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ユーロのユーロと各国の経済政策 通貨が共通化されたことにより、導入国では国内の経済政策の大部分を独自に実施するということがなくなった。このため単一通貨を批判する立場からは経済や政治における摩擦が増大する危険をもたらすのではないかと指摘し、他方で単一通貨を支持する立場からは導入国間での収斂基準の達成に基づく金融政策の統合は合理的であるとしている。
ユーロの受賞 2002年、ユーロは「これまでのなかでヨーロッパを認識させるような統合への手段はほかになく、そのために諸国民の一体化をもたらす重大で新たな時代を切り開くような貢献をした」としてアーヘン市からカール大帝賞を受賞した。
X10 (プログラミング言語)の概要 X10 の主な草案者は Kemal Ebcioglu、Vijay Saraswat、Vivek Sarkar である。X10 は、Java言語の拡張されたサブセットで、多くの面で非常に似ているが、配列と並行性のためのサポートが追加されている。X10 は区分化大域アドレス空間を使用する。またオブジェクト指向プログラミングと、非オブジェクト指向プログラミングの両方のパラダイムをサポートする。X10 は、複数のプロセッサが処理完了前に互いの終了を待ってしまうというロックの膠着状態を防止するために、タスクの親子関係の概念を使用する。あるタスクは1つまたは複数の子タスクを生成でき、子タスクも更に子タスクを持つことができる。子は親の終了を待つ事はできないが、親は finish コマンドを使用して子の終了を待つことができる 。
ジム・ヘンダーソン (野球)のプロ入りとマイナー時代 2003年のMLBドラフト26巡目(全体777位)でモントリオール・エクスポズから指名され、プロ入り。2006年にルール・ファイブ・ドラフトによってシカゴ・カブスへ移籍した。2008年のオフに肩の故障が原因でカブスから解雇された。
ジム・ヘンダーソン (野球)のブルワーズ時代 2009年はミルウォーキー・ブルワーズとマイナー契約を結んだ。2011年オフの9月16日に第39回IBAFワールドカップとグアダラハラパンアメリカン競技大会の野球カナダ代表に選出された。2012年7月26日のワシントン・ナショナルズ戦で2番手として登板し、29歳で悲願のメジャーデビューを果たした。新人ながら勝ちパターンで起用され、長身から投げ下ろす速球とスライダーを武器にイニング数を大きく上回る三振を奪った。2013年1月17日に第3回WBC本戦のカナダ代表が発表され、代表入りした。同年のレギュラーシーズンは5月25日から6月8日まで右ハムストリングの張りで故障者リストに入ったが、61試合に登板して5勝5敗28セーブ・防御率2.70・75奪三振の成績を挙げた。2014年は、開幕はロースター入りしたが5月2日に右肩痛で15日間の故障者リスト入り。7月21日に60日間の故障者リストに移行し、シーズンを終えたため14試合の登板にとどまり、2勝1敗の成績であった。2015年も開幕から15日間の故障者リスト入りしたがリハビリ期間内に回復できず、5月21日に40人枠から外れる形でAAA級コロラドスプリングス・スカイソックスへ配属された。シーズン終了後の11月6日にFAとなった。
ジム・ヘンダーソン (野球)のメッツ時代 2015年12月3日にニューヨーク・メッツとマイナー契約を結び、2016年のスプリングトレーニングに招待選手として参加することになった。2016年4月1日、メジャー契約を結んで開幕ロースター入りした。この年は44試合に登板して2勝2敗・防御率4.11・40奪三振の成績を残した。12月1日に40人枠から外れ、翌2日にFAとなった。
ジム・ヘンダーソン (野球)のメッツ退団後 2017年1月27日にカブスとマイナー契約を結んでスプリングトレーニングに招待選手として参加することになったが、3月23日に自由契約となった。前後するが、開幕前の2月8日に第4回WBCのカナダ代表に選出され、2大会連続2度目の選出を果たした。
お艶殺しのあらすじ 駿河屋のお艶は雪の夜、相思相愛の番頭新助を説得し、深川の船頭清次の船宿に駆け落ちし、夢のような数日間を過ごす。師走の晩、お艶に恋していた清次は、柳橋の料亭に新助を誘い出し、無理矢理酒を飲ませ、子分三太に新助を殺させようとし、しかし三太が大川端で殺される。新助は清次の企みを知り、清次の家に行くが、お艶はすでにおらず、清次の妻を殺す。新助は本所業平の博徒金蔵の家に、お艶にひとめ会ったら自首する約束でかくまってもらい、翌年春、お艶に会える。お艶は清次のために砂村の悪党徳兵衛の家に誘拐されていて、いまは徳兵衛のうしろだてで深川仲町の芸者になり、新助はすでに亡き者とあきらめ、奔放な生活を送っていた。二人は一日のばしに夢を見ていたが、ある晩、お艶は徳兵衛と、向島の寮で旗本芹沢をだましそこねて、迎えに来た新助と3人で逃げる途中で、新助と助け合って手負いの徳兵衛を殺す。新助は気持ちが変り、自首は論外、悪事をたくらみかねを奪うことばかりを考え、お艶と共謀して清次を殺して仇を討って大金を盗む。恐ろしい恋に酔いしれる2人は、汚れたかねでただれた歓楽の限りを尽くし、やがて淫蕩なお艶の心は、以前のなじみの芹沢のほうへうつったので、嫉妬に狂った新助は向島三囲神社の土手上であたらしい情人の名前を呼びつづけるお艶を斬り殺す。
吐谷渾の建国 鮮卑族の慕容部において大人(たいじん:部族長)の慕容渉帰が死去すると、次男嫡子の若洛廆(慕容廆)が後を継いで大人となった。一方、庶長子である慕容吐谷渾は父の代から700戸を分け与えられていたが、あるとき慕容吐谷渾の馬たちが弟の慕容廆の馬たちに危害を加えたため、その罪で慕容部から追放されてしまう。慕容吐谷渾たちは陰山に行く着くが、永嘉の乱に遭遇したため、最終的に西の隴山を越えて西零以西の甘松の界(青海地方)に移り住み、遊牧を始めた。慕容吐谷渾が死ぬと、その子孫たちは始祖である吐谷渾の名を取って国名とした。
吐谷渾の六朝との関係 吐谷渾は南北朝時代の中国王朝にしばしば朝貢し、中国文化を摂取した。とくに436年には北魏から鎮西大将軍、438年には南朝宋から都督西秦河沙三州諸軍事・鎮西大将軍・西河二州刺史・隴西王を授けられ、翌年には河南王に改封された。444年、吐谷渾内部で権力闘争があり、北魏軍の侵攻を受けたため、吐谷渾王の慕利延は于闐国(現:新疆ウイグル自治区ホータン)に逃れて、于闐王を殺し、その地を占拠した。その後、慕利延は故土に戻り、南朝宋との関係を深め、北魏としばしば交戦した。この頃、吐谷渾は西域南道諸国も支配し、シルクロードの国際貿易を統制していた。
吐谷渾の隋唐との関係 581年、楊堅はシルクロードの交易を確保するため、歩騎数万を送って吐谷渾を攻撃し、大敗した吐谷渾王は遠く逃れたため、隋は吐谷渾に傀儡政権を樹立した。隋の煬帝もしばしば吐谷渾に遠征軍を送り、この地域に西海郡、河源郡などを設置した。しかし、隋末の大乱により、吐谷渾が奪回している。唐の太宗も635年に李靖を大総管とする大軍を吐谷渾に遠征させたため、吐谷渾は東西に分裂、西部は鄯善国(現:新疆ウイグル自治区ロプノール付近)を中心に吐蕃に降り、東部はなお青海にあって唐の属国となった。唐はしばしば吐谷渾王に公主を降嫁させて懐柔を図り、唐との関係は友好的なものがあった。
吐谷渾の滅亡 663年、吐谷渾は突如吐蕃の攻撃を受けて壊滅した。多くの部衆は唐に逃れ、青海に残った者は吐蕃の支配下に置かれた。唐の高宗は吐谷渾を復国させるため、670年に将軍の薛仁貴に5万の大軍を授けて青海に出撃させたが、大非川の戦いで吐蕃軍に包囲され大敗した。これ以降、青海地方はチベットの領域に組み込まれ、唐に亡命した吐谷渾部衆は霊州で保護されたが、8世紀中葉、吐蕃軍はさらに唐の領内にも攻め込み、霊州もまた吐蕃軍の陥れるところとなった。一部の吐谷渾部衆はさらに各地に逃れ、その勢力は見る影もなく衰退する。吐谷渾の名は遼代ころまで中国史料に見えるが、その後は漢民族に吸収された。
吐谷渾の社会経済 吐谷渾は遊牧を主として生活し、馬、牛、駱駝などを盛産した。その良馬は青海駿と呼ばれ、日に千里を行く竜種として有名であった。青海の地は寒冷で農業はあまり発展しなかったが、銅や鉄を産し、鉱山や冶金が発展した。吐谷渾の領土は現在の新疆南部に及び、そのキャラバン隊はシルクロードを通り中央アジアやペルシャにまで進出、その物産を益州や長安にもたらした。宗教はもともとシャーマニズムであったが、後には仏教を信仰し、514年には益州に九層の仏寺を寄進している。文字はなく、上流階層は漢字を使用した。吐谷渾の婦人は金花で頭部を飾り、とくに可汗の夫人は華麗な金花冠を頭に載せていた。これは遼西の慕容部に共通する風俗である。
上新城 (川崎市)の地理 川崎市中原区最西端の一角で、JR南武線武蔵新城駅の北側に広がる住宅街である。北部が一丁目、駅を含んだ南部が二丁目となる。北は上小田中一丁目、東は上小田中一丁目・三丁目、南はJR南武線の線路を挟んで新城一丁目・三丁目・五丁目および新城(大字)、西は高津区末長・新作五丁目と接する。駅北口から北方向には新城北口はってん会商店街が、南武線と並走する南武沿線道路沿いおよび駅北口から東方向には、新城北口一番街商店街が延びている。
上新城 (川崎市)の道路 JR南武線に沿って南武沿線道路が通過している。西は溝口方面、東は小杉・川崎駅方面へ延びている。
上新城 (川崎市)の路線バス 武蔵新城駅北口に「新城駅前」(市営)、「新城駅」(東急)停留所が設置されており、川崎市交通局および東急バスのバス路線が乗り入れる。
バーニー・フュークスの経歴 イリノイ州オファロンに生まれた。彼は、父親のいない貧しい境遇の中で育った。トランペット奏者になることを夢見ていたが、高校を卒業した夏に工場の事故で右手の指3本を失ったため、断念した。そこで彼は新たな道を求め、正規の美術教育を受けた経験は無かったが、美術の世界で身を立てることを決意、事故の補償金でセントルイス・ワシントン大学に入学し、1954年に卒業した。フュークスの最初の仕事は、デトロイトにあるニュー・センター・スタジオ(New Center Studios )の自動車広告のイラストであった。スタジオのオーナーは、アート・グリーンウォルド(Art Greenwald )だった。1950年代から60年代を通じて、デトロイトで最も規模が大きく最も成功を収めたスタジオだった。イラストレーターは、他にシック・アルバートソン(Chic Albertson )とドナルド・シルヴァースタイン(Donald Silverstein )が所属していた。フュークスは、非凡な才能ですぐに認められ、グリーンウォルドに大きな利益をもたらした。彼は、デトロイトに移った2、3年のうちに、デトロイトの自動車会社専門スタジオ「ジ・アート・グループ」(The Art Group )を立ち上げた。1950年代末、コネチカット州ウェストポートに移り、『マッコールズ』、『レッドブック』、『レディーズ・ホーム・ジャーナル』、『スポーツ・イラストレイテッド』などの雑誌のイラストを手掛けるようになったフュークスは、1998年発行のアメリカの4枚の切手のイラスト制作も引き受けている。切手のイラストは、フォーク・ミュージシャン(ハディ・“レッドベリー”・レッドベター、ウディ・ガスリー、ソニー・テリー、ジョシュ・ホワイト)だった。また、アラン・シュローダー(Alan Schroeder )作の『ラグタイム・タンピー』(Ragtime Tumpie )や『カロライナ・シャウト!』(Carolina Shout! )など、いくつかの絵本のイラストも制作している。また、フュークスは、ジョン・F・ケネディ、リンドン・ジョンソン、ジェラルド・R・フォード、ジミー・カーター、ロナルド・レーガンらアメリカ合衆国大統領や、モハメド・アリ、アーノルド・パーマー、ジャック・ニクラス、テッド・コッペル、キャサリン・ヘプバーン、オスカー・チャールストンらスポーツ選手や著名人の肖像画も描いている。2009年9月17日、食道癌により、コネチカット州フェアフィールドにある療養施設で死去、76歳であった。
バーニー・フュークスの受賞歴 史上最年少で米国イラストレーター協会の殿堂入りを果たした。1991年、アメリカン・スポーツ美術館兼資料館によりスポーツ・アーティスト・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。1989年、フュークスがアラン・シュローダー(Alan Schroeder )と共作した児童書『ラグタイム・タンピー』(Ragtime Tumpie )が、アメリカ図書館協会推薦児童書に選定された。また、国際読書学会のティーチャーズ・チョイス(Teachers' Choice、「教師たちが選んだ児童書」の意。)にも選ばれた。二人は、1994年の絵本『カロライナ・シャウト!』(Carolina Shout! )も共作している。
バーニー・フュークスの家族 バーニー・フュークスは、高校時代の恋人であるアンナ・リー・ヘッセ(Anna Lee Hesse )と結婚した。二人は、シンシア(Cynthia )、デレク(Derek )、エリーズ(Ellise )という3人の子供を育てた。
ケイコ・マクドナルドの概要 埼玉県を中心にパチンコホール「ガーデングループ」を手がける「株式会社遊楽」のパチンコ・パチスロ番組である。多彩なキャストが本気(ガチ)の実践に挑むパチンコ・スロット完全ドキュメンタリー番組である。メインMCは、スロットライターのレビンが務める。朝に一般客と一緒に並び実践を行い、出演者一人ひとりがパチンコ・スロットを自由に立ち回る。
オフ・ザ・ボールのオフ・ザ・ボールの動き スペースを作る、或いはスペースを使うためのフリーランニングが主なものである。フリーランニングを行ってもスタミナを消耗するだけで無駄に終わることもある。それを無駄走りと言う場合もあるが、オフ・ザ・ボールのランニングを示す「無駄走り」の場合は、身を挺して走るという肯定的な意味合いでも使われる。
オフ・ザ・ボールのパス&ムーブ パス&ゴーとも呼ばれ、パスを出した後も動き続けること。パスを出した後はディフェンスの意識がボールに集中しやすく自由に動くチャンスになる。ワンツーパス等はパス&ムーブを利用した最たる例である。
オフ・ザ・ボールのデコイラン パスを受けようとフリーランニングした選手が囮となってディフェンスを引き付けることで味方へのプレッシャーを緩和し間接的に味方を助ける。
オフ・ザ・ボールのダイアゴナルラン フィールドの中央からサイド又は、サイドから中央に斜めに走る動き。斜めに移動することによりディフェンスにマークの受渡しとラインのコントロールの両方を強いることで、ディフェンスを混乱させる。
オフ・ザ・ボールの第3の動き ボールを持っている選手の周りの選手がパスを受けようと動き出したときに、さらに次のプレーを予測してパスを受けた選手から次のパスを受けられるように先行して動くこと。次々と連携してパスを繋いで動いていくことでディフェンスは予測しづらく効果的にディフェンスを崩すことができる。しかし、そのためにはチーム全体でのプレーの共通イメージと積極的に走り続けることが必要であり、決して簡単なものではない。
オフ・ザ・ボールのポジション別によるオフ・ザ・ボールの動き ポジションごとに要求されるオフ・ザ・ボールの動きは当然ながら違ってくる。
オフ・ザ・ボールのフォワード フォワードは良い状態でシュートまで持ち込むために、相手のマークを外してフリーになりパスを受けることが出来るように動く。さらに、周りの動きからスペースが出来る位置を予測して動くことで得点チャンスが生まれたりする。このような動きを得意とする選手は「得点感覚に優れる」「ポジショニングが良い」「ゴールへの嗅覚が鋭い」と言われる。また、状況によっては自ら囮となってディフェンダーを誘い出してスペースを作り出す動き等も求められる。
オフ・ザ・ボールの裏への飛び出し フォワードのオフ・ザ・ボールの動きのひとつにディフェンスラインの裏への飛び出しがある。これは味方のパスに合わせて相手ディフェンスのオフサイドラインの裏のスペースに飛び出すものであり、成功すればゴールキーパーと1対1になることができて得点のチャンスに直結する。しかし、飛び出す選手とパスを出す選手の意思の疎通や飛び出すタイミングが難しい。
オフ・ザ・ボールのプルアウェイ フォワードのオフ・ザ・ボールの動きのひとつで、ゴール前にいるフォワードが敢えてゴールから遠ざかりディフェンスのマークを外すという動きである。ディフェンスの意識はどうしてもゴールに向かっていく選手に集中しやすいので、ゴールから離れることで一旦マークから逃れ、そこから再度空いているスペースへ進入すれば、ボールをフリー且つ前を向いた状態で受け取れる可能性が高まる。
オフ・ザ・ボールのミッドフィールダー ミッドフィールダーは味方の選手のパスコースの選択肢を増やすためにパスを受けられる位置を探して動き回る。
オフ・ザ・ボールの2列目からの飛び出し 前線でフォワードがマークされこう着状態に陥ったときなどに、中盤から前線へ飛び出して行き、一時的に数的有利を作り出して状況を打開する動き。
オフ・ザ・ボールのオーバーラップ 中盤の選手を追い越して前に出て行くこと。後ろから選手が出てくることで数的有利を作り出すことが出来る。しかし、後方からの攻撃参加は豊富なスタミナを必要とする。また、守備が手薄になってしまうため注意が必要である。
カイザースバッハの位置 カイザーバッハは、自然地理区分上シュールヴァルトとヴェルツハイムの森およびシュヴァーベン=フランケンの森山地にまたがる。これらはいずれもシュヴァーベン・コイパ=リアス=ラントに属す。
カイザースバッハの自治体の構成 自治体カイザーバッハには、合計43の村落、小集落、農場、住宅地が属す。
カイザースバッハの歴史 カイザーバッハは、1375年に、シュタウフェン家の所領をアーデルベルク修道院に譲渡する際に初めて記録されている。修道院は、1382年にはさらに、トルフゼッセン・フォン・シュテッテンの所領を獲得し、この集落に対するあらゆる統治権を行使した。宗教改革に伴いカイザーバッハはヴュルテンベルク領となり、その後は新たに設けられたクロスターアムト・アーデルベルクに属した。この行政区は1807年にオーバーアムト・ヴェルツハイムに、1938年にヴァイプリンゲン郡に編入された。1973年には旧バックナング郡と旧ヴァイプリンゲン郡から、現在カイザーバッハが属しているレムス=ムル郡が形成された。この町は市町村再編でも自治権を保持し、1973年1月1日に、ムルハルト、ヴァイデンホーフ、ヴァイデンバッハ、ブルーフのそれぞれ一部を編入した。新たな住宅地ハルデネッカーとビューレッカーの開発によって、近年人口が増加している。この他にも新たな住宅地が計画されている。
カイザースバッハの首長 2014年から町長はカティア・ミュラーが務めている。
カイザースバッハの議会 カイザーバッハの町議会は12議席からなる。議長は町長が務める。
カイザースバッハの建築 カイザースバッハには新しい外観の水道塔と福音主義教会がある。水道塔は非公開である。
カイザースバッハの教育 カイザースバッハには基礎課程学校が1校ある。これより上級の学校は隣接市町村(たとえば、ヴェルツハイム)で学ばなければならない。カイザースバッハ地区から 2 km のメンヒホーフにはレムス=ムル郡の校外活動施設がある。
ブレイブ・ストーリー〜新説〜のストーリー 三谷亘はゲームが得意なただの中学生だった。しかし、転校生・芦川美鶴と出会った頃から彼の周りで不思議な出来事が次々と起こる。真相を確かめるために入った“幽霊ビル”の中で亘は要御扉(かなめのみとびら)に出合う。吸い込まれるように入った要御扉の奥でワタルが見たのは現実からかけ離れた世界・幻界(ヴィジョン)だった。現世(うつしよ)に戻った亘だったが、こんどは父・明が離婚すると言って家を出ていってしまう。ある夜、魔物をおびき寄せて要御扉をくぐったミツルを助けるため、ワタルは“旅人”となり後を追って幻界に入る。そこでワタルが見たのは旅人と殺し合うミツルの姿。旅人は自分の願いを叶えるため“運命の塔”を目指す。そして願いを叶えられる旅人はただ一人。衝撃を受ける亘に美鶴は「お前は旅人に向かない」と言い放ち旅人の資格を取り上げる。その翌日、母・邦子は明がもう戻らぬことに絶望し自殺を図る。運命を変えるため、元の暮らしを取り戻すため再び旅人になる決心を固め、ワタルは幻界へと旅だった。
ブレイブ・ストーリー〜新説〜の幻界の世界観 幻界とは現実世界の人間の想いから作られた現実と異なる次元の世界である。魔法・魔物・亜人などファンタジー的なものも当たり前のように存在する。通貨単位はテム。距離単位はトルメ。幻界は主に海に囲まれた2つの大陸から成り立っており、一つは面積の約半分が1年中雪と氷に閉ざされる北の大陸、もう一つは山地が多く季節の動きに富んだ南の大陸である。その地理ゆえ南の大陸では産業が栄えたが、北の大陸は発展が遅れている。南の大陸の連邦政府と北の大陸の統一帝国は、思想などの違いから200年以上(235年間)対立状態にあり、長く膠着状態に陥っていた。
ブレイブ・ストーリー〜新説〜のブレイブ・ストーリー新説~十戒の旅人~ 2013年から2016年まで『ゴーゴーバンチ』(新潮社)で連載されていた関連作。漫画は前作同様、小野洋一郎が担当した。原作をベースにした前作とは異なり殆んどオリジナルのストーリーと登場人物が登場する為、原作小説との関連性は薄い。現時点では前作との繋がりを示唆する表現が見られる程度なので便宜上では続編ではなく関連作と表記する。(前作と同名の人物が登場したり、東日本大震災が遠い過去の出来事として伝えられている事から前作よりも後の時間軸である事が作中で示唆されている)
大迫明伸の23歳で強化選手入り 宮崎県中央部に位置する西諸県郡野尻町で、 農林業を営む大迫家5人姉兄の末っ子として生まれる。柔道は、地元の紙屋中学校時代に始めた。中学時代は無名選手だったが、県立宮崎商業高校の藤井猪徳監督(当時)に誘われ、1976年に同校へ入学。高校時代は藤井の家に下宿しながら3年間を過ごし、高校3年次にはインターハイの団体戦でベスト8に入る。1979年に天理大学へ進学すると、2年次よりレギュラーとして活躍し、この間に同大学は全日本学生優勝大会において、1980年3位、81年優勝、82年準優勝という好成績を収めている。1983年春、同大学を卒業。大学卒業後は旭化成に籍を置き、23歳にして初めて強化選手入り。大会でも、得意技の背負投を武器に講道館杯や全日本実業選手権等で活躍し、徐々に頭角を現す。1985年には体重無差別の全日本選手権に初出場を果たすと、緒戦で中国地区代表の板本健三を破り、続く2回戦で当時199連勝中の山下泰裕と対戦。試合は敗れたものの、試合中に山下を背負落で宙に浮かせ、会場を沸かせた。
大迫明伸の失われた背負投 山下との善戦を終えた大迫は、選手権後には次の目標に五輪を据えると、国際大会での実績を積むために北朝鮮での国際大会に出場した。86kg級で準優勝に甘んじたため無差別級にもエントリーした大迫だが、決勝戦で身長2mを超す北朝鮮代表選手の腋固で左肘を脱臼。これにより、背負投型の選手にとって最も大事な釣り手を、大迫は使えなくなってしまった。スポーツ外科という分野が未熟だった当時、「治る確率は五分五分」と言われた手術を受けるかどうか、大迫は悩んでいた。医者から「成功しても1年間は柔道をできない」と告げられたため、年齢的に後のない大迫は、手術をせずに手負いの状態で柔道を続ける決断をする。これは即ち、十八番の背負投を捨てる事を意味していた。再起のため背負投に変わる得意技として一本背負投を磨くが、肘の痛みと戦いながらの稽古は熾烈を極めた。いつ癒えるとも判らない肘の故障に加え、時を同じくして腰椎分離症も併発した大迫は、国際大会に出場しても鳴かず飛ばずの成績が続き、1987年の世界選手権の選考会で3位に終わった後に、旭化成柔道部の監督に引退を相談した。監督の説得もあり一旦は引退を思い止まったものの、その後すぐに全柔連の強化選手から外され一気に脱力。この時の心境を大迫は「何もかも終わりだと思った」と述懐する。
大迫明伸の復活と念願の五輪出場 九州代表として臨む1988年の全日本選手権、この大会を最後に引退する事を決めていた大迫は、妻や実父を東京の日本武道館に呼び寄せた。不運にも下痢に悩まされながら臨んだ大会ではあったが、緒戦で若手のホープ・吉田秀彦を、2回戦で前年の世界選手権無差別級王者・小川直也を、3回戦ではベテランの日蔭暢年を破り、ベスト4に進出。準決勝戦では正木嘉美の小外掛で宙を舞うも、この大会の3位入賞という実績が認められ、再び強化選手に指定された。この大会について大迫は「体調が最悪だったにも拘らず活躍できたのは、“全国の人に俺の最後を見届けて欲しい”と開き直れたから」と振り返る。現役続行を決めた大迫は直後の全日本体重別選手権で優勝し、同年9月開催の1988年ソウルオリンピックへの切符を手にした。同大会では準決勝戦でオーストリアのペーター・ザイゼンバッハーに敗れたが、3位決定戦で前年の世界王者であるフランスのファビアン・カヌーを僅差で退け、銅メダルを獲得。また、翌89年の全日本体重別選手権で連覇を達成すると、ベオグラードの世界選手権でも日本代表に選出された。しかし世界選手権では敗者復活戦の1回戦で敗退し、メダルには届かなかった。1990年、旭化成のメンバーとして出場した団体戦で日本一に輝き、直後に現役を引退。この時30歳であった。
大迫明伸の競技者から指導者へ 引退後は、旭化成のコーチに就任。2005年から2008年までは旭化成アミダスに所属。また、全柔連においてもジュニアヘッドコーチ、専任コーチ等を歴任し、現在はシニア強化コーチを担当。この間に井上康生らを担当した。自身のコーチ就任当初の失敗経験を通し、指導者として“選手と同じ目線に立った指導”を心掛けている。2012年ロンドンオリンピックでは審判員を務めた。2016年リオデジャネイロオリンピックでも審判員に選出された。2017年にIJFは審判間で意見が食い違う微妙なジャッジとなった際に最終判断を下すスーパーバイザーの役職を設けたが、その任を受けた5人のうちの1人となった。
セベロ・オチョアの来歴 オチョアはスペインのアストゥリアス県ルアルカで、弁護士でビジネスマンの父セベーロ・マヌエル・オチョアと母カルメン・デ・アルボルノスの間に生まれた。父親はオチョアが7歳の時に亡くなり、母子はマラガに移住し、ここでオチョアは高校まで通った。彼はスペインの神経科学者でノーベル賞受賞者のサンティアゴ・ラモン・イ・カハールの著書を読んで生物学に興味を持った。1923年、彼はマドリード大学の医学部に入学し、カハールの元での研究を希望したが、カハールは退官した後だった。カハールの弟子で当時教授、のちに政治家に転じて首相となるフアン・ネグリンの勧めによりクレアチンの研究を始める。1929年に卒業し、1930年に医学博士号を取得した。1931年にカルメン・ガルシア・コビアンと結婚したが、子供はいない。それ以来1938年まで、彼は様々な場所で様々な人と様々な地位で仕事をした。例えばオットー・マイヤーホフはハイデルベルクのカイザー・ウィルヘルム医学研究所に客員助手として彼を招いた。1938年から41年まで、彼はオックスフォード大学で助手として働いた。その後はアメリカ合衆国に移住し、再び様々な大学で様々な地位について研究を行った。1942年に彼はニューヨーク大学医学部の助手になり、1945年に生化学の助教授、1946年に病理学の教授、1954年に生化学の教授となった。1956年にアメリカ合衆国の国籍を取得。オチョアは1985年までタンパク質生合成とRNAウイルスの複製の研究を続け、スペインに帰国して政府や科学者にアドバイスを行った。
セベロ・オチョアの栄誉 1959年にRNAの合成に関する研究でノーベル生理学・医学賞を受賞した。彼はまた、1963年にパウル・カラー・ゴールドメダル、1979年にアメリカ国家科学賞も受賞した。オチョアはマドリードで亡くなり、1970年代から計画されていた新しい研究所は彼の名前から命名された。また、小惑星番号117435の小惑星セベロチョア(Severochoa)も彼の名前にちなんでいる。
須永元の経歴 下野国安蘇郡天明町(現・栃木県佐野市)に豪農の子として生まれる。幼名を平十郎または平重郎という。明治19年(1886年)頃上京し、二松学舎に入り、三島中洲、岡本黄石に師事し、漢籍を修める。続いて1889年(明治22年)3月22日、慶應義塾別科独仏科に入り、大学部を卒業する。1895年(明治28年)に帰郷し、金玉均亡き後の朝鮮壮士を支援し、東邦協会や玄洋社、黒龍会の活動に没頭する。1895年(明治28年)には朝鮮に渡り、朴泳孝の旧宅に寄寓する。勝海舟や田中正造とも交遊があった。1910年(明治43年)の日韓併合条約により独立運動から遠ざかり、牧場経営に力を入れる。転じて1921年(大正10年)、久慈川水力発電所事業を創立するために奔走し、1942年(昭和17年)7月1日、75歳の生涯を閉じた。葬儀には頭山満を始め多くの政財界関係者が参列し、佐野妙顕寺にて行われた。近代日朝関係史を集めたその重要な資料は須永文庫として残されている。
崔溥の前半生 崔溥は、耽津崔氏、字は淵淵。錦南(금남)と号した。1454年全羅道羅州に生まれる。父は進士の崔澤、母は驪陽陳氏。郷校で朱子註の四書五経を学ぶ。1478年、25歳のとき進士第三名合格、成均館に入る。金宗直と師弟関係を結び金宏弼(1454〜1504)らとともに学ぶ。1482年、29歳のとき文科乙第一名(朝鮮には中国への気兼ねから甲科がないので実質的に一位合格)、官職を得られる身分になる。1485年、徐居正らとともに朝鮮初の官撰通史である『東国通鑑』の編纂作業に参加。1486年にも金宗直らとともに『東国輿地勝覧』の改編作業に参加する。1487年、弘文館副校理(従五品)に昇進。同年9月に、済州島において朝鮮本土から逃亡した奴隷の戸籍を照合する役職の推刷敬差官に任ぜられ、同島へ赴く。
崔溥の漂流 済州島において推刷敬差官として奉職している間の1488年2月12日、羅州から奴婢がやってきて、崔溥の父が亡くなったことを知らせた。 儒教的価値観にしたがって、崔溥は直ちに職を辞し、喪に服す準備に入った。 しかしながら、43人の供回りの者らとともに朝鮮半島本土へ向けて出航しようとした矢先、嵐に吹かれ、14日間もの間、荒れた海を漂流した。船は寧波の近く台州に漂着した。漂流が始まって5日目に崔溥は以下のように記している。霧が深くて何も見えない。足下にあるものすら何か分からないほどである。夕方まで激しい雨が降り続いて、夜になるといくらか和らいだ。恐ろしい波が大山のようにうねって、船を空へ持ち上げては波の底へと落とす。波のうねりが砕ける音で天地が裂けるほどである。私たちはいつ溺れ死んでもおかしくなかった。 — Khair (2006, p. 155)崔溥は、供回りの者をせかして自らの着衣を死に装束に替えさせ、天に祈っていかなる罪科がこのような運命を導いたのか問うた。 漂流6日目、天候が回復し船は黄海内のある群島にたどり着いたが、そこは海賊の根城だった。 海賊らは崔溥一行の船の糧食を奪い櫂や錨を海に投げ捨てた上、船を海上に置き去りにして漂流するまま任せた。
崔溥の漂着 2月28日、強い雨が降り続いていたが、乗り組みの一人が人気のない海岸線を見つけた。 それと同時に6艘の中国の舟に囲まれたが、これらの舟に乗っている者たちは翌日まで崔溥の舟に乗り移ってこようとはしなかった。 崔溥は中国語を話せなかったので、筆談を試みた。 崔溥は中国の舟に乗っている者たちに、最も近い街道までの道のりを尋ねた。 彼らが台州までの道のりをまちまちに答えたので、崔溥は騙されているのではないかと訝しんだが、Brook (1998)によると彼らは騙そうとしたのではなく、単に内陸を旅したことがなくて無知だっただけであろう。 いずれにせよ、6艘の中国船の船乗りたちは崔溥らを倭寇だと信じ、船の中にあったものを奪い取った。 折から激しい雨が降り始め、辺り一帯を水浸しにし始めた。中国人の船乗りたちは自分たちの舟へ引き上げ、これを好機と見た崔溥の一行は、岸辺へと雨の中、一目散に逃げた。上陸して最寄りの街道を探して数日経ったのち、明兵に発見されて台州の衛所へと連れて行かれた。 明の兵に見つかったとき、海上で船乗りたちに遭遇したときや岸辺沿いの村人たちに出会ったときと同じくやはり、彼らに殺されかけるが、崔溥が機転を利かせて誤解を解き、また、教養ある士大夫であることを示したので助かった。 3月6日、台州衛所の司令官は部下に命じて地方司令部のある紹興まで護衛させることにした。 紹興から杭州の役所まで、さらに、最終的には、大明帝国の首都北京まで移送してもらえることになった。 台州府衛所は、輿を用意してくれた。崔溥と一部の部下はそれに乗ることができたが、道が荒れている場所では輿から下りて、他の者と同様に歩かなければならなかった。
崔溥の南中国の旅 3月8日、崔溥一行と護衛は健跳鎮衛所に移動し、翌日、三門湾を舟で渡って紹興越西巡検司に向けて出発した。 3月10日、寧波と台州の境界にある次の衛所に到着したが、ここは43にも及ぶ人員に食料を提供するにはいささか小規模だったので、早く見送りたがった。 丸一日かけて移動し、深夜になる前に35km北に位置する次の衛所にたどり着いた。 激しい雨と風によりこれ以上進むのは無理だったが、明くる日に宿衛人は、明朝の駅逓制度は時間厳守のため非常に厳格なのだと言って、雨にもかかわらず崔溥一行を急かした。 3月11日にはまた35km進み、次の衛所に着いたときにはすっかりずぶぬれになっていた。 そこの衛所の長は暖を採るための火をおこしてくれたが、この一行を捕まえられた海賊だと勘違いした男が怒って火を足で踏み消してしまった。 義務に忠実な宿衛人はこの男の蛮行を郡の行政官庁に伝えるための説明を書面にし、翌3月12日、次の目的地へと出立する一行に持たせた。一行はその日の内に大運河に通じる川の船着き場に着いた。物流の大動脈である大運河に沿って北上すれば北京にまで行ける。 ここからは水運の方が陸運よりもいい移動手段である。崔溥は「全ての伝令、貢物、商取引は、行き交う舟で行われる。もしも干魃で舟が通れないほど運河や川が干上がってしまったら緊急事態である、陸を超えて行く道を使うしかない。」と書いている。寧波の町に着いたときには、崔溥は町並みの美しさに目を奪われ、そのことを特筆する。慈渓には多くの市場があり軍船で混雑していると書いたが、寧波の高等海防署へ至ったときには門の立派さと群衆の多さは慈渓の三倍であると書いた。 崔溥と、台州から崔溥一行を護衛した人物の調査の後、彼は先の消し火事件のことで管理責任を問われ、懲罰を受けた。 それだけではなく、杭州に到着したときには期限までに朝鮮人達を送り届けなければいけないところ遅延したためさらに罰を受けることになった。 標準的な刑は、一日につき20回、杖で打ち据えられるものであったが、連続して三日の遅延であったので最大60回ということになった。 このことは旅の興をそぐものとなったが、それでも崔溥は、風光明媚な杭州に感銘を受け次のように書いている。世の人が言うようにまるで別世界のようだ。家々は丈夫な柱で支えられ、人々の優雅な服の袖が垂れ下がっている。市では金銀を積み上げ、美しい着物や装飾品で着飾った者たちが集まる。異国から来た船が櫛の歯のように何艘も並び、酒を売る店と音楽を楽しむ店が直接向かい合わせになって軒を連ねている。 — Brook (1998, p. 43)Brook (1998)によれば、崔溥は、杭州が中国の南東部全域から来た船が江南地方へと物資を運び交易を行い、大明帝国の商業活動を支える中心都市であった様子を非常によく観察している。 海禁政策により、公式には明朝のみが外国と取引を行うことのできる主体であったが、崔溥の残した記録により、このような禁令にもかかわらず密輸が横行し、遙か東南アジアやインド洋から杭州に白檀、胡椒、竜涎香などが持ち込まれていたことがわかる。 しかし密輸はかなり危険を伴うものであったようである。崔溥はこの種の商売に携わる船の半分が戻ってこないということに気付いた。3月23日、杭州の役所は崔溥一行に新しい護衛を付け、彼らの身分証明書を発行し、広い国内を横断するのに必要なだけの食料と物資をどっさりくれた。 一行は、3月25日の出発の日まで、さらに二日間を杭州で過ごした。 その理由は、風水に従ってどの日が吉日であり、どの日が凶日であるかが全て載っている大明帝国官僚組織のハンドブックの記載通りに、官吏が出発の日取りを決めたからである。 一日あたり50km進んで、杭州から北京まで3月25日から5月9日までかかったが、蘇州で一日過ごしているので、一行は旅程の期日を二日間短縮したことになる。明朝の逓信制度においては1日で45km進む定めになっていた。中華帝国南東部の経済の結節点となっていた都市、蘇州を訪れた3月28日には、次のように記している。大店小店が川の土手の両側に列をなし、雑多な商売人で混み合っている。江南都市の中心とはよく言ったものである。...ここには、薄絹、紗、金、銀、宝石、工芸品、芸術品といた山海の財宝があり、富裕な大商人がいる。...このような大商人や小さな商いの商売人が雲のように群がっており、彼らの出身地は河南、河北や福建など多様である。 — Atwell (2002, p. 100), Brook (1998, p. 45), Ge (2001, p. 150), Xu (2000, pp. 25-26)蘇州は、他に並ぶものがないほど壮麗であった。崔溥によると杭州も確かに壮麗ではあったが、杭州は単に江南に富をもたらし需要を満たす商業的な役割を担うに過ぎなかった。また、蘇州をはじめとした各都市の周りにまで住居が広がっている揚子江デルタの様子については、「しばしば街の20里(1里は約1.7km)四方に郷鎮の門がひしめき、市は道に列をなし、楼の向こうに楼が見え、行き交う舟で水路が埋め尽くされている」と観察している。
崔溥の北中国の旅 蘇州を出発し大運河の旅を続けていくうちに、4月13日、呂梁という流れの速い場所に着いた。ここは南直隷にあり、運河の流れがいったん途切れる場所である。 10頭の牛に舟を引かせ、この早瀬を通った。そして次なる難所の徐州では船曳100人が舟を引いた。 運河を何カ所かで区切って水面の高さの異なるいくつかの節に分け、舟を安全に通すための仕組みを「閘」というと崔溥は書き、閘門の他にも塘・堤・堰といった堤防の仕組み、水車の構造、虹橋・石橋・木橋・屋根付きの橋といった橋の構造についても詳細に報告している。臨清と徳州という現在の山東省にある騒がしい町は、商業活動が盛んではあるけれども、杭州と蘇州の壮麗さにはとうていかなわないと記している。 華北においては、この二都市と一握りの街ぐらいしか江南の繁栄に匹敵するところはなく、華南に比べて華北は貧しくあまり発展していないと書いた。 また、華南は文明、社会秩序、文芸、工芸技術において華北よりも優れているように思われた。 南人は身なりもよく北人は全ての物資において事欠き、野盗追い剥ぎを恐れていると書いた。Brook (1998)は次のように書いている。旅行記も終わりに近づくと、南と北を比べて落ち込むことの繰り返しが目立つ。住居が「江南では広壮な瓦屋根の邸宅だったのに北では藁葺き屋根の掘っ立て小屋だ」とか、交通手段が「南では輿だったのに北では馬や驢馬だ」とか、流通貨幣について「南の市場では金銀なのに北では銅銭だ」とか、「南では農業、手工業、商業それぞれに人々が精を出しているのに対し、北では怠けている」とか、「南の人は愛想がよくて快活なのに、北の人はいつも喧嘩ばかりしている」とかいった具合である。他に、南の行き届いた教育に対し、北の文盲の多さについても書いている。 — Brook (1998, pp. 49-50)中国では、行き交う人々がすべて、どの社会階層の人であっても、何らかの商売・取引を仕事としていることに崔溥は気付いた。 伝統的には商業に手を出すと蔑まれるはずの科挙官僚でさえも、「借財してでも僅かな儲けのために精を出している」と旅行記に記している。 湖北省から山東省への旅の途中、三省六部の役人を乗せた舟の群れが通り過ぎることに気付いた。 あれは何かと尋ねたら、新しく即位された天子さま(弘治帝(在位1488-1505))が、地位に見合わないろくでなしだとお考えになった官僚を、たくさん処罰されたのですよと教えられた。 不名誉により職を解かれた官僚達には、こうやって駅逓制度に則って護送されていくことが、たとえ宮廷から追放されることを実感してしまうようなものであっても、居心地のいいものであった。大運河を使って華北平原を旅し、北京に隣接する城市に到着するまでの行程は、11日であった。 そこで舟を下りて、驢馬の背に揺られるか自分の足で歩くかして首都の北京を目指した。首都では駅逓制度における急使が使える宿泊所があって、そこに泊まった。 大明帝国の宮廷は崔溥の滞在中に上質な衣服を下賜した。 6月3日、護衛の担当官が崔溥一行を朝鮮国まで送り届けるのに3台の馬車と驢馬が必要だと当局に願い出た。午前中にもその願いは聞き入れられすんなりと北京を発つことができた。 崔溥は北京の光景を後にすることにまったく未練がなかった。なぜなら、北京の人々は商売に精を出すことに一生懸命で、農業に関心を持っていないことに蔑みを覚えたからだ。 農本主義の儒教イデオロギーにとらわれた崔溥の目には、北京の光景はそのように映った。
崔溥の朝鮮への帰還 7月2日、遼東に到着、4日後の7月6日に発つ。7月12日、ついに鴨緑江に至り、朝鮮国の境域に入った。 逓信所、閘門、堤、堰、曳舟道などが整備された大運河に比べて、朝鮮には里程碑と砦ぐらいしかめぼしいものがないことに崔溥は嘆息した。 朝鮮王成宗(ソンジョン、在位1469-1494)は、崔溥の帰還後1ヶ月以内に明へ遣使し、大明帝国が崔溥一行を手厚くもてなしてくれた上、帰路の安全に意を尽くしてくれたことに対して感謝の意を表した。
崔溥の後半生 その後崔溥は、王命により漂流と帰還の経緯を説明した文書を著したが、父親の服喪期間中に暢気に旅行記を書いていたことは名教に反すると論難された。1493年40歳のとき、世子侍講院文学(正五品)として政界復帰した。1495年に成宗が死去した際に、廟号を「成宗」とするか「仁宗」とするかで政争になったが、このとき「仁宗」を主張した。翌1496年は旱魃があり、崔溥は中国で見聞した水車を作ることを提案した。当時の朝鮮にはまだ水車が知られておらず革新的な農業技術だった。『朝鮮王朝実録』によると1497年に上訴を行っている。1498年の戊午士禍により罪を得て公職を追われ、端川へ流された。1504年の甲子士禍では配流先で斬首により処刑。刑死後の1506年、中宗反正により名誉回復が成った。男子は残さなかったが二女のうち長女は善山柳氏と結婚し、二人の文科合格者(成春・希春兄弟)の母となった。次女は羅州の有力家門、羅氏の武科合格者と結婚した。長女の子孫はその後科挙合格者を出せず没落した。次女の子孫は16世紀以降激化する党争の中で浮沈を繰り返した。
崔溥の書誌学 成宗は、崔溥に命じて旅の詳細を報告させた。 崔溥は王の求めに応じて漢文で報告書を著した。 15世紀朝鮮に見られた異域への関心や国際的視野の広がりは、国内志向の士林派が台頭する16世紀に入ると失われてしまった。 報告書は長年書庫にしまい込まれたままになっていたが、崔溥の孫の柳希春が報告書を『錦南漂海録』として纏め、1569年に公刊した。この事実が分かるのは、日本の京都の陽明文庫に柳希春の公刊した1569年本が1冊だけ残っているからである。 崔溥の旅行記は、1573年に日本版が作られ、朝鮮よりむしろ日本で有名になった。木版は16世紀の間、何度も版を重ねた。1573年の木刷り本の1冊が、横浜の金沢文庫に現存する。 以上の刊本は木版であったが、初期の活版印刷によるものが1冊、東洋文庫にある。 1769年には越前藩の儒者清田儋叟(君錦)(1719-1785)により『錦南漂海録』の日本語への抄訳がなされた。 江戸時代に手写された崔溥の旅行記も、何冊か日本に現存している。 なお、旅行記以外の崔溥の作品は、『錦南集』と題され、朝鮮で出版された。『錦南漂海録』の完全な英語訳は、John Meskill がコロンビア大学に提出する学位論文の一部として1958年になされた。 Meskill の翻訳の短縮版が1965年に製本されアリゾナ大学出版アジア研究協会から出版された。
崔溥の思想史研究における史料としての利用 崔溥は一般的な儒教知識人の筆致で記録を残しており、初期朝鮮の儒家の価値観をうかがい知ることができる。 朝鮮から北京へは頻繁に朝貢使節が送られており複数の『燕行録』が残っているが、崔溥の旅行記は、そのような外交使節の立場ではなく、漂流者という立場から書かれているという点で、他の外国人による中国旅行記の中で異彩を放っている。 Anderson (1988) の指摘によれば、前近代の朝鮮人たちは、中国にへつらいがちであり、中国の全てを肯定的に捉えてしまいがちである中で、崔溥は外からやってきた者の視点で中国をいくらか批判的に捉えるところもある。 好奇心旺盛な中国人に朝鮮の先祖崇拝の祭祀についてどう思うか意見を求められたとき、崔溥は「私の国では男達は皆、お社を建てて、先祖を祀るために犠牲を捧げます。ちゃんとした神や精霊をお祀りしており、正統的でない犠牲には敬意を払いません。」と答えている。 また、崔溥が旅行中に出会った儒者のWang Yiyuan は、崔溥とその一行の苦境に同情し、茶を勧めて、「朝鮮の人たちは本朝人と同じく仏陀を敬うのか」と尋ねた。そのとき崔溥は、「我が国では仏法を敬うことはありません。ただ、儒説を尊ぶのみです。朝鮮の全ての家族が、孝悌、忠義を事と為します。」と答えている。 Kendall (1985) が指摘するところによれば、これらはおそらくこうであったらいいなという願望であって、15世紀の朝鮮儒者(ソンビ)が考えた、中国人が孔子の教えに忠実であり文明的であると思うであろう社会がどのような社会かを示している。崔溥は自身が士大夫(又はソンビ)であるという矜持を持っていたので中国にへつらうことはなく、外からやってきた者の立場で中国を捉えていたが、彼が書いたものの中には中国への強い親近感を表出したものもある。その中には、価値観は違うけれども、朝鮮と中国の文化はほとんど見分けが付かないほど同じだと書いたものがある。例えば、崔溥の旅のために大きな便宜を図ってくれた明朝の官僚との会話では、次のように書いている。確かにご厚意を承りました。我が朝鮮は海を隔ててはいるものの、衣服も文化も中国と同じであり、中華でないとは思われません。我らは天下に兄弟です。距離の遠さゆえに人の間に差別などできましょうか。我が朝鮮が天朝に仕え奉り、疎漏なく貢献奉るさまは、まさに忠でございます。皇帝陛下におかれましては、我らを威儀正しく懇ろに取り扱って頂き、まったく不安を覚えるようなことがございませんでした。 — Kleiner (2001, p. 5)一方では、傲慢な中華思想への反感も書き記している。例えば、ある明人に、朝鮮の科挙が五経の内一つだけを専門にする程度のものではないのかと言われたときのことについては、一経のみを学び五経全てを学ばない受験生がいたとしたら、そんな者は科挙に合格などできず、駆け出しの儒生ですらないではないかと不満を書いている。
崔溥の社会経済史研究における史料としての利用 崔溥が書き残した情報は、歴史研究者にとって15世紀の中国がどのような文化と文明であったのかを知る絶好の手がかりとなっている。例えば、「村の子どもや船頭や船乗りですら」字が読めたという記述は、識字率の広がりに関する重要な証拠である。 さらに崔溥は、彼らが山、河、道観、祠廟、関羽廟などの旧跡の他、新しい皇帝が即位したことの重要性といった話題についてまでも漢字を用いて記述できたことを強調している。崔溥はまた、豊富な食料の記録を苦労して逐一残してくれたため、当時の生活文化を推測することが出来る。例えば、地方長官のもてなしのときには、一回に「豚一皿、鵞鳥二羽、鶏四羽、魚二尾、葡萄酒一大杯、米一皿、胡桃一皿、菜一皿、筍一皿、麺一皿、棗一皿、豆腐一皿」という具合である。 なお、葡萄酒を振る舞われたときには、父の死に際して三年間の喪に服していうることを理由に固辞したことを記録に強調して記している。 さらに、崔溥は酒に加えて、「肉、大蒜、蒜、甘味」を摂ることを節制し始めた。 このように一朝鮮人が儒教の原則に固執することは、明朝のもてなす側の人々を大いによろこばせた。崔溥はまた、村や町の地理に関する観察も行っている。 歴史研究者は彼の正確な記述のおかげで、いにしえの失われた土地や建造物についてのピンポイントの情報を得ることができる。例えば、蘇州については次のように書いている。蘇州はかつて Wukuai と呼ばれていた。東海の果てにあって、三江五湖を有し千里の沃野を備える。…城の中にある Le 橋は、呉と常州を隔てる。商店街は星のように散らばっている。たくさんの川や湖がこの地方を走り、気を清める。 — Marme (2005, p. 144)
十人十色/金魚の歌の概要 「日本が持つ素晴らしい魅力」を世界に発信するため2014年に結成された“47都道府県天下統一アイドルユニット”BANZAI JAPANが、自主流通盤等を経て満を持して発表した初のメジャー配給作品。新曲の『十人十色』とライブで盛り上がる人気曲『金魚の歌』を両A面として、カップリング曲には同じくライブでの根強い人気を誇る「コノハナサクヤ姫」を収録している。本作は2019年3月23日のミニワンマンライブ『三寒四温』にて発売決定が発表され、タイトルも公表された。ライブの既発表曲である『金魚の歌』(2018年8月の主催ライブ『夏BAN祭゛2018 IDOL WARS』で初披露)、『コノハナサクヤ姫』(2017年11月のスペシャルワンマンライブ『千人斬り』で初披露)の2曲と異なり、新曲『十人十色』は5月25日に開催されたミニワンマンライブ『一五一十』にて初めて披露された。『十人十色』はEDM風のミドルアップテンポのポップチューンで「個性」について歌われている。なお、「十人十色」はBANZAI JAPANの同年の活動テーマでもあり、10月12日に開催予定のワンマンライブの公演タイトルにもなっている 。マネージャー兼プロデューサーのOSmanは『十人十色』発注時の楽曲イメージについて「SADSの"TOKYO"をインスパイアした」としており、「また、全然ちげー曲あがってきてんじゃねーか!!!」と語っている。「十人十色」についてはグループ初のミュージック・ビデオ(MV)制作が企画され、音楽専門クラウドファンディングサイトのmuevo上において2019年3月15日から同年4月30日までの間にかけてMV作成のためのクラウドファンディングが敢行され、目標を上回る支援が集まった。制作されたMVのエンドロールにはリターンとして支援者の名前が付されている。
十人十色/金魚の歌の発売形態 盤種はType-A(QARF10008)~Type-E(QARF10012)までの5種で、ジャケットカバーアートが異なっている以外、収録内容等はすべて同一である。ジャケット上のタイトル表記はType-A,Bが「金魚の歌 c/w 十人十色 / コノハナサクヤ姫」、Type-C,D,Eが「十人十色 c/w 金魚の歌 / コノハナサクヤ姫」となっている。(背表紙タイトルは盤種によらずカタログ掲載上と同じ「十人十色/金魚の歌」となっている。)また、発売と同時にiTunesやAmazon Music、OTOTOYなどの音楽配信サイトでもダウンロード配信が開始された。
十人十色/金魚の歌の参加メンバー 安原めい/皆戸理芳/朝日珠莉愛/藤崎ふみ/笹川ささ/仲山コマ/志田りん/菜花まりあ/春川愛美/佐藤樹姫/島田玲奈/藤崎しおり/藤谷つかさ/朝日奈ゆうみ/里中空/花城沙耶なお、レコーディングには参加していないものの、2019年3月に候補生ユニットASHIGARU JAPANに加入した滝嶌愛梨が一部盤種において裏ジャケットに写真掲載されている。また、本作の発売に係るリリースイベントでは、一部日程に卒業メンバー(元・東京都の伝道師)の中野向日葵が特別参加。パフォーマンス・特典会の双方に登場している。
アブドゥッラティーフの生涯 第4代の君主ウルグ・ベクと、彼の側室ルカイヤ・ハトゥン・アルラトの子として生まれる。1447年にウルグ・ベクが即位した後、国内に多くの王位請求者が現れる。アブドゥッラティーフの従兄弟であるアラー・ウッダウラも王位請求者の一人であり、彼はガウハール・シャード(シャー・ルフの妃。アブドゥッラティーフの祖母にあたる)の支援を受けて反乱を起こした。この時にアブドゥッラティーフはアラー・ウッダウラに捕らえられるが、ウルグ・ベクとアラー・ウッダウラによる和平交渉の際に釈放された。交渉の際にアラー・ウッダウラに課された他の条件は履行されず、ウルグ・ベクは再戦の後にアラー・ウッダウラを破り、彼をマシュハドへと追いやった。ウルグ・ベクがマシュハドのアラー・ウッダウラに勝利した時、彼は別に軍を率いてヘラートを占領した。しかし、ウルグ・ベクが国政の中心をヘラートではなくサマルカンドに据えたことを不服として、駐屯先のバルフで反乱を起こし、アブドゥッラティーフは父との戦いに勝利する。一度はウルグ・ベクを助命し、メッカ巡礼(ハッジ)の願い出に許可を出すが、父が出発した後に助命を撤回して死刑の判決を下し、ペルシア人奴隷を遣わして父を殺害した。即位後はスーフィズムの聖者、修行僧を保護し、私生活においても敬虔なムスリムであったため、父とは異なりイスラームの指導者層から支持を受けた。しかし、将校の多くは彼に服しておらず、1450年5月にウルグ・ベクの忠僕によって暗殺された。
沢庵和尚鎌倉巡礼記の概要 書かれたのは鎌倉を訪れた直後ではなく晩年といわれている。そのため鎌倉の荒廃も「為政者は寺に対してどうあるべきか」といった主張の題材として鎌倉の寺院の荒廃を扱うという傾向があり、実質的な記述が希薄といわれる。ただし沢庵宗彭は生前にこれを何度も書き写しいは人に与えており、また沢庵宗彭死去から15年後(1659年)に版木が起こされて一般に流布したため、鎌倉を認識させる上では非常に大きな影響を持った書物である。
沢庵和尚鎌倉巡礼記の諸本 沢庵宗彭自筆のものは3つ残っており、それを渡す相手によって細かな点で相違がある。例えば漢文が不得意な人に与えたものには行間にかなを付けて読みやすくしているなどである。その自筆本の中でもっとも丁寧なものは作家の大佛次郎が持っていたもので、大名の若殿か姫君に渡したものかと思われるほどである。
大久保光の概要 現金輸送車襲撃の濡れ衣を着せられて逮捕された父・順吉の無実を証明するため、主人公・木原純は真犯人の飼い犬ヤマトと共に目撃者を探しだし真犯人を追うために旅に出る。しかし、純にとっては最愛の父に濡れ衣を着せた憎い犯人でもヤマトにとっては大切な飼い主という壁があった。当初は反目するも絆が芽生えた純とヤマトだが、純を蝕む白血病が旅の中で大きな障害になってゆく。純と奈津子、一握りながら順吉の無実を信じる人々の姿を見て警察の中にも疑問の声が出始める。やがて苦難の末に順吉の無実は証明され父と息子は明るい笑顔で再会するが、純は次の春を迎えることは出来なかった。1クールで終了し、次番組は1ヶ月のつなぎ番組と『決定!土曜特集・オレたちひょうきん族』が放送開始、そして10月からひょうきん族がレギュラー化され土曜夜8時戦争の幕が開ける。その次のドラマ枠は8年後の『あいつがトラブル』である。
コパ・デル・レイのコパ・デ・ラ・コロナシオン(1902) 1902年には前身となるコパ・デ・ラ・コロナシオン(西: Copa de la Coronación、即位杯)が行なわれ、アルフォンソ13世の即位記念行事に合わせて行われた。提唱者のカルロス・ペドロス(Carlos Padrós)はレアル・マドリード創設者の一人であり、後に同クラブ会長も務めた人物である。この大会には4クラブが参加した。この大会にはレアル・マドリード、FCバルセロナ、クルブ・エスパニョールFB(現RCDエスパニョール)、ニュー・フット=ボール・デ・マドリード、クルブ・ビスカヤ(アスレティック・クラブとビルバオFCの連合チーム)の5クラブが参加し、決勝ではクルブ・ビスカヤがFCバルセロナを破って優勝した。このトロフィーはアスレティック・ビルバオのミュージアムに展示されており、(まだコパ・デル・レイという名称ではなかったが)クラブ側は獲得タイトルのひとつに数えている。この大会はコパ・デル・レイの唯一の前身大会であるが、スペインサッカー連盟は公式には大会を認知していない。
コパ・デル・レイのコパ・デル・レイ(1903-) コパ・デ・ラ・コロナシオンを引き継ぎ、1903年にはコパ・デル・レイ、正式名コパ・デ・ス・マヘスタッ・エル・レイ・アルフォンソ13(西: Copa de Su Majestad el Rey Alfonso XIII、アルフォンソ13世国王陛下杯)の第1回大会が行なわれた。スペインでサッカーの全国リーグ(リーガ・エスパニョーラ)が開始されるのは1928年のため、1903年から1927年まではコパ・デル・レイがスペイン最高峰のサッカー大会だった。この大会が創設された1902年から1909年までの決勝はマドリードのスタジアムで行われた。各地域の予選を勝ち抜いたクラブが本大会に出場した。年月を経る中で様々な大会形式が採用されており、グループリーグが採用されたこともあった。創設当初、コパ・デル・レイはコパ・デル・アジュンタミエント・デ・マドリード(西: Copa del Ayuntamiento de Madrid、マドリード市杯)と呼ばれていたが、1905年から1932年にはコパ・デ・ス・マヘスタッ・エル・レイ・アルフォンソ13(西: Copa de Su Majestad El Rey Alfonso XIII、アルフォンソ13世国王陛下杯)と呼ばれた。第二共和政期にはコパ・デル・プレシデンテ・デ・ラ・レプブリカ(西: Copa del Presidente de la República、共和国大統領杯)もしくはコパ・デ・エスパーニャ(西: Copa de España、スペイン杯)と呼ばれた。フランコ独裁時代はトロフェオ・デル・ヘネラリッシモ(西: Trofeo del Generalísimo、総統トロフィー)およびコパ・デル・ヘネラリッシモ(西: Copa del Generalísimo、総統杯)もしくはコパ・デ・ス・エクセレンシア・エル・ヘネラリシモ(西: Copa de Su Excelencia El Generalísimo)と改称された。1904年大会の決勝はアスレティック・ビルバオとエスパニョール・デ・マドリードが対戦する予定だったが、エスパニョール・デ・マドリードが試合開始時間に間に合わなかったため、試合は行なわれずにアスレティック・ビルバオの優勝が決定した。1910年と1913年の大会では、スペインサッカー連盟(西: Real Federación Española de Fútbol,RFEF)主催の大会(Copa FEF)とスペインサッカークラブ連合(西: Unión Española de Clubes de Fútbol,UECF)主催の大会(Copa UECF)が並存し、2つの優勝クラブが存在した。スペイン内戦中の1937年、共和国軍側に所在したクラブはコパ・デ・ラ・エスパーニャ・リブレに参加し、決勝ではレバンテUDがローカル・ライバルのバレンシアCFを1-0で破って優勝した。なお2007年、スペイン下院はスペインサッカー連盟に対して、レバンテをコパ・デル・レイの優勝クラブと認めるよう強く要望したが、連盟は結論を出さなかった。王政復古後の1976-77シーズンからコパ・デル・レイの名称が復活した。2011-12シーズンのUEFAチャンピオンズリーグではスペインのクラブが決勝に進出する可能性があったため、スペインサッカー連盟はコパ・デル・レイの決勝をUEFAチャンピオンズリーグ決勝後に設定した。
コパ・デル・レイのトロフィー 大会の歴史を通じて、初代から12代までのトロフィーが存在する。3連覇もしくは5回優勝したクラブにはトロフィーの永久所持が認められ、また特別な理由で永久所持が認められる場合もある。FCバルセロナは4個、アスレティック・ビルバオは3個、レアル・マドリードは1個のトロフィーを永久所持している。アスレティック・ビルバオは第1回大会のトロフィーを保持しており、セビージャFCは1939年大会(トロフェオ・デル・ヘネラリシモ)のトロフィーを保持している。2010年12月22日にはスペインサッカー連盟の臨時総会が行なわれた。2010 FIFAワールドカップでスペイン代表が優勝したことを記念し、2009-10シーズン優勝クラブのセビージャFCがトロフィー永久保持の許可を連盟に求め、総会の承認を経てセビージャにトロフィーが与えられた。トロフィーの現物がクラブに与えられた前例としては、コパ・デ・ラ・レプブリカの初代王者(1936年)のレアル・マドリード、コパ・デル・ヘネラリシモの初代王者(1939年)であるセビージャ、コパ・デル・ヘネラリシモの最後の王者(1976年)であるアトレティコ・マドリードがあった。新しいトロフィーはマドリードの宝石職人であるフェデリコ・アレグレによって制作された。このトロフィーの重量は15kgであり、高さは75cmである。2011年4月21日、レアル・マドリードが新しいトロフィーの初代受賞者となった。レアル・マドリードはシベーレス広場で祝賀パレードを行なったが、ディフェンダーのセルヒオ・ラモスがダブルデッカーバスの2階からトロフィーを落下させてしまい、バスに轢かれたトロフィーが破損する事故があった。関係者によって10個の破片が集められ、元の状態に修復された。レアル・マドリードはレプリカを受け取ってエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウに飾っている。
石垣島事件の背景 石垣島は、1944年10月の台湾沖航空戦後戦場となり、1945年4月の米軍の沖縄上陸後、連日米軍による空襲が行なわれ、米軍の上陸も噂されていた。海軍の石垣島警備隊(司令官・井上乙彦大佐)は、連日の空襲で死傷者を出しており、玉砕覚悟で切込訓練を行なうなど、緊張状態に置かれていた。
石垣島事件の確認・再審査 絞首刑判決を受けた41人のうち、1949年1月28日に第8軍法務部による判決の確認(裁判記録の検討)手続きにより、命令に従って刺突を行ったものの、主体的に殴打や暴行を行わなかったとされた水兵31人が減刑となり、更に1950年3月18日に連合軍総司令部による死刑判決の再審査により3人が減刑となった。井上司令と、4人の将校(井上大尉、幕田大尉、榎本大尉、田口少尉)および下士官2人(成迫上等兵曹、藤中1等兵曹)の7人については死刑が確定、最終的には絞首刑7人、終身刑8人、有期刑24人、無罪6人となった。
石垣島事件の処刑 1950年4月7日に東京の巣鴨プリズンで7人の死刑が執行された。7人が処刑されたのは朝鮮戦争勃発の2ヵ月前のことであり、巣鴨プリズンでの最後の死刑執行となった。
石垣島事件の慰霊 2001年に石垣市と米国の有志により唐人墓公園の敷地内に慰霊碑が建立され、2011年現在、米軍兵士が処刑された4月15日に追悼式が行なわれている。
チョクルダフの鉄道路線 現在は旧村域に越美北線の越前薬師駅・越前大宮駅・計石駅が所在するが、当時は未開業。
イドリス・ジャジコフの前半生 1896年1月31日、ロシア帝国テレク州バルスキで、バルハネの古いイングーシ人氏族 (ru) の家庭に生まれた。父は、ジャジコフが後に入学するナズラン山岳学校の、最初のイングーシ人教師の一人であった。ウラジカフカス実科学校を卒業した後は地元で教師を務め、その後さらに1914年から1917年までモスクワ農業学院で学んだが中退。北カフカースでの革命運動に参加し、翌1918年10月にはボリシェヴィキ党員となり、同年からテレク州の革命委員会およびソビエト執行委員会メンバーとなった。
イドリス・ジャジコフの北カフカースでの活動 1921年にはナズラン(イングーシ)管区ソビエト執行委議長を務め、山岳自治ソビエト社会主義共和国中枢ではまず中央執行委副議長に、次いで同年4月25日から翌1922年1月までは内務人民委員に、同月から1924年1月までは中央執行委議長に就いた。翌2月から8月1日までは党山岳州委、同月から11月までは党中央委イングーシ自治州組織局、同月から1929年9月3日までは党イングーシ自治州委の責任書記を歴任した。イングーシ代表としてジャジコフは、イナルク・マリサゴフとともに、北オセチア自治州およびスンジャ・コサック管区との間の領土交渉に役割を果たした。ジャジコフの政権下でイングーシの経済は発展し、「ステクロタルィ」工場・エズミン水力発電所・アルハンチュルト運河 (ru)・ナズラン粉砕工場およびナズラン煉瓦・タイル工場・「アチャルキ」ミネラルウォーター工場・アルムヒ温泉リゾート・農業基地・ヤンディエヴォ要塞・ガムルジエヴォ要塞・ナズラン要塞工業・教育・獣医学校などが建設された。民族劇場も復興され、民族語の新聞も刊行されるようになった。ジャジコフは第12回・第14回・第15回の党大会および第10回全ロシア・ソビエト大会および第1回全連邦ソビエト大会 (ru) にも出席し、全ロシア中央執行委員会メンバーにもなった。その他1918年から1924年までに務めた地位には、イングーシ防衛委メンバー、山岳コミューン局書記、地下イングーシ管区委メンバー、イングーシ革命委メンバー、テレク・ソビエト共和国農業人民委員、南東地方 (ru) 委ウラジカフカス局書記、ソビエト連邦中央執行委員会メンバーなどがある。
イドリス・ジャジコフの失脚 ジャジコフは政務の傍ら1925年にはマルクス主義北カフカース地方コースを聴講していたが、1929年4月12日には党北カフカース地方委局決定により、党中央委附属マルクス・レーニン主義コースの聴講生としてモスクワへ派遣されることとなった。ジャジコフの後任としてイングーシ自治州委責任書記に就いたのは、元アディゲ(チェルケス)自治州委責任書記のヨシフ・チェルノグラズであった。しかし、チェルノグラズは現地の習俗や宗教を軽視した高圧的な態度をとったことで、住民の反発を招いた。結果として翌1930年2月3日、チェルノグラズは政治宣伝活動のため山村に赴いたところを、側近らとともに殺害されるに至った。そしてジャジコフは、妻ジャネッタとともに、この事件の謀議に参加した容疑で同年に逮捕された(妻はほどなく証拠不十分で釈放された)。1932年6月11日、ジャジコフはロシア社会主義連邦ソビエト共和国最高裁によって、刑法第58条に基づき死刑判決を下されたが、セルゴ・オルジョニキゼやアナスタス・ミコヤンなどの党幹部の尽力によって、懲役10年へと減刑された。ジャジコフは1934年4月までコミ自治共和国のNKVDラーゲリで過ごし、翌1935年にソビエト連邦中央執行委員会幹部会決議により出獄した。その後ウリヤノフスクへ追放されたが、翌年には連邦中央執行委決議によって完全に放免された。その後はトゥーラで「クラスヌィー・オクチャブリ」工場のプランナーを務めていたが、1937年10月初頭にはモスクワで、妻とともに再び逮捕された。そして、ジャジコフは翌1938年7月5日にグロズヌイのNKVD刑務所で獄死した。
イドリス・ジャジコフの没後 2002年6月、イングーシ共和国大統領ムラト・ジャジコフ(イドリスの甥)の大統領令により、イドリス・ジャジコフはイングーシ民族国家の形成・発展における優れた功績を顕彰された。イドリス・ジャジコフの名は、イングーシ共和国の首都マガスのイドリス・ジャジコフ大通り、そして故郷バルスキの学校に残されている。バルスキには記念碑も立てられているが、記念碑は2006年4月と2008年11月の2度爆破されている。
被殻の機能 被殻は強化学習に役割を持っていると見られている。
被殻の投射 運動野と体性感覚野、視床の髄板内核、及び黒質から、被殻への投射が存在する。被殻からは淡蒼球と視床を介して、皮質の運動前野と補足運動野への投射が存在する。
スカールベークの歴史 スカールベークでの人間の活動が開始されたのは、ヨザファト峡谷での火打石の発見から石器時代と推定されている。2世紀頃のハドリアヌス治世時のコインや墓地もあり、また古代のローマ街道もスカールベーク地方を通っていたことが分かっている。スカールベークの地名が法的文書に初めて登場するのは1120年にカンブレー司教がスカーレンベッカとエヴェルナの教会の管理をソワニェの教会法によって与えられた時である。政治的にはブラバント公国の一部で、1301年にブラバント公はスカールベークをブリュッセルの市参事会員によって管理させた。長らくスカールベークは平和な村として時を過ごしてきたが、16世紀中ごろの宗教改革時に変化が訪れる。スカールベークは2世紀にわたり、12回の破壊と影響に苦しめられた。1570年代、ウィレム1世の傭兵によるフェルナンド・アルバレス・デ・トレドの戦いから始まり、その後もスペイン、フランス、イギリス、バイエルンなどの軍隊がスカールベークにやって来て強要を行った。フランス革命後、スカールベークはブリュッセルから離れ、自前の市長、議員、市議会を持つ独立したコミューンを宣言し定めた。ベルギー独立革命が起こった時期の1830年9月27日にヨザファット峡谷でも革命軍とオランダの軍隊との間で戦いが起こった。1879年、モダンな聖セルヴァティウス教会が古い教会のそばに建てられたが、1905年に取り壊された。市庁舎とスカールベーク駅がそれぞれ、1887年と1902年に建てられている。
馬歓島の地理 北約9kmにある砂州のフラット島(中国語: 費信島)等とともに環礁を形成している。東西360m、南北270m、面積は0.06km²。
馬歓島の領有 1970年からフィリピン軍が駐留しており、フィリピンが実効支配しているが、中華人民共和国、中華民国(台湾)及びベトナムも主権を主張している。
馬歓島の中国名 中国名の「馬歓島」は、明時代の宦官鄭和の「鄭和の大航海」といわれる南シナ海からインド洋への航海に同行した馬歓の名に由来する。
秋葉原ラジオストアーの概要 秋葉原ラジオストアーはJR秋葉原駅の中央・総武緩行線高架下(中央の秋葉原ラジオセンターの南側)に位置する、電子部品店等が入居する施設であった。全部で10店舗(うち1店舗は1970年代に同法人の事務所に転用)であり、現在も「部品市場」としてまとめて認知されている店舗のうち、1割強程度が当施設の店舗であった。ラジオセンター他と同じく、占領軍の露店撤廃令で行き場を失う露天商の移転先として設立されたのがルーツである。秋葉原が電気街として衰退した後も往時と変わらぬ佇まいで営業が続いていたが、2013年11月30日を以て閉館した。閉館時点まで9店舗の電子部品店が入居していた。
ピードモントの戦いの背景 ピードモントの戦いは、北軍ユリシーズ・グラント中将が1864年に主導権を取って攻勢を続け、南軍を地域から地域に行ったり来たりさせないようにさせた動きの中から生じた。シェナンドー渓谷では、グラントは当初ドイツ生まれの将軍フランツ・シーゲルを指揮官に据えたが、5月15日のニューマーケットの戦いでシーゲルが敗北した後の5月21日、シーゲルをシェナンドー軍指揮官から解任して、後任にデイビッド・ハンター少将を据えた。ハンターはその小さな軍を再編し、シェナンドー渓谷の豊かな農場で食糧を自足していくように命じた。渓谷をスタントンに向けて進軍し、5月26日には南軍の軽い抵抗にあった。ニューマーケットの後、渓谷にいる南軍の大半は北バージニア軍に加わったので、ハンターに対抗するのはジョン・D・インボーデン准将の旅団とバレー予備隊のみとなっていた。インボーデンはロバート・E・リー将軍にハンター軍の動きについて情報を入れ続けたが、その貧弱な軍隊ではハンター軍の動きを鈍らせることはほとんどできなかった。ハンターは南軍にとって重要な鉄道と兵站の中心地であるスタントンを視野に置いていた。北軍がニューマーケットでの敗北に続いて素早く進軍したことで、南軍は油断していた。リーは北軍のポトマック軍との戦闘を密に続けながら、南西バージニアおよび東テネシー方面軍指揮官代行のウィリアム・E・"グランブル"・ジョーンズ准将をシェナンドー渓谷支援に振り向け、インボーデンと連絡を密に行うよう指示した。ジョーンズは間もなく、歩兵と下馬した騎兵約4,000名と共にシェナンドー渓谷に向かった。6月3日までに、北軍はハリソンバーグに到着していた。インボーデンはその部隊をノース川の南岸にあるマウントクロウフォードに集結させ、ハンター軍がバレー・ターンパイクを真っ直ぐスタントンに進むのを妨害した。インボーデンはオーガスタ郡すなわち土地の出身者であり、その作戦本部をグラッテンの家に設定した。そこに南西バージニアから援軍が到着するようになって、勢力が増した。6月4日朝、ハンターはマウントクロウフォードの方向に陽動部隊を派遣し、その主力は東のポートレパブリックに行って、その夜はそこで宿営した。ジョーンズ将軍がグラッテンの家に到着し、急ごしらえされた南軍バレー地区軍の指揮官に就任した。南軍の斥候がハンターの側面への動きについて報告したとき、インボーデンがオーガスタ東のモウリーズヒルに移動してハンター軍と向き合うことを提案した。インボーデンに拠れば、ジョーンズはその歩兵と下馬騎兵の部隊をモウリーズヒルに移動させることに同意し、6月5日にハンター軍と対峙することになった。ジョーンズはインボーデンに騎兵を全て率いて、スタントン道路別名イースト道路をポートレパブリックの南数マイルのマウントメリディアンに進むよう命令した。ジョーンズはインボーデンがハンター軍の進軍を遅らせるよう付け加えたが、翌朝北軍が接近したときに本格的な交戦を避けるようにも指示していた。
ピードモントの戦いの戦闘 ハンター軍はポートレパブリック南郊外で雨の夜の宿営を過ごした後、朝靄の中をマウントメリディアンに向かうスタントン道路を南に進んだ。ジュリアス・スターヘル少将の騎兵隊が前衛を務め、インボーデンの哨戒部隊を追い散らした。スターヘルの前衛隊がマウントメリディアンに到着したとき、インボーデンはバージニア第18騎兵隊を使って反撃に成功した。スターヘルが援軍を送りこみ、直ぐにバージに兵を圧倒するようになった。インボーデンは辛うじて捕獲を免れ、地元の予備兵を含むその旅団の残り部隊が突撃することで、バージニア第18騎兵隊を惨劇から救えただけだった。その後南軍は緩りとピードモント村の方向に後退した。インボーデンはモウリーズヒルでジョーンズ将軍の部隊と合流できると期待していたが、ピードモントでジョーンズを見つけて驚かされた。ジョーンズとインボーデンはその場の状況を議論したが、最後はジョーンズが議論に結論を出した。ジョーンズは下馬騎兵、予後兵など選抜の大隊を左翼の前数百ヤード前進させ、騎馬砲兵隊の一部に支援させたのでスターヘルの前進が止まった。ジョーンズはスタントン道路からミドル川の高い崖に向かう植林地の端に沿って歩兵2個旅団を配置し、左翼を固めさせた。インボーデンにはその騎兵隊で最右翼を守るよう命令した。インボーデン隊の直ぐ左には、ジョン・C・ボーン准将のテネシーとジョージアの下馬騎兵旅団が配置に就いた。ボーンの左翼はジョーンズの右翼の後方600ヤード (540 m) にあり、その前線中央に隙間が生じていた。ジョーンズはそこにオーガスタ郡出身の17,8歳の兵士を宛てたマーキス大尉の予備砲兵隊など、2個砲兵隊を配置した。ハンターの参謀長であるデイビッド・ハンター・ストロザー大佐は戦場の様子を次の様に記していた。敵の陣地は強固であり、うまく選定されていた。前面の開けた穏やかな斜面の間にある谷を見下ろす林のある丘陵に配置されていた。我が軍の右翼、ピードモント村の前に丸太とレールの防衛線があり、林の縁で、滑らかに盛り上がって開けた丘陵の背後に位置して大きな長所があったので、この丘の上を動く兵士は近距離の工作物からマスケット銃弾で圧倒することができ、敵の大砲を使うことを妨げることもできた。この防柵の左手は、60フィート (18 m) もの高さがある険しく登攀不可能な崖があり、その麓はシェナンドー(ミドル川)で洗われていた。正午、ハンター軍のジェレマイア・C・サリバン准将が指揮する歩兵部隊が前進した。オーガスタス・ムーア大佐の旅団が、スタントン道路の西側でジョーンズの前衛線に踏み入り、ジョーンズの南軍が留まっているものと反対側の植林地の外れに沿って止まった。サリバンは前進を命じたが、ジョーンズ隊が良く守り、その動きを封じた。道の東側ではジョセフ・ソーバーン大佐の旅団が、激しい砲火の下をインボーデンの陣地に向かって森のある峡谷を進んだ。ソーバーンはムーアが反撃されたのを見て砲兵隊の支援のために後退した。この時点で北軍砲兵隊長のヘンリー・デュポン大尉が体系的に南軍の大砲の大半を沈黙させた。南軍の最右翼にあったインボーデンの傍の大砲数門のみが活躍していた。この時点でジョーンズはその左翼を後退させることにして、ボーンとインボーデンの部隊が並んでいたが、直ぐに考えを変えた。サリバンは2個連隊でムーア旅団を補強し、新たな攻撃を命じたが、再度撃退された。この時、南軍が反撃したが、オハイオ第28連隊と、スペンサー連発銃で武装した下馬騎兵が、砲兵隊の支援を得て抵抗し、南軍をその胸壁まで後退させた。この時点で血気盛んなジョーンズがその部隊を再編して、疲弊していたムーアの旅団に対する協調された攻撃を掛けさせた。ジョーンズはボーンにその旅団の大部分を左翼に進めるよう命じた。バージニア第60歩兵連隊がその戦闘線中央にあった大きな隙間を覆う森の外れにいた陣地から動き出した。このバージニア連隊は南軍主力の前線の背後で第2の戦線を作り、隙間は完全に防御されないままになった。ジョーンズがムーアの旅団に対して戦力を集中したことは、気付かれずにはいなかった。北軍はジョーンズ隊左翼の右手にあいた隙間を認識し、ハンターがソーバーンの旅団に脆弱になった南軍の位置を攻撃するよう命じた。ソーバーンは直ぐに南軍左翼から数ヤードまで前進した後、その部隊が認知され、南軍の側面を粉砕した。これと同時に、ムーアの旅団が南軍前線に対する攻撃に加わった。ジョーンズはこの状況に対抗するためにバレー予備隊を持ち出してソーバーン隊の進軍を鈍化させたが、それを追い返すまでには至らなかった。ジョーンズは再結集している南軍兵の小さな集団の所に走って行き、向かってくる北軍歩兵隊に突撃を掛けさせた。北軍の銃弾がジョーンズの頭に当たり、即死させた。北軍は南軍をミドル川の崖の方向に押し戻し、南軍を2つの塊に分割させた。崖の所では、集まって来たソーバーンとムーアの旅団にスターヘルの騎兵隊の幾らかが支援し、1,000人近い無傷の南軍兵を捕獲した。ジョン・マクラナハン大尉のバージニア騎兵砲兵隊の一部が、ピードモント村の近くで北軍の動きを南に逸らし、辛うじて捕獲を免れた。スタントン道路では、ニューヨーク第1ベテラン騎兵隊が敗れた南軍に対して活発な追撃を始めた。しかし、マクラナハン大尉の砲兵隊の別の一部と、左翼に行っていなかったボーン旅団の一部がピードモント村とニューホープ村の間の道路沿いに慌てて配置された。ニューヨーク連隊が逃げていく南部兵の後を道路に沿って追っていくと、この南軍の後衛の発砲で北軍騎兵隊を破壊し、それ以上追撃しようという気力を萎えさせた。少なくとも1,500名の南軍兵が失われたが、ニューホープでの後衛の動きで、残りの部隊はそれ以上の打撃を免れた。ジョーンズの戦死によって、ボーンはこの時点で上級士官であると認識したが、シェナンドー渓谷には不慣れであり、単純にインボーデンの推奨する策を採用しただけだった。ハンター軍は捕虜を纏め上げ、ピードモントで負傷兵の治療を行い、そこでシェナンドー軍が宿営した。戦死、負傷合わせて900名近くを失っていた。翌日、スタントンに初めて入った北軍部隊となった。
ピードモントの戦いの名誉勲章の受章者 ペンシルベニア第54歩兵連隊の兵卒トマス・エバンスは、南軍兵を鼓舞していた士官を狙撃し、バージニア第45連隊の騎手と戦ってその軍旗を捕獲した。ペンシルベニア第54歩兵連隊の鼓笛手ジェイムズ・スネッデンは、ライフル銃を拾って攻撃に参加し、南軍の第1歩兵旅団指揮官のビューリング・ジョーンズ大佐を捕獲した。ジュリアス・スターヘル少将は、下馬騎兵を率いて戦闘に向かっている時に銃弾を2発受け、野戦病院で傷の治療を受け、最後の騎兵突撃を指揮するために戦場に戻った。
リチャード・カールソン (政治家)の生い立ちと初期の経歴 カールソンはセント・メアリーズで生まれた。彼はカンザス州立大学で経営学と経済学を学び、その後カンザス陸軍州兵に入隊した。カールソンは1993年から2005年までポタワトミー郡の郡政委員を務め、またフリント・ヒルズ地域リーダーシップ・プログラムの理事も務めた。その後彼は、カンザス州歳入局で議会調整官および税務政策顧問として勤務した。
リチャード・カールソン (政治家)のカンザス州運輸長官 2016年7月15日にカンザス州運輸長官マイク・キングが民間企業でのキャリアに進むため辞任したことを受けて、州知事サム・ブラウンバックは7月18日にカールソンを臨時長官に指名した。2016年10月24日、ブラウンバック知事はカールソンを正式な運輸長官に任命すると発表した。彼は2017年7月に上院の承認を受けた。
パトリック・ステュービングの概要 ステュービングは貧しい家庭の8人の子供のうち3番目に生まれた。彼はアルコール依存症の父親にナイフで傷つけられながら3歳まで育てられた。その後、ステュービングは児童養護施設に引き取られ、7歳の時にポツダムに住んでいた里親の養子となった。1984年、両親の離婚が確定した日に彼の妹が生まれた。ステュービングは2000年に23歳になるまで、母親と実の妹に会うことはなかった。ステュービングによると、彼と妹の近親相姦関係は、彼らの母親が2001年に心臓発作で死亡した六か月後に始まった。カロリュースキは精神に問題を抱えており、読み書きが少ししかできず、2001年10月にステュービングとの最初の子供を産んだ時点で16歳だった。この関係は、最初の子供が生まれた時点で発覚した。彼らの関係から、法的な議論が進められ、ドイツ政府諮問機関の倫理委員会は2014年9月24日に、同意に基づいた兄妹間の性交渉に対する刑罰を廃止するべきという勧告を行った。
デイヴィッド・ロックフェラーの経歴 1915年6月12日、ニューヨークのマンハッタン西54丁目で五男一女の兄弟姉妹の末っ子として生まれる。祖父はジョン・ロックフェラー、父はジョン・ロックフェラー2世。初代ロックフェラーの孫のうち最後まで存命であったのは彼で、2015年6月12日に百歳の誕生日を迎えた。国際基督教大学に留学していたことでも知られるジョン・ロックフェラー4世(John Davison "Jay" Rockefeller IV)はデイヴィッドの兄ジョン・ロックフェラー3世の長男である。1936年、ハーヴァード大学卒業。ヨーゼフ・シュンペーターに師事し、卒業論文のテーマはフェビアン協会であった。その後、フェビアン協会が設立したロンドン・スクール・オブ・エコノミクス (LSE)に留学、同校で修士号を取得。また同時期にLSEのハロルド・ラスキのもとに留学していた後のアメリカ大統領ジョン・F・ケネディと出会う。その後、シカゴ大学で経済学博士号を取得。博士論文はハーバード時代の恩師シュンペーター、LSE時代のフリードリヒ・ハイエク、シカゴ大学時代のフランク・ナイト、そして祖父のジョン・D・ロックフェラーに影響を受けていた。ニューヨーク市長フィオレロ・ラガーディアの秘書を務めた後、1946年に旧チェース・ナショナル銀行に入行。1961年にチェース・マンハッタン銀行会長に就任し、1969年から1981年にかけて最高経営責任者(CEO)となる。海外に銀行事業を拡大し、世界各国の政財界に幅広い人脈を築き、それを生かして民間外交を活発に行い、東西冷戦最中の1973年にソビエト連邦に赴いてソ連初の米銀行支店、中華人民共和国に旅して中国初の米コルレス銀行を設立し、三極委員会を創設した。2017年3月20日の朝、ポカンティコ・ヒルズの自宅で死去。101歳没。
デイヴィッド・ロックフェラーの日本との関係 親日家として知られる。1972年(昭和47年)、デイビッド・ロックフェラーはオランダ王室にビルダーバーグ会議への日本の参加を打診したが断られたため、ズビグネフ・ブレジンスキーに日本が加わる会議の創設を提案した。宮沢喜一、大来佐武郎らを招待した勉強会が開催され、翌年の1973年10月に「三極委員会」が誕生した。1978年(昭和53年)に日本文化を伝える非営利団体「ジャパン・ソサエティー」の名誉会長に就任。1988年(昭和63年)の創設時から1990年(平成2年)まで高松宮殿下記念世界文化賞の国際顧問を務め、その後名誉顧問に転じた。1989年にロックフェラー家がロックフェラーセンターを三菱地所に売却した際、米国民から批判が巻き起こったが、デイヴィッドがその矢面に立った。1991年(平成3年)には勲一等瑞宝章を受勲した。1994年(平成6年)に明仁天皇(現明仁上皇)がニューヨークを訪問した際には自邸に招待した。2007年(平成19年)に11月に来日、回想録(日本語版)の出版記念会が都内のホテルで催され、出版記念サイン会がMoMA Design Storeにて催された。デイビッド・ロックフェラーの来日はシティグループがサブプライム問題で大きな損失を被ったことと関係があるとする報道が見られた。新生銀行の社外取締役を勤めた。
ヒデヨシ (テレビ番組)のミツヒデ 『ノブナガ』終了直後からこの『ヒデヨシ』放送開始前までのわずかな時間を使って放送されていた関連ミニ番組で、主に『ヒデヨシ』本編の予告を行っていた。CBCテレビでの放送時間は毎週土曜 25:50 - 25:55。同タイトルでの放送期間は2002年4月27日から2004年10月2日までだが、それ以前からもタイトルが異なるだけで同じ内容のミニ番組が放送されていた(例:2002年4月20日放送分『藤吉郎といえば?』)。
2009年のル・マン・シリーズのランキング ポイントは1位から8位まで順に10-8-6-5-4-3-2-1が与えられる。ポールポジションにはボーナスポイント1が与えられる(太字で表示)。走行距離が優勝者の70%に満たない場合は与えられない。最低45分を運転しなかったドライバーにも与えられない。レース前エンジンを交換した場合は2ポイントのペナルティが与えられる。その後の交換では4ポイントのペナルティが与えられる。
2009年のル・マン・シリーズのチーム・ランキング 各クラスの優勝者と2位は2010年のル・マン24時間レースに自動エントリーされる。
トラベラー (TRPG)の概要 57世紀という遥か遠未来、広大な星間国家である〈帝国〉が主な舞台となる。プレイヤーキャラクターは広大な宇宙を旅する一個人となって、様々な事件に出会い、それに対応し、解決して生き抜くことが目的となる。SFが背景設定となっているが、プレイヤーキャラクターはいわゆるスペースオペラ的な超人ではなく、常識的な肉体的能力と知性しか持たない。後述するキャラクター作成ルールの特性から、年若いキャラクターがゲーム内で充分に活躍することは難しく、30代以降のキャラクターが一般的である。また、経済ルールが充実していることもあり「退職金を頭金にローンで中古の宇宙船を買って、それを使って交易をして金儲けをしつつ借金を返済する」といった地に足が着いた地味な展開が、本作における典型的なプレイスタイルの1つとなっている。ただし、スペースオペラ的な主人公を意識した『ヤングトラベラー』と言う追加ルールも存在する。一方で、宇宙船や異星生物などSFらしいルールも整えられている。背景となる宇宙や惑星も、UWPと呼ばれるコードで環境や社会体制が表され、ダイスを振ってランダムに作成するシステムを備えていたため、プレイのための背景宇宙を「自分で作成する」ことができ、さらに、その後発表されたサプリメントを使用すれば、宇宙船やロボットなども自作することも可能である。トラベラーには、現在ではClassic Traveller(CT)とも呼ばれる初版のルールシステム以来、MegaTraveller(MT)、Traveller:The New Era(TNE)、Marc Miller's Traveller(T4)、GURPS Traveller(GT)など、いくつかの版があり、複数のルールシステム・世界設定が存在する。以下のルール解説は初版に基づいたものである。
トラベラー (TRPG)の基本ルール 行為判定は6面サイコロ2個を使用し、その出目の合計がその行為毎に定められた特定の数値より大きいとその行為は成功となる。スキル(技能)システムを初めて導入したRPGで、戦闘、技術、学問などSF冒険生活に関する様々な分野の技能が用意され、主に行為判定の際に修正ボーナス(ルールでは‘DM±n’と表現される)として使用される。ホビージャパン版では経験値やレベルアップ等の成長システムが外されているため、最初のキャラクター作成が重要視される。
トラベラー (TRPG)の戦闘ルール 車両戦闘を含む「個人戦闘ルール」と宇宙船用の「宇宙戦闘ルール」というスケールの違う2つのルールが存在する。どちらも基本はラウンドあるいはターン制で移動と戦闘を繰り返すもので、戦闘の場面は「距離線」による抽象的な表現がされる。「距離線」とは、戦闘中の位置関係を1次元的に表したもので、戦闘を行う際は、罫線を引いた紙などの上に、キャラクターや宇宙船を表すコマなどを置いてプレイすることが推奨されている。個人戦闘は1ラウンド15秒で1距離線は25m、宇宙戦闘は1ターン1000秒で1距離線は1万キロメートルを意味する。命中・ダメージシステムも比較的抽象化されており、距離、武器、防具などを踏まえた図表上の数値を基に、サイコロによる判定で行う。宇宙船戦闘では加えて、移動、ソフトウェアの切り替え、標的の捕捉、攻撃判定など、独特のルールを用いる。個人戦闘も宇宙船同士の戦闘も一発の命中弾により即戦闘不能、或いは死亡といった致命的な結果を招く危険度が高いルールであり(特に個人戦闘は、PCの耐久力2~12に対し4~24のダメージを与える手持ち武器があり、ルール的に防具で命中率を減らせてもダメージは減らせない)、死者の蘇生や瞬時で修理可能な宇宙船などのルールも存在しないため、安易な戦闘による解決はほとんどの場合キャラクターの負傷による長時間にわたる無力化、あるいは死亡などの重大な結果を引き起こす。行き詰まった交渉の最終的解決策としてやむをえず戦闘を行うにせよ、事前の周到な準備など慎重に取り組む必要がある。GDW社からは、単体としてシミュレーション・ボードゲームとしてプレイできる内容でありつつ、トラベラーとも連結可能な製品が発表されている。宇宙船戦闘を扱った『メイディ』、宇宙船内部がマップとし、個人戦闘を扱う『アザンティ・ハイ・ライトニング』『スナップショット』などである。これは、戦闘中のより複雑な状況設定を再現するため、或いは相手との距離しか考慮しない基本ルールでは飽き足らない場合のための、「上級戦闘ルール」として使用することも可能である。
トラベラー (TRPG)の経済関連ルール 生活関連のルールと星間貿易ルールがある。生活関連では、民間商船に雇われる場合のキャラクターの能力に応じた給料や社会身分度を維持するための1ヶ月の最低必要生活費、宇宙船の購入ローンや改造費・維持費・燃料費など日常の消費活動について定められている。星間貿易では、星々の異なる環境による商品価格への影響や、プレイヤーキャラクターが乗客の募集や商品の仕入れ、輸送、転売を行う場合の利益や損失を算出するルールが定められている。技能レベルのアップや能力値の向上といった直接的なキャラクター成長のルールが無いため、プレイヤーキャラクターが課題を解決した結果として得られる報酬は主に現金や物品となり、装備強化のためのマネーゲームが重要視される傾向がある。