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山口二郎の民主党のブレーン 1998年に民主党のブレーンになると、同じ野党である日本社会党の憲法九条に拠る護憲平和主義は時代遅れとして批判し、「現実的な安保外交政策」を持つ民主党による政権交代こそが日本の閉塞感を打破すると主張を続けた。第45回衆議院議員総選挙では、民主党のマニフェストに対する「財源の裏付けのない、まやかし政策」という批判に対して、「政権を目指す政党に最も重要なことはこぢんまりした整合性ではなく、現状を批判することと、よりよい社会を提示する構想力である」と反論した。政権交代が実現すると「今回の政権交代によって、ようやく本物の民主主義が日本に現れたということができる。いわば、政権交代によって市民革命が成就したのである」と絶賛した。政権交代後は、鳩山由紀夫内閣の外交政策ブレーンとして靖国神社の代替えとなる国立追悼施設の設立や外国人参政権の推進を行った。また、菅直人総理大臣と民主党政権が進める政治主導システムの確立について意見交換を行うなど、民主党政権のブレーンとして政権を支えた。自民党への政権交代により民主党が野党に下野すると、民主党の「改革創生会議」の議長代行として報告書策定の中心的な役割を担い、民主党の勉強会の講師としても活躍した。ただし、山口は民主党との関わりについて、「政権奪取以降、私が直接かかわることはあまりなくなっていた」と主張しており、「(政権交代を支援してきた自分は)リフォーム詐欺の片棒を担いだ詐欺師の気分で身の置所がない」と発言している。立憲民主党結成後は民主党・民進党時代とは大きく方針転換して、「呉越同舟で大きな野党の塊を作って自民党に対抗するという二大政党制のイメージを捨てるべき時である」と主張している。日本による対韓輸出優遇撤廃に反対する、<声明>「韓国は「敵」なのか」呼びかけ人の1人。
山口二郎の政治家に対する批評 山口は、現在の政治家に対して「自分が正しいと信じ、殻に閉じこもって、他人を説得したり、関係を調整したりすることができない」と評しており、特に自民党の政治家に批判的である。2006年に小泉純一郎について「『心の問題』を持ち出して靖国参拝を正当化したが、これは攻撃的引きこもりともいうべき状態である。ネット右翼たちは、これを見習って、蛸壺に閉じこもりつつ、気にくわない言説への攻撃に精を出す。政治家の跳ね上がりにお株を奪われた右翼は、より過激な闘いを求めて放火事件を起こす」と、小泉純一郎と「ネット右翼」を関係付けて批判したが、小泉純一郎が自民党を離脱して、安倍晋三が総理大臣になると「権力を求めて解散を断行した中曽根、小泉といった政治家の指導者らしさとは雲泥の差である。」「ネトウヨ言説に代表される精神と知性の劣化という時代風潮を、安倍首相こそ象徴している」と批判している。
山口二郎の橋下徹への批判 橋下徹が大阪府知事に就任すると橋下の政治手法が独善的であると批判を始め、2011年大阪市長選挙に橋下が出馬すると、橋下の政治手法を「ファシズム」と断じる『橋下主義(ハシズム)を許すな!』を出版した。橋下の対立候補である平松邦夫の応援演説で「チンピラにいちゃんの野望打ち砕け」「(橋下の政治手法は)上から枠をはめないといけないという貧困な人間観しかない」などと批判した。2012年1月15日、テレビ朝日の報道ステーション SUNDAYで橋下徹大阪市長と直接討論した際、「愛知県犬山市のように立派な人を教育長に選んで、改革のプランを作らせ予算をつけるのが首長の仕事」と持論をぶつけた。橋下は「1700の自治体の一例に過ぎない。しかも犬山市は(後で選挙で方針が変えられ)上手くいっていない」「中身の問題ではなく仕組みの問題。現場でやったことがない学者の意見」と指摘した。これに対し、山口は「学者として観察すれば大体の事は分かる」と反論した。また、橋下が教育最大の問題と定義している調書人事の仕組みを「知らない」と答えた。ほかにも「大阪府は私学助成を切った」と指摘するも「再建の為に一回切って、拡充しました。大阪府が今一番拡充してるんですよ。」と橋下に切り返された。山口の橋下批判について、ニューヨーク州立大学助教授の入山章栄は、山口が政治学者と認識されると、「他のマジメに研究をしている政治学者が甚だ迷惑」と評している。また、東浩紀は「橋下氏との討議の流れで戦略を変えられず、硬直した原理論しか展開できなかった山口二郎氏は力がない」と評している。
ジョンストン (DD-557)の艦歴 ジョンストンは1942年5月6日にワシントン州シアトルのシアトル・タコマ造船所で起工し、命名元の親戚にあたるマリー・S・クリンガー夫人の手で1943年3月25日に進水、1943年10月27日にチェロキー族とクリーク族の血を引くネイティブアメリカンであるアーネスト・E・エヴァンズ少佐の指揮の下就役した。ジョンストンが就役した日、エヴァンズ少佐はジョン・ポール・ジョーンズの言葉を引用して乗員に訓示を行った。こいつは戦う船になろうとしている。私は茨の道を進まんとしているが、共に征くことを望まぬ者は今すぐ降りたほうがよい。"This is going to be a fighting ship. I intend to go in harm's way, and anyone who doesn't want to go along had better get off right now."
ジョンストン (DD-557)の第二次世界大戦 マーシャル諸島の戦いでジョンストンは1944年2月1日にクェゼリン環礁の沿岸を砲撃し、2月17日から22日にかけてエニウェトク環礁を砲撃した。ジョンストンは上陸部隊を直接支援しいくつかの掩蔽壕を破壊、砲火の下で海岸沿いの防壁を確保した。
ジョンストン (DD-557)の伊176撃沈 ソロモン諸島で哨戒任務中だった3月28日、ジョンストンはカロリン諸島カピンガマランギ環礁を砲撃した。海岸沿いの監視塔1棟といくつかの堡塁、トーチカと防空壕を砲撃した。2日後、ジョンストンはブーゲンビル島エンプレス・オーガスタ湾南東のモリリカ川河口部へ入り、その地域に激しい砲撃を浴びせた。その後、ブーゲンビル島沖合で対潜哨戒任務に加わった。5月16日、ブカ島北方にて哨戒中の駆逐艦フランクス(USS Franks, DD-554)、ハガード(USS Haggard, DD-555)、ジョンストンは、哨戒機から「敵潜水艦発見」の報告をうけ、対潜掃蕩をおこなう。これはブカ島輸送(もぐら輸送)のため行動中の日本海軍の潜水艦伊号第百七十六潜水艦であった。各艦は協同して爆雷攻撃を実施、翌朝になり浮遊物を発見した。これが伊176潜水艦の最期であったと認定されている。
ジョンストン (DD-557)のグアムの戦い ソロモン諸島での3か月の哨戒任務の後、ジョンストンはグアムの戦いに参加する準備のためマーシャル諸島へ向かった。7月21日、グアム島砲撃のため戦艦ペンシルバニア (USS Pennsylvania, BB-38)と会合。ジョンストンは7月29日までに4,000発以上の砲弾を発射した。ジョンストンの正確な砲撃は敵の重砲陣地を沈黙させ、多くの掩蔽壕や建物を破壊した。ジョンストンは続いてペリリューの戦いで航空支援を行う護衛空母を護衛した。
ジョンストン (DD-557)のフィリピンの戦い アドミラルティ諸島ゼーアドラー湾で補給の後、ジョンストンはレイテ島の戦いでレイテ島とレイテ湾上空の制空権を確保する護衛空母群を護衛するために10月12日に出撃した。10月20日からは上陸部隊への砲撃支援を行ったほか、物資輸送を行う敵の車列を撃破した。ジョンストンはクリフトン・スプレイグ少将の旗艦ファンショー・ベイ (USS Fanshaw Bay, CVE-70)以下護衛空母6隻、駆逐艦2隻、護衛駆逐艦4隻と共に第77.4.3任務群(通称「タフィ3」)を構成した。タフィ3はトーマス・スプレイグ少将の第77.4任務集団に属する3つの護衛空母部隊の1つであった。
ジョンストン (DD-557)のサマール島沖海戦 1944年10月25日の夜明け後、上空警戒機の1機が栗田健男中将率いる日本の中央艦隊が接近中であるという警報を発した。「タフィ3」に真っすぐ向かっていたのは、第二艦隊司令長官栗田健男海軍中将(旗艦大和)が指揮する第一遊撃部隊(通称栗田艦隊または栗田部隊 )であった。この日の第一遊撃部隊は、戦艦4隻(第一戦隊〈大和、長門〉、第三戦隊〈金剛、榛名〉)、重巡洋艦6隻(第五戦隊〈羽黒、鳥海〉、第七戦隊〈熊野、鈴谷、利根、筑摩〉)、二個水雷戦隊(第二水雷戦隊〔軽巡洋艦〈能代〉、第2駆逐隊〈早霜、秋霜〉、第31駆逐隊〈岸波、沖波〉、第32駆逐隊〈浜波、藤波〉、島風型駆逐艦〈島風〉〕、第十戦隊〔軽巡洋艦〈矢矧〉、第17駆逐隊〈浦風、磯風、雪風〉、第4駆逐隊〈野分〉〕)という合計23隻の艦隊編成であった。スプレイグ少将は「どの艦にせよ、5分間の大口径砲をくらって生き延びる艦はいそうになかった」と回想する。ジョンストンの砲術士官であったロバート・C・ヘーゲン大尉は後に「我々は投石器を持たない少年ダビデのような気分だった」と述べている。ジョンストンをふくめ7隻の駆逐艦は米軍護衛空母6隻と日本艦隊の間をジグザグ航行しつつ、護衛空母を隠すため2,500ヤード(2,300m)以上前方に煙幕を展開した。我々が煙幕を張り始めても、日本側は我々に砲弾を放ち始め、ジョンストンは水柱の間をジグザグ航行しなければならなかった…我々は最初に煙幕を張り、最初に発砲し、最初に魚雷を放った駆逐艦だった…栗田長官ふくめ第一遊撃部隊は、目標が低速のアメリカ軍護衛空母群だったにもかかわらず、敵を高速を発揮する正規空母機動部隊と誤認した。まず戦艦で射撃を実施、高速の巡洋艦を突出させて敵空母に有効な打撃をあたえ、第二水雷戦隊と第十戦隊の投入は見合わせることにした。米空母群はスコールに逃げ込み、警戒の駆逐艦は煙幕を展開して退却を掩護した。米空母群が見えなくなったので、栗田艦隊の戦艦群はアメリカ側駆逐艦(日本側は巡洋艦と艦隊型駆逐艦と誤認)に目標を定めた。最初の20分間、敵の大型艦が持つ大口径砲はジョンストンの5インチ砲の射程外から攻撃していたため反撃できなかった。ジョンストンにむけ主砲弾を放ったのは、大和と長門と思われる。命令を待つことなく、エヴァンズ中佐は陣形から離れると攻撃をかけるべく栗田艦隊にむけ真っすぐ突き進むように命じた。東側にはさらに3隻の巡洋艦と数隻の駆逐艦が現れた。距離が10マイル内に縮まるとすぐに、ジョンストンは一番近くにいた重巡洋艦熊野を砲撃した。また重巡洋艦羽黒もジョンストンかと思われる艦から砲撃された。羽黒側は「敵巡洋艦、敵駆逐艦」(駆逐艦と護衛駆逐艦の誤認)と交戦し、駆逐艦に対して0715に距離1万2100mで三斉射を放ち、命中弾を観測したが煙幕で見失った。第七戦隊司令官白石萬隆少将座乗の熊野は煙幕を出入りする巡洋艦と駆逐艦(ジョンストン等の誤認)を砲撃しようとしたが、効果的な射撃はできなかった。魚雷の射程内に入り込む5分間、ジョンストンは200発以上の弾を敵に発射し、それから水雷士官ジャック・K・ベックデル大尉の指揮の下で魚雷攻撃を敢行する。ジョンストンは10本の魚雷を全て発射すると、反転し濃い煙幕の向こうへ退避した。大和は主砲と副砲を併用して「〇七二五敵大巡一隻撃沈」を記録するが、これは煙幕に入ったジョンストンを「巡洋艦撃沈」と誤認したと思われる。午前7時24分、ジョンストンの発射した魚雷1本が熊野の艦首部分に命中した。艦首を失った熊野は最大速力14ノットとなり、落伍した。第七戦隊司令官は旗艦を熊野から重巡鈴谷に変更した。健在の重巡4隻(第五戦隊〈羽黒、鳥海〉、第七戦隊〈筑摩、利根〉)はアメリカ軍駆逐艦や空襲に対処しつつ、ひきつづき米空母群を追撃した。第五戦隊は大型巡洋艦(ジョンストンと推定)と交戦しつつ米空母群を追撃した。この頃、ジョンストンには大和主砲46㎝砲弾と大和副砲の15.5㎝砲弾、あるいは羽黒の20㎝砲弾がふりそそいでいた。6インチ(約16㎝)砲弾が後部煙突に1発、艦橋に2発が命中し、続いて戦艦金剛からの14インチ(36㎝)砲弾3発も被弾した。ジョンストンの先任将校は「まるで子犬がトラックにひきつぶされるようであった」と回想している。日本側の砲弾は徹甲弾だったので駆逐艦の薄い装甲に命中しても突き抜けてしまい爆発しなかったが、ジョンストンも「損傷なし」というわけにはいかなかった。14インチ砲弾は左舷の機関歯車とタービン、後部ボイラーにそれぞれ命中し左舷推進軸が停止した。この損傷により速力は17ノットに低下した。さらに操舵機と5インチ砲3基への動力が失われ、ジャイロコンパスは役に立たなくなった。低く垂れこめたスコールが現れたため、ジョンストンは逃げ込んで数分間応急修理と復旧作業を行った。艦橋内は死傷者が横たわり血の海となっていた。エヴァンズ中佐は破片によって上半身が傷だらけになり、さらに左手の指2本を失ったが、傷口を自らハンカチで覆うと駆け付けた救護班に対し、自身に構わず他の負傷者を看るように命じ指揮を継続した。7時50分、スプレイグ少将は駆逐艦に対して魚雷攻撃を命じた。ジョンストンは機関に損傷を受けていたが、他の駆逐艦を砲撃で援護しつづけた。煙幕から現れた時、危うくヒーアマン (USS Heermann, DD-532)と衝突しそうになった。8時20分、煙幕から抜け出たジョンストンは左舷方向わずか7,000ヤード(6,400m)の距離に金剛を発見し、それに向かって45発の5インチ砲弾を浴びせかけ上部構造物に複数の命中を記録した。金剛からの主砲による反撃は全て外れた。つづいてジョンストンは敵巡洋艦に砲撃されている護衛空母ガンビア・ベイ (USS Gambier Bay, CVE-73)を確認し、砲撃をガンビア・ベイから遠ざけるべく巡洋艦に攻撃をかけ、重巡洋艦に対して4発の命中を記録した。米空母群に接近した第五戦隊(羽黒、鳥海)の周辺には着色された巨大な水柱が立ち、この頃に被弾した鳥海は落伍した。さらに、ジョンストンは日本の水雷戦隊が護衛空母群へ急速に接近しつつあるのを視認し、阻止を試みる。この水雷戦隊は、第十戦隊司令官木村進少将が指揮する軽巡洋艦矢矧(第十戦隊旗艦)と第17駆逐隊司令谷井保大佐指揮下の陽炎型駆逐艦4隻(浦風、磯風、雪風、野分)であった。0848、木村司令官は「空母二隻 我ヨリノ方位二一〇度二〇,〇〇〇米 我空母二隻ニ突撃ス」と報告し、各艦に魚雷戦の準備を命じた。第十戦隊が魚雷を発射する前、ジョンストンは先頭の軽巡洋艦矢矧と交戦し12発の命中弾を観測して進路を妨害すると、後続する陽炎型駆逐艦浦風(第17駆逐隊司令駆逐艦)と戦って命中弾を観測した。矢矧はジョンストンに対してまず8㎝高角砲を発射し、続いてジョンストンの行動を魚雷発射とみて右舷側に回避行動をとった。第十戦隊の右側への回避行動は第二水雷戦隊(司令官早川幹夫少将)の進撃を妨げる結果となり、二水戦は空母群への射点につくことができなくなった。前述のように、ジョンストンは既に魚雷を撃ち尽くしていたが第十戦隊(矢矧)は「ジョンストンが魚雷を発射した」と誤認したのである。旗艦が回避行動をとったのをみて、後続の第17駆逐隊も矢矧同様に右側へ回避行動をとった。態勢を立て直した矢矧は0905に魚雷7本を発射、つづいて敵駆逐艦に砲撃をくわえ0900に爆発し0915に沈没したと記録している。この駆逐艦はサミュエル・B・ロバーツ (USS Samuel B. Roberts, DE-413)であった。交戦中、矢矧の右舷士官室にジョンストンの主砲1発が命中した。第17駆逐隊は0915から0923までに距離1万メートルで魚雷約20本(浦風4、磯風8、雪風4、野分推定4)を発射したが、命中しないか、艦砲射撃や艦載機の銃撃で爆破された。第十戦隊は「エンタープライズ型空母撃沈1、沈没確実1、駆逐艦撃沈3」を報告した。ジョンストンは被弾によって2番砲が破壊され、3番砲直下にも命中弾を受けた。動力が失われているため揚弾機は使えず、1発あたり54ポンド(24.5kg)ある砲弾を乗員が弾薬庫から人力で担ぎ上げた。艦橋は40mm機関砲用即応弾庫への被弾によってもたらされた火災と爆発によって惨状をさらしていた。ジョンストンの艦尾に移り指揮を継続していたエヴァンズ中佐は、手動で舵を動かす乗員たちへ開け放ったハッチ越しに命令を叫んでいた。主砲塔の一つでは、一人の砲手が「もっと砲弾を!もっと砲弾を!」と叫んでいた。いまだジョンストンは、生き残っている5隻の護衛空母に日本の巡洋艦と駆逐艦が到達するのを防ぐため戦っていた。奮闘するジョンストンにも9時30分までには最期の時が訪れようとしていた。ヒーアマンは護衛空母を守りながら南へ撤退し、護衛空母ガンビア・ベイと駆逐艦ホーエル (USS Hoel, DD-533)の2隻は既に海面上になく、サミュエル・B・ロバーツは矢矧にとどめをさされて沈没した。米空母群に魚雷を発射したあとの第十戦隊は、再びジョンストンに狙いを定めた。矢矧は15㎝主砲を撃ちこんだ。0930の時点でジョンストンは沈没しかかっており、乗組員の一部は脱出しつつあった。矢矧はジョンストンを砲撃したあと、麾下駆逐艦にジョンストンを砲撃で処分するよう命じた。第17駆逐隊(浦風、磯風、雪風、野分)はジョンストンを包囲すると、集中砲火を浴びせた。同時刻、栗田部隊から落伍していた重巡洋艦鈴谷も距離18km先に日本側水雷戦隊(第十戦隊)と米軍防空巡洋艦らしき1隻との交戦を目撃、12.4kmに接近して20㎝砲40発を発射した。鈴谷側は、至近弾により目標の傾斜が増大するのを確認した。9時45分にエヴァンズ艦長は総員退艦を令し、10時10分にジョンストンは転覆した。一隻の日本の駆逐艦が接近し、炎上するジョンストンの艦体に止めの砲撃を加えた。ジョンストンの生存者は、その駆逐艦が爆雷や機銃で彼らを殺傷するのではないかと心配し、実際に艦橋にいる艦長が対空砲の方を向いて何かを指示するのが見えた。だが生存者の予想に反し、艦長は漂流する生存者に向き直ると直立不動の姿勢で彼らに敬礼を送った。また、その駆逐艦が通り過ぎる際に1人の乗員が何かを投げていった。誰かが手榴弾だと叫んだが、生存者の一人であったクリント・カーター(5番砲班長)が漂うその物体に近寄ってみたところアーカンソー州で製造されたトマトの缶詰であり、3年前の日米開戦直前に日本へ輸出されたものであった。日本側の証言にも、駆逐艦雪風の寺内正道艦長(中佐)が咄嗟にジョンストンに対し発砲した機銃手(照準調整のため2射したのみで命中せず)に向け「酷いことをするな」と怒鳴り、攻撃中止を命じたことが伝えられている。雪風艦橋にいた柴田正(雪風砲術長)は「艦橋にいた我々は敵勇者の最後を弔って挙手の礼を捧げた」と回想している。雪風はジョンストンの兵が救命ボートを下しているすぐ傍をすれ違い、田口康生(雪風航海長)は「お互いの顔まで見えた」と語った。そして多くのジョンストンの生存者が生涯忘れられない光景を目にした。日本の駆逐艦の艦橋で、ひとりの士官が直前まで仇敵だったジョンストンが波間に沈んでいくのをじっと見ていた。その誇り高き船が姿を消した時、この日本の士官は手を帽子のひさしにあてて直立の姿勢をとった. . .敬礼したのだ。"And many of Johnston’s survivors then witnessed something they would never forget. There on the bridge-wing of the Japanese destroyer, an officer stood watching as Johnston, his mortal enemy of just moments before, slipped beneath the waves. As the noble ship went down, this Japanese officer lifted a hand to the visor of his cap and stood motionless for a moment . . . salutin." — トマス・J・カトラー『The Battle of Leyte Gulf 23-26 October 1944』第17駆逐隊をふくめ日本艦隊は去っていったものの、2隻の救命ボートと2隻の筏に分乗したジョンストンの生存者は長時間の過酷な漂流を強いられることになった。友軍のアヴェンジャー雷撃機が彼らを発見したものの、通報した位置が間違っていたため救助隊が全く異なる場所を捜索していたからであった。漂流中、ジョンストンの生存者は鮫の襲撃や衰弱、体温より低い夜間の海水温による低体温症といった脅威に耐えねばならず、途中で力尽きる者もいた。自軍の生存者を探す日本の駆逐艦が接近してきたことが一度あったが、日本軍の捕虜収容所における厳しい扱いの噂を聞いていたため息をひそめてやり過ごした。生き残った者はジョンストンの沈没から3日後の早朝に歩兵揚陸艇(LCI)に発見され、救助のうえで病院船に収容された。ジョンストンの全乗員327名のうち生還したものは141名だった。186名が戦死した。そのうち約50名は戦闘によって命を落とし、45名が負傷により漂流中に死亡、艦長エヴァンズ中佐を含む残り92名は退艦したものの行方不明となった。
ジョンストン (DD-557)のその後 ジョンストンは生涯で合計6個の従軍星章を受章し、ジョンストンを含む第77.4.3任務群はサマール島沖における勇敢な戦いから殊勲部隊章を受章した。また戦死したエヴァンズ中佐は名誉勲章を授けられた。チェスター・ニミッツ提督は、著書『ニミッツの太平洋海戦史』でジョンストンを含めた米軍駆逐艦を以下のように評している。およそ古今の海戦史上、スプレーグ隊のちっぽけな護衛隊の各艦のように、強大な相手に立ち向かって一歩も退かず、勇敢に英雄的に、その任務を完全に果たした海軍艦艇は断じてないであろう。 — チェスター・ニミッツ、C・W・ニミッツ、E・B・ポッター/実松譲、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』342ページ後にギアリング級駆逐艦の1隻がジョンストン (USS Johnston, DD-821)と名付けられ、アメリカ海軍を退役後は台湾海軍の正陽 (DD-928) として2003年まで使用されたほか、ディーレイ級護衛駆逐艦エヴァンズ (USS Evans, DE-1023)は艦長のエヴァンズ中佐に因み命名された。
上井草の地理 杉並区の北部に位置する。町域の北部は西武新宿線を境に井草に、南部は早稲田通りを境に今川と接している。東部は環八通りを境に下井草に接している(以上の町名はいずれも杉並区)。また、町域西部は練馬区関町南、上石神井南町、下石神井に接している。かつては町域内をほぼ東西に井草川が流れていたが、現在は暗渠化され、河道上を利用した遊歩道が整備されている。町域内の多くは住宅地として利用される。町域内にはスポーツ施設として上井草スポーツセンターが置かれている。ここは、かつての上井草球場であり、戦前のプロ野球団の東京セネターズの本拠地として知られていたが、後に上井草給水所配水池となり廃止された。配水池の跡地に建つ上井草スポーツセンターに向かう形で早稲田大学の上井草グラウンドがある。このグラウンドは早稲田大学のラグビー部が使用しているグラウンドでもある(2002年に東伏見より移転)。アニメ制作会社のサンライズがある事から、機動戦士ガンダムを町おこしとして使用している(上井草駅の発車メロディがガンダムの主題歌、駅前のガンダムの銅像、ガンダムのスタンプラリーイベント、商店街のガンダムののぼり、店舗のシャッターにガンダムのイラストが描いてあるなど)。
上井草の江戸時代 江戸時代の多摩郡上井草村の流れを汲む地名である。江戸時代初期に井草村が分割され、上井草村と下井草村が成立した。ただし、江戸時代の「上井草村」の範囲は現在の「上井草」の範囲とは異なっており、より広い範囲をさした。現在の今川、善福寺、桃井、上荻四丁目、上井草の西部(三丁目から四丁目)、西荻北の一部(三丁目から五丁目)が、かつての上井草村である。現在の上井草の東部(一丁目・二丁目)は、江戸時代には下井草村の一部であった。江戸時代には上井草村の別名として「遅野井(おそのい)村」という名称も使われていた。『武蔵名勝図会』によれば、もともと「尾園」「小園」という地名があり、土地の人々が用水に用いる沼地を「尾園井」と呼んだことから、地名にも「井」の字を加えたという。善福寺公園にある善福寺池は「遅野井」と呼ばれ、井草八幡宮は遅野井八幡宮と呼ばれていた。
上井草の近代 1889年の町村制施行により、上井草村・下井草村・上荻窪村・下荻窪村が合併し、東多摩郡井荻村となった。1896年に東多摩郡は豊多摩郡になり、井荻村は1926年に井荻町となる。1927年には川越鉄道村山線(現・西武新宿線)が開通し、上井草駅が開業する。1932年、豊多摩郡井荻町は東京市に編入され、杉並区の一部となる。
上井草の交通 町域内には西武新宿線上井草駅が置かれている。東部では井荻駅、西部では上石神井駅(練馬区)が近い。
菅澤優衣香の来歴 3歳上の兄・孝也の影響で幼稚園年中よりサッカーを始めた。高校は福島県立富岡高等学校へと通い、JFAアカデミー福島に所属していた。2008年シーズンは強化指定選手としてアルビレックス新潟レディースでプレーしており、翌シーズンより正式に入団した。2009年、U-19日本代表候補に選ばれていたが、AFC U-19女子選手権2009には膝の怪我から出場を辞退した。2009年12月、サッカー日本女子代表のチリ遠征のメンバーに初選出された。アルビレックス新潟レディースからは上尾野辺めぐみと川村優理が同じく選ばれた。2010年にはU-20女子ワールドカップに出場した。2012年、サッカー日本女子代表、アルガルヴェ・カップのメンバーに選出され、デンマーク戦で代表初ゴールを決めた。2013年よりジェフユナイテッド市原・千葉レディースへ移籍が決まった。2017年より、浦和レッドダイヤモンズ・レディースへ移籍加入。
4400 未知からの生還者の物語 ある日突然何者かに連れ去られ、ある日突然光る球体と共に返された4400人の失踪者。「4400」と呼ばれるようになった彼らは、不思議な能力を備えており、社会に何らかの影響(作中では波及効果と呼ばれている)を少なからず与えていく。事件の謎を「4400」の1人が身内であるトムと相棒のダイアナの2人の捜査官を中心に描く。「4400」のそれぞれは、この60年の間様々な時代から連れ去られていったが、彼らは当時の年齢から一切の年を重ねておらず、また失踪中の記憶も一切保持していない。シーズン1はエミー賞の作品賞候補にあがった(ただし、話数が少ないのでミニシリーズ部門)。主題歌はアマンダ・アビザイドの「A Place in Time」。また、当シリーズは番組改編のために、ドラマ『デッド・ゾーン』と同時に打ち切りが決まった。復活を願い、インターネットでの署名や大量のひまわりの種(ドラマ内のケビン・バーコフの大好物)を製作局に送りつける等の活動が展開されたが、効果はなくTVシリーズはシーズン4で終了した。未完となった物語は小説で完結されることとなり、2009年7月に「THE 4400 Welcome to Promise City」(シーズン4のフィナーレからの続き)、同年10月に「THE 4400 Promises Broken」(グランド・フィナーレ)が出版された。日本語の翻訳版は発行されていない。(2013年現在)タイトルの「4400」は生還者の数が4400人と言う設定が由来。
4400 未知からの生還者の日本版 日本ではWOWOWでシーズン1が2005年のゴールデンウィークの三連休(5月3日から5月5日)に三夜連続で1日2話ずつ放送されたのを皮切りに、シーズン2は2006年、シーズン3は2007年、シーズン4は2008年に放送された。また地上波では、2007年12月5日から朝日放送で放送開始。以後シーズン1を中心に多くの局で放送されている。吹替えキャストと各エピソードの邦題はそれぞれ上記の登場人物とエピソードリストを参照。
堤あこの人物 1965年熊本県熊本市生まれ。Brooks Institute卒業。
Stand-Up! Recordsの概要 2014年2月、MAGES.代表兼プロデューサーの志倉千代丸によるアイドルの活動と将来を全面的にバックアップすることをコンセプトとし、アイドル卒業後はMAGES.関連企業への就職をサポートした新アイドルプロジェクト「Stand-Up! Project」と同時に立ち上げられた、ゲームやアニメなどのタイアップを中心に真の2.5次元アイドルを送り出していく方針のアイドルレーベル。
Stand-Up! RecordsのStand-Up! Project 『Stand-Up! Project』立ち上げに際し掲げられたコンセプトは「就職出来るアイドル」。新ユニット結成の全国オーディションや、新レーベル設立、さらに将来アイドルとして活躍し、卒業を迎えたとしてもMAGES.の関連企業に就職できる、というこれまでにないバックアップ体制が特徴的な試みとなっている。過去にカフェ&レストランチェーン『アフィリアグループ』からアイドルユニット「アフィリア・サーガ」を生み出し、アイドル育成カフェ『AKIHABARAバックステージpass』をプロデュースしてきたMAGES.が、アイドルの将来の不安を少しでも減らしたいという願いのもと、さらに前へと踏み出したプロジェクト。
クリンゴン人の身体 クリンゴン人の身体は男女共一般的に大きく、堅牢な骨格と発達した筋肉に覆われている。女性は乳房の発達も地球人と比べ大きい。肌は浅黒く、男性は必ず髭を生やしている。人間でいうところの思春期をジャクタラといい精神が不安定になるとともに毛髪の伸びが早くなる。また頭蓋が非常に発達しており、額の波状隆起が特徴的(しばしば、「額にカブトガニをつけたような…」と例えられる)。これは非常に硬く、戦闘時における脳へのダメージを軽減させるための役に立っている。クリンゴンの戦士同士のスキンシップとして、この頭部の隆起をぶつけ合うという行為がある。戦闘種族としての身体特徴は体内の主要な臓器にも見られる。生命維持に必要な主要臓器は複数あり、戦闘中に負傷しても行動し続ける事ができる。ただし急所を刺されたりなどした場合、即死ないしそれに近い短時間で死亡することもある。また、意味のない生よりは死を尊ぶ倫理観を持つために、麻痺・重症患者の治療は行われず(患者自身が死を望むことも多い)、また、死体は単なる精神の抜け殻だとして見向きもしないために、解剖学が発達せず、詳しい生理は分かっていない。クリンゴンのセックスは男女両者が激しく興奮し、お互いの暴力衝動をぶつけ合うような、流血を伴う凄まじいものである。他種族の女性とこれを行った場合、相手が負傷することもある。『スタートレック:ヴォイジャー (VOY)』第14話「二人のトレス」の劇中の台詞によると、女性は非常に性欲が強い。
クリンゴン人のクリンゴン人の変異 『TOS』に登場したクリンゴン人のメイクは地球人とあまり変わらないもので、映画『スタートレック (TMP)』以降とは全く違う。この「真の」原因はもちろん当時の特殊メイク技術の限界とTOSの低予算が原因である。『スタートレック:ディープ・スペース・ナイン (DS9)』第39話「血の誓い」では、TOSに登場したクリンゴン人と同一人物が「TMP型」メイクで現れ、この考えを補強した。『DS9』第104話「伝説の時空へ」では、この違いが登場人物により語られ、作中世界に実際に存在する違いであることが明らかになった。その原因については、ウォーフが「外部のものには明かさないことになっている」と語った。オブライエンは「遺伝子工学」、ベシアは「ウイルスの突然変異」と推測を述べている。『スタートレック:エンタープライズ (ENT)』には「TMP型」のクリンゴン人が登場し、「TOS型」が23世紀に限られていることが明らかになった。そして第91話「クリンゴンの苦境」と第92話「優生クリンゴン」で、全ての経緯が明らかになった。それによると、地球で開発された優生人類のDNAは秘密裏に保管されていたのだが、遺伝子工学の権威であるエリック・スン博士によって盗み出され、新たな優生人類が誕生していた。その事件自体は、エンタープライズの活躍によって収束し、新たに作られた優生人類たちは死に絶えた。しかしスン博士の優生人達が盗んだバード・オブ・プレイの残骸から、優生人類の受精卵を発見したクリンゴンは、密かに優生クリンゴンの開発に着手した。だが予想外に強い遺伝子は、クリンゴンの遺伝子に悪影響を与えてしまった。すなわち額の隆起が消滅し、外観が地球人そっくりになってしまったのだ。そればかりか精神的にも地球人に近くなり、戦闘に恐怖を感じるようになるなどした。さらに被験者がヴォディア風邪に感染してしまい、優生遺伝子がウィルスとなってしまった。このウィルスは空気感染するため、瞬く間にクリンゴン全体を襲う脅威となった。当初クリンゴンは感染者を抹殺しようとしたが、結局それでは完全に防ぐことができず、むしろエンタープライズやフロックスの協力で作成された抗ウィルス剤の使用が最適と判断された。この抗ウィルス剤は、命を救うことはできるが、変化は止められなかった。その結果100年以上に渡って、地球人と外観の似ているクリンゴンが一般的となった。つまり後にオブライエンとベシアが出した推測は、両方とも当たっていた。『スタートレック:ディスカバリー』においては、TMP型ともTOS型とも異なる外見となっている。
クリンゴン人の精神 クリンゴン人は好戦的な戦闘種族である。戦うこと自体に意味を見出しており、「何のために戦うか」ということに関心がない。クリンゴン人戦士の誰もが名誉の戦死で死ぬことを理想としており、良い戦いができそうな時に言う「今日は死ぬには良い日だ」や「スト・ヴォ・コーで会おう」という言い回しが存在する(逆に「今日は死ぬにはあまり良くない日だ」という言い回しも存在する)。そのため戦えない者は生きる資格が無いとされ、負傷などで戦えなくなった者は、儀礼的な名誉の戦死として自決することが良しとされ、その自殺の儀式専用の短剣、香料も存在する。敵を倒す事はもちろん、上官の能力がその地位にふさわしくなければ決闘を申し込み(一方的に殺害したり追放することもある)、殺して自分が取って代わる事も日常的に行われている。そのため、捕虜になったり病死する事は、クリンゴン人として不名誉な事であり、病死や捕虜になると「あの役立たずめが」「名誉の戦死も出来無い臆病者」「おめおめと生きながらえているクズ」「屍同然の恥晒し」等と蔑まれ、たとえそれが父親や先祖・身内であっても“一族の恥”として罵倒する。ゆえに捕虜になったクリンゴン人は帰国することもできず、収容所などに一生居続ける例もある(TNG第142話「バースライト(前編)」など。捕虜となった理由は考慮されない)。ただし、戦時下で捕虜収容所を脱走した上で敵と戦い続けた場合には不名誉という扱いにはならない(DS9第113話「敗れざる者(後編)」)。しかし、最大の不名誉は裏切りである。名誉を重んじる戦士にとって裏切りはあってはならないことであり、これが発覚すれば本人だけでなく一族が“裏切者の一族”の汚名を受け、侮蔑の対象となる。クリンゴン人戦士は戦闘や精神修練により、自己を鍛錬し、より高みを目指すことを本分とする。これは名誉の戦死を遂げたものだけが行けると言われている、スト・ヴォ・コー(Sto-Vo-Kor)に行くことを精神的拠り所とするためである。クリンゴン戦士は死した戦友を葬る際、その両目を見開かせ、自らの眼で覗き込み、天に向かって雄たけびを上げる儀式を行う。これは、「今、戦士が逝く」ことをカーレスに伝える意味を持つ。劇中ではガウロンを倒したウォーフがこの儀式を行っている。死者の魂は「死者の船(船長はコーター qotar)」と呼ばれる大船に乗せられて激流(同様の伝承としてはギリシア神話のステュクスや仏教の三途の川等がある)を越え、勇者として死んだ者は「スト・ヴォ・コー (英: Sto-Vo-Kor、クリンゴン語: Suto'vo'qor)」へ、そうでない者はフェックラー (veqlargh) が支配する「グレトール (ghe'tor)」へ送られる。激流には怪物が住んでおり、死者の船から飛び降りて逃げようとした者はこの怪物に食われてしまう。なお、たとえ自身に不名誉がなくとも身内の不名誉によってグレトールへ送られることもあり、不名誉な死を遂げた者でも、その家族や友人が代わりに戦い、勝利を死者に捧げればスト・ヴォ・コーへ行けるようになる。どちらへ行くかの決定はベラナ・トレスの母が死後相当期間が経過してから娘の不名誉のためグレトールへ送られそうになるなど、死後即決ではない。クリンゴンでなくとも、クリンゴンの家族として名誉ある死を遂げた場合、スト・ヴォ・コーへ行くものとされる。劇中ではウォーフの妻ジャッジア・ダックスをスト・ヴォ・コーへ送るためにウォーフたちがドミニオンの造船所を破壊する任務に志願し、「スト・ヴォ・コーの門を照らす盛大な花火になる、それでジャッジアを受け入れてもらえる」と語った。またダハールマスター・コールはバード・オブ・プレイ・ニンタオの指揮官としてジェムハダー艦十隻を足止めする戦いに赴く際、「わしが死んだらお前の妻を探そう」とウォーフに言っている。死者の魂をスト・ヴォ・コーへ受け入れてもらうための詠唱も存在し、ウォーフはドミニオンの造船所破壊に成功した後、これを唱えた。またグレトールにはフェックラーの支配下で50の悪魔が存在し、クリンゴン人はハネムーンの儀式において彼らと対面するとされている。フェックラーはTNG87話「悪魔の契約」において姿が描写された(ピカードが出したホログラムであるため、クリンゴンの神話におけるフェックラーの正しい姿であるかどうかは不明)。
クリンゴン人の文化 クリンゴンの文化は名誉を重んじ、虚言や臆病などを良しとしない。情熱的であり、口論、決闘は戦争中に味方同士でも発生する日常的な出来事であり、命を懸けた決闘を挑む際には裏拳で相手の顔面を殴るなど、攻撃的な特性を持つ。相手を殴り倒す、あるいは殴り倒される行為は離婚する時、自分が奪い取った指揮官の座を奪った相手に返すときにも行われる。同じクリンゴン戦士に対してはおおらかな一面もあり、戦争中酒場で敵味方のクリンゴンが出会った時には、戦いを忘れ共に飲み、騒ぐなどの姿も見せる。建国の祖・カーレスについて学ぶ事も重要で、カーレスにまつわる故事や伝説も沢山あるようで、ウォーフが息子のアレキサンダーによくカーレスの故事を引き出して教育しようとしていた。戦闘偏重の社会風潮には批判的な者もおり、判事であったウォーフの祖父は若者の誰もが戦士になりたがる風潮を苦々しく思う心情を口にしている。なお、TOSで登場したクリンゴン人の男性は、いずれも名前が「K-」で始まっていたが、この「伝統」はTNGのウォーフ以降なかったことにされている。
クリンゴン人の娯楽 クリンゴン人の主な娯楽は鉄の輪を転がしその中心を短槍で狙うゲーム「キャダック」、戦闘訓練と精神修養を兼ねた「モクバラ」という闘技や「バトラフ」(戦闘スタイル参照)を用いた演武、狩猟、歌などが有名である。このほかダクタフを卓に突き立てて行う腕相撲なども知られている(敗北すれば手の甲を貫かれる。『TNG』第102話「クリンゴン帝国の危機」(後編)に登場)が、それらは酒宴とは切っても切り離せない性格を持つ。死者を弔う際にも酒と歌は欠かせない(『DS9』第157話「今一度あの雄姿を」においてはこの弔いの歌がエンディングに用いられている)。その一方、茶道(毒を飲む)や成人の儀式、成人から一定期間を経過したことを祝う儀式(同左)など儀礼的な“静”の文化も持つ。バトラフを用いた武術大会があるようで、ウォーフはそこで優勝している。またモクバラも嗜む。
クリンゴン人の歌 愛憎や歴史的英雄をストレートに歌い上げるオペラをはじめとする歌はクリンゴン文化の精髄ともいえる存在である。歌は「勝利の歌」、「カルハヤへの道」の儀式のひとつにおいて歌われる歌、ダハールマスター・コールに捧げられた名誉ある戦死を祝した歌など儀式にも欠かせない。勝利の歌は「バースライト(後編)」において、「天に火が点り 戦いが始まった」と一部の訳がトクの口から語られ「バダー、トゥボー」から始まる一節がクリンゴンたちによって歌われた。ウォーフはこのクリンゴンのオペラを愛好し、ノーグに所有する音楽ソフトの調整を依頼した。
クリンゴン人の料理 クリンゴン料理は新鮮な素材を使った物が多く、狩りの獲物をそのまま食卓に投げ出し食することすらある。ガーフ(ガーグ, ghargh)と呼ばれる大型のミミズに似た生き物に至っては生きたままが最良とされる。ガーフには50種類以上あるらしいが、他種族が違いを見抜くのは難しい。ロケグの血のパイ (ro'qegh'Iwchab) など火を通す料理もある。人間には毒性があり食べられないものも多い。レプリケーターでは生き物や毒は生成できない為、クリンゴン料理を振舞う店は珍しがられ、店主は料理とともにオペラも聞かせてくれる。飲みすぎるとクリンゴン人ですら酔いつぶれるブラッドワイン ('Iw HIq) という極めて強い酒が好まれる。酒にはこのほかクリンゴン・ファイアワインなどがある。クリンゴンのコーヒーであるラクタジーノ (ra'taj) は、多くの他種族に親しまれているポピュラーな飲料である。
クリンゴン人の言語 劇中で彼らが使用するクリンゴン語の発音は戦闘種族らしくアクセントが極端で、挨拶の語は日本語に翻訳すると「何が欲しい?」という意味になるなど表現も極端である。士官など教養のある者は英語も話す。部下に聞かれたくない話をする際に英語を使用する士官も存在する。
クリンゴン人の政治 クリンゴンは帝国制を敷く封建的国家であるが、宰相を頂点とするクリンゴン最高評議会及び元老院が政治・軍事に及ぶ帝国の方針の全てを決める。先の虚言や臆病など、国家や評議会などの名誉を著しく傷つけた者には制裁が加えられる。しかし、有力な一族に対しては十分に機能しないことも多々ある。一応諜報部も存在するが、ロミュランのタルシアーやカーデシアのオブシディアン・オーダーと比べると、民族性からか非常に小規模なもので、特に組織名も無い。
クリンゴン人の宰相 宰相は最高評議会の評議員から選任される、政治・軍事両面における帝国の最高指導者である。その権限は強大であり、対立する一族の領地の没収などを独断で決定できるほどである。任期についての規定はなく、終身在位制である。クリンゴンの民族性から、多くの場合暗殺・決闘の敗北などによる前任者の死亡によって交代する。またその際、内戦が発生することも少なくない。
クリンゴン人の評議員 評議員は有力な一族から選ばれる。士官学校入学を希望する者に対する承認を行うなどの権限を有する。
クリンゴン人の歴史 クリンゴン帝国は地球暦で9世紀頃、独裁者モローを倒した英雄カーレスによって建国された。14世紀頃には異星人種族ハーク(Hur'q, クリンゴン語でよそ者の意味)の侵略を受け、カーレスの剣が奪われる。2069年から2369年まで皇帝は空位となり、宰相が最高評議会を束ねて帝国を統治した。地球人と初めて接触したのは22世紀であり、2151年に地球人が初めて訪れる。23世紀には惑星連邦と激しい対立状態にあった。劇中ではTOS第27話「クリンゴン帝国の侵略」において初めて登場。その登場した矢先から連邦との和平交渉が決裂し、両国は全面戦争の危機に突入する。が、神にも等しい超絶的な力を持つオルガニア人の介入により半強制的に和平条約を結ばされ、以後は冷戦状態で小競り合いが続いていた。だが2293年にプラクシスの大爆発により甚大な環境破壊を被り、国力の低下を懸念した時の宰相ゴルコン (ghorqon) によって連邦との和平が図られる。ゴルコンは反対派に暗殺されたが、最終的に和平協定は成立した(映画6作目『スタートレックVI 未知の世界』)。その後、両国は平和裡に共存していた。2369年、初代皇帝カーレスへの信仰を守る僧侶たちによって、秘密裏にカーレスのクローンが作られた。彼は最終的に皇帝として認められたが、実権は最高評議会と宰相が持ち続けている。ドミニオン戦争においてはガウロン宰相の無謀な作戦によって大きな被害を受け、国力が低下した(ガウロン自身も戦死)。セクション31のルーサー・スローンによると「復興に十年を要する」状態であるらしい。ドミニオン戦争終盤、マートク家のウォーフがガウロンの作戦に抗議して決闘で倒し、マートク将軍を宰相の地位につけた。ウォーフは戦後、駐クロノス連邦大使に就任した。『ENT』では、2554年に惑星連邦へ加盟することになっている。
クリンゴン人の戦闘スタイル 三日月型の刀身の内側の弧に刃が付き、外側の中央部を握って扱う「バトラフ (betleH)」(小説によってはバッ=テルやバト=レルーのような発音の場合もある)は、カーレスがその髪から作り出したと言われ、クリンゴンの歴史と伝統に根差した「戦士の象徴」的な意味を持つ白兵戦用武器である。攻撃に際しては、曲線的な斬撃と直線的な刺突に用いることができ、折れた刃の部分を短剣のように用いたり投擲するといった使い方も可能である。クリンゴン最高の勲章はバトラフの名前を冠して「バトラフ勲章」と命名されている。このほか、3本の刃を持ち、うち2本が可動する「ダクタフ (d'k tahg)」という短剣や湾曲した「メクラフ(meqleH)」という短剣(『スタートレック ファーストコンタクト』でウォーフがボーグに対して使用している)を用いる。バトラフとメクラフのいずれが有効な武器であるかについては、長年にわたって論争が続いている。このほかギンタクという突くと電撃を放つ槍も使う。白兵戦・艦隊戦を問わず、危険を顧みない勇敢な戦い方をすることが多い。白兵戦の際は携帯用ディスラプターも持つが、バトラフを用いた近接戦闘を好む。クリンゴン艦艇の多くは、中央船体の両脇に翼があり、その翼端にワープナセルがある。動力それ自体は、惑星連邦の対消滅動力、ロミュランの潮汐動力とも全く違うエネルギー転換動力であるという。主兵装はディスラプターと光子魚雷である。光子魚雷は惑星連邦の宇宙艦隊も使用しているが、元来は『ENT』の時代にクリンゴンで発明された。ロミュラン帝国との同盟関係があった時代に遮蔽装置の技術を供与され、同盟解消後も自前で生産、改良している。ロミュランのウォー・バードと同様に船体が緑色なのは遮蔽装置を使用する為に必要らしい。クリンゴン艦隊には比較的小型のバード・オブ・プレイ(小型のブレル級、大型のクヴォート級)と、“クルーザー(巡洋艦)”と呼ばれる重装備の大型戦闘艦が存在するが、ほとんどの艦は遮蔽装置を装備している上に、バード・オブ・プレイの中には小型のクルーザー以上の大型艦も存在し、両者の区別は曖昧である。艦名の前には“I. K. S.”(インペリアル・クリンゴン・シップの略)を付けて呼ばれる。23世紀にはD7級とクティンガ級のバトルクルーザーが登場し、クティンガ級はTNG時代まで現役で運用されている(宇宙艦隊のエクセルシオール級も同様)。TNG時代には、艦首に大型のディスラプターを装備したヴォルチャ級アタッククルーザー(攻撃巡洋艦)と、宇宙艦隊のギャラクシー級を上回るスケールのネグヴァー級ウォーシップ(戦艦)が新たに就役した。ネグヴァー級は『TNG』の最終回で未来のクリンゴン艦として初登場し、その後『DS9』にも登場している。クリンゴン人は快適性を好まないため艦艇は連邦艦と比較して居住性は悪く、艦長や将軍クラスでも金属板むき出しのベッドを用い、一般兵士はそのあたりの通路や部屋の床にそのまま雑魚寝している。
浮山県の歴史 619年(洪武2年)、唐朝により設置された。翌年神山県と改称している。金代になると1167年(大定7年)に浮山県と、1220年(興定4年)に忠孝県と改称されたが、元代に浮山県に戻されている。1958年に廃止となり臨汾県に編入されたが、1960年に再設置され現在に至る。
渡辺義介の経歴 新潟県出身。1915年東京帝国大学法科大学経済学科卒。同年高等文官試験(行政科)に合格、農商務省に入る。官営八幡製鉄所に勤務を経て、商工省に戻り、鉱山局鉱政課長を歴任する。1934年に日本製鉄が発足すると八幡製鉄所に戻り、所長となった。その後、1942年には北支那製鉄社長に就任、鉄鋼統制会理事長も務めた。1945年、日本製鉄社長となり、鉄鋼統制会会長に就任した。戦後、公職追放となり、追放解除後の1952年、もく星号墜落事故で死去した三鬼隆の後任の八幡製鉄社長に就任し、日本鉄鋼連盟会長にもなった。このほか経団連副会長も務めた。1956年死去。
アウトレイジ ビヨンドの概要 ヤクザ抗争を描いた2010年公開の『アウトレイジ』の続編映画。北野武監督作品では初の続編映画である。監督および主演は北野武(ビートたけし)に、三浦友和、加瀬亮、小日向文世ら前作キャストに加え、西田敏行、松重豊、高橋克典、桐谷健太を起用している。監督の北野は『笑っていいとも!』への出演のほか、自身のレギュラー番組を含め各番組で積極的な宣伝活動を行った。丸の内TOEI2、渋谷TOEI2、新宿バルト9、新宿ピカデリー他、全国225スクリーンで公開され、2012年10月6、7、8日の初日3日間で3億9,528万7,800円、動員29万4,485人になり映画観客動員ランキング(興行通信社調べ)で初登場第1位となった。これは北野映画史上初となる。
アウトレイジ ビヨンドのあらすじ 前作から5年。関東最大の暴力団・山王会は二代目会長となった加藤稔(三浦友和)と、若頭にまで成り上がった元・大友組の金庫番だった石原秀人(加瀬亮)による新体制の下、今や国政に影響力を及ぼすほどの勢力を政官界に拡大していた。マル暴・山本刑事(貴山侑哉)が山王会によって女性との心中に見せかけて殺害され、山王会のさらなる勢力拡大を危惧した警察当局は、山本の前任者であり、暴力団と太いパイプを持つ悪徳マル暴・片岡刑事(小日向文世)を暴力団対策の最前線に復帰させた。片岡は、加藤・石原による新体制に不満を覚える山王会の古参幹部と、関西を拠点とする巨大暴力団・花菱会を利用する計画を立てる。山王会古参幹部の富田(中尾彬)と、花菱会若頭・西野一雄(西田敏行)が兄弟分であることから計画は成功するかに見えたが、実は山王会と花菱会は既に協力関係にあったため、花菱会からの密告によって、富田は山王会本部内で加藤と石原の命令を受けた舟木昌志(田中哲司)に射殺される。黒幕である片岡も後がなくなり、彼らに恨みを持つ大友を利用することを思い立つ。前作で、刑務所内で木村(中野英雄)に刺されて死んだとされていた大友は実は生きており、片岡は大友を利用すべく、刑務所を仮出所させる。だが、大友はもはやヤクザの世界の抗争に身を置くつもりはなく、旧知の在日韓国人で日韓フィクサー・張大成会長(金田時男)の下で平穏な生活を送り始める。片岡は、刑務所から出所後にバッティングセンターを経営し、カタギとなっていた木村を利用することにした。木村を大友と和解させた上で「本当の敵は山王会」だと伝え、復讐心を焚き付ける。木村は子分である嶋(桐谷健太)と小野(新井浩文)に対して大友を守るように命令する。片岡の計画への協力を渋る大友に対し、片岡は復讐を恐れる石原から大友が命を狙われる状況を作り出し、大友はビルのエレベーター内で襲撃されて重傷を負う。嶋と小野は大友を守りきれなかったことに責任を感じ、山王会に殴り込みをかけるものの、舟木たちに捕らえられた挙句リンチされ、惨殺されてしまう。親しい人間を殺された大友は、ここに至って片岡の計画に乗ることを決める。花菱会の幹部会にやってきた大友と木村に対し、若頭の西野、若頭補佐の中田勝久(塩見三省)らは優位に立とうとして、怒鳴り声を浴びせてわざと喧嘩を売る。対する大友も一歩も引かず、場は怒号が飛び交う一触即発の状態となるが、木村がケジメをつけるために自分の指を噛みちぎって場を収める。大友と木村の覚悟を確認した花菱会は、2人なら山王会を倒せると考え、非公式の助力を決める。大友は先代会長・関内(北村総一朗/本作では写真のみの出演)の死の真相を知るために、関内殺しの事実を口止めする対価として加藤によって引き上げられ、組織内で出世を果たした山王会幹部・舟木を拉致。彼を脅迫して加藤の「親殺し」(=会長の関内殺害)を自白させ、ICレコーダーに録音する。花菱会会長の布施(神山繁)は、加藤にこの証拠を突きつけ、石原が情報提供したことをほのめかしたため、加藤は疑心暗鬼に陥る。パニックに陥った石原は、木村が未だに大友を恨んでいると考え、木村を抱き込んで大友を殺害しようとするが、逆に木村に部下達を殺害され捕まってしまう。ようやく石原と対面を果たした大友はピッチングマシンを使って石原を殺害し、復讐を果たす。さらに舟木の証言音声が、山王会の幹部達にも送られたため、「親殺し」が知れ渡った加藤はもはや力を失い、最後は花菱会の立ち会いで山王会と木村組の手打ちが決まった。加藤は引退に追い込まれ、白山広(名高達男)が山王会三代目会長に、五味英二郎(光石研)が同じく三代目若頭に就任し、事実上山王会は花菱会の影響下に入った。木村は自分の組に大友を誘うが、大友はヤクザの世界に戻るつもりはなかったため、すべての手柄を木村に譲った。花菱会も木村に対して、大友との関係を断つように命令したため、大友は張会長の下に戻り、韓国へと消える。数日後、大友は密かに日本に帰国すると、張会長の腹心である李(白竜)と協力してパチンコ店で待ち伏せし、一人寂しくパチンコを打つ日々を送る加藤をナイフで刺殺する。一方、警察では山王会の代わりに花菱会が台頭しただけだとして、片岡の責任が追及され始めていた。片岡は花菱会と木村の不安定な関係を利用し、再度大友を巻き込んで花菱会の力を削ごうとする。片岡は、加藤の元部下(四方堂亘)をリーダーとした数名をけしかけて木村を殺害させる。さらに片岡は「大友が木村を殺害した」という噂を流しつつ、大友には「花菱会が木村を殺した」と吹き込む。片岡は木村の葬儀に現れた大友に、参列者の花菱会幹部らを襲撃するための拳銃を渡したが、全てを見抜いていた大友は片岡に向けて引金を引き、自らの手で葬り去ったのであった。
神戸市立上筒井小学校の所在地 〒651-0054 中央区野崎通1-1-2
ガーフィールド郡 (ネブラスカ州)の地理 アメリカ合衆国統計局によると、この郡は総面積1,480 km² (571 mi²) である。このうち1,476 km² (570 mi²) が陸地で3 km² (1 mi²) が水地域である。総面積の0.23%が水地域となっている。
傅俊の概要 世界中のさまざまな仕事と職業を映像で紹介していた番組。特定の仕事の裏事情やパソコンのキーボード早打ち選手権などについても取り上げていた。前番組『ジャングルTV 〜タモリの法則〜』のスタッフとほぼ同じメンバーが手掛けていた番組で、司会も前番組から引き続きタモリが務めていた。ナインティナインの岡村隆史と矢部浩之も引き続き出演していたが、関根勤と小池栄子は降板した。2003年1月からは、大竹まことや上原さくらも準レギュラーポジションで出演していた。番組は毎回ゲストを2組迎えて行われていた。この番組の最終回をもって、毎日放送が製作する9年間タモリ司会のバラエティ番組シリーズは終了。タモリはそれ以来、TBS・毎日放送系列でのレギュラー番組は一切持っていない(ゲストとしての出演は数回あり)。またこの番組を最後に、ナインティナインがメインMCでない、「出演者の一人」として出演するレギュラー番組は全て終了した。
オットー・ヘックマンの略歴 保育士を目指していたが、スカウトにより芸能界入り。2001年に園子温監督の映画『自殺サークル』で女優としてデビュー。2005年の映画『YUMENO』でオーディションにて3,000人の中から選ばれて初主演、2006年のオムニバスホラー映画『コワイ女』の「鋼 -はがね-」では頭からズダ袋を被った特異なキャラクターを脚のみで演じるなど、多くのインディーズ映画で主演やヒロインを務めて「インディーズ(映画)の女王」とも称されるようになり、次第にメジャー作品にも進出する。映画を中心に活動する一方で、劇団絶対王様に所属して舞台にも立ち、NHK教育テレビ『スペイン語会話』などにも出演する。2012年の『どんずまり便器』でゆうばり国際ファンタスティック映画祭2012にてベストアクトレス賞を受賞。
大安町の歴史 特技はベリーダンス、書道、スポーツ。芸名の菜葉菜には「1本では地味な菜の花が、菜の花畑となって華やかな存在感を放ってほしい」との願いが込められている。女優を始めた当初は時に「宇宙人みたい」などと言われるという容姿にコンプレックスを抱いていたが、「不思議な顔だね」と目に留まってキャスティングされるようになり、自身の個性として認めるようになったという。映画『YUMENO』(2005年公開)出演時には憧れの女優として『ザ・レイプ』の田中裕子や『濹東綺譚』の墨田ユキの名を挙げ「濡れ場も美しいし、色っぽい。私も脱ぎたいんです!」と語り、映画『赤い雪 Red Snow』(2019年公開)で初めて濡れ場を演じて「昔から脱ぐことに抵抗はなかった」「そういうお話が来ることがなかった」と語っている。「エロスって女性ならではのものだから、エロスを本当にエロいと思わせる女優さんになりたい」と語り、NHK教育『スペイン語会話』の出演にあたっては「ラテンのスペイン語を勉強して私のテーマであるエロの追求に役立てます」とコメントした。
大分きゃんバスの概要 中心市街地を循環し、大分市美術館と大分県立美術館とを結ぶ路線である。大分きゃんバスを使ってこれら2つの美術館をめぐり、学芸員から説明を受けるまちなかアートツアーも開催されている。2015年(平成27年)6月13日に中心市街地循環バス「大分きゃんばす」の実証運行を開始。2年間の実証運行を経て、2017年(平成29年)10月から経路及びダイヤを変更して本格運行を開始した。なお、大分きゃんばすの実証運行開始に伴い、路線が重複する大分バスの駅南循環線は同年6月12日を以て運行を休止した。2018年(平成30年)3月30日には車両を水戸岡鋭治デザインにリニューアルし、これを機に愛称を「大分きゃんバス」に変更した。
ヴァシリコ・スヴャトスラヴィチの経歴 1129年、キエフ大公・ムスチスラフ1世はポロツク公国への遠征を行い、捕らえたすべてのポロツクの公と家族を、領土を没収してビザンツ帝国へ送った。この追放された人々の中にヴァシリコも含まれていたことが判明している。また、ヴァシリコはおそらく追放先で軍事司令官を勤めていたと思われる。しかし、追放の2、3年後には既にビザンツから帰還し、具体的な場所は不明であるものの領土を受領している。L.ヴォイトヴィチは、1130年から1132年の間、ヴィテプスク公の座についていたと推測している。一方O.M.ラーパフは、1132年はイジャスラヴリ公であったとしている。いずれにせよ、1132年にはポロツクの人々によってムスチスラフ1世の子のスヴャトスラフが公の座を追われ、ヴァシリコはポロツク公に招かれた。ヴァシリコの統治についてほとんど何も知られていないが、公の座に留任するために、ムスチスラフ1世の子たちを支援する方策を採っていた。1138年、ムスチラフ1世の子のノヴゴロド公フセヴォロド がノヴゴロドから追放され、ポロツクを通り過ぎたとき、ヴァシリコは彼の名誉と十字架に誓って、フセヴォロドを送迎している。1143年に自分の娘・マリヤと、チェルニゴフ・オレグ家のスヴャトスラフとの婚姻を結ばせたが、それ以降のヴァシリコに関する記述はない。推定では1144年に死去した。
東唐津駅の駅構造 島式ホーム1面2線を有する高架駅。改札口からホームまでは階段とエレベータが設置されている。高架下が駅舎・コンコースとなっている。売店は2010年秋頃に閉鎖され、跡地に自動販売機が移設された。JR九州鉄道営業が駅業務を行う業務委託駅である。また、マルスは無いがPOS端末・自動券売機・SUGOCA対応簡易改札機などの設備を持つ。初代の当駅は頭端式ホーム1面2線を有するスイッチバック構造の地上駅で、駅弁も売られていたほか、みどりの窓口、観光案内所、荷物取扱窓口があり、駅構内には貨物ホームや貨物ヤード、東唐津気動車区(車両所属標記/門ヒカラ)、唐津保線区、博多車掌区東唐津支区などが存在していた。
東唐津駅の駅周辺 松浦川の右岸近くに位置しており、対岸は唐津市街地である。駅周辺にはアパート・マンションが多く建てられている。
西川孟の人物 土門拳に師事。日本の精神、美意識の流れをテーマに撮影。
インスリンの歴史 1869年にドイツ・ベルリンの医学生パウル・ランゲルハンス (Paul Langerhans) は、顕微鏡で見た膵臓の構造を研究していた。後にランゲルハンス島として知られる「小さな枠の集合体」は当時まだ知られていなかったが、エドワール・ラゲス (Edouard Laguesse) は、それらが消化に関わる大きな役割を果たすものであり得ると主張した。1889年、リトアニア出身のドイツの内科医オスカル・ミンコフスキ (Oskar Minkowski) とヨーゼフ・フォン・メーリング (Joseph von Mehring) は健康な犬の膵臓を取り除く研究を行った。実験が始まって数日後、ミンコフスキーはハエがいつもこの犬の尿に群がっていることに気づいた。尿を調べてみると、糖分が含まれており、ここで初めて膵臓と糖尿病との関係が実証された。1901年、アメリカの病理学者ユージン・オピー(Eugene Opie)によりランゲルハンス島と糖尿病との関連が明らかにされたとき、この研究は新たな段階を迎えた。つまり、糖尿病はランゲルハンス島の部分的あるいは全体的な破壊によって引き起こされるということがわかったのである。しかしながら、ランゲルハンス島が果たす特定の役割については、ここではまだよくわかっていなかった。それから20年、これに連なる数々の研究が科学者の間で行われた。1921年には、カナダの整形外科医フレデリック・バンティング(Frederick Banting)と医学生チャールズ・ベスト(Charles Best)が研究室でインスリンの抽出に成功した。1922年1月11日、当時14歳であった1型糖尿病患者に世界で初めてインスリンの投与が行われたが、これは、精製方法が未熟であったこともあり、患者にひどいアレルギー反応がでたため中断された。ジェームス・バートラム・コリップは、それから12日間投与量などの改善に日夜努力し、23日に再び投与が行われた。今度は副作用を引き起こすこともなく、糖尿病の症状を取り除くことにも成功した。しかしながら、バンティングとベストはコリップを一種の闖入者と見なしたようで不和を生じたため、その後すぐにコリップは去って行った。1922年の春が過ぎ、ベストは大量の需要にも応えられるように抽出技術を工夫したが、精製は未熟であった。1921年の発表の直後、イーライリリー社から、彼らは支援の申し出を受けており、4月にこの申し出を受けた。11月にリリー社は技術の革新に成功し、非常に純粋なインスリンの生産に成功した。このインスリンは、アイレチンという名ですぐ市場に出された。1933年には、ポーランドの精神医学者マンフレート・ザーケルにより、インスリンを大量投与することにより低血糖ショックを人為的に起こさせて精神病患者を治療するというインスリン・ショック療法(Insulin shock therapy)が考案されたが、死亡例が多く、その後電気けいれん療法、薬物療法(クロルプロマジンに代表される抗精神病薬)などが登場したため1950年代には廃れた。2013年、カナダはフレデリック・バンティングらの研究論文や臨床データとインスリン普及後の各国からの報告レポートなどを、ユネスコ記憶遺産へ申請し登録された。
インスリンの日本での歴史 日本でも大正13年3月に現代之医学社から平川公行著「糖尿病のインスリン療法」という治療マニュアルが発売されアメリカからの輸入も始まっている。当時の価格は50単位4円50銭、100単位8円と極めて高価であり、絶対適用の患者の場合は薬代だけで当時の平均賃金の3倍近くも必要になる。このため「世界一の高貴薬」と呼ばれ糖尿病は「金持病」と揶揄された。昭和10年に帝国臓器から国産初のインスリン製剤が発売されるがウシやブタの膵臓から抽出精製した物だったので非常に高価で生産量も少なく、輸入品と比べても安くは無かったため国産化は進まなかった。昭和13年に外交関係の悪化によりインスリンを初め医薬品の輸入が完全に停止して日本国内は深刻なインスリン不足に陥る。昭和16年5月14日に魚のハラワタを原料とした魚インスリンを生産するために清水製薬が設立、昭和16年7月に出荷を開始している。戦時中にもかかわらず国産インスリンの生産量は増え続け、国内需要を国産のみで満たせるようになると同時に十分の一以下にまで値下げされ、戦時中に値下げされた唯一の医薬品となる。昭和20年、空襲により全てのインスリン工場が焼失し国内生産は完全に停止した。戦後すぐに清水製薬は生産を再開しインスリンの供給が再開され、人インスリンの登場まで日本は欧米とは異なる独自の魚インスリンの製造販売を続ける。
インスリンのノーベル賞 インスリンについては五人が、ノーベル賞を受賞している。インスリンを発見したバンティングとマクラウドが1923年に賞を受賞。その後も、1958年にタンパク質の中で世界で初めてインスリンのアミノ酸構造を解明したフレデリック・サンガー (Frederick Sanger) が、1964年にドロシー・ホジキン (Dorothy Crowfoot Hodgkin)が、1977年にはロサリン・ヤロー(Rosalyn Sussman Yalow)がラジオイムノアッセイをインスリンで開発した事で、それぞれノーベル賞を受賞している。
インスリンの製剤の種類 1921年にインスリンの分離に成功。1型糖尿病における薬物療法として、現在のところ唯一の治療法である。インスリンはタンパク質であるため、消化管内で速やかに分解されるため経口投与不可能である。そのため皮下注射によって投与される。インスリン製剤は、作用発現時間、作用持続時間、原料となる動物種(牛、豚、魚、人)によって分類されている。組み換えDNA技術によってヒト型インスリンが開発されてからはヒト型を用いるのが一般的である。ヒト型インスリン は大腸菌や酵母菌にヒトインスリン遺伝子を導入し生産している。
インスリンのインスリン療法 インスリンを用いた血糖管理、糖尿病の治療をインスリン療法という。インスリン療法としては強化インスリン療法とその他の治療法に分けられる。まずはインスリンの適応があるかどうかを判断する。
インスリンの後ろ向き用量調節(責任インスリン方式、アルゴリズム法) 血糖値に影響する急性疾患の合併がなく、安定した糖尿病に用いられている方法。測定された血糖値に最も影響を与えるインスリンを責任インスリンと呼び、超速効型または速効型インスリンを毎食前に注射している場合、朝食前に注射したインスリンが昼食前の血糖値に対する責任インスリンである。たとえば、ある日の昼前の血糖値が通常より高かったなら、翌日の朝食前の超速効型インスリン量を増やす、といった方法を採る。食事の内容や運動量によって血糖値は変化するため、注意は必要である。即効型または中間型インスリンを用いるときの考え方であり、同インスリン製剤を用いる上での難しさを物語る考え方である。持効型インスリンに超速効型インスリンを組み合わせて用いる際にはこのようなことを考える必要がない。朝食前のRは昼食前の血糖を下げる。昼食前のRは夕食前の血糖を下げる。夕食前のRは就寝前の血糖を下げ、就寝前のNは朝食前の血糖を下げると考えると分かりやすい。
インスリンの前向き用量調節(スライディングスケール法) あらかじめ、病気の状態、血糖値の変動パターン、体重あたりのインスリンの必要量などから医師が作成する目安表で、患者自身が4〜8時間ごとに血糖自己測定し、このスライディングスケールに従ったインスリン量を注射する方法。手術前後、感染症、他の急性疾患で入院しているときなど、異常事態に適した調節方法であるとされている。
インスリンの強化インスリン療法(Basal-Bolus法) 現在、1型糖尿病で主に採用されているインスリン療法で、最初に選択される治療法。血糖自己測定(SMBG)を併用したインスリンの頻回注射が原則的に選択される。コントロール不良の場合や、妊婦、小児〜思春期の1型糖尿病には、持続皮下インスリン注入(インスリンポンプ療法、CSII)を採用する。インスリン頻回注射は、医師の指示に従い、患者自身がインスリン注射量を決められた範囲で調節しながら、良好な血糖コントロールを目指す方法である。基本的には食事をしている患者では、各食前、就寝前の一日四回血糖を測定し、各食前に速効型インスリン(R)を就寝前に中間型インスリン(N)の一日四回を皮下注にて始める。オーソドックスなやり方としては各回3〜4単位程度、一日12〜16単位から始める。量を調節する場合は2単位程度までの変更にとどめた方が安全である。超速効型インスリン(Q)や持続型も近年は多く用いられる。持続皮下インスリン注入は、超速効型インスリンを24時間通じて注入する携帯型の小型機器を用いる。持続型インスリンよりもはるかに血糖値変動を予測しやすい超速効型インスリンを用いることができ、用量の微調整も可能で正確である。世界で2億人以上が糖尿病と診断され、およそ100万人がインスリンポンプを使用していて世界的に増加傾向にあり、ほとんどは1型糖尿病患者だが、2型糖尿病患者も含まれる。日本においては、まだ認知度は低く、普及率も低いのが現状である。
インスリンのシックディルール 糖尿病患者が治療中に発熱、下痢、嘔吐をきたし、または食思不振のため食事ができない状態をシックディという。この場合の対応としては主治医や医療機関に連絡を行い指示を受ける、インスリンを決して自己中断をしない、水分を摂取して十分に脱水を防ぐ、口当たりがよく消化によいものを摂取し絶食にならないようにする、血糖を3〜4時間ごとに測定する、可能ならば尿中ケトン体を測定するといったことが原則となる。2型糖尿病で食事が十分に摂取できていれば普段通りにインスリンの投与を行い、食事量が半分ならばインスリンを普段の半分量使用する、ほとんど摂取が不可能ならば血糖値に応じてインスリンスライディングスケールで対応するのが一般的である。1型糖尿病の場合は基礎分泌に相当するインスリン量は変更しないのが原則である。入院の適応を考えるべき状況とは高熱が2日以上続く時や、嘔吐や下痢が続く時、脱水や尿量減少が認められるとき、高血糖(350mg/dL以下にならない)や尿中ケトン体陽性が続く時、高血糖に伴う症状(口渇、多飲、多尿、急激な体重減少、意識障害)があるときなどがあげられる。この状態になった場合は糖尿病性昏睡などの治療にのっとって治療を行う。
インスリンの経口血糖降下薬からインスリン療法への移行 インスリン療法を行う場合は経口血糖降下薬を使用している場合が多い。欧米ではSU薬などを中止せずそのまま継続した方が血糖コントロールが安定し、低血糖のリスクが減るというデータもある。SU薬、αGI、BG薬は保険診療上も併用可能であるがTZD薬や速効型インスリン分泌促進薬は保険診療上併用ができない。SU薬を1錠だけ残し、インスリン導入をしている例が非専門医の場合は多い。
インスリンのインスリン静注 食事をしないIVHの患者では高カロリー輸液にRを混ぜることもある。この場合はグルコース10gにつきR1単位から始めて血糖を測定から至適量を決めていく。注意として速効型インスリン以外の静注は禁止である。
インスリンのインスリン・アレルギー インスリン自体とインスリン製剤に含まれる、添加物に対するアレルギーと考えられている。まれにアナフィラキシーショックを生じる。
インスリンのインスリン抗体による低血糖および高血糖 ヒトが体内で産生するヒトインスリンで抗体が作られることはないが、患者により稀にインスリンアナログの投与により特異的な抗体が産生されることがあり、これがアレルギー症状を示して血糖コントロールに支障をきたすことがある。この産生の条件はまだよく判っていない。
商経学部の歴史 いくつかの大学が旧制大学時代に商経学部を置いていた。また、1947年(昭和22年)に学校教育法(昭和22年法律第26号)が施行されて新制大学の制度ができると、いくつかの既存の教育施設は、これまでの組織を改組して、商経学部を置くようになった。日本において、高度経済成長の前後に、社会的な学問分野が体系的に整理されていくと、商経学部は、経済学部、経営学部、商学部などに分割されていき、その中で千葉商科大学の商経学部が、日本で唯一の商経学部となる。
商経学部の過去に商経学部を置いていた国立大学 なし
LOVE ME DO (芸人)の来歴 小学3年生のときに『キャプテン翼』の影響でサッカーを始める 。当時のポジションは主にサイドバック、センターバック、ボランチ。高校時代もサッカー部に所属し全国大会出場を目指すも県予選を突破できずに終わる。その後、大学受験のため予備校通いをしたが、三浪の末に進学を諦め吉本興業入りをした。1997年デビュー、デビュー当時は、東京・渋谷公園通り劇場で活動。2014年4月14日に一般女性と入籍した事をプログで公表。2014年10月10日のプログに男の子の子供が生まれた事を公表。占い師を始めた当初は、おねぇキャラ兼「新宿二丁目の母」を名乗る占い師でもあった。占術は、タロット、占星術、四柱推命、手相、風水、九星術、易、人相占い、数秘術、姓名判断、等々を駆使して占いを行う。人相占いは、顔相占い、ほくろ占い、耳占いなども含む 。占いは20代半ばの頃に新宿二丁目のおかまバーで働いてた時に、手相から独学で始め 、その後に各占術ごとの師匠の下で学んだ。手相だけでも、西洋の手相術、東洋の手相術、インドの手相術など各流派の師匠の下で学んでいる。サッカーやフットサルを得意としており、それを活かした番組出演も少なくなく、テレビ朝日系列で放送されているサッカー番組『やべっちFC〜日本サッカー応援宣言〜』のフットサル対決にたびたび出演している 。身長は168cm、血液型はO型。生年は公表していないが、10月11日の天秤座生まれである。2012年5月にはサッカー指導者ライセンスのJFA公認指導者ライセンスC級コーチを取得している。
王北星のプロフィール 2003年の中国選手権大会で優勝し、2005年の世界距離別スピードスケート選手権大会500mで銀メダルを獲得した。2006年トリノオリンピックでは女子500mで7位、同1000mでは29位だった。2007年アジア冬季競技大会では500m・1000mの2冠に輝き、世界距離別選手権500mは2007年、2008年、2009年と3大会連続銀メダル。2009年の世界スプリント選手権大会では女子総合優勝に輝いた。2010年バンクーバーオリンピックの女子500mでは銅メダルを獲得した。
ハザードマップの有珠山火山防災マップ 2000年3月に有珠山の噴火が発生した。この噴火では、3月29日に気象庁より「緊急火山情報」が発表され、これを受けた自治体(伊達市、壮瞥町、虻田町)は、危険地区の住民に対し「避難指示」を発令した。この噴火では、金比羅山の火口群から熱泥流が流出し温泉街を埋めるなど、甚大な被害が発生した。しかしながら、一人の死傷者も出ていない。これは第一に日本で初めて事前予知に成功したこと、第二に「有珠山火山防災マップ」(平成7年度版)が作成・公表されており、第三に各自治体がこの防災マップに基づいて避難指示を出し、第四に住民の迅速な行動があったためといわれている。なおこの噴火では、最大で15,815名が避難勧告・指示の対象となった。2002年3月、有珠火山防災会議協議会(災害対策基本法第17条に基づく。伊達市(事務局)・虻田町・壮瞥町)と、豊浦町・洞爺村の5市町村により平成7年度版の「有珠山火山防災マップ」を新しく改訂した。これは2000年の噴火により火口の地形変動があったなどのため、火砕流到達範囲などの危険区域が変わったことなどによる。この地図は、5市町村のほとんどの世帯に配布された。
ハザードマップの富士山火山防災マップ 本州の真ん中にある富士山が噴火した場合社会に与える影響が大きい。そこで国の防災機関や地方自治体を中心に学識経験者などが集まって「富士山ハザードマップ検討委員会」を設立し、万が一の際の被害状況を想定して避難・誘導の指針とした。この「富士山火山防災マップ」では過去の富士山の噴火を参考にしながら、様々な火山災害を予想している。その中で火山灰被害の例として宝永噴火や貞観噴火の被害実績が詳細に検討されている。ハザードマップについては、中間報告(2002年6月)と検討報告書(2004年6月)の2回、調査結果をまとめた報告書が出されており、内閣府の防災部門のホームページで公開されている。
シリウス・イタリクスの経歴 正確な生誕地はよくわかっていないが一説によればローマ帝国のパタウィウム(現在のイタリアの都市パドヴァ)で生まれたとされる。キケロの影響を強く受け、若い頃に雄弁家として頭角を現した。皇帝ネロの寵愛をうけ、ネロ治世下の時にコンスルに就任した。ネロ亡きあとアウルス・ウィテッリウスに急接近し、そのもとで活躍した。その後、アシア属州総督を務め権勢を振るった。富豪だったことから数多くの芸術家のパトロンだった。政界引退後に別荘で詩作活動に入り、長編叙事詩『プニカ』を著した。晩年に自ら餓死したとされる。
米森麻美の来歴・人物 愛知県名古屋市生まれ。小学生から高校にかけ父親の米国赴任によりシアトルやロサンゼルスで暮らす。帰国後は国際基督教大学高等学校を経て上智大学外国語学部英語学科を卒業。上智大学時代に、女子大生キャスターとして日本テレビの「ルンルンあさ6生情報」に週一回レギュラー出演していたことがあった。在学中にミスソフィアに輝いている。1989年、日本テレビに入社。「NNNきょうの出来事」でお天気コーナーを担当していた。英語で書かれたファンレターに感激し英語で返事を出したこともある。バラエティー番組「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」でアシスタント役を務め、人番組内では進行役の福澤朗から「よねっぺ」と呼ばれていた。1992年~1993年、永井美奈子と薮本雅子(共に現在はフリー)両アナウンサーと結成したユニット「DORA」で活動。1994年、味の素を興した鈴木三郎助の玄孫で、ゴールドマン・サックス証券の当時の名誉会長の息子・晃と結婚。1995年、日本テレビを退社。退社後は、フリーで活動。2001年9月、第一子となる長男出産の約3週間後に急逝。34歳没。身内だけで葬儀・告別式が営まれた。死因などの詳細に関しては家族の意向で公表されていない。
新潟県道143号巻停車場線の発散級数の総和法に関する定理 総和法 M が正則であるとは、収束級数については通常の和と一致することである。総和法 M が正則であることを示す定理は(アーベルの定理が原型的な例であることから)M に対するアーベル型定理という(また、正則であるという代わりに「M についてのアーベル型定理が成り立つ」というように述べることもできる)。これの「部分的に逆」の結果を与えるタウバー型定理は、より重要で一般にはより捉えにくい(呼称は、原型的な例をアルフレッド・タウバーが与えたことによる)。ここで「部分的に逆」というのは M が級数 Σ を総和し、かつ「ある特定の付加条件を満たす」ならば、Σ はそもそも収束級数であるということを言っている。「なんらの付加条件をなにも課さない形でタウバー型定理が成立する」ならば M は収束級数だけしか総和できないという意味になる(これでは発散級数の総和法としては役に立たない)。収束級数にその和を対応させる作用素は線型であり、ハーン-バナッハの定理によれば、これを部分和が有界となる任意の級数を総和する総和法に拡張することができる。しかしこの事実は実用上はあまり有用ではない。そういった拡張の大部分は互いに無矛盾とはならず、またそのような拡張された作用素の存在をしめすのに選択公理あるいはそれと同値なツォルンの補題などの適用を必要とするため、構成的に拡張を得られないためである。解析学の領域での発散級数に関する主題としては、もともとはアーベル総和法やチェザロ総和法、ボレル総和法といった明示的で自然な手法およびそれらの関係性に関心がもたれていた。ウィーナーのタウバー型定理の出現が時代の契機となって、フーリエ解析におけるバナッハ環の手法との予期せぬ関連がこの主題に導入されることとなる。発散級数の総和法は数値解法としての外挿法や級数変形法にも関係する。そのような手法として、パデ近似、レヴィン型級数変形および量子力学の高次摂動論に対する繰り込み手法に関係した次数依存写像 (order-dependent mapping) などが挙げられる。
高校生レストランの概要 三重県多気町にある五桂池ふるさと村の施設内にあるレストラン「まごの店」がこのドラマのモデルとなっており、実際にこのレストランは相可高等学校の現役高校生が運営している。主演はTOKIOの松岡昌宏で松岡の同局の土曜ドラマの主演は2008年7月期に放送された『ヤスコとケンジ』以来2年10か月振りとなり、土曜ドラマとしては1998年に放送された『LOVE&PEACE』以来、13年振りに同局・同枠の4月期のドラマがTOKIOのメンバーの主演となった。共演の吹石一恵と板谷由夏は『よい子の味方 〜新米保育士物語〜』以来8年4か月振り、神木隆之介は『探偵家族』以来8年10か月ぶり、川島海荷(9nine)は『怪物くん』以来1年ぶり(この『怪物くん』では、松岡とも共演している。)、伊藤英明は『ぼくの魔法使い』以来8年振りの同枠へのレギュラー出演となった。スタートは4月23日が予定されていたが東日本大震災の影響により5月7日となり、前作の『デカワンコ』の最終回より6週間後のスタートとなった。
高校生レストランのあらすじ 銀座の一流料亭の板前・村木新吾は、幼なじみの町役場職員・岸野宏に頼まれ、出身地・三重県にある相河高校の臨時教師となる。岸野は町おこしの一環として「高校生レストラン」をオープンさせようとしており、新吾は調理指導を頼まれたのだ。調理クラブの部員は30人ほど。そのなかには実家が定食屋でクラブのなかでも一目置かれている3年生の坂本陽介や、彼を慕う2年生の米本真衣らもいた。新吾が厨房を訪れると、調理クラブの面々は思い思いにハンバーグやクレープなどを作っていた。だが床は汚れ、食材は無駄に使われ、まるで文化祭ノリだ。それを見た新吾は挨拶もそこそこに、「まずは掃除だ。嫌な者は帰っていいが、その代わり明日から来なくていい」と部員たちを叱りつけ、その態度に、生徒たちは次々に出て行ってしまい、残ったのは陽介と真衣を含む約半数の18人だった。掃除の後、陽介は新吾に自分の天ぷらがダメな理由を聞く。新吾の答えは「君は左利きだな。包丁も菜箸も右手で使えるようになれ」と、意外なものだった。陽介は考え込むが「なんやしらんけど、あの先生は本物の匂いがする」と、新吾についていくことを決める。ある土曜日、オープンに向けたシミュレーションが行われることになった。新吾が決めたメニューは地元名産の伊勢芋を使った「とろろうどん」。陽介は新吾の指示通りにダシを作る係に命じられる。そしてシミュレーション当日、新吾と部員たちの間に決定的な亀裂が入る出来事が起きる。
高校生レストランのDVD 2011年9月28日にDVD-BOX(6枚組)が発売された。
ユラユラの概要 メジャーデビューシングル「Road」から1ヶ月半後にリリースされた第2作であり、初めてタイアップのついた作品である。初回生産版には特典として『NARUTO -ナルト-』絵柄ワイドキャップステッカーが附属。
ハンス・ニールセン・ハウゲの生い立ち ハンス・ニールセン・ハウゲは、1771年、オスロの南から約90kmのところにあるトゥーネで生まれた。8人兄弟姉妹のうちの4番目の子であった。両親は貧しいながらも信仰深い農家であり、正統的なルーテル教会の信者として慎ましく暮らしていた。
ハンス・ニールセン・ハウゲの国内の教会情勢 当時、デンマーク=ノルウェーの国教はルーテル教会であった。そして国民には信教の自由は保障されていなかった。ルーテル教会の教え・信仰告白は国家にとって大事な基礎であるとして、国民がその教えから逸脱することは許されず、国教に反することは犯罪行為であった。特に1741年にデンマーク=ノルウェーで制定された「小集会に関する法律」においては、家庭集会も全て牧師の監督下におくこと、平信徒の説教も牧師の立ち合いなしには認めないことが記されており、信徒伝道者が各地を回って集会を開くことも犯罪とみなしていた。しかし一方で、18世紀初めごろからデンマーク=ノルウェー国王が敬虔主義の教えを奨励しており、国王クリスチャン6世は敬虔主義的な宮廷牧師エーリック・ポントピダンに759条の教理問答書を作成させ、広く国民に敬虔主義的なルーテル教会の教えを広めていた。この敬虔主義的な思想においては、家庭集会実施の推奨、信徒が聖書を読むことに重点を置くこと、そして信徒がルターの万人祭司の教えに従って自発的に活動すべきことなどが強調されていた。したがって、当時のデンマーク=ノルウェーでは、国教としてのルーテル教会が国民信徒の活動を制限するという側面と、そのルーテル教会が国民信徒に広めている教えが実際は敬虔主義的なものであったという側面が、相矛盾するような形で同居している状態であった。そして、ちょうどそのような国家・教会情勢のなか、ハウゲがデンマーク=ノルウェーの地に生まれてきたのであり、この国内情勢が後々、ハウゲの活動にとって障害となっていった。
ハンス・ニールセン・ハウゲの青年時代 ハウゲは幼いときから既に信仰熱心で、いつも一人で聖書やキリスト教の本を読んでいた。青年になってもハウゲの信仰は変わらなかったものの、神の愛を感じられず、自らに真の謙遜の気持ちが足りないとも気づき始め、自分が救われるという実感を持てないでいた。また当時の友人たちは、ハウゲが宗教的に厳格であることと、彼が感情に起伏のある性格であることに戸惑いを抱いていた。そのためハウゲは答えの出ない生活に悶々としており、両親の反対を押し切って彼は1795年に都市フレドリクスタに出ていき、肉屋で半年間働いたこともあったが、すぐに故郷の実家へ帰ってしまった。
ハンス・ニールセン・ハウゲの回心 ハウゲは実家に帰ってからは父の農場の手伝いをしながら暮らしていたが、1796年4月5日、農場で働きながら讃美歌を歌っていたところ、彼に回心が突如起こった。自らの魂が身体から離れて、天高く上がってしまったかのように感じる、霊的な体験であったとハウゲ本人は後に自伝に書き記しているが、この出来事を通じて彼は神の栄光のもとに悔い改め、新しく生まれ変わったと感じた。しかし若いころのハウゲは、この回心の体験について、人に好んで語らなかった。それは彼が恍惚状態であったことについて人から馬鹿にされるのを嫌がったからという理由もあったが、何よりハウゲ自身が過度の感情的感覚・現象について批判的であったことも影響している。ハウゲは、自分の宗教経験を絶対的な基準にするのではなく、現実に神と共に生きるこの生活を、信徒たちと分かち合わなければならないと考えた。
ハンス・ニールセン・ハウゲの信徒伝道 ハウゲは回心するとともに、国中の人々に回心すべきことを訴える召命を受けたように感じた。当初、ハウゲは「私のような農夫の子ではなく、牧師やもっと偉い方が人々に回心を訴えて活動すべきだ」と考え、召命の責任を手元から除いてくれるよう神に祈ったりもしたが、神からは「ただ忍耐して人々に伝道すべきこと」、「ハウゲを迫害する者たちに打ち勝つ力と知恵をお前に授ける」といった回答があったように感じられたため、ハウゲは意を決して伝道を開始した。ハウゲはまず家族に伝道を行った。家族のうち母親だけは、豹変したハウゲの言動に最初戸惑ったものの、すぐに家族全員が回心した。その後、ハウゲは身近な人々に一人ずつ、一対一の対話で回心を勧めていき、活動の輪を広げていった。説教においては感情に訴えることなく、ただ単純に悔い改めを促して、淡々と述べるだけのハウゲであったが、人々は涙して彼に従うようになった。ハウゲはこの時、たしかに神からの力が自分たちを支えていると確信したという。ハウゲと支持者たちから見れば、当時の牧師たちは形式的にキリストの教えを語り、儀式を執り行っているだけであって、信仰の重要性については何ら言及していないように思われた。そして国中の信徒たちについても、洗礼を受けたとしても、形式的に聖餐を受けて暮らすだけでは、本当のキリスト者として生活しているとは言えないとハウゲたちは考えた。そこで、罪を悔い改めて自らの生き方を考え直すべきことを我々がキリスト者として実践し、その伝道をさらに広げていかなければならないと彼らは考え始めるようになった。そして1796年になると、ハウゲは集会を開いて説教をするようになった。1796年以前は私的な範囲での活動におさまっていたが、この年を境に、ハウゲの公的な活動が開始したことを意味する。1796年から1804年にかけてハウゲは、ノルウェーの北から南まで、あらゆる村・町・都市で説教を繰り返し行った。彼の総移動距離は、15,000km以上と言われている。ハウゲは伝道旅行中、ほとんど徒歩で移動しており、また移動する際には、ほぼ走っていた。旅は過酷で、食料もあまり手元になく、道中に見つけた木々から樹皮を剥いで食べたりした。また寒さ対策のため、移動しながら毛糸で編み物をし、手袋や靴下も自作していたという。また1796年、彼は著書2冊(『私の歩んできた道』、『神の知恵』)や小冊子を出版し、教会や牧師のあり方を批判するとともに、国民全員の回心を訴えた。その後も彼の執筆・出版活動は、死の直前まで断続的に続いた。
ハンス・ニールセン・ハウゲの迫害の始まり 1796年以降、ハウゲの伝道により、リバイバルが成功していたが、それを苦々しく思ったデンマーク=ノルウェー国のルーテル教会はハウゲの信徒伝道を認めず、「小集会に関する法律」などの法律をもとに、度重なる迫害を行った。ハウゲが初めて逮捕されたのは1797年のことで、最後に逮捕された1804年までの間に10回逮捕されている。特にオスロの県知事であったフリードリク・ユリアス・コース(コースは後に、コペンハーゲンの内閣議長まで務めた。)は、ハウゲへの迫害に力を注いでいた人物で、県知事時代から内閣議長時代まで一貫してハウゲ逮捕命令を出し続け、1754年成立の「放浪者に関する法律」を拡大解釈し、定職のない信徒説教者も放浪者とみなすなどして、ハウゲを苦しめた。ハウゲを取り締まる法律は恣意的に解釈され続け、具体的な罰則事項もないものであったが、度重なる迫害の結果、ハウゲの生涯で最後となる1804年の逮捕をもって、彼は長い拘置所生活に入ることになった。拘置所での拘置期間は約7年、そしてその後、判決が下るまで農場での監視生活は約3年続いた。ハウゲは拘置中、判決も下っていないのに非人道的な扱いを受けたり、肉体労働を課されたりして、体力的にも精神的にも衰弱した。そして彼の財産は全て没収され、著書も全て回収された。さらに拘置の最初の2年間は、危険人物として完全に世間から隔離され、友人とも会えず、本を読むことも許されなかった。やがて読書を許されるようになっても、与えられるのは無神論の本や世俗的な本ばかりで、ハウゲを霊的に損なおうとする嫌がらせが行われた。また、ハウゲが拘置されている間に、彼の両親が相次いで亡くなっており、彼は悲しみのあまり絶望した。
ハンス・ニールセン・ハウゲの晩年 1814年、最高裁で判決が下り、罰金刑で済まされると、ハウゲは自由の身となり、再び公的な活動に戻った。そして彼は1815年にアンドレア・ニフスと結婚し、ふたりの間に男の子一人が生まれた。しかし、間もなくニフスは他界した。ハウゲはその後、1817年にインゲボルグと再婚し、さらに3人の子供をもうけたが、幼いうちにこの3人の子供も亡くなった。ハウゲは、晩年も何度も悲劇に遭い、大いに嘆いた。しかし、苦しみ・悲しみを乗り越え、彼はルーテル教会の正統的な教理を保ちつつ、救いの確信を強く信じて初志を貫徹し、「生きた信仰」について伝道した。ハウゲは1814年以降は旅に出ることもなく、執筆活動に専念したが、彼の伝道は彼と同じく信徒伝道を行う追随者たちを多く生み、彼らも脅迫に負けずに活動を推し進めた。その結果、デンマーク=ノルウェーにおいて、ハウゲを中心とした霊的覚醒運動(ハウゲ運動)を興すことに成功した。
ハンス・ニールセン・ハウゲの影響 また彼のリバイバル活動においては、商業・産業の振興も奨励する働きがあった。これはハウゲ自身が実業家として製紙工場や製粉工場を始めたことが大きく影響している。ハウゲは巡回信徒伝道者であるとはいえ、その信徒活動は違法なものであり、迫害者たちが彼を逮捕する際の口実として、彼を放浪者・浮浪者扱いにして投獄する危険があった。そこでその事態を避ける目的で、彼は定職を持つこととしたのであったが、商売においてもハウゲたちは正直かつ倹約であったため、大いに栄えた。ハウゲは自らの支持者たちにも産業振興を勧めており、このことがノルウェーの工業化にも大きく貢献している。
子泣きじじいの飼い方のストーリー 昭和44年の大阪。息子の誕生日にカッパを買ってあげるために立ち寄ったペットショップで、「私」は子泣きじじいと出会う。
JFTDの主催イベント 日本最大級 花のイベント フラワードリーム を主催している。花の装飾技術や、それらのデザインを競うフローリスト・コンテスト(競技会)であるジャパンカップを開催している
スタジオ斬の概要 『ライジング ザン ザ・サムライガンマン』(ウエップシステム)のメインプランナー・須永誠によって設立。コンピュータゲームソフトの開発請負を主な事業としている。
非公認戦隊アキバレンジャーの概要 東映による制作で「戦隊」の名を持つが、「公認」のスーパー戦隊シリーズからは「非公認」扱いとなるセルフパロディ作品。東映が深夜枠向けの特撮作品を制作するのは、『Sh15uya』以来7年ぶりである。また、スーパー戦隊シリーズの放映局であるテレビ朝日は制作に関与せず東映の単独制作となっているため、テレビ朝日の制作クレジットが本作にはないうえ、従来のスーパー戦隊シリーズを放映してきたテレビ朝日系列地上波ではなく、同社系列のBSデジタル放送局であるBS朝日や独立局であるTOKYO MXで放送された。1クール全13回(最終回は総集編)。主な舞台を秋葉原(アキバ)とし、主人公たちはフィギュアや痛車などの萌え要素を持ったアイテムを駆使して戦う。メンバーはレッド・ブルー・イエローの3人編成だが、男性はレッドのみであとの2名は女性である。また、子供向け番組である従来のスーパー戦隊シリーズでは表現しにくいお色気要素や、若干品のない表現なども含めた大人向け描写を取り入れている。非公認ではあるものの、随所に公認のスーパー戦隊の映像やネタが盛り込まれている本作はスーパー戦隊シリーズをフィクションと定義したメタフィクションであり、『特捜戦隊デカレンジャー』のデカレッド役の載寧龍二が本人役で出演したり、緑川光が声を当てているキャラクターを緑川の愛称にちなむ「グリリバ声」と評したりするなど、現実世界の俳優や声優が現実として存在する設定となっている。お色気ネタやおたくネタなど際どいネタが散りばめられていること、そしてスーパー戦隊の実在を信じる未就学児への配慮から、「良い子は見ちゃダメ(だぞ)っ!」というキャッチコピーが付けられているほか、未就学児の夢を壊しかねないうえに彼らにとって相応しくない表現や台詞のうち過激なものは、モザイク処理やピー音で隠されている。握手会に参加した未就学児に対しても、スタッフが「今だけ応援してね。放映は見ないように。」と注意を促している。2013年1月11日には東京国際フォーラムにて開催された『超英雄祭』に赤木信夫が登場して第2シーズンの製作が発表され、後日には公式サイトでも概要が発表された。タイトルは『非公認戦隊アキバレンジャー シーズン痛』となり、放映局に兵庫県の独立局であるサンテレビも加わっている。
非公認戦隊アキバレンジャーの企画経緯 東映プロデューサーの日笠淳によると、2011年に制作されたシリーズ35作記念作品『海賊戦隊ゴーカイジャー』は過去の戦隊ファンから予想を越える反響があり、スーパー戦隊でも年長のファン向け商品が成立する手応えを感じた。これにより、『ゴーカイジャー』終了後もファンに喜ばれる作品として本作の企画に至った。企画段階での仮題は『深夜戦隊』で、タイトル案には『海賊版戦隊ゴカイジャー』というものもあった。秋葉原というモチーフは、スーパー戦隊シリーズや仮面ライダーシリーズとは被らないであろう要素として選ばれた。メンバー構成は、公認側では出来ない要素として女性の比率が多くなっている。企画段階では、女性レッドと男性2人という案も存在した。3人戦隊という構成は、当時展開中であった『特命戦隊ゴーバスターズ』と同じであるが、本作品は大人向けとして割り切られていたため特に問題にはならなかったという。妄想の世界で戦うという展開は映画『エンジェル ウォーズ』を参考にしている。バンダイでは、可動フィギュアシリーズS.H.Figuartsでスーパー戦隊シリーズのキャラクターを導入し始めていたが、仮面ライダーシリーズほどの売上は得られず、大人ファンの獲得が命題となっていた。S.H.Figuartsを手がけるバンダイコレクター事業部の原昇は、前年までボーイズトイ事業部に在籍していたことから東映とも繋がりがあり、東映側に相談を持ちかけたところ本作品の企画意図と合致し、S.H.Figuartsを中心とした商品展開が行われることとなった。そのため、アキバレンジャーのキャラクターデザインはフィギュア化を前提に進められ、美少女フィギュア風の髪型のディテールが取り入れられているほか、胸部のクリアパーツや黒地のハードディテールなど大人向けやフィギュア映えが意識されており、肘や膝なども関節パーツ状のディテールとなっている。女性が多いメンバー構成は、フィギュアの購買層である男性ファンを意識してのものであったが、監督の田﨑竜太は実際にはアキバレッドが男性ファンの人気を集めていたと証言している。過去作品の小道具などについては『ゴーカイジャー』時に作成された倉庫のリストを活用している。第4話の地球守備隊の制服も『電撃戦隊チェンジマン』当時のものである。一方で、『激走戦隊カーレンジャー』のゾンネットの衣裳など所在が確認できず使用できなかったものもあるという。当初は全12話になるか全13話になるかはっきりしていなかったため、どちらでも対応できるように第12話が物語上の結末となった。
非公認戦隊アキバレンジャーの企画経緯(シーズン痛) シーズン1終了後の2012年8月頃から続編以外の可能性も含め『アキバレンジャー』の継続企画が検討され、最終的に主演の和田正人のスケジュールや意向を踏まえて続編として『シーズン痛』が制作されることとなった。しかし、シーズン1の展開をそのまま引き継いでしまうと明るく楽しい作品にはならないだろうとの判断から、シーズン1の結末を覆す形での物語の開始となった。内容については、シーズン1では特撮ファン以外のマニアにも向けたネタも取り入れていたが、シーズン痛では前作で視聴者が『アキバレンジャー』の世界観に踏み込んだことを踏まえ、戦隊ネタを意図的に濃くしている。過去の作品を再現したシーンでは、フィルム合成の質感を再現したり、当時のアナログ技術を用いるなどしており、監督の田﨑竜太は過去の技術を蘇らせる意図があり、また視聴者に作り手意識を味わってもらうことも狙いであったと述べている。アキバブルーは、青柳美月役の日南響子のスケジュールの都合により、澤田汐音が演じる石清水ルナが変身する二代目となった。澤田は本作品がテレビドラマ初レギュラーとなった。監督の鈴村展弘は、企画段階では二代目の設定は存在しなかったことを証言している。制作は、パイロット監督の田﨑がテレビドラマ『科捜研の女』の撮影中であったため、鈴村展弘が担当する第4話・第5話からのクランクインとなった。劇中では登場人物が続編を希望するセリフを発しているが、プロデューサーの日笠淳は物語としては2作で完結したと位置づけている。
非公認戦隊アキバレンジャーのキャスティング 葉加瀬博世役の内田真礼は声優が本業であり、本作品が実写初出演であった。本位田さやか役の森田美位子も本作品が女優デビュー作となった。三田こずこず役の愛川こずえも女優ではなくネットアイドルグループDANCEROIDのメンバーであり、監督の田﨑竜太からの提案により起用された。第6話・第7話には同じくDANCEROIDのメンバーであるいとくとらもゲスト出演している。ドクターZ役の声優矢尾一樹は、監督の鈴村展弘と『忍者戦隊カクレンジャー』以来の付き合いであり、当時から実写での出演を約束していたことから本作品へ参加した。しかし実際には重要部分の演出は鈴村組ではなく田﨑組であった。第5話ゲストの松本梨香も鈴村とは飲み友達であり、以前より実写での出演を希望していた。スーパー戦隊シリーズが存在している世界観のため、過去の戦隊キャストは本人役または過去に演じた役のみでの出演となった。都築タクマ役の高木心平は、候補に挙がっていた兄の高木万平では別役にできないため起用された。第6話での新堀和男の稽古相手は、同話でレッドホークのスーツアクターを務めた前田浩が演じていたが、信夫はティラノレンジャーなどを演じていた前田も知っているのではないかとの判断から、前田の顔は見せないかたちでの撮影となった。第3話の初期稿では、信夫が男性の少ないアキバレンジャーにグリーンとブラックを加入させるため、名前に色の入っている声優の緑川光と黒田崇矢をスカウトしようとする展開が存在し、その名残から両者が係長役で出演した。デリューナイト役の平田広明は、キャラクターデザインのさとうけいいちの事務所を訪れた際にさとうから出演を依頼された。
非公認戦隊アキバレンジャーのあらすじ(シーズン1) 秋葉原では今、特撮テレビドラマスーパー戦隊シリーズと美少女アクションアニメ『にじよめ学園ズキューーン葵』が人気を二分している。この2つのキャラクターを基に、「戦隊カフェひみつきち」店長の葉加瀬博世は新しいヒーローを作り出した。博世はこの街のカルチャーを愛する1人のおじさんと2人の若者、赤木信夫・青柳美月・萌黄ゆめりあをスカウトし、『ズキューーン葵』のフィギュアを模した変身アイテムモエモエズキューーン(MMZ-01)を渡し、3人組のヒーロー非公認戦隊アキバレンジャーに変身させる。3人は秋葉原の平和を乱す敵邪団法人ステマ乙(じゃだんほうじんステマおつ)を相手に日夜戦うが、その戦いは現実世界で起こっているものではなく「モエモエズキューーン」によって彼らの妄想が増幅された結果、妄想世界で展開されているものだった(第1話 - 第6話)。やがて、ある事件をきっかけにアキバレンジャーの戦場は妄想世界から現実世界へ移ると思われたが、その果てには予想外の出来事が待ち受けていた。
非公認戦隊アキバレンジャーのあらすじ(シーズン痛) ステマ乙との最終決戦から9か月後。アキバレンジャーは解散し、信夫は佐々木ポンポコデリバリーの一社員に戻って何事もない日々を過ごしていたが、かつて戦った日々は大切な思い出として脳裏に焼き付いていた。久々にひみつきちを訪れ、博世やこずこずと共に思い出を語り合った帰り道、信夫はとある店でアキバレンジャーが17番目のスーパー戦隊『五星戦隊アキバレンジャー』として公認され、キャラクターグッズも堂々と販売されているのを目にする。本来なら17番目の作品は『五星戦隊ダイレンジャー』のはずだが、ひみつきちの面々以外はアキバレンジャーこそが17番目と信じて疑わない。それどころか、リュウレンジャーとキバレンジャーが洗脳され、設定が改変されてしまっていた。その一件を解決した後も、別の作品や実在の人物が改ざんされる怪現象が次々に発生していく。これらの現象は、ステマ乙に代わる新しい悪の組織新次元頭脳改造地下真帝国バロスw(しんじげんずのうかいぞうちかしんていこくバロスワラ)が、現実世界に存在する既存の作品を改ざんすることでその作品のファンたちとアキバレンジャーの妄想力を低下させ、現実世界へ侵攻しやすくするために起こしていた作戦だった。信夫たちは2代目ブルーとして急遽スカウトした石清水ルナと、萌黄ゆめりあ改め横山優子と共に、現実世界の作品を守るためにバロスwに立ち向かう。『シーズン痛』では、第一期とは設定と出来事が多少異なる信夫たちの回想を語った第1痛からスタートする。ここでは、第一期終了時までの「ステマ乙が妄想世界を抜け出して『作中の現実世界』へ侵攻する」という展開ではなく、全く違った展開・結末でシーズン1が終了したということになっている。第11痛にてマルシーナの指摘により、ルナを除くひみつきちのメンバーはシーズン1での自分たちが作品の中の登場人物であるということも含めた、すべての記憶を思い出した。またマルシーナの八手三郎に対する干渉によってシーズン痛が開始された際に登場人物(マルシーナを除く)たちは、上記の設定でシーズン1が終わったという記憶に書き換えられていたということも発覚した。
非公認戦隊アキバレンジャーの音楽 選曲担当の大森力也が用意した音楽メニューに沿って川井憲次がBGMを作曲・編曲。「信夫の頭の中ではこう聞こえているはず」という、カッコイイながらどこか抜けていたり古臭く聞こえたりする曲を、「残念」を合言葉に製作した。川井はまた、ボーカロイドの声も入力した(初音ミクを使用)。
非公認戦隊アキバレンジャーの携帯アプリ バンダイナムコゲームスより『ズキューーン葵 萌こみゅアプリ』がスマートフォン向けに配信されている。コミュニケーションアプリであり、無料ガチャ(一部有料)を引くことにより「にじよめ学園ズキューーン葵」の世界観を追体験でき、葵との会話も楽しめる。
非公認戦隊アキバレンジャーの玩具 バンダイ(現在はBANDAISPIRITS)の可動フィギュアシリーズS.H.Figuartsより、レッド・ブルー・イエロー3名の商品化された。レッドの初回限定版には、アキバレンジャーのロゴが入れられた3人分の特製展示スタンドが付属する。同シリーズのデカレッド・ボウケンレッド・レッドホークにはそれぞれデカワッパー・ボウケンスコッパー・ジェットウインガーが付属しており、これらをアキバレンジャーに装備させることや、ダイソレタキャノンを再現することも可能。また、モエモエズキューーンも9月下旬の商品化が決定し、劇中同様のディテールと変形ギミック・音声の完全再現がなされている。イタッシャーロボもS.H.Figuartsブランドで11月発売が決定しており、変形できるだけでなく3人が搭乗可能なビッグサイズになっていて、価格もサイズもシリーズ最大級のものとなっている。宣伝文句は「高いが安い」。S.H.Figuarts関係のCMは本作品で葉加瀬博世を演じている内田真礼が行っているが、モエモエズキューーンのCMは玄田哲章が公認様のCMを意識したナレーションを行った。さらに魂ウェブ商店限定でデリューナイトとシャチークも商品化された。また、シーズン痛の第1痛で巨大戦の際にS.H.Figuartsのアキバレンジャー及びイタッシャーロボが使用されている。同じくバンダイのトレーディングカードゲーム「クルセイドシステムカードシリーズ」でも、ブースターパックとしてリリースされている。このブースターのために「非公認」という追加ルールが制定された。これは、出典が「非公認戦隊アキバレンジャー」以外のカードを「公認様」として扱い、それらがいない間は大変強いが、場に公認様が出てきた途端に弱体化してしまうというものである。ただし、キャラクターの特殊能力などで公認様を無理やり「非公認」扱いとすることで、元の強さを取り戻すことが出来るという特徴がある。また、これまでリリースされたカードは全てアニメ化された作品が出典であるため、アニメから抜粋した絵、あるいは描き下ろしイラストが描かれていたが、このブースターパックでは実写シーンをそのままカードに載せている。シーズン痛ではS.H.Figuartsにて、超アキバレッド、アキバブルー(シーズン痛Ver.)、アキバイエロー(シーズン痛Ver.)が商品化された。ブルーとイエローにはダイレンボンバー(イエロー)・ジュウレンバックラー(ブルー)・ハリケンボール(ブルー)が付属しており大それたバズーカを再現することも可能。また同シリーズのデカワッパー・ボウケンスコッパー・ジェットウインガーと組み合わせて大それてるキャノンバズーカも再現可能。同シリーズで販売されたリュウレンジャー、キバレンジャー、ティラノレンジャー、ドラゴンレンジャー、ハリケンレッドは本編に登場したチャイナレッド、非公認マークの付いたキバレンジャー、レッドレンジャー、グリーンレンジャー、シュリケンジャーのマークの付いたハリケンレッド用の差し替えパーツが付属している。さらに第12痛に一瞬だけ登場した超アキバレッド・スーパーがイタッシャーボーイ用デカール(イタッシャーロボに貼ることでイタッシャーボーイに変更できる)付属で発売された。また、なりきりアイテムとしてモヤモヤズキューンとムニュムニュズバーーンが商品化された。後者は前シーズンのDXモエモエズキューンと合体させることが可能である。また、プレミアムバンダイ限定で、レソジャーキー(海賊戦隊ゴーカイジャーの変身アイテムであるレンジャーキーのパロディー)のセット販売(レッド1種・ブルー2種・イエロー2種)を行っている。ただし、非公認らしくモバイレーツなどには挿さらない。
非公認戦隊アキバレンジャーの映像ソフト化 第1作は2012年7月27日にバンダイビジュアル(現在はバンダイナムコアーツ)からDVD、Blu-ray Discが発売された。共に全4巻。
趙承洙の人物・来歴 1996年、東国大学校生命資源経済学科を卒業。元来1981年に入学していたが、1982年、全斗煥軍事独裁政権を打倒するとの内容の学内デモを主導したため、除籍された。彼はこのために拘束・収監され、1983年8月に出所した。その後、蔚山で労働運動を展開し、1986年10月、国家保安法違反で再び拘束され、1987年9月に出所した。彼は出所すると、蔚山に「新しい夜明け書店」という社会科学専門書店を開いた。1989年、現在は現代重工業に統合された、現代エンジンの従業員に対するテロ事件が発生した。趙承洙は、この事件に関与したとして国家保安法違反で2年余りの獄中生活を送った。新しい夜明け書店では、当時ペンネームで活動していたが、ファン・グァンウの著作を販売しており、捜査の過程で労働組合員が新しい夜明け書店でファン・グァンウの著作を購入したことが発覚し、とんでもない書店だと非難の嵐になった。1991年からは民衆党に参加し、活動した。この経験は、以後1993年までに始めた「進歩政党推進委員会」活動の基盤となった。1994年からは、環境運動に関心を抱き始め、1995年に蔚山北区から市議会議員に当選した後、蔚山環境運動連合の責任室長を務め、参与連帯蔚山支部共同代表も勤めた。1998年には、無所属で蔚山北区長に当選し、「全国最年少基礎団体長」という別名を得た。2004年に実施された第17代総選挙で、蔚山北区から出馬し、ユンドゥファン候補を7000票差余りで破った。しかし、区の懸案であった飲食物処理施設と関連して署名運動に参加したことで、2005年に事前運動の疑いで中央選挙管理委員会から告発され、2005年9月29日、大法院で判決が確定し、議員職を剥奪された。趙承洙側は、これについて、「選挙運動ではない。地域の世論の動向を把握しようとしたまでで、金品の受け渡しなどの違法行為は一切なかった。進歩政党弾圧の一環だ」と主張した。民主労働党と、同僚議員は、趙承洙を救援する嘆願運動を行ったが、議員職を回復することはできなかった。現在は、民主労働党を去り、進歩新党で活動している。2009年の蔚山北区国会議員再選挙で、民主労働党との候補一本化に成功し、進歩陣営単一候補として出馬し、4月29日当選した。2010年10月の党大会で党代表に就任後、かつて袂を分かった民労党を含めた新しい進歩政党建設に動き出した。しかし核開発や3世代権力世襲など北朝鮮問題において、進歩新党が民労党側に譲歩することになったため、党幹部や党員から強い反発があがった。紆余曲折を経て、2011年9月25日に統合進歩政党の創党大会を開催することで合意したものの、9月4日に行われた党大会において民労党との合党案への賛成票が成立に必要な3分の2に満たず否決されたことで、民労党との合党議論は解消されることとなった。統合が解消されたことを責任をとって趙承洙代表は、党大会の翌9月5日に代表を辞任することを表明した。代表辞任後、シム・サンジョンなど共に進歩新党を離党して統合進歩党に参加したが、2012年4月に予定されている第19代総選挙の野党統一候補を決定する予備選挙で民主統合党候補に敗れた。2014年6月の第6回全国同時地方選挙では、正義党から蔚山市長選挙に出馬、統合進歩党や新政治民主連合の支援も受けたが、セヌリ党候補のキム・ギヒョンに大差で敗れた。
毛脩之の経歴 東晋の梁秦二州刺史の毛瑾の子として生まれた。荊州刺史の殷仲堪の下で寧遠参軍となった。399年(隆安3年)、桓玄が荊州を掌握すると、脩之は桓玄の幕僚として後軍参軍・太尉参軍・相国参軍を歴任した。音律を解し、騎射を得意としたので、桓玄に厚遇された。403年(元興2年)、桓玄が楚の皇帝を称すると、脩之は屯騎校尉となった。404年(元興3年)、桓玄が西に逃亡し、崢嶸洲で敗れると、脩之はひそかに桓玄を見放し、桓玄に入蜀を勧めて、馮遷が桓玄を枚回洲で斬るのに貢献した。東晋の安帝が江陵で復位すると、脩之は驍騎将軍の位を受けた。405年(義熙元年)、安帝が建康に戻ると、脩之は劉裕の下で鎮軍諮議参軍となり、寧朔将軍の位を加えられた。まもなく右衛将軍となった。406年(義熙2年)、父の毛瑾とともに蜀の地にあったが、父は譙縦に殺され、また益州刺史の司馬栄期が参軍の楊承祖に殺されたため、脩之は白帝に退いた。楊承祖の攻撃を防ぎ、漢嘉郡太守の馮遷と合流して楊承祖を討ち、これを斬った。脩之は後蜀を攻撃しようとしたが、益州刺史の鮑陋が進もうとしなかったため、劉裕に訴えた。東晋の諸軍が後蜀を攻撃し、黄虎まで進軍したが、勝利できずに退却した。譙縦が脩之の父の遺体を返還したため、脩之は建康に帰って喪に服した。410年(義熙6年)、盧循の反乱が建康に迫ると、脩之は輔国将軍の位を受け、宣城郡内史に任じられ、姑孰に駐屯した。盧循が敗走し、劉毅が姑孰に入ると、脩之は劉毅の下で後軍司馬となった。劉毅が江陵に移ると、脩之はその下で衛軍司馬・南郡太守となった。脩之は劉毅の幕僚であったが、劉裕と親しく、412年(義熙8年)に劉裕が劉毅を討つと、王鎮悪の江陵襲撃に協力した。朱齢石の後蜀攻撃に従軍を求めたが、劉裕に許されず、建康に帰ると黄門侍郎・右衛将軍となった。415年(義熙11年)、劉裕が司馬休之を討つと、脩之は諮議参軍となり、冠軍将軍・南郡相を兼ねた。416年(義熙12年)、劉裕が北伐を計画すると、脩之は芍陂に派遣され、田数千頃を開墾した。北伐軍が彭城に到着すると、脩之は相国右司馬となった。北伐軍が洛陽を占領すると、脩之は河南河内二郡太守・行西州事を兼ねて、洛陽に駐屯した。417年(義熙13年)、王鎮悪が死去すると、脩之は代わって安西司馬となった。劉裕が後秦を滅ぼし、子の劉義真を長安に残すと、脩之は劉義真の下で司馬となった。418年(義熙14年)、夏の赫連勃勃が劉義真を青泥で撃破すると、脩之は捕虜となった。427年(北魏の始光4年)、北魏の太武帝が赫連昌を討って統万を平定すると、脩之は魏軍に捕らえられた。429年(神䴥2年)、脩之は江南出身の兵を率いて柔然の大檀を討ち、功績により呉兵将軍の位を受け、歩兵校尉を兼ねた。430年(神䴥3年)、太武帝の赫連定に対する親征に従軍して功績を挙げ、散騎常侍・前将軍・光禄大夫の位を受けた。脩之は江南の料理を手ずから調理することができたので、太武帝に気に入られた。太官尚書に進み、南郡公の爵位を受けた。冠軍将軍の位を加えられ、太官にあって太武帝に食膳を進めた。延和年間、北燕に対する征戦に従って、三堡を落とした。江南出身である朱修之に反乱計画への参加を誘われたが、拒絶した。北燕征討の功績で特進・撫軍大将軍・金紫光禄大夫に進んだ。436年(太延2年)、外都大官となった。446年(太平真君7年)、死去した。享年は72。諡は恭公といった。
小侍従 (細川ガラシャの侍女)の経歴 明智珠(後のガラシャ)が細川忠興に嫁ぐ際に、珠の父・明智光秀がつけた侍女。明智光秀が本能寺の変において主君であった織田信長を自害に追い込み、山崎の戦いにて豊臣秀吉に殺害されると、娘である珠は忠興によって味土野に幽閉される。小侍従はそれに従い、味土野にて出家した。後に秀吉の許しが出て、大坂に戻ると秀吉に拝謁した。その際、小袖を賜った秀吉が伏見城見物に、と珠を呼んだ際は代わりに登城した。その後、忠興の命を受け、細川家家臣・平田因幡に嫁いだ。後に娘・ややをもうける。 嫁いだ後も度々、ガラシャと手紙のやり取りをしていた。因幡の死後は、出家し妙寿と号し、夫の甥にあたる松本彦之進を婿養子に迎えた。
長島町浦安の地理 桑名市東南部の長島町の最南端に位置し、東側を木曽川、西側を揖斐川・長良川、南側を伊勢湾に囲まれた河口部にある。北側は同市長島町松蔭に接している。ナガシマスパーランドの敷地が浦安の総面積の大部分を占める。
長島町浦安の歴史 『富田氏記』によると江戸幕府領として1823年(文政6年)から4年間かけて開発された「老松輪中」が現在地に関する記録で最も古い。この老松輪中は周辺の新田集落を含んだ輪中地帯で、江戸時代を通じて自然災害による堤防の決壊、村の水没を繰り返した。1860年(万延元年)の大風高波にともなう堤防決壊の際には、地主らは老松輪中全体の復興を諦め、農民の居住地のみの復興を行い、新田は見捨てられた。明治時代になると木曽三川分流工事(1887年〔明治20年〕 - 1912年〔明治45年〕)により、木曽川河川敷になったが、美濃国の水谷小三郎を筆頭とする4名の出資で松蔭新田として再開発が行われた。以後、農村としての時代が続く。1963年(昭和38年)8月、現在の浦安地区で天然ガス探査中に源泉温度60℃の温泉が湧出、翌1964年(昭和39年)11月にグランスパー長島温泉が、1966年(昭和41年)3月にナガシマスパーランドが開業した。1979年(昭和54年)には長島温泉周辺が松蔭地区から独立した大字、浦安となる。
長島町浦安の地名の由来 「浦安」の地名は、松蔭地区から分離する際に域内にあった「浦安神社」から取ったものである。ちなみに東京ディズニーリゾート所在地の千葉県浦安市とは地名の由来が異なる。