text
stringlengths
1
239k
meta
dict
授業(じゅぎょう)は、学校教育などにおいて教科・科目などの教育として行われるもののことである。大学の課程(短期大学の課程、大学院の課程を含む)などにおける授業は、講義、演習、実験、実習、実技に区分される。 概要 教師が教科書を用い、教科・科目などの内容を学習者に説明・解説する方法が代表的である。教科書を読み上げたり読ませたりするなどして教える授業方法は講義といい、法令用語としても使われている。 講義の英称「lecture」を動詞として使用する場合、「講義する」のほかに「叱る」という意味を持っている。一方向的な教化は、学習者がしばしば退屈したり、飽きたり、うんざりさせられるため、授業中の私語を招き、教師が学習者を叱ることがある。「lecture」の「叱る」という意味は、そのあたりの事情を反映していて、意味が深い。 このように学習者の興味を引かないことは学習効果を下げるという批判から、学習者の関心を尊重することの大切さ、自主性を引き出すような授業の必要性、問題解決学習の実践といったことがいわれるようになってきた。 授業の種類 授業は、おおむね次の形態に分類できる。 すべての教育形態において行える授業 面接授業 「面接授業」とは、講義、演習、実験、実習もしくは実技のいずれか、またはこれらの併用により行う授業のことである。もっとも一般的な授業であり、授業というと、この形態が連想されることが多い。このうち、講義・演習は座学に分類され、実験・実習・実技は非座学に分類される。 メディアを利用して行う授業 「メディアを利用して行う授業」とは、講義、演習、実験、実習もしくは実技のいずれかによる授業またはこれらの併用による授業を、多様なメディアを高度に利用して当該授業を行う教室など以外の場所で履修させる授業のことである。2000年代からは通信教育の課程に限らず、実施されることが増えている授業形態である。 通信教育制度においてのみ行える授業 放送授業 主として放送その他これに準ずるものの視聴により学修させる授業のことである。日本においては、放送大学やNHK学園高等学校による授業が知られている。 印刷教材などによる授業 印刷教材のほか、これに準ずる教材を送付もしくは指定し、主としてこの教材により学修させる授業のことである。通信教育の課程においては、「面接授業」や「メディアを利用して行う授業」と並んで一般的な授業形態である。
{ "id": "123332", "title": "授業", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%88%E6%A5%AD" }
聖観音(しょうかんのん)、梵名アーリヤ・アヴァローキテーシュヴァラ ([]) は、仏教における信仰対象である菩薩の一尊。 概要 正観音とも書き、六観音の一尊でもある。観音菩薩(観世音菩薩、観自在菩薩)像には、さまざまな形態のものがあるが、このうち、多面多臂などの超人間的な姿ではない、1面2臂の像を指して聖観音と称している。大慈の観音として、六観音の役割では地獄を化益するという。もともとは「正法明如来(しょうほうみょうにょらい)」という仏であったが、衆生の救済のため人間界に近い菩薩の身となった。 三昧耶形は初割蓮華(綻び始めたハスの花)。種子(種子字)はサ(स)、キリーク(ह्रीः、、フリーヒ)など。 真言は「オン アロリキャ ソワカ」 縁日は毎月18日であるが、特に7月10日は四万六千日と言われる。 像容と持物 観音像には十一面観音、千手観音、如意輪観音など、多面多臂の変化(へんげ)観音と、こうした超人間的な姿ではない、1面2臂の観音像があり、後者を指して「聖観音」または「正観音(主に三寶院流)」と称する。密教では聖観音、十一面観音、千手観音、如意輪観音、馬頭観音、准胝観音(または准胝観音に代えて不空羂索観音)を「六観音」と称している。 聖観音の像容は、前述のように1面2臂の菩薩形で、持物(じもつ)は左手に蓮華を持つのが一般的だが、必ずしも一定していない。水瓶や蓮華を持物とするが、厳密には、左手に未開敷の蓮華を胸前に持ち、同じく胸前右手をたててその花びらを開こうとする胎蔵曼荼羅中台八葉院・蓮華部院の観音の姿が正統とされる。観音像の標識としてもっとも見分けやすいものは、頭上、頭髪部の正面に化仏(けぶつ)と称する阿弥陀如来の小像を置くことで、この点は千手観音など他の観音像にも共通した特色である。 呼称 1面2臂の観音像がすべて「聖観音」と呼称されているわけではない。阿弥陀三尊のうちの左脇侍像として安置される観音像については、単に「観音菩薩像」と言うのが普通で、「聖観音」と称するのは、独尊像として祀られる場合にほぼ限られている。 また、1面2臂の独尊像でも「聖観音」と呼ばれていない例が多々ある。たとえば、奈良・法隆寺には「百済観音」、「夢違観音(ゆめちがいかんのん)」、「救世観音(くせかんのん)」と通称される国宝の観音像3体があるが、これら3体とも国宝指定の際の正式名称は「観音菩薩立像」であり、正式名称としても通称としても「聖観音」とは言わない。 奈良時代を中心に盛んに造られた、いわゆる小金銅仏のなかには、頭上に阿弥陀化仏を有することから、明かに観音像であるとわかるものが多いが、これらについても通常「聖観音」とは言わず、単に「観音(菩薩)像」と言っている。 「聖観音」と一般に呼ばれ、寺院側でもそのように称している像のうち、著名なものとしては、奈良・薬師寺東院堂の本尊像(奈良時代、国宝)、奈良・不退寺本尊像(重文)、京都・鞍馬寺像(重文)などが挙げられる。 観音句 お経の一つである。
{ "id": "123336", "title": "聖観音", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E8%A6%B3%E9%9F%B3" }
『ありがとう! まり子のチャリティーテレソン』(まりこのチャリティーテレソン)は、1975年3月21日から3月22日にかけての25時間にわたり当時の近畿放送(現・京都放送=KBS京都)テレビが実施した日本初のチャリティーテレビ番組イベントである。テレソンとはテレビとマラソンを組み合わせた造語で、テレビの長時間番組でよく採用されている。 概要 女優で、肢体不自由児の社会福祉施設「ねむの木学園」を主宰する宮城まり子が司会を務め、身体障害者の社会参加を呼びかける趣旨のもとで25時間のチャリティーテレビ番組を実施。特に、京都府内に身障者のリハビリセンターを建設することを中心の目的として開催された。このチャリティーテレソンキャンペーンはすでにこの当時、オランダ、アメリカでは実施されていたが、日本では独立UHFの府域局ながらも初の試みだった。民放での放送ながら、CMを1本も入れなかった。 宮城は放送日、かつ自らの誕生日でもある3月21日付京都新聞朝刊の近畿放送の全面広告ページに寄せた寄稿で、「1974年に『ヨーロッパ国際リハビリテーション会議』という国際会議に参加した際、オランダのヘッド・ドルプという町を訪れて、1963年にその町の身体障碍者の福祉施設の園長が、障害児の未来のためにということで23時間にわたるチャリティーマラソンを開催し、その収益金で福祉施設を建設した」ことを知り、「これを、日本でも福祉のためにテレビ番組を犠牲にしてまで国民に訴えることができるだろうか」と、同様のチャリティーマラソンを考えたという。オランダの23時間、アメリカでは24時間のテレソンが行われたが、「それを上回る25時間でできないだろうか」と近畿放送に提案し、それを受け入れられたという。 その反響は凄まじく、視聴者から集められた浄財は4600万円を超えたといい、近畿放送の親会社であり、報道協定を結んでいる京都新聞の3月22日付夕刊(朝刊は新聞休刊日)の1頁・社会面に加え、特集頁が設けられた。社会面の記事によれば、本社直通の募金受付電話には、1万本を超える問い合わせや激励の電話が寄せられ、回線がパンクし3時間かけっぱなしもつながらず、挙句はついに近畿放送のスタジオに押し掛けた市民までいたといわれている。この年のギャラクシー賞年間優秀賞(第12回)受賞を果たす。 その6年後の1981年4月25日18:00から4月27日0:00にかけては、近畿放送の開局30周年と愛称「KBS京都」の制定ならびに国際障害者年の開催を記念し、これよりもさらに5時間長い30時間にわたる『まり子の30時間チャリティーテレソン』を開催した。この時も京都府内に身障者のリハビリセンターを作ることを中心に、視聴者からの浄財を募集した。 同局ではこの翌年より『かたつむり大作戦』を開始している。 プログラム (出典:) 3月21日0:00-1:00 オープニングセレモニー「まり子のテレソンを語る」と題した基調講演(手話付き) 1:00-2:30 討論会「まり子と若者・共に生きる」川村尚、野上芳彦、ボランティア団体の代表らを交えた討論(手話付き) 2:30-4:00 「真夜中のコンサート」高石ともやとナターシャーセブン、長谷川きよしのスタジオでのジョイントコンサート 4:00-6:00 映画「日曜日の朝がやってきた」 チェコ制作の小児まひ児の少年の記録映画 6:00-6:15 京の夜明け 6:15-7:20 まり子のフリータイム(フリートーク) 7:20-8:00 討論会「京都のリハビリテーション構想」 8:00-8:45 KBSエリアスコープ(京都新聞ニュース・天気予報など) この中で「まり子とわらべ歌」と題した取材があった 8:45-9:20 チャリティーブレーク 笑福亭松鶴と来賓として招かれた当時の厚生大臣・田中正巳の対談 9:20-10:00 討論会「日本の福祉政策の現状」 10:00-11:00 海外取材フィルム「高福祉国を訪ねて・西ドイツ、イギリス」 今回のテレソンに当たり、宮城が実際にヨーロッパの福祉事情を取材・表敬訪問した時の模様を放送した 11:00-11:30 討論会「ハンディキャップはつくられている」 11:30-12:00 聞いてください、聞かせてください 12:00-12:20 福祉について 桂米朝と来賓で当時の京都府知事・蜷川虎三による対談 12:20-13:30 討論会「お母さんと一緒に」 身体障碍を持つ子供とその母親による座談会 13:30-15:30 日本サッカーリーグのチャリティー練習試合「ヤンマーディーゼルサッカー部対京都紫光サッカークラブ」中継(於・京都市西京極総合運動公園陸上競技場兼球技場) 身体障碍児のサッカークラブ「レインボーチーム」との交流会の模様も放送 15:30-16:00 福祉の風土づくり 16:00-18:00 チャリティーオークション(於・京都会館別館=現・ロームシアター京都サウスホール) 進行:武部宏、飛鳥井雅和(いづれもKBSアナウンサー) 出演:永六輔、笑福亭鶴三、笑福亭小松、桂春駒、横山ホットブラザーズ、つのゆう子、中川マキ 18:00-18:10 KBSエリアスコープ(京都新聞ニュース・天気予報など) 18:10-18:50 討論会「リハビリテーションの問題」(手話付き) 18:50-19:10 チャリティーブレーク 来賓の衆議院議員・河野洋平や地元関係者らの座談会 19:10-19:30 まり子「ねむの木の詩」を語る 19:30からの映画本編の上映に先駆けて、監督・製作総指揮を務めた同作品の撮影や、ねむの木学園の取り組みについての宮城によるモノローグ 19:30-21:00 映画「ねむの木の詩」 宮城自らが監督を手掛けたねむの木学園の身体障碍者たちの日常を描いた記録映画 21:00-21:30 まり子の一人しゃべり 21:30-22:00 討論会「勇気ある人生」 障害者が社会的な自立を果たした人々の体験談 22:00-23:30 チャリティースペシャル 上方のお笑いタレントによる漫才・落語などのショーを楽しみながら募金を呼び掛けた 出演:横山ノック・上岡龍太郎、桂文珍、月亭八方、林家小染、木村進、間寛平、今陽子、福の花 23:30-23:45 チャリティーブレーク 23:45-3月22日0:30 総括討論会「福祉の総括」 3月22日0:30-1:00 クロージングセレモニー→そのまま21日付放送終了・テストパターン 協賛スポンサー (出典:) AIU(現・AIG損保) アサヒビール 十條キンバリー(現・日本製紙クレシア) 堀内伊太郎商店(現・浅田飴) ナスステンレス製作所(現・ナスラック) カゴメ ロッテ商事 松下電器産業(現・パナソニック) 明治乳業(現・明治) SEIKO(服部時計店。現・セイコーホールディングス)
{ "id": "123337", "title": "宮城まり子のチャリティーテレソン", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E3%81%BE%E3%82%8A%E5%AD%90%E3%81%AE%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%BD%E3%83%B3" }
池上 美弥子(いけがみ みやこ、1970年3月8日 -)は、鹿児島県を拠点に活動する日本のフリーアナウンサー。 来歴 鹿児島県出身。鹿児島純心女子短期大学卒業。 学生時代からアナウンサー志望で、それを念頭に就職活動をするも採用には至らなかった。短大卒業後には一般企業に入社するが、その後も夢を諦めきれずに放送局の採用試験を受け、NHK鹿児島放送局の契約キャスターに採用される。 NHKとの契約の終了後、1995年4月に鹿児島放送 (KKB) に入社。同期に元同局アナウンサーの柿野賢治がいる。同局では、夕方のニュース番組を主に担当。報道部の所属で、記者も兼務していた。 鹿児島放送を退社後、2013年にフリーに転向。以後は、鹿児島県内で講師業を中心とした活動を展開している。 人物 鹿児島放送時代の趣味はフットサルで、2つのチームに入って活動するほどに熱中していた。後にフットサル4級審判員の資格も取得した。 私生活では1児の母。 担当番組 鹿児島放送時代の担当番組のみを記載。 おーいかごしま96 - キャスター スーパーJチャンネル九州・沖縄(九州朝日放送) - 鹿児島放送担当キャスター KKBスーパーJチャンネル 月 - 木曜キャスター(1998年10月5日 - 2000年3月30日) 全曜日キャスター(2003年1月6日 - 2006年3月31日) 川島葉留美の漢方相談 動画配信 みやこ先生のアナウンス教室(南日本新聞) - 南日本新聞がYouTubeで配信している動画シリーズ。 執筆 「発表名人になろう」〜みやこ先生の音読教室〜(南日本新聞)
{ "id": "123339", "title": "池上美弥子", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E4%B8%8A%E7%BE%8E%E5%BC%A5%E5%AD%90" }
SMS ショートメッセージサービス - 携帯電話同士で短文を送受信できるサービス サイトマネジメントシステム (Site Management System) Microsoft Systems Management Serverの略。 加入者管理サーバ (Subscriber Management Server) 安全管理体制 (Safety Management System) スティッフマン症候群 (Stiff Man Syndrome) Seine Majestät Schiff - ドイツ語で「皇帝陛下の艦」の意。ドイツ帝国海軍、オーストリア=ハンガリー帝国海軍の艦であることを示す。 ソニーマニュファクチュアリングシステムズの略称。 ソニー・ミュージックソリューションズの略称。 SOUNDS MARKETING SYSTEM - 解散した日本のレコード会社の略。渡辺プロダクション系。 セガ・マスターシステム (Sega Master System) ソウルモーターショー の略称 エス・エム・エス - 介護・医療人材派遣事業 アニメーション作品『マクロスF』に登場する架空の民間軍事プロバイダー。
{ "id": "123343", "title": "SMS", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/SMS" }
錯誤(さくご) 法律用語 民法においては、伝統的理解によると内心的効果意思と表示行為から推測される意思(表示上の効果意思)との不一致をいう。ただし、特に動機の錯誤の扱いを巡って学説は分かれており民法上の「錯誤」の定義について異なる捉え方がされる場合もある。 - 錯誤 (民法)を参照 刑法においては、主観的認識と客観的な事実又は評価との不一致をいう。これは犯罪事実に関する「事実の錯誤」と自分の行為が法的に許されているか否かに関する「法律の錯誤」に分類される。 - 錯誤 (刑法)を参照 精神分析用語 - 錯誤行為
{ "id": "123344", "title": "錯誤", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8C%AF%E8%AA%A4" }
宮城 まり子(みやぎ まりこ、1927年3月21日 - 2020年3月21日)は、歌手、女優、慈善活動家(福祉事業家)、映画監督。勲等は瑞宝小綬章(旧勲四等)。位階は従五位。本名は本目 眞理子(ほんめ まりこ)。 人物 人気女優であり、NHKの紅白歌合戦に8回も出場した人気歌手でありながら、芸能活動を事実上やめ、日本初の民間社会福祉施設である社会福祉法人ねむの木福祉会の理事長、静岡県掛川市にある学校法人ねむの木学園の理事長、ねむの木養護学校の校長、特別支援学校ねむの木の校長などを歴任した。 上皇明仁・上皇后美智子とは皇太子・皇太子妃時代から40年の親交があり、両者は度々ねむの木学園やねむの木学園の美術展を訪問して宮城まり子と対面し、非常に懇意だった。 来歴 生い立ち 東京府東京市蒲田区(現:東京都大田区)に2人姉弟の姉として生まれた。父親は町工場を経営、母親は静岡英和女学院から東京女子大学に進学した女性である。父親の仕事の関係で、小学校3年から大阪で育った。小学校5年の時、父親が事業で失敗し、母親が病死した。そのため小学校卒業と同時に、弟と共に吉本興業に入り、歌謡曲を歌うようになった。戦時中の1944年10月、宮城千鶴子の芸名で17歳で大阪花月劇場(吉本興業直営)にて初舞台を踏んだ。 歌手として その後、自らの一座を率いて九州を巡業して終戦を迎えた。戦後の1948年、父親、弟の八郎と上京し、浅草の舞台に立った。翌年、菊田一夫の推薦で日劇の舞台に主役として迎えられた。1950年2月 テイチクから「なやましブギ」でデビューし、ポリドールを経て、ビクター移籍第二弾『あんたほんとに凄いわね』が初ヒットになった。そして、1953年、レコードで歌った『毒消しゃいらんかね』が流行し、一躍歌手としてその名が知れ渡った。1955年には、後のレコード大賞作詞家・宮川哲夫の手による『ガード下の靴みがき』も大ヒットした。その後も『納豆うりの唄』『てんてん娘』『夕刊小僧』などヒットを連発。弟八郎は宮城秀雄の名前で作曲家として活躍した。 NHK紅白歌合戦にも1954年の第5回から1958年の第9回までと、1960年の第11回から1962年の第13回までの計8回出場している(詳細は下記参照)。1958年、日本初のカラー長編アニメ映画『白蛇伝』で声優を務めた。その後、女優業に進出し、1958年、『12月のあいつ』で芸術祭賞、1959年、『まり子自叙伝』でテアトロン賞を受賞した。 福祉事業家として 1968年、肢体不自由児(身体障害者)・孤児・拒食症(精神疾患者)などの救済・支援を行う日本初の民間(私立)社会福祉施設であるねむの木学園(入所者は10歳~70歳、職員数2人~最大180人)を1人だけで様々な苦労の末に3年かけて設立した。この頃より、タレント活動は事実上引退状態となった。1973年、吉川英治文化賞を受賞した。 1974年には記録映画『ねむの木の詩』を製作・監督し、第6回国際赤十字映画祭で銀メダル賞を受賞した。1976年には、『まんが世界昔ばなし』の声優として名古屋章とともに出演した。1977年には『ねむの木の詩がきこえる』を製作した。1979年、ねむの木養護学校を設立した。1975年と1981年に実施された近畿放送(KBS京都)のテレビ番組『宮城まり子のチャリティーテレソン』を通して身体障害者の社会参加を訴えた。これらが評価され、1979年に総理大臣表彰された。また、身体障害者に対する手描き友禅、合唱の指導なども行っている。なお、ねむの木学園設立時のエピソードは、1981年12月22日にテレビ朝日「ハウスこども劇場」枠において、『小さなラブレター まり子とねむの木の子供たち』としてアニメ化された。 芥川賞作家・吉行淳之介(女優・吉行和子の兄)と交際し、彼の死まで事実婚(内縁の妻、都内の互いの自宅で同居)の関係であった。また、同じく作家室生犀星にも可愛がられていた。 2007年3月、日本経済新聞『私の履歴書』に自伝を執筆した。 2011年1月、自宅で転倒し腰椎を骨折して入院。 2011年2月、ねむの木学園元職員と音楽家の朝比奈圭の2人が宮城まり子の銀行口座から現金約3100万円をだまし取ったとして、詐欺罪で逮捕された。朝比奈らは起訴され、9月、東京地裁(裁判所)からそれぞれ懲役2年、懲役4年6月の有罪判決を受けた。ねむの木学園や宮城まり子の個人口座から計約5億円が引き出されたという。2012年2月16日、東京高裁は一審判決を破棄して罪を軽くし、朝比奈圭に懲役4年の有罪判決を言い渡した(ねむの木学園元職員は実刑確定)。 2012年、瑞宝小綬章を受章した。同年11月、銀座ヤマハホールでシャンソンを歌い、歌手活動を30年ぶりに再開した。 2020年3月21日午前6時55分、悪性リンパ腫のため東京都内の病院で死去。93歳没。生没同日だった。同月27日、学園長を務める「ねむの木学園」にて子どもたちと教職員のみが参列する学園葬が営まれた。同年5月26日、従五位に叙された。 歌(主な楽曲) 毒消しゃいらんかね ガード下の靴みがき 夕刊小僧 さいざんす・マンボ (トニー谷とのデュエット) ジャワの焼鳥売り 東京やんちゃ娘 恋は陽気にスイングで 少年ジェット主題歌 ビクター児童合唱団と 手のひらを太陽に(NHK「みんなのうた」) ウバ・ウバ・ウキャキャ 夢をみたの 私を呼ぶのは誰 めもわーる ママ!ひみつだよ 天使がとおる 屑屋の歌 まり太郎の歌 ドレミの唄 舞台(演劇) 大阪の実業家・小林一三が大阪府(梅田)と東京都に造った“2つのコマ劇場”の1つである東京都新宿区歌舞伎町にあった新宿コマ劇場を中心に、舞台女優として活躍した。 映画 てんてん娘・二部作(1956年) - てんてん娘役 チョップ先生(1956年、東映)- キャバレー歌手役 オンボロ人生(1958年) - マリ子役 弥次㐂夛道中記(1958年) - おまり役 太鼓たゝいて笛吹いて(1958年) - おけい役 白蛇伝 (1958年)- 白娘の声役、その他 グラマ島の誘惑(1959年) - 名護あい役 まり子自叙伝 花咲く星座(1959年) - 本田まり子役 黒い十人の女(1961年) - 三岸三輪子役 ちんじゃらじゃら物語(1962年) - 蝶子役 続・拝啓天皇陛下様(1964年)- 恵子役 アンデルセン童話 にんぎょ姫(1975年)- フリッツ役 はだしのゲン 涙の爆発(1977年) - 中岡君江役 世界名作童話 おやゆび姫(1978年) - ブンブー役 以下はねむの木学園の記録映画シリーズ。いずれも監督・製作総指揮・作詞・作曲・撮影・本人役での主演を手掛けた。 ねむの木の詩(1974年) ねむの木の詩がきこえる(1977年) 虹をかける子どもたち(1980年) ハローキッズ!がんばれ子どもたち(1986年) テレビ番組 まんが世界昔ばなし(TBS) - 声優とオープニング・エンディングテーマを担当 てんてん娘(KRT) - 主演 まりっぺ先生(日本テレビ) - 主演 剣豪 第1話「武蔵に勝った強い奴」(NET) 繭子ひとり(NHK、連続テレビ小説) - 大西先生 世界わが心の旅(ウィーン)(NHK) NEXT 未来のために 「私の“子どもたち”へ 宮城まり子88歳のメッセージ」(2015年11月25日、NHK総合) ラジオ 『土曜版おはようパーソナリティ宮城まり子です』(朝日放送ラジオ 1972年9月 - 1973年8月) - 金木賢一と 2014年1月:「私の子供たちと共に生きる」(NHK) 2020年12月23日・12月24日: 同年3月に死去した宮城まり子を追悼した、「私の子供たちと共に生きる」(NHK)の再放送 著作 ともだち ねむの木 そして私 ねむの木のこどもたち としみつ ねむの木の詩 監督作 ねむの木の詩(1974年) ねむの木の詩がきこえる(1977年) HELLO KIDS!がんばれ子どもたち(1986年) NHK紅白歌合戦出場歴 NHKみんなのうた出演歴 賞歴 1958年:「12月のあいつ」により芸術祭賞 1959年:「まり子自叙伝」により第4回テアトロン賞 1973年:第7回吉川英治文化賞 1977年:第6回日本映画ペンクラブ賞(映画「ねむの木の詩」「ねむの木の詩がきこえる」の制作・監督) 1989年:CD「ねむの木」および劇団「虹」により芸術祭賞 1991年:辻村教育賞、エイボン女性大賞 1992年:第1回ペスタロッチー教育賞(主催:広島大学大学院教育学研究科) 1993年:東京都文化賞 1994年:博報堂教育特別賞・文部大臣奨励賞 1996年:高木賞(主催:日本肢体不自由児協会) 2000年:第5回尾崎行雄咢堂賞、第13回静岡県都市景観賞最優秀賞(静岡県知事賞) 2004年:第13回石井十次賞 栄典 2004年:東京都名誉都民 2012年:瑞宝小綬章 関連施設 以下の施設は、いずれも静岡県掛川市にある。 ねむの木のどかな家 森の喫茶店MARIKO がらすやさん 雑貨屋さん 毛糸やさん 地域交流インフォメーションセンター 吉行淳之介文学館 ねむの木こども美術館
{ "id": "123346", "title": "宮城まり子", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E3%81%BE%E3%82%8A%E5%AD%90" }
如意輪観音(にょいりんかんのん、、チンターマニチャクラ)は、仏教における信仰対象である菩薩の一尊。観音菩薩の変化身(へんげしん)の一つであり、六観音の一尊に数えられる。 三昧耶形は如意宝珠、紅蓮華。種字はキリーク(ह्रीः、)。 概要 日本では「如意輪観音菩薩」、「如意輪観世音菩薩」、「大梵深遠観音」などさまざまな呼び方があるが、重要文化財等の指定名称は「如意輪観音」となっている。また「救世菩薩」とも呼ばれる。 如意とは如意宝珠(チンターマニ)、輪とは法輪(チャクラ)の略で、如意宝珠の三昧(定)に住して意のままに説法し、六道の衆生の苦を抜き、世間・出世間の利益を与えることを本意とする。如意宝珠とは全ての願いを叶えるものであり、法輪は元来古代インドの武器であったチャクラムが転じて、煩悩を破壊する仏法の象徴となったものである。六観音の役割では天上界を摂化するという。 梵名についてはチャクラヴァルティ・チンターマニとする説もある。 また、日本では近世、十九夜講の信仰の対象となっている。 像容 如意輪観音像は、原則として全て坐像または半跏像で、立像はまず見かけない。右膝を立てて左脚を跏趺坐(「趺」則ち足の甲を、「跏」則ち逆の足の太腿の上に乗せること)にする「輪王座」にて座する 六臂の像が多いが、これとは全く像容の異なる二臂の像もある。六臂像は6本の手のうちの2本に、尊名の由来である如意宝珠と法輪とを持っている。 日本における如意輪観音の作例のうち、大阪・観心寺本尊像は六臂像の代表作である。6本の手のうち、右第1手は頬に当てて考えるポーズを取る「思惟」の相を示し、右第2手は胸前で如意宝珠、右第3手は外方に垂らして数珠を持つ。一方、左第1手は体側に下げて掌を大地に向ける光明山を按ずる相、左第2手は未開敷蓮華(ハスのつぼみ)、左第3手は指先で法輪を支える。西国札所である滋賀県の園城寺(三井寺)、兵庫・神呪寺像、観音堂本尊像、奈良・室生寺本堂像、京都・醍醐寺像などはいずれも観心寺像と同様の六臂像である。 二臂の如意輪観音像の像容には、 輪王座に坐し、右手は「思惟」の相、左手は光明山を按ずる相、則ち典型的な六臂像から左右第一手のみを残したような姿。 結跏趺坐または半跏に坐し、右手は施無畏印、左手は与願印を結ぶ「施無畏与願印」の姿。 半跏に坐し、右手は肘を右膝あたりに置いて頬のあたりに添える「思惟」の相、左手は自然に下げて掌を下に向けて左太腿(膝よりやや上あたり)ないしは半跏した脚の足首あたりに置く半跏思惟の姿。 などが代表的である。古来著名なものは、滋賀・石山寺の秘仏本尊像である。飛鳥の岡寺の本尊像も二臂である。 法隆寺の隣にある中宮寺の本尊像は、右脚を左膝に乗せる半跏に坐し、右手を思惟相とする典型的な半跏思惟像である。この像は古来如意輪観音像と称されているが、造像当初の尊名は明らかでなく、弥勒菩薩像として造られた可能性が高い。 なお、立像も極く少数ながら存在し、福岡県小郡市の如意輪寺の本尊(平安時代後期の作とされる一面六臂像。秘仏。12年に一度、巳の年の1月17日と7月17日に開帳する。平生は須弥壇下の胎内めぐりに安置された千体観音にてその像容を知れる。なお、前立本尊は印相がやや異なる。県指定文化財。)、茨城県那珂市の那珂市歴史民俗資料館が寄託収蔵する一面四臂像(平安時代の作。通常非公開。不定期間隔でごく短期間展示に供される。県指定文化財。)が知られる。 また、兵庫県神戸市の大龍寺に伝わる奈良時代の造立とされる一面二臂の菩薩立像も寺伝および印相より如意輪観音として継承されている。 真言 オン・バラダハンドメイ・ウン オン・ハドマ・シンダマニ・ジバラ・ウン 如意輪観音を祀る寺院の例 石山寺 - 滋賀県大津市:本尊、木造、平安時代後期作、重要文化財 園城寺 - 滋賀県大津市:西国札所本尊、木造漆箔、10世紀末頃作、重要文化財 観心寺 - 大阪府河内長野市:本尊、木造、9世紀作、国宝、日本三如意輪観音 神呪寺 - 兵庫県西宮市:本尊、重要文化財、日本三如意輪観音 明王寺 - 兵庫県神戸市 圓教寺‐兵庫県姫路市:西国札所本尊 室生寺 - 奈良県宇陀市室生:本尊、重要文化財、日本三如意輪観音 岡寺 - 奈良県明日香村:本尊、日本最大の塑造、奈良時代作、重要文化財 中宮寺 - 奈良県生駒郡斑鳩町 頂法寺(六角堂) - 京都市 橘寺 - 奈良県明日香村 青岸渡寺 - 和歌山県那智勝浦町 観音寺 - 三重県四日市市六呂見(四足八鳥(ろくろみ)と呼ばれる四足八頭の霊鳥上に坐す姿で、久安元年(1145)の造立。) 如意尼(真名井御前 - 如意輪観音に帰依して、六甲山系甲山に如意輪観音を祀る神呪寺を創建した。 護国寺 - 東京都文京区 清法寺-埼玉県鴻巣市 妙音院‐千葉県館山市 隨心院‐京都市山科区 願徳寺‐京都市西京区 最御崎寺‐高知県室戸市室戸岬町:宝物館所蔵、大理石造、平安時代後期作、重要文化財
{ "id": "123347", "title": "如意輪観音", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%82%E6%84%8F%E8%BC%AA%E8%A6%B3%E9%9F%B3" }
港国道(みなとこくどう)とは、日本で重要港湾・飛行場と主要国道を結ぶ一般国道の通称。 道路法5条1項4号「港湾法(昭和25年法律第218号)第2条第2項に規定する国際戦略港湾若しくは国際拠点港湾若しくは同法附則第2項に規定する港湾、重要な飛行場又は国際観光上重要な地と高速自動車国道又は第1号に規定する国道とを連絡する道路」の規定に基づき指定された路線を指す。「港国道」という呼称は公式によるものではなく、主に国道愛好家(マニア)から呼び習わされた俗称が広まったものである。 概要 港国道は、起点が港湾・飛行場、終点が旧一級国道で、大半が指定区間外(道路管理者が都道府県または政令指定都市)である。 全国で15路線あるが、路線延長の短いものが多く、路線延長の短い一般国道の上位十傑はいずれも港国道である。これは、港国道の特徴にもあげられており、特に神戸港と結ばれる国道174号(延長187.1メートル)は「日本で一番短い国道」として知られる。最長の港国道でも、国道481号の延長約12.7キロメートル (km) でしかない。 国道の指定対象となる港湾・飛行場の範囲は必ずしも明確ではない。例えば、道路法5条1項4号で定められている港湾28港のうち、港国道を持つ港湾はその一部であり、重要な空港(旧空港整備法における第一種空港)である大阪国際空港(伊丹空港)や中部国際空港にも港国道は存在していない。また、明治時代初期に6か所指定された開港場(函館・横浜・新潟・大阪・神戸・長崎)のうち、横浜港・大阪港・神戸港に港国道はあるが、函館港・新潟港・長崎港に港国道は存在しない。 港湾・空港の移動に伴い、本来の規定通りとなっていない港国道も存在する。例えば国道177号の起点は舞鶴港となっているが、実際に起点にあるのは現在の舞鶴漁港(第三種漁港)である。また国道131号では、かつては起点に東京国際空港のターミナルビルがあったが、沖合に移転した現在においても起点位置は変更されていない。 日本で最初に国道が定められた明治時代においては、国策産業で生糸を生産・輸出して、貿易で外貨を獲得することが最大の課題であったことから港は重要視され、主要国道は東京から横浜港・神戸港・長崎港などの主要港へ向かう道路が最初に制定されていた。その後裔ともいえる現在の道路法上における「港国道」の規定は、明治時代から続きてきた交通網の一端を担う港を重要視する考え方が名残となっているという見方がされている。ただし、現在指定されている港国道では、起点となっている位置や経路も含めてその存在意義は薄れているのが実情で、中途半端な盲腸線のようになっているところが多い。 一覧 港国道は全国に15路線ある。(起点は指定対象となる港湾・飛行場)
{ "id": "123348", "title": "港国道", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%AF%E5%9B%BD%E9%81%93" }
小倉 正恒(おぐら まさつね、1875年(明治8年)3月22日 - 1961年(昭和36年)11月20日)は、第六代住友総理事である。 第2次近衛内閣(昭和15年 - 昭和16年(1940年 - 1941年))の国務大臣、第3次近衛内閣(昭和16年(1941年))の大蔵大臣を務める。 簡斎と号する。 著書に『日本国憲法』『行政法』『現代家族関係論』『私の生活信条』『小倉正恆談叢』等。 経歴 明治8年(1875年)、前田利家の家老の家系であった旧金沢藩士・裁判官の小倉正路の長男として石川県金沢市に生まれる。 第四高等学校を経て、明治30年(1897年)東京帝国大学英法律学科を卒業後、内務省(現総務省)に入省。土木監督署事務官となる。山口県参事官の時、大学の先輩で農商務省出身の鈴木馬左也(後の住友総理事)から誘われ、明治32年(1899年)退官。6名で住友を興す、入社する(『私の生活信条』より)。 住友総理事の伊庭貞剛や日本銀行理事から住友に転進した河上謹一に目をかけられる。大正7年(1918年)住友本店理事長。大正10年(1921年)住友本店を合資会社に改組し、常務理事となる。昭和5年(1930年)住友合資会社総理事に就任、住友財閥の最高経営者となる。以後10年、住友財閥の総帥として住友の企業経営を徹底して合理化する。昭和12年(1937年)本社の株式会社化を実現したのをはじめとして、グループ各社の株式会社化を断行していった。 この間、昭和8年(1933年)12月5日、貴族院議員に勅選される。第2次近衛内閣で無任所の国務大臣、第3次近衛内閣で大蔵大臣として入閣している。小倉は自由経済を信念としており、統制経済には反対であったが、戦時経済への移行を余儀なくされる。1942年に戦時金融金庫初代総裁。これらの経歴により、終戦後公職追放となる。1946年(昭和21年)3月20日、貴族院議員を辞任した。昭和26年(1951年)に追放解除となったが、第一線には復帰しなかった。 戦後の道徳荒廃を嘆き、石門心学会長、修養団後援会会長として日本人の道徳復興を目指し、個人的にも剣禅一致の精神修養に励んだ。大正5年(1916年)に鈴木馬左也に随行して訪中して以来、中国の史蹟を訪ね、様々な人士と交流し、梁川星巌の漢詩集を校閲したり、自身も『蘇浙游記』を昭和4年(1929年)に著している。興亜院福建省厦門連絡部長官。厦門日本人慈善会等に携わり、日本および中国国内の財産を譲渡するなどした。訪支経済使節団。 東京都三鷹市のアジア・アフリカ図書館(旧アジア文化図書館)建設委員会委員長として全世界各国との文化交流事業に尽力した。昭和36年(1961年)死去。86歳。 長女の恒は、日本興業銀行、日産化学を経て日銀特融のときの山一證券社長を務めた日高輝に嫁いだ。 栄典 位階 1941年(昭和16年)4月15日 - 従三位 勲章等 1940年(昭和15年)11月10日 - 紀元二千六百年祝典記念章 親族 白石正邦 - 妹の夫。歴史学者。
{ "id": "123349", "title": "小倉正恒", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%80%89%E6%AD%A3%E6%81%92" }
EM、em、Em アルファベットの一字Mのこと。 文字の大きさの単位、em 国際単位系の長さの単位、エクサメートル。 電磁 (Electromagnetic)、電磁気 (Electromagnetism) 等の略。 EMアルゴリズム (Expectation-maximization algorithm) - 統計学における潜在変数の推定法のひとつ。EM法。 エリスロマイシン (erythromycin) の略。【医学】 和音のコード、EM(Eメイジャー)、Em(Eマイナー)。 OOゲージ鉄道模型の派生規格の一つ、EMゲージ。縮尺1/76で軌間18.2mmの鉄道模型。 有用微生物群 (Effective Microorganisms) の略。 ニコンのカメラの型名の一つ。ニコンEMシリーズを参照のこと。 イー・モバイルの略。公式でロゴマークに使われている。 東日本放送 (JOEM)。 漫画作品重機人間ユンボルに登場する人型兵器・建設機械、アースムーバーの作中での略称。 フランスの政党、En Marche!(共和国前進)の略称。 エマージング・マーケット (Emerging markets、新興成長市場や新興市場諸国とも呼ばれる)。 エリック・ミヤシロ - ヤマハではエリック氏のシグネチャーモデルをEMと略している。 'em 英語の3人称複数代名詞「them」の短縮形「'em」(非公式)。get them は get'em と表記できる。 脚注
{ "id": "123357", "title": "EM", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/EM" }
『惑星ロボ ダンガードA』(わくせいロボ ダンガードエース)は、東映動画製作のロボットアニメ。1977年(昭和52年)3月6日から1978年(昭和53年)3月26日までフジテレビ系で毎週日曜日19:00 - 19:30に全56話が放送された。 概要 1972年の『マジンガーZ』以来、『グレートマジンガー』・『UFOロボ グレンダイザー』とロボットアニメブームを牽引し続けてきた永井豪とダイナミック・プロに代わり、新たに松本零士をイメージクリエイターとして迎えた作品。テレビアニメの放映と並行して、月刊漫画誌『冒険王』(秋田書店)に松本による漫画版も連載された。全56話の平均視聴率は17.1%(最高視聴率は、第36話「火星に進路をとれ!」の22.6%。ビデオリサーチ関東地区調べ)。 松本零士のアニメ作品としては唯一の巨大ロボットアニメである。だが、当の松本自身は巨大かつ擬人的な変形合体ロボットものがあまり好きではなくむしろ嫌っている節も見られ、自身の漫画『宇宙海賊キャプテンハーロック』作中でヤッタラン副長に当時のロボットアニメを揶揄・批判するかのようなセリフを言わせている。 アニメ本編ではダンガードAは第4話のラストシーンで初登場するものの、それ以前は完成イメージ映像もしくは組立工程中という形に限定され、また、完成後も別形態のサテライザーでの登場がメインとなり、ロボット形態の初合体は第11話、活躍するのは第13話からとなった。 また主人公タクマへ「訓練」の名の下に鬼のようなスパルタ教育を施す教官キャプテン・ダンとの関係がしばしばロボットアニメ版『巨人の星』とも評された。中盤以降はダンの死によりスポ根的な要素が払拭され、前後に登場していた美形のライバルであるトニー・ハーケンとタクマの対決を軸として、荒木伸吾と姫野美智による美麗なキャラクター人気がロボットバトルより先行するようになっていく。なおこの交代劇は、幼児視聴者からの「キャプテン・ダンの仮面が怖い」との抗議が殺到したことに端を発した結果であり、商業的に成功に至るターニングポイントだった。 本作の中盤ではスタッフが変動しており野田卓雄は同じ東映動画作品『アローエンブレム グランプリの鷹』の参加で降板し、同じく金田伊功もスタジオNo.1を退社し、スタジオZで第25話、第36話を担当した後、降板している。 あらすじ 緑と資源に溢れた人類希望の星・太陽系第十番惑星プロメテ。だが悪の天才・ドップラー総統はこれを我が物とするためドップラー軍団を率いて、大江戸博士率いる人類のプロメテ移住計画=通称プロメテ計画の妨害を開始する。ドップラーの卑劣な罠によって宇宙パイロット・一文字断鉄らによる最初のミッションは失敗に終わり、その全責任は行方不明となった断鉄へ押し付けられる形で幕を閉じた。 それから10年。16歳となった断鉄の息子タクマは「裏切り者」と罵られ続ける父の汚名をそそぎ、プロメテ計画を成功させるべく、大江戸の元で宇宙パイロットとしての訓練を受けていた。一方プロメテ計画の進行を知ったドップラーは、戦闘ロボット・メカサタンで計画の中枢となるジャスダム基地がある飛島(とびしま)へ攻撃を仕掛けてきた。時を同じくして、鉄仮面を被ったドップラー軍からの脱走者が飛島に現れる。大江戸は類稀なる操縦技術を持つその男にキャプテン・ダンの名を与え、タクマたちパイロットの育成を任せた。 熾烈を極めるドップラー軍団の攻撃の中、キャプテン・ダンの厳しい訓練が続く。過酷な試練を乗り越え日々成長していくタクマは、変形メカ・ダンガードAで巨大戦闘空母ジャスダムと共にドップラー軍団と戦っていく。 登場人物 ジャスダム 一文字 タクマ 声 - 神谷明、菊池紘子(幼少時)/曽我部和恭(しょうちゃん紙芝居) 本作の主人公。敬愛してやまない父・断鉄が謎の事故に遭遇し、行方不明となり、“第一次プロメテ計画を水泡に帰させた裏切り者”の汚名を着せられ、自身も「裏切り者の息子」「汚い奴の子」として世間から後ろ指を差され冷たい仕打ちを受けるが、父の親友だった大江戸博士の温かい庇護を受けて健やかに成長した。 「タクマ」という名前は「たくましい男になれ」との願いを込めて父が名付けた。 第3話よりダンガードAのテストパイロットの一人に選ばれ、鬼教官キャプテン・ダンの限界を超えた凄まじく過酷な訓練でしごき抜かれ、遂にダンガードAの正パイロットとなる。共に特訓を受けるパートナーには幾人かの出入りの末、秀人がコ・パイロットを務めるようになる。 第33話で重傷を負いマスクの外れたダンが父・断鉄だったと知るが、親子の絆を確かめる間もなく第35話で死別してしまう。ドップラー軍団との戦いの中で手強いライバルとしてトニー・ハーケンが現れ、互いに闘志を燃やす関係に。プロメテを目前にした終盤ではドップラー側との共存を唱え、ハーケンの要請に応えて航行不能となったプラネスター乗員を救出。父の遺志を継ぐべくプロメテに降り立つ。 松本零士のコミカライズ版タクマは、アニメ版と対照的に幼少時の辛い生い立ちにより完全に鬱屈した暗い性格となっている。 キャプテン・ダン(一文字 断鉄) 声 - 柴田秀勝/林一夫(しょうちゃん紙芝居) ドップラーの基地から脱走してジャスダムへ辿り着いたマスクマン。当初はドップラー軍団によって自分の身元に関する記憶、手足の指紋を消されており、第2話でジャスダムに現れた時は「Mr. X」と名乗っていたが、大江戸により、ダンガードAにちなんでキャプテン・ダンという仮名を与えられる。卓越した操縦技術を持ち、大江戸博士からプロメテ計画の要となるであろう巨大ロボ・ダンガードAのパイロット養成を託されてタクマらをしごきまくる鬼教官に就任。第3話以降、延々と繰り返される訓練は主役ロボ・ダンガードAの活躍を大幅に先送りすることとなる。 マスクにはドップラー軍団の指令を受ける受信装置が内蔵されており、ダンは受信アンテナが偶然折れたことにより、軍団の呪縛から解き放たれて脱走することができた。だが構造上の問題とあらゆる工具が歯が立たない頑丈さゆえに外すことができず、受信装置も機能していた。そのため、ダンはたびたびドップラー軍団の指令電波に受信装置が反応して起こる頭痛に悩まされることになった。 第26話で自分に代わるパートナー候補として新たに2人の候補生をスカウトし競い合わせようとする。間もなくジェット・ジョーが死亡したため、タクマと秀人の両名に絞ってメインパイロットの座を巡るライバル意識を激しく煽り立てた。 第11話で自分を狙った爆弾の爆発によりマスクが破損して外れる。その際に記憶が甦り、自分が一文字断鉄であることを思い出す。しかしその後は大江戸のみに事情を明かし、タクマの前ではマスクを被り、あくまでダンとして厳しく接し続けた。一方では、発言や行動の端々に父親としての感情が表れるなどの変化も見られ(タクマは死後そのことに気付く)、登場終盤では息子の成長を陰で喜んでいた。第33話で重傷を負いマスクが外れてタクマに正体を知られるが、親子としての愛情を交わす間もなく第35話でジャスダム発進と同時に敢え無く死亡した(その直前、素顔でタクマにサテライザー出撃を命じたのが最後の会話となった)。 なお、スタッフによる当初の予定ではダンはそのままタクマと秀人を鍛えながらプロメテまで同行するはずだった。しかし、タクマをしごきまくるその鬼軍曹ぶりに対し、一部の熱狂的な女性ファンたちから「酷すぎる」「憎たらしい」「死んで欲しい」などのクレームを送りつけられるなど大いに不興を買い、これに加えてメインターゲットである肝心の幼児層からは「仮面が怖い」というクレームの投書が毎週相次いだことによる余りの不人気ぶりから、急遽死なせることになったという。 コミカライズ版では、終盤まで生存するもプロメテでドップラーに銃撃され(その直後にドップラーも謎のエネルギーを浴びて死亡)、その際にマスクが外れ、プロメテには邪悪な心を嫌う高等生命体が住んでいるので、人間が手を出すべきではないとのメッセージを大江戸やタクマに残して死亡する。 大江戸博士 声 - 富田耕生/峰恵研(しょうちゃん紙芝居) プロメテ計画を推進するジャスダムの総指揮官。下の名は不明。長く伸ばした頭髪と口ヒゲとあごヒゲが完全に繋がっている。親友の間柄だった一文字断鉄が行方不明となり、孤児となったタクマを引き取って育てた。性格は冷静沈着にしてドップラーの度重なる脅迫にも決して屈しない強靭な意志を併せ持つ。 第二次世界大戦では凄腕のゼロ戦パイロットとして鳴らしており、ジャスダムが宇宙へ出てからも戦時中の死線をくぐり抜けた経験に基づく戦士のカンが敵の謀略からジャスダムを救うこともしばしばだった。 霧野 リサ 声 - 吉田理保子/菊池紘子(しょうちゃん紙芝居) ジャスダムの数少ない女性クルーとして通信オペレーターやコンピューター解析を担当する本作のヒロイン。ジャスダムが宇宙へ出てからはスペースレディやスペースアローで主に調査・偵察の任務もこなした。コスチュームのバリエーションが豊富な点では全キャラクター中随一を誇る。 主人公タクマへほのかな好意を抱いていたが、結局二人の仲は最後まで特に進展を見せることもなく煮え切らないまま終わった。中盤で秀人がメンバーに加わってからは、タクマと秀人のライバル関係が恋の三角関係へも発展しそうな雰囲気が一瞬あったものの、これもいつの間にか立ち消えになる。第45話でスペースアローで漂流しているところをハーケンに拿捕され、ドップラー軍団の捕虜となったものの、彼女の姿に亡き母の面影を見たハーケンにより逃がされる。 佐渡 酒造(さど さけぞう) 声 - 八奈見乗児 ジャスダムの医療班チーフ。名前だけでなくビジュアルデザインも、酒好きで一升瓶の日本酒をこよなく愛する性格も、『宇宙戦艦ヤマト』のキャラクター「佐渡酒造」そのまま。ジャスダム内に著しくミスマッチな四畳半の自室を構える。 のんべえながらも腕利きの医者でキャプテン・ダンも一目おいていたが、皮肉にもそのダンの治療では回復もままならず死なせてしまう。 荒井 伴太 声 - 大竹宏 ジャスダムのメカニック班をまとめるチーフ。基地内のメカ整備を一手に引き受けている豪快な巨漢。戦闘時には機銃砲座で応戦もしている。 タクマの親友で、折にふれ悩み苦しむタクマを元気づけていた。それだけにタクマを鬼のようにしごくキャプテン・ダンには反感を隠そうとせず、後に秀人が加わりガードランチャーへの搭乗を希望した際にも「ガードランチャーはタクマ」と待ったをかけた。 第50話では命綱1本でダンガードAへ宇宙遊泳し、エネルギータンクをメインエンジンに直結させてタクマのピンチを救う活躍を見せている。 荒井 ミヨ子 声 - 菊池紘子 荒井伴太のやんちゃな妹で自称「タクマの恋人」。タマガーに思いを寄せられるが全く相手にしていなかった。ジャスダムのマスコットとして惑星プロメテへの旅にも同行。タマガーや太郎と共に専らコメディリリーフを演じていた。第9話から登場。 足立 太(あだち ふとし) 声 - 緒方賢一 ジャスダムのメカニック班に所属する小柄な男で伴太の部下。名前とビジュアルデザインは松本零士の漫画『元祖大四畳半大物語』の主人公である「足立太」そのまま。 ギャグメーカー的なポジションとなるべく登場したと思しきキャラクターだが、特にこれといった活躍も見せ場もないまま最後まで影の薄いキャラクターに終わった。 馬井 喰吉(うまい たべきち) 声 - 山田俊司 ジャスダムの厨房を取り仕切る名コック。ビジュアルデザインは松本零士の漫画『宇宙海賊キャプテン・ハーロック』のキャラクター「ヤッタラン副長」そのまま。ヤッタランと同じく怪しげな関西弁でしゃべる。 田貫教授(たぬき) 声 - 大竹宏 下の名は不明。ジャスダム内のメカ開発を担当している初老の小柄な博士。通称「ドクター・タヌキ」。しょっちゅう葉巻を咥えている。大江戸博士の師匠に当たり、タマガーの発明者でもある。ギャグメーカー的な役回りを演じることが多いが、真面目にタクマやミヨ子を諭す場面も稀に見られた。 タマガー 声 - 富田耕生 映画『禁断の惑星』(1956年・米)に登場したロボット「ロビー」に似たタマゴ型のロボット。田貫教授の自信作で、自称「世界一の解析ロボット」。 太郎やミヨ子とワンセットで専らコメディリリーフ役を演じている。ミヨ子に惚れており健気に彼女へ尽くすが、タクマにぞっこんなミヨ子からは全く相手にされなかった。 第21話や第23話では人間キャラを差し置いてメインを張る大活躍を見せており、さらに「タンタンタマガー」というキャラクターソングまで用意されていた。 ポケットモンキー太郎 声 - 大竹宏 タクマによって宇宙実験用カプセルから助け出された子猿で、以後ジャスダム内のマスコットとなる。ただひたすら「ウキー!」と叫んでは他愛ない悪戯を繰り返していた。ジャスダムが宇宙へ飛び立った第35話以降は専用の小さな宇宙服が用意された。主にミヨ子やタマガーと行動を共にしてギャグメーカーの役割を果たす。 東助手(あずま) 声 - 井上和彦 ジャスダムで大江戸の助手を務める真面目で気の弱そうな眼鏡の青年補佐官。特にこれといった活躍も見せ場も無かったものの、絶えずメインブリッジで大江戸の付近に座ってサポート業務をしているため画面に登場する頻度は他のキャラに比べ圧倒的に高い。時々ジャスダムの操鑑をしている描写も見られる。タクマたちより年上らしく、「東さん」と呼ばれている。 金谷(かなや) 声 - 水島裕 第3話でタクマ、久保と共にダンガードAのテストパイロットとして選ばれたソバカス顔の青年。下の名は不明。他の二人と違ってメカに詳しい。 第8話で訓練中に不可解な接触事故を起こして脊椎を損う重傷を負う。事故の原因がサテライザーの設計ミスにあることを発見し、病室を脱け出し秘かにサテライザーの点検整備をしていたところ、メカサタンの襲撃でサテライザーが発進してしまう。果たしてサテライザーに欠陥が見つかり金谷の機転で危機は脱したものの、この時、重傷の身で戦闘参加したことにより車椅子の生活を余儀なくされることになり、テストパイロットを断念してジャスダム基地を去っていった。 久保 声 - 井上和彦 第3話でタクマ、金谷と共にダンガードAのテストパイロットとして選ばれた青年。下の名は不明。金谷ともども非常に性格が好く、タクマに対しても屈託なく接していた。 誕生日を迎え父親からトランペットを贈られた第9話で、メカサタンに捕獲されたダンガードAの窮地を救うために練習機で体当たりをかけ、父の名を叫びながら墜落死。遺品となったトランペットは以後タクマが愛用した。 城 哲治(ジェット・ジョー) 声 - 富山敬 曲芸飛行で「ジェット・ジョー」として名を馳せた天才的なパイロット。ダンからプロメテ計画について聞かされ大星秀人と共にダンガードAのパイロット候補生へスカウトされる。 タクマが散々苦労してきた合体訓練も易々とやってのける天才ぶりだったが、遭遇したメカサタンとの戦闘ではたちまち経験不足を露呈し、滅多打ちにされてしまう。秀人を残しダンガードAを見捨ててあっさり自分だけ脱出。しかし間もなくドップラー軍団の捕虜となり、優秀な操縦技術を買われて有無を言わさずハーケン特別攻撃隊へと編入されてしまう。その後、隙を見て戦闘機を奪い脱走したが、グドンの駆るメカサタンに追いつかれタクマと秀人の目前で敢え無く撃墜される。駆けつけ抱き起こしたタクマに「トニー・ハーケンこそ最大のライバル」と言い残し目を見開いたまま絶命。 大星 秀人(おおぼし ひでと) 声 - 古川登志夫 第26話でジョーと共にダンガードAのパイロットとしてキャプテン・ダンにスカウトされてきた好青年。曲乗りのテクニックではジョーに一歩譲るものの、操縦センスは充分であり責任感が強い性格が幸いし、ジョーの死後はタクマとダンガードAの正パイロットの座をめぐる良きライバルとなる。ダンガードAのコ・パイロットを務めるが、重要な役割にもかかわらず、シリーズ後半にOP・ED画面がリニューアルされた際にそのどちらにも登場しない。 ドップラー軍団 ドップラー総統 声 - 田中崇/沢りつを(しょうちゃん紙芝居) “惑星プロメテへ移住する権利があるのは選ばれたエリートのみ”と唱える選民主義の悪の天才科学者。2m近い長身でスキンヘッド。そのカリスマで熱狂的な支持者を糾合しドップラー軍団を作り上げる。趣味はパイプオルガンで、設置した専用の間において、自身の荒ぶる感情のままに鍵盤を叩く。また、軍団メンバーを前にして何度も演奏を披露していた。ただし、本編で示されたレパートリーは2曲のみである。 ヒマラヤ山中に秘密基地を構え、自らの計画に邪魔な大江戸のジャスダム基地へメカサタンを送り込んで執拗に妨害した。第33話でジャスダムに先駆けプラネスターで宇宙へ発進する。 プロメテを目指すプラネスターとジャスダムの熾烈なデッドヒートの中、ルガー、プラグ、ヘチと次々に部下を失う結果となる。プロメテを目前にした終盤、軍団内にも厭戦ムードが漂う中、乗員を見捨てて自分だけプロメテへ向かおうとする。 ヘチ副総統 声 - 八奈見乗児 ドップラーの忠実な腹心として軍団を束ねる副総統。剃り込みを入れたような独特の髪型に片眼鏡をかけマントを羽織って異様に蒼ざめた顔色をしている。 第51話で磁気嵐のため双方とも一切の通信が不能になったことで娘フリーゼとテレパシーによる交信が可能な点を利用してジャスダム撃滅作戦を思いつく。ジャスダムへわざと捕虜となるよう仕向けて潜入させ、正確な位置を割り出して自らメカサタンを操縦してジャスダムを攻撃する。しかしフリーゼは敵であるタクマに好意を抱いたため脳波強化改造による副作用で死亡。出動してきたダンガードAの反撃に怯気づいた部下のメルセは撤退しようとした際、娘の復讐に燃えるヘチは逃げるメルセを背後から攻撃するが、メルセと相討ちとなってメカサタンごと爆死した。冷徹なドップラーも、さすがにヘチの死に対しては憂いと動揺を隠せなかった。 プラグ技術長官 声 - 山田俊司(第9話〜第26話)、西川幾雄(第27話〜第49話) メカサタンの設計から製造までを全て手掛ける科学班の総責任者。普段は作業用の帽子を被っているが実はドップラーと同じようなスキンヘッド。第24話でグドンのメカサタンへ同乗した以外はひたすら基地でメカサタン開発に明け暮れた根っからの技術屋。 終盤に至り惑星プロメテを目にするやジャスダムとの戦闘などどうでもよくなり、一刻も早くプロメテへ辿り着きたい思いに駆られ始める。第49話で自分だけプロメテへ抜け駆けしようと計画したことがドップラーに露見し、自らメカサタンに乗り込んでの出撃を余儀なくされる。ドップラーは予めキルマンに命じて秘かにメカサタンへ自爆用陽子爆弾をセットさせており、キルマンが自爆スイッチを押してジャスダムへの特攻を図るや、プラグは激しく動揺しメカサタンを分離して逃亡しようとするが果たせず、プロメテへ思いを馳せながら絶命。彼の死はドップラー軍団内部に暗い影を落とし、最終回でプラネスターが航行不能に陥る重要な伏線となる。 グドン戦闘隊長 声 - 緒方賢一 ドップラー軍団のメカサタン部隊を指揮する戦闘隊長。片目にアイパッチを付けており、ヒゲとモミアゲが繋がっている個性的な風貌だったが、第21話でドップラーに失敗続きの不甲斐無さをなじられ自慢のヒゲを切られてしまった。 前線指揮官でありながら自ら何度となくメカサタンを操縦してダンガードAに挑み、敗れては脱出を繰り返した根っからの武闘派。 第27話で脱走したジェット・ジョーを追いかけて撃墜した後、ダンガードAにメカサタンを破壊されていつものように捨てゼリフを吐きながら間一髪で脱出したが、ジョーを眼前で殺され怒りに燃えるタクマの執拗な追撃を受け、彼の放ったアイブレスターライフルが脱出艇を直撃して絶叫と共に死亡。同士討ちが相次いだドップラー軍団レギュラー陣の中でまともにダンガードAとの戦いで命を落とした唯一のキャラクター。 トニー・ハーケン 声 - 山田俊司 第27話で初登場した、ドップラーが子飼い中の子飼いとして手塩にかけてきた青年将校。ドップラーの親衛隊ともいうべき「ハーケン特別攻撃隊」を率いる。不敵な自信家で性格は冷酷非情にして尊大。ヘチ副総統に対してさえタメ口を利いていた。手に持つ鞭を巧みに操って、叩き回したり、絡め捕ったりと相手を次々と翻弄する。 主にハーケン特別攻撃隊専用戦闘機を操縦して作戦を指揮したが、第47話や第50話では自らメカサタンを操縦して出撃している。 本作が一部女性ファンから熱狂的な支持を集める原動力となった美形悪役キャラクター。 第41話辺りまでは普通のキザな美形悪役の範疇を出なかったが、第45話で霧野リサを捕虜にし、わざと逃がした頃から亡き母の回想がフラッシュバックするようになる。非情な性格は徐々に影を潜め、第47話ではジャスダムと一時休戦して共同作戦を取った。プロメテを目前にした第55話で副隊長のハンスを失うと、もうこれ以上部下を死なせたくないという思いからドップラーにジャスダムとの共存を訴える。しかし、ドップラーは彼の説得にも耳を貸さず、ハーケンの部下全員を未完成のビーターVに乗せてジャスダムへの自爆特攻を命じ、部下全員を失うに至り叛意を決意する。 ルガー突撃隊長 声 - 緒方賢一 戦死したグドンの後任として第31話からメカサタン突撃隊の指揮を任されたマッチョな体格の男。ハーケンに対して強烈なライバル心を燃やし事ある毎に張り合おうとする。言動は好戦的だったが、専ら基地内や母艦のマザーサタンから指揮を執るだけで、前任のグドンと違って一度もメカサタンで出撃することはなかった。 第41話でハーケンを差し置いてドップラー軍団最高参謀に任命され得意の絶頂にあったが、これはハーケンが仕組んだ陰謀だった。出撃中に乗っていたマザーサタンをハーケンから遠隔操作されてジャスダムへ特攻させられてしまい、マザーサタンの爆発により部下と共に戦死した。 マスクマン 鉄仮面のようなマスクを被せられ、自我のない状態でドップラー軍団の意のままに操られる戦闘員。その正体は洗脳を受けた科学者や一流パイロットたちで、かつてはタクマの父もその一人だった。軍団施設での作業に従事したり、メカサタンの操縦や、暗殺任務なども任されていた。 額のアンテナから指令を受けて動いており、これを折られるとコントロールを脱し自我を取り戻す。ただし別の制御装置を身につけ、アンテナが折れていながら指令に忠実なマスクマンも登場した。初期は感情のないロボットのように描かれていたが、後には普通の兵士のように受け答えする姿も見受けられた。 ロボット兵士 ドップラー軍団内で多数使用される等身大汎用ロボット。胴体正面に顔を持ち四肢は非常に細長いという奇怪な容貌をしている。 個別の意思がある描写はないが、稀に個体間で簡潔な会話を行うこともある。 奴隷のマスクマンの監視やジャスダムへの潜入工作・メカサタン操縦など、多目的に広く運用された。 各話ゲストキャラクター ヘンリー・ダグラス 声 - 野田圭一(第10話) かつて断鉄と腕を競い合ったほどの凄腕パイロット。当初タクマはダンの正体が彼なのではないかと疑っていた。 RX-2所員・黒木 声 - 山田俊司(第13話・第32話) 月軌道上に浮かぶ宇宙ステーションRX-2の所員。 第13話で救援に来たダンガードAのパイロットがマスクマンのダンと裏切り者・一文字断鉄の息子タクマと知って露骨な嫌悪感を示す。第32話に再登場した時にはすっかりわだかまりが消え旧知を温めるほどの仲になっていた。 RX-2司令 声 - 緒方賢一(第13話)、八奈見乗児(第32話) 月軌道上に浮かぶ宇宙ステーションRX-2の司令官。名は不明。帽子を目深に被ったヒゲ面。 伴太の親父 声 - 加藤修(第14話) 荒井伴太とミヨ子の父親で、漁船の船長を務める豪快な海の男。タクマは彼ら親子を見ながらいつしか父・断鉄のことを思い浮かべる。 月島 ツトム 声 - つかせのりこ(第18話) 太陽熱をエネルギーに転換する新技術を開発したが世間から相手にされない父・月島博士を不憫に思い、ジャスダムで実験させて欲しいと頼み込んだ少年。 城戸 幸一 声 - 井上真樹夫(第20話) 霧野リサの幼馴染。新進の青年画家として注目を集めていたが、個展の記念パーティ席上で急病に倒れタクマとリサによってジャスダム内へ運び込まれる。実はドップラー軍団のスパイでジャスダムの詳細な情報を盗み出そうとしていた。脱走後、メカサタン・ブーメラスでジャスダムとダンガードに挑む。リサの嘆願でタクマは逮捕しようとするが「俺はエリートしか信じない」と暴言を吐き、倒される。 ロブ・ワイド 声 - 古川登志夫(第23話) 「ワイド合金」の発明者・ワイド博士の一人息子。父の遺志を継ぎ南極で合金の基となるワイド鉱石の採掘をしていたが事故で遭難。タクマたちに救出される。 ワイド博士 声 - 緒方賢一(第23話) ロブの父親で、あらゆる金属の強度を100倍に高める「ワイド合金」の発明者。 ジョン・グレイ 声 - 八奈見乗児(第24話) 第二次大戦中、南方の戦地で大江戸と死力を尽くして凄まじい空中戦を繰り広げたライバル。ヒゲと典型的な外人訛りの怪しげな日本語が特徴。戦死者の英霊を弔うべく大江戸と共にかつての戦地を訪れた際、ドップラー軍団の攻撃を受け大江戸と共闘する。 ワープ博士 声 - 矢田耕司(第25話) ドップラーの捕虜となり、ノバ博士と共にプラネスター建造に酷使されていた博士。ドップラーの逆鱗に触れ残酷な処罰を受けるノバ博士を見て怖れをなし、戦闘機を盗んで基地を脱走する。 ノバ博士 声 - 緒方賢一(第25話) ドップラーの捕虜となり、ワープと共にプラネスター建造に酷使されていた博士。独断でプラネスターの武装を変更したため、ドップラーの逆鱗に触れマスクマンにされてしまう。あまりの過酷な仕打ちを目の当たりにしたワープが脱走を決意する原因となった。 ランドルフ博士 声 - 緒方賢一(第29話) オーストラリアの優秀な電子工学の権威で、濃いヒゲと眼鏡が特徴。前回で秘密基地の爆発に巻き込まれた秀人を発見・保護していた。プロメテ1号を後述の大星竜太郎とともに設計している。 大星竜太郎博士(回想) 声 - 八奈見乗児(第29話) 「おおぼしりゅうたろう」と読む。大星秀人の父親だが既に故人。 フランク 声 - 緒方賢一(第30話) ハーケン特別隊員。訓練中に機体がトラブルを起こし、隊長のハーケンに救助を要請するが「自力で帰れ」と却下される。 パウル・シュトラウス 声 - 野田圭一(第30話) メカサタン突撃隊の副隊長。ハーケンが隊員のフランクを見捨てて帰還したことやメカサタン突撃隊へ救助を依頼もせずに無視する態度に怒って彼を非難するが、逆に公衆の面前で無能呼ばわりされた上に鞭打たれてしまう。ハーケンに挑発を受けメカサタンで出撃し、不慣れな秀人がメインパイロットのダンガードAを苦戦させるものの、秀人の「肉を切らせて骨を断つ」捨て身の戦法により戦死。 エバンス 声 - 井上和彦(第36話) 遭難した国際宇宙局ロケットの乗組員になりすましてタクマと秀人に救助され、ジャスダムに潜入したドップラーのスパイ。 ピーター・ウェルズ 声 - 水島裕(第38話) ハーケン特別隊員。タクマたちが謎の第13衛星上で出会ったハーケン特別攻撃隊に所属する少年。父の遺志を継いで衛星(ムー大陸が木星の衛星になったため遺跡がある)を学術的見地から保護するためにドップラー軍団に所属していた。 ノエル 声 - 杉山佳寿子(第42話) マザーサタンの特攻によって大破したジャスダムが不時着した謎の惑星Xを調査中にタクマが出逢った謎の美少女。ブロンドのロングヘアで青白い肌。実は母が異星人の父と結ばれた罪で魔王星から惑星Xへ幽閉されており、その罪を許されるには異星人の心臓を持ち帰らなければならなかった。しかし、タクマの吹くトランペットの音色に魅了された彼女はどうしても彼を殺すことができず、メカサタンとの戦闘で窮地に陥ったダンガードAを我が身を犠牲にして救い消えていった。本エピソードは徳間書店のロマンアルバム誌上にストーリーが完全再録されている。 アルファート 声 - 山田俊司(第42話) ノエルの兄。水晶玉を通してテレパシーでノエルと会話し、異星人のタクマを殺すように唆す。 キルマン 声 - 野田圭一(第49話) ハーケン特別隊員。メカサタンでの出撃を命じられて「戦闘は自信がない」と渋るプラグを見たハーケンが、サポートとして(その実、監視のために)送り込んだ三白眼のハーケン隊員。出撃前にプラグの目を盗み、ドップラーの命令で自爆用陽子爆弾をメカサタンに取り付けた彼は、自分用の操縦桿以外を銃で破壊し不退転の決意をプラグに見せ付ける。しかし、戦闘の衝撃で破壊した操縦桿が胸に突き刺さり瀕死の重傷を負い、自爆装置のスイッチを押して絶命。 バルノフ 声 - 緒方賢一(第49話) 科学班に所属するプラグ技術長官の片腕的存在。戦死したルガーの親友だった彼は、メカサタンでの出撃を命じられたプラグへ直訴して同乗を志願した。キルマンが秘かに仕掛けておいた陽子爆弾のスイッチを押したことで動揺し、戦いを忌み嫌ってプロメテへ逃亡しようとする上司プラグを無情にも銃で撃ち、メカサタンでジャスダムへ特攻しようと試みる。が、瀕死のプラグに操縦系統を破壊され機体は迷走したまま自爆。 メルセ 声 - 緒方賢一(第51話) 副総統ヘチと共に出撃し、メカサタンから分離したマンボウロケットを操縦してジャスダムに猛攻を加えた部下。ダンガードAの反撃を受けて敗色が濃くなったため撤退しようとするが、娘の復讐に燃え徹底抗戦を叫ぶヘチに攻撃されて機体に被弾。報復のため180度回頭しメカサタンへ特攻して相討ちとなり、ヘチを道連れにして爆死。 フリーゼ 声 - 川島千代子(第51話・第53話) 副総統ヘチの娘。剃り込みの入った個性的な髪型こそ父親譲りだが、髪の色は父と違いブロンド。 第51話で父のジャスダム撃滅作戦に協力するため、親子間のテレパシーによる交信能力をさらに強化すべく脳改造を受ける。メカサタンから分離したマンボウロケットでわざとジャスダムに捕らえられ潜入に成功、父へジャスダムの正確な位置を伝えつつ自らは動力室の破壊を試みる。その際に危ういところでタクマに命を救われた彼女は、タクマに好意を抱いて激しく感情が乱れ脳改造の副作用で頭脳が破壊されてタクマの腕の中で息を引き取る。第53話では荒木の新規作画で改造手術を受ける前に親友であるジュディとミラーへ別れを告げる場面や遺影、タクマとの想い出といった回想シーンに登場。 ジュディ、ミラー 声 - 菊池紘子、小山まみ(第53話) 二人ともハーケン特別隊の女子部隊に所属する女性兵士でフリーゼとは固い友情で結ばれた親友だった。黒髪ショートヘアがジュディで、金髪ロングがミラー。フリーゼがジャスダム内で虐殺されたものと思い込み、復讐を果たすべく二人してドップラーへ仇討ちを志願するが却下され、強引にメカサタンに乗り込んで無断出撃する。一旦リサを捕らえて人質にとった後正々堂々と決着をつけようとしたものの、戦闘中にドップラーが「命令違反の罪はダンガードAと刺し違えて償え」とメカサタンの自爆装置を押したため炎に包まれながら爆死。 ゲルス 声 - 緒方賢一(第54話) 僅かに生き残ったメカサタン突撃隊の一人。ハーケンの命令でメカサタン・ジェロンガを操縦してダンガードAをおびき出すことに成功したが、パルサーカノンの直撃を受けて敢え無く戦死した。 ハンス副隊長 声 - 西川幾雄(第55話) ハーケン特別攻撃隊の副隊長。ハーケンと共にジャスダムへ苛烈な波状攻撃をかける。しぶとく抵抗するジャスダムの頑強さに業を煮やし、ハーケンの制止を振り切ってジャスダムへ接近戦を仕掛けたが厚い弾幕の前に被弾。そのままジャスダムへ特攻して機体ごと爆死した。 ハーケンの母(回想) 声 - 菊池紘子(第55話・第56話) ハーケンが唯一愛した女性。彼が幼少時に夭逝していた。「死なないでトニー」という言葉と共に何度も何度もハーケンの脳裏にフラッシュバックした。ハーケンは捕虜にした霧野リサに亡き母の面影を見る。 登場メカ ジャスダム側 ダンガードA 大江戸博士によって開発された巨大ロボット。頭部に被さるヘルメット状に変形する小型航空機ガードランチャーと、上半身、下半身の3つのパーツで構成されている。飛行形態であるサテライザーは上半身の上に下半身が載った形状(その先頭にガードランチャーが刺さる)をしており、「オープン・ダンガード!」〜「チェンジ・サテライザー・セット・オン!」の掛け声と共に変形、2足歩行のロボット形態であるダンガードAには(「オープン・サテライザー!」〜「チェンジ・ダンガード・セット・オン!」の掛け声と共に変形する。 本来は地球に接近する第十番惑星プロメテへの移住計画のために開発されており、ロボット形態で全高200m、飛行形態で全長160m、重量500t、出力は3億馬力と超巨大。ただし、本編中での戦闘描写において、そのスケールを効果的に活かした場面は特に無かった。かなりリアルな造形の唇部分が特徴で、稀に演出によってその唇が開いて表情がつけられる場合もあった。 搭乗員は2名。メインパイロットがガードランチャーに、コ・パイロットが下半身パーツ前部(ガードランチャーより上側にある)のコクピットに乗り込むが、コ・パイ側コクピットには予備でもう1名搭乗でき、(原則として)セッティングを事前に行うことで、操縦をコ・パイ側で行うことも可能である。本編では主にメインが一文字タクマで、コ・パイは当初はキャプテン・ダン、後にダンがスカウトしてきた大星秀人が務める。 乗降はジャスダムからの発進時は飛行形態でボーディング・ブリッジから、野外の時はサテライザーの下部(上半身)パーツ右側に収納されているタラップで行う。 当初は非武装だったが、ドップラー軍団の巨大メカ=メカサタンと戦うために武装された。(この時代のロボットアニメの定番であるが)メインパイロットはほぼ必ず各武装名を大声で叫んでから繰り出している。 漫画版では、組み立て前のバラバラの部品をタクマに見せた大江戸博士が、プラモデルになぞらえて「部品の設計製造に費やした期間を考えれば、これでダンガードAは99%完成の状態だ」と語る場面がある。 武装 以下、特筆なきものはダンガードA形態のみの武装。 パルサーカノン 胸部装甲が左右に観音開きとなり球状のエネルギー弾が発射される。実質上の最強武器だが、メカサタンに素早くかわされて無駄撃ちとなる場面も多かった。 ジャスダムにも同名の「パルサーカノン砲」が装備されている。 DX超合金ではパルサーカノン発射部にはサテライザー形状用の主脚車輪を格納していた。 コズモアロー 両すねに装着されている赤い三角形の装甲板。はずして手持ち武器もしくは手裏剣のように飛ばし敵を攻撃する。 ダブルシャフト コズモアローを2つ繋ぎ合わせ、双槍状の手持ち武器とする。後期OPでも敵を切り裂いていたり、本編中でも決め技として多用されていた。 テレポーションパンチ 腕を前方に突き出し、前腕全体が光り、パンチの形をしたエネルギー体を発射する。作品内では両腕同時に発射している場面が多かった。 ハードパンチ 直接前腕を発射する。 テレポーションミサイル 両肩から発射する。同名のパンチと違い普通のミサイル。主にサテライザー形態で使用。 アイブレスターライフル 目から放つ光線。ビーム状に伸びるのではなく、眼鏡の形をしたエネルギー弾が手裏剣のように回転しつつ飛んで着弾する。 レーザーバルカン 腰に装備する光線砲。サテライザー形態で使用。アラビア数字の8を縦に連ねたような軌道を描いて飛ぶ。 テレポーションガン サテライザー形態時に使用する機銃。 アイブレスターパルサーテレパンチ アイブレスターライフル・パルサーカノン・テレポーションパンチの同時発射。第45話で使用。 牽引ビーム サテライザー形態時に使用する。機底(胸部装甲)から2連のビームを出して物体を捕捉、サテライザー下部に吸着させて運搬する。第23・29・32話で使用。 ジャスダム 惑星プロメテ移住計画のために作られた超巨大母艦。全長1050m、重量500万t、出力100億馬力。プロメテの発見後に建造が開始されたため、当初はダンガードAともども未完成。飛島に置かれたプロメテ計画本部としても機能し、大江戸博士らが乗り込み完成を急いだ。プラネスターの宇宙発進を聞き、第35話で急遽宇宙へと飛び立つ。パルサーコズモエンジンで推進するため燃料補給の必要が無く、先行したプラネスターに猛追をかけた。宇宙機雷や無数の砲座で武装しているが、最大の武器は艦首両脇から放つゴッドバースト砲で、初使用は第41話。第45話ではその巨体を活かした体当たりでプラネスターを中破させている。 スカイアロー ダンガードAの搭乗員養成に使用された航空機。主目的はダンガードAの特徴である合体/分離の訓練用で、機首部分の1号機が分離すると2号機のコクピットブロックがまるごと1号機のあった場所に移動する。分離状態でも個々に飛行が可能である。武装も施されており、ダンガードA運用開始後も度々副戦力として活躍し、第46話では宇宙空間でも使われた。劇場映画第1作では無人の機首部を発射して敵機に激突させる荒技を見せている。 キャプテン・ダン専用機 ダンがドップラー軍団から逃走する際に強奪した戦闘機。元はプロメテ計画の探査用ロケットだったものをドップラー軍団に改造された機体であると劇中で推察されている。第11話で撃破されるまで、ジャスダムの防衛戦力として活躍した。前期エンディングにも登場。 練習機 ジャスダム基地に多数配備されているパイロット育成用の訓練機。個々の機体を区別する際は「テスト□号」と呼称される。固定武装として機首の機銃、さらに機体下にミサイルを懸架することができ、物語序盤では実戦にも用いられた。後にジョーの訓練機としても使用されている。 ガードマシン タクマが地上での移動に用いる特殊自動車。バルカン砲で武装しているが、劇中での戦闘描写は無く、純粋に移動用途のみの車両として使われている。劇場映画第1作ではリサが運転。 伴太クラフター 伴太が自身の専用機としてサテライザーの中古部品を使い組み立てた万能修理工作車。主翼を備え飛行も可能ではあるが性能に不安があるため、長距離の巡航時にはサテライザーに牽引ビームで吊り下げられ運搬される。第23・29話に登場。 スペースレディー リサが搭乗する小型宇宙探査艇。ジャスダムが宇宙へと発進した第36話から使用された。 スペースアロー 第44話からスペースレディーに代わり、リサが偵察や調査に使用した宇宙戦闘機。武装はミサイル。第44話で小惑星ミサイルを爆破、第54話ではメカサタンを相手に戦闘をもこなした。 宇宙ステーションRX プロメテ計画のジャスダム宇宙進出の前段として建造された宇宙基地。同型のRXー1とRXー2が月軌道付近を周回する。外観はジャスダムに似るがサイズは数分の一の大きさである。 RX-1は第13話でドップラー軍団により破壊され、RX-2は第32話で潜入したハーケン隊の工作員によりジャスダム基地直撃の地球突入コースに乗せられたため、乗員脱出後にテレポーションパンチで粉砕された。 ドップラー側 プラネスター 惑星プロメテ移住計画のために作られたドップラー軍団側の超巨大母艦。書籍などでは全長915mとされているが、劇中の対比では1050mのジャスダムより長い。ジャスダムよりも先に宇宙へ出た。しかし、当初はスーパーウランを燃料としていたため再三に亘って補給せねばならず、徐々にジャスダムに追い上げられてしまう。その後、捕虜にした霧野リサから自白装置による拷問でパルサーコズモエネルギーの秘密を聞き出し、パルサーコズモエンジンを建造して無補給で推進できるようになった。武装は宇宙魚雷と先端の砲塔から放つビーム(劇中未呼称)。ドップラーが未完成のビーターVを無理に発進させたため、最終回で艦内にビーターVから漏れ出した放射能が充満し、機関部は機能を停止してしまった。乗員はハーケンの要請で全員ジャスダムに救助される。元デザインは松本の漫画『ミライザーバン』に登場した宇宙船。 マザーサタン 多数のメカサタンを収納する宇宙艦。プラネスターが宇宙に出た後は、メカサタン突撃隊の母艦となる。第41話でハーケンの策略により、ジャスダムへ特攻させられて失われた。 メカサタン ドップラー軍団の超巨大ロボット兵器。ヒーローロボットアニメのお約束通り、基本的に1話1体のペースで登場し、ダンガードAと対決する。第35話では、宇宙に飛び立とうとするジャスダムを多数で攻撃し、この時のみはジャスダムの砲座に撃ち落とされる雑魚的な扱いだった。主にメカサタン突撃隊の隊員が操縦するが、稀にマスクマンもしくは無人と思しき場合もあった。 ハーケン特別隊専用機 ハーケン特別隊隊員が搭乗する戦闘機。大気圏内・宇宙空間問わず運用が可能。基本的には隊長のハーケン機(外見上は一般隊員機との差異はない)を先頭に複数機で編隊を組んで行動する。 スタッフ 企画:春日東(旭通信社)、別所孝治(フジテレビ)、勝田稔男(東映動画) 原作:松本零士 企画協力・メカニックデザイン:小林檀 ※メカデザインはダンガードAとジャスダムを担当(ダンガードAのアニメ作画設定は本橋秀之。)。メカサタンのデザインは松本のアシスタントであった、まがみばん。 音楽:菊池俊輔 キャラクターデザイン:荒木伸吾、姫野美智 ※メインキャストのラフ案は松本零士による オープニングアニメーション(前期):金田伊功 エンディングイラスト(後期):荒木伸吾、姫野美智 チーフデザイナー:伊藤岩光 チーフディレクター:勝間田具治 製作担当:吉岡修、宮崎一哉、佐々木章 原画:金田伊功、姫野美智、富沢和雄、貞光紳也、本橋秀之、稲野義信、及川博史、菊池城二 他 動画:鍋島修、板野一郎 他 画面設定:荒木伸吾(#42,48,53)作画監督予定だった荒木伸吾が手の怪我のため、左記3話数のみ作画監督を姫野美智が担当、荒木はラフ画のみの担当であった。 編集:井関保雄 録音:大久保正雄 効果:高松孝宣→森賢一 選曲:宮下滋 記録:黒石陽子 現像:東映化学 製作:東映、旭通信社 音楽 同じ放送枠の前作『UFOロボ グレンダイザー』に引き続き、菊池俊輔が主題歌およびBGMの作・編曲を担当したが、挿入歌の編曲には武市昌久も参加した。 歌唱はメインにささきいさお、ヒロインの心情を描く挿入歌に堀江美都子と、やはり『UFOロボ グレンダイザー』を踏襲しているが、ロボットアニメとしては珍しくヤング・フレッシュがOPのコーラスに起用された。 英語版の歌は1978年末に発売された「英語盤 ささきいさお アニメヒットを歌う」という企画LP(CZ-7018)が初出。同LPには全13曲のうち、本作の歌が3曲含まれていた。 なお、OP、EDともに第29話から映像が変更になった(歌は変更なし)。なおキングレコードからはささきいさおではなく、堀光一路が歌うカバー版が存在する。 主題歌 オープニングテーマ 「すきだッダンガードA」 作詞:伊藤俊也 / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:ささきいさお、ヤング・フレッシュ エンディングテーマ 「その名もタクマ宇宙パイロット」 作詞:伊藤俊也 / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:ささきいさお 挿入歌・イメージソング 番組放送中に発売された主題歌・挿入歌+ミニ・ドラマLPが初出 愛のオーロラ 作詞:伊藤俊也 / 作曲:菊池俊輔 / 編曲:武市昌久 / 歌:ささきいさお 行け! ダンガードA 作詞:春日東 / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:ささきいさお、コロムビアゆりかご会 宇宙母艦ジャスダム 作詞:早乙女達人 / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:ささきいさお、こおろぎ'73 タンタンタマガー 作詞:早乙女達人 / 作曲:菊池俊輔 / 編曲:武市昌久 / 歌:富田耕生、矢萩知佳 息子よ 作詞:伊藤俊也 / 作曲:菊池俊輔 / 編曲:武市昌久 / 歌:ささきいさお リサの願い 作詞:田村多津夫 / 作曲:菊池俊輔 / 編曲:武市昌久 / 歌:堀江美都子 「英語盤 ささきいさお アニメヒットを歌う」が初出 DANGUARD ACE(英語版「すきだッダンガードA」) 作詞:伊藤俊也 / 訳詞:Donald P. Berger / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:ささきいさお AURORA(英語版「愛のオーロラ」) 作詞:伊藤俊也 / 訳詞:Donald P. Berger / 作曲:菊池俊輔 / 編曲:武市昌久 / 歌:ささきいさお MY SON(英語版「息子よ」) 作詞:伊藤俊也 / 訳詞:Donald P. Berger / 作曲:菊池俊輔 / 編曲:武市昌久 / 歌:ささきいさお サブタイトル ※各話サブタイトルのコールは第53話のみ吉田理保子、それ以外は山田俊司が担当。次回予告とナレーションも同じく山田俊司。 放送局 フジテレビ(制作局):日曜 19:00 - 19:30 北海道文化放送:日曜 19:00 - 19:30 テレビ岩手:月曜 18:00 - 18:30(1978年3月まで)→ 月曜 17:30 - 18:00(1978年4月から) 秋田テレビ:日曜 19:00 - 19:30 山形テレビ:日曜 19:00 - 19:30 仙台放送:日曜 19:00 - 19:30 福島テレビ:土曜 19:00 - 19:30(第3話まで)→ 日曜 18:00 - 18:30(第4話から) 新潟放送:木曜 17:00 - 17:30 山梨放送:火曜 17:30 - 18:00 長野放送:日曜 19:00 - 19:30 富山テレビ:日曜 19:00 - 19:30 石川テレビ:日曜 19:00 - 19:30 福井テレビ:日曜 19:00 - 19:30 山口放送:土曜 18:00 - 18:30 テレビ熊本:木曜 17:30 - 18:00 鹿児島テレビ:木曜 17:50 - 18:20 劇場版 『惑星ロボ ダンガードA対昆虫ロボット軍団』 概要 1977年7月17日、東映まんがまつりにて公開。上映時間は25分。 本作にとって唯一の劇場用オリジナル作品。特筆すべきは共同演出として『網走番外地』、『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』でカルト的な人気を誇る映画監督の石井輝男がクレジットされている点で、内容もTV版と比較して異色なものとなっている。昆虫人間によって月面基地の隊員が全身の血を吸い取られて死屍累々と横たわる場面の猟奇的描写や、妙な拳法を駆使して昆虫人間と格闘するタクマのアクションシーンなどがある。石井輝男がSF映画に参加するのは『スーパージャイアンツ』以来、数年ぶりの参加となるが、石井輝男がアニメーション映画の演出家として参加したのはこれが最初である。 時系列としては主役ロボ・ダンガードAがようやく本格的に活躍し始めるTV版・第13話前後の頃なのでコ・パイロットの秀人は登場せず、タクマが単独で操縦。 月面基地から一斉に発進して地球を攻撃せんとする昆虫人間の円盤群を迎え撃つべく、ジャスダムが飛島から飛び立ち宇宙空間で激しい戦闘を繰り広げる辺りはTV版を大幅に前倒しした展開となっている。 ストーリー 突如として現れた異星人によって月面基地が襲撃され全滅する。彼らの正体はあらゆる生物の血液をエネルギー源とする恐るべき昆虫人間だった。地球侵略を狙う彼らを迎撃すべく大江戸博士はジャスダムを飛島から発進させて月へと向かう。 声の出演 昆虫人間A:八奈見乗児 昆虫人間B:緒方賢一 ジャスダム所員:山田俊司 月面基地司令:緒方賢一 ※一文字タクマ、キャプテン・ダン、霧野リサ、大江戸博士、荒井伴太、タマガー、太郎の声優については登場キャラクターの項を参照。 ※ドップラー軍団のキャラクターは全て未登場。ジャスダム側も上記のキャラクター以外は未登場。 ※予告編ナレーションは、タクマ役の神谷明が担当。 登場ロボット 昆虫ロボット 昆虫人間の乗る無数の円盤が一斉に合体して出来たロボット。ダンガードAよりもさらに一回り大きく、凄まじく巨大。タイトルは「昆虫ロボット軍団」となっているが、登場するのは1体のみ。 武装は肩から伸ばす触手、吹き出す溶解液、両手を変形させた巨大ドリル、掃除機のように凄い勢いで何でも吸い込む胸の大穴。多彩な攻撃と頑丈なボディでダンガードAを大いに苦しめた。 製作・スタッフ 製作:今田智憲 製作担当:白根徳重 企画:有賀健、勝田稔男 原作:松本零士、小林檀 演出:石井輝男、明比正行 脚本:吉野安雄 作画監督:南条文平(中村一夫) 原画:中村プロダクション 美術:秦秀信 音楽:菊池俊輔 主題歌:OP・ED共にTVと同じ。※ただし映像は新規作画 挿入曲:「宇宙母艦ジャスダム」(作詞:早乙女達人、作・編曲:菊池俊輔、歌:ささきいさお、こおろぎ'73) 同時上映 世界名作童話 せむしの仔馬 ドカベン 甲子園の道 キャンディ・キャンディ ジャッカー電撃隊 大鉄人17 空中戦艦 『惑星ロボ ダンガードA 宇宙大海戦』 1978年3月18日、東映まんがまつりにて公開。上映時間は26分。予告編ナレーションは神谷に代わり、トニー・ハーケン役の山田俊司が担当。 劇場版の第2作だがオリジナルではなく、TV版の第44話と第45話の内容を簡略化し1本にまとめた作品。TV版でのリサが敵に囚われるくだりが丸ごとカットされている。前半はTV版44話の映像を抜粋流用しブローアップしたものだが、後半はTV版とは別の新規作画である。OP映像と主題歌も『昆虫ロボット軍団』と同じだが、EDテーマは「宇宙母艦ジャスダム」が使用された。 スタッフは脚本:田村多津夫、作画:兼森義則、演出:明比正行とTV版・第44話と同じ。 なお、1973年3月17日公開の『マジンガーZ』以来続いた、「まんがまつり」でのロボットアニメは、本作を以て一旦中断。 その後、1979年3月17日封切りの「まんがまつり」で『闘将ダイモス』が公開されたものの、『ダイモス』は東映本社・日本サンライズ(現:サンライズ)作品であるため、東映動画作品は本作が事実上最後となった。 登場ロボット メカサタン ギャビル 新作画パートに登場するメカサタン。テレビ版第45話でのギドラーに相当するが、外観・能力は異なる。 コンピューターによる無人操縦でダンガードAを圧倒するが、接近してきた彗星を自動回避した隙を突かれ撃破される。 同時上映 世界名作童話 おやゆび姫 キャンディ・キャンディ 春の呼び声 一休さんとやんちゃ姫 ジャッカー電撃隊VSゴレンジャー 映像ソフト化 ビデオ(VHS、セル・レンタル共通)は劇場版の2作品を収録したものが東映ビデオよりリリースされている。 1997年8月8日から1998年8月7日にかけてLDが東映ビデオより発売された。全7巻の各2枚組で各巻8話収録。 2004年1月21日にDVD-BOXがavex traxより発売された。全2巻の各6枚組で各巻28話収録。 2011年8月5日から12月9日にかけて単巻のDVDが東映ビデオより発売された。全5巻の各2枚組で各巻11話(Vol.5のみ12話)収録。 2011年8月5日に劇場版の2作品を収録した「惑星ロボ ダンガードA THE MOVIE」が東映ビデオより発売された。 漫画版 テレビアニメの放映と並行して月刊漫画誌『冒険王』に連載された。主役ロボット・ダンガードAの描写はサテライザーが若干描かれた程度で、形状もアニメ本編と著しく異なる。目的地のプロメテも無人の星ではなく、自由意志を持つ不可視生命体が先住している(もしくはプロメテ自体が1つの生命体という)設定となっている。ロボット形態に至っては最終回のラスト見開きに直立でワンカットのみの登場であり、プロメテの生命体に対する平和と友好の意思表示として記念碑的に遺棄され、人類はプロメテから手を退くという形で終わる。また、物語も大江戸とドップラーを中心に描かれ、アニメでの主人公タクマがほとんど脇役扱いとなっていてアニメの途中から登場するライバルのトニー・ハーケンも登場しない。 秋田書店サンデーコミックスレーベルで単行本が全2巻で出版されたほか、2002年に秋田文庫レーベルで文庫版が単巻で出版されている。 マーベルコミックスが発行したアメコミ『ショーグン・ウォリアーズ』は、ダンガードAのロボット(ただし人間のキャラクターは登場しない)を特集した。 注釈・出典 くせいろほたんかあとええす フジテレビ系アニメ 東映・東映アニメーションのロボットアニメ ADKグループのアニメ作品 1977年のテレビアニメ 松本零士原作のアニメ作品 くせいろほたんかあとええす 松本零士の漫画作品 1977年の漫画 冒険王
{ "id": "123358", "title": "惑星ロボ ダンガードA", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%91%E6%98%9F%E3%83%AD%E3%83%9C%20%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%89A" }
EN, En, en, eN EN JNNイブニング・ニュース (JNN Evening News) - JNN系列で放送されていたニュース番組。 エア・ドロミティ (Air Dolomiti) のIATA航空会社コード。 エンナ県 (Enna) の県名略記号・ISO 3166-2:ITコード - イタリアの県。 ユーロナイト (EuroNight) - ヨーロッパ都市間夜行列車。 欧州規格 エストニア (Estonia) のFIPS 10-4国名コード・旧NATO国名コード。 絶滅危機 (Endangered) - IUCNレッドリストのカテゴリー。 エクサニュートン (Exanewton) - 力(ちから)の単位。 アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン - ドイツの音楽バンド。 UDトラックス(旧:日産ディーゼル)の中型観光バスの型式。 鉄道のサインシステムにおいて、江ノ電線 (ENoshima) の路線記号として用いられる。 スバル・EN型エンジン -富士重工業がかつて生産していた直列4気筒ガソリンエンジン。 Exposure Notification(接触通知)の略 UVERworldの楽曲。アルバム『30』に収録。 en 英語 (English) のISO 639-1言語コード en (単位) - en-width。emの半分の文字幅。enスペース (x x)、enダッシュ (x–x) など。 エチレンジアミン (ethylenediamine) が配位子となったときの略称。 稲葉浩志のライブツアーのタイトル、及びそのライブ映像を収録した映像作品 - 『LIVE 2004 〜en〜』『Koshi Inaba LIVE 2010 〜enII〜』『Koshi Inaba LIVE 2014 〜en-ball〜』『Koshi Inaba LIVE 2016 〜enIII〜』 エンディング(ending)、エンディングテーマの略。 (英語版ウィキペディアを「:en:記事名」などで参照することについては→「Help:言語間リンク」を参照。) 文字 N n - ラテン文字の1つ。 - キリル文字の1つ。
{ "id": "123359", "title": "EN", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/EN" }
全米黒人地位向上協会/全国有色人種向上協会(ぜんべいこくじんちいこうじょうきょうかい/ぜんこくゆうしょくじんしゅこうじょうきょうかい)は、メリーランド州ボルチモアに本部を置く、アメリカ合衆国で最も古い公民権運動組織の一つ である。組織名として有色人種(Colored People)という語彙が残っている稀な例である。1909年2月12日に設立。これはエイブラハム・リンカーン生誕100周年に当たる。 組織 本部の他に、カリフォルニア州、ニューヨーク州、ミシガン州、ミズーリ州、ジョージア州、テキサス州に地域事務所を置く。何れも州議会に対する影響力を持つ。青年組織や大学組織も個人の資格で構成されている。 NAACP は64人の委員会で運営され、議長が置かれる。また一人の代表/最高経営責任者が選ばれその任にあたる。2007年3月以降の代表はブルース・S・ゴードンである。議長は1998年以降公民権運動家でジョージア州責任者のジュリアン・ボンドである。 歴史 1908年イリノイ州スプリングフィールドで人種暴動が起こる。ウィリアム・ウォーリングが報じる。 1909年2月12日 黒人問題を討議する会議を持つことを決定。創立メンバー13人のうち、黒人は社会学者のW・E・B・デュボイスとアイダ・B・ウェルズの2人で、他は全てユダヤ系や白人であった。 5月全国黒人協議会 1910年5月全国黒人向上協会として発足。会長モアフィールド・ストーリ、執行委員会議長にウォーリング、デュボイス広報調査部長。 1911年全国都市同盟(NUL, タスキーギ運動系別組織)結成 1914年 全米50支部、会員数6,000人に成長。デュ・ボイスが会報『クライシス』(危機)を編集。 1919年パリ講和会議で日本が、国際連盟規約に「人種平等の原則」を入れるという提案を行い、全米黒人新聞協会が「われわれ(米国の)黒人は講和会議の席上で「人種問題」について激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬意を払うものである。」というコメントを発表。 1934年デュボイスが協会を去る。 1950年 公民権運動の指導的な組織となる。 2004年 ジョージ・W・ブッシュ大統領がNAACP大会での演説招待をキャンセルした(ハリー・S・トルーマン以来、歴代米大統領が協会の大会で演説を行った)。ただし、2006年のNAACP次総会でブッシュは演説している。 日本人との関係 1919年のパリ講和会議で日本が、国際連盟規約に「人種平等の原則」を入れるという提案(人種的差別撤廃提案)を行った際には、アメリカの黒人は強くこれを支持した。しかし、ウィルソンが全会一致ではないという理由でこれを却下すると、全米各地で暴動が起き、数万人の負傷者を出した。大戦中、多くの日系移民は、米国の市民権を持っていても、強制収容所に入れられた(日系人の強制収容)。黒人運動家のコラムニストは、日系アメリカ人だけが収容され、ドイツ系もイタリア系も収容されなかったことは、あきらかに人種偏見のせいであり、また、アメリカの市民権を持っている日系人さえもが強制収容されるなら、黒人にも同じ事が起こる可能性がある、と指摘したうえで、次のようにロサンゼルス・トリビューン紙上で訴えた。 11万5千人もの人々(日系人)が、一度にアメリカ人としての自由を奪われるのを、われわれ黒人は黙って見過ごすというのか。 全米黒人地位向上協会はそれを受けて、次のような決議を発表。  われわれは人種や肌の色によって差別され、アメリカ人としての当然の権利を侵害されることには断固として反対していかねばならない。 戦後、黒人社会は、収容所から解放されて戻ってきた日系人を歓迎し、温かく迎え、仕事を斡旋したり、教会に招いたりした。 脚註
{ "id": "123360", "title": "全米黒人地位向上協会", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E7%B1%B3%E9%BB%92%E4%BA%BA%E5%9C%B0%E4%BD%8D%E5%90%91%E4%B8%8A%E5%8D%94%E4%BC%9A" }
幻肢(げんし)は、事故や病気が原因で手や足を失った人、麻癖のある人、生まれながらにして持たない人が、存在しない、または麻癖して感じないはずの手足を依然そこに存在するかのように感じること。幻影肢(げんえいし)ともいう。 幻肢をもつ患者はしばしばそれを意図的に動かすことができる。 逆にそれが動かせない場合、その幻の部位に非常に強い痛みを感じることがあり、それを 幻肢痛(げんしつう)という。 幻肢に相当する現象の報告は古くからあるが、19世紀になってから名前がつけられた。南北戦争で負傷した兵士は、抗生物質なしに手や足を切断された。帰郷した兵士たちがなお、自分の手足のことを語るのを見て、医師ワイアー・ミッチェルが名付けたとされている。 幻肢については、これまで、医学の分野を中心に、そのメカニズムや治療法をめぐって研究が進められてきた。脳科学者で神経科医のラマチャンドランは、幻肢や幻肢痛とその原因・治療に関する医学的見地からの種々の報告を行っている。 またかつて現象学の立場から、こうした場面での心の意識の志向性について、フランスの現象学的哲学の代表者、モーリス・メルロー=ポンティがその著書『知覚の現象学』の中で議論を展開したことがある。 スイスのチューリッヒ大学病院の神経科医ピーター・ブラッガー(Petter Brugger)は、幻肢だけでなく、ドッペルゲンガー(doppelganger)、体外離脱体験(out-of-body experience)をも視野に入れた包括的な説明を模索している。 原因 かつては、「切断面に近い神経の末端部の神経腫が刺激を発しているためである」「脊髄の感覚ニューロンが自発的に活動しているためである」と考えがあった。しかし、元々持っていた手や足を事故で失った患者の例では神経腫を取り除いても幻肢は消えず、脊髄の脳に近い部分まで損傷を受けている患者でも幻肢が起きる。このことから、そういった脳外の神経が原因ではなく、脳内の神経回路網が自発的に活動することで幻肢が生まれている、という考えが有力である。 幻肢痛の治療法である「鏡の箱」を使った例では、箱によって失われた手の位置を隠しながら残された正常な片手を箱の側面に映すことで、患者の存在しないはずの手の代りに残された手へ接触などを行い症状の改善が図られる。この例でも、視覚情報によって鏡に映ったあるはずのない手の存在を脳が受け付けて不安定な幻肢を安定化できると解釈され、幻肢が脳内の高度な神経作用に起因して生じている事を裏付けている。 ただし、先天的に手や足を持たない患者でも幻肢は起きる。このことから、幻肢患者が手足を失う前に四肢を使った経験から後天的に獲得・構築した脳神経回路網内の機能的ニューロン集団のネットワーク・パターンだけが、幻肢を引き起こしているのではないらしいことも判っており、身体感覚はある程度まで遺伝的に規定されていると考えられている。 現象学的身体論 メルロ=ポンティは生理学として病理として説明されていた「幻影視」の概念を現象学的身体論の見地からとらえる。「幻影肢」とは、手や足を失った患者がその失われた部位に痛みを感じるという身体的感覚のことで、生理学的見地からは人間の病理として説明されていたが、ポンティは、身体性から説明する。「幻影肢」は病理ではない。失われた身体はもはや誰のものでもない。いわば匿名(幻影)の身体であり、この痛みの感覚は自己の身体が「匿名性」の性質を有していることに起因するものであると考えられる。人間の認識や感覚は「身体性」の概念からとらえることができる。
{ "id": "123361", "title": "幻肢", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%BB%E8%82%A2" }
東大通は、主に日本各地の道路の通称名などに名付けられる。 とうだいとおる 小林よしのりの漫画「東大一直線」の登場人物。(東大一直線と東大快進撃の登場人物を参照) ひがしおおどおり 新潟市中央区内を通る道路の愛称。(新潟県道33号新潟停車場線を参照) 東大通 (新潟市) - 上記の道路沿いの町字 茨城県つくば市内を走る道路の名称。(学園東大通りを参照) 福井県福井市内を走る道路の愛称。(福井県道228号福井停車場勝見線、東大通りを参照)
{ "id": "123365", "title": "東大通", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E9%80%9A" }
兵庫県立姫路東高等学校(ひょうごけんりつ ひめじひがしこうとうがっこう)は、兵庫県姫路市本町に所在する公立の高等学校。兵庫県第4学区に属し、兵庫県立姫路西高等学校とは兄弟校。愛称・略称は「東高(ひがしこう)」。姫路城中堀内側に位置する。 設置学科 単位制 普通科 沿革 旧制姫路高等女学校 1908年(明治41年) - 兵庫県通常県議会において、兵庫県姫路市国府寺町に、兵庫県立姫路高等女学校(現在の姫路市立東光中学校がある場所、姫路東高等学校の前身にあたる)設立が許可される。 1909年(明治42年)10月5日 - 文部省告示第257号を以って兵庫県立姫路高等女学校設置が許可される。 1910年(明治43年)4月1日 - 生徒定員600名で開校する。 1945年(昭和20年)6月22日 - 太平洋戦争でのアメリカ軍の空襲(姫路空襲)により、校舎が全焼する。 1947年(昭和22年)1月30日 - 現在地(2016年時点)で、旧木造校舎の改造起工式を行う。 1947年(昭和22年)4月14日 - 改造工事が竣工し、移転される。 姫路東高等学校 1948年(昭和23年)6月30日 - 兵庫県立姫路西高等学校(旧制兵庫県立姫路中学校・男子校)と職員・生徒・備品に至るまで折半交流し、男女共学となる。 1948年(昭和23年)9月1日 - 定時制課程(中心校と網干分校)を設置する。 1949年(昭和24年)4月1日 - 定時制課程飾磨分校が開校する。 1949年(昭和24年)4月8日 - 兵庫県立姫路商業高等学校を併合する。 1952年(昭和27年)4月1日 - 定時制課程家島分校及び御津分校が開校する。 1961年(昭和36年)4月1日 - 兵庫県立姫路商業高等学校の設立に伴い商業科の募集を停止する。 1962年(昭和37年)4月1日 - 定時制課程家島分校が全日制課程に移行する。 1968年(昭和43年)4月1日 - 定時制課程が独立し、兵庫県立鷺山高等学校と校名変更(現在の兵庫県立姫路北高等学校)する。 1975年(昭和50年)4月1日 - 御国野分校(御国野校舎)を開設する。校地内に青雲高等学校姫路分校を設置する。 1976年(昭和51年)4月1日 - 御国野分校が兵庫県立姫路別所高等学校として独立する。 1979年(昭和54年)6月3日 - 生徒集会所(東生会館)鉄筋コンクリート造3階建てが竣工する。 1982年(昭和57年)3月31日 - 青雲高等学校姫路分校が閉校する。 1984年(昭和59年)4月1日 - 家島分校が兵庫県立家島高等学校として独立する。 1989年(平成元年)10月29日 - 県女跡記念碑除幕式を挙行する。 1999年(平成11年)10月31日 - 東生会館トレーニング室が竣工する。 2003年(平成15年)4月1日 - 2003年度入学生より単位制による全日制課程に改編する。学区が県下全域となる。 2009年(平成21年)11月3日 - 百周年記念館竣工式を挙行する。 2015年(平成27年)4月1日 - 兵庫県公立高校の通学区再編(16→5学区)により、姫路・福崎学区と西播学区が統合され第4学区となる。 2019年(令和元年)11月3日 - 武家屋敷風の外壁「令和の白壁」、中庭に本格的な庭園「弥生の庭」が竣工する。 2020年(令和2年)4月1日 - 文部科学省よりスーパーサイエンスハイスクール(SSH)の指定を受ける(5年間)。 校章・校歌等 校章:「高」の字で姫路城をかたどり抽象化し、その下に石垣を意味して「一」の字を付け加え、線は質実剛健を意味して出来るだけ太く作られた。 校歌:作詞 竹友藻風/作曲 信時潔 応援歌:作詞 船越明彦/作曲 守安省 県女校歌:作詞 多田徳助/作曲 守安省 特色 2003年より単位制が採用されており、2006年3月の卒業生が最初の単位制の卒業生となった。 歴史的経緯から兄弟校である姫路西高等学校との交流戦、兵庫県立姫路東西高等学校体育大会(東西大会)が毎年開催される。 教室は、定時制課程の姫路北高等学校と時間差で共同使用しており、17時以降は普通教室棟(2棟)への東高生徒の立入りは禁止されている。1年次生及び2年次生については、辞書、資料集など、すべてのものを持ち帰らなければならないためカバンは指定されていない。現在は1年次生及び2年次生にもロッカーが設置された。なお、3年次生については、教室の後方にロッカーが設置されている。 「携帯電話は、校内では使用せず、カバンの中に電源を切って入れておく」という条件付で認められている。 マラソン大会は、男子8.4km、女子4.8kmであったようだ。 姫路城の遺構 校舎敷地は、姫路城中堀の内側(国の特別史跡に指定)に位置し、かつては上級・中級の武家屋敷や、矢場、桐の馬場があった。 著名な卒業生 初井しづ枝(歌人) 高島俊男(中国文学者、随筆家、元岡山大学助教授) 小林正受(関西ペイント社長、相談役) 大橋忠晴(元川崎重工業社長、元日本商工会議所副会頭、元関西経済連合会副会長、元神戸商工会議所会頭) 黒田武彦(天文学者、元兵庫県立西はりま天文台長・天文台公園長) 尾上広和(グローリー社長) 中倉健二(元東洋ゴム工業社長、元日本自動車タイヤ協会会長) 石橋康哉(元クラシエホールディングス社長) 廣岡資生(NHK高校野球の解説者) 谷口恒(ZMP創業者・社長、日本ベンチャー大賞経済産業大臣賞、日本イノベーター大賞特別賞) 萩原芳樹(放送作家、漫才作家) 田中幹保(元バレーボール日本男子代表監督) 小国英昭(美容外科医・あさひ美容外科総院長) 長谷川集平(絵本作家、ミュージシャン) 安井純子(女子プロゴルファー) 鳥居睦子(フリーアナウンサー、元静岡放送アナウンサー) 亀野淳(教育学者、北海道大学准教授) 吉田真里子(元アイドル歌手、シンガーソングライター) 武田邦宣(経済法学者、大阪大学教授・副理事、公正取引委員会競争政策研究センター主任研究官) 火野村豪(三線奏者) DJケチャップ(スタジアムDJ、スポーツDJ、元お笑い芸人) 藤尾仁志(お笑いコンビオクラホマのボケ担当、抽象画家) 衣笠梨代(テレビ新広島アナウンサー) 春名優輝(ラジオ関西アナウンサー) 著名な教職員 丸山芳介(会津藩藩士、実業家、政治家、姫路高等女学校創立関係者) 梶和三郎(教育者、1954年、本校校長を歴任)
{ "id": "123368", "title": "兵庫県立姫路東高等学校", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B5%E5%BA%AB%E7%9C%8C%E7%AB%8B%E5%A7%AB%E8%B7%AF%E6%9D%B1%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1" }
東大通り、東大通(ひがしおおどおり) 通りの名前。しばしば街の東側を走る通りの俗称として名付されるため、複数の東大通りが存在する。また日本の通りから転じて町名、地名としても使われる。 通りの名前 学園東大通り(茨城県つくば市) 新潟県道33号新潟停車場線(新潟県新潟市) 東京都道247号府中小金井線(東京都小金井市) 東大通り(福井県福井市) 町名 岩手県奥州市水沢区:東大通り 山形県米沢市:東大通 新潟県新潟市中央区:東大通 新潟県佐渡市:東大通
{ "id": "123374", "title": "東大通り", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E9%80%9A%E3%82%8A" }
千葉 麗子(ちば れいこ、1975年〈昭和50年〉1月8日 -)は、日本の政治活動家、実業家、ヨーガインストラクター、元女優・元声優・元アイドル。愛称は「チバレイ」。 既婚。福島県出身。以前はティアンドウェーブに所属していた。 現在は福岡県糸島市在住。 来歴・人物 大阪府大阪市天王寺区生まれ。父親が福島市の職員に採用されたため、5歳から16歳のころまで福島県福島市で育つ。福島市立福島第四中学校、福島県立福島南高等学校を経て、東京都立代々木高等学校卒業。 両親から酷いドメスティック・バイオレンスに遭い、早く家を出たくてアイドルを目指す。プライベートルームの取材を切り出した時は編集者もカメラマンも男性は入室禁止と答えていた時が続いていた。 1991年にティラノスレーシングマスコットガールとして芸能界デビューし、アイドルグループ「オーロラ五人娘」のメンバーなどとして活動した。 1992年、「スーパー戦隊シリーズ」『恐竜戦隊ジュウレンジャー』にてメイ / プテラレンジャー役で出演し、注目を集める。戦隊ヒロインとしては当時最年少であった。ロケーション撮影は雨天になると延期になることが大変であり、晴れの日は朝から日没まで撮影してます、と答えている。『ジュウレンジャー』の撮影では、ころんで足をすりむいたりなど「アクションシーンが多いのでしょっちゅうケガしてます(笑)」と述べている。 1993年にドラマ 『ひとつ屋根の下』に出演したほか、ネッスルクランチや大正製薬アイリスCL-1などのCMに出演。翌年にはドラマ『南くんの恋人』や、『餓狼伝説SPECIAL』の主題歌「Non Stop! One Way Love」でソロCDデビューを果たしている。 1995年1月6日~8日、SNK社からの仕事で新作ゲーム発表会のためCES(コンシュマー・エレクトロニクス・ショー=アメリカ)のイベントの時に英語で「真・サムライスピリッツ」(ゲーム)の説明をしたことがある。 PC系の知識が豊富で、パソコン雑誌や黎明期のネットワーク関連誌にも頻繁に登場していたことから、電脳アイドルと呼ばれた。当時所属していた芸能事務所にMacintosh LCがあったことがきっかけでパソコンに興味を持ち、パソコン通信のEYE-NETやNIFTY-Serveに自分のフォーラムを持ち、ファンと交流していた。 1995年5月に芸能活動を引退し、ゲームソフトウェア会社に一般OLとして就職。同年11月には、アイドル時代から精通していたパソコンなどのソフトウェアを扱うベンチャー企業 「チェリーベイブ」を起業した。『ありす in Cyberland』(グラムス)のプロデュースなどを行っていた。ゲームに興味を持ったきっかけは、高校時代に友達と一緒に初めてゲームセンターに行った時に、レースゲームの『アウトラン』に魅了され、ハイスコアを出し続けるようになった。ゲームボーイを買ってもらったのは中学3年生の時。動物にも好感があり、1人暮らしの時には猫を飼っていたこともある。 1996年4月9日に東京の銀座で「ありす in Cyberland」の制作発表会が行われた。有限会社チェリーベイブの代表取締役でもあったが、家庭用ゲーム機のソフトとしては初仕事となりプロデュースを担当した。デジタル写真集『SECRE』シリーズに出演したことでグラムスと縁があり、「開発スタッフのみなさんに愛があると感じたので、この仕事もすぐに受けました。キャラクターの台詞やタイトルロゴのデザインもいっしょに考えています」と述べている。 1998年9月21日に、サウンドクリエーターのDJ KIRIJAと結婚。翌年9月に第一子となる長男を出産。翌年にはヨーガのインストラクターの勉強をはじめた。 2002年にヨーガのインストラクター資格を取得、2004年7月にはNHK教育テレビ『まる得マガジン』でヨーガ講座を担当。 アイドルを引退後はヨーガ関連の番組に講師としての出演(上記参照)のほか、『THE KING OF FIGHTERS EX 〜NEO BLOOD〜』(2002年1月1日発売)では、葉花萌の声優を務めている。 『太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。』『スマステーション』『学べる!!ニュースショー!』『婚カツ!』『クイズ雑学王』などにテレビ出演。 2010年、週刊プレイボーイ、雑誌フライデーにセミ・ヌードのグラビアを掲載。清水清太郎撮影の写真集『WITHIN』、およびDVDを発売。 2010年9月13日、渋谷で開催されたコラソンナイト神南にDJ CHIBA-REIとして出演、DJデビューした。 2011年8月5日 - 7日の3日間限定『TENGA展 〜TENGA 3D MUSEUM OF ART〜』にて、写真家・荒木経惟とコラボした写真作品を発表した。 2011年の東日本大震災をきっかけに、脱原発運動に参加。しかし、現在は決別し、左翼を「パヨク」と呼んで非難。行動する保守の運動への参加や、新右翼系団体「超国家主義『民族の意志』同盟」などに参加している。 2018年1月から八重山日報で『チバレイのパヨッてる場合じゃない!』を連載開始。 エピソード 上京したてのころは体調を壊し、病院に通って点滴を打つという生活を送っていた。『ジュウレンジャー』の撮影に入ってからは、食欲が出て体調も良くなったという。 『ジュウレンジャー』の開始に前後して他の仕事も増えていったため、特例として戦隊と他の仕事を並行していた。さらに当時は高校にも通っていたため、多忙を極めていたという。 『ジュウレンジャー』でもっとも思い出深いこととして、ブライ/ドラゴンレンジャーが死ぬ場面で変身のカット切り替えに手間取り、泣く芝居に入るのが難しかったことを挙げている。 『ジュウレンジャー』の次作『五星戦隊ダイレンジャー』でヒロインを務めた高橋夏樹とは、同じ雑誌でデビューしたことから親交があったが、双方とも戦隊出演当時は多忙であったため会うことができなかったという。 かつて「パチンコ大好き三共」と、ポスター、広告、宣伝、パチンコメーカー三共のイメージガールを務めたことがある。 「真サムライスピリッツ」のCMはハワイで行われたが、スモークマシンの霧を吸いすぎて倒れてしまい、現地の病院に搬送された。当然言葉も通じないため、片言の英語で、自分は女優だから傷を残さないでくれと必死だったという。 作品 著書 『チバレイのおへそ』小林宗明 共著 竹書房(1996年)ISBN 978-4812400456 『千葉麗子の親子で入門インターネット ―パソコン選びからホームページ作りまで―』「NHK趣味悠々」日本放送出版協会(1997年)ISBN 978-4141882398 『チバレイの超カンタン!インターネット』双葉社(1998年)ISBN 978-4575289107 『小娘社長のときめき奮戦記 ―「私」が「わたし」であるために―』経済界(1998年)ISBN 978-4766781625 『千葉麗子のスタイリッシュヨーガバイブル』学研(2005年)ISBN 978-4056038934 『ポジうつ! ―「うつ友達」がいれば、ポジティブに生きられる! Yes、we can!―』 橋本真由美 共著 マガジンハウス(2007年)ISBN 978-4838717484 『千葉麗子のインテグラル・ヨーガ ―ココロとカラダのビューティレッスン―』ローカス(2007年)ISBN 978-4898147627 『チバレイ Beauty』扶桑社(2008年)ISBN 978-4594057954 『千葉麗子のモテ・ヨーガ』中経出版(2009年)ISBN 978-4806135708 『千葉麗子の今日から始める ヨーガLesson』TJムック(2008年8月)ISBN 978-4796665667 『白湯ダイエット-カラダの声に耳を澄ましてますか?』祥伝社(2009年)ISBN 978-4396314835 『朝1杯!!白湯のみダイエット 朝、お湯を飲むだけ。』川嶋朗監修、角川・エス・エス・コミュニケーションズ レタスクラブムック (2009年)ISBN 978-4827544084 『さよならパヨク ―チバレイが見た左翼の実態―』表紙・対談:はすみとしこ 青林堂(2016年)ISBN 978-4792605469 『くたばれパヨク』表紙:はすみとしこ、対談:桜井誠、青林堂(2016年)ISBN 978-4792605735 『ママは愛国』 監修:倉山満 ベストセラーズ(2017年)ISBN 978-4584137758 『悲しいサヨクにご用心!』倉山満、杉田水脈共著 ビジネス社(2017年)ISBN 978-4828419749 『パヨクニュース2018 ―チバレイによるパヨクなニュース50選!―』青林堂(2017年)ISBN 978-4792606114 『國の防人』(第5号)共著 展転社(2018年) ISBN 978-4886564566 『チバレイの日本国史 ─日本の國體とは―』青林堂(2019年)ISBN 978-4792606541 連載 チバレイのフォトレポート(ジャパニズム、第40号から終刊の第53号まで全13回) チバレイのパヨッっている場合じゃない!(八重山日報、2018年1月17日 -) 写真集 1993.04.10 『ファーストボヤージュ 南へ5マイル』浪漫新社 撮影:尾形正茂 ISBN 978-4764817111 1993.10.10 『EAST WIND 風の流れの中で…』浪漫新社 撮影:尾形正茂 ISBN 978-4847023361 1994.09.10 『THROUGH IT』スコラ 撮影:宮澤正明 ISBN 978-4796201889 1996.12.13 『Chiba Chiba』ダイヤモンド社 ISBN 978-4478950197 2001.11.07 『Chibarei』アクアハウス 撮影:山内順仁 ISBN 978-4860460334 2010.07.30 『WITHIN』竹書房 撮影:清水清太郎 ISBN 978-4812442814 雑誌 デラべっぴん No.64(1991年3月号、英知出版)表紙 DVD 『スーパーヒロイン図鑑III 戦隊シリーズ篇2+メタル&アイドル篇』東映ビデオ(2002年2月) 『千葉麗子 WITHIN』竹書房(2010年8月) 『千葉麗子と始めるヨーガ[DVD]』NHKまる得マガジン(2004年10月)ISBN 978-4902484465 『千葉麗子のキレイと元気をつくる! DVD de ヨーガLesson』TJムック(2004年7月)ISBN 978-4796642200 CD 『クールな恋』東芝EMI(1993年4月) 『Non Stop! One Way Love 〜餓狼伝説SPECIALのテーマ〜』ポニーキャニオン サイトロン・レーベル(1994年4月) 『BRAND NEW SPIRITS』ポニーキャニオン(1994年12月) 『P-パラダイス』ポニーキャニオン(1994年11月) 『NEO GEO GALS Vocal Collection』ポニーキャニオン(1996年6月) 『Good Morning VIOLIN DANCE played by NAOrchestra』バウンディ(2011年9月) 出演 情報・バラエティ 殿様のフェロモン(1993年、フジテレビ) ゲッパチ!UNアワー ありがとやんした!?(1994年、フジテレビ) Revolution No.8(1994年、フジテレビ) - 司会 クイズ年の差なんて(1994年、フジテレビ) 虎の門 司会(2002年、テレビ朝日) ネット 文化人放送局「怒っていいとも」 テレビドラマ スーパー戦隊シリーズ 恐竜戦隊ジュウレンジャー(1992年2月 - 1993年2月、テレビ朝日) - メイ / プテラレンジャー 役 忍者戦隊カクレンジャー(1994年2月 - 1995年2月、テレビ朝日) - 第25話ゲスト 麗花 役 ひとつ屋根の下(1993年4月 - 6月、フジテレビ) - 桑名詩織 役 南くんの恋人(1994年1月 - 3月、テレビ朝日) - 野村リサコ 役 婚カツ!(2009年4月20日 - 2009年6月29日、フジテレビ) - 第3話ゲスト ヨーガインストラクター 役 映画 獣電戦隊キョウリュウジャーVSゴーバスターズ 恐竜大決戦! さらば永遠の友よ(2014年) - プテラレンジャーの声 役 テレビアニメ SAMURAI SPIRITS 〜破天降魔の章〜(1994年、フジテレビ) - ナコルル 役 OVA おたくの星座(1994年) - ルン 役 ワイルド7(1994年 - 1995年) - イコ 役 劇場アニメ 餓狼伝説 -THE MOTION PICTURE-(1994年) - 千葉麗子ちゃん 役 ゲーム サムライスピリッツシリーズ - チャムチャム 役 真サムライスピリッツ 覇王丸地獄変(1994年) サムライスピリッツ 天草降臨スペシャル(1996年)※PS版 真説サムライスピリッツ 武士道烈伝(1997年) The Tower II(1998年)- VIPとして出演 THE KING OF FIGHTERS EX 〜NEO BLOOD〜(2002年) - 葉花萌 役 海外アニメ ザ・シンプソンズ(1998年) - アリソン・テイラー 役 ラジオ SNK一撃!ネオラジオ(1993年、MBS) - パーソナリティ 夜のおもちゃ ぜんじろげっ!(1994年10月 - 1995年3月、ニッポン放送) - アシスタント 秋葉原ヤング電気館(1995年、ニッポン放送) - パーソナリティ 千葉麗子のオールナイトニッポン 餓狼伝説スペシャル(1995年7月15日、ニッポン放送) - パーソナリティ 夕焼けマーケッツ(2012年、ラジオNIKKEI) - 月曜レギュラー CM 福島銀行(1993年) 大正製薬 アイリスCL-1(1993年) 日清食品 UFO仮面ヤキソバン(1993年) ネスレ日本(ネッスルマッキントッシュ→ネスレコンフェクショナリー→現社名)ネッスルクランチチョコレート(1993年) 三共 フィーバーガールズI(1993年) 販促用ポスターに出演。 SNK ネオジオCD(1994年) 東京デジタルホン(1995年) 大塚製薬 オロナミンC(2005年) 舞台 1999年:おかあさんといっしょとゆかいななかま〜わくわく大行進〜(クラップの声)
{ "id": "123379", "title": "千葉麗子", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E8%91%89%E9%BA%97%E5%AD%90" }
株式会社リクルートホールディングスは、求人広告、人材紹介、人材派遣、販売促進、ITソリューションなどのサービスを手掛けるリクルートグループの持株会社である。海外売上高比率は55.5%。日経平均株価およびTOPIX Core30、JPX日経インデックス400の構成銘柄の一つ。 本記事では(企業グループとしての)リクルートグループ全般、ならびにその沿革についても説明する。 概要 江副浩正によって創立された。主に人材派遣、販促メディア、人材メディア、ITソリューションを提供している。近年はITを駆使した事業分野に大幅に注力している。社員全員が参加できる新事業コンペを導入し、自由に事業を起こすことができる社風であるという。出版する情報誌からフリーター、就職氷河期、ガテン系などの流行語が生まれている。。 1988年の、戦後最大級の疑獄事件ともいわれたリクルート事件の後、会社としての信用失墜と共に、バブル景気の崩壊に伴い、マンション・不動産事業の子会社リクルートコスモスや、金融子会社のファーストファイナンスなどの不良資産問題が顕在化した。グループ全体が窮地に追い込まれていった。1992年6月大手スーパー・ダイエーへ保有株式が譲渡され、ダイエーの系列下に入ったが、ダイエーグループの業績悪化などにより2000年ごろに離脱している。ダイエーグループ入りの際、ダイエーは「もの言わぬ株主」に徹する代わりに負債の肩代わりはしない立場をとった。このため、リクルートはダイエーより来た高木邦夫の下、バブル期の不動産やノンバンク事業の失敗で94年3月期に約1兆4000億円あった有利子負債を自力で完済した。現在はどの企業グループにも属さず、サービス業としての中立性を維持しながら事業展開をしている。 2018年4月1日には、グループ組織再編を行い、HRテクノロジー事業、メディア&ソリューション事業(現・マッチング&ソリューション事業)、人材派遣事業の3つの戦略ビジネスユニットを新たに構成するとともに、それぞれの事業統括会社を設立した(再編後のグループ体制は#リクルートグループを参照)。 2021年4月1日、株式会社リクルートと事業会社7社が統合。新生株式会社リクルートとなる。 沿革 1960年 3月 - 江副浩正が、東京大学の学生新聞である「東京大学新聞」の広告代理店「大学新聞広告社」として創業。 10月 - 会社組織として「株式会社大学広告」を設立し、「大学ニュース」(後の「調査月報」)を創刊。 1962年 - 大学生向け就職情報誌「企業への招待」(後のリクルートブック)を創刊。 1963年 4月 - 商号を「株式会社日本リクルートメントセンター」に変更。 8月 - 事業内容の変化・拡大に伴い、組織形態の変更を目的に、株式会社日本リクルートセンターを設立。 8月 - 「リクルートメント」(後の月刊リクルート)、「就職先しらべ」を創刊。 1966年 3月 - 就職指導専門誌「プレースメント」創刊。 3月 - 貸机業の子会社である株式会社日本ビジネスセンターを設立。 1968年 3月 - 映画事業開始。 6月 - 大学生向け月刊就職情報誌「就職ジャーナル」創刊。 1969年 5月 - 教育事業部発足、教育機器「ステップコーダー」を開発・販売。 6月 - 株式会社日本リクルート映画社(現・株式会社コスモスイニシア)を設立。 1970年9月 - 「リクルート進学ブック」(後のスタディサプリ進路 進学事典)を創刊。 1971年5月 - 株式会社リクルートコンピュータプリント(後の株式会社リクルートコミュニケーションズ)を設立。 1972年 4月 - 中途採用専門誌「就職情報」創刊。 5月 - 研修および営農による収益を目的に有限会社リクルートファームを設立。 11月 - 「リクルートタイムズ」創刊。 1976年 1月 - 「住宅情報(現・SUUMO新築マンション)」創刊。 3月 - 株式会社細野高原牧場(後の有限会社安比高原牧場)を設立。 5月 - 株式会社日環サービス(後の大和ライフネクスト株式会社)を設立。 9月 - 財団法人江副育英会が発足。 1977年 2月 - 盛岡グランドホテルの経営を取得。 4月 - 金融業の子会社ファーストファイナンス株式会社を設立。 11月 - 人材斡旋事業準備室が独立し、株式会社人材情報センター(後の株式会社リクルートキャリア)を設立。 11月 - 中途採用事業部が独立し、株式会社就職情報センターを設立。 1979年2月 - 株式会社ホテルデン晴海(後の株式会社コスモスホテル開発)を設立。 1980年 2月 - 女性のための転職情報誌「とらばーゆ」を創刊。 6月 - リクルート健康保険組合を設立。 8月 - 株式会社採用企画センターを設立。 11月 - 安比総合開発株式会社(現・株式会社岩手ホテルアンドリゾート)を設立。 1982年 2月 - 技術者向け求人情報誌「ベルーフ」創刊。 4月 - 初の海外現地法人「Young Tour Europe INC」を設立。 5月 - リクルートスキーチーム発足。 10月 - 株式会社リクルートフロムエー(後の株式会社リクルートジョブズ)を設立。 11月 - アルバイト求人情報誌「FromA(フロム・エー)」(現 「フロム・エー ナビ」)創刊。 1983年 3月 - 「不動産流通物件総覧」創刊。 4月 - 映像事業部が独立し、株式会社リクルート映像(後の株式会社ジュピタービジュアルコミュニケーションズ)を設立。 7月 - 「リクルートカレッジマネジメント」創刊。 11月 - 家を建てる人、建て替える人の情報誌「ハウジング情報」(現・「HOUSING」)を創刊。 1984年 4月 - 商号を株式会社リクルートに変更。 4月 - 株式会社就職情報センターが株式会社リクルート情報出版(後にリクルートと合併)に社名変更。 4月 - 調査部が独立し、株式会社日本リクルートセンター(後の株式会社リクルートリサーチ)を設立。 7月 - 海外旅行情報誌「エイビーロード」を創刊。 10月 - 中古車売買の専門情報誌「カーセンサー」を創刊。 1985年 1月 - 「G7ギャラリー」オープン。 2月 - RECRUIT U.S.A. Incを設立。 2月 - 日本経済新聞社と共同出資で、株式会社マップデータを設立。 4月 - ヤングツアー事業部と海外事業部が統合し、株式会社リクルートインターナショナルを設立。 4月 - 社内クラブ「シーガルハウス」オープン。 9月 - 株式会社九州リクルート企画を設立。 1986年 1月 - シーガルハウス等の経営を行う株式会社シーガルプランニングを設立。 7月 - 株式会社神戸製鋼所との合弁会社株式会社アークシステムを設立。 9月 - 株式会社リクルート情報出版を吸収合併。 12月 - 書籍出版部門が独立し、株式会社リクルート出版(後の株式会社メディアファクトリー)を設立。 1987年 1月 - 株式会社シーズスタッフ(現・株式会社リクルートスタッフィング)を設立。 7月 - リクルート厚生年金基金を設立。 7月 - RECRUIT EUROPE LTD.を設立。 9月 - リクルート国際バン株式会社を設立。 10月 - リクルートダンスクラブ発足。 1988年 1月 - 江副浩正が代表取締役会長、位田尚隆が代表取締役社長に就任。 1月 - 「就職情報」と「ベルーフ」の統合により「B-ing」を創刊。 5月 - ソフトウェア情報誌「パッケージソフト」を創刊。 6月 - 川崎市助役へのリクルートコスモス株譲渡報道(リクルート事件が発覚) 6月 - 江副浩正が会長を辞任し、相談役に就任。 12月 - 江副浩正が相談役を辞任。 1989年 5月 - グラフィックデザイン誌「クリエイション」創刊。 10月 - 人事測定事業部が独立し、株式会社人事測定研究所(現・株式会社リクルートマネジメントソリューションズ)を設立。 11月 - リクルート野球部を発足。 12月- 「クリエイションギャラリーG8」オープン。 1990年 1月 - 旅行関連情報誌「じゃらん」と学び情報誌「ケイコとマナブ」を創刊。 1月 - マンションリフォームの子会社株式会社コスモスモアを設立。 2月 - 障害者雇用のための特例子会社株式会社リクルートプラシス(現・株式会社リクルートオフィスサポート)を設立。 3月 - ビル事業部が独立し、株式会社リクルートビルマネジメント(現・株式会社ザイマックス)を設立。 5月 - 株式会社中四国リクルート企画を設立。 6月 - 技術者のための「テクノロジービーイング」創刊。 7月 - リクルートとリクルートフロムエーの出資による音楽出版会社、株式会社ミュージック・マインを設立。 12月 - 東京都渋谷区に「ガーディアン・ガーデン」をオープン。 1991年 8月 - 株式会社リクルートエリアネットケイ、株式会社リクルートエリアネットエスを設立。 8月 - 職にこだわる人のための仕事情報誌「ガテン」創刊。 1992年6月 - 江副浩正から株式会社ダイエーがリクルート株式(約35.2%)を購入。中内㓛が代表取締役会長に、高木邦夫氏が常務取締役に就任。 1993年 3月 - 株式会社リクルートエリアネット西東京(現・株式会社オールアバウト)を設立。 5月 - 結婚関連情報誌「ゼクシィ」を創刊。 1994年 4月 - 「赤ちゃんのためにすぐ使う本」をムックとして発刊(後の雑誌「赤すぐ」)。 4月 - 「ダ・ヴィンチ」を創刊。 7月 - 株式会社リクルート北海道じゃらんを設立。 11月 - 「生活情報360°」(Hot Pepper(ホットペッパー)の前身)を創刊。 1995年 3月 - ウェブサイト「Mix Juice」(現・ISIZE)をリリース。 3月 - PHSの企画会社のアステルに資本参加。 5月 - 金融情報誌「あるじゃん」を創刊。 1996年 2月 - ウェブサイト「RECRUIT BOOK on the NET」(現・リクナビ)を開始。 4月 - ウェブサイト「Digital B-ing」(現リクナビNEXT)を開始。 6月 - 任天堂と合弁で、ゲームソフト開発支援企業株式会社マリーガルマネジメントを設立。 11月 - パーフェクTV「学びCHANNEL」を開局。 1997年 2月 - 音楽雑誌「ザッピィ」、独立起業情報誌「アントレ」を創刊。 6月 - 位田尚隆代表取締役社長が取締役相談役に、河野栄子代表取締役副社長が代表取締役社長に就任。 1998年 4月 - 株式会社リクルート人材センターと株式会社関西リクルート人材センターが合併し、株式会社リクルートエイブリック(後の株式会社リクルートキャリア)を設立。 9月 - 「ダ・ヴィンチ」「じゅげむ」「ザッピィ」を株式会社メディアファクトリーに営業譲渡。 9月 - 株式会社東海カーセンサー(現・株式会社リクルート東海カーセンサー)、株式会社リクルートイサイズトラベルを設立。 11月 - アルバイト情報誌「タウンワーク」を創刊。 1999年 6月 - 任天堂と合弁でテレビモニタとゲーム機を利用した会員制ネットワークビジネスを行う株式会社ランドネットディディを設立。 6月 - 株式会社北海道カーセンサー(現・株式会社リクルートカーセンサー)と株式会社九州カーセンサー(現・株式会社リクルート西日本カーセンサー)を設立。 7月 - 株式会社ベルシステム24と合弁で、テレマーケティング企画会社株式会社アール・ベル・コミュニケーションズを設立。 2000年 6月 - 株式会社西東京リクルートをAbout.com Inc.の出資により株式会社リクルート・アバウトドットコム・ジャパン(現・株式会社オールアバウト)に合弁化。 7月 - グルメなど日常生活に密着した生活情報誌「Hot Pepper」を創刊。 8月 - 株式会社リクルートフロムエーキャスティングを設立。 10月 - 資本提携により、プロメトリック株式会社をアール・プロメトリック株式会社(現・プロメトリック株式会社)に変更。 宿泊施設のオンライン予約サービス「ISIZEトラベル」(現 じゃらんnet)をリリース。 2001年4月 - 株式会社リクルート・エックス(現・株式会社リクルートエグゼクティブエージェント)を設立。 2002年 2月 - 中内功名誉会長が退任。 4月 - 株式会社リクルートメディアコミュニケーションズ(後の株式会社リクルートコミュニケーションズ)を設立。 4月 - トヨタ自動車株式会社と合弁で株式会社オージェイティー・ソリューションズ(現・株式会社 OJTソリューションズ)を設立。 2003年 1月 - 株式会社岩手ホテルアンドリゾートを加森観光株式会社に経営譲渡。 6月 - 株式会社リクルートHRマーケティング、株式会社リクルートHRマーケティング関西、株式会社リクルートHRマーケティング東海を設立。 6月 - 河野栄子代表取締役社長が会長兼CEOに、柏木斉常務執行役員が代表取締役社長兼COOに就任。 2004年 2月 - リクルートとヤフー株式会社が合弁で、サイトを通じて短期・緊急性の高い仕事について企業と個人のマッチングを行う会社株式会社インディバルを設立。 4月 - 河野栄子代表取締役会長が取締役会長兼取締役会議長に、柏木斉代表取締役社長が兼CEOに就任。 7月 - フリーマガジン「R25」を創刊。 8月 - 上海龍翔広告有限会社との合弁で上海瑞可利广告有限公司を設立。 10月 - 株式会社リクルートキャリアコンサルティングを設立。 2005年 3月 - 株式会社シーエーシー情報サービス(現・株式会社リクルートスタッフィング情報サービス)を子会社化。 7月 - 株式会社日本医療情報センター(現・株式会社リクルートメディカルキャリア)を子会社化。 8月 - 三井物産の合弁で、株式会社アールスリー・ヘルスケア・プランニングを設立。 9月 - 「カーセンサーEDGE」を創刊。 9月 - 株式会社メディアシェイカーズを設立。 株式会社広報社(現・株式会社リクルート北関東マーケティング)を子会社化。 2006年 1月 - 株式会社リクルートスタッフィング シティーズを設立。 2月 - 株式会社プロアウト(現・株式会社リクルートR&Dスタッフィング)を設立。 3月 - 株式会社三洋ヒューマンネットワークを子会社化。 3月 - 株式会社ホームプロを子会社化。 4月 - 株式会社九州リクルート企画、及び株式会社中四国リクルート企画を吸収合併。 4月 - 対面型の就職・転職活動支援サービス「就職Shop」を神奈川県横浜市に開設。 5月 - 株式会社リクルートインキュベーションパートナーズを設立。 8月 - 株式会社リクルートスタッフィング、日本人材センター株式会社(後のリクルートスタッフィング静岡、リクルートスタッフィングシティーズ)を子会社化。 11月 - 株式会社ゆこゆこを子会社化。 11月 - 「L25」創刊。 12月 - フジテレビジョンと合弁で、株式会社コネテレを設立。 株式会社リクルートコミュニケーションエンジニアリングを設立。 中国に”亜潤投資管理諮詢(上海)有限公司(現・上海艾杰飛人力資源有限公司)”を設立。 2007年 1月 - 三井物産と資本・業務提携。 1月 - 電通と資本・業務提携。 3月 - 株式会社ジョブダイレクトを子会社化。 3月 - 株式会社リクルートスタッフィング、株式会社キャリアメイツを子会社化。 4月 - 金融情報誌「あるじゃん」事業を株式会社オールアバウトに譲渡。 4月 - 株式会社リクルートスタッフィング静岡と株式会社リクルートスタッフィングシティーズが統合。 4月 - 株式会社セプトの中古車情報誌「カッチャオ」事業を承継する新会社(現・株式会社リクルート西日本カーセンサー)を子会社化。 4月 - 株式会社ブログウォッチャーを設立。 4月 - 電通と合弁で、株式会社ドラムを設立。 4月 - オンライン予約サービス「HotPepper Beauty」をリリース。 6月 - 株式会社シーナッツを設立。 9月 - 株式会社フロムエーキャリアを設立。 11月 - 「タウンワーク社員」創刊。 11月 - 日本テレビとの業務提携および資本提携。 12月27日 - ユメックスHD株式会社を子会社化。 12月28日 - 株式会社スタッフサービス・ホールディングスを子会社化。 2008年 1月 - 株式会社リクルートエージェント、シーディエスアイ株式会社(現・RGFタレントソリューションズ株式会社)を子会社化。 1月 - 東京都千代田区丸の内一丁目9番2号グラントウキョウサウスタワーヘ本社機能を移転。 3月 - チラシ宅配サービス「タウンマーケット」開始。 4月 - 株式会社リクルートゼクシィナビ、株式会社リクルートスタッフィングクラフツを設立。 2009年 3月 - 東京地方裁判所にてリクルート社員の労災認定。(リクルート過労死裁判) 4月 - 株式会社働きがいのある会社研究所を設立。 Good Job Creation (Asia) Ltd. (現・RGF HR Agent Hong Kong Limited)を子会社化。 10月 - 株式会社リクルート沖縄じゃらん(現・株式会社リクルートライフスタイル沖縄)を設立。 2010年 7月 - The CSI Companies, Inc.を子会社化。 7月 - クーポン共同購入サイト「ポンパレード」を開始。 9月 - オイシックスと合弁で株式会社ごちまるを設立。 11月 - 株式会社ニジボックスを設立。 2011年 6月 - Oak Pacific Holdingsと合弁で株式会社ビズアイキューを設立。 6月 - インドにRGF HR Agent India Private Limited(現・RGF Select India Private Limited)を設立。 8月 - ベトナムにRGF HR Agent Vietnam Co., Ltd.を設立。 10月 - 米国における人材派遣事業を拡大するため、STAFFMARK HOLDINGS, INC. の株式を取得(子会社化)。 10月 - 大学受験勉強を支援するオンライン学習サービス「受験サプリ」(現・スタディサプリ)をリリース。 12月 - 北米における人材派遣事業を拡大と欧州における人材派遣事業に進出を目的に、アメリカAdvantage Resourcing America, IncとオランダAdvantage Resourcing Europe B.V.の株式取得(子会社化)。 2012年 4月 - 柏木斉代表取締役社長兼CEOが取締役相談役に、峰岸真澄取締役兼専務執行役員が代表取締役社長兼CEOに就任。 6月 - ビューティーサロン向けのクラウド型オンライン予約管理システム「SALON BOARD」をリリース。 10月1日 - 会社分割による持株会社体制へ移行し、株式会社リクルートホールディングスに商号変更。。併せて、当社ならびにグループ会社のコーポレートロゴ(リクルートロゴ)を現在のものに変更。 10月 - 人材メディア事業を海外展開するため、世界各国で求人情報検索サイトを運営するIndeed, Inc. の株式を取得(完全子会社化)。 2013年 3月 - 株式会社リクルートライフスタイル、ショッピングモール事業「ポンパレモール」を開始。 4月 - Bo Le Associates Group Limitedの株式を取得し完全子会社化。 8月 - NuGrid Consulting Private Limited(後のRGF Executive Search India Private Limited)を完全子会社化。 10月 - 米国で中古不動産情報サイトを運営するMovoto LLCを子会社化。 11月 - SaaSベースのPOSレジアプリ「Airレジ」をリリース。 2014年 1月 - RGF HR Agent Recruitment (Thailand) Co., Ltd.を設立。 4月 - 合同会社RGIPを設立。 10月16日 - 東京証券取引所市場第一部に上場。 12月 - 株式会社リクルートペイメントを設立。 2015年 1月 - オーストラリアの人材派遣会社Peoplebank Holdings Pty Ltdを子会社化。 3月 - ドイツで飲食店予約サイトを展開するQuandoo GmbHの株式を取得し子会社化。 4月 - 企業向けITの導入検討をする方とIT製品メーカーとのマッチングを行なう会員サイト「キーマンズネット」をアイティメディア株式会社に譲渡。 4月 - オーストラリアにおける人材派遣事業を拡大するため、Chandler Macleod Group Limitedを子会社化。 5月 - 欧州で美容オンライン予約サービス「Wahanda(ワハンダ)」を展開するHotspring Ventures Limitedを子会社化。 6月 - 英国連結子会社Hotspring Ventures Limitedが、欧州で美容オンライン予約サービス「Treatwell」を展開するTreatwell Holdings B.V.を子会社化。 11月 - 「Airペイ」をリリース。 Recruit Institute of Technology(現・Megagon Labs)を設立。 2016年6月 - 欧州における人材派遣事業を拡大するため、USG People Holdings B.V.(現・RGF Staffing B.V.)の株式取得。 2017年 6月 - 旅行業界におけるレビューマネジメントシステムを展開。TrustYou GmbHを子会社化。 8月 - Indeed、採用時のアセスメントサービス『Interviewed』を提供するPrehire, Inc.を買収。 2018年 4月 - メディア&ソリューション事業を株式会社リクルートアドミニストレーションに会社分割するとともに、同社の商号を株式会社リクルートに変更。 同月グループをHRテクノロジー、メディア&ソリューション、人材派遣の3つのセグメント別に再編。 4月 - シフト管理サービス「Airシフト」をリリース 5月 - Glassdoor Inc.を子会社化。 2019年 4月 - 株式会社リクルートマーケティングパートナーズが運営する、保育園と保護者をつなぐコミュニケーションサービス「キッズリー」および幼稚園・保育園向けICTシステム「コモシル」を株式会社フレーベル館に譲渡。 7月 - 100%子会社であるIndeed Ireland Operations Limitedを通じて、Blackstone Point LTDの発行済全株式を取得。 12月 - ペットに関するお困りごとをWebでいつでも専門家に相談できるサービス「ペッツオーライ」を株式会社ドリームインキュベータの子会社であるペッツオーライ株式会社に譲渡。 2021年 4月 - 峰岸真澄代表取締役社長兼CEOが代表取締役会長兼取締役会議長に、出木場久征取締役副社長執行役員兼COOが代表取締役社長兼CEOに就任。 4月 - 株式会社リクルートが事業会社7社(株式会社リクルートキャリア、株式会社リクルートジョブズ、株式会社リクルート住まいカンパニー、株式会社リクルートマーケティングパートナーズ、株式会社リクルートライフスタイル、株式会社リクルートコミュニケーションズ、株式会社リクルートテクノロジーズ)を吸収合併。 2022年 4月 - 株式会社リクルート東海カーセンサーと株式会社リクルート西日本カーセンサーを株式会社リクルートカーセンサーに吸収合併。 4月 - 株式会社ヒューマンキャピタルテクノロジーを株式会社リクルートに吸収合併。 リクルートグループ HRテクノロジー事業 RGF OHR USA ,inc. - HRテクノロジー事業の統括会社 Indeed, Inc. - アグリゲート型求人情報専門検索エンジンサイト『Indeed』の運営。 Indeed Japan株式会社 Glassdoor, Inc. - 口コミ情報を掲載する求人情報検索サイト『Glassdoor』の運営。 マッチング&ソリューション事業 株式会社リクルート - 日本国内のHR・販促事業及びグローバル斡旋・販促事業をおこなう事業会社 株式会社リクルートエグゼクティブエージェント - 経営者・経営幹部・エグゼクティブ人材に特化した人材紹介 株式会社リクルートカーセンサー - 『カーセンサー』北海道および、一部関東エリアの営業、広告制作事業 株式会社リクルート北関東マーケティング - 『カーセンサー』・『スタディサプリ進路』・『SUUMO』・『HOT PEPPER(群馬・茨城)』などの営業、広告制作事業 株式会社リクルートキャリアコンサルティング - 再就職支援事業、キャリア自律支援事業 株式会社リクルートゼクシィなび - 国内外の結婚式場やウエディングアイテムなどの紹介事業 株式会社リクルートペイメント - 決済事業 株式会社リクルート北海道じゃらん - 株式会社リクルートが運営するサービスの北海道エリアにおける出版・マーケティング事業 株式会社リクルートメディカルキャリア - 医師・薬剤師転職支援事業、医師・薬剤師採用支援事業 株式会社リクルートライフスタイル沖縄 - 株式会社リクルートが運営するサービスの沖縄エリアにおけるマーケティング事業 株式会社シーナッツ - 旅行会社・ネット販売会社から宿泊施設向けの予約通知データの送受信サービス、及び宿泊施設の残室・プラン統合管理サービス事業 株式会社ブログウォッチャー - ユーザープロファイルを活用したライフログ事業、サーチヒストリーを元にした行動分析およびサイト構築によるソリューション事業 株式会社ホームプロ - リフォーム会社紹介サイト「ホームプロ」の運営 Megagon Labs, Inc. - リクルートAI研究所 RGF International Recruitment Holdings Limited(旧・RGF Hong Kong Limited) - アジアを中心とした人材斡旋事業 RGF HR Agent Hong Kong Limited RGF Talent Solutions Singapore Pte. Ltd RGF SELECT INDIA PRIVATE LIMITED RGF HR AGENT VIETNAM CO., LTD PT. RGF Human Resources Agent Indonesia RGF HR Agent Recruitment(Thailand)Co., Ltd RGF HR Agent Eastern Seaboard Recruitment Co., Ltd. RGF Human Resource Consulting Shanghai Co., Ltd. RGF Human Resource Consulting Shanghai (Tianjin) Co., Ltd. RGF Human Resource Consulting Shanghai (Dalian) Co., Ltd. RGF Human Resource Consulting Shanghai (Guangzhou) Co., Ltd. RGF Human Resource Consulting Shanghai (Shenzhen) Co., Ltd. RGF Select India Private Limited RSP Investments, LLC - 国内外の有望なスタートアップやベンチャー企業への投資を行う組織 株式会社リクルートマネジメントソリューションズ - アセスメント・トレーニング・コンサルティング・HRアナリティクスを活用した、人材採用・人材開発・組織開発・制度構築における課題解決の支援。 働きがいのある会社研究所 - 「働きがいのある会社」に関する調査。 上海艾杰飞人力资源有限公司 黄浦分公司 RGF MANAGEMENT SOLUTIONS(THAILAND) CO.,LTD. RGFタレントソリューションズ株式会社 - 日本におけるエグゼクティブの人材紹介 株式会社ニジボックス - サービスプロデュース事業 株式会社リクルートMUFGビジネス - 三菱UFJ銀行との合弁企業、バーコード決済サービスの提供 株式会社リクルートオフィスサポート - リクルートグループの特例子会社。リクルートグループ各社に対する各種サービスの提供 Quandoo GmbH - レストラン予約及びマネジメントプラットフォーム『Quandoo』を運営。 Quipper Limited - オンラインラーニングプラットフォーム『Quipper School』とオンライン学習動画サービス『Quipper Video』の運営。 Trustyou GmbH TrustYou株式会社 株式会社リクルートストラテジックパートナーズ - ベンチャーキャピタル 株式会社ANAじゃらんパック OJTソリューションズ - トヨタ自動車との合弁企業。製造現場の改善ソリューション事業。 株式会社フロムエーキャリア 人材派遣事業 RGF Staffing B.V. - 人材派遣事業の統括会社 株式会社リクルートスタッフィング - 人材派遣事業 リクルートスタッフィング情報サービス - IT分野での特定派遣事業。 リクルートR&Dスタッフィング リクルートスタッフィングクラフツ - リクルートスタッフィングの特例子会社。手漉き紙による販促物の製作。 株式会社スタッフサービス・ホールディングス - スタッフサービスグループの経営管理。 株式会社スタッフサービス - 人材派遣会社 株式会社テクノ・サービス - 製造業務派遣 株式会社スタッフサービス・オフィスマネジメント - スタッフサービスグループのバックヤード業務支援 株式会社スタッフサービス・ビジネスサポート - 特例子会社。スタッフサービスグループの事務処理業務 株式会社スタッフサービス・クラウドワーク RGF Staffing France SAS - フランスを中心に多様な人材サービスを提供するStart Peopleを運営 RGF Staffing Germany GmbH - ドイツにて多様な人材サービスを提供するUniqueを運営 RGF Staffing the Netherlands B.V. - オランダにて多様な人材サービスを提供するRGF Staffingを運営 RGF Staffing UK Limited - 英国にて多様な人材サービスを提供するRGF Staffingを運営 Unique NV - ベルギーにて人材サービスを展開 Staffmark Group, LLC - 米国にて軽作業領域を中心に派遣事業を展開する人材派遣会社 The CSI Companies, Inc. - 米国フロリダ州ジャクソンビルを拠点に、財務・経理、ヘルスケア、プロフェッショナル、テクノロジーの4事業領域を中心に人材サービスを提供する人材派遣会社 Chandler Macleod Group Limited - オーストラリアを中心としたAPACにおいて多様な人材サービスやアウトソーシングを展開する人材派遣会社 Start Holding B.V. Start People B.V. Staffmark Investment, LLC Peoplebank Australia Ltd RGF STAFFING APEJ PTY LTD RGF STAFFING MELBOURNE TWO PTY LTD SPHN (ACT) Pty Limited SPHN Australia Pty Limited 主なサービス 株式会社リクルートのウェブサービス 販促領域 SUUMO - 住宅情報サイト、旧・住宅情報ナビ HotPepper Beauty - ヘアサロン・リラク&ビューティーサロンの検索・予約サイト ゼクシィ - 結婚準備の総合サイト ゼクシィBaby - 妊娠・出産・育児の情報サイト ゼクシィ内祝い - 内祝い・お祝いの総合ギフトECサイト ゼクシィ縁結び - 総合婚活サービス ゼクシィ縁結びエージェント - 結婚相談所サービスサイト ホットペッパーグルメ - グルメ情報、飲食店の検索・予約サイト ブッキングテーブル - 飲食店検索・予約アプリ じゃらんnet - 国内・海外旅行予約サイト じゃらんゴルフ - ゴルフ場予約サイト スタディサプリ - 小中高生対象のオンライン予備校 スタディサプリ進路 - 大学・短期大学・専門学校の進学情報サイト カーセンサー - 中古車情報サイト D-Ucar.net - メーカー系列ディーラーの中古車情報サイト ポンパレモール - オンライン通販サイト Airマーケット - お店に役立つサービス提案サイト お店のミカタ - ホームページ作成サービス 街のお店情報 by Hot Pepper - お店や施設の情報サイト 保険チャンネル - 保険比較サイト TABROOM - インテリア・家具情報サイト 人材領域 リクナビ - すべての学生・既卒生を対象にした就職情報サイト 就職ジャーナル - 就活情報サイト リクナビNEXT - 社会人のための転職サイト リクナビNEXTジャーナル - キャリアとビジネスのニュース・コラムサイト はたらいく - 地域密着型求人・転職サイト とらばーゆ - 女性のための求人・転職サイト タウンワーク - アルバイト・パート求人情報サイト フロム・エー ナビ - アルバイト・パート求人情報サイト リクナビ派遣 - 派遣の仕事の総合サイト リクルートダイレクトスカウト - ハイクラス・エグゼクティブ限定の会員制転職スカウトサービス リクルートエージェント - 転職エージェントサービス リクナビ就職エージェント - 新卒の学生(学士/修士/博士)を対象とした就職エージェントサービス ISIZE - 生活情報・行動支援サイト Tech総研 - エンジニア応援サイト HELPMAN JAPAN - 介護業界の情報サイト その他 knowbe - 障害福祉に特化した業務効率化クラウドサービス エリクラ - 地産地消型のクラウドソーシングサービス TEATOR - VRMアバターが使えるWEBミーティングツール スタッフサービスグループのウェブサービス オー人事.net - 事務派遣サイト エンジニアガイド - ITエンジニア派遣サイト スタッフサービス・メディカル - 看護職・医療職・介護職派遣サイト 働くナビ! - 製造業務派遣サイト リクルートメディカルキャリアのウェブサービス リクルートドクターズキャリア - 医師の求人・転職サイト リクナビ薬剤師 - 薬剤師の求人・転職サイト リクルートグループのウェブサービス Indeed - 求人検索サイト Quandoo - 欧州飲食店のオンライン予約プラットフォーム 出版 情報誌 雑誌(市販)扱いのもの(フリーペーパーは除く) SUUMO注文住宅 - 地元のハウスメーカー・工務店情報を地元の人に届ける住宅情報誌。 都心に住む by suumo - 東京都心部のプレミアム住宅情報雑誌 HOUSING by suumo - 注文住宅情報誌 ゼクシィ - ブライダル情報誌 じゃらん - 国内旅行情報誌 カーセンサー - 中古車売買情報誌 カーセンサーEDGE - 輸入車を始めとするプレミアムカー情報誌 フリーペーパー タウンワーク - 2000年に創刊された無料の地域密着型求人誌。毎週月曜日発行。全国89版。 ホットペッパー - 無料クーポン誌(主に女性向け) SUUMOマガジン - 旧・住宅情報タウンズ、地域型住宅情報誌 SUUMO新築マンション - 旧・住宅情報マンションズ、地域型住宅情報誌 不祥事 1988年に政財界を巻き込む一大不祥事であるリクルート事件を起こした。 2009年3月、リクルート社員(当時29歳)が、くも膜下出血で死亡したのは過労が原因として、社員の両親が国に労災認定するよう求めた訴訟の判決が東京地方裁判所であり、裁判では死亡と過労の因果関係を認め、国の不認定処分の取り消しを命じた。社員の死亡前半年の残業時間は毎月80時間以上だったが、裁判では残業時間について「過少申告している可能性がある」と指摘。休日出勤していたことや、仕事を自宅に持ち帰っていたことなども総合的に考慮して過労死と結論付け、労災認定しなかった国の処分を違法とする判断を下した。 2007年、アルバイトやパートタイマーなどの雇用形態で働く「フリーター」や仕事に就いていない「ニート」と呼ばれる若者を対象とした、経済産業省所管の就業支援事業『ジョブカフェ』において、同省からの孫請けで事業を行っていたリクルートなどの3社が、スタッフ1日当たりの人件費として50,000円〜120,000円もの極めて高額な賃金を計上していることが発覚した。この問題は当時の野党議員が国会でも厳しく追及し、同社の“ニート利権”が問題視された。 2004年5月、リクルート出身者が在職時に所有していた自社の持ち株を同社に売却した際の売却益の集団脱税が朝日新聞他、新聞各紙で伝えられる。 2019年、子会社のリクルートキャリアで、「内定辞退率」などの個人情報を学生に隠蔽して販売したことが発覚し、政府の個人情報保護委員会より行政処分を受けた。 2023年6月5日、学生向けオンラインセミナーにて社員が参加学生を装って質問を投げかけていたことや、学生に対し不適切な発言をしたなどといった「サクラ」行為が発覚し、謝罪を行った。 出身の著名人 ※スポーツ選手および指導者に関しては、#企業スポーツを参照。 有馬晴海(政治評論家) 荒野広治(モテ期プロデューサー) 石山洸(エクサウィザーズ代表取締役社長、Forbes日本の起業家ランキング2位) 伊藤孝恵(参議院議員) 井上高志(LIFULL創業者) 今村岳司(前西宮市長、元西宮市議会議員) 宇野康秀(USEN-NEXT HOLDINGS代表取締役社長CEO、インテリジェンス創業者) 江幡哲也(オールアバウト創業者・代表取締役社長兼CEO) 垣根涼介(小説家。代表作:『君たちに明日はない』) 加藤公一(元衆議院議員) KEN THE 390(ヒップホップMC) 高塚猛(元福岡ダイエーホークス代表取締役社長・オーナー代行) 近藤麻理恵(片づけコンサルタント) 斎藤由多加(ゲームクリエイター。代表作:『シーマン』) 佐藤二朗(俳優、脚本家。入社日に退社) 坂本健(メディアファクトリー元代表取締役社長、ローソンHMVエンタテイメント元代表取締役社長) 島津英樹(スカラ創業者) 新藤加菜(政治活動家、動画配信者、ネットアイドル) 杉本哲哉(マクロミル創業者) 辻清人(衆議院議員) 中村利江(出前館元代表取締役社長) 経沢香保子(トレンダーズ創業者) 富田直人(イノベーション創業者) 永谷亜矢子(東京ガールズコレクション発起人、元チーフプロデューサー) 根本幸典(衆議院議員、元豊橋市議会議員) 藤原和博(元杉並区立和田中学校校長。東京都初の民間人中学校長) 枡野浩一(歌人) 松永真理(NTTドコモ「iモード」企画開発者) 三宅洋平(音楽家・政治活動家・社会活動家) 村井満(現日本プロサッカーリーグ理事長) 森下佳子(脚本家。代表作:『ごちそうさん』) 芳原世幸(メディアファクトリー元代表取締役社長、KADOKAWA元専務。2020年東京オリンピックを巡る汚職事件で逮捕) 吉村美栄子(山形県知事) 企業スポーツ 陸上部 監督として小出義雄、選手として有森裕子、高橋尚子らが在籍した アメフト部 - オービックシーガルズを参照 1983年から1999年にかけてアメフト部として、クラブ化後は2002年にかけてメインスポンサー活動 硬式野球部(社会人野球) - ローソン硬式野球部を参照 1989年から1995年にかけて活動。チーム解散後、スタッフと選手はローソン硬式野球部に引き継がれた かつてのグループ企業 株式会社リクルートビルマネジメント(現・株式会社ザイマックス) - 2000年1月MBOにより、リクルートグループから独立 株式会社岩手ホテルアンドリゾート - 2003年3月加森観光に全株式を譲渡。 株式会社リクルートコスモス (現・株式会社コスモスイニシア) - 2005年6月MBOにより、リクルートグループから独立 株式会社リクルートビジュアルコミュニケーションズ(後の株式会社ジュピタービジュアルコミュニケーションズ) - 2007年株式会社ジュピターテレコムに全株式を譲渡。 株式会社ネクスウェイ - 2008年7月インテックに全株式を譲渡。 株式会社メディアファクトリー - 2011年11月角川グループホールディングス(現・KADOKAWA)に全株式を譲渡。2013年10月に吸収合併され、同社のブランドに。 株式会社オールアバウト - 2011年12月大日本印刷に一部株式を譲渡。 株式会社リクルートファクトリーパートナーズ(後の株式会社OSパートナーズ) - 2016年8月アウトソーシングに全株式を譲渡。 株式会社ゆこゆこ - 2016年8月ユニゾン・キャピタル、福岡キャピタルパートナーズ、静岡キャピタル、電通が共同出資するゆこゆこホールディングスに全株式を譲渡。 株式会社Media Shakers - 2017年5月1日に全株式をサイバーエージェントに譲渡。 株式会社リクルートフォレントインシュア(現・オリコフォレントインシュア) - 2017年10月に全株式をオリエントコーポレーションに譲渡。 MOVOTO LLC - 2017年12月に堀口雄二に譲渡 Travel Book Philippines,Inc. - 2018年にJet Tech Innovation Ventures Pte.Ltd.に譲渡 PT.Go Online Destinations - 2018年にJet Tech Innovation Ventures Pte.Ltd.に譲渡 MyTour Vietnam Company Limited - 2018年にJet Tech Innovation Ventures Pte.Ltd.に譲渡 ユメックス株式会社 - 2018年7月に持株会社ユメックスHDの全株式をアスパラントグループが運営するAG2号投資事業有限責任組合に譲渡。 株式会社アントレ - 2019年2月にアント・キャピタル・パートナーズが運営するアント・カタライザー2号投資事業有限責任組合に譲渡。 Hotspring Ventures Limited - 2020年6月に売却 株式会社リクルートファイナンスパートナーズ(現・NTSファイナンスパートナーズ株式会社) - 2021年9月NTSコンサルティング株式会社に譲渡
{ "id": "123384", "title": "リクルートホールディングス", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%B9" }
須恵町(すえまち)は福岡県糟屋郡の町。福岡市の東に位置する。 正式表記は「須恵町」だが、住民基本台帳や戸籍では「須惠町」の字を使用する。 地理 福岡県の中央部よりやや北西寄り、福岡市の東約10kmの場所に位置する。町西部には粕屋町・志免町にまたがるボタ山が残っている。 福岡都市圏の一部である。町の中央部を須恵川が東西に流れており、その源流には須恵ダムがある。町東部は山地で、飯塚市との間に通じる道路は「ショウケ越」と呼ばれる険しい峠道である。中心部は町の南西部。 近年では、町北西部から南西部にかけて、福岡市のベッドタウンとしての開発が進んでおり、住宅数が急増してきている。 隣接している市町村 糟屋郡粕屋町・篠栗町・志免町・宇美町 飯塚市 歴史 須恵の町名は、古墳時代に須恵器が当地で生産されていたことに由来するといわれている。江戸時代の1764年には福岡藩の御用窯が設置されたが、明治時代に廃された。明治から昭和にかけては炭坑村として有名だった。 近現代 町村制施行以来、一度も市町村合併を経験していない。 1889年4月1日 - 町村制施行により糟屋郡植木村・上須恵村・佐谷村・新原村・須恵村・旅石村の区域をもって須恵村が発足。 1953年4月1日 - 町制を施行し、須恵町となる。 歴代町長 中嶋裕史(2002年5月1日 - 2018年4月30日)4期 行政 町長 平松秀一(2期目) 任期:2026年4月30日 町議会 定数: 14人 任期: 2023年4月30日 主な施設 町立歴史民俗資料館 アザレアホール須恵(須恵文化会館) カルチャーセンター 須恵町立図書館 消防 粕屋南部消防本部 南部消防署(志免町) 警察 福岡県警察粕屋警察署(粕屋町) 須恵交番 地域 人口 教育 小学校 須恵町立須恵第一小学校 須恵町立須恵第二小学校 須恵町立須恵第三小学校 中学校 須恵町立須恵中学校 須恵町立須恵東中学校 高等学校 福岡県立須恵高等学校 産業 かつては石炭産業で栄えたが、昭和30年代のエネルギー革命で衰退。跡地を工場団地として再生を図っている。 名所・旧跡・観光 福岡藩磁器御用窯跡 須恵町立皿山公園 岳城山 旅石八幡宮 海軍燃料廠採炭部 新原採炭所本部跡(新原公園) 交通 空港 福岡空港が最寄り。 鉄道路線 九州旅客鉄道(JR九州) 香椎線:須恵駅 - 須恵中央駅 - 新原駅 バス路線 西日本鉄道(西鉄バス) - 隣接する志免町・粕屋町・宇美町や、福岡空港および福岡市中心部と須恵町を結ぶ路線がある。 3:福岡空港 - 博多の森陸上競技場前 - 志免鉄道公園 - 旅石八幡 - 一番田 - アザレアホール前 - 新原 - 宇美町役場入口 - 宇美営業所 5:福岡空港 - 亀山 - 志免 - 新生 - 須恵役場前 - 佐谷 32:博多駅←亀山←志免←新生 34:天神→中洲→呉服町→千代町→妙見→二又瀬→志免→新生 36:天神 - 中洲 - 呉服町 - 千代町 - 妙見 - 二又瀬 - 仲原 - イオンモール福岡 - 須恵 - 一番田 - アザレアホール前 - 新原 - 宇美町役場入口 - 宇美営業所 須恵町コミュニティバス - 町内を運行。 道路 高速道路 九州自動車道 須恵パーキングエリア/須恵スマートインターチェンジ 県道 主要地方道 福岡県道35号筑紫野古賀線 福岡県道60号飯塚大野城線(ショウケ越) 福岡県道91号志免須恵線 須恵町出身の有名人 渡辺具能(政治家、元衆議院議員) アヒト・イナザワ(ミュージシャン) 藤野正剛(元プロ野球選手) 三ヶ島かな(女子プロゴルファー) 郷ひろみ(歌手・俳優) 成田弘毅(山口放送アナウンサー) 有隅昭二(プロ野球審判員、元プロ野球選手)
{ "id": "123385", "title": "須恵町", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E6%81%B5%E7%94%BA" }
現代社会学部(げんだいしゃかいがくぶ)とは現代社会学を教育研究するために大学に設置される学部の名称。教育内容は社会学として統括される様々な学問分野から、特に現代の事象に焦点を絞っている。 現代社会学部を置く日本の大学 筑紫女学園大学 札幌国際大学 武蔵野大学 愛知淑徳大学 名古屋学院大学 中京大学 富山国際大学 京都女子大学 同志社女子大学 大阪国際大学 千里金蘭大学 大手前大学 神戸学院大学 広島国際学院大学 鎮西学院大学 京都産業大学 東北文化学園大学 現代社会学を専攻できる他の大学 常磐大学 人間科学部 現代社会学科 明治大学 文学部 心理社会学科 現代社会学専攻 関東学院大学 社会学部 現代社会学科 佛教大学 社会学部 現代社会学科 ノートルダム清心女子大学 文学部 現代社会学科 成蹊大学 文学部 現代社会学科
{ "id": "123387", "title": "現代社会学部", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%AD%A6%E9%83%A8" }
中田 譲治(なかた じょうじ、4月22日 -)は、日本の声優、俳優。東京都出身。大沢事務所所属。 声優としての代表作は、『巌窟王』(モンテ・クリスト伯爵)、『ケロロ軍曹』(ギロロ伍長)、「Fateシリーズ」(言峰綺礼)。 来歴 桐朋学園演劇科卒業。エヌ・エー・シー、賢プロダクションを経て、大沢事務所所属。 桐朋学園短期大学部で演劇を学び、テレビの時代劇や刑事ドラマ、特撮ドラマなどでキャリアを積んだ。養成所卒業後は、劇団に入団して演劇を続けていこうと考えていたが、劇団の試験に落ち、それをきっかけに気持ちが変わり劇団の道は断念。知り合いに誘われて芸能プロダクションに所属、マスコミの仕事に進んだという。 1979年にNHKの大河ドラマ『草燃える』の仁田忠常役で初レギュラーを獲得し、フジテレビ系列で放送された『手錠をかけろ!』には二枚目の若手刑事・寺泉役でレギュラー出演した。1980年代からは強面の悪役俳優として活躍。チンピラ、ヤクザ、殺し屋、凶悪犯などの役をさまざまな作品で演じ、特撮ドラマでは悪の大幹部役を演じた。 その後舞台に一緒に出演していた野村道子に「譲治もよかったら声の仕事やってみない?」と声をかけられて賢プロダクションに所属。このことについては2021年時点では野村に恩を感じているという。賢プロ所属後、しばらくは内海賢二の仕事に付いて回っていた。内海が午前中に映画予告ナレーション、次にCMナレーション、その後はアニメの収録、最後に外画の吹き替えをして、物凄い量の仕事をしていたことを間近で見られたこと、良い車に乗って、お洒落な服でスターの雰囲気で声、芝居も唯一無二の個性を持っていた内海を見ながら声優の仕事を覚え、時々は演じる仕事も振ってもらっていた。このことを中田のようなキャリアの人物は「やっていけなかったかもしれない」と振り返っている。 しばらくは映像の事務所と声の事務所の両方に所属して、どちらを選ぶか迷っている時期もあった。映像の仕事では、1週間スケジュールが空いて相手に丸投げできるような状態ではないと決めてもらえず、他の人物に仕事が行ってしまうこと、声の事務所に仕事が来ていた時に映像の事務所に電話して、スケジュールが押さえられているかどうかを確認し、声の事務所に折り返して二度手間が掛かっており、声の仕事が忙しくなっていた時に「これはもう、どちらに専念するか決めてもらえないか」と事務所から言われ、映像の仕事と声の仕事の源泉徴収票の額面を比べて「よし、声の仕事をしよう!」と決める。実写の役者として、「こういう役どころだったらいけるんじゃないか?」という確固たるものがなかったといい、演じることは好きだったが、舞台だけ、映画だけ、テレビだけ、声の仕事だけといったこだわりはなく中田自身は「どんな形でもいいから演じる仕事があって、生活が安定して、自分のペースでやっていけるならなんでもいい」と感じていた。舞台、映画に命を捧げるといった強い気持ちはなく生活基盤がないと、時間に追われ、磨くこともできないのが心配だったという。 その後、大沢事務所のキャスティングマネージャーの人物に何度かお世話になっていくうちに誘われ、可能性にかけてみようと移籍し、1990年代以降は声優活動に仕事の主軸を移した。しばらくはナレーション、CMの仕事を生業して、1993年ごろに『機動戦士Vガンダム』のナレーションなどでアニメ、外画の吹き替えの声優の仕事が増える。役名付きでの初レギュラーは1994年の『BLUE SEED』のムラクモとなる。 人物像 特技は乗馬、ジャズダンス、テニス、野球。 座右の銘は「解体。そして再構築」であると雑誌のインタビューで答えている。 出演作品との関係 スーパー戦隊シリーズ 中田本人のインタビューによると『超新星フラッシュマン』のサー・カウラー役に中田を推薦したのは『Gメン'75』で付き合いがあった監督の長石多可男であったという。しかしオファーを受けたものの出演を受諾するか悩み、メタルヒーローシリーズ『巨獣特捜ジャスピオン』に出演した友人の高畑淳子に相談したところ、「本当に面白い。絶対にやるべき」と言われたため出演を決意したという。長石は続く『光戦隊マスクマン』でゲスト声優、『超獣戦隊ライブマン』でもレギュラーで中田を起用している。『海賊戦隊ゴーカイジャー』の第30話では当時は助監督だった演出担当の渡辺勝也の希望により、この回に登場するザイエンの声を担当した。 『ロードス島戦記』の登場人物「傭兵王カシュー」はイラストを担当した出渕裕のデザインであるが、元となっているのは出渕がキャラクターデザインを行い、中田が演じたサー・カウラーである。テレビアニメ『ロードス島戦記-英雄騎士伝-』では、中田が傭兵王カシューの声優を務めている。 ケロロ軍曹 『ケロロ軍曹』ではギロロ伍長役を演じているが、ちびギロロの声が平松晶子や斎藤千和の声になっているため、時々レギュラー出演しているラジオ番組では「譲治さん版ちびギロロ」の声を務めている。 TYPE-MOON作品 TYPE-MOON作品には同人時代からすべての作品に出演している(ただし、TYPE-MOONが直接関わっていない『真月譚 月姫』には出ていない)。TYPE-MOON作品でキャラクターデザインを手掛ける武内崇によると、中田はドラマCD版『空の境界』でわずかな台詞しかない役を演じるために当時同人作品だった『空の境界』を読破してきてくれたといい、『Fate/stay night』への中田の出演について「出ていただければ満足」「(中田の起用理由について)好きだから」と語っている。 学生時代 高校生の頃は根暗であり、人とコミュニケーションを取ることに苦手意識があり、アルチュール・ランボー、坂口安吾を愛読しているような学生だった。 高校卒業後は母1人、子1人の家庭であり、経済的に余裕があったわけではなかったため、就職して「親の面倒を見なければ」と考えていたという。 学生時代は友達が少なかったと言い、大学入試(法学部)を公園で弁当を食べていて失念していた。そして、勉強が好きではなかったこと、演劇の世界がカッコよく見えたことから翌年には演劇科を受験したという。芝居の経験はそれまでなかったという。 出演 太字はメインキャラクター。 テレビアニメ 劇場アニメ OVA Webアニメ ゲーム ドラマCD アーネンエルベの一日(ネロ・カオス、荒耶宗蓮、言峰綺礼、ネコアルク・カオス、ジョージ、ナレーター) アキバズタイムトリップ 〜時をかけるタモツ〜(かげさん) 阿佐ヶ谷Zippy(武村恭一郎) 浅見光彦シリーズ「後鳥羽伝説殺人事件」(榊原) あまつき(沙門) アルジェントソーマ CDドラマ(マイケル・ハードランド) アンバサダーは夜に囁く(ベルナール) いつか天魔の黒ウサギ2 〜<<月>>が昇る昼休み〜(天魔) イロコイ I - II(岩城京介) 吸血姫美夕 CDシネマIV(神魔・曝暗) Escaflowne Prologue 1 - 2(フォルケン) Xシリーズ(志勇草薙) X キャラクターファイル1 YUZURIHA&SORATA X キャラクターファイル5 KUSANAGI & KAKYOU オジサマ専科 Vol.2 Memories〜母の手帳〜(古川透) 風の歌 星の道(シロス) 空の境界 〜俯瞰風景〜(荒耶宗蓮) カリスマ(ケン) 巌窟王 〜異形の貴公子〜(モンテ・クリスト伯爵) 月刊男前図鑑 年上編 黒盤 ケロロ軍曹シリーズ(ギロロ伍長) ケロロ軍曹 地球(ペコポン)侵略CD ケロロ軍曹 宇宙でもっともギリギリなCD 第1 - 3・5巻 - 第3巻の表紙の題字も担当。 咲-Saki-(原村和の父) 三千世界の鴉を殺し 1 - 2(O2) CDシネマガイア・ギア(ビジャン・ダーゴル) CDノベル 愛の武将・直江兼続(上杉謙信) GPX GRAND PRIX EXCEED(鷹見) 静かなるドン(肘方年坊) スーパーロボット大戦α ORIGINAL STORY(カーク・ハミル) 世紀末プライムミニスターシリーズ(上條議員) 戦国武将物語〜豪傑編 その弐〜(第二話「足利義輝物語」) ZONE-00シリーズ(写楽) ZONE-00 劇-I section CHERRY ZONE-00 劇-II section KNIGHT 戦え!ブラザーソルジャー(ゲイル) DA・TE(岩城京介) ちょー美女と野獣(スマート・ゴルディオン) 天体議会(ラジオのアナウンス) dear 〜ディア〜 A story of the next day(アベル・ウィンスレット) 停電少女と羽蟲のオーケストラ 第四楽章:棺(弥緑) 天使禁猟区 神性界(アツィルト)編-2 飛翔無限(フライト・インフィニティー)(アドナイ / 創世神) ドラマアルバム 封神演義 LEVEL-II(聞仲) ドラマCD エーベルージュ伝説(モーゼル) ドラマCD 幻獣降臨譚(光焔) ドラマCD 上海妖魔鬼怪(関羽) ドラマCD「デビルサマナー 葉ライドウ 対 隻眼化神」前・後編(業斗童子) ドラマCD ダンス ウィズ ザ ヴァンパイアメイド CDすぺしゃる(ヴォルフガング・レーゲンドルフ) ドラマCD ニニンがシノブ伝 其の一 忍と楓の☆ニニンがラジオ伝(パクマン) ドラマCD ひめごとは はなぞの(田中朱雀) ドラマCD ワイルドライフ Vol.1 - 2(高宮澄弘) ドラゴンシャドウスペル 〜古城の狼の詩〜(ペインキラー) ナイトキャップ(岩城京介) 隠の王 ドラマCD 『夏休み、別荘地盗難事件編』(服部柊十郎) 名も無き鳥の飛ぶ夜明け(鴉) 虹色の王子様 ドラマCD 第1巻(理事長) ぬらりひょんの孫(牛鬼) 薄桜鬼 黎明録 ドラマCD 〜龍之介淡恋秘話〜(芹沢鴨) 伯爵様は秘密の果実がお好き(ステファン・クレイヴン) PEACE MAKER鐵シリーズ(土方歳三) 封殺鬼 影喰らい(土師高遠) 封殺鬼 蠱持ち(志島弓生) Fate シリーズ(言峰綺礼) Sound Drama Fate/Zero Sound Drama Fate/EXTRA PLANET LADDER …惑う星のあなない… 〜赤い孤月〜(イドゥ) FLESH&BLOOD 第9巻(フェリペ2世) ペンギンゑにしシリーズ(ゑにし様) ペンギンゑにし 第一譚 迷子ゆうれい ペンギンゑにし 第二譚 少女神隠し ペンギンゑにし 第三譚 天狗草紙 僕は妹に恋をする(森裕吾) 機巧少女は傷つかない 文庫4巻&コミック1巻特装版CD(シグムント) まほう×少年×Days!!!!! 第1巻(オウルロード) 魔法の海兵隊員ぴくせる☆まりたん シリーズ(フィデル・カ●トロ議長、「うまなみ」艦長 他) 真夜中の弥次さん喜多さん 愛と幻覚のセレナーデ(岡っぴき) 八雲立つ 新音盤物語(アルトゥーロ楠) LOVE MODE 3 - 6(鹿島晴臣) REVIVE… 〜蘇生〜(北条義兼) レイスイーパー(ビリディス) 蒼穹のファフナー EXODUS ドラマCD THE FOLLOWER2(皆城公蔵) ローゼンメイデン オリジナルドラマCD(ラプラスの魔) わたしのお嬢様(ジュリアン=マーチ)※「メイド服のお嬢様編」下巻に同梱 魔法☆中年 おじまじょ5 シリーズ(善川聡史〈イノベーション社長〉) 魔法☆中年 おじまじょ5 〜結成! おじまじょ5〜 魔法☆中年 おじまじょ5 〜おじまじょ5、秘密の特訓(前編)〜 魔法☆中年 おじまじょ5 〜おじまじょ5、秘密の特訓(後編)〜 吹き替え 担当俳優 映画(吹き替え) アメリカン・ビューティー(バディ・ケーン〈ピーター・ギャラガー〉)※ソフト版 アルマゲドン(ウィリアム空軍大佐〈ウィリアム・フィクナー〉)※日本テレビ版 EVE イヴ イン・ハー・シューズ(ジム・ダンヴァーズ〈リチャード・バージ〉) ウェス・クレイヴンズ ウィッシュマスター(ジン / ナサニエル・デメレスト〈アンドリュー・ディヴォフ〉) おとなの恋には嘘がある(アルバート〈ジェームズ・ガンドルフィーニ〉) ザ・ファン(ホアン・プリモ〈ベニチオ・デル・トロ〉)※テレビ朝日版 ジーン・シモンズのロック・スクール(ジーン・シモンズ) 地獄の捜査線(ジェイク〈チャック・ノリス〉) 60セカンズ(スフィンクス〈ヴィニー・ジョーンズ〉)※ソフト版 ジュラシック・プレデター(ジェイク〈ニック・チンランド〉) ジュラシック・ワールド/炎の王国(ロックウッド〈ジェームズ・クロムウェル〉) 私立探偵ヴァルグ(マルティン) 300 〈スリーハンドレッド〉(レオニダス〈ジェラルド・バトラー〉) セッション9(精神科医(テープの声)) (スタン〈ウィレム・デフォー〉) ダウン(ギュンター〈マイケル・アイアンサイド〉)※ソフト版 沈黙の要塞(オットー〈スヴェン=オーレ・トールセン〉)※ソフト版 デッドヒート(クーガー) DENGEKI 電撃(ストラット〈マイケル・ジェイ・ホワイト〉)※ソフト版 (ドラキュリア〈ルトガー・ハウアー〉) トランスポーター2(ジャンニ〈アレッサンドロ・ガスマン〉)※テレビ朝日版 ナルニア国物語/第2章:カスピアン王子の角笛(谷あらし〈コーネル・ジョン〉) ハード・スキャンダル(ブレックナー〈リチャード・タイソン〉) (レニー・マイヤー〈ベン・シェンクマン〉) バジル(ジョン・マニオン〈クリスチャン・スレーター〉) ファングルフ/月と心臓(クロード)※ソフト版 ホステージ(ビル・ジョーゲンセン〈アート・ラフルー〉)※テレビ朝日版 マシンガン・プリーチャー(サム・チルダース〈ジェラルド・バトラー〉) メン・イン・ブラック3(ボリス〈ジェマイン・クレメント〉) レオン(ボディーガード)※テレビ朝日版 RONIN(ヴァンサン〈ジャン・レノ〉)※テレビ朝日版 ドラマ アウトキャスト(ジャイルズ署長〈レグ・E・キャシー〉) ARROW/アロー(ダニー・ブリックウェル/ブリック〈ヴィニー・ジョーンズ〉) エレメンタリー ホームズ&ワトソン in NY #20(アンソニー・ピストン〈Joseph Siravo/ジョセフ・シラーヴォ〉) エレメンタリー6 ホームズ&ワトソン in NY #4(クレイ〈レグ・E・キャシー〉) (ソードン〈バリー・ボストウィック〉) CSI:3 科学捜査班 #11(レストランオーナー ダットン) CSI:6 科学捜査班 #23(ウィリー・カトラー) CSI:14 科学捜査班 #17(ジーン・シモンズ) 24 -TWENTY FOUR- シーズン2(エディ・グラント〈ダグラス・オキーフ〉) ピケット・フェンス3 魔術師 MERLIN(トリスタン) ラスベガス(ヘンダーソン上院議員) ロスト・シンボル(ピーター〈エディー・イザード〉) アニメ ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち(ビグウィグ) 絵文字の国のジーン(メル) ザ・シンプソンズ MOVIE(ティモシー・ラブジョイ牧師)※劇場公開版 ザ・バットマン(レックス・ルーサー) スクービー&スクラッピードゥー スワットカッツ(中尉スティール) ダイナソー(クローン) ティーン・タイタンズ(マスター・オブ・ゲーム) バットマン:ブレイブ&ボールド(ロートル) バットマン ゴッサムナイト(アレン) ベイマックス(将軍) ザ・カップヘッド・ショウ! 特撮 ラジオ ※はインターネット配信。 ケロロとギロロの地球侵略ラヂオ(2006年 - 2008年、ラジオ大阪・BEAT☆Net Radio!※) 宝石の国ラジオ 〜金剛先生がお呼びです!〜(2017年、音泉※) PERSONA5 the Animation Radio“カイトーク!”(2018年、アニメイトタイムズ※) ラジオドラマ ガイア・ギア(ビジャン・ダーゴル大佐) VOMIC 超速変形ジャイロゼッター(クロード博士) ナレーション ウッチャきナンチャき(TBS) 木村公宣「伝説の予感」(フジテレビ) 恋のバカヤロー!(TBS) 沙粧妙子-最後の事件- スーパーチャンネル(現・スーパー!ドラマTV) 竹中直人の"映画好きで何が悪い!"(ムービープラス) FIS ワールドカップスキー CX'97/'98 ヒストリーチャンネル ふしぎがいっぱい(6年生編、NHK Eテレ) シェフからの招待状 NBAマニア 幻解!超常ファイル(NHK BSプレミアム) イベント ジャンプフェスタ アニメツアー'05 BLEACH The Sealed Sword Frenzy(梅針) RONDO ROBEイベント司会(2005年 - 、毎年初夏開催) 声優紅白歌合戦 イベント発起人(2019年 -) テレビドラマ 映画 オリジナルビデオ テクニカル・ヴァージン(1990年、にっかつ) CM アサヒビール 「アサヒ スーパードライ」(TV、ナレーション) Exel Human株式会社 企業CM(TV、ナレーション) NTT DoCoMo 「iモード 一件落着篇」(TV、ナレーション) 角川書店 「ケロロ軍曹キャンペーン」(TV、ギロロ伍長) 大正製薬 「ダマリンエース」(TV、ナレーション) 中部電力 「オール電化 エコキュートシリーズ」(TV、ナレーション) デジタルツーカー九州(現ソフトバンク) 「全国ローミング 宮古・八重山篇」(TV、ナレーション) 「全国ローミング 大空篇」(TV、ナレーション) 日立製作所 「白くまくん」(TV、ナレーション) FUJITSU 「サーバ」(TV、ナレーション) 文化放送 「日野ミッドナイトグラフィティ 走れ!歌謡曲」(ラジオ、ナレーション) 日野自動車(ラジオ、上記「走れ!歌謡曲」内のインフォマーシャル・ナレーション) 松下電器産業(現パナソニック) 「Panasonic アルカリ乾電池 ターザン篇」(TV、ナレーション) 「Panasonic DIGICAM 4商品 スケルトン篇」(TV、ナレーション) music.jp(TV、ナレーション) ミノルタ(現コニカミノルタ) 「DiALTA ショールーム篇」(TV、ナレーション) 明治製菓(現明治) ショパンシリーズ(TV、ナレーション) 木曜洋画劇場(K-19 (映画)他、予告ナレーション) ワーナー・ランバート 「MELLER 3階の女篇」(TV、ナレーション) アトラス GB用ソフト「コスモタンク」(1990年 / TV、ナレーション) 日本食研 晩餐館ステーキソース各種(1991年 / TV、ナレーション) バンダイ SFC用ソフト「ドラゴンボールZ 超サイヤ伝説」(1991年 / TV、ナレーション) 三共(現第一三共ヘルスケア) 「ジゼ 花の妖精篇」(1993年 / TV、ナレーション) アサヒビール 「SUPER J.O.トーキョーシティブレンド 外人篇」(1994年 / TV、ナレーション) エバンス 「ポールニューマン クロッケー篇」(1995年 / TV、ナレーション) スクウェア PS用ソフト「フロントミッション」(1995年 / TV、ナレーション) アサヒビール 「アサヒビール 品質広告 人/食篇」(1995年 / TV、ナレーション) 茨城県商工労働部観光物産課 「春の観光キャンペーン 茨城山篇」(1996年 / TV、ナレーション) アサヒビール 「アサヒビール 品質広告 マーケットレディ/料理人篇」(1996年 / TV、ナレーション) スクウェア SFC用ソフト「FRONT MISSION SERIES GUN HAZARD」(1996年 / TV、ナレーション) スクウェア SFC用ソフト「トレジャーハンターG」(1996年 / TV、ナレーション) 全日本トラック協会 「企業CM とも子さんとトラック篇」(1996年 / TV、ナレーション) としまえん 「とし博 とし博開催後篇」(1996年 / TV、ナレーション) メナード 「ジュビル ワンタッチリップスティック メイクスタイル篇」(1996年 / TV、ナレーション) 松下電器産業(現パナソニック) 「携帯電話 恋人篇」(1996年 / TV、ナレーション) エースコック 「ラメンチェ 登場篇」(1997年 / TV、ナレーション) ビーマックス 「ビーマックス ヘリ登場篇」(1997年 / TV、ナレーション) 飯山電機 「フラットパネル ディスプレイ エレベーター篇」(1998年 / TV、ナレーション) 花王 「洗浄力ファミリー ファミリー新発売篇」(1998年 / TV、ナレーション) カトーデンキ 「ケーズデンキ 企業CM 濡れた男篇」(1998年 / TV、ナレーション) タカラ PS用ソフト「新世代ロボット戦記ブレイブサーガ」(1998年 / TV、ナレーション) ビクターインタラクティブソフトウエア(現マーベラスインタラクティブ) PlayStation「夜想曲」 スクウェア 「クロノ・クロス」(1999年 / TV、ナレーション) 江崎グリコ 「ムースポッキー 初体験10人篇」(2000年 / TV、ナレーション) エニックス PS用ソフト「ドラゴンクエストVII エデンの戦士たち 旅立ち篇」(2000年 / TV、ナレーション) 新進 「しんしんのおつけもの カレー福神漬 はっきりしてよ怒り篇」(2000年 / TV、ナレーション) つばさ証券 「企業CM 宇宙ロケット篇」(2000年 / TV、ナレーション) 日石三菱(現ENEOS) 「SS広告 たよりになるよね篇」(2000年 / TV、ナレーション) ワコール 「マシュマロブラ しなやかワイヤー篇」(2000年 / TV、ナレーション) 江崎グリコ 「ラムーン 月のしずく篇」(2001年 / TV、ナレーション) アスキー PS2用ソフト「シーマン転職篇」(2001年 / TV、ナレーション) ソニー・ピクチャーズエンタテインメント「バーティカル・リミット VIDEO&DVD 雪だるま叫び篇」(2001年 / TV、ナレーション) 日清食品 「日清eヌードル e-ビジネス篇」(2001年 / TV、ナレーション) バンダイ PS2ゲームソフト「機動戦士ガンダム戦記 Lost War Chronicles」(2002年7月 / TV、ナレーション) バンダイビジュアル 「ガンダム劇場版DVD 3作発売」(2002年 / TV、ナレーション) バンダイビジュアル 「マクロス20周年プレミアムコレクションDVD発売」(2002年 / TV、ナレーション) ビクトリノックス・ジャパン 「企業CM ポーズ篇」(2002年 / TV、ナレーション) レダセントラル 「ハンドレッドシルマ 変身篇」(2002年 / TV、ナレーション) バンプレスト 「スーパーロボット大戦Scramble Commander」(2003年 / TV、ナレーション) カプコン PS2・GC用ソフト「ロックマンX コマンドミッション」(2004年 / TV、ナレーション) バンダイ GBA用ソフト「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」(2004年 / TV、ナレーション) バンダイ 「冒険王ビィト バスターズロード」(2005年 / TV、ナレーション) スクウェア・エニックス DS用ソフト「ドラゴンクエストモンスターズ ジョーカー」(2006年 / TV、ナレーション) バンダイ 「神羅万象チョコ」(2005年3月 - 2006年10月 / TV、ナレーション)※II章第3弾まで スクウェア・エニックス 「ドラゴンクエストモンスターバトルロード」(2007年6月 / TV、ナレーション) バンダイ ガンプラ 「BB戦士三国伝 風雲豪傑編」(2007年 / TV、ナレーション) サントリー 「ボスシルキーブラック」(2008年5月 / TV、ナレーション 他) バップ「隠し砦の三悪人THE LAST PRINCESS」(2008年5月 / TV、ナレーション) バンダイナムコゲームス Wii用ソフト「テイルズ オブ シンフォニア -ラタトスクの騎士-」(2008年5月 - / TV、ナレーション) mihimaru GT『mihimarise』(2008年5月 / TV、ナレーション) 花王 「強力カビハイター」(2008年7月 / TV、ナレーション) スクウェア・エニックス 「ドラゴンクエストモンスターバトルロード」絶賛稼働中(2008年7月 / TV、ナレーション) スクウェア・エニックス DS用ソフト「ドラゴンクエストV 天空の花嫁」(2008年7月 / TV、ナレーション) ポニーキャニオン阿久悠トリビュートCD『歌鬼』(2008年7月 / TV、ナレーション) コカ・コーラ「ジョージアヴィンテージレーベル」(2008年9月 / ラジオ、ナレーション) サッポロビール 「ドラフトワン”ドラドンピシャ”」男子生徒・女子生徒編(2008年10月 / ラジオ、共に先生役) SANKYO 「CRフィーバースターウォーズ ダースベイダー降臨」(2008年10月 / TV・ラジオ、ナレーション) 牛角「牛角の日」他(2008年11月 - / TV、ナレーション) サッポロビール 「”ドラドンピシャ”ドラフトワンとカレー鍋」(2008年11月 / ラジオ、審査員役) コナミ DS用ソフト「幻想水滸伝ティアクライス」(2008年12月 / TV、ナレーション) バンダイナムコゲームス DS用ソフト「超劇場版ケロロ軍曹 撃侵ドラゴンウォリアーズであります!」(2009年2月 / TV、ギロロ伍長) カゴメ 「やさいしぼり」(2009年3月 / TV、ナレーション) パナソニック「一眼ムービー」(2009年5月 / TV、ナレーション) バンダイナムコゲームス PSP用ソフト「テイルズ オブ バーサス」(2009年6月 / TV、ナレーション) マクドナルド「マックでDS第二弾 ドラゴンクエスト」(2009年7月 - 、ナレーション) スクウェア・エニックス DS用ソフト「ドラゴンクエストVI 幻の大地」(2010年1月 / TV、ナレーション) YKK AP「プラマードU」タイプA - C(2010年3月 / ラジオ、各:博士、窓、ナレーション) YKK AP「リフォーム編」(2010年3月 / ラジオ、旦那役) バンダイ 「仮面ライダーオーズ/OOO変身シリーズ」(2010年9月 / TV、ナレーション) バンダイ データカードダス「仮面ライダーバトル ガンバライド 001弾 - 」(2010年9月 - / TV、ナレーション) 劇場版仮面ライダー×仮面ライダー オーズ&ダブル feat.スカル MOVIE大戦CORE(2010年10月 / TV、ナレーション) バンダイナムコゲームス Wii/PSPソフト「仮面ライダー クライマックスヒーローズ オーズ」(2010年11月 / TV、ナレーション) NTT docomo「スマートフォン」(2011年4月 / ラジオ、スマートフォン役) リンナイ「エコワン」(2011年6月 / TV、ナレーション) デアゴスティーニ ジャパン「ジェリー・アンダーソンSF特撮DVDコレクション」(2011年6月 / TV、ナレーション) スギ薬局会社名コール(2015年 / TV・ラジオ・店内) 集英社 ウルトラジャンプ(2015年4月 / TV、エンリコ・プッチ) デアゴスティーニ ジャパン「電動模型キットマガジンシリーズ「週刊 サンダーバード2号&救助メカ」」(2016年1月 / TV、ナレーション) マルイノアニメ「猫がくれたまぁるいしあわせ」(2018年 / TV・YouTube、津田龍) ミスタードーナツ「misdo meets 宇治茶 祇園辻利」(2018年4月 / TV、ナレーション) 講談社 「ライドンキング」コミック 1巻(2019年1月 / TV・YouTube、ナレーション、プルチノフ) U-NEXT「ライドンキング」電子配信版コミック 3巻(2019年10月 / TV・YouTube、ナレーション、プルチノフ 他登場人物) JT「スーシャルディスタンス キャンペーン」「ゴルゴと大悟ルゴ」(2020年 - 2021年 / YouTube、ゴルゴ13) その他コンテンツ アンナと王様(予告編ナレーション) トレジャーハンターGPV(ナレーション) チャレンジ1年生でかっこいい1年生にへんしん! DVD(さんすうロボ) バンダイガシャポン「サウンドロップケロロ軍曹共鳴スイング」(ギロロ) バンダイガシャポン「サウンドロップコンパクトケロロ軍曹」シリーズ(ギロロ) 「シャッターアイランド」PV(2010年9月、ナレーション) スクウェア・エニックス PS3/Xbox 360/Winソフト「フロントミッション エボルヴ」PV(2010年9月、ナレーション) 日本ファルコム PS3/PS Vitaソフト「英雄伝説 閃の軌跡」PV(2013年、ナレーション) 旺文社 はじめてのTOEFL®テスト 完全対策 [改訂版](2014年、ナレーション) 東京ディズニーランド ディズニー・ハロウィーン パレード『スプーキー"Boo!"パレード』(2018年 - 2019年、ゴースト・マスター) 鍋に弾丸を受けながら ボイスコミック(2022年、友人K)
{ "id": "123394", "title": "中田譲治", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E7%94%B0%E8%AD%B2%E6%B2%BB" }
中井 正清(なかい まさきよ、永禄8年(1565年) - 元和5年1月21日(1619年3月7日))は、江戸時代初期の大工。大和国出身。中井正吉の子。通称は藤右衛門。徳川家康に仕え、幕府の建築事業で活躍した。 経歴 中井氏は、本姓は古代史族の巨勢氏である。祖父巨勢正範は万歳城(大和高田市)の城主万歳則満に仕えていたが、天文7年(1538年)1月2日に筒井頼昭との合戦で討死した。子の正吉と正利は母と共に縁者である法隆寺の四大工の一つ中村家の番匠中村伊太夫に匿われ、そこで大工の技術を学ぶ。その頃に掘った井戸が清水で周囲の人がその井戸を「中井」と呼んだのに伴い中井氏を名乗るようになった。この中井正吉の長男が正清であり、永禄8年に法隆寺で生まれた。 正清が家康に仕える時期は諸説あり、家譜には天正16年(1588年)24歳の歳に伏見で知行200石で召し抱えられ(『寛政重修諸家譜』では天正12年とする)、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦で家康の供を務めて陣羽織を拝領するとともに500石の加増を受けたとされるが、この間の具体的な事跡は不明である。 確実な事跡は関ヶ原合戦以後で、畿内・近江6ヵ国の大工等の支配を命じられ初代大工頭として、以後は徳川家の建築計画に参画する。慶長11年7月13日に大和守従五位下に任じられ、慶長14年(1609年)には1,000石に加増。慶長18年(1613年)には禁裏造営を賞して従四位下に昇進した。義演の日記には正清の昇進は慶長17年の手斧始めの段階で内定していたとあり、正清が家康のお気に入りとしながらも、前例が無く前代未聞かと記している。 正清は家康の出頭人として、家康から「関東の番匠は正清の弟子になるべき」「普請に関しては何事も正清次第」と言われるほどに重用された。 慶長19年の大坂の陣にも従軍し、茶臼山陣城殿舎作事(千波町屋敷を利用)、攻城用の鉄楯や梯子の製作に携わった。また家康の密命により慶長18年に大坂城の絵図を作成したという逸話があるが、実際には冬の陣勃発後に片桐且元が提出した大坂周辺絵図を見た家康より大坂近辺絵図の作成を命じられた。また豊臣方からの悪口として六本鑓の衆恐ろしと武士以外の家康出頭人の名を挙げ、その中に正清の名もあった。 元和5年(1619年)1月21日に近江国水口で死去(55歳)。各地の建築に携わるため東西奔走を余儀無くされた結果、幾度も病気療養をしており過労死と見られる。 実績 中井正清は大工とされるが、現代人の思い描く大工とは異なり、今日の建築士が担う職務も兼務していたことは留意が必要である。日本で設計施工の分離がなされたのは明治時代以降であり、それ以前には建築士に相当する専門職種はなく、大工(主に棟梁)が建築士としての業務も行っていた。現代の建築士の主な職務は、[1]建築設計(意匠設計・構造設計・建築図面の作成等)、[2]工事監理(工事着工後の、工事が設計図書通りに実施されているかの照合作業)で、[3]建築積算(建築図面に基づいて、机上で必要な建築資材数量や、仮設足場数量、各工種別の労働人工数量の算出を行う)も行うことが多いが、正清はいずれにも精通しており、工事を遅滞させることなく遂行することが出来た。 正清が手掛けた主な建築は次のようになる。 慶長9年(1604年)  知恩院御影堂、瀬田橋 慶長11年(1606年) 二条城所々 慶長12年(1607年) 江戸城、後陽成院御所 慶長13年(1608年) 駿府城 慶長15年(1610年) 方広寺大仏殿(京の大仏) 慶長16年(1611年) 新上東門院御所、増上寺 慶長17年(1612年) 名古屋城、駿府城 慶長18年(1613年) 内裏、春日神社 元和元年(1615年)  内裏女御御殿 元和2年(1616年)  久能山東照宮 元和3年(1617年)  日光東照宮、知恩院三門 このように、徳川家関係の重要な建築を担当した。名古屋城では土木工事に大名20名が集められ、建築を担当した作事奉行9名の元で大工棟梁を務めている。しかし作事奉行を飛び越えて幕閣からの直接の指示も度々受けており、一大工の立場を超えた存在であった。また天守も二条城・江戸城・駿府城・名古屋城を手掛け、特に江戸城・名古屋城天守はこれまでにない大型の天守を手掛け、各地に点在する大工の集中と組織化、作業の分離・分担により短期間での完成を実現した。 また小堀政一の知己を得て茶道を修め茶室を建てた。重要文化財の『大工頭中井家関係資料』に158件の数寄屋造りの絵図があり、内訳を見ると茶室の起こし絵図(設計の指示書)が45点を占める。 関連人物 中井正侶(1600年 - 1631年、正清の子、中井家2代) - 大坂城天守、寛永度二条城などを造営。 中井正純(正清の弟、中井家3代正知の後見) - 寛永度京都御所内裏、石清水八幡宮本殿、延暦寺根本中堂、仁和寺五重塔、教王護国寺五重塔などを造営。 中井正知(正純の子で正侶の養子、中井家3代) - 承応度、寛文度、延宝度、宝永度と京都御所内裏を4度造営。 巨勢卓軒
{ "id": "123395", "title": "中井正清", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%BA%95%E6%AD%A3%E6%B8%85" }
は、福祉に関連する学問全般を教育研究するために大学に設置される学部の名称である。 総合福祉学部を置く大学 東北福祉大学 淑徳大学 総合福祉学部に置かれる学科 総合福祉学科 産業福祉学科 実践心理学科 社会教育学科 社会福祉学科 情報福祉学科 人間社会学科 福祉心理学科 教育福祉学科 福祉行政学科
{ "id": "123397", "title": "総合福祉学部", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8F%E5%90%88%E7%A6%8F%E7%A5%89%E5%AD%A6%E9%83%A8" }
中井町(なかいまち)は、神奈川県の南西部に位置し、足柄上郡に属する町。 酪農が盛んであり、町の農業生産の4割以上を占める。その他、露地野菜や温暖な気候を利用したみかんの栽培もなされる。東名高速道路のインターチェンジ付近には工業団地が造成されている。 地理 神奈川県の南西部、足柄上郡の東端にあたる。大磯丘陵の北西部にある町域の3分の1は山林で、そのすべてが民有林であり、丘陵地の間の川沿いに農地と市街が位置する。西部には中村川、東部では葛川が町を縦断している。関東大震災によるがけ崩れで北部の川が堰き止められ震生湖ができた。震生湖という名はこれに由来する。震生湖は、日本一新しい自然湖であるとされ、湖畔には震災の調査に訪れた寺田寅彦の句碑がある。町の南西部には曽我山・不動山など200m - 300mほどの山があり、斜面にはみかん畑が点在する。 歴史 平安時代末に豪族中村氏が発祥させた。 人口 行政 町長:戸村裕司(2022年11月14日就任、1期目) 行政区域の変遷 1908年(明治41年)4月1日 - 中村、井ノ口村が合併して中井村が発足。 1958年(昭和33年)12月1日 - 町制施行して中井町となる。 地区 旧中村 遠藤(えんどう) - 旧遠藤村 田中(たなか) - 旧田中村 半分形(はぶがた) - 旧半分形村 古怒田(こぬた) - 旧古怒田村 北田(きただ) - 旧北田村 久所(ぐぞ) - 旧久所村 藤沢(ふじさわ) - 旧藤沢村 比奈窪(ひなくぼ) - 旧比奈窪村 雑色(ぞうしき) - 旧雑色村 鴨沢(かもざわ) - 旧鴨沢村 松本(まつもと) - 旧松本村 岩倉(いわくら) - 旧岩倉村 境(さかい) - 旧境村 境別所(さかいべっしょ) - 旧境別所村 井ノ口(いのくち) - 旧井ノ口村 産業 総世帯数約3,000のうち、6分の1にあたる約500世帯が農家であり、また120世帯余が林業に携わっている。主たる産品は酪農であるが、近年では東名高速道路のインターチェンジ付近に工業団地を造成したことにより、就業人口にも変化がみられる。 農林業 北条シソ 農畜産業 中井町の町域面積のうち約4分の1が農地であり、世帯数の16%、人口の23%ほどが農家であるが、その数は年々減少している。 2000年(平成12年)の耕地面積は513haで、そのうち作付延べ面積は430ha(耕地利用率83.8%)である。内訳は以下のとおり。 田 - 34ha(水稲23ha・陸稲1haなど) 畑 - 479ha 普通畑 - 319ha(らっかせい33ha・とうもろこし31ha・だいこん25ha・甘藷22haなど) 樹園地 - 160ha(みかん87ha・くり20ha・うめ11haなど) 酪農農家は30戸あり、乳牛800頭余が飼育されている。生乳の出荷額は5億5千万円で、全体の4割以上を占める。 林業 中井町の町域の約3分の1にあたる679haが山林・林野であり、その約3分の2、476haが天然の広葉樹林である。92haある人工林にはスギ(72ha)、ヒノキ(20ha)が植林されている。 林業に携わる戸数は123戸である。 工業 2000年の工業事業所数は97で、製造品出荷額は約842億円である。 東名高速道路秦野中井IC附近に造成された工業団地、グリーンテク中井には、富士フイルムビジネスイノベーション、テルモ、日本通運、日立コンピュータ機器、日立インフォメーションテクノロジー、オカムラ、ブルックス(コーヒー豆)、他の工場が立地している。 商業 卸・小売・飲食店数は134で、卸・小売を合わせた年間販売額は約210億円である。 地域 健康と福祉 2000年の老齢人口比は14.3%である。これは全国平均よりも低く、県内平均とほぼ同じ数値であったが、2014年には28.4%まで上昇し、全国平均の25.2%、県内平均の22.5%を大きく上回り、高齢化の進展が著しい。 教育 中井町立中村小学校 中井町立井ノ口小学校 中井町立中井中学校 施設 公民館 井ノ口公民館 コミュニティ 中井町農村環境改善センター 中井町郷土資料館 境コミュニティセンター 公園 中井中央公園 : 中井町中央公園野球場・多目的グラウンドなどの施設がある。2015年、Nakai Stadium Marche Vol.1 (ナカマル)開催場所。2017年、Nakai American Sunday - ナカイアメリカンサンデー開催場所。 境グリーンテクパーク 厳島湿生公園 中井町総合グラウンド 交通 鉄道 かつては湘南軌道という軽便鉄道が町内を通っていたが、廃止され現在は町内に鉄道路線はない。現在、鉄道を利用する場合の最寄り駅は、小田急小田原線秦野駅および、JR東日本東海道本線二宮駅。 バス路線 神奈川中央交通西(神奈川中央交通) 道路 町の北部を東名高速道路が東西に横断する。 高速道路・有料道路 東名高速道路(秦野中井IC・中井PA) 県道 主要地方道 神奈川県道71号秦野二宮線 神奈川県道77号平塚松田線 一般県道 神奈川県道709号中井羽根尾線 著名な出身者 抜隊得勝(禅僧) 佐藤寛子(タレント) 尾上健司(バレーボール選手) 野地俊二(NHKアナウンサー) 成川沙世子(音楽プロデューサー)映画「君の名は。」 その他 郵便番号は以下の通りとなっている。 二宮郵便局(二宮町):259-01xx、255-00xx、255-85xx、255-86xx、255-87xx
{ "id": "123398", "title": "中井町", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%BA%95%E7%94%BA" }
日本サッカー協会によるチーム登録種別(チームとうろくしゅべつ)とは、同協会によって年代別・性別に区分されたサッカーチームの分類のこと。 日本サッカー協会では、同協会またはその下部組織が主催する競技会への出場を希望するチームに対して、協会への加盟登録を義務付けている。この際、あらかじめ規約によって定められた種別に従ってチームの種別を決め、大会への出場資格等を指定する際に用いている。 なお加盟チームはチーム登録に加え、そのチームから公式試合に出場する選手について、選手登録を行う必要がある。 加盟チーム種別 日本サッカー協会においては、第1~4種、女子、およびシニアの合計6種類の種別がある。主に年齢によって区分されており、登録前年度の3月31日における年齢を基準としている。 第1種 年齢に関する制限のないチームを指す。一般には男子のプロチーム、アマチュア一般社会人チーム(実業団チーム、クラブチーム、学生・社会人の混合チームなど)、大学チーム、専門学校チームなどがこれに該当する。 全体としては登録チームへの所属選手の条件を限定する規定は存在しないので、プロチーム傘下のクラブチームでも、アマチュアチームに区分される実業団(企業)チーム、学校(大学や高専、一般専門学校)の運動部であっても、それぞれの混合・連合チームであっても各都道府県協会への登録自体に制限はない。但し、直接に日本サッカー協会や各都道府県協会が主催する都道府県リーグや地域リーグ、JFLなどと、各学生サッカー競技連盟(全日本大学サッカー連盟、全国高等専門学校体育協会・サッカー競技専門部、全国専門学校サッカー連盟など)が主催する大会への参加条件や連盟へのチーム登録条件は別規定であるので注意が必要。学生チームや大会・連盟の詳細については当該記事や関連記事を参照の事。 第1種チームの競技会としては、Jリーグ、JFL、地域リーグ、都道府県リーグ、各地の学生連盟による大会(大学サッカーリーグや専門学校サッカーリーグ)が挙げられる。また天皇杯はすべての第1種チームを対象とした大会となっている(1996年から2014年は第1種のほかに、次に述べる第2種のチームも参加可能となっていた)。 第2種 18歳未満の選手で構成されるチーム。ただし高等学校在学中の選手に対しては、この年齢制限の適用除外となる。このことから、一般に男子高校生年代のチームと認識される。 第2種チームの競技会としては、高校のサッカー部が出場する全国高等学校サッカー選手権大会、インターハイ、地域クラブチームのユース組織による日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会・Jリーグユース選手権大会、及び全ての高校生年代のカテゴリーから出場可能な高円宮杯 JFA U-18サッカーリーグが挙げられる。 なお、Jリーグの第1種チーム(トップチーム)の公式戦で、2種登録と表記された選手が出場することがある。これは第2種チームの登録選手のうち、Jリーグの出場資格条項もしくは特別指定選手制度の適用を受けることによって、Jリーグなどの公式戦への出場が認められた選手のことを指す。 第3種 15歳未満の選手で構成されるチーム。中学校在学中の選手は制限の適用除外であり、一般には男子の中学生年代のチームと認識されるが、2000年度から第3種チームに女子選手の登録が認められるようになった。 第3種チームの競技会としては、中学校のサッカー部が出場する全国中学校サッカー大会、地域クラブチーム対象の日本クラブユースサッカー選手権 (U-15)大会、及び全ての中学生年代のカテゴリーから出場可能な高円宮杯 JFA 全日本U-15サッカー選手権大会が挙げられる。JFA 全日本U-15サッカー大会のように、第3種と女子チームの双方が参加できる大会もある。 第4種 12歳未満の選手で構成されるチーム。未就学児も含まれる。小学校在学中の選手は制限の適用除外であり、また女子選手の登録も認められている。 第4種チームの競技会の代表例としては、小学校のサッカー部よりも地域のサッカークラブやサッカー少年団が多く出場するJFA 全日本U-12サッカー選手権大会が挙げられるが、同大会には女子小学生年代のチームも参加可能である。 女子 女子選手で構成されるチーム。第5種と呼ばれることもある。規約上、年齢に関する制限はない。 女子チームの全国リーグとして日本女子プロサッカーリーグ(WEリーグ)や日本女子サッカーリーグ(なでしこリーグ)、全国カップ戦として皇后杯 JFA 全日本女子サッカー選手権大会などが実施されている。また、男子の年齢区分を踏襲した形での年代別大会も行われている。しかし、女子の競技人口が男子に比べて極端に少ないため、女子チームによる女子の競技機会は限られているのが現状である。このため、上述のように第3種・第4種チームへの女子選手の登録、あるいは第3種・第4種向け競技会への(年齢制限付き)女子チームの参加を認めるなど、機会増加の努力が続けられている。 シニア 40歳以上の選手で構成されるチーム。体力のピーク時期を超えた年代が引き続きサッカーを楽しむことができるよう、2000年度に新たに設置された区分である。
{ "id": "123404", "title": "日本サッカー協会チーム登録種別", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E5%8D%94%E4%BC%9A%E3%83%81%E3%83%BC%E3%83%A0%E7%99%BB%E9%8C%B2%E7%A8%AE%E5%88%A5" }
地域政策学部(ちいきせいさくがくぶ)とは、地域政策学の研究・教授を目的とする大学の学部である。 過疎化・地方分権・市町村合併などの諸問題に対応すべく、地方自治体における政策立案だけでなく、企業や非営利組織における政策立案の専門家を養成するため、幅広い分野(法学・政治学・経済学・経営学・社会学・生物学・教育学・哲学・文学・心理学・地理学・民俗学・人類学など)について学ぶよう趣向が凝らされているのが特徴である。 それまで、関係する各分野の研究はすでに多くの大学においてなされていた。しかし、ひとつの体系を持った学部として誕生するのは、1996年の高崎経済大学に設立されたのが初めてである。地方にあっては大学とその地域との結びつきをねらいとし、学部・学科の新設が相次いでいる。また、都市部においても都市問題等の解決の研究などを目的とし、類する学部・学科が新設もしくは新設が検討されている。 地域政策学部を持つ大学 高崎経済大学、地域政策学部(地域政策学科/地域づくり学科/観光政策学科) 愛知大学、地域政策学部(まちづくり・文化コース/経済産業コース/公共政策コース/健康・スポーツコース/食農環境コース) 島根県立大学、地域政策学部(地域政策学科 地域経済経営コース/地域公共コース/地域づくりコース) 地域政策学に関する研究科・学部を持つ大学 国立大学 香川大学大学院、地域マネジメント研究科 公立大学 福知山公立大学、地域経営学部 奈良県立大学、地域創造学部 私立大学 青山学院大学、コミュニティ人間科学部 東洋大学、国際地域学部 愛知学泉大学、コミュニティ政策学部 愛知大学、地域政策学部 地域政策学に関する大学院専攻・学科を持つ大学 国立大学 福島大学、行政政策学類、地域と行政専攻 金沢大学、地域創造学類、地域プランニングコース 北海道教育大学、国際地域学科、地域協働専攻、地域政策グループ 茨城大学大学院、人文科学研究科、地域政策専攻 新潟大学、人文学部、地域文化課程 岐阜大学、地域科学部、地域政策学科 鳥取大学、地域学部、地域政策学科 香川大学、経済学部、地域社会システム学科 熊本大学、文学部、地域科学科 大分大学、経済学部、地域システム学科 鹿児島大学、人文社会科学研究科、地域政策科学専攻 公立大学 青森公立大学、経営経済学部、地域みらい学科 福知山公立大学、地域経営学部、地域経営学科 長崎県立大学、地域創造学部、公共政策学科 私立大学 札幌国際大学、観光学部、観光経済学科 観光政策コース、大学院地域社会研究科 東海大学、国際文化学部、地域創造学科 東北学院大学、教養学部、地域構想学科 常磐大学、コミュニティ振興学部、地域政策学科 明治大学、政治経済学部、地域行政学科 目白大学、人間社会学部、地域社会学科 大谷大学、文学部、社会学科 地域政策学コース 大阪経済大学、経済学部、地域政策学科 大阪商業大学、総合経営学部 公共経営学科、大学院地域政策学研究科 近畿大学、経済学部、総合経済政策学科、地域経済政策分野 追手門学院大学、地域創造学部、地域政策コース 比治山大学、現代文化学部、地域文化政策学科 広島女学院大学、国際教養学部、国際教養学科、アジア・アフリカ研究メジャー、公共政策メジャー、都市文化メジャー、環境学メジャー、ビジネスデザインメジャー(改組により、2018年4月より人間生活学部、生活デザイン学科、地域デザイン領域) 沖縄国際大学、法学部、地域行政学科 沖縄国際大学、経済学部、地域環境政策学科 関連記事 総合政策学部 政策学部 地域科学部 / 地域学部 地域創生学部 政策情報学部 学部 部 ちいきせいさくかくふ
{ "id": "123405", "title": "地域政策学部", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E6%94%BF%E7%AD%96%E5%AD%A6%E9%83%A8" }
大野城市(おおのじょうし)は、福岡県中西部の筑紫地域に位置する市である。 概要 福岡都市圏の南部、筑紫地域に位置する都市。福岡市のベッドタウンであり、大野城市常住者の通勤、通学先は主に福岡市、市内で、福岡市への通勤・通学者は人口の44.6%を占める。対して、市内の通勤・通学者は32.4%である。更に、当市の福岡市への流入人口は21,000人であり、これは、最も多い春日市(26,000人)に次いで多い。したがって、福岡都市圏内でもかなり福岡市に依存しているといえる。その中でも、博多区への流入人口は10,000人を超えており、博多区への依存度が高いと言える。しかし、福岡市への流出超過になっている一方で、福岡市の当市への流入人口は最も多く、6,000人で福岡市の流出人口の10.3%を占めている。すなわち、互いに労働供給源としての役割を担っているといえる。 更に、当市は都市圏内でも貴重な水源を保持している地域でもある。元より、福岡都市圏は地理条件から水資源に恵まれていないため、当市でも多くの水源確保を勤しんでいる。中でも、乙金浄水場と牛頸浄水場は主要な浄水場の一部であり、牛頸浄水場は福岡導水によって引かれる福岡都市圏唯一の筑後川直流の浄水場である。現在は当市、福岡市の三分の一(博多区と南区の一部)と北部筑紫地域、南部糟屋郡の配水を行なっているが、2025年(令和7年)に現在南区に点在する高宮浄水場が乙金浄水場に統合される予定であるため、この工事後は現在高宮浄水場が配水している福岡市中央区と南区北部も追加され、福岡市の二分の一の排水を行うことになる。 地理・市勢 市域はひょうたん型で細長く、市の中心部の幅は約1 kmしかない。 福岡市の南東隣に位置しており、同市のベッドタウンとなっている。 市域中央部を鹿児島本線、および西鉄天神大牟田線が並行して貫く。北部は国道3号などの幹線道路が通っており、福岡都市高速道路沿いには、事業所の立地が多くある。北部と南部は山がちな地形だが、新旧の住宅地が展開している。 南部の牛頸山(うしくびやま)にある牛頸ダムからは牛頸川の流れが発し、下大利団地などの脇を流れる御笠川と合流するまで市域を湾曲して流れている。 山:唐山(井野山)(236m)、牛頸山(448m)、四王寺山(大城山)(410m)、乙金山(275m)、黒金山(396m) 河川:二級河川牛頸川、平野川、御笠川 ダム:牛頸ダム 気候 隣接する自治体・行政区 福岡市(博多区) 春日市 - 大野城市役所と春日市役所との距離は1 km弱である。 太宰府市 筑紫野市 糟屋郡宇美町 那珂川市 ※大野城市は筑紫地域の全ての市と接している。 地名 大野村~大野町の時点で以下の大字が存在した。 牛頸 乙金 上大利 瓦田 雑餉隈(1956年廃止) 下大利(1984年廃止) 白木原 筒井(2000年頃廃止) 中 仲島(1979年廃止) 畑詰(現在は廃止) 山田(現在は廃止) 1956年以降、順次町名設置・住居表示が行われている。 曙町1丁目~3丁目(1956年、瓦田・筒井より発足) 栄町1丁目~3丁目(1956年、雑餉隈より発足) 雑餉隈町1丁目~5丁目(1956年、雑餉隈より発足) 錦町1丁目~4丁目(1956年、雑餉隈・瓦田・筒井より発足) 瑞穂町1丁目~4丁目(1956年、瓦田より発足) 乙金台1丁目~3丁目(2丁目までは1966年、のちに3丁目(年不詳)も乙金より発足) 南ケ丘1丁目~7丁目(4丁目までが1969年、10丁目までが1970年、14丁目までが1974年に牛頚・上大利より発足し、最も多い時期で14丁目まで存在したが、どのようにして現在の7丁目までになったか不詳) 平野台1丁目~4丁目(1974年、牛頚より発足) つつじヶ丘1丁目~6丁目(3丁目までは1975年、のちに4丁目以降も(年不詳)牛頚より発足) 仲畑1丁目~4丁目(1979年、仲島・畑詰より発足) 緑ヶ丘1丁目~4丁目(1980年、牛頸・上大利より発足) 大池1丁目~2丁目(1982年、乙金・瓦田・中・筒井より発足) 大城1丁目~5丁目(4丁目までは1982年、のちに5丁目(年不詳)も乙金・瓦田より発足) 乙金1丁目~3丁目(1丁目は1982年、のちに2丁目以降(年不詳)も乙金より発足) 川久保1丁目~3丁目(1982年、乙金・中より発足) 下大利団地(1982年、下大利より発足) 筒井1丁目~5丁目(3丁目までは1982年、のちに4丁目以降(年不詳、2000年頃)も筒井より発足) 御笠川1丁目~6丁目(1982年、畑詰・山田・中・筒井・瓦田より発足) 山田1丁目~5丁目(4丁目までは1983年、のちに5丁目(年不詳)も山田より発足) 下大利1丁目~5丁目(1984年、下大利より発足) 中央1丁目~2丁目(1984年、上大利・下大利・白木原より発足) 東大利1丁目~4丁目(1984年、下大利・白木原より発足) 上大利1丁目~5丁目(3丁目までは1985年、のちに4丁目以降(年不詳)も上大利より発足) 紫台(1985年、牛頚・上大利より発足) 瓦田1丁目~5丁目(3丁目までは1986年、のちに4丁目以降(年不詳)も瓦田より発足) 白木原1丁目~5丁目(1986年、白木原より発足) 旭ヶ丘1丁目~2丁目(上大利より発足) 牛頸1丁目~4丁目(牛頸より発足) 乙金東1丁目~4丁目(乙金より発足) 月の浦1丁目~5丁目(牛頸より発足) 中1丁目~3丁目(中より発足) 畑ケ坂1丁目~2丁目(牛頸より発足) 宮野台(牛頸より発足) 横峰1丁目~2丁目(牛頸より発足) 若草1丁目~4丁目(牛頸より発足) 南大利1丁目~2丁目(2006年、上大利より発足) 平田台1丁目・3丁目・4丁目・6丁目(2006年、上大利より発足。2011年、春日市に編入され消滅) 歴史 原始、古代 西日本最大の須恵器生産地 現在の大野城市には北部九州全体に須恵器を供給した大規模窯跡群である牛頸須恵器窯がつくられ、この窯跡は、上大利から牛頸、春日市、太宰府市にまたがる西日本最大規模の須恵器窯跡群であった。6世紀中ごろから9世紀中ごろにかけて、約500基以上の須恵器の窯が営まれ、ここで生産された須恵器は、6・7世紀代は福岡平野、8世紀以降は大宰府を中心に北部九州一帯に広がった。須恵器以外には、7世紀前半ごろを中心に月ノ浦窯跡群、野添窯跡群などで瓦や陶棺などが生産された。 我が国最大の要塞都市 市内各所で遺跡が発掘されている。 663年(天智2年)、白村江の戦いで日本が大敗したのち、665年(天智4年)、天智天皇の命令により、現在の市域内にあたる大野山(現在の四王寺山)に百済人・憶礼福留と四比福夫の設計による古代山城である大野城(おおののき)を築城し、大宰府防衛を図った。 近世 博多と太宰府の連絡都市 大野村は当時から「博多」との関わりが強く、1750年(寛永3年)には、当郡、朝倉地域で作られた年貢米、麦などの諸物資を福岡に運ぶための運河「新川」が開かれた。このことにより、かつて強かった博多との結びつきに加え、「福岡」との連絡も強くなり、筑後の主要な運河となった。しかし、およそ10年間、船による運搬を行なっていたが、水量が少なく船底がつっかえて、運搬効率が悪かったため、1762年(宝暦12年)一部が埋め立てられた。 一方、筑前の日田街道は、博多から太宰府・二日市・甘木などの宿を経て日田へ至る街道で、別名代官道とも称されていた。現在の大野城市内の経由地は、山田・雑餉隈・筒井・瓦田・白木原・東大利で、中でも雑餉隈は間の宿(間の宿とは正規の宿場である博多宿と二日市宿の間は四里(16km)もあるため、子供が往来するにはあまりにも過酷であったため、その中間地点の休憩地として設けられた宿場を指す。)としてにぎわっていた。この通りを、古い記録には大宰府往還ともしるされ、大宰府天満宮参詣客や物流関係者などの行き交いが盛んであった。 雑餉隈と山田と下筒井の街道沿いに軒を並べて旅籠屋(旅館)が7軒あり、茶店、酒、味噌、醤油屋や食料品店、雑貨店などがあって、近郊近在の農家からも買物に来て大変賑わっていた。ところが、1889年(明治22年)に駅舎が出来るはずであった九州鉄道(現JR鹿児島本線)の建設に反対したため、旅人は汽車に乗って通過してしまうようになり、1923年(大正12年)の九州鉄道(現西鉄天神大牟田線)は雑餉隈の裏山の雑木林の中を通り、春日原駅前には野球場、大運動場が出来て駅前だけは賑やかになり、さらに1932年(昭和7年)には日田街道の拡幅直線工事によって、一級国道3号線(現県道112号線)になり自動車の交通量が増えて人や物資の通過地点になってしまい、宿場町としての往時の繁栄は影をひそめた。 近代  •県下一位の養蚕都市 大野村の収繭量は 12,344 貫(約 46.29 トン)で、養蚕が盛んだったことがわかる。繭玉数にして 2,300 万個以上取れていたことになる。古くから養蚕は行われていたが、筑紫郡で本格的に開始されたのは1882年(明治 15 年)ごろであった。この年、大野村に朝倉郡より専門家を招き、蚕の良好な成長を促す方法を習った。そして、1885年(明治 18 年)には朝倉郡から製糸教師を招き、座繰製糸を経営するまでに至る。明治 20 ~ 30 年代には、大規模な養蚕経営が行なわれたが、蚕病の発生などの問題が起こ り、生産量は減少した。このため、1904年(明治 37 年)に筑紫郡内に3ヵ所の共同稚蚕飼育所 が開設された。 大正に入ると、一時期は福岡県の奨励もあり、特別に専用の蚕室を作る農家もあったが、 一般には普段使う部屋を片飼育部屋に当てた。1925年(大正 14 年)大野村村議会での福岡県蚕業試験場の誘致後、現曙町に試験場は完成し、福岡県下の養蚕指導の拠点となった。『筑紫郡の蚕業』によると、1914年(大正3年)に春蚕を手がけた農家は 86 戸あったのに対し、1923年(大正 12 年)の春蚕では 235 戸に伸び、その数約3倍となる。1927年(昭和2年)農家の総数が 495 戸であったことを考えると、多くの農家が養蚕に携わっていたことがわかる。 その後、1935年(昭和 10 年)試験場に付設していた福岡県繭検定所が独立し、蚕業試験場の隣に別の庁舎を建てている。 このように、明治から昭和の初期にかけて、少しずつ養蚕の技術や取り巻く環境は進歩していき、蚕業はその最盛期を迎えた。現在では、1929年(昭和4年)の福岡県蚕業試験場、1935年(昭和10年)の繭検定場があった場所には大野城市役所、博多織の名代店であった具島織物の紡績工場の場所にはイオン大野城ショッピングセンター、雑餉隈町の雑餉隈生繭市場はほとんどが住宅地となっている。 近現代 博多の下町、米軍の街 第二次世界大戦中は福岡市から当時の大野村に疎開する者が居た。大野町に町制後、福岡市に隣接し幹線道路や鉄道が通るなど好立地だったこともあり、昭和30年代から昭和40年代にかけて人口急増に拍車をかけベットタウン化が進んだ。その一方で、終戦後から1972年頃まで鹿児島本線の線路を跨いだ本市の一部と隣接する春日市に在日米軍基地が存在した。(詳しくは白木原駅#駅周辺)を参照。かつては雑餉隈 (第二の中州) と呼ばれ、ヨシムラジャパンや日本ソフトバンク等の有名企業が創業された歓楽街であった。 失走する都市成長、やがて福岡市のベッドタウンへ しかし、米軍の撤退後は次第に活気が衰えていった。銀天町商店街という商店街があり、歓楽街であったが、営業地区が通学路などに重なっており、保護者からの苦情が多数あったことなどから、風営法の改正を機とした警察の取り締まり強化により、違法店舗が徹底的に摘発され閉店し、ほぼ壊滅状態となった。さらに、御笠郡、那珂郡、席田郡が統合された時、雑餉隈地区には郡役所が配置され、福岡地域の中心地域となっていたが、隣の福岡市の急速な都市化に伴い、次第に福岡市への人口流出が加速した。 その後の昭和時期、九州大学の筑紫地区への全面移転が計画されていたが、当時、学生運動が盛んだったこともあり、地元の反対により断念し、現在の形となった。全面移転計画当時は春日原地区とも呼ばれていた。また、西鉄の高架工事は昭和時期には既に計画があったが、春日原地域の商店街による商店街の通過点化を危惧したため、結果として工事完了までに70年ほどを要した。 国鉄雑餉隈駅の建設や九州大学の全面移転、繁華街の規制、高架化工事の反対運動などの活動が活発であったために、近隣地域と比較して成長が停滞していたことが現代にも通ずる課題となっていた。 現代(平成、令和時代) 福岡県大野城市 市制施行前は元々「大野町」という地名であったが、1972年(昭和47年)の市制施行にあたり福井県に大野市が存在していたため「大野市」とすることができず、この城の名にちなんだ「大野城市」という市名にした。現在でも福岡市のベッドタウンとして、人口は年々増加傾向にある。 2017年(平成29年)には「シティブランド・ランキング ―住みよい街2017―」において同率1位に守谷市・武蔵野市・大野城市と選ばれた。2022年(令和4年)には市政施行50周年を迎えた。 1889年4月1日 - 町村制施行により御笠郡筒井村・山田村・中村・乙金村・瓦田村・白木原村・仲島村・畑詰村・牛頸村・上大利村・下大利村及び那珂郡井相田村の一部(字雑餉隈)の区域をもって御笠郡大野村として発足。 1896年4月1日 - 那珂郡・席田郡(むしろだ ぐん)・御笠郡の三郡を統合して筑紫郡が発足。筑紫郡大野村となる。雑餉隈に筑紫郡の郡役所が配置された。 1921年3月3日 - 水城跡が特別史跡に指定される。 1950年10月1日 - 町制施行し、筑紫郡大野町となる。 1952年3月31日 - 大野城跡が特別史跡に指定される。 1957年 - 福岡市と境界変更し、大字雑餉隈の一部を福岡市へ編入。 1972年4月1日 - 市制施行、即日市名改称し大野城市となる。 2007年1月1日 - 春日市と境界変更。 2011年3月1日 - 春日市と境界変更。 2012年10月28日 - 市制施行40周年にともないギネス世界記録挑戦などの記念事業が行われ、同年12月に認定された。 2016年8月18日 - 人口10万人に達する。 2017年4月6日 - 水城跡が続日本100名城に選定される 2018年7月21日 - 大野城心のふるさと館オープン 2020年2月6日 - 大野城市の文化財が日本遺産『古代日本の「西の都」〜東アジアとの交流拠点〜』として広域認定される 隣接する春日市と同様、市町村制度発足以来一度も市町村合併を経験していない(ただし、境界変更は経験している)。 発祥 むっちゃん万十 - 長崎県諫早市の夫婦が考案し、下大利駅前に第一店舗を置いた。 グッディ - 1978年(昭和53年) 3月にホームセンター・グッデイ1号店出店(福岡県大野城市) おにから - 福岡県立筑紫中央高等学校の高校生によって考案され、他校でも多く採択された。 ロイヤルホスト - 現在の大野城駅前のベース通りで第一店舗出店。 肉饅に酢醤油をかける文化 - 白木原駅前の太平閣という豚饅屋で付け始めたことが元となっている。 歴代市長 行政 市長 井本宗司(5期目) 任期:2025年9月11日 議会 定数:20人 任期:2027年4月30日 官公庁 福岡県筑紫総合庁舎 那珂県土整備事務所 筑紫県税事務所 筑紫保健福祉環境事務所 流域下水道事務所 警察 福岡県警察春日警察署(春日市) 白木原交番 大野交番 南ケ丘交番 消防 春日大野城那珂川消防本部(春日市) 南出張所 東出張所 産業 経済 大野城市に本社を置く主要企業 玉乃屋 - 福岡のソウルフード ドラッグイレブン - ドラッグストア 西鉄バス二日市 - バス 日本パーク - 駐車場管理機械の製造販売 マルキョウ - スーパーマーケット 悠香 - 化粧品会社 リョーユーパン - パン、菓子類製造 TRG - 霊柩車製造 アトリエ365 - ワイシャツ、ネクタイ製造 三省製薬 - 化粧品、医薬品製造 博多三氣 - ラーメン はかた匠工芸 - 織物 悠悠ホーム - 住宅メーカー 南福岡自動車学校 - 自動車教習所 その他の企業・団体 I-PEX大野城工場 イオン大野城ショッピングセンター イオンシネマ大野城 イオン乙金ショッピングセンター ラウンドワン大野城 MrMax大野城店 ハンズマン大野城店 アシュラン クロワッサン よっちゃん食品工業福岡工場 石村萬盛堂大野城工場 姉妹都市・連携都市 日本国内 連携都市 奥州市 (岩手県) 2017年 (平成29年) 3月23日 災害時相互応援協定締結 菊池市 (熊本県) 2018年 (平成30年) 8月16日 災害時相互応援協定締結 芦屋市 (兵庫県) 2019年 (平成31年) 6月21日 災害時相互応援協定締結 地域 人口 福岡市のベッドタウンとして人口が伸び続け、2016年8月に10万人を超えた。 教育 学校教育施設 大学 九州大学筑紫キャンパス(大学院、一部敷地は隣の春日市にまたがる) 専修学校 西鉄自動車整備専門学校 高等学校 福岡県立筑紫中央高等学校 中学校 大野城市立大野中学校 大野城市立大野東中学校 大野城市立大利中学校 大野城市立御陵中学校 大野城市立平野中学校 小学校 大野城市立大城小学校 大野城市立大野小学校 大野城市立大野北小学校 大野城市立大野東小学校 大野城市立大野南小学校 大野城市立大利小学校 大野城市立下大利小学校 大野城市立月の浦小学校 大野城市立平野小学校 大野城市立御笠の森小学校 学校教育以外の教育施設 自動車教習所 南福岡自動車学校 西鉄自動車学校 西鉄自動車教習所(西鉄グループ職員のみ) 医療 主な病院 おおりん病院(十全会)  西鉄白木原駅より徒歩約11分(689 m) 乙金病院(同仁会)  JR宇美駅より徒歩33分(2.2 km) 誠愛リハビリテーション病院(三光会)  JR水城駅より徒歩約27分(1.8 km) 筑紫南ヶ丘病院(芙蓉会)  JR水城駅より徒歩約39分(2.6 km) つくし会病院  西鉄白木原駅より徒歩約35分(2.3 km) 秦病院(扶洋会)  西鉄春日原駅より徒歩約8分(481 m) 原病院(文佑会)  西鉄白木原駅より徒歩約8分(475 m) 郵便局 筑前大野郵便局 東大野郵便局 大野山田郵便局 大野城下大利郵便局 中簡易郵便局 大野城牛頸郵便局 大野城南ケ丘郵便局 交通 概要 国道3号や九州自動車道太宰府インターチェンジ、福岡都市高速道路、JRと西鉄が通り、福岡空港にも近く、福岡都市圏で最も交通の便に恵まれた地域である。なお、大野城駅から博多駅までは快速で約10分、下大利駅から西鉄福岡(天神)駅までは急行で約15分ほどである。 空港 最寄りの空港は福岡空港である。 鉄道路線 九州旅客鉄道(JR九州) 鹿児島本線:大野城駅 - 水城駅 西日本鉄道(西鉄) 天神大牟田線:白木原駅 - 下大利駅 白木原駅隣の春日原駅(春日市)は大野城市との市境まで200 m程度の距離にあり、当駅が最寄りとなる地区もある。なお、大野城市役所は春日原駅が最寄りとなる。 バス 西鉄バス 西日本鉄道および西鉄バス二日市が運行する。市中心部のイオン大野城ショッピングセンターと福岡市の博多バスターミナルを結ぶ路線、大野城市域北部を経由して博多バスターミナルと福岡市南部の南福岡駅・竹下自動車営業所雑餉隈車庫を結ぶ路線、大野城市域北部を経由して宇美町と南福岡駅を結ぶ路線、イオン大野城ショッピングセンター・下大利駅・大野城駅と市域南西部の住宅地を結ぶ路線、市域南部の住宅地を経由して下大利駅と筑紫野市の西鉄二日市駅を結ぶ路線がある。 路線 1[春日原~月の浦営]- 月の浦営業所~西鉄春日原 6[惣利→春日原]- 惣利二丁目~西鉄春日原 6[春日原~月の浦営]- 月の浦営業所~西鉄春日原 20[大野城駅~平野]- 平野ハイツ~大野城駅西口 20[大野城駅~月の浦営]- 月の浦営業所~大野城駅西口 21[イオン大野城~月の浦営]- 月の浦営業所~イオン大野城 21[下大利駅~平野]- 平野ハイツ~下大利駅 21[下大利駅~月の浦営]- 月の浦営業所~下大利駅 22系統 - 西鉄二日市~下大利駅 23[下大利駅~南山手団地]- 下大利駅~南山手団地 23[下大利駅~月の浦営]- 月の浦営業所~下大利駅 42[平野ハイツ~西鉄大橋駅]- 平野ハイツ~西鉄大橋駅 42[平野~春日南中~大橋駅]- 平野ハイツ~西鉄大橋駅 42[平野~福岡女~大橋駅] - 平野ハイツ~西鉄大橋駅 42[月の浦営~南中~大橋駅]- 西鉄大橋駅~月の浦営業所 42[月の浦営~福女~大橋駅]- 月の浦営業所~西鉄大橋駅 42[月の浦営~西鉄大橋駅]- 月の浦営業所~西鉄大橋駅 42[月の~南中~福女~大橋]- 月の浦営業所~西鉄大橋駅 11[上宇美~南福岡駅]- JR南福岡駅~上宇美 41[博多BT~イオン大野城]- 博多BT1F~イオン大野城 41[博多BT~雑餉隈車庫]- 博多BT1F~雑餉隈車庫 43[南福岡駅~福岡空港]- 福岡空港前~JR南福岡駅 43[博多BT~金隈]- 博多BT1F~金隈 43[雑餉隈車庫~福岡空港]- 福岡空港前~雑餉隈車庫 400[甘木営~博多駅]- 甘木営業所~博多駅[新三井ビル前] 420系統 - 雑餉隈車庫~天神ソラリアステージ前 大野城市コミュニティバス「まどか号」 西鉄バス二日市に運行委託。4路線あり、主に大野城市内の西鉄バスのない地域で運行する。 路線 仲畑ルート - イオン大野城→西鉄自動車学校→イオン大野城 乙金ルート - イオン大野城→乙金東1丁目第三→イオン大野城 東部ルート - イオン大野城→イオン乙金北側(まどか)→イオン大野城 大城ルート - JR大野城駅→西鉄白木原駅→JR大野城駅 大城ルート(平日朝3便のみ運行) - JR大野城駅→まどかぴあ→西鉄白木原駅→JR大野城駅 タクシー 板付交通株式会社 おおりタクシー 第一交通株式会社 福博タクシー 福岡交通圏(福岡市、春日市、大野城市、筑紫野市、太宰府市、古賀市、糸島市、糟屋郡、那珂川市)が運営区間である。 道路 高速道路 九州自動車道 太宰府インターチェンジ 福岡高速2号太宰府線 大野城出入口 - 水城出入口 - 太宰府インターチェンジ 一般国道 国道3号(福岡南バイパス) 主要地方道 福岡県道31号福岡筑紫野線 福岡県道49号大野城二丈線 福岡県道56号福岡早良大野城線 福岡県道60号飯塚大野城線 一般県道 福岡県道・大分県道112号福岡日田線 福岡県道505号板付牛頸筑紫野線 福岡県道574号水城下臼井線 福岡県道580号那珂川大野城線 名所・旧跡 史跡 国指定特別史跡 大野城跡 (昭和28年3月31日) (一般的に“天空の城”と称される越前大野城は福井県大野市、現在の城山公園として有名な尾張大野城は愛知県常滑市、現在の市川市立第五中学校の敷地となっている下総大野城は千葉県市川市にある。) 水城跡 (昭和28年3月31日) 国指定史跡 牛頸窯跡群 (平成21年2月12日) - 兵庫県以西の西日本で最大の窯跡群。日本三大古窯の一つに充てられている。  県指定史跡 木造聖観音立像 (昭和45年5月2日) 筒井の井戸 (昭和47年4月15日) - 貝原益軒編纂の『筑前国続風土記』にも記された、市域北部の筒井二丁目にある古井戸の遺構。 善一田古墳群 (令和3年3月26日) 文化財 県指定文化財 竹田家所蔵文書 (昭和35年4月12日) 木造聖観音立像 (昭和45年5月2日) 筒井の井戸 (昭和47年4月15日) 牛頸須恵器窯跡出土ヘラ書き須恵器 (平成26年3月14日) 市指定文化財 道標石 (平成6年3月18日) 郡境界標 (平成6年3月18日) センダンの木 (平成6年3月18日) 御笠の森 (平成7年5月22日) 薬師の杜 -平成7年5月22日) 溜井之碑 - (平成27年3月25日) 自然  大野城いこいの森 - 牛頸ダムの周囲にある公園施設やキャンプ場などの総称。界隈には真言宗善通寺派の寺院たる牛頸山法照寺公式)などもある。 (映画「牛首村」の舞台であると誤解され気味だが、本映画の舞台は富山県魚津市の坪野鉱泉であり、何ら関係は無い。) 四王寺県民の森 御笠川 仲畑中央公園 水辺公園 ふるさと水城跡公園 大文字公園 施設  まどかぴあ(図書館・ホールなど) 大野城心のふるさと館 - 被災地から特産品を仕入れ、販売利益を義援金として被災地へ送る、二重の支援を行っている。 すこやか交流プラザ まどかパーク(体育館・グラウンドなど) いこいの森中央公園 いこいの森キャンプ場 青少年の居場所 ユープレ 三浦鏝絵美術館 グランドエンパイアホテル アシュラン美術館 アシュランバードハウス 博多人形工房 神社 平野神社 - 京都平野神社の末社とされている、今木神(いまきのかみ)などを祀る神社。牛頸ダムよりわずかに北の大字牛頸地内に所在。 黒男神社 御陵宝満神社(中1丁目) 釜蓋地禄神社 瓦田地禄神社 白木原地禄神社 上大利老松神社 下大利老松神社 宮地嶽神社 中宝満神社 御陵寳満神社 畑詰地禄神社 仲島地禄神社 恵比寿神社 筒井宝満神社 その他名所 牛頸不動城跡(牛頸) 牛頸用水路(白木原、上大利、下大利) 大野村消防組第二部格納庫(瓦田3丁目) 郡境界標(錦町1丁目) 唐山城跡 四季の名所 春 桜 瑞穂公園 さくらの森 さくらの園 桜公園 夏 ホタル 牛頸川(大字牛頸) あじさい 牛頸ダム周辺(大字牛頸) 水遊び 水辺公園(牛頸ダム周辺) いこいの森中央公園(大字牛頸) 北市民プール(御笠川一丁目) 秋 コスモス 水城跡近辺 下大利小学校前(御笠川) 御笠の森小学校前(御笠川) 紅葉 四王寺県民の森(乙金) 牛頸ダム周辺(大字牛頸) もみじの森(平野台) 彼岸花 水城跡付近(水城駅前:ふるさと水城跡公園) 牛頸川(大字牛頸) 冬 毘沙門天 四王寺山(大城山)山頂付近 どんと焼き 各地区・1月15日ごろ 公共施設 旭ヶ丘テニスコート 赤坂テニスコート 南コミュニティセンター 中央コミュニティセンター 北コミュニティセンター  (夏季のみ市民プール開放) 東コミュニティセンター 施設の空き状況は「公共予約システム」にて確認できる。 祭事・名物 祭事 どんと焼き (1月) 大野城いこいの森ロードレース (4月中旬) クリーンシティおおのじょう (5月) 牛頸川のホタル見物 (6月) まどかリンピック (9月第2日曜日) おおの山城大文字まつり (9月21日 - 9月22日) MADOKAれくスポ祭 (10月) 翔んでふれあって大運動会 (10月) 大野城いこいの森まつり (10月) まどかフェスティバル (11月2日 - 3日) ふくしフェスティバル (11月) 名物 鶏ぼっかけ むっちゃん万十 マンハッタン 大野城ハッピーリング 貨布せんべい 出身人物 ★は故人 政官界 稲富修二(政治家、衆議院議員) 外山恒一(政治活動家、出生は鹿児島県。) 経済界 石井久(実業家、立花証券の父)★ 斉田敏男 (株式会社マルキョウ創業者) 牧平直 (実業家、きょくとう代表取締役社長。) 芸能 ASKA(元CHAGE and ASKA、シンガーソングライター) 池田成志(俳優) 真璃子(歌手) 宮田聡子(モデル) 藤岡あや(ミュージカル俳優) 馬場美根子(ミュージカル俳優) 田上唯(女優) 朝長美桜 (歌手・アイドル・元HKT48) 福地高子 (フリーアナウンサー) 千珠晄 (宝塚歌劇団66期生) 麻華りんか (宝塚歌劇団88期生) 妃宮さくら (宝塚歌劇団89期生) 高田課長 (お笑いタレント) 奥田健介 (ノーナ・リーヴス、ミュージシャン) スポーツ 本多雄一(福岡ソフトバンクホークス内野守備走塁コーチ) 大雷童太郎(大相撲力士) 大野城俊文 (力士) 合谷和弘(ラグビー・クボタスピアーズ・2020年東京オリンピック男子ラグビー日本代表選手) 児玉碧衣(女子競輪選手) 田浦文丸(プロ野球・福岡ソフトバンクホークス) 春口沙緒里(北京オリンピック競泳日本代表) 衛藤裕 (Jリーグ選手) 柴田隆一 (競泳選手) 権丈太郎 (ラグビー選手) 勝木隼人 (2020年東京オリンピック陸上競技男子50 km競歩日本代表) 古瀬健樹 (ラグビーレフリー) 山川晃司 (プロ野球・富山GENサンダーバーズ) 伴義太郎 (プロ野球・阪神タイガース) 山下弦資 (ラグビーユニオン) 栄絵里花 (バレーボール選手・久光スプリングス) 原田桂 (ゴルフ選手) 宮田大地 (フィギュアスケート選手) 渡邊直子 (登山家) 古川雄大 (ゴルフ選手) ゆかりのある人物 ★は故人 末永仁(昭和2年新品種台中65号の育種に成功し、蓬莱米の母として有名)★ 朝倉美沙(歌手、埼玉県熊谷市生まれ、15歳より当市で過ごす)★ 杉内俊哉(元プロ野球投手、春日市生まれ、当市出身) 小林よしのり(漫画家、出生のみで出身は福岡市) 大野城市を舞台とした作品 漫画・アニメ スケッチブック ~full color's~ バガタウェイ ゲーム 御城プロジェクト 城姫クエスト その恋、保留につき、 小説 ワカレ花 映画 ルパンの娘 (当市雑餉隈町のロイヤルチェスターが撮影場所となった) 和歌 大野城(大城山)   今もかも 大城の山に ほととぎす 鳴きとよむらむ われ無けれども (大伴坂上郎女)    大野山 霧立ち渡る わが嘆く 息嘯の風に 霧立ちわたる (山上憶良)    いちしろく しぐれの雨は 降らなくに 大城山は 色づきにけり (不詳)    梅の花 散らくはいづく しかすがに この城の山に 雪は降りつつ (大伴百代) 水城    凡ならば かもかもせむを 恐みと 振りいたき袖を 忍びてあるかも (娘子児島)    ますらをと 思へるわれや 水茎の 水城のうえに なみだ拭はむ (大伴旅人) 御笠の森    念はぬを 思ふといはば 大野なる 御笠の森の 神し知らさむ (大伴百代) 百選 日本名城百選 : 大野城と水城、大宰府政庁(国の特別史跡) 美しい日本の歴史的風土100選 : 太宰府政庁、大野城、水城、基城、太宰府天満宮 日本100名城 : 大野城 続日本100名城 : 水城 ふるさといきものの里百選 : 牛頸ホタルの里
{ "id": "123407", "title": "大野城市", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%87%8E%E5%9F%8E%E5%B8%82" }
人間学部(にんげんがくぶ、英称:Faculty of Human Studies / School of Human Studies / College of Human Studies)とは大学に置かれる学部の一つであり人間学を教育研究することを目的としている。 人間学部を置く大学 石巻専修大学(2013年開設) 仙台白百合女子大学(2002年開設) 大正大学(1997年開設) 目白大学(2000年人間社会学部から改組) 文京学院大学(1997年開設) 愛知東邦大学(2007年開設) 名城大学(2003年開設) 仁愛大学(2001年開設) 聖泉大学(2003年開設) 天理大学(1992年開設) 太成学院大学(2003年開設) 埼玉学園大学(2001年創立と共に開設) 清泉女学院大学(2003年開設) かつて設置していた大学 関西国際大学 人間学部から教育学部へ2007年改組 京都文教大学 人間学部から総合社会学部へ2012年改組
{ "id": "123409", "title": "人間学部", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%96%93%E5%AD%A6%E9%83%A8" }
大宰府(だざいふ)は、7世紀後半に、九州の筑前国に設置された地方行政機関。軍事・外交を主任務とし、九州地方の内政も担当した。和名は「おほ みこともち の つかさ」とされる。なお多くの史書では太宰府とも記される。政庁の中心は現在の福岡県太宰府市・筑紫野市にあたり、国の特別史跡に指定されている。 概要 役職としての大宰(おほ みこともち)・大宰帥は、外交・軍事上重要な地域に置かれ、数か国程度の広い地域を統治する地方行政長官である。九州筑紫には筑紫大宰が置かれた。「総令」・「総領」などとも呼ばれる。 吉備国にも大宰が置かれた記録は在るものの、一般的に「大宰府」と言えば九州筑紫のそれを指すと考えてよい。 平城宮木簡には「筑紫大宰」、平城宮・長岡京木簡には「大宰府」と表記されており、歴史的用語としては機関名である「大宰府」という表記を用いる。都市名や菅原道真を祀る神社(太宰府天満宮)では「太宰府」という表記を用いる。「宰府」と略すこともある。 唐名は、「都督府」であり、現在、史跡を「都府楼跡」(とふろうあと)あるいは「都督府古址」(ととくふこし)などと呼称することも多い。 外交と防衛を主任務とすると共に、筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅からなる西海道9国と壱岐、対馬、多禰(現在の大隅諸島。弘仁15年/天長元年(824年)に大隅に編入)の三島については、掾(じょう)以下の人事や四度使の監査などの行政・司法を所管した。与えられた権限の大きさから、「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれる。 軍事面としては、その管轄下に防人を統括する防人司、主船司を置き、西辺国境の防備を担っていた。西海道諸国の牧から軍馬を集めて管理する権限を有していた。 外交面では、北九州が古来中国の王朝や朝鮮半島などとの交流の玄関的機能を果たしていたという背景もあり、海外使節を接待するための迎賓館である鴻臚館(こうろかん)が那津(現在の博多湾)の沿岸に置かれた。 区画 想定範囲は、現在の太宰府市および筑紫野市に当たる。遺跡 は国の特別史跡。 面積は約25万4000平方メートル、甲子園の約6.4倍である。 主な建物として政庁、学校、蔵司、税司、薬司、匠司、修理器仗所、客館、兵馬所、主厨司、主船所、警固所、大野城司、貢上染物所、作紙などがあったとされる。しかし、遺跡が確認されたものは少ない。 「大宰府跡」は1921年(大正10年)3月3日国の史跡に指定。1953年(昭和28年)3月31日、国の特別史跡に指定された。その後、1970年(昭和45年)、1974年(昭和49年)、2009年(平成21年)、2014年(平成26年)(3月と10月の2回)、2015年(平成27年)に追加指定が行われ、指定面積は320,235.91平方メートルである。政庁(都府楼)地区のほか、1キロメートルほど離れた客館跡(西日本鉄道二日市車両基地跡)も特別史跡大宰府跡に含まれている(2014年(平成26年)10月追加指定) 。 2015年(平成27年)4月24日、文化庁から「古代日本の『西の都』〜東アジアとの交流拠点〜」として日本遺産に認定される。 交通には日田街道(宰府往還)があり、北は博多、南は豊国の日田に繋がっていた。さらに日田を起点として別府や、日向国、肥国などと往来することができた。 職員 長官は大宰帥(だざいのそち 唐名:都督)といい従三位相当官、大納言・中納言級の政府高官が兼ねていたが、平安時代には親王が任命されて実際には赴任しないことが大半となり、次席である大宰権帥が実際の政務を取り仕切った(ただし、大臣経験者が左遷された場合、実務権限はない)。帥・権帥の任期は5年であった。また、この頃は、唐宋商船との私貿易の中心となった。 北部九州六国から徴発された西海道の仕丁は、大宰府に集結させられた。そのうち400人前後が大宰府官人の事力(じりき)となり、あるいは主船司等に配属された(『延喜式』民部下)。このほか観世音寺の造営のための駆使丁としても使役された(『続日本紀』和銅2年(709年)2月戊子条)。 四等官は、以下の通り。 帥 従三位 - 唐名: 都督、都督尹 権官: 権帥 弐(すけ) 大弐(だいに) 正五位上 - 唐名: 都督長史、都督大卿 少弐(しょうに) 従五位下 - 唐名: 都督司馬、都督小卿 監(じょう) - 唐名: 都督録事、都督郎中、参軍事 大監(だいげん・だいじょう) 正六位下 少監(しょうげん) 従六位上 典(さかん) - 唐名: 都督録事、都督主簿 大典(だいてん・おおさかん) 正七位上 少典(しょうてん) 正八位上 その他、令によると以下の官人が置かれ、その総数は約50名であった。 従六位下 大判事 正七位上 少判事 大工 防人正 正七位下 主神 従七位下 大宰博士 正八位上 陰陽師 医師 算師 少工 防人祐 主船 主厨 大初位上 判事大令史 大初位下 判事少令史 防人令史 史生 歴史 古代の国交の要衝 大陸外交や軍事拠点としての大宰府は、前身は三角縁神獣鏡などが出土する那珂遺跡群(福岡市)であったと考えられている。また、『魏志倭人伝』に見られる伊都国の一大率は、後の大宰府と良く似たシステムとして指摘されている。 太宰府の前面に築造された水城の築造は3層あり、放射性炭素年代測定により、最下層が西暦100年~300年頃、次の層は西暦300年~500年頃、最上層は西暦510年~730年頃となっている。 玄界灘沿岸は、弥生時代や古墳時代を通じてアジア大陸との窓口という交通の要衝であった。そのため、畿内を地盤とするヤマト政権が外交や朝鮮半島への軍事行動の要衝として、出先機関を設置することになった。 『日本書紀』宣化天皇元年(536年)条の「夫れ筑紫国は、とおくちかく朝(もう)で届(いた)る所、未来(ゆきき)の関門(せきと)にする所なり。(中略)官家(みやけ)を那津(なのつ、博多大津の古名)の口(ほとり)に脩(つく)り造(た)てよ」 同 崇峻天皇5年(593年)条の「駅馬を筑紫将軍の所に遣して曰はく」 同 推古天皇17年(609年)4月の条に「筑紫大宰(つくしのおほみこともち)、奏上して言さく」 などの記述が、太宰府がヤマト政権の出先機関として設置され存在した証拠と考えられる。 なお、推古天皇17年4月の条については、「大宰」の文字の初見とされる。 飛鳥時代 白村江の敗戦(663年)直後は防衛拠点を置くために、吉備大宰(天武天皇8年(679年))、周防総令(天武天皇14年(685年))、伊予総領(持統天皇3年(689年))などにも作られた。 大宝律令以降 大宝律令(701年)の施行とともに、筑紫大宰(九州)のみが残され、それ以外の大宰は廃止された。 7世紀に入ると、遣隋使小野妹子が隋の使者裴世清を伴って那津に着いた頃から、官家(みやけ)は、大陸や朝鮮半島からの使者の接待をも担うようになったと考えられる。また、同じ時期に聖徳太子の弟である来目皇子が新羅遠征を名目に九州に駐屯しており、両方の政策に関与していた聖徳太子が一族(上宮王家)を筑紫大宰に任じて、大宰の力を背景に九州各地に部民を設置して支配下に置いていったとする説がある。 筑紫大宰は九州全体の統治と外国使節の送迎などにあたったと考えられ、以後は大宰府に引き継がれていく。 斉明天皇6年(660年)百済が滅亡し、百済復興をかけて天智天皇2年(663年)8月唐・新羅連合軍と対峙した白村江の戦いで大敗した。 天智朝では、唐が倭へ攻め込んでくるのではないかという危惧から天智天皇3年(664年)、筑紫に大きな堤に水を貯えた水城(みずき)・小水城を造ったという。水城は、福岡平野の奥、御笠川に沿って、東西から山地が迫っている山裾の間を塞いだ施設であり、今もその遺跡が残っている。構造は、高さ14メートル、基底部の幅が約37メートルの土塁を造り、延長約1キロにわたる。また、翌年の天智天皇4年(665年)大宰府の北に大野城、南に基肄城などの城堡が建設されたとされた。 大化5年(649年)には「筑紫大宰帥」の記述があるほか、天智天皇から天武天皇にかけての時期にはほかに「筑紫率」「筑紫総領」などが確認でき、中央から王族や貴族が派遣されていた事を示すと考えられている。なお、「総領」の語が大化改新後に登場する言葉であることから、「筑紫総領」を「筑紫大宰」からの改称とみる説、「筑紫大宰」が官司名で「筑紫総領」をそれを率いた官職名とする説、大化改新後に「筑紫大宰」とは別に「筑紫総領」が設置され両者は職掌が分かれていたのが後に統合されて大宰府になったとする説などに分かれている(なお、「大宰」と「総領」両方の設置が確認できるのは、吉備国と筑紫国のみであったことも注目される)。 機関としては、天智天皇6年(667年)に「筑紫都督府」があり、同10年(671年)に初めて「筑紫大宰府」が見える。 この時代は、首都たる大和国(現在の奈良県)、延暦13年(794年)以降は山城国(現在の京都府)で失脚した貴族の左遷先となる事例が多かった。例としては菅原道真や藤原伊周などがいた。また、大宰府に転任した藤原広嗣が、首都から遠ざけられたことを恨んで天平12年(740年)に反乱を起こし、その影響で数年間大宰府は廃止され、その間は大宰府の行政機能は筑前国司が、軍事機能は新たに設置された鎮西府が管轄していた。つまり、天平14年(742年)1月にいったん廃止し、天平15年(743年)12月に筑紫に鎮西府を置く。しかし、天平17年(745年)6月に復活させている。 平安時代 その後、平安時代に入ると大宰府の権限が強化され、大同元年(806年)2月に大宰大弐の官位相当が正五位上から従四位下に引き上げられ(『日本後紀』)、弘仁元年(810年)には大宰権帥が初めて設置された。天慶4年(941年)天慶の乱(藤原純友の乱)で陥落、府庁は一度焼失したと考えられている。大宰権帥の橘公頼が対抗する。 平安時代後期になると、「大府」「宰府」という異名も登場する。ただし、12世紀に入ると、「大府」は名目のみの存在となった大宰帥に代わって責任者の地位にありながら実際には遥任の形態で京都で政務を執った大宰権帥や大宰大弐を、「宰府」は大宰府の現地機構を指すようになった。大宰権帥や大宰大弐が現地機構に対して発した命令を大府宣、反対に現地機構からの上申書を宰府解(大宰府解・宰府申状)と呼んだ。この頃、刀伊の入寇に伴い、大宰府官や東国武士団が九州に入り活躍、鎮西平氏や薩摩平氏などとして周辺の肥前や南九州に割拠し始める。一例として大宰大監であった平季基が、後年日本最大の荘園となる島津荘の開拓が挙げられる。 交易面でも大宰府の重要性が増し、10世紀から13世紀まで日宋貿易、これと並行して朝鮮や南島との貿易も盛んとなった。1080年(承暦4年頃)の大宰府解に『商人の高麗に往反するは,古今の例也』とあるとおり、朝廷がこれを積極的に統制しなかった。 保元3年(1158年)に平清盛が大宰大弐に就任(赴任せず)。1166年には弟の平頼盛が大宰府に赴任する。平氏政権の基盤の一つとなった日宋貿易の統制のため、やがて北九州での政治的中心地は、大宰府から20キロメートル北の博多(福岡市)へ移る。 宋・明州(江省寧波市一帯)の長官と後白河法皇と平良盛との間で「公式」な交易関係が結ばれ、貿易が隆盛を極めるとともに、古来の渡海制・年紀制などの律令制以来の国家による貿易統制が形骸化していく事に繋がった。これにより鎌倉時代に至るまで大宰府権門は直接的な交易実益を喪い没落、名誉職としての大宰権帥としての権威付け及び有力国人が権帥、大弐への就任する形態に遷移していく。1173年(承安3年)には摂津国福原の外港にあたる大輪田泊(現在の神戸港の一部)を拡張し、博多を素通りさせ、福原大輪田泊まで交易船が直輸した。 源平合戦期には平家武人が大宰府に一時落ち延びた。北九州に平定のため入国した天野遠景が文治2年(1186年)九州惣追捕使・鎮西奉行に補任され大宰府権門を掌握する。しかし10年ほど過ぎた後、天野は頼朝に解任され、鎌倉へ召喚された。 平安時代を通して大宰府現地官人の土着化、土豪化が進んだ。 鎌倉時代 治承・寿永の乱を経て鎌倉時代に入るまでに、古代以来の官舎としての大宰府は解体、廃絶したと考えられている。一方で、前述の中国や朝鮮、南島との貿易権益、さらに古代政庁以来の権威付けとしての「大宰府」は九州北部の有力国人に利用された。 嘉禄2年(1226年)、筑前・豊前・肥前守護で鎮西奉行の武藤資頼は太宰少弐に任じられ、以降代々の武藤氏は太宰少弐職を世襲して少弐氏と名乗る。鎌倉幕府により、大宰府には宰府守護所が置かれる。元寇における武功により、少弐氏は北部九州を代表する名族となる。その後博多に鎌倉幕府により鎮西探題が置かれた。南九州には島津氏が進出する。 役職としての「大宰権帥」や「大宰大弐」は広大な大宰府領や対外貿易の利益から経済的に魅力のあった地位であった。元寇前夜の文永8年(1271年)2月に、大宰権帥の地位を巡って吉田経俊と分家の中御門経任が争って最終的に後嵯峨上皇の側近であった経任が補任されたことを非難した同族の吉田経長の日記の中に経任が古代中国の富豪である陶朱のようになったと皮肉を込めて記している(『吉続記』文永8年2月2日(1271年3月14日)条)。 もっとも、こうした任命の裏には任命する天皇や上皇の側にも利点があり、大宰権帥退任後に修理職などの地位に任じられ、御所の造営や大嘗祭のような多額の費用のかかる行事の負担を命じられた。当然、大宰権帥に就いたことによる経済的利得はその負担を上回るものであったと推定される。 室町時代以降 建武期・南北朝時代の動乱に博多・大宰府周辺を含む九州一円が巻き込まれる。足利方・探題と、肥後国の南朝方征西府の菊池氏と戦いとなり、中央や足利氏、更に少弐氏自身の内紛などで一時混迷するも、少弐氏も加わって大宰府を巡り一進一退の攻防となる(浦城の戦い 針摺原の戦いなど)。やがて幕府足利義満が今川貞世(了俊)を九州平定に派遣すると、少弐冬資が謀殺され、南朝方が連敗し駆逐されるなどした。やがて南北朝合一が成り、応永2年(1395年)に了俊が探題職を解任されると、一時的に少弐氏は大宰府を回復するが、戦国時代には大内氏に追われ少弐氏は滅亡。天文5年(1536年)には大内義隆が大宰大弐に就くも、大内氏自身が大寧寺の変により滅亡する。 太宰府天満宮(当時は安楽寺天満宮)の本殿が再建されるのは、時代が下って安土桃山時代の天正19年(1591年)、小早川隆景による。 江戸時代末期、幕末の政変で、公家五卿が安楽寺延寿王院に一時滞在した。大政奉還により京都に戻った。 発掘・調査 1968年(昭和43年)から学術調査が実施されるようになった。 政庁地区 政庁地区の発掘調査は1943年(昭和18年)に行われたものを嚆矢とする。調査の結果、政庁地区においては3時期の遺構面が存在することが確かめられた。各遺構面の概要は下記のとおりである。 第1期 : 7世紀後半 - 8世紀初頭。大宰府政庁創建期(掘立柱建物群。古段階と新段階に細分される。) 第2期 : 8世紀初頭 - 10世紀中葉。朝堂院形式創建期(礎石建ち瓦葺き建物。政庁規模は、東西111.6メートル、南北188.4メートル、回廊規模は、東西111.1メートル、南北113.8メートル) 第3期 : 10世紀中葉 - 12世紀。朝堂院形式整備拡充期(礎石建ち瓦葺き建物) 政庁地区については、発掘調査以前には「現在見える礎石が創建時のもの」、「天慶4年(941年)の藤原純友の乱で焼亡した後は再建されなかった」、という考えが主流であった。前者の考えについては各遺構面が存在することによって否定され、後者については、第2期遺構面上に堆積する焼土層によって焼失の事実は証明されたものの、第3期の遺構がさらに規模を拡大して再建されていることが明らかとなり、現在では否定されている。 第1期から第2期への改築は、律令制度によって政府機関として確立したことに対応するものである。第3期は律令制度が弛緩している時期にあたるため、第2期より大規模な造作が行われていることに多くの研究者が驚かされたが、現在では、当時の政庁運営で中心的役割を担っていた在庁官人層の拡大に対応するものと理解されている。 条坊制 大宰府に条坊制による街区が存在することを想定したのは、のちに九州大学教授となる鏡山猛が初めてで、1937年(昭和12年)のことである。鏡山は、政庁域を方四町、観世音寺域を方三町と推定した場合、両者の南辺を東西線上に一致させることができること、かつその場合の政庁東辺と観世音寺西辺の間が二町となることをもって、一町を単位とする造成企画の存在を想定し、その適用範囲を広げると周囲の道路や畦畔に合致するものが多いことを指摘。加えて観世音寺に伝わる古文書類に記された条坊呼称の分析から、東西各十二条、南北二十二条の、東西約2.6キロメートル、南北約2.4キロメートルに亘る条坊域を想定した。その実態は1930年代に存在していた道路や畦道に基づく「机上の復元案」といえるものであるが、大宰府の条坊の存在を指摘し、学界に注意を喚起した事は特筆される。鏡山案は現在もっとも知られているもので、一般向け図書やHPなどで紹介されている復元図はほとんどがこの鏡山案である。 その後、福岡県教育委員会、九州歴史資料館、太宰府市教育委員会、筑紫野市教育委員会によって条坊施工想定範囲内での発掘調査が断続的に行われており、現時点では下記のような成果を得ている。 政庁第1期に対応する7世紀段階では、条坊の存在に結びつくような遺構は確認できない。 政庁第2期に対応する8世紀段階において条坊に関連すると考えられる遺構は、政庁中央から南へ伸びる南北中央大路(地元では朱雀大路と呼ばれる)周辺を中心として存在する。これらの遺構は南北方向のものが顕著で、東西方向のものは少ないことから、整然とした条坊域が整備されていたのではない可能性もある。 政庁第3期に対応する10世紀段階の条坊遺構は鏡山案の想定域に近い範囲に存在する。この段階での一区画は面積8反を基準としているらしい。区画溝などの遺構は11世紀後半から12世紀前半にかけて埋没し、条坊制による街区はこの頃に廃れたと考えられる。 こうした状況は、政治的中心の周囲に次第に都市が形成されていく過程と理解できる。 もはや鏡山案はそのままの形では成り立たない状況となっており、上記のような発掘成果を受けた新たな条坊復元案が金田章裕や井上信正などによって提示されている。 2006年(平成18年)4月20日、筑紫野市教委は、大宰府政庁跡の北端から約1.7キロメートル南で条坊の南端と推定される幅約8メートルの道路と側溝の遺構が見つかったと発表した。市教委は、この場所より南側ではほとんど遺構が発見されていないことなどを根拠として、この遺構を条坊の南端と推定している。 井上は、第一期大宰府政庁の条坊築造時期について7世紀末との説を発表したが、さらに観世音寺よりも条坊が先行する可能性も示している。観世音寺創建が7世紀後半とされることを考え合わせると、大宰府条坊築造時期はそれ以前ということになり、日本史上最古とされる藤原京条坊築造時期と同時期あるいはより古い可能性が出てくる。 その他 関係人物 藤原広嗣 吉備真備 大伴旅人(天智天皇4年(665年) - 天平3年(731年)) - 神亀5年(728年)から天平2年(730年)の晩年、大宰帥。大宰府へ赴任した直後に妻丹比郎女を失った。 大伴家持 大伴坂上郎女 山上憶良 小野岑守 - 大宰大弐として赴任中の弘仁14年(823年)に公営田の導入を建議、翌天長元年(824年)に多国を大隅国に編入した。 菅原道真 - 大宰員外帥として赴任するが、大宰府政庁には一度も登庁せず。 小野好古 - 天慶3年(940年)藤原純友の乱を鎮圧するために追捕山陽南海両道凶賊使長官として九州へ下向、大宰府にて純友を撃退。鎮圧後、天慶8年(945年)大宰大弐に任ぜられた。天徳4年(960年)従四位下(後に従三位)参議にして大宰大弐に再任(兼任)。康保4年(967年)致仕するまで務める。 藤原隆家 - 眼病治療のために自ら望んで大宰権帥として赴任。その後、刀伊の入寇に遭遇し、現地での陣頭指揮を執った。 橘公頼 平季基 - 大宰大監、万寿年間(1024年~1028年)に、後に日本最大の荘園となる島津荘を拓く。 高階成章 - 太宰大弐(天喜3年(1055年) - 天喜6年/康平元年(1058年))。「欲大弐」の綽名がある。妻は歌人の大弐三位。 藤原長房 - 太宰大弐(寛治6年(1092年) - 寛治8年/嘉保元年(1094年))。 平清盛 - 保元3年(1158年)、大宰大弐となる。 武藤資頼 - 嘉禄2年(1226年) - 嘉禄3年/安貞元年(1228年)、武士ながら大宰少弐に任ぜられ、少弐氏の祖となる。 異説・俗説 九州王朝説では、大宰府が、古代北九州王朝の首都(倭京)であったと主張している。しかし査読のある学術雑誌において九州王朝を肯定的に取り上げた学術論文は皆無であり、九州王朝説および関連する主張は科学的な根拠の欠如したいわゆる俗説に過ぎないとの強い指摘が、専門家によりなされている。。 大宰府政庁跡 花の見頃など ウメ(2月〜3月) サクラ(3月下旬) アジサイ(6月) 初夏の夜はホタルが見られる 大規模イベント 太宰府市民政庁まつり(毎年10月) 不定期に、薪能、第九演奏会などが開催されることもある。 2002年(平成14年)10月5日に、南こうせつ・海援隊・谷村新司・さだまさしが『ゆめ未来コンサート 都府楼の歌人たち』を開催。 2015年(平成27年)10月31日に、ももいろクローバーZがコンサート『水城・大野城築造 竈門神社創建1350年 九州国立博物館 開館10周年 日本遺産認定記念 ももクロ男祭り2015 in 太宰府』を開催。最後には、本人たちが近隣にある太宰府天満宮の本殿前に移動し、特設ステージを設けて歌唱奉納を行った。 交通 鉄道 西鉄天神大牟田線 都府楼前駅から徒歩11分(900m) バス 都府楼前駅、太宰府駅、西鉄五条駅からコミュニティバスまほろば号北谷回りに乗車し「大宰府政庁跡」下車すぐ ■博多駅から西鉄バス400系統に乗車し「筑陽学園前」下車、北へ徒歩5分 (420m) 博多バスターミナル・福岡空港から西鉄バス「太宰府ライナーバス旅人」に乗車し「大宰府政庁跡」下車すぐ。 自家用車 九州自動車道 太宰府インターチェンジから3km。 駐車場あり。ただし狭く、政庁跡周辺は駐車禁止なので公共交通機関の利用を勧める。 周辺情報 大宰府展示館 月山(漏刻・水時計) 坂本八幡宮 通古賀近隣公園 太宰府市民の森 四王寺山登山 水城跡 都府楼南駅
{ "id": "123413", "title": "大宰府", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%B0%E5%BA%9C" }
メアリー・カルドー(Mary Kaldor, 1946年3月16日 -)は、イギリスの政治学者。専門は、国際関係論、市民社会論。カルドアとも表記される。父親は経済学者の、ニコラス・カルドア。 オックスフォード大学卒業(哲学・政治学・経済学(PPE)を学ぶ)。ストックホルム国際平和研究所研究員、サセックス大学教授を経て、1999年からロンドン・スクール・オブ・エコノミクスのグローバル・ガヴァナンス研究センター教授。 著書 単著 The Disintegrating West, (Penguin Books, 1978). The Baroque Arsenal, (Hill and Wang, 1981). 芝生瑞和・柴田郁子訳『兵器と文明――そのバロック的現在の退廃』(技術と人間, 1986年) The Imaginary War: Understanding the East-West Conflict, (Basil Blackwell, 1990). New and Old Wars: Organized Violence in a Global Era, (Polity Press, 1999, 2nd ed., 2006). 山本武彦・渡部正樹訳『新戦争論――グローバル時代の組織的暴力』(岩波書店, 2003年) Global Civil Society: An Answer to War, (Polity Press, 2003). 山本武彦・宮脇昇・木村真紀・大西崇介訳『グローバル市民社会論――戦争へのひとつの回答』(法政大学出版局, 2007年) Human Security: Reflections on Globalization and Intervention, (Polity Press, 2007). 山本武彦・宮脇昇・野崎孝弘訳『「人間の安全保障」論―グローバル化と介入に関する考察』(法政大学出版局, 2011年) 編著 Europe from Below: An East-West Dialogue, (Verso, 1991) Restructuring the Global Military Sector vol. 3: Global Insecurity , (Pinter, 2000). 共編著 The World Military Order: the Impact of Military Technology on the Third World, co-edited with Asbjørn Eide, (Macmillan, 1979). Democratic Socialism and the Cost of Defence: the Report and Papers of the Labour Party Defence Study Group, co-edited with Dan Smith and Steve Vines, (Croom Helm, 1979). Disarming Europe, co-edited with Dan Smith, (Merlin, 1982). Mad Dogs: the US Raids on Libya, co-edited with Paul Anderson, (Pluto Press, 1986). Dealignment: A New Foreign Policy Perspective, co-edited with Richard Falk, (Basil Blackwell, 1987). The New Detente: Rethinking East-West Relations, co-edited with Gerard Holden and Richard Falk, (Verso, 1989). Citizenship and Democratic Control in Contemporary Europe, co-edited with Barbara Einhorn and Zdenek Kavan, (E. Elgar, 1996). Restructuring the Global Military Sector vol. 1: New Wars, co-edited with Basker Vashee, (Pinter, 1997). The European Rupture: the Defence Sector in Transition, co-edited with Geneviève Schméder, (Edward Elgar, 1997). Restructuring the Global Military Sector vol. 2: The End of Military Fordism, co-edited with Basker Vashee and Ulrich Albrecht, (Pinter, 1998). Global Civil Society, co-edited with Helmut Anheier and Marlies Glasius, (Oxford University Press, 2001). Democratization in Central and Eastern Europe, co-edited with Ivan Vejvoda, (Continuum, 2002). A Human Security Doctrine for Europe: Project, Principles, Practicalities, co-edited with Marlies Glasius, (Routledge, 2005). Oil Wars, co-edited with Terry Lynn Karl and Yahia Said, (Pluto, 2007).
{ "id": "123416", "title": "メアリー・カルドー", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BC" }
マネジメント学部(マネジメントがくぶ)とは、大学においてマネジメント学を専攻とする学部である。 概要 本来「マネジメント」とは、経営管理などの意味を持つ言葉で、組織の目標を設定し、その目標を達成するために組織の経営資源を効率的に活用したり、リスク管理などを実施することをいう。日本国内の大学においては、こうした経営管理などの経営学部のカリキュラムに近い分野を専攻とする学部のほか、マネジメントの前に「医療」や「地域」といった語を冠し、当該分野の「管理」について専攻する学部も多く存在する。 マネジメント学部は比較的新しい学部名称であり、2000年に跡見学園女子大学に初めて設置された。 マネジメント学部を持つ日本の大学 跡見学園女子大学 大阪成蹊大学 マネジメント学部と類似する学部・学群名称 東北福祉大学 総合マネジメント学部 国際医療福祉大学 赤坂心理・医療福祉マネジメント学部 東京通信大学 情報マネジメント学部 桜美林大学 ビジネスマネジメント学群 産業能率大学 情報マネジメント学部 日本体育大学 スポーツマネジメント学部 秀明大学 英語情報マネジメント学部 長野県立大学 グローバルマネジメント学部 愛知学泉大学 現代マネジメント学部 椙山女学園大学 現代マネジメント学部 立命館大学 食マネジメント学部 甲南大学 マネジメント創造学部 山陽学園大学 地域マネジメント学部 川崎医療福祉大学 医療福祉マネジメント学部 高知工科大学 経済・マネジメント学群
{ "id": "123417", "title": "マネジメント学部", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8D%E3%82%B8%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88%E5%AD%A6%E9%83%A8" }
酪農学部とは大学に置かれる学部の一つで、酪農を教育研究することを目的としている。 酪農学部を置く大学は酪農学園大学のみであった。酪農学園大学酪農学部では生命、環境、食品に関する事柄を総合的にグローバルな視点で教育研究されていた。実学教育にも熱心であり、在学生には実際に体験する事によって様々な事柄を学び取らせることを目的として「インテリジェント牛舎」や「バイオガスプラント」等といった特殊な施設が設けられている。ゆえに理論面、実践面の両方で高い教育水準を誇っていた。 酪農学部に類する学課程を設置している大学 酪農学園大学農食環境学群循環農学類酪農学コース 帯広畜産大学畜産学部畜産科学課程家畜生産科学ユニット 学部 (廃止) 廃 らくのうかくふ
{ "id": "123419", "title": "酪農学部", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%AA%E8%BE%B2%E5%AD%A6%E9%83%A8" }
高麗神社 (こまじんじゃ)は埼玉県日高市に鎮座する神社。旧社格は県社。 概要 現在の埼玉県日高市の一部及び飯能市の一部にあたる高麗郡があるが、高麗郡及び上総郷は奈良時代に設置された土地である。高麗郡は716年(霊亀2年)に武蔵国高麗郡が設置された土地であり、朝鮮半島のゆかりの地である。中世武家時代の鎌倉時代以降、高麗郡の郡域が拡大して、日高市・鶴ヶ島市のそれぞれ全域と、飯能市・川越市・入間市・狭山市のそれぞれ一部が高麗郡の範囲となった。668年に唐・新羅に滅ぼされ亡命して日本に居住していた高句麗からの帰化人を朝廷はこの地に移住させた。703年には高麗若光が朝廷から王姓が下賜されたという話が伝わっている。高麗若光が「玄武若光」と同一人物ならば、高句麗王族の一人として王姓を認められたということになる。この高麗若光も朝廷の命により高麗郡の設置にあたって他の高句麗人とともに高麗郡の地に移ってきたものと推定されている(新編『埼玉県史』)。 高麗神社は、この高麗若光を祭っている。神仏習合の時代には高麗家は修験者として別当を勤めていた。天正18年に徳川家康が関東に入国すると、翌年(1592年)に徳川家から社領として高麗郷内に3石を寄進された。また、高麗大宮大明神、大宮大明神、白髭大明神と称されていた社号は、明治以降は高麗神社と称されるようになった。境内隣接地には江戸時代に建てられた高麗家住宅がある。 入口付近の敷地には、2005年(平成4年)10月23日に在日本大韓民国民団(民団)から寄贈された花崗岩製の将軍標がある。これは、1992年に設置された木製のものが破損し腐食したことから再寄贈されたものである。また、駐日大韓民国大使らの参拝もある。 この神社に参拝した政治家の6人が首相になったため、「出世神社」とも呼称される。 行幸啓 2017年9月20日から9月21日にかけて、当時の天皇、皇后が、在位中8度目の私的旅行として日高市や深谷市の渋沢栄一記念館に行幸啓し、その際に高麗神社に親拝した。天皇の親拝は創建以来初めてで、韓国でも大々的に報じられた。ほかに高麗家住宅・巾着田を視察した。 交通 JR高麗川駅から徒歩約20分 西武池袋線高麗駅から徒歩約45分 - 付近にはヒガンバナで有名な巾着田が市営公園として整備されている。
{ "id": "123420", "title": "高麗神社", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97%E7%A5%9E%E7%A4%BE" }
筑穂町(ちくほまち)は、福岡県のほぼ中心部、筑豊地方南部に位置していた町である。 1997年、国土地理院の発表により福岡県の重心地(北緯33度31分21秒 東経130度40分5秒)が町内にあることが分かり、福岡県のへそにちなんだ「これが筑穂へそ音頭」とその踊りを作って町おこしを展開していた。 2006年3月26日、飯塚市・頴田町・穂波町・庄内町と対等合併し、新市制による飯塚市となったため消滅した。 地理 隣接していた市町村 飯塚市 筑紫野市 朝倉郡:筑前町 糟屋郡:篠栗町・須恵町 嘉穂郡:嘉穂町・桂川町・穂波町 歴史 江戸時代は現在の町域を長崎街道が貫いており、現在の内野地区にあたる地区は筑前六宿のひとつ、内野宿という宿場町として栄えた。 近代に入り、日鉄嘉穂炭坑をはじめとする石炭産業で栄えたが、エネルギー革命により衰退した。 近現代 1955年3月31日 - 上穂波村・内野村・大分村の一部が対等合併し、筑穂町が発足。 2006年3月26日 - 飯塚市・頴田町・穂波町・庄内町と対等合併し、飯塚市を新設して消滅。 教育 小学校 町立 大分小学校 上穂波小学校 内野小学校 中学校 町立 筑穂中学校 交通 鉄道路線 九州旅客鉄道(JR九州) 篠栗線(福北ゆたか線):筑前大分駅 - 九郎原駅 筑豊本線(原田線):上穂波駅 - 筑前内野駅 バス路線 路線バス 西鉄バス筑豊(合併当時。それ以前の運行は西日本鉄道及び嘉穂交通) 飯塚 - (北古賀経由) - 大分坑 (合併以前に廃止) 西日本鉄道 特急:飯塚 - 出雲※ - 阿恵※ - JR内野駅※ - 西鉄久留米 - 信愛女学院(※印は町内停車) 嘉穂交通(西日本鉄道の子会社。以下、元は西日本鉄道による運行) 飯塚 - (出雲経由) - 大分坑 飯塚 - (北古賀経由) - 三郡登山口(山口茜スキー場口) 飯塚 - (高田経由) - 大分坑 飯塚 - (出雲経由) - 君ケ畑 飯塚 - (出雲経由) - 桑曲 桑曲 - 上穂波駅 - 大分坑 君ケ畑 - 上穂波駅 - 大分坑 コミュニティバス 町民ふれあいバス(町内全域・嘉穂交通が町より委託運行) 道路 一般道路 国道200号 有料道路 冷水道路(国道200号) 八木山バイパス(国道201号) 県道(主要地方道) 福岡県道60号飯塚大野城線 福岡県道65号筑紫野筑穂線 福岡県道90号穂波嘉穂線 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事 内野宿 大分八幡宮 大分廃寺塔跡
{ "id": "123422", "title": "筑穂町", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%91%E7%A9%82%E7%94%BA" }
『週刊ダイヤモンド』(しゅうかんダイヤモンド)はダイヤモンド社が発行する週刊の経済の専門雑誌。石山賢吉によって1913年(大正2年)5月10日創刊。毎週月曜日発売。 歴史 1913年(大正2年)5月10日 月刊誌として創刊。創刊号の定価は1部10銭。創刊時の雑誌名は『ダイヤモンド』(『経済雑誌ダイヤモンド』)。誌名は池田藤四郎によって「小さくとも相当の権威を持たせたい」という意気込みから命名された。 1945年(昭和20年)11月1日 5か月の休刊を経て再刊 1946年(昭和21年)9月 旬刊に移行 1955年(昭和30年)3月 週刊に移行 1968年(昭和43年) 1月15日号 - サブタイトルの「経済雑誌」が「ビジネス活動に役立つ経済誌」に変更される 2月26日号 - 誌名を『週刊ダイヤモンド』に改称 7月1日号 - 「ビジネス活動に役立つ経済誌」のサブタイトルが削除される 2019年(令和元年) ダイヤモンド・オンラインの有料版サブスクリプション「ダイヤモンド・プレミアム」がスタート。有料会員特典として、『週刊ダイヤモンド』電子雑誌版の最新号およびバックナンバーが閲覧できるサービスを開始する 連載・コラム 小林快次「大人のための最先端理科」 井手ゆきえ「カラダご意見番」 深堀圭一郎のゴルフIQを高めよう 牧野洋「Key Wordで世界を読む」 山本洋子「新日本酒紀行」 Book Reviews 佐藤優「知を磨く読書」 オフタイムの楽しみ 目利きのお気に入り ビジネス書ベストセラー 後藤謙次「永田町ライヴ!」 世界遺産を撮る 批判を受けた記事・不祥事 2005年(平成17年)9月17日特大号にて日本音楽著作権協会(JASRAC)を批判する内容の「企業レポート 日本音楽著作権協会(ジャスラック)」という記事を掲載したが、JASRACから虚偽または歪曲された事実として名誉毀損訴訟を起こされる。結果、東京地方裁判所は、「(問題の記事の)その内容について真実であることの証明がなく、意見又は論評としてもその前提事実の重要な部分について真実であることの証明がなく、むしろ明らかに真実ではないと認められる事実を摘示したり、それに基づく意見や論評をしているものであり、取材やそれに基づく判断にかなりの偏りが感じられ、被告らがそれを真実であるとか又は意見・論評が正しいと信じる相当の理由も見当たらないものである」として、被告側に550万円の損害賠償を命じ、ダイヤモンドは敗訴した。 2010年(平成22年)11月13日号の特集記事「宗教とカネ」にて、宗教法人「念仏宗無量寿寺」が強引な勧誘を実施しており、入会金などを巡り揉め事となるケースも多いなどとした記事を掲載したが、同法人から「一方的な中傷記事である」などとして訴訟を起こされる。2012年(平成24年)7月12日に京都地裁は、記事の一部について「真実とするに足る相当な理由が認められない」などとして、ダイヤモンド社に対し220万円の支払いを命じた。
{ "id": "123427", "title": "週刊ダイヤモンド", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%89" }
アンジェイ・ズラウスキー (Andrzej Żuławski [], 1940年11月22日 - 2016年2月17日) は、ポーランドの映画監督。ポーランド語読みではアンジェイ・ジュワフスキ。 来歴 1940年、当時ソビエト連邦の占領下にあったポーランドのルヴフ (現在のウクライナ・リヴィウ) に、作家の息子として生まれる。大叔父(父方の祖父の兄弟)には作家イェジイ・ジュワフスキがいる。 1957年から1959年までフランスに留学。パリの高等映画学院で学ぶ。1960年から1966年までアンジェイ・ワイダの助監督を務めた。その間、ワルシャワ大学哲学科とパリ政治学院で学ぶ。また、この時期から映画批評や詩作を発表。 1967年に短編テレビ映画『Pavoncello』で演出家としてデビュー。1971年に父ミロスワフとの共同脚本で長編映画処女作となる『夜の第三部分』を発表。ポーランド映画祭新人作品賞、アンジェイ・ムンク賞、コシャーリン映画祭グランプリを受賞する。しかし、翌1972年に監督した第2作『悪魔』がポーランド国内で上映禁止処分を受ける。そのため、次作『L'important c'est d'aimer』(1975年)をフランスで製作する。同作は主演のロミー・シュナイダーにセザール賞主演女優賞をもたらした。 その後、1981年の『ポゼッション』が第34回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門で上映され、主演のイザベル・アジャーニが女優賞を受賞。世界的に注目されるようになる。アジャーニは本作でセザール賞の主演女優賞も受賞している。 1985年の『狂気の愛』からは本作をきっかけにその後、長年に渡るパートナー関係となる女優ソフィー・マルソーを主演に迎えた作品を多く製作。 1988年には大叔父イェジーの代表作「月三部作」の第1部『銀球で』を原作にしたSF映画『シルバー・グローブ/銀の惑星』を発表。第41回カンヌ国際映画祭ある視点部門で上映される。本作は1977年に長編4作目として製作を開始していたものの、後にポーランド政府から製作中止命令を受けており、実に10年越しでの完成となった。 2000年に監督した『女写真家ソフィー』(DVD題/原題の「フィデリテ」で上映会もあり)を最後に作品の発表がなかったが、2014年、14年ぶりの監督作『Matière Noire (英題:Dark Matter)』を製作することが明らかとなった。同作はヴィトルド・ゴンブローヴィッチの同名小説を原作とした『Cosmos』として2015年に完成し、ロカルノ映画祭の正式出品作となり監督賞を受賞した。 2016年2月17日、癌のためワルシャワで死去。満75歳没。 私生活 女優と結婚、1971年に息子が生まれるが、後に離婚。クサヴェリは後にテレビドラマの演出家となる。 26歳年下の女優ソフィー・マルソーと長く事実婚の関係にあり、1995年に息子ヴァンサンが生まれるが、後に関係を解消している。 作品 Pavoncello (1967年) 短編テレビ映画 Piesn triumfujacej milosci (1969年) 短編テレビ映画 夜の第三部分 La troisième partie de la nuit (1971年) 悪魔 Le Diable(1972年) L'important c'est d'aimer (1975年) ポゼッション Possession (1981年) 私生活のない女 La femme publique (1984年) 狂気の愛 L'Amour braqué (1985年) シルバー・グローブ/銀の惑星 Sur le globe d'argent (1988年) 私の夜はあなたの昼より美しい Mes nuits sont plus belles que vos jours (1989年) ズラウスキーのボリス・ゴドゥノフ Boris Godounov (1989年) ソフィー・マルソーの愛人日記 La note bleue (1991年) *DVD題 ワルシャワの柔肌 Szamanka (1996年) 女写真家ソフィー La Fidélité (2000年) *DVD題 Cosmos (2015年) その他 サムソン Samson (1961年) 助監督・出演 二十歳の恋 L'amour à vingt ans (1962年) 助監督 灰 Popioly (1965年) 助監督 将軍たちの夜 The Night of the Generals (1967年) 助監督 美しさと哀しみと Tristesse et beauté (1985年) 出演 恋の病い Maladie d'amour (1987年) 原案 危険な関係 Les liaisons dangereuses (2003年/TVミニシリーズ) 出演 受賞・ノミネート 1971年 ポーランド映画祭新人作品賞 (『夜の第三部分』) 1972年 アンジェイ・ムンク賞 (『夜の第三部分』) 1973年 コシャーリン映画祭グランプリ (『夜の第三部分』) 1981年 カンヌ国際映画祭コンペティション部門出品 (『ポゼッション』) 1981年 サンパウロ国際映画祭批評家賞 (『ポゼッション』) 1983年 ポルト国際映画祭観客賞 (『ポゼッション』) 1984年 モントリオール世界映画祭審査員特別大賞、観客賞 (『私生活のない女』) 1988年 カンヌ国際映画祭ある視点部門出品 (『シルバー・グローブ/銀の惑星』) 2000年 カブール・ロマンチック映画祭金の白鳥賞 (『女写真家ソフィー』)
{ "id": "123428", "title": "アンジェイ・ズラウスキー", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%BA%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC" }
概観 運営母体は、都築学園グループの学校法人都築教育学園である。本学は、飛行学校を起源とした全国でも数少ない航空工学科を有する私立工業大学である。また、鹿児島霧島キャンパスは、鹿児島県内唯一の私立工学部である。 近年、陸上部は、全日本大学駅伝、びわ湖大学駅伝などに出場している。その他、航空機設計研究部は、読売テレビが琵琶湖を舞台に開催する鳥人間コンテストに出場している。 国家資格の基本情報技術者試験(FE)の午前の部の免除制度の認定校になっている。 設置当初の校名は、九州学院大学だったが学校法人九州学院(熊本市)が運営する九州学院中学校・高等学校(同)などとは、一切関係ない。 沿革 1955年 南日本飛行学校開校 1958年 学校法人坂元学園設置認可 1966年 学校法人坂元学園により九州工業短期大学設立 1968年 上記短期大学の工学系学科を母体に九州学院大学として開学。工学部電子工学科及び機械工学科を設置 1969年 機械工学科に航空工学コースを設置 1970年 電子工学科に電子工学専攻コース、電子計算機工学専攻コースを設置 1971年 航空工学科を増設(機械工学科航空工学コースを改組したものだと思われる) 1973年 電子工学科に航空電子工学専攻コースを設置 1974年 土木工学科及び建築学科を増設 1978年 学校法人坂元学園破産宣告 1984年 学校法人坂元学園の理事長に都築泰壽が就任。法人の継続認可、そして破産終結が決定 1985年 大学名称を第一工業大学、運営法人名称を学校法人都築教育学園に改称。機械工学科に交通機械工学コースを設置 2000年 アントレプレナー講座を開設 2007年 航空工学科を航空宇宙工学科に、電子工学科を情報電子システム工学科に、機械工学科を機械システム工学科に、土木工学科を社会環境工学科に、建築学科を建築デザイン学科に改称 2010年 東京都台東区に東京上野キャンパスを設置。東京上野キャンパスに情報電子システム工学科情報工学ビジネスコースを開設 2011年 航空宇宙工学科を航空工学科に、社会環境工学科を自然環境工学科に改組 2014年 航空工学科にパイロット資格コース、航空整備士資格コースを設置 2015年 航空宇宙工学科、社会環境工学科を廃止 2016年 自然環境工学科に植物バイオコースを設置 2017年 鹿児島キャンパスの情報電子システム工学科に情報工学ビジネスコースを設置。自然環境工学科の社会基盤システムコースを廃止し、土木システムコースを設置 2019年 航空工学科を航空工学部航空工学科に改組。学科内に航空操縦学専攻、航空整備工学専攻、航空工学専攻を設置 2021年 大学名称を第一工科大学に改称。 学部・学科 工学部 航空工学科(2019年募集停止) 情報電子システム工学科 知的情報ネットワークコース 制御システムコース 情報ビジネスコース 機械システム工学科 機械工学コース 交通機械(自動車)工学コース 医療福祉ロボットコース 環境エネルギ―工学科(50名) 土木システムコース 環境システムコース 植物バイオシステムコース 建築デザイン学科(50名) 建築デザインコース インテリアデザインコース 建築工学コース 航空工学部(2019年設置) 航空工学科 航空操縦学専攻 航空整備工学専攻 航空工学専攻 第三者評価 公益財団法人日本高等教育評価機構による認証評価を受けた結果、機構が定める大学評価基準を満たしていると認定(平成24年3月)された。 著名な出身者 野球 藤原良平 - 元プロ野球選手 美沢将 - 元プロ野球選手、鹿児島県警察警察官 福倉健太郎 - 元プロ野球選手 國場翼 - 元プロ野球選手 呉念庭 - プロ野球選手 原泉 - 元プロ野球選手 音楽 宮井紀行 - シンガーソングライター Anchang - SEX MACHINEGUNS(Vo/G) その他 山本和臣 - インダストリアルデザイナー、有限会社ライトマンR&D社長、元広島県廿日市市議会議員・みんなの党所属 内藤裕文 - ヒロ内藤。プロアングラー。向井千秋の実弟。九州学院大学航空学科卒業。 施設・設備 鹿児島霧島キャンパス 校舎は、8つの講義棟及び10の実験実習棟から成る。 第一工業大学記念厚生会館 付属図書館 情報センター 第一・第二学生寮 第一・第二・第三グラウンド インターネットルーム クラブハウス 東京上野キャンパス アクセス 鹿児島霧島キャンパス 国分駅(日豊本線)から徒歩約5分 鹿児島空港から車で約15分 東京上野キャンパス 上野駅(JR山手線・京浜東北線・宇都宮線・高崎線・常磐線)徒歩約1分 東京メトロ日比谷線上野駅徒歩約1分 東京メトロ銀座線上野駅徒歩約1分 主な系列校 第一薬科大学 日本経済大学 日本薬科大学 横浜薬科大学 神戸医療福祉大学 福岡こども短期大学 第一幼児教育短期大学 第一薬科大学付属高等学校 福岡第一高等学校 鹿児島第一高等学校 鹿児島第一中学校 リンデンホールスクール小学部 リンデンホールスクール中高学部
{ "id": "123431", "title": "第一工科大学", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%B7%A5%E7%A7%91%E5%A4%A7%E5%AD%A6" }
烏山市(オサンし)は、大韓民国京畿道中部の市。ソウル特別市の南56キロに位置する。面積42.76平方キロ。 在韓米軍の烏山空軍基地はアメリカ第7空軍司令部が所在する。 大韓民国統治圏内では珍しく、三国時代には高句麗に属していた。その縁で、高句麗の王族が亡命した日本の埼玉県日高市と友好都市になっている。 ソウルの近郊都市として人口が増加している中、京畿道で住民の平均年齢が最も低い市となっている。 歴史 1941年10月1日 - 水原郡城湖面が烏山面に改称した。 1949年8月15日 - 水原郡が華城郡に改称した。 1950年 - 朝鮮戦争勃発、烏山は米軍と北朝鮮軍の最初の交戦地となる(烏山の戦い)。 1960年1月1日 - 烏山面が烏山邑に昇格した。 1987年1月1日 - 東灘面金谷3里が烏山邑に編入し、その編入した区域をもって金渓洞を設置。 1989年1月1日 - 華城郡烏山邑が烏山市に昇格。 1991年8月13日 - 驛村洞が大園洞に改称した。 1995年4月20日 - 平沢郡振威面の一部(高峴里・清湖里・葛串里の各一部)を編入。 1996年 - 日本の埼玉県日高市と友好都市提携。 2005年 - 韓国鉄道公社の広域電鉄開業。 2012年12月 - 烏山市の人口が20万人を突破した。 行政 行政区域 警察 烏山警察署 消防 烏山消防署 交通 鉄道 広域電鉄 京釜線 洗馬駅 - 烏山大駅 - 烏山駅 餅店基地線 西東灘駅 高速道路 京釜高速道路 烏山インターチェンジ 国道 国道1号
{ "id": "123432", "title": "烏山市", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%83%8F%E5%B1%B1%E5%B8%82" }
南塚 信吾(みなみづか しんご、1942年1月3日 -)は、日本の歴史学者、千葉大学・法政大学名誉教授。専門はハンガリー史。 略歴 1942年、富山県富山市生まれ。東京大学教養学部を卒業し、東京大学大学院博士課程修了。 卒業後は津田塾大学学芸学部の講師・助教授をつとめ、千葉大学文学部助教授・教授を経て、1998年から2000年まで千葉大学副学長を務める。2004年から法政大学国際文化学部教授を務め、2012年定年退職し、名誉教授となる。 その間、ハンガリー(1972年 - 1974年、1991年 - 1992年)およびブルガリア(1983年 - 1984年)に留学した。 大学院の指導学生にハンガリー史の秋山晋吾一橋大学教授、フランス史の君塚弘恭早稲田大学准教授など。 受賞・栄典 ハンガリー共和国オフィサー十字勲章受章。 著書 単著 『東欧経済史の研究――世界資本主義とハンガリー』(ミネルヴァ書房, 1979年) 『東欧経済史研究序説』(多賀出版, 1985年) 『静かな革命――ハンガリーの農民と人民主義』(東京大学出版会, 1987年) 『ハンガリーの改革――民族的伝統と「第三の道」』(彩流社, 1990年) 『ハンドブック東欧諸国』(岩波書店, 1990年) 『ハンガリーの「第三の道」――資本主義と社会主義のはざまで』(岩波書店, 1991年) 『ハンガリーに蹄鉄よ響け――英雄となった馬泥棒』(平凡社, 1992年) 『義賊伝説』(岩波書店[岩波新書], 1996年) 『アウトローの世界史』(日本放送出版協会, 1999年) 『ブダペシュト史――都市の夢』(現代思潮新社, 2007年) 『世界史なんていらない?』(岩波書店[岩波ブックレット], 2007年) 『図説 ハンガリーの歴史』(河出書房新社, 2012年) 『「連動」する世界史』(岩波書店, 2018年) 『「世界史」の誕生──ヨーロッパ中心史観の淵源』(ミネルヴァ書房, 2023年) 共著 (西川正雄)『世界の歴史(18)帝国主義の時代』(講談社, 1986年) (伊東孝之・NHK取材班)『社会主義の世紀(3)[連帯]10年の軌跡[ポーランド]/おしつぶされた改革[チェコスロヴァキア]』(日本放送出版協会, 1990年) (永井清彦・NHK取材班)『社会主義の20世紀(1)守護の壁・恥辱の壁[東ドイツ]/反革命か民衆蜂起か[ハンガリー]』(日本放送出版協会, 1990年) 編著 『東欧の民族と文化』(彩流社, 1989年) 『東欧革命と民衆』(朝日新聞社, 1992年) 『歴史学事典(4)民衆と変革』(弘文堂, 1996年) 『世界各国史(19)ドナウ・ヨーロッパ史』(山川出版社, 1999年) 共編著 (許世楷・原彬久)『国際関係論基礎研究』(福村出版, 1976年) (宮島直機)『'89・東欧改革――何がどう変わったか』(講談社[講談社現代新書], 1990年) (下村由一)『東欧革命と欧州統合』(彩流社, 1993年) (下村由一)『マイノリティと近代史』(彩流社, 1996年) 訳書 E・H・カー『ロシア革命の考察』(みすず書房, 1969年) ボリス・ニコラエフスキー『権力とソヴェト・エリート』(みすず書房, 1970年) E・H・カー『一国社会主義――ソヴェト・ロシア史 1924-1926(1・2)』(みすず書房, 1974年-1977年) I・T・ベレンド, G・ラーンキ『東欧経済史』(中央大学出版部, 1978年) ジュルコー・ラースロー編『カーダール・ヤーノシュ伝――現代ハンガリー史の証人』(恒文社, 1985年) R・オーキー 『東欧近代史』越村勲・田中一生共編訳(勁草書房, 1987年) ヤーノシュ・サーヴァイ『ハンガリー』秋山晋吾共訳(白水社, 1999年) A・アンダーソン『ハンガリー1956――新訳』(現代思潮新社, 2006年) ビル・ローマックス『終わりなき革命――ハンガリー1956』(彩流社, 2006年) 歴史学の未来へ ノーマン・J.ウィルソン 木村真共監訳 法政大学出版局, 2011.4.
{ "id": "123437", "title": "南塚信吾", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%A1%9A%E4%BF%A1%E5%90%BE" }
ルネ・ブロンロ(Prosper-René Blondlot、1849年7月3日 - 1930年11月24日)は、フランスの物理学者。ブロンドロとも表記される。新しい放射線「N線」を発見したと発表したが、後にN線は実在しないことが判明し、科学史に不名誉な形で名を残した。 生涯 1849年、フランス北東部のナンシーに産まれた。父はナンシー大学の医学部(毒物学)の教授であった。1881年にソルボンヌで物理学の学位を取得すると、翌年、ナンシー大学の教授となった。導体中の電磁波の速度の研究などの業績によって優れた実験物理学者として知られるようになり、フランス科学アカデミーから3度の賞を受けている(3度目の受賞は、後述のN線発見の業績に対して与えられたものである)。1894年にはヘルムホルツの後任としてフランス科学アカデミーの通信会員に選出された。 1903年、ブロンロは新しい放射線「N線」を発見したと報告し、物理学界に大きな反響を呼んだ。しかし追試の失敗が相次ぎ、N線の存在が疑問視されるようになった。1904年、ブロンロの実験を調査したアメリカの物理学者ロバート・ウィリアム・ウッドによって、N線とは結果を都合良く解釈した実験者が存在すると思い込んでいただけで、現実には何も存在していないと結論づけられた。 ブロンロは1906年までN線の存在を主張し続けたが、1910年にナンシー大学を退職し、1930年に死去した。 後にN線の出来事は、実験者の願望が実験結果の解釈に影響を与えてしまう危険性を示す例として語られるようになった。
{ "id": "123441", "title": "ルネ・ブロンロ", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%AD" }
山川町(やまかわまち)は、かつて福岡県南部に位置していた町である。2007年1月29日に隣接する山門郡瀬高町・三池郡高田町との合併によりみやま市となったことで消滅。 旧3町は当初、2005年3月22日を合併期日とし、新市名を「みやま市」として、2004年6月27日に合併協定書に調印したが、高田町議会が合併関連議案を2度にわたって否決し、合併協議会は同年9月30日に一旦解散した。しかしその後、住民のリコールを受けて行われた高田町議会議員選挙で合併推進派が反対派を上回ったことから、2005年10月1日に、3町による合併協議会が再び設置されることとなった。そして2006年3月11日に合併協定書に調印し、各町議会と福岡県議会の議決を経て、同年7月13日に総務大臣が官報に告示した。 地理 福岡県の南部に位置し、町域南部の境界部は熊本県と県境を成している。 河川 飯江川 大根川 待居川 真弓川 歴史 1907年(明治40年)1月1日 - 万里小路村、富原村、竹海村、緑村の一部が合併して山川村が誕生する。 1959年(昭和34年)4月10日 - 山門郡山川村と三池郡高田町との境界変更に伴い、元の竹海村が高田町へ分村。 1969年(昭和44年)4月1日 - 町制施行し山川町となる。 2007年(平成19年)1月29日 - 山門郡瀬高町、三池郡高田町と合併してみやま市となった。 産業 農業 温州みかん、タケノコ栽培など。平地部では米作。 林業 有名企業 八ちゃん堂(たこ焼き・焼きなすなどの冷凍食品販売) 地域 警察 福岡県警瀬高警察署の管轄である。 教育 中学校 山川町立山川中学校 小学校 山川町立山川東部小学校 山川町立山川南部小学校 交通 鉄道 町内を走る鉄道路線は無い。鉄道を利用する場合の最寄り駅は、JR九州鹿児島本線瀬高駅。 廃止路線 東肥鉄道 - 1938年(昭和13年)廃止 バス 一般路線バス 産交バス 山鹿線(同町内では唯一の公共交通機関) 瀬高町 - 山川町 - 南関町 - 三加和町 - 山鹿市 高速バス 山川パーキングエリア内にバス停設置 ひのくに号:福岡空港 - 山川 - 熊本市 福岡空港 - 山川 - 大牟田市 - 荒尾市 道路 一般国道 国道443号 高速道路 九州自動車道 山川パーキングエリア 最寄のインターチェンジは南関インターチェンジ。
{ "id": "123442", "title": "山川町 (福岡県)", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B7%9D%E7%94%BA%20%28%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%29" }
Shibuya O-EAST(シブヤ・オー-イースト)は、東京都渋谷区道玄坂二丁目にあるライブハウス。 シブヤテレビジョンが運営するShibuya O-Groupの中核となるライブハウスで、カルチュア・コンビニエンス・クラブがネーミングライツを取得したため、2013年12月以降の名称はTSUTAYA O-EASTとなっていたが、Spotifyの日本法人であるスポティファイジャパンが新たにネーミングライツを取得したため、2021年12月以降の名称はSpotify O-EASTとなった。 概要 O-EASTビル(渋谷区道玄坂2-14-8)の2階から4階に位置する。同ビル5階にはSpotify O-Crestがあり、1階にはduo MUSIC EXCHANGEがテナントとして入居している。 Spotify O-EAST 約1,300人を収容可能。3層吹抜けに1階・バルコニー階を設け、1階部分がステージとスタンディングフロア、バルコニー階に若干の椅子席とバーがある。最前列に入れる人数は26人。1階階段奥に有料ロッカースペース有り。入場前に入れることができる。入場後には2階トイレ前と1階メインフロアーにもロッカー有り。指定箇所以外は禁煙。ドリンクカウンター3ヶ所有り。 Spotify O-Crest 約250人を収容可能な小規模のライブハウス。ロッカーはO-Crest会場内に有り。 duo MUSIC EXCHANGE ジャミロクワイのジェイ・ケイがプロデュースする、食事を楽しみながら音楽を楽しめるコンサートスペース。株式会社デュオ・ミュージック・エクスチェンジが運営。シーティング構成で300席、スタンディングで約700人収容可能。 歴史 1991年2月 - ON AIRとしてオープン(収容人員約1,000人)。 1993年12月 - ON AIR向かいのビルにON AIR WEST(現在のTSUTAYA O-WEST、収容人員約600人)がオープン。 1994年7月 - ON AIRをリニューアル工事し、同時にON AIR EASTと改名。 1996年3月 - nestオープン 2002年7月 - 建て替えのためON AIR EASTをクローズ。 2003年12月21日 - O-EASTビル完成。O-EAST・O-Crestオープン。 2008年2月、O-Crestがシブヤテレビジョンの直営店舗化。 2013年12月1日 - Shibuya O-EAST・Shibuya O-Crestと、隣接するShibuya O-WEST・Shibuya O-nestの命名権をカルチュア・コンビニエンス・クラブへ売却、名称をTSUTAYA O-EAST・TSUTAYA O-Crest・TSUTAYA O-WEST・TSUTAYA O-nestへ変更。 2021年12月1日 - Shibuya O-EAST・Shibuya O-Crestと、隣接するShibuya O-WEST・Shibuya O-nestの命名権をスポティファイジャパンへ売却、名称をSpotify O-EAST・Spotify O-Crest・Spotify O-WEST・Spotify O-nestへ変更した。
{ "id": "123443", "title": "Shibuya O-EAST", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/Shibuya%20O-EAST" }
中島 沙樹(なかじま さき、1978年9月1日 -)は、日本の女性声優、ナレーター。埼玉県出身。東京俳優生活協同組合所属。 来歴・活動 幼いころに見ていたテレビアニメ『魔法の天使クリィミーマミ』に憧れて声優を志す。アーツビジョン主催の「無料新人育成オーディション」に合格し、特待生として日本ナレーション演技研究所に入所。 同所在籍中に声優グランプリ協力のもと開催された、RPGキャラクター声優オーディションへ募集し特別賞として合格、声優として正式に活動する前ながら『アンシャントロマン 〜Power of Dark Side〜』のサリナ・ジェナトス役を演じる。 同所卒業後アーツビジョンに所属、プロデビューは1998年に放送された『快傑蒸気探偵団 TV ANIMATION SERIES』の看護婦役だった。 1999年、ブロッコリー主催の『デ・ジ・キャラット』声優オーディションを受ける。レギュラーデビューは2002年に放送された『東京ミュウミュウ』の桃宮いちご(ミュウイチゴ)役(同作品が初主役)。 2003年12月にアーツビジョンを退所する。2004年1月中はフリー、同年2月に現在の所属事務所である東京俳優生活協同組合(俳協)に移籍した。 2004年は河原木志穂・歌手の美弥乃静とのユニット「カチューシャ」(『下級生2〜瞳の中の少女たち〜』の放映発表の際に誕生)として活動していた。 2005年、稲村優奈とのユニット「sandy」(saki and yuunaより命名)として活動していた。 2006年8月26日、池袋サンシャイン文化会館で『MÄR-メルヘヴン-』のイベントメルフェスに出演する。同年11月12日に、『Strawberry Panic』のイベントの聖アストラエア合同文化祭に出演する。 2007年3月4日に、『MÄR-メルヘヴン-』で共演した石毛佐和らのライブに出演。同年9月に、池袋サンシャインシティーで開かれた『BLUE DRAGON』のイベントに出演、『こいこい7』で共演した音宮つばさの紹介で恵比寿LIVEGATE TOKYOにてライブ(ライブ名「Music Knot Legend Vol.10」)に出演する。 2008年5月、石毛佐和らが主催する「まゆさわプレゼンツ☆吉祥寺ランチ&ディナー」(吉祥寺スターパインズカフェ)に出演。 2009年6月、もみじ山文化センター(なかのzero大ホール)にて『癒されBar若本シーズンZwei』の公開録音を行った。同年8月、同番組のトークイベントをコミックマーケット76にて開催する。また同年12月に開催のコミックマーケット77にて同番組のトークイベントを開催。 2010年2月、日本青年館大ホールにてパチスロ機種リオデカーニバルのイベント『Rio Super Carnival』夜の部にティファニー役として参加する。同年7月、かつてカチューシャとしてユニットを組んだ河原木志穂・美弥乃静と共に、pink☆away(平田由季・五十嵐浩子)デビューイベントにて「かちゅーしゃ?!」を再結成した。 2010年8月、コミックマーケット78にて『癒されBar若本』特別放送トークイベントを行い、同年12月に『LORD of VERMILION II』のファンイベント「OVER the LORD -fan festival-」に司会として参加した。 2011年1月、水野愛日のイベント「水野愛日がる☆ぱVol.3 plume petite VS かちゅ~しゃ?!」にて再びかちゅ~しゃ?!のメンバーと共にライブを行った。2011年4月、西川貴教が主催する社会福祉法人STAND UP! JAPANに参加し、同団体公認で小山剛志主催の「募金活動in秋葉原withアニソンぷらす 一狩りいこうぜ!」に参加した。2011年7月、品川プリンスホテルステラホールにて、『LORD of VERMILION II』のファンイベント、OVER the LORD ~fan festival2 × ALLSTAR TOURNAMENT~にMCとして参加した。 2015年1月、声優の日野聡と2014年に結婚していたことをブログにて報告。現在は2児の母親である。 2020年11月、自身が出演した『東京ミュウミュウ』のリメイク版『東京ミュウミュウ にゅ〜♡』の声優オーディションの様子を動画化した「東京ミュウミュウ にゅ~♡ ぷろろーぐ!」のナレーションを担当。オーディション後、中島が演じた主人公・桃宮いちご役になる天麻ゆうきに、直接合格通知を知らせる。その後、同作第2期の第13話で、いちごの母・桃宮さくら役を中島が演じ、新旧いちご役の声優が共演した。 人物 声種はメゾソプラノ。 特技はフルート演奏と書道(四段)。大学在学中はダンスサークルに所属していた。女子大に通い保育を専攻し、保育士と第一種幼稚園教員免許の資格を持っている。好きなプロ野球チームは読売ジャイアンツ。 趣味はパンを焼く事とネイルアート。ネイル学校に1年通い、2011年6月にJNAネイリスト技能検定1級を取得。 出演 太字はメインキャラクター。 テレビアニメ 劇場アニメ スライム冒険記 海だ、イエ〜(1999年、ギャル) 劇場版デュエル・マスターズ 闇の城の魔龍凰(2005年、黄昏ミミ) 劇場版デュエル・マスターズ 黒月の神帝(2009年、黄昏ミミ) 劇場版デュエル・マスターズ 炎のキズナXX!!(2010年、黄昏ミミ) 劇場版 ハヤテのごとく! HEAVEN IS A PLACE ON EARTH(2011年、貴嶋サキ) OVA ファーブル昆虫記 名作アニメシリーズ(ポーリーン) シーバス1-2-3(1999年) 卒業M(1999年、レポーター) GUNDAM EVOLVE../14 武者頑駄無(2005年、茶屋娘) Gift 〜ギフト〜(2007年) OVA ToHeart2(2007年、笹森花梨) ToHeart2ad(2008年、笹森花梨) BLUE DRAGON 天界の七竜(2008年、ブーケ)※ジャンプスーパーアニメツアーにて放映 ToHeart2 adplus(2009年、笹森花梨) ハヤテのごとく!! アツがナツいぜ 水着編!(2009年、貴嶋サキ) ToHeart2 adnext(2010年、笹森花梨) ToHeart2 ダンジョントラベラーズ(2012年、笹森花梨) Webアニメ BABY&GIRL アロ恵(2009年、みかん) ぷち!東京ミュウミュウ にゅ〜♡(2023年、桃宮さくら) ゲーム ドラマCD 吹き替え ヘラクレス(2004年、女子生徒) CSI:マイアミ6(2009年、アマンダ・ブライトン) ラジオ 佐久間紅美と中島沙樹の天使の診察室〜エンジェル♡クリニック〜(時期不明) 下級生はらいむいろ(2004年 - 2005年、文化放送) アミューズステーション(2004年 - 2006年、ラジオ関西・音泉) 癒されBar若本シーズンZwei(2009年 - 2010年) カブラジ(2009年) ラジオドラマ FM富士「ラジオドラマ六夜怪談」(胡桃マミ、2010年) ラジオCD 癒されBar若本 癒されBar若本the CD vol.1のラジオCD特別版及び第9回・10回ゲスト分を収録(2008年) 癒されBar若本シーズンZwei the CD vol.03(2009年) 癒されBar若本シーズンZwei the CD Vol.04(2009年) 癒されBar若本シーズン the Final(2010年) SCRUM Radio〜らむらじ〜 ラジオCD Vol.5(2014年12月) パチスロ・パチンコ パチスロ 超重神グラヴィオン(ディカ、2011年1月) パチスロToHeart2(笹森花梨、2012年) CRぱちんこRio -Rainbow Road-(ティファニー、2014年) ナレーション テレビ番組 テレビCM ラジオCM チェリオコーポレーション 「チェリオ」(時期不明) FM横浜(2007年) アスキー・メディアワークス・電撃文庫『狼と香辛料 XII』(2009年) 学校法人小山学園(2009年) 「東京テクニカルカレッジ」 「東京工科自動車大学校」 KONAMI 「外貨売買トレーナー カブトレFX」(2009年) TOYOTA 「Chambre a Paris」(2009年) 富士急行 「スノータウンYeti (スノータウンイエティ)」(2009年) プリンスホテル「大磯ロングビーチ」(2009年) LOTTE(2009年) 「クリミオ」 「トッポ」 その他ナレーション 実写映画『毎日かあさん』(ナレーション:松竹、2011年2月5日) キヤノン 「Canonプリンター操作説明」 ファミリーマート 「Family Mart研修用ビデオ」 IBM 「IBMネットモール」(春江役) KDDI 「KDDテレホンサービス」 「au フィルタリングサービス、EZ安心アクセスサービス」(2009年) タカラトミー 「リカちゃん人形」(プリンセス・カール・マリア、2007年 -) リカちゃん人形店内プロモーションビデオ 「プリンセスカールヘアサロン説明用PV」(2007年 -) 「ビューティモデルズ説明用PV」2008年 -) 「モスバーガーショップ説明用PV」2009年 -) リカちゃん電話 「リカワールドツアー篇」(2007年5月) 「ミスタードーナッツショップ篇」(2008年8月) 「クルキュートドレッサー篇」(2009年5月) 「ビューティモデルズ篇」(2009年7月) 日本自動車工業会 「東京モーターショー2007場内ナレーション」(2007年10月26日 - 11月11日) 代々木アニメーション学院「福岡校臨時講師」(2007年11月18日) セガ 「東京ジョイポリス店頭ナレーション」(2008年12月 -) 損保ジャパン 「新入社員用VP」(2009年) 昭島市 「東京都昭島市ショッピングモール・モリタウン・25周年記念キャラクター・モリリン役(ショッピングモール店内放送)」(2009年4月 -) TAITO 「T:Style用VP」(キャッシー役)(2009年11月 -) オリンパス「OLYMPUS PEN Lite E-PL1」(店頭PV)(2010年) 墨田区 「すみだ生涯学習センター ユートリヤ・スターガーデン(パンナコッタ役)」(2010年7月24日 -) マツモトキヨシ「ジャスト・アイ インフォメーション星座ランキング」(2011年4月 -) TOYOTA「TOYOTA、セールスフォース・ドットコムの共同会見(久美ちゃん役)」(2011年5月23日) 吉本興業「WAROTAR」(動画サイト開設予告ナレーション)(2011年8月) マツモトキヨシ「お得クーポン」(2011年9月-) TOSHIBA 「VEGETA」(店頭PVナレーション)(2011年11月-) BS!SITE 「ぶっちゃけすごいBS~新しいBSの魅力~」(2011年11月-) アスビーフォーラム(店頭ナレーション)(2011年11月-) DoCoMo 「Xiトーク24」(新宿アルタビジョンで放送)(2012年3月-) 映像商品 俳協 45th ANNIVERSARY『Party Live!』with HAIKYO VOICE ACTOR ALL STARS(時期不明) 下級生はらいむいろ〜ラジオじゃないラジオ〜 下級生2PART 全3巻(2005年) アニフェス2004冬祭り〜下級生2&らいむいろ流奇譚X イベントDVD〜(2005年3月25日) 特撮 仮面ライダーW RETURNS『仮面ライダーアクセル』(2011年) ディスコグラフィ キャラクターソング SONIC GUM「銀河拳獣無宿伝リュウ-モンスターズコンテナ-」(もなみ)ワニブックスWeb通販限定CD
{ "id": "123445", "title": "中島沙樹", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E6%B2%99%E6%A8%B9" }
筑後川の戦い(ちくごがわのたたかい)は、南北朝時代の正平14年/延文4年8月6日(1359年8月29日)、筑後川をはさんで南北朝が戦った戦。大保原の戦い、大原合戦とも。 南北朝時代に九州で発生した合戦では最大のもの。日本三大合戦の一つとする説もある。 概要 延元元年(1336年)、後醍醐天皇は征西大将軍として九州に当時8歳の皇子・懐良親王を派遣し、彼を奉じた菊池武光は、高良山(毘沙門岳)に城を築いて征西府とした。 足利尊氏が幕府の内訌であった観応の擾乱を治め、八幡の戦いを制し、正平9年/文和3年(1354年)に南朝の支柱であった北畠親房が没すると、南朝側で北朝に対抗しうる武力勢力は、九州の懐良親王と菊池一族のみとなった。 正平14年/延文4年7月、懐良親王、新田一族、名和一族、菊池武光、赤星武貫ら菊池一族、宇都宮貞久、草野永幸、大野光隆、西牟田讃岐守ら南朝勢約4万は筑後川の北岸に陣を張り、大宰府を本拠とする北朝・足利勢の少弐頼尚、少弐直資の父子、大友氏時、城井冬綱ら約6万と対峙し、両軍合わせて約10万の大軍が戦った。 戦いの苛烈さについては頼山陽も詩に歌っている。この戦いで足利側の少弐直資は戦死、南朝側の懐良親王や菊池武光も負傷し、両軍合わせて5,400余人が討死にしたといわれる。この戦いに敗れた足利軍は大宰府に逃れ、九州はこの後、幕府が今川貞世を九州探題として派遣するまでの13年ほどは南朝の支配下に入ることとなった。 征西将軍宮懐良親王が布陣した場所が現在の福岡県久留米市宮ノ陣である。福岡県小郡市には、将軍藤、大保、前伏、高見下など、この戦いに関連すると考えられる地名や史跡がある。また、戦いののち、傷ついた菊池武光が、刀についた血糊を川で洗った場所が、筑後国太刀洗(たちあらい、現福岡県三井郡大刀洗町)であるという伝承がある。
{ "id": "123447", "title": "筑後川の戦い", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%91%E5%BE%8C%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84" }
マリア・エバ・ドゥアルテ・デ・ペロン(1919年5月7日 - 1952年7月26日)は、アルゼンチンの女優、政治家。私生児として生まれながらフアン・ペロン大統領と結婚し、ファーストレディとなった後は政治にも介入するようになった。現在でもアルゼンチン国内では人気が高く、親しみをこめてエビータ(Evita) と呼ばれる。 生涯 生い立ち マリア・エバ・ドゥアルテはアルゼンチン、パンパス草原の貧しい村ロス・トルドスでバスク系アルゼンチン人の未婚のコック、フアナ・イバルグレン(1894年 - 1971年)と妻帯者である農場所有者フアン・ドゥアルテ(1872年 - 1926年)との間に生まれた5人の私生児のうちの1人として誕生。首都のブエノスアイレスから離れた田舎町フニンで育つ。15歳で家出をしてブエノスアイレスに上京する。なお、高等教育は受けていない。 女優と愛人 ブエノスアイレスでは、日系人カフェで女給をしながら、当初は水着グラビアや広告モデルなどのモデルの仕事をしつつ、高級売春婦としても生計を立てていたが、1930年代後半頃より次第にラジオドラマの声優や映画女優として活躍しはじめ、B級メロドラマ映画やラジオドラマ「エル・ムンド」に出演していた1943年に、パーティーで軍事政権の副大統領兼国防大臣兼労働局長の肩書きを持つフアン・ドミンゴ・ペロン大佐に出会う。 以後、政界に強い影響力を持つペロンの愛人として過ごし、その庇護の下で、自身のラジオ放送番組によってペロンの民衆向け政治宣伝を担い、第二次世界大戦下で中立国として連合国と枢軸国の双方へ牛肉の輸出を行うことで膨大な外貨を稼いでいたものの、度重なる政変と汚職により貧富の差が大きかったアルゼンチンで、貧しく無学な労働者階級(無学な文盲者の多くがラジオをその情報源・娯楽としていた)から大きな支持を得た。なお、その後使われるようになった「エビータ」の愛称は、ラジオドラマの頃から使われ始めたものである。 ファーストレディ 第二次世界大戦終結直後の1945年10月に、中南米に強い影響力を持つアメリカの支援を受けたエドゥアルド・アバロス将軍によるクーデターが起き、ペロンは軍事裁判で有罪判決を受け(10月11日)刑務所に服役したが、エバはペロン支持者の指示の下、ラジオで国民に向かってペロンの釈放を呼びかける。 このような動きを受けて、支持母体の弱かったアバロスが10月21日に政権を放棄したためにペロンは釈放され、10月26日にペロンと結婚した。選挙母体であるアルゼンチン労働党の支援で選挙戦を戦ったフアン・ドミンゴ・ペロンは、翌1946年3月28日にアルゼンチン大統領に就任した。 国政への介入 夫のフアン・ドミンゴが大統領に選出された後、ファーストレディ(大統領夫人)となったエバは、夫の地位を背景に積極的に国政に介入するようになった。 正義党への支援票を増やすべく、夫の指示を受けて婦人部門を組織させた上に女性参政権を導入させ、労働者用の住宅、孤児院、養老院などの施設整備を名目に慈善団体「エバ・ペロン財団」を設立した。また、ミシン、毛布、食料などを配布(その一部は敗戦による困窮状況にあった日本にも送られた)するなど、「再分配」によってブルーカラーの労働者階級を主な支持層としたペロン政権の安定に大きな貢献をした。 これらのことから、特にアルゼンチン国民の多くを占めるブルーカラーの労働者階級から支持を受け、「エビータ」と愛称で呼ばれるようになり、当時のアルゼンチンで最も影響力のある人物となった。しかしエバによる再分配の資金は、税金のみならず、労働者や企業から半ば強制的に取り立てた「献金」によってまかなわれていたため、アルゼンチンの経済に大きな悪影響を与えた。また、財団を利用した蓄財や汚職の疑いも受けている。 さらに、下層階級出身でまともな教育も受けておらず、しかも選挙で選ばれたわけでもないのに国政に参加していたこと、経済状況も顧みずに公私混同の再分配を行っていたことなどから、中流層以上の知識階級や富裕層、軍上層部から大きな批判を浴びた。また水着モデルで元高級売春婦、愛人というその経歴から、「淫売」、「成り上がり」と非難を受けた。カトリック信者がそのほとんどを占める保守的なラテンアメリカの土壌においては、女性として政治において活動的過ぎる人物と見なす者も多かった。 後期 1947年6月6日より、「レインボー・ツアー」と呼ばれたヨーロッパ外遊を行う。スペインやイタリア、バチカンやイギリスなどを訪問し、スペインのフランシスコ・フランコ総統やイタリア大統領など多数の国家元首と会見した。 これは、第二次世界大戦において中立国でありながら、アドルフ・ヒトラーやベニート・ムッソリーニと親しみ枢軸国寄りの姿勢を保ったことから大戦後にファシストの一員として見なされたペロン政権を、ヨーロッパにおいてイメージチェンジする、大規模な広報活動であった。なおこの際に、大戦中に蓄えた外貨をこれらの諸国にばら撒くと共に、エバへの勲章の授与のほか、元首や国王との公式晩餐会の開催を依頼した。イギリスは選挙で選ばれたわけでもない上に毀誉褒貶が激しかったエバとの公式晩餐会を開催することを拒否したほか、バチカンも法王との会見は行ったものの勲章を与えなかった。 エバの人気に期待をかけたフアンは、1951年頃よりエバに副大統領の地位を与え、さらなる政治的権力を得ようとした。この動きに対して、政府内におけるエバの影響力の増大を嫌う軍部は危機感を募らせたが、直後にエバが子宮癌と診断を受けたこともあって、フアンはそのポストを与えることを断念した。 ペロンの就任演説の時は、病状が重いため、直立できるようなコルセットを装着、分厚い軍服を着て、壇上に立っていた。体重は33kgにまで痩せていたという。 死去 1952年、エバ・ペロンは子宮癌によって33歳の若さで死去した。ブエノスアイレスで行われた葬儀には数十万の市民が参列した。また、エバの墓の建立のために寄付金が集められたが、台座のみが作られて終わった。その後、遺体はエンバーミング処理を施されて展示された。 死後 フアン・ペロンはその3年後の1955年9月に軍事クーデターにより大統領の職を追われ、フランシスコ・フランコ将軍による独裁下のスペインに、独裁者仲間のアルフレド・ストロエスネル大統領が国を治めるパラグアイ経由で亡命した。のちエバの遺体はイタリアのミラノへ空輸され埋葬され、16年後の1971年に遺体は発掘されスペインに空輸された。 亡命したフアン・ペロンはその後、スペインで元ナイトクラブ歌手のイサベルと再婚する。「ペロニスタ」(ペロン派・ペロン主義者)と呼ばれる支持者はその後もアルゼンチン国内で影響力を持ち続け、亡命から18年近くも経った1973年7月に、前大統領が辞任したことを受け、「ペロニスタ」政治家たちがペロンに対し、アルゼンチンに帰国して大統領選挙に出馬するよう請願する。その後行われた大統領選挙にペロンが勝利して同年10月に再び大統領に復帰し、副大統領には自らの妻であるイサベルを就任させるが、帰国後わずか1年後の1974年7月に病死する。 その後1976年に発生した軍事クーデターによって、イサベルが失脚すると、エバの遺体はアルゼンチンに返還されブエノスアイレスのラ・レコレッタ墓地、ドゥアルテ家の墓に改葬された。なお、ブエノスアイレスには彼女の遺品などを展示したエビータ博物館 (Museo Evita)が存在する。2012年からは100アルゼンチン・ペソ紙幣の肖像画として登場している。 彼女を特に慕うペロニスタはという彼女の名を冠した政党を作り、現在連立与党にもなっている。 趣味 税金から支出させた金、さらに基金から横領した金を基にクリスチャン・ディオールなどのフランスの高級ブランドを愛好した。そのことを隠そうとさえしなかったのが却って清々しいと思われたのか、主に貧困層からなる支持者達はあまり気にしていなかった。 また、裕福なアルゼンチン人の例に漏れず、モータースポーツを愛好し、1951年の11月にアルゼンチンへしばしば商用で訪れていたスイス人のレースドライバー、チーロ・バサドンナから希少なマセラティA6 G-1500を購入した。 なお、エバの死後の1953年にアルゼンチン政府は、著名な公道レースの「カレラ・パナメリカーナ・メヒコ」に、エバの横顔を描いたポルシェ356「En Memoria de Eva Perón(「エバ・ペロンの思い出」号)」を出走させている。 エビータ・シティ 正式名シウダー・エビータ。夫のフアン・ドミンゴ・ペロンが大統領の時に、労働者のために建設した都市。エバの右顔を模している。 エバ・ペロンを扱った作品 ミュージカル エバ・ペロンの生涯は、ミュージカル『エビータ』で描かれた。ティム・ライスの作詞、アンドリュー・ロイド・ウェバー脚色・作曲による作品で、エレイン・ペイジ主演でロンドンのウェスト・エンドで初演(1978年)、2900回上演のロングランとなった。またパティ・ルポーン主演でブロードウェイ公演(1979年)が行われ、こちらも1567回上演のロングランを記録、ほか10ヶ国で上演された。ジュリー・コヴィントンの歌もヒットした。日本では劇団四季が断続的に上演している。 映画 上記ミュージカルを基に、マドンナ、アントニオ・バンデラス主演、アラン・パーカー監督の映画『エビータ』(1996年)もつくられ、マドンナの歌う主題歌『アルゼンチンよ泣かないで』とともに、世界中で高く評価された。 しかし、アルゼンチンではあちこちに「マドンナ、帰れ」の落書きがあふれ、反感を持つ者も少なくなかった。なぜなら、エバをいまなお崇拝している者が多くいた他にも、南アメリカ諸国に根強い反米的感情に基づくものや、この映画のシナリオが、マドンナ演じるエバが「善行」を行うのを、アントニオ・バンデラス演じる「チェ(チェ・ゲバラを想定した狂言回し)」がその下心を指摘して嗤うという、いわば二面性を持った演出を柱にしていることから、今もなおエバを慕うアルゼンチン人にはそのエバ評価が受け入れられなかったからであると言われる。 アルゼンチンでも、映画『エバ・ペロン〜エビータの真実』(1996年)が作られている。ファン・カルロス・デサンゾ監督、エスター・ゴリス主演による。 テレビドラマ 米国でフェイ・ダナウェイ主演によるテレビドラマ『エビータ』(1981年)がつくられている。 舞台 日本で舞台『ラストダンス-ブエノスアイレスで。聖女と呼ばれた悪女 エビータの物語』(2017年)が作られる。石丸さち子演出・水夏希.主演。 関連文献 1982年2月 ジョン・バーンズ著、牛島信明訳『エバ・ペロン美しき野心』新潮社 1996年11月 ジョン・バーンズ著、牛島信明訳『エビータ』(『新潮文庫』)新潮社、ISBN 4102499016(改題、文庫化) 原著: John Barnes, Evita first lady 1982年5月 W.A.ハービンソン著、湯河京子訳『エビータ! 華麗なる野望』ダイナミックセラーズ 1994年10月 W.A.ハービンソン著、正田宗一郎訳『エビータ! その華麗なる生涯 彗星のごとく現われ、去っていった民衆の友“天使エビータ”の秘密』ダイナミックセラーズ出版、ISBN 4884932544 原著: William Allen Harbinson, Evita! 1997年1月 ニコラス・フレイザー、マリサ・ナヴァーロ著、阿尾正子訳『エビータ 聖女伝説』原書房、ISBN 4562028874 原著: Nicholas Fraser, Marysa Navarro, Evita: The Real Lives of Eva Perón 1997年2月 マティルデ・サンチェス著、青木日出夫訳『エビータ 写真が語るその生涯』あすなろ書房、ISBN 4751517996 年譜: p202 - 204、原著: Matilde Sánchez, Evita: Imágenes de una pasión 1997年2月 トマス・エロイ・マルティネス著、旦敬介訳『サンタ・エビータ』文藝春秋、ISBN 4163167102(小説) 原著: Tomas Eloy Martinez, trs: Helen Lane, Santa Evita, Alfred a Knopf Inc., Sep 1996, ISBN 0679447040 / Vintage Books, Aug 1997, ISBN 0679768149 / Oct 1997, ISBN 067977629X / Alfaguara Ediciones, Nov 2002, ISBN 8420465135 2001年6月 アリシア・ドゥジョブヌ・オルティス著、竹澤哲訳『エビータの真実』中央公論新社、ISBN 4120031519 年表あり、原著: Alicia Dujovne Ortiz, Eva Perón
{ "id": "123458", "title": "エバ・ペロン", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%90%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%83%AD%E3%83%B3" }
『退屈貴族 un noble ennuyeux』(たいくつきぞく)は、フジテレビで2003年10月 - 2004年3月に放送された番組。「月深」枠内で放送時間は毎週月曜深夜24:58 - 25:28(JST)。 番組進行 退屈な貴族たち(ココリコと週替わりのゲストの計4人)が世界中から集めた「退屈をしのぐVTR」(または、映像ディッシュともいう)を1つずつ鑑賞する。退屈な貴族たちは「世界のありとあらゆるものに飽きてしまった」ので、どんなVTRにも無表情を維持しなくてはならない。笑ったり驚いたりなどの顔を変えることをしてしまったら、鉄仮面の操作でイスが落ち、VTRの下の小さい画面から顔が写らなくなる罰が執行される。全員罰が執行されたらVTRが全画面に写る。ちなみに、番組のロゴや、翻訳テロップから、フランスの貴族をイメージしている。浜口順子の一発芸で番組がスタートする。 末期の番組進行 ゲスト(このときは4名)がおすすめするお笑い芸人のネタを鑑賞する。どんなに笑っても罰は執行されない。 疑惑 『週刊文春』2012年3月8日号にて、フジサンケイグループの権力闘争を描いた『メディアの支配者』で講談社ノンフィクション賞と新潮ドキュメント賞を受賞したこともあるジャーナリストの中川一徳が執筆した、 「2003年12月4日に撮影され翌年1月19日に放送された「東洋のランボー」という企画の中で、74歳の老人を河川敷に連れ出し、並べたダンボールに灯油を撒いて火をつけた上を歩かせた。老人は最重度(3度)の火傷を負い、体温が34度まで低下して危篤状態となり、その後一度も自宅に帰ることなく2007年9月、腎不全で死亡した。この件で2003年12月10日、警察署はフジテレビに対し、老人の氏名等を挙げ「火の上を歩くロケをおこなったか」と問い合わせたが、フジテレビ側は5日後「該当するロケはない」と回答。警察は事件性はないと判断し自傷事故として処理した。放送後、視聴者からの「やりすぎだ」という声を受け、スタッフらが老人の親族に謝罪。警察に事故を届け出て、元警察幹部のフジテレビ顧問も警察署に説明に訪れた。しかし事故の公表はせず、主要スタッフを「退屈貴族」担当から外した以外、一切の処分を行わなかった。また老人の治療費はフジテレビが負担したとしているが、実際には全額公費によって賄われている。」 という内容の記事が掲載された。 出演者 田中ナオキスキーIII世(田中直樹) 遠藤ショウゾニーモ(遠藤章造) メイド浜口(浜口順子) 鉄仮面(事実上の番組の進行役) 週替わりのゲスト(2名) スタッフ ナレーション:戸谷公次 構成:板坂尚、小野高義、福田雄一、渡辺鐘、柳しゅうへい 技術:共同テレビ TD:佐々木信一、大嶋徹 CAM:小川経一 VE:石井友幸 AUD:藤橋浩司郎 照明:吉川知孝 美術プロデューサー:井上幸夫 セットデザイン:棈木陽次 美術進行:吉田敬 大道具:内堀圭一 装飾:竹原丈二 衣裳:山田2号(山田斉) メイク:佐藤恭子 かつら:山蔵省三 持道具:山田1号 電飾:岸和幸 アクリル装飾:平野順子 生花装飾:勝野純子 特殊装置:永島哲哉 特殊美術:横山公一 視覚効果:中溝雅彦 イラスト:徳田典子 VTR編集:一ノ瀬勝(笑カンパニー) MA:中村和弘(笑カンパニー) 音響効果:松長芳樹(digital circus) CG:田中秀幸(フレイムグラフィックス) 編成:保原賢一郎 広報:田川龍介 デスク:保坂美帆 TK:平井冴子 FD:山下亜樹 AP:北口富紀子 ディレクター:渡辺剛、飯村徹郎 演出:金子傑 制作プロデューサー:辻村たろう プロデュース:石井浩二 制作協力:NET WEB 制作:フジテレビバラエティ制作センター
{ "id": "123499", "title": "退屈貴族", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%80%E5%B1%88%E8%B2%B4%E6%97%8F" }
少年隊(しょうねんたい)は、日本の男性アイドルグループ。ジャニーズ事務所に所属していた(名前のみ存続、詳細後述)。レコードレーベルはジャニーズ・エンタテイメント・レコード(2019年 -)。リーダーは錦織一清。 グループの愛称は「ショーネン」。 メンバー 各メンバーの詳細については各ページを参照。ジャニーズ事務所公式サイトのプロフィールをもとに記述。 略歴 「少年隊」は、元々は彼ら3人を含めても当時まだ20〜30人しか居なかったジャニーズ事務所の研修生であるジャニーズJr.に対する総称だった。その中の錦織一清、植草克秀、東山紀之、松原康行、の4人で 初期メンバーを結成、活動を開始したが、東山が高校受験のために活動を一時休止し、残りの3名で1981年10月からテレビ東京の音楽バラエティ番組「ザ・ヤングベストテン」に「Bチーム」として出演、田原俊彦、近藤真彦、ひかる一平などのバックダンサーとして活躍した。そんな中、松原が1982年4月、ドラマ「3年B組貫八先生」に出演が決定、グループとのスケジュールも合わなくなり「Bチーム」を脱退。松原と入れ替わりで高校受験を終えた東山が、再びメンバーとして復帰した。その「Bチーム」が、後に1982年「ジャニーズ少年隊」(後述)となり、のちに「少年隊」と改められた。 グループ結成当初は、近藤真彦のバックダンサーとして、歌番組やコンサートに出演。田原俊彦のバックダンサーグループ「ジャPAニーズ」解散以降は、田原のバックダンサーも務めた。 1982年6月にはレコードデビュー前であるにもかかわらず、当時歌謡番組の雄として知られていたフジテレビ「夜のヒットスタジオ」に単独ユニットとして初出演した。以後、ヒットスタジオには1985年9月の『サクセス・ストリート』まで、レコードデビューまでの間に既に10回前後単独のアーティストとしての出演実績があった。1982年11月には、「ハワイ音楽祭」で金賞を受賞した。 1984年4月2日、郵便貯金ホールにて単独ファースト・コンサートを開催、当時として異例の1日5回公演を行った。5月、ビデオ『少年隊』を発売。その後、同ビデオ収録曲「あなたに今Good-bye」で歌番組へ多数出演。テレビ・コンサート活動・映画主演などを経て、1985年12月12日、『仮面舞踏会』でレコード・デビュー。デビュー時のキャッチフレーズは「日本発、世界行」。翌年の新人賞レースでは、最優秀新人賞を総ナメした。 1986年、少年隊主演ミュージカル『PLAYZONE』開演。第37回NHK紅白歌合戦に初出場。以後8年連続出場した。 1987年、「ブロマイド」年間売上成績が第1位。 1994年、第31回ゴールデン・アロー賞 演劇賞・グランプリ受賞。 1999年、少年隊初の看板番組「少年隊夢」スタート。 2005年、近藤真彦25周年記念ディナーショーにゲスト出演。 2007年、ミュージカルPLAYZONEが、22年目の夏で通算上演回数900回を迎えた。『PLAYZONE2007 Change2Chance』は、共演者だった赤坂晃が覚醒剤で現行犯逮捕されたため、DVD化が急遽中止となった。 2008年、23年間続いた少年隊主演ミュージカルPLAYZONE閉幕。翌年からはジャニーズ事務所の後輩が主演。 2020年9月20日、同年いっぱいで錦織と植草がジャニーズ事務所を退所することを明らかにした。少年隊についてはその後「グループとして活動の予定はない」と事実上の解散状態だが、一方で「後輩たちの道標に」と、同事務所所属のグループとして名前は存続する。なお東山は事務所に残り、活動を続けている。 12月12日、全シングル収録ベスト・アルバム『少年隊 35th Anniversary BEST』をリリース。 受賞歴 第8回ハワイ音楽祭 金賞・振付賞 第28回日本レコード大賞 最優秀新人賞(曲:仮面舞踏会) 第12回日本テレビ音楽祭 最優秀新人賞(曲:仮面舞踏会) 第17回日本歌謡大賞 優秀放送音楽新人賞(曲:仮面舞踏会) 第19回日本有線大賞 新人賞(曲:仮面舞踏会) 第31回ゴールデン・アロー賞 演劇賞・大賞 エピソード 三人ともバク転バク宙が出来る。東山と錦織は「仮面舞踏会」のラストで左手にマイクを持った状態でバク宙をしている。 楽曲製作は、基本的に3人が曲の選定からアレンジに至るまで関わっていた為、楽曲提供者の作家陣と会って話し合い、発表まで時間がかかったそうである。 グループとして初めて出演した企業広告の商品が明治製菓のチョコレートで、商品のパッケージカラー(「ハイミルク・チョコレート」の赤、「ブラック・チョコレート」の黒、「ミルクチョコレート・デラックス」の黄色)が起因となって、各個人のイメージカラーはそれぞれ「赤(錦織)、黒(東山)、黄色(植草)」となっている。 日本でのレコードデビュー時に全米デビューが発表、全米デビュー用のレコーディングを済ませたが、その後の進展はなく、現在ではジャニーズ事務所が制作に関わっていないタイプのジャニーズ本でも言及されることはないが、後日植草がインタビューで、「レコード・デビューする前に海外レーベルとも契約し、マイケル・センベロのプロデュースで英語曲を何曲か作っていたそうだが、楽曲が納得いく形になる前に、日本での活動が忙しくなった」為、企画が無くなったのではないか、と答えている。 1985年8月11日に大阪の新歌舞伎座で幕を開けた舞台「森の石松」主演・近藤真彦の応援に赴く事務所代表ジャニー喜多川に同行して翌12日の日本航空123便に搭乗する予定だったが、少年隊は当該便をキャンセルして東京に残り、ジャニーは初日に近藤が開く記者会見に来て欲しいと要請を受け、前倒しで大阪入りした結果、日本航空123便墜落事故を避けられた。 2008年のPLAYZONE公演を最後に、2020年12月31日をもって錦織と植草がジャニーズ事務所を退所するまで、グループとしての活動は、ファンクラブのデビュー30周年記念の会報、35th Anniversary Bestの発売と限定盤に掲載されたインタビュー、ファンクラブ会報最終号以外は、全くといっていいほど行われなかった。これについて東山は「12年も活動していなかったことは、ファンの皆さんには本当に申し訳なかったと思っています」「3人それぞれの意見があるし、やりたいことも、やらなきゃいけないことも違ってきた。」と語った。 事務所側が「少年隊の名前は残す」と示した見解について、錦織は出演したラジオ番組にて「誤解がないように、ここで“実は”っていう話をしたい。いっとき、ジャニーさんが“ジャニーズJr.”という言葉を封印している時代があり、その時に研究生を指した呼び方が“少年隊”だった。「ジャニーズ少年隊」はジャニーズJr.じゃなくて、研究生の子たちはみんな少年隊だっていうのがあった。だから僕たちの意思で、間違っても僕の意思で『その名前はもうやめてくれ』ってことは言えないという主張をさせていただいた」と答えている。 ジャニー喜多川より「最高傑作のグループ」と称されたことがある。このことについて植草は、「それは人づてに聞いたことがあるが、自分たちが最高かどうかはさておき、いちばん時間をかけてデビューさせたという点では、自分達だと思う。歌もダンスもさることながら、英会話レッスン、ボーカルレッスン、ダンスも国内外のすごい方々のところにも習いに行き、とにかくエンタテインメントに必要なものは何でも学ばせてくれ、アメリカのショーもいっぱい見せてもらい、アメリカナイズされた雰囲気を肌で感じられた。また合宿所時代に、アメリカに住んでいたジャニー喜多川の兄から現地の映像をたくさん送ってもらい、マイケル・ジャクソンやジャクソン5、オズモンド・ブラザーズなどの足の動きなどは、まだ日本人がほとんど知らない時からコピーして、例えば『ブルドッグ』の間奏の部分で取り入れてみたりして、そういう意味では、僕らがいちばん恵まれていた気がする。最高のものを見せてもらってきたからこそ、それに近づこうとし続けていたことで今がある」と述べている。また東山は、歴代のジャニーズの中でダンスがうまいTOP3は、「1位:ニシキ、2位:俺、3位:かっちゃん」と答えたことがある。 作品 シングル 1991年2月10日に8thシングルまでの10タイトルを8cmCDシングルにてリリース。 2013年7月3日にジャニーズ・エンタテイメント・レコードから発売済みの21st、22nd、23rdタイトルを規格変更(8㎝⇒12㎝)のため、同じくジャニーズ・エンタテイメント・レコードから再発売。 『少年隊 35th Anniversary BEST』が発売(限定とはいえ)された現在、カップリング曲が(CD音源で)入手困難なのは「日本よいとこ摩訶不思議」(仮面舞踏会のTYPE Aカップリングとして8㎝シングルで発売済)、と「ふたりだけのムーンライト」(LADYのカップリングとして8㎝シングルで発売済み)「SILENT DANCER」(8㎝シングルで発売された、tr.1のエディットなしのヴァージョン)の3曲である(「ペパーミント夢物語」のアナログシングル収録バージョン、アナログ12「SILENT DANCER」に収録の「KISS THE SUN」はCD化されていない)。 番外シングル 仮面舞踏会/SILENT LADY/HEARTS/FRIDAY NIGHT(1987年) 日本武道館のライブより4曲のみで構成させるLD Single。 WINDOW(1993年7月) 少年隊ミュージカルPLAYZONE'93 のテーマ曲『WINDOW』(作詞:森浩美、作曲・編曲:長岡成貢、コーラス編曲:椎名和夫、発売元はポニーキャニオン)1曲が収録された8cmCDシングルで、劇場のみの限定販売。『WINDOW』はミュージカルのサウンドトラックが発売されておらず、また35th Anniversary Bestにも収録されていない為、同曲はこのCDでしか聞くことが出来ず、入手困難曲の一つとなっている。 アルバム オリジナル・アルバム ミニ・アルバム ベスト・アルバム サウンドトラック 映像作品 音楽関連作品 2020年12月12日に、『少年隊 35th Anniversary BEST』完全受注生産限定盤への収載にて1、3、4、12、13、15、16が初DVD化された。個別発売はされていない。 PLAYZONE関連作品 2001年作品よりDVDが同時発売。2020年12月12日に、『少年隊 35th Anniversary PLAYZONE BOX 1986-2008』にて2000年までの作品も初DVD化され、発売中止となっていた「PLAYZONE2007 Change 2 Chance」と合わせて全作が収録された。ただし個別発売はされていない。 映画作品 あいつとララバイ (1983年12月24日公開、1984年ビデオ発売) 19 ナインティーン (1987年8月1日公開、1988年ビデオ発売) DVD BOX 少年隊 35th Anniversary PLAYZONE BOX 1986-2008(2020年12月12日) CD化されていない楽曲 ミュージカル『PLAYZONE』の楽曲 他多数 他多数…… コンサートやテレビ番組で歌われた洋楽のカバー、PLAYZONEシリーズ(特にCD発売のない'91~'93、'95の舞台)で歌われた楽曲に未CD化が多い。 タイアップ 出演 テレビドラマ 月曜ドラマランド 胸さわぎの放課後(1983年10月24日、フジテレビ系) 胸さわぎの放課後PARTII(1983年12月19日、フジテレビ系) 少年隊のただいま放課後スペシャル(1984年6月4日、フジテレビ系) ショーアップ★ハイスクール(1985年3月4日、フジテレビ系) ヤンヤン歌うスタジオ〜5分枠ドラマ 野良犬伝説PART1(テレビ東京系) 野良犬伝説PART2(テレビ東京系) 心はロンリー気持ちは「…」V(1987年3月、フジテレビ系) 渡る世間は鬼ばかりシリーズ(TBS系)※錦織・植草のみ、東山はゲストでの出演 少年タイヤ〜セレクトステージ 熱海殺人事件(2001年10月 - 11月、フジテレビ系) ジプシー(2001年11月 - 12月、フジテレビ系)※東山・植草のみ出演 レギュラーテレビ番組 ザ・ヤングベストテン(1981年10月6日 - 1982年、テレビ東京) レッツGOアイドル(1982年 - 、テレビ東京) ピンキーパンチ大逆転(1982年4月- 9月、TBS系) パリンコ学園No.1(1982年9月 - 1983年3月、TBS系) ザ・ヒットステージ(1983年4月 - 1984年3月、TBS系) ナイトスクエア(1983年10月 - 1984年3月、TBS系) 生だ!おもしろ特急便(1984年4月 - 9月、TBS系) 世界まる見え!テレビ特捜部(1998年4月 - 2012年3月、日本テレビ系)※東山・植草が交互に出演 少年隊夢(1999年10月 - 2000年3月、フジテレビ系) 少年隊夢II(2000年4月 - 2000年9月、フジテレビ系) 少年隊夢III(2000年10月 - 2001年3月、フジテレビ系) 少年タイヤ(2001年4月 - 2002年3月、フジテレビ系) 映画 胸さわぎの放課後(1982年4月17日公開、東映) 錦織・植草・松原・鈴木の4名が出演 Love Forever(1983年8月4日公開、東宝) あいつとララバイ(1983年12月24日公開、東宝) 19 ナインティーン(1987年8月1日公開、東宝) ラジオ ジャンピングジャニー少年隊(文化放送、『吉田照美のてるてるワイド』内) ライブオン!ジャニーズ少年隊(ニッポン放送) ライブオン!少年隊(1983年 - 1990年3月、ニッポン放送) 抱きしめて少年隊(ニッポン放送) 週刊少年隊マガジン(MBSラジオ、『Radio THIS』→『Radio THIS 茶屋町学園』内) CLUB J(1999年10月5日-2000年9月26日、TOKYO FM) CM ハウス食品「ロッカッキー」(1980年10月 - 、近藤真彦のバックで東山と松原が出演) ハウス食品「ククレカレー」(1981年10月 - 、錦織・植草・松原の3名が近藤真彦と共演) 明治製菓「明治チョコレート(ミルク、ハイミルク、ブラック)」 明治製菓「Dela(ミルク、ハイミルク、ブラック)」 キッコーマン「デルモンテ フルーツドリンク」 ライオン「マウスペット」 ライオン「Duetハミガキ・ハブラシ」 セイコー「アベニュー」 日本赤十字社「献血」 ジャニーズ・エンタテイメント「湾岸スキーヤー」(3人それぞれのソロバージョンも有り) ジャニーズ・エンタテイメント「君がいた頃」 富士フイルム「ケータイプリンタPivi」 出版物 マイアイドル特別編集 ジャニーズ少年隊写真集(1984年4月15日発行、小学館) 明星特別編集 少年隊写真集(1985年4月15日発行、集英社) Duet創刊1周年記念 少年隊写真集(1988年2月20日発行、集英社) NHK紅白歌合戦出場歴 コンサート ヤング・コミュニケーション'83 Toshi in 宝塚(1983年月1月29日・30日、東京宝塚劇場) ジャニーズ祭り in東京宝塚劇場フィナーレ(1998年1月18日) リュウ達来ちゃいなよ!ジャニーズ東西年越し生歌合戦!! Johnnys' Countdown 2011-2012(2011年12月31日 - 2012年1月1日、東京ドーム) - 錦織はVTR出演。 単独コンサート ミュージカル ミュージカル・アドベンチャー『ザ・サスケ』/ヒット・パレード (1985年4-5月、梅田コマ劇場) SHOW劇'92 MASK(1992年5月、日生劇場)※「PLAYZONE'90 MASK」の再演(共演ユニット/青山版:忍者・日生版:TOKIO) 「少年隊ミュージカルPLAYZONE」シリーズ <通称:プレゾン、PZ> PLAYZONE'86 MYSTERY(1986年7 - 8月、青山劇場) PLAYZONE'87 TIME-19(1987年7 - 8月、青山劇場) PLAYZONE'88 カプリッチョ -天使と悪魔の狂想曲-(1988年7 - 8月、青山劇場 / 大阪フェスティバルホール) PLAYZONE'89 Again(1989年7 - 8月、青山劇場 / 愛知厚生年金会館 / 大阪フェスティバルホール) PLAYZONE'90 MASK(1990年7 - 8月、青山劇場 / 大阪フェスティバルホール) PLAYZONE'91 SHOCK(1991年7 - 8月、青山劇場 / 大阪フェスティバルホール) PLAYZONE'92 さらばDiary(1992年7 - 8月、青山劇場 / 大阪フェスティバルホール) PLAYZONE'93 WINDOW(1993年7 - 8月、青山劇場 / 大阪フェスティバルホール) PLAYZONE'94 MOON(1994年7 - 8月、青山劇場 / 大阪フェスティバルホール) PLAYZONE'95 KING&JOKER(1995年7 - 8月、青山劇場 / 大阪フェスティバルホール) PLAYZONE'96 RHYTHM(1996年7 - 8月、青山劇場 / 大阪フェスティバルホール) PLAYZONE'97 RHYTHM II(1997年7 - 8月、青山劇場 / 大阪フェスティバルホール) PLAYZONE 1998 5nights(1998年7 - 8月、青山劇場 / 大阪フェスティバルホール) PLAYZONE 1999 Goodbye&Hello(1999年7 - 8月、青山劇場 / 大阪フェスティバルホール) PLAYZONE 2000 THEME PARK(2000年7 - 8月、青山劇場 / 大阪フェスティバルホール) PLAYZONE 2001 新世紀 EMOTION(2001年7 - 8月、青山劇場 / 大阪フェスティバルホール) PLAYZONE 2002 愛史(2002年7 - 8月、青山劇場 / 大阪フェスティバルホール) PLAYZONE 2003 Vacation(2003年7 - 8月、青山劇場 / 大阪フェスティバルホール) PLAYZONE 2004 WEST SIDE STORY(2004年7 - 8月、青山劇場 / 大阪フェスティバルホール)※PLAYZONE史上異例のブロードウェイ・ミュージカル PLAYZONE 2005 〜20th Anniversary〜Twenty Years…そしてまだ見ぬ未来へ(2005年7 - 8月、青山劇場 / 大阪フェスティバルホール) PLAYZONE 2006 Change(2006年7 - 8月、青山劇場) PLAYZONE 2007 Change2Chance(2007年7 - 9月、青山劇場 / 梅田芸術劇場メインホール) PLAYZONE 2008 Change 1986-2008〜SHOW TIME Hit Series〜(2008年7 - 8月、青山劇場 / 梅田芸術劇場メインホール) ジャニーズ少年隊 (前身) ジャニーズ少年隊とは少年隊の前身グループで、主に近藤真彦・ひかる一平のバックダンサーを務めていた。 1981年10月6日からテレビ東京で始まった『ザ・ヤングベストテン』のスタートに合わせ、錦織・植草・松原の3名で結成された。当時はまだ「ジャニーズ少年隊」という名前が無く、「Bチーム」というグループ名で呼ばれていた。そしてそれに対する「Aチーム」の方は、後のシブがき隊だった。 1982年4月17日公開のひかる一平主演の映画『胸さわぎの放課後』に出演。この時は鈴木も参加していた。そして1982年の春に東山が松原と交替で復帰した。 メンバー 少年隊 錦織一清 植草克秀 東山紀之(1982年春から松原と入れ替わりで復帰) 脱退メンバー 事務所退社 松原康行 サポートメンバー 事務所退社 鈴木則行
{ "id": "123500", "title": "少年隊", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%91%E5%B9%B4%E9%9A%8A" }
スタジオドリームメーカーは、メディアージュ6階で運用されていたスタジオ。 概要 2002年7月6日、お台場にあるフジテレビ(FCGビル)正面向かい側のメディアージュにオープン。主にサテライトスタジオとしてのテレビ番組収録、イベント、プロレスなどで使われていた。 スタジオ以前にはエンターテインメントアトラクションとライブレストランが運営されていた。2002年3月、経営不振でアトラクションとライブレストランが撤退。その跡のスペースにメディアージュの館内リニューアルの一環としてソニーとフジテレビが合同でスタジオを開設。 2007年5月6日、フジテレビが湾岸スタジオを別途建設した事情もあり、メディアージュとの業務を終了。 スタジオドリームメーカーを使用したことのあるテレビ番組 27時間テレビ F-2 なまあらし LIVESTORM SDM発! F2-X F2スマイル お台場お笑い道 ダリアンガールズ
{ "id": "123504", "title": "スタジオドリームメーカー", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B8%E3%82%AA%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC" }
しっこ、シッコ 尿の俗語、幼児語。おしっこ。 シッコ (Sicko) - マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画。 SHIKKO - 藤森慎吾がテレビ番組『オリキュン』で東京ガールズコレクションにモデル出演した際の名前。 フランシスコ・アランブル - ブラジルのサッカー選手。通称シッコ(Chico)。 シッコ・マンスホルト - オランダ出身の政治家。第4代欧州委員会委員長。 人物の愛称
{ "id": "123511", "title": "しっこ", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%97%E3%81%A3%E3%81%93" }
ケンブリッジ(Cambridge) 地名 ケンブリッジ - イングランド東部の学術都市。ケンブリッジシャーの中心地。 ケンブリッジ (マサチューセッツ州) - アメリカ合衆国マサチューセッツ州東部の学術都市。マサチューセッツ工科大学やハーバード大学がある。 ケンブリッジ (メリーランド州) - アメリカ合衆国メリーランド州にある市。チェサピーク湾に面する。 ケンブリッジ (オンタリオ州) - カナダのオンタリオ州にある市。 ケンブリッジ (ニュージーランド) - ニュージーランド北島のワイカト州の町。ロックバンド、ダットサンズの故郷である。 タウン・オブ・ケンブリッジ - オーストラリアの西オーストラリア州パース都市圏に位置する地方公共団体。 その他 ケンブリッジ大学 - イギリスのケンブリッジに位置する大学。 ケンブリッジ学派 - 上記大学を中心とする経済学の学派。狭義の新古典学派。 ケンブリッジ公 - イギリス王族の公爵位。 ケンブリッジ飛鳥 - 日本の短距離陸上競技選手。 ケンブリッジ (小惑星) - 1980年に発見され、イングランドのケンブリッジ、アメリカ合衆国のマサチューセッツ州ケンブリッジの両学術都市にちなんで命名された小惑星。小惑星番号は2531。
{ "id": "123513", "title": "ケンブリッジ (曖昧さ回避)", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%B8%20%28%E6%9B%96%E6%98%A7%E3%81%95%E5%9B%9E%E9%81%BF%29" }
株式会社工画堂スタジオ(こうがどうスタジオ)は、デザインおよびソフトウェア開発を行う日本の企業。本社は東京都新宿区。略称は「KGD」。 書籍の装丁をはじめとするデザイン事業に加え、様々なジャンルのコンピュータゲームを制作してきたことで知られている。 その一方、同社は過去に「天皇陛下からリカちゃんまで」というキャッチコピーを出していたことや、デザイン部門が教育やエディトリアルに携わっていることから、会社としてはアダルトゲームへの参入はしないという方針を立てている。 社長の谷逸平は日本コンピュータゲーム協会(JCGA)事務局長であり、社内には事務局が設置されている。コンピュータエンターテインメント協会(CESA)には加盟していない。 なお、歴代社長は苗字が同じであるため、本項では混乱防止の観点から、同姓の人物が複数出てきた場合は原則として名前で記す。 歴史 1916年、谷順三が『図案と版画 谷工画堂』として創業する。順三は戦後すぐに亡くなり、次男の欣伍が2代目の社長となった。 順三の孫(欣伍の息子)で、4代目社長の谷逸平が電ファミニコゲーマーとインタビューで語ったところによると、創業当時はグラフィックデザイン(図案)に加え、製版も行っていたとされている。また、当時は労働省やアメリカ国務省の国際協力本部といった政府組織や、ヒドリ自転車や森永乳業といった一般企業と取引を進めていた。 また、欣伍が手掛けたものでは、丸善雄松堂からの発注で、昭和天皇の著書『相模湾産』シリーズ(全9冊)がある。 玩具業界への参入 1968年にタカラから女児向け商品であるリカちゃん人形関連の仕事を発注されたことがきっかけで、同商品のパッケージや広告類のデザインを手掛けるようになった。 社内で男児向け玩具の仕事を希望していた矢先、タカラがミルトンブラッドレー(現:ハズブロ)からボードゲーム類のライセンスを取得し、工画堂がローカライズを担当した。 そのうちの一つ『人生ゲーム』が大ヒットしたことから、後に3代目社長となる谷亮(順三の甥)がゲーム好きだったこともあり、『日本特急旅行ゲーム』をはじめとするタカラのボードゲームの制作を担うこととなった。また、『人生ゲーム』もシリーズ化し、『平成版8』までを制作した。 この当時はゲームデザインという概念はなかったものの、当時の社員で興味を持った者や、社員の知り合い、そしてボードゲームを興味を持った者たちが集まったと逸平は話しており、アルバイトできたつもりが社員として雇用されたケースもあったという。 また、欣伍が同社の経営にかかわる一方で東京学芸大学で教員をしていたことから、その教え子たちはのちに幹部職や要職についている。 ビデオゲーム業界への参入 1980年代に任天堂のゲーム&ウオッチのヒットにより、似た電子ゲームがバンダイやトミーからも発売されるようになると、工画堂スタジオも同様の仕事を請け負うようになる。 同時期、『ウィザードリィ』をはじめとするAppleのApple II用のゲームソフトが日本にも出回るようになり、元々新しい物好きだった亮はパソコンゲームの開発に興味をもち、1982年に、亮は鬼羅あきらという筆名のもと、プログラマーの永井知彦とともにソフトウェア開発部を発足させる。彼らはSHARP MZ-80やNEC PC-8001/8801等のコンピューターを購入し、コンピュータゲームの研究開発も行うようになった。逸平は電ファミニコゲーマーとインタビューの中で、亮も永井もすでに死亡しているため、永井が工画堂スタジオに在籍している理由がわからないとしつつも、永井が東京学芸大学の授業で『Emmy』の原型となる作品を作っていたことについて触れ、欣伍に永井を紹介してもらい、同社でこの作品を肉付けしたうえでアスキーに持ち込んだと推測している。 ところが、アスキーが作り直したものは、作り手にとって不本意な内容だったようで、のちに工画堂スタジオは『Emmy II』を自社開発している。 1983年には工画堂スタジオの最初のPCゲームとして、脱衣スロットゲーム『スロットクレイジー』がタカラから発売されたものの、しばらくはアスキーのOEM開発が続いた。そして、1985年8月には工画堂スタジオ自社ブラン「KGDソフト」の第一作目の作品として「コズミックソルジャー」が発売された。 その後、ゲームのヒットにより人手不足という課題が浮かび上がり、亮が一人で広報を行うこともあった。『覇邪の封印』(1986年発売)が大ヒットしたころ、亮はグラフィックデザイナーとして在籍していた逸平を開発部門に引き入れる。逸平はプログラミングができないため、亮はそれ以外、すなわち印刷物の制作、発注、進行管理、在庫管理や棚卸、広報を任せた。 逸平はもともと話し好きだったこともあり、営業の主軸の人間としてゲームにかかわってきたとインタビューの中で話している。 また、パソコンゲームが出始めたころは、開発チームにグラフィックを得意とする者がいなかったり、身内にグラフィックを担当させるようなケースが多かったから、セールストークではグラフィックをアピールしたと振り返っている。 それから、『コズミックソルジャー』の続編である『サイキックウォー』のヒットにより、2ラインの制作体制が導入された。 2ライン制導入後、『シュヴァルツシルト』と『原宿AFTeR DARK』の開発が始まったが、『シュヴァルツシルト』の開発が難航したことから、穴埋めとして『アルギースの翼』の開発が始まった。 『原宿AFTeR DARK』と『アルギースの翼』の開発チームはそれきりだった一方、『シュヴァルツシルト』の開発チームの面々は、同作のプランナーである阿部和広が猫好きだったことから「ねこさんちーむ」を名乗るようになった。 その後、2ライン制が再開された際、もう一方の開発チームはしばらく無名のままだったが、入れ替わりの後、『パワードール』の開発において「うさぎさんちーむ」と命名された。 ギャルゲーへの路線転換 1994年にニューメディア開発部が発足し、1996年谷亮が社長に就任した。 あるとき、キャラクターゲーム愛好家の貝阿弥こと鳥越久朗がソフトウェア開発部に入社する。永井の指揮のもとでキャラクターゲームの企画がたてられ、鳥越がシナリオライターとして起用された。 そして1999年、この企画は経営シミュレーションゲーム『リトル・ウィッチ・パルフェ』として製品化され、このシステムをもとにシリーズ展開された。 その後鳥越は、永井が率いる家庭用ゲーム機向けソフトの開発チームに入る。 それと同時に、のちに「くまさんちーむ」で『蒼い海のトリスティア』を開発する竹内なおゆきもチーム入りする。 このチームは、硬派なシミュレーションゲームで知られていた従来の工画堂スタジオの作品とは毛色が大幅に異なるため、「くろねこさんちーむ」としてブランド化された。 インタビューに同席していた工画堂スタジオのソフトウェア開発部 統括室長を務める北川貴規は、1995年から『同級生』をはじめとするPC向けアダルトゲームが登場し、美少女が出てくるノベルゲームがコンシューマーにも出てきたことから、彼らが「自分たちも作ってみたい」と考えていたのではないかと推測している。 『ブルーフロウ』のプランナー・宮澤剛(みやざー)は、自分が入社した時点ではうさぎさんちーむ、いるかさんちーむ、くろねこさんちーむ、きつねさんちーむが存在していたものの、自分は各チームの手伝いという立ち位置だったとゲームコレクター・酒缶との対談の中で振り返っている。また、宮澤は開発スタッフが別チームの手伝いをすることもあったと話しており、たとえば『ブルーブラスター』の場合はきつねさんちーむの『状況開始っ!』へ手伝いに行った者もいたという。 経営危機 2000年に逸平が社長に就任するが、経営状況の悪化に悩んでいた。 さらに、2008年8月にはリーマンショックが発生し、2009年の正月には銀行から新年のあいさつの中で大鉈を振るうよう言われてしまう。 逸平は、好きなものを作って売っていくという方針では無理があり、開発と営業でタッグを組んで戦略を組んだ方がよいと考え、同年『パワードール』を発売した後、決算月である6月に『シュヴァルツシルト』を発売しようと考えた。 うさぎさんちーむ側は新作の発売が不可能だとしつつも、3月までに第1作のリマスター版を発売することを約束した。ところが、流通会社から送られてきた発注書から、工画堂スタジオ側の予想の10分の1しか発注されなかったことが判明した。 また、逸平もプランニングに参加した『シュヴァルツ』は、開発チームから提出されたプレアルファ版のテストプレイを行ったところ、逸平の承認が通った後に開発チームがルールを変えたことが判明し、社長判断で中止した。 逸平は自由にモノを作らせて売らせた結果、社長に無断で中身を変更して先に進める風土ができてしまった判断し、全社員の前で経営状態を説明し、社史初めて希望退職者を募集した。 そして、彼は決算書からBtoCのソフトウェア事業が経営悪化の原因であると判断し、「くろねこさんちーむ」と「くまさんちーむ」(すでに独立済み)以外は解散した。 なお上記2チームも残ったものの2010年を最後に活動を停止している。 後年、逸平はソフトウェア開発部門の再編はつらかったが、あのまま放置していたら会社全体がだめになっていただろうと振り返っている。 再編後の2011年、宮澤を中心に結成された「しまりすさんちーむ」から、女性同士の同性愛を題材とした『白衣性恋愛症候群』が発売された。 2016年をもって、工画堂スタジオは創業100周年を迎えた。 2022年にくろねこさんちーむから12年ぶりの新作ゲーム『スターメロディ ユメミドリーマー』が発売された。 イラスト制作事業 逸平の社長就任から2年後の2002年にXboxが発売された際、工画堂スタジオはマイクロソフトへソフト移植を持ちかけた。打診そのものは失敗だったが、のちに窓口を務めた者から日本の子ども向けたカードゲームのイラストの依頼が寄せられた。 当初、工画堂スタジオにいるタカラトミーの担当者から難色を示されたものの、クライアントの熱意にほだされ引き受けた。 そして、阿佐ヶ谷にあるグラフィックデザイン部門が手掛けたこの作品は、『デュエル・マスターズ』として製品化された。また、これがきっかけで、『デュエル・マスターズ』以外の製品も手がけるようになった。 このうち、競合製品である『ディメンション・ゼロ』(ブロッコリー)は高円寺のソフトウェア開発部門が担当することで、差別化を図ることに成功した。 当時逸平はこのことにためらいがあったものの、パソコン用ゲームソフトの開発会社であるサイベルの副社長の藤井という人物に酒の席で相談したところ、工画堂らしさを評価され自信につながったと振り返っている。 また、『うたの☆プリンスさまっ♪』や『白と黒のアリス』など、イラスト制作事業部門がゲーム制作にかかわることもある。 主なタイトル チーム制導入前、その他チーム(または不明) Emmy- デビュー作。発売はASCII HSP Emmy II 覇邪の封印 アルギースの翼 コズミックソルジャーシリーズ サイキックウォーコズミックソルジャー2 原宿AFTERDARK NAVITUNE ~ドラゴン航海記~ 魍魎戦記MADARA 大金剛輪編 機装ルーガ 魔晶伝紀ラ・ヴァルー 女神オンライン(日本語移植版タイトルはAngelic Crest) - Chinesegamer制作の台湾のオンラインゲームであり、工画堂スタジオはコスチュームデザインを担当している。 エアサイト・ミッション (AirSite Mission) ねこさんちーむ 狂嵐の銀河 Schwarzschild Schwarzschild II 帝国ノ背信 Schwarzschild III 惑星デスペラン Schwarzschild IV THE CRADLE END こねこさんちーむ うさぎさんちーむ パワードールシリーズ Sequence Palladiumシリーズ 指極星 パレドゥレーヌ 妖ノ宮 くまさんちーむ 火星計画シリーズ GUYS & DOLLS(くろねこさんちーむとのコラボレーション) アースライト ルナ・ストライク (発売元:ハドソン) 有限会社くまさんちーむ 2002年に工画堂スタジオと別会社化された。 Schwarzschild V 真皇誕生 蒼い海のトリスティア 蒼い空のネオスフィア ガジェットトライアル 暁のアマネカと蒼い巨神 白銀のカルと蒼空の女王 くろねこさんちーむ リトル・ウィッチ パルフェシリーズ エンジェリック・コンサート しあわせミルフィーユ 〜そらからふたごがふってきた!!〜」 GUYS & DOLLS(くまさんちーむとのコラボレーション) AS〜エンジェリックセレナーデ まじかるトワラー・エンジェルラビィ☆ シンフォニック=レイン Dear Pianissimo ソルフェージュ ミマナ 〜イアルクロニクル〜(発売元:ガンホー・ワークス) 快盗天使ツインエンジェル 幻の少女(発売元:サミー) スマイル☆シューター スターメロディー ユメミドリーマー いるかさんちーむ RASETSU 〜羅刹〜シリーズ ブルーフロウ ブルーブラスター ジオテイル ぱんださんちーむ 刀剣封魔録〜封神演義異聞 ケータイ少女 きつねさんちーむ 状況開始っ! しまりすさんちーむ 白衣性恋愛症候群(サイバーフロント発売) 白衣性愛情依存症 夢現Re:Master
{ "id": "123515", "title": "工画堂スタジオ", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A5%E7%94%BB%E5%A0%82%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B8%E3%82%AA" }
『タイムボカン』(英語表記:Time Bokan)は、1975年10月4日から1976年12月25日までフジテレビ系列で、毎週土曜18:30 - 19:00(JST)に全61話が放映された、タツノコプロ制作のテレビアニメ。 2016年に制作・放送された本作品のリメイク作品については『タイムボカン24』を参照。同作品の放送に併せて、同年7月から9月までytvのMANPA枠にて本作品の傑作選が放送された。 概要 『タイムボカンシリーズ』の第1作目。本作品の企画は、ミニカーを売るためのアニメという発想で、1966年のアメリカ映画『グレート・レース』の影響を受けたカーレースものが源流である。1972年頃には「時空を超えた善悪のタイムマシンによるコミカルな競争」という本作品の企画が決定。『タンマー大混戦』や『ちょちょいのタンマー』『すっとびタンマー号』などのタイトルがつけられて、その時点でメカブトンのデザインは出来上がり、15分のパイロットフィルムを制作。このパイロットフィルムは第1話やオープニングに一部流用された。パイロットフィルムでの淳子は金髪だったため、テレビシリーズでは青の髪だった淳子の髪はその流用されたカットで金髪になっている。 タツノコプロでは当時、ハードなアクションものが続いたためギャグものを、ということだったが、ギャグにしてはタイムトラベルやメカの要素などが盛り込まれた本作品は、監督の笹川ひろしによると中途半端な印象を与えたといい、スポンサーがつかずに放映決定まで3年を要することになった。主人公の名前は当時の人気アイドルから取られ、野口五郎と天地真理から五郎と真理だったのが、放映が決定するまで3年の間、アイドルの人気の変遷から、真理が桜田淳子から取った淳子になっており、放送の決定後、タイトルが『タイムボカン』と改められた。本作品は後のシリーズ作品のように、主人公の2人もしくは1人が、変身してヒーローにならない唯一の作品である。丹平役の太田、淳子役の岡本、チョロ坊役の桂は次作の『ヤッターマン』においても主人公キャラを担当した。 丹平と淳子およびマージョは2つの山形の隆起がついたヘルメットを常に着用している。この隆起のモチーフは、キャラクターデザインを担当した天野嘉孝によれば、ブラジャーである。マージョ、グロッキー、ワルサーの「悪玉トリオ」には決まった名称は無いが、後年の出版物では便宜上「マージョ一味」と呼ばれている。木江田研究所での会話をあの手この手で盗聴し、出発した丹平達の後を追跡、木江田博士からダイナモンドの場所を聞き出そうと狙う。丹平たちと博士が再会した3クール目以降は、ダイナモンド探しの話が中心となるが、第36話や第46話などの様に、丹平たちがダイナモンド探しとは別の目的で時間旅行をし、それを盗聴した三悪が「その場所にダイナモンドが有る」と速断して後を追うという展開も時々行われた。 当初は2クール全26話を予定。平均視聴率19.0%、最高視聴率26.3%(タツノコプロが所有する資料による)と好評を博し、まず2クール、その後さらに1クール延長され、最終的な放送期間は全5クール(全61話)となった。当初の目的の一つだった木江田博士と中盤で再会するのはその名残である。またこの好評ぶりにより、本作品の終了後も「タイムボカンシリーズ」として、基本的な設定やコンセプトを共有した作品群が世に送り出されていくこととなる。 ストーリー ある日の事、科学者・木江田博士は自ら開発したカブトムシ型タイムマシン「タイムボカン」の試運転に出かけたが、程なくして帰ってきたのはオウムのペラ助と世界最高級の宝石「ダイナモンド」だけで木江田博士の姿はどこにも無く、行方不明となってしまう。博士の孫娘・淳子と博士の助手の丹平はコンビを組み、どこかの時代に消えてしまった博士をタイムトラベルしながら探す事を決意する。一方博士をスパイしていた悪玉トリオ・マージョ一味は博士のいるところにダイナモンドが存在すると睨み、タイムボカンを追いかけ、妨害するのだった。 その後、木江田博士は現代に帰還し丹平たちと再会する(第27話)。それ以降は、悪玉トリオのダイナモンド入手の阻止や、ペラ助の故郷探しなどの旅をする。 登場キャラクター 善玉キャラクター 丹平(たんぺい) 声 - 太田淑子 本作品の主人公。木江田博士の助手として働く少年。中学1年生の13歳。メカに強く、運動神経も抜群であり、博学多才で歴史にも強い。勇敢な熱血漢で純真だが、美少女に弱く、少しおっちょこちょい。淳子、チョロ坊、ペラ助からは「丹平ちゃん」と呼ばれている。破損したタイムボカンを修理することが出来るらしく、台詞の中にもそれを思わせるものがある。グロッキーからも「科学少年」と評されている。また格闘戦にも強く、第13話でワルダー王(アトランティスの独裁者)配下の兵士や、第36話でヒヒ一族の兵士などを、素手で倒したこともある。苦手なのは注射。親兄弟や通学などの様子は描かれていない。 淳子(じゅんこ) 声 - 岡本茉利、横沢啓子(34、35、36話) 本作品のヒロイン。木江田博士の孫娘。小学5年生の10歳。博学多才な大和撫子。祖父思いの優しい娘である。面倒見が良くみんなから慕われている。泣き虫だが芯は強い。子供っぽい丹平を度々諌めつつも彼を信頼している。丹平が他の女性に興味を示す度に不機嫌になるが、自身も一度だけ第52話で王子様に見とれたことがある。家族は祖父以外は登場せず、小学校に通う様子や丹平以外の交友関係も描かれなかった。また、丹平と共にいつも二つのコブがある独特な形状をしたヘルメットを被りながら、専用のスーツを着ており、最終話まで2人の私服姿は登場しなかった。第27話では歌も披露している。 チョロ坊(チョロぼう) 声 - 桂玲子 丹平が作ったロボット。知能は幼稚園児並み。初めはペラ助を敵対視していたが、次第に仲良くなった。動力源は背中のゼンマイ。ただし、ゼンマイが切れても歩行出来なくなるだけで本体は動作可能だが、肝心な時に必ずゼンマイが切れるため、ペラ助並みに丹平や淳子の足を度々引っ張る。体長は低いものの、手足は伸縮可能で、口吻部はガスバーナーになっている。 木江田博士(きえたはかせ) 声 - 槐柳二 淳子の祖父。60歳。世界的な科学者でタイムボカンの試運転に出かけた際にペラ助にタイムボカンを奪われてしまい、第27話で生還するまで消息不明だった。帰還後は丹平たちと冒険に同行し、ダイナモンドを追うものの、時々ダイナモンド調査を丹平たちに任せて留守番したり高齢を理由に置いてけぼりを食らったりすることもある。友人に友田博士(声 - 肝付兼太(14話)→池田勝(45話-))がいる。 ペラ助(ペラすけ) 声 - 滝口順平 オウムで語尾は「だペッチャ」。博士の消息を知る唯一の存在だが、いい加減な証言が多い。唯一怖いのは妻のオタケさんで、妻から逃げたい一心でメカブトンを奪った。しかも、かなり食いしん坊であり、シュークリームが大好物。とにかく自由になりたい、もしくは料理を食べたいだけという、とんでもない理由で嘘の証言をして、丹平たちに無駄足を踏ませるほど引っかき回す。後半は一転おタケさんに会いたがるようになり、木江田博士発見後は丹平たちはペラ助の故郷探しに協力することになる。また、マージョ屋敷に潜入し、マージョ一味がダイナモンド探しに出ようとする一部始終を見聞きして丹平たちに知らせることがよくあった。 次作の『ヤッターマン』でも彼に酷似している鳥が登場している。前者では2度登場しており、声も同じく滝口が担当している。 オタケさん 声 - 遠藤晴 オウムでペラ助の妻。いつも夫のペラ助をこき使って楽をしていたが、内心は夫を愛している。ペラ助がいなくなった後は博士と共に共同生活をしていた。 現代にも容姿が同じオウム(声 - 太田淑子)が登場しており、第56話に登場したオウムメカのデザインは彼女をモチーフにしている。 悪玉キャラクター マージョ 声 - 小原乃梨子 悪玉トリオの女ボス。30歳。容姿端麗でスタイル抜群。後のシリーズの同ポジションのキャラクターと違い、仮面の類は着用せず常に素顔である。色っぽく、男などを騙し続ける。ダイナモンドの独占を最優先しており、そのためならいかなる手段も選ばず、とりわけ丹平たちに対しては殺意さえ持っているなど、後のシリーズにおける女ボスよりも若干過激な性格。嫌いなものはヘビ、お化け、ジェットコースター、ネズミ。髪の色は金髪で、腰までかかるロングヘアー。丹平たちと同じく2つの大きな隆起のついたフードを着用している。第13話からはペラ助からダイナモンドのありかを聞き出すためのスパイとして雌のオウムのミミ(声 - 桂玲子)を飼っていたこともある。第18話ではワルジョ(声 - 京田尚子)と言う先祖も登場している。 自分の障害となる人物をロケットで放逐したり、第3話では陰謀がばれた悔しさに、南フランスの村人を鹿メカで攻撃したり、第27話では後のタイムボカン2号となる「ドタバッタン」の元来の所有者である昆虫人をアルマジロメカの光線で3体射殺するなどしている。しかし、根は純真でお茶目。 最終話ではダイナモンドが空気に触れて変質しただの石になってしまったのを見て「こんな物にあたしの全財産を使っちゃったんだよ!!」と怒り狂い、腹いせに丹平たちに最終決戦を挑むも敗れ去り、その後はショックで放心状態になっていた。そしてその日の夜に、一味はどこへともなく姿をくらました。 グロッキー 声 - 八奈見乗児 マージョの手下。25歳。木江田博士の所で筆頭の助手として働いていたが、実はマージョの命令によりタイムマシンのノウハウを盗むためにスパイをしていた。一味の元に戻った後はメカの開発を担当する。元筆頭助手だっただけに天才的なメカの技術力を持つが、完成したメカはどこか作りが甘く、それが原因で敗北する事も多い。一人称は主に「私」だが、まれに「俺」になることがある。逆三角形型の輪郭に足先の長い靴のような赤っ鼻と大きな出っ歯がトレードマークでワルサーからは「ヒゲらっきょう」と呼ばれたことがある。この容姿の特徴は後のタイムボカンシリーズの三悪の頭脳系キャラクター全般に、おおよそは受け継がれている。ヘルメットの下は一本だけ毛が生えており、先にリボンを結んでいる。ボタンを押すときの台詞は「ブチュッと」。 無類の女子高生好きだが、本心ではマージョと結婚したいと思っており、一味に入った理由もマージョに一目惚れしたからである。そのため基本的にマージョには頭が上がらないが、メカ戦で敗れるたびに八つ当たりされるため、わずかながら反感を持っている。 ワルサー 声 - 立壁和也 マージョの手下。35歳。語尾に「〜まんねん」と付けるなど関西弁風の台詞を使う。一味では持ち前の馬鹿力を生かし、善玉との肉弾戦や力仕事を担当。外見とは裏腹にヘビやお化けを怖がったりする一面もある。 トンズラーなど後年の歴代三悪における怪力系キャラクターの礎はこの時点ですでにほぼ完成されている。また、メカの操縦にも積極的に関わる。グロッキーとともに極端な猫背。ヘルメットの下はスキンヘッド。 その他のキャラクター ナレーター 声 - 富山敬 後のシリーズでのスタンダードスタイルは確立されておらず、「みんな、○○は知ってるかな?」「来週も丹平君たちを応援してね!」などのフレンドリーな語りとなっている。また、富山は劇中のゲストキャラクターの声も演じていた。 登場メカ 善玉 タイムボカン(タイムメカブトン/タイムドタバッタン/タイムクワガッタン) 昆虫を模したデザインのタイムマシンメカ群。第1話で丹平が「タイムボカンはメカブトン、ヤゴマリン、テントウキの3機から成る」と説明していた通り、メインとなる大型(母艦)メカの中に2機の小型(機動)メカが搭載されたスタイルが基本である。タイムメカブトンとタイムクワガッタンは木江田博士が作り上げた。タイムドタバッタンは過去の人間界を征服するために来襲した昆虫人たちが乗っていたメカを改良したものである。 物語前半はメカブトン1機だけだったが、木江田博士帰還後にはドタバッタンと、木江田博士が新たに建造したクワガッタンの3機の中から目的地により、最適なメカをコンピューターが自動的に選択して出動するようになった。 タイムメカブトン(タイムボカンI) カブトムシ(雄)型メカ。ボディーは青色。ツノの先は回転させることが可能で、ドリル状に使用して地中を掘り進める。他の二機とは異なり足の類は無く、通常は機体下部から展開する車輪によって地上を移動する。飛行時にはオープニングの1シーンにも見られる通り車輪を機内に収納後、本物のカブトムシの様に前翅を展開し、羽の下の本体より翼を出して飛行する。背中にはテントウムシ型の小型飛行機・テントウキ、腹部にはヤゴ型の小型水中探索機・ヤゴマリンが搭載されている。時間移動の際のエフェクトは上下に波打ちながらの前進。 製造直後はコクピットを含めた機内全体が重力異常状態に陥ってしまい、乗員及び搭載物に強烈なGがかかる上機内を無軌道に移動させられることになった。これはオープニングで毎回の様に描かれたので非常に印象強い。木江田博士の帰還後に機体が整備されると共に重力異常状態が改善されたらしく、この様な描写は無くなっていった。動力源は後部エンジンユニットに搭載される巨大乾電池状のエネルギーパック2本らしい。主な武装は回転させた角と角の基部から発射するミサイルなどがある。戦闘では主に羽と角が破壊される事が多い。 搭載機であるテントウキは、機体の下から円筒形のパーツを展開、その基部に備え付けられた車輪によって陸上走行もできる。その他、羽の星の部分からマニピュレーターをはじめとする様々な道具、あるいは武装を展開することができ、本作品と同じくタツノコプロ制作のアニメである『ガッチャマン』における、G-4号のような玉手箱メカ(『ガッチャマン』の企画書の記述より)振りを発揮した。テントウキは同番組の前身企画における主役機「タンマータンク」のデザインを流用したもの。母艦であるメカブトンの登場回数が多いこともあり、各機に搭載されたメカの中でも活躍度は随一。オープニングにて単体でのタイムワープが可能なような描写があったが、作中ではそのような機能はないとされた。 メカブトンの呼称は作品中ではほとんど使用されず、単に「タイムボカン」や「タイムボカンI」と呼ばれることが多かった。 タイムドタバッタン(タイムボカンII) ショウリョウバッタ型のメカ。ボディーは緑色。第27話で木江田博士をさらった昆虫人が現代に残した(昆虫人はマージョ一味の攻撃で全員死亡)タイムマシンを博士が改良し、第29話よりタイムボカンメカ2号として使用した。飛行する際には足を後ろに伸ばす。主な武装として、頭部に当たる部分から発射するレーザー砲を装備している。 シャクトリムシ型の小型偵察機・シャクトリン、ホタル型の小型作業用ヘリ・ヘリボタルが搭載されている。時間移動の際のエフェクトは横回転(前期OPでのテントウキのエフェクトパターンと同じ)。 物語後半では数多く使用され、最終話で使用されたマシンもドタバッタンだった。 戦闘においては脚部が必ずと言っていいほど敵のターゲットにされ、破壊された。ただし本体腹部にはキャタピラが内蔵されており、脚が折れても移動に支障は無い。 第51話では宇宙(月)に飛行したこともあり、その際はブースターとしてドタバッタンの本体上部に装着された、ドタバッタンと全長がほぼ同じ小型ロケット(木江田博士によると「サターン」という名前)を補助的な動力として、博士の屋敷の窓面を半開にした部分から宇宙空間まで飛び出していき、適度なところで切り離してからタイムトラベルに入った。 宇宙空間でのタイムトラベルは通常のタイムトラベルに比べて大変なことが多いらしく、メカブトン初期のようなことにはならなかったが、若干の重力異常(丹平曰く「いつもよりすごい振動」)と思しき状態になっている。 マージョには「タイムドッタリバッタリ」と呼ばれている。 タイムクワガッタン(タイムボカンIII) クワガタムシ(雄)型のメカ。ボディーは赤茶色。現代に帰還した木江田博士が製作した。第29話で配備され、第33話で初出動した。ドタバッタンのような脚を持ち、脚先にはメカブトンのように車輪も搭載している。飛行時には前翅が展開し、竹とんぼ状のローターを持つ大型ヘリコプターとなる。ハチ型の小型偵察メカ・ビーチクリン、ダンゴムシ型の小型地上進行用メカ・ダンゴロリンが搭載されている。時間移動の際のエフェクトはメカブトンと同じ上下波打ち型だが長い後肢のせいで前後回転に錯視される事がある。 ナレーターも「パワーが強い」と言及しており、仕様からも分かる通り、他のタイムボカンのノウハウが全て注ぎ込まれた高性能メカのはずだが、移動の要である四肢とプロペラが貧弱であり、戦闘ではよく破壊される。戦闘では巨大な顎を武器として使用しており、マージョ一味に逆襲する際にもこの顎によって何度も窮地を脱した。 回を追うにつれてクラッシュが激しくなったメカブトンやドタバッタンよりも外部の損傷が少ない。 竹とんぼを模しているからか、ローターは前翅が展開した一つしかないが、後部に噴射ノズルがあるので飛行できる。 マージョからは「クワガッタッタンコン」「クワバッタリ」、ワルサーからは「クワガタリンコンコン」「クワベッタラヅケ」と間違われ、ナレーターまで「タイムクワガタガタリ…いや失礼」(第59話)と間違われるようになる。 悪玉 タイムガイコッツ グロッキーが木江田博士の所から盗んだタイムボカンのデータを元に作られた。このメカは毎回、巨大メカニマルである悪玉メカの頭部になっていた。時間跳躍の際、なぜか部品などが取り残されるのがお約束だった。 メカニマルが破壊された後、タイムガイコッツがエゼクションポッドとしての役割を果たす。次作『ヤッターマン』以降のメカニックデザイナーである大河原邦男が後にデザインした『機動戦士ガンダム』のコア・ファイターのルーツとの事。 コクピットの座席配置は2座パラレルで、マージョはその後ろにソファを置いて寝そべっている。耳の部分が巨大タイヤになっており、顎下にも車輪があるので、これ単独でも走行できる。 毎回メカニマルの爆発に晒されながら、最終話で爆発の衝撃でマージョ屋敷に直撃して真っ二つになるまで、実に60回も爆発に耐えている。 ガイコッツは悪玉メカの通称であると共に、その爆発後に残る骨型のメカの名前でもある。また、第12話や最終回等でグロッキーやワルサー(稀にマージョも) がタイムボカンに止めを刺そうとする場面で「今度(来週もしくは次回)から『タイムガイコッツ(ガイコツ)』」と言う場面がある。 メカニマル 悪玉トリオが使用する巨大メカ。基本的に生物をモチーフにしているが、鬼やオロチや河童などの架空の生物をモチーフにしたものも登場した。三悪のシンボルであるドクロマークは後続のシリーズ作品にも踏襲され、本作品では白いものが使用された。 破壊された直後にタイムガイコッツを頭部とした骨格が残る。 ドクロファンファーレ グロッキーの「今週のハイライト!」という叫び声に反応して現れるメカで、初登場は第18話。三体一組で登場し、ファンファーレを鳴らして3人の気分を盛り上げる。なお、第16話ではおもちゃの兵隊のようなコックピットメカがファンファーレを鳴らしていた。また、第33話ではラッパでなく笛を吹くコックピットメカが登場した。故障のためメカが登場しないこともあり、その際はグロッキーがファンファーレを代行した。 今週のハイライト 毎週メカ戦の決め手として、タイムボカンにとどめを刺すべく繰り出される兵器や作戦。初登場は第5話。丹平たちの爆殺を謀るも必ず失敗してガイコッツメカの自爆につながる。 やられ方は、タイムボカンに搭載されているメカや、ボカン自身によって兵器を返されて爆発するのが定番だが、第38話のカエルメカ(オタマジャクシ爆弾が口につかえて自爆)などのように、ボカンが何もやらずに自爆することもまれにある。また第54話では、オケラメカの発射したミサイルを返して爆破と思いきや、オケラメカは脱皮して地底を移動し、空中から第2のミサイルを投下した2段作戦だったが、地底王族の念力で返されて爆発。そして第60話では、「爆弾を使うと我々が爆発する」という理由で、ペリカンメカに搭載した速乾性コンクリートをドタバッタンにぶちまけるが、ドタバッタンの足蹴りでペリカンメカに降りかかり、結局「脱出」という理由で自爆するという、様々なパターンがあった。 さらに中盤以降、とどめのボタンを押した者にマージョが八つ当たりするようになることが多くなったため、じゃんけんやうどんの早食いなどで誰が押すかを決めることをするようになる。しかしマージョやワルサーが押すことになってもグロッキーに押させたり、仮に押して爆発しても、「製作者」という責任でグロッキーが八つ当たりされることが多い。またその「グロッキーへの八つ当たり」も、当初は蹴り飛ばす程度だったが、第46話では口や鼻や耳に火のついた花火を押し込んだり(この回のハイライトが花火入り爆弾だったため)、第56話では饅頭を口の中に押し込んだり(戦勝祝いにと皆で饅頭を食べていたら爆発したため)と、次第にエスカレートしていった。 このコンセプトは本作品と同様に善玉を爆殺しようとしている『タイムパトロール隊オタスケマン』の「今週の山場」に引き継がれている。 用語 ダイナモンド 本作品のキーアイテムであるダイナモンド(Dynamond)は、「宇宙一高価で、ウラン以上の爆発力を秘める宝石」とされている。また、dyna-は「力」を意味する接頭語でもある。常にカットされた状態で登場しており、原石では出てこない。 第25話においてマージョ一味はダイナモンドを利用したダイナモンド光線銃で、シャーウッドの森を一瞬にして大爆発させている。そんな力を秘めたダイナモンドだが、正体は隕石。しかも空気に触れる事で力を失ってただの石になっていく弱点があり、最終話で探し当てたダイナモンドも、長年の空気との接触でただの石になってしまった。 しかも、そのダイナモンドの所在地(つまりペラ助の故郷にして、かつて木江田博士がいた場所)は、最終話でジェットコースターや人工火山などが存在する「遊園地」、それも現代の、木江田研究所とマージョ屋敷の間にあったことが判明する。この「キーアイテムは意外な所に存在する」などの、いわゆる「どんでん返し」の要素は、その後のシリーズ作品にも受け継がれることとなる。 最終話のサブタイトルは正しくは「ダイナモンドを発見だペッチャ」だが、本放送時の番組表では「ダイヤモンドを発見だペッチャ」と誤植されていた。 スタッフ 製作 - 吉田竜夫 企画 - 鳥海尽三、酒井あきよし、柳川茂 原作 - タツノコプロ企画室 音楽 - 山本正之 協力 - 魔人社音楽工房 総監督 - 笹川ひろし 連載 - 小学館学習雑誌 プロデューサー - 柴田勝、永井昌嗣 美術監督・メカニックデザイン - 中村光毅 キャラクターデザイン - 天野嘉孝 美術担当 - 岡田和夫、野々宮恒男 スキ・アニメート - 東洋現像所ビデオセンター 背景 - スタジオビッグ、マスコット、スタジオノア 仕上 - スタジオコルミ、シャフト、ヤマトプロ、スタジオオニオン、竜仕上センター 特殊効果 - 浅沼清良、田中豊、佐藤広明、永野知枝子 撮影 - 緒方プロダクション、アートスタジオ、珊瑚礁、平山昭夫、小西一広、結束義博、橋本和典、倉本和人、太田孝二、中野信也、横山幸太郎、伊井雅之 進行 - 中島忠二、嘉義良隆、小林正典、児玉八郎、石田昌久、小笠原誠紀、高野日出夫、細谷満、高野和男、徳永竜雄 制作協力 - アニメルーム、トップクラフト 録音ディレクター - 鳥海俊材、水本完 録音 - 高橋久義 効果 - 加藤昭二(イシダサウンドプロ) 現像 - 東洋現像所 編集 - 谷口肇、戸田礼子、古川順康 制作担当 - 横尾潔、鎌田正治(竜の子プロ)(第45話 -)、内間稔、大野実(読広) 制作 - フジテレビ、タツノコプロ 制作の部分において「フジテレビ タツノコプロ」とクレジットされたのはエンディングのみで、オープニングは「タツノコプロ」のみのクレジットだった。(制作局がクレジットされなかったのは、タイムボカンシリーズにおいて本作品のみ)。そのクレジットの仕方は、タツノコマークが吐き出した物が「タツノコプロ」のロゴになるというもので、この演出は『新造人間キャシャーン』の前期OPや『アクビガール』でも使われていた。 主題歌 オープニングテーマ「タイムボカンの歌」 作詞・作曲 - 山本正之 / 編曲 - 市久 / 歌 - 山本まさゆき、サカモト児童合唱団 オープニング映像は前期版と後期版の2種類が存在する。前期版でのテントウキが単独で時間移動を行うスキャニメイト映像、ガイコッツを操縦するワルサーを中心としたマージョ一味の映像、ペラ助が一匹で逃げる映像が、後期版ではドタバッタンとクワガッタンが時間移動を行うシーンに差し替えられた。2004年に発売されたDVDシリーズでは、オープニングの変更時期が不明であるとして全話のオープニングが後期版に統一され、前期版は最終巻の映像特典として収録された。また、前期版オープニングの中でも最初期に使用されたものではBメロからサビ(Aメロ)に戻る箇所の歌詞が誤記されているバージョンが存在する。2017年キッズステーションで放送された際には原典通りに放送されている。 エンディングテーマ「それゆけガイコッツ」(第1話 - 第60話) 作詞・作曲 - 山本正之 / 編曲 - 市久 / 歌 - ロイヤルナイツ 悪役のテーマをエンディングに起用したのはアニメ史上初。なお番組内では三悪が何度かこの替え歌を歌い、さらに第38話では鬼ヶ島の鬼たち、第41話では竜宮城の魚たちがこの替え歌を歌っていた。また『逆転イッパツマン』第26話でも、鬼ヶ島の鬼たちが替え歌(前の物とは違う歌詞)を歌っていた。またトヨタのシエンタCMで、替え歌をはいだしょうこが歌っていた。 エンディングテーマ「天才ドロンボー(インストゥルメンタル版)」(第61話) 作詞・作曲 - 山本正之 / 編曲 - 神保正明 最終回のみの特別版エンディング。この曲に合わせて次番組『ヤッターマン』第1話のハイライトシーンの映像が流れ、三悪が会話をしながら『ヤッターマン』の宣伝をする演出がなされた。再放送時やビデオソフト化時には、映像ごと別話数のエンディングに差し替えられる場合や、音声のみ通常版エンディングの『それゆけガイコッツ』に差し替えられる場合があったが、DVD版では本放送時の状態で収録されている。 挿入歌 「チュク・チュク・チャン」 作詞・作曲 - 山本正之 / 編曲 - 市久 / 歌 - 山本まさゆき、サカモト児童合唱団 第13話で初使用、その後何度か戦闘シーンで使用している。 「ペラ助のぼやき節」(第9話) 作詞 - 小山高男 / 作曲 - 山本正之 / 編曲 - 市久 / 歌 - 滝口順平 「花ごよみ」 作詞・作曲 - 山本正之 / 編曲 - 市久 / 歌 - 太田淑子、岡本茉利 LP版『タイムボカン』でのみ使用された。 「うしろすがた」(第27話) 作詞・作曲 - 山本正之 / 編曲 - 市久 / 歌 - 岡本茉利 各話リスト 放送局 フジテレビ(制作局):土曜 18:30 - 19:00 北海道文化放送:土曜18:30-19:00 テレビ岩手:木曜 18:00 - 18:30(1976年4月8日まで)→ 金曜 17:30 - 18:00(1976年4月9日から) 山形テレビ:火曜 19:00 - 19:30 仙台放送:土曜 18:30 - 19:00 福島テレビ(1978年10月から放送):月曜 - 金曜 17:00 - 17:30 新潟総合テレビ:月曜 - 金曜 16:50 - 17:20 テレビ静岡:土曜 18:30 - 19:00 長野放送:土曜 18:00 - 18:30 富山テレビ:土曜 18:30 - 19:00(第1回より同時ネット) 石川テレビ:土曜 18:00 - 18:30 福井テレビ:土曜 18:30 - 19:00 東海テレビ:土曜18:30-19:00 関西テレビ:土曜18:30-20:00 山陰中央テレビ:土曜18:30-19:00 テレビ新広島:土曜18:30-19:00 岡山放送:金曜18:00-18:30 テレビ高知:金曜 18:55 - 19:25(1978年に放送) テレビ西日本:土曜18:30-19:00 テレビ長崎:土曜18:30-19:00 沖縄テレビ:土曜18:30-19:00 劇場版 1976年3月13日、「東宝チャンピオンまつり ディズニー・フェスティバル」内で、テレビシリーズのブローアップ版が公開された。上映時間は23分。 同時上映は次の7作品。 ディズニー作品 ピーター・パン ミッキーのがんばれ! サーカス ドナルドダックのライオン大騒動 チップとデールの怪獣をやっつけろ! ドナルドダックの人喰いサメ 国産作品 勇者ライディーン 元祖天才バカボン スキャニメイト エンディングのクレジットではスキ・アニメ(ート)(Scan Animateの略)と表記される。東洋現像所(現・IMAGICA)に導入された画像を走査線変形する当時の最先端CG。NHKの番組で使用されたのが国内初のテレビ番組使用例とされている。当時の最先端技術ゆえに相当に高価なシステムだったようだが、過去の作品において密接な付き合いのあったタツノコプロは実験の名目でこのエフェクトを安価に使えたという。メカのタイムトラベルシーンなどに使用された。 映像ソフト VHS タイムボカンシリーズ タイムボカンvol.1(ビクター音泉) 第16話、第18話を収録。 竜の子TVアニメ・シリーズ タイムボカンシリーズ(ポリドール) 1989年5月25日発売。1巻に第1話。3巻に第19話、4巻に第36話を収録。 タイムボカン 発進!タイムボカンだペッチャ編(パイオニアLDC) タイムボカン ダイナモンドを発見だペッチャ編(パイオニアLDC) 1998年9月25日発売。それぞれ、第1話 - 第2話、第60話 - 最終話収録。なお最終話のエンディング映像(『ヤッターマン』第1話ハイライトシーン)は不変だが、曲は「それいけガイコッツ」に差し替えられ、三悪の会話はカットされた。 タイムボカン プレミアムセレクション(ワーナービジョンジャパン) 1巻(1998年10月25日発売)第5話、第27話収録 2巻(1998年10月25日発売)第33話、第53話収録 LD タイムボカン パーフェクトコレクション(ポリドール) 1992年12月10日発売。 DVD タイムボカンDVD-BOX(パイオニアLDC) BOX1(2002年12月21日) BOX2(2003年2月21日) 本放送当時の最終話エンディング(曲が「天才ドロンボー」、三悪の会話付き)が初収録されている。 タイムボカン ブルーレイBOX(松竹) 2013年10月30日発売。 LPドラマ版『タイムボカン』 1975年12月21日に発売されたLPドラマ。A面は海賊船を舞台にした「おじいちゃんどこにいるの」、B面は桃太郎をモチーフにした「鬼ヶ島の決斗!!」。脚本は小山高生で、特にA面は同じく小山が脚本を担当した第6話に通じる構成である。またLPドラマとの繋がりはないものの、テレビシリーズでも第38話で同じく桃太郎を題材としたエピソードが制作されている。 タイムボカン用に作曲された主題歌および挿入歌が全て織り込まれているなど、ストーリーだけでなく音楽面にも力が入れられている。また、桃太郎役の声優は主題歌を担当した山本正之であり、同作品が山本の声優デビュー作でもある。脚本の小山もA面において海賊の手下役で一言だけ喋っている。 後にCDとして復刻された他、『ぶたBOX タイムボカンこれっきり』にも収録された。 日本国外輸出 各国への輸出例がある。アメリカ合衆国へも輸出されている。その際の英名タイトルは「TIMEFIGHTERS」だった。その他、欧州各国・韓国・香港・中国などに輸出されたという。他のタイムボカンシリーズの作品に比べると格段に広い範囲にわたって輸出され、多くの人々に受け入れられたようである。 その他の作品での登場 1981年3月に『東映まんがまつり』内で上映された『タイムパトロール隊オタスケマン アターシャの結婚披露宴!?』で、アターシャの結婚式に『ヤッターマン』のヤッターマンとドロンボー一味、『ゼンダマン』のゼンダマンとアクダマンと共に、本作品より丹平たちとマージョ一味が出席(すべてトンマノマントによる幻影)、劇中ではメカブトンの出撃シーンと、第18話でのブタメカとメカブトンの戦いがインサートされた。 1981年放送の『ヤットデタマン』第40話「六周年だよ! 舞台中継」で、観客の歴代善玉・悪玉に、本作品より丹平・淳子・チョロ坊・ペラ助・マージョ一味が登場。 1993年に制作されたOVA『タイムボカン王道復古』の第1話では丹平と淳子が「オール3悪メカメカ猛レース」の観客として、レースの参加者としてマージョ一味が登場。搭乗メカはメカゴリラ(ゴリラガイコッツと呼ばれるシーンもある)。終盤、元祖の意地を見せるべく残っていたドロンボー(ヤッターマン)とアクダマン(ゼンダマン)を罠にかけるが、とどめのミサイル発射でいつものように押し付け合いをした挙句、アクダマンチームは脱出に成功し、ようやく発射したミサイルもボヤッキーによって跳ね返されてしまいリタイア。 2000年に発売されたプレイステーション用ゲーム『ボカンGoGoGo』ではタイムガイコッツが自機として登場。元祖の意地を見せるため、不思議な力を持った花・シュヤクノザを巡るレースに参加。しかしレース勝利後、シュヤクノザの価値に目が眩み、ドクロベエから奪うも、むやみに摘んだためシュヤクノザを枯らしてしまう。
{ "id": "123517", "title": "タイムボカン", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%83%9C%E3%82%AB%E3%83%B3" }
RPM Package Manager (RPM) はレッドハットが開発したソフトウェアのパッケージを管理するためのシステム (パッケージ管理システム)、及びコマンド。以前はRed Hat Package Managerの略だった。".rpm" 拡張子のファイルを利用する。 概要 主にLinuxのディストリビューションのうち、レッドハットが提供するものだけでなく、独自のカスタマイズを含めながらSUSE Linux、Vine LinuxなどのRPM系ディストリビューションで使われる。 RPMは、パッケージをcpio形式でアーカイブしており、その中には、独自のspecファイル、及びバイナリ、またはソースコードが含まれている。パッケージ管理のためのデータベースにはBerkeley DBを採用しており、インストール時、削除時、パッケージの問い合わせ時にはこのデータベースが利用される。データベース管理のためのコマンドオプションもrpmコマンドに含まれている。 specファイルには、パッケージの名前、概要、依存するパッケージ、バイナリパッケージのインストールパス、インストール前に実行するスクリプト、インストール後に実行するスクリプトなどが書かれている。インストール時には、記載されたスクリプトを実行して、サーバの停止及び復帰、システムユーザーの追加などを行い、システムの安全性を保つ。 specファイルは、宣言部と実行部に分かれている。宣言部には、パッケージの説明的な詳細を書き、実行部は、スクリプトとしての役割を果たしている。 パッケージのインストールには、ローカルパッケージ、及びHTTP、FTPを通じたネットワークからのパッケージに対応している。ただし、依存性の解決は行わず、依存性に欠如があった場合は、ユーザーが独自にパッケージをインストールするか、YUM、APT for rpmといった別のツールを使って解決しなければいけない。独自にソースコードからインストールした場合は、パッケージ管理の対象にならず、この場合は、依存性の解決には利用されない。 RPMは、通常はバイナリのインストールに使われるが、ソースコードからのパッケージ作成もサポートしている。パッケージをspecファイルに従ってその場で作成し、インストールすることになる。 RPMは、C言語で書かれ、C言語、Java、Perl、Python、Rubyなどの言語バインディングも提供、または独自に作成されており、これにより、コマンド以外からもRPMのパッケージを扱うことが出来る。
{ "id": "123518", "title": "RPM Package Manager", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/RPM%20Package%20Manager" }
渋沢 敬三(しぶさわ けいぞう、正字体:澁澤 敬三、1896年〈明治29年〉8月25日 - 1963年〈昭和38年〉10月25日)は、日本の実業家、財界人、民俗学者、政治家、第16代日本銀行総裁、第49代大蔵大臣(幣原内閣)、祖父・渋沢栄一から渋沢子爵家当主及び子爵位を引き継いだ。 生涯 財界人として 1896年(明治29年)8月25日、渋沢栄一の長男・篤二と妻・敦子の長男として生まれる(敬三の下に弟が2人がいる)。敦子の父(母方の祖父)は羽林家の公卿出身の元老院議官を務めた伯爵橋本実梁。 東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。1913年に父篤二が廃嫡されたこともあり、中学卒業時(1915年)には祖父の栄一により澁澤同族株式会社が設立され、同社の初代社長に就任。当初は動物学者を志し、仙台の第二高等学校農科への進学を志望していたが、敬三に期待する祖父・栄一が羽織袴の正装で頭を床に擦り付けて第一銀行を継ぐよう懇願したため、第二高等学校の英法科に進学する。 1918年(大正7年)、第二高等学校卒業後、東京帝国大学経済学部入学。 1921年(大正10年)山崎覚次郎博士のゼミナールにて「ビュッヘル氏の所謂工業経営階段と本邦に於ける其の適用に就て」を提出して卒業。 1921年、大学卒業後、横浜正金銀行に入行。1922年、ロンドン支店に着任(支店長は大久保利賢、のちに矢野勘治)。その間に木内重四郎、磯路夫妻の次女登喜子と結婚(媒酌人は和田豊治)。登喜子の父の重四郎は京都府知事等を務めた官僚で、登喜子の母磯路は三菱財閥の創始者岩崎弥太郎の次女である。その間の1925年(大正14年)には長男・渋沢雅英(渋沢栄一記念財団初代理事長)が誕生する。そして1926年(大正15年)に5年間に渡り勤務した横浜正金銀行を退職した。同年には祖父・栄一ゆかりの第一銀行取締役、澁澤倉庫取締役に就任。第一銀行副頭取などを経て1942年(昭和17年)に日本銀行副総裁、1944年(昭和19年)には第16代総裁に就いた。 第二次世界大戦直後、姻戚の幣原喜重郎首相(幣原の妻・雅子と敬三の姑・磯路は姉妹)に乞われて大蔵大臣に就任。およそ半年の在任中に預金封鎖、新円切り替え、高税率の財産税の臨時徴収等により、インフレーション対策と戦時中に膨らんだ国債等の国家債務の整理に当たった。またこの頃より高松宮家財政顧問も務めるようになった。一方で、渋沢家はGHQの財閥解体の対象となり、1946年(昭和21年)には創立以来敬三が社長を務めた澁澤同族株式会社も持株会社整理の対象となり、自らも公職追放の指定を受ける。 また、自ら蔵相として導入した臨時の財産税のために、三田の自邸を物納することになった。追放中の1948年(昭和23年)10月、兵器処理問題に関し、衆議院不当財産取引調査特別委員会に東久邇稔彦、津島寿一、次田大三郎らとともに証人喚問された。 1951年(昭和26年)追放解除後は、経済団体連合会相談役や、電電公社からの国際電話事業分離で特殊法人として設立された国際電信電話(KDD。現KDDI)の初代社長、財界が共同で設立した文化放送の初代会長などを務めた。 民俗学者として 並行して、若き日の柳田國男との出会いから民俗学に傾倒し、漁業史の分野で功績を残した。祖父・栄一の没後の1932年(昭和7年)には、糖尿病の療養のため訪れた静岡県内浦(現在の沼津市)で大川四郎左衛門家文書を発見。 一つの村の400年にわたる歴史と海に暮らす人々の生活が記録されていたこの文書を持ち帰って、これを筆写した。 そしてアチックの同人らとともに纏めた『豆州内浦漁民史料』を刊行し、1940年(昭和15年)日本農学賞を受賞した。他に『日本釣魚技術史小考』、『日本魚名集覧』、『塩俗問答集』などを著した。 港区三田の自邸の車庫の屋根裏に、二高時代の同級生とともに動植物の標本、化石、郷土玩具などを収集した私設博物館「アチック・ミューゼアム(屋根裏博物館)」を開設(第二次大戦中に日本常民文化研究所と改称)。アチック・ミューゼアムに収集された資料は、東京保谷にあった日本民族学会附属の民族学博物館を経て、現在は大阪吹田・万博公園内の国立民族学博物館収蔵資料の母体となり、常民文化研究所は神奈川大学に移管された。なお三田の旧渋沢邸は、戦後国所有になり大蔵相公邸などに使われその後取り壊しの案も出たが、1991年(平成3年)に渋沢家で執事をしていた杉本行雄により青森県三沢市の古牧温泉渋沢公園へ移設され展示されていた。現在は所有権を清水建設が買い取り(清水建設の創業二代目がこの渋沢邸を設計した)2023年に江東区へ移築し一般公開する予定。東京・北区の飛鳥山公園内にある渋沢史料館でも敬三の事績が紹介されている。 また、栄一没後に竜門社が企画した「日本実業史博物館」を主導し、書籍、絵画(含む広告)、器物、紙幣など近世経済史資料の収集を進めるが、戦時統制経済の影響で建築資材が集められずに挫折する。戦後も建設を模索し続けたが実現せず、収集された資料は1951年に文部省史料館に寄託、1962年に敬三自身により正式に寄贈している。 多くの民俗学者も育て、岡正雄、宮本常一、今西錦司、江上波夫、中根千枝、梅棹忠夫、網野善彦、伊谷純一郎らが海外調査に際し、敬三の援助を受けている。他にも多くの研究者に給与や調査費用、出版費用など莫大な資金を注ぎ込んで援助し、自らも民俗学にいそしんだのは、幼い頃から動物学者になりたかったものの諦めざるを得なかった心を癒したものとみえる。敬三と、柳田をはじめ多くの研究者との交友の様子は、友人でもあった岡茂雄(岡書院店主)の回想『本屋風情』に詳しく記載されている。 年譜 1896年(明治29年) - 8月25日に渋沢篤二と妻敦子の長男として東京・深川に生まれる。 祖父の栄一から「」という名を名付けられる。 1900年(明治33年) - 祖父の渋沢栄一が男爵に叙される。 1909年(明治42年) - 東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)を卒業。東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)入学。深川でペストが流行ったため、三田に転居。 1913年(大正2年) - 渋沢家の嫡男である父・篤二が病気の為に廃嫡。祖父の栄一は敬三を後継者に指名。 1914年(大正3年) - 柳田國男と初めて出会う。 1915年(大正4年) - 4月に東京高等師範学校附属中学校を卒業すると同時期に、澁澤同族株式会社が設立され同社の社長となる。7月には仙台の第二高等学校試験に合格し、9月に同校に入学する。 1918年(大正7年) - 7月第二高等学校卒業し、9月に東京帝国大学法科大学経済学科入学。 1920年(大正9年) -祖父・ 渋沢栄一、子爵に陞爵。 1921年(大正10年) -「アチック・ミューゼアム(屋根裏博物館)」 をつくる。東京帝国大学経済学部(1919年に、学部制導入時に法学部から分離独立)を卒業し、横浜正金銀行に入行。 1922年(大正11年) - 岩崎弥太郎の孫・木内登喜子と結婚。ロンドン支店勤務を命ぜられ、渡英。 1925年(大正14年) - 長男・渋沢雅英(渋沢栄一記念財団相談役(初代理事長)、MRAハウス理事)誕生。栄一の体調おもわしくなく、帰国。 1926年(昭和元年) - 横浜正金銀行を退職し、第一銀行取締役、澁澤倉庫取締役に就任。 1927年(昭和2年) -次男・渋沢紀美(夭折)誕生。 1930年(昭和5年) - 長女・佐々木紀子(佐々木繁弥と結婚)誕生。 1931年(昭和6年) - 祖父栄一死去にともない子爵を襲爵。 1933年(昭和8年) - 次女・服部黎子(服部勉と結婚)誕生。 1934年(昭和9年) - 日本民族学会を設立し、理事となる。 1937年(昭和12年) - 保谷に民族学博物館を開設し、アチック・ミューゼアムの資料を移管する。 1941年(昭和16年) - 第一銀行副頭取就任。 1942年(昭和17年) - 日本銀行副総裁就任。 1944年(昭和19年) - 日本銀行総裁就任。 1945年(昭和20年) - 3月17日、貴族院議員就任(1946年6月10日辞任)。空襲により三田の自邸一部焼失。幣原内閣の大蔵大臣に就任し日本銀行総裁辞任。 1946年(昭和21年) - 預金封鎖、新円切り替え実施。内閣総辞職により蔵相辞任。高松宮家財政顧問となる。澁澤同族株式会社が財閥解体の持株会社指定を受ける。公職追放。蔵相として自ら創設した財産税のため三田の自邸物納。 1947年(昭和22年) - 妻登喜子と別居。 1949年(昭和24年) - 水産庁に水産資料館設置を進言。 1951年(昭和26年) - 公職追放解除。経済団体連合会相談役に就任。 1953年(昭和28年) - 国際電信電話(KDD)設立に伴い、社長に就任。十和田科学博物館開設。在日沖縄戦災校舎復興後援会会長。 1955年(昭和30年) - 渋沢栄一伝記資料刊行会より『渋沢栄一伝記資料』の刊行を開始する。 1956年(昭和31年) - 文化放送会長、KDD会長、日本モンキーセンター初代会長に就任。 1957年(昭和32年) - 外務省移動大使として、中南米各国を歴訪。日本電波塔株式会社設立時の取締役に就任。 1960年(昭和35年) - 旅先の熊本で倒れる。東京大学附属病院に入院、以来入退院が多くなる。 1961年(昭和36年) - 東洋大学の理事に就任。小川原湖民俗博物館開設。 1963年(昭和38年) - 朝日賞受賞。東洋大学の名誉文学博士号を授与される。文部部省史料館に寄贈した民俗資料の収蔵庫が落成。5月にその式典に出席。10月25日に虎の門病院にて糖尿病と腎萎縮を併発し死去(満67歳没)。長男・雅英を始めとする家族に見守られながらの死であった。没後まもなく勲一等瑞宝章を授与される。墓所は渋沢子爵家代々の墓所がある谷中霊園にある。 家族・親族 渋沢家 祖父・栄一(官僚、実業家) 天保11年2月(1840年3月)生 - 1931年(昭和6年)11月没 祖母・千代(実業家・尾高惇忠の妹) 天保12年(1841年)生 - 1882年(明治15年)没 父・篤二 明治5年(1872年)生 - 1932年(昭和7年)10月没 栄一・千代夫妻の長男。10歳で母・千代を亡くし、父・栄一が再婚したため、姉の穂積歌子、陳重夫婦に養育される。1886年、14歳で龍門社社長となり『龍門雑誌』刊行開始。1892年、20歳で第五高等学校中退、栄一に謹慎を命じられたのち、1895年、23歳で結婚、翌1896年、敬三誕生。翌1897年、栄一により渋沢家直轄事業として澁澤倉庫部が設立され、倉庫部長に就任(のち取締役会長)。1899年、義兄穂積陳重の渡欧に随行、各国を歴訪し帰国後、第一銀行に勤務。趣味多く、写真撮影、常磐津、都都逸なども玄人はだしの才人で、1911年には新聞に新橋芸者・玉蝶(本名・岩本イト、1887年 - 1955年)との仲が報じられる。敬三が18歳となった1913年に栄一の決定により篤二を廃嫡とし、篤二長男の敬三を嫡孫とした。篤二が一族の長となるには蒲柳の質が心配されており、栄一は自身の没後の篤二と、その異母弟らとの家督を巡る争いの芽を摘むための措置をとったものとも考えられている。父・栄一、姉・歌子が没した翌1932年、玉蝶と20年間暮らした白金の家で61歳で死去。 母・敦子(伯爵・橋本実梁の娘) 1880年(明治13年)生 - 1943年(昭和18年)3月没 1895年に篤二と結婚し、3児をもうける。 長弟・信雄 1898年(明治31年)6月生 - 1967年(昭和42年)2月没 京都帝国大学哲学科卒業後、丸善の元洋書担当福本初太郎とドイツ語書籍輸入の福本書院を1925年より共同経営の傍ら、祖父・渋沢栄一が設立に関わった秩父鉄道、東京製綱取締役、澁澤倉庫監査役に名を連ねた。音楽家・齋藤秀雄の妹で聖心女子学院卒の敦子と結婚、1938年に目黒区上大崎に建てた自邸の洋館は1985年に志賀高原に移築され、資料館「志賀山文庫」を経て、2017年よりレストランとして利用されている。 末弟・智雄 1901年(明治34年)3月生 - 1947年(昭和22年)没 北海道帝国大学農学部卒業後、澁澤倉庫常務を務めた。 妻・登喜子(政治家・木内重四郎の娘) 1902年(明治35年)生 - 1994年(平成6年)没 木内重四郎・磯路夫妻の娘。母方の祖父は三菱財閥創業者の岩崎弥太郎。東京女高師付属高女、東京女子大学英文科卒。兄・木内良胤と敬三は東京高等師範学校附属中学校の同級生だった。三児をもうけたが、戦後敬三と子供らを置いて家を出、得意の英語を生かして外資系企業の社長秘書や近所の子供に英語を教えるなどして自活し、1970代までスキー、登山を趣味とし、91歳で没した。 長男・雅英 1925年(大正14年)2月生 - 公益財団法人渋沢栄一記念財団初代理事長(現在は非常勤の相談役)。ロンドンで生まれ、武蔵高等学校 (旧制)、前橋陸軍予備士官学校、陸軍少尉を経て東京大学農学部卒業、東京食品ロンドン駐在員を一年で辞し、米国でキリスト教系の道徳再武装(MRA)運動に専従、帰国後MRAアジアセンターの語学学校経営など同団体の活動を続け、1994年から2003年には、曾祖父・渋沢栄一が設立に関わった東京女学館の第12代館長に就任。1997年から2020年まで、公益財団法人渋沢栄一記念財団理事長。『父・渋沢敬三』など著書多数。また、2023年1月の鮫島純子の死去により、生前の栄一と面識ある存命の子孫は雅英1人のみとなっている。 次男・紀美 1927年(昭和2年)2月生 - 1928年(昭和3年)4月没 長女・紀子 1930年(昭和5年)1月生 - 佐々木繁弥の妻。 次女・黎子 1933年(昭和8年)7月2日生 -  微生物学者の服部勉の妻。なお、黎子自身も微生物学者である。 孫・田鶴子 1952年(昭和27年) - 長男・雅英の娘。福祉学者、渋沢栄一記念財団理事、MRAハウス理事。 孫・雅明 1954年(昭和29年) -2016年(平成28年) 雅英の長男。 孫・佐々木繁俊 1956年(昭和31年) - 長女・紀子と佐々木繁弥の長男。 系図 主な著書・編著 『祭魚洞雑録』 郷土研究社、1933年 『祭魚洞襍考(さいぎょどうざっこう)』 岡書院、1954年 『南米通信 アマゾン・アンデス・テラローシャ』 角川書店、1958年 『日本魚名集覧』 角川書店、1958年  『日本魚名の研究』 角川書店、1959年 『犬歩当棒録 祭魚洞雑録三』 角川書店、1961年 『日本釣漁技術史小考』 角川書店、1962年 編著『絵巻物による日本常民生活絵引』(全5巻)、角川書店、1965-1968年 平凡社(神奈川大学日本常民文化研究所 編、復刻全5巻、別冊・総索引解説)、1984年、新版2006年 『澁澤敬三-民族学の組織者 日本民俗文化大系3』 宮本常一編・解説、講談社、1978年 『澁澤敬三著作集』 平凡社(全5巻)、1992-1993年。網野善彦・渋沢雅英ほか編 『祭魚洞襍考・続 祭魚洞襍考ほか』 『日本魚名の研究 日本釣漁技術史小考』 『犬歩当棒録・祭魚洞雑録ほか』 『南米通信・雁信集・旅譜と片影ほか』 『未公刊論文・随想・年譜・総索引』 『渋沢敬三-小さき民へのまなざし』川島秀一編 「やまかわうみ別冊」アーツアンドクラフツ、2018年 関連文献 『澁澤敬三先生景仰録』(同編集委員会編、東洋大学、1965年) 渋沢雅英『父・渋沢敬三』(実業之日本社、1966年) 『澁澤敬三』(澁澤敬三伝記編纂刊行会(上・下)、1979-81年) 佐野眞一『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』(文藝春秋、1996年/文春文庫、2009年) 佐野眞一『渋沢家三代』(文春新書、1998年) 拵嘉一郎『澁澤敬三先生と私-アチック・ミューゼアムの日々』(平凡社、2007年) 宮本常一『宮本常一著作集50 渋沢敬三』(田村善次郎編、未來社、2008年) 丸山泰明『渋沢敬三と今和次郎-博物館的想像力の近代』(青弓社、2013年) 由井常彦・武田晴人編『歴史の立会人-昭和史の中の渋沢敬三』(日本経済評論社、2015年) 加藤幸治『渋沢敬三とアチック・ミューゼアム』(勉誠出版、2020年) 『歴史と民俗 特集 渋沢敬三と日本の近代』 神奈川大学日本常民文化研究所論集39号(平凡社、2023年)、論考7篇  DVD『学問と情熱 第34巻 渋沢敬三 常民へのまなざし』(紀伊國屋書店評伝シリーズ、2007年)  藤原道夫演出・佐野賢治監修、ナレーター中井貴恵(65分) 展覧会図録 国立民族学博物館 特別展図録 『屋根裏の博物館 実業家渋沢敬三が育てた民の学問』(神奈川大学、横浜市歴史博物館、2002年)  『屋根裏部屋の博物館』(国立民族学博物館監修、淡交社、2013年)。没後50年企画 登場作品 テレビドラマ 青天を衝け(NHK大河ドラマ、2021年、演 : 笠松将)
{ "id": "123519", "title": "渋沢敬三", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%95%AC%E4%B8%89" }
『元祖天才バカボン』(がんそてんさいバカボン)は、赤塚不二夫の漫画『天才バカボン』を原作とするテレビアニメである。『天才バカボン』のアニメ化作品としては2作目となる。 東京ムービー新社(旧東京ムービー)制作。1975年10月6日から1977年9月26日まで、毎週月曜 19:00 - 19:30 (日本標準時)に放送。全103回(全204話)。 作品概要 前作『天才バカボン』と同じ東京ムービーの制作だが、制作・放送局はよみうりテレビからキー局の日本テレビに変更。プロデューサーだった楠部三吉郎によると、赤塚は当初「1作目は、自分の作品とまったく違うものにされてしまった」として東京ムービーでの再アニメ化に反対したという。こうした前作での改変問題もあり、「本作品こそ原作に沿った内容である」との意味合いで「元祖」と銘打たれた。また「元祖」というタイトルは、碓氷峠にある「元祖釜飯本店」という看板を見た楠部の妻が「元祖って面白い言葉よね」と評した言葉をきっかけに考案したというが、文芸担当の山崎敬之によればアニメ制作スタッフ内では良案が浮かばず赤塚本人に意見を求めたところ返ってきた「元祖」という語を採用したものだとの証言もある。 本作以降、天才バカボンのテレビアニメは全て『○○天才バカボン』というタイトルを使用しており、タイトルフレーズが各作品を識別する目印となっている。放送期間は2年と、歴代バカボンのテレビシリーズでは最長となった。 本作品では原作者の意向に沿ったアナーキーな演出が徹底され、純粋にナンセンスギャグのみを追求した作品となっており、原作の持つ世界観やエッセンスをテレビアニメの制約の中で十二分に再現したことで評価も高く、本作以降の作品もこのスタイルが継承されている。また前作でまだ未登場だったウナギイヌが本作で初登場している。 ただし1作目同様、原作で描かれている暴力的表現や残酷な描写などは、アニメ化に際して大幅に書き換えられている。また、原作では理由不明だった話に独自の理由付けをするなどの改変を入れることもあり、例えば、バカボンのパパ以外の登場人物が「キャキャキャ」としか言えなくなり、パパは1日遅れて「キャキャキャ」としか言えなくなった第81話(原作「キェンキャイキャキャキョン」)は、友好的な宇宙人が地球調査のために「キノガイ病」の特殊細菌を蒔いて「キャキャキャ」のみ言えるようになったとの理由付けがされており、また、パパとバカボンがロケットでブタ星へ行った第86話(原作「ブタの惑星」)は、原作では唐突にロケットに乗っているのに対し、アニメではハジメが造ったロケットに乗って出発したことになっている。この他、ロッキード事件や山口百恵など放送当時の流行ネタも登場した。 この他第107話からはショート・ショート作品3本をまとめた「ショートギャグでコニャニャチワ」シリーズが不定期に6本放送、特に3本立て目は必ず「泥棒もの」を放送していた。 主要キャストは田の中勇から肝付兼太に変更した本官さん以外は第1作を踏襲したが、天才バカボンのアニメシリーズで主要キャストが継続された例は本作のみであり、以降の作品は赤塚から指示があったママ役の増山江威子を除き、作品毎に主要キャストは大きく異なっている。キャストの仲は良く雨森のフォルクスワーゲンで増山の別荘に行ったり、赤塚がオカマバーに連れて行ったこともあるという。 制作は前番組『ガンバの冒険』のスタッフが引き続き手がけ、演出や画風にその影響が顕著に現れている。背景画は『ガンバ』の画風をデフォルメする方向で作られた。一部のスタッフはアニメ第1作にも関わっており、渡辺岳夫作曲の劇中音楽は第1作と共通のものが多く使われている。 メイン作画監督は79回までが第1作と同じ芝山努で、80回から北原健雄に交代している。業界用語で『ガンバの冒険』『ど根性ガエル』や本作に特徴的な作画をAプロ調という 。画調は大きく前期・後期に分けられ、芝山の担当した前期は原作を尊重しながらも『ガンバの冒険』を踏襲するラフな線が特徴だった。80回から、メイン作監が北原に交代した際にキャラクター設定が改変され、原作よりも「丸く、太め」なプロポーションに変更されている。これ以降、最終話までこの「後期キャラクター」で描かれている。指の数は4本と5本のシーンが混在している。 1作目で目玉がつながっていないキャラクターデザインであった本官さんは、本作では原作に沿った「つながり目玉、鼻の穴は四角で1個」に改められ、原作通り「日本で一番銃弾使用量の多いおまわりさん」となった。ただし、赤塚の実父が警察官であったことを考慮し、楠部三吉郎はスタッフに「大事なのは目玉のお巡りさんだ」と注意し、決して人に向かって撃たなかったとしている。 逆に、パパの後輩や友人など、原作でも一回しか登場しなかったキャラクターについてはデザインが大幅に変更されている例もある。 前後番組とのコラボレーションなど 第1回Aパート(第1話)冒頭のプロローグでは、バカボン一家が勢揃いすると、「『元祖天才バカボン』の始まりなのだ! ヨイショ!!」のセリフと共に、前番組『ガンバの冒険』でガンバたちが元気付けをする時の「ヨイショポーズ」をとって番組が始まった。この他、作中ではテレビ画面に『ガンバの冒険』のキャラがお遊び的に一瞬登場したり、54話でガクシャに酷似したキャラが登場したりしている。 『元祖天才バカボン』の後番組には『ルパン三世 (TV第2シリーズ)』が続いたが、最終回終了後の新番組予告ではルパン三世(山田康雄)がナレーション冒頭に「やあパパしゃん、長い間ご苦労さんなのだ」と慰労のコメントを入れ、最後は「来週夜7時から、なのだ」で締めている。また本編ラストの「これでいいのだ」は同作品におけるサブタイトル表記の演出と同じくタイプライターの効果音で表示された。同作品はキャストやスタッフの多数が『元祖』からスライドして参加しており、第73話「花も嵐も泥棒レース」では、ゴールが破壊されるシーンで逃げまどう群衆の中にバカボンのパパが描かれている。また劇場版第1作『ルパン三世 ルパンVS複製人間』には、赤塚不二夫が三波春夫、梶原一騎とともに声優として特別出演している。 声の出演 バカボンのパパ - 雨森雅司 バカボン - 山本圭子 バカボンのママ - 増山江威子 ハジメちゃん - 貴家堂子 レレレのおじさん - 槐柳二 本官さん - 肝付兼太 ウナギイヌ - 池水通洋 その他 - 緒方賢一、北村弘一、八奈見乗児、はせさん治、小宮和枝、和久井節緒、安原義人、神山卓三、青野武、京田尚子、野本礼三、田口昂、大竹宏、東美江、永井一郎、滝口順平、八代駿、峰恵研、富山敬、小宮山清、野沢雅子、沢りつお、山下啓介、菊池紘子、吉田理保子、城山知馨夫、内海賢二、丸山裕子、高石有子、曽我部和行、加藤修、山田俊司、筒井たか子、たてかべ和也、小山まみ、塚田恵美子、弥永和子 スタッフ 原作 - 赤塚不二夫 企画 - 吉川斌(NTV) キャラクターデザイン・総作画監督 - 芝山努(- 79回)、北原健雄(80回 -)、大塚康生 美術監督 - 小林七郎 撮影監督 - 若菜章夫・大和田享(- 79回)、小林健一・小原進(80回 -) 録音監督 - 加藤敏 音楽 - 渡辺岳夫 選曲 - 鈴木清司 文芸担当 - 山崎敬之(- 79回)、飯岡順一(80回 -) 制作担当、制作デスク - 加藤俊三 プロデューサー - 上野徹(NTV)・楠部三吉郎(東京ムービー)(- 79回)、高橋靖二(NTV)・高橋美光(東京ムービー)(80回 -) 原画 - 近藤喜文、山田道代、葛岡博、小林治、中村英一、富沢和雄、大橋学、本多敏行、川尻善昭、北原健雄、竹内留吉、青木悠三、前田実、児玉兼嗣、丹内司、金沢比呂司、香西隆男、大塚康生、富永貞義、米川功真 他 動画 - 有原誠治、須田裕美子 他 色指定 - 山名公枝、関根栄子 美術設定 - 男鹿和雄、清水一利、水谷利春、白坂のり子、松平聡 効果 - 宮田音響 録音技術 - 飯塚秀保 編集 - 東放制作 制作協力 - Aプロダクション(- 79回)、東京アニメーションフィルム(- 79回)、東北新社、東京現像所 制作 - 東京ムービー 主題歌 オープニングテーマ 「タリラリランのコニャニャチワ」 作詞 - 東京ムービー企画部 / 作曲 - 渡辺岳夫 / 編曲 - あかのたちお / 歌 - コロムビアゆりかご会、グリンピース、雨森雅司 エンディングテーマ 「パパはやっぱりすばらしい」(第1回 - 第9回) 作詞 - 東京ムービー企画部 / 作曲 - 渡辺岳夫 / 編曲 - あかのたちお / 歌 - 水谷賢、コロムビアゆりかご会、こおろぎ'73、雨森雅司 バカボンの視点で書かれた歌詞による、ほのぼのとしたメルヘンチックな楽曲。 「元祖天才バカボンの春」(第10回 - 第103回) 作詞 - 赤塚不二夫 / 作曲 - 渡辺岳夫 / 編曲 - あかのたちお / 歌 - こおろぎ'73、コロムビアゆりかご会 A - Bメロはムード歌謡調、サビで突然マーチ調に変わる。なおパパの年齢が「昭和元年生まれ。昭和42年連載開始で、以来41歳のまま」であることを、歌詞の上で公式に認めた。また「♪41歳の春だから」というフレーズから、原作漫画連載開始から41周年を迎えた2009年には、後述のCMや、2000年に初登場したパチンコ機「CR天才バカボン」(大一商会)の3代目機種となる「CR天才バカボン 41才の春だから」が発売されている。 各話リスト 全作品とも原則としては1回で2話放送。前作がほとんど原作をアニメ化しなかった事もあり放送開始時点で『マガジン』、『サンデー』『おやじ』合わせて5年分のストックがあったものの、バカボン一家が不在の話やショッキングな話も少なくなかった為全てがアニメ化されたわけではないにもかかわらずアニメオリジナルエピソードもいくつか作られた。また、後期では連載中の『月刊少年マガジン』の作品からアニメ化した回もあった。 全103回、204話。休止は1977年1月3日のみ。1979年1月30日再放送(関東地方)の第92話では最高視聴率である25.7%を記録した(ビデオリサーチ・関東地区調べ)。1987年 - 1988年頃にかけてのテレビ東京による再放送では、最高視聴率が19.8%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)に昇り、新シリーズが製作されるきっかけにもなった。 多くのエピソードでは最後にバカボンパパが「これでいいのだ!」または「これでいいのか!」などと言って終わる。スポットや次週予告でのパパの決めゼリフは1作目の「見ない奴は死刑なのだ!」から「それじゃまた会おう。見ないと逮捕なのだ!」に変更されている。 なお「ショートギャグでコニャニャチワ」各話の内容は次の通り。 放送局 放送系列は当時のもの。 劇場版 元祖天才バカボン(1976年3月13日公開) 『東宝チャンピオンまつり』内のプログラムとして上映されている。10話(第5回Bパート)「誰が食べたかおサカナさん」のブローアップ版。上映時間は14分。 併映はディズニー作品『ピーター・パン』・『ミッキーのがんばれ!サーカス』(『ミッキーのサーカス』改題版)・『ドナルド・ダックのライオン大騒動』(『ドナルドのライオン騒動』改題版)・『ドナルド・ダックの人喰いザメ』(『ドナルドの漂流記』改題版)・『チップとディールの怪獣をやっつけろ!』(『リスの怪獣退治』改題版)と、国産作品『勇者ライディーン』・『タイムボカン』の計7本。本来『チャンピオンまつり』はゴジラ映画などの長編特撮映画をメインとしているが、この時だけはディズニーアニメを中心にした特別版だった。 関連商品 映像ソフト 以前はパイオニアLDCから前期作画監督であった芝山努書き下ろしのジャケットイラスト及びハイビジョン・リマスターを売りにしたDVD-BOX(全3巻)が発売されていた。 廉価版はハピネット・ピクチャーズより発売。芝山が放送時に起こした設定画をトレスして彩色した物をジャケットやパッケージに使用している。 元祖天才バカボン … ボックスセット全2巻(1 - 48話、49 - 103話) HDリマスター版はキングレコードより発売。 元祖天才バカボン … ボックスセット全2巻 最新HDマスタリングを売りにしており全巻とも本放送中に赤塚不二夫が書き下ろしたイラストをパッケージ用に転用している。 ※「作画監督 芝山努」版の前期OPを紛失しており、後期OPに統一している。 サウンドトラック 「元祖天才バカボン サウンドトラック総集盤」(デイジー・ミュージック。2008年11月25日発売) ネット配信 YouTubeの「TMSアニメ55周年公式チャンネル」から、2019年7月10日より第1 - 3回までが配信されている(同日には同チャンネルで前作も配信開始)。 OP・EDとも「制作 東京ムービー」のクレジットは、差し替えずにそのまま配信、また第1話開始前のプロローグ(「ヨイショポーズ」入り)もそのまま配信されている。 2020年からは本作・前作とも、第1回のみの配信に変更された。 2022年9月17日から同年11月16日まで『無印』第1 - 20回と本作第1 - 20回をひとまとめにして配信された。こちらも配信形態は同じ。翌11月17日からは第3回までに短縮となる。
{ "id": "123520", "title": "元祖天才バカボン", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E7%A5%96%E5%A4%A9%E6%89%8D%E3%83%90%E3%82%AB%E3%83%9C%E3%83%B3" }
ビスク・ドールは、19世紀にヨーロッパのブルジョア階級の貴婦人・令嬢たちの間で流行した人形である。前身にあたる陶器の人形は1840年代よりドイツで作られていた。磁器製であったことに端を発して、(ポーセリン人形 ・磁器人形)とも呼ばれる。これらは100年以上が経過した現在、アンティーク・ドールと呼ばれる。 歴史 ビスク・ドールの「ビスク」とは、お菓子のビスケットと同じく、フランス語の「二度焼き=ビスキュイ」が語源である。人形の頭部、場合によって手や全身の材質が二度焼きされた素焼きの磁器製であったことに端を発している。当初は陶土を型に押し込んで作られたが、後に量産可能な液状ポーセリンの流し込みで作られるようになった。前者をプレスドビスクといい、後者をポアードビスクと呼び区別している。ポアードビスクの技法は1885年頃からあるようである。 元は衣服の宣伝用にミニチュア版の衣装を着させる目的で作られた観賞用の人形(大人の女性の姿をしたファッションドール)だったが、1855年のパリ万国博覧会に出品された市松人形の影響や、新富裕層の台頭などの社会的事情もあいまって、子供の姿をしたベベドールが登場した。 可動性の高いコンポジションボディのドールが作られ、玩具として量産された。 1880年代に、、ブリュ、ゴーチェ(Gaultier)などフランスのビスクドール製造は黄金時代を迎えた。 ウジェーヌ・アジェの残した当時の写真の中に、安い物も取り扱う百貨店ボンマルシェ(仏語ではcheapと言う意味)がドイツ製のビスク人形を店頭に並べている様子がわかる。日本でも、海外への輸出のため「モリムラブラザーズ」などが製造していた他、和製ビスク・ドールと言われている「サクラビスク」も作られた。しかし、やがてを経て、ゴムやセルロイド製のより廉価な人形が量産され、1930年頃には製造されなくなってしまった。 1927年(昭和2年)にアメリカから日本へ親善目的で贈られた友情人形(日本では通称「青い目の人形」と呼ばれている)は大半が親善団体が指定したメーカーの既製品(コンポジション・ドール)を元に手を加えられたものだが、少数ながらビスク・ドールも贈られている。 現在でもビスク・ドールの人気は根強く、ドイツ製の人形は数十ドル程度から手に入るが、骨董的価値及び美術性・希少性に応じて、ブリュやジュモートリスート(ロングフェイスジュモー)は、数万ドルで取引されている。 アンティーク・ドールおよび、復刻品のレプリカ、リプロダクションもビスク・ドールと呼ばれる。アンティーク・ドールの呼称は、アメリカで関税法が変更された1930年以前の製造物に対してのみ使う事が許されている。 代表的な製造会社 フランス (Jumeau 1842-99):ポートレイト、トリースト、デポゼ、テート ブリュ(Bru Jeune 1866-99):ブルベテ、サークルドット、テトゥー、ジュン、ジュンR フランソワ ゴーチェ(Francois Gaultier):ブロックレター、スクロール A.T.(ア・テー)(A.Thuillier 1875-93, 1896-98): 一度、工場を閉めたにもかかわらず、再びオープン、オープンマウスのドールを試みる。 シュタイナー(Jules Nicolas Steiner 1855-1910):数多くのモールドがある。 (1899-1955頃、ジュモー等フランスのドール製造会社の合同会社): 競争は止めて協力し合うというモットーで設立。 ドイツ (Armand Marseille):ビスクヘッドのみを製造。他社のヘッドも製造する。 ケストナー(Kestner&Co 1816-1930):ドールパーツの全てを製造した数少ないドール会社。 (Simon&Halbig 1869-1932):数多くのドール会社のヘッドを焼く。 ケマー&ラインハート(Kaemmer&Reinhardt):名前付きのキャラクタードールで有名。 ハインリッヒ ハンドワーク(Heinrich Handwerck):1902年に41歳のハンドワークの急死でK&Rが受け持つが、1921年に息子に返す。 ベア&プロシルト(1871-1919):1919年にブルーノ シュミットに買収される。 ブルーノ シュミット(Bruno Schmidt 1900-1950頃:ヘッドはB&Pに依頼、1919年にB&Pを買収する。 フランツ シュミット(Franz Schmidt 1889-現在): Steiner/シュタイナーと言う名のぬいぐるみ製造会社として現存する。 (Fleischmann&Bloedel):フレンチドールエデンべべを製造, SFBJに加盟(=投資) クリング(Kling 1834-1941):やパリアンドールを主に製造 日本 モリムラ(森村組、現ノリタケ) 主要な用語 ヘッド ショルダーヘッド 初期のファッションドールに多い。胸像のように頭部と胸部が一体化したもの。後に頭部と胸部がジョイントし、頭部が可動となる。 ターンヘッド 初期のファッションドールに見られる、首が少し右を向いたポーズで固定されたショルダーヘッド。 ドームヘッド 通常は目を入れるために頭頂部が開いているが、赤子人形など坊主頭のもの。 クローズマウス 口を閉じたもの。通常オープンマウスより高額になる。 オープンマウス 口を開いたもの。歯をつけられたり、頭の中が見えないよう赤い紙を貼られる場合もある。 オープンクローズマウス 口を開いた表情だが口の穴は開いていないもの。 スウィブルネック 可動の首。 フランジネック 壷のように開いた首でクロスボディにとめつける。赤子人形に多い。 アイ セットアイ 目を石膏で固定したもの。 スリープアイ 両目に錘をつけ可動するようにしたもの。 ペーパーウェイトアイ 中が空洞で無くガラスの塊で出来た目を指す。フランスの人形に多く見られる。ペイパーウエイト(paperweight)とは『紙抑え、文鎮』の意。 空洞の軽いブローアイに対して用いられた言葉。 ブローアイ 吹きガラスで作られた中が空洞の目を指す。因みにブロウ(blow)とは『吹く』の意。ドイツの人形に多く見られる。 アーモンドアイ ジュモーEJや刻印のジュモー等に見られる切れ長の細い眼を言う。東洋人の目は外国人にアーモンドアイと言われている。 ボディ キッドボディ 初期のファッションドール、ブリュなど。ショルダーヘッドにヤギ皮で作ったボディをつけたもの。可動性がほとんど無く、立たせて鑑賞する。初期には手までキッドで作られたが、後にひじから下がビスクのものが作られた。中でもブリュハンドは有名。 コンポジションボディ シュタィナーやジュモーのコンポジションボディは幾重もの平紙をプレスしたもので出来ており、非常に頑強に出来ている。 おがくずをにかわで固めたコンポジションで作った張子のようなボディもある。関節は当時高価だったゴムで繋がれ、可動性が高く、人形を子供用の玩具として広めるのに貢献した。 シュブロボディ ブリュのドール製造会社の購入者で後継者でもあるアンリ・シュブロが考案した細身のボディ。 レオン・カシミール時代のレザーボディには直立出来ないという欠点があり、それを修正するために考案される。 特徴は下半身にあり、足は木製、膝上は木をキッドスキンで包んであり、膝下は綺麗に彫られた木で出来ている。 クロスボディ キッドボディを布で作りパンヤなどを詰めたもの。大量生産された抱き人形などに使われた。通常、ビスク・コンポジション・セルロイド製の手がつけられる。 オールビスク ヘッド以外の部分もビスクで作った人形で、小さいサイズに見られる。
{ "id": "123523", "title": "ビスク・ドール", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%AB" }
ダニエル(ヘブライ語: דָּנִיּאֵל 現代ヘブライ語: Daniyyel, アラビア語: Dāniyāl, دانيال)は旧約聖書の『ダニエル書』に登場するユダヤ人男性。ユダヤ名がダニエルで、ベルテシャツァルはバビロンの宮廷でつけられた名前である。ダニエルとは、ヘブライ語で「神は私の裁判官である」という意味がある。キリスト教においては預言者だが、ユダヤ教では預言者とはみなされない。ダニエル書の伝えるダニエルの物語は以下のようなものである。 正教会でダニイルと呼ばれ聖人とされる。 経歴 紀元前6世紀、エルサレムを陥落させたバビロンのネブカドネツァル王は、自分の占領行政の官吏を養成するため、ユダヤ人の「王族と貴族の中から、体に難点がなく、容姿が美しく、何事にも才能と知恵があり、知識と理解力にとみ、宮廷に仕える能力のある」(ダニエル1:4)少年たちを選び出して連れてこさせ、カルデア語を学ばせた。 ベルテシャツァルと呼ばれることになったダニエルはその一人であった。ダニエルをリーダーとするシャドラク、メシャク、アベド・ネゴの四人組は、異邦人の地にあっても唯一の神への信仰を守りぬき、「異邦人の肉類と酒で自分を汚すまい」(ダニエル1:8)と誓っていた。ダニエルらはぬきんでて優秀であったため、王に仕えて重用された。 ダニエルはネブカドネツァル王の見た人の形をした、巨大な力ある像で、まぶしく光り輝き、ぞっとするほど恐ろしい姿の像、頭は純金、胸と両腕は銀、腹とももは青銅、すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土でできていて、見ているうちに、一つの岩が、超自然的な方法で山腹から切り出され、その岩は像に向かって突進し、鉄と粘土の足を粉々に砕き、像全体は倒れ、鉄、粘土、青銅、銀、金も砕けて破片の山と化し風に吹き飛ばされた悪夢を当て、以下のように解いた。「王よあなたは、あの金の頭です。しかし、王国の命運が尽きると、別の強国(メド・ペルシヤ)が代わって起こります。その国は、王の王国に比べると劣ります。この第二の国が倒れると、巨像の青銅の腹が表す第三の強国(ギリシヤ)が起こり、世界を支配するようになります。 続いて、鉄のように強い第四の国(ローマ)が起こり、その国は、鉄が打ち砕くように他の国々を粉砕し、征服していくのです。一部が鉄で、一部が粘土でできている足は、のちに第四の国が分裂することを示しています。分裂した国の一部は鉄のように強く、一部は粘土のようにもろいのです。この鉄と粘土の混合は、分裂した王国同士が支配者相互の政略結婚によって同盟を結び、勢力を強化しようとすることも示しています。しかし、それは成功しません。鉄と粘土とは混じり合わないからです。この王たちの時代に、天の神は、決して滅ぼされることのない一つの国を起こします。だれもこの国を征服できません。その国は、すべての国々を打ち砕いて滅ぼします。まさに永遠不滅の国なのです。これが、人手によらずに山腹から切り出された岩、鉄も青銅も粘土も銀も金もすべて粉々にしてしまったあの岩の意味するものです。偉大な神が、このように将来起こることを示したのです。」と。夢の謎を解き明かしたことでダニエルはバビロン全州の長官に任命された。また、ネブカドネツァルの子ベルシャツァル王が宴会中に壁に字を書く指の幻を見たときも、その文字『メネ』『メネ』『テケル』『パルシン』を読み、以下のように解読した。『メネ』は、数えられたという意味で、神が王の治世の日数を数えて、その日がもう尽きた意味、『テケル』は、はかりで量られたという意味で、王が神のはかりで量られ、審査に落ちたということです。『パルシン』は、分割されたという意味で、王の国が分割されて、メディヤとペルシヤに与えられる、解き明かしている。ペルシアがバビロンを征服したのち、メディア人ダレイオスもダニエルを重用したが、他の家臣の陰謀でダニエルはライオンの洞窟に投げ込まれることになった。しかし、ダニエルは神の力によってライオンに襲われることなく、逆にダニエルを陥れようとした者たちがライオンの餌となった。 ダニエルが主に祈っていると天使ガブリエルが現れ、メシアに関する定められた時についてのお告げを受けた事もある。「大いに愛せられている者」と呼ばれている事から、主のお気に入りだったとうかがえる。 旧約外典のダニエル書補遺には、ダニエルがキュロス2世王治下でベル神の祭司と争う物語、および二人の男に誣告された女スザンナを巧妙な裁判(スザンナが庭の樹木の陰で逢い引きしていたならば、その樹木の種類は何かと個々に尋ねると、二人はしどろもどろになって異なる樹木名を答えたので、事実無根と判明する)で救う物語が収録されている。後者からダニエルは裁判の守護聖人とされた。シェイクスピアの『ヴェニスの商人』では、ポーシャが肉を切り取っても良いという判決を下したので、シャイロックが名裁判官の例としてダニエルが引き合いに出すが、それはこの旧約外典の物語にちなんでいる。 ヘブライ語でシュシャンと呼ばれるスーサには、ダニエルの墓とされるもの(シューシュ・ダニエル)がある(画像)。 旧約聖書におけるダニエルの謎解き ネブカドネザル2世は夢の中で頭が純金,胸と腕が銀,腹と腿が青銅、すねが鉄、足は一部が鉄で一部が陶土できた像の夢を見た。そこに一個の石が投げつけられ陶製の足を砕き、像は粉々になり、跡形も無くなるが、石は山のようになって全地に拡がるという夢であった。ダニエルは、金の頭はネブカドネザル2世に代表される新バビロニア帝国であり、銀・青銅・鉄と陶土はその後に興るより劣った帝国(すなわちメド・ペルシヤ連合帝国・アレクサンドロス大王のギリシヤ帝国・ローマ帝国)を表し、最終的にこれらは永遠に続く神の王国によって滅ぼされるだろうと解いた。 次にネブカドネザル2世が別な不吉な夢を見た。それは天に達する一本の高い木に、豊かな実が実り、鳥が巣を作り、動物は木陰に宿っていたが、聖なる天使が下って来てその木を切り倒し、切り株だけを地中に残したというものであった。ダニエルは、木は栄光と権力を握る王自身を表し、主がすべてを支配する事を知らせるために、王は動物の境涯に落とされるであろうと解き、ネブカドネザル2世に間に合ううちにやり方を変えるように説いた。 次の話は、ベルシャザルが王宮で大宴会をしていたとき、一本の手が現れ宴会場の壁に「メネ、メネ、テケル、パルシン」と描いた。ダニエルは、メネは数えるという事であり、神があなたの治世を数えてそれを終わらせられたと解いた。テケルは量を計ることで、あなたは天秤にかけられ不足と見られたと解いた。パルシンは分けるという事で、あなたの王国はメディアとペルシャに与えられると解いた。
{ "id": "123524", "title": "ダニエル", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%8B%E3%82%A8%E3%83%AB" }
アンデレは、新約聖書に登場するイエスの使徒の一人。シモン・ペトロの兄弟であるとされている。西方教会、東方教会ともに聖人で記念日(聖名祝日)は11月30日。 「アンデレ」の表記は、格変化語尾をはずして名詞幹のみにした日本語聖書の慣用表記で、ギリシア語での主格表記はアンドレアス。 英語ではアンドルー(Andrew)、フランス語ではアンドレ (André)、ドイツ語ではアンドレアス (Andreas) 、スペイン語ではアンドレス (Andres)、イタリア語ではアンドレア (Andrea)、ロシア語ではアンドレイ、ウクライナ語ではアンドリーイ、ハンガリー語ではアンドラーシュ(András)またはエンドレ(Endre)。 概説 『マルコによる福音書』によると、兄弟ペトロと共にガリラヤ湖で漁をしていたときに初めにイエスに声をかけられ、弟子となった。弟子のリストの中でもペトロ、ヤコブ、ヨハネについで4番目にあげられている。 『ヨハネによる福音書』では、シモン・ペトロとアンデレの兄弟はもともと洗礼者ヨハネの弟子であったが、イエスを「神の子羊だ」というヨハネの言葉を聞いてイエスに従ったことになっている。他には、五千人にイエスが食べ物を与える物語では、アンデレはパンと魚を持った少年を連れてきてイエスに紹介し、食べ物が増える奇跡を導く役割を果たしている。また、ギリシャ人がイエスに会いにきたときも、その間を仲介している。 エウセビオスは、オリゲネスが「アンデレは小アジアとスキタイで伝道し、黒海に沿ってヴォルガ川まで行った」と述べた、と伝えている。そのため、アンデレはルーマニアとロシアの守護聖人になった。アンデレはルーマニアではアンドレイ、ロシアではアンドレイ・ペルヴォズヴァーンヌィイと呼ばれる。伝説上ではアンデレはビザンティウムの最初の司教であり、そのため正教会のコンスタンディヌーポリ総主教庁は初代総主教をアンデレとしている。 また伝承ではアンデレはギリシアのアカイア地方でX字型の十字架で処刑され、殉教したことになっており、絵画においてもしばしばX字型の十字架と共に描かれている。十二使徒のひとりとして崇敬され、カトリック教会、正教会、聖公会などで聖人とされる。前述したロシアとルーマニアのほか、スコットランドとギリシャでも守護聖人とされており、アンデレが処刑されたとされるX字型の十字架は「アンデレの十字架」と呼ばれ、アンデレを守護聖人とする人物や団体の旗や紋章に採り上げられる。スコットランドの国旗「聖アンドルー旗」(セント・アンドルー・クロス、青地に白)、ロシア海軍の軍艦旗「聖アンドレイ旗」(白地に青)などが有名である。ロシアでは「」と呼ばれる勲章も存在する。 ブルゴーニュ公フィリップ善良公はアンデレを守護聖人とする金羊毛騎士団を設立し、白地に赤色の聖アンデレ十字を騎士団及び公国の旗として用いた。この旗は騎士団を継承したスペイン及び同領ネーデルランドで使われた。
{ "id": "123525", "title": "アンデレ", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AC" }
キレネのシモン(Simon)は新約聖書の共観福音書に登場する男性。イエスの十字架を担いで歩いたことで知られる。 共観福音書すべてにその名が現れるシモンはキレネ(現代のアフリカ北部)の出身でエルサレムに巡礼に来ていたと思われる。そこで十字架を担って歩くイエスの姿を見る。イエスが力尽きたため、たまたまそこにいたシモンが兵士によって無理に十字架を担がされた。(マタイ27:32、マルコ15:21、ルカ23:26) マルコ福音書にはシモンは「アレクサンドロとルフォスの父」であると記されていることから、シモンが後に教会の一員になったのではないかと見る向きもある。
{ "id": "123526", "title": "キレネのシモン", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AC%E3%83%8D%E3%81%AE%E3%82%B7%E3%83%A2%E3%83%B3" }
アグリッパ2世(27年頃 - 100年頃)は、名をマルクス・ユリウス・アグリッパ(Marcus Julius Agrippa)という古代ユダヤの領主。父はアグリッパ1世。ベレニケとドゥルシラの2人の妹がいた。ローマ帝国と親密な関係を維持して、ローマ派遣の総督と共にユダヤを統治した。『使徒行伝』ではアグリッパ王と呼ばれている。 概説 アグリッパ2世は、ヘロデ大王の曾孫に当たるが、第1次ユダヤ戦争の際、ローマ軍と同盟してヘロデ大王が造営したエルサレム神殿を破壊したことが知られている。なぜなら、アグリッパ2世の血には、敵対するハスモン朝とヘロデ朝の血が交じり合っているからである。曽祖父は、ハスモン朝を蹂躙して乗っ取ったヘロデ大王、その妃である曾祖母は、ハスモン朝の皇女。そして祖父が、ヘロデ大王によって処刑されたヘロデ大王の王子、その妃がヘロデ大王の妹サロメの娘。そしてその二人の間に生まれたのが父アグリッパ1世(紀元前10年 ‐ 紀元後44年)である。 アグリッパ2世はクラウディウス帝の宮廷で育った。伯父の(アグリッパ1世の兄)の死によって48年にエルサレム神殿の監督職を引き継ぐが、クラウディウス帝の引き立てでカルキスの四分封領主となる。のちにカルキスの代わりに、フィリポとリュサニアスの総督領主となる。ユダヤ戦争時には、後に皇帝になるウェスパシアヌスを、2000人の兵を貸与して支援している。その意味でユダヤ教徒ではあっても、彼は完全なローマ人であったといえよう。100年ごろ、トラヤヌス帝治下のローマで死去した。ヘロデ大王に始まる「ヘロデ王朝」に連なる最後の支配者となった。 新約聖書の『使徒行伝』25章~26章によると、アグリッパ2世は、妹のベレニケと共に総督フェストゥスをカイサリアに訪問した時、とらわれの身であったパウロの話を聞く機会を持ち、その言葉に感銘を受けたという。これは59年ごろの出来事だと考えられている。 一方でアグリッパが常にベレニケを帯同していたことは、ユダヤ人たちに近親相姦の疑いを常に抱かせることになった。さらにその妹ドゥルシラは総督フェリクスの妻であった。
{ "id": "123527", "title": "アグリッパ2世", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%912%E4%B8%96" }
コルネリウス(希:)は、新約聖書の『使徒行伝』10章に登場するローマの軍人で、百人隊長。『使徒行伝』10章1-38節によれば、ペトロから洗礼を授かった最初の異邦人。 コルネリウスは元来「神を畏れる人」といわれる非ユダヤ人のユダヤ教信徒であった。ユダヤ教において、神を畏れる人とは、割礼を受けない(完全に改宗していない)がユダヤ教の教えに従った信仰生活を送る信徒を指す。 カイサリア(現パレスティナ北部の海岸都市)に駐在していたコルネリウスはある日、夢で使徒ペトロを自宅に招くよう告げられる。ペトロにも異邦人の改心というお告げがあったため、その招きに答える。ペトロがイエス・キリストについてコルネリウスに話したところ、コルネリウスと一同の上に聖霊が下った。ペトロはユダヤ人以外の人間に聖霊が下ることを驚きつつ、洗礼を受けるよう命じた。ペトロがことの次第をエルサレムの教会に報告すると人々は異邦人が神の言葉を聞き入れたことに大変驚いた。 その後、キリスト教はユダヤ人よりも、異邦人といわれた非ユダヤ人によって受け入れられていく。コルネリウスの物語は初期キリスト教がユダヤ教の一派という枠組みを超えて世界宗教へと変容していく過程の第一歩を示していると考えられている。
{ "id": "123528", "title": "コルネリウス (聖書)", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%20%28%E8%81%96%E6%9B%B8%29" }
フィリポは新約聖書に登場するイエスの弟子、十二使徒の一人。文語訳聖書、口語訳聖書、新改訳聖書の表記ではピリポ。日本ハリストス正教会での表記はフィリップ。伝統的教会すべてにおいて聖人とされる。『使徒行伝』に登場する福音宣教者フィリポとは別人。 フィリポという名前はギリシア語の男性名で、ユダヤ人としての名は別にあったと想定される。なおフィリポ、ピリポという表記は「馬を愛する者」を意味するピリッポス(フィリッポス)の、日本語聖書翻訳の新共同訳聖書における、格変化語尾をはずして名詞幹のみにした慣用表記である。 フィリポは四福音書の十二使徒のリストすべてに登場するが、その記事はあまり多くなく、『ヨハネによる福音書』に集中している。それによればフィリポはベトサイダの出身で、イエスに直接招かれて弟子になる。フィリポは知り合いのナタナエルにイエスを紹介し、ナタナエルも弟子になった。また、「ギリシャ人」(これはギリシア語を話すユダヤ人である可能性もある)がイエスに会いにきたときには、まずフィリポに仲介を頼んでいる。 崇敬 西方教会における記念日はもともと5月1日であり、聖公会・ルーテル教会においては現在もその日に記念されている。ローマ・カトリック教会においては1955年から5月11日に、さらに1969年から5月3日に移動されて現在に至っている。 正教会においては、11月14日(ユリウス暦をもちいる場合。グレゴリオ暦11月27日に相当)フィリップ(フィリポ)の祭日をもって、降誕祭前の斎の開始とし、これを「フィリップの斎」と呼ぶ。
{ "id": "123529", "title": "フィリポ", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%9D" }
バルトロマイ(ギリシャ語:)は、新約聖書に登場するイエスの使徒の一人。日本正教会ではワルフォロメイと転写される。 皮剥ぎの刑で殉教したといわれ、ミケランジェロの「最後の審判」にも剥がれた自分の皮とナイフを持った姿で描かれている(この皮の顔はミケランジェロの自画像になっている)。バル・トロマイという名の語義は「タルマイの子」でタルマイは「沢山の溝を持つ」の意で、土地を持つ豊かな人、つまり地主を指している。 記念日は8月24日とされる。 共観福音書の弟子のリストではバルトロマイとしてあらわれるが、他に記述はみられない。上述のバルトロマイの語義から、彼の実名ではなく、父親の名前に由来する呼び名と思われること、ヨハネによる福音書の弟子のリストではバルトロマイの名前はなく、代わりにナタナエルという人物があげられていることから、伝統的にバルトロマイの本名がナタナエルであるという見方がされてきている。 エウセビオスやヒエロニムスによれば、バルトロマイはインドに渡って伝道したという。また伝承ではタダイとともにアルメニアに宣教したとされ、この地方では篤く崇敬される。アルメニア使徒教会の名は、「タダイとバルトロマイによって建てられた教会」を自負するところから来ている。 転写 時代、地域によって様々な音写・転写や訛化が存在する。 バルトロマイオス - 古典ギリシャ語再建音 ヴァルソロメオス - 中世・現代ギリシャ語 ヴァルフォロメイ - 教会スラヴ語・ロシア語 バルトロメウス(Bartholomaeus) - ラテン語 バルトロメオ(Bartolomeo) - イタリア語 バルトロメウ(Bartolomeu) - ポルトガル語 バルトロメ(Bartolomé) - スペイン語 バルテルミー(Barthélemy) - フランス語 バーソロミュー(Bartholomew) - 英語 バルタ(Barta, Bartha) - ハンガリー語、チェコ語 バールタ(Bárta) - チェコ語 バルトシュ(Bartosz) - ポーランド語
{ "id": "123531", "title": "バルトロマイ", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%82%A4" }
マタイは、新約聖書の福音書に登場する人物でイエス・キリストの十二使徒の1人。マタイはヘブライ語系の名前で、新約聖書原文のギリシア語表記はマタイオス (Maththaios) である。日本語ではマテオ、マトフェイとも表記する。聖書によればイエスの弟子となる以前は徴税人(en)であった。キリスト教会では伝統的に新約聖書所収の『マタイによる福音書』の著者・記者とみなして来たが、近代以降の聖書学では使徒マタイと福音書記者マタイは別人であるとする説が有力である。 マタイは後に東方諸教会・正教会・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会で聖人とされた。 各国語での表記 ラテン語ではマタエウス、フランス語ではマテュー、英語ではマシュー、ドイツ語ではマテウス、ロシア語ではマトフェイ となる。日本語では「マタイ」という表記と共に、まれにイタリア語に由来する「マテオ」 という表記が用いられることがある。日本のカトリック教会でも「マテオ」という表記が用いられていたがこれはラテン語に基づく。Matthaeusの奪格型Mattaeoを教会式発音によってカナ転写したものである。日本ハリストス正教会ではロシア語に由来する「マトフェイ」という表記を用いる。 生涯 『マタイによる福音書』9:9によればローマ帝国の徴税人であったが、イエスの召命に応えて弟子となったとされる。『マルコによる福音書』2:13以下と『ルカによる福音書』5:27以下では同じような記述がみられるが、呼ばれた弟子の名前は「アルファイの子レビ」または「レビ」となっている。このため、伝統的にはマタイとレビ(レヴィ)は同一人物をさすと解釈されてきた。イエスの弟子となったときの記事を除けば、聖書はマタイの言動を伝えていない。ただし『使徒言行録』にはキリストの昇天後に第1章13節で名前を列挙された使徒11人の一人としてマタイの名前があり、他に「十一人」と表現されている第1章26節と第2章14節でマタイの存在が知られる。 マタイに関して新約聖書以外に種々の伝承があるが史実は不明である。キリスト教会ではマタイが殉教したとして聖人として崇敬しているが、2世紀の著名な神学者アレクサンドリアのクレメンスはその死は殉教ではないと伝えている。マタイが宣教した地域についても伝承によってエチオピア、パルティア、ペルシアと異なった説がある。なお、アレクサンドリアのクレメンスはマタイが宣教師としてパレスチナの地を離れたのはイエスの刑死の12年後と伝えている。 福音書記者マタイについて 『新約聖書』所収の四福音書のうち『共観福音書』3書は本文中に記者の名前が無く、マタイ、マルコ、ルカという各記者の名は2世紀になって現れるものでだれが書いたかは不明であるが、キリスト教会では古代以来伝統的に『マタイによる福音書』の記者は使徒マタイとみなして来た。ヒエラポリスの教会の主教の2世紀の言葉「マタイはヘブライ語で言葉(タ ロギヤ)を編纂した。しかし各人が可能なように翻訳した」が「教会史の父」4世紀のエウセビオスによって伝えられている。しかし近代以降の聖書学では使徒マタイと福音書記者マタイは別人であるとする説が有力である。マタイという名はアラム語起源のもので、使徒マタイが初期教団内のヘブライズムの中心人物のひとりであったことが福音書記者伝承に反映された可能性が示唆される。一方で現代のキリスト教会内で聖書信仰の福音派など、使徒マタイが『マタイによる福音書』の記者であると理解している立場もある。 美術作品におけるマタイ マタイを描いた美術作品では特にカラヴァッジオのものが著名である。 マタイはしばしば天使と共に描かれる。これは『エゼキエル書』第1章に登場する生き物の持つ4つの顔である天使(翼がある人間)、獅子、雄牛、鷲をそれぞれ各福音書記者のアトリビュート(持ち物)としたキリスト教の伝統によっている。なお獅子はマルコ、雄牛はルカ、鷲はヨハネのアトリビュートである。マタイのアトリビュートとしては天使の他に財布、福音書、ゆりかごの中の嬰児、槍、斧がある。 正教会ではイコノスタシス(イコンを掲げる衝立て)の「王門」または「美しの門」と呼ばれる開口部の扉にマタイを含む福音書記者のイコンを掛ける。
{ "id": "123532", "title": "マタイ", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%BF%E3%82%A4" }
イスカリオテのユダ(または , Yehûdâh ʾΚ-Qǝriyyôt)は、新約聖書の4つの福音書、使徒言行録に登場するイエスの弟子のうち特に選ばれた十二人、いわゆる使徒の一人である。「イスカリオテ」は 「ケリヨトの人」に由来すると考えられ(ケリヨトはユダヤ地方の村の名)、ユダ(Yehûdâh, イェフーダー)とは「ヤハウェに感謝する」という意味。 ほかの弟子はガリラヤ出身であったのに対し、ユダの出身はガリラヤではないとされている。イエスを裏切ったことから、裏切り者の代名詞として扱われることが多い。なお、ユダは12番目の使徒であり、彼が裏切りの末死んだためにマティアが新しい12番目の使徒となったのであって、イスカリオテのユダを第13使徒とするのは誤りである。 使徒ユダ(タダイ)とは別人である。また、新約聖書の『ユダの手紙』の著者も別人である。 『ユダの福音書』などの外典にも現れる。 イエス一行の会計係を任されており、不正を行う事が可能な立場にいた。 新約聖書の記述 ユダがいつ弟子になったかという記述は福音書にはみられない。『ヨハネによる福音書』は「イスカリオテのシモンの子ユダ」と紹介している。 『マタイによる福音書』ではユダは金目当てで祭司長たちにイエスの引き渡しを持ちかけ、報酬として30シェケルを貰う約束をとりつけている。『ヨハネによる福音書』では高価な香油をイエスの足にぬったマリアを非難する。そこに続けて彼が使徒たちの会計を任されながら、不正を行っていたと記されている。 複数の福音書の最後の晩餐の場面ではイエスに裏切りを予告され、『マルコによる福音書』では「生まれなかった方が、その者のためによかった。」とまでイエスに言われている。 ユダは祭司長たちと群衆をイエスのもとに案内し、接吻することでイエスを示して引き渡した。 その後、『マタイ福音書』では、ユダは自らの行いを悔いて、祭司長たちから受け取った銀貨を神殿に投げ込み、首を吊って自殺したことになっている 。 『使徒言行録』では、ユダは裏切りで得た金で買った土地に真っ逆様に落ちて、内臓がすべて飛び出して死んだことになっている。 解釈 福音書中でイエスの側近の不信心の逸話は、弟子たちの離反、ペトロの否認、疑い深いトマス、逃げ去った女たちなど事欠かず、中でもユダの裏切りは衝撃的だが、これには不可解な点がある。 イエスは裏切りを予知していた。ならばなぜ回避できなかったのか? ユダはいつから背信の心を持ったのか? 裏切りの動機は何か? そもそも彼の自由意志によるものか? 多くの神学者、哲学家がこの問題に取り組んで来た。 一例を挙げれば、スイスの神学者のカール・バルトは、ユダはイエスを十字架に架けキリストにする重要な役割を果たした人物であり、「神の使わした者」と考えた。この考えは突飛なものではない。たとえば『ヨハネによる福音書』のイエスは最初から裏切者が誰であるかを知っていた。しかし最終的には最後の晩餐の折に裏切りを予告したのち、 イエスは起こるべきことをすべて知っており、むしろ進んでユダに指図しているようにすら見える。共観福音書が伝える「ユダの接吻」も、『ヨハネによる福音書』のイエスはそれを受けず、自ら進み出て名乗った。 すでに2世紀後半のキリスト教父文書には、異端の説として「イエスを裏切ったユダが実はイエス・キリストの弟子の中の他の誰よりも真理を授かっており、裏切りの神秘を達成した」との考えがあったことを告げている。 ユダに貼られた「裏切り者」のレッテルと剥がして復権させようという試みは大きく2種類に分類できる。 「裏切り」は人間性とセットになっているものであり、ユダのみの特性ではないとする見方 「裏切り」という行為そのものの評価に両義的な視点(「ユダの裏切りは必要悪であった」というような)を加えるという見方 また、東ヨーロッパにはオイディプス伝説をモチーフとした、ユダの裏切りとその末路を出生から定められた運命とする民話がいくつも見られる。その類話がヤコブス・デ・ウォラギネによる聖者伝集『レゲンダ・アウレア』「使徒聖マッテヤ」の項に収録され、聖伝解釈のひとつとして中世のカトリック文化圏全域に広まった。 芸術作品の中に見られるユダ 多くの「最後の晩餐」を描いた絵で、ユダは次のように表現されている。 一人だけ、頭に光冠(後光)が描かれない。 一人だけ、机の反対側に座っている。 衣は黄色の場合が多い。 レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』では、伝統的な表現法を廃し、みなと同じ側に座らせ、金の入った袋と思しきものを握らせている。 イエスを逮捕する時に行なった接吻・「ユダの接吻」は非常に有名で、後世にも『ゴッドファーザー PART II』でも描写されているようにイタリアのマフィアが裏切り者を処刑する際、この行動を真似るという風習が存在した(死の口づけ)。 ダンテの叙事詩『神曲』地獄篇においては、地獄の最下層、裏切者が葬られる地獄第九圏の氷地獄コキュートスの中央で、魔王に噛み締められるというもっとも残酷な罰を受ける最重罪人として描かれている。コキュートスは四円に区切られているが、このうち中央の円はユダに因む「ジュデッカ」と命名されている。 邦題『最後の誘惑』として映画化されたニコス・カザンザキスの小説『キリスト最後のこころみ』は、イエスに信頼され、裏切りの役を引き受けるというユダ解釈を示している。 太宰治の短編『駈込み訴え』は、イエスを裏切る愛憎入り混じった複雑な感情を、ユダの一人称独白体で描いている。 ロックオペラ『ジーザス・クライスト=スーパースター』では、ジーザスを愛するがゆえに、その暴走を止めるために裏切る。そしてその役目を負わせた神に呪いの言葉を吐き、自殺する。 武田泰淳の小説『わが子キリスト』に登場するユダは沈着冷静な現実主義者であるが、同時に虐げられたユダヤの民衆に対して強い同胞愛を抱く人物でもある。新興の大商人であるユダは貿易を軸とした経済成長によってユダヤの民衆を貧困から解放しようと考えているが、その一方、宗教という自分とは異なる立場から人々を救おうするイエスをユダヤの民に必要な救世主と認めており、やがてイエスの処刑が避けられなくなると自らを犠牲にしてその「復活」を画策する。 ヘンリック・パナスによって書かれた『ユダによれば 外典』では、ユダは現実主義者として描かれ、ユダを通して語られるイエスも神の子ではなく天賦の才を持った人間として描かれる。ユダはイエスのことは裏切っておらず、教えを引き継ぐように言われる。しかし、誰ひとりとしてユダを信じようとはぜず異端者扱いされた、としている。 さいとう・たかをの劇画『ゴルゴ13』の主人公・ゴルゴ13のコードネームは、ゴルゴダの13番目の男=ユダを示しているとされている。エピソードのひとつ「15-34」では、自身をキリストと認識したコンピュータプログラム「ジーザス」が、2000年前の復讐としてゴルゴを抹殺しようとする。 安彦良和の漫画『イエス』では、ユダはイエス一行の会計係として登場し、イエスの正体を見極めようとして行動を共にする現実主義者として描かれている。またイエスに敵対する大祭司カヤパのスパイとしても暗躍し、イエスを利用しようとする熱心党のバラバの行動にも注視している。作品に登場する架空の弟子ヨシュアに裏切りを非難されると、イエスについて「ただ並よりも物事のよく見える人間」であって、彼を救世主に祭り上げたのは弟子たちの愚かさによるものだと語った。 中村光の漫画『聖☆おにいさん』では、ダンテの『神曲』をほぼなぞっているが、(ギャグ漫画という性質はあるものの)地獄から解放され、イエスや他の使徒とも和解していることが描写されている。本作は大英博物館でも展示された。 赤松健の漫画『UQ HOLDER!』では、「結城夏凜」という名前で登場。「神の呪い」により体を世界から断絶されたことで体に起きた事象はすべて書き換えられるため、不死身となっている。 水無月すうの漫画『JUDAS』では主人公として登場(JUDAS/ジューダスはJUDA/ユダの英語読み)。筋骨たくましい青年として描かれ、死神として依り代を使役し狩る。ヨハネの黙示録を引き起こすペテロ筆頭の他の十二使徒と戦う設定になっている。
{ "id": "123533", "title": "イスカリオテのユダ", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%86%E3%81%AE%E3%83%A6%E3%83%80" }
アルファイの子のヤコブは、新約聖書に登場するイエスの使徒の一人。 『マルコによる福音書』(3:18)などの使徒リストに「アルファイの子ヤコブ」として登場する以外に言行の記録は無い。 マルコ福音(15:40)に「小ヤコブとヨセの母マリア」が登場し、伝統的にアルファイの子ヤコブがこの「小ヤコブ」とされる。これと区別して、ゼベダイの子のヤコブを大ヤコブと呼ぶことがある。 マルコ福音(6:3)、マタイ福音(13:5) に、イエスの兄弟としてヤコブの名が挙げられており、西方を中心に流布する伝承では、これも同じ人物として、アルファイの子のヤコブをイエスの兄弟とする。なおカトリックなどでは実の兄弟ではなく、従兄弟とする。 この伝承では、マルコ福音の「小ヤコブとヨセの母マリア」とヨハネ福音(19:25) (イエスの)「母の姉妹、クロパの妻マリア」とを同一人物とする。また父親であるアルファイはの異名であり(「アルファイ」はギリシャ語名で「クロパ」はアラム語名とされる)、ルカ福音(24:18)に登場するクレオパも同一人物とする。 『使徒言行録』(15:13)などに登場するヤコブ (イエスの兄弟)は一部の伝承ではアルファイの子のヤコブであるとされていたことがあるが、近代の聖書学者は彼らを区別する。
{ "id": "123534", "title": "ヤコブ (アルファイの子)", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%82%B3%E3%83%96%20%28%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%81%AE%E5%AD%90%29" }
ゼベダイの子のヤコブは、新約聖書に登場するイエスの使徒の一人で、使徒ヨハネの兄弟である。アルファイの子ヤコブと区別して「大ヤコブ」とも言われる。聖人の概念を持つ全ての教派で、聖人として崇敬されている。正教会では聖福音者イオアンの兄聖使徒イアコフと呼ばれる。 『マルコによる福音書』1:19-20によるとヤコブは父ゼベダイ、兄弟ヨハネと共にガリラヤ湖畔の漁船の中で網の手入れをしていたところをイエスに呼ばれ、そのまま父と雇い人を残してヨハネと共に弟子になった。彼ら二人は「ボアネルゲス」(雷の子ら)とよばれていたようである(→ゼベダイの子)。ヤコブはエルサレム教会においても一貫して中心的な立場を占めていたが、『使徒行伝』12:2によるとユダヤ人の歓心を買おうとしたヘロデ・アグリッパ1世によって捕らえられ、殉教したという。44年頃のことと推定される。 崇敬 9世紀、ヤコブの遺体とされるものが、遥か遠くスペインの、現在のサンティアゴ・デ・コンポステーラの地で”奇跡的に発見された”とされる。その頃のスペイン地域は、イベリア半島においてのレコンキスタの最中であり、イスラム勢力と闘っていたキリスト教勢力を守護する、またはキリスト教徒勢力がイベリア半島を制圧する行動のシンボルとして熱狂的に崇められた。このためスペインの守護聖人とされる(聖ヤコブはスペイン語で「サンティアゴ(Santiago)」となる)。 このためサンティアゴ・デ・コンポステーラは、イベリア半島のみならず、西方カトリック世界における代表的な巡礼地となり、三大巡礼地のひとつに数えられるに至った。巡礼路は整備され、巡礼を世話することを目的とする修道院が配置されるに至った。いまも同地は巡礼の聖地として信仰を集めている。巡礼路の中核をなすものは、隣国フランスに発し、ピレネー山脈を越える巡礼路である。詳細はサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路を参照。 ホタテ貝はヤコブのシンボルで、フランス語ではホタテ貝を「聖ヤコブの貝」(coquille Saint-Jacques、コキーユ・サンジャック)と呼ぶ。 英語圏で多いジャック(Jack)の名は、彼の名(ジェイコブ)か、あるいは旧約聖書に登場するユダヤ人の祖ヤコブに因むJamesまたはJacobの愛称である。ただし、ヨハネを表すJohnの愛称である場合の方が多い。なお、フランス語のジャック(Jacques)はヤコブに相当する名前である。 カトリック教会における記念日は7月25日。正教会での記憶日は4月30日(ユリウス暦を使用する正教会では5月13日に相当)。
{ "id": "123535", "title": "ヤコブ (ゼベダイの子)", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%82%B3%E3%83%96%20%28%E3%82%BC%E3%83%99%E3%83%80%E3%82%A4%E3%81%AE%E5%AD%90%29" }
ステファノは、新約聖書の『使徒行伝』に登場するユダヤ人キリスト教徒(35年または36年頃没)。キリスト教における最初の殉教者、すなわち信仰のために自らの命を犠牲にする者であったとされている。ラテン語ではステファヌス、ギリシャ語ではステファノスないしはステパノス(・)とも表記する。日本ハリストス正教会(正教会)では初致命者首輔祭聖ステファンと呼ばれている。 記憶日(記念日)は8月3日および12月26日。8月3日は、彼の遺体がホノリウス帝の治下で発見された日であるとされる。 事績 その名前が明らかにギリシャ風であることからも分かるように、ステファノはギリシャ語を話すユダヤ人(ヘレニスト、ユダヤ系ギリシア人)であり、初代教会において彼はヘレニストの代表であった。初代教会においてヘブライ語=ユダヤ語を話すユダヤ人(ヘブライスト)とヘレニストの間に摩擦が生じたため、問題解決のために使徒たちによって選ばれた7人(他にプロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、ニコラオ、フィリポ)の一人である。なお、この7人の選定を、キリスト教では伝統的に聖職位階の一つである助祭(輔祭)職の選定とみなしている。 ステファノは天使のような顔を持ち、「不思議な業としるし」によって人々をひきつけたため、これをよく思わない人々によって訴えられ、最高法院に引き立てられた。そこでもステファノはユダヤ人の歴史を引き合いにしながら「神殿偏重に陥っている」とユダヤ教を批判したため、ファリサイ派によって石打ちの刑に処せられた。この場にサウロ(後のパウロ)が立ち会っていたという。ジャン・ダニエルーはこの殉教の裏側にキリスト教内部のヘレニストとヘブライストの立場の違いを見ている。 ステファノの崇敬 ステファノの墓が公式に定められたのは415年である。これはエルサレムの北部、郊外にあって、多くの巡礼を集めた。 西方キリスト教では12月26日が特に「ステファノの日」と呼ばれる。アイルランド、イタリア、オーストリア、クロアチア、フィンランド、ドイツ、スイスで公休日である。またルーマニアでは12月27日がステファンの日として公休日となる。フランスではアルザス地域圏とモゼル県でのみ、「サンテチエンヌ」として公休日となる。スペインでは、カタロニア州限定ではあるが、ステファンの日「サン・エステーベ」は銀行休日である。 異形 ステファノは最初の殉教者として崇敬され、キリスト教国では広く洗礼名として用いられる。 ステファノス(ギリシャ語) ステファノ (イタリア語) スティーヴン(英語) エチエンヌ(フランス語) シュテファン(ドイツ語・セルビア語) エステーベ、エステバン(スペイン語) ステファン、ステパン(ロシア語等スラヴ語圏) イシュトヴァーン(ハンガリー語)
{ "id": "123536", "title": "ステファノ", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%8E" }
テモテ(希:Τιμόθεος、ラテン文字転記:Timotheos)は、新約聖書の『使徒行伝』に登場するリュストラ(現代のトルコ南部)出身の初期キリスト教徒でパウロの協力者、弟子。ギリシア語ではティモテオス。東方諸教会、正教会、カトリック教会、聖公会、ルーテル教会で聖人。伝承では殉教者(致命者)とされる。正教会での記憶日は1月22日(ユリウス暦使用教会では2月4日に相当)。正教会では、使徒の称をもって呼ばれる七十門徒の一人に数えられることから「聖使徒ティモフェイ」と呼称される。 『使徒行伝』によれば、テモテの父はギリシア人で母はユダヤ人であった。パウロはテモテを気に入り、自らの宣教旅行に連れて行きたかったので、ユダヤ人の手前、彼に割礼を受けさせた。これは西暦50年前後のことであると推察される。テモテはパウロの第二回宣教旅行、第三回宣教旅行に同行し、パウロのよき協力者となった。テモテはパウロに同行するほか、マケドニアなど、パウロがすでに宣教活動を行った場所に派遣されて、指導に当たっている。 この宣教旅行の間に書かれたと想定される『コリントの信徒への手紙二』からも、テモテがパウロのよき協力者であったことがわかる。ここではパウロはテモテをコリントスの教会に派遣し、その指導に当たらせようとしている。また『フィリピ人への手紙』などでは、テモテはパウロと並んで書簡の差出人とされている。テサロニケの信徒への手紙二の著者とする説もある。 のちの伝承によれば、65年パウロはテモテを按手し、エフェソスの主教(司教)とした。テモテは15年間主教としてエフェソスの教会を指導した(ただし別の伝承ではテモテは90年または93年に死んだとされている)。エフェソスの多神教徒が、テモテに自分たちの神を礼拝させようと強制したが、テモテは従わず多神教徒に福音を説いた。激怒した多神教徒はテモテを街路にひきずりだし、石を投げて殺した、と伝える。 新約聖書にある『テモテへの手紙一』および『テモテへの手紙二』はパウロがこのテモテにあてる形で書かれている書簡であるが、現代の自由主義神学、高等批評の研究では、パウロの死後、他の著者によって書かれたものであると推測するものもいるが証明はされていない。 聖書信仰に立つ福音派では、聖書の自己証言により、パウロによってテモテへの手紙が書かれたと認められている。
{ "id": "123538", "title": "テモテ", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%A2%E3%83%86" }
ニコデモは新約聖書のヨハネによる福音書に登場するユダヤ人であり、イエスに共鳴した人物として描かれている。 ヨハネ福音書によればニコデモはファリサイ派で最高法院の議員であったが、イエスに敬意を払っており、夜ひそかにイエスを訪れ、問答をする。(ヨハネ3:1-21)ユダヤ人指導者たちがイエスを非難する場では「我々の律法では、罪の証が無ければ裁かないではないか」と、彼を弁護している。(ヨハネ7:51)イエスの処刑後は、使徒や他の弟子たち、アリマタヤのヨセフとともにイエスの遺体を引き取って、埋葬している。 正教会の伝承では、ニコデモはこの後キリスト教徒となり、ユダヤ人に殺されて殉教したとする。復活大祭の2週後の主日(日曜日)に、イエスの葬りに参加した他の人物、アリマタヤのヨセフ、携香女らとともに記憶される。 新約聖書外典にはこの人物の名前をとった『ニコデモによる福音』というものがある。 伝説によれば後に木彫りのキリストの磔刑像を製作したという。イタリアはルッカのルッカ大聖堂に現存する『(聖顔)』である。 しかし新約聖書中にはニコデモが信仰告白をしたという明確な記述がなく、カトリックとプロテスタントの宗教分裂の時代にはこれが原因で「ニコデモ主義」と批判された。
{ "id": "123539", "title": "ニコデモ", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%87%E3%83%A2" }
バラバは、新約聖書の福音書に登場するユダヤ人の強盗・囚人。イエスの代わりに恩赦を受け、釈放された。 バラバの赦免 マルコによる福音書によれば、過越し祭のたびの慣例となっていた罪人の恩赦にあたって、総督ピラトはイエスの放免を期して、バラバかイエスかの選択を民衆に迫った。しかし祭司長や長老たちにそそのかされた群集はバラバの赦免とイエスの処刑を要求。ピラトは不本意ながらこれに従ったため、バラバは釈放された。 バラバの罪状 バラバの罪状は福音書によって異なっている。罪状については触れず(マタイ)、暴動と殺人(マルコ)、暴動と殺人(ルカ)、強盗(ヨハネ)である。 バラバ・イエス 新共同訳、フランシスコ会訳聖書などでは「バラバ・イエス」(マタイ27:16-17)と訳されている。イエス・キリストとは同じイエスという名前であったことになる。本文批評学上は、イエスの名前がバラバと同じであることに対する不快感から「バラバ・イエス」の、「イエス」を意図的に取り除いたとしている。原典に「イエス」の言葉がないのに書き写したクリスチャンが付け加えるということはありえがたいことであるからである。さらに、「イエス」とはありふれた名前であり、少しも不自然ではない。「バラバ」とは「アッバスの子」を意味するが、アラム語の発音での「バラバ・イエス」は「御父(アバ)の御子(イエス)」に非常によく似ている。同じイエスという名を持った2人の人物がいるなら、「どちらのイエスの釈放を望んでいるのか? アッバスの子のイエスか? それとも、メシアのイエスか?」という読み方ができる。 バラバの登場する作品 小説『バラバ』(Barabbas) 1950年 ペール・ラーゲルクヴィスト 尾崎義 (訳) 岩波文庫 赤 757-1 1974年 映画『キング・オブ・キングス』(The King of Kings) 1927年 米国 監督:セシル・B・デミル、イエス・キリスト:H・B・ワーナー、バラバ:ジョージ・シーグマン 映画『キング・オブ・キングス』(King of Kings) 1961年 米国 監督:ニコラス・レイ、イエス・キリスト:ジェフリー・ハンター、バラバ:ハリー・ガーディノ 映画『バラバ』(Barabbas) 1961年 イタリア 監督:リチャード・フライシャー、バラバ:アンソニー・クイン、共演:シルヴァーナ・マンガーノ、上記の小説の映画化作品。 映画『パッション』(Passion) 2004年 米国 監督:メル・ギブソン、イエス・キリスト:ジム・カヴィーゼル、バラバ:
{ "id": "123540", "title": "バラバ", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%90" }
バルナバ(希:Βαρνάβας、ラテン表記:Barnabas)は、新約聖書の『使徒行伝』に登場する初期キリスト教会のメンバー。正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会で聖人とされているほか、正教会では七十門徒に数えられている。 『使徒行伝』によれば、バルナバ(慰めの子の意味)と呼ばれていたこの人物は本名をヨセフといい、レビ族の出身で、キプロス島生まれのユダヤ人であった。彼は財産をすべて売り払って、その代金を使徒たちに差し出した。 迫害者だったサウロ(パウロ)が回心すると、バルナバはすすんでこれを受け入れ、彼を保護してタルソスへ送った。 パウロの第一回の宣教旅行の同行者となってキプロスから小アジア(現トルコ)をめぐったが、第二回宣教旅行にあたってマルコとよばれたヨハネの同行の是非をめぐって、パウロと議論になり、袂をわかってキプロスへ赴いた。
{ "id": "123541", "title": "バルナバ", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%90" }
ポンテオ・ピラト(古典ラテン語: 、生没年不詳)は、ローマ帝国の第5代ユダヤ属州総督(タキトゥスによれば皇帝属領長官、在任:26年 - 36年)。新約聖書で、イエスの処刑に関与した総督として登場することで有名。新約聖書の福音書の登場のほか、少し後の時代のユダヤ人の歴史家であるフィロンやフラウィウス・ヨセフスなどの歴史書においては、アグリッパ1世以前のユダヤ総督で唯一詳しい説明が存在する。 概説 生没年や出身地などは不詳。ピラトはローマの騎士階級(エクィテス)に属し、ティベリウス帝治下に総督を務めた。シリア総督の下では代官。任期の前半においては反ユダヤ的な思想を持っていた親衛隊長官セイヤヌスの影響力が大きかったため、ピラトの統治にもその影響が出ている。 ヨセフスの『ユダヤ古代誌』(第XVIII巻3章と4章)では、彼についての記述で以下のようなものがある。 それまでのユダヤ総督が自重していた皇帝の胸像が付いた軍旗を夜間カエサリアからエルサレムに持ち込み、人目が付くところに掲げておいたが、人々の嘆願と態度で折れて撤去した。 エルサレムに水を引くための水道工事に神殿に人々が納めていた金の一部を使用し、工事中止を訴えた人々を力ずくで解散させたことで死傷者が出た。 ユダヤ人の指導者に告発されたイエスに十字架刑の判決を下した。 ゲリジム山に集結した(ヨセフスによると詐欺師の「モーセの什器が見られる」という情報を信じて集まったという)サマリア人を、ローマ人からの離反未遂と思い込んで兵士たちに攻撃させ死傷者を出した。 (なお『ユダヤ戦記』第II巻にもイエスの処刑の下りがない以外はほぼ同内容の記述がある。) この最後のサマリア人達の殺傷事件の後、サマリア人の評議会はシリア総督ウィテリウス(ピラトの上司に当たる)に使者を出し、ピラトの非道を訴えた(ローマ帝国では被支配住民に総督のリコール権があった)ところ、ウィテリウスは友人のマルケルスをユダヤ総督として派遣し、ピラトに「ローマに帰ってサマリア人から告発されていることを皇帝に釈明せよ」と命じた。こうしてピラトは10年間のユダヤ総督生活を終え、ローマへ向かったが、到着前に皇帝ティベリウスは死亡していたという。 フィロンの方(Filo,Leg.38 (299-306))は、アグリッパ1世からカリグラに送られた手紙の中の話として書かれている記述で、ヨセフスの最初の話に似ているが内容が微妙に異なる。エルサレムに皇帝の像を建てることは不可能と考えたピラトが「像はないが皇帝の名がついた飾り用の金箔の張られた盾をエルサレムにある総督邸宅(元ヘロデの宮殿)に掲げる」という行為を行い、これを知ったエルサレム貴族とヘロデの4人の息子達 が盾を取り除くように嘆願し、それがピラトに通じないと知るとティベリウスに直訴してティベリウスはこれを認め、カエサリアにあるアウグストゥス神殿に移すように命じたことで皇帝の名誉とエルサレムの風習が保たれた。というものである。 キリスト教の聖書におけるピラト キリスト教の使徒信条に「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」とあるのは、史実性を示すものであり、キリスト教においてはこの記述は史実であるととらえられてきたが、史実性を否定する主張も存在する。 日本語訳聖書における名前の表記 ピラトは新約聖書に記載のある人物だが、日本語訳聖書の中では様々な表記がなされる。具体例を挙げるとポンテオ・ピラト(文語訳・口語訳・新改訳)、ポンティイ ピラト(正教会訳)、ポンティウス・ピラトゥス(共同訳)、ポンティオ・ピラト(新共同訳)などがある。 ピラトの性質 ヨセフスは『ユダヤ古代誌』18巻で、ピラトとユダヤ人との間に起こった騒動として三つの事件をあげている。18巻3章3節には有名なイエス・キリストに関する記事がでていて、そこには「ピラトスは、彼(イエス)がわれわれ(ユダヤ人)の指導者たちによって告発されると、十字架刑の判決を下したが、最初に彼を愛するようになった者たち(イエスの弟子たち)は、彼を見棄てようとはしなかった」とある。 フィロンに言わせれば「彼は融通のきかない性格で、とても頑固なばかりか無慈悲でもあった」〔フィロン「ガイウスへの弁明書」38章301節〕 『ルカによる福音書』13:1に「ピラトがガリラヤ人の血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜた」と書かれているなど残虐であるが、裁判でのピラトの行動は陳情を繰り返すユダヤ人への恐れから(マルコ15:15)のものであったとされる。 ところが、この「冷酷無慈悲な」はずのピラトが、イエスの裁判に臨んだ際には、全く違った様子を見せる。 イエスの無罪性 新約聖書に描かれるピラトは最初のうちイエスの処刑に消極的であった。福音書記者の証言では、ピラトがイエスの無罪を知っていたとされる(ルカ23:4、ヨハネ13:38)。 『ルカによる福音書』(23:4)には「わたしはこの男に何の罪を見いだせない」とピラトが語ったと書かれており、『ヨハネによる福音書』(19:6)には、「十字架につけろ。」と叫ぶ人々に対し、「わたしはこの男に罪を見いだせない」と述べたとあり、イエスの無実すら明言する。 『マタイによる福音書』(27:19)ではピラトの妻が登場し、死刑を宣告する前の晩に夢の中で苦しい目にあったので「あの正しい人」に関わらないでくださいと訴える。 『ルカによる福音書』(23:1-12)によれば、ピラトはヘロデ・アンテパスの所にイエスを送り、イエスはヘロデによる尋問を受ける。ヘロデは兵士と一緒にイエスを侮辱し、派手な服を着せてピラトのもとにイエスを送り返したので、それまで敵対していたピラトとヘロデは仲良くなったという。 手を洗うピラト ピラトは手を洗って自分に責任がないことを示そうとしたが、彼は無罪を知りながら、人々を満足させるために不当な死刑判決を認めたのであり、ジェームス・パッカーはこれを最も愚かなジェスチャーである、としている。『マルコによる福音書』(15:1-15)と『ヨハネによる福音書』(19章)には群集の要求にこたえてやむをえずイエスの処刑に踏み切ったとの記述がある。ピラトの動機には自分の政治生命を守ることがあり(ヨハネ19:12)、ローマにユダヤの情勢が伝わらないようにしたいという願いがあったとされる。 キリスト教の伝承におけるピラト ユダヤ総督をつとめたこと以外、ピラトの事跡について史料にはないが、キリスト教がローマ帝国に広がるに従いピラトという人物は歴史編纂者の想像力をとらえた。 2世紀ごろに作られた偽の書簡(登場人物たちの年代が合わない)には、ピラトがクラウディウス皇帝に「イエスを救おうとしたが失敗に終わった」と報告しているものがあったり、テルトゥリアヌスのピラトが当時ひそかにキリスト教徒で、ティベリウスにイエスをパンテオンに加えるべきと提案したとしている説(Apologeticum21,24・5:2)、新約外典の『ニコデモ福音書(『ピラト行伝』とも呼ばれる)』では彼がイエスをどう扱ったかによる公式記録を含んでいると称しており、正典の福音書よりもさらにイエスに同情的な人物としている。 ピラトの評判が絶頂になったのは東方諸教会(コプト正教会、エチオピア正教会)が彼を聖人としたときで、ピラトが罪を悔いキリスト教に改宗、熱心な信徒となったとの伝承を保存している。一方、歴史家エウセビオスは著作の中でピラトがカリグラ帝によってガリアに流され、そこで自殺したという伝承を伝えており(エウセビオス、『教会史』II:7)、彼以降、ピラトが自ら命を絶ったり皇帝に処刑される(処刑者はネロだったりティベリウスだったりする場合もある)などという物語も広がった。自殺説はヒエロニムスなどにもみられるが、規模の大きいものではピラトゥス山の伝説で「ピラトが自害後、悪霊がその死体に群がったことで人々はその遺体に近づくことが耐えられず、川に捨てても川が煮えたぎって吐き出される様で、最後に山々に囲まれた墓穴に沈めた。」というものでこの山が後にピラトゥス山と呼ばれるようになったというものである。 しかし、佐藤研は教父の記述を確かではないとしている。また、佐藤研らはマルコ15:1-15節についても、これは実際のピラトの事跡や心情を反映したものでなく、イエスの死の責任をローマ帝国ではなくユダヤ教の指導者に転嫁したいという護教的記述でないかとしている。 考古学におけるピラト ピラトの石碑 1961年、イタリア人考古学者アントニオ・フローヴァ(Antonio Frova)博士が、地中海沿岸のカイザリアで碑文の刻まれた石板を発見した。この石板は、発見時にはカイザリア劇場の階段の一部として使われていた。 通称「ピラトの石碑」(82cm x 65cm)と呼ばれる。 発見された場所はピラトが紀元6年の初めに、自分の邸宅と軍隊の司令部を築いたカイサリア・マリテイマ(Caesarea Maritima)と呼ばれる海辺の町でもある。ラテン語で4行書かれており、そのうち3行は読むことが出来る。大まかに言うと、 「神聖なる皇帝アウグストウスの子テイベリウスに・・・ポンテイオ・ピラト・・・ユダヤの知事が・・・[これを] 献上した」 おそらく石板はテベリアム(皇帝テベリオを礼拝する神殿)の土台に使われており、後になって劇場階段で再利用されたものと思われる。この碑文は、ポンテオ・ピラトの任期中に「知事」という職名が使われたことを示している。タキトゥスとヨセフスは後年ピラトを「行政長官」と呼んでいる。新約聖書では「総督」と呼んでいるが(マタイ27:2)、これは両方の役職を合わせたものである。この碑文は、ピラトという名と知事という職名が同時に用いられている唯一のものである。 指輪 ベツレヘム近郊のヘロデオン(ヘロデ大王の墓で宮殿の遺跡)でみつかった銅の指輪が、総督ピラトのものである可能性がある。考古学者ポラット博士がよく磨いてみるよう指示したところ、ちょっとゆがんだ文字で「ピラトのもの」という文字が出てきたという。 イスラエルのハアレツ紙によると、ダニー・シュワルツ教授は「私はあの時代の他のピラトを誰も知らない。指輪は、その人物が高い地位にある人間だと示している」と述べた。 初期の非キリスト教徒による記述 コルネリウス・タキトゥス 古代ローマの偉大な歴史家であるコルネリウス・タキトゥスは、イエスがピラトによって処刑されたと断言している。 イエスの死から25年後に生まれたタキトゥスは、イエスの話がローマ帝国に広がり、人々に強い影響を与えていく様子を目の当たりにした。彼は紀元115年、イエスとその信徒たちについて次のような否定的な内容の記述をしている。 「彼らは日頃から忌まわしい行為で人々から憎まれ、クリストゥス信奉者として知られていた。この呼び名はクリストゥスという人物の名前から取られており、 ティベリウス帝の治世下において、総督ポンティウス・ピラトによって処刑された。」
{ "id": "123542", "title": "ピラト", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%A9%E3%83%88" }
洗礼者ヨハネ(せんれいしゃヨハネ、, , , , , , , , , 、紀元前6年から前2年頃 - 36年頃)は、『新約聖書』に登場する古代ユダヤの宗教家・預言者。個人の回心を訴え、ヨルダン川でイエスらに洗礼(バプテスマ)を授けた。『新約聖書』の「ルカによる福音書」によれば、父は祭司ザカリア、母はエリサベト。バプテスマのヨハネ、洗者ヨハネとも表記・呼称される。ヨハネは「יהוה(ヤハウェ)が深く恵む」という意味の名。正教会ではキリストの道を備えるものという意味の前駆の称をもってしばしば呼び、日本ハリストス正教会での呼称は前駆授洗イオアン(ぜんくじゅせんイオアン)。 イエスの弟子である使徒ヨハネとは同名の別人である。 生涯 出生と洗礼活動 『ルカによる福音書』1章36節では、ヨハネの母エリサベトとイエスの母マリアは親戚だったという。同福音書においては、天使ガブリエルによってその誕生を予言されている。 『マタイによる福音書』3章によれば、ヨハネは「らくだの皮衣を着、腰に革の帯をしめ、いなごと野蜜を食べ物とする人物」と記述されている。ヨルダン川河畔の荒野で、神の国が近づいたことを人びとに伝え、悔い改めるよう迫り、罪のゆるしに至る洗礼を授けていた。 洗礼は当時すでに、改宗者をイスラエルの一員として受け入れる儀式の一部として行われ、異邦人の汚れからの清めを象徴するものとされていた。しかし、ヨハネは洗礼に新たな意味と緊急性を付与した。ヨハネは、ユダヤ人でさえも罪の汚れによって神の民と呼ばれる権利を失ってしまっていると考え、洗礼は悔い改めた者に対する神の赦しの確証と、新しいイスラエルの一員として受け入れられた確証とを意味する預言的しるしとしたのである。 西暦28年ころ、ナザレのイエスも彼の洗礼を受けた。彼はこの後、ヨハネによって創始された荒野での洗礼活動(荒野の誘惑)に入っている。なお、ヨハネが求めた「悔い改め」とは道徳的な改心ではなく、むしろ従来の当時のユダヤにおける人間の生活上の価値基準を180度転換すること、すなわち文字通りの「回心」であった。ヨハネは、ファリサイ派など当時のユダヤ教の主流派が、過去において律法を守って倫理的な生活を送ってきたことを誇り、それを基準として律法を守らない人びと、あるいは貧困などによって守りたくても守ることのできない人びとを、穢らわしいものとして差別し、蔑む心のありようを罪と考えた。 『ルカによる福音書』3章5〜6節では、ヨハネの登場にあたり、イザヤ書40章4〜5節が引用され「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くなる。曲がった道はまっすぐに、でこぼの道は平らになり」と二重の並行句によって、イエスの先駆者としてその道を整えるヨハネの使命が示され、社会的不均衡の是正が示唆されている。これに続く「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」という引用句は、ルカの普遍的救済思想を示している。 なお、『ヨハネによる福音書』1章35節では、他の福音書でもイエスの最初の弟子としているシモン・ペトロとアンデレは、元は洗礼者ヨハネの弟子であったとしている。 死 ヨハネは当時の領主ヘロデ・アンティパスの結婚を非難したため捕らえられた。そして、ある少女が、祝宴での舞踏の褒美として彼の首を求めたため、処刑されたとする記述が各福音書に見られる。 ヨハネの弟子たちは、その後も地中海世界において集団で宣教活動をおこなっていたことが『使徒行伝』19章1-5節から伺われる。 キリスト教における位置づけ キリスト教において、伝統的にヨハネはイエスの先駆者として位置づけられている。このため正教会では前駆者(ぜんくじゅせんしゃ、Forerunner)の称号をもって呼ぶ。キリストの先駆者として特別の尊崇を受け、カトリック・正教会・聖公会などで聖人とされている。伝統的に、誕生・斬首・首の発見、のそれぞれが祭日とされる。洗礼名としても好まれ、他のヨハネと区別するため、ジャン=バティスト(フランス語)ととくに呼ぶこともある。また「洗礼者」のみを名前として用いることもある(イタリア語、バッティスタなど)。 キリスト教における崇敬 キリスト教内のヨハネ理解 福音書筆者はイエスの言葉として、洗礼者ヨハネは預言者のうち最大のものであるが、天国の最も小さいものでも彼よりは大きいとしている。キリスト教におけるヨハネの位置は、旧約時代の最大の預言者であり、イエスの到来を告げる役割をもっていたとする。そのような解釈の根拠となったのはイザヤ書やマラキ書にある「主の道を備える者」についての預言である(イザ40:3、マラ3:1)。この理解は比較的早くキリスト教内に成立したとみられ、共観福音書すべてが旧約のこの箇所に言及している。またマラキ書には、この預言者をエリヤと呼んでおり(マラ3:23)、福音書ではヨハネをエリヤの再来と捉える見方が提出されている。エリヤはユダヤ教において、律法をもたらしたモーゼに匹敵する預言者とみなされており、またその不死が信仰されていたのである。また、キリストの洗礼をもって三位一体の顕現とみなす立場からも、ヨハネはキリストの本性を示す役割を担ったとされた。 このような「イエスに導くもの」としての理解から、後に、ディーシスにおいて、「」洗礼者ヨハネと神の母マリアとを全能者キリストの両側に並置して描く図像表現が生まれている。また時代が下ってのちは、新約外典の、荒野の幼子洗礼者ヨハネが途上の聖家族と出会ったとする伝承も生まれた。これはルネサンス以降特に西方で好んで描かれる題材となった。 “イエスが誕生する以前、ユダヤの地に一人の「預言者」が出現した。それが浸礼者ヨハネである。ヨハネは、ローマ皇帝ティベリウスの在位十五年に、ヨルダン川流域で活動を開始した。彼はラクダの毛衣を身に着け、腰には革の帯を締め、イナゴと野蜜を食べていた。その姿は、かつてイスラエルに現れた大いなる預言者エリヤの姿を彷彿とさせるものであった。『旧約聖書』には、次のような予言がある。「見よ、私はあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」この使者こそ、洗礼者ヨハネであった。彼の活動の中心は「洗礼」であった。彼は終末の接近を説き、神に心を向ける(回心する)よう人々に求め、その回心を認証するものとして洗礼を施していた。こうして洗礼を受けることが、最後の審判の際に救われる唯一の手段だというのである。この活動は「罪の許しに至る回心の洗礼」と称され、民衆の絶大の人気を得た。その活動を聞き及んだナザレのイエスも、ヨハネのもとに赴いて彼から洗礼を受けた。” 美術作品 キリスト教美術において、ヨハネは好んで題材となる聖人のひとりである。ヨハネの描き方には、いくつかの伝統的な主題がある。 キリストの洗礼 ヨルダン川でイエスに洗礼を施すヨハネを描く。これは浸礼であったと推測されるが、滴礼が主流となった西方教会では、しばしば川に立つイエスにヨハネが滴礼を施す場面が描かれる。 荒野のヨハネ 成人したヨハネは荒野で生活し、悔い改めを呼びかけた。これは荒野での修道生活の模範のひとつとされたため、好んで描かれる。切り落とされた首を添えて描かれることもある。 ディーシス(がキリストと共に描かれる) 尊厳ある全能者キリストが中央に描かれ、その両側に洗礼者ヨハネと神の母マリアとが配される構図が定番である。古いモティーフであり、東西教会の両方に見られたが、末長く生き残ったのは東方教会で、特にイコノスタシスには今日でもしばしば配置されている。 神の子羊(アニュス・デイ) キリストを指し示すヨハネ。ヨハネ福音書1章の記事に基づく。「見よ、神の子羊」と書いた文字が添えられることが多い。西方教会に多い作例である。 処刑されたヨハネ 処刑されたヨハネの首が皿に載せられている図。東西両方にみられるが、この場面のみを単独で描くのは、西方教会に多い作例である。 聖母子と少年ヨハネ ルネサンス以降、西方教会で描かれるようになった主題。「神の子羊」と組み合わされることも多い。 ヨハネとともに描かれることの多い象徴(アトリビュート)には以下のものがある。 「らくだの毛の皮衣」(ヨハネの衣装として) 「悔い改め」を象徴する「斧を添えた切り株」 「見よ、神の子羊」(Ecce, Agnus Dei)の文字、多く十字架に結んだリボンの上に描かれる  「杖状の細長い十字架」(しばしば葦) 祭日 洗礼者ヨハネに関しては以下のような祭日が伝統的に設定されている。ただし今日では聖人崇敬を行う教会においても、必ずしもすべてが祝われているわけではない。 懐胎(グレゴリオ暦・修正ユリウス暦使用教会で9月23日)(ユリウス暦使用教会で10月6日) 誕生(グレゴリオ暦・修正ユリウス暦使用教会で6月24日)(ユリウス暦使用教会で7月7日) 斬首(グレゴリオ暦・修正ユリウス暦使用教会で8月29日)(ユリウス暦使用教会で9月11日) 聖首の発見 第1回と第2回(グレゴリオ暦・修正ユリウス暦使用教会で2月24日)(ユリウス暦使用教会で3月9日) 第3回(グレゴリオ暦・修正ユリウス暦使用教会で5月29日)(ユリウス暦使用教会で6月7日) またこれに加え、正教会では神現祭の翌日=修正ユリウス暦使用教会で1月7日(ユリウス暦使用教会で1月20日)をヨハネのシュナクシス(前駆授洗イオアン会衆祭)としている(冬の前駆受洗イオアン祭とも)。 なお6月24日はカトリックなどにおける彼の聖名祝日となっている。 キリスト教以外でのヨハネ観 フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』には洗礼者ヨハネへの言及がある。 イスラム教はヨハネをイエス同様、預言者として認めている。イスラム教における名はヤフヤー。イエスとモーセを預言者として認めないマンダ教においては、ヨハネは最後のもっとも偉大な預言者とされる。
{ "id": "123543", "title": "洗礼者ヨハネ", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%97%E7%A4%BC%E8%80%85%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D" }
瀬谷区(せやく)は、横浜市を構成する18行政区のうちの一つ。横浜市の最西端に位置する。 地理 地勢 最高地 北町 海抜93.6m 最低地 阿久和南三丁目 海抜36.7m 位置 相模野台地・相模平野に位置し、相鉄線を挟んで北部は平地が広がり、南部は川沿いに段丘状になっている。 区域は大和市との境界である境川に沿って南北に細長く5つの川が流れている。北部は東京都町田市、緑区、南部は泉区、東部は旭区に接している。 東京都心から約40km〜50km、横浜市中心部から約15km〜20km程。 位置上、神奈川県県央地域(相模原市・大和市など)や東京都多摩地域南部(八王子市・町田市)などとの結びつきも強い。 気象 気象庁横浜地方気象台の情報や注意報・警報は横浜・川崎である。横浜市内ながら内陸部に位置しているため、冬には氷点下も出す地域で、気候は夏暑く、冬寒い。 横浜中心部が雨でも、瀬谷区は雪になっていることがある。 横浜中心部が気温5℃の時、既に瀬谷区では2℃位になっていることも多く、明け方は氷点下になっていることもよくある。 河川 大和市との境に境川が流れている。 台風や大雨の場合、床下浸水等の被害がしばしば起きる。特に1991年(平成3年)の台風の時は鹿島橋を架け替えるほどであった。現在の環状4号線の開通する前には、跨線橋のある辺りで雨水幹線の工事をしていた。 他に大門川、相沢川、和泉川、阿久和川がある。和泉川と阿久和川は源流が区内にある。 自然環境 2004年度の区内の緑被率は35.9%で、横浜市平均の31.0%を上回っており、横浜市内ながら自然環境が豊かな街であり、東部の二ツ橋町や東野には瀬谷市民の森、南部の宮沢や阿久和には宮沢ふれあい樹林、東山ふれあい樹林など樹林が多く点在する。 歴史 先土器 旧石器時代の遺跡が本郷・林の両遺跡で確認された。遺跡は以下の2か所である。 本郷遺跡-本郷二丁目尖頭器・石核等十数点出土。石碑がある。 林遺跡は-下瀬谷、下瀬谷中学校が建設されるにあたって発掘作業が行われた。 縄文時代 区内では50箇所を超える縄文時代の遺跡が確認されている。主な遺跡は以下の通り。 阿久和の大久保原縄文遺跡は1977年(昭和52年)から翌年にかけて調査が行われた。縄文後期の建物跡7棟や、釣手土器、石斧、石皿等が出土している。 阿久和南4丁目の蟹沢遺跡では、阿久和団地造成にあたって発掘作業が行われ、縄文中期の竪穴建物7棟や貯蔵穴が検出されている。 阿久和西2丁目の宮越遺跡(阿久和西のセブン-イレブン付近)では、竪穴建物跡257軒、土壙411基等が検出され、縄文中期の大規模な環状集落であることが判明した。 阿久和の小金が分譲される時(昭和40年代)にも発掘調査が行われ、茅山式土器が出土している。小金第一公園付近や長屋門東側にある鉄塔付近からも縄文時代早期・中期の遺跡が検出されている。 他にも五貫目町のマークスプリングスの敷地や二ツ橋の県立三ツ境養護学校敷地周辺からも竪穴建物跡等が検出されている。 弥生時代 区内の9箇所で遺跡が確認されている。 古墳時代 古墳時代の遺跡は区内で25箇所確認されている。 八幡上古墳跡…若宮八幡宮にあったとされる。円墳。直刀と勾玉が出土したと言う。 別太羅塚古墳(べったらつかこふん)…上瀬谷通信隊の基地内にあったというが、基地が造られる際、米軍のブルドーザーで破壊されたと言う。 長天寺古墳跡…長天寺の北側には古墳跡があり、装飾品等の出土品(人骨3体、直刀、金環、琥珀玉)は東京国立博物館に収められている。 その他…南台3丁目に石塚山古墳、また瀬谷中学校北側にもあったと言うが、詳細は不明。東野にも相沢川沿いに遺跡がある。 奈良・平安時代 1978年(昭和53年)、瀬谷西高校の建設工事で奈良時代と思われる横穴墓が検出され、人骨が出土した。同時に盗掘のあとも見つかっている。正門から校舎に向かう道路の下部付近である。 鎌倉時代 南北を縦断する鎌倉街道(かまくら道)の上道は、当時の主要な街道の一つであり、源頼朝、日蓮、新田義貞などが通った跡が残されている。 源頼朝は、石橋山の戦いに敗れ安房に逃れた後、態勢を建て直し鎌倉攻めをする前夜に、相沢の諏訪社で宿泊・夜陣を張ったという言い伝えがある。 日蓮は晩年、鎌倉を出発し中原街道を通り池上に向かう途中、妙光寺に立ち寄った。 新田義貞は、世野ヶ原(現在の瀬谷)で、20万を越える勢力の陣揃えをして鎌倉攻めの準備をした。 阿久和は鶴岡八幡宮の荘園だったという記録が残されている。八幡宮の財政が一時期悪化されたときに地頭色部氏売却されたが、徳政令によって返還された。 室町・戦国時代 応永23年(1416年)に起きた上杉禅秀の乱では、上杉・足利持仲と江戸・豊島の両軍が世谷原の戦いで戦った。主な戦場は鎌倉台(楽老峰)・中丸山で、破れた上杉軍は、鎌倉道を敗走していった。 宝徳の頃(1450年頃)、上杉定正の家臣、山田経光(? - 文明2年(1470年))が瀬谷・大和を治めていた(『新編相模国風土記稿』巻之六十四)。居住は瀬谷の中屋敷で大和の深見城を本拠にしていた。現在でも区内に中屋敷、馬場屋敷、牢場坂等の居館址に由来する地名が残されている。境川に架かる上瀬谷橋は、架け替えられる前は山田橋という名前であった。牢場坂では牢屋が置かれた場所とも馬事訓練が行われていたともいわれている。 享禄2年(1529年)上杉朝興と後北条氏との間で合戦が起き、後北条氏側が勝利した。この時北条氏康は初陣を上げている。この時も中丸山・基ヶ峰(細谷戸東方の丘陵)が主戦場になっている。 後北条氏の時代、瀬谷は御馬廻衆(旗本)の久米玄蕃之助、阿久和は小机衆増田駿河守満栄の知行であった。また「皇国地誌」によれば、瀬谷は、永禄年間は北条氏政の家臣で久米の小姓であった松波内蔵の采地であったことが記録されている。本郷に居を構えていた伝わっている。 久米玄蕃の所領は、現在の埼玉県坂戸市森戸であったことが「小田原衆所領役帳」に残されており、他に相模国西郡別堀、そして瀬谷を合わせて101貫67文を領していた。 増田駿河守満栄は現在の川崎市高津区の一部を含め141貫を領していた。阿久和の中村に屋敷があったと伝えられている。 相模風土記によると、後北条氏に対し瀬谷の村民は軍備調達への租税に税銭不納運動を起こしたことが記載されている。 甲斐武田氏が滅亡した時武田家ゆかりの者の一部が瀬谷に土着したと言われ、区内の善昌寺は支族岩崎丹後守が一族を弔うために開基したと伝えられている。ちなみに三菱の創始者岩崎弥太郎も岩崎家の流れを汲んでいるとされている。岩崎家はその後長田家支配の上瀬谷地域の名主となる。 江戸時代 天正6年(1578年)中原街道沿いの瀬谷(現在の北新、宗川寺あたり)に問屋場が設けられる。天正18年(1590年)、石川弥治右ヱ門重久に経営が委嘱された。二ツ橋には、荷物等の受け渡しを行う継立場が設けられた。 徳川家康は東海道よりも中原街道を利用することが多く、「駿府記」によると天正18年(1590年)の江戸入府の際にも利用している。また遺言により、駿府から日光に分骨されるときにも利用された。 二ツ橋で「しみじみと 清き流れの清水川 かけ渡したる 二ツ橋かな」と詠み、現在では二ツ橋に石碑が設置されている。 三ツ境駅北部にある楽老峰という名前は、徳川家康が訪れた際に命名したと言われている(当時は美屋古山と呼ばれていた)。家康が駿河に行く途中ここで休憩をし、住民が差し出した茶湯を飲んだという。記念碑が楽老峰南公園にある。 徳川家康が瀬谷を通過した際、瀬谷の絶景を「瀬谷八景」と命名した。二ツ橋の三叉路(現在の二ツ上橋交差点付近)、中丸山北条氏康古戦場、上瀬谷の城山(大和市の深見城と考えられる)、五〆目(現在の五貫目町)、竹谷戸(現在の竹村町)の鎌倉道、山田橋(現在の上瀬谷橋)、別太郎塚の狩場(上瀬谷通信隊の中にあり破壊されている)、伊賀守の中屋敷。 宮沢村でも、家康が鷹狩りをしたという言い伝えがある。 瀬谷村に知行地を持つ旗本は後藤家、長田家、本多家。阿久和村は安藤家。宮沢村は石川家が治めていた。二ツ橋は天領であった。 二ツ橋は、天正年間に瀬谷郷にあった芝地を露木甚左衛門らによって開墾され、藤沢宿の支配下に置かれた。二ツ橋の千駄野(現区役所周辺)からは藤沢宿にある藤沢御殿に萱を納めていた。しかし年貢は年々増加し村人たちが正しい検知を実施することを要求し、享保10年(1725年)検知が行われ、韮山代官所支配の幕府直轄領に移行され、日野家、大貫家を経て江川家が代官を務めた(二ツ橋に宿場があったのも一因)。正徳4年(1714年)、日野小左ヱ門正晴は屋敷を中原街道と相鉄線が交差するところに、代官陣所を現在の二ッ上橋の交差点の辺りに置いた。文政7年(1824年)にも、不作でも減免しない領主に対して、農民が代官に窮状を訴えている記録がある。江川英龍が二ツ橋に巡視に来た際には、露木源兵衛宅に宿泊したという記録がある。 宮沢は、石川重政が徳川家康関東入国により天正20年(1592年)に賜った土地で、重政は、戸塚区上矢部に屋敷を置き、寒川町大蔵、海老名市望地、大和市下草柳に計687石を賜っている。寛永年間(1625年 - 1635年)に上矢部の3軒の住民が、宮沢の荒地を開墾して集落を作ったのが始まりとされている。 石川家は有力旗本として、重政の子重次は普請奉行、以下代々、小姓組や御書院番などを務めた。 中瀬谷は、後藤忠直が慶長5年(1600年)に知行地として与えられたもので300石あった。忠直は、島津氏の庶流長徳軒の孫で、長徳軒(島津運久の子で別名忠貞)は享禄年間薩摩を出奔後、北条氏綱に招かれ相模に居住した。忠直は、北条滅亡後、徳川家康に見いだされ、旗本となった。代々御書院番などを務める。2代後の久利の時、島津に改姓。天保15年(1844年)、江戸城で大火があり、瀬谷で植樹していた椰の木を伐採して中原街道で送り、江戸城復興に一役買ったと伝えられている。現在では南台に石碑ができ、近くに「梛の木石碑前」というバス停もある。久利から3代後の久武のとき後藤姓に戻る。宗川寺に墓地が残っている。 幕末の資料「視聴草」によると、後藤忠正(島津)の長女である大橋局は、徳川秀忠夫人お江与の方に仕えていたが、秀忠の寵愛を一時期受けてしまい身ごもってしまったので、家康は後藤光次(庄三郎)の妾として下げ渡された。 上瀬谷は平良兼の流れをくむ長田家領で、妙光寺に墓地が残されている。長田家は、家康・秀忠の鷹匠を務めていた。瀬谷駅近くに鷹見塚が残されている。長田家の先祖の一人長田左衛門尉親致は源義朝を討ち取っている。 相沢は代官采配の村であったが、本多一族の康重の家系を組む旗本の本多紀品が采地として明和4年(1767年)に賜った。火付盗賊改に任命された時であった。紀品は『鬼平犯科帳』にも登場する。石高は2000石で、江戸屋敷は番町(現千代田区)にあった。御目付衆を務めた。 相沢の名主は、永野家が務め代々藤兵衛を名乗っていた。地元には「頭巾かぶりの藤兵衛さん」という民話が残されている。 阿久和は、徳川家康の関東入国にあたり、安藤治(次)右衛門に分配された。初代定次は伏見城の戦いで戦死、2代治(次)右衛門正次は阿久和の熊野神社から大坂の陣に出陣し、夏の陣で戦死した。3代安藤正珍(まさよし)は、鍵屋の辻の決闘の仇討で荒木又右衛門に殺害された河合又五郎を匿ったとされている。菩提寺は泉区にある阿久和山観音寺、お墓山に安藤家の墓地がある。詳しくは、阿久和安藤家を参照。 名主は相原家が務め、北井家は御用商人であった。 瀬谷村、阿久和村、宮沢村は中原街道や東海道戸塚宿の助郷が割り当てられていた。 瀬谷村はお鷹場があったため、将軍お鷹狩りのお達しがあれば、農繁期でも鷹狩り人夫に努めなければならなかった。 区内には、川口、守屋、平本、芝本、露木、北井、相沢、相原、籾山などの姓が多い。江戸時代は、名主・組頭・百姓代等を務めていたためである。守屋家は、相州東郡38か村の惣名主を務めた。 幕末になるとこの地域でも剣術が流行り、阿久和では北井家や相原家、下瀬谷では守屋平助が天然理心流の道場を開いていた。 慶応3年(1867年)、京都守護職の任にあった会津藩主松平容保が京都からの帰還の際に、瀬谷村は人夫役として36人が割り当てられた。 明治時代 - 現在 明治期は養蚕が盛んで、区内には桑畑が多くあった。上瀬谷の野鳥館、中屋敷の石井製糸場。本郷の川口製糸場(後の本郷館)、北村の小沢製糸場。新道の守屋製糸場、下瀬谷の仙田製糸場などがあった。多くは昭和初期までに廃業している。区内最大の製糸工場は、1960年(昭和35年)頃まで営業していた本郷館であった。阿久和には北井製糸(相州改良社)、大岡家の大剛館が長屋門公園前にあった。現在では製糸場跡地の看板が立っていて、当時は江戸阿久和とも呼ばれていた。阿久和の長屋門の前でも製糸工場が営まれ、長屋門で養蚕が行われていた。必要になる水は、現在長屋門公園になっている地下に横穴が掘られそこから水を引いていた。現在では鉄の柵で囲われている。 明治元年(1868年)瀬谷村・宮沢村・阿久和村は神奈川府に、二ツ橋村は韮山代官所の支配下にあったため韮山県に編入された。その後同年12月に神奈川県に編入した。 1873年(明治6年)「地租御改正反対運動」が起こり、1887年(明治20年)に東京上等裁判所で村民が勝訴する。運動を支えた川口儀右ヱ門と平本平右ヱ門を讚えた義民の碑が徳善寺に残っている。 この頃、瀬谷学舎、二つ橋学舎、若宮学舎、新道学舎、阿久和学舎(現在の小学校にあたる)ができたといわれている。 1889年(明治22年)4月1日 市町村制施行により瀬谷村、宮沢村、二ツ橋村から鎌倉郡瀬谷村が誕生する。初代村長に守屋平助、助役は露木要之助。が選出される。長天寺に役場が置かれる。 1907年(明治40年)5月、瀬谷銀行が中屋敷に設立された。資本金は50万円で小島政五郎が頭取となった。この頃区内で盛んになっていた養蚕業に、製糸業者の融資が瀬谷銀行を通して行われた。支店は厚木・町田・橋本・中山・浅間町にあった。昭和10年鎌倉銀行に債権債務の譲渡を行い、銀行としての業務を終了した。 1912年(大正元年) 国鉄程ヶ谷駅から旭区を通り、今井・又口・三ツ境を経由し二ツ橋を終点とする駅馬車が開通した。片道60銭。しかし資金が成り立たないため、廃止になったと言う。 1916年(大正5年) 瀬谷村役場が長天寺客殿より二ツ橋の新庁舎に移転した。 1921年(大正10年) 楽老峰で武相地方陸軍特別大演習が行われた。 1923年(大正12年) 関東大震災により瀬谷村で死者1名、行方不明1名、全壊戸数53戸が被害を受ける。 1926年(大正15年/昭和元年) 神中鉄道が二俣川 - 厚木間で営業開始。三ツ境駅、二ツ橋駅、瀬谷駅に停車場を設置。初代社長は小島政五郎が務めた。 1939年(昭和14年)4月1日 第6次横浜市拡張計画により瀬谷村と中川村が横浜市に編入、戸塚区の一部となる。 戦時中は区内のいくつかの土地が軍に強制収容され、軍用地になった。上瀬谷(横須賀海軍資材集結所・第二海軍航空廠補給工場・横須賀海軍軍需部火薬庫)、本郷(海軍施設部家屋)、南台(兵器工場=大日本兵器(現コマツNTC)第五製作所、航空鉄砲弾を主として製造)等である。東京府立第七中学校などから学徒が動員されたという記録がある。瀬谷は疎開先にもなり、横浜中心部から学童が疎開をし、1944年(昭和19年)、1945年(昭和20年)には一時的に人口が増えた。戦後、上瀬谷はそのまま米軍に接収され(上瀬谷通信施設)、南台は米軍の通信基地にされようとしていたが住民の反対運動で回避、土地は相鉄、三菱を介し横浜市に売却され市営のアパートになった。また本郷には川口航空機、瀬谷6丁目付近には皆川酸素工場など、区内各地に軍需工場があった。 1945年(昭和20年)1月 瀬谷駅構内に小型機の爆弾が投下される。貨車一両が延焼。 4月3日午後10時頃 米軍の重爆撃機一機が本郷原の上空に飛来、爆弾28個を投下。その他、焼夷爆弾による家屋の焼失が相沢、二ツ橋、橋戸でもあり、中でも中村ではほとんどが灰と化したと伝わっている。 1957年(昭和32年)10月20日 厚木基地(綾瀬市、大和市)を発着したB-57爆撃機が瀬谷町7830付近の山林に墜落し1名が死亡、1961年(昭和36年)11月27日にも本郷1丁目54付近にF8Uジェット機が墜落した事故が起きている。 1962年(昭和37年)5月 阿久和町の一部が三ツ境になる。 1969年(昭和44年)10月1日 戸塚区から旧瀬谷村全域と阿久和町(旧阿久和村北部)が分立し、瀬谷区が誕生する。 1980年(昭和55年) 瀬谷町・旭区上川井町・緑区長津田町の一部より卸本町が新設され、現在の区域となる。 1986年(昭和61年)10月 三ツ境駅新駅舎竣工。 2000年(平成12年)12月11日 環状4号線瀬谷四丁目交差点から日向山地域まで開通。 2002年(平成14年)1月 区内北新の中原街道で三菱自動車製トラックのハブ破損によるタイヤ離脱で母子死傷事故発生。(三菱リコール隠し) 2004年(平成16年)3月28日 瀬谷駅新駅舎竣工。 2012年(平成24年)2月 新庁舎竣工。 2015年(平成27年)6月 在日米軍基地上瀬谷通信施設返還。 地名の由来 1969年10月1日の旧戸塚区域との分区の際は、公募による候補区名では「西浜区」(にしはまく・西部の横浜から)が「瀬谷」と並んで多かったが、「親しみやすい」ということもあり、現在の瀬谷区という地名になった経緯がある。 「せや」の地名は、一説に狭谷(せや)で、「狭い川瀬の小谷がある土地」に由来すると言われている。 人口 1970年  76,492 1975年  95,291 1980年 101,124 1985年 111,275 1990年 119,575 1995年 121,489 2000年 121,711 2005年 127,405 2010年 126,913 2015年 124,560 町名 瀬谷区内では、住居表示に関する法律に基づく住居表示は実施されておらず、すべて町名と地番を整理する方法(町名地番整理)により、住所整理が実施されている(ただし、卸本町においては、旧町の地番が引き続き使用されている)。町区域設定前の町名等欄で下線がある町名はその全部、それ以外はその一部である。 行政 区 長 :森 秀毅(2016年4月 -) 区庁舎:2012年1月に新庁舎が竣工し、2月より供用されている。二ツ橋公園跡地に区役所及び消防署が移転され、隣接する公会堂は建て直された(2010年11月〜供用)。 瀬谷駅区民窓口サービスセンター…瀬谷駅にあり、区役所に行かなくてもサービスを受けることができた。住民票の写し、印鑑登録証明書、戸籍謄本・抄本(瀬谷区以外でも横浜市内のいずれかの区に本籍がある人ならば請求できる)、戸籍の附票の写し(市内に本籍のある人)、住民票記載事項証明書等。平成29年3月31日をもって閉所している。 横浜市における瀬谷区の位置づけ 高秀秀信市長の時代に策定された「ゆめはま2010プラン」において、瀬谷駅周辺地区は地域拠点に位置づけられ、瀬谷駅周辺の南北一体となった発展が望まれている。現状は北地区の再開発が完了したが、南地区の再開発が遅延している。また、当時は瀬谷区を横浜市の西の玄関とするという計画であった。 警察・消防 警察 瀬谷警察署 消防 瀬谷消防署 中瀬谷出張所 下瀬谷出張所 阿久和出張所 瀬谷消防団 瀬谷消防団は、区内を四つの分団、14の班に分けて活動している、団員は224名、常時団員の募集をしている。 経済 商業施設 商業施設は駅周辺とロードサイド店舗などと多岐に渡る。 三ツ境駅周辺 相鉄ローゼン(旧:相高ストア第一号店)の入る三ツ境ライフ、1963年(昭和38年)11月開店。 イオンスタイル(旧:ダイエー、合併以前は忠実屋) 瀬谷駅周辺 北口 : マルエツ、HACドラッグ、イトーヨーカドー 区内東部 OKストア(二ツ橋) OKストア(西友隣、阿久和) 西友(阿久和店、2000年12月12日開店) クリエイトエス・ディー(西友内、阿久和) 区内西部 ロピア、Fuji(環状4号沿い) クリエイトエス・ディー(瀬谷駅南口、下瀬谷、南台) 西友阿久和店 金融機関・郵便局 営業中の金融機関 三ツ境駅周辺 みずほ銀行、三井住友銀行、りそな銀行、横浜銀行、横浜信用金庫 瀬谷駅周辺 横浜銀行、きらぼし銀行、神奈川銀行、横浜信用金庫、城南信用金庫 瀬谷銀行 1907年(明治40年)、瀬谷に設立。1935年(昭和10年)、鎌倉銀行に営業譲渡。鎌倉銀行は1941年に横浜興信銀行(現:横浜銀行)に営業譲渡。2012年現在、横浜銀行中山支店が瀬谷銀行から継承して営業している店舗である。。 郵便局 瀬谷郵便局 ゆうちょ銀行瀬谷店 三ツ境駅北口郵便局 横浜阿久和郵便局 横浜卸本町簡易郵便局 横浜瀬谷北郵便局 横浜瀬谷西郵便局 横浜瀬谷南郵便局 横浜日向山郵便局 横浜細谷戸郵便局 横浜本郷原郵便局 横浜三ツ境郵便局 横浜南瀬谷一郵便局 工業団地 かつて区北部には国鉄所有の土地があり、その跡地を中心にして工業団地が造成された。東名高速横浜町田インターチェンジや国道16号、国道246号に近いことから、横浜総合卸センター(卸本町)や横浜インナーパーク(北町)などの工場団地が集中している。生活協同組合連合会やCOOP、富士シティオ、花王、セコムの物流センター、イトーヨーカドーの物流拠点、読売新聞・日本経済新聞・東京新聞の印刷工場、佐川急便、日本通運、ヤマト運輸などの流通拠点がある。またセコム、清水建設、太平洋セメントグループのテイヒュー(旧帝国ヒューム管)横浜本社・工場、オリックス、などが工場や事務所を置いている。 農業 区内には開発されていない土地もあり農業も盛んである。上瀬谷の農業専用地区は、横浜市内にある農業専用地区の中でも一番広く、920,000 m2ある。 北部を中心にウド栽培が行われ、その産地は海軍道路周辺に集中する。これは、既に撤廃されている上瀬谷通信隊の周辺における建築物の高さ制限、同地に旧帝国海軍による弾薬庫の遺構が多数残されていたことなどの理由によって、農作物として半地下で栽培できるウドが選ばれたためである。 下瀬谷地区では、露地野菜やハウス栽培が中心。阿久和・南瀬谷地区を中心に芝の栽培が盛んである。阿久和・宮沢地区では、酪農、肉牛、養鶏の農家がある。また各地に直売所がある。 瀬谷区に工場を有する主な企業 日本アビオニクス(旧社名:日本アビオトロニクス) - 東証2部(6946) NECグループ。本郷に横浜製作所があり登記上の本店である。 セコム - 目黒町にFSセンターを有する。 読売プリントメディア - 卸本町に横浜工場がある。 日経首都圏印刷 - 目黒町に横浜工場がある。 機関・施設 主な病院 三ツ境病院(三ツ境) 内科、循環器科、消化器科、整形外科、リハビリテーション科、皮膚科、耳鼻咽喉科 横浜桐峰会病院(瀬谷) 内科、外科、胃腸科、整形外科、脳神経外科、皮膚科、肛門科、リハビリテーション科、放射線科、麻酔科 堀病院(二ツ橋町) 産科、小児科、婦人科 横浜甦生病院(瀬谷) 内科、小児科、外科、耳鼻咽喉科、消化器科、循環器科、整形外科 横浜相原病院(阿久和南) 精神科、内科、神経科、心療内科 瀬谷区休日急患診療所(橋戸) 内科・小児科 文化施設 公会堂 瀬谷公会堂(二ツ橋町) 図書館 瀬谷図書館(本郷)…蔵書約10万冊。 地区センター 瀬谷地区センター(瀬谷) 阿久和地区センター(阿久和南) 中屋敷地区センター(中屋敷) コミュニティ・スクール 下瀬谷小学校 南瀬谷小学校 東野中学校 原中学校 博物館・美術館・資料館 横浜旧軍無線通信資料館(南台)…見学は事前予約が必要。 瀬谷郷土資料館…以前は瀬谷小学校内にあったが、現在は存在しない。展示品等は三ツ境の長屋門公園に移設された。 文化財 竹村町の妙光寺梵鐘(ぼんしょう)は鎌倉時代の作と言われ県の重要文化財に指定されている。 スポーツ施設 野球場 瀬谷本郷公園(本郷)…両翼97m、センター120m。内野土、外野天然芝、照明施設あり。 上瀬谷球場(上瀬谷) サッカー・フットサル MASONsportspark 横浜瀬谷(中屋敷)…瀬谷西高校の近く。フットサルができる。有料。 瀬谷本郷公園(本郷)…2005年(平成17年)度にサッカーのできる球技場が整備される予定である。 プール・水泳 宮沢町第二公園プール(宮沢)…夏季営業。25mプールと幼児プール。 乗馬 アシェンダ乗馬学校(阿久和西)…所属選手の北井裕子が北京オリンピック馬場馬術団体に出場することになった。 体育館 瀬谷スポーツセンター(南台) 瀬谷地区センター(瀬谷) 阿久和地区センター(阿久和南) 中屋敷地区センター(中屋敷) テニス 瀬谷本郷公園テニスコート(本郷) 瀬谷グリーンテニスクラブ(橋戸)…ビジターの利用可。 ゴルフ 一里山ゴルフセンター (瀬谷) スポーツクラブ コナミスポーツクラブ(三ツ境・2007年3月オープン。三ツ境パーフェクトボールが2005年に閉鎖された跡地) サイクリング 藤沢大和自転車道…境川を挟んで大和市側になるが藤沢市江ノ島まで続くサイクリングロードがある。途中途切れる箇所もあるので注意が必要。神奈川県道451号藤沢大和自転車道線。 その他 区内多くの小中高校の体育館や校庭が休日・夜間に一般開放されている。 夏休みに限り、一部の小中学校のプールが一般開放されている。 剣道や柔道も盛んであり、区内の中学校の部活動における剣道は、全国大会に出場した経験もある。 地域 健康 平均年齢 43.54歳(2010年1月1日) ※横浜市平均は43.12歳 15歳未満の年少人口 14.6%(2010年) 65歳以上の老年人口 22.0%(2010年) 住宅地 建築協定のある住宅地 瀬谷向陽台住宅地 横浜インナーパーク 団地 URアーバンドエル瀬谷 市営住宅 上瀬谷 市営住宅 橋戸ハイツ 市営住宅 橋戸原ハイツ 市営住宅 南台ハイツ 市営住宅 楽老ハイツ 市営住宅 三ツ境ハイツ(山本理顕設計工房) 市営住宅 三ツ境南 市営住宅 瀬谷南 市営住宅 阿久和向原 県営細谷戸団地 県営瀬谷団地(瀬谷町5812外) 県営相沢原団地(瀬谷二丁目) 県営橋戸原団地(橋戸二丁目) 県営阿久和団地(阿久和南四丁目) 県営ハイム宮の腰(阿久和東四丁目) 県営ヒルズ本郷原(本郷二丁目) 防災拠点 地域防災拠点は、学区の小中学校が割り当てられている。広域避難場所は、ほぼ相鉄線を境に北部は米軍上瀬谷通信施設一帯、南部は下瀬谷入口一帯耕地が指定されている。また水害に対する備として、区では境川のハザードマップ作りを進めている。 教育 高等学校 公立 神奈川県立横浜瀬谷高等学校(神奈川県立瀬谷高等学校・神奈川県立瀬谷西高等学校が2023年(令和5年)に4月に統合) 中高併設校 私立 横浜隼人中学校・高等学校 中学校 横浜市立東野中学校 横浜市立下瀬谷中学校 横浜市立瀬谷中学校 横浜市立原中学校 横浜市立南瀬谷中学校 小学校 小学校を卒業した生徒の公立中学校進学率は、90.8%(2004年度)で横浜市内で一番高い。 横浜市立相沢小学校 横浜市立阿久和小学校 横浜市立上瀬谷小学校 横浜市立瀬谷小学校 横浜市立瀬谷さくら小学校 横浜市立瀬谷第二小学校 横浜市立大門小学校 横浜市立原小学校 横浜市立二つ橋小学校 横浜市立三ツ境小学校 横浜市立南瀬谷小学校 特別支援学校 横浜市立二つ橋高等特別支援学校 神奈川県立瀬谷支援学校 神奈川県立三ツ境支援学校 神奈川県立横浜ひなたやま支援学校 交通 鉄道 瀬谷区内に駅を有する鉄道は相模鉄道本線のみである。 相鉄本線 (大和駅) - 瀬谷駅 - 三ツ境駅 - (希望ヶ丘駅) 区東部の阿久和、宮沢は、相鉄いずみ野線いずみ野駅が最寄りになる地域もあり。 区南西部に位置する下瀬谷、北新、南瀬谷は小田急江ノ島線桜ヶ丘駅が最寄りの地域もある。 区の北に位置する上瀬谷、北町、目黒町、五貫目町は、東急田園都市線南町田グランベリーパーク駅が最寄りになる。 路線バス 神奈川中央交通・神奈川中央交通東 相鉄バス 廃止された路線バス 横浜市営バス 116系統、5系統(卸センター循環) 相鉄バス 瀬谷駅〜下瀬谷 東原〜三ツ境駅〜運上野 下瀬谷〜瀬谷駅〜細谷戸第三 二俣川〜本厚木間の路線(瀬谷・三ツ境を経由)1996年5月6日廃止 神奈中バス 原町田〜瀬谷駅 戸塚駅東口〜瀬谷駅 道路 区内における都市計画道路の進捗率は30%台で市の中でも一番低い。市では環状4号線の開通を手始めに、神奈川県道40号横浜厚木線(厚木街道)、神奈川県道401号瀬谷柏尾線、中原街道(神奈川県道45号丸子中山茅ヶ崎線)の大和市側、旧国道16号などの整理事業を 計画・推進 している。 区内最初の交通信号…海軍道路と旧国道16号の交差点。 高速道路 東名高速道路(北部を通過)当区への最寄りのインターは緑区にある横浜町田ICまたは綾瀬市にある綾瀬SIC 一般国道 国道16号(八王子街道、大和バイパス) 国道246号 県道 神奈川県道40号横浜厚木線(厚木街道) 神奈川県道45号丸子中山茅ヶ崎線(中原街道) 神奈川県道56号目黒町町田線(旧国道16号) 神奈川県道401号瀬谷柏尾線 神奈川県道402号阿久和鎌倉線 市道(都市計画道路) 環状4号線 市道鴨居上飯田線 市道(その他) 市道東希望が丘第224号線 横浜厚木線〜旭グリーンハイム間:延長380m、2008年(平成20年)度 - 2009年(平成21年)度工事実施予定 旭グリーンハイム〜三ツ境住宅間:延長260m、整備済み 三ツ境住宅〜せや活動ホーム太陽間:延長120m、2008年(平成20年)3月31日完成 野境道路(戸塚道) 三ツ境の厚木街道から国道16号までの道のり。 三ツ境駅付近より聖マリアンナ医科大学横浜市西部病院付近までは旭区との区境にあたり、かつては相模・武蔵の相武国境でもあった。 ほしのや道…坂東三十三箇所の巡礼街道が、区内を通っている。泉区から入り。宮沢六道辻〜下瀬谷〜橋戸を通って、大和駅に出るコースである。橋戸の左馬神社に「右ほしのや道」と刻まれている道標を兼ねた庚申塔(安永8年)が建っている。 名所 鷹見塚…江戸幕府開幕の頃におかれ、5代将軍徳川綱吉の時に一時廃れたが、8代将軍徳川吉宗の代に復活した鷹狩りを行う際の指揮台として用いた物見塚。区内には2箇所設置された。現在では瀬谷四丁目の環状4号線沿いに1箇所残るのみである。 白鳳庵…個人の私邸に、30種約3,000株のあじさいが植えられており、開花時期に合わせて一般開放されている。入り口の門は、横浜税関、神奈川県庁の正門を経て、現在の場所に移築された由緒のある門である。 乳出神の碑…東野第一公園にある。碑によると、この周辺にわき出ている清水を持ち帰って飲むと、母乳の出が良くなったという言い伝えがあるという。昭和42年頃までは乳出神を祭った泉があったが、近年の造成工事によって清水は断たれた。昭和初期の神中鉄道発行の観光地図にも記載されている。 桜の名所 海軍道路(上杉禅秀の乱の古戦場) 米軍上瀬谷通信施設基地の敷地内を通る、瀬谷駅近辺から国道16号まで2850mの直線道路。桜並木となっているため、花見の時期には多くの人が訪れ大渋滞することで有名。桜の植樹は、瀬谷中学校側は昭和50〜51年頃に、旧国道16号側は昭和57〜58年頃、瀬谷中学校の生徒を中心にした区民の手により行われた。現在、環状4号の一部として指定を受け拡幅工事が行われているが、上瀬谷通信隊の返還が内定したことにより、敷地内での施工開始が速まる可能性が出てきたため、桜の扱いについての動向が注目されている。 毎年1月下旬、区民マラソンが開催されるなど、現在ではマラソンをする人も見受けられる。 野境道路…三ツ境駅前から聖マリアンナ医科大学横浜市西部病院前に通じる道路。 相沢川ウォーク…相鉄バス「梛の木石碑前」バス停から南に1kmほどの歩道。南台こどものもり公園に隣接している。 主な公園 区内には約90箇所の公園がある。また2005年(平成17年)度より、一部の公園でによる管理や運営も行われている。 長屋門公園…長屋門(大岡家、明治17年の建築)と住宅(安西家住宅、江戸期中期、泉区より移築、区内に現存する最古の建築物)は市の文化財の指定をうけている。自然観察林、雑木広場は、個人の敷地を市が借り上げている。昭和50年代頃までは蛍が自然生息していたが、近年の公園整備工事のために絶滅。三ツ境駅からプロムナードが延びている。希望ヶ丘駅からも近い。過去、園内で結婚式を挙げたカップルもいる。市内の古民家を巡るスタンプラリーの中継点の一つ。記録映画『ムカシが来た』に移築・復元作業が収められている。阿久和川の源流の一つ。 瀬谷市民の森…18.7ha. ディスクゴルフのコースが清水ヶ丘広場にあり、一般の市民も利用できる。 和泉川の源流。 瀬谷北口公園 瀬谷本郷公園…野球場(照明あり)、テニスコート。サッカーのできる球技場も整備中。 瀬谷中央公園…こどもログハウス"まるたのしろ"、乳児から利用できる。 瀬谷貉窪(むじなくぼ)公園 阿久和大久保原公園 南台こどものもり公園 三ツ境第五公園 水辺の整備 区内を流れる河川沿いに、親水公園やプロムナードを整備している。区は、都市計画において「自然環境づくりの方針」を第一に掲げている。 阿久和川…長屋門公園に「せせらぎの水辺」。 和泉川…厚木街道沿いの「二ツ橋の水辺」から「東山の水辺」「関ヶ原の水辺」「宮沢遊水地)までの約2.8kmが整備されている。宮沢には音がなるしかけのある「赤関おとなり橋」が架かっている。東山の水辺と関ヶ原の水辺は、2005年の土木学会デザイン賞で最優秀賞を受賞している。瀬谷貉窪公園から和泉川に湧水をつなげる「寺ノ脇の水辺」、泉区に隣接している地域に「宮沢遊水地」がある。 相沢川…「相沢川ウォーク」 大門川…瀬谷中央公園沿いに「大門川せせらぎ緑道」。 境川…中屋敷の中島橋や北新の下瀬谷第一公園付近に親水拠点があり、川岸に下りることができる。 主な寺社 主な寺を巡る瀬谷八福神がある。主な寺は瀬谷八福神を参照。 所在地、祭礼日、その他 神明社…二ツ橋、9月9日。享保10年(1725年)伊勢神宮より神体を受け、榊を神木として祀っている。 神明社…本郷、4月1日 日枝社…本郷、9月22日、けやき(樹齢300年以上、高さ40m、横浜市名木古木、かながわの名木100選) 八幡社…上瀬谷、9月18日、岩崎丹後守により建立。境内に八幡上古墳跡がある。東名高速道路の建設に伴い現在の位置に移った。 諏訪社…相沢、9月7日、源頼朝が鎌倉入りをした時に宿泊したと伝えられている。一間社流造、天保12年(1841年)に再建されたという棟札が残されている。 左馬社…橋戸、9月10日(9月第二日曜)、「さば」または「さま」と読む。源義朝=佐馬頭を祀っている。近隣にある左馬神社をめぐる「厄除けの七サバ巡り」がある。また境内には天満様(学問の神様)や商売の神様も祀られている。例祭の時には神楽殿で橋戸囃子が奉納され、餅巻き等も行われる。神仏混交の名残があり、梵鐘がある。別名サバ神社。境内で子どものいたずらを叱った者には天罰が下るという言い伝えがある。 神明社…宮沢、10月第一土曜日(9月第二日曜?)。境内社として、白姫神社と三峰神社がある。一間社流造、安政3年に再建されたという記録が残されている。 熊野神社 白姫神社…三ツ境、8月第一土日曜日。縁日や神輿、山車が繰り広げられる。明治41年阿久和に祭られ、阿久和養蚕組合の守り神となった。その後養蚕の衰えとともに一時衰退したが、昭和30年に三ツ境に移され、現在では養蚕の名残を残して衣の神様として祭られている。 上記神社の本務神社は、熊野神社が富岡八幡宮、宮沢神明社が青木神社、その他は杉山神社。 コナミスポーツ付近に三ツ境神社、阿久和の谷戸に阿久和神明社があったが、現在では廃社になっている。 お囃子・音頭 橋戸囃子…9月の佐馬神社の祭礼で奉納される。 阿久和囃子…9月の熊野神社の祭礼で奉納される。 瀬谷音頭…瀬谷祭りや区内の一部の小学校の運動会で披露される。瀬谷小唄もある。 瀬谷区をロケ地にした作品 「スローなブギにしてくれ」‐海軍道路(瀬谷西高校付近) 「早春スケッチブック」‐瀬谷駅(八千代銀行) 「恋するトップレディ」‐瀬谷駅北口(八千代銀行前) 「アットホーム・ダッド」、「鬼嫁日記」‐マークスプリングス(五貫目町にある新興住宅地) 年間行事 1月 消防出初め式 - 1月上旬、瀬谷公会堂周辺 瀬谷区マラソン大会 - 1月下旬、海軍道路周辺。 どんど焼き - 区内各所・いくつかの社寺。 4月 桜祭り - 4月上旬、海軍道路周辺・上瀬谷通信基地。 8月 三ツ境商店街夏祭り - 8月第一土日、三ツ境駅南口商店街。富士見通りでも行われる。神輿。2005年はサンバも行われた。 瀬谷米軍通信隊盆踊り - 8月15日前後。 瀬谷銀座祭り - 8月中旬、瀬谷駅南口商店街。駅から厚木街道まで屋台が建ち並ぶ。カラオケ大会等が催しされる。 10月 瀬谷フェスティバル - 10月最終日曜、上瀬谷通信隊はらっぱ。従来の「瀬谷祭り」から名称が変更された。 出身人物等 出身人物 文化人 尾崎正善(徳善寺副住職、鶴見大学文化財学科教授) 芸能関係 嶋田久作(俳優) 伊藤かずえ(俳優) 裕木奈江(俳優) スポーツ関係 岩﨑達郎(元プロ野球選手、東北楽天ゴールデンイーグルス) 荒波翔(元プロ野球選手、横浜DeNAベイスターズ) 松本裕樹(プロ野球選手、福岡ソフトバンクホークス) 栗原勇蔵(元プロサッカー選手、横浜F・マリノス) 美尾敦(元プロサッカー選手、FC岐阜) 松本憲(プロサッカー選手) 葛西裕一(元プロボクサー) 加藤覚(専修大学陸上競技部監督) 上尾野辺めぐみ(サッカー選手) 山崎珠美(柔道家) 日向楓(パラリンピック水泳) ゆかりのある人 山口百恵(歌手) - 幼少期を区内で過ごす。 ダレノガレ明美(タレント、モデル) - 幼少期より区内で育つ。 中村俊輔(プロサッカー選手、横浜FC)- 出生地。 その他 瀬谷区の家系ラーメン : 環状4号線沿いを中心に家系ラーメンの店が点在している。 銭湯 : 細谷戸の銭湯が廃業し、一時期は三ツ境の桜湯だけになってしまった。最近では、北部の目黒町にスーパー銭湯「ゆめみ処ここち湯」が営業しており、2006年(平成18年)12月30日より天然温泉を使用している。また、橋戸にはスーパー銭湯湯楽(ゆら)の里が存在したが、2014年6月30日に閉店し、その跡地では現在くら寿司とブロンコビリーが営業している。 瀬谷区にまつわる地名・名所の入っているお菓子 : 瀬谷プリン。瀬谷最中。長屋門まんじゅう。瀬谷八福神(餅菓子)。昔が来た(茶饅頭)。瀬谷餅。あじさい最中。瀬谷の里(パイ)。 釣堀 : 本郷2丁目に釣り堀がある。 埋蔵伝説 : 阿久和に伝わる昔話に、阿久和の善光寺谷というところに一遍上人ゆかりのものやその他仏具・宝物が埋められているという。『鎌倉郡中川村郷土誌』には「道下に古穴らしきものあり強く之(これ)を踏む時は地下に異様な音響を聞く」とある。また阿久和には小金山がある。 瀬谷区にまつわる歌 「横浜18区アンソロジー 瀬谷区のうた」 作詞・作曲:白井ヴィンセント 演奏:インビジブル・ファミリー 「みんなでつくろう 瀬谷のまち」 作詞・作曲・演奏:2007年(平成19年)度 横浜市立三ツ境小学校5年4組
{ "id": "123544", "title": "瀬谷区", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E8%B0%B7%E5%8C%BA" }
路傍の石文学賞(ろぼうのいしぶんがくしょう)は、石川文化事業財団が設立した文学賞。『路傍の石』の著者である山本有三の功績を讃えて、さまざまな作品に与えられる。第23回(2001年)の受賞以来休止しているが、栃木市、非営利法人山本有三ふるさと記念会、石川文化事業財団の三者で、新しい事業展開の可能性について討論している。 受賞作品 第1回から第10回 第1回 (1979年) 灰谷健次郎 『太陽の子』『兎の眼』 第2回 (1980年) 川村たかし 『山へ行く牛』『新十津川物語』などの作品に対して 第3回 (1981年) 竹崎有斐 『花吹雪のごとく』等に対して 第4回 (1982年) 倉本聰 『北の国から』の脚本または、シナリオをすぐれた読みものにした功績 第5回 (1983年) 黒柳徹子 『窓ぎわのトットちゃん』、菅生浩 『子守学校の女先生』を含む三部作 第6回 (1984年) 角野栄子 『わたしのママはしずかさん』『ズボン船長さんの話』 第7回 (1985年) 西村滋 『母恋い放浪記』などの執筆活動に対して 第8回 (1986年) 今西祐行 『名栗川少年記 マタルペシュペ物語1』、『留辺蕊の春 マタルペシュペ物語2』 第9回 (1987年) いぬいとみこ 『光の消えた日』『白鳥のふたごものがたり1,2,3』などの作品 第10回 (1988年) 浜田けい子 『まぼろしの難波宮―山根徳太郎物語』、今江祥智 『ぼんぼん』『兄貴』『おれたちのおふくろ』『牧歌』の自分史4部作と多年の児童文学への貢献 第11回から第20回 第11回 (1989年) 舟崎克彦 『ぽっぺん先生』シリーズ 第12回 (1990年) 高田桂子 『ざわめきやまない』 第13回 (1991年) 長田弘 『深呼吸の必要』『心の中にもっている問題』 第14回 (1992年) 長谷川集平 『石とダイヤモンド』『鉛筆デッサン小池さん』 第15回 (1993年) 山下明生 『カモメの家』 第16回 (1994年) 那須正幹 『さぎ師たちの空』 第17回 (1995年) 岩瀬成子 『迷い鳥とぶ』『ステゴザウルス』 第18回 (1996年) 神沢利子 『神沢利子コレクション』全5巻と多年の児童文学における業績に対して 第19回 (1997年) 三木卓 『イヌのヒロシ』 第20回 (1998年) 森絵都 『アーモンド入りチョコレートのワルツ』、小宮山量平 『千曲川-そして、明日の海へ』(特別賞) 第21回から第23回 第21回 (1999年) 江國香織 『ぼくの小鳥ちゃん』、佐藤多佳子 『イグアナくんのおじゃまな毎日』 第22回 (2000年) 角田光代 『キッドナップ・ツアー』、五味太郎 『ときどきの少年』 第23回 (2001年) 上橋菜穂子 『精霊の守り人』『闇の守り人』『夢の守り人』
{ "id": "123547", "title": "路傍の石文学賞", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B7%AF%E5%82%8D%E3%81%AE%E7%9F%B3%E6%96%87%E5%AD%A6%E8%B3%9E" }
リスカ株式会社は、茨城県常総市に本社を置く製菓会社である。 概要 「スーパービッグチョコ」や「ハートチップル」などトウモロコシなどを原料とするスナック菓子を中心に、チョコレート・ゼリー菓子等の製造販売を行っている。セブン-イレブンのセブンプレミアムにもOEM供給している。 創業者の武藤則夫の弟である武藤尚文は同じく常総市に本社を置く菓道の社長で、両社の商品を扱う駄菓子問屋・株式会社やおきんの石井俊夫常務は親戚である。 沿革 1971年 - 義父の経営する煎餅会社(立正堂)に勤めていた武藤則夫がスナック菓子部門を独立させ、ユカフーズの商号で創業。スナック菓子の製造を開始する。 1973年 - 現在の看板商品の一つ「ハートチップル」を開発・製造開始。 1979年 - 株式会社やおきんの石井常務の企画・提案により、「うまい棒」を開発・製造開始。 1981年 - 資本金1500万円で法人組織化。社名は株式会社立正堂スナック菓子(りっしょうどうすなっくがし)。 1989年 - 社名をリスカ株式会社に変更。 1995年 - パン焼成茨城工場完成(現リバティーフーズ)。 2008年 - 主にうまい棒たこ焼味を製造していた第3課工場が、工場内の装置からの失火により全焼。 主な商品 現行ラインナップ うまい棒(販売は株式会社やおきん) スーパーハートチップル 納豆チップル うまい輪(チーズ・めんたい・たこ焼・やさいサラダ) うまいシュガーラスク コーンポタージュ チョココーン しっとりチョコ しっとり抹茶 しっとりいちご 日本一なが〜いチョコ スーパービッグチョコ 徳用チョコシュー 10本チョコシュー 茨城名物なっとう味スナック(販売は株式会社メーコウ) 30本チョコ 15本チョコ 32本徳用チョコ チョコモナカ 徳用しっとりチョコ 奥久慈果樹園あんずの郷 ババヘラ棒(秋田県限定商品。販売は株式会社フルゥール) 徳用フレッシュゼリー シュガーラスク オニオンスープスナック 下町焼きそば 67gチョコカルシュー かつて製造していた商品 うまい棒(ギョッ!the・カニチャンコ) 不祥事 2022年8月22日、月120時間超の時間外勤務という違法な長時間労働があったとして、常総労働基準監督署は同社および武藤秀二社長を労働基準法違反の疑いで書類送検。12月、下妻簡易裁判所は、同社と社長に対してそれぞれ罰金10万円の略式命令を下した。
{ "id": "123548", "title": "リスカ", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%82%AB" }
新井 満(あらい まん、1946年〈昭和21年〉5月7日 - 2021年〈令和3年〉12月3日)は、日本の男性著作家、作詞作曲家、歌手、写真家、環境映像プロデューサー、絵本画家。新潟県新潟市生まれ。本名:滿(みつる)。母は助産婦。 来歴 新潟市立寄居中学校、新潟明訓高等学校、上智大学法学部卒業。子供時代に新潟地方を襲った大地震で危うく命を落としかけた。また、幼少時から病弱だった。上智大学グリークラブ(男声合唱団)に所属するも、重病を患い生死の境目を彷徨ったため入院退部。何とか治癒して生きる喜びを強く実感する。以降、美しいものを発見して伝えることをライフワークとして生きていきたいと誓う。 卒業後、電通に入社し環境ビデオ映像の製作に携わるかたわら、小説・歌などの創作活動に入る。2006年5月末日に定年退職した。 1971年、東京出身の三田部紀子(1947年生、東京農工大学卒)と結婚。のち新井紀子として共著を数点刊行している。 1977年(昭和52年)、カネボウのCMソングとして自ら歌唱した『ワインカラーのときめき』(作詞:阿久悠 作曲:森田公一)がヒット曲となる。 1987年(昭和62年)、『ヴェクサシオン』で第9回野間文芸新人賞受賞。1988年(昭和63年)の『尋ね人の時間』で第99回芥川賞受賞。都会生活を営む現代人の心象を、詩的な物語性によって繊細に描く作風と評価される。 日本ペンクラブ常務理事として、平和と環境問題を担当。 1998年(平成10年)長野冬季オリンピック開幕式イメージ監督。 2001年(平成13年)、妻をがんで亡くしたふるさとの友人を慰めるために『千の風になって』を作曲。作曲にあたって原詩である 『Do not stand at my grave and weep(直訳:私のお墓で佇み泣かないで)』 を訳して自ら歌い、CDに録音したものを30枚作成。友人や希望者に配布した。しかし、曲を聴きたいという希望者が膨れあがり、2003年に朝日新聞の天声人語で取り上げられると問い合わせが殺到。急遽ポニーキャニオンからCDが発売され、訳詩を掲載した本も講談社から発売された。この曲は秋川雅史、加藤登紀子、スーザン・オズボーン、新垣勉、ウィーン少年合唱団などプロの歌手たちにカバーされ、100万枚を越える大ヒットとなった。同曲によって2007年(平成19年)第49回日本レコード大賞作曲賞を受賞。ラジオドラマ、テレビドラマ、劇映画にもなった。また、9/11テロの後、現地での慰霊イベントで引用され大きな注目を集めた。 2003年(平成15年)、市民創作函館野外劇の実行委員会からの要望でテーマソング『星のまち Hakodate』を作詞・作曲。毎年7月と8月に開催される函館野外劇では出演者によって全編で歌われている。 2005年(平成17年)、『この街で』(作詞:新井満、作曲:新井満、三宮麻由子)を制作。この曲は元々2000年10月に松山市で開催された「21世紀に残したいことば」あなたのことばで元気になれる『だから、ことば大募集』」で松山市長賞を受賞した「恋し、結婚し、母になったこの街で、おばあちゃんになりたい!」がモチーフとなっている。日本ペンクラブ「平和の日・松山の集い」 のイベントで松山を訪れていた新井はこの言葉に感動し、エッセイストの三宮麻由子と協力して即興で作詞・作曲した。イベント終了後もう一度聞きたいという要望が寄せられたため、後日新井がプライベートで録音してCD原盤を作成。CDの製造・販売権も新井から松山市に譲渡され、松山市役所の窓口で販売された。CDの売上金はすべて街づくりのイベント等の資金として役立てられている。 2009年(平成21年)、平城遷都1300年の記念行事の一環として万葉集研究の第一人者である中西進から万葉集の和歌にメロディーを付けて楽曲を作って欲しいという依頼があり、『万葉恋歌 ああ、君待つと』を制作。万葉集の中から額田王・磐姫皇后・播磨娘子ら女性歌人の恋歌を新井が編纂し、曲をつけた。この曲は、演歌歌手の小林幸子の歌唱でCD化され、『第60回NHK紅白歌合戦』でも小林によって歌われた。 2011年(平成23年)11月、NHK『ラジオ深夜便』で朗読し反響となった詩『希望の木』を写真詩集として刊行。これは、津波で7万本あった高田松原の松の木が、たった一本を残して全滅した事実を踏まえて作られた詩で、初版印税の全額と一冊につき100円の復興応援金を寄付するチャリティー本となっている。 晩年は北海道亀田郡七飯町に暮らした。2016年(平成28年)7月、大沼国定公園にて開催された音楽イベント「北海道新幹線開業記念音楽祭「第1回千の風音楽祭」in大沼~イランカラプテ~」をプロデュースした。 2018年(平成30年)10月、愛媛県西条市の愛唱歌として「石鎚山」を作詞・作曲した。 2021年(令和3年)12月3日午前8時46分、誤嚥性肺炎のため、函館市内の病院で死去。。 2022年11月15日、第64回日本レコード大賞で特別功労賞を受賞(没後受賞)。 『千の風になって』をめぐる議論 『千の風になって』の詩の訳は南風椎が最初におこなっている。にもかかわらず、新井満はその名称の商標登録をおこなっている。原文となった英語の詩に関しても作者は著作権を放棄している。 作品リスト 小説・絵本 『にちようびだゾウ!』サンリード(創作えほん) 1983年 『ヴェクサシオン』文藝春秋、1987年 のち文庫、新風舎文庫 『尋ね人の時間』文藝春秋、1988年 のち文庫 『サンセット・ビーチ・ホテル』文藝春秋、1988年 のち文庫 『海辺の生活』文藝春秋、1991年 『カフカの外套』文藝春秋、1991年 『オンフルールの少年』マガジンハウス 1992年 『朝のパンセ』ラウル・デュフィ絵 ティビーエス・ブリタニカ 1993年 『エッフェル塔の黒猫』講談社 1999年 『黒い傷のある部屋』集英社 2000年 『カメラマンと犬』集英社 2002年 『月子』PHP研究所 2004年 『朱鷺のキンちゃん空を飛ぶ』佐竹美保絵 理論社 2005年 エッセイなど 『美女が来た! 男に勝とうとは思わないだから負けもしない』CBS・ソニー出版 1983年 『足し算の時代引き算の思想 対談集』PHP研究所 1990年 のち文庫 『環境ビデオの時代』主婦の友社 1990年 『サティ紀行 ノルマンディー・パリ音楽の旅』主婦の友社 1990年 『幸福論』PHP研究所 1992年 「幸せさがし」のち文庫 『森敦-月に還った人』文藝春秋 1992年 『新井満の人間交響楽』講談社 1995年 『私の小さな美術館』文藝春秋 1996年 『そこはかとなく』河出書房新社 1997年 『星になったサン=テグジュペリ』文春ネスコ 2000年 『千の風になって』講談社 2003年 『結婚おめでとう』PHP研究所 2004年 『死んだら風に生まれかわる』河出書房新社 2004年 のち朝日文庫 『死んだら星に生まれかわる』河出書房新社 2004年 のち朝日文庫 『新井満と語る風のごとく、自然体で』新風舎文庫 2004年 『新井満と語る威厳をもった老後と哀れな老後と』新風舎文庫 2004年 『お墓参りは楽しい』朝日新聞社 2005年 「お墓めぐりの旅」文庫 『この街で』黒井健絵 PHP研究所 2006年 『子どもにおくる般若心経』朝日新聞出版 2008年 『希望の木』大和出版 2011年 共著 『ハイジ紀行 ふたりで行く「アルプスの少女ハイジ」の旅』新井紀子共著 白泉社 1994年 のち講談社文庫 『木を植えた男を訪ねて ふたりで行く南仏プロヴァンスの旅』新井紀子 白泉社 1996年 のち講談社文庫 『ピーターラビット紀行 ふたりで行くイギリス湖水地方の旅』新井紀子 河出書房新社 2002年 『死の授業』NHK共著 講談社 2010年 翻訳 『般若心経 自由訳』朝日新聞社 2005年 のち文庫 サムエル・ウルマン『青春とは』講談社 2005年 ブライアン・ワイルドスミス『くまごろうのだいぼうけん』教育画劇 2005年 ジョン・レノン、オノ・ヨーコ『イマジン』朝日新聞社 2006年 のち文庫 『老子 自由訳』朝日新聞社 2007年 のち文庫 『十牛図 自由訳』四季社 2007年 『良寛さんの愛語 自由訳』考古堂書店 2008年 『樂しみは 橘曙覧・独楽吟の世界』講談社 2008年 『良寛 自由訳』世界文化社 2009年 『良寛と貞心尼の恋歌 自由訳』考古堂 2011年 音楽作品 アルバム 組曲『月山』 1976年作品。森敦の第70回芥川賞受賞作である小説『月山』の一節を歌曲化したもの。 『アルファベット・アベニュー』 1976年作品。 『アデュー』 1977年作品。 『マンダーランド』(KING SKS-1015 CD:KICS-1308) 1978年作品。音楽アルバム。大瀧詠一作曲の『消防署の火事』が収録されている。2007年に初CD化。 『髪』 1982年作品。 『尋ね人の時間』 1989年作品。自作の小説をベースにした作品。 組曲『鳥海山』 1994年作品。 『千の風になって』 2003年作品。「千の風になって」の第1弾作品。 『千の風になって~再生~』 2004年作品。 『この街で』 2006年作品。 『啄木・組曲ふるさとの山に向かいて』 2007年作品。石川啄木の短歌を歌曲化したもの。 『千の風になって メモリアル盤』 2007年作品。 『プーさんの鼻のララバイ』 2008年作品。 『万葉恋歌 君待つと』 2009年作品。万葉集を歌曲化したもの。 新井満コレクション1『風神』 2009年作品。 シングル 『オクトーバー14・外は雨』 1976年作品。 『ワインカラーのときめき』 1977年作品。カネボウのCMソング。歌唱を担当。作詞は阿久悠、作曲は森田公一。CMモデルは古泉まり子。 『ありふれた仲でなく』 1978年作品。 『時が過ぎて』 1978年作品。 『眼を閉じて』 1979年作品。 『展覧会で逢った女の子』 作詞と歌唱を担当。作曲は大野雄二。1980年6‐7月のNHK「みんなのうた」で発表。 『髪』 1982年作品。作詞を小椋佳が担当。 『尋ね人の時間』 1989年作品。 『千の風になって』 前述の『Do not stand at my grave and weep』日本語訳に、新井満が曲をつけたもの。新井自らが歌い、CD化された。のち、第57回NHK紅白歌合戦でテノール歌手・秋川雅史がこの歌を熱唱した結果問い合わせが殺到、2007年1月22日付のオリコン総合チャートで1位を獲得し、好セールスを記録した。 『ふるさとの山に向かいて』 2006年作品。 校歌 浦和麗明高等学校…『心の翼ひろげて』 鶴岡市立あさひ小学校…『朝日がのぼる』 新潟市立万代高等学校…『旅立ちの時は、今』 上智福岡中学高等学校…『はばたけ ソフィアの鷲よ』
{ "id": "123549", "title": "新井満", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E4%BA%95%E6%BA%80" }
リストカットは、カッターナイフなどの刃物を用いて主に手首を傷つける自傷行為。リスカと略されることもある。腕を傷つけるアームカットという言葉や脚を傷つけるレッグカットという言葉も存在し、これらはそれぞれアムカ、レグカと略されることがある。自傷行為をする理由は様々だが、 一時的に苦痛から逃れるための逃げ道として行っている者が多い 用語 1960年代から、アメリカでリストカットが流行し、1972年にはRosenthalらが、wrist-cutting syndromeと初めて記載したとされる。 日本では手首 (wrist) を切る (cut) ことからリストカットと呼ばれる。それを略して「リスカ」と呼ぶことがある。リスカをする者の事は「リストカッター」または「リスカー」と呼ぶことがある。 また、日本では顔を傷つけることをフェイスカット(face Cut、略して「フェイカ」)、 腕を傷つけることをアームカット(arm cut、略して「アムカ」)、脚を傷つけることをレッグカット(leg cut、略して「レグカ」)という。なお、英語では身体の部位に関わらず、単に「カッティング(cutting)」と呼ばれているが、カッティングという言葉自体は自傷行為を指すとは限らないため注意が必要である。 概説 リストカットは、言語化できない鬱積したストレスの表現方法の一つである説がある。ストレスを言語化して相手に伝えられない場合、「行動化」や「身体化」という形でストレスを発露する。「行動化」には歌を歌ったりスポーツをすることなどが分類される。これらは健康な行動化とされるが、その一方で犯罪や非行に走るという形での「行動化」もある。一方で身体化は、円形脱毛症や自律神経失調症など、身体でストレスを表出することで発露する方法である。 「誰かの気を惹くために」行われるアピール的な行動とみられることも多いが、実際のところはそのようなエビデンスは存在せず、むしろ96%以上の人間は自傷を一人きりで行い、誰にも告白せず、ストレスもろとも一人で抱え込むことが多いと指摘されている。 リストカットをしていることの露見を強く恐れる者は、アームカットや腹部など基本的に露出しない部位に対して行うこともある。 リストカット自体の致死性は極めて低い。松本俊彦による調査では、リストカットをする理由として最も多いのは「不快感情への対処」(55%)であり、以下「自殺の意図」(18%)「操作・意思伝達」(18%)「その他」(9%)と続く。 実際、自傷直後に脳内における内因性オピオイドの分泌が急激に高まることを明らかにした研究があり、リストカッターがしばしば証言するように「切ると気分が落ち着く、すっきりする」といった感情的苦痛を変容させる効果があることが示唆されている。 一方、小学校高学年から中学1、2年にかけての若年で始まるリストカットは「自殺の意図」であることが多い。 治療 基本的には数多くある自傷行為と同じである。 援助の方針 心構えとして、"Respond medically, not emotionally" (感情的に対処するな、医学的に対処せよ) が重要となる。 リストカットのような自傷は見た目のインパクトが強く、目撃者に強い感情を呼び起こし、怖がる、怒る、泣く、叱責するなどの行為を感情的かつ短慮に行ってしまいがちである。 こうした反応は自傷を悪化させ、二次的なアピールを目的としたリスカにすり替わるおそれもある。 そこで、まずは気持ちを落ち着かせ、冷静な外科医のように傷を観察・必要な手当てを粛々と実行し、自傷に至った原因を冷静に推測・分析し、これに対処しなければならない。 支援方法 支援者は、リストカットを否定することなく、本人の気持ちやリストカットに至った経緯に丁寧かつ共感的に耳を傾け、リストカットの引き金(原因となっている事柄)を分析していく。そのうえで、信頼関係を維持しながら、原因となっている事柄への対処方法を共同で模索し、心理的苦痛の緩和をサポートする。 自傷の治療法・参考文献 松本俊彦、「自分を傷つけずにはいられない!」『児童青年精神医学とその近接領域』 57巻 3号 2016年 p.409-414, , 日本児童青年精神医学会 もしも身近な人の自傷に気づいたら- yomiDr. / ヨミドクター(読売新聞) 自分を傷つけずにはいられない 自傷から回復するためのヒント -
{ "id": "123550", "title": "リストカット", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%88" }
『イリヤの空、UFOの夏』(イリヤのそら、ユーフォーのなつ)は、秋山瑞人による日本のライトノベル。また、これを原作とするOVA・ラジオドラマ・ゲーム・漫画作品である。原作のイラストは駒都えーじ。電撃文庫(メディアワークス)より2001年10月から2003年8月まで刊行された。2008年10月時点でシリーズ累計部数は70万部を記録している。「セカイ系」の代表作の一つとして扱われる。 沿革 2000年 電撃hpVolume.7で掲載が始まる。 2001年 文庫本第1巻発売。 2003年 7月から8月にかけてラジオ『電撃大賞』内にてラジオドラマが放送。 文庫本最終巻(第4巻)発売。 11月、上記のラジオドラマを収録したアルバム『イリヤの空、UFOの夏』発売。このアルバムにはブックレットが付属しており、書き下ろし番外編「それ以外のことについて言えば、」が収録されている。 2005年 2月から6月まで東映アニメーションよりOVAとして全6巻が発売され、ネットによる先行配信も行われた。 7月25日、ドラマアルバム『イリヤの空、UFOの夏 園原電波新聞部 号外』発売。 11月15日、画集『イリヤの空、UFOの夏 オフィシャル・イラストレーションズ』発売。本編のプロローグ的な内容の書き下ろし短編「グラウンド・ゼロ」を収録。 2007年 1月11日、ニンテンドーDS対応のサウンドノベル「DS電撃文庫」第3弾として『DS電撃文庫 イリヤの空、UFOの夏』発売。 『電撃「マ)王』にて漫画版が連載開始。 10月25日、「DS電撃文庫」第4弾として『DS電撃文庫 イリヤの空、UFOの夏II』発売。 2009年 漫画版の連載が終了。 2018年 カクヨムで無料公開される。平日に限り毎日更新する形式。 あらすじ 浅羽直之は園原中学校の二年生。非公式のゲリラ新聞部に所属する彼は、部長である水前寺邦博と共に、夏休みの間中、山にこもってUFOを探す日々を送っていた。園原にはUFOの噂が絶えない有名な空軍基地があり、水前寺はその秘密を暴かんとしていたのだ。しかし夏休み全てを費やしても、結局何の成果も得られなかった。 かわって夏休み最後の夜、思い立って浅羽は学校のプールへと忍び込む。が、そこには伊里野加奈と名乗る、見慣れぬ少女がいた。状況が飲み込めないままに浅羽は伊里野へ泳ぎ方を教えるが、すぐに伊里野の兄貴と名乗る男が現れて、家へ帰るよう言った。 そして翌日の始業式の日、浅羽のクラスに伊里野が転校生として編入してきた。クラスから孤立してしまった伊里野と、そんな伊里野のことが気にかかる浅羽と、伊里野の周囲に垣間見える幾つもの奇妙な謎。そんな風にして、浅羽直之のUFOの夏は、その終焉に向けて静かに動き出した。 登場人物 担当声優はラジオドラマ版 / OVA版の順。1人しか記載がない場合はOVA版のキャスト。 浅羽 直之(あさば なおゆき) 声 - 菅沼久義 / 浪川大輔 本作の主人公。園原中学校二年四組一番。園原電波新聞部の初期からの部員。十四歳。本人は余り自覚していないが、周りに流されやすい性格で、部長である水前寺の無謀な行動にいつも振り回されている。実家が理髪店で散髪が得意なため、校内で生徒相手に散髪のこづかい稼ぎをしている。いつまでもクラスに馴染めないでいる伊里野をいつも気に掛けているが、奥手な性格のため、いざとなると何を言っていいか分からなくなってしまう。 夏休み最後の夜、伊里野と接触したことで「子犬作戦」のターゲットに選定され、本人の知らぬうちに首の皮下に発信機を埋め込まれた。軍の目論見通りに浅羽は伊里野にとってなくてはならない存在に成長し、彼女にとってのいくつかの動機となっていく。 伊里野 加奈(いりや かな) 声 - 広橋涼 / 野中藍 夏休み最後の夜に浅羽がプールで出会った少女。その翌日、浅羽のクラスに転入してくる。航空自衛軍士官の兄と外国の軍事基地にいたと言うが、手首に銀色の玉が埋め込まれていたり、突然鼻血を出して倒れたり、大量の薬を持ち歩いていたりと謎が多い。プールで出会い、泳ぎ方を教えてくれた浅羽に好意を抱いている。 日本人と思われるが、日本での生活経験があるのかは不明。日本語・英語は流暢に話すが、日常会話以外では一般的な知識に乏しく、じゃんけんや学園祭を知らなかった。 表情に乏しく、人間関係に対する関心も希薄だが、浅羽に対しては時折その後をついて歩くなど、子犬のように懐いているかのような行動を見せる。 椎名 真由美の言によれば、本当は浅羽よりも一歳年上の十五歳である。 正体は異星人のUFOに唯一対抗できる能力を持った戦闘機を駆る、特別な資質をもったパイロットの最後の一人。手首の金属球は操縦のためのアクセスデバイス。よく鼻血を出すのも、大量の薬の服用と、過酷な戦闘機動に苛まれた身体のため。 水前寺 邦博(すいぜんじ くにひろ) 声 - 三木眞一郎 / 神谷浩史 園原電波新聞部部長。三年二組十二番。十五歳。175センチの長身で、全国模試の偏差値は81、100メートルを11秒で走るスーパーマンで、電子機器の扱いにも長け、顔だってまずくないのだが、進路希望調査で「CIA」と本気で書くほどの変人。真実の探求の為なら、いかなる行為でもやってのける驚異の行動力と発想を持つ。しかしその興味の対象は流動的で、UFOに興味を示す前は心霊現象、その前は超能力の取材をしていた。その興味の対象次第で季節の変化を部員達に印象付けている。底無しの胃袋を持ち、過去には鉄人定食を最年少で完食するという偉業を達成している。実家が大地主の農家で、家の敷地の蔵で生活している。お姉さんが苦手。 須藤 晶穂(すどう あきほ) 声 - 雪乃五月 / 千葉紗子 浅羽の級友。出席番号十四番。十四歳。園原電波新聞部員。水前寺部長の下、暴走を続ける園原電波新聞改革の為、日々奮闘している。しっかりした性格で、いつも水前寺に振り回されている浅羽を『超腰抜け』と不甲斐なく思うと共に、部活動に関する意見の相違から、水前寺とはいつも対立している。また水前寺と同じく、見た目に反する超人的な食欲の持ち主でもある。浅羽に密かに想いを寄せており、浅羽と関わりを持った伊里野が気に入らない。 榎本(えのもと) 声 - 松本保典 / 井上和彦 浅羽がプールで出会った、本人曰く「伊里野の兄貴みたいなもの」。伊里野のことを常に気に掛けており、優しい一面も見せるが、測り知れないところのある謎の男。国立大学を卒業している。屋根の上でカップ麺を啜りながら星を眺めるのを数少ないポリシーだと述べている。子犬作戦の立案者。水前寺の洞察力を見抜いており、過去に写真を撮られかけたこともあるがゆえに決して水前寺の前に姿を現さない。やる気の無さ気な惚けた態度とニヒルな物言いでありながら、浅羽と伊里野に深く関与していく。 椎名 真由美(しいな まゆみ) 声 - 冬馬由美 / 桑島法子 夏休み直前に、新しく赴任してきた保健教諭。端麗な容姿と気さくな性格で、生徒の間での人気は高い。美人なのだが、本人はそのことを歯牙にもかけておらず、化粧もしなければ言葉遣いも荒い。実は中野学校出身の陸上自衛軍情報将校であり、子犬作戦の為、伊里野の監視・監督のために園原中学校に潜入した。内心、榎本の計画を快く思っていない。「椎名真由美」は作戦のための偽名で、本名のイニシャルはT・S。 浅羽 夕子(あさば ゆうこ) 声 - 高野直子 浅羽の妹。園原中学校一年一組一番。ある事件がきっかけで、水前寺を毛嫌いしている。少林寺拳法の心得がある。年頃の為か、兄とあまり口を利かなくなっていたが、伊里野の登場により、変化が生まれる。 西久保 正則(にしくぼ まさのり) 声 - 藤本たかひろ 浅羽の級友。学校帰りに風呂屋に通うのが趣味。 花村 祐二(はなむら ゆうじ) 声 - 田中大文 浅羽の級友。いつも西久保と浅羽との三人でつるんでいる。転校が多く、過去には帝都にいたこともある。 島村 清美(しまむら きよみ) 声 - 立野香菜子 晶穂の親友。愛犬(十兵衛)の死で塞ぎ込んでいたが、晶穂のおかげで立ち直る。晶穂を浅羽絡みでからかうのが好き。親がプロボウラーで、ボウリングがうまい。 河口 泰蔵(かわぐち たいぞう) 声 - 高塚正也 浅羽たちの担任。三十五歳独身。一度怒り出すと見境がつかなくなってしまうところがあり、生徒達からは余り好かれていない。 田代(たしろ) 声 - 園部啓一 園原中学校教頭。 先坂 絵里(さきさか えり) 声 - 儀武ゆう子 椎名の後輩の情報陸曹。子供っぽい外見で高校生にしか見えない。旭日祭の時限定で、椎名の代わりに保健医を代行した。作戦行動後の伊里野をたびたび見ており、罪悪感を持ちながらも任務には忠実である。 木村(きむら) 自衛軍士官。性別不明。まじめな性格らしい。番外編「死体を洗え」に名前が登場。 エリカ・プラウドフット 声 - 今井ちひろ ブラックマンタのパイロット。伊里野より少し年上。一年前の夏、哨戒ミッション中に死亡した。生前はどちらかと言えば物静かで落ち着いた性格だったが、死んだのを境に超人的なおしゃべりの幽霊(伊里野の幻覚?)となった。 ジェイミー・ザッカリー ブラックマンタのパイロット。パイロットチーム・バンディット‐1の中でもエースと呼ばれるほどの実力を持っていた。ピーナッツ・アプローチという対AWACS戦術の訓練中、原因不明の墜落事故を起こし死亡。伊里野に対してはなにかとちょっかいを出し、伊里野にとっては、いじめっ子的存在だった。 ディーン ブラックマンタのパイロット。パイロットチームの最年長。作中で最初の「戦死者」とされている。どのような戦闘であったのかなどの詳細は不明。ジェイミーに続く第二の犠牲者。 エンリコ ブラックマンタのパイロット。パイロットチーム三人目の犠牲者。ジェイミーの墜落地点を捜索中、出会った男性におもちゃのガンベルトとカウボーイの帽子を買ってもらうなど年齢相応の陽気さも見える。 吉野 敏明(よしの としあき) 臨時休校中の学校を転々と移り住むホームレス。元は日本史の教師で鎌倉時代の授業をするなど、五日間を浅羽らと学校で過ごす。しかし、学校での生活も長く続かないと悟り、学校を去ろうとした際に伊里野の姿に欲情し乱暴をはたらき、そのあと伊里野に刺された。浅羽のダッフルバッグから12万円を持ち逃げし、警察へ匿名の通報をした。 町田 一輝 大学四年生。浅羽理容店と通りを挟んだ真向かいにある木造二階建てのアパートに住んでいる。卒業後は実家に帰って家業を継ぐ予定。短編「それ以外のことについて言えば」に登場。 守 和泉(かみ いずみ) 陸上自衛軍の特務兵。榎本たちの組織の「下っ端」にあたる。町田の部屋を占拠して、浅羽の監視をしていた。本当は大学に行きたかったらしい。短編「それ以外のことについて言えば」に登場。 用語 園原基地(そのはらきち) 園原市内にある大規模な空軍基地。戦中旧軍の園原飛行場だった土地に建設された。航空自衛軍とアメリカ合衆国空軍が常駐している。UFOの目撃談が後を絶たない。「北」の脅威の為、その全貌は明らかでは無く、地図にも空白地帯として表記される。 園原電波新聞部(そのはらでんぱしんぶんぶ) 水前寺邦博が部長を務める園原中学の新聞部。元々「太陽系電波新聞」だったが、後から入部した晶穂の主張で紙名変更した。晶穂が加わるまでは水前寺と浅羽の二名のみで活動しており、主に水前寺の過激な取材活動で学校側から睨まれていた。取材対象は主に、幽霊や超能力、UFOといったオカルトテーマである。晶穂が入部した後も相変わらずゲリラ部で、学校側から認められた正式な部ではないが、一部の生徒・教師には認知されている。水前寺の雄大な思想の下、今日も活動を続けている。 旭日祭(きょくじつさい) 園原中学で年に一度行われる学園祭。園原市に於ける数少ない催しの一つで、およそ中学校の学園祭とは思えない規模を誇り、二日を掛けて盛大に行われる。期間中は園原中のエリート集団である旭日会によって運営される。 鉄人屋(てつじんや) 園原銀座商店街にある中華料理屋。気骨溢れる店長、如月十郎が経営している。「鉄人定食」と呼ばれる世にも恐ろしい定食が有名。晶穂が伊里野を取材と称して同行させ、壮絶な戦いの舞台となった。作者の出身地である甲府盆地にある食堂がモデルとなっている。 ブラックマンタ 作中に登場する架空戦闘機。操縦にはある種のESP(超能力)が必要と言われ、特別な訓練を受けた者にしか操縦できない。空力による機体制御ができない成層圏上部での飛行が可能(作中では高度12万フィートで戦闘行動が可能と示唆されている)。これを重力飛行といい、通常飛行を空力飛行という。水前寺の推測では、1機の有人の母機と複数の無人のミサイルキャリア・ダミーにより構成され、フォーメーションを組んで戦闘を行っているとされている。開発にはスカンクワークス、ファントムワークスが関わっているとされるが詳細は明らかにされていない。その存在は日米の機密事項となっている。全5機が存在したが、伊里野の4番機を残して他は既に消失。パイロットスーツは何タイプかあるようで、原作2巻表紙の一般的な耐Gスーツタイプ、アニメの全身を覆う重装備のタイプ、DSソフト広告の体のラインにフィットした薄いタイプがある。 ロズウェル計画 ディーンドライブ・重力制御機関を持つ戦闘機を開発し、エイリアンに対抗することを目的として立案された計画。榎本や椎名、先坂など多くの人間がこれに参加している。子犬作戦と混同されがちだが、子犬作戦はこの計画の一部である。 子犬作戦 仲間を守ることのみに戦う意味を見出していたパイロット達だったが、過酷な日々が続き、伊里野を残して全員が死亡。仲間の死は戦闘結果に重大な影響を及ぼしており、生きる意味すらも失ってしまった伊里野に、新しく「守るべきもの」を与えることを目的とした作戦。実際には子犬作戦という正式な作戦名が与えられてはいないのだが、事情を知っているスタッフがそう呼んでいる。「子犬(=パピィ)」を与え、後からそれを取り上げるという計画だった。つまり、人質にしてでも戦いを強要する為であった。計画提案者は榎本。具体的な内容としては、伊里野と同年代の少年少女の通う園原中学に伊里野を転校させ、その中の誰かを「守るべきもの」とするというターゲットが曖昧な作戦だった。夏休み最終日に基地を脱走して浅羽と出会い、彼が伊里野にとっての「守るべきもの」となったため、編入するクラスを当初の予定であった2年1組から浅羽のクラスである2年4組に変更した。 北 作中には明確な説明は無い。しかし、敵対国家の存在として描かれており、園原中学には各クラスに「防空委員」が定められて防空訓練が行われていたり、市内には核シェルターが多数存在、スパイ騒動が度々起こる等、緊張状態にある。現在までに開戦の危機が数度存在していたとされるが、伊里野が述べる「1947年から、戦争は始まっていた」との件とは異なる。 番外編 第1巻収録 そんなことだから 園原に赴任してきた椎名真由美(仮名)の、引越し合間の一幕を書いた短編。時系列は本編第1話の2カ月前で、作中6月の末。余談的な位置づけの話ではあるが、本編の設定を補足している部分もある。 第2巻収録 死体を洗え 自衛軍のWAC同士の会話形式で進められるミステリホラー調の短編。舞台は園原基地だが、年代や登場人物など本編との関連は不明。 第3巻収録 ESPの冬 タイトルの通り、水前寺テーマが超能力だった時期の園原(当時は太陽系)電波新聞部の話。 評価 『おすすめ文庫王国 2003年度版』今年の収穫ベストテンSF部門4位。選者の大森望は、『イリヤの空、UFOの夏』は1位『あなたの人生の物語』・2位『しあわせの理由』(グレッグ・イーガン)・3位『マルドゥック・スクランブル』と同じく個人的なオールタイムベストの作品であり順位はつけがたいとし、また「何の取り柄もない平凡な男の子に訪れた“不思議のひと触れ”を通じて、『とっくの昔に終わっちゃったこと』に奇跡的な輝きを与える、スタージョン/ブラッドベリ的な少年小説の傑作」と評している。 オタク系ジャンルを得意とする編集チーム・ドリルプロジェクトは本作について、著者・秋山瑞人による独自のSFテイストやジュブナイル小説としての醍醐味を持ち合わせた珍しい作品としてファンに支持され続けていると評している。 既刊一覧 小説 秋山瑞人(著) / 駒都えーじ(イラスト) 『イリヤの空、UFOの夏』 メディアワークス〈電撃文庫〉、全4巻 2001年10月25日初版発行(10月10日発売)、 2001年11月25日初版発行(11月10日発売)、 2002年9月25日初版発行(9月10日発売)、 2003年8月25日初版発行(8月10日発売)、 漫画 秋山瑞人(原作) / カンノ(作画) 『イリヤの空、UFOの夏』 アスキー・メディアワークス〈電撃コミックス〉、全2巻 2008年6月27日発売、 2009年4月27日発売、 関連書籍 『イリヤの空、UFOの夏 オフィシャル・イラストレーションズ』2005年10月25日発売、 ラジオドラマ 2003年7月から8月にかけてラジオ番組『電撃大賞』内にて放送。ナレーションは遠藤守哉。 OVA 2005年2月25日から6月29日まで発売された。全6巻。 スタッフ 原作 - 秋山瑞人 キャラクター原案 - 駒都えーじ 監督 - 伊藤尚往 プロデューサー - 柴田宏明 シリーズ構成・脚本 - 横手美智子 キャラクターデザイン - 倉嶋丈康 総作画監督 - 志田ただし ブラックマンタデザイン - 佐山善則 美術デザイン - 井芹達朗 色彩設計 - 辻田邦夫、小日置知子 音楽 - 高木洋 アニメーション制作 - 東映アニメーション 製作 - 東映アニメーション、ハピネットピクチャーズ 主題歌 オープニングテーマ「Forever Blue」 作詞・作曲 - 松浦有希 / 編曲 - 高木洋 / 歌 - 今井ちひろ エンディングテーマ「ひまわり」 作詞 - 青柳美奈子 / 作曲 - 表誠治 / 編曲 - 高木洋 / 歌 - 今井ちひろ 各巻リスト ゲーム 『DS電撃文庫 イリヤの空、UFOの夏』 2007年1月11日発売。1巻から2巻までの本編および、ドラマCD書き下ろしの『それ以外のことについて言えば、』を収録。他に簡単なシューティングゲーム、カード収集なども付いている。初回限定盤の特典はポストカード10枚セットと特製写真立て。購入者全員サービスは『駒都えーじスペシャルイラストブック』。 『DS電撃文庫 イリヤの空、UFOの夏II』 2007年10月25日発売。3巻から4巻までの本編および、『グラウンド・ゼロ』を収録。他に前作とは別のシューティングゲーム、人物考察なども付いている。カード収集は無し。初回特典は『駒都えーじスペシャルイラストブックII』。 『電撃学園RPG Cross of Venus』 2009年3月19日発売。電撃文庫15周年記念作品として発売された学園アクションRPG。 戦闘キャラクターとしてイリヤが参戦し、銃器やナイフを使用して生身で戦う。 『電撃学園RPG Cross of Venus SPECIAL』 2011年2月10日発売。上記作品のリメイク版。 外伝の追加によって本作の世界に行く機会が増えている。 『電撃文庫 FIGHTING CLIMAX IGNITION』 2015年12月17日発売。電撃文庫とセガの共同プロジェクトとして製作された2D対戦格闘ゲーム。 家庭版からの追加キャラクターとして、サポートキャラクターのイリヤが登場。 朗読PV YouTubeで配信している公式電撃文庫チャンネルの「電撃文庫朗読してみた」として、2021年6月24日より早見沙織による約6分の朗読が配信。
{ "id": "123551", "title": "イリヤの空、UFOの夏", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%83%A4%E3%81%AE%E7%A9%BA%E3%80%81UFO%E3%81%AE%E5%A4%8F" }
Itanium(アイテニアム)は、インテルが2001年にリリースした、64ビットマイクロプロセッサ。ヒューレット・パッカード (HP) と共同開発した高性能サーバ向けの命令セットアーキテクチャであるIA-64を初めて採用した。 Itanium 2(アイテニアムツー)は、翌2002年に発表されたItaniumの後継で、3次キャッシュを内蔵させるなど性能の向上を図った。2008年2月25日、インテルはItanium 2の表記を「Itanium 9000」などに変更した。これはプロセッサナンバーの採用によりItaniumとItanium 2を区別する必要性が薄れたこと、ブランド力の強化などがあげられる。 2019年1月、インテルは2021年のItaniumシリーズ製造終了を発表した。 概要 16ビットおよび32ビットのx86命令セットアーキテクチャのマイクロプロセッサーによってパーソナルコンピュータ市場では事実上の標準となったインテルは、1994年に独自の64ビット命令セットアーキテクチャである「IA-64」を発表し、従来の32ビットx86アーキテクチャ (x86-32) を「IA-32」と呼ぶようになった。 IA-64は、従来のx86-32との命令セットレベルの互換性という制約を捨てる代わりに、ヒューレット・パッカード (HP) と共同開発したEPICアーキテクチャを採用し、コンパイラなど主にソフトウェアによる命令レベルの並列性を発揮することで性能と将来への拡張性を確保することを目的とした。 インテルはIA-64により、各社のRISCプロセッサが占めるハイエンドの64ビット市場に進出し、HPは従来からのPA-RISCからの移行を表明した。IA-64は同時に特許などで保護されたアーキテクチャであるため、AMD などの互換プロセッサメーカーの振り切りを狙う目的もあり、将来的にはIA-32 (x86) からの移行も掲げられていた。またインテルがメーカー各社に供給することで、幅広いハードウェアやソフトウェアでサポートと、大量生産による価格競争力の向上により、当時の32ビット市場におけるIA-32に続いて、次世代の64ビット市場で事実上の標準となることが提唱された。 しかしIA-64を採用した最初のマイクロプロセッサであるItanium(コードネームMerced)は開発が遅れ、当初予定の1999年から2年後の2001年にリリースされたが、当時の各社RISCプロセッサだけではなく、Xeonなど自社のx86プロセッサと比較しても価格性能比が低く、サポートするハードウェアやソフトウェアは広まらず、またx86エミュレーションの遅さもあり、広くは普及しなかった。 2002年には性能を改善したItanium 2がリリースされ、2008年の「Itanium 9000」番台への名称変更を経たが、同時期の各社プロセッサと比較しての価格性能比や、更に64ビット命令セットアーキテクチャとしては後発のx86-32を64ビット拡張したx64 (x86-64) が普及したこともあり、2010年の時点でも、IA-64 (Itanium) の普及は一部のメインフレームやミッドレンジコンピュータの移行先など、限定的な市場に留まった。 Itanium 2 Itanium 2の位置付けは、RISCプロセッササーバやメインフレームの置き換えであるとされており、そのため信頼性の向上にプロセッサレベルで対応している。シリーズ共通の特徴は以下の通りである。 16KBの1次命令キャッシュと16KBの1次 (L1) データキャッシュ 2次 (L2) キャッシュは規定されていないが特筆していない場合は256KB(命令/データ共通) 3次 (L3) キャッシュは機種により異なり、1.5MB〜24MB MckinleyバスまたはScalability Portとも呼ばれるシステムバスは128ビット幅 200MHz(DDRなので実質400MHz)の場合、6.4GB/s 2004年には、266MHz(実質533MHz)、8.5GB/sとなった 2005年には、333MHz(実質667MHz)、10.6GB/sとなった ItaniumからItanium 2へのマイクロアーキテクチャ上の変更点は、整数演算&メモリのユニットが2個から4個に拡張(整数演算専用ユニットは別に2個ある)、命令発行の組み合わせを増大させた、パイプライン段数を10段から8段に変更、などがあげられる。 IA-64だけでなく、IA-32ベースのアプリケーションも実行可能である。 Montecitoより前のCPUでは、IA-32を処理するハードウェアデコーダが搭載されていた。この機能はWindows Itanium EditionにおけるWin32エミュレーションレイヤーでかつて使われていた(Itaniumに移植されなかったプログラム、OCX、DLLの実行に必須で、特にActiveXに対する後方互換性は重大な課題であった)。Montecitoからはハードウェアデコーダは削除され、EFIでIA-32エミュレータがロードされるようになった。 キャッシュ設計上の興味深い点としてL2キャッシュがALUを使わずにセマフォーを操作できるロジックを備えている点である。デュアルコアである2006年7月発売の製品Montecitoを皮切りに、以降のItaniumファミリはマルチコアチップとなる。 歴史 1994年 インテルとHPがIA-64の共同開発を発表 1999年 インテルとHPがIA-64の詳細を発表 2001年 Itanium (Merced) リリース 2002年 Itanium 2 (Mckinley) リリース 2003年 Itanium 2 (Madison) リリース 2004年 Itaniumの設計よりHPが撤退 2005年 Itanium Solutions Alliance (ISA) 発足 2006年 Itanium 2 9000 (Montecito) リリース(後にItanium 9000と改称) 2007年 Itanium 2 9100 (Montvale) リリース(後にItanium 9100と改称) 2008年 Itanium 2をItaniumと改称 2010年 Itanium 9300 (Tukwila) リリース 2012年 Itanium 9500 (Paulson) リリース 2017年 Itanium 9700 (Kittson) リリース 2020年1月30日 最終受注日 2021年7月29日 最終出荷日 製品 Itanium / Merced (マーセッド) 2001年5月29日に発表。180 nmプロセスで製造され、動作周波数は最大 800 MHz。パッケージ内に外部3次キャッシュとして2MBか4MBを選択できる。価格は1,200 - 4,000USドル。しかし、その性能は業界を満足させるものではなかった。これは当初1999年のリリースを目指していたものの、度重なる延期により設計仕様が2年遅れとなってしまったことも大きい。IA-64モードでは同クロック周波数のx86と比較して若干性能がよい程度で、エミュレーションでIA-32のコードを実行すると非常に低い性能しか出なかった(同クロック周波数のx86の1/8)。激しい市場競争により同時期のx86プロセッサは倍以上の1.7GHzに達しており、プラットフォームも旧式化していた。 {| border="1" cellpadding="5" class="wikitable" |+ Itanium Processor |- align="center" ! 動作周波数 !! L3キャッシュ !! TDP |- | 733 MHz || 2 または 4 MB || 116 W |- | 800 MHz || 2 または 4 MB || 130 W |} Itanium 2 Mckinley (マッキンリ) 2002年7月8日に発表。0.18 μmプロセスで製造される第一世代のItanium 2。IA-64命令セットにbranchlong命令が追加され、実行ユニットを4から6へ増加、キャッシュ周りが再設計されるなどして性能が最大2倍向上しているが、その恩恵を受けるにはItanium2向けに再コンパイルする必要がある。なおIA-32性能も大幅に改善されたが、同時期のx86プロセッサの性能には遠く及ばず、Mckinleyでのx86コード実行速度はクロック周波数が2/3のPentium IIと同等である。開発初期段階ではFlagstaff (フラッグスタッフ) という名称で開発されていた。 {| border="1" cellpadding="5" class="wikitable" |+ Itanium 2 Processor |- align="center" ! 動作周波数 !! L3キャッシュ !! TDP |- | 900 MHz || 1.5 MB || 90 W |- | rowspan="2" | 1 GHz | 1.5 MB | rowspan="2" | 100 W |- | 3 MB |} Madison (マディソン) 2003年6月末に登場した0.13 μmプロセスで製造される第二世代のItanium 2。ダイサイズは374平方ミリメートル。消費電力はMckinleyと変わらず130ワット。発表当初は3次キャッシュを最大で6 MB搭載するものが出荷されていたが、後に最大で9 MB搭載するもの (Madison-9M) が発表された。2005年にはFSBが667 MHzのものが発表された。最新のものはSPECfpで2,801を記録した (日立製作所のComputing blade)。 {| border="1" cellpadding="5" class="wikitable" |+ Itanium 2 Processor |- align="center" ! 動作周波数 !! FSB !! L3キャッシュ !! TDP |- ! style="background:#127CC1;color:#ffffff;" colspan="4" | 1-8 Way |- | 1.3 GHz | rowspan="6" | 400 MHz | 3 MB | 97 W |- | 1.4 GHz || 4 MB || 91 W |- | rowspan="2" | 1.5 GHz | 6 MB || 107 W |- | 4 MB | rowspan="5" | 122 W |- | rowspan="2" | 1.6 GHz | 6 MB |- | 9 MB |- | rowspan="2" | 1.67 GHz | rowspan="2" | 667 MHz | 6 MB |- | 9 MB |- ! style="background:#127CC1;color:#ffffff;" colspan="4" | 1-2 Way |- | rowspan="2" | 1.4 GHz | rowspan="2" | 400 MHz | 1.5 MB | rowspan="2" | 91 W |- | 3 MB |- | 1.6 GHz || 667 MHz || 3 MB || 99 W |} Deerfield (ディアフィールド) 2003年にリリースされた2CPUまでのSMPに対応したMadisonの派生版。低電圧版の位置付けで、Madisonよりも消費電力が大幅に抑えられている。消費電力は63ワットでブレードサーバや1Uサーバ向きである。 ラインナップ - 1 GHz (L3 1.5 MB) Hondo ヒューレット・パッカード (HP) がmx2デュアルプロセッサモジュールとして2003年に発表し、2004年から出荷した、Itanium 2を二次利用したプロセッサ。ふたつのMadisonコアと32 MBのL4キャッシュを通常のItanium 2と同じサイズにパッケージ化したもの。HPのみが販売しており、最近では1.1 GHzで各コアに4 MBのL3キャッシュを搭載したものを使っている。 Fanwood (ファンウッド) 2004年に登場した2CPUまでのSMPに対応したMadison (Deerfield) の派生版。通常電圧版ではFSBクロックが533 MHzに向上している。 ラインナップ 通常電圧版 - 1.6 GHz (L3 3 MB) 低電圧版 - 1.3 GHz (L3 3 MB) 2006年7月18日に発表、即日発売されたItanium 2シリーズの中の一つ。当初の名称はDual-Core Itanium 2 Processor 9000。この9000はプロセッサナンバで、広義では9xxxの総称とも言えるが、狭義として90xxの総称でもある。後のItanium 2の名称のItaniumとの統合により、このプロセッサの名称はItanium 2 9000からItanium 9000に改められた。 Intelの発表では、Itanium 9050は前世代にあたるMadisonとの比較で、性能が最大2倍、消費電力が最大2割減となり、消費電力当たり性能は最大2.5倍に達するとしている。 9000シリーズの基本共通は、製造プロセスルールは90 nm、L2キャッシュ容量は2.5 MB (デュアルコアのコア毎に1 MBのコードと0.25 MBのデータをキャッシュする)。L3キャッシュは最大容量の製品で24 MB。補助機能としてVirtualization Technology (VT)、Hyper-Threading Technology (HT、一部の製品で無効化されている)、Cache Safe Technology機能を搭載する。熱設計電力は9010のみ75 Wで、シングルコア。 Montecitoに用いられるHT技術は、NetBurstマイクロアーキテクチャでの同時マルチスレッディング (Simultaneous Multi-Threading; SMT) とは違い、CGMT (Coarse-Grain Multi-Threading) を使用している。 {| border="1" cellpadding="5" class="wikitable" |+ Itanium Processor 90xx |- align="center" ! プロセッサ・ナンバ !! 動作周波数 !! コア/スレッド数 !! FSB !! L3キャッシュ !! HT !! TDP |- | 9050 || 1.60 GHz || 2C/4T || 533 MHz || 24 MB || ○ || 104 W |- | 9040 || 1.60 GHz || 2C/4T || 533 MHz || 18 MB || ○ || 104 W |- | 9030 || 1.60 GHz || 2C/2T || 533 MHz || 8 MB || × || 104 W |- | 9020 || 1.42 GHz || 2C/4T || 533 MHz || 12 MB || ○ || 104 W |- | 9015 || 1.40 GHz || 2C/4T || 400 MHz || 12 MB || ○ || 104 W |- | 9010 || 1.60 GHz || 1C/1T || 533 MHz || 6 MB || × || 104 W |} Itanium 9100 / Montvale (モンベール) Montecito の機能強化版。2007年10月31日即日販売された。名称はDual-Core Itanium Processor 9100番台。 製造プロセスルールは90 nm、最高1.66 GHzの動作周波数、667 MHzのFSBを備え、104W以下の消費電力で動作。2つのプロセッサとチップセットが同じバスに搭載された3ロードバスによって、エンタープライズおよびハイパフォーマンスコンピューティング (HPC) での使用において、優れた能力を発揮する。 また、サーバの利用が低い時の消費電力を削減する新機能「デマンド・ベース・スイッチング」(DBS) により、エネルギーコストの低減にも寄与する。 さらに2008年第1四半期からコアレベルロックステップ機能付きモデルを出荷開始する。この機能はプロセッサーコア内で起こるエラーの検出を確実に行うことでデータの完全性とアプリケーションの信頼性を向上させる新技術である。 {| border="1" cellpadding="5" class="wikitable" |+ Itanium Processor 91xx |- align="center" ! プロセッサ・ナンバ !! 動作周波数 !! コア/スレッド数 !! FSB !! L3キャッシュ !! HT !! DBS !! TDP |- |9152M || 1.66 GHz || 2C/4T || 667 MHz||24 MB|| ○ || ○ || 104 W |- |9150M || 1.66 GHz || 2C/4T || 667 MHz||24 MB|| ○ || ○ || 104 W |- |9150N || 1.60 GHz || 2C/4T || 533 MHz||24 MB|| ○ || ○ || 104 W |- |9140M || 1.66 GHz || 2C/4T || 667 MHz||18 MB|| ○ || ○ || 104 W |- |9140N || 1.60 GHz || 2C/4T || 533 MHz||18 MB|| ○ || ○ || 104 W |- |9130M || 1.66 GHz || 2C/2T || 667 MHz ||8 MB|| × || × || 104 W |- |9120N || 1.42 GHz || 2C/4T || 533 MHz ||12 MB|| ○ || × || 104 W |- |9110N|| 1.60 GHz || 1C/1T || 533 MHz ||12 MB|| × || × || 75 W |} Itanium 9300 / Tukwila (タックウイラ) 2010年2月9日発表。コアごとに6 MBのL3キャッシュを搭載し、QuickPath InterConnectと、2つのDDR3メモリコントローラを備える。QuickPathの合計帯域は96GB/secとなる。かつてFoxtonテクノロジと言われていた、インテル ターボ・ブースト・テクノロジーを備える。製造プロセスルールは65 nm 8層メタルである。従来のItaniumプロセッサに比べ、低電圧動作が可能となっているが、4コアになった分、TDPは最大185Wと大きい。トランジスタ数は20億5000万個、ダイサイズは約700平方mmと巨大なものになっている。また、対策を強化し、宇宙線の中性子によるエラーを1/80から1/100に抑えたとしている。プロセッサコアは90 nmのMontecitoコアを65 nmにシュリンクした以外は目立った改良はない(2008年1Q時点でインテルは、45 nm High-K 9層メタルのIA-32プロセッサを出荷している)。当初の発売予定は2007年であったが、2008年末に延期され 、2008年末には更に2009年半ばへ延期され、2009年2月にはデザイン修正のため2009年後半に延期された 。2009年5月にはリリースを再び延期し、出荷予定を2010年第1四半期に設定し直した。2010年2月9日、当初予定から3年遅れで「Itaniumプロセッサー 9300 番台」として発表された。 {| border="1" cellpadding="5" class="wikitable" |+ Itanium Processor 93xx |- align="center" ! プロセッサ・ナンバ !! 動作周波数 (ターボ) !! コア/スレッド数 !! QPI !! L3キャッシュ !! HT !! DBS !! TDP |- |9350|| 1.73 GHz (1.866 GHz) || 4C/8T || 2 x 4.8 GT/s||24 MB|| ○ || ○ || 185 W |- |9340|| 1.60 GHz (1.733 GHz) || 4C/8T || 2 x 4.8 GT/s||20 MB|| ○ || ○ || 185 W |- |9330|| 1.46 GHz (1.600 GHz) || 4C/8T || 2 x 4.8 GT/s||20 MB|| ○ || ○ || 155 W |- |9320|| 1.33 GHz (1.466 GHz) || 4C/8T || 2 x 4.8 GT/s||16 MB|| ○ || ○ || 155 W |- |9310|| 1.60 GHz || 2C/4T || 2 x 4.8 GT/s||10 MB|| ○ || ○ || 130 W |} Itanium 9500 / Poulson (ポウルソン) 2012年11月9日発表。9500シリーズは、Tukwila の後継プロセッサとしてPoulsonとの開発コード名で開発された。製造プロセスルールは45 nmはスキップして32 nmを採用し、最大8コア、マルチスレッド処理を強化し、特に仮想化などの並列処理用の命令を追加した。Intel VT-x, VT-d, VT-i 対応。クロックは最大2.53 GHzとなった。2010年から実施しているXeonとの基盤要素共通化を反映させたとしている。対応メモリは DDR3-800 と DDR3-1067。 {| border="1" cellpadding="5" class="wikitable" |+ Itanium Processor 95xx |- align="center" ! プロセッサ・ナンバ !! 動作周波数 !! コア/スレッド数 !! QPI !! L3キャッシュ !! HT !! DBS !! TDP |- |9560 || 2.53 GHz || 8C/16T || 2 x 6.4 GT/s || 32 MB || ○ || ○ || 170 W |- |9550 || 2.40 GHz || 4C/8T || 2 x 6.4 GT/s || 32 MB || ○ || ○ || 170 W |- |9540 || 2.13 GHz || 8C/16T || 2 x 6.4 GT/s || 24 MB || ○ || ○ || 170 W |- |9520 || 1.73 GHz || 4C/8T || 2 x 6.4 GT/s || 20 MB || ○ || ○ || 130 W |} Itanium 9700 / Kittson (キットソン) 2017年5月発表。当初2013年リリースを目指し、22nmプロセスによるスループットの大幅な向上およびシングルレベルの向上にXeonとのソケット互換を実現させる計画だったが、定義の見直しにより32nmのまま Itanium 9500 と互換性を維持することになった。最終的に5年の歳月を経てステッピングチェンジが行われただけで、インテルのデータシートによると上位2モデルのクロック周波数向上以外に9500から機能面の変化なし。 インテルはXeonとのソケット互換について将来において再検討されるとしていたが、IDG Newsに対してKittsonが最後のItaniumであると明かした。 ヒューレット・パッカード・エンタープライズは搭載サーバーを少なくとも2025年12月31日までサポート予定。対応OSはHP-UX。 {| border="1" cellpadding="5" class="wikitable" |+ Itanium Processor 97xx |- align="center" ! プロセッサ・ナンバ !! 動作周波数 !! コア/スレッド数 !! QPI !! L3キャッシュ !! HT !! DBS !! TDP |- |9760 || 2.66 GHz || 8C/16T || 2 x 6.4 GT/s || 32 MB || ○ || ○ || 170 W |- |9750 || 2.53 GHz || 4C/8T || 2 x 6.4 GT/s || 32 MB || ○ || ○ || 170 W |- |9740 || 2.13 GHz || 8C/16T || 2 x 6.4 GT/s || 24 MB || ○ || ○ || 170 W |- |9720 || 1.73 GHz || 4C/8T || 2 x 6.4 GT/s || 20 MB || ○ || ○ || 130 W |} 採用 1994年のIA-64発表当時は、IA-32(x86)でパーソナルコンピュータ市場での事実上の標準となったインテルが、PA-RISCとHP-UXを持つHPとの共同開発により、64ビット市場でMIPS、Alpha、SPARC、POWERなどの各社のRISCプロセッサと正面から競合し、同時にAMDなどの互換プロセッサベンダーを振り切るものと広く報道された。 このためハイエンド市場への進出を狙うマイクロソフトはWindows、メインフレームやオフィスコンピュータなどの自社独自プロセッサの移行先とするBull GCOS、NEC ACOS-4などの他、競合プロセッサの開発を続けるIBMやサンもオペレーティングシステムであるAIXやSolarisではIA-64版の開発を並行して進めた。 しかし初代Itanium (Merced) のリリースは当初予定の1999年から遅れて2001年となり、各社はItanuim対応製品をリリースしたが、当時の各社RISCプロセッサと比較しての性能の低さ、対応アプリケーションの少なさ、IA-32互換モードの遅さもあり、広くは普及せず、AIXやSolarisのIA-64版はリリースされなかった。 その後も各社RISCと比較してItaniumの性能向上は進まず、一方でレジスタ数や信頼性などで各社独自プロセッサの移行は進んだ結果、IA-64 (Itanium) はニッチ市場化、特に日本市場への偏りが進んだ。一方で、2003年には従来のx86の64ビット対応であるAMD64が登場し、2004年から2006年にかけてインテルもIntel 64として追随したため、各社のローエンドサーバーはx64が主流となった。 1999年に設立されたスタートアップのPlatform Solutionsは、主にアムダールを退職したエンジニアを擁し、HP製のItanium 2プラットフォーム上でIBMメインフレームのバイナリコードをエミュレートして、IBMのオペレーティングシステムを含む既存のメインフレームのアプリケーションをそのまま動作させるという野心的なソフトウェアを開発した(最低2 CPUのSMPプラットフォームで、一つのCPUがLinuxで走るI/Oプロセッサとして動作し、残りのCPUはメインフレームの命令セットをエミュレートするSMPとして動作する)。IBM互換のコンピュータ会社が次々とメインフレームのビジネスから撤退して、IBMが再び独占することになったメインフレームのマーケットの内、主にローエンド機器のシェアを狙ったが、IBMはこれに対して特許侵害などを理由に訴訟を起こし、最終的にIBMがPlatform Solutionsを買収することで決着したことで、この「新しい互換機ビジネス」は幻のものとなった。 2004年にはItaniumの設計よりHPは撤退し、Itanium の開発に携わった HP の社員はインテルに移籍し、Itaniumはインテルからの販売のみとなった。また2005年9月にItanium Solutions Alliance (ISA) が設立された。 マイクロソフトは2005年にWindows XP Professional 64-bit Itanium Edition の販売を終了して、代わりに x64 Edition を販売開始し、さらに2010年4月には残るサーバー製品である Windows Server でも今後のItaniumサポート中止を表明した。レッドハットは2009年に次期RHEL 6ではItaniumはサポートしないことを表明した。オラクルは2011年3月にItanium向けの全ソフトウェア開発の終了を発表したが、直後にHPはオラクルを批判しItanium向けHP-UX開発継続を表明した。同年6月、HPはオラクルを契約違反で提訴、2012年8月に裁判所は契約に基づくサポート義務を認定、翌9月にオラクルはItanium向けソフトウェアの開発継続を発表した。 2011年現在、Itaniumの採用は主に、ユニシス OS2200やNEC ACOS-4やHP NonStopなどの独自仕様のメインフレームおよびオフィスコンピュータの代替市場と、HPやNECや日立の HP-UX 稼働サーバーの一部、SGIなどの Linux サーバーの一部に留まっている。スーパーコンピュータ市場 (TOP500) でのIA-64システムの比率は最大では1〜2割となったが、2009年には1.2%に低下し、2013年6月のリストでは1つも採用されていない。 批評 Itaniumの主な設計上の問題は3次キャッシュの遅延時間(レイテンシ)が大きすぎる点にある。インテルの設計者は明らかに、バンド幅が大きければレイテンシの問題は相殺されると期待していた。しかし、レイテンシが大きすぎキャッシュが遅くなったため、主記憶のインターフェースと大差のないものになってしまった。1次および2次キャッシュはかなり小さく(32KBと96KB)、システムバスの負荷を増大させた。キャッシュバンド幅が小さいことに加えて、IA-64コードはx86に比較して大きくなる傾向があった。したがって、キャッシュに置いておける命令数はキャッシュサイズから想像される以上に小さい。 Itaniumはマルチプロセッサを前提に設計されたため、バスも低速だった。 Athlonが当時使っていたFSBのクロックは200MHzで、Pentium IIIはそれよりさらに低速な133MHzだった。 Itaniumのクロック周波数自体も、Athlonが1GHzのクロック周波数を実現していた当時としては低かった。 結論として、1998年〜1999年の出荷を想定して決められたと考えられている技術スペックに対し、開発の相次ぐ遅延により、出荷する前に時代遅れになってしまった。ただしItaniumの支持者は、シングルスレッドの実行に関してはItaniumがx86よりも高速であると主張している。
{ "id": "123552", "title": "Itanium", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/Itanium" }
阿川 弘之(あがわ ひろゆき、1920年(大正9年)12月24日 - 2015年(平成27年)8月3日)は、日本の小説家、評論家。 広島県名誉県民。日本芸術院会員。日本李登輝友の会名誉会長。文化勲章受章。海軍体験を基にした戦争物や私小説的作品、伝記物で知られる。代表作として『春の城』『雲の墓標』のほか、大日本帝国海軍提督を描いた3部作(海軍提督三部作)『山本五十六』『米内光政』『井上成美』などがある。 法学者の阿川尚之は長男、タレント・エッセイストの阿川佐和子は長女。 経歴 自身は『私の履歴書』では、〔私の「履歴」を一と言で記せば、「地方の平凡な中流家庭に生まれ、小学校から大学まで、ごく平坦平凡な学生生活を送り、戦争中は海軍に従軍して多少の辛酸を嘗めたが、戦後間もなく志賀直哉の推輓により文壇に登場、以来作家としてこんにちに至る」、これだけである〕と回顧している。 生い立ち 阿川甲一の長男として広島市白島九軒町土手通り(現中区白島九軒町)に生まれた(本籍地は山口県美祢郡伊佐村(現美祢市伊佐町))。 学生時代 偕行社附属済美小学校、広島高等師範学校附属中学校、旧制広島高等学校を経て東京帝国大学文学部国文科を繰り上げ卒業。卒業論文の表題は「志賀直哉」。 海軍入り 1942年(昭和17年)9月海軍予備学生として海軍に入隊する。 1943年(昭和18年)8月に海軍少尉任官、軍令部勤務を命ぜられた。大学在学中に中国語の単位を取ったことでわずかだが中国語ができたため、特務班の中でも対中国の諜報作業担当であるC班に配属される。 中尉に進級した直後の1944年(昭和19年)8月「支那方面艦隊司令部附」の辞令が出る。 戦後 1946年(昭和21年)2月「ポツダム大尉」という身分で、揚子江を上海へ下り、3月末博多へ上陸復員する。広島市への原子爆弾投下により焼き尽くされた故郷の街を見る。家は丸焼けだったが、両親は無事だった。実家の川向こうの牛田という町の、雨漏りのするボロ家にのがれて、中風の父親と、白内障の母親と甥にあたる若者と三人でひっそり暮らしていた。 2015年8月3日(平成27年)に老衰のため都内の病院で死去。(満94歳没)。 作家として 志賀直哉に師事して小説を書く。 主な著作は『春の城』(読売文学賞)、『雲の墓標』、『山本五十六』(新潮社文学賞)、『米内光政』、『井上成美』(日本文学大賞)、『志賀直哉』(野間文芸賞、毎日出版文化賞)、『南蛮阿房列車』、『食味風々録』(読売文学賞)など。 1979年(昭和54年)、日本芸術院会員。1999年(平成11年)、文化勲章受章。 人物像 新幹線について 阿川は1958年8月10日付の朝日新聞朝刊記事で東海道新幹線の建設計画に対して言及し、その中で「世界的には航空機と高速自動車道路の時代に入っている。1700億円も掛けて新幹線を建設するなら、その財源で国内航空路の拡充と高速自動車道路を建設すべきだ」や「新幹線が世界の三バカの仲間入りにならないように願いたい」と、東海道新幹線自体には反対した訳ではなかったものの、建設の慎重論を表明した。しかし、この「三バカ」の言葉が独り歩きしてしまい、新幹線建設に対しての批判と取られてしまい、各方面から非難を浴びた。 後年にこれは「新幹線が世界の三バカになるかと思ったら、アレヨアレヨと言う間に世界一の優等生となった。」と発言し撤回している。 阿川は開業当日の1964年10月1日、週刊朝日に掲載する、東海道新幹線と航空機との乗り比べの記事を執筆する目的とした取材で東京と大阪との間を往復したが、その際、往路は東京駅8時発の新幹線ひかり5号、復路は大阪空港15時30発の日本航空コンベア880を利用した。阿川は週刊朝日1964年10月18日号の記事で「100km/hを超した所かと思って確認したら既に180km/hに達していた。思ったよりスピード感がない」「気密がしっかりしているせいかデッキと客室の仕切にある手動ドアが開けにくい」などとコメントし、総合評価については「運賃で新幹線、乗り心地で飛行機」との評価をしている。 後年、自著『乗りもの紳士録』の中で、上記の「世界の三バカ」発言の件を同じ作家の広津和郎より指摘され苦言を呈されたことを表明した。その中で、阿川は広津にこの件を国鉄総裁を経験したことのある磯崎叡に謝罪したことを伝えている。なお、阿川は磯崎のことをニックネームの「ダッコちゃん」で呼称している。 ただし、阿川自身は新幹線を含めての鉄道ファンであり、生前には鉄道に関する著書も執筆していた。なお「のぞみ」の名付け親は、長女の阿川佐和子である。 鉄道ピクトリアル2014年10月号の記事では、上記のエピソードなどが一部ではあるが、記事にされている。 「ぽんこつ」が一般的に 1959年読売新聞に連載し1960年に単行本化された小説『ぽんこつ』では、ハンマーで古い自動車を解体している様子を「ぽん、こつん。ぽん、こつん。」と表現した。これが書名と共に話題となり、故障が多かったり耐用年数を過ぎたりして劣化した自動車を「ポンコツ」と称することが広まった。さらに、自動車以外の使えない機械類、ひいては「役に立たない人間」を指すようになった。 学生時代 二・二六事件 1936年(昭和11年)2月26日、中学3年生の時に二・二六事件が起こった。阿川はひどく興奮し、帰宅するなり母親に向かい“こういうことは大嫌いじゃ。無茶苦茶じゃ。これじゃけぇ陸軍はいやなんじゃ。”と大声の広島弁でまくし立てた。この発言の時、阿川家では父親がいつもの通り、奥座敷で近所の退役陸軍大佐・丸橋と碁を打っていた。母から“大きな声を出しなはんな、丸橋さんに聞こえたら悪いがな”と小声でたしなめられたが、阿川は“何が悪いもんか、聞いてもらったほうがいいのだ”と胸のうちで思っていたという。 二・二六事件とその歯切れの悪い後始末を見て以後、徹底的な陸軍嫌いになった。 採用試験 海軍経理学校で第二期兵科予備学生の採用試験の際の口述試問で志望動機を聞かれ“はい。陸軍が嫌いだからであります”と述べた。あとで考えて、反軍思想の持ち主と取られかねない返答だったなと思ったが、実際は試験官が“にやっ”としただけですんだという。 作家として 主要作品は、戦記文学や記録文学である。 志賀直哉の最後の内弟子として薫陶を受け、その文学上の後継者である。当代一の作家と紹介されることがある(ちくま文庫「蛙の子は蛙の子」)。、しばしば国語教育の教材などに取り上げられた。近年では、自身や阿川佐和子(長女)、北杜夫、遠藤周作の随筆に登場してくる、短気で頑固で究極の自分本位とも思える一面の他、ユーモアが横溢し、軽妙洒脱で洒落の分かる粋人(講談社「春風落月」)としても読者層に知られる。 歴史的仮名遣派である。 評論家の半藤一利は「阿川さんは敗亡した祖国日本の葬式をたった一人でやってきたのである」と『阿川弘之全集』(全20巻 新潮社)の刊行に際し推薦の辞を寄せている。 鉄道をはじめとした乗り物好きで知られ、乗り物や旅行に関する作品を多く手掛けている。 『文藝春秋』で、巻頭随筆『葭の髄から』を1997年6月号から2010年9月号まで連載。連載をまとめた単行本・文庫本は4冊出版された。老衰高齢を理由に連載を終了し、最終巻『天皇さんの涙』をもって文筆活動自体も終えることにすると表明した。 交友関係 、彼としては珍しくユーモアに満ちたエッセイが多い。 受賞・栄典 1952年 『春の城』で第4回読売文学賞[小説賞] 1960年 『なかよし特急』で第7回サンケイ児童出版文化賞 1966年 『山本五十六』で第13回新潮社文学賞 1979年 第35回日本芸術院賞・恩賜賞[文芸/小説・戯曲] 1983年 第30回交通文化賞 1987年 『井上成美』で第19回日本文学大賞[学芸部門] 1993年 文化功労者 1994年 『志賀直哉』で野間文芸賞、毎日出版文化賞 1999年 文化勲章、第3回海洋文学大賞特別賞、広島県名誉県民 2001年 『食味風々録』で第53回読売文学賞[随筆・紀行賞] 2003年 広島市名誉市民 2007年 第55回菊池寛賞 家族・親族 阿川家 (山口県美祢市伊佐町、広島県広島市中区白島九軒町、神奈川県横浜市、東京都) 家系 阿川弘之は山口県・阿川八幡宮の伊藤宮司から「阿川氏」の歴史について詳しい説明を聞いたことがあった。伊藤宮司は「鎌倉時代の武将佐々木定綱の孫秀綱は13世紀の中ごろ長門国豊浦郡阿川の地を賜って移り住み佐々木姓を阿川に改めた。最初に阿川姓をなのった秀綱の父行綱は勲功をたて、美祢郡の伊佐に土地を拝領し“伊佐の阿川氏”を名乗る。“阿川の阿川”と“伊佐の阿川”は養子縁組その他、絶えず交流があった。」というようなことを述べたという。 しかし父甲一の生家の阿川家は代々の農家であり、近江源氏直系の鎌倉武将一族の末裔であるということについては、弘之はやや疑問をもっている。弘之によると、「近江源氏直系の鎌倉武将一族と伊佐のお寺の墓石の下に眠る私のひいぢいさんひいひいぢいさんたちが縁つづきであることを必ずしも疑ふわけではなかつたけれど時代のへだたりが大き過ぎる。太七さんの言ふ「初代」と宮司さんの言ふ「初代」とではおよそ五百年のひらきがある。宇治川の先陣乗りの長兄が持つてゐた遺伝子が自分に伝はつて来てゐるといふ想定はどうも実感を伴ひにくかつた。 …祖父利七以前の御先祖に正直なところ私はあんまり興味が湧かない。三之助、七五郎から利七夫婦まで併せて総計二百五十四人にのぼる爺さん婆さんの“サムシング・グレート”が父を生かし今の自分を生かしてゐると考へてもそれは頭で考へるだけで実在感は乏しい。親しみの情なぞ皆無に近い。興を催すのはやはり肌身の感触を知ってゐる父甲一の前半生、伊佐の農家の小倅(こせがれ)が志を立てて家郷を出て学を修めシベリアへ渡り満洲へ移つて事業を起すまでの立身の道程である 。…初代三之助の歿年を西暦で記すと一七四三年、ざつと数へて幕末維新まであと百二十年、その間(かん)七たび代替りしながら我が阿川家からは、朱子学蘭学を学んだ者も、勤皇の志士も、郷土史に名を残すほどの篤農家も出てゐないらしい。要するに代々、平々凡々たる中くらゐの自作農であつたと思はれる」という。 初代三之助の子七五郎が家督を継いで天明7年7月13日没。戒名“釈了秀信士”。七五郎に幸右衛門が生まれ、幸右衛門に幸治郎が生まれ、7代目阿川利七の時、時代は明治に入る。旧暦の明治3年11月28日利七と妻のしの間に男の子が生まれた。弘之の父甲一である。伊佐の阿川家は甲一の父利七が早く亡くなって、あとに2人の娘(養子谷五郎を迎えて太七を生む長女りき。のち嫁いで村上姓に変る次女くま)と一人の息子(甲一)が残り寡婦のしが一家の主だった。 また阿川は父の郷里山口について「本籍地は山口県と何かに書いたら山口県人会から是非出てくれといわれて出席したが、話題になることといえば、戦後何十年間に何人総理大臣が出たという話ばかりするので嫌になって二度と行かなくなった」と話している。 生家 父・甲一(実業家) 1870年(明治3年)11月生 ~ 1948年(昭和23年)6月没 母・キミ(大阪、刀剣・骨董商・石井定次郎の娘) 1879年(明治12年)5月生 ~ 1955年(昭和30年)6月没 母キミは大阪出身で生家は刀剣・骨董商であった。阿川によれば 「母は広島で私を生んだけれど、もともと生粋の大坂女、父甲一は山口県の出、私の本籍は今も山口県美祢市に在り、広島県人会から会の案内など送られて来ると、多少の違和感を覚える。少年時代、学校では広島弁、家へ帰るとそれに大阪アクセントの相当まじった言葉、両方使い分けていた。」という。 父との出会いは定宿にしていた旅館で奉公していた時だった。やがて甲一とキミとの間に関係が生じたが、この頃既に満2歳になる隠し子甲二がいた。 異母兄・幸寿(満鉄社員、満州国官吏) 1901年(明治34年)1月生 ~ 1968年(昭和43年)没 兄幸寿は父甲一の庶子であり、ハルビンの日本料理屋の抱へ芸者たちの髪を結う髪結女(田中シツ)との間に出来た子供で、のちに母が引き取って養育したのだと小学生の時に母から打ち明け話を聞かされ、弘之はショックを受けた。京大経済学部を卒業後、満鉄に入社し、後に満州国官吏に移籍して安東の市長をつとめた。 長崎県島原半島の海べの村で、学齢に達するまで野性のままで育った兄幸寿は、腕っ節の強いかなりの乱暴者だった。入学を許された長春日本人小学校の先生から始終「保護者出頭サレタシ」の呼び出し状が届いた。女生徒をしつこく追い回した挙句、顔をぶん殴ったというので問題になったことがあった。これは上級生の女の子が「お母さんいないくせに沢山たべるのよ、あいつ豚だ、豚だ」とみなの笑いものにし、幸寿がひどく怒ったためであった。 天王寺中学(現・天王寺高校)の同級生に、大阪高検の検事長、最高裁判事を経て弁護士になり三島事件被告の弁護を担当した草鹿浅之介がいる。草鹿浅之介の長兄は、真珠湾を奇襲した第一航空艦隊の参謀長草鹿龍之介提督である。弘之は草鹿家を訪問したとき草鹿中将は「僕は君の兄さんの阿川幸寿君に大阪でビールを御馳走になったことがあるよ」と述べた。「人にはようしてやれ」が幸寿の口癖で、それを終生言いつづけたし、自分がお山の大将株になってそれを実行した。 同妻・光子(広島、回船問屋加川百助の娘) 1908年(明治41年)8月生 ~ 2020年(令和2年)9月没 加川百助は父の碁友達だった。この縁談が成立したについては「仏の百助さん」と言われた百助の寛容さに負うところが多い。話を進めるにあたって幸寿が自分の実の子でないことをあらかじめ説明しておこうとするキミに「ようがんすようがんす、それはもう触れんでようがんす」と百助は全く問題にしなかったという。 姉 静栄(岐阜県、満鉄社員・川上喜三の妻) 1903年(明治36年)12月生 ~ 没 同長男・哲夫(整形外科医) 公子(きみこ) 1912年(明治45年)2月生 ~ 1917年(大正6年)没 満5歳の時結核性脳膜炎を患って夭逝 家庭 小説「犬と麻ちゃん」「末の末っ子」などに登場する小説家・野村耕平の一家は、自身をモデルにしている。野村も太平洋戦争で従軍経験があり、また東大卒である。 妻・みよ(増田清の娘)耕平の妻・春江のモデル。 2020年(令和2年)5月、92歳で死去 長男・尚之(法学者・慶應義塾大学教授)野村家長男・誠のモデル。 1951年(昭和26年)4月生 ~ 長女・佐和子(エッセイスト、タレント)野村家長女・加代子のモデル。 1953年(昭和28年)11月生 ~ 二男・知之 野村家次男・友雄のモデル。 1961年(昭和36年)生 三男・淳之 1972年(昭和47年)生 三男は阿川が満51歳のときに生まれた子供であり、このときの妊娠発覚から出生までの様子は、「末の――」で詳しくユーモラスに記している。よって、「犬と――」では出生前なので登場しない。野村家三男・篤のモデル。 略系図 著書 『年年歳歳』(京橋書院 1950年 新編「水の上の会話」新潮文庫) 『春の城』(新潮社 1952年 文庫・改版) 『魔の遺産』(新潮社 1954年 新編・PHP文庫) 『志賀直哉の生活と作品』(創芸社 1955年) 『雲の墓標』(新潮社 1956年 文庫・改版) 『夜の波音』(東京創元社 1957年) 『お早く御乗車ねがいます』(中央公論社 1958年)、中公文庫 2011年 『なかよし特急』(中央公論社 1959年) 『きかんしゃ やえもん』(岡部冬彦画 岩波書店 1959年) 『カリフォルニヤ』(新潮社 1959年) 『空旅・船旅・汽車の旅』(中央公論社 1960年)、中公文庫 2014年 『ぽんこつ』(中央公論社 1960年 のち潮文庫)、ちくま文庫 2016年 『坂の多い町』(新潮社 1960年) 『青葉の翳り』(講談社 1961年)、新編・講談社文芸文庫 『ぽんこつぱとろうる』(雪華社 1961年) 『へりこぷたのぶんきち』(フレーベル館(トッパンのキンダー絵本) 1962年) 『カレーライス』(新潮社 1962年 のち「カレーライスの唄」講談社文庫 上・下)、ちくま文庫 2016年 『あひる飛びなさい』(筑摩書房 1963年 のち集英社文庫)、ちくま文庫 2017年 『ヨーロッパ特急』(中央公論社 1963年) 『山本五十六』(新潮社 1965年 のち新版、文庫・改版 上・下) 『銀のこんぺいとう』(集英社 1965年)、新版「こんぺいとう」集英社文庫 『舷燈』(講談社 1966年 文庫、講談社文芸文庫) 『私のソロモン紀行』(中央公論社 1967年)、『山本元帥! 阿川大尉が参りました』中公文庫 1975年 『軍艦ポルカ』(東方社 1967年 のち集英社文庫) 『黒い坊ちゃん』(集英社 1967年) 『水の上の会話』(新潮社 1968年 文庫) 『犬と麻ちゃん』(文藝春秋 1969年 文庫 上・下) 『いるかの学校』(文藝春秋 1971年 文庫 上・下) 『私記キスカ撤退』(文藝春秋 1971年 文庫) 『私のなかの海軍予備学生』(昭和出版 1971年) 『乗りもの紳士録』(ベストセラーズ 1973年 角川文庫、旺文社文庫)、中公文庫 2017年 『暗い波濤』(上・下)(新潮社 1974年 文庫) 『蒸気機関車』(平凡社カラー新書 1975年) 『軍艦長門の生涯』(新潮社 上・下 1975年 文庫 上・中・下) 『鮎の宿』(六興出版 1975年)、新編・講談社文芸文庫 『末の末っ子』(文藝春秋 1977年 文庫)、ちくま文庫 2017年 『論語知らずの論語読み』(講談社 1977年 文庫)、新編・PHP文庫、講談社文芸文庫 『南蛮阿房列車 乗物狂世界を駆ける』(新潮社 1977年 文庫)、新編・徳間文庫、光文社文庫、中公文庫(下記) 『ある海軍予備学生の自画像』(現代史出版会 1978年) 『米内光政』(新潮社(上・下) 1978年 のち新版、文庫・改版、各全1巻) 『あくび指南書』(毎日新聞社 1981年 講談社文庫) 『南蛮阿房第二列車』(新潮社 1981年 文庫)、完全版・中公文庫(上下) 2018年 『テムズの水』(新潮社 1982年) 『贋車掌の記』(六興出版 1982年) 『桃の宿』(講談社 1982年 講談社文芸文庫) 『海軍こぼれ話』(光文社 1985年 文庫 中公文庫) 『井上成美』(新潮社 1986年 のち新版、文庫・改版) 『大ぼけ小ぼけ』(講談社 1986年 文庫) 『国を思うて何が悪い 一自由主義者の憤慨録』(光文社カッパ・ホームス 1987年 のち文庫・新版) 口述筆記 『断然欠席』(講談社 1989年 文庫) 『女王陛下の阿房船』(講談社 1990年) 『国を思えば腹が立つ 一自由人の日本論』(光文社カッパ・ホームス 1992年) 口述筆記 『志賀直哉』(上・下、岩波書店 1994年 のち新潮文庫) 『七十の手習ひ』(講談社 1995年 文庫) 『高松宮と海軍』(中央公論社 1996年 文庫) 『雪の進軍』(講談社 1996年 文庫) 『故園黄葉』(講談社 1999年 文庫) 『葭の髄から』(文藝春秋 2000年 文庫) 『食味風々録』(新潮社 2001年 文庫)、中公文庫 2015年 『日本海軍に捧ぐ』(PHP文庫 2001年)、新編再刊 『阿川弘之自選紀行集』(JTBパブリッシング 2001年) 『春風落月』(講談社 2002年 文庫) 『人やさき犬やさき 続 葭の髄から』(文藝春秋 2004年 文庫) 『亡き母や』(講談社 2004年 文庫・講談社文芸文庫) 『エレガントな象 続々 葭の髄から』(文藝春秋 2007年 文庫) 『大人の見識』(新潮新書 2007年) 口述筆記 『我が青春の記憶』(文藝春秋 2008年)、CD付き 『天皇さんの涙 葭の髄から・完』(文藝春秋 2011年 文庫) ※本作をもって擱筆を宣言 『汽車に乗って船に乗って 阿川弘之自選紀行集』(ベストセラーズ 2011年) ※引退宣言後の刊行。新たにあとがきを書き下ろし。 『森の宿』(新編・講談社文芸文庫 2011年) ※引退宣言後の刊行。新たにあとがきを書き下ろし。 『鮨 そのほか』(新潮社 2013年、文庫) ※引退宣言後の刊行で未刊行だった作品集。自身の近況や旧友安岡章太郎について言及した「あとがき」を書き下ろし。 主な作品集・全集 『阿川弘之集 新鋭文学叢書 第1』(筑摩書房 1960年) 小説9篇 『阿川弘之の本』(ベストセラーズ 1970年) 小説4篇と随筆18篇 『阿川弘之集 新潮日本文学51』(新潮社 1970年)「山本五十六」「雲の墓標」「年年歳歳」 『阿川弘之 新潮現代文学39』(新潮社 1979年)「雲の墓標」「米内光政」 『阿川弘之自選作品』(全10巻 新潮社 1977年-78年) 『阿川弘之全集』(全20巻 新潮社 2005年-2007年) 主な編著・共編著 『現代の冒険7 大空を翔ける』(責任編集 文藝春秋 1970年) 『乗物万歳』(北杜夫対談 中央公論社 1977年) のち文庫 『ブルートレイン長崎行』(ポール・セルーと共著 講談社 1979年) 『現代の随想6 志賀直哉』(彌生書房 1981年) 『連合艦隊の名リーダーたち』(プレジデント社 1982年) 『日本の名随筆15 旅』(作品社 1983年) 『斎藤茂吉随筆集』 (北杜夫共編 岩波文庫 1986年) 『機関車・食堂車・寝台車 エッセイおとなの時間』(新潮社 1987年) 『蛙の子は蛙の子-父と娘の往復書簡』 (阿川佐和子共著 筑摩書房 1997年) のち文庫 『志賀直哉交友録』 (講談社文芸文庫 1998年) 『酔生夢死か、起死回生か。』(北杜夫対談 新潮社 2002年) のち文庫 『日本海軍、錨揚ゲ!』(半藤一利対談 PHP研究所 2003年) のち文庫 『阿川弘之座談集 言葉と礼節』(文藝春秋 2008年) のち文庫 『座談集 文士の好物』(新潮社 2015年) 翻訳 『小さなきかんしゃ』(グレアム・グリーン 文化出版局 1975年) 『小さな乗合い馬車』(グレアム・グリーン 文化出版局 1976年) 『小さなローラー』(グレアム・グリーン 文化出版局 1976年) 『鉄道大バザール』(ポール・セルー 講談社 1977年 文庫、文芸文庫 各・上下) 『ふしぎなクリスマス・カード』(ポール・セルー 講談社 1979年) 『古きパタゴニアの急行列車 中米編』(ポール・セルー 講談社 1984年) CM ネスカフェ ゴールドブレンド(1981年)
{ "id": "123562", "title": "阿川弘之", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%B7%9D%E5%BC%98%E4%B9%8B" }
スカイフック理論(スカイフックりろん)とは、物体を、もしも空中を走る架空の線に宙づり(スカイフック)の状態にして移動させることができれば常に安定した姿勢を保つことができるという理論であり、アクティブサスペンションの基本となる理論である。 通常のダンパ・ばねによるサスペンションでは、車体はダンパ・ばねを経て地面と接触するが(図1)、スカイフック理論によって達成させたい状態は、地面とはばねで、架空の線とはダンパ(スカイフックダンパ)で接続された状態である(図2)。理論上、スカイフックダンパの係数が無限大となった場合、架空の線に固定された状態となり全く揺れなくなる。 実際に架空の線が存在するわけではないので、車体上に設置した加速度センサを基にしてまったく振動しない架空の線(加速度=0)を算出し、スカイフックモデル(図2)とつじつまが合うようにアクチュエータの駆動力を制御してやるというものである(図3)。力学的要素が線形ばねと線形ダンパのみで構成できることから、複雑な演算を必要としない。 自動車サスペンション技術 振動工学
{ "id": "123588", "title": "スカイフック理論", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%95%E3%83%83%E3%82%AF%E7%90%86%E8%AB%96" }
馬頭観音(ばとうかんのん、、、ハヤグリーヴァ)は、仏教における信仰対象である菩薩の一尊。観音菩薩の変化身(へんげしん)の1つであり、いわゆる「六観音」の一尊にも数えられている。観音としては珍しい忿怒の姿をとる。 概要 梵名のハヤグリーヴァは「馬の首」の意である。これはヒンドゥー教では最高神ヴィシュヌの異名でもあり、馬頭観音の成立におけるその影響が指摘されている。 他にも「馬頭明王」、「大持力明王」など様々な呼称がある。衆生の無智・煩悩を排除し、諸悪を毀壊する菩薩である。「師子無畏観音」ともいう。 他の観音が女性的で穏やかな表情で表されるのに対し、一般に馬頭観音のみは目尻を吊り上げ、怒髪天を衝き、牙を剥き出した憤怒(ふんぬ)相である。このため、密教では「馬頭明王」と呼ばれて仏の五部で蓮華部の教令輪身(きょうりょうりんじん)であり、すべての観音の憤怒身ともされる。それゆえ柔和相の観音の菩薩部ではなく、憤怒相の守護尊として明王(みょうおう)部に分類されることもある。 また「馬頭」という名称から、民間信仰では馬の守護仏としても祀られる。さらには、馬のみならずあらゆる畜生類を救う観音ともされていて、『六字経』を典拠とし、呪詛を鎮めて六道輪廻の衆生を救済するとも言われる「六観音」においては、畜生道を化益する観音とされる。 馬頭観音の柔和相は『覚禅鈔』に初出して、四面二臂の異相の馬頭観音であり、この姿は『陀羅尼集経』に説くところと一致している。いわゆる柔和相の馬頭観音として有名なものには福井県・中山寺の「馬頭観音像」(三面八臂)や、滋賀県・横山神社の「馬頭観音立像」(三面八臂)があり、憤怒相と柔和相の両面を持つものとしては栃木県日光市・輪王寺の「馬頭観音像」(三面八臂)も知られている。神奈川県南足柄市内山の石仏(通称「赤観音」)は、一面二臂の柔和相の馬頭観音である。異相として、千葉県多古町・蓮華堂の「馬頭観音像」は、化仏としての阿弥陀仏を頭上に戴き、馬頭はなく、一面八臂の柔和相で白馬に乗った姿である。 馬頭観音の石仏については、馬頭の名称から身近な生活の中の「馬」に結び付けられ、近世以降、民間信仰に支えられて数多くのものが残されている。また、それらは「山の神」や「駒形神社」、「金精様」とも結びついて、日本独自の馬頭観音への信仰や造形を生み出した。 像容 経典によっては馬頭人身の像容等も説かれ、胎蔵界曼荼羅にも描かれるが、日本での仏像の造形例はほとんどなく、わずかに東京都練馬区の本壽院と、神奈川県横浜市西区の萬徳寺に作例が知られる。立像のほうが多いが、坐像でも少なからず造像される。頭上に馬頭を戴き、胸前では馬の口を模した「根本馬口印」という印相を示す。剣や斧、棒などを持ち、また、蓮華のつぼみを持つ例もある。剣は八本の腕のある像に多い。また、騎馬姿の像も存在し、馬に跨るか、馬上で結跏趺坐する(馬の背に直接、または馬上の蓮華座上に座す)姿で造像される。これは房総地域に特に多いが、愛知県岡崎市の無量寺(三河善光寺)や、鹿児島県日置市の妙円寺旧境内地の石仏など、作例は他地域にも散見される。 石川県・豊財院の木造立像や、福井県・馬居寺(まごじ)の木造坐像は平安時代の後半にまで遡る作例である。また、福岡・観世音寺の木造立像は高さ5メートルに及ぶ大作で、日本の馬頭観音像の代表例と言える。京都・浄瑠璃寺の木造立像は、鎌倉時代の南都仏師らの手になる作例である。 チベット仏教 チベット語ではタムディンという。子供、特に幼児の健康を守ると信じられていて、セラ寺などでは子供連れの参詣をよく見かけ、大人と一緒に列に並んだ後、順番が来ると鼻に魔除けの黒墨を塗った幼児・子供ちたは僧侶から直接に祝福を受ける。 ニンマ派 チベット密教のニンマ派の『修法の八教説』ではペマ・スン(蓮華語)。 真言・三昧耶形・種子・手印 【真言】 おん あみりと どはんば うんはった そわか おん あみりとどはば うん はった (天台宗系) 【三昧耶形】 「白馬頭」。 「碧馬頭」。 三角形の中の「棍棒」。 【種字】 (ウーン)または हं(カン、haṃ)。 【印】 「馬頭観音印」。 馬頭観音の石仏・石碑 近世以降は国内の流通が活発化し、馬が移動や荷運びの手段として使われることが多くなった。これに伴い馬が急死した路傍や芝先(馬捨場)などに馬頭観音が多く祀られ、動物への供養塔としての意味合いが強くなっていった。特に、このような例は中馬街道などで見られる。なお、「馬頭観世音」の文字だけ彫られた石碑は、多くが愛馬への供養として祀られたものである。また、千葉県では馬に跨った馬頭観音像が多く見られる。 現代の日本においては競馬場の近くに祀られていて、レース中の怪我により予後不良と診断されて薬殺された馬や厩舎で亡くなった馬などの供養に用いられている場合もある。また、赤字等で廃止された地方競馬の競馬場では、旧敷地の片隅にあった馬頭観音が撤去されずに残され、かつての競馬場の存在を現在に伝える数少ない痕跡となっていることもある。 寺院 西明寺(栃木県:六観音) - 木造「馬頭観音立像」、鎌倉時代。 輪王寺(栃木県) - 木造「馬頭観音立像」、三面八臂、1565年。 行沢観音堂(群馬県) - 木造「馬頭観音立像」、三面六臂、鎌倉後期。 橋立堂(埼玉県) - 木造「馬頭観音坐像」、三面六臂、鎌倉時代、秩父三十四観音霊場・28番札所。 願定院(千葉県) - 木造「馬頭観音立像」、一面二臂、室町時代(1558年以前)。 蓮華堂(千葉県) - 紙本著色「馬頭観音像」、一面八臂、江戸時代。 浅草寺駒形堂(東京都) - 木造「馬頭観音立像」、三面六臂、17世紀。 豊財院(石川県) - 木造「馬頭観音立像」、三面六臂、11世紀後半。 中山寺(福井県) - 木造「馬頭観音坐像」、三面八臂、鎌倉時代。 馬居寺(福井県) - 木造「馬頭観音坐像」、三面八臂、12世紀。 東観音寺(愛知県) - 懸仏「馬頭観音坐像」、三面六臂、1271年、沙弥成仏作。 補陀寺(愛知県) - 木造「馬頭観音立像」、三面六臂、12世紀。 山門公民館(滋賀県) - 木造「馬頭観音坐像」、三面六臂、11世紀。 浄瑠璃寺(京都府) - 木造「馬頭観音立像」、三面八臂、1241年。 大報恩寺(京都府) - 木造「馬頭観音立像」(六観音)、三面六臂、1224年、肥後別当定慶作。 松尾寺(京都府) - 木造「馬頭観音坐像」、三面八臂、平安後期、西国三十三所・29番札所。 金剛寺(島根県) - 木造「馬頭観音坐像」、三面二臂、11世紀。 観世音寺(福岡県) - 木造「馬頭観音立像」、四面八臂、1126-1130年。 殿原寺(佐賀県) - 木造「馬頭観音立像」、三面八臂、12世紀。 長安寺(大分県) - 銅筥板「馬頭観音図」、三面八臂、12世紀。 美術館等 ボストン美術館 - 絹本著色「馬頭観音図」、12世紀中頃。 ギメ美術館 - 絹本著色「蓮華部八尊曼荼羅」(敦煌画)、紙本「馬頭観音図」(敦煌画)。 奈良国立博物館 - 木造「馬頭観音坐像」、12世紀。 陝西省博物館(中国) - 白大理石製「馬頭観音坐像」、770年頃。 台北国立故宮博物院(台湾) - 『梵像圖』・「六臂観音」、1180年頃。 北京故宮博物院(中国) - 金銅「馬頭金剛立像」、明代。
{ "id": "123589", "title": "馬頭観音", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E9%A0%AD%E8%A6%B3%E9%9F%B3" }
岩野 泡鳴(いわの ほうめい、1873年(明治6年)1月20日 - 1920年(大正9年)5月9日)は、明治・大正期の日本の小説家・詩人。本名は岩野美衛(よしえ)。新体詩人から自然主義作家に転身し、「神秘的半獣主義」を主張。代表作に『耽溺』など。他の筆名は白滴子、阿波寺鳴門左衛門。乱脈な女性関係でも知られる。 概要 名東県津名郡洲本馬場町(現・兵庫県洲本市海岸通2丁目)出身。明治学院、仙台神学校(現在の東北学院)、専修学校(現在の専修大学)に学ぶ。当時、神田神保町の専修学校では法律学と経済学を修め、1891年(明治24年)に卒業した。彼が満足に学校を終えたのは専修学校だけであり、卒業後、彼は志を転じ文学に向かう。 その後、詩人として文壇入りし、小説家に転進する。田山花袋、島村抱月に次ぐ自然主義文学者として活躍した。作者の主観を移入した人物を描く「一元描写」論を主張したため、田山花袋の「平面描写」論と対立した。「神秘的半獣主義」を提唱し、霊肉一致、刹那主義を唱えるが、言辞の難解にもかかわらず、欲望の赴くままに女と関係するというような生活ぶりで、「僕は神だ」と演説するなど奇矯な言動が多かった。一時期、蟹の缶詰工場を作るために樺太に渡るが、事業に失敗するなど、非常に活動的な人物だった。 経歴 家系 本名・岩野美衛。岩野家は阿波徳島藩蜂須賀家の江戸詰直参であったが、泡鳴の祖父の代で洲本に転住した。父・直夫は岩野家の婿養子で元徳島藩士。1873年(明治6年)、洲本署巡査の父と、母・さとの長男として出生。 明治3年に起きた稲田騒動の余波もあり日進小学校(現・洲本第二小学校)時代の泡鳴は、土地の者から迫害され、独存自我が生成されていった。これは泡鳴文学の発祥基盤でもあった。 生涯 1884年(明治17年)、小学校を卒業し、英語塾の教師の家に預けられる。1887年、大阪の泰西学館に入学し、キリスト教受洗。翌年、一家をあげて上京。父は皇宮警察の巡査勤務のあと、下宿屋「日の出館」(東京府芝区西久保八幡町)を経営する。明治学院で一年学び、神田の専修学校で法律学と経済学を学び、1891年(明治24年)7月卒業。同年、文芸誌『文壇』を 国木田独歩,田村三治らと発刊し、泡鳴を名乗る。翌年、仙台神学校(東北学院)入学。キリスト教に懐疑的になる。1894年(明治27年)、東京に戻り『歌舞伎新報』の編集者となる。1895年(明治28年)に実母・さとが死去、熊谷まつが継母になる。 竹腰幸子と1895年(明治28年)結婚。1912年(明治45・大正元年)に離婚するまで四男二女を儲ける(うち男児二人は夭折)。 1899年(明治32年)、滋賀県警察部の通訳と巡査教習所の英語教師として滋賀県大津市に転居、天台宗研究を始める。1901年(明治34年)、膳所町の滋賀県立第二中学(現・滋賀県立膳所高等学校)の英語教師となる(教員試験に受からず無資格のまま)。翌年、上京し大倉商業学校で英語を教えつつ『明星』などに詩を発表。1904年(明治37年)、第二詩集『夕潮』で認められる。1906年(明治39年)、初の小説「芸者小竹」、評論「神秘的半獣主義」を発表する。夏休み、戯曲を書くため日光の温泉に滞在中、芸者吉弥と痴情に耽る(『耽溺』)。 1908年(明治41年)に父が死去し、下宿「日の出館」を引き継ぐ。紀州から増田しも江が上京し、これを愛人とする。しも江はいざこざの中で毒を飲むが助かる(『毒薬を飲む女』)。10月20日、『新自然主義』を刊行した。 1909年(明治42年)、『新小説』2月に『耽溺』を発表し、1910年5月刊行、自然主義の作家として認められる。北海道へ渡るが蟹缶詰製造業はうまく行かず、樺太・北海道を転々とし、追ってきたしも江と心中し損ない、上京中にしも江と別れる。この体験が「泡鳴五部作」(『発展』『毒薬を飲む女』『放浪』『断橋』『憑き物』)に反映される。帰京後、女権運動をしていた遠藤清子を訪ね、同棲する。翌年、自伝小説『放浪』を刊行する。「毎日電報」に続編『断橋』を連載(この間東京日日新聞となる)。 1911年(明治44年)、「大阪新報」に入社し箕面線池田に清子と住む。自伝小説の冒頭に来るべき『発展』を『大阪新報』1911年12月16日-1912年3月25日に連載。清子は創刊された『青鞜』に参加し岩野清子と名乗る。 1912年(明治45・大正元年)、幸子と正式に離婚。7月に刊行した『発展』が発売禁止となり、「朝日新聞」紙上に抗議文を掲げる。大阪新報を退社して帰京。養蜂に熱中する。翌年、清子と正式に結婚。 1915年(大正4年)、プルターク『英雄伝』翻訳のため雇った筆記者蒲原英枝(房枝)と関係ができる。清子と別居し、世間から轟々たる非難を浴び、反論する。清子に訴えられ反訴するが敗訴。1917年(大正6年)、友人たちの斡旋で清子と協議離婚。 英枝が中心となり末日会を主催、毎月万世橋ミカドで開く。田中純、久米正雄、吉井勇、谷崎精二、加能作次郎らが集う。 1920年(大正9年)、腸チフスを病み東京帝国大学医学部附属病院に入院中、リンゴを食べたところ大腸穿孔を起こし死去。47歳。墓所は雑司ヶ谷(東京都豊島区)、法名「泡鳴居士」。 親族 父・直夫(1849年 - 1908年)は洲本警察署の巡査で、母・さと(1850年 - 1895年)の岩野家に婿入りした。泡鳴(本名・美衛)は長男で、下に長女・はつ,二女・きん,二男・巌,三女・ちゑ,三男・勝があった。父の直夫は実直な働きぶりで岩野家の借金を返したが、女遊びを覚えてからは家庭は不和となった。その後、直夫は上京、皇宮巡査を経て下宿屋を営み、さとの病中に熊谷まつを囲い、さと没後、正妻とした。 3人の妻との間に9人の子を生した。正宗白鳥は泡鳴を評して「子供に対してほとんど愛情らしいものを感じないのは、日本の作家のうち類例を絶している」と述べ、徳田秋声も子供を不幸な運命にしている例として、島村抱月、島崎藤村、田山花袋とともに泡鳴の名を挙げている。 女性遍歴 最初の妻・竹腰幸子(1870年 - 1936年11月5日) 東京生まれの3歳年上で、横浜で小学校教師をしていた。1895年に結婚後まもなく結核を患い、同じく胸に不調のある泡鳴と療養を兼ねて転居を繰り返すが、不仲となり1912年に離婚。子に、長女・喜代子(夭折)、次女・富美子、長男・諭鶴(夭折)、次男・薫、三男・真雄、四男・貞雄(夭折)。 芸者・吉弥 戯曲を書くため日光の温泉に滞在中、痴情に耽る(『耽溺』)。 愛人・増田しも江 泡鳴を樺太や北海道まで追う。心中し損なったあと、分かれる(『毒薬を飲む女』)。 二番目の妻・遠藤清子(1882年 - 1920年) 青鞜社同人の婦人解放運動家。元久留里藩士の父親が維新後漢学の私塾を開いたが失敗したため、府立第一高等女学校を中退、東京府教員伝習所を出て教師となり、電報通信社や大阪日報の記者となった。妻子持ちの同僚との恋愛に悩んで1909年に自殺未遂を起こし、その年の暮れに別居中の泡鳴と同棲。 1913年泡鳴と結婚し、翌年に長男・民雄(泡鳴の五男)を出産するも、泡鳴と蒲原房枝(英枝)との姦通事件により別居、離婚を巡って法廷闘争となり、1915年に『愛の争闘』を刊行、1917年離婚。その後、花屋を経営、10歳年下の画学生・遠藤達之助(1892年 - 1977年、のち小畠辰之助)と再婚して夫の実家の京都に転居し長女を出産、胆石により38歳で没。 三番目の妻・蒲原房枝(英枝) 青鞜社員で、泡鳴の口述筆記者。清子との離婚が成立する前の1916年に泡鳴との間に長女・美喜(泡鳴の三女)を出産、1918年には長男・諭鶴(泡鳴の六男)を生み、入籍。前夫との間に一子があったが、前夫が家を出たため離婚、教員をして自活していた。 最期の愛人・荒木郁子(郁)(1888年 - 1943年2月26日) 青鞜社員。泡鳴の弟子で、愛人とも。泡鳴の五男・民雄を清子の没後に引き取るが、民雄は関東大震災(1923年)で行方不明となる。 作品一覧 小説・詩 魂迷月中刃 悲劇 一名・桂吾良/ 阿波寺鳴門左衛門 女学雑誌社 1894 露じも 私家 1901 悲恋悲歌 日高有倫堂 1905 海堡技師 冥想詩劇 金尾文淵堂 1905 泡鳴詩集 金尾文淵堂 1906 闇の盃盤 日高有倫堂 1907 耽溺 易風社 1910 のち新潮社「代表的名作選集」、岩波文庫、角川文庫 放浪 泡鳴五部作 東雲堂 1910 毒薬を飲む女 泡鳴五部作、「耽溺・毒薬を飲む女」講談社文芸文庫 2003 炭屋の船 岡村盛花堂 1913 五人の女 春陽社 1913 ぼんち 植竹書院 1913 征服被征服 春陽堂 1919 非凡人 天佑社 1919 猫八 玄文社 1919 斷橋 泡鳴五部作 新潮社 1919.9 のち岩波文庫 情か無情か 日本評論社 1920 家付女房 天佑社 1920 燃える襦袢 日本評論社出版部 1920 発展 泡鳴五部作 新潮社 1920 憑き物 泡鳴五部作 新潮社 1920 女の執着 日本評論社出版部 1920 公爵の気まぐれ 学芸書院 1920 泡鳴全集 全18巻 国民図書 1921-1922 岩野泡鳴選集 第1・2巻 三興書林 1948 泡鳴五部作 新潮文庫(上下) 1955、復刊1994 岩野泡鳴全集 全16巻別 臨川書店 1994‐1997 評論 神秘的半獣主義 左久良書房 1906 新体詩の作法 修文館 1907 (作文叢書) 新自然主義 日高有倫堂 1908 日本図書センター 1990 (近代文芸評論叢書) 近代思想と実生活 東亜堂書房 1913 男女と貞操問題 僕の別居事実と自由恋愛論 新潮社 1915 近代生活の解剖 広文堂書店 1915 悲痛の哲理 隆文館図書 1920 刹那哲學の建設 隆文館 1920.10 翻訳 表象派の文学運動 アサ・シモンズ 新潮社 1913
{ "id": "123592", "title": "岩野泡鳴", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E9%87%8E%E6%B3%A1%E9%B3%B4" }
准胝観音(じゅんでいかんのん、じゅんていかんのん)は、仏教における信仰対象である菩薩の一尊。準胝観音または準提観音とも書く。准胝仏母とも。 日本の真言系では変化観音とされて真言宗系では「六観音」の一尊に数えられ、日本の天台系では観音ではなく仏母とされる。インド・チベットでは一般に仏母とされ、変化観音とはみなされない。インドでは観音は男性名詞のため男尊とされるが、准胝は女性名詞であり、女尊として表現される。准胝は五守護女尊やマーリーチー(摩利支天)と同様に、特定の陀羅尼と結びついた女尊である。密教においては七倶胝仏母(しちくていぶつも)とも呼ばれる。密号は最勝金剛、降伏金剛。 日本では従来、准胝の還梵はチュンディーとされている。漢名の准胝はチュンダー陀羅尼における「チュンデー」という語(チュンダーの女性単数呼格、「チュンダーよ」)の音写であるという説もある。インド原典ではチュンダーである。 梵名 准胝はチュンダーを音写したとする説、チュンディーを音写したものとする説がある。また、准胝を ではなく に還元する説もある。 由来 准胝の源流をヒンドゥー教の女神チャンディー に比定する説がある(チャンディーはドゥルガーの異名とされる)。岩本裕は、准胝は多羅観音や葉衣観音と同様にヒンドゥー教の女神が仏教に取り入れられた姿であるとする。佐藤任は、売春宿の主人とするモニエル・ウィリアムの説を引き合いに出して神聖娼婦に結びつけている。「チュンダー陀羅尼」より生じたという説もある。これは、准胝観音の梵名チュンダーを動詞根 √cud (鼓舞する)の派生語と解釈して、行者が自らを奮起させるために唱える陀羅尼が尊格化されて准胝観音となったとする説である。 概説 日本では「准胝仏母」、「准胝観音菩薩」、「准胝観世音菩薩」、「天人丈夫観音」などさまざまな呼称がある。 中国では密教、この後も広く禅宗や浄土宗、道教等でも信仰されるが、かつてインドから東南アジアでも信仰された。 日本の真言宗の開祖である空海が高野山の開基の際に、僧房の次にまず准胝堂を建立し、准胝観音を弟子たちの得度の本尊としてお祀りしたのは有名で、のちに高野山が荒廃した際にも僧俗の手によって庫裡にこの准胝観音を安置し守り続けられた。それゆえ、准胝堂の補修が行なわれた昭和の時代になるまで、高野山では准胝堂で僧侶となるための得度の儀式が執り行なわれていた。また、真言宗醍醐派の開祖・聖宝尊師がこれに倣って醍醐寺の開基に准胝観音を勧請し、その孫弟子の仁海は六観音に准胝観音を加え、その後も長く民衆の信仰を集めている。 真言・三昧耶形・印 真言 真言は短呪の「オン・シャレイ・シュレイ・ジュンテイ・ソワカ」(などがよく知られている。 三昧形 三昧耶形は「寶瓶」(方便)、「金剛杵」(智慧)、「甲冑」(慈悲)。 種子 種子はबु(ボ)。 准胝観音の功徳 善無畏三蔵の訳による『七仏倶胝仏母心大准提陀羅尼法』(大正蔵№1078)には、「仏いわく、この准胝仏母の真言と印契の密法によって、十悪罪や五逆罪等の一切の重い罪を滅して、よく一切の善法を成就し、さらには戒律を具足し、清廉潔白の身となって、速やかに心の清浄を得る。もし、在家の行人がいて飲酒や肉食を断つことなく、たとえ妻子があったとしても、ただ、この准胝仏母を本尊とすることで、あらゆる仏法・密法を成就することができる」と説かれている。 地婆訶羅三藏の訳による『仏説七倶胝仏母心大准提陀羅尼経』(大正蔵№1077)には、「もし、在家の善男善女らが『准胝真言』を唱え、これを日々に保つことがあれば、その人の家には災難や事故、病気等による苦しみが無く、あらゆる行いには行き違いや望みが果たせないということも無く、その人の言葉は皆が信用して、よく聞いてくれるようになる。また、幸福に恵まれず、才能にも恵まれない人があって、密教の才覚もなく、僧侶の修行である『三十七菩提分法』という釈迦の教えに廻りあうことができない人がいたとしても、この准胝観音の『陀羅尼法』の伝授を受けることができたならば、速やかに無上の覚りを得ることができる。更には、『准胝真言』を常に記憶にとどめ、よくこの真言を唱えて善行となる戒律を守ることができれば、あらゆる願いも成就する」と説かれている。 曹洞宗で「龍樹菩薩讃準提大明陀羅尼」としてよく唱えられ、真言宗では、醍醐寺の在家用の勤行次第「準提観音念誦次第」にも取り上げられている『準提功徳頌』は龍樹菩薩の作とされる。 禅と准胝観音 『無門関』第三則 【倶胝竪指】(ぐていじゅし)より 倶胝和尚(ぐていおしょう)は禅における馬祖の法嗣の大梅禅法常三世の法孫にあたる。この人の正確な名前は伝わっていないが、准胝観音を一心に信仰し修行前も、修行をなし終えてからも准胝観音の真言を口ずさむのが常であったため、准胝観音の別名である「七倶胝仏母」から名前を取り、倶胝和尚と呼ばれた。この人が寺を構えてそこの住職をしていたところ、尼僧が旅姿のまま土足で上がり込んで来て問答を挑み、「あなたが悟りにかなった言葉を言えば笠を取りましょう」と迫ったが、倶胝和尚が何も答えられずにいると、尼僧は吐き捨てるようにして袖を払って出て行ってしまった。倶胝和尚は一山の住職がこれではと情けなくなり悔しさのあまり涙して寝たところ、「准胝法」の特徴の一つでもある夢告によって夢に神人が現れて、もうすぐこの寺に生きた菩薩が現れると告げられた。その十日後に天龍老師という人が現れて、その人にわけを話して教えを請うたところ、天龍老師はただ黙って指を一本立てられた。その指を見たとたんに、倶胝和尚は落雷に打たれたようになってしまい、瞬時に執着に固まっていた心の底が抜け、無上の覚りを得ることが出来た。 それ以来、倶胝和尚は生涯にわたって准胝観音の真言を唱えるかたわら、ただ指を立てるだけで弟子や信徒らを教化したとされている。この第三則の物語を編集者の無門慧開は、「覚りは指先のことではない、しかし、そこが分かれば皆が釈迦牟尼仏となることができる」と批評している。いわゆる中国では、説法印を正面で結んで指を立てる姿の准胝観音の仏像が好まれる理由の一つでもある。 また、明代には浙江省嘉善镸の出身である袁黄(1533-1606)という人物が、当時、占いの名人とされた孔先生に「三式」という運命学を学び、師の孔先生より科挙を受けることを勧められて合格すると共に、その番号までを言い当てられた。その後の占いも一字一句が孔先生の言う通りであり、すっかり宿命論者となっていた。自身の一生を占ってもらったところ相応の出世はするが前世の業(カルマ)により壽命は53歳で、結婚はするが子供は無く、薄徳少福の身で失意のうちにその一生を終えると予言されていた。やがて、仏縁により禅密双修の禅僧の雲谷禅師に出会い自身の運命を語ったところ、『七佛倶胝佛母心准提陀羅尼法』の呪法を授かり、正しく戒律を守り善行を積むための『功過格』による指導を受けたことによって運命の呪縛を脱した。壽命が尽きるとされた53歳の時に袁了凡(えんりょうぼん)と改名し、更に出世して高官となって交易と漁民に被害をなす倭寇を平定し、豊臣秀吉による朝鮮出兵の軍を退けた。准胝観音への信仰により願わずして子供にも恵まれ、その寿命も准提観音の延命の功徳と、『功過格』の積善の効果により74歳まで長生きすることができた。 仏像の作例 経典や儀軌には二臂、四臂、六臂、十八臂、五十四臂、八十四臂を説くが、日本では『七倶胝仏母所説准提陀羅尼経』(唐・不空 訳)が広まり、そこで詳述された像容・一面三目十八臂とするものが最も多い。『仏説持明蔵瑜伽大教尊那菩薩大明成就儀軌経』(宋・法賢 訳)には、四臂は赤色(蓮華部)、六臂は黄色(宝生部)、十八臂は白色(仏部)と述べられている。また、その手の本数が多いことから、その尊像は時に千手観音と混同される場合もあるが、正面の左右の二手が「説法印」 を結んでいるのが准胝観音で、「合掌」をしているのが千手観音である。なお、醍醐寺准胝観音坐像のように、蓮華座の下に難陀・跋難陀の眷属二大龍王がいる造例が多い。 准胝観音は日本でも禅宗でよく拝まれ、黄檗宗、曹洞宗、臨済宗等の僧堂にその尊像が祀られているのを見ることができ、また、真言宗の泉涌寺の皇族が拝まれた秘仏も知られているが、いずれも江戸時代以降の作であり、奈良時代や平安時代の密教における単独の造像例はあまり多くない。真言宗智山派の寺である、京都・大報恩寺(千本釈迦堂)の六観音像(重要文化財)中には准胝観音の像がある。奈良・新薬師寺旧蔵の伝・千手観音立像(重要文化財、文化庁保管)は、その像容から本来は准胝観音像と考えられている。 寺院 日本における准胝観音の歴史は古く、観音信仰の広まりによる札所等や江戸時代の禅の復興に伴い、本尊や守護仏として准胝観音をお祀りする寺院も多い。 准胝観音を本尊とする寺院 高野山・准胝堂(和歌山県) - 「准胝観音坐像」。 醍醐寺上醍醐・准胝堂(京都府) - 「准胝観音坐像」、西国三十三所・第11番札所、焼失による修復中。 聖護院・積善院凖提堂(京都府) - 「凖提観音立像」、五大力尊・役行者霊跡札所。 観音院(京都府) - 「准胝観世音菩薩立像」・「准胝観音坐像」。 興福寺(長崎県) - 「准胝観音坐像」、明末〜清初、17世紀。 長栄寺(愛知県) - 「準提観音坐像」、光格天皇の中宮欣子内親王御賜による伽羅の香木製、江戸時代。地元では豪潮長栄寺とも呼ばれる。 語歌堂(埼玉県・横瀬町) - 「准胝観音坐像」、秩父三十四観音霊場・第5番札所。 開善寺(福岡県) - 「准胝観音坐像」。 その他、准胝観音を祀る代表的な寺院 泉涌寺(京都府) - 「準提観音坐像」、江戸時代。 西明寺(栃木県:六観音) - 「准胝観音立像」、鎌倉時代。 總持寺(神奈川県・横浜市鶴見区) - 「準提観音坐像」。 宝戒寺(神奈川県・鎌倉市) - 「仏母准胝観音坐像」、鎌倉三十三観音霊場・第2番札所。 大報恩寺(京都府:六観音) - 「准胝観音立像」、1224年、肥後別当定慶作。 準提院(台湾・高雄市) - 「準提仏母坐像」、高野山真言宗。 興国禅寺・慈恩堂 - 「準提観音坐像」、伊達秩父・観音霊場第一番札所。 長久寺(宮崎県:六観音) - 「准胝観音坐像」、室町時代、1562年作。 仁和寺(奈良県) - 「准胝曼荼羅図」、唐本白描、平安時代、12世紀。 蓮華堂(千葉県) - 「準提仏母坐像」・「準提曼荼羅」・「穢跡金剛立像」・「幻化網曼荼羅」他、高野山真言宗。 寒山寺(中国・江蘇省蘇州市) - 「準提仏母坐像」、唐代(修復済)。 美術館等 東京国立博物館 - 「准胝観音図」、白描、平安時代、12世紀。 細見美術財団 - 「准胝観音画像」、鎌倉時代、13世紀。
{ "id": "123607", "title": "准胝観音", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%86%E8%83%9D%E8%A6%B3%E9%9F%B3" }
花村 萬月(はなむら まんげつ、本名:吉川 一郎、1955年〈昭和30年〉2月5日 -)は、日本の男性作家。東京都出身。現在、京都市在住。 経歴 東京都生まれ。父親は明治の生まれで、母親とは30歳ほど離れていた。生まれて間もなく蒸発した父親が小学校入学後に戻り、旧仮名遣いの本で読書を強制される。父親の方針により小学校を休みがちになったが、様々な学問の基礎を父親から教わる。父親は小学校4年生の時に亡くなった。 問題行動の多い子どもであったため小学校6年のときに児童相談所に送られ、福祉施設の東京サレジオ学園小学校、育英学院のサレジオ中学校へ進む。卒業後は都立高校に進学したが、3日目に喧嘩が原因で退学。17歳で京都に移り、ヒモ生活や肉体労働などで食いつなぐ。「悪さをして関東にいられなくなり、17歳で京都に逃げました」と回想しており、肉体労働に従事したのは、中卒で当時は長髪だったこともありアルバイト採用が断れることが多かったためといい、京都大学の寮やロック喫茶の2階などを転々として寝起きしていた。以前は議論を吹っかけてやり合うのが好きだったのに、ぱたっと話せなくなり、自分の知識が借り物だったと気づいて「俺はこの程度か」と愕然としたと振り返っている。 後述する病気治療のための骨髄移植でABO式血液型がO型からAB型に変わり、短気で手が出やすかった性格も怒らなくなったと語っているが、一方では作家として大成した2020年代においても、「中身はその頃と変わっていません」「家族を(自動車に)乗せていても運転は荒らいし、けんかはするし、反社会性は自分の中にあり続けている」とも述べている。 ギターが弾けたことから、20歳でキャバレー回りのミュージシャンになり、東京、京都、福岡などで活動。 薬物中毒からアルコール依存症になり入院。退院後は東京の歌舞伎町で博打三昧をしていたが、金持ちの人妻と知り合い、ともに日本中を旅する。その後、同棲していたクラブホステスの金で北海道旅行に行き、そこで綴った日記が旅行記のコンテストで佳作になったことで、小説家を目指すようになる。 1989年に小説すばる新人賞を受賞しデビュー。1998年には吉川英治文学新人賞、芥川龍之介賞を相次いで受賞する。 2009年、花園大学の客員教授に就任。 血液のがんである骨髄異形成症候群で2018年9月に骨髄移植を受け、さらに間質性肺炎、膀胱炎、前立腺炎、尿道炎を患ったほか、ステロイド剤の副作用で背骨4カ所を圧迫骨折した。「せっかくこれだけひどい目に遭っているんだから」と、痛みの表現を『ハイドロサルファイト・コンク』(集英社、2022年)として作品化した。題名は、かつて働いていた西陣織反物工場で使われていた漂白剤から採った。 人物 筆名は半村良に命名されたものである。 音楽の造詣が深く、特にマイルス・デイヴィスやロック、ブルースを好む。 オートバイをZAZEN BOYSの向井秀徳に譲ったことがある。 キリスト教系養護施設を経験した関係から、キリスト教聖職者による子供への性的虐待について、『ゲルマニウムの夜』 『青い翅の夜-王国記IV-』で描いており、『ゲルマニウムの夜』は映画化もされた。 京都近郊にある高級ソープランド「フォーナイン倶楽部」に推薦文を寄稿している。 受賞歴 1989年 デビュー作の『ゴッド・ブレイス物語』で第2回小説すばる新人賞。 1998年 『皆月』で、第19回吉川英治文学新人賞。 1998年 『ゲルマニウムの夜』で第119回芥川龍之介賞受賞。 2017年 『日蝕えつきる』で第30回柴田錬三郎賞受賞。 作品リスト 『ゴッド・ブレイス物語』集英社、1990 のち文庫 『眠り猫』徳間書店、1990 のち文庫、新潮文庫 『猫の息子-眠り猫II-』トクマ・ノベルズ、1994 のち文庫、新潮文庫 『重金属青年団』角川書店、1990 のち文庫 『屠られし者、その血によりて』徳間書店、1991(1994年に『紫苑』に改題、ノベルス)のち文庫 『渋谷ルシファー』集英社、1991 のち文庫 『なで肩の狐』トクマ・ノベルズ、1991 のち文庫、新潮文庫 『ブルース』角川ノベルズ、1992 のち文庫 『真夜中の犬』光文社カッパノベルス、1993 のち文庫 『月の光 ルナティック』広済堂出版、1993 のち文春文庫 『ヘビィ・ゲージ』毎日新聞社、1993 のち角川文庫 『永遠の島』学習研究社、1993 のち角川文庫 『紅色の夢』徳間書店、1993 のち文庫 『笑う山崎』祥伝社、1994 『聖殺人者イグナシオ』広済堂ブルーブックス、1994 「イグナシオ」角川文庫 『わたしの鎖骨』毎日新聞社、1994 のち文春文庫 『風に舞う』集英社、1994 のち文庫 『セラフィムの夜』小学館、1994 のち文庫 『狼の領分 なで肩の狐2』徳間書店、1994 のち文庫、新潮文庫 『ジャンゴ』角川書店、1995 のち文庫 『笑う萬月』双葉社、1995 のち文庫 『触角記』実業之日本社、1995 のち文春文庫 『夜を撃つ』広済堂出版、1997 のち角川文庫 『皆月』講談社、1997 のち文庫 『鬱』双葉社、1997 のち文庫 『あとひき萬月辞典 花村萬月ベスト・アンソロジー』光文社、1998 のち文庫 『ぢん・ぢん・ぢん』祥伝社、1998 のち文庫 『ゲルマニウムの夜』文藝春秋、1998 のち文庫 『二進法の犬』光文社カッパノベルス、1998 のち文庫 『守宮薄緑』新潮社、1999 のち文庫 『萬月療法』双葉社、1999 のち文庫 『王国記』文藝春秋、1999 「ブエナ・ビスタ-王国記Ⅱ-」文庫 『汀にて-王国記Ⅲ-』文藝春秋、2001 のち文庫 『雲の影-王国記Ⅳ-』文藝春秋、2003 のち文庫 『青い翅の夜-王国記Ⅴ-』文藝春秋、2004 のち文庫 『午後の磔刑-王国記Ⅵ-』文藝春秋、2005 のち文庫 『象の墓場-王国記Ⅶ-』文藝春秋、2006 のち文庫 『神の名前-王国記Ⅷ-』文藝春秋、2008 『風の篠-王国記Ⅸ-』文藝春秋、2010  『風転』集英社、2000 のち文庫 『愛の風俗街道―果てしなき性の彷徨』光文社カッパブックス、2000 『吉祥寺幸荘物語』角川書店、2000 「幸荘物語」文庫 『犬・犬・犬(ドッグ・ドッグ・ドッグ)』(書き下し原作)全5巻、小学館、漫画:さそうあきら、2000-2002年 『♂♀(オスメス)』新潮社、2001 のち文庫、徳間文庫 『自由に至る旅―オートバイの魅力・野宿の愉しみ』集英社新書、2001 『惜春』講談社、2003 のち文庫 『萬月放談』ベストセラーズ、2003 『虹列車・雛列車』集英社、2003 のち文庫 『百万遍 青の時代』新潮社、2003 のち文庫 『百万遍 古都恋情』新潮社、2006 のち文庫 『百万遍 流転旋転』新潮社、2011 『私の庭 浅草篇』光文社、2004 のち文庫  『私の庭 蝦夷地篇』光文社、2007 のち文庫  『私の庭 北海無頼篇』光文社、2009 のち文庫  『駄日記 2003.6.15〜2004.1.1』太田出版、2004 『父の文章教室』集英社新書、2004 『空は青いか』講談社、2005 のち文庫 『浄夜』双葉社、2005 のち文庫 『たびを』実業之日本社、2005 『愛は、むずかしい』角川書店、2006 『愛情』文藝春秋、2007 『錏娥哢奼(アガルタ)』集英社、2007 のち文庫  『沖縄を撃つ!』集英社新書、2007 『犬でわるいか 萬月夜話其の2』講談社文庫、2009 『草臥し日記 萬月夜話其の3』講談社文庫、2009 『少年曲馬団』講談社 2008 『ワルツ』角川書店、2008 のち文庫  『俺のロック・ステディ』集英社新書、2009 『なかで、ごめんね』講談社、2009 『GA・SHIN!我神』集英社、2010 『ウエストサイドソウル西方之魂』講談社、2010 のち文庫  『旅の柄』光文社、2010 『我・神』集英社、2010  『裂』講談社、2011 『武蔵』1-4 徳間書店、2011-15 (宮本武蔵を描く) 『アイドルワイルド!』祥伝社、2011 のち祥伝社文庫 『信長私記』講談社、2012 『完本信長私記』講談社 2015 『よろづ情ノ字 薬種控』光文社、2012 のち文庫  『希望(仮)』角川書店、2012 『萬月な日々』双葉社、2012 『色』文藝春秋 2013 『弾正星』小学館 2014 (松永久秀を描く) 『舎人の部屋』双葉社 2014 『いまのはなんだ?地獄かな』光文社 2015 『ロック・オブ・モーゼス』KADOKAWA 2015 『心中旅行』光文社 2017 のち光文社文庫 『ニードルス』KADOKAWA 2018 『花折』集英社 2018 『帝国』講談社 2020 『ヒカリ』光文社 2020 『日蝕えつきる』集英社 2020 『くちばみ』小学館 2020 『対になる人』集英社 2021 『夜半獣』徳間書店 2021 『ハイドロサルファイト・コンク』集英社 2022 『姫』光文社 2022 映画化作品リスト 『XX(ダブルエックス)-しなやかな美獣-』(原作:『紫苑』 監督:小沼勝 主演:嶋村かおり 1996年) 『イグナシオ』(原作:『聖殺人者イグナシオ』 監督:田中昭二 主演:いしだ壱成 1996年) 『セラフィムの夜』(原作:同名 監督:高橋伴明 主演:大沢逸美 1996年) 『猫の息子』(原作:同名 監督:柏原寛司 主演:青木伸輔 1997年) 『なで肩の狐-凶殺-』(原作:『なで肩の狐』 監督:渡辺武 主演:椎名桔平 1999年) 『皆月』(原作:同名 監督:望月六郎 主演:奥田瑛二 1999年) 『紅色の夢-CRIMSON DREAM-』(原作:『紅色の夢』 監督:中田昌宏 主演:夏生ゆうな 2002年) 『ゲルマニウムの夜』(原作:同名 監督:大森立嗣 主演:新井浩文 2005年) 家族 娘が2人いる。2022年度時点では中学生と小学生であるが、「人格を持った一人の大人として接している」といい、「勉強しろ」などとは言わないという。
{ "id": "123655", "title": "花村萬月", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E6%9D%91%E8%90%AC%E6%9C%88" }
大浜 平太郎(おおはま へいたろう、1968年5月6日 -)は、テレビ東京報道局解説委員。同局の元アナウンサー。報道番組のニュースキャスターを務める。 人物・来歴 福岡県出身。東京都立南野高等学校、駒澤大学法学部卒業。 1993年(平成5年)、アナウンサーとしてテレビ東京に入社。1995年(平成7年)より『ワールドビジネスサテライト』(WBS)のサブキャスターを担当。 2008年(平成20年)9月26日をもって、長年出演したWBSを降板し、夕方のワイド番組『FINE!』(『NEWS FINE』)のメインキャスター(アンカーマン)に就任。引き続き『NEWS FINE』の後継番組『NEWSアンサー』のメインキャスターを務めた。 2014年(平成26年)3月31日から『ワールドビジネスサテライト』(WBS)のサブキャスターとして5年半ぶりに復帰、2018年3月まで担当。 2018年(平成30年)4月から報道局ニュースセンター解説委員。 同期入社は、八塩圭子(同局報道部記者を経てアナウンサーとなり、現在フリーアナウンサー)。 東日本大震災発生の際、大津波警報発表に伴いテレビ東京は震災報道に切り替わったが、「FINE!」のためスタンバイしていた大浜が担当した。大浜は北海道胆振東部地震の際にも発生後最初のネットワークニュース定時番組Newsモーニングサテライトを担当している。 出演番組 現在 Newsモーニングサテライト(2018年4月2日 - 、解説キャスター) TXNニュース(不定期) 池上彰の選挙ライブ(2010年7月11日は中継リポーター・2012年12月16日はスタジオ速報キャスター、2013年7月21日はサブキャスター、2014年2月10日は総合司会) 過去 お天気パラダイス(1993年11月5日 - 1995年3月31日) NEWSもぎたて朝一番(1994年4月4日 - 1995年9月29日、ニュースキャスター) 決戦!クイズの帝王(天の声担当) TXNニュース THIS EVENING・TXNニュースワイド 夕方いちばん(久保田麻三留・大岡優一郎のリリーフ) 邦子のマネー天使(1999年7月 - 2001年3月、司会) お金の達人(2001年4月 - 2002年3月、司会) ウィークエンドサテライト(2001年10月6日 - 2002年3月30日、メインキャスター) ワールドビジネスサテライト土曜版(2002年10月5日 - 2003年3月29日、メインキャスター) ザ・決断!日本の選択(2004年7月11日、メインキャスター) ヘルメスの悪戯(2006年9月27日・2007年3月14日・2008年1月16日、解説) FINE!(NEWS FINE)(2008年9月29日 - 2011年9月30日、メインキャスター) 経済ドキュメンタリードラマ ルビコンの決断(2009年4月16日 - 2010年9月16日、メインキャスター) 働きガイ大百科(2011年1月2日、メインキャスター) 東日本大震災の第一報(2011年3月11日) Mプラス Express(2012年4月13日、代役キャスター) THE指名手配(2010年8月2日・2010年12月20日・2011年9月26日、司会) 報道特番 池上彰の“ニッポンの大疑問”(2013年6月26日、サブキャスター) NEWSアンサー(2011年10月3日 - 2014年3月28日、メインキャスター) 日経スペシャル 未来世紀ジパング〜沸騰現場の経済学〜(2011年11月14日 - 2014年3月17日・2016年1月11日 - 2016年4月18日、司会) SHELLYと共に司会を務めたが、『ワールドビジネスサテライト』のキャスター復帰を機にいったん降板。SHELLYが産前産後休暇へ入ったことを機に、暫定措置として司会に復帰した。 ワールドビジネスサテライト(1995年10月 - 2008年9月・2014年3月31日 - 2018年3月30日、サブキャスター)
{ "id": "123676", "title": "大浜平太郎", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B5%9C%E5%B9%B3%E5%A4%AA%E9%83%8E" }
特定電気通信役務提供者の損害賠償責任の制限及び発信者情報の開示に関する法律は、インターネット等において権利の侵害があった場合に、その損害に対してインターネットサービスプロバイダ等が負う責任の範囲を制限する代わりに、被害者等は、プロバイダ等が保有する発信者情報の開示を請求する権利があることを定めた日本の法律である。プロバイダ責任制限法ともいう。 概要 インターネットの普及に伴い、インターネットを悪用した権利の侵害も増加したが、プロバイダ等が通信記録を開示しない限り、加害者を特定することが難しい場合も多い。一方で、プロバイダは、各個人が送受する膨大な量の通信における権利侵害の有無を個別に確認することは不可能であり、権利侵害の防止と安定したサービス提供を両立することは難しく、権利侵害の被害者をどうやって保護するのかについては問題である。 そこで、プロバイダ等に対して、インターネットを利用した権利侵害に関係する発信者の個人情報を、捜査機関や被害者等の求めに応じて開示する体制を整えさせる一方で、権利侵害の手段を提供したプロバイダ等の責任を減免する法律が制定された。 この法律の制定により、プロバイダ等は、特定の条件下において、インターネット等を利用した権利侵害に関する責任を負わない一方で、民事訴訟の手続を経ることなく、権利侵害に関係する者の個人情報を速やかに開示することができるようになった。 用語 法2条では用語の定義がなされている。(詳細な説明については、逐条解説を参照のこと。) 特定電気通信(法2条1号) 不特定の者によって受信されることを目的とする電気通信(電気通信事業法第2条第1号に規程する電気通信をいう。以下この号において同じ。)の送信(公衆によって直接受信されることを目的とする電気通信の送信を除く。)をいう。 特定電気通信設備(法2条2号) 特定電気通信の用に供される電気通信設備(電気通信事業法第2条第2号に規定する電気通信設備をいう。)をいう。 特定電気通信役務提供者(法2条3号) 特定電気通信設備を用いて他人の通信を媒介し、その他特定電気通信設備を他人の通信の用に供する者をいう。 ※ここでいう特定電気通信役務提供者とは、営利事業を目的としたプロバイダ等を指すのみならず、「企業、大学、地方公共団体や、電子掲示板を管理する個人等」の、「ウェブホスティング等を行ったり、第三者が自由に書き込みのできる電子掲示板を運用したりしている者」も含まれていることに留意されたい。 発信者(法2条4号) 特定電気通信役務提供者の用いる特定電気通信設備の記録媒体(当該記録媒体に記録された情報が不特定の者に送信されるものに限る。)に情報を記録し、又は当該特定電気通信設備の送信装置(当該送信装置に入力された情報が不特定の者に送信されるものに限る。)に情報を入力した者をいう。 発信者情報開示請求権(法4条関係) 文言としては総務省による解説に記載。インターネット上で匿名発信情報により被害を受けた者が、被害回復のために、特定電気通信役務提供者に対してIPやタイムスタンプ等の発信者情報の開示を請求する権利。 責任が制限される条件 特定電気通信役務提供者(以下プロバイダ等)は、次の各項目をいずれも満たした場合は賠償の責任を負う必要がない。 情報の流通を防止しなかったことによって発生した他人の権利侵害の損害 プロバイダ等自身が情報の発信者でない(同法第3条第1項但し書き) 情報の送信を防止する措置を講ずることが技術的に不可能である(同法同条同項本文) 権利を侵害する情報が流通していたと知らなかった(同法同条第1号)か、もしくは情報の流通を知っていたが、他人の権利が侵害されたと認めるに足りる相当の理由がなかった(同法同条同項第2号) 情報の流通を防止したことによって発生した発信者の損害 情報の送信を停止する措置が必要限度内であった(同法同条第2項) その情報が他人の権利が侵害されたと認めるに足りる相当の理由があった(同法同条同項第1号)か、もしくは権利を侵害されたとする者からその理由を示して送信を停止するよう要求があり、情報発信者に送信停止の同意を求めた場合において7日以内に返答がなかった(同法同条同項第2号) 選挙運動期間中に情報の流通を防止したことによって発生した発信者の損害 情報の送信を停止する措置が必要限度内であった(同法第3条の2) その情報が、選挙運動や当選させないための活動に使用される情報である(同法同条第1号、同法同条第2号) 名誉を損害された公職候補者・衆参院名簿届出政党等から、名誉が侵害されたとする理由を示して送信を停止するよう要求があり、情報発信者に送信停止の同意を求めた場合において2日以内に返答がなかった(同法同条同項第1号)か、公職候補者等から、名誉が侵害されたとする理由と発信者のメールアドレス等が、公選法第142条の3第3項又は同法第142条の5第1項に違反し、表示されていないことを示して送信を停止するよう要求があり、受信者の映像面に正常な表示がされていない(プロバイダ責任制限法第3条の2第2号) 私事性的画像記録の情報の流通を防止したことによって発生した発信者の損害 私事性的画像記録の提供等による被害の防止に関する法律(リベンジポルノ被害防止法)第4条に規定されるプロバイダ責任制限法の特例 情報の送信を停止する措置が必要限度内であった(リベンジポルノ被害防止法第4条) 権利を侵害されたとする者から名誉又は私生活の平穏が侵害されたとする理由を示して送信を停止するよう要求があり(同法同条第1号)、情報発信者に送信停止の同意を求めた場合において(同法同条第2号)、2日以内に返答がなかった(同法同条第3号) 発信者情報を公開しなかったことにより開示請求者に発生した損害 プロバイダ等自身が情報の発信者でない 故意または重大な過失がなかった 発信者情報の開示 発信者情報開示請求の要件 権利を侵害されたとする者は、次の各号のいずれも該当する場合、プロバイダ等に対して保有する発信者情報の開示を請求することができる。 侵害情報の流通によって権利が侵害されたことが明らかである 発信者情報が開示請求者の損害賠償請求権の行使のために必要であるか、その他発信者情報の開示を受けるべき正当な理由がある 開示請求を受けたプロバイダ等は発信者に連絡することができないなどの事情がある場合を除き、発信者に開示するかどうかについて意見を聴かなければならない。 発信者情報は省令で以下のように定められる。省令本文はウィキソースの項目を参照のこと。 発信者その他侵害情報の送信に係る者の氏名又は名称 発信者その他侵害情報の送信に係る者の住所 発信者の電子メールアドレス (ショートメッセージサービスのアドレスを含む) 侵害情報に係るIPアドレス 前号のIPアドレスから侵害情報が送信された年月日及び時刻 また、発信者情報の開示を受けた請求者は、発信者情報を用いて発信者の名誉や生活の平穏を不当に害してはならないと定められている。 なお、プロバイダ等は、原則として上記のすべての情報を取得しなければならず、上記すべての情報を適切に取得していなかった場合(例えばIPアドレスのみを取得していたようなケース)、プロバイダ等の不法行為責任が発生する惧れがある。 発信者情報開示請求の具体的な手続 請求者の手順 本法に基づいた発信者情報開示請求の手続は、プロバイダ責任制限法ガイドライン等検討協議会が発行する「プロバイダ責任制限法発信者情報開示ガイドライン」に従って行なわれる。 情報開示の請求手続を希望する者は、プロバイダ等に、請求者の本人確認の資料や権利侵害の証拠資料等とともに、請求書を提出する。請求書の書式は、「プロバイダ責任制限法発信者情報開示ガイドライン」に定められたものが使われる。請求手続は、原則として書面での提出であるが、電子メールやFAX等の手段も認められている。 プロバイダ等の対応 請求を受けたインターネットプロバイダ等は、書式の記載漏れ、請求者の本人確認等を行い、発信者情報の保有の有無を確認する。当該発信者情報を保有していない場合や特定困難な場合は、請求者に対し、開示が不可能であることを通知することになる。発信者情報を保有している場合は、権利侵害情報の確認を行い、発信者に対し開示に対する意見を聴取するが、意見照会が不可能もしくは困難な場合は行わなくてもよい。また、請求者の主張や証拠資料により、権利侵害が明白である場合にも、発信者の意見聴取を行わなくてもよい。発信者に意見照会を行い、2週間経過しても回答が得られない場合には、発信者からの主張がないとみなすことができる。 開示を求める理由が、 損害賠償請求権の行使のためである場合 謝罪広告等名誉回復措置の要請のため必要である場合 発信者への削除要請等、差止請求権の行使のため必要である場合 に該当する場合は、正当な理由を有していると考えられる。
{ "id": "123677", "title": "特定電気通信役務提供者の損害賠償責任の制限及び発信者情報の開示に関する法律", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%AE%9A%E9%9B%BB%E6%B0%97%E9%80%9A%E4%BF%A1%E5%BD%B9%E5%8B%99%E6%8F%90%E4%BE%9B%E8%80%85%E3%81%AE%E6%90%8D%E5%AE%B3%E8%B3%A0%E5%84%9F%E8%B2%AC%E4%BB%BB%E3%81%AE%E5%88%B6%E9%99%90%E5%8F%8A%E3%81%B3%E7%99%BA%E4%BF%A1%E8%80%85%E6%83%85%E5%A0%B1%E3%81%AE%E9%96%8B%E7%A4%BA%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%B3%95%E5%BE%8B" }
鴨川をどり(かもがわをどり)は明治5年から創演以来、毎年5月1日から24日にかけて先斗町歌舞練場で上演される舞踊公演。京の花街の中で最も上演回数の多いことで有名。 沿革 明治5年(1872年)に第1回京都博覧会の観光客誘致の一助として都をどりと共に「鴨川をどり」が創演されて以来、毎年上演回数を重ねている。第二次世界大戦で中断された時期もあったがすぐに再開され、途中から春・秋との二回公演の構成で上演され1998年まで続いた。鴨川をどりは総踊形式の都をどりに対し第一部が舞踊劇、第二部が舞妓らの出演による舞踊ショーの二部構成で人々の目を楽しませている(1950年までは都をどりと同じく総踊形式で上演されていた。)。 昭和初期の鴨川をどりには洋楽が使用され、中には少女レビューも上演されジャン・コクトー、チャップリンをはじめ海外の著名人らを魅了した。 年表 1872年(明治5年):鴨川をどり初演 1884年 ~ 1894年の10年間休演 1895年(明治28年):上演再開 1944年 ~ 1945年、第二次世界大戦で休演。 1946年(昭和21年):上演再開 1951年(昭和26年):春・秋の二回公演開始。(1998年まで続く) 2020年(令和2年):新型コロナウイルスの感染拡大のため、中止。 同年:クラウドファンディング(※2020.11.30成立)や先斗町オリジナルグッズの発売を行うことによって、新型コロナウイルスの感染拡大のため、中止となった「鴨川をどり」をいつもと異なる季節にはなるが、翌年度の5月21日よりオンライン版にて公開される。「鴨川をどり」の演目の一部を先斗町歌舞練場にて開催し、インターネットによるライブ配信を計画している。 2021年(令和3年):新型コロナウイルスの感染拡大のため、昨年度と同様に中止。同歌舞会は新作舞台を映像に収め、「オンライン版鴨川をどり」として、5月21日から配信する準備を進めている。 2022年(令和4年):3年振りの公演。新型コロナウイルス感染対策のため通常の2部制でなく全場面純舞踊に構成した。 2023年(令和5年):4年振り2部制の通常公演に戻る(予定)。 その他 ドキュメンタリー 新・にっぽんの芸能「京の花街が伝える心の芸〜先斗町“鴨川をどり”〜」(2022年7月8日、NHK Eテレ)
{ "id": "123680", "title": "鴨川をどり", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B4%A8%E5%B7%9D%E3%82%92%E3%81%A9%E3%82%8A" }
楠ジャンクション(くすのきジャンクション)は、愛知県名古屋市北区にある、名古屋第二環状自動車道、名古屋高速1号楠線及び名古屋高速11号小牧線が接続するジャンクションで、大我麻町交差点の直上にある。 また、大我麻町交差点は、国道302号と国道41号が接続する。 概要 以下の高速道路を接続する四叉分岐のジャンクションである(図-1)。 名古屋第二環状自動車道(名二環) 名古屋高速1号楠線 名古屋高速11号小牧線 東西方向に名二環(東方が名古屋南JCT、西方が名古屋西JCT)、南北方向に名古屋高速道路が施設されており、名古屋市街地へ向かう1号楠線が南方向、小牧へ向かう11号小牧線が北方向である。 当JCTはこれらの路線を相互に連絡するものである。名二環の勝川IC-清洲東IC間開通に伴い、1991年に設置された。 線形と特徴 当JCTの平面図を図-1に示す。本線・ランプともに鋼箱桁橋をはじめとする高架構造である。比較的市街化が進んだ地域に設けられたジャンクションであり、日本道路公団(現・中日本高速道路株式会社)の施設のある北西側に構造物を集中させた結果、変則的な対向ループ型のランプ配置となった。合流・分流も複雑で、ランプの縦断勾配も上り・下りの変化が激しい。 また、名古屋第二環状自動車道の南側には、東海交通事業城北線が高架で併走しており、交差するランプは高架でこれを越えている。更に、名古屋第二環状自動車道は、国道302号、名古屋高速道路は国道41号直上に設けられており、国道が交わる大我麻町交差点も立体交差しているなど、一帯は多層の立体交差構造となっている。 併設インターチェンジ ジャンクションであることから一般道路とのアクセスはないが、付近には以下のインターチェンジが併設されている。 楠IC : 名古屋第二環状自動車道名古屋南JCT方面(東方)のみの片方向出入口。国道302号と接続。 楠出入口 : 名古屋高速1号楠線の出入口。南方のみの片方向出入口。国道41号と接続。 いずれも片方向のみの出入口であり、名古屋第二環状自動車道西方とのアクセスは山田東IC(出口のみ。約1.5km西)及び山田西IC(入口のみ。約2.5km西)にて可能である。また、名古屋高速11号小牧線とのアクセスは、約1km北の豊山南出入口で可能。 歴史 1991年(平成3年)3月19日 : 東名阪自動車道(現・名古屋第二環状自動車道) 勝川IC-清洲東IC間開通に伴い供用開始。名古屋高速1号楠線も楠出入口と当JCT間延伸により接続。 1994年(平成6年)11月16日 : 名古屋高速1号楠線延伸工事のため、1号楠線との分岐を中止。 1995年(平成7年)9月19日 : 名古屋高速1号楠線 楠JCT-東片端JCT間開通に伴い1号楠線に再度接続。 2001年(平成13年)3月10日 : 名古屋高速11号小牧線と接続。 周辺 大我麻町 中部電力楠変電所 大和保育園 JAなごや蒲喜支店 大我麻公園 丸新町 名古屋市営バス如意営業所 岐阜信用金庫楠町支店 丸新公園 高坪公園 若鶴町 楠公園 楠プール 楠コミュニティセンター 五反田町 愛生会看護専門学校 新生第2保育園さくらナーサリー 楠メンタルホスピタル 介護老人保健施設サンくすのき 五反田自転車等保管場所 生棚公園 菱池公園 玄馬町 クロスタウン(名古屋北ショッピングセンター) ドン・キホーテ名古屋本店 三重交通名古屋営業所 三重交通名古屋観光営業所 三重交通名古屋寮 三重交通整備工場 名古屋市営バス楠営業所 ハンズ楠流通センター 玄馬公園 玄馬街園 落合町 名古屋落合郵便局 名古屋スバル自動車本社 名古屋市上下水道局落合ポンプ所 名古屋環境分析センター 東海カッター興業本社工場 料金所 名古屋第二環状自動車道と名古屋高速道路は、管理する事業者が異なりそれぞれ単純支払い方式であるため、乗り継ぎの際は料金所を通る。ただし、名古屋高速道路は付近に本線料金所が別途設けられているため、ジャンクション内の料金所は名古屋第二環状自動車道の料金所2ヶ所のみである。 第一料金所(名古屋IC・名古屋南JCT方面入口) レーン数 : 3 ETC専用 : 1 一般 : 1 休止 : 1 第二料金所(清洲JCT・名古屋西JCT方面入口) レーン数 : 2 ETC専用 : 1 一般 : 1 隣 名古屋第二環状自動車道 (12) 楠IC - (13) 楠JCT - (14) 山田東IC 名古屋高速1号楠線 (104,114) 楠出入口 - (13) 楠JCT 名古屋高速11号小牧線 (13) 楠JCT - (1101,1111) 豊山南出入口 施設外観
{ "id": "123681", "title": "楠ジャンクション", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A0%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3" }
『沈まぬ太陽』(しずまぬたいよう)は、1995年から1999年に『週刊新潮』で連載された山崎豊子による3編に亘る長編小説。 日本航空と、実在する同社社員で同社の労働組合役員である小倉寛太郎の史実に基づいて脚色、再構成されたフィクション社会派作品。単行本・文庫本は700万部を売り上げており、2009年には映画化、2016年にはWOWOWにてテレビドラマ化された。 作品概要 日本のナショナル・フラッグ・キャリアである大手航空会社「国民航空」社員で同社の労働組合委員長を務めた恩地元と彼を取り巻く人々の描写を通して、人の生命にかかわる航空会社の社会倫理を表現した作品である。日本航空とその元社員である小倉寛太郎、単独機の事故として史上最悪の死者を出した日本航空123便墜落事故などがモデルとされている。実在の複数の人物が登場人物のモデルとなったとの推測があるが、山崎豊子は公式には認めていない。しかし、山崎豊子は多くの日本航空関係者にインタビューを実施している。 小倉寛太郎は御巣鷹山には2日間しか行ったことはなく、御巣鷹山で遺族のために奮闘した日航社員からは再三抗議を受けているが、実際には複数の社員をモデルとしたフィクションでありその抗議には当たらない。 小説内に「多数の関係者を取材したもので、登場人物、各機関・組織なども事実に基き、小説的に再構築した」という注がある。読む際には、あくまでも「小説のフィクション」であることを留意する必要がある。 この作品の『週刊新潮』への連載・映画化に対して、日本航空経営陣が強い不快感を示し、雑誌連載中は日本航空機内での『週刊新潮』の扱いを取りやめていた。 本作は、以下の3編からなる。 アフリカ篇 作中の現在は1971年(昭和46年)11月13日午後(ケニア時間)より。 国民航空ナイロビ営業所に勤務する恩地を中心に物語は進行する。国民航空の労働組合委員長として経営陣と対立した結果、カラチ、テヘラン、そしてナイロビの足掛け8年に亘る「現在の流刑」にも等しい左遷人事に耐える中で、母親と死別し、家族と別れることになった経緯と作中の現在に至るまでが、回想形式で描かれる。一方、大学の同輩であり組合の副委員長として恩地を蔭ながら支えてきた行天四郎は、堂本常務の言葉によって恩地と袂を別ち、出世街道を歩むこととなる。 御巣鷹山篇 作中の現在は1985年(昭和60年)8月12日18時24分頃(日本時間)より。 10年の左遷に耐えて日本に帰国した恩地であったが、国民航空は追及の手を緩めず、恩地を更に10年の間、東京本社での閑職に追いやっていた。そんな中、御巣鷹山で「国航ジャンボ機墜落事故」が発生、救援隊・遺族係へ回された恩地を中心に物語は進行する。一部実在者を含む遺族の姿がオムニバス形式で随所に挿入されている。 会長室篇 作中の現在は1985年(昭和60年)12月より。 御巣鷹山墜落事故から4か月後、利根川総理大臣は国民航空の再建を期し、関西の紡績会社の会長である国見正之を国民航空会長に据えた新体制をスタートさせた。遺族係として大阪に赴任していた恩地は東京に呼び戻され、国見が新設した「会長室」の部長に抜擢される。改革に奔走する国見と恩地、そして次期社長の座を狙う行天を中心として、国民航空の腐敗体質の温床となった存在と、その背後の黒幕が描かれる。 登場人物・企業 必ずしも全ての登場人物にモデルが存在するわけではなく、モデルとして複数の意見が存在するものもある。 団体 企業 国民航空(国航, NAL、こくみんこうくう、こっこう) 主要な舞台となる企業で、主人公を始め多くの登場人物が所属している。日本航空がモデルとされている。 新日本空輸(新日空、しんにっぽんくうゆ、しんにっくう) 国航と同規模の航空会社であり、国内の主要航空路線ではライバル関係にある。全日本空輸がモデルとされている。 極東国内航空(きょくとうこくないこうくう) 新日空と同じく国航のライバル関係にある航空会社。当時の東亜国内航空(後の日本エアシステム)がモデルとされている。 日本産業銀行(にほんさんぎょうぎんこう) 金融債「ワリサン」を発行する外国為替銀行。当時の日本興業銀行(後のみずほ銀行)や東京銀行(後の東京三菱銀行→三菱UFJ銀行)がモデルとされている。 ボーイング アメリカの大手航空機メーカー。国航や新日空を始め、多くの航空会社に航空機を販売している。アメリカ西海岸の大都市シアトルに本社がある。名の通りボーイング社がモデルとされている。 テレビドラマ版では「ボードウェイズ」に名称が変更されている。 政党 自由党(じゆうとう) 政権を担当する与党として政財界に大きな影響力を持つ保守政党。党内の議員の一部は左翼を蛇蝎の如く嫌っており、共産党に挨拶に行ったり、恩地を重用するなどする国見へ不信がつのる土壌があった。モデルは自由民主党である。 社進党(しゃしんとう) 野党。社会民主主義を唱える革新政党。モデルは日本社会党である。 共産党(きょうさんとう) 野党。共産主義を唱える革新政党。代々木に本部を置く。名前の通り日本共産党がモデルとされている。 その他 関西紡績(かんさいぼうせき) 国民航空会長となる国見が会長を務める紡績会社。カネボウがモデルとされている。 国航開発(こっこうかいはつ) 国民航空の子会社。国民航空が就航する世界各地に豪華ホテルなどを経営する。作中では、ニューヨークの高級ホテル・グランドホテルを買収するが、買収にあたっての資金の流れが不透明であり、恩地らが追及することになる。モデルは日本航空傘下でホテル事業を行っていた日本航空開発(現オークラ ニッコー ホテルマネジメント)とされており、グランドホテルは日航の放漫経営の象徴と言われたエセックスハウスがモデルとされる。 おすたか会(おすたかかい) 国航ジャンボ機墜落事故の遺族会。なお、実際の日航ジャンボ墜落事故の遺族会は「8・12連絡会」である。 登場人物 主要人物 恩地元(おんちはじめ) 本作品の主人公。実直で何事にも筋を通す性格であり強い信念の持ち主。国航労組の委員長職を半ば強引に押しつけられるも、職場環境の改善に積極的に取り組む。団体交渉の席で(経営陣から見れば)無理難題を要求したり、ストライキ権をちらつかせて首相フライトを阻止しようとしたりした。 そのことがきっかけで会社に目を付けられ、カラチ・テヘラン・ナイロビと左遷人事の憂き目にあう。組合員たちのために経営陣と戦ったことに誇りを持っており、(経営陣に)詫び状は絶対書かず、理不尽な仕打ちを受けようとも、会社は絶対に退職しなかった。日本帰国後は永らく窓際族へ追いやられていたが、ジャンボ機墜落事故では、山岳部の経験を買われ御巣鷹山へ派遣され、そのまま、事故の遺族係になる。国見会長就任後、国民航空の会長室に抜擢され、会社の改革のために奔走する。 著者は小倉寛太郎を千数百時間に渡って取材しており、恩地はそれを基に創作された作中人物とされるが、小倉自身は御巣鷹事故の遺族係を務めたことはない。 行天四郎(ぎょうてんしろう) かつては労働組合において恩地の盟友だったが、後に袂を分かつ。堂本に懐柔されて経営陣派に転向し、僻地へ左遷させられた恩地とは対照的に、アメリカの支店を転々として栄転する。その後は、出世のためなら手段を選ばず、国民航空の役員にまで上り詰める。 マスコミの情報操作や株主優待券を使った裏金作り、政界への工作活動、御巣鷹山事故負傷者の病院への潜入、遺族会の分断工作など、当時の国航側にあった黒い噂を、物語上で実行する役回りといえる。しかし、細井守が自殺前に東京地方検察庁特捜部へ宛てて送ったある物によって、最後は奈落へ突き落されることになる。 恩地の家族 恩地りつ子(おんちりつこ) 元の妻。気苦労ばかりかける夫を献身的に支える。元には自身の感情を吐露することはあまりなかったが、我慢を多く重ねてきている。 恩地将江(おんちまさえ) 元の母。労組の委員長とした働いた恩地に、ひどい仕打ちをする会社に憤りを隠さない。物語開始時点から病床についており、元の海外勤務時代に他界する。元は転勤先から大急ぎで帰国したが、死に目には間に合わなかった。 恩地克己(おんちかつき) 元の長男。元は明るく元気な少年であったが、日本人の友達のいない海外へ行ってからは、寂しさからか内向的になる。長じてからは、元に理解を示すようになる。 恩地純子(おんちじゅんこ) 元の長女。兄の克己同様、元の海外勤務によって子供時代は苦しむことになる。元が独りでナイロビへ行ってからは、学校には登校拒否になる。自分の信念を貫こうとする元に「自分勝手なお父さん」と非難する手紙を送る。物語後半で縁談が持ち上がるが、相手の両親が元の経歴に不信を抱く。その誤解は結局解けるのだが、純子の結婚をめぐって行天が圧力をかけることになる。 国航関係者 八馬忠次(はちうま) 恩地の前任組合委員長。恩地に委員長を押し付けるも、経営陣に噛み付くという恩地の暴走に手を焼く。堂本や行天と手を組み、恩地に対し僻地への左遷的人事を言い渡す。その後も事あるごとに恩地ら旧組合や事故後の国見新体制への嫌がらせを行う。 モデルは吉高諄であるが、吉高が山崎豊子のインタビューで小倉を評した内容と、作品上の主人公の描写は全く異なり、吉高がモデルとされる八馬も、作中では否定的な人格として描かれている。 権田宏一(ごんだ) 恩地と対立する新生労働組合委員長。 轟鉄也(とどろぎてつや) 新生労働組合副委員長。モデルは大島利徳である。 岩合宗助(いわごうそうすけ) 新生労働組合の黒幕。後に国航開発社長となる。そのワンマンな経営姿勢は「岩合天皇」とあだ名されている。物語終盤に国航開発の乱脈経営の責任を問われ、国見らにより解任される。モデルは石川芳夫である。 岡部貨物部長(おかべ) モデルは全日空第2代社長岡崎嘉平太の長男・岡崎彬で、御巣鷹山で遺族に対して実際に尽力した社員の一人であり、作中の主人公の献身の描写は、岡崎らの体験に基づいているといわれる。 桧山衛(ひやままもる) 恩地が組合委員長だった頃の国航社長。労使交渉で恩地と対立した一方で、他の経営陣らに嫌われる恩地の処遇を案じており、苦肉の策として恩地の海外勤務を提案するも、「2年で日本へ帰す」という恩地との約束を守れなかったことに心を傷める。モデルは松尾静磨だが、実際には「戦後日本航空業界の父」と称される人物で、作品内の人物像とは大きく異なる。 小暮(こぐれ) 桧山の後任の国航社長。モデルは、朝田静夫である。運輸省からの天下り組であり、恩地ら旧組合のみならず堂本や八馬にも煙たがれている。 堂本信介(どうもとしんすけ) ジャンボ機墜落事故発生時の国航社長。かつて国航の労務担当役員として冷徹に組合交渉に臨み、権謀術数を巡らせ組合の分断工作などを行う。言葉巧みに行天を誘い、自らの手駒として手懐ける。その一方で、過激な労組運動を行った恩地に共産党の秘密党員(アカ)のレッテルを張り、抹殺を図る。オーディオマニアである。社長就任後は、官僚の天下りではない社内の「生え抜き派」として長期政権をねらうが、大事故によりその目論見は徒労に帰す。死に体となった社長として、苦い顔をしながら遺族行脚を余儀なくされる。若いころは筋金入りの左翼活動家であったが、昭和初期の大弾圧のなか獄中で体制派に転向したという過去をもつ。 モデルは、日本航空初の生え抜き社長だった高木養根とされるが、高木は退任後、個人の資格で遺族への慰問行脚をしたほか、毎夏群馬県上野村の御巣鷹の尾根に慰問登山を続けており、作中の描写とは人物像は大きく異なる。 国見正之(くにみまさゆき) 関西紡績会長。ジャンボ機墜落事故の後、内閣総理大臣直々の指名で三顧の礼をもって、国航会長に迎えられる。関西紡績の労務問題を解決した手腕と、元軍人であることを理由に選ばれ、「お国のため」に働くことを政界から求められる。安全の確立といった社内の改革、520名の被害者の側に立つことを明確化。実直すぎる人柄と、利根川首相の政敵・永田と交流があったこと、共産党に挨拶に行ったことや左翼分子の疑いをかけられている恩地を重用したことから、やがて首相に厄介者扱いされる。深刻な労使対立などの国民航空に巣食う病根の深さに翻弄され、ついには道半ばで更迭される。 モデルはジャンボ機墜落事故後に日本航空会長に就任した元カネボウ会長の伊藤淳二とされるが、本作は伊藤について脚色が多いと言われている。 海野昇(うんののぼる) 国見の会長就任と同時に国航社長となる。モデルは、山地進である。外面は国見にへつらっているが、腹の底では真面目一筋の国見に辟易している。 三成通男(みつなりみちお) 国見の会長就任と同時に国航副社長となる。モデルは、利光松男である。 秋月純(あきづきじゅん) 国航開発会長。 永尾(ながお) 国航常務。 田丸(たまる) 国航常務。 三井美樹(みついみき) 客室乗務員。恩地らと共に組合の一員として働く。国民航空退職後は、国民航空の労組問題に力を貸すようになる。 八木和夫(やぎかずお) 国航の旧労働組合員。かつて、恩地らとともに経営陣と戦った。 小川亜紀子(おがわあきこ) 客室乗務員。行天とは愛人関係を結んでいる。行天から「アコ」と呼ばれている。 和光(わこう) 国航監査役。国民航空の10年もののドル先物予約などの不正を告発する。 川野 国航秘書課長。 細井守(ほそいまもる) 見るからに不健康そうな細身の男。通称「針金課長」。行天の指示で大量の株主優待券を換金して現金を用意させられたり、ペーパーカンパニーの社長をやらされたりと、散々な目に遭う。そのために、ノイローゼを患う。国民航空内部の暗部を東京地方検察庁特別捜査部に告発する書簡、通称「細井ノート」を送った後に、東尋坊に身を投げ自殺する。この細井ノートが後に行天を奈落に突き落とす引き金となる。 政界の人物 利根川泰司(とねがわやすし) 国航ジャンボ墜落事故時の首相。出世の見込めない弱小派閥の長だったが、党内抗争でキャスティングボートを巧みに握り、総理の座まで上り詰める。ジャンボ機墜落事故を起こした国航の次期経営者の人事を、監督官庁である運輸大臣ではなく総理大臣自らが手がけることで、権力を誇示すると共に運輸利権を手にしようと目論む。国見を国民航空会長に据えたまではよかったが、その扱いに苦心することになる。なお、実際の当時の首相は中曽根康弘である。 竹丸欽二郎(たけまるきんじろう) 副総理。政界・財界に広い人脈を持ち、利根川を補佐する。財界の有力者のつてを使い、インドネシアの政府開発援助絡みで国民航空に10年物のドル先物予約を仕組み、関係機関から献金を受け取っていた。国見らがドル先物予約の異常さに気づくと、自身の献金のカラクリが明るみに出るのを恐れ、閣議決定で幕引きを図る(それでも、国見らがドル先物予約の件をいくらつつこうが、滅多なことではそのカラクリがバレることはないようであるが)。なお、実際の日航ジャンボ墜落事故後の副総理は金丸信である。 十時征成(とときゆきなり) 官房長官。その名の通り午後10時に退庁する勤勉な男。国見と利根川の間に立つ役回りである。なお、実際の日航ジャンボ墜落事故後の官房長官は後藤田正晴である。 道塚一郎(みちづかいちろう) 運輸大臣。運輸族を束ねる。国民航空の後任社長人事をめぐって利根川に介入を試みる。なお、実際の日航ジャンボ墜落事故後の運輸大臣は三塚博である。 永田(ながた) 元首相で、利根川の政敵。運輸利権を握っている。利根川に対抗して、国航の情報を社進党にリークする。『華麗なる一族』『不毛地帯』では大蔵大臣として登場している。 龍崎一清(りゅうざきいっせい) 利根川のブレーン。元大本営参謀で、関東軍の将兵と共に、シベリアに抑留された過去を持つ。利根川の命で国見とたびたび接触する。現実において、中曽根首相のブレーンとして活躍したのは瀬島龍三である(瀬島龍三をモデルとした登場人物は、山崎豊子の小説不毛地帯に壱岐正としても登場する)。 青山竹太郎(あおやまたけたろう) 運輸族の代議士。 石黒(いしぐろ) 運輸省航空局総務課長。 井之山啓輔(いのやまけいすけ) 社進党の中堅議員。永田からリークされた情報を元に、国会で国航の経営問題を追及する。 安西富貴(あんざいふき) 目白の女王。元首相・田沼の秘書。 不二(ふじ) 共産党委員長。なお、実際の当時の共産党委員長は不破哲三である。 その他の人物 鷹名(たかな) 日本新聞記者。 小野寺(おのでら) 国際総合開発会長。 三島(みしま) 東京工商会議所会頭。 永井藤夫(ながいふじお) レジャーランド社長。 兵庫(ひょうご) ナイロビ在住の獣医師。 石村研介(いしむらけんすけ) 運輸省交通管理局課長。 笹本輝明(ささもとてるあき) 内外経済新聞記者。 連載 1995年から1999年まで週刊新潮で連載し3部構成を出している。 第1部:1995年1月5日号 - 1996年4月11日号 第2部:1997年1月2・9日号 - 1997年10月9日号 第3部:1998年1月1・8日号 - 1999年4月11日号 既刊一覧 1999年に単行本での出版を経て、新潮文庫から全5巻で刊行されている。 第1巻 - アフリカ篇・上 (2001年11月発売, ISBN 978-4-1011-0426-3) 第2巻 - アフリカ篇・下 (2001年11月発売, ISBN 978-4-1011-0427-0) 第3巻 - 御巣鷹山篇 (2001年12月発売, ISBN 978-4-1011-0428-7) 第4巻 - 会長室篇・上 (2001年12月発売, ISBN 978-4-1011-0429-4) 第5巻 - 会長室篇・下 (2001年12月発売, ISBN 978-4-1011-0430-0) 映画 3時間22分と長時間の作品であるため、上映途中に10分間の休憩(インターミッション)が入る。 2011年2月11日には日本テレビの映画放送番組・『金曜ロードショー』を枠拡大した『金曜特別ロードショー』として、約4時間にわたり本編ノーカットで地上波初放送された。視聴率は15.0%(関東地区・ビデオリサーチ社調べ)。 第33回日本アカデミー賞最優秀作品賞受賞作品。上映時間が3時間を超えた作品が日本アカデミー賞を受賞したのは史上初であり、1980年の『ツィゴイネルワイゼン』の2時間24分をはるかに上回る新記録となった。 古溝安男を演じた山田辰夫の遺作となった。航空監修は秀島一生が手掛けている。 解説 小説の内容から、映像化は困難といわれていた。2000年に岡田茂東映と徳間康快・大映社長が共同制作で映画化を発表したものの、徳間社長が死去したため実現しなかった。2006年5月には、角川ヘラルド映画(現・角川書店(映像事業)。以下 “ 角川 ”)によって、2008年夏公開を目指し製作されることが発表されるなど、何度か映画化の話が持ち上がったが、実現していなかった。 また、同じ著者による『白い巨塔』を2度にわたって映像化したフジテレビが、2009年の開局50周年にあわせて『テレビドラマ化する』という企画があったが、立ち消えになっている。しかし、2008年12月、角川は、2009年秋公開として正式に映画化を発表した。角川に吸収合併された旧・大映の社員が奔走し、映画化に漕ぎ着けたという。2009年2月にイランロケでクランクイン。アフリカなどでの撮影も行われ、日本の空港シーンは、タイ王国の空港を利用して撮影した。旅客機のシーンは、日本航空の協力が得られなかったため、CGによって再現した。 作品内の登場人物の描き方とそのモデルの実像が大きく異なる、という事の他、『週刊朝日』によると、日本航空は映画化について、日本航空123便墜落事故に触れ「ご遺族の中には映画化を快く思っていない方もいらっしゃる。すべてのご遺族の心情をきちんと汲んで欲しい」と、映画化反対のコメントを出している。また、日本航空から角川に対し「名誉毀損の恐れがある」と警告文を2度送っているという。 角川は「映画は全くのフィクション」であるとしている。また、本編のエンドロール後には、航空事故による犠牲者達への哀悼の意と共に、フィクションである旨の但し書きが字幕で表示されている。但し、主人公のモデルとされる小倉は、その著書の中において「山崎から、『日航がおかしく、それを描く為に、協力してほしい』と依頼された」と述べている他、小説化に難色を示す小倉に対し、山崎が「正論が正論として通る世の中にするために、わたしはこの小説をどうしても書きます」と言ったと述べている。この他、山崎が作品を書く上で、多くの日航関係者を取材し、その中で、日本航空批判を繰り返していたのは事実である。 この為、日本航空は自社の社内報の中で「『フィクション』と断っているが、日航や役員・社員を連想させ、日航と個人のイメージを傷つける」「作り話で商業的利益を得ようとする行為は遺族への配慮が欠けている」と再度批判しており、法的な提訴も辞さない姿勢を見せていた。しかし、日本航空は本作公開以前より国外情勢の悪化や高コスト体質、他社との競争激化により極度の経営不振に陥っており、公開から僅か3か月後の2010年(平成22年)1月19日にグループ2社と共に会社更生法の適用を申請して経営破綻し、映画上映後も、結局日本航空から損害賠償訴訟が提訴されることはなかった。 キャスト(映画) 国民航空社員とその家族 恩地元(国民航空労働組合委員長・会長室部長):渡辺謙 恩地りつ子(恩地元の妻):鈴木京香 恩地将江(恩地元の母):草笛光子 恩地克己(恩地元の長男):柏原崇(子供時代:北村匠海) 恩地純子(恩地元の長女):戸田恵梨香(子供時代:小田島舞、中学時代:鈴木理子) 行天四郎(労働組合副委員長・取締役):三浦友和 三井美樹(客室乗務員):松雪泰子 桧山衛(国民航空社長):神山繁 堂本信介(労務担当役員・桧山の後任社長):柴俊夫 海野昇(国見の会長就任と同時に社長に就任):横内正 三成通夫(国見の会長就任と同時に副社長に就任):津嘉山正種 国見正之(事故後の国民航空会長):石坂浩二 八木和夫(労組書記長):香川照之 和光雅継(カラチ支店長):大杉漣 八馬忠次(取締役・国航商事会長):西村雅彦 沢泉徹(恩地の後任の労組委員長):風間トオル 古溝安男(遺族係):山田辰夫 志方達郎(整備士長):菅田俊 樋田恭子(三井美樹の代わりに123便に搭乗する客室乗務員):松下奈緒 樋田光子(恭子の母):烏丸せつこ ケニアの日本人社員・川崎:野村宏伸 国航123便機長:小日向文世 国航123便副操縦士:増田修一朗 国航123便航空機関士:吉家章人 黒田洋文(新生労組幹部):福井晋 迫本博(新生労組幹部):工藤俊作 井手泰明:平賀雅臣 高柳了輔:佐藤恒治 桧山の秘書:蒲生麻由 カラチ支店の男・伊藤:野村修一    〃   ・藤原:森永健司 国航会長室秘書・黒部:堀聡志 国航会長室秘書:早坂実、杏野さや 日本政府・国会議員・官僚等 利根川泰司(内閣総理大臣):加藤剛 竹丸欽二郎(副総理):小林稔侍 龍崎一清(利根川のブレーン):品川徹 十時征成(内閣官房長官):中野誠也 道塚一郎(運輸大臣):小野武彦 青山竹太郎(運輸族の代議士):矢島健一 井之山啓輔(社進党代議士):田中健 石村研介(運輸省官僚・運輸省課長):渡辺いっけい 委員長(衆議院運輸委員会):戸沢佑介 検事(東京地検・特捜部):上川隆也 123便犠牲者とその遺族 鈴木伸郎:嶋尾康史 鈴木夏子:木村多江 鈴木栄子:音無美紀子 鈴木正一:中村世緒 小山田慎平:吉川史樹 小山田修子:清水美沙 布施晴美:鶴田真由 阪口実:東幹久 阪口小百合:佐藤芳江 阪口清一郎:宇津井健 平松充:市山貴章 平松優哉:中村倫也 中山マサ代:立石凉子 田中淳次:坂俊一 田中朝子:和泉ちぬ その他 笹本輝明(ジャーナリスト):阿南健治 ACCの管制官:長谷川初範 赤い着物の女:秋本奈緒美 大倉松太郎:桂南光 大倉幸江(浩三の両親):秋野暢子 大倉浩三(純子の婚約者):蟹江一平 星野弘樹:高杉航大 池坊保友(日本政策銀行会長):志賀廣太郎 雪絵(行天の馴染みのホステス):小島聖 ムティソ:OYANGO OWINO ケニア大使:JOSEPH 遺体安置所の警官:大橋亘 ケニア観光省副大臣:JOSEPH OMARI バートン弁護士:MARISSA 中年の理容師:諏訪部仁 初老の理容師:関口篤 国民航空の役員:前島浩一 出典:東宝WEB SITE・資料室(沈まぬ太陽) スタッフ(映画) 原作:山崎豊子『沈まぬ太陽』 製作総指揮:角川歴彦 企画:小林俊一 製作者:井上泰一 脚本:西岡琢也 監督:若松節朗 音楽:住友紀人 航空監修:秀島一生 インターミッション:ダイアナ湯川 エンディング・テーマ:福原美穂『Cry No More』(作詞〈英語〉:本山清治 / 作曲:福原美穂・山口寛雄 / 編曲:皆川真人) 音楽プロデューサー:石田雅己 撮影:長沼六男 照明:中須岳士 美術:小川富美夫 ヘアメイク:西村佳苗子 録音:郡弘道 音響効果:柴崎憲治 編集:新井孝夫 グラフィックデザイン:大城仁 キャスティング:山口正志 監督補:杉山泰一 エグゼクティブ・プロデューサー:土川勉 プロデューサー:岡田和則、越智貞夫、井口喜一 製作委員会メンバー:角川映画、東宝、ケイダッシュ、新潮社、日本出版販売 製作プロダクション:角川映画 配給:東宝 予告編ではベートーヴェンのピアノソナタ第8番ハ短調作品13『悲愴』第2楽章の冒頭部が使われている。 受賞歴(映画) 第33回日本アカデミー賞 最優秀作品賞 優秀監督賞 優秀脚本賞 最優秀主演男優賞(渡辺謙) 優秀助演男優賞(三浦友和) 優秀助演女優賞(鈴木京香) 優秀音楽賞 優秀撮影賞 優秀照明賞 優秀美術賞 優秀録音賞 最優秀編集賞 第34回報知映画賞 作品賞・主演男優賞(渡辺謙) 第22回日刊スポーツ映画大賞 助演男優賞(三浦友和) 第64回毎日映画コンクール 日本映画大賞 テレビドラマ 2016年5月8日から同年9月25日までに、WOWOWの「連続ドラマW」枠でテレビドラマ化され放送された。WOWOW開局25周年記念作品。原作者・山崎豊子の没後、初めて映像化された作品である。また、同著者の映像化作品で、地上波以外の放送は初でもある。 同じく山崎豊子原作であり、1995年にNHK総合テレビで放送された『大地の子』と同じく、主演は上川隆也。 基本的に1作品あたり全4~6回のシリーズ作品が多い「連続ドラマW」だが、本作品は同枠では史上最長となる全20話での放送となる。2部構成で、第1部(全8話)でアフリカ篇(上下)を、第2部(全12話)では御巣鷹山篇・会長室篇(上下)を描く。 キャスト(テレビドラマ) 【第1部:第1話~第8話】 国民航空 恩地元(国民航空労働組合委員長 →パキスタン・カラチ支店総務主任 →イラン・テヘラン支店総務主任 →ケニア・ナイロビ営業所営業販売駐在員 →ケニア・ナイロビ営業所長→国民航空営業本部課長・お世話係 →大阪ご遺族相談室 →会長室部長):上川隆也 行天四郎(国民航空労働組合副委員長→ロサンゼルス支店 総務主任→秘書課長→運航管理部次長→人事部次長→取締役広報部長 →常務取締役広報部長):渡部篤郎 三井美樹(国民航空 客室乗務員):檀れい 中川清治(国民航空整備士):徳重聡 志方真一郎(国民航空 運航技術部 →事故調査班長):甲本雅裕 桜井均(国民航空 労働組合書記長→組合員→組合員・資料室):長谷川朝晴 八馬忠次(国民航空 労務課長→労務部次長 →取締役 労務部長 →国航開発 会長):板尾創路 沢泉正夫(国民航空 労働組合員→組合委員長→組合委員長・売却資材倉庫):小泉孝太郎 八木(国民航空 労働組合員→組合員・八重洲支店):渡辺大 村田(国民航空 労働組合員→組合副委員長・売却資材倉庫):草野イニ 桧山衛(国民航空 社長):古谷一行 堂本信介(国民航空 労務担当取締役→常務取締役→副社長→社長):國村隼 畑辰造(国民航空 新生労組委員長 →労務部次長→労務部長→労務部長/生協理事長):袴田吉彦 美原譲治(国民航空 新生労組副委員長→国航開発ニューヨーク支店長):堀部圭亮 小田原(国民航空パキスタン・カラチ支店 支店長):相島一之 竹村(国民航空パキスタン・カラチ支店 店次長):阪田マサノブ 島津(国民航空イラン・テヘラン支店 元支店長):永島敏行 久米(国民航空イラン・テヘラン支店 支店長):モロ師岡 清水(国民航空 人事部長):伊藤洋三郎 小暮(運輸省事務次官 →国民航空 顧問 →副社長 → 社長):鶴見辰吾 その他 恩地りつ子(恩地元の妻):夏川結衣 恩地克己(恩地元の息子):和泉崇司(子供時代:松島海斗←高木勇真) 恩地純子(恩地元の娘):朝倉あき(子供時代:桜田ひより←高嶋琴羽) 恩地将江(恩地の母):田島令子 紀子(恩地元の妹):岩崎ひろみ 行天麗子(行天四郎の妻・元客室乗務員):若村麻由美 浜田万治(ブローカー):橋本さとし 耀子・ヒギンズ(アフリカの女王):草刈民代 【第2部:第9話~第20話】 国民航空 河田(国民航空 会長室 室長):小市慢太郎 中谷(国民航空 会長室 部長):飯田基祐 小川亜紀子(国民航空 客室乗務員・行天の愛人):長谷川京子 丸山千穂(国民航空 客室乗務員):舞羽美海 井出祥子(国民航空 客室乗務員):中村映里子 遠山整備長(国民航空整備士):大西武志 海野昇(国民航空 社長):佐野史郎 三成通夫(国民航空 副社長):升毅 岩合宗助(国航開発 社長):陣内孝則 伊部達夫(国航開発 専務):大杉漣 国見正之(関西紡績 会長 →国民航空 会長):長塚京三 古溝(大阪ご遺族相談室):池田成志 岡部(国民航空 遺族係):浜田学 細井守(国民航空 八重洲支店 国内販売促進課長):温水洋一 和光(国民航空 監査役):平田満 長谷川(国航労組 委員長):葛山信吾 田丸(国民航空 常務取締役 営業本部長):ダンカン 轟鉄也(ジャパン・エア・ツーリスト専務):高嶋政伸 政界 利根川(総理大臣):平幹二朗 道塚要(運輸大臣):螢雪次朗 龍崎一清(日本工商会議所 名誉顧問):橋爪功 石黒(運輸省航空局 総務課長):石丸幹二 永田(元 総理大臣):伊武雅刀 原田(衆議院議員):渡辺哲 竹丸(副総理):本田博太郎 井之山(社進党 議員):羽場裕一 その他 笹本(内外経済新聞 記者):原田泰造 熊野(中央新聞 記者):ミムラ 関西紡績の社員:小野了 千葉(遺族):下條アトム 一之瀬(遺族):中村育二 松井(遺族):田中隆三 坂口清一郎(遺族):山本圭 杉内芳美(遺族):麻生祐未 西野智恵子(遺族):菜葉菜 鈴木夏子(遺族):戸田菜穂 鈴木栄子(夏子の姑):三林京子 中山マサ代(遺族):室井滋 加川(遺族):上杉祥三 安藤(遺族):柏原収史 樋口(遺族):星田英利 大倉浩三(純子の夫):工藤阿須加 大倉松太郎(大倉の父):オール阪神 大倉幸江(大倉の母):中島ひろ子 宮内(大東レーヨン会長):綾田俊樹 池坊(日本産業銀行 会長):西岡徳馬 ナナ(轟の愛人):大政絢 雪絵(ホステス):佐々木希 木川(捜査一課):山本龍二 バートン(弁護士):シャーロット・ケイト・フォックス 帝都ジャーナル副編集長:日野陽仁 渡里(東京地検特捜部検事):片岡愛之助 スタッフ(テレビドラマ) 原作:山崎豊子『沈まぬ太陽』 脚本:前川洋一 監督:水谷俊之、鈴木浩介 音楽:佐藤直紀 プロデューサー:青木泰憲、徳田雄久、椿宜和、稲葉尚人 製作:WOWOW、角川大映スタジオ 受賞歴(テレビドラマ) 東京ドラマアウォード 2016 作品賞・連続ドラマ 優秀賞 注釈
{ "id": "123682", "title": "沈まぬ太陽", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%88%E3%81%BE%E3%81%AC%E5%A4%AA%E9%99%BD" }
不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん/ふくうけんじゃくかんのん)、梵名アモーガパーシャ(अमोघपाश)は、仏教における信仰対象である菩薩の一尊。六観音あるいは七観音の一尊に数えられる。三昧耶形は羂索(狩猟用の投げ縄、または両端に金具を付けた捕縛縄)、開蓮華(満開のハスの花。聖観音の初割蓮華と対をなす)。種子は(モ)。 日本では「不空羂索観音菩薩」や、「不空羂索観世音菩薩」などさまざまな呼称がある。尊名の「不空」とは「むなしからず」、「羂索」は鳥獣等を捕らえる縄のこと。従って、不空羂索観音とは「心念不空の索をもってあらゆる衆生をもれなく救済する観音」を意味する。 概説 天台宗系では、真言宗系の准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。また准胝観音と不空羂索観音を共に数えて七観音とする場合もある。 漢訳経典のなかでは隋時代の6世紀後半に訳された「不空羂索呪経」に初めて現われ、唐の菩提流志(ぼだいるし)が8世紀はじめに訳した「不空羂索神変真言経」にも像容等が詳しく説かれている。 像容 経典には様々な姿が説かれるが、いずれも多臂(多くの腕)を持ち、シカの毛皮を身に纏うのが特徴である。この「野獣の毛皮を纏う」という点でヒンドゥー教の最高神の1柱シヴァ、特にその山岳神としての面と関係があるという説もある。また、シカとの関係から春日大社第一の神であるタケミカヅチの本地仏とされる。 この観音像の作例はインドで多く見出される。中国には乏しく、日本でもいくつかの有名な像があるとは言え、作例はあまり多くはない。よく知られているものの一つは、インドネシアのジャワの王朝シンガサリ朝のヴィシュヌワルダナ王の像がこの姿の仏像として刻まれている。 日本における造像例 日本では一面三目八臂(額に縦に一目を有する)とする像容が通例で、立像、坐像ともにある。胸前で二手が合掌し、二手は与願印を結ぶ。その他の四手には、羂索や蓮華・錫杖・払子を持す。代表作としては、東大寺法華堂(三月堂)本尊の立像(奈良時代、国宝)や、興福寺南円堂本尊坐像(鎌倉時代・康慶作、国宝)があげられる。 不空羂索観音を本尊とする寺としては、奈良の新薬師寺の近くにある春日山不空院がある。 東大寺の不空羂索観音像は、岡倉天心が主導した「現状維持修理法」(現状のままで保存に耐えうる程度の修理のみ行なう)に基づいて修復された日本初の仏像である。1906年に岡倉の弟子、新納忠之介によってなされた。 文化財指定の不空羂索観音 国宝 乾漆不空羂索観音立像(東大寺(奈良県)、奈良時代) 木造不空羂索観音立像(広隆寺(京都府)、平安時代) 木造不空羂索観音坐像(興福寺(奈良県)、鎌倉時代) 重要文化財 木造不空羂索観音立像(大安寺(奈良県)、奈良時代) 木造不空羂索観音坐像(東鳴川観音講(奈良県)、鎌倉時代) 応現寺に客仏として安置される。 木造不空羂索観音坐像(不空院(奈良県)、鎌倉時代) 木造伝獅子吼菩薩立像(唐招提寺(奈良県)、奈良時代) 寺伝では獅子吼菩薩だが、像容から本来は不空羂索観音とみらる。 木造伝衆宝王菩薩立像(唐招提寺(奈良県)、奈良時代) 寺伝では衆宝王菩薩だが、像容から本来は不空羂索観音とみられる。 木造不空羂索観音坐像(法蓮寺(香川県)、平安時代) 木造不空羂索観音立像(観世音寺(福岡県)、鎌倉時代) 重要文化財の絵画 絹本著色不空羂索観音像(教王護国寺(京都府)、鎌倉時代) 真言 オン・アモキャ・ビジャヤ・ウン・ハッタ 天台宗系 - オン・アモキャ・ハラチカタ・ウンウン・ハッタ・ソワカ 真言宗系 - オン・ハンドマダラ・アボキャ・ジャヤデイ・ソロソロ・ソワカ 本尊とする寺院 興福寺 南円堂 東大寺 法華堂(三月堂) 春日山 不空院 唐松神社
{ "id": "123683", "title": "不空羂索観音", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%A9%BA%E7%BE%82%E7%B4%A2%E8%A6%B3%E9%9F%B3" }
系統地理学(けいとうちりがく)は、地理学を4つに大分類したうちの分類の一つで、地理学の根幹を成す部門である。ほかの3つは地誌学、地図学、地理学説史である。系統地理学はさらに自然地理学と人文地理学に細分類される。一般地理学とも呼ばれている。実際の地理学研究は大半はこれら系統地理学の中の各分野の研究となっている。隣接している各学問分野との連携も深く、その連携している分野を冠して命名されているケースが多い(例えば、経済学なら、経済地理学)。 系統地理学の顕在化は、19世紀のヨーロッパにおいて誕生した近代地理学が成立して以来である。それまでの各地の記述的な地理学から科学的な分野へと進化して、細分化・発達して成立したものである。現在の科学的な地理学では、各系統地理学の研究が主体で、残りの部門は系統地理学を研究する上での基礎的なものになっている。 その分類の仕方や名称、各分野の捉え方などは時代や各国の事情さらには、個人的な考えなども相まって変化しつづけており、現在に至るまで様々な分野が誕生したり、枝分かれしたり、あるいは衰退して廃れてしまったりしている。 系統地理学の諸分野 自然地理学 地形学 気候学 水文学 土壌地理学 生物地理学 人文地理学 経済地理学 産業地理学 農業地理学 - 漁業地理学 工業地理学 - 鉱業地理学 商業地理学 - 流通地理学 - 観光地理学 - 交通地理学 消費地理学 経済立地論 農業立地論 工業立地論 商業立地論 社会地理学 政治地理学 都市地理学 歴史地理学 地理学の分野 システム
{ "id": "123684", "title": "系統地理学", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%BB%E7%B5%B1%E5%9C%B0%E7%90%86%E5%AD%A6" }
巻町(まきまち)は、新潟県西蒲原郡に属していた町。2005年10月10日の新潟市への編入合併によって消滅し、現在は新潟市の政令指定都市移行により大部分が西蒲区の一部となっており、大字四ツ郷屋が西区の一部となっている。 以下の記述は合併直前当時の旧巻町に関しての記述であり、現在では名称等が異なる場合がある。なお、ここに記述されていない内容に関しては西蒲区#巻地区などの記事を参照。 概要 西蒲原郡における中心的な役割を担っており、古くは郡役所をはじめとする諸官庁が置かれていたほか、昭和初期時点では旧制中学校が置かれていたこともあり、周辺町村から多くの通勤・通学者を集めていた。平成期においても3つ(後に統合し2つ)の県立高校を有するなど拠点性を持っていた。 町域にあった三根山藩は長岡藩に米百俵を送ったことで有名。また、巻原子力発電所の建設の是非を問う、全国で初めての常設型住民投票条例の制定による住民投票が行われたことでも注目された。 新潟市への通勤率は28.9%(平成17年国勢調査)。 地理 町域の多くは越後平野に属する平野部にあり、西部は角田浜や越前浜などの海水浴場を有する日本海に面している。平野と海岸の間には角田山が存在し、現新潟市域では多宝山のある岩室村に次いで最大標高点の高い自治体でもあった。 隣接していた自治体 新潟市 西蒲原郡:吉田町 歴史 近世に、西川の舟運を活かした在郷町として発展した。 1886年(明治19年) - 仁箇村と横山村が合併し、仁箇村となる。 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行にともなう合併により、14ヶ村が発足。 1891年(明治24年)4月10日 - 西蒲原郡巻村が町制施行し巻町になる。 1901年(明治34年)11月1日 - 合併により新たに4ヶ村が発足。 1949年(昭和24年) - 漆山村の一部を編入。 1955年(昭和30年)1月1日 - 巻町が周辺の5ヶ村を編入し、新制「巻町」になる。 1955年(昭和30年)7月10日 - 西川町の一部を編入。 1960年(昭和35年)4月1日 - 岩室村の一部を編入。 1977年(昭和52年)2月 - 西川町の一部を編入。 1982年(昭和57年)4月1日 - 前年に閉園した新潟遊園が越前浜へ移転して開園。 1994年(平成6年)10月30日 - この日をもって新潟遊園が閉園。 1996年(平成8年)8月4日 - 巻原子力発電所の角海浜への建設の是非を問う、全国で初めての常設型住民投票条例の制定による住民投票が行われ、原発反対派が大差で勝利した。このことはその後の日本全国の反原発運動や住民運動に大きな影響を与えた。 2005年(平成17年)10月10日 - 新潟市に編入され消滅。 市町村合併・行政区域の変遷 1886年(明治19年) - 仁箇村と横山村が合併し、仁箇村となる。 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行にともなう合併により、巻村、漆山村、佐渡山村、福木岡村、竹野町村、仁ヶ村、稲島村、潟南村、馬堀村、松野尾村、角田浜村、越前浜村、五ヶ浜村、角海浜村が発足。 角田浜村、越前浜村、五ヶ浜村、角海浜村は合併せず独立。 1891年(明治24年)4月10日 - 西蒲原郡巻村が町制施行し巻町になる。 1901年(明治34年)11月1日 - 合併により峰岡村、角田村、漆山村、浦浜村が発足。 1949年(昭和24年) - 漆山村(大字赤鏥)を編入。 1955年(昭和30年)1月1日 - 巻町、峰岡村、松野尾村、角田村、漆山村、浦浜村が合併、新制「巻町」になる。 1955年(昭和30年)7月10日 - 西川町の一部(中郷屋、葉萱場、割前、東汰上、羽田)を編入。 1960年(昭和35年)4月1日 - 岩室村の一部(下和納、安尻)を編入。 1977年(昭和52年)2月 - 西川町の一部(矢島の一部)を編入。 2005年(平成17年)10月10日、新潟市に編入合併した。 地域 巻地区 (まき) 1889年(明治22年)まであった巻村の区域。現在の新潟市西蒲区巻甲、巻乙。 (ほりやましんでん) 1889年(明治22年)まであった堀山新田村の区域。現在の新潟市西蒲区堀山新田。 その他の地区 浜地区 松野尾地区 峰岡地区 漆山地区 二地区 五地区 行政 町長 山添清一郎(1955年1月~) - 一ヶ月間のみの職務執行者。(旧)巻町の第15代町長。 初代 河治忠(1955年2月~) 2代 江端一郎(1966年8月~) 3代 村松次一(1974年8月~) 4代 高野幹二(1978年8月~) 5代 長谷川要一(1982年8月~) 6代 佐藤莞爾(1986年8月~) 7代 笹口孝明(1996年1月~) 8代 田辺新(2004年1月~) 経済 産業 かつては「越後の毒消し売り」で知られた。 漁業 巻漁港 - 長らく漁港がなく沿岸漁業の際に集落の砂浜で船の揚げ降ろしを行う状態となっていたものを解消するため、全国でも珍しい漂砂海岸での漁港として建設され2002年(平成14年)開港した。 町内に拠点等を置く主な企業 ブルボン巻工場 峰乃白梅酒造 姉妹都市・提携都市 国内・海外共になし。 教育 2001年時点での高校の学区は三条市・燕市・白根市などと同一であった。 巻町立巻北小学校 巻町立漆山小学校 巻町立巻南小学校 巻町立松野尾小学校 巻町立越前小学校 巻町立巻西中学校 巻町立巻東中学校 新潟県立巻高等学校 新潟県立巻総合高等学校 新潟県農業大学校 以下は閉町日時点ですでに廃校となっている。 巻町立巻小学校 巻町立竹野町小学校 巻町立入徳館小学校 巻町立浦浜小学校 巻町立巻中学校 巻町立浜松中学校 巻町立峰岡中学校 巻町立漆山中学校 巻町立浦浜中学校 新潟県立巻工業高等学校 新潟県立巻農業高等学校 交通 鉄道 JR東日本越後線 巻駅 バス 道路 高速道路 町内にあるインターチェンジ:北陸自動車道 巻潟東IC/BS 一般国道 町内を走る一般国道:国道116号、国道460号 主要地方道 新潟県道2号新潟寺泊線、新潟県道46号新潟大外環状線、新潟県道66号白根西川巻線 文化・娯楽 藤見座映画劇場 - 1969年の巻町では唯一の映画館。 巻町文化会館 名所・旧跡・観光スポット・祭事 弘法の清水 平沢清水 菖蒲塚古墳 山谷古墳 浜(角田浜・越前浜・浦浜(五ケ浜)・四ツ郷屋浜) 角田山 角田山自然館 - 1994年(平成6年)オープン。 新潟遊園(1994年閉園) 湯の腰温泉 福寿温泉 じょんのび館 - ふるさと創生事業を活用した温泉掘削により1990年(平成2年)湧出した温泉を用いて1993年(平成5年)4月にオープン。「ほたるの里」の核となる施設である。 矢垂川のホタル カーブドッチ・ワイナリー エチゴビール 新潟濃厚味噌ラーメン(こまどり) ご当地グルメ「カリーナ」 出身有名人 巻菱湖(書家) 平野秀吉(教育者、国文学者) 田辺熊一(実業家、元衆議院議員、元巻町長) 深沢索一(版画家) 大久保正賢(実業家) 久保田成子(映像作家、彫刻家) 寺田ヒロオ(漫画家) 佐藤庄平(将棋棋士) 上原木呂(美術家、シュルレアリスト、パフォーマー) ほんまりう(漫画家) 五代目鶴澤浅造(三味線演奏家、上原木呂の実弟、ドナルド・キーンの養子兼私設秘書) 天野尚(元競輪選手、写真家) 山添茂(実業家、元丸紅副会長) 安田弘之(漫画家、代表作は「ショムニ」) KAORU(L'luvia) 遠藤麻理(フリーアナウンサー) 小山田サユリ(女優) 石沢勤(お笑いコンビ新宿カウボーイ)
{ "id": "123687", "title": "巻町", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%BB%E7%94%BA" }
打田駅(うちたえき)は、和歌山県紀の川市打田にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)和歌山線の駅。 1日に各方面2本ずつしかない快速列車が停車する。 歴史 年表 1900年(明治33年)8月24日:紀和鉄道の船戸駅から粉河仮停車場への延伸により開業。 1904年(明治37年)8月27日:紀和鉄道の路線を関西鉄道が買収し、同社の駅となる。 1907年(明治40年)10月1日:鉄道国有法により関西鉄道が国有化され、帝国鉄道庁の駅となる。 1909年(明治42年)10月12日:線路名称が制定され、和歌山線の所属となる。 1978年(昭和58年)4月1日:貨物の取り扱いを廃止。 1984年(昭和59年)10月20日:荷物扱い廃止。 1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道の駅となる。 2020年(令和2年) 3月14日:ICカード「ICOCA」が利用可能となる。 6月1日:この日より終日無人駅となる。 地名の由来 「打田」の名称は遠い昔、現在の打田地区が紀の川の内にあった田、紀の川と烏子川の内にあった田ということで「内田」と呼ばれていたが、いつしかこの地区が「内田」から「打田」に変わったという言い伝えが残っている。 1900年(明治33年)に、現在のJR和歌山線が開通し、土地の地名から駅名が「打田駅」となり、1956年(昭和31年)の町村合併時の町名選定において田中村の田、池田村の田が残り、新町の中心部であり、それまでの56年間呼びなれた「打田駅」の駅名を用いて「打田町」と決定した。現在は新設合併によって紀の川市になっている。 駅構造 相対式2面2線のホームを持つ行違い可能な地上駅。もともと1番ホーム側に駅舎があり、2番ホームには無蓋跨線橋を利用するようになっていたが、南側に公立那賀病院が開設された後に直接2番ホームに出入りできるスロープが設置され、2019年に正式な出入口に格上げされ簡易な駅舎が設けられた。これに伴い駅の跨線橋は撤去されたが、別途設置されている市管理の跨線橋を利用することにより駅南北間の行き来は可能。 橋本駅が管理している無人駅。一部の列車を除き、すべての扉は開かない。南北両駅舎ともに新型押しボタン式券売機が1台設置されている。トイレは北側駅舎のみに設置されている。 のりば 利用状況 近年の1日平均乗車人員は以下の通り。 駅周辺 紀の川市役所(旧・打田町役場) 総合車両製作所和歌山事業所 パナソニックエナジー社和歌山工場 百合山新四国八十八ヶ所 紀の川市立打田中学校 池田郵便局 公立那賀病院 国道24号(岩出バイパス) 紀の川コミュニティバス「打田駅西」バス停 - 駅西側の道路(※国道24号(岩出バイパス)と市役所を結ぶ道路)沿い バス路線 駅前に「打田駅」バス停があり、紀の川市地域巡回バスの各路線が経由する。当停留所を経由する路線は下記の通り。 紀の川市地域巡回バス 赤尾藤井コース 長田竜門コース 北勢田コース 三谷コース 黒土高野コース 打田貴志川コース 隣の駅 西日本旅客鉄道(JR西日本) 和歌山線 快速 粉河駅 - 打田駅 - 岩出駅 普通 紀伊長田駅 - 打田駅 - 下井阪駅
{ "id": "123688", "title": "打田駅", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%93%E7%94%B0%E9%A7%85" }
田井ノ瀬駅(たいのせえき)は、和歌山県和歌山市岩橋(いわせ)にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)和歌山線の駅である。 概要 かつては、阪和線の紀伊中ノ島駅を経由して紀和駅(旧・和歌山駅)に入り、南海本線の和歌山市駅へと、ほとんどの列車が直通運転を行っていたが、1974年に、このルートは廃止された。 駅名は「田井ノ瀬」であるが、県道(和歌山県道14号和歌山打田線)の地点名は「田井之瀬」、バス(和歌山バス那賀橋本線)の停留所名は「田井の瀬」であるなど、表記が統一されていない。 なお、田井の瀬停留所は和歌山バス那賀の2019年4月1日ダイヤ改正で那賀線:211系統が廃止されたことにより廃止された。 歴史 年表 1898年(明治31年)5月4日:紀和鉄道の和歌山駅(現・紀和駅) - 船戸仮駅間開業時に岩橋駅として設置。 1899年(明治32年)1月15日:田井ノ瀬駅に改称。 1904年(明治37年)8月27日:紀和鉄道の路線を関西鉄道が買収し、同社の駅となる。 1907年(明治40年)10月1日:関西鉄道が鉄道国有法により国有化され、帝国鉄道庁の駅となる。 1909年(明治42年)10月12日:線路名称が制定され、和歌山線の所属となる。 1961年(昭和36年)7月1日:和歌山線貨物支線として、当駅 - 東和歌山駅(現・和歌山駅)間の短絡線が開業。 1963年(昭和38年)4月1日:貨物取扱廃止。 1971年(昭和46年)4月26日:荷物扱い廃止。無人駅となる。 1972年(昭和47年)3月15日:前述の和歌山駅への短絡線の旅客営業開始、同時にそのルートが本線扱いとなる。紀和方面への旧線は支線に格下げ。 1973年(昭和48年) 9月30日:旧線(紀和第一信号扱所- 紀伊中ノ島駅 - 紀和駅間)廃止。 10月1日:和歌山 - 田井ノ瀬間単線自動(特殊)化。紀和第一信号扱所廃止。 1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道の駅となる。 2020年(令和2年)3月14日:ICカード「ICOCA」が利用可能となる。 2021年(令和3年)6月7日:跨線橋閉鎖(7月までに撤去)。2番のりばに待合所と出入口が完成し、使用を開始する。 鉄道唱歌 1900年(明治33年)に大和田建樹が作詞した鉄道唱歌第5集(関西・参宮・南海篇)49番の歌詞にて、当駅が登場する。 なお、歌詞中の「和歌山」は、現在の紀和駅のことである。 駅構造 相対式ホーム2面2線の、交換設備を備えた地上駅。和歌山駅管理の無人駅。2005年に駅舎が撤去され、コンクリート製のボックスカルバートを転用した簡素な出入口となった。そこに自動券売機が設置されている。出入口は粉河方面行きホーム側にあり、和歌山行きホームへはホーム西側に設置されている跨線橋で連絡していた。2021年6月に、和歌山行きホームに出入口と、ICOCAチャージ対応券売機を設置した待合所が新設された。跨線橋は2021年6月に閉鎖され、その後撤去されている。トイレは設置されていない。 のりば 利用状況 近年の1日平均乗車人員は以下の通り。 駅周辺 日本郵便 和歌山西和佐郵便局 和歌山市立西和佐小学校 紀伊風土記の丘(徒歩25分) 紀の川第2緑地 田井ノ瀬グラウンド 阪和自動車道和歌山IC 玉林園本社 隣の駅 西日本旅客鉄道(JR西日本) 和歌山線 快速 通過 普通 千旦駅 - 田井ノ瀬駅 - 和歌山駅(JR-R54) かつて存在した路線 日本国有鉄道 和歌山線(旧線) (千旦駅 -) 田井ノ瀬駅 - 紀伊中ノ島駅
{ "id": "123697", "title": "田井ノ瀬駅", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%BA%95%E3%83%8E%E7%80%AC%E9%A7%85" }
大井町(おおいまち)は、神奈川県の南西部に位置し、足柄上郡に属する町。 地理 神奈川県の南西部に位置し、町の西端を酒匂川が流れる。北東部・東部から大磯丘陵がつらなりその終端となっている。 町の中央部から南部は平地である。酒匂川の分水である酒匂堰(用水)が中央部を流れ、北東部から流れ込む菊川と合流して南の小田原市へと向かう。この間の平地は水田地帯であり、町域面積の10%、耕地面積の3割以上が水田である。また、丘陵地を利用したみかんなどの果樹栽培も盛んである。 町の北部は松田町と境をなしており、東名高速道路の大井松田インターチェンジや御殿場線松田駅・小田急小田原線新松田駅などとも近接している。このため近年では東京との交通利便性から企業の進出もある。 隣接している自治体 小田原市、秦野市、足柄上郡中井町・松田町・開成町 人口 行政 町長 町長:小田眞一(2018年12月22日就任、1期目) 歴代町長 特記なき場合『令和元年度統計要覧』による。 行政区域の変遷 1956年(昭和31年)4月1日 - 相和村・金田村および曽我村の一部(大字西大井、上大井)が合併して発足。 行政機構 町長 会計管理者(旧・収入役) 会計室 副市町村長(旧・助役) 防災安全室 総務部 総務課 企画財政課 町民部 町民課 税務課 福祉部 介護福祉課 子育て健康課 環境部 環境保全課 上下水道課 経済建設部 地域振興課 都市整備課 地区 旧曽我村 西大井(にしおおい) - 旧西大井村 上大井(かみおおい) - 旧上大井村 旧金田村 金手(かなで) - 旧金手村 金子(かねこ) - 旧金子村 旧相和村 山田(やまだ) - 旧山田村 旧上中村 柳(やなぎ) - 旧柳村 赤田(あかだ) - 旧赤田村 高尾(たかお) - 旧高尾村 篠窪(しのくぼ) - 旧篠窪村 立法 町議会 町議会の組織 議会運営委員会 常任委員会 企画経済 教育福祉 議会だより編集委員会 産業 総世帯数約6,000のうち、約500世帯余が農家であり、また70世帯余が林業に携わっている。 農林業 農業 大井町の町域面積のうち約4分の1が耕地であり、世帯数の10%、人口の15%ほどが農家であるが、その数は年々減少している。 2000年の耕地面積は361haで、そのうち作付延べ面積は327ha(耕地利用率90.6%)である。内訳は以下のとおり。 田 124ha(水稲88haなど) 畑 237ha 普通畑 118ha(だいこん9ha・とうもろこし9ha・馬鈴薯・さといも8haなど) 樹園地 119ha(みかん42ha・くり22ha・うめ12haなど) サービス業 町内のランドマーク的存在となっている大井第一生命館ビルには、かつて第一生命保険の大井本社が所在していたが、現在は「新大井事業所」として町役場の近辺に移転している。 なお大井第一生命館ビルは現在、株式会社ブルックスホールディングスが所有している。 健康・福祉 以下の保健福祉施設がある。 大井町保健福祉センター ふれあい館 教育 小学校 大井町立大井小学校 大井町立上大井小学校 大井町立相和小学校 中学校 大井町立湘光中学校 高等学校 神奈川県立大井高等学校 施設 ホール・集会場 大井町立そうわ会館 図書館 大井町図書館 博物館 大井町立郷土資料館 公民館 大井町立中央公民館 体育施設 大井町総合体育館 大井町山田総合グラウンド その他 明治大学天文部足柄観測所 交通 鉄道路線 町役場は下記2駅の中間に位置する。 東海旅客鉄道(JR東海) 御殿場線:上大井駅 - 相模金子駅 この他、御殿場線松田駅と小田急小田原線新松田駅(いずれも松田町)および開成駅(開成町)、栢山駅(小田原市)も、大井町との境に近くアクセス圏内である。 バス路線 富士急湘南バス 都道府県庁への連絡 御殿場線国府津経由で東海道本線を利用し横浜へ。 広範囲な連絡 東名高速道路に高速バスの東名大井BSがあり、東京・名古屋方面に利用が可能である。 新松田駅から小田急小田原線を利用して新宿へのアクセスも可能。 道路 高速道路・有料道路 東名高速道路(東名大井BS・大井松田IC) 一般国道 国道255号 都道府県道 主要地方道 神奈川県道72号松田国府津線 神奈川県道77号平塚松田線 神奈川県道78号御殿場大井線 一般都道府県道 神奈川県道708号秦野大井線 神奈川県道711号小田原松田線 神奈川県道714号栢山停車場曽我線 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事・名産品など 大井よさこいひょうたん祭(8月第1土曜日・日曜日) 1970年代、上大井駅で日よけのためにひょうたん棚を設けたところ話題となり、ひょうたん祭が開かれるまでになった。祭りの開催にあわせてひょうたん娘が選ばれる。 食用の瓢箪(ひょうたん)を使ったお菓子ブランド「福ゞ瓢箪(ふくふくひょうたん)」ができた。WEBサイト「ひょうたん家」からショッピングができる。 いこいの村あしがら 名産品 フェイジョア はるみ (米) いちじく 著名な出身者 小田眞一(大井町町長) 渋谷謙人(俳優) 諸星すみれ(声優)
{ "id": "123700", "title": "大井町", "url": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BA%95%E7%94%BA" }