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福岡県道51号曽根鞘ヶ谷線の概要 北九州市小倉南区下曽根から戸畑区西鞘ケ谷町に至る。国道322号および国道3号のショートカットとして使われる。下曽根を起点に、小倉南区若園付近で北九州高速1号線の高架下を走りながら、右折左折を繰り返す。小倉南区北方で旧国道322号と重複する。ほぼ全線、2車線(片側1車線)であるが、小倉南区若園・小倉競馬場前間は4車線(片側2車線)となる。小倉競馬場の駐車場が道路に面しており、週末になると大変な渋滞になるほか、八幡東区と小倉南区を結ぶ抜け道であるため、小倉南区蒲生交差点付近は朝夕の通勤時間は混雑する。
ヒイラギの形態・生態 樹高は4-8m。葉は対生し、革質で光沢があり、その形は楕円形から卵状長楕円形をしている。その縁には先が鋭い刺となった鋭鋸歯がある。また、老樹になると葉の刺は次第に少なくなり、縁は丸くなってしまう。種小名は「異なる葉」を意味し、この性質に由来する。花期は11-12月であり、葉腋に白色の小花を密生させる。雌雄異株で、雄株の花は2本の雄蕊が発達し、雌株の花は花柱が長く発達して結実する。花は同じモクセイ属のキンモクセイに似た芳香がある。花冠は4深裂して、径5mmになる。実は長さ12-15mmになる核果で、翌年6-7月に暗紫色に熟す。そして、その実が鳥に食べられることにより、種が散布されることになるのである。
ヒイラギの病虫害 ヒイラギは、庭木の中では病虫害に強い植物である。しかし、ヘリグロテントウノミハムシ(Argopistes coccinelliformis、ハムシ科)に食害されることがある。この虫に寄生されると、春に新葉を主に、葉の裏から幼虫が入り込み、食害される。初夏には成虫になり、成虫もまた葉の裏から食害する。食害された葉は枯れてしまい、再生しない。駆除は困難である。防除として、春の幼虫の食害前に、農薬(スミチオン、オルトランなど)による葉の消毒。夏の成虫は、捕獲駆除。冬に、成虫の冬眠を阻害するため、落ち葉を清掃する。ヘリグロテントウノミハムシは、形状がテントウムシ(二紋型のナミテントウやアカホシテントウ)によく似ていて、「アブラムシを食べる益虫」と間違えられ、放置されやすい。ヘリグロテントウノミハムシは、テントウムシ類より触角が太く長く、また跳躍力が強く、人が触ると跳ねて逃げるので見分けがつく。
ヒイラギの分布と生育環境 台湾と日本に分布する。。日本では、本州(関東地方以西)、四国、九州、沖縄に分布する。山地に生育する。
ヒイラギの人間との関わり 低木で常緑広葉樹であるため、盆栽などとしても作られている。殖やし方は、実生または挿し木。葉に棘があるため、防犯目的で生け垣に利用することも多い。幹は堅く、なおかつしなやかであることから、衝撃などに対し強靱な耐久性を持っている。このため、玄翁と呼ばれる重さ3kgにも達する大金槌の柄にも使用されている。特に熟練した石工はヒイラギの幹を多く保有し、自宅の庭先に植えている者もいる。他にも、細工物、器具、印材などに利用される。古くから邪鬼の侵入を防ぐと信じられ、庭木に使われてきた。家の庭には表鬼門(北東)にヒイラギ、裏鬼門(南西)にナンテンの木を植えると良いとされている(鬼門除け)。また、節分の夜、ヒイラギの枝と大豆の枝に鰯の頭を門戸に飾ると悪鬼を払うという(柊鰯)。日本においては、「柊の花」は初冬(立冬〔11月8日ごろ〕から大雪の前日〔12月7日ごろ〕)の季語とされている。
ヒイラギの類似の植物 似たような形のヒイラギモクセイは、ヒイラギとギンモクセイの雑種といわれ、葉は大きく縁にはあらい鋸歯があるが、結実はしない。クリスマスの飾りに使うのはセイヨウヒイラギ(Ilex aquifolium)であり、「ヒイラギ」とあっても別種であり、それだけでなくモチノキ科に分類され、本種とは類縁的には大きく異なる。その他、ヒイラギの鋭い鋸歯が特徴的なため、それに似た葉を持つものは「ヒイラギ」の名を与えられる例がある。外来種ではヒイラギナンテン(メギ科)がよく栽培される。他に琉球列島にはアマミヒイラギモチ(モチノキ科)、ヒイラギズイナ(スグリ科)がある。ほかに、鋭い鋸歯を持つものにリンボク(バラ科)があり、往々にしてヒイラギと間違えられる。また、ヒイラギを含めてこれらの多くは幼木の時に鋸歯が鋭く、大きくなると次第に鈍くなり、時には鋸歯が見えなくなることも共通している。
東部大宇電子ジャパンの概要 1995年に株式会社ダカスとして設立され、主に韓国の大宇電子の白物家電の日本での販売を目的に設立された。本国の大宇財閥の破綻により本国大宇電子のオーナー企業の移り変わりで韓国の東部財閥傘下入りに伴い東部大宇電子(英語版)と社名が変更になった事で、2013年10月より東部大宇電子ジャパン株式会社に社名変更をしている。2015年に株式会社シーエスロジネットと本国の東部大宇電子が出資し合弁会社 シーエス大宇販売株式会社設立したことで2016年4月1日東部大宇電子ジャパン株式会社は解散し国内でのDAEWOOブランドは シーエス大宇販売株式会社が引き継ぐ。2017年に シーエス大宇販売株式会社は大宇販売株式会社に変更。現在シーエスロジネットがテクタイト株式会社と合併したためテクタイトグループ傘下である。主に家電量販店やホームセンター向けにDAEWOOブランドで家電を販売している。
アール・フライの概要 子供番組の大半は学校教育・社会教育・情操教育を目的とした教育番組だが、『おはスタ』など娯楽を主とした子供番組もあり、広義ではアニメ番組や特撮番組や『ケンちゃんシリーズ』のような、子供向けのドラマも含まれる。子供番組としての実写ドラマは80年代以降減少し、枠自体もなくほぼ壊滅状態であったが、2000年代以降には、散発的にではあるが、特撮番組や『まるまるちびまる子ちゃん』のような児童向けドラマが製作され状況はやや好転している(詳細は児童向けドラマ#歴史参照)。子供の興味や好奇心を惹くような工夫がこらされ、いくつかのコーナーを組み合わせた比較的テンポの早い展開のものや、近年ではコンピュータグラフィックス(CG)を駆使したものも増えている。着ぐるみ・人形・CGなどによる、マスコットキャラクターが出演している事も多い(『ポンキッキ』シリーズのガチャピン・ムックなど)。中には「親子で楽しめる」事を目的に、大人の鑑賞にも耐えうるような練り込んだ内容で、大人のファンがついているものもある。『カリキュラマシーン』『ウゴウゴルーガ』『ピタゴラスイッチ』等はその先進的・実験的な内容で、幅広い年齢層に話題を呼んだ。また数年もの長きにわたってシリーズ化され、世代を通じて視聴されているものも多い。日本では近年、地上波民放で放送される子供番組は減少傾向にある。その理由に生活様式の変化や少子化による視聴者数の減少、各テレビ局では視聴率優先の番組編成が主体になり、時間枠の確保が難しくなった事などの他、内容によって些細な事でも保護者側からクレームを寄せられる傾向があり、制作側にとっても当初予定していた番組が作りづらくデメリットが多いという事情もある。当初は高学年児童向けや娯楽主体に番組が作られていたものの、大衆化したり保護者の要望によって、次第に低年齢層向けや教育的な内容へのターゲット変更がされる事もしばしばある。これらの背景によって、地上波に比べて視聴率や編成に左右されないBS放送、スカパー!、ケーブルテレビなどに放送の主体が移りつつもある。尚、民放各社は子供番組減少に対して、『天才!志村どうぶつ園』や『どうぶつ奇想天外!』(終了)、『ペット大集合!ポチたま』(終了)のような動物を扱った教養、バラエティ番組も子供番組であるという見解を示している。商業展開や傾向に関しては『子供向けアニメ』の項に詳しく記述されている為、そちらを参照。
日吉大社の歴史 文献では、『古事記』に「大山咋神、亦の名を山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し」とあるのが初見だが、これは、日吉大社の東本宮の祭神・大山咋神について記したものである。日枝の山(ひえのやま)とは後の比叡山のことである。日吉大社は、崇神天皇7年に日枝山の山頂から現在の地に移されたという。また、日吉大社の東本宮は、本来、牛尾山(八王子山)山頂の磐座を挟んだ2社(牛尾神社・三宮神社)のうち、牛尾神社の里宮として、崇神天皇7年に創祀されたものとも伝えられている。なお、三宮神社に対する里宮は樹下神社である。西本宮の祭神・大己貴神については、大津京遷都の翌年である天智天皇7年(668年)、大津京鎮護のため大神神社の神が勧請されたという。以降、元々の神である大山咋神よりも大己貴神の方が上位とみなされるようになり、「大宮」と呼ばれた。平安京遷都により、当社が京の鬼門に当たることから、鬼門除け・災難除けの社として崇敬されるようになった。神階としては、元慶4年(880年)に西本宮の祭神が、寿永2年(1183年)に東本宮の祭神が、それぞれ正一位に叙せられた。『延喜式神名帳』では名神大社に列格し、さらに長暦3年(1040年)、二十二社の一社ともなった。最澄が比叡山上に延暦寺を建立し、比叡山の地主神である当社を、天台宗・延暦寺の守護神として崇敬した。唐の天台宗の本山である天台山国清寺で祀られていた山王元弼真君にならって山王権現と呼ばれるようになった。延暦寺では、山王権現に対する信仰と天台宗の教えを結びつけて山王神道を説いた。中世に比叡山の僧兵が強訴のために担ぎ出したみこしは日吉大社のものである。天台宗が全国に広がる過程で、日吉社も全国に勧請・創建され、現代の天台教学が成立するまでに、与えた影響は大きいとされる。元亀2年(1571年)、織田信長の比叡山焼き討ちにより、日吉大社も灰燼に帰した。現在見られる建造物は安土桃山時代以降、天正14年(1586年)から慶長2年(1597年)にかけて再建されたものである。信長の死後、豊臣秀吉と徳川家康は山王信仰が篤く、特に秀吉は、当社の復興に尽力した。これは、秀吉の幼名を「日吉丸」といい、あだ名が「猿」であったことから、当社を特別な神社と考えたためである。明治に入ると神仏分離令により、仏教色が廃された。また、本来の形に戻すとして、東本宮と西本宮の祭神を入れ替えて西本宮の大山咋神を主祭神とし、大物主神を祀る東本宮は摂社・大神神社に格下げした。1871年(明治4年)、官幣大社となった。1928年(昭和3年)、東本宮・西本宮ともに官幣大社となり、元の形に復した。2006年(平成18年)6月7日、歴史的風土特別保存地区に指定された。
死にぞこないの青のあらすじ 小学生のマサオは、人気である飼育委員になるためにクラスの担任教師である羽田に嘘をつき、優しい彼からの憎悪を買ってしまった。そこから羽田はことあるごとにクラスの問題をマサオに押し付け、マサオは羽田だけでなくクラスメートからもいじめを受けるようになる。追い詰められていくマサオの前に、ある日真っ青な姿をした少年「アオ」の姿が現れ、彼の支えとなっていく。しかしアオは、マサオに自身を傷つける羽田やクラスメートへの反撃をそそのかしていく。
アニメスタイルの概要 アニメの作り手にスポットを当てた雑誌であり、ロングインタビューや原画・設定資料の収録など、ムック形式に詰め込んだ内容の濃さが特徴である。「アニメーションノート」など同類他誌の休刊が続いているが、2度の休刊を経ながらも刊行を続けている。マスコットキャラクターなどのイラストはアニメーターの今石洋之が手がけている。ウェブサイトは平日更新の日刊ペースで記事を追加するウェブマガジン形式となっており、編集長の小黒祐一郎をはじめとして脚本家・演出家・アニメーターなどのアニメ業界人のコラムや回顧録を中心に構成されている。他には「アニメの作画を語ろう」と題してアニメーターを始めとするクリエイターに取材した企画や、リスト制作委員会による「TVアニメ50年史のための情報整理」といった企画も掲載されている。また、雑誌スタイル社から原画集などを刊行するほか、東京都の新宿ロフトプラスワンや阿佐ヶ谷ロフトAでトークライブ、新文芸坐でオールナイト上映会を定期的に開催し、その模様をニコニコチャンネルで配信したりするなど、幅広い活動を行っている。
アニメスタイルの沿革 2000年に美術出版社より、『美術手帖』誌の増刊扱いで雑誌『アニメスタイル』として創刊されたが、紙媒体では2号で刊行が中断。2000年12月6日よりインターネット上で始まった『WEBアニメスタイル』に引き継がれた。2005年5月までは日本テレビドメインのスタジオジブリ公式サイトに間借りしていたが、2005年6月より独自ドメインで運営を始めた。2012年7月18日に再びドメインを変更して、サイトのリニューアルを行った。2011年5月から『月刊アニメスタイル』の誌名で紙媒体で株式会社スタイルを発行元に復刊した。第2号は8月に発売し、以後は月刊ペースで2012年2月の第6号までが発売された。6号での休刊は復刊当初からの予定であった。一般書店では取り扱いされず、主にオンライン書店やアニメショップを通じて発売された。各号には特集したアニメのねんどろいど ぷちのミニフィギュアが付録として付けられた。2012年には再度リニューアルを行い、7月に第1号『アニメスタイル001』が発売され、以後は002…という順に不定期刊行されている。引き続きスタイル社発行だが、メディアパルが発売元となり、一般書店での流通も行われる。2015年7月には季刊化を目指すためクラウドファンディングによる資金調達を呼びかけた。
ドーラビーラの「城塞」と貯水槽 「城塞」は、都市の南西部に位置し、一辺140m、高さ15m、幅10mの壁に囲まれて聳え立つような威圧感を示す。東西南北にそれぞれ「城門」をもち、西側には外郭ともいうべき施設があり、北側には儀礼を行ったと考えられる350m×80mの広場のような長方形の施設がある。城塞の南西隅には、直径4mの巨大な井戸があって、城塞の中央を東西方向に横切る「通り」の南に面した2ヶ所の半地下式の「沐浴場」に水路でつながっている。 「城塞」の城壁は、内部に向かって傾斜していて、少なくとも北門の近くと東門の近くには雨受けが設けられ、東門近くの雨受けには、滑り台のような石板が備えられて、雨水を集水溝に流し、集水溝に集められた水は「城塞」の地下にある水路を通って城塞の西側にある外郭の特別な貯水槽に集められる仕組みになっていた。「城塞」は神聖な空間と考えられていることから、そこに降る雨は特別な意味をもたされていたのかもしれない。また外郭には紅玉髄などをビーズに加工する「官営」とも推定される工房が設けられていた。「城塞」の東門を出ると、階段が設けられた幅25m以上、岩盤までくりぬいて深さ7mに達する貯水槽がある。また「城塞」の南方向にも幅35m以上、横26m、深さ7mの貯水槽が発見されており、両者はべつものなのかつながるのかは今後の調査を待ちたい。 ドーラビーラの周辺は降水量が少なく雨季に集中的に降る雨水で増水した南北の川をたくみにせき止めて、標高の高い貯水槽から低い貯水槽へ水がたまるように外壁のすぐ内側、西側、北側、南側に幅数十メートルの貯水槽が設けられていた。
ドーラビーラの建物の建材 ドーラビーラの建造物は、この「街」の周辺で採掘される石灰岩を、モヘンジョダロの煉瓦と似たような大きさに切り出した直方体の石を積み上げて立てられている。石を積み上げている建物の構造や、この地域で採取される石灰岩が水をよく浸透させ、土へしみこませることから街自体に乾燥と暑さをしのぐ構造をもたせていたのかもしれない。一方で、発掘調査をおこなっているビシュト博士は、石灰岩に見られるピンク色の文様から街全体がピンク色に見えたかもしれないと考えている。
ドーラビーラの北門脇から発見された「看板」の文字 ドーラビーラで特筆すべき重要な発見は、「城塞」の北の城門を下った左脇の部屋の地中から10文字分と思われる インダス文字が発見されたことである。文字は、縦30cmを測り、材質は石灰の一種を用いたと思われ、土の中におかれただけのようなデリケートな状態で発見された。そのため、インド考古局の発掘調査団ではビニールシートと土を交互に重ねて文字自体に圧力がかからないように丁寧に埋めて保存している。この文字の性格については、地面に木板の痕跡がのこっていることから北門に掲げられた「看板」の文字ではないかと考えられている。つまり看板本体は落下した後腐ってなくなったが文字だけは残ったのである。10文字でよく目立つのは、楕円を六等分したような車輪のような4文字である。インダス文字研究の権威として知られるヘルシンキ大学のアスコ・パルボラ博士は、この文字は太陽を意味していて権力を象徴している可能性が高いとする。この「看板」に書かれた文字は、王族一家の名称か神聖なる神の名前か都市自体の名前ではないかと考えられている。 
ドーラビーラの主な出土遺物など 遺物は、インダス式印章やハラッパー式の土器はもちろん、動物骨、粗製の赤色土器や二彩土器などの在地系の土器が出土する一方、紅玉髄製などのビーズ、金製品や銀製品、テラコッタやメソポタミアとのつながりをうかがわせる土器などをはじめとする膨大な量の出土をみた。これらの成果から考古学者たちは、ドーラビーラは、グジャラート地方で採取される良質の紅玉髄を加工、輸出するとともに、その流通を統御する役割をもったインダス文明と西アジアにおいて重要な交易センターのひとつであると考えている。
伊藤宏見の概要 主な業務は小学生を対象とした中学受験学習指導。テキストの予習シリーズは、提携塾・準拠塾でも使用されている。2006年(平成18年)10月より、東進ハイスクールを運営する株式会社ナガセの傘下となり、東進ハイスクールとは姉妹校の関係である。
伐採の主伐 1年生〜3年生までの通信教育
ロジャー・ベーコンの生涯 本数調整伐は、日本独自の用語。主として治山事業において行なわれる伐採の名称であり実際の施業は間伐に酷似するが、主目的が当該保安林機能の維持増進である。
生地駅の駅構造 著作の中で、ベーコンは神学研究の改革を提唱している。スコラ学のような概念の詳細な区分に集中することをやめてもっと聖書そのものを研究すべきだと考えたのである。ベーコンは当時としては先駆的な思想であったが、研究者たちに聖書の原典の言葉、ギリシア語、ヘブライ語を学ぶことを求めた。ベーコン自身は数ヶ国語に精通し、当時の聖書やギリシア哲学の書が誤写と誤訳によってオリジナルからかけはなれていることを嘆いていた。そして神学学習者たちに対して、もっと広く諸学問を学ぶことを求め、大学のカリキュラムの改革が必要であると考えた。ベーコンは神学や学問においてただただ先人に追随することを否定した。彼の『大著作』では数学、光学、化学に関する記述が含まれ、宇宙の規模についてまで言及されている。さらに驚くべきことにベーコンは後世において顕微鏡、望遠鏡、飛行機や蒸気船が発明されることまで予想している。また、宇宙の運行が人間の運命と心身に影響すると考えていた。どれを見てもその先見性には驚きを禁じえないが、ベーコンは他にもユリウス暦の問題点を指摘し、アイザック・ニュートンより400年も早く水の入ったグラスにおいて光のスペクトルを観測していた。彼は当時世界の最先端にあったアラビア科学と哲学に親しんでおり、近代科学を先取りして経験と観察の重要性を強調した。ベーコンには百科事典を作る構想があったようだが、未完に終わったのか断片しか残されていない。
DJ YASのプロデュース 2017年(平成29年)3月の新旅客案内システム導入に伴い、黒部駅と共通で、公共交通の利用促進を目的に黒部ワンコイン・プロジェクト実行委員会が2016年(平成28年)に制作した「公共交通のうた」(高原兄作曲)のアレンジが到着メロディとして使用開始された。
中山道伝馬騒動の背景 後北条氏が滅亡したのち、徳川家康が江戸に入城した。江戸時代には幕府により中山道をはじめとする東海道、日光街道、奥州街道、甲州街道による五街道の整備が進められ、公用のための伝馬制が整えられていた。街道添いには宿場町が設置された。宿駅は常備人馬で継ぎ送りをするが、支障が出る場合には宿駅近郊の郷村が補助的に人馬の提供を行う、その課役制度である助郷制度が設定された。助郷制度の成立は、幕府が寛永14年(1637年)に東海道や、その脇往還美濃路などの宿駅に助馬村の設置を命じ、元禄2年(1689年)より各宿の助郷の有無とその現状の調査をはじめ、中山道は元禄6年(1693年)に調査した。その後、幕府は元禄7年(1694年)には東海道・中山道の宿駅近郊の村々に助郷制を定め、「助郷帳(証文)」を交付した。また、中山道沿いは幕府直轄領が多く、騒動の中心となった北武蔵の百姓には本年貢のほか水利普請や鷹場管理などの公用負担が存在した。
黒木実利の生涯 幕府側は、多数の村役人を拘束し処分した。特に関村(現在の埼玉県美里町)の名主・遠藤兵内を首謀者として獄門に処している。その後、遠藤兵内は地元民から義民として祭られている。
基幹放送局の開設の根本的基準の概要 永禄7年(1564年)、島津義弘の飯野入りに従った60人のうちの1人。永禄11年(1568年)、実利は遠矢良賢と共に本地原(現・宮崎県えびの市観音原付近)の古溝に伏せ、日向国の伊東義祐の家臣・伊東祐安配下の佐土原遠江守が籠る桶平城の前にウズラ狩りを装った少勢を繰り出させ城兵を挑発した。釣られて本地原に誘い込まれた伊東軍は、実利と良賢の釣り野伏せで散々に打ち破られる。元亀3年(1572年)5月4日の木崎原の戦いの際は、義弘の命で白鳥山にある白鳥神社の座主・光巌上人の元へ使いし、伊東勢を引き返させる為の偽兵を用意させる。また自らもそれとは少し離れた位置で用意した偽兵を指揮して、高原城へ帰還する筈の伊東軍を木崎原へ引き返させた。合戦終了後、義弘が追撃中止を命じた鬼塚原(現・宮崎県小林市西小林)にて、実利の妻と下女らが粥桶を持って現れ、義弘らに粥を振る舞った。その地はそれ以後、「粥持田」(後に「粥餅田」)と呼ばれるようになる。年度不明ながら、飯野城と大河平城を結ぶ要衝に、義弘の命により播磨ヶ城(現・えびの市大河平の畦倉地区)を築いているが、義弘が居城を飯野城から栗野城へと移すと、義弘は実利を飯野に留め置いて播磨ヶ城を与えると城主に任じた。没年は不詳であるが、飯野長善寺の末寺である清涼院の墓地に、文禄3年(1594年)10月6日建立の宝塔があるため、その日以前の死去と思われる。長子の宗左衛門が文禄・慶長の役で死去したため、次男の実宣が後を継いだ。
涼風杏菜の略歴 本基準は、基幹放送局の免許申請がされた際に電波法第7条の審査を行う為の基準となるものである。第2条第1号にも「基幹放送局の開設の免許に関する基本的方針」を述べるものとある。条文の追加を伴う大きな改正としては、中継国際放送、受託国内放送(制度廃止)、衛星放送(現・衛星基幹放送)、受託協会国際放送(現・協会国際衛星放送)、移動受信用地上基幹放送に関する追加があった。この内、平成23年放送法等の改正によるものは、従前に「放送局」と呼ばれていたものが「基幹放送局」と改められる等の最も大きな改正である。
アマドゥ (キノコ)のチームの経歴 1992年、チーム代表のチラーノ・ムラローニと、イタリアの建設会社 Scot Costruzioni の社長 Giovanni Torri によって設立された。チームの本部オフィスはサンマリノにあり、技術部門がイタリアのチェゼーナにある。1994年から2009年までは、チームは全てのカテゴリでホンダのマシンを使い続けた。アンドレア・ドヴィツィオーゾは、7年もの間チームに在籍していた。2002年に125ccクラスにデビューし、2004年に同クラスチャンピオンを獲得。2005年に250ccクラスにステップアップ後もチーム・スコットに在籍した。ドビツィオーゾは2005年にシリーズ3位になり、2006年と2007年には連続でシリーズ2位を獲得するなど、他メーカーに比べてあまり積極的に開発が行われていなかったホンダ・RS250RWで大健闘を見せた。2008年、ドヴィツィオーゾはチームと一緒に最高峰MotoGPクラスにステップアップを果たす。チーム・スコットは、前年までの3年間コニカミノルタ・ホンダの名前で参戦していたJiRと共同でMotoGPチームを運営することになった。ドヴィツィオーゾの1台体制で臨み、ホンダのサテライト・チームの中では最も健闘した。表彰台を獲得し、他にもトップ5以内でのフィニッシュを6回記録、シリーズ5位の成績を収めた。2009年シーズンはJiRとの共同体制を解消し、チーム・スコットが単独でMotoGPチームの運営を継続することになった。当初は、ワークスのレプソル・ホンダチームに抜擢されたドヴィツィオーゾに代わり、250ccクラスからステップアップした高橋裕紀の1台体制で臨んだが、第6戦カタルニアからはガボール・タルマクシが加入し、2台体制になった(タルマクシは125cc時代の2006年に在籍していたことがあるため、チームに復帰という形になる)。しかし、第8戦アメリカGPを前に高橋裕紀は契約を解除され、タルマクシの1台体制となった。高橋、タルマクシの両名とも最下位近辺の常連となってしまい、成功は収められなかった。一方、この年が最後の開催となった250ccクラスではKTMから移籍してきた青山博一が見事チャンピオンを獲得、125ccクラスからステップアップしてきたラファエレ・デ・ロサがシリーズ6位でルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得するという大活躍を見せた。2010年、チームは資金難によりMotoGPクラスからは撤退、250ccクラス後継のMoto2クラスにのみ参戦することになった。当初ライダーはニッコロ・カネパにアレックス・デ・アンジェリスと、前年MotoGPクラスに参戦した二人が務めたが、第8戦ドイツGPからはデ・アンジェリスが青山博一の負傷代役としてMotoGPクラスに復帰したため、しばらくはカネパの1台体制での参戦が続いた。ところがチームは資金面でトラブルに陥り、第10戦チェコGPを前にチームは解散してしまった。しかし残ったスタッフが参戦を継続し、第12戦サンマリノGPからはチーム名を変え「M・レーシング」としてビモータのシャシーでカネパを走らせた。第14戦日本GP以降は、カネパに代わり國川浩道がライダーを務めた。かつてチームに在籍していたライダーとしては、ブルーノ・カサノヴァ、ファウスト・グレシーニ、エミリオ・アルサモラ、セテ・ジベルナウ、ロベルト・ロカテリ、アルノー・ヴァンサン、マイク・ディ・メッリオらが挙げられる。
ヌビアアイベックスの形態 体長105〜125cm、肩高65〜75cm、体重25〜70kg。 淡褐色の身体で下腹部は白く、雄の背には暗褐色の縞がある。雄は長さ〜120cmにまでなる背中に向けて湾曲した長い角をもっているが、雌のそれは小さく30cmほどである。
ヌビアアイベックスの生態 標高200m〜2000mの岩の多い乾燥した山地に棲息している。 朝と夕方に草本や葉を食べに出かける、日の高い日中は日陰で反芻をして休み、夕暮れになると岩場に戻って眠る、寒い冬季や雨の日は洞窟で眠る事もある。 天敵はヒト・タイリクオオカミ・キンイロジャッカル・ヒョウ・ワシ等である。 オスは普段は単独で行動しているが繁殖期の10月頃になるとメスを巡りオス同士で戦いをして5頭〜15頭のハーレムを形成する。 妊娠期間は5ヶ月で、1頭〜2頭の子供を産む。性成熟は2年〜3年。寿命は約17年。
ヌビアアイベックスの人間との関係 食用や角をハンティングトロフィーにする為の狩猟や家畜との食料の競合が脅威となり、絶滅危惧種に指定されている。 かつて棲息していたシリアとレバノンでは既に絶滅しており、残っている固体も広域に分散して小さな個体群ごとに暮らしているため遺伝的多様性の欠如も危惧されている。 正確な個体数は不明だが1200頭以下と考えられる。
劇場版ポケットモンスター アドバンスジェネレーション 七夜の願い星 ジラーチの概要 『アドバンスジェネレーション』シリーズとしては初の映画。今作からポケモンの引換券付き前売り券が発売。今作の場合、この券を買うと『ポケットモンスター ルビー・サファイア』にジラーチを受け取ることができた。前売り券の売り上げは100万枚を越え、興行収入45億円と大ヒットを記録し、2003年の年間邦画ランキングでは2位(アニメでは1位)の成績を残した。また、この作品から映画の予告編でロケット団のムサシ、コジロウ、ニャースが劇場前売り券の宣伝をしている。舞台となったファウンスのモデルは中国湖南省の武陵源である。この作品から、ポケモン映画の制作委員会の名称『ピカチュウプロジェクト』の横に制作年が付かなくなり、以降は『ピカチュウプロジェクト』として統一されている。また、TVシリーズを放送しているネット局が「プロモーション協力」としてクレジットされるのも本作からであり、本作以降の予告ナレーションは、山寺宏一が担当する。タケシを演じる上田祐司と ニャースを演じる犬山犬子が次作から改名され、二人が「上田祐司」と「犬山犬子」の芸名で出演する映画は、本作が最後となる。また、ジラーチ役でゲスト出演した鈴木富子が映画公開直前の7月7日に死去したため、今作が彼女の遺作となった。本作では、過去の無印映画作品のメインポケモンたちが登場する。なお、本作から海外での劇場公開が行われないようになり、ビデオスルーとテレビ放送でのリリースとなっている。
劇場版ポケットモンスター アドバンスジェネレーション 七夜の願い星 ジラーチのコミカライズ 『月刊コロコロコミック』に漫画版が掲載された。作画は大内水軍。
津田貞永の米国 アメリカ合衆国議会では、常任委員会の小委員会で政府の当局者や民間の関係者を招致して頻繁に開催されている。常任委員会公聴会記録(Committee Hearing)は速記録だけでなく、関係者から提出された証言書や関係資料も収載されており、審議された問題に関する重要資料となっている。
小佐手信家の経歴・人物 行政手続法10条で、申請対する処分であって、申請者以外の者の利害を考慮して処分をすべきことを要件とされている場合には,公聴会の開催等適当な方法で当該申請者以外の者の意見を聴くよう努めなければならないと定められている。
水原春郎の概要 主要幹線の国鉄ブラチスラヴァ-ジリナ鉄道線が通るトレンチーン郡トレンチアンスカ・テプラー村のトレンチアンスカ・テプラー鉄道駅(Železničná stanica Trenčianska Teplá)と、13世紀に開かれた温泉保養地である同郡トレンチアンスケ・テプリツェ市のトレンチアンスケ・テプリツェ鉄道駅(Železničná stanica Trenčianske Teplice)を結ぶ鉄道線である。森林鉄道線を除く営業路線としては、スロバキア国内で現存する唯一の760mm軌間の路線である。電気方式は直流600V。1909年開業時の架線電圧は750Vで、1942年に950Vに昇圧されたあと、1984年に現在の600Vに降圧された。開業時一時貨物取り扱いも行ったが、その後は旅客列車のみが運行されている。2004年度には信用乗車方式が導入されて車掌乗務が廃止された。路線はトレンチアンスカ・テプラー市街で一級道路61号線(ブラチスラヴァ-ビトチャ道路)を横断したあと、テプリチュカ川沿いに二級道路516号線(トレンチアンスカ・テプラー-バーノフツェ・ナド・ベブラヴォウ道路)と平行してトレンチアンスケ・テプリツェ市街に入る。途中駅はトレンチアンスカ・テプラー村停留場(Trenčianska Teplá obec zastávka)、トレンチアンスカ・テプラー停留場(Trenčianska Teplá zastávka)、カニョヴァー停留場(Kaňová zastávka)、トレンチアンスケ・テプリツェ団地停留場(Trenčianske Teplice sídlisko zastávka)、トレンチアンスケ・テプリツェ停留場(Trenčianske Teplice zastávka)の5停留場(zastávka)で、列車交換はできない。カニョヴァー停留場は社会主義時代に列車交換のために設けられたカニョヴァー信号場(Výhybňa Kaňová)が前身で、1980年代に休止され、2000年の全線改修工事の際に交換施設が撤去されたが、2007年7月25日に停留場が設けられ、客扱いを開始した。スロバキア国鉄の分社化に伴い、列車運行は鉄道企業体(旧ZSSK)および鉄道企業体スロバキア(ZSSK)が行ってきたが、ZSSKの運行休止と車両・車庫の地元自治体への売却に伴い、2012年以降はボランティアによる不定期運行となった。2015年からはトレンチーン電気鉄道非営利法人(Trenčianska elektrická železnica, n.o.)が夏季(6月下旬-9月初頭)の土・日曜日および聖金曜日などの一部の祝日や記念イベント催行時に運行を行っている。夏季運転日の運行本数は1日上下各4本。2018年2月3日には児童生徒を対象に、自身の通知表を乗務員に提示すれば乗車できるユニークな「通知表運行」(Jazdy za vysvedčenie)が行われた。
アンジェニューの車両 1909年開業時は、ブダペスト・ウーニオ電気機器株式会社の電装品を使用してジェール鉄道輸送車両が製造した二軸電動客車3両(ACe 1 - 3, ČSD形式:M24.001 - 003)と二軸付随客車2両(14, 15)、有蓋貨車2両、無蓋貨車2両、オープンタイプの付随客車1両の10両が在籍した。1910年には二軸有蓋電動貨車1両(4)、1911年にはオープンタイプ付随客車1両(12)が増備された。12号客車は現在チェコ・ブルノ市のブルノ技術博物館で保存されている。チェコスロバキア国鉄は1951年にM46.0形電動客車3両(のちEMU46.0形、現411.9形)、1954年に付随客車Calm/u形3両(のちBalm/u形、現911.9形)を新製して開業時の車両と置き換えた。各車とも1984年から1990年にかけて大規模な近代化更新工事を受けている。近代化更新後は411.9形3両、911.9形2両がレオポルドウ機関区(RD Leopoldov)所属でトレンチアンスカ・テプラー車庫(VP Trenčianska Teplá、旧トレンチアンスカ・テプラー機関区)に配置されていたが、911.9形1両は2008年からリースでジリナ県のオラヴァ森林鉄道(Oravská lesná železnica, 現・保存鉄道)に移された。さらに2011年のZSSKの列車運行休止に伴い、車庫と411.9形3両が地元トレンチアンスカ・テプラー村に、911.9形はオラヴァ森林鉄道リース車が同森林鉄道に、残る1両がバンスカー・ビストリツァ県のチエルノフロン鉄道(Čiernohronská železnica、旧森林鉄道)にそれぞれ売却された。現在はトレンチーン電気鉄道非営利法人のトレンチアンスカ・テプラー車庫に411.9形3両のみが配置されている。
ハロン湾の現地ツアー 1958年に10×ズーム、1976年に42×ズームを発明している。いずれも世界初。
ベヌステ・ニョンガボの経歴 ハノイより様々な旅行会社が日帰り・一泊二日のツアーを組んでいる。ハロン湾クルーズや鍾乳洞観光などが含まれる。1泊2日ツアーはハロン湾地区のホテルに1泊するツアーであるが、価格は高いがホテル船に1泊するツアーも存在する。なお、ツアーの種類、特にツアー価格により、上陸する島の数が違っていたり、入場料が別だったり、昼食が含まれていなかったり、シーカヤックが別料金だったり最初から体験のないツアーたったりするので、ツアーを選ぶ際は安さだけでなく良く内容を確認することが重要となる。もちろん多くの体験を含むツアーはハノイへの帰着が夜遅くになることも考慮に入れなければならない。また、ホテルで紹介してもらえるツアーはホテル前まで送迎があることがほとんどであるが、少額の紹介料がツアー料金に上乗せされることが多い。旅行会社で申し込むツアーもホテル名を申し出て、当日は可能な限りホテルの近くまでバスが来て、ガイドが約束の時間にホテルまで迎えに来るシステムが多い。
ジークフリート・カルク=エーレルトの経歴 ニョンガボは、ブルンジ南部のツチ族の出身。1992年に出場した世界ジュニア選手権の1500mで2位となるものの、翌年の世界選手権では1500mで準決勝敗退という結果に終わった。しかし、その後、ニョンガボはすぐに1500mで世界のトップランナーに成長する。1994年、1995年にはいくつものメジャータイトルを獲得した。1995年の世界選手権では、1500mで、アルジェリアのヌールディン・モルセリ、モロッコのヒシャム・エルゲルージに次いで3位となり銅メダルを獲得した。1996年アトランタオリンピックは、ニョンガボの祖国ブルンジが、初めてオリンピックに参加する大会であった。この大会、ニョンガボは1500mでの下馬評が高かったが、自ら出場を取りやめた。理由は、ニョンガボと同じブルンジのデュードネ・クイゼラに1500mの出場を譲るためであった。クイゼラはかつては世界のトップアスリートであったにもかかわらず、ブルンジがIOCに加盟していなかったため、ソウル、バルセロナとオリンピックに出場できなかった選手であった。ニョンガボは代わりに、それまで2回しか走ったことがない5000mに出場した。この出場競技の交代が功を奏し、ニョンガボは、ラスト1周、1500mのスピードを生かしたスパートで、番狂わせとなる金メダルを獲得した。アトランタの後、ニョンガボは度重なる故障のため、かつてのような活躍ができなくなる。2000年シドニーオリンピックでは5000mに出場するも、予選で15位と惨敗してしまった。
第28回読売新聞社杯全日本選抜競輪のレース概略 最初はワーグナーの影響を強く受けたものの、近代音楽の時代に入り調性音楽の崩壊を目の当たりにした彼は、主要音をのこしながらも調性の境界が明解でない方向へ舵を切った。このため、ドイツ本国では「フランスとイギリスの影響を無駄に受けた折衷主義者」と批判され、亡くなる頃にはほとんど支援者がいなかった。オルガン作品とクンストハルモニウム作品は詳細にストップが指定されており、当時の流行であった「ネオ・ゴシック」モデルを基準に作曲されているせいか、作曲上の効果が現れるモデルは少ない。オルガン曲はマックス・レーガーに匹敵するほどの難易度であり、カルク=エーレルト自身も書簡でレーガーに言及している。晩年に子どもでも弾ける「センプレ・センプリーチェ」を作曲した。彼はピアニストとしても若年期に活躍していたこともあり、ピアノ曲にも心血を注いでいたものの、ピアノ業界では彼の作品の評価はいまだ定まっていない。クンストハルモニウムも製造が中止されたこともあり、その作品の受容が危ぶまれたが、少数の熱狂的なプロ奏者がYouTubeを通じて作品の普及に努めている。結局のところ、全66曲から成る『コラール即興曲集』の「凱旋行進曲《いざ諸人よ、神に感謝せよ》」が、最も有名である。金管楽器バンドとの共演が可能であり、セレモニーなどにも頻繁に世界中で用いられている。1987年には、彼の功績をたたえイギリスで「カルク=エーレルト・アーカイブ」が設立された。ドイツ本国にも「カルク=エーレルト協会」があり、定期的にイベントを開いている。現在は1990年代からリバイバルが進んでおり、まとまった数のオルガン作品の音源の入手は容易である。
苅田ビクトリーズの概要 武田が打鐘前に先行態勢に入る。鈴木が2センターから巻き返し、1コーナーで捕らえて、武田が鈴木の番手に入る。2コーナー付近で内に降りた成田と接触した藤木が、落車。神山も乗り上げる。3番手から中を割った平原が、3年ぶり4度目のG1制覇を果たした。後方6番手から捲り追い込んできた深谷が2着。なお、7位入線の成田は失格となった(外帯線内進入)。
背徳の学園 〜闇に捧げられた乙女たち〜のあらすじ 1985年に福岡県京都郡苅田町に本社を置く日産自動車九州工場(現:日産自動車九州)の社員有志によって『日産自動車九州硬式野球部』が結成されたが、2009年に不況による業績悪化と経営体質見直しのため、母体である日産自動車が本社の硬式野球部(神奈川県横須賀市)共々、無期休部を宣言した。休部決定後、日産九州野球部員の有志らが中心となって新たにクラブチームの『苅田ビクトリーズベースボールクラブ』を創設し、2010年3月26日付けで日本野球連盟に新規登録された。チーム発足に当たっては中学生と小学生チームも併せて新設され、社会人部の選手たちが指導を行っている。創部当初は苅田町を中心とした日産九州とは無関係な地元の野球愛好家も参加していたが、2015年現在は選手のほぼ全員が日産九州、あるいはその関連会社や取引先企業に勤務している。また練習グラウンドは旧日産九州のグラウンドをそのまま使い、チームバスも日産九州の自家用車を使うなど、現在でも日産九州から一定の支援を受けている。2018年1月、チーム名を『苅田ビクトリーズ』に改称した。
コント55号の日曜特別号の概要 200X年6月5日M県S市、聖福音教会へ1人の神父が赴任してきた。神父の名は、神谷亮一郎。見た目は若くハンサムな神父であるが、実は悪魔と契約した闇の使者たる魔術師であった。
ハインリヒ・ミュラーの前半生 前番組『コント55号の裏番組をぶっとばせ!』から引き続きコント55号が司会を務めていた番組で、収録も同様に日本各地の公会堂で行われていた。内容も前番組が行っていた「オークションのコーナー」のリニューアル版と、週替わりのコーナーによって構成されていた。ちなみに初回では「外国人のど自慢」が行われた。
EFLカップ2018-2019の準決勝 ナチスが政権を握った1933年に親衛隊保安部 (SD) の長であったハイドリヒは、ソ連警察制度についての権威者とされていたミュラーとその部下たちを組織に勧誘した。1934年に親衛隊 (SS) に加入したミュラーは急速に地位を向上させ、1939年までにはSS中将に昇進している。1939年9月に、ゲシュタポと他の警察組織が国家保安本部 に統合された時には、国家保安本部・第4局のチーフであり、何人かの同姓同名の指導者と区別するために、「ゲシュタポ・ミュラー」として知られた。ゲシュタポの長としてミュラーは、1935年までにドイツ共産党とドイツ社会民主党の下部組織に潜入して破壊する役割を果たし、ナチス政権の安定化に貢献した。諜報機関としてはヴィルヘルム・カナリス海軍大将の機関と競合し、コミュニストのスパイ組織「赤いオーケストラ」にスパイを潜入させ、偽情報をソ連に流すことに成功する。ヒムラーとゲッベルスの担当分野であった「ユダヤ人政策」にも深く関与し、1939年までユダヤ人移住全国本部の所長であった。この地位を引き継いだのが、彼の部下のアドルフ・アイヒマンである。ユダヤ人のホロコーストにおいては、全体計画者であるヒムラーと実施事務を司るアイヒマンとの中間の位置を占める。主たる仕事はドイツ国内の警察だが、ユダヤ人移住・絶滅にかかわる方針を伝達し、その細部にわたる進行状況・情報をアイヒマンから報告される立場にあった。1941年にアイヒマンにドイツのソ連占領地区を視察させ、1年間でユダヤ人約140万人を殺害した特務機関であるアインザッツグルッペンの仕業についての報告を受け取っている。アイヒマンの印象では「ミュラーならば肉体的絶滅のような野蛮なことは提案しなかっただろう」し、アイヒマンの報告はミュラーにはあまり利用されなかったという。おそらくソ連攻撃の6月以前にヒトラーが「ユダヤ人の肉体的抹殺」を命令したことを知る数少ない一人であり、ユダヤ人問題の「最終解決」を決定した1942年のヴァンゼー会議にも出席した。1942年5月にプラハで直接の上司であるハイドリヒが暗殺された件を捜査し、暗殺者の追及に成功したが、カナリスの陰謀を訴訟に持ちこむことをヒムラーに阻止されるなど、ナチス政権における彼の権限はこのころからやや縮小されつつあった。形勢を立て直すため、ヒムラーのライバルであるマルティン・ボルマンと提携しはじめたらしい。1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂後に、ミュラーは陰謀者の摘発と逮捕を担当した。この時カナリスを含めて5,000人を超える人々が逮捕され、約200人が処刑された。戦争の最終段階であった1944年12月、ミュラーはまだドイツの勝利を確信し、ナチス指導者の一人にアルデンヌ攻勢がパリの奪回をもたらすと語っていたという。1945年4月ソ連の赤軍がベルリンを攻撃していたときに、ミュラーは市中心の総統司令部(総統地下壕)でヒトラーを囲んでいた忠臣の一人である。ヒムラーがヒトラーに無断で西側連合国と和議を進めようとした際に、ヒトラーがミュラーに与えた命令はヒムラーの連絡将校であり、愛人エヴァ・ブラウンの義弟でもあるヘルマン・フェーゲラインの逮捕と処刑であった。
ゴンゾーラジオの概要 1830年から1930年までのアメリカ開拓時代を舞台にした鉄道経営シミュレーションゲーム。ゲームはリアルタイムで進行する。鉄道会社の社長となって、ライバル会社との競争に勝ち、鉄道帝国の建設を目指す。ゲームのグラフィックエンジンには同社の『グランドエイジ メディーバル』と同じものを使用しており、シームレスに拡大縮小が可能。マップの作成には衛星写真を参考にしており、アメリカ大陸がリアルに再現される。
ディア・シスターのあらすじ 2018年1月30日時点でSteam版のユーザーからの評価は「非常に好評」となっている。
ベリー擬回転の三方両錐形分子におけるベリー擬回転 ある日 葉月が一人暮らしをしている自宅マンションに帰宅すると玄関に自分のものではない靴が脱ぎ捨てられていた。母が来ているのかとも考えたが、部屋へ入ると異様に散らかっている状態になっている事に気がつく。奥の寝室で人の気配を感じ扉を開けると なんと6年間音信不通であった妹の美咲が知らない男性とベットを共にしていた。その後美咲は勝手に葉月の部屋に居候することを決める。これまで自分のしようとしていた事を何度も美咲に邪魔されてきた葉月は何としても追い出そうとするが、失敗に終わる。それどころか、自分の婚約者と美咲が自宅ベットで寝ているのを発見したり、葉月が勤務する区役所に葉月に関する内容が書かれた怪文書がFAXで送られてきたりと再び美咲の手によって散々な目にあうようになる。一方、美咲は妊娠している事を隠しながら生活し、姉や自身に関することなど計10項目を「死ぬまでにやりたいこと」として手帳に書き込み、それを実行していく。葉月は毎日のように美咲と喧嘩を繰り広げるが、のちにこれまで美咲が葉月にやってきた事が全て葉月を思ってやっていた事だと判明。葉月自身の恋愛、結婚、妹の妊娠、出産、病気、結婚などが次々と発覚・勃発していくうちに姉妹の仲は段々と深まっていく。
松本祐樹の来歴 IF₅などの四角錐形分子におけるベリー擬回転は、三方両錐形分子における機構を逆にしたような機構で生じる。両錐形の「遷移状態」から始まり、一対のフッ素が3つめのフッ素とともにはさみの開閉運動を行うことにより分子が振動する。両錐形分子における擬回転とは異なり、「はさみ」運動を活発に行なっていない原子および配位子も擬回転の過程に関わる。これらは活発に振動する原子および配位子の動きに基いて全体的な調整を行う。しかし、この幾何構造においてはおよそ26.7 kcal/molと大きなエネルギーが必要となる。
櫻井澄夫の人物 横浜歴史文庫を主催し、40年以上に渡り世界の多数の地名資料収集する。書籍のみではなく、諸外国の地名関連の資料を多数収集する。特に世界の地名の変遷、命名、改名の理論を研究する。10数年の中国滞在、40年近い中国経験により、中国人や日本人の企業人、学者・研究者などと交流し、『北京を知るための52章』(明石書店、2017年)など北京についての共著書がある。
モンゴル国の鉄道の地名に関する考え方 日本のみならず、アメリカ、中国(北京、香港)などでの長い居住経験、欧米、アジア諸国での勤務経験があるため、世界の地名資料を多年にわたって収集し、それによって、地名はどう研究されるべきか、地名はどう保存、活用されるべきかを独自の視点から説く。また、中国の専門雑誌(『中国地名』『地名知識』など)への寄稿を行い、日本の地名研究の状況を紹介している。地名変更の問題については、特に日本の明治以来の地名改変の歴史について批判的であり、地名は時の行政当局者によって無原則に切り刻まれてきたもので、革命、占領、植民地化、戦争などによらない自国民の手による、これほどの地名変更が行われた国は日本をおいてほかにはないと主張し、無原則に使用される外来語のカタカナ表示への批判とあわせ、日本文化の継承という点から、地名は正名(=地名を正す)と穏定(=むやみに変更させない。)が基本であるとし、地名の管理保護の必要性を主張する。また地名は一部の地名研究家が主張するような、「大地の索引」などといった情緒的なものではなく、地名はそれ自体、実用価値のあるもので、過去の「索引」にとどまらず、過去から現在未来をつなぎ、IT時代になっても地名の活用、保存の継続はなされることが文化のみならず経済効果をも生むことを主張する。また文化的にも古い町並みが残る都市だけでなく、戦災や大火で町並みが失われても、町の歴史や文化、町に住んだ人たちの営みは、「場所」の記憶をつなぐ「地名」という言語の伝達により、地名をもとに継承・復元され、将来の都市の発展につなげることが可能であり、景観が変わっても改称すべきでないと、無形文化財としての地名の存在意義を主張する。また最近の「地名研究」「地名辞典」や、マスコミ、テレビ番組などの「地名解説」は、依然として民間語源説が主流で、科学的でなく、地名理論が理解されていないところから、学問としての地名研究の科学性の必要を説き、高名な研究者までもが影響されている民間語源説による地名解説を「バスガイド地名学」と呼んでするどく批判している。食品などの原産地表示問題や、中国や台湾での日本の地名や有名ブランドの商標登録問題に対しても、これが行政や地方自治体、企業、外交関係者などの、これまでの由緒ある地名や、地名を冠する商標保護への無関心に原因があるとして、これまでのような行政、法律、経済などに偏重した対応だけでなく、地名、固有名詞、言語など人文系の研究者が参加した、専門的、総合的な研究の必要性を説く。そのような視点から、経済優先の、流行を追った、歴史や伝統的な言語に根ざさない平成の市町村合併時に生まれた新市名、とりわけカタカナ(外国語、外来語)、ひらがなの市名に対しては批判的。
カール=フリードリッヒ・ハースの経歴 本線ではロシア・中国両方向に国際列車が運行されており、中国の鉄道・モンゴルの鉄道そしてシベリア鉄道を経由して、北京〜モスクワ間7,826kmを運行するK3/4次列車も設定されている。なお、最も乗降客の多いウランバートルの中央駅でも、一日の発着旅客列車の本数は20本にも満たず、貨物列車も十数本のため、列車本数はさほど多いとはいえない。
大阪府災害拠点病院の概要 県内や近県で災害が発生し、通常の医療体制では被災者に対する適切な医療を確保することが困難な状況となった場合に、大阪府知事の要請により傷病者の受け入れや医療救護班の派遣等を行う。
バート・ヨールの前歴 バト・イェオールは1933年、エジプトのカイロで中産階級のヨーロッパ人家庭に生まれた。しかし1957年、彼女はイタリア人の父、フランス人の母とともにエジプトを離れ、無国籍の難民としてロンドンに至る。1958年、まずロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジの考古学研究所に通い、1959年に結婚して英国市民となった。1960年、ジュネーブ大学で研究を継続するためスイスへ渡った。彼女はその経験を以下のように語っている。私は預言者エレミヤの時代から2600年以上もエジプトに続いた活気あるユダヤ教徒コミュニティがわずか数年で破壊されるのを目にしたのである。追い立てられ、侮辱され、家族が崩壊し、逃散するさまを。シナゴーグは破壊され、ユダヤ教徒街区は爆破され、平和に暮らす人びとは脅かされたのだった。私は亡命の辛苦、無国籍の悲惨を個人的に体験したのだ。そして、これらすべての根本的な原因を探ることを欲したのである。アラブ諸国に生まれた100万人ちかいユダヤ教徒がなぜ私と同じこんな経験をしたのか。それを理解したかったのである。バト・イェオールは英国人歴史家デイヴィッド・リットマンと結婚し、さかんに共同研究を行っている。
バート・ヨールの研究 歴史に関わるはじめての出版は1971年、ユダヤ教徒エジプト女性を意味するアラビア語の筆名ヤフーディーヤ・ミスリーヤによるLes Juifs en Egypte(『エジプトのユダヤ教徒』)である。同書でバト・イェオールは、イスラーム統治下に生きたズィンミーの観点から、エジプトのユダヤ教徒コミュニティの歴史をコプト教徒の研究とともに、年代的に叙述している。1980年、Le Dhimmi: Profil de l'opprimé en Orient et en Afrique du Nord depuis la conquête Arabe.(ズィンミー—アラブの征服以降のオリエントおよび北アフリカにおける被抑圧者たち)を出版。同書は7世紀から現在に至るイスラーム統治地域の非ムスリムの待遇に関するイスラーム神学者、法学者の見解についての歴史学的研究である。この研究はズィンミテュードの状態に生きた非ムスリムについての大部の一次史料、すなわち外部あるいは内部の文書と証言が大部分を占める。1991年、Les Chrétientés d'Orient entre Jihad et Dhimmitude:VIIe-XXe siècle.(ジハードとズィンミテュードの狭間の東方キリスト教徒—7世紀から20世紀)を出版。本書においてバト・イェオールは、イスラム世界において、キリスト教徒共同体をゆるやかに経済的、社会的、法的、宗教的に摩滅させるために用いられたさまざまな手順を分析する。これらによってキリスト教徒は繁栄する多数派から散り散りの宗教的少数派となり、徐々に消えていったのである。この研究ではズィンミテュードの機能を、拡張主義的なジハードとシャリーアの文脈の枠内で分析しようとしている。本書の後半は、イスラームおよび非イスラーム双方からのズィンミーに対するムスリムの行為を記述する広範な文書からの引用からなる。2002年、Islam and Dhimmitude: Where Civilizations Collide(イスラームとズィンミテュード—文明の衝突するところ)を出版。この研究で、バト・イェオールは、宗教的、歴史的諸史料を用いてイスラーム統治に服するズィンミーの法的、社会的状況について、分析をさらに進めている。最近著は2005年のEurabia: The Euro-Arab Axis(ユーラビア—ユーロ=アラブ枢軸)である。同書は、1970年代以降の欧州連合(以前の欧州経済共同体)とアラブ諸国との関係史である。ヨールはここで一方に急進的アラブ、急進的ムスリムと、一方にファシスト、社会主義者、ナチスを置いてその結びつきを見いだす。そのうえで彼女の見るところでは、これがヨーロッパ文化と政治における増大するイスラームの影響力の起源であるとするのである。「ユーラビア」はそもそもは1970年代半に欧州アラブ世界友好関係調整委員会によって発行された雑誌の題名であった。しかしこの語をヨーロッパに対するアラブおよびイスラームの影響力に対する言葉として用いて普及させたのはバト・イェオール自身の功績といえよう。ヨールはこの語の起源を同書のなかで次のように説明する。ユーラビアは1973年、欧州共同体9ヵ国(のち1992年に拡大して欧州連合)と地中海アラブ諸国とのあいだで非公式同盟のかたちで構想された地政学的な現実である。この同盟と協定は双方の政治的トップレヴェル、すなわち欧州委員会の代表とアラブ側でこれに対応するアラブ連盟の代表とのあいだで念入りに構築されたものである。この同盟は1974年7月、パリに設置された「欧州・アラブ対話(EAD)」という協会の動きと軌を一にする。実務組織は委員会からなり、常にヨーロッパ側アラブ側双方の代表が共同議長につき、政策の計画に携わり、決定の執行をおこない、監視した。
バート・ヨールの反響 バト・イェオールの研究は、イスラームおよび中東に関わる学問的歴史研究者と政治評論家から賞賛と批判双方を呼んだ。総じて反イスラーム主義の論理に従っているという批判が多い。英国の歴史家サー・マーティン・ギルバートは『ユーラビア—ユーロ=アラブ枢軸』について次のように評している。「本書は広範な歴史的資料と現代資料、事実双方を用いて欧州連合がいかにしてヨーロッパそれ自体の倫理性と価値観へのイスラームの敵意によって破壊されているのかというストーリーを提示している。アラブ・イスラエル対立の公平な解決を求める読者は、本書に示される不公正な圧力、周到な歪曲の証拠に衝撃を受けるだろう。ヨーロッパの精神的独立は徐々に蝕まれつつあることを示しているのだ」ニーアル・ファーガソン・ハーバード大学ローレンス・A・ティッシュ歴史学講座教授は「これまでバト・イェオール以上にイスラーム過激主義の威嚇的性格に注意をひいた執筆者はいない。後世の歴史家は、彼女の打ち出した『ユーラビア』の語を預言的なものとして扱うだろう」と書いている。イスラームと西洋の関係について著述しているアメリカ人ロバート・スペンサーは、彼女を「イスラーム法下の非ムスリムへの制度的差別・ハラスメントであるズィンミテュードにかかわる先駆的研究者」と評する。スペンサーは、彼の考えるところでは「中東学学界」が恐れた、あるいは無関心であったこの分野を、バト・イェオールが学術的研究分野へと転換したのだと論ずる。英国の作家デイヴィッド・プライス=ジョーンズはヨールを「勇敢にして慧眼なる精神のカッサンドラ」と呼ぶ。シカゴ大学のジョン・ヘンリー・バロウズ・イスラーム歴史文学講座教授マイケル・セルズは次のように論ずる。「キリスト教伝来以前のあるいは古い非キリスト教徒コミュニティのヨーロッパにおける存在を、他地域におけるその消滅の理由と同じく隠蔽することで、バト・イェオールは、彼女のいうキリスト教的・啓蒙的価値観のヨーロッパと常に現在形の迫害的なイスラーム地域という差別的な比較を構築している。慎重かつ綿密な方法で、ヨーロッパにおける非キリスト教徒の環境とイスラーム統治下の非ムスリムとを現実的に比較する可能性が提起されるたび、バート・ヨールはそのような比較を排除する」イスラーム史の研究者ジョン・エスポズィトはバト・イェオールには学術的な信頼性・資格の検証が欠けていると批判している。『東方キリスト教の衰退—ジハードからズィンミテュードへ』の書評で、アメリカの研究者ロバート・ブレントン・ベッツは、同書はユダヤ教についてキリスト教と少なくとも同量の扱いをしており、書名は誤解を招き、主題に問題があるとコメントしている。そのうえで「本書の全体的なトーンは、どぎつい反イスラーム色である。イスラーム政府による反キリスト教行動の最悪の例、たとえば1915年の悲惨なアルメニア人虐殺事件のように、いつも戦時やイスラーム政府自体が崩壊の脅威にさらされている際の例を恣意的に選択して取り上げてなされた研究である。さらにつけくわえれば、いわゆる西洋文明へのイスラームの脅威を悪霊のごとく言い立てる試みであって、最終的には全体にくだらない、苛立たしいものである」アメリカの研究者ジョエル・ベイニンによれば、バト・イェオールはエジプト・ユダヤ教徒史における「新哀史」的な展望を例示している。ベイニンによるとこの展望は「エジプトのユダヤ教徒史についての模範的シオニスト解釈」として「奉献された」のであった。エジプトのユダヤ教徒として、バト・イェオールはその内容の信頼性を主張し、権威を得た。そして「イスラエルそして西洋でその研究者と一般大衆に幅広く受け入れられたのである」。英国人ジャーナリストのジョハン・ハリーは、バト・イェオールの作品が反ユダヤ主義に「驚くほど類似したイデオロギーを示していると述べる。ハリーはヨールの見解を「21世紀のメッカ賢者の議定書」(20世紀の悪名高い偽造文書「シオン賢者の議定書」から)と喩えている。クレイグ・R・スミスは『ニューヨーク・タイムズ』の記事で、バト・イェオールを「新ユダヤ教右派のもっとも急進的な声」の一つとして言及している。
ローズバッド郡 (モンタナ州)の地理 アメリカ合衆国国勢調査局に拠れば、郡域全面積は5,027平方マイル (13,020 km²)であり、このうち陸地は5,012平方マイル (12,981 km²)、水域は15平方マイル (39 km²)で水域率は0.29%である。面積ではモンタナ州の郡で第4位である。
リュイス・ドメネク・イ・ムンタネーの経歴 大阪府堺区(現堺市)で土居栄十郎の長男として生まれる。その後、北海道に移り、北海道庁立札幌中学校を卒業。第二高等学校文科を経て、1912年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1913年11月、文官高等試験に合格。内務省に入省し宮城県属となる。以後、宮城県柴田郡長、同遠田郡長、同牡鹿郡長、茨城県理事官、高知県警察部長、熊本県警察部長、佐賀県警察部長、島根県書記官・内務部長、群馬県書記官・内務部長、福井県書記官・内務部長、滋賀県書記官・内務部長などを歴任。1929年7月、徳島県知事に就任。徳島・小松島間の産業道路の完成、銅山川分水問題の解決などに尽力。1931年12月18日、知事を休職となる。1933年12月9日に依願免本官となり退官した。その後、小樽市助役を務め、1938年2月、室蘭市長に就任。
山口勝平・星守紗凪のかっぺい流!?ボイス道場!の概要 声優を目指している若者や声優ファンに向けた育成バラエティ番組。
藤村好美の来歴・人物 1978年上智大学外国語学部卒業、1992年、埼玉大学教育学部卒業。1994年、東京大学大学院教育学研究科博士前期課程修了。1997年、東京大学大学院教育学研究科博士後期課程単位取得退学。2003年、広島大学教育学部准教授。2009年より群馬県立女子大学英文学科教授。
住友友純の生い立ち 東山天皇の5世孫である従一位右大臣徳大寺公純の第6子として生まれた。母は千世浦斐子(末弘氏)で、幼名を隆麿と称した。兄に従二位権中納言徳大寺実則、正三位右中将西園寺公望、従四位中院通規、母方の末弘家を継いだ末弘威麿らあり。洛北田中村徳大寺家別業清風館で誕生した。1868年(慶応4年)9月8日、明治と改元、江戸城を東京城と改め、天皇御東行、議定、行政、神祗など七官の制が布かれ、徳大寺実則は三条実美、岩倉具視とともに議定に任じ東京に移る。1869年(明治2年)7月議定の職が無くなり、三条実美は右大臣、実則は岩倉具視とともに議定より大納言に転じた。友純の次兄西園寺公望は一時越後府の知事となったが辞し、長崎に遊学、1871年(明治4年)正月に政府のフランス留学生として外遊した。友純の父公純は東京奠都にも反対で、清風館に幽閉され、茶事に遊ぶ。実則が家督をつぐことになった。友純は父の膝下にあって、父より日本書紀を学び、詩経、書経をよみ、国語、小学、貞観政要をよむ。1883年(明治16年)11月、友純20歳の時、父光純が没する。1884年(明治17年)に東京神田錦町の徳大寺邸に移り、学習院に入学した。1885年(明治18年)西園寺公望は特命全権公使としてオーストリア及びドイツに駐在。友純は1885年(明治18年)に学習院中学科生となり、1887年(明治20年)には法律選科に入って五年級まで進んだ。
住友友純の住友への入家 住友家では、1890年(明治23年)5月、別子銅山200年の祝賀式を新居浜で、次いで6月、祭典を別子山であげ、10月には大阪で祝賀会を開いたが、そのあと11月23日、住友家12代吉左衛門友親(48歳)が死去し、ついで同月30日、13代吉左衛門友忠(19歳)が没する。とりあえず12月には住友友親の母登久が14世を継ぐことになる。明治維新の混乱期を切り抜け、再建に努力してきた住友総理事広瀬宰平は、その甥で補佐の地位にあった伊庭貞剛と協力し、その後継者の選定にあたる。そして徳大寺家の一子友純に着目し、それを迎えることにする。内大臣秘書官日高秩父が侍従長 徳大寺実則の右筆の職にあり、この日高が最初この縁談を見つけ、ついで宮内省の侍医 岩佐純が宮内卿であり侍従長であった徳大寺実則と親しく、媒酌に立つことになる。伊庭貞剛は、友純の人物を調査し、三宅坂山王神社付近の旗亭に、徳大寺実則、西園寺公望、中院通規の三兄と友純を招いて、住友家の内情を詳しく説明し入家を請うた。かくて1892年(明治25年)4月18日、友純(29歳)は、長女満寿(19歳)の婿として住友登久の養嗣子となった。この直前に友純は学習院法律選科を5年生で退学している。以来大阪鰻谷(現大阪市中央区東心斎橋)の住友本邸に住むことになる。
住友友純の第15代住友吉左衛門を襲名 1893年(明治26年)4月、住友15世をつぎ、隆麿を改め、住友吉左衛門友純と称した。のちに春翠と号した。1893年(明治26年)4月28日相続の式をあげ、以来家業を継承して、別子銅山の鉱業を経営し、神戸市に銅貿易をなし、また再製茶及び樟脳製造業を行い、滋賀県坂田郡醒ヵ井村において生糸業を営む、広瀬宰平が総理人としてあり、実際の経営に当たるが、友純は別子銅山を巡視し、各社を視察し庄司炭坑を買収した。しかし、友純入籍の後、困難な事態が発生する。別子銅山で技師金矢某の事件があり、1886年(明治19年)金矢と支配人広瀬坦は罰せられ、山根製錬所の監督大島供清も罰せられた。1892年(明治25年)2月、別子支配人広瀬坦は辞し、宰平の甥久保盛明がかわる。しかし大島供清は宰平を失脚させるため、郷里尾道に帰り、5万円の借用を願う。忠隈炭坑の買収に宰平の非行ありとし、供清は退身勧告をなし、宰平に拒絶され、ついに宰平の弾劾上申書を家長に提出する。伊庭貞剛は単身別子山に上り、人々を鎮めるべく支配人久保盛明にかわる。さらに新居浜に煙害問題があり、宰平弾劾が重なる。友純は大島供清を須磨別邸に引見した。供清は宰平退身の上申書をもって友純の前に出たが友純の説論をうけている。住友家にとり総理事あるいは最高幹部の人事は重大であり、まして宰平は大黒柱的存在であった。しかし友純は西園寺公望の力を借りて宰平の辞表を受け取り、同時に大島をも罷免して、喧嘩両成敗の形をもって取り収める。あとは、宰平の甥伊庭貞剛につがすということで、おそらく宰平を納得させたものである。
住友友純の銀行の開業 住友家では1895年(明治28年)には本店を富島町より中之島5丁目に移し、同所に住友銀行を開業し、神戸支店、川口、兵庫出張所をおいている。重任局という重役室は中之島営業場の奥の一隅にあり、卓を囲んだ重役の中に友純は硝子をへだてて営業場を見渡す位置に占めていた。銀行の業績は住友に対する社会の信用のもっとも直接の顕現になる。また銀行は地元を本拠とする新規の業であったので、友純の関心は銀行に特に深かった。銀行の支店長会議も鰻谷の洋館で開かれるのが常例であった。友純は大阪の実業界の地位を高めるため率先して努力していた。1896年(明治29年)には家法の改正をなし、1897年(明治30年)には理事伊庭貞剛を総理事心得とした。1900年(明治33年)総理事となる。従来の家長、総理人、支配人、副支配人、理事で構成していた重任局も廃した。総理人を総理事としたのである。
住友友純の欧米漫遊 1897年(明治30年)4月、友純は欧米漫遊の途につく。サンフランシスコ、シカゴ、ニューヨークより5月パリにつき、ロンドンに向かい、欧州諸国をめぐって10月3日マルセイユ出帆。パリでは西園寺公望の病気を見舞っている。各地で美術館、博物館を見、欧米の富豪が公共施設に力をつくし、慈善事業に私財を出すのに感銘をうける。随行は松村豊吉、鈴木馬左也、吉田真一であり、218日間の旅であった。とくにシカゴ美術館で、この建物の保存にアメリカの富豪マーシャル・フィールドが100万ドルを寄付したことを知り、深く心に期すところがあり、自ら社会的使命の1つとして公共用の施設を建設したいとの希望をもつに至った。帰朝後は生活様式も洋風にし、社交術も身につけ、また住友の有能な職員を外国に学ばせることにしたのも友純の意向を反映している。大阪府立図書館設立時の寄付など社会事業にも関心が高く、関西における近代数寄者のひとりであり、中国古銅器類の世界的収集家としても知られた。建築や庭園にも造詣が深く、先祖から引き継いだものも含め15の邸宅を所有した。
ブライアン・セッツァー・オーケストラのバイオグラフィー 1992年までストレイ・キャッツで活動していたブライアン・セッツァーが、ホーン・プレイヤー達に誘われ、家の近所のジャム・セッションに参加したことがプロジェクト始動のきっかけとなった。ブライアン・セッツァー以外のメンバーは幾度となく入れ替わってきたが、近年ではオーケストラのメンバーも定着しつつある。
ブライアン・セッツァー・オーケストラの結成〜不遇の時代 結成当時はグランジが流行しており、ビッグバンドでの成功は難しい状況の中、ツアーに出て地道にライブ活動を行う。初期はジャズ色が強く、1994年にリリースされた1stアルバム『ザ・ブライアン・セッツァー・オーケストラ』は、収録曲の大半がジャズのスタンダード・ナンバーのカバーであり、セールス面も伸び悩み、レコード会社との契約も打ち切りとなった。1995年にリリースされた2ndアルバム『ギター・スリンガー』では、オーケストラのメンバーを大幅に入れ替え、プロデューサーにはフィル・ラモーンを起用し、ジョー・ストラマーと数曲共作したため、前作よりもブライアンが思い描いていた「スウィング・ロック」に近い作品となった。当初このアルバムは日本の東芝EMIの原盤協力のもと、制作されたアルバムで、翌年にインタースコープから収録曲を大幅に変えたコンプリート盤を正式な2ndアルバムとして発表した。しかし、いずれもセールス面では伸び悩む結果であった。
ブライアン・セッツァー・オーケストラのグラミー賞受賞 プロジェクト始動からしばらく成功をつかめない時期を乗り越えて制作された3rdアルバム『ダーティー・ブギ』では、ブライアン自身「自分が求めていたサウンドが表現できた作品」と称するように、ようやく目指し続けてきた音楽に到達する作品となった。結果、アルバムはストレイ・キャッツ以来15年ぶりの全米チャートのトップ・テン入りを果たし、16年ぶりのダブル・プラチナ・ディスクを獲得する大ヒットを記録した。収録曲の「ジャンプ・ジャイヴ・アン・ウェイル」と「スリープ・ウォーク」では、1999年第41回グラミー賞の最優秀ポップ・グループ、最優秀ポップ・インストゥルメンタルの2部門を獲得し、一時全米ではスウィングが一大現象となった。その後、2000年に発表した4thアルバム『ヴァヴーム!』からもデューク・エリントンのスタンダード「キャラヴァン」のカバーで2001年第43回グラミー賞の最優秀ポップ・インストゥルメンタル部門を獲得した。このアルバムでのツアーから、女性コーラスが2人加わり、トリオ・パートのステージ構成が組まれるようになる。2002年、イチローが出演したペプシのCMソングを担当。この楽曲は、歌詞を変え、「セクシー,セクシー」という曲名で日本のみ発売のベスト・アルバム、『ベスト・オブ・ザ・ビッグ・バンド』に収録された。このアルバムはオリコンチャートの10位を記録した。
ブライアン・セッツァー・オーケストラの近年 近年のブライアンは2001年にトリオのバンドで『イグニッション!』を発表して以降、ソロとしてもアルバムを発表し、ツアーを周るため、オーケストラの活動は以前に比べると散漫であるが、しきりに新譜を発表し、精力的に活動している。2002年に『ブギ・ウギ・クリスマス』、2003年にEP盤でミニアルバム『ラック・ビー・ア・レイディー』(この二枚は2006年にまとめて一枚のアルバムとして発売)、そして2006年に『ディグ・ザット・クレイジー・クリスマス』と、クリスマス・アルバムを発表。これを機にクリスマス・ツアーを頻繁に行うようになり、ニューヨークの恒例行事であるロック・フェラー・センターのツリー点灯式にもたびたび出演している。2007年、クラシックの曲を自己流にアレンジしたカバー・アルバム『ウルフギャングズ・ビッグ・ナイト・アウト』をリリース。2009年、フィルム・ノワールやクライム・ノヴェルをテーマにしたアルバム『ソングス・フロム・ロンリー・アヴェニュー』を発表。
ユキノシタの特徴 本州、四国、九州及び中国に分布し、湿った半日陰地の岩場などに自生する常緑の多年草である。人家の日陰に栽培されることも多い。葉は円形に近く(腎円形)、裏は赤みを帯びる。本種は種子に因る種子繁殖のみならず、親株の根本から地上茎である走出枝(runner/ランナー)を出して栄養繁殖する。北半球での開花期は5-7月頃で、高さ20-50 cmの花茎を出し、多数の花をつける。花は5弁で、上の3枚が小さく濃紅色の斑点があり基部に濃黄色の斑点があり、下の2枚は白色で細長い。花弁の上3枚は約3-4 mm、下2枚は約15-20 mmである。本種の変種または品種とされるホシザキユキノシタには、こうした特徴は現れず、下2枚の長さは上3枚と同じくらいとなる。開花後、長さ約4 mmほどの卵形の蒴果(さくか)を実らせる。種子は、全体に焦げ茶色或いは黒色であり、全体にほぼ楕円形の不定形をしていて、表面にはコブ状突起が多数備えられている。
ユキノシタの名称 和名ユキノシタは、雪が上につもっても、その下に緑の葉があることからだと言われる。また、白い花を雪(雪虫)に見立て、その下に緑の葉があることからとする説がある。このほか、葉の白い斑を雪に見立てたとする説もある。学名のstoloniferaは、ほふく枝(stolon)で増えることからきている。俳句では鴨足草と書いて「ゆきのした」と読ませることが多い。夏の季語。
ユキノシタの生薬 漢方薬の薬味として用いられることはなく、民間薬として用いられた。虎耳草(こじそう)という民間薬で、その葉をあぶり腫れものなどの消炎に用いた。凍傷や火傷にも使える。また、葉のしぼり汁は耳だれ、中耳炎、漆によるかぶれ、虫刺されなどに効く。小児のひきつけ(痙攣)には小さじ5杯ほどの生葉のしぼり汁が効くとされる。風邪にはユキノシタの葉20g、氷砂糖、ショウガ1片を加えて煎じて飲むと良い。乾燥させた茎や葉は、煎じて解熱・解毒に利用する。
ユキノシタの食用 葉は山菜として、天ぷらなどにして賞味される。葉の裏面だけにうすく衣を付け、揚げたものを「白雪揚げ」という。このほか茹でて水にさらしたものをゴマあえや辛子あえにして食べる方法もある。
ユキノシタのその他 葉の裏側の表皮細胞(液胞)は赤い色素を含むので、原形質分離が観察しやすい。そのため、高校生物の浸透圧の実験などによく用いられる。
プロレス・エキスポの大会開催までの概要 2008年7月30日、ちょうど力道山が中心となり日本プロレス協会が結成されてから55年後の日に、プロレスEXPOの開催とコンセプトが発表された。スーパーバイザーには当時新日本プロレス所属だった蝶野正洋が就任した。プロレス(同大会の表記はProWres)をアニメやカラオケと同じように、日本語から世界共通の言語にしていくこと、それが出来るだけのレベルが日本のプロレス界にはあること。また後に業界でよく使われる「○○(国名)の力道山を創造する」というフレーズが使われたのはこの大会が最初であった。なかなか参加選手が発表されず、結局9月まで正式な発表がなかったことが集客に苦戦した一因とも言われている(背景に国内メジャー団体の興行が同日に組まれていたことも大きい。特にプロレスリング・ノアは2日目に日本武道館大会が開かれ12,000人を動員)が、最終的には前述のようにプロレス興行としては史上最多となる13カ国から45選手が参加することが発表された。また一部ではプロレス業界に黒船襲来などと揶揄されたものの、各団体からの支持、協力をとりつけ、事実上の大同団結が実現した大会であったと言われている。後援としてはZERO1を運営するファースト・オン・ステージがこれにあたった。
プロレス・エキスポの大会コンセプト 「世界平和とプロレス」というテーマを掲げており、大会終了後はあらゆる因縁を捨て去り、輪になってハッピーエンドを迎えることをテーマとしている。これは2008年の日本大会に続き、2010年のネパール大会に於いても継続されている。
プロレス・エキスポの大会概要 「緑の章」2008年10月24日 両国国技館 19:00開始メインイベント:スペシャルタッグマッチ蝶野正洋、スコット・ノートン vs. 高山善廣、ドン・フライ「白の章」2008年10月25日 両国国技館 13:00開始メインイベント:大陸対抗リーグ戦 Bブロックバンビ・キラー、エリック・イサクセン vs. 田中将斗、関本大介「蒼の章」2008年10月25日 両国国技館 18:00開始メインイベント:大陸対抗リーグ戦 決勝戦クリス・セイビン、アレックス・シェリー vs. 田中将斗、関本大介それぞれの色は大会コンセプトの「世界平和とプロレス」から緑(オリーブ)、白(鳩)、蒼(海)から命名され、空前絶後とも言える2日間3大会の形式で行われることになった。
プロレス・エキスポの参加選手 (アジア地域・日本)蝶野正洋(新日本プロレス)、高山善廣(高山堂)、田中将斗(ゼロワン)、関本大介(大日本プロレス)、崔領二(ゼロワン)、菊タロー(アキバプロレス)、日高郁人(ゼロワン)、ディック東郷(フリー)、エル・ブレイザー(フリー)、大谷晋二郎(ゼロワン)、佐藤耕平(ゼロワン)、藤田ミノル(ゼロワン)、浪口修(ゼロワン)、ランジェリー武藤(バトラーツ)、テングカイザー(ゼロワン)、テングバロン(ゼロワン)(アジア地域・ネパール)ヒマラヤンタイガー(北米地域・カナダ)エリック・ヤング(TNA)(北米地域・アメリカ)スコット・ノートン、ドン・フライ、クリストファー・ダニエルズ(TNA)、クリス・セイビン(TNA)、アレックス・シェリー(TNA)、ジェロニモ、リッキー・ランデル(中南米地域・ジャマイカ)アレックス・マーリー(中南米地域・キューバ)3代目キューバン・アサシン(中南米地域・メキシコ)ドランゴ、ナルト(中南米地域・アルゼンチン)星誕期(DDTプロレスリング)(オセアニア地域・オーストラリア)ハートリー・ジャクソン(欧州地域・ノルウェー)エリック・イサクセン(欧州地域・アイルランド)ポール・トレイシー(欧州地域・フランス)フレンチ・ハイディ(欧州地域・オーストリア)バンビ・キラー(参加女子プロレス選手)Hikaru(日本/CHICK FIGHTS SUN)、前村さき(日本/CHICK FIGHTS SUN)、アップルみゆき(日本/フリー)、大畠美咲(日本/エスオベーション)、中川ともか(日本/エスオベーション)当初、エスイ(モンゴル/エスオベーション)にもオファーがあったが、体調不調のため出場が見送られた。(レフェリー)スティーブ・コリノ、田山正雄、笹崎勝己、ミスター・マイケル(スタッフ)ヒロ斎藤、ステップストゥール・トミー・D
プロレス・エキスポの立会人 ダニー・ホッジ(アメリカ/元NWA世界ジュニアヘビー級王者)プロレス・エキスポ立会人として待望の来日。自らを「プロレスファン」と認めるホッジの往年の“リンゴ潰し”は健在であった。
プロレス・エキスポのイメージガール 佐藤さくら(2008ミス週刊少年マガジン)日本から世界へ発信する、プロレス・エキスポイメージガールとして期待された。
プロレス・エキスポの大会概要 ネパール建国以来初となる国際スポーツイベントとして国家を挙げての大会となった。また来年以降の国家の観光プログラムにも組み込まれることが内定した模様で、来年以降も継続での開催が期待されている。2010年3月13日 ProWres EXPO in Kathmandu2010年3月20日 ProWres EXPO in Pokhara
プロレス・エキスポの参加選手 ヒマラヤンタイガー(ネパール/ネパール伝説の英雄)、ビッグ・ヴィトー(=ヴィトー・ログラッソ、アメリカ)、富豪富豪夢路(日本)、梅澤菊次郎(スモー・キク 日本)、マーク・ハンニバル(スペイン)、他ネパール人レスラー多数なお2009年12月の開催予定が政情不安により延期となったため、スケールをやや小さくして開催された。しかしながら合計2万人という大観衆を集め、今後の可能性を示した。
李斯の経歴 中国古代の歴史家・司馬遷は、著作『史記』の中に、中国古代史上特筆すべき人物のため「列伝」という一章を設け、彼らの事跡について記録を残した。李斯についても一章が割かれ、彼の生涯について記録が残されている。彼はもと楚の北部にある上蔡(現在の河南省駐馬店市上蔡県)の人である。若くして地元で小役人になった。その頃、李斯は役所の便所に住むネズミを見た。便所のネズミは常に人や犬におびえ、汚物を食らっている。また彼は、兵糧庫のネズミを見た。兵糧庫のネズミは粟をたらふく食べ、人や犬を心配せず暮らしている。彼は「人の才不才などネズミと同じで、居場所が全てだ」と嘆息した。そして役所を辞めると、儒家の荀子の門を叩いた。学を修めたのちは秦に入って呂不韋の食客となり、才能を評価され、推薦を受けて秦王政(後の始皇帝)に仕える近侍になった。李斯は政の命令で他国に潜入し、各国の王族と将軍の間の離間を行い功績を立て、客卿(他国出身の大臣)となった。紀元前237年、順調に出世していた李斯だが、この頃に嫪毐(ろうあい)という他国出身者が反乱を起こしたために、秦の国内で他国出身者の評判が悪化し、やがて他国人の追放令(逐客令)が出た。事態に苦慮した李斯は、政に嘆願書を出して追放令の撤回を求めた。この『諫逐客書』は実に理路整然とした名文で、後世の『文選』にも収録されているほどである。政もこの名文に感じ入り、追放令の撤回を決めた。実力者の呂不韋が自決した後、政は一層李斯を信頼するようになる。しかし、かつて共に荀子から学んだ同門である韓非が秦に迎えられ、その著作である『韓非子』を読んだ政は感心し「この作者と親しくできるのなら、死んでも悔いはない」と言うほどに韓非に傾倒していく。韓非が登用されれば自分の地位は危うくなると考えた李斯は、政に韓非の讒言を吹き込んで投獄させ、さらに獄中の韓非に毒を渡し、有無を言わせず自殺させた。こうして競争相手を抹殺した李斯は、秦の富国強兵策を積極的に推進し、その策で紀元前221年に遂に秦は中国を統一し、政は始皇帝となった。秦の統一後、丞相の王綰、御史大夫の馮劫ら重臣は始皇帝に、周の制度である封建制を採り入れ、始皇帝の公子達を各地の王として封じるようにと進言した。だが、李斯はそれに猛反対して、周が何故滅んだかの理由を具体的に述べた上、一層強い集権統治である郡県制への移行を説いた。また、政治に無用の批判を行う学者達の著書を集めて焚書を行うように進言した。紀元前210年の秋7月に、始皇帝が巡幸の道中で崩御した。始皇帝の遺勅は「太子の扶蘇に後を継がせる」というものだったが、李斯は宦官の趙高と共に偽詔を作成し、始皇帝の末子で暗愚な胡亥を二世皇帝として即位させ、扶蘇を自決に追い込んだ(一説では李斯は趙高に恫喝されて、胡亥の帝位をしぶしぶ認めたといわれる)。始皇帝の死で基盤が揺らいだ秦帝国だが、苛斂誅求の弊は改まらなかった。翌年から陳勝・呉広の乱を初めとして反乱が続発し、国内は大混乱になった。しかし暗愚な二世皇帝は遊び呆けて、宮廷の外の状況を知らない有様だった。李斯は右丞相馮去疾や将軍馮劫と共に、阿房宮の造営などの政策を止めるよう諫言したがかえりみられず、馮去疾と馮劫は結局、自害した。それでも李斯は諫言を重ねたが、かえって皇帝の不興を買い、さらに趙高の讒言で疎まれ、追い詰められていった。紀元前208年、ついに李斯は捕らえられる。凄惨な拷問に耐えられず趙高が捏造した容疑(楚の項梁の軍勢に討ち取られた李斯の長男で三川郡守の李由が生前楚軍と内通していたという罪)を認め、市中で五刑(鼻、耳、舌、足を切り落とし、鞭で打つこと)の末に腰斬(胴斬り。受刑者を腹部で両断し、即死させず苦しんで死なせる重刑)に処され、生涯を終えた。その時に李斯は並んで刑場に引っ立てられた次男に対して「私は故郷の上蔡で、猟犬を連れ、お前と兎狩りによく出かけた。また狩に出かける夢は、もう適わないのだな」と無念そうに述べたという。李斯の息子は始皇帝の皇女を娶り、彼の娘は始皇帝の公子に嫁いでいたと伝わるが、一族は全て誅殺され、李斯一族は根絶やしとなった。李斯は法家理論の完成者・韓非に対して、法家の実務の完成者とされる。李斯は韓非を謀殺した事や偽詔で扶蘇を殺した事、他にも儒者を徹底的に弾圧した焚書坑儒に深く関わったため、後世の評判は非常に悪いが、秦の中国統一において最も大きな役割を果たしていた。司馬遷も、李斯が道を誤らなければその功績は周公、召公に比肩したであろうとしている。
李斯の『趙正書』に書かれた胡亥の後継者指名 2000年代に発見された竹簡文書『趙正書』では、胡亥が後継者に指名された件が『史記』とは異なっている。それによると、丞相の李斯と御史の馮去疾が胡亥を後継者とするように進言し、始皇帝が裁可したという。
交響曲第9番 (ブルックナー)の作曲の経緯 1887年夏、ブルックナーは交響曲第8番を完成させた後、この作品の作曲に取り掛かった。彼はベートーヴェンの『交響曲第9番』と同じ「ニ短調」という調性を選んだことについて、人々の反応を気にしたものの断固とした決意を持ち、この作品の献辞として、譜面にドイツ語で「愛する神に捧ぐ」(Dem lieben Gott)と書いた。しかしブルックナーは旧作の改訂に取りかかり、第9交響曲に集中しなかった。この改訂で交響曲第1番や交響曲第8番などに労力を費やしている。1892年12月に交響曲第8番が初演された後、本作の作曲に打ち込み始めたが、彼の病状は悪化し続ける。ようやく1894年11月30日に第3楽章を完成させたが、そのころブルックナーはウィーン大学の講義において、この作品が未完成に終わった場合には自作のテ・デウムを演奏するように示唆した。第3楽章の完成後、ブルックナーの病状はさらに悪化し、18年間住んだ4階建ての建物の住居で階段の乗降が不可能になったため、皇帝よりベルヴェデーレ宮殿の住居が提供された。ブルックナーは1896年10月11日、死去する日の午前まで第4楽章の作曲に携わったが、午後3時過ぎに息を引き取り、結局全曲を完成させることはできなかった。未完成に終わった第4楽章の自筆楽譜は、ソナタ形式の再現部の第3主題部でペンが止まっている。現在多くの研究者は、ブルックナーがスケッチの段階において楽章全体を作曲し終えていたと主張しているが、相当数の草稿が失われたままである。初演は1903年にフェルディナント・レーヴェの指揮によりウィーンで行われた。ただし初演で用いられたのは後述のレーヴェによる改訂版である。
交響曲第9番 (ブルックナー)の楽曲解説 交響曲の定石どおり全部で4楽章の構成で作曲される予定であった。しかし完成されたのは第3楽章までであり、第4楽章は作曲者の死去によって未完成のまま終っている。こうした経緯から、実演や録音には完成された第3楽章までが採り上げられる場合がほとんどである。第4楽章が演奏される場合には補筆完成者の名前を謳って「○○稿に基づく」といった注釈がなされる。なお、スケルツォの配置を第2楽章にする点、調性をニ短調とする点、第1楽章冒頭を空虚五度で開始する点などはベートーヴェンの『第九』と共通している。
交響曲第9番 (ブルックナー)の版問題 ブルックナーはこの曲を改訂するどころか、完成にも至らなかった。そのため(例えば第1番 - 第4番や第8番のような)、作曲者による異稿は存在しない。また完成された楽章に関しては、資料上の混乱も少ないので、原典版(オーレル版、ノヴァーク版、コールス版)の相違も少ない。ただし、原典版出版以前に出版されていた初版(レーヴェ版)は、原典版との相違が非常に極端であった。このほか、未完成の終楽章フラグメント、第2楽章の草稿が出版されているほか、第4楽章を完成させようとする試みもいくつか見られる。
交響曲第9番 (ブルックナー)のレーヴェ版 (1906年) 1906年にフェルディナント・レーヴェが作成した版で、いわゆる「初版」または「改訂版」。完成された3楽章のみからなる。最初の出版譜であり、死後の初演で使われたのもこの版であり1932年まで、この版しか出版されていなかった。レーヴェは独断で変更を加え、作品全体を改竄してしまっている。ブルックナーの管弦楽法やフレージング、デュナーミクに後知恵を加えただけでなく、ブルックナーの急進的な和声法(たとえばアダージョ楽章の属13の和音など)を旧式に引き戻してもいる。レーヴェ版はこの作曲家の初版スコア群(いわゆる改訂版)の中でも特に改訂内容が極端であり、ブルックナーの意図を不当に捻じ曲げたまがい物とみなされている。今日では実際に上演・録音されることはほとんどなくなっている。レーヴェ版の演奏は、ハンス・クナッパーツブッシュやフレデリック・チャールズ・アドラーが録音に残した。
交響曲第9番 (ブルックナー)のオーレル校訂版 (1932年) 1932年、アルフレート・オーレル(Alfred Orel)による校訂。ブルックナーが本当に書いた部分を再現しようと試みた最初の校訂版(第1次全集版)。このオーレル版は、完成された3つの楽章をスコアにまとめ、終楽章のスケッチは別冊の資料にまとめた。第1次全集の他の交響曲とまとめて「ハース版」と扱われることもある。また終楽章については、1994年以降に出版された資料に比べると、情報不足かつ不正確であると言われている。この版による、完成された3楽章の初演は、1932年にジークムント・フォン・ハウゼッガーの指揮によりミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団が行った(両者は1938年にHMVにオーレル版の録音を残している)。初演に際しては、比較のためレーヴェ版に次いでオーレル版が演奏された。
交響曲第9番 (ブルックナー)のノヴァーク校訂版 (1951年) 1951年、レオポルト・ノヴァークによる校訂。完成された3楽章のみの、第2次全集版として出版されたもの。実質的に1932年のオーレル校訂版と差違がない。
交響曲第9番 (ブルックナー)のコールス校訂版 (2000年) 2000年、ベンヤミン=グンナー・コールスによる、完成された3楽章の新校訂版。ニコラウス・アーノンクールが録音した。ウィーンで新たに発見された筆写譜を参照としており、ノヴァーク版に比べ30ヶ所程度の修正がある。
交響曲第9番 (ブルックナー)の概要 前記「作曲の経緯」にあるとおり、1894年(第3楽章完成の時期)に、ウィーン大学の講義において、この交響曲第9番が未完成に終わった場合には自作のテ・デウムを演奏するように示唆したと伝えられる。その後ブルックナーは終楽章の作曲を続け、最期の日(1896年10月11日)までペンを執っていたが、楽章の完成には至らなかった。未完成に終わった第4楽章の自筆楽譜は、ソナタ形式の再現部の第3主題部でペンが止まっている。
交響曲第9番 (ブルックナー)の残された草稿について ブルックナーの死後、回収業者が作曲家の自宅を漁り回った結果、フィナーレの草稿の一部が散逸した。その一部はその後アメリカ合衆国で発見され、オーストリアからワシントンD.C.へと渡っていたことが判明した。現在でも自筆譜の断片の捜索は続けられている。なお、1999年に国際ブルックナー協会より、現時点でのスコアの断片が J.Phillips による校訂報告付きで出版されている。
交響曲第9番 (ブルックナー)の「終楽章=テ・デウム」発言に対する、後生の研究者・演奏者の見解 「終楽章が未完であれば代わりに『テ・デウム』を」の発言は、1894年(第3楽章完成の時期)のものである。この考えをブルックナーが最期まで持っていたのかどうかは定かではない。「交響曲第9番の終楽章=テ・デウム」とするのは、形式上・調性上(ハ長調)・曲のスタイル・管弦楽編成など、あらゆる面から無理のある考え方であると、多くの研究者・演奏者が認めている。ブルックナーがその辺りをどう考えていたのかは、定かではない。上記を鑑み「交響曲第9番の終楽章=テ・デウムとするために、経過部分を作曲しようとした」との説もある。残された終楽章の草稿の一部にテ・デウムと類似の音型が使われている部分があることから、終楽章草稿の一部または全てを、前述のような「経過部分」と見なす考え方もある。
交響曲第9番 (ブルックナー)の完成された3楽章のみによる演奏 研究者の間では、ブルックナー自身は、この3楽章で演奏を終わらせることは望んでなかったという判断を与える人が多いが、現実には終楽章は完成していないので、完成している3楽章のみで演奏されることが多く、少なくとも現時点では、一般的に行われている。注釈なしで「交響曲第9番」の演奏と言う場合、通常はこの形(完成された3楽章のみの演奏)を意味する。
交響曲第9番 (ブルックナー)のテ・デウムを含めた演奏 ブルックナーによる「終楽章が未完であれば代わりに『テ・デウム』を」の発言を尊重し、同一演奏会で『テ・デウム』を演奏する実例も、決して少なくない。この場合、連続して演奏する場合もあるし、休憩を挟んで演奏する場合もある(『テ・デウム』を先に演奏することもある)。実際、この第9交響曲が初演されたときにも、同じ演奏会で『テ・デウム』が演奏された。ただし、いずれにしても「交響曲第9番の終楽章=テ・デウム」として演奏されるのではなく、同じ演奏会で「交響曲第9番」と「テ・デウム」が演奏されるという形になるのが一般的である。交響曲としての問題点は動機と和声様式が晩年のそれではなくて第7交響曲時代のものであること。調性がニ短調やニ長調ではなくてハ長調であること。なんらかの楽章間の主題関係が全く無いことが挙げられる。
交響曲第9番 (ブルックナー)の終楽章を含む演奏、あるいは終楽章の演奏 終楽章を完成(補作)した上で演奏する例も、近年複数例きかれるようになった。補作完成した終楽章については後述する。通常、先行の3楽章に補作完成された終楽章が続けて演奏される(まれに、終楽章単独で演奏・録音される場合もある)。この形で演奏される場合、通常「終楽章付き」「完成版」などの注釈が付く。一方、ブルックナーの遺した断片を演奏する例もある。ヨアフ・タルミがキャラガン完成版(1983年)を録音した際には、完成版とは別に、断片をそのまま演奏・録音し、LP(CD)に同時収録していた。これによって、ブルックナーが実際に作曲したものがどれだけ実用化され、校訂者の想像力がどれだけ含まれているのかを、聴き手が直接確認できるとも評された。2002年のザルツブルク音楽祭では、ニコラウス・アーノンクールとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団がフィリップス校訂の演奏用版を用いてフィナーレの断片を演奏・録音した。この演奏会はアーノンクールによる解説付きのワークショップ形式で行われ、休憩をはさんだ後にコールス校訂版の第1 - 第3楽章が演奏された。ただし、コーダのスケッチは和声の指定のみの部分が多いとして取り上げなかった。また、アーノンクールは「ブルックナー以外の音は一切入っていない」と述べたが、実際は校訂者による補筆が数ヶ所含まれている。
交響曲第9番 (ブルックナー)の終楽章の補作完成について ブルックナーの草稿を基に終楽章を補作完成(ひいてはこの交響曲第9番を完成)させようとする試みは、たびたび繰り返されてきた。この楽章の大部分がほとんど完全にオーケストレーションされていることに加え、ブルックナー独特の作曲スタイルを考慮すると、あといくつかの草稿があれば概ね終楽章全体を構成できるはずだとの考え方もある。とはいえ、草稿が存在しない部分は作曲者の手によらない創作になるのはやむを得ない。特に再現部以降のコーダにおいて各校訂者により大きな違いが見られる。そのたび重なる批判版の連続が今日のブルックナーの版の違いを今日まで至らしめている一つの原因ともなっている。
交響曲第9番 (ブルックナー)のキャラガン完成版 (1983年) ウィリアム・キャラガン(William Carragan)(英語版)は交響曲第2番の校訂者でもある。この第9番終楽章の補作は、1979年から1983年にかけて行われた。脱稿の翌1984年、モーシェ・アツモン指揮アメリカ交響楽団によってカーネギー・ホールで初演された。ヨアフ・タルミ指揮オスロ・フィルハーモニー管弦楽団で、イギリス・シャンドス社に録音されており、その演奏時間は約22分である。なお、上記「終楽章を含む演奏、あるいは終楽章の演奏」の項で言及されたオリジナル断片の演奏は約16分である。次項で述べるサマーレ=マッツーカ版やそれ以前の補筆完成版と同様、1934年出版のオーレル校訂の資料不足かつ不正確なフィナーレ草稿を基にしているので、ブルックナー的でないとも評される。その後新しく発見された資料を基に、キャラガンはその後終楽章の補作を改めて行った(これについては後述)。
交響曲第9番 (ブルックナー)のサマーレ=マッツーカ完成版 (1986年) キャラガンの労作とは別個に、ニコラ・サマーレとジュゼッペ・マッツーカ(Giuseppe Mazzuca)が協力して1986年にまとめ上げた。後述のいわゆるSMPC版(サマーレ=マッツーカ=フィリップス=コールス完成版)に比べると、前述の通り資料不足のためか先行3楽章とはやや異なった書法となった。エリアフ・インバルとゲンナジー・ロジェストヴェンスキーによって録音されている。
交響曲第9番 (ブルックナー)のノース S. ヨゼフソン版 (1992年) シュトゥットガルトのカールス出版社から出ている1992年に完成した版。1997年にクラウス・アルプ指揮のカイザースラウテルンSWR放送管弦楽団によって初演されている。演奏時間約15分。楽器編成は原典版に同じ。