を目指すこととなった。そして旧新潟電気由来の特許区間は新潟電鉄線の起点を白山駅前から新潟県庁前に移すのに活かされ、1933年(昭和8年)7月にごく一部が開業する。しかし新潟駅前から県庁前までの2.8キロメートルは着工できず、戦後1958年(昭和33年)10月に起業廃止となっている。", "title": "鉄軌道事業計画" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "新潟水力電気(新潟電力)との合併前、1929年下期時点の役員は以下の18名であった。", "title": "人物" } ]
新潟電気株式会社は、大正から昭和初期にかけて存在した日本の電力会社である。新潟県新潟市を本拠とした電力会社の一つ。 新潟県内最初の電気事業者新潟電灯株式会社(新潟電燈、にいがたでんとう)を母体とする。1898年(明治31年)に開業した新潟電灯の事業を1909年(明治42年)に新潟水電株式会社(にいがたすいでん)が継承し、さらに新潟水電を改組する形で1920年(大正9年)に新潟電気が発足した。新潟県下越地方の約半分と福島県会津地方の一部で電気の供給にあたった。 1930年(昭和5年)、同じく新潟市を本拠とした新潟水力電気と合併し解散した。この合併で存続会社の新潟水力電気は新潟電力へと社名を改めている。
{{基礎情報 戦前企業 |社名 = 新潟電気株式会社 |画像 = |画像説明 = |種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] |本社所在地 = {{Flagicon|JPN1889}} [[新潟県]][[新潟市]]<br />[[上大川前通]]六番町1197番地 |設立 = [[1920年]](大正9年)[[11月15日]]<ref name="kanpo19210425">「[{{NDLDC|2954732/32}} 商業登記 株式会社設立]」『[[官報]]』第2617号附録、1921年4月25日</ref> |解散 = [[1930年]](昭和5年)[[2月1日]]<ref name="kanpo19300412">「[{{NDLDC|2957450/14}} 商業登記 新潟電気株式会社解散]」『官報』第983号、1930年4月12日</ref><br />([[新潟電力|新潟水力電気]]と合併し解散) |業種 = [[:Category:日本の電気事業者 (戦前)|電気]] |事業内容 = [[電力会社|電気供給事業]] |代表者 = [[斎藤彦太郎]](社長) |公称資本金 = 2500万円 |払込資本金 = 2092万5000円 |株式数 = 50万株(額面50円) |総資産 = 3198万9049円(未払込資本金除く) |収入 = 217万3704円 |支出 = 103万4801円 |利益金 = 113万8903円 |配当率 = 年率10.0% |決算期 = 5月末・11月末(年2回) |株主数 = 1667人 |主要株主 = [[東邦電力|東邦証券保有]] (46.9%)、中野組([[中野四郎太]])(6.9%)、市島徳厚 (3.5%)、斎藤彦太郎 (3.2%)、中野興業 (2.8%) |特記事項 = 資本金以下は1929年11月期決算時点<ref name="reportD18">「新潟電気株式会社第18回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref> }} '''新潟電気株式会社'''(にいがたでんき かぶしきがいしゃ)は、[[大正]]から[[昭和]]初期にかけて存在した[[日本の電力会社]]である。[[新潟県]][[新潟市]]を本拠とした電力会社の一つ。 新潟県内最初の電気事業者'''新潟電灯株式会社'''(新潟電燈、にいがたでんとう)を母体とする。[[1898年]](明治31年)に開業した新潟電灯の事業を[[1909年]](明治42年)に'''新潟水電株式会社'''(にいがたすいでん)が継承し、さらに新潟水電を改組する形で[[1920年]](大正9年)に新潟電気が発足した。新潟県[[下越地方]]の約半分と[[福島県]][[会津|会津地方]]の一部で[[電気]]の供給にあたった。 [[1930年]](昭和5年)、同じく新潟市を本拠とした新潟水力電気と合併し[[解散]]した。この合併で存続会社の新潟水力電気は[[新潟電力]]へと社名を改めている。 == 概要 == [[ファイル:Nigata Denki advertisement.jpg|thumb|upright|新潟電気の広告(1922年)]] 新潟電気株式会社は、[[1920年]](大正9年)から[[1930年]](昭和5年)までの10年間にわたり[[新潟県]][[新潟市]]に存在した電力会社である。新潟市を中心に、主として新潟県[[下越地方]]のうち[[阿賀野川]]右岸地域(ただし北部の[[岩船郡]]を除く)および[[信濃川]]左岸地域を供給区域とした。また飛び地として[[福島県]][[会津|会津地方]]の一部にも供給区域を持った。 新潟電気の母体は[[1896年]](明治29年)に設立され[[1898年]](明治31年)3月に開業した新潟電灯株式会社である。新潟電灯は新潟県内最初の電気事業者であるが、電源は小規模な[[火力発電所]]のみで供給区域は新潟市内に限られた。やがて[[水力発電]]への転換が検討されるようになるが、水力発電計画をめぐって社内対立が発生する。その結果、役員のうち[[中野平弥]]だけが新潟電灯に残り、自身が考案した水力発電計画を推進していく。その過程で[[1907年]](明治40年)11月に新会社・新潟水電株式会社が設立され、[[1909年]](明治42年)3月、新潟電灯は同社に合流した。その一方、中野と対立し新潟電灯から退出した役員の一部は別系統の電力会社・新潟水力電気の起業に加わった。新潟水力電気も1909年に開業し、新潟市内とその周辺の電力市場において新潟水電と競合した。 新潟水電時代に供給区域は急速に拡大し、新潟市以外では[[新発田市|新発田]]・[[中条町|中条]]・[[水原町|水原]]・[[津川町|津川]]・[[白根市|白根]]・[[巻町|巻]]・[[燕市|燕]]といった町にも及んだ。[[1916年]](大正5年)には事業統合により[[中越地方]]の[[寺泊町|寺泊]]にも進出している。[[1920年]](大正9年)11月、[[水利権]]取得と資金調達の都合から新潟水電の株主を主体として再び新会社として新潟電気株式会社が立ち上げられる。新潟電気は同年12月新潟水電と同社の傍系会社で鉄道事業を計画する両新鉄道株式会社の2社から事業を継承した。新潟電気の時代には隣接する福島県へと進出し、事業統合によって[[大沼郡]][[高田町 (福島県)|高田町]](現・[[会津美里町]])など会津地方の一角に供給区域を獲得。さらに[[1928年]](昭和3年)には同地方を流れる大川(阿賀野川)に出力1万[[ワット|キロワット]]超の大型水力発電所を完成させた。電気事業以外では、新潟水電時代の[[大戦景気 (日本)|大戦景気期]]に余剰電力による[[塩素酸カリウム]]製造など[[電気化学]]事業を兼営したが短期間で頓挫した。また新潟・新発田間の「両新鉄道」計画と新潟市内の[[路面電車]]計画について許認可を得ていたが、双方とも着工に至らなかった。 [[1929年]](昭和4年)、新潟電気は大手電力会社の一つ[[東邦電力]]の傘下に入った。これを機に下越地方での供給を二分する新潟水力電気との合併交渉が進展し、同年9月同社との合併が決定する。会社規模では新潟電気が上回っていたが存続会社は新潟水力電気とされたため、翌[[1930年]](昭和5年)2月、合併手続き完了とともに新潟電気は解散した。一方、存続会社の新潟水力電気は合併と同時に社名を[[新潟電力|新潟電力株式会社]](1930 - 1942年)へと改めた。その後旧新潟電気の供給区域や発電所は、[[太平洋戦争]]下の再編を経て戦後[[1951年]](昭和26年)より[[東北電力]]へと引き継がれている。 == 沿革:新潟電灯・新潟水電時代 == === 新潟電灯の起業 === [[ファイル:Shirose Shunzo.jpg|thumb|upright|新潟電灯代表発起人の一人[[白勢春三]]。後に競合会社新潟水力電気の第2代社長となる(在任期間:1914-1930年)。]] [[1887年]](明治20年)、[[東京電灯]]が[[東京市]]内において、[[発電所]]から不特定多数の需要家に対し[[配電]]するという形の[[電力会社|電気事業]]を日本で初めて開業した<ref name="tohoku-25">[[#tohoku|『東北地方電気事業史』]]25-27頁</ref>。電気事業のその後の拡大は急速で、[[1890年]](明治23年)にかけて[[大阪市|大阪]]など[[六大都市]]すべてに広がり、続いて[[九州]]や[[東北地方]]にも伝播していった<ref name="tohoku-25"/>。東北6県で最初の電気事業者は[[1894年]](明治27年)7月に[[宮城県]][[仙台市]]において開業した仙台電灯(後の[[宮城紡績電灯]])である<ref>[[#tohoku|『東北地方電気事業史』]]148-149頁</ref>。翌[[1895年]](明治28年)11月には[[福島県]][[福島市]]で[[福島電灯]]が開業し<ref name="tohoku-184">[[#tohoku|『東北地方電気事業史』]]184-187頁</ref>、[[1897年]](明治30年)3月には[[青森県]][[青森市]]に[[青森電灯]]が出現した<ref>[[#tohoku|『東北地方電気事業史』]]99-100頁</ref>。 東北地方の各地で電気事業が出現しつつある中、隣接する[[新潟県]]では1894年頃より県庁所在地[[新潟市]]において起業に向けた動きが本格化した。同地の[[新潟新聞]]によると、まず1894年6月、[[鍵富三作]](米穀商・大地主<ref>[[#genkon|『日本現今人名辞典』]]か79頁</ref>)・[[佐々木松坪]]([[衆議院]]議員<ref>[[#genkon|『日本現今人名辞典』]]さ23-24頁</ref>)・浜政弘([[船問屋|回漕業]]<ref>[[#genkon|『日本現今人名辞典』]]は46頁</ref>)・[[八木朋直]]([[新潟市議会|市会]]議長、のち市長<ref>[[#genkon|『日本現今人名辞典』]]や55-56頁</ref>)・[[鈴木長八]](回漕業<ref>[[#genkon|『日本現今人名辞典』]]す10頁</ref>)ら新潟の有力者が[[資本金]]3万円の電灯会社を設立すべく願書提出の準備を整えたという<ref>[[#shinbun|『新潟市合併町村の歴史』基礎資料集4]] 30頁</ref>。ところが[[中野平弥]](県下の大地主<ref>[[#genkon|『日本現今人名辞典』]]な42頁</ref>・鉄工所経営<ref name="nakano">[[#nakano|『新潟市合併町村の歴史』史料編5]] 280-282頁</ref>)らのグループや槙尾彦太郎(履物商<ref>[[#etsusa|『越佐商工人名録』]]40頁</ref>)らのグループも電気事業を企画しており<ref>[[#shinbun|『新潟市合併町村の歴史』基礎資料集4]] 98頁</ref>、共倒れとなることを恐れた県が3派の調停を試みたが失敗<ref>[[#shinbun|『新潟市合併町村の歴史』基礎資料集4]] 32頁</ref>、直後に[[日清戦争]]が勃発したことで起業への動きは一旦頓挫した<ref name="nep-134">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]134-142頁</ref>。 戦後、[[1896年]](明治29年)春になると再び起業に向けた動きが活発化したため、県は新潟市長[[鈴木長蔵 (衆議院議員)|鈴木長蔵]]に調停を命じて計画一本化に動く<ref name="nep-134"/>。その結果、県内在住の[[白勢春三]]([[第四銀行|新潟銀行]]専務<ref>[[#genkon|『日本現今人名辞典』]]し9頁</ref>)・中野平弥・[[斎藤喜十郎|斎藤庫吉]](回漕業<ref>[[#genkon|『日本現今人名辞典』]]さ3頁</ref>)・栗林貞吉(貸金業<ref>[[#genkon|『日本現今人名辞典』]]く12頁</ref>)・小出喜七郎(洋物商<ref>[[#genkon|『日本現今人名辞典』]]こ2頁</ref>)・清水禎三郎・中澤庸を代表発起人として新潟電灯株式会社を起業する運びとなった<ref name="niiden-1">[[#niiden|『新潟電気株式会社三十年誌』]]1-6頁</ref>。1896年7月27日付で[[逓信省]]から電気事業経営の許可があり<ref name="y2-20">[[#yoran2|『電気事業要覧』明治41年]]20-21頁。{{NDLJP|805421/31}}</ref>、8月4日県庁経由で許可状が白勢ほか6名の発起人に届く<ref>[[#shinbun|『新潟市合併町村の歴史』基礎資料集4]] 121-122頁</ref>。次いで発起人は[[農商務省 (日本)|農商務省]]へ会社の発起認可を申請して9月15日で認可を得た<ref name="niiden-1"/>。10月11日には新潟電灯の創業総会が開かれ、[[定款]]確定に続いて[[取締役]]に鈴木長八・小出喜七郎・中野平弥・栗林定吉・清水禎三郎、[[監査役]]に鍵富三作・斎藤喜十郎(貸金業・大地主<ref>[[#genkon|『日本現今人名辞典』]]さ4頁</ref>)・浜政弘がそれぞれ選出された上、[[支配人]]に中澤庸が任ぜられた<ref name="shinbun-124">[[#shinbun|『新潟市合併町村の歴史』基礎資料集4]] 124頁</ref>。このうち初代社長は鈴木長八が務めている<ref name="nep-142">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]142-146頁</ref>。 創業総会後に発起人は農商務省へ会社の設立免許を申請し、1896年[[12月10日]]付で免許を得た<ref name="niiden-1"/>。新潟電灯株式会社の設立[[登記]]は翌1897年2月1日付である<ref name="niiden-1"/>。新潟電灯は本社を新潟市[[白山浦 (新潟市)|白山浦]]1丁目623番地に構え、その隣接地に[[火力発電所]]を建設した<ref name="nep-134"/>。当初の発電所設備は[[ボイラー]]・[[蒸気機関]]・[[単相交流]][[発電機]](出力75[[ワット|キロワット]]・16[[燭]]電灯1300灯分<ref name="shinbun-146"/>)各1台からなる<ref name="nep-134"/>。工事中、需要家の募集が順調に進み[[遊廓|貸座敷]]・[[郵便局]]・[[師範学校]]・劇場などからの問い合わせも続いたため早くも発電機増設の計画が立てられている<ref name="shinbun-146">[[#shinbun|『新潟市合併町村の歴史』基礎資料集4]] 146頁</ref>。1897年12月29日夜より[[電灯]]試験点灯を開始<ref>[[#shinbun|『新潟市合併町村の歴史』基礎資料集4]] 173頁</ref>。翌[[1898年]](明治31年)[[3月25日]]に営業認可証(19日付)が会社に届いたことから同日夜より正式に供給を開始した<ref>[[#shinbun|『新潟市合併町村の歴史』基礎資料集4]] 180頁</ref>。この頃県内第2の都市[[古志郡]]長岡町(1906年市制施行で[[長岡市]]に)で長岡電灯株式会社の計画があったが起業に時間を要しており<ref name="nagaoka">[[#nagaoka|『長岡市史』通史編下巻]]258-260頁</ref>、新潟電灯が新潟県下最初の電気事業者となった<ref name="tohoku-218">[[#tohoku|『東北地方電気事業史』]]218-222頁</ref>。 開業後最初の決算期末(1898年6月末)時点での電灯数は925灯であった<ref name="nep-134"/>。1897年7月制定の「電灯規則」によると、開業初期の電灯には日没から23時まで点灯する「11時灯」、翌日2時まで点灯する「2時灯」、日の出まで点灯する「終夜灯」、従量制の「不定時灯」、臨時設置の「臨時灯」の5種類があり、不定時灯・臨時灯以外は[[白熱電球]]の燭光ごとに月額料金が定められていた<ref name="nep-134"/>。例えば終夜10燭灯の場合、月額料金は1円30銭(ただし別途電球代もあり)であった<ref name="nep-134"/>。 === 水力発電導入をめぐる対立 === 無事に開業した新潟電灯は1898年下期の決算から[[配当|配当金]]を出せるようになり、[[1900年]](明治33年)下期には最初の[[募集株式|増資]]も実現して資本金が7万5000円となった<ref name="nep-142"/>。翌[[1901年]](明治34年)、ボイラー・蒸気機関・発電機各1台の増設が完成し<ref name="nep-134"/>、発電力は165キロワット(75キロワット発電機・90キロワット発電機各1台)に増加した<ref>[[#yoran2|『電気事業要覧』明治41年]]96-97頁。{{NDLJP|805421/69}}</ref>。 1900年9月、古志郡長岡町にて個人経営の電気事業が開業した<ref name="nagaoka"/>。長岡でも新潟と同じく電源は火力発電であり、新潟県では先行2事業者がそろって火力発電で開業する形となった<ref name="tohoku-218"/>。しかしこの頃には[[送電]]技術の向上により[[水力発電]]の実用性が増しつつあった。その契機の一つは、[[1899年]](明治32年)6月の福島県[[郡山市]]における郡山絹糸紡績([[東部電力]]の前身)の開業である。同社が構築した電気事業は、[[安積疏水]]に沼上発電所を建設し、当時の国内最高[[電圧]]にあたる11キロボルト(1万1000[[ボルト (単位)|ボルト]])という送電電圧をもって郡山市街まで24キロメートルに及ぶ長距離送電を行う、というものであった<ref name="tohoku-184"/>。このような長距離高圧送電の実用化により、水力発電の適地が近隣にない都市でも火力発電ではなく水力発電の採用が可能となった<ref>[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]90-93頁</ref>。 こうした中、新潟県下では[[山口権三郎]]が[[信濃川]]での水力発電を志し、山口の死後事業を引き継いだ北越水力電気組(後の[[北越水力電気]])が[[1904年]](明治37年)12月に[[塩殿発電所]]を完成させた<ref name="nagaoka"/>。同社は開業に際して長岡ですでに営業していた個人営電気事業を引き取っており、長岡では真っ先に電源が火力発電から水力発電へと転換された<ref name="nagaoka"/>。県内外で水力発電が拡大していく中、新潟電灯社内では取締役の中野平弥が調査を重ね、新潟市内から40キロメートル以内の適地を探求した結果[[北蒲原郡]][[笹岡村 (新潟県北蒲原郡)|笹岡村]](現・[[阿賀野市]])を流れる大荒川([[阿賀野川]]水系)での水力発電を企画、[[1905年]](明治38年)になって具体的計画を会社に対して提案するに至った<ref name="nep-147">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]147-149頁</ref>。さらに社外でも[[日露戦争]]後の好景気に乗じた起業の動きがあり、木村松二郎ら[[石油]]事業で財を成した実業家により[[中蒲原郡]][[川内村 (新潟県)|川内村]](現・[[五泉市]])を流れる[[早出川]](阿賀野川水系)での水力発電が企画された<ref name="nep-14">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]14-19頁</ref>。 かくして新潟市周辺地域では大荒川と早出川の2河川に相次いで水力発電計画が浮上したが、このことで新潟電灯社内には深刻な対立が発生した<ref name="nep-147"/>。中野平弥は自身の調査にかかる大荒川の計画を主張したが、それ以外の役員は早出川での計画を未完成のうちに新潟電灯で買収する方が有利であると主張したのである<ref name="nep-147"/>。路線対立の末、[[1906年]](明治39年)11月、中野平弥以外の役員{{Refnest|group=注釈|辞任したのは取締役鈴木長八・小出喜七郎・栗林定吉・横山太平(貸金業<ref>[[#genkon|『日本現今人名辞典』]]よ13頁</ref>)および監査役鍵富三作・斎藤喜十郎・藤田簡吉(回漕業<ref>[[#genkon|『日本現今人名辞典』]]ふ2頁</ref>)の7名<ref name="kanpo19070109"/>。}}はそろって辞任<ref name="nep-147"/>。12月の補欠選挙で取締役に中野貫一郎(中野平弥の長男<ref name="nakano"/>)・上原有三(平弥の三男<ref name="nakano"/>)・[[中野四郎太]](平弥の四男<ref name="nakano"/>)・飯村俊二(平弥の女婿<ref name="nakano"/>)、監査役に高橋喜蔵([[沼垂町]])ほか2名がそれぞれ選出された<ref name="kanpo19070109">「[{{NDLDC|2950400/9}} 商業登記 新潟電灯株式会社登記事項変更]」『官報』第7056号、1907年1月9日</ref>(社長は中野平弥<ref name="nep-142"/>)。経営陣の異動に伴い株主にも異動を生じており、1900年の増資時に115名を数えた株主は最終的に10名まで減少した<ref name="nep-142"/>。 === 新潟水電への移行 === 中野平弥以外の役員が交代したことで新潟電灯は大荒川での水力発電へと進むこととなったが、その実行にあたっては新潟電灯とは別個に「新潟水電株式会社」を新設するという手続きが採られた<ref name="nep-147"/>。まず1906年12月、新潟水電名義で大荒川での[[水利権]]獲得に成功する<ref name="nep-147"/>。翌[[1907年]](明治40年)1月には新潟電灯と新発田電灯所に電力を供給するという形の電気事業経営を逓信省に対し出願した<ref name="nep-147"/>。このうち「新発田電灯所」は、[[北蒲原郡]]新発田町(現・[[新発田市]])とその周辺に供給すべく中野平弥・谷資敬(大地主[[市島徳次郎]]家の総務取締で元[[判事]]<ref>[[#nouchi|『新潟県農地改革史』]]785頁</ref>)名義で1906年7月12日付で許可を得ていた電気事業である<ref name="shibata-435">[[#shibata|『新発田市史』下巻]]435-436頁</ref>。そして1907年5月22日、逓信省より新潟水電に対して電気事業経営の許可が下りた<ref name="nep-147"/>。 新潟水電の発起人は中野平弥・市島徳次郎・[[佐藤伊左衛門]](大地主・多額納税者<ref name="genkon-sa">[[#genkon|『日本現今人名辞典』]]さ9頁</ref>)・[[佐藤友右衛門]](同<ref name="genkon-sa"/>)・織田昇次郎([[東京株式取引所]]仲買人<ref>[[#genkon|『日本現今人名辞典』]]お45頁</ref>)・上原有三・中野四郎太・谷資敬・高橋喜蔵・浅川文吉(金物商<ref>[[#etsusa|『越佐商工人名録』]]25頁</ref>)の10名からなった<ref name="niiden-6">[[#niiden|『新潟電気株式会社三十年誌』]]6-10頁</ref>。そして1907年[[11月13日]]、新潟水電株式会社の創立総会開催に至る<ref name="niiden-6"/>。設立時の資本金は30万円、本店所在地は新潟市新島町通四ノ町<ref name="kanpo19071202">「[{{NDLDC|2950676/14}} 商業登記 株式会社設立]」『官報』第7329号、1907年12月2日</ref>。取締役には佐藤伊左衛門・中野平弥・谷資敬・中野四郎太・高橋喜蔵、監査役には市島徳次郎・浅川文吉ほか1名が選ばれた<ref name="kanpo19071202"/>。このうち佐藤伊左衛門が社長、中野平弥が専務を務めたが<ref name="nep-147"/>、佐藤は翌[[1908年]](明治41年)10月に取締役在職のまま死去した<ref>「[{{NDLDC|2950957/13}} 商業登記 新潟水電株式会社登記事項変更]」『官報』第7610号、1908年11月6日</ref>。[[1909年]](明治42年)2月に市島徳次郎が取締役に補選され<ref>「[{{NDLDC|2951060/19}} 商業登記 新潟水電株式会社登記事項変更]」『官報』第7710号附録、1909年3月12日</ref>、社長市島徳次郎・専務中野平弥の体制に代わった<ref>[[#kaisha18|『日本全国諸会社役員録』第18回]]上編628頁、[[#kaisha19|『日本全国諸会社役員録』第19回]]上編652頁</ref>(ただし1912年時点では社長不在<ref>[[#kaisha20|『日本全国諸会社役員録』第20回]]上編707頁</ref>)。 新潟水電発足後の1908年、新潟市内では3月と9月の2度にわたり[[新潟大火|大火]]が発生した。大火により新潟電灯では需要家計310戸・電灯約1760灯を焼失する被害に遭ったが、焼失家屋が再建されるにつれて電灯の復旧も進み、焼失数を若干上回る新需要を獲得できた<ref name="nep-134"/>。同年11月末時点の電灯需要家数は954戸、電灯数は4563灯であった<ref name="nep-134"/>。新潟水電ではこの新潟電灯の事業と未開業の新発田電灯所を統合する意向を当初から持っており<ref name="nep-147"/>、1908年12月に逓信省より事業譲り受けの許可を受けた上で<ref name="y2-20"/>、1909年3月13日付で新潟電灯・新発田電灯所の事業を引き継いだ<ref name="nep-147"/>。買収価格は新潟電灯分が15万6000円、新発田電灯所分が4000円であった<ref name="nep-147"/>。事業譲渡後、新潟電灯は臨時[[株主総会]]での決議によって3月16日付で解散した<ref name="kanpo19090409">「[{{NDLDC|2951083/18}} 商業登記 新潟電灯株式会社登記事項変更]」『官報』第7733号附録、1909年4月9日</ref>。 1909年5月10日、大荒川に建設中の大荒川上流発電所(出力443キロワット)および送電線が完成し、13日より送電が開始された<ref name="nep-147"/>。同発電所は北蒲原郡笹岡村大字勝屋(現・阿賀野市勝屋)に立地<ref name="em190908">[[#em190908|『工業雑誌』第31巻第418号]]</ref>。発生電力は11キロボルトで新潟市街の対岸にあたる中蒲原郡沼垂町(1914年新潟市へ編入)の[[変電所]]まで送電される<ref name="em190908"/>。その沼垂変電所からは沼垂町内への配電線と新潟市内への配電線([[鉄塔]]3基によって信濃川を横断し旧新潟電灯配電線に接続)が分かれた<ref name="em190908"/>。これらの完成により新潟市内では火力発電から水力発電への電源転換が実現し、旧新潟電灯時代の火力発電所は予備設備に格下げされている<ref name="nep-147"/>。また従来の電灯供給に加えて[[電動機]]を動かすための動力用電力の供給も開始された<ref name="nep-147"/>。 大荒川上流発電所完成の段階では北蒲原郡新発田町への供給は未開業であったが、新潟水電が[[赤谷鉱山]]{{Refnest|group=注釈|北蒲原郡赤谷村(現・新発田市)にあった鉱山。[[官営八幡製鐵所|官営八幡製鉄所]]によって[[鉄鉱石]]を採掘する準備が進められていたが、1903年3月をもって開発中断<ref name="shibata-288"/>。}}から赤谷発電所(出力270キロワット)を借り入れて送電線工事を進めた結果、[[1910年]](明治43年)8月より新発田町での供給も始まった<ref name="niiden-6"/>。借り入れた赤谷発電所は北蒲原郡[[赤谷村]]大字滝谷(現・新発田市滝谷)にあり、常盤新田用水([[加治川]]支流水系内ノ倉川が水源)から引水する<ref name="shibata-288">[[#shibata|『新発田市史』下巻]]288-291頁</ref>。新発田での開業後、1910年11月末時点での電灯数は1万3998灯、動力用電力供給は165.0[[馬力]](約123キロワット)であった<ref>[[#yoran4|『電気事業要覧』明治43年]]332-333・350-351頁</ref>。 === 事業の急拡大 === 先に触れたように、新潟水電が設立された頃、中蒲原郡川内村を流れる早出川での水力発電計画も起業に向けて動きつつあった<ref name="nep-14"/>。同計画は初め木村松二郎らにより出願されていたが、間もなく[[清水常作]]ら[[宝田石油]](長岡市)関係者に引き継がれ、清水ほか6名が発起人となって1907年1月に水利権獲得に至る<ref name="nep-14"/>。清水らは「[[新潟電力|新潟水力電気株式会社]]」の電気事業経営許可を同年5月22日付(新潟水電の事業許可と同日)で得て、6月21日、新潟水電に先駆けて新潟水力電気を設立した<ref name="nep-31">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]31-32頁</ref>。同社には中野平弥との対立から新潟電灯を去った鈴木長八や小出喜七郎らが合流しており<ref name="nep-77">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]77-85頁</ref>、初代社長には清水常作(専務就任)を抑えて鈴木長八が就任している<ref name="nep-31"/>。1909年3月、新潟水力電気は早出川の第一発電所(出力500キロワット)完成により開業に至る<ref name="nep-37">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]37-40頁</ref>。変電所は五泉・新津・沼垂の3か所が設けられ<ref name="nep-207">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]207-223頁</ref>、開業時は中蒲原郡[[村松町]]・[[五泉町]](現・[[五泉市]])および新津町(後の[[新津市]])での供給が、遅れて同年5月より新潟市内と沼垂町での供給が開始された<ref name="nep-37"/>。 同時期に開業した新潟水電と新潟水力電気は後述するように供給区域の重なる新潟市内と沼垂町で激しく競合したほか、市外では供給区域の拡大を競った<ref name="nep-77"/>。両社の供給区域は徐々に[[岩船郡]]を除く[[下越地方]]一帯に拡大していくが、新潟水電の供給区域は主に阿賀野川右岸と信濃川左岸、新潟水力電気の供給区域は[[加茂市|加茂]]・[[三条市|三条]]・[[見附市|見附]]など主に信濃川と阿賀野川の間の地域に広がった<ref name="nep-map">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]付図「新潟電力株式会社 供給区域拡張発達図」</ref>。新潟水電においては、発電所のある北蒲原郡のうち[[水原町]](現・阿賀野市)にて[[1911年]](明治44年)11月より<ref>[[#suibara|『水原町編年史』第三巻]]337頁</ref>、[[中条町]](現・[[胎内市]])にて翌[[1912年]](大正元年)9月よりそれぞれ供給を開始<ref>[[#nakajo|『中条町史』通史編]]892頁</ref>。加えて1912年までに笹岡村・[[安田町 (新潟県)|安田村]](現・阿賀野市)や[[葛塚町]](後の[[豊栄市]])でも開業した<ref name="nep-map"/>。 北蒲原郡以外では、1911年10月新潟水電「津川支社」の名義で[[東蒲原郡]][[津川町]](現・[[阿賀町]])での事業許可を取得<ref name="yoran5">[[#yoran5|『電気事業要覧』明治44年]]38-39頁。{{NDLJP|974998/48}}</ref>。また1911年内に「蒲原電気株式会社」名義で中蒲原郡[[小須戸町]]と白根町(後の[[白根市]])、「越後電気株式会社」名義で[[西蒲原郡]][[燕町]]・[[吉田町 (新潟県)|吉田村]]・[[地蔵堂町]](現・[[燕市]])および[[南蒲原郡]][[裏館村]](現・三条市)での事業許可をそれぞれ取得した<ref name="yoran5"/>。「蒲原電気」「越後電気」とも中野平弥を発起人の代表としており<ref name="yoran5"/>、新潟水電では1912年中に2つの事業権を引き取った<ref name="niiden-6"/>。逓信省の資料によると、[[1914年]](大正3年)までに上記町村や西蒲原郡[[巻町]]などでも開業しているのが確認できる<ref name="y7-56">[[#yoran7|『電気事業要覧』第7回]]56-57頁。{{NDLJP|975000/58}}</ref>。なおこのうち燕地区には当初、吸入ガス機関(サクション[[ガスエンジン]])を原動機とする出力30キロワットの[[内燃力発電|内燃力発電所]](燕発電所)を置いていた<ref>[[#yoran7|『電気事業要覧』第7回]]188-189頁。{{NDLJP|975000/123}}</ref>。 供給区域の拡大とともに水力発電所建設も進行した。新潟水電では、大荒川上流発電所に続いて1912年(明治45年)5月に大荒川下流発電所(出力235キロワット)を完成させ<ref name="nep-149">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]149-151頁</ref>、次いで飯豊川第一発電所(出力1900キロワット)の工事を進めて[[1915年]](大正4年)7月に同所も竣工させて供給力を増強した<ref name="nep-149"/><ref name="reportS17">「新潟水電株式会社第17回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。前者の所在地は北蒲原郡笹岡村大字勝屋で<ref name="niiden-10">[[#niiden|『新潟電気株式会社三十年誌』]]10-16頁</ref>、名前の通り大荒川上流発電所の下流側に位置する<ref name="sui3-374">[[#suibara|『水原町編年史』第三巻]]374頁</ref>。後者の所在地は北蒲原郡赤谷村大字上赤谷(現・新発田市上赤谷)で<ref name="niiden-10"/>、加治川本流(飯豊川)にある<ref name="meidensha1953">[[#meidensha1953|『明電舎時報』第21巻2号]]</ref>。変電所の新設もあり、既設沼垂・新発田変電所に続いて1914年3月に水原変電所と小須戸変電所、1915年4月に燕変電所がそれぞれ完成した<ref name="niiden-10"/>。うち西蒲原郡の小須戸・燕両変電所には大荒川上流発電所からの送電線が繋がった<ref name="niiden-10"/>。 事業拡張の中、新潟水電では計3度の増資が行われた<ref name="niiden-17">[[#niiden|『新潟電気株式会社三十年誌』]]17-22頁</ref>。最初の増資は30万円で、1909年12月の決議<ref name="kanpo19100714">「[{{NDLDC|2951470/11}} 商業登記 新潟水電株式会社登記事項変更]」『官報』第8118号附録、1910年7月14日</ref>。次いで1911年2月に60万円の増資が決議された<ref name="kanpo19111002">「[{{NDLDC|2951843/15}} 商業登記 新潟水電株式会社登記事項変更]」『官報』第8486号附録、1911年10月2日</ref>。3度目の増資は130万円で[[1913年]](大正2年)10月に決議されたが、手続き完了は遅れ[[1916年]](大正5年)7月となった<ref name="kanpo19160720">「[{{NDLDC|2953301/19}} 商業登記 新潟水電株式会社変更]」『官報』第1191号附録、1916年7月20日</ref>。これらの増資により、資本金は設立時の30万円から250万円へと増加している<ref name="niiden-17"/>。 === 新潟市内での競争 === 先に触れたように、新潟水電の電灯・電力供給区域のうち新潟市内(1914年編入の旧沼垂町域を含む)は別資本の会社である新潟水力電気の電力供給区域でもあった。これは新潟水電や新潟水力電気が事業許可を得た1907年前後の時期は、逓信省が電灯供給区域の重複は原則認可しないものの電力供給については後発事業者参入の余地があると判断した場合に限り重複供給の許可を与える、という方針を採っていたことによる<ref name="nep-14"/>。事業許可に際し、新潟電灯の後身となる新潟水電側に優越権が認められたため、重複供給区域となる新潟市・沼垂町については新潟水力電気側は一般的な電灯・電力供給区域ではなく電力供給区域の扱いとされ、1邸宅または1構内毎に2キロワット以下の電灯供給を禁ずる(動力用電力供給の場合は2キロワット以下も可)という制限が付された<ref name="nep-14"/>。後発の新潟水力電気では1907年11月から供給予約の募集に着手し<ref name="nep-37"/>、その結果1909年5月の供給開始までに新潟市で約300馬力、沼垂町で約200馬力の電力供給予約を集めたという<ref name="nep-77"/>。 新潟水力電気の進出を迎え撃つ新潟水電側では、水力発電転換後は電気料金を引き下げること、新潟水力電気から電灯供給を受ける場合には自家用電灯扱いになり手続きが煩雑になることを告知して需要家の流出防止に努めた<ref name="nep-77"/>。それでも開業後の需要家争奪戦は激しくなり、新潟市内では至る所で道路の両側に両社の配電線が対峙する形となり、需要家に対しては規定以下の料金での供給が行われた<ref name="nep-77"/>。さらに昼間専用の供給であるはずのところに昼夜間の送電をなしたり、器具の表示灯に余分な電灯を添えたりすることもあったという<ref name="nep-77"/>。1913年には新潟水電側が需要家に動力使用組合を組織させ、引き留めのため様々な特典を与えるようになった<ref name="nep-77"/>。1916年2月になると新潟水力電気側も同様の組合を組織させて規定の半額での電力供給を始めた<ref name="nep-77"/>。 新潟水電と新潟水力電気の競争はやがて新潟市外にも飛び火した。近郊の中蒲原郡[[亀田町 (新潟県)|亀田町]]では新潟水力電気が1909年12月より供給していたが<ref name="nep-37"/>、1916年上期になって新潟水電も供給を始め<ref>「新潟水電株式会社第18回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>、同地にある織布工場への電力供給を新潟水力電気から奪取した<ref name="nep-77"/>。さらに新潟水電は[[1918年]](大正7年)に新潟水力電気が供給する[[新津油田]]への割り込みを図ったが、これは供給認可自体を得られず失敗した<ref name="nep-77"/>。それでも新潟水力電気側は採掘業者と協定して[[原油]]相場の上下に随伴する電力料金制を定めて採掘業者に優遇を与えた<ref name="nep-77"/>。こうした新潟水電と新潟水力電気の対立は、後述するように営業不可侵協定が締結される[[1924年]](大正13年)12月まで断続的に続いた<ref name="nep-77"/>。 2つの電力会社が競合する中、明治末期の新潟市ではさらに[[都市ガス]]会社も出現していた。電灯が旧式の炭素線電球(発光部分に[[炭素|炭素線]]を用いる[[白熱電球]])を用いていた当時、都市ガス燃焼による照明すなわち[[ガス灯]]は電灯よりも明るい照明であり、屋内灯や商店の照明、また少数ではあるが[[街灯]]にも利用された<ref name="gas-9">[[#gas|『北陸瓦斯五十五年史』]]9-20頁</ref>。1907年に起業へ向けた動きが始まった際、中野平弥ら新潟電灯関係者もガス事業を出願したが、新潟市でのガス営業権は1909年に[[桜井市作]]のグループが獲得する<ref name="gas-9"/>。そして翌1910年7月、新潟瓦斯([[北陸ガス]]の前身)が発足<ref name="gas-9"/>。1911年4月より市内繁華街を中心にガス供給が始まった<ref name="gas-9"/>。 新潟市内ではピーク時3000灯余り(1916年末時点で3144灯)のガス灯が利用されたが、電灯の改良、特に長寿命・省電力のタングステン電球(発光部分に[[タングステン]]線を用いる白熱電球)が普及するとガス灯の優位は失われた<ref name="gas-35">[[#gas|『北陸瓦斯五十五年史』]]35-38頁</ref>。これに[[第一次世界大戦]]勃発に伴う原料[[石炭]](当時の都市ガスは[[石炭ガス]])の価格暴騰が重なったため、全国的にガス灯は衰退しガス利用の中心は熱源へと移っていった<ref name="gas-35"/>。新潟瓦斯においても大正末期には熱需要がガス灯需要を上回るようになっている<ref name="gas-35"/>。なお、新潟水電におけるタングステン線電球を含む金属線電球の利用は1913年11月末時点では全電灯の4分の1に過ぎなかったが<ref>[[#yoran7|『電気事業要覧』第7回]]356-357頁</ref>、5年後、1918年11月末時点では点灯する全電灯の金属線電球化が完成している<ref>[[#yoran12|『電気事業要覧』第12回]]398-399頁</ref>。 === 大戦景気期の大口需要開拓 === 1915年7月に大型の飯豊川第一発電所が完成したことで新潟水電では大口の電力供給が可能となった<ref name="reportS17"/>。10月から供給を始めた大口需要家は北越板紙と亜鉛電気製錬の2社で、これだけで約400馬力の供給増となっている<ref name="reportS17"/>。需要家の北越板紙は長岡市にある北越製紙(現・[[北越コーポレーション]])の子会社で、同年旧沼垂町に[[製紙業|製紙]]工場を建設<ref name="paper">[[#paper|『北越製紙百年史』]]70-72・75-76頁</ref>。もう一方の亜鉛電気製錬は東蒲原郡[[下条村 (新潟県東蒲原郡)|下条村]]大字五十島(現・阿賀町五十島)にて[[銅]]・[[亜鉛]]採掘(葎沢鉱山)と亜鉛の[[電解精錬]]を行う会社である<ref>[[#soran|『新潟県総攬』]]225頁</ref>。新潟水電の同年11月末時点での供給成績は電灯数4万8173灯・動力用電力供給765.5馬力(約571キロワット)・その他電力供給112キロワットであった<ref name="reportS17"/>。 さらに新潟水電では電力需要創出にも取り組んだ。その一つは[[電気化学]]事業への参入で、余剰電力の受け皿をつくるべく1916年6月8日付で逓信大臣の兼営許可を取得<ref name="niiden-6"/>。工場を新潟市[[山下 (新潟市)|山ノ下]]に建設の上、同年11月4日より[[塩素酸カリウム]]の製造を開始した<ref name="reportS19">「新潟水電株式会社第19回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。1918年上期からは[[水酸化ナトリウム]](苛性ソーダ)と[[次亜塩素酸カルシウム]](さらし粉)の製造も加わっている<ref>「新潟水電株式会社第22回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。こうした電気化学事業のほか[[紡績]]事業の兼営も検討されたが、これは株式の4分の1を引き受けて新潟紡績株式会社として起業する方針に改められた<ref name="reportS19"/>。新潟紡績は1916年12月21日、中野平弥を[[代表取締役]]として新潟市に発足した<ref>「[{{NDLDC|2953445/9}} 商業登記 株式会社設立]」『官報』第1332号、1917年1月13日</ref>。さらには自社での[[路面電車|市街電車]]敷設を計画し<ref name="kotsu-91">[[#kotsu|『新潟交通20年史』]]91頁</ref>、1918年9月に軌道敷設特許を取得している<ref name="kanpo19180914">「[{{NDLDC|2953949/4}} 軌道特許状下付]」『官報』第1836号、1918年9月14日</ref>。 隣接する電気事業者の統合は1件のみ、三島電気株式会社の統合が行われた。三島電気は1912年3月23日、資本金5万円で長岡市に設立<ref name="kanpo19120506">「[{{NDLDC|2952018/15}} 商業登記 株式会社設立]」『官報』第8661号附録、1912年5月6日</ref>。日本各地の電気事業に関わった[[才賀藤吉]]が社長を務め<ref>[[#iw191209|『実業の世界』第9巻第18号]]</ref>、他に新潟水力電気の清水常作・鈴木長八が取締役に名を連ねた<ref name="kanpo19120506"/>。同社は[[三島郡 (新潟県)|三島郡]][[寺泊町]]に出力40キロワットのガス力発電所を設け、寺泊町内を供給区域として1914年2月に開業した<ref name="niiden-6"/>。新潟水電では供給区域が隣接するため同社の吸収を計り、まず1914年下期に全1000株のうち700株を買収する<ref name="niiden-6"/>。そして1916年1月に事業買収契約を締結し<ref name="niiden-6"/>、同年6月23日付で逓信省の認可を得た上で9月6日をもって事業引継ぎを完了した<ref name="reportS19"/>。なお事業譲渡に伴い三島電気は9月21日に解散している<ref>「[{{NDLDC|2953372/15}} 商業登記 三島電気株式会社解散]」『官報』第1261号附録、1916年10月12日</ref>。 第一次世界大戦を背景とする[[大戦景気 (日本)|大戦景気期]]には工業電力を中心に電力需要が著しく増加した上<ref name="niiden-17"/>、[[灯油]]価格高騰により[[ランプ (照明器具)|ランプ]]から電灯への切り替えが進んで電灯需要も増加した<ref name="reportS23">「新潟水電株式会社第23回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。工業需要の一例として、北越製紙(北越板紙を吸収)が400馬力という大型電動機を据え付けた新潟工場内[[パルプ|砕木パルプ]]工場(1917年完成)がある<ref name="paper"/>。1918年11月末時点の供給成績は電灯数7万3868灯・動力用電力供給3478.75馬力(約2594キロワット)・その他電力供給115.9キロワットであり<ref name="reportS23"/>、3年間で電灯は1.5倍、動力用電力は4.5倍の増加をみている。このように供給成績は増加したものの、大戦景気期の物価騰貴によって発電所建設を控えざるを得なくなり、発電力増強は飯豊川第一発電所完成をもって一旦停止した<ref name="niiden-17"/>。そのため需要増加につれて供給力不足に陥り、1918年下期からは電力供給の一部謝絶を余儀なくされた<ref name="reportS23"/>。 1918年11月に世界大戦が終結すると電力需要の一部は消滅した。当初の大口需要家であった五十島の亜鉛電気製錬は大戦終結で[[1919年]](大正8年)事業休止に追い込まれた<ref name="mining">[[#mining|『日本鉱業発達史』上巻]]699-701頁</ref>。さらに同年7月、自社の兼営化学事業も採算悪化で苛性ソーダ・さらし粉の製造を中止した(塩素酸カリウム製造のみ継続)<ref name="reportS25">「新潟水電株式会社第25回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。その一方、新潟市内に新設された新潟紡績の工場{{Refnest|group=注釈|1920年3月新潟紡績が[[愛知県]][[名古屋市]]の名古屋紡績に合併されたため名古屋紡績新潟工場となる。1937年には名古屋紡績が[[日東紡績]]に吸収されたことで日東紡績新潟工場となった<ref name="nitto"/>。}}が1919年7月より操業を開始したことで<ref name="nitto">[[#nitto|日東紡績『回顧参拾年』]]72-75頁</ref>、新潟水電では同社に275馬力の電力供給を始めた<ref name="reportS25"/>。この頃飯豊川第二発電所を工事中であったが、労働力不足で工期が伸びており供給力不足は継続していた<ref name="reportS26">「新潟水電株式会社第26回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。対策のため、[[1920年]](大正9年)1月より競合する新潟水力電気から夜間200キロワットの受電{{Refnest|group=注釈|ただし新潟水力電気の自社電力ではなく同社が[[猪苗代水力電気]]から受電していた電力の一部を譲り受ける形であった<ref name="niiden-17"/>。}}を開始している<ref name="reportS26"/>。受電開始後、1920年5月末時点の電灯数は8万9225灯、電力供給は動力用4235馬力(約3158キロワット)・その他0.7キロワットであった<ref name="reportS26"/>。 == 沿革:新潟電気時代 == === 新潟電気の新設 === [[ファイル:Nakano Shirota.jpg|thumb|upright|新潟電気専務[[中野四郎太]] ]] 1918年4月18日、新潟水電の重役会において、新潟水電とその傍系会社にあたる両新鉄道株式会社の統合によって新会社「新潟電気株式会社」を設立する旨が決議された<ref name="niiden-23">[[#niiden|『新潟電気株式会社三十年誌』]]23-30頁</ref>。この当時、新潟水電では大規模電源開発を手掛けるべく信濃川や阿賀野川水系[[只見川]]・[[伊南川]]に水利権を出願していたが、水利権獲得には資本金の増加が必須であると考えられた<ref name="nep-155">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]155-162頁</ref>。しかし新潟水電が増資を実行する場合、未払込資本金(1918年上期時点では公称資本金250万円のうち78万円が未払込み<ref name="niiden-17"/>)を全額徴収の上、増資額の4分の1を払込む必要があり、水利権が未許可の段階でこれらの資金調達を実行して払込資本金額を膨らませるのは経営的に問題があった<ref name="nep-155"/>。こうした事情を踏まえ、払込額を抑えつつ公称資本金だけを大きくする方法として、250万円の払込みによって公称資本金1000万円の新会社新潟電気を新設し、これに新潟水電・両新鉄道の事業を買収させる、という手法が採用されたのである<ref name="nep-155"/>。 なお新潟電気への統合が決定された両新鉄道というのは、新潟と新発田を結ぶ電気鉄道を計画していた会社である<ref name="kotsu-91"/>。設立は1915年9月<ref name="kanpo19151008">「[{{NDLDC|2953064/11}} 商業登記 株式会社設立]」『官報』第956号、1915年10月8日</ref>。資本金は60万円(6万円払込)で<ref name="kanpo19151008"/>、設立に際して新潟水電が過半数の株式を引き受けていた<ref name="reportS17"/>。ただし鉄道敷設免許を得ていたものの、着工に向けた動きはないままであった(詳細は[[#鉄軌道事業計画]]参照)。 重役会での決定後、1918年5月31日付で新潟電気発起人と新潟水電・両新鉄道の間に事業譲渡契約が交わされた<ref name="niiden-23"/>。その大要は、 * 新潟水電は事業譲渡を前に新株の払込金を追加徴収し(払込資本金は217万5000円に<ref name="niiden-17"/>)、新株1株の払込額を37円50銭(4分の3払込)とする。 * 新潟水電の株主に対しては旧株1株(額面50円払込済み)につき新会社の株式4株、新株1株(37円50銭払込)につき新会社の株式3株を、両新鉄道の株主に対しては持株(5円払込)3株につき新会社の株式1株をそれぞれ割り当て、新会社新潟電気を設立する。 * 新会社新潟電気は新潟水電の事業権・資産を217万5000円で、両新鉄道の事業権・資産を5万円でそれぞれ買収する。 というものである<ref name="nep-155"/>。この操作により、新潟水電の払込資本金217万5000円はそのまま新会社の払込資本金に移行し、両新鉄道の払込資本金6万円は新会社の払込資本金5万円へと姿を変えることになる。新会社の払込資本金は250万円のため27万5000円の不足となるが、この分の株式2万2000株は公募するものとされた<ref name="reportS23"/>。 新会社設立に向けた手続きが進行中の1918年5月7日、新潟水電の主宰者である専務取締役中野平弥が死去した<ref name="niiden-23"/>。これを機に新潟県知事が新潟水電と競合会社新潟水力電気の両社に合同を呼び掛けたが、6月11日、新潟水電では合併を希望しない旨を表明する<ref name="nep-85">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]85-92頁</ref>。その後も新会社設立作業は続けられ、6月29日新潟水電の定時株主総会にて、7月23日両新鉄道の定時株主総会にてそれぞれ新会社への事業譲渡契約が承認された<ref name="niiden-23"/>。 <!--事業譲渡許可の日付不明-->2年後の1920年11月15日、新潟電気株式会社の創立総会が開催される<ref name="nep-155"/>。次いで同年12月1日、新潟電気は契約に基づき新潟水電・両新鉄道の事業一切を引き継いで営業を開始した<ref name="nep-155"/>。新潟電気の本店は新潟水電と同じく新潟市新島町通四ノ町に設置<ref name="kanpo19210425"/>。創立総会で選出された新潟電気の役員は取締役が[[斎藤彦太郎]](農業・多額納税者<ref name="jiji">「[{{新聞記事文庫|url|0100382808}} 時事新報社第三回調査全国五拾万円以上資産家 新潟県の一]」『[[時事新報]]』1916年5月12日(神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ「新聞記事文庫」収録)</ref>)・星野勘右衛門(同<ref name="jiji"/>)・谷資敬・上原有三・中野欽治(中野平弥の孫<ref name="nakano"/>)・中野四郎太・飯村俊二の7名、監査役が浅川文吉ほか4名で<ref name="kanpo19210425"/>、取締役の中から社長に斎藤彦太郎、専務に中野四郎太、常務に飯村俊二が就いた<ref name="reportD1">「新潟電気株式会社第1回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。新潟電気発足の一方、新潟水電・両新鉄道両社は創立総会同日に臨時株主総会を開き、そこでの決議に基づき12月1日をもって会社を解散している<ref name="shinbunT-344">[[#shinbunT|『新潟市合併町村の歴史』基礎資料集5]] 344-345頁</ref>。 === 福島県進出 === 新潟電気発足後の[[1921年]](大正10年)12月、新潟水電時代に着工されていた飯豊川第二発電所(出力1843キロワット)が運転を開始した<ref name="nep-166">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]166-170頁</ref>。同発電所は北蒲原郡[[川東村 (新潟県北蒲原郡)|川東村]]大字小戸(現・新発田市小戸)<ref name="nep-207"/>、加治川中流域にある<ref name="epce355">[[#epce355|『電力土木』第355号]]</ref>。新発電所の完成に伴い新潟水力電気からの受電は12月限りで打ち切られた<ref name="reportD3">「新潟電気株式会社第3回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。供給力増加につれて供給成績も伸長し、[[1923年]](大正12年)上期には電灯数15万灯・電力供給7000馬力に到達している<ref>「新潟電気株式会社第5回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。ただし兼営化学事業については採算の見込みがなくなり新潟電気発足間もない1921年9月6日付で休業とされ<ref name="reportD2"/>、以後再開されなかった(1928年下期に工場設備を処分)<ref>「新潟電気株式会社第16回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。 1921年10月、新潟電気は福島県内を流れる阿賀野川水系伊南川に水利権(出力1万8000キロワット)を獲得した<ref name="reportD2">「新潟電気株式会社第2回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。この伊南川発電所は早期に着工されなかったが、以後新潟電気では福島県側での事業拡大を進めた。まず[[1922年]](大正11年)10月11日、新潟県に隣接する福島県[[耶麻郡]][[奥川村]](現・[[西会津町]])を供給区域とする奥川水力電気株式会社と合併契約を締結した<ref name="niiden-30">[[#niiden|『新潟電気株式会社三十年誌』]]30-36頁</ref>。合併相手の奥川水力電気は1918年4月20日耶麻郡[[喜多方町]](現・[[喜多方市]])に資本金30万円で設立され<ref>「[{{NDLDC|2953923/20}} 商業登記 株式会社設立]」『官報』第1810号附録、1918年8月14日</ref>、奥川(阿賀野川水系)に発電所を建設して1920年7月に開業していた<ref name="tohoku-207">[[#tohoku|『東北地方電気事業史』]]207頁</ref>。新潟電気と奥川水力電気の合併比率は1対1で、合併による新潟電気の資本金増加は100万円{{Refnest|group=注釈|奥川水力電気は1919年11月に70万円の増資を決議し<ref>「[{{NDLDC|2954474/29}} 商業登記 奥川水力電気株式会社追加]」『官報』第2361号附録、1920年6月16日</ref>、資本金を100万円としていた。}}である<ref name="niiden-30"/>。合併は1922年11月10日の株主総会決議を経て翌1923年6月30日に実施され、7月15日の合併報告総会をもって手続きを完了した<ref name="niiden-30"/>。この合併により奥川村にある奥川発電所(出力1000キロワット)と奥川第二発電所(出力638キロワット)を引き継いでいる<ref name="niiden-39">[[#niiden|『新潟電気株式会社三十年誌』]]39-47頁</ref>。 次いで[[1924年]](大正13年)12月、高田鉱業株式会社との間に、同社が福島県[[会津|会津地方]]を流れる大川(阿賀野川上流部)に有する未開発水利権を共同開発するという契約を締結した<ref name="niiden-36">[[#niiden|『新潟電気株式会社三十年誌』]]36-38頁</ref>。高田鉱業は[[高田商会]]から分割して設立された鉱業会社で、[[細倉鉱山]](宮城県)で亜鉛鉱石を採掘し、細倉製錬所と福島県内の大寺製錬所{{Refnest|group=注釈|高田鉱業大寺製錬所は福島県耶麻郡磐梯村(現・[[磐梯町]])の[[磐越西線]]大寺駅(現・[[磐梯町駅]])近くに立地<ref>[[#bandai|『磐梯町史』]]540-542頁</ref>。1916年3月より猪苗代水力電気からの受電で操業を開始した<ref name="mining"/>。現・日曹金属化学会津工場。}}において亜鉛の電解精錬を行っていた<ref name="mining"/>。共同開発の契約締結に基づき新潟電気では開発主体となる日本電気工業株式会社の起業に着手<ref name="niiden-36"/>。資本金700万円・総株数14万株のうち6万株を自社で、5万5000株を自社株主で出資して<ref name="niiden-36"/>、[[1926年]](大正15年)8月30日付で新潟市に日本電気工業を設立した<ref name="kanpo19261211">「[{{NDLDC|2956441/11}} 商業登記 株式会社設立]」『官報』第4291号、1926年12月11日</ref>。 日本電気工業を通じて開発する運びとなった大川発電所の下流側では、大沼電灯株式会社という別の会社が発電所建設を計画中であった<ref name="niiden-30"/>。大沼電灯は1912年8月1日、資本金5万円をもって福島県[[大沼郡]][[高田町 (福島県)|高田町]](現・[[会津美里町]])に設立<ref>「[{{NDLDC|2952166/12}} 商業登記 株式会社設立]」『官報』第69号、1912年10月23日</ref>。1912年11月に会津電力([[会津若松市|若松市]])からの受電を電源として開業し、高田町を中心に配電していた<ref>[[#tohoku|『東北地方電気事業史』]]195-196頁</ref>。同社では1921年8月より宮川発電所(出力450キロワット・大沼郡[[尾岐村]])を運転したが<ref name="niiden-39"/>、無理な事業拡張で経営不振に陥る<ref name="susei-20">[[#susei|『東北電気事業界の趨勢』]] 東北電気事業会社批判20-21頁</ref>。その隙を狙って大川の未開発水利権(出力約4000キロワット)を入手すべく新潟電気・新潟水力電気・会津電力の3社がそれぞれ合併を持ち掛けた結果<ref name="susei-20"/>、[[1927年]](昭和2年)3月28日、新潟電気との間で合併契約締結に至った<ref name="niiden-30"/>。 大沼電灯の合併では、同社は当時資本金150万円{{Refnest|group=注釈|大沼電灯は1918年1月に25万円<ref>「[{{NDLDC|2953881/23}} 商業登記 大沼電灯株式会社変更]」『官報』第1768号附録、1918年6月25日</ref>、1919年12月に120万円の増資をそれぞれ決議し<ref>「[{{NDLDC|2954458/13}} 商業登記 大沼電灯株式会社変更]」『官報』第2345号、1920年5月28日<br />「[{{NDLDC|2954745/37}} 商業登記 大沼電灯株式会社更正]」『官報』第2360号附録、1921年5月10日</ref>、資本金を150万円としていた。}}・払込資本金90万円であったものを不良資産・債権消却のため40万円に切り下げて合併するという方法が採られた<ref name="niiden-30"/>。従って合併に伴う新潟電気の資本金増加は40万円(払込資本金増加も同額)のみで、合併比率は9対4とされた<ref name="niiden-30"/>。合併は1927年4月15日に株主総会で決議ののち、8月1日付で実行<ref name="niiden-30"/>、8月15日には合併報告総会も完了した<ref name="reportD14">「新潟電気株式会社第14回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。合併に伴い新潟電気は大沼郡高田町の旧大沼電灯本社に出張所を設けた<ref name="reportD14"/>。 === 供給力の充実 === [[ファイル:Nakatsugawa I power station 2008-04.jpg|thumb|upright|信越電力建設の中津川第一発電所(2008年撮影)]] 1922年12月、新潟県南部を流れる信濃川水系[[中津川 (信濃川水系)|中津川]]にて[[信越電力]]中津川第二発電所が運転を開始した<ref name="tsunan">[[#tsunan|『津南町史』通史編下巻]]314-319頁</ref>。次いで1924年10月にはその上流側に同社中津川第一発電所が完成する<ref name="tsunan"/>。前者は出力1万8000キロワット、後者は出力3万9000キロワットという大型水力発電所で、その発生電力は主として[[東京電灯]]の上越送電線により[[三国峠 (群馬県・新潟県)|三国峠]]を越え[[関東地方]]へと送電された<ref name="tsunan"/>。ただし一部は新潟県内への供給に振り向けられることとなり、1923年9月、中津川第二発電所から長岡変電所へと至る長岡送電線(送電電圧66キロボルト)が東京電灯によって整備された<ref name="tsunan"/>。東京電灯の長岡進出にあわせ、まず長岡市の[[北越水力電気]]が1923年10月より東京電灯からの受電を開始する<ref>「北越水力電気株式会社第37回営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。新潟電気においても1922年10月東京電灯と最大3000キロワットの受電を契約し<ref>「新潟電気株式会社第4回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>、1924年1月、受電用送電線として長岡変電所から自社の燕変電所へと至る送電線(送電電圧33キロボルト<ref name="dia1930"/>)を完成させた<ref>「新潟電気株式会社第7回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。 東京電灯のほか[[村上水電]]からの受電も行われた。同社は新潟県北部の[[岩船郡]][[村上町]](現・[[村上市]])にあった電力会社である<ref name="susei-77">[[#susei|『東北電気事業界の趨勢』]] 東北電気事業会社批判77頁</ref>。同社からの受電は東京電灯に先立つ1923年から<ref name="nep-166"/>。当初は村上水電の余剰電力100キロワットを受電するに過ぎなかったが<ref name="susei-77"/>、1927年12月に同社発電所と自社の新発田発電所を結ぶ送電線が完成し<ref name="reportD15">「新潟電気株式会社第15回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>、以後受電は1200キロワットとなった<ref name="dia1930">[[#dia1930|ダイヤモンド社『銀行会社年鑑』昭和5年版]]503-504頁。{{NDLJP|1075499/282}}</ref>。 一方で自社電源の拡充も進められた。まず1927年9月、傍系会社の日本電気工業に工事を委託していた新潟予備火力発電所が完成した<ref name="reportD14"/>。同所は新潟市山ノ下にあり<ref name="niiden-39"/>、出力は3000キロワットである<ref name="dia1930"/>。福島県の大川発電所に関しては、工事の進展に伴いまず1927年11月に高田鉱業から水利権を譲り受ける<ref name="niiden-36"/>。次いで発電所工事を委託する日本電気工業の合併手続きに着手し、同年11月24日合併契約締結、12月12日株主総会での合併決議と進んで<ref name="niiden-36"/>、翌[[1928年]](昭和3年)3月20日付で合併を実施した<ref name="reportD15"/>。合併報告総会は同年4月5日に開催されている<ref name="reportD15"/>。日本電気工業の合併後の1928年5月、大川発電所は落成した<ref name="reportD15"/>。大川発電所は福島県[[北会津郡]][[大戸村]]大字芦ノ牧(現・[[会津若松市]]大戸町芦ノ牧)にあり<ref name="niiden-39"/>、発電所出力は社内最大の1万2520キロワットであった<ref name="dia1930"/>。 なお日本電気工業の合併により新潟電気の資本金は700万円増の1840万円となった<ref name="niiden-36"/>。前述の通り新潟電気では日本電気工業の株式6万株(300万円分)を保有していたが、この株式は合併で消却とはせず、「新潟電気証券株式会社」という証券保有会社に移して維持する措置が採られた<ref name="reportD15"/>。1928年3月16日、新潟電気証券は新潟市内に設立される<ref name="kanpo19280517">「[{{NDLDC|2956875/12}} 商業登記 株式会社設立]」『官報』第414号、1928年5月17日</ref>。同社の資本金は300万円で<ref name="kanpo19280517"/>、全6万株のうち5万9850株を新潟電気が引き受けていた<ref name="reportD15"/>。 新潟火力発電所と大川発電所の完成により、新潟電気の発電所数は計10か所、総出力は2万2299キロワット(他に受電4200キロワット)に達した<ref name="dia1930"/>。供給力増加とともに供給成績も伸長を続け、電灯数は[[1925年]](大正14年)上期に20万灯へ到達したのち1928年上期には30万灯へ到達<ref name="dia1930"/>。電力供給は1927年上期に1万馬力を超えている<ref name="dia1930"/>。[[1929年]](昭和4年)11月末時点の供給成績は電灯需要家数9万8797戸・電灯数32万7496灯、電力供給1万4364.4馬力(約1万712キロワット。他に家庭電気設備591.03キロワットあり)であった<ref name="reportD18"/>。この間の1924年秋、電灯供給規定を大幅改訂し、従量灯需要喚起のため従量料金制度に当時の東京市の制度を模した逓減制を採用した<ref name="nep-166"/>。また家庭用電気器具向けの定量制を追加し、電灯契約の場合原則夜間のみであった送電時間を終日送電も可能とするよう改めた<ref name="nep-166"/>。電力部門では農村電化に力を入れ、1927年に秋季3か月間を1使用期とする農季電力供給規定を制定した<ref name="nep-166"/>。 === 新潟水力電気との合併 === 前身の新潟水電時代から繰り広げられていた新潟市内における新潟水力電気との競合は1920年代に入っても続いていた<ref name="nep-77"/>。両社が電源不足に陥っていた1920年前後の時期は紛争がやや緩和されていたものの1923年頃より再び抗争が激化して弊害が大きくなったため、1924年12月31日、両社交渉の末に営業不可侵協定の締結に至った<ref name="nep-77"/>。協定内容は、供給区域が重複する新潟市内と中蒲原郡亀田町では需要家の争奪を目的とする勧誘・宣伝その他一切の競争的行為を禁ずる、供給料金・供給条件は意見交換の上でできるだけ統一する、両社は相互に相手の需要家に対する供給権を尊重し侵害しない、相手の需要家より供給の申込みがあった場合は相手側の承諾を得て供給する、大口需要家以外は各自の供給規定にて定めた料金・条件に沿って供給する、などであった<ref name="nep-77"/>。協定後も新規需要家をめぐる小競り合いがあったものの、年を追うごとに両社の関係は改善に向かった<ref name="nep-77"/>。 同じ地域で営業する新潟電気(新潟水電)と新潟水力電気を合同させようという動きは先に触れたように1918年から存在し、数年おきに県や財界有力者が合同を仲介していたが、関係者の感情的対立が原因で分立して起業されたという経緯から両社経営陣は合同の利益を自覚しつつも合同には消極的であった<ref name="nep-85"/>。1927年の[[昭和金融恐慌|金融恐慌]]を契機とした合併仲介が不調に終わった後、新潟電気は新潟水力電気ではなく大手電力会社[[東邦電力]]との提携を選択した<ref name="nep-85"/>。この東邦電力は東京に本社を置き[[中京圏|中京地方]]と[[北部九州]]を地盤とした電力会社であるが、1920年代末になって供給区域から離れた東北地方進出を図り[[福島電灯]]・[[東部電力]]・[[二本松電気]]など福島県の会社を相次いで傘下に収めていた<ref name="toho-472">[[#toho|『東邦電力史』]]472-482頁</ref>。 [[ファイル:Matsunaga Yasuzaemon (before 1923).jpg|thumb|upright|新潟水力電気との合併を仲介した東邦電力社長[[松永安左エ門]] ]] 東邦電力と提携するにあたり、1929年3月10日、東邦電力傘下の[[東邦電力#東邦証券保有|東邦証券保有]]と新潟電気・新潟電気証券の3社間に以下の契約が締結された<ref name="nep-162">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]162-166頁</ref>。 * 新潟電気が保有する新潟電気証券株式の大部分を東邦証券保有が譲り受ける。 * 東邦証券保有が新株を引き受ける形で新潟電気証券の倍額増資(資本金600万円に)を実施する。 * その後新潟電気証券を新潟電気に合併させる。 新潟電気では同年3月28日に臨時株主総会を開き上記契約を承認した<ref name="nep-162"/>。新潟電気証券の増資(実際には360万円の増資)は6月に完了<ref>「[{{NDLDC|2957260/8}} 商業登記 新潟電気証券株式会社資本増加]」『官報』第794号、1929年8月21日</ref>。そして6月12日、新潟電気は新潟電気証券を合併した<ref name="reportD18"/>。合併後の新潟電気の資本金は660万円増の2500万円である<ref name="nep-162"/>。これらの操作により東邦証券保有は新潟電気の全株式50万株のうち23万4千株を持つ筆頭株主となった<ref name="nep-85"/>。また6月28日に行われた合併報告総会では増員役員として取締役に[[松永安左エ門]]・[[山県鼎一]](常務取締役就任)、監査役に古島安二がそれぞれ選出されている<ref name="reportD18"/>。3人とも当時の東邦電力関係者で、松永は同社社長、山県・古島は同社社員であった<ref name="toho-472"/>。 新潟電気が東邦電力の傘下に入ったことで、これまで何度も破談となっていた新潟水力電気との合併交渉が松永安左エ門らの仲介により一挙に進展をみせた<ref name="nep-85"/>。そして1929年9月14日、新潟電気と新潟水力電気の間で合併契約が締結されるに至る<ref name="nep-85"/>。この当時、新潟電気は資本金2500万円、新潟水力電気は資本金1200万円と会社の規模は新潟電気が上回っていたが、合併では新潟水力電気側が存続会社で新潟電気は解散するものとされた<ref name="nep-85"/>。合併比率は1対1(対等合併)、合併期日は1929年12月24日と定められた<ref name="nep-85"/>。9月29日、新潟電気・新潟水力電気ともに臨時株主総会を開いて合併を承認した<ref name="nep-85"/>。 合併契約上の合併期日であった1929年12月24日付で逓信省より合併認可が下りたが、期日前に間に合わなかったため合併日は繰り延べられ翌[[1930年]](昭和5年)[[1月8日]]付となった<ref name="nep-85"/>。同年2月1日、存続会社の新潟水力電気で合併報告総会が開かれて合併手続きが完了し<ref name="nep-85"/>、同日をもって新潟電気は解散した<ref name="kanpo19300412"/>。この総会にて新潟水力電気は「[[新潟電力|新潟電力株式会社]]」へと改称<ref name="nep-85"/>。さらに役員の総改選を行い、新社長に松永安左エ門、新副社長に[[白勢量作]]を選出した<ref name="nep-85"/>。以後、新潟電力では合併の目的であった社内組織の合理化、小規模発電所の休廃止や送電系統の統合といった事業整理が進められていった<ref name="nep-95">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]95-102頁</ref>。 == 年表 == === 新潟電灯 === * [[1896年]](明治29年) ** [[7月27日]] - 新潟電灯に対し[[逓信省]]より電気事業経営許可<ref name="y2-20"/>。 ** [[10月11日]] - 新潟電灯の創業総会開催<ref name="shinbun-124"/>。 ** [[12月10日]] - [[農商務省 (日本)|農商務省]]の設立免許あり'''新潟電灯株式会社'''設立<ref name="nep-134"/>。[[資本金]]5万円<ref name="nep-142"/>、本店所在地[[新潟市]][[白山浦 (新潟市)|白山浦]]1丁目623番地<ref name="nep-134"/>。 * [[1898年]](明治31年) ** [[3月25日]] - 電気事業を開業<ref name="y2-20"/>。開業電源は[[火力発電]]<ref name="nep-134"/>。 * [[1900年]](明治33年) ** 下期 - 2万5000円の増資を実施し資本金を7万5000円とする<ref name="nep-142"/>。 * [[1909年]](明治42年) ** [[3月13日]] - 新潟水電株式会社へ事業を譲渡<ref name="nep-147"/>。 ** [[3月16日]] - 新潟電灯'''[[解散]]'''<ref name="kanpo19090409"/>。 ** [[12月17日]] - [[清算]]結了<ref>「[{{NDLDC|2951311/11}} 商業登記 新潟電灯株式会社登記事項変更]」『官報』第7960号、1910年1月8日</ref>。 === 新潟水電 === * [[1907年]](明治40年) ** [[5月22日]] - 新潟水電に対し逓信省より電気事業経営許可<ref name="nep-147"/>。 ** [[6月21日]] - 新潟市内に別系統の会社として[[新潟電力|新潟水力電気]]が発足<ref name="nep-31"/>。 ** [[11月13日]] - '''新潟水電株式会社'''設立。資本金30万円、本店所在地新潟市新島町通四ノ町2239番地<ref name="kanpo19071202"/>。 * 1909年(明治42年) ** 3月13日 - 新潟電灯・新発田電灯所より事業を譲り受ける<ref name="nep-147"/>。 ** [[5月13日]] - 大荒川上流発電所の運転開始し電源を[[水力発電]]へ転換<ref name="nep-147"/>。 ** 12月 - [[赤谷鉱山]]の赤谷発電所を借り入れ<ref name="niiden-6"/>。 ** [[12月24日]] - 30万円の増資を決議<ref name="kanpo19100714"/>。 * [[1910年]](明治43年) ** 8月 - [[新発田市|新発田]]での供給を開始<ref name="niiden-6"/>。 * [[1911年]](明治44年) ** [[2月6日]] - 60万円の増資を決議<ref name="kanpo19111002"/>。 * [[1912年]](明治45年) ** 5月 - 大荒川下流発電所の運転開始<ref name="nep-149"/>。 * [[1913年]](大正2年) ** [[10月7日]] - 130万円の増資を決議<ref name="kanpo19160720"/>。資本金250万円となる<ref name="niiden-17"/>。 * [[1915年]](大正4年) ** [[7月12日]] - 飯豊川第一発電所の運転開始<ref name="reportS17"/>。 ** [[9月24日]] - 過半数の株式を引き受けて両新鉄道株式会社を設立<ref name="reportS17"/><ref name="kanpo19151008"/>。 * [[1916年]](大正5年) ** [[9月6日]] - 三島電気株式会社から事業を譲り受ける<ref name="niiden-6"/>。 ** [[11月4日]] - 兼営の電気化学事業を開始<ref name="reportS19"/>。 * [[1918年]](大正7年) ** [[5月31日]] - 新潟電気発起人との間に事業譲渡契約を締結<ref name="niiden-23"/>。 ** [[6月29日]] - 株主総会において新潟電気への事業譲渡を決議<ref name="niiden-23"/>。 ** [[9月12日]] - [[内務省 (日本)|内務省]]・[[鉄道省|鉄道院]]より軌道敷設特許取得(新潟市沼垂町 - 同市白山浦通1丁目間)<ref name="kanpo19180914"/>。 * [[1920年]](大正9年) ** [[12月1日]] - 両新鉄道とともに新潟電気株式会社に事業を譲渡<ref name="nep-155"/>。11月15日の臨時株主総会決議に従い新潟水電・両新鉄道'''解散'''<ref name="shinbunT-344"/>。 * [[1924年]](大正13年) ** [[3月30日]] - 両新鉄道清算結了<ref>「[{{NDLDC|2955738/42}} 商業登記 両新鉄道株式会社清算結了]」『官報』第3590号附録、1924年8月11日</ref>。 * [[1926年]](大正15年) ** [[3月20日]] - 新潟水電清算結了<ref>「[{{NDLDC|2956297/9}} 商業登記 新潟水電株式会社清算結了]」『官報』第4146号、1926年6月19日</ref>。 === 新潟電気 === * 1920年(大正9年) ** [[11月15日]] - '''新潟電気株式会社'''設立。資本金1000万円、本店所在地新潟市新島町通四ノ町2239番地<ref name="kanpo19210425"/>、初代社長[[斎藤彦太郎]]<ref name="reportD1"/>。 ** 12月1日 - 新潟水電・両新鉄道から事業を引き継ぎ開業<ref name="nep-155"/>。 * [[1921年]](大正10年) ** [[9月6日]] - 兼営の電気化学事業を休止<ref name="reportD2"/>。 ** [[12月27日]] - 飯豊川第二発電所の運転開始<ref name="reportD3"/>。 * [[1923年]](大正12年) ** [[5月22日]] - 本店を新潟市[[上大川前通]]六番町1197番地へ移転<ref>「[{{NDLDC|2955541/15}} 商業登記 新潟電気株式会社本店移転]」『官報』第3394号附録、1923年12月14日</ref>。 ** [[6月30日]] - 奥川水力電気株式会社を合併<ref name="niiden-30"/>。資本金1100万円となる<ref name="nep-162"/>。 * 1924年(大正13年) ** [[12月31日]] - 新潟水力電気との間に営業不可侵協定を締結<ref name="nep-77"/>。 * 1926年(大正15年) ** [[8月30日]] - 傍系会社・日本電気工業を設立<ref name="kanpo19261211"/>。 * [[1927年]](昭和2年) ** [[8月1日]] - 大沼電灯株式会社を合併<ref name="niiden-30"/>。資本金1140万円となる<ref name="nep-162"/>。 ** [[9月22日]] - 新潟火力発電所使用認可<ref name="reportD14"/>。 * [[1928年]](昭和3年) ** [[2月18日]] - 株主総会で旧両新鉄道から引き継いだ鉄道敷設免許を新会社へ譲渡する旨決議(ただし実現に至らず)<ref name="reportD15"/>。 ** [[3月16日]] - 傍系会社・新潟電気証券を設立<ref name="kanpo19280517"/>。 ** 3月20日 - 日本電気工業を合併<ref name="reportD15"/>。資本金1840万円となる<ref name="nep-162"/>。 ** [[5月29日]] - 大川発電所使用認可<ref name="reportD15"/>。 * [[1929年]](昭和4年) ** [[3月10日]] - 東邦証券保有([[東邦電力]]傘下)との間に資本提携契約を締結<ref name="nep-162"/>。 ** [[6月12日]] - 新潟電気証券を合併。資本金2500万円となる<ref name="nep-162"/>。 ** [[9月14日]] - 新潟水力電気と合併契約を締結<ref name="nep-85"/>。 ** [[9月29日]] - 株主総会にて新潟水力電気との合併を決議<ref name="nep-85"/>。 ** [[12月24日]] - 逓信省より新潟水力電気との合併認可が下りる<ref name="nep-85"/>。 * [[1930年]](昭和5年) ** [[1月8日]] - 新潟水力電気との合併を実行<ref name="nep-85"/>。 ** [[2月1日]] - 新潟水力電気との合併により新潟電気'''解散'''<ref name="kanpo19300412"/>。存続会社の新潟水力電気は[[新潟電力|新潟電力株式会社]]へと改称<ref name="nep-85"/>。 == 供給区域 == === 1914年時点の区域一覧 === 新潟水電時代、1914年(大正3年)5月末時点の供給区域は以下の通り<ref name="y7-56"/>。これには未開業の地域を含む。 {| class="wikitable" style="font-size:small;" |- !style="background-color:#cee;" colspan="2"|[[新潟県]](1市5郡) |- !style="white-space:nowrap;"|市部<br />(1市) |[[新潟市]] |- !style="white-space:nowrap;"|[[西蒲原郡]]<br />(3町12村) |[[内野町|内野村]]・[[中野小屋村]]・[[赤塚村 (新潟県)|赤塚村]]・[[黒埼町|黒埼村]]・[[曽根町 (新潟県)|曽根村]]・[[巻町]]・[[和納村]]・[[岩室村]]・[[間瀬村]]・[[月潟村]](現・新潟市)、<br />[[燕町]]・[[太田村 (新潟県西蒲原郡)|太田村]]・[[吉田町 (新潟県)|吉田村]]・[[地蔵堂町]](現・燕市)、<br />[[弥彦村]] |- !style="white-space:nowrap;"|[[中蒲原郡]]<br />(3町4村) |[[鳥屋野村]]・[[亀田町 (新潟県)|亀田町]]・[[横越町|横越村]]・[[満日村]]・[[阿賀浦村]]・[[小須戸町]]・[[白根市|白根町]](現・新潟市) |- !style="white-space:nowrap;"|[[南蒲原郡]]<br />(3村) |田上村(現・[[田上町]])、<br />[[裏館村]](現・[[三条市]])、[[大島村 (新潟県南蒲原郡)|大島村]](現・三条市・[[燕市]]) |- !style="white-space:nowrap;"|[[北蒲原郡]]<br />(4町9村) |[[葛塚町]](現・新潟市)、<br />[[水原町]]・[[安田町 (新潟県)|安田村]]・[[笹岡村 (新潟県北蒲原郡)|笹岡村]](現・[[阿賀野市]])、<br />[[新発田市|新発田町]]・[[猿橋村]]・[[鴻沼村]]・[[五十公野村]]・[[菅谷村 (新潟県)|菅谷村]]・[[加治村 (新潟県)|加治村]]・[[紫雲寺村]](現・[[新発田市]])、[[松塚村 (新潟県)|松塚村]](現・新発田市・[[胎内市]])、<br />[[中条町]](現・胎内市) |- !style="white-space:nowrap;"|[[東蒲原郡]]<br />(1町) |[[津川町]](現・[[阿賀町]]) |} === 1929年時点の区域一覧 === 新潟電気時代、1929年(昭和4年)6月末時点の供給区域は以下の通り<ref name="y21-487">[[#yoran21|『電気事業要覧』第21回]]487-489頁。{{NDLJP|1077038/273}}</ref>。 * 他の事業者の供給区域にも含まれる市町村には「【一部】」という表記を付した。 {| class="wikitable" style="font-size:small;" |- !style="background-color:#cee;" colspan="2"|新潟県(1市6郡) |- !style="white-space:nowrap;"|市部<br />(1市) |新潟市 |- !style="white-space:nowrap;"|西蒲原郡<br />(5町28村) |[[浦浜村]]以外の郡内各町村(現・新潟市・燕市・弥彦村)<br />ただし[[坂井輪村]]の一部も除く |- !style="white-space:nowrap;"|[[三島郡 (新潟県)|三島郡]]<br />(1町3村) |[[寺泊町]]・[[桐島村]]・[[島田村 (新潟県)|島田村]](現・[[長岡市]])、[[大河津村]](現・長岡市・燕市) |- !style="white-space:nowrap;"|中蒲原郡<br />(4町10村) |[[大形村 (新潟県)|大形村]]・鳥屋野村・[[曽野木村]]・亀田町【一部】・横越村・[[新津市|新津町]]【一部】・小須戸町・[[臼井村]]・白根町・[[小林村 (新潟県)|小林村]]・[[庄瀬村]]・[[茨曽根村]]・[[新飯田村]](現・新潟市)、<br />[[須田村]](現・[[加茂市]]) |- !style="white-space:nowrap;"|南蒲原郡<br />(1町2村) |田上村(現・田上町)、<br />三条町【一部】(現・三条市)、大島村(現・三条市・燕市) |- !style="white-space:nowrap;"|北蒲原郡<br />(4町29村) |[[松ヶ崎浜村]]・[[濁川村]]・[[南浜村]]・[[木崎村 (新潟県)|木崎村]]・[[長浦村 (新潟県)|長浦村]]・葛塚町(現・新潟市)、<br />[[聖籠町|聖籠村]]・[[亀代村]](現・[[聖籠町]])、<br />[[京ヶ瀬村]]・水原町・[[堀越村 (新潟県)|堀越村]]・[[分田村]]・安田村・笹岡村・[[神山村 (新潟県)|神山村]](現・阿賀野市)、<br />[[本田村 (新潟県)|本田村]]・[[中浦村 (新潟県)|中浦村]]・[[佐々木村]]・新発田町・猿橋村・鴻沼村・五十公野村・[[松浦村 (新潟県)|松浦村]]・[[米倉村 (新潟県)|米倉村]]・[[川東村 (新潟県北蒲原郡)|川東村]]・[[赤谷村]]・菅谷村・加治村・紫雲寺村(現・新発田市)、松塚村・[[金塚村]](現・新発田市・胎内市)、<br />中条町・[[築地村 (新潟県)|築地村]](現・胎内市) |- !style="white-space:nowrap;"|東蒲原郡<br />(1町4村) |[[下条村 (新潟県東蒲原郡)|下条村]](現・阿賀町・[[五泉市]])、[[三川村 (新潟県東蒲原郡)|三川村]]・[[揚川村]]・津川町・[[両鹿瀬村]](現・阿賀町) |- !style="background-color:#cee;" colspan="2"|[[福島県]](4郡) |- !style="white-space:nowrap;"|[[耶麻郡]]<br />(1村) |[[奥川村]](現・[[西会津町]]) |- !style="white-space:nowrap;"|[[河沼郡]]<br />(1村) |[[群岡村]]【一部】(現・西会津町) |- !style="white-space:nowrap;"|[[大沼郡]]<br />(2町9村) |[[高田町 (福島県)|高田町]]・[[赤沢村 (福島県)|赤沢村]]・[[永井野村]]・[[藤川村 (福島県)|藤川村]]・[[旭村 (福島県大沼郡)|旭村]]・[[東尾岐村]]・[[尾岐村]]・[[会津本郷町|本郷町]]・[[玉路村]]・[[新鶴村]](現・[[会津美里町]])、<br />[[昭和村 (福島県)|昭和村]]【一部】 |- !style="white-space:nowrap;"|[[北会津郡]]<br />(4村) |[[川南村 (福島県)|川南村]]・[[舘ノ内村]]・[[荒井村 (福島県北会津郡)|荒井村]]・[[門田町 (会津若松市)|門田村]]【一部】(現・[[会津若松市]]) |} === 供給区域に関する備考 === 新潟県[[下越地方]]で新潟電気の供給区域に含まれない地域は基本的に新潟水力電気の供給区域であるが([[新潟電力#1929年時点の区域一覧]]参照)、北蒲原郡[[乙村]]・[[黒川村 (新潟県北蒲原郡)|黒川村]]と[[岩船郡]]各町村(離島の[[粟島浦村]]を除く)は[[村上水電]]の供給区域に含まれる<ref name="y21-487"/>。ただし西蒲原郡[[浦浜村]]はいずれの電気事業者にも属さない空白地域であった(同村での供給開始は新潟電力時代の[[1934年]]8月<ref>「新潟電力株式会社第55回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>)。 新潟電気の供給区域が広がる新潟・福島両県は[[太平洋戦争]]下の[[配電統制令|配電統制]]にて[[東北配電]]の配電区域とされ<ref>「[{{NDLDC|2960911/17}} 配電統制令第三条第二項の規定に依る配電株式会社設立命令に関する公告]」『官報』第4413号、1941年9月20日</ref>、後身の新潟電力は区域内にある配電設備・需要者屋内設備の一切を[[1942年]](昭和17年)4月に東北配電へと出資した<ref name="kanpo19420424">「[{{NDLDC|2961087/16}} 東北配電株式会社 土地の使用の契約に基き有する権利義務継承公告]」『官報』第4585号、1942年4月24日</ref>。戦後[[1951年]](昭和26年)5月の[[電気事業再編成令|電気事業再編成]]では東北配電区域をそのまま引き継いで[[東北電力]]が発足している<ref>[[#tohoku|『東北地方電気事業史』]]626頁</ref>。 == 発電所 == 新潟電気が運転し新潟電力へ引き継がれた発電所は[[水力発電|水力発電所]]9か所・[[火力発電所]]1か所、総出力2万2299キロワットである。以下、これらの発電所の概要を記す。 === 大荒川上流・下流発電所 === 新潟水電時代、最初に開発された水力発電所が'''大荒川上流発電所'''(大荒川第一発電所とも)である。所在地は新潟県[[北蒲原郡]][[笹岡村 (新潟県北蒲原郡)|笹岡村]]大字勝屋字大荒川山<ref name="kanpo19140916">「[{{NDLDC|2952745/10}} 工場財団]」『官報』第639号、1914年9月16日</ref>(現・[[阿賀野市]]勝屋)。[[1909年]](明治42年)5月13日より運転を開始した<ref name="nep-147"/>。 [[阿賀野川]]水系大荒川にある発電所の一つで<ref name="hydro1931">[[#hydro1931|『許可水力地点要覧』]](1930年末時点)90-97頁。{{NDLJP|1187651/53}}</ref>、川に設けられた堰堤から取水の上、長さ1.8キロメートルの水路で導水し発電する仕組みであった<ref name="em190908"/>。発電設備は[[ドイツ]]・[[フォイト]]製[[ペルトン水車]]1台と[[アメリカ合衆国|米国]][[ゼネラル・エレクトリック]] (GE) 製[[三相交流]][[発電機]](容量540[[ボルトアンペア|キロボルトアンペア]])1台からなる<ref name="niiden-10"/>。発電所出力は443キロワットで<ref name="niiden-10"/>、発生電力は沼垂変電所(新潟市[[流作場 (新潟市)|流作場]])へと送電された<ref name="em190908"/>。 大荒川上流発電所に関係する発電所として'''大荒川下流発電所'''(大荒川第二発電所とも)があった。所在地は北蒲原郡笹岡村大字勝屋字賽ノ川原<ref name="kanpo19140916"/>。上流発電所に続いて[[1912年]](明治45年)5月に運転を開始した<ref name="nep-149"/>。上流発電所の約1キロメートル下流地点にあり、同発電所の放水を直接導水し発電する仕組みであった<ref name="sui3-374"/>。発電設備は[[スイス]]・[[エッシャーウイス]]製[[フランシス水車]]1台とGE製三相交流発電機(容量250キロボルトアンペア)1台からなり、発電所出力は235キロワットに設定された<ref name="niiden-10"/>。 新潟水電時代、発電所の[[商用電源周波数|周波数]]は60[[ヘルツ]]で統一されていたが<ref name="y12-226">[[#yoran12|『電気事業要覧』第12回]]226-227頁</ref>、新潟電気時代の1928年時点では大荒川上流・下流発電所以外は50ヘルツとなっている<ref>[[#niiden|『新潟電気株式会社三十年誌』]] 巻末「送電関係一覧図 昭和三年現在」</ref>([[変電所]]は水原町の水原変電所のみ60ヘルツ対応<ref name="niiden-39"/>)。1930年の新潟電力発足後、設備の統一・改善の一環として小容量かつ周波数が60ヘルツのままの大荒川上流・下流発電所は撤去が決まり<ref name="nep-95"/>、[[1931年]](昭和6年)11月27日付でそろって廃止された<ref>[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]250頁(巻末年譜)</ref>。 === 赤谷発電所 === : 位置 : {{Coord|37|51|0.8|N|139|25|15.1|E|region:JP|name=赤谷発電所}} 新潟水電・新潟電気が運転した発電所のうち'''赤谷発電所'''は自社建設の発電所ではなく[[赤谷鉱山]]の[[自家発電|自家用発電所]]を借り入れたものである。所在地は北蒲原郡[[赤谷村]]大字滝谷字天ヶ淵<ref name="kanpo19140916"/>(現・[[新発田市]]滝谷)。 赤谷発電所は[[官営八幡製鐵所|官営八幡製鉄所]]が進める赤谷鉱山開発の一環として、鉱石搬出用[[索道]]の電源とする目的で[[1900年]](明治33年)7月に着工された<ref name="shibata-288"/>。その後発電所建物や水路が竣工し、ドイツから輸入の水車・発電機を据え付けると稼働できるという状態になったが、[[1903年]](明治36年)3月に鉱山開発自体が中止されたため発電所工事も打ち切られた<ref name="shibata-288"/>。1909年9月、新潟水電はこの状態の赤谷発電所を借り入れる契約を結び、12月に水利権移転の許可を得た上で工事を進め、[[1910年]](明治43年)8月より運転を開始した<ref name="niiden-6"/>。 取水は[[加治川]]支流内ノ倉川から行うが、水路は常盤新田用水と共用であり既設水路を付け替え・拡張の上で利用している<ref name="shibata-288"/>。発電設備はフォイト製フランシス水車2台とドイツ・[[AEG]]製三相交流発電機(容量150キロボルトアンペア)2台からなり、発電所出力は270キロワット<ref name="niiden-10"/>。発生電力は新発田方面や新潟方面(1911年7月追加)へと送電された<ref name="niiden-6"/>。 新潟電力発足直後の[[1930年]](昭和5年)8月16日<ref>[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]248頁(巻末年譜)</ref>、送電系統統一で不要になったとして赤谷発電所は八幡製鉄所に返還された<ref name="nep-95"/>。発電所は製鉄所から赤谷村に払い下げられたのち赤谷電力(現・赤谷電気工業)に引き継がれ、1931年より運転が再開されている<ref>[[#shibata|『新発田市史』下巻]]615頁</ref>。 === 飯豊川第一発電所 === [[ファイル:Iidegawa No. 1 Dam.jpg|thumb|飯豊川第一ダム(2015年)]] : 位置 : {{Coord|37|49|32.0|N|139|26|17.5|E|region:JP|name=旧飯豊川第一発電所}} 新潟水電時代の4か所目の水力発電所が'''飯豊川第一発電所'''である。所在地は北蒲原郡赤谷村大字上赤谷<ref>「[{{NDLDC|2953688/10}} 工場財団]」『官報』第1574号、1917年10月30日</ref>(現・新発田市上赤谷)。[[1913年]](大正2年)10月に着工され、[[1915年]](大正4年)6月に完成<ref name="reportS17"/>。同年7月10日付で使用認可が下りたため12日より運転を開始した<ref name="reportS17"/>。 取水は飯豊川(加治川上流部)から行う<ref name="hydro1931"/>。取水地点には堤高34.8メートル・堤長53.3メートルの[[重力式コンクリートダム]]が築造された<ref name="dam">[[#dam|『日本大堰堤台帳』]]13-16頁</ref>。このダムは余水放流設備として2つの排砂門を持つが堤頂の洪水吐は設置されていない<ref name="dam"/>。取水口から先、発電所へと至る導水路はほとんどが木造(木管)であった<ref name="meidensha1953"/>。発電設備はフォイト製フランシス水車2台と[[東芝|芝浦発電所]]製三相交流発電機(容量1250キロボルトアンペア)2台からなり、発電所出力は1900キロワットに設定された<ref name="niiden-10"/>。飯豊川第一発電所から伸びる送電線のうち沼垂変電所へと至る線は33キロボルトの送電電圧(既設線は11キロボルト)が採用されている<ref name="niiden-10"/>。 飯豊川第一発電所は[[1942年]](昭和17年)4月の[[配電統制令|配電統制]]で新潟電力から[[東北配電]]へ出資され<ref name="kanpo19420424"/>、[[1951年]](昭和26年)5月の[[電気事業再編成令|電気事業再編成]]で[[東北電力]]に継承された<ref name="shinden">[[#shinden|『新電力事業銘鑑』]]186-188頁</ref>。しかし[[1953年]](昭和28年)になって東北電力の手により再開発され、ダムは再利用されたものの導水路以下は全面的に造り替えられ新潟水電時代からの発電所は撤去された<ref name="meidensha1953"/>。新発電所は旧発電所の上流側隣接地に建つ<ref name="meidensha1953"/>。 === 飯豊川第二発電所 === : 位置 : {{Coord|37|52|9.0|N|139|24|39.5|E|region:JP|name=飯豊川第二発電所}} 新潟電気発足後で最初に完成した水力発電所が'''飯豊川第二発電所'''である。所在地は北蒲原郡[[川東村 (新潟県北蒲原郡)|川東村]]大字小戸<ref name="nep-207"/>(現・新発田市小戸)。着工は新潟電灯時代の[[1918年]](大正7年)12月で<ref>「新潟水電株式会社第24回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>、[[1921年]](大正10年)12月27日より運転を開始した<ref name="reportD3"/>。 飯豊川第一発電所と同じく飯豊川にある<ref name="hydro1931"/>。導水路は約5キロメートルの長さがあり、途中、支流内ノ倉川を渡る地点には[[水路橋]]を設ける<ref name="epce355"/>。発電設備は[[電業社機械製作所|電業社]]製フランシス水車2台と芝浦製作所製三相交流発電機(容量1250キロボルトアンペア)2台からなり、発電所出力は1843キロワットであった<ref name="niiden-39"/>。 飯豊川第二発電所も新潟電力から東北配電を経て1951年以後は東北電力に引き継がれている<ref name="kanpo19420424"/><ref name="shinden"/>。 === 大川発電所 === : 位置 : {{Coord|37|21|51.5|N|139|54|22.0|E|region:JP|name=大川発電所跡}} 新潟電気時代の2番目の水力発電所は'''大川発電所'''である。所在地は福島県[[北会津郡]][[大戸村]]大字芦ノ牧字戸草平<ref name="jps">[[#jps|『日本の発電所』東部日本篇]]298-300頁</ref>(現・[[会津若松市]]大戸町芦ノ牧)。着工は[[1926年]](大正15年)10月、竣工は[[1928年]](昭和3年)5月で<ref name="jps"/>、5月29日付で使用認可が下りた<ref name="reportD15"/>。 [[会津|会津地方]]を流れる大川(阿賀野川)にあった発電所の一つ<ref name="jps"/>。発電所の南方、大川左岸にあたる[[南会津郡]][[長江村 (福島県)|長江村]]大字湯野上(現・[[下郷町]]湯野上)に取水口を設けた<ref name="jps"/>。取水口から発電所上部水槽へ伸びる導水路は総延長6.6キロメートルに及ぶ<ref name="jps"/>。発電設備は電業社製縦軸フランシス水車3台と芝浦製作所製三相交流発電機(容量5250キロボルトアンペア)3台からなる<ref name="jps"/><ref name="y21-688">[[#yoran21|『電気事業要覧』第21回]]688-689頁。{{NDLJP|1077038/374}}</ref>。発電所出力は1万2520キロワットで、その発生電力は66キロボルト送電線(大川送電線)で新潟市郊外の[[石山村 (新潟県)|石山村]]にある新潟変電所へと送られた<ref name="jps"/>。 大川発電所は1942年4月電力国家管理のため新潟電力から[[日本発送電]]へと出資され、同社東北支店所属となる<ref name="tohoku-496">[[#tohoku|『東北地方電気事業史』]]486・496-497頁</ref>。次いで1951年5月の電気事業再編成で東北電力へと移管された<ref name="shinden"/>。ただし[[1985年]](昭和60年)1月、[[建設省]][[大川ダム]]建設で取水口が水没する位置にあったことから廃止されており<ref>[[#mapinfo15|『地図情報』通巻第15号]]31頁</ref>、現存しない。 === 新潟火力発電所 === 新潟電気から新潟電力に引き継がれた中で唯一の火力発電所として'''新潟火力発電所'''があった。所在地は[[新潟市]][[沼垂 (新潟市)|沼垂]]字中王瀬<ref>「[{{NDLDC|2956979/7}} 工場財団]」『官報』第518号、1928年9月15日</ref>。[[1927年]](昭和2年)9月に竣工し、22日付で使用認可が下りた<ref name="reportD14"/>。運転は同年10月からである<ref name="reportD14"/>。 米国[[バブコック・アンド・ウィルコックス]] (B&W) 製[[ボイラー]]3台、[[三菱重工業|三菱造船]]製ユングストローム式[[蒸気タービン]]1台、[[三菱電機]]製三相交流発電機(容量1500キロボルトアンペア)2台からなる[[汽力発電]]設備を有した<ref name="y21-688"/>。燃料は[[石炭]](粉炭)<ref>[[#yoran21|『電気事業要覧』第21回]]271頁</ref>。[[渇水]]時における不足電力を補うための補給発電所であり、発電所出力は3000キロワットながら常時出力の設定はない<ref name="y21-583">[[#yoran21|『電気事業要覧』第21回]]583-584頁。{{NDLJP|1077038/321}}</ref>。 新潟火力発電所は配電統制により1942年4月新潟電力から東北配電へと引き継がれる<ref name="kanpo19420424"/>(この段階での発電所出力は3500キロワット<ref>[[#tohoku|『東北地方電気事業史』]]243-244頁</ref>)。1951年5月以後は東北電力に属したが<ref name="shinden"/>、[[1959年]](昭和34年)3月に廃止され古湊変電所へと格下げされた<ref>[[#tohoku|『東北地方電気事業史』]]910頁</ref>。 === 他社建設発電所 === 合併に伴って他社から引き継いだ水力発電所は'''奥川発電所'''(奥川第一発電所とも)・'''奥川第二発電所'''・'''宮川発電所'''の3か所である。これらの概要は下表の通り。 {| class="wikitable" style="font-size:small; text-align:center;" |- !style="background-color:#cee;"|発電所名 !style="background-color:#cee;"|出力<br />([[キロワット|kW]]) !style="background-color:#cee;"|所在地 !style="background-color:#cee;"|河川名 !style="background-color:#cee;"|前所有者 |- !style="white-space:nowrap;"|{{ウィキ座標|37|39|42.7|N|139|37|21.1|E|region:JP|name=奥川第一発電所|奥川}}<br />(奥川第一) |1,000<ref name="niiden-39"/> |福島県[[耶麻郡]][[奥川村]]大字元島<ref name="niiden-39"/><br />(現・[[西会津町]]奥川大字元島) |阿賀野川水系奥川<ref name="hydro1931"/> |奥川水力電気 |- !{{ウィキ座標|37|39|38.9|N|139|37|4.2|E|region:JP|name=奥川第二発電所|奥川第二}} |638<ref name="niiden-39"/> |福島県耶麻郡奥川村大字元島<ref name="niiden-39"/><br />(現・西会津町奥川大字元島) |阿賀野川水系奥川<ref name="hydro1931"/> |奥川水力電気 |- !{{ウィキ座標|37|25|29.3|N|139|48|3.5|E|region:JP|name=宮川発電所|宮川}} |※450<ref name="niiden-39"/> |福島県[[大沼郡]][[尾岐村]]大字尾岐窪<ref name="niiden-39"/><br />(現・[[会津美里町]]尾岐窪) |阿賀野川水系宮川・源太川<ref name="hydro1931"/> |大沼電灯 |} : ※逓信省資料では宮川発電所の出力は816キロワットとある<ref name="y21-583"/>。 宮川発電所は東北配電経由で東北電力に継承<ref name="kanpo19420424"/><ref name="shinden"/>。奥川・奥川第二両発電所は大川発電所とともに1942年4月日本発送電へ出資され(東北支店所属)<ref name="tohoku-496"/>、そこから東北電力へと移管された<ref name="shinden"/>。 == 鉄軌道事業計画 == [[ファイル:Bandaibashi-Bridge 20130929.JPG|thumb|新潟電気が架橋費の一部を負担した信濃川の[[萬代橋]](2013年)]] 開業に至らなかったが、新潟水電・新潟電気では2つの鉄道事業計画を有していた。一つは新潟と新発田を結ぶ鉄道敷設計画(「両新鉄道」計画)、もう一つは新潟市内の電気軌道([[路面電車]])敷設計画である。 [[1912年]](大正元年)9月、国有鉄道の一部として[[新津駅]]から[[新発田駅]]に至る路線(後に[[羽越本線]]の一部となる)が開通し、新発田に初めて鉄道が通された<ref>[[#shibata|『新発田市史』下巻]]448-453頁</ref>。しかし新潟市内と新発田を往来する際には新津迂回を要するため、新潟と新発田の直結を目指す「両新鉄道」構想が出現する<ref name="shinbunT-27">[[#shinbunT|『新潟市合併町村の歴史』基礎資料集5]] 27-28頁</ref>。新潟の小出清七(測量士)と沿線葛塚町の窪田市次郎が中心となって計画を進めた結果<ref name="shinbunT-27"/>、小出ら両新鉄道発起人は[[1913年]](大正2年)8月15日付で[[新潟駅]]付近(旧沼垂町)から新発田駅付近へと至る区間の鉄道敷設免許を獲得した<ref>「[{{NDLDC|2952417/4}} 軽便鉄道免許状下付]」『官報』第317号、1913年8月19日</ref>。その後会社設立まで時間を要したが、自社管内の路線という理由で新潟水電が支援に名乗りを上げ、[[1915年]](大正4年)9月2日に臨時株主総会を開いて両新鉄道株式会社の設立に際し過半数の株式を引き受ける旨を決議した<ref name="reportS17"/>。そして同年9月24日、新潟水電所在地に資本金60万円(6万円払込)をもって両新鉄道が設立された<ref name="kanpo19151008"/>。 [[1920年]](大正9年)12月、両新鉄道が新潟水電とともに新潟電気へと事業を譲渡したことで<ref name="nep-155"/>、鉄道敷設免許は新潟電気の手に移る。しかしその後も建設費の問題から着工に至らなかった<ref name="niiden-36"/>。事業が進展しない間に沿線自治体の運動によって新潟・新発田間鉄道は国有鉄道敷設予定線に編入されたことから、新潟電気では自社建設を取り止めて国に建設を委ねる方針を固める<ref name="niiden-36"/>。計画放棄の方針を新潟市へ伝達すると沿線の自治体・有志で立ち上げる新会社への敷設免許譲渡を申込まれたため、新潟電気では新会社設立時には相応の出資をする旨を約束し、1928年2月には株主総会を開いて免許譲渡を決議した<ref name="reportD15"/>。しかし新会社設立は立ち消えとなり<ref name="reportD15"/>、新潟電力発足後にあたる[[1930年]](昭和5年)5月30日付で起業廃止・免許返納の手続きが採られ、鉄道敷設計画は頓挫した<ref>「新潟電力株式会社第46回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。新潟・新発田間鉄道が[[白新線]]として開通するのは[[太平洋戦争]]後、[[1956年]](昭和31年)のことである。 電気軌道敷設計画については新潟水電自ら参画した。計画区間は新潟駅と越後鉄道(1927年国有化され[[越後線]]に)の起点[[白山駅 (新潟県)|白山駅]]の間で、1913年10月に電気軌道敷設を出願し<ref name="kotsu-91"/>、[[1918年]](大正7年)9月12日付で軌道敷設特許を獲得した<ref name="kanpo19180914"/>。しかしこの路線についても、信濃川架橋費が負担となり直ちに着工されなかった<ref name="kotsu-95">[[#kotsu|『新潟交通20年史』]]95頁</ref>。そうした中、1925年に新潟県による[[萬代橋]]架け替えが決定されると、新潟電気では軌道専用橋の架橋に替えて萬代橋中央部に[[軌道敷]]を確保し建設費を圧縮する方針を固め、萬代橋架橋費のうち40万円を負担することで軌道敷分の幅員拡張を県へ依頼することとなった<ref name="kotsu-95"/>。萬代橋架け替えは1929年8月に完成。新潟電気は架け替えと同時に一部でも軌道を開業させる意向を持っていたが<ref name="niiden-36"/>、なおも着工されず、萬代橋の中央部は石畳が敷かれただけであった<ref name="kotsu-95"/>。 新潟電力発足後、旧新潟電気の電気軌道計画は新潟水力電気側の傍系会社である新潟電鉄(現・[[新潟交通]])に統合され<ref name="kotsu-95"/>、新潟電鉄の路線として開業を目指すこととなった<ref name="kotsu-97">[[#kotsu|『新潟交通20年史』]]97頁</ref>。そして旧新潟電気由来の特許区間は[[新潟交通電車線|新潟電鉄線]]の起点を白山駅前から[[白山前駅|新潟県庁前]]に移すのに活かされ、[[1933年]](昭和8年)7月にごく一部が開業する<ref name="kotsu-97"/>。しかし新潟駅前から県庁前までの2.8キロメートルは着工できず、戦後[[1958年]](昭和33年)10月に起業廃止となっている<ref name="kotsu-97"/>。 == 人物 == 新潟水力電気(新潟電力)との合併前、1929年下期時点の役員は以下の18名であった<ref name="reportD18"/>。 * '''[[取締役]]''' ** [[斎藤彦太郎]] - '''社長'''。[[北蒲原郡]][[安田町 (新潟県)|安田村]]の農家・新潟県多額納税者<ref>[[#koshin9|『人事興信録』第9版]]サ78頁</ref>。 ** [[中野四郎太]] - '''専務'''。新潟水電創業者[[中野平弥]]の四男<ref name="nakano"/>。 ** 飯村俊二 - '''常務'''。中野平弥の女婿<ref name="nakano"/>。 ** [[山県鼎一]] - '''常務'''。元[[東邦電力]]社員(調度課長)<ref>[[#showajinbutsu|『昭和新潟人物誌』]]72-73頁</ref>。 ** [[松永安左エ門]] - 東邦電力社長<ref>[[#toho|『東邦電力史』]]巻末附表「役員在任期間一覧表」</ref>。 ** 星野勘右衛門 - 北蒲原郡安田村の農家・新潟県多額納税者<ref>[[#koshin9|『人事興信録』第9版]]ホ7-8頁</ref>。 ** 谷資敬 - 旧[[備中松山藩|備中松山]][[藩士]]・元[[判事]]<ref>[[#shiso|『高梁古今詞藻』下]]1頁</ref>。 ** 中野欽治 - 中野平弥の孫(中野本家を相続)<ref>[[#showajinbutsu|『昭和新潟人物誌』]]62-63頁</ref>、新潟県多額納税者<ref>[[#koshin9|『人事興信録』第9版]]ナ58頁</ref>。 ** 上原堅次 - 中野平弥の孫(上原有三の長男)<ref>[[#showajinbutsu|『昭和新潟人物誌』]]68-69頁</ref>。 ** 田代与三久 - 福島県[[耶麻郡]][[山都村]]の実業家<ref>[[#koshin9|『人事興信録』第9版]]タ15頁</ref>、元奥川水力電気専務<ref name="tohoku-207"/>。 ** 市川辰雄 - [[南蒲原郡]][[加茂市|加茂町]]の農家・新潟県多額納税者<ref>[[#koshin9|『人事興信録』第9版]]イ208頁</ref>。 ** 中野孝次 - [[中蒲原郡]][[金津村 (新潟県)|金津村]]の石油採掘業[[中野忠太郎]]の子<ref>[[#koshin9|『人事興信録』第9版]]ナ60頁</ref>。 * '''[[監査役]]''' ** 浅川文吉 - 新潟市の金物商<ref>[[#shinshi35|『日本紳士録』第35版]]新潟1頁</ref> ** 安藤文平 - 新潟市の実業家<ref>[[#showajinbutsu|『昭和新潟人物誌』]]93頁</ref>。 ** 志賀五作 - 新潟市の呉服商<ref>[[#shinshi35|『日本紳士録』第35版]]新潟7頁</ref>。 ** 佐野良太郎 - 北蒲原郡[[中浦村 (新潟県)|中浦村]]の人物<ref name="kanpo19210425"/>。 ** 斎藤徹 - 新潟市の人物<ref name="kanpo19210425"/>。 ** 古島安二 - 東邦電力社員(社長付)<ref>[[#nenkan14|『電気年鑑』昭和4年]]電気事業一覧212頁</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == === 企業史 === * {{Cite book|和書|editor=東京電力 |editor-link=東京電力ホールディングス |title=関東の電気事業と東京電力 |publisher=東京電力 |year=2002 |ref=kanto }} * {{Cite book|和書|editor=東邦電力史編纂委員会 |title=東邦電力史 |publisher=東邦電力史刊行会 |year=1962 |id={{NDLJP|2500729}} |ref=toho }} * {{Cite book|和書|editor=東北電力 |editor-link=東北電力 |title=東北地方電気事業史 |publisher=東北電力 |year=1960 |id={{NDLJP|2491854}} |ref=tohoku }} * {{Cite book|和書|editor=新潟交通二十年史編纂室 |title=新潟交通20年史 |publisher=新潟交通 |year=1966 |id={{NDLJP|2517951}} |ref=kotsu }} * {{Cite book|和書|editor=新潟電気 |title=新潟電気株式会社三十年誌 |publisher=新潟電気 |year=1928 |ref=niiden }} * {{Cite book|和書|editor=新潟電力 |title=新潟電力株式会社三十年史 |publisher=新潟電力 |year=1937 |id={{NDLJP|1222181}} |ref=nep }} * {{Cite book|和書|editor=日東紡績「回顧参拾年」編集委員会 |title=回顧参拾年 |publisher=日東紡績 |year=1953 |id={{NDLJP|2475319}} |ref=nitto }} * {{Cite book|和書|editor=日本発送電解散記念事業委員会 |title=日本発送電社史 |issue=業務編 |publisher=日本発送電解散記念事業委員会 |year=1955 |id={{NDLJP|2463192}} |ref=hassoden3 }} * {{Cite book|和書|editor=北越製紙百年史編纂委員会 |title=北越製紙百年史 |publisher=[[北越コーポレーション|北越製紙]] |year=2007 |ref=paper }} * {{Cite book|和書|editor=北陸瓦斯社史編纂室 |title=北陸瓦斯五十五年史 |publisher=[[北陸ガス|北陸瓦斯]] |year=1968 |id={{NDLJP|3443303}} |ref=gas }} === 官庁資料 === * {{Cite book|和書|editor=公益事業委員会 |title=新電力事業銘鑑 |publisher=[[日刊工業新聞社]] |year=1951 |id={{NDLJP|2458668}} |ref=shinden }} * {{Cite book|和書|author= |title=電気事業要覧 |issue=明治41年 |publisher=[[逓信省]]電気局 |year=1909 |id={{NDLJP|805421}} |ref=yoran2 }} * {{Cite book|和書|author= |title=電気事業要覧 |issue=明治43年 |publisher=逓信省電気局 |year=1911 |id={{NDLJP|805423}} |ref=yoran4 }} * {{Cite book|和書|editor=逓信省電気局 |title=電気事業要覧 |issue=明治44年 |publisher=逓信協会 |year=1912 |id={{NDLJP|974998}} |ref=yoran5 }} * {{Cite book|和書|editor=逓信省電気局 |title=電気事業要覧 |issue=第7回 |publisher=逓信協会 |year=1915 |id={{NDLJP|975000}} |ref=yoran7 }} * {{Cite book|和書|editor=逓信省電気局 |title=電気事業要覧 |issue=第12回 |publisher=逓信協会 |year=1920 |id={{NDLJP|975005}} |ref=yoran12 }} * {{Cite book|和書|editor=逓信省電気局 |title=電気事業要覧 |issue=第21回 |publisher=電気協会 |year=1930 |id={{NDLJP|1077038}} |ref=yoran21 }} * {{Cite book|和書|editor=逓信省電気局 |title=許可水力地点要覧 |publisher=逓信省電気局 |year=1931 |id={{NDLJP|1187651}} |ref=hydro1931 }} === 自治体資料 === * {{Cite book|和書|editor=新発田市史編纂委員会 |title=新発田市史 |issue=下巻 |publisher=新発田市 |year=1981 |id={{NDLJP|9538561}} |ref=shibata }} * {{Cite book|和書|editor=水原町史編さん委員会 |title=水原町編年史 |issue=第三巻 |publisher=水原町 |year=1982 |ref=suibara }} * {{Cite book|和書|editor=津南町史編さん委員会 |title=津南町史 |issue=通史編下巻 |publisher=[[津南町]]役場 |year=1985 |id={{NDLJP|9539829}} |ref=tsunan }} * {{Cite book|和書|editor=長岡市 |title=長岡市史 |issue=通史編下巻 |publisher=長岡市 |year=1996 |ref=nagaoka }} * {{Cite book|和書|editor=中条町史編さん委員会 |title=中条町史 |issue=通史編 |publisher=中条町 |year=2004 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第61独立海軍歩兵旅団 (ロシア海軍)
第61独立海軍歩兵旅団(だい61どくりつかいぐんほへいりょだん、ロシア語: 61-я отдельная бригада морской пехоты)は、ロシア海軍の旅団。北方艦隊隷下。 1943年5月5日、第二次世界大戦の影響に伴い、赤軍(現ソ連地上軍)第45狙撃師団隷下の第61狙撃連隊としてロシア・ソビエト連邦社会主義共和国(現ロシア)で創設された。 1944年9月から、独ソ戦に投入され、枢軸国に勝利し、赤旗勲章、名誉称号「キルケネス」を授与された。 1957年5月、機械化に伴い、第61自動車化狙撃連隊に改編された。 1966年5月、ソ連海軍に編入し、北方艦隊隷下に配属され、第61独立海軍歩兵連隊に改編された。 1979年11月、部隊増強に伴い、第61独立海軍歩兵旅団に改編された。 1992年12月26日、ソビエト連邦の崩壊とロシア連邦の独立に伴い、創設されたロシア海軍に編入した。 1994年12月から、第一次チェチェン紛争に投入され、チェチェン・イチケリア共和国グロズヌイを占領した。 1999年9月から、第二次チェチェン紛争に投入された。 2009年12月、部隊縮小に伴い、第61独立海軍歩兵連隊に改編され、2014年12月に部隊増強に伴い、第61独立海軍歩兵旅団に改編された。 2015年9月から、シリア内戦に投入された。 2022年3月上旬から、ロシアのウクライナ侵攻では、北東部ハルキウ州チュフイフ地区に配置され、第6諸兵科連合軍、第41諸兵科連合軍、バルチック艦隊と合同で攻勢を開始したが、ドミトリー・ソフロノフ副旅団長が戦死してハルキウで撃退された。 2022年5月下旬、東部ドネツィク州ポクロウシク地区に再配置され、第1軍団と合同で攻勢を開始したが、ルスラン・シリン参謀長が戦死してアウディーイウカで撃退された。 2022年6月上旬、東部ルハーンシク州セヴェロドネツィク地区で攻勢を開始し、7月上旬にリシチャンシクを占領してロシア軍はルハーンシク州全域を占領した。 2023年2月上旬、南部ヘルソン州ヘルソン地区に配備され、ウクライナ軍の渡河作戦をキンバーン砂州、アントニフスキー橋で防御している。
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第61独立海軍歩兵旅団は、ロシア海軍の旅団。北方艦隊隷下。
{{軍隊資料 |名称 = 第61独立海軍歩兵旅団 |画像 = [[ファイル:61st_kirkenes_marine_brigade_patch.png|150px]] |画像説明 = |創設 = 1943年5月5日 |廃止 = |再編成 = |再廃止 = |国籍 = {{SSR}}<br />→{{RUS}} |所属 = {{flagicon image|Naval ensign of Russia.svg}} [[ロシア海軍]] |規模 = [[旅団]] |兵科 = [[ロシア海軍歩兵|海軍歩兵]] |兵種 = [[水陸両用作戦]] |人員 = |所在地 = [[ムルマンスク州]][[スプートニク]] |編成地 = |通称号 = |愛称 = [[キルケネス]]<br>[[ホッキョクグマ|シロクマ]] |標語 = |上級部隊 = [[北方艦隊]] |最終上級部隊 = |担当地域 = |最終位置 = |主な戦歴 = [[第二次世界大戦]]<br />[[第一次チェチェン紛争]]<br />[[第二次チェチェン紛争]]<br />[[シリア内戦]]<br />[[ナゴルノ・カラバフ戦争]]<br />[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアのウクライナ侵攻]] |司令官 = キリル・ニクリン[[大佐]] }} '''第61独立海軍歩兵旅団'''(だい61どくりつかいぐんほへいりょだん、{{Lang-ru|'''61-я отдельная бригада морской пехоты'''}})は、[[ロシア海軍]]の[[旅団]]。[[北方艦隊]]隷下。 == 概要 == === 第二次世界大戦 === 1943年5月5日、[[第二次世界大戦]]の影響に伴い、[[赤軍]](現[[ソ連地上軍]])[[第200独立親衛自動車化狙撃旅団 (ロシア陸軍)|第45狙撃師団]]隷下の'''第61狙撃連隊'''として[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]](現[[ロシア]])で創設された<ref name="NZ">[https://nvo.ng.ru/wars/2022-06-23/6_1194_fleet.html От Карелии до Кавказа, от Якутии до Донбасса] ネザヴィシマヤ・ガゼータ</ref>。 1944年9月から、[[独ソ戦]]に投入され、[[カレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国]](現[[カレリア共和国]])、[[ノルウェー]]を転戦して[[枢軸国]]に勝利し、[[赤旗勲章]]、名誉称号「[[キルケネス]]」を授与された<ref name="NZ"/>。 1945年9月、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国[[ムルマンスク州]]に移駐した。 1957年5月、[[機械化]]に伴い、'''第61自動車化狙撃連隊'''に改編された<ref name="TL">[https://www.ww2.dk/new/navy/61obrmp.htm 第61独立海軍歩兵旅団] The Luftwaffe, 1933-45</ref>。 === ソ連海軍 === 1966年5月、[[ソ連海軍]]に編入し、[[北方艦隊]]隷下に配属され、'''第61独立海軍歩兵連隊'''に改編された<ref name="TL"/>。 1979年11月、部隊増強に伴い、'''第61独立海軍歩兵旅団'''に改編された<ref name="TL"/>。 === ロシア海軍 === {{seealso|グロズヌイの戦い (1994年 - 1995年)}} 1992年12月26日、[[ソビエト連邦の崩壊]]と[[ロシア連邦]]の独立に伴い、創設された[[ロシア海軍]]に編入した。 1994年12月から、[[第一次チェチェン紛争]]に投入され、[[チェチェン・イチケリア共和国]](現[[チェチェン共和国]])[[グロズヌイ]]を占領した<ref name="NZ"/>。 1999年9月から、[[第二次チェチェン紛争]]に投入された<ref name="NZ"/>。 2009年12月、部隊縮小に伴い、'''第61独立海軍歩兵連隊'''に改編され、2014年12月に部隊増強に伴い、'''第61独立海軍歩兵旅団'''に改編された。 2015年9月から、[[シリア内戦]]に投入され、[[シリア軍]]を援護した<ref name="NZ"/>。 2021年12月から、第876独立空中強襲大隊が平和維持軍として[[ナゴルノ・カラバフ]]に駐留した<ref name="NZ"/>。 === ロシアのウクライナ侵攻 === ==== 北東部・ハルキウ戦線 ==== {{seealso|ウクライナ北東部攻勢|ハルキウの戦い (2022年)|イジュームの戦い (2022年)}} 2022年3月上旬から、[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアのウクライナ侵攻]]では、北東部[[ハルキウ州]][[チュフイフ地区]]に配置され、[[第6諸兵科連合軍 (ロシア陸軍)|第6諸兵科連合軍]]、[[第41諸兵科連合軍 (ロシア陸軍)|第41諸兵科連合軍]]、[[バルチック艦隊]]と合同で攻勢を開始したが、ドミトリー・ソフロノフ副旅団長が戦死して[[ハルキウ]]で撃退された<ref>[https://www.newsweek.com/ukraine-russia-recapture-chuhuiv-kharkiv-region-armed-forces-claim-facebook-1685356 Ukraine Recaptures City of Chuhuiv, Kills Top Russian Commanders: Officials] ニューズウィーク</ref><ref>[https://www.ukrinform.jp/rubric-ato/3474274-roshia-junijumu-zhan-xiannimiri-zi-zou-po-ji-pao-tou-ruge-deno-zhan-kuang-bao-gaoukuraina-jun-can-mou-ben-bu.html ロシア軍、イジューム戦線に240ミリ自走迫撃砲投入 各地の戦況報告=ウクライナ軍参謀本部] ウクルインフォルム</ref><ref>[https://rt.rbc.ru/tatarstan/09/03/2022/622865d39a7947516c292ba1 Морпех из Татарстана погиб во время спецоперации на УкраинеПодробнее на РБК] 今日のロシア</ref>。 ==== 東部・アウディーイウカ戦線 ==== {{seealso|ウクライナ東部攻勢|アウディーイウカの戦い (2022年)}} 2022年5月下旬、東部[[ドネツィク州]][[ポクロウシク]]地区に再配置され、[[第1軍団 (ロシア陸軍)|第1軍団]]と合同で攻勢を開始したが、ルスラン・シリン参謀長が戦死して[[アウディーイウカ (ドネーツィク州)|アウディーイウカ]]で撃退された<ref name="NZ"/><ref>[https://www.amur.life/news/2022/09/06/v-dvuh-selah-amurskoy-oblasti-otkryli-memorialnye-doski-v-pamyat-o-pogibshih-v-specoperacii-amurchanah В двух селах Амурской области открыли мемориальные доски в память о погибших в спецоперации амурчанах] アムール州公式サイト</ref>。 ==== 東部・セベロドネツク戦線 ==== {{seealso|リシチャンシクの戦い}} 2022年6月上旬、東部[[ルハーンシク州]][[セヴェロドネツィク地区]]で攻勢を開始し、7月上旬に[[リシチャンシク]]を占領してロシア軍はルハーンシク州全域を占領した<ref>[https://xxtomcooperxx.substack.com/p/ukraine-war-6-7-june-2022-30da90206bfe Ukraine War, 6–7 June 2022] トム・クーパー</ref><ref>[https://ria.ru/20230730/flot-1886948645.html Особая роль: кто достает ВСУ даже за тысячи километров от фронта] RIAノーボスチ</ref>。 ==== 南部・ドニエプル川東岸戦線 ==== 2023年2月上旬、南部[[ヘルソン州]][[ヘルソン]]地区に配備され、ウクライナ軍の渡河作戦をキンバーン砂州、[[アントニフスキー橋]]で防御している<ref>[https://defence.org.ua/dailybrief/2023-02-07/ CDS Daily brief (06.02.23) | CDS comments on key events] 防衛戦略センター</ref><ref>[https://www.understandingwar.org/backgrounder/russian-offensive-campaign-assessment-july-1-2023 Russian Offensive Campaign Assessment, July 1, 2023] 戦争研究所</ref>。 == 編制 == * 旅団司令部([[スプートニク]]) * 第874独立海軍歩兵大隊 * 第876独立空中強襲大隊 * 第125独立戦車大隊 * 第1591独立自走砲大隊 * 第1611独立自走砲大隊 * 第1617独立対空ミサイル大隊 * 第886独立偵察大隊 * 第180独立工兵大隊 * 第75海軍病院 * 第317独立海軍歩兵大隊(予備役) * 第318独立海軍歩兵大隊(予備役) == ギャラリー == <gallery mode="packed" heights="180"> ファイル:Soviet_naval_infantrymen_DN-SN-86-00829.jpg| ファイル:Alabino21042017-01.jpg| ファイル:AmphibiousAssault2015-03.jpg| ファイル:AmphibiousAssault2015-07.jpg| ファイル:MP_SF_1200_54.jpg| </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://mptaifun.ru/blog/61_ja_otdelnaja_kirkinesskaja_krasnoznamennaja_brigada_morskoj_pekhoty_severnogo_flota_pos_sputnik/2023-05-05-67 ロシア海軍歩兵公式サイト] {{DEFAULTSORT:061とくりつかいくんほへいりよたん}} [[Category:ロシア海軍の旅団|ほへいりよたん061]] [[Category:ソビエト連邦の部隊と編成|かいくんほへいりよたん61]] [[Category:赤旗勲章受章者]] [[Category:ムルマンスク州]]
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ナイモノネダリ (Da-iCEの曲)
『ナイモノネダリ』は、2023年10月20日にavex traxからリリースされたDa-iCEの配信限定シングル。 10月20日よりテレビ東京ほかで放送されるドラマ「ハイエナ」の主題歌。オーディオビデオが同日21時15分にYouTubeにてプレミア公開された。
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『ナイモノネダリ』は、2023年10月20日にavex traxからリリースされたDa-iCEの配信限定シングル。
{{Infobox Song | Name = ナイモノネダリ | Type = | Artist = [[Da-iCE]] | from Album = | Released = [[2023年]][[10月20日]] | Format = [[音楽配信|配信限定]][[シングル]] | Genre = [[J-POP]] | Length = | Writer = [[花村想太]]<br />[[MEG.ME]] | Composer = 花村想太<br />MEG.ME<br />[[Louis]] | Label = [[avex trax]] | Producer = | Chart position = | Tracks = | prev= | prev_no = | next= | next_no = | EAN = | Misc = {{Extra chronology 2 | Artist = [[Da-iCE]] 配信限定シングル | Type = song | Last single = [[Funky Jumping]]<br />([[2023年]]) | This single = '''ナイモノネダリ'''<br />(2023年) | Next single = }} {{External music video|1={{YouTube|M4a5sWgpA3g|ナイモノネダリ (Performance Video)}}<br />{{YouTube| bw4NKGCfacA|ナイモノネダリ (Official Audio)}}<br />{{YouTube| 9_ljySZAWLk|ナイモノネダリ (Official Dance Practice)}}|Type=Song}} }} 『'''ナイモノネダリ'''』は、[[2023年]][[10月20日]]に[[avex trax]]からリリースされた[[Da-iCE]]の配信限定シングル<ref>{{cite news |url=https://da-ice.jp/discography/detail.php?id=1020015 | title=配信限定『ナイモノネダリ』 | newspaper=Da-iCE | date=2023-10-06 | accessdate=2023-12-11}}</ref>。 == 概要 == 10月20日より[[テレビ東京]]ほかで放送されるドラマ「[[ハイエナ (テレビドラマ)|ハイエナ]]」の主題歌<ref>{{Cite web |title=Da-iCEのワイルドでマイルドな新曲、篠原涼子×山崎育三郎の弁護士ドラマ主題歌に決定(花村想太コメントあり) |url=https://natalie.mu/music/news/543967 |website=音楽ナタリー |access-date=2023-12-11 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。オーディオビデオが同日21時15分にYouTubeにてプレミア公開された<ref>{{Cite web |title=Da-iCE、新曲「ナイモノネダリ」オフィシャルオーディオのYouTubeプレミア公開が決定! - モデルプレス |url=https://mdpr.jp/music/detail/4009785 |website=モデルプレス - ライフスタイル・ファッションエンタメニュース |date=2021-10-18 |access-date=2023-12-11 |language=ja}}</ref>。 ==脚注== {{脚注ヘルプ}} ===出典=== {{Reflist}} {{Da-iCE}} {{Song-stub}} {{デフォルトソート:ないものねたり}} [[Category:Da-iCEの楽曲]] [[Category:2023年のシングル]] [[Category:テレビ東京の主題歌]] [[Category:エイベックス・グループの楽曲]]
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連邦社会再適応センター No.1
連邦社会再適応センターNo.1 (れんぽうしゃかいさいてきおうセンター No.1、スペイン語: Centro Federation de Readaptación Social Número 1 "Altiplano" ) は、メキシコ合衆国にある最重要警備の刑務所。 連邦社会再適応センターNo.1は1988年に第53代目メキシコ合衆国大統領のカルロス・サリナス・デ・ゴルタリ政権下に建設が始まり、2年後の1990年に完成した。最初の囚人は1991年に連邦社会再適応センターNo.1に収監された。 2015年7月11日に収容者の一人にしてメキシコ最大の麻薬犯罪組織であるシナロア・カルテルのリーダーで麻薬王の異名を持つホアキン・グスマン(通称:エル・チャポ)が創設以来初の脱獄を果たした。 ホアキン・グスマンが最後に監視カメラで目撃されたのは、20時52分、独房のシャワーエリア付近である。シャワーエリアは彼の監房の中で唯一監視カメラを通して見えなかった部分であったことがのちに判明している。刑務官が監視ビデオに25分間彼の姿を映さなかった後、刑務官が捜索に向かった。彼らが彼の独房に到着したとき、すでにホアキン・グスマンの姿は独房のどこにもなかった。刑務官はホアキン・グスマンがシャワーエリアから1.5キロ離れたサンタ・フアニタ地区の住宅建設現場につながるトンネルを通って逃走したことを確認した。 建物は逮捕した容疑者・受刑者が所属している犯罪組織・麻薬カルテルの襲撃を想定して、 1メートル (3.3 フィート) まで強化された壁に囲まれている。また、連邦社会再適応センターNo.1の上空はメキシコ政府によって飛行禁止区域に指定されている他に、受刑者と屋外の協力者との通信を妨げるため、刑務所から10キロ以内では携帯電話の通信が制限されている。麻薬組織による連邦社会再適応センターNo.1襲撃に対処するために、 装甲兵員輸送車が施設の近くに配備・警備している。 連邦社会再適応センターNo.1に収監されている収容者の多くはメキシコ国内で活動する犯罪組織・麻薬カルテルの最高幹部や幹部である。
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連邦社会再適応センターNo.1 (れんぽうしゃかいさいてきおうセンター No.1、スペイン語: Centro Federation de Readaptación Social Número 1 "Altiplano" ) は、メキシコ合衆国にある最重要警備の刑務所。
'''連邦社会再適応センターNo.1''' (れんぽうしゃかいさいてきおうセンター No.1、[[スペイン語]]: ''Centro Federation de Readaptación Social Número 1 "Altiplano"'' ) は、[[メキシコ|メキシコ合衆国]]にある最重要警備の[[刑務所]]。 {{Infobox prison | prison_name = 連邦社会再適応センターNo.1 | image = | caption = | location = {{MEX}}<br/>[[メヒコ州]]、[[アルモロヤ・デ・フアレス]]サンタ・フアナ・セントロ地区 | coordinates = | status = 運用中 | classification = 最重要警備 | capacity = | population = | populationdate = | opened = [[1990年]] | closed = | managed_by = [[メキシコ公安省]] | director = | governor = | jurisdiction = | rationale = | prisoners = [[ホアキン・グスマン]]<br/>等 }} ==歴史== 連邦社会再適応センターNo.1は[[1988年]]に第53代目[[メキシコの大統領|メキシコ合衆国大統領]]のカルロス・サリナス・デ・ゴルタリ政権下に建設が始まり、2年後の[[1990年]]に完成した<ref>{{Cite web |url=http://www.ssp.gob.mx/buffer/BEA/ssp/contenido/d359/v9/centros%20federales.htm |title=連邦センター |access-date=2023年12月11日}}</ref>。最初の囚人は[[1991年]]に連邦社会再適応センターNo.1に収監された。 ===2015年7月11日のホアキン・グスマンの脱獄=== 2015年7月11日に収容者の一人にしてメキシコ最大の麻薬犯罪組織である[[シナロア・カルテル]]のリーダーで麻薬王の異名を持つ[[ホアキン・グスマン]](通称:エル・チャポ)が創設以来初の[[脱獄]]を果たした。 ホアキン・グスマンが最後に[[監視カメラ]]で目撃されたのは、20時52分、独房のシャワーエリア付近である。シャワーエリアは彼の監房の中で唯一監視カメラを通して見えなかった部分であったことがのちに判明している。刑務官が監視ビデオに25分間彼の姿を映さなかった後、刑務官が捜索に向かった。彼らが彼の独房に到着したとき、すでにホアキン・グスマンの姿は独房のどこにもなかった。刑務官はホアキン・グスマンがシャワーエリアから1.5キロ離れたサンタ・フアニタ地区の住宅建設現場につながるトンネルを通って逃走したことを確認した<ref>{{Cite web |title=Escapó 'Chapo' por túnel de 1.5 km |url=https://www.reforma.com/aplicaciones/articulo/default.aspx?id=589370 |website=www.reforma.com |access-date=2023-12-11 |language=es}}</ref>。 ==建物== 建物は逮捕した容疑者・受刑者が所属している[[組織犯罪|犯罪組織]]・[[麻薬カルテル]]の襲撃を想定して、 1メートル (3.3 フィート) まで強化された壁に囲まれている。また、連邦社会再適応センターNo.1の上空は[[メキシコ政府]]によって[[飛行禁止空域|飛行禁止区域]]に指定されている他に、受刑者と屋外の協力者との通信を妨げるため、刑務所から10キロ以内では携帯電話の通信が制限されている。麻薬組織による連邦社会再適応センターNo.1襲撃に対処するために、 [[装甲兵員輸送車]]が施設の近くに配備・警備している。 ==主要な収容者== 連邦社会再適応センターNo.1に収監されている収容者の多くはメキシコ国内で活動する犯罪組織・麻薬カルテルの最高幹部や幹部である。 ===グアダラハラ・カルテル=== * [[ミゲル・アンヘル・フェリックス・ガヤルド]] - 現代の麻薬カルテルの基盤を築いた人物と知られている。[[グアダラハラ・カルテル]]の創設者で元リーダー。 ===シナロア・カルテル=== * [[エクトル・ルイス・パルマ・サラザール]] - メキシコ最大の麻薬犯罪組織[[シナロア・カルテル]]の元リーダー * [[ホアキン・グスマン]](エル・チャポ) - メキシコ最大の犯罪組織[[シナロア・カルテル]]の創設者にして元リーダー。2017年にアメリカに移送され、現在は仮釈放なしの終身刑で[[ADXフローレンス刑務所]]に収監中。 * [[オビディオ・グスマン]] - [[シナロア・カルテル]]の幹部であり、ホアキン・グスマン(エル・チャポ)の息子の一人。2023年にアメリカに移送される。 ===ロス・セタス=== * [[ミゲル・トレビーニョ・モラレス]] - [[ロス・セタス]]の最高幹部。現在は[[連邦社会再適応センターNo.17]]に収監中 * [[オマール・トレビーニョ・モラレス]] - [[ロス・セタス]]の最高幹部。 ===テンプル騎士団カルテル=== * [[ディオニシオ・ロヤ・プランカルテ]] - [[テンプル騎士団カルテル]]の元リーダー。 * [[セルバンド・ゴメス・マルティネス]] - [[テンプル騎士団カルテル]]の元リーダー。 ===ハリスコ新世代カルテル=== * [[セルバンド・ゴメス・マルティネス]] - [[ハリスコ新世代カルテル]]の最高幹部(副リーダー)。ハリスコ新世代カルテルのリーダーである[[ネメシオ・オセゲラ・セルバンテス]](エル・メンチョ)の義理の兄。 ==脚注== ===出典=== <references /> ==関連項目== *[[刑務所]] *[[メキシコ麻薬戦争]] == 外部リンク == * "[http://www.ssp.gob.mx/portalWebApp/ShowBinary?nodeId=/BEA+Repository/308060//archivo CENTROS FEDERALES DE READAPTACIÓN SOCIAL]." ([https://web.archive.org/web/20110722225526/http://www.ssp.gob.mx/portalWebApp/ShowBinary?nodeId=/BEA+Repository/308060//archivo Archive]) [[Secretariat of Public Security (Mexico)|Secretariat of Public Security]]. * "[https://web.archive.org/web/20110722224812/http://www.cofemertramites.gob.mx/intranet/datos_vent.asp?vent=1231143 Centro Federal de Readaptación Social N°1 "Altiplano"]" COFEMER. {{Authority control}}{{DEFAULTSORT:れんほうしやかいさいてきおうせんたあ1}} [[Category:メヒコ州]] [[Category:メキシコの刑務所]] [[Category:1990年開業の施設]]
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川口朋保
川口 朋保(かわぐち ともやす、1971年9月14日 - )は、日本の元野球選手(内野手)、野球指導者である。 和歌山県和歌山市出身。和歌山県立桐蔭高等学校から明治大学に進学。3年春にベンチ入りを果たすもレギュラー獲得には至らず、代打要員での出場が主であった。1994年に三菱自動車工業に入社し、三菱自動車岡崎でプレーした。 2000年10月、監督の堀井哲也よりマネジャー就任の打診を受けたことから現役を引退。また2002年より2年間コーチを務めた。 2004年、三菱自動車工業によるリコール隠し事件の影響で、野球部がシーズン途中に活動を停止。監督の堀井や全選手の3分の2が移籍や引退を決めた。存続が危ぶまれたものの、翌年に活動を再開し、川口が監督に就任。同年の都市対抗野球大会への出場を果たすなど、2009年に監督を退任するまでの5年間で4回の都市対抗大会出場に導いた。 2023年10月、石井章夫の後任として社会人野球日本代表監督に就任した。任期は2026年のアジア競技大会まで。2023年の第30回アジア野球選手権大会では、6戦全勝で2大会ぶりの優勝を果たした。
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川口 朋保は、日本の元野球選手(内野手)、野球指導者である。
{{Infobox baseball player | 選手名 = 川口 朋保 | 本名 = | 英語表記 = | 所属球団 = 社会人野球日本代表 | 役職 = 監督 | 背番号 = 78 | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | 国籍 = {{JPN}} | 出身地 = [[和歌山県]][[和歌山市]] | 生年月日 = {{生年月日と年齢|1971|9|14}}<!-- 亡くなった場合はこちらを使用。{{生年月日と年齢|生年|月|日|no}} --> | 没年月日 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|生年|月|日|没年|月|日}} --> | 身長 = | 体重 = | 利き腕 = | 打席 = | 守備位置 = [[内野手]] | プロ入り年度 = | ドラフト順位 = | 初出場 = | 最終出場 = | 年俸 = | 経歴 = * [[和歌山県立桐蔭高等学校]] * [[明治大学硬式野球部|明治大学]] * [[三菱自動車岡崎硬式野球部|三菱自動車岡崎]] | 派遣歴 = | 経歴補足題 = 監督歴 | 経歴補足 = * 三菱自動車岡崎 * [[野球日本代表|社会人野球日本代表]] | 代表チーム = | 五輪 = | WBC = | プレミア12 = | 選出国 = | 選出年 = | 得票率 = | 選出方法 = }} '''川口 朋保'''(かわぐち ともやす、[[1971年]][[9月14日]] - )は、[[日本]]の元[[野球選手]]([[内野手]])、[[野球]]指導者である。 == 経歴 == [[和歌山県]][[和歌山市]]出身。[[和歌山県立桐蔭高等学校]]から[[明治大学硬式野球部|明治大学]]に進学。3年春にベンチ入りを果たすもレギュラー獲得には至らず、[[代打]]要員での出場が主であった<ref name=shukan_20231211>{{Cite news|title=波乱万丈の野球人生 川口朋保監督(侍ジャパン社会人代表)が歩んだ白球の道|url=https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=022-20231211-03|newspaper=週間ベースボールONLINE|date=2023-12-06|accessdate=2023-12-11}}</ref>。1994年に[[三菱自動車工業]]に入社し、[[三菱自動車岡崎硬式野球部|三菱自動車岡崎]]でプレーした<ref>{{Cite web|title=日本代表新監督に川口朋保氏 初の実戦は12月のアジア選手権 社会人野球NOW vol.8|url=https://www.jaba.or.jp/topics/20231022NOW/|website=日本野球連盟公式サイト|date=2023-10-22|accessdate=2023-12-11}}</ref>。 2000年10月、監督の[[堀井哲也]]よりマネジャー就任の打診を受けたことから現役を引退。また2002年より2年間コーチを務めた<ref name=shukan_20231211 />。 2004年、[[三菱リコール隠し|三菱自動車工業によるリコール隠し事件]]の影響で、野球部がシーズン途中に活動を停止。監督の堀井や全選手の3分の2が移籍や引退を決めた。存続が危ぶまれたものの、翌年に活動を再開し、川口が監督に就任。[[第76回都市対抗野球大会|同年の都市対抗野球大会]]への出場を果たすなど、2009年に監督を退任するまでの5年間で4回の[[都市対抗野球大会|都市対抗大会]]出場に導いた<ref>{{Cite news|title=東芝、野球部を存続(下) 苦境背負い再スタート|url=https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-25414.html|newspaper=カナロコ|date=2018-02-03|accessdate=2023-12-11}}</ref><ref>{{Cite news|title=「挑戦できる組織」目指す ~ 社会人野球 日本代表監督 川口 朋保さん|url=https://www.nwn.jp/feature/231202ima_kawaguchi_tomoyasu/|newspaper=ニュース和歌山|date=2022-12-02|accessdate=2023-12-11}}</ref>。 2023年10月、[[石井章夫]]の後任として[[野球日本代表|社会人野球日本代表]]監督に就任した。任期は2026年の[[2026年アジア競技大会|アジア競技大会]]まで<ref>{{Cite web|title=野球日本代表「侍ジャパン」社会人代表の新監督について|url=https://www.japan-baseball.jp/jp/news/press/20231020_1.html|website=野球日本代表 侍ジャパンオフィシャルサイト|date=2023-10-20|accessdate=2023-12-11}}</ref>。2023年の[[2023年アジア野球選手権大会|第30回アジア野球選手権大会]]では、6戦全勝で2大会ぶりの優勝を果たした<ref>{{Cite web|title=3投手による完封リレーや向山基生の決勝打で2大会ぶり20回目のアジア選手権制覇|url=https://www.japan-baseball.jp/jp/news/press/20231210_1.html|website=野球日本代表 侍ジャパンオフィシャルサイト|date=2023-12-10|accessdate=2023-12-11}}</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} {{デフォルトソート:かわくち ともやす}} [[Category:日本のアマチュア野球選手]] [[Category:和歌山県立桐蔭高等学校出身の野球選手]] [[Category:明治大学野球部の選手]] [[Category:三菱自動車岡崎硬式野球部の選手]] [[Category:日本の野球監督]] [[Category:社会人野球指導者]] [[Category:和歌山県出身のスポーツ選手]] [[Category:1971年生]] [[Category:存命人物]]
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ヘンリー・パーシヴァル (第5代エグモント伯爵)
第5代エグモント伯爵ヘンリー・フレデリック・ジョン・ジェームズ・パーシヴァル(英語: Henry Frederick John James Perceval, 5th Earl of Egmont、1796年1月3日 – 1841年12月23日)は、イギリスの貴族。1822年から1835年までパーシヴァル子爵の儀礼称号を使用した。父の代より火の車状態の家計を引き継ぎ、抜け出せないまま海外逃亡や仮名での生活を余儀なくされ、アルコール依存になった。 第4代エグモント伯爵ジョン・パーシヴァルと妻ブリジット(1826年1月24日没、グリン・ウィン(英語版)の娘)の息子として、1796年1月3日に生まれた。1814年9月21日にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学、1818年にM.A.の学位を修得した。 1822年に父がエグモント伯爵位を継承した時点で家計が火の車であり、一例としてコーク県チャーチタウン(英語版)には30万ポンド(2022年時点の£32,450,107と同等)の債務がかかっていた。父は貴族院議員として訴追から逃れたが、まだ爵位を継承していないパーシヴァル子爵にはそれができず、債権者から逃れるために度々海外に向かった。このような状況にパーシヴァル子爵はアルコール依存になった。 『英国議会史(英語版)』はパーシヴァル子爵が債権者から逃れるために議会入りを目指したと考察している。1824年3月にペンリン選挙区(英語版)で空席が生じたとき、パーシヴァル子爵は現地の代表を通して立候補を表明したが、遅すぎたため多くの有権者がすでにほかの候補に票を投じる約束をしており、子爵は立候補を取り下げた。1826年3月、イースト・ルー選挙区(英語版)選出の庶民院議員ジョージ・ワトソン=テイラー(英語版)が退任して、議席をパーシヴァル子爵に譲ったが、子爵が実際に就任したかどうかは定かではない。1826年イギリス総選挙で改めてペンリンから出馬したが、ペンリンは有権者への出費が多い選挙区であり、子爵は152票(得票数3位)で落選した。選挙の出費で家計がさらに悪化し、パーシヴァル子爵は1828年に法外追放を宣告され海外に逃亡した。 1828年11月ごろ、パリでルイーズ・マリー・ドルスル(Louise Marie D'Orselet、オルスル伯爵の娘)と結婚した。 1830年イギリス総選挙では子爵の支持を受けたと主張するウィリアム・トマス・ホープ(William Thomas Hope)が立候補を表明したが、すぐに撤退している。 1835年12月31日に父が死去すると、エグモント伯爵位を継承、1836年2月5日に貴族院議員に就任した。以降はラヴェル氏(Mr. Lovell)の仮名でクリーズ氏(Mrs. Cleese)とともにウィルトシャーのバーダーロップ・パーク(英語版)に住んだ。エグモント伯爵はクリーズ氏を自身の姉妹として紹介し、バーダーロップ・パークもクリーズ氏の名義で購入したものだった。アルコール依存は変わらず、酔っぱらっているためクリーズ氏がやむなくエグモント伯爵を閉じ込めておくこともあるとの噂が流れた。1840年にポルトガル王国に移り、クリーズ氏が死去するとイングランドに戻った。 1841年12月23日にメリルボーンのウィッグモア・ストリート(英語版)で死去、チャールトンで埋葬された。息子に先立たれており、従叔父にあたる第3代アーデン男爵ジョージ・ジェームズ・パーシヴァル(英語版)が爵位を継承した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "第5代エグモント伯爵ヘンリー・フレデリック・ジョン・ジェームズ・パーシヴァル(英語: Henry Frederick John James Perceval, 5th Earl of Egmont、1796年1月3日 – 1841年12月23日)は、イギリスの貴族。1822年から1835年までパーシヴァル子爵の儀礼称号を使用した。父の代より火の車状態の家計を引き継ぎ、抜け出せないまま海外逃亡や仮名での生活を余儀なくされ、アルコール依存になった。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "第4代エグモント伯爵ジョン・パーシヴァルと妻ブリジット(1826年1月24日没、グリン・ウィン(英語版)の娘)の息子として、1796年1月3日に生まれた。1814年9月21日にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学、1818年にM.A.の学位を修得した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1822年に父がエグモント伯爵位を継承した時点で家計が火の車であり、一例としてコーク県チャーチタウン(英語版)には30万ポンド(2022年時点の£32,450,107と同等)の債務がかかっていた。父は貴族院議員として訴追から逃れたが、まだ爵位を継承していないパーシヴァル子爵にはそれができず、債権者から逃れるために度々海外に向かった。このような状況にパーシヴァル子爵はアルコール依存になった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "『英国議会史(英語版)』はパーシヴァル子爵が債権者から逃れるために議会入りを目指したと考察している。1824年3月にペンリン選挙区(英語版)で空席が生じたとき、パーシヴァル子爵は現地の代表を通して立候補を表明したが、遅すぎたため多くの有権者がすでにほかの候補に票を投じる約束をしており、子爵は立候補を取り下げた。1826年3月、イースト・ルー選挙区(英語版)選出の庶民院議員ジョージ・ワトソン=テイラー(英語版)が退任して、議席をパーシヴァル子爵に譲ったが、子爵が実際に就任したかどうかは定かではない。1826年イギリス総選挙で改めてペンリンから出馬したが、ペンリンは有権者への出費が多い選挙区であり、子爵は152票(得票数3位)で落選した。選挙の出費で家計がさらに悪化し、パーシヴァル子爵は1828年に法外追放を宣告され海外に逃亡した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1828年11月ごろ、パリでルイーズ・マリー・ドルスル(Louise Marie D'Orselet、オルスル伯爵の娘)と結婚した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1830年イギリス総選挙では子爵の支持を受けたと主張するウィリアム・トマス・ホープ(William Thomas Hope)が立候補を表明したが、すぐに撤退している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1835年12月31日に父が死去すると、エグモント伯爵位を継承、1836年2月5日に貴族院議員に就任した。以降はラヴェル氏(Mr. Lovell)の仮名でクリーズ氏(Mrs. Cleese)とともにウィルトシャーのバーダーロップ・パーク(英語版)に住んだ。エグモント伯爵はクリーズ氏を自身の姉妹として紹介し、バーダーロップ・パークもクリーズ氏の名義で購入したものだった。アルコール依存は変わらず、酔っぱらっているためクリーズ氏がやむなくエグモント伯爵を閉じ込めておくこともあるとの噂が流れた。1840年にポルトガル王国に移り、クリーズ氏が死去するとイングランドに戻った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1841年12月23日にメリルボーンのウィッグモア・ストリート(英語版)で死去、チャールトンで埋葬された。息子に先立たれており、従叔父にあたる第3代アーデン男爵ジョージ・ジェームズ・パーシヴァル(英語版)が爵位を継承した。", "title": "生涯" } ]
第5代エグモント伯爵ヘンリー・フレデリック・ジョン・ジェームズ・パーシヴァルは、イギリスの貴族。1822年から1835年までパーシヴァル子爵の儀礼称号を使用した。父の代より火の車状態の家計を引き継ぎ、抜け出せないまま海外逃亡や仮名での生活を余儀なくされ、アルコール依存になった。
第5代[[エグモント伯爵]]'''ヘンリー・フレデリック・ジョン・ジェームズ・パーシヴァル'''({{lang-en|Henry Frederick John James Perceval, 5th Earl of Egmont}}、[[1796年]][[1月3日]] – [[1841年]][[12月23日]])は、[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]の貴族。1822年から1835年まで'''パーシヴァル子爵'''の[[儀礼称号]]を使用した<ref name="Cokayne" />。父の代より火の車状態の家計を引き継ぎ、抜け出せないまま海外逃亡や仮名での生活を余儀なくされ、アルコール依存になった<ref name="HOP" />。 == 生涯 == [[ジョン・パーシヴァル (第4代エグモント伯爵)|第4代エグモント伯爵ジョン・パーシヴァル]]と妻ブリジット(1826年1月24日没、{{仮リンク|グリン・ウィン|en|Glyn Wynn}}の娘)の息子として、1796年1月3日に生まれた<ref name="Cokayne">{{Cite book2|editor1-last=Cokayne|editor1-first=George Edward|editor1-link=ジョージ・エドワード・コケイン|editor2-last=Gibbs|editor2-first=Vicary|editor2-link=ヴィカリー・ギブス (セント・オールバンズ選挙区の庶民院議員)|editor3-last=Doubleday|editor3-first=Herbert Arthur|year=1926|title=Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Eardley of Spalding to Goojerat)|volume=5|edition=2nd|location=London|publisher=The St. Catherine Press, Ltd.|language=en|page=31|url=https://archive.org/details/CokayneG.E.TheCompletePeerageSecondEditionVolume5EAGO/page/n20}}</ref>。1814年9月21日に[[ケンブリッジ大学]][[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]に入学、1818年に[[文学修士 (オックスフォード、ケンブリッジ、ダブリン)|M.A.]]の学位を修得した<ref name="ACAD">{{Acad|id=PRCL814HF|name=Perceval, the Hon. Henry Frederick John James.}}</ref>。 1822年に父が[[エグモント伯爵]]位を継承した時点で家計が火の車であり、一例として[[コーク県]]{{仮リンク|チャーチタウン (コーク県)|en|Churchtown, County Cork|label=チャーチタウン}}には30万ポンド({{Inflation|UK|300000|1822|2022|fmt=eq|cursign=£}}{{Inflation/fn|UK}})の債務がかかっていた<ref name="HOP">{{HistoryofParliament|1820|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1820-1832/member/perceval-henry-1796-1841|title=PERCEVAL, Henry Frederick John James, Visct. Perceval (1796-1841).|last=Spencer|first=Howard|access-date=11 December 2023}}</ref>。父は[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員として訴追から逃れたが、まだ爵位を継承していないパーシヴァル子爵にはそれができず、債権者から逃れるために度々海外に向かった<ref name="HOP" />。このような状況にパーシヴァル子爵はアルコール依存になった<ref name="HOP" />。 『{{仮リンク|英国議会史|en|The History of Parliament}}』はパーシヴァル子爵が債権者から逃れるために議会入りを目指したと考察している<ref name="HOP" />。1824年3月に{{仮リンク|ペンリン選挙区|en|Penryn (UK Parliament constituency)}}で空席が生じたとき、パーシヴァル子爵は現地の代表を通して立候補を表明したが、遅すぎたため多くの有権者がすでにほかの候補に票を投じる約束をしており、子爵は立候補を取り下げた<ref name="HOPPenryn">{{HistoryofParliament|1820|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1820-1832/constituencies/penryn|title=Penryn|last=Jenkins|first=Terry|access-date=11 December 2023}}</ref>。1826年3月、{{仮リンク|イースト・ルー選挙区|en|East Looe (UK Parliament constituency)}}選出の[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員{{仮リンク|ジョージ・ワトソン=テイラー|en|George Watson-Taylor}}が退任して、議席をパーシヴァル子爵に譲ったが<ref name="HOPEastLooe">{{HistoryofParliament|1820|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1820-1832/constituencies/east-looe|title=East Looe|last=Spencer|first=Howard|last2=Fisher|first2=David R.|access-date=11 December 2023}}</ref>、子爵が実際に就任したかどうかは定かではない<ref name="HOP" />。[[1826年イギリス総選挙]]で改めてペンリンから出馬したが、ペンリンは有権者への出費が多い選挙区であり、子爵は152票(得票数3位)で落選した<ref name="HOP" /><ref name="HOPPenryn" />。選挙の出費で家計がさらに悪化し、パーシヴァル子爵は1828年に[[アウトロー|法外追放]]を宣告され海外に逃亡した<ref name="HOP" />。 1828年11月ごろ、[[パリ]]でルイーズ・マリー・ドルスル({{lang|fr|Louise Marie D'Orselet}}、オルスル伯爵の娘)と結婚した<ref name="Cokayne" />。 *男子(1829年4月1日 [[パリ]] – 1835年と1841年の間) - 夭折<ref name="Cokayne" /> [[1830年イギリス総選挙]]では子爵の支持を受けたと主張するウィリアム・トマス・ホープ({{lang|en|William Thomas Hope}})が立候補を表明したが、すぐに撤退している<ref name="HOPPenryn" />。 1835年12月31日に父が死去すると、エグモント伯爵位を継承、1836年2月5日に[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員に就任した<ref name="Cokayne" />。以降はラヴェル氏({{lang|en|Mr. Lovell}})の仮名でクリーズ氏({{lang|en|Mrs. Cleese}})とともに[[ウィルトシャー]]の{{仮リンク|バーダーロップ・パーク|en|Burderop Park}}に住んだ<ref name="HOP" />。エグモント伯爵はクリーズ氏を自身の姉妹として紹介し、バーダーロップ・パークもクリーズ氏の名義で購入したものだった<ref name="HOP" />。アルコール依存は変わらず、酔っぱらっているためクリーズ氏がやむなくエグモント伯爵を閉じ込めておくこともあるとの噂が流れた<ref name="HOP" />。1840年に[[ポルトガル王国]]に移り、クリーズ氏が死去するとイングランドに戻った<ref name="HOP" />。 1841年12月23日に[[メリルボーン]]の{{仮リンク|ウィッグモア・ストリート|en|Wigmore Street}}で死去、[[チャールトン]]で埋葬された<ref name="Cokayne" />。息子に先立たれており、従叔父にあたる{{仮リンク|ジョージ・パーシヴァル (第6代エグモント伯爵)|en|George Perceval, 6th Earl of Egmont|label=第3代アーデン男爵ジョージ・ジェームズ・パーシヴァル}}が爵位を継承した<ref name="Cokayne" />。 == 出典 == {{Reflist}} {{S-start}} {{S-par|uk1801}} {{S-bef|before={{仮リンク|ジョージ・ワトソン=テイラー|en|George Watson-Taylor}}|before2=トマス・ポッター・マックイーン}} {{S-ttl|title=[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員({{仮リンク|イースト・ルー選挙区|en|East Looe (UK Parliament constituency)}}選出)|years=[[1826年イギリス総選挙|1826年]]|with=トマス・ポッター・マックイーン}} {{S-aft|after={{仮リンク|ウィリアム・ラッセルズ|en|William Lascelles|label=ウィリアム・ラッセルズ閣下}}|after2=ジェームズ・ブラー=エルフィンストン}} {{S-reg|ie}} {{S-bef|before=[[ジョン・パーシヴァル (第4代エグモント伯爵)|ジョン・パーシヴァル]]}} {{S-ttl|title=[[エグモント伯爵]]|years=1835年 – 1841年}} {{S-aft|after={{仮リンク|ジョージ・パーシヴァル (第6代エグモント伯爵)|en|George Perceval, 6th Earl of Egmont|label=ジョージ・ジェームズ・パーシヴァル}}}} {{S-end}} {{Authority control}} {{DEFAULTSORT:えくもんと05}} [[Category:アイルランド貴族の伯爵]] [[Category:コーンウォール選出のイギリス庶民院議員]] [[Category:ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ出身の人物]] [[Category:1796年生]] [[Category:1841年没]]
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IWGP GLOBALヘビー級王座
IWGP GLOBALヘビー級王座(IWGPグローバルヘビーきゅうおうざ)は、新日本プロレスが管理、認定している王座。 2023年12月11日、新日本プロレス事務所で行われた記者会見の中で、会長菅林直樹よりIWGP USヘビー級王座に変わる新王座として設立を発表。それに伴い、2024年1月4日の「ベルクpresents WRESTLE KINGDOM 18 in 東京ドーム」におけるウィル・オスプレイ、ジョン・モクスリー、デビッド・フィンレーによる3WAYマッチが同王座の初代王座決定戦への変更が発表された。
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IWGP GLOBALヘビー級王座(IWGPグローバルヘビーきゅうおうざ)は、新日本プロレスが管理、認定している王座。
{{Infobox プロレスベルト |タイトル名 = IWGP GLOBALヘビー級王座 |管理団体 = [[新日本プロレス]] |設立日 = 2023年12月11日 |最多獲得回数 = |初代王者 = |最長保持者 = |最短保持者 = |最年長保持者 = |最年少保持者 = }} '''IWGP GLOBALヘビー級王座'''(IWGPグローバルヘビーきゅうおうざ)は、[[新日本プロレス]]が管理、認定している王座。 == 概要 == [[2023年]]12月11日、新日本プロレス事務所で行われた記者会見の中で、会長[[菅林直樹]]より[[IWGP USヘビー級王座]]に変わる新王座として設立を発表。それに伴い、[[2024年]]1月4日の「[[WRESTLE KINGDOM 18|ベルクpresents WRESTLE KINGDOM 18 in 東京ドーム]]」における[[ウィル・オスプレイ]]、[[ジョン・モクスリー]]、[[デビッド・フィンレー]]による[[トリプルスレットマッチ|3WAYマッチ]]が同王座の初代王座決定戦への変更が発表された<ref>{{Cite web |title=菅林会長が、“IWGP US ヘビー級王座に変わる新王座”に言及。1.4東京ドーム大会のオスプレイvsモクスリーvsフィンレー 3WAYマッチは、「IWGP GLOBAL ヘビー級選手権 初代王者決定戦」に正式変更へ【WK18】 |url=https://www.njpw.co.jp/464970 |website=www.njpw.co.jp |access-date=2023-12-11 |language=ja}}</ref>。 <!-- == 歴代王者 == {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size: small;" !歴代 !チャンピオン !戴冠回数 !防衛回数 !日付 !場所 |- |初代 | |1 | |2024年1月4日 |[[東京ドーム]] |} --> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[IWGP USヘビー級王座]] <!--== 外部リンク == * [http://www.njpw.co.jp/champions/iwgp-global IWGP GLOBAL HEAVYWEIGHT | 歴代チャンピオンクラス | 新日本プロレスリング]--> <!--{{IWGP GLOBALヘビー級王座}}--> {{新日本プロレス}} {{DEFAULTSORT:IWGPくろおはるへひいきゆうおうさ}} [[Category:新日本プロレスの王座]] [[Category:プロレスのヘビー級王座]] [[Category:2023年設立]]
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極私的エロス 恋歌1974
『極私的エロス 恋歌1974』(ごくしてきえろす こいうた1974)は、原一男監督による1974年の日本のドキュメンタリー・ドラマ映画である。フェミニストである自分の元同棲相手の武田美由紀を追った作品。 現在アダルトビデオでポピュラーな撮影方法として用いられている「ハメ撮り」を初めて行なったハメ撮りの元祖であると言われる。
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『極私的エロス 恋歌1974』は、原一男監督による1974年の日本のドキュメンタリー・ドラマ映画である。フェミニストである自分の元同棲相手の武田美由紀を追った作品。
{{Infobox Film | 作品名 = 極私的エロス 恋歌1974 | 原題 = | 画像 = | 画像サイズ = | 画像解説 = | 監督 = [[原一男]] | 脚本 = | 原案 = | 原作 = | 製作 = 小林佐智子 | 製作総指揮 = | ナレーター = | 出演者 = [[武田美由紀]] | 音楽 = [[加藤登紀子]] | 主題歌 = | 撮影 = 原一男 | 編集 = 鍋島惇 | 制作会社 = | 製作会社 = 疾走プロダクション | 配給 = 疾走プロダクション | 公開 = {{flagicon|JPN}} [[1974年]][[6月25日]] | 上映時間 = 98分 | 製作国 = {{JPN}} | 言語 = 日本語 | 製作費 = | 興行収入 = | 配給収入 = | 前作 = [[さようならCP]] | 次作 = [[ゆきゆきて、神軍]] }} 『'''極私的エロス 恋歌1974'''』(ごくしてきえろす こいうた1974)は、[[原一男]]監督による1974年の日本のドキュメンタリー・ドラマ映画である<ref>{{Cite web |title=ドキュメンタリー映画の鬼才 原一男公式サイト |url=http://docudocu.jp/ |website=ドキュメンタリー映画の鬼才 原一男公式サイト |access-date=2023-12-11 |language=ja}}</ref>。[[フェミニスト]]である自分の元同棲相手の武田美由紀を追った作品。 ==内容== 現在アダルトビデオでポピュラーな撮影方法として用いられている「[[ハメ撮り]]」を初めて行なったハメ撮りの元祖であると言われる。 ==キャスト== *[[武田美由紀]] == スタッフ == * 監督:[[原一男]] * 製作:小林佐智子 * 撮影:原一男 * 録音:久保田幸雄 * 編集:鍋島惇 * 音楽:[[加藤登紀子]] ==脚注== {{Reflist}} ==外部リンク== * {{allcinema title|144750|極私的エロス 恋歌1974}} * {{Kinejun title|41751|極私的エロス 恋歌1974}} {{原一男監督作品}} {{DEFAULTSORT:ごくしてきえろす こいうた1974}} [[Category:原一男の監督映画]] [[Category:1974年の映画]] [[Category:日本のドキュメンタリー映画]] [[Category:加藤登紀子]]
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イケル・レクオナ
イケル・レクオナ・ガスコン (Iker Lecuona Gascón, 2000年1月6日 - ) は、スペイン出身のオートバイレーサー。 2016年シーズンのロードレース世界選手権Moto2クラスに怪我でイギリスGPとサンマリノGPを欠場したドミニク・エガーターの代走参戦したことが始まりである。 2019年シーズンはMoto2クラスに出場していたが、テック3所属で、手術を受けるミゲル・オリベイラの代わりに最終戦バレンシアGPに参戦した。しかし、13周目に差し掛かった時にリタイアを起こしてしまう。 2020年から2021年まで、テック3のレギュラーライダーを務めた。 2023年はレプソル・ホンダとLCR・ホンダに代走参戦した。 2022年はMotoGPのレギュラーシートを獲得できず、ホンダ・レーシングから参戦を継続している。
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イケル・レクオナ・ガスコン は、スペイン出身のオートバイレーサー。
{{スペイン語圏の姓名|レクオナ|ガスコン}} {{Infobox motorcycle rider | Name = イケル・レクオナ | image = Iker Lecuona 2023 (cropped).jpg | caption = 2018年 | nationality = {{ESP}} | birth_date = {{birth date and age|2000|01|06|df=y}} | birth_place = {{ESP}}<br>[[バレンシア]] | Current team = [[ホンダ・レーシング|チーム・HRC]] | Bike number = 37 | website = | MotoGP Active years= {{MGP|2019}}–{{MGP|2021}}, {{MGP|2023}} | MotoGP Manufacturers = [[KTM]]、[[ホンダ]] | MotoGP Championships= 0 | MotoGP Race Starts = 37 | MotoGP Race Wins = 0 | MotoGP Podiums = 0 | MotoGP Poles = 0 | MotoGP Fastest laps= 0 | MotoGP Total Points= 66 | MotoGP Last season = 2023年 | MotoGP Last position = 30位 (0 pts) | Moto2 Active years= {{MGP|2016}}–[[2019年のMoto2|2019年]] | Moto2 Manufacturers = [[カレックス・エンジニアリング|カレックス]]、[[KTM]]</small> | Moto2 Championships= 0 | Moto2 Race Starts = 55 | Moto2 Race Wins = 0 | Moto2 Podiums = 2 | Moto2 Poles = 0 | Moto2 Fastest laps= 0 | Moto2 Total Points= 172 | Moto2 Last season = 2019年 | Moto2 Last position = 12位 (90 pts) | SBK Active years = {{SBK|2022}}- | SBK Championships = 0 | SBK Manufacturers = [[ホンダ]] | SBK Race Starts = 65 | SBK Race Wins = 0 | SBK Podiums = 1 | SBK Poles = 1 | SBK Fastest laps = 0 | SBK Total Points = 332 | SBK Last season = 2023年 | SBK Last position = 13位 (143 pts) }} '''イケル・レクオナ・ガスコン''' ('''Iker Lecuona Gascón''', [[2000年]][[1月6日]] - ) は、[[スペイン]]出身の[[オートバイ]]レーサー。 == 経歴 == ===Moto2=== {{MGP|2016}}シーズンの[[ロードレース世界選手権]]Moto2クラスに怪我で[[イギリスグランプリ (ロードレース)|イギリスGP]]と[[サンマリノグランプリ (ロードレース)|サンマリノGP]]を欠場した[[ドミニク・エガーター]]の代走参戦したことが始まりである<ref>{{cite news|url=http://www.crash.net/motogp/news/234227/1/moto2-aegerter-dropped-after-leopard-deal.html|title=Moto2: Aegerter dropped by Interwetten after Leopard deal|work=Crash.net|publisher=Crash Media Group|date=7 October 2016|access-date=22 October 2016}}</ref>。 ===MotoGP=== [[2019年のMoto2|2019年]]シーズンはMoto2クラスに出場していたが、[[テック3]]所属で、手術を受ける[[ミゲル・オリベイラ]]の代わりに最終戦[[バレンシアグランプリ|バレンシアGP]]に参戦した。しかし、13周目に差し掛かった時にリタイアを起こしてしまう。 {{MGP|2020}}から{{MGP|2021}}まで、テック3のレギュラーライダーを務めた。 {{MGP|2023}}は[[レプソル・ホンダ]]と[[チーム・LCR|LCR・ホンダ]]に代走参戦した<ref>{{Cite web|title=レクオナ、リンス代役でMotoGPイギリスGP出場へ。日程重複の鈴鹿8耐には長島哲太が参戦か? |url=https://jp.motorsport.com/motogp/news/lecuona-to-replace-injured-rins-at-british-motogp-round/10497276|date=2023-07-19|access-date=2023-07-19|website=www.motorsport.com|language=en}}</ref>。 ===スーパーバイク世界選手権=== 2022年はMotoGPのレギュラーシートを獲得できず、[[ホンダ・レーシング]]から参戦を継続している<ref>{{Cite web|title=World Superbike: KTM MotoGP's Iker Lecuona set to join Honda|url=https://www.motorsport.com/wsbk/news/ktm-outcast-lecuona-honda-switch/6663963/|access-date=2021-09-26|website=www.motorsport.com|language=en}}</ref>。 == 脚注 == {{reflist}} ==外部リンク== * {{official website|https://www.motogp.com/en/riders/iker-lecuona/92d574d5-d064-4612-bf3e-421d01572512}} {{MotoGP}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あうくすと ふえるなんてす}} [[Category:スペインのライダー]] [[Category:MotoGPのライダー]] [[Category:Moto2のライダー]] [[Category:バレンシア出身の人物]] [[Category:2000年生]] [[Category:存命人物]]
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五馬村
五馬村(いつまむら)は、大分県日田郡にあった村。現在の日田市の一部にあたる。 筑後川(大山川)の右岸、同支流・杖立川右岸の山間部に位置していた。
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五馬村(いつまむら)は、大分県日田郡にあった村。現在の日田市の一部にあたる。
{{日本の町村 (廃止) | 廃止日 = 1955年3月31日 | 廃止理由 = 新設合併 | 廃止詳細 = '''五馬村'''、[[中川村 (大分県)|中川村]]、[[馬原村]] → [[天瀬町|栄村]] | 現在の自治体 = [[日田市]] | よみがな = いつまむら | 自治体名 = 五馬村 | 区分 = 村 | 都道府県 = 大分県 | 郡 = [[日田郡]] | 面積 = | 境界未定 = | 人口 = 4712 | 人口の出典 = [[国勢調査 (日本)|国勢調査]] | 人口の時点 = 1950年 | 隣接自治体 = [[大山町 (大分県)|大山村]]、中川村、[[玖珠郡]][[玖珠町]]、[[熊本県]][[阿蘇郡]][[小国町 (熊本県)|小国町]] | 所在地 = 日田郡五馬村大字五馬市 | 座標 = | 位置画像 = | 特記事項 = }} '''五馬村'''(いつまむら{{R|変遷}}{{R|角川}})は、[[大分県]][[日田郡]]にあった[[村]]。現在の[[日田市]]の一部にあたる。 == 地理 == [[筑後川]]([[大山川]])の右岸、同支流・杖立川右岸の山間部に位置していた{{R|角川}}。 == 歴史 == *[[1889年]](明治22年)4月1日、[[町村制]]の施行により、日田郡五馬市村、塚田村、出口村、本城村が合併して村制施行し、'''五馬村'''が発足<ref name=変遷>『市町村名変遷辞典』66頁。</ref><ref name=角川>『角川日本地名大辞典 44 大分県』118頁。</ref>。旧村名を継承した五馬市、塚田、出口、本城の4大字を編成{{R|角川}}。 *[[1955年]](昭和30年)3月31日、日田郡中川村、馬原村と合併し、'''[[天瀬町|栄村]]'''を新設して廃止された{{R|変遷}}{{R|角川}}。 == 産業 == *農業{{R|角川}} == 交通 == === 県道 === *[[1926年]](大正15年)五馬道路開通(現[[大分県道674号岩戸五馬日田線]]) == 教育 == *五馬市小学校(大字五馬市){{R|角川}} *出口小学校(大字出口){{R|角川}} *塚田小学校(大字塚田){{R|角川}} == 脚注 == {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[角川日本地名大辞典]] 44 大分県 * 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。 == 関連項目 == * [[大分県の廃止市町村一覧]] {{デフォルトソート:いつまむら}} [[Category:日田郡]] [[Category:日田市域の廃止市町村]] [[Category:1889年設置の日本の市町村]] [[Category:1955年廃止の日本の市町村]]
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第44回ボストン映画批評家協会賞
44th BSFC Awards 2023年12月10日 作品賞: The Holdovers 第44回ボストン映画批評家協会賞(だい44かいボストンえいがひひょうかきょうかいしょう、44th Boston Society of Film Critics Awards)は、2023年の映画を対象とした映画賞で、2022年12月10日に受賞者が発表された。
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第44回ボストン映画批評家協会賞は、2023年の映画を対象とした映画賞で、2022年12月10日に受賞者が発表された。
<div style="float: right; font-size: smaller; background-color:#E6E6FA; padding: 12px; margin-left: 5em; margin-bottom: 2em; width: 180px" align="center"> {{big|'''44th BSFC Awards'''}}<br> <div style="padding-left: 15px"> 2023年12月10日 </div> <br> 作品賞: <br> {{big|'''''[[:en:The Holdovers|The Holdovers]]'''''}} </div> '''第44回[[ボストン映画批評家協会賞]]'''(だい44かいボストンえいがひひょうかきょうかいしょう、44th Boston Society of Film Critics Awards)は、[[2023年の映画]]を対象とした映画賞で、2022年12月10日に受賞者が発表された<ref>{{cite web|url=https://nextbestpicture.com/the-2023-boston-society-of-film-critics-bsfc-winners/|title=The 2023 Boston Society Of Film Critics (BSFC) Winners|publisher=Next Best Picture|date=2023-12-10|accessdate=2023-12-11}}</ref><ref>{{Cite web |title=Current Winners – 2023 Awards |url=https://bostonfilmcritics.org/current-winners/ |website=Boston Society of Film Critics |accessdate=2023-12-11 |language=en}}</ref>。 ==受賞一覧== ===作品賞=== *受賞:『'''''[[:en:The Holdovers|The Holdovers]]'''''』 **次点:『''[[:en:The Zone of Interest (film)|The Zone of Interest]]''』 **次点:『''[[:en:May December|May December]]''』 ===監督賞=== *受賞:'''[[ジョナサン・グレイザー]]''' - 『'''''[[:en:The Zone of Interest (film)|The Zone of Interest]]'''''』 **次点:[[クリストファー・ノーラン]] - 『[[オッペンハイマー (映画)|オッペンハイマー]]』 **次点:[[トッド・ヘインズ]] - 『''[[:en:May December|May December]]''』 ===主演男優賞=== *'''[[ポール・ジアマッティ]]''' - 『'''''[[:en:The Holdovers|The Holdovers]]'''''』 **次点:[[キリアン・マーフィー]] - 『[[オッペンハイマー (映画)|オッペンハイマー]]』 **次点:[[役所広司]] - 『[[PERFECT DAYS]]』 ===主演女優賞=== *受賞:'''[[リリー・グラッドストーン]]''' - 『'''[[キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン]]'''』 **次点:[[エマ・ストーン]] - 『[[哀れなるものたち (映画)|哀れなるものたち]]』 **次点:[[ナタリー・ポートマン]] - 『''[[:en:May December|May December]]''』 ===助演男優賞=== *受賞:'''[[ライアン・ゴズリング]]''' - 『'''[[バービー (映画)|バービー]]'''』 **次点:{{仮リンク|チャールズ・メルトン(俳優)|en|Charles Melton (actor)|label=チャールズ・メルトン}} - 『''[[:en:May December|May December]]''』 **次点:[[マーク・ラファロ]] - 『[[哀れなるものたち (映画)|哀れなるものたち]]』 **次点:[[ロバート・ダウニー・Jr.]] - 『[[オッペンハイマー (映画)|オッペンハイマー]]』 ===助演女優賞=== *受賞:'''{{仮リンク|ダヴァイン・ジョイ・ランドルフ|en|Da'Vine Joy Randolph}}''' - 『'''''[[:en:The Holdovers|The Holdovers]]'''''』 ===脚本賞=== *受賞:'''デヴィッド・ヘミングソン''' - 『'''''[[:en:The Holdovers|The Holdovers]]'''''』 **次点:{{仮リンク|サミー・バーチ|en|Samy Burch}} - 『''[[:en:May December|May December]]''』 **次点:[[ニコール・ホロフセナー]] - 『''[[:en:You Hurt My Feelings (2023 film)|You Hurt My Feelings]]''』 ===脚色賞=== *受賞:'''[[ジョナサン・グレイザー]]''' - 『'''''[[:en:The Zone of Interest (film)|The Zone of Interest]]'''''』 **次点:{{仮リンク|ケリー・フレモン・クレイグ|en|Kelly Fremon Craig}} - 『''[[:en:Are You There God? It's Me, Margaret. (film)|Are You There God? It's Me, Margaret.]]''』 **次点:[[エリック・ロス]]、[[マーティン・スコセッシ]] - 『[[キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン]]』 ===アニメ映画賞=== *受賞:『'''[[君たちはどう生きるか (映画)|君たちはどう生きるか]]'''』 **次点:『{{仮リンク|ミュータント・タートルズ:ミュータント・パニック!|en|Teenage Mutant Ninja Turtles: Mutant Mayhem}}』 **次点:『[[スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース]]』 **次点:『''[[:en:Robot Dreams (film)|Robot Dreams]]''』 **次点:『''[[:en:The Peasants (2023 film)|The Peasants]]''』 ===ドキュメンタリー映画賞=== *『'''''[[:en:Geographies of Solitude|Geographies of Solitude]]'''''』 **次点:『''[[:en:20 Days in Mariupol|20 Days in Mariupol]]''』 **次点:『''[[:en:The Disappearance of Shere Hite|The Disappearance of Shere Hite]]''』 **次点:『{{仮リンク|ココモ・シティ|en|Kokomo City}}』 **次点:『''Menus-Plaisirs – Les Troisgros''』 ===撮影賞=== *受賞:'''ジョナサン・リケブール''' - 『'''''[[:en:The Taste of Things|The Taste of Things]]'''''』 **次点:[[ロビー・ライアン]] - 『[[哀れなるものたち (映画)|哀れなるものたち]]』 **次点:[[ロバート・D・イェーマン]] - 『[[アステロイド・シティ]]』 ===編集賞=== *受賞:'''[[セルマ・スクーンメイカー]]''' - 『'''[[キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン]]'''』 *次点:{{仮リンク|ジェニファー・レイム|en|Jennifer Lame}} - 『[[オッペンハイマー (映画)|オッペンハイマー]]』 ===音楽賞=== *受賞:'''[[ロビー・ロバートソン]]''' - 『'''[[キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン]]'''』 **次点:{{仮リンク|マイカ・リーヴァイ|en|Mica Levi}} - 『''[[:en:The Zone of Interest (film)|The Zone of Interest]]''』 ===新人映画製作者賞=== *受賞:'''{{仮リンク|セリーヌ・ソン|en|Celine Song}}''' - 『'''[[パスト ライブス/再会]]'''』 **次点:{{仮リンク|コード・ジェファーソン|en|Cord Jefferson}} - 『[[アメリカン・フィクション]]』 **次点:{{仮リンク|A・V・ロックウェル|en|A. V. Rockwell}} - 『''[[:en:A Thousand and One|A Thousand and One]]''』 ===外国語映画賞=== *受賞:『'''''[[:en:The Zone of Interest (film)|The Zone of Interest]]'''''』 ===アンサンブル・キャスト賞=== *受賞:『'''[[オッペンハイマー (映画)|オッペンハイマー]]'''』 **次点:『[[アステロイド・シティ]]』 **次点:『[[アイアンクロー (映画)|アイアンクロー]]』 **次点:『[[キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン]]』 ==出典== {{Reflist}} ==外部リンク== * {{official|https://bostonfilmcritics.org}}{{en icon}} <table class="wikitable" style="margin: 1px auto .5em auto; font-size: smaller; width: 80%"> <th style="color: black;" colspan="3">[[ボストン映画批評家協会賞]]</th> <tr> <th style="width: 33%;">前回 ([[2022年の映画|2022年]]度)</th> <td style="text-align: center; width: 34%; font-weight: bold;" rowspan="2">'''第44回ボストン映画批評家協会賞'''<br/>([[2023年の映画|2023年]]度) <th style="width: 33%;">次回([[2024年の映画|2024年]]度)</th> </tr><tr style="text-align: center;"> <td>[[第43回ボストン映画批評家協会賞]]</td> <td>[[第45回ボストン映画批評家協会賞]]</td> </table> {{デフォルトソート:ほすとんえいかひひようかきようかいしよう2023}} [[Category:ボストン映画批評家協会賞|44]] [[Category:2023年の映画賞]] [[Category:2023年のアメリカ合衆国]] [[Category:2023年12月]]
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宋朝の君主一覧
宋朝の君主一覧では、宋の歴代皇帝を列挙する。 宋は五代十国時代の後に中国を統治した王朝である。1127年に金に華北を征服され首都が開封から臨安に南遷したため、それ以前を北宋、南遷以降を南宋と呼び区別されている。太祖により建国され、祥興帝の死去により滅亡した。
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宋朝の君主一覧では、宋の歴代皇帝を列挙する。 宋は五代十国時代の後に中国を統治した王朝である。1127年に金に華北を征服され首都が開封から臨安に南遷したため、それ以前を北宋、南遷以降を南宋と呼び区別されている。太祖により建国され、祥興帝の死去により滅亡した。
{{Infobox former monarchy | royal_title = 皇帝 | native_name = {{nobold|{{lang|zh|宋朝皇帝}}}} | coatofarms = | coatofarmscaption = | image = Song Taizu.jpg | caption = [[趙匡胤|太祖]] | realm = [[宋 (王朝)|宋]]の | border = | first_monarch = [[趙匡胤|太祖]] (北宋)<br>[[高宗 (宋)|高宗]] (南宋) | last_monarch = [[欽宗]] (北宋)<br>[[祥興帝]] (南宋) | style = [[陛下]]<br>官家 | residence = [[開封]] (北宋)<br>[[臨安]] (南宋) | appointer = 世襲 | began = 960 (北宋)<br>1127 (南宋) | ended = 1127 (北宋)<br>1279 (南宋) | pretender = }} [[File:宋帝国系図.PNG|thumb|right|270px|宋帝国系図]] '''宋朝の君主一覧'''では、[[宋 (王朝)|宋]]の歴代皇帝を列挙する。 宋は[[五代十国時代]]の後に中国を統治した王朝である。[[1127年]]に[[金 (王朝)|金]]に[[華北]]を征服され首都が[[開封]]から[[臨安]]に南遷したため、それ以前を[[北宋]]、南遷以降を[[南宋]]と呼び区別されている。[[趙匡胤|太祖]]により建国され、[[祥興帝]]の死去により滅亡した。 ==宋の皇帝== ===北宋=== {| class="wikitable sortable" |- ! style="width:15%"|肖像 ! style="width:15%"|廟号 ! class="unsortable" style="width:20%"|諡号 ! style="width:20%"|姓・諱 ! 生没年 ! 在位期間 ! class="unsortable" |元号 |- |{{center|[[File:Song Taizu (cropped).jpg|100px]]}} |[[趙匡胤|太祖]] |啓運立極英武睿文神徳聖功至明大孝皇帝 |趙匡胤 |927–976 |{{ntsh|1}}960–976 | *[[建隆]]<ref>Bo (1977), pp. 873–876.</ref> *[[乾徳 (宋)|乾徳]]<ref>Bo (1977), pp. 876–878.</ref> *[[開宝]]<ref>Bo (1977), pp. 878–881.</ref> |- |{{center|[[File:Taizong of Song (cropped).jpg|100px]]}} |[[太宗 (宋)|太宗]] |至仁応道神功聖徳文武睿烈大明広孝皇帝 |趙炅 |939–997 |{{ntsh|2}}976–997 | *[[太平興国]]<ref>Bo (1977), pp. 881–883.</ref> *[[雍熙]]<ref>Bo (1977), pp. 883–885.</ref> *[[端拱]]<ref>Bo (1977), pp. 885–886.</ref> *[[淳化]]<ref>Bo (1977), pp. 886–887.</ref> *[[至道]]<ref>Bo (1977), p. 887.</ref> |- |{{center|[[File:SongEmperorAlbumZhenzongPortrait.jpg|100px]]}} |[[真宗 (宋)|真宗]] |応符稽古神功譲徳文明武定章聖元孝皇帝 |趙恆 |968–1022 |{{ntsh|3}}997–1022 | *[[咸平]]<ref>Bo (1977), pp. 887–891.</ref> *[[景徳]]<ref>Bo (1977), pp. 891–892.</ref> *[[大中祥符]]<ref>Bo (1977), pp. 892–894.</ref> *[[天禧 (宋)|天禧]]<ref>Bo (1977), pp. 894–895.</ref> *[[乾興 (宋)|乾興]]<ref>Bo (1977), p. 895.</ref> |- |{{center|[[File:Song Renzong (cropped).jpg|100px]]}} |[[仁宗 (宋)|仁宗]] |体天法道極功全徳神文聖武睿哲明孝皇帝 |趙禎 |1010–1063 |{{ntsh|4}}1022–1063 | *[[天聖]]<ref>Bo (1977), pp. 895–896.</ref> *[[明道 (北宋)|明道]]<ref>Bo (1977), pp. 896–897.</ref> *[[景祐]]<ref>Bo (1977), pp. 897–898.</ref> *[[宝元]]<ref>Bo (1977), p. 898.</ref> *[[康定 (宋)|康定]]<ref>Bo (1977), pp. 898–899.</ref> *[[慶暦]]<ref>Bo (1977), pp. 899–903.</ref> *[[皇祐]]<ref>Bo (1977), pp. 903–904.</ref> *[[至和]]<ref>Bo (1977), p. 905.</ref> *[[嘉祐]]<ref>Bo, pp. 905–907.</ref> |- |{{center|[[File:Song Yingzong 1 (cropped).jpg|100px]]}} |[[英宗 (宋)|英宗]] |体乾応暦隆功盛徳憲文粛武睿聖宣孝皇帝 |趙曙 |1032–1067 |{{ntsh|5}}1063–1067 | *[[治平 (宋)|治平]]<ref>Bo (1977), pp. 908–909.</ref> |- |{{center|[[File:Shenzong of Song.jpg|100px]]}} |[[神宗 (宋)|神宗]] |体元顕道法古立憲帝徳王功英文烈武欽仁聖孝皇帝 |趙頊 |1048–1085 |{{ntsh|6}}1067–1085 | *[[熙寧]]<ref>Bo (1977), pp. 909–914.</ref> *[[元豊 (宋)|元豊]]<ref>Bo (1977), pp. 914–918.</ref> |- |{{center|[[File:Zhezong (cropped).jpg|100px]]}} |[[哲宗 (宋)|哲宗]] |憲元継道顕徳定功欽文睿武斉聖昭孝皇帝 |趙煦 |1077–1100 |{{ntsh|7}}1085–1100 | *[[元祐]]<ref>Bo (1977), pp. 918–921.</ref> *[[紹聖]]<ref>Bo (1977), pp. 921–923.</ref> *[[元符]]<ref>Bo (1977), pp. 923–924.</ref> |- |{{center|[[File:HuizongHuizong.jpg|100px]]}} |[[徽宗]] |体神合道駿烈遜功聖文仁徳憲慈顕孝皇帝 |趙佶 |1082–1135 |{{ntsh|8}}1100–1125 | *[[建中靖国]]<ref>Bo (1977), p. 927.</ref> *[[崇寧]]<ref>Bo (1977), pp. 927–928.</ref> *[[大観 (宋)|大観]]<ref>Bo (1977), pp. 928–929.</ref> *[[政和]]<ref>Bo (1977), pp. 929–931.</ref> *[[重和]]<ref>Bo (1977), p. 931.</ref> *[[宣和]]<ref>Bo (1977), pp. 932–935.</ref> |- |{{center|[[File:SongEmperorAlbumQinzongPortrait.jpg|100px]]}} |[[欽宗]] |恭文順徳仁孝皇帝 |趙桓 |1100–1161 |{{ntsh|9}}1126–1127 | *[[靖康]]<ref>Bo (1977), pp. 937–938.</ref> |} ===南宋=== {| class="wikitable sortable" width="100%" |- ! style="width:20%" | 肖像 ! style="width:20%" | 廟号 ! class="unsortable" style="width:20%" | 諡号 ! style="width:20%" | 姓・諱 ! 生没年 ! 在位期間 ! class="unsortable" | 元号 |- | {{center|[[File:SongEmperorAlbumGaozongPortrait.jpg|100px]]}} | [[高宗 (宋)|高宗]] | 受命中興全功至徳聖神武文昭仁憲孝皇帝 | 趙構 | 1107–1187 | {{ntsh|1}}1127–1162 | *[[建炎]]<ref>Bo (1977), pp. 938–942.</ref><ref group="注釈">1129年に子の[[趙旉]]に譲位させられたが、間もなく復位したため趙旉は皇帝と見なされていない(Bo (1977), pp. 941–942.)</ref> *[[紹興 (宋)|紹興]]<ref>Bo (1977), pp. 944–961.</ref> |- | {{center|[[File:宋孝宗皇帝.jpg|100px]]}} | [[孝宗 (宋)|孝宗]] | 紹統同道冠徳昭功哲文神武明聖成孝皇帝 | 趙昚 | 1127–1194 | {{ntsh|2}}1162–1189 | *[[隆興]]<ref>Bo (1977), pp. 961–962.</ref> *[[乾道 (宋)|乾道]]<ref>Bo (1977), pp. 963–965.</ref> *[[淳熙]]<ref>Bo (1977), pp. 965–969.</ref> |- | {{center|[[File:SongEmperorAlbumGuangzongPortrait.jpg|100px]]}} | [[光宗 (宋)|光宗]] | 循道憲仁明功茂徳温文順武聖哲慈孝皇帝 | 趙惇 | 1147–1200 | {{ntsh|3}}1189–1194 | *[[紹熙]]<ref>Bo (1977), pp. 970–972.</ref> |- | {{center|[[File:宋代帝半身像册.14.宋寧宗 (cropped).jpg|100px]]}} | [[寧宗 (宋)|寧宗]] | 法天備道純徳茂功仁文哲武聖睿恭孝皇帝 | 趙擴 | 1168–1224 | {{ntsh|4}}1194–1224 | *[[慶元]]<ref>Bo (1977), pp. 972–973.</ref> *[[嘉泰 (宋)|嘉泰]]<ref>Bo (1977), pp. 977–978.</ref> *[[開禧]]<ref>Bo (1977), pp. 979–981.</ref> *[[嘉定 (南宋)|嘉定]]<ref>Bo (1977), pp. 981–988.</ref> |- | {{center|[[File:SongEmperorAlbumLizongPortrait.jpg|100px]]}} | [[理宗]] | 建道備徳大功復興烈文仁武聖明安孝皇帝 | 趙昀 | 1205–1264 | {{ntsh|5}}1224–1264 | *[[宝慶]]<ref>Bo (1977), pp. 989–990.</ref> *[[紹定]]<ref>Bo (1977), pp. 991–994.</ref> *[[端平]]<ref>Bo (1977), pp. 995–996.</ref> *[[嘉熙]]<ref>Bo (1977), pp. 996–997.</ref> *[[淳祐 (南宋)|淳祐]]<ref>Bo (1977), pp. 998–1002.</ref> *[[宝祐]]<ref>Bo (1977), pp. 1003–1004.</ref> *[[開慶]]<ref>Bo (1977), p. 1005.</ref> *[[景定]]<ref>Bo (1977), pp. 1006–1008.</ref> |- | {{center|[[File:宋度宗皇帝.jpg|100px]]}} |[[度宗]] | 端文明武景孝皇帝 | 趙禥 | 1240–1274 | {{ntsh|6}}1264–1274 | *[[咸淳]]<ref>Bo (1977), pp. 1008–1011.</ref> |- | {{center|[[File:Song Gongdi2.jpg|100px]]}} | [[恭帝 (宋)|恭帝]] | 孝恭懿聖皇帝 | 趙㬎 | 1271–1323 | {{ntsh|7}}1275 | *[[徳祐]]<ref>Bo (1977), pp. 1012–1013.</ref> |- | {{center|[[File:ZhaoShiDuanzong.png|100px]]}} | [[端宗 (宋)|端宗]] | 裕文昭武愍孝皇帝 | 趙昰 | 1268–1278 | {{ntsh|8}}1276–1278 | *[[景炎]]<ref>Bo (1977), pp. 1013–1015.</ref> |- | {{center|[[File:Song_Modi.jpg|100px]]}} | | | [[祥興帝|趙昺]] | 1271–1279 | {{ntsh|9}}1278–1279 | *[[祥興]]<ref>Bo (1977), pp. 1015–1016.</ref> |} ==脚注== ===注釈=== {{Reflist|group=注釈}} ===出典=== {{Reflist|colwidth=30em}} ==参考文献== *{{cite book|last=Bielenstein|first=Hans|title=The Bureaucracy of Han Times|year=1980|publisher=Cambridge University Press|location=Cambridge|isbn=0-521-22510-8}} *{{cite book|author=Bo Yang|title=Timeline of Chinese History|script-title=zh:中國歷史年表|year=1977|publisher=Sing-Kuang Book Company Ltd.|location=Taipei|author-link=Bo Yang}} *{{cite journal|last=Bol|first=Peter K.|title=Whither the Emperor? Emperor Huizong, the New Policies, and the Tang-Song Transition|journal=Journal of Song and Yuan Studies|date=2001|issue=31|pages=103–134|jstor=23496091}} *{{cite journal|last=Coblin|first=W. South|authorlink1=Weldon South Coblin|title=Migration History and Dialect Development in the Lower Yangtze Watershed|journal=Bulletin of the School of Oriental and African Studies|date=2002|volume=65|issue=3|pages=529–543|jstor=4146032|doi=10.1017/S0041977X02000320}} *{{cite book|last=de Crespigny|first=Rafe|title=A Biographical Dictionary of Later Han to the Three Kingdoms|year=2007|orig-year=23–220 AD|location=Leiden|publisher=Koninklijke Brill|isbn=978-90-04-15605-0}} *{{cite book|last=Ebrey|first=Patricia Buckley|title=The Cambridge Illustrated History of China|year=1999|location=Cambridge|publisher=Cambridge University Press|isbn=0-521-66991-X|type=paperback|url=https://archive.org/details/cambridgeillustr00ebre}} *{{cite book|last1=Ebrey|first1=Patricia|last2=Walthall|first2=Anne|last3=Palais|first3=James|title=East Asia: A Cultural, Social, and Political History|year=2006|location=Boston|publisher=Houghton Mifflin Company|isbn=0-618-13384-4|url=https://archive.org/details/eastasiacultural00ebre_0}} *{{cite book|last=Gernet|first=Jacques|title=Daily Life in China on the Eve of the Mongol Invasion, 1250–1276|year=1962|location=Stanford|publisher=Stanford University Press|isbn=0-8047-0720-0|url=https://archive.org/details/dailylifeinchina00gern}} *{{cite book|last=Grant|first=Reg|title=Battle at Sea: 3000 years of naval warfare|url=https://archive.org/details/battleatsea3000y0000gran|url-access=registration|year=2010|location=London|publisher=Dorling Kindersley|isbn=978-0756639730}} *{{cite journal|last=Hartwell|first=Robert M.|title=Demographic, Political, and Social Transformations of China, 750–1550|journal=Harvard Journal of Asiatic Studies|date=1982|volume=42|issue=2|pages=365–442|doi=10.2307/2718941|jstor=2718941}} *{{cite journal|last=Hennessey|first=William O.|title=Classical Sources and Vernacular Resources in "Xuanhe Yishi": The Presence of Priority and the Priority of Presence|journal=Chinese Literature: Essays, Articles, Reviews|date=July 1984|volume=6|issue=1/2|pages=33–52|doi=10.2307/823445|jstor=823445}} *{{cite book|last=Hucker|first=Charles O.|title=China's Imperial Past: An Introduction to Chinese History and Culture|year=1975|location=Stanford|publisher=Stanford University Press|isbn=0-8047-0887-8|url=https://archive.org/details/chinasimperialpa00char}} *{{cite book|last=Hymes|first=Robert P.|title=Statesmen and Gentlemen: The Elite of Fu-Chou, Chiang-Hsi, in Northern and Southern Sung|year=1986|location=Cambridge|publisher=Cambridge University Press|isbn=0-521-30631-0}} *{{cite book|last=Mostern|first=Ruth|editor-last=Wyatt|editor-first=Don J.|chapter=From Battlefields to Counties: War, Border, and State Power in Southern Song Huainan|title=Battlefronts Real and Imagined: War, Border, and Identity in the Chinese Middle Period|url=https://archive.org/details/battlefrontsreal00wyat|url-access=limited|year=2008|location=New York|publisher=Palgrave MacMillan|isbn=978-1-4039-6084-9|pages=[https://archive.org/details/battlefrontsreal00wyat/page/n241 227]–252}} *{{cite book|last=Mote|first=Frederick W.|title=Imperial China: 900–1800|year=1999|location=Cambridge|publisher=Harvard University Press|isbn=0-674-01212-7}} *{{cite book|last=Needham|first=Joseph|authorlink=Joseph Needham|title=Science and Civilization in China: Volume 1, Introductory Orientations|year=1972|location=London|publisher=Syndics of the Cambridge University Press|isbn=0-521-05799-X}} *{{cite book|last=Rossabi|first=Morris|title=Khubilai Khan: His Life and Times|year=1988|location=Berkeley, Los Angeles, London|publisher=University of California Press|isbn=0520067401|url=https://archive.org/details/khubilaikhanhisl00ross}} *{{cite book|last1=Tillman|first1=Hoyt C.|last2=West|first2=Stephen H.|authorlink2=Stephen H. West|title=China Under Jurchen Rule: Essays on Chin Intellectual and Cultural History|year=1995|location=Albany|publisher=State University of New York Press|isbn=0-7914-2273-9}} *{{cite book|last=Walton|first=Linda|title=Academies and Society in Southern Sung China|year=1999|location=Honolulu|publisher=University of Hawaii Press|isbn=0824819624|jstor=3558593}} *{{cite journal|last=Wang|first=Yu-ch'uan|title=An Outline of The Central Government of The Former Han Dynasty|journal=Harvard Journal of Asiatic Studies|date=June 1949|volume=12|issue=1/2|pages=134–187|doi=10.2307/2718206|jstor=2718206}} *{{cite book|last=Wilkinson|first=Endymion|title=Chinese History: A Manual|year=1998|location=Cambridge and London|publisher=Harvard University Asia Center of the Harvard University Press|isbn=0-674-12378-6}} *{{cite journal|last=Yuan|first=Zheng|title=Local Government Schools in Sung China: A Reassessment|journal=History of Education Quarterly|date=Summer 1994|volume=34|issue=2|pages=193–213|doi=10.2307/369121|jstor=369121|s2cid=144538656 }} ==外部リンク== {{Commons category|Emperors of the Song Dynasty}} *[http://www.chinaknowledge.de/History/Song/song-rulers.html Chinese History – Song Dynasty 宋 (960–1279), emperors and rulers] (www.chinaknowledge.de) {{authority control}} {{デフォルトソート:そうちようのこうてい}} [[Category:宋の皇帝| ]] [[Category:君主の一覧]] [[Category:中国史の人物一覧]]
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中川村 (大分県)
中川村(なかがわむら)は、大分県日田郡にあった村。現在の日田市の一部にあたる。 玖珠川沿いの山間部に位置していた。
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中川村(なかがわむら)は、大分県日田郡にあった村。現在の日田市の一部にあたる。
{{日本の町村 (廃止) | 廃止日 = 1955年3月31日 | 廃止理由 = 新設合併 | 廃止詳細 = [[五馬村]]、'''中川村'''、[[馬原村]] → [[天瀬町|栄村]] | 現在の自治体 = [[日田市]] | よみがな = なかがわむら | 自治体名 = 中川村 | 区分 = 村 | 都道府県 = 大分県 | 郡 = [[日田郡]] | 面積 = | 境界未定 = | 人口 = 5249 | 人口の出典 = [[国勢調査 (日本)|国勢調査]] | 人口の時点 = 1950年 | 隣接自治体 = 馬原村、日田市、[[大山町 (大分県)|大山村]]、五馬村、[[玖珠郡]][[玖珠町]] | 所在地 = 日田郡中川村大字合田 | 座標 = | 位置画像 = | 特記事項 = }} '''中川村'''(なかがわむら{{R|変遷}}{{R|角川}})は、[[大分県]][[日田郡]]にあった[[村]]。現在の[[日田市]]の一部にあたる。 == 地理 == [[玖珠川]]沿いの山間部に位置していた{{R|角川}}。 == 歴史 == *[[1889年]](明治22年)4月1日、[[町村制]]の施行により、日田郡湯山村、合田村、赤岩村、桜竹村、女子畑村が合併して村制施行し、'''中川村'''が発足<ref name=変遷>『市町村名変遷辞典』547頁。</ref><ref name=角川>『角川日本地名大辞典 44 大分県』586頁。</ref>。旧村名を継承した湯山、合田、赤岩、桜竹、女子畑の5大字を編成{{R|角川}}。 *[[1913年]](大正2年)[[九州水力電気]][[九州水力電気#電源開発|女子畑発電所]]竣工{{R|角川}} *[[1955年]](昭和30年)3月31日、日田郡五馬村、馬原村と合併し、'''[[天瀬町|栄村]]'''を新設して廃止された{{R|変遷}}{{R|角川}}。 == 産業 == *農業、用材、薪炭{{R|角川}} == 交通 == === 鉄道 === *[[1933年]](昭和8年)国有鉄道久大線(現[[久大本線]])が開通し、[[天ケ瀬駅]](大字桜竹)開設{{R|角川}}。 *[[1934年]](昭和9年)国有鉄道久大線[[豊後中川駅]](大字合田)開設{{R|角川}} === 道路 === *[[1926年]](大正15年)、県道大分~福岡間開通(現[[国道210号]])、五馬道路開通(現[[大分県道674号岩戸五馬日田線]]){{R|角川}}。 == 教育 == *桜竹小学校(大字桜竹){{R|角川}} *丸山小学校(大字合田){{R|角川}} *台小学校(大字女子畑){{R|角川}} == 観光 == *[[天ヶ瀬温泉]]{{R|角川}} == 脚注 == {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[角川日本地名大辞典]] 44 大分県 * 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。 == 関連項目 == * [[大分県の廃止市町村一覧]] {{デフォルトソート:なかかわむら}} [[Category:日田郡]] [[Category:日田市域の廃止市町村]] [[Category:1889年設置の日本の市町村]] [[Category:1955年廃止の日本の市町村]]
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リト・アバツィ
リト・アバツィ(ギリシャ語: Λητώ Αμπατζή, ラテン文字転写: Leto Ampatzi, 1988年6月20日 -) は、ギリシャ 出身の 女優、女性声優、女性歌手 です。 太字はメインキャラクター。
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リト・アバツィ(ギリシャ語: Λητώ Αμπατζή, ラテン文字転写: Leto Ampatzi, 1988年6月20日 -) は、ギリシャ 出身の 女優、女性声優、女性歌手 です。
{{複数の問題 | 特筆性 = 2023-12 | 存命人物の出典皆無 = 2023-12 }} {{声優 | 名前 = リト・アバツィ | ふりがな = | 画像ファイル = | 画像サイズ = | 画像コメント = | 本名 = | 愛称 = | 性別 = 女性 | 出生地 = {{Flagicon|GRE}} [[ギリシャ]]、[[アテネ]] | 死没地 = | 生年 = 1988 | 生月 = 6 | 生日 = 20 | 没年 = | 没月 = | 没日 = | 血液型 = | 身長 = | 職業 = | 事務所 = | 配偶者 = | 著名な家族 = | 公式サイト = | 活動時期 = 2006年 - | デビュー作 = | 活動 = }} '''リト・アバツィ'''({{翻字併記|el|Λητώ Αμπατζή|Leto Ampatzi}}, [[1988年]][[6月20日]] -) は、[[ギリシャ]] 出身の 女優、女性[[声優]]、女性[[歌手]] です。 == 出演作品 == '''太字'''はメインキャラクター。 === テレビアニメ === * [[トッツ とべ! あかちゃん おとどけたい]] (フレディ) * [[鬼滅の刃]] (竈門禰豆子) === アニメ映画 === * [[ワンス・アポン・ア・スタジオ -100年の思い出-]] (ティアナ) * [[トロールズ・バンド・トゥギャザー]] (ビバ) === 映画 === * フェアリー・ゴッドマザー (オパール、バーブ) * [[ムーラン (2020年の映画)|ムーラン]] (ムーラン) * レジスタンス/奇跡の一夜 === 唱歌 === * [[アリスとふしぎのくにのベーカリー]] (キキ (歌唱のみ)) * デュードロップ・ダイアリーズ (オープニングテーマバックコラース) * [[ワンス・アポン・ア・スタジオ -100年の思い出-]] ([[ミニーマウス]] (歌唱のみ)) == 外部リンク == [[Category:ギリシャの女優]] [[Category:ギリシャの声優]] [[Category:ギリシャの歌手]] [[Category:1988年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:アテネ大学出身の人物]] [[Category:アテネ出身の人物]] [[Category:サリー大学出身の人物]]
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第49回ロサンゼルス映画批評家協会賞
49th LAFCA Awards 2023年12月10日 作品賞: The Zone of Interest 第49回ロサンゼルス映画批評家協会賞は、ロサンゼルス映画批評家協会が2023年の映画作品に贈る賞である。2023年12月10日に受賞者が発表された。
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第49回ロサンゼルス映画批評家協会賞は、ロサンゼルス映画批評家協会が2023年の映画作品に贈る賞である。2023年12月10日に受賞者が発表された。
<div style="float: right; font-size: smaller; background-color:#E6E6FA; padding: 12px; margin-left: 5em; margin-bottom: 2em; width: 180px" align="center"> {{big|'''49th LAFCA Awards'''}}<br> <div style="padding-left: 15px"> 2023年12月10日 </div> ---- <br> 作品賞: <br> {{big|'''''[[:en:The Zone of Interest (film)|The Zone of Interest]]'''''}} </div> '''第49回ロサンゼルス映画批評家協会賞'''は、[[ロサンゼルス映画批評家協会賞|ロサンゼルス映画批評家協会]]が[[2023年の映画|2023年の映画作品]]に贈る賞である。[[2023年]]12月10日に受賞者が発表された<ref>{{cite web|url=https://nextbestpicture.com/the-2023-los-angeles-film-critics-association-lafca-winners/|title=The 2023 Los Angeles Film Critics Association (LAFCA) Winners|publisher=Next Best Picture|date=2023-12-10|accessdate=2023-12-11}}</ref><ref>{{Cite web |title=Awards for 2023 - LAFCA |url=http://www.lafca.net/Years/2023.php |website=www.lafca.net |accessdate=2023-12-11}}</ref>。 ==受賞一覧== ===作品賞=== * 受賞:『'''''[[:en:The Zone of Interest (film)|The Zone of Interest]]'''''』 **次点:『[[オッペンハイマー (映画)|オッペンハイマー]]』 ===監督賞=== * 受賞:'''[[ジョナサン・グレイザー]]''' - 『'''''[[:en:The Zone of Interest (film)|The Zone of Interest]]'''''』 ** 次点:[[ヨルゴス・ランティモス]] - 『[[哀れなるものたち (映画)|哀れなるものたち]]』 ===主演俳優賞=== * 受賞:'''{{仮リンク|ザンドラ・ヒュラー|en|Sandra Hüller}}''' - 『'''[[落下の解剖学]]'''』、『'''''[[:en:The Zone of Interest (film)|The Zone of Interest]]'''''』 * 受賞:'''[[エマ・ストーン]]''' - 『'''[[哀れなるものたち (映画)|哀れなるものたち]]'''』 ** 次点:[[アンドリュー・スコット]] - 『{{仮リンク|異人たち|en|All of Us Strangers}}』 ** 次点:[[ジェフリー・ライト]] - 『[[アメリカン・フィクション]]』 ===助演俳優賞=== * 受賞:'''[[レイチェル・マクアダムス]]''' - 『'''''[[:en:Are You There God? It's Me, Margaret. (film)|Are You There God? It's Me, Margaret.]]'''''』 * 受賞:'''{{仮リンク|ダヴァイン・ジョイ・ランドルフ|en|Da'Vine Joy Randolph}}''' - 『'''''[[:en:The Holdovers|The Holdovers]]'''''』 ** 次点:[[リリー・グラッドストーン]] - 『[[キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン]]』 ** 次点:[[ライアン・ゴズリング]] - 『[[バービー (映画)|バービー]]』 ===脚本賞=== * 受賞:'''[[アンドリュー・ヘイ]]''' - 『'''{{仮リンク|異人たち|en|All of Us Strangers}}'''』 ** 次点:{{仮リンク|サミー・バーチ|en|Samy Burch}} - 『''[[:en:May December|May December]]''』 ===撮影賞=== * 受賞:'''[[ロビー・ライアン]]''' - 『'''[[哀れなるものたち (映画)|哀れなるものたち]]'''』 ** 次点:[[ロドリゴ・プリエト]] - 『[[バービー (映画)|バービー]]』、『[[キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン]]』 ===編集賞=== * 受賞:'''ロラン・セネシャル''' - 『'''[[落下の解剖学]]'''』 ** 次点:ジョナサン・アルバーツ - 『{{仮リンク|異人たち|en|All of Us Strangers}}』 ===音楽賞=== * 受賞:'''{{仮リンク|マイカ・リーヴァイ|en|Mica Levi}}、ジョニー・バーン(特別表彰)''' - 『'''''[[:en:The Zone of Interest (film)|The Zone of Interest]]'''''』 ** 次点:[[マーク・ロンソン]]、{{仮リンク|アンドリュー・ワイアット|en|Andrew Wyatt}} - 『[[バービー (映画)|バービー]]』 ===美術賞=== * 受賞:'''{{仮リンク|サラ・グリーンウッド|en|Sarah Greenwood}}''' - 『'''[[バービー (映画)|バービー]]'''』 ** 次点:ショーナ・ヒース、ジェームズ・プライス - 『[[哀れなるものたち (映画)|哀れなるものたち]]』 ===外国語映画賞=== * 受賞:『'''[[落下の解剖学]]'''』 ** 次点:『''[[:en:Tótem (film)|Tótem]]''』 ===ドキュメンタリー/ノンフィクション映画賞=== * 受賞:『'''''Menus-Plaisirs – Les Troisgros'''''』 ** 次点:『''[[:en:The Eternal Memory|The Eternal Memory]]''』 === アニメ映画賞 === * 受賞:『'''[[君たちはどう生きるか (映画)|君たちはどう生きるか]]'''』 ** 次点:『''[[:en:Robot Dreams (film)|Robot Dreams]]''』 ===新人賞=== * 受賞:'''{{仮リンク|セリーヌ・ソン|en|Celine Song}}''' - 『'''[[パスト ライブス/再会]]'''』 ===功労賞=== *'''[[アニエスカ・ホランド]]''' ===ダグラス・エドワード実験/自主映画賞=== *『'''''[[:en:Youth (Spring)|Youth (Spring)]]'''''』 ==出典== {{Reflist}} == 外部リンク == *{{Official|http://www.lafca.net}}{{en icon}} {{ロサンゼルス映画批評家協会賞}} {{デフォルトソート:ろさんせるすえいかひひようかきようかいしよう2023}} [[Category:ロサンゼルス映画批評家協会賞|49]] [[Category:2023年の映画賞]] [[Category:2023年のアメリカ合衆国]] [[Category:2023年12月]]
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山本花帆
山本 花帆(やまもと かほ、2011年7月4日 - )は、東京都出身の子役。スターダストプロモーション所属。 身長152cm。 趣味は舞台鑑賞、歌を歌う事、読書。特技はバレエ。
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'''山本 花帆'''(やまもと かほ、[[2011年]][[7月4日]] - )は、[[東京都]]出身の[[子役]]。[[スターダストプロモーション]]所属。 == 人物 == 2021年、第2回スターオーディションにて審査員特別賞受賞<ref name="スターダスト"/>。 身長152cm<ref name="スターダスト">[https://www.stardust.co.jp/talent/section3/yamamotokaho/ 山本花帆 | スターダストプロモーション]</ref>。 趣味は[[舞台]]鑑賞、[[歌唱|歌を歌う事]]、[[読書]]<ref name="スターダスト"/>。特技は[[バレエ]]<ref name="スターダスト"/>。 == 出演作品 == === テレビドラマ === * [[連続テレビ小説]] / [[らんまん]] 第6週(2023年、[[日本放送協会|NHK]]) - 及川小春 * [[仮面ライダーガッチャード]] 第14、15話(2023年、[[テレビ朝日]]) - 間辺爽 === テレビ番組 === * [[シューイチ]](2022年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) === 舞台 === * くまのがっこうミュージカル「ジャッキー!」(2018年) * [[レ・ミゼラブル]](2019年) * [[マリー・アントワネット (ミュージカル)|マリー・アントワネット]](2021年) * [[丸美屋食品工業|丸美屋食品]]ミュージカル「[[アニー]]」(2022年、[[新国立劇場]] 中劇場) - '''主演:アニー''' == 脚注 == <references /> == 外部リンク == * [https://www.stardust.co.jp/talent/section3/yamamotokaho/ プロフィール] - [[スターダストプロモーション]] {{スターダストプロモーション}} {{DEFAULTSORT:やまもと かほ}} [[Category:日本の子役]] [[Category:日本のミュージカル俳優]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:スターダストプロモーション]] [[Category:2011年生]] [[Category:存命人物]]
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崎野清憲
崎野 清憲(さきの きよたか、1953年 - )は、日本の材料工学者。 工学博士 (法政大学) 。法政大学理工学部機械工学科教授。 1978年に法政大学工学部卒業後、法政大学大学院工学研究科へと進学し博士前期修了。1993年より法政大学専任講師を担当し、助教授を経て理工学部教授となる。1996年、論文により博士号を取得した。 2002年より日本材料学会 衝撃部門委員会の幹事を務める。2018年に同学会の功労賞を受賞した。
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崎野 清憲は、日本の材料工学者。 工学博士 (法政大学)。法政大学理工学部機械工学科教授。
{{Infobox 学者 |名前= 崎野 清憲<br />さきの きよたか |別名= |誕生名= |生年月日= {{生年と年齢|1953}} |生誕地= {{JPN}} |国籍= |出身校= [[法政大学工学部]] |研究機関= [[法政大学理工学部]] |博士課程指導教員= |他の指導教員= |博士論文指導学生= |主な指導学生= |学位= [[工学博士]]([[法政大学]]) |称号= |特筆すべき概念= |主な業績= |主要な作品= |影響を受けた人物= |影響を与えた人物= |学会= 日本実験力学会<br>日本材料学会 衝撃部門委員会<br>日本材料学会<br>日本機械学会 |主な受賞歴= 功労賞(2018年) |署名= |公式サイト= |脚注= }} '''崎野 清憲'''(さきの きよたか、[[1953年]] - )は、日本の材料[[工学者]]。 工学博士 ([[法政大学]]) 。[[法政大学理工学部]][[機械工学科]]教授<ref>[https://kenkyu-web.hosei.ac.jp/Profiles/12/0001127/profile.html 崎野清憲. 法政大学理工学部機械工学科]2023年12月11日閲覧。</ref>。 == 略歴 == 1978年に法政大学[[工学部]]卒業後、法政大学大学院[[工学研究科]]へと進学し博士前期修了。1993年より法政大学専任講師を担当し、助教授を経て理工学部教授となる。1996年、論文により博士号を取得した。 2002年より日本材料学会 衝撃部門委員会の幹事を務める。2018年に同学会の功労賞を受賞した。 == 著作等 == === 論文 === * 『MICROSCOPIC ASPECTS OF STRAI RATE DEPENDENCY OF DYNAMIC FLOW STRESS IN METALLIC MATERIALS』(Proceedings of the sixth International Conference on Mechanical Behavior of Materials、293-300、1991年) * 『高ひずみ速度領域におけるアルミニウムに対する速度急変実験』(日本機械学会論文集(A編)、58(553)、1703-1709、1992年) * 『高ひずみ速度領域における銅に対する速度急変実験』(日本機械学会論文集(A編)、59(566)、2317-2322、1993年) * 『金属材料の高ひずみ速度領域における変形応力のひずみ速度依存性に関する研究』(法政大学博士論文、1996年) * 『6061アルミニウム合金の高ひずみ速度域における粘性抵抗を考慮した変形応力のひずみ速度依存性』(材料54(12)、1301-1306、2005年)など == 専門分野 == * [[材料力学]]<ref>[https://mech.ws.hosei.ac.jp/sakino-lab/index.html 材料強度学研究室. 法政大学]2023年12月11日閲覧。</ref> * [[化学工学]] == 外部リンク == * [https://mech.ws.hosei.ac.jp/sakino-lab/index.html 法政大学材料強度学研究室] == 脚注 == {{Reflist}} {{DEFAULTSORT:さきの きよたか}} [[Category:日本の材料工学者]] [[Category:法政大学の教員]] [[Category:工学士取得者]] [[Category:工学修士取得者]] [[Category:法政大学出身の人物]] [[Category:1953年生]] [[Category:存命人物]]
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リッシュプラス
株式会社リッシュプラスは、愛知県名古屋市中区に本社を置く日本企業。 『私たちは、真心を持って関わります。』という理念のもと、脱毛機の開発・販売、自社脱毛機を使用したエステティックサロンリンリン、レグルスゼロの運営サポートなど、美容をとおしての「幸せのきっかけづくり」を行う。 開発脱毛機は、日本エステティック振興協議会の審査をクリアしており、複数の脱毛サロンで使用されている。 株式会社リッシュプラス設立株式会社リッシュテクノ設立
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株式会社リッシュプラスは、愛知県名古屋市中区に本社を置く日本企業。 『私たちは、真心を持って関わります。』という理念のもと、脱毛機の開発・販売、自社脱毛機を使用したエステティックサロンリンリン、レグルスゼロの運営サポートなど、美容をとおしての「幸せのきっかけづくり」を行う。 開発脱毛機は、日本エステティック振興協議会の審査をクリアしており、複数の脱毛サロンで使用されている。
<!-- 削除についての議論が終了するまで、下記のメッセージ部分は除去しないでください。もしあなたがこのテンプレートを除去した場合、差し戻されます。またページが保護されることもあります。 --> {{Sakujo/本体|2023年12月18日|リッシュプラス}} <!-- 削除についての議論が終了するまで、上記部分は削除しないでください。 --> {{基礎情報 会社 |社名 = 株式会社リッシュプラス |英文社名 = RICHE PLUS Co.,Ltd. |ロゴ = |画像 = |画像説明 = |種類 = [[株式会社]] |機関設計 = |市場情報 = 非上場 |略称 = |国籍 = {{JPN}} |本社郵便番号 = 530-0005 |本社所在地 = [[愛知県]][[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]]栄5-10-3<br>KMビル2F |本社緯度度 = |本社緯度分 = |本社緯度秒 = |本社N(北緯)及びS(南緯) = |本社経度度 = |本社経度分 = |本社経度秒 = |本社E(東経)及びW(西経) = |座標右上表示 = Yes |本社地図国コード = |本店郵便番号 = |本店所在地 = |本店緯度度 = |本店緯度分 = |本店緯度秒 = |本店N(北緯)及びS(南緯) = |本店経度度 = |本店経度分 = |本店経度秒 = |本店E(東経)及びW(西経) = |本店地図国コード = |設立 = [[1999年]] |業種 = サービス業 |法人番号 = 5180001089093 |統一金融機関コード = |SWIFTコード = |事業内容 = 美容機器企画・開発及び販売<br>自社化粧品の開発及び販売<br>エステティックサロン新規企画・運営サポート |代表者 = 代表取締役 松浦 克 |資本金 = 1,000万円 |発行済株式総数 = |売上高 = |営業利益 = |経常利益 = |純利益 = |純資産 = |総資産 = |従業員数 = |支店舗数 = |決算期 = |会計監査人 = |所有者 = |主要株主 = |主要部門 = |主要子会社 = |関係する人物 = |外部リンク = |特記事項 = }} '''株式会社リッシュプラス'''は、[[愛知県]][[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]]に本社を置く日本企業。<br> 『私たちは、真心を持って関わります。』という理念のもと、[[脱毛]]機の開発・販売、自社脱毛機を使用した[[エステティックサロン]]リンリン、レグルスゼロの運営サポートなど、美容をとおしての「幸せのきっかけづくり」を行う。<br> 開発脱毛機は、[[日本エステティック振興協議会]]の審査<ref>{{Cite web|和書|url=http://esthe-jepa.jp/_wp/wp-content/uploads/2015/09/818cbb7aee09e49d53a60a13c486795e.pdf |title=美容ライト機器適合審査制度 |accessdate=2023-12-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://esthe-jepa.jp/_wp/wp-content/uploads/2015/09/e3f59f98c5bf0bd25ccf55cf4579856f.pdf|title=安心・安全な美容ライト機器を届けます |accessdate=2023-12-11}}</ref>をクリアしており、複数の脱毛サロンで使用されている。 == 沿革 == * 1999年 - ラセーヌ黒川店をM&Aにて取得。店名を「グランヴェルジェ」に変更<br>エステティックサロン運営開始<br>名古屋市にトータルエステサロン「グランヴェルジェ」を4店舗オープン * 2003年 - 自社脱毛機<エアクールフラッシュ>開発・販売を開始 * 2007年 - ルブア一宮店オープン<br>ルブア一宮店、店名をグランヴェルジェ一宮店に変更<br>自社脱毛機<エアクールフラッシュJr>開発・販売を開始 * 2010年 - 株式会社リッシュプラス設立<br>株式会社リッシュテクノ設立 * 2012年 - 全国に48店舗の脱毛サロンを持つリンリンホールディングス<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hmv.co.jp/artist_%E9%83%BD%E7%AF%89%E4%BD%90%E7%B9%94_200000000906824/item_%E7%B5%90%E5%A9%9A%E3%82%82%E4%BB%95%E4%BA%8B%E3%82%82%E3%81%86%E3%81%BE%E3%81%8F%E3%81%84%E3%81%8F%E4%BA%BA%E7%94%9F%E3%81%AE%E9%BB%84%E9%87%91%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%AB-%E4%BA%BA%E7%94%9F%E3%81%AF%E4%BB%8A%E3%81%99%E3%81%90%E5%A4%89%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B_4980573 |title=結婚も仕事もうまくいく人生の黄金ルール 人生は今すぐ変えられる! : 都築佐織 |accessdate=2023-12-11}}</ref>をM&Aにて取得<br>株式会社リンリン設立 * 2013年 - 自社ビル「KMビル」竣工<br>リッシュプラスグループ本社を移転<br>本社研修センターを設立 * 2014年 - リッシュテクノ自社工場、コールセンター開設 * 2015年 - 自社脱毛機<ドゥトゥークール>開発・販売を開始<br>グランヴェルジェ5店舗をリンリンに統合 * 2016年 - 自社脱毛機<ドゥトゥークールJr>開発・販売を開始 * 2018年 - 美顔器<アクアボーテ>販売を開始<br>自社脱毛機<ドゥトゥークールプラス>開発・販売を開始 * 2020年 - 自社脱毛機<ウェルテクス>開発・販売を開始 * 2023年 - ビューティーワールド大阪<ref>{{Cite web|和書|url=https://beautyworld-japan-osaka.jp.messefrankfurt.com/osaka/ja/exhibitor-search.detail.html/riche-plus-co-ltd.html |title=Beautyworld Japan の出展者検索 |accessdate=2023-12-11}}</ref>に出店 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}}
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マル・ボルダロ
マル・ボルダロ (本名:スペイン語:Mar Bordallo, 1970年6月2日 - ) は スペインの女優、女性声優、女性歌手、翻訳家。
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マル・ボルダロ (本名:スペイン語:Mar Bordallo, 1970年6月2日 - ) は スペインの女優、女性声優、女性歌手、翻訳家。
{{声優 | 芸名 = 睦田 真澄 | ふりがな = マル・ボルダロ | 画像コメント = | 本名 = マリア・デル・マル・ガルシア-ボルダロ・ガルシア | 別名 = | 出生地 ={{ESP}}<br>[[パルラ]]・[[マドリッド]] | 国籍 = {{ESP}} | 民族 = [[スペイン人]] | 身長 = | 血液型 = | 生年 = 1970 | 生月 = 6 | 生日 = 2 | 職業 = [[女優]]・[[声優]]・[[ナレーター]]・[[音響監督]] | 配偶者 = | |公式サイト= | 活動 = {{声優/活動 | 職種 = 声優 | 活動期間 = [[1982年]] - | ジャンル = [[アニメ]]、[[CM]]、<br/>[[ナレーション]]、[[吹き替え]] など | デビュー作 = [[Secret Valley]] }}}} '''マル・ボルダロ''' (本名:[[スペイン語]]:Mar Bordallo, [[1970年]][[6月2日]] - ) は [[スペイン]]の[[俳優|女優]]、女性[[声優]]、女性[[歌手]]。 == 出演作品 == '''太字'''はメインキャラクター。 === テレビアニメ === * [[ポケットモンスター (アニメ)|ポケットモンスター]] === 映画 === * レジスタンス/奇跡の一夜 (エルス・コスター) == 外部リンク == * [http://www.eldoblaje.com/datos/Fichaactordoblaje.asp?Id=234 Mar Bordallo - Ficha eldoblaje.com] (スペイン語) {{デフォルトソート:むつた ますみ}} [[Category:スペインの女優]] [[Category:スペインの声優]] [[Category:マドリード出身の人物]] [[Category:1970年生]]
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エドヴィン・ライディング
Lars Edvin Folke Ryding [以下はライディングと表記する](2003年2月4日) はスウェーデンの俳優。2009年、6歳のときにTVシリーズMannen under trappanにてデビューした。 それ以来、ライディングは次のような作品に出演している。Fröken Frimans krig、 The Crown Jewels、The Stig-Helmer Story、Gåsmamman、 および2011年に制作されたAnnika Bengtzonに関するいくつかの映画作品。 2021年のNetflix番組「Young Royals」では主役のヴィルヘルム王子を演じ、国際的に知られるようになった。 また、スウェーデンの子供向けアニメーション映画Resan till Fjäderkungens rikeでは主役の声優となった。ライディングは2022年、フォーブス誌の「フォーブス30アンダー30」(ヨーロッパ版)に選ばれた。
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Lars Edvin Folke Ryding [以下はライディングと表記する](2003年2月4日) はスウェーデンの俳優。2009年、6歳のときにTVシリーズMannen under trappanにてデビューした。 それ以来、ライディングは次のような作品に出演している。Fröken Frimans krig、 The Crown Jewels、The Stig-Helmer Story、Gåsmamman、 および2011年に制作されたAnnika Bengtzonに関するいくつかの映画作品。 2021年のNetflix番組「Young Royals」では主役のヴィルヘルム王子を演じ、国際的に知られるようになった。 また、スウェーデンの子供向けアニメーション映画Resan till Fjäderkungens rikeでは主役の声優となった。ライディングは2022年、フォーブス誌の「フォーブス30アンダー30」(ヨーロッパ版)に選ばれた。
{{Infobox 人物|name=Edvin Ryding|alt=|caption=|birth_name=Lars Edvin Folke Ryding|birth_date={{Birth date and age|2003|2|4|df=yes}}<ref>{{cite web|url=https://twitter.com/OmarRudberg/status/1489592811376844803|title=Happy birthday to the best Edvin on earth|website=Twitter|date=4 February 2022|accessdate=14 February 2022|archive-date=14 February 2022|archive-url=https://web.archive.org/web/20220214212653/https://twitter.com/OmarRudberg/status/1489592811376844803|url-status=live}}</ref>|birth_place=Stockholm, Sweden|occupation=俳優|years_active=2009〜}} '''Lars Edvin Folke Ryding''' [以下はライディングと表記する](2003年2月4日) はスウェーデンの俳優。2009年、6歳のときにTVシリーズ''Mannen under trappan''にてデビューした。<ref name="auto">{{Cite web |url=http://www.mitti.se/edvin-ar-redo-for-tunga-roller |title=Edvin Ryding är redo för stora roller |access-date=2019-07-12 |archive-url=https://web.archive.org/web/20140413123709/http://www.mitti.se/edvin-ar-redo-for-tunga-roller |archive-date=2014-04-13 |url-status=dead}}</ref> それ以来、ライディングは次のような作品に出演している。''Fröken Frimans krig、'' ''The Crown Jewels、The Stig-Helmer Story''、''Gåsmamman、'' および2011年に制作された''Annika Bengtzon''に関するいくつかの映画作品。<ref>[http://www.svt.se/froken-frimans-krig/har-ar-karaktarerna-i-froken-frimans-krig Här är rollerna] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140102191736/http://www.svt.se/froken-frimans-krig/har-ar-karaktarerna-i-froken-frimans-krig|date=2 January 2014|archivedate=dead}} svt.se Retrieved 12 July 2019</ref> 2021年の[[Netflix]]番組「''Young Royals''」では主役のヴィルヘルム王子を演じ、国際的に知られるようになった。<ref>{{Cite web |author=Mattias Bergqvist |date=1 July 2021 |title=Så bra är Young Royals på Netflix med Edvin Ryding och Omar Rudberg |url=https://www.expressen.se/noje/blogg/tvbloggen/2021/07/01/recension-young-royals-netflix |access-date=15 July 2021 |website=[[Expressen]] |language=sv |archive-date=10 July 2021 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210710222411/https://www.expressen.se/noje/blogg/tvbloggen/2021/07/01/recension-young-royals-netflix/ |url-status=live}}</ref><ref>{{Cite web |author=Sheena Scott |date=4 July 2021 |title=''Young Royals'': New Netflix Teen Series About A Young Swedish Prince |url=https://www.forbes.com/sites/sheenascott/2021/07/04/young-royals-new-netflix-teen-series-about-a-young-swedish-prince |access-date=16 July 2021 |website=[[Forbes]] |archive-date=11 July 2021 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210711064105/https://www.forbes.com/sites/sheenascott/2021/07/04/young-royals-new-netflix-teen-series-about-a-young-swedish-prince/ |url-status=live}}</ref> また、スウェーデンの子供向けアニメーション映画''Resan till Fjäderkungens rike''では主役の声優となった。ライディングは2022年、フォーブス誌の「[[フォーブス30アンダー30]]」(ヨーロッパ版)に選ばれた。<ref>{{Cite web |title=Forbes 30 Under 30 2022: Entertainment |url=https://www.forbes.com/30-under-30/2022/entertainment |access-date=2022-05-06 |website=Forbes |language=en |archive-url=https://web.archive.org/web/20220509035016/https://www.forbes.com/30-under-30/2022/europe/entertainment?profile=edvin-ryding |archive-date=2022-05-09}}</ref> == 主な作品 == == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} [[Category:存命人物]] [[Category:2003年生]]
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七尾市立田鶴浜小学校
七尾市立田鶴浜小学校(ななおしりつたつるはましょうがっこう)は、石川県七尾市に所在する小学校である。 個別に出典が提示されている箇所を除いた出典→ 2008年度より、授業の一環として6年生を対象とした「ふるさと歴史教室」を年に10回開催している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "七尾市立田鶴浜小学校(ななおしりつたつるはましょうがっこう)は、石川県七尾市に所在する小学校である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "個別に出典が提示されている箇所を除いた出典→", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "2008年度より、授業の一環として6年生を対象とした「ふるさと歴史教室」を年に10回開催している。", "title": "特記事項" } ]
七尾市立田鶴浜小学校(ななおしりつたつるはましょうがっこう)は、石川県七尾市に所在する小学校である。
{{Infobox 日本の学校 |校名 = 七尾市立田鶴浜小学校 |画像 = |過去校名 = |国公私立 = [[公立学校]] |設置者 = [[七尾市]] |併合学校 = |校訓 = |設立年月日 = |記念日名称 = |創立記念日 = [[1873年]][[1月18日]] |創立者 = |閉校年月日 = |共学・別学 = [[男女共学]] |分校 = |学期 = [[3学期制]] |小学校コード = |郵便番号 = 929-2121 |所在地 = 石川県七尾市田鶴浜町ホ部365番地 |緯度度 = |緯度分 = |緯度秒 = |経度度 = |経度分 = |経度秒 = |外部リンク = [https://cms1.ishikawa-c.ed.jp/tature/ 公式サイト] }} '''七尾市立田鶴浜小学校'''(ななおしりつたつるはましょうがっこう)は、[[石川県]][[七尾市]]に所在する小学校である。 == 沿革 == 個別に出典が提示されている箇所を除いた出典→<ref>[https://www.city.nanao.lg.jp/sportsbunka/documents/taturuhamasyouenkaku.pdf 田鶴浜小学校の沿革](七尾市、2023年12月11日閲覧)</ref> *[[1873年]] **[[1月18日]] - 田鶴浜村三野多七家を校舎として借り上げ、石川県能登国鹿島郡第十六区区学校を開設する。 **4月 - 校舎が間狭になり、東嶺寺庫裏を借り上げて移転する。 **[[6月5日]] - 「田鶴浜小学校」と改称し、同月14日より開校する。 *[[1877年]]4月 - 奥原校下からの通学が不便との趣旨から分課設置願いが提出される。 *[[1878年]] **2月 - 生徒が多くなり校舎が狭隘となり、当分中村儀左衛門宅を借り上げて分課小学校とし、同年4月から開校する。同時に女児生徒のみの教場も設置する。 **4月 - 奥原分課開校式。 *[[1881年]][[10月]] - 住吉神社境内西側の敷地を借り入れ、新校舎(総坪数179坪4合)を建てて移転する。 *[[1885年]]2月 - 初等、中等、高等の資格指定を得る。 *[[1887年]]4月 - 尋常簡易の資格指定を得る。 *[[1892年]] **3月31日 - 簡易科田鶴浜小学校を廃校とし、同年4月1日、赤蔵尋常小学校や第一端尋常小学校が新築され、田鶴浜・金ケ崎・端・赤蔵の四村に小学校が設置される。 **11月 - 高等小学校科を併置し、田鶴浜尋常高等小学校と称する。 **[[12月9日]] - 大地震があり、校舎の損害が甚だし。 *[[1900年]][[9月1日]] - 小学校令の改正により校名を石川県鹿島郡田鶴浜尋常高等小学校と改称する。 *[[1905年]][[9月11日]] - 相馬村より21名の児童が高等小学校へ入学する。 *[[1909年]][[6月5日]] - 校舎が危険となり、大修繕を行う。 *[[1914年]][[4月1日]] - 本年より高等科生徒が端尋常高等小学校へ通学する。 *[[1922年]][[9月17日]] - 新校舎(総坪数1,655坪、建坪484坪6勺。建築費38,250円)を現在地の田鶴浜ホ部365番外49筆に移転新築する。 *[[1934年]] **[[8月31日]] - 赤蔵尋常小学校が廃校となり、通学区域を田鶴浜小学校に合併する。 *[[1936年]] **[[10月30日]] - 旧赤蔵小校舎を移転して校舎を増築する。 **[[12月1日]] - 黒崎正次氏の寄贈により門柱が新設される。 *[[1937年]] **[[3月31日]] - 石川県告示第794号により、端尋常高等小学校高等科を廃止して、本校に合併する。 **[[4月1日]] - 石川県告示第42号により、田鶴浜尋常高等小学校を和倉町尋常高等小学校と改称する。 **[[1938年]]3月31日 - 端尋常小学校の廃止により、通学区域を変更する。 **[[1939年]][[7月20日]] - 校名を石川県鹿島郡田鶴浜尋常高等小学校と改称する。 *[[1941年]][[3月31日]] - 石川県鹿島郡田鶴浜国民学校と改称する。 *[[1944年]][[9月18日]] - [[大阪市立中野小学校|大阪市中野国民学校]]が集団疎開し、得源寺・悦宗寺・称蓮寺(火災後は得源寺へ)を宿舎とし、本校で教育を受ける。職員5名、初等科第3・4学年児童130名。 *[[1945年]][[10月17日]] - 大阪市中野国民学校の職員と児童が帰郷する。10月13日に送別会を開催し、当日は全職員と全児童、多くの町民が駅まで歓送する。 *[[1947年]][[4月1日]] - 学制改革により、石川県鹿島郡田鶴浜町立田鶴浜小学校と改称する。 *[[1952年]]11月 - ブルトーザー機を使用して運動場を拡張する。 *[[1953年]]5月 - 国旗掲揚塔を設置する。 *[[1973年]][[2月1日]] - 創立百周年を迎え、田鶴浜町立田鶴浜小学校の新築工事が落成する。校舎敷地11,180㎡。総工費136,944,000円。 *[[2004年]] **[[4月1日]] - 相馬小学校、金ケ崎小学校が統合され、新田鶴浜小学校となる。 **[[10月1日]] - 田鶴浜町が七尾市と合併し、現校名の七尾市立田鶴浜小学校となる。 == 特記事項 == [[2008年]]度より、授業の一環として6年生を対象とした「ふるさと歴史教室」を年に10回開催している<ref>[https://www.city.nanao.lg.jp/sportsbunka/hamasyou.html 田鶴浜小学校](七尾市、2023年12月11日閲覧)</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} ==関連項目== * [[石川県小学校一覧]] == 外部リンク == *[https://cms1.ishikawa-c.ed.jp/tature/ 七尾市立田鶴浜小学校] {{School-stub|pref=石川県}} {{DEFAULTSORT:ななおしりつたつるはましよう}} [[Category:石川県の公立小学校]] [[Category:七尾市の学校|たつるはま]] [[Category:学校記事]]
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串間市立有明小学校
串間市立有明小学校(くしましりつ ありあけしょうがっこう)は、宮崎県串間市にある市立小学校。
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串間市立有明小学校は、宮崎県串間市にある市立小学校。
{{Infobox 日本の学校 |校名 = 串間市立有明小学校 |画像 = |過去校名 = 第十六学区二十七中学区第二十一番小学区今町小学校<br/>南那珂郡九番学区郡元小学校今町分校<br/>南那珂郡八番学区今町小学校<br/>福島村立松山尋常小学校<br/>第二福島尋常小学校<br/> 福島町立有明国民学校<br/>福島町立有明小学校 |国公私立 = [[公立学校]] |設置者 = 今町村(1873年 - )<br >西方村( - 1889年)<br >福島村(1889年 - 1926年)<br >[[福島町 (宮崎県)|福島町]](1926年 - 1954年<br >[[串間市]](1954年 - ) |併合学校 = 高松小学校 |校訓 = かしこい子 やさしい子 たくましい子 |設立年月日 = [[1873年]][[6月20日]] |創立記念日 = [[6月1日]] |共学・別学 = [[男女共学]] |分校 = 高松分教場(1887年独立)<br >時期不明 - 1887年 |学期 = [[3学期制]] |校地面積 = |校舎面積 = |郵便番号 = 888-0001 |所在地 = 宮崎県串間市大字西方15077-2 |緯度度 = 31 |緯度分 = 27 |緯度秒 = 24 |経度度 = 131 |経度分 = 12 |経度秒 = 17 |外部リンク = [https://cms.miyazaki-c.ed.jp/1227/ 公式サイト] }} '''串間市立有明小学校'''(くしましりつ ありあけしょうがっこう)は、[[宮崎県]][[串間市]]にある[[公立小学校]]。 == 沿革 == * [[1873年]]([[明治]]6年)[[6月20日]] - 今町の民家を借用して開校<ref name=":0">{{Cite web |url=https://cms.miyazaki-c.ed.jp/1227/%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81 |title=学校の概要 |access-date=2023-12-13 |website=串間市立有明小学校 |publisher=宮崎県教育情報通信ネットワーク}}</ref>。 * [[1874年]](明治7年)6月 - 常照寺旧跡に校舎を落成し、移転<ref name=":0" />。 * [[1876年]](明治9年)3月 - 校舎を落成し、移転。「第十六学区二十七中学区第二十一番小学区今町小学校」に'''改称'''<ref name=":0" />。 * [[1885年]](明治18年)7月 - 「[[南那珂郡]]九番学区郡元小学校今町分校」に'''改称'''<ref name=":0" />。 * [[1887年]](明治20年)4月 - 「南那珂郡八番学区今町小学校」に'''改称'''。高松分教場が高松小学校として独立<ref name=":0" />。 *[[1892年]](明治25年)[[6月1日]] - 高松小学校と統合し、「福島村立松山尋常小学校<ref>{{Cite book|和書 |title=帝国小学校名簿 |date=1910-10-7 |publisher=東京書籍商組合 |page=1013 |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/813004/1/517 |access-date=2023-12-14 |doi=10.11501/813004 |editor=東京書籍商組合}}</ref>」に'''改称'''<ref name=":0" />。 * [[1899年]](明治32年)7月 - 現在地に校舎を落成し、移転<ref name=":0" />。 * [[1909年]](明治42年) ** 9月 - 校舎を78坪分増築<ref name=":0" />。 ** 12月 - 校舎を84坪分増築<ref name=":0" />。 * [[1921年]]([[大正]]10年)4月 - 校舎を増築<ref name=":0" />。 * [[1926年]](大正15年)10月 - 「第二福島尋常小学校」に'''改称'''<ref name=":0" />。 * [[1941年]]([[昭和]]16年) ** [[4月11日]] - [[国民学校令]]施行に伴い、「福島町立有明[[国民学校]]」に'''改称'''<ref name=":0" />。 ** 校歌(作詞:神戸雄一、作曲:[[海老原直]]<ref>{{Cite web |url=https://cms.miyazaki-c.ed.jp/1227/%E6%A0%A1%E6%AD%8C |title=校歌 |access-date=2023-12-13 |website=串間市立有明小学校 |publisher=宮崎県教育情報通信ネットワーク}}</ref>)を制定<ref name=":0" />。 * [[1947年]](昭和22年)4月 - [[学校教育法]]施行に伴い、「[[福島町 (宮崎県)|福島町]]立有明小学校」に'''改称'''<ref name=":0" />。 * [[1949年]](昭和24年)[[4月29日]] - 校舎を増築<ref name=":0" />。 * [[1951年]](昭和26年)2月 - 給食調理室を設置<ref name=":0" />。 * [[1953年]](昭和28年)4月 - 4教室分と廊下を改築<ref name=":0" />。 * [[1954年]](昭和29年)[[11月3日]]<ref group="注">学校公式サイトでは'''3月'''となっているが、誤りである。</ref> - 町村合併に伴い、「串間市立有明小学校」に'''改称'''<ref name=":0" />。 * [[1955年]](昭和30年) ** 9月 - 給食調理室と宿直室を増改築<ref name=":0" />。 ** 11月 - 6教室分を改築<ref name=":0" />。 * [[1959年]](昭和34年) ** [[3月13日]] - 鉄筋校舎(190坪)を落成。中庭庭園を設置<ref name=":0" />。 ** [[8月20日]] - 調理室と渡り廊下を設置<ref name=":0" />。 * [[1961年]](昭和36年)[[12月5日]] - 観察池を設置<ref name=":0" />。 * [[1962年]](昭和37年)[[7月1日]] - 特殊学級(現:[[特別支援学級]])を開設<ref name=":0" />。 * [[1963年]](昭和38年)[[3月1日]] - 校舎を増築し、理科室と理科準備室を設置<ref name=":0" />。 * [[1967年]](昭和42年)[[11月20日]] - 東通用門を設置。南通用門を閉鎖。西通用門を移動<ref name=":0" />。 * [[1972年]](昭和47年) ** [[3月18日]] - 体育館を落成<ref name=":0" />。 ** [[4月1日]] - 言語治療教室(現:ことばの教室)を開設<ref name=":0" />。 * [[1973年]](昭和48年)4月1日 - 言語治療教室を増設<ref name=":0" />。 * [[1974年]](昭和49年)4月1日 - [[訪問学級|訪問教室学級]]を開設<ref name=":0" />。 * [[1975年]](昭和50年)[[5月15日]] - 新校舎(教室棟)を落成<ref name=":0" /><ref name=":2" />。 * [[1976年]](昭和51年)8月 - 校内環境緑化計画として校庭南に樹木園(学校園)を設置<ref name=":0" />。 * [[1978年]](昭和53年)[[8月11日]] - プールを落成<ref name=":0" />。 * [[1980年]](昭和55年)4月 - 特殊学級(情緒)を開設<ref name=":0" />。 * [[1986年]](昭和61年)[[2月3日]] - 金銭教育協力校に指定(2年間)<ref name=":0" />。 * [[1992年]]([[平成]]4年) ** 3月 - 管理棟を落成<ref name=":0" />。 ** [[4月4日]] - 創立100周年記念として日本庭園や飼育小屋などを設置<ref name=":0" />。 ** [[5月31日]] - 創立100周年記念として記念碑を設置<ref name=":0" />。 * [[1993年]](平成5年)[[4月20日]] - 南那珂教育事務所研究協力校に指定<ref name=":0" />。 * [[1995年]](平成7年) ** [[3月20日]] - 多目的ホールを設置<ref name=":0" />。 ** [[5月1日]] - 社会福祉教育推進校に指定<ref name=":0" />。 * [[1996年]](平成8年)[[4月10日]] - 県指定福祉教育推進校に指定(3年間)<ref name=":0" />。 * [[1997年]](平成9年)[[5月10日]] - 南那珂教育事務所研究協力校に指定(2年間)<ref name=":0" />。 * [[1999年]](平成11年)4月1日 - 心の教育充実事業モデルと市指定福祉教育推進校に指定<ref name=":0" />。 * [[2002年]](平成14年)4月1日 - 串間市社会福祉普及推進校に指定(3年間)<ref name=":0" />。 * [[2007年]](平成19年) ** [[11月1日]] - 児童生徒の健全育成のための学校警察相互連絡制度を協定<ref name=":0" />。 ** [[11月6日]] - 有明小学校コミュニティー協議会を発足<ref name=":0" />。 * [[2008年]](平成20年)[[1月24日]] - 有明地区幼保小連携協議会を発足<ref name=":0" />。 * [[2014年]](平成26年)[[6月6日]] - 青少年[[赤十字社|赤十字]](JRC)へ加入<ref name=":0" />。 * [[2015年]](平成27年)[[6月5日]] - 読み聞かせボランティアを発足<ref name=":0" />。 == 教育目標 == {{Quotation|ふるさとを愛し 志を高く持った 心身ともに健やかな子どもたちの育成}} * かしこい子(知) * やさしい子(徳) * たくましい子(体) '''出典''':<ref name=":0" /> == 施設概要 == 主な施設を掲載。 * 校舎 ** 教室棟(1,150 m{{Sup|2}}) - 鉄筋コンクリート造2階建て<ref name=":2">{{Cite web |url=http://www.city.kushima.miyazaki.jp/contents/7d9311093717294/other/7d93110937172943.pdf |title=串間市立学校施設耐震診断(耐震化優先度調査・二次診断)結果表 |access-date=2023-12-13 |publisher=串間市 |website=串間市ホームページ |date=2009-3-1 |archive-url=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3486091/www.city.kushima.miyazaki.jp/contents/7d9311093717294/other/7d93110937172943.pdf |archive-date=2012-3-5}}</ref> ** 管理棟 - 鉄筋コンクリート造2階建て * 体育館(651 m{{Sup|2}}) - 鉄骨造平屋建て<ref name=":2" /> * 校庭 * プール == 学区 == * 串間市 ** 大字高松 ** 大字西方(一部) ** 大字南方(一部) ** 寺里(一部) '''出典''':<ref name=":1">{{Cite web |url=https://www.city.kushima.lg.jp/main/health/schooling/cat2/cat/post-126.html |title=串間市立小学校・中学校の通学区域の一覧 |access-date=2023-12-13 |publisher=串間市 |website=串間市ホームページ}}</ref> == 進学先の中学校 == * [[串間市立福島中学校]](串間市大字西方) - 2016年度以前<ref>{{Cite web |url=http://www.city.kushima.lg.jp/main/health/schooling/cat2/cat/post-126.html |title=小中学校の通学区域 |access-date=2023-12-14 |publisher=串間市 |website=串間市ホームページ |archive-url=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10312534/www.city.kushima.lg.jp/main/health/schooling/cat2/cat/post-126.html |archive-date=2017-3-9}}</ref> * [[串間市立串間中学校]](串間市大字西方) - 2017年度以降<ref name=":1" /> == アクセス == === 鉄道 === * [[福島今町駅]]([[JR九州]]・[[日南線]])から徒歩で約3分 === バス === * 「塩町」バス停([[串間市コミュニティバス]])から徒歩で約1分 == 周辺 == * 福島今町駅 * むつみ保育園 * 串間第5児童公園 == 脚注 == === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[宮崎県小学校一覧]] == 外部リンク == * [https://cms.miyazaki-c.ed.jp/1227/ 串間市立有明小学校] {{DEFAULTSORT:くしましりつありあけしよう}} [[Category:宮崎県の公立小学校]] [[Category:串間市の小学校|ありあけ]] [[Category:学校記事]]
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第19回フィルムフェア賞 南インド映画部門
第19回フィルムフェア賞 南インド映画部門(19th Filmfare Awards South)は、インドの映画賞。『フィルムフェア』が主催し、1971年の南インド映画(タミル語映画、テルグ語映画、マラヤーラム語映画、カンナダ語映画)を対象としており、1972年に開催された。
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第19回フィルムフェア賞 南インド映画部門は、インドの映画賞。『フィルムフェア』が主催し、1971年の南インド映画(タミル語映画、テルグ語映画、マラヤーラム語映画、カンナダ語映画)を対象としており、1972年に開催された。
{{Infobox Award | name = 第19回フィルムフェア賞<br />南インド映画部門 | current_awards = | image = | imagesize = | alt = | caption = | description = 優秀な[[南インドの映画|南インド映画]] | presenter = 『[[フィルムフェア]]』 | host = | date = 1972年3月24日 | country = {{IND}} | location = [[マハーラーシュトラ州]][[ムンバイ|ボンベイ]] | reward = <!-- 報酬 --> | website = [http://awards.filmfare.com/ Filmfare] | previous = [[第18回フィルムフェア賞 南インド映画部門|第18回]] | main = [[フィルムフェア賞 南インド映画部門]] | next = [[第20回フィルムフェア賞 南インド映画部門|第20回]] }} '''第19回[[フィルムフェア賞 南インド映画部門]]'''(19th Filmfare Awards South)は、[[インド]]の映画賞。『[[フィルムフェア]]』が主催し、1971年の[[南インドの映画|南インド映画]]([[タミル語映画]]、[[テルグ語映画]]、[[マラヤーラム語映画]]、[[カンナダ語映画]])を対象としており、1972年に開催された<ref>{{cite web|url=https://bollywoodproduct.in/19th-filmfare-awards-south-1972/|title=19th Filmfare Awards South (1972)|publisher=Bollywood Product|accessdate=2023-12-11}}</ref>。 == 審査員 == * ジャスティス・サーダシヴァム(審査員長) * T・S・ムトゥスワーミ * K・チェリアン * R・S・チュンナイヤ * U・ハリーニー * C・N・ラーマヌジャーム * シヴァサイラーム * S・V・ヴェーヌゴーパーラン == 受賞結果 == {| class=wikitable |- ! style="background:#EEDD82; width:50%" | {{仮リンク|フィルムフェア賞 タミル語映画部門作品賞|en|Filmfare Award for Best Film – Tamil|label=タミル語映画部門作品賞}} ! style="background:#EEDD82; width:50%" | {{仮リンク|フィルムフェア賞 テルグ語映画部門作品賞|en|Filmfare Award for Best Film – Telugu|label=テルグ語映画部門作品賞}} |- | valign="top" | * 『'''''[[:en:Babu (1971 film)|Babu]]'''''』 | valign="top" | * 『'''''Tahsildar Gari Ammayi'''''』 |- ! style="background:#EEDD82; width:50%"| {{仮リンク|フィルムフェア賞 カンナダ語映画部門作品賞|en|Filmfare Award for Best Film – Kannada|label=カンナダ語映画部門作品賞}} ! style="background:#EEDD82; width:50%"| {{仮リンク|フィルムフェア賞 マラヤーラム語映画部門作品賞|en|Filmfare Award for Best Film – Malayalam|label=マラヤーラム語映画部門作品賞}} |- | valign="top" | * 『'''''[[:en:Sharapanjara|Sharapanjara]]'''''』 | valign="top" | * 『'''''[[:en:Aabhijathyam|Aabhijathyam]]'''''』 |} == 出典 == {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Official|http://awards.filmfare.com/}} {{DEFAULTSORT:ふいるむふえあしようみなみいんとえいかふもん19}} [[Category:フィルムフェア賞 南インド映画部門|19]] [[Category:1972年のインド]] [[Category:1972年の映画|*ふいるむふえあしようみなみいんとえいかふもん]] [[Category:1972年3月]]
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ライブエグザム
株式会社ライブエグザム(LIVE EXSAM Inc.)は、国内外の音楽ライブ、コンサート、イベント興行の企画・制作をしている会社である。
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株式会社ライブエグザムは、国内外の音楽ライブ、コンサート、イベント興行の企画・制作をしている会社である。
{{出典の明記|date=2023年12月24日 (日) 06:50 (UTC)}} {{基礎情報 会社 |社名 = 株式会社ライブエグザム |英文社名 = LIVE EXSAM Inc. |ロゴ = |画像 = |画像説明 = |種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] |市場情報 = 非上場 |略称 = ライブエグザム |国籍 = {{JPN}} |本社郵便番号 = 106-0032 |本社所在地 = [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[六本木]]3丁目16番33号 |本店郵便番号 = |本店所在地 = |設立 = [[2014年]][[6月2日]] |業種 = サービス業 |事業内容 = 興行の企画・制作 |代表者 = [[代表取締役]][[社長]] 宮崎 雅史 <br /> [[取締役]][[会長]] 杉本 圭司 |資本金 = 4,900万円 |発行済株式総数 = |売上高 = |営業利益 = |経常利益 = |純利益 = |純資産 = |総資産 = |従業員数 = |決算期 = |主要株主 = |主要子会社 = LAF Entertainment株式会社 <br /> 株式会社パブチェア |関係する人物 = |外部リンク = https://www.liveexsam.co.jp/ |特記事項 = 2020年5月までの社名は「株式会社Zeppライブ」 }} '''株式会社ライブエグザム'''(''LIVE EXSAM Inc.'')は、国内外の音楽ライブ、コンサート、イベント興行の企画・制作をしている会社である。 ==概要== == 沿革 == * [[2014年]][[6月2日]]:株式会社Zeppライブ設立 * [[2020年]][[5月8日]]:株式会社ライブエグザムへ社名変更 * [[2021年]][[8月17日]]:イープラス共同出資によるフードエンタテインメント会社「LAF Entertainment株式会社」を設立 == 事業内容 == * 興行の企画・制作 : 国内音楽ライブの制作事業、国内外音楽系イベントの主催および出資参画他 : スポーツイベント、演劇、美術展、エキシビジョン等のライブ事業を実施、イベント専門の広告代理業 == 主な公演 == *; 2022年 * TOKYO IDOL PROJECT×@JAM ニューイヤープレミアムパーティー2022 * STAND UP! CLASSIC オペラ・ミュージカル 新春歌合戦 * [[LUNA SEA]] 30th Anniversary Tour -CROSS THE UNIVERSE- GRAND FINAL * [[角野隼斗]]全国ツアー2022 "Chopin, Gershwin and… " * [[ALI PROJECT]] 30th ANNIVERSARY TOUR 2022 『Belle Époque』 * [[吉本坂46]]『2nd&3rd Anniversary Live~冬眠~』 * [[RED WARRIORS]] 35th Anniversary 『Lesson1 & Casino Drive』 * [[the GazettE]] 『20th ANNIVERSARY -HERESY-』 * [[郷ひろみ]]『Hiromi Go 50th Anniversary Clelebratetion Tour 2022~Keep Spring~』 * [[X Games]] Chiba 2022 Presented by Yogibo * クラフト餃子フェス 2022 TOKYO * [[DISH//]] 『LIVE TOUR -DISH//- 2022「今」』 * 綺羅めく京の明治美術(美術展) * [[電気グルーヴ]] and the ARENA ~みんなとみらいのYOUとぴあ~ * のだめクラシックコンサート * EUROJAPAN CUP 2022 * たまアリ△タウンクリスマスマーケット ~Happy Berry Christmas~ * LUNA SEA『黒服限定GIG 2022 LUNACY』 *; [[乃木坂46]] : [[新内眞衣]] 卒業セレモニー : [[星野みなみ]] 卒業セレモニー : 乃木坂46時間TV : [[北野日奈子]] 卒業コンサート + 29thSGアンダーライブ : 10th YEAR BIRTHDAY LIVE : 真夏の全国ツアー2022 *; [[日向坂46]] : 3回目のひな誕祭 : Happy Smile Tour 2022 *; [[櫻坂46]] : 3rd Single BACKS LIVE!! : 2nd TOUR 2022 "As You know?" == 主要取引先 == : [[イープラス]]、[[HJホールディングス]]、[[キョードー東京]]、[[クリエイティブマンプロダクション]]、[[コンサートプロモーターズ協会]] : [[Seed & Flower|Seed & Flower合同会社]]、[[ソニー・ミュージックエンタテインメント]]、[[ソニー・ミュージックソリューションズ]] : [[ソーゴー東京]]、[[ディスクガレージ]]、[[日本テレビ放送網]]、[[乃木坂46合同会社]]、[[バックステージプロジェクト]] : [[ハヤシインターナショナルプロモーション]]、[[ぴあ]]、[[Z中間グローバル|LINE]]、[[ローソンエンタテインメント]] == 外部リンク == * [https://www.liveexsam.co.jp/ ライブエグザム] {{デフォルトソート:らいふえくさむ}} [[Category:東京都港区の企業]] [[Category:2014年設立の企業]] [[Category:六本木]] {{Company-stub}}
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川上忠重
川上 忠重(かわかみ ただしげ)は、日本の工学者。工学博士(法政大学)。法政大学理工学部機会工学科教授。 1985年、法政大学工学部機械工学科卒業後、法政大学大学院工学研究科にて機械工学を専攻する。1987年に同大学院博士前期修了、1991年同大学院博士後期を修了した。1990年から法政大学工学部の非常勤講師を務め、1995年から同学部助教授となった。2004年、同学部教授となり工学部改組後、理工学部教授へと就任した。
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川上 忠重は、日本の工学者。工学博士(法政大学)。法政大学理工学部機会工学科教授。
{{Infobox 学者 |名前= 川上 忠重<br />かわかみ ただしげ |生年月日= <!-- {{生年月日と年齢|YYYY|MM|DD}} --> |生誕地= {{JPN}} |出身校= [[法政大学工学部]] |配偶者= |両親= |子供= |時代= |活動地域= |学派= |研究分野= [[熱工学]] |研究機関= [[法政大学理工学部]] |博士課程指導教員= |他の指導教員= |博士論文指導学生= |主な指導学生= |学位= [[工学博士]]([[法政大学]]) |称号= |特筆すべき概念= |主な業績= |主要な作品= |影響を受けた人物= |影響を与えた人物= |学会= [[日本機械学会]]<br>[[自動車技術会]]<br>[[日本エネルギー学会]]<br>日本燃焼学会<br>マイクログラビィティ学会 |主な受賞歴= 日本高等教育開発協会賞(2022年) |署名= |公式サイト= |脚注= }} '''川上 忠重'''(かわかみ ただしげ)は、日本の伝熱[[工学者]]。 工学博士([[法政大学]])。[[法政大学理工学部]][[機械工学科]]教授<ref>[https://kenkyu-web.hosei.ac.jp/Profiles/13/0001237/profile.html 川上忠重. 法政大理工学部機械工学科]2023年12月11日閲覧。</ref>。 == 略歴 == 1985年、法政大学[[工学部]]機械工学科卒業後、法政大学大学院[[工学研究科]]にて機械工学を専攻する。1987年に同大学院博士前期修了、1991年同大学院博士後期を修了した。 1990年から法政大学工学部の非常勤講師を務め、1995年から同学部助教授となった。2004年、同学部教授となり工学部改組後、理工学部教授へと就任した。 == 著作等 == === 共著 === * 『燃焼現象の基礎』(株式会社オーム社、2001年) * 『工業熱力学』([[東京大学出版会]]、2010年) === 論文 === * 『対向型急速圧縮装置を用いた高温・高圧下での炭酸ガスを含む炭化水素混合気の燃焼に関する研究』(日本機械学会北陸信越支部第38期総会・講演論文集 (No.017-1) 187-189 2001年) * 『密閉容器内希薄混合気での複数点火による火炎伝播に関する研究』(日本機械学会北陸信越支部第38期総合・講演論文集 (No.017-1) 193-194 2001年) * 『微小重力下における希薄限界プロパンー空気混合気の燃焼特性に関する実験的研究』(日本機械学会論文集(B編) 第67(第656号) 1073-1077 2001年) * 『希薄限界混合気の管内火炎伝播に関する微小重力研究』(日本学術会議・宇宙科学研究所 vol.17 273-276 2001年) * 『小型ガソリン機関を用いた燃料消費率に及ぼす排気管長さの影響について 』(日本機械学会山梨講演会講演論文集 (No.010-4) 221-222 2001年) * 『対向型急速圧縮装置による高温・高圧下での炭化水素ーCO2-O2混合気の燃焼特性に関する研究』(日本機械学会山梨講演会講演論文集 (No.010-4) 217-218 2001年) * 『微小重力法を用いての高温・低酸素雰囲気での廃棄物低質燃料の着火に関する研究』(日本燃焼学会第39回燃焼シンポシウム 109-110 2001年)など == 専門分野 == * [[熱工学]] * [[燃焼工学]] * [[化学工学]] == 受賞歴 == * 日本高等教育開発協会「2022年度日本高等教育開発協会賞」受賞<ref>[https://www.hosei.ac.jp/hyoka/info/article-20230425122748/?auth=9abbb458a78210eb174f4bdd385bcf54 大学評価室長 川上忠重 理工学部 教授 が2022年度日本高等教育開発協会賞を受賞しました。「法政大学」]2023年12月11日閲覧。</ref> == 脚注 == {{Reflist}} {{DEFAULTSORT:かわかみ たたしけ}} [[Category:生年不明]] [[Category:日本の機械工学者]] [[Category:法政大学の教員]] [[Category:工学博士取得者]] [[Category:工学修士取得者]] [[Category:工学士取得者]] [[Category:法政大学出身の人物]] [[Category:存命人物]]
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