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a12651p28q0 | 仏典 | 仏典 [SEP] しかし、仏教の中心であった長安の方が写経のたびに改編され、テキストとして洗練の度を加えていったため、逆に地方版である蜀地のテキストの方が原形を留めているという説もある。例えば鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』の冒頭、開宝蔵で『如是我聞一時佛住…』が、「思渓資福蔵」「普寧蔵」や後の「徑山蔵」では『如是我聞一時婆伽婆住…』になっている例に見られるように、新しい時代層の漢訳経典のスタイルに合わせて改変されている場合もある。 | 地方版の、ある地のテキストの方が原形を留めているという説がありますが、その地とはどこですか? | {
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"蜀地"
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a12651p28q1 | 仏典 | 仏典 [SEP] しかし、仏教の中心であった長安の方が写経のたびに改編され、テキストとして洗練の度を加えていったため、逆に地方版である蜀地のテキストの方が原形を留めているという説もある。例えば鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』の冒頭、開宝蔵で『如是我聞一時佛住…』が、「思渓資福蔵」「普寧蔵」や後の「徑山蔵」では『如是我聞一時婆伽婆住…』になっている例に見られるように、新しい時代層の漢訳経典のスタイルに合わせて改変されている場合もある。 | 鳩摩羅什が訳したのは | {
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"摩訶般若波羅蜜経"
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a12651p28q2 | 仏典 | 仏典 [SEP] しかし、仏教の中心であった長安の方が写経のたびに改編され、テキストとして洗練の度を加えていったため、逆に地方版である蜀地のテキストの方が原形を留めているという説もある。例えば鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』の冒頭、開宝蔵で『如是我聞一時佛住…』が、「思渓資福蔵」「普寧蔵」や後の「徑山蔵」では『如是我聞一時婆伽婆住…』になっている例に見られるように、新しい時代層の漢訳経典のスタイルに合わせて改変されている場合もある。 | 開宝蔵で『如是我聞一時佛住…』と書かれている部分は、「徑山蔵」では何と改変されていますか? | {
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"『如是我聞一時婆伽婆住…』"
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a12651p28q3 | 仏典 | 仏典 [SEP] しかし、仏教の中心であった長安の方が写経のたびに改編され、テキストとして洗練の度を加えていったため、逆に地方版である蜀地のテキストの方が原形を留めているという説もある。例えば鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』の冒頭、開宝蔵で『如是我聞一時佛住…』が、「思渓資福蔵」「普寧蔵」や後の「徑山蔵」では『如是我聞一時婆伽婆住…』になっている例に見られるように、新しい時代層の漢訳経典のスタイルに合わせて改変されている場合もある。 | 例えば鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』の冒頭は | {
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"『如是我聞一時佛住…』"
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a12651p29q0 | 仏典 | 仏典 [SEP] 日本では、『日本書紀』で白雉2年(651年)の記述に「一切経」が初めて現れるが事実とは考えられていない。その後も「一切経」はしばしば現れ、仏典の収集、写経、読誦をしめす。竹内亮によれば、日本では「一切経」の名前は知られてはいたものの、「一切経」を構成する経録(リスト)である入蔵録の請来は奈良時代の玄昉によるもの(後述)が初めてと推定され、光明皇后がこれに基づいて一切経の写経を行おうとしたところ、一切経を構成する全ての仏典が日本国内に備わっていないことが判明したため、蔵外である別生経や偽経、章疏(注釈書)の類までを書写してこれに代えた(「五月一日経」)と伝えられていることから、日本では「一切経」という言葉が手に入る限り一切の(仏教)経典という意味に読み替えられていたのではないかと推測している。 | 日本で初めて「一切経」について記されたのはいつか? | {
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"白雉2年(651年)"
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a12651p29q1 | 仏典 | 仏典 [SEP] 日本では、『日本書紀』で白雉2年(651年)の記述に「一切経」が初めて現れるが事実とは考えられていない。その後も「一切経」はしばしば現れ、仏典の収集、写経、読誦をしめす。竹内亮によれば、日本では「一切経」の名前は知られてはいたものの、「一切経」を構成する経録(リスト)である入蔵録の請来は奈良時代の玄昉によるもの(後述)が初めてと推定され、光明皇后がこれに基づいて一切経の写経を行おうとしたところ、一切経を構成する全ての仏典が日本国内に備わっていないことが判明したため、蔵外である別生経や偽経、章疏(注釈書)の類までを書写してこれに代えた(「五月一日経」)と伝えられていることから、日本では「一切経」という言葉が手に入る限り一切の(仏教)経典という意味に読み替えられていたのではないかと推測している。 | 白雉2年は西暦何年? | {
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"651年"
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a12651p29q2 | 仏典 | 仏典 [SEP] 日本では、『日本書紀』で白雉2年(651年)の記述に「一切経」が初めて現れるが事実とは考えられていない。その後も「一切経」はしばしば現れ、仏典の収集、写経、読誦をしめす。竹内亮によれば、日本では「一切経」の名前は知られてはいたものの、「一切経」を構成する経録(リスト)である入蔵録の請来は奈良時代の玄昉によるもの(後述)が初めてと推定され、光明皇后がこれに基づいて一切経の写経を行おうとしたところ、一切経を構成する全ての仏典が日本国内に備わっていないことが判明したため、蔵外である別生経や偽経、章疏(注釈書)の類までを書写してこれに代えた(「五月一日経」)と伝えられていることから、日本では「一切経」という言葉が手に入る限り一切の(仏教)経典という意味に読み替えられていたのではないかと推測している。 | 白雉2年(651年)の記述に「一切経」が初めて現れたのは | {
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"日本書紀"
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a12651p29q3 | 仏典 | 仏典 [SEP] 日本では、『日本書紀』で白雉2年(651年)の記述に「一切経」が初めて現れるが事実とは考えられていない。その後も「一切経」はしばしば現れ、仏典の収集、写経、読誦をしめす。竹内亮によれば、日本では「一切経」の名前は知られてはいたものの、「一切経」を構成する経録(リスト)である入蔵録の請来は奈良時代の玄昉によるもの(後述)が初めてと推定され、光明皇后がこれに基づいて一切経の写経を行おうとしたところ、一切経を構成する全ての仏典が日本国内に備わっていないことが判明したため、蔵外である別生経や偽経、章疏(注釈書)の類までを書写してこれに代えた(「五月一日経」)と伝えられていることから、日本では「一切経」という言葉が手に入る限り一切の(仏教)経典という意味に読み替えられていたのではないかと推測している。 | 白雉2年は西暦何年ですか? | {
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"651年"
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a12651p29q4 | 仏典 | 仏典 [SEP] 日本では、『日本書紀』で白雉2年(651年)の記述に「一切経」が初めて現れるが事実とは考えられていない。その後も「一切経」はしばしば現れ、仏典の収集、写経、読誦をしめす。竹内亮によれば、日本では「一切経」の名前は知られてはいたものの、「一切経」を構成する経録(リスト)である入蔵録の請来は奈良時代の玄昉によるもの(後述)が初めてと推定され、光明皇后がこれに基づいて一切経の写経を行おうとしたところ、一切経を構成する全ての仏典が日本国内に備わっていないことが判明したため、蔵外である別生経や偽経、章疏(注釈書)の類までを書写してこれに代えた(「五月一日経」)と伝えられていることから、日本では「一切経」という言葉が手に入る限り一切の(仏教)経典という意味に読み替えられていたのではないかと推測している。 | 白雉2年は西暦何年か | {
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"651年"
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a12651p3q0 | 仏典 | 仏典 [SEP] また大乗仏教では経・律・論および、その注釈書などは、大蔵経もしくは一切経と呼ばれる叢書にまとめられた。この作業は、中国では皇帝名で行われることが多く、編入される書物の基準が厳格で、入蔵録と呼ばれる収録対象とすべき仏典のリスト(経録)とセットにされ、基準外のものは蔵外(ぞうがい)と称された。昭和9年(1934年)に、日本で編纂された大正新脩大蔵経は、より広範囲に中国・日本撰述の典籍も含めている。 | 大乗仏教では経・律・論および、その注釈書などは、何と呼ばれる叢書にまとめられたか? | {
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"大蔵経もしくは一切経"
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a12651p3q1 | 仏典 | 仏典 [SEP] また大乗仏教では経・律・論および、その注釈書などは、大蔵経もしくは一切経と呼ばれる叢書にまとめられた。この作業は、中国では皇帝名で行われることが多く、編入される書物の基準が厳格で、入蔵録と呼ばれる収録対象とすべき仏典のリスト(経録)とセットにされ、基準外のものは蔵外(ぞうがい)と称された。昭和9年(1934年)に、日本で編纂された大正新脩大蔵経は、より広範囲に中国・日本撰述の典籍も含めている。 | 基準外のものは何と称されたか? | {
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a12651p3q2 | 仏典 | 仏典 [SEP] また大乗仏教では経・律・論および、その注釈書などは、大蔵経もしくは一切経と呼ばれる叢書にまとめられた。この作業は、中国では皇帝名で行われることが多く、編入される書物の基準が厳格で、入蔵録と呼ばれる収録対象とすべき仏典のリスト(経録)とセットにされ、基準外のものは蔵外(ぞうがい)と称された。昭和9年(1934年)に、日本で編纂された大正新脩大蔵経は、より広範囲に中国・日本撰述の典籍も含めている。 | 大正新脩大蔵経はいつ編纂されたか。 | {
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"昭和9年(1934年)"
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a12651p3q3 | 仏典 | 仏典 [SEP] また大乗仏教では経・律・論および、その注釈書などは、大蔵経もしくは一切経と呼ばれる叢書にまとめられた。この作業は、中国では皇帝名で行われることが多く、編入される書物の基準が厳格で、入蔵録と呼ばれる収録対象とすべき仏典のリスト(経録)とセットにされ、基準外のものは蔵外(ぞうがい)と称された。昭和9年(1934年)に、日本で編纂された大正新脩大蔵経は、より広範囲に中国・日本撰述の典籍も含めている。 | 大正新脩大蔵経は何年に日本で編纂されたか? | {
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"昭和9年(1934年)"
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a12651p3q4 | 仏典 | 仏典 [SEP] また大乗仏教では経・律・論および、その注釈書などは、大蔵経もしくは一切経と呼ばれる叢書にまとめられた。この作業は、中国では皇帝名で行われることが多く、編入される書物の基準が厳格で、入蔵録と呼ばれる収録対象とすべき仏典のリスト(経録)とセットにされ、基準外のものは蔵外(ぞうがい)と称された。昭和9年(1934年)に、日本で編纂された大正新脩大蔵経は、より広範囲に中国・日本撰述の典籍も含めている。 | 大正新脩大蔵経はいつ日本で編纂された? | {
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"昭和9年(1934年)"
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a12651p30q0 | 仏典 | 仏典 [SEP] とくに、天平7年(735年)玄昉が請来(将来)した五千余巻は、当時の欽定大蔵経と推定される。底本とされ大規模な写経がおこなわれた。 | 当時の欽定大蔵経と推定される、玄昉が請来(将来)した五千余巻はいつのものか? | {
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a12651p30q1 | 仏典 | 仏典 [SEP] とくに、天平7年(735年)玄昉が請来(将来)した五千余巻は、当時の欽定大蔵経と推定される。底本とされ大規模な写経がおこなわれた。 | 天平7年(735年)玄昉が請来(将来)したのは? | {
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"五千余巻"
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a12651p30q2 | 仏典 | 仏典 [SEP] とくに、天平7年(735年)玄昉が請来(将来)した五千余巻は、当時の欽定大蔵経と推定される。底本とされ大規模な写経がおこなわれた。 | 天平7年は西暦何年? | {
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"735年"
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a12651p30q3 | 仏典 | 仏典 [SEP] とくに、天平7年(735年)玄昉が請来(将来)した五千余巻は、当時の欽定大蔵経と推定される。底本とされ大規模な写経がおこなわれた。 | 玄昉が五千余巻を請来したのは西暦何年ですか? | {
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"735年"
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a12651p30q4 | 仏典 | 仏典 [SEP] とくに、天平7年(735年)玄昉が請来(将来)した五千余巻は、当時の欽定大蔵経と推定される。底本とされ大規模な写経がおこなわれた。 | 天平7年(735年)玄昉が請来(将来)したのは | {
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"text": [
"五千余巻"
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a12651p31q0 | 仏典 | 仏典 [SEP] 寛和2年(986年)に奝然は大蔵経(開宝蔵)を輸入し、確実な大蔵経の請来として最も古い記録となる。奝然死後に藤原道長に渡り法成寺経堂に収められた(1021年)が火災で焼失したとみられる。平安時代末から鎌倉時代にかけては、栄西、重源、慶政その他の入宋僧の努力で、『宋版一切経』が輸入された。室町時代には室町幕府や九州探題、大内氏の名義で朝鮮に大蔵経を求め、日本に送られた大蔵経は寺院に寄進された(ただし、朝鮮から請来(将来)された大蔵経は高麗版に限らず、宋版・元版が送られた例がある。また、寺院の要請を受けて名義を貸す形で大蔵経を求める使者を出した例もある)。 | 奝然が輸入したものは。 | {
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"大蔵経(開宝蔵)"
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a12651p31q1 | 仏典 | 仏典 [SEP] 寛和2年(986年)に奝然は大蔵経(開宝蔵)を輸入し、確実な大蔵経の請来として最も古い記録となる。奝然死後に藤原道長に渡り法成寺経堂に収められた(1021年)が火災で焼失したとみられる。平安時代末から鎌倉時代にかけては、栄西、重源、慶政その他の入宋僧の努力で、『宋版一切経』が輸入された。室町時代には室町幕府や九州探題、大内氏の名義で朝鮮に大蔵経を求め、日本に送られた大蔵経は寺院に寄進された(ただし、朝鮮から請来(将来)された大蔵経は高麗版に限らず、宋版・元版が送られた例がある。また、寺院の要請を受けて名義を貸す形で大蔵経を求める使者を出した例もある)。 | 奝然が大蔵経(開宝蔵)を輸入したのはいつ | {
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"寛和2年(986年)"
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a12651p31q2 | 仏典 | 仏典 [SEP] 寛和2年(986年)に奝然は大蔵経(開宝蔵)を輸入し、確実な大蔵経の請来として最も古い記録となる。奝然死後に藤原道長に渡り法成寺経堂に収められた(1021年)が火災で焼失したとみられる。平安時代末から鎌倉時代にかけては、栄西、重源、慶政その他の入宋僧の努力で、『宋版一切経』が輸入された。室町時代には室町幕府や九州探題、大内氏の名義で朝鮮に大蔵経を求め、日本に送られた大蔵経は寺院に寄進された(ただし、朝鮮から請来(将来)された大蔵経は高麗版に限らず、宋版・元版が送られた例がある。また、寺院の要請を受けて名義を貸す形で大蔵経を求める使者を出した例もある)。 | 寛和2年は西暦何年? | {
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a12651p31q3 | 仏典 | 仏典 [SEP] 寛和2年(986年)に奝然は大蔵経(開宝蔵)を輸入し、確実な大蔵経の請来として最も古い記録となる。奝然死後に藤原道長に渡り法成寺経堂に収められた(1021年)が火災で焼失したとみられる。平安時代末から鎌倉時代にかけては、栄西、重源、慶政その他の入宋僧の努力で、『宋版一切経』が輸入された。室町時代には室町幕府や九州探題、大内氏の名義で朝鮮に大蔵経を求め、日本に送られた大蔵経は寺院に寄進された(ただし、朝鮮から請来(将来)された大蔵経は高麗版に限らず、宋版・元版が送られた例がある。また、寺院の要請を受けて名義を貸す形で大蔵経を求める使者を出した例もある)。 | 奝然が大蔵経(開宝蔵)を輸入したのはいつ? | {
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"寛和2年"
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a12651p31q4 | 仏典 | 仏典 [SEP] 寛和2年(986年)に奝然は大蔵経(開宝蔵)を輸入し、確実な大蔵経の請来として最も古い記録となる。奝然死後に藤原道長に渡り法成寺経堂に収められた(1021年)が火災で焼失したとみられる。平安時代末から鎌倉時代にかけては、栄西、重源、慶政その他の入宋僧の努力で、『宋版一切経』が輸入された。室町時代には室町幕府や九州探題、大内氏の名義で朝鮮に大蔵経を求め、日本に送られた大蔵経は寺院に寄進された(ただし、朝鮮から請来(将来)された大蔵経は高麗版に限らず、宋版・元版が送られた例がある。また、寺院の要請を受けて名義を貸す形で大蔵経を求める使者を出した例もある)。 | 奝然はいつ大蔵経(開宝蔵)を輸入したか | {
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"寛和2年(986年)"
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a12651p32q0 | 仏典 | 仏典 [SEP] 今日から見れば校訂不備が多しとの批判はあるが、世界における仏教界や仏教研究に寄与しているのは、高楠順次郎・渡辺海旭監修の『大正新脩大藏經』(大正一切経刊行会)100巻である。高麗海印寺本を底本として諸本と校合、1924年から1934年にいたる歳月を費やし、正蔵(55巻)、続蔵(30巻)、昭和法宝目録(3巻)、図像部(12巻)を収める。 | 『大正新脩大藏經』を監修したのは高楠順次郎と誰? | {
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a12651p32q1 | 仏典 | 仏典 [SEP] 今日から見れば校訂不備が多しとの批判はあるが、世界における仏教界や仏教研究に寄与しているのは、高楠順次郎・渡辺海旭監修の『大正新脩大藏經』(大正一切経刊行会)100巻である。高麗海印寺本を底本として諸本と校合、1924年から1934年にいたる歳月を費やし、正蔵(55巻)、続蔵(30巻)、昭和法宝目録(3巻)、図像部(12巻)を収める。 | 『大正新脩大藏經』(大正一切経刊行会)100巻はだれが監修したか | {
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"高楠順次郎・渡辺海旭"
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a12651p32q2 | 仏典 | 仏典 [SEP] 今日から見れば校訂不備が多しとの批判はあるが、世界における仏教界や仏教研究に寄与しているのは、高楠順次郎・渡辺海旭監修の『大正新脩大藏經』(大正一切経刊行会)100巻である。高麗海印寺本を底本として諸本と校合、1924年から1934年にいたる歳月を費やし、正蔵(55巻)、続蔵(30巻)、昭和法宝目録(3巻)、図像部(12巻)を収める。 | 大正新脩大藏經を監修した人物は。 | {
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a12651p32q3 | 仏典 | 仏典 [SEP] 今日から見れば校訂不備が多しとの批判はあるが、世界における仏教界や仏教研究に寄与しているのは、高楠順次郎・渡辺海旭監修の『大正新脩大藏經』(大正一切経刊行会)100巻である。高麗海印寺本を底本として諸本と校合、1924年から1934年にいたる歳月を費やし、正蔵(55巻)、続蔵(30巻)、昭和法宝目録(3巻)、図像部(12巻)を収める。 | 高楠順次郎・渡辺海旭監修の書は | {
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a12651p32q4 | 仏典 | 仏典 [SEP] 今日から見れば校訂不備が多しとの批判はあるが、世界における仏教界や仏教研究に寄与しているのは、高楠順次郎・渡辺海旭監修の『大正新脩大藏經』(大正一切経刊行会)100巻である。高麗海印寺本を底本として諸本と校合、1924年から1934年にいたる歳月を費やし、正蔵(55巻)、続蔵(30巻)、昭和法宝目録(3巻)、図像部(12巻)を収める。 | 『大正新脩大藏經』の監修は高楠順次郎ともう1人は誰? | {
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"渡辺海旭"
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a12651p33q0 | 仏典 | 仏典 [SEP] なお『大正新脩大蔵経』には、底本『高麗大蔵経』テキストに対する上記『思渓資福蔵』(宋本)、『普寧蔵』(元本)『徑山蔵』(明本)等のテキストとの異同の校訂情報が載せられている。この校訂は、『大日本校訂縮刷大蔵経』(縮蔵)の宋本・元本・明本(三本)との校勘を引き継ぎ、それに「宮内庁書陵部蔵宋本」(宮本)や「聖語蔵」などのテキストとの校勘を付加したものである。三本との校訂に関しては、原典に当たっていないと思われるケースもあり、校勘情報にも本文同様に誤謬、誤植が存在する場合もあるので、利用の際には、この点も考慮する必要がある。 | なお『大正新脩大蔵経』には、底本『高麗大蔵経』テキストに対する上記『思渓資福蔵』(宋本)、『普寧蔵』(元本)『徑山蔵』(明本)等のテキストとの異同の校訂情報が載せられているか | {
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"載せられている"
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a12651p33q1 | 仏典 | 仏典 [SEP] なお『大正新脩大蔵経』には、底本『高麗大蔵経』テキストに対する上記『思渓資福蔵』(宋本)、『普寧蔵』(元本)『徑山蔵』(明本)等のテキストとの異同の校訂情報が載せられている。この校訂は、『大日本校訂縮刷大蔵経』(縮蔵)の宋本・元本・明本(三本)との校勘を引き継ぎ、それに「宮内庁書陵部蔵宋本」(宮本)や「聖語蔵」などのテキストとの校勘を付加したものである。三本との校訂に関しては、原典に当たっていないと思われるケースもあり、校勘情報にも本文同様に誤謬、誤植が存在する場合もあるので、利用の際には、この点も考慮する必要がある。 | 底本『高麗大蔵経』テキストに対する上記『思渓資福蔵』(宋本)、『普寧蔵』(元本)『徑山蔵』(明本)等のテキストとの異同の校訂情報が載せられているものは何? | {
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"大正新脩大蔵経"
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a12651p33q2 | 仏典 | 仏典 [SEP] なお『大正新脩大蔵経』には、底本『高麗大蔵経』テキストに対する上記『思渓資福蔵』(宋本)、『普寧蔵』(元本)『徑山蔵』(明本)等のテキストとの異同の校訂情報が載せられている。この校訂は、『大日本校訂縮刷大蔵経』(縮蔵)の宋本・元本・明本(三本)との校勘を引き継ぎ、それに「宮内庁書陵部蔵宋本」(宮本)や「聖語蔵」などのテキストとの校勘を付加したものである。三本との校訂に関しては、原典に当たっていないと思われるケースもあり、校勘情報にも本文同様に誤謬、誤植が存在する場合もあるので、利用の際には、この点も考慮する必要がある。 | 校勘情報には何があることに注意が必要? | {
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"誤謬、誤植"
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a12651p33q3 | 仏典 | 仏典 [SEP] なお『大正新脩大蔵経』には、底本『高麗大蔵経』テキストに対する上記『思渓資福蔵』(宋本)、『普寧蔵』(元本)『徑山蔵』(明本)等のテキストとの異同の校訂情報が載せられている。この校訂は、『大日本校訂縮刷大蔵経』(縮蔵)の宋本・元本・明本(三本)との校勘を引き継ぎ、それに「宮内庁書陵部蔵宋本」(宮本)や「聖語蔵」などのテキストとの校勘を付加したものである。三本との校訂に関しては、原典に当たっていないと思われるケースもあり、校勘情報にも本文同様に誤謬、誤植が存在する場合もあるので、利用の際には、この点も考慮する必要がある。 | 底本『高麗大蔵経』テキストに対する上記『思渓資福蔵』(宋本)、『普寧蔵』(元本)『徑山蔵』(明本)等のテキストとの異同の校訂情報が載せられているのは何 | {
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"『大正新脩大蔵経』"
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a12651p33q4 | 仏典 | 仏典 [SEP] なお『大正新脩大蔵経』には、底本『高麗大蔵経』テキストに対する上記『思渓資福蔵』(宋本)、『普寧蔵』(元本)『徑山蔵』(明本)等のテキストとの異同の校訂情報が載せられている。この校訂は、『大日本校訂縮刷大蔵経』(縮蔵)の宋本・元本・明本(三本)との校勘を引き継ぎ、それに「宮内庁書陵部蔵宋本」(宮本)や「聖語蔵」などのテキストとの校勘を付加したものである。三本との校訂に関しては、原典に当たっていないと思われるケースもあり、校勘情報にも本文同様に誤謬、誤植が存在する場合もあるので、利用の際には、この点も考慮する必要がある。 | 普寧蔵の異同の校訂情報が載せられているものは。 | {
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"大正新脩大蔵経"
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a12651p34q0 | 仏典 | 仏典 [SEP] 漢訳経典の日本語訳(読み下し)も行われ、『國譯大藏經』、『国訳一切経』、『昭和新修国訳大蔵経』などがある。また、近年東京大学の『大正新脩大藏經』テキストデータベース (SAT) や、台北の中華電子佛典協會 (CBETA) といったプロジェクトが大正新脩大藏經の電子テキスト化を推進していて、一定の制約内でその使用が開放されている。 | 漢訳経典の日本語訳(読み下し)も行われ、『國譯大藏經』、『国訳一切経』、『昭和新修国訳大蔵経』などがあるか | {
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a12651p34q1 | 仏典 | 仏典 [SEP] 漢訳経典の日本語訳(読み下し)も行われ、『國譯大藏經』、『国訳一切経』、『昭和新修国訳大蔵経』などがある。また、近年東京大学の『大正新脩大藏經』テキストデータベース (SAT) や、台北の中華電子佛典協會 (CBETA) といったプロジェクトが大正新脩大藏經の電子テキスト化を推進していて、一定の制約内でその使用が開放されている。 | 『大正新脩大藏經』テキストデータベースはどこの大学のものか。 | {
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a12651p34q2 | 仏典 | 仏典 [SEP] 漢訳経典の日本語訳(読み下し)も行われ、『國譯大藏經』、『国訳一切経』、『昭和新修国訳大蔵経』などがある。また、近年東京大学の『大正新脩大藏經』テキストデータベース (SAT) や、台北の中華電子佛典協會 (CBETA) といったプロジェクトが大正新脩大藏經の電子テキスト化を推進していて、一定の制約内でその使用が開放されている。 | CBETAって何のこと? | {
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"中華電子佛典協會"
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a12651p34q3 | 仏典 | 仏典 [SEP] 漢訳経典の日本語訳(読み下し)も行われ、『國譯大藏經』、『国訳一切経』、『昭和新修国訳大蔵経』などがある。また、近年東京大学の『大正新脩大藏經』テキストデータベース (SAT) や、台北の中華電子佛典協會 (CBETA) といったプロジェクトが大正新脩大藏經の電子テキスト化を推進していて、一定の制約内でその使用が開放されている。 | 『大正新脩大藏經』テキストデータベース があるのは何大学? | {
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a12651p35q0 | 仏典 | 仏典 [SEP] チベットにおける個別の仏典翻訳は、7世紀ソンツェン・ガンポの命令で、チベット語訳は、トンミ・サンボータ( )によって始められたが、8世紀末、仏教が国教となるのにともない、仏典翻訳は王国の国家事業となり、隣国インドより網羅的、体系的に仏典を収集し、翻訳する作業が開始され、数十年の短期間で一挙に完遂された。サンスクリット語の原典を正確に翻訳するためのチベット語文法と語彙の整備が行われ 、シャン=イェシェデ、カワ=ペルツェク、チョクロ=ルイゲンツェンらが作業に従事、824年、一応の完成をみた 。 | チベット語訳を始めた人物は。 | {
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"トンミ・サンボータ"
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a12651p35q1 | 仏典 | 仏典 [SEP] チベットにおける個別の仏典翻訳は、7世紀ソンツェン・ガンポの命令で、チベット語訳は、トンミ・サンボータ( )によって始められたが、8世紀末、仏教が国教となるのにともない、仏典翻訳は王国の国家事業となり、隣国インドより網羅的、体系的に仏典を収集し、翻訳する作業が開始され、数十年の短期間で一挙に完遂された。サンスクリット語の原典を正確に翻訳するためのチベット語文法と語彙の整備が行われ 、シャン=イェシェデ、カワ=ペルツェク、チョクロ=ルイゲンツェンらが作業に従事、824年、一応の完成をみた 。 | チベットにおける個別の仏典翻訳は誰の命令ではじめられたか | {
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a12651p35q2 | 仏典 | 仏典 [SEP] チベットにおける個別の仏典翻訳は、7世紀ソンツェン・ガンポの命令で、チベット語訳は、トンミ・サンボータ( )によって始められたが、8世紀末、仏教が国教となるのにともない、仏典翻訳は王国の国家事業となり、隣国インドより網羅的、体系的に仏典を収集し、翻訳する作業が開始され、数十年の短期間で一挙に完遂された。サンスクリット語の原典を正確に翻訳するためのチベット語文法と語彙の整備が行われ 、シャン=イェシェデ、カワ=ペルツェク、チョクロ=ルイゲンツェンらが作業に従事、824年、一応の完成をみた 。 | 仏典のチベット語訳を開始したのは誰? | {
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"トンミ・サンボータ"
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a12651p35q3 | 仏典 | 仏典 [SEP] チベットにおける個別の仏典翻訳は、7世紀ソンツェン・ガンポの命令で、チベット語訳は、トンミ・サンボータ( )によって始められたが、8世紀末、仏教が国教となるのにともない、仏典翻訳は王国の国家事業となり、隣国インドより網羅的、体系的に仏典を収集し、翻訳する作業が開始され、数十年の短期間で一挙に完遂された。サンスクリット語の原典を正確に翻訳するためのチベット語文法と語彙の整備が行われ 、シャン=イェシェデ、カワ=ペルツェク、チョクロ=ルイゲンツェンらが作業に従事、824年、一応の完成をみた 。 | 仏教が国教となったのはいつ? | {
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"8世紀末"
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a12651p35q4 | 仏典 | 仏典 [SEP] チベットにおける個別の仏典翻訳は、7世紀ソンツェン・ガンポの命令で、チベット語訳は、トンミ・サンボータ( )によって始められたが、8世紀末、仏教が国教となるのにともない、仏典翻訳は王国の国家事業となり、隣国インドより網羅的、体系的に仏典を収集し、翻訳する作業が開始され、数十年の短期間で一挙に完遂された。サンスクリット語の原典を正確に翻訳するためのチベット語文法と語彙の整備が行われ 、シャン=イェシェデ、カワ=ペルツェク、チョクロ=ルイゲンツェンらが作業に従事、824年、一応の完成をみた 。 | サンスクリット語の原典を正確に翻訳するためのチベット語文法と語彙の整備が行われ 、シャン=イェシェデ、カワ=ペルツェク、チョクロ=ルイゲンツェンらが作業に従事、何年に一応の完成をみたか | {
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a12651p36q0 | 仏典 | 仏典 [SEP] チベット仏教における仏典の分類は、他の仏教圏とも共通する「経・律・論」の三部分類よりも、「仏説部(カンギュル)」、「論疏部(テンギュル)」の2分類が重視される。カンギュルとは釈尊のことばそのものである「カー」をチベット語に「ギュル」(翻訳)したもの、テンギュルとは、竜樹らインドの仏教学者たちが「カー」に対してほどこした注釈である「テン」をチベット語に「ギュル」したもの、の意味である。 | 釈尊のことばそのものである「カー」をチベット語に「ギュル」(翻訳)したものは? | {
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a12651p36q1 | 仏典 | 仏典 [SEP] チベット仏教における仏典の分類は、他の仏教圏とも共通する「経・律・論」の三部分類よりも、「仏説部(カンギュル)」、「論疏部(テンギュル)」の2分類が重視される。カンギュルとは釈尊のことばそのものである「カー」をチベット語に「ギュル」(翻訳)したもの、テンギュルとは、竜樹らインドの仏教学者たちが「カー」に対してほどこした注釈である「テン」をチベット語に「ギュル」したもの、の意味である。 | 仏教の三部分類とは? | {
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"経・律・論"
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a12651p36q2 | 仏典 | 仏典 [SEP] チベット仏教における仏典の分類は、他の仏教圏とも共通する「経・律・論」の三部分類よりも、「仏説部(カンギュル)」、「論疏部(テンギュル)」の2分類が重視される。カンギュルとは釈尊のことばそのものである「カー」をチベット語に「ギュル」(翻訳)したもの、テンギュルとは、竜樹らインドの仏教学者たちが「カー」に対してほどこした注釈である「テン」をチベット語に「ギュル」したもの、の意味である。 | 「経・律・論」の三部分類よりも、「仏説部(カンギュル)」、「論疏部(テンギュル)」の2分類が重視されるねは? | {
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"チベット仏教"
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a12651p37q0 | 仏典 | 仏典 [SEP] 以上の諸版に収録されている教典群大蔵経には、大乗の経論、ことに原典も漢訳も現存しないインド後期仏教の文献が多く含まれており、インド後期仏教の研究にも重要な意味をもっている。チベット語訳がサンスクリットの逐語訳に近く、原形に還元しやすいので、原典のない漢訳仏典の原型を探るためにも重要視されている。 | インド後期仏教の研究において、教典群大蔵経のサンスクリットの逐語訳に近いのはどの言語の訳か? | {
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a12651p37q1 | 仏典 | 仏典 [SEP] 以上の諸版に収録されている教典群大蔵経には、大乗の経論、ことに原典も漢訳も現存しないインド後期仏教の文献が多く含まれており、インド後期仏教の研究にも重要な意味をもっている。チベット語訳がサンスクリットの逐語訳に近く、原形に還元しやすいので、原典のない漢訳仏典の原型を探るためにも重要視されている。 | サンスクリットの逐語訳に近いのは何語に訳されたもの? | {
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a12651p37q2 | 仏典 | 仏典 [SEP] 以上の諸版に収録されている教典群大蔵経には、大乗の経論、ことに原典も漢訳も現存しないインド後期仏教の文献が多く含まれており、インド後期仏教の研究にも重要な意味をもっている。チベット語訳がサンスクリットの逐語訳に近く、原形に還元しやすいので、原典のない漢訳仏典の原型を探るためにも重要視されている。 | 大乗の経論、ことに原典も漢訳も現存しないインド後期仏教の文献が多く含まれており、インド後期仏教の研究にも重要な意味をもっている経典群は何か | {
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a12651p37q3 | 仏典 | 仏典 [SEP] 以上の諸版に収録されている教典群大蔵経には、大乗の経論、ことに原典も漢訳も現存しないインド後期仏教の文献が多く含まれており、インド後期仏教の研究にも重要な意味をもっている。チベット語訳がサンスクリットの逐語訳に近く、原形に還元しやすいので、原典のない漢訳仏典の原型を探るためにも重要視されている。 | 原典のない漢訳仏典の原型を探るためにも重要視されている語訳は? | {
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a12651p37q4 | 仏典 | 仏典 [SEP] 以上の諸版に収録されている教典群大蔵経には、大乗の経論、ことに原典も漢訳も現存しないインド後期仏教の文献が多く含まれており、インド後期仏教の研究にも重要な意味をもっている。チベット語訳がサンスクリットの逐語訳に近く、原形に還元しやすいので、原典のない漢訳仏典の原型を探るためにも重要視されている。 | サンスクリットの逐語訳に近く、原形に還元しやすいので、原典のない漢訳仏典の原型を探るためにも重要視されているのは? | {
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a12651p38q0 | 仏典 | 仏典 [SEP] チベットの四大宗派のひとつニンマ派では、ある時期に埋蔵された経典(テルマ gter-ma)が、時を経て、しかるべき定めを帯びたテルトン(埋蔵経典発掘者)によって発見されたとする経、論を多数有し、同派の特徴となっている。テルマ(埋蔵経典)の出現は、中世以来、現代に至るまで継続しており、乾慧学者から発掘者による創作だと見なされることがある。この派は上記の諸版と異なる古タントラ集成(ニンマ・ギューブム)を有している。 | ニンマ派では、ある時期に埋蔵された経典(テルマ gter-ma)が、時を経て、テルトンによって発見されたとする経、論を多数有するが、テルトンとは何者か? | {
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a12651p38q1 | 仏典 | 仏典 [SEP] チベットの四大宗派のひとつニンマ派では、ある時期に埋蔵された経典(テルマ gter-ma)が、時を経て、しかるべき定めを帯びたテルトン(埋蔵経典発掘者)によって発見されたとする経、論を多数有し、同派の特徴となっている。テルマ(埋蔵経典)の出現は、中世以来、現代に至るまで継続しており、乾慧学者から発掘者による創作だと見なされることがある。この派は上記の諸版と異なる古タントラ集成(ニンマ・ギューブム)を有している。 | チベットの四大宗派のひとつは? | {
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a12651p38q2 | 仏典 | 仏典 [SEP] チベットの四大宗派のひとつニンマ派では、ある時期に埋蔵された経典(テルマ gter-ma)が、時を経て、しかるべき定めを帯びたテルトン(埋蔵経典発掘者)によって発見されたとする経、論を多数有し、同派の特徴となっている。テルマ(埋蔵経典)の出現は、中世以来、現代に至るまで継続しており、乾慧学者から発掘者による創作だと見なされることがある。この派は上記の諸版と異なる古タントラ集成(ニンマ・ギューブム)を有している。 | ニンマ派はどこの国の四大宗派の一つか | {
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a12651p38q3 | 仏典 | 仏典 [SEP] チベットの四大宗派のひとつニンマ派では、ある時期に埋蔵された経典(テルマ gter-ma)が、時を経て、しかるべき定めを帯びたテルトン(埋蔵経典発掘者)によって発見されたとする経、論を多数有し、同派の特徴となっている。テルマ(埋蔵経典)の出現は、中世以来、現代に至るまで継続しており、乾慧学者から発掘者による創作だと見なされることがある。この派は上記の諸版と異なる古タントラ集成(ニンマ・ギューブム)を有している。 | チベットの四大宗派のひとつで、ある時期に埋蔵された経典が、時を経て、しかるべき定めを帯びたテルトンによって発見されたとする経、論を多数有しているのは? | {
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a12651p38q4 | 仏典 | 仏典 [SEP] チベットの四大宗派のひとつニンマ派では、ある時期に埋蔵された経典(テルマ gter-ma)が、時を経て、しかるべき定めを帯びたテルトン(埋蔵経典発掘者)によって発見されたとする経、論を多数有し、同派の特徴となっている。テルマ(埋蔵経典)の出現は、中世以来、現代に至るまで継続しており、乾慧学者から発掘者による創作だと見なされることがある。この派は上記の諸版と異なる古タントラ集成(ニンマ・ギューブム)を有している。 | ある時期に埋蔵された経典(テルマ gter-ma)が、時を経て、しかるべき定めを帯びたテルトン(埋蔵経典発掘者)によって発見されたとする経、論を多数有している宗派は? | {
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a12651p4q0 | 仏典 | 仏典 [SEP] 仏典は、律・経・論に三分類され、ひとまとめにされたものが、それぞれ律蔵、経蔵、論蔵と総称される。この三種を総称して「三蔵」と呼ぶ。 | 仏典は、何に三分類されるか? | {
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a12651p4q1 | 仏典 | 仏典 [SEP] 仏典は、律・経・論に三分類され、ひとまとめにされたものが、それぞれ律蔵、経蔵、論蔵と総称される。この三種を総称して「三蔵」と呼ぶ。 | 律蔵、経蔵、論蔵を総称して何と呼ぶか? | {
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a12651p4q2 | 仏典 | 仏典 [SEP] 仏典は、律・経・論に三分類され、ひとまとめにされたものが、それぞれ律蔵、経蔵、論蔵と総称される。この三種を総称して「三蔵」と呼ぶ。 | 仏典の律蔵、経蔵、論蔵を総称して何と呼ぶか。 | {
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a12651p4q3 | 仏典 | 仏典 [SEP] 仏典は、律・経・論に三分類され、ひとまとめにされたものが、それぞれ律蔵、経蔵、論蔵と総称される。この三種を総称して「三蔵」と呼ぶ。 | 律蔵、経蔵、論蔵と総称される三種を総称してなんというか? | {
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a12651p4q4 | 仏典 | 仏典 [SEP] 仏典は、律・経・論に三分類され、ひとまとめにされたものが、それぞれ律蔵、経蔵、論蔵と総称される。この三種を総称して「三蔵」と呼ぶ。 | 仏典は3つに分類されるが具体的になに? | {
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a12651p5q0 | 仏典 | 仏典 [SEP] 漢字文化圏では、大乗仏教経典や偽経の追加、段階的な伝播・翻訳過程によって、元々の「三蔵」の枠組みが壊れてしまった。後に『一切経』『大蔵経』として仏典群を総集・再編し直したので、専らこれが仏典の総称として用いられる。 | 仏典の総称として用いられる仏典群を総集・再編し直したものは何か? | {
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a12651p5q1 | 仏典 | 仏典 [SEP] 漢字文化圏では、大乗仏教経典や偽経の追加、段階的な伝播・翻訳過程によって、元々の「三蔵」の枠組みが壊れてしまった。後に『一切経』『大蔵経』として仏典群を総集・再編し直したので、専らこれが仏典の総称として用いられる。 | 大乗仏教経典や偽経の追加、段階的な伝播・翻訳過程によって、元々の「三蔵」の枠組みが壊れてしまったのはどこ? | {
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a12651p5q2 | 仏典 | 仏典 [SEP] 漢字文化圏では、大乗仏教経典や偽経の追加、段階的な伝播・翻訳過程によって、元々の「三蔵」の枠組みが壊れてしまった。後に『一切経』『大蔵経』として仏典群を総集・再編し直したので、専らこれが仏典の総称として用いられる。 | 仏典群を総集・再編し直したものを何という? | {
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"『一切経』『大蔵経』"
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a12651p5q3 | 仏典 | 仏典 [SEP] 漢字文化圏では、大乗仏教経典や偽経の追加、段階的な伝播・翻訳過程によって、元々の「三蔵」の枠組みが壊れてしまった。後に『一切経』『大蔵経』として仏典群を総集・再編し直したので、専らこれが仏典の総称として用いられる。 | 漢字文化圏で、大乗仏教経典や偽経の追加、段階的な伝播・翻訳過程によって、何の枠組みが壊れてしまったのか。 | {
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a12651p5q4 | 仏典 | 仏典 [SEP] 漢字文化圏では、大乗仏教経典や偽経の追加、段階的な伝播・翻訳過程によって、元々の「三蔵」の枠組みが壊れてしまった。後に『一切経』『大蔵経』として仏典群を総集・再編し直したので、専らこれが仏典の総称として用いられる。 | 大乗仏教経典や偽経の追加、段階的な伝播・翻訳過程によって、元々の枠組みが壊れてしまったものは? | {
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a12651p6q0 | 仏典 | 仏典 [SEP] 仏教の聖典は、釈迦時代は釈迦が文書化を許さなかったため、暗記によって保持されたと伝えられる。この時代のインドでは、文字は既に普及していたが、その使用は商用や法規の公布などに限られ、世俗の用件に用いるものではなかった。ことに、書くことで自分を離れるから、聖典に対する敬虔さを失うと考えられて、文字に記すのではなく、体で覚えたわけである。 | 釈迦時代は釈迦が文書化を許さなかったため、暗記によって保持されたと伝えられる聖典の宗教は? | {
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a12651p6q1 | 仏典 | 仏典 [SEP] 仏教の聖典は、釈迦時代は釈迦が文書化を許さなかったため、暗記によって保持されたと伝えられる。この時代のインドでは、文字は既に普及していたが、その使用は商用や法規の公布などに限られ、世俗の用件に用いるものではなかった。ことに、書くことで自分を離れるから、聖典に対する敬虔さを失うと考えられて、文字に記すのではなく、体で覚えたわけである。 | 仏教の聖典は、釈迦時代は釈迦が文書化を許さなかったためどのように保持された? | {
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a12651p6q2 | 仏典 | 仏典 [SEP] 仏教の聖典は、釈迦時代は釈迦が文書化を許さなかったため、暗記によって保持されたと伝えられる。この時代のインドでは、文字は既に普及していたが、その使用は商用や法規の公布などに限られ、世俗の用件に用いるものではなかった。ことに、書くことで自分を離れるから、聖典に対する敬虔さを失うと考えられて、文字に記すのではなく、体で覚えたわけである。 | 仏教の聖典は、釈迦時代は釈迦が文書化を許さなかったため何によって保持されたといわれている | {
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"暗記"
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a12651p7q0 | 仏典 | 仏典 [SEP] 仏典が組織的に編まれたのは、釈迦の入滅後間もない時期である。釈迦の入滅時に一人の比丘が「もう師からとやかくいわれることもなくなった」と放言したことがきっかけで、これを聞いた摩訶迦葉が、釈迦の教説(法と律)を正しく記録することの大切さを仲間の比丘たちに訴え、聖典を編纂した。 | 仏典が組織的に編まれたのはいつ? | {
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a12651p7q1 | 仏典 | 仏典 [SEP] 仏典が組織的に編まれたのは、釈迦の入滅後間もない時期である。釈迦の入滅時に一人の比丘が「もう師からとやかくいわれることもなくなった」と放言したことがきっかけで、これを聞いた摩訶迦葉が、釈迦の教説(法と律)を正しく記録することの大切さを仲間の比丘たちに訴え、聖典を編纂した。 | 仏典が組織的に編まれたのは? | {
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a12651p7q2 | 仏典 | 仏典 [SEP] 仏典が組織的に編まれたのは、釈迦の入滅後間もない時期である。釈迦の入滅時に一人の比丘が「もう師からとやかくいわれることもなくなった」と放言したことがきっかけで、これを聞いた摩訶迦葉が、釈迦の教説(法と律)を正しく記録することの大切さを仲間の比丘たちに訴え、聖典を編纂した。 | 釈迦の入滅後間もない時期に組織的に何が編まれた | {
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a12651p7q3 | 仏典 | 仏典 [SEP] 仏典が組織的に編まれたのは、釈迦の入滅後間もない時期である。釈迦の入滅時に一人の比丘が「もう師からとやかくいわれることもなくなった」と放言したことがきっかけで、これを聞いた摩訶迦葉が、釈迦の教説(法と律)を正しく記録することの大切さを仲間の比丘たちに訴え、聖典を編纂した。 | 仏典が組織的に編まれたのはいつか | {
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a12651p7q4 | 仏典 | 仏典 [SEP] 仏典が組織的に編まれたのは、釈迦の入滅後間もない時期である。釈迦の入滅時に一人の比丘が「もう師からとやかくいわれることもなくなった」と放言したことがきっかけで、これを聞いた摩訶迦葉が、釈迦の教説(法と律)を正しく記録することの大切さを仲間の比丘たちに訴え、聖典を編纂した。 | 仏典が組織的に編まれたのはいつ頃か。 | {
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a12651p8q0 | 仏典 | 仏典 [SEP] この編纂会議を結集(けつじゅう、サンスクリット:saṃgīti)と呼ぶ。しかし、ここでは現在我々が目にする仏典の成立ではなく、核とも言うべきものが作られた。この編纂会議は、第一結集と呼ばれている。 | 結集は何と読む | {
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a12651p8q1 | 仏典 | 仏典 [SEP] この編纂会議を結集(けつじゅう、サンスクリット:saṃgīti)と呼ぶ。しかし、ここでは現在我々が目にする仏典の成立ではなく、核とも言うべきものが作られた。この編纂会議は、第一結集と呼ばれている。 | 仏典の編纂会議のことを何というか | {
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a12651p8q2 | 仏典 | 仏典 [SEP] この編纂会議を結集(けつじゅう、サンスクリット:saṃgīti)と呼ぶ。しかし、ここでは現在我々が目にする仏典の成立ではなく、核とも言うべきものが作られた。この編纂会議は、第一結集と呼ばれている。 | この編纂会議を何という? | {
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"結集"
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a12651p9q0 | 仏典 | 仏典 [SEP] したがって、仏典を研究する場合には出自調査は難しい場合が多い。ことに経典は一般に釈迦の説法の記録の形式をとり、著作者名が記されることはない。具体的に言うと、釈迦の死後数百年を経過して書かれたことが明らかな仏典であっても、釈迦の教説を正しく継承しているという立場を標榜し、「このように私は(仏から)聞いている」(漢訳仏典では「如是我聞」)という出だしで始められており、仏典自身には、いつ、どこで著述されたかは、明記されていない(大乗非仏説)。 | 仏典自身には、いつ、どこで著述されたかは、明記されている? | {
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a12651p9q1 | 仏典 | 仏典 [SEP] したがって、仏典を研究する場合には出自調査は難しい場合が多い。ことに経典は一般に釈迦の説法の記録の形式をとり、著作者名が記されることはない。具体的に言うと、釈迦の死後数百年を経過して書かれたことが明らかな仏典であっても、釈迦の教説を正しく継承しているという立場を標榜し、「このように私は(仏から)聞いている」(漢訳仏典では「如是我聞」)という出だしで始められており、仏典自身には、いつ、どこで著述されたかは、明記されていない(大乗非仏説)。 | 仏典を研究する場合には出自調査はどんな場合が多い | {
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a12651p9q2 | 仏典 | 仏典 [SEP] したがって、仏典を研究する場合には出自調査は難しい場合が多い。ことに経典は一般に釈迦の説法の記録の形式をとり、著作者名が記されることはない。具体的に言うと、釈迦の死後数百年を経過して書かれたことが明らかな仏典であっても、釈迦の教説を正しく継承しているという立場を標榜し、「このように私は(仏から)聞いている」(漢訳仏典では「如是我聞」)という出だしで始められており、仏典自身には、いつ、どこで著述されたかは、明記されていない(大乗非仏説)。 | 経典は一般に釈迦の説法の記録の形式をとり、何が記されることはない? | {
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a12651p9q3 | 仏典 | 仏典 [SEP] したがって、仏典を研究する場合には出自調査は難しい場合が多い。ことに経典は一般に釈迦の説法の記録の形式をとり、著作者名が記されることはない。具体的に言うと、釈迦の死後数百年を経過して書かれたことが明らかな仏典であっても、釈迦の教説を正しく継承しているという立場を標榜し、「このように私は(仏から)聞いている」(漢訳仏典では「如是我聞」)という出だしで始められており、仏典自身には、いつ、どこで著述されたかは、明記されていない(大乗非仏説)。 | 出自調査は難しい場合が多いのはどのような場合か | {
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a1266313p0q0 | アフガニスタンの歴史 | アフガニスタンの歴史 [SEP] アフガニスタンの考古学調査が行われてきているが、先史時代のことで分かったことは比較的少ない。しかし、旧石器時代と新石器時代に、この地域に広く人が住んでいたことは分かっている。10万年前頃(前期旧石器時代)の石器がカズニー西方のダシュティ・ナウルで、5万年前頃(中期旧石器時代)の石器がヒンドゥークシュ山脈の北方と南方地域で、2万~1万5000年前頃(後期旧石器時代)の石器がバルフ地域で発見されている。また、1万年前頃のものと6000年前頃のものと推定される石器がアム・ダリアの南方とフルムの北方で発見されている。 | アフガニスタンで、10万年前頃の石器が発見されたのはカズニー西方のどこですか? | {
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a1266313p0q1 | アフガニスタンの歴史 | アフガニスタンの歴史 [SEP] アフガニスタンの考古学調査が行われてきているが、先史時代のことで分かったことは比較的少ない。しかし、旧石器時代と新石器時代に、この地域に広く人が住んでいたことは分かっている。10万年前頃(前期旧石器時代)の石器がカズニー西方のダシュティ・ナウルで、5万年前頃(中期旧石器時代)の石器がヒンドゥークシュ山脈の北方と南方地域で、2万~1万5000年前頃(後期旧石器時代)の石器がバルフ地域で発見されている。また、1万年前頃のものと6000年前頃のものと推定される石器がアム・ダリアの南方とフルムの北方で発見されている。 | 1万年前頃のものと6000年前頃のものと推定される石器が発見されたのはどこか。 | {
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"アム・ダリアの南方とフルムの北方で"
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a1266313p0q2 | アフガニスタンの歴史 | アフガニスタンの歴史 [SEP] アフガニスタンの考古学調査が行われてきているが、先史時代のことで分かったことは比較的少ない。しかし、旧石器時代と新石器時代に、この地域に広く人が住んでいたことは分かっている。10万年前頃(前期旧石器時代)の石器がカズニー西方のダシュティ・ナウルで、5万年前頃(中期旧石器時代)の石器がヒンドゥークシュ山脈の北方と南方地域で、2万~1万5000年前頃(後期旧石器時代)の石器がバルフ地域で発見されている。また、1万年前頃のものと6000年前頃のものと推定される石器がアム・ダリアの南方とフルムの北方で発見されている。 | カズニー西方のダシュティ・ナウルで見つかった石器はどのくらい前のものか | {
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a1266313p0q3 | アフガニスタンの歴史 | アフガニスタンの歴史 [SEP] アフガニスタンの考古学調査が行われてきているが、先史時代のことで分かったことは比較的少ない。しかし、旧石器時代と新石器時代に、この地域に広く人が住んでいたことは分かっている。10万年前頃(前期旧石器時代)の石器がカズニー西方のダシュティ・ナウルで、5万年前頃(中期旧石器時代)の石器がヒンドゥークシュ山脈の北方と南方地域で、2万~1万5000年前頃(後期旧石器時代)の石器がバルフ地域で発見されている。また、1万年前頃のものと6000年前頃のものと推定される石器がアム・ダリアの南方とフルムの北方で発見されている。 | 2万~1万5000年前頃は何時代? | {
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a1266313p0q4 | アフガニスタンの歴史 | アフガニスタンの歴史 [SEP] アフガニスタンの考古学調査が行われてきているが、先史時代のことで分かったことは比較的少ない。しかし、旧石器時代と新石器時代に、この地域に広く人が住んでいたことは分かっている。10万年前頃(前期旧石器時代)の石器がカズニー西方のダシュティ・ナウルで、5万年前頃(中期旧石器時代)の石器がヒンドゥークシュ山脈の北方と南方地域で、2万~1万5000年前頃(後期旧石器時代)の石器がバルフ地域で発見されている。また、1万年前頃のものと6000年前頃のものと推定される石器がアム・ダリアの南方とフルムの北方で発見されている。 | 10万年前頃の時代を何と言う? | {
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a1266313p1q0 | アフガニスタンの歴史 | アフガニスタンの歴史 [SEP] およそ1万年前には農業と牧畜が行われていたし、紀元前6千年紀にはバダフシャン産のラピスラズリがインドへ輸出されていたし、紀元前2千年紀にはアフガニスタンのラピスラズリがエーゲ海地域で使用されていて、ミュケーナイの竪穴墓の一つから見つかっている。さらに、紀元前1336年にはトルコ沖のウルブルンで難破した船からアフガニスタン産かも知れない錫が運ばれていたことが分かっている。 | アフガニスタンで、バダフシャン産のラピスラズリがインドへ輸出されていたのは紀元前何年紀ですか? | {
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a1266313p1q1 | アフガニスタンの歴史 | アフガニスタンの歴史 [SEP] およそ1万年前には農業と牧畜が行われていたし、紀元前6千年紀にはバダフシャン産のラピスラズリがインドへ輸出されていたし、紀元前2千年紀にはアフガニスタンのラピスラズリがエーゲ海地域で使用されていて、ミュケーナイの竪穴墓の一つから見つかっている。さらに、紀元前1336年にはトルコ沖のウルブルンで難破した船からアフガニスタン産かも知れない錫が運ばれていたことが分かっている。 | 紀元前6千年紀にアフガニスタンからインドへ輸出されていたバダフシャン産の鉱物は何か | {
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a1266313p1q2 | アフガニスタンの歴史 | アフガニスタンの歴史 [SEP] およそ1万年前には農業と牧畜が行われていたし、紀元前6千年紀にはバダフシャン産のラピスラズリがインドへ輸出されていたし、紀元前2千年紀にはアフガニスタンのラピスラズリがエーゲ海地域で使用されていて、ミュケーナイの竪穴墓の一つから見つかっている。さらに、紀元前1336年にはトルコ沖のウルブルンで難破した船からアフガニスタン産かも知れない錫が運ばれていたことが分かっている。 | トルコ沖のウルブルンで難破した船からアフガニスタン産かも知れない錫が運ばれていたのはいつ頃か。 | {
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a1266313p1q3 | アフガニスタンの歴史 | アフガニスタンの歴史 [SEP] およそ1万年前には農業と牧畜が行われていたし、紀元前6千年紀にはバダフシャン産のラピスラズリがインドへ輸出されていたし、紀元前2千年紀にはアフガニスタンのラピスラズリがエーゲ海地域で使用されていて、ミュケーナイの竪穴墓の一つから見つかっている。さらに、紀元前1336年にはトルコ沖のウルブルンで難破した船からアフガニスタン産かも知れない錫が運ばれていたことが分かっている。 | アフガニスタンで農業と牧畜が行われていたのは、どのくらい前か | {
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a1266313p1q4 | アフガニスタンの歴史 | アフガニスタンの歴史 [SEP] およそ1万年前には農業と牧畜が行われていたし、紀元前6千年紀にはバダフシャン産のラピスラズリがインドへ輸出されていたし、紀元前2千年紀にはアフガニスタンのラピスラズリがエーゲ海地域で使用されていて、ミュケーナイの竪穴墓の一つから見つかっている。さらに、紀元前1336年にはトルコ沖のウルブルンで難破した船からアフガニスタン産かも知れない錫が運ばれていたことが分かっている。 | バダフシャン産のラピスラズリがインドへ輸出されていたのはいつ? | {
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a1266313p10q0 | アフガニスタンの歴史 | アフガニスタンの歴史 [SEP] ヴァースデーヴァ1世はサーサーン朝のシャープール1世に敗北し、インドを失うと、その後もサーサーン朝に攻められて領土を失いカブールのみとなった。サーサーン朝のバハラーム2世の時代に滅亡し、その領土はサーサーン朝の支配下でクシャーノ・サーサーン朝となった。 | ヴァースデーヴァ1世はサーサーン朝のシャープール1世に敗北し、インドを失うと、その後もサーサーン朝に攻められて領土を失いカブールのみとなった国は | {
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a1266313p10q1 | アフガニスタンの歴史 | アフガニスタンの歴史 [SEP] ヴァースデーヴァ1世はサーサーン朝のシャープール1世に敗北し、インドを失うと、その後もサーサーン朝に攻められて領土を失いカブールのみとなった。サーサーン朝のバハラーム2世の時代に滅亡し、その領土はサーサーン朝の支配下でクシャーノ・サーサーン朝となった。 | サーサーン朝のシャープール1世に敗北したのは誰? | {
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a1266313p10q2 | アフガニスタンの歴史 | アフガニスタンの歴史 [SEP] ヴァースデーヴァ1世はサーサーン朝のシャープール1世に敗北し、インドを失うと、その後もサーサーン朝に攻められて領土を失いカブールのみとなった。サーサーン朝のバハラーム2世の時代に滅亡し、その領土はサーサーン朝の支配下でクシャーノ・サーサーン朝となった。 | サーサーン朝のシャープール1世に敗北した人は? | {
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a1266313p10q3 | アフガニスタンの歴史 | アフガニスタンの歴史 [SEP] ヴァースデーヴァ1世はサーサーン朝のシャープール1世に敗北し、インドを失うと、その後もサーサーン朝に攻められて領土を失いカブールのみとなった。サーサーン朝のバハラーム2世の時代に滅亡し、その領土はサーサーン朝の支配下でクシャーノ・サーサーン朝となった。 | ヴァースデーヴァ1世はサーサーン朝の誰に敗北し、インドを失ったか? | {
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a1266313p10q4 | アフガニスタンの歴史 | アフガニスタンの歴史 [SEP] ヴァースデーヴァ1世はサーサーン朝のシャープール1世に敗北し、インドを失うと、その後もサーサーン朝に攻められて領土を失いカブールのみとなった。サーサーン朝のバハラーム2世の時代に滅亡し、その領土はサーサーン朝の支配下でクシャーノ・サーサーン朝となった。 | サーサーン朝は何の時代に滅亡したか? | {
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a1266313p11q0 | アフガニスタンの歴史 | アフガニスタンの歴史 [SEP] アラビア半島で興ったイスラーム教はイランや中央アジアに浸透し、トルコ人とイラン人によるいくつかの地方勢力を生み出し、9世紀から10世紀の間に最後の非イスラーム王朝は滅亡した。イランのターヒル朝はバルフやヘラートを領有しており、これは後に土着のイラン系サッファール朝が勢力を引き継ぐ。北部では地方有力者がイラン系のサーマーン朝に属してブハーラ、サマルカンド、バルフは発展した。 | イスラーム教はどこでおこったか? | {
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a1266313p11q1 | アフガニスタンの歴史 | アフガニスタンの歴史 [SEP] アラビア半島で興ったイスラーム教はイランや中央アジアに浸透し、トルコ人とイラン人によるいくつかの地方勢力を生み出し、9世紀から10世紀の間に最後の非イスラーム王朝は滅亡した。イランのターヒル朝はバルフやヘラートを領有しており、これは後に土着のイラン系サッファール朝が勢力を引き継ぐ。北部では地方有力者がイラン系のサーマーン朝に属してブハーラ、サマルカンド、バルフは発展した。 | 非イスラーム王朝は滅亡したのはいつからいつの間? | {
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a1266313p11q2 | アフガニスタンの歴史 | アフガニスタンの歴史 [SEP] アラビア半島で興ったイスラーム教はイランや中央アジアに浸透し、トルコ人とイラン人によるいくつかの地方勢力を生み出し、9世紀から10世紀の間に最後の非イスラーム王朝は滅亡した。イランのターヒル朝はバルフやヘラートを領有しており、これは後に土着のイラン系サッファール朝が勢力を引き継ぐ。北部では地方有力者がイラン系のサーマーン朝に属してブハーラ、サマルカンド、バルフは発展した。 | アラビア半島で興った宗教は? | {
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a1266313p11q3 | アフガニスタンの歴史 | アフガニスタンの歴史 [SEP] アラビア半島で興ったイスラーム教はイランや中央アジアに浸透し、トルコ人とイラン人によるいくつかの地方勢力を生み出し、9世紀から10世紀の間に最後の非イスラーム王朝は滅亡した。イランのターヒル朝はバルフやヘラートを領有しており、これは後に土着のイラン系サッファール朝が勢力を引き継ぐ。北部では地方有力者がイラン系のサーマーン朝に属してブハーラ、サマルカンド、バルフは発展した。 | 北部では地方有力者がイラン系のサーマーン朝に属してブハーラ、サマルカンド、バルフは発展した国は | {
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