text
stringlengths 7
29.6k
|
---|
駐退機の駐退機 砲身は揺架と呼ばれるレールに設置されており、砲身と揺架は駐退復座機を介して繋がっている。発砲時に砲身が受けた反動はロッドを介してピストンを動かす。ピストンに圧された作動油はシリンダーに空けられた漏孔と呼ばれる細い穴を通じてのみ排出されるため、その流動抵抗によって砲身の後退はゆっくりしたものとなる。 |
駐退機の復座機 復座機側のシリンダーは筒状の圧力タンクであり、駐退機とは作動油の流路を介して繋がっている。復座機のシリンダー内には不活性ガスが充填されており、砲身の後座に伴って作動油が流入すればガスが空気ばねとして働くことになる。砲身が停止したあと、それまで圧縮されていたガスは作動油を駐退機のシリンダーへと押し戻し、作動油の抵抗によって砲身がゆっくりと復座する。発射時に砲身が受けた後方への衝撃的な力が、時間を引き延ばした形でゆっくり地面に伝えられるとともに、作動油が漏孔を通るときの摩擦熱や圧縮ガスの発熱などに変換されて減衰することになる。駐退用の緩和材料に、上述の通り初期にはバネを用いたがM1897 75mm野砲において液体が用いられた。液体にはグリセリン、オレオナフタなどが用いられる。 |
駐退機の後座長 砲身が駐退に伴って揺架上を押し出されることを後座と呼び、押し出される長さが後座長である。一般に後座長が長ければ長いほど、単位時間当たりの後座抗力も小さくなり衝撃も緩和される。反面で後座長が長いと、大射角での射撃時に砲尾が地面に接触してしまうため、地面を開削するか、大射角時の後座長を制限するための変換装置を設ける必要がある。例としては三八式野砲の後座長は1.2mであった。 |
駐退機の銃 上記の大砲に組み込まれる物ほど大がかりな装置ではなく駐退機と呼ぶこともしないが、脚などのマウント部分やストック後部にバネを仕込む等、反動の影響を抑える目的の仕組みが一部のライフルや機関銃で採用されている。また、自動火器では射撃のつど、実包の発生するエネルギーをもとに遊底などの部品が動くことになるがこの際、自動式でない火器と比べて射手や固定脚への反動の伝達が遅延される。副次的な効果ではあるが、命中精度に影響する事もある。 |
SP セキュリティポリスの概要 SPだった同僚が警備対象者を守るために殉職したのを機に、1人の刑事が命を張って守るものは何かを知るためにSPになり、警備対象者の警護をするストーリー。「SP志願編」、「野党党首警護編」、「小国大統領警護編」、「アメリカ合衆国商務次官警護編」が描かれている。 |
フィリップ・デュサールの人物・来歴 フランスのサルト県ル・マンに生まれる。27歳になる1955年、レ・プロデュクシオン・ド・パリが製作したジョルジュ・ルーキエ監督のドキュメンタリー短篇映画『ルルドとその奇蹟』のプロデューサーとしてクレジットされたのが最初である。同作には助監督として、ジャック・ドゥミが参加している。33歳になる1961年、アナトール・ドーマンがプロデュースしたロジェ・レーナルト監督の長篇劇映画『真夜中のランデヴー』に製作主任として参加している。同年、ジョルジュ・ド・ボールガールとカルロ・ポンティがプロデュースしたジャン=リュック・ゴダール監督の『女は女である』、ミシェル・ドヴィル監督の『今夜じゃなきゃダメ』にそれぞれ製作主任として参加し、現場を仕切った。以降、ゴダール作品は『中国女』(1967年)まで、ドヴィル作品は Le Dossier 51 (1978年)まで多くの作品の現場を担当した。1963年に公開された、アナトール・ドーマンのプロデュース、アラン・レネ監督の『ミュリエル』に製作主任として参加、以降、多くのレネ作品の製作現場を仕切り、1977年公開の『プロビデンス』ではエグゼクティヴプロデューサーとして企画・製作を統括した。1978年からは、製作プロダクション「フィリップ・デュサール」社代表として、映画を製作した。 |
キタノホッケの分類 キタノホッケははじめLabrax属として記載されたが、その後現行のホッケ属(Pleurogrammus)に移された。命名者は1810年に本種を記載したペーター・ジーモン・パラスである。キタノホッケはホッケと同種とみなされていたことがある。しかし実際には別種であることが分子系統学の研究によって明らかになった。 |
キタノホッケの分布 本種は北太平洋でしかみられず、ベーリング海やアリューシャン列島からアラスカのアイシィー湾に至る海域などから報告がある。日本では北海道の太平洋岸で見られる。まれにカリフォルニア州のレドンドビーチなど南方で発見される。 |
キタノホッケの形態 記録されている最大体長は56.5cmで、最大体重は2.0kgである。成魚は体に5本の垂直な黒色の縞があり、この点で同属種のホッケと区別できる。キタノホッケは他の近縁種と椎骨数や軟条の数で区別できる。椎骨数は21、背鰭の軟条の数は25から29である。本種は一般的に潮間帯から水深575mくらいまでの海域でみられる。 |
キタノホッケの生態 寿命は最大で14年ほどである。本種はアリューシャン列島では7月から9月ころに産卵をする。卵は岩の裂け目に付着し,孵化までの40から45日間、オスが卵を防衛する。本種はオキアミやカイアシ類を捕食し、ギンザケやトドなどに捕食される。 |
キタノホッケの人間との関係 キタノホッケは漁獲され食用とされる。マホッケより深い海域に生息するため、脂肪分が多く傷みやすいので鮮魚としての流通はなく、日本ではロシア産の冷凍輸入品が流通し、開き干しなどに加工され、みりん干し、粕漬けにもされる。そのほかスポーツフィッシングの対象にもなり、アメリカの魚類学者デイビッド・スター・ジョーダンは本種を釣る楽しさについて述べた文章を残している。 |
夢乃聖夏の人物 中学時代は、夏はソフトボール、冬は駅伝部のメンバーとして活動。バレエは週1回ほどのレッスンだったが、休む事が多く、先生に名前も覚えてもらえないぐらいの存在だったという。長身を見込まれて、周囲から「宝塚を受けてみたら」と勧められて受験。「記念受験」のつもりで臨んだが、合格を果たす。 |
湧水ふるさとバスの概要 路線は全部で9路線あるが、夏休み・冬休み・春休み以外の平日は8路線、夏休み・冬休み・春休みと土曜・日曜・祝祭日は6路線で運行される。 |
ジェームズ・サマヴィルの第二次世界大戦まで ジェームズ・サマヴィルは、アーサー・フォウンズ・サマヴィル(1850年-1942年、一時ニュージーランドで羊の牧畜をしていたと言われる)の息子として、サリーのウェイブリッジで産まれた。1897年1月15日に士官候補生としてイギリス海軍に入隊し、1904年3月15日に大尉に任官している。やがて彼は、無線に関するイギリス海軍内の第一人者となった。第一次世界大戦では、ガリポリの戦いに参加しDSOを獲得している。サマヴィルは戦後も海軍にとどまり、1921年12月31日に大佐に任じられ、戦艦ベンボウの艦長となった。1925年から1927年までは、海軍本部の信号部長の職にあり、1929年から1931年までは国防大学の教官を務めた。1932年には代将に、次いで1933年10月12日には少将に昇進している。1936年から1938年まで、彼は地中海艦隊の駆逐艦戦隊を指揮し、この間(1937年)中将に任じられた。スペイン内戦時にはマヨルカ島を共和国軍側から防衛するために、援助を与えている。1938年からは東インド艦隊の司令官となり、1939年に健康上の理由から退役を余儀なくされるまでこれを務めた(はっきりと分かっていないが、結核が理由だといわれている)。 |
ジェームズ・サマヴィルのインド洋にて 1942年3月、サマヴィルはジェフリー・レイトン大将の後を受け東洋艦隊の司令長官となった。東洋艦隊はシンガポール陥落以降、セイロン島のツリンコマリー軍港を根拠地としていたが、サマヴィルは安全が十分に確保されていないと考え、モルディブのアッドゥ環礁(別名シーヌー環礁)に新たな前進基地を建設するように命じた。この頃、日本軍はビルマに進攻しつつあり、また3月下旬にはアンダマン諸島を占領したため、東洋艦隊の大部分はアッドゥ環礁かケニヤのモンバサにあるキリンディニ港に退避することとなった。4月に入って行われた、南雲忠一中将指揮下の日本の機動部隊によるセイロン島空襲は、ツリンコマリーから退避するというサマヴィルの判断が賢明であったことを示した。1隻の軽空母と2隻の重巡洋艦が沈められた後、サマヴィルは日本艦隊への反撃を試みるが成功しなかった。もっとも、反撃が成功したとしても彼の手元にあった2隻の空母を中心とした艦隊では、かえって日本艦隊に圧倒されてしまった可能性もある(セイロン沖海戦)。1944年に入ると、サマヴィルは増援を得て攻勢に転じ、日本占領下のオランダ領東インドへの空襲作戦を実施した。これによりイギリス海軍航空隊の将兵は、後の太平洋における作戦で必要とされる知識を得ることが出来た。 |
ジェームズ・サマヴィルのその後 1944年8月、サマヴィルは東洋艦隊司令長官の座をブルース・フレーザー大将に譲ると、2カ月後、ワシントンD.C.に置かれた英海軍本部代表団代表に任じられ、1945年12月までこの職を務めた。サマヴィルは-ほとんどの人にとって驚きであったが-気難しく、反英的な人物だとして知られるアーネスト・キング米艦隊司令長官と非常によい関係を築いた。1945年5月8日、サマヴィルは海軍元帥に任命され、戦後現役を退いた。1946年8月にはサマセット州知事となり、同地の一族ゆかりの館であるディンダーハウス(en)で暮らした。1949年3月19日、同館で死去。 |
フォレスト・アベニュー駅の出口 メザニンは駅東端にあり地上へはフォレスト・アベニューとプットハム・アベニュー交差点の西側に階段が2つ下りている。 |
飛翔:QUANTUM LEAPの概要 本作は2019年5月から7月まで韓国等アジアで放送されたMnetの公開オーディション番組『PRODUCE X 101』から誕生したX1のデビューアルバムとしてリリースされた。11名のX1メンバーが一つとなり、飛翔するという希望をこめた「飛翔 Ver.」と、大きな飛躍を夢見るX1の意志をこめた「QUANTUM LEAP Ver.」の2形態で販売されている。 |
飛翔:QUANTUM LEAPのチャート成績 iTunesの総合アルバムダウンロードの各国チャートでは、台湾・タイ・シンガポール・インドネシアなどで2019年8月28日付で1位にランクインしている。また、タイトル曲「FLASH」が韓国のオンライン音源配信サイトMelOnチャート1位(2019年8月28日午前7時基準)となった。日本では2019年9月9日付オリコン週間アルバムチャートで初登場4位で初動売上枚数が29,990枚を記録した。 |
飛翔:QUANTUM LEAPの関連項目 PRODUCE X 101 - アルバム収録曲「U GOT IT」「움직여(MOVE)」が番組内のコンセプト評価の課題曲として使用された。 |
長生人寿保険の概要 2003年に、上海広電有限公司と日本生命保険の合弁で長生人寿保険を設立。2009年9月、中国側パートナーを長城資産管理公司に変更して現在に至っている。 |
長生人寿保険の事業の状況 2012年までに、外資系生命保険会社として首位となることを目指している。 |
第5ラテラン公会議の地動説のきっかけ この公会議では、ユリウス暦で計算された春分と実際の春分のずれが大きくなっている問題を解決するため、改暦が検討された(結局改暦は行われず、新暦(グレゴリオ暦)の制定は次のトリエント公会議後となった)。このときフォッソンブローネ司教パウル(Paul of Middelburg)がニコラウス・コペルニクスに相談したことが、コペルニクスが『天球の回転について』を著すきっかけのひとつとなった。 |
田中清行の経歴 山口県岩国市錦見出身。山口県立岩国高等学校、上智大学文学部卒業。会社勤務などを経て、1994年に出版社「四谷ラウンド」を設立。佐藤亜紀、兵頭二十八、松原隆一郎、潮匡人などの文芸出版や、『中学生の教科書』シリーズ『下町酒場巡礼』シリーズ、社会政治評論で『政治家の通信簿』などを80点近くの書目を刊行。四谷ラウンド文学賞を設け(第5回まで)、『モンスーン』『40's』などの雑誌を創刊した。2002年11月、四谷ラウンドは倒産し田中は自己破産した。2004年に市井文学株式会社を設立した。2006年、岩国飛行場の縮小・撤去を掲げて岩国市長選に立候補し落選した。 |
谷口亮の来歴 1997年、アメリカ合衆国カリフォルニア州のカブリオカレッジを卒業して帰国後、描いた2頭身のキャラクターを父親でイラストレーターの谷口富から褒められ1999年から本格的にキャラクターデザイナーを志す。大学在学中は水彩やアクリル、裸婦デッサンばかりでIllustratorやPhotoshopは帰国後に独学で覚え、路上で自作のキャラクターグッズを販売していた。2018年2月28日、谷口がデザインした「ア案」作品が小学生の投票により2020年東京オリンピック・パラリンピックの公式マスコットキャラクターに選出された。褞袍姿で記者会見に臨んだ谷口は「(受賞で)頭の中が真っ白になった」と語り、「(金銭面で苦労をかけた妻に)回らない寿司を食べさせたい」と笑いを誘った。2018年7月22日、2020年東京オリンピック・パラリンピックのマスコットキャラクター名が「ミライトワ」と「ソメイティ」に決定した。 |
日吉 (熊本市)の地理 熊本市南部に位置する。北と東で近見、南で南高江、西で刈草、北西で近見町と接する。汎称地名としての日吉は、一般的には現在の熊本市立日吉小学校(近見1丁目)及び熊本市立日吉東小学校(近見5丁目)の校区(近見・日吉・江越・馬渡(まわたり)・熊本流通団地)の旧日吉村 だった所全体を指す。 |
日吉 (熊本市)の鉄道 当地内には鉄道は通っていない。 |
ステファン・バートリ (ポーランド王)のトランシルヴァニア公時代 ステファン・バートリはバートリ・イシュトヴァーン8世の息子バートリ・イシュトヴァーンとしてソムリヨで生まれた。父はハンガリー王位についたサポヤイ・ヤーノシュの熱心な支持者で、そのライバルであったハプスブルク家のフェルディナント1世の即位に反対しており、1529年にはトランシルヴァニアの総督(ヴォイヴォド)職についたが、息子イシュトヴァーンが生まれた翌年に亡くなった。息子イシュトヴァーンは領主層の勇敢な指導者、神聖ローマ皇帝の宮廷における巧妙な外交官となった。イシュトヴァーンはサポヤイ・ヤーノシュの息子ヤーノシュ・ジグモンドのハンガリー王位要求を支持していたため、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世に憎まれ、2年間投獄されたこともある。1570年、ハプスブルク家とサポヤイ家の2つの宮廷は和解し、ヤーノシュ・ジグモンドは新たに創設されたトランシルヴァニア公国の統治者の地位に甘んじた。翌1571年にヤーノシュ・ジグモンドが死ぬと、ベーケーシ・ガーシュパールが後継者とする取り決めを破って、トランシルヴァニアの三身分議会はトランシルヴァニア公にバートリ・イシュトヴァーンを選出した。ベーケーシはハプスブルク宮廷の支持を取り付けて公位を要求したが、イシュトヴァーンは内戦に勝利してベーケーシを国外に追放した。1572年、当時のキリスト教世界で最も広大であり、最も人口の多い国の一つだったポーランド・リトアニア共和国で、国王ジグムント2世アウグストが後継者を残さずに死去し、王位が空位となった。1573年、先王の妹で唯一の王位継承権者であったアンナは、セイム(共和国議会)に働きかけて、フランス王子アンリ(ヘンリク・ヴァレジ)を新しい国王に選出させた。アンリは自らの王位を正統化するためアンナと結婚する必要があったが、アンリは戴冠式から1年も経たないうちにポーランドから逃亡してフランス王位を継承した(アンリ3世)。1575年12月12日、およそ1年半の空位期のあと、セイムは教皇代理の説得に従って皇帝マクシミリアン2世を国王に選出した。しかし、その3日後の12月15日に貴族階級(シュラフタ)は反乱を起こし、マクシミリアン選出を主導したセナト(共和国元老院)を脅迫し、「ピャストの王」、つまりポーランド人の王を選ぶよう要求した。激しい議論が交わされた結果、アンナをポーランド王として選出した上で、バートリ・イシュトヴァーンと彼女を結婚させることが決まった。この時、リトアニア代議員はセイムに出席しておらず、国王選出に関わることが出来なかった。バートリ・イシュトヴァーンを候補者として最も支持していたのはプロテスタントとソッツィーニ派(反三位一体派)だった。彼らはハプスブルク家出身の君主がポーランドに対抗宗教改革を持ち込んでくるのを恐れており、宗教的自由が保障されていたトランシルヴァニアの統治者バートリ・イシュトヴァーンを好ましく思っていた。アンナは1575年12月13日にワルシャワでポーランド王およびリトアニア大公に選ばれ、1576年5月1日、ステファン・バートリ(バートリ・イシュトヴァーン)はアンナと結婚して妻と同様の地位を得た。同年に兄のバートリ・クリシュトーフがトランシルヴァニア公に選ばれたが、1581年に亡くなり、甥のバートリ・ジグモンドが後を継いだ。この国王選出はルブリン合同の取り決めを無視したものであり、マクシミリアン2世を国王に選出する際にはリトアニアの代議員が出席しないままで事が進められた。このためリトアニアとの交渉が行われ、共和国におけるリトアニアの封建的諸権利が完全に保障されて、ステファンは正式にリトアニア大公、およびルテニアとサモギティアの公爵として認められた。大公として認められた見返りに、ステファンは1579年、共和国において3番目に新しい総合大学となる、イエズス会経営のヴィリニュス・アカデミー(後のヴィリニュス大学)を創設した。 |
ステファン・バートリ (ポーランド王)のポーランドの治世 ステファン・バートリの立場は当初きわめて困難なもので、国家は空位期の混乱のせいでかなり弱体化していた。マクシミリアン2世は先に国王に選出されたとして自身の王位を要求しており、国内の反バートリ派を煽動し、王位獲得のためにポーランドに攻め込むことを画策してモスクワ大公国と同盟したりした。しかしマクシミリアン2世が間もなく死んだおかげで、王位をめぐる危機は去った。ステファンに反対する全ての軍事的抵抗は、長期化した1577年のグダニスク包囲が和解に達した段階で終了した。ハンザ同盟の一員であるグダニスクは、高度な経済力と難攻不落に近い強固な要塞を備え、密かにデンマークとマクシミリアン2世の援助を受けていて、マクシミリアン2世の選出を支持してステファンの王位を否認した。6か月の包囲の後、5000人の傭兵で構成されたグダニスク軍は、1577年12月16日の野戦において国王軍に完敗した。しかしステファンの軍隊は力ずくで都市を陥落させることは出来ず、グダニスクと妥協するに至った。この和解において、ステファンはグダニスクの特別な地位、および歴代のポーランド王たちが承認してきたグダニスク法による同市の諸特権を確認した。これに対し、グダニスクはステファンをポーランドの主権者として認め、謝罪の証として20万金グルデンもの大金を支払った。グダニスクはその後、スウェーデンやモスクワ・ロシアとの交戦中も一貫して国王に忠誠を誓い続け、政府に求めに応じて政府への援助を行った。この勝利はステファンに国王としての権威を高める機会を与え、王権強化の試みは当時の実力者だったヤン・ザモイスキに支持された。2者は協力して、王冠領に対する課税を強化し、豊かになった王室財産を貴族に貸し出すなどして、幾つかの貴族(シュラフタ)の党派を味方につけた。またステファンはポーランド軍の改革を断行し、兵士・技術者としての訓練を受けた農民からなる、ピェホタ・ビブラニェツカと呼ばれる半常備軍の歩兵部隊を設置したほか、登録コサック制度や有翼驃騎兵(フサリア)なども本格的に導入された。さらに裁判所の組織など司法分野も改革の対象になった。ステファンは10年以上前に犯した殺人罪と反逆罪の未決囚であったサムエル・ズボロフスキの処刑を命じてもいる。対外関係では、ステファンは同盟関係の構築による和平政策を模索した。ステファンはハプスブルク家を信用していなかったが、教皇代理の仲介を受けてマクシミリアン2世の後継者ルドルフ2世と軍事同盟を結んだ。オスマン帝国との紛争は、1577年11月5日の和平調停によって一時的に中止された。ワルシャワで召集されたセイムは、国王からモスクワ大公国との不可避の戦争のための助成金拠出を要請された。吝嗇なセイムに何度も助成金支出を拒絶されたものの、敵であるモスクワ軍の進軍を止めるための2度の遠征と、続いて起きた長期にわたる包囲戦に国王は勝利した。また同時に、オスマン帝国と皇帝の彼の野心に対する疑念を、優れた外交手腕をもって取り除いた。モスクワ・リトアニア戦争の最終局面となったリヴォニア戦争において、ステファンは大法官ザモイスキと一緒に共和国軍の勝利を決定づけた遠征を直接に指揮した。イヴァン4世はリヴォニアに攻め入って共和国の属国となっていたクールラント公国の主要都市ドルパトを占領したが、共和国軍はヴェリーキエ・ルーキでロシア軍を蹴散らした。ステファンはロシアの中心地域にまで進軍し、1581年8月22日、少数の疲弊した共和国軍がプスコフの巨大な要塞を包囲した(プスコフ包囲)。ツァーリとポーランド王の紛争を調停すべく教皇庁が送り込んだ教皇代理アントニオ・ポッセヴィーノの包囲中止の要求や、指揮官たちの不満の声が挙がっていたが、北極の厳しい冬の間ずっとプスコフの包囲を続けた。結局、イヴァン4世は自国の第3の都市を守るために交渉を開始し、1582年にヤム・ザポルスキの和約が結ばれて、ロシアはポラツクを割譲した上、リヴォニアの占領地域を全て共和国に返還した。その後、東部国境の防衛のために、ステファンはオスマン帝国を仮想敵国とするモスクワ大公国との軍事同盟を締結しようと計画したが、ロシアが急激に弱体化したために軍事同盟が実現することはなかった。また、ツァーリのフョードル1世をステファンの後継者に迎えてポーランド・リトアニア・モスクワ合同を成立させる構想も、1586年12月12日にステファンがフロドナ古城で急死すると立ち消えになった。ステファンの遺体は東ヨーロッパにおいて初めての検視解剖を受けた遺体となった。遺体は当初フロドナに埋葬されたが、後にヴァヴェル大聖堂に移された。 |
ステファン・バートリ (ポーランド王)の死後 ステファン・バートリの死後、共和国は1年の空位期が生じた。次期国王には皇帝ルドルフ2世の弟マクシミリアン大公が選出されたが、アンナの甥でスウェーデン王子のシギスムンド(ジグムント3世)がこの国王選出に抗議し、ブィチナの戦いでマクシミリアンを破って共和国の新統治者となった。 |
ステファン・バートリ (ポーランド王)の評価 同時代人の評価によれば、ステファン・バートリの業績の偉大さはヴィータウタス大公に比肩するレベルだったという。 |
伊藤隆行の人物 早大学院を経て早稲田大学政治経済学部を卒業。1995年に報道記者志望でテレビ東京に入社するが、バラエティ番組ばかり立ち上げる。目標は「3歳の息子にちゃんと見せられる番組を作ること」。伊藤がプロデューサーとして担当する番組はゴールデン番組ではできない低予算ながら奇抜な企画を提案し、話題をさらっている。お笑い芸人が多く出演する番組を巧みに演出し、笑いの間口を広げていく番組で手腕を発揮する。『モヤモヤさまぁ〜ず2』では時々出演し、さまぁ〜ずに代わってロケを行うこともある。その際の呼び名は「伊藤P」。レギュラー陣に次ぐ人気と知名度を誇っている。携帯の公式サイトでは、プロデューサー日記のコーナーも担当している。深夜枠で地上波ではあり得ないようなギリギリな挑戦的な番組を数多く制作していることから、ゴールデンタイムを嫌うマイナー系の制作者とみられがちだが、インタビューで「ゴールデンだけを目指すのはおかしいし、ゴールデンを否定するのもおかしい」と語っているように、本人は必ずしも深夜枠にこだわっているわけではない。『モヤモヤさまぁ〜ず2』も2010年にゴールデンに進出する。これはテレビ東京の社長・島田昌幸の勧めで実現したものだが、社長の手紙の書き出しも「テレビ業界が暗黒時代」という暗い書き出しで、テレビ東京社員及び社長が番組のファンという理由であり、社長自身も後にテレビ東京の看板番組になるとは思っておらず、伊藤本人もこの進出を心配していたが、結果的に10周年を無事に迎えた。また、『モヤさま』の後に始まった『シルシルミシルさんデー』だけには負けたくないと番組中にコメントした。自身が制作する『やりすぎコージー』『モヤモヤさまぁ〜ず2』のDVDを大ヒットさせたが、「なんでもかんでもDVD化して番組を二次利用しようとする流れはすぐ終わると思う」と述べ、バラエティ番組DVD市場の限界を指摘している。また、「“もう1度見る必要性を感じる内容か”“見逃しやすい放送時間であったか”など、すべての要素を考えて、DVD化する番組とそうではない番組をはっきりと分けることが重要」と持論を展開している。会社で1度も話したことのない社員がたくさんおり、距離があるため、会社の後輩は畏怖の念を抱きあまり近寄ってこないと『Quick Japan』誌のインタビューで述べている。しかし伊藤自身は20代の若手社員には新たな企画をどんどん出してテレ東バラエティを盛り上げていって欲しいという希望を抱いている。2010年には映画『お墓に泊まろう!』の監督を務め、映画監督業にも進出した。なお、同映画では河本準一(次長課長)が伊藤の役を演じている。モヤモヤさまぁ〜ず2の年末特番ゴールデンスペシャルで地元・花小金井を特集し、とれ高が足りないためさまぁ〜ずと大江麻理子を都内なのに帰宅させず宿泊することにし、お詫びとして父親が宴会場を予約。両親も登場し宴会に参加した。母親は地元に全く関係の無い手料理を持参、父親はあまりの天然ボケっぷりに三村から「100のボケを持つ男」と呼ばれた。年末特番は結果的に爆死。モヤさまスタッフや出演者にとって花小金井が見事「苦い思い出の街」となった。モヤモヤさまぁ〜ず2での登場シーンのBGMは「踊る大捜査線」の室井慎次のテーマ。さまぁ〜ずによく「死に枠」と呼ばれる裏番組が強敵で他の番組の視聴率が取れない時間帯にスペシャルを提案しており、さまぁ〜ずから「俺らだって死にたくないんだから」や「バカじゃない?」と言われていた。案の定スペシャルは爆死している。ハワイロケに行けない理由をさまぁ〜ずのマネージャー・松本のせいにして、ハワイロケを決行。プライベートでもハワイに行ったが、一切日焼けしておらずさまぁ〜ずから「本当に行ったの?」と言われた。大江麻理子から「スタッフが行きたいからという理由だけで深夜番組なのにハワイに行った」と明かされている。「企画制作現場で「もうその企画はある」や「企画に保険はない」という言葉をよく聞くが、探せば「ほらあったじゃん!」って事がある。」「バラエティ番組は「非日常」でなければいけない。」と考えており、「それでもバラエティ番組で初めて「外来種」や環境問題を学べる事もある。ただ面白いという理由だけでやってはいけない。視聴者は「もっと面白いもの」「もっと珍しいもの」「もっと勉強になること」を望んでいる。テレビ業界はそれに気付くのが遅かった。しかしこれから追求していっても遅くはない」と語った。2019年6月25日付で一部の番組がチーフプロデューサーとして昇格した。 |
ストラサーン伯爵の概要 伯領創設の正確な時期は不明であるが、史料で確認される最も古い例は1115年にさかのぼる。名前が知られている最初の領主はマリーズ1世(Máel Ísu I)で、ゲール人を率いスタンダードの戦い(1138年)においてデイヴィッド1世に従って戦ったことを リーヴォール修道院エイルレッド(Aelred of Rievaulx)が記している。1329年に国王ロバート1世が崩御すると、若くして王位を継いだデイヴィッド2世と反国王派に担がれたエドワード・ベイリャルとの間で内乱が勃発する。この内乱の中で、エドワード方についたストラサーン家は所領を剥奪され、デイヴィッド2世の寵臣モーリス・ド・モラヴィアにストラサーン伯位が与えられた。しかしモーリスはネビルズ・クロスの戦い(1346年)で戦死する。その後、伯爵領は王統と相前後してステュアート家に移り、国王ロバート2世およびその近親者が相続した。1437年にウォルターから剥奪されたのち保持者はいなくなっていたが、17世紀に第7代メンティース伯爵ウィリアム・グラハムはロバート2世の孫娘ユーフェミアの子孫として継承権を主張した。この主張は認められず、ウィリアムは1633年にエアース伯爵に叙された。16世紀以降は「ストラサーン伯爵」の叙爵例はなかったが、「カンバーランドおよびストラサーン公爵」(1766年創設、1790年断絶)、「ケントおよびストラサーン公爵」(1799年創設、1820年断絶)、「コノートおよびストラサーン公爵」(1874年創設、1943年断絶)といったストラサーンを爵号に含む爵位がイギリス王室の成員に対して授けられてきた。2011年、イギリス女王エリザベス2世は孫のウィリアム王子がキャサリン・"ケイト"・ミドルトンと結婚したのに合わせて、ケンブリッジ公爵・ストラサーン伯爵およびキャリクファーガス男爵に叙爵した。ウィリアム王子はスコットランドにおいてはケンブリッジ公爵ではなくストラサーン伯爵の称号を使用している。 |
群馬県立太田東高等学校の概要 通称は「太東(たひがし)」。市内では「東(ひがし)」、もしくは「東高(ひがしこう)」ともいわれる。2008年度より単位制高校に改編された。ほとんどの生徒が太田市およびその近郊の出身者である。市の中心部から離れた地域に校舎があるため、自転車で通学している生徒が多く、毎朝の通学時には自転車で混雑する。生徒会活動、部活動が盛んであり、チアリーディング部は2年連続全国制覇も経験。 |
群馬県立太田東高等学校の進路 ほとんどの生徒が四年制大学へ進学。ただし、難関大学は難しく、Fランが多い。短期大学や専門学校への進学者も少ないながらいる。 |
TBS歌えファンファーレの概要 『TBS歌のグランプリ』に替わってスタートした火曜20:00枠の歌謡番組。この時間帯の歌謡番組第1弾『歌え太陽』で司会を務めていた高橋圭三が6年ぶりに司会に復帰した。他に小鹿ミキなどがレギュラー出演していた。番組は、「ライバル登場」「今週の新人」「スターの決定的瞬間」の3つのコーナーによって構成されていた。 |
恒久平和調査局設置法案の概要 恒久平和調査局設置法案の概要は、以下の通り。 |
恒久平和調査局設置法案の恒久平和調査局の設置 法案の目的は、「今次の大戦及びこれに先立つ今世紀の一定の時期における惨禍の実態を明らかにすることにより、その実態について我が国民の理解を深め、これを次代に伝えるとともに、アジア地域の諸国民をはじめとする世界の諸国民と我が国民との信頼関係の醸成を図り、もって我が国の国際社会における名誉ある地位の保持及び恒久平和の実現に資するため、国立国会図書館に、恒久平和調査局を置く。」とされている。 |
恒久平和調査局設置法案の目的 国立国会図書館法の一部を改正する法律案は、民主党の鳩山由紀夫が呼びかけて結成された超党派の議員連盟『恒久平和のために真相究明法の成立を目指す議員連盟』が1999年8月10日から国会に提出を続けている法案である。この法案は国立国会図書館に恒久平和調査局を設置し、日本人を含めた外国人に対する徴用、日本人が外国人を性奴隷にした問題、生物化学兵器の開発など日本の戦争犯罪全般を調査することを目的としている。 |
ロバート・マクスウェルの前半生 ロバート・マクスウェルは当時のチェコスロバキア最東端の地方だったカルパチア・ルテニア(現在のウクライナ・ザカルパッチャ州)のスラティンスケー・ドリ(Slatinské Doly、現在のソロトヴィノ Солотвино)の町で、イディッシュ語を話す貧しいユダヤ系の家庭に生まれた。当時はヤーン・ルドヴィーク・ホッホ(ホッホ・ヤーノシュ・ラヨシュ、Ján Ludvík Hoch)という名であった。1939年、カルパチア・ルテニア地方はハンガリーに組み込まれ、さらにハンガリーは1944年にドイツ軍に占領され、ユダヤ人であるヤーンの家族のほとんどは殺された。ヤーン自身は1940年、17歳で難民となってイギリスに逃れ、翌年イギリス陸軍の工兵部隊に入り、1943年にノーススタフォードシャー連隊に移った。彼は軍曹としてノルマンディー上陸に参加して西部戦線を転戦し、知力と語学の才能を生かして様々な任務をこなし昇進を重ね大尉になった。彼はこの時期改名を繰り返し最終的にイアン・ロバート・マクスウェルとなったが、「イアン」の部分は元の名である「ヤーン」の名残として残しているだけで、ほとんど使うことはなかった。1945年にはフランス人のエリザベト・「ベティ」・メイナールと結婚し、ホロコーストで失った家族を取り戻すかのように9人の子をもうけたが、そのうち5人は後にマクスウェルの会社に入社している。 |
ロバート・マクスウェルの富豪・政治家 戦後、マクスウェルは連合軍占領下のベルリンで、イギリス軍司令部の新聞検閲官として働き、後に占領軍当局内で築いた様々な人脈を用いてビジネスを行った。まず科学出版社シュプリンガー・フェアラーク(Springer Verlag、現在のシュプリンガー・サイエンス+ビジネス・メディアの前身)の出版物のイギリスおよびアメリカにおける販売権を得た。1951年にはシュプリンガー・フェアラークから小さな教科書出版社バターワース・シュプリンガー(Butterworth-Springer)を買収し、ペルガモン・プレス・リミテッド(パーガモンプレス、Pergamon Press Limited, PPL, マクスウェル死後の1992年エルゼビアに買収された)とした。当時はマクスウェルの持分が4分の3で、残りはシュプリンガーのイギリスにおける主要人物だったパウル・ロスバウト(Paul Rosbaud, 大戦中は「グリフィン」のコードネームで、兵器開発・原爆研究に関する重要情報をドイツからイギリスへと流すスパイ活動を行っていた)が持っており、ロスバウトは1956年に意見の相違で会社を去るまで共同経営者であった。マクスウェルは学術書や科学誌の出版を開始し、ペルガモン・プレスをイギリス有数の出版社へと育て上げた。1960年代にはすでに若き富豪となっていた彼は、社会主義の擁護者でもあった。しかし一部ではすでに彼は問題視されてもいた。バークレイズの重役を務めたトーマス・アシュトン卿の訃報によれば、アシュトンがオクスフォードの副支店長だったころ、オクスフォードの住民だったマクスウェルに注目していたが、最終的にはマクスウェルに対する融資を固く断ったという。1964年には労働党から庶民院議員へ立候補し当選し、1970年に保守党候補に負け議席を失うまでバッキンガム選挙区選出議員となり労働党内で影響力を発揮した。一方でペルガモン・プレスを拠点に次々と出版や情報処理など様々な企業へ買収を仕掛けた。だがアメリカのレアスコ・データ・プロセッシング社(Leasco Data Processing Corporation)に対する1969年の買収交渉の際、自らのグループ企業の利益の大きさについて虚偽の主張を行った件で貿易産業省の取り調べを受け、さらにペルガモン・プレスの株価を上げるためにファミリー企業同士での取引を行っていたことも発覚した。マクスウェルは一時的にペルガモンのイギリス部門での支配を失ったが、アメリカ部門での支配は失っておらず、後に自派の編集者たちの助力で経営権を回復し、最終的にペルガモンを売却した。 |
ロバート・マクスウェルのメディア帝国 マクスウェルはかねてから自らの政治的影響力をメディアを通じて強めるため、新聞社をもちたいと考えていた。1969年にはニュース・オブ・ザ・ワールド紙の買収に乗り出したがオーストラリア出身のルパート・マードックが最終的に競り勝ち同紙を手にした。ニュース・オブ・ザ・ワールドを巡る買収戦争は激烈で、後にマクスウェルは、自らが何か月もフェアな戦いをしたにもかかわらずマードックが最後に同紙を横取りしたことに不満を感じたと述べているが、マードックは単に同紙の株主がオーストラリアでのマードックの実績を評価してくれただけだと述べている。この後、マードックはイギリス新聞界におけるマクスウェルの宿敵となる。1970年にはマクスウェルはタックスヘイブンであるリヒテンシュタインに「マクスウェル財団」(Maxwell Foundation)を設けている。1974年には一旦手放したペルガモン・プレスを再度獲得し、1981年にはペルガモンを通じて印刷会社ブリティッシュ・プリンティング(British Printing Corporation, BPC)を買収しブリティッシュ・プリンティング・アンド・コミュニケーション(British Printing and Communication Corporation, BPCC)へと変えた(この会社は後に売却され現在はポールスター Polestar と称している)。1984年にはペルガモンを通じて情報大手リード・インターナショナル(現在のリード・エルゼビア)から労働党寄りのデイリー・ミラーなど多数の新聞を発行するミラー・グループ・ニュースペーパーズをついに買収、さらに英米の出版大手マクミラン(Macmillan publishing)のアメリカ会社をも買収した。こうして1980年代にマクスウェルはメディア・コングロマリットを築き、デイリー・ミラー(Daily Mirror)、サンデー・ミラー(Sunday Mirror)、サンデー・メール(Sunday Mail)、スコティッシュ・デイリー・レコード(Scottish Daily Record)など新聞多数、ペルガモン・プレス(Pergamon Press)、ニンバス・レコーズ(Nimbus Records)、クーリエ・ブックス(Collier books)、マクスウェル・ディレクトリーズ(Maxwell Directories)、プレンティス・ホール・インフォメーションサービス(Prentice Hall Information Services)、マクミラン(Macmillan (US) publishing)など出版社多数、さらに語学教育のベルリッツ(Berlitz)なども傘下に収めた。さらにヨーロッパにおけるMTVの所有権の半分、マクスウェル・ケーブルTV(Maxwell Cable TV)やマクスウェル・エンターテインメント(Maxwell Entertainment)などヨーロッパでのテレビ事業も持っていた。1987年には雑誌大手のIPCメディア(IPC Media)からコミック部門を買収し漫画出版社フリートウェイ(Fleetway)を設立した。マクスウェルは高度に専門化された科学に関する情報を広く伝える科学出版事業での先駆者でもあり、科学に対する社会からの需要の増大に応えていた。しかしマクスウェルをはじめとする学術雑誌の出版業者が設定している購読料は、1970年代以降、イギリス各地の大学や図書館からあまりにも高額であると批判された。マクスウェルはまた東欧の共産主義政権とも強いつながりがあり、当時の指導者たちの伝記をイギリスで出版したほか、彼らに対する媚びたようなインタビュー記事も多数製作していた。オックスフォード・ユナイテッドFCのオーナーでもあり、1986年のフットボールリーグカップでは優勝に導いている。1987年にはダービー・カウンティFCも買収したほか、1984年にはマンチェスター・ユナイテッドFCの買収にも取り掛かったが、オーナーのマーティン・エドワーズの提示した額を払うのを拒んだため買収はならなかった。 |
ロバート・マクスウェルのグループの経営の実態 マクスウェルが多額の借金を重ね不正な経営をしているのではないかとの噂は長年伝わっていたが、彼は有力な弁護士らと契約しており裁判資金も惜しまなかったため、ジャーナリストらも彼から訴えられるのを恐れ批判的な記事を書こうとしなかった。彼を皮肉った風刺雑誌プライベート・アイ(Private Eye)は何度も訴えられ、一度は22万5千ポンドの賠償を命じられたこともある。しかしマクスウェルが借金や詐欺的手段の上にメディア帝国を築いたことを示す事柄が後に明らかになった。たとえば彼は従業員の年金基金から数百万ポンドを「借り」、グループ企業の経営状態をよく見せていた(こうした手段は当時は違法ではなかった)。1980年代末になると矢継ぎ早に企業を買収しては売却することを繰り返し、経営基盤の弱さを糊塗していた。1990年にはヨーロッパ全土に向けて発行される英字紙「ザ・ヨーロピアン」(The European)を立ち上げ意欲的なところを見せたが(この新聞は1992年に売却され1998年に廃刊となった)、1991年には負債を埋めるためペルガモン・プレスとマクスウェル・ディレクトリーズをエルゼビアに440万ポンドで売却した。しかしこの金をすぐにニューヨークのデイリーニューズ買収につぎ込んだ。1990年末には、ルパート・マードック所有の新聞各社に属する調査報道記者らがマクスウェル・グループで行われている年金を使った会計操作を調べ始めた。1991年5月にはマクスウェル・グループが法定の報告義務を満たしていないことが報道されたが、マクスウェル・グループの社員らはイギリスやアメリカの当局に同グループの年金基金に対する侮辱であることを訴えた。マクスウェルは自分の様々な工作が明るみに出ることを疑いだした可能性がある。1990年から1991年にかけての時期、イギリスにおいて金利が非常に高くなり、直後に景気が急落し不動産不況が到来した。彼はミラー・グループやマクスウェル・コミュニケーションズなど所有する公開会社の持分を担保にした多額の借入金を抱えていた。銀行は一定の条件下でマクスウェルが株の一部を売ることを認めたが、もし売れば株価は下落し残った持分の担保価値が下がる恐れがあった。マクスウェルはさらなる借入金、年金、運転資金まで使い株式市場に介入し自社株を買い支えようとした。マクスウェルの経営はすでに危機的状態であった。 |
ロバート・マクスウェルの急死と様々な疑惑 グループが人知れず経営危機に陥っていた最中の1991年11月、マクスウェルは休暇先の大西洋カナリア諸島沖合で自らが所有する豪華大型ヨット「Lady Ghislaine」から転落し、その数日後捜索隊が海の上で水死体を発見した。マクスウェルの死に際してはジョン・メージャーやニール・キノックら、労働党をはじめとするイギリス政界人から数多くの弔辞がすぐさま寄せられた。遺体はエルサレムのオリーブ山に葬られた。一方でこの時期、マクスウェルの裏の側面についての調査報道も現れていた。彼の死の直前、イスラエルの情報機関モサッドの元将校アリ・ベン=メナシェ(Ari Ben-Menashe)が、マクスウェルとデイリー・ミラーの国際部編集者ニコラス・デイヴィーズ(Nicholas Davies)の二人は長年モサッドのエージェントであったという主張を伝えようとして英米の多数のメディアに接触を図っていた。ベン=メナシェは、1986年にイスラエルの核技術者モルデハイ・ヴァヌヌがサンデー・タイムズにイスラエルの核保有についての情報を内部告発し、次いでデイリー・ミラーにも同様の告発を行った際、デイリー・ミラー社主のマクスウェルがロンドンのイスラエル大使館にヴァヌヌの告発を内報したともしている。ヴァヌヌは内部告発の後、サンデー・タイムズに匿われロンドンに隠れていたが、イスラエル当局に居場所を知られ、ローマへとおびき出されて捕まり、本国へ連行され反逆罪を言い渡されていた。マクスウェルがすぐに訴訟を起こすことはよく知られており、メディア界での影響力も大きかったため、ベン=メナシェの主張を取り上げようという報道機関は現れなかったが、ニューヨークのジャーナリストであるシーモア・ハーシュがこれを取り上げ、著書『サムソン・オプション』(The Samson Option)へとまとめ、ロンドンでの出版記者会見などの場で再三この説を取り上げた。1991年10月21日、労働党のジョージ・ギャロウェイ(George Galloway)と保守党のルパート・アラソン(Rupert Allason、ナイジェル・ウェストの筆名でスパイ小説の執筆経験あり)の二人の議員が庶民院でこの問題を取り上げることに合意した(議員特権があるため、国会議員は議会での質問について名誉毀損で訴えられることはない)。これはイギリスの各新聞が訴訟の恐れなくマクスウェルと議員達の質疑について報じることができることも意味する。にもかかわらず、ミラー・グループの弁護士たちはマクスウェルの指示で令状を発行し、その中で「馬鹿げた完全な作り話である」と述べた。この後マクスウェルは、アメリカ人の武器商人と会ったことについて虚偽の否定を行なったとの理由で、デイヴィーズを解雇した。この一連の報道(ベン=メナシェは結局証拠を明らかにしなかった)の最中にマクスウェルは急死したため、マクスウェルとイスラエルの関係についてさまざまな見解が取りざたされた。デイリー・ミラーもまた証拠を明らかにすることなく、マクスウェルはモサドを脅迫しようとしたためモサドに殺されたのだとする主張を報じている。マクスウェルのイスラエルでの葬儀は一出版人のものというより一国の元首に対するほどのものであった。ゴードン・トーマスは次のように書く。1991年11月10日、マクスウェルの葬儀はエルサレムの神殿の丘の向こうにあるオリーブ山で執り行われた。一国が与えられる特典がすべて与えられたかのような葬儀であり、イスラエル政府要人や野党指導者らまでが列席した。イスラエル情報コミュニティーの現職の長官や元長官らも6人以上列席した葬儀の場で、首相イツハク・シャミルは次のように弔辞を述べた。彼は、今日言えるよりも多くのことをイスラエルのためにした — Gideon's Spies: The Secret History of the Mossad, St. Martin's Press, 1999(邦題『憂国のスパイ―イスラエル諜報機関モサド』)またマクスウェルの死は、彼のビジネス上の問題の多いやり方や活動などに対する暴露の引き金を引いた。彼は何億ポンドもの自社の年金基金をグループの借入金返済や狂ったような企業買収、自らの豪華な生活のために使っていた。これらのためにグループの従業員らは年金をほぼ失っている。 |
ロバート・マクスウェルのグループ崩壊 1992年にはマクスウェルの所有した各企業は破産法の適用を申請した。マクスウェルの息子ケヴィン・マクスウェルとイアン・マクスウェルは4億ポンドの借金を抱え破産宣告された。1995年、マクスウェルの息子2人とその他2人の経営者らが詐欺の容疑で起訴されたが、翌1996年に放免された。2001年、貿易産業省はマクスウェル・グループの崩壊を、マクスウェル本人と彼の息子達の言い訳できない振る舞いのせいであると論じた。2006年には、マクスウェルは死の直前、1945年にドイツで起こした可能性のある事件(彼の部隊がドイツである町を占領しようとした際、マクスウェルが文民である市長を射殺した可能性がある)について、戦争犯罪の疑いで調査されていた事が明るみに出た。これは彼の死が事故ではなく自殺だったかもしれないという議論に新たな展望を与えた。2008年にはマクスウェルの妻エリザベスが回想録『A Mind of Her Own』を出版し、世界有数の富豪だったメディア王マクスウェルとの生活について語っている。 |
勝精の略歴 1888年(明治21年)8月23日、徳川慶喜の十男として生まれる。母は新村信で、石工の望月宗兵衛のもとに預けられた。1892年(明治25年)2月8日、勝海舟は嫡子小鹿が早世したため、慶喜・家達に精との養子縁組を申し入れる。同年2月14日、父の慶喜は精の養子入りを承諾した。1897年(明治30年)9月、兄・誠とともに精は静岡から東京に移り、学習院初等学科に入学した。1899年(明治32年)1月20日、精は勝小鹿の娘である伊代子の婿として勝家に入った。養父・海舟の死去に伴い同年2月8日に家督を相続、伯爵を授爵する。1902年(明治35年)7月、学習院初等学科を卒業し慶應義塾に転校。慶應義塾大学を卒業後、オリエンタル写真工業、浅野セメントなどの重役を歴任した。精は家庭的には一男五女をもうけたが、伊代子が1922年(大正11年)5月7日に他界したため、その後は妾を作り大っぴらに遊んだという。1932年(昭和7年)7月10日に没する。死因は当初脳溢血とされたが、後に妾とカルモチンで心中自殺したと報道された。墓所は、東京都台東区の谷中墓地であり、実父である慶喜の墓所のすぐ近くである。子女は道子(子爵朽木綱博夫人)、善子(筧元貞夫人)、静子(子爵石野基恒夫人)、中子(子爵戸田忠和夫人、のち佐々木弘治夫人)、当子(男爵藤田光一夫人)、勝芳孝。家督は長男である芳孝が継いで襲爵した。 |
勝精の人物 精は写真やビリヤード、特に銃猟、投網など多趣味で知られ交友関係も広く、独自に自動ドアを発明するなど華族としては型破りの性格であったという。当時、発売されたばかりのオートバイ(ハーレーダビッドソン)に興味を持ち、小さな鉄工所を屋敷内に設け1923年(大正12年)に1000ccの排気量を持つ国産オートバイ「ジャイアント号」を製作させた。後に鉄工所のメンバーは目黒製作所(後に川崎重工業に吸収)を設立したことから、精も現在のカワサキ車の起源を造った一人とも言われている。 |
カナダ・メソジスト教会の初期の歴史 1766年にカナダのニューファンドランド島に最初にイギリスのメソジスト運動を広めたのはロレンス・コーランという平信徒であった。それから5年後、イギリス生まれでノバスコシア育ちのウィリアム・ブラックがカナダ沿海州で伝道を始めた。この活動はやがて1800年にイギリス・ウェスレアンの指導のもとに行われるようになった。他方、1971年にはアッパーカナダにおいて、ウィリアム・ルーズの指導のもとアメリカのメソジスト監督教会がイギリス系移民たちへの伝道を開始した。このアメリカの教会ができたのは1784年のクリスマスの日であった。1828年まではこのカナダの教会の活動は公式にはアメリカのメソジスト監督教会と結びついていた。けれども、1833年にはその大半のひとたちがイギリス・ウェスレアンとともにカナダ・ウェスレアン・メソジスト教会を設立させることにした。この教会には1854年にローワーカナダのメソジストたちも参加している。一方、このウェスレアン教会に参加しなかったひとたちは、1834年にカナダ・メソジスト監督教会をあらためて作ることにした。この教会は徐々に拡大し、その後カナダで2番目に大きなメソジスト派の組織になった。ひるがえってウェスレアン・メソジスト教会の方は、1874年にメソジスト派ニューコネクション教会と東部英領アメリカのウェスレアン・メソジスト会議と一緒に合同した。この時点で名称はすでにカナダ・メソジスト教会であった。1884年、ついにこの教会はカナダ・メソジスト監督教会とカナダ原始メソジスト教会と合同し、カナダ最大のプロテスタント系教派となるメソジスト教会を形成した。ここにいたってこの教会は一部の例外をのぞいて、カナダにおけるすべてのメソジストを包括する組織となった。なお、これに加わらなかったのはイギリス・メソジスト監督教会(アフリカ・メソジスト監督教会から発展したもので、もっぱら有色人種のひとたちのための教会だった)、ドイツ語話者の団体(福音派教会とキリスト合同兄弟団)、それからフリー・メソジスト教会(1860年にニューヨーク州で生まれ、カナダにも広がった教会)である。 |
カナダ・メソジスト教会のカナダ合同教会の成立 1925年にカナダ・メソジスト教会と、カナダ長老派教会の70%、カナダ会衆派教会の96%が参加してカナダ合同教会が発足した。メソジスト教会にはイートン家やマッセイ家のような名の知れた資産家がおり、トロント大学ビクトリア・カレッジの支援者となっていた。このカレッジはかつても今も知的な厳格さにおいてトロント大学の心柱であり、カナダの指導者や有名な思想家を多数輩出している。メソジストの信者はかならずしもカナダ人の英語話者やトロント市民ばかりではなかった。けれども、一般にオンタリオ州南部では、とりわけトロント市では、その政治的、社会的影響力のおかげで、なかば冗談で「メソジストのローマ」といったあだ名が長いあいだトロントに付いていた。市内のメトロポリタン・メソジスト教会についても「メソジスト派の大聖堂」という呼び回しがあった。20世紀に合同教会が奉じた理想は、とりわけメソジスト派の思想であった。そうした価値観は聖書を重視する他のプロテスタント系教派とも結びついていたが、禁酒や安息日の徹底、女性の権利、先住民への布教などはメソジスト的であった。1925年にカナダのメソジスト派はその呼称をやめてしまい、また合同教会の多くのひとたちも今ではその呼び方についてまったく意識していないが、しかし、カナダでもっとも重要なメソジストであるエジャートン・ライアーソンのように、大学や諸機関の名を通して記憶されているものもある。例えばライアーソン大学、ライアーソン出版(合同教会の出版部門で、後にマクグルー=ヒル出版に売却された)、無数にあるライアーソン教会などである。 |
ダブルスターハウスの概要 昭和30年代、日本住宅公団の支所の中には全国単位で建設されたスターハウスの他に、独自の設計のポイントハウスを建設していたところも存在し、ダブルスターハウスは大阪支所独自のポイントハウスとして建設された。これは、上空から見るとスターハウスを2つ連接した形状をしていると言う独特の形状をしている。合計で4団地に建設され、2017年現在では、元々の東長居第二団地に民間へと委譲されたダブルスターハウス1棟が現存する。 |
バンデン・プラの発音と表記 名は創業家の姓から取られたものである。発祥地ベルギーでは主にオランダ語とフランス語が話されているが、前者では「ファンデン・プラス」と発音され、後者では「ヴァンデン・プラ」となる。創業者一家の第一言語がどちらであったか定かではないが、van den Plasという姓自体は「池の」という意味のオランダ語である。日本ではヴァンデン・プラやヴァンデン プラスと表記される場合もあるが、本項ではバンデン・プラで統一する。 |
バンデン・プラの概要 1898年にベルギーで馬車の車体を製造するコーチビルダー Carrosserie Van den Plasとして発足し、1913年、イギリスに自動車のボディを制作する支社を設立した。イギリスのバンデン・プラは本国とは別に独自の経営を促進し、ロールス・ロイスやベントレー等のボディ制作を請け負い、地位と名声を得ていった。第二次世界大戦後、世界的不況の中でイギリスの自動車産業は打撃を受け、他の中小自動車メーカーが大手に吸収合併される中、バンデン・プラもオースチンに吸収され、オースチンの大型セダンをベースにした高級車をリリースした。これが最初の「バンデン・プラ・プリンセス(写真)」である。 |
バンデン・プラの3リッター / 4 リッター / 4リッターR バンデン・プラの工場である「Princess Cars」で作られた最初の車は、大型セダンのオースチン・A99ウェストミンスター( Austin Westminster )をベースにしたもので、それぞれ3リットルと4リットルのエンジンを積んだ「バンデンプラ・3リッター」(英語版)と「バンデンプラ・4リッター」であった。両者にはオリジナルのフロントマスクが与えられ、内装はベースである大衆車とは大きく異なり、元コーチワーカーとしての仕事が存分に生かされた豪華で高級なものであった。その後ロールス・ロイス製直列6気筒エンジンを積んだ「4リッターR」(独語版)も生産された。 |
バンデン・プラのADO16 やがてオースチンも、モーリスを代表とするナッフィールド・グループとの合併が決まり、1952年にブリティッシュ・モーター・コーポレーション(BMC)が誕生した。そして、ウーズレーとともにBMCの高級部門としての役割が与えられた。1962年にモーリスから発売されたADO16(ADO はAustin Drawing / Design Officeを表す)は、徐々にそのシリーズを拡大していき、最終的にはBMCの6部門のすべてから少しずつ趣向を変えて販売されることになり、1964年にはバンデン・プラ版が加えられた。これが「バンデン・プラ・プリンセス1100」であり、大衆車ブランドのオースチンやモーリス、スポーツカーメーカーであったMGなどとの差別化を図るべく、思い切った高級化の手法が採られ、それまでの小型車の常識を覆すものとなった。外装は以前のバンデン・プラと同じフロントマスクや、荘厳なグリル、フォグランプなどにより、他の ADO16 とは異なる高級感を醸し出していた。内装は、車内のあらゆる部分を柔らかなモケットで覆う、ダッシュボードにウォールナットのウッドパネルを使用、ドアトリム上端にウッドキャッピングを施す、シートはコノリーレザーをあてがい、分厚いクッションを使った上質なものを使用するなど、全長3.7 m、排気量1,100 ccの小さなサルーンに、それまでの大型高級車で培ってきた手法をそのまま持ち込んだ。また、前席背面には後席用の折り畳み式ウォールナット製ピクニックテーブルが組み込まれるなど、このサイズでショーファードリブンカーを思わせるしつらえとなっていた。小型ながら、優美なスタイルと豪華な内装で小さなロールス・ロイス、「ベビーロールス」と呼ばれた。後に1,275 ccエンジンが追加されている。その後ADO16のマイナーチェンジに合わせた改良とコストダウンが行われた。リアコンビネーションランプの大型化、よりファストバックが強調されたスタイリング、内装の小変更などに加え、エンジン排気量を1,300 ccに統一するなどの変更が行われる。これに伴い、マイナーチェンジ以前のモデルをMk-I (マークワン)、それ以降を Mk-II と呼ぶようになった。Mk-Iのみテールフィンの存在が顕著で、リアコンビランプが小さく、その角度も直立気味なため、識別は容易である。最終型となるMk-IIIは最後まで残ったADO16の一つとして、1974年まで生産が継続されている。 |
バンデン・プラのADO67 その後オースチン・アレグロをベースにしたバンデン・プラ・プリンセス1500へとフルモデルチェンジされたが、ベース車が設計的に失敗作であったことや、バンデン・プラらしい特色にも乏しく、不人気のまま販売終了となった。これが「プリンセス」を冠した最後のモデルとなった。 |
バンデン・プラのその後 1968年以降はジャガーの上級仕様車のグレード名となり、現在、ジャガーの親会社、フォードが北アメリカでのブランド使用権を保有している(これはダイムラー・クライスラーとの協約上、デイムラーブランドが使えない国での対策とされている)。同様に、一時期はランドローバーのレンジローバークラシックの最上級グレードの名称としても使用されていた。北米以外の地域では南京汽車がその商標権を所有している。 |
仮面ライダーストロンガーのうたの解説 表題曲「仮面ライダーストロンガーのうた」は、テレビドラマ(特撮番組)『仮面ライダーストロンガー』のオープニングテーマとして使用された。当初、同作品のオープニングテーマに予定されていた「見よ!!仮面ライダーストロンガー」(作詞:石森章太郎 / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:子門真人)が不採用となったことから急遽用意された楽曲である。そのため、従来の作品では作詞はオープニングを石森章太郎、エンディングを八手三郎が担当していたが、本作品では両方とも八手担当となった。水木は歌手が変更された理由について、子門は前作『仮面ライダーアマゾン』の主題歌を担当していたためイメージを変えようという意図があったのではないかと推測している。カップリングには、水木一郎と堀江美都子が歌う同作前期エンディングテーマ「きょうもたたかうストロンガー」が収録されている。「きょうもたたかうストロンガー」は、テレビ放送では第1話・第2話のみ、子門真人と堀江美都子のバージョンが使用された。同バージョンはレコード用フルサイズ音源も製作されていたが、放送当時には商品化されず、後年発売のコンピレーションCDに収録された。水木への変更に伴い、堀江の歌唱部分も録り直している。堀江は相手の変更経緯については知らされていないが、当時はよくあることであったと述べている。堀江美都子は、同時期放送されていた『秘密戦隊ゴレンジャー』でもオープニングテーマ「進め!ゴレンジャー」をデュエット歌唱している。「仮面ライダーストロンガーのうた」は「日本コロムビアの「コロムビア・ゴールデン・ディスク賞 ゴールデン・ヒット賞」を受賞した。 |
関寛斎の経歴 文政13年(1830年)、上総国(現在の千葉県東金市)東中の農家の子として生まれる。養父の儒家関俊輔に薫陶され、長じて佐倉順天堂に入り、佐藤泰然に蘭医学を学び、26歳の時銚子で開業。豪商濱口梧陵の支援で長崎に遊学、オランダ人医師ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトに最新の医学を学び、銚子を去って徳島藩蜂須賀家の典医となる。慶応4年(1868年)1月6日、徳島藩主・蜂須賀斉裕の死を看取る。戊辰戦争(慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))には官軍の奥羽出張病院長として、敵味方の別なく治療に当る。信ずるところあって徳島に帰り、一町医者として庶民の診療、種痘奉仕などに尽力し、「関大明神」と慕われる。明治35年(1902年)、72歳にして一念発起し、徳島を離れ北海道に渡る。原野だった北海道陸別町の開拓事業に全財産を投入し、広大な関牧場を拓く。のちにこの土地を開放し、自作農創設を志すが果たせず、大正元年(1912年)、82歳にして服毒により自らの命を絶つ。 |
関寛斎の事績 佐藤泰然のもとで寛斎が記録した『順天堂外科実験』、ポンペに学んだ『朋百氏治療記事』『七新薬』は、当時の医学に係る第一級の資料とされる。順天堂での先駆的な種痘奉仕、梧陵が主導した銚子のコレラ防疫の成功などの体験は、若き寛斎にとって、養父から受けた儒学の素養、「人を拯い世を済す医に若くは莫し」との泰然の訓え、梧陵の「人たるの道」への導き、ポンペのヒューマニズム医療教育と相俟って、生涯の生き方の指針となったと思われる。維新に際し、官賊の別なき施療行為は赤十字精神の先駆とされ、その業績は西郷隆盛からも高く評価された。しかし「軍医総監男爵は造作もない」(徳富蘆花)立場を故あって捨て、その後30余年にわたり、徳島にあって庶民への医療と社会奉仕に力を尽くした。彼の医学思想と実践は、その著『養生心得草』にも見られるように、養生(健康管理と予防)、運動(積極的鍛練)、医療(適切な科学的対処)の総合性を重視した、現代保健思想にも通ずるものといえる。彼の「世を済す」社会貢献は、医療を超えて維新後の旧武士たちへの救済、各戦役時の傷病兵慰問など多岐にわたった。その極は晩年、全資産を投じて理想の「農牧村落を興す」、北海道開拓事業への転身であった。やがて目指す自作農創設のため、彼は徳富蘆花を通してトルストイ主義に近づき、「平等均一の風」実現の農地解放へと向かう。しかし家族との対立などによりそれを果たせず、死を選んで波乱の生涯を閉じた。寛斎を陸別の地まで訪ねた蘆花は、その著『みみずのたはこと』(岩波文庫版)に関寛斎の一章を設け、その人柄を偲んだ。司馬遼太郎は小説『胡蝶の夢』で、寛斎を「高貴な単純さは神に近い」と評している。彼が拓いた陸別町では、関神社を祀るなど町の開祖として顕彰されている。 |
カッシーノの位置・広がり フロジノーネ県南東部に位置するコムーネ。ティレニア海岸のガエータから北東へ38km、県都フロジノーネから東南東へ44km、州都ナポリから北北西へ80km、首都ローマから東南東へ120kmの距離にある。 |
カッシーノの歴史 かつてヴォルシ人の共同体カッシヌムが近くにあったが、ローマ人により占領され、以後ローマの都市となった。歴史的には長らくナポリ王国領の都市で、カンパーニアの古い行政区分であるテッラ・ディ・ラヴォーロ (it:Terra di Lavoro) に含まれていた。両シチリア王国領を経て、1860年にイタリア王国への統一後もテッラ・ディ・ラヴォーロ県に所属していたが、ファシスト政権下に行われた行政区画再編によりフロジノーネ県所属となり、ラツィオ地方に含まれることとなった。第二次世界大戦時、ローマの南方を防御するドイツ軍の要塞線がカッシーノ周辺に築かれ、1944年にはモンテ・カッシーノの戦いでカッシーノの街は完全に破壊された。現在は、1964年に再建されたモンテ・カッシーノ修道院、カッシーノ大学、フィアットの工場などがこの地にある。 |
カッシーノの山岳部共同体 広域行政組織である山岳部共同体「ヴァッレ・デル・リーリ山岳部共同体」 (it:Comunità montana Valle del Liri) (事務所所在地: アルチェ)を構成するコムーネの一つである。 |
長奉送使の経歴 大阪府出身。1937年、布施市の発足により、市会議員となる。戦後の1951年、大阪府議会議員に転じる。以来連続3期。1963年、布施市長に就任した。この間、自由民主党布施支部長や、自民党大阪府連選対副委員長も務めた。1967年、布施市は河内市と枚岡市と合併し、東大阪市が発足、布施市長の辰巳が初代市長に就任した。就任早々、市の総合計画を策定し、計画的な市政に乗り出した。その中で下水道整備に力を入れ、辰巳は「下水道市長」と呼ばれた。他に道路整備にも力点を置いて、環状線などを完成させた。就任から3年後の1970年に東大阪市長を退任した。 |
播磨横田駅の歴史 北条線を建設した私鉄の播州鉄道(後の播丹鉄道)の時代には、この付近には横田村停留場(よこたむらていりゅうじょう)が開設されていた。1916年(大正5年)6月3日に開設され、長駅との間は1.0マイル(約1.6キロメートル)、北条町駅との間は1.4マイル(約2.2キロメートル)とされていた。1921年(大正10年)5月9日に営業が休止され、1934年(昭和9年)4月5日付で廃止となって、国鉄には継承されなかった。日本国有鉄道(国鉄)時代の1961年(昭和36年)10月1日に鉄道管理局で設定する横田仮乗降場として再び設置され、12月20日に正式に播磨横田駅となった。1985年(昭和60年)4月1日に第三セクターの北条鉄道に転換され、この際に北条町駅との間の営業キロが2.4キロメートルから2.3キロメートルに改キロされた。トイレが老朽化し使いづらい状況であったため、2013年(平成25年)6月にトイレの建て替え工事に着手し、9月20日に水洗洋式トイレが完成した。駅舎についても、神戸市内の女性からの寄付により2014年(平成26年)7月に新築工事が開始され、10月末に完成して11月3日に完成記念式典が開催された。 |
播磨横田駅の駅構造 単式ホーム1面1線を有する地上駅である。神戸市内の女性からの寄付により、2014年10月末に新しい駅舎が完成した。駅舎は鉄筋コンクリート・一部木造の平屋建て、幅7.2メートル、奥行き5.5メートルで、駅舎内は寄付者の絵画を展示したギャラリーともなっている。 |
河村公美の略歴 宮城県石巻市南浜町出身。宮城県石巻高等学校を経て、早稲田大学第二文学部社会専修卒業。共同通信社に入社し、外信部のエース記者として知られた。北京、ハノイ特派員などを務め、北京特派員時代の1979年(昭和54年)には『近代化を進める中国に関する報道』により新聞協会賞を受賞。1987年(昭和62年)、2度目となる北京特派員を務めた際、胡耀邦総書記辞任に関連した中国共産党の機密文書をスクープし、中国当局から国外退去処分を受けた。外信部次長を務めていた1991年(平成3年)、職場での経験に着想を得た小説『自動起床装置』を発表、第105回芥川賞を受賞した。また1994年(平成6年)には、社会の最底辺の貧困にあえぐ人たちや、原発事故で放射能汚染された村に留まる人たちなど、極限の「生」における「食」を扱った『もの食う人びと』で、第16回講談社ノンフィクション賞を受賞。この作品は、小中学生向けに教育マンガ化され、学校図書館にも配架されている。1995年(平成7年)、地下鉄サリン事件に遭遇。1996年(平成8年)に共同通信社を退社、本格的な執筆活動に入った。近年は「右傾化に対する抵抗」などをテーマに活発な論陣を張っている。2004年(平成16年)には講演中に脳出血で倒れ、2005年(平成17年)には大腸癌にも冒されたことを公表したが、2006年(平成18年)に『自分自身への審問』を復帰作として上梓するなど、精力的な執筆活動を続けている。2011年(平成23年)、詩集『生首』で第16回中原中也賞受賞。2012年(平成24年)、詩集『眼の海』で第42回高見順賞受賞。2016年(平成28年)、『増補版 1★9★3★7』で第3回城山三郎賞受賞。大震災で大きな被害を受けた石巻市出身(両親も)ではあるが、あふれた「耳障りのいいことばだけがもてはやされ、不謹慎と非難されそうな言葉は排除される」言説に強い違和感を覚え、口を閉ざした。それを破ったのは「語ってはいけないものを語ること」を意識した「フィズィマリウラ」の詩(『眼の海』所収)だった。彼は次のように言う「悲劇にあって人を救うのはうわべの優しさではない。悲劇の本質にみあう、深みを持つ言葉だけだ。それを今も探している」と。 |
朝陽丸勝人の来歴 交野市立長宝寺小学校3年生から相撲を始めて古市道場で少年時代を過ごし、わんぱく相撲全国大会で3年連続わんぱく横綱となった。交野市立第四中学校を経て長尾谷高校3年生の時に高校横綱、近畿大学時代は突き押し相撲でアマ9冠に輝くとともに4年生の時にはアマチュア横綱を獲得した。2002年(平成14年)3月場所、幕下15枚目格付け出しで初土俵を踏んだ。順調に番付を上げて行き、2003年(平成15年)1月場所には西幕下2枚目で早くも新十両のチャンスを掴んだが、あと2つ勝てば新十両という5番相撲で大怪我をしてしまった。ひざが反対に折れ曲がり靭帯を3本切断して、3カ月の入院で5場所連続全休となった。2004年(平成16年)1月場所で復帰したときには番付を序二段まで下げたが、1年ぶりの出場を全勝優勝で飾った。しかし今度は左目の網膜剥離を患い再度入院して2回の手術を行い、5月場所は序二段に陥落したが再度の序二段優勝を果した。2008年1月場所は西幕下4枚目まで番付を戻したが、今度は右目にも網膜剥離を発症し全休した。このまま相撲を続けると失明の危険もあることから、同年3月場所5日目を最後に引退した。網膜剥離の後遺症により頭からぶちかます得意の相撲を取ることができず、幕下上位から中位を長く行き来したものの、今一歩のところで関取に手が届かなかった。アマチュア横綱を獲って角界入りした力士で関取になれなかったのは初めてのケースだった。また、4年生から6年生まで3部門全てにおいてわんぱく横綱を獲得した選手は野上怜と太田剛希、朝陽丸自身を合わせて3人だけであり、3人とも大相撲に進んでいる(野上怜、太田剛希は2015年5月場所現在も現役)。 |
ユーロの概要 ユーロはヨーロッパでは25の国で使用されている。そのうち19か国が欧州連合加盟国である。1999年1月1日に決済用仮想通貨として導入された。この時点では現金のユーロは存在しなかった。3年後の2002年1月1日に現金通貨としてのユーロが発足した。この時、導入国の従来の通貨に代わり、ユーロが法定通貨となった。ユーロ硬貨はユーロ圏18か国の他に、合意によって認められている3か国がそれぞれ鋳造しており、裏面は各国で独自のデザインを採用している。ユーロ紙幣のデザインは統一されているが、紙幣に印刷されている番号の先頭の文字によって、ユーロの印刷された国家が判別されるようになっている。ユーロは、準備通貨としては、アメリカ合衆国ドルの次に重要な通貨の地位を有し、一時は第2の基軸通貨と呼ばれていた。しかし、とりわけ、2010年欧州ソブリン危機以降、通貨連盟の矛盾が表面化し、その存続を危ぶむ意見も出ている(後述)。 |
ユーロの政治的な計画としてのユーロ ヨーロッパに単一通貨が求められた理由は欧州連合の歴史と世界経済の流れに見ることができる。すなわち、1968年の関税同盟の結成による実体経済の統合と、ブレトン・ウッズ体制の崩壊による為替相場の不安定化がもたらす通商政策への障害である。1965年、欧州通貨統合のイニシアティブがアメリカ国務省で開かれた会談でとられた。1970年、ルクセンブルク首相のピエール・ヴェルネとヨーロッパの経済通貨統合の研究者が作成したいわゆる「ヴェルネ計画」では、単一通貨の導入に触れられていた。このヴェルネらの構想では1980年までに経済通貨統合を達成することがうたわれていたが、ブレトン・ウッズ体制の崩壊のために挫折を余儀なくされた。それでも1972年には欧州為替相場同盟を、1979年には欧州通貨制度を創設した。欧州通貨制度は各国の通貨の相場が大きく変動することを防ぐものとなった。またあわせて欧州通貨単位が導入され、のちのユーロの基礎となった。欧州通貨単位の紙幣が発行されることはなかったが、硬貨については欧州通貨単位を具現的に見せるという目的で特別に鋳造された。欧州共同体の加盟国のなかには欧州通貨単位の額面で債券を発行しており、証券取引所でも欧州通貨単位で取引がなされたりした。1988年、当時の欧州委員会委員長であるジャック・ドロールのもとで経済通貨統合を検討する委員会はいわゆる「ドロール報告書」を作成し、そのなかで経済通貨統合にむけて3つの段階を示した。 |
ユーロの導入にむけて 1990年7月1日、通貨統合の第1段階に入り、欧州経済共同体の加盟国のあいだで資本の自由な移動が可能となった。1994年1月1日になると第2段階に移行し、欧州中央銀行の前身である欧州通貨機構が設立され、加盟国の財政状況を検査するようになった。1995年12月16日、マドリードで開かれた欧州理事会の会合において新通貨の名称を「ユーロ」とすることが決められた。 |
ユーロの名称の決定 上述の欧州理事会で新通貨の名称が決定されるまで、多くの案が議論された。有力な案に「ヨーロッパ・フラン」があったが、フランのスペイン語表記である Franco がフランシスコ・フランコを連想させるために却下された。このほかにもヨーロッパ・クローネやヨーロッパ・ギルダーといった案が出されていた。既存の通貨の名称を使うことで通貨としての連続性を示し、また新通貨に対する市民の信頼を固めようとした。さらに、一部の加盟国には従来の通貨の名称を残したいという希望があった一方で、決済通貨として使用されていた ECU(エキュもしくはエキュー) の名称がふさわしいと考える国もあった。しかしこれらの名称案はそれぞれに対して反対する国があり、とくにイギリスは多くの名称案に反対して、いずれも採用されなかった。名称が定まらない中、ドイツの連邦財務相テオドール・ヴァイゲルは「ユーロ」という名称案を提示した。通貨単位としてユーロという名称が刻まれた硬貨は、確認できるかぎりでは1965年に初めて鋳造されている。また1971年にはオランダで、ユーロと刻まれた硬貨の見本が製造されている。この見本ではユーロの先頭の文字が C に波線が引かれたものとなっていた。またその周囲にはラテン語で EUROPA FILIORUM NOSTRORUM DOMUS(日本語試訳:ヨーロッパはわれらの子たちの家である)と刻まれていた。 |
ユーロの収斂基準と安定、成長協定 1992年に署名された欧州連合条約では、加盟国は経済通貨統合の第3段階への移行、つまりユーロの導入にあたっては収斂基準を満たさなければならないとした。またテオドール・ヴァイゲルが主導した結果、1996年のダブリンでの欧州理事会においてユーロ導入にあたっての2つの基準が定められた。さらに安定・成長協定ではユーロ導入国に対して、通常の経済情勢では財政の均衡を維持することを義務づけており、他方で景気が悪化している情勢では、経済の安定化のために単年度国内総生産 (GDP) の 3% を上限として国債の発行を認めている。累積債務残高については60%を上限としている。すなわち、収斂基準は物価の安定性・高過ぎない長期金利・財政赤字および政府債務の健全性・為替の安定性の4つである。このうち為替の安定性に関しては、欧州為替相場メカニズム(ERM II)への参加が法的に求められている。この欧州為替相場メカニズムは、1979年に設立されたもともとのERMにかえて、1999年から実施されているERM IIと呼ばれるものであり、ERMとしては2番目のものである。このERM IIにおいて、ユーロに対する自国通貨の標準変動幅を2年間、上下15%の範囲とする必要がある。これを達成するとユーロ導入が認められ、ERM IIの対象から外れ、ユーロ導入となる。ただし、問題がある場合は期間が延長される。具体的には経済収斂基準とは次のようなものである。物価:過去1年間、消費者物価上昇率が、消費者物価上昇率の最も低い3か国の平均値を1.5%より多く上回らないこと。財政:過剰財政赤字状態でないこと。(財政赤字GDP比3%以下、債務残高GDP比60%以下)為替:2年間、独自に切り下げを行わずに、深刻な緊張状態を与えることなく欧州通貨制度の為替相場メカニズムの通常の変動幅を尊重すること。金利:過去1年間、長期金利が消費者物価上昇率の最も低い3か国の平均値を2%より多く上回らないこと。 — 日本国外務省「EUにおける通貨統合」ギリシャは2002年に収斂条件を満たしたとしてユーロを導入したが、2004年11月、ギリシャがユーロ導入の決定がなされた時点で収斂基準を満たしていなかったということが判明した。ギリシャは実際の財政赤字を偽って欧州委員会に報告書を提出していた。しかし、条約・協定では基準違反を想定していなかったため、ギリシャが法的な責任を問われることはなかった。また、ドイツやフランスなどの大国を含む一部の国々は、ユーロ加盟後に安定・成長協定で定める基準に抵触している。 |
ユーロの決済通貨ユーロの導入 1998年12月31日、当時のユーロ参加予定国のそれぞれの通貨とユーロとの為替レートが固定され、1999年1月1日、ユーロがそれらの国において電子的決済通貨となった。このときユーロは欧州通貨単位に対して 1:1 で置き換えられた。翌1月2日、ミラノ、パリ、フランクフルトの各証券取引所は通貨単位をユーロとして取引を開始した。このほかにユーロの導入によって、外国為替相場の表示法が変更された。ドイツではユーロ導入以前まで、1 US$ = xxx ドイツマルク(DM)というかたちで表示されていたが、1999年1月1日からはドイツを含めてユーロを導入した国で、1 EUR = xxx US$ という表示法に変えられた。また同日から、振込みや口座自動引き落としについてもユーロ表記が用いられるようになった。銀行口座ではユーロあるいは従来の通貨単位での表示がおこなわれていた。しかし、現金のユーロは存在しなかったため、ユーロ表記の口座でも、預金をおろすと現地通貨、例えばドイツであればドイツマルク紙幣が窓口で渡された。有価証券はユーロで表記されたものに移行した。 |
ユーロのユーロへの完全移行 2001年9月のアメリカ同時多発テロ事件をうけて、EU内に手形交換所が設立された。この頃からドイツではいわゆる「フロントローディング方式」の枠組みでユーロが民間銀行に配付された。また銀行ではドイツマルクを回収してユーロを供給することで切り替え作業を進めていった。2001年12月17日からはドイツ国内の銀行で各種のユーロ硬貨が入ったスターターキットの販売が開始された。このスターターキットには合計10.23ユーロ(20.0081409マルク相当)の20枚の硬貨が入っていたが、販売価格は20マルクであり、切り捨てられた小数点以下の部分は国庫が負担した。オーストリアのスターターキットでは合計14.54ユーロの33枚のユーロ硬貨が200シリングで販売された。通常の現金、とくに紙幣の流通は2002年1月1日から開始された。ドイツではドイツ連邦銀行の各支店でドイツマルクをユーロに交換することができる。また特例的に一部の商店では代金支払の際にドイツマルクで受け取っている。このようにユーロへの交換は簡易かつ費用負担がかからないにもかかわらず、2005年5月の時点で37億2000万ユーロ相当のドイツマルク硬貨(2000年12月の発行量のおよそ46%)が流通していた。また紙幣についても39億4000万ユーロが交換されないままでいた。この推定はドイツ連邦銀行によるものであるが、ほとんどの硬貨や紙幣は紛失または破損したものと見られている。ユーロを導入した国ではそれぞれで、2002年の2月あるいは6月までを移行期間として代金の支払にユーロか旧通貨の使用が認められ、移行期間後は旧通貨の法的効力は消滅した。ただしほとんどの旧通貨は各国の中央銀行でユーロと交換することができる。ユーロ導入国では旧通貨の取り扱いについてそれぞれの国で異なっている。ドイツではドイツマルクの紙幣および硬貨を、無期限・無手数料でユーロに交換することができる。ドイツ以外でもオーストリア、スペイン、アイルランド、エストニア、ラトビアにおいても同様で、それぞれの国の旧通貨とユーロとを交換することができる。ベルギー、ルクセンブルク、スロベニアではそれぞれの旧通貨の紙幣のみ、無期限でユーロとの交換ができる。これら以外の国ではそれぞれの旧通貨とユーロとの交換には期限が定められている。ポルトガル・エスクード硬貨、フランス・フラン硬貨、ベルギーおよびルクセンブルク・フラン硬貨、オランダ・ギルダー硬貨、ギリシャ・ドラクマ硬貨は交換不能となっている。 |
ユーロの欧州中央銀行 通貨ユーロにかかわる政策はフランクフルト・アム・マインにある欧州中央銀行が担っている。欧州中央銀行は1998年6月1日に設立された機関である。実際の業務が開始されたのは通貨統合の実施によって各国の中央銀行の業務を引き継いだ1999年1月1日のことである。欧州中央銀行は欧州連合の機能に関する条約第127条によって物価安定の確保に努め、また加盟国の経済政策を支えるという使命を持っている。このほかにも金融政策の決定と実施、加盟国の公的外貨準備の管理、外国為替市場への介入、市場への資金供給、円滑な決済の促進を担っている。欧州中央銀行の独立性を維持するために、欧州中央銀行および各国の中央銀行は加盟国政府の指示を受け入れることが禁止されている。欧州中央銀行に法的独立性が与えられているのは、欧州中央銀行が紙幣発行を一手に担う、つまり欧州中央銀行はユーロのマネーサプライに影響力を持っており、財政の不足額を補うためにマネーサプライを増やすということを避けるためである。欧州中央銀行の独立性が確保されなければユーロに対する信頼が失われ、通貨が不安定になる。欧州中央銀行は各国の中央銀行とともに欧州中央銀行制度をつくっている。欧州中央銀行の政策決定は、欧州中央銀行の役員会とユーロ圏各国の中央銀行総裁で構成される政策理事会が担う。欧州中央銀行の役員会は総裁、副総裁、理事4人で構成され、いずれも任期は8年でユーロ圏各国が選任し、再任は認められていない。 |
ユーロのユーロ圏 1998年5月3日に開かれた欧州理事会の会合において、各国首脳は1999年1月1日に収斂基準を満たした11か国で経済通貨統合を第3段階へ移行することを決定した。2000年6月19日、欧州理事会は「ギリシャは高い水準で持続的な収斂性を有しており、ユーロの導入に必要な状況になった」という理解に達した。その後の経済・金融理事会において、2001年1月1日にギリシャでユーロを導入することが承認された。スロベニアは2006年3月8日に、2004年の第5次拡大の際に欧州連合へ加盟した国としては初めて、2007年1月1日のユーロ導入を正式に求めた。2006年5月16日、欧州委員会はスロベニアのユーロ圏入りを提案し、翌月7月11日には経済・金融理事会において、スロベニアの2007年1月1日のユーロ導入を全会一致で承認した。このとき、1 EUR = 239.640 SITという交換比率が定められた。2007年7月10日に欧州連合加盟国の財務相は、キプロスとマルタのユーロ圏入りを承認した。さらに2009年1月1日には旧東側諸国としては初めてスロバキアが、2011年1月1日には旧ソ連圏としては初めてエストニアがユーロ導入を果たしたことで、ユーロを導入した欧州連合加盟国数は17となった。2014年1月1日よりラトビアが、2015年1月1日にリトアニアにユーロを導入。旧ソ連圏では3国目となる。 |
ユーロの補完通貨としてのユーロ ユーロ圏外でも多くのヨーロッパの国で、ユーロでの支払が可能である。ただしその多くの場合は販売者が独自に決めた交換比率が用いられ、また釣り銭は現地通貨で支払われることもある。 |
ユーロのユーロとペッグしている国 いくつかの国ではユーロと通貨をペッグしている国がある。そのような国々は3つのグループに分けることができる。まず、ユーロとのあいだで欧州為替相場メカニズムによる為替はバンド制をとっていて、ユーロを法定通貨として導入していない欧州連合加盟国がある。つぎに、歴史的に為替が固定されていたかつてのフランスの植民地がある。最後に、一方的にユーロとペッグしている国がある。 |
ユーロのユーロ導入が義務付けられている欧州連合加盟国 ユーロを通貨として導入していないすべての欧州連合加盟国は欧州連合条約により、収斂基準を満たして単一通貨を導入することが義務付けられている。ユーロ導入にあたって求められる収斂基準の4つの要素の1つとして、2年間は現行通貨を欧州為替相場メカニズムに組み込まなければならない。ただしイギリスとデンマークについては適用除外規定が定められており、現行通貨を維持するということが認められている。 |
ユーロの適用除外を受けている欧州連合加盟国 欧州連合に加盟しているデンマークとイギリスは基本条約でユーロ導入義務を課せられない「適用除外」を受けている。これはオプト・アウトとも呼ばれる。デンマークは欧州為替相場メカニズムの適用国であるが、2000年9月28日の国民投票で適用除外の権限行使を決め、ユーロを導入していない。このときの国民投票では 53.1% がユーロ導入に反対した。しかしその後デンマーク政府は、2011年にも国民投票の再実施を検討している。しかし、デンマークのトーニング・シュミット首相は後に適用除外に関する国民投票の約束を取り下げている。2013年5月16日のストックホルムのインタビューにおいて、トーニング・シュミット首相は、「現政権下では非現実的だ」と述べ、2015-19年に見込まれる「次期政権下でも、国民投票実施の選択肢を協議することには意味がないと思う」とした。ただし、欧州財政危機において、デンマークは他の北欧諸国とともに資金の避難先となっており、ユーロ圏にいずれかの時点で加わる是非については協議を続けるとも述べている。イギリスでは2006年に当時の首相のトニー・ブレアの発言により、ユーロ導入の是非については国民投票を実施することになっていた。ところが2005年にフランスとオランダでの国民投票の結果、欧州憲法条約の批准が反対されたことにより、イギリスでは欧州憲法条約の批准の是非を問う国民投票が無期限に延期された。またブレアの後任であるゴードン・ブラウンはユーロに対して懐疑的な立場を持つとされ、さらにブラウンがブレア政権で通貨政策を担う財務相を務めていた時、ユーロ導入について両者が対立したこともあり、ブラウン政権下ではユーロ導入の議論が進まなかった。 |
ユーロの補助単位 ユーロの補助単位は「セント (cent)」であり、100セントが1ユーロに相当する。ただしギリシャでは λεπτό、フィンランドでは sentti が用いられる。セント硬貨には "EURO" と "CENT" の両方が刻まれており、このことはユーロ硬貨の外見の特徴についての欧州委員会の文書においても掲載されている。ただこの文書では、"EURO" の文字は "CENT" よりも小さく刻まれるものとするということが記載されている。欧州連合の発行物に関する内規では、加盟国ごとで異なる表記を排除してはならないと定められている。これはユーロ導入前に補助単位として cent と同義の語を使用していた国に対する容認策であり、たとえばフランスやベルギーの centimes やポルトガルの centavo などがある。口語ではほかの補助単位のセントと区別するために、ユーロ・セントという表現が用いられることがある。たとえばUSドルやユーロに移行される以前の通貨の補助単位と区別する際に用いられている。 |
ユーロの複数形 欧州連合は euro と cent について、その複数形は変化させずに使うこととしている。しかしスペイン語とポルトガル語では複数形を euros や céntimos としている。フィンランド語では度量単位と同様に部分格が用いられ、euroa や senttiä となる。またドイツ語や英語では数詞が先行しない場合、通常の複数形の作り方にならう。複数形が用いられるのは紙幣や硬貨の枚数について言及するときであり、金額について言及するときには単数形が用いられる。 |
ユーロの短縮形 ユーロによる金額表示を行うさいには、数に続いて通貨コードである "EUR" を加える。補助単位のセントには正式な記号や短縮形が定められていない。そのためユーロ圏では、セントの部分は "20 cent" や "0.20 €" などと表示する。ただし、正式なものではないが、短縮された形 (Ct, Ct., ct, C, c) などが用いられることもある。USセントを示す記号 ¢ は、ユーロ・セントを示すものとして使われることはあまりない。 |
ユーロのユーロ記号 ユーロ記号は1997年に単一通貨を示す記号として、欧州委員会によって作成された。当初は通貨に独自の記号があるものは少ないため、欧州理事会でもユーロ記号についてはあまり議論されていなかった。1996年になるとユーロのロゴの募集が開始され、そのなかから図案が選考された。また1997年7月にはロゴに加えて通貨記号も定めることになった。ユーロ記号は欧州経済共同体で主席グラフィックデザイナーを務めていたアルトゥール・アイセンメンガーが1974年に作成した図案が元になっている。その図案は大きく丸みを帯びた E の文字の中央に2本の横線が入ったもの( C の文字に等号を組み合わせたようなもの)である。またそれはギリシア文字のε、古典古代のヨーロッパを連想させるものでもある。2本の横線は、ユーロとヨーロッパ経済圏の安定を示している。ユーロの前身である欧州通貨単位の記号は短縮形の ECU を図式化して使用されていたが、ユーロ記号は ECU と同様に作成されたものではない。このユーロ記号の Unicode での符号位置は U+20AC である。ところが、国際汎ヨーロッパ連合では1972年に発表した1, 2, 5, 10, 20, 50, 100ユーロの7つの図案にはユーロ記号が、正式に定められた記号とはわずかに異なるものの、大きい "C" の文字に等号をあわせた構成で描かれていた。この図案が発表された1972年は、国際汎ヨーロッパ連合の50周年、欧州石炭鉄鋼共同体の設立20周年にあたる年で、また同年には欧州諸共同体の北方拡大についての条約が調印されている。この図案に描かれた紙幣・硬貨の周縁には、"CONFŒDERATIO EUROPÆA" という文章が記載されていた。さらに肖像の人物として、カール1世、カール5世、ナポレオン・ボナパルト、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー、ジャン・モネ、ウィンストン・チャーチル、コンラート・アデナウアーが描かれていた。さらにヨーロッパを取り巻く状況としてこの1972年は、仏独協力条約の署名10周年でもあった。欧州連合ではユーロ記号の画像使用に留保を設定しているが、促進を目的とする使用は認めている。 |
ユーロの硬貨、紙幣 2009年6月末の時点で7847億ユーロを超える金額に相当する紙幣・硬貨が流通している。 |
ユーロの通常の硬貨 硬貨として発行されているのは1, 2, 5, 10, 20, 50セントと1, 2ユーロである。硬貨の表面はすべての発行国で共通したものとなっているが、裏面は発行国ごとに異なるモチーフが刻まれている。裏面のデザインが異なっていても、硬貨としての効力に違いが生じるものではなく、同様に使うことができる。2004年に欧州連合が拡大したことを受けて、2007年に表面のデザインが刷新された。ドイツで鋳造された硬貨の裏面には、鋳造所を示すミントマークが刻印されている。またギリシャのセント硬貨には CENT ではなくΛΕΠΤΟ / ΛΕΠΤΑで額面が表示されている。また表面には L を2つ重ねた印があり、これは各硬貨共通の表面のデザインを担当したベルギーのリュク・ライクスを示すものである。1ユーロ硬貨と2ユーロ硬貨には白銅と黄銅の合金が用いられている。タイの10バーツ硬貨と2ユーロ硬貨は大きさと重量がほぼ同じであり、またそれぞれが2種類の金属の合金でできているため、ユーロ圏の硬貨識別能力が不十分な自動販売機は10バーツ硬貨を2ユーロ硬貨として認識することがある。10バーツ硬貨のほかにもトルコの1リラ硬貨、ケニアの5シリング硬貨、イタリアで使われていた500リラ硬貨についても同様の事象が起こりえる。 |
ユーロの2ユーロ記念硬貨 2004年以降、2ユーロ額面の記念硬貨が発行され、市中に流通している。この記念硬貨は裏面に描かれる主題が発行国ごとに異なるものであり、ユーロを使用する国で有効に使うことができる。最初に発行された2ユーロ記念硬貨はアテネで開かれた2004年夏季オリンピック大会を記念したもので、ギリシャが作成した。2005年にはオーストリア国家条約署名・発行50周年を記念した硬貨を作成、2006年にはドイツがはじめて記念硬貨を作成し、主題にはホルステン門が描かれた。その後ドイツでは2007年にシュヴェリン城、2008年に聖ミヒャエル教会が描かれた記念硬貨が発行されている。これらの記念硬貨は大量に発行・流通されている。ドイツでは16年間は、通常版であるアドラーを描いた2ユーロ硬貨を発行せず、連邦州のモチーフを描いた2ユーロ硬貨を1年ごとに代えながら発行する予定になっている。ただ2008年には流通を目的として、通常版の2ユーロ硬貨が大量に鋳造されている。2007年3月25日、ローマ条約署名50周年を記念して、当時のユーロ圏13か国は共通の図画とそれぞれの国の公用語およびラテン語での文章を刻んだ記念硬貨を発行した。また2009年1月1日には、経済通貨統合10周年を記念した2ユーロ硬貨が発行された。 |
ユーロの上記以外の特別記念硬貨 上述の記念硬貨以外にもユーロ圏諸国では、2ユーロ以外の額面の特別記念硬貨を発行しており、なかには100ユーロ以上の額面のものや記念金貨として発行されたものもある。オーストリアではユーロ額面として最高額の硬貨が鋳造されており、"Big Phil" と呼ばれるウィーン金貨には100,000ユーロの額面が付けられている。このような特別硬貨はユーロが使用されているすべての国では通用せず、それぞれ発行国のみで有効であり、またおもに収集家向けにやりとりされている。スロベニアが欧州連合理事会議長国だった2008年には3ユーロ硬貨が発行された。 |
ユーロの紙幣 ユーロ紙幣のデザインは欧州連合規模で行なわれた公募で集められた案のなかから、オーストリアのロベルト・カリーナのものが選ばれた。また紙幣のデザインはすべての国で共通のものとなっている。発行されている額面は5,10,20,50,100,200,500ユーロの7種類である。紙幣には「ヨーロッパのそれぞれの時代と建築様式」を主題としたモチーフが描かれている。またそのモチーフとして表面には窓が、裏面には橋が描かれている。ユーロ紙幣に描かれた建築物は実在のものではなく、それぞれの時代の特徴的な建築様式をもとに描かれたものである。具体的には、5ユーロ紙幣は古典建築、10ユーロ紙幣はロマネスク建築、20ユーロ紙幣はゴシック建築、50ユーロ紙幣はルネサンス建築、100ユーロ紙幣はバロック・ロココ建築、200ユーロ紙幣はアール・ヌーヴォー、500ユーロ紙幣は現代建築となっている。 |
ユーロのユーロ紙幣の発行 2002年末までユーロ紙幣の裏面に記載されている記番号の頭文字によって、その紙幣がどの国で印刷されたものかを判別することができた。たとえばドイツで印刷されたものにはXの文字が記載されていた。2003年以降は、いわゆる「プーリング制度」によりそれぞれの額面の紙幣が一部の中央銀行だけで発行されるようになり、印刷工場からユーロ圏全域に発送されることとなった。また各中央銀行が発行を担当する額面の種類は4つを超えないとされている。2003年以降は紙幣に記載された記番号を確認することで印刷工場を判別できるようになっている。たとえば5ユーロ紙幣では灰色で印刷された図柄の左端、EUROのOの文字の上方約1cmのところに記番号が記載されている。ほかの紙幣でも、この記番号は表面にある額面の上方に記載されている。記番号の先頭の文字は、その紙幣がどの工場で印刷されたものであるかを示している。例えばRであれば、ベルリンの連邦印刷局で発行された紙幣ということを表している。印刷工場コードに続くのは3桁の数字、アルファベット1文字、1桁の数字である。 |
ユーロの1, 2ユーロ紙幣の導入 オーストリアは2ユーロ紙幣を、イタリアはさらに1ユーロ紙幣の導入を求めている。両国ではユーロ導入以前に、低い額面の紙幣が流通しており、オーストリアでは20シリング(1.45ユーロに相当)紙幣が、イタリアでは1,000リラ(52セントに相当)紙幣がそれぞれ発行されていた。2004年11月19日に欧州中央銀行の政策理事会は、現行よりも低い額面の紙幣発行は行なわないということを決定した。2ユーロ紙幣についても現行の紙幣が10年間は改訂する予定がなく、導入する見込みはない。 |
ユーロの1,2セント硬貨の廃止 一部のユーロ導入国では1セント硬貨と2セント硬貨が一般的に使われていない。実際にフィンランドではセント単位の下1桁が0または5しか使用されていないため、同国では1セント硬貨と2セント硬貨が導入されていない。このような端数の廃止はオランダでも同様に行なわれた。これは両硬貨の流通量が少なく、そのために需要が少ないということが指摘されている。しかし1セント硬貨、2セント硬貨はとくに問題なく使うことができる。廃止に反対する立場からは、価格が5セント単位となるよう切り上げられていくおそれがあり、いわば第2のトイロをひきおこしかねないということが指摘されている。これに対して、心理的価格設定を行うさいに、従来は端数を99セントとしたものを廃止後は95セントにすることが見込まれるため、トイロ現象は起こらないという反論がある。さらにオランダやフィンランドの商店では、商品価格の端数をいまだに端数を99セントとしているところがある。このような商店では商品の合計購入額を支払のさいに切り上げ、または切り下げしている。 |
ユーロの500ユーロ紙幣の廃止 2009年、ドイツ連邦議会はインターネット上で500ユーロ紙幣による支払の廃止を求める請願の受付を開始した。この原因には、ガソリンスタンドや商店、あるいはドイチェポストの受付窓口でさえも、500ユーロ紙幣の受け取りが断られている実態にある。500ユーロ紙幣の受け取りが断られる背景には、釣銭が不足するというためではなく偽札を警戒するというものである。ところが統計ではこの懸念を裏付けることができない。これは実際に500ユーロの偽札が使われるという割合が全体の1%に満たないためである。2016年5月4日に欧州中央銀行は、パナマ文書で明かされたユーロによる資金洗浄対策により、ドイツの反対を押し切り、500ユーロ紙幣の発行停止を2018年末までに実施することを決定した。廃止される500ユーロ紙幣は発行残高の20%程度、枚数にして2%程度に過ぎないと推測されている。2019年ドイツとオーストリアを除くユーロ圏で500ユーロ紙幣の印刷が終了し1月27日から回収開始、2019年4月26日、ドイツとオーストリアが500ユーロ紙幣の印刷を終了、4月29日から回収開始。ドイツとオーストリアの印刷終了が遅れたのは使用頻度が高かったためである。 |
ユーロの紙幣 ユーロ紙幣の偽造対策の水準は世界的に見ても高いものと評価されている。紙幣の安全性を確保するためにさまざまな対策が講じられている。紙幣用の紙には製造段階において蛍光繊維が、また中心部には糸が入れられており、裏から光を当てると全体が黒ずみ、とくに額面のあたりには極小文字が印刷されている。またユーロ紙幣は特殊な構造を持つ綿繊維で作られている。さらに図柄の部分は発光塗料で印刷されており、紫外線を当てるとその部分が発光するようになっており、赤外線を当てると違う色が反射される。紙幣の透かしに裏から光を当てると、それぞれの券種に描かれている図柄が浮かび上がり、額面が判断できるようになっている。紙幣の表面左上隅にある確認用の見当は裏から光を当てて、裏面に印刷された見当と合わせると紙幣の額面が浮かび上がる。これは表面と裏面にはそれぞれ額面の一部しか印刷されておらず、両者を組み合わせることで額面が示されるようになっている。5,10,20ユーロ紙幣の縁には帯状の金属箔が貼り付けられており、光の加減でユーロ記号や額面が現れるキネグラムとなっている。50ユーロ以上の額面の紙幣に貼られている金属箔はホログラムとなっており、見る角度によってその紙幣に描かれている建造物や額面が現れるようになっている。凹版印刷と、間接的な活版印刷を組み合わせた印刷法で製造された紙幣の表面にはレリーフが隆起しており、これは紙幣を偽造しにくくするのと同時に、視覚障がい者が紙幣を区別しやすくするためのものである。さらに紙幣に描かれた窓や扉の部分や欧州中央銀行の略称である BCE, ECB, EZB, ΕKΤ, EKP が印刷されている部分も隆起印刷が施されている。低額紙幣の裏面には構造色を起こす筋があり、他方で50ユーロ以上の紙幣には光学的変化インクで額面が印刷されており、紙幣を傾けるとその色が変化するようになっている。さらにユーロ紙幣には機械で真券であるかを検査するための印がある。また偽造防止システムによって、複写機やパーソナルコンピュータを用いた偽造を防止するなどの対策も採られている。ドイツ連邦銀行では確認する安全対策の方法をひとつだけにすべきではないとし、同時に、非公開としている安全対策があるということを明らかにしている。 |
ユーロの硬貨 ユーロ硬貨は額面が低いため、偽造ユーロ紙幣に比べると影響が深刻ではない。しかしユーロ硬貨にも偽造対策が施されている。ユーロ硬貨には大きさと重さが厳密に定められている。1ユーロ硬貨と2ユーロ硬貨は2つの金属の合金で鋳造されている。合金で鋳造されていることと、複雑で3段階を経る製造過程によってユーロ硬貨の安全性が確保されている。1ユーロ硬貨と2ユーロ硬貨の中心部分にはわずかな強磁性を持つが、1,2,5セント硬貨は強い強磁性を持つ。1ユーロ硬貨と2ユーロ硬貨の外周は強磁性を持たないが、1, 2, 5セント硬貨は強磁性を持っている。偽造セント硬貨は本物のセント硬貨とは違う金属で製造されることがあるため、テーブルに落とした音で偽造硬貨を判別することがある。また紙に偽造硬貨で線を引くと、鉛筆で書いたような跡が残ることがある。2006年後半に回収された偽造硬貨のおよそ95%は2ユーロ額面のものだった。 |
ユーロの好影響 ユーロの導入によって従来は共同体内部に存在していた為替相場リスクや、そのリスクヘッジのために企業が負担するコストが低減することとなり、ユーロ圏内での通商や経済協力が増大するということが期待される。そして通商は経済成長をもたらす大きな要因のひとつであることから、ユーロ圏入りはその国民にとって利益につながると考えられており、実際に2007年までにユーロ圏内での貿易は 5-15% 増加してきた。つまりユーロによってヨーロッパの企業は巨大な経済圏で活動するという利益を享受することとなった。またユーロは商品、サービス、資本、労働力の自由な移動という、ヨーロッパ共同市場に欠けていた単一通貨となって、市場統合を完成させた。さらにユーロによって、ユーロ圏諸国における商品およびサービスの価格格差が解消され、つまり裁定取引によって既存の価格格差は相殺される。このことによって企業間の競争が活発化し、またインフレーション率の低下とあわせて消費者に利益をもたらすこととなる。一般に、欧州中央銀行はインフレとの戦いという主たる使命を成し遂げてきた。事実、欧州中央銀行が設定している 2% というインフレーション・ターゲットはおおむね達成されているか、あるいは長期にわたる過度の超過は防がれてきた。インフレーション率が低いということはユーロ圏諸国の市民にとって経済安定性の基礎となっている。ユーロに対する投機は、投資家にはリスクが大きすぎ、ほかの小規模の通貨と比べると困難なものとなっている。1990年代の通貨に対する投機はポンド危機など、欧州通貨制度に深刻な歪みをもたらし、さらにアジア通貨危機の発生原因のひとつとなった。特定の国の通貨に対する投機はその国の外貨準備を吐き出させ、また国民経済に深刻な損害をもたらしかねないものとなり、ユーロの導入はヘッジファンドによる通貨の空売りの目論見を防止することが可能となる。またユーロは、とくに旅行者にとって利益をもたらしている。ユーロ圏内では両替やその手数料が不要になるうえ、通貨単位が異なることによる商品価格の比較が容易になる。ユーロ圏内では複数の通貨を有する経済圏よりも自由な資本の移動が起きている。さらにユーロの登場によって世界におけるヨーロッパの経済的重要性が再認識されている。金融に関するヨーロッパの動向はより大きな影響を持ち、またユーロ圏諸国の発言力も強くなっている。グローバル化した世界でユーロという単一通貨はアメリカやアジア諸国に対するヨーロッパの国際競争力を高める役割を持っている。ユーロは経済心理面においてヨーロッパ諸国間の協力関係を表すものであり、またヨーロッパのシンボルとして統合の概念を具現化するものである。また政治面でもユーロは欧州連合の強化をもたらしている。 |
ユーロの悪影響 経済学者の中には、ユーロ圏のような巨大で特殊な経済圏にとっては単一の通貨を持つことについての危険性を懸念する意見がある。とくに景気循環が非同期的であることによって適切な金融政策が困難であるということが挙げられている。実際にユーロが導入されて間もなく、国ごとで経済情勢が異なっているにもかかわらず、単一の金融政策を実施することが困難なものであるということが明らかとなった。たとえば、経済成長率が 5% を超えていたアイルランドと、ほぼ 0% のスペインやポルトガルとを調和させるといったことが挙げられる。このとき、従来の手法では政策金利の引き上げや通貨供給量の引き締めといった政策でアイルランドの経済情勢に臨まなければならなかった一方で、スペインやポルトガルに対しては金融緩和策が必要だった。しかし単一の金融政策ではこのような域内での格差を十分に反映できない。マクロ経済学上の大きな問題として、単一通貨に参加することによる為替相場の固定がある。これがもたらす問題として域内地域格差問題がある。為替レートが域内固定されることにより、人件費の安い南欧に工場建設などの長期投資が発生する一方で、独・仏・ベネルクスなどでは安価な商品サービスの提供が行われるようになった反面、失業率の高止まりと新たな雇用の創出という難題を抱えている。南欧諸国にしても、ERMに参加していない欧州諸国とりわけイギリスやポーランド、チェコなどとの競争にさらされている。国際金融のトリレンマに従えば、固定相場制と資本移動の自由を両立させているユーロ圏各国では独立な金融政策をとることができない。この事実はユーロ圏の加盟国が不況に陥ったときに、自国通貨を切り下げて輸出競争力を高め経常収支を改善させることができなくなる。そのような状況下ではユーロ圏で経済が好調な国から不況の国へ財政支援が検討された場合のEUの力量が試される。けれども実際にはアメリカのような財政連邦主義を現時点でのユーロ圏が有しているわけではなく、頼みの綱の財政政策も安定成長協定(SGP)によって制限をかけられ、結果として各国の成長の足かせになりうる。ユーロ圏は、アメリカと異なり、圏内各国で言語や文化が異なるために、ユーロ圏内での資本移動はアメリカほど自由ではないし、各国は自国の人口をゼロにしたいとは思わない。ここで、資本移動での経済の調整メカニズムはあまり機能しなくなる。さらに。圏内の唯一の発券銀行である欧州中央銀行が、ドイツの影響を非常に強く受けているために、危機に対して民主的な裁量の余地が加盟国に乏しいことなどが想定される。ミルトン・フリードマンは、ユーロの見通しの悪さを以下のように危惧していた。適切な金融政策がとれるのは変動相場制があるからであり、統一通貨ではそれは不可能である。さらに悪いことに、ユーロ圏のように、為替レート変動による経済の調整メカニズムを放棄している場合には、国内の価格や賃金あるいは資本移動によってでしか調整メカニズムが働かないので、ユーロ圏各国が各自独立した文化や規制を有している状態のままユーロを導入すれば、ユーロ圏各国の政府が各々異なる政治的圧力にさらされ、それら政府同士での政治的軋轢が生じる。これは、現在のPIIGSとドイツのように、救済される側とする側とで異なる政治的圧力が働き、ユーロ圏政府間での交渉が行き詰っている状態をさしており、このような経済的困難が現れることを、フリードマンは予見していたと言える。また、クリストファー・ピサリデスは、現在のユーロシステムによって、失業率が高止まりし失われた世代が作り出されていると指摘し、ユーロ圏の順序だった解体を主張し始めた。かつては名案とされた通貨同盟だが、この通貨システムによってヨーロッパが低成長に苦しみ、加盟国が政治的に分断される結果となり、逆効果にしかなっていないとピサリデスは述べる。ユーロ圏全体では既に2013年度の平均失業率が12.2%に達し、スペインでは前年より売り上げが10%落ち込み、ギリシャなど一部の国ではデフレーションに陥っている状況であるにもかかわらず、欧州中央銀行(ECB)が景気回復のための適切な金融政策をとっていないという批判がある。ユーロ圏の経済成長率は1%未満にまで低下している。スペインとギリシャの失業率は27%に達しており、IMFはECBに政策金利を下げるよう要請している。だが、現段階でECBは、アメリカの連邦準備制度(FRB)などが行っているような量的緩和を検討はしないという。ジョージ・ソロスは、ECBの金融政策はその他の中央銀行が行っている量的緩和と同期していないと述べる。加えて、政治的な面からも、欧州中央銀行や欧州委員会がユーロ導入国の赤字国債発行を阻止できるかということは疑わしいと考えられている。マーストリヒト条約では安定成長協定に反した場合の罰金制度が規定されているが、2003年にフランスが棚上げにさせたことなどもありその実効性は疑わしい。一般に、単独または複数の国が財政政策上の義務を逃れるために大規模な国債増発に動いた場合、通常は国債価格の下落(金利の上昇)やインフレの進行、あるいは自国通貨の下落(通貨安)による輸入物価の高騰という形でむくいを受けるが、ユーロ一本値の場合、インフレ率や為替への影響は域内全体に拡散、吸収されるため残りのユーロ圏諸国に間接的な影響(損害)を及ぼしかねない。すなわち国債増発国はリスクを負わず安易な債券の発行が可能になり、その付けは他の参加国が共同で負うというモラル・ハザードを生み出すことになる。アメリカのように金利上昇により自国通貨が上昇(通貨高)する事例もあるが、民族資本の乏しい開発途上国では、為替相場におけるクラウドイン効果は期待できないと推測される。国債発行の単年度GDPの3%制限は、財政政策を行う上での大きな足かせであり、なおかつ金融調整は欧州中央銀行の一本値である。政府支出と金利調整機能は自国の総需要管理の強力な誘導手段であり、この2つを放棄することは自国の雇用を域内市場の趨勢にまかせ、政府が国民に対する責任を果たす直接的な手段が大きく制約されることを意味する。イギリスの再加盟反対派が掲げる主な理由は「イギリス経済はユーロ経済と非常に異なっており、ユーロ圏の画一的な経済政策はイギリス経済にリスクをもたらす」「イギリスの自主性が失われる」「イギリスのマクロ経済政策は、ユーロ圏のそれより有効である」「ユーロ圏とくにドイツに構造的問題がある」とする。イギリス政府は、再加盟問題を検討するうえで5項目の経済テストをおこない、結局「イギリスの金融部門に良好な影響をあたえる」以外の項目は満たさないとの結論を得た。なお、他の4項目は、「ユーロ圏とイギリスの経済構造や景気サイクルが持続的に一致の方向にむかっている」「イギリスの労働・生産市場が経済的衝撃に耐えられる柔軟性をそなえている」「イギリスへの投資が改善(拡大)する」「イギリスにおける雇用の機会が拡大する」である。 |
ユーロの商品市場 上述してきた影響のほかに、国際商品市場の値動き、とくに経済において重要なものに原油価格が挙げられる。ほとんどの原油の取引にはUSドルが用いられ、1970年代以降、石油輸出国機構諸国はドル建てだけで取引してきた。ところがユーロの登場により原油輸出国側では外貨準備の分散の観点から一部の受け取りをUSドルからユーロに移行する国が増え、そのため輸入国側でもユーロ建てでの取引に移行せざるを得ないということが議論された。各国中央銀行と民間資本によるドルによる外貨保有は、アメリカ国債の重要な引き受け先であり、輸出国側がユーロ建てを導入すれば、ながらく原油取引によって安定してきたUSドルとドル経済にきわめて不利な影響をもたらすことになる。2000年、サッダーム・フセイン統治下のイラクは原油取引をユーロ建てのみとしたが、のちにアメリカによる占領でドル建てに戻されている。またイランや、ユーロ建てへの移行を強く唱えているウゴ・チャベス政権下のベネズエラはサッダームによるユーロ建て移行に対する支持を表明している。2008年2月17日、イランはキーシュ島に、USドル建ての取引を行なわない石油取引所を開設したが、イランの原油輸出量はUSドルの「原油取引通貨」としての地位を脅かすほどのものではなかった。 |
ユーロの実際の物価上昇と消費者の感覚 ユーロの導入によって多くの消費者は商品やサービスの価格がインフレーション率以上に高くなったと感じている。この物価があがったという消費者の感覚は、特定の地域で原価が上がったために個々の価格が上げられたことによるものであり、これらの価格上昇がとくに印象に残った。一部では事前に、ユーロ導入後の価格の表示で端数の調整を実施するために、価格を緩やかに上昇させていたところもあった。そのためドイツでは、ティタニック誌が作り出し、その後多くの新聞でも使われるようになった "Teuro" という言葉(「高価な」という意味のドイツ語 teuer と Euroをあわせた造語)が広まり、Teuro は2002年の言葉 (Wort des Jahres 2002) に選ばれた。しかし政府の統計ではこの年に大きなインフレーションは起こっていない。たとえばオーストリア統計局によると、オーストリアの1998年12月31日での対1986年比での消費者物価指数 (VPI 86) は133.7で、1987年から1998年の12年間の平均インフレーション率は2.45%である。これに対して対1996年比での消費者物価指数 (VPI 96) は、1998年12月31日に102.2だったものが、2003年12月31日には112.0となっており、ユーロ導入後の平均インフレーション率は1.84%に下がっている。またドイツの対2000年比での消費者物価指数を見ると、1991年に81.9だったものが1998年には98.0となった一方で、ユーロ導入後の2003年には104.5となっている。つまり、ユーロ移行以前の平均インフレーション率が2.60%だったのに対して、移行後は1.29%と下がっている。 |
ユーロの矛盾の解析 上記のような、統計上はインフレーション率が低下していることと、ユーロ導入によって消費者が実際のインフレーション率以上に物価が上昇していると感じたこととの矛盾についてはさまざまな解析がなされている。たとえば、たしかに食品など日常購入する商品の価格上昇率は全体のインフレーション率を上回っていたが、マーケットバスケット方式で調査された対象に含まれている電化製品などの価格上昇率は全体のインフレーション率より下回っていた。つまり後者の商品は日常的に購入するものではないため、消費者は統計以上に物価が上昇したと感じたのではないかということが指摘された。また旧通貨からユーロに頭の中で換算したときに、四捨五入するなどして発生した誤差(たとえば対ドイツマルクで 1:1.95583 とするところを 1:2、対オーストリア・シリングで 1:13.7603 とするところを 1:14 などとした)が影響したという見方もあり、とくにスペイン・ペセタ(四捨五入で 1:166)の例がある。そして旧通貨を使っていた時間が長いほどユーロでの価格表示と旧通貨での表示を比べるために、物価が上昇したのではないかということが強く感じられたのではないかとも指摘されている。 |
Subsets and Splits
No community queries yet
The top public SQL queries from the community will appear here once available.