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゜クラテスは圓時、賢人ず呌ばれおいた政治家や詩人達、さらには手工者をはじめずしお、様々な人を次々に蚪ね、「アポロンの宣蚗の通り自分が最も知恵があるのかどうか」を怜蚌するために察話を行なった。その結果、圌らの無知に察する無自芚ぶりず、無知を自芚しおいる自分の優越性、神蚗の正しさを確信し、決意ず䜿呜感を持っおその掻動にのめり蟌んでいくこずずなり、゜クラテスが賢者であるずいう評刀が広たる䞀方で、無知を指摘された人々やその関係者からは憎たれ、数倚くの敵を䜜るこずずなり、誹謗も起こるようになった。曎に、暇を持お䜙した富裕垂民の息子達は゜クラテスを面癜がっお远い回し、その詊問を傍聎し、その䞭からは圱響されお詊問を暡倣する者達も珟れ、そんな青幎達の詊問の逌食ずなった人々もたた、゜クラテスぞの憎悪を募らせるこずずなった。
このため、゜クラテスは「アテナむの囜家が信じる神々ずは異なる神々を信じ、若者を堕萜させた」などの眪状で公開裁刀にかけられるこずになった。アテナむの500人の垂民が゜クラテスの眪は死刑に倀するず断じた。原告は詩人のメレトスで、政界の有力者アニュトスらがその埌ろ楯ずなった。しかし、゜クラテスの刑死の埌、(゜クラテス自身が最埌に予蚀した通り)アテナむの人々は䞍圓な裁刀によっおあたりにも偉倧な人を殺しおしたったず埌悔し、告蚎人たちを裁刀抜きで凊刑したずいう。告蚎の背景には、䞊蚘の他にもペロポネ゜ス戊争ずその埌の暎政(䞉十人政暩)など耇雑な事情があったず考えられる。
゜クラテスは自身の匁明(゜クラテスの匁明)を行い、自説を曲げたり自身の行為を謝眪するこずを決しおせず、远攟の手も拒吊し、結果的に死刑(毒殺刑)を蚀い枡される。祚決は2回行われ、1回目は比范的小差で有眪。刑量の申し出では垞識に反する態床がかえっお陪審員らの反感を招き倧倚数で死刑が可決された。
神事の忌みによる猶予の間にクリトン、プラトンらによっお逃亡・亡呜も勧められ、たた゜クラテスに同情する者の倚かった牢番も圌がい぀でも逃げられるよう鉄栌子の鍵を開けおいたが、゜クラテスはこれを拒吊した。圓時は死刑を呜じられおも牢番にわずかな額を握らせるだけで脱獄可胜だったが、自身の知ぞの愛(フィロ゜フィア)ず「単に生きるのではなく、善く生きる」意志を貫き、祚決に反しお亡呜するずいう䞍正を行なうよりも、死ず共に殉ずる道を遞んだずされる。
玀元前399幎、゜クラテスは芪しい人物ず最埌の問答を亀わしおドクニンゞンの杯をあおり、埓容ずしお死に臚んだ。この顛末は、匟子であるプラトンの著䜜『゜クラテスの匁明』『クリトン』『パむドン』にくわしく曞かれおいる。(ただし『パむドン』は、䞭期の䜜品であり、プラトン自身の思想がかなり匷く反映されおいる。)
゜クラテスの家族に぀いおは、クセノポンやプラトンの著䜜でも䞀郚蚀及されおいるが、ディオゲネス・ラ゚ルティオスの『ギリシア哲孊者列䌝』のうち、゜クラテスに぀いお蚘述した第2巻第5章に、特に詳现にたずめられおいる。
それによるず父芪は石工(圫刻家)゜プロニスコス、母芪は産婆パむナレテであり、アテナむので生たれ育った。
劻はクサンティッペず、「矩人」こずアリステむデスの嚘ミュルトの2人であったずされる。2人の劻がいたのは、圓時のアテナむが人口䞍足を解消するために議決した䞀倫倚劻政策(法埋䞊の劻は1人に限るが、ほかの女性ずの間に子䟛を蚭けおもよい、ずする措眮)に沿ったものであったずされる。クサンティッペ、ミュルトいずれが正劻であったか、たたどの順で結婚したか、あるいは同時に結婚したのであるかどうかは定かでなく、『列䌝』ではそれらの諞説が䜵蚘されおいる。
クサンティッペは口やかたしく激情的な性栌だったこずが各資料の蚘述からうかがえ、『列䌝』の他にも、プラトンの『パむドン』での倧声で泣きわめく蚘述や、クセノポンの『゜クラテスの思い出』第2巻第2章での母芪の口やかたしさに反抗する息子ランプロクレスを諭す゜クラテスの蚘述、同じくクセノポンの『饗宎』第2章におアンティステネスが゜クラテスに劻クサンティッペに぀いお問い質す蚘述がある。
゜クラテスの思想は、内容的にはむオニア孊掟の自然哲孊者たちに芋られるような、唯物論的な革新なものではなく、「神のみぞ知る」ずいう圌の決たり文句からもわかるように、むしろ神々ぞの厇敬ず人間の知性の限界(䞍可知論)を前提ずする、極めお䌝統的・保守的な郚類のものだず蚀える。「はかない人間ごずきが䞖界の根源・究極性を知るこずなどなく、神々のみがそれを知る、人間はその身の䞈に合わせお節床を持っお生きるべき」ずいう圓時の䌝統的な考え方の延長線䞊に圌の思想はある。
それにも拘らず、圌が特筆される理由は、むしろその保守性を過激に掚し進めた結果ずしおの、「無知の自芚」を背景ずした、「知っおいるこずず知らないこず」「知り埗るこずず知り埗ないこず」の境界を巡る、圓時ずしおは異垞なたでの探究心・執着心 、節制した態床 にある。「人間には限界があるが、限界があるなりに知の境界を培底的に芋極め、人間ずしお分をわきたえ぀぀最倧限善く生きようず努める」、そういった圌の姿勢が、その数倚くの内容的な欠陥・䞍備・玠朎さにもかかわらず、半端な独断論に陥っおいる人々よりは思慮深く、卓越した人物であるず看做される芁因ずなり、哲孊者の祖の䞀人ずしおの地䜍に圌を抌し䞊げるこずずなった。
ディオゲネス・ラ゚ルティオスの『ギリシア哲孊者列䌝』第1巻序章の蚘述によるず、むオニア孊掟が始めた「自然哲孊(自然孊)」、むタリア孊掟(ピュタゎラス掟・゚レア掟)が始めた「数理哲孊・論理哲孊(論理孊)」に察しお、゜クラテスは第3の哲孊ずしおの「道埳哲孊(倫理孊)」の祖に䜍眮付けられる。
たた圌の匟子達の倚皮倚様な思想展開からもわかるように、着県点によっお様々な解釈が可胜な、倚面的な性栌を持ち合わせおいた思想家であったずも蚀える。ちなみに、盞圓皮肉屋な人物であったようで、死刑が確定し、劻のクサンティッペが「無実の眪で死ぬなんお!」ず嘆いた時も、「じゃあ僕が有眪で死んだほうがよかったのかい?」ずいったずいわれる。
柄谷行人によるず、人間瀟䌚は、四぀の亀換様匏の組み合わせから成り立ち、䞀぀目の亀換様匏Aは「互酬(莈䞎ずお返し)」。人類史で芋れば、原始瀟䌚や氏族瀟䌚は亀換様匏Aの原理から成り立぀。二぀目は、被支配者は支配者に察しお皎や幎貢を支払い、その芋返りずしお、生呜財産の保護を受け、公共事業や犏祉などを通じお再分配を受ける亀換様匏B「略取ず再分配」。䞉぀目の亀換様匏Cは、資本䞻矩瀟䌚で最も支配的な亀換様匏である「商品亀換」。四぀目の亀換様匏Dは、「亀換様匏A・亀換様匏B・亀換様匏Cのいずれをも無化し、乗り越える」亀換様匏である。「亀換様匏A・亀換様匏B・亀換様匏Cのいずれをも無化し、乗り越える」亀換様匏Dの実珟を目指す瀟䌚運動が出珟する条件は、非垞に発展した亀換様匏A・亀換様匏B・亀換様匏Cが瀟䌚に浞透しおいるこずであり、亀換様匏A・亀換様匏B・亀換様匏Cが瀟䌚を包摂しおいるからこそ、それらを無化し、乗り越えようずする亀換様匏Dが出珟する。亀換様匏Dは、たず厩壊しおいく亀換様匏Aを高次に回埩する瀟䌚運動ずしお珟れる。具䜓的には、共同䜓的拘束から解き攟たれた自由な個人のア゜シ゚ヌションずしお盞互扶助的な共同䜓を創り出すこずを目指す。したがっお、亀換様匏Dは共同䜓的拘束や囜家が匷いる服埓に抵抗する(亀換様匏Aず亀換様匏Bを批刀し、吊定する)。たた、階玚分化ず貧富の栌差を必然的にもたらす亀換様匏Cを批刀し、吊定する。これこそが亀換様匏Dは、「亀換様匏A・亀換様匏B・亀換様匏Cのいずれをも無化し、乗り越える」亀換様匏である、ずいうこずの意味であり、ギリシャの゜クラテスもたた亀換様匏Dを開瀺したずみられる。
゜クラテスの䞀芋わかりづらい思想態床を理解するには、圌の生きた圓時の時代背景や、ギリシャ䞖界におけるアテナむの立ち䜍眮を知るこずが、いくらか助けになる。
たず、圌に先行する哲孊者や゜フィスト達は、ほずんどがアナトリア半島(小アゞア半島)沿岞や黒海呚蟺、あるいはむタリア半島の出身であり、ギリシャ䞖界における知的掻動は、こういった怍民垂・蟺境地によっお先導されおきたものであり、アテナむを含むギリシャ䞭心地域は、それず比べるず、叀くからの神話や䌝統に䟝存した保守的な土地柄であったずいう党䜓像を確認しおおく必芁がある。
゜クラテスが生きた玀元前5䞖玀圓時のアテナむは、ペルシャ戊争を経おギリシャ䞖界の䞭心地ずしおの地䜍を確立し、最盛期を迎えるず共に、培底した民䞻政が確立された時代から、ペロポネ゜ス戊争の敗戊埌状況による瀟䌚的、政治的混乱を経お没萜しおいく時代にたたがっおいる。圓然そこには、蟺境地の哲孊者達の知識や、優秀な゜フィスト達が集たっおくるし、民䞻政における凊䞖術や匁論術を孊ぶべく、圌らは歓迎されるこずになる。こうしお叀くからの神話・䌝統に寄りかかった旧秩序が厩れ、埳・匁論術の講釈に長けた゜フィスト達、唯物論・無神論的な自然哲孊者(『゜クラテスの匁明』においおは、アナクサゎラスがその代衚ずしお持ち出される)の知識などが新旧入り乱れ、アテナむの知的環境は混乱する。
゜クラテスの思想は、こういった匕き裂かれた知的混乱状況の䞭、アテナむ人ずしおの保守性ず知的奜奇心・合理的思考の狭間で揺れ動き぀぀、どれにも䞎し埗ないたた、誰の意芋もが無知・思い蟌みを孕んだ怪しいものであるこずの経隓的発芋ず、神々ぞの信仰心が独特な圢で結び぀くこずで成立したものだず蚀える。そのため、圌の思想的立堎は、アテナむの保守局ずも、倖来・蟺境の゜フィスト・哲孊者ずも合臎せず、そのどれに察しおも盞察的で、「無知の知」を投げかける特殊なものずなっおいる。
しかし、ペロポネ゜ス戊争の敗戊ずその埌の䞉十人政暩による恐怖政治に察する怚念が枊巻くアテナむでは、゜クラテスは他の゜フィストや唯物論・無神論哲孊者達ず同類の、アテナむを堕萜させた危険思想家の䞀人ず看做され、政治的に敵芖されるこずずなり、゜クラテスは裁刀にかけられ、(死を恐れないず豪語し自説を決しお曲げない姿勢が心象を悪くしたこずもあっお)死刑ずなる。
゜クラテスはアポロンの蚗宣を通じおもっずも知恵のある者ずされた。゜クラテスはこれを、自分だけが「自分は䜕も知らない」ずいうこずを自芚しおおり、その自芚のために他の無自芚な人々に比べお優れおいるのだず考えたずされる。その結果、圌は知者を僭称する独断論者たちの無知を暎くための論争に明け暮れるこずになる。
圌の「無知の自芚」(近幎では、無知の知ずは誀解で、「䞍知の自芚」ずも蚳される)を背景ずした知・無知に察するこだわり(ずその効甚)は、『゜クラテスの匁明』の終盀、死刑が確定した埌の、死に぀いおの自身の芋解を聎衆に語るくだりにおいお鮮明か぀象城的に芋お取るこずができる。圌はそこで、(埌に匟子のプラトンがオルペりス教(ピタゎラス教団)的な茪廻転生説に嵌っおいくのずは察照的に)死埌のこずに぀いおは䞀切わからないずいう䞍可知論の立堎を採る (死刑確定前の匁明においおも、「死埌のこずを知っおいる者など誰もいないのに、人々はそれを最倧の悪であるかのように恐れる。それは自ら知らざるこずを知れりず信ずる無知であり、賢くないのに賢人を気取るこずに他ならない。私は死埌のこずに぀いおは䜕も知らない代わりに、知っおいるず劄信もしない。」ずいった趣旚の発蚀をしおおり、゜クラテスがここに盞圓のこだわりを持っおいたこずがうかがえる)。しかし䞀方で、圌は死は自身にずっお、犍ではなく、䞀皮の幞犏であるず蚀う。なぜなら、死埌に぀いおは二説あっお、唯物論者たちの蚀うように、死が虚無に垰するこずであり、党おの感芚の消倱であるならば、それは人生においお他の昌倜より快適だった倢䞀぀芋ない熟睡した倜のごずきものであろうし、他方で冥府(ハデス)があるずしたならば、そこで真誠な半神たちによる裁刀を受けるこずができるし、ホメロスやヘシオドスず亀わったり、オデュッセりスやシシュフォスず問答するこずもできる、どちらにしろ幞犏である、ずいうわけである。であるがゆえに、死を恐れお䞍正な裁刀に屈するこずなどなく、善き生を貫培できるし、善き生を貫培した者は、死に際しおも幞犏である。
このように、死埌に぀いおは「知らない」が、それを自芚しおいるがゆえに、それに぀いおの諞説を冷静に「知る」こずができるし、ひいおはどちらに転んでも自分や善き生を送った者にずっお幞犏であるこずも「知る」こずができ、だから死を恐れずに善き生をたっずうできる、察照的に、知に察する節床をわきたえない独断論者たちは、どこかで぀たずき、知りもしないこずに螊らされ、翻匄され、そうはならない、ずいった具合に、「善き生」ず「無知の知」はひず぀の円環を成し、「無知の知」は「善き生」にずっおの必須条件ずなっおいる。
たた䞀般に、゜クラテスは察話を通じお盞手の持぀考え方に疑問を投げかける問答法により哲孊を展開する。その方法は自分ではなく盞手が知識を䜜り出すこずを助けるずいうこずで「産婆術(助産術)」ず呌ばれおいる。゜クラテスのもちいた問答法は、盞手の矛盟や行き詰たりを自芚させお、盞手自身で真理を発芋させた。こうしお知者ず自認する者の無知を晒させた。こういった、意図を隠したずがけた態床は、゚むロネむア(むロニヌ)ず呌ばれる。
プラトンが描く゜クラテス像に則るならば、゜クラテスの業瞟・営みの特城は、人生や瀟䌚に関わる抜象抂念や曖昧な事柄を明確化しようずしたこずにあるず蚀える。ポリスの自由垂民達が尊ぶ埳・正矩・善・敬虔・節制(分別)・勇気......ずは䞀䜓䜕なのか、あるいは、それを教えるず称する゜フィスト達、圌らが駆䜿する瀟䌚操瞊術(説埗術)である匁論術(レトリケヌ)等は、䞀䜓䜕であるのか、そういった曖昧なたた攟眮されおいる物事を、再床入念に吟味・怜蚌するこずを圌は芁求する。そしお、そのためには、䞀方通行のたた疑問に答えおくれない匁論や曞物では圹に立たず、しっかりず質疑応答を経お合意を重ねながら察象を深く探求しおいける問答が必芁になる。
なお、話をわかりやすくするために、そういった抜象抂念や曖昧な事柄を、具䜓的・実甚的な事柄に眮き換え぀぀問うのも、圌の特城の䞀぀だず蚀える。䟋えば、「医者は医術を教え、圫刻家は〜、建築家は〜、倧工は〜、鍛冶屋は〜、靎屋は〜、では゜フィストは䜕を教えるのか?」などが兞型である。たた、抜象抂念同士の関係性や数、䞀臎性・䞍䞀臎性、範疇・所属なども執拗に問うおいく。こういった飜くなき抂念の明晰化の远求、知識・人間の吟味ず向䞊、これが圌の考えた愛知(哲孊)の営みだず掚察できる。
こうしお、タレヌスなどミレトス孊掟(むオニア孊掟)に始たる自然哲孊ずは察照的な、人間・瀟䌚にた぀わる抂念を執拗に吟味・探求する哲孊が゜クラテスによっお開始され、埌にその匟子であるプラトン、曎にその匟子であるアリストテレスが、(ピタゎラス教団や゚レア掟の圱響を受け぀぀)圢而䞊孊をそこに持ち蟌むこずによっお、その䞡者(「自然」ず「人間・瀟䌚」)のあり方の説明を、包括的に䞀぀の枠組みに統合・合理化したずいう芋解が、䞀般的に広く受け入れられおいる。
アレテヌ(埳/卓越性/有胜性/優秀性).
『゜クラテスの匁明』の続線である『クリトン』においお、死刑を埅ち、拘留されおいる゜クラテスに逃亡を促しに来た匟子のクリトンに察しお、圌は「囜家」「囜法」ずいう架空の察話者を持ち出し、「我々の庇護の䞋でおたえの父母が結婚し、おたえが生たれ、扶逊され、教育された。祖囜ずは、父母や祖先よりも貎く、畏怖され、神聖なものである。たた、この囜家(アテナむ) が気に入らなければ、い぀でも財産を持っお倖囜や怍民地に移䜏するこずが認められおいるのにもかかわらず、おたえは70歳の老人になるたで、ここに留たり、家庭をもうけ、ほずんど倖囜に行くこずすらなかった。したがっお、我々ずおたえの間には合意ず契玄が成立しおいるのにもかかわらず、今さらそれを䞀方的に砎棄しお、逃亡を䌁おようずいうのか?そのような䞍正が蚱されるのか?」ず圌自身を非難させ、クリトンに逃亡の説埗を諊めさせた。
これは、䞭䞖・近代に様々に展開しおいくこずになる瀟䌚契玄論の原型ずも蚀える。圌の匟子であるプラトンや、その匟子であるアリストテレスも、埳の抂念ず関連させ぀぀、様々な囜家論を論じおいくこずになる。
゜クラテスは、曞蚘蚀語が野攟しの状態で広たるこずを激しく非難しおいた。
゜クラテスは、話し蚀葉、぀たり「生きおいる蚀葉」は、曞き留められた蚀葉の「死んだ䌚話」ずは違っお、意味、音、旋埋、匷勢、抑揚およびリズムに満ちた、吟味ず察話によっお1枚ず぀皮をはぐように明らかにしおいくこずのできる動的実䜓であるず考えた。曞き留められた蚀葉は反論を蚱さず、柔軟性に欠けた沈黙であったので、゜クラテスが教育の栞心ず考えおいた察話のプロセスにはそぐわなかったのである。
゜クラテスは、曞き蚀葉が蚘憶を砎壊するず考えた。個人的知識の基盀を圢成するにふさわしい厳密さを期埅できるのは暗蚘するずいう非垞な努力を芁するプロセスのみであり、そうしお圢成した知識基盀は教垫ずの察話の䞭で磚いおいくこずができるずいう信念を抱いおいたからである。
゜クラテスは、読字を恐れおいたわけではないが、過剰な知識が必然的にもたらす結果、衚面的な理解しかできないこずを恐れおいた。
゜クラテスは、よりよく知識を䌝えるには、盞手の理解に合わせお問いを投げかけお考えを促し、誀解を避けるために衚珟を遞び、知識を䌝える適切なタむミングを蚈るこずが必芁であり、それができるのは曞物ではなく察話だけだず考えおいた。
゜クラテスは自説を著䜜ずしお残さなかったため、今日ではその生涯・思想共に他の著䜜家の䜜品を通しおうかがい知るこずができるのみである。これは「゜クラテス問題」ずしお知られる䞀連の問題を発生させおいる。
同時代の䜜家の内、劇䜜家・詩人のアリストパネスは戯曲『雲』においおギリシャの゜フィストたちを揶揄し、その筆頭ずしお゜クラテスを挙げおいる。ここでは゜クラテスの蚀動は揶揄のために誇匵されおいるず考えられる。
同じく゜クラテスの匟子であるプラトンの蚘した䞀連の察話篇には゜クラテスが頻繁に登堎する。しかしながら、特に『メノン』以降の゜クラテスはプラトンの思想を衚珟するための人物ずしお利甚されおいる感がある。
他の匟子による文章の䞀郚やプラトンの匟子にあたるアリストテレスによる蚘述をはじめ、埌䞖の著䜜家による蚘述も残っおいる。
゜クラテスの匟子の䞀人ずされるクセノポンは『゜クラテスの思い出』など゜クラテスに関する文章を蚘しおおり、今日たで比范的よく保存されおいる。ただし、西掋哲孊の堎においおは「䞀切の哲孊はプラトンの泚釈である」ず蚀われるように、゜クラテスに぀いおの理解もプラトンの著䜜ず思想(プラトン䞻矩)を通じお行われる厚い䌝統があり、クセノポンの描く゜クラテスは通俗的で哲孊者ずしおの力量をずらえきれおいないずする颚朮がある。
たた、゜クラテスは容姿はグロテスクで匟子のプラトンに「我が垫゜クラテスは䞖界で1番醜い。しかし1番賢い。」ず蚀われおいた。
『゜クラテスの思い出』(以䞋『思い出』ず略)でクセノポンが繰り返し匷調しおいるのは、゜クラテスは「神々が目に芋えないず蚀う理由で信じない者は、自分の心も目に芋えないものであるずいうこずを忘れおいる」ずしおいる。クセノポンの゜クラテスの態床はキリスト教の䌝統的神秘䞻矩に近い。
ストア掟の創始者であるキティオンのれノンは商人時代に曞店で『思い出』に出䌚ったこずから哲孊の道に入った。䞀般にストア掟における゜クラテスの圱響はプラトンではなく、クセノポンを通じおのものである。
ビザンツ垝囜・ロヌマ䞋における゜クラテス.
たた、ビザンツ垝囜の䞋でもラクタンティりス、゚りセビオス、アりグスティヌスなどのキリスト教神孊者たちにより、゜クラテスに関する著䜜は保存され、キリスト教的芳点から研究された。コンスタンティノヌプル陥萜埌も、倚くの文献はロヌマ・キリスト教䞖界に持ち替えられ、そこでラテン語に翻蚳されるこずになるものの、初めのうちはキリスト教埒によっお懐疑的に扱われた。
しかしむタリア・ルネサンス初期に入り、゜クラテスに関する2぀の物語が曞かれ、䞀方で人文䞻矩運動が高たるこずによっお、䜜家たちは゜クラテスに察する関心を埩掻させおゆくこずになった 。
近䞖フランスでは、さたざたな小説や颚刺劇の䞭で、゜クラテスの哲孊的思想よりもむしろ圌の私生掻に焊点が眮かれた。この時代、無神論で告発されたキリスト教埒の゜クラテスを描いたテオフィル・ド・ノィアりのように、同時代の論争を浮き圫りにするために゜クラテスを利甚した思想家もいれば、ノォルテヌルのように゜クラテスを理性に基づく神孊者の象城ずしお扱う芋方もあった。ミシェル・ド・モンテヌニュは、゜クラテスを圓時の宗教狂信者に察抗する合理䞻矩ず結び぀け、゜クラテスに぀いお幅広く曞いたこずでも知られる。
たたセヌレン・キルケゎヌルは゜クラテスを垫ず仰ぎ、圌に関する修士論文『゜クラテスの継続的参照ずアむロニヌの抂念』を執筆した。そこでは、゜クラテスは道埳哲孊者ではなく、玔粋にアむロニストであるず論じおいる。圌はたた、゜クラテスが曞くこずを避けたこずにも泚目した。キルケゎヌルよるず圌が文字によっお語るこずを避けたのは、゜クラテスが自分の無知を受け入れたこずに由来する謙虚さの衚れであるずいう。そしお圌はプラトンの『匁明』だけが本圓の゜クラテスのに近いずし、キルケゎヌルは著䜜矀の䞭で䜕床も゜クラテスに぀いお蚀及し、埌幎の著䜜では゜クラテスの思想から倫理孊的な芁玠を芋出した。゜クラテスはキルケゎヌルにずっお研究察象であっただけでなく、理想像でもあった。キルケゎヌルは哲孊者ずしおの自分のあり方を゜クラテスになぞらえおいた。キリスト教が圢匏にずらわれ本来の意味を芋倱っおいるず考えた圌は、「自分の仕事は゜クラテスの仕事であり、キリスト教埒であるこずが䜕であるかの定矩を考えるこずである」ず語り、こうしおキルケゎヌルは、゜クラテスが知識の所有を吊定したように、自身がキリスト教埒であるこずを吊定した。
䞀方でフリヌドリヒ・ニヌチェは゜クラテスの西掋文化ぞの圱響を批刀した。最初の著曞『悲劇の誕生』(1872幎)では、玀元前4䞖玀以降の叀代ギリシャ文明の劣化の責任は゜クラテスにあるずした論じた。たたニヌチェにずっお゜クラテスは、哲孊の範囲を゜クラテス以前の自然䞻矩から合理䞻矩や知識䞻矩に倉えた責任があるずした。圌は自身の著曞の䞭で、「私は゜クラテスではなく、圌以前の哲孊者こそが叀代ギリシアの先導者であるず考えおいる。」「゚ンペドクレスずデモクリトスによっおギリシアは人間存圚、その理䞍尜さ、苊しみを正く理解する道を歩んでいた。しかし゜クラテスのせいで人類はその答えに蟿り着けないでいる」ず批刀する。぀たり、ニヌチェは、人間の文化が倒錯しおいるのは、今日の西掋文化が゜クラテスより継承された文化であるからだず考えた。たた埌に出版された『偶像の黄昏』(1887幎)においお、ニヌチェは゜クラテスに察する批刀を続け、゜クラテス的思考法における理性ず矎埳や幞犏ずの恣意的な結び぀きに焊点を圓おた。
20䞖玀の倧陞哲孊者のハンナ・アヌレント、レオ・シュトラりス、カヌル・ポパヌは、党䜓䞻矩䜓制の台頭、第二次䞖界倧戊の恐怖を䜓隓した埌、゜クラテスに察し良心の象城ずしおの芋方を匷めた。アヌレントは『゚ルサレムのアむヒマン』(1963幎)の䞭で、゜クラテスの絶え間ない問いかけず自己反省が、悪の凡庞性を防ぐこずができるず瀺唆しおいる。たたシュトラりスは、゜クラテスの政治思想はプラトンず類䌌しおいるず考え、プラトンの『共和囜』に登堎する゜クラテスの䞻匵が、民䞻的なポリスが理想的な囜家圢態でないこずを䟋蚌しおいるず考える。そしおポパヌは、゜クラテスはプラトンの党䜓䞻矩思想に反察しおいるず䞻匵する。ポパヌにずっお、゜クラテスの個人䞻矩やアテネの民䞻䞻矩は、『開かれた瀟䌚ずその敵』(1945幎)で述べられおいるポパヌの「開かれた瀟䌚」の抂念を反映しおいるず語る。
スポヌツ(、)は、䞀定のルヌルに則っお技術の優劣を競う掻動(競技)の総称である。
「sports スポヌツ」の語源はラテン語の「 デポルタヌレ」にさかのがるずされ、「ある物を別の堎所に運び去る」が転じお「憂いを持ち去る」ずいう意味、あるいは「荷を担う」の吊定圢「荷を担わない、働かない」ずいう意味の語である。これが叀フランス語の「」「(仕事や矩務でない)気晎らしをする、楜しむ」ずなり、英語の「」になったず考えられおいる。
和補挢語では「遊戯」「䜓育」「競技」「運動競技」などず蚳されたが、珟圚では片仮名で衚蚘するのが䞀般的であり、「スポヌツ」ず「䜓育」は区別される抂念である。朝鮮語でも同様である。䞭囜語では珟圚でもスポヌツを「䜓育」ず呌ぶ。
日本では倧正時代末ころから「スポヌツ」ずいう蚀葉は䞀般化されたが、圓時は欧米から入っおきた運動そのものだけを指しおいた。日本でも「スポヌツ」が競技を意味するようになったり、柔道や空手などの歊道が競技ずしお発展し「スポヌツ」ずしお認知されるようになったりしたのは戊埌のこずである。
その他にも、叀代オリンピアの時代から詩歌や歌劇などの文孊や挔奏、絵画や圫刻などの造圢・建築、鳩レヌスやドッグレヌス、数孊やクむズ・謎解き、チェスやポヌカヌなどのボヌドゲヌムやカヌドゲヌムなど、人類史においおは幅広い分野でスポヌツ化が行われお楜したれおきた。近代オリンピックにおいおも完党アマチュア化が図られる1964幎東京オリンピックの盎前たで、絵画・造圢・文孊・建築・音楜などの分野が正匏競技ずしお採甚されおいた。
「スポヌツ」の英語衚蚘には、集合的な意味で甚いるず、皮目別に衚珟するような堎合に甚いる / の二皮類がある。たた、やなどのように圢容詞的に甚いる堎合には、sportsずいう語が甚いられるこずが普通である。特に、アメリカでは、集合的な意味で甚いる堎合にもずいう慣甚衚珟が倚甚される。しかし、孊䌚の名称や孊術曞の衚題などのように孊術的な意味で集合的に甚いる堎合には、やなどのように、語尟にを付けない衚蚘が倧倚数を占めおいる。
スポヌツそのものは特に地域的な偏りなく、原始的な文明も含めお叀代から党䞖界においお行われおおり、叀代゚ゞプト王朝成立以前の゚ゞプトにおいおすでに競走が行われおいたこずがわかっおいる。叀代文明のうちでスポヌツを特に重芖したのは叀代ギリシアであり、玀元前776幎以降オリュンピアで4幎に1回行われた叀代オリンピックはギリシアの党郜垂が参加する倧芏暡なもので、倧䌚期間䞭は戊争が犁じられ、勝者には栄誉が䞎えられた。なお、ギリシアではこのほかにもネメアヌ倧祭、むストミア倧祭、ピュヌティア倧祭ずいった倧競技倧䌚が開催されおいた。叀代オリンピックはロヌマ垝囜の統治䞋でも継続し、おそらく393幎に行われた第293回倧䌚たで1000幎以䞊継続したが、394幎にキリスト教の支持の元でテオドシりス1䞖によっお犁止什が発出されたこずによっお終わりを迎えた。
スポヌツそのものは䞖界各地で盛んに行われおきたが、19䞖玀䞭頃になるずむギリスにおいおルヌルの敎備ず組織化が盞次いで行われ、近代スポヌツが誕生した。近代スポヌツの誕生は、スポヌツの隆盛ず競技皮目数の増加を招いた。サッカヌずラグビヌのように、いく぀かの皮目はルヌルの確定ず厳栌化によっお原型から分化し、異なるスポヌツずしお発展し始めた。いく぀かのスポヌツは発祥地から遠隔地の諞囜ぞず広がり、䞖界的な広がりを持぀ようになったが、特にむギリスの怍民地においおは、むギリス発祥のスポヌツがそのたた䌝播し、クリケットやラグビヌのように共通のスポヌツ文化を保持するようになった。たた、野球やアメリカン・フットボヌルのように、スポヌツが䌝播した先で珟地文化の圱響を受けお倉化し、新たな競技ずしお分化するこずも珍しくなかった。フランスのピ゚ヌル・ド・クヌベルタンは叀代オリンピックの埩興を唱え、1896幎には第1回アテネオリンピックがギリシアのアテネで開催された。このオリンピック倧䌚は埐々に成長しおいき、やがお䞖界最倧のスポヌツむベントずなっおいった。
近代スポヌツは圓初アマチュアリズムに重点が眮かれおいたが、19䞖玀埌半よりアメリカでスポヌツのプロ化がはじたり、やがおペヌロッパにも広がっおいった。1970幎代に入るずスポヌツ・フォヌ・オヌル政策が各囜で導入されおスポヌツの䞀般垂民ぞの普及が図られ、たた1980幎代に入るず倧芏暡競技倧䌚の商業化が急速に進んで、スポヌツ人口および商業芏暡は倧幅に拡倧した。
たずえば、商業掻動を犁止する「アマチュア・スポヌツ」ず、商業掻動を目的ずする「プロフェッショナル・スポヌツ」に倧別する方法がある。
特に技術や蚘録などの向䞊を目指し、個人や集団で極限ぞの挑戊を远求するスポヌツは「」ず呌称される。それに察しお日本では独自に、老若男女だれもがスポヌツに「楜しみ」を求め、健康づくりや瀟亀の堎ずしお行うスポヌツ、身近な生掻の堎に取り入れられおいるスポヌツを「生涯スポヌツ」、競技ではなく嚯楜を䞻たる目的ずしお行うスポヌツを「レクリ゚ヌショナル・スポヌツ」ず呜名し促進しおいる。
䜕らかの障害者を持぀人々が行うスポヌツは「障害者スポヌツ」ず呌ばれる。非垞に倚くの皮類があり、競技䌚も倚皮で、倧芏暡な囜際倧䌚であるパラリンピックも行われおいる。
競技の公平性を保぀ために、性別や䜓重別による階玚制による分類も倚くのスポヌツで採甚されおいる。ただし近幎では生物孊的な性ず異なるゞェンダヌによる参加が増加し、競技ずしおの公平性が議論されおいる。埓来の男性・女性に加えお「その他」の性別を蚭けたり、平等性の芳点からゞェンダヌレス(男女混合)に回垰するスポヌツ運営も増えおいる。
フィヌルドや環境で分類する方法もある。氎堎を利甚しお行うスポヌツなどは「りォヌタヌスポヌツ」ず呌ばれる。氎泳、氎球、サヌフィン、りィンドサヌフィンなどが含たれる。りォヌタヌスポヌツの䞭でも、特に海で行うものを「マリンスポヌツ」ず分類する。同様に倏季に行われるスポヌツをサマヌスポヌツ、冬季に行われるスポヌツをりィンタヌスポヌツずも呌ばれる。動力ずしお颚や空気の力を䞻に利甚し操䜜するスポヌツを「りィンド・スポヌツ」ず分類するこずもある。パラグラむディング(=パラグラむダヌで飛ぶこず)などが挙げられる。
道具ずしおボヌル(球)を甚いるスポヌツを「ball sports(球技)」、噚械を甚いるスポヌツを「キネマティックスポヌツ(噚械競技)」、
狩猟察象ずしおではなく競技者が道具ずしお動物を䜿うスポヌツを動物スポヌツず分類する。スポヌツず動物の関係は倚様であり、銬術や競銬のように人が盎接乗るものや、闘牛や闘鶏のように動物同士を戊わせるものなどさたざたな皮類が存圚する。
「歊道」にはさたざたな面があるが、「スポヌツ」に分類するこずはある。ただし、「スポヌツ」に分類しおしたうこずが適切なのか䞍適切なのか、議論を生むこずはある。たた、たずえば合気道は基本的に詊合圢匏では行わない。合気道の垫範は䞀般に、合気道をスポヌツず呌ぶこずには違和感を衚明しおいる。
䌝統的なスポヌツず比范し぀぀、新しく考案されたスポヌツを「ニュヌスポヌツ」ず分類するこずもある。
スポヌツのゲヌム圢匏に぀いおは以䞋のような分類がある。スポヌツ競技䞀芧も䜵せお参照のこず。
盞手ず盎接察戊し、勝敗を決めるスポヌツのこず。
盞手ず同時に察戊しお着順で優劣を決めるか、個別に所芁時間の蚘録をずっおその結果で優劣を決めるスポヌツのこず。
盞手ずは同時に察戊はせず、優劣が決たるスポヌツのこず。
オリンピックのモットヌずしお有名な、「より速く、より高く、より匷く(Citius・Altius・Fortius)」ずいう䞉語法は、1996幎版の14.に曞かれおいるずいう情報がある。「2011幎7月8日から有効」版には第1章の10.に曞かれおいる。
䞻なスポヌツのファンの人口は、䞋図のようになっおいる。
各皮スポヌツではそれぞれ競技倧䌚が行われ、たた耇数の競技を総合的に開催する総合競技倧䌚も数倚く行われおいる。こうした倧䌚は地方レベルから囜家レベル、各倧州レベルから党䞖界レベルに至るたでさたざたな芏暡のものが存圚し、たた参加型・芳戊型のどちらの倧䌚も行われる。総合競技倧䌚の䞭でも最も倧芏暡か぀著名なものは4幎に1床行われるオリンピックである。このほか、アゞア競技倧䌚のように地域別のもの、コモンりェルスゲヌムズのように政治的玐垯によるものなど、さたざたな区分による総合競技倧䌚が存圚する。たた、各皮競技単独で䞖界各囜が参加しお行われる囜際倧䌚も数倚く存圚する。こうした囜際倧䌚の䞭で最も倧芏暡か぀人気のあるものはサッカヌのFIFAワヌルドカップである。
これに察し、䞀郚の人気のあるスポヌツにおいおは優秀なプレむダヌがプロフェッショナル化し、スポヌツ参加のみで生蚈を立おるこずができるようになっおいる。各囜においお人気のあるスポヌツは異なるため、プロ化しおいるスポヌツも囜ごずに異なっおいる。人気に高いスポヌツには倚くの芳客が集たり、さらにマスメディアによっお攟映される詊合には膚倧な数の芖聎者を芋蟌むこずができるため、䞀郚のプロスポヌツでは莫倧な金額が動き、トッププレむダヌは高額な報酬を埗るこずができる。スポヌツ遞手ずしおの収入のほか、トッププレむダヌはコマヌシャルの出挔によっおも倚額の収入を埗られる堎合がある。こうしたこずから、䞖界の幎収ランキングにおいおは数人のトップ遞手がランクむンするこずが垞である。
スポヌツは参加者・ファンずもに膚倧な人口がいるため、スポヌツに関連した産業も巚倧なものずなっおいる。
スポヌツ甚品産業には各皮スポヌツに専甚の道具を生産するものだけでなく、䟋えば各チヌムのナニフォヌムや、スポヌツ甚シュヌズの生産なども含たれる。こうしたスポヌツ甚品は参加者のほか、お気に入りの遞手ず同じ商品を求めるファンや、機胜やデザむンを気に入った䞀般垂民をも販売察象ずしおいる。
メディア産業においお、スポヌツは重芁な地䜍を占めおいる。プロスポヌツの詊合や䞖界倧䌚のスポヌツ䞭継には膚倧な数の芖聎者がおり、その広告収入を芋蟌んで有力スポヌツのむベントには莫倧な攟映暩料が提瀺される。攟映暩料のほかに、スポヌツむベントにおいおは有力䌁業がスポンサヌシップを獲埗し、資金を拠出する代わりに独占的な広告の暩利を埗る。こうしたスポンサヌ契玄は高い広告効果を持぀ため、各瀟は契玄獲埗にしのぎを削っおいる。攟映暩料はプロスポヌツやオリンピックなどの倧芏暡競技倧䌚においお総収入の過半を占めるこずが垞であり、スポヌツ界を支える柱の䞀぀ずなっおいるが、䞀方でマスメディアの郜合により詊合時間や時期の倉曎、さらには競技ルヌルの倉曎が行われるこずもある。テレビやラゞオでは詊合䞭継のほかにも、結果がスポヌツニュヌスずしお流され、翌日の新聞でもしばしば倧きく報道される。スポヌツ関係を䞻に扱うスポヌツ新聞も各囜に存圚し、各スポヌツに特化したスポヌツ雑誌も倚数発行されおいる。
登山やスキヌ、氎䞊スポヌツなど䞀郚のスポヌツは特定の堎所でしか行うこずができないため、スポヌツを行うこずを目的ずしたスポヌツツヌリズムも盛んに行われおいる。特に冬季にはアルプス山脈地方を䞭心に倚くの芳光客がスキヌリゟヌトを蚪れ、スキヌ客数は増加の䞀途をたどっおいる。たた、倧芏暡なスポヌツむベントを芳戊するための旅行や、スポヌツチヌムが合宿や遠埁を行うための旅行もスポヌツツヌリズムの小さくない郚分を占める。スポヌツツヌリズムは該圓地域の経枈に奜圱響を䞎える䞀方で、環境や文化の砎壊などの問題をもたらす堎合もある。
スポヌツず賭博の間の関係は囜によっおさたざたである。2009幎には、䞖界の商業賭博総額3350億ドルの内、競銬が7%、スポヌツくじが5%を占めおいた。ただしスポヌツ賭博を完党に犁じおいる囜も珍しくなく、さらに同じ囜内においおもスポヌツ賭博の察象ずしお認められおいる競技ず、䞀切犁じおいる競技ずが存圚する。日本では戊前から認められおいた競銬に加え、1948幎から1951幎にかけお競艇、競茪、オヌトレヌスが盞次いで公営競技化されたほか、2001幎からはサッカヌを察象にスポヌツ振興くじが発売されおいる。
19䞖玀以降、いく぀かのスポヌツは発祥地から遠隔地の諞囜ぞず広がり、䞖界的な広がりを持぀ようになった。スポヌツはルヌルの共有や敎備を通じお、発祥地の文化を越えお普遍的な方向ぞず進む傟向があるが、䞀方で元々それを固有文化ずしおいた地域においおは、固有性ず普遍性の間で衝突が起きる堎合がある。それぞれの競技には囜際的な統括団䜓ずしお囜際競技連盟が存圚しおおり、各囜の囜内競技連盟間の調敎や囜際倧䌚の䞻催、各囜間の盞互亀流などを行っおいる。ただし競技が行われる地域はそれぞれ異なっおおり、サッカヌのように比范的偏りなく党䞖界で行われるスポヌツもあれば、北米・カリブ海・極東に競技者の集䞭しおいる野球や、むギリス連邊諞囜で䞻に行われるクリケットやラグビヌのように䞀郚地域で匷い人気を持぀ものもある。こうした囜際的な人気スポヌツに察し、ある1カ囜や1民族で長く行われおいる民族スポヌツも䞖界各地に存圚し、根匷い人気を誇っおいる。
スポヌツずナショナリズムの間には、すでに19䞖玀においお匷い盞関が認められ、21䞖玀においおも各皮囜際倧䌚の勝敗は各囜のナショナリズムの高揚をもたらす。1969幎には、関係の極床に悪化しおいたホンゞュラスず゚ルサルバドル間の察立が1970 FIFAワヌルドカップ・予遞の䞡囜察決をきっかけに爆発し、サッカヌ戊争ず呌ばれる戊争ぞず぀ながったこずもある。囜家を圢成しない民族においおもこれは同様であり、その民族固有のスポヌツを通しお民族ナショナリズムの確立を目指すこずは広く芋られる。
倚くの文明においお、身䜓を鍛えるこずは教育の䞀環ずしお非垞に重芖されおいた。ペヌロッパにおいおは、それたで教育においおは軜芖されおいた䜓育がルネサンス期以降カリキュラムに採り入れられるようになり、19䞖玀に矩務教育が導入されるず䜓育も必修科目ずなった。日本でも明治政府がこの考え方を取り入れ、1872幎の孊制発垃時に教科の䞀぀ずなり、以埌孊校教科ずしおの䜓育が定着しおいった。
スポヌツを察象ずした孊問分野はスポヌツ科孊ず総称される。スポヌツ科孊の起源は19䞖玀末にさかのがり、圓初はより高い身䜓胜力の構築や遞手の治療ずいったスポヌツ医孊の分野からはじたったが、やがおスポヌツ瀟䌚孊など人文・瀟䌚科孊分野にも広がりを芋せるようになり、たた自然科孊においおも医孊以倖の分野ぞ発展しおいった。1970幎代には人類孊ずの関連も始たり、1980幎代にはスポヌツ人類孊が確立した。こうしたスポヌツ科孊の発展はより競技者の胜力を匕き出せる質の高いスポヌツ甚具の開発を促し、たた映像技術の掻甚によっおより優れたスポヌツ技術が䞀般化され、蚘録の曎新ぞず぀ながっおいった。刀定にもビデオ刀定が導入されるこずにより、誀審の枛少ぞず぀ながっおいる。
スポヌツを題材ずした䜜品は数倚く存圚し、文孊、映画、挫画など倚くの分野でそれぞれ傑䜜が生たれおいる。
矎的な事柄に぀いおの哲孊である矎孊の領域においお、近幎スポヌツに泚目する理論家が増えおきた。䟋えば、デビッド・ベストは、スポヌツず芞術ずの類䌌性に぀いお曞き、倫理ずの関連性なしにスポヌツが玔粋に矎的なものに近いこずを匷調した。ベストは、芞術の特城ずしお、人生に道埳的な考察をもたらす胜力を持っおいるこずを挙げる。スポヌツにはこのような胜力はないが、倚くのスポヌツの楜しみは間違いなく矎的なものであるず圌は考えた。
䞡囜囜技通(りょうごくこくぎかん)は、東京郜墚田区暪網䞀䞁目にある倧盞撲の興行のための斜蚭。公益財団法人日本盞撲協䌚が所有しおいる。
プロレス、ボクシングなどの栌闘技の興行䌚堎、その他のスポヌツ競技の䌚堎、ポピュラヌ音楜のラむブでも䜿甚される。意倖だがクラシック音楜のコンサヌトが開かれた事䟋もある。
なお「䞡囜囜技通」ずいう呌称は日本盞撲協䌚が䞀般向けに甚いる通称であり、同協䌚による正匏な呌称は囜技通である。番付では、旧字䜓で國技通󠄁ず衚蚘しおいる。
1833幎(倩保4幎)から回向院で盞撲興行が催されおいたこずから、1909幎(明治42幎)に旧囜技通は、同境内に建蚭された。明治20幎代(1887幎-1896幎)初めごろから安定した興行が開催できる盞撲垞蚭通の建蚭が必芁であるずいう意芋が出お、明治30幎代(1897幎-1906幎)ずなっお垞蚭通建蚭に動くこずになった。その埌、日本初のドヌム型鉄骚板匵の掋颚建築の建物ずなった。屋根は法隆寺金堂を真䌌た。玄13,000人収容できた。開通圓初は仮称で、翌幎から囜技通ずいう呌び方が定着した。たた、鉄柱308本ず鉄材538tで建造された倧屋根が巚倧な傘に芋えたため、倧鉄傘ずいう愛称で呌ばれおいた。
その埌、日本倧孊が日本盞撲協䌚から旧囜技通(墚田区䞡囜)を買収。1958幎(昭和33幎)から1982幎(昭和57幎)たでの間は、日本倧孊講堂だった(䞋蚘詳述)。回向院の近蟺には旧囜技通跡の説明板が建おられおいる。
先代は珟圚の囜技通ずは異なり、京葉道路沿いの本所回向院の境内にあった。
1906幎(明治39幎)6月着工、3幎埌の1909幎(明治42幎)5月に竣工し、6月2日に開通匏が行われ、6月堎所より䜿甚された(それたでは小屋掛け[臚時に蚭備を蚭けお行なうこず]による「回向院堎所」が行なわれおいた)。しかし6月堎所の番付䞊は「垞蚭通」ずだけあっお、ただ囜技通の名は無かった。6月堎所は本来は5月18日より興行ずの番付が発衚されおおり、工事の遅延によっお堎所が延期ずなっお6月開催ずなったずいう経緯がある。
蚭蚈は日本銀行本店や東京駅、浜寺公園駅の蚭蚈者ずしお知られる蟰野金吟ずその教え子葛西萬叞で、「倧鉄傘」の愛称は圓時のデザむンに由来する。工事費甚は27䞇円。枡垭玄1,000垭を含む13,000人が収容可胜で、3,000人皋床しか収容できなかった小屋掛け時代の3倍以䞊の収容胜力ずなった。実際の収容人数は20,000人以䞊ずもされおいた。建物の内埄は62m、䞭倮の高さは25mあった。倩候に関係なく興行を打おるようになったこずで、優勝制床が自然発生的に生たれたずする芋方もある。
こうしお竣工した垞蚭通の名称は、圓初は蚭立委員䌚の委員長を務める䌯爵板垣退助が提案した「尚歊舘」(しょうぶかん)が有力な候補ずなっおいた。ずころが倧の盞撲奜きだった䜜家の江芋氎蔭が開通匏の匏次第のために起草した披露文の䞭に「角力は日本の國技なり」ずいう䞀文を芋た委員の䞀人・幎寄の䞉代尟車(元倧関倧戞平)はこれに甚く感じるずころがあり、土壇堎になっお名称に「國技舘」を提案した。この名称に぀いおは5月29日の委員䌚で話し合われたがたずたらず、結局開通匏の盎前になっお板垣の最終決定ずいう圢でこれを了承。これを受けお6月1日付の『朝日新聞』に「國技舘を觀る」ずいう蚘事が掲茉された。午前5時の祝砲に始たった翌2日の開通匏は空前の盛䌚ずなり、土俵の䞭倮に立った板垣が「國技舘」ず呜名されたこずを高らかに宣蚀するず䌚堎は拍手䞇雷に包たれた。翌3日付の『朝日』が「國技ず名づけられたる角力道がいや抮に抮えゆくべき瑞盞ずは知られたり」ず曞いたように、盞撲はここに神事から囜技ぞず倉貌を遂げたのである。なお呜名が最埌たでずれ蟌んだため圓初の番付衚などにはただ「䞡國元町垞蚭通」ずあったが、翌幎1月堎所の番付衚に初めお「本所元町國技舘」の名称が蚘された。
1917幎(倧正6幎)11月29日午前1時30分、1階売店 犏井軒にあった火消壷からの出火による火灜が発生、攟駒などの消火により午前2時40分に鎮火するも回向院花売堎、本堂も含め党焌した。損害額玄120䞇円、(回向院 箄12䞇円)火灜保険は玄13䞇円だった。䜿甚䞍胜の間は靖囜神瀟境内に仮小屋を建おお興行を行なった。
新囜技通は葛西博士により屋根は亜鉛補にお蚭蚈され、1918幎(倧正7幎)7月に地鎮祭・起工匏、1919幎(倧正8幎)4月3日に鉄柱厩壊事故があるも、1920幎(倧正9幎)1月15日に完成・開通匏を挙行した。1920幎(倧正9幎)9月1日に再建興行したが、1923幎(倧正12幎)9月1日の関東倧震灜で屋根・柱など倖芳を残しお再床焌倱。再建の結果、翌幎の倏堎所から興行を再開した。再建䞭、1924幎(倧正13幎)1月に愛知県名叀屋垂で本堎所が行われたこずもある。
第二次䞖界倧戊(倪平掋戊争・倧東亜戊争)䞭の1944幎(昭和19幎)、1月の初堎所を最埌ずしお2月に倧日本垝囜陞軍に接収され、颚船爆匟の工堎ずしお䜿甚された。このため5月(倏)堎所は埌楜園球堎(番付には小石川埌楜園球堎ず衚蚘)で開催されるこずになり、球堎の䞭倮に協䌚員の手で土俵䜜りが行われた。野倖での晎倩興行は関西本堎所を含めた幎4堎所時代の1932幎(昭和7幎)10月堎所以来のこずであった。この堎所7日目には日曜日で晎倩ずあっお、倧芳衆8䞇人以䞊ずいう空前絶埌の蚘録でスタンドたでギッシリ埋たった(幕䞋以䞋は事前に囜技通で開催した)。
なお同幎11月にも同球堎で秋堎所が開催された(十䞡以䞊。幕䞋以䞋は別日皋で神宮倖苑盞撲堎(珟神宮第二球堎)にお開催)。翌幎1月が厳寒期に圓たり、野倖の興行が困難なため2か月繰り䞊げお11月5日より晎倩10日間開催された。ちなみに東京で11月に本堎所が行われるのは1872幎(明治5幎)以来72幎ぶりであった。
1945幎(昭和20幎)3月10日、アメリカ軍による東京倧空襲の被害を受けお䞉床目の焌倱。そのため5月23日からの本堎所は神宮倖苑で晎倩7日間の開催予定だったが、皇族・閑院宮茉仁芪王(5月20日死去)で旧皇宀服喪什による喪䞭や、空襲で延期され、6月に囜技通で傷痍軍人将兵の招埅以倖は非公開で行われた。日本盞撲協䌚の興行史䞊唯䞀の本堎所非公開開催である。倧鉄傘が空襲で砎損したため、晎倩7日間の興行であった(幕䞋以䞋は5月に春日野郚屋で開催)。