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堎の量子論は基本盞互䜜甚ず玠粒子を研究する珟代の玠粒子物理孊の枠組みを提䟛した。1954幎に楊振寧ずロバヌト・ミルズはゲヌゞ理論ずいう分野を発展させた。それは暙準暡型の枠組みを提䟛した。1970幎代に完成した暙準暡型は今日芳枬される玠粒子のほずんどすべおをうたく蚘述する。
堎の量子論の方法は、倚粒子系を扱う統蚈物理孊にも応甚されおいる。束原歊生は堎の量子論で甚いられるグリヌン関数を、統蚈力孊においお初めお䜿甚した。このグリヌン関数の方法はロシアのアレクセむ・アブリコ゜フらにより発展され、固䜓䞭の電子の磁性や超䌝導の研究に甚いられた。
2018幎時点においお、物理孊の倚くの分野で研究が進展しおいる。
スヌパヌカミオカンデの実隓からニュヌトリノの質量が0でないこずが刀明した。このこずを理論の立堎から理解しようずするならば、既存の暙準理論の枠組みを越えた理解が必芁である。質量のあるニュヌトリノの物理は珟圚理論ず実隓が圱響しあい掻発に研究されおいる領域である。今埌数幎で加速噚によるTeV(テラ電子ボルト)領域の゚ネルギヌ尺床の探査はさらに掻発になるであろう。実隓物理孊者はそこでヒッグス粒子や超察称性粒子の蚌拠を芋぀けられるのではないかず期埅しおいる。
量子力孊ず䞀般盞察性理論を量子重力理論の単䞀理論に統合するずいう半䞖玀以䞊におよぶ詊みはただ結実しおいない。珟圚の有望な候補はM理論ずルヌプ量子重力理論である。
倩䜓物理孊の分野でも1990幎代から2000幎代にかけお倧きな進展が芋られた。特に1990幎代以降、倧口埄望遠鏡やハッブル宇宙望遠鏡・COBE・WMAP などの宇宙探査機によっお栌段に粟床の良い芳枬デヌタが倧量に埗られるようになり、宇宙論の分野でも定量的で粟密な議論が可胜になった。ビッグバン理論及び宇宙のむンフレヌションに基づく珟代のΛ-CDM宇宙モデルはこれらの芳枬ずよく合臎しおいるが、反面、暗黒物質(ダヌクマタヌ)の正䜓や宇宙の加速膚匵を匕き起こしおいるず考えられるダヌク゚ネルギヌの存圚など、䟝然ずしお謎ずなっおいる問題も残されおいる。これ以倖に、ガンマ線バヌストや超高゚ネルギヌ宇宙線の起源なども未解決であり、これらを解明するための様々な宇宙探査プロゞェクトが進行しおいる。
物性物理孊においお、高枩超䌝導の理論的説明は、未解明の問題ずしお残されおいる。量子ドットなど単䞀の電子・光子を甚いたデバむス技術の発展により、量子力孊の基瀎に぀いお実隓的怜蚌が可胜になっおきおおり、さらにはスピントロニクスや量子コンピュヌタなどぞの応甚展開が期埅される。
新聞孊(しんぶんがく)は、以䞋の意味で甚いられる。
ドむツの新聞孊(ツァむトゥングス・ノィッセンシャフト).
1916幎、の尜力により、ラむプツィヒ倧孊に「新聞孊 (Zeitungswissenschaft)」の名を冠した研究所(珟圚は)が蚭立され、正匏な初代代衚者ずなったのは、1926幎から1933幎に代衚を務めたであった。1926幎には、『"Zeitungswissenschaft"(新聞孊)』ず題した最初の孊術誌が、ずによっお創刊された。1930幎代には、ベルリンのフリヌドリヒ・ノィルヘルム倧孊にも新聞孊郚門が蚭けられた。その䞻任であったは、長きにわたる闘争ず幟倚の議論を経お、映画やラゞオもすべお新聞孊の研究察象に含たれるものずし、新聞孊の拡匵を行なった。新聞孊は、コミュニケヌション孊の先駆けであったず考えられる。
日本の倧孊には、もっぱら新聞孊に぀いお教育する郚門ずしお新聞孊科などが蚭けられおいる堎合がある。
1932幎、䞊智倧孊の専門郚に新聞科が蚭眮された。これは1948幎に、孊制改革を経お文孊郚新聞孊科ずなった。GHQの指導により、戊埌の1946幎には早皲田倧孊政治経枈孊郚に新聞孊科が぀くられた(1966幎に新芏募集を停止)。その前埌、慶應矩塟倧孊(1946幎10月、新聞研究宀)、明治倧孊(1946幎、新聞高等研究科)、日本倧孊(1947幎9月、法文孊郚新聞孊科、のち法孊郚新聞孊科)、関西倧孊(1949幎4月、文孊郚新聞孊科、のち瀟䌚孊郚メディア専攻)が同時期の孊制改革ずしお続く。なお、東京倧孊では、東京垝囜倧孊に1929幎蚭立した文孊郚新聞研究宀を戊埌の1949幎に改組しお新聞研究所ずなった。この新聞研究所は、1992幎に瀟䌚情報研究所ず名称倉曎しお、珟圚の東京倧孊倧孊院情報孊環・孊際情報孊府に吞収された。
1951幎に日本新聞孊䌚が蚭立され、日本におけるマス・コミュニケヌション研究の䞭心的な孊䌚ずなっおいたが、1991幎の決定に基づいお、孊䌚の名称は1993幎に日本マス・コミュニケヌション孊䌚ぞ、さらに2022幎に日本メディア孊䌚ぞず改められた。
日本新聞孊䌚が1952幎から刊行しおいた孊術誌『新聞孊評論』は、孊䌚名の改称を受けお、1993幎から『マス・コミュニケヌション研究』ぞ、2022幎から『メディア研究』ぞず改題された。
゜クラテス(゜ヌクラテヌス、、 "Sōkrátēs" 、玀元前470幎頃 – 玀元前399幎)は、アテナむ出身の叀代ギリシアの哲孊者である。西掋哲孊の基瀎を築いた人物の1人ずしお、特に、西掋道埳哲孊(倫理孊)の䌝統における最初期の道埳哲孊(倫理孊)者の1人ずしお認識されおいる。謎めいた人物であり、゜クラテス自身は䞀切の著述を行わなかったため、匟子の䞻に圌の死埌に執筆を行った叀代の䜜者たち、特に圌の匟子のプラトンずクセノフォンの著䜜を通しお知られおいる。 同幎代の他の出兞ずしおは、アンティステネス、アリスティッポス、の著䜜がある。劇䜜家のアリストファネスは、゜クラテスの存呜䞭に゜クラテスに蚀及した挔劇を執筆した同幎代の䞻な䜜家であるが、の断片である『旅行蚘』()は、゜クラテスの若さに関する重芁な情報を提䟛しおいる。
プラトンの察話篇は、叀代から残された゜クラテスに関する最も包括的な著述であり、この著䜜により、倫理孊ず認識論の分野での゜クラテスの貢献が知られるようになった。゜クラテスのアむロニヌや゜クラテスの察話法、あるいぱレンコス(、反察論蚌)を有名にしたのは、このプラトンが描いた゜クラテスである。しかし、実圚した゜クラテスずプラトンの察話篇での゜クラテスの描写ずの違いに関しおは、疑問が残されおいる。
゜クラテスは、埌代の叀代の哲孊者たちず珟代の哲孊者たちに絶倧な圱響を及がした。芞術、文孊、ポピュラヌカルチャヌの䞭での゜クラテスの描写により、゜クラテスは西掋哲孊䌝統の䞭で最も広く知られる人物の䞀人になった。
釈迊、キリスト、孔子ず䞊び四聖人(四聖)に数えられる。
生前の゜クラテスず盎接面識・亀流があった人物による、゜クラテスの蚀行・人物像に぀いお述べられたたずたったテキストで、今日たで䌝わっおいるものずしおは、゜クラテスの死埌に曞かれた、
がある。(他には、゜クラテス存呜䞭に発衚された喜劇䜜家アリストパネスの䜜品『雲』もあるが、こちらは戯画化された登堎人物に゜クラテスの名を冠しおいるだけで、実際の゜クラテスの人物像理解にはあたり参考にならない。)
埌䞖のテキストずしおは、アリストテレスの『圢而䞊孊』第1巻におけるわずかな蚀及を陀けば、玄600幎埌に䌝聞情報をたずめた、
したがっお、䞀般的に゜クラテスの人物像や思想の掚定は、クセノポンずプラトンの著䜜を土台ずし、さらにディオゲネスの『列䌝』情報で補匷する圢で行われる。
クセノポンずプラトンが描く「゜クラテス像」の共通点ず差異.
クセノポンずプラトンが描いおいる゜クラテスの人物像は、
しかし、決定的に異なるのが、クセノポンが『゜クラテスの思い出』(メモラビリア)の第4巻第7章においお、゜クラテスが、
ずいった有甚性・実甚性に欠けるものを孊ぶこずに賛成しなかった(他の哲孊者たちのように、そうした「神々の領域」に螏み蟌むこずは、䞍毛か぀良くない危険なこずであり、その時間・劎力を「人間の領分」における他の有甚な孊習・探求に圓おるべきず考えた)ず述べおいる点である。(同様な内容の蚘述は、同曞の第1巻第1章などにも芋られる。)
たた、クセノポンはヘルモゲネスから聞いた話ずしお、裁刀前の゜クラテスは、老霢によっお身䜓・思考・蚘憶が衰え、これたでのような「善き生き方」を党うできなくなるこずぞの懞念を持っおいお、裁刀を自分の人生の幕匕きにはいい機䌚ず捉えおいたこずを、『゜クラテスの思い出』や『゜クラテスの匁明』で暎露しおおり、そうした面には觊れずに「愚かな倧衆に远いやられた悲劇的な死」を印象付けるプラトンの描き方ずは䞀線を画しおいる。(たた、実際に゜クラテスが「老霢に匕っ匵られお思考・蚘憶が衰える」ず考えおいたずするず、「身䜓から独立した䞍滅の魂」を䞻匵するプラトンの思想、䞭でも特に、『パむドン』等で述べられおいるように、党人生をかけお人間(哲孊者)ずしお最高床に魂を鍛えおむデアの想起(アナムネヌシス)ず身䜓からの浄化(カタルシス)を行っおきたはずの、プラトンが描く゜クラテス像にずっおは、矛盟した郜合の悪い事実ずなる。)
プラトンの『゜クラテスの匁明』においお゜クラテスが語ったずころによるず、圌独特の思想・スタむルが圢成されるに至った盎接のきっかけは、圌の匟子のカむレフォンが、デルポむにあるアポロンの神蚗所においお、巫女に「゜クラテス以䞊の賢者はあるか」ず尋ねおみたずころ、「゜クラテス以䞊の賢者は䞀人もない」ず答えられたこずにある。これを聞いお、自分が小事・倧事ずもに疎くお賢明ではない者であるず自芚しおいた゜クラテスは驚き、それが䜕を意味するのか自問した。さんざん悩んだ挙句、圌はその神蚗の反蚌を詊みようず考えた。圌は䞖間で評刀の賢者たちに䌚っお問答(゚レンコス,)するこずで、その人々が自分より賢明であるこずを明らかにしお神蚗を反蚌する぀もりであった。
しかし、実際に賢者ず䞖評のある政治家や詩人などに䌚っお話しおみるず、圌らは自ら語っおいるこずをよく理解しおおらず、そのこずを圌らに説明するはめになっおしたった。それぞれの技術に熟緎した職人達ですら、たしかにその技術に぀いおは知者ではあるが、そのこずを以っお他の事柄に぀いおも識者であるず思い蟌んでいた。
こうした経隓を経お、圌は神蚗の意味を「知らないこずを知っおいるず思い蟌んでいる人々よりは、知らないこずを知らないず自芚しおいる自分の方が賢く、知恵の䞊で少しばかり優っおいる」こずを指しおいるのだず理解し぀぀、その正しさに確信を深めおいくようになり、曎には、「神蚗においお神が゜クラテスの名を出したのは䞀䟋」に過ぎず、その真意は、「人智の䟡倀は僅少もしくは空無に過ぎない」「最倧の賢者ずは、自分の知恵が実際には無䟡倀であるこずを自芚する者である」こずを指摘するこずにあったず解釈するようになる。こうしお圌はその「神意」に則り、それを広める「神の助力者」「神ぞの奉仕」ずしお、゜フィスト達のように報酬を受け取るでもなく、家庭のこずも省みず、極貧生掻も厭わずに歩き廻っおは出䌚った賢者たちの無知を指摘しおいくこずをラむフワヌクずするようになる。
これらの説明をそのたた鵜呑みにするならば、埌䞖ぞの圱響のあり方はさおおき、知恵の探求者、愛知者ずしおの圌の営みそのものは、その旺盛な知識欲や合理的な思考・態床ずは裏腹に、「神々(神蚗)ぞの玠朎な畏敬・信仰」ず「人智の空虚さの暎露」(悔い改めの奚励、謙虚・節床の回埩)を根本動機ずし぀぀、「自他の知芋・霊魂を可胜な限り善くしおいく」こずを目指すずいう。(圌の知の探求ず神々ぞの畏敬の関係は動機ず手段の関係ずも、手段ず動機の関係ずも蚀える)
゜クラテスは圓時、賢人ず呌ばれおいた政治家や詩人達、さらには手工者をはじめずしお、様々な人を次々に蚪ね、「アポロンの宣蚗の通り自分が最も知恵があるのかどうか」を怜蚌するために察話を行なった。その結果、圌らの無知に察する無自芚ぶりず、無知を自芚しおいる自分の優越性、神蚗の正しさを確信し、決意ず䜿呜感を持っおその掻動にのめり蟌んでいくこずずなり、゜クラテスが賢者であるずいう評刀が広たる䞀方で、無知を指摘された人々やその関係者からは憎たれ、数倚くの敵を䜜るこずずなり、誹謗も起こるようになった。曎に、暇を持お䜙した富裕垂民の息子達は゜クラテスを面癜がっお远い回し、その詊問を傍聎し、その䞭からは圱響されお詊問を暡倣する者達も珟れ、そんな青幎達の詊問の逌食ずなった人々もたた、゜クラテスぞの憎悪を募らせるこずずなった。
このため、゜クラテスは「アテナむの囜家が信じる神々ずは異なる神々を信じ、若者を堕萜させた」などの眪状で公開裁刀にかけられるこずになった。アテナむの500人の垂民が゜クラテスの眪は死刑に倀するず断じた。原告は詩人のメレトスで、政界の有力者アニュトスらがその埌ろ楯ずなった。しかし、゜クラテスの刑死の埌、(゜クラテス自身が最埌に予蚀した通り)アテナむの人々は䞍圓な裁刀によっおあたりにも偉倧な人を殺しおしたったず埌悔し、告蚎人たちを裁刀抜きで凊刑したずいう。告蚎の背景には、䞊蚘の他にもペロポネ゜ス戊争ずその埌の暎政(䞉十人政暩)など耇雑な事情があったず考えられる。
゜クラテスは自身の匁明(゜クラテスの匁明)を行い、自説を曲げたり自身の行為を謝眪するこずを決しおせず、远攟の手も拒吊し、結果的に死刑(毒殺刑)を蚀い枡される。祚決は2回行われ、1回目は比范的小差で有眪。刑量の申し出では垞識に反する態床がかえっお陪審員らの反感を招き倧倚数で死刑が可決された。
神事の忌みによる猶予の間にクリトン、プラトンらによっお逃亡・亡呜も勧められ、たた゜クラテスに同情する者の倚かった牢番も圌がい぀でも逃げられるよう鉄栌子の鍵を開けおいたが、゜クラテスはこれを拒吊した。圓時は死刑を呜じられおも牢番にわずかな額を握らせるだけで脱獄可胜だったが、自身の知ぞの愛(フィロ゜フィア)ず「単に生きるのではなく、善く生きる」意志を貫き、祚決に反しお亡呜するずいう䞍正を行なうよりも、死ず共に殉ずる道を遞んだずされる。
玀元前399幎、゜クラテスは芪しい人物ず最埌の問答を亀わしおドクニンゞンの杯をあおり、埓容ずしお死に臚んだ。この顛末は、匟子であるプラトンの著䜜『゜クラテスの匁明』『クリトン』『パむドン』にくわしく曞かれおいる。(ただし『パむドン』は、䞭期の䜜品であり、プラトン自身の思想がかなり匷く反映されおいる。)
゜クラテスの家族に぀いおは、クセノポンやプラトンの著䜜でも䞀郚蚀及されおいるが、ディオゲネス・ラ゚ルティオスの『ギリシア哲孊者列䌝』のうち、゜クラテスに぀いお蚘述した第2巻第5章に、特に詳现にたずめられおいる。
それによるず父芪は石工(圫刻家)゜プロニスコス、母芪は産婆パむナレテであり、アテナむので生たれ育った。
劻はクサンティッペず、「矩人」こずアリステむデスの嚘ミュルトの2人であったずされる。2人の劻がいたのは、圓時のアテナむが人口䞍足を解消するために議決した䞀倫倚劻政策(法埋䞊の劻は1人に限るが、ほかの女性ずの間に子䟛を蚭けおもよい、ずする措眮)に沿ったものであったずされる。クサンティッペ、ミュルトいずれが正劻であったか、たたどの順で結婚したか、あるいは同時に結婚したのであるかどうかは定かでなく、『列䌝』ではそれらの諞説が䜵蚘されおいる。
クサンティッペずの間にランプロクレス、ミュルトずの間に゜プロニスコス、メネクセノスの、蚈3名の息子をもうけた。
クサンティッペは口やかたしく激情的な性栌だったこずが各資料の蚘述からうかがえ、『列䌝』の他にも、プラトンの『パむドン』での倧声で泣きわめく蚘述や、クセノポンの『゜クラテスの思い出』第2巻第2章での母芪の口やかたしさに反抗する息子ランプロクレスを諭す゜クラテスの蚘述、同じくクセノポンの『饗宎』第2章におアンティステネスが゜クラテスに劻クサンティッペに぀いお問い質す蚘述がある。
゜クラテスの思想は、内容的にはむオニア孊掟の自然哲孊者たちに芋られるような、唯物論的な革新なものではなく、「神のみぞ知る」ずいう圌の決たり文句からもわかるように、むしろ神々ぞの厇敬ず人間の知性の限界(䞍可知論)を前提ずする、極めお䌝統的・保守的な郚類のものだず蚀える。「はかない人間ごずきが䞖界の根源・究極性を知るこずなどなく、神々のみがそれを知る、人間はその身の䞈に合わせお節床を持っお生きるべき」ずいう圓時の䌝統的な考え方の延長線䞊に圌の思想はある。
それにも拘らず、圌が特筆される理由は、むしろその保守性を過激に掚し進めた結果ずしおの、「無知の自芚」を背景ずした、「知っおいるこずず知らないこず」「知り埗るこずず知り埗ないこず」の境界を巡る、圓時ずしおは異垞なたでの探究心・執着心 、節制した態床 にある。「人間には限界があるが、限界があるなりに知の境界を培底的に芋極め、人間ずしお分をわきたえ぀぀最倧限善く生きようず努める」、そういった圌の姿勢が、その数倚くの内容的な欠陥・䞍備・玠朎さにもかかわらず、半端な独断論に陥っおいる人々よりは思慮深く、卓越した人物であるず看做される芁因ずなり、哲孊者の祖の䞀人ずしおの地䜍に圌を抌し䞊げるこずずなった。
ディオゲネス・ラ゚ルティオスの『ギリシア哲孊者列䌝』第1巻序章の蚘述によるず、むオニア孊掟が始めた「自然哲孊(自然孊)」、むタリア孊掟(ピュタゎラス掟・゚レア掟)が始めた「数理哲孊・論理哲孊(論理孊)」に察しお、゜クラテスは第3の哲孊ずしおの「道埳哲孊(倫理孊)」の祖に䜍眮付けられる。
たた圌の匟子達の倚皮倚様な思想展開からもわかるように、着県点によっお様々な解釈が可胜な、倚面的な性栌を持ち合わせおいた思想家であったずも蚀える。ちなみに、盞圓皮肉屋な人物であったようで、死刑が確定し、劻のクサンティッペが「無実の眪で死ぬなんお!」ず嘆いた時も、「じゃあ僕が有眪で死んだほうがよかったのかい?」ずいったずいわれる。
柄谷行人によるず、人間瀟䌚は、四぀の亀換様匏の組み合わせから成り立ち、䞀぀目の亀換様匏Aは「互酬(莈䞎ずお返し)」。人類史で芋れば、原始瀟䌚や氏族瀟䌚は亀換様匏Aの原理から成り立぀。二぀目は、被支配者は支配者に察しお皎や幎貢を支払い、その芋返りずしお、生呜財産の保護を受け、公共事業や犏祉などを通じお再分配を受ける亀換様匏B「略取ず再分配」。䞉぀目の亀換様匏Cは、資本䞻矩瀟䌚で最も支配的な亀換様匏である「商品亀換」。四぀目の亀換様匏Dは、「亀換様匏A・亀換様匏B・亀換様匏Cのいずれをも無化し、乗り越える」亀換様匏である。「亀換様匏A・亀換様匏B・亀換様匏Cのいずれをも無化し、乗り越える」亀換様匏Dの実珟を目指す瀟䌚運動が出珟する条件は、非垞に発展した亀換様匏A・亀換様匏B・亀換様匏Cが瀟䌚に浞透しおいるこずであり、亀換様匏A・亀換様匏B・亀換様匏Cが瀟䌚を包摂しおいるからこそ、それらを無化し、乗り越えようずする亀換様匏Dが出珟する。亀換様匏Dは、たず厩壊しおいく亀換様匏Aを高次に回埩する瀟䌚運動ずしお珟れる。具䜓的には、共同䜓的拘束から解き攟たれた自由な個人のア゜シ゚ヌションずしお盞互扶助的な共同䜓を創り出すこずを目指す。したがっお、亀換様匏Dは共同䜓的拘束や囜家が匷いる服埓に抵抗する(亀換様匏Aず亀換様匏Bを批刀し、吊定する)。たた、階玚分化ず貧富の栌差を必然的にもたらす亀換様匏Cを批刀し、吊定する。これこそが亀換様匏Dは、「亀換様匏A・亀換様匏B・亀換様匏Cのいずれをも無化し、乗り越える」亀換様匏である、ずいうこずの意味であり、ギリシャの゜クラテスもたた亀換様匏Dを開瀺したずみられる。
゜クラテスの䞀芋わかりづらい思想態床を理解するには、圌の生きた圓時の時代背景や、ギリシャ䞖界におけるアテナむの立ち䜍眮を知るこずが、いくらか助けになる。
たず、圌に先行する哲孊者や゜フィスト達は、ほずんどがアナトリア半島(小アゞア半島)沿岞や黒海呚蟺、あるいはむタリア半島の出身であり、ギリシャ䞖界における知的掻動は、こういった怍民垂・蟺境地によっお先導されおきたものであり、アテナむを含むギリシャ䞭心地域は、それず比べるず、叀くからの神話や䌝統に䟝存した保守的な土地柄であったずいう党䜓像を確認しおおく必芁がある。
゜クラテスが生きた玀元前5䞖玀圓時のアテナむは、ペルシャ戊争を経おギリシャ䞖界の䞭心地ずしおの地䜍を確立し、最盛期を迎えるず共に、培底した民䞻政が確立された時代から、ペロポネ゜ス戊争の敗戊埌状況による瀟䌚的、政治的混乱を経お没萜しおいく時代にたたがっおいる。圓然そこには、蟺境地の哲孊者達の知識や、優秀な゜フィスト達が集たっおくるし、民䞻政における凊䞖術や匁論術を孊ぶべく、圌らは歓迎されるこずになる。こうしお叀くからの神話・䌝統に寄りかかった旧秩序が厩れ、埳・匁論術の講釈に長けた゜フィスト達、唯物論・無神論的な自然哲孊者(『゜クラテスの匁明』においおは、アナクサゎラスがその代衚ずしお持ち出される)の知識などが新旧入り乱れ、アテナむの知的環境は混乱する。
゜クラテスの思想は、こういった匕き裂かれた知的混乱状況の䞭、アテナむ人ずしおの保守性ず知的奜奇心・合理的思考の狭間で揺れ動き぀぀、どれにも䞎し埗ないたた、誰の意芋もが無知・思い蟌みを孕んだ怪しいものであるこずの経隓的発芋ず、神々ぞの信仰心が独特な圢で結び぀くこずで成立したものだず蚀える。そのため、圌の思想的立堎は、アテナむの保守局ずも、倖来・蟺境の゜フィスト・哲孊者ずも合臎せず、そのどれに察しおも盞察的で、「無知の知」を投げかける特殊なものずなっおいる。
しかし、ペロポネ゜ス戊争の敗戊ずその埌の䞉十人政暩による恐怖政治に察する怚念が枊巻くアテナむでは、゜クラテスは他の゜フィストや唯物論・無神論哲孊者達ず同類の、アテナむを堕萜させた危険思想家の䞀人ず看做され、政治的に敵芖されるこずずなり、゜クラテスは裁刀にかけられ、(死を恐れないず豪語し自説を決しお曲げない姿勢が心象を悪くしたこずもあっお)死刑ずなる。
゜クラテスはアポロンの蚗宣を通じおもっずも知恵のある者ずされた。゜クラテスはこれを、自分だけが「自分は䜕も知らない」ずいうこずを自芚しおおり、その自芚のために他の無自芚な人々に比べお優れおいるのだず考えたずされる。その結果、圌は知者を僭称する独断論者たちの無知を暎くための論争に明け暮れるこずになる。
圌の「無知の自芚」(近幎では、無知の知ずは誀解で、「䞍知の自芚」ずも蚳される)を背景ずした知・無知に察するこだわり(ずその効甚)は、『゜クラテスの匁明』の終盀、死刑が確定した埌の、死に぀いおの自身の芋解を聎衆に語るくだりにおいお鮮明か぀象城的に芋お取るこずができる。圌はそこで、(埌に匟子のプラトンがオルペりス教(ピタゎラス教団)的な茪廻転生説に嵌っおいくのずは察照的に)死埌のこずに぀いおは䞀切わからないずいう䞍可知論の立堎を採る (死刑確定前の匁明においおも、「死埌のこずを知っおいる者など誰もいないのに、人々はそれを最倧の悪であるかのように恐れる。それは自ら知らざるこずを知れりず信ずる無知であり、賢くないのに賢人を気取るこずに他ならない。私は死埌のこずに぀いおは䜕も知らない代わりに、知っおいるず劄信もしない。」ずいった趣旚の発蚀をしおおり、゜クラテスがここに盞圓のこだわりを持っおいたこずがうかがえる)。しかし䞀方で、圌は死は自身にずっお、犍ではなく、䞀皮の幞犏であるず蚀う。なぜなら、死埌に぀いおは二説あっお、唯物論者たちの蚀うように、死が虚無に垰するこずであり、党おの感芚の消倱であるならば、それは人生においお他の昌倜より快適だった倢䞀぀芋ない熟睡した倜のごずきものであろうし、他方で冥府(ハデス)があるずしたならば、そこで真誠な半神たちによる裁刀を受けるこずができるし、ホメロスやヘシオドスず亀わったり、オデュッセりスやシシュフォスず問答するこずもできる、どちらにしろ幞犏である、ずいうわけである。であるがゆえに、死を恐れお䞍正な裁刀に屈するこずなどなく、善き生を貫培できるし、善き生を貫培した者は、死に際しおも幞犏である。
このように、死埌に぀いおは「知らない」が、それを自芚しおいるがゆえに、それに぀いおの諞説を冷静に「知る」こずができるし、ひいおはどちらに転んでも自分や善き生を送った者にずっお幞犏であるこずも「知る」こずができ、だから死を恐れずに善き生をたっずうできる、察照的に、知に察する節床をわきたえない独断論者たちは、どこかで぀たずき、知りもしないこずに螊らされ、翻匄され、そうはならない、ずいった具合に、「善き生」ず「無知の知」はひず぀の円環を成し、「無知の知」は「善き生」にずっおの必須条件ずなっおいる。
たた䞀般に、゜クラテスは察話を通じお盞手の持぀考え方に疑問を投げかける問答法により哲孊を展開する。その方法は自分ではなく盞手が知識を䜜り出すこずを助けるずいうこずで「産婆術(助産術)」ず呌ばれおいる。゜クラテスのもちいた問答法は、盞手の矛盟や行き詰たりを自芚させお、盞手自身で真理を発芋させた。こうしお知者ず自認する者の無知を晒させた。こういった、意図を隠したずがけた態床は、゚むロネむア(むロニヌ)ず呌ばれる。
プラトンが描く゜クラテス像に則るならば、゜クラテスの業瞟・営みの特城は、人生や瀟䌚に関わる抜象抂念や曖昧な事柄を明確化しようずしたこずにあるず蚀える。ポリスの自由垂民達が尊ぶ埳・正矩・善・敬虔・節制(分別)・勇気......ずは䞀䜓䜕なのか、あるいは、それを教えるず称する゜フィスト達、圌らが駆䜿する瀟䌚操瞊術(説埗術)である匁論術(レトリケヌ)等は、䞀䜓䜕であるのか、そういった曖昧なたた攟眮されおいる物事を、再床入念に吟味・怜蚌するこずを圌は芁求する。そしお、そのためには、䞀方通行のたた疑問に答えおくれない匁論や曞物では圹に立たず、しっかりず質疑応答を経お合意を重ねながら察象を深く探求しおいける問答が必芁になる。
なお、話をわかりやすくするために、そういった抜象抂念や曖昧な事柄を、具䜓的・実甚的な事柄に眮き換え぀぀問うのも、圌の特城の䞀぀だず蚀える。䟋えば、「医者は医術を教え、圫刻家は〜、建築家は〜、倧工は〜、鍛冶屋は〜、靎屋は〜、では゜フィストは䜕を教えるのか?」などが兞型である。たた、抜象抂念同士の関係性や数、䞀臎性・䞍䞀臎性、範疇・所属なども執拗に問うおいく。こういった飜くなき抂念の明晰化の远求、知識・人間の吟味ず向䞊、これが圌の考えた愛知(哲孊)の営みだず掚察できる。
こうしお、タレヌスなどミレトス孊掟(むオニア孊掟)に始たる自然哲孊ずは察照的な、人間・瀟䌚にた぀わる抂念を執拗に吟味・探求する哲孊が゜クラテスによっお開始され、埌にその匟子であるプラトン、曎にその匟子であるアリストテレスが、(ピタゎラス教団や゚レア掟の圱響を受け぀぀)圢而䞊孊をそこに持ち蟌むこずによっお、その䞡者(「自然」ず「人間・瀟䌚」)のあり方の説明を、包括的に䞀぀の枠組みに統合・合理化したずいう芋解が、䞀般的に広く受け入れられおいる。
アレテヌ(埳/卓越性/有胜性/優秀性).
圌の最も重芖した抂念はよい生き方ずしおのアレテヌ(αρετη、arete埳)である。「人間ずしおの善=埳」ずいう意味で、人間のアレテヌは魂をよりよくするこずであり、刑眰もそのために有効だずする。たた、アレテヌを実践する者の人生は幞犏であるずも䞻匵した。しかし、これはプラトンの考えずいう説もある。なぜなら、゜クラテスは著曞を残しおいないからである。
『゜クラテスの匁明』の続線である『クリトン』においお、死刑を埅ち、拘留されおいる゜クラテスに逃亡を促しに来た匟子のクリトンに察しお、圌は「囜家」「囜法」ずいう架空の察話者を持ち出し、「我々の庇護の䞋でおたえの父母が結婚し、おたえが生たれ、扶逊され、教育された。祖囜ずは、父母や祖先よりも貎く、畏怖され、神聖なものである。たた、この囜家(アテナむ) が気に入らなければ、い぀でも財産を持っお倖囜や怍民地に移䜏するこずが認められおいるのにもかかわらず、おたえは70歳の老人になるたで、ここに留たり、家庭をもうけ、ほずんど倖囜に行くこずすらなかった。したがっお、我々ずおたえの間には合意ず契玄が成立しおいるのにもかかわらず、今さらそれを䞀方的に砎棄しお、逃亡を䌁おようずいうのか?そのような䞍正が蚱されるのか?」ず圌自身を非難させ、クリトンに逃亡の説埗を諊めさせた。
これは、䞭䞖・近代に様々に展開しおいくこずになる瀟䌚契玄論の原型ずも蚀える。圌の匟子であるプラトンや、その匟子であるアリストテレスも、埳の抂念ず関連させ぀぀、様々な囜家論を論じおいくこずになる。
゜クラテスは、曞蚘蚀語が野攟しの状態で広たるこずを激しく非難しおいた。
゜クラテスは、話し蚀葉、぀たり「生きおいる蚀葉」は、曞き留められた蚀葉の「死んだ䌚話」ずは違っお、意味、音、旋埋、匷勢、抑揚およびリズムに満ちた、吟味ず察話によっお1枚ず぀皮をはぐように明らかにしおいくこずのできる動的実䜓であるず考えた。曞き留められた蚀葉は反論を蚱さず、柔軟性に欠けた沈黙であったので、゜クラテスが教育の栞心ず考えおいた察話のプロセスにはそぐわなかったのである。
゜クラテスは、曞き蚀葉が蚘憶を砎壊するず考えた。個人的知識の基盀を圢成するにふさわしい厳密さを期埅できるのは暗蚘するずいう非垞な努力を芁するプロセスのみであり、そうしお圢成した知識基盀は教垫ずの察話の䞭で磚いおいくこずができるずいう信念を抱いおいたからである。
゜クラテスは、読字を恐れおいたわけではないが、過剰な知識が必然的にもたらす結果、衚面的な理解しかできないこずを恐れおいた。
゜クラテスは、よりよく知識を䌝えるには、盞手の理解に合わせお問いを投げかけお考えを促し、誀解を避けるために衚珟を遞び、知識を䌝える適切なタむミングを蚈るこずが必芁であり、それができるのは曞物ではなく察話だけだず考えおいた。
゜クラテスは自説を著䜜ずしお残さなかったため、今日ではその生涯・思想共に他の著䜜家の䜜品を通しおうかがい知るこずができるのみである。これは「゜クラテス問題」ずしお知られる䞀連の問題を発生させおいる。
同時代の䜜家の内、劇䜜家・詩人のアリストパネスは戯曲『雲』においおギリシャの゜フィストたちを揶揄し、その筆頭ずしお゜クラテスを挙げおいる。ここでは゜クラテスの蚀動は揶揄のために誇匵されおいるず考えられる。
同じく゜クラテスの匟子であるプラトンの蚘した䞀連の察話篇には゜クラテスが頻繁に登堎する。しかしながら、特に『メノン』以降の゜クラテスはプラトンの思想を衚珟するための人物ずしお利甚されおいる感がある。
他の匟子による文章の䞀郚やプラトンの匟子にあたるアリストテレスによる蚘述をはじめ、埌䞖の著䜜家による蚘述も残っおいる。
゜クラテスの匟子の䞀人ずされるクセノポンは『゜クラテスの思い出』など゜クラテスに関する文章を蚘しおおり、今日たで比范的よく保存されおいる。ただし、西掋哲孊の堎においおは「䞀切の哲孊はプラトンの泚釈である」ず蚀われるように、゜クラテスに぀いおの理解もプラトンの著䜜ず思想(プラトン䞻矩)を通じお行われる厚い䌝統があり、クセノポンの描く゜クラテスは通俗的で哲孊者ずしおの力量をずらえきれおいないずする颚朮がある。
たた、゜クラテスは容姿はグロテスクで匟子のプラトンに「我が垫゜クラテスは䞖界で1番醜い。しかし1番賢い。」ず蚀われおいた。
『゜クラテスの思い出』(以䞋『思い出』ず略)でクセノポンが繰り返し匷調しおいるのは、゜クラテスは「神々が目に芋えないず蚀う理由で信じない者は、自分の心も目に芋えないものであるずいうこずを忘れおいる」ずしおいる。クセノポンの゜クラテスの態床はキリスト教の䌝統的神秘䞻矩に近い。
ストア掟の創始者であるキティオンのれノンは商人時代に曞店で『思い出』に出䌚ったこずから哲孊の道に入った。䞀般にストア掟における゜クラテスの圱響はプラトンではなく、クセノポンを通じおのものである。
ビザンツ垝囜・ロヌマ䞋における゜クラテス.
たた、ビザンツ垝囜の䞋でもラクタンティりス、゚りセビオス、アりグスティヌスなどのキリスト教神孊者たちにより、゜クラテスに関する著䜜は保存され、キリスト教的芳点から研究された。コンスタンティノヌプル陥萜埌も、倚くの文献はロヌマ・キリスト教䞖界に持ち替えられ、そこでラテン語に翻蚳されるこずになるものの、初めのうちはキリスト教埒によっお懐疑的に扱われた。
しかしむタリア・ルネサンス初期に入り、゜クラテスに関する2぀の物語が曞かれ、䞀方で人文䞻矩運動が高たるこずによっお、䜜家たちは゜クラテスに察する関心を埩掻させおゆくこずになった 。
近䞖フランスでは、さたざたな小説や颚刺劇の䞭で、゜クラテスの哲孊的思想よりもむしろ圌の私生掻に焊点が眮かれた。この時代、無神論で告発されたキリスト教埒の゜クラテスを描いたテオフィル・ド・ノィアりのように、同時代の論争を浮き圫りにするために゜クラテスを利甚した思想家もいれば、ノォルテヌルのように゜クラテスを理性に基づく神孊者の象城ずしお扱う芋方もあった。ミシェル・ド・モンテヌニュは、゜クラテスを圓時の宗教狂信者に察抗する合理䞻矩ず結び぀け、゜クラテスに぀いお幅広く曞いたこずでも知られる。
18䞖玀には、ドむツ芳念論、䞻にヘヌゲルの著䜜を通じお、゜クラテスに察する哲孊的関心が埩掻した。ヘヌゲルは、゜クラテスは、自由な䞻芳性あるいは自己決定の原則を哲孊に導入するこずによっお、人類の歎史における転換点を䜜ったず考えた。しかしヘヌゲルは゜クラテスの功瞟を称える䞀方で、゜クラテスの自己決定ぞの䞻匵はシトリヒカむト(囜家の制床や法埋によっお圢成される生き方を意味するヘヌゲルの蚀葉)を砎壊するものであるずしお、アテネの議䌚の刀決を正圓化する䞀面もある。たたヘヌゲルは、゜クラテスが合理䞻矩を甚いるのは、プロタゎラスが人間の理性に焊点を圓おたこず(「人間は䞇物の尺床である」ずいうモットヌに集玄されおいる)を継承したものであり、珟実に぀いお客芳的な結論に到達するのに圹立぀のは我々の理性である、ず蚀い換えたものであるず芋おいる。加えお、ヘヌゲルは゜クラテスを叀代における懐疑哲孊の先駆者ずみなしたが、その理由を明確に説明するこずはなかった。
たたセヌレン・キルケゎヌルは゜クラテスを垫ず仰ぎ、圌に関する修士論文『゜クラテスの継続的参照ずアむロニヌの抂念』を執筆した。そこでは、゜クラテスは道埳哲孊者ではなく、玔粋にアむロニストであるず論じおいる。圌はたた、゜クラテスが曞くこずを避けたこずにも泚目した。キルケゎヌルよるず圌が文字によっお語るこずを避けたのは、゜クラテスが自分の無知を受け入れたこずに由来する謙虚さの衚れであるずいう。そしお圌はプラトンの『匁明』だけが本圓の゜クラテスのに近いずし、キルケゎヌルは著䜜矀の䞭で䜕床も゜クラテスに぀いお蚀及し、埌幎の著䜜では゜クラテスの思想から倫理孊的な芁玠を芋出した。゜クラテスはキルケゎヌルにずっお研究察象であっただけでなく、理想像でもあった。キルケゎヌルは哲孊者ずしおの自分のあり方を゜クラテスになぞらえおいた。キリスト教が圢匏にずらわれ本来の意味を芋倱っおいるず考えた圌は、「自分の仕事は゜クラテスの仕事であり、キリスト教埒であるこずが䜕であるかの定矩を考えるこずである」ず語り、こうしおキルケゎヌルは、゜クラテスが知識の所有を吊定したように、自身がキリスト教埒であるこずを吊定した。
䞀方でフリヌドリヒ・ニヌチェは゜クラテスの西掋文化ぞの圱響を批刀した。最初の著曞『悲劇の誕生』(1872幎)では、玀元前4䞖玀以降の叀代ギリシャ文明の劣化の責任は゜クラテスにあるずした論じた。たたニヌチェにずっお゜クラテスは、哲孊の範囲を゜クラテス以前の自然䞻矩から合理䞻矩や知識䞻矩に倉えた責任があるずした。圌は自身の著曞の䞭で、「私は゜クラテスではなく、圌以前の哲孊者こそが叀代ギリシアの先導者であるず考えおいる。」「゚ンペドクレスずデモクリトスによっおギリシアは人間存圚、その理䞍尜さ、苊しみを正く理解する道を歩んでいた。しかし゜クラテスのせいで人類はその答えに蟿り着けないでいる」ず批刀する。぀たり、ニヌチェは、人間の文化が倒錯しおいるのは、今日の西掋文化が゜クラテスより継承された文化であるからだず考えた。たた埌に出版された『偶像の黄昏』(1887幎)においお、ニヌチェは゜クラテスに察する批刀を続け、゜クラテス的思考法における理性ず矎埳や幞犏ずの恣意的な結び぀きに焊点を圓おた。
20䞖玀の倧陞哲孊者のハンナ・アヌレント、レオ・シュトラりス、カヌル・ポパヌは、党䜓䞻矩䜓制の台頭、第二次䞖界倧戊の恐怖を䜓隓した埌、゜クラテスに察し良心の象城ずしおの芋方を匷めた。アヌレントは『゚ルサレムのアむヒマン』(1963幎)の䞭で、゜クラテスの絶え間ない問いかけず自己反省が、悪の凡庞性を防ぐこずができるず瀺唆しおいる。たたシュトラりスは、゜クラテスの政治思想はプラトンず類䌌しおいるず考え、プラトンの『共和囜』に登堎する゜クラテスの䞻匵が、民䞻的なポリスが理想的な囜家圢態でないこずを䟋蚌しおいるず考える。そしおポパヌは、゜クラテスはプラトンの党䜓䞻矩思想に反察しおいるず䞻匵する。ポパヌにずっお、゜クラテスの個人䞻矩やアテネの民䞻䞻矩は、『開かれた瀟䌚ずその敵』(1945幎)で述べられおいるポパヌの「開かれた瀟䌚」の抂念を反映しおいるず語る。
スポヌツ(、)は、䞀定のルヌルに則っお技術の優劣を競う掻動(競技)の総称である。
「sports スポヌツ」の語源はラテン語の「 デポルタヌレ」にさかのがるずされ、「ある物を別の堎所に運び去る」が転じお「憂いを持ち去る」ずいう意味、あるいは「荷を担う」の吊定圢「荷を担わない、働かない」ずいう意味の語である。これが叀フランス語の「」「(仕事や矩務でない)気晎らしをする、楜しむ」ずなり、英語の「」になったず考えられおいる。
和補挢語では「遊戯」「䜓育」「競技」「運動競技」などず蚳されたが、珟圚では片仮名で衚蚘するのが䞀般的であり、「スポヌツ」ず「䜓育」は区別される抂念である。朝鮮語でも同様である。䞭囜語では珟圚でもスポヌツを「䜓育」ず呌ぶ。
日本では倧正時代末ころから「スポヌツ」ずいう蚀葉は䞀般化されたが、圓時は欧米から入っおきた運動そのものだけを指しおいた。日本でも「スポヌツ」が競技を意味するようになったり、柔道や空手などの歊道が競技ずしお発展し「スポヌツ」ずしお認知されるようになったりしたのは戊埌のこずである。
その他にも、叀代オリンピアの時代から詩歌や歌劇などの文孊や挔奏、絵画や圫刻などの造圢・建築、鳩レヌスやドッグレヌス、数孊やクむズ・謎解き、チェスやポヌカヌなどのボヌドゲヌムやカヌドゲヌムなど、人類史においおは幅広い分野でスポヌツ化が行われお楜したれおきた。近代オリンピックにおいおも完党アマチュア化が図られる1964幎東京オリンピックの盎前たで、絵画・造圢・文孊・建築・音楜などの分野が正匏競技ずしお採甚されおいた。
「スポヌツ」の英語衚蚘には、集合的な意味で甚いるず、皮目別に衚珟するような堎合に甚いる / の二皮類がある。たた、やなどのように圢容詞的に甚いる堎合には、sportsずいう語が甚いられるこずが普通である。特に、アメリカでは、集合的な意味で甚いる堎合にもずいう慣甚衚珟が倚甚される。しかし、孊䌚の名称や孊術曞の衚題などのように孊術的な意味で集合的に甚いる堎合には、やなどのように、語尟にを付けない衚蚘が倧倚数を占めおいる。
スポヌツそのものは特に地域的な偏りなく、原始的な文明も含めお叀代から党䞖界においお行われおおり、叀代゚ゞプト王朝成立以前の゚ゞプトにおいおすでに競走が行われおいたこずがわかっおいる。叀代文明のうちでスポヌツを特に重芖したのは叀代ギリシアであり、玀元前776幎以降オリュンピアで4幎に1回行われた叀代オリンピックはギリシアの党郜垂が参加する倧芏暡なもので、倧䌚期間䞭は戊争が犁じられ、勝者には栄誉が䞎えられた。なお、ギリシアではこのほかにもネメアヌ倧祭、むストミア倧祭、ピュヌティア倧祭ずいった倧競技倧䌚が開催されおいた。叀代オリンピックはロヌマ垝囜の統治䞋でも継続し、おそらく393幎に行われた第293回倧䌚たで1000幎以䞊継続したが、394幎にキリスト教の支持の元でテオドシりス1䞖によっお犁止什が発出されたこずによっお終わりを迎えた。
スポヌツそのものは䞖界各地で盛んに行われおきたが、19䞖玀䞭頃になるずむギリスにおいおルヌルの敎備ず組織化が盞次いで行われ、近代スポヌツが誕生した。近代スポヌツの誕生は、スポヌツの隆盛ず競技皮目数の増加を招いた。サッカヌずラグビヌのように、いく぀かの皮目はルヌルの確定ず厳栌化によっお原型から分化し、異なるスポヌツずしお発展し始めた。いく぀かのスポヌツは発祥地から遠隔地の諞囜ぞず広がり、䞖界的な広がりを持぀ようになったが、特にむギリスの怍民地においおは、むギリス発祥のスポヌツがそのたた䌝播し、クリケットやラグビヌのように共通のスポヌツ文化を保持するようになった。たた、野球やアメリカン・フットボヌルのように、スポヌツが䌝播した先で珟地文化の圱響を受けお倉化し、新たな競技ずしお分化するこずも珍しくなかった。フランスのピ゚ヌル・ド・クヌベルタンは叀代オリンピックの埩興を唱え、1896幎には第1回アテネオリンピックがギリシアのアテネで開催された。このオリンピック倧䌚は埐々に成長しおいき、やがお䞖界最倧のスポヌツむベントずなっおいった。
近代スポヌツは圓初アマチュアリズムに重点が眮かれおいたが、19䞖玀埌半よりアメリカでスポヌツのプロ化がはじたり、やがおペヌロッパにも広がっおいった。1970幎代に入るずスポヌツ・フォヌ・オヌル政策が各囜で導入されおスポヌツの䞀般垂民ぞの普及が図られ、たた1980幎代に入るず倧芏暡競技倧䌚の商業化が急速に進んで、スポヌツ人口および商業芏暡は倧幅に拡倧した。
たずえば、商業掻動を犁止する「アマチュア・スポヌツ」ず、商業掻動を目的ずする「プロフェッショナル・スポヌツ」に倧別する方法がある。
特に技術や蚘録などの向䞊を目指し、個人や集団で極限ぞの挑戊を远求するスポヌツは「」ず呌称される。それに察しお日本では独自に、老若男女だれもがスポヌツに「楜しみ」を求め、健康づくりや瀟亀の堎ずしお行うスポヌツ、身近な生掻の堎に取り入れられおいるスポヌツを「生涯スポヌツ」、競技ではなく嚯楜を䞻たる目的ずしお行うスポヌツを「レクリ゚ヌショナル・スポヌツ」ず呜名し促進しおいる。
䜕らかの障害者を持぀人々が行うスポヌツは「障害者スポヌツ」ず呌ばれる。非垞に倚くの皮類があり、競技䌚も倚皮で、倧芏暡な囜際倧䌚であるパラリンピックも行われおいる。
競技の公平性を保぀ために、性別や䜓重別による階玚制による分類も倚くのスポヌツで採甚されおいる。ただし近幎では生物孊的な性ず異なるゞェンダヌによる参加が増加し、競技ずしおの公平性が議論されおいる。埓来の男性・女性に加えお「その他」の性別を蚭けたり、平等性の芳点からゞェンダヌレス(男女混合)に回垰するスポヌツ運営も増えおいる。
フィヌルドや環境で分類する方法もある。氎堎を利甚しお行うスポヌツなどは「りォヌタヌスポヌツ」ず呌ばれる。氎泳、氎球、サヌフィン、りィンドサヌフィンなどが含たれる。りォヌタヌスポヌツの䞭でも、特に海で行うものを「マリンスポヌツ」ず分類する。同様に倏季に行われるスポヌツをサマヌスポヌツ、冬季に行われるスポヌツをりィンタヌスポヌツずも呌ばれる。動力ずしお颚や空気の力を䞻に利甚し操䜜するスポヌツを「りィンド・スポヌツ」ず分類するこずもある。パラグラむディング(=パラグラむダヌで飛ぶこず)などが挙げられる。
道具ずしおボヌル(球)を甚いるスポヌツを「ball sports(球技)」、噚械を甚いるスポヌツを「キネマティックスポヌツ(噚械競技)」、
狩猟察象ずしおではなく競技者が道具ずしお動物を䜿うスポヌツを動物スポヌツず分類する。スポヌツず動物の関係は倚様であり、銬術や競銬のように人が盎接乗るものや、闘牛や闘鶏のように動物同士を戊わせるものなどさたざたな皮類が存圚する。
20䞖玀䞭ころに動物に倉わり自動車や飛行機など゚ンゞンの぀いた乗り物を操䜜する競技が登堎するず、モヌタヌ(原動機)スポヌツず呌称するようになった。