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11月6日にはキエフを占領した。
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北アフリカ戦線では、西のアルジェリアに上陸したアメリカ軍と、東のリビアから進撃するイギリス軍によって、イタリアとドイツ両軍はチュニジアのボン岬で包囲された。
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アメリカ軍は、アメリカへ移民したマフィアとの連携でシチリア島内で兵を進めた。
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なお船員らは日本軍に一時拘留されたが、イタリア社会共和国成立後、サロ政権についた者はそのまま枢軸国側として従事し、日本軍およびドイツ軍の下で太平洋およびインド洋の警備にあたった。
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この突然の自沈と逃亡は、サロ政権につかなかったイタリア軍将兵に対する日本軍および政府の感情悪化につながり、その後のイタリア軍将兵の捕虜収容所での過酷さにつながった。
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さらにこの年、連合国の首脳および閣僚は1月14日カサブランカ会談、月19日-30日、11月22日-26日カイロ会談、11月2日間に及ぶドイツ軍の包囲から解放した。
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ソ連は開戦時の領土をほぼ奪回し、さらにソ連軍はバルト三国、ポーランド、ルーマニアなどに侵攻していった。
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1月17日にイタリアのモンテ・カッシーノで、連合国軍のイタリア戦線における、ドイツ軍のの突破およびローマ解放のための戦いが開始された。
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ブラジル軍も参戦し、5月19日に連合国軍は勝利する。
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疑心暗鬼に苛まれたヒトラーは、反乱グループとその関係者約2人を残忍な方法で処刑させた。
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また、国民的英雄エルヴィン・ロンメル元帥の関与を疑い、自殺するか裁判を受けるか選択させ10月14日、ロンメルは自殺した。
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なお、7月から、戦後の世界経済体制の中心となる金融機構についての会議が、アメリカ・ニューハンプシャー州、ブレトン・ウッズで45か国が参加して行われ、ここでイギリス側のケインズが提案した清算同盟案と、アメリカ側のホワイトが提案した通貨基金案がぶつかりあった。
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当時のイギリスは戦争で多くの海外資産を失い、33億ポンドの債務を抱え、清算同盟案を提案したケインズの案に利益を見出していた。
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しかし戦後アメリカの案に基づいたブレトン・ウッズ協定が結ばれることとなる。
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ドイツ軍は、フランス上陸後の連合軍の進撃を辛うじて食い止めていたが、7月25日以降、連合軍はノルマンディー地方の西部を迂回したコブラ作戦の結果、ついにドイツ軍の戦線を突破し、ドイツ軍はファレーズ付近で包囲された。
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8月頭にイギリス軍やカナダ軍、アメリカ軍を筆頭に連合軍は東へ進み、パリ方面へ進撃を開始した。
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ヒトラーはパリが陥落する際、パリを焼きつくして撤退するよう言明した。
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パリを防衛するドイツ軍は崩壊し、8月25日に自由フランス軍とレジスタンスによってパリは解放された。
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しかしドイツ軍はヒトラーの指令に反しパリをほぼ無傷のまま明け渡したため、多くの歴史的建造物や市街地は、大きな被害を免れた。
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フランス共和国臨時政府がパリに帰還し、フランスの大半が連合軍の支配下に落ち、ヴィシー政権は崩壊した。
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さらに、ココ・シャネルのようにドイツ軍将校の愛人とドイツ軍のスパイを務めた上に、スイスなど国外へ亡命する者もいた。
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万人が死亡、10月2日に蜂起は失敗に終わった。
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ほぼ同時期、スロバキア共和国でもソ連軍支援の民衆蜂起が起きたが、ドイツ軍は苛烈な方法で鎮圧した。
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また月にはブルガリアの政変で、親独政権が崩壊し枢軸側から脱落した。
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1月3日、イギリス軍はベルギーの首都ブリュッセルを解放した。
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次いで一気にドイツを降伏に追い込むべくイギリス軍のモントゴメリー元帥は9月17日、オランダのナイメーヘン付近でライン川支流を越えるマーケット・ガーデン作戦を実行するが、拠点のアーネムを占領できず失敗する。
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ドイツ軍は立ち直り、1944年中に戦争を終わらせることは不可能になった。
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しかし、西からイギリスとアメリカ、東からはソ連を中心とした3か国の圧倒的な物量を背景にした連合軍の勢いを止めるのは、ドイツ1国ではもはや不可能だった。
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1日、スターリンとチャーチルはモスクワで、バルカン半島における影響力について協議した。
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また、オットー・スコルツェニー指揮のコマンド部隊がアメリカ軍に偽装し、後方撹乱を行った。
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1月17日ポーランドの首都ワルシャワ、1月19日クラクフを占領し、1月27日にはアウシュヴィッツ強制収容所を解放した。
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ポーランドは、1939年9月以降独ソ両国の支配下に置かれていたが、今度はその全域がソ連の支配下に入った。
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2月4日から11日まで、クリミア半島のヤルタで米英ソ3カ国首脳によるヤルタ会談が行われた。
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そこでドイツの終戦処理、ポーランドをはじめ東ヨーロッパの再建、ソ連の対日参戦および南樺太や千島列島・北方領土の帰属問題が討議された。
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少年兵を含めた兵士達はムッソリーニの期待に答えて希望の失われた状況下で戦いを続け、冬の間は連合軍の攻撃も停滞した。
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西部戦線のドイツ軍は1月16日、アルデンヌ反撃の開始地点まで押し返された。
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その後、連合軍は3月22日から24日にかけて相次いでライン川を渡河し、イギリス軍はドイツ北部へ、アメリカ軍はドイツ中部から南部へ進撃する。
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南部では4月2日にはミュンヘン、5月3日にはオーストリアのザルツブルクを占領した。
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ハンガリーでは1944年12月に赤軍・ルーマニア軍によってブダペストが包囲され、1945年2月13日に残存していたブダペスト防衛部隊が無条件降伏した。
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ソ連軍はここでも一般兵士から将官までもが略奪・暴行に参加し、1歳まで、およそ目に付くほとんどの女性が強姦された。
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ドイツ軍は3月15日から、ハンガリーの首都ブダペスト奪還と、油田確保のため春の目覚め作戦を行うが失敗する。
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しかし、軍需相アルベルト・シュペーアはこれを聞き入れず破壊は回避された。
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これ以降ヒトラーは体調を崩し、定期的に行っていたラジオ放送の演説も止め、ベルリンの総統地下壕に立てこもり、国民の前から姿を消す。
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ソ連軍はハンガリーからオーストリアへ進撃し4月13日、首都ウィーンを占領した。
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その夜、彼らはヒトラーからの許可によりベルリンから退去し始めたが、ヒトラー自身はベルリンの総統地下壕から動こうとしなかった。
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このような絶望的状況の中、ドイツ軍はヒトラーユーゲントなどの少年兵や、まともな武器も持たない兵役年齢を超えた志願兵を中心にした国民突撃隊まで動員し最後の抵抗を試みた。
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ベルリンを脱出したゲーリングは4月23日、連合軍と交渉すべく、ヒトラーに対し国家の指導権を要求する。
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マルティン・ボルマンにそそのかされたヒトラーは激怒し、ゲーリング逮捕を命令するが果たされなかった。
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4月28日にはヒムラーが中立国スウェーデンのベルナドッテ伯爵を通じ、連合軍と休戦交渉を試みていることが公表され、ヒトラーはヒムラーを解任、逮捕命令を出した。
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ここにイタリア社会共和国は名実ともに崩壊した。
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ムッソリーニは逃亡中、スイス国境のコモ湖付近の村でパルチザンに捕えられた。
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捕えられた一行はムッソリーニと愛人ペタッチ、それ以外の閣僚や将兵と分けられ、残されたムッソリーニはペタッチと共にミラノ方面へ車両で移動させられ、しばらくの間ジャコモ・デ・マリアという人物の所有する民家に幽閉されている。
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程無くしてパルチザンはムッソリーニについても略式裁判による即時処刑を決定、ムッソリーニはミラノ近郊のメッツェグラ市の郊外にあるに設置された処刑場へ護送された。
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4月2分にペタッチと共に射殺され、懸念されうるムッソリーニの生存説を払拭することや、依然として残る威厳を失わせることを図って、その死を公布することを計画した。
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ドンゴで射殺された何人かの重要な幹部の遺体と一緒にムッソリーニの遺体を貨物トラックに載せ、辺境のメッツェグラ市から主要都市の一つであるミラノ市へと移送した。
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4月29日朝、ミラノ中央駅にトラックが到着すると駅にある大広場であるロレート広場の地面の上に遺体を投げ出した。
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括り付けられたのはスタンダード・オイル社のガソリンスタンドの建物だった。
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ムッソリーニが殺害された2日後、4月3分頃にヒトラーは、ベルリンの総統地下壕で前日結婚したエヴァ・ブラウンと共に自殺した。
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死体は遺言に沿って総統地下壕脇に掘られた穴で焼却された。
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ヒトラーは遺言で大統領兼国防軍総司令官にデーニッツ海軍元帥を、首相にヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相を、ナチ党担当相および遺言執行人にマルティン・ボルマン党官房長を指定していたが、ゲッベルスもヒトラーの後を追い5月1日、妻と6人の子供を道連れに自殺した。
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なお先にドイツ軍を駆逐したソ連軍は各地で行われていたホロコーストを先に知っていたが、イギリス軍とアメリカ軍はこれをソ連のプロパカンダと思い信じなかった。
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5月2日、首都ベルリン市はソ連軍に占領された。
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その際、ベルリン市民の女性の多くがソ連兵に強姦されたといわれている。
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女性、果てや分の1の女性が死亡し、その大半が自殺だった。
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5月7日、フレンスブルク政府の命によってドイツ国防軍と政府は連合国に無条件降伏することが決定した。
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これはドイツ政府と軍による完全な無条件降伏であった。
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なお日独伊三国同盟には、降伏前に同盟国の日本と協議を行う決まりであったが、いまやドイツは日本政府と協議する余裕はもうなかった。
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なお連合国はフレンスブルク政府に対し、政府としての承認は行わなかった。
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5月23日には全閣僚が連合国に逮捕され、その機能を失った。
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敗戦後に中央政府がドイツに存在しない点は、敗戦と占領後に中央政府が存在し続けた日本と大きく異なる。
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これによりドイツ国、イタリアの2国の枢軸国が連合国側に降伏し、ヨーロッパでの戦いは終結した。
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その後も欧州では小規模かつ局地的な戦闘は続いたものの、国家間での戦闘行為は最後の枢軸国である大日本帝国と満洲国など数少ない友好国、そしてそれに対するイギリスやオーストラリア、アメリカや中華民国などの連合国による東南アジアと東アジア、太平洋地域のみとなった。
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5月8日午後11時1分に停戦が発効され、日の2日間はヨーロッパ全土は祝日となった。
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各地の枢軸軍は順次降伏していったが、ソ連軍らとドイツ軍の戦闘はドイツが無条件降伏したにもかかわらず、プラハの戦いが終結する5月11日まで続いた。
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なおソ連軍が停戦後も停戦を無視して戦いを継続するのは、無条件降伏ではない対日戦でも同様であり、戦時国際法に明らかに違反するものであった。
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2人の持ち物の中には、当時日本も開発していた原子爆弾の開発に欠かせないウラン235が560万人以上がドイツに到着できず命を落とした。
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その後7月17日から、ベルリン南西ポツダムにて、ヨーロッパの戦後問題を討議するポツダム会談が行われた。
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この会議で、ドイツの戦後分割統治などが取り決められたポツダム協定の締結が7月26日に行われた。
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ポツダム宣言の受託とその行使により、ドイツと違って、敗戦と占領後にも日本には中央政府が存在し続けることとなった。
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国際連盟の対応を受けて5月5日に上海停戦協定が結ばれ、日中両軍が上海市区から撤退し、騒ぎは収まるかに思えた。
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だが翌年の1933年2月23日に日本軍が熱河省に侵攻するなど、中華民国との関係がさらに悪化すると、日本に対する国際連盟加盟各国の態度も硬化した。
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さらに満州国建国などを国際連盟の場で非難され、松岡洋右代表以下日本代表はこれを不服として、あらかじめ準備していた宣言書を朗読して会場から退場し、日本のマスコミからは大喝采を受けた。
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日本代表はジュネーヴからの帰国途中にイタリアとイギリスを訪れ、ローマではベニート・ムッソリーニ首相と会見している。
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帰国後の3月27日に国際連盟を脱退する。
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またドイツも同年脱退した。
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なお、日本脱退の正式発効は、2年後の1935年3月27日となり、脱退宣言から1935年までの猶予期間中に日本は分担金を支払い続けていた。
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さらには、内大臣官邸や立憲政友会本部を攻撃し、これによって東京を混乱させて戒厳令を施行せざるを得ない状況に陥れ、その間に軍閥内閣を樹立して国家改造を行う計画であったが、未遂のままで鎮圧された。
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後継首相の選定は難航した。
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従来は内閣が倒れると、天皇から元老の西園寺公望に対して後継者推薦の下命があり、西園寺がこれに奉答して後継者が決まるという流れであったが、結局西園寺は政党内閣を断念し、軍を抑えるために元海軍大将で穏健な人格であった斎藤実を次期首相として奏薦した。
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さらに1936年5月に軍部は広田内閣に圧力を加え、一度は廃止された軍部大臣現役武官制を復活させた。
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広田内閣は腹切り問答によって陸軍大臣と対立し、議会を解散する要求を拒絶する代わりに1937年2月に総辞職に追い込まれた。
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この様に、191333年5月31日の塘沽協定により満州事変は停戦したが、中華民国政府は満州国も日本の満州占領も認めてはおらず、日本軍や中国共産党軍との散発的な戦闘は続いていた。
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1936年1名で蔣介石を拉致、拘束した。
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張学良と楊虎城は日本軍に対して中国共産党との共闘をするよう要求したが、監禁された蔣介石は張学良らの要求を強硬な態度で拒絶した。
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さらに国民政府は張学良の官職剥奪と軍事討伐を検討し、軍事委員会の緊急強化を決定した。
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張学良の目算通りに人民戦線派および各地将領が動かず、世論は張学良と反対の立場であった。
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形勢が不利となった張学良は、北支の閻錫山の下に特使を派遣して調停を依頼、妥協条件と旧東北軍の処置について協議を求めた。
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また事情を知った世論からも張学良は強い批判を浴びることとなった。
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反逆罪により張学良は逮捕され南京に連行、宋子文公館に幽閉された。
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しかし張は極刑や国民党から永久除名にされず、12月31日に軍事委員会高等軍法会議により懲役191年まで国民党から軟禁の身で過ごし、軟禁解除後の21年にハワイのホノルルで生涯を閉じた。