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賢者アンセムの仮説によると自らの意思でハートレス化した場合は、以前の記憶や姿や自我が残るらしい。例として、以前の記憶と姿を保ったままハートレスとなったゼアノート、姿はハートレスとなったもののかすかに自我を保っていたソラが確認されている。『KH2』では スカーが自らの意思でも無いにも関わらずハートレス化した際に姿を保っていたが、自我を保っているかは不明。
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ハートレスの分類としては、ピュアブラッド、エンブレムの2種類に分けられる。ピュアブラッドは人の心の闇から自然派生するもので、全身が黒に覆われているものが多い。光の世界だけでなく闇の世界でも出現し、闇の世界に生息するハートレスは全てピュアブラッドである。エンブレムはレイディアントガーデン(ホロウバスティオン)のアンセムの研究室にあるハートレス合成装置で作られた人工的なハートレスで、多くの種類が存在する。その名の通り、体表のどこかにマーク(茨が巻きついたハートと十字架を模していて、茨は心が闇に飲まれたことを意味している。また、茨は異端の印を意味している。また、このマークは、ハートレスになる前のアンセム(ゼアノート)の本体のひとりであるテラが身に着けていたエラクゥス一門の紋章と似たデザインになっている。)が記してある。エンブレムは闇の世界には存在せず、光の世界もしくは狭間の世界でのみ生息している。また、全体的な特徴として丸く黄色い瞳を持っている。
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また、強い心を持った者がハートレスになった時、残された肉体と魂が意思を持って動き出すことがある。ノーバディを参照。
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エンブレムのハートレスをキーブレードで倒すと心が放出される。本編上では触れられていないが、この心はハートレス化した際に消滅してしまった身体と共に元の心の持ち主に再生するという設定が存在する。
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ハートレスになった者はキーブレードで倒され心を解放されることにより元の姿に戻る。しかし肉体がノーバディになっている場合はそのノーバディが消滅する(ハートレスとは違いキーブレードが関わらなくてもよい)まで元の姿に戻ることはできない。しかしソラがハートレス化した時(ノーバディのロクサスが誕生した時)は、カイリに抱き締められただけで復活できた。このように上記の制約に逆らって元に戻れたのは、ソラとカイリの心の繋がりの強さによるものと賢者アンセムが語っている。
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14歳の時に中国人民解放軍に入隊し、3年の間、チベットで兵士達のための演劇など製作する部隊に所属していた。除隊後、北京に移り、女優として活躍。さらにその後、ニューヨーク大学に留学し、拠点をアメリカに移した。
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1994年に公開された『クロウ/飛翔伝説』では悪役を演じるなど、いくつかの映画に端役で出演後、1997年の『北京のふたり』で本格的にデビューした。
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2005年の『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』に元老院議員の一人として出演していたが、公開前に雑誌『PLAYBOY』でオールヌードになったため出演シーンをカットされたと報道された。しかし製作側はその写真とは無関係だと主張した。
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2008年2月13日、ロサンゼルス国際空港の売店で乾電池などを万引きした疑いで逮捕された。万引きしたのは乾電池パック2個と芸能誌2冊で総額16ドル(約1700円)だった。万引きした理由を「バレンタイン前に恋人と破局し、精神状態がおかしくなっていた」と釈明。翌月、軽窃盗罪で正式に起訴されることになり、本人が治安妨害の罪で有罪を認め、200ドルの罰金の支払いが確定した。逮捕によって、それまでアメリカの映画データベース「インターネット・ムービー・データベース」(IMDb) で1970年と記載されていた生年が、実際に1966年だったことも発覚した。
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インタビュー等において、両性愛者であることを公言している。
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バゾシュはモルヴァン地方に属し、モルヴァン地域圏自然公園の一部である。
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バゾシュは典型的な中世の構成をした言語で、古フランス語で教会を意味するbasocheまたはbazocheを基礎としている。
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コミューンは、フランス元帥ヴォーバンが住居としていたバゾシュ城があることで知られている。小さなサンティレール教会は12世紀以来の歴史を持ち、ヴォーバン家の墓がある。
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日本で最初の野球漫画と言われている。
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それまで、新聞の一コマ漫画、数コマや数ページの漫画などで野球が描かれることはあったが、野球を題材にした連載漫画は本作が日本初となる。また主人公のバット君は中学生の少年であり、彼の日常生活を描いた生活ユーモア漫画であるとも言える。本作の発表当時、漫画と言えば動物を擬人化した作品や武者修行、おとぎ話的な冒険譚であったり、本作に先立って発表された手塚治虫の『新宝島』のようなドラマティックな作品ばかりであった。本作の主人公はヒーローでも特殊な能力や背景を持っているわけでもない等身大の少年として描かれ、リアリティのある少年の日常ドラマを描いた漫画としても、日本初である。また、作中に実在のプロ野球選手である川上哲治を登場させることでリアルさを演出する手法も、後の漫画界に影響を与えたものと推測される。
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夏目房之介は野球漫画に留まらず「戦後マンガのスポーツ物の嚆矢」と指摘している。
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呉智英は、野球技術や試合の勝敗よりも少年たちの日常における友情、誠意をユーモラスに描いた作品として本作を「明朗野球マンガ」と呼んでいる。
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連載3話分を元にした単行本は、1973年(昭和48年)6月に開催された三越・優良漫画展で第一位を獲得している。
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井上自身は中学時代に肋膜炎を患い、長い闘病生活の後に左足が不自由となっていた。井上の妹は、本作を「井上自身が実現出来なかった野球へのあこがれと情熱をペンに託して無心に描いたもの」ではないかと、後に語っている。
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バット君こと長井抜十(ながい ばつとう)は中学生。野球チームに補欠として入ったバット君は正選手を目指してゆく。それと共に、バット君の家族との日常生活、チームメイトとのやりとり、といった日々の出来事が淡々と描かれる。時には父親と後楽園球場にプロ野球の試合を観戦し、球場で行われていた「この日の川上哲治のホームラン数当て」を見事に当ててサイン入りバットが手に入り、川上の「赤バット」で活躍しレギュラーの座を獲得するといったドラマティックな展開もある。
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プロムの前日。プロムを楽しみにしている少女モニカは、インターネットを使って自分のヘアスタイルを決めてもらったり、プロムクイーンの予想をするなどして、明日を完璧に過ごそうと決めていた。しかし次の朝目が覚めると、ドレスはボロボロ、靴は壊れて、肝心の髪の毛もズタズタに傷んでいた。そんな中、リズという名のFBI捜査官が訪ねて来る。彼女はモニカが偶然購入したアクセサリーが、実は宝石泥棒のピアースに盗まれた本物のダイヤである事を説明する。そしてモニカはその捜査に応じる代わりに、リズにプロムを完璧にする準備に協力してほしいと頼み込む。
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バラウル (Balaur) とは、ルーマニアの民話に登場するドラゴンである。ルーマニアの作家アドリエン・クレメネ (Adrien Cremene) の説明によれば、バラウルは地下にも空中にも棲むことができ、雲やもや、地下水の流れを操ることもできるという。ルーマニアの街角では、たとえば右の写真のように細長いドラゴンとして表現された、バラウルの外壁装飾がみられることがある。
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ズメイの項目で説明したように、東欧では「メスのドラゴンは水の神で邪悪、オスのドラゴンは炎の神で守護竜」という場合が多いのである。バラウルが雲と地下水ともやを支配する強大な竜であるにもかかわらず、悪とされてしまったのには東欧民話の特徴のためである。
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ルーマニアで発見された恐竜は、2010年8月に、民話のバラウルにちなんでバラウル・ボンドックと名付けられた。
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また、「バラウル」はルーマニアの人名にもみられる。
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バリ島は環太平洋造山帯に属する小スンダ列島の西端に位置している。島の東にはロンボク海峡を挟んでロンボク島があり、西にはバリ海峡を挟んで大スンダ列島に属するジャワ島がある。バリ海峡の最も狭い所は3km 程であり、バリの海岸からはジャワ島の姿形をとらえることができる。
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このような地理的関係にあるバリ島は、広くはインド洋を中心にフィリピンから紅海までを繋ぐ「1つの海」の周縁に位置し、他の東南アジア地域と同様、古来より、この広大な海における交易を介した人と物、言葉と思想の移動、交通の一地点となった。そして、この交易を統制すると共に、人々の生活の小宇宙を形成する王国が誕生し、バリ島の「歴史」が紡がれ始める。
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バリ島の面積は5,633km²。島の北部を東西に火山脈が走り、バリ・ヒンドゥーにおいて信仰の山とされるアグン山(標高 3,142 m)やキンタマーニ高原で知られるバトゥール山(標高 1,717 m)など多くの火山を有している。バトゥール山近辺には温泉も湧出している。この火山帯の活動により、バリ島の土壌はきわめて肥沃なものとなってきたと同時に、時に人々に災害をもたらしてきた。
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そして、バリ島の南部では、火山脈に位置するブラタン湖などの湖水からの流れが下流域に向かって分岐している。その分岐と水量は古来より計算通りに案配されてきたものであり、スバックと呼ばれる伝統的な水利組織によって21世紀初頭までその自然環境と共に維持されている。そして、この水系によって島の南側全体が緑にあふれる土地になっている。
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これに対して北部では雨こそ少ないが、コプラやコーヒーが栽培され(キンタマーニ・コーヒーなど)、牧畜も行われている。また、島の西部は、ほとんどが深い森林に覆われた最高1,000m前後の丘陵地帯になっており、海岸沿いの漁村を除けば、ほとんど無人である。今現在では一大観光地として発展しているバドゥン半島も乾燥地帯である。
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したがって、バリの村落の大半は、一部の都市地域を除けば農村であり、土地の農業利用率が極めて高い。農業は水耕農作が中心であり、とりわけ、棚田で知られるバリ島中南部の斜面一帯では、上にみたように年間を通じて安定した水の供給がなされ、二期作から三期作が可能となっている。ただし、21世紀初頭では平野部を中心に急速に宅地化が進んでもいる。
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バリ島周辺はサバナ気候に属し、その季節は、北西季節風の吹く雨季(10月 - 3月)と、南東季節風の吹く乾季(4月 - 9月)とに明確に分かれる(この季節風による荒波によって海上交通が困難であったことが一因となって、以下に見るようにバリ島は島外世界から相対的に独立性を保った歴史的発展をとげることになった)。乾期の間は東部、北部を中心にたびたび水不足に陥る。また雨季といっても、一日中雨が降る訳ではなく、実際には多くても一日に2 - 3時間のスコールである。ただし、ひどいときには道路が30cmほど浸水することもある。
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一年を通じて気温の変化はほとんどなく、年間の最低平均気温は約24度、最高平均気温は約31度、また、平均湿度は約78%である。いつでも暑く湿度も高いが、体に感じる暑さは、海からの風によって和らげられている。
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バリ島の動植物のほとんどはアジアの他の諸島から渡ってきたものであり、バリ島原産のものはまれで、アジアに特徴的にみられる動物相、植物相が広がっている(東のロンボク島との間に生物地理区の境界を表すウォレス線が走っている)。
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動物については、古くから、トラ、野牛、猿、キツツキ、パイソン、ヤモリなどが数多く棲息し、300種類以上の鳥類が観察できるが、1940年頃にはバリトラが絶滅し、鳥類で唯一の原産種でありバリ州の州鳥であるカンムリシロムクもまた近絶滅種となっている。さらには、近代農業の進展やリゾート地での殺虫剤の散布などによる生態系の変化も見られる。バリで唯一の原野が残されている西部国立公園では、灰色の猿やリス、イグアナなどの野生生物が生息している。また、バリの人々にとって馴染み深いのは、トッケイヤモリと呼ばれる大型のトカゲであり、鳴き声を7回連続で聞くと幸福が訪れるという言い伝えがあるほか、害虫を捕食することから大切に扱われている。
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植物では、ワリンギンと呼ばれるベンガルボダイジュがインド文化の影響から霊木として扱われ、香しいジュプン(プルメリア)と共に寺院や民家の庭などで広く見られる。また、バンブー(竹)も多く生息しており、儀礼の開始の合図として用いられるガムランの笛の材料になっている。他には、多種多様のヤシが実っており、ココナツ、砂糖、燃料、繊維などが採出されている。
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紀元前2000年頃には、台湾起源のオーストロネシア語族が居住していたとされ、紀元前1世紀頃から交易を介してインドや中国の影響を受けるようになり、ドンソン文化の影響を受けた銅鼓が発見されるなど、古くから人が住み稲作を中心とした文明が開けていた。
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4世紀に入ると、ヒンドゥー教に属するジャワの人々が来住し、ヒンドゥー・ジャワ時代を迎え、その初期からジャワ王の支配下のもとで発展を続けた。そして、西暦913年頃に、ようやく、スリ・クサリ・ワルマデワによって独自のワルマデワ王朝が築かれたとされている。
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しかし、ゲルゲル王国の黄金時代は長くは続かず、1651年、ゲルゲルの王が家臣の謀反をきっかけとしてクルンクン(現在のスマラプラ)に遷都すると、その実権は各地に拠点をおいた貴族家の手に移ってしまう。そして、17世紀から18世紀にかけて、各地の貴族は自らがマジャパヒト征服時の貴族(とりわけ、ヒンドゥー教高僧ワオ・ラオ)の正統な末裔であることを自称するようになり、クルンクン王国のほかに7つの小国(タバナン王国、バドゥン王国、ギアニャール王国、カランガスム王国、バンリ王国、ムンウィ王国)が乱立し、バリ島は群雄割拠の時代を迎えることとなった。
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17世紀には、オランダ東インド会社を初めとしたヨーロッパ勢力の進出が見られたが、これといった特産品のないバリ島は植民地統治上特に重視されず、各地方の王族の支配によるバリ人による自治が長く続いた(ちなみに、バリ島に最初に上陸したヨーロッパ人は、1597年のオランダ商船乗組員であった)。
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このバリの王国の権力構造を分析した人類学者のクリフォード・ギアツは、それを「劇場国家」のメタファーで描き出している。すなわち、ギアツによれば、
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〔バリの〕国家が常に目指したのは演出(スペクタクル)であり儀式であり、バリ文化の執着する社会的不平等と地位の誇りを公に演劇化することであった。バリの国家は、王と君主が興行主、僧侶が監督、農民が脇役と舞台装置係と観客であるような劇場国家であった。
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こうしたギアツの劇場国家論は、確かに象徴人類学の金字塔であったが、しかし、その後、「洗練された象徴世界の解読は時間なき固定化された世界を描き出し、実践が生み出される歴史過程を喪失」しているとの批判が生まれた。そして、21世紀初頭では、儀礼世界と権力世界との二項対立を乗り越えた分析によって王国の歴史的過程には大きな流動性が存在していたことが明らかにされ、「王国の流動性を制するからこそ王の存在とその力は明らかとなり、その力によって階層秩序が支えられている」ことが描き出されている。
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第二次世界大戦(大東亜戦争)中にバリ島は大日本帝国の占領下に置かれた。1942年2月、日本軍が進出を開始。オランダ軍が駐屯していなかったため、日本軍にはほとんど被害がなく、バリ島沖海戦の勝利を経て、わずか20日でオランダ軍は全面降伏した。現地人は反植民地主義の「解放者」として出迎えるも、同年6月にはオランダと同様の統治体制が敷かれることになった。この際には、戦前からバリ島で商売を営み信望を集めていた民間人・三浦襄が日本軍の民政部顧問として、軍部と現地社会との仲介役、緩衝役となって活躍した。
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しかし、戦況の悪化に伴い物資、労働の徴集が強圧的に進められるようになると、現地の生活は困窮を極めることとなり、1944年の半ばからはジャワと連携した反日本軍運動も見られるようになった。同年9月、インドネシア独立を容認する小磯声明が出され、1945年4月にはスカルノが来島しインドネシア独立に向けて演説。民族団結の気運がにわかに高まり、7月に「小スンダ建国同志会」が結成される。
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三浦は日本人として唯一、この同志会に加わり、事務総長に就任、インドネシア独立に向けて活動した。しかし、まもなく敗戦を迎え、独立計画は頓挫。1945年9月7日、三浦は、バリの人々に対して、日本の国策を押しつけ無理な協力をさせたことを謝罪して自害した。
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1945年8月17日、ジャカルタでスカルノがインドネシア共和国の独立を宣言。「小スンダ州」とされたバリでは親共和国派による統治体制の確立が画策されていた。しかし、戦前以来の旧体制の切り崩しが進まず、1946年3月には再びオランダが上陸し、親共和国派の企図は失敗に終わる。このオランダ上陸に対しては激しいゲリラ戦が展開され、そのクライマックスである1946年11月20日には、バリ島西部のマルガにて、グスティ・ングラ・ライ中佐が壮烈な戦死を遂げ、彼の率いていたゲリラ部隊も全滅した(しかし、その勇名は今日のバリ島の国際的な玄関口であるングラ・ライ空港(デンパサール国際空港の現地正式名称)にとどめられている。なお、この際には旧日本軍の残留日本兵の加勢がみられ、このこともあってか独立戦争後の現在、バリの人々の対日感情は良好である)。
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このゲリラ戦を鎮圧したオランダは、1946年12月、バリを親オランダの「東インドネシア国」に帰属する自治地域として宣言し、旧体制を利用したオランダによる間接統治が敷かれることになった。ただし、この中でも共和国派と親オランダ派の抗争は続き、1949年にオランダがインドネシア共和国に主権委譲をした後は共和国派が優勢になり、1950年の独立をもって、ついにバリは共和国に組み込まれることになった。
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しかし、スカルノ時代のバリ島社会は大いに乱れ、とりわけ国民党と共産党による政治的な対立が地域社会にまで及んだ。1965年の9月30日事件に端を発する共産党狩りの際には、一説によるとバリ島だけで10万人が虐殺された。
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バリ島の地域社会では、バリ・ヒンドゥーに基づく独特な慣習様式(アダット)に従った生活が営まれており、オランダ植民地化以後も近代行政(ディナス)と併存するかたちで続いている。21世紀に入ってもなお、バンジャールやデサと呼ばれる地域コミュニティをベースとして、様々な労働作業(ゴトン・ロヨン)や宗教儀礼が共同で執り行われており、バンジャールからの追放は「死」に等しいとまでされているほどである。
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また、バリの人々は、特定の目的ごとに「スカ」ないし「スカハ」と呼ばれるグループを形成して対応することが多い。例えば、ガムラン演奏団、青年団、舞踊団、自警団、合唱団といった具合に、スカはときにバンジャールを超えて形成され、多くはバンジャールと異なり加入・脱退が自由である。こうしたありようをギアツは「多元的集団性」と呼んでいる。
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このスカの組織化パターンのために、バリの村落社会構造に、極めて集合的でありながらも奇妙なまでに複雑で柔軟なパターンが生まれている。バリの人々が何かをする場合、それがひどく単純な作業であっても、集団を作る。実際のところ、この集団には、マーガレット・ミードとグレゴリー・ベイトソンが指摘したように、ほとんど常に技術的に必要な数を遥かに上回る人員が集まる。混雑し、賑わい、いくぶん乱雑であわただしい社会環境の創出は、……最も基礎的な仕事でさえ、その遂行のために必要であるように思われる。重要な社会的活動へのアリにも似た取り組み方(バリ人自身は苦笑いを浮かべながらこのことをベベック・ベベカン〔「アヒルのよう」〕と表現する)は、……いかなる集団にも1つの目的に向かう傾向がみられ……、逆説的にも、多元的集団性とでも呼びうるものに導く。
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このように、人々はバンジャールなどの地域組織に属することで小さい頃から隣人との助け合いの心を身につけており、喧嘩を好まない。このような背景もあって、住民の性格は非常に温厚である。
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「神々の島」とも形容されるバリ島では、人々のおよそ90%が、バリ土着の信仰とインド仏教やヒンドゥー教の習合によって成り立つバリ・ヒンドゥーと呼ばれる信仰を奉じている。バリの慣習村(デサ・アダット)では、土地や祖先神への信仰が生きており、人々はデサ・アダットの土地を清浄に保ち、穢れを避ける義務を負っている。このために、古くからの慣習(アダット)もかなり色濃く残されており、店や家の前には毎朝チャナンと呼ばれるお供え物をするなど、宗教的な活動に多くの時間が使われ、したがって、バリ島では毎日、島のどこかで祭りが行われているのである。バリ人は祭りごとが大好きであるとの話がよく耳にされるが、バリ人にとってのお祭り(ウパチャラ)とはあくまで以上のような宗教的な儀式なのである。こうした背景から、バリ人は非常に精神的に満足した者が多いといわれる。
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また、バリ・ヒンドゥーの世界観は方角によっても支えられている。とりわけ重要なのが「カジャ」(山側)と「クロッド」(海側)の組み合わせである。カジャとクロッドの対比は、上と下、優と劣、清浄と不浄といった象徴的価値観と密接に繋がっており、寺院の位置や葬儀の場所、屋敷の構造などが、この対比に従って決められている。また、この秩序観から、人の頭を触ったり頭の上に手をかざすことや、左手で金銭を扱ったり食事をすることがタブーとされている。
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このようにバリ島はバリ・ヒンドゥーのコスモロジーに根ざした世界が広がっているが、1990年代以降、ジャワ島を中心として数多くの人々が、観光産業での労働従事を目的として移り住み始めるようになっており、イスラム教徒が急増している。
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伝統的な言語としてバリ語が存在し、多くの人々はバリ語を用いてきたが、公式的にはインドネシアの公用語であるインドネシア語が用いられたり、学校教育や主要マス・メディアもインドネシア語が利用されている。都市部ではインドネシア語を主として用いる層も増えている。ただし、2000年代からの地方分権化を背景としたバリ文化再興の運動(アジェグ・バリ)の一環として、義務教育でバリ文字が教えられるようになっている。そして、2006年からはバリ・ポストから「オルティ・バリ」というバリ語の新聞が週刊で復刊され、バリの文芸作家たちが作品を発表していたり、バリ語のラジオ放送が盛んになったり、バリ語のポップ歌謡も流行りだしている。
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影絵芝居(ワヤン・クリ)は、バリの人々にとって、時空を超えた知識と教養の源泉である。すなわち、芸能としてワヤンは、それを鑑賞する人間の意識の底に次第に堆積されてゆく、潜在的な価値の体系なのである。ワヤンのストーリーは、主に古代インドの叙事詩である『ラーマーヤナ』、『マハーバーラタ』であり、人形使いのダランは、サンスクリットの知識を有した特別な僧侶であるプダンダが務める。また1990年代後半頃から、ワヤン・チェン・ブロンと呼ばれる娯楽化したワヤンが若者の支持を集めるようになり、伝統的なワヤンは衰退の一途をたどっている。
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バリ島の伝統工芸の起原は、火葬などの宗教儀礼時の供物にある。したがって、いかに精緻に作られていようとも、強度に対する関心は低い。木彫りについては、装飾工芸として、扉や柱などの建築物、彫像、小物、演劇の仮面などで日常的に利用されてきたが、今日の動物の愛らしい彫像はやはり「バリ島ルネッサンス」の時代に生まれたものである。布地では、シーツやタオルなど幅広く用いられるサロン、織物では「ジャワ更」とも呼ばれるバティック(ならびにイカット織)がよく知られている。ほかには、チュルク村の銀細工も歴史的によく知られている。しかし、工芸品の製作者たちのほとんどは自らの創造性を生かした創作活動に励んでいる訳ではなく、その作品は値切って買いたたかれるような代物になっている。
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色彩豊かで緻密な描写が特徴であるバリ絵画の原点は、16世紀後半のマジャパヒト王国時代の頃とされ、王宮向けの装飾絵画として発展し、『ラーマーヤナ』、『マハーバーラタ』やヒンドゥーの多神教の神々などが題材とされてきた。当時から伝わるバリ絵画の技法はカマサン・スタイルと呼ばれ、基本的には5色(黒、白、黄、青、茶色)を使用し遠近法を用いず平面的に描かれることが多い。特にカマサン村では、伝統的な技法の継承に加え、新しい感性を加味し発展させている。
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オランダ支配時代の1920年代に来島した前述のヴァルター・シュピースやオランダ人の画家ルドルフ・ボネらと、グスティ・ニョマン・レンパッドに代表される地元作家との交流から芸術家協会(ピタ・マハ協会)が生まれ、遠近法などの新しい技法が加わることでさらに発展し、バリ絵画は国際的な水準にまで引き上げられた。1930年代のピーク時には、100名以上の芸術家がピタ・マハ協会に所属していた。この間に生まれた画法としては、墨絵のような細密画を特徴とするバトゥアン・スタイル、ボネの指導によって生まれた、日常の風景を題材とするウブド・スタイルなどがある。
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また、商取引によるバリ絵画作品の散逸を防ぐ動きが現地の画商の間で見られている。そのさきがけとなったのが、ウブドの画商パンデ・ワヤン・ステジョ・ネカであり、ウブドでは彼の設立したネカ美術館が運営されている。ほかには、かつてルドルフ・ボネらが1956年に開設したウブド絵画美術館(プリ・ルキサン)、デンパサールのバリ博物館、バリ文化センター、そして、1932年からサヌール海岸に居を構えたベルギー人画家ル・メイヨールの作品を収めたル・メイヨール絵画美術館などがある。しかし、他方では、高名な画家の作品を手に入れた美術品店が、それをモデルにして若い絵師に贋作を作らせ観光客に売りつけるケースもあり、美術品店嫌いの画家も多い。
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先に述べたようにバリ島経済の中心には農業(水田耕作)が伝統的に位置してきたが、世界的な観光地として成長した今でもなお、30%以上が農林漁業に従事している。スハルト体制以来の観光開発が南部バリの一部地域で集中的に行われたためである。水田耕作のほかには、ココナッツやコーヒーの栽培が盛んであり、樹園地ではバナナ、オレンジ、マンゴーが、畑では大豆、サツマイモ、落花生、キャベツ、トマトなどが栽培されている。
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また、1985年から2004年の間にバリ州における水田の面積は98,830から82,053へと16,741ヘクタールが減少し、その分、屋敷地および建築用地は27,761から45,746へと17,985ヘクタール増加しており、水田の宅地化が進んでいることが分かる(しかし、この間の収穫量は品種改良によって増加している)。こうした中で、土地所有層は地価の上昇による様々な利殖の機会を手にするようになっているが、他方でスバックのメンバーの圧倒的多数を占める小作人にとっては、農地の宅地化、近代化は失業を意味し、深刻な問題となっている。
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既に見たように、バリ島の観光開発は、1969年のデンパサール国際空港の開港によってマス・ツーリズム向けの大規模開発が始まり、当初は、サヌールとクタが観光のメッカとなった。やがて、1980年代に入るとヌサ・ドゥアで高級リゾート向けの計画的な開発が進められ、1990年代に入ると、開発の波はこれらの地域を越えるようになり、主にクタの南北に広がり、スミニャック、レギャン、ジンバランからタンジュン・ブノアに至るまで沿岸部に広大な観光地帯が形成されるようになった。スミニャックの北部には、タナロット寺院が位置している。サヌールやクタでは、爆弾テロ事件前後から当局と現地社会による治安維持のための取り締まりが進み、屋台なども排除されるようになっている。
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バリ島は、これら島南部の海岸を舞台としたサーフィンのメッカとなっており、乾季・雨季を問わず良質な波を求めて世界各国からサーファーが訪れている。サーフポイントも多く波質もさまざまである。最近ではサーフィンで生計を立てている者も多く、サーフショップやサーフガイド、またはサーフィン関連のスポンサーから収入を得ているプロサーファーも多い。
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州都デンパサールは、現地社会の商業中心地域であり、現地住民の通うショッピング・モール(バリ・モール、マタハリなど)、市場(手工芸品、織物市場のパサール・クンバサリや中央食品市場のパサール・バドゥンなど)、レストラン、公園が数多くある。その他、バリ州国立博物館やププタン広場などの観光地もある。
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他方で、山側へ向かえば、山側のリゾート地域としてのバリ島の姿を見ることができる。その代表がウブドである。この「芸術の村」はオランダ植民地時代から知られており、今日では、質の高いバリ舞踊やバリ・アート、バティック等の染色技術、竹製の製品等、伝統的な文化や民芸品の数々を目にすることができる。ウブド南部には、木彫の村マスも栄えている。
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こうした山あいの地域では、物質文明・近代文明のしがらみに疲れた西洋人や日本人が長期滞在しバリの文化を学んで行くケースも多く、数ヵ月から数年バリに滞在する者たちの中には、絵画、音楽、彫刻、ダンスなどを学び、さらには独自の芸術的な活動を始める人々も見られる。ウブドには、ダルム・アグン寺院の位置するモンキーフォレストや、ネカ美術館などの美術館も建てられている。
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そして、バトゥール山のそびえるバリ中部の山岳地帯は、キンタマーニ高原、ブラタン湖、タンブリンガン湖やジャティルウィの棚田など、バリ島の自然の骨格が表れた地域となっている。
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また、島の東部、北部の海岸地帯でも、1970年代以降ビーチ・リゾートとして静かに開発が進んでいる地域がある。代表的なのは、バリ島東部のチャンディダサ、アメッド、バリ島北部のロヴィナ・ビーチ、バリ島北西部のプムトゥランなどである。これらの地域は、スキューバダイビング、シュノーケリングのスポットとして有名な海辺が複数ある。その中で、バリ島東部のトランベンでは、日本軍の攻撃によって座礁したアメリカの輸送船リバティ号が、その後の火山噴火で海底に沈んでおり、ダイバーの間では非常によく知られている。
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また、バリ島東部にはアグン山およびブサキ寺院が、島北部には、旧都シガラジャの港町も位置している。
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観光およびその周辺産業に牽引される形で、バリ島への不動産投資・運用が盛んとなり、2000年から2012年の間は年平均で20%程度の地価上昇が続いた。不動産投資家の7割はインドネシア国内の富裕層であり、残り3割が海外投資家 (法人および個人) である。その一因に、2008年の世界的金融危機 (いわゆるリーマン・ショック) によって、世界の資金が有望な投資先を探してバリの不動産市場に流入した背景がある。しかしながら2012年から2018年にかけては地価の横ばいが続いた。その理由として、不動産投資の需給が崩れたことに加え、外国人向けの住宅ローンが規制の対象となったことが挙げられる。
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2018年7月には、主に日本人向けにバリ島への不動産投資や金融商品販売などの名目で、元本保証と高配当を偽って無許可で11億円を集めたとして、出資法違反容疑でアスナグループの日本人幹部らが、千葉地検および千葉県警によって逮捕される事件も起こった。
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バリ島の玄関口であるイ・グスティ・ングラ・ライ国際空港(デンパサール空港)が島南部(クタのすぐ南)に位置しており、ジャカルタ、成田、シンガポール、シドニー、ロンドンなどの各地と航空路が結ばれている。開港当時は国策によりバリ島への直行便がなかったが、やがて解禁され、多くの観光客はこの直行便やジャカルタ経由便を利用するようになった。またインドネシアの島々を結ぶ国内線フライトの便数も多い。
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海路については、ジャワ島(ギリマヌク - クタパン)、ロンボク島(パダンバイ、ベノア - レンバル港)、レンボンガン島ほかインドネシアの各島とフェリーで接続されており、便数も多い。インドネシア東部諸島へは長距離航路の船も運航されている。
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島内には鉄道が走っていないため、ほとんどの移動は自動車を用いることになる。
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バリ島の道路事情については、まず、 ほぼ海岸に沿って主要地域を結びながら1周する道路がある。内陸部では、特に島の大部を占める南斜面の河川が南北に深く谷を刻んでいるため、それにしたがって道路が南北に走っているが、東西に走る道路はあまりない。村と村を結ぶ道路や、村内の各地域を結ぶ道路はほぼ舗装されており、自動車の通行に問題はない。なお、デンパサールにはアジアハイウェイ2号線の起点があり、海路でジャワ島方面に至る。
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中産階級以下の現地住民の主たる交通手段は、オートバイやベモである。また、オジェと呼ばれるバイク・タクシーや、ドッカルと呼ばれるポニーの馬車も一部地域では見られる。
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長距離移動の場合には、主要地域間のみバスが運行しており、運賃はベモよりも安いもののエアコンはない。また、ある地域から別の地域へ移動するためには、大抵の場合、デンパサールのターミナルを介さなければならない。そこで、観光客向けに島内の観光地を結ぶ冷房付きのシャトルバスが毎日数本運行されている他、ベモを1日単位でチャーターするという手段もある。また、南部の主要観光地であるデンパサール、クタ、サヌール、ヌサドゥア周辺ではメーター付きタクシーが走っており、近距離であれば最もリーズナブルな移動手段(初乗り運賃、約50円)である。
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欧米やオーストラリアと比べてもバリ島の治安は良好であるが、観光地では観光客を狙った犯罪が数多く発生しており、主にクタ、レギャンの海辺のバーなどでの詐欺を始めとして、一般観光客の金を狙った盗みや詐欺が後を絶たない。主な手口は、いかさま賭博、パンク強盗、ひったくり、強引な物売り(三つ編みやマニキュア等のサービスの押しつけ)、麻薬及び禁制品の販売などである。なお、麻薬に関しては、現地において寛容的な文化が醸成されているわけではなく、2013年にはコカインを持ち込み逮捕されたイギリス人女性に対して、死刑判決が出ていることに留意すべきである。また、「ビーチボーイ」などと呼ばれるジゴロによる日本人女性を狙ったナンパ行動やさらには性犯罪も多数発生しており、2003年には事態を重く見た日本領事館が地元警察に対して捜査の徹底を申し入れている。
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これらの犯罪は、バリ人の仕業であると解釈されがちであるが、実際のところ、バリ島の観光客目当てに周辺の島からやってくる出稼ぎの若者によるものであることが多いとされており、多くのバリ人は被害者意識を持っている。また、以上の犯罪は、経済面での金銭的価値観が異なる観光客の金回りの良さが助長している可能性もある。
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日本では、このような背景もあってか、バリ島を犯罪や出会いの場としてネガティブにとらえた報道が1990年代の一時期にみられた。例えば、『週刊新潮』(1995年9月7日号)の「『バリ島の妻』となった日本人女性二百人の生活」では、日本人女性がバリでセックス・ハントを行い、その結果、バリ人との結婚が急増しているが、「楽園」の夢が醒めたバリでの実際の結婚生活は必ずしも幸せなものになっていないなどと報じられた。これは現地日本人社会で大きな反発を呼び、バリ日本人会を通じて正式な抗議がなされるまでに至った。
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こうした問題に対して、1999年以降の分権化を背景として、バリ州政府も観光収入を確保するため、地域社会と警察の連携を進めるなど、治安の維持に力を入れている。とりわけ、慣習村(デサ・アダット)の自警団(プチャラン)がバリ州条例によって法的正統性が付され、警察との連携が進められている。こうして治安の面でも、伝統的な慣習(アダット)と近代行政(ディナス)の区分が融解をみせている。とりわけこの動きは、爆弾テロ事件後に顕著に現れ始め、バリの「伝統」文化の鼓舞が、「悪」の排除を目指すという政治社会的な意味を有するようになっている。
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島内にはクロボカン刑務所がある。定員の3倍もの受刑者が収監される劣悪な環境にあるため、しばしば受刑者らによる暴動が発生する。2012年2月の暴動では、受刑者らが刑務所を占拠し、刑務官が撤退を余儀なくされる騒ぎとなった。
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1944年12月16日、連合軍の重要な兵站基地であったアントワープ占領を目標として、ドイツ軍の3個軍がアルデンヌ地方においてアメリカ軍に攻撃をかけた。アメリカ軍はアルデンヌでのドイツ軍の攻撃を予期しなかったため、アルデンヌには実戦経験が皆無か、以前の戦闘で消耗していた師団ばかりが配置されていた。その上悪天候により航空支援も受けられず、緒戦では多くの戦線でドイツ軍の突破を許した。しかしながらドイツ軍の補給線が伸びて行く一方で、アメリカ軍は増援部隊の到着により防衛線を着々と固めていき、12月25日には最大でもミューズ川手前でドイツ軍の攻勢は阻止され、戦線は「バルジ」(突出部の意)を形成していた。翌年の1945年にはアメリカ軍による「バルジ」への反撃が開始され、ドイツ軍の作戦は失敗し、ドイツ軍は貴重な戦力や物資を余計に消耗することとなった。
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アメリカをはじめとする欧米では、ドイツ軍の突出した戦線「バルジ」にちなんで「バルジの戦い」(Battle of the Bulge)という名称が主に使われる。
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ドイツでは作戦の正式名称であった「ラインの守り作戦」(Unternehmen Wacht am Rhein)または西方総軍司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥の名前をとって「ルントシュテット攻勢」(Rundstedt Offensive)の名が使われている。
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そのほか「アルデンヌの戦い」(Battle of the Ardennes)という名称もある。
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日本では「バルジの戦い」が一般的だが、「バルジ大作戦」とする資料も存在する。
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以下、断りがなければ戦闘名はすべて「バルジの戦い」とする。
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1944年6月6日から始まったノルマンディー上陸作戦以降アメリカ・イギリス軍を主体とする連合軍(以下連合軍)はフランスで進撃を続け、8月25日にはパリの解放が実現した。その後も連合軍はドイツ軍を追撃したものの、予想以上に早い連合軍の進撃は補給線の延長を招いたため連合軍の進撃は停滞し、戦線は膠着状態にあった。9月4日にはイギリス軍が良好な港湾があるベルギーのアントワープを解放したものの、海とアントワープの間の水路の両岸にあるドイツ軍陣地の掃討が難航したため、港湾を補給拠点として使用する目処は立っていなかったのである。
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この状況を打開するため、または「クリスマスまでに戦争を終わらせる」ために9月17日からオランダへの侵攻作戦、いわゆるマーケット・ガーデン作戦が開始された。だが、ドイツ軍の能力をあまりに軽視した作戦計画は作戦の進行とともに次々と欠陥を露呈し、本作戦は多くの犠牲とともに失敗した。戦線は再び膠着し、連合軍は一時的に進撃を中止して部隊の再編成とともに補給対策に取り組み始めた。また、東部戦線ではソ連軍によるバグラチオン作戦がポーランドの東部で息切れしていた頃で、小休止状態にあった。
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