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a12352p11q1 | 最澄 | 最澄 [SEP] 前述のように唐から戻った最澄が伝えた密教は歓迎される。『叡山大師伝』は桓武天皇の喜びを「真言の秘教等は未だ此の土に伝るを得ず。しかるに最澄はこの道を得、まことに国師たり」と伝える。最澄が唐から戻った翌大同元年(806年)に長安で密教を学んだ空海も帰朝する。まもなく最澄は空海に密教の習学を申し出ているが、その理由は天台法華宗の年分度者に遮那業(密教)1名が割り当てられていた事と関連があると考えられる。 | 空海が帰朝したのはいつ? | {
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a12352p11q2 | 最澄 | 最澄 [SEP] 前述のように唐から戻った最澄が伝えた密教は歓迎される。『叡山大師伝』は桓武天皇の喜びを「真言の秘教等は未だ此の土に伝るを得ず。しかるに最澄はこの道を得、まことに国師たり」と伝える。最澄が唐から戻った翌大同元年(806年)に長安で密教を学んだ空海も帰朝する。まもなく最澄は空海に密教の習学を申し出ているが、その理由は天台法華宗の年分度者に遮那業(密教)1名が割り当てられていた事と関連があると考えられる。 | 唐から最澄が戻ったのはいつ | {
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"翌大同元年(806年)"
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a12352p11q3 | 最澄 | 最澄 [SEP] 前述のように唐から戻った最澄が伝えた密教は歓迎される。『叡山大師伝』は桓武天皇の喜びを「真言の秘教等は未だ此の土に伝るを得ず。しかるに最澄はこの道を得、まことに国師たり」と伝える。最澄が唐から戻った翌大同元年(806年)に長安で密教を学んだ空海も帰朝する。まもなく最澄は空海に密教の習学を申し出ているが、その理由は天台法華宗の年分度者に遮那業(密教)1名が割り当てられていた事と関連があると考えられる。 | 長安で密教を学んだ空海はいつ帰朝した | {
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"806年"
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a12352p12q0 | 最澄 | 最澄 [SEP] 最澄の弟子で朝廷との交渉役であった光定が著した『伝述一心戒文』によれば、弘仁9年(818年)に最澄は天台法華宗を広めるために大乗寺を建て、光定に一乗の号を名乗らせると告げた。光定はこの事を藤原冬嗣を通じて天皇に上奏するが、南都の僧の反対にあって叶わなかった。『叡山大師伝』によると、同年3月に最澄が「今後声聞の利益を受けず、永く小乗の威儀にそむくべし」とし、具足戒を破棄したと記される。 | 最澄が大乗寺を建てた理由は | {
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"天台法華宗を広めるため"
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a12352p12q1 | 最澄 | 最澄 [SEP] 最澄の弟子で朝廷との交渉役であった光定が著した『伝述一心戒文』によれば、弘仁9年(818年)に最澄は天台法華宗を広めるために大乗寺を建て、光定に一乗の号を名乗らせると告げた。光定はこの事を藤原冬嗣を通じて天皇に上奏するが、南都の僧の反対にあって叶わなかった。『叡山大師伝』によると、同年3月に最澄が「今後声聞の利益を受けず、永く小乗の威儀にそむくべし」とし、具足戒を破棄したと記される。 | 最澄は天台法華宗を広めるためにいつ大乗寺を建てた | {
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"弘仁9年(818年)"
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a12352p12q2 | 最澄 | 最澄 [SEP] 最澄の弟子で朝廷との交渉役であった光定が著した『伝述一心戒文』によれば、弘仁9年(818年)に最澄は天台法華宗を広めるために大乗寺を建て、光定に一乗の号を名乗らせると告げた。光定はこの事を藤原冬嗣を通じて天皇に上奏するが、南都の僧の反対にあって叶わなかった。『叡山大師伝』によると、同年3月に最澄が「今後声聞の利益を受けず、永く小乗の威儀にそむくべし」とし、具足戒を破棄したと記される。 | 最澄が天台法華宗を広めるために大乗寺を建てた年は? | {
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"弘仁9年(818年)"
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a12352p12q3 | 最澄 | 最澄 [SEP] 最澄の弟子で朝廷との交渉役であった光定が著した『伝述一心戒文』によれば、弘仁9年(818年)に最澄は天台法華宗を広めるために大乗寺を建て、光定に一乗の号を名乗らせると告げた。光定はこの事を藤原冬嗣を通じて天皇に上奏するが、南都の僧の反対にあって叶わなかった。『叡山大師伝』によると、同年3月に最澄が「今後声聞の利益を受けず、永く小乗の威儀にそむくべし」とし、具足戒を破棄したと記される。 | 最澄の弟子や交渉役だったのは誰 | {
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"光定"
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a12352p12q4 | 最澄 | 最澄 [SEP] 最澄の弟子で朝廷との交渉役であった光定が著した『伝述一心戒文』によれば、弘仁9年(818年)に最澄は天台法華宗を広めるために大乗寺を建て、光定に一乗の号を名乗らせると告げた。光定はこの事を藤原冬嗣を通じて天皇に上奏するが、南都の僧の反対にあって叶わなかった。『叡山大師伝』によると、同年3月に最澄が「今後声聞の利益を受けず、永く小乗の威儀にそむくべし」とし、具足戒を破棄したと記される。 | 大乗寺を建てたのはいつ? | {
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"弘仁9年(818年)"
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a12352p13q0 | 最澄 | 最澄 [SEP] 鑑真が日本にもたらした戒律制度は唐の天台宗を含めて諸国の標準となっていたもので、僧になるためには具足戒を三師七証を前に受戒せねばならず、また菩薩戒は具足戒を受けた僧が補助的に受ける、あるいは在家信者が受ける戒としていた。それに対し最澄は梵網経菩薩戒のみで僧になれるとし、あわせて受戒も釈迦仏、文殊師利菩薩、弥勒菩薩を三師とし、一切の仏を証師としたうえで一人の伝戒師が居ればよく、伝戒師が居なければ自誓受戒でもよいとした。また在家と出家は姿(剃髪と袈裟)で区別できるとする。このような大胆な戒律制度は日本独自の大乗仏教を育み、のちに延暦寺から輩出される鎌倉新仏教の礎となった。 | 唐の天台宗を含めて諸国の標準となっていたものは | {
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"鑑真が日本にもたらした戒律制度"
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a12352p13q1 | 最澄 | 最澄 [SEP] 鑑真が日本にもたらした戒律制度は唐の天台宗を含めて諸国の標準となっていたもので、僧になるためには具足戒を三師七証を前に受戒せねばならず、また菩薩戒は具足戒を受けた僧が補助的に受ける、あるいは在家信者が受ける戒としていた。それに対し最澄は梵網経菩薩戒のみで僧になれるとし、あわせて受戒も釈迦仏、文殊師利菩薩、弥勒菩薩を三師とし、一切の仏を証師としたうえで一人の伝戒師が居ればよく、伝戒師が居なければ自誓受戒でもよいとした。また在家と出家は姿(剃髪と袈裟)で区別できるとする。このような大胆な戒律制度は日本独自の大乗仏教を育み、のちに延暦寺から輩出される鎌倉新仏教の礎となった。 | 鑑真が日本にもたらして、唐の天台宗を含めて諸国の標準となっていた制度は何か? | {
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a12352p13q2 | 最澄 | 最澄 [SEP] 鑑真が日本にもたらした戒律制度は唐の天台宗を含めて諸国の標準となっていたもので、僧になるためには具足戒を三師七証を前に受戒せねばならず、また菩薩戒は具足戒を受けた僧が補助的に受ける、あるいは在家信者が受ける戒としていた。それに対し最澄は梵網経菩薩戒のみで僧になれるとし、あわせて受戒も釈迦仏、文殊師利菩薩、弥勒菩薩を三師とし、一切の仏を証師としたうえで一人の伝戒師が居ればよく、伝戒師が居なければ自誓受戒でもよいとした。また在家と出家は姿(剃髪と袈裟)で区別できるとする。このような大胆な戒律制度は日本独自の大乗仏教を育み、のちに延暦寺から輩出される鎌倉新仏教の礎となった。 | 鑑真がもたらした戒律制度の国とはどこ | {
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a12352p13q3 | 最澄 | 最澄 [SEP] 鑑真が日本にもたらした戒律制度は唐の天台宗を含めて諸国の標準となっていたもので、僧になるためには具足戒を三師七証を前に受戒せねばならず、また菩薩戒は具足戒を受けた僧が補助的に受ける、あるいは在家信者が受ける戒としていた。それに対し最澄は梵網経菩薩戒のみで僧になれるとし、あわせて受戒も釈迦仏、文殊師利菩薩、弥勒菩薩を三師とし、一切の仏を証師としたうえで一人の伝戒師が居ればよく、伝戒師が居なければ自誓受戒でもよいとした。また在家と出家は姿(剃髪と袈裟)で区別できるとする。このような大胆な戒律制度は日本独自の大乗仏教を育み、のちに延暦寺から輩出される鎌倉新仏教の礎となった。 | 誰が戒律制度を日本にもたらした | {
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a12352p14q0 | 最澄 | 最澄 [SEP] 最澄は弘仁13年(822年)2月14日に伝燈大法師位を授かる。この頃には体調を崩していたようで、桓武天皇の国忌である3月17日に光定は「最澄法師重病を受く。命緒幾ばくならず。伝戒を許されざれば先帝の御願成就せず。」と、戒壇設立の勅許を催促している。 | 弘仁13年は西暦何年? | {
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a12352p14q1 | 最澄 | 最澄 [SEP] 最澄は弘仁13年(822年)2月14日に伝燈大法師位を授かる。この頃には体調を崩していたようで、桓武天皇の国忌である3月17日に光定は「最澄法師重病を受く。命緒幾ばくならず。伝戒を許されざれば先帝の御願成就せず。」と、戒壇設立の勅許を催促している。 | 弘仁13年(822年)2月14日に伝燈大法師位を授かったのは誰? | {
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a12352p14q2 | 最澄 | 最澄 [SEP] 最澄は弘仁13年(822年)2月14日に伝燈大法師位を授かる。この頃には体調を崩していたようで、桓武天皇の国忌である3月17日に光定は「最澄法師重病を受く。命緒幾ばくならず。伝戒を許されざれば先帝の御願成就せず。」と、戒壇設立の勅許を催促している。 | 伝燈大法師位を授かったのは誰か。 | {
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"最澄"
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a12352p14q3 | 最澄 | 最澄 [SEP] 最澄は弘仁13年(822年)2月14日に伝燈大法師位を授かる。この頃には体調を崩していたようで、桓武天皇の国忌である3月17日に光定は「最澄法師重病を受く。命緒幾ばくならず。伝戒を許されざれば先帝の御願成就せず。」と、戒壇設立の勅許を催促している。 | 最澄が伝燈大法師位を授かったのはいつ | {
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"弘仁13年(822年)2月14日"
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a12352p14q4 | 最澄 | 最澄 [SEP] 最澄は弘仁13年(822年)2月14日に伝燈大法師位を授かる。この頃には体調を崩していたようで、桓武天皇の国忌である3月17日に光定は「最澄法師重病を受く。命緒幾ばくならず。伝戒を許されざれば先帝の御願成就せず。」と、戒壇設立の勅許を催促している。 | 最澄が伝燈大法師位を授かったのはいつ? | {
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"弘仁13年(822年)2月14日"
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a12352p15q0 | 最澄 | 最澄 [SEP] 6月4日の辰の刻に入滅。廟所は比叡山東塔の浄土院。 | 最澄の廟所は? | {
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"比叡山東塔の浄土院"
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a12352p15q1 | 最澄 | 最澄 [SEP] 6月4日の辰の刻に入滅。廟所は比叡山東塔の浄土院。 | 最澄が廟所は比叡山東塔の浄土院で入滅したのはいつ | {
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a12352p15q2 | 最澄 | 最澄 [SEP] 6月4日の辰の刻に入滅。廟所は比叡山東塔の浄土院。 | 最澄の廟所はどこにある? | {
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a12352p15q3 | 最澄 | 最澄 [SEP] 6月4日の辰の刻に入滅。廟所は比叡山東塔の浄土院。 | 6月4日の辰の刻に入滅したのは誰か。 | {
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a12352p15q4 | 最澄 | 最澄 [SEP] 6月4日の辰の刻に入滅。廟所は比叡山東塔の浄土院。 | 最澄の廟所はどこ? | {
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"比叡山東塔の浄土院"
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a12352p16q0 | 最澄 | 最澄 [SEP] 最澄の死を受けて藤原冬嗣、良峰安世、伴国通らが『山修山学の表』を天皇に奏請し、死後7日後に大乗戒壇の設立と天台僧育成制度の樹立について勅許が下りた。弘仁14年(823年)2月26日には、勅により一乗止観院を延暦寺と改称。同年3月17日に最初の得度が行われ、ついで4月14日に光定らが受戒した。同年10月17日に嵯峨天皇は『澄上人を哭す』の詩を賜う。 | 最澄の死を受けて藤原冬嗣、良峰安世、伴国通らが天皇に奏請したのはなにか。 | {
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"山修山学の表"
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a12352p16q1 | 最澄 | 最澄 [SEP] 最澄の死を受けて藤原冬嗣、良峰安世、伴国通らが『山修山学の表』を天皇に奏請し、死後7日後に大乗戒壇の設立と天台僧育成制度の樹立について勅許が下りた。弘仁14年(823年)2月26日には、勅により一乗止観院を延暦寺と改称。同年3月17日に最初の得度が行われ、ついで4月14日に光定らが受戒した。同年10月17日に嵯峨天皇は『澄上人を哭す』の詩を賜う。 | 延暦寺の改称する前の名前は? | {
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a12352p16q2 | 最澄 | 最澄 [SEP] 最澄の死を受けて藤原冬嗣、良峰安世、伴国通らが『山修山学の表』を天皇に奏請し、死後7日後に大乗戒壇の設立と天台僧育成制度の樹立について勅許が下りた。弘仁14年(823年)2月26日には、勅により一乗止観院を延暦寺と改称。同年3月17日に最初の得度が行われ、ついで4月14日に光定らが受戒した。同年10月17日に嵯峨天皇は『澄上人を哭す』の詩を賜う。 | 最澄の死を受けて藤原冬嗣、良峰安世、伴国通らが天皇に奏請したのは? | {
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"山修山学の表"
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a12352p16q3 | 最澄 | 最澄 [SEP] 最澄の死を受けて藤原冬嗣、良峰安世、伴国通らが『山修山学の表』を天皇に奏請し、死後7日後に大乗戒壇の設立と天台僧育成制度の樹立について勅許が下りた。弘仁14年(823年)2月26日には、勅により一乗止観院を延暦寺と改称。同年3月17日に最初の得度が行われ、ついで4月14日に光定らが受戒した。同年10月17日に嵯峨天皇は『澄上人を哭す』の詩を賜う。 | 最澄の死を受けて藤原冬嗣、良峰安世、伴国通らが天皇に奏請したものは何 | {
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"山修山学の表"
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a12352p16q4 | 最澄 | 最澄 [SEP] 最澄の死を受けて藤原冬嗣、良峰安世、伴国通らが『山修山学の表』を天皇に奏請し、死後7日後に大乗戒壇の設立と天台僧育成制度の樹立について勅許が下りた。弘仁14年(823年)2月26日には、勅により一乗止観院を延暦寺と改称。同年3月17日に最初の得度が行われ、ついで4月14日に光定らが受戒した。同年10月17日に嵯峨天皇は『澄上人を哭す』の詩を賜う。 | 弘仁14年2月26日に一乗止観院を何と改称した? | {
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a12352p17q0 | 最澄 | 最澄 [SEP] 貞観8年(866年)7月12日に伝教大師の諡号が勅諡された。円仁の慈覚大師と共に日本史上の初の大師号である。 | 貞観8年(866年)7月12日に伝教大師の諡号が勅諡されたのは誰? | {
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a12352p17q1 | 最澄 | 最澄 [SEP] 貞観8年(866年)7月12日に伝教大師の諡号が勅諡された。円仁の慈覚大師と共に日本史上の初の大師号である。 | 貞観8年(866年)7月12日に伝教大師の諡号が勅諡されたのは誰か。 | {
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a12352p17q2 | 最澄 | 最澄 [SEP] 貞観8年(866年)7月12日に伝教大師の諡号が勅諡された。円仁の慈覚大師と共に日本史上の初の大師号である。 | 最澄と共に日本史上の初の大師号を勅諡されたのは誰? | {
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a12352p17q3 | 最澄 | 最澄 [SEP] 貞観8年(866年)7月12日に伝教大師の諡号が勅諡された。円仁の慈覚大師と共に日本史上の初の大師号である。 | 最澄が伝教大師の諡号が勅諡されたのはいつ | {
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a12352p17q4 | 最澄 | 最澄 [SEP] 貞観8年(866年)7月12日に伝教大師の諡号が勅諡された。円仁の慈覚大師と共に日本史上の初の大師号である。 | 貞観8年は西暦何年? | {
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a12352p18q0 | 最澄 | 最澄 [SEP] 中国天台宗は6世紀に隋の智顗が開いた宗派であり、のちに日本に伝来した南都仏教よりも歴史が古い。最澄は自身が受け継いだ教えについて『内証仏法相承血脈譜』に、達磨大師付法・天台法華宗・天台円教菩薩戒・胎蔵金剛界両曼荼羅・雑曼荼羅の5つを挙げている。5つの教えのうち天台法華宗のみに「宗」が付いている事について、伊吹敦は「受け継いだ思想的伝統を血脈と称し、それらを統合して新たに樹立した自らの思想的立場を宗と呼んだ」としたうえで、「中国天台宗とは異なる日本独自の天台宗が成立した」と評価している。 | 6世紀に隋の智顗が開いた宗派は | {
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a12352p18q1 | 最澄 | 最澄 [SEP] 中国天台宗は6世紀に隋の智顗が開いた宗派であり、のちに日本に伝来した南都仏教よりも歴史が古い。最澄は自身が受け継いだ教えについて『内証仏法相承血脈譜』に、達磨大師付法・天台法華宗・天台円教菩薩戒・胎蔵金剛界両曼荼羅・雑曼荼羅の5つを挙げている。5つの教えのうち天台法華宗のみに「宗」が付いている事について、伊吹敦は「受け継いだ思想的伝統を血脈と称し、それらを統合して新たに樹立した自らの思想的立場を宗と呼んだ」としたうえで、「中国天台宗とは異なる日本独自の天台宗が成立した」と評価している。 | 6世紀に隋の智顗が開いた宗派は? | {
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a12352p18q2 | 最澄 | 最澄 [SEP] 中国天台宗は6世紀に隋の智顗が開いた宗派であり、のちに日本に伝来した南都仏教よりも歴史が古い。最澄は自身が受け継いだ教えについて『内証仏法相承血脈譜』に、達磨大師付法・天台法華宗・天台円教菩薩戒・胎蔵金剛界両曼荼羅・雑曼荼羅の5つを挙げている。5つの教えのうち天台法華宗のみに「宗」が付いている事について、伊吹敦は「受け継いだ思想的伝統を血脈と称し、それらを統合して新たに樹立した自らの思想的立場を宗と呼んだ」としたうえで、「中国天台宗とは異なる日本独自の天台宗が成立した」と評価している。 | 中国天台宗は誰が開いた宗派? | {
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a12352p18q3 | 最澄 | 最澄 [SEP] 中国天台宗は6世紀に隋の智顗が開いた宗派であり、のちに日本に伝来した南都仏教よりも歴史が古い。最澄は自身が受け継いだ教えについて『内証仏法相承血脈譜』に、達磨大師付法・天台法華宗・天台円教菩薩戒・胎蔵金剛界両曼荼羅・雑曼荼羅の5つを挙げている。5つの教えのうち天台法華宗のみに「宗」が付いている事について、伊吹敦は「受け継いだ思想的伝統を血脈と称し、それらを統合して新たに樹立した自らの思想的立場を宗と呼んだ」としたうえで、「中国天台宗とは異なる日本独自の天台宗が成立した」と評価している。 | 隋の智顗が開いた宗派はなにか。 | {
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a12352p19q0 | 最澄 | 最澄 [SEP] 前述のように、天台法華宗には止観業(天台)と遮那業(密教)の各1名の年分度者が認められた。これは最澄が顕(天台教学)と密(密教学)の合同を最終の理想としていた為と考えられる。 | 最澄が最終の理想としていたのは? | {
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a12352p19q1 | 最澄 | 最澄 [SEP] 前述のように、天台法華宗には止観業(天台)と遮那業(密教)の各1名の年分度者が認められた。これは最澄が顕(天台教学)と密(密教学)の合同を最終の理想としていた為と考えられる。 | 顕(天台教学)と密(密教学)の合同を最終の理想としていたのは誰? | {
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a12352p19q2 | 最澄 | 最澄 [SEP] 前述のように、天台法華宗には止観業(天台)と遮那業(密教)の各1名の年分度者が認められた。これは最澄が顕(天台教学)と密(密教学)の合同を最終の理想としていた為と考えられる。 | 最澄は何と何の合同を最終の理想としていたか | {
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"顕(天台教学)と密(密教学)の合同"
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a12352p19q3 | 最澄 | 最澄 [SEP] 前述のように、天台法華宗には止観業(天台)と遮那業(密教)の各1名の年分度者が認められた。これは最澄が顕(天台教学)と密(密教学)の合同を最終の理想としていた為と考えられる。 | 最澄は何と何を最終の理想としていた | {
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"顕(天台教学)と密(密教学)の合同"
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a12352p2q0 | 最澄 | 最澄 [SEP] 最澄の生まれ年にも2説ある。『叡山大師伝』などが伝える没年齢によると神護景雲元年(767年)生まれであるが、『国府牒』『度牒』『戒牒』といった最澄が官僧になる際の公文書によると天平神護2年(766年)生まれである。この2説について専門家の意見は統一を見ていないが、戸籍上は766年生まれであったが、最澄自身が767年と考えていたという説もある。 | 最澄の生まれ年は叡山大師伝では何年 | {
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a12352p2q1 | 最澄 | 最澄 [SEP] 最澄の生まれ年にも2説ある。『叡山大師伝』などが伝える没年齢によると神護景雲元年(767年)生まれであるが、『国府牒』『度牒』『戒牒』といった最澄が官僧になる際の公文書によると天平神護2年(766年)生まれである。この2説について専門家の意見は統一を見ていないが、戸籍上は766年生まれであったが、最澄自身が767年と考えていたという説もある。 | 最澄の生まれ年は戸籍上何年だった? | {
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a12352p2q2 | 最澄 | 最澄 [SEP] 最澄の生まれ年にも2説ある。『叡山大師伝』などが伝える没年齢によると神護景雲元年(767年)生まれであるが、『国府牒』『度牒』『戒牒』といった最澄が官僧になる際の公文書によると天平神護2年(766年)生まれである。この2説について専門家の意見は統一を見ていないが、戸籍上は766年生まれであったが、最澄自身が767年と考えていたという説もある。 | 最澄の生まれ年で最も早いのは何年。 | {
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"766年"
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a12352p20q0 | 最澄 | 最澄 [SEP] 止観業とは智顗が著した『摩訶止観』に由来する。『摩訶止観』は仏道修行の基礎的な規範を記したもので、実践と修行の立場から法華経を解釈したものとされる。最澄は『勧奨天台宗年分学生式』に「止観業は四種三昧を修習せしめ(後略)」と記すように、『摩訶止観』に記される実践行である四種三昧の実践を重視していた。そして実践の場として最澄は四種三昧堂の建立を図ったが、この堂は『弘仁九年比叡山寺僧院之記』に一乗止観院に続いて記されていることから延暦寺伽藍構想においても重要視されていたことが分かる。 | 止観業の由来は? | {
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"智顗が著した『摩訶止観』"
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a12352p20q1 | 最澄 | 最澄 [SEP] 止観業とは智顗が著した『摩訶止観』に由来する。『摩訶止観』は仏道修行の基礎的な規範を記したもので、実践と修行の立場から法華経を解釈したものとされる。最澄は『勧奨天台宗年分学生式』に「止観業は四種三昧を修習せしめ(後略)」と記すように、『摩訶止観』に記される実践行である四種三昧の実践を重視していた。そして実践の場として最澄は四種三昧堂の建立を図ったが、この堂は『弘仁九年比叡山寺僧院之記』に一乗止観院に続いて記されていることから延暦寺伽藍構想においても重要視されていたことが分かる。 | 止観業とは智顗が著した何に由来するか | {
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"摩訶止観"
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a12352p20q2 | 最澄 | 最澄 [SEP] 止観業とは智顗が著した『摩訶止観』に由来する。『摩訶止観』は仏道修行の基礎的な規範を記したもので、実践と修行の立場から法華経を解釈したものとされる。最澄は『勧奨天台宗年分学生式』に「止観業は四種三昧を修習せしめ(後略)」と記すように、『摩訶止観』に記される実践行である四種三昧の実践を重視していた。そして実践の場として最澄は四種三昧堂の建立を図ったが、この堂は『弘仁九年比叡山寺僧院之記』に一乗止観院に続いて記されていることから延暦寺伽藍構想においても重要視されていたことが分かる。 | 最澄が、摩訶止観の実践の場として建立したものは? | {
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"四種三昧堂"
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a12352p20q3 | 最澄 | 最澄 [SEP] 止観業とは智顗が著した『摩訶止観』に由来する。『摩訶止観』は仏道修行の基礎的な規範を記したもので、実践と修行の立場から法華経を解釈したものとされる。最澄は『勧奨天台宗年分学生式』に「止観業は四種三昧を修習せしめ(後略)」と記すように、『摩訶止観』に記される実践行である四種三昧の実践を重視していた。そして実践の場として最澄は四種三昧堂の建立を図ったが、この堂は『弘仁九年比叡山寺僧院之記』に一乗止観院に続いて記されていることから延暦寺伽藍構想においても重要視されていたことが分かる。 | 智顗が著した『摩訶止観』に由来する言葉は? | {
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"止観業"
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a12352p20q4 | 最澄 | 最澄 [SEP] 止観業とは智顗が著した『摩訶止観』に由来する。『摩訶止観』は仏道修行の基礎的な規範を記したもので、実践と修行の立場から法華経を解釈したものとされる。最澄は『勧奨天台宗年分学生式』に「止観業は四種三昧を修習せしめ(後略)」と記すように、『摩訶止観』に記される実践行である四種三昧の実践を重視していた。そして実践の場として最澄は四種三昧堂の建立を図ったが、この堂は『弘仁九年比叡山寺僧院之記』に一乗止観院に続いて記されていることから延暦寺伽藍構想においても重要視されていたことが分かる。 | 摩訶止観は誰が著したか? | {
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"智顗"
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a12352p21q0 | 最澄 | 最澄 [SEP] 東塔の半行半坐三味堂(法華三昧堂)は最澄が弘仁3年(812年)に建立したとされるが、常坐一行三昧堂(文殊楼)、常行三昧堂、非行非坐三味堂(随自意堂)は最澄の没後に完成する。のちの天台宗では法華堂は座禅道場として重視され、常行堂は浄土信仰の素地となった。しかし、それ以外の三昧堂はさほど重視されることがなかったと考えられる。 | 半行半坐三味堂を建てたのは? | {
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a12352p21q1 | 最澄 | 最澄 [SEP] 東塔の半行半坐三味堂(法華三昧堂)は最澄が弘仁3年(812年)に建立したとされるが、常坐一行三昧堂(文殊楼)、常行三昧堂、非行非坐三味堂(随自意堂)は最澄の没後に完成する。のちの天台宗では法華堂は座禅道場として重視され、常行堂は浄土信仰の素地となった。しかし、それ以外の三昧堂はさほど重視されることがなかったと考えられる。 | 東塔の半行半坐三味堂が建立されたとされる年は? | {
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"弘仁3年(812年)"
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a12352p21q2 | 最澄 | 最澄 [SEP] 東塔の半行半坐三味堂(法華三昧堂)は最澄が弘仁3年(812年)に建立したとされるが、常坐一行三昧堂(文殊楼)、常行三昧堂、非行非坐三味堂(随自意堂)は最澄の没後に完成する。のちの天台宗では法華堂は座禅道場として重視され、常行堂は浄土信仰の素地となった。しかし、それ以外の三昧堂はさほど重視されることがなかったと考えられる。 | 最澄は、いつ東塔の法華三昧堂を建立したか? | {
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a12352p21q3 | 最澄 | 最澄 [SEP] 東塔の半行半坐三味堂(法華三昧堂)は最澄が弘仁3年(812年)に建立したとされるが、常坐一行三昧堂(文殊楼)、常行三昧堂、非行非坐三味堂(随自意堂)は最澄の没後に完成する。のちの天台宗では法華堂は座禅道場として重視され、常行堂は浄土信仰の素地となった。しかし、それ以外の三昧堂はさほど重視されることがなかったと考えられる。 | 東塔の半行半坐三味堂(法華三昧堂)は最澄が何年に健立した | {
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"弘仁3年(812年)"
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a12352p21q4 | 最澄 | 最澄 [SEP] 東塔の半行半坐三味堂(法華三昧堂)は最澄が弘仁3年(812年)に建立したとされるが、常坐一行三昧堂(文殊楼)、常行三昧堂、非行非坐三味堂(随自意堂)は最澄の没後に完成する。のちの天台宗では法華堂は座禅道場として重視され、常行堂は浄土信仰の素地となった。しかし、それ以外の三昧堂はさほど重視されることがなかったと考えられる。 | 東塔の半行半坐三味堂(法華三昧堂)は最澄がいつ建立したか | {
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"弘仁3年(812年)"
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a12352p22q0 | 最澄 | 最澄 [SEP] 一方の遮那業は『摩訶毘盧遮那神変加持経業』に由来する。最澄が唐から伝えた密教は不十分なもので空海に助力を請うたが、教義の完成を果たせなかった。のちに天台密教は円仁と円珍の入唐により研究が盛んになり、安然によって完成され、その後100年あまりは天台密教が隆盛する。その一方で、円仁は空海の顕密二教判(密教が顕教より優れるとする説)を一部取り込み、最澄が掲げた顕密両学(円密一致)は崩れていく。止観業が見直されるのは延暦寺中興の祖とされる良源が現れる10世紀中頃となる。 | 遮那業の由来は? | {
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a12352p22q1 | 最澄 | 最澄 [SEP] 一方の遮那業は『摩訶毘盧遮那神変加持経業』に由来する。最澄が唐から伝えた密教は不十分なもので空海に助力を請うたが、教義の完成を果たせなかった。のちに天台密教は円仁と円珍の入唐により研究が盛んになり、安然によって完成され、その後100年あまりは天台密教が隆盛する。その一方で、円仁は空海の顕密二教判(密教が顕教より優れるとする説)を一部取り込み、最澄が掲げた顕密両学(円密一致)は崩れていく。止観業が見直されるのは延暦寺中興の祖とされる良源が現れる10世紀中頃となる。 | 遮那業は何に由来する | {
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"摩訶毘盧遮那神変加持経業"
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a12352p22q2 | 最澄 | 最澄 [SEP] 一方の遮那業は『摩訶毘盧遮那神変加持経業』に由来する。最澄が唐から伝えた密教は不十分なもので空海に助力を請うたが、教義の完成を果たせなかった。のちに天台密教は円仁と円珍の入唐により研究が盛んになり、安然によって完成され、その後100年あまりは天台密教が隆盛する。その一方で、円仁は空海の顕密二教判(密教が顕教より優れるとする説)を一部取り込み、最澄が掲げた顕密両学(円密一致)は崩れていく。止観業が見直されるのは延暦寺中興の祖とされる良源が現れる10世紀中頃となる。 | 『摩訶毘盧遮那神変加持経業』に由来するものは? | {
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a12352p22q3 | 最澄 | 最澄 [SEP] 一方の遮那業は『摩訶毘盧遮那神変加持経業』に由来する。最澄が唐から伝えた密教は不十分なもので空海に助力を請うたが、教義の完成を果たせなかった。のちに天台密教は円仁と円珍の入唐により研究が盛んになり、安然によって完成され、その後100年あまりは天台密教が隆盛する。その一方で、円仁は空海の顕密二教判(密教が顕教より優れるとする説)を一部取り込み、最澄が掲げた顕密両学(円密一致)は崩れていく。止観業が見直されるのは延暦寺中興の祖とされる良源が現れる10世紀中頃となる。 | 遮那業は何に由来するか | {
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"『摩訶毘盧遮那神変加持経業』"
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a12352p22q4 | 最澄 | 最澄 [SEP] 一方の遮那業は『摩訶毘盧遮那神変加持経業』に由来する。最澄が唐から伝えた密教は不十分なもので空海に助力を請うたが、教義の完成を果たせなかった。のちに天台密教は円仁と円珍の入唐により研究が盛んになり、安然によって完成され、その後100年あまりは天台密教が隆盛する。その一方で、円仁は空海の顕密二教判(密教が顕教より優れるとする説)を一部取り込み、最澄が掲げた顕密両学(円密一致)は崩れていく。止観業が見直されるのは延暦寺中興の祖とされる良源が現れる10世紀中頃となる。 | 最澄が伝えた密教は、当時のどこの国が由来か? | {
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a12352p23q0 | 最澄 | 最澄 [SEP] 一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)とは、衆生はみな生まれながらにして仏となりうる素質(仏性)をもつということである。その根本となる一切皆成(一切衆生が成仏できる)は涅槃経に説かれるものであり、法相宗を含む南都仏教もこれを承認していたが、その解釈(仏性論)について最澄と法相宗は激しい論争(徳一との三一権実諍論)を行った。 | 一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)とは、衆生はみな生まれながらにして何になりうる素質をもつという意味? | {
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a12352p23q1 | 最澄 | 最澄 [SEP] 一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)とは、衆生はみな生まれながらにして仏となりうる素質(仏性)をもつということである。その根本となる一切皆成(一切衆生が成仏できる)は涅槃経に説かれるものであり、法相宗を含む南都仏教もこれを承認していたが、その解釈(仏性論)について最澄と法相宗は激しい論争(徳一との三一権実諍論)を行った。 | 涅槃経で説かれた一切皆成で、最澄が、その解釈に激しい論争をした相手は? | {
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a12352p23q2 | 最澄 | 最澄 [SEP] 一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)とは、衆生はみな生まれながらにして仏となりうる素質(仏性)をもつということである。その根本となる一切皆成(一切衆生が成仏できる)は涅槃経に説かれるものであり、法相宗を含む南都仏教もこれを承認していたが、その解釈(仏性論)について最澄と法相宗は激しい論争(徳一との三一権実諍論)を行った。 | 徳一との三一権実諍論を行ったのは? | {
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a12352p23q3 | 最澄 | 最澄 [SEP] 一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)とは、衆生はみな生まれながらにして仏となりうる素質(仏性)をもつということである。その根本となる一切皆成(一切衆生が成仏できる)は涅槃経に説かれるものであり、法相宗を含む南都仏教もこれを承認していたが、その解釈(仏性論)について最澄と法相宗は激しい論争(徳一との三一権実諍論)を行った。 | 一切衆生悉有仏性読み方は? | {
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"いっさいしゅじょうしつうぶっしょう"
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a12352p24q0 | 最澄 | 最澄 [SEP] 徳一は一切皆成を認めつつ「仏性を顕かにするための行を成しえる因(行仏性)を持たない衆生がいる」とする五性各別説を支持する。この法相宗の立場について最澄は小乗義が含まれていると批判し、五性の別なく悉皆成仏できると説いた。その上で「修行の困難さから成仏できるのは釈迦のような特別な存在」とする一般的な仏教観を否定し、「一切衆生悉有仏性を信じ利他行に励み成仏の道を進む者こそが菩薩」とし大乗の立場を明確にした。 | 最澄の仏教上の立場は何か。 | {
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a12352p24q1 | 最澄 | 最澄 [SEP] 徳一は一切皆成を認めつつ「仏性を顕かにするための行を成しえる因(行仏性)を持たない衆生がいる」とする五性各別説を支持する。この法相宗の立場について最澄は小乗義が含まれていると批判し、五性の別なく悉皆成仏できると説いた。その上で「修行の困難さから成仏できるのは釈迦のような特別な存在」とする一般的な仏教観を否定し、「一切衆生悉有仏性を信じ利他行に励み成仏の道を進む者こそが菩薩」とし大乗の立場を明確にした。 | 小乗義が含まれていると批判したのは | {
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a12352p24q2 | 最澄 | 最澄 [SEP] 徳一は一切皆成を認めつつ「仏性を顕かにするための行を成しえる因(行仏性)を持たない衆生がいる」とする五性各別説を支持する。この法相宗の立場について最澄は小乗義が含まれていると批判し、五性の別なく悉皆成仏できると説いた。その上で「修行の困難さから成仏できるのは釈迦のような特別な存在」とする一般的な仏教観を否定し、「一切衆生悉有仏性を信じ利他行に励み成仏の道を進む者こそが菩薩」とし大乗の立場を明確にした。 | この法相宗の立場について最澄は何が含まれていると批判しましたか | {
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a12352p25q0 | 最澄 | 最澄 [SEP] 前述のように、最澄は菩薩戒の受戒で比丘になれるとする大乗戒壇の設立に尽力し、日本独自の戒律制度が成立した。一方でこれにより、鑑真が日本に伝来した「具足戒での受戒で比丘となれる」とする東アジアの基準に当てはまらない比丘が生まれる事となる。後に明全が入宋した際には、比叡山の大乗戒壇で受戒していたにも関わらず、東大寺戒壇で受戒した戒牒を作成している。また現在の日本仏教は戒律を軽視しているとされるが、沖本克己はその大きな転換点の一つとして最澄の大乗戒壇の設立を挙げている。 | 東大寺戒壇で受戒した戒牒を作成したのは | {
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a12352p25q1 | 最澄 | 最澄 [SEP] 前述のように、最澄は菩薩戒の受戒で比丘になれるとする大乗戒壇の設立に尽力し、日本独自の戒律制度が成立した。一方でこれにより、鑑真が日本に伝来した「具足戒での受戒で比丘となれる」とする東アジアの基準に当てはまらない比丘が生まれる事となる。後に明全が入宋した際には、比叡山の大乗戒壇で受戒していたにも関わらず、東大寺戒壇で受戒した戒牒を作成している。また現在の日本仏教は戒律を軽視しているとされるが、沖本克己はその大きな転換点の一つとして最澄の大乗戒壇の設立を挙げている。 | 最澄は菩薩戒の何で比丘になれるとする大乗戒壇の設立に尽力しましたか | {
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a12352p25q2 | 最澄 | 最澄 [SEP] 前述のように、最澄は菩薩戒の受戒で比丘になれるとする大乗戒壇の設立に尽力し、日本独自の戒律制度が成立した。一方でこれにより、鑑真が日本に伝来した「具足戒での受戒で比丘となれる」とする東アジアの基準に当てはまらない比丘が生まれる事となる。後に明全が入宋した際には、比叡山の大乗戒壇で受戒していたにも関わらず、東大寺戒壇で受戒した戒牒を作成している。また現在の日本仏教は戒律を軽視しているとされるが、沖本克己はその大きな転換点の一つとして最澄の大乗戒壇の設立を挙げている。 | 現在の日本仏教は戒律を軽視しているとして、沖本克己がその大きな転換点の一つとして指摘しているものは何か。 | {
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a12352p25q3 | 最澄 | 最澄 [SEP] 前述のように、最澄は菩薩戒の受戒で比丘になれるとする大乗戒壇の設立に尽力し、日本独自の戒律制度が成立した。一方でこれにより、鑑真が日本に伝来した「具足戒での受戒で比丘となれる」とする東アジアの基準に当てはまらない比丘が生まれる事となる。後に明全が入宋した際には、比叡山の大乗戒壇で受戒していたにも関わらず、東大寺戒壇で受戒した戒牒を作成している。また現在の日本仏教は戒律を軽視しているとされるが、沖本克己はその大きな転換点の一つとして最澄の大乗戒壇の設立を挙げている。 | 現在の日本仏教の転換点のひとつとは | {
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a12352p26q0 | 最澄 | 最澄 [SEP] 書における師承は明らかでないが、延暦23年(804年)に入唐し、帰朝に当って王羲之の十七帖、王献之、欧陽詢、褚遂良などの筆跡や法帖類を持ち帰った。その書風は空海の変幻自在なのに比べて、楷書と呼ばれるものに近い。真跡として現存するものには次のようなものがある。 | 最澄が入唐したのはいつ | {
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a12352p26q1 | 最澄 | 最澄 [SEP] 書における師承は明らかでないが、延暦23年(804年)に入唐し、帰朝に当って王羲之の十七帖、王献之、欧陽詢、褚遂良などの筆跡や法帖類を持ち帰った。その書風は空海の変幻自在なのに比べて、楷書と呼ばれるものに近い。真跡として現存するものには次のようなものがある。 | 延暦何年に入唐しましたか | {
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a12352p26q2 | 最澄 | 最澄 [SEP] 書における師承は明らかでないが、延暦23年(804年)に入唐し、帰朝に当って王羲之の十七帖、王献之、欧陽詢、褚遂良などの筆跡や法帖類を持ち帰った。その書風は空海の変幻自在なのに比べて、楷書と呼ばれるものに近い。真跡として現存するものには次のようなものがある。 | 最澄の書風はどのようなものか。 | {
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a12352p27q0 | 最澄 | 最澄 [SEP] 『天台法華宗年分縁起』(てんだいほっけしゅうねんぶんえんぎ)は、天台法華宗の年分度者および大乗戒壇設立に関わる文書を蒐集した書。延暦寺蔵。国宝。収録されているのは以下の6通。 | 天台法華宗の年分度者および大乗戒壇設立に関わる文書を蒐集した書を何というか。 | {
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a12352p27q1 | 最澄 | 最澄 [SEP] 『天台法華宗年分縁起』(てんだいほっけしゅうねんぶんえんぎ)は、天台法華宗の年分度者および大乗戒壇設立に関わる文書を蒐集した書。延暦寺蔵。国宝。収録されているのは以下の6通。 | 『天台法華宗年分縁起』が所蔵されているのは | {
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a12352p27q2 | 最澄 | 最澄 [SEP] 『天台法華宗年分縁起』(てんだいほっけしゅうねんぶんえんぎ)は、天台法華宗の年分度者および大乗戒壇設立に関わる文書を蒐集した書。延暦寺蔵。国宝。収録されているのは以下の6通。 | 天台法華宗の年分度者および大乗戒壇設立に関わる文書を蒐集した書は | {
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"天台法華宗年分縁起"
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a12352p28q0 | 最澄 | 最澄 [SEP] 『越州将来目録』(えっしゅうしょうらいもくろく)は、最澄が唐から持ち帰った書物等の目録。102部115巻の書物と密教法具が記される。巻尾には越州長官の鄭審則の自筆印可条と州の官印のほか、遣唐大使葛野麿らの連署や遣唐使印もあり、当時の公文書の史料としても貴重。延暦寺蔵、国宝。文化財登録名称は「弘法大師請来目録」。 | 文化財登録名称はなんですか? | {
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a12352p28q1 | 最澄 | 最澄 [SEP] 『越州将来目録』(えっしゅうしょうらいもくろく)は、最澄が唐から持ち帰った書物等の目録。102部115巻の書物と密教法具が記される。巻尾には越州長官の鄭審則の自筆印可条と州の官印のほか、遣唐大使葛野麿らの連署や遣唐使印もあり、当時の公文書の史料としても貴重。延暦寺蔵、国宝。文化財登録名称は「弘法大師請来目録」。 | 最澄が唐から持ち帰った書物等の目録は | {
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a12352p28q2 | 最澄 | 最澄 [SEP] 『越州将来目録』(えっしゅうしょうらいもくろく)は、最澄が唐から持ち帰った書物等の目録。102部115巻の書物と密教法具が記される。巻尾には越州長官の鄭審則の自筆印可条と州の官印のほか、遣唐大使葛野麿らの連署や遣唐使印もあり、当時の公文書の史料としても貴重。延暦寺蔵、国宝。文化財登録名称は「弘法大師請来目録」。 | 『越州将来目録』が所蔵されてるのは? | {
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a12352p28q3 | 最澄 | 最澄 [SEP] 『越州将来目録』(えっしゅうしょうらいもくろく)は、最澄が唐から持ち帰った書物等の目録。102部115巻の書物と密教法具が記される。巻尾には越州長官の鄭審則の自筆印可条と州の官印のほか、遣唐大使葛野麿らの連署や遣唐使印もあり、当時の公文書の史料としても貴重。延暦寺蔵、国宝。文化財登録名称は「弘法大師請来目録」。 | 最澄が唐から持ち帰った書物等の目録を何というか。 | {
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a12352p29q0 | 最澄 | 最澄 [SEP] 『羯磨金剛目録』(かつまこんごうもくろく)は、唐から持ち帰った品々を経蔵に永納した際の総目録。原本はほぼ失われてしまい、残った十数行を繋ぎ合わせた断簡。元は『御教蔵宝物聖教等目録』といったが、現在は文頭にある羯磨金剛に因んで呼ばれる。文書の全面に「比叡寺印」が捺されており、当時の正式寺号が分かる史料。延暦寺蔵、国宝。 | 最澄が唐から持ち帰った品々の総目録のうち、残った十数行を繋ぎ合わせた断簡を何と言う。 | {
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a12352p29q1 | 最澄 | 最澄 [SEP] 『羯磨金剛目録』(かつまこんごうもくろく)は、唐から持ち帰った品々を経蔵に永納した際の総目録。原本はほぼ失われてしまい、残った十数行を繋ぎ合わせた断簡。元は『御教蔵宝物聖教等目録』といったが、現在は文頭にある羯磨金剛に因んで呼ばれる。文書の全面に「比叡寺印」が捺されており、当時の正式寺号が分かる史料。延暦寺蔵、国宝。 | 延暦寺の開祖は? | {
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"最澄"
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a12352p29q2 | 最澄 | 最澄 [SEP] 『羯磨金剛目録』(かつまこんごうもくろく)は、唐から持ち帰った品々を経蔵に永納した際の総目録。原本はほぼ失われてしまい、残った十数行を繋ぎ合わせた断簡。元は『御教蔵宝物聖教等目録』といったが、現在は文頭にある羯磨金剛に因んで呼ばれる。文書の全面に「比叡寺印」が捺されており、当時の正式寺号が分かる史料。延暦寺蔵、国宝。 | 全ての文書に「比叡寺印」が捺印されている史料は? | {
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a12352p29q3 | 最澄 | 最澄 [SEP] 『羯磨金剛目録』(かつまこんごうもくろく)は、唐から持ち帰った品々を経蔵に永納した際の総目録。原本はほぼ失われてしまい、残った十数行を繋ぎ合わせた断簡。元は『御教蔵宝物聖教等目録』といったが、現在は文頭にある羯磨金剛に因んで呼ばれる。文書の全面に「比叡寺印」が捺されており、当時の正式寺号が分かる史料。延暦寺蔵、国宝。 | 『羯磨金剛目録』は元は何と呼ばれていたか。 | {
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"御教蔵宝物聖教等目録"
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a12352p29q4 | 最澄 | 最澄 [SEP] 『羯磨金剛目録』(かつまこんごうもくろく)は、唐から持ち帰った品々を経蔵に永納した際の総目録。原本はほぼ失われてしまい、残った十数行を繋ぎ合わせた断簡。元は『御教蔵宝物聖教等目録』といったが、現在は文頭にある羯磨金剛に因んで呼ばれる。文書の全面に「比叡寺印」が捺されており、当時の正式寺号が分かる史料。延暦寺蔵、国宝。 | 唐から持ち帰った品々を経蔵に永納した際の総目録は? | {
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"羯磨金剛目録"
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a12352p3q0 | 最澄 | 最澄 [SEP] 『国府牒』などによれば、最澄の幼名は広野(ひろの)。伝記には幼い頃に小学という初等教育機関で「陰陽、医方、工巧などを修める」など非凡な才を見せ、7歳の頃に仏道を志すと伝える。 | 最澄の幼名は? | {
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a12352p3q1 | 最澄 | 最澄 [SEP] 『国府牒』などによれば、最澄の幼名は広野(ひろの)。伝記には幼い頃に小学という初等教育機関で「陰陽、医方、工巧などを修める」など非凡な才を見せ、7歳の頃に仏道を志すと伝える。 | 最澄の幼名は何か。 | {
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a12352p3q2 | 最澄 | 最澄 [SEP] 『国府牒』などによれば、最澄の幼名は広野(ひろの)。伝記には幼い頃に小学という初等教育機関で「陰陽、医方、工巧などを修める」など非凡な才を見せ、7歳の頃に仏道を志すと伝える。 | 最澄の幼名は? | {
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a12352p3q3 | 最澄 | 最澄 [SEP] 『国府牒』などによれば、最澄の幼名は広野(ひろの)。伝記には幼い頃に小学という初等教育機関で「陰陽、医方、工巧などを修める」など非凡な才を見せ、7歳の頃に仏道を志すと伝える。 | 最澄が仏道を志したのは何歳のとき。 | {
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a12352p30q0 | 最澄 | 最澄 [SEP] 『空海将来目録』(くうかいしょうらいもくろく)は、空海が唐から持ち帰った聖教典籍の総目録を、最澄が書写したもの。元来は延暦寺にあったものが、ある時期に『風信帖』と共に東寺に譲られたものと考えられている。東寺蔵、国宝。文化財指定名称は「弘法大師請来目録」。 | 空海が唐から持ち帰った聖教典籍の総目録を、最澄が書写したものは? | {
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a12352p30q1 | 最澄 | 最澄 [SEP] 『空海将来目録』(くうかいしょうらいもくろく)は、空海が唐から持ち帰った聖教典籍の総目録を、最澄が書写したもの。元来は延暦寺にあったものが、ある時期に『風信帖』と共に東寺に譲られたものと考えられている。東寺蔵、国宝。文化財指定名称は「弘法大師請来目録」。 | 国宝の『空海将来目録』が所蔵されているのはどこ。 | {
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a12352p30q2 | 最澄 | 最澄 [SEP] 『空海将来目録』(くうかいしょうらいもくろく)は、空海が唐から持ち帰った聖教典籍の総目録を、最澄が書写したもの。元来は延暦寺にあったものが、ある時期に『風信帖』と共に東寺に譲られたものと考えられている。東寺蔵、国宝。文化財指定名称は「弘法大師請来目録」。 | 空海と並ぶお坊さんの名前は? | {
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a12352p30q3 | 最澄 | 最澄 [SEP] 『空海将来目録』(くうかいしょうらいもくろく)は、空海が唐から持ち帰った聖教典籍の総目録を、最澄が書写したもの。元来は延暦寺にあったものが、ある時期に『風信帖』と共に東寺に譲られたものと考えられている。東寺蔵、国宝。文化財指定名称は「弘法大師請来目録」。 | 空海が唐から持ち帰った聖教典籍の総目録を、最澄が書写したものを何と言う? | {
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a12352p30q4 | 最澄 | 最澄 [SEP] 『空海将来目録』(くうかいしょうらいもくろく)は、空海が唐から持ち帰った聖教典籍の総目録を、最澄が書写したもの。元来は延暦寺にあったものが、ある時期に『風信帖』と共に東寺に譲られたものと考えられている。東寺蔵、国宝。文化財指定名称は「弘法大師請来目録」。 | 国宝である空海将来目録の文化財指定名称はなに? | {
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a12352p4q0 | 最澄 | 最澄 [SEP] ここまで官僧として順調に歩を進めた最澄だが、具足戒を受けてほどない延暦4年(785年)7月中旬に比叡山に籠る。『僧尼令』には「禅行修道あって、心に静寂を願い、俗に交わらず、山居を求めて服餌せんと欲すれば、三綱連署せよ」とあり、最澄もこのような公的な手続きを踏んで入山したと考えられる。『叡山大師伝』によれば、まず比叡山麓の神宮禅院で懺悔の行を修め、つづいて『願文』を著したとされる。 | 『叡山大師伝』によれば、まず比叡山麓の神宮禅院で懺悔の行を修め、つづいて? | {
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a12352p4q1 | 最澄 | 最澄 [SEP] ここまで官僧として順調に歩を進めた最澄だが、具足戒を受けてほどない延暦4年(785年)7月中旬に比叡山に籠る。『僧尼令』には「禅行修道あって、心に静寂を願い、俗に交わらず、山居を求めて服餌せんと欲すれば、三綱連署せよ」とあり、最澄もこのような公的な手続きを踏んで入山したと考えられる。『叡山大師伝』によれば、まず比叡山麓の神宮禅院で懺悔の行を修め、つづいて『願文』を著したとされる。 | 最澄が比叡山に籠もったのは、いつか。 | {
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"延暦4年(785年)7月中旬"
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a12352p4q2 | 最澄 | 最澄 [SEP] ここまで官僧として順調に歩を進めた最澄だが、具足戒を受けてほどない延暦4年(785年)7月中旬に比叡山に籠る。『僧尼令』には「禅行修道あって、心に静寂を願い、俗に交わらず、山居を求めて服餌せんと欲すれば、三綱連署せよ」とあり、最澄もこのような公的な手続きを踏んで入山したと考えられる。『叡山大師伝』によれば、まず比叡山麓の神宮禅院で懺悔の行を修め、つづいて『願文』を著したとされる。 | 禅行修道あって、心に静寂を願い、俗に交わらず、山居を求めて服餌せんと欲すれば、三綱連署せよとの記述のある書は | {
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a12352p4q3 | 最澄 | 最澄 [SEP] ここまで官僧として順調に歩を進めた最澄だが、具足戒を受けてほどない延暦4年(785年)7月中旬に比叡山に籠る。『僧尼令』には「禅行修道あって、心に静寂を願い、俗に交わらず、山居を求めて服餌せんと欲すれば、三綱連署せよ」とあり、最澄もこのような公的な手続きを踏んで入山したと考えられる。『叡山大師伝』によれば、まず比叡山麓の神宮禅院で懺悔の行を修め、つづいて『願文』を著したとされる。 | 最澄が比叡山に籠った年は | {
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a12352p5q0 | 最澄 | 最澄 [SEP] この願文から最澄は自らも大乗経典に出る菩薩のようになることを志していることが分かる。『叡山大師伝』はこの願文を読んだ内供奉の寿興と最澄が固い交わりを結んだとする。 | 大乗経典に出る菩薩のようになることを志した僧は | {
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a12352p5q1 | 最澄 | 最澄 [SEP] この願文から最澄は自らも大乗経典に出る菩薩のようになることを志していることが分かる。『叡山大師伝』はこの願文を読んだ内供奉の寿興と最澄が固い交わりを結んだとする。 | 願文から最澄は自らも大乗経典に出る菩薩のようになることを志していることが分かる。『叡山大師伝』はこの願文を読んだ内供奉の寿興と最澄が? | {
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"固い交わりを結んだとする"
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a12352p5q2 | 最澄 | 最澄 [SEP] この願文から最澄は自らも大乗経典に出る菩薩のようになることを志していることが分かる。『叡山大師伝』はこの願文を読んだ内供奉の寿興と最澄が固い交わりを結んだとする。 | 最澄が菩薩になるのを目指したのを明らかにしている願文は何か。 | {
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"叡山大師伝"
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