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japanese | また長沙、その後1944年11月には桂林、柳州の中華民国軍とアメリカ軍の共同飛行場も占領したが、すでにもぬけの殻であり連合国軍は撤退していた。 |
japanese | 日本軍は、中華民国軍とアメリカ軍を12月まで相手に、計画通りに連合国軍の航空基地の占領に成功し勝利を収め、結果として日本軍の最大の陣地の中国北部とインドシナ方面の陸路での連絡が可能となった。 |
japanese | 連合国軍は航空基地をさらに内陸部に撤退せざるを余儀なくされた。 |
japanese | ルーズベルトは中華民国の蔣介石を開戦以来一貫して強く信頼しかつ支持していた。 |
japanese | カイロ会談の際に、蔣介石を日本との単独講和で連合国から脱落しないよう、対日戦争で激励し期待をかけたが、大陸打通作戦作戦により蔣介石の戦線が総崩れになったことでその考え方を改めたという。 |
japanese | これは極東でのイギリス海軍航空隊による最初の大規模な反撃で、以降アメリカ軍だけでなく、イギリス軍やオーストラリア軍も日本に対して反撃に転じることになる。 |
japanese | また6月にポルトガルのアントニオ・サラザール首相は、日本に対しティモール島からの日本軍撤退を正式に要請した。 |
japanese | しかし日本軍は即座に撤退は行わず、日本軍が撤退したのは日本の敗戦後であった。 |
japanese | しかし6月に、早くも絶対国防圏の最重要地点マリアナ諸島にアメリカ軍が来襲する。 |
japanese | 日本海軍はこれに反撃し、マリアナ沖海戦が起きる。 |
japanese | ミッドウェー海戦以降、再編された日本海軍機動部隊は空母9隻という、日本海軍史上最大規模の艦隊を編成し迎撃したが、アメリカ側は15隻もの空母と艦艇、日本の倍近い艦載機という磐石ぶりであった。 |
japanese | 航空機の質や防空システムで遅れをとっていた日本軍は、この決戦に敗北する。 |
japanese | 旗艦大鳳以下空母3隻と併せ、多くの艦載機と搭乗員を失った日本海軍機動部隊はその能力を大きく失った。 |
japanese | 多くの非戦闘員が死亡した。 |
japanese | しかし戦艦部隊はほぼ無傷で、1による日本初空襲が実施された。 |
japanese | この空襲の主な目的であった八幡製鐵所の爆撃による被害は軽微で生産に影響はなかった。 |
japanese | その上6機が撃墜されている。 |
japanese | 日本側はその出撃を事前に察知できず、支那派遣軍は陸軍中央に対して面目を失うこととなった。 |
japanese | しかしその後の中華民国からの爆撃は九州を標的とした小規模なものとなり、本格的な本土空襲は11月にサイパン島とテニアンの基地が出来るのを待つこととなる。 |
japanese | 戦況悪化とともに憲兵を使い独裁・強権的な政治を行う東條英機首相兼陸軍大臣に対する反発が高まり、この年の春頃、中野正剛などの政治家や、海軍将校などを中心に倒閣運動が行われた。 |
japanese | さらに、近衛文麿元首相の秘書官細川護貞の戦後の証言によると、当時現役の海軍将校で和平派の高松宮宣仁親王黙認の暗殺計画もあったといわれている。 |
japanese | 小磯国昭陸軍大将と米内光政海軍大臣を首班とする内閣が発足した。 |
japanese | しかしながら、憲兵隊を配下にもち陸軍最大の権力者でもある東條英機が内閣総辞職をして、次の内閣の背後に回ったため、その後の内閣も陸海軍の意向で大東亜戦争を無理矢理継続せざるを得ず、岸信介が半ば命を懸けて訴えた停戦講和の必要性すら大っぴらには検討しにくいという状態が続く。 |
japanese | の航続距離内に入り、本土空襲の脅威を受けるようになる。 |
japanese | しかし日本軍もサイパン島から撤退したもののサイパン島のアメリカ軍基地への奇襲攻撃を続け、大きな被害を出し続け、アメリカ軍は基地増設に4か月かかってしまう。 |
japanese | その分本土空襲が本格化するのも1945年初頭になってしまう。 |
japanese | ビルマ戦線でイギリス軍とアメリカ軍の攻勢により完全に劣勢となる中、144年末頃には、連合軍による通商破壊戦で外地から資源を輸送する船舶の多くを失い、航空機燃料や艦船を動かす重油の供給もままならない状況になりつつあった。 |
japanese | また、このことによる日本本土の生活への衝撃は大きく、これまではレストランや旅館、ホテルなどは大幅な配給を受けて成り立っていたものの、これ以降はこれらへの配給も制限されていくことになる。 |
japanese | マニラの戦いでは市民をも巻き込んだ市街戦となり、1名が死亡し、旧市街のドイツやスペイン資産や駐マニラ領事館も被害を受けた。 |
japanese | 日本は南方の要所であるフィリピンの大半を失い、台湾とフィリピンの間のバシー海峡を連合国に抑えられたため、日本の占領下や影響下にあったマレー半島やボルネオ島、インドシナなどの南方から日本本土への資源および食糧輸送の安全確保はより困難となった。 |
japanese | 実際日本本土では、この頃より急激に食料の流通が厳しくなっていく。 |
japanese | 連合国軍の支援を受けられなかったフランス植民地政府および駐留フランス軍はすぐさま降伏し、日本はバオ・ダイを皇帝に3月11日にインドシナを独立させた。 |
japanese | この頃松岡元外相は旧友であり終戦工作に奔走していた吉田茂から、和平交渉のためモスクワを訪れるよう相談される。 |
japanese | しかし書生として吉田邸に潜入したスパイによって2月の近衛上奏に協力したことが露見し、憲兵隊に拘束される。 |
japanese | 2月から3月後半にかけて硫黄島の戦いが行われた。 |
japanese | これ以降アメリカ軍は死傷者を多く出すことに慎重になり、イギリス軍やオーストラリア軍を前面に出すことになる。 |
japanese | 3月1万人もの市民の命が失われ、約1万人が家を失った。 |
japanese | その後も東京は、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回大規模な空襲に見舞われた。 |
japanese | また航路に沿ってアメリカ海軍は潜水艦を配備し、往復時に不時着する航空機に備えた。 |
japanese | 3月26日に沖縄の慶良間諸島にアメリカ軍が上陸し、さらにアメリカ軍とイギリス軍を中心とした連合軍は4月1日に沖縄本島に上陸して沖縄戦が勃発、凄惨な地上戦となる。 |
japanese | 残るはわずかな戦艦と十数隻の空母、巡洋艦のみとなり、さらに空母艦載機の燃料や搭乗員にも事欠く状況となったため、空母や戦艦などの主要船艇を本土決戦のために保管する。 |
japanese | ここに日本海軍連合艦隊は事実上その外洋戦闘能力を喪失した。 |
japanese | 連合軍の艦艇に対する神風特別攻撃隊による攻撃が毎日のように行われ、沖縄や九州周辺に展開していたアメリカやイギリス、オーストラリアなどの連合軍艦艇に甚大な被害を与える。 |
japanese | アメリカ海軍やイギリス海軍は潜水艦攻撃や機雷敷設を行い、日本は沿岸の制海権も失っていった。 |
japanese | さらに戦艦などからの艦砲射撃や、空母機動部隊の艦載機による日本沿岸への空襲、機銃掃射を頻繁に行った。 |
japanese | しかし対する日本軍はこれらに戦闘機や対空砲火で反撃し、連合国の爆撃機や艦載機の被撃墜数も比例して急増した。 |
japanese | 多い日は1日に日本上空で数十機が撃墜され、その分連合軍の死者や捕虜が出る状況になった。 |
japanese | こうして鈴木を後継首班にすることが決定された。 |
japanese | 鈴木の就任後、アメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトが亡くなり訃報を知ると、同盟通信社の短波放送により深い哀悼の意をアメリカに送った。 |
japanese | 同じ頃、ドイツのアドルフ・ヒトラーも敗北寸前だったが、ラジオ放送でルーズベルトを口汚く罵っていた。 |
japanese | 4月3日に、東京の駐日ドイツ大使館は、判明している限りでは世界の公的機関で唯一ヒトラーの追悼式を行った。 |
japanese | だが、それに比例して日本軍の反撃も激しさを増し、戦闘機や対空砲火による連合軍の爆撃機や戦闘機の被害も増大した。 |
japanese | 地上戦となった沖縄戦において、5月になりコマンド部隊である義烈空挺隊を編成した。 |
japanese | 連合軍に占領された読谷飛行場と嘉手納飛行場を急襲し、伊江島の飛行場も猛爆するなど日本の軍民総動員による持久戦で連合軍を苦しめたが、6月23日に第32軍司令官牛島満中将が自決し沖縄は陥落する。 |
japanese | 同時に他の勢力も一斉に蜂起し、イギリス軍に呼応した抗日運動が開始され、5月にはラングーンから日本軍を放逐した。 |
japanese | 同盟国である日本に対して事前協議も行われなかった無条件降伏であった。 |
japanese | これで枢軸国で残るは日本だけとなり、その日本は1946年4月25日まで有効な日ソ中立条約を根拠に中立を保つソ連に頼るしかなかったため、ドイツの降伏後はソ連を通じた和平工作に注力する。 |
japanese | しかしこれに先立つ2月、ヤルタ会談の密約で、ドイツを破った後のソ連軍は3か月後に満州、朝鮮半島、樺太、千島列島へ北方から侵攻する予定でいた。 |
japanese | また1人いた在日ドイツ人は、5月7日以降終戦まで日本国内に軟禁された。 |
japanese | なお7月27日に日本政府は宣言の存在を論評なしに公表した。 |
japanese | しかし鈴木内閣は、中立条約を結んでいたソ連に一層の和平仲介を期待し、ポツダム宣言を黙殺する態度に出た。 |
japanese | さらに牡丹江市街がソ連軍の空爆を受けていると報告を受け、さらに午前1時3日午前4時にソ連のタス通信がその事実を報じ始めてからで、外務省では午前5時頃に東郷外相に報告が上げられた。 |
japanese | これはソ連との中立条約の維持を根拠に和平の道を辿ろうとしていた日本政府にとって、最後の頼みの綱が切れた瞬間であった。 |
japanese | この日以降日本政府と軍は急激に降伏への道を進んでいく。 |
japanese | 結論は9日未明に開催される天皇臨席の御前会議に持ち越された。 |
japanese | そして、ソ連軍の参戦に続いて、9日午前11時により長崎市へ原子爆弾が投下された。 |
japanese | 原子爆弾の投下直後に当時の長崎市の人口24万人のうち約7万4千人が死亡し、長崎市の建物は約36%が全焼または全半壊し、インフラストラクチャーは停止し復旧までに多くの時間がかかった。 |
japanese | この原子爆弾が人類史上において2回目かつ実戦で使用された最後の核兵器となった。 |
japanese | 日午後11時5日午前日の午前3時から行われた閣議で承認された。 |
japanese | 日本政府は、ポツダム宣言受諾により全日本軍が降伏を決定する用意がある事実を、10日の午前日午前11時から貴族院貴賓室にて東郷外相とヤコフ・マリク駐日ソ連大使の会談が行われた。 |
japanese | また1日にはアメリカ軍により花巻空襲が行われ、家屋673戸、倒壊家屋61戸、死者42名の被害を出した。 |
japanese | 11日と12日の両日においては日本、連合国の双方の首脳陣において大きな動きはなかった。 |
japanese | が継続された。 |
japanese | 14日午前11時より行われた再度の御前会議は、昭和天皇自身もその開催を待ち望んでおり、阿南陸相は午後1時が都合がいいと申し出していたが、昭和天皇はなるべく早く開催せよと鈴木首相に命じて、午前11時開始となった。 |
japanese | 私が国民に呼び掛けることがよければいつでもマイクの前に立つ。 |
japanese | これを受けて夕方には閣僚による終戦の詔勅への署名、深夜には昭和天皇による玉音放送が皇居内で録音され、録音されたレコードが放送局に搬出された。 |
japanese | また加瀬スイス公使を通じて、宣言受諾に関する詔書を発布した旨、また受諾に伴い各種の用意がある旨が連合国側に伝えられた。 |
japanese | また、昭和天皇によるラジオ放送の予告は、午後9時の全国及び外地、占領地などのラジオ放送のニュースで初めて行われた。 |
japanese | なお昭和天皇がラジオで国民に向けて話すのはこれが初めてのことであった。 |
japanese | 苦しかろうが我慢してくれと涙を流して申された。 |
japanese | いまはそれに従うばかりである。 |
japanese | なお終戦詔勅への署名の後、日本軍の上層部ならびに情報部などそれらの直属の部署には、終戦の連絡が伝わっていた。 |
japanese | なおソ連軍による日本侵攻作戦は、自ら日に承認したポツダム宣言受諾による戦闘行為停止の月2日の日本との降伏文調印をも完全に無視して継続された。 |
japanese | 南樺太と千島列島、満洲などは沖縄戦同様民間人を巻き込んだ凄惨な地上戦となった。 |
japanese | また満州ではソ連軍と中華民国軍との戦いの中、逃げ遅れた日本人開拓民が混乱の中で生き別れ、後に中国残留孤児問題として残ることとなった。 |
japanese | 結局ソ連軍は満洲のみならず、日本領土の南樺太、北千島、択捉、国後、色丹、歯舞、朝鮮半島北部の全域を完全に支配下に置いた9月5日になってようやく戦闘攻撃を終了した。 |
japanese | また東條英機のように9月になってから連合国軍総司令部から逮捕、出頭を命ざれたあと、自殺に失敗し逮捕される者もいた。 |
japanese | しかし本土では同じような連合国とのトラブルはこれ以降起こらなかった上、すぐにイギリス軍やアメリカ軍が陸海空軍の相当数の部隊を上陸できる体制にあった。 |
japanese | 連合国軍の日本占領部隊の第一弾であるアメリカ軍やイギリス軍が日本本土に上陸するまでは、結果として約2週間という異例の長さであった。 |
japanese | なお、沖縄県を含む南西諸島および小笠原諸島は停戦時にすでにアメリカ軍の占領下、勢力下にあった。 |
japanese | また、中四国はイギリス連邦占領軍が後に駐留することが決まり、結果的にアメリカ軍とイギリス連邦軍だけで正式に日本を占領することとなった。 |
japanese | しかし、少しでも多くの日本領土略奪を画策していたヨシフ・スターリンは、北海道の北半分のソ連軍による分割占領をアメリカ政府に提案したが、当然のことながら拒否され、駐在武官のみを送るにとどめた。 |
japanese | しかしスターリンの命令で、ソ連軍は日本の降伏後も南樺太・千島への攻撃を継続し、22日には樺太からの引き揚げ船3隻がソ連潜水艦の攻撃を受ける三船殉難事件が発生した。 |
japanese | 北方領土の択捉島、国後島は月上旬になってからも続いた。 |
japanese | なお、中華民国も軍事占領を検討したが、占領時の食料の大部分を日本に頼ろうとしたために、イギリス軍とアメリカ軍から正式に拒否された。 |
japanese | 17日に鈴木貫太郎内閣は総辞職し、皇族である東久邇宮稔彦王が首相を継いだ。 |
japanese | 皇族が首相に就いたのは武器解除を速やかに進めるためともいわれ、皇族の首相は初めてのことであった。 |
japanese | 副総理格の国務大臣には近衛文麿、外務大臣には残留した重光葵、大蔵大臣には津島寿一、内閣書記官長兼情報局総裁には緒方竹虎が任命された。 |
japanese | また海軍大臣には元首相の米内光政が留任した。 |
japanese | 陸軍大臣は任命が内定していた下村定陸軍大将が23日に帰国するまでの間、東久邇宮が兼任した。 |
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