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潁水の誡橋において両軍は激突したが、謝尚軍は大敗を喫し、1万5千の死者を出した。
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謝尚は淮南へ逃走したが、姚襄は輜重を放棄して芍陂まで謝尚を護衛した。
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これ以降、謝尚は尽くの事案について、姚襄に付託するようになった。
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353年9月、駐屯地を歴陽に移した。
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前燕・前秦が精強であったことから北伐は時期尚早と判断し、淮河一帯で広く屯田を行い、将士を訓励した。
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当時、寿春を鎮守していた東晋の中軍将軍・揚州刺史殷浩は姚襄が強盛である事を妬み、またその威名を恐れていた。
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ある時、姚襄の配下で殷浩に帰順しようとする者がいたが、姚襄はこれを誅殺した。
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これを聞いた殷浩は遂に姚襄誅殺を目論み、まずその諸弟を捕らえると、幾度も刺客を派遣して姚襄を刺殺しようとした。
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だが、刺客はみな寝返って内情を漏らし、姚襄は彼らを旧臣のように遇した。
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殷浩はさらに将軍魏憬に五千余りの兵を与えて姚襄を襲わせたが、姚襄はこれを返り討ちにして魏憬を斬り殺し、その兵を吸収した。
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平北はいつも勝手に振る舞い、甚だ輔車の理を失しているといえよう。
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朝廷が道を有し、宰輔が明哲であるが故です。
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また、小人に好き勝手にさせ、我の馬を略奪させている。
japanese
悪党というものは王法が容れるところではありません。
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その後、殷浩は将軍謝万に姚襄を討たせたが、姚襄は返り討ちにした。
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これにより、殷浩はさらに激怒した。
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10月、殷浩は7万の兵を率いて北伐を敢行すると、姚襄をその前鋒とした。
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姚襄はこれに呼応する振りをして兵を率いて北へ向かうと、殷浩が到来する頃合いを見計らい、密かに夜闇に紛れて伏兵を配した。
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殷浩は姚襄を追って山桑まで至ったが、姚襄はこれを迎え撃ち、殷浩を大敗させた。
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殷浩は輜重を放棄して逃走し、譙城に入った。
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姚襄は1万人余りを俘斬し、その物資を尽く手に入れた。
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捕らえた士卒の多くが逃亡すると、姚襄は兄の曜武将軍姚益に山桑の砦を守らせ、自らはまた淮南へ向かった。
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11月、殷浩はまたも龍驤将軍劉啓・王彬之を派遣して山桑を攻撃すると、姚襄は淮南から救援に向かい、劉啓・王彬之を破って両者を討ち取った。
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その後、進軍して芍陂に拠った。
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12月、鼓行しながら淮河を渡り、盱眙に駐屯した。
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ここで流民を招掠すると、その兵は7万を数えた。
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各拠点に守宰を配置して農耕と養蚕を振興すると、さらに建康へ使者を派遣して殷浩の罪状を報告すると共に、混乱を招いたことを陳謝した。
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354年2月、姚襄は前燕に使者を派遣し、帰順の意を示した。
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5月、江西の流民郭敞ら千人余りは東晋の陳留内史劉仕を捕らえると、姚襄に帰順した。
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これにより、東晋朝廷は震え上がった。
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11月、東晋から帰還途上であった前秦の武都王苻安を捕らえ、洛州刺史に任じた。
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355年1月、大将軍・大単于を自称し、完全に東晋と決別した。
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4月、姚襄の将兵は多くが北方の人であり、みな北に戻るよう勧めると、これに従った。
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5月、外黄に侵攻すると、東晋の冠軍将軍高季が迎え撃った。
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姚襄軍は大敗を喫したが、敗残兵を集めて撫恤したことで、勢力は盛り返した。
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ちょうど高季が亡くなったので、機に応じて許昌へ入った。
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この後、関中攻略を目論み、まずは河東へ進軍する準備を始めた。
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356年5月、許昌を出発し、周成が割拠する洛陽へ攻め入った。
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今、堅城の下で兵を屯しておりますが、気力は使い果たしてその威は挫かれております。
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これでは他の寇に乗じられるやもしれません。
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これこそ危亡の道です。
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間もなくして王亮はこの世を去った。
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東晋の征西大将軍桓温は江陵から姚襄討伐の兵を挙げ、洛陽へ迫った。
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8月、桓温が伊水の上流に到達すると、姚襄は洛陽の包囲を解いて桓温に備え、精鋭を伊水の北にある林の中に隠した。
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訪ねてきたければ、近くにいるのだからすぐ会うことができよう。
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姚襄は伊水を挟んで桓温を迎え撃ったが、桓温は陣形を整えて自ら武具を着けて督戦し、姚襄はこれに大敗を喫して死者は数千に及んだ。
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配下の張駿・楊凝らはみな桓温により捕らえられ、尋陽へと送られた。
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姚襄は配下の数千騎を伴って、洛陽の北邙山に逃亡した。
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その夜、民の中で妻子を棄てて姚襄に付き従った者は五千人余りに上り、さらに陽郷に移ると、これに赴いた者は四千戸余りを数えた。
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姚襄が西へ逃亡すると、桓温はこれを追撃したが、果たせなかった。
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その後、平陽に至ると、前秦の并州刺史尹赤は再び兵を率いて姚襄に帰順した。
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こうして姚襄は平陽を支配下に入れ、襄陵に拠った。
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357年3月、姚襄は北屈へ移ると、再び関中攻略を目論んだ。
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これにより、羌胡や前秦の民で帰順する者が五万戸余りに及んだ。
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前秦君主苻生は苻飛龍を派遣して姚蘭を攻撃し、姚蘭は敗れて捕らえられた。
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これに対して姚襄は、堀を深く塁を高くして守りを固め、応戦しようとはしなかった。
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5月、鄧羌は騎兵3千を率い、塁門に迫る形で布陣し、姚襄を煽った。
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出師には利が無いかと存じます。
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天が徳を棄てずに黎元を救うことを願うばかりだ。
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鄧羌は相手に優勢に立っていると思わせるように軍を退き、姚襄軍を本陣から遠く引き離させた。
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姚襄はこれに掛かり、追撃を続けて三原にまで至ったが、ここで鄧羌は騎兵を反転させ、敵軍に突撃を開始した。
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これを合図に、苻黄眉と苻堅が率いる本隊が姿を現し、大規模な戦闘となって姚襄は大敗を喫した。
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彼は黧眉騧と呼ばれる駿馬に乗っていたが、その馬が転倒した事で前秦軍に捕まり、斬り殺された。
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享年27であった。
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弟の姚萇は敗残兵を纏め上げると、苻生に降伏した。
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姚襄は父である姚弋仲の棺を軍中に置いていたが、苻生は王の礼をもって姚弋仲を葬り、また公の礼をもって姚襄を葬った。
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396-97シーズンは、プレミアシップの5年目のシーズンである。
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ルンド大学に残り、17年から数学、植物学、経済学の講師を務め、1812年に植物学、経済学の教授となった。
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1年にドイツ自然科学アカデミー・レオポルディーナの会員に選ばれた。
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1831年にはスウェーデン・アカデミーの終身会員となった。
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植物学の分野では藻類の分類に関して業績をあげた。
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経済学の著作もあり、スウェーデンの学校制度の改革に貢献した。
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円墳で、墳丘は落剥により小振りなものとなっているが、本来は直径10メートル・高さ2.5メートル程度と推定されている。
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6世紀後半の造営と思われる。
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石室は横穴式で長さメートル・高さ1.9メートルである。
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操山北麓の有力者の家族墓と推定される。
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近年まで石室内には防火用水・用具が置かれており、天井石には”火の用心”のペンキ跡が残っている。
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明治時代中頃、大阪で米相場が立つと旗を振って知らせる連絡所がこの近くにあったことに由来する。
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一辺27メートル、高さ4メートルの方墳である。
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築造時期は古墳時代前期の5世紀前半と推定されている。
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墳頂部には葺石が施され、形象埴輪・円筒埴輪が巡らされていた。
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墳頂部中央に竪穴式石室が認められる。
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石室両脇に粘土槨がある。
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築造時期は古墳時代後期の6世紀後半と推定されている。
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直径15メートル、高さ3メートル程度の円墳であったと推計されているが墳丘は流失し概ね失われ横穴式石室が剥き出しとなっている。
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露出した石室の大きさが呼び名となった。
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操山丘陵の北麓に住んでいた有力者の家族墓と思われる。
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4世紀末から5世紀初頭に造営されたと推定されている。
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19議席を獲得する圧勝を収め、バンダーリーが州首相に返り咲いた。
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これはバンダーリーの独裁的な性格や特権層との癒着への反発が動機であったとされる。
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これにより、翌1994年5月にはバンダーリーへの不信任案が可決され、州議会解散となる。
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チャムリンが村落開発重視の姿勢を示すなど、バンダーリー政権への不満を巧みに取りまとめたことが勝敗に大きく影響したとされる。
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これ以後の州政治は、チャムリンとバンダーリーとの一騎討ちの様相を呈していくことになる。
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中央との関係を重視するバンダーリーに対し、チャムリンは州内政を重視する姿勢を有していたとされる。
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しかし結局、年を追うごとにチャムリンは州内での地歩を固め、バンダーリーを寄せ付けない強さを見せるようになる。
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29年の選挙直前から、バンダーリーは収賄の罪につき裁判所で審理を受けている。
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2月、ガントク地方裁判所での一審で禁錮6か月と1万ルピーの罰金を科された。
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全13戦でタイトルが争われた。
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前年に比べるとオリンパス・ラリーがスケジュールから外され北米大陸でのイベントが無くなり、ラリー・オーストラリアが加えられた。
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マルティーニ・ランチアのシーズン支配は3年目となった。