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EdianのSMI EDIAN PLUS 機能強化とともにUNIXからWindowsに移行したシステム。1996年登場。1999年、日本新聞協会から技術開発奨励賞を受賞。(販売終了) |
EdianのEdianWing PostScript対応の、現行のシステム。大量の書籍、雑誌、カタログなどの組版に強い。数式などの処理にも強く、学習参考書などの組版で実績がある。 |
EdianのEdianWing NPS 新聞組版のために機能強化されたシステム。NPSとはNews Paper Systemのこと。たたみ流しなど、新聞独特の組み方が簡単に実現できる。XMLを用いて、大量の文書の自動組版に対応。オプションで記事管理システムや、選挙組み、証券自動組み、スポーツ組みなどの機能が追加できる。 |
1991年のオールスターゲーム (日本プロ野球)の試合概要 前年、2シーズンぶりの日本一を達成した西武ライオンズの森祇晶監督が全パ(オールパシフィック・リーグ)を率い、2年連続してセ・リーグを制した読売ジャイアンツの藤田元司監督が全セ(オールセントラル・リーグ)を率いた1991年のオールスターゲーム。空前の大相撲人気を牽引した若花田・貴花田の若貴兄弟による始球式でスタートした第1戦は全セの古田敦也(ヤクルト)が全パの2回・3回・8回に仕掛けた盗塁全てを刺した。このうち2回の松永浩美(オリックス)、8回の秋山幸二(西武)は盗塁王の実績もあった。続く第2戦は予想外の出来事が続出する展開となった。全セが1点ビハインドで迎えた7回裏に全セ高木豊(大洋)が同点打を放って膠着したまま延長戦に突入した。その結果、両軍選手を使いすぎ、12回表には前日に先発したことでこの日登板予定のなかった全セ槙原寛己(巨人)が練習用シャツで登板。さらに自打球が顔面に直撃し秋山が負傷退場、野手を使い切った全パは野茂英雄(近鉄)がオリックスのヘルメットを被って代打で登場(結果は見逃しの三振)。その裏の外野守備に工藤公康(西武)が付いた(守備機会なし)。第2戦の延長12回のハプニングもあり翌年から延長がなくなった。またこの試合で全パの門田博光がオールスター本塁打の最年長記録(43歳5ヶ月)を作った。 |
ブエルタ・ア・エスパーニャ1978の概要 ルノー・ジタンチームの監督、シリル・ギマールは、当大会のリーダーとして、プロ2年目の23歳、ベルナール・イノーを抜擢。イノーはその期待に見事応え、プロローグからマイヨ・オロを奪取。第3ステージ以降はフェルディ・ファンデンホートにマイヨ・オロを譲るが、第11ステージ後半のバルセロナにおける個人タイムトライアル、さらに第12ステージと連勝して再びマイヨ・オロを奪回。その後は他を圧倒する走りを見せ、終わってみれば区間5勝を挙げ、見事総合優勝を飾った。さらに当大会の優勝をきっかけとして勢いに乗ったイノーは、当年のツール・ド・フランスでも総合優勝を果たすことになる。つまり当年ブエルタの優勝こそが、イノーを後に歴史的名選手へと導くきっかけにもなったわけである。 |
1988年からの近畿日本鉄道ダイヤ変更の1988年3月18日変更 21000系「アーバンライナー」の営業運転開始およびそれを含めた新造車両48両の増備と、一部の駅でのホーム延長工事の完成、また大阪線と名古屋線の一部区間で最高速度を120km/hに向上したことなどにより実施された。この変更は1976年変更以来12年ぶりの白紙変更となった。一般列車関係では、近鉄奈良駅の1番線と2番線のホーム延伸工事が完成し、同駅発着快速急行の10両編成列車のドアカットが廃止された。また近鉄奈良駅発着の10両編成列車の本数もこの変更より順次増発されることとなった。京都線・橿原線関係では、運転系統の見直しで、これまで毎時2本運転していた昼間時の京都駅 - 橿原神宮前駅間の急行のうちの1本が、京都駅 - 近鉄奈良駅間の急行と大和西大寺駅 - 橿原神宮前駅間の橿原線内運転の急行に系統分割したため、この時間帯の京都駅 - 近鉄奈良駅間の急行が毎時2本(ただし15・45分間隔の変則)となった(京都駅 - 橿原神宮前駅間の急行は京都駅 - 天理駅間の急行と同様に毎時1本に減少したが、日中に毎時1本ある橿原線内急行を京都駅 - 近鉄奈良駅間の急行と大和西大寺駅で連絡させることにより利便性を確保した)。名古屋線では昼間時に毎時1本運転されていた近鉄名古屋駅 - 平田町駅間の急行が近鉄名古屋駅 - 津新町駅間に変更されて、鈴鹿線直通急行は激減した。ただし鈴鹿線内では名古屋直通急行1本と四日市直通普通1本の計2本から、四日市直通普通1本と線内折り返し普通2本の計3本となって増発された。特急列車関係では、名阪甲特急の6往復に21000系が投入され、大阪線と名古屋線の一部区間において、これまでの最高速度であった110km/hより10km/h向上し、当時の大手民鉄での最高速度となる120km/h運転を開始した。この速度向上にあたっては、21000系はもとより12200系以降の特急車両にも120km/h運転の対応工事を実施した。またこれによる架線や線路の改良、それまで採用していなかった減速信号の新設も大阪線と名古屋線で行われた。また、布施駅に新たに特急が停車するようになり、阪伊乙特急の日中の8往復が同駅に停車するようになった。近鉄名古屋駅7時00分発の名阪甲特急は、名張駅で阪伊乙特急を追い抜くようになった(いわゆる「同格待避」)。同年6月11日には京都市営地下鉄烏丸線延伸に伴う京都線の急行と準急の竹田駅への停車を開始したが、既にこのダイヤ変更の際に竹田駅停車の準備を行っていたため、時刻は修正されなかった。 |
1988年からの近畿日本鉄道ダイヤ変更の1988年8月28日変更 京都線では京都市営地下鉄烏丸線との相互直通運転開始によって、天理線では複線化によって増発と時刻変更が実施された。京都線と京都市営地下鉄烏丸線との直通運転は北大路駅 - 竹田駅 - 新田辺駅間で行われるようになり、京都線では日中に竹田駅 - 新田辺駅間で1時間当たり2往復の普通が増発された。直通運転は早朝から深夜付近まで行われるようになった。このためラッシュ時に運転されている京都線の準急はこの普通に置き換えられて一部削減された。また、3200系はこの直通運転に充当される運用を中心とした関係上、昼間時は京都線の竹田駅以北と新田辺駅以南、橿原線、天理線での運用は激減し、早朝から朝ラッシュ時にかけてと深夜時間帯のみとなった(ただし竹田駅以北では夕方ラッシュ時の準急でも運用があった。また奈良線では引き続き昼間時の近鉄難波駅 - 瓢箪山駅間の普通や準急などでも運用されていた)。同年には21000系の他にも、大阪線・名古屋線の急行用車両として、3扉・転換クロスシート装備の5200系が営業運転を開始した(1996年までに5209系・5211系を含めて4連13編成を投入)。一方で5200系と同じ3扉車であった1460系が全車廃車となった。 |
1988年からの近畿日本鉄道ダイヤ変更の1989年3月17日変更 南大阪線区など、一部の線区を除いて実施された。一般列車関係では、大阪線で夕ラッシュ時に上本町発の準急が増発され、19時台・20時台は20分間隔から15分間隔で運転されるようになった。奈良線関係では朝ラッシュ時の快速急行の増結が行われ、近鉄難波駅に9時3分までに到着する快速急行はすべて10両編成に統一された。橿原線では、ファミリー公園前駅に停車する普通の時間帯が8時30分以降に変更された。生駒線では日中に9往復増発され、20分間隔から15分間隔に変更された。大阪線では末端区間の名張駅 - 伊勢中川駅間の普通が13年ぶりに日中にも設定され、青山町駅 - 東青山駅間は一部増発された。また上本町駅発最終の区間快速急行が伊賀神戸駅行きから青山町駅行きに1駅のみ延長された。特急列車関係では、21000系「アーバンライナー」の増備に伴い、名阪甲特急15往復(平日)中10往復が21000系で運用されることとなった。ここで捻出された一般特急車は名阪甲特急以外の特急へと転用したが、この玉突きの形で、京伊特急を中心に運用されていた18200系(18m車)は、同年9月に団体用車両「あおぞら2」に改造され、1962年より運用されてきた団体用車両20100系「あおぞら」を置き換えた。これにより、特急車両の全車両20m車化が完了した。なお、直後の4月1日には消費税の導入に伴って運賃および特急料金の改定が実施された。また、4月28日には名古屋線に南が丘駅が開業したが、既にこのダイヤ変更で同駅停車時分を準備していたため、ダイヤ変更はされなかった。 |
1988年からの近畿日本鉄道ダイヤ変更の1989年5月18日変更 南大阪線連続立体交差事業に伴い、一旦撤去されていた今川駅の待避設備完成によって、南大阪線関係の線区のみ時刻が変更された。この変更によって大阪阿部野橋駅 - 橿原神宮前駅間の区間急行が日中に4往復増発されるなど、27本が増発された。また、夕ラッシュ時の大阪阿部野橋駅 → 吉野駅間の急行の所要時間が97分から84分に短縮された。近鉄御所駅 - 橿原神宮前駅間の直通普通列車が尺土駅で系統分割された。このため、一般列車でスイッチバックする系統は、これ以降2018年まで設定されていた名張駅発近鉄名古屋駅行急行が唯一のものとなった。同日より、吉野口駅でのJR和歌山線との接続を図るため、吉野特急の全列車が吉野口駅にも停車を開始した。直後の6月1日より、近鉄の路線では初めて内部線・八王子線でワンマン運転を開始した。車両関係では、同年より主要線区における通勤車両の車体および仕様が共通化されることになり、1220系を仕様変更した1230系や本格的に全線共通仕様とした1233系が大阪・名古屋線系統および奈良線系統の双方に投入されたほか、南大阪線系統でも全線共通車体が採用され、別形式の6413系として投入した。 |
1988年からの近畿日本鉄道ダイヤ変更の1991年3月19日変更 新造車両57両の増備と、大阪線13駅、橿原線5駅のホーム延長工事、青山町駅の2面4線化が完成したことなどにより実施された。本変更では時刻の変更は小幅に留まったが、一般列車は多くの線区で増結が実施され、大阪線では21本、京都・橿原線関係で13本、奈良線では43本が増結された。これによりラッシュ時の奈良線の快速急行は、すべて10両編成に統一された。大阪線関係では、準急停車駅のホーム延長工事完成により、準急が高安以東でも最大6両編成までの運転が可能となった。これによりこの当時6両編成での運転が多かった大阪口の普通列車と運用を共通化することが可能となった。また、一部の区間快速急行が青山町駅から10両編成で運転することとなり、名張駅での増解結が一部ではあるが減少した。このため、その送り込み運用である名張駅 - 青山町駅間の一部の普通が10両編成となり、近鉄では初めて普通列車の10両編成運転が実施されるようになった。その他、一部残っていた伊賀神戸駅折返し列車がほとんど青山町駅折返しとなった(後述の特急を除く)が、平日8時台の1往復のみ伊賀神戸駅折返し列車が残存していた。名古屋線関係では、鈴鹿線直通の近鉄名古屋発平田町行きの急行が消滅した(近鉄名古屋行きは1996年まで存続)。奈良線関係では、橿原線の急行停車駅ホームの6両対応への延伸により、橿原線と天理線の一部の急行が6両編成に増結された。特急列車関係では、21000系の中間車が完成したことにより、平日2往復、土曜日4往復、休日5往復の「アーバンライナー」が8両編成で運転されるようになった。なお、8両編成での運転は前年12月31日の終夜運転より先行的に実施されていた。また、吉野特急に26000系1本が追加投入され、「さくらライナー」が4往復から、平日8往復、休日9往復に変更された。近鉄難波駅21時30分発津駅行き乙特急は桑名駅行きに変更された。逆に近鉄名古屋駅7時00分発近鉄難波駅行き甲特急は上本町駅行きに短縮された。初発の名張駅発上本町駅行特急が伊賀神戸駅始発に変更され、伊賀神戸駅始発の特急が初めて設定された。北勢線では、日中の運転が西桑名駅 - 阿下喜駅間、西桑名駅 - 七和駅または北大社駅間、西桑名駅 - 西別所駅間の3系統による40分サイクルから、西桑名駅 - 阿下喜駅間と西桑名駅 - 楚原駅間の2系統による60分サイクルに変更された。西桑名駅 - 西別所駅間は2.0kmで、鋼索線をのぞけば1992年 - 1994年の平日夜間に運行されていた宮町駅 - 宇治山田駅間の普通列車に並び、2000年まで養老線の休日初発として運行されていた西大垣駅発大垣駅行きの1.8km、1992年に廃止された田原本線の新王寺駅 - 大輪田駅間の1.9kmに次ぐ短い系統であった。同年の12月6日には、大阪線に大阪教育大前駅が開業した。車両関係では、1233系の4連版となる1020系が奈良・京都線系統に投入された。また京都・橿原・天理線での3両編成の運用減に伴い、3連の9200系は新造の中間車サ9350形(現在のサ9310形)を組み入れて4連とした。同年の11月20日には、他の大手私鉄とともに運賃および特急料金の値上げが実施された。初乗り運賃は100円から120円となったが、この改定にて難波線における加算運賃の設定は廃止された。 |
1988年からの近畿日本鉄道ダイヤ変更の1995年3月16日変更 新造車両22両の増備と、近鉄八尾駅・河内山本駅・高安駅・三山木駅のホーム延長工事が完成したことにより実施された。大阪線では、近鉄八尾駅・河内山本駅・高安駅のホームが10両対応になったことから、上本町駅 - 高安駅間の準急で10両編成での運転が開始された。京都線関係では、京都発近鉄宮津行き急行1本が増発、京都発新田辺行き急行1本が近鉄宮津行きに変更された。この列車は従来の急行停車駅のほか、三山木駅・近鉄宮津駅にも停車したが、当時4両分のホームしかなかった興戸駅は通過していた。また、本変更より、新田辺駅 - 大和西大寺駅間での準急(実質は各駅停車)の設定がなくなった。このほか、鈴鹿線では信号機の増設などによる設備改善のため、最高速度が65km/hから80km/hに向上され、所要時間が短縮された。なお、同年9月1日には他の大手私鉄とともに運賃および特急料金の値上げが実施され、初乗り運賃が120円から150円になったほか、特急料金が平均で18.6%の大幅な値上げとなり、デラックスシート料金も310円から400円に値上げされた。これに合わせて近鉄でも時差回数乗車券(オフピークチケット/10回分の運賃で12回分利用可)・土休日割引回数乗車券(サンキューチケット/10回分の運賃で14回分利用可)が導入された。 |
1988年からの近畿日本鉄道ダイヤ変更の1996年4月27日変更 大阪市営地下鉄中央線のダイヤ改正に伴う東大阪線のダイヤ変更を実施した。大阪市営地下鉄中央線に合わせる形で、東大阪線は近鉄で初めて土曜日を平日ダイヤから休日ダイヤに移行し、平日ダイヤと土曜・休日ダイヤの2面立てとなった。 |
1988年からの近畿日本鉄道ダイヤ変更の1997年5月22日変更 京都市営地下鉄烏丸線・北山駅 - 国際会館駅間の延伸開業に伴い、京都線などで相互直通列車を中心に運転時刻および車両運用を変更するダイヤ修正が実施された。なお、延伸区間は6月3日の正午に開業し、それまでは「予行運転」の形で回送列車として運転された。 |
1988年からの近畿日本鉄道ダイヤ変更の1997年12月11日変更 大阪港トランスポートシステム(OTS)テクノポート線・大阪港駅 - コスモスクエア駅間(2005年7月1日より大阪市営地下鉄中央線に編入)の開業に伴い、相互直通の東大阪線・大阪市営地下鉄中央線でダイヤ変更、土曜・休日の朝方に生駒駅発コスモスクエア行きが2本増発された。なお、OTS線は12月18日の正午に開業し、それまでは「予行運転」の形で回送列車として運転された。 |
1988年からの近畿日本鉄道ダイヤ変更の1999年12月4日変更 伊賀線では、伊賀上野駅で接続するJR関西本線のダイヤ改正(急行「かすが」名古屋駅行きの運転時刻繰り下げなど)に伴い、伊賀上野駅 - 上野市駅間の一部列車で時刻変更が行われた。 |
1988年からの近畿日本鉄道ダイヤ変更の2005年3月25日変更 全体的には小幅に留まったが、2005年日本国際博覧会(愛知万博)来客者の利便を図るため、臨時の名阪乙特急・名伊乙特急が増発された。なお名阪乙の方は愛知万博終了後も臨時運転を継続していた。愛知万博開催初日にダイヤ変更日を合わせたため、例年よりも1週間程度遅いダイヤ変更日となった。直後の5月21日には、名古屋線・近鉄八田駅周辺の高架化が完了し、近鉄八田駅のキロ程が変更(近鉄名古屋方に 0.2km 移動)された。 |
1988年からの近畿日本鉄道ダイヤ変更の2007年3月22日改正 このダイヤ改正では、急行の停車駅の追加および始発列車と最終列車の見直しが行われた。橿原線では土休日ダイヤの日中に急行が西ノ京駅に停車するようになった。奈良線では区間準急の運転時間帯が拡大されるとともに、全線区で駅間の基準運転時分が算定方式の変更と制限速度見直しによって変更された。生駒鋼索線では、山上線の最終の繰り上げと始発の繰り上げが実施されるとともに、運転間隔が山上線・宝山寺線ともに40分間隔に変更された。直後の4月1日より、一部線区を除いて「PiTaPa」「ICOCA」の取り扱いが開始された。なお同年10月1日にて、伊賀線と養老線がそれぞれ伊賀鉄道と養老鉄道に分社化された(両線は近鉄が第三種鉄道事業者として線路を保有し、各新会社が第二種鉄道事業者として列車を運行)。これにより、岐阜県内から近鉄の運行路線がなくなった。 |
1988年からの近畿日本鉄道ダイヤ変更の2009年3月20日改正 阪神なんば線の開通に伴う、阪神電気鉄道(阪神)との相互直通運転開始によるダイヤ改正が実施された。このため、阪神と同日のダイヤ改正となり、また京都市営地下鉄烏丸線も同日に改正した。この改正では奈良線関係を中心に実施され、快速急行が阪神本線の三宮駅(現:神戸三宮駅)まで、準急・区間準急・普通が尼崎駅まで乗り入れた。近鉄では1252系(1271F - 1276F)・1026系(1027F - 1029F)・5800系(L/Cカー)・5820系(同)・9020系・9820系の合計48編成が、阪神では1000系・9000系がそれぞれ相直用車両に使用されることとなった。ダイヤ変更にあわせて、上本町駅が大阪上本町駅に、近鉄難波駅が大阪難波駅に、富洲原駅が川越富洲原駅にそれぞれ改称された。南大阪線ではあべのハルカス建設に関連した大阪阿部野橋駅近辺の再開発に伴う改良工事が一部完成し、駅構内の停車場中心の位置を東にずらして1番線と2番線のホームを8両編成対応から7両編成対応に短縮した。これにより営業キロが0.1km短縮となった。特急では、平日に大阪難波駅23時10分発大和八木駅行き特急が増発された。また、23000系「伊勢志摩ライナー」の名阪特急への運用が取り止められたほか、直後の4月1日より特急車両22600系「Ace」が営業運転を開始した。直前の3月1日をもって、「Jスルーカード」の自動改札機および自動精算機での取り扱いを終了した(JR西日本についても同じ)。 |
1988年からの近畿日本鉄道ダイヤ変更の2009年8月30日変更 けいはんな線・大阪市営地下鉄中央線でダイヤ改正が行われ、平日朝ラッシュ時のコスモスクエア駅行きは大半が学研奈良登美ヶ丘駅始発に変更された。車両運用も大幅に変更され、両者の車両がそれぞれ相手線内で夜間留置となる「外泊運用」が設定された。 |
1988年からの近畿日本鉄道ダイヤ変更の2015年(未実施) 近鉄では2015年はダイヤ変更を実施しなかった。近鉄がダイヤ変更を実施しなかった年は、少なくとも1955年以降では初であった。ダイヤ変更は見送ったものの、車両関係では、特急車両では22000系、16400系、12410系などに、喫煙室整備と併行した車体更新が順次行われ、車体更新施工済の12400系、16000系に関しても、先行して改造された16010系と同様の喫煙室整備改造が行われた。また、特急車両のうち、汎用特急車の塗装変更を順次実施することとなり、この年に更新工事を開始した22000系の22110Fが新塗装の一番目となった(同編成は同年11月更新工事を完了)。一般車両においても、2610系2627Fを皮切りに、内装デザインを大幅に変更した内装更新が順次実施された。経営面では、同年の4月1日、内部線・八王子線が四日市あすなろう鉄道に移管された。 |
1988年からの近畿日本鉄道ダイヤ変更の2017年(未実施) 近鉄では2017年はダイヤ変更を実施しなかった。ダイヤ変更を見送ったのは2015年以来2年ぶりとなった。ただし、同年9月以降翌2018年3月までの観光特急「しまかぜ」および「青の交響曲」の運転日を案内するために、これらの列車の停車駅における駅掲出や駅配布、近鉄公式ホームページでの時刻表は7月に更新されていた。なお、ダイヤ変更は実施されなかったものの、災害による臨時ダイヤが実施された線区が1線あったため、本節では未実施のダイヤ変更に代わり、臨時ダイヤの実施路線とその内容について記述する。10月22日、平成29年台風第21号の襲来(実際の上陸は翌23日)により、生駒線の竜田川駅 - 勢野北口駅間で住宅地の法面が崩れ、土砂流入が発生した。同日は途中から最終まで生駒線全線で運休となったが、翌23日より生駒駅と東山駅の間のみで運転を再開し、その後復旧作業を行って、25日より仮復旧ながらも残る区間の運転を当初は所定のダイヤで再開した。しかし、まだ仮復旧状態の関係上、この区間での徐行運転を実施することとなったことで遅延が常態化し、所定のダイヤでの運転ができなくなったことから、急遽生駒線に限り臨時ダイヤを設定することとなった。その生駒線の臨時ダイヤは約2週間後の11月6日より実施した。同日より実施の臨時ダイヤは、所定のダイヤでは平日朝ラッシュ時のみに設定されている東山駅折り返し列車を平日の夕方ラッシュ時と土曜・休日ダイヤの朝の時間帯にも設定したことから、この時間帯の東山駅 - 王寺駅間は減便となった。その他の時間帯でも一部列車の運転時刻と所要時間が変更されている。また、生駒線を含む終夜運転実施路線における越年ダイヤの時刻を11月9日に一度は発表したものの、12月上旬時点でもこの区間の本格的な復旧ができず、同区間での徐行運転が大晦日以降にも継続となることが決定したことから、生駒線に限り急遽越年ダイヤの内容を変更したものを12月17日に再度発表した。生駒線の越年ダイヤは、11月9日発表の時点では終夜運転時の列車は全列車が全線通しであったが、12月17日修正版では生駒駅発の早朝6時台の列車2本を東山駅発着に短縮するなどの変更点がある。 |
1988年からの近畿日本鉄道ダイヤ変更の2019年(未実施) 近鉄では2年ぶりに3月のダイヤ変更を実施しないこととなった。ただし、同年3月以降9月までおよび10月以降翌年3月までの観光特急「しまかぜ」および「青の交響曲」の運転日を案内するために、これらの列車の停車駅における駅掲出や駅配布、近鉄公式ホームページでの時刻表は2月下旬および8月下旬までにそれぞれ更新されていた。一方で、近鉄に乗り入れている大阪市高速電気軌道中央線のダイヤ改正を3月16日に実施したが、この改正は同線内での深夜時間帯に列車を増発する程度のものであり、乗り入れるけいはんな線には関連していないため、近鉄側では連動したダイヤ変更の実施は見送った。同年10月1日には消費税率の引き上げ(8% → 10%)に伴い、2014年4月1日以来5年半ぶりに運賃・料金の改定が実施された(初乗り運賃は160円に引き上げ)。 |
アルトゥール・ナポレアン・ドス・サントスの生涯 ポルトガルのポルトに生まれた。7歳で最初のピアノ演奏会を開いた彼は、8歳になるとポルトガル国王フェルナンド2世の後ろ盾を得て、初の国外演奏旅行でロンドン(ポルトガル大使館で演奏)とパリなどの都市を訪れた。これ以降、彼はヨーロッパ全土とアメリカを巡り、時にはアンリ・ヴュータンやヘンリク・ヴィエニャフスキとも共演した。15歳でニューヨーク公演を行った際には、批評家のリチャード・ストーズ・ウィリスが「ヨーロッパを虜にした子どもが、どんなものか見てみたいという興味に駆られて」訪れている。感銘を受けたウィリスは彼に付いて次のように記した。「桁外れの演奏家である(中略)タッチは優しさに満ちて優雅、ほとんどミスがなく正確、力強さは立派というに余りあるもので、音楽観のまとめ方は全くもって愉快であった。」1866年にブラジルへと移り、リオデジャネイロに居を構えた。彼はここで楽器の販売店と楽譜販売業を立ち上げている。また、ピアノの指導を行ってシキーニャ・ゴンザーガらを育てた他、ほぼピアノ曲だけに絞って作曲も行った。彼は82歳でリオデジャネイロに没した。 |
林誠道の来歴 2015年に大産大付属高校からガイナーレ鳥取に加入し、同年J3リーグ開幕戦でデビューした。 |
キングダムオブカオスの概要 アイディアファクトリー社(以下IF)のスペクトラルフォースシリーズのネバーランド大陸を舞台とし、プレイヤーは自身の分身となるキャラクターを作成し、様々に生活を営んでいくオンブラウザタイプのゲーム。国家への士官や探索や畑の世話などのシステム的な面と、ゲーム内の多数の掲示板によるプレイヤー間交流によって成り立つ。サービス開始時はネバーランド大陸(NL)のみが運営されていたが、2002年12月16日から第2サーバであるオールド大陸(OL)の運営が開始された。のちに既存サーバとはシステムが異なる第3サーバ、ロストグラウンド(LG)が運営開始。プレイヤーは各サーバにそれぞれキャラクター作成が可能。 |
キングダムオブカオスの課金形態 登録日から月末までは一部行動に制限のある無料のフリープレイ期間が設けられており、以降は1キャラクター300円の月額課金形式。同一サーバ内での複数キャラクターの作成は禁止されている。 |
キングダムオブカオスのキャラクター登録 名前・性別・誕生日・父親・母親・ルーツを設定する。この際の父親と母親の組み合わせによって種族が決定され、種族ごとの能力基本値にルーツの補正が加わった値がキャラクターの能力値となる。ルーツごとにルーツ専用スキルが設定されており、ゲーム内での特定の行動やアイテム作成時に影響を与える。種族と性別により顔絵と呼ばれるキャラクターイラストが設定される。イラスト後から変更が可能。 |
キングダムオブカオスの家の購入 空いている居住エリアに自分の家を建てることができ、専用掲示板の利用やアイテムショップの開設など行動の幅を広げることができる。 |
キングダムオブカオスの仕官/在野 40を超す数の国家があり、一つを選んで仕官することが可能。仕官することで日々の王宮勤務が可能となり、給金が支払われる。これがゲーム内での資金稼ぎの基本となる。各国家ごとに専用の掲示板があり、同じ国に仕官するキャラクター同士で交流が可能。仕官先は自由に変更する事ができる。また、仕官せず在野のままで活動することもできる。在野専用掲示板があり、国家に所属しないキャラクター同士での交流が行える。 |
キングダムオブカオスの役職 NLとOLではプレイヤーキャラクターが国王となり、国家の運営に大きな影響を与える。国王は国家運営に関わる役職者を設定でき、他のプレイヤーと連携をとりながら国家運営を行う。 |
キングダムオブカオスのIF社コンシューマーゲームとの関連性 NLはスペクトラルフォースシリーズや続編的立ち位置にあるジェネレーションオブカオス(GOC)と舞台を同じくし、その歴史のある地点から異なる歴史を歩んだパラレルワールドとされる。同様にOLはGOC3、LGはGOC4のパラレルワールドに当たる。GOC発売に先立ってKOC内で投票が行われ、選ばれたキャラクターが設定面の調整などを施されたうえでGOCへ出演している。その後もGOCシリーズにはKOCのキャラクターがさらに追加され出演している。KOC内ではPCの他にIF社スタッフが操作するNPCとして同社のゲームキャラクターが暮らしており、NPCの自宅に書き込みを残すと返信がもらえることもあった。 |
音川温泉の温泉街 かつて一軒宿の「音川温泉小串旅館」が存在した。2004年11月28日焼失(人的被害なし)、現在は更地になっている。 |
音川温泉の歴史 開湯は1978年(昭和53年)である。温泉名はこの地域の旧村名に由来する。 |
浦上壮史の来歴 横浜マリノス、清水エスパルスではそれぞれ松永成立・真田雅則という絶対的守護神が存在したため活躍の場がほとんどなかったが、1997年に川崎フロンターレに移籍してからはレギュラーを掴む。1998年のJ1参入決定戦では博多の森の悲劇を経験。1999年にはJ2で優勝しJ1昇格に貢献した。2000年はチーム事情から、2001年は怪我から出場機会が減ったが、2002年には42試合(全44試合)に出場し、レギュラーとして活躍した。しかし翌2003年からは吉原慎也の成長と下川誠吾の加入もあって出場機会に恵まれなくなった。2004年シーズン終了後に現役引退。2005年はテレビ神奈川(tvk)の応援番組『ファイト!川崎フロンターレ』でコーナーを持ち、ファン感謝祭でも司会を務めるなど川崎関連の仕事に携わった。2006年から2010年は清水エスパルスのコーチを務めた。 |
佛教大学の概要 名称の通り仏教を建学の理念としている大学で、学則の第1条に「仏教精神により人格見識高邁にして活動力がある人物の育成を目的とし、世界文化の向上人類福祉の増進に貢献することを使命とする」と明記されている。元々が僧侶養成の機関であるため、全学科で浄土宗教師と浄土宗開教使の資格が取得可能である。なお、かつては仏教学を学ぶ学科として文学部に仏教学科があったが、2004年度の学科再編に伴い史学科および日本語日本文学科と統合されて人文学科となった。しかし、2010年4月に人文学科を割り振って仏教学部仏教学科を再新設し、学科内に浄土・仏教コース、仏教文化コースを設置した。学部や学科の名称から「仏教」の文字を外す傾向があるなかで、「仏教研究の核になる大学」を目指すとしている。また、同時期に新設した歴史学部は佛教大学のみに設置されており、日本初となる学部である。 |
佛教大学の設立の経緯 江戸時代初期に浄土宗が江戸で定めた関東十八檀林の流れを汲んで明治元年 (1868年) に知恩院山内に設けた仏教講究の機関 (同3年に勧学所となる) が前身である。この年を創基としており、知恩院三門前に「建学の碑」がある。その後、教学の振興と僧侶の育成を担う浄土宗の高等教育機関として発展を遂げ、学制の改革による統合・独立によって何度か校名を変更し、専門学校令による高等学院が1912年(大正元年)に設置されたことをもって創立としている。1913年(大正2年)に佛教専門学校(略称は、佛専(ぶっせん))。と改称、1949年(昭和24年)に新学制により佛教大学に昇格した。なお、1922年以前に「仏教大学」と称していたのは現在の龍谷大学であり、当大学とは無関係である。 |
佛教大学の建学の理念 建学の理念は「仏教精神」となっている。 |
佛教大学の教育および研究 昇格当初は仏教学部仏教学科のみの単科大学から始まったが、その後学部・学科を増やし、2014年(平成26年)現在では7学部14学科と4研究科12専攻の大学院を擁する総合大学となっている(理科系では、保健医療技術学部を設けている)。また、1953年(昭和28年)には関西唯一・仏教系大学唯一の正規課程である通信教育課程を開設。現在、6学部9学科4研究科12専攻で約2万名が受講しており、私立大学の通信教育課程としては全国有数の規模を誇っている。大学通信教育の中では取得可能な教員免許・資格が多く(詳細はこちらを参照)、「課程本科」と呼ばれる大学等を卒業した人が教員免許・資格の取得に必要な科目を履修する課程もあるほか、通信教育で唯一、宗教科教員免許の取得が可能である。 |
佛教大学の校章 浄土宗宗祖法然房源空の生家である漆間家の家紋であった杏葉に「大學」の文字を配している。1949年4月制定。佛教専門学校時代は杏葉に「専」の文字を配した校章だった(浄土宗の宗紋は、月影に杏葉である)。 |
佛教大学のシンボルマーク イニシャルの「B」の文字からカラフルな5本のラインが右方向に伸びているマーク。大学内では校章以上に目にする。1991年10月制定。 |
佛教大学のシンボルカラー 本学所在地の地名である「紫野」にちなんだ「紫」を用いている。 |
佛教大学の名称 表記は「仏教大学」ではなく「佛教大学」が正しい。また、英語表記も「Buddhism University」ではなく「Bukkyo University」となっている。つまり、「佛教(ぶっきょう)」という言葉を一般名詞としてではなく固有名詞として使っている。 |
佛教大学のぶったん 2012年に100周年を迎えるにあたっての記念に、2010年に製作された。学内外からの1374点の応募の中から選ばれ、誕生日(10月23日・創立記念日)や性格、好きな食べ物などのプロフィールもある。入学宣誓式やオープンキャンパスなどの各種イベントにも登場しており、人気を得ている。 |
佛教大学の課外活動 通学課程では、公認されているクラブやサークルは全て学友会の所属団体である。学友会中央執行委員会の直属団体である文化会本部、体育会本部、應援團本部、放送本部の所属団体がクラブ、それ以外の無所属公認団体がサークルとされている。クラブは、文化会25団体(うち1団体活動休止中)、体育会28団体(うち1団体活動休止中)、應援團4団体、放送3団体。サークルは、文科系18団体、体育系18団体。通信教育課程の学生は、クラブ・サークル入部禁止である。その代わり、通信教育部学友会に入ることができる。通信教育部学友会は、全国10ブロックに43支部がある。各支部では、学習を円滑に進めていくためのオリエンテーションやガイダンス、親睦会、また学習サポーターと協力して個別学習相談や情報交換会などを開催している。 |
佛教大学の学祭 学祭は、4月の新入生オリエンテーション期間に行われる新入生歓迎祭の「紫櫻祭(しおうさい)」と、10月下旬~11月上旬頃に行われる「鷹陵祭(おうりょうさい)」の2つがあり、一般的に学祭と呼ばれるのは「鷹陵祭」である。どちらも学生たちが実行委員会を組織し、大学側との協議を行いながら企画・設営・交渉・宣伝などすべて学生たちで行っている。中でも「鷹陵祭」ではミュージシャンによるコンサートや、タレントのトークショー、吉本興業所属の若手芸人によるお笑いライブなどが行われることが恒例となっている。2001年は藤木直人、2002年はパパイヤ鈴木とおやじダンサーズ、2004年はつじあやのLive。2007年はシャンプーハット、サバンナ、とろサーモンのお笑いライブとmelodyLive。2008年は$10、鎌鼬、海原やすよ・ともこ、矢野兵動、ロザン、笑い飯、千鳥。2016年はLittle Glee MonsterLiveと座長内場勝則率いる吉本ミニ新喜劇。2017年は家入レオLiveと銀シャリ、天竺鼠、トットのよしもとお笑いライブ。2018年はよしもとワラフェスとして1日目ゲストが紅しょうが、コウテイ、たくろう、ちからこぶ、つぼみ、2日目ゲストが海原やすよ・ともこ、学天即、ツートライブだった。2019年の第53回鷹陵祭は、鷹陵館2階メインホールで11月1日に「ゴー☆ジャス×きつね~こんこんレボリューション~」、11月2日に「フレデリック佛大ほっとけナイト」、11月3日に「谷山紀章×梶裕貴トーク」を予定。また園部キャンパスが竣工した直後は「園部祭」が存在した。 |
佛教大学の宗教文化ミュージアム 文部科学省オープン・リサーチ・センターの補助金で設立されたアジア宗教文化情報研究所を母体とし、2008年4月にミュージアムに改組され、開館した。園部校地から出土した考古遺物や浄土宗寺院調査の一環から寄託された仏像などが展示されており、「シルクロード部門」・「歴史文化部門」・「浄土宗文化部門」という部門から宗教文化に関する調査研究とその結果を公開している。併設する宗教文化シアターでは、宗教芸能を中心に無業文化財の公演が年四回行われている。 |
らぶジェネ!の概略 架空世界の住人が現実世界に登場すると言う、神話の時代から存在するテーマ(ピュグマリオーン参照)を現代風に、かつ『電波男』以来の主張である二次元萌えを描いた作品。タイトルは作中作である恋愛シミュレーションゲーム、『らぶジェネ』に由来している。なお、様々な作品からのパロディが非常に多い。主人公、柳沢航は中学時代にヒキコモリになりかけた黒歴史を持つ高校1年生。高校デビューを図り、思いを寄せる少女・竜宮雪名の気を引こうと廃病院の冒険を計画する。しかし、ひょんなことから恋愛ゲーム、『らぶジェネ』の登場人物・水無瀬美羽がゲームの世界から抜け出してきてしまい…。 |
コンラート・ライマーのクラブ レッドブル・ザルツブルクの下部組織出身。2014年5月、リザーブチームであるFCリーフェリングの試合でプロデビュー。9月のSKラピード・ウィーン戦でトップチームデビュー。2017年6月、RBライプツィヒに移籍。 |
コンラート・ライマーの代表 各年代でオーストリア代表に選出されている。2017年9月、2018 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選・ジョージア戦でA代表初招集。2019年6月7日、UEFA EURO 2020予選のスロベニア戦でスタメン入りし初キャップ。 |
根雨駅の駅構造 単式・島式の複合型2面3線のホームを持ち、行違い・待避・折り返しが可能な地上駅である。木造で古い駅舎が単式の1番のりば側にあり、島式の2・3番のりばへは跨線橋で連絡している。直営駅(米子駅の被管理駅)でみどりの窓口が設置されている。ただし早朝と夜間は無人となる。便所は改札内・改札外ともに男女共用の水洗式。また、根雨駅の駅舎内にキオスクが平成28年9月30日まで営業していた。 |
イタリア社会運動のファシスト党の系譜(1946–1954) イタリア社会運動は、イタリア社会共和国(Repubblica Sociale Italiana、RSI)の関係者や支持者が結成した組織である事は広く知られている。事実、党幹部はRSI政府で大臣補佐官を務めたジョルジョ・アルミランテ、ムッソリーニ政権で情報次官に就いていたアウグスト・ディ・マルサニッチェ、元ファシスト党員だったアルトゥーロ・ミケリーニといった具合に、一様にファシスト政権時代との関わりを持っていた。またロドルフォ・グラツィアーニやユニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼなどRSI軍側に付いた将官を顧問に据える事もあった。党員も支援団体も大多数がファシズム政権時代に好意的な勢力で占められ、MSIはMussolini sei immortale(ムッソリーニ統帥、貴方は不滅だ)のバクロニムだと噂された。ファシスト政権と対立していた勢力による戦後イタリア政界は当然ながら彼らに脅威を覚え、議会は非合法の政治集団として政治参加に厳しい制約を課した。従って初期の彼らの国内活動は旧ファシスト党を模した制服で示威行動などを行う小政党に甘んじざるを得なかったが、それでも1948年の総選挙で辛うじて数議席を獲得している。国際面では汎ヨーロッパ主義の観点から政治連合「欧州の右翼」に参加した。 |
イタリア社会運動の党内対立と勢力確立(1954–1969) 一口に右翼と定義されやすいファシズムだが、実際には成立過程に社会主義・修正マルクス主義の影響が多分に存在している。一方で民族主義・帝国主義の部分から君主主義・資本主義との親和性も存在し(イタリア・ファシズムの場合は政権獲得の過程でイタリア王家と接近している)、王党派の党員も抱えるなどその事情は複雑である。この流れは党内対立として引き継がれ、党内左派は社会主義的な政策を持ち、またファシズムは共和制で実現されるべきというスタンスを持った。党内右派は他の右派勢力との連合や反共主義を唱え、一部は王政復古すら主張していた。創始者にして初代書記長のジョルジョ・アルミランテは王家を廃したRSI時代がファシズムの完成と考える党内左派に属しており、貧困層の救済がファシストにとっての最重要課題であるとも考えていた。アルミランテ体制でMSIは他のネオ・ファシスト勢力と一線を引いた合法路線を進め、確実に得票を伸ばして1953年には全国で150万票を集めて数十議席を獲得した。だが党内対立は激化の一途を辿りアルミランテは退任、新たにアウグスト・ディ・マルサニッチェが書記長になったが短期間で辞職した。アルミランテ、アウグストが立て続けに辞任した後、1954年に新たな指導者アルトゥーロ・ミケリーニが選出された。ミケリーニは前述の二人と異なって旧政権時代に重職に就いた経験がない、一介のファシスト党員に過ぎなかったが、彼の行った大胆な路線転換がMSIや後身の国民同盟の政治路線を決定付けた。ミケリーニはそれまでの路線を右派路線に大きく転換し、自由主義・キリスト教民主主義・資本主義など各右派イデオロギーの政党と政治同盟を結び、与党の政策に全面的に協力する事を決定した。1955年に旧敵国アメリカが指導するNATOへの加盟に賛同する運動を展開したのがその最たるものであった。ミケリーニの死後の1969年、一旦は表舞台から退いていたアルミランテが書記長に復帰して右派路線に傾きすぎた方針の是正を進めた。1970年にファシスト党時代から続くマークを除外して直接的な関連性を強調する事を避けた。続いて1972年には党内右派の最右翼とも言うべき王党派グループを説得して「共和制の支持」を党として宣言、戦後イタリアへの合流をアピールした。バランスの取れた中道路線を示した事が功を奏し、同年の総選挙でMSIは結党以来の最大得票となる約300万票を得て躍進、両院合わせて82議席(全体議席の1割近くに相当する)を占める中堅政党となった。 |
イタリア社会運動の党勢の衰え(1969–1987) だが、1970年代から1980年代の期間は同時に冷戦が最も加熱した時期であり、またイタリア共産党が勢力を強めたことから、これに対抗してネオファシスト系の団体もまた盛んに非合法活動を繰り広げた時代でもあった。成立経緯から距離を取っていたとはいえ、国内外のファシスト勢力を基盤とするMSIはしばしばそれらの事件との関与を指摘された。1980年には戦後イタリア最悪の爆破テロ事件とも言われるボローニャ駅爆破テロ事件が発生、ネオ・ファシスト系テロ組織NAR(en:Nuclei Armati Rivoluzionari)やSISMI(イタリア政府諜報機関)の高官が逮捕されたが、この事件にMSI幹部でかつ非合法組織の「ロッジP2」の代表を務めていたリーチオ・ジェッリが含まれていた事に世間に大きな批判を寄せた。このような事件やスキャンダルを受けて急速に騰勢が衰えたことから、アルミランテは党の抜本的な改革が必要だと感じる様になった。既に老齢になっていたアルミランテは党青年団「若き前進」の全国指導者を務めるなど、自らの政治的後継として目を掛けていたジャンフランコ・フィーニに白羽の矢を立てた。 |
イタリア社会運動の若手指導者の改革(1987–1995) かくして35歳という若さで書記長に抜擢されたジャンフランコ・フィーニは、期待通り強力なリーダーシップを発揮してMSIの穏健化に向けた改革を推し進めた。自らもムッソリーニを「最も偉大な先人」と評するなど熱心なファシストではあったが、世相に合わせてファシスト路線を弱める方向に党を動かした。党穏健化の一環として党名もイタリア社会運動・国民右翼からイタリア社会運動・国民同盟に変更された。党の若返りと穏健化は民衆から前向きに受け取られ1994年の総選挙では全体得票で13%代を獲得した。しかし古参党員の反対もあり、やはり極右政党という旧来のイメージからの完全な脱却は難しかった。フィーニはMSIの更なる改革を目指し、旧MSI議員を中核とした上で複数の政党を取り込んで新党を結成する事を模索し始めた。国内の名の知られた(しかし極右勢力とは距離を取っていた)イタリア国内の著名な保守系議員や、イタリア共和党・イタリア自由党など旧来の右派政党と会談を繰り返して新党結成への調整へ奔走した。1995年、フィーニの入念な根回しの末、各勢力はMSIを中心とする新政党への合流に同意して新党・国民同盟(Alleanza Nazionale)が結成された。党首に就任したフィーニは「国民右翼」をスローガンに、新たな右翼政党が民族主義を堅持しつつも人種主義・排外主義とは明確に対立すると宣言、自らのイスラエル訪問の際には「ファシスト・イタリアは全くの悪」と発言した。これはアレッサンドラ・ムッソリーニらMSI時代に強硬派に属した議員の離反を招いたが、多くのMSI系議員と国民は中道右派と極右の間を補完する勢力としての改革を歓迎した。以降国民同盟は右翼連合の一角を占めるグループとして政権参加なども行うようになったが、独立政党としてのMSIには終止符が打たれた事になる。 |
HD 204313の重星 HD 204313から6.2秒離れた位置に、17等星があり、連星系かもしれないとされる。2つの恒星の重力的な結び付きを示すデータは得られていないが、HD 204313が銀河面から離れた位置にあることから、たまたま同じ方向に見えているだけである確率は1割程度と見積もられている。 |
タウロFCの歴史 パナマ市東部のペドレガル地区にて、1984年9月22日に設立された。1988年よりサッカーリーグに参加。設立者のジャンカルロ・グロンチ(Giancarlo Gronchi)はユヴェントスFCのサポーターで、このためチームカラーもユヴェントスに倣い黒と白になった。国内屈指の強豪として知られており、2017年までに13回のリーグ優勝を誇る。最大のライバルはプラサ・アマドルで、両チームの対戦はナショナルダービーと呼ばれている。 |
タウロFCの国際タイトル なし |
下の茗温泉の温泉街 日本秘湯を守る会にも属した一軒宿「下の茗温泉」がかつて存在したが、1999年に廃業、閉鎖された。現在は廃墟となっており、車の乗り入れも出来ない。 |
下の茗温泉の歴史 富山藩の第10代藩主である前田利保も1848年にこの地で湯治をしたことがある。その様子は「利保公依御願御領分下ノ茗温泉ヘ為御入湯就御帰城御道中奥御用所留」という書物に残されている。野口雨情もこの地に来たことがある。 |
FACTの概要 ストラングアウトを強く意識したメタリックで速いメロディック・ハードコアバンドとしてスタートし、現ドラマーEijiの加入後はスラッシュメタル・デスメタルやグラインドコア由来の高速ツーバス、ブラストビートなども取り入れ、更にリズムの主張が強いユニークなスタイルに発展した。1999年結成以降国内のさまざまな世代・ジャンルのアーティストと共演しながら頭角を現し、前述のストラングアウトのオープニングアクトはじめ多くの海外アーティストと共演する一方で自身も2000年代中頃に海外に渡り北米で2度のライヴを行っている。共演はStutterflyなど。メンバーが全員ヴォーカルを担当する上、曲の流れも切り替わりが多く繰り返しが少ない変則的なもので知られる。近隣バンドに比べ、ギター・ドラムなどにおいてスラッシュメタルなど80~90年代のエクストリーム・メタルの要素をより大胆に取り入れた21世紀版のクロスオーバーともいえる基本路線に加え、ダンスやエレクトロニカなども取り入れ、多彩な音楽性を発揮している。結成10周年となった2009年、海外デビュー&国内メジャーデビュー作となるアルバム『FACT』を発表。4月15日に米インディーズレーベルのヴェイグラント・レコード (Vagrant Records) より海外先行リリースされ、一週間後の4月22日に日本でもエイベックス傘下のレーベル「maximum10」からリリースされた。同アルバムは日本国内で現在までに輸入盤も併せて5万枚を超えるセールスを記録している。作詞はHiroとTomohiroがメインで行っている。また、インディーズ時代はプロモーションビデオ等で素顔を公開していたが、メジャーデビュー以降は公式に素顔を見せず、能面を被るなどして隠している。2014年現在は、素顔で活動している。2009年世界デビューに伴った北米ツアー中、移動中にメンバーが交通事故に遭うという事件が起きた。この事故でEijiが左腕を骨折し、現地で手術を行うことになったため、予定されていた北米ツアーは全てキャンセルするという事態になってしまった。なお、バンドは同年後半に改めて北米をツアーを行なっている。Eiji復帰後最初のライヴは同年8月に行われたイギリスのSonisphere Festival。イギリスでのアルバムリリースが直後に控えており、当初はサブステージでの演奏を予定していたが、メインステージのバンド・コヒード・アンド・カンブリアの到着が遅れ出演時間に間に合わないという緊急事態に巻き込まれ、急遽入れ替えでメインステージに立つという予想だにしない形での出演を果たすことになった。コヒード~の登場を待ち侘びていたオーディエンスは最初非常に厳しい反応であったが、セット中盤以降にはバンドは一定の支持を勝ち獲った。その数日後にサマーソニックでメジャー移籍後初の国内ライヴを行い、オープニングアクトとして過去最高の動員記録を樹立した。2010年1月13日にはメジャー契約後2枚目となるフルアルバム「In the blink of an eye」をリリース。オリコンチャートではアルバム週間ランキング初登場6位。初動18位だった前作をさらに上回るアクションを記録した。同アルバムはイギリスでもハッスル・レコードから同年5月24日にリリースされている。アルバムの発売に合わせて2月に行われた初の国内ツアーは全公演とも即SOLD OUTとなった。4月にパンクスプリングに出演、5月から6月にかけてはイギリスでアルバムのプロモーションツアーを敢行。下半期は前年に引き続きサマーソニックに出演、秋に全国22箇所を回るツアーも発表になっている。2011年3月、ミニアルバム「Eat Your Words」をリリース。CD+DVDの2枚組で、DVDは、2010年2月8日にFACT JAPAN TOUR'10の公演としてShibuya O-EASTで行われたライブの模様を収録している。また、同年から欧米におけるレコードレーベルがオーガスト・バーンズ・レッドなどが在籍するGood Fight Entertainmentとなった。2012年、新たにイギリス人のギタリスト、Adamが加入すると発表。当初は名前が明かされていなかった。これによりバンドはトリプルギターの6人体制となった。1月にはアルバム「burundanga」がリリース。なおこのアルバムのレコーディングにおいてAdamは参加していない。burundangaは13年間続いてきた5人体制による最後のアルバムとなった。2014年、3月にギタリストのAdamが加入して初となるアルバム「WITNESS」をリリース。2014年11月29日、結成15周年記念イベント「Rock-O-Rama」を幕張メッセで開催する。2015年4月、9月から行うワンマンツアー「FACT "KTHEAT" JAPAN TOUR 2015」をもって解散することを発表した。2015年11月20日、TSUTAYA O-EAST、渋谷duo MUSIC EXCHANGE、clubasiaにて行われた都市型サーキットフェス「ROCK-O-RAMA 2015」を開催。このライブをもって解散。解散後は2016年に、Adam、Tomohiro、Eijiの3名が元The Amity AfflictionのImranと「Joy Opposites」(ジョイ・オポジッツ)を結成し、Hiro、Kazuki、Takahiroの3名で「SHADOWS」を結成。 |
FACTのco3 co3とはFACTの別名義で、ドラムンベースやダブを基調とした電子音楽を展開する。2012年現在でco3名義でのアルバム「co3」が発売されている。 |
建築・空間デジタルアーカイブスの概要 建築家槇文彦らの有志による協力のもと、国土交通省の2005年度(平成17年度)事業として開始され、2006年(平成18年)9月15日に一般公開された。公開当初には、新建築社から提供された1960年代 - 1970年代の建築写真のリバーサルフィルムをスキャンし、修正した上でデジタル画像として公開した。2006年(平成18年)12月4日には、関係企業、団体、個人により、DAASコンソーシアムが設立されている。 |
木津卸売市場の概要 民営の卸売市場としては、全国有数の取り扱い実績を誇る。また、大阪府内の中央卸売市場を除く公設及び民設の卸売市場の中で唯一水産と青果の双方を取扱品目としている。1万7500平方メートル(延べ床面積2万4800平方メートル)の敷地内に青果や水産物のセリ場を設け、約150店舗の卸商が入居。飲食店や食材センター(業務用スーパー)、スーパー銭湯も併設している。2010年11月から、毎月第2・最終土曜日に「木津の朝市」を開催している。当日は魚介類や精肉などが安値で購入できるほか、各店で行われるセリに初心者も参加でき、市場体験ができる。マグロの解体ショーなどイベントも行われる。 |
1926年ウィンブルドン選手権のルール 回答者は、一般視聴者3人(芸能人が出場する回もあり)。まず問題となるテーマが出題され、そのテーマに関する「人物、場所、事がら」のカテゴリーからひとつを選択してクイズに答えていくスタイル。カテゴリーには難易度を示す倍率(1から3)が付してあり、回答者が手持金(スタート時は3万円)から千円単位で賭けた。クイズに正解できれば賭け金に倍率を乗じた金額が手持金に加算され、不正解の場合には賭け金は没収された。各問題の回答権は、ひとつのカテゴリーにつき賭け金が最も高額な回答者のみ与えられた。したがって、3名の回答者が異なるカテゴリーを選択した場合に限り全員が回答権を得られたが、低い賭け金で勝負をしていると回答権を得られずに休みになることがあった。なお、複数の回答者がひとつのカテゴリーに同一の金額のかけ金を出した場合には、賭け金で競ることになった。毎週8問から9問程度出題され、全問終了時に最高の手持金を残した回答者は翌週の回答者の権利を得られた。最高の手持金を残せば何週でも番組に出られたが、5週勝ち抜けば優勝となった。各回の手持金の合計は賞金となった。番組が打ち切られるまでの間、2人の優勝者が出た。アメリカの番組(NBC系の『The Who What or Where Game』、1970年代)を参考にした大橋巨泉の自信作であったが、あえなく1年限りで終了。クイズとギャンブルをミックスした番組は、後の『クイズダービー』(TBS系列)へと繋がる。 |
安島徳次郎の人物 久慈郡世矢村大字世矢の生まれ。明治14年(1881年)世谷村助役となり、同18年(1885年)村長に選ばれる。日清戦争では出征軍人慰安家族後援会を興しその活動に奔走し、明治44年(1911年)、学務委員。大正2年(1913年)世矢村議会議員となる。性格は温厚円満にして永年公共のために尽くし、功を誇らず、地方人の尊敬を集めるという。 |
エジミウソン・ジョゼ・ゴメス・ジ・モラエスの経歴 守備の要としてリヨンのリーグ・アン3連覇の原動力となった。2001年のコンフェデ杯では代表キャプテンも務め、2002年の日韓W杯では3バックの中央を務め優勝に貢献した。コスタリカ戦では、見事なオーバーヘッドシュートを決めている。その後リーガ・エスパニョーラのFCバルセロナに移籍金1000万ユーロ(約13億1000万円)で移籍し、ケガに苦しみながらもボランチもしくはセンターバックのポジションをラファエル・マルケス、オレゲール・プレサスらと争った。2005-06シーズンはボランチのレギュラーに定着し、クラブの2冠へ大きく貢献した。2006年のドイツW杯のブラジル代表メンバーにも選出されたが、大会直前の怪我のために出場を断念した。2008年5月、ビジャレアルCFに移籍金なしで移籍した。2009年1月、ブラジルのSEパルメイラスへの移籍が発表された。2010年1月31日、レアル・サラゴサとシーズン終了後までの契約を結んだ。2010-11シーズンもサラゴサでプレーし、2011年夏に母国のセアラーSCに移籍した。 |
納言 (お笑いコンビ)の略歴 安部の前コンビ『すとろんぐカラ〜』が解散して間も無い頃、安部から誘って2017年1月に結成に至る。安部はまずネタを3本書いて願い出たということで、この時、薄幸は安部のことを「気持ち悪い奴だな」と思いながらも「断ったらヤベえことになりそうだから、取りあえずやってみっか?」と考えた上で、この話を引き受けたという。2018年のM-1グランプリでは準々決勝まで進出。 |
納言 (お笑いコンビ)の芸風 主なネタには、キャバクラのスカウト、引っ越しの挨拶の時に会った初対面の男、チラシ配りの男にそれぞれ、いずれもつい誘われてしまう女というものがある。薄幸は革ジャンを衣装とし、ガラの悪そうな女のキャラで時々巻き舌調の台詞を入れ、ネタの間にたばこを吸う仕種を見せながら特定の街の名を挙げてディスるというネタを披露している。なお、これらのネタの時に見せているキャラクターがむしろ、薄のありのままだという。薄曰く「字は読むのも書くのも嫌い」ということから、ネタ作成は主に安部が行っている。ネタはほぼ薄幸による実体験が基になっているという。 |
納言 (お笑いコンビ)の出演 薄の単独での出演については、薄幸#出演の節を参照。 |
乾石智子の人物・経歴 山形県生まれ。山形大学地域教育文化学部卒業。1999年、犬石智子名義で応募した「闇を磨きあげる者」で、教育総研(現ワオ・コーポレーション)が主催する第3回創作ファンタジー大賞・創作童話大賞(ファンタジー部門)大賞を受賞。2011年、東京創元社から、第1長編『夜の写本師』を刊行したことでプロ作家としてデビューした。優れたハイ・ファンタジーの書き手として知られている。創元ファンタジイ新人賞の選考委員を務めている。 |
SKE48がひとっ風呂浴びさせて頂きます!の概要 東京都内で減り続けている銭湯の文化を守るため、SKE48のメンバーが各銭湯を巡り、心を込めて掃除をしたあと、ひとっ風呂浴びさせて頂くという番組である。掃除等の最中にスポンサー情報が挿入されるテレビ東京の深夜帯ミニ番組の特徴がある。 |
ミュージカルカンパニー イッツフォーリーズの地理 北は萩埜、南は萩原に隣接している。 |
国立病院機構福岡東医療センターの沿革 江戸期は松虫新田であり、下総国印旛郡のうち。笠神埜原新田に属する。寛文年間笠神村御立野原を開発、成立した松虫村の持添新田。寛文11年国手形寺請状改綴によれば、入百姓5、すべて上野国館林領の出身(吉植家文書)。はじめ幕府領、元禄14年から佐倉藩領、享保8年から再び幕府領、天保10年から浜松藩領、弘化2年幕府領となるが同4年から再び浜松藩領。村高は「元禄郷帳」「天保郷帳」ともに見えず、「旧高旧領」16石余。江戸中・後期は笠神埜原新田10か村組の1つで、天保3年十ヶ村請免状写によれば、畑・埜地・屋敷から成る村で、年貢は永590文余を納入(吉植家文書)。明治6年千葉県に所属。神社は諏訪神社(印旛郡誌)。明治22年埜原村の大字となる。 |
岡山県道188号水島港線の概要 通称「産業道路」と呼ばれ、国道2号線と水島臨海工業地帯を結ぶために整備され、 東側に水島臨海鉄道が並行して通っている。中島交差点から江長交差点の間は、周辺の宅地化が進むにつれ、片側1車線の道路沿線には商店や工場等で埋まってゆき、現在は沿線全部がほぼ市街地になっている。自動車交通量も多く、特に朝夕は工業地帯を行き交う通勤者や大型トラックにより渋滞が激しい。しかし、NTT水島交差点から水島港の間の周りの風景は整然とした水島市街地が広がり、道路も片側3車線になり流れもスムーズになるなど、全く異なる道路となる。 |
本多忠高の生涯 全区間上下2 - 4車線。水島地区では将来の上下4車線化に向けて道路用地が取ってある箇所がある。 |
アンディ・エイバッドの経歴 柳営秘鑑:巻ノ三には、徳川家康の扇の御馬印は、天文18年(1549年)の安祥城攻めの時に、討ち死にした本多忠高に由来するという、その子・忠勝が継承し、文禄2年(1593年)に、家康の所望で馬印にしたとある。三河安祥之七御普代に数えられる(柳営秘鑑巻ノ二)。 |
在庫管理の背景 ミドルジョージア短大からボストン・レッドソックスにドラフト16巡目に指名され、1993年に入団するも、一度もメジャーでプレーすることはなく、2000年に大阪近鉄バファローズのオファーを受け来日。「実力はトニー・タラスコ(当時阪神タイガース)より上」と言われたものの、当時の近鉄の1軍には「最強外国人コンビ」と言われたタフィ・ローズとフィル・クラークがいたため、外国人枠(当時は投手、野手それぞれ同時登録最大2人)の関係で、しばらくの間を二軍で過ごすことになる。しかし、2000年7月、対オリックス・ブルーウェーブ戦でクラークが手首に死球を受けて骨折、長期離脱で1軍登録を抹消されると、枠が空いたこともあり、一軍昇格される。クラークの穴を埋めてくれるものと期待されたが、長打力も打率もクラークにはるか及ばず、シーズン終盤にはベンチウォーマーとなり、同年シーズンオフに解雇となった。その後帰国し、2000年のシーズンオフにオークランド・アスレチックスと契約。2001年にわずか1試合1打数ではあるが、28歳にしてようやくメジャーデビューを果たす。その後、フロリダ・マーリンズのマイナーを経由して2003年の開幕前には古巣のレッドソックスに移籍。この年は9試合に出場し、メジャー初安打を記録した。2004年、2005年はメジャーでプレーする機会がなかったが、2006年はシンシナティ・レッズでプレーし、この年限りで現役を引退した。知的な佇まいを備えた風貌で、眼鏡をかけていたこともあった。 |
拝領妻始末のあらすじ 発注量はその都度違うが、安全在庫数に達するまでの数量を定期的に発注する方式。 |
今夜は芸人が超本気!最強デュエット歌合戦の視聴率 第1回:14.0% 第2回:14.0% 第3回:10.9% 第4回:7.9% |
延松映画社の略歴・概要 天然色活動写真(天活)、帝国キネマ演芸(帝キネ)、松竹下加茂撮影所で活躍していた俳優の実川延松が、1925年(大正14年)3月、俳優の嵐橘太郎、尾上多見右衛門、玉木光子ら一派をつれて松竹を退社、設立したのがこの「延松映画社」である。このまったく同時期に、帝キネ時代に実川の出演作を監督していた中川紫郎も独立し、奈良市内に「中川映画製作所」を設立、撮影所を建設しており、また同市内では映画製作に意欲を燃やす直木三十五(当時「直木三十三」)が「連合映画芸術家協会」を設立しており、同時期に東亜キネマから独立して、マキノ・プロダクションを起こした牧野省三が密接に関わっていた。設立当初は、彼らの製作する作品に実川以下一派が出演するという参加の仕方であったが、翌1926年(大正15年)、「マキノ・プロダクション鷲尾撮影所」が製作した『性の争奪』を実川自身が主演、監督するに至り、同年には「延松映画社」も自社製作に乗り出した。実川が監督・主演した『丹生島』、マキノ・プロダクションの牧野が「総指揮」を執り、芝一美が監督、実川が主演した『怪刀乱舞』の2本である。『丹生島』は同年3月8日に博多の「寿座」などで、『怪刀乱舞』は1週後の同年3月19日に東京・日本橋区の「魚河岸キネマ」などでそれぞれ公開された。この2作を発表すると同社は活動を停止し、翌年の1927年(昭和2年)には、実川らは帝キネに戻り、「延松映画社」はその短いインディペンデント活動を終えた。 |
蛙石の言い伝え 小田原の危機の際には、必ず鳴くといわれており、小田原城落城、江戸時代の2回の震災、明治の小田原大海嘯、大正の関東大震災、昭和の小田原空襲の前夜にも盛んに鳴いたとされる。都路往来にでてくる「蛙鳴くなる小田原の里」は蛙石を指している。 |
2005年J2最終節の概要 甲府は西京極陸上競技場で京都と、仙台は東平尾公園博多の森球技場(現・レベルファイブスタジアム)で福岡と対戦。この試合仙台は福岡に勝てば甲府の結果に関係なくJ1・J2入れ替え戦に出場できた一方で、甲府は仙台の結果に関係なく京都に勝利しなければ入れ替え戦に進出できない苦しい状況であった(上述の通り甲府が引き分けて仙台が負けでも甲府が3位になる可能性はあったが、得失点差が6も離れていたため現実的ではなかった)。さらに甲府はこの年圧倒的強さでリーグを制した京都に3戦3敗と相性が悪く、既に入れ替え戦進出を決めていた柏レイソルも福岡にスタッフを派遣するなど仙台戦を想定した対策を練っていた。 |
2005年J2最終節の概要 入れ替え戦に進出した甲府の相手はこの年のJ1で16位で2年連続での入れ替え戦となった柏レイソル。奇しくも36年前JSLとの入れ替え戦にて、前身の甲府クラブの昇格を阻んだ日立製作所サッカー部を母体とするクラブである。柏は当時現役日本代表である玉田圭司をはじめ明神智和、波戸康広、永田充など日本代表経験を持つ選手やその後日本代表に選出される矢野貴章と李忠成、他にも土屋征夫や谷澤達也など日本人選手だけでも錚々たるタレントが揃っており、さらに外国人選手もシーズン中盤に元ブラジル代表のフランサやパリ・サンジェルマンFCに所属していたレイナウドを補強するなど甲府との選手層の差は明らかであった。また前年の入れ替え戦でも福岡に2戦2勝と危なげなく残留を決めており、その福岡より成績が劣っていた甲府が相手であったことから下馬評では柏の有利が予想された。しかし実際は玉田が疲労骨折のため今シーズンの出場が絶望になり、また明神やフランサも怪我で万全な状況ではないなどチーム状況は思わしくなかった。さらに前年は福岡に対して万全の対策を行なっていたのに対し、今回は入れ替え戦の相手を仙台と想定しその対策を行なっていたがプレースタイルが異なりプロ化後は対戦経験のない甲府が相手になった事で現場が混乱、相手が決定してから入れ替え戦までのわずか3日の間で少ない情報をもとに非公開練習で対策をとらざるを得なかった。同年夏にコーチに就任したラモス瑠偉が選手に檄を飛ばすなどしていたが、12月5日付のスポーツニッポンの記事では選手は明らかに動揺の色を隠せず、練習が終わった後も悲壮感を漂わせている状態あった。それに対し、逆転で入れ替え戦進出を決めた甲府は柏の入れ替え戦進出が11月26日と早めに決まっていたことから万全な対策をとることが可能で、また報道陣に対し練習を公開するなど余裕を見せ、12月6日付のスポーツニッポンの記事で監督や選手は「いつもどおりのサッカーをするだけ」と強気なコメントを残している。 |
ゲオルギー・ジレンコフの経歴 1910年、ロシア帝国時代のヴォロネジにて生を受ける。1929年、ソ連邦共産党に入党。党内では産業関連の職を務める。1939年、生産に関する成果について労働赤旗勲章を授与されている。1940年以降はモスクワ方面の地区書記を務める。1941年、ドイツ国防軍がバルバロッサ作戦の元でソ連邦への侵攻を開始すると、ジレンコフは第32軍所属の旅団付政治委員(准将相当の政治委員)として前線に派遣された。1941年10月14日、ヴァジマ包囲戦の末、ジレンコフはドイツ側の捕虜となった。当初、彼は旅団付政治委員という身分を隠していた。1942年5月、身分が露呈して取り調べを受け、その後は非常に協力的な態度を取るようになった。彼の身柄は国防軍最高司令部宣伝部に移された。ここでジレンコフは中将(Generalleutnant)の階級、およびロシア諸民族解放委員会宣伝局長の職を与えられた。敗戦後の1945年5月18日、アメリカ軍によって逮捕される。1946年5月1日、ジレンコフを捜索していたソ連邦側情報機関の要請を受け、アメリカ軍からソ連邦当局へと引き渡される。1946年8月1日、ソ連邦最高軍事裁判所にて死刑が言い渡される。同日、ブトィルカ刑務所にて絞首刑が執行された。 |
鳴門市営バスの概要 鳴門市内にくまなく路線を延ばしていたほか、延長部分として香川県東かがわ市引田駅、板野郡板野町板野駅の鳴門市外までの路線を持つとともに、2002年(平成14年)3月31日まで兵庫県南淡町(現南あわじ市)福良までの路線を持ち、「公営バスでありながら3県にまたがって運行する」バスであった。しかし、モータリゼーションに伴う利用客減少や、鳴門市の財政悪化に伴って、かつての運行規模を維持することが困難になったため、多くの路線を廃止・減便するなど経営改革に取り組んだり、運賃が100円均一の循環バスの運行を開始し、利用者の拡大も図っていたものの、経営状況は依然として大変厳しい状況であった。段階的に民間委託を開始し、2009年(平成21年)1月1日より、一部路線が地元のタクシー会社である鳴門第一タクシーへ委託され「鳴門市地域バス」として運行を開始。市営バス事業は2012年(平成24年)度をもって終了した。かつては鳴門市運輸部が運営していたが、2005年(平成17年)4月1日に鳴門市の組織再編が実施され、企業局運輸事業課による運営となっていた。2007年(平成19年)には同市営バス初のノンステップバスとして日野・ポンチョが2台導入されていた。2012年12月13日の徳島新聞の報道で、2013年3月31日をもって市営バス事業から撤退し、移譲先は徳島バスとすることが発表された。徳島バスは4月1日から運行を開始した。 |
鳴門市営バスの営業終了時点での直営路線 路線バス車両は2010年(平成22年)3月31日現在で21台保有していた。 |
鳴門市営バスの北泊線 岡崎 - 鳴門駅前 - 郵便局前 - 黒崎 - 明神 - 堂浦 - 北泊 |
鳴門市営バスの大麻線 鳴門駅前 - 郵便局前 - 鳴門一中前 - 第一高校前 - 金比羅前 - 教会前 - 立道 - 池谷駅前 - 板東駅東 - 霊山寺前 - ドイツ館 - 二番札所前 - 川端駅前 - 板野駅南 |
鳴門市営バスの引田線 鳴門駅前 - 郵便局前 - 黒崎 - 明神 - 粟田葛城口 - 折野西 - 北灘県境 - 引田駅前 - 翼山温泉 |
鳴門市営バスの市内循環線(市内循環バス) 鳴門駅前 → 高速鳴門バス停前 → 鳴門病院 → 中央商店街 → 市役所前 → 郵便局前 → 鳴門駅前(2012年(平成24年)4月1日市営バスから地域バスへ移行) |
石田佳世の来歴・人物 詳細は基礎情報を参照。子供の頃なりたかった職業は海外特派員とのことで、高校生の時から放送業界を目指すようになり、大阪樟蔭女子大学入学後、MC企画付属の養成校・中央放送研究会に通った。大学卒業後の1991年、MC企画に入社し、高知放送に派遣され、今に至る。MC企画によると、同社の契約出向アナウンサーとなっているとのことである()。家庭料理技能検定4級の資格を持つ。またネット上の掲示板において、巨乳が話題になっている。『日曜お昼は3色パン』では、この番組のテーマ曲『Sea of love~3つの海の物語~』を歌う企画ユニットとして、この番組に一緒に出演していた岡崎典子(日本海テレビアナウンサー)、仁多田まゆみ(西日本放送アナウンサー)と3人で『NAMACO』(ナマコ)というユニットを組んでいた。 |
塚本素山ビルの地理 播磨平野西部、姫路市南部を南流する。姫路バイパスと交差する飾磨区上野田以北は外堀川と呼ばれ、ここから野田川に名を変える。流域はほぼ平坦で、飾磨市街地東部を引き続き南流し、山陽特殊製鋼などの工場が立ち並ぶ工業地帯を過ぎると飾磨臨海大橋をくぐって播磨灘に注ぐ。河口には姫路港(飾磨港区)が立地する。 |
木接合文法の概要 TAGにおける規則は、foot node と呼ばれる特殊な葉ノードを持つ木であり、foot node には単語が付属している。TAGにおける木は2種類に分類される。initial(初期)木('' とも)と auxiliary(補助)木('')である。初期木は基本的な結合価的関係を表し、補助木は再帰を許容する。補助木には根ノードがあり、foot node は初期木と同じシンボルがラベルとして付けられている。導出は、初期木に対して行われ、「置換(substitution)」か「付加(adjunction)」を行っていく。置換とは、先端ノードを、根ノードが同じシンボルのラベルになっている別の木と置換する操作である。付加とは、補助木を別の木の途中に挿入する操作である。補助木の根ノードと foot node のラベルは、挿入箇所のノードのラベルと一致していなければならない。 |
木接合文法の言語とオートマトンの理論 木接合文法は、文脈自由文法よりも強力だが文脈依存文法よりも弱い。具体例として、任意の文字列を二回繰り返すような言語を記述することができる。より一般には、 のような文脈自由文法に含まれない言語を記述することができる。このような処理はembedded pushdown automatonで表現できる。一方で、文字列を3回繰り返す言語や、4つ以上の同じ長さの文字の列からなる言語は木接合文法では生成できない。よって「弱文脈依存文法」的である。また、チョムスキー階層には当てはまらず、むしろ興味深い形でそれと交差している。 |
木接合文法の自然言語 前節で述べたような性質から、計算言語学や自然言語処理でよく使われる。また、構文解析が一般に効率的に行えるなら、自然言語のモデルとして十分に意味があるという主張もある。 |
木接合文法の歴史 TAGの研究は、ゼリグ・ハリスの文字列文法である adjunction grammars (AG) を Joshi らが研究したことから端を発している。AG は、自然言語学的な観点からは、内心構造(endocentric construction)を自然かつ効率的に扱えるが、外心構造(exocentric construction)はうまく扱えない。句構造文法はその逆である。1969年、Joshi は2種類の規則群を混合することで、少数の非常に単純な書き換え規則で、付加規則のための文字列の語彙を生成する、この相補性を同時に扱えるTAGを生み出した。 |
H-IIBロケットの開発費用 従来のロケット開発では、開発費全額が政府予算で賄われ、運用開始後はJAXAがロケット購入費用として製造費分を三菱重工に支払ってきた。一方、H-IIBロケットでは、開発費をJAXAと三菱重工がそれぞれ負担し、運用開始後は開発費の三菱重工負担分をH-IIBの販売価格に上乗せして回収する手法が採られた(開発費における三菱重工負担分は設備投資等の初期投資分である)。2003年8月時点では、JAXAが機体開発に108億円、設備開発に42億円を負担し、三菱重工が負担する50億円の計200億円を予定していた。その後、2006年5月時点ではJAXAが機体開発に136億円、設備開発に51億円を負担し、三菱重工が負担する76億円の計263億円になり、最終的にプロジェクト完了後の2010年9月21日時点では、実機型タンクステージ燃焼試験(CFT)の回数増加や油圧アクチュエータの設計変更などによる8億円の増加分も含め、JAXAが機体開発に144億円、設備開発に51億円を負担し、三菱重工が負担する76億円の計271億円になり、試験機1機147億円と合わせて合計418億円のプロジェクトとされている。試験機を除いた開発費は、H-IIBロケットの271億円にH-IIAロケットの1,532億円やH-IIの2,700億円を加えても4,503億円と、諸外国のロケット開発費と比較しても低く抑えられている。H-IIBロケットの開発費の低さについて、H-IIAロケットプロジェクトマネージャであった遠藤守が「インクレディブル(信じがたい)というより、クレージー(あり得ない)なものだった」と語っている。 |
H-IIBロケットの打ち上げ 全て種子島宇宙センター大崎射場吉信第2射点(LP-2)から打上げ。 |
H-IIBロケットの商業打ち上げの可能性 H-IIBはHTVだけでなく、静止衛星の打ち上げも想定している。静止トランスファ軌道(GTO)への投入能力は8 tで、商業打ち上げで大きなシェアを持つアリアン5に近い能力である。アリアン5ECA型の静止トランスファ軌道へのペイロードは10 tで、2機の静止衛星を同時に搭載して打ち上げることが多い。H-IIBも、4/4D-LC型フェアリングを使用して、静止衛星を2機搭載することが想定されている。H-IIA202型を2機打ち上げる際の費用は合計で170億円だが、GTO投入能力は合計8.2 tで、H-IIB1機とほぼ等しい。一方、H-IIB1機の予定打ち上げ費用は110億円とされており、H-IIBで2機の静止衛星を打ち上げれば費用が3割から4割減となる。H-IIBの3号機以降は極低温点検を省略し費用を7億円削減されて、4号機からは打ち上げが三菱重工業に移管され商業打ち上げロケットの選択肢に加わることから、価格競争力の強化が期待されるが、アリアン5が衛星2機同時打ち上げを円滑に行えるのは多数の受注残を抱えているためであり、受注数が少なければ衛星側の日程調整が困難になることも予想される。 |
H-IIBロケットの実物大展示モデル H-IIBの展示モデルは、2011年11月6日から名古屋市科学館に屋外展示されている。この機体は、構造試験に使われた試験用の機体で、第1段エンジン部、第1段液体水素タンク、第1段中央部、段間アダプター、フェアリングが試験に使われた実機で、それ以外は展示用に製作したモデルとなっている。 |
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